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651
87,555,199
中学3年の時に漫画家を目指す友人が出来る。彼がペンを使い本格的に執筆している事に影響を受け、北条も本格的な執筆を始めるようになった。この友人とは別の高校に進学するも交流は続き、彼の呼びかけから漫画の同好会にも参加する。男女織り交ぜた6人で、共同の漫画執筆も始めたが未完に終わっており、この時の体験から自分に毎週漫画を描く漫画家生活は無理だと当時は思っていた。その後、賞金を目当てに漫画の投稿を始め、金が無くなると新作を描いては投稿するという生活を始める。当初はジャンルを問わずに投稿をしていたが、努力賞でわずかな賞金しかもらえなかったことから、少女漫画への投稿は辞めている。一方で読者としては時おり目についた物を読む程度であり、週刊誌を買うようなことはせず、引き続き映画と小説の方により興味を持っていた。高校を卒業後、福岡市内の九州産業大学へと進学し下宿生活を始める。
来歴
北条司
4,910
651
87,555,199
大学では芸術学部デザイン学科に進んで広告デザインを学び、映画関係の仕事がしたいと考えていた。漫画は引き続き賞金目当ての投稿を続けており、喫茶店に通うようになったことから漫画もよく読むようになった。金のない下宿生活の中で、手塚賞の賞金が100万円である事を知り、応募を決める。それまでは手塚賞の存在を知りながらも『週刊少年ジャンプ』(集英社)主催である事を知らず、同誌を読んだ事もなかった。ちょうどネームも描かずに一日1ページずつぐらいでなんとなく描きためていた作品があった事から31頁にまとめて投稿。この作品「スペースエンジェル」が準入選となって賞金20万円を手にし、入社一年目だった堀江信彦が担当編集に付く。その後描けば金になるとの理由から催促されるままに3編の読切を描き、そのなかの「おれは男だ!」が『WJ』に掲載されて在学中にデビューを果たす。
来歴
北条司
4,911
651
87,555,199
大学を卒業するも漫画を描いて就職活動をしていなかったことから、とりあえずとして漫画家になることとする。ただし、北条は当初「地方でこつこつと短編を発表するような地味な漫画家でいい」と考えており、連載や上京の意志はなかった。しかし、読切として描いた『キャッツ♥アイ』(以下、C♥E) が好評であったことから堀江は北条の知らぬところで同作を連載会議に掛け、連載を決定してしまう。そして「連載が決まり、アパートも用意したから2日後に上京してこい」と連絡を受けて半ば強引に上京させられ、あっという間に北条は連載生活へと入っていく。当時の北条は慣れぬ連載には様々な面で苦労をし、連載終了後に本作の連載自体が漫画の練習であったことや、本作の印象としては「苦い思い出しかない」ことを語っている。同作は4年に渡り連載が続けられ、アニメ化される程のヒットを収める。
来歴
北条司
4,912
651
87,555,199
『C♥E』の連載中の1983年に第11回愛読者賞用の読切として「シティーハンター -XYZ-」を描き、愛読者賞を獲得する。同作は「『C♥E』の神谷真人(ねずみ)を主人公に」とのコンセプトで誕生した冴羽獠のデビュー作であり、1985年の「C♥E」終了の同年には同作を元とした連載『シティーハンター』(以下、C.H.)を開始する。前作に続き『C.H.』もアニメ化され、6年以上に渡って連載が継続される代表作となる。しかし、連載の終了は4週間前に通告されるという突然なものであった。この事は北条に描き切っていないという強い思いを与え、後のリメイク作品『エンジェル・ハート』(以下A.H.)が誕生する原因となる。『C.H.』終了後はアクションに対する疲れから植物との交流を描いた「こもれ陽の下で...」、担当の求めに応じて再びアクションを描いた「RASH!!」を連載するもいずれも短命に終わる。
来歴
北条司
4,913
651
87,555,199
この時期は集英社との関係等から漫画を描くことがつまらなくなり、漫画家をやめることも本気で考えていた。その後、性別逆転夫婦を描いた「F.COMPO」を『週刊少年ジャンプ』で連載するつもりで企画するが、少年誌では難しいとの判断から、前年に創刊された青年誌『MANGAオールマン』へと移籍する。4年に渡って連載された同作は「この作品を描いても楽しめないようだったら廃業しよう」との思いで始められたリハビリのような作品であり、この成功により北条は一生漫画家としてやっていく自信をつける。「F.COMPO」の連載を続ける中、2000年(平成12年)には堀江信彦・原哲夫・次原隆二・神谷明・根岸忠らと共に、株式会社コアミックスを設立。翌年、同社編集の新雑誌を創刊する準備に忙しくなったことから、『F.COMPO』の連載を終了する。
来歴
北条司
4,914
651
87,555,199
そして2001年(平成13年)5月に『週刊コミックバンチ』(新潮社発行)を創刊し、創刊号より『エンジェル・ハート』の連載を開始する。2004年(平成16年)にはコアミックスの関連会社として著作権管理等を業務として設立された株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ(以下、NSP)の取締役に就任している。2010年(平成22年)のコアミックスと新潮社の契約満了に伴い『週刊コミックバンチ』は休刊となり、コアミックスはNSPと徳間書店と共に後継紙の1つとなる『月刊コミックゼノン』を創刊する。これに伴い「A.H.」は「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題の上で『ゼノン』に移籍し、2017年(平成29年)7月号まで連載した。
来歴
北条司
4,915
651
87,555,199
※ 掲載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』に掲載。
年表
北条司
4,916
651
87,555,199
