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さらにUNIXの標準規格を巡ってUNIX戦争が勃発し、UNIX市場は大きなダメージを受けた。1980年代後半には、パソコンにも32ビット時代が到来し、1990年代に入ると、低価格なAT互換機でもメモリを十分に搭載すればPC-UNIXの利用が可能になりはじめた。当時のパソコンでは、オペレーティングシステムとして最低限の機能しか持たないDOSが依然として使われており、GUIやネットワーク、マルチメディアに対応させるため、ベンダがDOSを様々な形で拡張したシステムソフトウェアや、ウィンドウシステムを搭載するようにもなったが、これは互換性や信頼性など様々な点で問題を発生させていた。こうした問題を解決するため、堅牢な(プリエンプティブな)マルチタスク機能、高度なネットワーク機能など、従来のUNIX(互換)ワークステーション並みの機能がパソコンにも求められるようになってきた。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
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さらに、肥大化したソフトウェア開発の効率を改善するためにオブジェクト指向APIを導入し、Macintoshのように標準化されたGUIを備えることも求められた。これらの機能を備えたオペレーティングシステムは「次世代オペレーティングシステム」、「モダン・オペレーティングシステム」などと呼ばれた。1987年にはIBMとマイクロソフトが、パーソナルコンピュータ用に堅牢なマルチタスク機能・GUI(同年末の1.1より)・ネットワーク機能(拡張版)を装備したOS/2を発表した。1988年に登場したNEXTSTEPは、業務用途に耐える堅牢性・全面的なオブジェクト指向導入による柔軟性・高度なグラフィック機能・一貫したGUIといった、新世代のデスクトップオペレーティングシステムで求められる機能を全て実現した。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,309
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しかしこれらは当時のハードウェア性能では負荷が大きかったため広くは普及せず、代わりに、軽量だが堅牢なメモリ管理やマルチタスク機能は持たないMac OSや、Windows 3.x などのGUI環境が徐々に普及していった。これらは当時の限られたハードウェアでも快適に動作したが、安定性や機能では劣っていた。UNIX(互換)系オペレーティングシステムの流れでは、UNIXの権利を持つAT&T(1992年からはノベル)がソースコードの自由な改変を禁じていたことから、オープンソースのUNIX互換オペレーティングシステムが開発されはじめる。1990年にHurdの開発が開始され、1991年に、Linuxがフリーソフトウェアとして公開された。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,310
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マイクロカーネルなどの新しい設計手法を採用し、トレンドに合わせたびたび設計が変更されたHurdの開発が停滞する一方、Linuxは保守的な設計とバザール方式という不特定多数の担い手による開発手法を採用し、迅速な開発が進められ、PC-UNIXのデファクトスタンダードとなった。ただしLinuxはオペレーティングシステムの心臓部であるカーネルのみのため、カーネル以外のオペレーティングシステムを構成するソフトウェアを揃えて自ら環境を整える必要があり、初期段階においては技術者などのごく一部の人たちにのみ使われていた。386BSDを皮切りにフリーのBSD系UNIXも登場したが、UNIXの権利者だったノベルとBSDを開発したカリフォルニア大学バークレー校との訴訟に巻き込まれ、開発中止を余儀なくされた(1994年からFreeBSDとNetBSDの開発が再開される)。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,311
536
87,142,854
1994年には、Windowsとしては初めて、32ビットに本格対応(カーネルの32ビット化)し、堅牢なマルチタスク機能を備えたWindows NTが登場した。ただこれも負荷や互換性の問題などから個人用途にはあまり普及せず、かわって急速に普及したのはWindows 3.xを拡張しつつ、Windows NTの機能を限定的に取り入れたWindows 95であった。以降、Windows NT系とWindows 9x系との並存が続き、WindowsがWindows NTベースに一本化されたのは2001年のWindows XPからである。また、Appleも同年、NEXTSTEPを発展させたMac OS Xを新たにリリース、従来の Mac OS の後継となった。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,312
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87,142,854
このころには低価格なパーソナルコンピュータでも、これらのオペレーティングシステムの負荷を問題としないほどに高性能化しており、オープンで低価格な分散コンピューティングを広めた(ダウンサイジング)。2003年にはパソコンにも64ビット時代が到来し、オペレーティングシステムも64ビット化が進んだが、16ビット化や32ビット化の際と比較するとオペレーティングシステムの機能や役割に大きな変化はなかった。商用のパソコン用オペレーティングシステムのWindowsとMac OS Xのいずれもが64ビットへの移行を徐々に進めていった。Windowsは同一バージョンのオペレーティングシステムで32ビット版と64ビット版の双方を提供して、Mac OS Xは32ビットカーネルを維持したまま、一般プロセスに64ビット機能を持たせる道を選んだ。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
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536
87,142,854
2000年代中頃まではパソコンの性能向上が著しかったため、デスクトップ用途の新しいオペレーティングシステムは同時代における高性能なパソコンを必要としていたが、2006年を境にしてCPUの性能向上の限界が顕著に現れ始めると、高効率化を目指した開発にシフト。Windows Vista・Windows 7やmacOSなどの新しいオペレーティングシステムにおいて、高機能のマルチコアCPUやプログラマブルシェーダを搭載したビデオチップへの対応が進められた。オープンソースの流れでは、従来よりGNUがUNIX向けのツール群を開発していたが、これらをLinuxカーネルと組み合わせたGNU/Linuxが、2000年頃よりUnix系オペレーティングシステムの主流となった。またBSD系オペレーティングシステムもUnix系オペレーティングシステムのシェアの大きな部分を占めている。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,314
536
87,142,854
一方、組み込みシステムにもより複雑な機能が求められるようになり、NetBSD、VxWorks、LynxOS、QNX、Enea OSE、Symbian OSなど汎用オペレーティングシステムをベースとしリアルタイム性能を持たせた組み込みオペレーティングシステムが幅広い用途に使われている、中でもオープンソースのTOPPERSのITRONを含むTRON系オペレーティングシステム・APIが、2020年現在、組み込みオペレーティングシステムの60%のシェアを持っている。1990年代以降はダウンサイジングの流れにより、業務用途でもオープンシステムやWindowsへと主流が移行している中、信頼性・可用性を重視する用途には、現在でも専用オペレーティングシステム(z/OS、MSP/XSP、VOS3、ACOSなど)を搭載したメインフレームが採用され、使い分けられている。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,315
536
87,142,854
2000年代末以降、パーソナルコンピュータ市場が成熟化する一方で、スマートフォンやタブレットに代表される、デスクトップ・オペレーティングシステムから派生した組み込みプラットフォームが普及し、モバイルコンピューティングが一般化した。これらはカメラ、GPS、加速度センサー、ジャイロスコープ、無線LAN、Bluetooth、狭い画面に最適化されたタッチパネルなどのインタフェースを組み込み、携帯機器の低消費電力の要求に応えたiOS、Androidなどのモバイルプラットフォームを採用している。
オペレーティングシステムの歴史
オペレーティングシステム
4,316
537
88,906,083
鉄道(てつどう、英: railway 米: railroad 独: Eisenbahn)とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関である。
