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政治現象または政治という概念に関する研究と政治学を定義した場合、その歴史は古代ギリシアにまで遡れる。古代ギリシアにおける政治学研究の代表格が、プラトンとアリストテレスによる著作である。しかしプラトン以前にも政治学の萌芽と考えられる著作は存在する。ホメロス、ヘシオドス、エウリピデス、アリストパネスらの詩作には政治に関する記述が見受けられるからだ。さらにトゥキディデスの『ペロポネソス戦争史』等の歴史記述は、プラトンに先立つ政治学的な文献としては最も重要なものの一つである。これらの歴史記述にはトゥキディデス自身の政治思想が反映されており、その思想は後の現実主義の系譜につながり国際政治学に影響を与えることとなる。プラトンとアリストテレスは政治を扱う際に哲学的な方法を持ち込んだという点で、政治学の歴史に大きな転機をもたらした。
政治学史
政治学
2,704
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この後政治学は倫理学(道徳哲学)と分かち難い連関を持ちつつ発展することになるが、こうした伝統的な政治学のあり方はプラトン及びアリストテレスに多くを負っている。さらにアリストテレスは、当時ギリシアのポリスで見られた様々な政治体制もしくは制度を分類し比較することを試みている。これは後のモンテスキューの体制の分類など法学的・制度的アプローチに多大な影響を与えたといえる。古代ローマにおいては、政治学も他の学問の例に漏れず古代ギリシアの影響を受けた。そのため理論的な部分では古代ギリシアの政治学を継承したという側面が強く、顕著な進展が見られたというわけではない。しかしローマの政治体制の変遷を記述したポリュビオス、リウィウスら歴史家の著作は大変示唆に富んでいる。特にポリュビオスの政体循環論はローマ時代を代表する知見であると言える。
政治学史
政治学
2,705
330
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さらにローマ時代は多くの哲学者が政治家として政治に関わり、哲学者ではない政治家も積極的に自らの政治思想・信条に関する文献を残した時代である。特に共和政末期のマルクス・トゥッリウス・キケロとユリウス・カエサルはその最も顕著な例である。キケロは共和政を擁護し、正当化するための哲学的著作を残した。一方でカエサルは共和政の改革者として現れ、活発な活動を行った。このように古代ローマにおける政治学は理論的な発展というよりも、実践的な発展を遂げたといえる。ローマは都市国家からいわゆる世界帝国へと拡大する中で政治体制の複雑な変遷を経験したため、その多様な政治体制の経験、体制を正当化する理論、さらにその変遷の記述は後代に多大な影響を与えた。特に共和政の経験はルネサンス以降の政治学に強い影響を与えた。西洋古典古代における政治学の誕生、発展に対して東洋でもやはり古代に同様な政治に関する考察が見られる。
政治学史
政治学
2,706
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ここでも政治に関わる研究は哲学とりわけ道徳哲学と密接に結びついていた。特に中国では規範論的な政治論が盛んで、諸子百家と呼ばれる一連の哲学の学派は様々な形で政治を論じてきた。そのなかでも後世に影響を与えたものとしては、孔子・孟子・荀子らの儒学と荀子に影響を受けた韓非の法家が挙げられる。ヨーロッパの中世にあっては、教会権力の世俗の権力に対する優位が確立された。一方で教皇と皇帝を頂点に、封建制が成立した時代でもある。キリスト教が社会全体に強い影響を与えていたため、政治に関わる研究においてもキリスト教の影響が濃厚であった。すなわちキリスト教の神学が、古代における道徳哲学に代わって政治に関する考察の方法論的基礎を与えていた。中世の政治学は古代に引き続いて正義に適う政治のあり方を考察するものであった。しかし、人間世界における世俗的な政治社会では正義は実現されないとするのが神学の立場である。
政治学史
政治学
2,707
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すなわち、「神の国」においてこそ正義が実現すると主張するわけである。そこで問題になるのは、「神の国」に対する「地の国」すなわち世俗的政治社会でありながら「神の国」の入り口であり従って「神の国」に最も近いものとしての教会である。つまり中世における政治学は教会と他の世俗的政治社会、或いは世俗的権力との関係に最大の焦点が置かれる。このような中世の政治理論の基礎を成したのがヒッポのアウグスティヌスと彼の著作『神の国』である。古代・中世の政治理論の継承・発展の末、近代的な政治理論と呼ばれうるものがやがて登場した。近代的政治理論が初めてはっきりと形を現したのは、ニッコロ・マキャヴェッリとトマス・ホッブズの著作においてであった。マキャヴェッリは古代ローマの共和政の伝統に影響を受けつつ、次第に現実主義的な思想を形成していった。彼は政治においては何よりも現実認識が重要であることを説いた。
政治学史
政治学
2,708
330
87,918,039
すなわち政治的な目的のためには現実に最も適合した手段がとられなければならず、場合によっては道徳が犠牲にされることもありうるという主張である。これまで政治学は倫理学と不可分に発展してきたため、政治と道徳もまた不可分であった。政治においては常に道徳的に正しい手段がとられなければならなかったわけである。マキアヴェッリは政治を道徳から解放し、政治学と倫理学が峻別される可能性を示したといえる。一方のホッブズは、自由で自立した個人から如何にして政治的な共同体が成立しうるか、もしくはこのような個人の集合としての政治的共同体のあり方はどのようなものが相応しいかを考察した。ホッブズの理論は方法論的にはプラトン以来の哲学的方法を継承し、政治学と倫理学の密接な関わりに疑問を投げかけたわけではない。彼の理論の斬新さは、個人に着目しその個人間の契約として社会の成立を捉えた事にある。
政治学史
政治学
2,709
330
87,918,039
これがいわゆる社会契約論であり、ホッブズの理論はジョン・ロックの批判的継承を経て近代政治の背景思想を提供した自由主義に影響を与えることになる。この他16世紀以降の概念で後世の政治理論に大きな影響を与えたものとして、フーゴー・グロティウスの自然法がある。自然法自体は古代の哲学やキリスト教神学にも存在する概念であるが、グロティウスは古来の自然法から近代自然法の理論枠組を生み出した。またモンテスキューは、各国の諸制度をモデル化してそれらを通じて体制の分類を行った。その上で理想の政治制度についての考察を行い、いわゆる三権分立論を展開した。これ以降、憲法・法制度・政治制度を中心に政治の制度的側面の研究すなわち法学的・制度的アプローチが盛んになった。このような近代的な理論もしくは概念の影響下に、ドイツの国家学や英米の伝統的政治学のような近代の政治学が19世紀まで展開された。
政治学史
政治学
2,710
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87,918,039
19世紀半ば以降、20世紀初頭にかけて政治学は独立した学問領域として最終的に確立されたといえる。1880年には政治学の専門教育機関として、世界初の政治学部(政治学大学院)がコロンビア大学に設置された。さらに1903年には初の政治学の学術団体としてアメリカ政治学会が誕生している。この時期に政治学には新たな動きが見られた。実際にどのように政治が作動しているかという点に関する動学的な研究の登場である。これを以って現代政治学が成立したとされる。これまでの政治学の研究は哲学的・歴史学的・法学的(制度的)のいずれのアプローチを取るにせよ、政治の枠組がどのようになっているか、或いはどのような枠組が望ましいかという静態的・形式的な研究に留まっていた。新しい政治学のアプローチにおいては、政治の枠組の中で生起する現象のメカニズムを観察し解明するというよりダイナミックな研究が求められた。
政治学史
政治学
2,711
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このような新しいアプローチは主にアメリカやイギリスで提唱された。主な提唱者としてはアーサー・F・ベントリー、グレアム・ウォーラスが挙げられる。こうした政治学の新しいアプローチの流れから、1920年代に政治学の科学化が始まった。科学化の初期の推進者は、チャールズ・メリアム、ハロルド・ラズウェルらいわゆるシカゴ学派の人々である。とりわけシカゴ学派の創始者としてのメリアムは、政治学と心理学・統計学などの「隣接諸科学との重婚」を主張しこれらの学問の方法を政治学に導入した。第二次世界大戦後、このシカゴ学派の系譜から社会学や行動科学の影響を受け行動科学政治学が成立した。この行動科学アプローチは「行動科学革命」と呼ばれるほどの衝撃を学会に与え、政治学における主流の方法論となった。行動科学政治学の担い手は、デイヴィッド・イーストン、ガブリエル・アーモンド、ロバート・ダールらであった。
政治学史
政治学
2,712
330
87,918,039