『C♥E』と『C.H.』の成功により、「美女とアクション」が代名詞のようにされていたが、北条本人としては少年誌に求められるものとして「アクションっぽいもの」を取り入れてはいたもののあくまで登場人物の心の流れをメインに描いており、こうした評価は不本意で「アクション作家のつもりはない」と述べている。『C.H.』の次となる連載作品『こもれ陽の下で...』はこうした評価に対する反発として、「美女とアクション」を徹底的に排したものとして始められている。北条が自身で意識して描いたのは『F.COMPO』が最初ではあるが、『天使の贈りもの』『ファミリー・プロット』『少女の季節 - サマードリーム -』とそれ以前の作品でも家族関係が主題となっている作品は多く、友人より北条の作品の根底的なテーマは「家族愛」であるとの指摘を受けている。
作風
北条司
4,917
651
87,555,199
上述の通り「美女」が代名詞となるようにその画力は高く、二階堂黎人は「絵が素晴らしく綺麗であり、セクシーな女性を描くのが得意であり、夜の描写が美しい」とその画力を評価している。なお2000年に行われたインタビューでは、見出しに「美女の顔はみな同じ?」とされ、北条自身も「美女」については「顔の描き分けは全然していない」と語っている。北条によれば、読者の求める「北条美人」から外れない様に、敢えてそういった手法を採っているとのことである。
作風
北条司
4,918
651
87,555,199
■ : 連載作品、■ : 読切作品。■ : オリジナル、■ : 再出版、■ : 短編集。
作品リスト
北条司
4,919
651
87,555,199
2010年に北条のデビュー30周年を記念し、北条のキャラクターを他の漫画家が描くトリビュート・ピンナップ企画が『週刊コミックバンチ』で2度行われた。同年の『バンチ』休刊後に後継紙となった『月刊コミックゼノン』では、新たなトリビュートイラストと『バンチ』での企画分のダイジェスト版を収録した『北条司30周年記念特製画集』が付録とされた。以下、この企画で寄稿した漫画家を列挙する。
関連人物
北条司
4,920
653
88,552,438
年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと。年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した表のことである。
__LEAD__
年表
4,921
653
88,552,438
冒頭の条件を満たしていれば年表であるので、年表は多種多様であり、さまざまな種類があり、分類法もいくつもある。テーマ、つまり何に焦点を当てているかで年表を分類することがある。表に用いられている手法で分類することもある。(ほぼ)文字ばかりの表 / 視覚的効果も多用した表、といった線引きである。
種類・分類
年表
4,922
653
88,552,438
年表は、教育的な場面でよく用いられる。歴史上の出来事の前後関係や、各時期の傾向、俯瞰的な概略などを、学習者が掴むのに、年表が手助けとなるからである。特に図で表した年表の場合、出来事の間隔や(戦争や生涯などの)出来事が起きていた時間の長さ、同時に起きていた出来事などを視覚化することが出来る。年表は歴史の学習で特によく用いられる。それにより、時間とともに変化する感覚が伝わるからである。戦争や社会運動は年表の主題としてよく使われる。また、伝記でも使われる。年表は自然科学、特に天文学・生物学・地質学の学習者のために使われる。なお教育者や研究者も、他者を教育するためだけでなく、出来事を整理整頓しなおして自分の理解の助けとするために年表を作ることがある。
教育での利用
年表
4,923
653
88,552,438
英語、ドイツ語、フランス語などの「横書き」が原則の(圧倒的に多い)言語では、結果として縦方向に伸びてゆくように、古い出来事ほど上に、新しい出来事ほど下になるように構成される。現代の日本語というのは横書きでも縦書きでも書かれるものなので、そういう言語では年表は、横書き時には縦方向に、縦書き時には横方向に伸びるように構成される。日本語では縦書き時には右から左へと書く習慣なので、縦書き時には、古い出来事は右側に、新しい出来事は左側に配置されることが一般的。
縦書き横書きと時間軸
年表
4,924
653
88,552,438
各年・各年代を表すページへの年代順の一覧。
各年代の項目
年表
4,925
654
87,683,524
365日(365にち)は、日と暦に関するページへのメタリンク。365日と閏日(2月29日)について、それぞれ何の日かを調べることができる。
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365日
4,926
655
88,421,066
水木 しげる(みずき しげる、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日)は、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。本名は武良 茂(むら しげる)。大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
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水木しげる
4,927
655
88,421,066
1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、大日本帝国陸軍軍人として第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。1961年、飯塚布枝と見合い結婚。
概要
水木しげる
4,928
655
88,421,066
1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!