__LEAD__
鉄道
4,317
537
88,906,083
鉄道とは平行に2本のレールを敷き、その上で列車などを走らせ、人や貨物を運ぶ交通機関、交通システムである。線路、旅客や貨物を載せて走る列車、停車場、駅などの施設、運行管理や信号保安まで様々な要素で構成される一連の体系である。「鉄道」は狭義には(その交通システム全体ではなく)レールを敷いた道「線路」(鉄路)だけを指すことがある。鉄道は歴史的に見てまずイギリスやヨーロッパで発展した。フランス語では「chemain de fer(シュマン・ドゥ・フェール)」と言い、これは直訳すると「鉄の道」である。日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」と言う。なお鉄製のレールだけでなく、たとえばコンクリート製の案内軌道などを用いるものもある。また、鋼索(鋼でできた太いロープ)で車両を支持し運転するもの(索道。ロープウェイ)も鉄道の一種としている。
概説
鉄道
4,318
537
88,906,083
広い意味では、懸垂式・跨座式のモノレール、案内軌条式のAGT(新交通システム)、浮上式鉄道を含む。なお、『日本大百科全書』は定義文の冒頭部「専用の用地にレールを敷設した線路上を動力を用いた車両を運転し」としている。専用の用地でなく道路に敷設された路面電車は、日本の法制上は「軌道」とよんで「鉄道」とは区別している。つまり、用地のありかたにも着目して線引きしている。次にレールの素材に着目して線引きができるかについて検討してみると、英語では railroad(アメリカ)または railway(イギリス)と呼び、これは単に「レールの道」という意味で、語自体には「レールの材質」に関する意味が含まれていない語で造語して呼ぶようになった。
概説
鉄道
4,319
537
88,906,083
だがイギリス同様に鉄道が早期から発展した欧州の大陸側のフランスでは chemin de fer(=鉄の道)、ドイツでも「Eisenbahn」(=鉄の道)と呼び、日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」 等々、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をする。鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであったので、レールの素材(材質)に焦点を当てて造語した。なお、素材ばかりに着目しても、先に説明したようにコンクリートのレール(案内路)を用いたシステム(素材以外は駅や列車などシステム全体が同じようなシステム)を含められなくなってしまうので、レールの素材にこだわりすぎて線引きするのにも無理がある。
概説
鉄道
4,320
537
88,906,083
このように交通システムはさまざまな変則的なものを開発することができる、という面もあり、また各国で法制度が異なっており、さらにトロリーバスまで含めるのか含めないのかなど、どこまでを法制上「鉄道」に含めて扱うかについても国ごとにかなりの差異があり、「鉄道」と「鉄道でないもの」の線引きのしかたはさまざまあり、世界的に見てかなり曖昧である。よって本項では(焦点がぼけてしまわぬよう、周辺あたりの曖昧な領域は避け)できるだけ、この記事の意味の中心部、つまり専用の用地に敷いた鉄製レールを有するものについて解説することにし、鉄道に含めてよいかどうか曖昧な形態のものについては脚注などで軽く触れるにとどめる。
概説
鉄道
4,321
537
88,906,083
技術、経済、法制などの観点から分類可能である。鉄道は、技術的には、軌道・車両の構造、軌道の敷設面、軌間、車両の動力源などに基づいて分類できる。経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)株式会社の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い国有・国営の形態をとるものが多くなっていった。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。欧州を見てみると、イギリスの鉄道は1947年の法律によって国有化され、その後、1963年から公共企業体として運営されていたが、1994年に分割・民営化された。
分類、種類
鉄道
4,322
537
88,906,083
フランスの鉄道は、1937年の「公私混合株式会社」の発足以来、国有化の道を歩み始め、1983年からは全額政府出資の事業体として運営されていたが、1997年1月フランス国鉄 (SNCF) は、鉄道線路の建設と維持管理とを行うフランス鉄道線路事業公社 (RFF) を分離独立させ、フランス国鉄 (SNCF) 自体は鉄道輸送に専念する事業体となった。ドイツの鉄道は、1920年のドイツ国有鉄道の設立により国有化されたが、第二次世界大戦後の1951年の東西ドイツの分裂により、西ドイツは「ドイツ連邦鉄道」、東ドイツは「東ドイツ国鉄」として国有国営の事業体となった。1990年の東西ドイツ統一以降、1994年に東西両国鉄が「連邦鉄道財産機構」として統合され、その後業務別に三つの組織に分割されていった。アメリカの鉄道は、第一次世界大戦中に一時期、国の管理下に置かれたことがあるが、基本的には民間の運営であった。
分類、種類
鉄道
4,323
537
88,906,083
しかし、自動車や航空機に比べ鉄道による旅客・貨物輸送の需要は伸びず、1971年には国が管理・運営する鉄道として都市間の旅客輸送を行うアムトラック (Amtrak)(正式名:全米鉄道旅客輸送公社National Railroad PassengerCorporation。その通称である「Americantrack」の略称がAmtrak)が、1976年には連邦政府の援助・監督下に経営される株式会社形態の貨物輸送鉄道コンレール (Conrail)(統合鉄道会社Consolidated Rail Corporationの略称)が設立された。その後、アメリカでは1980 - 1990年代に規制緩和政策が推進されるとともに鉄道会社の統廃合が進み、コンレールも「ノーフォーク・サザン鉄道」と「CSX鉄道」に分割・買収される形で1999年に姿を消した。
分類、種類
鉄道
4,324
537
88,906,083
日本の鉄道は、1906年(明治39年)に(特定地方限定の地方鉄道を除いて)国有化され、第二次世界大戦後、1949年(昭和24年)に公社(公共企業体)「日本国有鉄道」として新たに発足したが、1987年(昭和62年)4月分割・民営化が行われ、「国鉄」は「JR」となり、6つの旅客鉄道会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)の合計7つの会社として再出発した。日本の鉄道体系は、株式会社形態をとる私鉄(民鉄)の役割が比較的大きいことが、世界的に見て特徴となっている。
分類、種類
鉄道
4,325
537
88,906,083
特に旅客に関しては大きな割合を分担し、1984年(昭和59年)時点での年間輸送量は、国鉄68億人、私鉄118億人で、私鉄が国鉄を上回っていた(その後国鉄もJRとなりすべて国有ではなくなったが、1997年(平成9年)の年間輸送量は、JR旅客会社88億5919万人、私鉄133億8582万人で、やはり旅客では私鉄の役割が大きい)。なお貨物に関しては、さほどではなく、1997年の貨物輸送量がJR貨物が4729万トン、私鉄2194万トンであった。業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある。
分類、種類
鉄道
4,326
537
88,906,083
軌道に関しては、16世紀ごろにドイツのハルツ鉱山で板の上にレール状の木材を取り付けて、その上に石炭運搬の車両を通したのが始まり、ともされる。木製のレールは激しく摩耗するのでその後に鉄製にかえられた。(ここで「鉄道」になった)。初期の鉄製レールはL字型で、底辺(水平面)が外側になるように敷設し、外側の底辺の上を車輪が転がるようになっていた。その後、車輪外周の内側につば状の輪縁(フランジ)をつけることでレールのほうのL字型は止め、レールの頭部の内側を走る、現在と同様の方式となった。
歴史
鉄道
4,327
537
88,906,083
この段階で、車両の動力源は人力や馬の力(馬力)であったが、18世紀の後半にワットが改良した蒸気機関をさらに改良利用する方法が多くの人によって研究され、1804年にイギリスのリチャード・トレビシック(1771―1833)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作し、馬にかわって、石炭の運搬車を引かせることに一応は成功した。そして、1825年にイギリスダラム州にストックトン&ダーリントン鉄道が開業する。
歴史
鉄道
4,328
537
88,906,083
線路は地上に敷設されていることが多いが、都市部や地形に制約のある場所、また高速走行を行うための路線では地下や高架に線路を敷設している。特に地下に敷設される路線は地下鉄と呼ぶ。軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。鉄道の車両を動力源によって分類した場合、蒸気機関を動力として用いる蒸気機関車、その他の内燃機関を動力とする気動車・ディーゼル機関車、電気モーターを動力とする電車・電気機関車がある。
