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85,868,285
池原 しげと(いけはら しげと、1952年2月26日 - )は、日本の漫画家。男性。富山県入善町出身。
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池原しげと
4,408
551
85,868,285
本名、池原成利(いけはら しげとし)。本名の他、池あや子(いけ あやこ)、原成(はら しげる)名義でも執筆している。血液型AB型。中学の時に手塚治虫の『鉄腕アトム』に感動したのがきっかけで漫画を描き始める。少年画報社に入社して営業職を2ヶ月務めた後、友人の誘いで1970年に手塚プロダクションに入社、手塚治虫のアシスタントを1年半ほど行う。その後、手塚プロでは『海のトリトン』『ふしぎなメルモ』で絵コンテの補佐としてアニメ制作にも携わる。その際、富野由悠季に絵コンテの描き方などを教わった。手塚治虫と絵柄が似ているという理由で起用された手塚原作の『ふしぎなメルモ』(小学館学年誌)の代筆で、1971年に漫画家デビュー。
略歴
池原しげと
4,409
551
85,868,285
1970年代前半には、学年誌で数々の特撮&アニメ作品のコミカライズを執筆しながら手塚治虫のアシスタントなど関係者で設立した企画者集団のひろみプロに参加して、『ミラクル少女リミットちゃん』『魔女っ子メグちゃん』といったテレビアニメの企画に関与した。80年代以後、『冒険王』→『コミックボンボン』などにて執筆。主にロボットアニメなどテレビアニメのコミカライズものやファミコン等のテレビゲーム関連の作品を多く描く。『コミックボンボン』のマスコットキャラクターの爆弾マークは、池原がデザインしたものである。特にロックマンシリーズを多数執筆しており、作品を重ねるごとに池原なりのキャラクターの掘り下げを行ったり、オリジナルストーリー(「甦るブルース」)を執筆したこともある。
略歴
池原しげと
4,410
551
85,868,285
池原が描くロックマンのデザインは、初期は鉄腕アトムに似せていたが、カプコンのキャラクターイメージの共通化の意向により、シリーズ第7作『ロックマン Dr.ワイリーの陰謀』以降は元のゲームと同じ意匠に変更された。ロックマンシリーズを執筆する際は、必ずプレイして攻略法を確認している。単行本の巻末によれば、ゲーム自体は得意ではないらしく、先に自身の息子が攻略していることがあるという。また、『ロックマン3 Dr.ワイリーの最期!?』のボスキャラ公募の際、“ナパームマン”という名のボス(『ロックマン5 ブルースの罠!?』に登場する同名のボスとは別)を投稿したが、採用はされなかった。なおロックマンは企画段階では鉄腕アトムの版権を購入してゲームにする予定であった。
略歴
池原しげと
4,411
552
88,267,636
いしい ひさいち(本名:石井 壽一、男性、1951年(昭和26年)9月2日 - )は、日本の漫画家である。最長期作品はののちゃん、代表作は「がんばれ!!タブチくん!!」である。編集プロダクション「チャンネルゼロ」監査役。
__LEAD__
いしいひさいち
4,412
552
88,267,636
新聞連載や4コマ漫画を中心として活動。一方でいわゆる「新聞漫画」「風刺画」を基調とせず、プロ野球、政治、経済、時事問題、推理小説、哲学、時代劇、学生の貧乏生活、庶民の家庭生活など多岐に渡るテーマを扱い、極度にデフォルメされたキャラクターと過激な皮肉、ナンセンスや解読困難な展開など独特な世界観を提供する。第31回文藝春秋漫画賞、第7回手塚治虫文化賞短編賞、第32回日本漫画家協会賞大賞、第54回菊池寛賞を受賞。「タブチくん!!」を始めアニメ化もされている。
概説
いしいひさいち
4,413
552
88,267,636
岡山県玉野市(宇野)築港出身。岡山県立玉野高等学校2年生の時、漫画研究会発足時に誘われて会員となる。高校時代には虫プロ商事の漫画雑誌『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん 基礎コース」に応募し、2度にわたって入選している。1970年(昭和45年)に関西大学に進学し、漫画同好会に入会。当時は大阪府大阪市東淀川区下新庄に下宿した。1972年(昭和47年)、大学在学中に関西ローカルのアルバイト情報誌『日刊アルバイト情報』にて「oh!バイトくん」でデビュー。1975年(昭和50年)には、大学時代の仲間の峯正澄、レオナルド・いもらと「チャンネルゼロ工房」を結成し、同人誌「チャンネルゼロ」を刊行する。同年3月、5年かかって関西大学社会学部を卒業、漫画家となる道を選ぶ。「チャンネルゼロ工房」で発行した自費出版単行本『Oh!
来歴
いしいひさいち
4,414
552
88,267,636
バイトくん』が評判となり、1977年(昭和52年)にプレイガイドジャーナル社から初の単行本『バイトくん』が発売。その後、高信太郎の紹介で三流劇画誌『漫画大快楽』(檸檬社)1978年7月号に掲載した「おじゃ漫むし」で商業誌デビューする。また『漫画アクション』(双葉社)に連載していた「くるくるパーティー」からのセレクト版として、1979年(昭和54年)に代表作で、当時プロ野球選手だった田淵幸一をモデルとした『がんばれ!!タブチくん!!』が刊行され、アニメ映画化された。いしいひさいち作品のヒットによりチャンネルゼロは1980年から1981年にかけて季刊漫画誌の『漫金超』(まんがゴールデンスーパーデラックス)を刊行。本誌は強い個性を持つ既成作家や同人作家を集めて紙面を構成されており、ニューウェーブ漫画家を多数起用した。
来歴
いしいひさいち
4,415
552
88,267,636
1980年(昭和55年)には、いしいの初期の多数の4コマ漫画作品が原作の『おじゃまんが山田くん』がテレビアニメ化。1981年(昭和56年)にはアニメ映画化もされ、1984年(昭和59年)には『元祖おじゃまんが山田くん』として実写ドラマ化もされた。1999年(平成11年)には朝日新聞朝刊に掲載されている『となりのやまだ君』が『ホーホケキョ となりの山田くん』としてスタジオジブリで映画化。1985年(昭和60年)、文藝春秋漫画賞を受賞。2003年(平成15年)、『現代思想の遭難者たち』(講談社)、『ののちゃん』(朝日新聞朝刊連載)など一連の作品に対して、第7回手塚治虫文化賞 短編賞を受賞。第32回(2003年(平成15年)度)日本漫画家協会賞大賞を受賞。2006年(平成18年)、菊池寛賞を受賞。2009年(平成21年)11月21日より病気療養に入り、全ての連載が休載となった。
来歴
いしいひさいち
4,416
552
88,267,636
その後体調が回復したため、2010年(平成22年)3月1日より朝日新聞の連載を再開させるなど、一部の仕事について復帰した。それ以後、連載は『ののちゃん』のみとなっていたが、2020年(令和2年)6月より『小説新潮』にて新連載『剽窃新潮』を開始した。
来歴
いしいひさいち
4,417
552
88,267,636
極端なマスコミ嫌い・人嫌いで、顔写真が公開されたのは『週刊明星』1979年9/30・10/7合併号と、文藝春秋漫画賞を受賞した1985年(昭和60年)に『夕刊フジ』(同年5月30日付)・『週刊文春』6月6日号に三度だけ露出したのみ。『となりの山田くん』映画化時は記者会見に出ないということが映画化を許諾する際の条件だったため代わりに『ホットケヨとりなしの山田くん 山田くんガイドブック』という小冊子を配った。漫画賞を受賞しても授賞式にも登場することはなく、代理人が出席している。サイン会も1985年(昭和60年)、『鏡の国の戦争』刊行時に2度おこなっただけである。また、漫画家とのつきあいも少なく、漫画家になってから実際に会ったことのある漫画家は大友克洋・西村宗・高橋春男の3人だけであると記している。デビューからしばらくの間は、自宅の電話機を常に冷蔵庫の中に入れていたという逸話もある。
人物
いしいひさいち
4,418
552
88,267,636
マスコミにほとんど露出しないため、奇人・偏屈イメージがあるが、実像は社交家でこそないものの、穏やかな物腰で人と接することのできる普通の人物である。寡黙ではあり、大友克洋は、大阪のチャンネルゼロまで赴いて面会した折に本人より周囲のチャンネルゼロの人間とばかり会話したような気がすると証言している。かつては、自身の単行本に「解説」をつけられるのを嫌っており、デビュー単行本『バイトくん』(村上知彦と高信太郎が解説)以外には、解説がなかった。だが、近年刊行されている「ひさいち文庫」には解説がつけられるようになり、各界のいしいファンが寄稿している。『がんばれ!!タブチくん!!』がヒットしていた頃、「いしい作品のモデルになった者は、皆不幸になる」という話が、学生時代を中心とした作者の交友関係者の周辺で、まことしやかに語られたこともあった。
人物
いしいひさいち
4,419
552
88,267,636
人前に出ないのは皮肉の対象人物からの報復を恐れているからだとする噂もあり、実際単行本の作者紹介欄には、「敵が多く、引越しを繰り返している」と書かれているものがある。ただし、モデルになった田淵幸一は大らかな性格で、『タブチくん!!』の愛読者だったと伝えられている。なお、いしい本人の『タブチくん!!』に対しての意識は、2003年(平成15年)のタイガースの優勝に際し「アンチ阪神を続けるあまりファンかアンチかわからなくなってきた」というコメントを寄せている。漫画家デビュー以来現在までに大阪府大阪市東淀川区(既述)、兵庫県神戸市東灘区渦森台、神奈川県鎌倉市などに在住。自分で本を購入する習慣がなく、引越しをする際の条件に「図書館が近所にあるか」を盛り込むほどの「図書館ヘビーユーザー」を自称している。
