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4,107
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父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者となる。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという。1953年、ボクシング小説「勝利のかげに」を雑誌『少年画報』に応募し、見事入選を果たし、17歳の少年小説家「梶原一騎」の誕生である(「梶原一騎」のペンネームはこの時つけられた)。スポーツ物の少年小説を多数執筆していたが雑誌の中で少年小説は斜陽を迎え、それに代わって漫画が誌面を占め、梶原の活躍の場が狭まる事となった。東京中日スポーツで『力道山物語』を連載し、好評を得て、力道山から直々に電話をもらい、力道山と親密な関係となる。
経歴
梶原一騎
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その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『週刊少年マガジン』初代編集長・牧野武朗が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)の連載(原作)を依頼。1962年から連載開始した同作は人気を博し、テレビドラマ化され、その際、梶原本人が力道山に本人役の依頼を交渉。テレビも好評であった。もともとは文学青年で小説家を志していたが、生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていたがこのままでは自分の本意ではないため漫画原作を続ける事に抵抗があり、やめようか悩んでいた時期であった。その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、1966年野球漫画『巨人の星』(画:川崎のぼる)の連載を開始。
経歴
梶原一騎
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連載当初から人気が高く、1968年にはテレビアニメとなり、視聴率30%を超える空前の大ヒットとなった。『巨人の星』を皮切りに『柔道一直線』『夕やけ番長』を連載。どちらもヒット作となり、特に『柔道一直線』は桜木健一主演でドラマ化され、大ヒットとなった。1968年『週刊少年マガジン』誌上でボクシング漫画『あしたのジョー』(画:ちばてつや)を連載。『巨人の星』との差別化を図るためペンネームを梶原一騎ではなく、本名の末字を変えた「高森朝雄」とし、爆発的な人気を呼ぶ。主人公・矢吹丈のライバルである力石徹の死に講談社では葬儀が執り行われ、600名もの弔問客が集まった。また当時起こった「よど号ハイジャック事件」では実行犯グループのリーダー・田宮高麿が「我々は明日のジョーである」という声明文を発表するなど社会現象となった。
経歴
梶原一騎
4,110
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それ以降も『タイガーマスク』『赤き血のイレブン』『キックの鬼』『空手バカ一代』『侍ジャイアンツ』などヒット作を量産する。1973年に『愛と誠』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったが、同作では梶原版「ロミオとジュリエット」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなる。1975年講談社漫画賞を受賞。松竹で映画化されたことにより、芸能界のひのき舞台へ出る。1974年、同作のテレビドラマ化にあたり、オーディションで選ばれた池上季実子を池上の所属プロから引き抜き、梶原プロダクションを設立。映画界への進出を企て、梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と1975年「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。
経歴
梶原一騎
4,111
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いくらヒットを飛ばそうと、独立プロのトップは、メジャー映画会社のトップと飲み食いすることはないが、梶原を原作とする、製作する映画がヒットを続けることで、松竹や娯楽性の豊かさに目をつけた東映が、梶原を大事にするようになった。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れる。当時の映画界の四巨星といわれた東映の岡田茂、東宝の松岡功、大映の徳間康快、松竹の奥山融とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を効かせるようになった。三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順が監督をした10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている。
経歴
梶原一騎
4,112
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自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は覚醒剤常習容疑だったという。警察は、梶原が萩原健一(当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていた。
経歴
梶原一騎
4,113
506
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その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版となり、名声は地に落ちた。2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い、死に至る病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。1985年3月14日、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける。1985年、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始。
経歴
梶原一騎
4,114
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漫画原作者からの引退を宣言して、『漫画ゴラク』誌上にて「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院にて死去、50歳没。病室には辞世の句が残されていた。【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】『男の星座』は未完に終わった。死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の気運が高まるのは、1990年代半ばになってからである。
経歴
梶原一騎
4,115
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2005年の東京アニメアワードにて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。
経歴
梶原一騎
4,116
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梶原の世界は、戦前の『少年倶楽部』等で人気を呼んだ佐藤紅緑らの熱血小説と教養小説の世界の系譜と戦後の福井英一『イガグリくん』などの流れを受け継いだものと指摘されている。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の手塚治虫には欠けた要素であり、事実手塚は生涯、梶原が得意としたスポーツ漫画と格闘漫画を手がけなかった(ただし手塚は「巨人の星対鉄腕アトム」の企画やアニメ「あしたのジョー」が虫プロダクションにより作られるなど積極的に梶原と関わっている)。逆に梶原はSFやファンタスティックな作品は殆ど手がけていない。梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品は少ないといわれている。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。
作品の特色
梶原一騎
4,117
506
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ストーリーの展開としては型破りで奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の大リーグボール養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『愛と誠』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。若手時代、五味康祐の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。主人公とライバルは片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。