構造
鉄道
4,329
537
88,906,083
鉄道車両は1両でも用いることができるが、多数の車両を連結でき、その利点を活用して旅客や貨物を一編成(ひとつらなりの形)で大量に輸送することが可能である。鉄道車両は、異なる軌間の区間に乗り入れることが困難である。軌間を切り替える手法としては、まず境界駅で台車を交換する方法がある。この方法は、広軌の旧ソ連圏と、これに接する標準軌の中国や東ヨーロッパを直通する列車などで採用されている。しかし、この方法では、電車や機関車など、モーターを持つ台車の取替はできず、また作業のため、国境駅で3時間以上待たなくてはいけないなどの問題がある。また、スペインの「タルゴ」「Alvia」で特殊な設備を用いて乗客を乗せたまま自国の1668 mmと周辺他国の1435 mmを切り替える方法が実用化されている。また、日本では、乗客を乗せたまま軌間切り替え可能なフリーゲージトレインの実用化試験が行われている。
構造
鉄道
4,330
537
88,906,083
他にも、異なる路線の鉄道車両の乗り入れが困難である場合が存在する。建築限界や車両限界が路線によって異なる場合も、乗り入れの障害となる。例としては車両限界の大きい新幹線と、車両限界の小さい在来線を改軌した区間を直通するミニ新幹線のように、在来線の車両サイズで作らざるを得なくなる。直流、交流といった電気方式が区間によって異なる場合には、直通するためには製作コストの高い双方の電気方式に対応した車両を使用するか、機関車を付け替えるなどの必要が生じるが、電気方式が同じでも、電圧が区間によって異なる場合は、複電圧方式の車両が必要となる。鉄道駅は、列車が止まり、人が列車に乗り降りしたり、貨物を積み降ろしする場所である。基本的には線路とプラットホームから構成され、中程度以上であれば駅舎やさまざまな関連施設がある。貨物駅であればさらに貨物ターミナルから構成される。さまざまな分類法がある。
構造
鉄道
4,331
537
88,906,083
鉄道と道路が平面的に交差する場所には踏切が設置される。日本では、踏切の通行は鉄道に優先権があり、道路交通を遮断することとなる。列車運行本数が多い場合は遮断時間が長くなり、交通渋滞の原因となり、甚だしい場合には「開かずの踏切」が生まれる。踏切を解消するため連続立体交差事業が進められている。鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所 や指令所 などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して電線路が敷設され、それに伴い、鉄道変電所や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密なダイヤや突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。
構造
鉄道
4,332
537
88,906,083
鉄道の運営を行う鉄道事業者は、民間企業によるものと、国や特殊法人・地方公共団体が行うものなどがある。なお、日本においては日本国有鉄道の分割民営化と、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の特殊会社化に伴い、いわゆる「国営の鉄道事業者」は現存しない。ただし、日本国有鉄道の事業を継承したJRグループのうち、北海道旅客鉄道(JR北海道)、四国旅客鉄道(JR四国)、日本貨物鉄道(JR貨物)、および帝都高速度交通営団の事業を継承した東京地下鉄(東京メトロ)については、国や独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が一部または全部の株式を保有している。したがって、現在の日本国政府が、鉄道事業の経営にまったく関与していないわけではない。鉄道は、線路・駅などのインフラストラクチャーに対する投資コストが大きく、固定費率が大きいことから損益分岐点が高く、黒字となるには一定以上の輸送量、利用客数が必要となる。
運営
鉄道
4,333
537
88,906,083
このため、欧米では「鉄道は公共財であり、また一度無くなると元に戻すことは難しいことから、赤字は基本である」(日本政策投資銀行 浅井康次)という認識であるとの紹介がある。また、相当な利益を上げないと既存路線の高速化や自動列車保安装置設置、駅のバリアフリー化やホームドア設置、パークアンドライド用駐車場設置などの鉄道サービスや安全性向上も困難である。日本では、1990年代から鉄道の利用者数が減少している。減少の背景には、日本の人口構成が関わっている。鉄道利用者の中心は通学利用者と、通勤利用者であるが、人口構成上、学生は卒業する年代の人口よりも入学する年代の人口が少なく、社会人も退職する年代の人口よりも新規に就職する世代の人口が少ない状況にあるため、両者は今後長期間にわたり減少する仕組みになっている。
運営
鉄道
4,334
537
88,906,083
減少の要因として他には、鉄道事業者の経営努力不足、モータリゼーション(列車から自動車へのシフト)や、変わったところでは、地球温暖化(冬の気温が上がることで降雪が少なくなり、車が使用しやすくなる)といったものもある。上述した内容は日本全体の話であるが、ローカル線の利用者数を巡る環境は特に厳しい。採算が取れない場合、路線や駅の存続問題が発生する。対応策として、赤字が続く鉄道を廃止したり、第三セクター鉄道に転換することがある。しかし、第三セクター鉄道にしても赤字が解消されるとは限らず、赤字の第三セクター鉄道は、地方公共団体の不良債権として問題になっている。鉄道の乗車には切符などの乗車券、または乗車カードを必要とする。運賃を支払うことでこれらを入手することができ、乗車権を得られるが、車内で精算する仕組みを取っている鉄道もある。
運営
鉄道
4,335
537
88,906,083
鉄道車両や鉄道施設に関しての学問として、鉄道工学がある。新たな技術として、デュアル・モード・ビークル (DMV) などがある。
技術
鉄道
4,336
537
88,906,083
鉄道は、レールの上しか通行できない半面、他の陸上輸送機関に比べて自然環境への負荷が比較的少なく、大量輸送に向き、定時性や安全性に優れるという特徴を有する。鉄道は、専用の鉄軌道上で案内されて運転される特性上、多数の車両を連結して一括運転できる。このため、一度に大量の旅客や貨物を運送できる。軌道や車輪に鉄を使用しているため、走行時に鉄同士が触れ合うことになるが、この際の走行抵抗は、きわめて小さい。鉄製の車輪は、自動車に用いられるゴムタイヤと比べると変形量が小さいためである。また、一般的な自動車と比べ細長く体積の割りに前面投影面積が小さいため、空気抵抗も小さい。車列が長いほど体積当たりの空気抵抗は少なくなる。結果、必要な動力も重さの割には小さくできる。
特徴
鉄道
4,337
537
88,906,083
例えば日本の国鉄115系電車10両編成(質量は400トン、出力は2880 kW)では1トンあたり7 kW であるが、乗用車のカローラ(質量は1400 kg、出力は82 kW)では1トンあたり58 kWであり、国鉄115系電車が1トンあたりで要する出力はカローラの8分の1以下である。そのため、鉄道は船と並んで、エネルギー効率のよい大量輸送システムといえる。鉄道は、その走行抵抗の少なさなどのため、単位輸送量当たりのエネルギー消費は自動車や航空機よりはるかに少ない。環境省の調査によれば、一定の距離で、一定の人数を輸送するために要するエネルギーの量は、日本の国鉄の鉄道を基準にすると、バスはその1.8倍、乗用車は5.3倍、航空機は8.8倍であった。また、貨物の場合、船は0.8倍、トラックは2.8倍であった。
特徴
鉄道
4,338
537
88,906,083
さらに、電車や電気機関車の場合、発電機や電動機のエネルギー変換効率が内燃機関よりはるかに高いので、電化鉄道は鉄道システム全体としてもエネルギー効率は非常に高い。したがって、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の単位輸送量当たりの排出量が少ない 交通機関である。鉄道は専用の軌道を有しているため、定時性に優れる。路面電車のように道路上を走行する併用軌道を除けば、基本的に専用の走行路を使用するので、定時運行を確保しやすい。定められた時刻通りに列車を運行することは鉄道事業の出発点である。特に、自動車や飛行機などの代替輸送機関が発達した先進国地域では、遅れのひどい鉄道からは利用者が去っていってしまう。ちなみに1999年度(平成11年度)のJR東日本の数字によれば、新幹線の95 %と、在来線の87 %が定刻(遅延1分未満)に発着している。
特徴
鉄道
4,339
537
88,906,083
ただし、故障や災害等で事故が発生すると、事故現場の回避や追い越しができないため、長時間に渡って不通になる場合がある。台風・地震など、自然災害により不通になると、その影響が広範囲に渡るなど、脆弱な面もある。自動車が事故車線や現場を回避できたり、途中経路の天候が悪くても離陸・着陸地点の天候に問題がなければ航行が可能な飛行機とは対照的である。また、踏切事故や人身事故、強風などの影響で長時間運行が停止することも多い。鉄道は安全性が高い交通手段であるといえる。鉄道事故の発生する確率は他の交通機関よりも低い。ある統計によれば、鉄道事故による利用客の死亡率は自動車の545分の1、航空機の104分の1であるという。鉄道が自動車より安全であることの理由として、次のようなことが挙げられる。鉄道事故の多くは道路交通と平面交差する踏切や、利用客と鉄道との接点である駅のホーム、急カーブ、単線で発生している。