概要
水木しげる
4,929
655
88,421,066
』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民、鳥取県名誉県民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。
概要
水木しげる
4,930
655
88,421,066
1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木生誕当時、父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていた。身重の母親・琴江は夫に会うために鳥取県から来て、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢については不明確だが、生後まもなくから2歳までの間とのこと。その後父は事業に失敗して帰郷、一家全員境港に定住する結果となる。
生涯
水木しげる
4,931
655
88,421,066
5歳の頃「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。比較的恵まれた環境で育つが、学校の勉強はできる方ではなく両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという風変わりな生徒だった。当時「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。屁を自在に出すことができ、朝礼のおりに放屁して他の生徒たちを笑わせていた。そんな調子で成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く明るい性格もあってガキ大将として君臨した。
生涯
水木しげる
4,932
655
88,421,066
水木の母は学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、成績優秀な兄と弟は尋常小学校卒業後は旧制中学校に進学を果たし、勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で水木の母は教師から「無理」と即答された。将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進み、すぐに不安を忘れて遊び回る子供に戻った。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ新聞に掲載された。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。
生涯
水木しげる
4,933
655
88,421,066
たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と嘆いたという。しかし当の水木はほとんど平静で、田舎から都会に出て働くのを楽しみにもしていた。大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、ここもクビになった。その後体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へ戻る。
生涯
水木しげる
4,934
655
88,421,066
帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな絵の勉強に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を...」という父の言葉に躍り上がったと回想している。水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という珍しい無試験の美術学校を見つけて入学した。しかし学院は学校というには小さな個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から学校に行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。
生涯
水木しげる
4,935
655
88,421,066
16歳の頃に父が丹波篠山に支店長として転勤し、水木だけを一人暮らしさせるのは不経済という判断から父と丹波篠山の借家に引っ越した。後に母も境港から移り住み、兄と弟は旧制中学の寮に住んでいたので3人暮らしとなった。暫くは篠山から大阪の美術学校に通い続けた。18歳の頃、篠山山中の祠で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。精華美術学院での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系旧制専門学校である東京美術学校(現・東京芸術大学)で学んで画家になるという夢が膨らんだ。しかし高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指す事に決め、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。
生涯
水木しげる
4,936
655
88,421,066
同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず成績不振且つ欠席が多くなり、半年で退学処分となった。
生涯
水木しげる
4,937
655
88,421,066
間もなくマイペースぶりから新聞配達もクビになり、大阪の中之島洋画研究所に通った。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、1941年12月に日本がイギリスやアメリカ、オランダとの間に開戦する。1942年、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や聖書などを読み漁った。
生涯
水木しげる
4,938
655
88,421,066
その中で一番気に入ったのがドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。21歳の時、召集令状が届き本籍地の鳥取歩兵第40連隊留守隊に入営することとなった。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった。初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて喇叭手を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た。
生涯
水木しげる
4,939
655
88,421,066
最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え、九州など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、ニュージーランド軍との前線のニューブリテン島ラバウル行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。歩兵第229連隊(岐阜県第38師団隷下)は鳥取から門司港へ向かい、日本を出発。
生涯
水木しげる
4,940
655
88,421,066
その連隊所属となった水木も従わされ、やがてパラオからラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける。ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。
生涯
水木しげる
4,941
655
88,421,066
軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転でゲリラ戦に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。
生涯
水木しげる
4,942
655
88,421,066
やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から機銃掃射され、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した。九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。
生涯
水木しげる
4,943
655
88,421,066
そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。
生涯
水木しげる
4,944
655
88,421,066
最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族(英語版)と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれた。8月25日、部隊長から「日本のポツダム宣言受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!