人物
いしいひさいち
4,420
552
88,267,636
ヴィジュアル系ロックバンドcali≠gariが好きと自身のコラムで語っており、『ののちゃん』第2492回でものぼるが「君が咲く山」を聴いて“壊れる”場面がある。他にGARNET CROWなども挙げる。「ののちゃん」連載内連載「ROCA」で主題となっているファドは、自身の音楽的嗜好である。2012年(平成24年)に出版された書籍に収録した自筆の文章によれば、これまで出会った漫画作品のベスト3に安部慎一の『無頼の面影』、鈴木翁二の『夢は方南に在り』、楠勝平の『てっぺんかけたか』を挙げており、すべて『ガロ』の作家となっている(生涯ベスト単行本には楠勝平の『おせん』をあげている)。また現役の4コマ漫画では植田まさしの『コボちゃん』と、小坂俊史の作品に注目しているという。
人物
いしいひさいち
4,421
552
88,267,636
古本の売買については、自作品に自身のキャラクターを登場させ「いろんな人によんでもらえる方が、まんが家としてはすてられるよりは良いですが」と語らせている。妻はヤクルト本社のノンキャリアOLであった女性で、1985年(昭和60年)に結婚。作中において自身の妻は「ののちゃん」の猫久保さんに似ているキャラクターで描かれる。
人物
いしいひさいち
4,422
552
88,267,636
実在の政治家を始めとする人物、流行、事象、組織社会、地域社会、家族、地域差、生活習慣などの幅広いジャンルを読者が持つ多様な共通理解と巧みに掛け合わせて風刺し、シニカルに笑わせる作品が多い。同時に「何でも噛み付く」とまでいわれるほどあらゆる事象に対し批判精神を忘れない。ビル・クリントンは「ビル・フリチントン」と書かれ、高橋由伸の顔はへのへのもへじとして描かれる。また、石原伸晃の顔はひょっとことして描かれる。政治風刺漫画では、志位和夫が一度登場している。実在する人物を描く際、わかりやすい特徴をとらえて前面に押し出す。例として宮澤喜一が挙げられる。いしいは宮澤を、背もたれに腕を乗せて体を斜めにして座った姿で描くが、これは宮澤自身の癖がそのまま出ている。
作品の特徴
いしいひさいち
4,423
552
88,267,636
いしいの作品は台詞もすべて描き文字となっているが、「やむを得ない」を「やもうえない」と表現する、「しつこい」を「ひつこい」と表記するという特徴がある。「いしいひさいちの登場以前、4コマ漫画は『起承転結』が基本であったが、いしいは自作でその既成概念を破壊した」という評論に対し、いしいは自著で「誤解です」と答えている。いしいによれば、そもそも4コマ漫画に起承転結というセオリーはなく、あるとすれば観念的な読者の認識のフレームではないかとしている。同様の理由で、いわゆる萌え4コマ(日常系4コマ)を「オチが弱い」という理由で批判するのはおかしいと指摘している。いしいが実在の人物をもとに創作した「タブチくん」などのキャラクターは、しばしばモデルとなった人物の枠を越えて自律し、モデルの人物とは直接関係のないキャラクターとして他の作品に登場するスターシステムとして使われている。
作品の特徴
いしいひさいち
4,424
552
88,267,636
広岡達朗を例にあげると、「わたしはネコである」ではバイトくんのキャラクターの何人かとともに、安田猛を編集者とする高慢な作家「広岡達三」として、時代劇ものでは「大山田藩(10万石)の筆頭家老、広岡刑部」として登場し、江戸屋敷の家老である野村(野村克也)とは勢力争いを展開している。また読売新聞主筆渡邊恒雄は、町内会長ナベツネツネオ(その実体は超人ワンマンマン)として「ののちゃん」に登場し、読売トップが朝日連載マンガの準レギュラー化するという事態に至った。この渡邊、広岡以外にも中曽根康弘、金正日など当初は悪意をこめて描かれていた人間が長期化するうちに不思議な愛嬌をおびてくるという現象も顕著である。また、ののちゃんの同級生の少年探偵ミヤベくん(推理作家の宮部みゆきがモデル)のように、似顔絵キャラクター(この場合だと女流推理作家役など)を経ずに起用することもある。
作品の特徴
いしいひさいち
4,425
552
88,267,636
ただし、ミヤベくんは後から別の作品で(まったく同じ顔で)女流作家役としても起用された。さらに著名人に留まらず、ヤクルトスワローズ私設応援団長をしていた岡田正泰まで登場させている。別の作品に同一キャラクターを登場させることが多い。前述の実在人の他、キクチくん、三宅さん、クボくん、スズキくん、藤原センセ、猫久保さん(広岡の家政婦など)など多数の例がある。自身をモデルにしたキャラクターを作品に登場させる場合は、「バイトくん」の主人公であるキクチくんの絵柄でほぼ一貫している。東日本大震災の前は、いしい被災地というネーミングで登場したことも多かった。また、作品には意味の分からない・分かりにくいオチの作品も多いが、筆者であるいしい自身も下書きや作品を何度読んでも意味が分からない作品も多数あるらしい。
作品の特徴
いしいひさいち
4,426
552
88,267,636
『となりのやまだ君』では「となりのののちゃん」(東京創元社)巻末にて自身も意味の分からなくなった一作品のオチの意味を読者に尋ねたり、『ののちゃん』の一作品では公式ホームページ上で自ら解説を行ったこともある。また、単行本を出す際には作者本人が作品を厳選、時に訂正や加筆を加えていることが、ひさいち文庫内において明らかにされている。ただし、徳間書店の単行本「山田くん全集」・「ののちゃん全集」においては、作品セレクトをやめて連載完全収録に踏み切り、長年の友人である村上知彦に心境の変化を指摘された。
作品の特徴
いしいひさいち
4,427
553
86,938,278
石垣 ゆうき(いしがき ゆうき、1965年11月26日 - )は、日本の漫画家。本名、石垣 雄規。三重県四日市市出身。大阪芸術大学出身。 趣味はフルスクラッチビルドのフィギュア造り。猫を飼っている。一般には、『週刊少年マガジン』に1990年から1999年まで不定期連載された『MMR マガジンミステリー調査班』の作画担当として有名。すっきりした絵柄ながら写実的な画も描き、ギャンブル、オカルト、探偵物など幅広い分野の作品を手がける。代表作には先述の『MMR』の他、文庫版も発売されたギャンブル漫画『100万$キッド』などがある。2014年時点、携帯電話は所持していない。父方の家系が年を取ると禿げやすくなるらしく、その頃に敢えて坊主頭にしたが、母方の家系が禿げない血筋であることを知らず、自身は禿げるどころか生えている、と語っている。2014年現在は老眼が進行したためにデジタル作画へと移行。
__LEAD__
石垣ゆうき
4,428
553
86,938,278
しかし、長時間画面を見て原稿を作成しているため目を痛めるたびに目薬を差している。
__LEAD__
石垣ゆうき
4,429
555
75,082,974
石川 サブロウ(いしかわ サブロウ、 (1953-01-18) 1953年1月18日(69歳)- )は、日本の漫画家。北海道岩内郡岩内町出身。
__LEAD__
石川サブロウ
4,430
555
75,082,974
1974年、『立ち読み厳禁』が第7回手塚賞で佳作となり、同作品でデビュー(『週刊少年ジャンプ』)。 以後、『警察犬物語』『北の土龍』『蒼き炎』などの作品を次々に発表し、骨太な中にも暖かみのある作風で多くの読者の支持を集める。
略歴
石川サブロウ
4,431
557
88,188,660
石川 優吾(いしかわ ゆうご、1960年2月9日 - )は、日本の漫画家。大阪府四條畷市出身。既婚。
__LEAD__
石川優吾
4,432
557
88,188,660
農家の次男として生まれる。高校卒業後にいったん大学に入学するが、パチンコに明け暮れて、1年で中退。大学にはトランポリン(体育の授業)だけ参加した。大学中退後、大阪デザイナー学院に入学する。デザイン会社に就職するも半年ほどで辞め、以前からの夢であった漫画を志す。新人賞に出し、うまく賞に引っかかったことがきっかけで漫画家になることができた。1982年、22歳の時に「革命ルート163」(『週刊ヤングジャンプ』新人増刊号)でデビュー。代表作に『よいこ』、『格闘美神 武龍』、『カッパの飼い方』など。アニメ化した作品も数多い。
概要
石川優吾
4,433
558
87,797,638
石坂 啓(いしざか けい、1956年3月28日 - )は、日本の漫画家、作家。愛知県名古屋市出身。女性。雑誌『週刊金曜日』編集委員(547号(2005年3月4日号)〜1226号(2019年3月29日号))や、ピースボート水先案内人を務めるほか、テレビコメンテーターとしても出演している。既婚で一児の母。本名、立川啓子。旧姓、福田。
__LEAD__
石坂啓
4,434
558
87,797,638
愛知県名古屋市生まれ。華僑を母に持つ。1976年、父の経営する会社が倒産。名古屋芸術大学卒業。1978年に上京、手塚プロダクションにて手塚治虫のアシスタントを1年ほどつとめる。同期に高見まこ、わたべ淳、堀田あきおらがいた。『ブラック・ジャック』の作画などを担当した。デビュー作は第2回マンガ少年新人賞佳作入選の『とろりんなんぼく』(1979年)。青年漫画作品を中心に執筆し、『ビッグコミックスピリッツ』で連載した『キスより簡単』はテレビドラマ化・映画化もされた。1987年〜1988年にはTBSラジオの深夜放送『石坂啓のスーパーギャング』のパーソナリティをつとめるなど多彩な活動を行っていたが、出産を機に漫画家を休業し、以降はエッセイストやコメンテーターとしての活動が主となる。第3回文化庁メディア芸術祭大賞を受賞。