行動科学政治学は政治学の科学化の一つの帰結であった。しかし、行動科学政治学はその後各方面からの批判を受けた。その結果現在でも一定の影響力を持つものの、かつてのような政治学の中心的パラダイムの座を失っている。こうした中で現代政治学の展開とともに軽視されてきた伝統的な政治学のあり方も見直されてきた。その中でも政治哲学は1970年代に見事に復権を遂げたといえる。また制度論的アプローチは、様々な科学的方法が制度を分析対象として採り入れ始めたことによって新制度論に発展した。また1950年代以降にはアンソニー・ダウンズらにより経済学的方法の政治学への導入が本格化し、合理的選択理論が政治学において台頭し始めた。合理的選択理論は、ウィリアム・ライカーによるゲーム理論などのフォーマル・セオリー、数理的分析の導入により精緻化され主要な方法論の座を占めるに至った。
政治学史
政治学
2,713
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87,918,039
このように現代において政治学の方法はさらなる多様化の様相を見せている。
政治学史
政治学
2,714
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88,714,293
内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじんのいちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣を務めた人物の一覧である。日本の歴代内閣の一覧については、「日本国歴代内閣」を参照。
__LEAD__
内閣総理大臣の一覧
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一覧は内閣総理大臣官邸の発表している内閣総理大臣一覧表に基づく。
一覧
内閣総理大臣の一覧
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2019年(令和元年)11月29日に中曽根康弘が死去したことで、存命中の総理大臣経験者は全員平成以降に就任した人物のみとなった。大正13年生まれの村山富市以外、全員昭和生まれである。2022年(令和4年)1月14日現在、現職者の岸田文雄を除く存命中の内閣総理大臣経験者は、以下の11名である。
存命中の内閣総理大臣経験者
内閣総理大臣の一覧
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88,809,672
赤松 健(あかまつ けん、1968年〈昭和43年〉7月5日 - )は、日本の漫画家・実業家・政治活動家・創作関連ロビイスト。男性。血液型はB型。赤松スタジオ代表、株式会社Jコミックテラスの取締役会長、日本漫画家協会常務理事、表現の自由を守る会最高顧問を務める。東京都東久留米市出身。主に『週刊少年マガジン』(講談社)にて作品を発表している。
__LEAD__
赤松健
2,718
333
88,809,672
1968年7月5日、愛知県名古屋市生まれ。引越し等により熊本県や神奈川県にも在住歴があり、東京都東久留米市で育つ。海城高等学校、中央大学文学部文学科国文学専攻卒業。高校ではマイコン部(部長)に所属。マイコン部在籍時の1985年には、PC-8801向けにアクションRPG『パラディン』を制作(発売元はボーステック)。その後、大学ではアニメーション研究会、漫画研究会、映画研究会に所属。1993年、『ひと夏のKIDSゲーム』で第50回週刊少年マガジン新人漫画賞入選。審査員特別賞を受賞し、漫画家生活に入る。『A・Iが止まらない!』・『ラブひな』(第25回講談社漫画賞受賞)で人気を確立。美少女ラブコメディものに本領を示し、その成果は『魔法先生ネギま!』に結晶。アニメやCD化などのメディアミックスがされている。2013年より、週刊少年マガジン→別冊少年マガジン誌上にて『UQ HOLDER!
略歴
赤松健
2,719
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』を連載し、2022年に完結した。また、ユニクロから『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』創刊50周年を記念した「サンデー・マガジン コラボグラフィックTシャツ」の一枚として『ラブひな』と『魔法先生ネギま!』のコラボTシャツが2種類発売された。2021年12月16日、翌年7月に行われる予定の参議院議員選挙に自由民主党から立候補する意向を自身のツイッターで発表し、同年12月22日に自民党から第26回参議院議員選挙の第2次公認候補(比例代表)として正式発表された。
略歴
赤松健
2,720
333
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2010年、絶版漫画の電子書籍を無料、DRMフリーの広告モデルで配信する企業Jコミを設立、代表取締役社長に就任した。絶版になった漫画は中古で売買されているが、漫画家の利益にならない。また、ファイル共有ソフトやスキャンレーションなどによる違法流通も止められない状況になっていた。このような状況でも漫画家が利益が得られるよう、「絶版マンガの図書館」を作る意向である。設立の際、週刊少年マガジン(講談社)との専属契約を解除した。また、実験として『ラブひな』全14巻を無料公開し、1週間で170万ダウンロードされたという。二次創作や権利関係を円滑にするための模索・講義も行っており、その一つとして2013年に二次創作同人誌作成や同人誌即売会での無断配布を有償・無償問わず原作者が許可する意思を示すための同人マークという新たなライセンスがコモンズスフィアによって公開された。
著作権関連の活動
赤松健
2,721
333
88,809,672
これは環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉で非親告罪化される可能性が言及され、実際に非親告罪化された場合に第三者による告発などで権利者が黙認したいケースでも訴訟に発展するなどの事態を防ぐことを目的に赤松が発案したもので、自身の作品で『週刊少年マガジン』2013年39号(同年8月28日発売)より連載開始の『UQ HOLDER!』で採用している。漫画の海賊版サイト「漫画村」に広告料を支払い出稿していた広告代理店2社に対し、著作権侵害を助長したとして損害賠償を求める訴訟を起こした。2021年12月21日、東京地方裁判所は赤松の主張を認め、請求通り1100万円の支払いを命じる判決を言い渡した。
著作権関連の活動
赤松健
2,722
336
88,907,234
麻宮 騎亜(あさみや きあ、1963年3月9日 - )は、日本の漫画家・アニメーター。本名およびアニメーターでの名義は菊池 通隆(きくち みちたか)。岩手県北上市出身。アーティストクルー所属。
__LEAD__
麻宮騎亜
2,723
336
88,907,234
『宇宙戦艦ヤマト』でアニメファンになり、東京デザイナー学院アニメ科(現東京ネットウエイブ)を卒業。菊池名義でのアニメーターを経て、1987年に『コンプティーク』(角川書店)に掲載された『神星記ヴァグランツ』で、漫画家としてデビューする。ペンネームの由来は、菊池がファンであった斉藤由貴が演じる麻宮サキから。菊池とは長らく別人ということになっていたが、後年には同一人物であることを認めた。また、菊池とは別人とするため、麻宮の誕生日を1963年1月28日としていた。あとがき(『サイレントメビウス』では「プロダクションノート」)やコメント欄に描く自画像は、麻宮名義の際には顔の部分が「Now Printing」と書かれたボード、菊池名義の際にはエビの握り寿司になっている。2000年以降、菊池名義での仕事はほぼ皆無となっていたが、2012年には『宇宙戦艦ヤマト2199』で原画へ復帰している。
経歴
麻宮騎亜
2,724
336
88,907,234
同作品ではテレビ放送版エンディング(第9話 - 第17話)のレイアウト構成も担当しているが、そちらは漫画家としての参加ゆえ、麻宮名義である。2017年5月1日より、芸能事務所のアーティストクルーに所属。その理由については、「絵を描く仕事にメリハリをつけるため」と明かしている。2019年4月から、日本SF作家クラブ会員となる。
経歴
麻宮騎亜
2,725
336
88,907,234
全て菊池通隆名義(一部きくち通隆、きくちみちたか名義あり)。
作品リスト
麻宮騎亜
2,726
337
86,393,898
あずま きよひこ(本名:東 清彦、1968年5月27日 - )は、日本の漫画家。よつばスタジオ社員。兵庫県高砂市出身。主な作品に『あずまんが大王』、『よつばと!』などがある。アニメ風の人物でのんびりとした日常を描く作風の作家である。『あずまんが大王』はTVアニメ化もされた。自画像は『あずまんが』ではオヤジ魎皇鬼、『あずまんが大王』執筆以降はちよ父を使う。
__LEAD__
あずまきよひこ
2,727
337
86,393,898
小学生の頃は野球をしたりスイミングクラブに通うスポーツ少年だった。中学3年生のとき友人の影響で漫画、アニメに傾き、高校2年のときに同人サークルに入りここで初めて漫画を描く。当時は『うる星やつら』のパロディ漫画などを描いていた。この頃よりアニメーターを志望するようになり、兵庫県立加古川東高等学校卒業後に大阪芸術大学芸術学部映像学科に入学、しかしすぐにアニメ熱が冷めてしまい、1年で中退する。アニメ熱は冷めたものの絵は好きだったため、中退後2年ほど美術系の専門学校に通う。その後神戸芸術工科大学芸術工学部視覚情報デザイン学科に入学、この大学では「謙遜でなく」遊んでばかりだったという。入学後1年ほどして『A-ZONE』という個人誌で同人活動をはじめ、『セーラームーン』などのパロディ漫画を描く。
経歴
あずまきよひこ
2,728
337
86,393,898