特徴
鉄道
4,340
537
88,906,083
これらの事故に対して、踏切では立体交差化、駅のプラットホームではホームドアの設置、カーブではカントの設置及びカント量の上限を超えない範囲内での引き上げや脱線防止ガード設置、鉄道路線全般では自動列車保安装置の装備といった防止措置がとられる。鉄道は、飛行機・船と同様、一度に大量の人員を輸送できる故に、一度事故になると大惨事になり得る。ただし、鉄道での死亡事故の大半は駅構内や踏切で起こる接触・衝突事故で、大量死亡事故は非常に少ない。鉄道は、自動車交通や航空交通などと比較して排出される二酸化炭素が少ない。東京-大阪の旅客輸送について、鉄道と自動車一人あたりの二酸化炭素排出量を試算すると、鉄道は自動車の6分の1であると報告されている。電化鉄道では一次エネルギーを問わないため、新エネルギー(クリーンエネルギー)の切り替えも可能である。今日では、鉄道が原因となる大気汚染が問題になることも少ない。
特徴
鉄道
4,341
537
88,906,083
かつては蒸気機関車の煤煙が大きな問題であったが、すでにほとんど淘汰されている。非電化鉄道であっても、汚染されうる空間が軌道の周辺域に抑制されるため、対策は比較的容易である。鉄車輪と鉄軌道との摩擦力が小さいという理由により、自動車ほど急勾配を上り下りすることができない。自動車の勾配は立体駐車場などの1/6(水平に6 m進むと1 m高くなる)が最急だと言われているが、鉄道では25 ‰程度が常用の限度とされている。より急な線区も存在する(例えば箱根登山鉄道には80 ‰勾配が存在する)が、その場合建設や運転に不利になる。そのため、山岳などの障害物を迂回したり、トンネル掘削による障害物回避、あるいはループ線やスイッチバックを設置するなどを行う必要がある。また、これらの対策でもどうにもならない急勾配は、ラックレール等を用いることで対処する場合もある。
特徴
鉄道
4,342
537
88,906,083
ただし最近では、ICE 3など、一部の高性能車両は連続40 ‰勾配路線を300 km/hにて走行可能であり、高性能車両を用いることで、トンネル掘削などの投資を抑えることが可能となりつつある。また摩擦力・粘着力によって加速度を得ることが、自動車に比べて難しく、急加速・急減速が困難である。普通鉄道の最高速度は574.8 km/hだが、営業上の最高速度は320 km/hにとどまっている(「高速鉄道の最高速度記録の歴史」を参照)。この限界を突破するために浮上走行が考案されたが、その一つがリニアモーターカーである。急減速が利かない欠点に対しては線路を一定区間に区切り、1つの区間に同時に2本以上の列車を入れない閉塞という概念・設備を導入して列車同士の衝突事故を防いでいる。ブレーキの改良も進められている。また、鉄道は曲線にも弱い。
特徴
鉄道
4,343
537
88,906,083
曲線では遠心力が働くが、遠心力による横からの力に対して鉄道は自動車より弱い。よって、鉄道と自動車が同じ半径の曲線を通過する際には、鉄道の通過速度を自動車よりずっと小さくする必要が生じる。この欠点を小さくしようとすれば曲線を緩くする以外に方法はない。路上を自由自在に走行できる道路交通とは違い、レールの上しか走行できないという制約があるため、わずかな障害によって広範囲で正常運転ができなくなることが多い。人身事故が発生すると、多くの列車に影響が出る。また土砂災害や地震など、自然災害を受けると復旧までにかなりの時間を要し、迂回路がない場合、バスなどの代替輸送に頼らざるを得ない。強風にも弱く、強風のため長時間運行が停止されることもしばしば発生する。ただし積雪の際に自動車よりも安全に運行できる鉄道は、地域によっては冬場の市民の貴重な足となりうる。
特徴
鉄道
4,344
537
88,906,083
鉄道は建設と維持に莫大な費用を必要とし、特に地方の閑散線区では採算性が低くなりやすい。それでも鉄道の維持を選択する場合は、公的資金の投入が必要となることがある。一例を挙げると、2011年(平成23年)7月の豪雨災害で不通となったJR東日本只見線会津川口 - 只見間は、線路などを地元自治体が所有する「上下分離方式」を採用して復旧することが決定した。復旧に際し沿線市町村と福島県は復旧費を約54億円負担し、復旧後は沿線市町村と福島県が年間運営費として約2億1000万円負担することになると見積もられている。
特徴
鉄道
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88,906,083
(著者・編者の五十音順)
関連文献
鉄道
4,346
542
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赤星たみこ(あかぼし たみこ、1957年5月6日 - )は、日本の漫画家、エッセイスト。宮崎県日之影町出身。夫にイラストレーターの新野啓一がいる。
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赤星たみこ
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東京デザイナー学院在学中から森永真理のアシスタントを務める。1979年に講談社の少女漫画雑誌「mimi」でギャグ漫画家としてデビュー。1987年より「漫画アクション」で連載した『恋はいつもアマンドピンク』は映画化・ドラマ化された。エッセイ漫画も多く手がけ、近年は子宮がん闘病記やエコロジーをテーマとした作品も発表する。地元の宮崎県への愛郷心が強く、高千穂あまてらす鉄道の取締役を務めていたことがあった。
経歴
赤星たみこ
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巻数表示のないものは単巻
作品リスト
赤星たみこ
4,349
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ジャズ(英: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人コミュニティで生まれた音楽ジャンルで、ブルースやラグタイムをルーツとしている。1920年代のジャズ・エイジ以降、アフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人の音楽的な親子関係という共通の絆で結ばれた、伝統音楽やポピュラー音楽の主要な音楽表現として認識されるようになった。ジャズの特徴は、スウィングするリズムや、裏の音符の多いシンコペーションのあるリズム、初期にブルースの影響を受けた(ブルーノートもあったがこれは基本的にはブルースである)複雑なコード、複雑なスケール、コールアンドレスポンス・ボーカル、ポリリズム、即興演奏などである。ジャズのルーツは、西アフリカの文化と音楽の表現、そしてアフリカ系アメリカ人の音楽の伝統にある。
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ジャズ
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ジャズが世界中に広まるにつれ、国や地域、地元の音楽文化が取り入れられ、さまざまなスタイルが生まれた。ニューオリンズのジャズは1910年代初頭に始まり、それまでのブラスバンドのマーチ、フランスのカドリーユ、ラグタイム、ブルースに、ポリフォニックな即興演奏を組み合わせたものであった。1930年代には、アレンジされたダンス志向のスウィング・ビッグバンド、カンザス・シティ・ジャズ、ジプシー・ジャズ(ミュゼットワルツを強調したスタイル)などのスタイルが知られるようになった。初期のジャズの代表的なミュージシャンには、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンらがいた。白人のポール・ホワイトマンを”キング・オブ・ジャズ”と呼んだ評論家たちは、後にその誤りを自嘲的に語ることになった。
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ジャズ
4,351
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1940年代に登場したチャーリー・パーカーらによるビバップは、ジャズをダンサブルなポピュラー音楽から、より速いテンポで演奏され、複雑な即興演奏を多用する、ミュージシャンのための音楽へと変化させた。1940年代の終わり頃には、より滑らかなサウンドと、メロディラインを取り入れたクール・ジャズが登場した。1950年代半ばにはハード・バップが登場し、サックスやピアノの演奏にリズム&ブルース、ゴスペル、ブルースなどの影響を取り入れた。1950年代後半には、モードを音楽構造の基礎とするモーダル・ジャズが発展し、即興・アドリヴが重視された。フリー・ジャズは、西洋音楽の規則的な音階や拍子、形式的な音楽構造にとらわれない自由な演奏を追求したが、それはそれまで長年構築されてきた西洋音楽の秩序を崩壊させるものであった。
