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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 荘園の始めには根本の開墾権者は空手でその地に臨み少分の地利を収めて満足するのみで地方の下受人が各自労力と資本とを携えて来てその招きに応ずるのであるから墾地はいまだ開かざる前にこれを各人に割渡したのである。名主職の権利が尋常の百姓職に比べて得分多くかつ鞏固であったのは、まったくかくのごとき由緒あるがためである。広漠なる未知の草野に入り込んで各自が開墾をする場合に、下受人の数が多ければとうてい地形の特色などを考えて適当な地名を一々きめている暇がないから、皆手取早く自分自分の実名をもってその区域に名づけたのである。太郎丸・五郎丸などという名、または名古屋附近の一女子・三女子などという村の名はあるいは後代分割相続の結果ともいわれるけれども、おそらくはこれも下受人が婦人または加冠前の童子であったために、その字をもって呼んだものであろう。地名を二字にすることは永年の因習であるゆえ、後々各区域が独立の領地となった際に、何々名の名という字を棄てたものも多かった。その地に住んだ武士で在名を家名にした者が、今日国光某・久末某などといって、人はよく名前のような苗字だなどと笑うけれども、実際名前が廻り廻って家名になったのである。また徳富とか福富とかいう氏は、これも中世の人の名乗で決しておかしくはないのである。要するに荘園内の区域を名というのは、あるいは人の名前の名から起ったかは知らぬがとにかく今日の大字や坪・組または触というのに当るので、荘園の慣例として一つの名は一家に属し、しかもその権利が顕著であったためについには大名という語が諸侯のことともなれば、名主が村長の義とも転じたのである。阿波の祖谷・肥後の五木などでは、小作人のことを今でも名子といっている。名子は名主の属民の義である。\n これについて考えてみると、地名と家名との関係には二種の別があって、日本と支那とは原則が相反している。支那では李姓の者は到る処に李家屯を作り、陳姓の者は必ず陳家荘を立て、その姓を変じないのに反して、日本では新住者は本の氏を蔵っておき、他人からは現在の居所の地名をもって呼ばせている。熊谷が安芸に移り、武田が上総・若狭に行っても、なお武田であるような風は鎌倉時代の末からである。すなわち日本では地名の方が不動で、家名が動いたのであった。世人は家名と在名との関係は知っていても、時としては山田氏がいたから山田村であるようにいう者があるが誤りである。ただその一つの例外でやや支那風に近いと思うのは右にいうがごとき名の地名の附け方である。いわゆる「名字の地」の名字は家名のことで、家名となった地名という意味に違いないが、地名となった人名もその子孫にあっては貴重なる記念であったことは同じである。\n\n六 分村の地名の附け方\n\n 中世の荘園はもちろんの事、『倭名鈔』時代の一郷の地も近代の一村よりははるかに広かった。いろいろの理由は郷荘の地域を分裂させて、ついに十戸二十戸の小村にまでおのおの名主を置くようになったのである。分村の原因として各時代を通じて最も有力なのは、言うまでもなく人口の増加である。荘園内の山野は片端から開墾せられて、別所加納の村ができた。この事実は直接に惣領職の衰微であった。何となれば荒野を開く権利は惣領に属していたからである。総領の衰微はすなわち庶子の分立で、分割相続は日本の国風であったゆえに、家督の制度は久しく存続することが困難であった。この間にまた領主と地頭との論諍はしばしば下地の中分を促した。この痕跡は今日でも諸国の地名に残っている。地頭方・領家方などというのがこれである。元八王子村の大字一分方・二分方なども、分割相続の痕跡である。領主が弱くなれば個々の名主はその名子をひきいて独立する。徳川時代にあっては知行の高を整数にするのに(軍役の計算を便にするため)、越石分給が多くては面倒であるから、なるべく村の小さいことを希望した。すなわち勘定の便利を本位にした点は村を補助貨幣のごとく取り扱ったわけである。地侍を鎮撫するためにも、なるべく多くの名主・庄屋を設ける必要があった。村の人数が殖え田畠が多くなると、管理が届かぬという理由ですぐにこれを二つに別けてしまったのである。\n 右のごとく一村を二村とする場合の村名に、以前のものの上へ東西南北または上中下等を添えて呼ぶのは、最も自然なる命名法であるが、そればかりでも行かぬとみえて、地方によっていろいろの用例がある。その二三を下に挙げてみると、\n(イ)岡方・浜方 薩摩揖宿郡山川町大字岡児水、及び同村字浜児水、駿河志太郡東益津村大字岡当目及び浜当目がある。同国安倍郡入江町大字上清水と不二見村大字下清水とは、ともに今の清水町に接続した地域で、以前はこの二大字の地を岡清水といい、清水港を浜清水と称していた。伊豆にも田方郡対島町大字八幡野は岡と浜との二つの部落に分れ、その間七町ばかりを隔て二村のごとしと『伊豆志』巻三に見えている。同書田方郡伊東村大字岡の条には、「およそ海辺の村落にて土地の高低あれば高き所を岡といい、海傍を浜という」とある。陸をオカというのも丘陵または高地の義転であって、別に一つの語原があるのではなかろう。\n(ロ)畝方・谷方 これも土地の高低によって分けたので、その例は美作にある。久米郡鶴田村大字角石畝及び角石谷。同郡垪和村大字中垪和畝及び中垪和谷、真庭郡富原村大字岩井畝及び岩井谷の類である。ウネは東国ではオネともいい、山の頂線のことである。現に美作にも天狗嶁または雩嶁などというのがある。もっともこれは『作陽志』にばかり見えているので、あるいは漢文で書く際にこんな字を用いたかも知れぬ。畝の字を当てたのは畠の畝から起った転用であろう。ウネはもと山の背すなわち峯通りのみの名であるが、この地方では広く高処をさしてウネといったようである。\n(ハ)峠方・谷方 安芸高田郡郷野村大字桂字峠桂及び谷桂、峠は山の隈すなわち入り込んだ部分で、さらに山路の義に移っているが、ここでは単に山の上というばかりの意味である。土佐では嶺をトオといっておる。\n(ニ)山方・原方 美作真庭郡川東村大字古見字山古見及び原古見。\n(ホ)谷方・渡方 因幡八頭郡河原村大字谷一ツ木及び渡一ツ木、この地は大川に接しているから渡は文字通りにも解することができるが、ワダは必ずしも水辺には限らぬ地名である。武蔵にも多くの例がある。谿間の入野に比較してやや広い平野をば和田といったようである。またこれを沖ともいう所がある。オキもワダもともに陸地に用いられている。\n(ヘ)里方・野方 岩代岩瀬郡白方村大字守屋字里守屋及び野守屋。里守屋新田ともいうべき関係のある所と思われる。\n(ト)町方・在方 普通名詞としても用いられておる。岩代信夫郡庭坂村大字町庭坂及び庭塚村大字在庭坂、多くの地方では町場と在方とが分立するときには、一方を某町といい一方を某村というのが例である。町といい村という語は単に普通名詞であって、固有名詞の一部をなすのではないように多くの人は誤解している。\n\n七 荘園分立の実例\n\n 美作には適当な実例が幾つもある。『東作志』は『風土記』の上乗であるがこれを見ればよく分る。いわゆる勝北郡新野荘は、ほぼ今日の勝田郡新野村の地に当っている。この荘園は古く東西の二部に分れた。このほかに新野山形という大字もある。山形はすなわち山方で多分同じ頃に分立したものであろう。また堀坂という大字及びこれから分れた妙原があるが、ともに丘陵を隔てておって地形上立荘後に附いたものと思われる。今でも別の村の大字である。\n さて新野東分は後に上分・下分と二つに分れ、新野東村上分はさらに東分・西分の二つに分れた。『東作志』には新野東村は享保年間に三つに分れたとあるけれども、同時に三つに分れたなら上中下ともあるべきで、上分の東方西方と下分とに分つはずがない。享保はおそらくは東村上分がさらに東西に分れた年代であろう。新野東村下分は一名を工門という。すなわち公文名である。新野西分はすでに慶安四年に上中下の三つに分れておる。かくのごとく徳川の末頃には昔の新野荘は十の村となり、十人の庄屋がこれを支配し、三人の地頭の領地に分属していた。今の町村では二村にわたり、八つの大字である。新野東上分・新野東上西分及び新野東下分は合して一大字となり、ずっと古い時代の状態に復している。\n 次に久米郡稲岡の二ヶ村はまた昔の稲岡荘の地である。この荘は最初南北の二荘に分れた。後に北荘は里方と山方の二つに分れ、北荘山手村は承応元年に北荘山手上村・北荘山手下村と分れ、南荘の方は元禄二年に南荘西村及び南荘東村の二つになり、結局五ヶ村であったが、新町村となって二村三大字すなわち承応以前の状態に復したのである。全体この国では郡もだんだん分立して近年までは久米郡が二つ、苫田郡が四つ、勝田郡が二つというように小さく分れていたが、荘郷分合の趨勢もすべてこれと同様であってその命名法のごときもきわめて自然である。最後に今一つの例を附録として添えておく。前の新野と稲岡との場合も、こうして表にして見れば、もっと明らかになることと思う。\n\n\n八 久木\n" }, { "role": "assistant", "content": "\n武蔵南埼玉郡久喜町\n能登鹿島郡西島村大字久木\n美作久米郡吉岡村大字久木\n肥後阿蘇郡久木野村\n大隅囎唹郡西志布志村大字久木迫\n壱岐壱岐郡志原村字釘山\n\n 右等のほか、諸国の小字に存する無数の「クキ」はことごとく燃料採取地を意味する地名であろう。大阪の新聞の三面記事に折々現われて来る柴島警察分署、あの柴島は今でもクニシマと訓むのである(西成郡中島村大字柴島)。駿河庵原郡岫崎岡は今の薩陲峠のことで古くは『日本紀略』の天慶三年の記事にも見えている。文字から見れば別の意味かと思われるけれども、地形が岫ではないのみならず、『盛衰記』巻十三清見関の条には国崎とも書いてある。\n『倭名鈔』の郷名には駿河富士郡久弐郷がある。また備後の御調郡、周防の玖珂郡、筑前の糟屋郡ともに柞原郷があって、後の二つは明らかにクハラと訓んでいる。柞の字は『新撰字鏡』には「櫟なり」とあり「草を除くを芟と曰い木を除くを柞と曰う」とあるけれども、訓は「ナラの木」または「シイ」である。櫟は同書によれば櫪と同じで「マロクヌギ」である。これは専門の説文学者を煩わすべき問題であるが、何でも今日我々が「ハハソ」と訓む柞の字、「トチ」と訓む栩の字、杼の字、橡の字、「クヌギ」と訓む櫪の字、時としては「イチイ」と訓む櫟の字等は、すべてその本義は一定の樹種の名ではなくて柴・薪などと同じく燃料ということであったらしい。\n『日本紀』には大木の歴史が数ヶ所ある。古訓ではこれを「クヌギ」と訓んでいる。ちょっと反対の証拠のように思われるけれども、その木が今日の「クヌギ」であったか否かは疑問である。『倭名鈔』には釣樟を「クヌギ」と訓み、また挙樹をも「クヌギ」と訓んでいる。申すまでもなく『倭名鈔』や『字鏡』は、単に古代語の存在を証するのみで、漢語の知識は今日の方が進んでいるから、彼をもって精確なる漢和字典と見ることはできぬ。椿を「ツバキ」とよみ、楠を「クスノキ」とよみ(倭名鈔)、「ハハソ」に楢の字を充て、「ナラの木」に𬅋の字を充つるがごとき(字鏡)、皆実物を見ぬ人の推し当てであろう。しかしこの和訳の混乱の中にも「クキ」といい「ク」というは、必ずしも一種の樹の名でなかったことは想像することができる。この「ク」はいわゆる「木祖句句迺馳、草祖草野姫」の句々で、つまりは「キ」という語と同原であったのを、総称には「キ」といい、薪にのみ「ク」というように分化したのか、ないしはまた別に語原があるのか、竈を「クド」という方言は今日でも各地に遺っている。\n 因幡八頭郡社村大字樟原、常陸久慈郡金郷村大字箕村小字欅崎などは、『倭名鈔』と同じ字を用いている。また常陸の多賀郡高岡村大字中戸川には大楩という小字がある。これらは稀なる例で他の多くは久木と書いて「クノキ」と呼びまたは国木あるいは槶と書いている。周防都濃郡須々万村大字須々万奥小字国木峠、遠江周智郡宇刈村大字宇刈小字国木谷、常陸多賀郡鮎川村大字成沢小字槶木沢などはその例である。文人国木田独歩君は播州竜野の藩士であった。この家は淡路で脇坂氏に取り立てられた武家である。郷里にはいわゆる名字の地があり同族は皆槶田と書くそうである。名字のついでに言いたいのは耳のお医者の小此木さん、あの人はたしか二本松の藩士であるが、もとは多分上野佐波郡剛志村大字小此木から出た家であろう。柴と書いて「コノギ」と訓むのが不思議なため、二つに分けてやっと理窟を付けたのであろう。\n 槶はむろん最近の新字である。大阪の柴島もあるいは国島とある。南多摩地方で椚の字を「クヌギ」と訓むのは、これも同様の新字ではあるまいか。八王子の西方に浅川村大字上椚田、その西南に津久井郡吉野駅字椚々戸、その他同じ例はたくさんある。相模中郡東秦野村大字名古木村なる玉伝寺の宝永元年の鐘銘等には並椚村とある。この椚は槶の字から再成したのかも知れぬ。かくのごとき例はほかにもある。たとえば薩摩薩摩郡宮ノ城村大字柊野、同高城村字柊平、これらはその附近に久木野という無数の大字・小字がなかったならば、人はその字義を怪しんだかも知れぬが、疑いもなく久木の二字を合した杦でそれが俗様の杉の字と混じやすいために、久を冬に変じたのである。肥後の葦北郡には山川の岸に泥泪という地名がある。泪を「メキ」と訓むのは、目木の二合が相の字になるのをさけて、しかも泪が涙であることを知らなかったのである。\n 久木を「クノキ」と呼ばず「クキ」と呼ぶのは、九州には多いけれどもその他の地方には少ない。九州の「クキ」と他地方の「クノキ」と同じであることは、地形でも証明することができる。幸いに五万分一図があるから、比較はさしたる労力ではない。ただわからぬのは「クヌキ」の「ヌ」、「クニキ」の「ニ」である。「クノキ」のあるものは「ク」の樹の意味だとしても、『書紀』の古訓すでに「クヌキ」といい、柴を「クニ」という以上は、別に「ニ」「ヌ」を附した語があったには違いないのである。また「クキ」「クノキ」が燃料採取地とするならば、今日邑落の地名にあるのは不思議のようであるが、これは何原・何野という村の名があると同様、別に開発前の称呼を変ずる必要を見なかったためである。\n 久原のほか久野・久沢・久谷・久土・久場・久平等の地名も、皆同種のものと見て差支えはなかろう。実際この類の地名は山村山地に多いかと思われる。\n\n九 帷子\n\n\n武蔵橘樹郡保土ヶ谷町大字帷子\n安房安房郡保田町大字大帷子\n陸中巌手郡寺田町大字帷子\n美濃可児郡帷子町大字東・西帷子\n\n その他諸国の帷子はすべて片平である。保土ヶ谷の帷子宿は東海道の往来に当っていたからその地には必ず相応の名の由来が存するであろうし、『廻国雑記』『平安紀行』等、足利時代の書物にも帷子の字を用いている。『廻国雑記』には歌まで添えてある。右のごとく古い地名であるけれども、カタビラと名づけた理由はまったく一方山に拠り一方は田野を控えているためにすなわち片平というのであろう。この地形は我々の祖先の土着に対して、経済上最重要なる意義をもっていたのである。防水・排水の土工が進歩しなかった古代には、水ほど人の生活力に大なる障害を与えるものはなかった。氾濫・卑湿の不愉快を避けるためには、人はいわゆる「朝日の直指す国、夕日の日照る国」を択ばねばならなかった。しかも日本人は最初から稲を栽培する民族である。神を祭るに必要なるミキとミケを始めとしできる限りは自分も米の飯と酒とをたべたゆえに、必ず水田の近き所に邑落を作ることを要とした。語を換えて言わば、あたう限り水の害を避けて、あたう限り水の利に就くには、近く平野に臨める丘陵の傾斜地、すなわち片平の地を求めねばならなかったのである。大小名主の時代には、さらに軍事上の理由が片平を重要ならしめた。平日の薪採りが十分で、事あらば駈け登るべき嶮岨の要害山にも近く、さらに家人郎従を養うだけの田園があって、籠城の兵糧も集めやすく遠見と掛引きとに都合の好い山城は、また片平山に限ったのである。たくさんの帷子は皆当て字であることは、さして推測に困難ではないが、なお十分に地図に就き実地に立証してみたいと思う。もっとも保土ヶ谷の帷子宿は、慶長年間に村を今の地に移したのであるから、地名と地形の一致を見ることができぬ。以前は帷子川の少し上流、今の古町というあたりにあったのである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 次郎はゆすぶられながら、干からびた眼を据えて、一心にお民の顔を見つめていたが、\n「ほんとうは、僕こわしたんじゃないよ。」\n それを聞くと、お民は絶望的な叫び声をあげて、急に手を放した。そしてしばらく青い顔をして大きな息をしていたが、\n「もう......もう......お前だけは私の手におえません!」\n 彼女の眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。\n 恭一は心配そうに母の顔を見まもった。俊三はいつもに似ずおずおずして次郎の顔ばかり見ていた。次郎はぷいと立ち上って、一人でさっさと室を出て行ってしまった。\n\n *\n\n その日は土曜で、俊亮が帰って来る日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。\n 次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代る代るやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状した方がいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。\n 次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。\n(何で俺は罪を被る気になったんだろう。)\n 彼はその折の気持が、さっぱり解らはくなっていた。そして、いつもの押し強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。――彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいことである。\n ふと、小屋の戸口にことことと音がした。彼は、またかと思って見向きもしなかった。誰も這入って来ない。しばらくたつと、また同じような音がする。何だか子供の足音らしい。彼は不思議に思って、その方に眼をやった。すると半ば開いた戸口に、俊三が立っている。\n(畜生!)\n 彼は、思わず心の中で叫んで、唇をかんだ。\n しかし何だか俊三の様子が変である。右手の食指を口に突っこみ、ややうつ向き加減に戸によりかかって、体をゆすぶっている。ふだん次郎の眼に映る俊三とはまるでちがう。\n 次郎は一心に彼を見つめた。俊三は上眼をつかって、おりおり盗むように次郎を見たが、二人の視線が出っくわすと、彼はくるりとうしろ向きになって、戸によりかかるのだった。\n かなり永い時間がたった。\n そのうち次郎は、俊三にきけば、算盤のことがきっとはっきりするにちがいない、ひょっとすると壊したのは彼だかも知れない、と思った。\n「俊ちゃん、何してる?」\n 彼はやさしくたずねてみた。\n「うん......」\n 俊三はわけのわからぬ返事をしながら、敷居をまたいで中に這入ったが、まだ背中を戸によせかけたままで、もじもじしている。\n 次郎は立ち上って、自分から俊三のそばに行った。\n「算盛こわしたのは俊ちゃんじゃない?」\n「............」\n 俊三はうつ向いたまま、下駄で土間の土をこすった。\n「僕、誰にも言わないから、言ってよ。」\n「あのね......」\n「うむ。」\n「僕、こわしたの。」\n 次郎はしめたと思った。しかし彼は興奮しなかった。\n「どうしてこわしたの?」\n 彼はいやに落ちついてたずねた。そしてさっき自分が母に訊ねられた通りのことを言っているのに気がついて、変な気がした。\n「転がしてたら、石の上に落っこちたの。」\n「縁側から?」\n「そう。」\n「お祖父さんの算盤って、大きいかい?」\n「ううん、このぐらい。」\n 俊三は両手を七八寸の距離に拡げてみせた。次郎は、いつの間にか、俊三が憎めなくなっていた。\n「俊ちゃん、もうあっちに行っといで。僕、誰にも言わないから。」\n 俊三は、ほっとしたような、心配なような顔つきをして、母屋の方に去った。\n そのあと、次郎の心には、そろそろとある不思議な力が甦って来た。むろん、彼に、十字架を負う心構えが出来上ったというのではない。彼はまだそれほどに俊三を愛していないし、また、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな燐憫の情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、むくむくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないと頑張って、母を手こずらせるのも面白いが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者が、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。\n 彼はもう誰も怖くはなかった。父に煙管でなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道の通った、尤もらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。\n もうその時には日が暮れかかっていた。小屋は次第に暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放って置かれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。\n(父さんはもう帰ったか知らん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このまま何時までも僕を放っとくとすると、――)\n 次郎は、そう考えて、胸のしんに冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結して、彼をいよいよ頑固にした。\n(二日でも三日でも、僕はこうしているのだ。僕はちっとも困りゃしない。)\n しかし、それから小半時もたって、あたりが真っ暗になると、流石に彼も辛抱しきれなくなった。やはり家の様子が知りたかった。\n 彼はとうとう思いきって小屋を出て、そっと茶の間の縁側にしのび寄った。茶の間には、あかあかと燈がともっていた。\n「それで恭一にも、俊三にも、よくきいてみたのか。」\n 父の声である。\n「いいえ、べつべつにきいてみたわけではありませんけど、......」\n「それがいけない。三人一緒だと、どうしたって次郎の歩が悪くなるにきまっている。」\n「貴方は、まあ! みんなで次郎に罪を押しつけたとでも思ってらっしゃるの。」\n「口では押しつけなくても、心で押しつけたことになる。」\n「では私、もう何も申上げませんわ。どうせ私には、次郎を育てる力なんかありませんから。」\n「そう怒ってしまっては、話が出来ん。」\n「怒りたくもなろうじゃありませんか。次郎が正直に白状したのまで、私が押しつけてさせたようにお取りですもの。」\n「次郎は、しかし、すぐそれを取消したんだろう?」\n「それがあれの手に負えないところなんですよ。」\n「しかし、それがあれの正直なところなのかも知れない。」\n「貴方、本気で言ってらっしゃるの。」\n「本気さ。あれは強情な代りに、一旦白状したら、めったにそれを取消すようなことはしない子だ。それを取消したところをみると、取消しの方が本当かも知れない。」\n「おやおや、貴方は、あの子を人の罪まで被るような、そんな偉い子だと思ってらっしゃるの。」\n「実は、その点が俺に少し解しかねるところなんだ。」\n「それご覧なさい。」\n「一たいどんな機みで、白状したんだい?」\n「それは、私、ワシントンの話を持ち出しましたの。」" }, { "role": "assistant", "content": "「うむ。」\n「そしたら急にそわそわし出したものですから、そこをうまく畳みかけてきいてみたんですの。」\n お民は、少しうわずった調子で、得意そうに言った。\n「なるほど。......うむ。......」\n 俊亮はしきりに考えているらしかった。しばらく沈默がつづいたあとで、お民が言った。\n「ですから、本気で教えてやりさえすれば、いくらかは違ってくると思いますけれど......」\n「そうかね。......それで、あいつまだ小屋の中にいるのかい。」\n「ええ、いるだろうと思いますけれど......」\n「とにかくおれが行ってみる。」\n 俊亮の影法師が動いた。\n 次郎は、父に後れないように、急いで薪小屋にもどって、じっと息をこらしていた。\n「次郎、馬鹿な真似はよせ。」\n 俊亮は小屋に這入ると、いきなり提灯を彼の前にさしつけて、そう言ったが、その声は叱っているようには思えなかった。\n「算盤のこわれたのは、どうだっていい。お祖父さんには父さんからあやまっとくから。......だが、こわしたと言ったり、こわさないと言ったりするのは卑怯だぞ。」\n 次郎は、父に卑怯だと思われたくなかった。卑怯だと思われないためには、やはり罪を被る方がいいと思った。\n「僕、こわしたんだい。」\n 彼は、はっきりそう答えて、父の顔色をうかがった。\n すると、俊亮は、提灯の灯に照らされた次郎の顔を、穴のあくほど見つめながら、\n「父さんに嘘は言わないだろうな。」\n 次郎は何だか気味悪くなった。\n「父さんは嘘をつく子は嫌いだ。......だが、まあいい、父さんはお前の言うことを信用しよう。しかし、飯も食わないで、こんな所にかくれているのは、よくないぞ。さあ父さんと一緒に、あちらに行くんだ。」\n 次郎は、そう言われると急に涙がこみあげて来た。\n「馬鹿! 今頃になって泣く奴があるか。」\n 次郎は、しかし、泣きやまなかった。俊亮は永いこと默ってそれを見つめていた。\n\n一八 菓子折\n\n 算盤事件は、とうとう誰にも本当のことが解らずじまいになった。\n 俊亮とお民とは、それについて、まるで正反対の推測をして、次郎の子供らしくないのに心を痛めた。\n 次郎と俊三とは、その後、口にこそ出さなかったが、顔を見合わせさえすれば、すぐ算盤のことを思い浮かべるのだった。次郎の立場は、むろんそのためにいつも有利になった。\n 次郎は、いつかは思い切り戦ってみようと思っていた恭一と俊三とが、妙なはずみから、まるで敵手でなくなってしまったので、いささか拍子ぬけの気持だった。しかし彼は、決してそれを残念だとは思わなかった。それどころか、二人を相手に、いくらかでも仲よく遊べることは、彼の家庭における生活を、今までよりもずっと楽しいものにした。\n 恭一は、雑誌や、お伽噺の本などをお祖母さんに買って貰って、それを読むのが好きであったが、自分の読みふるしたものを、ちょいちょい次郎に与えた。それが次郎を喜ばしたのはいうまでもない。\n 彼ははじめのうちは、挿画だけにしか興味を持たなかったが、次第に中味にも親しむようになり、時には、恭一と二人で寝ころびながら、お互に自分の読んだものを話しあうようなことがあった。その間に彼は、恭一のこまかな気分にふれて、いろいろのいい影響をうけた。\n 彼と俊三との間は、それほどにしんみりしたものにはなれなかったが、庭や畑に出ると、二人はいつも仲よく遊んだ。俊三が、このごろ次郎に対して、ほとんど我儘を言わなくなったことが、いつも次郎を満足させた。そして、彼が外を飛び歩くことも、そのためにいくぶん少なくなって来た。\n お民は、次郎のそうした変化を、内心喜んだ。彼女は、自分の教育の力が、やっとこのごろ次郎にも及んで来たのだと思ったのである。そこで、彼女は、この機を逸してはならないと考えて、何かと次郎に接近しようと努めた。これは次郎にとってはまことにうるさいことであった。しかし、この頃では、以前ほど叱言も言わないし、時としては、思いがけない賞め言葉を頂戴したりするので、次郎の母に対する感じも、いくらかずつ変って来た。\n ただ祖母に対してだけは、次郎は微塵も好感が持てなかった。彼女は、お民とちがって、よく食物で次郎をいじめた。お民は、その点では、三人に対してつとめて公平を保とうとした。少なくとも、三人をならべておいて、あからさまに差別待遇をするようなことは決してなかった。ところが祖母は、そんなことは一向平気で、お民の留守のおりなどには、食卓の上で、わざとのように差別待遇をした。\n「次郎、お前、どうしてお副菜を食べないのかい。」\n「食べたくないよ。」\n 次郎は決して、自分の皿の肴が、兄弟の誰のよりも小さいからだ、とは言わない。\n「可笑しいね。ご飯はそんなに食べてるくせに。」\n そう言われると、次郎は、それっきりご飯のお代りもしなくなる。\n「おや、ご飯も、もうよしたのかい。」\n「今日は、あんまり食べたくないよ。」\n「お腹でも悪いのかい。」\n「............」\n 次郎はちょっと返事に窮する。\n「また、何かお気に障ったんだね。」\n「そんなことないよ。」\n しかし、そっぽを向いた彼の顔付が、あきらかに彼の言葉を裏切っている。同時に、ちゃぶ台のまわりの沢山の眼が、皮肉に彼の横顔をのぞきこむ。\n こうなると、彼は決然として室を出て行くより、仕方がないのである。\n「おや、おや。」\n と、うしろでは嘲るような声。つづいて、\n「まあ、どこまでねじけたというんだろうね。」\n と、変な溜息まじりの声。\n「放っときよ。ねじけるだけ、ねじけさしておくより仕方がないさ。」\n と、いかにも毒々しい声がきこえる。\n 先ず、こういった調子である。\n また、兄弟三人が、珍しく仲よく遊んでいるのに、お祖母さんは、わざわざ恭一と俊三の二人だけを離室に呼んで、いろんな食物を与えたりすることもある。\n そんな時の次郎は、実際みじめだった。彼は、しかし、食べ物を欲しがっていると祖母に思われたくなかった。また、一人だけのけ者にされているのを気にしている、と思われるのも癪だった。で、彼は、つとめて平気を装おうとして、非常に苦しんだ。それは、彼が負けぎらいな性質であるだけに、一層不愉快なことだった。いつも辛うじて自制はするものの、彼の腹の中では、真っ黒な炎がそのたびごとに濃くなって、いつ爆発するかわからなくなって来た。――およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。\n ある日、次郎は、お祖母さんが小さな菓子折を持って離室に這入って行くのを見た。何処かの法事にでも行って来たらしく、紋付の羽織を引っかけていた。\n 次郎は、今日もまた、恭一と俊三だけがそれを貰うのだと思うと、我慢が出来なくなった。で、お祖母さんの隙を見て、これまでめったに這入ったことのない離室に、こっそりしのびこんだ。\n 菓子折は違棚の上にお祖父さんの算盤と並べてのせてあった。彼は、それをつかむと、いそいで裏の畑に出た。そこで彼は、紐を解いて中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐ思いかえして、それを放りなげ、下駄で散々にふみつけた。折箱の隅からは桃色の羊羹がぬるぬるとはみ出した。彼はお祖母さんの頭でもふみつけるような気がして、胸がすうっとなった。\n 間もなくお祖母さんが騒ぎ出した。むろん、みんなもそれにつづいて騒いだ。「次郎!」「次郎!」と呼ぶ声が、あちらからも、こちらからも聞えた。しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏の樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。\n 直吉の頓狂な叫び声で、みんなが畑に出て来た。ふみにじられた折箱を囲んで、さまざまの言葉が入り乱れた。\n「まあ、何ということでしょう。」\n お民が青い顔をして言った。俊亮はみんなのうしろに立って、腕組をして考えこんでいた。\n「あれ、あれ、勿体もない。」\n お糸婆さんは、いかにも勿体なさそうに、そう言って、ぺちゃんこになった折箱を拾いあげた。しかし、どうにも始末に終えないとみて、お祖母さんの顔を窺いながら、すぐまた地べたに放りなげた。\n みんなはあきらめて、ぞろぞろと母屋の方に帰りかけた。\n「おやっ。」とお祖母さんが銀杏の根元に眼をやりながら叫んだ。次郎の下駄をそこに見つけたのである。次郎はしまったと思った。\n「直吉、竹竿を持っておいで。」\n お祖母さんは、次郎を見上げて物凄い顔をした。さすがに次郎もうろたえた。彼は大急ぎで木から滑り降りて、庭の方に逃げ出した。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "蒲留仙 五十前後の痩せてむさくるしい容をしている詩人、胡麻塩の長いまばらな顎髯を生やしている。\n李希梅 留仙の門下、二十五、六の貴公子然たる読書生。\n葉生 浮浪人、二十六、七の背のひょろ長い髪の赤茶けた碧い眼の青年。\n村の男\n旅人 甲、乙。\n\n\n山東省淄川の某山村の街路にある涼亭。それは街路の真中に屋根をこしらえ、左右の柱に添えて石台を置いて腰掛けとしたもので、その中を抜けて往来する者が勝手に休んでいけるようになっている。その涼亭の一方は山田で、稲や黍を作り、一方は人家になって十軒ばかりの泥土の小家が並んでいて、前には谷川の水の流れている小溝があり、後には屋根越しに緑葉の間から所どころ石の現われている丘が見えている。それは康熙年間の某夏の午後のことである。涼亭には蒲留仙が腰をかけて、長い煙管をくわえながらうっとりとして何か考えている。その蒲留仙の右側の石台の上には、壷のような器に小柄杓を添えて、その下に二つ三つの碗を置き、それと並べて古い皮の袋と煙管を置いてあるが、その壷には茶が入れてあり、皮袋には淡巴菰を詰めてある。そして左側には硯に筆を添え、それと並べて反古のような紙の巻いたのを置いてある。また足許には焼火したらしい枯枝の燃えさしがあって、糸のような煙が立っている。蒲留仙はこうして旅人を待っていて、茶を勧め、淡巴菰を喫まして、牛鬼蛇神の珍らしい話をさせ、それを「聊斎志異」の材料にしているところである。\n\nそこへ村の男が一人上手から来て涼亭の中へ入って来る。竹で編んだ笠を着けて、手の付いた笊に瓜のような物を入れ、それを左の肱にかけているが、蒲留仙を見つけると皮肉な眼付をする。\n\n\n村の男 先生と張公の媽媽じゃ、辛抱がええわえ。今年でもう六年じゃ、毎日毎日、あの坂の上で、張公の帰りを待ってるが、なんぼ待ったところで、水に溺れて死んだ者が戻るもんか。気違いじゃからしかたがないが、考えてみりゃ、可哀いそうなもんじゃ。......時に先生、近頃は面白い話が聞けますか。\n\n蒲留仙はやっと眼を開けたが、村の男の顔は見ずにめんどくさそうにいう。\n\n\n蒲留仙 ......うむ、......うむ、話もね......。\n\nそして淡巴菰の火が消えているのに気が注いたようにして、足許の燃えさしに吸いつけて喫む。村の男はそのさまをじろじろと見る。\n\n\n村の男 ほんとに学者という者は、辛抱がええな。あの赤い星が、雷のような音をして東へ飛んだ年にも、ここにおったというじゃありませんか。蝗が雲のようにこの村へやって来た時にも、先生はここにおりましたな。久しいもんじゃ、辛抱がええ。張公の媽媽の気違いも、先生の足許にゃ寄れないぞ。\n蒲留仙 うむ......、うむ......、張公の媽媽か。\n\n蒲留仙は雁首の大きな煙管に淡巴菰を詰めかえながら相手にならないので、村の男は歩きだした。\n\n\n村の男 やれ、やれ、御苦労なことじゃ。茶と淡巴菰の接待をして、蛇の色女に嘗められるような話を聞こうというのじゃ。\n\n二人の旅人が下手から来て、涼亭の口で村の男と擦れ違って入って来る。その一人の甲は、菰で包んだ量ばった四角な包を肩に乗せ、乙は小さな竹篭を右の手に持っている。蒲留仙の眼はその旅人へといく。\n\n\n蒲留仙 ああ、旅の方だね、暑かったろうね。休んでいったらいいだろう、茶も淡巴菰もあるから、あげるよ。\n\n旅人甲は、蒲留仙の方を見てから会釈をする。\n\n\n旅人甲 ありがとうございます。【それから乙の顔を見る】休ましてもらおうじゃないか。\n旅人乙 よかろう、一ぷくさしてもらおう。\n\n旅人の二人は蒲留仙の向いへいって、荷物を置き、笠を除って腰をかける。蒲留仙は煙管を置いて、柄杓を持ち、壷の中の茶を二つの碗に入れる。\n\n\n蒲留仙 茶をおあがり、淡巴菰もあるから、喫みたい方は、勝手におあがり。\n旅人甲 それではお茶をいただきます。\n旅人乙 私もお茶を先ずいただきまして、後で淡巴菰を一ぷくいただきます。\n\n旅人甲から先に起って蒲留仙の前へいき、蒲留仙の汲んだ茶を取って飲む。\n\n\n蒲留仙 遠慮なしにおあがり、もっと入れてあげよう。\n\n蒲留仙は柄杓を持ったままである。旅人甲は二はい目の碗をだす。\n\n\n旅人甲 それではすみませんが、もう一ぱいどうか。\n蒲留仙 いいともたくさんおあがり。\n\n蒲留仙は旅人甲の碗を取ってそれに茶を汲んでやる。旅人乙は碗を置く。\n\n\n旅人乙 私は淡巴菰を一ぷくいただきます。\n蒲留仙 さあさあおあがり、淡巴菰はその袋の中に入っている。\n旅人乙 ありがとうございます、それではいただきます。\n\n旅人甲は二はい目の碗をもらって、それを持ってはじめの所へ行って腰をかける。旅人乙は皮袋に手をやって口を開け、中から淡巴菰を撮みだして煙管に詰め、足許の燃えさしの火でつけて、一すいして煙をだした後に、これもはじめの所へいって腰をかける。蒲留仙ももう煙管を持って旅人の方を見ている。\n\n\n蒲留仙 お前さん方は、どこから来なすった。\n旅人甲 労山からまいりました。\n蒲留仙 ほう、労山から来なすったか、それはくたびれたろう。それにこの二、三日は暑いから......。\n旅人甲 しかし、山の中はたいへんに涼しゅうございますね、路路いい水はありますし。\n蒲留仙 水はいいよ、水のいいのは、山の中にいる者の一徳だ。この茶は、あの谷から湧く水だよ。\n\n蒲留仙は振りかえって後の人家の屋根越しに見える丘に煙管をさす。\n\n\n旅人甲 そうでございますか。\n旅人乙 だからお茶でも味がちがいます。\n\n旅人甲は碗を持ったなりに、旅人乙は煙管を口から離して、ちょっと体を前屈みにし、涼亭の軒越しに眼をやる。\n\n\n旅人乙 なるほど、石があって、木があって、仙人のいるような山でございますね。\n旅人甲 なるほどそうじゃ。\n\n蒲留仙は体の位置をなおして、旅人乙の顔を見る。\n\n\n蒲留仙 仙人といえば、お前さん方は、珍らしい話を聞いてやしないかね。何か面白そうな話があるなら聞かしてもらいたいが。\n旅人乙 面白いはなし、そうでございますね。\n蒲留仙 どんな話でもいいよ。狐の話でも、蛇の話でも、狼が女になって人間と夫婦になったというような話でも、悪人の話でも、鬼に逢った話でも、なんでもいいよ、わしは毎日、ここにこうしていて、旅の方に、いろいろの話をしてもらっているよ。\n旅人甲 それは面白い趣向でございますね。べつにこれという面白い話もございませんが......、そうですな、私が家を出るすこし前に、こんな話を聞きましたが。唐といいまして、人の噂では、匪徒の仲間入りをしているという男ですが、その男が二更のころに、酒に酔って歩いておりますと、その晩は月があって、紅い着物を着た女が路のはたに蹲んでおるから、からかってみるつもりになったでしょうね。そっと背後から行って、くすぐると、女が顔をこっちに向けたが、どうでしょう、その顔は、目も鼻もない、つるりっとした白い肉のかたまりじゃありませんか。さすがの男も、きゃッといったきりで、そのままそこへ気絶してしまったのを、ちょうど仲間の者が通りかかって、家へ舁いで来て、介抱しましたから、やっと正気になりました。目も、鼻も、口も、何もなくてつるりっとしていたといいますからね。【と、旅人乙の方を向いて】お前さんがこの間話した、子供を斬った傷の話も面白いじゃないか。\n旅人乙 そうじゃ、その話をしよう。それは昔だれかに聞いた話だが、【と、煙管の吸殻を吹いて煙管を側へ置きながら蒲留仙の顔を見て】宋城の南店に宿をとっておった男が、夜、月の晩に歩いておりますと、前を老人が歩いてて、月の光で手にしている帳簿のような物を読んでおりますから、お爺さん、何を読んでおりますかと聞くと、これは婚牘じゃ、お前さん達が婚礼のことを書いてあるというそうです。そして、米市に行ったところで、向うの方からめっかちの嫗さんが、三つ位の女の児を抱いて来ましたが、老人はそれを見ると、あの女の児は君の妻じゃといいますから、その男はひどく怒って、めっかちの伴れている子供を妻にしてたまるもんか、けしからんことだといって、伴れている従者にいいつけて、その女の児を殺しにいかしました。従者はいいつけ通り、後からそれをつけていって、人中で女の児の顔を切ってから逃げましたが、後十四年たってその男が高官にのぼったので、刺史をしていた人が娘をくれましたが、その女は綺麗でしたが、平生も眉間へ鈿をさげているので、気をつけてみると眉間に傷痕があります、聞きますと、三つの歳に乳母に抱かれて市中を歩いていて、狂賊に刺されたといいますから、乳母の容貌を聞きますと、めっかちであったといったそうですよ。" }, { "role": "assistant", "content": "\nその時いつの間に来たのか葉生が来て、下手の入口を入った所に立っていたが、いたずらそうな碧眼をぐるぐるやると共に口をだした。\n\n\n葉生 そりゃ京兆眉憮よ。【葉生は得意そうにして、蒲留仙の前へ来て】先生、今日は、他に何かいい話がありましたか。\n\n蒲留仙は葉生の胴の方から見あげて、ちらっとその顔を見る。\n\n\n蒲留仙 ああ、君か。\n葉生 先生お暑いじゃありませんか。【と、茶の方に眼をやって】早速ですが、お茶を一ついただきますよ。\n蒲留仙 いいともおあがり。\n\n旅人二人は話の腰を折られて不快な顔をして見せたが、それとともに遠い行手を思いだしたように、\n\n\n旅人甲 それじゃ、もう出かけようか。\n旅人乙 そうじゃ、出かけよう。\n\nそこで旅人甲は空になった碗を持ち、旅人乙は煙管を持って起って、蒲留仙の前へ行って、それぞれもとの所へ置いた。葉生はもう自分で茶を入れて起ったなりに飲んでいる。\n\n\n旅人甲 どうもありがとうございました。\n旅人乙 どうも御馳走になりました。\n蒲留仙 どうもありがとう、いい話を聞いた。ではお大事に。\n\n旅人は会釈してから荷物の所へいき、笠を着け、荷物をはじめのようにして出ていく。\n\n\n葉生 先生、今の話は、京兆眉憮の話でしょう、女の児を刺した話は。\n蒲留仙 そうだね、似た話だね。\n葉生 あれですよ、【二はい目の茶を入れながら】あの話があちこちに伝わっているまに、あんなになったのですよ。\n蒲留仙 しかし、それでもいいよ。人の頭をあちこちと潜っていると、違った味のある話になることがあるからね。君は、また何か面白い話を聞いて来てはいないかね。\n葉生 一つ面白い話がありますよ。それを話しに来たのです。\n蒲留仙 そうかね、それはありがたい。\n\n蒲留仙は思いだしたように煙管の雁首の方を膝の上に持って来て、新らしく淡巴菰を詰める。\n\n\n葉生 私も淡巴菰をいただきますよ。【急いで茶を飲んでしまって、旅人の持っていた煙管を取って淡巴菰を詰め、それに火をつけて、壷の隣へ行って腰をかけ】先生、昨夜聞いた話ですがね。\n蒲留仙 そうかね。\n葉生 莱州から来た秀才の話ですから、つまらない旅人の話とは違いますがね。\n蒲留仙 そりゃそうだろう。\n\n葉生は淡巴菰をうまそうにすぱすぱ喫んで、ちょっと話にかからない。蒲留仙はゆっくりと淡巴菰の煙を吹かす。\n\n\n葉生 その話はね、先生、周立五という男の話ですがね、その男は、顴骨がひっこんでて、頤がすっこけ、口鬚も生えないで、甚だ風采のあがらないうえに、三十二になっても、童子の試にとおらないという困り者でしたが、お父さんに随いて荊南へ行って、南城の外倉橋の側に宿をとっていると、夢に雉冠絳衣の人が来て、その人は右の手に刀を持ち、左の手に鬚のある首を持っているのですが、その人が周の榻の前へ来るなり、いきなり周の首を斬って、手に持っていた首と易えて行ったので、周はびっくりしてお父さんの足にだきつき、大声をあげたから眼が覚めたのです、眼を覚して、首を撫でてみますと、べつに異状もないので安心したのです。【話し話し吸殻を吹いて、二ふく目の淡巴菰を詰め、それに火をつけて旨そうに吸い】ところで、その周ですが、それから数日すると、顴骨が高くなり、頤の骨が張って、そのうえ口鬚が生えてりっぱな顔になりましたが、それからまた一年半ばかりすると、また夢に鬚の白い黒い冠を着けた老人が、長い塵尾を持って、金甲神を伴れて来て、お前の腹を易えてやろう、といったかと思うと、伴れている金甲神が、もう刀を抽いて、周の腹を裂いて、その臓腑をだして滌って、もとの通りに収め、その上に四角な竹の笠を伏せ、釘をその四隅に打ったが、その椎の音が周の耳に響くがすこしも痛くはなかったそうですよ。【三ぷく目の淡巴菰を詰めて、またそれに火をつけて吸いだす】そこで釘が終ると、老人は塵尾を揮って、「清虚鏡に似たり、元本塵無し」といったのですが、周の夢はそれと一緒に醒めたのですが、それから周の文学が急に進んで、終に侍講学士になったというのです。これは秀才のいったことですから、無学な旅人などのいった話と違いますよ。\n蒲留仙 うむ、そうだろう、面白い話だ、いい話だ。\n葉生 さっきの話とは違いますよ。\n蒲留仙 違う、いい話だ。では忘れないうちに書いて置こうかね。\n\n蒲留仙は煙管を置いて左側を向き、静かに筆を執って墨を含まし、一方の手に紙を持って、何かそろそろと書きはじめる。葉生はそれをじろじろ見ながらまた新らしい淡巴菰を詰めて喫みだす。\n\n\n蒲留仙 面白い話だ。\n葉生 その話はちょっと面白いでしょう。\n蒲留仙 面白い、面白い、あれも、これも面白い。\n\n蒲留仙は頻りにうなずきながら筆を動かしている。葉生は黙って淡巴菰を喫みながらそれを見ている。\n\n\n蒲留仙 面白い、面白い。\n\n葉生は吸殻を吹きだして、かちりと音をさして煙管を置く。\n\n\n葉生 先生、今日はこれで失礼します、すこし急ぎますから。【と、起ちあがって、その時顔をあげた蒲留仙にちょっと会釈してから、はじめに来た方へ歩きながら】また、明日でもいい話を持って来ます。\n蒲留仙 ああ、また頼むよ。\n\n蒲留仙はそのまままた俯向いて筆を動かしている。\n李希梅がそこへ静かに入って来る。\n\n\n李希梅 先生。\n\n蒲留仙はうっとりした眼をあげる。李希梅はそれに向ってうやうやしく話をする。\n\n\n蒲留仙 李君か、よく来た、まァ掛けたまえ。\n李希梅 はい。\n蒲留仙 茶はどうだね、あげようかね。\n李希梅 あとでいただきます、ほしくはありませんから。\n蒲留仙 では淡巴菰は。\n李希梅 は、今は、何もほしくはありませんから、あとでまた。\n蒲留仙 では、まァ掛けたまえ。\n李希梅 はい。【蒲留仙の左側へいって腰を掛けながら】先生、今、葉生が来ていたのでしょう。\n蒲留仙 来ていたよ、【と、筆を置き、紙を巻いてそれも硯の側に置いて】逢ったかね。\n李希梅 逢いました。今日は、あの男、どんな話をしていったのです。\n蒲留仙 いや面白い話をしていったよ。\n李希梅 今、世説にある話をしやしなかったのですか。\n蒲留仙 どうして、君は、それを知ってるかね、【笑い顔をして】聞いたかね。\n李希梅 これが、【と、袖に手を入れて古い汚い書籍をだして】これがそこに落ちていたのですよ。きっとあの男が淡巴菰を喫む材料に持って来たものですよ。【と、嘲けるように笑って】どの話をしたのです。\n蒲留仙 周立五が夢に首を易えられ、腹を洗われる話だよ。\n李希梅 先生は御存じになってて、黙って聞いていらしたのですか。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " とお母さんは僕のために弁じてくれた。実際それに相違ない。\n「謙一、お前一緒に行くかい? 大人と一緒に歩いても詰まらないだろうね?」\n とお父さんは、今度は直接に僕の意向を求めた。余り不意だったので、僕は即座に返答が出なかった。\n「毎日汽車に乗るんでは、子供は倦きてしまうからね」\n とお父さんはなおお為めごかしにしようとした。僕はもうこの時には悉皆落ち着いて莞爾と笑ってやった。\n「謙一は無論喜んでお供を致しますよ。旅行は好きですもの」\n とお母さんが註解してくれた。\n「連れて行こう。大勢が然うなっているようだから敵わない。三輪君の家でも細君が謙一の同伴を三輪君の出発条件のように話していた。謙さんが御一緒なら私も安心ですと頻りに言っている。瘤がついて行くと通信以外に何か安心なことがあると見えるね」\n とお父さんは冷かすように言った。\n「そんなことを想像なさるほど男というものは自尊心がないのでしょうかね?」\n とお母さんは逆捻じを食わせて、\n「けれども団さんが御一緒ですから、三輪さんの奥さんも多少警戒なすったのでしょうよ」\n と悉皆三輪夫人に託けてしまった。\n「団君こそ好い面の皮だ。しかしそれは然うとして、先刻隠居でもお父さんとお母さんが謙一を是非連れて行くようにと言っていた。尤もこの方は謙一は我儘者だから男親がいないと手に余るだろうというのが表向きの理由だったけれどもね。要するに皆の懇望だから、原動力は何の辺にあるか知らないが、連れて行くことにしようよ」\n と言って、お父さんは到頭僕に随行を仰せつけることになった。\n さあ、斯う局面が開展して来ると僕も今までのように呑気に構えてはいられない。殊に自分のことが自分で出来ないようならお供はお母さんから願って帳消しにして貰うからと言い渡されている。嚇かしとは思うけれども油断がならない。そこで床も毎朝自分で上げなければ愛子や歌子がいつ何んな言いつけ口をするかも知れない。靴もお蔦にばかり磨かせていると見つかる虞がある。取り分けて心配なのは気紛れなお父さんがひょっとして旅行を思い止まりはしまいかということだ。計画と実行を全く別問題にしている人だから実際心許ない。就いては僕は団さんの来るのが待ち遠しかった。お父さんも三輪さんもあの人を当てにしているから万一工事の都合で手が抜けない等と言われると何う変ずるかも分らない。中止とまで行かなくても延期ぐらいにはなり兼ねない。\n 斯ういう次第だったから、日曜の朝、団さんを客間へ取次いだ時には僕は吉か凶かと気が気でなかった。しかし僕が案じるまでもなくお父さんは団さんが坐るか坐らないに、\n「何うだね? この間の話は?」\n と約束通り確答を要求した。\n「今日見てやる。しかし余り期待しちゃ困るよ」\n と団さんは答えた。\n「それじゃ駄目かい?」\n とお父さんは失望したようだった。確答を聞くまでと思ってその場に坐り込んだ僕も全く当が外れてしまった。\n「駄目なこともないが、日本家屋で完全な戸締りということは到底出来ない相談だからね」\n「何を言っているんだい? 君は」\n「何をって、君は旅行するから戸締りを一つ見てくれとこの間頼んだじゃないか?」\n と団さんは戸締りのことを言っているのだ。まだ脈がある。\n「成程、それもあるが、君は一緒に行くか否かと訊いているのさ」\n「それは無論行くさ。そのことも報告しようと思って来たのさ」\n「それなら然うと早く言えば宜いに」\n とお父さんは焦らされたものゝ満足のようだった。僕の安心したことは言うまでもない。\n「旅行は交際関係で第二の問題さ。戸締りの依頼は事務関係で第一の問題さ。第二から第一へ移らないと順当らしくないかね? 何うも君達はその通り頭脳が杜撰だから危いよ。そこで友情として迚も黙って見ていられないから、僕は万障繰り合せて君達を引き廻してやることに定めて来た。お礼を言い給え」\n と団さんは相変らず理窟っぽい。\n「それは有難い。それさえ聞けば戸締りの方は又今度でも宜い」\n「否、お供をするとなると片付けて置かなければならない仕事があるから、もうそう度々は来られない。今日序に見てやろう。しかし君のように絶対に泥棒の入れないようにという註文は無理だぜ。日本家屋は入ろうと思えば素人にでも結構入れるのだから、まず泥棒を誘惑しないぐらいの程度にしか出来ない」\n「君に似合わない消極的なことを言うね。建築を商売にしている人に完全な戸締りが出来なくちゃ仕方がないじゃないか?」\n「実は戸締りのことではこの間赤っ恥をかいたんだよ。以前大臣をしていた人が洋行するので、僕に屋敷の用心のことを相談した。僕はその人の考案も多少参酌して、要所々々を可なり厳重に固めてやったが、財政家だけに頗る念入りの男でね、自分で方々をコチ〳〵試めして見た末、『君、誰か泥棒の心得のあるものを一人紹介して貰えまいかね』という註文さ」\n「泥棒を紹介してくれは気に入ったね。矢っ張り君は人相が好くないと見える」\n「人相の問題じゃないよ。戸締りの試験をしようと言うのさ。ところで僕は有らゆる階級に知人があって交際は決して狭い方じゃないが、生憎と泥棒には一人も懇意なのがない。そこで持て余した結果警視庁へ行って井口君を引っ張り出した」\n「巧いところに気がついたね。彼のシャロック・ホームズなら確かに泥棒以上だよ」\n とお父さんは少し変った話になると無暗に嬉しがって小説の人物を引き合いに出す。この点は三輪さんと共通だ。\n「西洋人じゃないぜ。君の知っている彼の井口君さ。僕は彼の男に感服したのは今度ばかりじゃないが、実に豪いもんだね。種々と泥棒の道具を持って来て、此処は斯うして明ける彼処はあゝして外すと説明しながら、三十九箇所から入って見せたぜ。商売となると友達も親類も見境がなくなる男だから始末に負えない。僕は大いに面目を失したね。主人公も驚いたが、大工は呆れ返って、『彼の人は何ものですえ?』と訊いた。『警視庁の鑑識課長さ』と教えてやると、棟梁めツク〴〵井口君の顔を眺めていたが、到頭、『俺は悪いことは言わない。あなたは警視庁を止めて泥棒になった方が早うごすぜ』と忠告したので、皆大笑いさ。要するに井口君は泥棒の方で入ろうとしたら迚も防げるものでないということを実地に就いて説明してくれたんだね」\n「それはあの男のやりそうなことだけれど、職掌上怪しからんな。徒に泥棒のために気焔を吐いたようなもんじゃないか?」\n「然うじゃないよ。却って警視庁の為めに気焔を吐いたのさ」\n「しかし戸締りは全然無効だという結論になるじゃないか?」\n「否、然うじゃない。戸締りは火の用心同様警視庁でも始終宣伝している。いくら旋毛曲りの井口君でもそれに反対はないさ。しかしあの男は犯罪を専門に研究しているんだから、頭脳の中に石川五右衛門以来の知識が醗酵している。彼奴ぐらい巧者な泥棒はまず絶無の筈だ。そのオーソリチーが白昼公然入って見せるぞと断って入るのだから仕事は至って楽さ。ところが真暗闇の晩に無断で見つからないようにという条件をつけられたら鑑識課長だって手も足も出やしない。自分でも然う言っていたよ。そうして、『泥棒の仕難くなる条件は戸締り以外に沢山あるのですから、厳重にして戴くのは至極結構ですが、余り神経を起す必要はありませんな。研究して見ると泥棒ぐらい愚な商売はありません。一ヵ月の稼ぎ高が平均十八円五十銭です。僅かこれだけの収入を得るために多大の危険を冒すのですから、損益さえ分らない低能児ばかりです。決して恐れるに及びません。家屋相応な戸締りを施して余他は悉く私達警察官に信頼することですな』と大臣に説法したぜ。何んな場合にでも警察力の宣伝を忘れないのには感心した。面白い男さ」\n と団さんは語り終って、\n「時に今日は三輪君は来ないかね?」\n と第二の問題に移る予定と見えた。\n「今呼びにやるよ」\n と答えて、お父さんは僕を顧みた。言葉を待たずに僕は立ち上った。斯ういう風でなければ秘書役は勤まらない。\n 三輪さんの家はつい目と鼻の間だ。物の五分とはかゝらない。僕が玄関の呼鈴を鳴らすと、女中ではなくて、奥さんが出て来て格子戸を明けて呉れた。\n「お使いですか? 御苦労さまですね。今床屋へ行っていますから、帰り次第上らせましょう」\n と毎度だから僕の顔さえ見れば御主人を無心に来たものと認めてしまう。これでは途中で言い方を考えるにも及ばなかったと思った。そこでその儘一つお辞儀をして引返す積りだったが、奥さんは僕を呼び入れて、\n「謙さん、圭ちゃんがお風邪だそうですが、如何ですか?」\n と訊いた。\n「最早悉皆快いんです」\n と僕は初めて口を利いた。\n「それは宜しゅうございましたね」" }, { "role": "assistant", "content": " と奥さんは安心したように言って、\n「謙さん、あなたは嬉しいでしょうね――お父さんの御旅行のお供をすることになって」\n と最早知っている。お母さんと万事打ち合せが出来ているのだ。\n「その旅行の御相談に団さんが見えていますから、何卒お早くと仰有って下さい」\n と僕はニコ〳〵しながら答えた。\n「団さんも御一緒のようでしたか?」\n「えゝ、御一緒です。団さんが面白いところへ方々案内して下さるそうです」\n「羨ましいわね。私もお供したいくらいですわ。何れ後から改めてお頼み致しますが、能く宅の主人の面倒を見てやって下さいね。それからあなたはお父さんの腰巾着ですからね。何処へお出でになってもお父さんに固く縋りついているのですよ」\n「大丈夫ですよ。旅で迷子になっちゃ大変ですからね」\n「宅の主人は年を取った子供のようなものですから、旅行は真正に心配でございますわ。それに謙さんのお父さんも、然う言っちゃ何ですけれど、気が合って仲が好い丈けに宅と似たり寄ったりの方ですからね。実際心細いんですよ。けれども謙さんは悧巧な子供というよりも、年を取らない大人のようですって、私、この間も奥さんにそう申上げたくらいですから、何卒年を取った子供の面倒を見て戴きたいと存じましてね......」\n と奥さんはナカ〳〵僕を放さない。此方が相手にならなくってもこの通りだから、お母さんが来ると半日仕事になるのも道理だと思った。幸いそこへ三輪さんが帰って来たので、僕は助かった。\n「あなた帽子が違っていやしませんの? 又」\n と奥さんは早速咎めた。細君によっては第三者のいるところで、良人を扱き下すのを得意としないまでも情愛の移っている証明と心得ている。\n「然うかな? 少し大きいような気がしたけれど、髪を刈った所為だと思っていた。見てお呉れ」\n と三輪さんは帽子を脱いで奥さんに渡した。この通り最初から諦めて自分の持ち物の識別を他に頼むぐらいの頓着なしだから、奥さんも世話が焼ける。尤も他所とは家風が異って帽子でもネクタイでも皆奥さんが買って当てがうのだそうだから、自分で撰って来る人ほど見覚えのないのも無理はない。\n「矢っ張りあなたのですわ。この紺は何うして斯う早く褪めたのでしょう?」\n と奥さんが和製で間に合わせて置いたのに思い当っても、\n「へゝん、乃公だってそう毎日間違えて来るもんか。それに考えて見れば今日は早かったから乃公一人だった」\n と三輪さんは自慢にもならない説明を添えて威張っている。僕はこの間に、\n「それではお早く。左様なら」\n と言って駈け戻った。\n 間もなく三輪さんが来た。奥さんから聞いたと見えて、団さんと顔を合わせると、\n「行くってね」\n と嬉しそうだ。\n「行くさ」\n と団さんは相変らず落ちつき払っている。\n「君が味方について呉れゝば百人力だ」\n と三輪さんは例によって言うことが大袈裟だ。\n「宛然お家騒動でも起すようだね」\n とお父さんが笑った。\n「お二方がお揃いになったからソロ〳〵用談に移りますかな。しかしその前に僕は一つ、お二方の御承知を願って置かなければならないことがある」\n と団さんは妙に改まった口調で切り出した。\n「何でも承知するよ。ねえ、三輪君」\n「宜いとも。余り話がトン〳〵拍子だから条件をつけられるのは覚悟の前だ」\n とお二方は唯々諾々という体を示した。\n「実は僕は娘を連れて行かなければならない。妻が是非とも然うして呉れと言うので、到頭首を縦に振ってしまったんだが、君達はそれでも差支ないかい?」\n と団さんは平常に似ず元気のない口調で言った。\n「そんなことなら些っとも遠慮は要らない。君は案外律義だね。僕も実はその縦に振った方だよ」\n とお父さんが答えた。\n「何だい? 君も子供を連れて行くのかい?」\n「然うさ。この小僧が何うしてもついて来ると言うから仕方がない」\n「案外君も信用がないんだね。三輪君は何うだね?」\n「僕は縦も横もない。子供がないんだからね。うっかり振ろうもんなら妻がついて来る」\n と三輪さんが零したのには僕も可笑しくなった。\n「子供のないのは分っている。その口吻じゃ矢っ張り信用のない組だね」\n と団さんは皆自分の組に入れてしまう。\n「何故さ?」\n と三輪さんが訊くと、\n「何故って、子供をつけて出そうというのは嬶に魂胆があるからさ」\n「君は酒を飲むし、特に端正を以て鳴る方でもないようだからそれは当然だが、僕のは違うよ。僕と三輪君のは......」\n とお父さんが、自分達の立場を説明しようとしても、\n「違うもんか。程度の問題だ。それは表面からは無論そうは言わなかろうさ。君のところでは大方家との連絡を保つためとか何とかいう触れ込みだったろう?」\n「能く知っているね」\n「それぐらいのことが分らなくて女房の操縦が出来るもんか。文学者というものは案外人情に迂遠だね」\n と団さんは一寸気焔を揚げて、\n「僕のところでも矢っ張りその手さ。『田鶴子はイヨ〳〵女学校を卒業しますが、お嫁に行ってしまうと、私を御覧になってもお分りの通り、全く家庭の奴隷に成り下り果てまして、世間は絶対に見られませんからね』と序ながら厭味が出て、『今の中ですもの、何卒お供をさせてやって下さいまし。もう十八ですから、お役にこそ立て、決して足手纒いにはなりますまい』と妻の曰くさ。見す〳〵敵本と分っていても、理の当然で何うも仕方がない。同じことならばと思って、到頭快く引き受けてやった。稀には先方の言い分を易々と通して置かないと後から口を利けないからね」\n「厭に駈引があるんだね。君は平素が悪いから然う曲解して僕達まで不信用のように思うんだよ。しかし子供の為めから言っても旅行は無益のことじゃないから、それで細君が満足するなら一挙両得さ」\n「謙さんも話相手があると退屈しなくて宜い。益〻トン〳〵拍子だ。僕も着物ぐらい畳んで貰えるだろうからね」\n と三輪さんは最早田鶴子さんを当にしている。\n それから三人はイヨ〳〵本題に移った。僕はお父さんの書斎から地図を持って来て客間の唐机の上に広げた。平常はお客さんがあると引っ込んでいなければならないのだが、今日は僕が出ていないと用が足りない。斯うやって大人の仲間に入って稍〻一人前の待遇を受けるのは恐ろしく肩身の広いものだ。真正の職掌は瘤役でも名義は秘書係だから決して冗員ではない。現に最近の旅行案内を買いに雑誌屋まで飛んで行って来た。団さんは大分方々を歩いているようだが、三輪さんは御郷里の熊本へ両三回行った丈けで、それも途中は少しも見ていないらしい。お父さんに至っては子供の時の修学旅行以外一切東京を離れたことがないから箱根から彼方には生蕃がいると心得ている。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「......てまえも黙ってはいられません。第一、主人李応さまを侮辱されたも同様な仕儀では、このまま立ち帰れぬと申しますと、ならば馬に帰してもらえと、家来大勢を呼んで袋叩きとなし、遮二無二馬の背へくくし上げられてしまい、ぜひなく一応恥をしのんで戻ってまいったような次第でございまする」\n 一ぶ一什を聞くと、ついに李応も怒髪を逆立てて言った。\n「いまはもう堪忍ならぬ。近ごろの宗家の小伜どもは祝氏ノ三傑などといわれていい気になり、われら同族の長上までを軽侮している風がある。――やいっ、馬を曳け! 者ども」\n たちまち、彼は武装して、馬上となった。獅子面の胸当に、鍍金鋼のかぶとをいただき、背には五本の飛閃刀をはさみ、またその手には長鎗をかいこんだ。そして怒れる鳳凰のごとく、独龍岡へむかって馳け出した。\n「すわ、おあるじの一大事だぞ」\n と、荘兵二、三百も馳けつづいて行き、楊雄、石秀もまたこれをただ眺めてはいられない。ともにあとから追っかけて行った。\n 山腹の総本家、祝氏の門では、はやくも偵知していたとみえる。三重の城壁と二つの荘門を堅め、銅鑼、鼓笛を鳴らすこと頻りに急であった。――そしてたちまち、城門の吊り橋をさかいに、同族李応の人数と睨みあいの対峙となった。\n「申すことあり! 祝の小伜ども、これへ出て来い」\n 李応が呼ばわると、\n「オオなんだ! 麓の伯父」\n と、三男の祝彪が、これも縷金荷葉のうすがねの兜に、紅梅縅しのクサリ鎧を着し、白馬紅纓の上にまたがって、三叉の大鎗も派手派手しく、部下百人の先頭に立って城門の外へ出てきた。\n「彪だな、きさまは。こらっ、いつのまにきさまはそんな生意気口を覚えたか。その口にはまだ、おふくろの乳の香が消えておらんじゃないか。そもそも、きさまのおやじとこの李応とは、切っても切れぬ同族であるのだぞ。家柄として、祝家を宗家と立てているが、血からいえば、きさまらはわが輩の甥ッ子と申すものだ。......しかるに、何ぞや」\n「はははは。李家の伯父。無理をしなさんな。セイセイ息を喘っているじゃないか。その先の文句は彪からいってやろう。――おれたち兄弟の手に落ちた梁山泊の廻し者、時遷という蝙蝠面をした小盗人を、返してよこせというのだろうが。どうしておめおめ返せるものか。梁山泊はわが祝家荘の敵国だ」\n「だまれ、ばかもの」\n「ばかとは何だ。さては李家の伯父も、欲にかかって、いつのまにか、ぬすっとたちの後ろ楯に廻ったな」\n「よく聞け。あの時遷という男は、決してさような者ではない」\n「ないといっても、当人が白状している。道づれの楊雄、石秀の二人に誘われ、梁山泊へ行く途中だったと、拷問にたえきれず、白状しているんだから疑いはない。――それを戻せというからには、李家も臭い。梁山泊の手先になって、宗家のわが家を乗っ取ろうという腹か」\n「青二才。いわしておけば」\n「何を、老いぼれ」\n 祝彪の朱い姿が、飛焔のごとく、李応へせまった。――李応の長鎗、彼の三叉の鎗が、からみあって、音を発し、閃々といなずまのような光を交じえ、とたんに、両勢入りみだれて陣鼓、喊声、一時に鳴りとどろき、いずれも早や、退くに退けないものとなったが、そのうちに、城壁の高櫓から、二男の祝虎が狙い放した一すじの矢が、李応の姿を、どうと、馬の背から射落した。\n「や、や」\n 楊雄と石秀とは、仰天して、馳けよってゆき、「こいつは、しまった。おれたちのために、この人を死なせては」\n と、馬の背へ抱き上げ、なお何か、気丈な李応は、叫んでいたが「――ひとまず退け」と、麓へさして、総人数、なだれて帰った。\n 李応の矢傷はかなり深く、ただ、幸いに致命傷は外れている。石秀、楊雄は夜ッぴて、その人の病室にかしずいた。そして唯々「申しわけない」を繰り返していると、病床の李応もまた、\n「......何の。こっちこそ、うんといって頼まれながら、その義も果たせず、おまけに、同族仲間の醜態をさらすなど、何ともはや面目ない」\n と、顔をしかめて、苦吟するばかりであった。\n げにも、不測な禍いは、どんな小事から生じるものやら分らない。鼓上蚤の時遷が、ふと、宿屋の“時報ノ鶏”をちょろまかし、それを三人して酒の肴に食ってしまったなどの一些事が、かかる大事におよぼうとは――と、楊雄、石秀も今はただ臍を噛んで悔やむばかり。\n しかも事件はこれきりですみそうもない。祝氏と李家との同族の仲には大きなヒビが入ってしまった。そのうえまた梁山泊というものが、相互の感情対立を事難かしくし、祝氏の三兄弟は、その疑念のまま、さらに二段三段の追撃策を取って、徹底的な圧迫を、李家へむかって下さんものと、密々、うごいている風だった。\n「ああ、何とも困ッた。二人がここで身を退けばいいというだけのものではなくなった。どうしよう。石秀。おれたちとしても坐視していられまいが」楊雄が頭をいためての嘆息に、石秀もついに、自分の考えを持ち出した。\n「このうえは、君と俺とで、梁山泊へ行って“馳け込み願い”と出てみようじゃないか。なにしろ、相手が相手だ、おれたち二人の力では歯も立たぬ」\n「む。......馳け込み願いか。よかろう。だが一応は、杜興にも相談し、李応大人にも、計ってみた上でなければ」\n と、さっそくこれを、杜興から病床の李応にはなしてみた。李応は一日じゅう考えていたが、このままでは、李家の自滅と彼も観念したものか。反対はしなかった。そしてただひたすら、時遷助け出しの一義が果たせなかったことを、深く病床から詫びているだけだった。\n\n ここ梁山泊の聚議庁では、その日、山寨の群星が居ながれて、大評議がひらかれていた。\n 楊雄、石秀、ふたりの“馳けこみ訴え”が議題にとりあげられていたのである。\n 総統の晁蓋が、まず最初の“決”を取った。\n「よろしい、わかった。二人の入党はみとめるとしよう。しかし、楊雄と石秀の身素姓や、その人間の保証は、たれの推挙になっているのか」\n「戴宗です。――先ごろ戴宗が薊州へ旅したとき、石秀を知り、その石秀の義の兄として、楊雄もつれて来たわけで」\n と、軍師呉用が、そのそばで、説明をあたえていた。\n「だが」\n と、晁蓋は、議事をもどして、\n「そのほかに、もう一人、鼓上蚤の時遷っていうのが、連れじゃあないか。その連れの男が、気に食わんな。......“時報ノ鶏”を盗んで食っちまうような小盗ッ人......公徳心のない乞食野郎......そういう人物は梁山泊へ入れたくない」\n「ですが、仔細を聞くと、一芸一能はあり、性根もいたって好い奴だそうですが」\n「しかし君」と、晁蓋はやや色をただして、呉用のとりなしに反駁した。「――われわれ梁山泊一味の者は、かつて王倫をここで断罪にしていらい、義をとうとび、世間へは仁愛をむねとし、かりにも非道の誹りや恨みを民百姓に購わぬよう、仲間の内は、古参新参のへだてなく、和と豪毅の結びで、一家のように生き愉しもうと、天星地契廟の前で、かたく誓いあってきているのじゃないか。......そんな、鼓上蚤とかいう蚤虱みたいな奴は、入れるわけにはゆかんよ。......ましてやだ! そんな人間を助けるために、ここの人数をくり出すなどはもってのほかだ。取り上げるわけにはゆくまい」\n「いや、おことばですが」\n と、それまで黙っていた及時雨の宋江が、ここで初めて口をひらいた。\n「あながちには申せません。鼓上蚤といえ、やはり一個の人命ですから。......それに捕まッた原因は“時報ノ鶏”をムシリ食ったつまらん悪戯にすぎませんが、これを捕えた祝家荘では、梁山泊の廻し者として、声を大に、われわれを誹謗しているとのことです」\n「副統――」と、晁蓋はつねに一目おいて敬愛している宋江のことなので唇もとに微笑をみせながら「いつになく、このことでは、さいぜんから、ご熱心なお顔色ですな。どうしてですか、こんな小事件に」\n「いや、事は小さきに似ていますが、なかなかこれは将来の大事を孕んでいる問題です。――なぜならば、祝氏ノ三傑をはじめ、かの独龍山三荘の勢力というものは、こことの距離、地勢、その他いろいろな条件からみて、どうしても行くすえ、わが梁山泊と、雌雄を決せねばならぬ運命をもっておりますよ」\n「む、む」\n と、かたわらに居並んでいる呉用、戴宗、秦明、林冲、みな大きくうなずいた。" }, { "role": "assistant", "content": "「のみならずです。......祝朝奉は、その身、土豪の長として、領下の民百姓の汗をしぼり取り、財を富庫に充たして贅に倦んでいますが、なおその欲望の底では官職の栄位を求めています。......折あらば、官軍を手引きして、梁山泊を攻めつぶし、それを手柄に官へ媚びんとしているもの。――機先を制して、われから彼を挫くとすれば、今は絶好な潮時ですし、また鼓上蚤の出来した些事も、かえって、いい機ッかけと名分に相成りましょう」\n「............」\n「かつはここの梁山泊も、爾来、群雄が集まり、兵馬舟船なども厖大になってきたものの、あえて、非道な掠奪はやっていませんから、ここへ来てようやく、庫中の糧秣や予備の財もとぼしくなってきています。そこでもし祝家荘を襲って、彼の富をここへ移せば、まず数年はゆたかに兵馬を練っていられましょう。まざに一石二鳥三鳥です。......さらに私には、もひとつの望みがある。それは李応を味方に招きたいことです。祝氏の一子のため、不覚な傷を負ったようですが、同族の小伜と、つい控え目に、甘くあしらっていたせいでしょう。撲天鵰の李応は一人物です。なかなかそんな者ではありません。辞を低うして迎えるべき人物でさえあるのです。それだけでも大きな意義があるではありませんか」\n 満座、すっかり耳をすました。統領晁蓋もいまは黙ってきいていた。衆判すでにそれと一致した色である。晁蓋はついに言った。\n「わかりました。一切は先生におまかせする」\n「ありがとうございました。では、かくまで主張を通したのですから、このたびのことには、率先、自分が陣頭に出て当りましょう。出陣のしたく、隊伍一切の編成は、統領から軍政司の裴宣へお命じ出しください」\n これで大綱はきまった。\n あくる日は、出陣祭が催され、そして楊雄、石秀の入党も、同日、披露された。\n 相手は、一国の王侯にも比せられる勢力の祝氏である。五、六千の兵は持ってゆかねばならない。――で、山寨の留守には統領晁蓋のほか、劉唐、呂方、郭盛など、本営のかために残ることとなったが、出陣の方には、名だたる男ども、あらましの豪傑が、宋江の麾下にしたがって征で立った。\n すなわち、宋江を総大将に。\n そして、呉学究の呉用を軍奉行に。\n 花栄、李俊、穆弘、李逵、楊雄、石秀、黄信、欧鵬、楊林。これが三千人一軍。\n また、第二軍は。\n 林冲、秦明、戴宗、張横、張順、馬麟、鄧飛、王矮虎、白勝などの三千余人。\n それと遊軍の騎兵三百ずつが、両軍のあいだを、漠々と、駒の蹄を鳴らして出た。\n すべては、糧秣船とともに、金沙灘の岸と、鴨嘴灘の桟橋とから、ぞくぞく船列にのりこんで対岸へ押しわたり、そこでもういちど、戦闘態勢を組んで西へいそいだのだった。\n 日をへて、早くも祝家荘の領内へ着く。\n 敵の本拠、独龍山の影も、その日、空の彼方、昼靄のうちに早や指させた。\n「まず、偵察が先だが」\n と、宋江は、司令部とする幕舎を張らせて、粗末な椅子につくとすぐ、花栄とふたりで、仮に独龍山三荘図と称する、軍用絵図をひらいていた。\n「花栄君、どうもこれだけでは、よくわからんしまた、信用して、実戦の指針とするわけにはゆかないね」\n「もちろんです。何しろ、実測した絵図ではなく、俄か作製の案内図に過ぎませんからな」\n「特に、世間では、祝家荘の魔の道とかいわれている。万一の日の防ぎに、周到な用意がなされているのだろう。めったに、この線から先へは乗り込めまい」\n「まず、物見隊を入れてみましょう」\n「いや大勢はいけない。さりげない、探りを放してみるにかぎる」\n すると、幕舎の幕の間を割って、ぬっと、赭黒い面をつき出して言った者がある。\n「こころえた。あっしが行って、悉皆、道をしらべて参りましょう」\n「ああ、李逵か。きさまではいかん。ひっこんでおれ」\n「なぜです、先生」\n「おまえの二挺斧がものをいうのはまだ早い。人には人の能がある」\n「黒旋風では役に立ちませんか」\n「いざ斬り込みとなったら出て来い。――そうだ石秀と、そして錦豹子の楊林をこれへ呼んでくれ」\n やがて、二人は呼ばれて、宋江の幕舎へ入って来た。\n 楊林は、管鎗の使い手とか。先ごろ神行太保の戴宗が、その旅路から裴宣などとともに、梁山泊へつれて来た新入り仲間の一人である。\n その才を試してみようとするものか。宋江は、この男と、※(てへん+弃)命三郎の石秀とに、探りの役をいいつけた。\n「かしこまってござる」と楊林は、選ばれた身を誇り顔に「じゃあ、てまえは短刀一本、ふところに呑み、旅の祈祷坊主に化けて行きますから、石秀、貴公は錫杖の音を目あてに、俺のあとから見え隠れについて来給え」\n「いや、ただついて行くのも芸がない。この間までは薊州で、薪木売りを生活としていた私だ。薪木売りに身を窶して行きますよ。いざッてえときには、天秤棒も役に立つ」\n 二人は、その夜、身仕度を拵え、明ける早暁に村道へ入って行った。\n ところがである。――山の中へ深く入ってしまった。オヤ? と慌てて取って返し、里へ出たつもりでいたが、さて一軒の家にもぶつからない。\n「変だなあ?」\n 石秀は首をひねった。李応の館のあった所などは、方角の見当もつかないのである。半日以上、それからも、足を棒にして歩いたものの、まるで知恵の環か、迷路の藪にでも入りこんでしまったよう......。果ては路傍の大樹の下に、天秤をおろして、ヘタッと足を撫でていた。\n すると後ろの方から、ジャラン、ジャランと、錫杖の音がしてくる。石秀はその者の影を見るとおかしくなった。これもまた狐に憑まれたような恰好なのだ。破れ笠のひさしに手をかけ、元気もなく、ただキョロキョロと道ばかり見廻して来る。\n「おう、楊林。どうしたね?」\n「やあ石秀か。ヘタばりそうだ......。いくら歩いたって、並んでいるのは並木ばかり。犬の子にも出会わねえ」\n「いったい俺たちは、どこを歩いているのだろう。こんないい道があるのだから深山でもあるまいに」\n「ひょっとしたら、梁山泊の襲来ときいて、人間から豚や犬コロまで、さっと逃げ散ッてしまったものか」\n「そんなら部落の跡があるはずだろうに」\n「それもそうか......。するってえと、おれたちは魔魅に化かされているかな?」\n「よしてくれ。何かこう、ゾッとしてきた。......おや、へんだな。いま風に乗って聞えてきたのは人声らしいぜ」\n 半信半疑、また歩き出して、一叢の森道を抜けてみると、なんと、そこには忽然と、かなり賑やかな田舎町の一聚落がガヤガヤと喧騒していた。\n それはいいが、二人がぎょッと、目くばせをつい交わした。往来の人間は、すべて黄色い袖なしの“袍”を着て、袍の背なかには、大きく「祝」の字が染め抜いてある。――のみならずみな非常時らしい足拵えをかため、町通りの肉屋、酒屋、寺子屋、何かの細工屋、髪結い床の軒先にまで、鎗立て、刀掛けが、植え並べてある。\n いやもっと、物々しいのは、町会所の柵門で、刺叉やら鳶口のごとき物まで並べたて、火事櫓には、人間が登って、四方へ小手をかざしているふうなのだ。――すべてこれ、町じゅうが戦時態勢で、また、町じゅうの若い男女が、みな民兵と化しているすがたであった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでも睨まれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采する者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴の盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中に彼の大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。\n 拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城を拵えてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せて撚りを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説きに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。\n そのうちに、沢田があの通り若くして斃れることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいって了うのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすら稀に見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループを悉く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己れを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間の賞めるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐の差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りたいということに憧れて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。\n その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩を悪ざまにした、我輩の蒙った不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。\n\n冠省\n御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。\n扨て\nいろ〳〵御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其紀念を致したいのでございます。\nで其紀念興行(六月)を催すに何よりも吐胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。\n私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。\nどうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。\n只管に願上ます。\nこれまでの行がかり上いろ〳〵な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。頓首\n 三月十一日早朝\n沢田正二郎\n\n\n この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。" }, { "role": "assistant", "content": " 我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。\n 彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。\n 沢田が死ぬと新聞雑誌は非常なる報道をしたり記事で埋まったりしたけれども誰も一人も我輩のところへ沢田正二郎を聞きに来た新聞雑誌記者もなし、また聞きに来られても会って話をする時間があったかどうかわからない。\n 何にしても好漢沢田、我輩と握手をする為に東を志して西を向いて歩いていた、好会のようでそうして生涯遂に相合わなかったが、今や間違っても間違わなくても彼ほどに強い憧れをこの作に持っていた俳優は無かったのだ、それを思うとさすがの無情漢も暗然として涙を呑むばかりだ。\n それから大震災の後、本郷座の復興第一興行に当って市川左団次君の一座でこの大菩薩峠を興行したことがある。\n その時余輩は高尾山に住んでいたのだが、そこへ松竹から川尻清譚君だの植木君だのという人が見えて左団次一座があれを演りたいからとの申出であった、そうして脚色者としては菊池寛君に依頼したいとの先方からの希望つきで、菊池君も略ぼ承知らしい口振りであった、それからもう一つ、こんどの本郷座復興は帝都に於ける大震災後の大劇場の復興としては最初のものである、本郷座といえば松竹が高野の義人を演って初めて当りをとった記念の意味もあるというようなわけで、この興行にはかなり松竹大谷君の意志も動いているのであった、第一左団次自身が果してあれを進んで演りたい意気込みがどの程度まであったか知れないが、それをともかく動かしたのは大谷君の力と看なければなるまい、然し、大谷君がそれほどあの作に傾倒しているかどうかということは余程考えものである、兎も角も当時の歌舞伎劇団の中心勢力と見るべき左団次一党を動かして、こちらに花を持たせて置き、その次には著者を説いて活動写真に撮って大いに儲けたい、儲けてそうしてこの天災非常時の穴埋めにしたいというそろばんから割り出したものと見ることも一つの看方である。\n 併し余輩も考えた、今や大震災直後の人心を見るとすさび切っている、そうして市民が慰安を求むるの念は渇者の水を求めるようなものである、演劇というものは市民にとって娯楽物でも贅沢物でもない、全く必須の精神的食糧であるということがこの際最もよく分った、そういう必要があってわざわざこの山の中まで要求がある以上は辞退すべきではない、それではそういう意味でわたしも奉仕的に出馬をしよう、併しながらあの作はいろいろ嫌な問題を惹き起し、興行禁止を声明しているのだ、それを許す以上には立派にその意義と名分とを鮮明しなければならぬ、それにはまず都下の新聞関係者を招待して小生の意志を表明したい、それからまた左団次君その他とも会見したい、菊池君が脚色してくれるのは結構だがしかしこれも予め会見して意志を疎通して置く必要がある、その辺のこと宜敷頼むということを伝えた、そのお膳立もすっかり出来たということで余輩は東京へ出かけて行った。\n 松竹では芝の紅葉館へ東京の各新聞社の劇評家連を殆んど全部集めてくれた、城戸四郎君や川尻君も出席して席を斡旋して呉れた、然し余は実は斯ういうつもりではなかったのである、震災非常時の際ではあり、新聞記者諸君にもバラック建へ集って貰い、そうして小生は一通り興行承諾に対する意志を聞いて貰い謄写版刷でも出して直截簡明に震災非常時気分でやって貰うつもりであったのだ、然るに松竹ではやはり従来の例をとって記者諸君を招待したのだ、これは自分としては多少案外であったが、まあ松竹のして呉れるようにして置いてその翌日であったかまた同じ紅葉館の別室で城戸、川尻両君の立会いで菊池寛君と会見した。\n 一体、菊池寛君に脚色させるということは誰れの名指しであったか希望であったか知らないが、誰れにしても小生は自分の作物を脚色して貰う以上は予め意志を疎通させて置くと共に、出来上った脚色に就ては一応見せて貰わなければならない、そうして如何なる名家名手がやってくれるにしろ、原著者の作意精神に添わぬ時は御免を蒙るより外はない、菊池君とはその時が初対面であったが、文壇大御所というアダ名はその時分附いていたかどうかは知らないが、いろいろの文士連がいやに菊池君を担ぎ廻っていることだけは認めた、その以前にも菊池君が大菩薩峠を賞めたから、以て如何にその価値が分るなんぞというようなことを云い触らしていやに菊池を担ぐ者共が文壇や出版界にいるのが随分おかしいことだと思っていた、余輩の目から見れば、年齢にしては幾つも違うまいが、菊池君などは学校を出たての青年文士としか思っていなかったのである、その菊池君が大いに推薦するとか何とか云って取沙汰するのはおかしいと思った、一体あの文筆の仲間には皆んなそれぞれチェーンストーアーが出来ていてうっかり庇を貸そうものなら母屋をも取ろうとする仕組みになっていることを我輩も経験上よく見抜いていた。\n それに菊池君に脚色させては新聞、雑誌、出版界、劇作家連の間に設けて置く彼等文壇一味の伏兵が一時に起ってそれこそいいように母屋をまるめて了う魂胆は眼に見えるようでもある。\n 兎に角我輩はその席上では菊池君をおひゃらかしてしまったというわけではないが、肝胆を照らして頼むわけには行かないで、余計な事ばかり喋べり散らしたので城戸四郎君などはイライラしていたようであった、その席はそれで済んだが、後で菊池君が脚色を辞退して来てしまった、興行者側では当惑したろうが自分の方では一向当惑しなかった、気に入った脚色が出来なければ上演しないまでの事だ、先方には幾らも好脚本はある筈、こちらは強いて上演して貰う必要もないのである、然し興行者側としては折角ここまで来たものを脚色問題で頓挫せしむるのは忍びないことであると見えて、菊池君に代るべき脚色者をという話であったが生じいの脚色者では原著者が承知する筈はなし、そうかと云って岡本綺堂老あたりがやってくれれば申分はあるまいがあの人は絶対に他のものを脚色しない、そこで、興行者側も困り抜いて左団次一座の座附の狂言作者に切り張りをさせて誤魔化そうとする浅はかな魂胆を巡らそうとした策士もあったようだが、そんなことは問題にならず、そこでとうとう原著者自身に脚色して貰うより外はないということになって原著者自身が筆を取って脚色したのが白揚社から出版になった小冊子脚本全四幕のものであった。\n ところが、その時は昼夜二回の非常時興行で、時間の組合せの上から二幕しか出せないということになった、しかもその二幕も間の山だの大湊の船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎなかった。\n 左団次君とは紅葉館の前後、小生が左団次君の招待ということで、麻布の大和田で鰻の御馳走になりながら木村錦花君川尻君あたりと話をした、そうしてどうやら斯うやら本郷座のタッタ二幕の上演を見るに至ったが、右のように間の山や船小屋のいい処が出ないで、比較的見すぼらしい二場所が出たのだが、あの時に松蔦君あたりに間の山のお君をさせ、左団次君に大湊船小屋の場を出させでもすれば同じ二幕でもずっと勝れた効果があったであろうが、余り効果が出ては困る人があったに相違ない、然し、左団次君の竜之助はたったあれだけでもなかなかの貫禄を見せ、その後病気で亡くなったが中村鶴蔵君のがんりきなども素敵な出来であって、昼夜二回興行のうち昼の部分はこの大菩薩峠と他に従来の歌舞伎劇が三幕ばかり、夜は菊池寛君のエノクアーデンを焼き直したようなものと、その以前に余輩が書いた黒谷夜話の中味によく似たところがあるという谷崎潤一郎君の「無明と愛染」というような新作を並べたものであったが、昼の方が興行的に断然優勢を示していたのは矢張り大菩薩峠の贔負が相当力をなしていたものと思われる。\n 震災当時はそんなようなわけで、劇場らしい劇場は全部焼失してしまったのだから、随分異例のことが多く、麻布の十番あたりの或る小屋へ少々手入れをしてそこを仮りに明治座と名付けて左団次一座を出演させたようなこともあったが、然し本格的にはこの本郷座が東京震災復活の第一の大劇場であったが、その後今日では本郷座も活動小屋に変化してしまって歴史ある名残りはもうすっかり見られなくなってしまった。\n さあ、劇と我とに就ては、まだ細かい事は幾らもあるし、これより田中智学翁斡旋の帝劇興行をはじめ、歌舞伎、東劇、明治座の最近にまで及ぶのだが、それは追って稿を改めて述べる事とし、次号には全く別の方面の人物論から着手しようと思う。\n\n 同時代の人と我\n\n 余輩と同時代の人物のうち、今年即ち余輩の五十歳を標準として少くとも同時代の空気を呼吸した人で、今日は歴史的になっている人だけを挙げて、将来歴史的になるべき人でも現存して居られる分ははぶき度いと思う。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n\n女の親切5・10(夕)\n\n むかし津山藩主の何とかいつた奥方は、余程悋気深い性だつたと見えて、殿の愛妾を縊め殺した上、太腿の肉を切り取り、それを羹にして何喰はぬ顔で殿が晩酌の膳に上しておいた。殿が何の肉だと訊くと、\n「貴方様の御好物でございますよ。」\nといつて、にやりと笑つたといふ事だ。\n 大和屋の妓浜勇は、亡くなつた秋月桂太郎と好い仲だつたが、いつだつたか秋月が病気の全快祝に、赤飯だけの工面はついたが、帛紗の持合せが無いので思案に余つて浜勇に相談した事があつた。浜勇にしても色気は有り余る程たつぷり持合せてゐるが、肝腎のお銭といつては一文も無かつた。といつて男の頼みを無下に断る訳にも往かなかつたので、思案の末がたつた一枚きりの縮緬の腰巻を外した。\n「これなと染替ておこ。」\nといつて新しく色揚をして、帛紗に仕立てて間に合はせたさうだ。\n 画家のミレエの細君は貧乏で食べる物が無くなつた時には、雲脂だらけな頭をした亭主を胸に抱へて、麺麭の代りだといつて、熱い接吻をして呉れたものださうだ。\n 尾崎テオドラ夫人は、「主人は国事に頭を使つてゐるから、家庭では成るべく気を遣はないやうに静かにさせてゐる。とりわけ食事は女中任せには出来ないから」といつて手製のオムレツ許りを頬張らせてゐるさうだ。\n 散銭に色々文字替りがあるやうに、顔立で別けると女にも色々種類はあるが、大抵は皆男に親切なものさ。\n\n\n雪舟と禿山5・11(夕)\n\n 講道館の嘉納治五郎氏は、書画を娯み度いが、正真物の書画は値段が張つて迚も買へないからといつて、書画代用の妙案を実行してゐる。\n それは他でもない相模や紀州の海岸で、人里離れた、眺望のいゝ山を買込んで、自分の別荘地としておくのだ。別荘地といつたところで、掘立小屋一つ建てるのでは無く、夏になると、南向きの恰好な足場に天幕を張つて、飯だけは近くにある田舎町の旅籠屋から運ばせる事にして、日がな一日天幕を出たり入つたりして自然を娯むのだ。\n「真物の山水のなかへ浸つて、自分も景物の一つになつて暮らす気持は、雪舟の名幅を見てるよりも、ずつと気が利いてるからな。」\nと氏は言ひ〳〵してゐる。\n そんなだつたら何も自分で山を買はなくとも、何処でも構はない景色の美い土地へ勝手に天幕を持込んだらよかりさうなものだが、嘉納氏に言はせると、さうは往かない。\n「人間には所持慾つて奴があつて自分の有にしないでは落付いて娯まれないのだ。兎一つ棲まないやうな禿山だつて自分の有にするとまた格別だからな。」\n 成程聴いてみれば無理もない。世の中には髪の毛一本生えてない禿頭を、自分の持物だといふだけで、毎朝磨きをかけてゐる人間もある事だから。\n「相模や紀州の突端だけに、往来が不自由で、さう〳〵は出掛けられないが、然し雪舟の名幅だつて、何時も掛け通しにして置く訳のものでは無い。一年に一度が精々なのを思ふと、夏休みに一度でも禿山を見舞つたら、それで十分ぢやないか。」\nと言つてゐる嘉納氏は、\n「さういふ雪舟代用の山だつたら、一度見せて貰ひ度いものだ。」\nと愛相を言ふ人があると、急に顔の相好を崩して、\n「是非見て貰ひ度い、富豪が雪舟を見せ度がる格で、禿山でも自分の者になると、矢張見て貰ひたくてなあ。」\n 風景画好きの嘉納氏が、雪舟の代りに禿山を掘出したのは面白いが、そんぢよそこらの美人画好きも、春章や歌麿の美人画代りに、活きた女菩薩でも探し出して、腰弁当でちよく〳〵出掛けたらどんな物だらう。\n\n\n借金の名人5・12(夕)\n\n 森田草平氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でもついふら〳〵となつて、唯一人しかない女房を誤魔化してでも金を拵へてやり度くなるといふ事だ。\n 一部の画家仲間に天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人で、どんな画家でも出合頭にこの男と打衝つて二語三語話してゐると、慈善会の切符でも押し付けられたやうに、つい懐中から財布が取り出したくなるといふ事だ。尤も画家などいふものは、無駄口と同情は他一倍持合せてゐる癖に、金といつては散銭一つ持つてない輩が多いが、さういふ輩は財布を開ける代りに、青木氏を自分の宅に連れ込んで、一月二月は立養ひをしたものださうだ。\n 青木氏が東京に居られなくなつて浴衣一枚で九州落をした事がある、その折門司か何処かで自分が子供の時の先生が土地の小学校長をしてゐるのを思ひ出した。青木氏は倒れ込むには恰好の家だとは思つたが、流石に着のみ着の儘の自分の姿が振りかへられた。\n 所へ魚釣の帰途らしい子供が一人通りかゝつた。手には小鮒を四五尾提げてゐる。青木氏は懐中の写生帖から子供の好きさうな画を一枚引き裂いて、それと小鮒の二尾程と取り替つこをした。\n「いゝ物が手に入つた、これさへあれば大手を振つて先生の家へ倒れ込まれる。」\n 青木氏は独語を言ひ〳〵、久し振に校長の宅を訪ねた。校長は玄関へ飛び出して来た。(念の為言つておくが、学校教員といふものは自宅では玄関番をしたり、子供の襁褓を洗つたりするものなのだ。)\n 青木氏は校長の顔を見て、\n「先日から門司へ写生に来てゐましたが、今日は一寸釣りに出掛けて、お門を通り掛つたものですから......」\nと言つて蠱術のやうに小鮒を校長の鼻先で振つて見せた。校長は、\n「さうか、よく訪ねて呉れた。」\nといつて、手を執る許りにして、青木氏を座敷へ引張り上げた。\n 何処を何う言ひ繕つたものか、青木氏はその儘二月程校長の宅に平気でごろ〳〵してゐたさうだ。――これを天才といふに何の不思議もない筈だ。他人が顔を赧めないでは居られない事を、平気で遣つて退ける事が出来るのだもの。\n\n\n太陽に惚れた人5・13(夕)\n\n 月の終りにはタゴオルが来る、七月にはゴリキイが来ると聞いてゐるのに、今度はまた露国詩壇の革新者コンスタンチン・バリモントが来るといふ噂が伝はつてゐる。\n バリモントは仏蘭西のユゴオのやうに太陽と美との熱愛者で、その名高い詩集にも『太陽のやうに』といふのがある位だ。この詩人が文壇に立つてから、二十五年目の記念会が三四年前ペテルブルグ大学で開かれたことがあつた。その折ブラウン教授の挨拶に、\n「バリモントがこの世に生れたのは太陽を見るためだつた。太陽はこの詩人の心を饒かに、その夢を黄金にした。太陽はその詩の何れもに燃えてゐる。」" }, { "role": "assistant", "content": "と言つた程、お天道様に惚れてゐる人なのだ。この人が暗い淋しい露西亜を出て、明るい陽気な「日出づる国」へ旅立するのに不思議はない筈だ。\n(その自伝によると)バリモントは五歳の時に、婦人を見るとぽつと顔を赧めるやうになり、九歳の時には真剣に女に惚れるやうになり、十四の時に肉慾を覚えたと言つてゐる。五歳といへばまだミルク・キヤラメルの欲しい年頃だ、日本では『好色一代男』の主人公が腰元の手を取つて、「恋は闇といふ事を知らずや」といつたのは、確か七歳だといふから、バリモントはそれ以上の早熟た子供で、その頃から乳母にお尻を叩かれては、くす〳〵喜んでゐたに相違ない。\n 二十二歳の時、友達が自殺をしたのに感化れて、三階の窓から下の敷石を目がけて身投をした事があつた。骨は砕けて、身体は血塗れになつたが、不思議と生命だけは取り留めて、それからはずつと健康でゐる。バリモントは後にその折の事を思ひ出して、\n「お蔭で創が癒つてからは、人間も一段と悧巧になり、従来のやうに鬱々しないで、その日その日を娯しむやうになつた。」\nと言つてゐる。\n 女がお産をして強くなり、色男が女に捨てられて賢くなる格で三階から飛下りて吃驚したのでそれ迄皮膜を被つてゐた智慧が急に弾け出したのだ。それを思ふとやくざな知事や大臣は紙屑のやうに一度三階から投り出してやり度くなる。\n\n\n死人の下駄5・14(夕)\n\n 人間といふものは、生れて来る時下駄を穿いて来なかつた故か、身投でもして死ぬる時は屹度履物を脱いでゐる。それも其辺へだらしなく投り出さないで、きちんと爪先を揃へた儘脱ぎ捨ててゐる。恰で借りた物を返すといつた風だ。得て投身でもする人は、借りた金を返さないやうな輩に多いが、履物だけは自分の持合せでありながら借物ででもあるやうにきちんと取揃へてゐる。だから芝居でもそれに倣つて、舞台で情死者の身投をする時には、俳優は極つたやうに履物を揃へる。\n それも古風な身投などの場合に限らず、電車や汽車で轢死をする場合にも、履物だけはちやんと揃へてゐるから可笑しい。どんな粗忽屋でも下駄を穿いた儘で軌道に飛び込むやうな無作法な事はしない。家鴨が外套を脱いで鴨鍋へ飛び込むやうに、自殺でもしようといふ心掛のある者は、履物を脱ぎ揃へて軌道に横になる位の儀式はちやんと心得てゐる。\n 電車の車掌なども、轢死者があつた場合は、其奴が男か女か、老人か子供か、馬鹿か悧巧かを吟味する前に、先づ履物を調べる。そして履物がちやんと揃へて脱ぎ捨ててあるのを見ると、\n「占めた。やつぱり自殺だつた。」\nと、吻と胸先を撫でおろすさうだ。だから間違つて電車に轢き殺される場合には、成るべく履物を後先へ、片々は天国へ、片々は地獄へ届く程跳ね飛ばす事だけは忘れてはならない。さもないと、自殺に定められて、慰藉金も貰へない上に、理窟の立たない厭世観さへ抱かされるやうな事になる。\n 同じ淵でも身投をする場所は大抵定つてゐるやうに、長い電車線路でも轢死する場所は、大抵見当がついてゐるさうだ。だから、狡い運転手になると、その区間だけは速力の加減をする事を忘れない。\n もしか大隈伯が身投でもする場合には、矢張履物を脱いで、義足を露出しに死ぬるだらうかと疑つた者がある。すると、いやあの人の事だ、死ぬ前に義足は割引で売つてしまふだらうと言つたものがある。\n\n\n性慾5・15(夕)\n\n トルストイ伯は、息子のイリヤが十八歳の頃、ある日屏風の裏表で背中合せになつて、\n「イリヤ、こゝでは誰も聞いては居ないし、私達もお互に顔が見えないから、恥かしい事は無い。お前は今日まで女と関係した事があるかい。」\nと訊いた。\n 息子のイリヤが、\n「否、そんな事はありません。」\nと答へると、トルストイは急に欷歔をし出した。そして子供のやうにおい〳〵声を立てて泣き出すので、息子のイリヤも屏風の裏でしく〳〵泣き入つたといふ事だ。\n トルストイは私に相談して泣いた訳でも無かつたから、何故息子の返事を聞いて泣き出したか解る筈もないが、察する所、自分が若い頃の不品行に比べて、息子の純潔なのについ知らず感激させられたものらしい。\n 新渡戸稲造博士は、自分が近眼の原因をある学生に訊かれた時、次の室の夫人に聞えないやうに声を低めて、\n「無論本も読んだには読んだがね、然し本を幾ら読んだからつて、人間は近眼になるものぢやない。僕は学生時代にね......」と『英文武士道』の表紙のやうに一寸顔を紅くして「気恥しい訳だが、性慾の自己満足を余り行り過ぎたもんだでね......」\nと言つて、口が酸つぱくなる程性慾の自己満足を戒めたさうだ。\n 新渡戸博士が自分の近眼と性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔して居るのは善い事だが、世の中には近眼者といつても沢山居る事だし、その近眼者が皆が皆まで博士のやうな「良心」を持合せてゐまいから、達て近眼を恥ぢよと言つた所でさう〳〵恥ぢもすまい。\n 聖アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、猶側の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして有ゆる戯けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。\n 男の聖者が多く女の聖者を渇仰するに対して、女の聖者は大抵男の聖者に帰依をする。ロヨラは聖母マリヤの信仰家であつたが、婦人の多くはナザレの耶蘇と精神的結婚を遂げてゐるのだ。もし耶蘇があの年齢で髪の毛の縮れた女房でも迎へてゐたなら、大抵の女は教会で欠伸か居睡りかをするだらう。実際女は猫のやうなもので、鼠のゐない時には屹度欠伸か居睡りをする事を知つてゐる。\n\n\n虱5・16(夕)\n\n 今日阪神電車に乗ると、私の前に齢の頃は四十恰好の職人風らしい男が腰をかけてゐた。木綿物だが小瀟洒した身装をしてゐるのにメリヤスの襦袢のみは垢染んで薄汚かつた。閉てきつた鎧戸に鳥打帽の頭を当てがつて、こくり〳〵居睡りをしてゐたが、電車が大物を出た頃に、ひよいと頭を持ち直して、ぱつちり眼を開けた。そして手早く胸釦を外して、シヤツを裏返したと思ふと、指先に何かちよつぴり抓むで左の掌面に載つけた。――よく見ると、会社の重役のやうに血を吸つて真紅になつてゐる虱なのだ。\n 虱は慌てて其辺を這ひ回つたが、職人の掌面は職人の住むでゐる世界よりもずつと広かつた。虱は方角を取り損つて中指にのぼりかけた。生れて唯の一度も運を掴んだ事のない掌面だけに、指も普通よりはずつと短かつたので、虱は直ぐと指先に上りきつた。\n 職人はわざと皆に見えるやうに中指を鼻先に持つて来て、四辺を見越してにやり笑つた。この無作法な素振を見て誰一人怒り出さうともしなかつた。皆は顔を見合せて苦笑ひするより外に仕方が無かつた。\n 蚤に小つぽけな馬車を牽かす蚤飼の話は噂に聞いてゐるのみで、実地見た事はないが、虱は唯もうその辺を這ひ回るのみで、芸人としては一向価値が無い。\n 職人は暫くそんな悪戯をしてゐたが、最後に袂を探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火を磨つて虱の背に当てがつた。この懶惰な芸人は手脚をもじもじさせてゐたが、ぴちと爆ぜたやうな音がしたと思ふと、身体はその儘見えなくなつてしまつた。恰ど耶蘇の死骸が墓のなかで紛失したやうなもので、不思議は四福音書にあるやうに、職人の掌面にもあるものなのだ。\n「人は自分の蚤を殺すには、自分の流儀を使ふ外には仕方が無い。」\n――仏蘭西人はよくこんな事をいふが、真実だなと思つた。\n\n\n女の手5・17(夕)\n\n 少し談話が古いが、日独の国交が断絶して、独逸の日本留学生が一纏めに店立を食はされた時の事、皆は和蘭経由で英吉利に落ち延びようとして、日を定めて一緒に伯林のレアタア停車場を発つた。\n 何がさて、急場の事なり、書物や古履や日本魂などいふ、やくざな荷厄介な物は、皆一纏めに下宿屋の押入に取残した儘逃げて来たので、皆は腑抜のやうな顔をして溜息ばかり吐いてゐた。もしか兵隊さんの大きな面が窓越しに覗きでもしようものなら、皆は護謨毬のやうに一度に腰掛から飛上つたかも知れない。\n 汽車がレアタアの次ぎの駅に着くと、一人の若い娘が入つて来て空席に腰をおろした。それを見ると其辺の黄いろい萎びた顔が一度に灯が点いたやうに明るくなつた。――それに何の無理があらう、娘の直ぐ隣には、A医学士がゐる。医学士は、女をパラピンのやうに掌面に丸め込む事に馴れてゐる男だ。\n 皆は言ひ合せたやうに、眼を閉ぢて睡つた風をしてゐた。医学士は娘に向つて、一言二言話してゐるうちに、例も女を蕩す折にするやうに、掌面の講釈を始めた。支那の哲学者が言つたやうに(A医学士は哲学者とか袋鼠とか自分の知らない物は悉皆支那に棲んでゐると思つてゐるのだ)人間一生の「幸運」は掌面の恰好と大きさとに現れてゐるといふ前置で、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「おお、差支えはござらぬ、どうぞ」\n 内から弦之丞が手を伸ばすと、番僧も外から障子へ手をかけた。部屋にこもっている煤煙が、ムーッと軒へ吸いだされて、入れ代りに、寒梅の香をふくむ冷やかな夜気がそこへ浸ってくる。\n「ただ今、御院代のお手元へ、こういう手紙を届けてまいった男がございます」\n 縁に膝をついて一月寺の番僧、敷居ぎわへ一通の手紙をさしおく。\n「なに、このほうへの書状?」\n「はい、すぐご返事がほしいそうで、使いの者が待っております。どうぞ、ご一見下さいまし」\n「はて、誰からであろう? ......」と弦之丞、封を切って読み下したが、巻き返しながらジイッと天井を見上げて、何か思案をしているらしかった。\n「弦之丞様、この夜中に、一体どこからのお手紙なので?」\n と万吉が、不審そうにきいたのには答えないで、弦之丞、番僧のほうへ向って、\n「委細承知いたしたと、使いの者へお伝え願いたい」という。\n「はい、それだけでよろしゅうございますか」\n「後よりすぐにまいりますゆえ」\n「では、そう申して、使いを帰せばよろしいので」\n「ご苦労ながら」\n「いえ、どう致しまして......」と番僧は木履を鳴らして本院の方へ戻って行く。――その後で、弦之丞二、三服の煙草をくゆらしてから、ゆったりと立ち上がった。\n「万吉、拙者はちょっと行ってみるから、先に寝んでいてくれい」\n「えっ、これからお出かけなさいますッて?」\n「ウム、その手紙を見るがいい......。少し腑に落ちぬことではあるが、何ぞの手がかりがあるかもしれぬ」\n「へえ......」と万吉、あわてて炉べりにおいてある今の手紙を開いてみると何ぞ計らん、差出人は旅川周馬――、お千絵殿の所在が知れたから、至急、鶯谷の古梅庵という料亭までご足労を願いたい――という文意。\n 先日、路傍でお目にかかった節は、連れがいたし雑沓の中で失礼いたしたが、今夜はゆるりと旧交を温めたく思う、そして、自分がつきとめたお千絵殿の所在をお告げする。それを以て、自分の誠意を認めてほしい。などという美言が巧妙につらねてある。\n「貉め!」\n 万吉は、おッぽりだすように読み捨てて、\n「こいつアいけねえや! もし弦之丞様、こんな物騒なものに誘われて、うっかりお出かけなさいますと、どこにどんな死神が待ち伏せしているかも知れませんぜ。およしなせえ、およしなせえ! 万吉は大不承知でございます」\n と、真剣になって止めはじめた。\n\n「なんの......」と弦之丞は、万吉の危惧を笑い、その不服を軽く聞き流して、「必ずともに、深く案ずることはない。夕餉の後の腹ごなしじゃ、無駄足をすると思うて行ってくるから、きっと留守をしていてくれよ」\n「じゃ、どうしても、お出かけなさるおつもりなので?」\n と、なおも心配そうにいう、万吉の言葉には答えないで、身軽に帯をしめなおして、外出の支度をすました弦之丞。\n「だいぶ風が吹いてきそうな......周馬や一角や孫兵衛などよりは、火の用心がおそろしい。宿院を拝借して、炉に火を残したまま無人に致しては、寺則を破ることになる。万吉、必ずわしが留守の間に、ここをあけては相ならぬぞ」\n「へえ......」といったが万吉は、一緒について行こうと考えていた矢先なので、こう釘を打たれてしまうと、いよいよ面白くない。口が尖ってくる。\n「わっしもお供いたしましょう。なアに、炉の火はスッカリ埋けてまいりますよ」\n「これこれ万吉、つまらぬ情を張って、拙者の足手まといになってくれるな。いよいよ阿波へ入り込む時やまた、向うへ着いて働く場合には、随分そちの腕も借ろうが、今はまだ目的の本道に入っていない」\n「へい......」阿波と聞くと、万吉も、すなおに首を垂れてしまった。\n「前途の多難は今宵ばかりでない。どこまでも大事を取って進まねばならぬ。騎虎の勇にはやって、二つとない身を傷つけたら何といたす」\n「さ、それだから俺もまた、いっそうあなたのお体を、お案じ申すのでございます」\n「ウム、その心は過分である。いずれ周馬の手紙には、深い魂胆があり、企らみがあるものとは拙者も察しているが、この弦之丞の眼からみれば、およそは多寡の知れたあの三人......あはははは、久しく試みぬ夕雲流、場合によっては――」\n と、無銘の一腰、笛袋に入れて腰に落した。\n「そりゃ、弦之丞様には、腕に覚えもございましょうが、足場の悪い根岸の闇、欺し討ちや、飛び道具という策もございますから、必ず、ご油断をなさいますな」\n「そこまで物を案じては、いわゆる取越し苦労というもの。大望をもつ身でなくとも、こんな例は、道場通いの修業中にもママあることじゃ。申せば武士の日常茶飯事......」\n スタスタと板縁から土間へ出て、塗下駄を突っかけ、行乞の深笠をとって頭につけた。そして、みずから戸を開け、みずから後を閉めて、万吉が何と口をさし挟むいとまもなく、\n「では頼むぞ――」といい残して、境内を斜かいに抜けて寺門へ出て行った――。万吉は、最初の不安がまだ拭われないらしく、その足音の消えてゆく闇を、戸の隙間から見送っていた。\n「暗い晩だな......。ああ、行ってしまった」祈るようにつぶやいた。\n 如月近くを思わせる、冷やかな東風が吹きだして、小さい風の渦が、一月寺の闇に幾つもさまよっているようだ。桜吹雪のような濃艶さはないが、もみ散らされる梅の点々が、白く、チラチラと、人の姿を追っている。\n 弦之丞の細い影が、梅の香に吹かれて寺門を出た。二、三十歩の石畳の上を、カタ、カタと塗下駄の音が静かに運んでゆく――、そしてやがて、正面の石段を降りかけたが、フイと、足もとからさす明りに足をとめてみると、草履を持ってしゃがみこんだ一人の男、そばに、仮名書きで「こばいあん」とした朱文字の提灯をおいて、ゆるんだ鼻緒をすげなおしている。\n ポッ、ポッと、提灯の明りが、男の周りに、大きく明滅の輪を描いていた。\n 弦之丞がその前をスッと通りぬけると、\n「まず、これでよし」\n と、緒を直した草履をはき、小提灯を手に持って、その男も、ピタピタと弦之丞について歩きだした。\n\n「こばいあん」としるしてある小提灯が、弦之丞の影に添って、ゆらゆらとついてきたかと思うと、\n「もし......」と、その男が声をかけた。\n「一月寺においでの方は、みんな同じようなお姿なので、間違ったらご免下さいまし」と、念入りに断わっておいて――「あなた様は、もしや私が今手紙を持って、お迎えに参りました法月様ではいらっしゃいませんか」\n「いかにも、わしはその弦之丞だが......」\n「ああ、それはよい所でご一緒になりました。私はごらんのとおり......」と、提灯の朱文字を少し前へかざして、\n「古梅庵の若い者で、旅川様からお手紙をいいつかってきた男でございます」\n「そうか。では何分とも案内を頼む」\n「エエよろしゅうございますとも、なにしろ、御行の松から御隠殿――あの水鶏橋の辺は、昼でも薄気味のわるい所でございますからな......。夜のお使いは、あんまりゾッとしませんや。それに来る時は一人ぽッちなんで、びくびくものでございましたが、おかげ様で、まず帰りは気強いというものでございます」\n「所々に見える灯は、どこかの寮か隠居所だの」\n「へえ、お旗本の別荘とか、上野の宮様の別院とか、吉原に大店を持っている人の寮だとか......そんなものばかりでございますから、淋しいわけでございまさ。......ア、旦那、そこに小さな流れがございますぜ」\n 闇から闇をフワフワと来る小提灯。いつか御行の松の前を右にそれて、一面の藪だたみ、ザザザザッという笹鳴きの声を聞きながら、男は縞の着物の袂で提灯の灯をかばってゆく。弦之丞は、しきりとしゃべっている男の話には、よい程な生返辞をしていながら、ひそかに笛嚢の紐を解き、秘差しの一刀へ左の手をかけて、プツンと拇指で鍔裏を押しきっていた。\n どうせこの男も、古梅庵の若いものではあるまい。旅川周馬の手先になって、自分を誘い出しにきた囮に違いない――と見抜いたので。\n そのせいか、男はわざとらしからぬように、いつも、弦之丞の左へ左へと寄って、小提灯の明りを、たえず、自分よりは対手の前へ寄せて歩いている。この分でみると、或いは、万吉がいったように、飛び道具の惧れがあるかもしれない。\n 提灯の明りは、暗夜の狙い撃ちに、何よりな的であるから、心得のある武士は、くわえ煙管と提灯は決して持たない。\n 藪だたみがつきて、道が二股にわかれる所へ来ると、男はツウと、また右寄りへ進もうとした。\n「待て、道が違うようではないか」\n 弦之丞が立ち止まると、男はギョロリとすごい眼をくれたが、それは対手に感づかせない程な瞬間に笑い消して、\n「へへへへへ。旦那、ご心配なさいますな、私はこれでも根岸にゃ四年も住んでおりますから、決して道に迷うなんていうことはございませんよ」\n「しかし、鶯谷へ出るには、ちと、方角違いな気がするが」\n「ところが、ズッと近道なんで......」グングン先に立って進んだが、やがて赤土の辷りそうな崖を上がると、闇ながら四方がひらけて、どこかを行く水の音がザアーッと低く響いている。\n「ええ、寒いッ......」と男は一つ身ぶるいして、「旦那、ここはどこだか知っていましょう」\n「ウム、御隠殿下であろう」\n「あすこに見えるのが水鶏橋で......、あれを渡って向う岸を入りますと、古梅庵はもうじきでございます。さだめし、旅川様もお待ちかねでございましょう」" }, { "role": "assistant", "content": "「だいぶ遅いが、周馬は宵のうちからまいっているのか」\n「へえ、私がお使いに出る二刻ほど前から、奥の座敷でチビチビ飲んでおいででした」\n「その周馬だけではなかろうが」\n ジッと眸に力をこめて、眉間を睨みながらこうきくと、男は少しドギマギして、\n「へい」と、うろたえ気味の提灯を、フイとこっちへさし出して、二ツ三ツお辞儀をした。\n「旦那、まことに申しかねますが、提灯をちょッと持っていて下さいませんか......どうも尾籠なお話ですが、すこし小用がつかえまして......」\n\n うさん臭い古梅庵の男が、先に立って、御隠殿の下まで道案内をしてきたかと思うと、そこで、\n「旦那、すみませんが......」\n と、弦之丞の手へ提灯を預け、小用をたすふりをして、スッ――と横ッ飛びに身を交わした。\n「おう」と、なんの気もなく、明りを手に持った途端に、かれは異様な臭気を知った。\n プーンと、闇に漂ってくる臭気! 火縄だ、火縄のいぶるあの臭い!\n「あッ――」\n と弦之丞が、その提灯を空へ捨てたのが早かったか、轟然とゆすッた鉄砲の音が早かったか? ――ほとんど、けじめのない一瞬。\n 上野の森の裏山へ、一発の銃声が、ドーンと木魂返しにひびいてきた刹那、はッと眼をこすって見直すと、空に躍った提灯の行方は知れず、それを持っていた弦之丞の影もあらず、ただ、強い火薬の匂いと、白い硝煙とが、玉になってモクリッと闇をかすっていた。\n「うまくあたった!」\n 水鶏橋の袂へ、横ッ飛びに逃げだした男は、こうつぶやいて、枯草の中から、そろそろと亀首をもたげだす。\n こいつ、古梅庵の提灯を、どう工面してきたものか、まことは使屋の半次といって、周馬や孫兵衛が、京橋の喜撰風呂にごろついている間に、手馴ずけられたあぶれ者。\n かまきりのように、橋袂からゴソゴソと四つン這いに寄ってきて、半次、しばらく息を殺しながら、ジイと地面をすかしてみると、そこに顎をはずした提灯の落ちているのは見えたが、弦之丞の姿は見当らない。\n「おや......」と、いったが、またすぐに、\n「野郎。とうとうまいってしまやがった」\n すッかり安心した様子で、のッそり腰を伸ばしかけた。\n と、水鶏橋のほうから一人。向うのかげから一人、そして御隠殿のほうからまた一人......。\n いかにも厳しい身構えで、一歩、一歩と、闇を探りながら、寄り集まってくる者があった。かかる夜、魔手をふるって、跳躍するには屈強な、黒いでたちという拵え。かすかに、その者の帯ぎわにキラキラ光るのは、金か銀か四分一か、柄がしらの金具であろう。\n「半次か」\n「周馬様で?」\n「ウム」\n「手ごたえは? ......」\n と、また一方の黒装束。\n「関金にこたえがあった。あたった弾は分る」\n こう応じたのは、木立の中から短銃を引っさげてきた者の声だ。半次をのぞいて、同じ黒いでたちの頭数三人――、たしかに、旅川周馬、お十夜孫兵衛、天堂一角、この以外の者でないにはきまっているが、闇ではあり、覆面同装、誰がそれとも見分けがつかない。\n「どこだ、彼奴の仆れた所は? ......」\n「あ、その辺......。いえ、もう少し向うへ寄った笹の中で」\n「はてな」\n「そ、そこに、白いものがぶっ仆れているじゃありませんか」と、半次、及び腰で指をさした。\n「違う......」\n「道しるべの石だ」\n「と、すると、もう少し向うだったかしら」\n「油断を致されるな!」\n それは、明らかに、天堂一角の声らしかった。\n「仆れたに致せ、弾が急所をはずれていることもある」\n「おう!」と思わず三方に開き分れて、ふたたび、念入りな構えを取りながら、いざといわば三本の白刃を、一度に抜き浴びせる気で、ジリジリと寄りつめて行った。\n「や? ......」\n「なんといたした」\n「妙だ、いない。イヤ、何者も仆れておらんぞ」\n「ばかな、そんな筈が......」\n と、誰か、三人のうちの一人がいいかけて、グルリと、後ろを睨み廻した刹那だった。\n すぐ、傍らの木の幹に、ベタリと身を貼りつけていた影が、\n「弦之丞はここだッ!」\n と、大声でいった。\n 剣の行く前に、まず対手の心胆を、真ッ二つにする気殺!\n それと一緒に、声と五体と剣の光流! 一ツになって飛び斬りの真ッ向落し、あッというまに、一人の影を前伏せに斬ッて仆した。\n\n 測らぬ虚をつかれて、まっ先に、斬られた者は誰だったか?\n「あッ」\n と、いったのは使屋の半次。\n 斬られたような声をあげて、木立のほうへすッ飛んでしまったが、その逃げようでは怪我をしたふうもないから、さしずめそこで、\n「ウウーム!」と、陰惨な呻きを血煙につつまれたのは、お十夜か、周馬か、でなければ天堂一角――、その中の運の悪い一人であるには違いない。\n「ちぇッ! やられた!」\n 危なく、後の二人は跳び開いて、パッと居合抜きに大刀を払ったが、その瞬間、一方でパチン! と火花を降らしたかと思うと、すぐ焼刃のすり合う音がして、鍔と鍔とが競りあうまもあらず、デン! と一方が蹴仆された。\n 仆されたまま、エエッ! と、持ったる刀で地を払ったのは黒装束のほうの男。\n「うぬッ――」と叫んで起き上がり、弦之丞の姿を八、九間ほど追いかけたが、その時うしろで、\n「お十夜! おい、おいッ」\n と、しきりに呼びとめる声がする。それは旅川周馬らしい。\n 怖るべき早技で、一人を斬り、一人を蹴仆し、疾風迅雷に駈け去った弦之丞の姿は、時既に、遠い闇に消えていた。\n「ええ、しまった。意気地のねえ奴が揃っている」孫兵衛は舌うちをして振りかえったが、その途端にハッとして、鋭い眼ざしで闇を探った。\n「誰だ......誰だ、今斬られたのは?」\n「一角だ、一角が深傷を負ってしまった」\n 周馬は色を失ったような声で、怪我人を抱き起こしながらお十夜の応援を求めた。\n すると、その時になって、木立の裾をつつんだ藪だたみが、嵐のように、ザワザワと揺れだした。そして、その中から、四人、五人、三人と、得物を持ったあぶれ者が、張合いぬけのした顔で、怪我人のまわりへ寄り集まる。\n「間抜けめ!」と、お十夜は、時機をはずしてノコノコと出てきた大勢の面へ、唾を吐きつけるように腹を立てた。\n「なんで、俺が抜いた時に、すぐに対手を押ッ包んでしまわなかったのだ。見ろッ、弦之丞の奴はとうの昔に逃げ出してしまった。やい、半次はどうした、半次は?」\n「へえ、ここにおりますが」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「それは玄人だ」\n 平次も感歎しました。唐土から傳來の繪と違つて、元信の描いたのは紙本で、それに糊も新しいわけですから、水で剥がすのは一番良い要領です。平次は續けて、\n「戸締りは?」\n「不思議にどこからも曲者の入つた樣子はなかつた」\n「奉公人や出入りの者に、その頃變つたことはなかつたでせうか」\n「さう言へばそのことがあつて二三日經つてから、下男の元吉といふのが暇を取つた」\n「それは?」\n「木更津の者で、この秋から住み込んでゐたが、――請人は小田原町の源七。間違ひもなく働いてゐたが、遊び癖があつて夜歩きするのと、身體が弱くて荒仕事ができないので、實は少し持て餘してゐると五日前になつて、急に暇を貰ひたいと言ひ出した」\n 數へて見ると、それは壽滿寺へ賊の入つた日に當るのです。\n「?」\n 平次は默つて次を促しました。\n「左の額際に傷でもあるのか、いつでも膏藥を貼つてゐたが――」\n「その膏藥が時々場所が變りやしませんか――人相を變るための手段かも知れません」\n「そんなことがあつたかも知れない。兎も角二十三四の小氣の利いた男で、下男や庭掃きなどをしてゐる人間ではなかつた。それに少しは學問もあつたやうで、時々何にか書いたものを讀んでゐることがあつたといふことだ」\n 藤兵衞の説明で、その下男が曲者といふことは、殆んど疑ひの餘地がなくなります。\n「變なことを訊きますが、お店の菩提寺は下谷の永寳寺でせうな」\n「その通りだ」\n「今から三十年も前にあの寺に王若水の『唐子』の大幅を寄附したことがある筈ですが」\n「さア、三十年前といふと、私が四つか五つの時だから、覺えてゐないが、番頭が知つてるかもしれない」\n 早速老番頭の金兵衞を呼んで聽くと、丁度の雪舟の屏風を作つた頃、仲橋の古道具屋の北田屋道八の手から、王若水か何んか知らないが、見事な唐子の繪を買入れて、それは永寳寺に寄附したといふことがわかりました。\n「その代金は?」\n「さア、そこまでは覺えてゐませんが」\n 金兵衞はよく禿げた頭を掻くのです。\n 念のために、下男部屋を見せてもらふと、平次はこゝで押入の中から面白いものを發見しました。\n それは半紙一枚に書いたものです。\n\n高士觀瀑 (元信)\n秋景山水 (雪舟)\n唐子嬉遊 (王若水)\n救世觀音 (巨勢金岡)\n孔雀 (徽宗皇帝)\n\n とあるではありませんか。平次は思はず息を呑みました。が、それを默つて懷ろに落したまゝ、八五郎を促して外へ出たのです。\n\n四\n\n 翌る日の朝、明神下の平次の家の外で、思はぬ騷ぎが始まりました。\n 六十四五の丈夫さうな老人が一人、無殘にも匕首かなんかで左の胸を一つ突きやられ、紅に染んで死んでゐるのが、金棒曳の女房に見付けられたのです。\n「親分、た、大變ツ」\n 女房に手を引かれるやうに、寢卷姿の平次は路地の外まで引出されました。まさにそれは大變です。骨組の確りした、そして慾の深さうな老人が、ドブ板の上で冷たくなつてゐるのです。\n 手際は至つて平凡ですが效果的でした。後ろから左の胸、肩胛骨の下を一と突き、間違ひもなく心の臟をやられたもので、恐らく聲も立てずに死んでしまつたことでせう。\n 懷ろを見ると大きい財布に小判が五枚と小粒で二兩あまり。これを殘して行くところを見ると、物盜りでないことはあまりにも明かです。身許は容易にわかりませんでしたが、陽が高くなる頃、それは仲橋の古道具屋で、北田屋の道八とわかつて、平次は思はず唸りました。\n「どうしました、親分。路地の外に殺しがあつたさうですね」\n 八五郎はいつものやうに、間拔けな彌造を拵へてフラリとやつて來ました。\n「驚くな八、殺されたのは仲橋の古道具屋の道八だよ――多分昨夜遲くなつてから、俺に用事があつて來たのを、跟けて來た奴に路地の外で刺されたんだらう」\n「すると、あの繪の泥棒と繋りがあるわけですね」\n「その通りだよ、思つたより企みは深い。が、金づくの仕事でないだけに手のつけやうがない」\n「あんな繪を集めてどうする氣でせう」\n「それがわかれば、曲者はすぐ縛れるよ、――おや誰か、客が來たやうだ」\n 平次は自分の家の格子の外に立つて、\n「頼まう」\n などと、練達無比な聲を張り上げる、四十年輩の武家を指しました。\n 平次はあわてて家に入つて、その武家を導き入れ、さて、\n「御用は?」\n と丁寧に訊ねます。\n「外でもない、平次殿、――拙者の主家で、世にも得難い名幅が盜難に逢つたのだ。町方は支配違ひだが、日本の寳とも言ふべき名畫に萬一のことがあつてはならぬ。ことをわけて平次殿にその探索をお願ひするやうにと、主人からの申付けで參つたのぢや」\n 中年の武家は、樣子の嚴めしさに似ず、ひどく折入つた態度になるのでした。\n「その盜まれた名幅は、巨勢金岡の『救世觀音』でせうか、それとも徽宗皇帝の『孔雀』でせうか」\n 平次の言葉は唐突ですが、恐ろしく效果的でした。\n「どうしてそれを、――紛失したのは、救世觀音の尊像を描いた、巨勢金岡の名筆ぢや――申し遲れたが拙者は、湯島天神町の旗野丹後守の用人久保木桂馬と申す。お見知り置きを願ひたい」\n 久保木桂馬と名乘る中老人は、眞四角に一禮するのです。\n「その幅の紛失したのは?」\n「昨夜ぢや」\n「外から入つた樣子は?」\n「ないから不思議だ、――しかも幅は尺三ほどの手頃のものだが、軸から切り離して、中の繪だけを持ち去つてゐる」\n「どこに置かれたので」\n「彼岸に出して供養した後、暫らく奧座敷の違ひ棚に置いてあつた」\n「參りませう、大急ぎで」\n 平次と八五郎は、路地の外の古道具屋の死體を、驅けつけた下つ引や、町役人に任せて湯島天神町に向ひました。\n「その繪はいつ頃お手に入れたものでせう。御先祖から傳はつた物ではないと思ひますが」\n「その通りだ。今から二十五六年前、拙者がまだ弱年の頃だ。御先代丹波守樣が、御出入りの古道具屋から求められた品だ」\n「その古道具屋を御存じありませんか」\n「仲橋の北田屋とか申したが――」\n 明神下から湯島天神町への道々平次と久保木桂馬との話は續きました。\n「お代は?」\n「それはわからぬ。が、不思議なことに、幅を置いてあつた違ひ棚の上に、小判で十二兩の金子が置いてあつた」" }, { "role": "assistant", "content": "「唐紙に包んで」\n「よくそんなことまで、――さすがは高名な平次殿だ」\n 久保木桂馬は舌を卷いてをります。錢形平次は八卦でも置くと思つたのでせう。\n\n五\n\n 旗野丹後守は三千石の大旗本で、年の頃四十二三。久保木桂馬とは、主從の關係を越えて親しい間柄のやうです。\n「平次か、何分頼むぞ。巨勢金岡の繪が惜しいのではない、私は父親の形見がなつかしい」\n かう言つた調子の殿樣でした。\n「昨日から、外へ出た方はございませんか」\n「ないだらうな、久保木」\n 殿樣は用人を顧みます。\n「ハイ、一切外へ出さないことにしてあります。門番にも堅く申付けて、塀際へも人を寄せつけません」\n「それは用心なことで」\n 平次は丹後守の許を受けて、屋敷中の者に一應逢つて見ました。奧方、三人の子供達、用人の内儀とその娘、下女二人、若黨、門番、下男まで、ざつと十二三人の大世帶です。\n「これだけでせうか」\n「まだ小間使の比奈と申すのがゐる筈だが――」\n「是非逢はなきやなりませんが」\n「よし〳〵、呼んで參らう」\n 久保木は間もなく十七八の可愛らしい小間使をつれて來ました。\n「――」\n ハツと平次は息を呑んだのも無理のないことです。その愛くるしい左の頬には鮮やかに愛嬌ぼくろが一つ。\n「これで皆んなぢや」\n 久保木桂馬は、そんなことに頓着なく、そゝくさとどこかへ行つてしまひました。\n こゝまでは平次の探索の滑り出しは、極めて快適に行きましたが、それから先は恐ろしい暗礁に乘り上げてしまつたのです。\n 何も彼も事實を知つてゐる筈の小間使ひの比奈は、どう責め問はれても頑として口を割らず、平次もさすがに持て餘して、主人の旗野丹後守と用人の久保木桂馬に一切の事情を打ち明け、その協力を求める外はなかつたのです。\n 勿論お比奈の請人宿元も調べましたが、これは全くの出鱈目で、阿波屋の下男の請人と同樣、夥しい金に眼が昏んで、全く身許を知らない者に請判を捺したとわかり、大目玉を喰はせてそれつきりになる有樣。かう巧んだ仕事では、容易のことでは眞相は掴めません。\n その日の晝頃、湯島から本郷一帶に妙な噂が廣がりました。\n「旗本旗野丹後守樣のお小間使が、大泥棒の手先になつて成敗されるが、身許がわからないので、夕刻裸體に剥いて湯島天神町の辻番に晒し物にするさうだ。心當りの者は申出るやうに、褒美は小判で五兩だとよ」\n といふ噂です。その頃の五兩は人間一人一年の給料よりも多く、先づは大金と言ふべきで、町の閑人達は有頂天になつて噂を撒き散らしました。それに十八娘を裸體にして晒すといふのが、武家にしても傍若無人な成敗で、彌次馬の好奇心をいやが上にも募らせたことは事實です。\n その時刻になると、湯島天神町の辻番の前には縁臺を出し、番手桶に六尺棒まで揃へました。見物はそれを取卷いて十重二十重の人垣を作り、暮れ酉刻(六時)の定刻を待ちきれずに犇めき合ひます。\n が、やがて酉刻(六時)になつても酉刻半(七時)になつても準備の物々しさに似ず、肝腎のお比奈とやら、裸體に剥かれた小間使は姿を現はしません。\n あたりは薄暗くなつて、見物がザワザワ騷ぎ始めた頃。\n「折角だが皆の衆、わけがあつて、今日は沙汰止みぢや、――さア〳〵歸つた〳〵。水を撒くから、そのつもりで」\n 番太の老爺は縁臺の上で一とくさりやると本當に手桶を持出して、柄杓で水を撒き始めるのです。\n「畜生ツ、何んてことをしやがる」\n 見物は暫らく湧きましたが、諦めの早い江戸つ子達は、それでも大した未練氣もなく、夕闇の中へバラバラと散つて行きます。\n\n六\n\n それから半刻(一時間)ほど經つと、八五郎は鬼の首でも取つたほどの勢ひで、明神下の平次の家に飛び込んで來ました。\n「わかりましたよ、親分」\n「元町の繪師、岡谷半嶺の家だらう」\n 平次は面白さうにしてをります。\n「えツ、親分どこでそれを」\n ガラツ八は暫らく開いた口が塞がりません。\n「まアいゝ、お前の方はどんな樣子だつた」\n「あの人ごみの中へ、阿波屋の下男だつた元吉が來てゐるに相違ないと言つた親分の見當は、さすがに見事に當りましたよ。阿波屋の番頭が直ぐ見付けて、私に教へてくれたので、大骨折であとをつけると、元町の岡谷半嶺といふ繪師の家へ入るぢやありませんか」\n ガラツ八の踏んだ手順は素より平次の考へたプランだつたことは言ふまでもありません。\n「俺の方は、眞物の唐紙を使へる繪描きは江戸中に幾人もないと睨んで、御繪所の狩野家で訊いて、南宗北宗を兼ね修めた名人岡谷半嶺と見當をつけたのさ――だがお前の骨折も無駄ではないよ、二人の調べがピタリと合つたところで、動きのとれない確かな證據になるのだ」\n「へエ驚きましたね」\n「騷ぐのはこれからだ。出かけようか、八」\n「どこへ」\n「元町の岡谷半嶺の家だ」\n 平次と八五郎は即刻元町の岡谷家へ乘り込んだことは言ふまでもありません。そこで一と汗掻く氣で行つた二人は、\n「これは〳〵錢形の平次親分。老先生は先刻からお待兼ねぢや、此方へ」\n 案内してくれたのは、木綿の袴を裾短に着けた二十三四の書生――それが曾て阿波屋の下男に住み込んだ、元吉の變る姿だつたことは言ふまでもありません。\n 案内のまゝに、默つて奧へ通ると、\n「これは錢形の親分、飛んだお騷がせいたした」\n「――」\n 床の上に起き直つたのは七十近い老畫伯の岡谷半嶺で、灯を半面に受けた顏には、何やら熱つぽい暗い色さへあるのです。\n「――五つの繪が四つまで手に入りました。殘る一つに大きい未練はありますが、さうまでは神佛も見のがしては下さるまい。錢形の親分にこゝで追ひ詰められたのも何にかの因縁と申すものでせう。聽いて下さるか、平次親分」\n 岡谷半嶺は病苦を忍んで語りました。その話は長くて煩はしいものでしたが、要領をかいつまむと、岡谷半嶺は非常に天才で、若くして南宗北宗兩派の技法を體得し、更に和風の土佐住吉の畫風に亙り、技巧の上に於ては完璧の境に達したのが、四十歳そこ〳〵のまだ若い盛りでした。\n が、門閥のない悲しさ、下手でも白痴でも幕府の御繪所を預かる狩野に頭を押へられ、衆愚の前に眞技倆を示す折もなく、悶々の日を送つてをりましたが、その不平に加へてその日の糧にも差支へる貧苦に打ち負かされて、仲橋の古道具屋、北田屋道八の誘惑と陷穽に落ち、うつかり借りた金のために、心ならずも古今東西の名匠の名を騙つて、恐ろしい僞筆を揮ふことになつたのです。\n わけても王若水の唐子、元信の觀瀑、徽宗皇帝の孔雀、金岡の觀音、雪舟の山水は、眞物と紛ふばかりの素晴らしいできで、道八の手から諸方に賣り渡され、あらゆる鑑定者の眼まで昏まして、今日では日本の寳のやうに持て囃されてをるのでした。\n 岡谷半嶺はその後畫道に精進し、獨得の境地を開き、狩野派とは別に、確乎たる門地を打ち建てて、押しも押されもせぬ大家になりましたが、若かりし頃フトした過ちで描いた五つの僞作のことが、何んとしても氣になつてならず、藝術家らしい惱みが嵩じて、つひに重病の床につくやうになつたのです。\n「平次殿、御察し下され。私も畫工の端くれで、何んとか言はれてゐる身の上だ。昔の名人巨匠の僞作を五點も殘して、このまゝのめ〳〵とあの世へ行かれようか、――あの五點も素人が見れば古名匠と紛れもするだらうが、この私が見れば、物足らぬことばかり。あれをあのまゝにして置いては、古名人巨匠に對しても相濟まず、私は死んでも死にきれぬ心持でござるよ」\n 岡谷半嶺は崩折れるのです。そして元吉の介抱で元氣を取戻して、ようやく懺悔話を續けるのでした。\n「私の娘の比奈と――その許婚で私の門弟、こゝにゐる蔦井金三郎が、私の歎きを見るに見兼ね、私に代つて、その五點の僞作を取戻さうとしたので御座るよ。三兩五兩と金を置いて來たのは、その昔私が道八から受取つた畫稿料、――繪は一枚々々、この私が目で見て、相違ないと判つて燒き捨てました。旗野丹後守樣のところにあつた觀音像は娘の手からあの夜塀外で待ち受けた金三郎が受取り、これも燒いてしまひました、――心殘りの一幅は上野の寺内にあつて見れば力及ばない」\n「――」\n「あとに氣に掛るのは娘比奈の身の上と、――道八憎さに思はぬ罪を重ねたこの金三郎で御座るよ、平次殿」\n 死に行く人の涙ながらの訴へに、\n「安心なさいまし、お孃樣は私が救ひ出しませう。そして金三郎樣とやらは、二三年江戸から足を拔いて下されば」\n「有難い、平次殿」\n 岡谷半嶺はやつれ果てた顏を枕に埋め、その背を撫でてゐた金三郎も思はずその背に眼を伏せました。\n 平次は翌る日岡谷半嶺の晩年の傑作一幅を持參して、旗野丹後守に詫びを入れ、娘お比奈を無事につれ戻ると、その日のうちに金三郎と祝言させ、二三日父半嶺の樣子を見た上金三郎は暫らくの旅に上ることになりました。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "照「本当にねえ、だがお前は矢張あの上野町に居るのかえ」\n\n 六十一\n\nきん「はい上野町に居りましたが、彼の近辺は家がごちゃ〳〵して居ていけませんし、ちょうど白山に懇意なものが居りまして、あちらの方はあの団子坂の方から染井や王子へ行く人で人通りも有りますし......それに店賃も安いと申すことでございますから、只今では白山へ引越しまして、やっぱり団子茶屋をして居りますがねえ、何うも何でございますね、何うもつい此方の方へは参りませんで」\n山「じゃア何か屋敷の様子はお前御存じだろうが、武田や何か無事かえ」\n照「あ、お父様やお母様はお達者かえ...