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84,728,503
しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。『アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わる。クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王アゲシラオス2世に心酔していたことが分かる。始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、コリントス戦争が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、コロネイアの戦いにて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。
生涯
クセノポン
4,810
638
84,728,503
このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。その功績を讃えられ、アンタルキダスの和約によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。
生涯
クセノポン
4,811
638
84,728,503
クセノポンの著作全体は、ギリシア語の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。師ソクラテスの言行。
著作
クセノポン
4,812
639
48,992,104
ディオゲネス(希: Διογένης)は、ギリシャ語の男性名。
__LEAD__
ディオゲネス
4,813
640
88,124,720
エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
__LEAD__
エピクロス
4,814
640
88,124,720
エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアでクセノクラテスの、またリュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスに移り、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。
生涯
エピクロス
4,815
640
88,124,720
紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。
生涯
エピクロス
4,816
640
88,124,720
「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。
その後
エピクロス
4,817
640
88,124,720
エピクロスの自然思想は、原子論者であったデモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。エピクロスは、幸福を人生の目的とした。
学説
エピクロス
4,818
640
88,124,720
これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。
学説
エピクロス
4,819
640
88,124,720
より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
学説
エピクロス
4,820
640
88,124,720
このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。
学説
エピクロス
4,821
640
88,124,720
プラトンとアリストテレス以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙、主要教説を収録している。岩波文庫に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、1888年にバチカンの写本から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。
著作
エピクロス
4,822
640
88,124,720
彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。
思想の背景
エピクロス
4,823
641
68,834,571
芦奈野 ひとし(あしなの ひとし、1963年4月25日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横須賀市出身。1994年にアフタヌーン四季賞春のコンテストで四季賞を受賞した『ヨコハマ買い出し紀行』が連載化してデビューし、代表作となった。
__LEAD__
芦奈野ひとし
4,824
641
68,834,571
スクリーントーンと斜線で陰影を表現したシンプルな画面と、ノスタルジックでのんびりしつつも少し不思議な物語、セリフの少ない独特の間のとりかたを特徴とする。
作風
芦奈野ひとし
4,825
642
88,760,933
松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。福岡県久留米市荒木町出身。所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。血液型A型。
__LEAD__
松田聖子
4,826
642
88,760,933
松田聖子は、日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、さまざまな面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当時の街中に溢れかえった。
概説
松田聖子
4,827
642
88,760,933
後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている。芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかとされている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー後半年の聖子はすでに「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた。
概説
松田聖子
4,828
642
88,760,933
容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていたとする但馬オサムの評価があり、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという。聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。
概説
松田聖子
4,829
642
88,760,933
絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。また、1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラックレコーダには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。
概説
松田聖子
4,830
642
88,760,933
楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。
概説
松田聖子
4,831
642
88,760,933
こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている。私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。
概説
松田聖子
