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4,709 | 610 | 88,854,375 | ササキバラ・ゴウは、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している。このことは一面では、箱庭的な物語世界のなかにディテイルを描き込むことへの欲求を作家に与え、70年代以降のSFブーム・アニメブームと連動して、作品に細かな世界設定を描きこむ傾向を育てた。このような傾向はのちに士郎正宗らによって徹底的に追究されていくことになる。他面、人物の立体的な造形は80年代以降の士郎正宗や桂正和、遊人などの描く美少女像を変化させ、「記号的な顔」と「写実的な肉体」を併せ持つ、日本の漫画表現独特の美少女キャラクターを生み出す一因ともなった。 | 作風と影響 | 大友克洋 |
4,710 | 610 | 88,854,375 | 上記に加え、老人を口元に皺を一本入れるというような記号的な方法でなく、骨格から皮膚のたるみまで老人として表現するような大友のデッサン力、建物を様々な角度から正確な遠近法で描き出す描写力、写真や映画などから影響を受けた光学的な表現方法などは、以後の漫画界全体の画力を底上げすることになった。この他にも、効果音を描き文字ではなくフキダシを使って描く方法や、超能力などの大きな力によって地面が割れたり、球状にへこんだりするといった表現方法など、大友が始めたことでスタンダードとなった手法は数多い。大友は上記のような新しい手法で、戦後に、漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した。そのため写実的な作風を持つ一方で、彼の作品には過去の漫画作品を始めとする他の作品のパロディ、引用も数多くなされている。1978年から『rockin'on』で連載された「大友克洋の栄養満点! | 作風と影響 | 大友克洋 |
4,711 | 610 | 88,854,375 | 」(のち『ヘンゼルとグレーテル』に収録。なお、原稿の大半は渋谷陽一が大友に確認せず勝手に廃棄した)では『白雪姫』『赤頭巾』といった有名な童話をシニカルなファンタジーとして語り直しており、1979年より『バラエティ』に連載された『饅頭こわい』(単行本未収録)では毎回2ページを使って『鉄人28号』や『ゲゲゲの鬼太郎』などといった様々な漫画作品のパロディを行なっている。また上述したようにデビュー前の大友は少女漫画誌への投稿歴があるが、1979年『コミックアゲイン』誌では少女漫画の画風を模倣したパロディ作品「危ない! 生徒会長」(『SOS大東京探検隊』収録)を掲載している。 | 作風と影響 | 大友克洋 |
4,712 | 610 | 88,854,375 | 代表作である『童夢』は破壊的な超能力を持つ少女が登場する作品であるが、その少女の悦子という名は同じく超能力を持つ少女が登場する作品『さるとびエッちゃん』の主人公にちなんでつけられており、そのほかにも破壊的なパワーを持つ少女(アンドロイド)である則巻アラレ(『Dr.スランプ』)の帽子が描かれるなど、これらの作品へのオマージュであることを示している。OVAにもなった短編作品『猫はよく朝方に帰って来る』に登場する私立探偵は青池保子の『エロイカより愛をこめて』に登場するスパイ、エーベルバッハ少佐のパロディだと筆者自身がコメントしている。長編SF作品『AKIRA』では、主要人物の名前を横山光輝のロボット漫画『鉄人28号』にちなんでつけており、作品の構造も同作品の一種のパロディとなっていることが指摘されている。 | 作風と影響 | 大友克洋 |
4,713 | 610 | 88,854,375 | また2004年の映画監督作品『スチームボーイ』のタイトルは、手塚治虫の『鉄腕アトム』の英題である『アストロボーイ』を意識したものであった。 | 作風と影響 | 大友克洋 |
4,714 | 612 | 88,466,252 | 大橋 薫(おおはし かおる、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。愛知県丹羽郡岩倉町(現・岩倉市)出身。「狼のエンブレム」(原作:平井和正&ウルフガイプロジェクト)でデビューする。一卵性双生児の妹に漫画家の楠桂がおり、姉妹での合同作品も多数発表している。『ファンロード』(ラポート)出身作家で、一本木蛮、児嶋都、ながいけんらと共に一時代を築いた。 | __LEAD__ | 大橋薫 |
4,715 | 613 | 79,305,378 | 大森 葵(おおもり あおい、11月6日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。ファンタジー作品を描く傍ら、PlayStation 2用ゲームソフト『サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼』ではいるも晴章名義でキャラクターデザインを務めた。 | __LEAD__ | 大森葵 |
4,716 | 614 | 75,990,697 | 大山 和栄(おおやま かずえ、2月16日 - 2010年4月)は、日本の女性漫画家。長崎県平戸市出身。血液型はO型。 | __LEAD__ | 大山和栄 |
4,717 | 614 | 75,990,697 | 1973年、小学館の少女向け漫画雑誌『週刊少女コミック』にて「おむこさん志願」でデビュー。以降同誌や、同社の一般女性向けの漫画雑誌『プチセブン』などを中心に多数の連載作品を執筆していた。また講談社、秋田書店などの少女向け漫画誌でも主に短編作品を発表していた。2002年、乳がんに罹患していることが分かり摘出手術を受けた。以降乳がんの撲滅運動であるピンクリボン運動にもかかわっていた。またその闘病体験を生かした作品である『未来暦』やエッセイ作品『明日への伝言』、『乳がんと闘う!!ピンクのリボン』なども発行された。2009年10月頃より癌が再発した事実を自らのブログに公表し闘病の記録を綴っていたが、2010年4月初旬自身のブログにて体調が急変したことを伝える記事を執筆していたのが最後の記事となっていた。その後同月に亡くなっていたことが判明し、同年6月に故郷である平戸市にてお別れの会が執り行われた。 | 来歴 | 大山和栄 |
4,718 | 614 | 75,990,697 | 長崎県平戸の風土をこよなく愛し、作品の中にも数多く登場させていた。例えば「姉妹坂」における茜の出生地が長崎の平戸であり、後に息を引き取る場所も平戸であった。平戸の復興とイメージアップに対しピンクリボン運動の講演会などで熱く情熱的に語り、ピンクリボン運動を通して自らも行動を起こしていた。大学の教壇に立ち新たな可能性を秘めた若い才能を育てつつ、心に傷を持つ若者達(不登校児童)との交流にも力を注いでいた。後進の女性漫画家のみならず漫画を中心とした文化に対して与えた影響には多大な物があり、画力とストーリーを兼ね備えた本格派の女性漫画家として道を開いた人物であり、作中のキャラクターに対し個性ではなくシュールな人物としての性格を取り込ませ表現する手法を用いた作家でもあった。 | 概要 | 大山和栄 |
4,719 | 614 | 75,990,697 | 1982年、歌手・女優である小泉今日子のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず大山和栄が描いた彼女の似顔絵のイラストが起用された。 この縁で、小泉今日子のアルバム「詩色の季節」(LP盤、レーベル:ビクターエンタテインメント)のうち、B面に収録の曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山和栄のイラストがちりばめられている。1984年、『週刊少女コミック』主催の『ザ・スカウトオーディション』において大山和栄の代表作の1つである『シューティングスター』の主人公の名をグランプリとして冠した『浅香唯賞』に川崎亜紀が受賞。これを機に、川崎亜紀は芸名「浅香唯」として芸能界入りし、アイドルタレントとして活躍することとなる。代表作の1つである『姉妹坂』は1985年に東宝より映画化されていた。また『未来暦』と『典子、点、テン』は中国でも発売されている。 | 概要 | 大山和栄 |
4,720 | 615 | 88,001,530 | 岡崎 京子(おかざき きょうこ、1963年〈昭和38年〉12月13日 - )は日本の漫画家。1980年代から1990年代にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた。しかし作家活動の頂点にあった1996年(平成8年)に交通事故で重傷を負い、後遺症で作家生命を事実上絶たれた。休筆後20年以上を経てもなお、過去作品が断続的に復刊され、また映画化されている。 | __LEAD__ | 岡崎京子 |