今以て帰る事も出来ない身の上で」\nきん「あの御新造様も大旦那様もお逝去になりました、それに御養子はいまだにお独身で御新造も持たず、貴方がお出遊ばしてから後で、書置が御新造様の手箱の引出から出ましたので、是は親不孝だ、仮令兄の敵を討つと云っても、女一人で討てるもんじゃ無い、殊に亭主を置いて家出をしては養子の重二郎に済まない、飛んだことだと云って御新造は一層御心配遊ばして、お神鬮を取ったり御祈祷をなすったりしましたが、それから二年半ばかり経ちまして、御新造がお逝去になり、それから丁度四年ほど経って大旦那様もお逝去」\n照「おやまア然うかえ、心得違いとは云いながら親の死目にも逢われないのは皆な不孝の罰だね......私も家を出る時には身重だったが、翌年正月生れたんだよ」\nきん「そう〳〵お懐妊でしたね」\n照「それが女の子で、旅で難儀をしながらも子供を楽みに何うかしてと思って、播州の知己の処へ行って身を隠し、少しの内職をして世帯を持っていた所が、其処も思う様に行かず、それから又長い旅をして、その娘も十五歳まで育てたが亡なったよ」\nきん「へえお十五まで、それは嘸まア落胆遊ばしたでございましょう、お力落しでございましょう御丹誠甲斐もない事でねえ」\n照「まア種々話も聞きたいから少し......」\n山「何だか表が騒がしいが何だ」\n と云って聞いて居ると、ばら〳〵〳〵〳〵と人通りがして、\n甲乙「なに今敵討が始まった、巡礼の娘と大きな侍と切合が始まった、わーッ〳〵」\n と云って人が駈けて通るから山平は驚きまして、\n山「これ何を、それ大小を出しな」\nきん「何でございますえ」\n山「何でも宜しいから大小を......きんやお前此処に居て...お前居ておくれ、二人往かなければならんから留守居をして」\n金「何うなすったんでございますえ」\n山「何うなすった所じゃア無い何うでも宜しいから早く」\n と是れから裾を端折って飛出したが、此方は余程刻限が遅れて居ります。お話は元へ戻りまして、お繼が親の敵と切りかけました時は水司又市も驚いて、一間ばかり飛退って長いのを引抜き、\n又「狼藉者め」\n と云うと往来の者はどやどや後へ逃げる、商人家ではどか〳〵ッと奥に居たものが店の鼻ッ先へは駈出して見たが、少し怖いから事に依ったら再び奥へ遁込もうと云うので、丁度臆病な犬が魚を狙うようにして見ている。四辺は粛然として水を撒いたよう。お繼は鉄切声、親の敵と呼んで振冠ったなり、面体も唇の色も変って来る。然うなると女でも男でも変りは無いもので、\n繼「私を見忘れはすまい、藤屋七兵衞の娘お繼だ、汝は永禪和尚で、今は櫻川又市と云おうがな」\n と云う其の声がぴんと響く。その時に少し後へ下って又市が、\n又「何だ覚えはないわ、左様な者でない」\n とは云っても覚えが有るものでございますから、其所は相手が女ながらも心に怯れが来て段々後へ下る。すると段々見物の人が群って、\n甲「何でげす」\n乙「今私は瀬戸物屋へ買物に来て見ていると、だしぬけに親の敵と云うから、はッと跡へ下ろうと思うと、はッと土瓶を放したから、あの通り石の上へ落ちて毀れてしまいました、あゝ驚きました、何うも彼の娘でげすな」\n甲「へえ彼の娘が敵討だと云って立派な侍を狙うのですか、感心な娘で、まだ十七八で美い女だ、今は一生懸命に成ってるから顔つきが怖いが、彼れが笑えば美い女だ」\n乙「へえ、それは感心、あゝ云う巡礼の姿に成って居るが、やっぱり旗下のお嬢様か何かで、剣術を知らんでは彼の大きな侍に切掛けられアしない、だが女一人じゃア危ないなア、誰か出れば宜いなア」\n丙「危ないから無闇に出る奴は有りやアしません」\n甲「だって向うは大きな侍、此方はか弱い娘で......あゝけんのんだ」\n と見物がわい〳〵と云う。\n丙「おい早く差配人さんへ知らせろ」\n丁「おれの差配人さんでは間に合わない、何処の差配人さんへ然う云うのだ」\n丙「差配人さんが間に合わぬなら自身番へ知らせろ......あッあー...危ねえ〳〵敵討は何とか云いましたか」\n乙「何と云ったか聞えやアしない」\n乙「何とか云ったッけ、汝を討たんと十八年」\n甲「何を云やアがる騒々しい喋っちゃアいけねえ」\n丙「あゝ危ねえ〳〵」\n と拳を握って見ている、人は人情でございますから、何うぞして娘に勝せたい、娘に怪我をさしたくないと見ず知らずの者も心配して、橋の袂に一抔人が溜って居りますが、中々助太刀に出る者は有りません。\n甲「向うに侍が二人立って見ているが、彼奴が助太刀に出そうなもんだ、何だ覗いて居やアがる、本当に不人情な侍だ、あの畜生打擲れ」\n とわい〳〵云う中に、\n繼「親の敵思い知ったか」\n と一足踏込んで切下すのを、ちゃり〳〵と二三度合せたが、一足下って相上段に成りました。よく上段に構えるとか正眼につけるとか申しますが、中々剣術の稽古とは違って真剣で敵を討とうという時になると、只斬ろうという念より外はございませんから、決して正眼だの中段などという事はない、唯双方相上段に振上げて斬ろう〳〵と云う心で隙を覘う、水司又市も眼は血走って、此の小娘只一撃と思いましたが、一心凝った孝女の太刀筋、此の年四月から十月まで習ったのだが一生懸命と云うものは強いもので、少しも斬込む隙がないから、此奴中々剣術が出来る奴だなと思い、又市も油断をしませんで隙が有ったら逃げようかなんと云う横着な根生が出まして、後へ段々下る、此方も油断はないけれども年功がないのはいかぬもので、段々呼吸遣いが荒くなって労れて来るから最早死物狂いで、\n繼「思い知ったか又市」\n と飛込んで切込むのを丁と受け、引く所を附け入って来るから、一足二足後へ下ると傍の粘土に片足踏みかけたから危ういかな仰向にお繼が粘土の上へ倒れる所を、得たりと又市が振冠って一打に切ろうとする時大勢の見物の顔色が変って、\n見物「あゝ」\n と思わず声を上げました。\n\n 六十二\n" }, { "role": "assistant", "content": "見物「あゝ危ねえ、誰か助太刀が出そうなものだ」\n と云って居るが、誰も出る者はない。すると側に立って居たのは左官の宰取で、筒袖の長い半纏を片端折にして、二重廻りの三尺を締め、洗い晒した盲縞の股引をたくし上げて、跣足で泥だらけの宰取棒を持って、怖いから後へ下って居たが、今鼻の先へ巡礼が倒れ、大の侍が振冠って切ろうとするから、人情で怖いのを忘れて、宰取棒で水司又市の横っ面をぽんと打った。\n見物「あゝそら出た〳〵助太刀が出た、誰か出ずには居ないて、何うも有難うございます、いゝえ中々一人では討てる訳がない、あれは姿を※(「窶」の「穴かんむり」に代えて「うかんむり」、「窶」の俗字)して居ても、屹度旗下の殿様だ、有難い〳〵」\n と喜び、わア〳〵と云う。又市は横面を打たれるとべったり顔に泥が付いたが、よもや斯ういう者が出ようとは思わぬ所だから、是れに転動したと見え、ばら〳〵〳〵〳〵と横手へ駈出した。すると宰取は追掛けて行って足を一つ打払うと、ぱたーり倒れましたが、直ぐに起上ろうとする処を又た打ちますと、眉間先からどっと血が流れる。すると見物は尚わい〳〵云う。\n見物「そら逃げた殴れ〳〵」\n と云う奴があり、又石を投げる弥次馬が有るので、又市は眼が眩んで、田月堂という菓子屋へ駈込んだから菓子屋では驚きました。店の端先へ出て旦那もお内儀も見ている処へ抜身を提げた泥だらけの侍が駈込んだから、わッと驚いて奥へ逃込もうとする途端に、蒸したての饅頭の蒸籠を転覆す、煎餅の壺が落ちる、今坂が転がり出すという大騒ぎ。商人の店先は揚板になって居て薄縁が敷いてある、それへ踏掛けると天命とは云いながら、何う云う機みか揚板が外れ、踏外して薄縁を天窓の上から冠ったなりどんと又市は揚板の下へ落ちる、処へ得たりとお繼は、\n繼「天命思い知ったか」\n と上から力に任して抉ったから、うーんと苦しむ。すると嬉しがって左官の宰取が来まして\n宰取「この野郎〳〵」\n と無闇に殴る処へ、人を分けて駈けて来たのは白島山平。\n山「巡礼の娘お繼と申す娘は何処に居りますか」\n繼「あゝお父様」\n山「おゝ〳〵〳〵討ったか」\n繼「お父様宜く来て下すった」\n山「それだから申さぬ事じゃア無い一人で......怪我は無いか」\n繼「いゝえ怪我は致しませぬ、首尾好く仕留めました」\n山「あゝそれは感服、敵の又市は何処にいる」\n繼「縁の下に居ります」\n山「縁の下に......じゃア縁の下へ隠れたか」\n繼「いゝえ只今落ちましたから其処を上から突きましたので」\n山「うん然うか、やい出ろ」\n と髻を取ってずる〳〵と引出しますと、今こじられたのは急所の深手、\n又「うーん」\n と云うと田月堂の主人はべた〳〵と腰が抜けて奥へ逃げる事も出来ません。山平が是を見ると、地面まで買ってくれた田月堂の主人が鼻の先に居るから、\n山「これは何うもお店を汚しまして何とも、御迷惑でございましょうが、これは手前娘で、先達て鳥渡お話をいたした、な、が全く親の仇討に相違ございません、委しい事は後でお話を致しますが、決して御迷惑は懸けませんから御心配なく」\n と云ったが田月堂の主人は中々口が利けません。\n田月の主「え...あ...うん...うんお立派な事でございます」\n と泣声を出してやっと云いました。\n山「さア是れへ出ろ、これへ参れ......これ見忘れはせぬ、大分に汝も年を取ったが此の不届者め、汝が今まで活きているのは神仏がないかと思って居た、この悪人め、汝は宜くも己の娘のおやまを、先年信州白島村に於て殺害して逐電致したな、それに汝は屋敷を出る時七軒町の曲り角で中根善之進を討って立退いたるは汝に相違ない、其の方の常々持って居た落書の扇子が落ちて居たから、確に其の方と知っては居れど、なれども確かな証がないから其の儘打捨ておかれたのであるが、少女に討たれるくらいの事だから、最早どうせ其の方助かりはしない、さア汝も武士だから隠さず善之進を討ったら討ったと云え、云わぬ時に於ては五分試しにしても云わせる、さア云わんか」\n と面を土に摺付けられ苦しいから、\n又「手前殺したに相違ござらん」\n と云うのが漸と云えた。\n山「繼、予て一人で手出しをしては成らぬと云って置いたが、お前一人で此奴を宜く討ったな」\n繼「はい此処においでなさいますお方様が、私が転びまして、もう殺されるばかりの処へ助太刀をなすって下すったので、何卒此のお方様にお父様お礼を仰しゃって」\n山「うん此のお方が......何うもまあ」\n宰取「はアまことに何うもお芽出度うございます、なに私は側に立っていて見兼たもんですから、ぽかり一つ極ると、驚いて逃げる所を又打殴ったんだか、まア宜い塩梅で......お前さんは此の方のお父さんで」\n山「えゝ何うも恐入りました、只今は然ういうお身形だが、前々は然るべきお身の上のお方と存じます、左もなくて腕がなければ中々又市を一撃にお打ちなさる事は出来ぬ事でな、えゝ御尊名は何と仰しゃるか必ず然るべきお方でございましょう」\n宰取「うーん、なに私は弥次馬で」\n山「矢島様と仰しゃいますか」\n宰取「うん、なに矢島様じゃアねえ、只私は見兼たからぽかり極めたので......お前さん親の敵だって親が在るじゃアねえか」\n山「いやこれは手前養女でござる、実父は湯島六丁目の糸問屋藤屋七兵衞と申す、その親が討たれた故に親の敵と申すので、只今では手前の娘に致して居ります」\n宰取「えゝ藤屋七兵衞、おい、それじゃア何か、妹のお繼か」\n繼「あれまア何うも、お前は兄さんの正太郎さんでございますか」\n\n 六十三\n\n正「おゝ正太郎だ......何うも大きくなりやアがった此畜生、親父は殺されたか......えゝなに高岡で、然うか、己ア九才の時別れてしまったから、顔も碌そっぽう覚えやしねえくれえだから、手前は猶覚えやアしねえが、己が此処へ仕事に来ていると前へ転んだから、真の弥次馬に殴ったのが、丁度親父を殺した奴を打殴ると云うなア是が本当に仏様の引合せで、敵討をするてえのは......何う云う訳なんです」\n山「訳を申せば長いことでござる、予て噂に聞ましたがお前が正太郎様で、葛西の文吉殿の方に御厄介に成っていらしった」\n正「え......彼れは叔父で......お繼、何か小岩井のお婆さんの処え行きてえから、お婆さんに己の詫言して呉んねえ、父の敵を討つ助太刀をしたと云う廉で詫言をして呉んねえ、己アもう腹一抔借尽して、婆さんも愛想が尽きて寄せ附けねえと云うので、己も行ける義理は無えからなア、土浦へ行って燻ぶって居たが、その中に瘡は吹出す、帰る事も出来ず、それからまア漸との事て因幡町の棟梁の処え転がり込んだが、一人前出来た仕事も身体が利かねえから宰取をして、今日始めて手伝に出て、然うして妹に遇うと云うなア不思議だ、こりゃア神様のお引合せに違え無え、何うも大きく成りやアがったなア此畜生、幼せえ時分別れて知れやアしねえ、本当に藤屋の娘か、おい立って見や......これをお前さんのとこの子にしたのか......一廻り廻れ」\n などと云う。\n山「誠に是れは思掛けないことで、何うもその死んだ七兵衞殿のお引合せと仰しゃるは御尤もなこと、実は私の忰山之助と申す者と三年前から巡礼を致して、長い間旅寝の憂苦労を重ね、漸く今日仇を討ちましたが、山之助は先達て仔細有って亡なりました、それ故に手前忰の嫁故引取り娘に致して、手前が剣術を仕込みまして、何うやら斯うやら小太刀の持ち様も覚える次第、まことに思掛けないことで、葛西の文吉様にもお世話に成りましたから、手前同道致してお詫言に参りましょうが、まア兎も角も敵の......えゝ人が立って成らぬなア」\n正「私が一太刀」\n山「いや、お前はお兄様でも初太刀は成りません、お繼は七年このかた親の仇を討ちたいと心に掛けましたから、お繼が初太刀で、お前は兄様でも後ですよ」\n正「兄でもからもう面目次第もねえ、じゃア後で遣っ付けやしょう、此様な嬉しい事アござえやせん......何でえ然う立って見やアがんな、彼方へ行け、何だ篦棒めえ己は弱虫で泣くのじゃアねえ此ん畜生......早く遣付けて」\n山「なアに早く遣っ付けろと仰しゃっても、長く苦痛をさして緩りと殺すが宜い」\n繼「これ又市見忘れはすまい、お繼だ、よくも私のお父様を薪割で打殺して本堂の縁の下へ隠し、剰え継母を連れて立退き、また其の前に私を殺そうとして追掛けたな」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "呪言から寿詞へ\n\n一 呪言の神\n\nたゞ今、文学の信仰起原説を最頑なに把つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に憑る外ない不文の発想が、どう言ふ訣で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。\n信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。\n私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言に据ゑて居る。而も其古い形は、今日溯れる限りでは、かう言つてよい様である。稍長篇の叙事脈の詞章で対話よりは拍子が細くて、諷誦の速さが音数よりも先にきまつた傾向の見える物であつた。左右相称・重畳の感を満足させると共に、印象の効果を考へ、文の首尾の照応に力を入れたものである。さうした神憑りの精神状態から来る詞章が、度々くり返された結果、きまつた形を採る様になつた。邑落の生活が年代の重なるに従つて、幾種類かの詞章は、村の神人から神人へ伝承せられる様になつて行く。\n春の初めに来る神が、自ら其種姓を陳べ、此国土を造り、山川草木を成し、日月闇風を生んで、餓ゑを覚えて始めて食物を化成した(日本紀一書)本縁を語り、更に人間の死の起原から、神に接する資格を得る為の禊ぎの由来を説明して、蘇生の方法を教へる。又、農作物は神物であつて、害ふ者の罪の贖ひ難い事を言うて、祓への事始めを述べ、其に関聯して、鎮魂法の霊験を説いて居る。\nかうした本縁を語る呪言が、最初から全体としてあつたのではあるまい。土地家屋の安泰、家長の健康、家族家財の増殖の呪言としての国生みの詞章、農業に障碍する土地の精霊及び敵人を予め威嚇して置く天つ罪の詞章、季節の替り目毎に、青春の水を摂取し、神に接する資格を得る旧事を説く国つ罪――色々な罪の種目が、時代々々に加つて来たらしい――の詞章、生人の為には外在の威霊を、死人・惚け人の為には游離魂を身中にとり込めて、甦生する鎮魂の本縁なる天窟戸の詞章、家屋の精霊なる火の来歴と其弱点とを指摘して、其災ひせぬ事を誓はせる火生みの詞章、――此等が、一つの体系をなさぬまでも、段々結合して行つた事は察せられる。\n本縁を説いて、精霊に過去の誓約を思ひ出させる叙事脈の呪言が、国家以前の邑落生活の間にも、自由に発生したものと見てよい。尤、信仰状態の全然別殊な村のあつた事も考へられる。が、後に大和に入つて民族祖先の主流になつた邑落は固より、其外にも、同じ条件を具へた村々があり、後々次第に、此形式を模して行つた処のある事も、疑ふ事は出来ない。私は倭の村の祖先の外にも、多くの邑落が山地定住以前、海に親しい生活をして居た時代を考へて居る。\n延喜式祝詞で見ると、宮廷の呪言は、かむろぎ・かむろみの発言、天照大神宣布に由る物だから――呪言、叙事詩以来の古代詞章式の論理によつて――中臣及び、一部分は斎部の祖先以来代宣して、今に到つてゐると言ふ信仰を含めて説き起すのが通有形式である。呪言の神を、高天原の父神・母神として居るのである。而も其呪力の根源力を抽象して、興台産霊神――日本紀・姓氏録共にこゝとと訓註して居るのは、古い誤りであらう――といふ神を考へて居る。さうして同じく、祝詞の神であつた為に、中臣氏の祖先と考へられたらしい天児屋命は、此神の子と言ふ事になつてゐる。むすびと言ふのは、すべて物に化寓らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其に憑り来て其力を完うするものであつた。興台――正式には、興言台と書いたのであらう――産霊は、後代は所謂詞霊と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章の憑霊と言ふことが出来る。\nこやねは、興言台の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、諷唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼神は、たかみむすびの子と伝へるが、ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう。尤、此神以前にも、呪言の存在した様な形で、記・紀其他に伝承せられてゐるが、かうした矛盾はあるべき筈の事である。恐らく開き直つて呪言の事始めを説くものとしておもひかねによつて深く思はれて出来たのが、神の呪言の最初だとしたのであらう。即、天窟戸を本縁とした鎮魂の呪言――此詞章は夙く呪言としては行はれなくなり、叙事詩として専ら物語られる事になつたらしい。さうして其代りに物部氏伝来の方式の用ゐられて来たことは明らかである――を、最尊く最完全な詞章の始まりとしたものらしい。\n\n時に、日神聞きて曰はく「頃者、人雖多請未有若此言之麗義者也。」(紀、一書)\n\n請は申請の義で、まをすと訓むのは古くからの事である。申請の呪言に、まをす・まをしと言ふから、其諷誦の動作までも込めて言うたのだ。前々にも呪言を奏上した様に言うてあるが、此は本縁説明神話の常なる手落ちである。\n善言・美辞を陳ねて、荘重な呪言の外形を整へ、遺漏なく言ひ誤りのない物となつたのは、此神の力だとする。此神を一に八意思金神と言ふのも、さうした行き届いた発想を讃美しての名である。" }, { "role": "assistant", "content": "こやねは、神或は、神子の唱へるはずの呪言を、代理者の資格で宣する風習及び伝統の発端を示す神名であり、諷誦法や、副演せられる呪術・態様の規定者とせられたのであらう。斎部の祖神と謂はれる天太玉命は、其呪術・態様を精霊に印象させる為に副演する役であつた。さうして、呼び出した正邪の魂の這入る浄化したところを用意して、週期的に来る次の機会まで、其処に封じ籠めて置く。此籠める側の記憶が薄れて、浄化する方面が強く出て、いむ・ゆむ・ゆまふ・ゆまはるなど言ふ語の意義は変つて行つた。斎部氏はふとだま以来と言ふ信念の下に、呪言に伴ふ神自身の身ぶりや、呪言の中、とりわけ対話風になつた部分を唱へる様になつたと見ればよい。呪言の一番神秘な部分は、斎部氏が口誦する様になつて行つた。天つ祝詞・天つ奇護言と称するもの――かなり変改を経たものがある――で、斎部祝詞に俤を止めてゐるのは、其為である。\n中臣祝詞の中でも、天つ祝詞又は、中臣の太詔戸と言はれてゐる部分である。此は祓へを課する時の呪言であつて、さうした場合にも古代論理から、呪言の副演を行ふ斎部は、呪言神の群行の下員であつて、みこともち(御言持者)であつた、主神役なる中臣が此を口誦し、自ら威の手で――これまた、神の代理だが、万葉集巻六の「すめら我がいつのみ手もち......」と言ふ歌の、天子の御手同時に神の威力のある手ともなると言ふ考へと同じく――祓への大事の中心行事を執り行うた――大祓方式の中の、中臣神主自ら行ふ部分――のである。斎部宿禰の為事が、段々卜部其他の手に移つて行つて、その伝承の呪言も軽く視られるやうになつてから、天神授与の由緒は称へながら、斎部祝詞は、神秘を守る事が出来なくなつた。\n中臣祝詞の間や末に、斎部の唱へる部分があつた習慣から、斎部祝詞が分離したものか。斎部祝詞が、祝詞の精髄なる天つ祝詞と唱へて、祓除・鎮斎に関した物ばかりである事――此部分だけ独立したのだらう――、辞別の部分が斎部関係の事項であるものが多い事――幣帛や、大宮売神や斎部関係の事が、其だ。辞別は、必しも文の末ばかりでない処を見ると、こゝだけ辞の変る処であつたのだ。「又申さく」「殊更に申さく」などの意に考へられて、宣命にも、祝詞にも、さうした用例が出て来た――などが此を示して居る。延喜式祝詞の前後或は中に介在して、宣命と同じ形式の伝宣者の詞がある様に、今一つ古い形の中臣祝詞にも、中臣の言ふ部分と、斎部の誦する部分とがあつたのであらう。\nかう考へて来ると、呪言には古くから「地」の部分と「詞」の部分とが分れる傾向が見えて居たのである。此が祝詞の抜きさし自由な形になつて、一部分を唱へる事も出来、伝来の詞を中に、附加文が添はつて来たりもした理由である。さうして、此呪言の神聖な来歴を語る呪言以外に附加せられた部分が、第一義ののりとであつたらしく、其心になつてゐるものが、古くはよごとを以て総称せられて居たのだ。よごとが段々一定の目的を持つた物に限られる様になつてから、元の意義の儘のよごとに近い物ばかりを掌り、よごとに関聯した為事を表にする斎部の地位が降つて来る様になつたのも、時勢である。其は一方、呪言の神の原義が忘れられた為である。\nかむろぎ・かむろみと言ふ語には、高天原の神のいづれをも、随意に入れ替へて考へる事が出来た。父母であり、又考位・妣位の祖先でもある神なのだ。だから、かむろぎ即たかみむすびの神に、天照大神を並べてかむろみと考へてゐた事もある。此両位の神に発生した呪言が、円満具足し、其存続が保障せられ、更に発言者の権威以外に、外在の威霊が飛来すると言ふ様に展開して行つた。私の考へでは、詞霊信仰の元なることゞむすびは、外来魂信仰が多くの物の上に推し拡げられる様になつた時代、即わりあひに遅れた頃に出た神名だと思ふ。\n\n二 常世国と呪言との関係\n\nおもひかねの命を古事記には又、常世思金神とも伝へてゐる。呪言の創始者は、古代人の信仰では、高天原の父神・母神とするよりも、古い形があつた様である。とこよは他界で、飛鳥・藤原の都の頃には、帰化人将来の信仰なる道教の楽土海中の仙山と次第に歩みよつて、夙くから理想化を重ねて居た他界観念が非常に育つて行つた。\nとこよは元、絶対永久(とこ)の「闇の国」であつた。其にとこと音通した退く・底などの聯想もあつたものらしく、地下或は海底の「死の国」と考へられて居た。「夜見の国」とも称へる。其処に転生して、其土地の人と共食すると、異形身に化して了うて、其国の主の免しが無ければ、人間身に戻る事は出来ない。蓑笠を著た巨人――すさのをの命・隼人(竹笠を作る公役を持つ)・斎明紀の鬼――の姿である。とき〴〵人間界と交通があつて、岩窟の中の阪路を上り下りする様な処であつた。其常闇の国が、段々光明化して行つた。海浜邑落にありうちの水葬――出雲人と其分派の間には、中世までも著しく痕跡が残つて居た――の風習が、とこよの国は、村の祖先以来の魂の集注つて居る他界と考へさせる様になつた。海岸の洞穴――恐ろしい風の通ひ路――から通ふ海底或は、海上遥かな彼岸に、さうした祖先以来の霊は、死なずに生きて居る。絶対の齢の国の聯想にふり替つて来た。其処に居る人を、常世人とも又単にとこよ・常世神とも言うた。でも、やはり、常夜・夜見としての怖れは失せなかつた。段々純化しては行つたが、いつまでも畏しい姿の常世人を考へてゐた地方も多い。\n冬と春との交替する期間は、生魂・死霊すべて解放せられ、游離する時であつた。其際に常世人は、曾て村に生活した人々の魂を引き連れて、群行(斎宮群行は此形式の一つである)の形で帰つて来る。此訪問は年に稀なるが故に、まれびとと称へて、饗応を尽して、快く海のあなたへ還らせようとする。邑落生活の為に土地や生産、建て物や家長の生命を、祝福する詞を陳べるのが、常例であつた。\n尤、此は邑落の神人の仮装して出て来る初春の神事である。常世のまれびとたちの威力が、土地・庶物の精霊を圧服した次第を語る、其昔の神授の儘と信じられてゐる詞章を唱へ、精霊の記憶を喚び起す為に、常世神と其に対抗する精霊とに扮した神人が出て、呪言の通りを副演する。結局精霊は屈従して、邑落生活を脅かさない事を誓ふ。\n呪言と劇的舞踊は段々発達して行つた。常世の神の呪言に対して、精霊が返奏しの誓詞を述べる様な整うた姿になつて来る。精霊は自身の生命の根源なる土地・山川の威霊を献じて、叛かぬことを誓約する。精霊の内の守護霊を常世神の形で受けとつた邑落或は其主長は、精霊の服従と同時に其持つ限りの力と寿と富とを、享ける事になるのである。かうした常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。\n呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一転化して、詔旨(宣命)を発達させた。庶物の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力は及すものと信ぜられて居た。年頭の朝賀の式は、段々、氏々の代表者の賀正事(天子の寿を賀する詞)奏上を重く見る様になつたが、恒例の大事の詔旨は、此受朝の際に行はれた。賀正事は、詔旨に対する覆奏なのであつた。此詔旨が段々臨時の用を多く生じて宣命が独立する様になつたのだ。延喜式祝詞の多くが、宮廷の人々及び公民を呼びかけて聴かせる形になつてゐるのは、此風から出て、更に他の方便をも含んで来たのである。宮廷の尊崇する神を信じさせ、又呪言の効果に与らせようとする様になつたのだ。だから延喜式祝詞は、大部分宣命だと言うてもよい様な姿を備へてゐる。宣命に属する部分が、旧来の呪言を包みこんで、其境界のはつきりせぬ様になつたものが多いのである。\n詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令の古い形は、かうした方法で宣り施された物なることが知れる。\n呪言は一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現実感を起し易い形を採つて見たので、まれびと神の一人称――三人称風の見方だが、形式だけは神の自叙伝体――現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。完了や過去の形は、接続辞や、休息辞の慣用から来る語感の強弱が規定したものらしい。神亀元年二月四日(聖武即位の日)の詔を例に見て頂きたい。父帝なる文武天皇は曾祖父、元明帝は祖母、元正帝は母と言ふ形に表され、而も皆一つの天皇であつて、天神の顕界に於ける応身(御憑身)であり、当時の理会では、御孫であつた。日のみ子であると共に、みまの命であると言ふのは、子孫の意ではなく、にゝぎの命と同体に考へたのだ。おしほみゝの命が、大神と皇孫との間に介在せられるのは、みまを御孫と感じた時代からの事であらう。聖武帝の御心も、元正帝の御心も、同一人の様な感情や待遇で示されてゐる。長い時間の推移も、助動詞助辞の表しきつて居ない処がある。\nさうした呪言の文体が、三人称風になり、時法を表す様になつて来たのは――(宣命の様に固定した方面もあつたが)――可なり古代からの事であつたらしい。此が呪言の叙事詩化し、物語を分化する第一歩であつた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 道路のアスファルトがやわらかくなって靴のあとがつくという灼熱の神戸市中から、埠頭に出て、舷梯をよじて、紅丸に乗ると、忽ち風が涼しい。\n ここから神戸市中を振り返って見ると、今まで暑さにあえいでおった土地も、涼しげな画中の景となって現れて来る。そうしてその神戸埠頭が今はもう視界から去ってしまう頃になると、左舷には淡路島が近より、右舷には舞子、明石の浜が手に取る如く見えて来る。私は甲板の腰掛に腰を下して海風の衣袂を翻すに任している。\n 先に帆襖を作って殆ど明石海峡をふさいでいるかと思われた白帆も、近よって見るとかしこに一帆ここに一帆という風に、汪洋たる大海原の中に真帆を風にはらませて浮んでいるに過ぎない。\n それに引かえて往きかう蒸汽船の夥しきことよ。鉄甲板の荷物船が思いきり荷物を積んで、深く船体を波に沈めて、黒煙を吐いて重そうに進んでいるのもすでに三、四艘ならず追い越した。軽快な客船も、わが船の十三ノットというにはかなわないで暫く併行して進んでいるうちに遂にあとになる。向うから来る汽船はすれ違ったと思ううちにもう見えなくなる。すべてこれ等の汽船は坦々たる道路の如くこの海原を航行しているのである。\n さすがに白熱の太陽が大空に君臨している間は、左右の島も汪洋たる波も、その熱に焼きただらされて、吹き来る風もどことなく生暖かい。その風は裳裾や袂を翻し、甲板の日蔽をあおち、人語を吹き飛ばして少しも暑熱を感じささないのであるが、それでも膚に何となく暖かい。\n 太陽が小豆島の頂きに沈みかける時が来ると、やがてこの船の極楽境が現出するのである。今まで青黒く見えておった島々が薄紫に変って来る。日に光り輝いておった海原に一抹の墨を加えて来る。日が小豆島の向うに落ちたと思うと、あらぬ方の空の獅子雲が真赤に日にやけているのを見る。天地が何となく沈んで落着いて来る。と、その海の上を吹いて来る風が、底の方から一脈の冷気を誘うて来る。その冷気が膚に快よい。\n 暮色が殆ど海原を蔽い隠す頃になると、小豆島の灯台が大きくまたたきそめて、左手には屋島の大きな形が見えそめて来る。もう高松に着くのに間がないことを思わしめる。\n 後甲板に活動写真をしているのを見に行く、写真のうつる布が風に吹かれているので、映写は始終中はためきどおしである。\n 高松の埠頭に着く頃はもう全く日が暮れている。紅丸がその桟橋に横着けになると、忽ち沢山の物売りが声高くその売る物の名を呼ぶ。\n「この桟橋は鉄筋コンクリートで出来たもので、恐らく日本の桟橋のうちで一番立派なものでしょう」と事務長が話した。その桟橋の両側には三艘ばかりの船が着いている。先きに途中で追い抜いた木浦丸も後れてはいって来る。船全体が明るくともって、水晶珠のようなのが一艘おる。これは宇野と高松との鉄道連絡船の玉藻丸である。\n 船が桟橋にとまっている間は風が死んでむし暑い。やがて桟橋を離れて大海原に浮むと又涼風が膚にしみて寒い位である。私は臥床にはいる。朝七時半起床。もう佐田の岬がそこに見え、九州の佐賀関の久原の製煉所の煙突を見る所まで来ている。\n 朝影のある甲板は涼しい。\n 別府はもう眼の前にある。\n 観海寺は彼処、商船会社の支店は其処、とボーイが指さしているうちに桟橋に着く。\n すぐ自動車で亀の井旅館に着。温泉にはいる。\n 別府は土地の下一面に温泉である。それが第一の天恵である。瀬戸内海という大道路がすぐ玄関に着いている。これも天恵の一つである。\n\n温泉に入るや瀬戸内海の昼寝覚。\n\n\n この前来たのは大正九年であったから、今から八年前になるが、出迎えてくれた土地の人は、\n「別府も八年前とは大変変りました」と誇り顔にいった。紅丸の甲板から別府市外を概観した時は格別変ったようにも思わなかった。桟橋から亀の井旅館に来る途上の光景も格別変ったようにも思わなかった。が、ただ私の通された所は洋館のホールであるだけが変っていた。\n「何時建て増しをしたのです」と聞いたら、\n「一昨年一月でした」と答えた。\n その夕方五時から日名子太郎氏や市の温泉係の中島辰男氏に案内せられて地獄廻りに出掛けた。\n 先ず海岸通りを北に自動車を駆った。道幅がこの前通った時より広いように覚えた。\n「この道は新らしく作ったのですか、大変広いようですが」と聞いて見たら、\n「大正十年に作った八間幅の道路です」と答えた。それから又、\n「この上の方の鉄輪温泉から鶴見の方へ出る三間幅の道路も新らしく出来ました。各地獄や温泉を連絡する新道路が出来たのであります、皆自動車で通れます」とのことであった。\n この前、日名子氏に案内されて地獄廻りをした時は、人力車でなければ通れなかった。所によると徒歩でなければ通れなかった。それも、朝出掛けて遂に鉄輪温泉に一泊して、二日がかりであったことを思うと、夕方の五時頃から涼みがてらに自動車に乗って出掛けるなんか、随分変化したものと思った。\n 先ず亀川温泉を過ぎて血の池地獄を見た。十年に一度大活動をはじめるそうで、今年が丁度その十年目に当たり、大荒に荒れるそうである。今朝も大活動をやったとのことである。ほとりの樹木など沢山に枯死しているのはその熱泥を吹き上げた処である。赤い泥の沸々と煮え立っている光景は相変らず物すごい。\n 次ぎに竈地獄を見た。これは地中の鬼がうめくような声を発して、岩窟の中から熱気を吐き出しているのである。その熱気で蒸したアンコのないまんじゅうがおいしかった。\n 芝石温泉という、湯滝のある、谿谷に臨んだ温泉を過ぎて、紺屋地獄を見た。これは紺色をした泥池の底から、同じく怒るが如くつぶやくが如く熱気を吐いておるのである。驚くべきことには近所の青田の中にも数ヶ所同じような処がある。一歩誤ればその中に落ち込んで命を落さねばならぬのである。現に誤って死んだという人も沢山あるのだそうである。鶏卵をその泥土からわく湯気に置くと二、三分で半熟になり殻が真黒になる。その真黒な鶏卵を一つ食べて見た。\n 次に坊主地獄を見た。これもやや大きなにごった熱湯が沸々とわき上っているのである。その有様が沢山の坊主頭を並べているようだからその名があるのだともいうし、又昔円内坊とかいう坊さんが二重桝をつかって百姓から米穀をむさぼり取ったがために、一夜の中にその邸宅が陥没して、この坊主地獄が現出したとの伝説もあるそうである。後ろの山に円内坊十五尊像という半ば壊れた十五の石像がある。ここは豊後湾を見晴らして景色がいい。かつて遊んだ日出の人家も一眼に見える。アンコのあるまんじゅうがまたうまい。\n 次ぎに地獄中の女王、海地獄を見た。この地獄については別に記述するところがあろう。地獄中の最も大きなもの、又最も美しいものである。もうこの海地獄にある間に七時を過ぎた。\n それから鉄輪温泉に行った頃は店頭の電灯がともっていた。そこで鉄輪地獄というのを見た。この鉄輪地獄というのは以前来たときはなかったので、その後地下を掘っていると俄然として爆発したので新らしく地獄が現出したのだそうである。" }, { "role": "assistant", "content": " この地獄には吸入室とか罨法室とかの設けもある。\n そこでちょっと以前泊ったことのある富士屋の主婦さんを訪ねた。もとの通り太っていることは明かだったが、顔かたちを十分に識別することは出来ないほどに薄暗くなっていた。\n 夜路をひた走りに走って鶴見地獄に出た。この鶴見地獄というのも昨年の春から爆発したものだそうである。泥土を交えない清透な熱湯を噴出している。\n 別府はこの前来たときよりも変っていることは明かになって来た。二大地獄の新たに増したことだけでも争うことの出来ぬ著名な変化である。\n 土地を掘って温泉を出すということは、別府では随所に行われておる。別荘地などは一軒の小さい建物にも必ず温泉がついている。\n 別府の停車場には温泉の洗面所がある。小学校にも温泉の浴槽がある。警察にも同じく温泉の浴槽がある。温泉が空しく噴き出して夏草の上に流れているところは各所にある。\n 田の中に小さい小屋がけがしてあるのは何のためかと思うと、皆そこには温泉が出ているのである。温泉の出ているということを標榜して、そこを別荘地に選む顧客を待っているのである。そうして堀ぬき井戸を掘るような装置が至るところにしてあるのは、皆新らしく温泉を掘っているのである。\n その掘ったところが俄然爆発して大量の熱気を地上に噴出するようになったところが、新らしく出来た鶴見地獄や鉄輪地獄である。\n 温泉の数はかず限りもない。温泉場と名のついた別府、浜脇、観海寺、亀川、鉄輪、芝石、堀田、明礬、新別府などがある。別府市内だけでも浴場が十あまりある。その他旅宿や個人の家には数限りなく温泉が湧出しているのである。\n 或人は今の別府は南の方に僻在している、亀川の東にある実相寺山を中心として、大きな泉都を建設せなければならぬといっている。或人は別府のうしろにそびゆる四千五百尺の高峰鶴見岳を中心にして、各所に点在する温泉郷を連結せなければならぬと説くものもある。\n 地熱を応用してすべての動力の基本としようとする地熱研究所というのがある。これは高橋廉一氏の監するところである。その結果がよいところから、東京電灯が玖珠郡飯田村湯坪に又地熱研究所を設置している。\n 温泉栽培株式会社というものがある。これは温泉の熱を利用して果物を栽培しようというのである。\n 又地球物理学研究所というのがある。これは京都大学がこの研究所を設けて温泉に関する基本的調査を開始しておる。\n 外に温泉療養研究所というものが、九州大学により新たに開始されんとしている。これは医学の方面から温泉を研究しようとするのである。\n 海軍療養所もあり、鉄道療養所もあり、満鉄療養所もあり、台湾婦人療養所もある。\n 海岸には砂湯というものがある。これは潮の引いた時分に、その砂浜に五体を埋め、下から湧出する温泉に浴するのである。日本人はもとより西洋人、支那人なども同じように砂に埋まっている。妙齢の婦人もある。手足の萎えた老人もある。\n それのみならず、この別府の海には底にかず限りもなく温泉が湧出しておるらしい。その証拠は海底の水が暖かくて、熱帯地帯の海にいる美麗なる魚介の類が棲息している、それらが採取されてここの魚市場に出るとのことである。陸地至るところに温泉の湧くことを思えば、それも無稽の説ということは出来まい。\n のみならず、海水浴をするのにも、潮はあまり冷めたからず、快適の温度であるとのことである。\n 豊後湾の風光は美しい。ここから日出を眺めた趣などはナポリに似ているとの評判がある。\n 何にせよ別府の大いなる強味は地下尽く温泉であるということである。土地の人は泉都と唱えて、日本の別府でない、天下の別府であると誇っている。泉都という言葉は面白くないが、湯の都たることは首肯される。\n 然しながら、観海寺は観海寺土地株式会社というものの経営に移って、同じくその経営になる住宅地が、夏草を生やしつつ沢山に客を待っている。文化村という新住宅地も五、六軒新しく建ったままで人の住むのを見受けない。海岸の風光を台なしにした埋立地にも別荘が建ったままで未だ買手のないものが多い。海地獄の熱湯を引いた新別府の土地株式会社というものも出来ておる。これもあまりはかばかしくないようだ。不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形にある。\n 別府市と温泉、地獄の散在しておる附近の村との連絡が思わしくないようである。これは温泉地一帯を別府市に編入して一つの行政区域にしたいものである。各地獄の遊覧に一々料金を取るが如きも廃止したいものである。これも個人の有になっておるために不便である。大別府を建設するためには第一着手としてこれ等は市有とすべきであろう。\n\n二\n\n 午前六時に眼ざめて顔を洗ったばかりで、飯も食わずに自動車に乗って、私は五里の山里を由布院村へと志した。亀の井主人油屋熊八氏東道のもとに、日名子太郎氏、満鉄の井上致也氏、大阪毎日別府通信所の本条君と共であった。\n 鶴見の山背を越える頃になると由布の峰がポカリと現れはじめた。豊後富士の称があるだけあってその尖峰が人の目をひく。富士なれば、誰かの絵で見た扇をなかばたたんで倒さに立てたような景色であった。その富士をうしろにして展望すると、すぐ天の一角に海を見て、佐田の岬、佐賀関あたりがほうふつと見える。又はるかの雲際に祖母山脈、又それに並行した二、三の山脈を見はるかして景色がよい。それからしばらくの間は変化のない山路で、やがて小田の池、山下の池などを見、放牧された牛の行手をふさぐことなどがあって、漸く下り路になった。\n「時間が後れると靄が晴れてしまう」と熊八氏が心配していたが、山路が開けて一帯の谷を見渡した時に、\n「ああ靄はもう晴れている」と落胆した。それでも一抹の濃い靄はなお白くその辺を逍遥うていた。これが由布院村であった。\n 取りあえず亀の井別荘の亀楽園に憩う。この別荘は瀟洒たる小さい別荘であるが、竹縁に腰を下ろして仰ぐ由布の尖峰は類なく美しい。前面は斧の入らぬ茂った山で、その円い山の肩のところから突として起った二つの尖峰――ここからはその峰が二つに別れて見える――が青空にそびえ立っている様はえがくが如く美しい。\n この由布院村にもたくさんの温泉が湧出しておる。現にこの別荘のすぐ傍に錦鱗湖という池があるが、その池の岸辺にも温泉が湧出しておって、その岸辺の水は温かいとのことである。\n その錦鱗湖に行って見たが、池の形も人工が加わっておらず自然で、沢山の浮草の生えているさまも面白く、又岸にある藁家の重なりあって建っている様も面白かった。\n 私たちはこの別荘で熊八氏の用意してくれたサンドウィッチを食し、やがて又自動車に乗って、更に六里の山路を越えて、飯田高原に行くことになったのである。\n 路は前の山路よりも更に悪くって自動車の動揺がはげしい。二、三里も来たろうと思うころ、お花畠ともいうべき秋草の咲いている所に出た。女郎花、撫子、女郎花に似て白い花(男郎花とも違う)それにあざみなどが咲き満ちているさまが美しかった。\n 崩平という山を一巡すると湧出山という山が見え出す。続いて九重山、久住山、大船山、黒岳などという山が前面に現れた。恰も列座の諸侯を見るような感じで威風堂々と並んでいた。九重山という山は白く欠き取ったようになっていた。これは硫黄をとっているためであって一名硫黄山というそうである。黒岳というのは自然林の密生している山で、他の山々と違って格段に黒いのが目に立つ。これらは総て九州アルプスといわれる山であるそうだ。その前面に現れ来った高原が即ち飯田高原である。\n その飯田高原は奥行二里幅三里ほどあって、一千町歩が水田になっているほかはすべて小さい熊笹の生い繁った高原である。自動車は路でないその熊笹の生えている所を自由に突破して走りもするのである。石が殆どなく、いずこでも取って路とすることが出来るのである。馬に乗って里人が通っていると思えば、自動車は路をそれて行くことが出来るのである。そんなところが二里も三里もつづいておるのである。\n ある渓谷に沿うて白楢、山梨などという大木の枝に掛け出しが架けしつらえてある。これは熊八氏の工夫になったものである。そこで昼弁当を開いた。\n ここらあたりにも又沢山の湯がわいておる。湯坪という村には筋湯、大岳地獄、疥癬湯、河原の湯、田野という村には星生の湯、中野の湯、寒の地獄、筌の口温泉というのがある。この弁当はその筌の口温泉の小野屋という旅館の主人がこしらえて来てくれたのである。その主人は馬に乗ってこの高原を横切って来たのである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " さて、上海からの急行は、今日が最初の運転だといふことを、私の隣に偶然坐つてゐた見覚えのある将校から聞かされた。見覚えがある筈である、これこそ、学校時代に一級上だつた佐藤氏で、今日は、同氏が采配を振つてゐる鉄道部隊の晴れの日なのである。\n やつとこゝまでに仕上げたのだといふ、破壊された鉄路の困難な修復工事について、一席、苦心談にちよつぴり手柄話を交へた、朴訥で至誠のあふれた話を面白く聴く。幾日でやると云つたら、出来ても出来なくてもやる。兵隊には無理を云つてろくに休ませない、作戦の必要からだ。ところが、しまひにそいつが当り前のことになるんでねえ、と、隊長は、兵隊が可愛くてたまらぬといふやうなしんみりした顔をしてみせる。満洲、北支、中支と、殊勲を樹て続けの、この軍用鉄道の権威は、敵が外した路線材料を、何処へ匿して逃げたかをちやんと知つてゐるのである。苦力を集めてさつさと引き出させるのだから、相手にとつて始末がわるいといふべきである。\n なるほど、急行は二時間で蘇州へ着く。\n 例によつて特務機関のお世話になる。市政府、省庁へ儀礼的な訪問。有名な獅子林公園に失望し、近頃評判のわるい寒山寺が、どうして、俳味豊かな名刹として私を三嘆せしめた。規模の小なること、荒れ果てたまゝになつてゐること、バックの貧しいことは、改築の年代がごく新しいといふ事実とともに、この稀にみる清楚な寺院建築を、支那人のみならず、事変後続々と訪れる同胞たちに一顧の価をも感ぜしめないであらう。軒は既に傾き、瓦は剥げ落ちてゐる。生ひ茂る夏草の生ひ茂るまゝなのが却つていゝ。色褪せた壁の朱の、立ち枯れた並木の細い枝間に、寂然と光ある如くである。\n\n 南京一瞥\n\n 蘇州では名所見物が主であつたが、私はそれよりも、こゝへ来てはじめて落ちついた支那の街といふものに接し、民衆の日常生活の一端をのぞくことができたのをうれしく思つた。\n 殊に、出発の朝、同地駐屯の同期生平野がお手のものゝ○○艇を用意して、城外を繞る蘇州河の一部を走らせてくれたことは、この有名な運河の性質をのみ込むうへに非常に役に立つた。\n 大小無数の船が或は動き、或は止まつてゐる。その間を縫つて行くわれわれのモーターボートはすべての静けさを破る点で、およそ場所違ひのやうに思はれた。どの船からも支那人の顔がのぞいてゐる。街で出会ふ顔よりも一層底の知れぬ表情であつた。\n わが警備兵が乗り込んで物資の輸送に使つてゐるらしい船もあつた。\n 汽車の沿道で、畑ばかりの続いてゐるなかに、ひよつこり船の帆が浮び出ることがある。「クリーク」といふ名は何時か呪はしい響きをもつやうになつたけれど、この大陸の平和な生活は、なるほど水の旅とはなしては考へにくいものである。\n しかし、現在これらの水路は、所謂敗残兵の出没甚だしく、支那人は「税金」を払つて難を免れるといふことである。\n いよいよ南京に着いた。\n 旧王城の遺跡と新開都市の面目とを雑然と混へたうへに、戦乱の余塵未だ消えやらぬ荒涼たる一角を残して、南京は、今、私の眼の前にやゝふて腐れ気味な姿を横へてゐる。\n 蒋介石の企図した近代国家建設の夢が、どの程度に実現されてゐたかを知るのには都合のいゝ場所だとは思はれたが、それよりも、事変前は百二十人に過ぎなかつた邦人の数が、軍人軍属を除いて今では三千八十一人に達してゐるといふ話を聞いたゞけで、私は現実の歩みの速いことに気がついた。但し、占領以来十ヶ月の今日、やつと、中学が一校、その授業を開始したといふ事実は、復興を語るうへに見逃してはならぬ現象である。\n 序に代表的な小学校を見せてもらふ。\n 寺子屋と呼ぶにふさはしい構への旧式な建物のなかで、「読方」を習ふ児童たちの声が聞える。教室をのぞくと、年のころ三十と思はれる女教師が、粗末な謄写版ずりの紙片を教科書代りにして、熱心に授業をしてゐる。非常に物馴れた調子である。児童達を一人々々前へ呼び出して、数行の漢字を読みあげさせる。彼等は、少しも臆せず、その滑らかな発音に自ら酔うてゐるやうにみえる。\n 読み終ると、先生の方をちらと見あげる。みな潤ひのある美しい眼をしてゐる。女の子は殊に、悧巧さうな、引き締つた顔だちである。授業がすむと、先生はわれわれの方に進み寄つて慇懃に会釈をする。\n 話をしてみたいがどうにも方法がないから諦める。かうして南京に踏み止まつてゐる教師の一人々々に、われわれは心から言ひたいこと、訊きたいことがたくさんある。「長期建設」はそのへんから始めねばならぬといふことを当局は気づいてゐるであらうか?\n 光華門、中華門、雨花台等の戦跡を訪れて大西少佐の講話を聴く。風雨に曝された白骨を拾ひあげたものがある。\n 夜は、燈火管制が実施されてゐるため、街へ出ることも出来ぬ。\n 真夜中にふと眼がさめる。上海以来、すでに様々なものを見た、そのひとつびとつの生々しさと共に、それが前後もなく互に重り合ひ、結びついてできあがつた「今日の戦争」といふ新しい映像が、頭のなかを一瞬去来する。耳が冴えてゐる。そして、その耳にまづ伝はつて来る闇の中の物音は、単調ではあるが、相当に激しい雨の音である。明日は雨かと思ひながら、からだを起して窓に近づいた。遮光用の黒いカーテンを引いて外を見た。すると、僅かに消し残した街の灯の下を、蜒蜿長蛇の如く、車輌縦隊の一列が通過しつゝあるのである。たつた今、雨の音だとばかり思つたのは、この幾百幾千の馬の蹄が、涸いたアスファルトを踏む規則的な響であつた。人は語らず、車は軋まず、馬もまた黙々と頭を垂れて、いづこに向つてか往くのである。\n 漢口へ! と、私も、急き立てられる思ひがした。\n 一行は、こゝで、廬州に向ふものと、九江を目指すものとに別れた。\n 私は、ともかく九江まで行くことにした。\n 船で揚子江を遡ることも経験のひとつである。\n\n 遡江船\n\n 御用船××丸の甲板に立つて、はじめて揚子江といふものゝ存在が如何に象徴的であるかを知つた。\n それは大陸の象徴であるのみならず、支那の民族と歴史、その生活力と文化の象徴であるといふことに気がつくのである。\n 河幅は広いところと狭いところとあるが、九江までは、概して両岸の展望が利き、楊柳の木蔭に水牛の群れ遊ぶ様や、人家の周囲に銃眼を穿つた陣地が築かれてゐるのが見える程度である。しかし、その河幅いつぱいに、粘土色の水がひたひたとあふれ、流れと見えぬ深さで大地を逼ひ、澎湃として空を空につなぐこの超年代的なすがたを、日本のすべての人は想像もし得ないであらう。\n その日の夕方、蕪湖に碇泊、上陸して市街を一巡する。先づ眼についたのは、あちこちの小高い丘の上に建てられた瀟洒な西洋館で、何れも屋上にフランスやアメリカの国旗が翻つてゐる。病院と学校である。\n 九江では煙草が払底だと聞いて、こゝで、ルビイクインの幾箱かを買溜めする。" }, { "role": "assistant", "content": " 夜、船の食堂で、漢口よりの日本語放送を聴く。やゝ中国訛りのある若い女の声で、はつきり支那側の宣伝ニュースを読みあげるのだが、ニュースの内容よりも、放送者の心理の方に興味が惹かれ、人間の生き方について、あり得べきあらゆる場合を考へさせられた。\n 翌朝、蕪湖をたつ。\n 午後一時五十分、前方の○○艦より信号がある。「本艦と共に全速力を以て航行せよ」\n 甲板へ出てみると、本船の備砲も既に射撃準備を整へてゐる。やがて、○○艦から対岸に向つて盛んな砲撃が開始され、敵陣地と覚しい高地の麓からも、時々火を吐くのが見える。そのうちに、船の近くへ水柱があがりだした。来るなと思つてゐると、船橋をすれすれに迫撃砲弾が掠めた。二発、三発、どす黒い煙が飛沫と共に散つた。船載砲の砲手たちは、襦袢裸で、「こん畜生!」と叫びながら、撃つ、撃つ。と、私のそばにゐた船長が、「あツ、あたつたツ」と、一瞬、顔色を変へた。さう云へば、今、船腹に激しいシヨックを感じたやうである。船員が飛んで来た。\n「機関に当つたやうです」――それは間違ひであつた。\n 敵陣地に一条の煙が立ち昇つてゐる。何かゞ焼けてゐるのである。\n 二時三十分、敵味方とも砲撃中止、危険区域を脱したとみえる。船体にも、乗組員にも異状なし。甲板に砲弾の破片が落ちてゐたり、船腹に黒く焼け焦げのやうな跡がついてゐたりした。\n 太子磯に碇泊、一夜を明かす。\n 今日は銅陵附近でまた敵の砲撃に遭ふかも知れぬといふ。しかし、なんのこともなかつた。安慶を過ぎて、河幅が狭ばまり流れが急になる。小姑島の奇景を雨のなかに賞でながら彭沢に着く。××部隊の駐屯してゐることがわかる。街を囲む三方の山の向ふ側には、まだ敵がゐるのださうである、稜線のところどころに日の丸の旗が樹つてゐる。歩哨線であらう。背水の陣をそのまゝのこの備へに、私は胸をうたれた。\n\n 九江\n\n 河岸に面してずらりと建ち並んだ赤煉瓦の洋館は、この港が英国人の手によつて開かれたことを物語つてゐる。\n 外国租界らしい一区画を抜けて、商店街に出ると、看板だけは麗々しく出てゐるが、どの家も空つぽである。たまに軍隊の宿舎や倉庫にあてられてゐるものゝほかは、日本人の写真屋と時計屋が一軒づゝ店を開き、売切れといふ札のかゝつた酒保の鉄柵が閉ぢたまゝになつてゐる。\n ひつきりなしに軍用トラックが通り、砂塵を捲きあげる。髭面の兵隊が鉄兜を背負つて急ぐ。\n 軍報道部から兵隊宿舎増田旅館に落ちつく。二階のヴェランダは湖に蒞み、晴れてゐれば、廬山が一望のうちにある筈だが、生憎雲が低く垂れて眺望がきかぬ。\n 田家鎮陥落の報到る。\n 九江から前線へ出る方法はいくらもある。近いところでは、星子方面、例の徳安攻撃部隊につくこともできる。更に、江南地区の各作戦部隊に追ひつかうと思へば、これも便宜が与へられる筈である。いゝ機会をとらへれば、今から大別山の彼方へ飛ぶことも一策である。\n 武漢攻略の大殲滅戦が眼の前に展開されようとしてゐる時、われわれ一行の望むところはみなおなじであつた。\n 雨の日が続いた。\n ×××××の案内で、難民区を訪れた。避難民を一地区に収容し、その整理と救済の事業が始められてゐるのである。七月二十七日同地占領以来、住民の復帰する数は次第に増加しつゝあるが、まだ居住の自由は与へられてゐない。附近の農民でこの町へ流れ込んで来るものがある。難民整理委員会弁事処といふのができ、難民のうちから、元県知事をやつてゐたといふ老人が会長に選ばれてゐる。男は苦力として使役し、賃金を軍部で支払ふと、彼等は、それで軍配給の米を買ふといふ仕組にしてある。女は、野戦病院の雑役婦として働かすやうなことも考へられてゐる。軍への労働力の供給といふ問題は、作戦と同時に重要視されねばならぬ。\n 話に聞くと、最初、わが軍が同地にはひると、約五千の難民が、米・仏関係の教会、病院等四ヶ所に集まつてゐた。しかも、それらのうちには、既にコレラ患者が続々発生して手のつけやうがないくらゐであつたから、わが方では、その対策にとりかゝつた。軍医に協力して、同仁会の斑員が目覚しい活躍をしたのはこの時である。屍体を天主堂の前で焼きながら、難民の一人々々にワクチンの注射をした。軍隊はむろん城外に露営せしめ、全市の井戸水を検査したところ、その大部分に菌を発見した結果、敵軍の仕業とにらんだのであるが、それには確たる証拠はあがつてゐないらしい。\n ともかく、この地を棄てゝ逃げた敵軍は、各戸毎に残つてゐる鍋釜を悉く使用に堪へないやうに破毀して行つたといふ事実から推して、その周到ぶりを察することができる。\n コレラは二週間で撲滅した。この間、例の外国宣教師の態度について、当時折衝に当つた憲兵の印象が甚だ示唆に富むものである。曰く、米国人は、文句を云はずにわが官憲の命令に従つた。のみならず、応対すべてわれわれに好意的であつて、積極的な協力をも惜しまぬ風が見えたに拘はらず、フランス人は、概して傲慢、不遜であつて、いちいちやることが自分本位である。難民を収容するのはいゝとして、健康者のみの引渡を要求した際、故意にコレラ患者のみを突出したり、難民の待遇についても、彼等に食費を払はせ、その多少によつて賄に差別をつける等のことをしてゐた形跡があり、殊に不都合なのは、教会の倉庫に他へ避難した住民たちの家財道具を預り、その保管料を取つてゐることである。市中の民家にフランス権益を表示するマークがところどころ附せられてゐるが、厳重な調査を必要とするものである。\n 私は、その後、憲兵隊の許可を得て、試みにフランスの天主堂と病院並に孤児院を訪ねてみた。\n 天主堂の一つは宿のすぐそばにあり、なかなか立派な建物である。司祭に刺を通じて、病院を見たいといふと、今案内するが、その前にこれを見てくれと云つて、先づ河岸に面した庭の一隈へ私を連れて行つた。そこは煉瓦を積んだ塀になつてゐて、銃眼を穿つた跡がみえ、掘り返された庭の土が生々しく平らしてあつた。\n「支那軍が此処にもゐたのか?」\n 私は訊ねた。\n「然り。だが、日本の海軍がこの正面から砲撃を開始する前に、彼等は此処を去つた。それについて君に知つてもらひたいことは、この場所を支那軍に利用させるやうなことは、決してわれわれはしなかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた」\n「この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?」\n 彼は、そこで、空を仰いだ。そして、黙々として私をある一室に導き入れた。彼の居室である。\n「恐しい瞬間だつた。自分は砲声の轟いてゐる間、なにをしてゐたと思ふか。しかたがないから、こゝでパスカルを読んでゐた」\n 肩をぴくんとあげるといつしよに、芝居気たつぷりなこのカトリックの坊さんは、ソファの中で片眼をつぶつて笑つた。\n 天主堂の内部もまた、本国の寺院建築をそのまゝうつしたものであるが、材料の貧しいこと、工事の拙いことをしきりに坊さんは弁解する。\n 病院はすぐ向ひ側になつてゐて、これは別の修道院の管理下にあることがわかつた。院長の尼さんに紹介される。いゝ育ちを思はせる毅然としたフランス女で、私が何者であるかを説明すると、やゝ寛いで話をしだした。\n「いまはごく僅かの患者しかゐません。医者はみな引あげました。薬も手にはいりませんから......。それに、今度、日本軍から、この建物を戦病兵収容のために使ひたいから貸さぬかといふ交渉があつたので、上海の本部へ指令を乞ふ手紙を出しました。まだ返事が来ませんが、許可があり次第、お引渡しするつもりで、もう移転の準備をはじめてゐるところです。まあ、ごらんください、別に大した設備もありませんけれど......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 私は私の会計係の毎日ありのままな報告をどんなに喜んでいるか知れない。\n 私は店員を信じる。しかし信ずるということが私の不精の結果でない事を言いたい。私の店では毎年高等小学卒業生を二十三名採用する。そうしてこれを育てて行くのだ。まず百人くらいの志望者が集って来るが、これを厳密に選考する。学科、体格の試験はもちろんだけれども正直試験といって、家庭の事情、本人の趣味とか愛読書、入店志望の理由等詳細に正直に書かせる。\n こうして入店した少年諸君は全部寄宿舎に収容する。少年組の寄宿舎には、三松俊平氏が父として、あるいは先生として監督している。三松氏は基督教牧師として有名なりし植村正久先生の高弟で、(しかし宗教的には店員には全然干渉しない)その人格に信頼して、私は百人からの少年諸君の修養をお願いしている。ある時地方から来た少年に、寝小便の癖のあるものがあった。三松夫妻の努力でいつの間にか癒った。私はこの話を最近まで知らなかった。それは、早いうちに私の耳に入って「そんな子供は困る。帰したらどうだ」とでも言うようなことがあってはと、恐れたものであろう。一事が万事この調子で少年諸君の親となってくれていた。少年組は三カ年後は青年組の寄宿舎に入ることになっている。青年組はほとんど自治制に近いもので、生活ものんきなのに、どうしても、三松氏を離れて青年組に移ろうとしない。三松氏を慕う少年諸君のためにやむなく少年組寄宿舎増築問題が起った。\n 店員一同を相撲見物にやったところが、寄宿舎で早速、相撲流行となった。「相撲をとるので、だいぶ襖が破れてしまいましたが、別段小言は申しませんでした」と、三松氏が言ったから、「相撲で襖を破るくらいならいいが、喧嘩はあるまいね」と訊くと、「喧嘩は一度もありません」と答えてくれた。\n 店員の使い方じゃない、私はこうして店員に対し、主人としての責任を感じ、皆がよく働いてくれるのを喜んでいる。規則は無用だ。\n\n店員を如何に導くべきか\n\n 昔の店員は、年期が明けてから礼奉公を三四年して、ちょうど二十七、八歳にもなるとのれんを分けて貰って店を持ち、独立するのが慣例であった。つまり昔は、日本橋辺の大店に奉公した者が新宿とか品川、あるいは千住のような場末に支店を出したりして、それが本店の商売に別段影響せず、かえって本店の宣伝となって双方ともよろしかった。\n ところが今日のようになると、電話の注文はもちろんのこと、電車自動車で直ちに配達出来るのだから、本店の勢力範囲が郊外にまで拡張されて、支店というものの必要もなければ、出る余地もない。強いて出して見てもとうてい本店の信用に圧されてまず発展の見込みはあるまい。\n そればかりでなく、昔のように僅かの資本で店を持つことが難かしく、ことに最近では百貨店や公設市場の進出のために、多年売込んだ老舗でさえもついに閉店の憂目を見るという有様で、新たに店を持つのには余程の困難を覚悟せねばならない。\n こういう時代に、多数の店員を養っている店主として、店員達の将来についてどういう用意をしてやり、どんなふうに指導して行ったらよいものであろうか。ところが店主の中にはそういう時勢の変化を知らず、待遇の如きも何らあらためるところなく、旧態そのままで店員が相当の年齢に達してのれん分けを請求され、はじめて狼狽するというのが少なくはない。\n また店員側でもぼんやりと主人に頼っていて、いまだに古い習慣通り、十二、三年も奉公すれば、一つの店の主にして貰えるものと信じて辛抱しているようなのがある。特に当人よりもその父兄にはことにこの希望が多いようである。\n これは店主が早く目覚めて、店員やその父兄に対しては、のれん分けの望みの少ないことを知らせ、時勢に適応する良法を考え、店員の将来をあやまらぬようにせねばならない。これが解決策として私は次の三点をあげる。\n\n一、のれん分けの望み少なき今日、店員の俸給は出来るだけ多くして、他の社会の標準に劣らぬようにすること。\n二、長くその店に働くことを希望する者に対しては、出来るだけの便宜を与えること。\n三、店を商売道研究の道場と心がけ、店員の心身を鍛錬するとともに、時勢の進歩に遅れぬよう指導し、退店後立派な商人として独立し得るだけの資格を習得させること。\n\n すなわち、いまは昔のようにのれん分けの希望こそ少なくなったが、人口増加の度を見ても、徳川三百年間に僅かに三割程度であったものが、維新後の七十年間には実に二倍半の増加を見ている。\n そうして時勢とともに万時万端複雑になって、新人活躍の舞台は驚くべき多方面に開けて来ている。従って今日は昔のように型通りの習い覚えでは役に立たず、種々の境遇に応じてこれに順応し得られるよう、心身を錬り、叡智を磨いておかねばならぬのである。\n そしてこの準備と訓練さえあれば今日はかえって昔よりも、新人の活躍に便利であると考えられる。そこで相当の年齢に達したならば独立し得られるよう、商売道の原則と社会に対する一般知識並びに経験を得るように指導して行きたいと考えている。\n\n店員の小遣いと待遇\n\n 店員に小遣いを一切渡さず、給金の全部を主人が預って、必要に応じて支出するのが、昔からの商店の慣わしである。今日でもいわゆる近江商人の老舗や古い呉服店などにはこの昔ながらのやり方を守っているものがある。で、これをかりに旧式とすると、俸給を毎月全部当人に支払う、すなわち百貨店その他新しい所で行われている方法、これが新式ということになる、次にこの二つの中を取って、一部を主人が預って保管し、他の一部を本人に渡す、この方法は折衷式ともいうべきであろうか。しかしどれにも一長一短はあって、いずれを可とし、いずれを不可とすることは出来ない。\n そこで私の店はどうしているかというと、この折衷式を採っている、高等小学校卒業の少年が毎年二十二三人ずつ入居するが、三月末に入ってそれから徴兵までの約六年間を少年級とし、衣類医療等いっさいを主人持として、小遣いは初め月に五六円で、漸次増して、三十円くらいになる。そしてこの六年間は、約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。\n 二十二歳から二十七歳までを青年級として、俸給は三十五六円から七十円に達する。この時代は衣類などは自弁するので、約半額を本人に渡し、残り半分は主人が預って貯金しておく。この二級とも全部寄宿舎に収容し、賄はいうまでもなく店持ちである。\n 二十八歳以後は、妻帯を許して、これには家持手当、夕食料、子持手当、本人手当などを給し、俸給は月々全部支払って、主人はもう一銭も預からない。家持店員の俸給は七十円ないし百五六十円、しかしこの収入では観劇、角力見物、また一流の料理店へ行って味覚を向上させるなどということは難しいのであるから、主人のゆくところは彼らも行かせ、せいぜい多方面の見学、また食学をもさせるように努めている。" }, { "role": "assistant", "content": " なお遠く旅行して見聞をひろめ、また大いに旅の興味を感得せしめる必要もあって、西は京大阪、東は仙台松島くらいまでは、多数がすでに見物済みとなっているが、これより遠くの旅行はちょっとむずかしいので、毎年春秋二回、古参者から始めて順々に、同行二人を一組とし、十日の休暇と旅費を給して、九州あるいは北海道と、出来るだけ遠くまで足をのばさせるようにしている。大会社などで時に見学を兼ねて欧米遊覧を許しているが、私のところではまだそこまでに至らない。\n そこで私の店の給与はこれらすべてを合わせて、およそ売上げのどのくらいに当っているかというと、およそ百分の六、これでは米国百貨店の百分の一六・○独逸百貨店の一三・五に比べて二分の一にも足らず、本人に対してはもちろん欧米人に対し、恥しいことであると思っている。しかし世間を見ると一般商店はさらに低いようで、東京市の調査によると、一般個人店百分の四・三、一般百貨店百分の四・四という。もっともこの数字は雑費の一部を見落しているかと思われ、このまま比較しては当らぬようであるが、ようやく米国の三分の一くらいのように見受けられる。私は多くの店主諸君と共になお一段の奮発を致さなくてはなるまいと思うている。\n\n店員の悪癖は主人の不徳\n\n 私は店員の採用には充分慎重な態度をもって臨み、第一条件として家庭の質実純良なものから採るようにしている。そして高等小学卒業という全く清新な時に、その父母の手から直接に彼らを受取り、社会の悪感化より免れしめるように心掛けているのであるが、無論ごく稀にではあるが、少年店員の中に盗癖という悪癖を持っているものあるを見出すことがある。何という嘆かわしいことであるか、私はその都度その少年が盗みをするに到った原因を、出来るだけ彼の過去に遡り、また周囲の事情に照らして、即断を避けて慎重に調査して見るのであるが、たいていやはりその生れた家庭の欠陥に基くものであることが発見される。\n しかも驚いたことには、その家庭というものが、人に真理を説き、善義を教える宗教家や教育者であったりして、どうしてこういう家からそんな不心得な者が出るのかと、実に意外に感じるのであるが、これはどうもそれらの父兄の表向き説くところと日常の行いが相反するのを幼児から見せつけられるのと、一つにはそういう家庭が社会から酬われるところあまりに薄く、経済的に窮乏しているためではないであろうか。\n とにかく店員の悪癖は、主人にとりまた店にとって甚だ迷惑なことである。しかしその者自身としてはそれ以上はるかに重大な問題であり、何をもっても救うことの出来ぬ大きな悩みである。そしていったん発見されたとなっては一生の浮沈にもかかわるのであるから、その場合主人として実に責任の重大さを痛感させられる。\n 店としてはその店員を退店させれば、一時的の損害ですむことではあるが、前途有望な男一人を活かすか殺すかの鍵を握らされている主人は、これを簡単に処置することなどとうてい出来ない。やはりこれは自分の子供が同じ罪を犯したのと同様に考えて、あくまでも懇切に訓戒し、更生を誓わせるように努力せねばならない。しかしそうして見てもまた彼が同じことをする場合、あるいは病い膏盲に入っていて反省の見込なしと見られた場合は、もはや致し方なく、断固として退店を命ずべきである。そしてこの強硬手段が、あるいは彼を更生せしむるやも知れないのである。\n しかし店主も大いに反省する必要があるし商売というものが、彼等正直にして純情な少年の眼にひどく易々と金の儲かるものに見えはしなかったか、ごまかしに見えはしなかったか。もしも店主が整理を急ぐ等のために不良な品を客にすすめるとか、価の知られていない物に対して高い値段をつけて儲けるとか、そういうことをしているとでもすれば、その場合店員を不幸罪に陥れたものはその店主自身であるとしなければなるまい。まして世間に往々あるように無理な経費節減として、あまり粗食で少年を我慢させ、乏しい思いをさせるなどということがあったとすれば、店員の罪はむしろ店主が負わねばならぬものであろう。\n 店主が公明正大な商売をして居れば、そういう不心得な店員を出すことも少ないのであって、もしも店員に罪を犯すものがあれば、如何なる事情にもせよ、店主は己れの不徳の致すところとして深く反省し、店員のみを責めるような処置は決してとってはならないのである。\n\n店員の独立の約束はできぬ\n\n 私の店には二百十九人の店員が居るが、これらの貴重な青春を捧げて快く主家のために尽してくれる店員にどうして酬いたらよいか、将来の保証をどうしたらよいかということは、我々店主として大いに考えなければならない問題である。\n 御承知の通り時勢も昔とはだいぶ違って来た。例えば交通機関の発達という一つを取上げてみるにしても、ここ新宿に店を持っていて、電話一本でもって市中は言うに及ばず、郊外までも自転車あるいは自動車で迅速に御注文を果すことが出来る。これはどういうことかというと、同一な特長を持った店の対立は許されないということが考えられ、すなわち支店や分店は必要でない――のれんを分ける余地は現在ではもはやないということなのである。この点は店主たる人のよく心得ておかねばならぬことであると思う。\n 昔は相当の年期さえ奉公すればのれんが分けてもらえた。そして店員達はそれを目当にせいぜい小遣銭ぐらいの待遇で、冷めしを食べても満足して働いたものである。\n ところが現在ではそののれん分けが出来ない。私は始終店員にこう語って聞かせている。「前に述べたような状態であるから、店として独立を約束することは出来ない。ただ待遇だけは出来るだけよくする。相当な月給で、相当な紳士として待遇するから、居たいなら何時までも永く続けていてもかまわない。また、月々の給料の中から出来るだけ貯えておき、将来いい機会さえあれば独立する。これは大いに望ましい。その時は店主としても好意的援助は惜しまぬつもりだ」と、これが私の常に抱いている気持なので、私達の若い時代のことを思い浮べ、青年時代の野心はできる限り満足させてやりたいと思い、せいぜい独立する考えを持つようにと勇気づけて居るので、結局その方が励みもつき、貯金もするし、成績もいいようである。\n\n退店は拒まない\n\n またこれもやはり時代のせいであろうか、昔風のいわゆるカケヒキ「損と元値で蔵を建て」式なインチキな販売法は今は流行らない。相当の知識を持った紳士的商売術で、別に奇術を弄さずとも相当のところまで行けるであろう。人間が正直で、手職に常識に販売に経営に私の店の販売台で相当年期をいれれば、その内には商売の原則も判るし、時代に順応してゆくコツも判るし、人格を重んじ、自己の使命を忠実に尽し、ことに人扱いなどということもよい体験が出来るから、長い間にはモノになると教え、実力において相当な時代的商人として世が渡れるように、努めて教育を与えているのである。\n 長く勤める店員に対して、恩給を与えてはどうかということも問題ではあるが、これは考えものであると思う。例えばある官庁などのように十年、十五年とだんだん恩給を増す式を、我が店員の場合に当てはめて見ると、明らかに彼らの気持を退嬰的にすることは事実である。店員はこの恩給を棒にふるのもなんだからと、恩給を逃さぬようにとばかり考えて、独立の機会を逸する事となりがちでありまた店主の方にすれば、あたら一個の男子を飼殺しにする結果になる。これは、前にも述べたように常に機会ある毎に独立するような心持で居て、貯金もせよ、遠慮なく店を退けという、恬淡たる態度でいるに如かずである。若い者にはそれ相当の夢もあり希望もあるのであるから、それを助長し、努力させて行った方が幸福ではなかろうか。\n その代り、どんな優秀な、店にとっては貴重な店員にあっても、退店を申し出た場合にあってはあえて引止策は講じないことにしている。これは本人のためであると同時に店にとっても必要である。これを引止めたり延期を求めたりすれば、それは店員に慢心を起こさせて彼等を増長させるおそれがあるからである。\n\n人格的人物の養成\n\n 昔は店の小僧と云えば一人前の人間でないとされて居た。主人がいなければ怠け出し、つまみ食いする。油断すれば銭箱をごまかす、とかく横着な代物のように考えられていたのは事実である。現代ともあればこの考えはすっかり改めなければならない。私の店では、店員はすべて紳士として扱っている。そうでなければ決して伸びるものではない。監視つきでいては番頭としてまかせられるものではないし、独立しても店主になる資格はつかないのである。\n 入店と同時におよそ人格的に人物養成の方針でやっている。そうすると、ただ忠実というだけでなしに愛店心も非常なものであり、少しでも店のために能率をあげようとしてかかるから、現在ではほとんど店員にまかせ切りの状態で、店主の私は毎日ちょっと報告を聞きにゆくくらいのもので――どんどん成績があがっているのである。結局人間の心掛け如何ということになるが、例えば日本菓子部の職人にしても、他所ならばせいぜい一日一人二十円平均位の製造高と聞いているが、店のは一日平均四十円以上である。さりとて、就業時間が長いというのではない。およそ十時間である。労働時間が十三四時間であろうが、店主の眼を盗んで、いたずらにむだ話をして本気で働く気でないのでは、決して能率は上るものではない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 畜生恋\n 僕はいつも独房にばかりいて、雑房の方のことはよく知らない。雑房というのは、詳しく言えば雑居房だ。六人も八人も十人も、あるいはもっと多くの囚人が六畳敷か八畳敷かの一室にとじ籠められている。定員四名、現在十二名、というような札が、監房の入口にかけられてあるのも珍らしくはない。\n 多くは同じ性質の犯罪、たとえば泥棒は泥棒と、詐偽は詐偽と一緒に置かれて、数カ月乃至数カ年の間、仲よく泥棒や詐偽の研究をしている。実際みなずいぶん仲がいい。しかしその間にも、他のどこででもあるように、よく喧嘩がある。時としては殺傷沙汰にまでも及ぶ。が、その喧嘩のもとは、他の正直な人々の間のようには、欲得ではない。そのほとんどすべてが恋のいきさつだ。\n ちょっと色の生っ白い男でもはいって来れば、みんなして盛んにちやほやする。まったくの新入りでも、監房や工場のいろんな細かい規則に、少しもまごつくことはない。なにかにつけて、うるさいほど丁寧に、よく教えてくれる。庇ってもくれる。みんなは、ただそれだけのことでも、どれほど嬉しいのか知れない。\n こうしてみんなが、若い男のやさしい眼つきの返礼に、何ものにも換え難いほどの喜びを分ち合っている間は無事だ。が、それだけでは、満足のできない男が出て来る。その眼の返礼を独占しようとする男が出て来る。平和が破れる。囚人の間の喧嘩というのは、ほとんどみな、直接間接にこの独占欲の争いにもとづく。これは世間の正直な人々の色恋の争いと何の変りもない。\n どこの監獄の囚人の間にも、この種の色情はずいぶん猛烈なものらしい。\n もっとも、これだとて、決して囚人特有の変態性欲ではない。女っ気のない若い男の寄宿舎なぞにはどこにでもあることだ。現に僕は、陸軍の幼年学校で、それが知れればすぐに退校されるという危険をすら冒して、忠勇なる軍人の卵どもが、ずいぶん猛烈にこの変態性欲に耽っているのを見た。はなはだお恥かしい次第ではあるが、僕もやはりその仲間の一人だった。\n その僕が、しかも同志の間ではちょうどピストル強盗といったような形で赤い着物がよく似合うとからかわれていたほどの物騒な面構えなのにもかかわらず、危く監獄でこの犠牲になろうとしたことがあった。\n 千葉でのある日、湯にはいっていると、そこへ見知らぬ男が一人不意に飛込んで来た。監獄の湯は、どこでもそうらしいが、大勢一緒にはいる大きいのと一人ずつ入れる小さいのとがある。僕等は、いつもはその大きいのに仲間だけが一緒にはいるか、あるいは何かの都合で小さいのに一人ずつ入れられた。その日は一つ一つ板で隔てて一列に並んでいる小さい方へ、みんなが別々に入れられた。ほかの囚人を一緒に入れる筈はないのに、とは思ったが、看守の間違いにしろ何にしろ、とにかくほかの囚人と接触するのは面白いと思って黙っていた。\n その男は僕がわざわざ隅に寄って前の方をあけてあるのに、「失敬」と言いながら僕の肩を叩いて、後ろへはいろうとした。妙な奴だとは思いながら僕は少し前へ出た。すると、いきなりその男は飛びこんで来て、後ろから僕を抱きかかえた。\n 僕は飛びあがって、そいつの横面を一つうんと殴りとばして、そとへ出た。もう「出浴」の号令のかかる間近でもあったのだ。\n 脱衣場では、同志の村木というまだ未丁年の男が一人、蒼い顔をして着物を着かけていた。\n「どうした?」\n 僕はまた例の脳貧血かと思って、そばへ寄って尋ねた。少し長く湯にはいっていると、僕等の仲間はよく、この脳貧血を起した。\n「今、変な奴がはいって来てね、いきなり後ろから抱きかかえやがったもんだから、急いで逃げ出して来たんだ。」\n と村木がまだ驚いた顔つきのまま話していたところへ、他の仲間もみな出て来た。そして村木だけならまだしも、ピストル強盗までもやられたというんで、みんなで大笑いした。\n が、実際笑いごとじゃないんだ。\n 女の脛の白きを見て\n この畜生同様の囚人の間にあって、僕自身は聖人か仙人かのようであったことは、前にちょっと言った。しかしそれも、僕が特別にえらい非常な修業を積んだ人間だからという、何の証拠にもならない。\n 人はよく、牢にはいったら煙草が吸えないで困るだろうな、と言う。僕はずいぶんの煙草飲みだ。が、未だかつて、そのために牢で困ったことはない。はいるとすぐ、ほとんどその瞬間から、煙草のことなどはまるで忘れてしまう。初めてはいった東京監獄では、看守等が休憩所でやっているのをよく窓から見たが、まるい棒片のようなものを喫えてパッパと煙をはき出しているのが、羨やましいどころではなく本当に馬鹿馬鹿しく思われて仕方がなかった。その頃は、まだ一人身で堺の家に同居していた、僕の女房の保子が、からかい半分に猫が煙草を吸っている絵はがきを送って来た。僕はすぐに「あれは物の本で見る煙草というものらしいが、さては人間の食物ではなくして猫の食物か」というような返事を出して、本当に強情な人だと言って笑われた。しかしそれは、僕の痩せ我まんでも強情でも、何でもない。実際そういう風に感じたのだ。\n 僕は何も牢にはいったら煙草は吸えぬものと覚悟をきめていた訳ではない。反対に、煙草ぐらいは吸えるだろうというごく呑気なつもりで、迎いに来られた時には、わざわざその用意までして出掛けたのだ。僕はまた、克己とか節制とかいうことの、ことさらの何の修養をも積んでいた訳ではない。反対に、そういういわゆる道徳にはわざと反抗して、つまらぬ放縦を尊んでいたくらいだ。\n それだのに、警察で煙草を取り上げられた時には少なからず口惜しかったが、その後はぴったりと煙草というものを忘れてしまった。そして今言ったようにかえって反感に似たものを持つようにすらなった。\n 僕がえらいんでも何でもない。誰でもが経験する通り、電車に乗っていて、そとを通る人間が巻煙草を吸っているのを見ても、別に羨やましがりもせず、時としてはかえってそれを馬鹿馬鹿しく思うことがあると同じだ。\n 性欲についてでもやはりそうだ。もっともこれは、煙草の場合のようには、無意識のあきらめとその結果の客観的批評のせいだとは思えない。もうすこしこみ入った事情があるように思う。\n その一つは、たかだか大根か芋を最上の御馳走とする、ほとんど油っ気なしの食物だ。次には、ことに独房では、性欲についてほとんど何の刺激もないことだ。そして最後には、終日、読書と思索とで根を疲らし切ってしまうことだ。\n この三つの条件さえ具えていれば、誰でも、何の修養も何の苦悶も何の努力もなしに、ただちに五欲無漏の名僧知識になれる。山にはいるか牢にはいるかだ。\n しかし、久米の仙人も雲から足を踏みはずしたように、この牢屋の仙人も時々凡夫に帰る。\n ほかでそんな機会はなかったが、東京監獄での第一の楽しみは、女の被告人か囚人かを見ることであった。このことも前にちょっと言った。\n 僕等はいつも独房の四監か八監内かに置かれた。この何監というのはその建物の番号で中央から半星形に射出した四つの建物に、二階は一監から四監、下は五監から八監の名がついていた。四監は二階で八監はその下だ。そして僕はいつも運よく日当りのいい南側の室に置かれた。\n この建物の南側に沿うて、そこから五間ばかり隔てて、女監へ行くタタキの廊下がある。毎日一度か二度か三度か、必ず十数名ずつの新入りがここを通って行く。なかなか意気な、きちんとした風のおかみさんらしいのもある。伊達巻姿や、時とすると縄帯姿の、すこぶるだらしのないのもある。その大部分はいわゆる道路妨の拘留囚だそうだ。この道路妨というものについてはまたあとで話しする。\n この連中が廊下の向うからカランコロン、カランコロンと喧ましく足音を立ててやって来る。それが聞え出すと、八監や八監の南側の先生等は、そら来た! とばかり、何事をさし置いても窓ぎわへ走って行く。\n 僕はいつも走って行って、ようやく眼のところが窓わくにとどくぐらいなのを、雑巾桶を踏台にして首さしのばして、額を鉄の冷たい格子に押しつけて、見た。そして、あの二番目のはよさそうだなとか、五番目のは何て風だとかいうようなことを、隣り近所の窓と批評し合った。時とすると、\n「おい、三番目の姉さん、ちょいと顔をお見せよ。」などと呼ぶ奴もある。女どもの方でも、自分からちょっと編笠を持ちあげて、こっちを見るのか、自分の顔を見せるのか、する奴もある。時とすると、舌を出したり、赤んべをして見せたりする奴すらある。\n 僕はぼんやりとそれを見ていて、よく看守に怒鳴りつけられた。\n\n たしか屋上演説事件の治安警察法違反の時と思う。例の通り警察から警視庁、警視庁から東京監獄へとつれて行かれて、まず例のシャモ箱の中に入れられた。もっともこれは男三郎君の時に話したような面会所のそばのではない。そんなのがあちこちにあるんだ。こんどは、連れて来られるとすぐ、所持品を調べられたり、着物を着換えさせたり、身分罪名人相などの例のカードを作られたりする、その間自分の番の来るのを待っている、シャモ箱だ。" }, { "role": "assistant", "content": " しばらくすると、背中合せのシャモ箱の方へも人がはいったような気はいがする。ぺちゃくちゃと女のらしい声がする。\n「おい、うしろへ女が来たようだぜ。一つ話をして見ようじゃないか。」\n と両隣りの堺と山川とに相談して、コツコツとうしろの板を叩いた。向うでもすぐにやはりコツコツとそれに応じた。\n「おい、何で来たんだい?」\n「お前さんは?」\n「泥棒さ。」\n「じゃ頼もしいわね。わたしはどうろぼうよ。いくら食ったの?」\n「たった半年だ。君は?」\n「わたしの方は二週間よ、すぐだわ。こんど出たら本当に堅気になろうと思ってるの。お前さん出たらやって来ない? うちはどこ?」\n というような話で、でたらめの所や名を言い合って、とうとう出たら一緒になろうという夫婦約束までもしてしまった。\n「大ぶお安くないな。だが、あのどうろぼうというのは何だい?」\n「さあ、僕にもよく分らないがね。」\n と堺と話している中へ、山川もその詮議に加わって、ようやくそれが道路妨害の道路妨だということが分った。そして、\n「泥棒に道路妨はいいな。」\n と三人で大笑いした。さすがの彼女もあからさまにその本職を言いかねたのか、それともほんの語呂合せのいたずらをやったのか。\n\n また、未決監から裁判所へ喚び出される。その他にも僕はよく、余罪があって、既決監からも裁判所へ呼び出された。大がいは馬車でだが、巣鴨からは歩いたり車に乗せられたりした。\n あの赤い着物を着て、編笠を被って、素足に草鞋をはいて、腰縄をつけられて引っぱられて行くさまは、たしかに道行く婦女子等をして顔そむけしめ唾はかしむるに足るものであろう。しかし向うの思わくなぞはどうでもいい。こっちはただ、こっちの顔の見えないのを幸いに、向うの眼のさめるような着物の赤い色と、白い生々しい柔しい顔の色とに黙って眼じりを下げていさえすればいいんだ。\n 西洋の野蛮国たるロシアでは、「乞食と囚人とは馬鹿にするな、いつそれが誰の運命になろうものでもない」というような意味の諺があって、囚人が送らるる時なぞには、百姓の婆さんや娘さん達が争って出て来て、牛乳やパンや時とすると銅貨までも施してくれる。そして頬にキッスして「天にまします吾等の神よ、このいと憐れなる汝の子にことさらのお恵みと幸せとを与えたまえ」とお祈りをしてくれる。というような醜態は、東洋の君子国たる日本では、とても望まれない。ましてや道路妨君のようには、「頼もしい人だ」などとは誰一人思っちゃくれない。\n それでいいんだ。こっちはただ諸君の姿さえ拝まして貰えればいいんだ。久しぶりでそとへ出て、見るものがすべて美しい。というよりは珍らしい。すべてがけばけばしく生々として見える。ことに女は、女でさえあれば、どれもこれも、みな弁天様のように美しく見える。\n 馬車では、僕はいつも、前か後ろかの一番はじに置かれた。このはじにいなければそとはよく見えない。横はよろい戸になっていて、前後にだけ小さな窓の金あみが張ってある。僕は馬車に乗っている間、始めから終りまで、この金あみに顔を押しつけて、額に赤く金あみのあとがつくほどに、貪るようにしてそとを眺めた。\n\n 面会に来る女の顔も美しい。もう幾年も連れ添って見あきるほど見た顔だのに、黙ってその顔を眺めているだけでもいい気持だ。眼のふちの小皺や、まだらになった白粉のあとまでが艶めかしい趣きを添える。\n 僕の故郷\n こんなちょいちょいしたエピソードのほかには、うちにいる間は、読書か思索か妄想かのほかに時間の消しかたがない。\n 読書にも飽き、思索にも飽きて来ると、ひとりでに頭が妄想に向う。それも、そとの現在のことはいっさい例の無意識的にあきらめて、考えても仕方のない遠い過去のことか、出獄間近になれば出てからの将来のことなどが思い浮べられる。\n 現在の女房のことでも、面会に来るか手紙が来るかの時でもなければ、それも二カ月に一度ずつしかないのだが、滅多には思い出さない。そして古い女のことなぞがしきりに思い出される。\n 元来僕には故郷というものがない。\n 生れたのは讃岐の丸亀だそうだ。が、生れて半年経つか経たぬうちに東京へ来た。そして五つの時に父や母と一緒に越後の新発田へ逐いやられた。東京では父は近衛にいた。うちは麹町の何番町かにあった。僕はその近衛連隊の門の様子と、うちの大体の様子と、富士見小学校附属の幼稚園の大体の輪画とのほかには、ほとんど何の記憶もない。\n 僕の元来の国、すなわち父祖の国は、名古屋を西にさる四、五里ばかりの津島に近いある村だが、そこには自分が覚えてからは十四の時に初めてちょっと伯父の家を訪うて、その翌年名古屋の幼年学校にはいってから時々ちょいちょい遊びに行ったに過ぎない。少しも自分の国というような気はしない。本籍はそこにあったのだが、その後東京の自分の住んでいた家に移した。\n ただ越後の新発田だけには、五つから十五までのまる十年間いた。その後も十八の時までは毎年暑中休暇に帰省した。したがってもし故郷と言えばそこを指すのが一番適切らしい。\n 名古屋から初めて暑中休暇に新発田へ帰る途で、直江津から北越鉄道に乗換えて長岡を越えて三条あたりまで行った頃かと思う。ふと僕は、窓の向うに、東北の方に長く連らなっている岩越境の山脈を眼の前に見て、思わず快哉を叫びたいほどのあるインスピレーションに打たれた。その山脈は僕がかつて十年間見たそのままの姿なのだ。そしてそのあちこちには、僕がかつて遊んだ、幾つかの山々が手にとるように見えるのだ。\n 初めて僕は故郷というものの感じを味わった。\n「故郷はインスピレーションなり」と言った蘇峰か誰かの言葉が、初めて身にしみて感じられたが、嬉しさのあまり、その時にはまだ、これが故郷の感じだという理知は、その感じの解剖は、本当にはできていなかった。蘇峰か誰かの言葉というのも、どうやら、その後のある時に思い出したもののようだ。\n この故郷の感じは、その「ある時」になって、再び十分に味わった。そしてこれがいわゆる故郷の感じだということは、その「ある時」になって、初めて十分に知った。\n 初め半年ばかりいて、出てからまだ二月とは経たぬうちに、再び巣鴨へやられた時のことだ。巣鴨のあの鬼ヶ島の城門を、護送の看守が「開門!」と呼ばわって厚い鉄板ばかりの戸を開かせて、敷石の上をガラガラッと馬車を乗りこませた時だ。\n 僕はいつものように、馬車の中の前のはじに腰をかけて、金あみ越しにそとを眺めていた。門が開くと監獄の前の、広い前庭の景色が眼にはいった。その瞬間だ。僕は思わず腰をあげて、金あみに顔を寄せて、建物のすぐ前に並んでいる桧か青桐かの木を見つめた。そしてしばらく、と言っても数秒の間だろうが、あの一種の感に打たれてぼんやり腰を浮かしていた。それに気がつくと、すぐに僕は、かつて帰省の途に汽車の中で打たれたかのインスピレーションを思い出した。ちっとも違わない、同じ親しみと懐かしさとの、そして一種の崇高の念の加わった、インスピレーションだ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n 同じその宵のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向って船出をした甲板の上に、毛氈を敷いて酒肴を置き、上座に構えているその人は、有野村の藤原の伊太夫で、その傍に寄り添うようにして、\n「御前様、光悦屋敷とやらのことは、もう一ぺんよくお考えあそばしませ、大谷風呂の方は、どちらへ転びましても結構でございますがねえ」\n それは女軽業の親方のお角でした。\n 女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く頷いて、\n「それは、どちらでもいい」\nと答えました。そうすると、同じ取巻の町人体なのが引きついで、\n「いや、山科の光悦屋敷の方も、ぜひお引取りなさいませ、今の御時世でございませんと、寝かして置きましても、持主がちょと手放す気にはなれません、あれだけの由緒あるお屋敷は、さがし求めた日には、なかなか出物があるわけのものではございませぬ、万一、売主がございましても、買切れる主がございません、買いたいと申しましても、二度と売主は出ますまいかと存じまする、お大尽のお耳に入りましたのが、全く以て千載一遇――売主のためにも、お買取りの方にも、また古えの光悦様のためにも、三方への功徳になるかと心得ておりまする」\n おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。\n 宿へは、月も見がてら、夜をこめて竹生島まで行きつき、泊りの参詣をして帰ると言って出たのですが、その竹生島参詣にしてからが、なにも今晩、この船路を選ばなければならない必要も、理由もないようなものですが、それを伊太夫の発意によって、急にこの船よそおいをさせたというものは、一つは湖中へ向って、陸上から避難の意味でありました。\n 避難といえば、今の伊太夫の身辺に、何か急に迫る危険が予想されたのかというに、急にそうあるべき事情もないことはわかっている。そもそも伊太夫、今日の旅路というものが、極めて微行の形式で、関西の名所めぐりということになっているが、その実は、やっぱりあの胆吹山の麓に根を張っている、やんちゃ娘の女王様の動静が、さすがに親心で気にかかる、それを見届けんがための旅立ちということが、内心の主力を占めているのですから、まだ当分は、胆吹と相望むところのこちらの湖岸を離れることにはなるまいと思われる。お角親方にしたところが、このお大尽に附添うていることの限りに於ては、あえて、そう京阪地方に一日を争わなければならぬ兼合いはないものと見なければならぬ。\n 悠揚として迫ることの必要のない伊太夫が、今晩避難の意味を兼ねて湖中に出でたということは、どうも表面見ただけでは、その内情を察するに難い。さては、あのがんりきの百とやらの小盗人めに覘われて、つき纏われる煩わしさからのがれようためか。まさか、藤原の伊太夫ともあるものが、タカの知れたゴマの蠅一匹のために、陸上に身の置きどころがないという解釈も、あまりに浅ましい。実のところ、伊太夫の怖れを成したのは、この前から度々隠見する、湖上湖岸の物騒なる空気の動揺が然あらしめたもので、これが伊太夫の心持をも少なからず動揺させてしまいました。湖南湖北を通じて、すさまじい百姓一揆勃発の気運が、今やハチ切れんばかりに胎動している、いや胎動ではない、もはや、宿々領々によっては爆発の暴動をあげてしまっている。それが伊太夫の心を常ならず不安にしました。\n 持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。\n 湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。\n\n 二\n\n「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」\n ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。\n「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」\n 盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。\n 杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び来ることは誰もそれを見たが、女の帯が流れているということを、舟の上の誰もがまだ気がつかない。酒器は水に浮ぶものだが、女の帯は必ずしも水に浮いて流れるとは限らない。帯によっては水に沈み勝ちでなければならないのをめざとくその一端を見つけて、帯、しかも女の帯と認定してしまったそれは、お角さんの勘と言わなければならない。\n そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。\n だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が暢揚として丈を延ばして、眼前に腹ばって、のして行く。さきに流れた、誰にも認められるべきところの酒器台盤がそれに先行して行く。見ようによると、一匹の大蛇が、その酒器台盤を追うて、これを呑まんとして呑み得ざるままに、追走してのして行く形に見えて、いっそう物すごくなったのです。\n 一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。\n そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて濫觴のような形のものが二つ、あとになり、先になり、前なるは振向いて後ろなるを誘うが如く、後ろなるが先んじて前なるものに戯るるが如く、流れ流れて行くものを認めないわけにはゆきません。\n「あれはポックリです――女物の、二十歳前の女の子でなければ穿きません」\n 噛んで吐き出すようにお角さんが言う。それが一層のまた凄味を物言わぬ一座の上に漂わせたと見えて、ちょっと目をそらす者さえあったが、憑かれたように、その行手を見据えているものも多かったのです。\n 湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。\n 行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、\n「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ舟夫がいねえのか」\n こちらの船頭が舟の舳先で、あわただしくこう叫んだのが、また一座の沈黙の空気を脅しました。\n 今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして寧ろ彼にあるのです。何となれば、かの舟はこの船に比べてはるかに小さいから、正面衝突の場合の損傷を論ずるという日になると、まるで比較にならない。そこで、こちらの船頭の警告というものは、むしろ我の危険のためにあらずして、彼の危険のための忠告の好意ある叫喚に過ぎないのだが、その好意を好意と受取らないのが、先方の舟の行き方であって、そういう危険状態が目睫に迫っているにかかわらず、あえて警告に応じて、舟の針路を転向しようとも、変換させようとも試みないで、霧の中を出て、霧の中を平気で漂うがままに、あえて正面衝突も、木端微塵も辞することなき、無謀千万の行き方でやって来るものですから、こちらの船頭が、火のついたように地団太を踏んで、\n「あ、あ、いけねえ、何とか楫を取れねえのか――」\n 先方は小舟だけに操縦が容易である、こちらは大船だけに運用が自由にならぬ、避けようとすれば先方は、ほんの一挙手の労で済むのだが、それをそうしないために、こちらの船頭は倍級の狼狽をしなければならない。それでも多年の熟練でようやく方向転換ができて、正面衝突だけは避けられたが、その途端に、棹をやって邪慳に相手方の小舟を突き放してみると、そこにも手ごたえがなく、すんなりとはなれる。\n「なあんだ、空っ舟だ――」\n 相手がありさえすればこの場合、舟の衝突は免れても、舟夫同士に相当の口論、腕立てが起るべきところを、相手が人なし舟では喧嘩にならぬ。乗る人がなくて霧の中からさまよい出て来て、突き放さるればまた文句なしに突き放されて行く小舟を、船頭は腕のやり場もなく、しばらく見ていたが、それを見のがしにしなかったのがお角さんです。" }, { "role": "assistant", "content": "「舟夫さん、ちょいと、その舟を留めてみて頂戴、こっちへ引き寄せて見せてもらうわけにはゆかないかねえ」\n お角さんだけが、この人なし舟を、人なし舟として突放しにする気にならなかったのは、何かこの女の勘にさわるものがあったればでしょう。勘というのは、弁信法師に限ったわけではない、脳味噌の働きの利鈍によって、何人にも勘の能力の大小がある。弁信法師の如きは超人的で、それは何者にも比較にならないが、お角さんの如きは、女性として最も勘のすぐれた方の女性なのです。目から鼻へ抜ける勘持ちで、いわゆる、こらえぬ気象なのです。ただ、「勘」という字が、お角さんの場合に於ては、「疳」とか「癇」とかいう字を使った方が適切な場合が多かろうというものです。\n 癇走るお角さんの命令によって、船頭は二言ともなく、いったん突き放した小舟を、また自分たちの大船の船べり近く引き寄せて、生かそうと殺そうと御意のまま、という体で、お角さんの眼の前へ突きつけたものです。\n\n 三\n\n いくつもの提灯をさげつつ、この引き寄せられた舟の中へ入り込んで見たのは、お角さんをはじめ、伊太夫周囲の取巻連でありました。お角さんが見ると、この小舟の中が狼藉を極めておりました。\n ほかの者が見たのでは、何が何やら気ぜわしいばかりです。\n そこで、お角さんが、\n「ちぇッ」\nと舌打ちをして、眉根に八の字を寄せながら、舟底をちょっと蹴立ててみたというのは、その狼藉ぶりが例の癇にさわったからでありましょう。\n 他の者が見ては特に目立たない場合に、ナゼお角さんだけが、その狼藉ぶりに癇を鳴らしたかと見れば、小舟の中が、あまりに見苦しい取散らかしぶりであったからです。\n「なんて、たしなみのないザマなんでしょう」\n お角さんは、小舟の中を見て眼をそむけてしまったが、改めて大船の上を見上げる。燈籠の下の座に席をくずさずに坐っている伊太夫も、なんとなく、こちらが気がかりのように見おろしている様子にぶっつかると、そのままにして置いて、\n「さあ、上りましょう、これだけのものなんです、でも、船頭さん、この舟を曳いて行ってあげてくださいよ――しかるべきところまでねえ」\n 狼藉は狼藉としてのままで、一応、引くところまで引いて行って調べてやろう、というお角さんのはらです。\n その声に応じて、提灯片手の取巻連が、一応もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く。\n「何でした、別にあぶないこともなかったですかね」\n 伊太夫からたずねられて、お角さんが少し息をはずませ、\n「ちょきが一ぱい流れついただけのことなんですがね、御前様、どうも、その中が穏かでないんでございますよ」\n「どう、穏かでないのですか」\n「なんぼなんでも、ああまで取乱さなくってもよかりそうなもの」\n「ははあ、そんなに見苦しくなっていましたかな」\n「見苦しいにもなんにも、いったい、心中でもしようという人間には、もう少したしなみというものがなくてはいけませんね」\n「心中? 相対死ですか」\n「そうでございますよ、さっきのあの盃と、帯と、駒下駄の判じ物でもわかりますよね、あの舟で思いきり楽しんで、それから死出の旅という寸法なんでしょう、行き方は洒落ていないではありませんけれど、ああ取乱したんじゃお話になりません」\n「どうして、そういうことがわかります、ほんとうに心中者があったとすれば、このままでは済まされますまい、迷惑千万なことだが、一応、手を尽してやらなきゃあなるまいが」\nと伊太夫が、そこに思いやりをはじめました。小舟の中が取乱してあるか、取乱してないかはこの際、論外なことで、お角さんの見込みの通り、程遠からぬ時間の間に、そういう変事をやり出した人間がありとすれば、その分別と、無分別の如何は問うところでない、通り合わせたものの人情として、船同士の普通道徳として、一応も二応も、捜索に取りかかることが当面の急でなければならぬ。\n そこで、船には緊急命令が下されて、さし当りこの小舟のもたらした予感通りに、掃海の作業を試むることになる。\n といっても、事は近くで発見されたにしろ、湖は広い。霧というものがその広さを、無限大のものにぼかしている。よし広さに限度が出来たとしても、底は深い。ましてこの竹生島の周囲は、深いことに於て、竹生島そのものが金輪際から浮き出でているというのだから、始末の悪いこと夥しい。全く手の下しようもないのだが、手の下しようがないからといって、船舶道徳は守らなければならない。\n 伊太夫の大船は、停り且つ進みつつ、遠近深浅に届くだけの眼と、尽せるだけの力を尽しつつ掃海作業を続けて進みました。\n その間、伊太夫は動ぜぬ座を占めている。お角さんは居たり立ったり、舟夫に指図をしたり、伊太夫に講釈をしたりして、年増女の落着きを失わずに、その周到ぶりを発揮していたが、事が周囲七十余里の湖水を相手だから、そうヤキモキしただけではいけないと、やがて伊太夫の傍に寄添って、次のような観察を物語りはじめました。\n\n 四\n\n「男も男ですが、女も女です、水にでもハマろうとするくらいなら、ハマるだけのたしなみというものがなけりゃなりませんよ。女の締めくくりは帯なんです、その帯を初手に流してしまうなんぞは、お話になりません」\n お角さんが、噛んで捨てるように言ってのけたのは、それは伊太夫の知ったことではないが、お角さん自身に、これと異った趣に於て、充分に体験を持っているわけです。この女は上総房州の海に身を投じて、橘姫命の二の舞を演じたことがある。\n その時は、無論、意気の、心中のというような浮いた沙汰ではなく、いわば凡俗の迷信と多数の横暴に反抗して、身を以て意地を守った気概のために海中に没入したのですが、それが、ゆくりなく洲崎で、駒井能登守の手に救けられたことがある。あの時、駒井に発見されなければ、無論、今日のお角さんは有り得ないのです。その時の体験からお角さんが語り出でました。その啖呵の要領によると――\n 女というものは、水に溺れようとする瞬間に、何事よりも締めくくるべきは帯です、帯をしっかり結ぶことです。帯というものは無論、表の胴体を締めているこの無双や、鯨というだけには止まらない、下帯から、下締から、丸帯の一切、女の身体を横に防衛し、同時に装飾を兼ねているそれらのものをいうのであって、これが締っていなければ、女が女にならない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 男はしきりに煙草をふかしている。長い煙を鼻の穴から吹き出して、腕組をしたところはたいへん悠長にみえる。そうかと思うとむやみに便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをすることがある。さも退屈そうである。隣に乗り合わせた人が、新聞の読みがらをそばに置くのに借りてみる気も出さない。三四郎はおのずから妙になって、ベーコンの論文集を伏せてしまった。ほかの小説でも出して、本気に読んでみようとも考えたが、面倒だからやめにした。それよりは前にいる人の新聞を借りたくなった。あいにく前の人はぐうぐう寝ている。三四郎は手を延ばして新聞に手をかけながら、わざと「おあきですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「あいてるでしょう。お読みなさい」と言った。新聞を手に取った三四郎のほうはかえって平気でなかった。\n あけてみると新聞にはべつに見るほどの事ものっていない。一、二分で通読してしまった。律義に畳んでもとの場所へ返しながら、ちょっと会釈すると、向こうでも軽く挨拶をして、\n「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。\n 三四郎は、かぶっている古帽子の徽章の痕が、この男の目に映ったのをうれしく感じた。\n「ええ」と答えた。\n「東京の?」と聞き返した時、はじめて、\n「いえ、熊本です。......しかし......」と言ったなり黙ってしまった。大学生だと言いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。相手も「はあ、そう」と言ったなり煙草を吹かしている。なぜ熊本の生徒が今ごろ東京へ行くんだともなんとも聞いてくれない。熊本の生徒には興味がないらしい。この時三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」と言った。それでいてたしかに寝ている。ひとりごとでもなんでもない。髭のある人は三四郎を見てにやにやと笑った。三四郎はそれを機会に、\n「あなたはどちらへ」と聞いた。\n「東京」とゆっくり言ったぎりである。なんだか中学校の先生らしくなくなってきた。けれども三等へ乗っているくらいだからたいしたものでないことは明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をしたまま、時々下駄の前歯で、拍子を取って、床を鳴らしたりしている。よほど退屈にみえる。しかしこの男の退屈は話したがらない退屈である。\n 汽車が豊橋へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りて行った。よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思った。ことによると寝ぼけて停車場を間違えたんだろうと気づかいながら、窓からながめていると、けっしてそうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間のように出て行った。三四郎は安心して席を向こう側へ移した。これで髭のある人と隣り合わせになった。髭のある人は入れ代って、窓から首を出して、水蜜桃を買っている。\n やがて二人のあいだに果物を置いて、\n「食べませんか」と言った。\n 三四郎は礼を言って、一つ食べた。髭のある人は好きとみえて、むやみに食べた。三四郎にもっと食べろと言う。三四郎はまた一つ食べた。二人が水蜜桃を食べているうちにだいぶ親密になっていろいろな話を始めた。\n その男の説によると、桃は果物のうちでいちばん仙人めいている。なんだか馬鹿みたような味がする。第一核子の恰好が無器用だ。かつ穴だらけでたいへんおもしろくできあがっていると言う。三四郎ははじめて聞く説だが、ずいぶんつまらないことを言う人だと思った。\n 次にその男がこんなことを言いだした。子規は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規のまねはできない。――三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味があるような気がした。もう少し子規のことでも話そうかと思っていると、\n「どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。しかたがない。豚などは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けないようにしておいて、その鼻の先へ、ごちそうを並べて置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは延びるそうです。どうも一念ほど恐ろしいものはない」と言って、にやにや笑っている。まじめだか冗談だか、判然と区別しにくいような話し方である。\n「まあお互に豚でなくってしあわせだ。そうほしいものの方へむやみに鼻が延びていったら、今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない」\n 三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。\n「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。\n 今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易したうえに、なんだかゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。けれども相手はそんなことにいっこう気がつかないらしい。やがて、\n「東京はどこへ」と聞きだした。\n「じつははじめてで様子がよくわからんのですが......さしあたり国の寄宿舎へでも行こうかと思っています」と言う。\n「じゃ熊本はもう......」\n「今度卒業したのです」\n「はあ、そりゃ」と言ったがおめでたいとも結構だともつけなかった。ただ「するとこれから大学へはいるのですね」といかにも平凡であるかのごとく聞いた。\n 三四郎はいささか物足りなかった。その代り、\n「ええ」という二字で挨拶を片づけた。\n「科は?」とまた聞かれる。\n「一部です」" }, { "role": "assistant", "content": "「法科ですか」\n「いいえ文科です」\n「はあ、そりゃ」とまた言った。三四郎はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。向こうが大いに偉いか、大いに人を踏み倒しているか、そうでなければ大学にまったく縁故も同情もない男に違いない。しかしそのうちのどっちだか見当がつかないので、この男に対する態度もきわめて不明瞭であった。\n 浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。食ってしまっても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下ともまっ白な着物で、たいへん美しい。三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人というものを五、六人しか見たことがない。そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、その二人のうちの一人は運悪くせむしであった。女では宣教師を一人知っている。ずいぶんとんがった顔で、鱚または魳に類していた。だから、こういう派手なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。\n ところへ例の男が首を後から出して、\n「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、\n「ああ美しい」と小声に言って、すぐに生欠伸をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、\n「どうも西洋人は美しいですね」と言った。\n 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、\n「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。\n「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、\n「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。\n「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より......」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。\n「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」\n この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。\n その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は別れる時まで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところにいるものと信じて、べつに姓名を尋ねようともしなかった。\n\n二\n\n 三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴るあいだに、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。しかもどこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである、新しい家が往来から二、三間引っ込んでいる、古い蔵が半分とりくずされて心細く前の方に残っている。すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。\n 三四郎はまったく驚いた。要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。不愉快でたまらない。\n この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。\n 三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も気がつかなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。\n 三四郎が動く東京のまん中に閉じ込められて、一人でふさぎこんでいるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受け取った最初のものである。見るといろいろ書いてある。まず今年は豊作でめでたいというところから始まって、からだを大事にしなくってはいけないという注意があって、東京の者はみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届くようにするから安心しろとあって、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出ているそうだから、尋ねて行って、万事よろしく頼むがいいで結んである。肝心の名前を忘れたとみえて、欄外というようなところに野々宮宗八どのと書いてあった。この欄外にはそのほか二、三件ある。作の青馬が急病で死んだんで、作は大弱りである。三輪田のお光さんが鮎をくれたけれども、東京へ送ると途中で腐ってしまうから、家内で食べてしまった、等である。\n 三四郎はこの手紙を見て、なんだか古ぼけた昔から届いたような気がした。母にはすまないが、こんなものを読んでいる暇はないとまで考えた。それにもかかわらず繰り返して二へん読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触しているならば、今のところ母よりほかにないのだろう。その母は古い人で古いいなかにおる。そのほかには汽車の中で乗り合わした女がいる。あれは現実世界の稲妻である。接触したというには、あまりに短くってかつあまりに鋭すぎた。――三四郎は母の言いつけどおり野々宮宗八を尋ねることにした。\n あくる日は平生よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせてこないから、聞き合わせかたがた行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町の門からはいった。往来は埃が二寸も積もっていて、その上に下駄の歯や、靴の底や、草鞋の裏がきれいにできあがってる。車の輪と自転車のあとは幾筋だかわからない。むっとするほどたまらない道だったが、構内へはいるとさすがに木の多いだけに気分がせいせいした。とっつきの戸をあたってみたら錠が下りている。裏へ回ってもだめであった。しまいに横へ出た。念のためと思って押してみたら、うまいぐあいにあいた。廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくのあいだは、正気を回復するために、上野の森をながめていたが、突然「おいでかもしれません」と言って奥へはいって行った。すこぶる閑静である。やがてまた出て来た。\n「おいででやす。おはいんなさい」と友だちみたように言う。小使にくっついて行くと四つ角を曲がって和土の廊下を下へ降りた。世界が急に暗くなる。炎天で目がくらんだ時のようであったがしばらくすると瞳がようやくおちついて、あたりが見えるようになった。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があって、その戸があけ放してある。そこから顔が出た。額の広い目の大きな仏教に縁のある相である。縮みのシャツの上へ背広を着ているが、背広はところどころにしみがある。背はすこぶる高い。やせているところが暑さに釣り合っている。頭と背中を一直線に前の方へ延ばしてお辞儀をした。\n「こっちへ」と言ったまま、顔を部屋の中へ入れてしまった。三四郎は戸の前まで来て部屋の中をのぞいた。すると野々宮君はもう椅子へ腰をかけている。もう一ぺん「こっちへ」と言った。こっちへと言うところに台がある。四角な棒を四本立てて、その上を板で張ったものである。三四郎は台の上へ腰をかけて初対面の挨拶をする。それからなにぶんよろしく願いますと言った。野々宮君はただはあ、はあと言って聞いている。その様子がいくぶんか汽車の中で水蜜桃を食った男に似ている。ひととおり口上を述べた三四郎はもう何も言う事がなくなってしまった。野々宮君もはあ、はあ言わなくなった。\n 部屋の中を見回すとまん中に大きな長い樫のテーブルが置いてある。その上にはなんだかこみいった、太い針金だらけの器械が乗っかって、そのわきに大きなガラスの鉢に水が入れてある。そのほかにやすりとナイフと襟飾りが一つ落ちている。最後に向こうのすみを見ると、三尺ぐらいの花崗石の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な器械が乗せてある。三四郎はこの缶の横っ腹にあいている二つの穴に目をつけた。穴が蟒蛇の目玉のように光っている。野々宮君は笑いながら光るでしょうと言った。そうして、こういう説明をしてくれた。\n「昼間のうちに、あんな準備をしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "訪ねて見えたはじめての\n若いジャーナリストがふしぎそうに\nぼくの顔のぐるりを見廻して云うのだ\n\nこんな大きなりっぱな家に\nお住いのこととは知らなかったと云うのだ\nそれで御用件はとうかがえば\nかれは頭をかいてまたしても\nあたりを見廻して云うのだ\n\nそれが実は申しわけありません\n十二月の随筆をおねがいしたいのだが\n書いていただきたいのはつまり先生の\n貧乏物語なんですと云うのだ\n\n\n雲の下\n\nストロンチウムだ\nちょっと待ったと\nぼくは顔などしかめて言うのだが\nストロンチウムがなんですかと\n女房が睨み返して言うわけなのだ\n時にはまたセシウムが光っているみたいで\nちょっと待ったと\n顔をしかめないではいられないのだが\nセシウムだってなんだって\n食わずにいられるもんですかと\n女房が腹を立ててみせるのだ\nかくて食欲は待ったなしなのか\n女房に叱られては\n眼をつむり\nカタカナまじりの現代を食っているのだ\nところがある日ふかしたての\nさつまの湯気に顔を埋めて食べていると\nちょっとあなたと女房が言うのだ\nぼくはまるで待ったをくらったみたいに\nそこに現代を意識したのだが\n無理してそんなに\n食べなさんなと言うのだ\n\n\n貘\n\n悪夢はバクに食わせろと\nむかしも云われているが\n夢を食って生きている動物として\nバクの名は世界に有名なのだ\nぼくは動物博覧会で\nはじめてバクを見たのだが\nノの字みたいなちっちゃなしっぽがあって\n鼻はまるで象の鼻を短かくしたみたいだ\nほんのちょっぴりタテガミがあるので\n馬にも少しは似ているけれど\n豚と河馬とのあいのこみたいな図体だ\nまるっこい眼をして口をもぐもぐするので\nさては夢でも食っていたのだろうかと\n餌箱をのぞけばなんとそれが\n夢ではなくてほんものの\n果物やにんじんなんか食っているのだ\nところがその夜ぼくは夢を見た\n飢えた大きなバクがのっそりあらわれて\nこの世に悪夢があったとばかりに\n原子爆弾をぺろっと食ってしまい\n水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと\nぱっと地球が明かるくなったのだ\n\n\n芭蕉布\n\n上京してからかれこれ\n十年ばかり経っての夏のことだ\nとおい母から芭蕉布を送って来た\n芭蕉布は母の手織りで\nいざりばたの母の姿をおもい出したり\n暑いときには芭蕉布に限ると云う\n母の言葉をおもい出したりして\n沖縄のにおいをなつかしんだものだ\n芭蕉布はすぐに仕立てられて\nぼくの着物になったのだが\nただの一度もそれを着ないうちに\n二十年も過ぎて今日になったのだ\nもちろん失くしたのでもなければ\n着惜しみをしているのでもないのだ\n出して来たかとおもうと\nすぐにまた入れるという風に\n質屋さんのおつき合いで\n着ている暇がないのだ。\n\n\n口のある詩\n\nたびたび出かけて\n出かけるたんびに\n借りて来ない日はないみたいで\n借りて来る金はそのたんびに\n口のなかにいれるので\n口のために生きているのかと\n腹の立つ日がたびたび重なって来たのだ\nその日それで口を後廻しに\nわめき立てる生理に逆らいながら\nペンを握って詩を夢みていたところ\nおもいなおしてひそかに\nこれまでの借りを調べてみたのだが\n住宅難も口のせいみたいなものか\n十坪そこらの家ならば\nすぐ建つ筈の\n借りを食っているのだ\n\n\n養鶏場風景\n\n南の基地の島から来たばかりの\n眼だけが光るその男が言った\nなんと言っても\nさすがは東京なのだ\nのっぽの奴らまでがいかにも\nおとなしそうに歩いていると言った\nそっちの眼のせいじゃないかと言うと\nのっぽはのっぽにしてもなんだか\n基地のは種がまるで別みたいで\n偉張り散らしているばかりか\n気質が荒くてやり切れないのだと言う\n東京あたりはレグホンで\n基地の島のがシャモなのかと言うと\n男はふとそこに立ち止ったのだが\nおとなしそうな奴ではないかと\n顎で眼の前をしゃくってみせるのだ\n\n\n花曇り\n\nつまりこれが\n五十肩とかで\n男の更年期障害だと云うのだ\nなにしろ両肩の関節が痛み\n服を着るにも一々\n女房やこどもの手を借りるのだ\nまったくこの手の\n不自由なこと\n電車に乗っても吊革に\nこの手がのびない始末なのだ\nそれでその日も腰をかけるために\n満員の電車を見送ったあとなのだ\nホームの端に突っ立って\n五十肩になりすましていたところ\nふと柵外に眼をやると\nそこの路地裏に猫が群れているのだ\nけんかにしてはひっそりしすぎるので\n猫らしくもないとおもったのだが\n四組になってそろいもそろった\n若い猫達の\nあべっくなのだ\n\n\n基地日本\n\nある国はいかにも\n現実的だ\n歯舞・色丹を日本に\n返してもよいとは云うものの\nつかんだその手はなかなか離さないのだ\n国後・択捉だってもともと\n日本の領土とは知りながらも\n返せと云えばたちまちいきり立って\n非現実的だと白を切るのだ\nある国はまた\nもっと現実的なのだ\n奄美大島を返しては来たのだが\n要らなくなって返したまでのこと\nつかんだままの沖縄については\nプライス勧告を仕掛けたりするなどが\n現実的ではないとは云えないのだ\n踏みにじられた\n日本\n北に向いたり南に向いたりして\n夢をもがいているのだが\n吹出物ばかりが現実なのか\nあちらにもこちらにも\n吹き出す吹出物\n舶来の\n基地それなのだ\n\n\n紳士寸感\n\nばくさんらしくも\nないじゃないかと\n言われてみればいかにも\nぼろが似合いのぼくだったのか\nだぶるぼたんの\nこの服よ\n着ろよとよこした先輩は\nぼろよりましだと\nよこしたのだが\n\n\n\n不沈母艦沖縄\n\n守礼の門のない沖縄\n崇元寺のない沖縄\nがじまるの木のない沖縄\n梯梧の花の咲かない沖縄\n那覇の港に山原船のない沖縄\n在京三〇年のぼくのなかの沖縄とは\nまるで違った沖縄だという\nそれでも沖縄からの人だときけば\n守礼の門はどうなったかとたずね\n崇元寺はどうなのかとたずね\nがじまるや梯梧についてたずねたのだ\nまもなく戦禍の惨劇から立ち上り\n傷だらけの肉体を引きずって\nどうやら沖縄が生きのびたところは\n不沈母艦沖縄だ\nいま八〇万のみじめな生命達が\n甲板の片隅に追いつめられていて\n鉄やコンクリートの上では\n米を作るてだてもなく\n死を与えろと叫んでいるのだ\n\n\n歯車\n\n靴にありついて\nほっとしたかとおもうと\nずぼんがぼろになっているのだ\nずぼんにありついて\nほっとしたかとおもうと\n上衣がぼろぼろになっているのだ\n上衣にありついて\nほっとしたかとおもうと\nもとに戻ってまた\nぼろ靴をひきずって\n靴を探し廻っているのだ\n\n\n玄関\n\n呼び鈴の音にうなされて\nあわてて玄関に出てみると\nあるばいとなんですがと云うわけなのだ\nまあ間に合っていますと断わると\nひとつでもいいんですが\n買って下さいなのだ\nまたにして下さいと尻込みすると\n見るだけだって\n見て下さいなのだが\nお金がないのでは見るのもいやなので\n首を横にうち振ったのだ\nかれは風呂敷包を小脇にかかえなおして\n玄関を見廻していたのだが\nこんな桧づくりの大きな家に住んでいて\nひとつぽっちも買わないなんて法が\nあるもんですかと吐き出したのだ\nいかにもぼくの家みたいで\nまるでもっての外みたいだ\n\n\n処女詩集\n\n「思弁の苑」というのが\nぼくのはじめての詩集なのだ\nその「思弁の苑」を出したとき\n女房の前もかまわずに\nこえはりあげて\nぼくは泣いたのだ\nあれからすでに十五、六年も経ったろうか\nこのごろになってはまたそろそろ\n詩集を出したくなったと\n女房に話しかけてみたところ\nあのときのことをおぼえていやがって\n詩集を出したら\nまた泣きなと来たのだ\n\n\n無銭飲食\n\n飲んだり食ったりの\nあげくのはてなのだ\nかれはおつりがくるつもりで\nぽけっとのなかに手をいれてみると\nある筈のその金がないのだ\nしかしあのときにたしかに\nぽけっとにおしこんでおいたのだと\nもういちどかれは手をいれてみるのだが\n金は街なかで拾った筈の金" }, { "role": "assistant", "content": "どうやら昨夜見たばかりの\n夢の千円札を探しているのだ。\n\n\n羊\n\n食うや食わずの\n荒れた生活をしているうちに\n人相までも変って来たのだそうで\nぼくの顔は原子爆弾か\n水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが\nそれというのも地球の上なので\nめしを食わずにはいられないからなのだ\nところが地球の上には\n死んでも食いたくないものがあって\nそれがぼくの顔みたいな\n原子爆弾だの水素爆弾なのだ\nこんな現代をよそに\n羊は年が明けても相変らずで\n角はあってもそれは渦巻にして\n紙など食って\nやさしい眼をして\n地球の上を生きているのだ\n\n\n年越の詩\n\n詩人というその相場が\nすぐに貧乏と出てくるのだ\nざんねんながらぼくもぴいぴいなので\nその点詩人の資格があるわけで\n至るところに借りをつくり\n質屋ののれんもくぐったりするのだ\n書く詩も借金の詩であったり\n詩人としてはまるで\n貧乏ものとか借金ものとか\n質屋ものとかの専門みたいな\n詩人なのだ\nぼくはこんなぼくのことをおもいうかべて\n火のない火鉢に手をかざしていたのだが\nことしはこれが\n入れじまいだとつぶやきながら\n風呂敷包に手をかけると\n恥かきじまいだと女房が手伝った。\n\n\n柄にもない日\n\nぼくはその日\n借りを返したのだが\nぼくにしては似てもつかない\nまちがったことをしたみたいな\n柄にもない日があるものだ\nだから鬼までがきまりわるそうにし\nぼくの返したその金をうけとりながら\nおかげでたすかったと\n礼をのべるのだ\n\n\n鮪に鰯\n\n鮪の刺身を食いたくなったと\n人間みたいなことを女房が言った\n言われてみるとついぼくも人間めいて\n鮪の刺身を夢みかけるのだが\n死んでもよければ勝手に食えと\nぼくは腹だちまぎれに言ったのだ\n女房はぷいと横むいてしまったのだが\n亭主も女房も互に鮪なのであって\n地球の上はみんな鮪なのだ\n鮪は原爆を憎み\n水爆にはまた脅やかされて\n腹立ちまぎれに現代を生きているのだ\nある日ぼくは食膳をのぞいて\nビキニの灰をかぶっていると言った\n女房は箸を逆さに持ちかえると\n焦げた鰯のその頭をこづいて\n火鉢の灰だとつぶやいたのだ\n\n\n萎びた約束\n\n結婚したばかりの若夫婦の家なので\nお気の毒とはおもいながらも\n二カ月ほどのあいだをと\nむりにたのんでぼくの一家を\nこの家の六畳の間においてもらったのだ\n若夫婦のところにはまもなくのこと\n女の子が生れたので\nぼくのところではほっとしたのだ\nつぎに男の子が生れて\nぼくのところではまたほっとしたのだ\n現在になってはそのつぎのが\nまさに生れようとしているので\nぼくのところではそのうちに\nまたまたほっとすることになるわけなのだ\nそれにしてもなんと\nあいだのながい二カ月なのだ\nすでに五年もこの家のお世話になって\n萎びた約束を六畳の間に見ていると\nこのまま更にあとなんねんを\nぷらすのお世話になることによって\nいこおる二カ月ほどになるつもりなのかと\nぼくのところではそのことばかりを\n考えないでは一日もいられないのだが\nいつ引越しをするのかとおもうと\nお金のかかる空想になってしまって\n引越してみないことには解けないのだ。\n\n\n自問自答\n\n返したためしも\nないくせに\nお金がはいったらこんどこそ\n返そう返そうと\nぼくはおもっているのだが\nつまりお金のない病気なのだ\nそれでたまに\nお金を手にしてみると\nほっとしたはずみに\nつい忘れるのだ\n\n\n編棒\n\n近所で噂の例のふたりが\nそこにいてバスを待っているのだ\n和製の女にしては大柄の女で\n舶来の男にしてはまたこれが\nまことに小柄の男なのだ\nふたりは向き合って立っているのだが\n女はガムをかみかみ\n編物に手をうごかしているところで\n男はそれを見い見い\nガムをかんでいるところなのだ\nしかしなかなか\nバスは来なかった\nそのうちに編棒の一本が落っこちて\nふたりは顔を見合わせたのだが\n大柄の和製がその足もとを指さしたので\n小柄の舶来は背をこごめたのだ。\n\n\n蕪の新香\n\n見おぼえのある顔だとおもっていると\n芹田ですと来たのでわかったのだ\nかれはいつぞや原稿の催促に\nぼくのところを訪ねて来たのだ\nぼくのところでは生憎と\nなんにもない日ばかりがつづいていたので\n来客のたんびに夫婦してまごついたのだ\nそれでもお茶のかわりにと\n白湯を出してすすめ\nお茶菓子のかわりに\n蕪の新香を出してすすめたのだ\nかれはしかし手もつけなかった\nいかにも見ぬふりをしているみたいに\nそこにかしこまってかたくなっているのだ\n足をくずしてお楽にとすすめると\nこれが楽ですとひざまづいているのだ\n蕪の新香はきらいなのかときくと\nこっくりに素直さが漂った\nぼくは今日の街なかで\nかれに逢ったことを手みやげにして\n芹田君に逢ったと女房に伝えたのだが\n女房にはすぐには通じなかった\n蕪の新香のきらいなと言うと\nあああの芹田さんかとうなずいたのだ\n\n\n鹿と借金\n\n山の手のでぱあとの一角に\n珈琲の店を経営しているとかで\nうまい珈琲を\nごちそうしたいと彼は言った\n岬の方には釣舟をもっているとかで\n釣へも案内したいと彼は言った\nなかでも自慢なのは鉄砲とかで\nいずれそのうちに\n鹿を射止め\n鹿の料理をごちそうしたいとかれは言った\nぼくはかれに逢うたんびに\nいまにもそこに出て来そうな\n鹿だの釣だの珈琲だのをたのしみにして\nかれの顔をのぞいては\nまだかとおもったりしないではいられなかった\nところがどうにも仕方のないことがあって\nぼくはついかれに\n金を借りてしまったのだ\nそのかわりみたいにそれっきり\nごちそうの話がひっこんでしまって\n金の催促ばかりが出てくるのだ\n\n\n右を見て左を見て\n\nミミコのことを\nおつかいに出すたんびに\n右を見て左を見てと\n念をおすのだが\n家のすぐまんまえが通りになっている\nあめりかさんの自動車の\n往ったり来たりがひんぱんなのだ\n通りを右へ行くと\n石神井方面で\nかれらの部落がその先にあるというのだ\n左は目白廻りで\n都心へ出るのだ\nミミコは買いもの籠をかかえて\nいつでもそこのところで立ち止るのだが\n右を見て左を見てまた右を見て\nそれからそこの通りを\nまっすぐに突っ切るのだ。\n\n\n告別式\n\n金ばかりを借りて\n歩き廻っているうちに\nぼくはある日\n死んでしまったのだ\n奴もとうとう死んでしまったのかと\n人々はそう言いながら\n煙を立てに来て\n次々に合掌してはぼくの前を立ち去った\nこうしてあの世に来てみると\nそこにはぼくの長男がいて\nむくれた顔して待っているのだ\nなにをそんなにむっとしているのだときくと\nお盆になっても家からの\nごちそうがなかったとすねているのだ\nぼくはぼくのこの長男の\n頭をなでてやったのだが\n仏になったものまでも\n金のかかることをほしがるのかとおもうと\n地球の上で生きるのとおなじみたいで\nあの世も\n この世もないみたいなのだ\n\n\n事故\n\n裏の畑途の方から\n背の高いのと\nパンパンらしいのとが出て来た\n道理でそこに\n自動車があった\n家に帰ると\n帰りを待っていたみたいに\n女房がその日の出来事を告げた\nいましがた\n裏の子が\nあめりかの自動車に\n跳ね飛ばされたというのだ\n\n\nがじまるの木\n\nぼくの生れは琉球なのだが\nそこには亜熱帯や熱帯の\nいろんな植物が住んでいるのだ\nがじまるの木もそのひとつで\n年をとるほどながながと\n気根を垂れている木なのだ\n暴風なんぞにはつよい木なのだが\n気立てのやさしさはまた格別で\n木のぼりあそびにくるこどもらの\nするがままに\n身をまかせたりしていて\n孫の守りでもしているような\n隠居みたいな風情の木だ\n\n\n耳と波上風景\n\nぼくはしばしば\n波上の風景をおもい出すのだ\n東支那海のあの藍色\n藍色を見おろして\n巨大な首を据えていた断崖\n断崖のむこうの\n\n慶良間島\n芝生に岩かげにちらほらの" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n こうして春去り夏が来た。その夏も逝って秋となった。