4,832
642
88,760,933
この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2020年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。
概説
松田聖子
4,833
642
88,760,933
デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。
概説
松田聖子
4,834
642
88,760,933
大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている。
概説
松田聖子
4,835
642
88,760,933
1962年3月10日、福岡県久留米市荒木町(当時の三潴郡筑邦町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員(厚生省事務官)の父親と、同県八女市の庄屋出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった。出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代には柳河藩12万石(立花家)の家老格だった旧家。家紋は蒲池久憲以来の「左三巴」。8歳上の兄がいる。幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた。久留米市立荒木小学校卒業後、久留米市立荒木中学校に入学しテニス部に所属。
経歴
松田聖子
4,836
642
88,760,933
ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズの曲を歌っていたという。家と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となった(1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している)。中学時代はスチュワーデスか保母になりたいと思っていた。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという(デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。1977年、4月8日、カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学する。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校に決まった。キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ。
経歴
松田聖子
4,837
642
88,760,933
行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される。大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる。高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組みピンクレディーの曲で出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった。高校2年となる1978年、CBS・ソニーと集英社『セブンティーン』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。
経歴
松田聖子
4,838
642
88,760,933
歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」で、「大好きなミッキーマウスに会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会に出場した。しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。
経歴
松田聖子
4,839
642
88,760,933
ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスターの前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の若松宗雄は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープを取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようとスカウトする決意をした。
経歴
松田聖子
4,840
642
88,760,933
若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。
経歴
松田聖子
4,841
642
88,760,933
そんな状況が続き、このまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、1979年1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある平尾昌晃音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校(渡辺プロ系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している。
経歴
松田聖子
4,842
642
88,760,933
支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした。若松は次にプロダクション尾木の尾木徹社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった。1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い相澤秀禎社長のサンミュージックプロダクションであった。支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。
経歴
松田聖子
4,843
642
88,760,933
結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る。当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、来年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を中退した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に元々予定されていた父親の東京出張に合わせて法子も上京する運びとなった。そして、父親と共に上京。
経歴
松田聖子
4,844
642
88,760,933
5日間ほど滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。帰りの道中、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。同月、堀越高等学校に転学する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。
経歴
松田聖子
4,845
642
88,760,933
相澤は朝のジョギングが日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを付き添った。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな鎮守社に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという。プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものだった(中山はそれを法子に告げていなかった)。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。