4,721 | 615 | 88,001,530 | 東京都世田谷区下北沢の理髪店の娘として生まれる。東京都立松原高等学校時代から橘川幸夫編集の投稿雑誌『ポンプ』等にイラストや漫画を頻繁に投稿。妹ともに表紙を飾ったこともある。他、ミニコミ誌「リサイクル・サークル」内にイラストを提供。モチーフの多くはNew Age Steppersなどニューウェイブバンドであった。この頃、音楽家集団京浜兄弟社の加藤賢崇、常盤響、岸野雄一らと交流。跡見学園女子大学短期大学部在学中、友人の同人誌への投稿作品が、メジャーミニコミ誌『東京おとな倶楽部』に転載されたものが、雑誌 『漫画ブリッコ』編集者・大塚英志に評価され、 1983年(昭和58年)、『漫画ブリッコ』(白夜書房)6月号にてデビュー。 | 略歴 | 岡崎京子 |
4,722 | 615 | 88,001,530 | 1980年代から1990年代にかけて、サブカル誌、漫画誌、ファッション誌などに作品が掲載され、また新しいタイプの女性漫画家として内田春菊、桜沢エリカ、原律子らとともに、一般誌にも紹介される。岡崎の作品では、映画、小説、音楽、現代思想書などからの引用が多用され、また同時に岡崎の漫画表現を考察する本や雑誌も多く出版されている。岡崎の作品 『ヘルタースケルター』は2003年(平成15年)度文化庁メディア芸術祭・マンガ部門優秀賞、2004年(平成16年)第8回手塚治虫文化賞・マンガ大賞を受賞。岡崎のアシスタントを務めていたことがあるのは安野モヨコ、よしもとよしとも、マユタン、千里唱子、坂本大三郎らの漫画家。また後のアートライター工藤キキもアシスタントだったことがある。 | 略歴 | 岡崎京子 |
4,723 | 615 | 88,001,530 | 結婚後・1996年(平成8年)5月、自宅付近にて夫と共に大型四輪駆動車にひき逃げされ自力で呼吸できないほどの重傷を負った上に意識障害が続き創作休止と長期療養を余儀なくされる。岡崎の家族の了解をとって角川書店が1998年(平成10年)に『UNTITLED』を刊行。題名は編集部と家族が話し合い決定している。以前からファンであり親交がある小沢健二のコンサートに事故の14年後(2010年(平成22年)5月)に車椅子に乗り訪れる。『ヘルタースケルター』の映画化に際して事故後初の岡崎本人の発言が2012年1月に発表される。初の大規模個展「戦場のガールズ・ライフ」が2015年に東京・世田谷文学館で開かれ、その後、兵庫と福岡へも巡回した。 | 略歴 | 岡崎京子 |
4,724 | 616 | 87,778,636 | 岡崎 つぐお(おかざき つぐお、1960年4月23日 - )は日本の漫画家。東京都出身。1980年に『2年A組星子先生』でデビュー。デビュー後しばらくは『週刊少年サンデー』(小学館)で活躍した。代表作は『ただいま授業中!』『ジャスティ』『ラグナロック・ガイ』『あそびじゃないの』など。その後、デジタルコミックも手掛け、1998年刊行の『ウェブコミックス』vol.1(ソフトバンク)に「カイン11」が掲載された。2011年、「Web Magazine KATANA」で『ジャスティ~ネオランビス編』が始まった。女優の清水まゆみは叔母(母の妹)。 | __LEAD__ | 岡崎つぐお |
4,725 | 619 | 79,204,649 | 岡村 賢二(おかむら けんじ、1963年3月30日 - )は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。男性。1984年、『増刊少年サンデー』に『一年女帝』が掲載され、デビュー。格闘漫画や歴史漫画(「戦国武将列伝」シリーズ等)を多く描いており、激しいバイオレンス描写や、敵役を徹底的に悪人顔に描くなどの特徴がある。 | __LEAD__ | 岡村賢二 |
4,726 | 620 | 86,308,704 | 荻野 真(おぎの まこと、1959年5月26日 - 2019年4月29日)は、日本の漫画家。男性。岐阜県出身。 | __LEAD__ | 荻野真 |
4,727 | 620 | 86,308,704 | 岐阜県立恵那高等学校卒業、名古屋大学理学部中退。在学中は漫画研究会に所属しており、先輩に森博嗣がいた。大学では落ちこぼれてしまい、仲の良かった同人誌仲間も当時の大手出版社による「青田買い」により疎遠となってしまい、ほぼ八方ふさがりの状態になってしまっていたという。半ばやけくそで漫画の原稿を持ちこむ。最初に持ち込んだ小学館ではボロクソに叩かれ、「いったい何しに来たの?」とまで言われたという。その隣のビルであったヤングジャンプ編集部に持ち込んだ際、応対してくれた田中純に評価され、知己を得たことがその後の大きな手助けになったと後に回顧している。その後は政岡としや、釋英勝、もりたじゅんなどのアシスタントを渡り歩き、様々な出会いと経験を積む。デビュー作で長期連載となった『孔雀王』は「宗教漫画ブームのはしり」と称された。2019年4月29日、腎不全のため死去。59歳没。 | 略歴 | 荻野真 |
4,728 | 620 | 86,308,704 | 同年5月10日にヤングジャンプの公式サイト上で公表された。 | 略歴 | 荻野真 |
4,729 | 620 | 86,308,704 | 『孔雀王』を筆頭に密教、神道などをモチーフとしたオカルト風アクション漫画家として知られている一方で、『ALGO!』『小類人』などSF作品も手がけている。 | 作風 | 荻野真 |
4,730 | 620 | 86,308,704 | 『孔雀王』の連載時、夢枕獏が自作の小説『サイコダイバー・シリーズ』からの盗用を指摘して問題になった。当事者間で話し合いが持たれ、荻野と担当編集者が謝罪、さらに『孔雀王』の単行本に「参考文献」として同作の名を挙げることで事態は沈静化した。この経緯については、『サイコダイバー・シリーズ』の後書きでも言及されている。 | 盗用問題 | 荻野真 |
4,731 | 623 | 81,533,596 | 奥田 ひとし(おくだ ひとし、男性、1963年8月15日 - )は、日本の漫画家。代表作は『天地無用!』、『でたとこプリンセス』など。 | __LEAD__ | 奥田ひとし |
4,732 | 623 | 81,533,596 | 秋田県仙北郡協和町(現大仙市)出身。秋田県立秋田高等学校を経て駒澤大学卒業。在学中に「LEO」のペンネームで、徳間書店の季刊誌「ハイパーゾーン」に連載された『カナミ - 時の瘡痕』でデビュー。大学卒業後は大手ハムメーカーに営業マンとして就職し断筆したが、漫画家への夢を捨てきれず1989年の手塚治虫逝去をきっかけに退社、出渕裕・結城信輝らの下でアシスタントとして修行を積む。当時の実績から、ゼネラルプロダクツが発刊したゼネプロカタログでは「日本の二大トップアニメーターの元で修行した漫画家」と紹介されている。翌1990年、白夜書房の「コミッククラフト」創刊号『ラジカルガーディアン』にて、ペンネームを「奥田ひとし」に改名し再デビュー。このペンネームは、高校時代の同級生であり漫画の技術へ大きな影響を受けた今野仁に敬意を表したものである。 | プロフィール | 奥田ひとし |
4,733 | 623 | 81,533,596 | コミッククラフトは7号で廃刊になったが、富士見書房からラジカルガーディアン単行本化の話があり(白夜からも単行本化の話はあった)、連載分1巻に書き下ろし2巻を加えた全3巻を発売。以後は富士見書房の雑誌「ドラゴンマガジン」「コミックドラゴン」などに連載を持ち、『天地無用!』『でたとこプリンセス』などの代表作を出す。デビュー以来、長らく東京都内に住んでいたが、2004年に「どうしても秋田弁でしゃべりたい」という思いが抑えられなくなり、出身地の秋田に戻った。帰郷後は『超神ネイガー』の企画に賛同し、コミカライズ(富士見書房「月刊ドラゴンエイジ」読み切り→単行本化)をはじめ、様々な商品へのイラスト提供を行う。実家は秋田県大仙市協和境の蔵元、奥田酒造店。銘柄の「千代緑」「重右衛門の酒」を、自身の作品中に度々登場させている。 | プロフィール | 奥田ひとし |
4,734 | 623 | 81,533,596 | その他、アンソロジーやイラスト、パンフレット類の4コマ掲載など多数。 | 作品リスト | 奥田ひとし |