\n 小鳥狩りの季節となったのである。\n ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活振りは案外暢気というものであった。\n「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」\n 時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対に慰めるのであった。\n「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」\n「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」\n「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命の糧でございますもの」\n「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」\n\n\n 大御所家斉公\n\n ある日、紋太郎は吹筒を携え多摩川の方へ出かけて行った。\n 多摩川に曝す手作りさらさらに何ぞこの女の許多恋しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。\n「さてそろそろ帰ろうかな」\n こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸、鶫、獦などがはち切れるほどに詰まっていた。\n 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。\n その一群れは足並揃えて粛々とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美の服装である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付、揃いの笠で半面を蔽い、寛いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。\n「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」\n 紋太郎は心中審りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。\n 鷹狩りの群れは近寄って来る。\n 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金蒔絵されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!\n 紋太郎はハッと呼吸を呑んだ。持っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。\n 鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。\n と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。\n 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。\n「何んであろうな、あの音は?」\n こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。\n「不思議の音にござります」\n こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。\n「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」\n 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。\n キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。\n 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天の大鵬と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。\n グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。\n 家斉公はまじろぎもせず大鵬の姿を見詰めていたが、\n「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」\n「はっ」と返辞えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。\n「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」\n「かしこまりましてござります」\n 近習の捧げる重籐の弓をむずと握って矢をつがえたが、二間余りつと進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。\n「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっと切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。\n 心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座まる。\n\n\n 大鵬空に舞う\n\n「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。\n「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」\n「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」\n「は、はっ」\n と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を屹と構えて空へ向ける。さすがは大御所秘蔵の名鳥、プッと胸を膨張ませ、肩を低く背後へ引く。気息充分籠もると見て一度に颯と切って放す。と、あたかも投げられた飛礫か、甲乙なしに一団となり空を斜めに翔け上った。\n 家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、固唾を呑んで眺めている。その眼前で五羽の鷹、大鵬を乗り越し上空へ上るや一時にバラバラと飛び散ったがこれぞ彼らの慣用手段で、一羽は頭、一羽は尻、一羽は腹、二羽は胴、化鳥の急所を狙うと見る間に一度に颯と飛び掛かった。\n ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。\n「もう大丈夫! もう大丈夫!」\n 家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは糠喜びで、五羽の鷹は五羽ながら、投げられたように弾き飛ばされ、空をキリキリ舞いながら枯れ草の上へ落ちて来た。\n 五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも大鵬は悠然と同じ所に漂っている。\n 物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。\n「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」\n と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず咳もせず固くなってかたまっている。これが陸上の働きならば旨を奉じて出る者もあろう。ところが相手は空飛ぶ鳥だ。飛行の術でも心得ていない限りどうにもならない料物である。ましてや弓も鷹も駄目と折り紙の付いた怪物である。誰が何んのために出て来るものか。\n 忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。\n 紋太郎は遙か彼方から此方に向かって一礼したが、その眼を返すと空を睨んだ。二尺八寸短い吹筒、つと唇へ当てたかと思うと大きく呼吸をしたらしい。ぴかりと光った白い物。それが空を縫ったらしい。その瞬間に恐ろしい悲鳴が空の上から落ちて来た。と、その刹那空の化鳥が一つ大きく左右に揺れたが、そのままユラユラと落ちて来た。しかしそこは劫を経た化鳥、地へ落ちて死骸を曝らそうとはしない。さも苦しそうに喘ぎ喘ぎ地上十間の低い宙を河原の方へ翔けて行く。そうしてそれでも辛うじて広い河原を向こうへ越すと暮れ逼って来た薄闇の中へ負傷の姿を掻き消した。\n" }, { "role": "assistant", "content": " どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。\n「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。\n「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の希望であった。\n「神妙の願い、追って沙汰する」\n これが家斉の言葉である。\n はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて差紙が来た。恐る恐る出頭すると特に百石のご加増があり尚その上に役付けられた。西丸詰め御書院番、役高三百俵というのである。\n 邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。\n\n\n 奇怪な迎駕籠\n\n ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。\n「大学頭林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」\n これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。\n で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。\n「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者はこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」\n「さようでござるかな、これはご叮嚀」\n 専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつらと眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。\n「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」\n その時、バサッと音が駕籠の上から来た。\n「何んの音かな? これは変じゃ」\n すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。\n「何んの音かな? これはおかしい」\n こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。\n「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。\n「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。\n「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。\n「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。\n「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。\n「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。\n 専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。\n「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。\n 専斎はゾッと寒気がした。\n「こいつはたまらぬ。誘拐しだ」\n 彼はじたばたもがき出した。\n そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。\n「おや辻を曲がったな」\n 専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。\n「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな爺を誘拐したところでたいしていい値にも売れまいにな。......精々のところで別荘番。......おや今度は左へ廻った。......じたばたしたって仕方がない。生命まで取るとはいわないだろう。......まあまあ穏しくしていることだ。......そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」\n 臍を固めた専斎はじたばたするのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。\n 駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。\n「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。\n「どうもいけねえ」と渋面を作る。\n それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然駕籠側にいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。\n\n\n 桃色の肉に黄金色の毛\n\n こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが緩くなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。\n「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」\n というような、ひそひそ話が聞こえて来た。\n 突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの幽かな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油を除ける音。それからピ――ンと錠の音がした。\n「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」\n などと凄い話し声がする。と、ス――と扉があいた。\n「いざ専斎殿お出くだされ」\n「はっ」\n と専斎は這い出した。朦朧と四辺は薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。\n その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、\n「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀を前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。\n「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。\n「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。\n「はい一通りは持って参ってござる」\n「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高く夜具が敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。\n「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも嗄れた声音である。\n「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっと身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。\n「あっ」と専斎は呼吸を呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所スーと小刀で切ったものである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 彼女は、もう口をはさむ勇気はなかつた。すると、夫は、道ばたのナラの枯枝をポキリと折つて、例の問いをだした。\n ――お前は、おれの最期を見とゞけたあと、いつたいどうするつもりだ?\n\n三\n\n 彼女には、この、夫の問いの意味がどこにあるかをたしかめる気さえしなかつた。\n「そんなこと、お返事できませんわ。第一、あたくしは、あなたのおつしやること、ぜつたいに承認していないんですもの。承認しろとご命令になるんでしようけれども、あたくし、そればかりは、妻として、母として、いゝえ、女として、ぜつたいに承認いたしません」\n それは実にきつぱりとした彼女の宣言であつた。\n「そうか。それならしかたがない。お前をこゝへ呼んだのはむだだつた」\n 気まずく夫の一徳は口を結んだが、二人はそれからいつたん工しようのさつきの部屋へもどり、また、こんな問答をかわした。\n「では、もうお前に用はないから、すぐに帰れ」\n「いゝえ、あたくしはこのまゝこゝにいさせていたゞきます」\n「バカいうな。こゝは役所だ」\n「でも、プライヴェートのお部屋じやございません? あなたのおそばにいさえすればよろしいんですわ」\n「なんだ、監視か」\n と、夫ははじめて苦笑した。\n 康子はそういう夫のすきをのがさなかつた。\n ともかく、もう任務を終つたこの役所をさつそくにも引きあげることをすゝめ、どうあつてもいつしよに信州へ連れて行くといつてがんばつた。彼女の腕は、まなざしは、そしてくちびるは、夫のかたくなな心を次第にほぐした。\n その日、彼等夫婦は、H町の安宿に部屋をとり、翌日は一徳が多少顔なじみになつている浅川在のさる料理旅館へうつり、そこの離座敷で、前後十日間、まことに奇怪な同居生活をいとなんだのである。\n 早く子供のそばへ帰つてやろうと彼女が言えば、夫の一徳は、――まあ、まあ、もうすこし、と言つて腰をあげない。そうかと思うと、朝起きぬけに宿を出て、夕刻にならなければ顔をみせないこともある。どこへ行くのかとたずねると、面倒だからいち〳〵行先を聞くなとつッぱねられる。\n が、それにしても、彼女は、夫の毎日の行動や顔色から、まだそれほど切迫したものを感じてはいない。で、なにか、もうひと息という気がした。\n それは、かんたんに言えば、ふと気が変るというような、たゞ生命への執着が微妙な一線をこえて彼の精神をとりこにすればいゝのである。そう考えてくると、彼女にしてみれば、自分というものゝ存在が、それほどそのことには役に立たぬのかと、ある夜、つい、いらだたしく綿々と夫の愛撫にいどみかゝつた......。\n\n四\n\n 夜は更けていたけれども、もういく時ごろかわからなかつた。\n 夫が何か耳もとでさゝやいている。彼女はそれを夢うつゝで聞いている。\n「ねえ、康子、いつかの返事をしてくれよ。おれがいま死んだら、お前はどうする?」\n ギクリとはしたが、彼女は、夫の胸にぐつと寄りそうかたちで、かすかに答えた。\n「まだそんなこと考えてらつしやるの? あたくし、もうすつかり忘れてましたのに......」\n「いや、たゞ聞いておくだけだよ」\n しかし、夫の腕が彼女をしめつけるその力で、彼女は、なんと答えれば彼が満足するかを直感した。\n それにもかゝわらず、彼女はそのひと言を言いきるわけにいかなかつた。\n「ねえ、おい、ちやんと言えよ。おれが安心するじやないか」\n それでも、彼女はおし黙つていた。\n「おれといつしよにでも、死ぬのはいやか?」\n あゝ、もうおしまいだ、と、彼女は思つた。すると急に全身の力がぬけて、夫のはだが石のように固くつめたく感じられた。\n「なぜ返事をしないんだ? そんなにお前は冷淡なのか! お前のすべてはおれのものじやないのか?」\n その声の低くはあるが、なんという荒々しさ! 夫は、ぷいと夜着をけつておきあがつた。\n 康子は、そこで、えりをかきあわせながら、静かにすわりなおす。\n「あたくしが返事をしないでいるのは、いゝ加減なことを申しあげたくないからですの。死ぬなんていうことはじようだんに言えることじやございませんあたくしは、自分が死ぬ死なゝいより、第一に、あなたを......」\n と、そこまで言つて、もう胸がいつぱいになつた。\n「おれのことはおれが考える。お前のことを聞いてるんだ」\n「えゝ、ですから、あたくしは、自分の力かぎり、あなたを......あなたのいのちを、おまもりすることしか考えておりません」\n そう言つて、彼女は、そこへ突つ伏した。\n「強情だなあ、お前は......。どうして、うそでもいゝから、おれといつしよに死ぬ、と言つてくれないんだ? 気安めに、あとを追うとでも言つたらいゝじやないか。とにかく、それが夫婦の情というもんだ」\n すこし折れて来たふうがみえるので、彼女は、そのまゝ、顔をあげずに云つた。\n「その夫婦の情について、あたくしを疑つてらつしやるんですの?」\n\n五\n\n 一徳は寝間着のはだに寒さがしみるとみえ、両腕をかわる〴〵こすりながら、\n「そうとばかりも言えんが、疑いたくなることもある。いつたい、お前は女らしくない」\n 女らしくない、という夫の批評は、これがはじめてではなかつた。しかし、夫がそれを言いだす時は、きまつてなにか意見の合わない時であつた。妻としてそういう印象を与えることは自分でもまずいと気がついていたから、彼女は、どうでもいゝことはずいぶん彼の言うなりになつていたつもりである。ところが、その言うなりになり方が、どうもまだ夫の気に入らぬらしい。\n そういうことのあつた翌日、夫の一徳は、昼すぎに、いつものように服を着かえ、出かけるのかと思うとそうでもなく、なにやら書類のようなものを折カバンから出して、ひとつ〳〵ていねいにそろえたり、不用のものは破いたりしていた。それがすむとこんどは、一通の封書を康子の前へほうり出し、\n「さ、あとのことはくわしくこれに書いてある。別に相談することもない。その通りに実行すればよろしい。お前のことはお前の自由にせよ、と書いておいたが、それは直接話すつもりだつた。しかし、お前はてんで話に乗つて来ないから、もう話すのはやめた。おれがいつ、どこで決心を実行にうつすかは、今、はつきりしたことは言えない。おそらくだれの目にもつかないところで、いつのまにか消えているということになるだろう。なにも井出一徳のあつぱれな自決ぶりを人にみせる必要もない」\n 康子は、その封書のうえへ、ぼんやり視線をおとしたまゝ、夫の言葉に耳をかたむけていた。\n 封書の表には、「井出一徳遺書」と肉太に認められ、そのかたわらに、「昭和二十年十一月末日以後ニ非レバ開封スベカラズ」と書き加えてある。\n 十一月末日といえば、あとちようど半月である。\n 康子はしずかに顔をあげて夫のほうをみた。\n「では、どうあつても、ご決心をおかえくださいませんのですか?」\n やつと、これだけが言えた。\n「あゝ、変えない。それならどうして黙つてやらんか、と言うんだろう? なにをグズ〳〵してるか、と言うんだろう? その通りだ。おれは、お母さんのことより、モトムのことより、お前のことが気がかりだつた。お前にひと目会つて、お前だけがおれにすべてをさゝげてくれていることを知りたかつたんだ」\n 一徳は、あぐらをかいたその片ひざを弾ませた。" }, { "role": "assistant", "content": "\n六\n\n 康子は、ふら〳〵と眼がくらむような気がしたけれども、夫の、よくする、あの人を射すくめるような眼つきにぶつかると、胸にひやりとしたものを感じ、ある反ぱつをさえ意識して、こう言つた。\n「どうかおゆるしくださいまし。あたくしには、まだ母としてのつとめが残つております」\n すると、一徳は、\n「母としてのつとめか。うむ、なるほど、それで一応は理くつがたつ。しかし、お前の手で子供が養つていけるか?」\n「いけてもいけなくつても、養つていかなければなりませんわ」\n「男の子はうつちやつといても育つ。どうだ、モトムはお母さんに預けといて、おれの行くところへついて来んか? そんなにびつくりするな。無理心中をするつもりなんぞ、おれにはない。お前がその気なら、そうしようといつてるだけだ。いやか? え? いやなら、いやでよろしい。もうこれ以上なにも言わん」\n 彼はそう言つたと思うと、ぐらつとうしろへひつくり返つた。\n 康子は、こういうことをいつまでも続けていてもきりがないと思つた。\n 彼女を道連れにという夫の要求は、それがどんなつきつめた情愛のしるしだとしても、康子にとつては狂暴にひとしい男のわがまゝにすぎなかつた。\n「あたくし、もうどうしていゝかわかりませんわ。自分の力がどんなに弱いかということがよくわかりました。あなたおひとりを残していくのは気がすみませんけれど、あたくし、なんですか、モトムの顔が、もう見たくつて、見たくつて......」\n と、強いて自分を引きたてるように、言葉をかさねる。\n「あゝ、見に行くがいゝさ。しかし、お前もまだ若いしな。子供が邪魔になつたら、いつでもお母さんにおしつけて、自由行動をとれ。周囲に気がねをして未亡人でくすぶつてしまう必要はない」\n 彼女は、もうそんな当てつけがましい言葉に耳をかす気はしなかつたが、ふと夫の横顔をのぞくと、眼じりからこめかみへかけて、ひと筋の涙が流れているのに気がついた。\n すると、無意識に、彼女は夫のそばへにじり寄つて、自分のハンケチでその涙をそつと拭いてやりながら、\n「ほんとに、ごめんなさいね。あたくしたちは、どうしてこう別々なことを考えなけりやならないんでしよう? お苦しいだろうつていうことはよくわかるんですけれど、あなたのそのお苦しみを、しんから自分の苦しみとして苦しめないことが、あたくし、なによりも悲しいんですの」\n\n七\n\n しかし、康子はまだどこかにわり切れぬ気もちをのこしながら、夫が許すまゝに、その夜東京をはなれることにした。それがいゝかわるいか、もつとほかにとるべき方法があるかどうか、そういうことはほとんど考えなかつた。\n 新宿駅のホームで、もうかなり続いている行列に加わり、送つて来てくれた夫とぽつり〳〵立ち話をし、もうこれが夫の顔を見る最後かも知れぬ、いや、最後にきまつていると思うにつけて、自分がひとりいまこうして汽車に乗るということが、およそこの世の中にあり得べからざる不自然なことのように思えてくる。\n 夫は、時どき彼女のほうへ向きなおつて、まるでほんのちよつとの別れででもあるように、軽く道中の注意を与えたり、近ごろの人心のすさみかたについて感想をのべたり、していたが、ふと彼女のそでをつかんで二三歩引つ張つていき、やゝ改まつた口調でこう言つた――\n「おれの決心については、お前だけが知つているわけだから、一切他言は無用だぞ。お母さんにはもちろん黙つていてくれ。騒ぎだすとやつかいだから......。それから、お前の一存でだれかれに相談をもちかけるとか、つまり、おれの行動を妨げるような処置をとることは厳禁する。そんなことをしてもぜん〳〵むだだ。そればかりじやない。いわば一家の恥さらしだ。このことはくれ〴〵も言つとくぞ」\n そう言われてみると、なるほど、自分が当然考えつかなければならない方法、手をつくすべき余地があつたのだということに彼女は気がつくのである。\n 夫が先輩として信頼し、そのうえふたりのなこうどであるN中将の顔がまず浮ぶ。同郷でかつ同僚のMも力にならぬことはあるまい。が、今となつては、もう、なんとしても気が重く、万一の効果ということよりも、その効果がまたひとつの新しいみぞを二人の間に築く懸念のほうが大きかつた。\n 彼女は、そこで、たゞ、\n「はい」\n と、答えただけで、深く首をたれた。\n ............\n 真夜なかの、客車とは名ばかりの人間をつめこんだ列車の一隅で、いま、座席についてほつとした井出康子の眼に、まぼろしのように浮かぶかず〳〵の情景は、これでやつと読者の想像の範囲にはいつたことと思う。\n 彼女の胸がいませつなさでいつぱいだとすれば、それは自分の夫の「死」をどうすることもできずにたゞ見つめていなければならぬというような理由からではない。なにはともあれ、生がいを誓つた一人の男のいのちが、自分にとつてかけがえのないものだという信念の、むざんにもぐらつきはじめたこと、そして愛情が時にいつわるものだという事実をまざ〳〵と見せつけられたためである。\n\n八\n\n 辰野駅へ着くと、もう夜は白々と明けはじめていた。\n 汽車がわずか遅れたために、飯田線の初発は出てしまつたあとで、康子はその次ぎを待つために駅前の茶店でひと休みしようか、それとも、寒いのをがまんしてホームへはいろうか、と迷つていた。\n すると、ちようどそのかたわらを、重そうなリュックをかついで一人の中年の男が通りかゝつた。オーバーに中折れという服装がリュックとつり合わぬおかしさはだれの目にももうなれて来たが、その男は、おまけに人形のはいつたガラス箱を大事そうに抱えているのが漫画風の愛きようをそえていた。\n 彼女はなにげなくその男の顔をみたのだが、向うでも、こつちをしげ〳〵とながめ、行きすぎようとして、ふとうしろをふり向き、ちよつとためらいながら、そばへ寄つて来る。\n と、その時、彼女は、たしかに知つている顔だと気がついたけれども、どうしても名前を思い出せない。\n「失礼ですが、井出さんの奥さんじやいらつしやいませんか?」\n ていねいに帽子をぬいで問いかけた、その額のくつきりと上半分の白い――つまり日にやけた顔が帽子のところだけ白くなつている、それだけのことで、すぐに康子の記憶はよみがえつた。\n「あら、おめずらしい......。どうしてらつしやるの、中園さん......?」\n この中園と呼ばれた男は、服装だけではすぐに見当はつきかねるが、これも現役将校として最近までサーベルをさげていた夫一徳の後輩なのである。\n「どうもそうじやないかと思つたんですが、奥さんが、あんまり知らん顔をなすつてらつしやるから、ちよつとまごつきました。いかゞですか、その後......? 井出大佐殿もお元気でしような」\n 隊附時代から、最近に至るまで、思い出したようにちよくちよく遊びに来る後輩の一人で、それほど頭はよくないけれども、勤務の上では模範的といわれる青年将校の部類であつた。\n 陸軍大学は一度失敗してあつさり思いきり、高射砲の実地方面をやつて、射撃指揮では折紙つきというところまで行き、自然、井出一徳とはわりによく話が合つた。\n 夫より三つ年下で任官は五年もおそく、そのうえ一方が大佐になつた時、まだ少佐でいた、この同連隊出身の後輩を、康子は時にはいくぶん軽く扱うようなふしもあるにはあつたが、いわゆる羽ぶりのいゝ出世組にくらべて、どこか「話のわかる」ところが気に入り、立ち入つたこともずけずけ言えるような気がしていた。\n\n九\n\n 康子は夫の安否をたずねられて、やゝ口ごもりながら、\n「えゝ、おかげさまで......それはそうと、いつたいこれはなに、中園さん、このありさまは......?」\n すると、中園は、にやりとはしたが、なんとも言えぬ表情で、\n「申しわけありません。ですから、こういうかつこうで遠くへ落ちのびるところです」\n と、言つた。別にしやれを言つたつもりもないらしく、ガッシリした肩でリュックをゆすぶつた。\n「あなたの申しわけなんぞどうでもいゝわ。ご家族はどこにいらつしやるの?」\n「え? あゝ、まだご存じないわけですなあ、私、家内をこんど離縁したもんですから、いま、娘と二人暮しであります。娘ですか? ついこの間、家内の実家から鎌倉の親せきへ連れもどしたんですが、いまからちよつとその親せきへ顔を出して、それから......。まあ、そんな話はどうでもいいでしよう。ところで、井出大佐殿は、まだ御用ずみになられませんか?」\n「えゝ、なんですか、まだH町のほうにおりますの」\n と、彼女は言いはしたが、すぐそのあとで、中園がどうしてあの可愛らしい細君と別れなければならぬのかを聞きたゞしたくなり、が、それはあまりにぶしつけなことに思われ、\n「では、お嬢ちやんとお二人きりで? 戦争はどこまでいろんなものをぶちこわすんでしようね......」\n「すべては、無条件降伏ということにあるのです。家内のおやじはご承知の退役軍人ですが、私に腹を切れといゝます。私はそんなまねはせんという。そこで、絶交ということになつたんですが、そこへいくと、女房なんていうもんは頼りないですなあ。おやじにガンと言われると、もうその気になつて、逃げだして来ようとせんです」\n 中園のそれを言う調子は、まだ青年将校の子供臭さがむきだしになつていた。が、それだけに、なにか痛々しい心のきずが康子の感情のひふに感ぜられた。\n すると、われながら制しきれぬ勢いで、悔恨に似た気もちが頭をもちあげて来る。自分と夫との関係についてである。夫をみす〳〵殺そうとしているのはだれだ、という、どこからともなく聞こえる声に、彼女は耳をすます。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " シナとの交渉は恐らく唐太宗以前にもあったであろう。グプタ朝の最盛期は北魏の時代に当たっているが、その時代には西域人の来朝が少なくない。しかし東西交通の繁栄は、太宗の領土拡張後に特に著しい。この時代になると、仏教のみならず、西方の文化全体が勢いよく流れ込んで来た。インド劇も恐らくこの例に洩れないであろう。\n 中唐玄宗の時代に至っては、外国文化の流入はさらに盛んであった。貴人の食膳にはインド料理、ペルシア料理、ローマ料理の類までも珍重せられる。士女はみな競うて西方の(恐らく準ギリシア風の)衣服をつけた。天宝の初め、すなわち天平十二三年以後には、一般民衆までが西方の風を好み、女の服装などは、当時の俑(土人形)に見ても明らかであるごとく、ほとんどギリシア風に近かった。そうしてこの時代に西方伝来の新音楽が尚ばれたことは、明らかに記録に残っているのである。\n それがわが天平時代の唐の情勢であった。そうしてその唐が当時の日本人の憧憬の的であった。有為な青年が群をなして留学する。唐人も頻々としてやってくる。インド人ペルシア人までもくる。インド劇が伝わるぐらいは何でもない。\n しかしインド劇が劇として伝えられたかどうかは疑問である。人々の関心の対象は仏教であった。仏教はインドではもう下り坂でより熱心な仏教国へ流れて行こうとしていた。それをちょうどシナが迎え取った。有為な僧や美術家はそれに伴って東漸したのである。しかしバラモン文化は伝道の傾向を持たないのみならず、また国外に出る必要もなかった。だから本格的なインド劇が国外に押し出してきたとは考えられないのである。恐らくそれは仏教の儀式に摂取せられた限りのインド劇の要素に過ぎなかったであろう。伎楽はだから十分な意味で劇とは言えないであろう。しかしたといページェント式のものであったとしても、その背後には十分に発達したインド劇が控えていたことを忘れてはならない。\n\n十一\n\n\nカラ風呂――光明后施浴の伝説――蒸し風呂の伝統\n\n 法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。わたくしはこれまでこの「カラ風呂」なるものの存在をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途中で車夫から初めて教わったのである。谷を距てて大仏殿が大きく見えている坂の中腹に歩廊のような細長い建物のあるのがそれだった。大仏鋳造や大仏殿建立の大工事の時に、病を得た工匠・人夫の類がそこで湯治をしたと言われている。その「カラ風呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。\n 浴室は本堂の東方に当たる庭園のなかにあって、三間四方(?)ぐらいの小さなものであるが、内部の構造は全然わたくしの予期しないものであった。床は瓦を敷きつめ、中央にはさらに三尺ほどの高さの板の床を作り、その上に屋根もあり板壁もある小さい家形が構えられている。言わば入れこにした箱のように、浴室のなかにさらに浴室があるわけである。その側面は西洋建築の窓扉と同じやり方のもので、全体の格好が測候所などの寒暖計を入れる箱に似ている。だから中は暗い。それへはいるには、三四段の梯子をのぼり、身をかがめて、狭い入り口から這い込んで行くのである。中には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でもなくしゃがんでいられるらしい。これがつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになっている。純然たる蒸し風呂である。\n この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西洋竈風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用するコンクリート造りの長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これによって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したということは確かではなかろうか。\n この浴室の楣間に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏体疥癩の病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立している図である。光明皇后の十二ひとえも時代錯誤でおかしいが、この蒸し風呂の設備と相面して銭湯風の浴室が画いてあるのは、愛嬌を通り越してむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のところわれわれは光明皇后施浴の伝説を、漠然とこの図のように想像していたのである。施浴が蒸し風呂であるとすると、われわれも考えなおさなくてはならない。\n 蒸し風呂が医療に役立つことは古くから知られていた。今でも一種の物理的療法として存在の意義を持っている。天平時代に著しいヒステリイ風の病気や、その他全身の衰弱を起こすさまざまの病気が、蒸し風呂によって幾分治療せられたろうことは想像するに難くない。とすると、蒸し風呂を民衆に施すことは、慈善病院を経営するのと同じ意味の仕事になる。慈悲を理想とした皇后がこのような蒸し風呂の「施浴」を行なわれたということは、きわめてありそうなことである。その際皇后が周囲の人々に諫止せられる程度の熱意を示して、自らこの浴場に臨んで何事かをされたということもあり得ぬことではない。しかし伝説は単にそういう「施浴」を語るだけにとどまってはいないのである。『元亨釈書』などの伝える所によると、――東大寺が完成してようやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜閤裏空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、恠喜して温室を建てられた。しかしそればかりでなく同時に「我親ら千人の垢を去らん」という誓いを立てられた。もちろん周囲からはそれを諫止したが、后の志をはばむことはできなかった。かくて九百九十九人の垢を流して、ついに最後の一人となった。それが体のくずれかかった疥癩で、臭気充室というありさまであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ということにひかされてついに辛抱して玉手をのべて背をこすりにかかられた。すると病人が言うに、わたくしは悪病を患って永い間この瘡に苦しんでおります。ある良い医者の話では、誰か人に膿を吸わせさえすればきっと癒るのだそうでございます。が、世間にはそんな慈悲深い人もございませんので、だんだんひどくなってこのようになりました。お后様は慈悲の心で人間を平等にお救いなされます。このわたくしもお救い下されませぬか。――后は天平の美的精神を代表する。その官能は馥郁たる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れている。いかに慈悲のためとはいっても癩病人の肌に唇をつけることは堪えられない。しかしそれができなければ、今までの行はごまかしに過ぎなくなる。きたないから救ってやれないというほどなら、最初からこんな企てはしないがいい。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に押しつけられた后は、不得已、癩病の体の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた。そうして膿を吸って、それを美しい歯の間から吐き出した。かくて瘡のあるところは、肩から胸、胸から腰、ついに踵にまでも及んだ。偏体の賤人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみな吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。――病人の体は、突然、端厳な形に変わって、明るく輝き出した。あなたは阿閦仏の垢を流してくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。\n これは誠にありがたい話で、嘘にもこういう伝説を負うた皇后のあることはわれわれの誇りである。『元亨釈書』の著者虎関和尚はこの話を批評して、温室を造るのはいいが、垢を流したり膿を吸ったりするのはよけいなことだ、そんな些細なことをしなくても、堅誠あるものは造次顛沛みな阿閦を見るといっているが、これはどうも承服し難い。去垢吸膿の類は後世の仏家の仮構であろうというのならばわかるが、この話を真実としておいて、その上で、そんなことはよけいなことだ、女のくせに千人の垢を流すなどは女の道にはずれている、というのは、この話に現われた宗教的興奮を無視するものといわなくてはなるまい。生温い心持ちで癩病人の膿などが吸えるものではない。\n が、もとよりこれは伝説である。しかも宗教的伝説として型にはまったといっていいほどのものである。しかしそういう伝説が蒸し風呂の知識の上に立って語られたとすると、逆に伝説の方から蒸し風呂のやり方を推測することもできるであろう。あの狭い暗い浴槽へはいって蒸気に蒸されながら民衆の垢を流してやるなどということは、とてもできるはずのものでない。従って垢を流すのは、浴槽の外の流し場においてであろう。十分に蒸気にむされて、体じゅうの垢がことごとく外に流れ出たような気持ちになって、浴者が浴槽から出てくる。しかし浴者はむされたためにぐったりとなっている。その体をたとえばギリシアの Strigil のような、木か銅かで造った道具でもって、ぬぐってやるというようなやり方であったかもしれない。そういうやり方でならば、皇后が浴室に入って民衆の垢を取ってやるという場面を想像したとしても、さほど驚くに当たらない。\n しかし重大なのはこの時の浴者の心持ちである。自ら蒸気浴を試みてみたら、その見当がつくかも知れないが、もしそこに奇妙な陶酔が含まれているとすると、事情ははなはだ複雑になる。人の話によると、現在大阪に残っている蒸し風呂はアヘン吸入と同じような官能的享楽を与えるもので、その常用者はそれを欠くことができなくなるそうである。もし蒸気浴がこのような生理的現象を造り出すならば、浴槽から出たときの浴者は、特別の感覚的状態に陥っているといわなくてはならない。ちょうどそこへ慈悲の行に熱心な皇后が女官たちをつれて入場し、浴者たちを型通りに処置されたとすると、そこに蒸気浴から来る一種の陶酔と慈悲の行が与える喜びとの結合、従って宗教的な法悦と官能的な陶酔との融合が成り立つということも、きわめてありそうなことである。天平時代はこの種の現象と親しみの多い時代であるから、必ずしもこれは荒唐な想像ではない。こういう想像を許せば「施浴」の伝説は民衆の側からも起こり得たことになるであろう。" }, { "role": "assistant", "content": " 施浴が行なわれるためには、もっと規模の大きい、室の広い、堂々たる温室が天平時代にあったのでなくてはならない。当時の技術からいえばそういう物を造るのはわけのないことである。この大温室の想像の根拠となるものはさしずめ東大寺の湯屋であろう。わたくしは後に筒井英俊君の好意によって大仏殿の北東にある湯屋を見ることができた。これはさほど古いものではないが、しかしかなり大きい、堂々たる建物である。前室と後方の浴槽とに別れていて、その前室は数十人の人を容れることができる。そこは脱衣場にでも、あるいは蒸浴者の処理場にでも、使われ得るであろう。浴槽はやはり蒸し風呂で、これも建物に相応して大きかった。これは恐らく古い湯屋の伝統を伝えたものであろう。これから推測すると、天平時代にはかなりの大温室があり得たのである。\n\n 法華寺の蒸し風呂が現代までも蒸し風呂として存続したということは、この寺の本尊が現代までそこなわれずに残存したということほど重大ではないが、しかし些細なことながらも何となく興味が深い。風呂の方が肉体に近く、肉体の方が昔と今とを結びつけるに生々しい効果をもっているというせいでもあろうか。自分でこの蒸し風呂を試みて、その温まり工合や、肌の心持ちや、体のグッタリとする様子や、またありたけの汗を絞り出したあとのいい心持ちなどを経験してみたら、一層その感じがあるだろうと思う。こういう官能的な現象で昔を想像するのはあまり気のきいたことではないが、しかし最も容易な道である。\n ――あとでZ君に西洋の蒸し風呂の話をきいた。快く暖まっている大理石の腰掛けのすべすべとした肌ざわり、蒸気にむされてグッタリとしたからだ、流るる汗、汗を拭き落とす道具、そうして爽快なシャワア、いかにも気持ちが好さそうで、法華寺の浴室とは大変な違いである。しかしこのトルコ風呂も、もとはアジアから出たもので、あるいは天平の温室と同一の源泉を持っているのかも知れない。ただそれが一つの民族の生活の内に不断に生かされて来たか否かで、これほど著しい相違を造り出したのかも知れない。\n\n十二\n\n\n\n法華寺より古京を望む――法華寺十一面観音――光明后と彫刻家問答師――彫刻家の地位――光明后の面影\n\n\n 湯殿の前の庭に立って東の方をながめると、若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳けてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる。またしても幼い時の心持ちがよみがえって来たのである。庭の砂の、かすかに代赭をまじえた灰白の色も、それを踏む足の心持ちも、すべてなつかしい。滑らかな言葉で愛想よく語る尼僧の優しい姿にも、今日初めて逢ったとは思えぬ親しさがある。\n 何とはなくしめった心持ちになって、麦の間から大仏殿をながめていると、相変わらずまた天平の面影が、想像の額縁のなかにもりあがってきた。\n 法華寺、詳しくは法華滅罪之寺は大倭の国分尼寺で、光明皇后の熱信から生まれたものらしい。天平十三年に詔が出ているから当時すぐ造営がはじまったとしても皇后はもう四十を超えていられた。それから二十年の間、皇后の特別な愛着がこの寺に集まった。従って尼寺と後宮との交渉が多く、後には孝謙上皇が住まれて仙洞御所のようになったこともあった。そのころは上皇ももう御年が四十六七であった。再び帝位に即かれた後にもなおしばらくこの寺は御所となって、盛んに造営が行なわれた。造法華寺司は光仁帝の時代にもまだ残っていたそうである。\n われわれの立っている所に立っていれば、天平時代後半の大事件は大抵手に取るように見ることができたであろう。遷都騒ぎがあって大宮人がぞろぞろと北の方へ行ってしまう。近江では大銅像の鋳造などがはじめられている。古き都は「道の芝草長く生い」世の中の無常を思わせるほどに荒れて行く。そうかと思うとまた大宮人がぞろぞろ奈良へ帰ってくる。そうして大仏の原型などを造るので大騒ぎがはじまる。何千という大工や金工や人足がいそがしそうに働きはじめる。毎日毎日奈良坂の方に材木や銅塊などを運ぶ人の影が見える。足場には土がもられ、その上には鋳銅のすさまじい焔がひらめいている。それが幾年か続く。やがて供養の日になると一万五千の灯で東大寺一円の森の上が赤くなる。歌唄讃頌する数千の沙門の声が遠雷のように大きくうねって聞こえてくる。――東の方が少し静かになって来たかと思うと、今度はまた西の方で唐招提寺や西大寺や西隆寺などの造営がはじまる。奈良遷都の際すでに四十八箇寺あったという奈良の寺々は、このころはもう倍にはなっていたであろう。いかにも仏教の都らしい寺の多さである。\n 都を取り巻く諸寺の梵鐘が一時にとどろき出た情景を想像してみる。我々は正午に工場の汽笛が斉鳴する感じを知っているが、あれを音波の長い鐘の音に置き換えるとどんな心持ちのものになるだろう。長閑な響きではあっても、やはり生き生きとした華やかな心持ちではなかろうか。奈良の昔の鐘は諸行無常の響きを持っていたとは考えにくい。\n 伎楽の類は非常な勢いで流行した。皇宮の近いこの土地ではその物音を耳にする機会も多かったであろう。踏歌の類も朝堂の饗宴に盛んに行なわれた。すべてこれらの歓楽の響きを尼寺にあって聞いていた人々の心には、実際はどんな情緒があったのか。歓楽の過冗な時代には、歓楽から目をそむけて真に清浄な生を要求する女が出てくるものである。わが滅罪の寺にもこれらの心からな尼たちが住んでいたのか。あるいは伎楽や読経や観仏やなどによる美的法悦と真に解脱によって得られる宗教的法悦とを合一して考えている当時の「新しい女」が住んでいたのか。それはわれわれには興味の多い問題である。が、しかしそれを知る手がかりがない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "これは何となく人間の老境にかんじられるものを童話でも小説でも散文でもない姿であらわそうとしたものである。――\n\n\n一\n\n 舟のへさきに白い小鳥が一羽、静かに翼を憩めて止っている。――その影は冴えた百合花のように水の上にあるが、小波もない湖の底まで明るい透きとおった影の尾を曳いている。ときどき扇のような片羽を開いて嘴で羽虫でも𩛰るのであろう、ふいに水の上の白い影が冴えて揺れた。\n「お母様はどうなすったのでございましょう? あんなにお急ぎになったのに――わたしちょいと見てまいりましょうか。」\n 纜を解きかけていた眠元朗は、渚にいる娘の方を顧った。\n「すぐ来るだろうから、とにかく先きにお乗り。」\n「纜をおときになっては厭でございます。舟が出てしまいますもの。」\n「大丈夫だよ。湖から吹く風だからあと戻りしても沖へは吹かれはしない。」\n 娘はすらりと舟の上に乗ったとき、尾の脚の迅い小鳥のかげがへさきから消えた。娘はきょうこそ彼の小鳥をつかまえようと、あんなに静かに舟腹にかくれるようにして乗ったのに、とうとう影を見失ってしまったと、くやしそうに舟の中に坐った。\n「あの鳥が出ると、島の方がはっきり見えますのね。」\n「あの鳥が一羽でも飛んでいたら、晴れるにきまっているんだよ。――それに晴れると白魚がたくさん群れて岸へあつまってくるのも不思議だ。」\n 眠元朗は纜をといてから、舟を渚から少しずつ辷り出させた。引き波の隙間をねらって、舟はふうわりと白い鴨のように水の上を辷った。眠元朗は水馴棹を把った。たらたらする油ながしの雫は棹の裏を縫うて、静かな湖面に波紋をつくった。\n「お母さまが入らっしゃらないのに、舟を出しちゃわるうございますわ。」\n「出しはしないんだよ。」\n「でも気になるんですもの。いつかのようにどんどん舟を出しておしまいなさるかも分らないんですもの。――わたしお父さまのなさることを後ではらはら思うことが沢山ありますの。何日のように出さないって言っていらしたくせに、とうとう島までおやりなすった――。」\n 眠元朗はひとりで微笑いながら、棹を一とさしずつ辷らせた。\n「そうあの日は島まで漕いでしまったが、――あとでお母さんが来られないことが分ったじゃないか。」\n「ご遠慮なすったのよ、このごろはお母さまは舟に乗ることをお喜びにならないようですわ。わたしなんだかそんな気がしますの。」\n「舟に乗ることを喜ばないって――お前にそれが分るのかね。」\n「きょうも急ぐには入らっしゃらなかったことから考えても、そう思われますもの。」\n 片手を水の上にひたせ、水をなぶっている繊指は、立っている父親の眼の下にあった。そろえた膝と小さな足――こまかいことを考えることに秀でた頭には、煙った髪がさらさらと肩まで垂れている。――眠元朗は棹を休めて娘と対い合って坐った。そして娘の顔をしずかに眺めた。\n「お前はお父さまが好きか、又お母さまが好きか、もう一度それを言って見てくれないか。」\n 娘はそういう父の顔の、ずっと奥の方にある真摯さに刺戟されたが、やはり子供らしく可笑しかった。同じことを繰り返されるということより、その真面目さが可笑しかった。\n「どちらも好き――。」\n「それはいけない、どっちかに余計好きなところがあるに違いがないから――二羽の異った小鳥にもそれぞれべつに好き好きがあるものだから。」\n 娘はやはり水の上を指でいじくり、そら眼でほほ笑んで父の眼を見上げている。そして当惑した考えを無理にまとめようとしているらしい無邪気さが、清々した気もちを父親の胸に湧き立たせた。\n「こまるわ、そんな事――。」\n 娘はすぐ言葉を継いで、何か自分の頭に今きゅうに起った新しい考えに思い付いて不図尋ねた。\n「そんなことをお聞きになって何になさるの。どちらが好きでもかまわないじゃありませんか。わたしよそへ行きはしないし、誰一人として此処には人間らしいものが居ないんですもの。」\n「誰一人いないところだから、お父さんはそうお前にききたいんだよ。お父さんはそれを聞くのが楽しみなんだよ。」\n「ではお母さんより好きだといえば、いいお気もちになりますの。」\n 娘はそういうと黙っている眠元朗をかえり見た。\n 眠元朗は心のかたくななのに暫らく沈みこんでいた。\n「お父さまがお喜びになるなら、わたしお父さまが好きだと言ってもいいわ。」\n 眠元朗は返辞をしないで、桃花村のある島の向うに眼を漂わせていた。それは娘の返辞のそれから鬱ぎ込んだのではなく、きゅうにやはり詰らない退屈さと所詮なささが、唐突にかれを心から脅かしたからである。自分の考えている事や、自分の今在るということ、そして妻のことなどがかれをかれの永い間持ち腐らせている悒鬱にまで追い込んだのである。――かれはそういうとき物を言うこと、又聞くことを厭うた。かれは自身でどうにもならないと知りながら、己れも心をくさらせることを悟っても、やはり自分の中でのみ住んでいた。\n「お父さま、そんな顔をなさいますと、わたしきゅうに恐くなってまいりますの、おねがいですからそんな顔をしないでくださいな。」\n 娘の顔は美しいなりでその美しさが悲しそうに変化ってゆきそうだった。その移りかわりがあまりにあざやかに眠元朗の目にうつり過ぎたため、かれは危ないものをうしろから抱きとめるように、もとのように穏やかな心になろうとした。\n「これはお父さまのくせなんだから、気にかけないでくれ、――もう、こわくはないだろう。」\n「けれども......。」\n 娘はつとめて微笑おうとしたが、なぜか窮屈な硬ばりをおのれの顔にかんじた。――父はかならず自分の微笑いがおを見ることを望んでいるだろうと思ったが、やはり微笑えなかった。\n しばらくしてから、弱々しい娘の顔はもとのように晴れかかってすこしの曇りのない色に戻った。父はそれを静乎と眺めていたが、やっと落着いてそして娘に言った。\n「お父さんは何も分らないお前に分って貰おうとしたことは悪かった。」\n かれはそういうと、又黙って桃花村の方を波の間に間に、ほんのりと染った色をくるしげに眺めた。――父は黙って、その桃花村を指してあれを見よと娘に言った。\n「まあ、一日ずつ紅くなってまいりますのね。」\n「あのなかに白い四角なものがあるだろう、あれは何のためにあるのかお前は知っているかね。」\n「いいえ。」\n「あそこにわれわれと同じい人間がいるんだよ、お前は知らないけれど......。」\n 娘はその美しい桃花村一帯のかげが、湖べりに映ってきらきら耀いているのを眺めていたが、べつに何とも言わなかった。――そこへは遠くもあり父にしても母にしても、まだ行ったことのないらしいところだった。" }, { "role": "assistant", "content": " ――或る波の穏やかな日に、娘は母おやと一しょに舟に乗って、湖心に近い、紫色の島の影のしているところに居た。――そのとき母親と娘との眼路の果に、まだ春浅い茜いろに燻されたような桃花村が静かすぎる空につづいて長閑げに見えた。\n「お母さま。」\n 娘はそう母親を呼びかけて、「わたしあの村へ行って見たい気がしますの。」と瞳をいきらせて言った。\n が、母親の返辞は意外にも娘の耳もとに、曾つて聞いたことがないほど冷たくむしろ意地悪くきこえた。\n「いいえ、あそこへ行ってはなりません。あそこはお前のような綺麗な心を有っているものの行くところではありません。」\n「どうしてでしょう。――それに、わたしはそう綺麗な心をもっていはしないんでございますけれど......。」\n 娘はふと母親の顔を見たが、すっかり顔色が硬ばって蒼褪めているのを、この上ない恐ろしいものに眺めた。\n「お前は再度とあの桃花村のことを言い出さないで頂戴。ね、そしてそれを母さまに誓ってくれるでしょうね。」\n「ええ。」\n「母さんの大切なお前だから――そちらを向いてはなりません。それにもう泣かないでもいいのだろう。」\n 娘は母親の手を肩さきに感じながら、自分の言い出したことが母親を苦しめたことを悔んで、そして泣きしずんでいた。――\n その日から娘は母親とその村のことを話し出したりすることを止めた。にも拘わらず父親は桃花村のことを口にすると、いつも機嫌がよかった。いまも眠元朗は静かではあるが熱のある目付で、うすあかい、渚に打ちあげられた、美しい貝殻の列のような村落を眺めていたからである。\n「お父さま、なぜお母さまはあの村のことを話すると、あんなに寂しい顔をなさるのでしょうかね。」\n 娘は父の膝の上に手を置いて、うっとりと村の方に見とれながら言った。――が、父親の返辞がないので、何心なくふりかえって見ると、眠元朗は悒悒した眼で何か考え深んでいるらしかった。――その眼の表情はいつか母親の眼の上にもあった表情だ。娘はこのふしぎな父母の表情が期せずして二人とも同じく陰気で、同じい頼りなげな光を見せているのに、ひそかに心で驚いた。\n「わたしそれが分らないもんですから......。」娘は父親の胸のあたりの着物をなでながら、あまえた中にうっすりと悲しげな皺のある声で言った。\n「それはお父さんにもよくわからないことなんだ。――だが、お前はそんなことを知ろうとしてはいけない。」\n いや、知ろうとする気になるまで、誰がそういう心にならせたのであろう、眠元朗はあんなにまで清浄な心でいた娘が、いつの間にか父と母の心の斑点に、優しい爪を立て始めたのであろうと思った。\n「やはり黙っていなければならないんでございますか。」\n 娘はしくしく泣きはじめた。父親の膝の上に――眠元朗はその娘の髪の上に自分の手を置いて、悲しげに桃花村を罩めている紅霞をながめた。そういう父の眼に何が映ったか? 娘はただ凝乎としているばかりで、何をも知らなかった。知ろうとすることが自然に誰からも許されようとはしなかった。――そのとき娘はぼんやりした夢のなかを彷徨するような父親のこえを聞いた。\n「お前はお父さんを好いているだろうね。」\n 娘はそのこえを恰も遠方からでも聞いているような気がして、一そう父親が悲しげに思われた。\n「ええ。」\n 眠元朗はしばらくしてから、舟が湖心に漂うていることに気がついた。――娘もいまは紫色をした島影が、舟の上を半ば覆うているのを幾らか冷やりとした気もちの上に感じた。それと同時に眠元朗の耳もとをつんざいた女の声があった。しかも遠くから湖面をつたうてくる声だった。――娘は渚の方へ向いて、そして始めて驚いた声を上げた。\n「お母さまが呼んでいらっしゃる――。」\n 眠元朗は娘と同じ方向に眼を遣ったが、しかし落着いた声で言った。\n「母さまは寂しいことはないだろう――。」\n 父親は棹をとろうとしなかった。が、娘は棹を父にもたした。\n「舟をもどしてくださいな。」\n そういう娘の瞳は、渚に立つ母親の方へ動かずに凝らされていた。眠元朗はその娘の瞳を悲しげに眺め、なかば諦めたような顔つきをして、ぐいと、水馴棹を立てると、大きな島影は石油色をした虹のような小波を立てて、ゆらりとその静かな影を揺れくずし初めた。\n\n二\n\n 一たい此処はどういうところであろうか、湖と島と、それを隔てた桃花村と、いつも曇色ある日かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交る交るに囁いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当らない――かれらがどうして此処ところに住んでいるかということ、それが何時から始められているかということは、ほとんど朧げな記憶を過っても、なお夢見ごこちだとしか考えられないのである。――かれらは或る時ふいに別々な三人が寄り集っているのではないかと考えるときにも、なお眠元朗は女につづいた深い永い過去をもっていることを感じた。――が、どうして此処にかれらの生活が置かれているかということの、その最初が分らなかった。――しかし彼らの生活がこの湖べりに来てから、何も彼もあたらしくされたことは実際であった。\n 眠元朗はおのれの妻である女と、そして娘とだけを眺めてくらした。その他の何ものをもかれらの眼を刺戟するものがなかった。白い無数の小鳥と、波間の魚介と、砂丘に這う紫色の藤蔓とだけだった。――かれらは此処でどれだけの月日を送ったか、その間は非常に永いようにも又短いようにも思われるほど、何事も平板にあぶら流しに過ぎ去って行った。眠元朗は女と、小さな家の、浜松のかげにある素朴な腰掛けに坐りながら、同じ窓さきにいる娘をみいみい、ほとんど居眠りと退屈とを相半ばする腐れた時間を送っていた。それと同じいように女もなかば眠って、ものうげに折々眠元朗を見戍るだけだった。一さいのものはその心をも静まらせ、ただ曇色ある空を仰ぎ見るような安らかなぼんやりした時のもとに過ぎて行くのみだった。\n 眠元朗はふと女が同じ腰樹けに坐って眠っている顔をみると、いつものように穏やかな気もちになることを感じた。拘泥のないはればれした快活さが、その女の眠っている間には必らず湧き上ってくる感情だった。かれは窃と腰掛を離れ渚の方へ向いて歩き出した。なるべく音のしないように、そして耳の聡い娘にもさとられないように注意して歩いて行った。\n 渚には舟がもやがれ、波にもまれながら平和に低くなったり高められたりしながら揺れていた。――眠元朗は舟に片足をかけ、そして乗り移ったときに、ふと女の方をふりかえって見たが、なお女も娘もふかぶかと眠っているらしく身うごきさえしていなかった。眠元朗はそれを目に入れると、急に舟を漕ぎ始めた。――湖面はしずかに波を打って乱れたが、その舟が島影へ着かない前に、渚からの娘の呼ぶ声がした。見ると女も立ち上って、眠元朗の方に向いて声を上げている。――かれは為方なしに舟をもと来た水脈の上にしずかに戻した。かれの顔容は寂しい歪をもちながら、目は桃花村の方にそそがれていたのである。\n 舟が渚につくと、娘はすぐ父親に抱きついて、あまえた声で言った。\n「まあ、ひどいお父さま――。」\n「どうして。」\n「お一人でいらっしゃるんですもの。わたしだちの眠っている間に、――ひどいわ、そんなことを為すっちゃ――。」\n 眠元朗はあたまを掻いて、娘の手の甲をぴちゃぴちゃ叩きながら微笑った。\n「そりゃお父さんがわるかった、まあ、がまんして呉れ。」\n 眠元朗は娘の肩ごしに、ふと女を見た。そのとき何年にも見たことがない――そう、ずっと古くに見たことのある女の顔が、いつの間にか今の表情に入れかわっているのを驚いて見た。この平明なくらしのなかで今までにこの女が、このような顔をしたことがなかった。\n「お前は眠っている間に大そう顔貌が変った、まるで別人のようだ。」\n「いいえ、それよりもあなたのお顔もかわっていらっしゃいますわ、いつものようではございません。」\n 眠元朗はあわてて自分の顔に両手を遣ってみた。そして女があんなにまで穏やかな眼をしていたのに、いまの変りようはどうだろう――眠元朗はこんどは娘の方をふり向いて見たが、しなやかな顔つきはのびのびとそれ自身夢のように静まり、瞳はまんまるく美しい白味にまもられ、艶やかに微笑っていた。\n「お父さんの顔がへいぜいとは違って見えるかね、それをよく見て話してくれ。」\n「いえ、お父さま、」\n 娘はあたまを振ってみせた。――母親も娘にちかづいて、同じことを娘に問いただしたが、娘はやはり変ったところがないと言ってほそぼそとおかしそうに微笑った。\n「まあ、おかしなお母さま、――おふたりともどうかなすったのね。」\n 娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかも訝しく眺めたことがなかった。かれらが互いに何かの変化がその表情にないかという問いを、娘が再び頭のなかで働かしたときに、思いがけない母親の眼を見た。それは父親に対って何かを咎めているようなけわしい色をしていた。――そして父親は父親でまだ見たこともない悲しげな眼色をしていたからである。娘はそういう父と母との間に、自分の心がひとりで脅やかされ縮むような気がした。そして何時もならそのどちらかの胸に飛びつくのであるが、きょうはどちらへも抱きつく気にはなれなかった。そういうことをしてはならない気も交っていたのである。――娘は生れてはじめて二人のそばを離れたところで、そしてうしろ向きになって泣き出した。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n「......ひと夜も逢わぬものならば、二た重の帯をなぜ解いた、それがゆかりの竜田山、顔の紅葉で知れたとや......」\n さびのあるというのだろう、しめやかにおちついた佳い声である。窓框に腰を掛けて、柱に頭をもたせて、うっとりと夜空を眺めていた伊兵衛は、思わず、\n「たいそうなものだな」\n と呟やいた。彼の足許へ身を寄せるようにして、色紙で貼交ぜの手筐のような物を作っていたさえは、\n「なにがでございます」\n と眼をあげた。そういう表情をするとふしぎにしおのある美しい眼だ。\n「あの唄さ、たいそうな声じゃないか」\n「ほんとうに佳いお声でございますわ、脇田さまでございますか」\n「そうだろう」\n 伊兵衛はしずかにうなずいた。\n「小さいじぶんから、なにをやっても人の上に出る男だったが、あんな俗曲にもそれが出るんだな、さすがの蜂谷が音をひそめているじゃないか」\n「お顔が見えるようでございますね」\n さえはそう云ってくくと笑った。\n「......それにしても今夜は皆さまずいぶん温和しくていらっしゃいますのね、蜂谷さまだけでなく村野さまも石岡さまもまるでしんとしていらっしゃるではございませんか」\n「脇田の帰国を祝う催しだから遠慮しているのだろう」\n 伊兵衛はそう云いながら、その宴会のありさまがそのまま鳥羽藩の近い将来を暗示するものかも知れないということを考えた。......脇田宗之助は、つい数日まえ江戸から来た。彼の父は宗左衛門といって、六年まえに死ぬまで鳥羽藩稲垣家の国家老であった。宗之助はその一人息子で、幼い頃からずばぬけた俊敏の才をもっていた。十六歳のとき藩主対馬守照央に従って江戸へゆき、専ら法制の勉学をやっていたが、こんど、二十五歳で国家老に就任するために帰国したのである。今宵はその帰国を迎えるために、旧友たち十人の者が集って祝宴を催した。みんな二十五六の青年たちだし身分も老職格の者ばかりで、そのうち五人は顧問官というべき年寄役か、やがて其役を襲うべき位置にある者だった。......樫村伊兵衛は筆頭年寄で、宗之助とは最も親しい旧友であり、この祝宴の主人役であったが、宗之助のために酒をしいられ、やや悪酔をしたかたちで少し息を入れに立って来たのだった。\n「なにか匂っている」\n 伊兵衛はふと中庭のほうへ振返った。\n「......なんの花だろう」\n「梅でございましょう」\n さえはそう云いながら立って来た。\n「......ああ、丁字でございますね」\n 窓へ寄って見ると、早春の暖かい夜気が面をなで、噎せるほど丁字の花の香が匂って来た。植込の茂み越しに、奥座敷の灯が明あかと見え、なにか賑やかに笑いあう声が聞える。この季節のならいで、薄雲のかかった空に十六夜のおぼろ月があった。\n「ごめんあそばせ」\n さえは自分の頭から櫛をぬき取ると、丁寧に紙で拭いてから、伊兵衛の鬢の毛をそっと撫でつけた。\n「......二十日のお祝いにはまたお座敷へおよばれにあがります、昨日わざわざ奥さまからお招きを頂きました」\n「二十日になにかあるのか」\n「まあ、お忘れでございますか」\n さえは可笑しそうに首を傾げた。\n「......貴方さまのお誕生日ではございませんか、去年もおよばれ申しましたわ、母といっしょに」\n そう云っていたとき、廊下の向うに遽ただしい跫音が起り、\n「そちらは家の者の部屋ですから」\n と、女中の制止する声にかぶせて、\n「どけどけ、向うから姿を見かけたのだ」\n という宗之助の高声が聞えた。さえは急いで櫛を自分の髪に差し、とり散らした物を片付けようとしたが、それより早く、廊下を踏み鳴らして宗之助がやって来た。......明けてある障子の前へ来て立った彼は、酔のために少し蒼みを帯びた端正な顔で、伊兵衛を見、さえを見た。上背のあるりっぱな体躯と、眉の濃い、一文字なりの唇つきの眼立つぬきんでた風貌である。伊兵衛からさえに移した彼の眼は、一瞬きらきらと烈しく光った。\n「ほう」\n と、彼は唇をつぼにし、無遠慮にさえを見詰めたまま歎賞の声をあげた。\n「......美しいな」\n「中座をして済まなかった」\n 伊兵衛はそう云いながら立っていった。\n「......なんとも堪らなかったものだから」\n「そんなことは構わないが、もういいのか」\n おちついたようだと聞いて宗之助は微笑したが、急に身をひらいて、\n「では庭へ出よう」\n と云った。伊兵衛は相手の眼を見た、宗之助は袴の紐を解き、くるくると裸になった。\n「久方ぶりで一揉みやろう」\n「どうするのだ」\n「相撲だよ」\n 宗之助は挑むような眼でこちらを見た。\n「酒では勝ったが力ではまだ負けるかも知れない、あの頃はどうしても勝てなかったからな、さあ来い」\n「酔っていてはけがをする、それはこんどに預かろうじゃないか」\n「おれは裸になっているんだ、恥をかかせるのか」\n\n二\n\n このとつぜんの挑戦は単純なものではない、伊兵衛の神経はそれを感じた。そして袴の紐へ手をかけるのを見て、さえが止めにはいろうとしたが、伊兵衛は、「止めるな」と眼で知らせ、手早く裸になって出ていった。\n 宗之助は色の白い、しかし逞しく肥えたみごとな体だし、伊兵衛も痩せ形ではあるが、筋肉の発達した浅黒い膚で、どちらも若さの満ち溢れた「ちから盛り」という感じである。......伊兵衛は相手を射ぬくように見て、\n「いい体だな」\n と呟やき、大きく跳んで庭へ下りた。......中庭のひとところが芝生になっている、二人はそこへいってがっしと組み合った、さえは縁側の柱へ凭り、息を詰めながら見ていた。勝負はながくはかからなかった、肉体と肉体の相い撲つ快よい音が二三度し、両者の位置がぐるりと変ったとき、宗之助は巧みに足を払って、伊兵衛を大きく投げ倒した。しかし投げ倒した刹那、なにを思ったか、いきなり相手の上に馬乗りになり、\n「怪しいぞ伊兵衛」\n と歯をくいしめたような声で云った。\n「わざと負けたな、本気ではあるまい」\n「ばかなことを云うな」\n「いや不審だ、いまの足は軽すぎた、きさまおれを盲目にする気か」\n「よせ脇田、人が見ているぞ」\n「云え、本気か嘘か」\n 宗之助は両手を伊兵衛の喉へかけた。\n「......刀にかけて返答しろ」\n「まいった、おれの負だよ」\n 宗之助は、\n「たしかだな」\n と叫んだが、それと同時に破顔しながら立った。つい一瞬まえまでの執拗な、昂ぶった表情は拭き去ったように消え、まるで人が変りでもしたようなおちつきと威厳をとり戻していた。......縁の柱に倚って、この有様を屏息しながら見ていたさえは、そのとき崩れるように其処へ膝をついてしまった。\n その夜の出来事を、家へ帰ってから、伊兵衛はいろいろな角度から考えてみた。宗之助は少年時代から負けず嫌いだった、頭脳的にも肉体的にも常に孤りぬきんでなくては承知しなかった。そして事実それだけの才分に恵まれていたが、伊兵衛だけにはそういう意識をもたず、いつも互いに鞭韃し合うという風で、――おれたちが家督したら鳥羽藩に活きた政治をおこなおうぞ、などと云いあいしたものであった。\n ――だが今度の彼は違う。伊兵衛は、あらゆる方面から考えてそう思った、酒のしい方も尋常ではなかったし、相撲のときの勝負に対するくどさも昔の彼には無かったものだ。――彼はこの伊兵衛を凌ごうとしている、とつぜん相撲を挑んだ動機はさえにあったかも知れない、さえと自分とが二人きりでいるのを見て、若い血がなにかせずにいられなくなったのかも知れない、しかしあんなに勝ち負けに対する拘わり方は他に理由がある、そしてその真の理由はわからないが、おれを凌ごうとしている点だけはたしかだ。繰返し考えた結果、伊兵衛の掴み得たものはそれだけでしかなかった。\n 翌日まだ早く、九時まえという時刻に宗之助が訪ねて来た。あがると先に母の部屋へはいり、活溌な声で暫らく話していたが、やがて、" }, { "role": "assistant", "content": "「ああ庭の梅がずいぶん大きくなりましたね」\n と、云いながら伊兵衛の居間へやって来た。\n「たのみがあるんだ」\n 彼は座につくとすぐそう云いだした。\n「......明日から御政治向きの記録類を調べたい、御納戸、金穀、作事、港、各奉行所の記録方へ資料を揃えるよう、五老職の名で通達して貰いたいんだ」\n「それは御墨付が無くてはできないだろう」\n「そんなことはない、五年寄役には随時に記簿検察の職権がある筈だ」\n「だがそれは事のあった場合に限る」\n「事はあるよ」\n 宗之助は笑いもせずにそう云った。\n「......国家老交替という大きな事が迫っている、理由はそれで充分だ、たのむ」\n「謀るだけは謀ってみよう」\n「いやいけない、是非とも必要なんだ、それも明日からということを断わっておく」\n 押付けるというのではない、自分の意志は必ず行なわれるという確信のある態度だった。そして伊兵衛が返辞をするのを待とうともせず、急に破顔しながら第二のたのみだと語を継いだ。\n「......昨夜の佳麗はあの料亭のむすめだというが、其許はよほど親しくしているのか」\n 話題がとつぜん変ったので伊兵衛は返答に困った。\n「そんなこともないが」\n「だって家族の部屋で、二人差向いになっているくらいじゃないか」\n「あの家へは小さい時からよく父に伴れられて食事をしにいった、それで普通よりは気安くしているというのだろうかな」\n「あの女を嫁に欲しいんだ」\n あっさりと宗之助は云った。\n「いいむすめだ、あのしっとりとした美しさは類がない、縹緻も良いがあの縹緻は心ざまの良さが裏付けになっている、おれはいきなり楽器を思った、弾き手の腕しだいでどんな微妙な音をも出す名器、そんな感じだ、なんとしてでも嫁に欲しいんだが、其許から話してみて呉れないか」\n\n三\n\n「しかしそれは、両方の身分がゆるさないだろう」\n「なにそういう点は自分で処理する、其許はただ相手へおれの意志を伝えて呉れればいいんだ」\n「信じ兼ねるなあ」\n 伊兵衛は首を振った。\n「......なにしろこっちは国家老になる体だし、向うは料亭のむすめだからな、少し違いすぎるよ」\n「ばかを云え、江戸では芸者を妻にする者だって珍しくはないんだ、もし本人に来る気持があれば正式に人を立てるから、頼むぞ」\n これで要談は済んだと云って、宗之助はさっさと立って帰っていった。......伊兵衛はそのあとで香をたき、もう、さかりを過ぎた庭の梅を見ながら、登城の刻の来るまでじっと考えこんでいた。昨夜の宴の酒から始まって、なにか決定的なものが動きだしている、それは単に「伊兵衛を凌ごう」とする程度のものではない、昨夜に続いて各奉行所の記簿検察、さえに対する求婚、こうして矢継ぎ早に、先手先手とのしかかってくる宗之助の態度には、たしかになにかを決定的にしようとする意志がある。\n ――宗之助と自分との、かつて最も親しかった関係が、今や新しい方向へ転換しようとしている、この転換がどんな意味をもつかまだわからない、しかし見はぐらない要心は欠かせないぞ。\n 伊兵衛は肚をきめるという感じでそう思い、やがて登城するために立った。......彼は肚をきめたのである、その日すぐ年寄役四人を集めて相談し、現国老である大槻又左衛門の加判を得て、各奉行所へ「記簿検閲」の旨を通告した。下城するとき脇田家へ寄ってその由を伝えると、宗之助は、\n「では明日、金穀方から始めよう」\n と云い、帰ろうとする伊兵衛の背中へ、\n「桃園のことも忘れないで呉れ」\n と、投げつけるように云った。\n 伊兵衛は振返って相手の眼を見、しずかにうなずいて門を出た。\n その月二十日は伊兵衛の誕生日で、毎年ごく親しい者ばかり招いて、ささやかに祝うのが例になっている。その日も数人の客を招いて昼䬸を䬸したが、それが終ってから、母親のほうの席へ呼ばれて来ていたさえと会った。父が亡くなってから、いちど伊兵衛が母を桃園へ食事をしに案内した。それ以来ときどき母は、親しい夫人たちと食事にゆき、桃園の家族とも口をきくようになった。\n「さえというむすめはよいこですね」\n そんなことを云い云いしたが、去年あたりからは時おり自宅へ呼んだりするようにさえなったのである。\n「ここでいいでしょう」\n 伊兵衛がさえを呼びにゆくと、母はちょっと気遣わしそうな眼つきでそう云った。\n「......話ならここでなさいな」\n「いや少しこみいった事ですから」\n 伊兵衛はそう答えてさえを自分の居間へ伴れていった。......着ている物も化粧もかくべつ常と変ってはいないのだが、明るく冴え冴えとした顔つきや、楽しそうな起ち居のようすが、毎とは際立って美しくみえる、伊兵衛はちょっと眩しそうな表情で、暫らくさえの姿を見まもっていた。\n「どうあそばしましたの、そんなにしげしげとごらんなすって」\n「毎もとは人違いがしているようだから」\n「珍らしいことを仰しゃいますこと」\n さえは頭を傾げながらじっと伊兵衛を見た。\n「......そう申せば貴方さまも常とはごようすが違うようにみえますわ」\n「そうかも知れない、おれにはその理由があるんだから、そしてぶっつけに云ってしまうが、さえを嫁に欲しいという者があって、おれからさえに意向を訊いて呉れと頼まれたんだ」\n「まあ、大変でございますこと」\n「笑いごとではない、本当の話なんだ」\n「ですけれどそんな」\n と、さえは半信半疑に伊兵衛の眼を見つづけた。\n「......そんなことがございますかしら、他処のむすめを欲しいからといって、親をも通さず直に気持を訊くなどということが」\n「習慣というものはその人間の考え方と事情に依ってずいぶん変り兼ねないものだ、うちあけて云えば相手は脇田宗之助だよ」\n「脇田さま、江戸からお帰りになったあの」\n「去年あたりからだ」\n 伊兵衛はさえの追求するような眼から外向きながら、ふと述懐するような調子で云った。\n「......おれは時どきさえの結婚する場合のことを考えた、おれのなかには初めて父に伴れられて食事をしにいった頃のさえの姿がそのまま成長しているので、結婚ということに結びつけて考えることはどうにもしっくりしない、なんだかおかしいんだ、しかし年齢がその時期に来ていることはたしかだ、いつかは、それもそう遠くない将来に、さえが眉をおとし歯を染める時が来る、......そう思うたびに考えたことは、どうか仕合せな結婚であるように、相手にもゆくすえにも恵まれた仕合せな縁組であるようにということだった」\n\n四\n\n 伊兵衛の調子が思いがけないほどしみじみとしたものだったので、さえも我知らず眼を伏せ肩をすぼめるようにした。\n「その意味から云うと」\n と、伊兵衛はしずかに続けた。\n「......脇田は才能もぬきんでているし、風格もあのとおりだし、身分も家柄も申分のない男だ、難を云えばあまり条件がさえと違いすぎる点だが、これも脇田が自分で手順をつけるという、彼のことだからこれはもちろん信じてもよいだろう、......おれから云えることはこれだけだが、さえはどう思うかね」\n「まるでご自分のことのように熱心に仰しゃいますのね」\n さえは顫えるような微笑をうかべながら眼をあげた。\n「......他の方でしたら伺うのもいやですけれど、頼三郎さまのお言葉ですから考えてみます」\n とつぜん幼な名を呼ばれて、伊兵衛はびっくりしたように振向いた。さえは頬のあたりを上気させ、かつて見たことのない、底に光を湛えたような眼でじっとこちらを見まもっていた。それは十八の乙女の情熱を表白するような、眼つきだった。伊兵衛は眼叩きをしながらその視線を避け、\n「脇田はだいぶ急いでいるようだから、なるべく返辞は早いほうがいいな」\n と云った。\n 数日して江戸から三人の青年が帰藩した。又木内膳、戸田大学、津村条太郎といい、宗之助が国老就任の場合その帷幄に入る者らしく、帰るとすぐ脇田家に詰めて出入りとも宗之助から離れず、城中での記簿検閲にもこの三人が補助の役をするようになった。......彼らの調査はしばしば越権にわたるほど思い切ったものだったが、国家老大槻又左衛門は温厚一方の人物だし、国老交替の期も迫っているので、あえて違法を鳴らす者もなく、寧ろあっけにとられて眺めているという感じだった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 物価は、社会の動きを、詳細に反映した。\n 彼等の動揺と、街の状態は物価によって、明らかに物語られた。十元に対して、金票十二円三十銭の相場を持続していた交通銀行と、中国銀行の大洋紙幣が、がた落ちに落ちた。八円から、七円、五円になり、ついには、外国人は(日本人も含めて)支那紙幣を受取らなくなってしまった。張宗昌系の山東省銀行はつぶれた。拳銃、金、銀、金票、食料品、馬車、自動車賃は、どんどん昇った。一挺の拳銃を八百五十八円で売買したものさえある。高価な椅子や卓や鏡や、絹織物が、誰れからも、一顧も与えられなくなってしまった。\n 同時に、社会の動揺は、無数の労働者達の行動の上にも反映した。工場労働者も――男工も、女工も、――街頭の苦力も、三四万の乞食も、監督の鞭とピストルに恐れなくなった。銃と剣を持った巡警は、案山子だ。\n 工場主は、(どの工場でも)僅かに賃銀不払いの戦術を持続することによって、工人達をつなぎとめていた。それが、やっとだった。工人達は怠業状態に這入った。\n 便衣隊と前後して、共産党員が市内にもぐりこんだ。――という風説がやかましくなった。工人に武器を配附して暴動を企てゝいるといううわさが立った。\n 工場主が勝手にきめた規則も、命令も、テンデ問題にされなかった。\n 工人達には、こういう時こそ、彼等の偉力を発揮するのに、好都合な条件がひとりでに備わってくる。そう感じられた。\n マッチ工場の工人達は、もう怺えられるだけ怺えた。辛抱が出来る範囲以上に辛抱した。\n ある夕方、五人の代表者があげられた。給料の即時、全額支払を要求した。\n 王洪吉もその代表者となった。頭の下げっぷりの悪い、ひねくれた于立嶺も代表者となった。王はお産をした妻からも、老母からも、その後、便りがなかった。\n 便りがないことは、なおさら彼を不安にした。\n 工人達は長いこと、馬鹿にせられ踏みつけられた。\n 幾人か、幾十人かが最も猛烈な黄燐の毒を受けて、下顎を腐らしてしまった。\n 七ツか八ツの幼年工は一年たらずのうちに軟らかい肉体を腐らしてしまった。\n そして、給料だけで、おっぽり出された。\n 十元か八元で、売買人から買い取られた子供は、給料さえ取れなかった。\n 彼等は働いた。\n 働いて、親をも妻をもかつえさせなければならなかった。\n 彼等は、去勢された牡牛のように、鞭を恐れた。\n だが、いつまでも鞭を恐れることは、永久に奴隷となることだ。\n 親の家を恋しがっていた少年工は、一文の給料も取らないまゝ、ある夜、暗に乗じて逃走した。永久に買い取られてしまった子供は、逃げて行く家も、何もなかった。寄宿舎の方で涙ぐんで淋しげに黙っていた。\n 王洪吉ら五人は、夕方、おずおずと、事務所へ這入った。\n 給料はどうでもこうでも取らなけゃならなかった。それは当然だ!\n 会計係の岩井と、社員の小山は「何だい!」と頭から拒絶した。彼等は、はげしい喰ってかゝりあいを演じた。支配人は、工人が給料に未練を残して、逃亡もしない。受取るまでは、諂うように仕事に精を出す。――平生の見方をかえなかった。\n 支那人は、命よりも、金の方が大事なんだ。金をくれさえすりゃ、頸でもやるんだ。彼の考え方はこれだった。\n 五人の代表者は、引きあげた。二棟の寄宿舎は、険悪なけしきに満ちた。そこではまた、会議が始められた。\n 工人は、不逞なむほんをたくらみ(小山の言葉をそのまま用うれば)にかゝった。宿舎からは、工人の金属的な、激昂した声が、やかましく事務所の方へもれて行った。\n「何を、がい〳〵騒いどるんじゃ?」\n 様子をさぐりにやった社宅のボーイが戻ると、小山は、ボーイまでが癪に障ってたまらないものゝように、呶鳴った。\n「賃銀、呉れないなら、呉れない、いゝと云います。」八年間、日本人に使われて、日本語が喋れる劉は、自分が悪いことをしたようにおど〳〵した。\n「それで、どうしゅるだい?」\n「それで、呉れない。――呉れない、工人、考えあると云います。」工人達は暴力によって工場を占領し、管理しようと計画していた。製品を売って、月給は、その中から取る。日本人は門から叩き出してしまう。支那人のくせに日本人をかばう巡警は叩き殺して呉れる!\n「馬鹿をぬかしゅな!」\n 小山は呶鳴りつけた。劉は、びく〳〵した。\n「なまけて、何もしゅくさらんとて、工場から飯を食わしゅてやっとるんだ。――嬶や、親が、かつえるなんて、あいつら、生大根でも、人参の尻ッポでもかじっとりゃいいんじゃないか! 乞食のような生活をしゅとるくせに、威張りやがって!」\n 賃銀を渡せば工人は逃げる心配があった。そして、あとに、熟練工の代りはない。\n 手下をなだめるためには、喋れるだけの言葉を喋りつくした把頭の李蘭圃は引きあげて来た。\n「これゃ、どうしても駄目です。どうしたって手のつけようがありません。」と李は云った。「半分だけでも、払うてやっていたゞくんですな。そうでもしないと、収拾のしようがありません。奴等も、この頃は、時節柄現金でなけりゃ、何一つ買うことも出来ねえそうですから。」\n「畜生! 貴様も、奴等と、ぐるになっとるんだろう。」\n「小山さん、誤解せられちゃ困ります。」李はいそいで遮った。「誤解せられちゃ困ります!」\n「しやがれ! しやがれ!」と、小山は呶鳴った。\n「生意気なことをぬかしゅと承知がならんぞ! しやがれ!」\n 彼は壁にかけられた拳銃を頼もしげにかえり見た。\n 支配人は、どんなことになっても仕様がない、と決心した。いざとなれば武器に頼るばかりだ。社宅の女房や子供達は晩の十一時すぎに、あわてゝ、自動車でKS倶楽部へぬけ出した。\n 工人達は、本能的に団結した。暴動に移るけはいは多分に加わった。\n 街は、南軍の侵入と、掠奪、破壊ばかりでない。北軍がこゝを棄てゝ退却する行きがけの駄賃に、どんなひどいことをやるかわからない。\n 平生から、掠奪、強姦を仕事のようにやっていた彼等である。今度こそ、あとは、シリ喰え観音だ。思う存分なことをやらかして行くだろう。\n 外国人は、たまに自分の国の人間の顔を見ると、それだけに心強いような気持になった。\n 彼等は、国と言葉を同じゅうしている関係から、この騒乱の中にあって、どんな困難にむかっても、どんな襲撃にむかっても、自分達は力を合して、堪えて行かなければならない。彼等は同胞というセンティメンタルな封建的な感情に誘惑された。「あゝ、早く、あの、カーキ色の軍服を着た兵隊さんが来て呉れるといゝんだがなア!」とひとしくそれを希った。彼等は単純に、軍隊が何のために、又、誰のために、やって来るかは考えなかった。軍隊がやって来さえすれば、自分達を窮境から救い出して呉れると思っていた。\n 下旬になった。\n 軍隊は到着しだした。\n 汗と革具の匂いをプンとさしていた。一人だけ離れ島に取り残されたように心細くなっていた居留民は、なつかしさをかくすことが出来なかった。なによりも、内地から来たての、訛のある日本語がなつかしかった。\n 二十六日、未明に、ある一ツの聯隊は、駅に着いた。" }, { "role": "assistant", "content": " 深い霧がかゝっていた。\n 濃厚な朱や青に塗りこくられた支那家屋、ほこりをかむったさま〴〵の、ずらりと並んだ露天店、トンキョウな声で叫んでいる支那人、それらのものは、闇と霧にさえぎられて見分けられなかった。悩ましげに春を刺戟する、アカシヤの花が霧を通して、そこらの空気に、くん〳〵と匂っている。\n 兵士達は、駅前の広場で叉銃して背嚢をおろした。営舎がきめられるのを待った。彼等は、既に、内地にいる時よりも、言葉も、行動も、気性自身が、荒ッぽく殺気立っていた。\n「宇吉ツぁん。」\n 無数の小さい日の丸の旗を持って、出迎えている、人々の中から一人の女が、ふいに一等卒の柿本の前にとび出した。中年の歯を黒く染めた女だった。彼女は、柿本の腰にすがりついて、わッと泣き出した。......「宇吉ツぁん! よう来てくれたのう、宇吉ツぁん!......」\n「中ン条のおばさんじゃないか?」ちょっと一等卒は上官をはゞかって当惑げな顔をした。が、やがて云った。\n「お、お、お......」その女は、嬉しさと、感激がこみ上げてくるものゝように声をあげて泣いた。「......お前さんが来て呉れたんか。......お、お、お......これで私ッしらも助かろうわい。お、お、お......」\n この感情は、露わに表現しないにしろ、迎えに出揃った居留民達のどの胸にも、浸潤しているところのものだった。\n 兵士達が焚き火を始めた。その焔が、ぱッと燃え上った。柿本は、自分の膝に崩折れかゝったこの婦人の蒼ざめて、憔悴した、骨ばった顔を見た。やはり、同村の、見覚えのある、顔の輪郭だけは残っていた。このおばさんがどれだけ恐怖と、心労に、やつれきっているか。彼は昔の、村に於ける顔を思い起しながら考えた。この婦人は、彼からは、従姉の又、又の従姉にあたった。年は、おばさんと呼んでいゝだけ違っていた。村では、殆んど親戚のうちに這入らないような親戚だ。しかし、こゝでは、彼も、このおばさんに、近々しい肉親に対するようなケチくさい感情が湧いて来た。\n 婦人の方では、彼を、もっと、それ以上に感じていた。\n「どうじゃろう、私等は別条ないんだろうか?」と、女はきいた。\n「大丈夫だ。俺等の師団が、一箇師団やって来るんだ。これこんなに弾薬も持たされとるし、(彼はずっしりした弾薬盒をゆすぶって見せた。)剣は、切れるように、刃がついとんだ。」\n「お、お、お......」\n 婦人はまた声をあげて、嬉しさとなつかしさをかくそうとせずに泣いた。\n 兵士達には部署がきめられた。部隊は別れ別れになった。一部は、蛋粉工場へ向けられた。一部は福隆火柴公司へ向けられた。一部は正金銀行へ向けられた。\n 銃をかつぎ、列伍を組んで、彼等はそれぞれ部隊長に指揮されながら、自分の部署へむかって行進した。\n 多くの居留民達は、自分達の家とは反対の方向へ列をなして去って行く軍隊を、なつかしげに、いつまでも立って見送っていた。子供達は嬉しげに旗を振りながら、あとにつゞいた。\n だが、おとなの居留民達は、出兵請求の決議にかけずりまわり、一ツ一ツ印を集め、懇願書を出して、折角やってきて貰ったなつかしい兵士が、自分達のちっぽけな家とはかけ離れた、工場や銀行の守備に赴くのを、はたして、ペテンにひっかゝったように、憤ろしく、意外に感じなかっただろうか?\n\n一六\n\n 三時間の後、工場は、堅固な土嚢塁と、鉄条網と、拒馬によって、武装されてしまった。\n 機関銃が据えつけられた。カーキ服が番をしている。\n 黄色の軽はく土は、ポカ〳〵と掘り起された。\n 大陸のかくしゃくたる太陽は、市街をも、人間をも、工場をも、すべてを高くから一目でじり〳〵睨みつけていた。細い、土ほこりが立つ。火事場の暑さだ。\n 上衣を取った兵士の襦袢は、油汗が背に地図を画いた。土ほこりはその上に黄黒くたまった。じゃり〳〵する。\n「のろくさと、営所に居るように油を取ってはいけない! これは正真正銘の戦時だぞ。」重藤中尉が六角になった眼をじろじろさしてまわった。「おい、そこで腰骨をのばして居るんは誰だッ!」\n 一方で掘りかえされる黄土は、他の兵士達の手によって、麻袋に、つめられる。\n 兵士は顔を洗うひまもなかった。頑丈な、蟇のような靴をぬいで、むせる足を空気にあてるひまもなかった。部署につくと同時に作業は初まった。\n 黄土にふくらんだ、麻袋は、工場の前へ、はこばれる。一ツ一ツ積み重ねられる。見るまに土嚢塁が出来上ってしまった。五分間の休憩もなかった。\n 別の一隊は、どこからか徴発して来た丸太を打ちこんで、土嚢塁の外側へ、四重に鉄条網を張りめぐらした。\n 街路には、もっと太い丸太を組み合して、拒馬を作った。鉄条網は、工場の周囲から、遠くの街路に添い、街路を横切ってのびて行く、S銀行には、丸い、瓦斯タンクのような歩哨の土嚢塁が築かれた。\n 製粉工場も、福隆火柴公司も、土嚢塁と鉄条網と、武装した兵士によって護衛された。\n 支配人の内川は、中隊長や、中隊附将校にお上手を使った。営々として作業をつゞける兵士たちの方にもやって来た。作業の邪魔をしながら、軍隊でなければならんと思っている、その意思を兵士達に伝えようと骨折った。\n 次は、周囲の範囲を拡大した区域の守備工事だ。土嚢は作るそばから、塀のように、又、別の箇所へ積み重ねられる。いくら作っても足りない。警戒巡視に出る人員がきめられる。歩哨がきめられる。当番卒がきめられる。炊事当番がきめられる。不寝番がきめられる。\n「おやッ、俺の上衣を知らねえか?」\n 柿本の組で作業していた上川が、猫のようにアカシヤの叉にかけられた他人の軍衣をひっくりかえして歩き出した。巡邏隊の一人として呼ばれた男だ。黄土のほこりに襦袢が、カーキ色に変ってしまっていた。アカシヤの枝から、アカシヤの枝を、汚れた汗と土の顔を上にむけて、やけくそにたずねだした。無い。兵士が揃うのを待っている引率の軍曹はさん〴〵に毒づいた。\n 上川は、一度しらべた他人の被服記号をもう一度、汚れた手でひねくった。\n「誰れか俺れのやつを間違って着とるんじゃないんか。」ますますいらいらした。負け惜みを云う。\n「どこにぬいだったんだい? ぼんやりすな。」\n「どこちゅうことがあるかい。ここだい。」\n「ボヤッとしとるからだ。今に生命までがかッぱらわれてしまうぞ。戦地にゃ物に代りはねえんだぞ。」\n つるはしを振るっている連中は、腰が痛くてたまらない。土は深くなれば深くなる程、掘るのは困難だった。中尉や、中隊長や、特曹が作業を見ッぱっている。麻袋につめる連中があとから追ッかける。\n「どうしたんですか。何か紛失したんですか?」支配人が、騒ぎの方へ、ちょかちょかと馳せてきた。\n「上衣が見ッからねえんですよ。多分、誰かゞ間違って着たんだ。俺の名前が書いてあるのに。」強て作ったような、意気地のない笑いを浮べた。中隊長は聞いて、聞かぬらしく苦々していた。\n「チャンコロめ、かっぱらって行きやがったんじゃないんですかな。」と内川は云った。「さっき、このあたりで、ウロウロしていたじゃありませんか?」\n なるほどと、はッとした。\n「ぼんやりすなよ。チャンコロに、来る早々から、軍衣をかッぱらわれたりして......そのざまはなんだ!」\n「なか〳〵あいつらは、油断がならんですからな。」支配人は云ってきかすように愉快げに笑った。\n 彼等は、到着した第一日から、支那人を殴る味を覚えてしまった。\n 貧民窟から、二人の支那人が引っぱって来られると、上川は、それによって、焦慮と、憤怒と、冷かされた鬱憤を慰めるものゝように、拳を振りあげて支那人に躍りかゝった。あとから、ほかの兵士達も、つゞいて二人の乞食の上に、なだれかゝった。殴ったり、踏んだり、蹴ったり、日本語で毒づいたり。しかし、いくら、どんなことをやったって、上川の軍衣は発見されなかった。\n ここでも、早速、内地における軍隊生活と、同じ軍隊の生活は初められた。彼等の飯は彼等が炊いた。部屋の掃除も、便所の掃除も、被服の手入れも、歩哨勤務も、警戒勤務も、すべて彼等がやった。初年兵と二年兵の区別は、いくらかすくなくなった。が、やはり存在した。兵卒と下士の区別、兵卒と将校の区別は、勿論厳として存在した。\n「寝ろ、寝ろ! 寝るが勝ちだ。」\n マッチ工場の寄宿舎から、工人を他の一棟へ追いやって、そこの高粱稈のアンペラに毛布を拡げ、背嚢か、携帯天幕の巻いたやつを枕にして、横たわった。実に、長いこと、彼等は、眠るということをせず、いろ〳〵さま〴〵な作業を、記憶しきれない程やったもんだ。一週間も、もっと、それ以上も睡眠と忘却の時間を省いて労働と変転とを継続した気がした。十日間、いや、二十日間。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "若宮 へえ、命令するかね? 命令は結構だが、理由は何だね? どう言うわけで私がここを立ち退かなきゃならんのかね?\n浮山 あんた自身、胸に手を当てて考えて見りゃ、わかる筈だ!\n若宮 さあて、わからんなあ。ここの家の相続権の事かね? ヘ、そんならチャンと婆ちゃんが死ねば柳子さんに来る事になっているし、一部分が舟木さんの権利になることもハッキリしている。そうさ、その柳子さんの法定後見人はわしだ。しかしそいつは前から決っていた事だ。今夜急にどうこうと言う事じゃない。どう言うんだね?\n浮山 どうもこうもない。だまって出て行ってくれりゃいいんだ。あんたのような毒虫をいつまでも此処に置いとくとロクな事はない。\n若宮 毒虫と? ははん、さては君、舟木にたきつけられたね? わかった! しかし気を附けた方がいいぜ。舟木って奴あ、腹の底の知れない奴だ。君なんぞにゃ、うまい事言ってるだろうさ。どうせ君は、広島の婆さんの遠縁と言う事で管理こそ委されてはいても、いざ婆さんがくたばれば、柳子はもちろんの事、死んだ大旦那の縁者の舟木よりも発言権は薄くなるんだからな。舟木にとって目ざす敵は柳子とその後見してる私だ。私さえ追い出せば柳子はたかが女だてんで、ヘヘ、君あ舟木から抱き込まれたね?\n浮山 舟木君の事なんかどうでもいいんだ。柳子さんは、さっき、書類一切と実印まであんたに預けたそうだな? 柳子が言ったから否やは言わせない。\n若宮 ははん、そうか? 預かりましたよ。悪いかね? 金を三十万ばかり今夜中に拵えてくれと言うんだ。そいつは困ると言うと、そのカタに此処の家屋敷の公式の証書類一切と実印をあずける。後はなりゆきで、どう処理してくれてもよいと言う。ヘヘ、つまり事と次第でわしに権利一切を譲るって事だなあ。\n浮山 金は、それで、渡したのか?\n若宮 渡そうかと思って、掻き集めて見ているとこさ、こうして。三十万にゃ、すこし足りない。\n浮山 柳子はその金でどうする気だ?\n若宮 そいつは、わしの知った事じゃない。なんでも、此処を飛び出して、どっかへ逃げる気らしいね。\n浮山 え、逃げる?\n若宮 ヘヘ、あんたもボヤボヤしていると、とんだトンビに油あげさらわれる。気をつけた方がいいね。ヘヘ、ああ出て行きますとも。誰がお前さん、こんな化物屋敷にいつまでも居たい事があるもんか。出て行くよ。しかしねえ、あたしが此処から出て行くと、あと、どんな事になるか御承知でしょうね? ヘヘ......(ヘラヘラ笑っているのが、なんの気もなく廊下の方を見て、ギョッとして、口を開いたまま、言葉が出なくなる。あまりの変化に浮山もびっくりして、廊下の方を見ると、そこに須永が立っている。......間。凍りついたような一瞬。......須永は、遠慮っぽい態度で若宮と浮山を見ている)\n若宮 わあッ! (と、いきなり飛びあがるや、腰を抜かしたように、両手をうしろに突いて、床の間の方へ、ワクワクとにじりさがりながら)......た、助けてくれ! 助けてくれ! こ、こ殺さないでくれッ!\n須永 いえ、僕は、あの......(言いながら、無意識にあわてて、不当に自分を怖れる若宮の狼狽をとめにでも来るように入って来る)\n浮山 須永君!\n須永 どうか、あの、許して下さい。僕は、ただ――\n若宮 助けてくれッ! 助けてくれッ! 殺さないで、殺さないで下さいッ! (さがって行った床の間の袋戸に手を突っこんで、もがいている)\n須永 ......(その若宮の奇怪な姿を見ているうちに、微笑する。その微笑の中に、はじめて、何か残忍な憎悪の影が差す)......殺す?\n若宮 殺さないで下さいッ! 殺さないで――(叫んでいるうちに、手にふれた袋戸の中の物を引き出して、スラリと抜いて突き出している。道中差しの日本刀。黒いサヤから引き出された刀身がテラリと光ってブルブルふるえている)\n須永 ......あぶないですよ、あの――\n若宮 あぶ、あぶ、あぶ......(歯の根が合わない。刀を須永に向って突き出したまま、眼は裂けんばかりに見開いている)\n浮山 若宮さん! 須永君!\n須永 ......(フッと我れに返って。浮山を見て)あの、モモコさんどこでしょう?\n浮山 モモコ? モモコは、さあ、......、塔の上じゃないかな?\n須永 そうですか。......(まだ何か言いたそうにするが、言わず、チラリと若宮に目をやってから、スタスタと部屋を出て行く)\n\n(間。......そのままジッとしている若宮と浮山。若宮は胸が苦しいと見え、左手で胸をおさえて、刀は握ったまま石のようになっていたのが、力を出し切ったと見えて、ゴロンと横に倒れる)\n\n浮山 ......若宮さん、どうした?\n若宮 なあに。......ちきしょう、気ちがいめ! だから、一刻も早く警察に引き渡しゃいいんだ。ふう! ふう!\n浮山 ......(それを見ているうちに、はじめてフテブテしくニヤリとして)あんたも、しかし、いいかげんにするがいいなあ。変な、あんた、慾をかいて、なにしていると、間も無くあんた死にますよ。\n若宮 ふう! ヘッ! 嫌がらせかね? ヘヘ、(と息も絶え絶えだが、口はへらない)死ぬのは広島の婆さんで、わしじゃないよ。わしは、まだ百まで生きてるつもりだ。ヘ、婆さんが死んだとなると、この家屋敷あ、柳子とわしの手に転げ込んで、君なんざ、往来なかへ、おっぽり出されるからね。気がもめるわけさ!\n浮山 知らないんだなあ。あんたはね、自分では腎臓が悪いと思ってるが、その腎臓よりも、しかしホントは心臓だと言うじゃないですか。ヘヘ、舟木さんが、この前診察した後で言っていた、心筋変性症とかのひどいので、梅毒から来た心臓の筋肉がどうにかなっちゃってるから、今度、発作が来れば、明日にでもゴットリだそうじゃないかね。\n若宮 ヘ、なあにを言う! 香月先生なんざ、そんな事あ絶対に無いと言ってるぞ。博士だよ香月先生は。博士が、腎臓がチョット悪いだけで心臓のシンも言やあしない。その証拠に薬一服くれやしないんだ。ヘ、何を!\n浮山 薬をのんでも無駄だから、くれないんだよ。舟木さんがそう言ってますがね。\n若宮 その手を食うかい! とんだ道具はずれを叩いといて、その隙に場をさらおうと言う量見だろうが、ヘッ、三十年から株できたえた若宮を見そこなってもらうめえ!\n浮山 その証拠に、たったあれだけ動いただけで、そうやって伸びちまっているじゃないかね。胸が苦しいんだろう? 悪い事は言わない、柳子の書類や実印は柳子に返してだな、ここを出て、どっかアパートにでも行ってくれる事だなあ。なんなら、私がアパートぐらい捜してやってもよい。あんたにゃ、房代と言う立派な娘さんも居るしさ。フフ、立派......とまあ、パンパンだって、これで、高級になれば今どきでは立派なもんだからね。娘を稼がせて、あんたあ左うちわじゃないかね。\n若宮 大きなお世帯だ! この――(と、やっと起きあがって)そいで、浮山君、君はどうしようと言うんだ?\n浮山 わたしは柳子を女房にして、ここで暮す。\n若宮 ヘ! お前さんが柳子を女房に、どうして出来るね? 笑わしちゃいけません。知らねえと思っているのかね?\n浮山 なにい! (立ちあがる。真青に怒っている)\n若宮 ヘッヘヘ、ヘッヘ! なあんだ、来るのか? 柳子から、わしあ、なんでもかんでも聞いているんだ! ヘヘ、君がコーガン炎の手術の手ちがいで、そん時以来、男じゃなくなっている事まで知っていますよ。\n浮山 ちきしょうッ! (若宮の方へ突進して行く)\n若宮 (フラフラと立ちあがり、刀を振りまわす)来て見ろ、腎虚め!\n浮山 野郎! (と、ポケットから掴み出した。センテイ用のスプリング・ナイフの、スプリングをパンと押して、ギラリとした刄を出す)\n" }, { "role": "assistant", "content": "(雙方で刄物を構えて立ちはだかる。......)\n\nモモ 叔父さん。......(いつの間にか、廊下の所に来て立って、細い首をさしのべるようにして、室内の様子をうかがっている)\n\n(浮山も若宮も睨み合ったまま、それに答え得ないでいる)\n\nモモ どうしたの、叔父さん?......\n\n 18 食堂\n\n\n(椅子にかけた私に向って織子が懸命に、ほとんど祈らんばかりに訴えている)\n\n織子 お願いです! あなたから、おっしゃって下さい。あなたから言われれば舟木は聞くかもしれません。いえ、聞かなくても、自分のしようとしている事を多少は控えるかもしれないのです。私は恐ろしくてもうジッとしていられないのです。\n私 すると......しかし、あなたはこれまでズーッと舟木さんがそう言うつもりでいるらしいと思っていられたわけなのに、それでも今まで黙っていられたのに、今夜急に、そのジッとしてはいられない――で僕に言われると言うのは、どうして――?\n織子 どうしてだか、私にもわかりませんの。不意に我慢が出来なくなったんです......あの須永さんて方を見たせいかも知れません。\n私 須永を? だって、あれは、ただ――\n織子 あの方を見ていると、なにか、地獄へひきずりこまれるような気がします。......いえ、反対に、あの、地獄の中へ降りて来た天使を見ているような気もします。\n私 それは、だけど、あなたはクリスチャンだから、そんな風に思われるかも知れませんが、あれは、つまりが犯罪者で――\n織子 いえ、それだけではありません。舟木もそうなんです。舟木は、どういうんですか、さっきからしきりと薬品棚の劇毒剤の整理をはじめています。今まで夜中にあんな事したことは無いのです。......恐ろしいのです私。\n私 ......ふむ。\n織子 ですから私、さっき、もうこんな家など、どうでもいいから打っちゃっといて、明日からでも、どっか引越してしまいましょうと言いますと、舟木は何も言わないで私を睨みつけたまま、手を休めようとはしません。このままで居ると、今夜何がはじまるか、わからないような気がします。\n私 しかし私には、知り合ってからまだ日は浅いが、舟木君がそんな事を考えている人だとは思えません。\n織子 私も永いこと疑いながら、そうは思いきれませんでした。しかし近頃では、そうとしか思えなくなったのです。それに舟木には舟木としての信念、と言いますか、医者としての、舟木の側から言わせると正しい考えから出発している事らしいのです。この家屋敷が自分の自由になったら、此処に大きな新式のサナトリアムを建てると言うのです。そして貧乏な人達を相手に実費診療の事業を始めると言うのです。大学の助教授をよした時から舟木の持っている理想なのです。つまりあの人の夢です。実は、その舟木の夢の美しさに引かれて、私は、あの人と結婚したようなものです。......そいで、舟木は、その話を此処の伯父さん――つまり、亡くなった此の家の御主人――その人の、またいとこだかの子供が舟木ですから、ホントの続きがらは、どう言えばいいんでしょうか、とにかくほんの少しばかり血のつながりがあります――伯父さんに話したらしいのです。その伯父さん言うのが又、えらい役人でいながら、どこか神がかりみたいな、理想肌の方だったそうで、舟木のそう言う話にひどく共鳴して、むしろ焚きつけたらしいのです。いよいよサナトリアムを始める時には、此の邸宅全部を提供すると言ったらしいのです。その事を書いた伯父さんからの手紙も舟木持っています。舟木には、それだけの理由があるのです。舟木はそして恐ろしい程意志の強い人間です。自分の夢、自分の理想を実現するためには、どんな事でもやりかねないのです。しかも自分のやろうとする事は、社会的に絶対に正しいと思いこんでいます。その正しい事を妨げる者は、みんな悪い。そうでなくても、広島で寝ている伯母さんや、柳子さんや若宮さんや浮山さんなど、世の中にとって、まるで有害無益の人たちだと言うのです。虫けら同然だと言うのです。犯罪にさえならなければ、みんな殺してしまっても差しつかえないんだと言ってた事があります。......自分の夢を実現するためには、そこまで思いこんでしまう人です。そういう点、ああして弟の省三さんとは始終議論して真反対のようですけど、それは現われ方が違うだけで、省三さんはああして政治的なことで、まるで気ちがいのように夢中になっている、舟木はそのサナトリアムの夢にとりつかれている――やっぱり兄弟なんです。\n私 それは、しかし――夢は誰にも有ることで、そのために人を殺しでもしたいと思うことは有っても、実際に於て殺しはしないのですから――\n織子 それがホントに殺すんじゃないかしらんと、今夜チラッと、そんな気がしたんです、舟木を見ていましたら。いえ、須永さんを見ていたら、と言った方がいいかしら。とにかく、そんな気が私、したんです。\n私 誰をです? 誰を殺す――?\n織子 誰かわかりません。今夜の舟木の眼を見て下さい。須永さんは、やさしい眼をなすっていますのに、舟木は恐ろしい眼をしています。\n私 ......それは、しかし、あなたの敏感な、クリスチャンらしい一種の――幻想というか、いや、今夜のここの空気がいけない。須永が、来たのが、いけない。なんとかしますよ直ぐ。――とにかく、そんな事におびやかされたあなたの神経、つまり一時的なヒステリイが描き出した幻想ですよ。舟木君のような冷静な科学者が、そんな――\n織子 いえ、まるで冷静に落ちついて、どんな事でも出来る人なんですの、舟木は。しなければならないとなったら、落ちつきはらって、私たち全部でも、夕飯の中にストリキニーネを入れて毒殺してしまえる人です。\n私 僕は人格的に言っても舟木君がそんな人だとは信じられません。仮りにもそんな人が、ロクにお礼もあげない、あげられない事のわかっている僕んとこの、死んだ家内の治療に、あんなにけんしん的に、あんな遠い所へ通って来てくれる筈がありません。\n織子 逆です、それは。あなたが、お礼も出せないほど貧乏だったから、舟木は奥さんの手当てに夢中になったんです。小さい時分から青年時代へかけて非常に貧乏な家に育ったために、貧乏な人には病的な位に同情するんです。サナトリアムのこともそこから来ていますし、或る意味で省三さんより激しい貧乏人の味方かもしれません。現われ方がちがうだけです。そういう人なんです。もちろん、あなたや亡くなった奥さんが好きで、好意持っていたからではあるんですけど、もしお宅がお金持だったら舟木はあれほど熱心にはならなかったでしょう。そう言う人間です。私は十年近く舟木に連れ添っています。腹の底から舟木を知っています。\n私 ............しかし――(次第に恐怖が全身を占めて来て、手に持ったシガレットを吸うのを忘れて、遠くの闇を見つめている額に冷たい汗がにじみ出て来ている)\n織子 どうにかして下さい! 舟木にあなたから、そうおっしゃって、此処から、どこかへ――今夜にでも、舟木を御一緒にどこかへ連れ出しでもして下さるか――私、ズーッと自分の部屋で今まで祈っていましたけれど、今夜は、どうしても私、神さまが見えて来ないのです。見失ってしまいました。気が変になりそうですの。......ほかに仕方が無いので、こうしてお願いするんです。おすがり出来るのは、もう、あなたしか有りません。\n私 そう言われても、私にも、どうしてよいか、まるでわからない......。\n\n(そこへ、ワンピースの胸の所をビリビリに裂かれて、ミゾオチの辺まで見える取り乱した姿の房代が、おびえ切ってソワソワと、背後の闇を振り返りながら入って来る。そこにある椅子にドシンと突き当る)\n\n房代 あっ! (自分でおびえて叫ぶ)\n私 どうしたんです?\n房代 あたし、怖い!\n織子 ど、どうなすったの? どうなすって、その服?\n房代 ああ、織子さん! (と抱き附くようにすり寄って)どうにかしてちょうだい。怖いの! (ふるえている)\n私 ......須永が、じゃ、あんたに、何か――?\n房代 もっと殺さなきゃならないと言うんです。私の父も殺してやるとそう言って――\n私 ......え? 若宮さんを? どうして?\n房代 どうしてだか、わからない。毒虫だと言うんです。この世の中の毒虫は全部殺してしまえ、俺が殺してやる。......かと思うと、たしかに殺したのは自分だと言うの。ズーッと殺そうと思っていたのだから、確かに自分が殺したのだ。おれたちを圧迫し、植民地化しようとする奴等を全部殺せ。殺さなければ奴等がおれたちを、しめ殺す。全体、どんなわけが有って、お前たちは原子爆弾を最初に日本に落したのだ? そんな事をしなくても、あの頃すでに日本は戦争を続ける力を失ってしまっていて、捨てて置いても間もなく降伏するばかりになっていた、のに、どうして、どんな理由であんな悪魔の爆弾を広島・長崎に落したのだ! そう言ってわめいて、そして、その、そいつらと一緒に寝ているのが貴様だ! その恥知らずがお前だ! そう言って私の首をしめにかかるの!" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 彼の長い自白が終ると、庄司署長はホッと重荷を下して、喜びの色に輝きながら云った。\n「うむ、よく白状した。これでわしも職務を果す事が出来たし、お前もさぞかし気が晴々した事と思う。この上は神聖な裁判官の審きを受ける許りだ。犯した罪は悔い改めれば消えて終う。然しながら国の定めた掟によって罰は受けなければならない。その覚悟はあるだろうな」\n「はい」\n 恰で打って変った人のように、打ち萎れて涙に咽んでいた支倉は漸く顔を挙げて、\n「その覚悟はいたして居ります。誠に今まで長らく御手数をかけて相すみませんでした。あなたの之までの御心尽しには只感謝の外はありませぬ。後の所はくれ〴〵も宜しくお願いいたします」\n「うむ、それは云うまでもない事だ。では今の自白の聴取書を拵えるから栂印を押せよ。それから、之で当署の仕事は済んだのであるから、直ぐに検事局に送るのであるが、希望があるなら妻子に一度会わせてやろうがどうじゃ」\n「有難うございます」\n 支倉は感激の色を浮べながら署長を仰ぎ見た。\n「妻には一度会いたいと思いますが、子供には」\n 彼は口籠りながら、\n「子供には会いたいと思いません」\n「うむ、そうか」\n 既に父となっている署長は流石に親子恩愛の情を押し計って、暗然としてうなずきながら、\n「それでは早速女房を呼んでやろう」\n「それからお言葉に甘える次第でありますが、一度神戸牧師にお会わせ下さいますようお願いいたします。先生の前で心残りなく懺悔がいたしたいと存じます」\n「宜しい」\n 署長は支倉の殊勝な依頼を快く承知した。\n「直ぐ手続をとってやろう、それまでによく休息するが好い」\n 其夜は支倉は犯した罪をすっかり自白して終った気安さに、今までは罪を蔽い隠す不安と、責め問われる苦痛と、良心の苛責から、夜もおち〳〵夢を結ぶ事が出来なかったのを、今は心にかゝるものもなく、グッスリと熟睡したのだった。\n 翌日彼が起き出ると、直ちに入浴させられ、署長の好意で待ち構えていた床屋に、蓬々と延びた髪をすっかり刈らせる事が出来た。彼はサッパリした気持になって、只管に懺悔の時の来るのを待っていた。\n この時に署長室では警察の召喚状を受取って不審に思いながら出頭した神戸牧師が、署長から支倉の数々の罪状を聞かされて、只あきれて驚いていたのだった。\n「彼は昨夜すっかり自白したのです」\n 署長は静かに云った。\n「それであなたの面前で懺悔がしたいと云っているのですが、会ってやって呉れませんか」\n この時のことを回顧して神戸牧師はこう云っている。\n\n\n「――これが庄司氏の説明であった。\n我らは其一々を聞いて驚いたのであった。前にも述べたように、当時までまさか支倉が貞子を隠す必要もないと思い込んで居たのであるから、此物語りは全く新聞中の新聞であったのである。しかしそう思えば、成程思い当る事もないではない、曩日の彼の愚痴の繰り事や、其怨恨の情は歴然浮び出るのだった。其午後の事であった。署長庄司氏はいよ〳〵彼を検事局へ送るに就いては、一度面会して遣ってくれと頼むのであった。我れらは不承々々乍ら、それを承諾して其時間を待っていた」\n\n 読者諸君は神戸牧師の最後の一句、「不承々々ながら云々」と云う言葉に不審を起されるかも知れない。と云うのは牧師と云う者は罪を救うべき者で、ましてや平素師事されている支倉が懺悔がしたいと云うのだから、進んで聞いてやるべきではないか。\n 然し、私はこう思う。この不承々々と云う言葉は蓋し不用意のうちに書かれたので、何となく気が進まないと云う軽い気持を現わしたのであろう。\n 神戸牧師は既に諸君の知られる通り、その第一印象に於て支倉に好意を持つ事が出来なかった。小林貞の事件には止むを得ず仲裁の労を執ったが、支倉の宗教界に身を置くものに似合しからざる行為や、事件前後の彼の執った態度などには眉をひそめて、もはや支倉には関係したくないと云う気持は充分あったに相違ない。世を救い人を救う大事業に従事する宗教家は決してセンチメンタリズムに終始する事は出来ない、否、むしろ宗教家程卓絶した理性を必要とするのではあるまいか。こんな理窟を並べて読者諸君を退屈させては相すまん次第だが、こう云った事が後の事件にも多少関係があるので鳥渡申述べて置く。\n 兎に角、神戸牧師が支倉の殊勝な自白の事を聞いて、徒に興奮せず、又頭から支倉を憫然と思って感傷的な気持に溺れても終わず、十分理性を働かしながら、渋々と云ったような態度で支倉の懺悔の場面に立会ったのは、彼の性格の一面が覗われると共に、他日支倉の断罪に当って、有力な素因を造ったのだった。\n それにしても神戸牧師は気の毒であった。彼はこの僅々半時間の支倉との面会の為に、後年数年の長きに亙って、云うべからざる不快な眼に遭わなければならなかったのである。支倉に会う事の気が進まなかったのは、蓋し虫が知らしたのであろうか。\n\n 机を前にして署長は悠然と肘付椅子に腰を掛けていた。それと並んだも一つの肘付椅子に神戸牧師が席を占めていた。傍には証人として喚ばれていたウイリヤムソンと云う外国宣教師が、当惑そうに眉をひそめながら普通の椅子に腰をかけていた。それだけでこの狭い署長室はいくらも余地がなかった。\n めっきり春めいて来た午後の陽はポカ〳〵と窓に当っていた。窓の外には僅かばかりの庭があって、ヒョロ〳〵と数本の庭木が立っていたが、枝から枝へとガサゴソと小鳥が飛んでいた。時折チヨ〳〵と鳴く声が室内へ洩れ聞えて来た。\n 三人は無言のまゝじっと控えていた。\n やがて扉が開いて、面窶れのした支倉の妻の静子が刑事に附添われながら、蒼白い顔をうな垂れて這入って来た。彼女は室内に這入ると、そのまゝベタンと板の間の上へ坐って頭も得上げず、作りつけた人形のようにじっとしていた。後れ毛が白い頸の上で微に戦いていた。神戸牧師は意味もなくそんなものを見つめていた。\n 附添って来た刑事は直ぐ出て行ったが、やがて又そわ〳〵と這入って来て、中の有様を見渡すと又出て行ったりした。そんな事が何となく物々しく感ぜられて、やがて起ろうとする事件を暗示して、異様な静けさが一座の人々に息苦しい緊張を与えるのだった。\n 物狂わしい沈黙が数分間続いた。\n コツ〳〵と云う忍びやかな足音が聞えて来た。\n やがて扉がスーッと開いて、腰縄を打たれた支倉が悄然と這入って来た。石子と渡辺の二刑事が彼の背後に従っていた。\n 彼は命ぜられるまゝに署長と神戸牧師の前にあった椅子に腰を下して、じっと頭を下げていた。\n「支倉」\n 署長は優しく呼びかけた。\n「お前は日頃尊敬している神戸牧師に面会する事が出来て嬉しいであろう。何なりとも心置きなく話すが好い」\n 署長の言葉と共に、神戸牧師は少し椅子を乗り出して、きっと支倉を見やった。\n この時の事を神戸牧師は回想してこう書いている。\n\n「小さい署長の部屋の中央に二脚の安楽椅子があった。庄司氏は其一つを、予は他の一つを占領していた。予の隣座に偶〻証人として来ていたウイリヤムソンと云う宣教師が坐っていた。机を隔てゝ支倉の細君静子も居た。やがて一人の刑事が室を出たり這入ったりした。其数分後に喜平は背後に打縄をつけられたまゝで、室内に這入って来た。無論二人の刑事は彼の背後に付添うていた。喜平が一脚の椅子に腰を下ろすと、庄司氏は我らを引合せて其多年の知友に面会さす好意を示した。予は第一に彼に云い聞かせたのである」\n" }, { "role": "assistant", "content": " 神戸牧師はきっと支倉の顔に眼を注ぎながら諄々として説いた。\n「君は今朝来僕に合す顔がないと心配しているそうだが、決してそんなことはない。聞けば君は愈〻従来の罪状を一切告白したそうだが、それは大変に好かった。最早数年来隠し切っていた罪を腹から出して終った以上、面目がないも何にもないではないか。却って今日は晴々した気持だろう。殊に基督教はかゝる場合に分る筈である。基督は罪ある者の為に来り罪ある者と共に死なれた。この同情の救主を頼りにする意味の分るのは今である。潔く信仰を以て検事局へ行き給え」\n ウイリヤムソンも続いて云った。\n「キリストの十字架の両側にいた盗賊すらキリストに救われた。それを能く思って下さい」\n\n 神戸、ウイリヤムソン両牧師から、懺悔の為に既に罪は救われたから、清き信仰の生活に這入って潔く法の裁きを受けるように諭されて、支倉はじっと頭を下げたまゝ、両眼からハラ〳〵と涙を流して、声を忍んで泣いていた。\n 静子は涙に濡れた蒼ざめた顔をつと上げた。\n ともすれば籠み上げて来る鳴咽を噛みしめながら、腸のちぎれるような声を振り絞って夫に向って、訴えるように、励ますように、掻口説くのだった。\n「あなた。今のお二人の御教えをお聞きになりましたか。あの通りでございます。私は何にも申上げる事はございませぬ。どうぞ今お二人が仰られたお心持で行って下さい。後の事はどうぞ決して気に懸けて下さいますな。私は小児を大切に育てます。又貞の後世も懇ろに弔ってやりますから、後の事は何も心配しないで下さい」\n 支倉は漸く顔を上げた。彼はハラ〳〵とはふり落ちる涙に、しとゞに両頬を濡らしながら、悔恨と慚愧と感謝との交錯した異様にひん曲った表情をして、激しく身体を慄わせて、悲痛な声を上げた。\n「皆様に御迷惑をかけて相すみませぬ。別しても署長さんの御好意の程は生涯忘れません。申上げようもない大罪を犯しました。何とも申訳のない次第でございます」\n 一座はしんと静まり返った。\n 麗かな日は相変らず硝子窓に映じている。小鳥の囀る声はチヨ〳〵と長閑である。然し、この狭い一室に閉じ籠った人達は、恰で切離された別世界の人のように、時間を超越し、空間を超越し、醜い肉体を離れて、霊と霊とが結び合うのを、じっと経験していた。\n 支倉は暫く新たな涙に咽んでいたが、やがて思い直したように妻の方に向き直った。\n「静子、許して呉れ。わしは云いようのない大悪人だったのだ。お前は嘸かしわしを恨んでいるだろう。わしのようなものを夫に持って後悔しているだろうね」\n 細々と絶えんとしては続く悲鳴に似たようなすゝり泣きが、一座の人達を限りない哀愁と異様な恐怖に陥れるように、いつまでも続いた。静子は夫の問いに答えようとしては意志の力では押える事の出来ない、泉のように湧いて来る歔欷の声に遮られて、容易に声が出ないのだった。\n 厳めしい警官達も顔を背向けずにはいられなかった。\n 漸く気を取り静めた彼女は激しくかぶりを振って、夫の問に答えるのだった。\n「いゝえ、そんな事はありません。私は少しも後悔などはいたして居りません」\n 支倉は妻の健気な一言に激しい衝動を受けて、身体をブル〳〵慄せた。彼の顔面には感激の情が充ち満ちていた。\n「ほんとうにお前はそう思って呉れるのか」\n「はい」\n 妻の返辞は短かったが、犯すべからざる力が籠っていた。\n「よく云って呉れた。お前のその一言はわしにどんなに心強く響く事であろう。わしは実に幸福だ」\n 支倉は眼を活々と輝かして妻をじっと見つめていたが、やがてふと思いついたように、\n「そうだ。お前も差向き何かと不自由であろう。今わしは八十円程金を持っている。署長さんの手許に保管してある筈だから、わしはそのうち二十円もあれば好い。残りの六十円はお前に遣るから好いようにして呉れ」\n「いえ、いえ」\n 静子はハンカチを眼に押し当てゝ、激しくかぶりを振りながら、\n「その御心配は御無用です。私はお金など要りませぬ。あなたこそ御入用でしょう。どうぞそのまゝお持ち下さいまし」\n「いゝや」\n 支倉は妻が金などは要らぬと云うのを押し止めながら、\n「わしにはもう金などは不要なのだ。そうだ、誠お前がいらないのなら、せめて死んだ貞の為に墓でも建てゝやって呉れ」\n「おゝ、ほんにそうでございました。そう云う思し召なら頂戴いたしましょう。私は少しも欲しくありませんが、仰せの通り死んだ貞の墓を建てゝ、後懇に弔ってやりましょう」\n「あゝ――っ」\n 支倉はとう〳〵男泣きに泣き崩れた。\n「あゝ、わしはもう何にもいらぬ。もう何も思い残す所はない。署長さんの手許にある金は全部お前に遣るから、後々の事を宜しく頼むぞ」\n 一座は一種云うべからざる圧迫を感じた。\n 戸外では罪ある者も罪なき者も折柄の春光を浴びて、嬉々として自由に足どり軽く歩き廻っている。\n 然るにこの狭苦しい冷たい一室では、夫は恐ろしい罪名の許に背後に縛の縄を打たれて、悔悟の涙に咽び、妻は褥さえない板敷に膝を揃えて坐ったまゝ、不遇な運命に泣いているのだ。免るべからざる人間生活の裏面にまざ〳〵と直面して、誰か何の感動を受ける事なしにこの有様を見る事が出来ようか。\n 両手を膝の上に置いて、すゝり上げる声を噛みしめながら、肩を激しくふるわせて、悲嘆に暮れているいじらしい静子の姿に、流石の庄司署長も思わず眼をしばたゝくのだった。\n 神戸牧師はすっかり厳粛さに打たれて終った。\n 彼はこの時の事をこう書いている。\n\n「当時の署長室の三十分ばかりの光景は、我ら数人の熟視した事であって、其厳粛荘重の有様と、我ら一同の満足とは今に至るまで忘れかぬる美しい記憶である」\n\n 神戸牧師は、支倉の立派な態度に打たれて、もはや迷惑も何も忘れておもわず彼の方を向いて云った。\n「頼みたい事があるなら遠慮なく云い給え。何なりとも屹度して上げようから」\n 支倉は牧師の方を振り向いた。彼の眼には新たなる感謝の涙が光っていた。\n「有難うございます。御恩の程は忘れませぬ。もう何もお頼み申す事はありませぬ。この上は天国に生れ代って、皆様の御恩義に報います」\n 支倉の美しい告白の場面は之で終った。\n 彼は直ちに検事局に送られる事になった。\n こゝに遺憾に堪えなかったのは、当時の庄司署長が年少気鋭にしてよくかの如き大事件を剔抉し得たが、惜むらくは未だ経験に乏しかったので、彼の自白に基いて有力たる証拠を蒐集する事をしないで、早くも検事局へ送った事であった。\n 然し、それは無理もない事であった。と云うのは支倉の自白が余りに立派であった事で、立会人であった神戸牧師が前掲の言葉のうちで認めている通り、彼の自白が真実である事は少しも疑う余地がなかった。のみならず彼は繰返し繰返し署長に感謝の念を捧げている。それは署長の取調べが情誼を尽し巧に人情の焦点を衝いて、支倉をして深く感銘させた為であって、彼が将来署長に向って反噬を試みようなどとは夢にも思っていなかった。その為にも早証拠蒐集等の事をなさず、只彼の自白を基礎として検事局へ送ったのである。\n 之が後年数年の長きに亘って事件を混乱に陥らしめ、彼支倉をして生きながらの呪いの魔たらしめ、多数の人を戦慄せしめた大きな素因であった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「お父さんお母さんの思召しに従わせて戴きます」\n「宜しい。然るべく取計らう。今度はお父さんも楽だ」\n「何故でございますか?」\n「味方の陣地へ大砲を打っ放すんだから、狙いの外れる心配がない」\n と閣下は満足だった。\n「オホヽヽヽ」\n「弾が敵方から飛んで来たようにお見せになる丈けが御苦心でございましょう」\n とお母さんも流石に大将夫人だ。\n「三人もあるんだから、一人ぐらい取ってやる方が問題を簡単にする。橋本君からお礼を言われても宜いんだ」\n「瀬戸さんは今度いつお見えになりますの?」\n「来週の今晩だ。一週間毎に報告に来るんだが、もっと早く呼びつけても宜い」\n「私、橋本さんの方からお断りして戴くのなら、厭でございますわ。苟くも断られた方なんか相手に致しません」\n「断って貰うには頼まなければならん。俺は頭は下げない。橋本君ぐるみ引っかけてやる」\n「まあ〳〵」\n「お父さんに任せて置きなさい」\n「宜しくお願い申上げます」\n と富士子さんは決心がついた。\n\n神算鬼謀\n\n 翌日、溝淵閣下は橋本閣下を訪れた。以来月余、夫人に一度足を運ばせたきり、全く御無沙汰をしていたところを見ると、草鞋千足の仲人でない。確かに初めから横取りの意思があったのである。御無沙汰のお詫びをした後、\n「実は橋本閣下、私は今日は坊主になって罷り出なければならないのですが、この禿頭に免じて、特別の御用捨を願います」\n と切り出した。\n「何と仰有いますか?」\n「切腹ものです。面を被って伺いました。何とも申訳がありません」\n「閣下、何うもお話が籔から棒で領解に苦しみます」\n「瀬戸の件です。飛んだものを御推薦申上げました」\n「はゝあ」\n「無論本人としては申分ありません。成績の好い青年ですから、大丈夫と思っていましたが、斯ういうことは矢張り慎重の上にも慎重に調査しませんと、後から取り返しのつかないことが起ります。昨日偶然聞き込んだのであります」\n「何でございますか? 一体」\n「昨日郷里から親戚のものが見えました。その男の話によりますと、瀬戸の家は血統に故障があります」\n「はゝあ」\n「知らないでいればそれまでの話ですが、苟くも耳に入った以上は仲人として黙っていられません。瀬戸の家からは代々発狂者が出るということであります。私は若い頃、瀬尾という家が然うだと聞いていましたから、瀬尾の間違だろうと申しましたが、親戚のものは始終郷里にいますから確かです。瀬戸家と瀬尾家は親類同志で、両方とも伝統的にいけないと申しました」\n「はゝあ」\n「これは何うしたものでございましょうかな」\n「さあ」\n「私から瀬尾に、いや瀬戸に申しつけて、差控えさせるのが責任かと存じます」\n「一つ家内に相談して見ましょう」\n と橋本閣下は奥さんを呼んで、手短かに話した。他に互角の競争者が二人あれば、一寸でも欠点のあるものは除外される。奥さんは無論二の足だった。橋本閣下も首を傾げて、結局、瀬戸君を断ることになった。\n「閣下、これは差当り必ず御口外下さらないように」\n「はあ」\n「溝淵が東京で郷党の素っぱぬきをしたと言われると立場に困ります」\n と溝淵閣下は如才ない。差当りと断っている。後から種を明かしてあやまる積りだから、充分に嘘をつく。\n「その点は心得ましたが、瀬戸君の方は閣下からお願い申上げます」\n「はあ。私から因果を含めましょう」\n「矢張り御縁がなかったんですな」\n「気の毒ですよ。本人に責任のないことですから」\n「佳子にも申しません」\n「何分差当り御内聞に」\n「しかし瀬戸君が急に見えなくなると不審に思いましょう」\n「その辺も宜しくお取り繕いを願います」\n「承知しました」\n「他の二人は大喜びをすることでしょう。ハッハヽヽ」\n「二人にも然るべく取り繕う必要があります。別に有力な縁談が始まったとでも申して置きましょう」\n と橋本閣下は一寸凄いことを言った。\n 瀬戸君は速達で溝淵閣下のところへ呼びつけられた。直ぐに出頭したら、閣下と二人きりの対談だった。\n「何うだね? 形勢は」\n「あのまゝでございます。未だ次の番が廻って来ません」\n「実は君に一つ注意したいことがあって、御足労を願った」\n「有難うございました。余りいつも同じことですから、もう何か策を使っても好い時分でしょう」\n「いや、策ではない。今朝俺は海軍の軍医上りの友人に会った。丁度橋本家へ偵察に出掛けようと思って支度をしたところへやって来たものだから、橋本ってことを言ったら、その男が橋本家のかゝりつけの医者だった」\n「はゝあ」\n「此奴を手なずけて置くのも一法と考えて、君の縁談のことを話したんだ。すると奴、薄笑いをしている。君は何を笑うかと訊いたら、橋本閣下の令嬢は美人には相違ないが、閣下は仲人をお断りになる方がお勝ちでしょうと言うんだ」\n「はゝあ」\n「病気があるんだそうだ」\n「何ういう御病気ですか?」\n「それをナカ〳〵言わないんだ。橋本家から内聞に頼まれているから堪忍してくれとあやまるんだ。しかし俺は承知しない」\n「はゝあ」\n「到頭言ったよ」\n「何ういう御病気ですか?」\n「それが甚だ具合が悪いんだ。士君子として云い悪いんだ」\n「はゝあ」\n「医者は単に夜間褥を浸す病気ですと言った。俺もそれで想像がついたから、君も常識で判断してくれ給え」\n「............」\n「分ったかね?」\n「夜間褥を浸す病気」\n「赤ん坊のようなものだ」\n「はゝあ。分りました」\n「それじゃ困るだろう? お嫁さんに貰うんだから」\n「............」\n「敢えて辞さないと言うかね?」\n「本当でしょうか?」\n「嘘を言うものか、橋本家のかゝりつけの医者で、年来その治療に肝胆を砕いているんだから」\n「直らないものでしょうか?」\n「そこまでは聞かなかったが、持病だろうと思う」\n「僕、一つその医者と相談して見たいんです」\n「それは俺が困る。俺が責めたものだから、内証で打ち明けたんだ。医者には病気の種類によって、職業上の秘密がある」\n「............」\n「俺を信じてくれなければ困るな」\n「無論、僕は閣下を師父と仰いでいますけれど、然ういう病気は直ると思っていますから」\n「直る直らないの問題でなくて、俺は有坂、いや、その医者から聞いたところをそのまゝ君に伝えるのが責任だと感じたまでだ」\n「はあ」\n「知らなければ兎に角、耳に入った以上は仲人として、注意して置く必要がある。知っていながら、そんなお嬢さんを何故世話したかと君のお祖父さんなりお父さんなりから詰問された場合、返答が出来ない」\n「御親切有難うございます」\n「何うするかね?」\n「御心配には及びません。僕は然ういう病気は必ず直ると思っています。実は僕の中学時代の親友にそんなのがあったんです」\n「ふうむ」\n「級担任の先生が催眠術をかけて直しました。それで僕は催眠術に興味を持って、先生から習いましたから、僕の力で直せる積りです」\n「ふうむ。君が催眠術をかけるのかね?」\n「はあ。自信があります。若し僕でいけないようなら、先生を頼みます。先生は学校の方よりもその方が大家です」\n「成程」\n と溝淵閣下は驚いた。実は種々と病気を考えた末、これなら本人にも家の人にも確めることの出来ないと思うのを持ち出したのだが、偶然にも相手はそれを直す方便を持ち合せていたのである。\n「僕、これで一寸玄人です」\n「それは好都合だったな」\n「病癖は大抵暗示で直ります」\n「兎に角、今の話は絶対に含んで置かんといかん」\n「はあ」\n「病気という程のものでない。殊に君の手で直せるものなら問題にならん。俺も安心した。今まで通りに油断なくやるんだね」\n「何分宜しく」\n「一つ策を考えるかな?」\n「はあ。お願い申上げます」\n「今晩はゆっくり話して行き給え」\n「しかしお邪魔じゃございませんか?」" }, { "role": "assistant", "content": "「いや、一向。久しぶりで『竹生島』をやって見ないか?」\n「さあ」\n「この頃は稽古の方は何うだね?」\n「怠けています」\n「それはいけない。一つやって見給え」\n「御清聴を汚します」\n と瀬戸君は一番やってのけた。無論未熟だから調子が外れる。閣下はその外れる程度によって毒瓦斯の利き目を試めす積りだったが、瀬戸君は案外の成績だった。\n「如何でございましたか?」