作品の特色
梶原一騎
4,118
506
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総じて「主人公を甘えさせてくれる母親がいない」というケースがすべての作品における普遍的なテーマとなっている。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「巨人の星」、「あしたのジョー」、「タイガーマスク」、「柔道一直線」、「柔道讃歌」の項目を参照)。大山倍達も、スピンアウト的作品『ボディガード牙』では、ある種の魔王的な存在として登場する。『ボディガード牙』『新ボディガード牙』は暴力描写がSMの域に達して梶原の暗黒面がもっとも強調された作品群となっている。
作品の特色
梶原一騎
4,119
506
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内乱に明け暮れる海外が舞台となったこともあって拷問場面が執拗に繰り返されるが、それまで支配者や悪の側にたっていたものが立場を失って壮絶な虐待を受けたり、虐げられていた者が一転して鞭をふるったりなどの価値転換、錯綜のカオスともなっている(こうした趣向は『愛と誠』にも見られる)。作中では「人間の性、悪なり!」という慨歎が繰り返されている。1980年代に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などでパロディーの対象とされた。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめはギャグとして読んでいたと語り、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などが典型例である。「原作の内容は一字一句変えてはならない」という不文律があり、これを絵を描く漫画家に強制していた(例外はちばてつや、ふくしま政美などごく一部あるのみ)。
作品の特色
梶原一騎
4,120
506
88,559,615
その代わりに、漫画家の絵のタッチやコマ割り等の内容に関しては一切文句を言わなかったといわれている。
作品の特色
梶原一騎
4,121
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昭和40年代(1965年から1974年)に入るとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。少女漫画の世界にも梶原の影響は及び、『サインはV』『アタックNo.1』といったスポ根ものが人気を博した。一方では映画作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界ではアントニオ猪木の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。
評価と影響力
梶原一騎
4,122
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だがその一方で「カポエイラはずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「ブルース・リーは極真空手を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『プロレススーパースター列伝』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。1983年の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。
評価と影響力
梶原一騎
4,123
506
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梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても一向に上昇しない自らの社会的地位(銀座に繰り出しても小説家を迎える態度では無いと本人は感じていた)、小説家志望の自分に常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ち、鬱屈が引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、幼馴染、ホステスに向けたこともあった。また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの竹熊健太郎は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している。小林よしのりは自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し「怒りを招くのではないか」と危惧していたが、梶原は「自分にはギャグは書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。
評価と影響力
梶原一騎
4,124
506
88,559,615
ギャグ漫画の巨匠・赤塚不二夫とも飲み仲間であり、赤塚に対し一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』1999年・集英社刊)。著書『劇画一代』の中でギャグ漫画は個人的には好きであると明かし、山上たつひこのギャグを評価しつつも、「赤塚は文化人を気取っているからそこまでやれぬ、やらぬだけで、もし赤塚が本気になってギャグ漫画を描けば山上ごときは消し飛んでしまう」と評している。小学館の赤塚担当編集者だった武居俊樹は、梶原が赤塚に直接「俺、ギャグは描けないんだ。だからあんたの漫画の原作は描けないな」と言ったのを聞いている(武井著『赤塚不二夫のことを書いたのだ』)。後に小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という花形満の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。
評価と影響力
梶原一騎
4,125
506
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1983年の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまで不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった。しかし、1990年代半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、1994年、劇作家・高取英・著『梶原一騎を読む』(1994年・ファラオ企画刊)である。夏目房之介、いしかわじゅん、呉智英といった論客たちが寄稿し、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、1994年8月15日付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走するビートたけしを対比させた論評が掲載された。
評価と影響力
梶原一騎
4,126
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88,559,615
そして、ジャーナリスト・斎藤貴男が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-』(1995年・新潮社刊)により、再評価の気運が高まった。本書は1995年3月19日付の朝日新聞書評欄で作家・沢木耕太郎による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまでタブーとされていたマスメディアでも『驚きももの木20世紀』(1997年4月25日オンエア)を皮切りに『二十世紀最強の秘蔵映像211連発!』(1997年12月31日オンエア)『BSマンガ夜話』『ブロードキャスター』(1999年4月3日オンエア)『ダウンタウンDX』などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた関口宏司会による人気番組『知ってるつもり?!』(1999年7月11日オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された。
評価と影響力
梶原一騎
4,127
506
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今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』「あしたのジョーの、あの時代」(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。
評価と影響力
梶原一騎
4,128
506
88,559,615
アメリカでかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)の3年間、大山道場で空手修行もしていた。指導をした渡邊一久は「週に1, 2回は稽古に来ていた。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,129
506
88,559,615
左半身に構え、ワンツーの殴打技を主にし、蹴り技はあまりなかった。巨体と柔道経験を活かして組んで投げようとするが、足捌きが速い大山道場の強豪を捉えられなかった。相手の突きを身体で受け、前に出て突きで攻める熱闘型の組手スタイルだった。昭和33年(1958年)頃、昇級審査を受け、緑帯を允許された。大山倍達先生は、作家としてまだ無名だった梶原一騎氏を『将来、大山道場を宣伝してくれる人だから』と語り、空手の達人が活躍する主人公の小説を書いてほしかったようだが、その先見の明は10数年後に証明されることとなった。」と述べている。1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,130
506
88,559,615
1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。しかし1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というのがその理由。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,131
506
88,559,615
連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気は高かった。当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して連載終了の気配を示しにくい状況ではあったが、つのだ自身が以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定していた、などの要因が重なったことで最終的にはつのだの意見を容れ、降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れすることはなく、すぐに「うしろの百太郎」の連載が始まっている。その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされた。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,132
506
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苦肉の策として弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり盛り返したが、それが極真会館内部の人間関係や、大山との関係に大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも、大山は「(あの漫画は)大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは各エピソードが散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。結果として、芦原英幸を中心にした新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,133
506
88,559,615
」と不満を持つ弟子もいたという。やがて空手家でもない梶原の勢力が、極真内部で拡大していくことに対する反発が起き、同時に彼を重用する大山への批判にも及んでいく。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,134
506
88,559,615
当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している)。当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた。そんな時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることで、つのだが矢面に立たないよう配慮して再度お願いした。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,135
506
88,559,615
大山の熱心な申し出もあり、最終的にはつのだも引き受けることとなったが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、平岡正明の件は断り、一人で引き受けることとなった。しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』は、内容について梶原の大きな不興を買うこととなった。タイトルにもなっている呼称「ゴッドハンド」は、確かに元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなかったのも一因である。この頃からつのだ本人及び編集サイドに梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,136
506
88,559,615
しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、つのだはついに堪忍袋の緒が切れ、『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に、梶原一騎及び真樹日佐夫を中傷する内容のセリフをアナグラムで書いてしまう。それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1980年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,137
506
88,559,615
ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,138
506
88,559,615
力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた高木薫によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので」とだけ語ったという。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,139
506
88,559,615
もっとも墓参りはしていたという。
大山倍達と『空手バカ一代』
梶原一騎
4,140
506
88,559,615
斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。
創価学会との関係
梶原一騎
4,141
506
88,559,615
梶原一騎の原作において頻繁に他著からの引用が見られるが、その多くが梶原自身の創作であることが知られる。「水上で優雅に見える白鳥も水面の下では激しく足をばたつかせている」などのよく知られる知識なども事実とは異なる。
他著からの引用など
梶原一騎
4,142
506
88,559,615
太字はテレビアニメ化した作品。斜線はテレビドラマ化した作品。 ○はアニメ映画化した作品。◎は実写映画化した作品。 ●はプログラムピクチャーとして公開された作品。△はラジオドラマ化した作品。 ▲は舞台化した作品。□はVシネマ及びOVA化した作品。×は未刊行作品。
主な作品
梶原一騎
4,143
507
84,903,084
黒田 硫黄(くろだ いおう、男性、1971年1月5日 - )は、日本の漫画家。ペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から。愛称は「大王」。男女の双子で誕生。東日本出身。一橋大学法学部・社会学部卒業、経済学部中退。1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。『月刊アフタヌーン』『月刊IKKI』『COMIC CUE』などに筆による作品を発表している。2002年、『セクシーボイスアンドロボ』により第6回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞文部科学大臣賞を受賞。
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黒田硫黄
4,144
507
84,903,084
生まれは札幌市であるが、幼少期は10回を超える引越しで東日本を転々としたため、「東日本出身」としばしば表現している。麻布高校時代にアニメ研究会に所属、2分ほどの紙製アニメやリレーマンガを他の部員たちと制作していた。一橋大学では漫画研究会に所属。教養課程野崎歓ゼミナール(映画論)、法学部村井敏邦ゼミナール(刑事法)、社会学部湊博昭ゼミナール(精神医学)などに参加。大学の同じゼミナールに、後に漫画家となった倉田真由美がいた。出版社への数度の持ち込みを経て、在学中の1993年にアフタヌーン四季賞秋のコンテストにて「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」の4編により四季大賞を受賞し、漫画家としてデビューする。翌年より『月刊アフタヌーン』にて『大日本天狗党絵詞』を連載。