4,735 | 624 | 88,466,472 | 尾瀬 あきら(おぜ あきら、1947年(昭和22年)7月26日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。別名松本 めぐむ。 | __LEAD__ | 尾瀬あきら |
4,736 | 624 | 88,466,472 | 高校生時代に石森章太郎の『マンガ家入門』を読み、漫画家を志す。高校卒業後、あさのりじ、久松文雄のアシスタントを経て、石森プロに入る。当時の石森プロの先輩アシスタントに永井豪、後輩に小山田つとむがいた。石森プロ時代も久松やあさのりじの手伝いをしていた。松本めぐむというペンネームで貸本漫画の描き下ろし単行本を手掛けた後、『空飛ぶゆうれい船』のコミカライズでデビュー。初期はアニメや特撮番組のコミカライズ作品を手がけていた。その後、新聞や少女漫画雑誌の連載を経て、『マッチポイント!』からペンネームを現行の尾瀬あきらに変更。『少年ビッグコミック』にて連載された自身初の長期連載作『初恋スキャンダル』は連載5年、単行本全18巻の人気作品となった。1985年(昭和60年)に『初恋スキャンダル』『とべ!人類II』で第31回(昭和60年度)小学館漫画賞を受賞している。 | 経歴 | 尾瀬あきら |
4,737 | 624 | 88,466,472 | 1988年(昭和63年)の春から『夏子の酒』(モーニング)の連載が始まる。日本酒造りとそのために必要な酒米造りについて、田舎や農業の抱える問題と共に描いた作品で広く人気を博し代表作となり、1994年(平成6年)にフジテレビ系列で連続ドラマ化された。『夏子の酒』完結後、1年余りの取材を経て、三里塚闘争に奔走される地元農民の生き様を描いた『ぼくの村の話』を1992年(平成4年)春から1993年(平成5年)末にかけて『モーニング』にて連載。「ヒットこそしなかったものの、この作品で多くのものを得た」と公式サイトにて発言している。これ以降、2 - 3年程度の連載作品を青年漫画雑誌で発表している。 | 経歴 | 尾瀬あきら |
4,738 | 624 | 88,466,472 | 基本的に社会派的な問題提起型の話が多く、日本社会の中に内在する、日の当たらない問題・人間を主題に扱う。漫画作品以外にも、漫画の描き方や、趣味である酒に関してつづった著書などがある。コミカライズを担当していた時代は、既存の物語を組み立て直すことに空虚さを感じていたが、アシスタントではなく漫画を描き続けられただけで喜びを感じていたと語っている。『仮面ライダーV3』では必要最低限の部分を抑えれば自由にやって良いという体制であったため、結城丈二 / ライダーマンについて掘り下げるなどのオリジナル要素を盛り込んだ。『鋼鉄ジーグ』や『大空魔竜ガイキング』では、物語をパターンに納める作業をつまらなく感じたため、自身が好む「人間的な弱さのあるヒーローらしくないヒーロー」というコンセプトで執筆した。『ガイキング』で自身のヒーロー像を描き切ったと感じ、コミカライズの仕事を絶った。 | 作風・エピソード | 尾瀬あきら |
4,739 | 624 | 88,466,472 | 『鋼鉄ジーグ』では女子高校生によるファンクラブが存在した。 | 作風・エピソード | 尾瀬あきら |
4,740 | 624 | 88,466,472 | ※ 全て松本めぐむ名義で執筆。※内部リンクは大元のテレビ作品へリンクしている | 主な作品 | 尾瀬あきら |
4,741 | 625 | 73,264,684 | 落合 尚之(おちあい なおゆき、1968年1月6日 - )は、日本の男性漫画家。福岡県福岡市出身。代表作に『黒い羊は迷わない』『罪と罰 A Falsified Romance』など。 | __LEAD__ | 落合尚之 |
4,742 | 625 | 73,264,684 | 1991年に「どすこい!!タコ花田イカ花田」でデビュー。その後いくつかの短編を経て、小学館の『週刊ヤングサンデー』に『黒い羊は迷わない』の第一部、第二部を連載。再び数篇の短編を経て同じく小学館の『月刊サンデージェネックス』に「ダンデライオン」「鉄人」(原作:矢作俊彦)を、『ビッグコミックビジネス』に「派遣社員お銀」(原作:神尾龍)を連載。2011年双葉社の『漫画アクション』にて「罪と罰 A Falsified Romance」を連載終了。 | 経歴 | 落合尚之 |
4,743 | 626 | 83,512,823 | 小野 弥夢(おの ひろむ、9月13日 - )は、漫画家。猫水彩画家。広島県呉市出身。大和和紀のアシスタントを経て、1977年に『ロックンロールペテン師』でデビュー。 以後、「少女フレンド」を中心に活躍し、現在は女性誌に発表の場を移している。 代表作に『Lady Love』『DIVA』『Pony Tail』など。 特に『DIVA』は、少女漫画では初めて、本格的にオペラの世界を扱った作品として知られる。 1984年、『Lady Love』で第8回講談社漫画賞を受賞。現在は猫水彩画家として活動しており、都内のギャラリーで作品展に参加している。 | __LEAD__ | 小野弥夢 |
4,744 | 628 | 88,569,363 | 小山田 いく(おやまだ いく、1956年6月10日 - 2016年3月23日)は、日本の漫画家。代表作に『すくらっぷ・ブック』など。本名は田上 勝久(たがみ かつひさ)。同じく漫画家のたがみよしひさは実弟。 | __LEAD__ | 小山田いく |
4,745 | 628 | 88,569,363 | 長野県小諸市生まれ。小諸市立坂の上小学校、小諸市立芦原中学校、長野工業高等専門学校機械工学科卒業。卒業後の1979年、本名で描いた『五百羅漢』(『別冊ビッグコミック』12月1日号)で漫画家デビュー(これ以前にも“幻のデビュー作”として、第4回小学館新人コミック大賞を受賞した「菩薩」がある)。同年、「12月の唯」(第13回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」佳作)で小山田いく名義に変更し『週刊少年チャンピオン』にてデビューした(同期の受賞者は、入選の神矢みのる、佳作の木村和昭など)。その後、『春雨みら〜じゅ』『三角定規ぷらす1』といった読切短編を発表する。1980年、故郷の小諸市を舞台とした青春ラブコメディ『すくらっぷ・ブック』で連載デビューする。 | 略歴 | 小山田いく |
4,746 | 628 | 88,569,363 | この作品は前3作の短編から『春雨みら〜じゅ』の柏木晴(かしわぎ はる)を主人公とし、これら3作全ての登場人物を含めた「市立芦ノ原中学校」での学園生活(2学年進級から中学校卒業まで)を描くというもので、一躍人気を獲得する。『すくらっぷ・ブック』以降しばらくは、短編『シューティング・ザ・ムーン』『ぶるうピーター』『ウッド・ノート』など、同様の恋愛青春群像を中心に描いていたが、1987年発表の『マリオネット師』ではマリオネットを操る若きスリ師の目を通して様々な人生劇を描く手法で、その人気を不動のものとする。以降、環境問題や社会問題を取り上げた作品を得意とするようになる。民話や神話、古典文学、自然科学といった分野に造詣が深く、特に初期作品には民話や神話をモチーフにした作品やエピソードが多い。登場人物のセリフ中にも古典詩や俳句などがよく引用される。また鉄道にまつわる作品も多数発表している。 | 略歴 | 小山田いく |
4,747 | 628 | 88,569,363 | 工業高専卒ながら工学理数系はあまり得意ではなかったとしているが、作品には機械いじりが趣味というキャラクターも多く登場する。過去作品のキャラクターが成長ないし過去の人物として再登場することも多く、読者にとっては楽しみの一つでもあった。「大山田博士」や「寿司ごん店長」など、一部のキャラクターはスター・システムとして登場している。1994年以降は『少年チャンピオン』発行元の秋田書店や、ぶんか社発行のミステリー・ホラー誌に執筆の場を移して活動した。2016年3月23日、小諸市の自宅にて倒れているのが発見され、死亡が確認された。享年59。執筆予定だった雑誌には弟のたがみよしひさが代わって、家族の想い出を描いたその短編「欠片の記憶」を描いた。「欠片の記憶」には「小山田いくこと田上勝久も肝硬変で死んだ......」と記されている。 | 略歴 | 小山田いく |
4,748 | 630 | 76,120,746 | Gnutella(グヌーテラ、ニューテラ)はP2Pプロトコルおよびファイル共有クライアント。 | __LEAD__ | Gnutella |