大学卒業の時期に漫画家を目指して投稿、佳作を取るもデビューには繋がらず、その後はゲームの原画やアンソロジーコミック、イラストなどで活動していた。また『ふぁんろ~ど』の投稿者でもあった。1999年から『月刊コミック電撃大王』に連載された4コマ漫画『あずまんが大王』で一躍有名漫画家となった。しかし「コアな世界で閉じちゃうのは嫌」との思いから同作品終了後あえて経験の乏しいストーリー漫画に挑戦し、2003年より『よつばと!』を連載、こちらもその優れた日常描写などにより高い評価を得ており、2020年現在も連載中で長期連載となっている。『あずまんが大王』・『よつばと!』は共に2006年の日本のメディア芸術100選マンガ部門に選出される。2000年5月に東京都練馬区によつばスタジオを里見英樹と共に設立。
経歴
あずまきよひこ
2,729
337
86,393,898
現在のプライベートはあまり語られないが、2011年に執筆されたブログには、資料用に使い気に入った子供用の椅子を購入することを「子どもがいない」ことから躊躇していると書いている。
経歴
あずまきよひこ
2,730
337
86,393,898
(下記作品の多くは『あずまんが』に収録)
作品リスト
あずまきよひこ
2,731
338
88,562,765
岡田 芽武(おかだ めぐむ、1971年3月15日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。東京都出身。 企画デザイン会社・スタジオレスポンス代表。
__LEAD__
岡田芽武
2,732
338
88,562,765
1992年に『コミックガンマ』(竹書房)において連載開始した「SHADOW SKILL」でデビューし、代表作に。主に青年誌で作品を発表している。デビュー作である「SHADOW SKILL 」は、ラジオドラマ、OVAなどのメディアミックスを経て、1998年にテレビアニメが放映された。 2003年『チャンピオンRED』において、自身初となる原作付きの漫画「聖闘士星矢EPISODE.G」の連載を開始する 。『聖闘士星矢』関連の原作者以外が漫画を担当する外伝作品の先駆けとなる 。続編として、「聖闘士星矢EPISODE.G アサシン」を連載し、現在は「聖闘士星矢EPISODE.Gレクイエム」 を『マンガクロス』にて連載中である。
来歴 
岡田芽武
2,733
338
88,562,765
また、漫画家としての活動と並行して、画業30周年を記念した実写映画を自身が所属する『Team BLOCKHEADS』のメンバーと共に撮影していたが、新型コロナウイルスが流行し撮影が中断されたため、ソーシャルディスタンスなどに配慮したアニメ「女優エイガトル」を発案、制作している。
来歴 
岡田芽武
2,734
339
88,321,606
桂 正和(かつら まさかず、本名同じ、1962年(昭和37年)12月10日 - )は、日本の男性漫画家。プロダクション名は STUDIO K2R。福井県生まれの千葉県育ち。阿佐ヶ谷美術専門学校中退。血液型はA型。2015年(平成27年)から嵯峨美術大学客員教授。1981年(昭和56年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)32号掲載の「転校生はヘンソウセイ!?」でデビューし、1983年(昭和58年)に同誌5・6合併号から連載を開始した『ウイングマン』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』で活躍し、その後『週刊ヤングジャンプ』(同)に移籍。代表作に『ウイングマン』『電影少女』『I"s』など。評価は日本国内に留まらず香港・台湾・アメリカ・フランスなど様々な国や地域のファンから支持されている。
__LEAD__
桂正和
2,735
339
88,321,606
1962年(昭和37年)福井県に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学生になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳ごろまでを過ごす。子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメや漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。中学時に V55 (Technics) という50万円のコンポーネントステレオが欲しくて、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚える。高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。
来歴
桂正和
2,736
339
88,321,606
そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者・鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。高校時代には『電子戦隊デンジマン』をきっかけとし東映の特撮テレビドラマにのめり込む(詳細は趣味の節で後述)。こうした特撮ヒーロー物のファン故、そのトレースしただけの様なSF作品ばかりを描いていたが、担当となった鳥嶋にラブコメディ作品を描く様に薦められ「転校生はヘンソウセイ!?」を執筆する。同作は初めてのラブコメであったにも関わらず手塚賞準入選に入賞して『週刊少年ジャンプ』 (以下『WJ』)に掲載され、専門学校在籍中に漫画家としてのデビューを果たす。その後『WJ』で『ウイングマン』の連載を開始し多忙となったこと、そして3年への進級に失敗したことから専門学校を中退。
来歴
桂正和
2,737
339
88,321,606
同作は自身の好きなヒーロー物にラブコメディ要素を取り入れたことによりヒットし、アニメ化もされた。『ウイングマン』終了後は『超機動員ヴァンダー』『プレゼント・フロム LEMON』と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。再び担当となった鳥嶋のサポートから「恋愛モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「ビデオガール」を1989年(平成元年)に発表、同年さらにこれを基にした『電影少女』の連載を開始する。『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、OVA化・実写映画化等様々なメディアミックス展開が行われるヒット作となった。両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした(詳細は作風の節で後述)。
来歴
桂正和
2,738
339
88,321,606
また1989年(平成元年)に公開された映画『バットマン』をきっかけに桂は『バットマン』のファンとなり、以降の作品に影響を与えた(詳細は趣味の節で後述)。『電影少女』終了後、1992年(平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP』において『SHADOW LADY』【VJ版】を連載、その後『WJ』に戻り1994年(平成6年)から『D・N・A2 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』、1995年(平成7年)からは『SHADOW LADY』【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。『D・N・A2 』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている。1996年(平成8年)には初の青年誌向け作品として『エム』を『MANGAオールマン』にて発表する。
来歴
桂正和
2,739
339
88,321,606
そして翌1997年(平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画『I"s』の連載を開始する。同作は『WJ』時代最長の作品となり、連載終了後にもメディアミックスが行われるヒット作となった。2000年(平成12年)の『I"s』連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。そして2002年(平成14年)に発表された『M 完全版』以降は活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、同年より『ZETMAN』の連載を開始する。5年以上にわたって連載が継続されており、桂最長の作品となっている。移籍後に発売された『I"s』の完全版は『WJ』連載作品でありながら、ヤングジャンプ・コミックスレーベルからの発売となっている。
来歴
桂正和
2,740
339
88,321,606
※ 連載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』において連載。
年表
桂正和
2,741
339
88,321,606
同じく漫画家で友人の鳥山明は桂の作風について「(桂は)感動させたくてしょうがない」と評している。「作風が真逆なくらい違う」鳥山が人間味を表現するのを嫌い、明るくくだらないやり取りを好むのに対し、桂はやや暗く感動を誘うような描写を好む。こうした自身の作風について桂は、あすなひろしの“哀しい”作品の影響を述べている。『コミッカーズ』1997年10月号では「美少女とヒーローをカラーで描かせたら右に出る者はいない」との形容によって、桂の作品の特徴を端的に表している。こうした特徴から初のイラスト集である『4C』も、恋愛作品のイラストを中心とした「L-side ‹LOVERS-side›」とヒーロー物を中心とした「R-side ‹HEROES-side›」 という構成になっている。手塚賞佳作受賞作である「ツバサ」から長期連載の『ZETMAN』に至るまで、変身ヒーローを扱った作品が多い。