生涯
水木しげる
4,945
655
88,421,066
」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。
生涯
水木しげる
4,946
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両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという。翌年、ようやく治療の順番が回って来る通知を病院から受け、再上京して相模原病院で待機し、しばらく後に再手術は無事完了(麻酔が不足していたために結構痛みを伴うものだったとのことで、術後10日程で元気なれたと後年水木は述懐している)。病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。
生涯
水木しげる
4,947
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手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請する成り行きとなり、転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。
生涯
水木しげる
4,948
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経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。入学を思い立ち、条件としての旧制中学か新制高校の卒業資格証を発行してもらうため、水木は陸軍召集前に通っていた件の夜間学校を数年ぶりで久々に訪ねると、「出征による退校扱い」となっていた事例から卒業資格は却下されたが戦時中までと異なり民主化されつつあったため、代わりとして在学証明書が発行された。そのおかげで水木は当時数少なかった特例条件にて1948年武蔵野美術学校へ入学。敗戦直後で学生服は古びて技術や年齢層も不揃いだったが、絵を描くことが好きな水木は他の学生と共に熱心かつ真面目に学んだ。
生涯
水木しげる
4,949
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生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。
生涯
水木しげる
4,950
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学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で東海道募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて神戸に辿り着いた時には這々の体になりかけていた。結局美術学校は、その数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。先の募金旅行で辿り着いた神戸市の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。
生涯
水木しげる
4,951
655
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勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。
生涯
水木しげる
4,952
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鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」をペンネームにした。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家加太こうじの助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に西宮へ引っ越した。BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して貸本の版元に持ち込みを行った。
生涯
水木しげる
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同じく紙芝居から離れた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので「水木しげる以外にも「むらもてつ」「東真一郎」など複数のペンネームを使い分けてもいた。
生涯
水木しげる
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貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われることになっていて、当時の国家公務員の初任給が1万足らずで紙芝居が1作200円から1000円であった事の視点では破格の高給だった。ただし、それは毎月作品を採用かつ量産された場合の契約条件であった。遅筆の水木が不慣れだった当初に、一ヶ月で作品を仕上げられる事は殆どなく、完成しても売れる見込みあると判断されなければ出版社が買い取ってくれないか、買い取られても「初回で様子見」として2万5000円未満に下げられた報酬しか支払われなかった。そればかりか初回で売れなければ他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な業界だった。貸本出版社も零細企業が多く、納入が決まっても紙芝居の貸元同様に代金の支払いが滞ることも頻繁だった。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃滞納や質屋通いが続いた。
生涯
水木しげる
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作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と「堀田弘」「竹取おさむ」など勝手に作者名を変更される屈辱も味わった。すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、即座に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日という異例のスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。
生涯
水木しげる
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この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載。また、雑誌の編集役も請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、益々生活が苦しくなる。あまりの貧しさに、自宅へやって来た税務署員から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返した。結婚の翌年に長女の尚子(後の水木プロ社長)が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。
生涯
水木しげる
4,957
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後年の鬼太郎とは違う紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げたが、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげると『鬼太郎』の名が知られていく契機となった。後年に水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化した。
生涯
水木しげる
4,958