来歴
黒田硫黄
4,145
507
84,903,084
連載終了後の1998年、この作品に注目していたよしもとよしともから合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『COMIC CUE』に掲載。これを端緒として同誌に短編作品を発表していく。1999年に作品集『大王』を刊行、帯に大友克洋、寺田克也、よしもとよしとも三名からの推薦文が寄せられた。2000年から2003年にかけて『月刊アフタヌーン』にて『茄子』を連載、平行して『月刊IKKI』に『セクシーボイスアンドロボ』を連載する。『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて宮崎駿に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に高坂希太郎監督により劇場アニメ化。また、2007年には続編である「スーツケースの渡り鳥」が同監督によりOVA化された。また『セクシーボイスアンドロボ』は2007年に日本テレビにてテレビドラマ化されている。
来歴
黒田硫黄
4,146
507
84,903,084
2003年以降しばらく目立った活動がなかったが、2005年より『月刊アフタヌーン』に復帰し、2006年より同誌で『あたらしい朝』の連載を開始。しかし急病により同誌2007年6月号より中断し、1年の長期休載を経て2008年9月号より再開した。体調不良が続いており、色素性絨毛結節性滑膜炎の治療や、気管支喘息での入院等でたびたび休載となっている。
来歴
黒田硫黄
4,147
507
84,903,084
上記のようにコマ割りのセンスが評価されている黒田だが、デビュー前の持ち込みの時には編集者からコマ割りを酷評されたことがあり、これをきっかけに一年ほどコマ割りの研究をしたのだと語っている。また大学の漫画研究会では、大島渚の『忍者武芸帳』を題材に「コマ割りと時間の関係」について分析し、コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例するのではないか、という仮説を立てたという。もっともその後のインタビューではキャラクターを中心に読まれる漫画への憧れも語り、「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」とのコメントも寄せている。しばしば黒田の特徴とされる筆の使用は、もともとは早く描けるからという理由で使い始めたもの。石神井の職人によるものを愛用しており、墨は自分で磨って使っているが、忙しいときには筆ペンも使っている。
作家像
黒田硫黄
4,148
507
84,903,084
また「筆で描く漫画家」のように間口を狭めるのが嫌で作品によってはペンも使用している。連載作品の中では『茄子』の大部分がペンによって描かれている。黒田はデビュー時から作品にスター・システムを取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。なかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった。黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。『Quick Japan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。南 (2013, pp.
作家像
黒田硫黄
4,149
507
84,903,084
110–111) は、直系子孫たる作家のいない諸星大二郎の「遺伝子」を「そこはかとなく」感じさせる最たる一人として、黒田を挙げている。
作家像
黒田硫黄
4,150
507
84,903,084
ここでは「黒田硫黄キーワード事典」(『Quick Japan vol.42』所収)を参考に、黒田の作品に特徴的ないくつかのモチーフを解説する。
作中のモチーフ
黒田硫黄
4,151
509
88,436,731
2021年12月時点のブラウザシェア- StatCounterウェブブラウザ(インターネットブラウザ、web browser)とは、パソコンやスマートフォン等を利用してWebサーバに接続するためのソフトウェアであり、ウェブページを表示したり、ハイパーリンクをたどったりするなどの機能がある。単にブラウザ(ブラウザー)とも呼ばれる。主なウェブブラウザとして、Google Chrome、Safari、Microsoft Edge、Mozilla Firefox、Opera、Internet Explorer、Vivaldi等がある。Windows 7など古いOSではサポートが終了しているものがある。
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ウェブブラウザ
4,152
509
88,436,731
大まかに言うと、ウェブブラウザには3つの機能がある。取得したHTMLは、ウェブブラウザのレイアウトエンジンに渡され、マークアップからインタラクティブな文書に変換される。Flashアプリケーションや Javaアプレットに対応するプラグインが用意されている場合は、それらを表示・実行することができる。未対応の種類のファイルに遭遇した場合は、ダウンロードして保存するか、他のプログラムを起動して開こうとする。HTMLには、他のコンテンツへのハイパーリンクを記載することができる。リンクにはURIが含まれており、リンクをクリックすると、ウェブブラウザはそのURIで示されるコンテンツを取得する。
構造と動作
ウェブブラウザ
4,153
509
88,436,731
例えば、ブラウザのロケーションバーに http://en.wikipedia.org/ と入力したとする。Uniform Resource Locator (URL) のプレフィックスであるURIスキームによってURLをどう解釈するかは決まっている。古典的なURLは定義名 http: で始まり、Hypertext Transfer Protocol (HTTP) を使用してサーバに接続する。多くのウェブブラウザは様々な定義名に対応しており、HTTPS用の https:、File Transfer Protocol 用の ftp:、内部ファイル用の file: などがある。ウェブブラウザが直接扱えない定義名は、他のアプリケーションにそのまま渡されることが多い。
サーバ等への接続方法
ウェブブラウザ
4,154
509
88,436,731
例えばmailto: で始まるURIは既定の電子メールクライアントに渡され、news:で始まるURIは既定のニュースグループリーダに渡される。
サーバ等への接続方法
ウェブブラウザ
4,155
509
88,436,731
ウェブブラウザの機能は、最小限の文字を用いたユーザインタフェース (UI) から、多様なファイル形式やプロトコルに対応する高機能なものまで幅広い。電子メール、ネットニュース、Internet Relay Chat (IRC) 等に対応するコンポーネントを含むウェブブラウザは「インターネットスイート」と呼ばれることもある。主要なウェブブラウザは同時に複数の情報リソースを扱うことができ、別窓で表示したり、タブを使って同じウィンドウ内に表示したりする(タブブラウザ)。また、表示したくないポップアップ広告を自動的にブロックする機能もある 。ユーザがブックマークしたウェブページの一覧を表示する機能があり、素早くそれらのウェブページに戻ることができる。ブックマークはInternet Explorerでは「お気に入り」と呼ぶ。さらに、フィードリーダが組み込まれているウェブブラウザも多い。
機能
ウェブブラウザ
4,156
509
88,436,731
Firefoxではフィードは "live bookmarks" という形式で扱われ、フィードにおける最近の項目と対応するブックマークのフォルダのように機能する。Operaではフィードの内容を格納し表示する従来型のフィードリーダを採用している。多くの主要ウェブブラウザのUIには、以下のような共通の要素がある。主要なウェブブラウザはウェブページ内のインクリメンタル検索機能も持っている。多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低いネットブックの普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。初期のウェブブラウザが対応していたHTMLは非常に単純なものだった。
機能
ウェブブラウザ
4,157
509
88,436,731
ウェブブラウザの発展によりHTMLの標準でない方言が生まれ、互換性問題が大きくなっていった。最近のウェブブラウザは標準および事実上標準のHTMLとXHTML 、それらに高度な表現や機能を付加するCSS・JavaScriptなどに対応している。表示したときの見た目はどのブラウザでも同じであるべきだが、そうでない場合もある。多くのウェブブラウザにはプラグインが用意されており、ダウンロードして組み込むことで機能を拡張できる。主要なものにはAdobe Flash Player、Adobe Acrobat Reader、Java Runtime Environment、Microsoft Silverlightなどがある。 Internet Explorerおよびその互換ブラウザではActiveXという独自の規格が用いられる。