作風
桂正和
2,742
339
88,321,606
上述の通り高校時代には特撮ヒーローに夢中となってそのトレースのような作品ばかりを書いていたこともあり、初期の作品には特撮ヒーロー物の影響が強い。また、『バットマン』公開以降の作品については同作の影響を自身で述べている。(特撮ヒーロー・バットマンについては趣味の節で後述)桂自身はヒーロー物に対してはこだわりがあり、『ZETMAN』については物語の構想としては変身ヒーローである意味が無いことを認識しながらも、「僕がやる限りヒーローだよな」との思いから変身ヒーロー物として描いている。「少年誌でやってる限り、......『ラブコメ』が向いているらしくて」と桂自身が述べるように、『電影少女』『I"s』とヒットし長期連載となった作品には恋愛要素が強い作品が列び、また恋愛を主題とはしていない変身ヒーロー物であっても『WJ』時代の連載作品には必ず恋愛要素と性的なサービスカットが含まれている。
作風
桂正和
2,743
339
88,321,606
同じく鳥嶋にラブコメを求め続けられながらも頑なに拒否した鳥山明とは対極的に、桂はその要望を受け入れたことによって作品が時代とマッチし、ヒット作を生み出していった。しかしこうした恋愛要素はコメディ要素と共にあくまで編集の意向を汲んで描かれたものであり、初のラブコメディ作品「転校生はヘンソウセイ!?」も担当のアイデアを取り入れることで執筆された作品であった。桂は恋愛作品について自身の趣味とは全く異なるものではあるが、嫌ではない旨を述べ、最初のラブコメを苦痛無く悩まず描けたことがその後へと繋がっていったと懐述している。ただし、「(『電影少女』の開始時には)恋愛モノなんて、イヤでイヤでしようがなかったし、連載で描き続ける自信など、まるでなかった」や、「自分に求められている物を意識しすぎて、......
作風
桂正和
2,744
339
88,321,606
恋愛やエロを入れなきゃとか」、などのより消極的な発言も見られ、『ウイングマン』に登場する女性戦隊ウイングガールズについては、ストイックな特撮ヒーロー物をやりたかったため本心としては出したくなかったが、編集の意向に合わせて仕事と割り切り登場させた旨を懐述している。なお、恋愛物についてはラッセ・ハルストレムの映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の影響を自身で述べている。鳥山は桂との対談で「(桂は)エッチなのが武器」と述べており、性的な描写は桂の作品の魅力の一つとなっている。サービスカットは『ウイングマン』初期より登場していたが、『電影少女』の連載中に性的な表現に対する大きな転機が訪れる。当初、恋愛物の執筆にあまり乗り気ではなかった桂は、せめてもの抵抗として少年誌にありがちな恋愛漫画を避けようとリアリティ(現実感)ある描写を求めていく。
作風
桂正和
2,745
339
88,321,606
そして男女交際の帰結としてベッドシーンなどにも踏み込んでいくが、「キスまで」という少年誌的な制約は厳しく、桂はこの制約の中で「裸を出さずにエッチに描く」ことにより、際どくリアリティのある描写を目指していく。とはいえその限界の見極めは難しく、『電影少女』では単行本に収録される際の修正・単行本発行後の修正・山口県での第3巻の有害図書指定と、当時強まっていた漫画に対する表現規制のあおりを直接受けることとなった。こうした際どい表現方法は、以降も桂の作品の特徴となっており、後の『エム』や『I"s』などにも受け継がれていく。「美少女とヒーローをカラーで描かせたら右に出る者はいないスーパーテクニシャン」と称されるように、画力の高さには定評がある。しかし桂自身はあまり自分の画力を評価しておらず、絵柄の変更に抵抗を持たずに作品に合わせて意図的に変化させている。
作風
桂正和
2,746
339
88,321,606
大きな転機となったのは『電影少女』の原型となった読切「ビデオガール」の頃で、それまでの絵柄を壊しリアリティのある絵柄を模索し始める。これは『電影少女』の連載前の漫画を描けない入院生活によって手が自分の絵を忘れてしまったことも転機とはなっているが、その他にも自分のキャラクターのルックスに飽きたこと、アイドル好きが加熱していたこともあり自分の絵よりも現実の女の子の方が可愛いと思っていることなどが理由として挙げられている。その後の『D・N・A2』ではコミックらしさにこだわって描き、『ZETMAN』ではシリアスなストーリーに合わせ劇画にしている。鳥山明との合作「さちえちゃんグー!! 」では好きでありながら自分で封印しているデフォルメにも挑戦している。上述の通り桂の描く美少女には定評があるが、『ウイングマン』の連載中には担当編集より「色気がない」との指摘を受けていた。
作風
桂正和
2,747
339
88,321,606
この指摘から桂は女の子の可愛らしい仕草や多彩な表情、色気などを意識して描くようになったが、その結果として女の子を主人公にした作品の依頼しか来なくなったと語っている。ただし、早い時期から美少女の描写は評価されており、『ウイングマン』連載中のファンレターや『超機動員ヴァンダー』の巻末にコメントを寄せた土居孝幸からは共に「女の子が可愛い」との評価を受けている。少女の描写の中でも特に尻の描写は評価が高く、鳥山は「桂君と言えばお尻」との理由によって「さちえちゃんグー!! 」の主人公さちえの痣を尻に設定している。また同じく漫画家の河下水希も、「桂正和先生の描かれるお尻なんて物凄い」と評している。美少女を描くのに当たり桂は、グラビアなどからイメージをする程度にとどめ、特定のモデルを決めずに描いている。
作風
桂正和
2,748
339
88,321,606
これは特定のモデルを決めて描くと目の大きさなどのバランスが絵としては悪くなり、修正を加えていっても良い作品にならないためという。
作風
桂正和
2,749
339
88,321,606
趣味は映画鑑賞とグッズのコレクション。また高校時代には特撮ヒーローにも夢中になっていた。映画鑑賞のために自宅地下にはバットマングッズのコレクションルームも兼ねたAVルームを設けており、かなりの予算を掛けている。好きな映画監督としてはサム・ライミを挙げており、『死霊のはらわた』からの熱心なファン。2002年(平成14年)の『スパイダーマン』公開に当たりライミが訪日した際には、『週刊ヤングジャンプ』の企画で対談を果たしている。コレクションの対象としては、バットマングッズ、アンティークウォッチ、スニーカーが挙げられている。特撮変身ヒーローのファンであり、好きな作品としてはスーパー戦隊シリーズの『電子戦隊デンジマン』、宇宙刑事シリーズの『宇宙刑事シャイダー』、ウルトラシリーズの『ウルトラマン』を挙げている。
趣味
桂正和
2,750
339
88,321,606
中でも高校時代に出会った『デンジマン』は特撮ヒーローに夢中となるきっかけとなった作品であり、「エポック」であり「僕の中で戦隊物であれを越えられる物はない」と語っている。特撮に対する熱意は作品鑑賞には留まらず、専門学校時代には自主制作映画の中で『太陽戦隊サンバルカン』のコスプレを行い、学園祭には『大戦隊ゴーグルファイブ』のレッドのコスプレで参加していた。そして特撮は単なる趣味に留まらずに作品にも多大な影響を与えており、中でも東映作品は桂がヒーロー物を描くようになった原点となっている。デビュー時期に執筆された短編「学園部隊3パロかん」とその続編「学園部隊3パロかんII」は、戦隊物の自己紹介アクションを漫画で表現することを目的として執筆されたものであり、『サンバルカン』や『バトルフィーバーJ』と言った戦隊物のパロディ作品となっている。
趣味
桂正和
2,751
339
88,321,606
そして同シリーズに先立ち執筆され、デビューのきっかけとなった短編「ツバサ」は『デンジマン』に熱中していた時に描かれた作品であり、本作を基として描かれた連載デビュー作『ウイングマン』も様々な面で特撮の影響下にある作品となっている。そもそもとして同作は「東映の特撮物を、自分で動かしてやってみたい」という動機で描かれた作品であり、作中ヒーローであるウイングマンのデザインは鳥を基本とした上で、「デンジマンの目がないところ」と「胸から腕までの白いライン」を基とし、デンジマンのシンプルさを目指してデザインされた物である。また『ウイングマン』という名称もウルトラマンに字数と「ウ」から始まり「マン」で終わる所を合わせて命名されたものである。連載開始後にはウイングマンの衣装をオーダーメイドで製作。自らの体型に合わせた特注品であり制作費用は100万円以上であった。
趣味
桂正和
2,752
339
88,321,606
その衣装を纏い、単行本各巻の目次背景に写真を掲載、さらに単行本ではおまけページにおいて変身アクションの解説も作成している。ファンロード1984年4月号においてもウイングマンの衣装を携え「桂正和先生コスプレ対談」(P.12・13、29 - 34)を行い、ファンロード側が手配した当時の女性コスプレイヤーの"小川美紅"と誌面を飾った。また、週刊少年ジャンプ1985年6月17日号(No.27)で連載100回を迎えた記念として、新コスチュームを制作(レインボー造型企画製)、桂自らが着用して巻頭グラビアで披露した。桂はバットマングッズのコレクターとしても有名で、1997年(平成9年)の『バットマン&ロビン Mr.