経歴
松田聖子
4,846
642
88,760,933
10月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあり、聖子にとってはそれがファーストキスであったという。シーンを撮り終えてカットがかかった途端に聖子が布団を被って泣き出した為、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始。この頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。
経歴
松田聖子
4,847
642
88,760,933
同月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子)。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している。1980年1月末、NHK総合『レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。
経歴
松田聖子
4,848
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それによって何とかコマーシャルソングとしての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節」で歌手デビューを果たした。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった。デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。聖子の歌声はタイアップCMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。
経歴
松田聖子
4,849
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それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色」、「夏の扉」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆(後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという。デビュー日となる4月1日、日本テレビ『ズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、HNK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に「裸足の季節」で初登場。
経歴
松田聖子
4,850
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7月、TBS『ザ・ベストテン』にも「スポットライト」コーナーに第11位として初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした。9月、「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。同番組では70年代と80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した。伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。
経歴
松田聖子
4,851
642
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セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した。小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。作詞に松本隆を迎えてからは大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美、大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンがシングルに起用された。アルバムにおいても杉真理、来生たかお、原田真二、甲斐祥弘、南佳孝、林哲司、矢野顕子、玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供した。デビュー間もない頃の声量のある力強い声質から、酷使によりややハスキーな色合いを帯びた以降も、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。
経歴
松田聖子
4,852
642
88,760,933
元々B面だった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲だった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しない事でその歌声により注目が集まったデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。そうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた。
経歴
松田聖子
4,853
642
88,760,933
社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている。1985年1月、交際していた郷ひろみ(結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演していた神田正輝が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた結婚式は、石原プロの俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった。司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫。
経歴
松田聖子
4,854
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88,760,933
結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう...... よかった」とだけ応じる場面があった。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)。妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。
経歴
松田聖子
4,855
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結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。
経歴
松田聖子
4,856
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出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルだった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech〜マラケッシュ〜」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった。1989年6月、サンミュージックを契約満了を機に退社。8月には個人事務所「ファンティック」を設立した。独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だという。