\n と奥さんが後から訊いた。\n「失敗したよ」\n「まあ!」\n「策を誤った。しかし富士子には黙っていなさい」\n「はあ。矢張り彼方はナカ〳〵お諦めになりませんか?」\n「然う一朝一夕に行くまい」\n「そんな風でしたら、お沙汰止みになさる方が富士子の為めじゃございませんでしょうか?」\n「いや、橋本君の方のが利いている」\n「此方の毒瓦斯政略と仰有るのは何ういうお仕掛けでございましたか?」\n「いや、もう兵を語らずだ。その中に又出直す。ハッハヽヽ」\n と閣下は笑うばかりだった。\n\n毒瓦斯の利き目\n\n 橋本家では既に溝淵閣下に因果を含められた筈の瀬戸君が平気でノコ〳〵やって来たものだから、閣下と奥さんは顔を見合せて首を傾げた。当然先方から遠退くだろうから、その時で晩くないと思って、佳子さんには未だ何とも言ってない。瀬戸君は昨今可なり形勢が好かったのである。溝淵閣下のところへ行けば、相変らずだと言っていても、それは閣下なり夫人なりに出動を願いたいからの駈引で、自分では遙かに吉川君と安達君を凌いでいる積りだった。手心が分って来た。佳子さんは頭の好い証明よりも軽い世間話を喜ぶ。修身講話よりも冗談の方が応接間に調和する。それで昨今は大いに心掛けている。\n「佳子さん、面白いお話があるんですよ」\n と瀬戸君は間もなく取りかゝった。\n「何あに?」\n「僕は今日は学校の帰りを校長のところへ引っ張られて、晩餐の御馳走になったものですから、もう少しで後れるところでした」\n「丁度キッカリよ」\n「その代り面白いお話を聞いて来ました。僕の方の校長は酒飲みです。或晩、酔っ払って、円タクに乗ったんです。乗ったと思うと、よろけて、もう一方の入口から外へ落ちてしまいました。酔っていると時間の長短が分らないんだそうです。もう家へ着いた積りで、『幾ら?』と運転手に訊きました。『一円』『宜しい』自動車は只儲けをして走って行ってしまいました。校長は元のところで頻りに家を探していました」\n「秀逸ね」\n「これで酔っても本性を違えないと言って自慢している先生ですから、恐れ入ります」\n「オホヽヽヽ」\n「しかし痛快な人ですよ。学問も好かったらしいです。商科大学を一番で卒業しています」\n「あなたは御信用があるんでございましょう?」\n「さあ、悪いことはない積りです。今日なんかも、是非来いと仰有って、否応を言わせません。しかし後から考えて見ると、先生、魂胆があったんです」\n「何あに?」\n「いや、これはやめて置きます」\n「仰有いよ」\n「申上げましょうか? 実は縁談を勧められたんです」\n「まあ〳〵、結構でございますこと」\n「ハッハヽヽ」\n「何んなお嫁さん?」\n と佳子さんは興味を持ったようだった。\n「一向分りません。固辞して受けずですから」\n「さあ、何うでございましょうか?」\n「本当です。実はもう定っていますと申上げました」\n「定っていらっしゃいますの?」\n「はあ」\n「何処の何というお方? 奥さんは」\n「ハッハヽヽ」\n「私、そんな責任は負いませんよ。今から直ぐお出になって、お取消しをなすったら如何?」\n「武士に二言なしです。それこそ信用にかゝわります」\n「何ういう身分のお方?」\n「直ぐお断りしたものですから、内容は伺いませんでした」\n と瀬戸君、忠勤振りを示した積りだった。同時に秀才だから方々から狙われているという含蓄もあった。早くお定めにならないと御損をしますということになる。\n「校長先生、御機嫌がお悪かったでしょう?」\n「いや、そんな料簡の狭い人じゃありません。後は世間話でした」\n「吉川さんも御縁談があったんでございますって」\n「はゝあ」\n「三つも四つもあるのをお断りしているんですって。これは少し宣伝ね。丸尾夫人のお話ですから」\n「あの奥さん、始終お見えになりますか?」\n「はあ」\n「大谷夫人は如何ですか?」\n「あの方も負けてはいらっしゃいませんわ」\n「僕丈けですね、仲人が冷淡なのは」\n「大将閣下夫人ですもの、然う軽々しく御出動なさいませんわ。でもこの間閣下がお見えになりましたわね」\n「僕のこと、何とか仰有っていましたか?」\n「私、お目にかゝりませんの。つい出歩いていたものですから」\n「何処へお出掛けになりましたか?」\n「丸尾さんのところへ伺いました。吉川さんもよ」\n「はゝあ」\n「嘘よ。昼間ですもの。会社がありますわ」\n と佳子さんは一寸諢ったのだった。\n「奇襲訪問は未だでしょうね?」\n「はあ」\n「僕のところは遠くて足場が悪いから損です」\n「自然後廻しになりますわね。私、知らないんですから」\n「地図を描いて置きましょう」\n「大崎の駅からお近いんでしょう?」\n「五反田ですよ。心細いですな。描いて置きます」\n と瀬戸君は学校の帰りだったから、用意が好かった。ノートから一枚割き取って、詳細な地図を認めた。\n「宣伝が足りませんのね。私、大崎とばかり思っていましたの」\n「駄目です。これは溝淵閣下よりも校長を顧問にする方が早いかも知れません」\n「何故?」\n「校長は奇策縦横です。今晩も『君、若し君が運転手だったら何うする? 考えて見給え』と言って、素晴らしい着想を発表しました。秘伝ですけれど、公開しましょうか?」\n「私、運転手じゃございませんから」\n「しかし応用が利きます。自動車の席の覆に五十銭銀貨を一枚紋つきのようにクッキリ染め抜いて置くんですって、如実に五十銭と見せる為めには刺繍の方が宜かろうと申しました。自動車を値切る時、窓に捉まって中を覗く人があるでしょう?」\n「はあ」\n「然ういう連中を引っかけるんです。覗いて見ると席のところに五十銭銀貨が一枚落ちています。運転手は前を向いていますから知りません。廃物利用って気になります。もう値切りません。少し高くたって、五十銭戻し税がつく積りです。しかし乗ってから窃っと取ろうとすると、何とまあ、お呪禁の種玉子だというんです」\n「オホヽヽヽ」\n「狡い人間の心理を穿ち得た名案でしょう?」\n「はあ」\n「僕なんか大丈夫ですけれど、吉川君あたりが引っかゝりましょう」\n「まあ、突如人身攻撃?」\n「ハッハヽヽ」\n「駄目よ」\n「安達君あたりは馬鹿正直ですから、『運転手さん、五十銭落ちていますよ』と念を入れて、却って笑われましょう」\n「然うかも知れませんわね」\n 尚お話し続けているところへお母さんが現れた。いつもは放任してあるけれど、溝淵閣下から話があったから気になって様子を見に来たのだった。\n「佳子や、お前、夕方のお薬を戴きましたの?」\n とお母さんはそれが唯一の用向きのように訊いた。\n「あら、私、忘れていましたわ」\n「いけませんよ」\n「戴いて参ります」\n と佳子さんは急いで出て行った。これが瀬戸君に求婚者として致命的な思いつきを与えた。\n「何処かお悪いんでございますか? 佳子さんは」\n「いゝえ、一向」\n「しかしお薬をお上りになるんですから」\n「何とかいう独逸の健康剤でございます。お医者さまに勧められて、この間から試めしに服用していますの」\n「お医者さんは軍医の方ですか?」\n「はあ」\n「その健康剤が利きますか?」\n「何うでございましょうか? 何処も悪いんじゃございませんから」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促されて都へ出て、糺問されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼を敢てし、言はず語らず一国を掌握したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒し、国庫に入る可き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口を大規模にしたのである。将門猶未だ僣せずといへども、既に叛したのである。純友の暴発も蓋し此様いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守伴光行、飛騨守藤原辰忠、上野介藤原厚載、武蔵守高向利春などいふものも、蓋し維幾が生擒されたやうな状態であつたらう。孔孟の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世祈祷のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡の徒と妥協を遂げ、貴族に迎合し、甚しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭をして他の妻を取るほど博奕思想は行はれ、官吏は唯民に対する誅求と上に対する阿諛とを事としてゐる、かゝる世の中に腕節の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟。此の世の中の表裏を看て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無邪正の感情に不知不識陥つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰も水滸伝中の豪傑が危い目に度〻逢つて終に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特に長い間引続いた私闘の敵方荷担人の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇ふのだらう。玄明をかくまつた行懸りばかりでは無い、自分の頸にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引をして、そして敵をのめらせて敲きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差の侠客も大抵利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道徳次は小貝川の傍、飯岡の助五郎、笹川の繁蔵、銚子の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵押領使、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう〳〵火事は大きな風に煽られて大きな燃えくさに甚だしい焔を揚げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対つて、一国を取るも罪は赦さるべくも無い、同じくば阪東を併せて取つて、世の気色を見んには如かじと云ひ出すと、如何にも然様だ、と合点して終つた。興世王は実に好い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併し此の居候のお蔭で将門は段〻罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝は沢山に籠つて居た大筒だから、口火がついては容赦は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利の苗裔三世の末葉である、事を挙ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所の士だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元が猛威を振つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力に於て歩兵に陪蓰するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮御牧貢馬地として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省諸国馬牛牧式を見ると、高津牧、大結牧、本島牧、長州牧など、沢山な牧があつて、兵部省へ貢馬したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。\n 天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威凛〻と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易した。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人〻に換へられたが、斯様いふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰を差出して降つて終つた。前司の大中臣全行も敵対し無かつた。国司の館も国府も悉く虜掠されて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能はず、すご〳〵と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰を奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首め興世王、藤原玄茂等堂〻と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋し玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等若しくは何人かの使嗾に出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩の使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位を蔭子将門に授く、左大臣正二位菅原道真朝臣之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍した。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙つて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。\n 此の仕掛花火は唯が製造したか知らぬが、蓋し興世玄明の輩だらう。理屈は兎もあれ景気の好い面白い花火が揚れば群衆は喝采するものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗の所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥だの鴉だの鰊だのの如きものの好んで為すところで、群衆に依つて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者は同行する、創作者は独自で模倣者は群集、智者は寥〻、愚者は多〻であつて、群衆して居るといへば既にそれは弱小蠢愚の者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即ち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能はざるほどの者共が、相率ゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢てしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野内匠頭の家は潰され城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終に何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処かへ行つてしまふのが却つて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄や煽動家である。八幡大菩薩の御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を猨島に持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。\n 道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闍梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らずば、一時の賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。" }, { "role": "assistant", "content": " 田原藤太が将門を訪ふた談は、此の前後の事であらう。秀郷は下野掾で、六位に過ぎぬ。左大臣魚名の後で、地方に蟠踞して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有、高郷、興貞等十八人とあるから、何か可なりの事件に本づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮せて為た事だらう。何にしても前科者だ、一筋で行く男では無い。将門を訪ふた談は、時代ちがひの吾妻鏡の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽はりて門客に列す可きの由を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳けづるところの髪を肆らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰す可きの趣を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云〻」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分怪しからぬ料簡方の男で、興世王の事を為さずして終つたが、興世王の心を懐いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云〻」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢が浩大で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許を訪ふたといふのであるから、咎むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴は、安和年中、橘繁延僧連茂と廃立を謀るに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚るべきことだ、田原藤太を強ひて、何方へ賭けようかと考へた博奕打にするには当らない。\n 将門に逐ひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛の歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕と憂慮と、応変の処置の手配とに沸立つた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。\n 将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔の欝気を伸べ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲を尽してゐる中に手強いところがあつて中〻面白い。\n\n将門謹み言す。貴誨を蒙らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次に何でか言さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、忩然として道に上り、祗候するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑ひぬ。仍つて早く返し遣る者なりとなれば、旧堵に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬くして安居しぬ。」然る間に前下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠せらるゝの由は、具さに下総国の解文に注し、官に言上しぬ、爰に朝家諸国に勢を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了んぬ。而るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具して言上し了んぬ。未だ報裁を蒙らず、欝包の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到りぬ。仍つて国内頻りに将門に牒述す。件の貞盛は、追捕を免れて跼蹐として道に上れる者也、公家は須らく捕へて其の由を糺さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾せらるゝ也。」又右少弁源相職朝臣仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比ほひ、常陸介藤原維幾朝臣の息男為憲、偏に公威を仮りて、ただ寃枉を好む。爰に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣に兵庫の器仗戎具並びに楯等を出して戦を挑む。是に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数幾許なるを知らず、況んや存命の黎庶は、尽く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由は、伏して過状を弁じ了んぬ。将門本意にあらずと雖も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠し了んぬ。」伏して昭穆を案ずるに、将門は已に栢原帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈非運と謂はんや。昔兵威を振ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比ばんや。而るに公家褒賞の由无く、屡譴責の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸なり。」抑将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政の世に意はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝ゆ可からず。将門傾国の謀を萌すと雖、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫く。将門謹言。" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 長平は乞食の安定に同感している人間ではない。人生は実用の如くで、実は、最もムダを活用すべきものだ、ということを骨の髄から会得している芸術家である。人為というものを自然の上におくことを天性としている人間であった。\n しかし、人間には郷愁というものがある。たまには、炊事道具もない部屋で、乞食の心境を会得した十九の娘のモテナシをうけることは、マンザラではないかも知れない。それは休養というものである。\n しかし、人生と休養をゴッチャにするのは、利巧な人間の為しうべからざることである。休養の場を、実人生の場の如くに、安定しきっているというのは、よくよくのバカのやることで、その安定が見るからにタノモシそうでも、実用の役に立つものではない。実用にならないものは、デクであり、バカバカしいの一語につきる。\n「散歩もなさらないの?」\n「そう云えば、このアパートから一歩も出たことがないね」\n デクは今さら一歩もアパートから出なかったことを発見した様子であった。\n「たまには街へでてごらんなさい。復興途上の街というものは一ヶ月に三年ぶんぐらい変るものですよ。一夏で銀座もまるで変りましたよ。食事がてらブラついてごらんなさい」\n 長平はオックウであった。彼は散歩というような気持にはなれなかった。街へでるときは、街の中へ、溶けこむ時である。街へ生死をなげうつ時だ。\n なにも、このアパートにいたいわけではない。しかし、とにかく、この一室にいる時はこの一室に溶けこんでいる。そして、さらに街へ溶けこむことが、今は必要でもないし、オックウであった。\n「今は、オックウです」\n 長平は気の毒そうに、つけたした。\n「ぼくが上京していることを、見て見ぬフリをしてくれないかな。街へでる時には、京都から、街のために上京します」\n デクの気持が分らぬではないが、バカバカしいことには変りがない。とにかく見切りをつけるのが利巧だから、せつ子はこだわらなかった。\n\n 九\n\n 放二はその二三日いくらか元気をとりもどしたように見えた。せつ子と穂積が訪ねた日は、夜になっても、人々が心配したほど疲れを見せなかった。\n ルミ子が遊びに行くと、\n「梶さんに会いましたか」\n と、放二がきいた。\n「ええ。私の部屋へいらしたわ。ハンドバッグいただいたの」\n「話をした?」\n「ええ」\n「どんな話?」\n「そうねえ。面白い話じゃないわ。お世辞の多い方ですもの」\n「フフ」\n 放二は笑った。\n 放二には、梶せつ子という女の像が、いつも目にしみて映じていた。放二の目に映じているせつ子の像を、人々は、せつ子には似ても似つかぬウソの像だと云うかも知れない。それは放二には問題ではなかった。\n せつ子は女らしい女でありすぎるのだ。女のもつ性質の一つ一つを、あまりに豊かに持ちすぎている。特に一つに恵まれるということがなく、全てに平均して恵まれているために、彼女は常に平凡であるが、同時に、停止することも、退くこともできないのである。家庭的でもないし、娼婦的でもない。浮気でもないが、中性でもなかった。特に何物でもない。ただ非常に平均しすぎた女。平均という畸型児であった。\n 彼女は家庭婦人となるにしては、男性への洞察力が鋭すぎたし、虚栄心も、名誉慾も高すぎた。しかし、事業家として成功するには、あべこべに、潔癖でありすぎたし、好き嫌いが強すぎる。人を信頼するに過不足でありすぎる。\n 彼女の事業も、すでにかなり衰運に傾いているのではないかと放二は思っていた。彼女は、どこへ行くだろうか? それを思うと、放二は暗い。\n「お世辞を使わずに、思うことをハッキリ言える人は、強い人ですよ」放二はルミ子に語った。\n「梶さんは、お世辞を使いすぎるし、無愛想でもありすぎるし、憎みすぎもするし、愛しすぎもするのです。一ツ一ツが強すぎて、めいめい、ひッぱりッこしているから、あの人の中心には、いつも穴があいているのです。一ツ一ツひッぱる糸が生きているけど、あの方には、中心がないのです。女というものを象徴した人形にすぎないのです」\n ルミ子はビックリして放二を見つめた。にわかにウワゴトを言いだしたのかと思ったのである。放二の言葉は、てんで意味がわからなかった。こんなにワケのわからないことは、今まで言ったことのない放二であった。\n 放二はやつれて、目が大きく、頬がこけていたので、安らかな顔ではなかった。微笑しようとしても、吐く息が大きくて、思うようにはできない様子である。しかし、ウワゴトではないのであった。\n「ルミちゃんは、梶さんの妹なんです」\n「え?」\n「気質のちがう姉妹があるでしょう。ルミちゃんは、気質のちがう妹なんです」\n「そうですか」\n「そうです。ですが、女らしい女ということでは、二人とも、似ています。ルミちゃんは、はじめから不幸を選んだのは、賢明だったかも知れません」\n「そうですか」\n「不幸を選ぶ事のできない人は」\n そう言いかけると、放二の目から一滴の涙がこぼれた。\n\n 十\n\n 放二の部屋には、五人の女たちが、まだ寝泊りしていた。\n 重病人の部屋であるから、静粛、清潔ということを医師や看護婦にくどく言い渡されていたし、時々見舞い客もあることだから、万年床をしきッ放してヒルネもしていられない。シュミーズ一つ、ネマキ姿というわけにもいかない。\n 以上のことを封じられると、彼女らの自由の大半は失われたようなものであるが、彼女らはこの部屋から立ち去ろうともしなかったし、日中もほとんど部屋にゴロゴロしていた。\n 彼女らが泊りの客をつかまえるのは、困難な事業に属するものになっていた。五百円ぐらいでも外泊の客がひろえればよろしい方だ。すると宿へ二百円おいて手取りは三百円である。ママヨと思えば三百円でも客をひろった。すると翌朝手に残るのは百円であった。\n「アア! 自分の部屋が欲しい!」\n 五人の誰かが毎日そう呟いていたが、誰も真剣に部屋をもつための努力をしているものはなかった。\n 五人はめいめい疑り合っていた。誰かが秘密に貯金しているのではないか、と。なぜなら、彼女らは貯金を持ちたいということが、何よりの念願だったからである。\n「アア! お金がほしい!」\n 毎日誰かが血を吐くような叫びをあげたが、すると一同ゲタゲタ笑ってしまうのである。\n「いくら、たまった? 畜生!」\n ヤエ子は病人の枕元であるのもかまわず、自嘲の苦笑をうかべて、憎らしげにルミ子によびかけた。\n「あの女が、ハンドバッグ、くれたんだって? 畜生! オレにくれろよ」\n ルミ子は答えなかったが、病人の足もとをゆっくり一と回りすると、ねそべっているヤエ子のクビをおしつけて、おしかぶさって、\n「お前には、アドルムあげるよ。ねな!」\n「畜生!」\n ヤエ子は牛のように跳ね起きた。ふりむきざま、右の拳に力いっぱいルミ子の顔に一撃をくれた。ルミ子は一枚の紙のようにフッとんだが、倒れた上へヤエ子がとびついたのは殆ど同時であった。馬乗りになってクビをしめたが、ウッと声をあげたのは、押しつけているヤエ子である。頬をつねった。目のフチをつねった。あとはメッタヤタラに顔面をなぐった。狂気のようである。\n 他の女たちがようやくヤエ子を距てたが、ルミ子の唇がきれて血が流れている。\n「殺せ! はやく、殺せ!」\n とり押えられたヤエ子は足をバタバタさせて叫んでいる。\n「なにが、殺せ、さ。ルミちゃんを殺しかねないのは、あんたじゃないか」\n「ヘッ。それが、どうした。お前だって、ルミ子が死んじまえばいいと思ってやがるくせに。アタイはアイツが憎いんだ。自分だけ、部屋をもって、羞しくないのかよ! アタイたちが宿なしで、うれしいだろう! 畜生!」\n ルミ子の顔色が変った。\n「ここを、どこだと思うのよ」\n「チェッ! なんだと。どこだって、かまうかい。お前が、ここの、何なのさ」\n ルミ子は語るにも叫ぶにも窮して、涙があふれた。ヤエ子はそれを憎々しげに見すくめた。\n「フン。結構な御身分さ。自分だけがこの部屋のヤッカイ者じゃないと思ってやがる。オレたちは貧乏だよ。金がないんだよう。金がありゃ、誰だって、思うことができるんだ」" }, { "role": "assistant", "content": "\n 十一\n\n「思うことができるなら、静かにしたら、どうなのね」\n と、一人がたまりかねて、たしなめたが、\n「よせやい。アタイ一人が悪いのかい。わるかったネ。お前たち、お金あるのかい。ヘソクリがあるなら、正直に言いなよ。アタイだけが、一文なしの、宿なしだと笑いたいのかよ。叩ッ殺してやるから、笑ってみやがれ。オイ。笑えよ!」\n「勝手におしよ」\n 一同はウンザリしてヤエ子を突き放した。部屋にいて喚きたてられては困るから、\n「オフロへ行こうよ」\n「そうしましょう」\n と、一同は仕度をはじめる。ヤエ子は腕ぐみをしてジロリと一同を見上げて、\n「フン。アタイにオフロ銭もないのが、うれしいのか。見せつけたいのかよ」\n「うるさいね。オフロ銭ぐらい、だしてやるよ。いつだって、そうしてもらッてるじゃないか」\n「いつも、そうで、わるかったな」\n「だまって、ついてくるがいいや」\n「バカヤロー。オフロ銭ぐらいで、大きなツラしやがるな」\n 一同はヤエ子にかまわず、オフロへでかけた。ヤエ子は目をなきはらして便所へとびこんだが、実は便所の窓から、道を行く彼女らの後姿をうかがっていた。\n ルミ子が自分の部屋へもどって、オフロ道具をかかえて、彼女らを追うて去る姿を見ると、ヤエ子はようやくホッとした。彼女らの姿が見えなくなり、しばらくしても戻ってこないのを認めて、ヤエ子は便所をでた。そしてルミ子の部屋の戸をあけた。\n「ルミちゃんの着代え、とりにきたのよ。オフロ屋の前のドブへはまっちゃッたのさ。トンマなヤツなのさ」\n ヤエ子は長平の存在などは、眼中になかった。パンパン宿へ一週間も泊りこんでいるジジイに利巧な奴がいる筈はない。助平の甘チョロにきまっているのである。\n ヤエ子は押入をかきまわした。行李が一つある。彼女はそれを、ゆっくりと、五分ぐらいも、中身をしらべていた。\n「なにをしてるんだ。早く着代えを持って行ったらどうだ」\n 長平がジロリとふりむいて言っても、ヤエ子は平気であった。\n「ちょッと中身を見ているのさ。あんまり、たくさん持ってるから、目がくらまア。コチトラは着たきり雀だから、ビックリすらアね。へ。ずいぶん派手に、買いこんでやがら。パジャマ三枚もってやがら。人をバカにしてやがるよ。コチトラ、シュミーズの着代えもありゃしないよ。ズロースもね。エッヘ」\n 最後のワイセツな言葉と笑いは、長平にあびせかけたものである。\n とうとう虎の子のありかを探しだした。銀行の通帳と一万円余の現金であった。彼女は行李の中のものを片づけて、\n「これがキモノか。これがジュバンだ。このフロシキに包んでやれ。ヘッ。ズロースと、お腰も持ってッてやろうかな」\n と、又、長平に嘲笑をあびせかけて、包みをかかえて悠々と消えてしまった。\n 風呂から戻った一同は、これを知って、被害者のルミ子よりも顔色を失った。\n ヤエ子の宿命と自分たちの宿命が、遠く離れたものでないことを、彼女らは身にしみて知っていたからである。ヤエ子は追われて立ち去ったのだ。追われる圧力を彼女らも身にしみている。まだしもルミ子の物を盗んだヤエ子は賢明だ。彼女らの心にうごいたものは、羨しさであった。\n\n 十二\n\n 長平はヤエ子の泥棒ぶりに感心した。よほど天分があるようだ。痛快になめられたものであるが、腹をたてる余地がない。\n 彼の存在を眼中になく、行李をあけて十分ちかく金品を物色した落付きというものは、水際立っている。このとき彼の存在というものは、地上で最もマヌケ野郎に相違ない。おまけに、ズロースや腰巻などゝ適切なカイギャクを弄して、マヌケの上に怪しからぬ根性に至るまで心ゆくまで飜弄しつくして退散しているのである。\n しかし、考えてみると、今までにこういうことが起らなかったのがフシギなのだ。ろくに稼ぎもないくせに、ムダ食いやムダ使いがやめられない五人の宿なしパンパンが、今まで泥棒しなかったのが珍しい。\n 放二をめぐる生活の雰囲気が、彼女らの情操を正しく優しくさせていたと見るのは当らないようだ。盗みをしない方が、確実に生活安定の近道だったからである。雰囲気などゝいうものは、その安定を見定めた上で現れてくるセンチな遊びにすぎない。\n 盗みをはたらく条件をそなえている人間が、雰囲気の中で妙にセンチにひたっているよりも、盗みをした方が清潔かも知れない。ヤエ子の大胆不敵な盗みッぷりから判断しても、こう判定せざるを得ないのである。雰囲気などというものは、実際は無力なものだ。\n しかし、ついに雰囲気がくずれたこと、つまりは生活安定の見透しがくずれたということについては、それが人生の当然ではあるが、無常を感ぜずにもいられない。\n 放二の息のあるうちに、それが行われるというのは、まことに皮肉でもあるし、滑稽でもあるが、これが放二の善意に対する当然な報酬かと考えると、悲痛な思いにうたれもした。\n 彼の冷たい判断からでも、放二の善意を若気のアヤマチと言いきれはしない。感傷とは言いきれない。しかし、たとえば彼の善意が神につぐものであったにしても、その報酬がこんな結果に終るというのは、人間の世界では当然すぎるのだろう。そして、放二は、それにおどろくような男ではなかろう。彼はほぼ全てのことを知っていた。\n 長平は放二のとこへイトマを告げにでかけた。\n「どうだい。いっそ、御一統に自由に解散を願ったら。一葉落ちて、秋来れりさ。一葉ずつ、妙な落ち方をさせない方が、サッパリしてよかろう」\n こうズケズケ言うと、放二は笑って、\n「先生は貧乏人の心境をお忘れですね」\n「そうかい」\n「宿がないということと、タヨリがないということは、やりきれないことなんです。ギリギリのところへきてしまえば、自然に何とかなるものですが、さもなければ、解散しても、結局ここを当てにすると思います」\n「なるほど」\n「人間は、すすんで乞食にはなれないのですね。三日やればやめられないと分っていても」\n「なるほど。秋がきても、気にかからなければ結構さ。じゃア、帰るよ」\n「御元気で。長らく有りがとうございました」\n 長平が離京するとき、ルミ子が送ってきた。\n「いい加減で帰りたまえ。別れ際の時間は短いほどよろしいものだよ」\n 長平が彼女を帰らせようとすると、\n「セッカチね。私の方が大人だなア。一度、手紙を差しあげるから、忘れないでね」\n ノンビリ手をふって、二人は別れた。\n\n\n 新しい風\n\n 一\n\n せつ子は退院後の記代子をひとまず自宅へひきとった。甚だ好ましくなかったけれども、隙あらばと記代子の病室をうかがっている青木を見ると、他に安全な保管所が見当らないから、仕方がなかった。\n 記代子の顔を見ることが他にたぐいる物がないほど不快なことだということを、ひきとってから気がついた。\n 記代子の入院中、ウワゴトの中で叫んだ言葉は「エンジェル!」という名にからむものばかりであった。\n せつ子に何より不快なのは、それだった。記代子が居ると、その背後に、エンゼルという動物めいた悪者がいつも一しょに影を重ねて居るようで、動物の匂いがプンプン漂ってくる気がする。記代子が住みこんだばっかりに、わが家に動物小屋の悪臭がしみついてしまったようであった。\n 記代子を見ると、目をそむけたくなるのをこらえようとすると、冷めたくジッと見つめてしまうことになる。ある日、記代子が言った。\n「憎んでらッしゃるのね」\n 記代子は、退院の日、なんとなく希望がわきかけたような喜びを感じた。希望というものが全て失われたように、前後左右たちふさがれた切なさに苦しめられたアゲクであった。はじめて小さな爽やかなものに、すがりつくような喜びで、退院したが、それも再びどこかへ没してしまったようだ。この明け暮れ、人生の希望を知るのに骨が折れた。人々が、だんだん憎く見えるのである。\n「私、憎まれるのは平気なんです。それが当然ですものね。ですけど、矛盾がイヤなんです。憎みながら、保護して下さるのは、なぜ? その『なぜ』にもっと早く気がつけば、私もマシな生き方ができたでしょうに」\n バカな人間に、尤も千万な言いがかりをつけられるぐらい、興ざめることはない。せつ子は自分の人生が、いつもそのことで悩まされているような気がするのである。結果の事実としては尤も千万であるけれどもツラツラ元をたずねれば当人がバカのせいだということを、全然忘れているのである。\n 記代子の背に青木の影が重なっているだけでもイヤだったのに、エンゼルの影も重なっている。動物臭がプンプン匂っている。それはみんなバカのせいだ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " しかし、彼女はその服装では、一つだけ失敗していた。彼女の服装が時に滑稽に見えるということに、気がつかなかったのだ。これは重大な手落ちだ。すくなくとも、春隆はそんな貴子の恰好を見て、噴き出したくなっていた。\n しかし、春隆という男に、もし取得というものがあれば、いんぎんなエティケットがわずかにそれであろう。\n 春隆は噴き出す代りに、彼女の時計をほめてやることにした。ダイヤの指輪をほめるには、春隆は余りに侯爵だったし、だいいち、せっかくのショートパンツとワイシャツにダイヤはぶちこわしで、ふとパトロンのある女の虚栄のあわれさであった。――時計は型が風変りだったのだ。\n「拝見!」\n 時間や分秒のほかに、日付や七曜が出て来るその時計を、覗こうとすると、\n「見にくいでしょう」\n 貴子はにじり寄って、ぐっと体を近づけて来た。\n「たしかに、見にくいですな」\n 相槌を打ちながら、見にくいという言葉に「醜い」の意味を、春隆は含ませていた。\n\n二\n\n いきなり貴子から媚態を見せつけられて、さすがに春隆は辟易していた。\n このような場合、でれりとやに下るには、春隆は若すぎた。女にかけては凄い方だったが、四十男のいやらしさも冷酷さも、まだ皮膚にはしみついていず、一応はうぶに見えていたから、なるべく自分でもうぶに見せていた。\n いわば、首ったけ侯爵などと綽名されるような、純情な甘さの中に、女たらしの押しの強さをかくしていたのだ。――大して利口ではなかったが、馬鹿ではなかった証拠である。\n しかし、その純情らしさの外面を、仮面にすぎないと言い切ってしまっては、酷であろう。計算はしていたが、しかし全くの計算ずくめではない。やはり、うぶらしく自然に照れていた。十代のように照れていた。しかし、十代とちがうところは、照れている状態の効果の損得を、損も得も心得ているという二十代の狡さだ。\n そして、春隆はその二十の最後の年齢に達していた。二十九という厄介な歳だ。\n 春隆が若すぎたように、貴子は年がいきすぎていた。\n 貴子がもっと若ければ、春隆もこれほどまで照れなかっただろう。姥桜という言葉の魅力も、せいぜい三十三までだ。それ以上は姥桜という言葉は、もう二十代の自尊心にかけても、一応生理的にやり切れない。\n 春隆は、貴子の歳を、自分では三十二と言っているが、三十五か六だろうと見ていた。ところが、実は貴子は丙午だから、ことし四十一歳である。\n 春隆の辟易もむりはなかったわけだが、しかし、すっかり辟易していたといっては、言いすぎだろう。\n 辟易したような顔をしながら、春隆は時計を見ている間、じっと貴子のむっちりした腕を握っていることを、さすがに忘れなかったのだ。\n そして、貴子の胸の動悸を冷静に聴いていた――のだから、「見にくい時計ですね」という言葉に「醜い」という意味を含ませたのは、春隆にわずかに残っていた自嘲の精神だろう。\n 含ませるといえば、貴子の体を胸にもたせかけるまでにはしなかったが、含みはもたせたわけだ。\n 将棋でいえば、王手はせぬが、攻め味は残して置くという手! 王手を掛ける相手はやがて来るだろう。\n 陽子だ。\n 陽子と貴子の魅力の違いを計りながら、\n「いい時計ですね」\n 春隆はわざとソワソワしたように、身を引いた。貴子は何の表情もない顔をしていた。燃えるような視線が、急にケロリと冷めていた。\n「この女はおれに来ている」\n という春隆のうぬぼれを、ふと錯覚にさせてしまうくらい、冷やかであった。\n いわば双方とも申し分のない態度だった。陽子を待っている春隆にとっても、階下にパトロンが待っている貴子にとっても......。\n「では、ごゆっくり......」\n と、やがて貴子は出て行った。が、何思ったか急にまた引き返して来た。\n\n三\n\n 春隆はちょっとあわてた。\n 貴子のショートパンツは、尻の重みに圧されて、皺をくぼませていたので、起ち上った時は腰のまるみが裸の曲線とそっくりに二つに割れて、ふと滑稽な、しかしなまなましい色気が後姿に揺れていた。\n むき出した膝から下も、むっちりと弾んで、若くから体を濡らして男の触感に磨かれて来た女の、アクを洗いとったなめらかな白さに、すくっと伸びていた。\n 陽子を待ちわびている春隆には、べつに心をそそるほどの魅力でもなかったが、やはりふとその後姿に眼が注がれて、じっと見送っていたので、いきなり貴子がひきかえして来ると、さすがにあわてたのだ。\n いきなり......だが、しかし、のっそりと貴子ははいって来ると、声もしずかに、\n「この次いらっしゃる時は、お一人でいらっして下さいね」\n 北海道生れだが、案外訛りのすくない言葉で言って、またしずかに出て行った。\n 貴子は、同時に何人もの男をつくるのは平気であったが、その代り、その埋め合せといわんばかしに、男が何人も女をつくるのには平気でおれなかった。何人も女をつくる男は不潔だと思うことが、この何人も男をつくる女の潔癖を辛うじて支えているのだろうか。\n しかし、彼女にとって幸か不幸か、この潔癖を満足させてくれるような男は、ついぞこれまで一人も現れなかった。\n すくなくとも、田村へ来る男は、一人ではめったに来なかった。表向き料理店だが、その実連れ込み専門の貸席旅館だから、女を連れずに来る男もいなかったわけだ。\n 貴子は大阪で経営していたバーが焼けてしまうと、一時蘆屋の山手のしもた家で、ひそかに闇料理をしていたのだが、終戦と同時に、焼け残った京都という都会に眼をつけて、木屋町の廃業した料亭のあとを十五万円の安値で買いとった。\n そして、改造費や調度家具類に二百万円を投じて、どの部屋にも鍵つきの別室がついているという構造と、数寄を凝らした装飾、一流料理人を雇った闇料理、朝風呂、夜ぬいだワイシャツは朝までに洗いプレスするというサーヴィスで、田村の看板を出した。\n 敗戦後の京都の、いかにも女の都、享楽の町らしい世相を見ぬいたこの敏感な経営法はたちまち狙いが当って、木屋町の貸席や料亭は、すっかりこの大阪の資本に圧されてしまったのを見ると、貴子の水商売への自信は増すばかりで、丙午の運の強さも想い出されたが、しかしバーの時と違って、このような田村へ来る客は、宴会を除いてはみな女づれだ。これはと眼をつけた男が、まれに一人で来たかと思えば、ダンサーを待っている。\n そう思えば、店がはやりながら、やはり寂しく、男は何人もつくり金も出来たが、打ち込んだ恋は結局ただ一度もせずに四十を越してしまった女のあせりを、わざとゆっくりした足取りで押えながら、階段を降り、自分の居間に戻って来ると浴衣がけの男が、寝そべったまま、\n「おい、あの子今日はおれへんな。どないしたんや」\n\n四\n\n いきなりそう言ったのは、この田村へ女を連れずにやって来るたった一人の男――いいかえれば、貴子が田村の改造費の二百万円を借りた木文字章三だった。\n 木文字章三は、姓も変っているが、それ以上に風変りな男であった。彼は年中、\n「俺は爪楊枝けずりの職人の息子だ」\n と、昂然と言っていた。\n 卑賤に生れたが、それをかくそうとせず、卑屈な態度は少しもなかった。美貌だが、自分から女を口説こうとしなかった。\n 彼は北浜の株屋の店員だった頃から、貴子のバーの常連だった。ある時、女給が、\n「くにの母さんの病気の見舞いに行くから......」\n と、彼に旅費を無心した。彼は言われた額の二倍くれてやった。\n ところが、その女給は見合いに帰ったのだと判ったが、章三は、\n「見舞いと見合いは一字違いやが、考えてみたら、えらい違いや」\n と、笑っていた。そして、その女給が縁談がまとまって、バーへ挨拶に帰って来ると、\n「これ葬式の費用や」\n と、結婚の祝をくれてやった。\n しかし、その女給は半年たたぬうちに、夫婦別れして、もとのバーへ戻って来た。そして、章三をパトロンにしようとした。彼は金をやったが、手をつけようとしなかった。女は彼をホテルへ誘った。彼は別に部屋を取った。女はバーのわらい者になった。\n それが彼の三十の年だった。\n それから五年がたち、三十五歳の章三は、終戦直後の北浜に木文字商事会社の事務所を持っていた。株で四五十万円は儲けたのだろうかと、貴子が田村の改造費のことを相談に行くと、ただ一言、\n「京都へ行ったら泊めてくれ」" }, { "role": "assistant", "content": " と、二百万円だしてくれた。\n 二号になれという意味だろうと貴子は察してむろんそれは百も承知だという顔をしたが、ところが章三はその後土曜日の夜ごとにやって来ても、口説こうとしない。\n たまりかねて、到頭貴子の方からむりやりこの美貌のパトロンを口説いてしまったが、その時章三は言った。\n「おれは爪楊枝けずりの職人の息子や。女には金は出すが、金で口説けへん。女の方から惚れて来よったら口説かれてやる」\n その自尊心の強さに、貴子はむっとしたが、しかしこの三十五歳の青年には、何か頭の上らぬ感じだった。\n「何をッ! 爪楊枝けずりの息子が......」\n と、思うが、鋭く迫って来る剃刀の光はヒヤリと冴えすぎていた。仮面のような美しい無表情も気になる。だから、\n「あの子、おれへんな。どないしたンや」\n と、いきなり言われると、どきんとして、\n「あの子......?」\n 京吉のことを勘づかれたのだろうか、土曜日だけは田村へ置かずによそへ泊めているのにと、ひそかに呟いていると、\n「うん。チマ子のことや。チマ子は......?」\n\n五\n\n「チマ子......?」\n わざと問い返して、貴子はワイシャツをぬぎはじめた。\n 章三は黙ってうなずいて、ひそめた貴子の眉に、とっさに答えられぬ表情を読み、それから裸になった上半身を見た。ワイシャツの下はシュミーズもなく、むかし子供をうんだことのある乳房が、しかし二十歳の娘のように豊かに弾んで、ふといやらしい。\n うんだのはチマ子。十六年前、貴子が銀座の某サロンで働いていた頃のことだ。その頃貴子は、文士や画家の取巻きが多く、\n「明日はスタンダールで来い」\n と、言われると「赤と黒」の二色のイヴニングで現れたり、\n「今日は源氏物語よ」\n と、紫の無地の着物で来たりするくらい、文学趣味にかぶれていたが、彼女がパトロンに選んだ姫宮銀造は、大阪の鉄屋でむろん文学などに縁のない男だった。その代り、金があった。貴子は銀造の子をうんだ。チマ子だ。貧しい家に生れて早くから水商売の女になった貴子は、美貌と肉体という女の二つの条件を極度に利用することを、きびしい世相に生きぬいて行く唯一の道だと考えていた。世の封建的な親達が娘の配偶者の条件に、家柄、財産、学歴を考えるのとほとんど同じ自己保存の本能から、貴子は男の条件をパトロンとしての資格で考える女だった。そして男を利用しながら、男を敵と考えて来た。\n だから、チマ子をうんでも、うまされたと考えたのだ。しかし銀造はチマ子を可愛がったから、銀造の本妻が死んだ時、そのあとへはいれたのだが、銀造は既に破産していた。沈没船引揚げ事業につぎ込んで、失敗したのだ。\n 貴子に見捨てられた銀造は満州へ走り、その後消息は絶えたので、サバサバしていると、終戦になりひょっくり内地へ引揚げて来た。みるかげもなく痩せ衰えて田村を頼って来た父親を見ると、チマ子は喜ばぬ貴子の分まで喜んで、あいた部屋へ泊めた。が、ある夜銀造は貴子に挑んだ。貴子は冷酷にはねつけて田村を追い出そうとすると、銀造の方から飛び出したが、一月のちには、どんな罪を犯したのか、大阪の南署から検事局の拘置所へ送られていた。チマ子は差し入れに行った。貴子はきびしく叱りつけ、銀造を見る眼は赤の他人以上に冷たく白かった。チマ子は家出した。\n 浴衣に兵児帯、着のみ着のままで何一つ持たず飛び出したのである。環境のせいか、不良じみて、放浪性も少しはある娘だったから、貴子は箱入り娘の家出ほど騒がなかったが、しかしひそかに心当りは探してみた。そして空しく十日たっている......。\n と、そんな事情をありていに章三に言ったものかどうか。貴子は素早く浴衣をひっ掛けて、\n「チマ子お友達と東京よ。芸術祭とか何とかあるんでしょう。気まぐれな子だから......」\n 困っちゃうわと、東京弁で早口に言うと、章三は、\n「ふーん。東京ならおれも行けばよかった。――いや、用事はあれへん。ただ、あの子と行くのがたのしいんや。どや、あの子おれにくれんか」\n\n六\n\n 貴子ははっとした。\n「チマ子をくれって、あなたあの子に......」\n 惚れてるの――と、あとの方はあわてて冗談にしてしまった。\n「阿呆ぬかせ。――しかし、あの子は面白い子や。おれの顔を見ると、いつも白い侮辱したような眼で、にらみつける。おれはああいう眼を見ると、なんぼでも、おれの財産ありったけでも、出して、おれの自由にしたい――いう気になるンや。あはは......」\n 章三は三十五歳に似合わぬ豪放な笑いを笑ったが、しかしふと虚ろな響きがあり、おまけに眼だけ笑っていなかった。それが油断のならぬ感じだ。\n「金さえ出せば、女はものになると......」\n 思ってるのねと、貴子は浴衣の紐を結んだ。\n「君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな」\n「いやにからむのね」\n「いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや」\n「女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ」\n「つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ」\n「あら。あなたは別よ」\n「別って、どない別や」\n「カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ」\n 窓の外は加茂の川原で、その向うに宮川町の青楼の灯がまだ眠っていなかった。\n「――このお部屋、宮川町からまる見えね」\n いやねえ――と、わざと若い声を出しながらスタンドの青い灯だけ残して、あかりを消したが、章三はいつになく執拗になおもからんで、\n「しかし、憎まれる方がおれはうれしいよ。好かれるためなら、何も二百万円君に貸すもんか。女は佃煮にするくらいいる。東京では紅茶一杯の女もいるということやが、女の地位は上った代りに、相場は下ったもンや。その点、おれに担保、証文、利子、期限なしで二百万円出させた君は大したもンや。しかし、おれが君に金を出したのは、実は君から薄情冷酷という証文を取りたかったからや」\n そして、にやりと冷笑をうかべて貴子を見た。自尊心のかたまりのようなその眼を貴子は全身で受けとめていた。章三はつづけた。\n「――君は、男というものは見栄坊だから、虚栄心をつつけば、けちと思われるのがいやさに、しぶしぶ金を出すものと心得ているらしいが、しかしおれはしぶしぶじゃなかった。喜んで出したぜ。君のような女には、そうするのが一番君を......」\n 侮辱することになるのだと、言いかけた時、玄関から若い女の声が聴えて来た。\n「乗竹さんいらっしゃるでしょうか」\n 陽子だった。\n\n七\n\n 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。\n しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。\n「聴いたような声だな」\n という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。\n「乗竹というと、あの乗竹......か」\n 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、\n「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」\n と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。\n「来てるのか」\n「いやな奴よ」\n「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ......?」\n「へんな女なんか、連れ込んで......。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」\n 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「御意にござります、あれにたおれている少年を介抱して、ひとつしさいをただしてみましょうか」\n「いや、世をしのぶ身じゃ。それはソッと少年の鞘にもどしておいたほうがよい」\n「しかしなにやら、苦しんでおりますものを、このまま見捨ててまいるのもつれないようにぞんじますが」\n「オオ、では、河原の水でもすくってきてやれい。じゃが、夢にも刀のことはきかぬがよいぞ。訊けばこなたの素性も人に気どられるわけになる」\n「しょうちいたしました......」\n と、ひとりが河原へ下りていくと、ひとりは竹童を抱きおこして活をいれ、口に水をあたえただけで、ことばはかけずにスタスタといき過ぎてしまった。\n「ア痛......どなたですか......ありがとうございました。ありがとうございました......」\n 竹童は遠退く跫音へいくども礼をいったが、両手で顔をおさえているので、それがどんな風の人であったか、見送ることができなかった。\n 顔をおさえている指のあいだから、タラタラと赤い血の筋......\n「あ痛ッ......」\n と片手さぐりに河原の水音をたどっていった竹童、岩と岩との間から首をのばして、ザアッと流れる水の瀬で血汐をあらい、顔をひやし、そして目や髪の毛のあいだに刺さッた針を一本ずつ抜いてはまた目を洗っていた。\n そのあいだに――以前の場所の楊柳のこずえから、ヒラリと飛びおりたひとりの女がある。\n 女といってもお婆さんだ。修道士の服をかぶった蚕婆――。\n くろい頭巾の中から、梟のような目をギョロリとさせて、柳がくれに遠去かる三つの網代笠を見おくっていたが、やがてウムとひとりでうなずいた。\n いつか河原は暮れている――\n 青いぶきみな妖星が、四条の水にうつりだした。\n 伊勢路に戦のあるせいか、日が沈んだのちまでも東の空だけはほの赤い。\n「あいつだ! たしかにあいつにちがいない!」\n こうさけんだ蚕婆、妖霊星をグッとにらんで、しばらく首をかしげていたが、まもなく、黒い蝶々が飛ぶように、そこからヒラヒラと走りだした。\n\n南蛮寺百鬼夜行\n\n\n一\n\n 空にはうつくしい金剛雲、朱雀のはらには、観世水の小流れが、ゆるい波紋をながしている。\n 月はあるが、月食のような春のよい――たちこめている夜霞に、家も灯も野も水も、おぼろおぼろとした夜であった。いつともなく菊亭右大臣家の釣り橋にたたずんだ三人づれの旅僧は、人目をはばかりがちに、ホトホトと裏門の扉をおとずれていた。\n「はて、まだ答えがござりませぬが、どうしたものでござりましょう」\n やがて、当惑そうにつぶやく声がきこえた。\n「まえもって、密書をさしあげてあることゆえ、館にはとくよりごぞんじのあるはずだが......」\n「あまりあたりをはばかりますゆえ、まだ詰め侍が気がつかぬのでござりましょう。どれ......」\n となかのひとりが、こころみにまた、閂をガタガタゆすっていると、こんどは、その合図がとどいたとみえて奥にもれていた小鼓の音がはたとやみ、同時に人の跫音がこなたへ近づいてくるらしい。\n ギイ......とうちから裏門の扉があかった。\n ななめに、紙燭の黄色い明かりがながれた。その明かりに、泛いた僧形のかげを見ると、顔をだした公卿侍は、\n「や! これは?」\n とおどろいたさまで、すぐに、ふッとかざしてきた紙燭を吹きけしてしまった。\n「意外にお早いお着き、お館さまもお待ちかねでござります。いざ......」\n あたかも、貴人の微行でも迎えるように、いんぎんをきわめて、扉のすそにひざまずいた。網代笠をかぶった三人の僧形は、黙々として、その礼をうけ、やがてあんないにしたがって、菊亭殿の奥へ、スーッと姿をかくしてしまった。\n ふたたび閉めきられた裏門は、秘密をのんでものいわぬ口のようにかたく封じられた。夜はふけてくるほど、草にも花にも甘い香が蒸れて、あとはただ釣り橋の紅梅が、築地をめぐる水の上へ、ヒラ、ヒラと花びらくろく散りこぼれているばかり。\n すると、その濠ぎわの木のかげから、ツイとはなれた人影があった。黒布をかぶった妖婆である。いうまでもなく、それは加茂の堤から、三人の僧をつけてきた蚕婆――\n 修道士すがたの黒いかたちが、朧月の大地へほそながく影をひいた。婆はヒラヒラと釣り橋のそばまできて、かたく閉じた裏門を見まわしていたが、やがて得意そうに「ひひひひひひひひ」と、ひとりで笑いをもらした。\n「あれだあれだ、やっぱりわしの目にまちがいはなかったぞよ。あの三人の僧侶のうちのひとりがたしかに武田勝頼、あとのふたりは家来であろう。うまく姿をかえて天目山からのがれてはきたが、もうこの婆の目にとまったからには、運のつき......すこしも早く、呂宋兵衛さまへ、このことを知らさなければならぬが、めったにここをはなれて、また抜けだされたら虻蜂とらずじゃ、ええ、あの半間の燕作のやつ、いったいどこへいってしまったのだろう」\n ブツブツ口小言をいいながら、濠のまわりをいきつもどりつしていると、向こうから足をはやめてきた男が、ひょいと木を楯にとって、\n「だれだ! そこにいるなあ?」\n と、ゆだんのない目を光らした。\n「おや、おまえは燕作じゃないか」\n「なアんだ、婆さん、おめえだったのか」\n と、声に安心して、早足の燕作、木のそばをはなれて蚕婆のほうへのそのそと寄ってきた。\n「どうしたんだい、半間にもほどがあるじゃないか」\n と婆は燕作を息子のように叱りつけて、\n「竹童みたいな小僧には斬りまくられ、旅僧ににらまれればすぐ逃げだすなんて、いくら町人にしても、あまり度胸がなさすぎるね」\n「婆さん婆さん、そうガミガミといいなさんな。あれでも燕作にしてみりゃ、精いっぱいにやったつもりなんだが、なにしろ竹童のやつが必死に食ってかかってきたので、すこし面食らったというものさ。だがおまえが木の上にかくれていて、れいの針をふいてくれたので大助かりだッたぜ」\n「そうでもなければ、おまえさんは、あんな小さな者のために、般若丸のためし斬りにされていたろうよ」\n「まったく! あいつは鷲乗りの名人だとは思ったが、剣道まで、アア上手だとは夢にも気がつかなかった」\n「なアに竹童は剣術なんて、ちっとも知っていやしないのだけれど、おまえのほうが弱過ぎるのさ。だがまア、そんなことはもうどうでもいいや、燕作さんや、一大事が起ったよ」\n「え? またいそがしくなるのかい」\n「用をたのみもしないうちから、いやな顔をおしでないよ。おたがいにこれが首尾よくいけば、呂宋兵衛さまも一国一城の主となり、わたしや、おまえも秀吉さまからウンとご褒美にありつけるんじゃないか、しっかりしなくッちゃいけないよ」\n「合点合点。ところでなんだい、その一大事とは」\n「それはね......」\n 婆はギョロリと館のほうへ目をくばってから、燕作のそばへすりよって、その耳へ口をつけてなにやらひそひそとささやきだした。\n しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作。\n「えッ、じゃさっきの旅僧が、天目山からのがれてきた勝頼だったのか」\n「しッ......」\n その素頓狂な声をおさえつけて、\n「わたしはここに見張っているから、はやくこのことを呂宋兵衛さまに知らせてきておくれ。こんな役目はおまえさんにかぎるのだから」\n「よしきた! おれの足なら一足とびだ」\n「そして、すぐに手配をまわすようにね」\n「おッと心得た!」\n いうが早いか燕作は、朱雀の原をななめにきッて、お手のものの韋駄天ばしり、どこへ駈けたか、たちまち、すがたは朧の末にかくれてしまう。" }, { "role": "assistant", "content": " あとにのこった蚕婆は、黒い袖を頭からかぶって、釣り橋のかげにピッタリと身をひそめている。そして菊亭殿の奥のようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい大殿作りの内からは、あれきり鼓の音も人声ももれてはこず、ただ花橘や梅の香に、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。\n\n二\n\n 駈けるほどにいくほどに、早足の燕作は、さっさつたる松風の声が、しだいに耳ちかくなるのを知った。臥龍に似たる洛外天ヶ丘のすがたは、もう目のまえにおぼろの空をおおっている。\n「アア、息がきれた......」\n よほどいそいだものと見えて、さすがの燕作も、そこでホッと一息やすめた。\n 丘はさして高くはないが、奇岩乱石の急勾配、いちめんに生いしげっている落葉松の中を、わずかに、石をたたんだ細道が稲妻形についている。\n「どりゃ、もう一息――」\n というと燕作は、兎のようにその道をピョイピョイと登りだした。やや中ごろまでのぼってくると、道は二股に分れて右をあおぐと、石壁の堂に鉄骨の鐘楼がみえ、左をあおぐと、松のあいだに朱い楼門がそびえていた。燕作はひだりの朱門へさして駈けのぼった。\n これこそ、有名な洛外天ヶ丘の朱門。\n なんで有名かといえば、その門作りがかわっているためでもなく、風光明媚なためでもない。ここのいただきの平地に、織田信長の建立した異国風の南蛮寺があるからである。\n まだ信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、みなこの南蛮寺に住んでいた。そして仏教の叡山におけるがごとく、ここに教会堂を建て、十字架の聖壇をまつり、マリヤの讃歌をたたえて、朝夕、南蛮寺のかわった鐘の音が、京都の町へもひびいていた。\n しかし、本能寺の変とどうじに、異国の宣教師たちは信長というただひとりの庇護者をうしなって、この南蛮寺も荒廃してしまった。そして無住どうようになっていたので、秀吉は呂宋兵衛に、天ヶ丘へ居住することをゆるした。だが、南蛮寺をおまえにやるぞとはいわない。しばらくのあいだ、あれに住めといったばかり、要するに呂宋兵衛は、荒廃した南蛮寺の番人におかれたわけである。\n だが、慾のふかい呂宋兵衛は、もう南蛮寺を拝領したようなつもりで、すっかりここに根を生やし、またボツボツと浪人者を山内へあつめて、あわよくば、一国一城の主をゆめみている。\n だから、むろん、祭壇はあれほうだいだし、もとの教会堂には、槍や鉄砲をたくわえこみ、うわべこそ伴天連の黒布をまとっているが、心は、人穴時代からかわりのない残忍なるかれであった。\n「よくいう諺に、天道さまと米の飯はつきものだというが、まッたく世のなかはしんぱいしたものじゃない。人穴城がなくなったと思えば、こんないい棲家がたちまちめっかる。わはははは、富士の裾野だの大江山だのにこもっているより、いくら増しだか知れやしねえ。しかもこんどは、羽柴秀吉から公にゆるされているのだからなおさら安心、しかし、だれもかれも、悪事をやるなら上手にやれよ、裾野とちがって都のなか、あの秀吉ににらまれると、おれもすこし困るからな」\n 広間には、燃えるような絨氈をしきつめてあった。そこは南蛮寺の一室。四方に大きな絵蝋燭をたて、呂宋兵衛は、中央に毛皮のしとねをしき、大あぐらをかいて、美酒をついだ琥珀のさかずきをあげながら、いかにも傲慢らしい口調でいった。\n「なあ昌仙、そんなものじゃないか」\n「仰せのとおり、こうなるのも、頭領のご武運のつよい証拠でござる」\n そばにいて、相槌を打ちながら、頭をさげた武士の容形、どこやら、見たようなと思うと、それもそのはず、人穴落城のときに、法師野までともに落ちてきて別れわかれになった軍師、丹羽昌仙だ。\n 席には、昌仙以外にも、人穴城から落ちのびてきた野武士もあり、あらたに加わったやくざ浪人もいならんでその数四、五十人、呂宋兵衛のお流れをいただきながらどれもこれも、軽薄なお追従をのべたてている。\n\n三\n\n ところへ、朱門をぬけて、本堂の階段からバラバラと駈けあがってきたのは早足の燕作。\n「お頭、とうとう目っけてまいりました」\n と、廻廊のそとへ、膝をついて大汗をふいた。\n「おう、燕作か」\n と、呂宋兵衛は、大広間からかれのすがたを見て、\n「目っけてきたとは吉報らしい。ではなにか、勝頼の在り家が、知れたというのか」\n「へい......それなんで」と燕作は、唾で喉をうるおしながら、\n「じつあ、きょうも、それを探索するために、蚕婆とふたりで、加茂川の岸をブラブラ歩いていると、ごしょうちでがしょう、あの鞍馬の竹童のやつがボンヤリ堤に腰かけていたんです。見ると、すがたに似合わぬ名刀をさしているので、こいつ一番セシめてやろうと、蚕婆はやなぎの木の上にかくれ、わっしはそしらぬ顔で、なれなれしく話しかけたものです」\n「やいやい、燕作!」\n ふいに呂宋兵衛が魔のような口を開いてさえぎった。\n「バカ野郎め。目っけたというのはその竹童のことをいうのか。ふざけやがッて! だれがあんな小僧をさがせといいつけたのだ」\n「ま、ま、待っておくんなさい」と燕作はちぢみあがってどもりながら、\n「その竹童のことは、話の順序なんで......じゃ、てッとり早く本筋をもうしあげます。そこへ通りかかった三人の旅僧、挙動があやしいので蚕婆がつけていくと、朱雀の原の......ええと......なんといッたっけ......おおそれそれ菊亭右大臣という公卿屋敷の裏門から、こッそり姿をかくしました。そのうちのひとりは、たしかに、武田勝頼にそういないから、すぐこのことを、呂宋兵衛さまにお知らせもうせという蚕婆からの言伝なんで」\n「ウーム、そうか......」\n と、呂宋兵衛はやっとまんぞくそうにうなずいたが、まだうたがい深い顔をして、\n「どうだろう、昌仙、そいつアたしかに勝頼かしら?」\n「さよう......」\n と丹羽昌仙、じッとうつむいてかんがえていたが、なにか思いあたったらしく、丁と膝をうって、\n「たしかにそういござるまい!」\n と断言した。\n「どうしてそれがわかるのだ」\n「そのわけは、菊亭家と、武田の祖先とは、縁戚のあいだがら。のみならず、勝頼の祖父信虎とは、ことに親密であったよしを、耳にいたしました。さすれば、いま天下に身のおきどころのない、落人が、そこをたよってくるのは、まことに自然だとかんがえます」\n「なるほど、ウム......さてはそうか!」\n と呂宋兵衛は、昌仙の説をきいて、それこそ、落人勝頼の化身にちがいなかろうと、大きく一つうなずいた。\n で、すぐに、それを召しとる方法を議しはじめたが、昌仙にも名案がなくなかなかそうだんがまとまらない。なぜかといえば、菊亭右大臣ともある堂上の館へ、うかつに手を入れれば、後日朝廷から、どんなおとがめがあるかもしれないから――これは秀吉じしんの手をもってしても、めったなことはできないのであろう。\n といっても、あのやかましい秀吉から、その捕縛をいいつけられている呂宋兵衛は、なんとしても、勝頼を秀吉の面前へ拉致していかなければ、たちまち、かれの信用が失墜することになる。\n ――策はないか! 策はないか! なにかいい名策はないか! と呂宋兵衛はややしばらく、額を押さえて考えこんでいたが、やがてのこと、\n「うむ、どうしても、こよいをはずしてはなおまずい。昌仙、耳を......」\n 決断がついたか、あの大きな碧瞳をギョロリと光らし丹羽昌仙の耳もとへなにかの計略をささやいて、ことばのおわりに、\n「よいか!」\n ときつく念をおした。\n「ご名案、心得ました」\n「ではさきにでかけるぞ、燕作、その菊亭の館へあんないをしろ」\n 呂宋兵衛は、くろい蛮衣をふわりとかぶって立ちあがり、早足の燕作をさきにたたせて、風のごとく、天ヶ丘から駈けだした。\n 満山を鳴らして、ゴーッという一陣の松風が、朧月へ墨をなすッてすぎさった。と、呂宋兵衛が、立ちさったのち、――南蛮寺の絵蝋燭は一つ一つふき消されて、かなたこなたから狩りだされた四、五十人の浪人が、いずれも覆面黒装束になって、荒廃した石壁の会堂へあつまってくる。\n ガチャン! という錠前をはずす音。ガラガラとおもい鉄の扉を開けるひびき――。そして狼が食い物へとびつくかのように、覆面の者どもが一せいにそのなかへゾロゾロはいると、たちまち鉄砲、鉄弓、槍、捕縄など、おもいおもいな得物をえらび、丹羽昌仙の指揮にみちびかれて、百鬼夜行! 天ヶ丘からシトシトと京の町へさしてまぎれだした。\n\n木の葉笛竹童嘲歌\n\n\n一\n\n 風もないのに、紅梅や白梅の花びらが、釣り橋の水に点々とちって、そのにおいがあやしいまで闇にゆらぐ。――と、更けわたった菊亭家の裏門のあたりから、築土をこえて、ヒラリと屋敷のなかへ忍びこんだ三つの人かげがある。\n 月ヶ瀬の景趣をちぢめたような庭作り、丘あり橋あり流れあり、ところどころには、蟇のような石、みやびた春日燈籠の灯が、かすかにまたたいていた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " このような思想は不幸にして、人間の人間味を向上させるためには無効力であった。却って不良性を増長させるのに持って来いの傾向であった。全人類の享楽性はここから湧いた。\n\n学校と父兄が生徒に頭が上らぬ\n\n 日本人の頭は何等の中心力を持たぬ。「正しい」とか「間違っている」とかいう判断の標準を持たぬ。「善」とか「悪」とかいう言葉よりも、「新しい」とか「古い」とかいう言葉の方がはるかに強い響を与える。\n そこへこの世界的不良傾向が流れ込んだからたまらない。\n 政治、宗教、芸術、教育方面には特に著しくこの傾向が現われた。昇格問題や徴兵猶予、又は無試験入学に関する各種の運動、又は官私立の区別撤廃といったような叫びが起った。\n 自発的教授法、自由画、自由作文、児童の芸術心を尊重するという童謡、童話劇、児童劇なぞが盛に流行した。何事も子供のためにという子供デーなぞが行われた。「子供を可愛がって下さい」というような標語が珍らし気に街頭で叫ばれた。\n それまではまだ無難である。\n 尋常一年生位が遅刻しても、\n「まだ子供ですから」\n という理由で叱らない方針の学校が出来た。大抵の不良行為は、「自尊心を傷つける」という理由で咎めない中学校が出来始めた。\n 親が子供を学校にやる時代から、子供が学校に行ってやる世の中になりかけて来た。\n 先生が生徒に頭を下げて、どうぞ勉強して下さいという時代に変化しかけて来た。\n 学校へ行くという事のために、子供は親にいくらでも金を要求していい権利が出来そうになって来た。同時に服装の自由はもとより、登校の自由、聴講の自由までも許さなければ、学校の当局がわからず屋だと云われる時勢となって来た。\n\n東京に鬱積した不良性\n\n 金取り本位、人気取り専門の私立学校や職業学校、又はその教師たちは、先を争ってこの新しい傾向に共鳴した。前に述べた各種の運動でねうちを削られた官立の諸学校も、多少に拘らず、こんな私立学校とこんな競争をしなければならぬというような気合になって来た。\n 学生の自由は到る処に尊重された。無意味に束縛されていた人々が、今度は無意味に解放されるようになった。\n その結果は、益男女学生の自堕落を助長するのみであった。\n 若い人々に無意味の自由を与えるという事は、無意味に金を与えるのと同じ結果になる。いい方に使おうとしないのが大部分である。\n 最近の日本の無力な宗教家、道徳家、政治家、教育家及一般社会の人々は、総掛りで少国民の向上心を遮った。堕落の淵に落ち込むべく余儀なくしてしまった、と云っても過言でない。\n そうして、この傾向の最も甚だしかったのは震災前の東京であった。\n 都会の少年少女は取りわけて敏感で早熟である。就中東京の少年少女は最も甚だしい。東京人がその敏感と早老を以て誇としているように、少年少女もその早熟と敏感とをプライドとしているかのように見える位である。\n 彼等少年少女は逸早くこの世紀......〔以下数行分欠〕......\n 性教育の必要はその中から叫ばれ始めた。これは解放教育の結果がよくないのを見て、まだ解放し足りないところまで公開せよ、そうしてあきらめをつけさせろという議論である。\n ところへ過般の大地震が来た。解放も解放......実に驚天動地の解放教育を彼等子女に施した。\n .........連載一回分(二千字前後)欠.........\n\n男女共学と異性の香\n\n 震災後、東京の各学校の大多数は、一種の男女共学を試みねばならなかった。\n 焼け出された女の学校が、男学校の放課後を借りて授業を続けた。倒れた学校の男学生が、女学校の校舎を借りて夜学をしたなぞいう例がいくらもあった。\n これがわるかったと警視庁では云う。\n 都会の子女は敏感である。彼等は、僅の時間を隔てて同じ机に依る事に、云い知れぬ魅惑をおぼえた。そこに残る異性の手すさびのあと、そこにほのめく異性の香はこの上もなくなつかしまれた。そこに落ちている紙一枚、糸一筋さえも、彼等には云い知れぬ蠱惑的なものに見えた。殊にその校舎の中の案内を知ったという事は、その子女の不良化に非常な便宜を与えたという。\n こうして彼等はその異性の通う学校に云い知れぬ親しみを感ずるようになった。そうした男女共学が止んでも、その魂はその校舎の中をさまようた。その筋に上げられた子女、又は記者と語った不良少年で、この心持ちを有りのままに白状したものが珍らしくない。\n\n地震後の学校のサボの自由\n\n 男の学校を借りて男の生徒を教育したのにも弊害が出来た。\n 午前、午後、夜間と引き続いて教授をしたところなぞは殊にそうであった。\n そうした学校の付近の飲食店やミルクホール、カフェーなぞは不良学生の巣窟となった。午前中から来る学生は、放課後そんな処に居残って、午後に来る少年を待ち受ける。夜間に来る不良生徒は、早くから来て飲み喰いをしながら、純良な美しい少年を引っかけようと試みる......といった風で、どちらにしてもいい事は一つもなかった事も原因している。\n そうしたさなかの事とて、学校当局はもとより、父兄側の取締の不充分であった事も勿論であった。\n このような一時間に合わせの授業が、校舎の都合や教師の不足等のため、授業開始や放課の時間を改めたり、又は場所を換えたりするのは止むを得なかった。\n そのために生徒は何度も面喰らわせられた。うっかりすると真面目な生徒にでさえも、この頃の課業はいい加減なものだという感じを抱かせた。\n 一方、父兄も共に、子女が「今日は学校は午後です」とか、「今日は午前です」とか、「学校がかわったから」とか、「一時休みです」とかいうので、かなり間誤付かせられた。\n このような事実は、なまけものの生徒にとって、この上もない有り難い口実であった。震災後の、万事に慌ただしい、猫の眼のようにうつりかわる気分に慣れた父兄は、わけもなく胡麻化された。日が暮れて帰って来ても、「今日は課業が夜になっちゃって」と済ますことが出来た。\n こうしたエス(学校を勝手に休む事)の自由が、どれだけ学生の堕落性を誘発したか知れぬ。\n\n吹きまくる不良風\n\n 震災前、東京には各種の学校が、著しい増加の傾向を示した。\n 私塾程度のものから、半官立と云っていいもの、又は純然たる官立のものまで、あらゆる階級と種類がミッシリと揃った。そのために官立は真面目なもの、私立はズボラなものという、昔の区別が曖昧になって来た。\n 同時に、私立に通う男女生徒の服装に、官立と見分けのつかないのが殖えて来た。殊に私学の権威が高まったこと等は、一層、この官立の真面目さと、私立の不真面目さを歩み寄らせた。\n 男の生徒では、私立の職業学校生徒も、官立の生徒も、睨みの利き方が同等になって来た。女学生では、私塾の生徒も、大きな学校の生徒も、幅の利け方が似寄って来た。\n 官立も、私立も鳥打帽が大流行で、職業婦人の卵も、賢母良妻の雛っ子も、踵の高い靴を穿いた。\n 取締のゆるい学校生徒が、厳重な学校生徒を恐れなくなって来た。\n こんなのが震災後ゴチャゴチャになって、時間を隔てた――又は隔てない共学をやった影響がどんなものであるかという事は想像に難くない。\n 不良風はその後益増加した各種学校の官私立を隔てずに吹きまくった。驚くべく悲しむべき出来事が到る処に起った。\n\n家庭の価値がゼロ\n\n 東京は昔から不良少年少女の製造地として恐れられていた。そこへこの間の欧州大戦が思想上から、又、大正十二年の大地震が実際上から影響して、今のように多数の不良少年少女を生み出すに到った順序は今までに述べて来た。\n あとに残って少年少女の堕落を喰い止めるものは、唯家庭の感化ばかりである。\n ところが、現在の東京人の家庭の多数はこの力を失っている。お父様やお母様の威光、又は兄さまや姉さまのねうちが零になっている家庭が多い。\n 第一に、現在の親たちと、その子女たちとは思想の根柢が違う事。" }, { "role": "assistant", "content": " 第二に、上中下各階級の家庭が冷却、又は紊乱している事。\n 主としてこの二つの原因があるために、現在の東京の子女には、その家庭に対するなつかしみや敬意を持てなくなっているのが多い。\n\n明治思想と大正思想\n\n 東京は明治大正時代の文化の中心地である。だから、そこに居る子女の父兄たちは、大抵明治時代のチャキチャキにきまっている。\n 明治時代は、日本が外国の物質的文明を受け入れて、一躍世界の一等国となった時代である。だから、その時代に育った人の頭は物質本位、権力本位でかたまっている。\n ところがその子女となると、大抵明治の末から大正の初めの生れで、その頭には欧米の物質文明が生み出した、するどい精神文明が影響している。\n 共産、過激、虚無、その他あらゆる強烈な思想が、宣伝ビラや小冊子となって、欧州大戦の裡面を波打ち流れた――ツァールの帝国主義、カイゼルの軍国主義と戦った――そうして遂に大勝利を博した事を知っている。\n 欧州戦争の結末は独逸に対する聯合軍の勝利でない、我が鉄砲玉に勝った結果であるというような事を小耳に挟んでいる。そうして、その結論として、「個性を尊重するためにはすべてを打ちこわしても構わない」というような声を、どこから聞くともなく心の奥底に受け入れている。\n だから、明治時代の人々の頭に残っている家族主義や国家主義なぞは、とても古臭くて問題にならぬ、何等の科学的根柢を持たぬ――何等の生命を含まぬ思想位に思っている。科学が何やら、生命がどんなものやら知らないままにそう信じている。\n まだある。\n\n家を飛び出したい\n\n 現代の少年少女がその親達から聴くお説教は、大抵、生活難にいじけた倫理道徳である。物質本位の利害得失論を組み合わせた、砂を噛むような処世法である。殊に震災後の強烈な生存競争に疲れ切った親達は、もうそんな理窟を編み出す力さえ無くなったらしい、大昔から何の効能もないときまった、「恩の押し売り」を試みる位が関の山らしい。あとは学校の先生に任せて、「どうぞよろしく」という式が殖えて来たらしい。\n 単純な少年少女の頭は、そんな親たちの云う通りになったら、坊主にでもなった気で味気ない一生を送らねばならぬようにしか思われぬ。親のために生れたので、自分のために生れたのではないようにしか思われぬ。とてもやり切れたものでない。「おやじ教育」なぞいう言葉が痛快がられるのは、このような社会心理からと思われる。\n 少年少女は、だから一日も早く、こんな家庭から逃げ出そうとする。何でも早く家を出よう、独立して生活しよう、そうして享楽しよう......なぞと思うのは上等の方であろう。\n こうした気持ちは東京の子女ばかりではない。地方の子女も持っている。地方の若い人々が「東京に行きたい」と思う心の裡面には、こうした気持ちが多分に含まれているであろう。\n 明治生れの親たちが、その子女から嫌われて、馬鹿にされている裡面には、こんな消息が潜んでいる。\n なおこのほかに今一つ重大なのがある。\n\nお乳から悲喜劇\n\n ついこの頃のこと......。\n 九州方面のある有名な婦人科病院で、こんな悲喜劇があった。\n 或る名士の若夫人が入院して初子を生んだ。安産で、男子で、経過も良かったが、扨お乳を飲ませる段になると、若夫人が拒絶した。\n「妾は社交や何かで、これから益忙しくなるのです。とても哺乳の時間なぞはありません」\n というのが理由であった。付添や看護婦は驚いた。慌てて御主人に電話をかけた。\n やって来た御主人は言葉を尽して愛児のために夫人を説いた。しかし夫人は受け入れなかった。頑固に胸を押えた。\n 御主人は非常に立腹した。\n そんな不心得な奴は離縁すると云い棄てて帰った。\n 夫人は切羽詰まって泣き出した。大変に熱が高まった。\n 付添と看護婦はいよいよ驚いて、一生懸命になって夫人を説き伏せた。夫人が泣く泣く愛児を懐に抱くのを見届けて、又御主人に電話をかけた。\n「奥様が坊ちゃまにお乳をお上げになっています」\n 御主人はプンプン憤って来たが、この様子を見ると心解けて離縁を許した。\n 夫人の熱は下った。無事に目出度く退院した。\n これを聴いた記者は又驚いた。\n 東京風がもう九州に入りかけている。今にわざわざ愛児を牛乳で育てる夫人が殖えはしまいかと。\n\n上流家庭に不良が出るわけ\n\n 東京の社交婦人の忙しさは、とても九州地方の都会のそれと比べものにならぬ。哺乳をやめ、産児制限をやり、台所、縫物、そのほか家事一切をやめて、朝から晩まで自動車でかけ持ちをやっても追付かぬ方がおいでになる位である。その忙しさの裡面には風儀の紊乱が潜んでいる場合が多い。遠慮なく云えば、上流の夫人ほど我ままをする時間と経済の余裕を持っている。\n そんな人の子女に限って家庭教師につけられているのが多い。その又家庭教師にも大正の東京人が多いのである。\n 震災前の不良少年は、大抵、下層社会の、割合いに無教育な親を持つ子弟であった。それが震災後は反対になって来た。上流の方が次第に殖えて来たと東京市内の各署では云う。\n こんな冷たい親たちを持つ上流の子弟が不良化するのは無理もない。\n そんな親様がいくら意見したとて利く筈はない。\n それでも親としてだまって頭を下げているのは、只お金の関係があるからばかりでなければならぬ。\n\n青春の享楽を先から先へ差し押える親\n\n 明治時代の親たちが、大正時代の少年少女の気持ちを理解し得ないのは当り前である。「権利と義務は付き物」という思想では、「人間には権利だけあって義務はない」と思う新しい頭を理解し得られる筈がない。\n 今の少年少女にとっては、学校は勉強しに行く処でない。卒業しに行く処である。又は親のために行ってやるところである。も一つ進んで云えば、学資をせしめて青春を享楽しに行く処である。\n 親はそんな事は知らぬ。\n 早く卒業させよう――働かせよう――又嫁や婿を取らせようと、青春の享楽の種を先から先へと差し押えようとする。\n 少年少女はいよいよたまらなくなる。益家庭から離れよう、せめて精神的にでも解放されようとあせる。\n 華やかな、明るい、面白い、刺戟の強い、甘い、浮き浮きした方へと魂を傾けて行く。そうしていつの間にか不良化して行く。\n 親はこれを知らない。\n 現代の子女がどんな刺戟に生きているかを、明治時代の頭では案じ得ぬ。\n\n良心から切り離されて\n\n 台湾征伐、熊本籠城、日清日露の両戦役、又は北清事変、青島征伐等を見た明治人、勤倹尚武思想を幾分なりとも持っている明治人は、科学文明で煎じ詰められた深刻な享楽主義をとても理解し得ない。日本化された近代芸術が生む不可解な詩――鋭い文――デリケートな画――音楽――舞踊――そんなものの中に含まれている魅惑的な段落やポーズ、挑発的な曲線や排列の表現を到底見破り得ない。\n 一方、都市生活で鋭敏にされた少年少女の柔かい頭には、そんなものが死ぬ程嬉しくふるえ込む。メスのように快く吸い込まれる。\n その近代芸術、又は思想の底に隠されている冷たい青白いメスは、彼等少年少女の精神や感情を、一つ一つ道義と良心から切り離して行く......その快さ......。\n 彼等少年少女は、言わず語らずのうちにそんな感情を味わい慣れている――街頭から――書物から――展覧会から――活動から――芝居から――レコードから――そうして、そんなもののわからぬ親たちを馬鹿にしている。\n 明治人はこうして、大正人であるその子弟から軽蔑されなければならなくなった。それは嘗て自分たちが天保人を時代後れと罵ったのと同じ意味からであった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n第十一回\n\n 扨世話好者の多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを野尻宿の與惣次方へ送り行き前夜の始末を話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に艱難辛苦して溜し金の半分を遣はし其場を濟せし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに感心なし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに奇麗に向ふへ遣し温順き心底なりと傳吉が徳を譽稱へて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の女房は眞棒なり傳吉殿も今江戸より戻り大略元の身代に成らんとなす折柄女房が無ては萬事不都合ならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御遣はしあらば實に幸ひならん此度の事はお專殿の働にて不思議に金子手に戻り殊に發明なる性なれば何と與惣次殿我々斯申も言ば傳吉殿に牛を馬に乘替させ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其許の胸一ツ何卒兩人夫婦にさせては呉まいかと無造作に頼めば與惣次承知なしお專を養女に貰ひ受け傳吉に添せることに取極め翌日は吉日なればとて上臺憑司其他の人を打招き與惣次を舅入一所にして首尾能く婚姻なしける\n\n第十二回\n\n 偖祝儀も濟みて與惣次と傳吉お專而已なればお專傳吉に打向ひお早どのは私しが養母にてお梅どのは私しの姉なり豫てお咄し申せし如く私十二歳の時に病氣の父を捨て家財殘らず掻さらひお梅どのを連欠落なせしかば私に逢ては恥かしく夫ゆゑ參らぬと見えたり然乍ら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉吃驚なし其方が咄せしは我が叔母にて有けるや餘所のことぞと聞てさへ憎しと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと驚入るぞ道理なりお專又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿と譯あらん依てお前を倒し我が子を夫婦となせし上自分も共に樂まんと櫛を盜ませ金を騙り取らせしならんと云ふに與惣次打點頭成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせ針ある魚は汀に寄る骨肉なりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が野尻へ退きて暫時身の安泰を心掛られよと諫めければ傳吉は是を道理と歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ引移り商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに面伏なるゆゑ是幸ひと早速承知なしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に野尻へ引移りしかば與惣次も老人故家内の世話は傳吉夫婦に任せけるに傳吉は正直實義の男なれば何づれも深切に取扱ひ殊にお專は發明ゆゑ與惣次も安堵なし茲に二三年を送りける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が村中に居ざるを喜悦奢り増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金を拵へ其上村の持山を村人に相談もせず金三十兩餘に賣横領のありければ百姓共は堪忍成難しと高田の役所へ訴へければ役人吟味のうへ憑司事重々不屆の儀に付村役召放され其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨嚴敷仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて惣寄合商議せしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主役仰せ付られ下さるやうに願はんと評議一決なし其段願ひ出しに付榊原家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければ爰に於て傳吉は寶田村の名主になり昔に歸る古卿の錦家を求て造作なし夫婦の中も睦しく樂き光陰を送けり偖又夫に引替上臺憑司は己が惡きに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故に斯る禍ひに逢たりと理も非も分ず傳吉に村役を取られしとて深く恨み高田の役人へ手を廻し此怨を晴さんと種々工夫を巡らしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に賄賂を遣ひ傳吉のことを惡樣に言なしける傳吉は元正直律義の生れ故諂ふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人供傳吉は行屆ぬ者と思ひしより遂に憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に落度もなく別に咎むべき筋もなければ其儘になし置を憑司は何にしても先役に立歸らんと色々賄賂を遣ひけれども是ばかりは急のことにも埓明ず親子商議しけれども金は容易に調ひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意を致し日暮れに寶田村を立出猿島河原まで來りしが手元の暗ければ松明を燈さんとて火打道具を見るに火打石を忘れたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立の後に火打が殘つて有る故急ぎ忘れしと見えたり屆け呉んと親の上臺は後より携て馳たりしが昌次郎とは往違ひに成たり偖又譚替つて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助若き女を脊負て渡り來りて河原に動さりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を兄樣とぬかしをれ只た三年の苦みだ斯己に見付つたが百年目否でも應でも賣ずにや置ぬと威す言葉も荒ぐれに女は涙の顏を上何卒免してたべ妾は源次郎と言夫のある身金子が入なら夫より必ずお前に進せん何卒我家へ回してと泣々詫るを一向聞ず彼の雲助は眼を剥だし是程に言ても聞分ぬ強情阿魔め然らば此所で打殺し川へ投込覺悟をしろと手頃の木の枝追取て散々に打けるをお梅は片邊に見居たりしが迯出さんとする所を雲助眼早く見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しを聞きたる奴は逃しはせぬと飛掛つて捕る袂を振拂ひお梅は聲立人殺し人殺しぞと呼所へ昌次郎の後追うて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑを聞其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽ父さん何卒助けて下されと聞くより上臺は馳寄るに雲助は是を見て邪魔だてなすなと棒振上打て掛るを引外し脇差拔て切懸るに彼の雲助は逃乍ら女を楯に受ると見えしが無慘や女は一聲きやつと叫びしまゝに切下げれば虚空を掴んでのた打間に雲助又も棒追取上臺が膝を横さまに拂へば俯伏に倒るゝ所を雲助は乘掛りつゝ打のめしたる折からに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が肩先深く切付ればウンと倒れるを上臺は漸々起上り一息ほつとつき親子三人は顏を見合せ互ひに無事を悦びつゝ頓て四傍を見廻せば片邊に女の倒れ居て朱に染息も絶たる樣子なりとて憑司は礑と手を打是と云も元は傳吉から起たこと然らば此死骸へ昌次郎お梅が着類を着せ此所へ殘し置き我また別に能工夫ありとてかの曲者並びに女の首を切つて川へ流し二人の着類を着せ替て昌次郎夫婦は甲州路より江戸へ赴かせたり" }, { "role": "assistant", "content": "\n第十三回\n\n 偖又憑司は其夜昌次郎を立せやり草履に血の付たるを持て傳吉宅へ忍び込庭の飛石へ血を付置き夫より高田の役所へ夜通しに往て訴へ捕方を願ひける偖又傳吉方にては斯ることの有りとは夢にも知らざれども所謂物の前兆ならんとお專が見たる夢の惡しければ夫傳吉に此事を語り其吉凶を猿島川の向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上を占ひ貰へ給はれとお專が勸むるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の侍士に逢ひ能々見れば先年新吉原の三浦やに勤し頃同家の空蝉の許へ毎度通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり立止るを先方にも貴樣は傳吉ならずやと云ふに久々にて御目に懸りたり何の御用にてと尋ねければ源次郎は大いに急込たる樣子にて然ば貴樣が三浦やの暇を取し後空蝉を受出し名も千代と改めて我妻となしけるが實親は越後に在るとのこと故彼れが實家を尋ねんと此地へ來り今朝馬丁の惡漢が我が妻ちよを勾引何れへか引込みしが跡より追懸尋ぬれ共一方行方知ず所々方々尋ね居れりと物語りけるに傳吉聞て偖て憎き奴の仕業かな偖々御困りならん何れにか御商議申上げん程に私し方へお出あれ然共只今は急ぎの用事して猿島川まで罷越せば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに苦勞の折柄右と左りへ別れける斯て傳吉は畑村の占ひ者の宅へ急ぎ行き夢物語りして吉凶を委細尋ねければ占ひ者暫時勘考せしが是は大凶なり其故は斯く〳〵と傳吉か身に後大難のあることを判斷なして此上信心が肝要なりと申しけるにお專も大いに心配なし然らば明日より鹽斷なり斷食なりして信心を致しお前の身に凶事なき樣に致さんと夫婦は來方行末を思ひ續けて夜は遲く打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見てお前裾に血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉は驚ながら打返して見れば裾裏所々に血の付て居る故是は不思議なる事哉昨夜河原にて物に躓きけるを偖は人にても切れて居たるやと見れば庭の飛石にも草履にて血を踏付たる跡ありけるに依て草履を返し見れば血の付て居ざるにそ偖不思議成ことなりとて血を洗ひ落さんと夫婦水を汲きて庭石を洗はんと爲所へ上臺憑司が案内にて關田の捕方内へつか〳〵と入くるに傳吉夫婦は何事やらんと驚くを後眼に掛憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人上意の聲と諸共に縛めける傳吉大いに驚き私し身に取犯せる罪は決してなしと言ひけれども捕方は耳にも掛ず申し分あらば奉行所に於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は狂氣の如く是は何故の御捕方と後背掛て往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲を惜まず嘆きしが偖ては前夜の夢は此前兆にて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人を拵へての惡巧みか如何せんと獨り氣を揉折柄に近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は召捕れしと種々評議に及頓て女房おせんを連組頭百姓代共打揃ひ高田の役所へ罷り出御慈悲を願ひけれ共一向取上にならず傳吉は入牢申付られ女房おせんは村役人へ預け遣す旨申渡されける\n\n第十四回\n\n 時に享保十年九月七日越後高田の城主榊原家の郡奉行伊藤伴右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へ揃ひければ繩付のまゝ傳吉を引据訴訟人上臺憑司をも呼出し伊藤は嚴めしく白洲を見廻し如何に傳吉汝猿島河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる仔細なるや有體に申せと云ひければ傳吉漸々頭をあげ恐れながら私し愚成と雖も村役を相勤め御法度は辨へ居れば爭でか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し親類に御座候へば何故意恨等を含み申さんやと云ふを默れ汝人を殺さぬ者か衣類の裾に血を付け其の上我が入口の飛石へ血の跡を殘すべき此段は憑司が訴への通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやと詰れば傳吉は私し昨夜畑村より日暮て歸る時河原にて物に跌き不審に存じ候が定めて酒に醉し人の寢て居ることゝ存じ咎められては面倒と脇へ寄て通り拔しが眞の闇ゆゑ死人とは一向存じ申さず今朝衣類并びに庭の敷石等へ血の着居りしを見出し驚き申候然れば昨夜跌づきしは全たく殺害されし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はん恐ながら此儀御賢慮願ひ奉つるといふをも待ず小野寺源兵衞席を進み聲荒くいかに傳吉汝邪辯を以て役人を欺く段不屆千萬なり其の申分甚だ暗く且又裾の血而已に有らず庭のとび石に足痕あるは既に捕手の役人より申立し如く其血を夫婦にて洗ひ落さんと成しゝ機捕手の者罷り越召捕しと申ぞ是天命逃れざる所なり之にても未だ陳ずるやと威猛高になつて申けるに傳吉は恐れながら裾并びに敷石に血の着たるを以て證據と遊され候事一應御道理には候へども私し家内の脇差出刀庖丁の類刄物御取寄御吟味下され候へば御疑も解申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は從弟なり又妻梅は私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居り斯の如く繋る親類ゆゑ假令一旦の恨みあり共親身の者爭か殺さるべきやと義理分明に辯解くを川崎金右衞門聲をあげ默れ傳吉威しく言葉を飾り刄物の吟味を申立るが夫を汝に習んや其意趣ある事を言聞さん憑司事先年村持の山を伐たる咎に依て村役を退けたり其跡役は上の思召にて汝を村長に致したる處御意を振ふ故村中の者先代憑司が時の取計らひを慕ひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の意趣に存じ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に馴染の出來しまゝ無體に離縁を致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中睦まじきを妬み昌次郎が柏原へ行て暮て歸るを待伏河原にて切殺し猶知れざるやうにと首を切つて隱すなど言語に絶えし惡業なりコリヤ首は何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふを側から憑司は額づきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども近頃は一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝に限り用事もこれなきに私し方へ參り悴夫婦が柏原へ行事を承知いたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子を窺ひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ思掛なきことを申さるゝものかな我あの朝は斯樣々々の用事にてと云はんとすれば伊藤は打消默れ傳吉汝何程僞りでも淨玻璃の鏡に掛て見るが如く己が罪は知れてあり然らば拷問に掛て云はして見せんと笘を以て百許り續け打に打せければ憐れむべし傳吉は身の皮破れ肉裂て血は流れて身心惱亂し終に悶絶したるゆゑ今日の責は是迄にて入牢となり之より日々に責られけるが數度の拷問に肉落て最早腰も立ず纔かに息の通ふのみにて今は命の終らんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやう斯る無體の拷問は偏に上臺憑司が役人と腹を合せてなすと見えたり假令幾度辯解する共證據なければとても遁れ難し長く苦痛せんよりは身に覺えなき罪に落て死を早くなし苦痛を逃れんものと覺悟をぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程僞はりても惡事は最早知れてあり其夜暗闇にて昌次郎と爭ひしを聞居たる者あつて御領主へ疾に申上たれば此上陳ずるとも無益なりと申しければ傳吉は熟々と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪に陷る我が身にまつはる災厄とは言ひながら我朝は神國なるに神も非禮を請給ふか正實の頭に神舍ると世の諺も僞りかや嗟情なきことどもなりと神を恨み佛を詫ち頻りに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに急立一言の答へなきは愈々僞りなるべし白状せぬからは骨を割つても言はせて見せんと大音に罵しり又もや拷問に懸んとす然るに傳吉は最早覺悟の事なれば疲れたる聲をして暫らく拷問は御用捨に預かりたし實は私し昌次郎に恨みあるにより彼等が歸り道に待伏し猿島河原にて二人の者を切殺し首を落して川へ投入れたるに相違これなく候御定法通り御所刑仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て爪印をさせよ又追て呼出さんと牢へ送りけり又同年九月廿一日同白洲へ呼出しに相成上臺憑司并にお早も罷出牢よりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共訴への趣きにより傳吉を段々吟味致せし所彌々兩人を殺したる趣き白状に及びたり依て罪の儀は追て仰付らる則ち傳吉が口書の趣き承まはれと讀聞せければ憑司は誠に御役所の御仁惠を以て悴と嫁の敵を取候事嘆きの中の喜びにして是偏に御上の御威光有難き仕合せに存じ奉ると申し述ける體誠しやかに見えしかば傳吉は覺悟のことゆゑ只頭を下て嘆息の外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專は夫の入牢なしたる日より種々に心を痛め如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせて兎も角も相談せんと思ひ直に野尻の與惣次方へ往んと支度をなしたる處へ養父與惣次息繼敢ず馳來ればお專は打悦び挨拶の先にたつのは涙にて左右詞出ざれば與惣次はお專に向ひ其嘆きは道理なり昨日聞きたる傳吉の災難直參らうと氣は急といふとも何も寄る年に心の如く身は動かず漸々馳出し參りたり仔細は何じやと尋ぬるにおせんは涙の顏を上げ譯と申すは云々ならん彼の夢の事より衣類并に庭の石に血の跡があつた夫が證據に入牢せし事迄落もなく咄し女心の十方に暮如何致して宜らんか今日貴公のお宅へ出向き御相談を願はんと支度をなして居しと語る間も聲を揚歎き悲しむ有樣に與惣次は眉を顰めて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺した奴は外に有るべし然し憑司が村長を傳吉に奪れたりと思ひ違ひ憤りを含み居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉に負せしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の手當して高田に到り夫々役向へ金を遣ひ傳吉が科ならざるを執なし貰ひ又お專か村方の組合も出て與惣次共々種々命乞と嘆願におよびけれども何分其事叶はず其中に七日八日隙取ければ早傳吉は罪に陷て昌次郎夫婦を殺せし由既に白状に及び最早罪の次第も定りし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力を落し互ひに嘆き悲しめ共今は詮方なく種々に心を痛めたり" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " (一)\n\n 一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。\n それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白い花を雲のようにつけ、秋は黄金や紅やいろいろの葉を降らせました。\n ですから渡り鳥のかっこうや百舌も、又小さなみそさざいや目白もみんなこの木に停まりました。ただもしも若い鷹などが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見付けて決して近くへ寄りませんでした。\n この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。\n 樺の木はどちらかと云えば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神という名こそついてはいましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長いのでした。ところが狐の方は大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。\n ただもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。\n\n (二)\n\n 夏のはじめのある晩でした。樺には新らしい柔らかな葉がいっぱいについていいかおりがそこら中いっぱい、空にはもう天の川がしらしらと渡り星はいちめんふるえたりゆれたり灯ったり消えたりしていました。\n その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。\n「実にしずかな晩ですねえ。」\n「ええ。」樺の木はそっと返事をしました。\n「蝎ぼしが向うを這っていますね。あの赤い大きなやつを昔は支那では火と云ったんですよ。」\n「火星とはちがうんでしょうか。」\n「火星とはちがいますよ。火星は惑星ですね、ところがあいつは立派な恒星なんです。」\n「惑星、恒星ってどういうんですの。」\n「惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受けてやっと光るように見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかは勿論恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもし途方もない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。」\n「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢山のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。」\n 狐は鷹揚に笑いました。\n「まあそうです。」\n「お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑のやあるんでしょうね。」\n 狐は又鷹揚に笑って腕を高く組みました。詩集はぷらぷらしましたがなかなかそれで落ちませんでした。\n「星に橙や青やいろいろある訳ですか。それは斯うです。全体星というものははじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです。いまの空にも沢山あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にもみんなあります。猟犬座のは渦巻きです。それから環状星雲というのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲とも云いますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。」\n「まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」\n「それは立派ですよ。僕水沢の天文台で見ましたがね。」\n「まあ、あたしも見たいわ。」\n「見せてあげましょう。僕実は望遠鏡を独乙のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わず斯う云ってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまおう、狐はしばらくしんとしながら斯う考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。\n「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」\n 狐は少し悄気ながら答えました。\n「ええ、そして僕はあなたの為ならばほかのどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」\n「まあ、お借りしていいんでしょうかしら。」\n「構いませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。じゃ僕もう失礼します。はてな、何か云い残したことがあるようだ。」\n「お星さまのいろのことですわ。」\n「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり永くお邪魔しちゃいけないから。」\n「あら、いいんですよ。」\n「僕又来ますから、じゃさよなら。本はあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微かなあかりにすかして頁を繰りました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一晩中よみ続けました。ただその野原の三時すぎ東から金牛宮ののぼるころ少しとろとろしただけでした。\n 夜があけました。太陽がのぼりました。\n 草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。\n その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くさそうに腕を拱きながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。\n 樺の木は何だか少し困ったように思いながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。\n「樺の木さん。お早う。」\n「お早うございます。」\n「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」\n「まあ、どんなことでございますの。」\n「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」\n「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」\n「そうだ。まあそう云えばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」" }, { "role": "assistant", "content": "「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」\n 樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていましたのでつい斯う云ってしまいました。\n この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変えました。そしてこぶしを握りました。\n「何だ。狐? 狐が何を云い居った。」\n 樺の木はおろおろ声になりました。\n「何も仰っしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思いましたので。」\n「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」\n 樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れて顫えたのです。\n「狐の如きは実に世の害悪だ。ただ一言もまことはなく卑怯で臆病でそれに非常に妬み深いのだ。うぬ、畜生の分際として。」\n 樺の木はやっと気をとり直して云いました。\n「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」\n 土神は少し顔色を和げました。\n「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」\n 土神はしばらく考えていましたが俄かに又声を暴らげました。\n「しかしながら人間どもは不届だ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。\n 樺の木は折角なだめようと思って云ったことが又もや却ってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなりただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るらしいのでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。\n\n (三)\n\n 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿地で苔やからくさやみじかい蘆などが生えていましたが又所々にはあざみやせいの低いひどくねじれた楊などもありました。\n 水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。\n そのまん中の小さな島のようになった所に丸太で拵えた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。\n 土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒い瘠せた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き直って「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになりそれからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向うへ遁げて行きました。\n 土神は少し笑って起きあがりました。けれども又すぐ向うの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪毛を両手で掻きむしっていました。\n その時谷地の南の方から一人の木樵がやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股に行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたと見えて時々気づかわしそうに土神の祠の方を見ていました。けれども木樵には土神の形は見えなかったのです。\n 土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱らせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。すると奇体なことは木樵はみちを歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまわって歩いていましたがいよいよひどく周章てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地から遁げて出ようとするらしいのでしたがあせってもあせっても同じ処を廻っているばかりなのです。とうとう木樵はおろおろ泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうににやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆上せて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木樵のからだを向うの草はらの方へぽんと投げ出しました。木樵は草の中にどしりと落ちてううんと云いながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。\n 土神は大声に笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。\n 空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木の処にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。\n 土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれのこんなに面白くないというのは第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情ない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫えたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。\n 土神はひとりで切ながってばたばたしました。空を又一疋の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何とも云わずだまってそれを見ました。\n ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流れて来ました。それを呑んだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。\n それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。\n 土神はそれを見て又大きな声で笑いました。その声は又青ぞらの方まで行き途中から、バサリと樺の木の方へ落ちました。\n 樺の木は又はっと葉の色をかえ見えない位こまかくふるいました。\n 土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何べんも歩きまわってからやっと気がしずまったと見えてすっと形を消し融けるようにほこらの中へ入って行きました。\n\n (四)\n\n 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何とも云えずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向っていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもえて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたいがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。\n 土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちとうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということに気が付きました。すると俄かに心持がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば大へんに気の毒だというような考が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまい土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱んだ霧の向うから狐の声が聞えて来るのでした。\n「ええ、もちろんそうなんです。器械的に対称の法則にばかり叶っているからってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」\n「全くそうですわ。」しずかな樺の木の声がしました。\n「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うって云ったって実は対称の精神を有っているというぐらいのことが望ましいのです。」\n「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が又しました。土神は今度はまるでべらべらした桃いろの火でからだ中燃されているようにおもいました。息がせかせかしてほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、高が樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云えるか、土神は自分で自分を責めました。狐が又云いました。\n「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」\n「美学の方の本沢山おもちですの。」樺の木はたずねました。\n「ええ、よけいもありませんがまあ日本語と英語と独乙語のなら大抵ありますね。伊太利のは新らしいんですがまだ来ないんです。」\n「あなたのお書斎、まあどんなに立派でしょうね。」\n「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。」\n「まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。」\n ふんと狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "De la musique avant toute chose ――\nPaul Verlaine.\n詩は何よりも先音楽的ならむことを。ポール、ヴヱルレーヌ\n\n\n\nはしがき\n\n嗤ふなかれ怪しむなかれ。\nこの集をひらきみる人。\nこの集に載せたる詩篇。\n思出の言葉なきものあらざることを。\n物一たび、去ればかへることなし。\nかへらぬものはなつかしからずや。\nあかるき今日の昼とても\n暮れなばたちまちむかしなり。\n休まざる時計のひゞきは\n忘るゝな。思出でよと。\n絶間なくわれにぞ告る。\n思出は命の絲につながれし\n珠のくさりに似たらずや。\n命の糸のきるゝ時\nまろびて珠は砕くべし。\n愛でよ惜しめよ。思出を。\n玉手箱のふたあけて\n珠のかざりを取出す乙女の如くに\nマルグリツトの如くに。\n\n\n\n夏うぐひす\n\n樫の葉がくれ夕まぐれ。\n夏うぐひすのつかれし調\n何をかうたふ。\nとりのこされて人里に\nうらぶれて行くかなしみか。\nかへりそびれし故里の思出か。\n老を歎かん。われもまた。\n親しきものは皆去りぬ。\n生きながらへてわれのみひとり。\nむかしを慕ふ。\nそれかあらぬか\n夏うぐひすのつかれし調。\n樫の葉がくれ夕まぐれ。\n\n\n\nからす\n\nからす。\n地獄の鳥。\n月さえわたる庭にきて\n蝉をな追ひそ。\n合歓の葉は今しづかに眠り\n合歓の花に露はかゞやく。\nかなで続けし夏のしらべに\n蝉はつかれていこへるを。\nからす。\n地獄の鳥。\n汝飢ゑなば泥海の\n干潟あさりて\nくされしものを啄め。\n月夜の庭には\nあかるき夏のあらゆる草木\nその影もろともにいこへるを。\n去れ。去れ。\n\nからす。\n地獄の鳥。\nSTYX の河辺はるかに。\n\n\n\n旧調\n\n別れて後のいくとせ\nまたの逢瀬この世にて\nかなはぬわけを知りしより\n悟の道をまなびしが。\nさとりすませばまた更に\n身にしみ〴〵とさびしさの\n堪へもやらねばそのむかし\nいまだ悟らぬ宵ごとの\n悩みもだえのさてなつかしと\nせめては夢をたよりにて\n夢のあふせをゆめみけり。\n命あれば憂きおもひこそ絶えやらね。\nさとればさびし鐘の声。\nさとらねばつらし雨の音。\nこれが浮世。これが人の世。\n\n\n\n絶望\n\n絶望は老樹の幹のうつろより深し。\n幾年月の悲しみ幾年月の涙。\nおのづから心の奥の底知れず\nうつろの穴をうがちたり。\nされど老樹は猶枯れやらず\n残りし皮残りし骨に\nあはれ醜き姿を日にさらす。\n屈辱にひしがるゝ老の身は\n義憤にうごめき反抗に悶えて\nあはれいたましき形骸を世に曝す。\n死は救の手なり虚無は恵なり。\n吹けよ老樹にはあらし。\n人の身には死よ。\nされど願ふものは来らず\n望むものは去る。\nあはれあらしと死よ。\n\n\n\nこほろぎ\n\n何とて鳴くや\n庭のこほろぎ夜もすがら。\n雨ふりそへば猶さらに\nあかつきかけて鳴きしきる。\n何とて鳴くや\nこほろぎと問へど答へず。\n夜のみならで\n秋ふけ行けば昼も鳴く。\n庭のみならで家のうち\nくりやのすみにも来ては鳴く。\n\nおもひ出しぬわかき時。\nわれに寄りそひ\nわが恋人はたゞ泣きぬ。\n慰め問へば猶さらに\nむせびむせびて唯泣きぬ。\n\n 何とて鳴くや\n 庭のこほろぎ。\n 何とて泣くや\n わが恋人。\n\nたちまちにして秋は尽きけり。\n冬もゆきけり。月日は過ぎぬ。\nかくの如くにして青春は去りぬ。\nとこしなへに去りぬ。\n\n 何とて鳴くや\n 庭のこほろぎ。\n 何とて泣くや\n わが恋人。\n\nわれは今たゞひとり泣く。\nこほろぎは死し\n木がらしは絶え\nともし火は消えたり。\n冬の夜すがら\nわれは唯泣くひとり泣く。\n\n\n\n小春\n\n小春の空の晴れつゞき。\n返りさく山吹に蝶も舞ふなり。\nいつはりの初夏。\n去りゆく秋の名残り。\nやるせなき思出の痕。\nさめたる夢の消え行くかげ。\n皆一瞬のまぼろしとは知れど\n虚無のさびしさには優るべし。\nされば堪へ難き悔と未練の苦しさも\nわれには嬉しわれにはいとし。\nかへらぬよろこびの名残とおもへば。\n\n\n\n暗き日のくり言\n\n生きてかひなき身と知りながら\nなにとて我は死なで在りや。\n人の世には美とよぶもののあればなり。\n美はいづこより来れるや。\n美は詩篇より来る。\n詩篇はたくみなる言葉より来る。\n巧なる言葉はいづこより来れる。\nそはメロデイーより来る。\nメロデイーはいづこより来れる。\nそは悲しみより来る。\n悲しみは人の本性より来る。\n本性は伝統より来る。\n伝統はいづこよりか来れる。\n伝統は絶えざる人の世の流より来る。\nさればわれ\n生きてかひなき世と知りながら\n今も猶死なで在り。\n冬の日はさむし\n冬の日はくらし。\nわれに与へよ。\nわづかなるあたゝかさ。\nつかのまの光を。\n\n\n\n冬の草\n\n風はなぎたり庭にでて\n落葉かきつゝふと見れば\n冬木のもとや石の下\n名もなき草の芽ばえのみ\n冬日に青くかゞやきぬ。\n\n菊はしをれて垣は破れ\n鳩も声なく雀さへ\n飢ゑてこゞゆる冬の庭。\n踏まれながらに草の芽の\nもゆるいのちぞいぶかしき。\n\nいのちの泉さぐるとも\nいかで解くべき世の謎を。\n謎にも似ずや浮雲の\n行方たづねて行くひまに\n雲はあとなく消えぬべし。\n\n\n\n口ずさみ\n\n夕やけ空の\n 雨あがり\nかゞやく雲を\n 見るときは\nなにか待たるゝ\n あすの空。\nもとより捨てし\n 世なれども。\nのぞみは絶えし\n 身なれども。\n\n風に追はれて\n 三日月の\n水に落ちゆく\n 影みれば\nなぜか涙の\n さそはるゝ。\nあきらめ果し\n 身なれども。\nつかれて飽きし\n 世なれども。\n\n\n\n狼\n\n柴折りたきて旅人に\n宿の翁のかたりけり。\n\nさむき夜には物皆飢ゑたり。\n心して行け。わかき旅人よ。\n暗き峠の夜道には\nおくり狼といふけものあり。\n道行く人のうしろに従ひ\nその振返るを窺ひ飛つきて\nのど笛にくらひつくとかや。\nされば旅人よ\n踏み迷ふ山路に日のくれて\n怪しき跫音きくとても\nゆめ〳〵後をな見たまひそ。\nおもむろに行手を望みて\n唯ゆきたまへ。\nしののめの空しらみかゝれば\n暗き夜にはびこるもの\nおのづからひそみ隠れん。\n\n消えかゝる焔ながめて\nわかき旅人答へけり。\n\n翁の情、翁のをしへ\nわれなどか忘るべき。\nさすらひの道のはたにも\n教聞くこそ嬉しけれ。\n人の世の末にも願くは教あれかし。\nわれは果なき途を唯ゆくべし。\n過ぎこし方を顧みて何かはせむ。\nわが来りし途のかなたには\n恐怖と悔恨と屈辱の横はりしのみ。\nかしこにわれは羨怨の牙鳴す蛇\n糾弾の爪とぐ犬を見たりき。\n翁よ。心やすかれ。\nわれは来しかたをかへり見ず\n唯ゆくべし。\nはてなきあこがれの空を仰ぎ\n哀愁の泉を掬み\n忘却の林にいこひつゝ\n唯行くべし。\nさらば翁よ。\n火は消えたり早や疾くいねよ。\nわれは行かんいざ行かん。\n\n\n\n日曜日\n\nゆうべの雨にそぼぬれて\n恋猫ひとりとぼ〳〵と\nかへりて見ればわが家の\n窓はとざされ戸口さへ\n錠のさされてゐたりけり。\n\n恋も忘るゝひもじさに\n声をかぎりに呼びしかど\n家の中には人気なく\n騒ぐねずみの音ばかり\n戸口あくべきやうもなし。\n\nやがて鼠の声きけば\nわが家の人はのこりなく\n主人も妻も飯焚も\nあそびに出でし日曜日\nのどけき日足の猶高し。\n\n猫はせんすべ尽きはてゝ\n破れし恋のおもひでを\nせめては夢と軒のした\nつかれて寝れば屋根の上\n女夫鴉のわらふ声。\n\n\n\n船の上\n\n声楽家×××女史のために\n\n さすらひの\n身をななげきそ" }, { "role": "assistant", "content": " 人の世は\nゆらるゝゆめの\n さだめなし\nをさなきときは\n 母の手に\nゆられてねむる\n ひざのうへ\nむすめとなりて\n 恋知れば\nゆめはゆらるゝ\n 窓のかぜ\nふるさと遠し\n さすらひの\n旅をな泣きそ\n 人の身は\nいつもゆらるゝ\n 夢のかげ\n行方はいづこ\n 雲のかげ\n\n\n\n涙\n\n声楽家×××女史のために\n\n 泣きたいやうな\n かなしいことも\n 泣くならせめて\n ふたりして\n\nふたりで泣けばかなしいことも\nこゝろに残るおもひいで\n消えずにのこるおもひいで\nやがてうれしい夢になろ\n\n 泣きたいやうな\n かなしいことも\n 泣くならせめて\n ふたりして\n\nふたりで泣けばかなしいことも\n泣いてゐるうち忘られる\nせめてまぎれてわすられる\n涙ふくなよこぼれても\n\n\n\n冬の窓\n\n作曲家××××氏のために\n\n降る雨にさそはれて木の葉散る。\n木の葉ちりては散りしく上に\nそゝぎてやまぬ雨のこゑ。\nふと聞きとれてともし火も\nともし忘れし冬の窓。\n宵闇の底に埋れて唯ひとり\nさまたげられぬおもひいで。\nしたゝる雫の音につれて\nほしきまゝなる物おもひ。\n誰にかたらむ誰にや告げむ\n思出のこのさびしさと楽しさを。\n\nそはバルコンの夕やみに\nふたり手をとり寄添ひて\n眺めあかしゝ町はいづこぞ。\n橡の木の間にきらめく燈火\n車のゆきき人のかげ。\n\nわかかりし其頃は二人とも。\n町の灯の赤き光は燃る血潮。\n車のひゞきは轟く胸の波。\n広場をわたる河風に\n花壇の花の香たゞよひて\nかすかに聞ゆる糸のしらべ。\nHarmonie de soir\n暮方の楽の音\nValse melancolique\nLangoureux vertiges\nかなしきワルス\nくるめきのつかれ。\n\nかの人は南のはて\nわが身は東のはづれより\n藝術の道をまなぶべく\nふるさと遠き西の空。\nあこがれし都の旅寝。\n理想は高し雲雀と共に\n晴れわたる春の空。\n希望はかゞやく秋の夜の\n星のかずにも増りしに。\n一夜たちまち浮世のあらし。\n渡鳥さへわたらぬ先に\n涙の雨にたゞよひて\nわかれわかれの岸の上。\n\n絶望の沙漠にオワシスの影はなし。\n無言の山はおごそかに掟の如く聳えたり。\n\n三とせは過ぎぬ。\nあるにかひなきわれは今\n世のならはしに縛られて\nこゝろは二ツ\n身はいつはりのよそほひに\n月日しづけき家のなか。\n\nふと聞く雨や風の声\n宵闇の窓にたゝずみて\n屋根の海原並木の雲\n町の火影をのぞみ見て\n過ぎこし方の思出\nひそかに耽る物おもひ。\n誰にかたらむ誰にや告げむ\n思出のこのさびしさと楽しさを。\n\n\n\nハーモニカ\n\n夜店の町のあかりさへ\n二人は避けてそれとなく\n抜ける横町河岸づたひ\n橋にも遠き砂置場\n石に腰かけかたりけり。\n\n重く曇りし夏の夜は\n宵より早くふけそめて\n闇の底行く溝川の\n芥のなかの船の灯は\n草の葉ずゑの蛍火か。\n\n誰が家の子ぞ折からに\nつゞく倉庫の向河岸\n古き映画の忘られし\n歌の一ふし繰返し\nくりかへし吹くハーモニカ。\n\n「アラあの曲は、ねえあなた。