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『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。以後は佐藤プロや『悪魔くん』を出版した東考社の貸本漫画に活躍の場を移すが、『悪魔くん』は思ったほど人気が出ず全5巻予定が3巻で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して革命を起こす」という悪魔くんの思想描写は当時の水木自身の「懸命に働いても貧乏が続く生活」への悲しみと憤りから発したもの。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。1964年、病気療養から復帰した長井勝一が新しく漫画雑誌を作り、水木も依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は読み切り短編「不老不死の術」を掲載した。
生涯
水木しげる
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以降ガロで白土三平やつげ義春らと共に看板作家として名を上げた。1965年に講談社はW3事件の影響で「劇画路線」を採用し、水木は『週刊少年マガジン』で「SF物」の連載を依頼されるが、自分の得意分野ではないため悩んだ末に一旦辞退した。しかし半年後、その『少年マガジン』の編集長が内田勝に交代し、作風を限定しない条件へ変更のうえで水木は再度依頼され、今度は執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのは苦労したが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。それまでの長い貧乏生活で質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、ようやく雑誌連載の原稿料ですべて返済でき、なんとか質流れにならず取り戻すことが叶った。
生涯
水木しげる
4,960
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ただ、最初に質屋に入れた背広だけは10年経って変形していたため、元の形態に戻そうと外に干したら盗まれてしまったという。講談社漫画賞受賞で急増した仕事に対処するため1966年に水木プロダクションを設立。つげ義春、池上遼一、鈴木翁二らがアシスタント参加したことで、これ以降の水木漫画の特徴である「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した独特なものとなっている。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界が一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語でもあった「妖怪」が、さらに広まる経緯ともなった。『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。
生涯
水木しげる
4,961
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1970年には連載が11誌に達し、他にテレビやイベントの仕事も引き受けるなど、時間に追われる日々を過ごした。気侭な人生をモットーとする水木は、どんな状況でも睡眠時間だけは十分に取るが、この時期だけはほぼ徹夜続きで、目眩や耳鳴りの症状も出る程だった。プロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感した。まもなく、軍隊時代の恩人で戦後は阪急電車の職員になった宮一郎元軍曹と26年振りに再会。そして二人で戦地を尋ねる旅行に出向く。再訪したニューブリテン島でトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見て自身のペースを失っていた事に気付き、帰国後仕事をセーブする。この時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆する。
生涯
水木しげる
4,962
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仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的遣り繰りが厳しくなった。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど自暴自棄になって霊的世界への興味や創作意欲を失うが、次女の悦子が修学旅行で妖怪「目々連」を目撃し、水木は喜んで立ち直った。それから「鬼太郎」を筆頭に、それまで描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。
生涯
水木しげる
4,963
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1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、幼少期を過ごした出身地鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。
生涯
水木しげる
4,964
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晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。また、映像作品では『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現した。2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。
生涯
水木しげる
4,965
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同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院中に頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。
生涯
水木しげる
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通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したラバウルをイメージした花が配され、遺影の前には天皇陛下(当時)からの祭粢料が飾られた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「東京アニメアワードフェスティバル2016」でアニメ功労部門を受賞。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され、2017年1月のNHK『クローズアップ現代+』で特集が組まれた。
生涯
水木しげる
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2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催。鳥取県境港では記念品の配布などが行われている。2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。2018年4月から2020年3月にかけて、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には水木しげるロードがリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた。2020年の新型コロナウイルス感染症に関連して妖怪・アマビエが話題となり、水木の描いた妖怪画も大きな反響を呼んだ。
生涯
水木しげる
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1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い。