来歴
石坂啓
4,435
558
87,797,638
夫は、『コージ苑』(相原コージ)にも登場する担当編集者の立川義剛であり二人の間に一人息子がいる。育児体験を著したエッセイ「赤ちゃんが来た」を発表後は、育児や教育に関する発言や講演活動も積極的に行う。『週刊金曜日』の編集委員や『マガジン9条』発起人、「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人などを務める。
来歴
石坂啓
4,436
558
87,797,638
基本的に権威に当たるものが大嫌いで、息子が小学校で体罰を受けたと聞くと、早速学校に乗り込んでその教師を糾弾した。そのためモンスターペアレント扱いされたこともある。選択的夫婦別姓制度実現をめざす民法改正運動を行っているmネットの呼びかけ人でもある。いちばんの好物は、焼きそば。
人物
石坂啓
4,437
558
87,797,638
湾岸戦争時には都内の寺で抗議のパフォーマンスとしてハンガーストライキ(白米とパンと肉を抜いた食生活)を行った。 2003年6月8日、小田実・姜尚中・和田春樹らと「東北アジアの平和を求める日韓市民共同声明」を発表し、「日本政府は、核危機の克服のためにも、また、日本の植民地支配の清算と拉致問題の解決のためにも、北朝鮮政府との中断した国交交渉をただちに、無条件で再開しなければなりません」と訴えた。また、戦時における性暴力に関する一部陣営の取扱いに強い危惧を持っており、戦時における従軍慰安婦の問題や戦時における強姦に関するテーマを『安穏族』などの作品中に取り上げている。2006年9月、加藤紘一宅放火事件に対し、「民主主義にとってテロは敵だ。言論封じのあらゆるテロを許さない」と非難する共同宣言を上原公子らと共に発表した。
論評・活動等
石坂啓
4,438
558
87,797,638
2009年10月、フリーター全般労働組合などが主催した「リアリティツアー 62億ってどんなんだよ。麻生首相のお宅拝見」で、無許可デモ及び公務執行妨害の容疑で3人が逮捕されると、これを不法逮捕とする糾弾運動に上原公子らと参加した。政治家の辻元清美とは個人的にも親交が深く、お互いの著書に推薦文や後書きを寄せあったりしている。辻元の秘書給与詐欺事件に際しては灰谷健次郎と共に、「裁判を支える会」の呼びかけ人を務めた。 また、狛江市の市長選挙では河西信美、2007年東京都知事選では、浅野史郎を応援する組織「アサノと勝とう!女性勝手連」の呼びかけ人となるなどの活動をしたが、両名とも落選している。
論評・活動等
石坂啓
4,439
558
87,797,638
日本漫画家協会会長のやなせたかしや里中満智子が「劣化が進む貴重なマンガ原画を保存・修復する拠点」として政府に働きかけていた国立メディア芸術総合センターについて、「国費で額縁に原画を飾っても、ありがたがって見に来るマンガ好きはいない。恥ずかしいから私の作品は並べないで」「大家の先生方はマンガが不遇だった時代の人が多いから、国が歩み寄ってくるとうれしく思う人がいるだろう。しかし、お上にほめられて喜ぶ漫画家はいない。むしろ、お上をちゃかすのがマンガの精神。」と批判した。
論評・活動等
石坂啓
4,440
558
87,797,638
民主党が開催した2009年度補正予算案を検証する勉強会では「世界の若者に我が国のメディア芸術の魅力を発信する拠点となる」と説明する文化庁職員に対して、「お上に『よろしい』と言われて喜ぶより、そういうものをちゃかしたり風刺した作品を見せるのがマンガの精神」と述べ、「漫画家の仲間で好意的な反応をした人はいない」「ものすごくつまらないものになる」と計画の撤廃を訴えた。
論評・活動等
石坂啓
4,441
560
87,248,673
石渡 治(いしわた おさむ、1959年5月16日 - )は、日本の漫画家。男性。神奈川県出身。妻は漫画家の高梨くみ。漫画家のよしもとよしともは実弟である。『B・B』で第34回(昭和63年度)小学館漫画賞を受賞した。
__LEAD__
石渡治
4,442
561
88,586,487
板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家。北海道釧路市出身。本名:板垣博之(いたがき ひろゆき)。主に格闘技を題材とした作品を得意としている。既婚者で三女の父親であり、三女は漫画家の板垣巴留。
__LEAD__
板垣恵介
4,443
561
88,586,487
少年時代から格闘家に対する憧れが強く、高校時代には少林寺拳法に励み、二段位を取得した。高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊である第1空挺団に約5年間所属。その間、アマチュアボクシングで国民体育大会に出場したこともある。この時に総重量30kgの小銃や荷物を背負い3日間不眠で富士山麓を100キロ歩き続ける訓練を体験し、「この訓練が人生で一番きつかった。これに比べればたいしたことはない」と人生の糧になったことを語っている。後に板垣の強い希望でこの訓練は自伝として漫画化された(後述)。その後、B型肝炎を患って自衛隊を除隊し1年近い入院生活を送った後、職を転々としながらの生活を送っていた。1987年、格闘技と並ぶ少年時代からの趣味だったイラストの腕を生かし漫画家として身を立てようと、小池一夫主催の「劇画村塾」に入塾(東京第6期生)。
来歴
板垣恵介
4,444
561
88,586,487
小池原作の漫画『傷追い人』の主人公・茨城圭介と自身の妻・惠子の名前からペンネームを取って「板垣恵介」とし、1989年、『メイキャッパー』でデビュー。1991年、『週刊少年チャンピオン』に『グラップラー刃牙』の連載を開始。その後シリーズ第2部『バキ』、第3部『範馬刃牙』、第4部『刃牙道』を経て、『週刊少年チャンピオン』2018年45号より第5部『バキ道』を連載している。
来歴
板垣恵介
4,445
562
87,444,984
樹 なつみ(いつき なつみ、1960年2月5日 - )は、日本の漫画家。兵庫県出身。代表作に『八雲立つ』など。
__LEAD__
樹なつみ
4,446
562
87,444,984
「緑の館の住人たち」(未収録)で第3回LMS6位初入選。「フェアリー★ガゼール」(『マルチェロ物語』3巻収録)で第11回LMSトップ賞を受賞し、1979年『LaLa』4月号「めぐみちゃんに捧げるコメディ」(『男と女に捧げるコメディ』収録)でデビュー。1981年に初連載『マルチェロ物語』で人気を得る。
プロフィール
樹なつみ
4,447
563
84,802,003
伊東 岳彦(いとう たけひこ)は、日本の漫画家、イラストレーター、アニメーション作家。男性。本名や生年月日は公表されていない。代表作は『宇宙英雄物語』『星方武侠アウトロースター』『覇王大系リューナイト』。愛称は「老師」。
__LEAD__
伊東岳彦
4,448
563
84,802,003
北海道北見市出身。高校卒業後、東京のデザイン専門学校へ進み、同時期に様々な雑誌の仕事や設定協力などを手掛ける。その後おもちゃのデザインの仕事に就いた後、漫画編集者に。しかし担当した作品がどれも面白くないと思いそれなら自分で描いたほうがいいと考えて転職、「Good Morning アルテア」をアンソロジーコミック『C-LIVE 1』(夢元社発行、東京創元社発売)に掲載。デビュー当初はBLACK POINTというペンネームを使用しており、自画像(顔に「BP」と書かれている)や初期の作品で確認できる。イラスト・アニメ関連の仕事では幡池裕行名義で活動している(伊東自身が「別人だ」と語った事があるが、『Vジャンプ』連載「覇王大系リューナイト」第1回の画稿の名義は幡池裕行になっている)。作品制作の際にはスタジオ形式を採用しており、クリエイタースタジオモーニングスターで活動している。
来歴
伊東岳彦
4,449
563
84,802,003
モーニングスターには幡池裕行も所属していることになっている。闇の魔法陣というサークル名で、オリジナル作品の番外編やパイロット版、設定集、ラフ画などを収録した同人誌を発表している。オリジナルのスペースオペラ作品に共通する世界観としてToward Star Worldsがある。
来歴
伊東岳彦
4,450
564
88,343,085
伊藤 理佐(いとう りさ、1969年9月6日 - )は、日本の漫画家。長野県諏訪郡原村出身。血液型はO型。1987年、『月刊ASUKA』に掲載された「おとうさんの休日」でデビュー。代表作に『おいピータン!!』『ヒゲぴよ』『幸福のススメ』など。『おるちゅばんエビちゅ』は大ヒットし、アニメ化された。また『やっちまったよ一戸建て!!』などのエッセイ漫画でも知られる。さらには朝日新聞土曜日朝刊に、益田ミリと共同で連載中のエッセイ『オトナになった女子たちへ』は2015年5月20日にスタートし(当初は日曜朝刊)、2021年11月現在も連載中である。
__LEAD__
伊藤理佐
4,451
564
88,343,085