\n去年の夏も今ごろよ。\nあの映画見たかへりみち\n雨もふり出す夜の河岸\nあなた忘れはしないでしよ。」\n\n「一生僕はわすれない。\nその夜記念のプログラム\n大事にしまつて持つてゐる。\nもしも別れが来た時は\nせめてはかない思出に。」\n\n「あなた。わたしの真実を\nかたく信じておたがひに\n強いこゝろで生きませう。\nだけど何だか悲しいわ\nどうして泣けてくるんでしよ。」\n\n吹きくる風に行雲の\n絶えまに出る八日月。\n袖のしづくを照すとも\n知らぬ向うのハーモニカ\nとぎれては又つゞきけり。\n\n\n\n燕\n\nきのふの風けふの雨\n河岸の柳は散つてゐる。\n燕の群よ旅の支度はもうよいか。\n冬の来ぬ中お前達は南へ行く。\n時候はかはる世はかはる。\n思ひかへせば桐の花\n揚場のかしに匂ふころ\nわが家の倉の軒下に\n来て巣をつくる仮の宿\n雛を育てゝもろともに\n南をさしてかへり行く。\n時候はかはる世はかはる。\n燕よ支度はもうよいか。\n河岸の柳は散つてゐる。\n見ずや浮世の風のはげしさを。\nお前達の行つたあと\nわたしは店をしめるだらう。\nあらしは烈しくなるばかり。\n先祖のたてた老舗も倉も\n今年の風にはたまるまい。\n燕の群よお前達は南へ行く。\nわたし達はどこへ行く。\n時候はかはる世はかはる。\n燕の群よまた来る春に\nお前達のまた来る時\n今年の古巣はもうあるまい。\n店は閉ざされ倉は倒れてゐるだらう。\nさらばつばめよ。\nさらば古巣よ。\nさらばわが家わが老舗。\n時候はかはる世はかはる。\n河岸の柳は散つてゐる。\n\n\n\n震災\n\n今の世のわかき人々\nわれにな問ひそ今の世と\nまた来る時代の藝術を。\nわれは明治の児ならずや。\nその文化歴史となりて葬られし時\nわが青春の夢もまた消えにけり。\n団菊はしをれて桜癡は散りにき。\n一葉落ちて紅葉は枯れ\n緑雨の声も亦絶えたりき。\n円朝も去れり紫蝶も去れり。\nわが感激の泉とくに枯れたり。\nわれは明治の児なりけり。\n或年大地俄にゆらめき\n火は都を燬きぬ。\n柳村先生既になく\n鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。\n江戸文化の名残烟となりぬ。\n明治の文化また灰となりぬ。\n今の世のわかき人々\n我にな語りそ今の世と\nまた来む時代の藝術を。\nくもりし眼鏡ふくとても\nわれ今何をか見得べき。\nわれは明治の児ならずや。\n去りし明治の世の児ならずや。\n\n\n\n窓の禽\n\nうぐひすのまた来て鳴きぬ窓の竹。\n去年来て鳴きしもこの鳥か。\n春くるごとにをととしも\n先をととしもわが窓に\n来て鳴く声のおなじきに\n思へば二十とせこの家に\n文読むわが身はかはりけり。\nわが身のみかは世のさまも\nかはりかはりて古きもの\n今は跡なく消えんとす。\nあはれ鶯\nいづこより来ていづこに去るや。\nさすらひの定め知られぬ身ながらも\nうたふ調の年ごとに\nかはりなきこそめでたけれ。\n人のこゝろもかくぞあれ。\nわがこゝろ、わがおもふ人の心。\n願はくはかくぞあれかし\nわが窓に鳴く小禽の如くに。\n\n\n\n門づけ\n\nわしは門づけ\n門づけのはかなき身こそ\nをかしけれ。\n\nはかなき身ぞと\n門づけのさとれば易き\n世わたりよ。\n\n 「踏まれながらも\n 土手の草\n 露のめぐみに\n 花もさく。」\n\nわしは門づけ\n門づけのはかなき身をも\nうらむまじ。\n\n 「目高はおよぐ\n たまり水\n 目高はくぐる\n 網の目も。」\n\nわしは門づけ\n門づけのはかなき身をも\nおそれまじ。\n\n 「逃げるそばから\n むらすゞめ\n つどへばすぐに\n また踊る。」\n\nわしは門づけ\n門づけのはかなき身こそ\nあやしけれ。\n\n 「ひるはかくれて\n よひ闇に\n はひでて歌ふ\n ひきがへる。」\n\n風はさむくも\nまた今宵流しに行かう\nうら町へ。\n\nうら町ぬけて\n色町へながしに行かう\nたゞひとり。\n\n\n\n鳩\n\nありがたや浅草の\n大慈大悲観音薩※(土へん+埀)のおんめぐみ。\n定めなき人の世の幾百年\nつきず絶えざる人の群。鳩の群。\n\nおもへば我も幾十年\n世は末ながら今もなほ\n鳩とおなじく飢ゑもせで\n鳩をながむる春の暮。\n\n初てわが手をこゝに引き\n鳩に豆まくたのしさを\n共にながめてたのしみし\n祖母はとく失せ母もまた\n世になき人となりにけり。\nやがてわが身はおひ立ちて\n恋路の闇の二人づれ\n末とげたさの念願を\n籠めて御堂にいのりしも\n風露一朝の夢なりき。\n今来て見れば御手洗に\nあふるゝ水の音につれて\n過し日の数かぎりなき思出\n御堂の鉦の音と共に" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " これも「牡丹燈籠」で言及したが、この頃、神田の立花亭で連夜大切に芝居噺を演じていた正蔵君は、千秋楽には霜深い夜道具を荷車に積んで、印絆纏を着て自ら雑司ヶ谷まで曳いて帰ってきた。\n「ああこの人は今に売れる。この熱心だけでも売れ出す」\n 感嘆して私は心にそう思ったが「芸」の神様はなかなか一朝一夕には白い歯を見せてくれないもの。同君の話技がようやく円熟の域に入ったのは、戦後、八世正蔵襲名以後で、前述の「牡丹燈籠」(お峰殺し)や「春風亭年枝怪談」や「ちきり伊勢屋」の秀作はまさしく瞠目に価するとよろこんでいる。昨夏も私の倅分たる永井啓夫に正蔵君は、\n「あなたのお師匠さんとは二十三年のお交いですよ」\n と言ったそうだが、事実、お互いに汲む時も同君は、この雑司ヶ谷時代を語っては深い感慨に耽るのである。\n こうして翌年四月、上京したとたんに快弁の先々代林家正蔵が胃病で歿り、旧知の急逝に私は銀座裏で安酒を煽って涙し、目が醒めたら牡丹桜の散る吉原のチャチな妓楼で眠っていた。間もなく日暮里の花見寺での葬儀では、落語家の座席の哄笑爆笑、さすがに今はもうあんなバカバカしいお葬いは見られない。この時には四谷石切横丁にいた三遊亭金馬君の家へ私は泊まり、夏近くまで厄介になった。金馬君はようやく売り出しという時代で、先夫人が長唄の師匠をしていられたが、売り出しだけに別の意味ではなかなか生活はたいへんだったろうと、今になってよくわかる。なにより勝負事に自信のあった同君自らが、仲間の通夜があるたんびに、きっとはじまる勝負事で必ず大勝しては寄席での収入を補い、\n「お通夜(お艶)殺してんだよこれを」\n と洒落のめしていたにおいてをや。この滞泊中に、私の専属だったニットーレコードが上京して、東京側芸能人の吹き込みを開始したので、先代春團治と金語楼君以外はてんで落語レコードの売れなかったその時代、私は一計を案じて同君の十八番「居酒屋」のA面冒頭へさのさ節を配し、B面で夜更けの感じに新内流しを奏でさせて吹き込んだ。同じく私の推称した先代木村重松の「慶安太平記」(善達京上り)とともにこれが大ヒットして、トントン拍子に金馬君は旭日昇天の人気者になった(重松の善達もこのニットーの節調が一番哀しく美しいのに、私は今パルロフォンのややできの劣った方をのみ蔵している)。\n ところで「青春録」と上げた看板の手前、ここらでまた少しく当時の情痕をも振り返らせてもらうならば、依然として恋愛面は暗闇地獄の連続で、上京前後、堀江の妓女との恋愛にももう終止符が打たれるばかりになっていた。養生方々、近来成功者となった近県の伯父の許へ行くとて去った彼女だったが、その行先は少しもわからず、堀江の自家宛の通信の中へさらに封筒の周りを小さく折り畳んで入れた私宛の手紙がくる。それを堀江の家から、同じく妓女上がりの義姉が、私の宿へ運んで来てくれるのだったが、何とも言えないその感じの寒さ情なさ。森田屋へ、三千歳を預けた直はんもかくやで、いくら大べら棒の私でもたいていそれがどんな種類の「伯父さん」だかくらいはもうわかっている。にもかかわらず、一方では妙に乗りかかった舟というか、よもや引かされてというか、入った原稿料を三分しては一を彼女の落籍料の内金に堀江の留守宅へ送り、一を別れた妻子に送り、残りを自分の生活費(アルコール代を含む)に充てていた。吉本出演に際して襟垢云々と言われたのも、かくては無理がなかったかもしれない。彼女は四月の上京寸前に帰阪したが(というが、市中に囲われていたのかもしれない。堀江の茶屋では、その旦那を片眼で焦脚の山本勘助のような醜い老爺であると罵っていた。いやはや!)、その時ふと洩らした告白によると、教養なく古風な教育のみを受けてきた妓だけに、正直に私が妻子への送金を告白したため、てっきり元木へ戻ると誤解し、素早く身を隠したのに一向に私が家庭へ戻らなかったため、何が何だかわからなくなっていたものらしい。しかし、その時の私は、もう妙にチグハグな心持ちで、ハリスのところから帰ってきたお吉を迎える鶴松にもさも似ていた。でも、元々が好きな女だったので、いまだ一、二回は上京後も送金していたろうか、近松秋江の「黒髪」や「津の国屋」を読むたんび、この作者の悲恋に似た境涯から早く足を洗えた自分自身を心から祝福しないではいられない。その代わり生涯かかっても、私の述作はついに秋江文学の靴の紐を結ぶにも至らないが――。\n 堀江の女の韜晦中(昭和四年早春)、寂しさに私は東京生まれのインテリで五郎劇の女優を経て道頓堀の酒場に働いている、その頃の美人女優筑波雪子に似た人と知った。が、深い交渉を生じてから五郎劇の俳優が夫だとわかったため、心ならずも妙な関係はヅルヅル続いていた。この夫というのが戦後歿った曽我廼家勢蝶で、その勢蝶の夫君が今の桂文團治老。私の人生と落語の縁はいよいよ尽きない。人になって考えると、もし彼女が性格の合わないと言い言いしていた勢蝶と夙に別れていたなら、当然私はこの人と結婚したことだろう。だのに、彼らの腐れ縁はいつまでも終わらず、その上、帰京後の夏、点呼で二度目に下阪した時には、もう酒場に婉な姿はなかった。夫との間を清算しようとして失踪したのだそうで、しかしこれも成功せず、数年後、東京銀座の大阪系酒場で再会した時も、やはり勢蝶との同棲は余儀なく続けられており、あきらめて私が遠ざかって多年ののち、勢蝶が新橋演舞場の美人の案内嬢と結婚したとの報せを耳にした。としたらしばらくその頃になって不幸なこの夫婦は別れたのだろうが、事変のたしか前年頃で、以来、今日まで私は彼女の安否を知らない。不幸な時というものはまったくそんなもので、その上、点呼をかこつけて楽しみに行った大阪に肝腎の彼女がいなくなっていたので、くだらなく遊びに入った場末の酒場で子守女のようなつまらない女と知り合い、帰京して小田原へ、さらに東京へ、およそ不本意な生活をその下根な女と六年も続け、いよいよ私は傷つき、すさみ、果ては芸道の精進をさえ怠りだした。今度は勢蝶夫婦のよう、こちらが果てしない腐れ縁に悩まされだしたのである。\n その前後、「文芸落語」と銘打って(酒井雲が文芸浪曲とて、菊池寛や長谷川伸文学を上演していた最盛期だった!)名古屋の御園座と新守座とへ、それぞれ名人会で出演した。御園座の時は、死んだ先代の丸一小仙、柳橋で幇間になった先代三遊亭圓遊、今の桂文楽君と私とで、その前講に看板へ名もつらねず出演していたのだが、数年後めきめきと売り出したのが寿々木米若君で、この時は第一回渡米から帰り立ての青年浪曲師だった。劇場前の宿屋の二階で、初夏の朝、眼を醒ましたら、\n\n\n┌────────────┐\n│ 香取幸枝 │\n│正岡容さん江 │\n│ 春日恵美子│\n└────────────┘\n\n ののぼりが、へんぽんと薫風にひるがえっていてびっくりした。香取君は、文豪独歩の遺児国木田虎雄君の最初の夫人で、虎ちゃんが戯れに松竹蒲田のエキストラだった時、同僚として知り合って結婚、のちに別れて松竹関西系の舞台女優としてたまたま来名、一座の春日恵美子とで私にのぼりを祝ってくれたのだった。香取君は薄手細おもての美人で春日君は子供子供した愛嬌のある少女。ともに、のち松竹家庭劇へ参加し、事変の頃は香取君は松竹の社員と江州彦根で結婚生活に入ったと聞いたが、その後の消息をようとして知らない。「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」という私の好きな蕪村の句を誦むたび、彼女の美しい細おもてを、上海引き揚げ後これも行方のわからない虎ちゃんともども偲ぶのである。この時文楽君と同行していた支那服の麗人が、今の文楽夫人と十余年後わかった。\n 翌年の夏の新守座出演は、水死した先代橘の圓が助演で、滋味ある「天災」や「三味線栗毛」の話風は、豊麗な六歌仙の踊りとともに、悠久に私の目を耳を離れまい。今端席にいる富士松ぎん蝶も出演した。この時に一座したのが今の私の妻で、初日に出演のことで大喧嘩してしまった顛末はかつて書いたから、繰り返さない。\n いい落ちとしたが、昭和四年春帰京、高円寺にいた西村酔香君のそばの下宿に旬日いたが、今日では見られない、入り口へ宿泊人の生国と名前を小さく木札へ書いて提示してある、宇野浩二氏の「恋愛合戦」に出てくるような下宿屋で、その田臭に、純東京育ちの私はとうてい耐えられなくて、金馬君のところへ逃げ込んだ。大阪ではいつも旅館の一室ばかりを借りていたから、私にも辛抱ができたのである。\n" }, { "role": "assistant", "content": "\n 第二話 浪曲師たち\n\n 春は虎杖の葉が薄紅色に河原へ萌え、夏は青々と無花果が垣に茂り、秋は風祭へ続く芒野、冬は色づく蜜柑畑と、相州小田原は早川べりに、ずいぶん風流めかした居を卜としても、無教養で醜い安女給との同棲は、しょせんが私のアルコール中毒を深めていくばかりだった。\n 日夜、荒れてばかり、私はいた。\n こうした私の荒涼生活の中に、音曲師の小半次が、今の小せん(当時三太楼)が、今の圓太郎(当時百圓)が、いた。三人とも定命に達した今でもなかなかコワイ彼らが、当時はみな三十歳前後だったのだから、川柳点にいわゆる「片棒を担ぐゆうべの鰒仲間」で、たいてい察してもらいたい。小原庄助さんではないが、朝寝朝酒朝湯はもちろんのこと、彼らのコーチよろしく、勝負事の嫌いな私が、壺皿を伏せて丁半の真似事までやったりした。\n なにしろ家庭がつまらなくて、原稿料を取るとすぐ狭斜街へ、大半以上を費い果たしては帰ってくる私だったのだから、お台所が持つわけがない。酒屋から米屋から肉屋から肴屋、およそ借金だらけにして、たしか昭和七年のはじめ頃か、東京へ夜逃げをしてしまった。北条秀司君の令弟が土地の電灯会社につとめていて、溜った電気代を私の家へ請求にきたが、ついにもらえなかったと、これものちに北条君から聞かされて私は、大恐縮した。\n この小田原の生活の中で、今考えてもおかしくてならなかったことがさらに三つある。ひとつは、私の上京中、師吉井勇が、旅行の帰りに立ち寄られた時のことである。師もあの頃は一年の大半を旅ばかりしていられた時代であるから、その時もどこかの旅のお帰りで、かなり旅塵にまみれていられたにちがいない。そうしたら、留守番をしていた小半次が応接に出て、私の帰庵後こう言ったものだ。\n「ねえ先生、先生の留守に大先生が見えたけれどネ、私の考えじゃいくらか借りにきたんじゃねえかと思うんだ」\n って、あくまで自分の了見から割り出して考えたところが小半次らしくてとんだおかしい。\n ひと夏、湯河原の映画館へ、小半次、三太楼、百圓の三人会で私のスケ(あまりいいメンバーじゃない!)で二日間興行に行ったことがある。古風な馬車で太鼓を叩いて町廻り、私は車上からビラを撒きながら、長田幹彦先生の出世作「旅役者」で、作者が北海道を漂泊中、紙芝居の群れに入って町廻りをしたひとこまを哀しく嬉しく思い出していた。この時不動祠畔の茶店で麦酒を飲んだら、小せんが出てきた蟇へ石を投げつけ、圓太郎が滝壺へ放尿した。とたんに今まで清冽だった滝の水は、たちまち赤ちゃけた色に変わってしまったので、さすがの面々が真っ青になって、\n「ねえさん、この滝の水の色変わったのは......」\n とこわごわ茶店の娘に訊いたら、\n「今日はこの上の川で土木工事をしてるんですよ」\n ......出演した映画館は、湯河原だけに泊めてくれた自宅の方に温泉が湧いており、なかなか愉しかったが、もちろんお客は不入り。従って二日目を打ち上げても一文ももらえるお金はないはずを、中年の好人物らしい主人は、忘れもしない五十銭銀貨で二十何円かを番頭役の百圓の圓太郎に支払ってくれた。実演興行にはまったく不馴れな主人は、我々の賃金の方から差し引くべき二日分の税金を、全額自分の収入で支払ってしまったから、こちらへそんなもらい分が増えたのである。その二十何円をおよそもっともらしい顔で財布の中へしまってしまうと圓太郎先生、\n「御主人、我々落語家は正直だが、旅を行く万歳(当時はいまだ漫才とは書かなかった)や安来節にはひどい奴があるからお気をおつけなさい」\n とヌケヌケと言ったものではないか。どっちがひどい奴だかわかりゃしない。凱歌を上げて一同が近くのそば屋へ、冷めたい麦酒で祝杯を上げていたら、小半次だけは浮かない顔、\n「百さん(圓太郎の前名)、その金だけは気の毒だから返したらどうだえ」\n 他の顔を見るとすぐ「五十銭(戦後は暴騰して百円になった!)くれ」と手を突き出すくせに、一番彼が気の弱いところのあるのも、浪曲界の元老浪花亭峰吉を実父に、先代木村重友を養父に、しょせん名家の生まれだからか。\n 報知講堂で文芸落語旗揚げ祭をやった時には、前述の関係から峰吉老をはじめ、先代三語楼、今の正蔵(馬楽時代)、権太楼、春日清鶴、今の玉川勝太郎(次郎時代)諸君が助演してくれた。これも小田原時代だった。\n 小田原の清楽亭という寄席では、次郎時代の玉川勝太郎君と二人会も演った。いまだ牧野吉晴君が青年画家で、即興の浪曲自伝を唸り、夭折した詩人の宮島貞丈君は、顔面筋肉を伸縮させるだけの百面相を演り、大河内から栗島すみ子、酒井米子まで巧みに見せた。これはのちに私が推称して、「映画時代」編集長たりし古川緑波君を激賞せしめたが、これをそっくり覚えて今日も高座で活用しているのが、柳家三亀松君である。\n 私が関東浪曲の甘美な感傷を溺愛するようになったのが、前に書いた大正十五年浅春、長崎に少女期の志賀暁子君を訪れて、滞留中の金子光晴、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。\n ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たるべき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。\n しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を、大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた默許であつた。\n 當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科を犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。\n さう云ふ罪人を載せて、入相の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類のものとは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族の悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。\n 同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。場合によつて、非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。\n そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。\n ――――――――――――――――――――――――――\n いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。\n それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。\n 護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉の、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。\n 庄兵衞は不思議に思つた。そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。\n 其日は暮方から風が歇んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳に割かれる水のさゝやきを聞くのみである。\n 夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。其額は晴やかで、目には微かなかがやきがある。\n 庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。\n 庄兵衞は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が惡い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く缺けてゐる程の、世にも稀な惡人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと氣でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言語や擧動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衞がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。\n ――――――――――――――――――――――――――\n 暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか。」\n「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。" }, { "role": "assistant", "content": " 庄兵衞は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の人を島へ送つた。それは隨分いろいろな身の上の人だつたが、どれもどれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」\n 喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に、落ち着いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、つひぞ病氣をいたしたことはございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、當時の掟であつた。\n 喜助は語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事に取り附きたいと思つて、爲事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた錢は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂んでをります。」かう云つて、喜助は口を噤んだ。\n 庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。\n 庄兵衞は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために着るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕かな家に可愛がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合せる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衞は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填めて貰つたことに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、これが原因である。\n 庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上を我が身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにもあはれな、氣の毒な境界である。しかし一轉して我が身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。\n さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。\n 喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。\n 庄兵衞はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。\n 一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは譃である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。\n 庄兵衞は只漠然と「人の一生」といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。\n 庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を睜つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。\n ――――――――――――――――――――――――――\n 庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。\n「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそる〳〵庄兵衛の氣色を覗つた。\n 庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度嶋へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞かせてくれぬか。」\n 喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない〳〵と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて「どうした〳〵」と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう〳〵と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、「どうしたのだい、血を吐いたのかい」と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口をあきました。やう〳〵物が言へるやうになつたのでございます。「濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く〳〵と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ」と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の喉の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、「待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから」と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、「醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む」と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は「早くしろ、早くしろ」と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる〴〵廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう〳〵敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう〳〵、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは「しかたがない、拔いて遣るぞ」と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたからわたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが婆あさんはあつと云つた切戸をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て、又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆がお出になつて、役場へ連れて行かれますまでわたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n 彼の出した五円札が贋造紙幣だった。野戦郵便局でそのことが発見された。\n ウスリイ鉄道沿線P―の村に於ける出来事である。\n 拳銃の這入っている革のサックを肩からはすかいに掛けて憲兵が、大地を踏みならしながら病院へやって来た。その顔は緊張して横柄で、大きな長靴は、足のさきにある何物をも踏みにじって行く権利があるものゝようだった。彼は、――彼とは栗島という男のことだ――、特色のない、一兵卒だった。偽せ札を作り出せるような気の利いた、男ではなかった。自分でも偽せ札を拵えた覚えはなかった。そういうあやしい者から五円札を受取った記憶もなかった。けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。\n 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知らず〳〵素直におど〳〵した返事をした。\n「そのまゝこっちへ来い。」\n 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。\n 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真をかくすことも忘れて、呼ばれるままに事務室へ這入って行った。\n 陸軍病院で――彼は、そこに勤務していた――毎月一円ずつ強制的に貯金をさせられている。院長の軍医正が、兵卒に貯金をすることを命じたのだ。\n 俸給が、その時、戦時加俸がついてなんでも、一カ月五円六十銭だった。兵卒はそれだけの金で一カ月の身ざんまいをして行かねばならない。その上、なお一円だけ貯金に、金をとられるのだ。個人的な権限に属することでも、命じられた以上は、他を曲げて実行しなければならないのが兵卒だった。それが兵卒のつとめだ。彼は俸給に受取った五円札をその貯金を出した。そして、ツリに、一円札を四枚、金をまとめて野戦郵便局へ持って行く小使から受取った。その五円札が贋造だったことを局員が発見したのである。\n それは極めて精巧に、細心に印刷せられたものであった。印刷局で働いて、拵え方を知っている者の仕業のようだ。一見すると使い古され、しわくちゃになっていた。しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺も一時に、故意につけられたものだ。\n 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ〳〵はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。\n「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」\n「すかしが一寸、はっきりしていないだろう。」貯金掛の字のうまい局員が云った。\n「さあ。」\n「それは紙の出どころが違うんだ。札の紙は、王子製紙でこしらえるんだが、これはどうも、その出が違うようだ。」\n「一寸見ると、殆んど違わないね。」電信隊の兵タイは、蟇口から自分の札を出して、比較してみた。「違わないね。......実際、Five なんか一分も違わず刷れとるじゃないか。」\n「どれ〳〵。」\n 局へ内地の新聞を読みに来ている、二三人の居留民が、好奇心に眼を光らせて受付の方へやって来た。\n 三十歳をすぎている小使は、過去に暗い経歴を持っている、そのために内地にはいられなくて、前科者の集る西伯利亜へやって来たような男だった。彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。\n「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という一等看護卒が出したやつなんだ。俺れゃちゃんと覚えとる。五円札を出したんは、あいつだけなんだから、あいつがきっと何かやったんだな。」\n 彼は、自然さをよそおいつゝ人の耳によく刻みこまれるように、わざと大きな声を出した。\n「栗島が出した札かい?」局員はきゝかえした。その声に疑問のひゞきがあった。\n「あゝ、そうだ。」\n「たしかだね?」\n「うむ、そうだ。そうに違いない。」\n 眼鏡を掛けた、眼つきの悪い局長が、奥の部屋から出て来た。局長は疑ぐるように、うわ眼を使って、小使をじろりと見た。\n「誰れが出した札だって?」\n 局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。\n 小使は、局長の光っている眼つきが、なお自分に嫌疑をかけているのを見た。彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや〳〵這入って来た。\n 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。\n 自分の出した札が偽ものだったと見破られた時のこういう話をきくと、栗島は、なんだか自分で、知らぬまに、贋造紙幣を造っていたような、変な気持に襲われた。怖くて恐ろしい気がした。人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識外に於て、罪を犯していることがある。彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりたい要求からやったことが、先生から見て悪いことがたび〳〵ある。子供はそこで罰せられねばならない。しかも、それは、子供ばかりにあるのではなかった。誰れにでもあることだ。人間には、どんなところに罪が彼を待ち受けているか分らない。弱点を持っている者に、罪をなすりつけようと念がけている者があるのだ。彼は、それを思って恐ろしくなった。\n\n 二\n\n「財布を出して見ろ。」\n「はい。」\n「ほかに金は置いてないか。」\n「ありません。」\n「この札は、君が出したやつだろう。」\n 憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。\n「さあ、どうだったか覚えません。――あるいは出したやつかもしれません。」\n「どっから受取った?」\n「............」\n 栗島は、憲兵上等兵の監視つきで、事務室へ閉めこまれ、二時間ほど、ボンヤリ椅子に腰かけていた。机の上には、街の女の写真が大きな眼を開けて笑っていた。上等兵は、その写真を手に取って、彼の顔を見ながら、にや〳〵笑った。女郎の写真を彼が大事がっているのを冷笑しているのだが、上等兵も街へ遊びに出て、実物の女の顔を知っていることを思うと、彼はいゝ気がしなかった。女を好きになるということは、悪いことでも、恥ずべきことでもない。兵卒で、取調べを受ける場合に立つと、それが如何にも軽蔑さるべき、けがらわしいことのように取扱われた。不品行を誇張された。三等症のように見下げられた。ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、" }, { "role": "assistant", "content": "「この写真を何と云って呉れたい?」とへへら笑うように云った。\n「何も云いやしません。」\n「こいつにでも(と写真をさも軽蔑した調子で机の上に放り出して)なか〳〵金を入れとるだろう。......偽せ札でもこしらえんけりゃ追っつかんや。」\n 如何にも、女に金を貢ぐために、偽せ札をこしらえていたと断定せぬばかりの口吻だ。\n 彼は弁解がましいことを云うのがいやだった。分る時が来れば分るんだと思いながら、黙っていた。しかし、辛棒するのは、我慢がならなかった。憲兵が三等症にかゝって、病院へ内所で治療を受けに来ることは、珍らしくなかった。そんな時、彼等は、頭を下げ、笑顔を作って、看護卒の機嫌を取るようなことを云った。その態度は、掌を引っくりかえしたように、今、全然見られなかった。上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なところがあった。\n こういう態度の豹変は憲兵や警官にはあり勝ちなことだ。憲兵や警官のみならず、人間にはそういう頼りにならぬ一面が得てありがちなことだ。それ位いなことは、彼にも分らないことはなかった。それでも、何故か、彼は、腹の虫がおさまらなかった。憲兵が、横痤で跛を引きながら病院へやって来たことを云って面罵してやりたかった。だが、そうすれば、今、却って、自分が損をするばかりだ。彼はそう考えた。強いて押し黙っていた。\n 一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまなく調べていた。そればかりでなく、ほかの看護卒の、私物箱や、財布をも寝台の上に出させ、中に這入っている紙幣を偽物かどうか、透かしてたしかめた。\n 憲兵にとって、一枚の贋造紙幣が発見されたということは、なんにも自分の利害に関する問題ではなかった。発覚されない贋造紙幣ならば、百枚流通していようが、千枚流通していようが、それは、やかましく、詮議立てする必要のないことだった。しかし一度発覚され、知れ渡った限りは、役目として、それを取調べなければならなかった。犯人をせんさくし出さなければ、役目がつとまらなかった。役目がつとまらないということは、自分の進級に関係し、頸に関係する重大なこと柄だった。\n 兵卒は、初年兵の時、財布に持っている金額と、金銭出納簿(入営するとそれを記入することを云いつけられる。)の帳尻とが合っているかどうか、寝台の前に立たせられて、班の上等兵から調べられた経験を持っていた。金額と帳尻とが合っていないと、胸ぐらを掴まれ、ゆすぶられ、油を搾られた。誰れかゞ金を紛失した場合、殊更、帳尻を合わしていない者に嫌疑が掛って来た。帳尻の合っていない者が盗んだとは、断定することは出来ない。それは弱点ではあった。が、盗んだ者だという理由にはならなかった。けれども、実際には、帳尻を合わしていない、投げやりな、そういう者に限って人のいゝ男が、ひどい馬鹿を見るのだ。\n 憲兵が取調べる際にも、やはり、その弱点を掴むことに伍長と上等兵の眼は向けられた。彼等は、犯人らしい、多くの弱点を持っている者を挙げれば、それで役目がつとまるのだ。\n 事務室から出ることを許されて、兵舎へ行くと、同年兵達は、口々にぶつ〳〵こぼしていた。\n「栗島。お前本当に偽札をこしらえたんか?」\n 松本がきいた。\n「冗談を云っちゃ困るよ。」彼は笑った。\n「憲兵がこしらえたらしいと云いよったぞ。」\n「おどかすのは、えゝかげんにしてくれ。」\n 彼の寝台の上には、手帳や、本や、絵葉書など、私物箱から放り出したまゝ散らかっていた。小使が局へ持って行った貯金通帳は、一円という預入金額を記入せずに拡げられてあった。彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経験せずにはいられなかった。主計には頭が上らないから、兵卒のところでえばっているのだ。そんな風に考えた。\n「オイ、栗島。」軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を出して、兵舎の彼に呼びかけた。\n「君は本当に偽物だとは知らずに使ったんかね?」\n「そうです。」彼は答えた。\n「うそを云っちゃいかんぞ!」\n「うそじゃありません。」\n「どこへも行かずにそこに居ってくれ。もっと取調べにゃならんかもしれん。」\n\n 三\n\n 憲兵隊は、鉄道線路のすぐ上にあった。赤い煉瓦の三階建だった。露西亜の旅団司令部か何かに使っていたのを占領したものだ。廊下へはどこからも光線が這入らなかった。薄暗くて湿気があった。地下室のようだ。彼は、そこを、上等兵につれられて、垢に汚れた手すりを伝って階段を登った。一週間ばかりたった後のことだ。二階へ上るとようよう地下室から一階へ上った来たような気がした。しかし、そこが二階であることは、彼は、はっきり分っていた。帰るには、階段をおりて、暗い廊下を通らなければならなかった。そこを逃げ出して行く。両側の扉から憲兵が、素早く手を突き出して、掴まえるだろう。彼は、外界から、確然と距てられたところへ連れこまれた。そこには、冷酷な牢獄の感じが、たゞよっていた。「なんでもない。一寸話があるだけだ。来てくれないか。」病院へ呼びに来た憲兵上等兵の事もなげな態度が、却って変に考えられた。罪なくして、薄暗い牢獄に投じられた者が幾人あることか! 彼はそんなことを思った。自分もそれにやられるのではないか!\n 長い机の両側に、長い腰掛を並べてある一室に通された。\n 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。獰猛な伍長よりも若そうな、小供らしい曹長だ。何か訊問するんだな、何をきかれたって、疑わしいことがあるもんか! 彼は心かまえた。曹長は露西亜語は、どれくらい勉強したかと訊ねた。態度に肩を怒らしたところがなくて砕けていた。\n「西伯利亜へ来てからですから、ほんの僅かです。」\n 云いながら、瞬間、何故曹長が、自分が露西亜語をかじっているのを知っているか、と、それが頭にひらめいた。\n「話は出来ますか。」曹長は気軽くきいた。\n「どっから僕が、露西亜語をかじってるんをしらべ出したんですか?」\n「停車場で君がバルシニャ(娘)と話しているのをきいたことがあるよ――美人だったじゃないか。」\n「あの女は、何でもない女ですよ。何も関係ありゃしないんです。」彼は、リザ・リーブスカヤのことを思い出して、どぎまぎして「胸膜炎で施療に来て居るからそれで知っとるんです。」\n「そう弁解しなくたって君、何も悪いとは云ってやしないよ。」\n 曹長は笑い出した。\n「そうですか。」\n 慌てゝはいけないと思った。\n 曹長は、それから、彼の兄弟のことや、内地へ帰ってからどういう仕事をしようと思っているか、P村ではどういう知人があるか、自分は普通文官試験を受けようと思っているとか、一時間ばかりとりとめもない話をした。曹長は現役志願をして入営した。曹長にしては、年の若い男だった。話し振りから、低級な立身出世を夢みていることがすぐ分った。彼は、何だ、こんな男か、と思った。\n 二人が話している傍へ、通訳が、顔の平べったい、眉尻の下っている一人の鮮人をつれて這入って来た。阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち〳〵動かして、坐ろうとしなかった。\n「坐れ、なんでもないんだ。」\n 老人は、圧えつけられた、苦るしげな声で何か云った。\n 通訳がさきに、彼の側に坐った。そして、も一度、前と同様に手を動かした。\n 老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る〳〵静かに坐った。\n 朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔で喋っていた。黄色い、歯糞のついた歯が、凋れた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状に拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 枕山はこの年甲寅の夏駿府に遊び秋に入って北総に赴いた。中秋墨水の観月は嘉永五年以後遂に廃せられたものと見えて、この年も観月の作を見ない。\n 十一月二十七日に安政と改元せられた。冬至の夜枕山は安積艮斎、雄禅禅師の二人と共に目白台に住した書家藤田惇斎の家に招がれた。席上の作に、「年年至日酔君家。」〔年年至日君ガ家ニ酔フ〕といい「名帖宝絵紛無数。」〔名帖宝絵紛トシテ数フル無シ〕というを見れば、惇斎は家貧しからず古書画をも多く蔵していたと見える。惇斎、名は金良、字は温卿、惇斎はその号。一に顛顛道人と号し、通称を啓次郎という。枕山が同人集第三編に「温卿ノ書ハ帖ノ出ルゴトニ輙唐宋ノ名家トソノ工巧ヲ争フ。マタ元ノ人顧玉山ノ風ヲ慕フ。」と言ってある。\n この年幕府はいよいよ英米露の三国と仮条約を締結したので国論はますます沸騰した。然るに枕山の依然として世事に関せざる態度は「偶感」の一律よくこれを言尽している。「孤身謝俗罷奔馳。且免竿頭百尺危。薄命何妨過壮歳。菲才未必補清時。莫求杜牧論兵筆。且検淵明飲酒詩。小室垂幃温旧業。残樽断簡是生涯。」〔孤身俗ヲ謝シ奔馳ヲ罷ム/且ツ免ル竿頭百尺ノ危キヲ/薄命何ゾ壮歳ヲ過ユルヲ妨ゲンヤ/菲才未ダ必ズシモ清時ヲ補ハズ/求ムル莫カレ杜牧ノ兵ヲ論ズルノ筆ヲ/且ツ検セヨ淵明ノ飲酒ノ詩ヲ/小室幃ヲ垂レテ旧業ヲ温ム/残樽断簡是レ生涯〕\n わたくしはこの律詩をここに録しながら反復してこれを朗吟した。何となればわたくしは癸亥震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥頽廃せんとしている。此の如き時勢にあって身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が求むる莫れ杜牧兵を論ずるの筆。かつ検せよ淵明が飲酒の詩。小室に幃を垂れて旧業を温めん。残樽断簡これ生涯。と言っているのは、わたくしに取っては洵に知己の言を聴くが如くに思われた故である。\n 安政紀元十二月二十八日の夜、酉の下刻、神田多町二丁目北側の乾物屋三河屋半次郎の店から発火して南の方日本橋まで延焼した。横山湖山がお玉ヶ池の家はその門と塀とを燬かれた。\n\n第二十四\n\n 安政二年乙卯の歳、枕山が元旦の絶句に「一処無恙六迎春。」〔一処恙無ク六タビ春ヲ迎フ〕の語を見る。三枚橋に新居を築造してから六年目の春を迎えたのである。\n 正月七日毅堂は久留里の藩主黒田淡路守直質に謁し五古一篇を賦して奉った。『六名家詩鈔』に載せられたこの作には干支を記していないが、「新春値新政。我公襲封年。」〔新春新政ニ値フ/我ガ公襲封ノ年〕の二句によって、わたくしは直質が去年六月に襲封してその翌年の正月であるように解釈したのである。\n 九月七日に鷲津毅堂の妻佐藤氏みつが男精一郎を生んだ。みつは豊前中津の城主奥平大膳太夫昌服の家臣佐藤某の女である。\n 十月二日小雨の歇んだ後、夜亥の刻に大地震が起った。枕山湖山毅堂の三家は各罹災の詩を賦している。\n 枕山の妻は七月盂蘭盆のころから枕に伏していた。枕山は老母と病妻とを扶けて五十日ほど某所に立退き、やがて三枚橋の旧居に還った。律詩の対句に「暫棲原北五旬余。重葺橋南数畝居。」〔暫ク棲ム原北五旬余/重ネテ葺ク橋南数畝ノ居〕と言っている。\n 津藩の督学斎藤拙堂はこの年六月伊勢を発して江戸に滞在していたので、十月二日の震災を目撃した。「震災行」七言古詩の作がある。拙堂は八月十日(一説ニ十五日)水戸藩の会沢正志、若松藩の黒河内十太夫、津山藩の箕作阮甫、高崎藩の市川達斎らと共に将軍家定に謁見した。芳野金陵の撰した市川達斎の墓誌には謁見の日を八月望となしている。拙堂は昌平黌教授の内命を辞してこの年の冬江戸を去った。鷲津毅堂は長句を賦して拙堂の西帰を送った。その作の初に、「昨日迎公来。涼颸蘋末弄。今日送公帰。繁霜木葉絳。繁霜涼颸駅南橋。一年此処作迎送。」〔昨日公ノ来ルヲ迎ヘ/涼颸蘋末ヲ弄ス/今日公ノ帰ルヲ送リ/繁霜木葉ヲ絳ス/繁霜涼颸駅南ノ橋/一年此ノ処ニ迎送ヲ作ス〕云々とあるので、毅堂は拙堂の江戸に入る時にも「駅南ノ橋」まで出迎いに行ったのであった。駅南の橋とは品川本宿の端れにある橋のことでもあろう。\n\n第二十五\n\n 安政三年丙辰ノ歳、枕山は三十九歳の春を震災後再築したその家に迎えた。家は以前に比べると隘かったのであろう。元日の絶句に「樗散逢春鬢欲斑。船如屋小一家閑。拝年客到無著処。混在図書雞犬間。」〔樗散春ニ逢ヒテ鬢斑ナラント欲ス/船ノ如ク屋小ナレド一家閑ナリ/拝年客到リテ著ク処無ク/混リテ図書雞犬ノ間ニ在リ〕" }, { "role": "assistant", "content": " 正月九日枕山は鈴木松塘を房州谷向村の家に訪うた。その途次武州杉田村にまわり路して梅園の花を手折りこれを携えて海を渡ったのである。これは去年の正月松塘が枕山の家を訪うた時、杉田の梅一枝を土産にした事があったので、今年は枕山の方から松塘を訪問するに莅んで、去年の返礼にと同じ杉田の梅を携えて行ったわけである。松塘が長句に曰く「去年正月尋君時。手挈杉田梅一枝。今年春又君問我。衝門先覚香風吹。担来繁蕊如人白。一堂照映坐為窄。」〔去年正月君ヲ尋ネシ時/手ニ挈グ杉田ノ梅一枝/今年春又君我ヲ問フ/門ニ衝ヒテ先ヅ覚ユ香風ノ吹クヲ/担ギ来ル繁蕊人ノ白キガ如シ/一堂照映シテ坐ラ窄シト為ス〕云々。\n 二月十九日枕山は松塘と共に房州を発して江戸に還った。松塘は江戸よりはるばる京都に赴きその師梁川星巌に見えんことを欲したのである。松塘が西遊の途に上った後枕山は古河に遊び初夏家に帰った。その頃の作に「飲酒」と題する五言古詩一篇がある。枕山は年いまだ四十に至らざるに蚤くも時人と相容れざるに至ったことを悲しみ、それと共に後進の青年らが漫に時事を論ずるを聞いてその軽佻浮薄なるを罵ったのである。「憶我少年日。距今僅廿春。当時読書子。風習頗樸醇。接物無辺幅。坦率結交親。儒冠各守分。不追拚同飲。我酔忘吾貧。」〔憶フ我ガ少年ノ日/今ヲ距ツルコト僅カニ廿春/当時ノ読書子/風習頗ル樸醇/物ニ接シテ辺幅無ク/坦率交親ヲ結ブ/儒冠各分ヲ守リ/拚セ/我酔ヒテ吾ガ貧ヲ忘レン〕\n 枕山がこの「飲酒」一篇に言うところはあたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭の情と殊なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以もまたこれに他ならない。\n 八月二十五日は風雨と海嘯との江戸を襲った時である。雨は二十三日より降りつづいて二十五日の夜に至り南風と共に次第に激しく遂に築地本願寺の堂宇をも吹倒すほどの勢となった。風雨は暁明に至って纔に歇んだが天候は容易に恢復せず重陽の節句も雨の中に過ぎた。\n「風雨止マズ復ビ長句ヲ賦ス。」と題する作に枕山はその妻の病の漸く重くなった事を言っている。「過了重陽残雨朦。江上九月尚多風。縄枢我擬今原子。屋漏誰思古魯公。暮歳有期床下蟋。故人無信水辺鴻。一家渾抱悲秋感。貧病相依風雨中。」〔重陽ヲ過了ギテ残雨朦リ/江上九月尚風多シ/縄枢我ハ擬ス今ノ原子ニ/屋漏誰カ思ハン古ノ魯公ヲ/暮歳期有リテ床下ニ蟋アリ/故人信無シ水辺ノ鴻/一家渾ベテ抱ク悲秋ノ感/貧病相依ル風雨ノ中〕\n 九月晦日病婦は遂に不帰の人となった。枕山が「悼亡」の律詩中に「一火延焼旧草廬。連宵野宿中寒初。」〔一火延焼ス旧草廬ヲ/連宵野宿シ寒ニ中ルノ初〕とある。病源は前年の震災から寒気に冒されたのである。内助の功の少くなかったことは、「可憐十一年間苦。井臼親操昼廃梳。」〔憐ム可シ十一年間ノ苦/井臼親シク操シ昼梳ヲ廃ス〕の二句によって想察せられる。その柔順貞淑であったことは「感君勤苦守中閨。」〔感ズ君ガ勤苦シテ中閨ヲ守ルヲ〕といい「薄命枉為狂者婦。慧心不羨富児妻。」〔薄命枉ゲテ狂者ノ婦ト為リ/慧心羨マズ富児ノ妻ヲ〕といいまた、「金釵換尽長安酒。儘許夫君酔似泥。」〔金釵換ヘ尽ス長安ノ酒ニ/儘ク許ス夫君ノ酔ヒテ泥ノ似キヲ〕の如き詩句に言尽されている。枕山の妻が金釵を典売して夫君とその友とのために酒を買ったことは鈴木松塘が「寄弔」〔弔ヲ寄ス〕の作にも「多慚緑酒沽留我。不惜金釵抜附郎。」〔多ク慚ヅ緑酒沽ヒテ我ヲ留ムヲ/惜マズ金釵抜キテ郎ニ附スヲ〕と言ってあるから決して形容の辞ではない。大正当世の細君は金剛石の指環を獲んがためには夫君をして贓※(「蠧」の「士」に代えて「十」)とならしむるも更に悔るところがない。人心変移の甚しきは人をして唯唖然たらしむるのみである。\n 枕山が妻はその氏名年齢を詳にしない。初飯沼弘経寺の梅痴上人が媒をなしたという事をわたくしは聞いたのみである。三田台裏町妙荘山薬王寺に葬られて積信院一乗妙道大姉の法諡をおくられた。わたくしは大沼氏家蔵の文書の中から次の如き断簡を見出した。しかしその筆者の何人なるかを詳にしない。「ゆく秋つごもりの夕野辺のわかれおくれる。積信院姉へよする。錦してみればさびしき落葉かな。さて〳〵積信院親族のみな〳〵夜もすがら日をついで、そのつかれもいとはず看病いたし下され候だん、一しほかんじ入まゐらせ候。猶この上他界のものと思はず、朝夕の手向たのみ入候。枕山家内のことは、積信院のこゝろもち我よく〳〵知りつれば、追て物がたりに及ぶべく候。かしく。積信の姉へ。白居申ふす。」この文体と筆跡とを見るに婦人であることは疑を入れない。\n\n第二十六\n\n 安政四丁巳の歳枕山は四十歳、毅堂は三十三歳になった。\n 横山湖山の『火後憶得詩』の中「墨水看花歌」に「丁巳三月念一日鷲津重光、井上公道、松岡欲訥、田中君山、福岡藤二ト墨水ニ遊ブ。時ニ井上福岡ノ二子帰期近キニアリ。」云々の題言が記してある。これらの人名の中、福岡藤二は土佐の藩士で大正八年頃まで生存していた子爵福岡孝悌である。また松岡欲訥は同じく土佐の藩士松岡七助、号を毅軒といった人であろう。\n 六月京都の書肆擁万堂が『安政三十二家絶句』三巻を刊行した。江戸に在住した詩家の吟詠は毅堂が専之を選択し、関西の詩家は伊勢松阪の儒者家里松濤が択んだ。毅堂は選集の中に遠山雲如の作を除いて載せなかった。これがため二家の間に他日嫌隙を生じた事は毅堂がその郷友森春濤に送った書簡に見えている。\n「過日は平三郎へ御托しの御細書下され忝く拝見仕候。先以て文履益〻御万福に御座成され欣然に存奉り候。随つて拙宅無異御省慮下さる可く候。然れば老兄の月旦、上方筋宜しき旨□□□。扨当今上方筋人物寥寥。老兄の技倆にて勿論の事に御座候。僕も老兄とは同一家。御互に月旦の善悪は疾痛痾痒の関るところなれば、僕之を聞きて寝ること能はず。併乍ら虚名は自然に得易く実行は難きものに御座候間、御同様に勉強致す可きも此事に御座候。家里も才子なれども其議論程には筆まはり兼申候。此頃一友人西遊。其の者より承り候処、度々京師にて家里へ会晤。詩の議論も致候処、此節純然星翁の家法を奉じ候由なり。星翁は詩道には精しき人なれども、其家法を奉ずるもの優孟の衣冠を為さゞる者ほとんど稀なり。老兄以て如何となす。(此論吾輩才を妬み誹論致し候様相聞え候ては不都合に御座候間決して他人へは御吹聴御無用に願奉り候。)老兄御草稿御上木成され度き御思召一盛事に御座候。就而者御草稿を御遣し下され候はゞ骨折拝見仕可く候。此頃高野俊蔵よりも、近業の詩文堆を成し候得共一向相談する人も無之、何卒旧稿と思召し御遠慮なく御刪正下され度く候。箇様申し来り候。\n 一、雲如生其後御地へ罷り出候節小生を湯島の芝居と月旦致候由。此れは具体而微なりといふ悪言なり。仰せの通り『安政絶句』中に相洩し候にて微しく野心を相挟み、陶奴推刃之気味無きにしもあらず。誠に小量と謂つ可し矣。一体軽薄の人物にて心も雲の如く翻覆定り無く候。夫故江戸には門戸を維持するあたはず始終田舎へ而已飄泊致し候次第なり。『安政絶句』に相洩し候は敢て意あるに非らず。唯游歴而已致し候故止むことを得ず相洩し候儀に御座候。併乍ら小生と雲如とは自から具眼の人は弁別致し呉候間、此等之一些事には不平を抱き候儀は小生に於ては毛頭御座無く候。唯々雲如之世間狭く相成る可く気の毒の儀に御座候。\n 一、当今天下の形勢晋代五胡雑居の姿にも相成る可く、左候はゞ堂々たる皇国も羶腥に汚され歎かはしき事なり。最早有志の士も天下に意なく、山野に隠遁躬耕し、道を守るより向後は致方之無しと存候。老兄以て何如と為す。\n 右の件々御報の旁此の如くに御座候。当年は兎角不順の気候御保重成され可く候。頓首不宣。五月十三日。毅堂宣拝。春濤森賢契。梧右。」\n わたくしはこの書簡を佐藤六石氏の『春濤先生逸事談』から転載した。書簡の裁せられた年は詳でない。しかし文中「星翁の家法」云々の語によって憶度するに安政五年九月星巌の死してより後の如くに思われる。また毅堂の文中遠山雲如が絶えず他国に出遊しているがため『安政絶句』編輯の際その作を択ぶことができなかったと言っているので、わたくしは雲如の遊跡をその詩賦について討ねて見た。雲如は安政三年丙辰の年には一たび日光山の寓舎から江戸に帰り再び上毛の諸邑を遊歴していたが安政四年には江戸に留っていたらしい。家累を携えて京師に去ったのは翌年戊午の春である。\n この年安政四年丁巳の秋、大沼枕山は信州の小布施、松代、小諸の各地を遊歴し善光寺に中秋の月を賞した。枕山は小布施の儒者高井鴻山と以前より交遊があったらしい。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ちょうど、滞在中の四月十三日には、神戸市で清盛祭が行われる。神戸の開港記念何十年祭かに当るらしい。\n 主催の市と神港新聞社から、ぜひ、ぼくにも参会するようにという、すすめもあった。行かなくては、清盛氏にたいしても、ぎりのわるい気がしたが、十三日には、やむをえない予定があって、いまのところ見当がつかない。寸時間でも、駈けつける気もちではいる。行けばきっと、郷土史家や市史編纂に参与した古老たちから、有益なことも聞けそうに思われるからでもある。\n 三月にあった宮島の清盛祭にも、行けなかった。どうも、清盛祭とぼくとは、今のところ、あちこちで、かけちがって、うまくお目にかかれない。\n しかし、一昨日は、叡山にゆき、三千院をたずね、大原の寂光院までたどって、清盛のむすめであり、また、安徳天皇の御母であった建礼門院の跡に佇んで、寿永のむかしを暫し偲んで帰った。\n 与謝野晶子女史が、ここを訪うたときの歌がある。\n\n\nほととぎす治承寿永のおん国母\n三十にして経読ます寺\n\n\n 花曇りの今にも降り出しそうな昼。ほの暗い国宝の御堂の床に立って、建礼門院平ノ徳子の座像をさし覗いていると、案内してくれた院主の尼君が、そばから蝋燭の灯をかかげて、七百七十年前の薄命なる一佳人の白い顔を、眼ばたきし給うかとばかり、近々と、灯ゆらぎのうちに見せてくれた。\n 単に、机の上で描いてみる作家の幻想以上に、何か、身近なものが、肌に迫ってくる。似ているか、否かなどは、問題ではない。あの時代のままな四囲の山と水と、そしてこの建築との中にいれば、治承、寿永の世の一と隅を感じとるには充分である。\n 清盛を父とし、後白河法皇をお舅にもち、高倉天皇との間に生した幼帝安徳天皇を抱いて、争乱の世を、壇ノ浦まで追われたという女の生涯を、蒼古としてなお仄白い顔容の上に想いえがいていると、蝋涙の音も、ふと、その人のものかと怪しまれてくる。――いつの時代でも、戦乱には、いちばんむごい目に遭って、世の風浪のかぎり漂い果てる女――きのうの女、これからの女性はなどと、想いはつきない。\n 東大寺へ行った日は、しとどな、雨の日だった。\n けれど、その日はちょうど、四月八日の灌仏会であったし、桜も夜来の雨で、一ぺんに開き、奈良も人出がなくて、あちこち、静かに見られたのは倖せだった。\n なんといっても、治承四年に、平氏と南都の興福寺とが、ここで戦ったのは、双方共に、いい歴史をのこしたものとはいえない。\n 大仏殿は、聖武の世から、二度焼けている。治承四年の兵火と、松永久秀の戦国初期の兵火と、じつに、どっちも、人間の狂気時代に、焼けている。\n あの天平盛期の平和を思いながら、大仏殿に佇んで、大仏の偉大な美と荘厳に打たれていると、時には、これへ火を放ける心理にもなった人間の前科に、人間の凶暴性や愚に、ふと、慄然たるものを覚えずにはいられない。\n 終戦後、金閣寺を焼いた一青年に、世間は、ぞっとしたが、その愚は、まだ小さいといってよい。もっと、多くの大人が、もっと大きな愚を、もっと大胆にやったことのある実例を、歴史はすでに語っていた。これからは、そういう愚を、われらの地上に見ることのないようにと、蓮華蔵界(平和の世界)を体顕し給うものという大仏に、掌をあわせて、拝むほかはない心地がした。\n なんといっても、東大寺焼打ちの箇条は、清盛の大罪科の一つに数え上げられている。けれど、南都の僧団が、武力をかかえ、自ら兵火を求めたことも、決して、罪なきものとはいえない。公平な史観からいえば、平家の罪は、もう過去にも裁かれているが、僧団の非僧侶的な歴史は、裁かれもせずに来た。\n 人間愚を、人間がやるときは、僧侶もたれも変りはない。人間はまだまだ原始の尾骨痕跡を持つ生き物にすぎないようだという反省を、「新・平家物語」の上では書こう。――などと、そんな空想を抱いたりした。そして若草山のまろい線が望まれる宗務所の一室で、薄茶を一碗いただいた後、東大寺の花の雨に濡れながら山門を出た。(昭和二十七年四月九日 都ホテルにて誌す)\n\n草の実抄\n\n 第七巻「みちのくの巻」が出来たのをひもどきながら、偶然おもい出したのは、もう十七、八年も前に歩いた自分の“みちのく旅行”だった。\n ふつうの東北方面への旅行を除いて、いわゆる“みちのく”らしい旅を味わったのは、前後二回であった。一度は菊池寛、久米正雄、横光利一、片岡鉄兵などの諸氏と、文芸講演をかねて、のん気に(今のようなスピード旅行でなく)二十日余りを巡遊したおりと、もういちどは唯一人ぼっちで、四十余日間、にぎり飯を腰に、原稿紙入れの小さい旅行ケースを竹杖に挿して肩にかつぎ、毎日怪しげな芭蕉気どりで、てくてく歩いたことだった。\n そのころから胃腸が弱く、(今もだが)目的は、治病の方にあったので、一人で出かけたわけである。仙台までは列車でゆき、仙台を振り出しに、あとは大部分(本線の長い距離はもちろん乗ったが)細い脛で、気まかせに歩いた。\n 塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡しをこえて牡鹿半島を縦断し、本線へ出て、一ノ関から平泉地方をめぐり、古間木までは汽車で来て、蔦、おいらせ、十和田、そして小舟で十和田の湖北へ渡った。このコースは人の通わないところである。滝ノ沢峠をこえ、温川の一軒家に、十一日間ほどいて原稿を書き、黒石街道を歩いて、弘前まで出たのであった。\n この間、毎朝、宿屋を出るときに、ゴマ塩をまぶした大きな握り飯を一つ握ってもらい、ハンケチに包んで、腰にくくり、それを食べるのを楽しみに、自分で自分の空き腹を釣っては、足まかせに歩くのである。その当時、完全に胃腸は治った気がした。\n ところが、都会生活の机に返ると、たちどころに、その効もなくなってしまった。慢性は慢性のまま今日につづいている。しかし、今でも身に残っているものがある。それはそういう特殊な旅をした体験である。\n こんどの第七巻には、鞍馬の牛若が、京を離れて、みちのくの平泉へ行きつくまでの経路が主題をしめているが、今、装幀された一巻を手にして、十数年も前の、そんな旅の体験が、ずいぶん役に立っていたことが思い返されるのであった。週刊朝日の誌上では、そうも思わず書いていたが、一冊となってから、あらためて思い出されるのである。" }, { "role": "assistant", "content": " また、下総の多々羅や印旛沼附近は、自分の母の郷里の近くだし、武蔵野界隈は、いま自分のいる吉野村から車で東京へ出たり、ゴルフ場へ行くときなど、のべつ縦横に通る所である。村山だの金子村だの扇町屋だの、比企や川越附近は、ぼくの村からみな遠くない。\n まだ時をえない源氏党が蟄伏していたそれらの山村の武蔵野の果ての部落を行くと、何か、強すぎるほどな野性が今でも匂う。この間も、霞ヶ関ゴルフ場から、帰りにわざと、高麗川をのぼって飯能から金子十郎の金子村を通り、山越えして来たが、この辺はもう武蔵野のつき当りといってもいいほど秩父、多摩山岳へ寄っているので、中央沿線や都心の文化とは、まったく無縁のように見える。そして今でも草の実党が住んでいそうに思われたりした。\n 後に、義経の臣となって、さいごまで義経に殉じた佐藤継信と忠信兄弟の郷地、いまの福島県の飯坂温泉も、前にかなり歩いている。あの摺上川のそばの温泉宿へ行っては、十日半月とよく仕事をしていたからである。名物の桜ンぼが実るころ、福島競馬も始まり、友達はみな自動車で行くのだが、ぼくは人力車を雇って、夜明けに宿を出たものだった。そして藍坂の医王寺跡に立ったり、佐藤兄弟の碑の前で俥を降りたり、そんなことも、今になってみると、この第七巻を書くのに何かと役に立ち、自分の予備知識になっていた。\n 参考書も、必要に迫って、すぐ作品に役だたせようとすると、どうしても未消化なナマが目につくものである。旅行も読書も、身についてからのものでないと、役に立たない。\n 数日前の読売紙の文化欄に、正宗白鳥氏が現代作家論の中で「新・平家物語」の六巻妓王のあたりを評し、水の割ってある感じ、といったのは、たぶんそういう点が氏の目についたのではないかと思った。ナマな史料をナマのままならべると、随筆めいて、小説体から離れやすく、ついあんな形になる。\n ぼくはまた、数字(たとえば年月)とか、人名地名、計数関係などのことは、どうにも頭へ記憶を持つのにホネである。よくそれらのことをまちがえては、校閲部から注意をくう。書きながらただもうぼくにとって楽しいのは内容そのものだけである。が、歴史小説にはじつにいろんな条件が附随する。わけてこう長くなるとなおさらだ。読者の頭も同じだろうと思う。が読者はきびしい。そして克明である。腑に落ちないとなると寸毫のあやまりも仮借されない。依然、読者からの手紙にたえず鞭打たれている。\n 十五、六歳の牛若を書いていた間はなんだか楽しかった。牛若にかぎらず、ぼくは子どもを書くのは好きである。書きながら自分の少年期や老躯の中の童心がよび起こされるからだと思う。\n その牛若も育ってゆくにつれてむずかしい。作家の仕事には変な結果が宿命してくる。自分の筆から生ませ、筆で成長させたものが、ついにはその作家の筆でも、どうにも勝手に動かせないような存在になって来るのである。なぜなら、作家が血肉をそそぐ真実の強いほど、その作家の前には、もう立派に性格や思想を持った一個の人格として対象して来るからだ。考えれば気味のわるいことである。\n\n 私事をいってすまないが、おととしの六月生まれた香屋子というぼくの末の子が、ちかごろ、机の邪魔に来て、ぼくの膝にのったり、参考書などを掻きちらして閉口している。\n 去年、「新・平家」の第一巻が、初めて刊行になり、その初刷りの一巻が、出版局の人々の手で届けられた日が、偶然、香屋子の初めての誕生日だった。それから二年目の誕生日に六巻が出て、いま七巻になっている。\n 考えてみると、週刊朝日に「新・平家物語」の第一回を載せ始めたおととしの春には、まだこの子は生まれていなかった。それが今では、机の上の物を取って、ちょこちょこ逃げ出すようにまで成長している。時々、思うのである。ぼくのやっているこの長い仕事と、この子の伸びてゆく背丈と、どっちが確実な成長をとげているのだろうと。すると、どうもかなわない気がしてならない。けれど、いい目標ではあると思って、香屋子の育ちに負けないように、おりおり、自分を励ましては、稿を耕すということばのもつ勤勉をふるい起こす対象としている。\n\n 週刊朝日で既報された大阪朝日会館の読者大会の帰途、丹羽文雄氏や出版局のKさんと一しょに、奈良の中宮寺と法華寺へまわった。\n 京都からそこへ行く途中を利用して、やがてこれから書く以仁王の謀反、その以仁王と源三位頼政が敗れて、三井寺から宇治川へ落ちてゆく足跡を見ておくため、わざと三井寺から大まわりをして、俗に今でも“頼政越え”といっている山間だの部落ばかりを通って自動車で奈良へ行くことにした。\n その頼政越えは、劇作家で宇治にいる林悌三氏が先に調べて、当年の史料を辿り、絵図面まで作っておいてくれたのである。非常に楽しい日であったし、ぼくにとっては、以仁王の謀反と頼政の平等院の討死のときを書くばあいに、大きな下準備となったのはいうまでもない。\n けれど、あとの車で同行された丹羽氏にとっては、今、週刊に連載中の“蛇と鳩”の材料にもならないので、迷惑だったにちがいない。まっすぐに、新国道を行けば超スピードで短時間に行けるところを、舟のように揺られながら埃を浴びてついて行く。こいつはたまらぬと思われたのであろう、途中山吹が多いので昔は名所といわれた――井手ノ玉川から丹羽氏の車は引っ返して、先に奈良へ急いで行った。\n 源三位頼政の謀反とその死は、近く週刊に書く時に来ているが、書きがいのある課題として、前から興味をもっていた。彼の謀反や生涯は、歴史的な史料だけでは、解決されないものである。それは作家の仕事によらねば解かれえない心理だし、頼政もまた、史上の謎の一人物といってよい。\n\n 先ごろ、友人の服部之総氏のきもいりで、東大、京大などの若い史学家ばかり十余名の人と一しょになった。「新・平家」を中心に、一夕大いに語ろうといってくれたのである。三笠宮崇仁氏も同席され、余り意見はいわれなかったが、始終、にやにや聞いておられた。歴史学徒のまえにもいま画期的な時代が来ている。その気運を迎えているこの晩会った少壮史学家たちには、ちょっと文壇人の若いグループには見られないような何か瑞々しい気概が感じられた。ぼくにとっても、愉快なまた意義のある一夕だった。おりにふれて、また自分の吉野村の山家へもやって来ようといっている。ぼくもよろこんで迎え、そしてこういう人々の叡智な若さにも心から耳を傾けたいと希っている。\n\n この巻の見返しの色刷り、京からみちのくまでの図は、杉本画伯に、二度も描き直してもらった。読者の代弁のつもりだからそんな吾儘もいえる。そのかわり、初めの絵より、よくなったのは確かであった。描き終わると、健吉さんは、日光の華厳を見に行った。この夏は、油で那智と華厳を描きたいといっている。志は小でない。若い人のそうした野心をながめるのが人ごとならずぼくは好きだ。意欲にみちた力作を生み出されたい。杉本氏のためにそう祈っている。(昭和二十七年七月)\n\n晴稿雨筆\n\n 去年もだったが、ことしも夏から晩秋へかけて、浅間山麓の高原で仕事をした。第八巻の再校もここで見、第九巻の初校もすませ、十月中旬には帰れるかしらと思っている。\n 週刊朝日への毎回の送稿も、ここで続けて来た。去年今年と、二度もこの地方の晩秋を見たので、何か軽井沢の書屋と「新・平家」とは宿縁のふかい気がしてきた。作家にとって、その机をすえた居所と、そのとき書いた作品とは、いつまでも思い出になるものである。\n 居所と作品の宿縁を考えてみると、短篇は措いて、自分のこれまでの長いものでは、宮本武蔵、太閤記などは、赤坂表町に住んでいたころに書き、親鸞は芝公園で、三国志はその両方で、そしてどれも、旅先の仮の机で書いた部分がだいぶある。ことに武蔵は「新・平家」ほどではないが、遺蹟歩きや地勢などを見る必要もあったので、ずいぶん思い出の旅先が多い。中には、ほんの一、二度の例にすぎないが、旅客機の座席で膝を机に書いたりしたときもあった。\n 空の上は例外だが、いったい、ぼくの習癖としては、そのいる所を、低い湿地だの、暗い壁の隅だのに置くことは嫌いである。ひとみたいに押入れの中などではとても書けない。高燥が好きである。いまいる高原などは性に合っているのかもしれない。特に、「新・平家物語」のような“大きな時の流れ”を主題に、浮沈喜憂する人間諸業のすがたを観ようとするばあい、人間離れをしない程度に、こういう居場所は何か心の視界に都合がいい。\n 秋というと、近所隣も、みな空家ばかりだが、夏の軽井沢は、人間離れどころではない。ジャーナリズム網も張られているので、雑魚のぼくらまで御難にかかる。放送、座談会、対談、口述、写真、訪問記など、いやおうなく、現地徴用にひっかかる。\n また友人たちにもしきりに会った。池島信平氏、獅子文六氏、立野信之氏、舟橋聖一氏、服部之総氏、松本新八郎氏、野村胡堂氏、石坂洋次郎氏、佐佐木茂索氏、川口松太郎氏、村山知義氏。かぞえきれない。とくに珍客は、嘉治隆一氏が、おりふし夏季講座に来ていたハアヴアド大学で文学専攻のミラア教授夫妻を案内されたことだった。短期間だったが、ミラア教授とのはなしは非常におもしろかった。嘉治氏がそのときの印象を十一月号の小説公園に書いている。\n 笠信太郎氏、浦松佐美太郎氏などがみえたときは、土地の正宗白鳥氏だの、梅原龍三郎画伯、横山美智子氏、川口氏、野村氏、石坂夫人、ぼく夫婦などを、一夕招宴してくれた。室生犀星氏は微症で見えなかったが、当夜の会も愉快だった。去年は、やはりこういう顔ぶれに志賀直哉氏を加えて、改造社の山本実彦氏がきもいりの会をしてくれたが、その山本氏は今年はもう他界の人だった。そういえば、その山本実彦氏の未亡人と御子息が、ことし山荘を訪ねてくだすった日は、軽井沢特有な霧小雨の日で、実彦氏の生前ばなしが出るたびに、未亡人の瞼があからむのに胸の傷むおもいを共にした。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「必ず、持参します。――じゃあ、市の字、淋しかろうが、暫くひとりで」\n と、大亀は、その軽い舌先と、変に応じて弱くもなる物腰とで、さすがの赤螺三平をも煙に巻き、支度もそこそこ、朝飯前に往来へ飛び出してしまった。\n「こう天気はいいし、朝ッぱらからでは、何とも、金に巡り会いようがねえ」\n 悪心も、途方にくれた。十月末の清澄な昼。くまなき太陽。かれの悪智も、働き出るすきがない。\n「そうだ、梅賀の家へ行って、お袖の小費をゆたぶッてやろう。市の字を連れて来てやるといやあ、質をおいても、三両や五両は――」\n ぶらりと、彼はあれ以来の、梅賀の家をのぞいた。\n 子どもの泣き声が聞える。お燕だな――と思いながら、土間へはいって、裏の川まで見通しの奥を覗き、\n「お袖。いるかい?」\n「たれだい」\n ――案外、返辞は男の声。\n「おや、味噌久じゃねえか」\n「オオ、大亀か」\n「どうしたい。子どもを背負って、台所なんぞしやがって、不景気な」\n「だって、この子を、干乾しにするわけにもゆくまい」\n 久助は、背なかで泣きぬくお燕をあやしながら、箸や茶碗を洗っていた。\n「ところで、お袖は......?」\n「あの晩きりさ。......行方知れずだ」\n「え。あの晩きりだって」\n「どうしても、市の字に会わせろというので、大岡家へ連れて行ったさきおとといの晩からさ。......ここへも、どこへも、帰って来ねえ」\n「はてな。......まさか、身投げをしたわけでも、あるめえが」\n「それとも、屋敷の奴らにでも殺されたかと、心配で堪らねえから、実あ、きのう思いきッて、大岡家の仲間にきいてみたのよ。そしたら、何でもあの晩、召使たちが三、四人でお袖を駕籠に押しこんで担ぎ出し、番町辺の濠際へ、その駕籠ぐるみ、抛り捨てて帰ったなんていやがるんだ。――その番町も、さんざん歩き廻ってみたが、かいもく何も分らない」\n「梅賀も、留守かい」\n「これも四、五日前に出たきりだ」\n「久助、とにかく、朝飯をくれよ。飯を食っての、思案としよう」\n 大亀はすぐ寝そべッた。\n 頬杖ついて、家の中を見まわしていたが、やがて、飯ができると、悠々と掻ッこんで、\n「久助、こんな物はもう洗わなくッてもいいや。それより夜逃げ屋を呼んで来い」\n「何だい、夜逃げ屋というなあ」\n「道具屋だよ。どこかそこらに、古道具屋があるだろう。ぐずぐずしてると、てめえも、お犬小屋一件の御用風に抱きこむぞ」\n 味噌久を脅して、古道具屋を呼ばせ、世帯一式、付け値の七両二分で、売り払ってしまった。\n そのうち、二両を、味噌久へ渡して、\n「これだけやるから、てめえはこれを持って、市の字の体を、遊び風呂の丁字屋から請け出して、どこへでも潜りこめ。――おれはおれで、もう少し、草鞋をはいて、一行脚やってくる。何しろ、まだまだ、お犬小屋一件の下手人が出ねえてンで、町奉行は血眼らしい。たのむぜ、久の字」\n 風の如く、大亀は、町の辻に、彼を捨てて、その姿を消してしまった。\n 久助はすぐ丁字屋をたずねた。\n 市十郎は、裏二階から首をのばして待っていた。大亀とおもいのほか、久助が来て、しかもその背に、わが子が負われているのを見て、ぞくと全身の血を凍らせたふうである。女たちは、ここの内緒へ、久助が勘定を払ったのを見て、\n「オオ。可愛い子だ」\n と、お燕を抱きとって、あばき合ったが、やがてそれが市十郎の子だと知ると、俄然、邪けんに突ッ返して、\n「まあ、憎らしいね」\n と、こんどは、市十郎をとり巻き、どうしても、返さないと、執こくひきとめた。\n 女たちをもぎ離して、市十郎は逃げるように戸外へ出た。うしろで、キャッキャッと、笑い声がしたが、道も見えない心地で、鎌倉河岸まで馳け出した。\n「市の字。ひどいよ。逃げちゃあ、ひどいや。自分の子だぜ、この餓鬼は。――待ってくれよ、待てやい」\n 久助も、うしろから飛んで来た。お燕のくびが、宙へ向いて、がくがく揺られぬいて来る。市十郎は、振り向いて、棒のように立ちすくんだ。\n「亀次は? そして、お袖は?」\n もう散り初めてきた柳並木を、市十郎は、人魂のように、力なく歩きながら、早口に訊ねた。\n そして久助の口から、大亀の突拍子もない行動やら、お袖が、あの夜以来、消息がなくなったことなど聞いて――彼の顔は、お濠の水よりも青くにごった。\n「どうする? ......。市の字」\n お人よしの久助も、背中の子どもは、持て余し気味だ。市十郎の眼へ、つきつけるように、お燕の顔を見せた。\n 市十郎は、腕ぐみを解いた。そして素直に、自分の背なかを向けていった。\n「わしの子だ。わしが負う。......久助、こっちへ背負わせてくれ」\n\n抜け裏の美少年\n\n 十一月にはいった。寒さは心へもくいついてくる。\n 木賃を泊りあるいているうち、ふところの金もなくなってきた。味噌久は、冬空を仰いで、しょんぼり、嘆くようにいった。\n「ねえ市の字。どこかで、何かやらなきゃだめだよ。泥棒はできねえの、たかりはいけねえのと、臆病なことばかりいッてたんじゃ、この子が、凍え死んでしまうぜ」\n お燕を、交る交るに負って、きょうもあてなく、盛り場の裏町をうつろに歩いている二人だった。\n 寒さと、空き腹は、悪への盲目を駆り立てるが、大亀や阿能十のような先輩がいなくては、味噌久も、掻ッ攫い一つできない男なのである。まして、市十郎には、その方面の才覚はない。\n いや、市十郎は、こうして毎日、泣く子を負って、町をうらぶれ歩くのも、今では何か、楽しみになりかけていた。――お袖、お袖、お袖はどこに。心は、常にそぞろだった。かの女の行方をさがすための、恋の苦労と思うと、飢寒も、ものの数ではない。恥をつつむ破れ編笠も、自分だけには、恥でない気がした。すれ草履の足もとを、霰もつ風に吹きなぐられても、お袖に似たうしろ姿を、ふと人なかに見つけたときは、胸のうちが花火のようにどきと鳴った。走り寄って、人違いと知った後にも、甘い感傷がかなしくのこり、人知れず、自分を、恋の詩人にしていた。\n ――だが、お袖の行方は杳としてわからない。心あたりをそれとなく問い歩いても、生死すら知れないのである。そして現実は、ふたりの前に、今夜の糧と寝床をどうするか。がんぜないお燕を飢え死なすか、捨て児か。冷酷な決意をたえず強いてやまない。" }, { "role": "assistant", "content": "「アア、良い印籠だなあ。――あの印籠一ツあれやあ」\n 久助は、前へ行く美少年の腰に気をとられていた。長身で色白な人だった。粗服だが、どこか気稟の高い風が見える。髪から顎へ、紫の布を頭巾結びにたらりとつつみ、革袴、新しい草履、ゆったりした歩様で行く。\n 芝居小屋の多い堺町に近い抜け道――\n から風に鳴る幾すじもの小屋幟の音が耳につき出した。曲がり角まで出るに手間どるほど、そこらからもう雑鬧の雑音につつまれ初める。――と思ううち、いつのまにか、市十郎のそばを離れていた久助が、\n「あッ、ごめんなさいっ」\n と、人ごみの間で、大きくわめいた。幼な子の悲鳴もつんざき、市十郎の胸をぎょッと衝ッた。\n お燕は、久助の背なかだった。子どもを背負っているくせに、久助は、ふらふらと、美少年のうしろを窺い、その腰にある印籠を、掏り取ったのだ。\n ところが、美少年は、一人ではなかった。数歩離れて、そのうしろから、同じように、黒布で、頭巾結びに顔をつつんだ侍が、ひそかに随行していたのである。\n「おのれッ――」と、ほとんど間髪も容れず、久助の襟がみは、その武士の迅速な手に引ッつかまれ、路傍の煮売屋の葭簀へむかって、もんどり打つばかり叩きつけられていた。\n「何とした? 半之丞」\n「お腰の印籠がございますまい」\n「ほ。......ないわ。盗まれたか」\n「こやつめです」\n 半之丞とよばれた随行の武士は、久助の手から印籠を引ッ奪くって、\n「お気をつけ遊ばしませ」\n と、主人らしい美少年の手へもどした。\n たちまち周りは人間の黒山をつくりかけた。口々に、掏摸だ、盗ッ人だと、罵り騒ぐ。――だが、葭簀のすそに、腰をくだいて、背中の子どもと共にベソを掻いている久助のあえない姿を見出すと、群集の眼は、皆まごついて、腑に落ちない顔を見合せている。\n そのとき美少年の明眸も、久助の姿へそそがれた。十八、九歳の豊麗な容貌が、頭巾のうちで微笑していた。何か、おかしくてならないようである。そして、いま手にもどった印籠を、\n「これか。......子どもがこれを欲しがるか」\n と、久助の膝へむかって、ぽんと投げ与え、翻――と人浪のうちへ隠れ去ってしまった。\n\n嫌われ葵\n\n ゆうべは、寺の縁へ寝た。こん夜はお竹蔵の竹置場に、むしろを被って、夜霜をしのぐ父と子だった。\n 久助は夕方からあの印籠を売りにゆき、人目もないので市十郎は、抱いているお燕の顔に頬ずりした。どこかに、お袖の肌を思わせてくれる。\n「お母あちゃまは、どうしたろうな。おまえも母をさがして泣くか。おお、よしよし。飢もじいか。いまに久助が、何か買って来よう。泣くな。泣くな」\n 折々、立って歩いたり、小声で子守唄をうたってやったり......そしてそのわが子守唄に、若い父は、感傷になって、独り涙をたれていた。\n なんのために屋敷を出てしまったか。あやしい自分の気もちを今さら疑わずにはいられない。\n 従兄の誘惑に負けたのか。家つきのお縫とつれ添う将来が厭わしいのか。屋敷生活や武家階級のいつわりと空虚にいたたまれない気持からか。\n ――と、数えてきても、どれもこれも、それ一つが理由ではない。やはり最大の原因は、自分の内にあった。何かに吐け口を見なければやまない物騒な青春の火――その火が運命の燎原をみずから焼いているのだ。最初の小さい一つの過失が、次第に、罪から罪を生み、果てなく罪業をつんでゆく。それにも似た青春の野火だ。\n この火悪戯は、元より自分の好奇心にもあったことだが、火つけ友達は、まぎれなくあの従兄だ。従兄の亀次郎さえいなかったら、この運命もなかった気がする。\n だが、この境遇を、自分はほんとに悔いているだろうか。真に、後悔しているなら、養父はいった(――迷うだけ迷って来い。そして目が醒めたらいつでも帰れよ)と。......今からでも前非をわびて帰れないやしきでもない。\n にも関わらず、自分はこの子を捨て児にもしきれないのだ。こうしていれば可愛さはますのみである。本能というか、愛というか、われながら分らない妄執がつのっている。――いや、その妄執の真の相は、この子にあるのではなく、お袖にあるのであろう。もしお袖に会う望みがなければ、若い父親は、この子も路傍の捨て児としてかえりみないにちがいないから――。\n あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。あるのはただお袖だけだ。もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく泡沫のようなものだったことを悟ろう。青春の問題の多くがこれだ。――市十郎の場合も例外ではなかったのである。\n「オオ寒。くたびれ儲けさ。どうしても買手がねえよ。宝の持ちぐされとはこのことだ」\n やがて久助が帰って来た。売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。理由は、蒔絵の構図が、葵の紋ぢらしになっているせいだった。\n 葵の紋は、お犬様と同じだ。さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。\n「......だがネ市の字。こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。この子に罪はねえものを。なあお燕坊。......オヤ、笑ったよ、おれを見て」\n 飴の袋と、まんじゅうの包みを出し、久助はお燕にそれを喰べさせた。――見れば、久助は、着ていた上着を失って、襦袢ひとつになっている。あの垢じみた一張羅をどこかで脱ぎ、そして、わずかに買ってきたおみやげにちがいない。市十郎は眼が熱くなった。\n そこへ、夜鷹蕎麦の担荷が通った。温かそうな葱の香と、汁のにおいが、ふたりの空腹をもだえさせた。胃の疼きが唾液をわかせて抑止しようもない浅ましい意欲に駆られた。\n「――おっ、蕎麦屋さん」と、久助はわれを忘れたように呼びとめて「熱いのを、二杯くんな」と、思わずいってしまった。\n\n霜の夜がたり\n\n ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の丼をかかえ、ふウふウいって、喰べあった。五体の血は生命の火を点じられたように活気づいて指の先まであたためた。箸の先に水洟がたれるのも思わなかった。浅ましいというなかれ。無上大歓喜即菩提。人間とは、こんな小やかな瞬間の物にもまったく満足しきるものだった。痛い、痒いも覚えない。名誉、功利、闘争、廉恥、そんなものもなかった。恋、性欲――それもこの次のものだった。\n「アア、美味かった......」と、久助は箸と丼を蕎麦屋へ返すと、天にむかって浩嘆した。市十郎は、丼の底に余した汁を、お燕の口に与えていた。\n「お代りは? ......」と、蕎麦屋がいった。久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。そしていいにくそうに、蕎麦屋の屋台行燈の下へ、例の印籠をひょいと出した。\n「蕎麦屋さん。実あ、金はないんだよ。これを抵当に、もう一杯喰べさせてくれるかい」\n「え、何です、これやあ......」蕎麦屋は、じっと、手にも取らず見ていたが、\n「これやあ、紀州様の御紋章つきの印籠じゃございませんか」\n「そうだよ。盗んだ物じゃあない。堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」\n「へえ、なるほど、それじゃあ嘘ではありますまい。あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお微行で町へお出でなさる紀州様のお三男、徳川新之助様だってえ噂ですからね。......が、どうして印籠なぞを、お前さんたちにくれなすッたろ」\n「この子のおもちゃに抛って下すったんだ」\n「そうですかねえ。そんな気まぐれもなさるかもしれない。何しろ変った御曹司ですよ。――つい、この間もね、こんなことがあって、それからあのお若衆が、紀州大納言様の三男で、まだお部屋住みの新之助様だってことが、初めて、あの界隈にわかったんでさ」\n と、蕎麦屋は煙管に一ぷくつめて、天秤棒にもたれながら話しだした。\n やはり柳沢閥の、さる老中の息子らしく、これも微行姿で、よく堺町へ来るが、いつも大自慢の土佐犬を、銀の鎖でつなぎ、わざと、盛り場の人混みを引きあるいていた。そして、この獰猛なお犬様に、雑鬧の露ばらいをさせて、人々が恐れまわるのを、愉快としていた。\n かれが、芝居を見物中は、これを小屋の木戸番へ預けて入る。木戸番は、お犬様のために、特に、入口に別席をもうけ、地上に緋氈を敷いて、青竹につないでおいた。\n すると、ある日、賎しからぬ若衆が、その前に佇んだ。そしてふと足の先で、お犬様を愛撫した。権門の猛犬は、常に人間を猫、鼠以下に見馴れているせいか、この人間の無礼にたいし、土佐犬特有の牙をいからして、猛然と、その若衆の出した足くびへ食いついた。――あッと、見ていた群集の方が胆をひやした。さだめし、足を引くのも間にあうまいと思ったからだ。ところが、豪胆といおうか、大気といおうか、若衆は、刹那に、わが足のつま先を以て剣の如くにし、引くべきを反対に、いきなり土佐犬の口の中へ――腹まで通れとばかり強く突ッ込んだのであった。\n さしもの猛犬も、これには牙を立ついとまもなかったとみえ、ぐわッと五臓を吐くような唸きと共にぶっ仆れ、死ぬまでには至らなかったが、けたたましい吠え声をたてて、まったく尻ッ尾を垂れてしまった。\n 犬の声よりも、見ていた群集の歓声が、小屋の前を揺すったのである。権力と悪政の法規のまえに、いかんともし難い屈辱と隠忍を強いられていた庶民は“お犬様”の暴力にたいし、若衆が毅然たる正当防衛を示したので、おもわず溜飲をさげ、またうれしさの余りというような狂喜の態を発したのだった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を食ませて置く積りと見える、余の了見とても詰りそれに外ならぬ、唯秀子を無事に落ち延びさせる迄此の探偵の手足の自由を奪い、爾して声を出させぬ様に仕て置けば宜いのだ、時介は余に向かい「丸部さん、少しも手を弛めては了ません、足の方から私が縛りますから、ナニ私は水夫から習って繩を結ぶ術を心得て居りますよ、私の結んだ繩は容易に解ける事では有りません」と云い早や探偵の両足を取り、グルグル巻に巻きしめて縛り始めた。\n 森主水は幾等悶掻いても到底余の力には叶わぬと断念めたか悶掻く事は止めた、其の代わり彼の眼には容易ならぬ怒りの色を浮かべ、余の顔を睨み詰めた、人を睨み殺す事の出来る者なら余は此の時睨み殺されたに違いない、たとい決心はして居る身でも、斯う睨まれては余り宜い心地はせぬ、何とか、言葉だけででも慰めて遣り度い、余「森さん、森さん、恨めしくも有りましょうけれど、ナニ全く貴方の為ですから我慢なさい、今此の通り貴方の自由を奪わねば、貴方は罪のない秀子を捕縛し、職務上の失策として後々まで人に笑われますよ、先刻貴方は好意を以て、私が罪人を助ける罪を妨げて遣るのだと仰有ったが、今は其のお礼です、私も厚意を以て、貴方の職務上の大失策を妨げて上げるのです、ナニ秀子が無事に落ち延びて、貴方の手の届かぬ所へ行けば、直ぐに貴方を解いて上げます、其の時には解いたとて貴方が失策をする種が有りませんから」と殆ど鸚鵡返しの様に云うた、彼の心が此の言葉に解けたか否やは判然せぬ。\n 彼は物言いたげに口を動かそうとするけれど、其の顎をしめ附けて居る余の手が少しも弛まぬから如何ともする事が出来ぬ、唯犬の唸る様な呻き声を発する許りだ、秀子は此の様を見、此の声を聞き「丸部さん、何うあっても其の方を許して上げぬのですか」と云い、更に権田時介に向かい「貴方は紳士の名に背く様な卑怯な振舞いはせぬと先刻も仰有ったでは有りませんか、此の様な振舞いが何で卑怯で有りませんか、何で紳士の名に負きませんか、私の名を傷つけまいと思うなら、何うか其の繩をお捨てなさい」権田も一様に聞き流して、早や腰から手から首の所まで、宛も簀巻の様に森主水を縛って了い、最後に猿轡をまで食ませ終った、権田「サア丸部さん是ならば呼吸の根を止めたのも同様です、次の間へ運んで暫く押入れの中へ投げ込んで置きましょう」言葉に応じて余は彼の首を、権田は彼の足の方を、双方から捕えて舁ぎ上げ、次の間へ運んで行き、瓦礫道具でも扱う様に押入れの中へ投げ込んで戸を閉じた。\n\n第九十一回 真に烈女\n\n 手も足も首も胴も、長い繩でグルグル巻に巻き縛られては、幾等機敏な森主水でも如何ともする事は出来ぬ、余と権田とに舁ぎ上げられ、手もなく次の室へ運ばれて押入れへ投げ込まれたは、実に見じめな有様である。\n 余は彼を次の室へ運びつつも、秀子が何の様に思うて居るかと、横目で其の様を見たが、秀子は青い顔を益々青くし、唇を噛みしめて、爾して一方の壁に靠れ、眼は只室内を見詰めて居る、全く心中に容易ならぬ苦しみが有って、非常の決心を呼び起こそうとして居るのだ、或いは自殺でもする気では有るまいか。\n 之を見ると実に可哀相である、世間の娘達は、猶だ是位の年頃では浮世に艱難の有る事を知らず、芝居や夜会や衣服や飾物に夢中と為って騒いで居るのに、如何なれば此の秀子は牢にも入り死人とも為り、聞くも恐ろしい様な境涯にのみ入るのであろう、犯せる罪の為、心柄の為とは云う者の、斯くまで苦しき思いをすれば大抵の罪は亡ぶる筈だ、最う既に亡び盡して清浄無垢の履歴の人より猶一層清浄に成って居るかも知れぬ。\n 此の様に思いつつ元の室へ出て来ようとすると権田は背後から余を引き止め「お待ちなさい、茲で相談を極めて置く事が有ります」余「エ茲で、茲では森主水に聞かれますが」権田「構いません、爾ほど秘密のことではなく、殊に秀子の前では言いにくい事柄ですから」余「では聞きましょう、何の相談です」権田は今探偵を投げ込んだ其の押入れの直ぐ前に立ったまま「是から秀子を逃がすとしても、只一人で逃がす訳にも行かず、貴方か私か随いて行って、愈々之で無難と見届けの附く迄は一身を以て保護して遣らねば成りませんが、其の任は何方が引き受けます、貴方ですか、私ですか」\n 余は縦しや秀子を我が妻には為し得ぬ迄も、永く後々まで有難い人だと秀子の心に善く思われたい、茲で保護の役を引き受ければ外の事は兎も角も充分恩を被せる事が出来るから、少しも躊躇せず「夫は無論私が勤めます、貴方は弁護士と云う繁忙な身分ですから」権田「イヤお為ごかしは御免です、職業などは捨てても構わない決心です」余「そう仰有れば私の方は命でも捨てて宜い決心ですが」権田「イヤ斯う争えば果てしがない、寧その事、秀子に選ばせる事に仕ましょう、選ばせるとは聊か心細い手段では有るけれど仕方がない」余「宜しい」と云って承知し、二人で元の室へ帰って見た。\n オヤオヤ何時の間にか肝腎の秀子が、居なくなって居る、察するに秀子は、今し方唇を噛みしめて非常な決心を呼び起こそうと仕て居る様に見えたが、全く決心が定まって何処へか立ち去った者と見える、錠を卸して有った入口の戸が明け放されて居る、兼ねて権田が、何時でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」\n 早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は後れたのだ、ハテな秀子が此の汽車へ乗ったか乗らぬかと気遣いつつ其の汽車を見て居ると、一等室の窓からチラリと秀子の姿が見えた、さては全く幽霊塔へ帰るのだナと是だけは先ず安心し、次の汽車は何時かと時間表を検めると今のが真夜中の汽車で、次のは午前一時半の終列車だ、猶だ一時間半だけは権田と相談する事が出来ると、気を落ち着けて、茲で電報を認め、秀子へ向けて兎も角も一二日は安心だから余の帰るまで幽霊塔を去る勿れとの文意を送り、爾して約の如く又権田の許へ引き返した、全体権田が何の様な事を云う積りだか、聞き度くも有り聞き度くもなしだ。\n 権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」" }, { "role": "assistant", "content": "\n第九十二回 貴方は人間\n\n「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。\n とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。\n 若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど清くして殆ど超凡脱俗とも云い度い所がある、此の様な稀世の婦人が何で賤しい罪などを犯す者か。\n 余が初めて秀子の犯罪をポール・レペル先生から聞いた時、何れほど之を信ずるに躊躇したかは読者の知って居る所である、余は顔形の証拠に圧倒せられ、止むを得ず信じはしたが、決して心服して信じたでは無い、夫だから信ずる中にも心底に猶不信な所があって動ともすれば我が心が根本から、覆り相にグラついた、其の故は外で無い、唯秀子其の人の何の所にか、到底罪人と信ず可からざる明烱々の光が有って、包むにも包まれず打ち消すにも打ち消されぬ如く感ぜられる為で有る。\n 爾れば意外であるけれど、其の意外は決して、罪人と聞いた時の意外の様に我が心に融解し難い意外では無い、罪人と聞いた時には余は清き水が油を受けた様に心の底から嫌悪と云う厭な気持が湧き起こって、真に嘔吐を催す様な感じがした、決して我が心に馴染まなんだ、今度は全く之に反し、一道の春光が暖かに心中に溶け入って、意外の為に全身が浮き上る様に思った、極めて身に馴染む意外である、此の様な意外なら幾等でも持って来いだ、多ければ多いだけ好い、縦しや信じまいとした所で信ぜぬ訳に行かぬ、心が之を信ぜぬ前に早や魂魄が其の方へ傾いて、全く爾に違い無いと思って了った。\n「エ、貴方は真に其の事を知って居ますか」とは余が第一に発した言葉である、権田「知って居ますとも、今では其の犯罪人が秀子で無い、此の通り外に有るのだと証明する事が出来ます、貴方に向かっても世間へ向かっても、法律に向かっても立派に証拠が見せられるのです、其の証拠を見せるのも、見せぬのも別言すれば罪人が外に在るなと証明するも証明せぬも、単に私の心一つですと云い度いが、実は丸部さん貴方の心一つですよ」余「エ、エ、貴方は、其の様な証拠を握って居ながら、今までそれを証明せずに秀子を苦しませて置いたのですか、全体貴方は人間ですか」と余は目の球を露き出して問い返した。\n 権田「イヤ先ア、そう遽て成さるな、決して知り乍ら故と証明せずに居た訳では無い、纔かに此の頃に至って其の証拠を得たのです、尤も私は秀子の件イヤ輪田夏子の件を弁護した当人ですから其の当時幾度も秀子即ち夏子の口から全く此の人殺しは自分で無いとの言葉を聞き大方其の言葉を信じました、信ずればこそ一生懸命に肩を入れ充分弁護しましたけれど、如何せん其の時は総ての事情が秀子に指さして居る様に見え、私も反対の証拠を上げ得なんだ者ですから、弁護も全く無功に帰し、秀子即ち夏子は殺人の刑名を受けましたけれど、其の時私は秀子に向かい、真に貴女が殺さぬ者なら、遅かれ早かれ終には誠の罪人の現われ、何所にか其の証拠が有りましょうから、貴女が牢に入って居る間に私が其の証拠を捜しますと受け合い、秀子も亦、甘んじて此の乱暴な裁判に服する事は出来ぬから、何の様な事をしてなりと牢を抜け出で、盡くすだけの手を盡くして、縦んば唯の一人なりとも此の世に輪田夏子は殺人の罪人でないと信ずる人の出来る様にせねば置かぬ、此の目的の為には自分の生涯を費やす覚悟だと殆ど眼に朱を注いで私へ語りました、即ち秀子が牢を脱け出たも其の結果です、牢に居ねばならぬ義務の有るのに牢を抜け出る世間の脱獄者とは聊か違うのです、牢に居る可き筈がないのに唯法律の暴力の為に圧せられて、止むを得ず牢に居るから及ぶ丈の力を以て其の暴力の範囲から脱け出たのです、脱け出て後も、今日まで全力を其の目的の為に注いで居たのでしょう」\n 是で見れば秀子が密旨と云ったのも多分は其の辺に在ったであろう、尤もそれだけとしては猶多少合点の行かぬ所も有りはするけれど、兎に角大体の筋道だけは分った、余は殆ど目の覚めた気持がする。\n\n第九十三回 そこが相談\n\n 余は何も彼も打ち忘れて喜んだ、「成るほど権田さん、アノ裁判は間違いに違いない、秀子が人殺しなど云う憎む可き罪を犯す女でない事は誰の目にも分って居ますよ」権田は嘲笑って「爾ですか、誰の目にも分って居りますか、実に貴方は感心ですよ、自分の妻と約束までした女を、ポール・レペル先生から人殺しの罪人だと聞けば直ぐに其の気になり、今又私から罪人でないと聞けば、何の証拠も見ぬうちに又成るほどと合点成さる、実に暁りが早いですネエ」余は殆ど赤面はしたけれど「ハイ証拠を見ずとも是ばかりは信じます、秀子の容貌、秀子の振舞いなどが百の証拠より優って居ます」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "それが今日はどう云う訳か最初に舞台を見入った時からそう反感を起すでもなく、自然にすらすらと浄曲の世界へいざなわれて、あの重苦しい三絃の音までがいつとはなしに心のうちへ食い入って行くようなのである。そして落ち着いて味わって見ると、彼のきらいな町人社会の痴情の中にも日頃のあこがれを満たすに足るものがないでもない。暖簾を垂らした瓦燈口に紅殻塗りの上り框、―――世話格子で下手を仕切ったお定まりの舞台装置を見ると、暗くじめじめした下町の臭いに厭気を催したものであったが、そのじめじめした暗さの中に何かお寺の内陣に似た奥深さがあり、厨子に入れられた古い仏像の円光のようにくすんだ底光りを放つものがある。しかしアメリカの映画のような晴れ晴れしい明るさとは違って、うっかりしていれば見過してしまうほど、何百年もの伝統の埃の中に埋まって佗びしくふるえている光だけれども。.........\n「さあ、どうどす、お腹空いてましたらたべとおくれやす、ほんまに味のうおすけれど、.........」\n幕が終るとお久がそう云って重箱の物をめいめいに取ってくれたが、要はまだ眼にちらついている小春やおさんのおもかげに名残りを惜しまれる一方、老人のお談義が直きに例の「鬼が栖むか蛇が栖むか」へ落ちて行きそうな形勢なので、幕の内を摘まむあいだも気が気でなかった。\n「それではあの、戴き立ちで甚だ勝手なんですが、.........」\n「もう、お帰りやすか、ほんまに」\n「僕はもっと見ていてもいいんですが、やっぱりちょっと松竹座へ行って見たいんだそうですから。.........」\n「そらなあ、奥様」\nと、取りなすようにお久は云って、老人と美佐子とを半々に見た。\n二人はそれをいいしおに、次の幕の口上が始まりかけたのを聞きながら、廊下までお久に送られて出た。\n「あんまり親孝行にもならなかったわね」\n道頓堀の夜の灯の街へ吐き出されたとき、美佐子はほっとしたように云って、それには答えず戎橋の方へ足を向けかけた夫を呼んだ。\n「あなた、そっちじゃあないことよ」\n「そうか」\nと、要は引っ返して日本橋の方へ、こころもち急ぎ足で行く彼女のあとに追いつきながら、\n「いや、あっちへ行った方がいい車が拾えると思ったんだ」\n「もう何時?」\n「六時半だよ」\n「どうしようかしら、.........」\n妻は袂から手袋を出して、それを篏めながら歩いていた。\n「行くならおいでな。行って行けないと云う時間でもない。.........」\n「此処からだと、梅田から汽車で行った方が早いでしょうか」\n「早いことを云やあ、阪急で行って上筒井から自動車の方がいいだろう。―――しかしそうすると、此処で別れてもいい訳なんだな」\n「あなたは?」\n「僕は心斎橋筋をぶらついて帰る」\n「じゃあ、.........もしか先にお帰りになったら、十一時に迎えに出ているように仰っしゃって下さらない? 電話をかけるつもりだけれど」\n「うむ」\n要は妻のために通りかかりのニュウ・フォードを止めた。そしてガラスの窓の中に彼女の横顔が収まるのを見届けてから、再び道頓堀の人波の中へ引っ返して行った。\n\nその四\n\n\n弘サン\n学校ハイツカラ休ミデスカ、モウ試験ハ済ミマシタカ、僕ハチョウド君ノ学校ガ休ミノ時分ニソチラヘ行キマス。\n御土産ハ何ニシヨウ。御注文ノ広東犬ハコノ間カラ捜シテイマスガナカナカ見ツカラナイ。同ジ支那デモ上海ト広東トハマルデ国ガ違ウヨウニ離レテイマス、目下当地デハ「グレイハウンド」ガ流行デス、ソレデヨケレバ持ッテ行キマス、ドウイウ犬カ君ハ多分知ッテイルデショウガ、参考ノタメ「グレイハウンド」ノ写真ヲ此処ニ入レテ置キマス。\n写真デ思イツイタガ写真機ガ欲シクハナイデスカ、「パテエ・ベビイ」ハイカガ? 犬トドッチガイイカ、返事ヲ下サイ。オ父サンニハ約束ノ「アラビアン・ナイト」ガ「ケリー・ウォルシュ」ニアッタカラ持ッテ行クト云ッテ下サイ、コレハ大人ノ読ム「アラビアン・ナイト」デス。子供ノ読ム「アラビアン・ナイト」デハアリマセン。\nオ母サンニハ緞子ト呉絽ノ帯地ヲ持ッテ行クト云ッテ下サイ、ドウセ僕ノオ見立テダカラ例ニ依ッテ悪口ヲ云ワレルカモ知レナイ、君ノ犬ヨリコノ方ガ心配ダト云ッテ下サイ。\n荷物ガ沢山持チキレナイホドアリマス、犬ヲツレテイタラ電報ヲ打ツカラ誰カ船マデ受ケ取リニ来テ下サイ。\n大概二十六日ノ上海丸ノ予定デス。\n\n高夏秀夫\n斯波弘様\n\nその二十六日の午頃、父につれられて出迎えに行った弘は、船の廊下を尋ね廻っていち早く船室を捜しあてると、\n「小父さん、犬は?」\nと、真っ先にきいた。\n「犬か、―――犬は彼方に置いてあるよ」\n白っぽいホームスパンの上衣の下に鼠のスウェーターを見せて、同じ鼠のフランネルのパンツを穿いた高夏は、狭い室内で彼方此方荷まとめをするあいだも絶えず葉巻を手から口へ、口から手へと持ち変えながら、そのために一層気ぜわしそうに働いていた。\n「大分荷物が多いじゃないか、今度は幾日ぐらい居るんだ」\n「今度は少し東京に用があるんだ、君ん所にも五六日はいるつもりだが」\n「これは何だ」\n「それは酒だ。―――非常に古い紹興酒だと云うんだが、欲しければ一と瓶分けてもいい」\n「その辺にある細かい物を寄越したらどうだい、じいやが下で待っているから、あれを呼んで持たしてやろう」\n「犬は、お父さん? 犬はどうするの?」\nと、弘が云った。\n「―――じいやは犬を連れて行くんですよ、お父さん」\n「なあに、おとなしい犬だから大丈夫だよ、弘君でも連れて行かれるよ」\n「噛まない? 小父さん」\n「絶対に噛まない、どんな事をしたって平気なもんだ。君が行ったら直ぐ飛び着いてお世辞を使うよ」\n「何という名?」\n「リンディー。―――リンドバーグのことだよ、ハイカラな名だろう?」\n「小父さんがお附けになったの?」\n「西洋人が持っていたんで、前からそんな名が附いていたのさ」\n「弘」\n要は、犬の話で夢中になっている子供を呼んだ。\n「お前はちょっと下へ行ってじいやを連れておいで。ボーイだけでは手が足りないから」\n「元気じゃないか、見たところでは。―――」\n何か嵩張った重そうな包みを寝台の下からずるずる引きずり出しながら、出て行く弘のうしろかげへ眼をやって高夏は云った。\n「そりゃ子供だから、元気は元気だが、あれでなかなか神経質になっているんだ。手紙にそんなところはなかったかね」\n「なかったね、別に」\n「尤もそりゃあ、まだどうと云って形を取った心配がある訳ではなし、子供としては何とも書きようはない筈だけれど、.........」\n「ただ最近、前より頻繁に手紙を寄越すようになってはいた。やっぱり何かしら淋しい気持がしたのかも知れない。.........さて、これでよしと」\nほっとしたように高夏は寝台の端に腰をおろして、葉巻の煙を始めてふかふかと味わうのであった。\n「じゃ、まだ子供には何も話してないんだね?―――」\n「うむ」\n「そう云う点が君と僕とは考が違うな、いつも云うことなんだけれど」" }, { "role": "assistant", "content": "「もしも子供に尋ねられたら、僕は正直に云うだろう」\n「だって、親の方から云わなかったら、子供がそんなことを切り出せる訳がないじゃないか」\n「だからつまり話さないと云う結果になるのさ」\n「よくないがなあ、ほんとうに。.........いよいよと云う時に突然打ち明けるよりも、前からぽつぽつ因果をふくめて置く方が、却ってその間に覚悟が出来ていいんだがなあ」\n「しかし、もううすうすは気が付いているんだよ。僕等も話こそしないが、気が付かれるだけのことは子供の前で見せているんだから、こう云う事があるかも知れない―――ぐらいな覚悟は案外ついているかとも思う」\n「それなら尚更話すのに楽じゃないか。黙っていられるといろいろなふうに気を廻して、最悪な場合を想像したりするもんだから、それで神経質になるんだ。―――もしも君、もうお母さんに会えなくなるんじゃないかと云うような余計な心配をしていたとしたら、話をすると却って安心するかも知れんぜ」\n「僕もそう考えなくもないんだがね、.........ただどうも、親の身になると子供に打撃を与えるのが厭だもんだから、ついぐずぐずに延ばしてしまって、.........」\n「君が恐れるほど打撃を受けはしないんだがなあ。―――子供と云うものは強いもんだぜ。大人の心で子供を推し測るもんだから可哀そうに思えるんだが、子供自身はこれから成長するのだから、そのくらいな打撃に堪える力は持っているんだぜ。ようく分るように云って聴かしたらあきらめるところはちゃんとあきらめて、理解するに違いないんだが、.........」\n「それは僕にも分っているんだよ。君の考える通りのことを僕も一と通りは考えたんだ」\nありていに云うと、要はこの従弟が上海から来てくれる日を、半ばは心待ちにもし、半ばは荷厄介にもしていた。不愉快なことは一日延ばしに先へ延ばして土壇場へ追い詰められるまでは云い出し得ない自分の弱い性質を思うと、従弟が早く来てくれたら自然いやいやながらでも前のめり押し出されてカタが附きそうな気がしていたのだが、面と向ってその問題を持ち出されてみると、遠い所に置いてあったものが急に眼の前へ迫った感じで、励まされるよりは怯気がついて、臀込みするようになるのであった。\n「で、どうする今日は? 真っ直ぐ僕の家へ来るか」\nと、彼は別なことを尋ねた。\n「どうしてもいい。大阪に用があるんだけれど、今日でなくっても差支えない」\n「じゃ、一と先ず落ち着いたらどうかね」\n「美佐子さんは?」\n「さあ、.........僕が出かける時までは居たが、.........」\n「今日は、僕を待っていやしないか」\n「或はわざと気を利かして出たかも知れんね、自分がいない方がいいと云う風に、―――少くともそれを口実にして」\n「うん、まあ、それは、―――美佐子さんにもいろいろ聞いてみたいんだけれど、その前によく君の方の腹をたしかめて置く必要があるんだ。いったい、いくら近しい間柄でも夫婦の別れ話の中へ他人が這入るのは間違ってるんだが、君たちばかりは自分で自分の始末が付かない夫婦なんだから、.........」\n「君、昼飯は済んでいるのか」\nと、要はもう一度別なことを尋ねた。\n「いいや、まだだ」\n「神戸で飯を食って行こうか、子供は犬がいるんだから先へ帰るよ」\n「小父さん、犬を見て来ましたよ」\nそう云いながら、そこへ弘が戻って来た。\n「素敵だなあ、あれは。まるで鹿みたいな感じだなあ」\n「うん、走らしたら非常に速いぞ。汽車より速いと云うくらいで、あれを運動させるには自転車へ乗って引っ張るのが一番いいんだ。何しろ競馬に出る犬だから」\n「競馬じゃあないでしょ、競犬でしょ小父さん」\n「やられたね、一本」\n「けれどあの犬、ディステムパアは済んでるかしら?」\n「済んでるよ勿論、もうあの犬は一年と七箇月になるんだ。―――それよりあれをどうして家へ連れて行くかが問題だな、大阪まで汽車で、それから自動車ででも行くか」\n「そんなことをしないだって阪急は平気なんですよ。ちょっと頭から風呂敷か何か被せてやれば、人間と一緒に乗せてくれるんです」\n「へえ、そりゃハイカラだなあ、日本にもそんな電車があるのか」\n「日本だって馬鹿に出来ないでしょう、どうだす、小父さん?」\n「そうだっか」\n「おかしいや、小父さんの大阪弁は。それじゃアクセントが違ってらあ」\n「弘の奴は大阪弁がうまくなっちゃって困るんだよ、学校と家とで使い分けをやるんだから、―――」\n「そらなあ、僕かって標準語使え云うたら使わんことないけど、学校やったら誰かってみんな大阪弁ばっかりやさかい.........」\n「弘」\nと、要は図に乗ってしゃべりつづけようとする子供を制した。\n「お前、犬を受け取ったらじいやを連れて先へお帰り、小父さんは神戸に用があるそうだし、.........」\n「お父さんは?」\n「お父さんも小父さんと一緒だ。小父さんは実は、久しぶりで神戸のすき焼がたべたいと云うんで、これから三ツ輪へ出かけるんだよ。お前は朝がおそかったからそんなに減ってやしないだろう? それにお父さんは少し小父さんと話もあるし、.........」\n「ああ、そう」\n子供は意味を悟ったらしく、顔を擡げて恐る恐る父の眼の色を見た。\n\nその五\n\n「とにかく弘君の一件はどうする気なんだ。話した方がいいにはいいが、話しにくいと云うのだったら、僕が話してやってもいいぜ」\nせっかちと云うほどでもないが、テキパキ事務を運んで行く習慣のついている高夏は、三ツ輪の座敷に足を伸ばすとすき焼の鍋の煮えるあいだも無駄に放っては置けないのであった。\n「それはいかん、やっぱり僕から話す方が本当じゃないかな」\n「そりゃあそうに違いないさ、ただその本当のことを君がなかなか実行しそうもないからさ」\n「まあいい、そう云わんで子供のことは僕の勝手にさせてくれ給え。何と云っても彼奴の性質は僕が一番よく知っているんだから。―――今日だって君は気がつくまいが、弘の態度は余程いつもと違ってるんだよ」\n「どう云う風に?」\n「ふだんはあんな風に人の前で大阪弁を使ってみせたり、揚げ足を取ったりするようなことはめったにないんだ。いくら君と親しいからって、あんなにはしゃぐ筈はないんだ」\n「僕も少うし元気過ぎるとは思ったんだが、.........じゃ、わざとはしゃいでいたのかね」\n「そうだよ、きっと」\n「どうしてだろう? 無理にもはしゃいで見せなければ僕に悪いと云う風に思ったのかしら?」\n「それも多少はあるかも知れない、が、弘は実は君を恐れているんだよ。君が好きではあるんだが、同時にいくらか恐ろしくもあるんだ」\n「なぜ?」\n「子供は僕等の夫婦関係が何処まで切迫しているのかは知るよしもないが、君が来たと云うことは何かしら形勢に変化が起る前兆だと思っているんだ。君が来なければ容易にわれわれはカタが付かない、そこへ君がカタをつけに来たと、そう思っているんだよ」\n「成るほど、じゃあ僕が来るのはあまり有り難くない訳なんだな」\n「そりゃあいろいろ土産物を貰うのは嬉しいし、君に会いたいには会いたいんだ。つまり君は好きなんだが、君の来ると云うことが恐ろしいんだよ。そう云うところは僕も弘も全く同じ気持なんで、さっきの話す話さないの一件なんぞも、僕が話すのを厭がるように子供の方でも聞かされるのを厭がっているのは、あれの様子に見えているんだ。弘にしてみると、君と云う人は何を云い出すか分らない、お父さんが云わないでいることを、今に君から宣告されやしないかと、そんなところまで感ぐっているんじゃないかと思う」\n「そうか、それでその恐ろしさを胡麻化すためにはしゃいでいたのか」\n「要するに、僕も、美佐子も、弘も、三人ながら同じように気が弱いんだ。そうして今では三人共に同じ状態にとどまっているんだ。―――正直を云うと、僕にしたって君の来るのが恐ろしくないことはないんだから」\n「じゃ、放って置いたらどうなるんだ」\n「放って置かれたらなお困るんだ。恐ろしいことは恐ろしいが、何とかカタがついた方がいいには違いないんだから」\n「弱ったな、どうも。―――阿曽と云う男は何と云っているんだ。君等が駄目なら、その男に積極的に出てもらったら、却って解決が早くはないかな」\n「ところがその男もやっぱり同じらしいんだよ。美佐子の方から極めてくれなければ、自分はどうともする訳に行かないと云うんだそうだ」\n「まあ、男の立ち場としてはそういうのが当然ではある。でなけりゃ自分が人の家庭を破壊することになるんだから」\n「それにもともとこの話は何処までも三人が合意の上のことにしよう、阿曽にも、美佐子にも、僕にも、みんなに都合のいい時を待とうと、そう云う約束なんだからね」\n「けれども都合のいい時なんて、一体いつになったら来るんだ。誰か一人が決然たる処置を取らなかったら、そんな時は永久に来るもんじゃない」\n「いや、そうでないよ、―――たとえばこの三月の学校の休みなんかも、実は一つの機会ではあった。と云うのは、僕は子供が胸一杯に悲しい思いを包みながら、学校の教室なんぞで不意にはらはらと涙をこぼしたりすることを想うと、そいつがとてもたまらないんだ。だから学校が休みでさえあれば、旅行にでも連れて行ってやるとか、活動写真でも見に行くとか、何とでもして紛らしてやることが出来るだろうし、そのうちには少しずつ忘れて行くようになると思うんだ」\n「じゃあ、なぜそうしないんだ」\n「今月は阿曽が困ると云うんだ。阿曽の兄が来月初旬に洋行するんで、出先にごたごたを起すのもいやだし、兄が日本に居ない方が故障が少いと云う訳なんだ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " しなだれるんじゃない、媚びるんじゃない、甘えるの。派手なんじゃない、騒々しいので、恋も情もまだ知らない、素の小児かと思うと、帰ったあとを、二階から見送って、そのまま消えそうに立っている。\n そこで附添いが引手茶屋の婆さんだから、ちとその、そこン処をな。\n 何して、いい工合に、と独りで気を揉んだそうですが、さて口へ出そうとすると、何となく、気高い、神々しい処があって、戦場往来の古兵が、却って、武者ぶるいで一言も出んのだそうで。\n まあまあ、不思議な縁というのであろう。とても人間業で行くのじゃない。その内に、出雲でも見るに見かねて、ということになるだろう、と断念めながらも、医学士に向って、すねてツンとする時と、烈しく巫山戯て騒ぐ時には番ごと驚かされながら、ツンとしても美人の娼妓のようでなく、騒いでも、売れる芸者のようでなく、品が崩れず、愛が失せないのには舌を巻いていた処、いやまた愛吉が来た晩は、つくづく目覚しいものだったと言います。......」\n それはこうである。愛吉は、長火鉢の前でただ旨そうに飲んでいたが、心もって嬉しそうな顔に見えなかつたのを、酌をしながらお賤も不思議に思った。蓋し生れつき面が狼に似たばかりでない。腹に暗き鬼を生ずとしてある疑心の蟠があったのも、お夏を一目見たばかりで、霧の散ったように、我ながらに掴え処もなくて済んだその時、今そこに婆さんの顔ばかりとなったのみならず、二杯三杯と重るにつれて、遠慮も次第になくなる処へ、狂水のまわるのが、血の燃ゆるがごとき壮佼、まして渾名を火の玉のほてりに蒸されて、むらむらと固る雲、額のあたりが暗くなった。\n「ウイ、」\n と押つけるように猪口を措いて、\n「嬉しくねえ、嬉しくねえ、へん、馬鹿にしねえや。何でえ、」\n と、下唇を反らすのを、女房はこの芸なしの口不調法、お世辞の気で、どっかで喧嘩した時の仮声をつかうのかと思っていると、\n「何てやんでえ、ヘッ笑かしやがら、ヘッ馬鹿にすら、ヘッヘッ馬鹿にしやがら、ヘッ土百姓、ヘッ猿唐人め、」\n 太夫しゃくりが出るから、湯のかわりに、お賤が、\n「あいよ、お酌、」\n「ヘッ、ありがとうざい、」と皆一所。吃逆と、返事と御礼と、それから東西と。\n\n三十九\n\n「おかみさん、難有え、お前さんの思召しも嬉しけりゃ、肴も嬉しけりゃ、酒も旨え、旨えけれど可笑くねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、」\n「おや、私のことかい。」\n「お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻お湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。」\n 女房は笑って逆わず、\n「景気がついて来ましたね、ちっとは可い心持になりましたかい。」\n「好いにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。」\n「まあ、何をいうんですね、お嬢さんが御馳走なさるんじゃありませんか、おかしな人だよ。」といった、これはよめなかったに相違はない。\n 愛の口ますます尖って、\n「分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活のいいきはだと、濁りのねえ酒が、私の口へ入りようがねえや、ねえ、おかみさん。」\n「ですから、沢山めしあがれよ。」\n「なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、」\n としゃくりをきっかけに声を密め、拇指を出して見せ、\n「レコだ、野郎がしやがるんだ。へん、異う旦那ぶりやがって笑かしやがらい。こう聞いとくんねえ、私アね、お嬢さんの下さるんなら、溝泥だって、舌鼓だ、這い廻って甞めるでさ。\n 土百姓の酒じゃ嬉しくねえ。ヘッ、じゃ飲むなといったってそうはいかねえ。第一私あ飲む気はねえが、腹の虫が承知しねえや。腹の虫は承知をしても、やっぱり私あ飲みてえや。からだらしがねえ、またたびだね、鼠のてんぷら、このしろの揚物だ。まったくでえ、死ぬ気で飲んでら、馬鹿にしねえぜ。何をいっていやがるんでえ。おかみさん、何をいってるんだか、分りますめえ。御道理で、私あ自分にも分らねえんだからね、何ですぜえ、無体、癪に障るから飲みますぜえ、頂かあ、頂くとも。酌いどくんねえ、酌いどくんねえ、」\n「可いから、まあおあがんなさい。」\n「む、ああ、旨え、馬鹿にしやがら、堪らねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目れんげめ、おかみさん、お憚りながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍もねえ、嬢的にそんなこといわれて堪るもんか、ヘッ、」\n と頸を窘めたが、\n「内証だ、嬢的にゃ極内だがね。旦の野郎にそういっておくんねえ、私あ厭だ、大嫌だ、そんな奴にゃ口を利くのも厭だから、おひかえ下さいやし、手前ことはなんて頼んだって挨拶なんぞするもんか。\n こう小馬鹿にするぜえ、ヘッ、癪だ、こいつをおさえるにゃ呷切だ、」とぐッと飲む奴。\n「............」\n「こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、」\n お賤は気が練れた苦労人、厭な顔はちっともしないで、愛想よく、\n「ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。」\n「トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。」\n「貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、」\n「九死一生、」\n お嬢さんと聞いたばかりでもう眼を据え、\n「煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病だ。」\n「しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。」\n「大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。」\n「いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋をしていらっした時の事ですよ。」\n「屑屋? 誰が、こう情ねえ、人間さがりたくねえもんだ。こんななりはしてるがね、私あこれでも床屋ですぜ、屑屋は酷い、」といった。\n\n四十\n\n「誰がお前さんを屑屋だといいましたよ。御覧なさいな、そういわれてさえ腹を立つ、その、お前さん、屑屋をしておいでなすったんじゃないか、それだもの、」\n 変な面で、\n「誰が、」\n「お嬢さんのことをいってるんだよ、」\n「はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利を知れやい。べらぼうめ、菱餅や豆煎にゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞めねえぜ、盗賊ア、盗賊ア、盗賊ア、」\n と大音を揚げて、\n「叱! どこの野良猫だ、ニャーフウー」\n 一杯に頬を膨らし、呻って啼真似をすると、ごく低声、膳の上へ頤を出して、\n「へい、ですかい屑屋ですかい。お待ちなせえ、待ちねえよ、こう旨えことを考えた。一番、こう、褌ゃ切立だから、恥は掻かねえ、素裸になって、二階へ上って、こいつを脱いで、」\n と胸をはだけた、仕方をする気が、だらしはない、ずるッか脱げた両肌脱で、\n「旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。」\n「いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷は五両にゃおつけなさりやしまいよ。」\n「へい、じゃ嬢的も旦かぶれで、いくらか贓物の価が分るんで?」\n さては、と女房心づいて、\n「まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、」\n「何をね、」\n「それだもの、ちぐはぐになる筈だ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。」\n「お夏さん、」\n「あい、そうさ。」\n「や! 串戯じゃねえ、まったくですかい。」\n「ほんとにも何にも、」\n「あの、屑屋いって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外にゃねえ、屑い、屑いッて、籠を担いだ、あれなんで?」\n「ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢にも蹴出しにもそればかり。縞も分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布でしき当のある裾を、お端折でさ、足袋は穿いておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。」\n「おかみさん、逢ったのか、」" }, { "role": "assistant", "content": "「そうですよ、」\n「串戯じゃねえ、どこでだね。」\n「氷川の坂ン処ですよ、」\n「いつ?」\n「一昨年の霜月だってば。」\n「串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可いんだ、」\n と膳の下へ突込むように摺り寄った。膝をばたばたとやって、歯を噛んで戦いたが、寒いのではない、脱いだ膚には気も着かず。太息を吐いて、\n「ああ、それだ。芥溜ッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、」\n「それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中で、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭を草原に摺りつけて、薄の根を両手に縋って、のッつ、そッつ、たってのお苦み。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。」\n「ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、」\n 愛吉聞くうちにきょろきょろして、得もいわれぬ面色しながら、やがて二階を瞻めた。\n「待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。」\n「お前さん、おいでなさいよ。先刻からお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭なんですか。」\n「そこどころじゃねえ、フウそうして、」\n「あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯さえあがらなかった、お弱い身体に、それだもの、夜露に冷えて堪るものかね。」\n「なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。」\n 怨めしそうなが真である。\n\n四十一\n\n「もっともね、日の暮れない内から、長い間そこに倒れたようになっておいでなすったんだってね、何だとさ。\n 晩方、あの坂を、しょんぼりして、とぼとぼ下りておいでなさると、背後からお前さん、道の幅一杯になって、二頭立の馬車が来たろうではないか。\n ハッと除けようとなさる。お顔の処へ、もう大きな鼻頭がぬッと出て、ぬらぬら小鼻が動いたんだっておっしゃるんだよ。\n 除けるも退くもありゃしません。\n 牛頭馬頭にひッぱたかれて、針の山に追い上げられるように、土手へ縋って倒れたなりに上ろうとなさると、下草のちょろちょろ水の、溝へ片足お落しなすった、荷があるから堪らないよ。横倒れに、石へお髪の乱れたのに、泥ばねを、お顔へ刎ねて、三寸と間のない処を、大きな鉄の車の輪。\n 天へでも上るようにぐるぐるとまわって通りしなに、\n(馬鹿め!)\n ッて、どこの馬丁も威張るもんだけれど、憎らしいじゃありませんか。危い、とでもおっしゃることか、どこのか華族様でもあろうけれども、乗ってた御夫婦も心なし。\n 殿様は山高帽、郵便函を押し出したように、見返りもなさらない。らっこの襟巻の中から、長い尖った顔を出して、奥様がニヤリと笑っておいでのが、仰向けながらね、屹とお開きなすったお嬢さんの目に、熟と留ったとおっしゃるんですよ。」\n「チョッ、何たらこッてえ、せめて軍鶏でも居りゃ、そんな時ゃあ阿魔の咽喉笛を突つくのに、」\n と落胆したようにいったが、これは女房には分らなかった――蔵人のことである。\n「余程お口惜しかったって、そうでしょうとも。......新しい秤をね、膝へかけて二ツにポッキリ。もっともお足に怪我をしておいでなすった、そこいらぞッとするような鼻紙さア。\n 屑の籠を引っくりかえして、\n(モ死にたいねえ、)ッて、思わず音を出したよ、とおっしゃるんですがね、そのままお足を投出して、長くなって、土手に肱枕をなすったんだとさ。\n 鵯がけたたましく啼き立てる。むこうのお薬園の森から、氷川様のお宮へかけて、真黒な雲が出て、仕切ったようにこっちは蒼空、動くと霰になりそうなのが、塗って固めたようになっていたんですって。\n その中へね、火の粉のようなものが、ぱらぱらと飛ぶから、火事かと御覧なさると、また白いものが、ちらちら交ったのを、霰かと見ていらっしゃると、またきらきらと光るのを、星かとお思いなさる内に、何ですとさ。見る見るうちに数が殖えて、交って、花車を巻き込むようになると、うっとりなすった時、緑、白妙、紺青の、珠を飾った、女雛が被る冠を守護として、緋の袴で練衣の官女が五人、黒雲の中を往来して、手招をするのが、遠い処に見えましたとさ。\n ずッと立って行こうとなさると、直ぐに消えて、隠れていたお月夜になったそうで。\n そこへ私がね、」\n と仕方をして、\n「テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。」\n「ヘッ、人の気も知らねえで、」\n「いえ、ところが、私だって喰うや喰わず、昔のともだちが、伝通院うらの貧乏長屋に、駄菓子を売って、蝙蝠のはりかえ直しと夫婦になって暮している処へ、のたれ込んで、しょう事なし門づけに出たんですがね、その身になってもお前さん、見得じゃないけれど極が悪くッて、昼間はとても出られないもんだからね、その晩も、日が暮れてから出たんでね、直ぐ上へ出りゃ久堅の通りだし、家の数も多いけれど、一寸のばしに下へ下りて、田圃とお薬園の、何にもまだ家のなかった処を通って、氷川の坂へ、むかしの事をおもいながら、夜露と涙で、音がしめったのを。\n どうお聞きなすったか、土手に腰をかけておいでなすって、お嬢さんが、(もし、おかみさん)ッて声をかけて下すったんです。犬は遠くで吠えてたけれど、狐の居そうな処ですもの、吃驚したろうではありませんか。」\n お夏が、すっと、二階から下りて来た。\n「おかみさん、何のお話?」\n フト屑屋さんの、と行きつまったから、\n「氷川で御覧なすった、お雛様のことなんでございますよ。」\n\n四十二\n\n「そう、この人なら話が分るの。はじめから私とお雛様のことを知っているから。ねえ、愛吉、」\n と膳の横。愛吉に肩を並べて腰を浮かしていたのは、ついしばらくの仮の宿、二階に待つ人があるのであろう。\n お夏はその時、格子の羽織を着ていたが、年も二ツ三ツ、肩のあたりに威が出来て、若い女主人のように見えた。\n 二階から降りる跫音を、一ツ聞いて愛の奴、慌てて膚を入れたのはいうまでもない。\n「愛吉、」\n「へい.........」\n「沢山おあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠がおいしそうじゃないか。」\n「ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。」\n「そうね、御馳走になろうかね、どれ、」\n 女房が気を利かせて、箸箱をと思う間もなく、愛吉のを取って、臆面なし、海鼠は、口に入って紫の珠はつるりと皓歯を潜った。\n「おお、冷こい!」\n すっと立ち――台所へ出ようとする。\n「何でございます。」\n「二階が寒くなったの。台じゅうが欲いんです。」\n「唯今、私が、」\n と立って出る。お夏は、真四角に。但しひょろひょろと坐った愛吉の肩をおして、\n「大分おとなしいのね。」\n「お嬢様、ちとお叱んな......」と台所から。\n「なッ!」\n とだしぬけに押伏せて、きょとんとして、\n「納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、」\n「おばさん、屑屋より、この方にすれば可かったのね。」\n 女房は火を入れながら、生真面目に、\n「どちらがどちらとも申されません。」\n「お嬢さん、」と仰ぎさまに、酒くさい口をあけて、熟と顔を視て、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n そういう困難のうちにおいて、彼らを助けに来てくれたただ一人の者は、タデー・モークという四十歳ばかりのユダヤ人だった。彼は美術写真の店を開いていた。そしてその職業に興味をもち、趣味と巧妙さとをもってやっていたが、それでもなおその商売をおろそかにしたいほど他のいろんなことに興味をもっていた。商売に身を入れるのも、技術上の完成を求めるためにであり、新しい複写法に熱中するためであった。がその複写法は、巧妙な工夫になってるにもかかわらず、めったに成功しなかったし、またたいへん金がかかった。彼は非常にたくさん書を読んで、哲学や芸術や科学や政治などのあらゆる新思想を求めていた。驚くべきほど鼻がきいて、独自の力をもってる者を嗅ぎ出していた。その隠れたる磁力を感じてるがようだった。オリヴィエの友人らが、各自に孤立して自分自分の仕事をしている間で、彼は一種の連繋の役目をなしていた。彼はあちらこちら行き来していた。そのために、彼らも彼も気づかないうちに、常に一つの思潮が皆の間にでき上がっていた。\n その男をオリヴィエがクリストフへ近づかせようとしたとき、クリストフは初め断わった。彼はイスラエルの民族との過去の経験に飽き飽きしていた。オリヴィエは笑いながら、ぜひその男に会えと説きたて、フランスを知らないと同様にユダヤ人をもよく知ってはいないのだと言った。でクリストフは承諾した。しかしタデー・モークを初めて見ると、彼は顔を渋めた。モークは外見上、あまりにもユダヤ人的だった。ユダヤ人ぎらいの者が描き出すとおりのユダヤ型、背の低い頭の禿げた無格好な身体、すっきりしない鼻、大きな眼鏡の後ろから斜視する大きな眼、荒いまっ黒なもじゃもじゃした髯に埋まってる顔、毛深い手、長い腕、短い曲がった足、まったくシリアの小バール神であった。しかし彼のうちには深い温情の現われがあってクリストフはそれに心打たれた。彼はことに、ごくさっぱりしていて、少しも無駄な言葉を発しなかった。誇張したお世辞は少しも言わなかった。ただ慎み深い一言だけで済ました。しかし人の役にたとうと願っていた。人から頼まれないうちに、もう何か世話をしてくれていた。彼はたびたびやって来、あまりたびたびやって来た。そしてたいていいつも何か吉報をもたらした。二人のどちらかへ仕事をもって来、オリヴィエのために芸術上の論文執筆や講義の口をもって来、クリストフのために音楽教授の口をもって来た。彼はけっして長居をすることがなかった。彼は押しつけがましいことをわざと避けていた。たぶんクリストフのいらだちに気づいたのであろう。クリストフはそのカルタゴの偶像みたいな髯面が戸口に現われるのを見ると、いつもまっ先に我慢しかねるような様子をするのだった。