機能
ウェブブラウザ
4,158
509
88,436,731
それ以外のブラウザではNetscape Navigatorで用いられ事実上の標準となったNPAPIや、それを拡張したPPAPIという規格が用いられる。コンピュータリソースの消費やセキュリティのリスクが上昇すること、ウェブ標準であるHTML5等でプラグインを用いなくてもウェブの表現力・機能性が多彩になったことなどから、プラグインは淘汰される傾向にある。ウェブブラウザが標準では持たない機能を追加するアドオン。多くのウェブブラウザはHTTPSに対応しており、ウェブキャッシュやCookieや閲覧履歴を素早く簡単に消去する機能もある。しかしそれだけでは対処できないセキュリティのリスクに晒され、マルウェアに悪用されたり、(現在は死語になったが)ブラウザクラッシャーなどでブラウザのみならずオペレーティングシステムをフリーズさせられる場合がある。
機能
ウェブブラウザ
4,159
509
88,436,731
各ブラウザやAdobe Flash Playerなどのプラグインはセキュリティホールの修正などで頻繁にアップデートを繰り返している。ブラウザ自体にもブラックリストで悪質なサイトへのアクセスを防止する・自動アップデートなどのセキュリティ向上機能が追加されているが、アンチウイルスソフトウェアなどでオペレーティングシステム (OS) 全体を保護するのが望ましい。コンピュータセキュリティ、ネットワーク・セキュリティも参照。
機能
ウェブブラウザ
4,160
509
88,436,731
ウェブブラウザの歴史は1980年代末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、WorldWideWebがティム・バーナーズ=リーによって1991年に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWebは後にNexusへと改称されている。テッド・ネルソンとダグラス・エンゲルバートはバーナーズ=リーのずっと前にハイパーテキストの概念を開発していた。この核となる部分は World Wide Web に合うのではないか、というエンゲルバートの提案にバーナーズ=リーは賛同した。1993年にNCSA Mosaicが登場した。Mosaic は画像が扱える最初のウェブブラウザの一つであり、これによってウェブの利用者が激増するきっかけとなった。
歴史
ウェブブラウザ
4,161
509
88,436,731
米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) の Mosaic チームのリーダーであったマーク・アンドリーセンはその後まもなくネットスケープを設立し、Mosaicを汲むNetscape Navigatorを1994年にリリースした。このブラウザは瞬く間に世界中のもっとも主流なウェブブラウザとなり、最盛期には全てのウェブにおいて9割もの利用率を占めた。これにマイクロソフトが反応し、1995年にNCSAからMosaicのライセンスを引き継ぎInternet Explorerを開発した。このことが最初のブラウザ戦争の引き金にもなった。マイクロソフトはInternet ExplorerをWindowsに同梱させることでOS市場の優位性をウェブブラウザ市場にも引き継がせ、Internet Explorerにも力を持たせることができた。
歴史
ウェブブラウザ
4,162
509
88,436,731
これによって2002年にはInternet Explorerの利用率はピーク時で95%を超えた。2011年2月現在ではNet Applicationsによると利用率が57%程度とされており、Internet Explorerのシェア減少が示されていた。1996年にOperaが登場したが利用者を大きく獲得することはなく、2011年2月現在で2%と常にその前後の利用率となっていた。ただし携帯電話のウェブブラウザ市場では最も占有率を伸ばしており、4000万台を超える端末に導入されていた。また、いくつかの組み込みシステム向けにも登場しており任天堂の家庭用ゲーム機であるWiiやDSiなどがある。1998年にNetscapeはMozilla Foundationを旗揚げし、オープンソースとして自由な競争力のあるブラウザを提供しようと計画した。
歴史
ウェブブラウザ
4,163
509
88,436,731
このブラウザは最終的にMozilla Firefoxとして展開された。公開されたFirefoxはベータ版段階だったがそれなりの愛好者を獲得し、Firefox 1.0が2004年末期にリリースされてから間もなくFirefoxの全バージョン合計で7.4%の利用率を獲得した。2011年2月現在では22%の利用率となっていた。2003年1月にAppleのSafariが登場した。Appleの製品での占有率は独占的で、2011年2月現在の利用率は6.3%となっており、緩やかな上昇傾向を見せていた。KDEプロジェクトのKHTMLを基に開発したWebKitと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。
歴史
ウェブブラウザ
4,164
509
88,436,731
WebKitはAppleのiOS、GoogleのAndroid、ノキアのS60、Palm(2010年、ヒューレット・パッカードにより買収)のHP webOSなどいくつかの携帯電話のプラットフォームでも採用されていた。2008年9月にGoogleのGoogle Chromeが登場した。これはWebKitを基に開発したBlinkと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。ウェブブラウザのシェアは1990年代後半以降のWindowsの普及に伴いInternet Explorerの占有が続いていたが、Google Chromeが2010年代に入って著しくシェアを伸ばし、2011年2月時点で11%の利用率に成長した。この増加傾向はInternet ExplorerやFirefoxの減少傾向と同期していた。
歴史
ウェブブラウザ
4,165
509
88,436,731
そして2011年12月、Google ChromeはInternet Explorer 8を越えて最も広く使われているウェブブラウザとなった。ただし、Internet Explorerの全バージョンを合計すると、IEが最も広く使われているウェブブラウザであった。2015年時点ではGoogle Chromeの世界シェアはInternet Explorerを抑えて1位となっており、過半数を占めるようになった。Internet ExplorerおよびFirefoxのシェア減少は著しく、それぞれ2位 (19.9%) および3位 (17.87%) となりGoogle Chromeとの差が急激に広がっていた。一方で日本国内に限ると、依然としてInternet Explorerのシェアは高く過半数を占めていた。2015年7月にマイクロソフトのEdgeが登場した。
歴史
ウェブブラウザ
4,166
509
88,436,731
EdgeHTMLと呼ばれるレンダリングエンジンを採用していたが、後にBlinkへ変更された。Windows 10に合わせてリリースされシェアを伸ばし、2020年には7.9%の利用率となりFirefox (7.2%) をやや上回ったが、Google Chrome (69.8%) には遠く及んでいない。なお、成長著しいスマートフォンや非PCのタブレットの分野では、オペレーティングシステム (OS) 付属のウェブブラウザが利用されることがほとんどであり、AndroidのAndroid標準ブラウザとiOSのSafariがOSの占有率にほぼ比例して普及している。一方、Chromeはこの分野においても複数のOSに対応しPCブラウザとの各種データ同期も可能なアプリをリリースしている。Operaなど独自のブラウザをスマートフォン・タブレット対応アプリとしてリリースする動きもある。
歴史
ウェブブラウザ
4,167
509
88,436,731
本来ウェブサイトは様々なOS環境・ウェブブラウザで見られるようにウェブ標準などに則し、アクセシビリティ等を考慮した形で作成される必要がある。しかしウェブサイトによっては種々の都合からサイトの閲覧に必要な環境として特定の推奨ブラウザを明記していることがあり、閲覧者は技術上の理由から推奨ブラウザに合わせたウェブブラウザの選択が必要となることもある。また、推奨ブラウザの記述内容によってはユーザが安全上の不利益を被る場合もある。
推奨ブラウザ
ウェブブラウザ
4,168
510
88,021,754