板金塗装店を経営する両親の元に三姉妹の長女として生まれる。小学生の頃に鈴木光明の「少女まんが入門」を読み漫画を書き始める。長野県諏訪二葉高等学校の在学中に投稿した作品が入賞し、デビュー。高校卒業後は上京し、女子美術大学短期大学部彫塑科に入る。アシスタントをしながら自分の作品も描いた。猫好きであり、作品内にも猫が描かれることが多い。一度の離婚歴があるが、2007年に漫画家の吉田戦車と再婚した。その後妊娠し、2010年1月14日に女児を出産した。この際、『おんなの窓』は吉田戦車が『おとこの窓』として4回にわたりピンチヒッターを務めた。『やっちまったよ一戸建て!!』で書かれた新築の一戸建てには現在は住んでいない(結婚の数ヵ月前に賃貸マンションへ転居し、その後売却した)。また『ダ・ヴィンチ』2006年12月号にて、本人は自分を「酒ラン(酒乱)」と考えていることを告白するなど、酒豪である。
経歴・人物
伊藤理佐
4,452
564
88,343,085
『おいピータン!!』で第29回講談社漫画賞少女部門受賞。『女いっぴき猫ふたり』など一連の作品で第10回手塚治虫文化賞短編部門受賞。
経歴・人物
伊藤理佐
4,453
566
88,881,077
稲田 浩司(いなだ こうじ、1964年3月14日 - )は、日本の漫画家。男性。東京都の日暮里出身。主に集英社の『週刊少年ジャンプ』、『月刊少年ジャンプ』(現在は月刊少年ジャンプの後継誌の『ジャンプSQ』)で執筆している。代表作は漫画原作者の三条陸とのコンビによる『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』、『冒険王ビィト』。
__LEAD__
稲田浩司
4,454
566
88,881,077
1985年、「ルージュ・マジック」でデビュー。1987年、「クソッタレだぜェ!!」(『週刊少年ジャンプ』52号掲載)で本誌デビュー。1989年45号より『週刊少年ジャンプ』にて「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を連載、1996年52号で終了。1998年、『赤マルジャンプ』で「イルカ岩で...」を掲載。2001年に『月刊少年ジャンプ』誌上にて「DRAGON QUEST IV外伝 -地獄の迷宮-」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を掲載。2002年4月号より『月刊少年ジャンプ』にて三条陸とのコンビで「冒険王ビィト」を連載。これもメディアミックスが行われ単行本も10巻を越えるが、稲田の体調不良のため2006年8月号を最後に休載、同誌も翌年に休刊していた。
略歴
稲田浩司
4,455
566
88,881,077
2015年12月21日発売の『週刊少年ジャンプ』誌上にて、「冒険王ビィト」の連載再開の告知が行われ、2016年4月15日発売の『ジャンプSQ.CROWN 2016 SPRING』より連載が再開した。
略歴
稲田浩司
4,456
567
84,167,485
井上 紀良(いのうえ のりよし、本名:井上典義、1959年2月11日 - )は、日本の漫画家。滋賀県高島郡(現・高島市)出身。血液型はO型。
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井上紀良
4,457
567
84,167,485
1959年、滋賀県の高島郡に生まれる。小学生の頃に望月三起也や松本零士、モンキー・パンチの作品を読み、影響を受ける。中学を卒業後、京都の友禅会社に入ったが、伝統工芸にありがちな徒弟制度で10年経たないと一人前にはなれないというのを聞き、友禅の仕事に魅力が無くなり退職、漫画家を目指す。高知県に渡り、青柳裕介、間宮聖士のアシスタントをして修業したのち、1978年に『少年キング』(少年画報社)「パイナップル・ジョー」で漫画家デビュー。その後、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)・第4回青年漫画大賞にて「エンジェルス」が入選。以降、30年以上に渡り『週刊ヤングジャンプ』で執筆する。ROLAND監修による『ローランド・ゼロ』(宝島社、2020年12月18日) 及び『ローランド・ゼロ 逆襲篇』(宝島社、2021年5月7日) で漫画部分の作画を担当した。
略歴
井上紀良
4,458
568
67,328,485
いまい かおる(1951年9月22日 - )は、日本の漫画家。東京都荒川区出身。出身校は第二瑞光小学校。女性。本名は今井薫。兄弟は、兄、弟。
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いまいかおる
4,459
568
67,328,485
もともと漫画を描くことが大好きな少女で、漫画好きの兄愛読書の「少年サンデー」「少年マガジン」などを見ているうちに漫画が好きになった。 「物心ついたときから、女の子やお姫さまのいたずら描きをしていました。小学校入学時には、生活の一部になっていました。ノート、本の余白なんかに描きましたね」中学生時代より、鈴木光明が主催し顧問をしていた漫画同人誌に参加をしていた。高校卒業後三越の紳士靴売り場に就職し、その在職中に新人発掘用単行本に採用掲載された「アニキの初恋」が漫画家としてのデビュー作となった。1971年、集英社の少女漫画誌『別冊マーガレット』に掲載された「ぼくんちにきた赤ちゃん」にて本格的に漫画家としてのデビューを果たした。以降、集英社、白泉社、講談社などの少女漫画誌などを中心とした執筆活動をしていた。
来歴・概要
いまいかおる
4,460
568
67,328,485
デビュー作である「ぼくんちにきた赤ちゃん」はその後『フーちゃん』と改題され、『別冊マーガレット』にて約10年連載され単行本も全6巻発行される長寿連載作品となった。また漫画家としての活動のかたわら、教育副読本や歌舞伎関連本のイラスト、コラム等も手がけており、近年では歌舞伎解説本などのイラストを担当するイラストレーターとしての活動が中心となっている。歌舞伎に詳しくなったのは、子供の頃に母親のお伴をしていたことによると答えている。
来歴・概要
いまいかおる
4,461
570
88,477,412
入江 喜和(いりえ きわ、1966年4月27日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。夫は同じく漫画家の新井英樹。1989年より短中編の群像劇を青年誌を中心に発表、2006年より主な活動の場を女性誌に移す。
__LEAD__
入江喜和
4,462
570
88,477,412
東京都板橋区で生まれる。11歳で千葉県銚子市に移住。居酒屋を経営する家庭で育つ。母親が東京下町で生まれ育ち、入江自身も21歳から墨田区・江東区に住んでいる。 中学・高校時代、山岸凉子から多大な影響を受ける。1988年より劇画村塾(小池一夫劇画村塾)に通い、マンガを描き始める。デビュー前から小池一夫から「天才」と称賛されていた。1998年、『月刊アフタヌーン』(講談社)の「四季賞・1989年冬のコンテスト」で、「杯気分! 肴姫」が四季賞を受賞。1991年に『杯気分! 肴姫』で連載デビュー。 以降は『モーニング』(講談社)、『コミックビーム』(エンターブレイン)を中心に作品を発表していく。シングルマザーを主人公にした『のんちゃんのり弁』は、1997年に中部日本放送制作TBS系のドラマ30枠でTVドラマ化。翌年に同じ枠でドラマの続編も放送され、2009年には映画化された。
経歴
入江喜和
4,463
570
88,477,412
2000年ごろから一時休筆した後、2004年5月、『週刊モーニング』誌で『昭和の男』連載にて復帰。その後、入江は、2006年より女性誌である講談社『BE・LOVE』を主な執筆の場とする。デビューから青年誌を中心に作品を発表してきた入江は、2006年より30〜40代女性が読者ターゲットの『BE・LOVE』に作品を掲載しはじめる。『おかめ日和』(2006年 - 2013年)を『BE・LOVE』誌上にて、足かけ8年連載した。最終的に全17巻の大作となる。『たそがれたかこ』(2013年 - 2017年)は、「このマンガがすごい!2018【オンナ編】」第4位。最終10巻と第1巻にはCD付き特装版があり、「クリープハイプ」の尾崎世界観が、同作のために書き下ろした完全オリジナル曲(「漫画」)を収録したことでも大きな話題となった。
経歴
入江喜和
4,464
570
88,477,412
最終話は例外的に2号連続で1話扱いとなり、そのタイトルは「風にふかれて」であり、クリープハイプの曲名からつけられた。なお、同作の登場人物、谷在家光一は、尾崎世界観がモデルである。『東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜』(2014年 - )を『おとなの週末』にて連載。この作品は、『たそがれたかこ』連載中の執筆となり、入江、初の並行連載となる。東京の名店の名物料理を数ページの食レポ形式のマンガで紹介し、家庭の普通の食材でつくれる関連したアレンジ料理を1〜2品、登場人物・いさくのクッキングレシピという趣向で各話の最終ページに描いた。 2017年9月には『モーニング』2017年41号にて読切作『シダ&ナンシー』が掲載。2018年、『ゆりあ先生の赤い糸』を『BE・LOVE』2018年3月1日号より連載開始。 入江は、「今回は思いっきり「少女漫画」をやりたかった。
経歴
入江喜和
4,465
570
88,477,412