経歴
松田聖子
4,857
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アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる。11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven」、「THE RIGHT COMBINATION」、アルバム『Seiko』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。
経歴
松田聖子
4,858
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11月のシングル「We Are Love」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「きっと、また逢える...」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える...」(1992年)、7位の「大切なあなた」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう」(1994年)、5位の「さよならの瞬間」(1996年)などをヒットさせた。作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。
経歴
松田聖子
4,859
642
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当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルだった。「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」のように、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親調への転調をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。1996年発売の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう」が久々にチャート1位となる。自身初のミリオンセラーを記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。
経歴
松田聖子
4,860
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この時期には「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。1997年1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。1999年のアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1』から2004年のアルバム『Sunshine』までは原田が作曲・プロディースを担当した。
経歴
松田聖子
4,861
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その間、海外進出第3弾となったアルバム『area62』もアメリカのインディーズレーベルで発売した。2005年以降は、鳥山雄司プロディースのアルバム『fairy』を経て、2006年の『bless you』で再び小倉とのコンビとなるが、2007年の『Baby's breath』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした。2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。
経歴
松田聖子
4,862
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翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している。2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『Bibbidi-Bobbidi-Boo』から起用された編曲家の野崎洋一が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。
経歴
松田聖子
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2014年2月末、新事務所「felicia club」を設立し「ファンティック」から移籍。2017年、新たな取り組みとして全編ジャズで構成されたアルバム『SEIKO JAZZ』を発売。2019年には第2弾となる『SEIKO JAZZ 2』を発売した。2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている。2021年12月18日、一人娘である長女・神田沙也加が札幌市内のホテルの高層階から転落して死去。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという。
経歴
松田聖子
4,864
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翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり、選出されていた『第72回NHK紅白歌合戦』も出場を辞退した。同月21日、札幌市内の斎場に赴き、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った。
経歴
松田聖子
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「ぶりっ子」という呼称は、当時の人気漫才コンビ春やすこ・けいこや山田邦子が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある。この言葉は当時の流行語にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。
エピソード
松田聖子
4,866
642
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ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送のNHK・朝の連続テレビ小説『あまちゃん』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった。実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。
エピソード
松田聖子
4,867
642
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1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる小泉今日子、松本伊代、早見優など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「聖子ちゃんず」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。
エピソード
松田聖子
4,868
642
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「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷店が行きつけだった。1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時にワンレングスのロングヘアーになっている場合が多い。1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。