4,749 | 630 | 76,120,746 | ナップスターなどのP2Pクライアントの場合は、中央サーバが存在し、ファイルのメタデータの管理や検索サービスを提供することにより、P2Pネットワークが機能している。それに対し、グヌーテラはサーバに依存せず、純粋にピア間の通信のみでファイルの送受信などの機能を実現している。P2Pのしくみの分類中、このようなピア間の通信のみによって機能するものをピュアP2P、ナップスターのようにサーバの仲介を必要とするものを、ハイブリッドP2Pと呼んでいる。その他には、KaZaA や Skypeに使われているスーパーノード型ハイブリッドP2Pがある。 | 概要 | Gnutella |
4,750 | 630 | 76,120,746 | ナップスターに代表される第一世代P2P(ハイブリッドP2P)は、中央サーバに依存する為、ネットワークへのトラフィックは少ないが、耐障害性が低く、サーバがダウンしたらネットワークが形成できないという弱点があった。それに対してグヌーテラに代表される第二世代P2P(ピュアP2P)は、各クライアントがサーバを兼ねる(サーバント)為、耐障害性が高い。製作者の「核戦争でも生き残れるように設計されたもの(Gnutella is designed to survive nuclear war)」や、「万一、ニューヨークに核爆弾が投下されたとしても、(それ自体はたいへんなことだが)ニューヨーク以外の『グヌーテラ友達』によってグヌーテラネットは維持されるだろう」といった言葉が、グヌーテラネットワークの特徴をよく表している。 | 特徴 | Gnutella |
4,751 | 630 | 76,120,746 | グヌーテラネットワーク上で交わされているメッセージは、PING、PONG、PUSH、QUERY、QUERY_HITの以上である。中央サーバが存在しないグヌーテラにおいて、最初に接続するときに何処に問い合わせるのか?という問題が出てくる。 グヌーテラ第一世代では、ノード情報を掲示板などで入手する方法が採られていたが、グヌーテラ第二世代になって、GWC(GWebCache)というブートストラップサーバーにより各ノードと接続する方法がとられた。接続においては、グヌーテラサーバントはまずPINGという接続要求を出す。それに対して、接続相手はPONGという信号を返して、ハンドシェイクを行い接続が完了する。検索はグヌーテラネットワークで行っており、ファイルを求めるサーバントは、QUERYをグヌーテラネットワークに送信し、ヒットしたクエリがQUERY_HITとして検索結果に表示される。 | グヌーテラの仕組み | Gnutella |
4,752 | 630 | 76,120,746 | グヌーテラでの、ファイルの転送はHTTPプロトコルで行われている。 ファイルの転送は、QUERY_HIT識別子に含まれる、IPアドレスやポート番号などによってファイルの所有者にHTTPでの転送命令を出す。 また、ファイル所有者がファイアウォール下にいるサーバントの場合は、PUSH識別子を出し、相手サーバントがHTTPでの転送命令を出す。 | グヌーテラの仕組み | Gnutella |
4,753 | 630 | 76,120,746 | 2000年、AOL社の一部門であるNullsoftで、当時社員だった Justin FrankelとTom Pepperの二人が、最初のグヌーテラクライアントを開発した。2000年3月14日、二人はNullsoftのサーバー上にプログラムをダウンロードできる形でアップロードした。この出来事はスラッシュドットで告知されたため、その日の内に数千人がソフトをダウンロードした。ソースコードについては、後ほどGPLライセンスの元で提供する予定だった。翌日、AOLは法的問題を理由にプログラムの提供を中止し、さらにNullsoft部門にプロジェクトを中止させた。しかしこの措置によっても、グヌーテラを止めることはできなかった。数日後には、リバースエンジニアリングによってプロトコルは解析され、それを元にグヌーテラ互換のオープンソースクローンが登場した。 | 開発の経緯 | Gnutella |
4,754 | 630 | 76,120,746 | 現在でも、様々なグループが グヌーテラ 互換クライアントの開発を続けている。シャットダウンから間もなくして、Brian MaylandがNullsoftのプログラムを入手して、グヌーテラプロトコルの動作原理を理解するためにリバースエンジニアリングした。彼の仕事のおかげでテキストベースのUNIXプログラムを作ったJosh Pieperや、より使いやすいGUIをもったプログラムを作ろうとしたGene KanやSpencer Kimballのような人々によってソフトウェア開発がなされることになった。ユーザの裾野が広がるにつれ、システムの重大な問題が取り沙汰されはじめた。ネットワークはPINGリクエストで溢れかえり、同時に非常に多くの検索クエリーで高負荷になった。より高速なハブとしての役割を果たすコンピュータに接続した低速のモデムといった形でネットワークのトポロジーは非効率的だった。 | 開発の経緯 | Gnutella |
4,755 | 630 | 76,120,746 | 第一世代のソフトウェアの深刻なバグによってパケットがネットワーク上を不明確にさまよっていた。ネットワークは“本来は少数のユーザのために設計されたもので”100人単位から10,000 単位のユーザに膨張しトラブルに見まわれた。「ただ乗り」や「何も提供していないのにファイルを取り出すだけの人々」によってもユーザが探し物をするのを難しくした。もう一度、情熱的なコミュニティーが救済に乗り出した。Bob Schmidtが初めてのホストキャッシングシステムを開発した。プログラマー達はGnutella 0.56のコードを修正し、パケットが適切に運ばれるようにTTLのバグを取り除こうとした。そして、Jorge Gonzalesはネットワークをダメにするスパマーたちからネットワークを守る行動に出た。この時点で、物事は個人の開発者が全てをまかなうにはあまりにも複雑になっていた。 | 開発の経緯 | Gnutella |
4,756 | 630 | 76,120,746 | 彼らはコードを書き、報道やユーザやお金の工面をしなければならなかった。 こういった事情で、早急に商業的な努力が介入し、「救済に乗り出す」必要が出てきた。Clip2はgnutellahosts.comを開発し、より良いホストキャッシュの実装し、いくらかナップスターのようなトポロジーをグヌーテラネットワークに組み入れて合体させるようなやり方で動く小さなサーバリフレクターを開発した。 | 開発の経緯 | Gnutella |
4,757 | 631 | 88,062,742 | 市東 亮子(しとう りょうこ、6月30日 - )は、日本の漫画家。千葉県出身。女性。1981年、『ボニータ』(秋田書店)7月号に掲載の『さりげなくラブ・ミー』でデビュー。以後、同誌や『月刊プリンセス』(秋田書店)など少女誌を中心に執筆活動を行っている。代表作は『やじきた学園道中記』、『BUD BOY』など。 | __LEAD__ | 市東亮子 |
4,758 | 633 | 87,852,305 | 一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。 | __LEAD__ | 一節切 |
4,759 | 633 | 87,852,305 | 尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの手孔がある。音域は尺八よりも狭く、約1オクターヴ半ほどである。前野良沢や一休宗純、雪舟、北条幻庵なども一節切の奏者として知られている。織田信長に仕えた大森宗勲も名手である。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。現在、残された楽譜は存在するが、音価(音の長さ)の指定がなくどのような演奏だったのかを再現するのは難しい。 | 概要 | 一節切 |
4,760 | 633 | 87,852,305 | 最も有名な一節切としては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に受け継がれた『乃可勢(のかぜ)』という名笛がある。薩摩には、『天吹(てんぷく)』と呼ばれる一節切に似た小型の縦笛が伝わっている。2012年5月15日、テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に安土桃山時代の一節切が登場し、150万円の鑑定額がついた。 | その他 | 一節切 |