昔、自分が毎日中毒になるくらい浸かっていた、次回が楽しみすぎて最新号を読んだ時からもどかしいくらいの、少女マンガ。それって「共感」だけじゃなかったハズなんですよね。何だか知らんけどやたらその世界に引き込まれてしまう「勢い」があった。それを目指して描いてみたいー」としている。読者の評価も高く、「このマンガがすごい!2020」オンナ編・第8位となった。2019年9月から10月には、「新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展」を、イオンモールkyoto、丸井錦糸町店、丸井有楽町店にて同時開催。2021年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第45回講談社漫画賞総合部門を受賞。
経歴
入江喜和
4,466
571
87,100,260
岩明 均(いわあき ひとし、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。和光大学中退。本名:岩城 均(いわき ひとし)。父親は和光大学名誉教授の岩城正夫(1930〜)。『寄生獣』で1993年に第17回講談社漫画賞一般部門、1996年に第27回星雲賞コミック部門、『ヒストリエ』で2010年に第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、2012年に第16回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。
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岩明均
4,467
571
87,100,260
高校3年まで漫画を読まずに育つ。漫画に夢中になった当初は漫画を買う事すら恥ずかしく、やっと買ったのは小さな文庫サイズの手塚治虫の漫画だったという。学生時代には父の著書に挿絵を提供していた。1984年、上村一夫のアシスタントを始める。1985年、ちばてつや賞に入選した「ゴミの海」が『モーニングオープン増刊』(講談社)に掲載され、デビュー。以後は主に『月刊アフタヌーン』などの講談社の雑誌で活動している。漫画家の須賀原洋行とは親交がある。ともに『月刊アフタヌーン』に連載していたこともあり、『よしえサン』の単行本巻末に特別寄稿として、須賀原をモチーフにした読切作品を掲載したこともある。一方の須賀原も『寄生獣』単行本巻末に岩明を主人公にしたフィクション読切漫画「寄生OL」を特別寄稿している。
人物
岩明均
4,468
571
87,100,260
残虐描写を特徴とするが、ストーリーは哲学的かつドラマティックな展開を両立させている。2000年代以降は歴史に題材を取った作品が多い。休載になることもしばしばで作品の量は多くなく、本人も自覚している。
作風
岩明均
4,469
572
83,810,175
伊藤誠(いとうまこと)
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伊藤誠
4,470
573
87,690,764
岩泉 舞(いわいずみ まい、1970年7月13日 - )は、日本の漫画家。北海道室蘭市出身。1989年、「ふろん」がホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞しデビュー。以後1994年まで、『週刊少年ジャンプ』に短編作品を執筆した。1999年から『月刊Vジャンプ』に作品を掲載していた。現在はほぼ活動を休止している。読みきり作品が中心であり、しかもきわめて寡作だったため、2021年までは代表作である『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が唯一の単行本であった。 2015年には、マンガ図書館Zで『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が公開された。「七つの海」の冒頭3ページは、岩泉が所有していたカラー原画を使用している。
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岩泉舞
4,471
573
87,690,764
2021年3月2日、Twitterにて『七つの海』に雑誌掲載当時のカラーページと未収録作品、描き下ろし作品を含めた短編集『岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET』の発売が発表され、岩泉本人のイラスト入りコメントも同時に公開された。
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岩泉舞
4,472
574
87,881,408
いわしげ 孝(いわしげ たかし、1954年12月31日 - 2013年3月6日)は、日本の漫画家。鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業高等学校を経て二松學舍大学卒。血液型AB型。デビューから十数年は本名の岩重孝(読みは同じ)で活動していた。
__LEAD__
いわしげ孝
4,473
574
87,881,408
高校時代の1970年(昭和45年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選、審査員である本宮ひろ志から「彼の作品は生命が感じられるね」と評価された。この作品が翌1971年の同誌正月号に掲載され、デビューを果たす。当時のいわしげは意欲的に漫画を描いており、同じ年に「スクラップ」も同誌の上期手塚賞で佳作に選ばれたほか、続く下期手塚賞でも「ブルースを歌う少女」が佳作に選ばれている。ただ、当時まだ高校生だったいわしげは、絵柄の荒々しさなど漫画の技術に未熟さを感じていたという。以降しばらくは学業に専念する。高校卒業後、大学入学のために上京、書店でアルバイトをする傍ら漫画を描いた。大学卒業後、『ビッグコミック』(小学館)に投稿を開始する。1978年に「忘れ雪」が第2回小学館新人コミック大賞で入選し、本格的にデビューする。
概要
いわしげ孝
4,474
574
87,881,408
1980年(昭和55年)の梅雨時に、『ビッグコミック』の縁ではるき悦巳と知り合い、そのアシスタントとなる。同期にさかもと瓢作(坂本瓢作)がおり、はるきの作品である『じゃりン子チエ』の補助作業もさかもとと共に行った。並行していわしげは『ぼっけもん』を『ビッグコミックスピリッツ』で連載し、同作は1986年(昭和61年)に第31回小学館漫画賞に選ばれている。1988年(昭和63年)から『ビッグコミックスピリッツ』にて『ジパング少年』を連載、同時にペンネームを本名の岩重孝からいわしげ孝に変更した。以降は『週刊ヤングサンデー』『ビッグコミックスペリオール』(共に小学館)に移り、『花マル伝』などを連載した。
概要
いわしげ孝
4,475
574
87,881,408
その後『モーニング』(講談社)での『まっすぐな道でさみしい』の連載などを経て、『ビッグコミック』にて『単身花日』を2006年から2008年4月まで連載、同年のうちに引き続き同誌にて『上京花日』の連載を開始した。2013年(平成25年)3月6日、病気のために死去した。58歳没。遺作となった『上京花日』は、2010年より病気療養に入って休載し、2011年秋にいったん再開したものの、未完のまま2012年2月25日号掲載分が絶筆となった。
概要
いわしげ孝
4,476
575
88,674,657
岩谷 テンホー(いわたに てんほー、1954年9月30日 - )は、日本の漫画家。長崎県南松浦郡新上五島町出身。長崎県立長崎工業高等学校卒業。
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岩谷テンホー
4,477
575
88,674,657
印刷会社に勤務していたが、届く4コマ漫画の原稿を読み、俺にも書けると一念発起し、1985年に31歳でデビュー。1986年から2002年まで週刊プレイボーイに『マグニチュード9.99』を長期連載した。担当が元少年ジャンプの編集者であったこともあり、作画やアイディア出しのアドバイスをたくさんもらい、インタビューでは育ててくれた雑誌と述べている。その後東スポアダルト面で4コマ漫画の連載をスタート。作中に下ネタを入れだすのはここからとなる。自身では作風を「『サザエさん』の世界にお色気を持ち込んだもの」と述べている。
略歴
岩谷テンホー
4,478
575
88,674,657
いわゆる下ネタかブス女をオチや題材に持ってくる作風がほとんどでかつ専門的にこれらの4コマ作品を描き続けているため、イメージが定着している。小道具としてナスやキュウリなどを(性具代わりに)使うといったギャグも非常に多い。しかし長年人気を維持しており、「偉大なるマンネリ」と例えられる作風である。当然ながら作品発表の場はお色気ものの4コマ雑誌(艶笑4コマ誌)か、青年漫画誌に限られているが、過去にはごく稀にファミリー向けの4コマ誌にゲスト作家として招かれたこともあった。そのときの雑誌の予告には「あの岩谷テンホーがファミリー向け4コマ誌に!大丈夫か?」などといったコピーが掲載された。このようなケースの作品では当然ながら下ネタは描かれなかったものの、その分作者独特の毒気のある作風が存分に発揮されていた。
作風
岩谷テンホー
4,479
577
88,855,408