人物・エピソード
水木しげる
4,969
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一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪(樹木子など)も何体か描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。1992年に『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズが刊行された。
人物・エピソード
水木しげる
4,970
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水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。
人物・エピソード
水木しげる
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大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。のんのんばあとは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。...親父は足軽」という。ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。
人物・エピソード
水木しげる
4,972
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ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。
人物・エピソード
水木しげる
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2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。
人物・エピソード
水木しげる
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88,421,066
近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降のラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。
人物・エピソード
水木しげる
4,975
655
88,421,066
それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。
人物・エピソード
水木しげる
4,976
655
88,421,066
命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。
人物・エピソード
水木しげる
4,977
655
88,421,066
貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など。
別名義
水木しげる
4,978
655
88,421,066
シリーズ物や、長編作品を中心に記載。『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。「ゲゲゲの鬼太郎」関連作品についてはゲゲゲの鬼太郎#ゲームを、「悪魔くん」関連作品については悪魔くん#ゲームを参照。
作品
水木しげる
4,979
655
88,421,066
『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。
出演・関連作品
水木しげる
4,980
655
88,421,066
(鳥取県境港市入船町、東京都調布市)(鳥取県米子市東倉吉町)住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。“本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。
家族・親族
水木しげる
4,981
657
87,210,326
『ヨコハマ買い出し紀行』(ヨコハマかいだしきこう)は、芦奈野ひとしによる日本の漫画作品。『月刊アフタヌーン』(講談社)において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。
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ヨコハマ買い出し紀行
4,982
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87,210,326
第1作は同誌1994年6月号に読み切りとして掲載(いわゆる第0話)、作者にとってはこの作品がデビュー作でもある。本作品が同年春のアフタヌーン四季賞で四季賞を受賞する。続いて9月号に続編が掲載され、同年12月号からは連載となり、2006年4月号まで掲載された。全140話。物語全体を通して、穏やかな独特の世界を描いていく。本編の連載終了後、2006年7月号に描き下ろしとして掲載された短編『峠』は、同一の世界を舞台としたものと思われる(時代設定は連載終了時点から数十年後以上と推測される)。また、ラジオドラマが椎名へきるのラジオ番組で放送され(後にドラマCD化)、二度OVA版が制作されている。2007年には第38回星雲賞(コミック部門)を受賞した。
概要
ヨコハマ買い出し紀行
4,983
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87,210,326
「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本(主に三浦半島を中心とした関東地方)を舞台に、「ロボットの人」である主人公初瀬野アルファとその周囲の人々の織りなす「てろてろ」とした時間を描いた作品。作中の社会状況は、明言はされていないが、断片的な記述を総合すると、地球温暖化が進んで海面上昇が続き、産業が衰退して人口が激減し、人類の文明社会が徐々に衰退し滅びに向かっていることが示唆されている。しかし、その世界に悲壮感はなく、人々はむしろ平穏に満ちた日々を暮らしている。また、詳しくは語られない正体不明の存在も多く、そのまま作中の日常世界に溶け込んでいる。これらの不思議については作中で真相が明かされることはなく、どう解釈するかは読者に任されている。
あらすじ
ヨコハマ買い出し紀行
4,984
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なお原作終了後に刊行された小説版(著:香月照葉)では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は個性のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。
あらすじ
ヨコハマ買い出し紀行
4,985
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いずれも、芦奈野ひとし著、講談社の〈アフタヌーンKC〉より発行。新装版ではカラーページの再録、ラフスケッチなどの「おまけカット」収録、1冊当りの収録話数を過去の単行本の1.4冊分に増加、表紙の一新(描き下ろし)がなされている。
出版物
ヨコハマ買い出し紀行
4,986
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証券取引所(しょうけんとりひきじょ、仏: Bourse、英: Stock exchange)は、主に株式や債券の売買取引を行うための施設であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。日本においては、金融商品取引法上の「金融商品取引所」の免許を受けなければ証券取引所としての業務を行えない。(なお「証券取引所」とは言えない金融商品取引所(例:大阪取引所、東京金融取引所)も存在することからもわかるように、金融商品取引所は証券取引所を包含する概念となっている)