Mozilla Application Suite(モジラ・アプリケーション・スイート)またはMozilla Suite(モジラ・スイート)はMozilla Foundationによりプロジェクトを組んでオープンソースで開発されていたインターネットスイートであり、ウェブブラウザ、電子メールクライアント、ニュースクライアント、HTMLエディタおよびIRCクライアントの機能が含まれている。ウェブ標準とみなされるW3Cなどで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。レンダリングエンジンはGeckoと呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、Mozilla FirefoxやCamino、Galeonなど幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。
__LEAD__
Mozilla Application Suite
4,169
510
88,021,754
2005年3月10日にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名をSeaMonkeyに変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。
__LEAD__
Mozilla Application Suite
4,170
510
88,021,754
タブブラウザ形式のウェブブラウザの他、電子メールクライアント、ニュースクライアント(ニュースリーダー)、WYSIWYG型HTMLエディタ、アドレス帳、IRCクライアントChatzillaも実装されている。XULというXMLをベースにした言語を使い、機能を拡張することができる。また、標準機能としては利用できないが、拡張機能でカレンダー機能なども追加する事ができる。このカレンダーはvCal形式を採用しており、macOSのiCalとも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。現在のオープンソースとなったMozillaは、Netscape 5.0としてリリース予定だった開発中のソースコードをベースにして機能改良を施していくという方向性で開発が始まった。
概要
Mozilla Application Suite
4,171
510
88,021,754
しかし、既存のソースコードをそのまま使っていては問題が多かった為にレンダリングエンジンを全面的に書き直す事となった。こうして出来上がった全く新しいレンダリングエンジンがGeckoであり、それを用いてNetscape 6、7などがリリースされた。以前、Mozilla自体は完成した製品/ソフトウェアというより、他のプロジェクト(主にNetscape)にリリースしてもらうための開発、デバッグのためのブラウザという位置づけであった。そのためサポート体制などは整っているとは言い難かった。しかし、2003年5月末に起こったAOLとマイクロソフトの和解により、AOL傘下であったネットスケープ・コミュニケーションズとマイクロソフトの間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。
概要
Mozilla Application Suite
4,172
510
88,021,754
また同時に、マイクロソフトのウェブブラウザであるInternet Explorerを数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープ・コミュニケーションズの存在価値が危ういものとなった。これは、NetscapeのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体であるMozilla Foundationを設立した。ファウンデーションの設立により、ネットスケープ・コミュニケーションズが担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がファウンデーションにも覆い被さることとなった。
概要
Mozilla Application Suite
4,173
510
88,021,754
これによりファウンデーションはMozillaの入ったCDの販売や、電話でのサポート等の業務も行うようになった。
概要
Mozilla Application Suite
4,174
510
88,021,754
「Mozilla」はNetscapeやInternet Explorerの「User-Agent:」フィールドのキーワードにもなっている。ネットスケープ・コミュニケーションズの初期の社名はMosaic Communicationsといい、Mozillaという名称は、同社がブラウザ「Mosaic」(NCSA Mosaicとは異なる)を開発中に、Mosaicと日本の怪獣映画ゴジラを合成してコードネームとしてつけられたのが起源である。NCSA Mosaicで知られる NCSA の圧力により、社名も製品名もMosaicからNetscapeに改名を迫られた経緯との関係なのか、Netscapeの初期のバージョンのREADMEには「N-e-t-s-c-a-p-eと書いてMozillaと読む」との記述があった。
ユーザーエージェント
Mozilla Application Suite
4,175
510
88,021,754
開発者などの間ではNetscapeをMozillaと呼ぶ場合もあり、User-Agent:フィールドやドキュメントの表記はそのまま残されているものもある。Internet Explorerが User-Agent: フィールドでMozillaを名乗っている事情は、リリース当時Netscapeが普及しており、ウェブサイトもほとんどがNetscape用につくられていたことによる。後発でリリースされたInternet ExplorerはNetscape用につくられたウェブサイトのJavaScriptやCGIなどが動作するよう、類似のUser-Agent:フィールドを名乗るようにした。
ユーザーエージェント
Mozilla Application Suite
4,176
510
88,021,754
現在もInternet Explorerをはじめとする多くのグラフィカルなブラウザは「Mozilla」という名前を含んだUser-Agent:フィールドを利用したままであり、そのため、ブラウザ判定は別の部分で行わなければならない。
ユーザーエージェント
Mozilla Application Suite
4,177
510
88,021,754
担当地域におけるMozillaの普及促進をおこなう支部として、2004年2月にMozilla Europeが設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内におけるMozilla製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国Mozilla Foundationの公式支部として設立された非営利法人(有限責任中間法人)「Mozilla Japan」が2004年8月19日から活動を開始した。
支部
Mozilla Application Suite
4,178
510
88,021,754
Mozillaは、国際化されたソフトウェアであり、日本語を含む多くの言語が利用可能である。ただし、mozilla.org自体はメニューなどのGUIを各国語に地域化したパッケージは作成しておらず、地域化モジュールおよびパッケージの作成は有志によって行われている。日本語圏では、1999年中盤(M9)頃から谷口悠太氏、2000年(M13)から2002年中盤頃迄「もじら組」にて日本語パック「JLP」がリリースされていたが、バージョン1.0.1で終了している。その後、有志による日本語化作業と配布が分散した形で行われたが、正式な日本語版が用意されない場合もあった。現在はMozilla Japanのローカライズセンターにて有志による作業とその成果物であるリソースの調整が行われ、正式な日本語版がリリースされている。
日本語化に際して
Mozilla Application Suite
4,179
510
88,021,754
2005年3月10日、完全版であるMozilla Application Suiteの開発は 1.7 系列で打ち切られることが発表された。それに伴い、開発中だったバージョン1.8もα6で開発中止となった。今後は、Mozilla Application Suiteに含まれるブラウザ部分のMozilla Firefoxや電子メールソフト部分のMozilla Thunderbirdの開発に軸足を据える事となった。その後の2006年4月リリースのバージョン 1.7.13 をもっての開発・アップデート終了が発表された。2006年6月以降、Mozilla 1.7系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、MozillaファウンデーションではFirefoxまたはThunderbirdの最新版へ移行するよう推奨している。
開発の終焉
Mozilla Application Suite
4,180
510
88,021,754
2005年7月2日、開発中止となっていたMozilla Application SuiteをSeaMonkeyとしてSeaMonkey Councilが引き継ぐ事が決定。SeaMonkey Projectで生まれた改良点はMozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdにフィードバックされることとなる。また、その後2006年1月30日には初の正式版となるSeaMonkey 1.0 がリリースされた。