4,761 | 634 | 83,051,076 | パンパイプ (panpipes) あるいはパンフルート (pan flute) は木管楽器の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に筏状に束ねて作られた縦笛である。 | __LEAD__ | パンパイプ |
4,762 | 634 | 83,051,076 | 古代から知られており、多くの場合5つかそれ以上の管を束ねて作られる。長い間民族楽器として親しまれており、パイプオルガンやハーモニカの原型とも考えられている。管は主として葦、竹やダンチクで作られるが、木やプラスチック、金属なども用いられる。パンパイプの管は一端が塞がれた閉管であり、同じ長さで両端が開いた開管より1オクターヴ低い音が出る。フルートや篠笛のような笛は、1本の管で低音から高音まで出さねばならないので、実はかなり無理のある構造なのだが、パンパイプは低音を出しやすい太い管と高音を出しやすい細い管を使い分けて作ることができ、その意味では合理的な楽器である。発音自体は比較的容易であるが、肺活量を必要とし、演奏は必ずしも容易ではない。ルーマニアに伝わるパンパイプは「ナイ」、南米アンデス地方に伝わるものは「サンポーニャ」として知られている。 | 概要 | パンパイプ |
4,763 | 634 | 83,051,076 | ラオスやタイには管を円筒状に並べたタイプがあり、「Wot」と呼ばれてイーサーン地方の民族音楽に使われている。ギリシア神話の牧神パーンが吹いたということからパンパイプ、パンフルートと呼ばれる。 パンパイプは、パーンにまつわる物語からシュリンクス(シランクス)という名称でも知られる。 | 概要 | パンパイプ |
4,764 | 634 | 83,051,076 | パンパイプは古代ギリシャの時代から存在が知られているが、ヨーロッパの多くの国々では忘れ去られていた時期がある。モーツァルトの歌劇「魔笛」に登場するパパゲーノが手にする笛はパンパイプの事である。しかし、そのヨーロッパでも小国ルーマニアでは、民族楽器「NAI」ナイとして演奏されてきた。20世紀になってから、ルーマニアでこの楽器を見直す動きが起こり、管の本数が増やされたり、材料を中国産の女竹に変更するなどの改良が加えられていった。ルーマニアの国立音楽大学で正課として取り上げられるようになったことで、多くの名人が生まれた。第二次世界大戦後、ルーマニア出身のナイ奏者ゲオルゲ・ザンフィルが演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。ゲオルゲ・ザンフィルの一番弟子にラドゥ・ネキフォル (Radu Nechifor) がいる。 | 歴史 | パンパイプ |
4,765 | 634 | 83,051,076 | ザンフィルのオーケストラソリストを始めとし、世界中で演奏活動を行っている。民族音楽のみならず、クラシック、ジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽を演奏し、パンフルートの可能性を広げた。ルーマニアのシビウ市で開催される国際パンフルートマスタークラスの主催者である。2018年に初来日を果たす。ザンフィルの演奏に衝撃を受けた一人にスイスのヨリ・ムルクがいる。ザンフィルは彼に演奏法だけでなく、改良されたナイの製法も伝授した。パンパイプはシルクロードを通って中国にも伝わり、奈良時代に日本に伝来し、排簫(はいしょう)と呼ばれていた。正倉院宝物墨絵弾弓に描かれた散楽図には排簫を演奏する楽人が描かれている。しかし、近年になって正倉院に残されていた残骸を参考に復元されるまで、雅楽の世界からはいつしか姿を消していた。日本では、2017年より日本パンフルートフェスティバルが開催されている。 | 歴史 | パンパイプ |
4,766 | 634 | 83,051,076 | 世界のパンフルート奏者が来日し、コンサートやワークショップを行うなど、パンフルートを通じた文化交流も深めている。2019年より東京音楽大学付属民族音楽研究所に、日本初大学でパンフルート入門講座が開講された。2019年5月、駐日ルーマニア大使館公認日本ルーマニアパンフルート協会が設立され、ゲオルゲ・ザンフィルが名誉会長に就任した。2020年3月、成蹊大学ルーマニアプロジェクトパンフルートグループの活動を開始する。2020年4月より東京音楽大学付属民族音楽研究所主催社会人特別講座にパンフルート講座が開講された。 | 歴史 | パンパイプ |
4,767 | 634 | 83,051,076 | 管が上下方向になるように構え、管の開端に水平方向に息を吹きかけると音が出る。息の圧力と唇の張りを高めると奇数倍音を出すことができる。閉管構造なので、偶数倍音は出せない。管を傾けたり、顎を動かすことによって半音(♯や♭の付いた音)を出すことが出来る。楽器を持つ手を揺り動かしたり、息の圧力を変えることによってビブラートをかけることもできる。 | 演奏 | パンパイプ |
4,768 | 635 | 88,638,255 | チェッカーズ(THE CHECKERS)は、男性7人組のロックバンド。1980年代から1990年代前半にかけて活動した。福岡県久留米市にて結成。デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」であった。 | __LEAD__ | チェッカーズ |
4,769 | 635 | 88,638,255 | 他に、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、パーカッションのアンディ檜山(桧山正利)がいた。チェッカーズ解散後、郁弥と尚之、大土井はそれぞれソロ活動を行なう。武内は本人主催のイベントや音楽プロデュース、鶴久と高杢は同じ事務所に所属、音楽以外の活動をしていたが、高杢が2005年個人事務所設立に伴い独立。徳永も別のバンドで活動。武内・大土井・徳永・尚之の楽器陣4人はアブラーズを結成、活動していたが、徳永が2004年8月17日に舌がんのため40歳で死去したため、現在は3人で活動。 | メンバー | チェッカーズ |
4,770 | 635 | 88,638,255 | メンバーが集まりバンド名を決める際に、当時良く聞いていた外国のバンド(特にオールディーズ)のバンド名に「C」で始まり「S」で終わる名前(チャーリーズ、コースターズ等)が多かったことから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代から親交のある武内の同級生でベーシストの武田圭治(現THE TRAVELLERS)。デビュー当初はチェック柄の衣装を着ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが誤りで、バンド名が先にあった。チェック柄の衣装のアイディアは、当時のヤマハのマネージャーが考案した。 | バンド名の由来 | チェッカーズ |
4,771 | 635 | 88,638,255 | 表記についてはシングル、アルバムのジャケット等については初期はカタカナ表記「チェッカーズ」及び英語表記「THE CHECKERS」(または「The Checkers」)、中期以降は後者の英語表記で記され、「歌のトップテン」については一時期(1988年頃)英語の大文字表記、「突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100」については英語の小文字表記で記されていたが、正式表記は一貫してカタカナ表記。 | バンド名の表記 | チェッカーズ |
4,772 | 635 | 88,638,255 | デビュー前から、秋山道男が総合プロデューサーとして「バンドとしてのコンセプト」を考え、メンバーの髪型(当初はリーゼントだった)、ファッションなどを決めた。また、映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』のシノプシスを考案した。 | 総合プロデューサー・秋山道男 | チェッカーズ |
4,773 | 635 | 88,638,255 | 立ち位置はボーカルは左から、鶴久、郁弥、高杢。楽器陣は左から大土井、尚之、徳永、武内が基本(ボーカルの関係で入れ替わることもある)。郁弥がメインでボーカルを務める曲がほとんど(シングル曲全て)。楽器陣4人にも各人メインボーカル担当曲がある。コーラスはメインボーカルと徳永を除いた5人ですることが多い。後期は、鶴久がキーボードを使用することにより、前列が左から尚之、郁弥、高杢。後列が鶴久、大土井、徳永、武内というのもあった。 | パート構成 | チェッカーズ |