――(彼はモークをモロックと呼んでいた。)――しかしモークが帰ってゆくと彼はすぐに、そのまったくの温情にたいして満腔の感謝を覚ゆるのだった。\n 温情はユダヤ人には珍しいことではない。それはあらゆる美徳のうちで、彼らがたとい実行しないときでももっともよく容認するものである。実をいえば、温情は彼らの大多数にあっては、否定的なあるいは中性的な形のままで、寛容、無関心、悪を行なうことの嫌悪、皮肉な許容、などとなる。ところがモークにあっては、その温情がひどく活動的だった。だれかにもしくは何事かに、いつでも身をささげようとしていた。貧しい同宗の者らのために、ロシアの亡命者らのために、あらゆる国民のうちの迫害された者らのために、不幸な芸術家らのために、あらゆる不運のために、あらゆる健気な事件のために、いつでも尽くそうとしていた。彼の財布はいつも口をあいていた。いかにその中身が少ないときでも、どうにかして多少の金を取り出した。まったく空である場合には、他人の財布から金を引き出した。人の世話をする場合になると、自分の心労や足労を意に介しなかった。単純に――わざとらしいほど単純に人の世話をした。単純で実直だとあまりに自称しているのは瑕だったが、しかし多とすべきは、実際彼が単純で実直なことだった。\n クリストフはモークにたいするいらだちと好感との板ばさみになって、一度餓鬼大将みたいな残忍な言葉を発したことがあった。すなわちある日、彼はモークの親切に感動して、やさしく両手をとりながら言った。\n「実に不幸なことだ......実に不幸なことだ、あなたがユダヤ人であるのは!」\n オリヴィエはそれがあたかも自分のことででもあるかのように、ぎくりとして真赤になった。非常に当惑して、友が相手に与えた不快を打ち消そうとつとめた。\n モークは寂しい皮肉の様子で微笑み、落ち着いて答えた。\n「人間であるのはさらに大きな不幸です。」\n クリストフはそれを単なる思いつきとしか見なかった。しかしその言葉のうちにこもっている悲観思想は、彼が想像も及ばないほど深いものだった。オリヴィエは精緻な感受性によって、それを直覚し得た。人に知られてるモークの下には、まったく異なった、そして多くの点においては全然反対でさえある、他のモークが存在していた。彼の表面の性質は、真の性質にたいする長い戦いから生じたものだった。単純らしく見えるこの男は、曲がりくねった精神をもっていた。自制していない場合には、いつも簡単な事物をも複雑にしたがり、もっとも真実な感情にも気取った皮肉の性質をもたせたがった。謙譲でときとするとあまりに卑下してる観があるこの男は、その底に傲慢さをもっていて、それをみずから知ってひどく抑制していた。彼のにこやかな楽観主義、たえず他人に尽くさんとする不断の活動性は、深い虚無思想を、自分で見るのも恐ろしい致命的な落胆を、その下に覆い隠していたのである。モークは、多くのことに大なる信念を表示していた。人類の進歩、純化されたユダヤ精神の未来、新精神の闘士たるフランスの運命などに。――(彼はこの三つの事柄を好んで同一視していた。)――しかしオリヴィエはそんなことに欺かれはしなかった。彼はクリストフに言った\n「心の底では、彼は何も信じていないのだ。」\n モークは、その皮肉な良識と冷静とにもかかわらず、自分のうちの空虚をながめたがらない神経衰弱者だった。ときどき虚無の発作に襲われた。真夜中に慴えた唸り声をたてながら、突然眼を覚ますこともあった。至る所に動き回るべき理由を捜し求めては、あたかも水中で浮標にすがるようにそれへしがみついていた。\n あまりに古い民族たるの特権は、高い代価を要する。そのとき人がになわせられるものは、苦難や疲れた経験や裏切られた知能と愛情など、過去の大なる重荷である――古来の生活の大桶である。桶の底には、倦怠の苛辣な滓がたまっている......。倦怠、セム種族の広大な倦怠、それはわれわれアリアン種族の倦怠とは別種のものである。アリアン種族の倦怠は、われわれをかなり苦しませてはいるが、少なくともはっきりした原因をもっていて、その原因とともに過ぎ去ってしまう。なぜならそれはたいてい、欲望するものを得ないという憾みから来てるものである。しかしあるユダヤ人らにあっては、生の源泉そのものが、致命的な毒によって害されている。もはや欲望もなく、何物かにたいする興味もない。野心も愛も快楽もない。そして、数世紀来必要上精力を消費してきて疲憊しつくし、不動心の境地を渇望しながらそれに到達し得ないでいるそれらの、東方から根こぎにされた人々のうちに、ただ一つのもののみが、完全なままではなく、病的に過敏になされて、残存している。それは思考癖であり、限りなき分析癖であって、前もってあらゆる享楽を不可能ならしめ、あらゆる行動の勇気を失わせる。もっとも元気ある者らは、自分のために活動する以上に、種々の役目を引き受けてそれを演じている。不思議なことには、そういう実生活にたいする無欲さは、彼らのうちの多くの者に――かなり知力ありまた往々かなり真面目なのであるが――俳優となって生活を演ずるという、天性もしくは無意識的な願望を吹き込んでいる。そして彼らにとっては、それが唯一の生活方法なのである。\n モークもやはり自己流の俳優であった。彼は気晴らしのために活動していた。しかし、多くの者が利己心のために活動してるのに反して、彼は他人の幸福のために活動していた。クリストフにたいする彼の尽力は、感心なほどでまたうるさいほどだった。クリストフはいつも彼を冷遇し、そのあとでまた後悔した。しかしモークはかつてクリストフを恨まなかった。何事も彼の気をそこなわなかった。と言って、クリストフにたいして強い愛情をもってるからではなかった。彼が愛してるのは、身をささげてる相手の人々よりも、献身そのものだった。相手の人々は彼にとっては、善をなすための、生きるための、一つの口実にすぎなかった。\n 彼は非常に骨折って、クリストフのダヴィデと他の数曲とを、ヘヒトに出版させることにした。ヘヒトはクリストフの才能を尊重してはいたが、それを世に紹介しようとつとめてはいなかった。ところが、モークが自分の金で他の出版屋に出版させかねないのを見て、彼は自負心から、みずから進んでそれを引き受けたのだった。" }, { "role": "assistant", "content": " モークはまた、オリヴィエが病気にかかって金のない困難な場合に、二人と同じ建物に住んでる金持の考古学者たるフェリックス・ヴェールに、助力を求めようと考えついた。モークとヴェールとは知り合いだったが、おたがいにあまり同情の念はなかった。彼らはあまりに異なっていた。落ち着きがなく底暗く革命主義で、おそらく故意に誇張された「平民」的態度をしてるモークは、平静で嘲笑的で上品な態度と保守的な精神とをもったヴェールの、皮肉を招いていた。もとより彼らは共通の素質をももっていた。二人とも同じく活動にたいする深い興味を失っていた。そしてただ執拗な機械的な活力だけで支持されていた。しかしそれを意識することを二人とも好まなかった。彼らは自分の演じている役割にしか注意を払いたがらなかった。そしてその役割には、たがいに接触点がほとんどなかった。それでモークは、ヴェールからかなり冷やかに取り扱われた。オリヴィエとクリストフの芸術上の企図について、ヴェールに興味をもたせようとしたとき、彼はその懐疑的な冷笑に出会った。いつもなんらかの空中楼閣に熱中してるモークは、ユダヤ人仲間の笑い話となっていて、危険な「山師」とされていた。が彼は多くの場合のように、こんども落胆はしなかった。なおしつこく説きたてて、クリストフとオリヴィエとの友情を話してきかせながら、ヴェールの興味をひいた。それに気づいてなお説きつづけた。\n 彼はその点で相手の心琴に触れていた。友もなくすべてから離れてるこの老人は、友情を非常に尊んでいた。彼が一生のうちに感じた大なる情愛は友情だったが、途中でその友をも失ったのだった。友情は彼の内心の宝だった。友情のことを考えると慰められた。友の名前でいろんなことをやってきた。亡き友に著書をささげたりした。そして今、クリストフとオリヴィエとの相互の愛情をモークから聞かされると、そのいろんな点に感動させられた。彼の身の上の話も、二人のことと多少似通っていた。亡くなった彼の友は、彼にとっては、一種の兄であり、青春の伴侶であり、崇拝してる嚮導者であった。若いユダヤ人のある者らは、知力と勇ましい熱情とに燃えたち、周囲の酷薄な環境に苦しめられ、おのが民族を向上せしめおのが民族によって世界を向上せしめんと、身をささげて尽瘁し、みずから自分の身を疲憊さし、四方から自分自身を焼きつくし、樹脂の炬火のようにしばらくのうちに燃えつくしているが、彼の友もその一人だった。その炎はこの小ヴェールの無情無感を温めてくれた。彼が生きてた間は、ヴェールも、その救世主的な魂があたりに光被している信念の円光――学問や精神力や未来の幸福などにたいする信念の円光――に包まれて、彼と並んで歩いていた。しかしその魂から一人この世に置きざりにされた後には、弱い皮肉なヴェールは、その理想主義の高みからすべり落ちて、ユダヤ人の知力の中に存在しその知力を常にのみつくさんとしてる、伝道書の砂地にはいり込んでしまった。しかし彼は、友と共に光明のうちに過ごしたときのことをけっして忘れなかった。ほとんど消えてしまってるその光明の輝きを、大事に心のうちにしまっていた。彼はその友のことを、だれにも話したことがなく、愛してる妻にも話さなかった。それは神聖なのだった。そして、人からは乾燥した心の俗人だと思われ、もう生涯の終わり近く達してる、この老人は、古代インドのバラモン教徒の寂しいやさしい思想を、ひそかにみずから繰り返していた。\n\n\n 世界の毒樹は、生の泉の水よりも甘き、二つの果実を作り出しぬ。その一は詩にして、一は友情なり。\n\n\n それ以来彼はクリストフとオリヴィエとに同情を寄せた。二人の気位の高いのを知って、最近出版されたオリヴィエの詩集をひそかにモークから届けてもらった。そして、二人の友になんらの奔走もさせないで、また自分の企てを少しも知らせないようにして、いろいろ骨折ったあげく、その詩集にある学芸院の賞金を得さしてやった。その賞金は、二人がたいへん困ってるときにおりよく手にはいった。\n クリストフは、その意外の援助が、今まで悪く思いがちだった男から来たのを知ったとき、その男についていろいろ言ったり考えたりしたことを後悔した。そして、人を訪問することの厭さを無理に押えて、礼を言いに行った。が彼の殊勝な意志は報いられなかった。老ヴェールはクリストフの若々しい感激に接すると、例の皮肉さをいかに隠そうとしても押えきれなかった。そして二人はなかなか理解し合えなかった。\n クリストフは、ヴェールを訪問したあと、感謝といらだちとを覚えながら、自分の屋根裏の部屋にもどって来たが、ちょうどその日、オリヴィエへ新しい仕事をもって来てくれてる善良なモークから、リュシアン・レヴィー・クールの筆になった、彼の音楽に関するありがたくない雑誌記事を見せられた。それは明らさまの非難ではなかったが、侮辱的な親切から書かれたもので、巧妙な揶揄によって、彼が忌みきらってる三、四流の音楽家のうちに、彼を列して喜んでいた。\n「見たまえ、」とクリストフは、モークが帰った後オリヴィエに言った、「僕たちはいつもユダヤ人どもを相手に、ユダヤ人どもばかりを相手にしてるじゃないか。こんなふうでは僕たちまでユダヤ人になってしまいそうだ。そうじゃないか。僕たちはいつもユダヤ人どもをひきつけてると言われたってしかたない。僕たちの行く手にはどこにも、敵となり味方となってユダヤ人どもばかりいる。」\n「それは彼らが他の者より知力すぐれてるからだ。」とオリヴィエは言った。「自由な精神の人が新しい事や生きた事柄を語り得る相手は、われわれのうちではほとんどユダヤ人らばかりなんだ。他の者どもは、過去のうちに、死んだ事物のうちに、じっと閉じこもっている。があいにくその過去は、ユダヤ人らにとっては存在しない、あるいは少なくとも、われわれが考えるのと同様なものではない。彼らを相手にしては、われわれは今日のことしか話すことはできない。ちょうど、同民族の者らとわれわれが過去のことしか話し得ないのと同じだ。あらゆる事柄におけるユダヤ人の活動を見てみたまえ、商業に、工業に、教育に、学問に、慈善事業に、芸術に......。」\n「芸術のことは措こうじゃないか。」とクリストフは言った。\n「僕は彼らがなすことにいつも同感してると言うのじゃない。往々嫌悪の情さえ覚ゆることがある。が少なくとも、彼らは生きているし、生きてる人々を理解し得るのだ。われわれは彼らなしに済ましてゆくことはできない。」\n「大袈裟なことを言うなよ。」とクリストフは嘲り顔に言った。「僕はユダヤ人なしにやってゆけるよ。」\n「おそらく生きてはゆけるだろうよ。しかし君の生命や君の作品が、だれにも知られずに終わったら、それがなんの役にたつだろうか。そしてユダヤ人らがいなかったら、たぶんそれは知られずに終わるだろう。われわれを助けに来てくれるものは、われわれの同宗教者たちだろうか。カトリック教は、その血縁のもっともすぐれた人々を、少しも保護しようとはせずに滅ぶるに任している。魂の底からして信仰してる人たち、神を守るために一生をささげてる人たち、そういう人々はすべて――もし彼らが大胆にカトリックの教則から離れローマの権力から脱した暁には――自称カトリックの卑しい多衆からは、ただに冷淡であるばかりでなくまた敵意ある者と見なされる。そして多衆は彼らのことには口をつぐみ、彼らを共通な敵の餌食としてしまう。また、自由精神の人は、いかに偉大な人であろうとも――もし彼が心からのキリスト教徒でありながらも服従的なキリスト教徒でない場合には――もっとも純なる真に聖なる信仰を彼が体現していることも、カトリック教徒らにとってはなんの重きもなさない。その人は羊の群れに属する者ではなく、自分自身で考えることをしない盲目聾唖の信者ではない。それゆえ彼は人々から好んで打ち捨てられ、ただ一人で苦しみ、敵から引き裂かれ、同胞の助けを呼び求めながら、同胞の信仰のために死んでゆく。実に今日のカトリック教のうちには、殺害的な懶惰の力が存在している。今日のカトリック教は、それを覚醒さしそれに生命を与えんとする人々よりも、敵のほうをいっそう容易に容赦するかもしれない......。ねえクリストフ、少数の自由な新教徒とユダヤ人とがいなかったら、民族的にはカトリック教徒であり自身では自由人となってるわれわれは、いったいどうなるであろうか、何をすればいいのであろうか。ユダヤ人らは今日のヨーロッパにおいては、あらゆる善悪のもっとも長命な代表者である。彼らは思想の花粉をやたらにもち回っている。君は最初の悪い敵と最初の友とを、彼らのうちに見出しはしなかったか。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " (一)\n\n お寺の境内の踊り場で男はさんざんに踊つた、疲れてへと〳〵になるほどに、呼吸がぜいぜいと鳴りだすほどに手を振つたり足を振つたりした。\n その夜は月夜であつたので、踊りの輪をとりまく見物人もなかなか踊り見物を止して帰らうとしなかつたので、踊り子たちも調子づいて安心をして踊つてゐた。\n 一本の枯れた松の木がぎら〴〵白く光つて立つてゐて、その木にもたれかゝつた一人の若い娘さんの、夜眼にも白い細りとした首筋がことのほか踊つてゐる男の眼をひいた。\n そこで男は手拭ひをかむつた自分の顔をなんべんも傾けてその娘さんの顔をのぞきこんで見たのであつたがどんな瞳をしてゐるか松の木の枝が邪魔になつて判らなかつた、しかし娘さんは顔色の白い乳のふくれた女であることだけが男にはつきり判つた。\n 男は待遠しい思ひで踊りの輪をだんだんとこの娘さんの立つてゐた松の木にちかづけて、娘さんの前を通すぎるとき、松の木にそつと三角形に指を揃へた娘さんの細い掌のどこかに自分の指をふれてみた。\n なんべんとなくそんなことをやつてゐるうちに、とうとうその娘さんの注意を男はひくことが出来たし、その上この娘さんがけつして松の木に住んでゐる毛虫と同じやうに男を怖ろしがつてゐないこと、かへつて自分の手をふれることを嬉しく思つてそつと掌を動かしたことなどを知つたので男は非常に面白がつた。\n 娘さんは赤い前垂をしめてゐて十七歳ぐらいであつた、そして羽織の上からその前垂の紐を強くしつかりと締てゐるといふことが、いかにも厳格な家庭に育つた一人娘で、こんな淫らな盆踊りなどを見物にこられないのを、勝手仕事のひまを盗んで駈けてきたといふ、しんなりと曲がつた風情をして樹にもたれてゐた。\n ことに男にとつて嬉しかつたのは娘さんの着物がすべすべとした絹物であつたことゝ、まだ肩揚げが羽織についてゐたといふことであつた。\n\n (二)\n\n 男は娘さんの肩揚げを発見すると急になんといふこともなく元気づいて、それから二度踊つてから思ひきつて娘さんの肩のところに強く自分の肩をうちつけてみた。\n 娘さんはきらりと夜の中の犬のやうに白眼を光らしたきりで、たいして男を怖ろしがる風も見えなかつたので安心をして、こんどは踊りの輪をすらりと魚のやうに脱けて娘さんの立つてゐる膝のところの暗さにふいにしやがんで平気な顔をしておどりの輪を見返した、それからそつと下から空を仰ぐやうに、娘さんのあごをしげしげと見物した。\n 男はしやがんでゐる自分の足をながめて、けつして毛脛は男として恥べきものではない、と男の仲の善い或友人が言つた言葉をふと思ひ出して、ひとりでににや〳〵と笑みが連続的にこみあげてきたので、てれ隠しに頬冠の手拭ひをかむり直して鼻だけ出した。\n 見あげてゐる娘さんが、いかにも完全無欠な、りつぱな肉体に見える、その足もとに、しよんぼりとやすんでゐる自分の姿がいかにも、みぢめに思はれたので、男はぐつとさかんに眼球をみはつたり動かしたりして秋空の一角に、きら〳〵と光つてゐるいくつかの星を見あげた、しかし豆絞りの頬冠をしてゐるといふことが、いちばん気がゝりになつて悲しくなつたが、さりとてその頬を風に晒すといふことが気恥かしく思はれたのでじつと何かを鉄砲で射撃をするときのやうに、眼を片つ方だけぐつとひきしめて、びく〴〵頬をけいれんさした。\n 男はたいへん慌てだした、いつまでもこんな状態でしやがんでゐることができないこともわかつてゐるし、また手拭ひをぱらりと木の葉のやうに、とり除いてその頬を娘さんに見せて了ふか、手拭ひをかむつたまゝで、この娘さんの手を思ひきつて眼をつむつてぐつと一思ひに握つて了はうか、ふたつにひとつより他に分別がなかつたからであつた。\n\n (三)\n\n そのうちに娘さんがすらりと撫で肩である割に肥えた肩をもつてゐるといふことが男の眼をたいへんしげきしたので、よりかゝるやうに胸を動かした、はずみに乗つて力いつぱい娘さんの厚ぼつたい肩を手で押しつけてしまつてからはつた思つた。\n しかしそのとき踊りの太鼓がいちだんと高く『とんとん』と鳴りひびき、娘さんも平気な顔をして月をながめてゐたので、男はほつと吐息をして、それから娘さんの丸い腕に添つて動かして、とうとう無事に手を握つてしまつた。\n\n 男と女とがならんで草原を散歩した。\n 男は河岸に来たときに、水面の月の反射を怖れて頬かむりの顔を水からそむけたが、女はいたつて平気に、水の反射と月光を正面からうけてぎら〴〵と頬を動かしながら、でも自分から足を暗がりの方にさつさと向けて河沿ひに歩きつゞけた。\n 男が河岸の斜面を歩く、せきこんだ落ちこむやうな感情に上気していまゝでたんねんに用意深く考へ\n『でも妾が若しあなたを嫌ひであつたら......どうして』\n 娘さんは小さな低い声で男の頭のてつぺんでかう言つた。\n 乳房のところを頭でぐんぐん動かしてゐるうちに、きつと娘さんがだまり込んでしまふときが来ることを知つてゐたので、横着に額を機械のやうに動かしてゐた男であつたが、でも娘さんの言葉が気がかりになり初めたので、念のために、娘さんの胸から不意に二三歩とびすさつて、片手を内ふところに荒つぽく襟のあたりにいれてふところの中で大きな拳骨をつくつて見た、眼は白眼ばかりにしてゐなければならないので、暫らくの間は胸苦しい呼吸がして娘さんがどんな顔をしてゐるのかさつぱりわからなかつた。\n『刃物でおどかしたつて、駄目よ嫌ひなものは、どこまでも嫌よ』\n あゝなんといふすばらしい肩揚げだらうと男は落胆をしながら、つく〴〵と娘さんの肩揚げをながめしぶ〴〵とふところから手を出して、てれ隠しに引つぱり出した皮製の万年筆いれを月にかざして見せた。\n\n (四)\n\n 娘さんと男とは、声を揃へて黒い土の上で一度に笑つた。\n『むかふに見える橋の処に行くまでに妾が、あなたを好きになれたらね』\n 娘さんは鼻で斜めに遠望される橋をゆびさした。\n 夜の中の橋が遠くに見えて、橋の下のあたりにごう〴〵、といふ水の流れる響きが聞えた、その橋までに七本の電信柱がつゞいて立つてゐて、そして一本おきに殆どどの電柱にも笠がなんにもなかつたり、笠があつても欠けてゐたりした電燈が、上のところにぴか〳〵と光つてゐた。\n 笠のいたんであるのは、みな河原遊びの子供が石を投げつけたのであらう、そして明りの点つてゐる電柱のつぎ〳〵の電柱は、ぼんやりと照らしだされて背の高い幽霊のやうにたつてゐた。\n 男はいろ〳〵の身振や、言葉使ひや、を殊更に注意をして歩きだした、こゝろもち男よりも足早に先にたつて歩いてゐる娘さんの肩のあたりの柔らかい曲線を見てゐると、それが様々の姿態をつくりだして、しまひには見てゐる男の眼がぐら〴〵と日射病のやうに、黄色い眩惑にをちこんでしまつたやうに思はれた。\n 娘さんの手や足や首や胴体これらの白いすべ〳〵とした肉体が離ればなれになり、着てゐる着物やら羽織やら、前垂やら、前垂の白い紐やら、半襟足袋、そして頭髪のゴムの櫛などまでが、いつぺんに散りぢりに離れて、これらの分れ分れの個体が非常な早さと勢ひこんでくる〳〵と回転をはじめ、これが青や赤や黄の美事に配色された唐草模様のやうになつてしまつたのかとさへ思はれた。\n ふいに躍りかゝつて、この唐草模様をそこの暗闇にねぢ倒してその上に馬乗りになつて了ひたい逆上した血が頭の上の方にぐん〴〵とのぼり、ことに太くなつた血脈が両足の爪先から胸のあたりに弓のつるを鳴らしたときのやうに、強く大きく鳴りだした。\n『あゝ、大変なことになりかゝつてきた、女はだん〴〵と河原におりてゆく、女の足を夜風に冷やしたり、河の水のちかくを歩かせては、いまゝでの苦心がみなふいになつて了ふ、あの女の両足をこの辺の乾いた土の道路にひつ張りあげなければ駄目だ』" }, { "role": "assistant", "content": " 男はかう考へたので女の肩に自分の肩をならべて、それで河風をさいぎつて、堤の上の乾いた土の道路の上に女を歩かせようと、すくなからずいら〳〵と努力しながら、肩を櫓皿のやうにぐり〴〵と女の肩に動かした。\n『娘さんよ、河のあまり近くに行つては危険ですよ、河原の石がころ〳〵してゐますからね、こつちへいらつしやいな、柔らかい地面を選んで坐りませうよ』\n と男が熱心に呼びかけると女はちよつとふり返つたなりで、ぐん〴〵と男の先にたつて足早にあるくのが男を激しくいら〳〵させた、男は追ひすがるやうに女の丸い肩に両手をかけて、地べたにむかつて静かに押へつけたので女は白い二本の足をきちんと揃へて草の上に坐つてしまつた。\n\n (五)\n\n 足を女の足のしろさとならべてつま先のところをじつと男がみつめてゐると幾分地面が傾斜になつてゐることに気がついた、そして背中にすく〳〵と暗の中に新鮮な青い樹木のやうなかたちが大きな掌をひろげて男をどんと突いたので、危くがつくりと前のめりに娘さんの膝の上に頭を落してしまふところであつた。\n それと殆ど同時に後のくらがりに『ぽきり』とすばらしい大きな響きがして、娘さんの白い腕が男の眼にいつぱいはまりこんで、長く伸びた太い白い線が重々しいまん丸い何かの物体を男の膝の上に落ちてきたので、男はぎよつと気味悪く思ひながら、じつと自分の膝の上のその丸い品を見極めようとした。\n じつと遠くどこか未来のやうなところから娘さんの笑ふ声が聞えたと思ふうちに、こんどは耳のすぐ傍で破れるやうな大きな鉄線をたゝきつけるふるへた娘さんの笑ひが起つた。\n『おあがりなさいな、こんな大きな味瓜が鈴のやうになつてます、後に手が届きますよ』\n 娘さんはかう云つて続けさまにぽきん〳〵と味瓜の蔓を折る音をまぢかにさせた。\n ふり返つてみると、くらやみの中にことさらに黒味を帯びた、ちやうど谷間の深淵のよどみをたてかけたやうな深みが、じつとみつめてゐると見とをしができるやうに思はれて、そしてまた壁のやうな不透明な幾つにも切断されて盛りあげられた影がふたりの背後にならんでゐた。\n 最初はその黒い影が、だん〴〵と不安な冷たいものと変つてきてしまいには黒味に一点の白をさしその白が無数に殖へだし散らばつて見事に銀色のマリのやうにふくれだし、果てはあつちにもこつちにも、はつきりとした線をもつてまんまるい味瓜が描きだされた。\n『味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜は冷たい冷たい』\n 男はなにかの歌でもうたふやうな調子で女の手から小さな二つの味瓜をひつたくつた、そしてたくさんの御追従笑ひをした。\n『ね、なぜ喰べてはいけないのかしら、こんなに沢山あるのにね、盗んだのだから、口にいれるのがあなたは怖ろしい気がしてゐるのでせう、臆病ね』\n『女が南瓜や味瓜をたべるのはよくないのです、血が荒れるといふ話ですよ、ざくざくになつてしまうんでせう』\n『血が荒れたつてざく〴〵になつても喰べて見たい、こんなに美味しさうにふくれてゐるんですもの、妾なんかとつくに荒れてしまつてゝよ、かまふものですか』\n『そんなことはありません、娘さんちよつとお手を拝見しませう』\n からだをゆすぶつてゐる、娘さんの手を男はそつと握つた、自分の掌の上に娘さんの重たい掌をのせてみると、どつしりとした厚ぽつたく動かない魚のやうに、またいかにも金目のなにかの貴金属でものせてゐるやうにも思はれた。\n\n (六)\n\n『味瓜は後から悠つくりとおあがりなさい、私もいつしよに喰べます、後からですよ、ふたりで仲善く、こんなに冷たいものをあなたに今喰べらせる位でしたら、私は最初からあなたと散歩なんかしません』\n 男はぷんとふくれて、切ない言葉を女の白い顔にふきかけると女はいかにも火のやうな呼吸をかけられたかのやうに、ちよつと顔をそむけた。\n 街にはこの娘さんと同じやうな娘さんがきれいに彩色された着物をきて歩いてゐる、ことに夏の夜のむし暑い頃になれば、こゝの河原や公園地の池の畔を、とかげの花嫁のやうにぞろぞろと散歩をしてゐる、こゝにゐるものもその一匹であつて、どこかの遠い背よりもたかい草原の中にも、きつと同じやうな幾組もの動物が死んだやうに動かないでゐるだらう、もつとも哀しいひとりぼつちの娘さんよ、(一字欠字)が散歩をするといふことは、その情熱を風に冷やすためにすることです、水々しい果実のやうな白い二本の脚は、性慾の凝結してゐるかのやうに、はちきれるほど肥えてゐる毒々しくあぶらこい。\n 彼女達がしづと坐つてゐたり横になつてゐたり、立ちどまつてゐたりすると、彼女自身の猛烈な性慾の醗酵でトマトのやうに溶けてしまふ、川岸を歩いたりボートに乗りたがつたり、林檎や味瓜などの冷たいものを喰べることも彼女達の心臓に氷袋をあてゝやるやうなものだ、男はこんないろいろのことを想ひながら、いつこくも早くこんな冷たい川風の吹く崖の近くや、味瓜畑から娘さんを誘きだして、土室のやうな黄色く重くるしいどこかの土手の窪みか、柔らかい青草の林の中に連れこまなければならないとあせりだした。\n『お止しなさいよ、退いて下さいつたら、だまつて味瓜をおあがんなさい、温和しく』\n 娘さんは男の手をはらひのけたので、男は猫のやうに眼をつむつて両手を前にさしだした。\n『娘さん、私を悪者と憎んで下さい、わたしはあなたを誘惑したのです、どうか今度は想ひきつてあなたの白い歯で私の舌を噛みきつて殺して下さい』\n『さうぢやなくつてよ、わたしを誘惑したのはあなたぢやない、こゝに味瓜畑のあることは、妾ちやんと知つてゐたんですもの』\n『そんな事を云はないで下さい、わたしは寂しくなる、どんなに此処まであなたを連れてくるのに苦心をしたかを、あなたは察してくださらない』\n『こゝの畠は妾の部屋の窓からよく見えますの』\n『やつぱりわたしは悪者に違ひない、あなたは弱々しい娘さんですものそしてあなたも素直に、わたしに、こんな処へ誘惑されて、口惜しいつて、女らしく処女らしい身振をしてさめざめと泣いて下さいよ』\n\n (七)\n\n 男はなんべんも女の顔を覗き込むやうにして、こゝろから恥いつたといふ表情をした、だが事実はこの男がもつとも、これまでに誇らしげに、そつと秘めておいた自分のそれは華やかな童貞をいま無造作に捨てるといふことについてそれは神経質に相手の娘さんの微細な動作にまで、真剣な注意の眼を働かせた。\n 廻つてゐる火のやうな春が、これまでの季節に横たはつてゐたのであるが、男はじつと腰に両手を支へて、如何にも沈勇な歩調で、悠つくりと貞操な英雄のやうに通りすぎてきたことが奇跡的にも思はれた。\n『あゝ、こんな夏になつてから、私は一人の娘さんを見つけました、あなたそれは貴女なのですよ、肩揚のある、私の相手にふさはしい娘さんそうでせうね』\n 娘さんは寂しさうな顔の半面を月の光りに照らしながら、まだ未練さうにどこかの味瓜に白眼をつかつてゐる様子であつた。\n どこからともなく、不意に男の胸に小さな、熱した風のやうなものが、そつとさはつてすぎた。\n いつたん男はぐる〴〵と周囲を念入りに見廻してから、じつと後の青くねむつてゐる地べたを這ひ廻つてゐる味瓜の黒い影を見つめた。\n すると味瓜畑の両端が真白い娘さんの右と左の手をひろげたように、そして黒い影がだん〴〵と青く燃えだし、白い手はしだいに前かゞみに男を抱きしめるやうに思はれた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「すぐにも都へ使いを上せ、朝廷へ表をささげて、玄徳を荊州の太守に封じるのが何よりと思いますが」\n「............」\n 孫権はおもしろくない顔をした。\n 張昭はたたみかけて、若い主君を喩した。\n「すべて外交の計は苦節です隠忍です。玄徳に出世を与える。勿論、お嫌でたまらないでしょうが、その効果は大きい。何となればそれによって曹操は、呉と玄徳との間に破綻を見出すことができません。玄徳もまたそれに感じて呉を恨む念を忘れましょう。......かかる状態に一応現状を訂正しておいてから、呉としては、間諜を用いて徐々に曹操と玄徳との抗争をさそい、玄徳のそれに疲弊してきた頃を計って荊州を奪り上げてしまえばよいのです」\n「敵地へ行って、そういう遠謀を巧みに植えつけるような間諜が、さし当って、おるだろうか」\n「おります。平原の人で華欽、字を子魚という者。もと曹操に愛せられた男ですが、これを用いれば適役でしょう」\n「呼べ。早速」\n 孫権は、その気になった。\n\n文武競春\n\n一\n\n 冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。\n そして今し、建安十五年の春。\n 鄴城(河北省)の銅雀台は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げていた。\n「祝おう。大いに」\n 曹操は、許都を発した。\n 同時に――造営の事も終りぬれば――とあって、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、鄴城の春は車駕金鞍に埋められた。\n そもそも、この漳河のながれに臨む楼台を「銅雀台」と名づけたのは、九年前、曹操が北征してここを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。\n 城から望んで左の閣を玉龍台といい、右の高楼を金鳳台という。\n いずれも地上から十余丈の大厦である。そしてその空中には虹のような反り橋を架け、玉龍金鳳を一郭とし、それをめぐる千門万戸も、それぞれ後漢文化の精髄と芸術の粋をこらし、金壁銀砂は目もくらむばかりであり、直欄横檻の珠玉は日に映じて、\n「ここは、この世か。人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚と疑わしめるほどだった。\n「いささか予の心に適うものだ」\n 由来、英雄は土木の工を好むという。\n この日、曹操は、七宝の金冠をいただき、緑錦の袍を着、黄金の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩一歩燦爛と光を放つ珠履をはいていた。\n「規模の壮大、輪奐の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」\n 文武の大将は彼の台下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。\n「何かな、この佳い日、興じ遊ぶことはないか」\n 曹操は考えているふうであったが、やがて左右に命じて、秘蔵の赤地錦の戦袍を取寄せ、それを広苑の彼方なる高い柳の枝にかけさせた。そして武臣の列に向い、\n「各〻の弓を試みん。柳を距つこと百歩。あの戦袍の赤い心当を射たものには、すなわちあの戦袍を褒美にとらすであろう。われと思わん者は出て射よ」と、いった。\n「心得て候う」とばかり、自ら選手を希望して出た人々は、二行に列を作って、柳に対した。曹氏の一族はみな紅袍を着し、外様の諸将はすべて緑袍を着ていた。\n 選手はみな馬に乗り、手に彫弓をたずさえて、合図を待つ。\n 曹操はふたたび告げた。\n「もし、射損じたものは、罰として、漳河の水を腹いっぱい呑ますぞ。自信のないものは、今のうちに列から退がれ。そしてこれへ来て罰盃を飲め」\n 誰も、退かなかった。\n 馬は勇み、人々の意気は躍る。\n「よし!」\n と曹操の言下に、合図の鉦鼓が鳴り渡った。とたんに一人、馬を出し、馬上に弓矢をつがえた。\n 諸人これを見れば、すなわち曹操の甥で、曹休字は文烈という若武者。一鞭して広苑の芝生を奔らすこと三遭、柳を百歩へだたって駒足をひたと停め、心ゆくばかり弦をひきしぼってちょうッと放った。\n 見事。矢は的を射た。\n「ああ! 射たり、射たり」\n と、感嘆の声は堂上堂下に湧いてしばし拍手は鳴りやまない。\n その間に、近侍のひとりは、柳の側へ走って、かけてある紅の袍をおろし、それを曹休に与えようとすると、\n「待ち給え。丞相の賞は、丞相のご一族で取るなかれ。それがしにこそ与え給え」\n と呼ばわりながら、はや馬をすすめて、馬馴らしに芝生を駈け廻っている一将がある。\n 誰かと見れば、すなわち荊州の人文聘、字は仲業であった。\n\n二\n\n 文聘は鐙に立った。弓手は眉を横に引きしぼる。\n 矢はひょうッと飛んだ。\n とたんに、鉦鼓は鳴り轟き、諸人の感称もわっとあがった。\n「あたった、あたった。柳にかけたる紅の袍は、快くそれがしに渡し給え」\n 大音あげて、文聘がいうと、\n「何者ぞや、花盗人は。袍はすでに、先に小将軍が射られたり。わが手並を見てから広言を払え」\n と、また一騎、駈け出た。\n 曹操の従弟、曹洪であった。\n 握り太な彫弓の満を引いて、びゅッと弦を切って放つ。その矢も見事、彼方の袍の心当を射抜いた。\n 陣々の銅鑼、陣々の鼓、打ち囃し、賞め囃し、観る者も、射る者も、今や熱狂した。\n すると、また一人、\n「笑うべし、文聘の児戯」と、馬おどらせて、あたりに威風を払って見せた大将がある。諸人これを見れば夏侯淵であった。馬を走らすこと雷光の如く、首を回して、後ろ矢を射た。しかもその矢は三人が射立てた矢の真ん中をぴったり射あてた。\n 夏侯淵は矢を追いかけて、柳の下へ駈け出した。そして、\n「この袍は有難く、それがしが拝領つかまつる」\n と、馬上から袍へ、手を伸ばそうとすると、遠くから、\n「待った! 曲者」と、大声に叱って、彼方から一矢、羽うなり強く、射てきた者がある。\n これなん徐晃の放った矢であった。\n「――あっ」\n と、諸人は胆をつぶした。彼の矢は、あまりにも見事に、柳の枝を射切っていたからである。柳葉繽紛と散りしだき、紅錦の袍は、ひらひらと地に落ちてきた。\n 同時に、徐晃は駈け寄りざま、馬袍をすくい取って、自分の背なかに打ちかけ、馬をとばして直ぐ馳せ戻り、楼の台上を仰いで、\n「丞相の賜物、謹んで拝謝し奉る」\n と、呶鳴った。\n「ひどいやつだ」と、諸人みな、呆れ顔して騒然と囃していると、台下に立っていた群将の中から駈け出した許褚が、物もいわず徐晃の弓を握って、いきなり馬の上から彼を引きずり下ろした。\n「やっ。狼藉な」\n「何の。まだ丞相のおゆるしはなし。その袍の受領者は、いずれに行くか、腕のうちにありだ」\n「無法無法」\n「渡せ。いで渡せ」\n とうとう、二人は引っ組んで、四つになり、諸仆れになり、さんざん肉闘して、肝腎な錦の袍もために、ズタズタに引裂いてしまった。\n「分けろ、引分けろ」\n 曹操は台上から苦笑して命じた。\n 物々しく、退鉦打たせて、曹操はその二人をはじめ、弓に鍛えをあらわした諸将を一列に招き呼んで、" }, { "role": "assistant", "content": "「いや、いずれ劣らぬ紅や緑。日頃のたしなみ、武芸の励み、見とどけたぞ。――なんで汝らの精励に対して、一裲の衣を惜しもうか」\n と、大機嫌で、一人一人の者へ蜀江の錦一匹ずつ頒け与え、\n「さあ、位階に従って席に着け。さらに杯の満を引こう」と、促した。\n\n三\n\n その時、楽部の伶人たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢き、地には漳河の水も答えるかと思われた。\n 水陸の珍味は、列座のあいだに配され、酒はあふれて、台上台下の千杯万杯に、尽きることなき春を盛った。\n「武府の諸将は、みな弓を競って、日頃の能をあらわした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦して、きょうの盛会を記念せずばなるまい」\n 酒たけなわの頃、曹操がいった。\n 万雷のような拍手が轟く。王朗、字は景興、文官の一席から起って、\n「鈞命に従って、銅雀台の一詩を賦しました。つつしんで賀唱いたします――」\n\n銅雀台高ウシテ帝畿壮ナリ\n水明ラカニ山秀イデ光輝ヲ競ウ\n三千ノ剣佩黄道ヲ趨リ\n百万ノ貔貅ハ紫微ニ現ズ\n\n と朗々吟じた。\n 曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、\n「杯ぐるみ飲め」\n と、王朗に与えた。\n 王朗は、酒を乾して、杯は袂に入れて退がった。文官と武官と湧くごとく歓呼した。\n すると、また一人、雲箋に詩を記して立った者がある。東武亭侯侍中尚書、鍾繇、字は元常であった。\n この人は、当代に於て、隷書を書かせては、第一の名人という評がある。すなわち七言八絶を賦って――\n\n銅雀台ハ高ウシテ上天ニ接ス\n眸ヲ凝セバ遍ス旧山川\n欄干ハ屈曲シテ明月ヲ留メ\n窓戸ハ玲瓏トシテ紫烟ヲ圧ス\n漢祖ノ歌風ハ空シク筑ヲ撃チ\n定王ノ戯馬謾ニ鞭ヲ加ウ\n主人ノ盛徳ヤ尭舜ニ斉シ\n願ワクハ昇平万々年ヲ楽シマン\n\n と、高吟した。\n「佳作、佳作」\n 曹操は激賞しておかなかった。そして彼には、一面の硯を賞として与えた。拍手、奏楽、礼讃の声、台上台下にみちあふれた。\n「ああ、人臣の富貴、いま極まる」\n 曹操は左右の者に述懐した。彼はこういう中でも反省した。\n「――とはいえ、もしこの曹操が出なかったら、国々の反乱はなお熄まず、かの袁術の如く、帝王を僭称するものが幾人も輩出したろう。幸いに、自分は袁紹、劉表を討平し、身は宰相の重きにあるといえ、或いは疑いを抱いて、曹操も天下を纂奪する野心があるのでないかなどという者があるかもしれぬが、われ少年の日、楽毅之伝を読むに――趙王が兵を起して燕国を討とうとしたとき、楽毅は地に拝伏し、その昔日、臣は燕王に仕えり、燕を去るも燕王を思うこと、なお今日、あなたに仕える真心と少しも変りはない。むしろ死すとも、不義の戦はすまじと哭いて云ったという。――楽毅伝のあの一章は少年の日、頭にふかくしみこんで今日になっても、この曹操はそれを忘れることができない。自分が四隣の乱をしずめ、府にあっては宰相の権をにぎり、出ては兵馬を司るのも、こうしなければ、四方の暴賊はみな私権を張り、人民はいつまで戦禍の苦しみから救われず、秩序は乱れるばかりで、遂には無政府状態におち入り、当然、漢朝の天下も亡びるに至ることを憂えたからにほかならない。――わが文武の諸将は、みなよく曹操の旨を諒せよ」\n 彼は、侍坐の重臣に、そう語り終ると、また数杯をかたむけて、面色大いに薫酔を発した。\n「筆と硯をこれへ」\n 彼もまた、雲箋を展べて、即興の詩句を書いた。そしてそれへ、\n\n吾レ高台ニ独歩シテ兮\n俯シテ万里ノ山河ヲ観ル\n\n という二句まで書きかけたところへ、たちまち、一騎の早打ちが、何事かこれへ報らせに飛んできた。\n\n四\n\n 大宴満酔の折も折、席も席であったが、\n「時務は怠れない」と、曹操は、早打ちの者を、すぐ階下によびよせて、\n「何事やある?」と、許都からの報らせを訊いた。\n「まず、相府の書を」と、使いは、官庁からのそれを曹操へ捧じてから、あとを口上で告げた。\n「湖北へお出ましの後、江南の情報が、しきりと変を伝えてきました。それによると、呉の孫権は華欽というものを使者に立て、玄徳を荊州の太守に推薦し、一方、天子に表をたてまつって、おゆるしを仰いでいます。それも、事後承諾のかたちです。――のみならずまた彼孫権は、どうしたのか旧怨を捨て、自分の妹を玄徳の夫人として嫁がせ、その婚姻の引出物に、荊州九郡の大半も、玄徳に属すものと成り終ったということです。要するに玄、孫、二者の結合は、当然、わが魏へ向って、何事か大きな影響を及ぼさずにはいないものと――許都の府においても、みな心痛のまま、かくは早打ちをもって、お耳にまで達しに参りました」\n「なに。呉侯の妹が、玄徳へ嫁いだ......?」\n 曹操は思わず、手に持っていた筆を取落した。\n その愕きが、いかに大きく、彼の心をうったかは、とたんに手脚を張って、茫然と、空の雲へ向けていた放心的な眼にも明らかであった。\n 程昱が、筆を拾って、\n「丞相、どう遊ばしました。敵軍の重囲におち給うて、矢にあたり石に打たれても、なお顛倒されたことのない丞相が......?」\n「程昱、これが驚かずにいられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず、伸びんとして遂に伸び得ず、深く淵にいたものが、いま荊州を獲たとあっては、これ龍が水に会うて大海へ出たようなもの......豈、驚かずにいられよう」\n「まことに、晴天一朶の雲です。けれど、彼の計を、さらに計るの策はありませぬか」\n「水と龍と、相結んだものを、断り離つのは難しいだろう」\n「程昱はさほどまでには思いません。なぜならば、元来、孫権と玄徳とは、水龍二つの如く、性の合ったものではありません。むしろ孫権としては、玄徳を憎むこと強く、これを謀ろう謀ろうとしている気振りが見える。およそこんどの婚儀も、何か底に底ある事情からでしょう。――ゆえに、水龍相搏たせ、二者をして、争い闘わせる手段が、絶無とはいえません」\n「聞こう。――その計は」\n「愚存を申しますれば、なんといっても孫権がたのみとしているのは、周瑜です。また、重臣の雄なるは程普でしょう。......ですから丞相には早速許都へお帰りあって、まず呉の使いの華欽にお会い遊ばし、華欽を当分、呉へ帰さないことです」\n「そして」\n「別に勅を仰いで、周瑜を南郡の太守に封じます。また程普を江夏の太守とします。――江夏、南郡ともに今なお玄徳の領有している所ですから、これを呉使華欽に伝えてもおそらくお受けしますまい。ですから華欽にはさらに官職を与えてしばし朝廷にとどめおき、別に勅使を下して、これを呉の周瑜、程普に伝えます。かならず拝受感激いたすに違いありません」\n「......むむ。そうか」\n 曹操は、程昱が考えたところのものを、もう結果まで読みとっていた。\n その夕、彼は、銅雀台の遊楽も半ばに、漳河の春にも心を残しながら、にわかに車駕をととのえて許昌の都へ帰って行った。\n そして、呉使華欽に、大理寺少卿という官爵を与え、彼を都へとどめておく一方、勅命を乞うて、程昱の献策どおり、勅使を呉の国へ馳せ下した。\n\n荊州往来\n\n一\n\n 周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。\n\n天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命がありましたが、南郡にはすでに玄徳あり、臣の得る地は一寸もありません。しかもその玄徳は今、主家のお妹君の婿たり。臣、朝命に忠ならんとすれば、主家の親族にそむく科を得べく、主家に忠ならんとすれば、朝命にもとることと相成ります。\nねがわくは、周瑜の心事を憐み給い、君公のご賢察を仰ぎ奉る――" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴なようだが、おれより智慧のある男だと感心した。\n「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」\n「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易く聴くかね」\n「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」\n「友達が居るのかい」\n「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」\n「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」\n「わるくすると、遣られるかも知れない」\n「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだって居るのはいやだ」\n「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」\n「それもそうだな。どうしたら困るだろう」\n「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」\n「厄介だな。それじゃ濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」\n「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう」\n「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」\n「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」\n「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」\n 俺と山嵐はこれで分れた。赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ。\n あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つ詫まらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんな者なら、一日も早く打っ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって始めて承知仕った。\n それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと尋ねるから、いや云われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと云われたとの事だ。\n「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。焦慮いな」\n「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」\n「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」\n「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化されると考えてるのさ」\n「なお悪いや。誰が両立してやるものか」\n「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支えるからな」\n「それじゃおれを間のくさびに一席伺わせる気なんだな。こん畜生、だれがその手に乗るものか」\n\n 翌日おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。\n「何で私に辞表を出せと云わないんですか」\n「へえ?」と狸はあっけに取られている。\n「堀田には出せ、私には出さないで好いと云う法がありますか」\n「それは学校の方の都合で......」\n「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」\n「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」\n なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き払ってる。おれは仕様がないから\n「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」\n「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから......」\n「出来なくなっても私の知った事じゃありません」\n「君そう我儘を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」\n「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」\n「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」\n 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼くなったり、赤くなったりして、可愛想になったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるなら塊めて、うんと遣っつける方がいい。" }, { "role": "assistant", "content": " 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。\n 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下ったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へ潜んで、障子へ穴をあけて覗き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極ってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも験が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でも飽きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組をして溜息をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加える事は出来ないのである。\n 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責に応ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。昨夜までは少し塞ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快愉快と云った。\n「今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった」\n「赤シャツといっしょか」\n「いいや」\n「それじゃ駄目だ」\n「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」\n「どうして」\n「どうしてって、ああ云う狡い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」\n「そうかも知れない。もう九時だろう」\n「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐はすぐ疑ぐるから」\n おれは一貫張の机の上にあった置き洋燈をふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。\n「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭だぜ」\n「おれは銭のつづく限りやるんだ」\n「銭っていくらあるんだい」\n「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」\n「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」\n「宿屋はいいが、気が放せないから困る」\n「その代り昼寝をするだろう」\n「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈でたまらない」\n「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」\n「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。\n 世間は大分静かになった。遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞える。月が温泉の山の後からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、下の方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を突き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄を引き擦る音がする。眼を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。\n「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」正しく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様打ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防した。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜って、角屋の中へはいった。\n「おい」\n「おい」\n「来たぜ」\n「とうとう来た」\n「これでようやく安心した」\n「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」\n「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」\n おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼んで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵なら泥棒と間違えられるところだ。\n 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の隙から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀な思いをした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑えようと発議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中で遮られる。訳を話して面会を求めれば居ないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢した。\n 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃になる。それを通りこすとここかしこに藁葺があって、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいて振り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽の気味で逃げ出そうという景色だったから、おれが前へ廻って行手を塞いでしまった。\n「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」と山嵐はすぐ詰りかけた。\n「教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」と赤シャツは依然として鄭寧な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。\n「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天した者と見えて、わっと言いながら、尻持をついて、助けてくれと云った。おれは食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった。\n おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。\n「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」\n「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」\n「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」\n「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」\n「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "遠慮のない話をすれば、属性の純化せなかつた時代の神は、犠牲料と一つであつた様に考へられる。さうして次の時期には、其神聖な動物は、一段地位を下げられて、神の役獣と言ふ風に、役霊の考への影響をとり込んで来る。さうした上で、一方へは、使はしめとして現れ、一方へは神だけの喰ひ物と言ふ様に岐れて行く。此次に出て来るのが、前に言うた、神の呪ひを受けた物、と言ふ考へ方である。\n稲荷の狐は、南方熊楠翁の解説によれば、托枳尼修法の対象なる托枳尼と言ふ狼の様な獣の、曲解せられた物だと言ふ事である。其は、外来のものであるが、固有の使はしめと思はれて居るものにも、此類の役獣がありさうな暗示にはなる。\n山王の猿は「手白の猿」と称せられた様である。此は使はしめの意義を、正しく見せてはゐる。けれども、山王権現に対するおほやまくひの神の本体が、もつとはつきりせぬ間は、生得の使はしめかどうかは、疑ひの余地がある。鳩・鴉・鷺・鼠・狼・鹿・猪・蜈蚣・亀・鰻と言ふ風に、社々の神の使はしめの、大体きまつて居るのも、犠牲料の動物の側から見れば、説明がつく。\n\n 一一\n\nところが一方又、地主神を使はしめ或は、役霊と見る様な風も、仏教が神道を異教視して征服に努めた時代から現れて来た。さうなると、後から移り来た神仏に圧倒せられて、解釈の進んだ世に、神としての地位は、解釈だけは進む事なく、精霊同時に、化け物としてのとり扱ひを受けねばならぬ事になつた。\n以前、坪内博士も脚色せられた葛城の神ひとことぬしの如きは、猛々しい雄略天皇をさへ脅した神だのに、役行者にはさん〴〵な目にあはされた事になつて居る。逍遙先生は更にぐつと位置をひきさげて「真夏の夜の夢」などに出て来る様な、化け物にして了はれた。\nおなじ役行者に役せられた大峰山下の前鬼・後鬼と言ふ鬼も、やつぱり、吉野山中の神であつたもの、と思はれる。前鬼・後鬼共に子孫は人間として、其名の村を構へて居る。仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。\n一体おにと言ふ語は、いろ〳〵な説明が、いろ〳〵な人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。\n八瀬の村は、比叡の地主とも見るべき神の子孫と考へたもので、其祖先を鬼としたものであらう。この村は延暦寺に対して、寺奴とも言ふべき関係を続けて居た。大寺の奴隷の部落を、童子村と言ふ。寺役に使はれる場合、村人を童子と言ふからである。八幡の神宮寺などにも、童子村の大きいのがあつた。開山の法力に屈服して、駆使せられたおにの子孫だと言はぬ童子村にも、高僧の手で使はしめの如くせられた地主神の後と言ふ考へはあつたらうと思はれる。童子が仏法の為に、力役に任ずる奴隷の意味に使はれたところから、殿上人の法会に立ちはたらく時の名を「堂童子」と言うた。童子と言ふのは、寺奴の頭のかつかうから出た称へである。ばらけ髪をわらはと言ひ、髪をはらゝにしてゐる年頃の子どもを、髪の形からわらはと言うたに準じて考へると、寺奴の髪をあげずにばらかして、所謂「大童」と言つた髪なりでゐたからである。柳田国男先生の考へられた「禿」とも「毛房主」とも言ふ、得度せぬ半僧生活を営んだ者も、元は寺奴から出たのである。\n葛の葉の生んだ子を「童子」「童子丸」と言うたのも、こゝに根拠があり相に見える。\n鬼は、仏家の側ばかりで言ふのではなく、社々にもある事である。村里近い外山などに住み残つて居た山人を、我々の祖先は祭りに参加させた。さうして其をも、おにと言うたらしい。生蛮人を畏き神と称した例はあるから、神とおにとの区劃がはつきりすれば、かう言ふ荒ぶる神は、やはり鬼の部に這入つて来る事になつたのであらう。\n江戸の大奥で、毒見番を「鬼役」と言うたのも、昔の手代部の筋を引いたらしい為事である上に、響きこそ恐しけれ、名にまで、其俤を留めてゐるのは懐しい。\n社についてゐた神の奴は、中古以来「神人」と称へてゐる。かむづこと言ふ語も、後には内容が改つてゐるが、元はやはり字義どほりの神奴であらう。さつきも話に出た、伊勢の奄芸郡の人が、祭りに参加するなど言ふことも、三輪の神人が山川隔てた北伊勢に居た事を見せてゐるのである。かうした村を、やはり単に「村」或は神人村と言うて居た。\n今では大阪市になつた天王寺の西隣の今宮村は、氏神としては広田の社を祀りながら、京の八坂の社に深い関係があつた。祇園の神輿は、此村人が行かぬと動かぬと誇つて、祭りには京へ上り〳〵して居た。而も此村は、四天王寺とも特別な交渉を持つてゐた様である。幸な事には、今宮の村は、ほかの村から特殊な扱ひは受けて居なかつた。が、大抵かうした神人村は、後世特殊な待遇を他の村々から受けることになつた。近世の考へ方からすれば、神事に特殊部落が与ると言ふのは、勿体ない事の様に見える。成立からして社寺に縁の深い村が、奴隷だといふ事以外に、今一つの余儀ない理由から、卑しめられる様になつて行つた。\n等しく奴隷と言うても、家についた者の中、家人など言ふ類は、武家の世には御家人となり、侍となつて、良民の上に位どられる様になつたが、社の奴隷は、謂はれない侮辱を忍ばねばならなくなつた。\n此等の村人は、みさき・使はしめの類を、自由に駆使する事の出来るものと、世間からは見られて居た。だから、其社の保護に縋つてばかり居られぬ世になると、手職もした様だが、呪術を行うて暮しを立てゝ行つた。又其事へて居る神の功徳を言ひ立てに、諸国を廻る様になつた。其村人の特別な能力が、他の村人からはこはがられる。呪咀を事とすると考へられる様になつて、恐れが段々忌み嫌ひに移り、長い間には卑しみと変つて行く。\n神人の本村は固より、漂泊した村人が旅先で定住して、構へた家なり村なりが、やつぱりさうした毛嫌ひを受ける。「おさき持ち」「犬神筋」「人狐」など言ふ家筋として、人交りのならぬものとなつたのも多い。" }, { "role": "assistant", "content": "神人の念ずる神は、不思議にも、所属の社や寺の本殿・本堂に祀るところの本筋の神仏でない場合が多い様である。漂泊布教者は、大方は、神奴・寺奴出身の下級の人々であるが、其本所の本筋の神仏を持つて歩いたものと、さうでないものとがあつた様である。神人・童子以外にも、いろ〳〵な意味の半俗の宗教家が流離して遂には偉大な新安心を流布する事にもなつた。其はおもに、得度する事の出来なかつた寺奴の側で、神人の末は、多く浮ぶ瀬がなかつた様である。\n高野山往生院谷の萱堂の聖は、真言の本山には、寄生物とも言ふべき念仏の徒であつた。これも元は、紀州由良浦の海人から出た寺奴であらうと思はれる。祇園の神人であつた摂津今宮村の神は「広田」である事は前に述べた。三輪の神人なる奄芸の里人の斎いた稲生の古社も、三輪明神には、関係がない様である。此事に就ては、いろ〳〵な事が考へられる。第一は、何の血縁もない奴隷に、家の神を拝ませる事をせなかつたからは、自由のなかつた神奴も、信仰は、古くから強ひられずに来たものと考へられる。第二は、神奴をおにの後と見る事が出来れば、祖先が信仰せぬ神の庭に臨んだ習慣を其儘、祭りの人数には備つても、祀る所は其祖神なるおにであつたであらう。第三は使はしめを、神奴の祖先と考へたかも知れない、と言ふ点である。神の内容が分解して、手代なる「神使」の属性が游離して来ると、神・神主の間に血族関係を考へる習はしを推し及して、神使ひの血筋としての神奴と言ふ考へ方が、出て来る事もありさうだ。さうすると、元来神奴が持ち伝へて来た信仰の対象の上に、使はしめの姿が重つて来る訣になる。かう言ふ風に想像して見ると、神人が使はしめを駆使する様になる道筋も、わかる様である。何にせよ、神人・童子共に、普通と違うた祖先を持つて居るとせられた事だけは、事実らしい。さう言ふところへわり込み易いのは、動物祖先の考へである。\n\n 一二\n\n安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処になつて居た事は、平安朝末までは溯られる様である。此社から、更に幾つかの王子を過ぎて、信太に行くと、こゝにも篠田王子の社があつた。宴曲の「熊野参詣」と言ふ道行きぶりに、道順が手にとる様に出てゐる。安倍野と信太との交渉は此位しか知れないのだから、今の処は必然の関係が見出されさうもない。\n童子丸とか、安倍童子など言ふ名は、特殊な感じを含んで居る。作者の投げやりにつけたものと思へるかも知れないが、さうではない。類例のある名なのである。平安朝の中頃からは、ちよく〳〵見えて、頼光に讐をしかけた鬼童丸、西宮記には、秦犬童子と言ふ強盗の名がある。其同類に、藤原童子丸と言ふのも見える事は、南方翁が指摘せられた。\nだが、角太夫の信太妻以来、歌舞妓唄にも謡はれた葛の葉道行きの文句には、「安倍の童子が母上は」とある。此辺の詞は、説経節伝来のものだらうと感じられるものである。「安倍童子」と言ふ名は、古くから耳に熟して来た為に、固有名詞らしい感じの薄い語ながら、ある落ちついた味はあつたものであらう。必、久しい間くり返されたもの、と思はれる親しさがある。\nたゞ、安倍氏の子ども、安倍氏(晴明)になる所の子ども、と言ふだけの事ではあるまい。私は、此安倍野の原中に、村を構へた寺奴の一群れがあつて、近処の大寺に属して居たものでないかと見当をつけて居る。其寺は、大方四天王寺であらうが、ひよつとすれば、住吉の神宮寺かも知れない。何にしても、其村人を「安倍野童子」と言ひ馴れて、当時の人の耳に親しいものであつたところから、「信太妻」の第一作と思はれる語り物を語り出した人の口に乗つて、出て来た名ではなからうか。単に其ばかりでなく、ほかの神人・童子村にもある動物祖先の伝説が、此村にもあつて、村人を狐の子孫として居たのではあるまいか。\n仮りに話の辻褄をあはせてみると「安倍野童子」たちに伝へがあつて、自分たちの村からは、陰陽博士の安倍晴明が出てゐる。晴明の母は信太から来た狐の化生であつた。だから我々は狐の子孫になる。世間で「安倍野童子」と自分らを呼ぶのは、晴明の童名からとつたものだ、と言ふ風に信ぜられてゐた。まづかう考へて見ると、ある点までは纏りがつく。が、事実はそんなに、整頓せられたものではあるまい。\n説経節は元来「讃仏乗」の理想から、天竺・震旦・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。\nが、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。\n説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。\n「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太森の聖神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。\n前に言うた高野の「萱堂の聖」が語り出したと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。\n此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師と言ふ表題になつてゐる。盲目の乞食になつた俊徳丸が、よろ〳〵として居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらうとも発音する字だから、えうれいぼしでなく、えうらうぼしである。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。\n唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうしの舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうしの舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろ〳〵として弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。\n柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫」を算所と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。\nかう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。\nはじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " その一\n\n 酒の話。\n 昨今私は毎晩三合づつの晩酌をとつてゐるが、どうかするとそれで足りぬ時がある。さればとて獨りで五合をすごすとなると翌朝まで持ち越す。\n 此頃だん〳〵獨酌を喜ぶ樣になつて、大勢と一緒に飮み度くない。つまり強ひられるがいやだからである。元來がいけるたちなので、強ひられゝばツイ手が出て一升なりその上なりの量を飮み納める事もその場では難事でない。たゞ、あとがいけない。此頃の宿醉の氣持のわるさはこの一二年前まで知らなかつたことである。それだけ身體に無理がきかなくなつたのだ。\n 對酌の時は獨酌の時より幾らか量の多いのを厭はない。つまり三合が四合になつても差支へない樣だ。獨酌五合で翌朝頭の痛むのが對酌だと先づそれなしに濟む。けれどその邊が頂點らしい。七合八合となるともういけない。\n 人の顏を見れば先づ酒のことをおもふのが私の久しい間の習慣になつてゐる。酒なしには何の話も出來ないといふ樣ないけない習慣がついてゐたのだ。やめよう〳〵と思ふ事も久しいものであつたが、どうやら此頃では實行可能の域にだけは入つた樣だ。何よりも對酌後の宿醉が恐いからである。\n 運動をして飮めば惡醉をせぬといふ信念のもとに、飮まうと思ふ日には自ら鍬を振り肥料を擔いで半日以上の大勞働に從事する創作社々友がいま私の近くに住んでゐる。この人はもと某專門學校の勅任教授をしてゐた中年の紳士であるが、さうして飮まれる量は僅かに一合を越えぬ樣である。その一合を飮むためにそれだけの骨を折ることは下戸黨から見ればいかにも御苦勞さまのことに見えるかも知れない。然し得難い樂しみの一つを得るがための努力であると見れば、これなども事實貴重な事業に相違ない。まつたく身體または心を働かせたあとに飮む酒はうまい。旅さきの旅籠屋などで飮むののうまいのも一に是に因るであらう。\n 旅で飮む酒はまつたくうまい。然し、私などはその旅さきでともすると大勢の人と會飮せねばならぬ場合が多い。各地で催さゝる歌會の前後などがそれである。酒ずきだといふことを知つてゐる各地方の人たちが、私の顏を見ると同時に、どうかして飮ましてやらう醉はせてやらうと手ぐすね引いて私の一顰一笑を見守つてゐる。從つて私もその人たちの折角の好意や好奇心を無にしまいため強ひてもうまい顏をして飮むのであるが、事實は甚ださうでない場合が多いのだ。これは底をわると兩方とも極めて割の惡い話に當るのである。\n どうか諸君、さうした場合に、私には自宅に於いて飮むと同量の三合の酒を先づ勸めて下さい。それで若し私がまだ欲しさうな顏でもしてゐたらもう一本添へて下さい。それきりにして下さい。さうすれば私も安心して味はひ安心して醉ふといふ態度に出ます。さうでないと今後私はそうした席上から遠ざかつてゆかねばならぬ事になるかも知れない。これは何とも寂しい事だ。\n 獻酬といふのが一番いけない。それも二三人どまりの席ならばまだしもだが、大勢一座の席で盃のやりとりといふのが始まると席は忽ちにして亂れて來る。酒の味どころではなくなつて來る。これも今後我等の仲間うちでは全廢したいものだ。\n 若山牧水といふと酒を聯想し、創作社といふと酒くらひの集りの樣に想はれてる、といふことを折々聞く。これは私にとつて何とも耳の痛い話である。私は正直酒が好きで、これなしには今のところ一日もよう過ごせぬのだから何と言はれても止むを得ないが、創作社全體にそれを被せるのは無理である。早い話が此頃東京で二三囘引續いて會合があり、出席者はいつも五十人前後であつた。その中で眞實に酒好きでその味をよく知つてるといふのは先づ和田山蘭、越前翠村に私、それから他に某々青年一二名位ゐのものである。菊池野菊、八木錠一、鈴木菱花の徒と來ると一滴も口にすることが出來ないのだ。そしてその他の連中は唯だ浮れて飮んで騷ぐといふにすぎない。にや〳〵しながら嘗めてゐるのもある。酒徒としてはいづれも下の下の組である。一度も喧嘩をしないだけ先づ下の上位ゐには踏んでやつてもいゝかも知れぬ。噂だけでも斯ういふ噂は香ばしくない。出來るだけ速くその消滅を計り度い。心から好きなら飮むもよろしい。何を苦しんでかこれを稽古することがあらう。一度習慣となるとなか〳〵止められない。そしてだらしのない、いやアな酒のみになつてしまふのだ。\n 全國社友大會の近づく際、特にこれらの言をなす所以である。\n\n 旅さきでのたべものゝ話。\n 折角遠方から來たといふので、たいへんな御馳走になることがある、おほくこれは田舍での話であるが。\n これもたゞ恐縮するにすぎぬ場合がおほい。酒のみは多く肴をとらぬものである。もつとも獨酌の場合には肴でもないと何がなしに淋しいといふこともあるが、誰か相手があつて呉れゝばおほくの場合それほど御馳走はほしくないものである。\n 念のために此處に私の好きなものを書いて見ると、土地の名物は別として、先づとろゝ汁である。これはちひさい時から好きであつた。それから川魚のとれる處ならば川魚がたべたい。鮎、いはな、やまめなどあらばこの上なし。鮒、鮠、鯉、うぐひ、鰻、何でも結構である。一體に私は海のものより川の魚が好きだ。但しこれは海のものよりたべる機會が少ないからかも知れない。\n それから蕎麥、夏ならばそうめん。芋大根の類、寒い時なら湯豆腐、香のものもうまいものだ。土地々々の風味の出てゐるのはこの香の物が一番の樣に思ふがどうだらう。\n 田舍に生れ、貧乏で育つて來た故、餘り眼ざましい御馳走を竝べられると膽が冷えて、食慾を失ふおそれがある。まことに勿體ない。ないがしろにされるのは無論いやだが、徒らに氣の毒なおもひをさせられるのも心苦しい。\n 飯の時には炊きたてのに、なま卵があれば結構である。それに朝ならば味噌汁。\n\n その二\n\n 女人の歌。\n『どうも女流の歌をば多く採りすぎていかん、もう少し削らうか。』\n と私が言へば、そばにゐた人のいふ。\n『およしなさいよ、女の人のさかりは短いんだから。』\n\n いやさかと萬歳。\n『十分ばかりお話がしたいが、いま、おひまだらうか。』\n といふ使が隣家から來た。\n ちやうど縁側に出て子供と遊んでゐたので、\n『いゝや、ひまです。』\n とそのまゝ私の方から隣家へ出かけて行つた、隣家とは後備陸軍少將渡邊翁の邸の事である。土地の名望家として聞え、沼津ではたゞ「閣下」とだけで通つてゐる。私を訪ぬるために沼津驛で下車した人が若し驛前の俥に乘るならば、\n「閣下の隣まで」\n と言へば恐らく默つて私の家まで引いて來るであらう。首から上に六箇所の傷痕を持つ老將軍である。\n 翁の私に話したいといふ事は「いやさか」と「萬歳」とに就いてゞあつた。日本で何か事のある時大勢して唱和する祝ひの聲はおほよそ「萬歳」に限られてゐる。第一これは外國語であり、而かもその外國語にしても漢音呉音の差により一は「バンゼイ」と發音さるべく、一は「マンザイ」と發音されねばならぬのにかゝはらず、現在の「バンザイ」ではどちらつかずの鵺語となつてゐる。ことにその語音が尻すぼまりになつて、つまり「バンザイ」の「イ」が閉口音になつてゐるために、陰の氣を帶びてゐる。めでたき席に於て祝福の意味を以て唱和さるべき種類のものとしてはどの點から考へても不適當であるといふのである。\n それも他に恰好な言葉が無いのならば止むを得ないが、わが國固有の言葉として斯る場合に最もふさはしい一語がある。即ち「いやさか」である。「彌榮え」の意である。これは最初を、「イ」と口を緊めておいて、やがて徐ろに明るく大きく「ヤサ、カァ」と開き上げて行く。\n どうかして「萬歳」の代りにこの「いやさか」を擴め度い、聞けば君は世にひろく事をなしてゐる人ださうだから、君の手によつてこれを行つて貰ひ度い、それをいま頼みに行かうと思つてゐたのだ、と翁は語られた。\n これは筧克彦博士が初めて發議せられたものであつたとおもふ。翁もさう言はれた。そして翁は多年機會あるごとにこの實地宣傳を試みられつゝあるのださうだ。\n 何かで筧博士のこの説を見た時、私は面白いと思つたのであつた。端なくまた斯ういふところで思ひがけない人からこの話を聞いて、再び面白いと思つた。然し、一方は口馴れてゐるせゐか容易に呼び擧げられるが、頭で考へる「い、や、さ、か」の發音は何となく角ばつてゐて呼びにくいおもひがした。その事を翁に言ふと、翁は言下に姿勢を正して、おもひのほかの大きな聲で、その實際を示された。思はず額を上ぐるほどの、實に氣持のいゝものであつた。\n 「いッ」と先づ脣と咽喉と下腹とを緊め固めて、一種氣合をかける心持で、そして徐ろに次に及び、最後の「かァ」で再び腹に力を入れて高々と叫び上げるのださうである。\n 私は悉く贊成して、そして出來るだけの宣傳に努める事を約して歸つて來た。社友にも同感の人が少くないと思ふ。若し一人々々の力の及ぶ範圍に於てこれを實地に行つて頂けば幸である。\n 全國社友大會の適宜な場合に渡邊翁に音頭をとつていたゞいて先づその最初を試み度く思ふ。\n\n 梅咲くころ。\n 今年は梅がたいへんに遲かつた。\n\nきさらぎは梅咲くころは年ごとにわれのこころのさびしかる月\n\n 私はちらりほらりと梅の綻びそめるころになると毎年何とも言へない寂しい氣持になつて來るのが癖だ。それと共に氣持も落着く。\n\n好かざりし梅の白きを好きそめぬわが二十五の春のさびしさ\n\n この一首が恐らく私にとつて梅の歌の出來た最初であつたらう。房州の布良に行つてゐた時の詠である。\n\n年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花をけふ見つけたり" }, { "role": "assistant", "content": "うめ咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな\n\n これらは『砂丘』に載つてゐるので、私の三十歳ころのものである。\n\nうめの花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに\n梅の花さかり久しみ下褪せつ雪降りつまばかなしかるらむ\n梅の花褪するいたみて白雪の降れよと待つに雨降りにけり\nうめの花あせつつさきて如月はゆめのごとくになか過ぎにけり\n\n これらはその次の集『朝の歌』に出てゐる。\n\n梅の木のつぼみそめたる庭の隈に出でて立てればさびしさ覺ゆ\n梅のはな枝にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな\nうめの花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て\n褪せ褪せてなほ散りやらぬ白梅のはなもこのごろうとまれなくに\n\n その次『白梅集』には斯うした風にこの花を歌つたものがなほ多い。\n 昨年はことに梅を詠んだものが多かつた。ほめ讚へたものもあつたが、矢張り淋しみ仰いだものが多かつた。\n\n春はやく咲き出でし花のしらうめの褪せゆく頃ぞわびしかりける\n花のうちにさかり久しといふうめのさけるすがたのあはれなるかも\n\n ところが今年はまだ一首もこの花の歌を作らない。もう二月も末、恐らくこの儘に過ぎてしまふ事であらう。朝夕の惶しさがこの靜かな花に向ふ事を許さぬのである。\n\n その三\n\n『山櫻の歌』が出た。私にとつて第十四册目の歌集に當る。\n\n 此處にその十四册の名を出版した順序によつて擧げて見よう。\n\n海の聲 (明治四十一年七月) 生命社\n獨り歌へる (同 四十三年一月) 八少女會\n別離 (同 年四月) 東雲堂\n路上 (同 四十四年九月) 博信堂\n死か藝術か (大正 元年九月) 東雲堂\nみなかみ (同 二年九月) 籾山書店\n秋風の歌 (同 三年四月) 新聲社\n砂丘 (同 四年十月) 博信堂\n朝の歌 (同 五年六月) 天弦堂\n白梅集 (同 六年八月) 抒情詩社\n寂しき樹木 (同 七年七月) 南光書院\n溪谷集 (同 七年五月) 東雲堂\nくろ土 (同 十年三月) 新潮社\n山櫻の歌 (同 十二年五月) 新潮社\n\n となるわけである。この間に『秋風の歌』まで七歌集の中から千首ほどを自選して一册に輯めた\n\n行人行歌 (大正 四年四月) 植竹書院\n\n があつたが間もなく絶版になり、同じく最初より第九集『朝の歌』までから千首を拔いた\n\n若山牧水集 (大正 五年十一月) 新潮社\n\n との二册がある。\n 處女歌集『海の聲』出版當時のいきさつをばツイ二三ヶ月前の『短歌雜誌』に書いておいたから此處には略くが、思ひがけない人が突然に現はれて來てその人に同書の出版を勸められ、中途でその人がまた突如として居なくなつたゝめ自然自費出版の形になり、金に苦しみながら辛うじて世に出したものであつた。私が早稻田大學を卒業する間際の事であつた。\n『獨り歌へる』は當時名古屋の熱田から『八少女』といふ歌の雜誌を出して中央地方を兼ね相當に幅を利かしてゐた一團の人たちがあつた。今は大方四散して歌をもやめてしまつた樣だが、鷲野飛燕、同和歌子夫妻などはその頃から重だつた人であつた。その八少女會から出版する事になり、豫約の形でたしか二百部だけを印刷したものであつた。形を菊判にしたのが珍しかつた。\n 程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた〴〵で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。\n『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を𢌞るつもりで先づ甲州に入り、次いで信州に𢌞つた。かれこれ半年もそんなことをしてゐるうちにまた東京が戀しくなつて歸つて來て出版したのが『路上』である。これは當時小石川の竹早町に主として古本を買つてゐた博信堂といふ店の主人が或る紙屑屋から古人尾崎紅葉の未發表の原稿を手に入れたといふのでそれで大いに當てる積りで急に出版を始め、案外にも失敗して困つてゐた頃太田水穗さんの紹介でその店から出すことになつたのであつた。これには珍しく油繪の口繪が入つてゐる。私の歌集に肖像寫眞以外斯うした口繪の入つてゐるのはこの一册だけである。この口繪に就いて思ひ出す。出版する少し前に山本鼎君と一緒に數日間下總の市川に遊びに行つてゐた。或日同君が江戸川べりの榛の若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。それを見た同君は急に榛の木をやめて眠つてゐる私を寫生してしまつた。サテ東京へ引上げようとなつて宿屋の拂ひが足りず、その繪を其處に置いて歸つた。それを博信堂の主人と共に幾らかの金を持つて出懸けて受取つて來て三色版にしたのであつた。原畫は私が持つてゐたのだが、富田碎花君がいつしか持ち出し、それをまたその愛人だかゞ持ち出し、思ひがけない何處か長崎あたりへ行つてゐるといふ話をあとで聞いた。\n『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたのでそんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で周章へて歌を纒めて東雲堂へ持ち込み、若干の旅費を作つて歸國したのであつた。で、この本の校正をば遠く日向の尾鈴山の麓でやつたのであつた。最初の校正刷を郵便屋の持つて來た時、私は庭の隅の据風呂に入つてゐて受取つた。そして濡れた手で封を切つてそれを見ながら、何となしに涙を落したことを覺えて居る。" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 友松は当時洛北の一寺院に住んでいたが、そこを訪うた者の言によると、彼は依然たる貧乏と画三昧のうちに慎んでおり、それについて訊ねてみても、自分がしたともいわなければ、自分ではないともいわない。ただ笑っているのみであった。――ということであった。\n 前々から光秀とは心交を契っていた彼ではあり、内蔵助利三とは取りわけ親密だった友松なので、\n(てっきり、彼が)\n という当然な臆測が生んだ風説にはちがいないのである。けれどまた、当人がどこかそれを肯定している容子であるから、察しると、案外、世間の考えが中っているかも知れない――という者もあった。\n しかし京都守護の軍から友松へたいしてべつに召喚もなく過ぎた。為に、洛の内外は、日ならずして、前にもまさる平穏に返っていた。\n ――これはずっと後の余談になるが、斎藤利三の末娘は、お福といって、やがて稲葉正成に嫁した女性である。\n 良人の正成は小早川秀秋に仕えていたが、関ヶ原の役にやぶれて牢浪の果て、妻のお福は二代将軍秀忠の息竹千代の乳人になって柳営にあがった。有名な老女春日局はこの女性なのである。ひと年、上洛して天顔にまで咫尺するの栄すらになった。そのおり、この春日局は、いまは亡きひとながら海北友松の遺族をたずねて、\n(天正十年六月の父の忌日をまつるたびに、あなた方の御先代友松どののお情けも思い出され、その御芳志は今もって忘れておりませぬ)\n と、手土産の金一封を置いて東へ帰ったということである。\n これをもって見れば、いよいよ海北友松の――笑而不答――の態度には、その陰にひとつの事実があったことは確からしい。\n 明智氏は亡んだが、桔梗の根は諸家に分脈されている。そのうちにも妙なるものは、後に伽羅沙とよばれた細川忠興夫人である。父光秀が叛旗をあげた日から最期にいたるまで――いやその後々までも、夫人がいかに世の批判と家庭のあいだに立って人知れぬ苦悩をしたかは、想像に余りあるものがある。それは一篇の戦国女性史をもってしなければ到底語りきれないものであるから、ここではこれ以上及ばないことにしておく。\n\n母の城\n\n 三井寺の秀吉は、その本陣をそっくり十数隻の兵船の上に移した。馬も乗せ、金屏風も乗せた。十八日のことである。目的は安土への移動だった。\n 陸路にも軍勢が蜿蜒と東進していた。微風にうごく旗幟を乗せて湖上を行く船列と、湖岸をすすむ陸の行軍と――両々相映じてゆくさまは壮観というもおろかであった。\n が、安土はすでに焦土である。ここに到着するや、ひとりとして、憮然としないものはなかった。\n 金碧の天守閣もない。外廊の諸門も総見寺の楼廂もほとんどあとかたなく焼けている。城下町はもっとひどい。野良犬の漁る餌もなかった。南蛮寺のばてれんがうつろな眼をして歩いている影が妙に目につく。\n ここにあるべきはずの北畠信雄は、蒲生賢秀とともに江州の土山にたてこもり、いまなお伊勢伊賀の叛乱軍と抗戦中なることも来て見てわかった。\n 安土の放火は、直接、信雄が指揮したのでもなく、蒲生賢秀の意志でもないことが同時に判明した。一部軍隊の行為には違いないが、何か命令を穿きちがえたものか、敵側の流説に乗ぜられて、逸まったものらしく想像された。\n「心ない業だ。取り返しもつかぬ。返すがえすも惜しいことを」\n 秀吉と同行の神戸信孝はしきりと嘆いたが、それでもこの放火が信雄の手でなされたものでないことが判明してからは、よほどその憤激もなだめられたようである。\n 秀吉はといえば、彼の志向はすでに江北から美濃方面へ転じている。\n ここに着くとすぐに堀、中村、宮部などの諸隊に命じ、江北の山本山城へ急がせていた。明智の一将阿閉淡路守と、それに組みした京極高次一族などの逃げ籠っている小城である。\n 光秀の乱に呼応して起った若狭の武田元明は、丹羽長秀の佐和山の城を奪い、また、阿閉淡路守も同じ頃、秀吉の留守城を襲って長浜を占拠していた。\n いくばくもなく、中央の戦況は俄然非となり、光秀も討たれたと知るや、長浜の阿閉淡路守はそこを出て、そこから約三里の地にある山本山城へ移ってしまった。もちろん京極一族と共に。\n かくて猛烈な寄手の攻囲をうけると、山本山城は、脆くも一日半で陥ちてしまった。阿閉淡路守は斬られ、一子孫五郎は湖畔から船でのがれようとしたところを、里の者に妨げられた上、なぶり殺しにされてしまった。また京極高次も、坂田郡の寺内で捕われかけたが、ちょうど追手の堀秀政は、以前、京極家に仕えていた関係もあったので、その旧恩によって辛くも難をのがれ、これは越前の柴田勝家を頼って遠く落ちのびて行った。\n 安土滞陣もわずか二日だった。船列はふたたび湖を北した。秀吉はいよいよかつてのわが家たる長浜の城へその本軍をすすめた。\n 城は無事だった。敵影もなく、すでに味方の兵も入っている。\n ここへ金瓢の馬簾が上がると、城下の民は狂舞して、彼が船から城へ通る道すじへ溢れ出て来た。女も子供も年寄も土下座して迎えた。涙して顔をあげ得ない姿もある。歓呼して手を振るもあった。われを忘れて踊り出す領民も見えた。\n(よかったよかった。みな息災でうれしいぞ。お前たちもよく怺えた。わしもこの通り達者だぞ)\n 秀吉の眼はそういっている。領民の熱意にこたえるため、かれはわざと馬上で通った。こういうときの領民は国主の慈眼を読みとることに甚だ賢い。語らずといえども領主の心はよく知るのである。\n が、秀吉には、重大な不安も残っていた。長浜城へ入ってからそれはなお濃いものになっていた。一刻も晏如としてはいられない寂しさと焦躁にかられていた。\n「知れたか。――母上の御安否は?」\n ここの本丸に坐ってからは、出入する諸将にたいして、彼はたえずこう訊ねた。――明智軍の襲撃にあうまでは、この城中につつがなく暮していた老母や妻などの身の上がにわかに案じられ出して来たのであった。\n「百方、手分けして、お行方を求めさせておりますが、まだ確報もございませぬ」\n と、いまも彼の前にひとりの将が復命していた。\n「領民の内には薄々知っている者がおりはせんか」\n と、秀吉はいう。\n「――と、思われましたが、存外、その領民にも皆目得るところがございません。御一同して、ここをお遁れ遊ばす折には、極力、そのお行き先を秘して参られたもののようで」\n「なるほど。それはそうかも知れんな。領内の者にそれが洩れていたようだったら、忽ち阿閉淡路の手勢があとを追って危害を加えたにちがいないからの」\n 秀吉はまた他の一将を迎えて、こんどはまったくべつなことを話していた。この日、佐和山城の敵もそこを放擲して、若狭方面へ逃走したということであった。で、そこも以前の城主丹羽長秀の手に戻ったという報告をいま耳にしたのである。\n そして、夜に入ってからであった。\n 小姓組の石田佐吉と、ほか四、五名の同輩が、何処からかあわただしく立ち帰って来た。\n 秀吉の室まで来ないうちに、小姓溜りや廊下のほうで、何やら歓びあう声が沸いている様子に、心待ちに待っていた秀吉は、\n「佐吉がもどったか」\n と、左右にたずね、\n「なぜ早くこれへ来ぬか」\n と、叱りに遣ったほどだった。\n 石田佐吉は近郷の出生である。従って、浅井郡や坂田郡の地理にかけては誰よりも詳しい。そこで彼はこんなときこそ知識を生かすべきだと考え、みずから望んで、主君の母堂や夫人の落ちのびた先を昼から捜しに出ていたのであった。\n\n心のふるさと\n\n 石田佐吉はやがて秀吉の前にかしこまっていた。\n「ようやく、さる所で、みな様の御所在を訊きあててまいりました」\n と述べる彼の復命によると、秀吉の母堂と寧子夫人などの眷族は、ここから約十余里もある山奥に潜んでいるというのである。長浜から供して行った家士や侍女などもみな一つ所にいて、今日まで敵の目をのがれ、からくも一同は生命を保っている様子であるとも云い足した。\n「佐吉」\n「はい」\n「そちはどこでそれを訊き出して来たか」\n「寺の者から聞いてまいりました」\n「寺とは」\n「幼時わたくしが稚児として養われていた真言寺の三珠院でございます」\n「よいところへ目をつけおった。すると、母や寧子の潜んだ先も、寺の縁つづきとみゆるな」\n「仰せのとおり、浅井郡の大吉寺という山寺の由にござりまする」\n「大吉寺とは、聞かぬ名だが、詳しくは、どの辺か」" }, { "role": "assistant", "content": "「坂田郡の七条、鳥脇などを経て、伊吹の山裾へつきあたります。すると、北国街道が横たわっておりますが、これにならわず道を横ぎって、なおも伊吹の西麓へ登ってまいるのです。――その辺まででも、お城からおよそ六里はございましょう」\n「くわしいな、汝は」\n「三珠院にいた時分は、あの辺をよく飛びあるいたもので、いわば童時代の古戦場でございますから」\n「うム、うム」\n と、うなずき続けて――\n「そこからまだ山奥か」\n「なお六、七里、めったに里人も通わぬ道を参ります。姉川の上流梓川の水は、渓をせき淵をなし、道に沿うておりますが、どこまで行っても水源に到りません」\n「待て待て。そう聞いても呑みこめぬ。明日の道案内に従いて来い」\n「おやすいことですが、わたしよりももっとよい道案内がおりまする。それを迎えにお遣り遊ばしては」\n「たれだ、それは」\n「美濃衆の広瀬兵衛にござります。あの辺は美濃ざむらいの広瀬が領地の由を、三珠院でも申しておりましたが」\n「いや、美濃へ使いをやっている暇はない。明日にも秀吉はそこへ参りたい。広瀬へは挨拶だけを遣っておこう」\n「明日、何刻ごろお出ましになりますか」\n「朝立てば、夕には、母にも妻にも会えようが」\n「たといお馬でも、一日では参れません」\n「早立ちでもだめか」\n「到底――」\n 佐吉が首を振ると、\n「では。――今からすぐ出向こう。今からなら、あすの夕には行き着けよう」\n 秀吉はいうとすぐ座を立ち上がっていた。\n やもたてもない気持ではあろうが、余りといえば急である。同席の諸将はあっけに取られた顔だし、扈従の家臣たちは、支度にあわてふためいて、その忙しなさは一方ではない。\n「あとは、たのむぞ」\n 堀秀政などをかえりみながら、秀吉は小姓のかける陣羽織を背にうけていた。そしてなお云った。\n「大津には彦右衛門をのこしてあるし、安土には神戸どのが止まっておられる。佐和山といい、この長浜といい、はや抑えは心配ない。――で、ちょっと母を迎えに行って来るゆえ、両三日のいとまをくれい」\n「行っていらっしゃい」\n 諸将はそういうしかない。\n 総立ちで、城門まで見送った。そのあいだ、人々のつらつら思うには、いったいこの羽柴という大将はどこまで続くものだろう。背中から眺めても、いっこう見ごたえもない体格なのに、そのどこからこういう気力や体力が湧いて出るものか――という驚嘆に似たあやしみであった。\n「――なんと大仰な。母を迎えにまいるのは秀吉のわたくし事。......そう大兵を供して参るには及ばぬことだ」\n 秀吉は城門を出るとすぐ大声でどなっている。須臾の間に勢揃いして待っていた六、七百の兵列をそこに見たからであった。山崎、坂本と連戦して来て、安土でもほとんど休むいとまもなく、早暁そこを立ってこれへ来たばかりの今夜である。兵の顔はまだみな泥の如く疲れきっているのである。秀吉はそれをも察してそういったのかもしれない。\n「供は、五十騎もあればよい。ただし小姓どもはなるべくみな来いよ」\n すでに馬上へうつり、松明を持つ人々が列の先に立つわずかな間を、秀吉はそう告げていた。あらかたの兵はあとに留むべしといった。\n「それは危ない。五十騎では少なすぎる。この夜道――わけて伊吹の山近くにでもなれば、なおいかなる敵勢が潜んでおるかも知れぬに」\n 堀秀政も池田勝入も、口をきわめて諫めたが、秀吉には、その懸念はないとする確信があるものの如く、「案じるには及ばぬ」とのみで、やがて、松明の火光を先に、長浜の城門から東北方の並木道を一路遠ざかって行った。\n 宵から四更にかけて、秀吉はさして急がずも五、六里の道は捗どっていた。石田佐吉がさきに走って、七尾村の三珠院を叩いたのはまだ真ッ暗な時分であった。寺僧の驚きは一通りではあるまい――と思いのほか、何ぞはからん、山門をひらくと、寺内は煌々と燭をてらし水を打ち、清掃いたらざる所もない。\n「たれだ、わしの立ち寄ることを、先触れしたものは」\n「佐吉にございまする」\n「そちか」\n「はい。この辺で殿の御休息あるはまちがいなしと思い、足早な若党ひとり先へ走らせて、五十人前の弁当と、お湯漬の調えなど命じておきました」\n この寺のお稚児だった佐吉が、秀吉に貰われて長浜城の小姓部屋に入ったのは、彼が十三のときだった。\n それから八年目の今日である。石田佐吉も二十一歳の若武者とはなった。しかも事理に明るく敏才衆をこえている。秀吉も常に、\n(市松も虎之助も助作も、みな武勇すぐれておるが、その中の佐吉はすこし異っておる)\n と、いつもいっているほどである。\n この佐吉を、親代りともいえるほど、幼時から育てた三珠院の住職は、いまなお健在だったので、今日の佐吉を見て、よろこぶこと限りもなかった。\n 同時に、久々な城主の来訪でもあったので、寺中をあげて款待につとめたことはいうまでもない。\n けれど秀吉の気持は、唐突を知って、ほんの小憩を求めに立ち寄ったに過ぎないのであるから、従者の弁当を調えさせ、自分も湯漬の馳走になって、一碗の茶を喫し終ると、\n「世話になった。いずれ沙汰するであろう」\n と、直ちにそこを出発した。\n この頃となっても、夜はまだ明けきっていなかった。ただ目のまえの伊吹山の線がほのかな暁紅と薄浅黄の空にはっきり浮き出して見え、耳に小禽の声が聞かれて来たにすぎない。道の露はふかく、そして樹の下は暗かった。\n 住持のいいつけで、山にくわしいという若僧がふたり、わらじ穿きで、松明のさきに立ち、\n「大吉寺まで御案内申しまする」\n と、伊吹の腰へ上って行った。その僧が指していうには、\n「伊吹に連なる彼方の山は国見といい、あのへんを東へ越えると、美濃の揖斐郡になります。――またこれから奥は草野ノ庄といい、むかし平治の乱に源義朝の父子が匿れたのもそこだと云い伝えられております」\n 秀吉は楽しげに見える。一歩一歩、母や妻に近づいていることを意識してであろう。道の嶮しさも身のつかれも知らない容子である。そして静かに明けて来た伊吹の西谷を行くほどに、ここはもう彼にとって母の懐かのような心地がするらしかった。\n さきに石田佐吉がいったことばの通り、梓川の渓流は、それに沿って溯っても溯っても水源らしくならなかった。却って、行くこと数里にして豁然とあたりは展け、山奥とも思われない広々した谷あいへ出た。\n「あれが、かなくそ山です」\n つき当りの巍峨たる一峰を指して、案内僧がひたいの汗を押し拭った頃、陽もちょうど中天、真夏の暑さは昇りつめていた。\n「まだよほどあろうか」\n「この辺から東草野ですが、大吉寺までは、なお二里もございましょう。何しろひと口に草野ノ庄といっても、上草野、東草野にわかれ、東西二里、南北五里というひろい谷でございますからな」\n 僧はまた先に立って行く。道は狭まるばかりである。この辺からは騎馬では無理というので、秀吉も扈従の家臣も徒歩になったが、そのとき、何を認めたものか、左右の者は、にわかにどよめき立って、\n「敵らしいが」\n と、噪ぎはじめた。\n\n良い息子\n\n ひとつの山陰を旋って、次の視野へ出たときなのである。――見るとなるほど、彼方の山腹にひとかたまりの兵が屯していた。向うでも驚いたとみえる。遠くこちらの一行を知るととたんに総立ちになっていた。何か指揮するような表情を示している者だの、また幾人かの兵はわらわらと何処かへ駈け散らかってゆくらしくも見えた。\n「伊吹へもだいぶ逃げこんだと聞く。その阿閉勢か京極の残兵どもであろう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 庭というものも、行きつくところに行きつけば、見たいものは整えられた土と垣根だけであった。こんな見方がここ十年ばかり彼の頭を領していた。樹木をすくなく石もすくなく、そしてそこによく人間の手と足によって固められ、すこしの窪みのない、何物もまじらない青みのある土だけが、自然の胸のようにのびのびと横わっている、それが見たいのだ、ほんの少しの傷にも土をあてがって埋め、小砂利や、ささくれを抜いて、彼は庭土をみがいていた、そして百坪のあふるる土のかなたに見るものはただ垣根だけなのだ、垣根が床の間になり掛物になり屏風になる、そこまで展げられた土のうえには何も見えない、彼は土を平手でたたいて見て、ぺたぺたした親しい肉体的な音のするのを愛した。土はしめってはいるが、手の平をよごすようなことはない、そしてこれらの土のどの部分にも、何等かの手入れによって、彼の指さきにふれない土はなかった。土はたたかれ握り返され、あたたかに取り交ぜられて三十年も、彼の手をくぐりぬけて齢を取っていた。人間の手にふれない土はすさんできめが粗いが、人の手にふれるごとに土はきめをこまかくするし、そしてつやをふくんで美しく練れて来るのだ。\n 若い女中が彼のことをあんなに家にばかりいて、なにが愉しくて生きているんだろうと、裏庭を掃きながら言っていたが、一人の女中はあれでも何か愉しみがあるのよ、庭でしょうさといって笑った。彼も書斎にいてそれを聞いてひとりで笑った。つまり彼に最後にのこったものはやはり庭だけなのだ、終日掃きながら掃いたあとのうつくしさが見たいばかりに、そのうつくしさに何かを、恐らく一生涯の落ちつく先をちらとでも見たいのだ、ばかばかしい話だが、そんなふうに言うより外はない。一生涯の落ちつく先を土に見たって何になるといえばそれまでだが、掃いたあとを見かえると、いままでにないものが現われている、毎日掃くのだから落葉とかゴミとかいう些細な固形物すら見当らないのに、やはりよごれがあった。その眼にとまらないものを掃き上げると、そこからべつな澄んだ景色が見えて来ていた。彼はその景色が見たいばかりに掃くのだ、いやなことを心にためておくと、どうにも心の置場のないような不愉快を感じるが、それを書いてしまうとさっぱりする、さっぱりした心持で何かをあらたに受けいれようとする構えに、するどい動きとも静観ともいいがたいものがある、あいつだよ、あんなふうなものが掃いたあとの、土の上に見られるのである。いろいろなものに取り憑かれ、さまざまなものに熱中して見たが、行きついて見るとつまり庭だけが眼に見えて来ていた、朝起きてから夕方まで眼の行くところは庭よりほかはない。ある意味でそれは庭であるよりも、一つの空漠たる世界が作り上げられていて、それが彼を呼びつづけているのだとでも、ふざけて言ったら言えるのだろう。\n 彼は猫が庭に出ると叱って趁った。猫は庭で過って蝶とか、とかげなぞ趁うと、土の上に爪あとをのこした。猫の爪あとは土をかみそりの刃のようにほそく切り、あとで土をあてがってなおそうとしても、切れ傷は深くのこった。だから猫が庭に出ると彼は縁側に出て、えたいの判らない言葉で呶鳴った。えたいの判らない言葉はえたいのわからないままに、猫は叱られたことを意識に入れた。だから彼の家の猫は庭に下りられぬものに心得、庭では垣根にそうたすみずみをつたって歩き、決して広場の土のねているなめらかな処を通らなかった。猫が庭を歩いてはならぬきまりをつけたのも、彼だったのだ。もちろん、植木やは彼の庭でしごとをする前には、庭の入口で地下足袋を脱いで、裏にもようのない足袋にはきかえねばならなかった。地下足袋のうらには、じごくのようながじがじした、いやらしい蛇腹文様があって、土にくい込み、土を一どきにきざんでしまうからである。\n 彼がはじめてこの土地に家を建てた時に、民さんという男をつかっていたが、どうにも怠け者で朝出の時間が喰い違ったり、不意に休んだりするので我慢ができなくなり、納得ずくで別れた。君が来てくれない日はこちらでも仕事に手がつかずに、一日をふいにしてしまう、君ももう判っているだろうから別れようじゃないかということになり、民さんも済みませんと素直にそういい出入りしなくなった。それから十何年かが経ったが、その後、この男が夢の中にあらわれたことは何十度だか分らない、庭手入れのたびに民さんのことがしじゅう頭にあった。はじめて家を建て、庭を作った時の男だから彼には女のようにわすられなかったのである。女でもこうはゆくまいと思われるくらいだ、ほとんど最初二三年のあら庭の時代には、毎日民さんとあい、木の事、石の事、下草の事をはなし合い、意見をまじえて庭作りをやった。民さんの生あたたかい小便をしているうしろから、どうかしたはずみに、きんたまを見たことがあった。きんたまは、昼すぎの斜めの日にうかんで、いろは白かった。きんたまにも、白いのもあり黒いのもあることを知ったが、この男のぽかんとした放心状態のなかから下っているきんたまは、やさしいなりをしていた。彼はお三時の茶を植木やと一緒にしながら言った。\n「君のきんたまは白いね。」\n「旦那はいつそれを見たんです。」\n「先刻、納屋の前で見た。なぜあそこで小便をした。」\n「済みません。」\n「しかし君にも似合わない色白なきんたまを持っているね。」\n「あはは、こいつあ遣られた。」\n「おれはね、きんたまという奴はみんな黒いもんだと思いこんでいた、ところがそうじゃない。」\n「はは、よくそんなに見なすったものだ。」\n「僅かな時間でも大切なものはよく見とどけられるものだよ。」\n 民さんに二番目の男の子ができた時、彼は名附親になりうんと気取って、秋彦という名前をつけてやった。他人の子供に名前をつけたのがはじめてだった。民さんは植木屋の夏がれどきに八百屋をやり、貸シが多くなりもだもだのあげく、長屋のお内儀さんの顔をぶん殴り、その場で巡査につかまって留置場にほうり込まれた。民さんのお内儀さんが来てたすけてくれといい、彼は海岸にある大森警察署に行って、請人の印形を捺してこの男が鉄柵の中から出てくるのを迎えた。はんこを捺して人間の身柄を引取ったこともはじめてだったが、変な気のものであった。\n「湯にはいったらどうか。」\n「済みません。」\n ちょうど、品川近くの風呂屋の前にかかったからである。\n 民さんは二三日の留置場の生活がよほど応えたと見え、松の手入れをしていながら、ここでこうしていた方がどれだけいいか分らないといった。ああいうところには、二度と行くものではないと、彼も民さんの手つだいをしながら、柔らかい日ざしの晩春をたのしんだ。どういうものか民さんはよく顔をこするくせがあって、泥の手で顔をこするのですぐ顔はよごれて、くろくなった。そのたびに彼は白い少年のようなきんたまを眼にうかべた。\n なりの高い早足のこの男とあわない日はなく、はじめて家を建てた時の植木屋というものは、こんなにも親身に可愛くなるものかと思われるくらいだった。何をするにも民さん、何を食うのにも民さんというふうに、お昼のお菜まで彼は民さんにわけるようになっていた。君ちょっと肩を叩いてくれとか、雨のふる日は納屋にはいって竹の簀子を編もうとか、ある一処にとくさを植え合い顔をつき寄せたり、二人で植木溜に行くために奥馬込の田圃道を行き、くたびれると、おい一服しようと土手の草の上に跼んで煙草を喫み、ほとんど終日食っ附いて一日をくらしていた。好きになるということは恐ろしいことに違いない、どこにもこの男に秀れたところなぞなく、怠け者で小汚ないが、受け答えの返事の声が、ずば抜けて早く大声で元気だった。何よりもらくにつき合える。どういう彼のまわりの人間よりも、らくに民さんとなら話される、こういうことがかねがね彼に必要であったし、その必要が民さんによって、申分なくみたされていたからだ。彼は民さんとのつきあいを男女の関係について考えてみたが、好きになるということは顔にある器量なんか、しまいにもんだいでなくなることも判ったし、好きということは毎日のすることがらが、だらしなく批評なしで解きあえることも、しだいにわかって来ていた、それに男女間には肉体のつながりがあるから、好きになったら堪ったものではない、きらいになるまで続くのであろう、好きときらいと、このふたつの言葉を抛り出してしまえば、そのほかの言葉は人間の世界ではいらないことになる、民さんが女なら彼はもっと好きになっていたのであろう、全くどこがどうということもないのに、何でも聞いてやるようになるものだ。\n 彼ははじめ篠竹ばかりを庭のまわりに植えたが、三年経ってから篠竹の庭を壊しはじめた。竹はだんだん彼にうるさい思いをさせ、よわよわしい末流の風雅につき落されそうで、危なくてひやひやしてならなかった。飽きることもそうだが、土が見られないのと、土のうつくしさが荒されることもおもな原因だった。そこで彼の命令によって民さんは篠竹の株を起しはじめた。たいへんな数の篠竹は二十や三十の株ではなかった。藪畳を起す風塵と同様の捲き起しは、民さんの顔をまっ黒にさせ、株はまるでどうにも手のつけようのないほど山積されて行った。どこにも貰い手のない篠竹はとなりの寺の土手に植え、そして後の分は空地なぞに棄てることにした。牛車で搬んだものをもったいないにはもったいないが、取り棄てるより外に用いようはなかった。一本ものこさずに抜き取った庭は、がらんとして空あかりばかりが、あふれて飜った、民さんは言った。" }, { "role": "assistant", "content": "「次に何を植えるんです。」\n「次には、......」\n 彼はなぜか羞かしそうに、芭蕉をうえるのだといった。その理由はわからないがこの男の前で、いつもあらたに木を植えるときには、なぜか口ごもった遠慮がちな言い方をしていた。樹木のことでは何でも知っている男の前には、彼といえどもいくらかの羞恥の気ざしなしには、ものが言えなかった。一体、芭蕉はどこに植えるのだといったから、家のまわりに植えるのだといった。そんなに芭蕉が大量に集まるかも問題だが、植木溜にあってもほんの五六本くらいである、あとは素人買いをして歩かなければ集まらないと、民さんは事の困難なことを仄めかした。池上本門寺の下寺の庭、馬込界隈の百姓家の庭、大森は比較的暖かいので芭蕉を植えるのに、育ちも悪くはないから、こくめいに捜し歩いてあそこで一本、ここで二本というふうに頒けてもらったり、売ってくれるものなら買いとるように気永にやるほかはなかった。一どきに篠竹の谷をこわして移植したようなわけにはゆかない、あの時も悪場から掘り出すのに、まるで竹と毎日すもうを取っていたようなものだと民さんは言った。\n 芭蕉は間もなくいくつかの森を形取って植えられ、彼はその下をくぐりぬけ生々しい緑を見上げたが、その緑がペンキのようになま新しくて、妙に落ちつきがなくそわそわしたものばかりであった。彼は三十何本かある植込みから、芭蕉の広葉の数をすくなくするため、片っ端から広葉を切り落して行った。そしてそこに見たものは不自然な、がらんとした身にそわぬ明るさだった、こんなつもりではなかったと、彼は葉かげで無理にもおちつこうと向きをかえようとして見たが、もう彼は完全にこの派手な葉の広い旺盛なものが、庭を一挙に打ちこわしていることに、眼がとどまった。しかも茎も幹も、うそのような旺盛さが、彼のしたことの過ちであることを教えた。\n「しまった、こんな物を植えるんじゃなかった。」\n「旦那、こいつはね、遠見のものですよ。」\n 彼ははなれて民さんのいう遠見で引立つことを知った。芭蕉は庭の奥にほとんど思いがけない場所に、捨て置きに植えるよりほかはなかった。彼はいったい何を考えていたのだ、何を芭蕉の森からさぐり当てようとしていたのだ、それから先に聞くべきであった。彼は答えることを知らなかった。\n「では、抜きますか。」\n「君さえ我慢してくれればいいんだ。」\n「抜いてしまいましょう。」\n 民さんは彼の頭にあることをうまく、言いあててくれた。あれほど六十日の間苦心してあつめた芭蕉を、抜いてしまうために彼は民さんにその言葉をいいあらわすことには、さすがに言うべき度胸がなかった。人間の労力というものが応えてくるのだ、二三日後にそれを言ってもいまはそんなことは言えない、幾ら何でもまるでめちゃくちゃみたいなことは、らくにいえるものではない、僕はね、こんどは少しの疑いもなく、うまく嵌まると思いこんでやったのだ、だが、まるでようすが違ってしまった、君はどうか、彼は民さんの返事を待ったが、民さんは居処を嫌われたんです、こいつはすみの方にいた方がよかったのですといった。いどころを厭がっていることも判るが、こんな派手なものがどうして好きになったのかと言ったら、民さんは派手なのも、くすんだのもみんな、好きずきですといい、彼もやっとそれを人間くさい解釈をして見て笑った。芭蕉は掘り返され近所のほしい人にも頒け、幹のほそい分はそのまま畑のわきに捨てさせた。わずか一本の芭蕉でも、根土を擁き込んだ重量は、それが二三本立のものになると荷車につけないと、重くて肩では運べなかった。彼は掘り返された土のどろどろした、荒廃の感じをどうまとめるかにも、頭が奪られた。そして次に起るもんだいは、どういう樹木をその芭蕉のあとにあしらうかということだった。何を持って来ても呼吸のあわない庭畳には、最後に彼は松よりほかにえらぶべき樹木のないことが、判って来た。\n「松だね、松よりほかにないな。」\n「だからわたしははじめっから松だといったんです。旦那は固くなるからといってつッぱねた。」\n「松はいやだがやはり松だね。」\n「松は掘り返して棄てるわけに行きませんよ、あいつは金を食う。」\n「溜に行こう。」\n 彼は民さんと植木溜に出かけた。大森の奥の奥沢というところに、松ばかりの広大な植木溜があった。赤土の禿山や谷をそのままあしらった松の溜場には、姿を生かしてどんな松でも、おもうように選ぶことができていた。永年にわたる松のこしらえはどの松を見ても、枝をためされ撥と搦み竹をはさみこんで、苦しげにしかし亭亭として聳えていた。ある松は何十年もはりがねでしばられたまま、伸びればしんを折られ、幹ばかり太るようなしつけで生き続けていた。ある松はうつ向きに捩じ伏せられ、起き上ろうとすればいやでも地上を這うような形のままで、勢いをためされていた、しかもある松はいきなり倒れかかるような位置をつづけ、そのなりで固まったふしぎな形相で小さい谷間から、ぶら下っていた。どれにも、人間の手でいわゆる面白いかたちを折檻されながら、かたちを作っているのだ、それらの松はすべて根元に二人、さきに二人というように人夫四人がかりでないと、搬出できないところの背丈は三四間くらいあった。ある松はわずか六尺しか丈はなかったが、侏儒のようにいじめつくされた枝と幹ばかりが太くなり、不具者のような形態が崎嶇として枝をまじえていた。こんな松がおもしろいという褒め言葉にあずかるのだ。よくいじめた松がよく売られるし市価がつくのだ。\n「まるでかたわ者ばかりじゃないか、そこらじゅうで啼き声が立っているようだ、君は何とも思わんか。」\n「旦那のかんがえていることはばかばかしいことですよ、わたしなぞ松の溜場にはいると、きゅっとからだが緊って来るほど快い気持です。」\n「ところが僕はここに来ると人間の化の皮が見えてくるんだ、それぞれに小細工をして生かしているのを見ると、金魚の方がよほどありのまま生きているようだ。」\n これらは決しておもちゃの盆栽ではない、盆栽でないこれらの松は太さはそれほど眼に立たないが、ことごとく普通の自然に生えた樹木にくらべると、まずすでに初老のよわいをかさねているのだ。苦しんでいるものは人間ばかりではない、ここにも、軽業芸をつくして広大な空の下で、いわゆる、なんにも言わないでいる黙っている人がいたのだ、この松どもは、どれを見ても人ですよ、どれも人といっしょにくらして、植木屋のいうとおりになって育ってきたものどもですよ、民さんのそんな言葉に対きあっている松は、なるほど、どれも、人に似ていた、人も人、はりつけになっているようなもの、横殴りになぐられて倒れかかっている奴、あるいは飢えて這いつくばい、なお起き上がろうとしているのもあったが、どれにも、喜びとか、踊り上るとかいう歓相のそれがなく、小さな叫びごえや唏りなきの声でなければ、妙に息苦しいものが喘ぎながら見えていた。樹木というものから悲しみをおぼえるということは、その形からでは容易にくみとれないものだ、しかしここにある乱立相鬩いでいる松どもは、淋漓たる悲しいものを人間から与えられていないものはない、普通の樹木に決して見られない人くさいものが、立派な形の奥の方で悶えているのだ、この悶えのつらいものほど美しい形をととのえて迫っていた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 苗代地の耕起が濟むと、直に、煙草の苗床の準備であつた。\n 苗床は本畑一段歩の分が一間に四間の廣さとして、今年の耕作段別は二段歩だから、二つ作らなければならなかつた。駿介はかねて山から伐り出しておいた材木をもつて、苗床の周圍に立てる柱と、この柱を横に貫く貫木とを作つた。柱と貫木とをもつて、苗床の床框が成るわけだつた。框で仕切つた内側は藁で圍ひをして、それからその中へ先づ落葉を踏み込んだ。秋に苦勞して山から運び、小屋に貯へてあつた落葉の板をほぐし、大籠に入れ、これを背負つては何囘にも運んだ。この落葉の床は厚さが一尺にも及び、一坪に三四十貫は要るのである。充分踏み込んでからその上によく腐らした堆肥と厩肥を混ぜて五六寸の層を作つた。次は二寸ほどの厚さに土を敷いた。この土は何を措いても先づ水捌けがいいといふことが必要だつた。それで山から礫の比較的多く混つてゐる土を運ばなければならなかつた。最後は播土である。これは土に油糟と木灰とをよくかきまぜたものである。\n 二月に入つてから、この播土に種子を播いた。播いたその上を落葉と堆肥とで覆うて蓋肥とした。この上にさらに、早くからそのために織つておいた薦をかぶせて、かうして苗床の處置は一應終つた。\n 此頃の駿介は、朝は五時に起き、起るとすぐに鷄と山羊に餌をやり、家の表裏の掃除をすます。鷄はその後ずつとふえて八羽になつてゐた。掃除がすむ頃には妹達の手によつて飯の仕度が出來てゐる。飯がすんでも外はまだすつかりは明けきらない。窓から首を出して見るとすぐ眼の前の裏山もかくれるほど眞白な靄のやうなもので濁つてゐる。その靄のかげんと、家のなかを洗ふ水のやうな空氣の肌への感じで、ああ今日もいい天氣だなといふことがわかつた。すると朝毎に新しい彈むやうな生々とした力を感じた。\n その冷い朝の間一時間ほど、すつかり仕事に出て行くばかりの恰好になつて、駿介は本を讀んだ。本を讀む姿勢は色々であつた。ほのぼのとしたあたたかみの傳はつて來る朝の竈の前に蹲まつて讀んだり、上り口に腰をかけたまま讀んだりした。彼は以前から、きれいに片附けた机の前に坐つてでなければ本を讀めぬといふ環境に慣れて來た人間ではなかつた。東京で岡島の家に使はれてゐた時には、道を歩きながら讀み、使ひに行つて返事を待つ間の玄關先きででも讀んだ。事情は今もその頃と殆ど變つてはゐない。\n 同じ頃、臺所の後片附けをした妹達は、茶の間へ來て坐つて、手内職にと此頃はじめた絹手袋のミシン縫ひにかかる。町の會社の出張所が近頃この村に出來たのである。娘相手の農家の副業とすれば、會社としては非常に安いものになり、女工を傭つたりするには及ばぬことである。それは手ミシンを向うで貸してくれ、裁斷した切地を渡されて、ただ縫ふだけである。手間賃は一ダース八錢だつた。絲はこつち持ちで、それは一ダースに二錢ほどかかるのだつた。仕事にかかると二人の妹は口もきかず、僅かな時間をも惜んで一心だつた。本を讀みながら、朝の靜かな空氣を動かして手ミシンがカタカタ云つてゐるのを聞くと、佗しく和やかな氣持を誘はれた。\n 年寄りは若いものと相前後して起きることがあり、その頃になつてもまだ寢てゐることもあつた。息子にもたれかかるといふのではないが、息子がしつかりして來て、力になつてくれてゐるといふ氣持は、何よりも親達にゆるゆるとした腰をのばさせた。襖一つ向うに漸く起きようとしてゐる氣配や、年寄りらしいしはぶきの聲にも安らかなものが感じられた。\n さうかうしてゐるうちに朝の最初の光が射す。白い靄はまだ晴れ切らない。空は天心から青み渡つて行つて、山の上あたりはまだ靄にかすんでゐる。しかしそれはもはやただ白く濁つただけのかすみやうではない。その向うには空の青い地が透いて見える。そこへ明るく黄色い光りが滿ち渡るのだから、玻璃板をすかして見たやうな輝きになる。この朝の光りを見るや否や、駿介は仕事に出る。\n 彼は最初に煙草畑へ行く。夜ぢゆう上にかぶせておいた苗床の薦をすつかり取り拂つてやる。それがすむと戻つて來て、今度は堆肥を麥畑へ運ぶ。その頃は駒平も仕事に出て來るから、父と一緒の仕事になる。麥畑に堆肥をふり、また土をかける。十時になると彼一人また煙草の方へ行つて、苗床に水をかける。この水は午後の二時には二度目をかける。そして四時半頃、短い冬の日がかげり出す頃には再び薦をかぶせてやる。\n 苗床のかうした管理は、種子が發芽し、成長して、本畑に移植するやうになるまで續くことである。二月も半ばを過ぎれば暖かい春めいた日ざしの日が二日や三日は續いた。何もかにも新しいはじめての經驗に、駿介もこの季節のやうな若々しい力に溢れた。\n\n八\n\n ある夜、床屋の親父の嘉助が駿介を訪ねて來た。彼はかねて駿介に約束した杜松の鉢植ゑを持つて來てくれた。青の淡色で長方形の淺鉢に、二株の寄植ゑであつたが、それはいかにも可愛らしい小品だつた。去年植替へたばかりだから當分植替へはしなくていい、水さへやつてゐてくれればいいとの事だつた。駿介は喜んで彼の好意を受けることにした。\n しかし嘉助がわざわざやつて來たのは、そのためばかりではなかつた。彼はかねてから一度駿介の所へ遊びに行きたいと、口癖のやうに云つてはゐたが、今日來たのはただの遊びではなかつた。彼は用事を持つてゐた。\n「兄さん、今日はひとつ相談に乘つておもらひしたいことがあつて來たんだが、どうだらうか。」\n いい加減雜談に時を過してから、彼は云つた。\n「何です、相談て。何か面倒なことですか。」\n「いやあ、何も面倒なことなんぞぢや。したが人助けになることだもんだからね。」\n「人助け? そりや結構ですね。何ですか、一體。」\n「乘つてくれるかね、ぢやあ。」と、除ろに云つて、\n「森口醫者の息子、あれは駿介さん、よう知つてゐなさるんぢやらう。」\n「ああ、愼一さんですか。べつにさうよく知つてゐるといふほどではないが。」" }, { "role": "assistant", "content": "「したが、お友達ですやろ。」\n「いや友達といふよりはずつと先輩なんです、向うが。さあ、もう隨分長く逢つてゐないんでねえ。村へ歸つてまだ一ぺんも逢つて話してゐないんだから。」\n「一ぺんも逢つてゐない? 村へ歸つてから。何とそりやまあ。」彼は仰山に驚いて見せた。\n「そんな法つてあるもんでねえな。そんなとこは兄さんもまだ若えなあ。村さ住むやうになつたらやつぱし村のものとの附合ひといふことも考へんことにや。森口なんぞには顏を出しておいたがいいんだ。何かにつけてその方がええ。知らんなら兎も角、知つとりなさる仲なんだから。」\n「ええ、私もさう思つてはゐるんだが。歸つて來た當座すぐに逢つておけばよかつたんだけれど、何となくそびれつちまつた恰好でね。段々時が經つてしまふと一層億劫になつて。」\n「一體、お前さんとこぢや、醫者はどこさかかつてなさる。」\n「やつぱし佐久間と森口の兩方なんでせうが、わたしが歸つて來てから、生憎と、誰も醫者にかかるやうな病氣はしないもんだから。――それで何です? 森口に何か用事でもあるんですか。」\n「うん、お前さんがあそこの息子の先生と親しいやうなら、ひとつ口を利いてお貰ひしたいと思ふことがあつてね。もつともわしから話したつていいことなんだが、お前さんからなら、一層好都合だなんどと思つて。」\n 嘉助の話といふのはかうであつた。\n 貧しい小作農の長森といふのは、子澤山で有名だつた。妻のお石は殆ど毎年生んでゐるとはた眼に見られるほどに、次々に生んでばかりゐた。よく死なしもして、死なすために生むのかと嗤はれるほどであつたが、それでも今家には、やつと親の手助けがどうにか出來るやうになつた年頃の長女を頭に七人もゐた。そしてお石は今年四十一だつた。四十の聲を聞いて、もう生まぬかと、本人もわきのものもほつとした氣持でゐるらしかつたが、その時はもう、激しく働きながら生み續けに生んで來たお石の身體はガタガタだつた。多産なだけあつて、いかにもがつちりとして元氣だつた彼女の、急な弱り方が去年あたりから人々の眼につき出した。いや、弱りと故障は、もうここ數年出て來てゐるのだつた。ただ今までは無理が利いた。人にそんな氣配は見せずに押し通して來ることが出來た。周圍に弱りを見せたら、周圍のそれに對して示す反應が逆にこつちに響いて、自分は倒れてしまふだらうといふことを、本能的に彼女は感じ取つてゐた。それで張つて來れた意地を、此頃では張り通すことが出來なくなつた。\n 去年あたりから彼女はしきりに病むやうになつた。ちよつとしたことで倒れて、三日も四日も寢つくやうになつた。今迄とちがつて、醫者の厄介にもなるやうになつた。もつとも長森は今までも醫者の出入りの多い家だつた。しかしそれは親達ではなくて子供達だつた。長らく病んだのちに死んで行つた子供達もあつたし、生存してゐる者達も弱かつた。その上に今度は母親である。\n その藥價の支拂ひといふものが、長い間滯りに滯つて來てゐる。村には醫者が二軒あつた。そのどつちにも、かなりの不義理を重ねてしまつた。それで隣村の醫者にかかるやうになつたが、ここでも不義理をして、頼みに行つてもおいそれとは來てくれないし、また厚かましく頼みにも行けなくなつた。この地方の村々には、東北地方の僻村などとちがつて、醫者は多い。少し大きな村には三軒はある。しかしそのすべてに、近くの方から、次々にかかつて見るといふことは流石にお石にも出來ない。またたとひ恥を忍び、鐵面皮になり得たとしても、醫者の方で警戒する。長森のさういふ噂は、もうかなりに廣く知れわたつてしまつてゐるのだ。\n 村には醫者に對するわるい習慣があつて、それは「癒つた時拂ひ」あるひは「癒らにや拂はん」といふことだつた。藥價の支拂ひをのばすために押す横車であつた。醫者の藥が果してどれほどの效果があつたかもわからず、癒り切らぬままに推移する慢性病の場合は勿論、治療の結果がはつきりしてゐる場合でも、その癒りやうが自分の思つた通りでないと醫者に楯つくものがあつた。醫者にかかるとき、何日ぐらゐで癒るかといふことをしつこく聞いた。最初からあとでの口實のためにしようとする狡いものもあつたが、醫者であればそれがはつきりと云へぬ筈はない、はつきり云へる醫者はいい醫者だし、云へぬ醫者はわるい醫者なのだと本當に信じてゐるものもあつた。病氣の性質から、さういふことは云へぬ場合もあるのだと、いくら醫者が説明してやつても聞き入れなかつた。仕方なく氣休めの言葉を何かかにか云ふと、その言葉を後生大事と覺え込んでゐて、醫者にかかつてゐる間、一日一日暦をめくつて、その約束の日に近づくのを、千秋の思ひで待ちかねてゐた。やがてその日が來る。しかも尚續いて醫者にかからねばならぬやうだと、彼等は騙されたと思ふのである。陰では騙りだの藪醫者だのと罵つた。本當に怒つて醫者の前で大きな聲を立てるものもあつたが、それは正直なもので、意識的なのは却つて素知らぬ顏をしてゐた。しかし、そのどつちもが、約束の日が來ても癒らぬ以上、それまでの藥價は拂ふには及ばぬ、それは當然のことだと云ふのだ。\n 醫者の支拂ひは普通半期半期であつた。その頃になると俄かに病苦を訴へるものも亦少くなかつた。以前に診てもらつた病氣がまだ癒つてはゐないと云はうとするのである。\n お石の場合はさういふのではない。彼女が支拂はぬといふのは、全くただ貧しさの故で、寸毫の惡意もなかつた。彼女が醫者を轉々と變へて歩くのは、むしろ彼女の氣の弱さや、善良さをあらはすものであつた。不義理を重ねたところには、平氣な顏をして行くことが出來ないのである。醫者の家の玄關の把手を押す時の彼女は、うす氷の上を踏むやうな思ひだつた。それ故にこそ村の二軒の醫者も目をかけてゐたが、さうさう何時までもそんな風でやつて行くわけにも行かなかつた。彼女一人ではない、ほかの者等のこともある。考へて見れば、彼女と、もつと狡さうに見えるほかの者達との間にだつて、さう大きな違ひがあるわけでもなかつた。狡さうに見える者達だつて、やはり貧しさの故に拂はぬと云ふに過ぎない。彼等はただ幾らか氣が強いのだ。氣の強さを頼んで、彼等らしい、色々な理窟を云ふのである。\n そのお石が近頃また病んでゐるのである。今度の病氣は、ひどく下腹が張つたり、引釣つたりするのだつた。不意に差し込むやうな痛みが來た。時々吐き氣を催した。立眩みをするといふことが珍らしくはなかつた。下腹に痛みが來る時には、出血を伴ふことさへあつた。\n お石は不安であつた。近頃の彼女は一寸した身體の不調にも、甚だしい精神の動搖を感じた。何か非常な不幸の前兆のやうな豫感がして、さうすると一層心臟がドキドキして、一所にぢつと坐つたり立つたりしてゐることが出來なかつた。彼女の實感では身體の水分が乾上つて行くやうで、聲が上ずつたり、物を持つ手がふるへたり、視線が定まらなかつたりした。彼女の小さな眼はきよときよとして、追ひ詰められた動物のやうに恐怖にふるへてゐた。\n お石は一度醫者に診てもらひたかつた。彼女はどんな醫者をも信じてゐた。醫者の言葉さへ聞けば、身體中のしこりが溶けるやうに今の不安が消えて、ゆつたりと落ち着いた氣持になれることをお石は知つてゐた。醫者が氣休めに云ふ言葉をも、そのままに信じて疑はず、有難がるやうな女だつた。今迄何人かの小さな子供達が、突然思ひもかけない死の轉機を取つたやうな時にも、それを醫者の罪として考へたことは一度もなかつた。その醫者を思ふ心が今度は特に痛切であつた。お石は今迄世話になつた幾人かの醫者の顏と、その診察室とを腦裡に思ひ浮べて見た。しかしその何れもが、踏むべき敷居として、彼女の前には高きに過ぐるのであつた。\n お石は思ひ餘つた。不吉な豫感と恐怖とは益々募つた。その時お石は嘉助を思ひ出した。お石はかねてから、嘉助とは親しい間柄であつた。何かにつけて嘉助に泣言を聞いてもらひ、嘉助の強がりを聞いて慰めを得てゐるやうな一人であつた。で、今度も彼女は嘉助を訪ねた。そして訴へたのである。\n 嘉助は同情した。先生にいいやうに話して取り成してやるから安心しろと云つて歸した。それはつい今しがたのことであつた。\n「どうも可哀想なもんだからね。長森の家といふのは亭主がやくざで、女房が働きものなんだ。今女房に萬一のことでもありや、あの家は滅茶苦茶やからね。なアに、あの女がぢかに先生のとこさ行つて頼んだかて、厭だ、診るわけにはいかんなんて云ふこたアありやせんさ。人の命にかかはるこつちやからね。だもんで圖々しい奴らはみんなさうするんだ。醫は仁術と云ふことにつけ込むんさ。したが長森の女房にやそれが出來ん。しをらしいやうなもんだ。で、わしは今晩にも森口の先生んとこさ行つて頼まうと思うたが、わしはあの息子の先生のことはよう知らん。老先生は先月からずーつと京都の方さ行つてゐて、留守だと聞いているもんでね。そこで思ひついたのがあんたのこつた。これはあんたからの方がようはないかと思うてね。一つ行つて話してみてくんなさるまいか?」\n さう嘉助は駿介に云つた。駿介は無論この頼みを請け合つた。\n 嘉助が訪ねて來たのはまだ宵の口であつた。駿介は今晩これからすぐに森口を訪ねることにした。まだ仕事着姿でゐた駿介は、手足を洗ひ、着物を着替へ、大急ぎで茶漬けをかつ込んだ。訪ねる家へ一緒に行くわけではないが、嘉助は一緒に出ようと云つてその間待つてゐた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「さてはや。」\n\n三十七\n\n「どうしました、大分落胆の気味だね、新情婦も出来ませんか。」と源次郎は三味線の挂った柱に凭れて澄ましている。\n 円輔はまた耳朶へ掛けて頬辺を扱き上げて、\n「いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。」\n「何ちっと、遠方だそうです。」\n「ははあ、遠出でげすかい、なにかに就けてさぞ気が揉めるこってえしょう、よ、色男。」と浮ッ調子で臀をぐいと突くと、尋常に股を窄めて、\n「止せッてえに、これ、詰らないことを、何だ。こう見えても苦労があるんだから、ねえ、おい。」と甘ッたるい。\n「よ、苦労!」\n と仰々しく手を支いて、ぐッと反って、\n「来ましたね、隊長、恐入ったね、どうも。苦労と来たね、畜生、奢りたまえ、奢りたまえ。」\n「いずれ帰ったら奢らせることに致しましょうよ。」と北叟笑をする。\n「これは!」\n「いや、師匠、串戯は止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく吝嗇に行った処で、鰻か鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと発奮んで伊予紋となろうも知れず、私ゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。」\n「確に、」\n「ええ、確りだ。」\n「豪い!」と大声を張上げて、ぴたりと、天窓を下げたが、ちゃんと極って、\n「さてどっちです、こうなると待遠しい。」\n「八丁堀だそうだ。」\n「成程御遠方だ。幾時頃から、」\n「一昨日の晩から行きッ切り、おなじく、」と鼻を指して、「ね、さっき使が来て、今夜は遅くとも帰るッていうんだ、ねえ、升どん。」\n 勝手から女中の声で、\n「はあ、」\n「ねえ、おい、富ちゃん。」\n 次の部屋の真中で、盆に向って、飯鉢と茶の土瓶を引寄せて、此方の灯を頼りにして、幼子が独り飯食う秋の暮、という形で、掻っ込んでいた、哀な雛妓が、\n「ええ、」と答えてがッくりと飲む。\n「確かい。」\n「きっとでございますって。」\n「占めた!」という時からからと戸が開いた。\n 円輔は振返って、\n「や、御帰館!」と喚いて、座を開いて、くるりと向く。\n 源次はぬうと首を伸ばして、\n「誰だい、」\n「蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。」\n「そう、」といって源次は猫を落して坐り直った。\n 蝶吉は何か悄然として帰って来たが、髪も乱れて、顔の色も茫然している。前垂懸で繻子の帯、唐桟の半纏を着た平生の服装で、引詰めた銀杏返、年紀も老けて見え、頬も痩せて見えたが、もの淋しそうに入って脇目も触らず、あたりの人には目も懸けないで、二階へ澄して上ろうとするのを、円輔が瞶めて、ちっと当ての違ったという形で、変に生真面目に、\n「お帰んなさい。」\n「唯今、」と言ったばかり、つんとしてトン、トン、トン。\n\n三十八\n\n「御機嫌麗わしからずじゃあないか。顔色が可恐しく悪いぜ、花札が走ったと見える、御馳走はお流れか、」と円輔はてかてかした額を撫でた。\n「いえ、師匠、御馳走はその勝負にゃあ寄らないんだ。但し御機嫌の悪いのはこの節しょっちゅうさ、心太の拍子木じゃあないが、からぶりぶりしてらあな。」\n「やっぱり......。」と押えて、それか、と呑み込んだようにいうと、源次は黙って頷く。\n 声を低うして、\n「何でげすかい、あの神月とやらいう先生に一件が知れて、先方から突出したというのは本当なんで?」\n「ああ、」と何だか聴きたくもなさそうに、源次郎は乗らない返事。