スペースシャトル(英: Space Shuttle)は、かつてアメリカ航空宇宙局 (NASA) が1981年から2011年にかけて135回打ち上げていた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。もともと「再使用」というコンセプトが強調されていた。しかし、結果として出来上がったシステムでは、オービタ部分は繰り返し使用されたものの、打ち上げられる各部分の全てが再利用できていたわけではなく、外部燃料タンクなどは基本的には使い捨てである。
__LEAD__
スペースシャトル
4,480
577
88,855,408
初飛行は1981年、2回目の飛行は1982年で、2011年7月の135回目の飛行を最後に退役した。スペースシャトルは宇宙輸送システム (Space Transportation System, STS) あるいはスペースシャトル計画の一環としてもちいられた。STSの開発とシャトルの飛行は、基本的にアメリカの資金によって行われた。主な使用目的は、NASAのおかれた様々な政治的状況や起こしてしまったシャトルの事故も影響して、およそ10年ごとに大きく変遷してきたが、数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ、宇宙空間における科学実験、国際宇宙ステーション (International Space Station, ISS) の建設などである。なおシャトルはNASAによってだけでなく、米国国防総省、欧州宇宙機関、ドイツ等の軌道上実験にも使用された。
概要
スペースシャトル
4,481
577
88,855,408
シャトルは再使用型宇宙往還機であり、軌道船 (Orbitor Vehicle, OV)、外部燃料タンク (External Tank, ET)、固体燃料補助ロケット (Solid Rocket Booster, SRB) の三つの部分によって構成されている。ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船 (OV) のみが地球周回軌道に到達する。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられるが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備された。SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用された。まずシャトルの構造および打ち上げ〜着陸の概略を説明する。通常は5名から7名の飛行士が搭乗した。なお、最も初期の頃に行われた、STS-1からSTS-4の4回の試験飛行のように、機長と操縦士の2名だけでも飛行できた。
概要
スペースシャトル
4,482
577
88,855,408
発射時のシャトルの構成は、おおまかにの三つの部分から構成されていた。なお、上記に加えて、STSのために開発された、PAMとIUSと呼ばれる人工衛星打上げ用の2種類の固体ロケットを用いれば、搭載物をさらに高い軌道に運ぶこともできた。なお、シャトルには全体でおよそ250万個もの部品が使われており、人間がこれまでに製造した中で最も複雑な機械であると言われている。 (→#構造・メカニズム・諸元)シャトルは通常のロケットと同じように、発射台からは垂直に離陸する。その際の推力を生むのは2本のSRBおよび、(軌道船の後部に装着している)3基のメイン・エンジン (Space Shuttle Main Engine, SSME) であり、SSMEの推進剤(液体水素と液体酸素)は外部燃料タンクから供給される。上昇の手順はおおまかに、
概要
スペースシャトル
4,483
577
88,855,408
のふたつに分かれていて、打上げからおよそ2分後に第二段階に移り、SRBは切り離され落下、パラシュートで海に着水し再使用のため船で回収される。機体(軌道船およびET)はその後も上昇を続け、軌道に到達するとSSMEが燃焼を停止し、ETも役目を終えて切り離される。切り離され自由落下を始めたET(巨大なオレンジ色のタンク)は通常は大気圏に再突入して空気抵抗と熱によって消滅する。ただし、様々な用途に使用することは、構想としてはあった。軌道船はその後さらに軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射することでミッションの目標としている軌道へと向かう。軌道上での姿勢は、姿勢制御システム (Reaction Control System, RCS) を噴射することで制御する。
概要
スペースシャトル
4,484
577
88,855,408
シャトルが従来の宇宙船とは際だって異なった特徴の一つに、軌道船の胴体部分のほとんどを占めるほどの大きさの貨物搭載室を備えていることと、そこに大きな観音開きのドアがついていることである。これによって、飛行士や宇宙ステーションの建設資材などを、地球周回低軌道や大気圏上層部、さらには熱圏などに運ぶことができた。例えば、ハッブル宇宙望遠鏡のような大きなものを搭載し軌道に投入することや故障した衛星などがあれば、その軌道へ向かい、貨物室に回収して地球に持ち帰ったりすることもできた。任務が終了すると、軌道船はOMSを逆噴射して速度を落とし大気圏に再突入した。降下している間、シャトルは大気の様々な層を通過し、主に空気抵抗を用いて機体の速度を極超音速状態から減速させる。大気圏下層部に到達し着陸態勢に入るとグライダーのように滑空飛行し、フライ・バイ・ワイヤ方式の操縦系統で油圧によって動翼を制御した。
概要
スペースシャトル
4,485
577
88,855,408
着陸の際には、長い滑走路が必要とされた。シャトルの形態は、帰還時に極超音速飛行および旅客機のような低速飛行の双方をしなければならない、という二律背反する要求を満たすために作られた妥協の産物であり、その結果として軌道船は着陸寸前には、普通の航空機には見られないような急激な降下(高い降下率)を経験することになる。(→#飛行手順の詳細)当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたが、実際の運用で発生した事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなっていき、結果的に使い捨てロケットよりもコストが高くなった。(→#甘すぎた予測と膨らんだ費用と危険性)「スペースシャトル」という言葉は、一般には軌道船(オービタ)の単体を指していることもある。
概要
スペースシャトル
4,486
577
88,855,408
シャトル(往復を繰り返すもの)という表現に合致しているのは基本的にオービタ部分であるし、形状という点でも、「シャトル」という用語の源となっている織物のシャトルと形が類似し連想させるのはオービタ単体であるからである。ただし技術的な観点、つまり宇宙飛行システム、飛行に必要な技術的な要素、という意味では、軌道船以外にも外部燃料タンク・固体燃料補助ロケットが結合されて、はじめてシャトルは完成状態となり飛行可能となるので、NASAのエンジニアなどは三つが合体した状態を「スペースシャトル」と呼ぶ。そして、紛らわしさを避けるために「オービタ」「SRB」「ET」などの呼称を用いて呼び分けている。完成状態にする作業はスペースシャトル組立棟で行われる。なお、この建物は元々はシャトルのものではなく、アポロ計画のサターン5型ロケットを組み立てるために作られたものである。
概要
スペースシャトル
4,487
577
88,855,408
「スペースシャトル」という用語で、スペースシャトルをコアとした計画全体(スペースシャトル計画)を指して用いられていることもある。
概要
スペースシャトル
4,488
577
88,855,408
シャトルの設計と製造は1970年代初頭に始まったが、その概念はそれより20年も前、1960年代のアポロ計画よりも早い段階に存在していた。宇宙から宇宙船を水平に着陸させるという構想は1954年に国立航空諮問委員会(NACA)が描いていたもので、それは後にX-15航空工学実験調査機として実現することになった。NACAに対してこの提案を行ったのは、ヴァルター・ドルンベルガーである。1957年、X-15をさらに発展させたXシリーズ宇宙往還機計画が提案された。宇宙飛行士ニール・アームストロングはX-15とX-20両方のテスト・パイロットに選抜されたが、X-20は計画されただけで実機が飛行することはなかった。X-20は実現されなかったが、同様のコンセプトを持つHL-10実験機は数年後に開発され、1966年1月にNASAの元へと届けられた。
計画・設計・製造
スペースシャトル
4,489
577
88,855,408
HLとは、「Horizontal Landing(水平着陸)」の意味である。1960年代半ば、空軍は次世代宇宙輸送システムに関する一連の極秘調査計画を行い、「一部再使用型の宇宙船こそが最も安上がりな方法だ」と判断した。彼らの提案では、使い捨て型の宇宙船とロケット(クラスI)の開発に直ちに取りかかり、それに続いて一部再使用型(クラスII)の開発を続け、最終的には完全再使用型(クラスIII)に達するべきである、とされた。1967年、NASA長官ジョージ・ミューラー (George Mueller) は幹部80人を集め、将来的な選択肢に関する1日間の討論会を開催した。会議では、初期の頃の空軍のX-20計画を含む様々な提案がなされた。
計画・設計・製造
スペースシャトル
4,490
577
88,855,408