趣味
桂正和
2,753
339
88,321,606
フリーズの逆襲』および2012年(平成24年)の『ダークナイト ライジング』ではパンフレットにコメントを寄稿、2008年(平成20年)にバンダイより発売される『ダークナイト』のアクションフィギュア『MOVIE REALIZATION BATMAN&BAT-POD』ではスーパーバイザーを務め、デザインアレンジとパッケージイラストを担当している。ファンとなったきっかけは1989年の映画『バットマン』(ティム・バートン)で、同作によって『ウイングマン』の連載終了後には飽きていたヒーロー物に対する情熱が再燃した旨を語っている。映画自体については「好きな映画ではあるが一番おもしろい映画ではない」と述べており、桂にとってのバットマンの魅力はバットマンのキャラクター性にある。
趣味
桂正和
2,754
339
88,321,606
誰も見ていないところでコウモリの格好をしてどちらが悪人だか分からないような対応でチンピラに脅しをかけるといった行動や、怖い容姿をして常に怒っている正義の味方バットマンと馬鹿みたいに笑っている悪役ジョーカーの両方が同じ位に狂気に満ちていることが、東映特撮によって作られた桂にとってのヒーロー像とは異なり新鮮であったこと、そして自分がヒーローであることを見て欲しい自己中心的な性格が『ウイングマン』の健太とシンクロしたことをその魅入られた理由として挙げている。また一番好きな敵キャラクターとしてはジョーカーを挙げ、敵がジョーカーであったこともバットマンに没頭した理由の一つである旨を述べている。『バットマン&ロビン』特集号の『S.M.H.』VOL.
趣味
桂正和
2,755
339
88,321,606
8 では自作のバットマン胸像が表紙を飾り、「自他ともに認める強度のバットマニア」との形容と共にバットマングッズのコレクターとしての取材を受けた他、『フィギュア王』NO.27でも「漫画界きってのバットマニア」として取材を受けており、これらの取材ではバットマングッズのコレクションルームを兼ねた自宅地下のAVルームを公開している。バットマンは桂の作品にも影響を与えており、特に『SHADOW LADY』と読切「ZETMAN」はバットマンの世界へのオマージュ作品となっている。より直接的な描写としては、頭の「とがった耳」をバットに変えたパロディキャラクター「ばっとマン」が『電影少女』の作中に登場している。なお、愛犬はバットマン登場キャラクターのアルフレッドに因み、雌であるため「アルフレッコ」と名付けられている。また、『WJ』連載時の自画像にも、バットマンの絵を使用していた。
趣味
桂正和
2,756
339
88,321,606
OVA『電影少女 -VIDEO GIRL AI-』のサウンドトラックCD(どちらも発売はビクター音楽産業)において、歌・作詞・作曲に一部参加している。
作品リスト
桂正和
2,757
339
88,321,606
鳥山と桂は鳥嶋和彦によって才能を見出された友人同士であり、数少ない漫画家の友人の中で最も親交の深い人物として互いに互いを挙げている。またアシスタント経験の無い桂は鳥山に漫画の相談をすることもあり、鳥山との関係について「師匠と言ってもいいかも」や「学校の先生のようなもの」と表現している。初期には共に田舎出身であることから、鳥山が『Dr.スランプ』に田舎者として桂を登場させ、桂が『ウイングマン』に都会者であるかの様に振る舞う「生徒会トリヤマ」や「Mr.マヤリト」として鳥山を登場させるなどと、互いに相手の方が田舎者であると冗談でけなし合うやり取りを『ジャンプ』誌上で行っていた。また、桂が病気療養のために『ウイングマン』を一時休載した際には、応援コーナー「がんばれ! がんばれ! 桂くん! 」に「イナカ友だち」として鳥山がタイトルとイラストを寄稿している。
関連人物
桂正和
2,758
339
88,321,606
また、1983年~1984年当時の桂は鳥山に「鳥嶋和彦似」であることを指摘されていたことから、『Dr.スランプ』の中で則巻千兵衛に「Dr.マシリト」と言われる場面がある。互いの作品に影響を与えている場合もあり、『ドラゴンボール』において孫悟空が界王を笑わせるために使ったギャグは桂が考えたものであり、フュージョンのポーズの考案にも関わっている。一方、「すず風のパンテノン」は鳥山との雑談の中から生まれ、『D・N・A2』で主人公が髪の色を変えて変身するのは鳥山のアドバイスによるものである、桂から「スーパーサイヤ人に似るのでは。」との問いに、鳥山は「大丈夫、わかりゃしないよ。」の応答から作品を発表するも、読者からは「パクるな!」との批判の声が多かった。また『ZETMAN』では車のデザインを行っている。2008年には原作:鳥山明・漫画:桂正和で読切「さちえちゃんグー!!」を共作。
関連人物
桂正和
2,759
339
88,321,606
また2009年末からは、同じ分担で「JIYA -ジヤ-」を『週刊ヤングジャンプ』において全3話の短期集中連載を行う。
関連人物
桂正和
2,760
340
87,445,077
こいお みなと(1968年5月12日 - )は、日本の漫画家。岐阜県岐阜市出身。男性。旧名、恋緒みなと。
__LEAD__
こいおみなと
2,761
340
87,445,077
1989年、『キャンディータイム』掲載の「トマト倶楽部」でデビュー。1994年、『ヤングマガジン増刊ダッシュ』掲載の「めぐみ(火)白書」で一般誌デビュー。Windows95が発売されたことにより、一般家庭からもパソコンが注目・普及し始めた1996年、パソコン通信を舞台にした恋愛漫画「オレ通AtoZ」(『週刊ヤングマガジン』掲載)を連載。まだパソコンに詳しくない読者が多い中、チャットやBBSなど、パソコン・コンピュータ用語が多用されており、巻末に用語集が掲載されている。後に続編となる読み切り作品も発表されている。1997年にはテレビゲーム業界を舞台にした恋愛漫画「RiNGO」(『週刊ヤングマガジン』掲載)を発表。当時としては珍しかったインターネットを使ったネットワークゲームを登場させている。1998年にはゲーム『スターオーシャン セカンドストーリー』のキャラクターデザインを担当。
略歴
こいおみなと
2,762
340
87,445,077
2007年には『月刊少年シリウス』で「アルト」を連載。これを機にペンネームを「こいおみなと」と改名。近年は新作を発表しておらず、表だった活動が確認出来ないため、事実上の引退状態にある。
略歴
こいおみなと
2,763
341
87,734,469
ここまひ(3月8日 - )は、漫画家、イラストレーター。東京都大田区出身、血液型O型。表記は「ここまひ」ではあるが、「ここまい」と読む。他のペンネームは、ししまひ、金物昌人、かなものまさと。デフォルメキャラを描く事が多い。『赤い靴CLUB』というサークル名で同人活動も行っている。
__LEAD__
ここまひ
2,764
341
87,734,469
アニメーターを目指して専門学校のビジュアルデザイン科に通い、卒業後1989年にデザイン会社「レイアップ」に入社。入社後「甲竜伝説ヴィルガスト」のキャラクターデザインなどをつとめる。しかしその後多忙を極め体調を崩し入院、1992年の秋に退社し、以降はフリーとなる。デザイン会社所属時は""金物昌人""名義で発表されていたが、退社後は"ここまひ"名義での発表となっている。
略歴
ここまひ
2,765
341
87,734,469
もともとはここまひ自身の個人サークル名であったが、デザイン会社を退職後に個人で受ける仕事について使用していた名義。現在は、サスカッチ円空がPC/CG周りのデザインワークスとしてメンバーに入っており、同人誌やガレージキットの作成などの同人活動を行っている。