\n「成程竝べて置けば雛一対というのだが、身分には段があるね。学士と謂やあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志で惚れ合ったって、お前さん、その身分で芸妓に懸り合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりと止して、落語家となったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子を堕したと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがに豪いや、へん、猪口の受取りようを知らねえような二才でも、学問をした奴あ要が利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも男振ばかりじゃあないと見える、縒が戻りそうでもありませんかい。」\n「どうして、ちっとでも脈がある内に鬱ぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。」\n「成程、して見るとこちとら一味徒党。色情事に孕むなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、蟇の食傷じゃあねえが、お産の時は腸がぶら下りまさ、口でいってさえ粋でねえね、芸妓が孕んで可いものか悪いものか、まず音羽屋に聞いてもらいたいなんてッて、あの女が、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃ怨まれそうなこッてげす。何を目当に、御馳走なんぞ、へん下らない。」\n と円輔はまた落胆、源次は落着き澄して、\n「師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。」\n「だってあの御気色を御覧じろ、きっとあれだ、違えねえね、八丁堀で花札が走った上に、怨み重なる支那と来ちゃあ、こりゃ奢られッこなし。」\n「勿論僕の、その御相伴なんだよ。」\n「へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。」\n「ずッと有る、有るね、そこあ憚りながら源ちゃん方寸にありさ。」\n「じゃあ一番お手形を頂きたいね。」と円輔は詰寄った。\n「手形宜しい。当てが違えば、師匠、どうだ、これを献上は。へへ、詰らねえもんだけれど。」\n と少し見せたくもあって件の莨入を抜く。円輔は打返して捻ッて、\n「罷り間違えば、手前にこのお腰のもの、ちょいと武士に二言はなしかね。」\n「いや、江戸ッ児だ。」と誰かの声色で、判然となる。\n「豪い?」と大声で、ぴたりとお辞儀をした、円輔は驚いて顔を上げる。\n 二階から蝶吉の声で、\n「富ちゃん! 富ちゃん。」\n\n" }, { "role": "assistant", "content": "犬張子\n\n三十九\n\n「はァい。」と引張って返事をして、雛妓は膳を摺らして立ち、段階子の下で顔を傾けて、可愛らしく、\n「何、姐さん。」\n「あのね、私は今夜塩梅が悪いから、どこから懸って来てもお座敷は皆断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へ臥りましたッてね。」\n「はい。」\n「可いかい。」\n 蝶吉は、帰るとその時まで何をするともなく可厭な心持で、箪笥の前にぼんやり立っていたのであった。\n 雛妓に言付けて、座敷を斜に切って、上口から箪笥の前へ引返すと、一番目の抽斗が半ば開いていた。蝶吉は衝と立って、\n「おやおや、私が開けたのか知ら、」\n と思い寄らず呟いた。抽斗には、神月の写真をいつも立て掛けておくのである。\n ふッつり切られてしまってからは、人は見なくッても、神月は知らないことでも、蝶吉は何となく、その写真を見ることさえ、我身で儘ならぬようで儚いので、あえて、今は仇なれと、偲ぶ思の増すのが辛さに、俤を見まいとするのでない、身に過失があって、縁切ったと言われた人の、たといその姿でも、見てはならないようにされたごとく感じている。\n 抽斗の縁に手を掛けて、猶予いながら、伸上るようにして恐いもののように差覗こうとして目を塞いだ。がッくり支えるように抽斗を差し懸けて、ああこの写真から下げて来ちゃ旨しいものを食べたっけと、耐らなくなって、此方を向くと、背中でとんと閉ッた途端に、魂を抜去られたか、我にもあらず、両手で顔を隠して、俯向いて、そのまま泣いていた。\n しばらくして、蘇生ったもののように、顔を上げる。\n 向の隅に、雛の屏風の、小さな二枚折の蔭から、友染の掻巻の裾が洩れて、灯に風も当たらず寂莫としてもの寂しく華美な死体が臥ているのは、蝶吉が冊く人形である。掻巻はいつも神月と添寝した五所車を染めた長襦袢を裁ったのに、紅絹の裏を附けて、藤色縮緬の裾廻、綿も新しいのをふッかりと入れて、天鵝絨の襟を掛けて、黄八丈の蒲団を二枚。畳を六ツに仕切ったほどの処へ、その屏風、その枕、小さく揃えて寝かした上の、天井には犬張子の、見事大きなのが四足をぶら下げて動きもせず、一体遣りッ放しのお侠で、自転車に乗りたがっても、人形などは持ってもみようと思わない質であったのが、児を堕したために神月との縁が切れて、因果を含められた時始めて罪を知って、言われたことを得心してから、縁なればこそ折角腹に宿ったものを、闇から闇へ遣った児に、やがて追い着いて手を引くまで、詑をする気でこうしている。あたかも活きたるものを愛するごとく、起きると着物を着更えさせる。抱いて風車を見せるやら、懐中へ入れて小さな乳を押付けるやら、枕を竝べて寝てみるやら、余所目にはまるで狂気。\n\n四十\n\n「ああ、天窓が重い、胸が痛い、体中がふらふらする、もう寝ようや、」\n 蝶吉は枕を竝べて、着たまま横になって裾を伸ばして、爪先を包んだが、玉のような腕を人形の掻巻の上へ投げ掛けて、ぴったり寄って頬を差寄せ、\n「坊や、ちょいと、どうしたの、お母ちゃんは可けなくッてよ、すっかりお花を引いて負けて来たわ。二晩ちっとも寝ないんだもの、天窓が割れるようなの、悪いわねえ、穴蔵ン中でお前、六人一座でさ、灯は点け通しだし、息が苦しくなると、そこらへ酢を打つのよ。私はもう死ぬようだ。お前のお父ちゃんに叱られてから、お花なんざ引くまいと思って、水も沸したんでなくッちゃ飲まないでいたけれども、お母ちゃんはお暇が出たんですもの、体を大事にしたって詰らなくなってよ。だから、最初ッから、お前さんに棄てられると、私はどうなるか知れないッて、始終いっていたのにさ、打遣ってしまってさ、そして軽忽なことをするなッて言ってくれたって私は知りません。天窓へぴんと来るような五円花でも引かなくッちゃあ、自分で生きてるのか何だか分らないもの。\n だけどもねえ、身でも投げて死んじまうと、さも面当にしたようで、どんなに心配を懸けるか知れないし、愛想を尽かされると、死んでからも添われないと悪いから。何も私を厭なんじゃない、世間の義理だからって言うんだけれども、何だか自分勝手のようだわねえ。\n どうせ早く死にたいんだから、何だって、構やしない。坊や、お前でも生きてるなら可いけれど、目ばッかりぱちぱちしていて、何にも言わないんだもの、張合も何にもありやしない。私も死んじまったら、死んだものと、死んだものとだから、お前も口を利くだろう。少しも分らないでした事だから、堪忍することはするッて、お父ちゃんもそうお言いだから、坊や、お前も酷いことをされて、鬼とも蛇とも思ってようけれど、堪忍して、母ちゃんと言って頂戴な。」\n と摺着いたが、がッくり仰向き、薄い燈火に手を翳して見た。\n「おやおや、痩せたわねえ。徹夜をして、湯にも何にも入らないから、黒くなったよ、段々痩せて消えれば可いな。」\n と袖口を掴んで肩の辺まで、撫で下げると、上へ伸ばしていた着物は飜って、二の腕もあらわになった。柔肌に食い入るばかり、金金具で留めた天鵝絨の腕守、内証で神月の頭字一字、神というのが彫ってある。\n 蝶吉は清しい目をぱっちりと睜って、恍惚となったが、枕を上げると突然忘れたように食い付いた。腕守を噛んで、頭を振って、髪を揺ぶり、\n「厭よ、私厭よ、別れるのは厭、厭! 厭だ、厭だ、別れるのは厭。」と、泣吃逆をして、身を顫わし、\n「写真くらい見たって、可いじゃないかね、可けないかい、ええ、構うもんか。私はもう、」\n むッくり起上ろうとすると、茫然犬張子が目に着いた。\n「はッ、」という溜息で、またばったり枕に就いたが、舌打をして、\n「寝ッちまえ!」\n と縋り寄り、\n「私も端の方へ入ってよ、坊や、さあ、お乳。」\n といって、見得もなく、懐を掻開けて、ふッくり白いのを持ち添えて、と見ると、人形の顔はふッと消えて無かったのである。\n\n\n胸騒\n\n四十一\n\n「おや、おかしいねえ、」と吃驚して屹となったが、蝶吉は出がけに人形の顔を掻巻の襟で隠しておいたのに気が付いた。\n「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、俤だったかしら。」\n 思わず悚然として、あたりを見たが、莞爾して、\n「ちょいと、肖ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んで応がない。\n「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、恐々掻巻を上げて見ると、牡丹のように裏が返った、敷蒲団との間には、紙一枚も無いのである。\n 蝶吉は我知らず、\n「富ちゃん、」と声を立てて、真直に跳起きた。\n「はてな、」机に凭りかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中瑞林寺の一間に寓する、学士神月梓である。\n 衣帯正しく端然として膝に手を支いて熟ともの思いに沈んだが、借ものの経机を傍に引着けてある上から、そのむかしなにがし殿の庭にあった梅の古木で刻んだという、渠が愛玩の香合を取って、一捻して、\n「こんなこッちゃあ可かん。」と自から窘めるがごとく呟いて、洋燈を見て、再び机に向った時、室が広いので灯も届かず、薄暗い古襖の外に咳く声して、\n「先生、御勉強じゃな、」といいながら静かに入ったのは、院の住職律師雲岳である。\n 学士の前に一揖して、\n「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、暫時あれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の貴方の御声というものは、実に白蓮の花に露が転ぶというのか、こうその渓川の水へ月が、映ると申そうか、いかにも譬えようのない、清い、澄んだ、冴々した、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細い情ないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。\n 梓はト胸を突いた様子で、\n「希代なことがあるんですよ、お上人、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞き惚れるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を一雫ずつ飲むようで、唾が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けて行くようで、月の雫で洗ったようです。それでいて爽かな可い心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たい衣の上から胸を圧えた、人にも逢わず引籠って、二月余、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、艶を増して、品好く痩ぎすな俤は、見るともの凄いほどである。\n「胸騒ッていうんでしょう。」\n\n\n鶯\n\n四十二\n\n「痛いのかと思うとそうでもなしに、むず痒い、頼ない、もので圧えつけると動気が跳る様で切なくッて可けません。熟としていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分で凄くなるように、仰有れば成程良い声というんでしょうか。」\n「なかなか、幽冥に通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。」\n「憑物でも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」と微かに笑を含んで、神月は可愧しげに上人が白き鬚ある棗のごとき面を見た。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「お膝元を怖れぬ振舞じゃ。もし大きな頭があって、その指図とあらば、このままに置くは幕府の威信にかかわる」\n 六左衛門と作右衛門の話は徳島藩邸内で女が浚われたということとは全く別な話で、こうして二人は、三田通りの越後屋まで引上げて来ました。\n\n八\n\n この頃、また上野の山下へ一軒の変った床屋が出来ました。\n 変ったといっても店の体裁や職人小僧の類、お客の扱いに別に変ったところはなく、「銀床」という看板、鬢盥、尻敷板、毛受、手水盥の類までべつだん世間並みの床屋と変ったことはない。ただ一つ変っているのは、この主人がてんぼうであったことだけであります。\n どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。\n この床屋の店先で、\n「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」\n「何でございます」\n「まあ、読むからお聞きなさいまし」\n「聞きやしょう」\n 懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、\n「ようございますか、恐れながら売弘めのため口上......」\n「なるほど」\n「此度徳川の橋詰に店出仕り候家餅と申すは、本家和歌山屋にて菊の千代と申弘め来り候も、此度相改め新製を加へ極あめりかに仕立趣向仕り候処、これまで京都堺町にて売弘め候牡丹餅も少し流行に後れ強慾に過ぎ候、三条通にて山の内餅をつき込み......」\n「ははアなるほど、御養君の一件だね、誰がこしらえたかたいそうなものを拵えたものだが、うっかりそんなものは読めねえ」\n「ナニ、御威勢の盛んな時分ならこんなものを拵える奴もなかろう、拵えたって世間へ持って出せるものではねえが、何しろ今のような時勢だから、公方様の悪口でも何でもこうして版行になって出るんだ」\n「それだってお前、滅多にそんな物を持って歩かねえがいいぜ、岡ッ引の耳にでも入ってみろ、ただでは済まされねえ」\n「大丈夫だよ、何しろ公方様の御威勢はもう地に落ちたんだから、とてもおさまりはつかねえのだ、ああやって貧窮組が出来たり、浪人強盗が流行ったり、天誅が持ち上ったりしている世の中だ」\n「悪い悪い、公方様の悪口なんぞを言っては悪いぞ」\n「かまうものか、公方様も今時の公方様は、よっぽどエライ公方様が出なくちゃあ納まりがつかねえ、このお江戸の町の中で、お旗本よりもお国侍の方が鼻息が荒いんだから、もう公方様の天下も末だ」\n「なんだと、この野郎」\n「なんでもねえ、実地のところを言ってるんだ」\n「野郎、ふざけたことを吐すな、このお膝元で、永らく公方様の御恩になっていながら、公方様の悪口を言うなんて飛んでもねえ野郎だ」\n 雑談が口論となり、口論が喧嘩になろうとするところへ、\n「まあまあ、皆さん、お静かになさいまし」\n 現われたのは、問題の片手のない中剃りの上手な親方。\n「憎い野郎だ、公方様の悪口なんぞを言やがって」\n 一人は余憤勃々。それを銀床の親方はなだめて、\n「少し酔っぱらってるようでございますね」\n「太え野郎だ、どうも眼つきがおかしいから、あんな奴が薩摩の廻し者なんだろう」\n「ナニ、御酒のかげんでございますよ」\n 親方がしきりになだめているところへ、\n「これ神妙にしろ、いま公儀へ対して無礼の言を吐いたものは誰だ」\n ズカズカと茶袋が一人入って来ました。入って来ると共に茶袋は、店前に落ちていた紙片を手早く拾い取って、威丈高に店の者を睨みつけます。\n 茶袋というのは、幕府がこのごろ募集しかけた歩兵のことで、筒袖を着て袴腰のあるズボンを穿いているからそれでそう言ったもので、あんまり良い人が集まらなかったから、多くは市中の破落戸を集めたものであります。どうも仕方がないからこの破落戸を集めて、歩兵隊を組織して西洋流に訓練をさせていったが、本来破落戸であったのが急に茶袋を穿き、かりそめにも二本差すようになったから、これらの連中の威張り方といったらない。それで市民は茶袋茶袋といってゲジゲジのように思っていたものです。今も今とて、公方様の不敬問題で口論した揚句のところへこの茶袋がやって来たから、床の者はみんな悪い奴が来たなと思いました。\n「公方様へ対して悪口を申し上げるなんて、そんなことは決してあるものじゃございません」\n 腕のない親方が詫びをいう。\n「黙れ黙れ、ここにいる客人のうちで、公方様の悪口を申し上げた奴がある、恐れ多くも今の公方様では納まりがつかぬ、浪人者の方が旗本よりもズット鼻息が荒いなどと、高声で噪いでいたと知らせて来た者がある。誰がそのように無礼なことを申したか名乗って出ろ、これへ名乗って出ろ。名乗って出なければ店の者共を片っぱしから引括る」\n どうも相手が悪い、と店の者は震え上りました。\n「そんなわけではございません......実は」\n 最後の口論の相手になった男、しかもそれは公方様を悪く言ったのではなく、公方様を悪く言ったのを憤慨した方が何か申しわけをしようとすると、\n「貴様だろう、無礼者め!」\n 茶袋は飛んで行ってその男の横面をピシリと打って、その手を逆に捻り上げてしまいましたから、\n「ア、これは、これは、滅相なことをなされますな、私は公方様の悪口なんて、そんなことを申し上げた覚えはございません」\n「いや、貴様に違いない、お膝元に住居致し、永らく徳川家の御恩を蒙りながら、公儀に対して悪口を申すとは言語道断な奴」\n「いえいえ、私がなんでそのようなことを申しましょう、実は......私の方でそれをとめましたので、そんなことを言っては恐れ多いとそれをとめましたのでございますから......飛んでもない、私がそんなことを」\n「こいつが、こいつが、自分の罪を人になすりつけようと致すか、いよいよ以て図々しい奴」\n 茶袋はその口を捻じ上げました。それを見兼ねて片腕の親方が割って出で、\n「これは歩兵様、まあお聞きなすって下さいまし、このお方は決して左様なことを申し上げたのではございません、実はこういうわけなんでございます」\n「貴様は何だ」\n「私はこの店の亭主でございまして、銀と申します、私が細かいことを存じておりますから、どうかお手をおゆるめなすって、一通りお聞きなすって下さいまし」" }, { "role": "assistant", "content": "「貴様、知っているならナゼ最初から知ってると申さん、正直に言ってみろ」\n「公方様の悪口を申し上げるほどのことではございません、ただ話の調子でございまして、ツイ威勢のいいことを申しましたのが、少しばかり声が高くなりましたので。それもこのお方ではございません、そんなことを申しましたお客様はたった今お帰りになってしまいましたので。このお客様なんぞは傍で聞いておりまして、そんなことを言ってはよくなかろうぜと気をつけて上げたくらいでございます。どう致しまして公方様の悪口なんて、私風情がそんなことを申し上げようものなら口が曲ってしまいまする。この方はそれをお留め申しただけでございます、どうか御勘弁なすって下さいまし」\n「ナニ、この男が悪口を申し上げたのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」\n「それはただいまお帰りになりました」\n「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」\n「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」\n「白々しい言いわけを申すな。どうも当節は、ややもすればお上の御威光を軽く見る奴があって奇怪じゃ、見せしめのために厳しくせんければならん。亭主、この上かれこれ申すと貴様も同罪だぞ」\n「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」\n「喧しい、強ってこいつが悪口を申し上げたことでないとならば、その本人をここへ連れて来い。その本人が出て、私が申しました、恐れ入りましたと白状した時に限ってこいつを許してやる」\n「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお捕まえなさるのはあんまり御無理なことで......」\n「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は退引のならぬことじゃ。しかし、理非曲直が立たねば政道も立たぬ道理じゃ、歩兵隊は無理を言わぬという証拠にその証拠を見せてやる。これ見ろ、これはいま貴様の家の店前で拾ったものじゃ、さあこれを見たら文句はあるまい」\n 突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ乍ら売弘めの為の口上、家伝いゑもち、別製煉やうくん」と書いた、紛れもなく今の将軍家を誹謗した刷物です。悪い奴に、悪い物を拾われました。\n「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで罷り出ろ。あとのやつらは神妙に待っておれ、お差図があるまでここを動いてはならん」\n\n この危急存亡の秋に、天なる哉、命なる哉、ゆらりゆらりとこの店へ繰込んだものがありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。\n「親方、これはどうしたというものだ」\n 道庵先生はぬからぬ面。\n\n九\n\n「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで......」\n 片腕のない髪結床の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面をして聞いていましたが、\n「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」\n「相成らん、引込んでいろ」\n「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」\n「くどい、ほかのこととは違って苟且にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」\n「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」\n 道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、\n「無礼な奴、控えろ」\n「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは嘘にきまっていますよ、私が成り代ってこの通りお詫びを致しますから、今日のところはおおめに見てやっておくんなさんしょう」\n 道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、\n「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは猪口才だ。こっちには確かに訴え出でた人もあり、この通り証拠もある。なお申し開くことがあれば屯所へ出てから申せ、貴様も証人として出たくば引張ってやる」\n 歩兵はうるさいから、道庵の胸倉を取って嚇すと、\n「歩兵さん、歩兵さん、まあお待ちなさいまし、どうか穏かに話を致そうではございませんか。いったいあなた様方は、町奉行や酒井様などのような、古手といっては失敬だが、旧式のお役人と違って、こうして開けて来た西洋の新式の調練を受けておいでなさる歩兵さんでございましょう、それですから、モウ少し話がわかりそうなものでございますね」\nと言って道庵は、自分の胸倉を取った歩兵の腕を逆に取り返しました。逆に取り返したと言っても、それを逆指や片胸捕りで鮮かにとっちめて、大向うを唸らせるような芸当がこの先生にできるはずはないが、不思議なことに、荒っぽく道庵の胸倉を取った茶袋が、それを逆に取り返されると、甚だおとなしくその手を外して、\n「うむ、そう言われればなるほどだ、我々は町奉行や新徴組のような融通の利かぬ者共とは違って、新式の調練を受けているものだ、高島流の砲術も江川流の測量も一切心得ている」\n「左様でございましょうとも。人の胸倉を取るなんということは、みんな旧式の兵隊のすることでございます、歩兵さんに限ってそんなことはございません、やっぱり西洋流に、こうして握手ということをなさるんでございましょうね」\n 歩兵が存外温和しく外した手を、道庵先生が握り締めると、\n「ははあ、貴様はなかなか話せる、医者だけあって脈処がうまいわい」\n 茶袋は急にニコニコしてきました。\n 今まで威張りくさっていた茶袋が、急に面を崩して、\n「貴様は話せる」\nと言って道庵と握手をして、\n「よしよし、万事貴様に任せてやる、貴様からこの者共をよく説諭してやるがよい、拙者も今日のところは特別の穏便を以て聞捨てにして遣わす」\n「いや、どうも有難うございます」\n 道庵は額を丁と拍って、取って附けたようなお辞儀をした時分には、せっかく包みかけた道庵が危なく転げ出してきました。\n「貴様は少々酔っているようだな」\n「へえ、いつでも酔っぱらっているのでございます、町内では酔っぱらいで御厄介になっているのでございます」\n 何かわからないことを言ってまたお辞儀をする。茶袋はその形をおかしがって渋面を作り、\n「以来、気をつけろ」\nと言って出て行ってしまいました。道庵先生の出る幕は、大抵のことが茶番になってしまいます。夫婦喧嘩でもなんでも、道庵ひとたび出づれば大抵は茶にして納まりをつける。それが時としては道庵の一徳であり、時としては道庵先生の人格を軽くする所以となることもあります。しかしながらこの場の働きは、たしかに先生の器量を一段と上げてしまいました。なんとなればこれはお鍋や八公の夫婦喧嘩とは違って、相手が始末の悪い茶袋ときていたところへ、事は上様の不敬問題だから、屯所へ引張られた上は、まず生命は覚束ないものと思わなければならない。それを道庵が出て易々と解決をつけてしまったから、今まで黒山のように人だかりしていた連中が、ここで一度に哄と喝采しました。そうして口々に先生の器量を讃める言葉を記してみるとこういうことになります。\n「どうでげす、あの道庵さんは大したものじゃあございませんか、お前さんごらんなすったか、ああしていったん胸倉を取られたところを道庵さんが逆に取り返した、あすこが見物なんでげす、あれがその、柔術の方で逆指といって、左の指の甲の方からこうして掴んで、掌を上の方へこう向けて強くあげるんでげすな、そうするとそれ、指を取られた方は、騒げば騒ぐほどこっちがその拳を自分の方へ向けてこう曲げるものですから、指が折れてしまう。柔術取りの名人にああして指を取られてしまったが最後、もう動きがつくことじゃあございませんからな、それでさすがの茶袋も我を折って降参してしまいました」\n「さよですかな、あの先生がそんな柔術取りの名人とは今まで知らなかった、酔っぱらってひっくり返ってばかりいるから腰抜けかと思ったら、やっぱりそれじゃあ、なんでござんすかな、道庵先生は柔術の方もちゃあんと心得ているのでございますかな」\n「そこがそれ、能ある鷹は爪を隠すと言うんで、先生、ああしてしらばっくれて酔っぱらっているけれど、武芸十八般ことごとく胸へ畳み込んでいるところを俺はちゃんと見て取った、その上にお医者さんで脈処を心得ているから鬼に金棒でございますよ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "第一篇\n\n一\n\n 七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。\n 青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病な気持を感じた。彼は自分でもその気持を恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、おかみと顔を合わすのがこわかったのである。\n もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この逼迫した状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。その日その日の当面の仕事も全然放擲してしまい、そんな事にかかずらう気にもならなかったのである。彼は正直なところ、どこのどのようなおかみがいかなる事を企てようと、けっして恐れなどしなかった。けれど、階段の上に立ち止まらされて、なんの役にも立たない平凡なごみごみした話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされた上、自分の方でもごまかしたり、あやまったり、嘘をついたりするよりは――猫のように階段をすべりおりて、誰にも見られないように、ちょろりと姿をくらます方がまだしもなのであった。\n とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。\n『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ......そうだ......いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ......これはもう確かに原理だ......ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ......だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。これはおれが先月ひと月、夜も昼もあの隅っこにごろごろしていて......昔話みたいな事を考えてるうちに、しゃべることを覚えたのだ。それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう、いったいあれが俺にできるのだろうか? そもそも、あれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ! そう、玩具というのが本当らしいな!』\n 通りは恐ろしい暑さだった。その上、息苦しさ、雑踏、いたるところに行き当たる石灰、建築の足場、煉瓦、埃、別荘を借りる力のないペテルブルグ人の誰でもが知り抜いている特殊な夏の悪臭――これらすべてが一つになって、それでなくてさえ衰え切っている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆすぶるのであった。市内のこの界隈に特におびただしい酒場の堪えがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔いどれなどが、こうした情景のいとわしい憂鬱な色彩をいやが上に深めているのであった。深い嫌悪の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。ついでに言っておくが、彼は美しい黒い目に栗色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとして格好がよかった。けれど、彼はすぐに深い瞑想、というよりむしろ一種の自己忘却に堕ちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩き出した。どうかすると、今しがた自分で自認した独語の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶつ言う。この瞬間、彼は考えが時おりこぐらかって、体が極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、全くものを食わなかったのである。\n 彼はなんともいえない見すぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなり慣れっこになった人間でも、こんなぼろを着て昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。しかしこの界隈ときたら、服装などで人をびっくりさせるのは、ちょっとむずかしいところだった。乾草広場に近く接している位置の関係、おびただしい木賃宿や長屋の数々、それからとりわけ、ここら中部ペテルブルグの町や横町にごみごみ集まっている職工や労働者などの群れ――こういうものが時々その辺一帯の街上風景に思い切ってひどい風体の人物を織り込むので、変わった姿に出会って驚くのは、かえって変なくらいのものだった。その上青年の心の中には、毒々しい侮蔑の念が激しく鬱積していたので、若々しい――時としてはあまりに若々しい神経質なところがあるにもかかわらず、彼は町中でそのぼろ洋服を恥じようなどとは、てんで考えもしなかった。もっとも、ある種の知人とか、一般に会うのを好まない昔の友人とか、そんなものに出会わすのはおのずから別問題である......とはいえ、たくましい運送馬に引かれた大きな荷馬車に乗った酔漢が、今ごろこの町中をどうして、どこへ運ばれて行くのかわからないが、通りすがりに「やあい、このドイツしゃっぽ!」といきなりどなって、手で彼を指さしながら、のどいっぱいにわめき出したとき――青年はふいに立ち止まり、痙攣したような手つきで自分の帽子を抑えた。それは山の高い、チンメルマン製の丸形帽子だったが、もうくたびれ切ってすっかりにんじん色になり、穴だらけしみだらけで、つばは取れてしまい、その上つぶれた一方の角が、見苦しくも横の方へ突き出ている。しかし、彼を捕えたのは羞恥の情ではなく、全く別な、むしろ驚愕に似た気持だった。\n「おれもそんなことだろうと気がついてたんだ!」と彼はどぎまぎしてつぶやいた。「おれもそう思っていたんだ! これが一番いけないんだ。こんな愚にもつかない、ちょいとしたくだらないことが、よく計画をぶちこわすものだ! そうだ、この帽子は目に立ち過ぎる、おかしいから目に立つんだ......おれのこのぼろ服には、どうあっても、たといどんな古いせんべいみたいなやつでも、学生帽でなくちゃいけない、こんなお化けじみたものじゃ駄目だ。こんなのは誰もかぶっちゃいないや。十町先からでも目について、覚えられてしまう......第一いけないのは、後になって思い出されると、それこそ立派な証拠だ。今はできるだけ人目に立たぬようにしなくちゃ......小事、小事が大事だ! こういう小事が、往々万事を打ちこわすのだ......」\n 道のりはいくらでもなかった。彼は家の門口から何歩あるかということまで知っていた――きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していた時、一度それを数えてみたのだ。そのころ彼はまだ自分でも、この空想を信じていなかった。そしてただ醜悪な、とはいえ魅力の強い大胆不敵な妄想で、自分をいらいらさせるばかりだった。それがひと月たった今では、もう別の目で見るようになった。そして、自分の無気力と不決断に対して、あらゆる自嘲の独白をくり返しながら、いつの間にやらその『醜悪』な空想をすでに一つの計画のように考え慣れてしまった、そのくせ相変わらず、自分でも自分を信じていなかったのだが......今も現にその計画の瀬踏みをするために出かけているのだ。で、彼の胸騒ぎは一歩ごとに激しくなっていった。\n 彼は心臓のしびれるような感じと、神経性の戦慄を覚えながら、一方の壁は溝に、いま一方は××町に面している、恐ろしく大きな家に近づいた。この家はすべて無数の小さなアパートになっていて、あらゆる種類の職人――仕立屋、錠前屋、料理女、さまざまなドイツ人、自分の体で生活している娘、下級官吏などが巣くっている。で、出入りのものが二か所の門の下や、二か所の内庭をうるさいほどゆききするのである。そこには三、四人の庭番が勤めていた。青年はその一人にも出会わなかったので、しごく満足の体で門からすぐ右の階段口へ目立たぬようにすべりこんだ。階段は暗くて狭い『裏梯子』だった。が、彼はもう万事心得て研究しつくしていた。彼はこうした条件がことごとく気に入った――こんな暗闇の中だったら、好奇心の強い人の目さえ危険でない。『今からこんなにびくびくして、もしいよいよ実行という段になったら、いったいどうするのだ?......』四階目へ上りながら、彼はふとそう考えた。ここでは、ある住まいから家具を運び出す兵隊上がりの人夫が、彼の行く手をふさいだ。このアパートには家族持ちのドイツ官吏が住まっていることを、彼は前から知っていた。『ははあ、あのドイツ人引っ越すんだな。すると、四階には、この階段のこの踊り場には、当分、婆さんの住まい一つきゃふさがっていないわけだ......こいつはうまいぞ......万一の場合に』と彼はまた考えて、老婆の住まいの呼鈴を鳴らした。呼鈴は真鍮でなくブリキで造ったもののように、弱々しくがらんと鳴った。こうした家のこうした小さい住まいには、たいていどこでもこういった呼鈴がついている。彼はもうこの呼鈴の音を忘れていたが、今この特殊な響きが、ふいに彼にあることを思い起こさせ、はっきりと暗示を与えたようなぐあいだった......彼は思わずぴくりとなった。おりふし神経が極度に弱くなっていたのである。しばらくしてからドアがごくわずかだけ開かれて、その隙間から女あるじが、さもうさんくさそうに客を見回した。ぎらぎら光る小さな目だけが、闇の中に見える。けれど、踊り場に人が大勢いるのを見ると、彼女は元気づいてドアをいっぱいにあけた。青年は敷居をまたいで、板壁で仕切られた暗い控室へはいった。仕切りの向こうは狭い台所になっている。老婆は無言で彼の前へ突っ立ち、物問いたげに相手を見つめていた。それは意地悪そうな鋭い目と小さいとがった鼻をした、小柄なかさかさした六十格好の老婆で、頭には何もかぶっていなかった。全体に亜麻色をした、白いものの少ない髪には、油をてらてらに塗りこくっている。鶏の足に似た細長い首にはフランネルのぼろがまきつけられ、肩からはこの暑いのに、一面にすり切れて黄色くなった毛皮の上着がだらりと下がっている。老婆はひっきりなしに咳をしたり、喉を鳴らしたりしていた。彼女を見た青年の目に何か特別な表情でもあったのだろう、とつぜん老婆の目にはまた先ほどと同じ猜疑の色がひらめいた。\n「ラスコーリニコフですよ、大学生の。ひと月ばかり前に伺ったことのある......」もっと愛想よくしなくてはいけないと思い出したので、青年はちょっと軽く会釈して、こうつぶやいた。\n「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例の物問いたげな目を離さないで、はっきりと言った。\n「そこでその......また同じような用でね......」ラスコーリニコフは老婆の疑り深さに驚き、いささかうろたえ気味でことばを続けた。\n『しかし、この婆あはいつもこんな風なのに、俺はこの前気がつかなかったのかもしれない』と彼は不快な感じをいだきながら心に思った。\n 老婆は何か考え込んだように、ちょっと黙っていたが、やがて脇の方へ身をひくと、中へ通ずるドアを指さして、客を通らせながらこう言った。\n「まあおはいんなさい」\n 青年の通って行ったあまり大きくない部屋は、黄色い壁紙をはりつめて、窓に幾鉢かのぜにあおいを載せ、紗のカーテンをかけてあったが、おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されていた。『その時もきっとこんな風に、日がさしこむに違いない!......』どうしたわけか、思いがけなくこういう考えがラスコーリニコフの頭にひらめいた。彼はすばしこい視線を部屋の中にあるいっさいのものに走らせて、できるだけ家の様子を研究し、記憶しようと努めた。しかし部屋の中には、何もとりたてていうほどのものはなかった。" }, { "role": "assistant", "content": " 家具類はひどく古びた黄色い木製品で、ぐっと曲ったもたれのある大きな長椅子と、その前に置かれた楕円形のテーブルと、窓と窓との間の壁に据えられた鏡つきの化粧台と、壁ぎわの椅子数脚と、小鳥を持っているドイツ娘を描いた黄色い額入りの安っぽい絵――これが全部であった。片隅には灯明が一つ大きからぬ聖像の前で燃えている。全体が中々こざっぱりとしてい、家具も、床も、つやの出るほどふきこまれて、何もかもてらてら光っている。『リザヴェータの仕事だな』と青年は考えた。住まい全体どこを見ても、塵っぱ一つ見つからなかった。『因業な年寄り後家の所は、よくこんな風にきれいになってるものだて』とラスコーリニコフは腹の中で考えつづけ、次の小部屋へ通ずる戸口の前にたらしたサラサのカーテンを、好奇の念をいだきながら横目に見やった。そこには老婆の寝台と箪笥が置いてあったが、彼はまだ一度もその中をのぞいたことがなかった。以上二つの部屋が住まいの全部だった。\n「で、ご用は?」と老婆は部屋へはいると、いかつい調子で尋ねた。そして、客の顔をまともに見ようとして、さっきのように彼のまんまえに突っ立った。\n「質を持ってきたんですよ、これを!」\n 彼はポケットから古い平ったい銀時計を出した。裏蓋には地球儀が描いてあって、鎖は鉄だった。\n「でも、先の口がもう期限ですよ。おとといで一月たったわけだから」\n「じゃ、一月分利を入れます。もう少し辛抱してください」\n「さあね、辛抱するとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね」\n「時計の方は奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」\n「ろくでもないものばかり持ってくるね、おまえさん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね」\n「四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金が来るはずになってるんです」\n「一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ」\n「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。\n「どうともご勝手に」\n 老婆はそういって、時計を突っ返した。青年はそれを受け取った。彼はすっかり向かっ腹を立てて、そのまま帰ろうとしかけたが、この上どこへ行く当てもなし、それにまだほかの用もあって来たのだと気がつき、すぐに思い返した。\n「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうに言った。\n 老婆はポケットへ手を突っ込んで鍵を探りながら、カーテンに仕切られた次の間へ行った。青年は部屋の真ん中にひとり取り残されると、好奇の色を浮かべながら聞き耳を立て、あれこれと思いめぐらした。老婆の箪笥をあける音が聞こえた。『きっと上の引出しに相違ない』と彼は考えた。『してみると、鍵は右のポケットにしまってるんだ......みんな一束にして、鉄の輪に通している......あの中に、ほかのどれよりも三倍から大きい、ぎざぎざの歯をしたのが一つあるが、むろんあれは箪笥のじゃない......つまり何かほかの手箱か、長持みたいなものがあるに相違ない......ふん、こいつは面白いぞ。長持にはたいていあんな鍵がついているものだて......だが、これはまあなんというさもしいことだ......』\n 老婆は引っ返してきた。\n「さてと――一か月十カペイカとして、一ルーブリ半で十五カペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十カペイカ差し引くと、都合みんなで三十五カペイカ、そこで、今あの時計でおまえさんの手にはいる金は、一ルーブリ十五カペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい」\n「へえ! それじゃ今度は一ルーブリ十五カペイカなんですか!」\n「ああ、その通りですよ」\n 青年は争おうともせず、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何か言う事かする事でもあるように、急いで帰ろうともしなかった。もっとも、その用事がなんであるのか、自分で知らないらしい様子だった。\n「事によるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもう一品もってくるかもしれませんよ......銀の......立派な......巻煙草入れ......今に友だちから取り返してきたら......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 左きき\n\n「こりゃ、ご書見のところを......」\n「ふむ」\n 書見台から顔をあげると、蒼みわたった、鬢の毛のうすい、鋭い顔をゆっくりとそちらへ向け、\n「おお、千太か。......そんなところで及び腰をしていねえで、こっちへ入って坐れ」\n「お邪魔では......」\n「なアに、暇ッつぶしの青表紙、どうせ、身につくはずがない。......ちょうど、相手ほしやのところだった」\n「じゃア、ごめんこうむって......」\n 羽織の裾をはね、でっぷりと肥った身体をゆるがせながら、まっこうに坐ると、\n「御閑暇なようすで、結構でございます」\n こちらは、えがらっぽく笑って、\n「おいおい、そんな挨拶はあるめえ。......雨が降りゃア、下駄屋は、いいお天気という。......おれらは忙しくなくっちゃ結構とは言わねえ」\n「えへへ、ごもっとも。......どうも、この節のようじゃ、ちと、骨ばなれがいたしそうで......」\n「これ見や、捕物同心が、やしきで菜根譚を読んでいる。......暇だの」\n 引きむすぶと、隠れてしまいそうな薄い唇を歪めて、陰気に、ふ、ふ、ふと笑うと、書見台を押しやり、手を鳴らして酒を命じ、\n「やしきでお前と飲むのも、ずいぶんと久しい。......まア、今日はゆっくりしてゆけ」\n 一年中機嫌のいい日はないという藤波、どういうものか今日はたいへんな上機嫌。せんぶりの千太は呆気にとられて、気味悪そうにもじもじと揉手をしながら、\n「えへへ、こりゃ、どうも......」\n といって、なにを思い出したか、膝をうって、\n「ときに、旦那。......清元千賀春が死にましたね」\n「ほほう、そりゃア、いつのこった」\n「わかったのは、つい、二刻ほど前のことでございます。......ちょうど通りすがりに、露路口で騒いでいますから、あっしも、ちょっと寄ってのぞいてまいりました」\n「そう、たやすくはごねそうもねえ後生の悪いやつだったが......」\n「長火鉢のそばで、独酌かなんかやっているうちに、ぽっくりいっちまったらしいんでございます。......なにか弾きかけていたと見えて、三味線を膝へひきつけ、手にこう撥を持ったまま、長火鉢にもたれて、それこそ、眠るように死んでいました」\n「ふうん......医者の診断は、なんだというんだ」\n「まア、卒中か、早打肩。......あの通りの大酒くらいですから、さもありそうな往生。......あッという間もなく、自分でも気のつかねえうちに死んじまったろうてんです。だれか、早く気がついて、肩でも切って瀉血させてやったら助からねえこともなかったろうにと医者が言っていましたが、なにしろ、運悪くひとりだから、そういう段取りにはならねえ。......そんな羽目になるというのも、これも身の因果。ふだんの悪業のむくいでね、よくしたもんです」\n「医者は、早打肩だと言ったか」\n「へえ。......なるほど、そう言われて見れば、顔も身体も、ぽっと桜色をしておりましてね。とんと死んでいるようには見えません」\n「そういうことは、あるには、ある。......それから、どうした」\n「どうせ、邪魔にされることは、わかり切った話ですが、北奉行所のやつら、どんなことをしやがるか見てやろうと思いましてね、そのまま居据っていると、ひょろ松が乗りこんで来ました」\n「お前が突っ張っていたんでは、さぞ、いやな顔をしたこったろう」\n「とんとね、......せんぶりという、あっしのお株をとったような、なんとも言えねえ苦い面をしましてね、こりゃア、千太さん、たいそう精が出るの。他人の月番のおさらいまでしていちゃてえへんだろう、とぬかします。......あっしも意地になって、この節は、いろいろと変ったことをして見せてくれるから、きょうはひとつお手ぎわを拝見しようと思ってな。......どうだ、この仏を種にして、また面白えことをして見せてくれめえか、と、一本やっておいて御検死にまじって見ていますと、とっくりけえし、ひっくりけえしする千賀春の身体に、どこといって鵜の毛で突いたほどの傷もありません......首を締めたあともなけりゃ、一服盛られたなんてようすもない、まるで、笑ってるような顔で死んでいるんです......」\n 藤波は、底意ありげな含み笑いをして、\n「ふん、あの仏にしちゃ、おかしかろう」\n 千太は、うなずいて、\n「まったく、あの毒虫にしちゃ、もったいねえような大往生で、みなも、呆気にとられたくれえなんでございますよ」\n「あんなのを、女郎蜘蛛とでもいうのだろうの。蕩らしこんじゃア押しかけて行って金にする。それも、ちっとやそっとの額じゃ、うんとは言わねえ。......千賀春が死んだときいたら、ほっとするむきア、三五人じゃきかねえだろう。......それにしても、都合のいい時に死んだもんだの。すりゃア、まるで、ご注文だ」\n「ですから、その辺のところは、実にうまくしたもんだというんです。......そりゃア、ともかく、なるほど評判だけあっていい器量だ。引起したところを見て、さすがのあっしも......」\n「惚れ惚れと、見とれたか」\n へへへ、と髷節へ手をやって、\n「いや、まったく......あれじゃ、だれだって迷います。罪な面だ」\n 広蓋へ小鉢物と盃洗をのせて持ち出して来た小間使へ、用はないと手を振って、\n「......だが、たったひとつ、難がある」\n 盃のしずくを切って、千太につぎながら、\n「乳房が馬鹿でかすぎらア」\n 千太は、えッといって藤波の顔を見ていたが、急に、へらへらと笑い出して、\n「こりゃア、どうも。......旦那まで千賀春の御講中だったたア、今日の今日まで、存じませんでした。......じゃ、たんといただきやす。とても、ただじゃそのあとは伺えねえ」\n「馬鹿ア言え、そんなんじゃねえ」\n「などと仰言るが」\n「櫓下で梅吉と言っていた時にゃあ一二度逢ったことがあるが、膚を見たなア、今朝がはじめてだ」\n 千太は、あわてて盃をおき、\n「じゃア、ごらんなったんで」\n「ああ、見た」\n 千太は、毒気をぬかれて、\n「旦那も、おひとが悪い。さんざ、ひとに喋舌らせておいて、ああ、見た、はないでしょう。......それに、あっしまで出しぬいて......」\n「悪く思うな。......ちょうど、つい眼と鼻の、露月町の自身番にいたでな」\n ゆっくりと盃をふくむと、\n「千太、ありゃア、早打肩なんぞじゃねえ、殺られたんだな」\n 千太は、ぷッと酒の霧を吹いて、\n「これは失礼」\n あわててその辺を拭きまわりながら、\n「でも、まるっきり傷なんてえものは......」\n 藤波は、ニヤリ笑って、\n「ときに、千太、千賀春は、どっちの手に撥を持って死んでいた?」\n 千太は、こうっと、と言いながら、科でなぞって見て、\n「あッ、左手でした」\n「千賀春は、左ききか」" }, { "role": "assistant", "content": "「そ、そんな筈はありません」\n「妙じゃねえか」\n 千太は、眼を据えて、\n「な、なるほど、こりゃア、おかしい」\n 急に、膝を乗り出して、\n「すると、殺っておいて、誰か手に持たせた......」\n「まずな。......殺ったやつは、たぶん、左ききででもあったろう」\n「ありそうなこってすね。しかし、どうして殺ったもんでしょう。いまも申しあげた通り......」\n「鵜の毛で突いたほどの傷もねえ、か。......ところで、見落したところが一カ所ある筈だ」\n「見落し。......これでばッかし飯を喰ってる人間が五人もかかって、いってえどこを見落しましたろう」\n ズバリと、ひとこと。\n「乳房のうしろ」\n 千太は、ひえッと息をひいて、\n「いかにも、......そこにゃア気がつかなかった」\n 藤波は、うなずいて、\n「あんなものがぶらさがっていりゃア、誰だって、こりゃア気がつかねえ。......どうも、がてんがゆかねえから、最後に、あの、......袋のような馬鹿気たやつを、ひょいともたげて見ると、乳房のうしろに針で突いたほどの、ほんの小さな傷がある。......おれの見たところでは、たしかに、鍼痕。......心臓の真ン中。......あそこへ鍼を打たれたら、こりゃア、ひとったまりもねえの」\n 千木は、感にたえたようすで、\n「なるほど、うまく企みやがった」\n「近所で聞き合わして見ると、杉の市という按摩鍼が、いつも千賀春のところへ出入りしていたという。......内職は小金貸。......これが、夫婦になるとかなんとか、うまく千賀春に蕩らしこまれ、粒々辛苦の虎の子を根こそぎ巻きあげられ、死ぬとか生きるとか大騒ぎをやらかしたというのは、ついこないだのこと......」\n といって、眼の隅から、ジロリと千太の顔を眺め、\n「なんのこたアねえ、こいつが、左きき」\n「おッ、それだ」\n「そこで、おりゃア、つい先刻、顎十郎に手紙を書いて持たせてやった。......千賀春こと人手にかかってあえない最期。辱知の貴殿に、ちょっとお知らせもうします、といってな」\n 千太は、むっとした顔つきになり、\n「こりゃア、旦那のなさることとも思えねえ。......そ、そんなことをしたら......」\n 藤波は、手酌でぐっとひっかけておいて、驕慢に空嘯くと、\n「ふッふッふ......ところで、甚だ遺憾にぞんずるが、杉の市は直接たっての下手人じゃねえ。どうしてどうして、これにゃア複雑んだアヤがある。こいつを、ほぐせたら大したもんだ。......それで、ひとつ、お手並を拝見しようと思っての。なにしろ、こんどは、こっちが叩きのめしてやる約束だから......」\n\n 冥土へ\n\n「おい、ひょろ松......おい、ひょろ松......」\n 垢染んだ黒羽二重の袷を前下がりに着、へちまなりの図ぬけて大きな顎をぶらぶらさせ、門口に立ちはだかって、白痴が物乞するようなしまりのない声で呼んでいるのが、顎十郎。\n これが、江戸一と折紙のついた南の藤波友衛を立てつづけに三四度鼻を明かしたというのだから、まったく嘘のような話。\n ちょっと類のない腑抜声だから、すぐその主がわかったか、奥から小走りに走り出して来たのは、北町奉行所与力筆頭、叔父森川庄兵衛の組下、神田の御用聞、蚊とんぼのひょろ松。\n 草履を突っかけるのももどかしそうに門口へ飛んで出るより早く、\n「おお、阿古十郎さん......実ア、いま、脇坂の部屋へお伺いしようと思っていたところなんで......」\n 顎十郎は、懐中から一通の封じ文を取り出すと、ひょろ松の鼻の先でヒラヒラさせながら、\n「おい、ひょろ松、藤波のやつが、こんな手紙をよこした。......千賀春が、どうとかこうとかして、鍼が乳房へぶッ刺さって、按摩の杉の市は左ききだから、とても甘えものはいけねえだろうのどうのこうの。......実ア、まだよく読んでいねえのだが、なにやら、ややこしいことがごしゃごしゃ書いてある。......大師流で手蹟はいいが、見てくればかりで品がねえ。筆蹟は人格を現すというが、いや、まったく、よく言ったもんだ、こればっかりは誤魔化せねえの。鵜の真似、烏......牡丹に唐獅子、竹に虎、お軽は二階でのべ鏡か......」\n 例によって、裾から火がついたように、わけのわからぬことをベラベラとまくし立てておいて、急にケロリとした顔をすると、\n「それはそうと、ぜんてえどうしたというのだ、千賀春というあばずれのことは、部屋でよく聞いて知っているが、おれにゃア、藤波なんぞから悼みを言われるような差合はねえのだが......」\n ひょろ松は、穴でもあったら入りたいという風に痩せた身体をちぢかめて、\n「ちょっとお誘いすりゃアよかッたんですが、うっかりひとりでかたをつけたばっかりに、また大縮尻をやっちまいまして......」\n「お前の縮尻は珍らしくはねえが、お前が縮尻をするたびに、藤波なんぞから手紙をぶッつけられるのは大きに迷惑だ。......これ見ろ、この手紙の終りに、白痴と言わんばかりの文句が書いてある。......この手紙は、おれの名あてだから、白痴というのは、おれのことか知らんて。......して見ると、なかなかどうも、怪しからん話だ」\n と、とりとめない。\n ひょろ松は、手でおさえて、\n「そのお詫びは、いずれゆっくりいたしますが、実ア、藤波は、あっしのところへも手紙をよこしましたんで、読んで見ると、くやしいが、なるほど思いあたるところがある......」\n「なんて言ってりゃア世話はねえ......この節、御用聞の値が下ったの」\n「なんと仰言られても、一言もございませんが、森川の旦那には内々で、どうか、もう一度だけ、お助けを......」\n 頭を掻きながら、ありようを手短かに語り、\n「情けねえ話ですが、歯軋りをしながら、杉の市をしょっぴいて来て、調べて見ると......」\n「......杉の市じゃアなかった」\n「えッ、ど、どうして、それを......」\n「なにを、くだらない。下手人が杉の市なら、藤波がわざわざ言ってよこす筈アなかろう、つもっても知れるじゃないか」\n「いや、もう、ご尤も。......それで、杉の市をぶッ叩いて見ると、一時は、しんじつ、そうも思ったこともありましたが、もとはと言や、こちらの莫迦から出たこと、相手をうらむ筋はねえ、もう、あきらめておりやした。......それに、仮りに、あッしがやるとしたら、そんなドジな、ひと目であッしの仕業とわかるような、そんな殺り方はいたしますまい。これが、あッしが無実だというなによりの証拠。......いわんや、めくらは勘のいいもの。いくら泡を喰ったとて、右左をとりちげえるようなことはいたしません。なんで、左手に撥なんぞ持たすものですか。......たぶん、こりゃア、あッしの左ききを知っているやつが、あッしに濡れ衣を着せて、突き落そうと企らんだことなのに相違ないんでございます......」\n「よく喋言べるやつだな。......して見ると、その杉の市という按摩はちょっと小悧口な面をしているだろう、どうだ」\n「いかにもその通り......按摩のくせに、千賀春なんぞに入揚げようというやつですから、のっぺりとして、柄にもねえ渋いものを着けております」\n「ふふん、それから、どうした」\n「......なにしろ、他人の首に繩のかかるような大事でございますから、うかつにこんなことを申しあげていいかどうかわかりませんが、たったひとつ思いあたることがございます......」\n「なるほど、そう来なくちゃあ嘘だ」\n「......やはり、千賀春の講中で、いわば、あっしの恋敵......」\n「と、ヌケヌケと言ったか」\n「へえ」\n「途方もねえ野郎だの。......うむ、それで」\n「......芝口の結城問屋の三男坊で角太郎というやつ。......男はいいが、なにしろまだ部屋住で、小遣いが自由にならねえから、せっせと通っては来るものの、千賀春はいいあしらいをいたしません。......ところで、こちらは、そのころは、朝ッぱらから入りびたりで、さんざ仲のいいところを見せつけるから、それやこれやで、たいへんにあッしを恨んでいるということでございました。......ところで、忘れもしねえ、今月の三日、芝口の露月亭へまいりますと、その晩の講談というのが、神田伯龍の新作で『谷口検校』......。宇津谷峠の雨宿りに、癪で苦しむ旅人の鳩尾と水月へ鍼を打ち、五十両という金を奪って逃げるという筋。帰ってから、手をひいて行った婢の話で、二側ほど後に角太郎さんがいて、まるで喰いつきそうな凄い顔をしていたと言っていましたが、ひょっとすると、その講談から思いついて......」\n「......なかなか、隅におけねえの......按摩鍼などをさせておくのは勿体ねえようなもんだ」\n ひょろ松は、大仰にうなずいて、\n「ところが、角太郎を叩いて見ると、その通りだったんでございます。......杉の市がうるさくつけまわして困る。すっぱりと手を切るから、手切金の五十両、なんとか工面をしてくれと千賀春にいわれ、のぼせ上って前後の見境もなく親爺の懸硯から盗みだして渡したが、手を切るとは真赤な嘘。お前のような洟ッたらしが、あたしと遊ぼうなんてそもそもふざけたはなし。......これは今までの玉代にとっておく。......一昨日おいでと蹴り出され、あげくのはて、五十両の件が露見て家は勘当。田村町の髪結の二階にひっそくして、三度の飯にも気がねするというひどい御沈落。......くやしくってならねえから、講談で聞いた谷口検校から思いついて、これならよもや判りっこはねえだろうと、素人でも打てるように、杉山流の管鍼を買い、自分の膝を稽古台にして、朝から晩まで鍼打ちの稽古。ちょうど一週ほどすると、どうやら打てるようになったから、これでよしと昨夜の亥刻頃(午後十時)そっと忍んで行って勝手口から隙見して見ると、千賀春はずぶろくになって長火鉢にもたれて居眠っている」\n「天の助けと......」\n「天の助けと、這いよって、ゆすぶって見たが、へべれけで正体ねえ。......そっと引き倒しておいて、乳房のうしろへ、ズップリと一ト鍼。......ピクッと手足をふるわせたようだったが、もろくも、それなり。......引起してもとのように長火鉢にもたれさせ、ざまあ見ろ、思い知ったか、で、シコリの落ちたような気持になって、また裏口から飛び出した......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一 『八犬伝』と私\n\n 昔は今ほど忙しくなくて、誰でも多少の閑があったものと見える。いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活が約しかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵潰されてしまったろうが私の青年時代には少し旧い家には大抵お祖父さんか曾祖父さんとかの写本があった。これがまた定って当時の留書とかお触とか、でなければ大衆物即ち何とか実録や著名の戯作の抜写しであった。無論ドコの貸本屋にも有る珍らしくないものであったが、ただ本の価を倹約するばかりでなく、一つはそれが趣味であったのだ。私の外曾祖父の家にも(今では大抵屏風の下貼や壁の腰張やハタキや手ふき紙になってしまったが)この種の写本が本箱に四つ五つあった。その中に馬琴の『美少年録』や『玉石童子訓』や『朝夷巡島記』や『侠客伝』があった。ドウしてコンナ、そこらに転がってる珍らしくもないものを叮嚀に写して、手製とはいえ立派に表紙をつけて保存する気になったのか今日の我々にはその真理が了解出来ないが、ツマリ馬琴に傾倒した愛読の情が溢れたからであるというほかはない。私の外曾祖父というは決して戯作好きの方ではなかった。少し常識の桁をはずれた男で種々の逸事が残ってるが、戯作好きだという咄は残っていないからそれほど好きではなかったろう。事実また、外曾祖父の遺物中には馬琴の外は刊本にも写本にも小説は一冊もなかった。ただ馬琴の作は上記以外自ら謄写したものが二、三種あった。刊本では、『夢想兵衛』と『八犬伝』とがあった。畢竟するに戯作が好きではなかったが、馬琴に限って愛読して筆写の労をさえ惜しまず、『八犬伝』の如き浩澣のものを、さして買書家でもないのに長期にわたって出版の都度々々購読するを忘れなかったというは、当時馬琴が戯作を呪う間にさえ愛読というよりは熟読されて『八犬伝』が論孟学庸や『史記』や『左伝』と同格に扱われていたのを知るべきである。また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は『戯作者六家撰』に見えてるが、いつ頃の事かハッキリしない。医を志したというは自分でも書いてるが、儒を志したというは余り聞かない。真否は頗る疑わしいが、とにかく馬琴の愛読者たる士流の間にはソンナ説があったものと見える。当時、戯作者といえば一括して軽薄放漫なる聵々者流として顰蹙された中に単り馬琴が重視されたは学問淵源があるを信ぜられていたからである。\n 私が幼時から親しんでいた『八犬伝』というは即ちこの外曾祖父から伝えられたものだ。出版の都度々々書肆から届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『美少年録』でも『侠客伝』でも皆謄写した気根の強い筆豆の人であったから、『八犬伝』もまた初めは写したに相違ないが、前数作よりも一層感嘆措かなかったので四、五輯頃から刊本で揃えて置く気になったのであろう。それからが出版の都度々々届けさしたので、初めの分はアトから補ったのであろう。私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流の嗜みがあるわけでもないただの俗人であったが、以て馬琴の当時の人気を推すべきである。\n このお庇に私は幼時から馬琴に親しんだ。六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士の名ぐらいは義経・弁慶・亀井・片岡・伊勢・駿河と共に諳んじていた。富山の奥で五人の大の男を手玉に取った九歳の親兵衛の名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三歳からだろうがそれより以前から拾い読みにポツポツ読んでいた。十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。(私には限らない、当時の貸本屋フワンは誰でもだったが)信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節や、荒芽山の音音の隠れ家に道節と荘介が邂逅する一条や、返璧の里に雛衣が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は全く一行をだも読まないで、何十年振りでまた読み返すとちょうど出稼人が都会の目眩しい町から静かな田舎の村へ帰ったような気がする。近代の忙だしい騒音や行き塞った苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。\n\n 二 『八犬伝』および失明後終結\n\n『八犬伝』は文化十一年、馬琴四十八歳の春肇輯五冊を発行し、連年あるいは隔年に一輯五冊または六、七冊ずつ発梓し、天保十二年七十五歳を以て終結す。その間、年を閲する二十八、巻帙百六冊の多きに達す。その気根の大なるは東西古今に倫を絶しておる。もしただ最初の起筆と最後の終結との年次をのみいうならばこれより以上の歳月を閲したものもあるが、二十八年間絶えず稿を続けて全く休息した事がない『八犬伝』の如きはない。僅かに『神稲水滸伝』がこれより以上の年月を費やしてこれより以上の巻を重ねているが、最初の構案者たる定岡の筆に成るは僅かに二篇十冊だけであって爾余は我が小説史上余り認められない作家の続貂狗尾である。もっともアレだけの巻数を重ねたのはやはり相当の人気があったのであろうが、極めて空疎な武勇談を反覆するのみで曲亭の作と同日に語るべきものではない。『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩の末魯縞を穿つあたわざる憾みが些かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠のあるは止むを得なかろう。とにかく二十八年間同じ精力を持続し、少しもタルミなく日程を追って最初の立案を(多少の変更あるいは寄道はあったかも知れぬが)設計通りに完成終結したというは余り聞かない――というよりは古今に例のない芸術的労作であろう。無論、芸術というは蟻が塔を積むように長い歳月を重ねて大きなものを作るばかりが能事ではない。が、この大根気、大努力も決して算籌外には置かれないので、単にこの点だけでも『八犬伝』を古往今来の大作として馬琴の雄偉なる大手筆を推讃せざるを得ない。" }, { "role": "assistant", "content": " 殊に失明後の労作に到っては尋常芸術的精苦以外にいかなる障碍にも打ち勝ってますます精進した作者の芸術的意気の壮んなる、真に尊敬するに余りがある。馬琴が右眼に故障を生じたのは天保四年六十七歳の八、九月頃からであったが、その時はもとより疼痛を伴わなかったのであろう、余り問題としなかったらしい。が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』をも稿を続けて連年旧の如く幾多の新版を市場に送っておる。その頃はマダ右眼の失明がさしたる障碍を与えなかったらしいのは、例えば岩崎文庫所蔵の未刊藁本『禽鏡』の(本文は失明以前の筆写であっても)失明の翌年の天保五年秋と明記した自筆の識語を見ても解る。筆力が雄健で毫も窘渋の痕が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。\n 馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかったので、一つはその頃は碌な町医者がなかったからであろう、碌な手当もしないで棄て置いたらしい。が、不自由しなかったという条、折には眼が翳んだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌即ち天保九年の)夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗に本玉とかいふ水晶製の眼鏡の価貴きをも厭はで此彼と多く購ひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳庚子即ち天保十一年の)夏に至りては只朦々朧々として細字を書く事得ならねば其稿本を五行の大字にしつ、其も手さぐりにて去年の秋九月本伝第九輯四十五の巻まで綴り果し」とあるはその消息を洩らしたもので、口授ではあるが一字一句に血が惨み出している。その続きに「第九輯百七十七回、一顆の智玉、途に一騎の驕将を懲らすといふ一段を五行或は四行の大字にものしぬるに字行もシドロモドロにて且墨の続かぬ処ありて読み難しと云へば其を宅眷に補はせなどしぬるほどに十一月に至りては宛がら雲霧の中に在る如く、又朧月夜に立つに似て一字も書く事得ならずなりぬ」とて、ただ筆硯に不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方なくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川に猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻の悲史であろう。同じ操觚に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正が水軍全滅し僅かに身を以て遁れてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友に助けられて河鯉へ落ち行く条にて、「其馬をしも船に乗せて隊兵――」という丁の終りまではシドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の媳の宗伯未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロで読み辛いが、手捜りにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏と旁が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭かれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。\n が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼が明を失ったのは九輯に差掛った頃からであるが、馬琴は著書の楮余に私事を洩らす事が少なくないに拘わらず、一眼だけを不自由した初期は愚か両眼共に視力を失ってしまってからも眼の事は一言もいわなかった。作者の私生活と交渉のなかった単なる読者は最後の『回外剰筆』を読むまでは恐らく馬琴が盲したのを全く知らなかったろう。一体が何事にも執念く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切が宜かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますます軒昂たる本来の剛愎が仄見えておる。\n 全く自ら筆を操る事が出来なくなってからの口授作にも少しも意気消沈した痕が見えないで相変らずの博引旁証をして気焔を揚げておる。馬琴の衒学癖は病膏肓に入ったもので、無知なる田夫野人の口からさえ故事来歴を講釈せしむる事が珍らしくないが、自ら群書を渉猟する事が出来なくなってからも相変らず和漢の故事を列べ立てるのは得意の羅大経や『瑯琊代酔篇』が口を衝いて出づるので、その博覧強記が決して俄仕込にあらざるを証して余りがある。\n かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴んでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。一度死んだ人間を無理に蘇生らしたり、マダ生きてるはずの人間がイツの間にかドコかへ消えてしまったり、一つ人間の性格が何遍も変るのはありがちで、そうしなければ纏まりが附かなくなるからだ。正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅に搗いた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒である原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀に見る例で、作者の頭脳の明澄透徹を証拠立てる。殊に視力を失って単なる記憶に頼るほかなくなってからでも毫も混錯しないで、一々個々の筋道を分けておのおの結末を着けたのは、例えば名将の隊伍を整えて軍を収むるが如くである。第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏の俘われを釈かれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主に謁して折からのそぼ降る雨の徒々を慰めつつ改めて宝剣を献じて亡父の志を果す一条の如き、大塚匠作父子の孤忠および芳流閣の終曲として余情嫋々たる限りなき詩趣がある。また例えば金光寺門前の狐竜の化石(第九輯巻五十一)延命院の牡丹の弁(同五十二)の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴宗の根本経典である。\n\n 三 『八犬伝』総括評\n\n だが、有体に平たくいうと、初めから二十八年と予定して稿を起したのではない。読者の限りない人気に引き摺られて次第に延長したので、アレほど厖大な案を立てたのでないのはその巻数の分け方を見ても明らかである。本来読本は各輯五冊で追って行くを通則とする。『八犬伝』も五輯までは通則通りであったが、六輯は一冊増して六冊、七輯は更に一冊加えて七冊、八輯は一度に三冊を加えて十冊とした。九輯となると上中下の三帙を予定し、上帙六冊、中帙七冊、下帙は更に二分して上下両帙の十冊とした。それでもマダ完結とならないので以下は順次に巻数を追うことにした。もし初めからアレだけ巻数を重ねる予定があったなら、一輯五冊と正確に定めて十輯十一輯と輯の順番を追って行くはずで、九輯の上だの下だの、更に下の上だの下の下だのと小面倒な細工をしないでも宜かったろうと思う。全部を二分して最初の半分が一輯より八輯まで、アトの半分が総九輯というようなコンナ馬鹿々々しい巻数附けは『八犬伝』以外には無い。これというのは畢竟、モウ五冊、モウ三冊と、次第にアトを引き摺られてよんどころなしに巻数を増したと見るほかはない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 野村は戦争中一人の女と住んでゐた。夫婦と同じ関係にあつたけれども女房ではない。なぜなら、始めからその約束で、どうせ戦争が負けに終つて全てが滅茶々々になるだらう。敗戦の滅茶々々が二人自体のつながりの姿で、家庭的な愛情などといふものは二人ながら持つてゐなかつた。\n 女は小さな酒場の主人で妾であつたが、生来の淫奔で、ちよつとでも気に入ると、どの客とでも関係してゐた女であつた。この女の取柄といへば、あくせくお金を儲けようといふ魂胆のないことで、酒が入手難になり営業がむずかしくなると、アッサリ酒場をやめて、野村と同棲したのである。\n 女は誰かしらと一緒になる必要があり、野村が一人ものだから、あなたと一緒にならうか、と言ふので、さうだな、どうせ戦争で滅茶々々になるだらうから、ぢや今から滅茶々々になつて戦争の滅茶々々に連絡することにしようか、と笑つて答へた。なぜなら、どうせ女は野村と同棲して後も、時々誰かと関係することを野村は信じて疑はなかつた。厭になつたら出て行くがいゝさ、始めから野村はさう言つて女を迎へたのである。\n 女は遊女屋にゐたことがあるので、肉体には正規な愛情のよろこび、がなかつた。だから男にとつてはこの女との同棲は第一そこに不満足、があるのだが、貞操観念がないといふのも見方によれば新鮮なもので、家庭的な暗さがないのが野村には好もしく思はれたのだ。遊び相手であり、その遊びに最後の満足は欠けてゐても、ともかく常に遊ぶ関係にあるだけでも、ないよりましかも知れないと野村は思つた。戦争中でなければ一緒になる気持はなかつたのだ。どうせ全てが破壊される。生き残つても、奴隷にでもなるのだらうと考へてゐたので、家庭を建設するといふやうな気持はなかつた。\n 女は快感がないくせに男から男と関係したがる。娼妓といふ生活からの習性もあらうが、性質が本来頭ぬけて淫奔なので、肉慾も食慾も同じやうな状態で、喉の乾きを医すやうに違つた男の肌をもとめる。身請けされて妾になるだけの容貌はあり、四肢が美しく、全身の肉づきが好もしい。だから裸体になると魅力があるのである。妙に食慾をそゝる肉体だ。だから、女がもし正規の愛情のよろこびを感じるなら、多くの男が迷つた筈だが、一人も深入りした男がない。男を迷はす最後のものが欠けてゐた。\n お客の中には相当迷つて近づく男もゐたけれども、女と交歩ができてみると、却つて熱がさめてくるのはそのせゐで、女は又執念深い交渉が嫌ひのたちだから、その方を好んでゐた。熱愛されることがなく、一応可愛がられるだけの自分の宿命を喜んでをり、気質的にも淫奔だが、アッサリしてゐた。\n 小柄な、痩せてゐるやうで妙に肉づきのよい、鈍感のやうで妙に敏活な動きを見せる女の裸体の魅力はほんとに見あきない。情感をそゝりたてる水々しさが溢れてゐた。それでゐて本当のよろこびを表はさないといふのだから、魂のぬけがらといふやうなものだが、一緒に住んでみると、又、別なよろこびも多少はあつた。女が快感を現さないから野村も冷静で、彼は肉感の直接の満足よりも、女の肢体を様々に動かしてその妙な水々しさをむさぼるといふ喜びを見出した。女は快感がないのだから、しまひには、うるさがつたり、怒つたりする。野村も笑ひだしてしまふのである。\n かういふ女であるから、世間並の奥様然とをさまることも嫌ひであるが、配給物の行列などは大嫌ひで、さほどの大金も持たないのだが景気よく闇の品物を買入れて、大いに御馳走してくれる。料理をつくることだけは厭がらず、あれこれと品数を並べて野村が喜んで食べるのを気持良ささうにしてゐる。さういふ気質は可憐で、浮気の虫がなければ、俺には良い女房なのだがな、と野村は考へたりした。\n「戦争がすむと、あたしを追ひだすの?」\n「俺が追ひだすのぢやなからうさ。戦争が厭応なしに追ひだしてしまふだらうな。命だつて、この頃の空襲の様子ぢや、あまり長持ちもしないやうな形勢だぜ」\n「あたし近頃人間が変つたやうな気がするのよ。奥様ぐらしが板についてきたわ。たのしいのよ」\n 女は正直であつた。野村は笑ひだすのだが、女の気付かぬ事の正体を説明してやらなかつた。そして女の可憐さをたのしんだ。\n「奥様ぐらしが板についたなら、肉体のよろこびを感じてくれるといゝのだがね」\n 野村はをかしさにまぎれて、笑ひながらうつかり言つてしまつたのだが、女の表情が変つてしまつた。\n 表情の変つたあげくに、女はたうとうシク〳〵と泣きだしたのである。\n「悪いことを言ひすぎたね。許してくれたまへ」\n けれども女は怒つたのではなかつた。女は泣きながら、泪のたまつた目でウットリと野村をみつめて、祈るやうに、さゝやいた。\n「ゆるしてちやうだいね。私の過去がわるいのよ。すみません。ほんとに、すみません」\n 女は野村の膝の上へ泣きくづれてしまつた。野村はその可憐さに堪へかねて、泣きぢやくる女に口づけした。泪のやうに口もぬれ、その感触が新鮮であつた。野村は情感にたへかねて、女を抱きしめた。女は泣き、身もだへて、逆上する感激をあらはし、背が痛むほど野村を抱きしめて離さなかつたが、然し、肉体そのものの真実の感動とよろこびはやはり欠けてゐたのである。野村は心に絶望の溜息をもらしたが、それを女に見せないやうに努めた。けれども女はそれに気付いてゐるのである。なぜなら、亢奮のさめた女の眼に憎しみが閃いて流れたのを野村は見逃さなかつたから。\n\n ★\n\n 野村の住む街のあたりが一里四方も焼け野になる夜がきた。何がさて工場地帯であるから、ガラ〳〵いふ焼夷弾はふりしきり、おまけに爆弾がまざつてゐる。四方が火の海になつた。前の道路を避難の人々が押しあひへしあひ流れてゐる。\n「僕らも逃げるとするかね」\n「えゝ、でも」\n 女の顔には考へ迷ふ翳があつた。\n「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」\n「死にたくないよ。例のガラ〳〵落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね」\n「私もさうなのよ。でも、あなた」\n 女の顔に必死のものが流れた。\n「私、この家を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」\n そのときガラ〳〵音がすると、女は野村の腕をひつぱつて防空壕の中へもぐつた。抱きしめた女の心臓は恐怖のために大きな動悸を打つてゐた。からだも怯えのためにかたくすくんでゐるのである。なんといふ可愛い、そして正直な女だらうと野村は思つた。この女のためには、どういふ頼みでもきいてやらねばなるまい、と野村は思つた。そして彼は火に立ち向ひ、死に立ち向ふ意外な勇気がわきでたことに気がついた。\n「よろしい。君のために、がんばるぜ、まつたく、君のために、さ」\n「えゝ。でも、無理をしないで。気をつけて」\n「ちよつと、矛盾してゐるぜ」\n と、野村はひやかした。溢れでる広い大きな愛情と落付をなつかしく自覚した。諸方の水槽に水をみたし、家の四方に水をかけた。女もそれに手伝つた。二人はすでに水だらけだつた。火はすでに近づいてゐる。前後左右全部である。大きすぎる火であつたが、いよいよ隣家へ燃えうつると、案外小さな、隣家だけのものであり、火の海の全部を怖れる必要がないといふ確信がわいた。\n 野村はそれほど活躍したといふ自覚をもたないうちに、隣家の火勢は衰へ、そして二人の家は焼け残つた。一町四方ほどを残して火の海であるが、その火の海はもはや近づいてこなかつた。\n「どうやら、家も命も、助かつたらしいぜ」\n 女はカラのバケツを持つたまゝ、庭の土の上に仰向けに倒れてゐた。精根つきはてたのである。野村も精根つきはてゝゐた。\n「疲れたね」\n 女はかすかに首を動かすだけだつた。疲労困憊の中では、せつかくの感動も一向に力がこもらない。けれども、ふと、涙が流れさうな気持になつた。それで、ふと、女の顔を見たい気持になつたのだが、のぞきこむやうに女の顔を見ると、\n「あなた」\n 女は口を動かした。死んだやうに疲れてゐた。野村もいつしよに土肌にねて、女に口づけをすると、\n「もつと、抱いて。あなた。もつと、強く。もつと、もつとよ」\n「さうは力がなくなつたんだよ」\n「でも、もつとよ、あなた、私、あなたを愛しているわ、私、わかつたわ。でも、私のからだ、どうして、だめなのでせう」\n 女は迸るやうに泣きむせんだ。野村が女を愛撫しようとすると、\n「いや。いや、いや。私、あなたにすまないのよ。私、死ねばよかつた。ねえ、あなた、私達、死ねばよかつたのよ」\n 然し、野村は、さして感動してゐなかつた。感動はあつたが、そのあべこべの冷やかなものもあつたのである。\n いつも一時的に亢奮し、感動する女なのである。今日の女は可愛い。然し、浮気の本性は、どうすることも出来る女ではない。\n\n ★" }, { "role": "assistant", "content": "\n 女は遊ぶといふことに執念深い本能的な追求をもつてゐた。バクチが好きである。ダンスが好きである。旅行が好きである。けれども空襲に封じられて思ふやうに行かないので、自転車の稽古をはじめた。野村も一緒に自転車に乗り、二人そろつて二時間ほど散歩する。それがたしかに面白いのである。\n 交通機関が極度に損はれて、歩行が主要な交通機関なのだから、自転車の速力ですら新鮮であり、死相を呈した焼け野の街で変に生気がこもるのだ。今となつては馬鹿げたことだが、一杯の茶を売る店もなく、商品を売る商店もなく、遊びのないのがすでに自然の状態の中では、自転車に乗るだけで、たのしさが感じられるのであつた。\n 女は亢奮と疲労とが好きなので、自転車乗りが一きは楽しさうであり、二人は遠い町の貸本屋で本を探して戻るのである。その貸本がすでに数百冊となり、戦争がすんだら私も貸本屋をやらうかなどと女は言ひだすほどになつてゐる。\n 野村には明日の空想はなかつた。戦後の設計などは何もない。その日、その日があるだけだ。\n 諸方が占領され戦争が行はれてゐるとき、いくらかの荷物をつみ、女と二人で自転車を並べて山奥へ逃げる自分の姿を本当に考へこんでゐたのである。彼は自転車につむわづかな荷物の内容に就いてまであれこれと考へてゐた。途中で同胞の敗残兵に強奪されたり、女が強姦されることまで心配してゐた。\n 悲しい願ひだと野村は思つた。すると彼は日本人がみんな死に、二人だけが生き残りたいとヤケクソに空想した。さうすれば女も浮気ができないだらう。\n けれども彼はそれほど女に執着してゐるのでもない。然し、事実は大いに執着してゐるのではないかと疑るときがあつた。なぜなら、戦争により全てが破壊されるといふハッキリした限界があるので、愛着にもその限定が内々働き、そして落付いてゐられるのではないか、と思はれたからである。なに、戦争の破壊を受けずに生き残ることができれば、もつと完全な女を探すまでだ。この不具な女体に逃げられるぐらゐ平気ぢやないかと思ふ。\n その不具な女体が不具ながら一つの魅力になりだしてゐる。野村は女の肢体を様々に動かしてむさぼることに憑かれはじめてゐたのである。\n「そんなにしてはいやよ」\n 彼は女の両腕を羽がひじめにして背の方へねぢあげた。情慾と憎しみが一つになり、そのやり方は狂暴であつた。\n「痛、々、何をするのよ」\n 女はもがかうとしても駄目だつた。そして突然ヒイーといふ悲鳴をだした。野村は更にその女の背を弓なりにくねらせ、女の首をガク〳〵ゆさぶつた。女は歯をくひしばつて苦悶した。そして、ウ、ウ、ウといふ呻きだけが、ゆさぶれる首からもれた。\n 彼は女を突き放したり、ころがしたり、抱きすくめたりした。女は抵抗しなかつた。呻き、疲れ、もだえ、然し、むしろ満足してゐる様子でもあつた。けれども女の快感はやつぱりなかつた。そして情慾の果に、野村を見やる女の眼には憎しみがあつた。そして情慾とは無関係な何かを思ふ白々しい無表情があつた。\n 野村はその無表情の白々とした女の顔を変に心に絡みつくやうに考へふけるやうになつた。一言にして言へば、その顔が忘れかねた。その顔に対する愛着は、女の不具な感覚自体を愛することを意味してゐた。\n\n ★\n\n 戦争の終る五日前に野村は怪我をした。\n 原子爆弾の攻撃がはじまつたので、愈々死ぬ日もまじかになつたらしいな、と思つた。けれども生きたい希望は強かつた。そこで防空壕の修理を始めた。焼跡の土台石を貰つてきて防空壕の四周に壁をつくりたしてゐたのである。その石が五ツくづれて野村の足の上へぢり〳〵圧してきた。上の一つだけ手で抑へたが、下から崩れてきたので防ぐ法がない。怺へると足が折れると直覚したので、出来るだけ静かにぢり〳〵と後へ倒れた。足は素足であつた。石は膝の骨まで食ひこんでゐた。経験したことのない激痛の中に絶望しようとする心と意志とがあつた。塀の外を人の跫音がしたので救ひをもとめようとしたが、その人が何事かと訊きかへし、了解して駈けつけてくれるまでの時間には足が折れると思つた。彼は一つづゝ石をはねのけ始めた。石は一ツ十五貫あり、尻もちをついた姿勢ではねのけるには異常の力が必要だつた。全部の石をとり去ることができたとき、彼はめまひと喪失を感じかけたが、意志の力が足の骨折を助けたことに満足の気持を覚えた。それと同時に、歩行に不自由では愈々戦争にやられる時も近づいたやうだと思つた。そして、始めて女を呼んだ。そして、リヤカーにのせられて病院へ行つた。\n 終戦の日はまだ歩くことができなかつた。\n 生きて戦争を終り得ようとは! 傷の苦痛が生々しいので、その思ひは強かつた。けれども、愈々女とはお別れだな、この傷の治らぬうちに多分女はどこかへ行つてしまふだらう、と考へた。それはさして強烈な感情をともなはなかつた。\n「戦争が終つたんだぜ」\n「さういふ意味なの?」\n 女はラヂオがよくきゝとれなかつたらしい。\n「あつけなく済んだね。俺も愈々やられる時が近づいたと本当に覚悟しかけてゐたのだつたよ。生きて戦争を終つた君の御感想はどうです」\n「馬鹿々々しかつたわね」\n 女はしばらく捉へがたい表情をしてゐた。たぶん女も二人の別離について直感するところがあつたらうと野村は思つた。\n「ほんとに戦争が終つたの?」\n「ほんとうさ」\n「さうかしら」\n 女は立つて隣家へきゝにでかけた。一時間ほども隣組のあちこちを喋り廻つて戻つてきて、\n「温泉へ行きませうよ」\n「歩けなくちや、仕様もない」\n「日本はどうなるのでせう」\n「そんなこと、俺に分るものかね」\n「どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが」\n「欲しいね」\n 女は紅茶をつくつて持つてきた。野村が起きようとすると、\n「飲ましてあげるから、ねてゐてちやうだい。ハイ、めしあがれ」\n「いやだよ、そんな。子供みたいに匙に半分づゝシャぶつてゐられるものか」\n「かうして飲んで下さらなければ、あげないから。ほんとに、捨てちやうから」\n「つまらぬことを思ひつくものぢやないか」\n「病気で、おまけに戦争に負けたから、うんと可愛がつてあげるのよ。可愛がられて、おいや」\n 女は口にふくんで、野村の口にうつした。\n「今度はあなたが私に飲ましてちやうだいよ。ねえ、起きて、ほら」\n「いやだよ。寝たり起きたり」\n「でもよ、おねがひだから、ほら、あなたの口からよ」\n 女はねて、うつとり口をあけてゐる。女は小量の紅茶をいたはるやうに飲んで口のまはりを甜めた。まぶしさうに笑つてゐる。\n「ねえ、あなた。この紅茶に青酸加里がはいつてゐたら、私達、もう死んだわね」\n「いやなことを言はないでくれ」\n「大丈夫よ。入れないから。私ね、死ぬときの真似がしてみたかつたのよ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " T市での情事は、ヴェリチャーニノフのほうがすっかりのぼせあがって、ほとんど狂氣せんばかりになったところで、いきなり破れてしまった。自分が『幣履のごとく』振り棄てられたとはつゆ氣づかずに彼が發って行くようにと、萬事は巧みに仕組まれていたとはいえ、底を割って言えば、手もなくぽいとほうり出されたのに違いなかった。それにはこんないきさつがあった。――彼が立去る一と月半ほど前のこと、幼年學校を出たばかりの子供みたいな砲兵士官がひょっこりT市にあらわれて、トルーソツキイ家へ出入りをするようになった。そこで三人組が變じて四人組になったのである。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナはこの乳くさい少年士官を愛想よく迎え入れたが、それはまるで子供でもあやすような態度だった。ヴェリチャーニノフは何一つ完全に氣づかずにいたし、またそのころだしぬけに一時的とはいえ、とにかく別れ話を切り出されたのであって見れば、感づくの感づかぬの騷ぎではなかったのだ。その時、彼が是非とも大至急にT市を立退かなければならぬ理由として、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナが數えたてた無慮無數の理由のなかには、どうやら姙娠したような氣がするということもはいっていた。だからよし三月でも四月でも、とにかく至急に一時身をかくしてもらわなければ困る、そうすれば後日になって妙な噂が立ったにしても、何ぶん九カ月もたったあとのことであって見れば、夫が何かの疑いをはさむ餘地がよほど少なくなるはずだ――というのである。どうもかなり牽強附會な論法であった。ついでヴェリチャーニノフのほうから、いっそパリかアメリカへ駈落ちしようという亂暴な提案が持ち出されたのち、彼は孤影悄然とペテルブルグへ立ち去ったのだった。『何の疑念もいだかずほんの一時のつもりで』――つまりたかだか三月ぐらいのつもりだったのである。それでなかったらたといどんな理由を並べたてられ、どんな理窟で押してこられたところで、彼は立去らなかったに相違ない。それからちょうど二カ月して、彼はペテルブルグでナターリヤ・ヴァシーリエヴナからの手紙を受取ったが、それには二度と再び歸って來てくださるな、今ではもう他の男を愛しているからとあった。また例の姙娠については、あれは自分の思い違いだったとしてあった。今さら思い違いだなどと報らせてもらうまでもなく、彼にはすでに何もかも明瞭だった。例の少年士官を思い出したのである。という次第で、事は永遠に終りを告げてしまった。それからまた數年して彼は、バガウトフなる者が登場して、まる五年のあいだ居坐っていたという話をふと風の便りに耳にした。今までになくこの關係が長つづきをしたという事實について、彼がくだしたいろんな解釋のなかには、てっきりあのナターリヤ・ヴァシーリエヴナももうよほど老けてしまったのだな、それで昔よりしつこくなってるんだな、という考えも加わっていた。\n 彼は一時間ちかくも寢臺のうえに坐り込んでいた。やがてふとわれに返ると、ベルを押してマーヴラに珈琲を持って來させ、急いで飮みほし、着物を着て、十一時きっかりに宿の門を出てポクロフ寺をめざした。例のポクローフスキイ・ホテルを探そうというのである。そのポクローフスキイ・ホテルなるものについても、今ではもう昨夜と違った、一種特別の謂わば朝の感じともいうべきものが彼の胸に形作られていた。なかんずく昨夜の自分のパーヴェル・パーヴロヴィチに對する態度を思うと、われながら幾ぶん氣恥かしいほどだった。まずこの氣持をなんとか解決しなければならなかった。\n 戸口の錠前についての昨夜のいろんな幻想は、偶然の暗合だとか、パーヴェル・パーヴロヴィチが酩酊のていだったこととか、まだなんとかかんとか理窟を持ち出して説明をつけていた。ところがなんだって自分が今、あの女のもとの亭主のところへ、せっかくこうして二人のあいだにあったことは殘らずきわめて自然にひとりでに結着がついてしまっているものを、今さらまた新らしい關係をつけに出かけて行くのか――ということになると、正直のところ彼にははっきりした解釋がつき兼ねるのだった。彼は何物かに吸い寄せられているのだ。あの時彼は何か一種特別な印象を受けとり、その印象のお蔭で、こうして吸い寄せられて行くのだ。......\n\n\n五 リーザ\n\n パーヴェル・パーヴロヴィチは『まいて逃げ』ようなどとは考えてもいなかったし、それにまたなんだって昨夜ヴェリチャーニノフが彼にそんなことを訊いたのやら、それは神樣しか御存じあるまい。何しろ當の本人にも、どうした譯やらさっぱり見當がつかないのである。ポクロフ寺のそばの小店で行き當りばったりに尋ねて見たら、ポクローフスキイ・ホテルならついそこのあの横町だと教えてくれた。そこでホテルに行くと、トルーソツキイさんは、このごろこの中庭につき出ている翼屋のマリヤ・スィソエヴナの家具つきの部屋に『御逗留中で』という挨拶だった。鼻のつかえそうな、ぼちゃぼちゃと水の撒いてある、ひどく不潔な石の梯子段をつたわって、その教えられた部屋のあるという翼屋の二階へあがって行くと、彼はふと人の泣聲を耳にした。泣いているのは七つか八つの子供らしかった。いかにも苦しそうな泣聲で、押し殺そうとしながら、しかもあとからあとからとこみ上げてくる歔欷なのである。それとともに地團駄を踏む音と、やはり押し殺してはいるが、はげしい怒りに燃えたどなり聲――わざと嗄れた裏聲を出してはいるけれど、明瞭に大人の男聲である――が聞こえた。その大人は泣き叫ぶ子供を鎭めようとしているらしく、その泣聲が外に漏れるのをひどく苦にしている樣子だったが、そのくせ自分のほうが子供よりひどくがなり立てるのだった。それは無慈悲などなり聲で、子供のほうはまるで泣きながら赦しを願っている風に思えた。階段をあがりきると小さな廊下で、兩側にそれぞれ二つの戸口があった。ヴェリチャーニノフはそこで、でっぷり肥った、背の高い、なりふり構わず髮をばさばさにした女房に逢ったので、パーヴェル・パーヴロヴィチの住居はどこかと尋ねて見た。すると彼女は、泣聲の漏れてくる戸口を指して見せた。この四十女のでっぷりと赤黒い顏には、何か忌々しげな色があった。\n「ほれまあ、大した道樂もあったものさあね!」そんな口小言をいいながら、女はさっさと梯子段のほうへ行ってしまった。ヴェリチャーニノフはノックしようと思ったが、思い返していきなり案内もなしにパーヴェル・パーヴロヴィチのドアをあけた。あまり廣くはない部屋には、粗末な色塗りの家具が亂暴に、しかし豐富に並べ立てられてい、その眞中にパーヴェル・パーヴロヴィチが服を着かけたところと見え、まだ上着もチョッキもなしの姿で突っ立っていた。興奮のあまり滿面に朱を注いで、どなりつけたり、手ぶり身ぶりを使ったり、それのみかおそらく(とヴェリチャーニノフには思われた)足蹴にかけてまで、まだ八つばかりのいたいけな女の子を、押し默らせようとしているところであった。女の子にはお孃さん然と黒い毛織の短い子供服が着せてあったが、一見してみすぼらしい代物に違いなかった。彼女はまぎれもないヒステリーの發作をおこしているらしく、ヒステリックにしきりにしゃくり上げながら、兩手をパーヴェル・パーヴロヴィチのほうへ差し伸べている。その樣子は、彼のからだにすがりつき、抱きついて、何ごとかを哀訴し哀願しようとしているらしいふうである。と、一瞬にしてがらりと場景が一變してしまった。客の姿をみとめると、女の子はきゃっと一こえ叫んで、隣の小部屋へ矢のような勢で駈けこんでしまうし、パーヴェル・パーヴロヴィチのほうは一瞬間、思い惑うふうに見えたが、たちまち顏じゅうが例の微笑に溶けこんでしまった。ちょうど昨夜、階段口に突っ立っていた彼の鼻先へ、いきなりヴェリチャーニノフがドアをあけはなした時に見せた微笑と、寸分たがわぬ微笑であった。\n「これはアレクセイ・イヴァーノヴィチ!」と彼は意外に堪えんといった聲で叫んだ、「まさかあなたがおいでくださろうとは......とにかくまあこちらへ、こちらへどうぞ! ま、その安樂椅子におかけください、それともこっちの肱掛椅子になさいますか。私はちょっと御免を蒙って......。」\n そして彼は、チョッキを着るのを忘れて、いきなり上着をひっかけた。\n「まあ他人行儀はおよしなさい、どうかそのままで」と言いながら、ヴェリチャーニノフは木の椅子に腰をおろした。\n「いや、その段じゃありません、とんだ恰好を御覽に入れて。さあこれでどうやら恰好がつきました。おや、あなたはまたなぜそんな隅っこへなんぞ? さあこちらへ、この肱掛椅子にどうぞ、テーブルのそばへお寄りなすって......。いやまったく思いがけませんでしたよ、あなたがいらしてくださろうとは!」\n そう言いながら、彼のほうでも籐椅子の端っこへ腰をおろしたが、ヴェリチャーニノフと肩を並べる位置にではなく、この『思いがけぬ』客の顏がよく見えるように、長椅子をくるりと半囘轉させたのである。\n「思いがけないなんて、なぜです? ちょうど今ごろお伺いすると、昨夜ちゃんとお約束しといたじゃありませんか?」\n「來てはくださるまいと思ったのです。今朝目がさめて、昨夜のことを殘らず思い返して見ましたら、もうとても、おそらく永遠に、あなたにお目にかかれる望みも絶えた、とそんなふうに思われたんですよ。」\n ヴェリチャーニノフはそのあいだにぐるりを見𢌞した。部屋のなかは雜然たる有樣で、床は取りっぱなしになっているし、着物はそこらに脱ぎっぱなしだし、テーブルのうえには飮み乾した珈琲カップがあるかと思えば、パン片がころがっている、まだ半分も飮んでないシャンパンの壜が、栓もせずに立っている横には、コップも伏せずにあるといった始末であった。彼は横目でちらりと隣室を盜み見たが、そこではこそりとも音はしなかった。女の子はかくれたまま、じっと息を殺しているらしい。\n「これを飮ってらっしゃるところじゃなかったんですか?」とヴェリチャーニノフはシャンパンを指さした。\n「昨夜の飮み殘しですよ......」とパーヴェル・パーヴロヴィチはへどもどした。" }, { "role": "assistant", "content": "「いや、まったくあなたは變りましたなあ!」\n「じつは、ひょいとこんな惡い癖がつきましてね。まったく妻が亡くなってからのことなんです。嘘は申しませんよ! なんとも我慢ができんのでしてね。ですが今日は御心配には及びませんよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、大丈夫今日は醉っちゃおりませんし、したがって昨夜お宅でやったような管を卷く氣づかいはありませんからね。とにかく正直の話が、こんなことはみんな妻が亡くなって以來のことなんですよ! まったく假りに半年前に誰かが、私がやにわに心をもち崩して今日のようなぐうたらになると言ったところで、またその私の姿を鏡に映して見せてくれたにしたところで、とても本氣にしやしなかったに違いないでさ!」\n「じゃあなたは、昨夜は醉ってらしたんですね?」\n「じつはね」とパーヴェル・パーヴロヴィチは小聲で白状して、やり場に窮した眼を伏せた、「ですが、本當をいうとあれは醉いの絶頂じゃなくて、幾ぶんもう下り坂だったんですよ。私がそれを申すのはつまり、私の酒はあとのほうがむしろ惡いということがわかって頂きたいからなんです。酒っ氣はもう幾らも殘っていない、そのくせ一種殘忍な氣分と無分別な氣持だけは尾をひいている、おまけに悲哀という奴が一そう身にしみて感じられる、とまあそういった工合で。もっとも悲しいからこそ飮むんでしょうけどね。そうなるともう私は、愚にもつかん厭がらせでもなんでもどしどしとやってのけるようになるんですし、人に赤恥をかかせるぐらい平氣の平左です。昨夜はさだめし、よほど變なところをお目にかけたでしょうね?」\n「覺えがないと仰しゃるんですか?」\n「覺えがないどころか、殘らず知っていますよ......。」\n「そら御覽なさい、パーヴェル・パーヴロヴィチ、私もてっきりそんなことだろうと思って、そう解釋していたんですよ」とヴェリチャーニノフは和解するような口調で言った。「それに私も、昨夜はあなたの前で少々激しすぎましたよ......おまけに妙にいらいらして失禮でした。これははっきり白状させてもらいます。じつは時にどうも氣分のよくないことがあるんでして、そこへあなたがいきなり眞夜中に見えたものだから......。」\n「そうそう、眞夜中でしたからねえ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、さも驚いたように、また自分を非難するように、頭を振りながら言った、「まったくなんという魔がさしたもんでしょうなあ! あなたのほうでドアをあけてさえくださらなけりゃ、私は決してお寄りはしなかったはずなんですよ。戸口のところで引き返したに違いないんです。じつはね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、私は一週間ほど前にも一度お訪ねしたことがあるんですがね、あいにくお留守だったんです。で、とにかくもう二度とお訪ねはしないはずだったんです。こう見えても私だって多少の自尊心はありますものね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。現在自分がこんな......境涯になっているとは百も承知でいながら、やっぱり拔け切れないものでしてね。往來でちょいちょいお目にかかった時にも、私はいつもこんなふうに考えていたのです――『私だということがわからんはずがない、だのに外方を向いて行く、なるほど九年の歳月は爭われんものだ』とね。ですからおそばへ寄ってみようという氣にもなれなかったのです。ところが昨夜ペテルブルグスカヤ區を振り出しにぶらぶら歩き𢌞っているうちに、つい時間まで忘れちまったのです。みんなこれと(と彼は酒壜を指さした)、それから感情のさせたことなんです。いやはやなんともはや、馬鹿げた話でして! ですから、もしこれがあなたのようなかたでなかったら、――だってあなたは、昨夜のような醜態があったにもかかわらず、昔の友誼に免じてこのとおり訪ねて來てくだすったですものね、――私には定めし、昔の交誼を結び直そうという希望も失せてしまったに違いないのです。」\n ヴェリチャーニノフはじっと耳を澄ましていた。この男は打ち見たところ、誠意をもって一種の權威をさえもって、語っているらしい。それにしても彼は、そもそもこの部屋へはいって來た瞬間から、この男の言うことには何一つ信を置いてはいなかったのである。\n「ときに、パーヴェル・パーヴロヴィチ、するとあなたは、一人ずまいというわけでもないんですね。さっきあなたのそばにいたあの娘さんは、あれは誰のお子さんなんですか?」\n パーヴェル・パーヴロヴィチはむしろこの問いが意外だといった面持ちで眉を釣り上げたが、そのくせ晴々と樂しげな眸でヴェリチャーニノフを眺めた。\n「誰の娘かって仰しゃるんですか、驚きましたね。あれはリーザじゃありませんか!」と、彼は人懷こい微笑を浮かべて口走った。\n「リーザというと?」ヴェリチャーニノフは呟き返したが、その瞬間不意にどきりと胸にこたえたものがあった。あまりにも突然な衝撃だった。先刻この部屋へはいって來てちらとリーザの姿を認めた時も、意外の感はあるにはあったが、とはいえ豫感だとか特別な想念だとかいうものは、爪の先ほども浮かんではこなかったのである。\n「そうですよ、うちのリーザですよ、うちの娘のリーザですよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチはにこにこした。\n「娘さん? じゃあなたとナターリヤさん......亡くなられたナターリヤ・ヴァシーリエヴナとのあいだには、お子さんがあったと仰しゃるんですか?」おずおずとさも訝かしげにヴェリチャーニノフは問い返したが、その聲はもうほとんどひそひそ聲に近かった。\n「なんだってまたそんな? あ、そうでしたか、なるほどこりゃあ、あなたのお耳にはいるわけはないはずでした! まったく私は何をぼやぼやしてたんだろう! あの子を授かったのは、あなたがお發ちのあとのことでしたものなあ!」\n パーヴェル・パーヴロヴィチは妙に興奮して、椅子から跳びあがったほどだった。とはいえそれはやっぱり嬉しさのあまりだったらしい。\n「私はちっとも知らなかった」とヴェリチャーニノフは言って、さっと蒼くなった。\n「ごもっともです、ごもっともです、まったくお耳にはいるはずはありませんよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは感動に聲をくもらして、おなじ文句をくり返した、「あなたも覺えておいででしょうが、私も亡妻も、もうとても子供はできないものと、二人して諦めておりましたのですよ。そこへ思いがけなく神樣のお惠みがあったわけです。その時の私の氣持といったら、これは神樣にしかわかっては頂けませんよ! たしかあれは、あなたがお發ちになって、ちょうど一年してからだったでしたな! いやそれとも、いや一年じゃない、とてもそうはならない、ちょっとお待ちください。あの時あなたがお發ちになったのは、私の覺え違いでなければ、たしか十月でしたな、それとももう十一月にはいってからでしたかな?」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "打忍び、涙流しぬ。\n\n日高なるアイヌの君の\n行先ぞ気にこそかかれ。\nひょろひょろの夷希薇の君に\n事問へど更にわからず。\n四日前に出しやりたる\n我が手紙、未だもどらず\n返事来ず。今の所は\n一向に五里霧中なり。\nアノ人の事にしあれば、\n瓢然と鳥の如くに\n何処へか翔りゆきけめ。\n大したる事のなからむ。\nとはいへど、どうも何だか\n気にかかり、たより待たるる。\n\n北の方旭川なる\n丈高き見習士官\n遠からず演習のため\n札幌に来るといふなる\nたより来ぬ。豚鍋つつき\n語らむと、これも待たるる。\n\n待たるるはこれのみならず、\n願くは兄弟達よ\n手紙呉れ。ハガキでもよし。\n函館のたよりなき日は\n何となく唯我一人\n荒れし野に追放されし\n思ひして、心クサクサ、\n訳もなく我がかたはらの、\n猫の糞癪にぞさわれ。\n\n猫の糞可哀相なり、\n鼻下の髯、二分程のびて\n物いへば、いつも滅茶苦茶、\n今も猶無官の大夫、\n実際は可哀相だよ。\n\n札幌は静けき都、\n秋の日のいと温かに\n虻の声おとづれ来なる\n南窓、うつらうつらの\n我が心、ふと浮気出し、\n筆とりて書きたる文は\n見よやこの五七の調よ、\n\n其昔、髯のホメロス\nイリヤドを書きし如くに\nすらすらと書きこそしたれ。\n札幌は静けき都、夢に来よかし。\n\n 反歌\n白村が第二の愛児笑むらむかはた\n泣くらむか聞かまほしくも。\nなつかしき我が兄弟よ我がために\n文かけ、よしや頭掻かずも。\n北の子は独逸語習ふ、いざやいざ\n我が正等よ競駒せむ。\nうつらうつら時すぎゆきて隣室の\n時計二時うつ、いざ出社せむ。\n 四十年九月二十三日\n 札幌にて 啄木拝\n並木兄 御侍史\n\n 無題\n\n一年ばかりの間、いや一と月でも\n一週間でも、三日でもいい。\n神よ、もしあるなら、ああ、神よ、\n私の願ひはこれだけだ。どうか、\n身体をどこか少しこはしてくれ痛くても\n関はない、どうか病気さしてくれ!\nああ! どうか......\n\n真白な、柔らかな、そして\n身体がフウワリと何処までも――\n安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団の上に、いや\n養老院の古畳の上でもいい、\n何も考へずに(そのまま死んでも\n惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい!\n手足を誰か来て盗んで行っても\n知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!\n\nどうだらう! その気持は! ああ。\n想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著てゐる\nこの著物を――重い、重いこの責任の著物を\n脱ぎ棄てて了ったら(ああ、うっとりする!)\n私のこの身体が水素のやうに\nふうわりと軽くなって、\n高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀だ」\n下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!\n ――――――――――――――\n死だ! 死だ! 私の願ひはこれ\nたった一つだ! ああ!\n\nあ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、\nありがたい神様、あ、ちょっと!\n\nほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!\n殺すくらゐのお慈悲があるなら!\n\n 新らしき都の基礎\n\nやがて世界の戦は来らん!\n不死鳥の如き空中軍艦が空に群れて、\nその下にあらゆる都府が毀たれん!\n戦は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!\n然る後、あはれ、然る後、我等の\n『新らしき都』はいづこに建つべきか?\n滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。\n土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ\n定まりも区別もなき空気の中に\n果て知れぬ蒼き、蒼き空の下に!\n\n 夏の街の恐怖\n\n焼けつくやうな夏の日の下に\nおびえてぎらつく軌条の心。\n母親の居睡りの膝から辷り下りて、\n肥った三歳ばかりの男の児が\nちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。\n\n八百屋の店には萎えた野菜。\n病院の窓の窓掛は垂れて動かず。\n閉された幼稚園の鉄の門の下には\n耳の長い白犬が寝そべり、\nすベて、限りもない明るさの中に\nどこともなく、芥子の花が死落ち、\n生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。\n\n病身の氷屋の女房が岡持を持ち、\n骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、\n横町の下宿から出て進み来る、\n\n夏の恐怖に物言はぬ脚気患者の葬りの列。\nそれを見て辻の巡査は出かかった欠呻噛みしめ、\n白犬は思ふさまのびをして、\n塵溜の蔭に行く。\n\n 起きるな\n\n西日をうけて熱くなった\n埃だらけの窓の硝子よりも\nまだ味気ない生命がある。\n\n正体もなく考へに疲れきって、\n汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる\nまだ若い男の口からは黄色い歯が見え、\n硝子越しの夏の日が毛脛を照し、\nその上に蚤が這ひあがる。\n\n起きるな、超きるな、日の暮れるまで。\nそなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。\n\n何処かで艶いた女の笑ひ声。\n\n 事ありげな春の夕暮\n\n遠い国には戦があり......\n海には難破船の上の酒宴......\n\n質屋の店には蒼ざめた女が立ち、\n燈火にそむいてはなをかむ。\n其処を出て来れば、路次の口に\n情夫の背を打つ背低い女――\nうす暗がりに財布を出す。\n\n何か事ありげな――\n春の夕暮の町を圧する\n重く淀んだ空気の不安。\n仕事の手につかぬ一日が暮れて、\n何に疲れたとも知れぬ疲れがある。\n遠い国には沢山の人が死に......\nまた政庁に推寄せる女壮士のさけび声......\n海には信夫翁の疫病......\n\nあ、大工の家では洋燈が落ち、\n大工の妻が跳び上る。\n\n 騎馬の巡査\n\n絶間なく動いてゐる須田町の人込の中に、\n絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬の巡査――\n見すぼらしい銅像のやうな――。\n\n白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜りぬけ、\n荷を積み重ねた赤い自動車が\nその鼻先を行く。\n\n数ある往来の人の中には\n子供の手を曳いた巡査の妻もあり\n実家へ金借りに行った帰り途、\nふと此の馬上の人を見上げて、\nおのが夫の勤労を思ふ。\n\nあ、犬が電車に轢かれた――\nぞろぞろと人が集る。\n巡査も馬を進める......\n\n はてしなき議論の後(一)\n\n暗き、暗き曠野にも似たる\nわが頭脳の中に、\n時として、電のほとばしる如く、\n革命の思想はひらめけども――\n\nあはれ、あはれ、\nかの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。\n\n我は知る、\nその電に照し出さるる\n新しき世界の姿を。\n其処にては、物みなそのところを得べし。\n\nされど、そは常に一瞬にして消え去るなり、\nしかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。\n\n暗き、暗き曠野にも似たる\nわが頭脳の中に\n時として、電のほとばしる如く、\n革命の思想はひらめけども――\n\n はてしなき議論の後(二)\n\nわれらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、\nしかしてわれらの眼の輝けること、\n五十年前の露西亜の青年に劣らず。\nわれらは何を為すべきかを議論す。\nされど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、\n‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。\n\nわれらはわれらの求むるものの何なるかを知る、" }, { "role": "assistant", "content": "また、民衆の求むるものの何なるかを知る、\nしかして、我等の何を為すべきかを知る。\n実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。\nされど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、\n‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。\n\n此処にあつまれる者は皆青年なり、\n常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。\nわれらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。\n見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。\nされど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、\n‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。\n\nああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、\n飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、\n若き婦人の熱心に変りはなけれど、\nその眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。\nされど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、\n‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。\n\n ココアのひと匙\n\nわれは知る、テロリストの\nかなしき心を――\n言葉とおこなひとを分ちがたき\nただひとつの心を、\n奪はれたる言葉のかはりに\nおこなひをもて語らんとする心を、\nわれとわがからだを敵に擲げつくる心を――\nしかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。\n\nはてしなき議論の後の\n冷めたるココアのひと匙を啜りて、\nそのうすにがき舌触りに\nわれは知る、テロリストの\nかなしき、かなしき心を。\n\n 書斎の午後\n\nわれはこの国の女を好まず。\n\n読みさしの舶来の本の\n手ざはりあらき紙の上に、\nあやまちて零したる葡萄酒の\nなかなかに浸みてゆかぬかなしみ。\n\nわれはこの国の女を好まず。\n\n 激論\n\nわれはかの夜の激論を忘るること能はず、\n新らしき社会に於ける「権力」の処置に就きて、\nはしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと\n我との間に惹き起されたる激論を、\nかの五時間に亙れる激論を。\n\n「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」\nかれは遂にかく言ひ放ちき。\nその声はさながら咆ゆるごとくなりき。\n若しその間に卓子のなかりせば、\nかれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。\nわれはその浅黒き、大いなる顔の\n男らしき怒りに漲れるを見たり。\n\n五月の夜はすでに一時なりき。\n或る一人の立ちて窓を明けたるとき、\nNとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。\n病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、\n雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。\n\nさてわれは、また、かの夜の、\nわれらの会合に常にただ一人の婦人なる\nKのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。\nほつれ毛をかき上ぐるとき、\nまた、蝋燭の心を截るとき、\nそは幾度かわが眼の前に光りたり。\nしかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。\nされど、かの夜のわれらの議論に於いては、\nかの女は初めよりわが味方なりき。\n\n 墓碑銘\n\nわれは常にかれを尊敬せりき、\nしかして今も猶尊敬す――\nかの郊外の墓地の栗の木の下に\nかれを葬りて、すでにふた月を経たれど。\n\n実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、\nすでにふた月は過ぎ去りたり。\nかれは議論家にてはなかりしかど、\nなくてかなはぬ一人なりしが。\n\n或る時、彼の語りけるは、\n「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。\nわれは議論すること能はず、\nされど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」\n\n「彼の眼は常に論者の怯懦を叱責す。」\n同志の一人はかくかれを評しき。\n然り、われもまた度度しかく感じたりき。\nしかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。\n\nかれは労働者――一個の機械職工なりき。\nかれは常に熱心に、且つ快活に働き、\n暇あれば同志と語り、またよく読書したり。\nかれは煙草も酒も用ゐざりき。\n\nかれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、\nかのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。\nかれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ、\nなほよく死にいたるまで譫話を口にせざりき。\n\n「今日は五月一日なり、われらの日なり。」\nこれ、かれのわれに遺したる最後の言葉なり。\nこの日の朝、われはかれの病を見舞ひ、\nその日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。\n\nああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、\nしかして、また、かの生を恐れざりしごとく\n死を恐れざりし、常に直視する眼と、\n眼つぶれば今も猶わが前にあり。\n\n彼の遺骸は、一個の唯物論者として\nかの栗の木の下に葬られたり。\nわれら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、\n「われは何時にても起つことを得る準備あり。」\n\n 古びたる鞄をあけて\n\nわが友は、古びたる鞄をあけて、\nほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、\nいろいろの本を取り出だしたり。\nそは皆この国にて禁じられたるものなりき。\nやがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、\n「これなり」とわが手に置くや、\n静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出したり。\nそは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。\n\n げに、かの場末の\n\nげに、かの場末の縁日の夜の\n活動写真の小屋の中に、\n青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中に、\n鋭くも響きわたりし\n秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。\nひょろろろと鳴りて消ゆれば、\nあたり忽ち暗くなりて、\n薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。\nやがて、また、ひょろろと鳴れば、\n声嗄れし説明者こそ、\n西洋の幽霊の如き手つきして、\nくどくどと何事を語り出でけれ。\n我はただ涙ぐまれき。\n\nされど、そは、三年も前の記憶なり。\nはてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、\n同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、\nただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、\nゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。\n――ひょろろろと、\nまた、ひょろろろと――\n\n我は、ふと、涙ぐまれぬ。\nげに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、\n今も猶昔のごとし。\n\n わが友は、今日も\n\n我が友は、今日もまた、\nマルクスの「資本論」の\n難解になやみつつあるならむ。\n\nわが身のまはりには、\n黄色なる小さき花片が、ほろほろと、\n何故とはなけれど、\nほろほろと散るごときけはひあり。\n\nもう三十にもなるといふ、\n身の丈三尺ばかりなる女の、\n赤き扇をかざして踊るを、\n見世物にて見たることあり。\nあれはいつのことなりけむ。\n\nそれはさうと、あの女は――\nただ一度我等の会合に出て\nそれきり来なくなりし――\nあの女は、\n今はどうしてゐるらむ。\n\n明るき午後のものとなき静心なさ。\n\n 家\n\n今朝も、ふと、目のさめしとき、\nわが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、\n顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、\nつとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、\n夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、\nむらさきの煙の味のなつかしさ、\nはかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――\nはかなくもまたかなしくも。\n\n場所は、鉄道に遠からぬ、\n心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。\n西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、\n高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、\n広き階段とバルコンと明るき書斎......\nげにさなり、すわり心地のよき椅子も。\n\nこの幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、\n思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを\n心のうちに描きつつ、\nランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、\nその家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、\n泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、\nそを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。\n\nさて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。\n夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に\n音立てて降るこころよさ。\nまたその隅にひともとの大樹を植ゑて、\n白塗の木の腰掛を根に置かむ――\n雨降らぬ日は其処に出て、\nかの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、\n四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の\n本の頁を切りかけて、\n食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、\nまた、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる\n村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく......\n\nはかなくも、またかなしくも、\nいつとしもなく、若き日にわかれ来りて、\n月月のくらしのことに疲れゆく、\n都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「おお、兵庫か。――先鋒へ報らせはとどいたか」\n 六坊山からすぐ取って返して来た使番の加賀見兵庫は、主人の鞍わきへ、馬をよせ、歩をそろえつつ、復命した。\n「そうか。そうか」\n と、武蔵守は、耳だけで聞きとりながら、手綱を打たせて、\n「して、六坊山の御人数は」\n「すぐ隊伍を立て直され、生牛ヶ原、金萩ヶ原と、あとに続いて参られまする」\n「さらば。第三隊の堀久太郎どのへ、われらは、かくかくに軍勢をまとめ、家康のふじヶ根山へ立ち向えば、堀どのにも、引っ返して、助勢あれと、申して来い」\n「はっ。ごめん――」\n と、前を駆け抜けて、軍より先へ出たとき、池田隊の使番二騎も、勝入から同じむねをうけて、堀隊の所在へいそいだ。\n だが、この要求が、堀秀政の容れるところとならず、使番たちが激怒して帰ったことは、さきに記した通りである。\n「秀政の云い分には......」\n と、使番の復命を、森武蔵守がうけとったのは、すでに彼の隊が、狭隘な山あいの湿地をふんで、岐阜ヶ嶽の上へ、陣場を求めようとして登りかけていた時だった。\n 金扇の馬じるし、また無数の旗さしもの。その敵は目の前の高地に近々とあった。武蔵守は、他に何の感情もうごかしてはいられなかった。\n 岐阜ヶ嶽――これへ三千の兵を上げて、森武蔵守長可は、ひとまず後続軍の、池田勝入が到着するのを、\n「待とう」\n と、きめた。\n が、大敵は、わずかな低地をへだてて、目前の山に、布陣、しずかにこっちを見ている。\n 武蔵守も、老臣の林道休や伊木清左衛門などとはかって、たちどころに備えを終り、将座をえらんで、四方を眺めた。\n 複雑な地相である。\n ここに立てば遠く東春日井平野の一端を入口として、長久手の名のごとく、山と山とに狭められたり、小平野を抱いたり、屈曲したりしながら、やがて南のはるか、岡崎へつながる三河間道が、望まれる。\n だが、視野の半ば以上は、山である。嶮峻、高岳ではないが、丘とよび、小山とよび、低山という程度の起伏の波が、春を脱いで、ようやく、木々にほの紅い芽をもっていた。\n「見えた」\n「おっ。着いた」\n 兵のうえを、歓呼に似たどよめきが走る。武蔵守は、勝入の顔を心にえがいた。\n かれも、それの望まれる位置へ足をうつした。金萩ヶ原から山道をふみ、自分がこれへ来た通りの道を、池田軍六千の旗、馬じるし、武器の穂さきも、せいせいと進んでくる。\n その幾だん、幾組にもわかれた縦隊は、やがて、こうべ狭間で、歩をとめ、すぐ前の岐阜ヶ嶽へむかって、\n(われらは来たぞ)\n と呼びかけるような、軍の表情を、ざわめかせていた。\n 使番と、使番とが、矢つぎばやに、行き交いされる。武蔵守の意中、勝入の意中、それも、いわずして、相通じた。\n 勝入の六千の兵は、ただちに二分された。\n 約四千は、そこを離れて、こおろぎ狭間の低地を北方へ出て行った。そして、田ノ尻とよぶ高地の東南面に、陣をとった。\n 陣の主将を示す、旗、馬じるしなどを望めば、それは勝入の長男紀伊守之助と、次男輝政のいることを宣明している。\n これを右翼に。森武蔵守の岐阜ヶ嶽三千の兵を左翼に。――そして勝入は、のこる二千人を擁して、予備隊のふくみを持ち、そのまま、こうべ狭間に、陣どった。\n 鶴翼の中心――やや退がったところの、尾の位置に、かれは将座をすえて、\n「敵家康は、どう出るか」\n と、大きな口をむすんでいた。\n 陽を仰ぐと、まだ辰の下刻(午前九時)ごろだ。長い。またみじかい。どッちといっていいか、たれの頭にも、時間の観念が、もういつもの日ではない。\n くちが渇く。しかし水を欲しない。いや、腰にある竹の水筒を思い出さないのだ。\n ふと、山間の無気味なしじまが、肌をしめつける。ひよどりか何か、ただ一羽、けたたましく啼いて谷をよぎる。しかしそれきりだ。鳥類はみな地を人間にゆずって他の平和な山へことごとく移動していた。かれらには、この壮大豪華をきわめての人間の演舞が、何のためにやるのか、不可解にちがいない。\n\n薫風陣\n\n 家康は、すこし猫背ぎみに見える。四十をすぎてからまた肥りかげんで、よろいをつけても、背がまろく、両肩をむっくりと、くわ形の兜の重さに、首が圧しこまれているようなあんばい。\n 采配を持っている右手も、左手のこぶしも、膝において、ひらき股に、床几へ腰うちかけた姿勢は、余りに前かがみで、何となく、威風にさわるように思われる。\n いや、この体ぐせは、平常、客と対坐しても、歩くときでも、そうなのである。反り身になっていたことがない。\n 老臣が、何かの折、それとなく注意した。すると家康は、その時は、そうかそうかとうなずいていたが、べつな日、左右の人々との夜ばなしに、こんな述懐をもらしていた。\n(何せい、わしは貧乏そだち。また、六歳の幼少より、他家へ人質にとられ、目に見るまわりの人間は、みな自分より威権のある者ばかりじゃった。自然、子どもの中でも反り身に歩かぬくせがついてしもうた。