1968年、NASAは地球と宇宙を往復することを目的とした「統合往還機 (Integrated Launch and Re-entry Vehicle, ILRV)」の研究を開始し、同時に複数の企業に対してメイン・エンジン (SSME) の開発を競わせた。ヒューストンとハンツビルにあるNASAの事務局は共同で、宇宙に貨物を運ぶだけでなく大気圏を滑空して地球に帰還できるような宇宙船の設計を公募した。その中の一つに、巨大なロケットと小型の軌道船によって構成されたDC-3と呼ばれた案があった。1969年、ニクソン大統領はスペースシャトル計画を進行させることを正式に決定した。1973年8月、X-24Bが飛行に成功したことにより、大気圏に再突入した宇宙船が水平に着陸するのが可能であることが証明された。スペースシャトルは、再使用することを目的に設計された宇宙船としては初めてのものである。
計画・設計・製造
スペースシャトル
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シャトルは様々な搭載物を低軌道に運び、ISS(国際宇宙ステーション)の人員を交代させることができ、軌道船は地球を周回する人工衛星その他の物体を回収し地上に持ち帰ることもできるように設計された。各軌道船は「100回の飛行もしくは10年間の使用に耐えられるように」との考えで設計されたが、後にその期間は延長された。STS(宇宙輸送システム)の設計責任者は、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画などでも宇宙船の設計を担当したマキシム・ファゲット(英語版)である。軌道船の大きさや形状を決定する際の最も重要な要素となったのは、当時計画されていた商業衛星や秘密衛星の最大のサイズのものを搭載できるようにすることと、極軌道から一周回で離脱するという空軍の秘密計画に対応できるような飛行範囲を持っていることである。
計画・設計・製造
スペースシャトル
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衛星を宇宙空間に配置するための高い搭載能力が欲しいという国防総省の要求、および再使用できる機器を持つ宇宙船を開発することによって宇宙開発予算を削減したいというニクソン政権の要求の双方に応えるため、固体燃料補助ロケットと使い捨て型の燃料タンクの併用という方式が選択された。シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からオービタを守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発である。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ているが、アルミニウムという素材はわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまい、大気圏再突入時に発生する1600度以上の熱に耐える事は出来ない。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発された。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができる。
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スペースシャトル
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だが、まだ問題があった。機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しない為、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまう。試行錯誤が繰り返された結果、機体と耐熱タイルの間にフェルトをはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が浮上した。これは特殊なフェルトではなく、カウボーイハットなどに用いられるごく普通のフェルトである。機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられた。耐熱タイルは2万5千枚製造され、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けられた。素材選択や接着方法の開発が難航した耐熱タイルは、やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行で何度も脱落を起こし、大事故の原因にもなった。
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スペースシャトル
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安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回タイルひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならず、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになった。飛行可能な機体は6機製造された。初号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用された。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機である。当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが、構造試験のために製造されたSTA-099をチャレンジャー (OV-099) に改造したほうが安上がりだと判断された。チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われたため、機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。
計画・設計・製造
スペースシャトル
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コロンビアは2003年に空中分解事故を起こして消滅した。スペースシャトル計画の始まりの段階で、NASAの関係者には「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」などと主張する者もいて、そうした甘い見込みのもとに計画は進んでしまった。シャトルを繰り返し安全に飛ばすため、再使用する機体の部品は飛行のたびに徹底的な検査が行われたが、シャトルを構成する膨大な数の部品の検査にかかる費用は巨額のものとなった。エンデバーの製作にかかった費用は約17-18億ドルで、シャトルの一回の飛行にかかる費用は2002年の時点では約4億5,000万ドルだった。だが、コロンビアの事故以降は安全対策のコストが上昇し、2007年には1回の飛行につき約10億ドルを要するようになった。スペースシャトルには技術的な困難だけでなく、官僚主義に侵されたNASAという巨大組織の抱える問題も影響した。
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チャレンジャー号の事故は予測・回避できた可能性が高かったにもかかわらず、NASAの幹部は「事故は起きないだろう」と充分な対策を行わず、米国が行った宇宙飛行中の事故では初の死者を出している。コロンビア号の事故においても、発射時の映像を確認した職員によって上昇中に剥離した断熱材がオービタに衝突した可能性が指摘されたものの、NASA幹部は提供された情報を軽視したという経緯がある。政治学者のロジャー・A・ピールケ・Jr. (Roger A. Pielke, Jr.) は、2008年度初頭までにシャトル計画にかかった費用は総額で1,700億ドル(2008年度換算)ほどと算定した。これによれば打ち上げ一回あたりのコストは15億ドルということになる。最終的には、スペースシャトルの計135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかっていた。
計画・設計・製造
スペースシャトル
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軌道船は多くの航空機と似たような形状をしており、主翼は内側が81°、外側が45°の後退角を持った二重デルタ翼で、垂直尾翼の後退角は50°である。主翼の後端には4枚の動翼が取りつけられている。垂直尾翼後端には空力ブレーキも兼ねた方向舵が設置されていて、降下と着陸の際に高揚力装置(フラップ)とともに作動して機体を制御する。胴体部分のほとんどは直径4.6m、長さ18mの貨物搭載室が占めていて、観音開きの保護ドアによって覆われている。搭載物は通常は機体が水平の状態にあるときに格納され、その後機体とともに発射台上に垂直に設置される。無重力の宇宙空間では、搭載物は飛行士が操縦するロボットアームや船外活動によって放出される。搭載物自体が持っているロケットによって、さらに高い軌道へと投入されることもある。機体の後端には、メイン・エンジンが三角状に配置されている。エンジンのノズルは上下方向に10.