エピソード
松田聖子
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642
88,760,933
1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。1998年公開の映画『アルマゲドン』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだがカメオ出演を果たしている。1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の『わたしが美しくなった100の秘密』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。デビュー当時は同期である岩崎良美、浜田朱里、河合奈保子らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。
エピソード
松田聖子
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88,760,933
同じく同期の田原俊彦は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲だった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった近藤真彦とは昔から交流があり、1988年にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあったモト冬樹とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。小柳ルミ子はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも信頼されていたという。
エピソード
松田聖子
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88,760,933
聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。
エピソード
松田聖子
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歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大ヒットにより、第31回(1980年)に紅白歌合戦へ初出場。その後、第39回(1988年)まで9年連続で出演したが、次の第40回(1989年)は落選した。それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、第71回(2020年)は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。第72回(2021年)は選出されたが、出場を辞退した。
出演
松田聖子
4,873
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86,704,780
森田 まさのり(もりた まさのり、本名:森田 真法、1966年12月22日 - )は、日本の漫画家。滋賀県栗東市(旧栗太郡栗東町)出身。血液型O型。代表作は『ろくでなしBLUES』、『ROOKIES』など。
__LEAD__
森田まさのり
4,874
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大宝小学校から栗東中学校に進学、学校の分離によって栗東西中学校を卒業後、守山高校在学中に執筆した作品『IT'S LATE』が手塚賞佳作に入選した。同作の『フレッシュジャンプ』掲載で「森田真法」名義で漫画家デビュー。高校卒業と同時に漫画家を目指し上京。原哲夫の下でアシスタント活動を行う。『週刊少年ジャンプ』増刊号などに数編の読み切り作品を掲載後、1987年、『BACHI-ATARI ROCK』で『週刊少年ジャンプ』本誌に初掲載。その後、同誌上に1988年から『ろくでなしBLUES』、1998年から『ROOKIES』を連載。2005年からは同誌上で『べしゃり暮らし』を連載したが、体調を崩して休載。週刊ペースでは無理となり、2007年から『週刊ヤングジャンプ』に掲載誌を移して不定期連載となる。
略歴
森田まさのり
4,875
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絵のタッチは古くは手塚治虫や藤子不二雄A風であったが、上京時には北条司に近いものであった。そのため上京後はアシスタント志望として北条司の所へ足を運んだがそちらは人手が足りており、紹介されるかたちで原哲夫に師事することになった。その後アシスタント時代に原哲夫以外にも谷口ジローや池上遼一の作品に感化され、森田の画風は完成していった。アシスタント時代に培った森田の画風の武器は「口」であり、そこだけは誰にも負けないよう、発音通りの口が描けるように頑張ったという。またその他の表現としては、『北斗の拳』においてザコキャラクターがギャグっぽいことを行うシーンがあり、その部分に強い影響を受けたという。また、高校卒業と同時に漫画家の道へ入ったため、会社組織で働いたこともなければバイトの経験も、果てには合コンの経験すらほとんど無いと言い、このため、森田は描けることと言ったら高校時代までのこと、としている。
人物
森田まさのり
4,876
643
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プライベートではプロ野球球団・阪神タイガースのファンであり、『ROOKIES』の登場人物名は阪神タイガースの選手名から取られている。特にホームラン王・田淵幸一の大ファンである。2014年には阪神とコラボレーションを行い、広告を展開するなどした。なお、ドラマ化に当たって登場人物名を全て巨人選手へ変更する計画が打診されたが、森田はこれを強く断っている。実家は浄土真宗本願寺派の寺院であり、寺の長男として生まれたため、高校1年の夏休みのときに得度を受け僧籍を得ている。親には跡を継いでほしいという希望があったが、「大学に行かせたと思って4年だけ東京に行かせてくれ!」「4年で連載を持って有名になるから」と懇願。その活動中にプロ漫画家デビューを果たした。ただし森田は、「4年間で必ず売れる!」と不退転の覚悟で上京しており、実家に戻る気は無かったという。
人物
森田まさのり
4,877
643
86,704,780
元来は3年で連載を得て、4年で金持ちになる計画であったのだが、計画よりは少々遅れたものの、上京4年目に連載を獲得している。森田はこれは「4年計画」と呼ぶ。作品『バチあたりROCK』はこの体験が生かされているほか、実家を父親に資料写真として撮影してもらっている。父親は、真面目で為になる宗教漫画を描いてくれると思っていた。現在、同寺は森田が養子を迎え、その養子が跡を継いでいる。なお、漫画家になった結果、郷土や寺の後を継ぐことを期待してくれていた檀家を裏切るかたちとなり、森田はこの点に後ろめたさを感じていると語るが、その分、郷土である滋賀県のために尽くし、また檀家さんにも自身の活躍を見てもらいたいが檀家さんはあまり漫画を読まないだろう、との配慮から、作品のドラマ化・パチンコ化などの話は積極的に受けている 。
人物
森田まさのり
4,878
643
86,704,780
また滋賀県は決して琵琶湖だけではなく、赤こんにゃくや近江牛などおいしい食べものもたくさんあるのであるから、誇りを持ってほしい、と語っている。『ROOKIES』のドラマ化に当たっては、当初は守山高校でロケを希望したが許可がおりず、栗東中学校で行うこととなった。これは、いずれも森田の母校である。なお、校舎や野球部の部室も、栗東中学のそれがモデルである。漫画以外の活動としては、上述の阪神タイガースとのコラボレーションのほか、2004年にロックバンド175RのCD、『GLORY DAYS』のジャケットにメンバーのイラストを描いたことがある。