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ジャズ
4,352
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1960年代末から1970年代前半にかけては、ジャズとロックのリズム、電気楽器を組み合わせたクロスオーバーが登場し、70年代後半にはジャズ・ロック・フュージョンへと変化した。1980年代には、スムーズジャズと呼ばれるジャズ・フュージョンの後継である商業的なジャズが成功を収め、ラジオで放送された。1990年代に入ると、ジャズ・ラップやニュー・ジャズなど、さまざまなスタイルやジャンルが登場した。
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ジャズ
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543
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卑猥な意味をもつという"jass(ジャス)"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングのjazz(ジャズ)によるとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、上記のような特徴をもつ黒人音楽を、ジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、ラグタイム時代からスウィングジャズ時代まで活動した。1916年にシカゴで活動していたジョニー・ステイン(英語版)をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。
概要/語源
ジャズ
4,354
543
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このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷されていた。
概要/語源
ジャズ
4,355
543
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ビバップやフリー・ジャズのような革新性、スウィング・ジャズやヴォーカル・ジャズのような保守性、大衆性、商業主義が混在しながらジャズ音楽は存続してきた。革新性は主に黒人ミュージシャンによって推し進められた芸術音楽としての一面、保守性は白人富裕層・中流階級向けの音楽としての一面、また大衆性や商業主義は大衆音楽やポピュラー音楽として発展した一面を表していた。なお、ジャズは60年代の公民権運動やヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは、やや方向性が異なっていたが、ときに交わることもあった。ジャズは、欧州をルーツとするクラシック音楽への対抗や人種差別への抵抗、そして自由な音楽性を探求する音楽だった。それが60年代初頭までは時代の先端として存在し、新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させた。
詳細
ジャズ
4,356
543
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1940年代後半におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950年代におけるビートニクに共感する若者からの支持を獲得した(ビートニクやジャズ喫茶を参照)。革新的ビバップ、西洋音楽からの分離を志向したフリー・ジャズ、ロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、新たな音楽ジャンルが模索されていった。「多様性」は、ジャズの特徴でもあり、演奏スタイルは多様である。白人・黒人の混合文化はジャズの初期からの傾向でもあるが、1970年代半ばのフュージョン以降は停滞し、保守的なものになった。なお黒人主導の反抗的で自由な音楽性は、ヒップホップ・ミュージックに受け継がれたという意見がある。また一部ビバップやフリー・ジャズなどのより革新的な演奏スタイルは、即興的で混沌としており、大衆性・商業性には結びつかず、現在でもジャズの中では前衛的ジャンルと認識されている。
詳細
ジャズ
4,357
543
88,453,866
1910年代にクラシック音楽に倣った編成であるビッグバンド(後のスウィング・ジャズ)が誕生すると、それを機にハーレム・ルネサンスの後押しもあってジャズクラブやジャズバーがニューヨークの各所で開店されていった。しかしコットン・クラブをはじめとしたナイトクラブでは、演奏者は黒人でありながらも、顧客は白人の富裕層・中流層が多かった。ジョージ・ガーシュウィンをはじめとして、ベニー・グッドマン、スタン・ケントン、グレン・ミラー、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンスなどの白人音楽家による白人ジャズも常に存在した。ビル・エヴァンスは、ジャズのアドリブ演奏を、クラシック音楽におけるカデンツァやバロック期の即興演奏と関連付けて、音楽としての正統性を主張した。
詳細
ジャズ
4,358
543
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ジャズは、白人のメインカルチャーとは異なる、都市の黒人による洗練された音楽として登場したが、ラグタイムからの音楽性を受け継いだ当初から、大衆音楽としての側面があった。大衆文化に寄り添い、また商業性を意識した音楽性は、1940年代の芸術音楽であるビバップの誕生までは、ジャズの主要な特徴として認識された。ビッグバンドやスウィング・ジャズは、クラブやバーで演奏されるだけでなく、ダンスホールで演奏される、大衆のためのダンス・ミュージックとしての役割も担い、狂騒の20年代を文化的側面から支えた。あるいはヴォーカル・ジャズも同様に大衆からの人気を博し、ポピュラー音楽の一翼を担っていた。
詳細
ジャズ
4,359
543
88,453,866
代表的なジャズ・ヴォーカリストとしては、アフロアメリカンのビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン 、エラ・フィッツジェラルド、ナット・キング・コール、白人のビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ペギー・リー、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジなどがいた。彼らの中には稀代のエンターテイナーとして歴史に名を残した者もいる。またルイ・アームストロングやチェット・ベイカーのように、演奏・ヴォーカルともに活躍した者もいた。
詳細
ジャズ
4,360
543
88,453,866
ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルースの要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。なお、ジャズより古い時代に誕生したラグタイムはスィングしておらずジャズとは関係ないが初期のジャズピアノ奏法に影響を与えた。ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。
歴史
ジャズ
4,361
543
88,453,866
20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。
歴史
ジャズ
4,362
543
88,453,866
ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。
歴史
ジャズ
4,363
543
88,453,866
1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、カウント・ベイシー、トミー・ドーシー、スタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとヴォーカルとの融合において重要な役割を果たした。
歴史
ジャズ
4,364
543
88,453,866
その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない。戦前に設立されたアルフレッド・ライオンのブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。1950年代にはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。
歴史
ジャズ
4,365
543
88,453,866
ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。最も影響力のある、ビバップ・アーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリーパーカー。テナーサックス奏者のデクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ。クラリネット奏者バディ・デフランコ、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロ、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリークリスチャン、ジョーパス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチ、ケニー・クラーク、マックス・ローチ、アート・ブレイキー。
歴史
ジャズ
4,366
543
88,453,866
ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、ペギー・リーらの歌手も、この時期活躍した。1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。
歴史
ジャズ
4,367
543
88,453,866
1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」という言葉が広まっていった。
歴史
ジャズ
4,368
543
88,453,866
また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オディらも活躍した。白人歌手のヘレン・メリル、クリス・コナーらも人気を集めた。1960年には、ジョン・コルトレーンによる『ジャイアント・ステップス』のアルバムが発売された。コルトレーンは翌1961年にも「ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」を発表した。また60年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
歴史
ジャズ
4,369
543
88,453,866
1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルヴァー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。
歴史
ジャズ
4,370
543
88,453,866
同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。
歴史
ジャズ
4,371
543
88,453,866
1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。90年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。またハリー・コニック・ジュニア、ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、カサンドラ・ウィルソン、ホセ・ジェームス、ジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスの音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも登場している。電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。
歴史
ジャズ
4,372
543
88,453,866
この流れはパット・メセニー、ジョン・アバークロンビー、ジョン・スコフィールド、ロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。2010年代になると、ヒップホップやファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーとサンダーキャットのコラボのジャズラップなどが人気となり、カマシ・ワシントンのサックスも注目された。また、様々な音楽要素を融合させ、多数の楽器を使いこなすジェイコブ・コリアーのパフォーマンスも話題となった。NHK『タモリのジャズスタジオ』においてピーター・バラカン・ブロードキャスターが「ヨーロッパと日本がなければ、アメリカのジャズミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズプレイヤーにとって日本は重要なマーケットで、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。
歴史
ジャズ
4,373
543
88,453,866
日本にジャズミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソン、ベニー・カーター、エラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。
歴史
ジャズ
4,374
543
88,453,866
ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのケニー・ボールの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などはよく知られている。フランスでは「小さな花」のシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを演奏した。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「退廃音楽」「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。
各地域のジャズ
ジャズ
4,375
543
88,453,866
ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた。アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。ダラー・ブランドらがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した。ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。
各地域のジャズ
ジャズ
4,376
543
88,453,866
テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの「ダイナ」がヒット。「ダイナ」はよくカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースティン(英語版)の"My Blue Heaven"をカバーした「青空」で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した。
各地域のジャズ
ジャズ
4,377
543
88,453,866
しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は、各種の慰問団などに変わっていった。
各地域のジャズ
ジャズ
4,378
543
88,453,866
戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一、服部良一、淡谷のり子、ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子、ベティ稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、水島早苗、あきれたぼういずらがいた。戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子、伊東ゆかり、しばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。戦後は、服部良一が作曲したブギウギを笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである。
各地域のジャズ
ジャズ
4,379
543
88,453,866
また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる。
各地域のジャズ
ジャズ
4,380
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1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した。21世紀に入ってからも、H ZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真らが活躍した。
各地域のジャズ
ジャズ
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ジャズ、ロックの評論家で、若者に人気だった植草甚一の約4000枚のジャズ・レコード・コレクションは、タモリが引き取ることになったという。セクシーな女性歌手の系譜は、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、高木里代子らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が映画のサウンドトラックとして使用される現象も見られた。 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、歌謡曲など、異なるジャンルでも使用される。ビバップ、フリージャズなどの革新を追い求める姿勢は、ジャズを芸術性も含む音楽ジャンルであると認識させ、ジャズを長く嫌いだった人間も、好きにさせる場合があった。またジャズは聴衆に、大人向け、自由といったイメージを抱かせ、BGM業界にも一定の役割を果たした。