4,774 | 635 | 88,638,255 | 「ギザギザハートの子守唄」から「Song for U.S.A.」までの初期シングルA面10曲は一貫して芹澤廣明が作曲・編曲。作詞は主に売野雅勇、「ギザギザハートの子守唄」「神様ヘルプ!」の2曲が康珍化。初期のB面曲やアルバム曲は芹澤・売野コンビによるものとメンバーによるものとで半々。11枚目のシングル「NANA」以降はシングル・アルバム共に全てメンバーによる作詞・作曲。メンバーの作詞は、ほぼ郁弥だが、高杢の作詞も見受けられる。作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「ひらけ!ポンキッキ」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、ひこねのりおによるアニメーション映像ともども人気が高い。 | 楽曲制作 | チェッカーズ |
4,775 | 635 | 88,638,255 | 鶴久はグループ在籍時からゆうゆに楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価され、尚之と合わせメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がける。 | 楽曲制作 | チェッカーズ |
4,776 | 635 | 88,638,255 | 「オリジナル曲が作れるアイドルグループ」の先駆者として人気を博していたが、4thアルバム『FLOWER』を発売した頃から、収録曲の10曲中5曲がメンバーが制作した楽曲により、「チェッカーズは、脱アイドル宣言を行うのではないか」との噂が絶えなかった。しかし本人達は後日「自分達は脱アイドルを宣言したことは無いし、現在でもアイドルである」と発言、解散するまで自分達はアイドルであることの姿勢を崩さなかった。 | 脱アイドルへの拒否 | チェッカーズ |
4,777 | 635 | 88,638,255 | 鑑賞マナーについて、ファンに対し言及した。呼びかけたマナーの内容としては、以下のものがあった。 | コンサートにおけるマナーの呼びかけ | チェッカーズ |
4,778 | 635 | 88,638,255 | 『とんねるずのみなさんのおかげです』に準レギュラーとして出演。また、「チェッカーズンズン」、「NOT CHECKERS TV」などの単独番組でもコント等を行なった。 | 音楽以外の活動 | チェッカーズ |
4,779 | 635 | 88,638,255 | ふとした事から、英国のロックバンド『The George Springhill Band(ジョージ・スプリングヒル・バンド)』の事を知り感銘したメンバーが、彼らの事を知って貰うためのコピーバンドとして1985年と1987年、チェッカーズとは別に「キュート・ビート・クラブ・バンド」(Cute Beat Club Band。以下、C.B.C.Bと記載)としても活動した。バンド名は自分達のファンクラブの名から取ったもの。1985年には企画アルバム、1987年には12インチシングル、ライブアルバム、写真集を発売している。また、C.B.C.Bでは作詞家に秋元康を起用している。尚、C.B.C.B.として活動するときのメンバーの名前は、以下の通り。だが、これはネタである。ジョージ・スプリングヒル・バンド名義の3曲もメンバーのオリジナルで、演奏もメンバーによるもの。郁弥曰く「本業はチェッカーズ、C.B. | 「Cute Beat Club Band」としての活動 | チェッカーズ |
4,780 | 635 | 88,638,255 | C.B.は趣味」。 | 「Cute Beat Club Band」としての活動 | チェッカーズ |
4,781 | 635 | 88,638,255 | 番外:まんてんワイドのテーマ(TBSラジオ「エド山口のまんてんワイド」のために作詞作曲されたオリジナルでシングル化されておらず、アルバムにも収録されていない。)※ Blu-ray発売日の出典 | 作品 | チェッカーズ |
4,782 | 636 | 85,590,838 | バンドネオン(英: bandoneon、西: bandoneón)はコンサーティーナ族の蛇腹楽器である。 | __LEAD__ | バンドネオン |
4,783 | 636 | 85,590,838 | 蛇腹楽器の中では中型のサイズの楽器である(重さは5キログラムから7キログラムくらいの機種が多い)。アコーディオンが蛇腹の押し引きを左手で行うのに対して、バンドネオンは左右の両手の力で蛇腹の押し引きを行うため、楽器のサイズの割りに大音量を出すことが可能で、鋭い明快なスタッカートなど音のメリハリもつけやすい(これはコンサーティーナ族共通の特長である)。日本ではタンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、海外ではタンゴ以外のジャンルの音楽の演奏でも使われ、また独奏楽器としても高い演奏能力をもつ楽器である。蛇腹楽器の一種であるが、いわゆる「アコーディオン」とは違う楽器であり、バンドネオン奏者に「アコーディオン奏者の○○さん」と声をかける事はタブーとされる。アコーディオンは左右非相称で、左右の筐体は形も機能も異なり、右手側の筐体をバンドで演奏者の体に固定することが多い。 | 概説 | バンドネオン |
4,784 | 636 | 85,590,838 | これに対して、バンドネオン(および、バンドネオンの原型であるコンサーティーナ)は左右相称であり、左右の筐体は音域が違うものの形や機能は同じで、筐体をバンドで体に固定することはない。詳しくは蛇腹楽器のバンドの説明を参照。以下に蛇腹楽器の分類におけるバンドネオンの位置を示す。バンドネオンはボタン式の鍵盤楽器である。蛇腹の左右に、ボタン鍵盤をそなえた筐体(きょうたい。器械を内蔵した箱)がついており、蛇腹を押し引きすることで空気の流れを作り、ボタン鍵盤と連動したフリーリードを鳴らして音を出す。ケムニッツァ・コンサーティーナと非常に似ている。以下、アルゼンチン・タンゴで最も普通に使われている「ライニッシュ式配列」のバンドネオンの写真を示す。調律などのメンテナンスは、専門の技術が必要である。バンドネオンの演奏家や愛好者は世界各地に存在する。 | 概説 | バンドネオン |
4,785 | 636 | 85,590,838 | 本項では、発明国であるドイツと、タンゴと結びついたアルゼンチン、そして日本の状況を述べる。バンドネオンは、ドイツのコンサーティーナ(ドイツ語ではコンツェルティーナ)を土台として1847年に開発された楽器である。1829年、ウィーンの楽器製作家シリル・デミアンはアコーディオンを発明した。ドイツのケムニッツ市の楽器製作家カール・フリードリヒ・ウーリヒ(Carl Friedrich Uhlig)は、ウィーンに旅したときにデミアンのアコーディオンを購入し、それをヒントに、バンドネオンの原型も含むさまざまなタイプのドイツ式コンサーティーナを開発した。その後、同じドイツの楽器製作家ハインリヒ・バンドは、ケムニッツ市へ旅した際にウーリッヒのコンサーティーナを購入し、低音域を拡張するなどボタン配列に変更を加えて、1847年にバンドネオンを考案した。 | 概説 | バンドネオン |
4,786 | 636 | 85,590,838 | ただしバンド自身は当初、自分の楽器を「アコーディオン」と呼び、「バンドネオン」とは呼ばなかった。後に、バンドの名前と、アコーディオンの「イオン」を組み合わせて「Bandonion」(バンドニオン)という楽器名が生まれた。Bandonionの綴りが現在のBandoneonに変更された正確な時期や経緯は、不明である。今日のドイツでも一般的には「バンドネオン」と呼ばれるが、ドイツの「生粋の」バンドネオン愛好家や業界関係者にはいまだに「バンドネオンではなくバンドニオンだ」と主張する人が多い(小松2021,p.195)。バンドネオンの発明者はハインリヒ・バンドであるが、バンドネオンの基本原理を開発した始祖はウーリッヒであると言える。 | 概説 | バンドネオン |
4,787 | 636 | 85,590,838 | また、現代の演奏者が弾いている大型の現代的なバンドネオンを確立したのは、ハインリヒの息子アルフレッド・バンド(Alfred Band, 1855年-1923年)である(小松2021,pp.204-209)。バンドネオンは野外での教会の儀式でパイプオルガンの代用として使われたり、クラシック音楽や民俗音楽の演奏で使用された。ドイツはバンドオネンの故郷であるが、他の蛇腹楽器との競合などさまざまな理由で、20世紀半ば以降は演奏人口が激減し、今日に至っている。今日、バンドネオンと言えばアルゼンチン・タンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、この楽器がドイツからアルゼンチンへ移入された経緯や時期については諸説紛々として明確ではない。 | 概説 | バンドネオン |