赤い靴CLUB
ここまひ
2,766
342
87,702,154
桜野 みねね(さくらの みねね、1973年11月29日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都生まれ、宮城県仙台市育ち。
__LEAD__
桜野みねね
2,767
342
87,702,154
1995年、『マザードール』(短編集に収録)で第1回エニックス21世紀マンガ大賞準大賞を受賞し、同作にてデビュー。1996年、『月刊少年ガンガン』で『まもって守護月天!』の連載を開始。この作品は藤咲あゆなによって小説化され、東映アニメーションによってテレビアニメ化・OVA化もされた。デビュー以来、エニックス刊行の雑誌で連載していたが、2001年のエニックスお家騒動によりマッグガーデンへ移籍。『月刊コミックブレイド』誌上で『まもって守護月天! 再逢』を連載開始する。同作品では体調の問題により、途中から「STUDIO TWO WINGS」が制作に携わるようになった。また『ひなぎく見参!〈一本桜花町編〉』では「STUDIO 縁」が制作に携わる(雑誌連載やコミックスで作者名とともに記されていた)が、『フェアリアルガーデン』からは桜野みねねのみの名前で表記されるようになっている。
経歴
桜野みねね
2,768
342
87,702,154
前述の騒動および掲載誌の休刊の影響で、これまでの連載作品はほとんどが打ち切りという形で終了している。現在は、『月刊コミックガーデン』(マッグガーデン)で『まもって守護月天! 解封の章』を連載中。毎月20日には、同社のWEB漫画配信サイト『MAGCOMI』でも公開している。近年、作品を続編や書き下ろしなどで完結させている。
経歴
桜野みねね
2,769
343
88,354,699
高屋 良樹(たかや よしき、1960年2月21日 - )は日本の漫画家。秋田県出身、千葉県柏市在住。血液型はA型。旧ペンネームはちみもりを。「高屋良樹」もペンネームであり、本名ではない。ちみもりを名義で『レモンピープル』(あまとりあ社)1983年1月号にて「明日なき世界・♂なき人類」でデビュー。『漫画ブリッコ』(白夜書房)や『プチアップルパイ』(徳間書店)などにも作品を発表していた。代表作である『強殖装甲ガイバー』の連載開始以降は、同作の執筆にほぼ専念しており、結果として寡作な作家になっている。
__LEAD__
高屋良樹
2,770
344
86,627,332
田中 久仁彦(たなか くにひこ、1970年8月12日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。神奈川県川崎市出身。
__LEAD__
田中久仁彦
2,771
344
86,627,332
日本ファルコムに入社。同社の従業員としてゲームのイラストやキャラクターデザインを手掛けるようになる。退社後フリーに。1991年に商業誌デビュー。
人物
田中久仁彦
2,772
345
86,935,379
鶴田 洋久(つるた ひろひさ、1964年 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。東京デザイナー学院卒業。代表作はアニメ化もされた「なつきクライシス」。漫画家の円英智 は小学5年生から、萩原一至 は専門学校から、それぞれ親交を持つ。
__LEAD__
鶴田洋久
2,773
347
84,779,580
内藤 泰弘(ないとう やすひろ、ローマ字表記:Yasuhiro Nightow、1967年4月8日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横浜市出身。法政大学社会学部卒業。トイトライブ主宰の一人。代表作に『トライガン』など。
__LEAD__
内藤泰弘
2,774
347
84,779,580
幼少期よりインドア派で、幼稚園ではスヌーピーのマンガを描いていた。大学2年生の頃に初めて描いたストーリー漫画は「サンディと迷いの森の仲間たち(1989年5月発行)」。500部刷った後鴨葱スウィッチブレイドというサークルで同人誌即売会まんが ギャラリー&マーケットに初参加した際は持って行った100部が完売し、コミティア代表の中村公彦からも絶賛を受けている。大学卒業後は住宅会社にて営業職を3年あまり経験し、専業作家となる。1990年ふゅーじょんぷろだくと『リトルボーイ』1990年夏号に同人誌「サンディと迷いの森の仲間たち」が再録される。1994年3月、集英社『スーパージャンプ』に「CALL XXXX」が掲載される。徳間書店『ファミリーコンピュータMagazine』でゲーム『サムライスピリッツ』の漫画化作品を連載。1995年から『トライガン』を徳間書店『月刊少年キャプテン』で連載開始。
略歴
内藤泰弘
2,775
347
84,779,580
同作品は1997年1月の『キャプテン』の廃刊によって中断したものの、増刊と単行本描き下ろしでひとまず完結。同年10月に掲載誌を少年画報社『ヤングキングアワーズ』に移し、『トライガン・マキシマム』として連載再開。2007年に10年に及ぶ連載を終結した。2009年には『トライガン・マキシマム』で星雲賞を受賞。初めて買ってもらった漫画の単行本は『天才バカボン』。中学生時代に高橋留美子の『うる星やつら』、細野不二彦の『さすがの猿飛』などの洗礼を受け、中学2年生で大友克洋の『さよならにっぽん』に衝撃を受ける。大学生時代には『ドラゴンボール』で鳥山明にはまる。好きなアニメは『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『機動戦士ガンダム』、『獣兵衛忍風帖』など。相当のアメコミファンであり、スポーンのフィギュアをわざわざアメリカのトイザらスまで買い付けにいくほど熱心なコレクター。フィギュア収集としては、S.
略歴
内藤泰弘
2,776
347
84,779,580
I.C.等も集めている。また海外の新進気鋭のアメコミのイラストレーター達とも親交が深く、度々パーティに招かれ、出向いている。絵柄はアメコミから強い影響を受けており、大ゴマや見開きを使った大胆な構図と視線誘導を特徴とする。アクションフィギュアのリボルテックに使用される「リボルバージョイント」の開発者の1人でもある。『ヤングキングアワーズ』の同僚作家の平野耕太や六道神士とは、言わば戦友の仲。
略歴
内藤泰弘
2,777
348
88,257,159
萩原 一至(はぎわら かずし、1963年4月4日 - )は、日本の漫画家、同人作家。血液型はO型。代表作は『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』等。
__LEAD__
萩原一至
2,778
348
88,257,159
東京都中野区白鷺に生まれ、千葉県千葉市に転居。高校1年生を3回繰り返し(留年、退学、再入学、留年)、17歳で家出。アパートを借りてアルバイト生活。同年のひと夏、50ccバイクで北海道を半周する一人旅に出て、高校を中退。数年後実家に戻り東京デザイナー学院デザイン科に入学、後にアニメーション科に編入。学内向けに募集されたダーティ・松本のアシスタントに応募。学校に通いながら約2年間のアシスタント修行を始める。東デ2年生の時、アニメーション科のクラスメートであった鶴田洋久、由美もりおと共に合作マンガ企画「MADE GENIUS」を始め、最初の漫画を描く。東京デザイナー学院を卒業したのち22歳の時、『週刊少年ジャンプ』(以下、WJと表記)の募集広告を見てまつもと泉のアシスタントとなる。同じアシスタントとして本多将、岡崎武士、当時まつもと泉の担当で後に『BASTARD!!