エピソード
ジャズ
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過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。
主なスタイル/ジャンル
ジャズ
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ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。
著名な演奏場所
ジャズ
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藤沢 とおる(ふじさわ とおる、1967年1月21日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。北海道出身、東京都在住。代表作に『湘南純愛組!』『GTO』などがある。主に不良漫画やアクション漫画を手がける。妻は女優の藤沢あやの。
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藤沢とおる
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ヒップホップは、1970年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれたブロック・パーティーにルーツのあるアフロアメリカンの音楽である。80年代には、ヒップホップには三大要素があると言われていた。DJ、ブレイクダンス、グラフィティがその構成要素である。現在ではミュージシャンとしてのMCを加えた四大要素と言われている。ヒップは、とんでいる、ホップは跳躍するなどの意味がある。ライターのスティーヴ・ヘイガーは、アフリカ・バンバータの、ラップ音楽やブレイクダンス、グラフィティ・アートを含めた黒人文化をヒップホップとした発言は、ヴィレッジ・ボイスで最初に活字になったものであると主張している。
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ヒップホップ
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単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽で、これらはヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ(MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれる。これらはアメリカのストリートギャング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりとしてブレイクダンスやラップの優劣が争われた。ラップ、DJプレイ、ブレイクダンスには、フリースタイル・バトルと呼ばれる対決方式も存在する。
概要
ヒップホップ
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その後、発祥地アメリカだけにとどまらず、ブレイクダンスを踊ったり、グラフィティをアートとしてとらえたり、ファッションにも影響を及ぼすなど、ヒップホップ文化は、欧米、日本をはじめ世界各国に広まった。これにアフリカ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビートボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ばれる。
概要
ヒップホップ
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起源については諸説有るが、一般的に1970年代に生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術を普及)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親)らのDJたちの活躍によって、それまでのブロック・パーティを超えた音楽として広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スクール(Old School、1970年代末 - 1980年代初頭)、ニュー・スクール(New School, 1990年代以降)と呼ぶ。オールド・スクールのラッパーにはグランドマスター・フラッシュ、トリーチャラス・スリー、スーパー・ウルフ らがいた。1980年代後期 - 1990年代前期はラップの全盛期だったことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ばれる場合もある。
詳細
ヒップホップ
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日本では80年代半ばのラップをミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。ミドル・スクールのラッパーには、Run-D.M.C.、LLクールJ、UTFO、フーディニらがいた。パブリック・エナミーやBDPのアルバムは、社会的意識の萌芽を予感させた。1980年代、ヒップホップは、ビートボックスのボーカルパーカッションテクニックを介して、人体を使用したリズムの作成も受け入れた。先駆者はダグ・E・フレッシュはだった。ダグ・E・フレッシュやビズ・マーキーは、自身の口と声、他の身体の部分を使用してビート、リズムを創造した。これらは「ヒューマンビートボックス」と呼ばれ、このジャンルのアーティストは、ターンテーブリズムのスクラッチやその他の楽器の音を歌ったり楽器の音を模倣したりした。ミュージックビデオの登場はエンターテインメントを変えた。彼らはしばしば都会の近所を称賛しました。
詳細
ヒップホップ
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「プラネットロック」のミュージックビデオは、ヒップホップミュージシャン、グラフィティアーティスト、およびB-boyのサブカルチャーを紹介した。1982年から1985年の間に「ワイルドスタイル」、「ビートストリート」、「クラッシュグルーブ」、ブレイクダンス、「ドキュメンタリー・スタイル・ウォーズ」など、多くのヒップホップ関連の映画が上映された。1980年には、世界の若者の一部がヒップホップ文化を受け入れた。アメリカの都市コミュニティでは、ヒップホップのファッションが流行した。Run-D.M.C.だけでなく、アイスT、ビッグ・ダディ・ケイン、ドクター・ドレイらも愛用した ゴールドのチェーン・アクセサリーや、ジャージとスニーカーなどが見られた。その後パブリック・エネミーやKRS1のブギー・ダウン・プロダクションなどが登場した。ニュー・スクール・ラップは、80年代末から90年代初頭まで流行した。
詳細
ヒップホップ
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ニュー・スクールのラッパーには、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、リーダーズ・オブ・ザ・ニュースクールらがいた。ファッションは、シルバーが流行した。またサイズの大きな衣服や、バギースタイルのパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着るアーティストも見られた。大きい服を着るようになったのは、大きめのサイズの服を子供に提供しておけば、成長しても買い換える必要がないことなどが原因とされている。別なカテゴライズとして、アーティストの出身地などから、ヒップホップ発祥の地であるニューヨークなどのアメリカ東海岸におけるイースト・コースト・サウンド、ロサンゼルスなどのアメリカ西海岸におけるウエスト・コースト・サウンド(ウエスト・サイド)といった、地域による分け方がある。
詳細
ヒップホップ
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ニューヨークのラップは、ジャズトラックを使用した楽曲もあり、対して初期のウエスト・コースト・サウンドは、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらを中心としたGファンクと呼ばれる、Pファンクなどをサンプリングし、シンセサイザーなどの電子音を取り入れたトラックに、ギャングスタ・ラップをのせた。近年はサウス(南部)やミッドウエスト(中西部)と呼ばれるローカルサウンドも登場している。サウスのトラックは、バウンスビートが特徴である。ヒップホップのポピュラー化により、東海岸でギャングスタ・ラップをするものが現れた。1990年代頃から東海岸を代表するディディ(パフ・ダディ)、ノトーリアス・B.I.G.