人物
森田まさのり
4,879
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88,384,541
山岸 凉子(やまぎし りょうこ、1947年〈昭和22年〉9月24日 - )は、日本の漫画家。北海道空知支庁管内(空知郡)上砂川町出身。北海道札幌旭丘高等学校、北海道女子短期大学(現・北翔大学短期大学部)美術科卒業。名を「涼子」(さんずいの涼)と書くのは誤りで「凉子」(にすい)が正しい。萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子らと共に24年組と呼ばれる一人である。
__LEAD__
山岸凉子
4,880
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デビューは1969年『りぼんコミック』掲載の「レフトアンドライト」。1971年にりぼんにて連載開始された『アラベスク』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として大人気を得て、花とゆめに場を移して描かれた第二部では、華麗なイラスト的表現を、また、少女である主人公が大人の女性へと成長する様子を描くなど、当時は前人未到であった手法やテーマを積極的に開拓していった。1980年LaLaで代表作『日出処の天子』を連載開始する。主人公である聖徳太子が超能力、及び霊能力者であり、また生育環境が原因の同性愛者であるという設定は当時センセーションを巻き起こした。1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。2000年にダ・ヴィンチにて『アラベスク』から約30年ぶりとなるバレエ漫画『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始する。同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。2011年をもって連載終了した。
概要
山岸凉子
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88,384,541
2011年ダ・ヴィンチにて『ケサラン・パサラン』の連載を開始、2012年10月号で終了した。2014年に『モーニング』にて、百年戦争を題材としたジャンヌ・ダルクを主人公とした『レベレーション(啓示)』の隔月連載を開始し、2020年10月に完結した。2016年に弥生美術館にて展覧会「山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―」が開催された。翌年には京都国際マンガミュージアムでも開催された。2019年には生まれてから2歳まで過ごした北海道上砂川町でトークショーを開催した。漫画の電子書籍版は発売されていなかったが、2021年10月4日よりKADOKAWAと講談社から初めて発売されることになった。
概要
山岸凉子
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88,882,015
ヘラクレイトス(希: Ἡράκλειτος, Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃? ヘラクリタスとも)は、古代ギリシアの哲学者、自然哲学者。
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ヘラクレイトス
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エフェソスで生まれたとされている。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、かかわることを拒否した。そしてアルテミス神殿に退いて子供たちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。水腫に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。
生涯
ヘラクレイトス
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著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。
著作
ヘラクレイトス
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アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、「ロゴス」(λόγος, logos)を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは「火」(πῦρ, pyr, ピュール)であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレスなどのそれとは異なっている。
思想
ヘラクレイトス
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この「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、実際には同じ事柄(形而上学における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、プラトンが引用している「万物は流転する」(Τα Πάντα ῥεῖ (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。
思想
ヘラクレイトス
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また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。
思想
ヘラクレイトス
4,888
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川崎 のぼる(かわさき のぼる、男性、1941年1月28日 - )は、日本の漫画家。大阪府大阪市出身。本名:川崎伸。血液型O型。代表作は『巨人の星』(原作:梶原一騎)、『いなかっぺ大将』、『てんとう虫の歌』他多数。熊本県で絵本作家として活動を行っている。 マンガ原作者のかわさき健は実子。
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川崎のぼる
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少年時代は、両親の出身地の長崎県に疎開していた。貧困の中、中学卒業後、1957年に『乱闘・炎の剣』(単行本)でデビュー。さいとう・たかをのアシスタントを経て、貸本漫画界で活躍する。1965年、『週刊少年サンデー』連載『アタック拳』で一般漫画誌に活躍の舞台を移す。その後、『週刊少年マガジン』に連載した梶原一騎原作の『巨人の星』が大ヒットし、国民的知名度を得た。2003年に熊本県菊池郡菊陽町へ移住する。以後、熊本県関連のポスター・キャラクターデザインや絵本執筆を中心に活動を行なっており、2010年には阿蘇市の観光PR用キャラクター(ゆるキャラ)『五岳君』と『火の子ちゃん』のデザインを手掛けた。
来歴
川崎のぼる