SeaMonkeyへ
Mozilla Application Suite
4,181
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相原 コージ(あいはら コージ、本名:相原 弘治、1963年(昭和38年)5月3日 - )は、日本の漫画家。北海道登別市出身。妻の両角ともえも漫画家で、現在は相原のアシスタント(元・いしかわじゅんのアシスタント)。兄はミュージシャンの相原ピリカ。
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相原コージ
4,182
512
87,762,380
北海道室蘭東高等学校(現・北海道室蘭東翔高等学校)を卒業後、日本デザイナー学院に入学。まんが専攻科卒業だが、相原自身は「専門学校の漫画コースは、行っても役に立ちません」と、この最終学歴を拒絶している(『サルでもやれる編集者教室』などで言及)。また『文化人類ぎゃぐ』の著者紹介でも同校に関して記載し、「恥ずかしい経歴」と書いている。ほどなく『ガロ』に作品を投稿するも落選。その後『Weekly漫画アクション』(現・漫画アクション)に持ち込み掲載された『8月の濡れたパンツ』で1983年(昭和58年)にデビュー。この作品は上記学校の授業で描いたものだったため、持ち込みであるにもかかわらずカラー原稿が入っており、編集部を驚か(笑わ)せた。いがらしみきおに強い影響を受け、ギャグ漫画を多く執筆。
経歴・人物
相原コージ
4,183
512
87,762,380
出世作・初単行本作品『ぎゃぐまげどん』では枠にとらわれない先鋭的・実験的なギャグ漫画を描き、漫画情報誌「ぱふ」における編集部のレビューでは「邪道まんが家」という誉め言葉を貰った。その後は代表作として『コージ苑』、『かってにシロクマ』など。また、竹熊健太郎との合作『サルでも描けるまんが教室』は、漫画家の人生および漫画創作法自体をパロディ化した傑作となった。その後も、ギャグ漫画・ストーリー漫画で、従来の漫画家が描かなかった「極端な描写・物語」を追求し続けている。『コージ苑』絶頂期に東京電力から広告依頼を受けるが、原発の広告は描けないと断った。格闘技・プロレスに造詣が深く、自身もブラジリアン柔術を習っている。この経験はその後の彼の作品「真・異種格闘大戦」にて「ブラジリアン柔術を習得したゴリラ」が登場するシーンに生かされている。大変な遅筆である(by『フロムK』いしかわじゅん)
経歴・人物
相原コージ
4,184
512
87,762,380
1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて、『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で全5回開催された、新人漫画家の賞(ただし、プロ作家でも参加可能)。審査員は竹熊健太郎と相原コージ。「グランプリ」「金のアイハラ賞」「銀のアイハラ賞」「残念賞(佳作)」があった。元来はスピリッツのページが空いてしまったため、穴埋め企画として「従来の漫画賞のパロディ」として始まったが、予想を超えた多数の応募があり、多くの人気作家を生んだ。2001年(平成13年)から掲載雑誌の『週刊ビッグコミックスピリッツ』で「スピリッツ賞」が始まったため、消滅した。
相原賞
相原コージ
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あおき てつお(1957年 - )は、日本の漫画家。東京都出身、千葉県千葉市在住。1980年に『少年ビッグコミック』(小学館)掲載の「10月のメモリー」でデビュー。代表作に『緋が走る』などがある。近年は主に集英社やリイド社、小学館の青年誌などで執筆活動をしながら、日本古代史をテーマにしたエッセイ作品も残している。
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あおきてつお
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18歳の頃より同人漫画家としてマンガ研究会を設立して同人活動を行っており、1980年、小学館の『少年ビッグコミック』にて「10月のメモリー」でデビューした。少年誌や少女誌などでの短編読み切り作品やオムニバス形式での短期シリーズ連載などを経て、1982年から『少年ビッグコミック』で連載された『気ままにウルフ』が初の長期連載作品(単行本全8巻)となる。以降、1990年頃までは少年誌を中心に、1992年以降は主に青年誌などで執筆活動をしている。また、企業や組合・業界誌コミックの企画制作する有限会社「ピエゾコミックコーポレーション」を設立し、『法律の抜け穴』シリーズなどを始め、企業コミックやイラスト・挿絵などを執筆した。1993年からは三省堂の中学英語教科書「New Crown」の編集委員として10年間イラストを担当し、漫画形式の教科書の先駆けとして話題になる。
来歴
あおきてつお
4,187
513
86,285,694
代表作の1つである『緋が走る』は、1999年にNHKにて田中美里主演でテレビドラマ化され、全6回放映された。また、『島根の弁護士』は2007年にフジテレビ系列の「土曜プレミアム」枠にて、仲間由紀恵主演の2時間ドラマが放映された。2019年には『赤い靴はいた』より短編「アゲハがとんだ」が東映にて教育アニメ化された。
来歴
あおきてつお
4,188
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青沼 貴子(あおぬま たかこ、1960年(昭和35年)1月1日 - )は、日本の漫画家。北海道函館市出身。函館東高等学校卒業。本名は鈴木 貴子(旧姓:青沼)。東京都板橋区在住。
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青沼貴子
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高校卒業後上京し、1981年に集英社『週刊マーガレット』の増刊号にて『ブルース・ブルース』でデビュー。1984年、『週刊マーガレット』にて連載されていた『ペルシャがすき!』を原案としたスタジオぴえろ製作のテレビアニメ、『魔法の妖精ペルシャ』の放映が日本テレビ系にて開始された(全48話)。1995年、婦人生活社の育児雑誌に連載されていた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』がTBS系列(毎日放送制作)にてアニメ化され、全52話放映された。また1999年にはそのスピンオフ作品の『板橋マダムス』がフジテレビ系列にて櫻井淳子の主演でドラマ化されている。2011年5月、芳文社や竹書房のいくつかの4コマ漫画誌にてエッセー漫画を中心とした連載をしているほか、2006年に『北海道新聞』の金曜日夕刊にて『たんぽぽちゃん 昭和ダイアリー』(『たんぽぽちゃん』のスピンオフ作品。
来歴
青沼貴子
4,190
514
88,788,222
2010年に終了)をはじめ、2017年4月に『中日新聞』など各ブロック紙に『ねえ、ぴよちゃん』などを連載している。また、実録系の4コマ漫画雑誌などにも読み切りとしてゲスト掲載されることもある。
来歴
青沼貴子
4,191
514
88,788,222
初期は『ペルシャがすき!』や『おどろんエンジェル』などに代表されるように、ほのぼのとしながら多少ユーモアを交えた作品がメインであった。結婚し出産後、主な執筆の場を育児向けの雑誌に移し、テレビアニメ化もされた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』に代表されるように自身の子育て体験などを元にしたエッセイ風の作品を得意としている。『ママはぽよぽよザウルスがお好き』のモデルキャラクターとなった自身の息子と娘の現在を描いたエッセイ漫画作品として『かわいいころを過ぎたら』シリーズなどがある。
概要
青沼貴子
4,192
516
88,003,952
秋月 りす(あきづき りす、1957年9月16日 - )は、日本の女性漫画家。福岡県生まれ、大阪府育ち。「秋月りす」はペンネームで本名は非公開(「秋月」は福岡県朝倉市に実在する地域名である)。血液型A型。
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秋月りす
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88,003,952
小学生の頃に家族と大阪府に移住した。妹がいる。関西大学文学部国文学科卒。現在はインテリアコーディネータの夫と奈良県奈良市に在住する。ただし、秋月には子供はいない。下戸であり、ペットに猫の「みりん」(♀)と「ちび」(♂)がいて、エッセイ漫画に頻繁に登場していたが、「みりん」は21歳、「ちび」は18歳で他界。現在は「とらぴー」(♀)を飼っている。1988年にアフタヌーン四季賞にて『奥さま進化論』でデビュー。この時は既に30歳で既婚だった。OL、主婦を題材にした4コマ漫画を多く執筆。素朴で穏やかな作風だが、デビュー当初の彼女の作風は現在と多少異なっていた。当時、流行していた不条理系(いわゆる“毒”のある作品)の4コマを描こうと担当編集に相談した際に反対されたというエピソードもある。
概要
秋月りす
4,194