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証券取引所
4,987
659
87,277,123
経済の発展に欠かせない資金調達と資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式および債券の需給を取引所に集中させ、流動性の向上と安定した価格形成を図ることがその主な役割である。日本国内では元来は金融商品取引法(旧証券取引法)で認められた特別法人であったが、株式会社金融商品取引所への移行が進んでいる(→後述の#証券取引所の形態参照)。 なお、証券取引法の金融商品取引法への改正に伴い、日本では法律上「金融商品取引所」と規定されているが、名称又は商号に「取引所」という文字を用いなければならないとされるにとどまるため、各証券取引所においては、東京証券取引所との経営統合に伴い、デリバティブ取引専門取引所に転換した大阪取引所(旧大阪証券取引所)を除いて従来どおりの名称が2015年現在も利用されている。
概要
証券取引所
4,988
659
87,277,123
株式および債券の購入や売却について、一般の投資家(個人投資家、取引所会員証券会社以外の機関投資家)が証券取引所で直接取引を行うことはできず、会員である証券会社を通じて取引を行う(委託売買)か、直接当事者間で取引を行う相対売買で取引することになる。
概要
証券取引所
4,989
659
87,277,123
12世紀頃、フランスにおいて、銀行が代表して農村の債務を、取引し管理する「courratiers de change」と呼ばれるシステムが存在していた。そして、現在でいう株式仲介人(ブローカー)がこういった所で債権の取引きを行っていった。欧米圏での「証券取引所」の語源であるフランス語の「Bourse」は、13世紀頃にラテン語で「鞄」を意味する「bursa」から派生して誕生したとも言われている。13世紀中頃、イタリア(神聖ローマ帝国)では、ヴェネツィアの銀行員が政府の証券の取引きを行っていたことが知られており、他にはピサ、ヴェローナ、ジェノヴァ、フィレンツェ等でもそれぞれの政府の証券が取引きされていた。神聖ローマ帝国の領邦にあった北ヨーロッパの貿易都市は12世紀初頭にハンザ同盟を結成した。
歴史
証券取引所
4,990
659
87,277,123
その一つであるベルギーのブルッヘでは、証券取引業者らが13世紀後半頃に「Van der Beurze」と呼ばれる一族の家で集会を行っていたが、これが1309年に制度化され、「Bruges Bourse」が開催された。 この制度は近隣諸国に広がり、ヘントやアムステルダムなどヨーロッパ中で次々に「Bourse」が開かれていくようになり、「Bourse」は「証券取引所」を意味するようになった。13世紀末までにはリューベックがハンザ都市のリーダーとして認められるようになった。14世紀にはハンザ同盟とデンマーク王国(ヴァルデマー4世)との戦争が勃発したが1370年にはシュトラルズントの和議が締結された。1388年にハンザ同盟はイングランド商人にも特権を与えるようになった。1531年にはアントウェルペン証券取引所が世界で初めて証券取引所として建設されヨーロッパの貿易拠点として栄えた。
歴史
証券取引所
4,991
659
87,277,123
ここでは商品それ自体よりもその受領書、さらに、為替手形、預金証書、各種の公債などの証書が取り引きされていた。イングランド(エリザベス1世)は1565年、ロンドン王立取引所(当初の呼称は「ブルス」、フランス語: Bourse)を開いた。一方、フランシス・ドレークなどスペインなど他国の海上輸送を妨げる海賊も活動した。株主に企業へ投資させて、その利益と損失を共有する株式会社のシステムはオランダから始まった。1602年にオランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で世界で最初の株券を発行し、有価証券を発行した世界初の会社となっている。株式組織の取引所は、元々諸外国には存在せず、世界に先駆けて日本で特別に発達したが、太平洋戦争中に一時姿を消した。戦後に、株式組織の取引所が諸外国でみられるようになり、日本でも、再びみられるようになった。
歴史
証券取引所
4,992
659
87,277,123
2015年1月31日時点における、国内企業の発行済み株式時価総額上位20の主要取引所 (Monthly reports, World Federation of Exchanges)
主要証券取引所
証券取引所
4,993
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戦時中までの日本における制度では、1875年の株式条例では、取引所の組織は株式会社と規定され、最初に設立した株式取引所が株式組織取引所であった。1887年5月、会員組織化を目的とする取引所条例(ブルース条例)が発布され、取引所は凡て会員組織で経営しなければいけないと定めたが、ブルース条例は、取引所側の猛烈な反対により間もなく廃止され、1893年に会員組織でも株式組織でもよいとする取引所法が発布された。現在では、証券取引所は金融商品会員制法人(旧称:証券会員制法人)または株式会社でなければ開設できない(金融商品取引法に規定)。金融商品会員制法人とは、金融商品取引業者(証券会社など)を会員とする社団である。以前は全ての証券取引所が証券会員制法人であったが、2001年4月に大証、同年11月に東証、2002年4月に名証がそれぞれ株式会社に組織変更している。
証券取引所の形態
証券取引所
4,994
659
87,277,123
過去独立して存在していたジャスダックも株式会社形態であった。また、近年は私設取引システム(PTS)による取引形態も現れてきた。私設取引システムは1998年12月施行の金融システム改革法で証券会社にその開設と運営が認められたもので、時間外取引市場(主に夜間)として機能している。
証券取引所の形態
証券取引所
4,995
659
87,277,123
証券取引所では売買立会い時間が定められている。日本の場合、東京証券取引所等の現物立会は9時から15時まで行われる。そのうち9時から11時30分を「午前立会い」(前場)、12時30分から15時を「午後立会い」(後場)と称しており、その間は昼休みである。名古屋証券取引所・福岡証券取引所・札幌証券取引所では15時30分までとなっている。2008年の大納会及び2009年の大発会までは、大発会と大納会は前場のみで後場の立会いは行われなかった。取引の電子化により半日にする意義が薄れたため、2009年の大納会及び2010年の大発会から半日立会いを廃止し、前場・後場共に通常通り取引されている。東京証券取引所の取引時間は、2011年11月20日までは、前場が9時から11時、後場が12時30分から15時であった。
売買立会い時間
証券取引所
4,996
659
87,277,123
2010年11月10日、東京証券取引所は2011年のゴールデンウィーク明け(同年5月9日)から、同取引所の前場の時間帯を午前9時から11時30分に拡大、昼休みを実質30分短縮することを目指すと発表した。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う節電対策のため延期され、当初の予定から半年あまり経った2011年11月21日より実施された。
売買立会い時間
証券取引所
4,997
659
87,277,123
日本の場合、1989年1月までは土曜日(1983年8月以降の第2土曜日は全面休場、1972年頃〜1983年7月および1986年8月以降の第3土曜日は全面休場)にも前場のみ取り引きが行われたが、金融機関の完全週休二日制への移行に伴い、現在は毎週土曜日・日曜日・祝日・振替休日・12月31日〜1月3日は全面休場となっている。天災・戦争・元首の死去等の国家的事態が発生した場合に、臨時に休場となる場合もある。日本では1989年1月7日の昭和天皇崩御や、1995年1月17日には阪神・淡路大震災のため大阪証券取引所のみ全日休場となったことがあった。2001年のアメリカ同時多発テロ発生の際には、被害を受けたニューヨーク世界貿易センタービル(WTC)近在にあるニューヨーク証券取引所を含め、アメリカのすべての証券(金融)市場が数日間に渡り停止したことがある。