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作画は写実的で肉体的なタッチだが、デフォルメも適度に混ざり、作風も劇画からギャグまで幅広い。『巨人の星』などでは、主要キャラクターは劇画風で、子供やアナウンサー、記者、観客など「その他大勢」的な人物の顔はギャグ漫画風に描かれ、例えば『いなかっぺ大将』の「西一(にしはじめ)」に似た顔もあり、それらが違和感なくおさまっている。大きな動物は身体がリアルで、顔は擬人化している。しかし、ニャンコ先生のような小猫、小犬は相当デフォルメされている。人物の手の筋肉や骨骼の描写は細かく、身体との比率から見て実際より手(手の甲)が大きく見えることもあり、コマ内では手の描写を多用することで、人物の心の動きや内側を描き出している。また、ゴジラのような怪獣(『風のサンタ』に登場)やヒグマ(『ムツゴロウが征く』に登場)などの描写では、リアリズムとギャグを描き分けるテクニックは確かである。
人物
川崎のぼる
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88,637,252
『いなかっぺ大将』では、風大左エ門は掲載当初、星飛雄馬のような二枚目顔が基本だったが、早い時期からアニメでおなじみのギャグ顔に移行していった。この作品は本来、風大左エ門の「柔道漫画」という側面もあったが、川崎の『アニマル1』頃からのギャグ的才能が開花し、次第にギャグ漫画へと移行していった。僚友のビッグ錠は、これを見て「やっこさん、始めよったな」とほくそえんだという。『巨人の星』の作画を『週刊少年マガジン』の編集者から依頼された際には、働きづめでは野球にはほとんど興味がなく、友達との草野球の経験もない、という理由で一度は断っている。後に川崎は、熱狂的な阪神ファンとなっている。『巨人の星』を『週刊少年マガジン』に、『いなかっぺ大将』を小学館学年誌全般に掛け持ちで執筆していた頃は、1週間に2度ほどしかまともに眠ることはなかったという。
人物
川崎のぼる
4,892
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締め切りは頑として守る主義であったため、当時の担当編集者も文句が挟めない状態だったらしい。これは間を置かず『てんとう虫の歌』の時期にも受け継がれたため、病床に伏したこともあった。よって、当時の川崎原作のアニメもほとんど観ることはなかったとのことである。絵が緻密になったのは梶原一騎との仕事ののちと認識され、それ以前は馬場のぼるなどにも影響された、瓢々としたタッチの漫画を主流としていた。少女漫画も手がけたことがある。水島新司とは、ほとんど同じ時期にデビューした同期みたいな存在だった。
人物
川崎のぼる
4,893
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80,029,504
佐々木 倫子(ささき のりこ、1961年10月7日 - )は、日本の漫画家。北海道旭川市出身、札幌市在住。女性。血液型はAB型。北海道旭川東高等学校、北海道教育大学教育学部旭川校卒業。1980年『花とゆめ夏の増刊号』(白泉社)掲載の「エプロン・コンプレックス」でデビューした。当初のペンネームは「佐々木規子」で、『ペパミント・スパイ』(花とゆめ1982年9月増刊号掲載)から現在の本名の表記に変更された。主に白泉社の『花とゆめ』系列誌を中心に活動していたが、『動物のお医者さん』を最後に白泉社から小学館に活動の場を移し、『おたんこナース』以降は小学館の青年誌をメインに活動している。
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佐々木倫子
4,894
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80,029,504
(括弧内は雑誌掲載年)
作品リスト
佐々木倫子
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88,800,420
高橋 陽一(たかはし よういち、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家。東京都葛飾区四つ木出身。東京都立南葛飾高等学校卒業。元妻は声優の日比野朱里(旧名:小粥よう子)。血液型はA型。主にスポーツを題材とした作品を執筆している。代表作はサッカーを題材にした作品『キャプテン翼』。
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高橋陽一
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88,800,420
1980年、『週刊少年ジャンプ』において読み切り作品『キャプテン翼』でデビュー。翌年、同作品で連載開始。同作品は人気を博し、1983年にテレビ東京系でアニメ化された。『キャプテン翼』の最初のアニメ化で翼役を演じた小粥よう子(現・日比野朱里)と結婚した。現在のプロサッカー選手には国内外問わず、当時『キャプテン翼』に影響された少年たちも多く、『キャプテン翼』がなければ現在の日本サッカーシーンはなかったとまで言われる。スフィアリーグに参加する芸能人女子フットサルチーム「南葛シューターズ」の監督や葛飾区のサッカークラブチーム「南葛SC」の後援会会長も務め、南葛SCのJリーグ加盟に必要な運営法人の代表取締役も務めている。また、『Road to 2002』では翼がFCバルセロナで入団し活躍することから、2004年2月16日にFCバルセロナ会長から直々に招待され、VIP席で試合を観戦したこともある。
概要
高橋陽一
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88,800,420
また、FCバルセロナのライバルであるレアル・マドリードの会長(当時)からは「なぜツバサをうちのチームに入れてくれなかったんだ」というコメントを受けている。さらに作中で翼がバルセロナに入団した際、バルセロナのスポンサーであるナイキ社から「翼のスパイクをアディダス社からナイキ社に変更してほしい」という要望を受けたがこれを固辞している。これに関して高橋は、『週刊ヤングジャンプ』誌の取材で「僕はアディダスのファンなので」と語っている。2006年には漫画家として異例のCM出演に留まらず、翼との共演を果たした。サッカー以外にもスポーツ全般を好み中学生時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属、『エース!』連載中も草野球チームやソフトボールのチームをいくつか掛け持っており、北海道移転前からの北海道日本ハムファイターズのファンでもある。
概要
高橋陽一
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648
88,800,420
また、漫画以外でもフランスのプロサッカークラブ、グルノーブル・フット38のイメージキャラクターも手がけている。さらに、イラク復旧活動の際には自衛隊側からの依頼で「イラクの子供に喜んで受け入れてもらうため」に、自衛隊の車両に『キャプテン翼』のキャラクターを描くなど、執筆活動以外の活動も行っている。2009年には、オリンピックの東京招致活動の一環であるメッセージフラッグに、「大空翼」と「若林源三」のイラストとメッセージを書き込んだ。2011年には女子W杯に出場した日本女子代表の激励のため開催国ドイツに赴く。その際、翼と澤穂希をモデルにした応援キャラクターの『楓ちゃん』を書き込んだ日の丸をチームに寄贈した。その後日本が女子W杯初優勝を果たした際、澤もこの日の丸を身にまとってウイニングランを行っている。
概要
高橋陽一
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88,800,420
2008年6月18日J2第18節横浜FC対徳島ヴォルティス戦より、横浜FCマッチデープログラム内に『はばたけ蹴太』を全13回計26ページにて連載、雑誌以外の連載物は初となった。2014年頃、小粥よう子(現・日比野朱里)と離婚。2015年2月、一般社団法人日本フットゴルフ協会アンバサダーに就任。2018年12月27日、葛飾区名誉区民として顕彰された。
概要
高橋陽一