来歴
萩原一至
2,779
348
88,257,159
-暗黒の破壊神-』(以下、BASTARD!!と表記)の初代担当として同作品に多大な影響を与える事となる高橋俊昌と出会う。この時、まつもとが倒れた週にアシスタント達だけでまるまる作画してしまったという逸話を残す。24歳の時、アシスタントの仕事の合間をぬって『パロディーコミック プロジェクトA子 2』(1987年8月・ラポート株式会社刊)に、『プロジェクトA子』のパロディー漫画「GOOD WEATHER」(全14ページ)を執筆。『プロジェクトA子』とほぼ同時期、『週刊少年ジャンプ Summer Special』(週刊少年ジャンプ増刊、1987年)に公式的なデビュー作品となる「微熱口紅(びねつるーじゅ)」を掲載。同作は読者アンケートにて好評を博し、ジャンプ本誌で2作目の読み切りを描くことが決定する。
来歴
萩原一至
2,780
348
88,257,159
この〆切のため直近に迫っていた『きまぐれオレンジ☆ロード』の最終回に参加する事なく、まつもと泉のスタジオを退所した。『WJ』1987年47号に2作目の読切「WIZARD!!〜爆炎の征服者〜」発表。『週刊少年ジャンプ Winter Special』(週刊少年ジャンプ増刊、1988年・年初)に掲載された読切「VIRGIN・TYRANT(ヴァージン・タイラント)」をはさんで、『WJ』1988年14号より『BASTARD!!』の連載を開始。
来歴
萩原一至
2,781
348
88,257,159
左利きで、作画に非常にこだわりを持ち高いクオリティと緻密な画面を好む漫画家。スクリーントーンを多用したその作風は、1980年代から1990年なかばにかけて日本のコミック業界に影響を与え、今でも現在の角川・電撃系列のコミックにその影響を見ることが出来る。制作にこだわるあまり、遅筆なことで知られる。1988年〜1989年の『WJ』の『BASTARD!!』の連載にて、週刊連載を経験しているが、その当時から休載することがしばしばあった。2001年以降は不定期にて『ウルトラジャンプ』(以下、UJと表記)で同作を連載しているが、そこでも未完成原稿が掲載されることが目立っている。また商業誌で連載を持つプロの漫画家でありながら、同人作家としても活躍し、定期的に同人活動を行うことも知られている。過去から現在を通して、描いている連載作品は『BASTARD!!』のみである。
活動
萩原一至
2,786
350
68,235,509
幻超二(まぼろしちょうじ、1969年3月16日 - )は、日本の漫画家。岡山県出身。代表作に『ゴルゴーン』、『辺境自警隊』などがある。陰影のはっきりした画風が特色。東京アニメーター学院時代に電光石火轟に学ぶ。1990年代からサルコイドーシスという難病に罹り、網膜剥離により片目はほぼ失明状態になって作品の発表はごく少なくなっている。同人誌活動が主体であるが、作品水準は極めて高いと評価される。2006年冬コミのペーパーでコミケ参加休止を宣言している。山本弘によるソードワールド小説『サーラの冒険』シリーズ本編では挿絵を担当した。
__LEAD__
幻超二
2,787
351
82,044,486
美衣 暁(みい あきら、1963年4月26日 -)は、日本の男性漫画家。三重県津市出身。三重高田高校出身。主に成人向けのストーリー漫画など執筆していた。
__LEAD__
美衣暁
2,788
351
82,044,486
高校入学後、美術部に入部した後に漫画同好会を設立し初代会長となったとのこと。高校卒業後、上京し東京デザイナー学院に入学したが中退した。その後アシスタントやデザイナーなどの仕事を経て、一般向けの雑誌では佐江明名義にて秋田書店のヤングチャンピオンなどで執筆していた。成人向けでは美衣暁名義にてメディアックスやフランス書院、久保書店などの各成人向け雑誌にて2000年頃まで作品を発表していた。その後しばらくは同人活動を行っていたが、現在は本人HPのプロフィールや日記などによると三重県の実家に戻り療養中で、漫画の執筆活動は行っていないとの事。代表作である『LUNATIC NIGHT』は1996年~1997年頃ビデオアニメ化(計3作)された。
概要
美衣暁
2,789
352
88,545,952
三浦 建太郎(みうら けんたろう、1966年〈昭和41年〉7月11日 - 2021年〈令和3年〉5月6日)は、日本の漫画家。千葉県出身、日本大学藝術学部美術学科卒。代表作はダーク・ファンタジー作品『ベルセルク』。本名:非公表。
__LEAD__
三浦建太郎
2,790
352
88,545,952
日芸入学後、第34回少年マガジン新人漫画賞入選作となった『再び』(『週刊少年マガジン』1985年8月21日号/第36号掲載)、及び『NOA』(『フレッシュマガジン』1985年第3号掲載)で商業誌デビューを果たした。漫画家の技来静也、森恒二は高校の同級生であり、森とは大学も同じ学科であった。1984年、漫画家の森川ジョージのもとに臨時のアシスタントとして入るも既に実力を備えていると判断され1日で帰らされている。1988年、大学在学中にプロトタイプの短編『ベルセルク』を『コミコミ』11月号に投稿し(単行本14巻に収録)、翌年の卒業後に本格的に漫画家として活動を始めた。『月刊アニマルハウス』(『ヤングアニマル』の前身)で武論尊原作の『王狼』『王狼伝』『ジャパン』を、並行して『ベルセルク』を連載開始した。
略歴
三浦建太郎
2,791
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1992年以降は『ベルセルク』を『ヤングアニマル』で不定期に連載していたが、完結の見通しは立っておらず、自身でも「死ぬまでに頭の中の全てを出せるのか」と語っていた。2021年に技来静也と対談した際には「これから畳もうかな」と、ストーリーが終盤に差し掛かっていることを示唆した発言をしていた。2021年5月6日、急性大動脈解離のため死去。54歳没。訃報は同月20日に白泉社公式サイトで公表された。
略歴
三浦建太郎
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両親は共にデザイナーであり、高校時代から漫画を描き続けていた三浦に対して理解を示していた。音楽家の平沢進の熱狂的なファンで、執筆中には必ず聴いていたとのこと。これがきっかけでアニメ及びゲーム版『ベルセルク』の音楽は平沢が担当している(劇場版は主題歌のみ担当)。平沢は三浦と親交の深いミュージシャンである。平沢は三浦が亡くなった当日、自身の公式ホームページ「三浦建太郎先生の訃報に接して」と追悼文を届けた。学生時代、柔道を始めたばかりで初段の相手を吹っ飛ばしたというほど腰が強かった。
人物
三浦建太郎
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永井豪の『バイオレンスジャック』や武論尊(原作)、原哲夫(作画)の『北斗の拳』、特に栗本薫の大河小説『グイン・サーガ』のファンであり、栗本薫追悼コメントでは「最後の恐竜」という題で画一的な"細身・聖剣/魔剣・空中戦"といった美少女ファンタジーが溢れていることに時代的な観点と日本の特性から理解を示しつつも、過去のものとされつつあるグイン・サーガに見られるような「重力と距離」を簡単に手放したくないとし、「グイン・サーガを血肉に育った者の一人として、八〇年代発の数少ない現存のファンタジー作品「ベルセルク」を描ききりたい」と公言していた。他にも少年時代から少女漫画を愛読しており、『ベルセルク』に影響を及ぼしていると発言していた(藤本由香里『少女まんが魂』での対談より)。『スター・ウォーズ』からも多大な影響を受けていた。
人物
三浦建太郎
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エロゲーマーであることを自認しており、尚且つ『真・恋姫†無双 〜乙女繚乱☆三国志演義〜』にはまっていた(巻末コメントより)。ニコニコ動画のヘビーユーザーであると『ヤングアニマル』誌の巻末コメントに寄せていた。それを知った株式会社インターネットは、同サービスの時報を利用して自社商品のVOCALOIDソフト『がくっぽいど』のパッケージイラストの依頼をかけた。三浦はこれに応えて同製品のイメージキャラクター「神威がくぽ」を無償でデザインした。シミュレーションゲーム『THE IDOLM@STER』のファンで、好きなキャラは如月千早。休載の際にXbox 360を購入した。
人物
三浦建太郎
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緻密な画風のためアシスタントには高い画力、集中力が要求されていた。尚、アシスタントで現在『ヤングアニマル』で執筆中の技来静也は高校の同級生であった。
アシスタント
三浦建太郎