4,788 | 636 | 85,590,838 | 最大公約数的な説明としては、1890年ごろにアルゼンチンに持ち込まれ(1880年代、アフリカ系アルゼンチン人のセバスティアン・パルドがタンゴで用いたとする文献もある)、1900年ごろからタンゴの楽器として使われ始め、1910年ごろにはタンゴに欠かせない楽器になっていた、ということである。アルゼンチンのタンゴ楽団は、最初はギター・フルート・ヴァイオリンという編成であり、バンドネオンの応用が徐々に広まったものの、しばらくバンドネオンなしが主流だった。20世紀になり、ドイツから大量のバンドネオンが輸出され、タンゴでよく用いられる楽器となった。バンドネオンの使用で、「タンゴ」の音楽の性質は大きく変化した。フルート時代のタンゴは人々がひたすら歌い踊り生活の憂さを忘れようとするものだったが、バンドネオンのタンゴは人生や恋の苦しみを吐露して悲しみをつのらせたり慰めを求めるものになった。 | 概説 | バンドネオン |
4,789 | 636 | 85,590,838 | バンドネオンのせつない音色は心の痛みを表現するのにうってつけであった。バンドネオンは長いあいだタンゴの伴奏楽器であったが、バンドネオン奏者で作曲家でもあったアストル・ピアソラはダンスから独立した純粋器楽としてのバンドネオンの可能性を追求した。当初、ピアソラのバンドネオンは不評であったが、1995年にギドン・クレーメルがピアソラをオマージュしたCDを発表したことで評価は一変し、バンドネオンはタンゴファンのみならず、世界中のクラシックファンのあいだでも見直されるようになった。日本にバンドネオンが初めて渡来した時期は不明である。板東俘虜収容所(1917年-1920年)のドイツ兵捕虜の楽隊の写真には中型のバンドネオンが映っている(小松2021,p.214)。タンゴの伴奏楽器として、クロマティック式とダイアトニック式の両方が伝わった。 | 概説 | バンドネオン |
4,790 | 636 | 85,590,838 | 日本人のプロ奏者の活躍は昭和期からで、オルケスタ・ティピカ東京のバンド・リーダー早川真平(1914年 - 1984年)、16歳でバンドネオンを始め晩年まで演奏活動を続けた佐川峯(1919年 - 2018年3月6日)、タンゴの本場アルゼンチンで認められ現地のタンゴ楽団代表にまでなった米山義則(1955年 - 2006年)などが有名。その後のプロ奏者については「日本の主なバンドネオン奏者」を参照。戦前の日本のタンゴ演奏者にとって、中国の上海や大連などが好景気の稼ぎ場だった。当時、ドイツのAA社はフランス向けにクロマティック式バンドネオンを作ったが、思いのほか売れなかった。楽器商はそれを上海、天津、奉天、香港などで売りさばいた。このため日本の古い世代のバンドネオン奏者は、戦前から戦後にかけて、少数の例外を除きクロマティック派であった。 | 概説 | バンドネオン |
4,791 | 636 | 85,590,838 | ただしクロマティック式の音色は、楽器の構造上、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンの音色とどうしても違う。そのため日本人のクロマティック式バンドネオン奏者で、ディアトニック式バンドネオンへの転向という回り道を余技なくされる者もいた(小松2021,pp.417-421)。比較的早くから国産品が普及したアコーディオンと違い、バンドネオンの国産品はない(日本国内でレストアした中古品は多い)。日本でもタンゴ以外の音楽でバンドネオンが使われる場面は増えつつあるが、今もタンゴの伴奏楽器というイメージが強い。また奏法の難しさもあり、日本での演奏者人口はピアノやギターなどと比べると今も少なく「絶滅危惧楽器」と揶揄されることもある。とは言え、バンドネオンの音色は根強い人気があり、バンドネオンのプロ奏者や学習者は今も一定数存在している。 | 概説 | バンドネオン |
4,792 | 636 | 85,590,838 | サンバやミロンガなどのフォルクローレで使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたるバルス・タンゴのバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「黄金の心」 などで聴ける。また、バンドネオン独奏にこだわる演奏家もいる。映画『サンチャゴに雨が降る』でのアストル・ピアソラのバンドネオン独奏の録音は有名である。日本の叙情歌を演奏したレコードやアニメソングを収録したCDもあり、武満徹作曲の作品にバンドネオンが使われるものがある。また、バッハなどのクラシック音楽の曲を演奏する演奏家もいる。 | 概説 | バンドネオン |
4,793 | 636 | 85,590,838 | 蛇腹楽器の常として、バンドネオンもモデルによってボタン配列の方式が全く異なるため、楽器の購入や習得にあたっては注意を要する。主な方式は以下の通りである。上記以外にも、プロ奏者が楽器職人に特注して一部のボタン鍵の音高を変えたり、ボタン鍵を増やしたバンドネオンもある。ピアノ式鍵盤と同様のボタン鍵配列を採用した機種や、もはやバンドネオンとは言えない変わった設計の機種も存在し、まれに中古品市場で出回ることもある。蛇腹楽器の常として、バンドネオンも、さまざまな鍵盤配列方式が考案されて乱立し、それぞれの方式は特定の音楽ジャンルと結びつくなどして、いまだ統一されていない。最も規則的で合理的なヴイッキ・ヘイデン式鍵盤配列(英語版)(押引同音)はまったく普及せず、逆に、規則はずれが多く非合理的なライニッシュ式配列がアルゼンチンを中心に広く世界に普及している。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,794 | 636 | 85,590,838 | バンドネオンを含む蛇腹楽器の演奏技術は、鍵盤配列の不規則性を逆手に取って生かしたものも少なくない。また現行の鍵盤配列は、演奏者が現地の個性的な音楽を演奏しやすいよう、規則はずれのボタン鍵を追加するなど、試行錯誤の歴史の積み重ねの末に確立したものである。鍵盤配列の各方式の優劣や適否は、机上の合理性のみで判断できるものではない。アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である。日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,795 | 636 | 85,590,838 | 20世紀前半、アルゼンチンのバンドネオン奏者たちは、ドイツのメーカーに新品を発注する際、タンゴを弾きやすいようボタン鍵の増設を特注した。タンゴ形成の発展途上の試行錯誤の積み重ねから生まれたのが、ライニッシュ式配列である。ライニッシュ式配列の中央のボタン配列はドイツ本国のアインハイツ式とよく似ている。隣同士の特定のボタンを同時に押すと、ダイアトニック・コンサーティーナあるいはアコーディオンの左手と同じように、和音が鳴るようになっている。しかし、周辺部の音階配置は、アルゼンチンの奏者からのオーダーに応じてその都度増設を繰り返したという歴史的な経緯もあり、ほぼ不規則である。アルゼンチン・タンゴの象徴的な楽器であるライニッシュ式バンドネオンは、習得が非常に難しいことから「悪魔が発明した楽器」とも呼ばれる。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,796 | 636 | 85,590,838 | ただし小松亮太は「演奏の巧拙はともかく、バンドネオンのボタン配列を記憶すること自体は特別な才能を要することではない」と反論したうえで、自分は「悪魔の楽器」云々は「自分の商売道具に勿体をつけているようで、どうも僕には人前で口にする勇気がない」と述べている(小松2021,pp.101-103)。タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。小松亮太によれば、ライニッシュ式バンドネオンであることは、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンであることの必要条件ではあっても、十分条件ではない。