詳細
ヒップホップ
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擁するバッド・ボーイ・エンターテインメント(Bad Boy Entertainment)と、西海岸を代表するドクター・ドレー、 スヌープ・ドッグ、2パック(出身はイースト・コーストではあるが、最盛期の活動場所はウエスト)らが所属するデス・ロウ・レーベルとの対立が象徴的であるように、両海岸のアーティストたちはお互いを威嚇、中傷し合った。それらの内容はラップの歌詞にも現れ、ギャングを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展した。この東西抗争は、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失う悲惨な結末を招いた。抗争はその後、個人間のビーフ(中傷合戦)を除いて、沈静化している。
詳細
ヒップホップ
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70年代後半から80年代の黎明期のヒップホップを統括したジャンル。代表的なアーティストにシュガーヒル・ギャング、グランドマスター・フラッシュ、クール・ハークなど。1980年代半ばのヒップホップを表す日本独自表現。アメリカではゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ぶ場合もある。デラソウル、リーダーズ・オブ・ニュースクールなど。エドOG&ダ・ブルドッグズやメイン・ソースなど。ギャング活動や犯罪行為について言及したジャンルで、歌詞の過激な内容が度々論争を引き起こす。ハードコア・ヒップホップとほぼ同義。上記のギャングスタ・ラップから派生したジャンル。代表的なアーティストにドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、ウォーレンGなど。南部ラップともいう。マスターP、スリー6マフイアなど。ヒップホップのトラックの上に、新しいR&Bのメロディーを乗せたジャンル。代表的なアーティストにメアリー・j・ブライジらがいた。
サブジャンル
ヒップホップ
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日本の宇多田ヒカルのサウンドも、このジャンルに属する。」メキシコ系移民たちが中心になり勃興したジャンル。キッド・フロスト、メローマン・エイスなど。ルークや2ライブ・クルーなど。シャバ・ランクス、ビーニー・マン、シャギー、ショーン・ポールらが活躍した。90年代のシンセサイザーや重低音のベースを特徴のラップ。代表者はリル・ジョン、マシン・ガン・ケリーらがいる。90年代にクランクから派生したジャンル。代表者はドレイク、カーディーB、XXXテンタシオン、トラヴィス・スコットなど。2010年代にエモとラップを融合させたジャンル。代表者はXXXテンタシオンなど。
サブジャンル
ヒップホップ
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※印は日本劇場未公開作品
ヒップホップ関連映画
ヒップホップ
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経営学(けいえいがく)とは以下の通りである。
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経営学
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経営学とは「常に変化する内外の環境において組織をいかに効率的に運営するか」を解明する学問である。その対象は今日では広く、企業だけでなく、官庁組織、学校その他一般に組織といわれるものすべてを含むと考えられる。経営学とは、「企業」という特定の領域を対象とする領域学のことである。「領域学」とは、経済学・社会学・心理学などのように、特定の限られた変数群と一定の理論的枠組みとを用いて、対象世界に接近する「ディシプリン」の学問ではなく、教育学や宗教学と同じように、変数群や理論的枠組みを特定化するのではなく、むしろ対象世界を特定化して、それに対して多面的に接近する学問であることをいう。その領域学としての経営学の対象は、企業である。
定義
経営学
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企業は形式的には生産の担い手であるといわれるが、生産という言葉のなかには、財・サービスをつくるという意味はもとより、新しい知識を生み出す、イノベーション(経営革新)といった意味合いもまた含まれている。
定義
経営学
4,400
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狭義の経営学としては組織体の効率効果的な運営のための長期的視野に立った理論の構築を目的とする学問と捉えられるため、その際は会計学やマーケティングなどの分野は除外される。経営学の問題意識を明白にするためには、次の2つのことが必要となる。日本では、マクロ組織論、経営戦略論の2つをまとめて経営学と呼ぶ学問体系が確立している。日本で初めて経営学の概念を提唱したのは、商工経営学と名付けた上田貞次郎東京高等商業学校(現・一橋大学)教授とされる。2018年、一橋大学は商学研究科と国際企業戦略研究科を再編統合し、経営管理研究科を設立している。経営管理研究科という名称は、慶應義塾大学大学院経営管理研究科と同様である。日本での企業(およびそのほかの組織体)の組織構造(組織論)とその機能(戦略論)をどのように設計するか、学術研究面での経営管理研究の重要性が現れている。
狭義の経営学に内包される2領域
経営学
4,401
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経済学では、各主体(個人・企業、およびそのほかの組織体)の行動が市場原理にゆだねられた場合の帰結(均衡)と、そこでの資源配分の効率性や社会的総余剰の適切さについて分析したり、社会システムの構造を物象化の機序を明らかにしつつそこに生起する論理と動態を明らかにすることに重点が置かる。それに対し、経営学は、いかにすれば企業(およびそのほかの組織体)がその業績や効率性を向上させることが出来るかを明らかにしようとする。つまり、社会全体を見るか・一組織を見るかの違いであり経済学的アプローチではミクロ経済学の範疇であると、かつては考えられていた。また、同じ「企業」を観察する場合でも、経済学では各企業が合理的な行動をとった場合にどのような状態が現出するかを考察することが多く、経営学では企業がどのような行動をとることが合理的かを考察する、などの違いがある。
学際的な学問としての経営学
経営学
4,402
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以上のような学問的出発点の違いから、経営学では個々の企業間の差異が注目されるのに対し、(特に新古典派の)経済学ではその差異にはあまり注意が払われない場合が多い。ただし、1980年代以降、経営学分野で経済学理論を基礎とした領域が発達したり(マイケル・ポーター、伊丹敬之等)、経済学でも企業・組織のメカニズムや効率性を分析する領域(企業経済学・組織の経済学など)が発達していることから、両者の違いは以前ほど明確ではなくなってきている(事実、アメリカのビジネススクールには経営学者と経済学者が混在している)。とは言え、経営学は「領域」の学問と言われるように、社会学的手法を用いた分野(マーケティングなど)や、社会心理学的手法を用いた分野(労務管理論など)など手法横断的・学際的な発展をしており、数学を用いた社会分析に特化し続けている(「ディシプリン」としての学問)経済学とは一線を画している。
学際的な学問としての経営学
経営学
4,403
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最近の経営学者・経済学者には、この点を両者の相違としている者も多い。日本においては、1926年(大正15年)に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)で「經營学」という名称の授業科目を開講し、同年7月10日、日本経営学会が創設されている。
学際的な学問としての経営学
経営学
4,404
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1947年、日本学術振興会が経営問題108委員会を設立した。学界委員と産業界委員が連携して活動している。 下記に事例として、2012年における日本学術振興会産学協力研究員会 経営問題108委員会委員構成を取り上げる。日本学術振興会は産学協力研究委員会として産業構造・中小企業第118委員会を擁している。日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会は日本における中小企業研究の中核的な組織である。戦前から活動してきた日本学術振興会第23(中小工業)小委員会に端を発している。日本学術振興会第三常置委員会に中小工業に関する研究を行う第二三小委員会を設置することとなる。昭和13年11月4日、第一回会議(如水会)で招集され、上田貞次郎委員長、 山中篤太郎幹事体制となる。
日本学術振興会産学協力研究委員会
経営学
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第二三委員会は、国民経済構造第七七小委員会(昭和20年~22年)、中小産業復興第九〇小委員会(昭和21年~23年)を経て、昭和23年4月に現在の第118委員会として発足した。委員16名構成とした。その他委員 磯部喜一、大塚一朗、小田橋貞寿、末松玄六、高宮晋、田杉競、豊崎稔、中西寅雄、中山素平、藤井茂、細野孝一、松井辰之助、美濃口時次郎、村本福松。委員の構成(平成31年4月現在)委員構成については、時代によって社会経済環境の変化に応じて編成が異なる。下記に事例として、平成10年代、平成20年代と10年単位で遡り記載する。委員の構成(平成18年)委員の構成(平成24年)
日本学術振興会産学協力研究委員会
経営学
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広義の経営学には、その学際性から多彩な領域の科目が含まれる。次にその代表的な科目を紹介する。
広義の経営学に内包される各科目
経営学