516
88,003,952
それまで男性の多かった4コマ漫画に女性作家が増えた発端となった作家であり、日本の4コマ漫画シーンにおいて重要な存在で、2004年第8回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。
概要
秋月りす
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87,729,937
朝基 まさし(あさき まさし、1970年3月2日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。旧ペンネームに越智辺昌義(おちべ まさよし)がある。主に講談社の少年漫画誌で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『サイコメトラーEIJI』や『クニミツの政』や『シバトラ』(3作品ともに安童夕馬原作)がある。『クニミツの政』で2003年(平成15年度第27回)講談社漫画賞少年部門受賞。以前、大島司のもとでアシスタントをしていた。
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朝基まさし
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あしべ ゆうほ(1949年7月12日 - )は、日本の漫画家。女性。青森県三沢市出身。
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あしべゆうほ
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1970年、『別冊少女コミック』(小学館)に掲載された「マドモアゼルにご用心」にてデビュー。以後『月刊プリンセス』や、『ボニータ』・『ミステリーボニータ』(いずれも秋田書店)を中心に活躍。代表作は『悪魔の花嫁』(原作:池田悦子)、『クリスタル☆ドラゴン』、『ダークサイド・ブルース』(原作:菊地秀行)など。『ダークサイド・ブルース』は1994年に劇場版アニメとなり、『悪魔の花嫁』は、1988年にOVA化されている。『月刊プリンセス』創刊期において大きく貢献し、1975年創刊号から連載開始した『悪魔の花嫁』は累計発行部数は1000万部突破の大ヒット作となった。
経歴
あしべゆうほ
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その後の1970年代から1980年代「月刊プリンセス黄金期」においても『悪魔の花嫁』は『王家の紋章』(細川智栄子あんど芙〜みん))、『エロイカより愛をこめて』、『イブの息子たち』(青池保子)、『妖精国の騎士』(中山星香)、『オリンポスのポロン』(吾妻ひでお)、『アンジェリク』(原作:セルジュ・ゴロン&アン・ゴロン、作画:木原敏江)などの作品と共に同誌においてなくてはならない存在であった。2021年9月1日から10月31日まで、あしべの画業50周年を記念して京都にあるガーデンミュージアム比叡のギャラリーsoRaとロテルド比叡の2会場で、原画展「夢の世界 幻想の軌跡」を開催。
経歴
あしべゆうほ
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88,116,489
あだち つよし(1964年 - )は、日本の漫画家。新潟県上越市有間川出身、東京都西東京市在住。
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あだちつよし
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安達 哲(あだち てつ、昭和43年、1968年2月10日 - )は、日本の男性漫画家。東京都出身。血液型はO型。画塾に通い、高校卒業後は美術専門学校に顔を出すもすぐに行かなくなった。1986年に、『卒業アルバム』で『週刊ヤングマガジン』の新人賞を受賞しデビュー。2003年、『バカ姉弟』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。代表作に『さくらの唄』、『お天気お姉さん』、『バカ姉弟』など。車はアウディ、趣味は相撲錦絵鑑賞(1992年当時)
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安達哲
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あだち 充(あだち みつる、本名:安達 充、1951年2月9日 - )は、日本の漫画家。群馬県伊勢崎市出身。男性。群馬県立前橋商業高等学校卒。血液型はAB型。
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あだち充
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群馬県伊勢崎市に生まれる。三男一女の末っ子であり、直近の兄で3歳半年上のあだち勉から甚だしい影響を受ける。少年時代はあだち勉とともに貸本漫画の読者投稿コーナーの常連だった。また、勉は高校在学中から貸本漫画で原稿料を得ており、充はその手伝いをしていたことから、貸本漫画業界で「群馬の天才兄弟」として知られる存在となる。絵を仕事にする希望を持ち、地元では一番商業美術に力を入れていた群馬県立前橋商業高等学校の商業美術部に入部する。しかし、明確な展望はなく、両親の勧める通りに安定した職業へ就く可能性もあったという。在学中に『COM』の新人賞で「虫と少年」が佳作2位に選ばれ、以後『COM』の新人投稿ページにしばしば掲載されるようになる。当時は『COM』や『週刊少年マガジン』、貸本漫画などを愛読しており、永島慎二、樹村みのり、さいとう・たかをらのファンだった。
来歴
あだち充
4,203
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野球にはまだ人並みの関心しか持っておらず、スポーツ経験も中学時代の体操部としての活動程度しかなかった。野球に深く関わるようになったのは、『週刊少年サンデー』で水島新司と『男どアホウ甲子園』を連載していた佐々木守と組んで、商業漫画家として野球漫画を手掛けてからである。後に熱心な野球ファンとなり、勉とともにビタミンAという草野球チームを主宰するが、多忙のためあまり試合に参加できなかった。プロの漫画家を目指す踏ん切りをつけられたのは、勉が永島慎二に会い、充をアシスタントに採用してもらう内定を取り付けてくれたことによる。東京のデザイン会社に就職していた勉は、自身が会社員を続けているのだから、弟が漫画家となることは認めるように両親を説得する(しかし、ほどなく会社を辞めて漫画家へ復帰。フジオ・プロ在籍を経て、後年は充のマネージャーとなる)。ところが、充が高校3年生の1968年に、永島慎二が突然の渡米。
来歴
あだち充
4,204
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88,348,119
1969年初春、どうにか『COM』のツテで同誌にイラストを連載していた石井いさみのアシスタントに就職する。上京しての面接当日、石井いさみが『くたばれ!!涙くん』を『週刊少年サンデー』で連載していることを知って読み、これが『週刊少年サンデー』との出会いとなった。同年に一時帰郷して高校を卒業。1970年に『デラックス少年サンデー』で、原作付きの『消えた爆音』でデビュー。以降しばらくは佐々木守、やまさき十三などの漫画原作者と組んだ作品を中心に発表し、当時のブームであった劇画調の少年漫画を執筆。2年間勤務した石井プロから独立する。しかし、ヒットには恵まれず、幼年誌でのコミカライズや少女誌などに活躍の場を移していく。このこともあって、1975年の『牙戦』を最後に劇画調の作風には見切りをつけ、ソフトタッチな作風へ変化していく。少女誌では花の24年組の影響を受ける。
来歴
あだち充
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1978年、再び少年誌へ戻り、高校野球を題材とした『ナイン』を発表。初の原作無しでの本格連載であり、少女漫画の雰囲気を少年漫画に持ち込んだこの作品が高い評価を得る。続く『みゆき』『タッチ』が大ヒット。ラブコメ漫画の代表的作家として高橋留美子とともに『週刊少年サンデー』を牽引し、人気漫画家としての地位を確立する。1982年、上記2作で第28回小学館漫画賞少年少女部門を受賞<。80年代は『ナイン』『みゆき』『タッチ』に加え、少女漫画誌連載の『陽あたり良好!』もテレビアニメ化された。以降も『週刊少年サンデー』で野球漫画を中心に執筆。コミックスの発行部数は、1990年4月に『スローステップ』第5巻にて、累計1億部を達成しており、2008年5月『クロスゲーム』第12巻にて、単行本のみの累計で小学館連載作家として初めて2億部を突破した。
来歴
あだち充
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2009年、『クロスゲーム』で第54回(平成20年度)小学館漫画賞少年向け部門を受賞。前後して、長い間主戦場だった『週刊少年サンデー』を離れ、2009年に創刊した月刊誌『ゲッサン』へ活躍の場を移している。
来歴
あだち充