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すがや みつる (1950年9月20日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者、小説家。学位は修士(実践人間科学)(早稲田大学・2011年)。京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授。本名は菅谷 充(読みは同じ)。他のペンネームは漫画原作者として鶴見 史郎(ツルミはミツルのもじり)、鷹見 吾郎がある他、本名でも小説家として活動している。静岡県富士市出身。血液型O型。代表作は、『仮面ライダー』、『ゲームセンターあらし』、『こんにちはマイコン』等。マイコン、コンピューターゲーム、パソコン通信、実務に関する教養漫画、F1など、時代を先取りした題材をテーマとするが、つねに本格的な流行到来前に新たなジャンルに取り組んでいる。
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すがやみつる
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表記の無いものは全て石ノ森章太郎原作作品。「『あらし』のような漫画だけでは、漫画家生命が太く短くて持たない」と考えた事が理由で、地味な描き下ろしを続けた。十何年も増刷を続けたり、一万部売れれば大ヒットのこのジャンルで、十万部をこえた作品もある。下書きだけをした仕事もあるという。
主な作品
すがやみつる
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つのだ じろう(本名:角田 次朗、1936年〈昭和11年〉7月3日 - )は、日本の漫画家・心霊研究家。東京府東京市下谷区豊住町(現・東京都台東区下谷1丁目)出身。血液型O型。八人兄弟の次男であり、四弟のつのだたかしはリュート奏者、末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子である。
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つのだじろう
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東京府東京市下谷区で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県に疎開、戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻る。新宿区立淀橋中学校、東京都立青山高等学校卒業。高校在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づく。つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き、これをきっかけに師事することとなる。昭和30年(1955年)、『漫画少年』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。この作品はわずか3ページほどの短編であるが、師である島田から何度も書き直しを命じられ、苦心の末投稿を許されて掲載されたものだという。同じく『漫画少年』に投稿していた若い漫画家達と知り合い、そのツテで新漫画党に入党。豊島区のトキワ荘に通う事になる。
来歴
つのだじろう
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88,507,985
1958年、『りぼん』連載の『ルミちゃん教室』がヒットししばらくは少女漫画を主に描いていた。1961年、『なかよし』に連載した『ばら色の海』で、第2回講談社児童まんが賞を受賞。その後は少年漫画誌に移りギャグ漫画を描くようになり、『ブラック団』『忍者あわて丸』などで人気を博す。1971年から梶原一騎原作で描いた空手バイオレンス漫画『空手バカ一代』が大ヒット、以降は劇画調の作品を描くようになる。デビュー間もない頃、東京・両国橋でオレンジ色のUFOを目撃したことをきっかけにオカルトを研究していたつのだはその知識を生かし、1973年に『うしろの百太郎』『恐怖新聞』といった怪奇漫画を立て続けに連載、大ブームを巻き起こしオカルト漫画の第一人者となった。その他の代表作として、本格派将棋漫画である『5五の龍』、様々な女性達の運命をリアルに描いた『女たちの詩』シリーズなど、TVドラマ化された作品が多数ある。
来歴
つのだじろう
4,905
650
88,507,985
ギャグからシリアスなもの、少年・少女向けから大人向けまでとオールラウンドなジャンルで活躍した。
来歴
つのだじろう
4,906
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87,555,199
北条 司(ほうじょう つかさ、本名:北條 司、1959年〈昭和34年〉3月5日 - )は、日本の男性漫画家・実業家。株式会社コアミックス設立者であり取締役、及び関連会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役。福岡県小倉市出身。九州工業高校・九州産業大学芸術学部卒。トレードマークはサングラスで、公開されている写真や自画像のほぼ全てが着用した姿となっている。1980年(昭和55年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号に掲載された『おれは男だ!』でデビューし、翌1981年(昭和56年)より開始された『キャッツ♥アイ』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後2000年(平成12年)に堀江信彦らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。代表作に『キャッツ♥アイ』・『シティーハンター』など。
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北条司
4,907
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建設会社勤務の父親と専業主婦の母親の間の次男として、1959年(昭和34年)福岡県小倉市に生まれ、小学校からは北九州市内の八幡で過ごす。市立泉台小学校・市立高見中学校・私立九州工業高校・九州産業大学と進学し、高校までを北九州市内で、漫画家として上京するまでを福岡県内で過ごす。物心ついた時には既に絵を描く事が好きで、北条の母の証言によると幼稚園時代には鏡に映った自分の手を熱心にスケッチするなどしていた。また、兄がアニメキャラクター等を模写していたのに対して北条は模写が苦手で、小さな頃からオリジナルの絵を描く事が多かったという。早生まれで体が小さかった事もあり、絵を描く事は北条にとって周りにも誇れる唯一の自己表現手段となっていった。漫画を読むのも好きではあったがテレビの方により夢中になっており、特に漫画に強い思い入れがあったわけではなかった。
来歴
北条司
4,908
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初めてコマ割りのある漫画を描いたのは小学校1年生の時であったが、これは「『ウルトラQ』よりもおもしろい漫画がある」と友人にホラを吹いたことをごまかすためのものであった。このように幼少時から絵を描き続けていた北条であったが、小学2年生の時に担任の教師から「子供らしい絵を描け」などと絵をけなされる事件が起きる。北条にとって唯一の表現手段であった絵をけなされるは自分を全否定されることに近く、この事件が強いトラウマとなって絵を描くことが嫌いになり、目立つことを恐れる暗い少年となってしまう。以降、北条は小説を大量に読むようになり、特に中学時代はSF小説を読み漁る生活を送る。また学校推薦映画となっていた『ひまわり』(ヴィットリオ・デ・シーカ)を観て衝撃を受け、様々な映画を観るようになる。ただし金がかかるので、映画館で観られるのは月1回程度であり、もっぱらテレビの洋画劇場で放映されたものを観ていた。
来歴
北条司