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,797 | 636 | 85,590,838 | (1)ボタン数は右手38個、左手33個ていどのライニッシュ式、(2)ボタンの音階配列が不規則で押し引き異音式、(3)通称AA社または通称ELA社の製品、(4)およそ1920年代から第二次世界大戦前までに(3)のメーカーがアルゼンチンへの輸出用に製造した仕様である、という4つの条件のうちの1つでも逸脱した楽器は、アルゼンチン・タンゴでのバンドネオンと違う音色であると述べる(小松2021,p.110)。バンドネオンのボタン配列を、ヨーロッパで普及しているクロマティック・ボタン・アコーディオンのCシステム(イタリア式配列)にあわせて並べ変えた方式で、73ボタン(左 33、右40)、146音が基本。1925年にフランスのアコーディオン奏者 Charles Peguriが考案した。配列は規則的なので、習得は比較的容易である。日本のタンゴ楽団も含め、アルゼンチン以外のタンゴ楽団で広く使用されてきた。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,798 | 636 | 85,590,838 | ただし日本でも、1950年代ぐらいからアルゼンチン本国と同様のライニッシュ式バンドネオンの使用が広まり、今日に至っている。ヴィッキ式配列は、カスパー・ヴィッキ(Kasper Wicki)がバンドネオンのために考案した鍵盤配列で、1896年にスイスで特許を取得した。これとは別個に、コンサーティーナ奏者のブライアン・ヘイデン(Brian Hayden)も同様のコンセプトの鍵盤配列を考案し、1986年に特許を取得したので、今日では両者をあわせて「ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列」と呼ばれる。鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式デュエット・コンサーティーナや、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。 | ボタン配列の各方式 | バンドネオン |
4,799 | 636 | 85,590,838 | 蛇腹を引いたときの方が音が響く。蛇腹によく共鳴するためだと言われる。従って、バンドネオン奏者は蛇腹を引く音を多用し、蛇腹を引いて演奏しては空気抜きレバーを押しながら蛇腹を戻す、ということを繰り返すことが多い。特に、タンゴの鋭いスタッカートは、膝を使いながら蛇腹を瞬時に引くことによって出される。標準的なバンドネオンの演奏としては、座ってバンドネオンを膝に置いて弾くのがごく一般的であるが、アストル・ピアソラは立ち膝で演奏することもあった。伝統的な演奏法は両足を閉じて弾くスタイルであり 、1920年代の細身の音色はこの奏法でしか出すことができない。現代の奏法は、楽器を片足のみに載せて弾くため、分厚く大きな音量が出るので、グランドピアノの蓋を全開にした音量とも互角で張り合える。 | 演奏法 | バンドネオン |
4,800 | 636 | 85,590,838 | 初期のオルケスタ・ティピカはコントラバスとバイオリンが全て立奏の後列、バンドネオン5人がぎっしり隙間なく詰められて横に座り、ピアノがダンススポット袖近くの左というのが一般的であった。上下関係も厳しく、バンドネオン第1が一番偉くマスターに近い。 | 演奏法 | バンドネオン |
4,801 | 636 | 85,590,838 | バンドネオンの製造は今も昔も、職人が経営する工房で家内制手工業的に行われることが多い。オートメーション化が難しい職人の手仕事が多く必要である上、演奏人口もギターやピアノ、バイオリンなどに比べれば少ないため、大規模な楽器工場での大量生産には向いていない。そのため、高名な製造元であっても、職人の名人芸の技術継承がうまくゆかなかったり、諸般の事情で廃業することもある。逆に、バンドネオンの製造を新規に始める職人や工房も存在する。製作元については、第二次世界大戦前のドイツのアルフレッド・アーノルド(アルフレート・アルノルト(ドイツ語版))社製のバンドネオンにこだわる演奏家が今もかなり多い。同社は1911年にザクセン王国(現ザクセン州)南部のカールスフェルト(ドイツ語版)に設立されたが、第二次世界大戦後の1948年に収用により消滅した。 | 製造元 | バンドネオン |
4,802 | 636 | 85,590,838 | 同社が製作したバンドネオンの評価は今も非常に高く、楽器市場では今も高価なビンテージ・モデルとして流通している。 アルフレッド・アーノルド社製のバンドネオンは、「AA」の商標からはドブレ・アー(Doble A)とも呼ばれている。ちなみに、戦後の東ドイツのクリンゲンタールで作られた「AA」ブランドのバンドネオンや、アルフレッドの甥でイニシャルは同じくA.Aになるアルノ・アーノルドが戦後に製造したバンドネオンは、アルフレッド・アーノルドのバンドネオンとは全く別物なので、要注意である。下記の写真を参照のこと。1861年に同じカールスフェルトで設立されたELA社、すなわちエルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold)社のバンドネオンも、演奏に用いられる。ELAブランドとして知られている。 | 製造元 | バンドネオン |
4,803 | 636 | 85,590,838 | ちなみに、エルンスト・ルイス・アルノルトの妻は、ドイツ式コンサーティーナの発明者カール・フリードリヒ・ウーリヒの娘であり、この夫婦のあいだに生まれた三男がアルフレッド・アーノルドである。。同じくザクセンのクリンゲンタール(ドイツ語版)に所在するマイネル&ヘロルト(Meinel & Herold)社製造のバンドネオンを、レオポルド・フェデリコは愛用している。3Bブランド(Tres B)で知られている。クリンゲンタールにはいくつかのバンドネオン・メーカー、博物館がある。アコーディオン・メーカーで知られるホーナー社も、バンドネオンを製造していた。また、ベルリンのプレミア(Premier)社も、新品のバンドネオンを製造している。その他、製造元が10社ぐらいある。バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。 | 製造元 | バンドネオン |
4,804 | 636 | 85,590,838 | ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカといった機種を再生産する方向へ変わっている。今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。現在、新品のバンドネオンを製作あるいは販売している主な業者は以下のとおり。戦前のAA(Alfred Arnold社)のクオリティに近い再現品を新品として製作する業者もいる。 | 製造元 | バンドネオン |
4,805 | 636 | 85,590,838 | タンゴ楽団の代表が、バンドネオン奏者とは限らない。 | 著名なバンドネオン奏者 | バンドネオン |
4,806 | 638 | 84,728,503 | クセノポン(クセノポーン、希: Ξενοφών、英: Xenophon、紀元前427年?-紀元前355年?)は、古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。 | __LEAD__ | クセノポン |
4,807 | 638 | 84,728,503 | クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、ディオゲネス・ラエルティオス著の『ギリシャ哲学者列伝』(第2巻第6章)に書かれている。青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。 | 生涯 | クセノポン |
4,808 | 638 | 84,728,503 | クセノポンは若いころ、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年~紀元前399年)。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。 | 生涯 | クセノポン |
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