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皆川 亮二(みながわ りょうじ、1964年7月5日 - )は、日本の漫画家。東京都墨田区出身。
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皆川亮二
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高校時代に、同級生だった神崎将臣に誘われ漫画を描き始める(後に神崎のアシスタントも経験)。1988年、「HEAVEN」(小学館『週刊少年サンデー』に掲載)が第22回小学館新人コミック大賞少年部門に入選しデビュー。代表作は、アニメ化もされた『スプリガン』、第44回小学館漫画賞を受賞した『ARMS』など。デビューから一貫して『週刊少年サンデー』など小学館の雑誌で執筆活動を続けてきたが、『D-LIVE!!』連載終了後は小学館以外にも、集英社や講談社、スクウェア・エニックスなど、他の出版社でも執筆するようになり、ゲームのキャラクターデザインなども手がけたりしている。影響を受けた漫画家は、高橋留美子・望月三起也・大友克洋。とくに高橋留美子の影響が大きく、高校時代、高橋の漫画が好きで、高橋の絵の模写ばかりしていた。
概要
皆川亮二
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その絵を同級生だった神崎将臣に褒めてもらい、その縁で漫画を描き始めたことから、高橋留美子のことを「漫画家になる道筋を間接的に作ってくれた恩人」「僕の世界を変えてくれた人」と語っている。ちなみに、漫画を描き始めた頃は、高橋留美子の劣化コピーのような作品ばかり描いていたという。漫画家の藤田和日郎とはデビューが同期であり、新人コミック大賞の授賞式でも隣同士で座っていたこと、またお互いに高橋留美子が好きだったことから仲が良い。
概要
皆川亮二
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秋田県(あきたけん、(英: Akita Prefecture)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は秋田市。
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秋田県
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秋田県の海岸は、遠浅で上陸しやすく、海岸付近には身を隠せる防風林が多いため、密入国を図る工作員にとって、絶好の場所である。夜間は人が少なく、近隣住民に見られ無い上、八峰町には無人島である雄島が海岸近くにあり、北朝鮮の工作員に中継点として使われているという。秋田県は日本海に面しており、気候区分は日本海側気候に分類される。日本海側気候の中でも秋田県の特徴として沿岸部の冬季の降水量はそれほど多くないが、日照時間が極端に少ないことが挙げられる。内陸部では低温のため、同じ日本海側の山形県や新潟県と同様に県内陸部のおよそ90%の地域が特別豪雪地帯に指定されており、雪が多く降り積もりやすい県である。冬季間の日照時間は全都道府県の中で最も少ない。
地理・地域
秋田県
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そのため、朝晩の放射冷却現象が起こらず(鹿角市と仙北市などの内陸部を除く)、特に日本海側沿岸部などは北関東よりも朝の気温が高いことも多いなど緯度の割には温暖であり日較差が非常に小さいのが特徴である。内陸部の一部はケッペンの気候区分による亜寒帯湿潤気候(Dfa,Dfb)となり、寒さが厳しい。また、秋田沖付近に発生する暖流の突発的な大気潮汐によって生み出された寒冷渦や極低気圧からもたらされる暴風雪や「ドカ雪」と呼ばれる豪雪がしばし見られることもある。一方で、夏季は高温多湿でどんよりとしており梅雨明けのないまま秋を迎えることも珍しくない。しかしながら、太平洋側から吹く季節風は奥羽山脈の山々に遮られ、フェーン現象が発生することがある。太平洋側に冷害をもたらすと言われるやませも高温乾燥した風となり、県内陸部中央から県内陸南部では気温が上昇し真夏日や猛暑日になることもある。
地理・地域
秋田県
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特に仙北市周辺では、この風が豊作をもたらすとして「宝風」と吟われる(生保内節)。県下には、以下の13市6郡9町3村がある。秋田県では、美郷町、三種町、八峰町が「ちょう」である以外は、町はすべて「まち」、村はすべて「むら」と読む(対等合併によって誕生した町が「ちょう」を名乗る傾向がある。平成の大合併以前は、すべて「まち」と読んだ)。人口は2022年3月1日現在。都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷県の地域振興局の管轄地域により、県内は8つの地域圏に区分されている。それらは「県北」「中央」「県南」の3つに大別されている。由利地域振興局管内(旧由利郡地域)を県南とすることもある。ただし、衆議院選挙・小選挙区の区割りでは、秋田市(1区)・県北(2区)・県南(3区)とされている(この区分では、いわゆる男鹿潟上南秋地区が、県北部の扱い)。
地理・地域
秋田県
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地域圏の名称は目的に応じて多少違いがあり、振興局の名称は旧郡名、地域の名称は平成の大合併前の中心市名と旧郡名、都市計画における広域都市圏の名称は平成の大合併前の中心市名となっている。 以下に記載する人口は、2006年(平成18年)8月1日現在の推計人口。秋田県の総人口は1,135,156人。
地理・地域
秋田県
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現在の秋田県は、令制国での出羽国と陸奥国の各一部(明治初年にそれぞれ分割されたうちの羽後国と陸中国の各一部)からなる。「秋田」の名前の由来は、飛鳥時代の斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の日本海遠征において、この地を訪れ地名を「齶田(あぎた)」と報告したことから始まる。「齶田(あぎた)」はアゴに似た地形から付けられたものだともいわれており、雄物川河口部の古地形のことを示している可能性がある。その後、天平5年12月26日(734年2月4日)に庄内地方にあったとされる出羽柵が高清水の岡に移し置かれ、後に天平宝字年間頃には、「秋田城」と呼ばれるようになり、「秋田」の表記で定着した。中世後期には日本最古の海洋法規集「廻船式目(廻船大法)」には三津七湊の一つとして「秋田湊」と呼ばれ重要な湊の一つに数えられた。秋田県にも旧石器時代から人が住んでいた証拠として多くの遺跡が発掘されている。
歴史
秋田県
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それらの遺跡から人の手によって加工された石器が多数出土している。製作技術からナイフ形石器、細石刃などと命名されている。このうち細石刃は木や骨などに溝を彫ってそこに埋め込み、鋭利な刃物として使用したと推測され、旧石器時代終末から縄文時代草創期にかけて使用されたと考えられている。遺跡発掘としては、1969年(昭和44年)から5次にわたって発掘された大仙市協和の米ヶ森遺跡がはじめである。この遺跡からは石器・石核・石片などおよそ1,000点が出土している。この後は工業団地や自動車道などの建設工事で多くの遺跡が発掘調査されている。今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。
歴史
秋田県
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1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。西日本では、この縄文人に加え弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えた。雑多な民族は次第に統一され、ヤマト民族としての統一国家が近畿地方を中心に形成された。これが後に朝廷と呼ばれるようになる。朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。現在の秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかった。そのため朝廷はこの地方への征服活動を進めた。
歴史
秋田県