構造・メカニズム・諸元
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5°、左右方向に8.5°傾けることが可能で、上昇中に推力の向きを変えて機体の進行方向を制御する。軌道船の機体構造は主にアルミニウム合金によって作られているが、エンジン部分の支持構造にはチタニウム合金が使用されている。軌道船は飛行目的に応じて、軌道実験室(スペースラブ、スペースハブ)、搭載物をより高い軌道に投入するためのロケット(慣性上段ロケット (IUS)、ペイロード・アシスト・モジュール (PAM))、軌道滞在期間延長機器(EDO (Extended Duration Orbiter) キット)、カナダ・アームなど様々な追加機器を搭載することができる。製造された機体の中で実際に宇宙に行くことができたのは、OV-099チャレンジャー号、OV-102コロンビア号、OV-103ディスカバリー号、OV-104アトランティス号、OV-105エンデバー号の5機である。
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オービタに加えられた主な機器の画像外部燃料タンク (ET) の主な機能は、軌道船のメイン・エンジンに燃料の液体水素と酸化剤の液体酸素を供給すると同時に、2本のSRBと軌道船を接続し、全体を支える骨組みとなることである。ETはシャトルの中では唯一再使用されない部分で、飛行のたびに投棄されているが、軌道に投入して(宇宙ステーションに接続するなどして)利用することは構想としては検討されていた。固体燃料補助ロケット (SRB) は2基合計で発射時に必要とされる推力の83%、約1,250万ニュートン(1,276.8トン)を発生し、打上げから2分後、高度約15万フィート(46km)に達したところで切り離され、パラシュートで海に着水して回収される。外殻は厚さ13mmの鋼鉄でできている。
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SRBは何度も再使用されるもので、一例を挙げれば2009年に試験発射されたアレスI-Xロケットは、過去48回のシャトルの飛行で使用されたSRBの部品を寄せ集めて作られたものであり、その中には1981年の初飛行 (STS-1) で使われたものも含まれていた。シャトルはコンピュータ制御されたフライ・バイ・ワイヤ方式のデジタル飛行制御システムを採用した、初期のころの機種の一つである。これは飛行士が操作する操縦桿やペダルと、機体の操縦翼面や姿勢制御システムの間に機械的なリンクや油圧系統などが一切存在しないということを意味する。飛行士が入力した操作は電気信号に変換され、電線(ワイヤ)を介して操縦装置に伝えられる。フライ・バイ・ワイヤ方式の最大の懸念は信頼性の問題であり、シャトルのコンピューターシステムについては多くの研究開発が行われた。
構造・メカニズム・諸元
スペースシャトル
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シャトルは IBM製の5台のAP-101と呼ばれる、それぞれ独立して冗長性を持ち、組み込みシステムを構成する32ビット汎用コンピューターを使用している。このうち4台は主飛行電子ソフトウェアシステム (Primary Avionics Software System, PASS) という特製のソフトウェアで稼働し、残りの1台はこれとは別の、バックアップ飛行システム (Backup Flight System, BFS) というソフトを使用している。これらを総称して「データ処理システム (Data Processing System, DPS)」と呼ぶ。シャトル用DPS設計の到達目標は、フェイルセーフを達成して信頼性を向上させることだった。DPSは、もし5台のコンピューターのうち1台が故障してもミッションを継続することができ、2台が故障しても安全に着陸できるように設計されている。
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スペースシャトル
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4台の汎用コンピューターは、相互に監視し合いながら稼働している。もし1台が他と違う指令を出した場合は、3台が「投票」を行い、違う指令を出している1台を機体の制御から除外する。残りの3台のうち1台がまたもや違う指令を出した場合は、残った2台が投票をしてその1台を除外する。極めて稀な場合だが、もし4台の「主張」が2対2に別れた場合は、どちらか一方のグループが無作為に選ばれる。BFS(バックアップ飛行システム)は5台のコンピューターの中で独立して開発されたソフトで、4台のメインシステムが故障した時にのみ稼働する。BFSが開発されたのは、メインシステムはハードウェア的には冗長性を持たせているものの全く同じソフトで稼働しているため、もし何らかのエラーが発生した時には4台すべてが故障してしまう可能性があるからである。
構造・メカニズム・諸元
スペースシャトル
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埋め込み式アビオニクスソフトは、一般の商用ソフトとは全く違う環境のもとで開発されている。コードラインの数は商用ソフトに比べればごく限られたもので、変更がなされることは滅多になく、広範な試験が行われ、ほんのわずかなコンピューターコードのために開発要員や試験要員も含めて多くの人員が関わっている。しかし、どんなに万全を尽くしても故障というのは常に起こりうるものであり、そのような不測の事態に備えてBFSは用意された。シャトルが退役するまでの間、実際にBFSが操縦を引き継ぐような事態が発生することは一度もなかった。シャトルのコンピューターのソフトウェアは、PL/Iに似たHAL/Sと呼ばれる高級プログラミング言語で書かれている。これはリアルタイム組み込みシステム環境のために、特別に設計されたものである。
構造・メカニズム・諸元
スペースシャトル
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IBM製AP-101コンピューターは、もともと1台あたり約424KBの磁気コアメモリを持ち、CPUは毎秒40万回の計算を行うことができた。ハードディスクはなく、ソフトは磁気テープカートリッジからロードした。1990年、AP-101はAP-101Sという上位機種に置きかえられた。記憶容量はこれまでの2.5倍の約1MBに、演算速度は3倍の毎秒120万回に向上し、さらに記憶装置は磁気コアメモリからバックアップ電池つきの半導体メモリに改良された。1983年11月から、シャトルにはグリッド・コンパス (GRiD Compass) と呼ばれる、世界で最も初期の頃に作られたラップトップ型コンピュータを使用していた。コンパスはせいぜい8,000ドル程度で売られていた安価なものだが、その重量や大きさに比して不釣り合いなほどの性能を当時発揮し、NASAはその重要な顧客の一つだった。
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なお、グリッド・コンパスは飛行制御系統には関係せず、シャトルの飛行軌跡を2周回分表示させるのに使用された。操縦室の窓と貨物搭載室ドアの間の機体側面には、軌道船の名称が書かれている。搭載室ドア後部の下側には、NASAの標章と「United States」の文字および星条旗が描かれている。国旗は右側主翼にももう一つある。文字に使用されている書体はHelveticaである。シャトルは1970年代に開発された宇宙船であるため、その当時から安全面における性能や信頼性を向上させるべく多くの改良や改造が施されてきた。内部構造のほとんどは初期に設計されたものとそれほど変わってはいないが、アビオニクス(飛行用電子機器)は大きく変貌した。
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スペースシャトル
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たとえばコンピューターのアップグレード(性能向上)に関して言えば、初期の頃のアナログ式のメーター類は廃止され、最新型のエアバスA380やボーイング777に使われているような、グラスコックピットと呼ばれるフルカラーの液晶表示板に改められた。HP-41Cのようなプログラム入力可能な電卓も、依然として使われている。ISS(国際宇宙ステーション)の登場により、ISSに補給物資を届ける飛行でより多くの貨物をミッドデッキに搭載できるよう、内部エアロックは外部エアロックに置き換えられた。外部エアロックの上部には、ISSとのドッキングに使うロシアのアンドロジナスドッキング機構が使われた。SSME(メイン・エンジン)もまた、信頼性と出力を向上させるべく何度も改良を施されてきた。発射時に「エンジンの出力を104%に上げる」という言い回しが存在することはその名残である。
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