休業日
証券取引所
4,998
659
87,277,123
2018年9月6日、札幌証券取引所が北海道胆振東部地震の発生による大規模停電で終日取引を停止した。
休業日
証券取引所
4,999
660
88,224,414
株式(かぶしき)とは、株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)や権利のことである(通説)。「株式」という日本語は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益権を意味する「式(職)」という語に、その沿革を有する。英語では見方により呼称が異なる。証券としてはストックといい、株式会社等の自己資本はエクイティという。
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株式
5,000
660
88,224,414
通説である社員権説では、株式は株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)をいうとされている。株式会社の所有と経営の分離や株式の債権化に伴い、社員権否認説、株式債権説、株式会社財団説なども唱えられているが、共益権を事実上行使しない株主であっても株式そのものが変質しているわけではないとの指摘がある。株式を表章する有価証券が発行されることがあり、これを株券という。世界初の株式会社は1602年に設立されたオランダ東インド会社といわれている。株式は会社に対する権利全体を均等に分けるとともに、多額の出資を行った者には複数の株式の所有を認めることで、権利関係の処理の簡便化と流通の利便を図り大規模な事業での資本の調達を可能にする点に特質がある。
概説
株式
5,001
660
88,224,414
例えば日本の会社の形態には株式会社と持分会社があるが、持分会社における社員権である持分は、各社員の出資額などに応じて不均一な形態をとり得るのに対して、株式は、種類ごとに均一に細分化された割合的な構成単位をとる点に特徴がある。ただし、額面株式(一株の価値が券面額等で表示されている株式)を採用している制度では必ずしも持分均一主義をとらなければならないわけではなく、ドイツでは持分不均一主義がとられている。もともと株式には額面株式しかなく株式の金額は資本の構成分子を意味したが無額面株式の登場により大きく変容している。無額面株式はアメリカのニューヨーク州で初めて発行が認められた。日本の現行の会社法は無額面株式のみとしており、資本と株式の相関関係は失われ(資本と株式の関係の切断)、株式に資本の構成単位としての意味はなくなっている。
概説
株式
5,002
660
88,224,414
株式会社は、事業で得た利益の一部を原則として出資比率に応じて配当という形で株主に分配する。事業が赤字の場合には無配になる可能性がある。また、廃業したり、経営が破綻して倒産した場合には株式の価値がゼロになることもある。しかし、株主の責任は有限責任であり、会社に多額の債務が残っても株主は出資額以上の損失を被ることはない。一方で、会社を解散した場合、債務をすべて履行してなお資産が残れば、その資産の所有権は株主にあり、原則として出資比率に応じて分配する。株式の売買取引の際に付けられる価格が株価である。株式の所有によって得られる利益(配当等)を配当収益(インカムゲイン)といい、株式の売買によって得られる利益を売買収益(キャピタルゲイン)という。
概説
株式
5,003
660
88,224,414
会社に対して権利を行使する際に株主名簿上に株式を取得した者の氏名や住所を記載することを要する株式を記名株式、このような記載を必要としない株式(株券の提供・供託や口座簿の振替によらさるもの)を無記名株式という。日本では2004年の法改正まで株式会社は株券の発行が義務づけられており、1990年以前は記名株式と無記名株式の両方があったがいずれも株券の交付だけで株式の譲渡は可能とされていた。日本の現行法では株券は発行しないことが原則となっており(会社法第214条)、会社と株主の関係は株券の発行の有無を問わず株主名簿の記録によって決することとしており全て記名株式である(会社法第130条)。振替株式については株主名簿の名義書換に関する会社法の特例を定める社債、株式等の振替に関する法律の適用を受ける。
株式の内容と種類
株式
5,004
660
88,224,414
なお、日本の会社法では株券を発行している会社でも株式の譲渡に裏書は必要とされておらず、株券上には株主の氏名や住所は記載されない。ドイツには株主名簿制度がなく無記名株式であり、フランスでも無記名株式である。定款に1株の金額(券面額)の記載があり、それが株券に表示されてある株式を額面株式といい、株券に券面額の記載がない株式を無額面株式という。無額面株式は1915年にニューヨーク州が初めて発行を認めた。額面株式とともに無額面株式を認めている国にはドイツやフランスがある。日本では1899年の商法で額面株式のみを認め、1950年の改正商法で無額面株式を導入した。2001年の改正商法により日本では額面株式を完全に廃止して無額面株式に一本化したが、これは主要国では他に例をみない。一方、イギリスでは特殊な企業形態を除いて無額面株式を発行することは認められていない。
株式の内容と種類
株式
5,005
660
88,224,414
会社の利益の配当や残余財産の分配に際して普通株に優先する株式を優先株、普通株に劣後する株式を劣後株(後配株)という。日本の会社法では、すべての株式の内容として特別な内容の株式を発行することや(会社法107条)、権利の内容が異なる2種類以上の株式を発行すること(種類株式、会社法108条)が認められている。株式会社は発行する全部の株式の内容として次の内容を定めることができる(会社法第107条)。これらは種類株式として設定することもできるが、定款に定められたすべての株式が均一な内容である場合には種類株式ではない。また、株式会社は次に掲げる事項について内容の異なる二以上の種類の株式を発行することができる(会社法第108条)。アメリカの模範会社法には優先株や無議決権株式の規定がある。
株式の内容と種類
株式
5,006
660
88,224,414
優先株(Preferred Shares)は利益配当や会社資産の分配のいずれかもしくは両方で普通株に優先する株式である。無議決権株式(Non-Voting Shares)については多くの州で議決権を有する株式を一種類に限定するか議決権を有しない株式を一種類に限って定めることができるとしている。
株式の内容と種類
株式
5,007
660
88,224,414
株式の発行は、原則として、会社が株主になろうとする者を募集し、申込みを行った者の全部または一部に対して株式を割り当て、これらの者と引受契約を締結する。株式を引き受けた株式引受人は払込義務を生じる。株式引受人は会社設立の場合は会社成立時、新株発行の場合はその効力発生時に株主となる。人々は収益の分配を条件に資本の提供(投資)を勧誘されても、いつでも容易に資本を回収できる手段がない限り投資には応じにくい。株式会社制度では資本の回収を株式の譲渡によって行うことができる。会社が特定の株式を消滅させる行為を株式の消却という。日本では会社法の制定までは株主が保有する株式を株主が保有したまま消却する強制消却制度があったが、会社法では消却できるのは自己株式のみとなった(株主が保有する株式については取得条項付株式などとすることで会社が株式を取得した上で消却する)。
株式の発行~株式の消却
株式
5,008
661
88,279,462
株主(かぶぬし、(英: shareholder、stockholder)とは、株式会社の出資者。株主名簿に記名されている個人・法人のこと。持ち株数に応じた権利(株主権)を有するが、同時に有する株式の引き受け価額を限度とする有限責任を持つ。
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株主