――それと、もひとつの理由は、臨済寺の寒室で勉学するにも、低い経机一ツで、せむしのようにしがみついては書を読んだ。いつの日か、今川家の人質を解かれ、自分の体が自分のものになろうぞ――と、一心にこり固まって、子どもらしい遊戯も出来なんだ......)\n かれの今川家時代。\n 家康は、みずから、その頃のことを忘れまいとしているらしく、かれの人質ばなしは、徳川家の側臣で、聞いていない者はない。\n(じゃが、のう)\n かれはなお語った。\n(――臨済寺の雪斎和尚にいわせると、禅家では、人相よりも、肩の相――肩相というものをたいへん尊ぶ。肩を見て、その人間が、正覚を得ているやいなや、できておるか、おらぬか、分るそうじゃ。威ありげに反っても、肱を張っても、肩相から観ると、だめらしい。......そこで和尚の肩相はいかにと、常々、見ておると、円光のごとく、まろい、やわらかいものじゃ。三千大世界をふところに容れんとしても、反り身では、はいらんのじゃな。対立し、突っぱり合うてしまうらしい。――で、わしはわしのクセも悪うないなと思うようになった。しかし、汝ら、いざことある時、一番首でも争わんほどな若者ばらのことではないぞよ。わしには、わしのクセというだけのもんじゃ)\n 以来、たれもかれの姿勢について、いう者はなかった。ところが、家康も四十をこえ、また貧乏名物の三河がふくれて、次第に、東海の雄たる位置になるにつれて、かれの前かがみの姿が、何となく、大きく、偉なるものを抱擁しているように見え、この姿のあるところ、百難の城中でも、苦戦の戦場でも、つねに、不壊の太柱が、でんと坐っているような力強さを、たれにも感じさせるのだった。\n 今も。\n ふじヶ根山の一端に、かれはその姿をおき、さっきから静かな目をして、見まわしていた。\n「ほ。岐阜ヶ嶽というか。――あれへ、取りついた人数は、森武蔵じゃの。さては、程なく勝入の軍勢も、どの山かに、備えるであろう。物見っ、物見の者。急いで見てこい」\n かれの令に、敵前偵察の死地をさして、わらわらと、駈け争ってゆく勇士が、幾人となく眼の下の坂に見えた。\n まもなく、物見の者は、次々と立ち帰って来て、家康に復命した。\n もとより、各個のもたらしてくる敵状は、部分部分の情況でしかない。\n 家康の耳ぶくろは、それを綜合して、あたまに、戦闘をえがいていた。\n「藤蔵は、まだ帰らぬか」\n「いかがいたしたか、まだ戻りませぬ」\n 旗本の面々も、さっきからその菅沼藤蔵ひとりが遅いのを、案じていた。\n 戦機は、熟しきっている。いつ敵から火ぶたを切るか、味方がうごくか、寸前がわからない。\n 当然――敵前偵察に行った者たちも、つばめ返しに、帰って来ているのに、若い菅沼藤蔵ひとりが、行ったきりだった。\n「捕われたか。打たれたか」\n かれを惜しむ思いが人々の眉をかすめる。\n 藤蔵は、日ごろ小姓組に籍をおいていたが、小牧出陣以来、物見組へはいっていた。\n 先ごろ、また小牧の対峙中、かれは大胆にも、秀吉方の田中砦と二重堀の附近まで入りこんで、白馬に乗った敵将一名を、部下六人で生捕りにし、重大な敵の機密を、家康のものとしたりして、家康も、しかと覚えている若者だった。\n「......おや、あれは藤蔵ではないか。そうだ、菅沼藤蔵だ。あんなことをしておる」\n 山鼻に立った諸将が指さしあって眺めている。家康も、遠くに、かれの影をみとめた。\n かれは、騎馬だった。\n その馬を、かれは降りている。\n 地点は、森武蔵勢の拠っている岐阜ヶ嶽の下――仏ヶ根池のなぎさである。馬に水を飼い、馬の脚を、水に浸けて冷やしているのだ。\n「悠長なやつ」\n と、ふじヶ根の味方には、あきれ顔もあったが、\n「いや、馬の脚を冷やしているところを見ると、よほど、あなたこなた、湿地、山坂をかまわず、駈け飛ばした揚句にちがいない。――もう帰るのだろう」\n と、その大胆さに、感嘆する者もある。\n 池は、敵の目の下だ。バシッ、バシッと、魚のはねるような白い飛沫が立つのは、その敵が、かれを狙撃している逸れ弾にちがいない。にもかかわらず、菅沼藤蔵は、やがて池へむかって、悠然と、放尿していた。\n すむと、それで一息やすめたとみえ、すぐ馬の背に返って、駈け出した。しかし味方のほうへではない。いよいよ深い敵地の中へ。\n 折ふし、勝入の子息紀伊守が、六千の兵をもって、田ノ尻へ移動したときなので、その陣容が成るのを待ち、菅沼藤蔵は、そっちへ駈けて行ったのである。" }, { "role": "assistant", "content": " 偵察は密なるものときまっているが、この時のかれは、公々然と、敵の左翼陣の前を駈けぬけ、さらにまた、右翼の陣容をグルグル見てまわった。\n もとより田ノ尻の池田勢も、気がついていたものの、\n「オヤ、変なやつが通る」\n「何だろ。あいつ」\n「敵じゃないか」\n「敵かしら。ただひとりで」\n「何か、使いか?」\n まさか物見とはたれも思わなかった。藤蔵が自軍のふじヶ根山へさして疾風のごとく駈け出したとき、初めて、バチバチ撃ち浴びせたが、もう間にあわなかった。\n やがて、菅沼藤蔵が、無事にふじヶ根山の味方の中へもどって来ると、全山の将士は、わーっと、歓呼して、かれを迎えた。\n 家康も、将座から立ち上がって、かれの復命を待っていた。\n「しかと、敵の布陣のうらおもて、見さだめて参りました」\n 藤蔵はその前にひざまずいて、田ノ尻、岐阜ヶ嶽、こうべ狭間の三高地にわたって、三段備え鶴翼の陣をとった池田軍のくばりを、てのひらを指すように、説明した。\n その部将は、誰々。\n 鉄砲隊はどこに多く、槍隊はどこに潜まっているか。\n 見えない遊軍の有り無し。また士気の如何。――そして、敵の脆弱点はどこか。\n 藤蔵の復命は、微に入り、細にわたっていた。\n「ウム、そうか。左様か」\n 家康も、いちいち得心のていで、うなずいた。ほかの物見と事ちがい、敵前敵中の十七、八町にわたる低地高地を、悠々と、ただ一騎乗りわたして、ぬすみ眼でなく、胆力で見とどけて来た藤蔵の報告である。家康も、信頼した。\n「藤蔵の物見は、きょうの会戦のさい先に、一番首にも、まさる働きぞ。大儀大儀」\n 褒め惜しみのつよい家康が、こんなに褒めたことは、めったにない。\n 藤蔵は、面目をほどこしたが、ほかの将士は、いささか嫉妬をおぼえないでいられなかった。戦国の荒武者どもにも、男の嫉妬というものはある。かれらは、藤蔵が退がるのを見て、髀肉をうずかせ、\n(なんの、あれしきの働き)\n と、燃ゆるがごとき闘志の眼をそろえていた。\n 時刻は、この頃、すでに巳の刻(十時)――。敵の旗幟が目のまえの山々に見え出してから、はやくも二時間ちかく経過している。\n けれど、家康は、なおおっとりしたもので、\n「四郎左。半十郎。これへすすめ」\n と、まだ床几にかまえたまま、四方を見まわして、うららかな顔していた。\n 軍奉行の内藤四郎左衛門と渡辺半十郎政綱のふたりが、\n「はっ」\n と、よろいを響かせて、そばへ寄る。\n 家康は、手の地形図と、現場の附近とを、見くらべながら、\n「思うに、こうべ狭間の勝入の手勢が、曲者じゃの。あの二千が、どう動くか、それによっては、このふじヶ根も、よい地の理とは申されぬ」\n と、ふたりの意見を求めた。\n 四郎左衛門は、そこから東南の峰をさして、\n「つば競りの御決戦をお覚悟ならば、ここよりは、あれなる前山、仏ヶ根山の方が、いちだんとよい、御旗場所かとおもわれます」\n と、答えた。\n「ウム。移せ」\n 決断は、実に早い。\n ただちに陣替えが、行われた。すなわち、北畠信雄の軍を仏ヶ根に。家康自身は、前山へと、移ったのである。\n ここに立てば、敵の高地とは、まったく、眉を接した近距離にあり、あいだの仏ヶ根池、からす狭間の低地をへだてて、敵の顔も見え、はなし声まで、風に乗って、相互に聞えそうだった。\n\n山つつじ\n\n たれは、あの山鼻に。\n たれの手勢は、崖下に。\n また、誰々は、坂の両わきに、兵を潜めよ。\n 沢には、なにがしが行け。\n 鉄砲隊は、やや高目の地に。槍隊は、駈け出しのよい地勢に着け――などと、持ち場持ち場の配置も、のこらず云い渡される。\n 家康も、見とおしのよい、前山の一角に、将座をすえた。\n すると、軍奉行の渡辺半十郎が、\n「お馬じるしが高い。――お馬じるしは、もっと木蔭に立てられい」\n と、遠くから注意した。\n 高地と高地との近接戦に、あまりにも、れいれいと、総大将ここにありと、馬じるしをかかげては、鉄砲の集中をわれから求めることになる。\n 家康も、微笑して、\n「しばし、伏せい」\n と、小姓へいった。\n 金扇の馬簾が、ゆらりゆらり、そこから少し山蔭へかくされた頃――仏ヶ根の山腹から裾にかけて、井伊兵部直政の赤一色の旗さし物や人数が、岩間岩間を山つつじの花が染めるように、展開していた。\n「おう、きょうは井伊が先鋒か」\n「赤備えが、前へ出たぞ」\n「眼にこそ、あざやか。だが、働きはどうだろう」\n 敵も、味方も、そういった。\n 部将の兵部直政。ことし二十四歳。家康が秘蔵の若者とはたれも知るところ。\n つい、今朝までは、旗本のうちに、伍していたのであるが、日ごろ、使える男と見ておいた家康が、\n「きょうこそ、思いのまま、そちの性根を出してみい」\n といって、手勢三千人をさずけ、きょうの、最名誉であり、また最苦難でもある、先鋒に立たせたのであった。\n しかし、何分、若いので、\n「老巧の言も聞けよ」\n と内藤四郎左と高木主人の、ふたりをつけてやった。\n 田ノ尻にある池田紀伊守と三左衛門輝政の兄弟は、その南高地から、赤備えをながめて、\n「あの強がッておる赤隊の出鼻をたたけ」\n と、山あいの側面から二、三百の一群と、真正面から約一千の正攻隊を押し出して、まず、ドドドッと、鉄砲の火ぶたを切った。\n 仏ヶ根山も、前山も、それと同時に、迅雷のとどろきを発し、雲を吐くように、弾けむりを、白くひいた。\n その硝煙が、うすい狭霧のようになって、低地の池、田の面、蘆の湿り地などへ降りてゆく下に――早くも、井伊の赤武者が、走っていた。それと先駆を争う黒具足の群れや、雑多な軽兵も――たちまち近づき、距離をつめあって、槍隊と槍隊との、接戦になった。\n およそ、武者合戦の、壮絶さは、槍と槍とのたたかいに尽きる。\n また、これによって、くずれ立つか、押しきるか、大勢の勝負もわかれる。\n 井伊隊はここで二、三百の敵を仆した。もちろん、赤武者たちも、無傷ではない。直政の身内の惜しい者も何人となく、討死した。\n 池田勝入は、さっきから、一作戦を案じていた。\n 田ノ尻にあるわが子紀伊守と輝政の軍勢が、井伊の赤備えと接戦して、ようやくそこの戦況が激化してゆくのを見て、\n「清兵衛、機会だぞ」\n と、うしろへ、声を放った。\n 前もって、約二百の決死組が、槍をそろえて、待機していた。行けっ――と清兵衛からいわれるや否やその一組は、長久手村の方へ降りて行った。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 老母お槇の知恵のよく廻るのに、平次は褒めてやり度いような心持でした。恐らくたった一人の、杖とも柱とも思う娘お園を殺された、大きな悲歎の底から、一世一代の知恵の灯が燃え立ったのでしょう。\n「そんな事もあるだろうな」\n 平次は、それ以上のことまで考えて居るのですが、四方の聴く耳に遠慮して、お槇の報告を軽くいなしました。\n「でも、私は、みす〳〵娘を殺した相手が居るのに、それをどうすることも出来ないようでは、娘も行くところへ行けないと思いまして――」\n お槇は母親の愚に返って、サメ〴〵と泣くのです。\n「まァ、心配しない方がよかろう、人を二人まで殺して、百まで生きていられる筈は無い――ところで、お園を怨んでいた者が、二人や三人はあったようだが」\n「それは、あったことでしょう、あの通りの気象者で、どうかすると、産みの母親の私でさえ、側へ寄れないこともあった位ですから」\n「御浪人の阿星右太五郎さんも怨んでいたし、やくざ者の投げ節の小三郎も怨んでいたかも知れない。商売敵の師匠のお組だって、好い心持でなかったことだろう」\n「そう言えば、夕立の来る前、お組さんと掴み合いの喧嘩をして居たそうですが、――お組さんの株を取って、踊りの師匠の看板をあげた時から、娘とあの人は敵同士のようなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことも揉め、踊りの仮舞台を此家の隣の空地へ建てて、一言も挨拶をしなかったと、お組さんをひどく怒って仲が悪くなって居りました」\n そんな事はしかし、お槇が説明するまでもなく、平次はことごとく承知して居ります。\n「話は違うが、今朝、お菊の死んでいるのを見付けたのは、お前さんだと言ったね」\n「ハイ、格子を開けて、いつものように木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が――可哀想に首に手拭を巻いたまま、下水に半分落ちて居りました」\n「木戸は締って居たのだな、間違いもなく」\n「間違いはございません、私が此手で開けたのですから」\n「もう一つ、お菊の首を絞めた手拭は、確かに小三郎のものだと言ったね」\n「あんな変な柄の手拭など、滅多に堅気の人は持って歩きません」\n「その手拭を――」\n「ゆうべ、小三郎さんが忘れて行ったのを、お菊は持って追っ駆けましたが、追いつき兼ねて、此上り框の隅っこに置いた筈ですが――おや、おや、おや、これはどうしたことでしょう」\n 入口の沓脱の間を覗いたお槇は、其処に落ちていた手拭を拾いあげて、思わず眼を見張ったのも無理はありません。\n それは紛れもなく昨夜投げ節の小三郎が忘れて行った「鎌、輪、ぬ」と染めた手拭に紛れもなかったのです。\n「どれ」\n 平次はお槇の手から手拭を受取りました。切り立ての手拭ですが、いくらか皺になって、隅っこの方に、「小三郎」と墨で小さく書いてあるではありませんか。\n\n三\n\n お菊の死骸の首に捲きついていたのは、同じ「鎌、輪、ぬ」の模様ですが、それは死骸の首から外して、別に証拠の一つとして、町役人に預けてあるので、それが沓脱の下に紛れ込む筈もなく、此処で明かに不思議な柄の手拭が二本現われ、その一筋は間違いもなく昨夜小三郎が忘れて行ったものとなるわけです。\n「今朝小三郎が来なかったのか」\n「まだ薄暗い時間に――私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見付けて大騒をしている時、一寸顔を見せましたが――その辺をウロ〳〵して直ぐ帰ってしまいました」\n そう聞くと、もし小三郎が昨夜此手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑いは、真っ直ぐに手拭の持主の小三郎に懸って行くことになるでしょう。\n 手拭を忘れて行ったばかりに小三郎は、此恐ろしい疑いから免れて、恐ろしく知恵の廻る下手人が、小三郎と同じ柄の手拭を買って来て、お菊を絞め殺したという結論に導かれるのです。\n「鎌、輪、ぬ」の柄は好んで手拭にも浴衣にも染め、中には刺青にまでしたもので、やくざ、遊び人、のらくら者、と言った肌合の人達は、好んでこれを用いもしました。\n「親分、いろ〳〵面白いことがわかりましたよ」\n そんな中へ、八五郎は飛んで来ました。\n「大層早かったじゃないか、何処を歩いて来たんだ」\n「何処も歩きやしません、投げ節の小三郎に逢って、一ぺんにわかっただけで」\n「何が――?」\n「第一に先ず小三郎は昨夜亥刻少し前に自分の家へ帰って、亥刻半(十一時)には佐竹の賭場へ潜り込み、暁方まで裸体に剥がれて居ますよ、証人が十人もあるから、こいつは嘘じゃありません」\n「それから?」\n「これからが大変で、――一昨日の大夕立の真最中、往来には入っ子一人居ず、家と言う家は、雨戸も窓も皆んな閉め切っている時、自分の家の物干から屋根へ飛降り、踊り舞台の足場を渡って、此路地へ飛込み、開けたままの縁側から忍び込んで、向う向きになって、ウト〳〵して居た、師匠のお園を刺し殺した者があったとしたらどんなものです」\n「誰がそんな事をしたというのだ、誰にしてもグショ濡れになる筈だが――」\n「曲者は裸体だったとしたら」\n「?」\n「大夕立に叩かれて、曲者の身体は人魚のように綺麗だったそうですよ、――もっとも、湯もじ一つだけは締めていたが――」\n「小唄の師匠のお組が下手人だという積りか、お前は?」\n「外にお園を殺しそうな人間は無いじゃありませんか、――お組の家を捜しても、濡れた着物は無かった筈で――裸体でやったんですもの。三十になったばかりの脂の乗り切った良い年増が、大夕立の中を、素っ裸体で屋根を渡り――口にこう匕首なんかくわえて、怨み重なる女を殺しに来るなんて図は、たまりませんね、親分」\n 八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩を縮めたり、膝を叩いたりするのです。\n「誰がそんな事を言ったんだ」\n「もっぱら世上の噂ですよ」\n「町内の人が皆んな口を開いて眺めていたわけじゃあるめえ、お前は口留めされたんだろう」\n 平次は早くも八五郎にこの話を吹込んだもののことを考えて居る様子です。\n「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見て居たんですよ」\n「お菊が?」\n「此家の前で、親分に話そうとしたが、奥にお組が居るから――私は怖い――とか何んとか言って、口を緘んでしまったでしょう」\n「フーム」\n「それを、娘の心の中に畳み兼ねて、昨日うっかり人に話してしまい、それがお組の耳に入って、昨夜この路地で殺されたんでしょう」\n「お菊を殺したのも、お組だというのか」\n「そうとしか思えませんよ、木戸は締っているが、お組は元踊りの師匠をした位で、恐ろしく身軽だから、板塀に飛付いて、踊り舞台の足場に登り、大夕立の時と逆に、自分の家へ帰り、素知らぬ顔をしていたんでしょう」\n「――」\n「小三郎が忘れて行った「鎌、輪、ぬ」の手拭を持出したのは、細工過ぎて憎いじゃありませんか」\n「だが、待てよ、八」\n 平次は漸く八五郎の懸河の達弁を封じました。\n「あの大夕立の中を、裸体で屋根を渡って来たにしては、昨日のお組の髪は、少しも濡れては居なかったぜ」\n「そこはそれ、風呂敷か何んか冠って」\n「風呂敷や手拭であの夕立が凌げるものか、まるでブチまけるようだったぜ」\n「ヘェ?」" }, { "role": "assistant", "content": "「若い女が、あの大雷鳴の中を、裸体で屋根を渡るのは容易のことじゃないぜ」\n「もっとも若い女は、それ程でもない癖に、雷鳴嫌いを見得にして居ますよ、――それに若旦那の金之助は言ったでしょう、お園はひどく雷鳴は嫌いだが、お組はそれ程でも無いと、――ね、雷鳴嫌いのお園さえ、横になってツイうと〳〵とやった位ですもの、お組が裸体で屋根を渡ったって、雷鳴様だって面喰って、臍は取りませんよ」\n 八五郎は大に弁じますが、平次は黙って考え込んでしまいました。\n\n四\n\n「そいつは一応面白そうだ、お組のところへ行って臍が無事かどうか、訊いて見ようじゃないか」\n 平次はもうお園の家を出て路地に立って居りました。袋路地の入口、一方は板塀で、踊り舞台の足場が、塀の上へ高々と組みあげてありますが、此処からお組の家へ行くためには、路地の奥の木戸を開けて、大家の庇の下を通して貰うか、猿のように足場を攀じ登るか、でなければ、表通りをグルリと廻る外はありません。\n 平次と八五郎が行った時は、お組は一と息入れて、これから又お園の家へ出かけようという時でした。\n 何処かで祭の太鼓、まだ朝のうちだというのに、樽御輿を揉んでいるらしい、子供達の声などが、遠くの方から揺り上げるように聴こえます。\n「あら、親分、何んか御用? こんなに早く」\n などと、お組の磨き抜かれた顔は如才もない愛嬌がこぼれます。引締った三十女、古典的な眼鼻立、お園のような不均整な顔の道具から来る魅力はありませんが、いかにも自尊心に充ちた人柄です。\n「何処かへ出かけるのか師匠」\n「お園さんが死んでしまって、あの踊り舞台をどうしようもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張り切っているし、娘達の仕度も大変でしょう、――お園さんのお母さんと相談して、昔は踊りを教えたことがあるから、兎も角も後の始末は私が引受けて、格好だけはつけることにしました。せめて今日一日だけでも、あの舞台で皆んなを踊らせれば死んだお園さんも浮べるというものでしょう」\n お組はホロリとするのです。\n「掴み合いの喧嘩までした師匠がねェ、大した心掛けじゃないか」\n「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ、これで踊りの師匠を又始める気じゃ、そんなお節介は出来ないけれど、どうせたった一日だけの代役で、私はもう二度と舞扇を持つ積りは無いから、飛んだ気が楽ですよ」\n「えらいな師匠、その心掛が気に入ったよ、――ところが、その気持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知って居るお菊までも、絞め殺して口を塞いだと言ってる者があるんだがね」\n 平次はとうとう言うべきことを言ってしまいました。\n「まァ、まァ、それは本当ですか、親分、誰がそんな事を――第一あの大夕立の中を――」\n お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの仕草も、これほどまでには効果的でなかったでしょう。眼を大きく見張って、唇の色までがサッと変ったのです。\n「あの大夕立の中を、お前は腰巻一つの裸体になって、物干から屋根に降り、隣の空地に建てた仮舞台の足場を渡り、あの楽屋から小三郎が忘れて行った匕首を持って、板塀を越してお園の家の裏から入り、お園を殺して帰って来たというのだよ――昨日お前に逢った時、少しでも髪が濡れて居ると、俺もそう思ったかもしれない」\n「まァ、そんな事が――」\n「お前の家に濡れた着物が一枚も無かったと聴いて、作者がそんな事を拵え上げられたのさ」\n「それで、あの時八五郎親分が、私の家の風呂場でウロ〳〵して居たわけなんですね」\n お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなっている八五郎を睨みました。\n「まァ、怒るな、八に風呂場を見るように言い付けたのは此俺だ」\n「そんな事が出来るかどうか、考えてもみて下さい。いくら大夕立の中だって、真っ昼間の屋根の上を、若い女が裸体で渡れるものかどうか、私はこれでも三十になったばかり、まだ独り者よ」\n「それはわかって居る」\n「第一、家の屋根と来たら、家主がケチでトン〳〵葺きが腐りかけているんだもの、物干の下なんか猫が歩いても踏み抜きそうよ、嘘だと思ったら、八五郎親分、あの屋根を渡ってみて下さい、首尾よく舞台の足場に辿り着いたら、私は黙ってお園さん殺しの下手人になり、随分お処刑台の上へ此首を載っけて、都々逸の一つ位は歌って上げてもいいヮ、随分人を馬鹿にして居るのね、畜生ッ」\n お組の爆発する嬌悳の前に、八五郎はまことに散々です。\n「いい、わかったよ、師匠、お前が怪しいと思えば、わざ〳〵やって来て、こんな事を言いやしない――ところで」\n 平次は一応撫めて置いて、まだ訊き度いことがあったのです。が、お組もなか〳〵引込んでは居ません。\n「お菊さんが殺された時だって、私は若旦那の金之助さんと一緒に帰り、若旦那を此処へつれて来て――恥を言わなきゃわからないけれど、撚を戻したわけでなく、いよ〳〵手を切る積りで名残りを惜しむため、若旦那を一と晩此処へ泊めたじゃありませんか、お通夜の帰りの情事で、こんなことは言い度くないけれど、人殺しなんかにされちゃ叶わない」\n「それはもういい、が、一つだけ、小三郎が踊り舞台の後ろの楽屋へ、匕首を忘れて来たと言ってるが、それを師匠は見なかったのか」\n 平次はお組の怒りをやり過して、新しい問いを持出しました。\n「見ましたよ、多勢居る前で、帯を締め直すんだとか言って、不気味な匕首を取出し、皆んなに見えるように葛籠の上に置いたようでしたが、それっ切り、元の懐中へしまい込んだのを見ませんでした。匕首は何時までも葛籠の上に載って居た様です、――私がお園さんと喧嘩をして、大夕立が来そうになって、驚いて家へ帰るまで――」\n「お前は本当に雷鳴が嫌いなのか」\n「好きじゃないが、そんなに嫌いでもありませんよ、でも、若い女が雷鳴が怖くないなんて、平気な顔をしていると、色気がなくて変じゃありませんか」\n こんな秘密までは、平次も気が付きません。\n\n五\n\n「八、どうだ、見当は付いたか」\n お組の家を出ると、平次は面白そうに八五郎を振り返りました。\n「驚きましたね、あの女が下手人じゃ無いんですか」\n「どうも、そうらしくないよ。お園の死骸の股のところに、血染の手形が着いていたが、あれは随分大きかったようだな」\n「女の下手人が、自分の掌を動かして、わざと、あんな大きな手形をつけたんじゃありませんか」\n「動かしながらつけた手形なら、指先の渦巻や、手の平の筋の跡が消える筈じゃないか」\n「すると、どんな事になりましょう」\n「お前にお組が下手人に違いないと教えたのは誰だ」\n「小三郎ですよ、――賭場から裸に剥かれてぼんやり帰って来たという投げ節の小三郎に、昨夜お通夜の人達より半刻も早く帰ったから、何処へ潜り込んだか訊くと、――実は、お組が下手人に違えねえと教えてくれたんで」\n「そんな事だろうと思った――おや、お園の家へ小三郎が来て居るようだ、お前は外で待って居てくれ、いいか」\n 平次は何やら八五郎に囁くと、それを路地の外へ出してやり、自分の手で木戸を閉めて、さて、お園の家へ外から声を掛けるのでした。\n「小三郎兄哥ちょいと来てくれ、見て貰い度いものがあるんだが」\n「へえ? 銭形の親分ですか、ちょいと待って下さい」\n 小三郎は殊勝らしく仏様の前で線香などを上げて居りましたが、麻裏を突っかけて気軽にヒョイと顔を出しました。\n「小三郎兄哥、お組の家の屋根は、すっかり腐っていて、人間は歩けそうも無いぜ」\n「えッ?」\n「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見ていた、――それを俺に教えようとしたとき、俺の側に居て眼顔で留めたのは、小三郎兄哥、――お前じゃなかったのか」\n「――」\n「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ拭き取っていない筈だ、お前の手と比べて見ようか」\n「親分、そんな事が、と、飛んでもない」\n「お前がお通夜の席から帰ったのは亥刻前で、佐竹の賭場へ行ったのは亥刻半だ、その半刻の間、お前は路地の暗がりに隠れていて、皆んな帰った後で、木戸を閉めに出たお菊を殺し、塀を乗越えて逃げ出した筈だ」\n「――」\n「自分の匕首を楽屋に忘れて来て、それを皆んなに見せて置き後から行ってその匕首を持出してお園を殺し、夕立に濡れたのを胡魔化すために、夕立が晴れ切らぬうちに、皆んなに見えるようにお園の家を覗いて、大声で騒ぎ出したのは細工が細かいな」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 私はその日はじめて妻をつれて亡き母の墓まいりに往った。\n 円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚橋とか、小梅橋とか、七本松橋とか、そういうなつかしい名まえをもった木の橋がいくつも私たちの目のまえに現れては消える。ここいらも震災後、まるっきり変ってしまったけれども、またいつのまにか以前のように、右岸には大きな工場が立ち並び、左岸には低い汚い小家がぎっしりと詰まって、相対しながら掘割を挾んでいるのだった。くさい、濁った水のいろも、昔のままといえば昔のままだった。\n 地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷の枯れて葉を失った銀杏の古木が空にそびえ立っている。円通寺はその裏になっていて、墓地だけがその古い銀杏と道をへだてて右がわにある。黒いトタン塀の割れ目から大小さまざまな墓石を通行人の目に触れるがままに任せて。......\n もうすこしゆくと請地の踏切に出るのだが、ここいらはことのほか、いかにもごみごみした、汚い、場末じみた光景を残している。乾物屋と油屋の間に挾まれた、花屋というのも名ばかりのような店先で、花を少しばかり買い、それから寺に立ち寄って寺男に声をかけ、私たちだけで先きに墓地のほうへ往った。\n 墓地は、道路よりも低くなっているので、気味わるく湿め湿めしていて、無縁らしい古い墓のまわりの水たまりになっているのさえ二三見られる位だった。\n「ずいぶん汚い寺で驚いたか。」私は妻のほうへふり返って言った。\n「元禄八年なんて書いてあるわ......」妻はそれにはすぐ返事をしずに、立ち止って自分のかたわらにある古い墓の一つに目をやっていた。それから何んとなく独言のようにいった。「ずいぶん古いお寺なのね。」\n 私の母の墓は、その二百坪ほどある墓地の東北隅に東に面して立っている。私はその墓のまえにはじめて妻と二人して立った。その柵のなかには黄楊と櫁の木とが植えられて、それがともどもに花をつけていた。しかしそれは母の墓といっても、母ひとりのための墓ではない。父方の上条家の代々の墓なのである。上野の寺侍だったという祖父、やはり若いうち宮仕えをしていたという祖母、明治のころ江戸派の彫金師として一家を成していたという伯父などと、私の見たことさえもないような人たちの間になって、震災で五十一の年に亡くなった私の母は、そこに骨を埋めているのである。\n 私と妻とは、その墓を前にして、寺男のくるのをしばらくぼんやりと待っていた。\n「あのそばにある小さなお墓は誰れのですか。」\n「さあ、誰れんだか......」私はそういわれて、母たちの墓のそばに黄楊の木の下になってちょこんと立っている、ごく小さな墓石へ目をやった。そういう墓石のあったことさえ、いままで私は殆んど気づかなかった。気づくことはあっても、それを気にしないで見すごしていた。「なんだか子供のお墓のようだけれど、一度もきいたことがないなあ。」\n 妻も別にそれ以上それを知ろうとしなかったし、私もそのときちょっと不審におもったきりでしまった。\n 寺男が閼伽桶と線香とをもってきて、墓の苔を掃っている間、私たちは墓から数歩退いて、あらためて墓地全体をみやった。\n 四囲には錆びたトタン塀をめぐらしているきりで、一本も茂った樹木なんぞがなくて、いかにもあらわなような感じで、沢山の墓石がそこには、それぞれに半ば朽ちはてた卒塔婆を背負いながら、ぎっしりと入りまじっているばかり。――そしてそれらの高低さまざまな墓石のむらがりの上には、四月末の正午ちかい空がひろがって、近所の製造場の物音が何やら遠くなったり近くなったりしながら絶え絶えに聞えてくるのである。\n 私はこんな場末の汚い墓地に眠っている母を何かいかにも自分の母らしいようになつかしく思いながら、その一方、また、自分のそばに立ってはじめてこれからその母と対面しようとして心もち声も顔もはればれとしているような妻をふいとこんな陰鬱な周囲の光景には少し調和しないように感じ、そしてそれもまたいいと思った。いわば、私は一つの心のなかに、過去から落ちてくる一種の翳りと、同時に自分の行く末から差し込んでくる仄あかりとの、そこに入りまじった光と影との工合を、何となしに夢うつつに見出していた。\n 寺男が苔を掃って香華を供えたのち、ついでに隣りの小さな墓の苔も一しょに掃っているのを見て、私はもう一度それに注目した。よほどそれは誰れの墓かと聞いてみようとしかけたが、何もいま聞くこともあるまいと思い返して、私はそのまま妻に目で合図をして、二人いっしょに母の墓のまえに歩みよって、ともどもに焼香した。\n「これでいい......」私は何んとはつかずにそんなことを考えた。\n\n二\n\n 私たちがひと先ず落ちついたさきは、信州の山んなかだった。\n そこで十日ばかりが、なんということもなしに、過ぎた。何もかもこれから、――といったすっきりした気もちだった。\n と、或あけがた、私たちはまだ寝ているうちに電報をうけとった。父の危篤を知らせて来たものだった。何んの前ぶれもなかったので、私たちは慌てて支度をし、そのまま山の家を鎖して、上京した。\n 正午ちかく向島のうちに着いてみると、そのあけがた脳溢血で倒れたきり、父はずっと昏睡したままで、私たちの帰ったのをも知らなかった。そういう昏睡状態はまだ二三日つづいていた。\n そのあいだに、私たちはいろいろな人たちの見舞をうけた。父方の、四つ木や立石の親戚の人々もきた。私の小さい時からうちの弟子だったもの、下職だったものたちも入れかわり立ちかわり来た。それから母方の、田端のおばさんたちも来た。いとこたちも来た。それからまだ麻布のおばさん――私が跡目をついでいる堀家のほうのたった一人の身うち――までも来てくれた。\n 私はまだ自分が結婚したことをそういう人たちには誰れにも知らせていなかった。それで、はじめのうちは来る人ごとに妻をひきあわせていたけれど、\n「そうだ、父は死ぬかも知れないのだ」と思うと、すこしでも父のそばにいた方がいいような気がした。\n それからは私は妻のほうのことは田端のおばさんに一任して、自分はなるたけ父の枕もとにいるようにしていた。云ってみれば、父がそうやっている私のことをなんにも知らずにいる、――それが私にそういうことを少しも羞かまずにさせていてくれた。\n 向うの間で、いま妻はどうしているだろうかと私はときおり気にかけた。すると、その妻が知らないいろいろな人たちの間でまごまごしながら茶など運んでいるもの馴れない姿が目に見えるようで、私はそれに何か可憐なものを感じることが出来た。いきづまるような私の心もちが、それによって不意とわずかに緩和せられることもあった。" }, { "role": "assistant", "content": " 父は四日目ぐらいから漸く意識をとりかえしてきた。しかし、もうそのときは口は利けず、右半身が殆んど不随になっていた。いかにも変り果てた姿になってしまっていた。\n が、それなりに、父は日にまし快方に向った。\n「この分でゆけば安心だ。」皆がそういい出した。\n\n 私たちが漸っと信州の山の家にかえっていったのは、それから半月ほどしてからだった。父のほうがそうやってどうにか落ちついたとき、今度は私が工合を悪くした。それで、父のほうは親身に世話をしてくれる人々に托すことが出来たので、私たちは思いきって山の家にかえることにした。\n それに私は一日も早く仕事をしはじめなければならなくなっていた。自分たちの暮らしのためばかりでなく、こんどは病人のほうにも幾分なりと仕送りしなければならないので、私はどうしていいか、しばらくは見当のつかないほどだった。\n 丁度そのとき或先輩が雑誌を世話してくれ、そこへ私は生れてはじめて続きものの小説を書くことになった。そのとき私はいまの自分の気もちに一番書きよさそうなものとして、自分の幼時に題材を求めた。一度は自分の小さいときの経験をも書いてみようと思っていたし、すこしまえにハンス・カロッサの「幼年時代」を読み、彼がそれをただ幼時のなつかしい想起としてでなしに、そこに何か人生の本質的なものを求めようとしている創作の動機に非常に共鳴していたので、こんどの仕事にはそう期待はかけられなかったが、とにかくそういうものへの試みの一つとしてやれるだけのことはやってみようと考えたのだった。\n「幼年時代」はそうして書きはじめたものなのである。\n 夏が過ぎ、秋になっても、私たちはまだ山で暮らしていた。冬が近づいて来る頃になって、私たちは慌てて山を引きあげ、逗子にある或友人の小さな別荘にしばらく落ちつくことになった。そんな仮住みから仮住みへと、私は他の仕事と一しょにいつも「幼年時代」を持ち歩いていた。\n 父のほうは、秋になってよくなり出すと、ずんずん快くなった。小春日和の日などには、看護の人に手をひいて貰って、吾妻橋まで歩いていったという便りなどが来た。それほど快くなりかけていた父が、二度目の発作を起したのは十二月のなかばだった。電報をみて、私たちが逗子から駈けつけてきたときはもう夜中だった。父は深く昏睡したまま、まだ息はあったけれど、今度は私たちもあきらめなければならなかった。......\n\n三\n\n 父の死後、私ははじめて自分の実父がほかにあって、まだ私の小さいときに亡くなったのだということを聞かされた。それを私に聞かせてくれたのは、田端のおばさん、すなわち私の母のいもうとの一人で、震災まえまでは私たちのうちのすぐ隣りに住みついていたおばさんである。――\n 実は父の百カ日のすんだ折、寺でそのおばからちょっとお前の耳にだけ入れておきたいことがあるから、そのうちひとりのときに寄っておくれな、といわれていた。\n まだ逗子に蟄居していた時分で、それに何かと病気がちの折だったので、私はおばにいわれていた事がときどき気になりながらも、なかなかひとりで東京に出て往けなかった。が、そのうち何処からか、去年の暮れごろから目を患っていたおじさんが急に失明しかけているというような噂を耳にして、私はこれは早く往ってあげなければと思い、或日丁度自分の実家に用事があって往くことになっていた妻と連れだって東京に出て、私だけ手みやげを持って、震災後ずっと田端の坂の下の小家におじとおばと二人きりで佗住いをしている方へまわった。それはもう六月になっていた。\n おじさんのうちでは、もうすっかり障子があけ放してあって、八つ手などがほんの申訣けのように植わっている三坪ばかりの小庭には、縁先きから雪の下がいちめんに生い拡がって、それがものの見事に咲いていた。\n「雪の下がきれいに咲いたものですね、こんなのもめずらしい。......」私はその縁先きちかくに坐りながら、気やすげにそう言ってしまってから思わずはっとした。\n 目を患っているおじさんにはもうそれさえよく見えないでいるらしかった。しかし、おじさんは、花林の卓のまえに向ったまま、思いのほか、上機嫌そうに答えた。\n「うん、雪の下もそうなるときれいだろう。」\n「......」私は黙っておじさんの顔のうえから再び雪の下のほうへ目をやっていた。\n そのときおばさんがお茶を淹れて持ってきた。そしてあらためて私に無沙汰の詫びやら、手みやげのお礼などいい出した。無口なおじさんも急にいずまいを改めた。そこで私もあらためて、はじめておじさんのこの頃の容態を、むしろそのおばさんの方に向って問うのだった。\n\n 私が自分の生い立ちの一伍一什をこと細かに聞いたのは、それからずっと夕方になるまでで、雪の下の咲いたやつがその間じゅう私の目さきにちらちらしていた。おばさんが殆んどひとりで話し手になっていたが、無口なおじさんもときどきそれへ短い言葉を揷さんだ。......\n\n 私はそれまで、誰れにもはっきりそうと聞かせられていたわけではなかったが、いつからともなく自分勝手に、自分が上条のうちの一人息子だのに小さいときから堀の跡目をついでいるのは、何か私の生れたころの事情でそうされたのだろう位にしか考えていなかった。十七八の頃になってからは、それまでひとりでに自分の耳にはいっていたいろんな事から推測して、自分の生れた頃、父が一時母と分かれて横浜かなんぞにいて他の女と同棲していたような小さなドラマがあって、そのとき隣りに住んでいた老夫婦がたいへん母に同情し、丁度自分たちのところに跡とりがなかったので私を生れるとすぐその跡とりにした、――その位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかくも、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からいた人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえに立ち現れてきたような気のする人なのである。\n しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことは、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生い立ちには、何かの秘密が匿されていそうだ位のことは気のつきそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そして先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなければならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをしなかった。\n 私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人の間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわされたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあることをこの年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつもかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんなにうれしいことはない。......」といって、それから「どうか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」と何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆れたのは、それから数日立つか立たないうちだったのである。......\n 私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。\n 広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい夫婦なかだった。\n そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。――ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだんだん母の懐を離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといって、いつまでも母子してその家にいることはなおさら出来にくかった。\n とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦――それがいまの田端のおじさんとおばさんで――のところだった。漸っとその家に落ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんが癪をおこして苦しみだした。それがなかなか快くならず、いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうとう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はすぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやく薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。\n 北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。\n 雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見ても限りない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。\n なんという、さびしい景色だろうと、人魚は思いました。自分たちは、人間とあまり姿は変わっていない。魚や、また底深い海の中に棲んでいる、気の荒い、いろいろな獣物などとくらべたら、どれほど人間のほうに、心も姿も似ているかしれない。それだのに、自分たちは、やはり魚や、獣物などといっしょに、冷たい、暗い、気の滅入りそうな海の中に暮らさなければならないというのは、どうしたことだろうと思いました。\n 長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面をあこがれて、暮らしてきたことを思いますと、人魚はたまらなかったのであります。そして、月の明るく照らす晩に、海の面に浮かんで、岩の上に休んで、いろいろな空想にふけるのが常でありました。\n「人間の住んでいる町は、美しいということだ。人間は、魚よりも、また獣物よりも、人情があってやさしいと聞いている。私たちは、魚や獣物の中に住んでいるが、もっと人間のほうに近いのだから、人間の中に入って暮らされないことはないだろう。」と、人魚は考えました。\n その人魚は女でありました。そして妊娠でありました。......私たちは、もう長い間、このさびしい、話をするものもない、北の青い海の中で暮らしてきたのだから、もはや、明るい、にぎやかな国は望まないけれど、これから産まれる子供に、せめても、こんな悲しい、頼りない思いをさせたくないものだ。......\n 子供から別れて、独り、さびしく海の中に暮らすということは、このうえもない悲しいことだけれど、子供がどこにいても、しあわせに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。\n 人間は、この世界の中で、いちばんやさしいものだと聞いている。そして、かわいそうなものや、頼りないものは、けっしていじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。いったん手づけたなら、けっして、それを捨てないとも聞いている。幸い、私たちは、みんなよく顔が人間に似ているばかりでなく、胴から上は人間そのままなのであるから――魚や獣物の世界でさえ、暮らされるところを思えば――人間の世界で暮らされないことはない。一度、人間が手に取り上げて育ててくれたら、きっと無慈悲に捨てることもあるまいと思われる。......\n 人魚は、そう思ったのでありました。\n せめて、自分の子供だけは、にぎやかな、明るい、美しい町で育てて大きくしたいという情けから、女の人魚は、子供を陸の上に産み落とそうとしたのであります。そうすれば、自分は、ふたたび我が子の顔を見ることはできぬかもしれないが、子供は人間の仲間入りをして、幸福に生活をすることができるであろうと思ったのです。\n はるか、かなたには、海岸の小高い山にある、神社の燈火がちらちらと波間に見えていました。ある夜、女の人魚は、子供を産み落とすために、冷たい、暗い波の間を泳いで、陸の方に向かって近づいてきました。\n\n二\n\n 海岸に、小さな町がありました。町には、いろいろな店がありましたが、お宮のある山の下に、貧しげなろうそくをあきなっている店がありました。\n その家には、年よりの夫婦が住んでいました。おじいさんがろうそくを造って、おばあさんが店で売っていたのであります。この町の人や、また付近の漁師がお宮へおまいりをするときに、この店に立ち寄って、ろうそくを買って山へ上りました。\n 山の上には、松の木が生えていました。その中にお宮がありました。海の方から吹いてくる風が、松のこずえに当たって、昼も、夜も、ゴーゴーと鳴っています。そして、毎晩のように、そのお宮にあがったろうそくの火影が、ちらちらと揺らめいているのが、遠い海の上から望まれたのであります。\n ある夜のことでありました。おばあさんは、おじいさんに向かって、\n「私たちが、こうして暮らしているのも、みんな神さまのお蔭だ。この山にお宮がなかったら、ろうそくは売れない。私どもは、ありがたいと思わなければなりません。そう思ったついでに、私は、これからお山へ上っておまいりをしてきましょう。」といいました。\n「ほんとうに、おまえのいうとおりだ。私も毎日、神さまをありがたいと心ではお礼を申さない日はないが、つい用事にかまけて、たびたびお山へおまいりにゆきもしない。いいところへ気がつきなされた。私の分もよくお礼を申してきておくれ。」と、おじいさんは答えました。\n おばあさんは、とぼとぼと家を出かけました。月のいい晩で、昼間のように外は明るかったのであります。お宮へおまいりをして、おばあさんは山を降りてきますと、石段の下に、赤ん坊が泣いていました。\n「かわいそうに、捨て子だが、だれがこんなところに捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに、私の目に止まるというのは、なにかの縁だろう。このままに見捨てていっては、神さまの罰が当たる。きっと神さまが、私たち夫婦に子供のないのを知って、お授けになったのだから、帰っておじいさんと相談をして育てましょう。」と、おばあさんは心の中でいって、赤ん坊を取り上げながら、\n「おお、かわいそうに、かわいそうに。」といって、家へ抱いて帰りました。\n おじいさんは、おばあさんの帰るのを待っていますと、おばあさんが、赤ん坊を抱いて帰ってきました。そして、一部始終をおばあさんは、おじいさんに話しますと、\n「それは、まさしく神さまのお授け子だから、大事にして育てなければ罰が当たる。」と、おじいさんも申しました。\n 二人は、その赤ん坊を育てることにしました。その子は女の子であったのです。そして胴から下のほうは、人間の姿でなく、魚の形をしていましたので、おじいさんも、おばあさんも、話に聞いている人魚にちがいないと思いました。\n「これは、人間の子じゃあないが......。」と、おじいさんは、赤ん坊を見て頭を傾けました。\n「私も、そう思います。しかし人間の子でなくても、なんと、やさしい、かわいらしい顔の女の子でありませんか。」と、おばあさんはいいました。\n「いいとも、なんでもかまわない。神さまのお授けなさった子供だから、大事にして育てよう。きっと大きくなったら、りこうな、いい子になるにちがいない。」と、おじいさんも申しました。\n その日から、二人は、その女の子を大事に育てました。大きくなるにつれて、黒目勝ちで、美しい頭髪の、肌の色のうす紅をした、おとなしいりこうな子となりました。\n\n三\n\n 娘は、大きくなりましたけれど、姿が変わっているので、恥ずかしがって顔を外へ出しませんでした。けれど、一目その娘を見た人は、みんなびっくりするような美しい器量でありましたから、中にはどうかしてその娘を見たいと思って、ろうそくを買いにきたものもありました。\n おじいさんや、おばあさんは、\n「うちの娘は、内気で恥ずかしがりやだから、人さまの前には出ないのです。」といっていました。\n 奥の間でおじいさんは、せっせとろうそくを造っていました。娘は、自分の思いつきで、きれいな絵を描いたら、みんなが喜んで、ろうそくを買うだろうと思いましたから、そのことをおじいさんに話しますと、そんならおまえの好きな絵を、ためしにかいてみるがいいと答えました。\n 娘は、赤い絵の具で、白いろうそくに、魚や、貝や、または海草のようなものを、産まれつきで、だれにも習ったのではないが上手に描きました。おじいさんは、それを見るとびっくりいたしました。だれでも、その絵を見ると、ろうそくがほしくなるように、その絵には、不思議な力と、美しさとがこもっていたのであります。\n「うまいはずだ。人間ではない、人魚が描いたのだもの。」と、おじいさんは感嘆して、おばあさんと話し合いました。\n「絵を描いたろうそくをおくれ。」といって、朝から晩まで、子供や、大人がこの店頭へ買いにきました。はたして、絵を描いたろうそくは、みんなに受けたのであります。\n すると、ここに不思議な話がありました。この絵を描いたろうそくを山の上のお宮にあげて、その燃えさしを身につけて、海に出ると、どんな大暴風雨の日でも、けっして、船が転覆したり、おぼれて死ぬような災難がないということが、いつからともなく、みんなの口々に、うわさとなって上りました。" }, { "role": "assistant", "content": "「海の神さまを祭ったお宮さまだもの、きれいなろうそくをあげれば、神さまもお喜びなさるのにきまっている。」と、その町の人々はいいました。\n ろうそく屋では、ろうそくが売れるので、おじいさんはいっしょうけんめいに朝から晩まで、ろうそくを造りますと、そばで娘は、手の痛くなるのも我慢して、赤い絵の具で絵を描いたのであります。\n「こんな、人間並でない自分をも、よく育てて、かわいがってくだすったご恩を忘れてはならない。」と、娘は、老夫婦のやさしい心に感じて、大きな黒い瞳をうるませたこともあります。\n この話は遠くの村まで響きました。遠方の船乗りや、また漁師は、神さまにあがった、絵を描いたろうそくの燃えさしを手に入れたいものだというので、わざわざ遠いところをやってきました。そして、ろうそくを買って山に登り、お宮に参詣して、ろうそくに火をつけてささげ、その燃えて短くなるのを待って、またそれをいただいて帰りました。だから、夜となく、昼となく、山の上のお宮には、ろうそくの火の絶えたことはありません。殊に、夜は美しく、燈火の光が海の上からも望まれたのであります。\n「ほんとうに、ありがたい神さまだ。」という評判は、世間にたちました。それで、急にこの山が名高くなりました。\n 神さまの評判は、このように高くなりましたけれど、だれも、ろうそくに一心をこめて絵を描いている娘のことを、思うものはなかったのです。したがって、その娘をかわいそうに思った人はなかったのであります。娘は、疲れて、おりおりは、月のいい夜に、窓から頭を出して、遠い、北の青い、青い、海を恋しがって、涙ぐんでながめていることもありました。\n\n四\n\n あるとき、南の方の国から、香具師が入ってきました。なにか北の国へいって、珍しいものを探して、それをば南の国へ持っていって、金をもうけようというのであります。\n 香具師は、どこから聞き込んできたものか、または、いつ娘の姿を見て、ほんとうの人間ではない、じつに世に珍しい人魚であることを見抜いたものか、ある日のこと、こっそりと年寄り夫婦のところへやってきて、娘にはわからないように、大金を出すから、その人魚を売ってはくれないかと申したのであります。\n 年寄り夫婦は、最初のうちは、この娘は、神さまがお授けになったのだから、どうして売ることができよう。そんなことをしたら、罰が当たるといって承知をしませんでした。香具師は一度、二度断られてもこりずに、またやってきました。そして、年より夫婦に向かって、\n「昔から、人魚は、不吉なものとしてある。いまのうちに、手もとから離さないと、きっと悪いことがある。」と、まことしやかに申したのであります。\n 年より夫婦は、ついに香具師のいうことを信じてしまいました。それに大金になりますので、つい金に心を奪われて、娘を香具師に売ることに約束をきめてしまったのであります。\n 香具師は、たいそう喜んで帰りました。いずれそのうちに、娘を受け取りにくるといいました。\n この話を娘が知ったときは、どんなに驚いたでありましょう。内気な、やさしい娘は、この家から離れて、幾百里も遠い、知らない、熱い南の国へゆくことをおそれました。そして、泣いて、年より夫婦に願ったのであります。\n「わたしは、どんなにでも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売られてゆくことは、許してくださいまし。」といいました。\n しかし、もはや、鬼のような心持ちになってしまった年寄り夫婦は、なんといっても、娘のいうことを聞き入れませんでした。\n 娘は、へやのうちに閉じこもって、いっしんにろうそくの絵を描いていました。しかし、年寄り夫婦はそれを見ても、いじらしいとも、哀れとも、思わなかったのであります。\n 月の明るい晩のことであります。娘は、独り波の音を聞きながら、身の行く末を思うて悲しんでいました。波の音を聞いていると、なんとなく、遠くの方で、自分を呼んでいるものがあるような気がしましたので、窓から、外をのぞいてみました。けれど、ただ青い、青い海の上に月の光が、はてしなく、照らしているばかりでありました。\n 娘は、また、すわって、ろうそくに絵を描いていました。すると、このとき、表の方が騒がしかったのです。いつかの香具師が、いよいよこの夜娘を連れにきたのです。大きな、鉄格子のはまった、四角な箱を車に乗せてきました。その箱の中には、かつて、とらや、ししや、ひょうなどを入れたことがあるのです。\n このやさしい人魚も、やはり海の中の獣物だというので、とらや、ししと同じように取り扱おうとしたのであります。ほどなく、この箱を娘が見たら、どんなにたまげたでありましょう。\n 娘は、それとも知らずに、下を向いて、絵を描いていました。そこへ、おじいさんと、おばあさんとが入ってきて、\n「さあ、おまえはゆくのだ。」といって、連れだそうとしました。\n 娘は、手に持っていたろうそくに、せきたてられるので絵を描くことができずに、それをみんな赤く塗ってしまいました。\n 娘は、赤いろうそくを、自分の悲しい思い出の記念に、二、三本残していったのであります。\n\n五\n\n ほんとうに穏やかな晩のことです。おじいさんとおばあさんは、戸を閉めて、寝てしまいました。\n 真夜中ごろでありました。トン、トン、と、だれか戸をたたくものがありました。年寄りのものですから耳さとく、その音を聞きつけて、だれだろうと思いました。\n「どなた?」と、おばあさんはいいました。\n けれどもそれには答えがなく、つづけて、トン、トン、と戸をたたきました。\n おばあさんは起きてきて、戸を細めにあけて外をのぞきました。すると、一人の色の白い女が戸口に立っていました。\n 女はろうそくを買いにきたのです。おばあさんは、すこしでもお金がもうかることなら、けっして、いやな顔つきをしませんでした。\n おばあさんは、ろうそくの箱を取り出して女に見せました。そのとき、おばあさんはびっくりしました。女の長い、黒い頭髪がびっしょりと水にぬれて、月の光に輝いていたからであります。女は箱の中から、真っ赤なろうそくを取り上げました。そして、じっとそれに見入っていましたが、やがて金を払って、その赤いろうそくを持って帰ってゆきました。\n おばあさんは、燈火のところで、よくその金をしらべてみると、それはお金ではなくて、貝がらでありました。おばあさんは、だまされたと思って、怒って、家から飛び出してみましたが、もはや、その女の影は、どちらにも見えなかったのであります。\n その夜のことであります。急に空の模様が変わって、近ごろにない大暴風雨となりました。ちょうど香具師が、娘をおりの中に入れて、船に乗せて、南の方の国へゆく途中で、沖にあったころであります。\n「この大暴風雨では、とても、あの船は助かるまい。」と、おじいさんと、おばあさんは、ぶるぶると震えながら、話をしていました。\n 夜が明けると、沖は真っ暗で、ものすごい景色でありました。その夜、難船をした船は、数えきれないほどであります。\n 不思議なことには、その後、赤いろうそくが、山のお宮に点った晩は、いままで、どんなに天気がよくても、たちまち大あらしとなりました。それから、赤いろうそくは、不吉ということになりました。ろうそく屋の年より夫婦は、神さまの罰が当たったのだといって、それぎり、ろうそく屋をやめてしまいました。\n しかし、どこからともなく、だれが、お宮に上げるものか、たびたび、赤いろうそくがともりました。昔は、このお宮にあがった絵の描いたろうそくの燃えさしさえ持っていれば、けっして、海の上では災難にはかからなかったものが、今度は、赤いろうそくを見ただけでも、そのものはきっと災難にかかって、海におぼれて死んだのであります。\n たちまち、このうわさが世間に伝わると、もはや、だれも、この山の上のお宮に参詣するものがなくなりました。こうして、昔、あらたかであった神さまは、いまは、町の鬼門となってしまいました。そして、こんなお宮が、この町になければいいものと、うらまぬものはなかったのであります。\n 船乗りは、沖から、お宮のある山をながめておそれました。夜になると、この海の上は、なんとなくものすごうございました。はてしもなく、どちらを見まわしても、高い波がうねうねとうねっています。そして、岩に砕けては、白いあわが立ち上がっています。月が、雲間からもれて波の面を照らしたときは、まことに気味悪うございました。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「はあ」\n と高谷君はもうあるきだした。\n「この四人は顔でわかる」\n と先生がいった時、皆クスクス笑った。堀口生は頭がこぶだらけで額がはれあがっている。尾沢生は鼻がふくれている。正三君は口がとがっている。高谷君は左の目が充血してまわりが黒ずんでいる。\n「見たまえ、諸君。これは皆仮装行列へ出る顔だ。教室へくる顔じゃない」\n「............」\n「親不孝だよ。家へ帰って叱られたろう?」\n「............」\n「しかしこのほかにも関係者があるはずです。覚えのあるものは申し出る」\n「先生」と細井君と松村君が立ち上がった。\n「もうないかね?」\n「少しあります」\n と照彦様が立ち上がった時、横田、篠崎、小川の三名も顔を見あわせて立ち上がった。\n「よろしい。正直なのは結構だ。皆席についてよろしい。今の十人は放課後残る。わかったかね? もしそれまでにまた喧嘩をするようなら退校を命じる。わかったかね?」\n と、念をおして、先生は授業にとりかかった。折りから、\n「なあんだ」\n と嘆声をもらしたものがあった。\n「森本君だね? なあんだとはなんだい?」\n「はあ」\n「はあじゃわからん」\n「それで授業がおしまいになると思っていたものですから」\n「そううまくゆくものか。なまけたがっちゃいけない。皆一生懸命でやる」\n と先生ははげました。しかし級ぜんたいの頭に異物がはいっている。はなはだ不成績な第一時間だった。喧嘩はあらゆる意味においてよろしくない。\n 放課後の留めおきという奴は気にかかるものだ。それもまだ罪がきまっていないだけに不安が増す。\n「停学かしら?」\n と照彦様は正三君のために案じた。\n「大丈夫だ。ただの喧嘩じゃない」\n と細井君は正義で申しわけを立てるつもりだった。\n「いや、三日ぐらい食わされるかもしれない。先学期四年の人がやられた」\n と一番ひどくやっている高谷君はけっして楽観はしない。\n 五時間目の授業がおわるとすぐに橋本先生は教室へはいってきて、\n「さあさあ、用のないものは早く帰る」\n と例のせっかちな調子で皆を追いだした。\n「松村君」\n「はあ」\n「級長のきみがこの仲間にはいっているのは不都合のようで好都合だ。いったいどうして喧嘩をした? わけをいいたまえ。さあ、いいたまえ」\n「申し上げます」\n と松村君が立った時、窓からのぞいたものがあった。\n「用のないものは帰る!」\n と先生は駈けていって叱りつけた。\n 松村君は最初からのいきさつを説明した後、\n「もし内藤君が負けたら高谷君が出るつもりでした。そのつぎは細井君、そのつぎは僕と順番がきめてありました。僕たちもわるかったんですけれど、今まで堀口君があんまりでしたから、つい......」\n と手はずまで説明してしまった。\n「堀口君」\n「はあ」\n「今、松村の話しどおりか?」\n と先生がきいた。\n「違います」\n「どこが違う?」\n「松村君は僕たちもわるかったけれど堀口君があんまりだったからといいました。あすこが違っています」\n「それではきみはわるくないというのか?」\n「いいえ、僕ばかりわるいんです」\n と堀口生はいつにないことだった。\n「高谷君」\n「はあ」\n「きみは喧嘩に勝ったんだが、どんな心持ちがする?」\n と先生は順々にきいてゆく。\n「昨日からいやでたまりません」\n「内藤君、きみはどうだ? きみも勝ったじゃないか?」\n「............」\n「どうだね?」\n「僕が一番わるいんです」\n「いや、心持ちさ」\n「尾沢君が鼻血を出した時......」\n「どうした?」\n「僕はまあなにをしているんだと思いました」\n「尾沢生」\n「はあ」\n「きみはどうだ?」\n「僕は家でお父さんにしばられました」\n「どうして」\n「............」\n「いいたまえ。かまわないよ」\n と堀口生が口を出した。\n「堀口君と遊んじゃいけないっていわれているのに......」\n「きみが一番ばかを見ているよ」\n と先生はなお一人一人について感想をもとめた後、\n「きみたちは皆後悔している。喧嘩をしてわるかったということがそれぞれわかっているんだから、この上責めても仕方がない。しかし堀口君だけには約束があったね?」\n と堀口生をかえりみた。\n「はあ」\n「持ってきたかい?」\n「............」\n「先生」\n と松村君が立ちあがった。堀口生は今度事件をおこしたら退校届を持ってくることになっている。\n「なんですか?」\n「堀口君は一番後悔しています。僕後からくわしく申しあげます」\n「とにかく、堀口君」\n「先生」\n と高谷君が猛然として立ちあがった。\n「なんですか?」\n「僕、困ります。僕が喧嘩をしたんですから、僕、困ります」\n「それでは堀口君をきみと松村君にあずけましょう。皆数学の支度をして!」\n と先生は方向を転換した。一同顔を見あわせた。聞きまちがいかと思ったのである。しかし続いて、\n「教科書、百〇六ページ、練習題のところをあける」\n ときたから、もううたがう余地がない。\n「一番から十番までを内藤君と尾沢君がやる。これはふだんと違って教えあってさしつかえない。十一番から二十番までを高谷君と堀口君、二十一番から三十番までを横田君と花岡君......」\n と喧嘩の時の組み合わせだった。なお、\n「五時までかかってゆっくりやりなさい。私は教員室で待っている」\n\n\n困った立場\n\n\n\n\n\n 昼からの課業がおわって先生が出ていったせつな、\n「皆、ちょっと待ってくれたまえ」\n とどなって教壇へ駈けあがったのは堀口生だった。喧嘩事件で留めおきをくってから三日目だ。堀口生は二日つづけて休んで今日また顔を出したのである。\n「諸君、諸君」\n 一同は帰りじたくの手を休めて、迷惑そうに堀口生を見まもった。どうせろくなことでなかろうと思ったのも、こいつの日頃から察してむりはない。しかし堀口生は喧嘩以来後悔を持ちつづけていた。\n「今まで僕がわるかった。かんべんしてくれたまえ。僕は二日休んで考えた。このとおり退校届を持ってきた。松村君、松村君」\n「なんだい?」と松村君が答えた。\n「僕は皆にわるいことをしている。きみからあやまってくれたまえ」\n「もういいんだよ。すんでいるじゃないか?」\n「皆、いや、諸君。きみたち!」\n「............」\n「ほんとうにいいのかい?」\n「いいんだよ。いいんだよ」\n と五、六人がきのどくになって異口同音にいった。\n「それじゃ僕はもうこれからわるいことをしないようにここで約束する。実は昨日お母さんがあやまりにきて、先生にだけはもう一ぺん堪忍してもらったんだ。松村君」\n「なんだい?」\n「これをきみにあずけておく。僕の退校届だ。このとおり伯父さんの判がおしてある」\n と堀口生は半紙に書いたものをひろげて皆の方へむけた。\n「そんなものはいらないよ」\n「いや、これをあずかっておいて、今度僕がわるいことをしたらすぐに橋本先生に出してくれたまえ」\n「............」\n「さあ、きみ」\n「僕は困る、そんなこと」\n「松村君、そうしてくれなければ僕は除名になる。堪忍してもらえないのも同じことだ」\n「それじゃ皆であずかろう」\n「そうしてくれたまえ。しかしきみが級長だ。松村君!」\n「よし」\n と松村君は教壇へあがっていって、\n「諸君、堀口君の退校届をあずかるよ」\n と皆の同意をもとめた。\n「諸君、僕がわるいことをしたらすぐに松村君にいってくれたまえ。そうすれば松村君がこれを橋本先生に出す。そうすれば僕はもう学校へ来られなくなる。仕方がないんだ」\n と堀口生はどこまでも神妙だった。それから届書を封筒に入れてわたして、" }, { "role": "assistant", "content": "「約束、約束。きみが代表だ」\n と松村君の手をにぎった。一同拍手喝采した。ちょうどそこへ弁慶がはいってきた。これは小使いの関さんが掃除をする時のあだなだ。頬かぶりをして、箒をなぎなたのように持っている。\n「なんだ? また喧嘩か?」とびっくりした。\n「関さん、きみにもあやまる」\n と堀口生はおじぎをした。同時に皆ワイワイいいながら教室を出た。\n 橋本先生はその後なんともいわなかったが、堀口生を級一同にあずけたのだった。これが最後のお慈悲のことはわかっている。堀口生は今度問題をおこせばおっぽり出されるはずだったが、幸いにして喧嘩は負けになっていた。なぐられた上に退校ではいくら今までのことがあってもあまりかわいそうだ。橋本先生もそこを考えたのだろう。お母さんを呼び出して、もう一度堪忍することにした。\n「とにかく、退校届を持たせておよこしください」\n といわれた時、お母さんは、\n「それではやっぱりいけないのでございましょうか?」\n と泣きそうになった。\n「いや、このつぎにことをおこした場合、手数をはぶくためです」\n「先生、そうおっしゃらずにどうぞこのたびだけは......」\n「わかっています。ご安心なすって退校届をお持たせください。もうこの上まちがいのないように私が計らってあげます」と先生は考えがあった。\n 級のもてあましものも退校届をにぎられてしまってはもうらんぼうが働けない。もっとも自分でもすっかり後悔している。堀口生はなお尾沢生や横田生にもあやまった。\n「おれはお前たちに一番わるいことをしている。しかし今日からは堀口改心だ。堀口英太郎じゃない。見てくれ。このとおりだ」\n といって、制服のボタンをはずしてカラーを見せた。それに堀口改心と書いてあった。尾沢生も横田生も元来わるい奴でない。堀口生がおだてなければごくおとなしくしている。級に平和な日がつづいた。\n「堀口さん、お前はほんとうにえらくなったね」\n と尾沢生が感心したくらい堀口生の改悛は、いちじるしかった。\n「おれは昨日何年ぶりかでお母さんにほめられたよ」と堀口生も得意だった。橋本先生も、\n「堀口君、君は生まれかわったね。しかし数学をやってこなければいけないよ」\n と時々はげましてくれる。堀口生はその都度頭をかいて相好をくずす。先生からやさしい言葉をかけられるのがうれしいのだ。しかしある時、\n「先生、僕はこのごろくたびれてだめです」\n と答えた。これはほんとうだった。おとなしくしているのが大きな努力だから、いまだ勉強の方までは手がまわらない。よほど気をつけていないと癖が出て、\n「やい、こんちきしょう!」\n なぞとやる。もっともそのすぐ後から、\n「しまった。失敬、ごめんごめん」\n とことわる。一度運動場で足をふんだ子を突きとばしたが、急いで抱きおこしてやって、\n「失敬失敬、ごめんよごめんよ」\n とあやまった。あいにく松村君や正三君が見ていたものだから、大いにあわてて、\n「松村君、内藤君。ついしちゃったんだよ。けれどもいいあんばいに他の級の生徒だった」\n と弁解して逃げていった。\n「退校届がこわいんだね」と正三君がいった。\n「そうさ。しかしよくなったよ」\n と松村君は監督者だ。\n「堀口改心か」\n と細井君が笑った。\n「たしかに改心した」\n と高谷君も十分みとめている。\n「いや、そういう号だよ。教科書にも雑記帳にも堀口改心と書いてある」\n「それぐらい真剣ならもう大丈夫だ」\n「きみもなぐったかいがある」\n と細井君は十日前の喧嘩を思い出した。\n「いや、僕だってずいぶんやられている」\n と高谷君はこの頃ようやく血目がなおった。\n 正三君は口のとんがりがひっこんでから土曜日にお暇をもらって家へ帰った。久しぶりだから話がたまっている。それにお父さんや兄さんに相談したいことがあった。\n「いつもおやしきの自動車ね。えらいものね、正ちゃんは」\n と君子姉さんが感心した。正三君はいただいてきたおみやげを並べて、\n「奥様からお父様お母様へよろしくとございました。いずれその中またお伺いしていろいろとお話し申しあげたいと存じますが、お殿様はご満足でございますから、ご安心くださるようにっておっしゃいました」\n とよどみなく口上を述べた。\n「少し大きくなったようね」\n と君子姉さんと貴子姉さんがかわりがわりに頭をなでてくれた。\n「もういやですよ」\n と正三君はそんな子供扱いを喜ばない。\n「おとなおとなしてきたよ。やっぱり苦労をするんだろうからね」\n とお母さんはうれしいやらかなしいやらだった。三人寄ってたかって離れない。それからそれと話がつづく。正三君もそれがなによりのごちそうだ。\n「正三かい?」\n といって、大学へ通っている兄さんが帰ってきた。\n「なんですね? こうもり傘を座敷まで持ってきて」\n とお母さんがたしなめた。\n「あらあらあら。ぬれててよ」\n と貴子姉さんが騒ぎたてた。雨があがったばかりだった。\n「玄関に正三の下駄らしいのがあったものだから急いであがってきたんだよ」\n と祐助兄さん、あわてている。\n「ごぶさたいたしました」\n と正三君は改まっておじぎをした。\n「よく来たね。泊まってゆくんだろう?」\n「はあ」\n「どうだい?」\n「相変わらずです」\n「太ったね、少し」\n「そうですか」\n「いつ来たんだい?」\n「二時頃です」\n「それじゃもう大分話したね?」\n「はあ」\n「なんだかおとなじみてきたよ」\n「そんなこともございますまい」\n「そのとおりだもの」\n「ハッハハハハハ」\n「ハッハハハハハ」\n と祐助君は大喜びだった。\n お母さんや姉さんたちが晩の支度にかかった後、正三君は裕助兄さんの書斎へ行った。おやしきへあがる前はこの部屋に机をならべていたのである。\n「兄さん、やっぱり僕の机がありますね」\n と正三君は懐かしそうにながめた。\n「お前がいると思ってもとのとおりにしておくんだよ。そこへ坐れ」\n「はあ」\n「おれは夜『おい、正三』って呼んでみることがあるよ」\n「............」\n「今頃はなにをしているのだろうと時々思い出す」\n「............」\n「ベソをかくなよ」\n「はあ」\n「どうだい? おやしきは」\n「おもしろいです」\n「ほうとうのことをいえよ」\n「辛いこともあります」\n「がまんできるかい?」\n「できます」\n「ほんとうのことをいえよ」\n「できます」\n「照彦様は相変わらずむりをおっしゃるのかい?」\n「時々おっしゃいます。けれどもこの頃は僕も負けていません。喧嘩になることがあります」\n「ふうむ。ナカナカ強いんだね。お前も」\n「そんな時には僕はもう家へ帰るというんです。すると照彦様は『内藤君、ねえ、内藤君』ってごきげんをとるんです」\n「それでいいんだよ。学友だもの。おべっかを使う必要はちっともない」\n と祐助君は正三君が卑屈になることを恐れて強くいう。\n「殿様も奥様も若様がたも皆ご親切にしてくださいます。それから僕は安斉先生に信用があるんです」\n「照常様はどうだい? いつかお前の首をしめたっていったじゃないか?」\n「この頃は僕をかわいがって柔道の手なんか教えてくれます。冬休みには鉄砲を打ちにつれて行ってくださる約束です」\n「それは好い塩梅だ。学校の方は?」\n「大勢友達が出来ました。優等生が三人お屋敷へ遊びに来ます」\n「その悪い奴はどうしたい? お前のことを家来だの何だのっていう奴は?」\n「兄さん、到頭やったんですよ」\n「喧嘩をかい?」\n「はあ。口がこんなに腫れました」\n「負けたのかい?」\n「勝ったんです」と正三君は経緯を詳しく物語って、\n「もう内藤正三位なんて言う奴は一人もありません。皆僕を怖がっているくらいです」\n と肩をいからせて見せた。得意もあったが、兄さんを安心させるためもあった。\n「それはよかった。ときには腕力も必要だ。紳士ばかりはいないからね」\n「しかし堀口って奴はほんとうに後悔しましたよ。僕たちにヘイヘイしてかわいそうなくらいです」\n「さんざんお前をいじめた罰さ」\n「僕はとても勝てないと思いましたが、まったく高谷君や細井君のおかげです」\n「おれからよろしくいってくれ」\n「はあ」\n「ようやく安心した」\n「けれども兄さん、一つ困ることがあります」\n「なんだい?」\n「もうすぐ試験ですが、僕一生懸命でやっていいのかわるいのかわからないんです」\n「なぜ?」\n「照彦様のご都合があるんです」\n「それは試験前にお前が照彦様をコーチしてあげるのさ」\n「コーチってなんです?」\n「勉強のお手つだいをしてあげるのさ。それが学友の眼目だよ」\n「それはむろんやりますが、照彦様は僕が一番でも上になると承知しないっておっしゃるんです」\n「照彦様はいったい何番だい?」\n「ビリから五番です」\n「それじゃ落第だろう?」\n「はあ。照彦様のご成績を拝見しましたが、平均点が足りません」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 細川忠利の招きによるといわれている。待遇は、米三百俵。扱いは、岩間六兵衛。取次は坂崎内膳。いまその時に、彼が君侯にさし出した口上書なるものが遺っているが、それを見ても、相互、軽々しい約ではない。\n 武蔵自身が、自分を語っている上答書(履歴書と見てよかろう)であるから、原文のままを、ここに見よう。(著者解文)\n\n\n われ等、身上の事、岩間六兵衛を以て、御尋につき、口上にては、申し分けがたく候間、書付て御目に懸け候。\n一、われら事、たゞ今まで、奉公人と申し候てをり候ところは、一か所もこれなく、年まかり寄り、その上、近年病者になり候へば、何の望みもござなく候、もし逗留仰せつけられ候はゞ、自然、御出馬の時、相応の武具をも持たせ参り、乗替へ馬の一疋も、ひかせ参り候やうに有之候はゞ、能しく御座候。\n一、妻子とても、これなく、老体に相なり候へば、居宅家財等のこと、思ひもよらず候。\n一、若年より、軍場へ出で候こと、都合六たびにて候、そのうち四度は、拙者より先を駆け候者、一人もこれなく候、その段は、あまねく何れも存ずる事にて、もつとも、証拠もこれあり候、然しながら、全く、身上を申し立て致し候にては御座なく候。\n一、武具の扱ひやう。軍陣において、それ〴〵において、便利なる事。\n一、時により、国の治めやう。\n右は、若年より、心にかけ、数年たんれん致し候間、お尋ねにおいては、申しあぐべく候已上。\n 寛永十七年二月宮本武蔵\n\n\n このほかに、熊本奉行所日記には、当時の武蔵の扶持状、その他が記載されている。何しても、忠利は、彼にたいして、座席は大組頭の格として、居宅は、本丸の丘のすぐ前にある古址千葉城の邸を以て、彼を迎えた。\n 破格な優遇といってよく、ために、多少、藩内の嫉視もかったようである。\n 武蔵は、それを苦痛に感じていたにちがいない。やがてこの知己忠利が逝くと、彼もまったく、俗交を絶って、その生活は、目立って、世外的な閑日に溶けて行った。\n\n 熊本に落ちついた翌十八年、武蔵は忠利の命によって、彼の生涯にわたって研鑽してきた兵法二天一流の事――つまりその集大成を系列して、書いたものを、主家へさし出した。\n「三十五箇条」\n というのが、それである。\n なお有名な、彼の「五輪書」は、翌々年の寛永二十年、熊本郊外の岩殿山の洞窟にこもって、精進潔斎して、書いたもので、彼の死す、前々年の著述である。\n\n 死は、正保二年五月十九日。\n しかし、病は、春ごろから、彼に、死期のちかいことを、悟らせていた。\n ここへ来てからの、無二の友であり心契の人に、泰勝寺(細川家の菩提寺)春山和尚がある。\n 生前の約束によって、春山和尚が引導した。国主の代拝もあり、諸士会葬して、藩葬ともいえるような盛儀であったという。\n 時に、年六十四。或は二という説もある。\n\n\n\n彼の自戒の壁書文\n「独行道」\n\n\n\n\n伝えられているものには、独行道二十一条というもあり、十九条、或は十四条など、まちまちであり、また章句の順序も一定していない。この十三句目の名利というのは、いわゆる現代語の名利の意味でないことはもちろんで、節義と解すべきである。\n\n\n\n一、世々の道にそむくことなし\n一、身に、たのしみを、たくまず\n一、よろづに依怙の心なし\n一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ\n一、われ、事において後悔せず\n一、善悪に他をねたむ心なし\n一、いづれの道にも、わかれを悲まず\n一、れんぼの思ひに、寄るこゝろなし\n一、わが身にとり、物を忌むことなし\n一、私宅においてのぞむ心なし\n一、一生のあひだ、よくしんおもはず\n一、こゝろつねに道を離れず\n一、身をすてゝも名利はすてず\n一、神仏を尊んで、神仏を恃まず\n\n\n彼の歩いた「道」とその「時流」\n\n近世人・武蔵\n\n 彼は、今から約三百年余前の人である。その頃の社会に、孤衣孤剣の身を、漂泊のうちに生涯していたといえば、非常に遠いむかしの人を語るような感じもするが、法隆寺の塔は、解体改築されて後も、なお今日にその実在を示しているし、紫式部の源氏がいまも愛誦されて、なお文化の底流に若い生命を息づいていることなど思えば、宮本武蔵などは、つい近世の人だといっても決して不当ではない。\n 殊に、彼が生長し、また、志望して生き通した天正、慶長、元和、寛永、正保の長い期間は、戦国の動乱と苦境をのりこえて、日本の近世的な基礎をすえた黎明期であって、いわゆるその頃の終戦時代に、長い混乱期のあとをうけて、誕生した彼は、やはり時代の孕んだ子のひとりであったことに間違いはない。――云いかえれば、彼は、元亀、天正のあとに生れた当時の“戦後派”の青年のひとりだったともいえるであろう。その点でも、武蔵は、近世人の圏内に置かれるべき人だし、思考してゆくにも、万葉の歌人や、記紀の史上の人々の血を汲みとるよりも、われわれには、はるかに身近いここちがするのである。\n だが一応、彼をはっきり観るには、その少年期と、中年期と、晩年との三つぐらいに分けて、時代の社会相を考えておかねば真をつかみにくいと思われる。その時代もまた、われわれの予備知識にかなり持っている年代であるから、分ってる人には一口でもすむことだが、順序として一通りいってみる。\n" }, { "role": "assistant", "content": "中国・小牧役前後\n\n 中国山脈の山間の一城下に、彼が呱々の声をあげた年は、天正十二年の三月だったといわれている。(一説に十年説や異説もあるが、二天記に従っておく)\n 武蔵の生れたつい二年前は、秀吉の中国攻略が行われた年だった。武蔵の郷土、作州吉野郷の竹山城下(現・岡山県讃甘郡宮本村)は、浮田家に所属する一領地であったから、秀吉の織田軍に合力して、有名な高松の「水攻め」などには、その背道の嶮を守ったり、敵の糧道の遮断に当ったことだろうが、この地方は古くから豪族赤松の分流やら、その他の土豪の支族が、小勢力にわかれていて、利害はそれぞれ錯雑し、毛利方に加担するもあれば、織田の統制に合流するものもあったりして、中央の動流と共に、いつも小合戦の絶え間なかった地方であった。\n わけて秀吉の中国遠征は、大規模な大軍をうごかして、中国一帯を、一時戦時色に染めたほどであったから、およそ戦争というものの実感と惨害は、この地方の郷土には、農民の端にまでよく分っていたに違いなかった。\n 老人は老人で、それ以前も絶え間のなかった――三好、細川、赤松、尼子氏などの治乱興亡の戦語りを、炉ばたに寄れば、見たこと聞いたこと、幼い者にして聞かせたことであろうし、若い者は、すぐ眼近にあった、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の変だの、すぐ翌年の小牧の大会戦だの、そうした話題に、明け暮れ送っていたろうと思われる。\n その小牧の合戦があった年に、武蔵は一歳だった。そして彼が、十七歳で臨んだという関ヶ原の役までに、世の中は、急速に一転変をつげていた。やがて覇者秀吉の創造による秀吉文化に彩られた時代だった。\n\n「......いかゞ成行やらん」世\n\n 小牧の合戦から関ヶ原までの十七年間。――武蔵の一歳から十七歳までのあいだの――彼の郷土である山間の人心は、どんなだったろうかと考えるに、その平和中、多少の泰平は謳われたろうが、なかなか中央における醍醐の茶会とか、桃山文化の、あの爛漫な盛時や豪華ぶりは、夢想もできないものだったろうと思われる。\n 現に小牧の合戦の時でも、\n\n天下動乱の色顕はる。いかゞ成行べき哉らん。心ぼそきものなり。神慮にまかせて、明暮するまで也。無端事。無端事。\n\n「多聞院日記」の筆者は、その天正十二年三月二十二日の項で、そう日記に誌けているのである。中央の知識人でさえ「――いかゞ成行べき哉らん」と観たほどの脅えを抱いたのであるから、地方民の心には、もっと恟々としたものがあったであろう。\n 小牧の合戦とはいうが、事実は秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く辺境な九州の一部と東奥の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された戦争だったから、武蔵の郷土美作地方にも、当然、戦波はまき起っていたし、そして「多聞院日記」の筆者同様、「いかゞ成行やらん」と暗澹としていた世間の顔の中に、彼は呱々を揚げていたのである。\n 秀吉でさえ、北陸の丹羽長秀へ出した指令の文の一節には\n\n――此表、十四五日之内に者、世上之物狂も、酒酔之醒たるごとくに(後略)\n\n と見えたりしている。その後には「筑前覚悟を以てしづめ申す可」という文字なども見える。いかに戦士自身も緊張していたか、日本中の大動乱と前途の暗黒を意識していたかがわかる。\n けれど事実は、後世になってみると、それから関ヶ原の役までが、すでに戦国日本の奔波は絶頂をこえていたのであった。人心は暗かったが、大地は平和を芽ざしかけていた。\n それが、武蔵の生れた頃から青年期への時代であった。\n\n時勢一転\n\n 関ヶ原の役の結果は、「......いかゞ成行やらん」としていた人心に、明白な方向を示した。\n 長期の風雲時代は、もう終熄して来たのである。\n 二つの勢力が一つに統一されかかり、同時に時代の分水嶺から、不遇に去る者と、得意な機運に乗って出る者とが二分された。\n 武蔵は弱冠十七歳で、関ヶ原の戦塵の裡へ身を投じている。どういう隊で、どういう資格で、というような所属は明白でないが、彼の父祖以来の郷土的な関係から推して、浮田中納言の一部隊につき、軽輩な一兵士として出陣したに過ぎないことは想像に難くない。\n それから戦後の行動は審かでない。竹山城の新免家の家士としてだとすると――新免家の落武者は九州へ落ちのびたり、黒田家に頼ったり、その他の地方へも分散したらしいが、もちろん徳川家の勢力地方は、努めて避けて潜んだに違いあるまい。\n けれどそれは名のある重臣のことで、十七歳の一軽輩なら、どうにでも方針はつく。詮議もそこまでは届くまい。武蔵などは、そういう点で身の処置は困難でなかったろうと考えられる。\n その証拠には、数年後に、京都一乗寺村の下り松で、吉岡憲法の一門と試合をしている。その時二十一歳だといわれているから、約四年の後である。\n どういう素質があったか、どういう修行をしたか、この間は余程考究してみる必要がある。\n 一乗寺村の試合などは、あの名だたる名家の剣と一門の多勢に対して、一箇の武蔵が、ただよくそれを克服したとか、強かったとかいうのみでなく、精神的に観ても、すでに或る高い境地に近づきかけていた跡が見える。\n 巌流島で佐々木小次郎を打ったのが二十九歳だったという。それから三年後、元和元年の大坂陣の折には、西軍について実戦もしている。\n それ以後にはまた、杳として、彼の足跡はあまり分っていない。分っていない間は、樹下石上の武者修行生活をしていたものと観るしかないのである。ただ、その間に飛石のようにぼつぼつと地方的な逸話だとか、他の武人と試合った話とかが、たまたま遺されているに過ぎない。\n 彼の全貌が、やがて大成された相を以て、はっきりと再び吾人の眼に泛び出して来るのは、何といっても、晩年熊本に定住してからの武蔵である。五十七歳以後、六十二歳で示寂するまでの彼である。もっともその前にも、五十五歳で養子の伊織を具して、小笠原忠真の軍監として島原の乱に出征していたり、二、三明白な事蹟もあるけれど、その言行までは詳しく遺っていないのである。\n 見るが如き彼の風采や、聴くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落着いてから後の武蔵のものであって、それを通して彼の青年期や少年時代を推知する便宜も少なくはないが、余りに晩年の彼をもって、生涯の彼を律してしまうことも、過りが多いのではないかと考えられる。\n\n年表とその空欄\n\n 以上、武蔵の生きていた時代を、その年齢に応じて、四期に分けてみるならば、\n\n天正十二年から、慶長五年の関ヶ原の役までを――(彼の少年期に)\n慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)\n大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壮年期に)\n\n それから後、六十二歳の最期までの間が、彼の晩年期として考えられるのである。\n そこで第一期の少年時代の世状と、彼の郷土における逸話や、関ヶ原へ出たことなど思い合せてみると、大体、その心持や当時の四囲の事情も頷けてくるし、ことに関ヶ原以後の彼が、その戦争の結果に依ってどんな示唆をうけたか、そしてどうして「剣」を道とする道をえらんで行ったかも、うすうすながら分る気がするのである。\n まず、思想的にも、彼は大きな教訓を、時勢の事実から与えられたろう。それから片田舎の眼界を、急激に、中央の趨勢から世情へみひらいたことであろう。\n 彼の素質が、関ヶ原を契機として、一転したことは、疑うべくもない。\n それから第二期の――大坂落城と世間の趨勢を見ては、愈〻彼自身の向う道も、胸底に決していたに違いない。それは名利の外表に浮び出ようとするよりも、さらに潜心的になって「道」への究明に没して行ったことが窺われる。年表に拠って考えてみても、それ以後五十年ぢかくなるまでの彼の足跡は、青年期よりもさらに不明瞭にぼかされているからだ。――道から道へ、道から道へ、たとえば、西行の旅にも似て、芭蕉のさすらいにも似て、それとは、意も行も、形も違うが、遍歴に暮していたものと思われる。\n すでに二十一歳の折に、また二十九歳の青年時代に、一乗寺村だの巌流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武蔵の名は、相当に当時でも喧伝されていたはずである。――そうした時代の寵児が、余りにも今日、遺されている事蹟の少ない点から見ても、彼の旅は、またその修行は、極めて地味な、――雲水的な、孤高独歩の境を好んで歩いたものであろう。\n\n「道」の人・武蔵\n\n 彼の目がけた「道」への究明と、それに伴う「人間完成」の鍛錬のためには、どうしてもそう成らざるを得なかったに違いない。たとえば、武蔵が生涯、妻を娶らなかったという問題などでも、よく「なぜ?」という話題を生ずるが、それは身を賭して一道に潜心することが、いかに血みどろな苦闘精進を要するかを知る人には、すぐ解ることだと思う。しかし、その道は、余人は知らず、当人には、またなく、楽しいものであったにちがいない。なぜ芭蕉は妻を持たなかったか、西行は妻を捨てたかという問題とも一つになる。芭蕉や西行の生涯の独身生活は、人は不思議ともしないのであるが、武蔵の場合には、よくそれが不思議がられるのである。しかし「道」のみでなく「剣」そのものには、いつも生死の覚悟がいる。宗教的求道者の多くが、また旅の空に生涯する者の多くが、妻を持たない以上に、武蔵が妻を娶らなかったことも、不思議ではないし、無理もないのである。\n 彼が細川忠利から宅地をもらって、安住の日を得た時は、もう五十七歳だった。\n おそらく、妻を娶る間も、何を顧みる間もなかったのである。それでもまだ究める「道」に対しては、これでいいと安んじていなかった。六十をこえた後まで、熊本市外の霊巌洞へ通って坐禅をしたり、燈下に著述をしたり、苦念していたのだった。それは彼にとって楽しいのであった。実に、生きるに飽くことを知らない人だった。\n\n惨心の人か・幸福人か\n\n 彼の一生涯のうちに、世の中は、前にいったような急転変を告げた。関ヶ原の敗戦に会い、その頃の“戦後派青年”のひとりとなって何も頼るもののない社会につき出されたのである。そして、暗黒な戦国末期から、次への過渡期を越え、江戸文化の初期にまで亘っている。この波の中に、彼は決して、処世には上手な人であったように思われない。いやむしろその転機の大波のたびに不遇な目に遭ったようである。おそらく二十歳未満に抱いた志であろうが、ただ、その間にも目がける「道」だけは離れなかった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。\n「おい、好い天気だな」と話しかけた。細君は、\n「ええ」と云ったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君の方から、\n「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。しかしその時は宗助がただうんと云う生返事を返しただけであった。\n 二三分して、細君は障子の硝子の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱に挟まれて顔がちっとも見えない。\n「あなたそんな所へ寝ると風邪引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。\n 宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、\n「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。\n それからまた静かになった。外を通る護謨車のベルの音が二三度鳴った後から、遠くで鶏の時音をつくる声が聞えた。宗助は仕立おろしの紡績織の背中へ、自然と浸み込んで来る光線の暖味を、襯衣の下で貪ぼるほど味いながら、表の音を聴くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、\n「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、\n「近江のおうの字じゃなくって」と答えた。\n「その近江のおうの字が分らないんだ」\n 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、\n「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺め入った。宗助は細君の顔も見ずに、\n「やっぱりそうか」と云ったが、冗談でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、\n「本当に好い御天気だわね」と半ば独り言のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫を始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡げて、\n「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。\n「なぜ」\n「なぜって、いくら容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」\n「まさか」\n「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。\n「あなたどうかしていらっしゃるのよ」\n「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」\n「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。\n 針箱と糸屑の上を飛び越すように跨いで、茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞がれているので、突き当りの障子が、日向から急に這入って来た眸には、うそ寒く映った。そこを開けると、廂に逼るような勾配の崖が、縁鼻から聳えているので、朝の内は当って然るべきはずの日も容易に影を落さない。崖には草が生えている。下からして一側も石で畳んでないから、いつ壊れるか分らない虞があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主も長い間昔のままにして放ってある。もっとも元は一面の竹藪だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤の中に埋めて置いたから、地は存外緊っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘く行くもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんな事があったって壊えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力んで帰って行った。\n 崖は秋に入っても別に色づく様子もない。ただ青い草の匂が褪めて、不揃にもじゃもじゃするばかりである。薄だの蔦だのと云う洒落たものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残りの孟宗が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日の射すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味を眺められるような心持がする。宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰まるこの頃は、滅多に崖の上を覗く暇を有たなかった。暗い便所から出て、手水鉢の水を手に受けながら、ふと廂の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。幹の頂に濃かな葉が集まって、まるで坊主頭のように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂そりと重なった葉が一枚も動かない。\n 宗助は障子を閉てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。北側に床があるので、申訳のために変な軸を掛けて、その前に朱泥の色をした拙な花活が飾ってある。欄間には額も何もない。ただ真鍮の折釘だけが二本光っている。その他には硝子戸の張った書棚が一つある。けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。\n 宗助は銀金具の付いた机の抽出を開けてしきりに中を検べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締めてしまった。それから硯箱の葢を取って、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、\n「おい、佐伯のうちは中六番町何番地だったかね」と襖越に細君に聞いた。\n「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、\n「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。\n「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」と云い切ったが、細君が返事をしないので、\n「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。\n 細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷から直ぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝いに玄関に出た。" }, { "role": "assistant", "content": "「ちょっと散歩に行って来るよ」\n「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。\n 三十分ばかりして格子ががらりと開いたので、御米はまた裁縫の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被った、弟の小六が這入って来た。袴の裾が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗のマントの釦を外しながら、\n「暑い」と云っている。\n「だって余まりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」\n「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は云訳を半分しながら、嫂の後に跟いて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、\n「相変らず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢の前へ胡坐をかいた。嫂は裁縫を隅の方へ押しやっておいて、小六の向へ来て、ちょっと鉄瓶をおろして炭を継ぎ始めた。\n「御茶ならたくさんです」と小六が云った。\n「厭?」と女学生流に念を押した御米は、\n「じゃ御菓子は」と云って笑いかけた。\n「あるんですか」と小六が聞いた。\n「いいえ、無いの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」と云いながら立ち上がる拍子に、横にあった炭取を取り退けて、袋戸棚を開けた。小六は御米の後姿の、羽織が帯で高くなった辺を眺めていた。何を探すのだかなかなか手間が取れそうなので、\n「じゃ御菓子も廃しにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」と聞いた。\n「兄さんは今ちょいと」と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、\n「駄目よ。いつの間にか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢の向へ帰って来た。\n「じゃ晩に何か御馳走なさい」\n「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。\n「姉さん、兄さんは佐伯へ行ってくれたんですかね」と聞いた。\n「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」\n「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮の火箸を取って火鉢の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。\n「だから先刻手紙を出しておいたのよ」と慰めるように云った。\n「何て」\n「そりゃ私もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」\n「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」\n「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」\n 小六はこれ以上弁解のような慰藉のような嫂の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出る閑があるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々頁を剥って見ていた。\n\n二\n\n そこに気のつかなかった宗助は、町の角まで来て、切手と「敷島」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、啣え煙草の煙を秋の日に揺つかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産に家へ帰って寝ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑やかな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽がないので、いつでも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日に一返の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢うと、不断の生活が急にそわそわした上調子に見えて来る。必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋しさを感ずるのである。\n そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐に多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒める程度内に膨らんでいるので、億劫な工夫を凝らすよりも、懐手をして、ぶらりと家へ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋しみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。\n この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠たりと落ちついているように見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道伴ほど殺風景なものはない。革にぶら下がるにしても、天鵞絨に腰を掛けるにしても、人間的な優しい心持の起った試はいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞと膝を突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、傍に見ていた三十恰好の商家の御神さんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところを眺めていると、今更ながら別の世界に来たような心持がした。\n 頭の上には広告が一面に枠に嵌めて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札であった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてその後に瓦斯竈を使えと書いて、瓦斯竈から火の出ている画まで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云うのと、バンカラ喜劇小辰大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。\n 宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧に三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入りには、落ちついていられないものであった。\n 宗助は駿河台下で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞や模様の上に、鮮かに叩き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔し前の生活である。ただ History of Gambling(博奕史)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛な新し味を加えただけであった。\n 宗助は微笑しながら、急忙しい通りを向側へ渡って、今度は時計屋の店を覗き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好として、彼の眸に映るだけで、買いたい了簡を誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札を読んで、品物と見較べて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。\n 蝙蝠傘屋の前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物を売る店先では、礼帽の傍にかけてあった襟飾りに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変柄が好かったので、価を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入りかけたが、明日から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口の口を開けるのが厭になって行き過ぎた。呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召だの、高貴織だの、清凌織だの、自分の今日まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新と云う家の出店の前で、窓硝子へ帽子の鍔を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍をした女の半襟を、いつまでも眺めていた。その中にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五六年前の事だと云う考が後から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "第一部 最終戦争論\n\n\n\n昭和十五年五月二十九日京都義方会に於ける講演速記で同年八月若干追補した。\n\n\n\n第一章 戦争史の大観\n\n第一節 決戦戦争と持久戦争\n 戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。\n 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる――比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。\n 戦争本来の真面目は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。\n 戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け......」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います(六四頁の付表第一参照)。\n\n第二節 古代および中世\n 古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘を受けないで決戦戦争が行なわれました。\n ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。\n 前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。\n" }, { "role": "assistant", "content": "第三節 文芸復興\n それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。\n 当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから三百人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。\n その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。\n 金で傭われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。\n 横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何十個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。\n そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。\n 三十年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。\n フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。\n フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、一七八九年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。\n 即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている一七八九年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。\n\n第四節 フランス革命\n フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍――実質はそれだけなかったと言われておりますが――を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。\n ところが横隊戦術は熟練の上にも熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思いながら縦隊戦術を採ったのです。散兵戦術を採用したのです。縦隊では射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易な縦隊を運用しました。横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思ってやったのではありません。やむを得ずやったのです。ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。革命の時代は大体そういうものだと思われます。\n 古くからの横隊戦術が、非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、新しい時代が来ていたのです。それに移るのがよいと思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。\n これに加えて、傭兵の時代とちがい、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、十八世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。\n ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として十八世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。\n 敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に戦争の神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。\n それまでは三十年戦争、七年戦争など長い戦争が当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。\n 特に皆さんに注意していただきたいのは、フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。\n プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、一八〇六年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。天才ナポレオンも、もう二十年後に生まれたなら、コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n はてもない雪の野原を、二頭だてのそりが一だい、のろ〳〵と動いてゐました。そりにつけた鈴が、さびしい音をたてました。まつ白にこほりついた、ぼろござをきせられた馬は、にえたつた湯気のやうな息を、ひゆう〳〵はきつゞけました。\n ぎよ車台には、こちらの村の百姓の子で、今年十三になるリカがすわつてゐます。お父つァんの古帽子をかぶつて来たのはいゝけれど、とてもづば〳〵で、ちよいとでもうつ向くと、ぽこりと、鼻の上までずりおちて来ます。リカは、それを、あらつぽくおし上げながら、\n「ほい、ちきしよう。うすのろめ。はやくあるかねえか。ほい。」と、馬をどなり〳〵しました。\n そりの中には、冬休みで田舎の家へかへつていく、中学二年生のコーリヤが、からだへ外とうや、ふとんをまきつけて、のつてゐます。北風は、ものすごいうなりをたてゝ、ふきまくり、リカの鼻をつねつたり、コーリヤの外とうをつきとほして、氷のやうな息をふきかけたり、指をこち〳〵にして、動かなくしてしまふかと思ふと、こんどは、ぞつと、くびすぢをなめまはしたりします。リカの靴は、まつ白にこほりついてゐます。帽子の下からのぞき出してゐる髪の毛は、まるで年よりの髪のやうに灰色になつてゐます。\n「リカ。」\n 中学生のコーリヤはたまらなくなつて、どなりました。\n「なにかもつと着せてくれよ。寒くつて寒くつてたまらないよ。」\n「なんだつて? 寒い? ちよッ。」\n リカは、かういひ〳〵、ぎよ車台からとびおりて、帽子をおしあげながら、そりのはうへいきました。そして、大きな手袋をはめた手で、コーリヤのかけてゐる毛布をなほしはじめました。\n「おや、ふるえてるな。」\n リカはからかふやうにいひました。\n「どうしたの? こゞえちやつたんかね。鼻をほら、鼻をかくさないかよ。家へいくまでに鼻がなくなつちまふよ。みなさい、まあ、なんておまいさまの鼻、赤くなつてんだ。」\n「なんだい。鼻なんかどうだつていゝぢやないか、はやくやれよ。」\n そこで、リカは、じぶんの鼻をこすつて、手袋をはめて、また、ぎよ車台にとびのりました。\n「どう〳〵〳〵、ちきしよう。」\n リカは、長いむちを力一ぱいふりまはしました。そりは、ぎし〳〵きしみながら、又うごき出しました。\n コーリヤは、ぢつとちゞこまつて、身動き一つしませんでした。ちよつとでも動くと、北風は、どこかしらあたらしい入口をみつけて、ふきこんで来るからです。しかし、コーリヤの心の中は、だんだんにあたゝかいよろこびにみちあふれて来ました。コーリヤはこのそりが、じぶんのうちの大きな門のまへについたときのことを、心にゑがいてみました。\n そりがつけば、窓には弟たちの頭がちらちら見え出して、小さい手で窓硝子をたゝいてゐるのがきこゑて来ます。家中のものがみんな、げんかんへかけ出し、戸が、ばた〳〵とあくかと思ふと、ぢいやのドウナーシヤが階だんをころがるやうにかけおりて、そりからだき下してくれます。お父さんや、お母さんや、ワアニヤ叔父さんや、ドウーニヤ叔母さん、それから、けんか相手の弟のレワにボーリヤと、目の黒い妹のサーシュにもあへるのです。\n あゝ、家はいゝな。でも、冬休みはみじかいからつまらない。たつた二週間ぽつちです。するとまた学校へいかなければならない。さうだ、あともう一週間だけ、にせ病気になればいゝんだ。さうすれば、冬休みが三週間になるわけだ。でも、お父さんに見ぬかれたらだめだなァ。\n このほかに、もう一つ、コーリヤには心配なことがあります。それは、家へもつていく二学期の成績表の、算術の点が、たつた二点しかないことです。しやくにさはる点め。これさへなかつたら、コーリヤはどんなに仕合せだつたでせう。しかし、それだつてどうにか、算術の先生が意地わるなんだとか、みんなも、出来なかつたんだとか、うまく言ひわけをするからいゝよ。\n そんなことより、弟や妹たちが、じぶんが買つてきたクリスマスのおくりものをみたら、どんなにをどりあがつてよろこぶだらう。それに、お母さんは、蓄音器をかつたと手紙にかいてよこしたし、ああ、家へかへると、とてもおもしろいぞ。\n ぎよ車台のリカは、コーリヤの考へてゐることなんかにはおかまひなく、たゞ、むやみに鼻をこすつたり、こほりついた靴を、ばたばたうち合はせたり、手袋をはめた手をたゝいたりするだけで、なんにも、考へごとなんかはしませんでした。\n「ほい、ちきしよう。」\n いくらどなつても、馬はやつとこさ、そりを引きづッてゐるだけで、この小さな馬車つかひのいふことなんか、ちつともきゝませんでした。\n「ちよッ、はしらねえか。こらつ。」と、リカはさけびつゞけました。\n「もつとはやくやれよ。リカ。」\n コーリヤは、とてもじれつたさうに、いひました。\n「いやに急がすね。火事場へいくんぢやあるまいしさ。なんぼ馬だつて、ちつとは、かはいさうだと思つてやんなくちや。おまいさまは、そこにすわつてるが、馬のやつはおまいさまを引つぱつてゐるんだからなァ。ゆんべは材木を引つぱつたんだ。馬もすこしはこたへるよ。」\n「なんだ。」と、コーリヤはいひました。\n「だつて馬が二頭ぢやないか。ぼくの家の馬なら、一頭だつてもつとはやくはしるぞ。」\n「それやあ、お前さまんとこの馬はえん麦をたべてるんだもの。おらのは乾草だけだもの。えん麦なんか、ちよつとにほひをかゞせるだけだからな。」リカは、いひくはへしました。\n「おまいさまだつて、やつぱし、うまいものばつかしたべてんだらう? 砂糖ばつかしなめてんぢやないかよ。」\n コーリヤは笑ひました。\n「ばか、世界中でお砂糖よりおいしいものはないと思つてゐるんだね。おまい、本がよめるかい?」\n「よめるよ。少しぐらゐ。」\n「ぢやあ、字をかくのは?」\n「字をみてかくんならできるよ。それよりもおまいさまァまだ卒業しないのかね。」\n「まだだつて? もう七年、中学にゐて、それから五年大学へいくんだよ。そしてお医者になるんだよ。」\n「ぢやあ、なにもかも勉強しなくちやあならないんだね。大へんだなァ。」\n「おまい、町へいつたことがあるかい?」\n「あるもんか。――ちよつ、はしれ、こおら、ちきしようめ。」\n\n\n 二\n\n あたりは、もうすつかりくらくなつて、はだを切るやうな風が、びゆう〳〵まともにふきつけました。コーリヤは顔中がこほりつき、足が木のやうになつてきました。\n リカは、ぎよ車台からとび下りて、馬をぶちながら、じぶんは、そりとならんでいきました。馬は、やつとかけだしました。リカもおくれまいとして、手をふりながらかけました。\n けれどすぐにおくれて、うしろにとりのこされました。\n コーリヤは、それが気になりました。やつぱりリカがぎよ車台にのつてゐるはうが安心です。リカはなか〳〵もとへかへりません。北風は、ます〳〵ふきつのつて、野原の一面をうづまくやうにあれくるひ、雪けむりをたかくまきあげたり、白かばの枝を笛のやうにうならせるかと思ふと、どつと大声で笑つたりしました。\n コーリヤは心細くなつてきました。どこかから不意に狼がとび出して、馬をもじぶんたちをも、くひころしはしないだらうか。短刀をもつた悪漢が出てきて、つかまへでもしたらどうしよう。そんなことがおこつたらお母さんや、お父さんや、レーワや、ボーリヤやサシュールカが、それこそどんなに泣くだらう。さうだ、ドウーニヤ叔母さんだつて泣くにきまつてゐる。\n コーリヤは、あたりをみまはしました。何だか、ほんたうに狼か悪漢かゞすぐそばでじぶんをねらつてゐるやうな気がしました。間もなく、白かばのかげで、ちらりと何か動きました。コーリヤははつとして目をつぶりました。\n「あゝ神さま。もうだめだ。」\n「こおら、ちきしよう。走れい。」\n リカの声がしました。コーリヤは目をあけました。\n「リカ、おまいは、なんにもこはくない?」\n コーリヤはいひました。\n「なにが?」\n「狼が出てくるよ。」\n「狼? こんなところに狼がゐるもんか。ゐたつて、そりの鈴の音をききやあ、ふつとんで、にげちまふよ。」\n「ぢやあ盗棒がきたら?」\n「盗棒? 何をいふんだ。こんなところに盗棒なんかゞゐるもんか。こゝいらに住んでる人は、みんないゝ人ばかりだよ。なんだつておまいさまはそんなことばかり言ふの? クリスマスのまへの、原つぱには、そんなけがらはしいものはゐませんよ。\n マカルをぢさんがさういつたよ。なんでもをぢさんがまだ子どものとき、今日みたいにそりにのつていくと、原つぱのまん中で森のばけものがをどりををどつてゐたと。うそぢやあない。ばけものゝやつが、白かばのかげで、はねくりかへつてをどつてやがつたんだつて。」\n「ふうん。」\n「で、マカルをぢさんは讃美歌をうたひ出したんだと。けふぞマリヤを、つてのをよ。それをきくと、ばけものゝやつは、蠅になつてさ、蠅によ。そして、雪あらしの中をぴゆう〳〵ふつとんで、どつかへにげてしまつたんだつて。」\n「うそだらう。」\n「うそ? それぢやあこんな話だつてあるよ。クリスマスの前の晩には、魔法使の女が臼にのつてやつてきて、まつ黒な鬼と一しよに輪になつてをどつたり、うたつたりするんだといふよ。そして、朝お寺の鐘がなるとみんな蠅になるんだつて。」\n「それだつて、うそだい。」\n コーリヤはいひました。でも、心の中ではばけものが出て来やしないかとこはくて〳〵じつと身体をすくめました。\n すると、どこかで、ばけものが笛をふいてゐるやうな、笑つてゐるやうな気がしてきました。\n「やい、だれだい、ほえるない。」\n リカがどなりました。コーリヤはとび上るほどおどろきました。\n「おどかすない、リカ。」\n リカは笑ひました。\n「はッはァ。」\n ふと、前の方にあかい火がみえて来ました。一つ、二つ、三つと。村ぢやあないでせうか。\n「おい、リカ。」\n コーリヤはさけびました。\n「ほら、あの光つてゐるの、なんだらう。」\n「あれやあ火だよ。」\n リカはすましてゐました。\n「村の家のあかりだよ。」\n「村だつて? やァ、ばんざァい。」\n コーリヤはうれしがつてさけびました。こはばつてゐた顔が急にゆるんで、よろこびが顔中へひろがりました。もう、寒くも何ともなくなりました。" }, { "role": "assistant", "content": " コーリヤは、そりの中でくびをのばして、だん〳〵に、はつきりしてくる、光を、じつと、みつめました。\n「ほうら。はしれッ。」\n リカも元気づいて、ぴゆう〳〵むちをふりました。\n\n\n 三\n\n さあ、村にきました。おゝ、この堀。あの橋。水車場からはあかりがもれてゐます。山ぎはにあるコーリヤの大きな家では、コーリヤをむかへるやうに大きな門があけてあります。そりは、いきほひよく門の中へかけこみました。すると家中はさつきコーリヤが考へたとほりに、おほさわぎでした。ガブリーラや、ミハイラやバラーシュカたちは、気ちがひのやうにかけまはつて、なんだか、どなつてゐます。犬はよろこんでほえたてます。戸があいて、ぢいやのドウーニヤが手にろうそくをもつてとび出してきました。馬はあらあらしく白い息をはいて、いせいよく鈴をならしました。家の窓々には、あかりが走りあるいてゐます。あすこにランプをもつてゐるのはだれでせう。あゝお母さんだ。\n「さァ、下りた。」とリカがいひます。\n「あッ、しびれが切れた。」\n それから一分の後には、コーリヤは、大きな、だきついてやりたいほどなつかしい、おなじみの湯わかし器が、ちん〳〵いつてゐるそばに、すわつてゐました。\n「お母さん、ね、ぼくリカに乗せてきてもらつたの。」\n「あら、ニキフォールぢあなかつたの?」\n「えゝ。」\n お父さまはニキフォールのことをおこりました。\n「あいつめ、あんな小ぞうつ子にコーリヤを送つてよこさせるなんて、ひどいやつだ。リカはどこにゐるんだ。」\n「台所に。馬に乾草をやつて、じぶんはストーヴの上であたつてゐるの。」\n お父さんは台所へいきました。あとから子どもたちもぞろ〳〵ついていきました。\n リカは靴をぬぎ、帯もとつて、テイブルの前にすわつてゐました。下女が、お茶をくんでやつてゐました。リカの顔は、まつ赤になつてゐます。鼻の先の皮がむけ、ぬれた麻色の髪の毛が、大きな頭の上にぺつたりと、くつついてゐます。\n「おいリカ。」とお父さんはどなりました。\n「一たい、おまいみたいなものをよこすなんてどうしたわけだ。おまい、いくつだ。」\n「おれァ赤ん坊ぢあねえよ。」\n リカは、ぶつきらぼうに答へました。\n「もつと遠くへだつて一人でいくんだよ。ここまでぐらゐなんでもねえよ。」\n「とちゆうで、もし、まちがひがあつたらどうするんだ。おまいにはまだ馬がじゆうにはなるまい。」\n「おれに?」\n リカは笑ひました。\n「三頭びきだつてやれるよ。二頭ぐらゐなんでもないよ。」\n「ふうん、そいつあ、えらいな。」とお父さんはいひました。\n レーワと、ボーリヤと、サシュールカは、びつくりしたやうな目をして、リカをみてゐましたが、じぶんたちも、リカとお話がしたくなつたらしく、すこしづゝそばへよつてきました。\n「家へね、今にクリスマスの飾りもみの木がくるわよ。」とボーリヤがいひました。\n「あつちへおいでなさい。」とお父さんはいひました。\n「こゝはお前たちのくるところぢやありません。」\n 子どもたちは、しかたなしに、いや〳〵台所を出ていきました。けれど、お父さんがお部屋へいつてしまふと、すぐまた台所へやつてきました。\n「ね、家へね、クリスマスのもみの木がくるのよ。」\n「ふん来るものは来させるがいゝよ。」とリカはいひました。\n「それよりかお母さんに言つてくんな。金をくんなつて。一ルーブル八十コペックだよ。」\n リカは、お茶をやたらにのみました。で、すつかり汗をかいて、ためいきをしながら窓の外をみて下女にいひました。\n「ふう。なんてひどい天気だらう。一晩とまらなきあならないな。お前おれをおひ出しやしないね。」\n「リカが家へ泊るんだつて。」と、子どもたちは、うれしさうにさけびました。\n「だけど、お前どこにねるの?」と下女がきゝます。\n「あの腰かけの上によ。」\n「なんの上に?」\n「腰かけの上だつていふに。」\n「だつて、まくらがないよ。」\n「まくらなんかいらない。坊ちやん、おれに砂糖をすこしもつてきてくんねえか。」\n ボーリヤは、お砂糖をみつけ出して、もつてきてやりました。レーワはクルミをもつてきました。サーシュカもまねをして、こはれたお人形をもつてきました。\n 子どもたちは、奥から台所へ、台所から奥へとかけあるいて、お母さんに、リカがなんと言つたとか、どんなふうにせきをしたとかと、一々それを話しました。まるで、台所になにかめづらしい動物でもゐるやうなさわぎです。\n コーリヤは、お母さんが手紙にかいてよこした蓄音器をかけてゐました。蓄音器は、勇ましい行進曲をふいたり、歌をうたつたりしました。\n「コーリヤ、蓄音器をリカにみせてやりませうよ。」とボーリヤが言ひました。\n「お母ちやま、コーリカをつれてきてもいゝでせう。」\n「どうして?」\n「蓄音器をみせてやるの。」\n 子どもたちはお母さんにとびついて、ねだりました。そしてお母さんがゆるして下さると、よろこんでかけ出しました。\n「これ〳〵、かけるんぢやありません。それから靴はぬがせるんですよ。」\n「もうぬいでるの。」\n コーリカはいつまでもぐづついてゐて、中々奥へこようとしませんでした。\n「おれの見たことのないものだつて? なんだらうな?」\n「森のおばけだよ。」とコーリヤがいひました。\n「なんだ。」\n「なんでもいゝからおいでよ。」\n「よし、いく。」\n リカは、やつとコーリヤのあとについていきました。コーリヤが食堂のまへをとほるとき、リカはちよつと後しざりをしました。奥さまのすがたが、ちらりとみえたからです。\n「いゝんだよ。さ、いゝんだよ。」\n コーリヤたちはリカを引つぱつて、蓄音器の前につれてきました。\n「ほら、この箱ね、この箱の中に魔法使がゐるんだよ。」\n「うそう。」\n「うそだつて?」\n コーリヤはかういひながら急に蓄音器をしかけました。リカは、びつくりしました。\n「ほう、こんちきしよう。うたをうたひやァがる。」\n リカは、音のするその箱をこはさうにのぞきこみました。子どもたちは、みんなで、きやつきやと笑ひました。\n\n\n 四\n\n あんまり笑ひさわぐので、お父さんが出てきました。そして、お父さんも笑ひました。それをきいて、お母さんもきました。\n「まあ、なんです?」\n「リカつたら、お母さん、リカつたらね、蓄音器をこはがつてるのよ。」\n「うそだい。」と、リカはまつ赤になつていひました。\n「こはがつてなんかゐるもんか。これあ器械だよ。」\n かう言つて、リカは、しゆつと鼻をすゝりました。お母さんは顔をしかめて、リカの肩をつついていひました。\n「さあ、もうたくさん。あつちへおいでよ。ね。」\n「あらまだいゝわ。」とサーシュカがいひました。\n「もう少しゐさせてあげてよ、ね。」\n「いゝえ、もうたくさんですよ。さあ、あつちへいきなさい、リカ。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「それはまたあとでわかります」と、困ったようにしかたなく笑っている。\n「あとでいいます言いますって、それが、あんたの癖だ。もうそれを言って聴かしてくれてもいい時分じゃないか」私もしかたなく笑いにまぎらしてとい詰める。\n「ここではいえまへん」子供かなんぞのように同じことをいう。\n「ここでは言えんて、ここで今言えなければ、いう折はないじゃないか。なぜかえるというの?」\n そういって、問いつめても、女はろくにわけをもいわずただ頑強に口を噤んでいるばかりである。\n 明るい電燈の光をあびている彼女の容姿は水際立って、見ていればいるほど綺麗である。そして、ふっと気がついてみると長い間見なかった間にそうして坐っている様子に何となく姉さんらしい落着きが出来て、どこといって口に言えない顔のあたりがさすがに幾らか年を取ったのがわかる。それはそうである。はじめて彼女を知ったのが五年前のちょうど今の時分で、爽やかな初夏の風が柳の新緑を吹いている加茂川ぞいの二階座敷に、幾日もいくかも彼女を傍に置いて時の経つのを惜しんでいた。座敷から見渡すと向うの河原の芝生が真青に萌え出でて、そちらにも小褄などをとった美しい女たちが笑い興じている声が、花やかに聞えてきたりした。彼女はそのころよく地味な黒縮緬のたけの詰った羽織を着て、はっきりした、すこし荒い白い立縞のお召の袷衣を好んで着ていたが、それが一層女のすらりとした姿を引き立たせてみせた。でもそのころは今から見ると女の二十という年からあまり遠ざかっていない若さがあった。私自身にとっても、この女のために......まさしくこの女のためのみに齷齪思っている間に、五年という歳月は昨日今日と流れるごとく過ぎてしまって、彼女は今年もう二十七になるのである。そう思ってまたじっとその顔を見ていると、水浅黄の襦袢の衿の色からどことなく年増らしい、しっかりしたところも見える。\n 女は、女中が先ほど持ってきた白い西洋皿に盛った真紅な苺の実を銀の匙でつつきながら、おとなしく口に持っていっている。\n「今夜ぜひ逢う約束でもしている人があるのか?」私はそういって訊ねた。\n「ちがいます」\n「逢う約束の人がなければ、ここにいたっていいのじゃないか。手紙でこそ月に幾度となく話はしていたけれども二年近くも逢わなかったのだから私にいろんな話したいことがあるのはあんたもようわかっているはずだ」\n「そやから帰ってから、後でいいます」\n「あんた、何をいっているのか、私には少しもわからない。かえってから後にいうとは。そんなら今ここでいったらいいじゃないか」\n「ほんなら、私帰ってすぐあとで使いに手紙を持ってこさします」\n「せっかくここへ来て、すぐまた帰るというのが私にはわからないなあ。あんた、もう私に逢わないつもりなの?」\n「ちがいます。私またあとで逢います」\n「なあんのことをいっているのだか、私には少しも合点がゆかぬ。しかしまあいい。それじゃお前の好きなようにおしなさい。どんなことをいってくるかあんたの手紙を持ってくるのを待っているから。必ず使いをよこすねえ」\n「ええ、これから二時間ほどしてから俥屋をおこします。ほんなら待ってとくれやす」\n そういいおいて、彼女は静かに立ち上って廊下の外に消えるように帰ってしまった。私はまた変な不安の念いを抱きながら、あまり執拗に留めるのも大人げないことだと思って女のいうがままにさしておいた。開放した濡縁のそとの、高い土塀で取り囲んだ小庭には、こんもり茂った植込みのまわりに、しっとりとした夜霧が立ち白んだようになって、いくらか薄暖かい空気の中へ爽やかな夜気が絶えず山の方から流れ込んでくる。私は食べ物の香の残っている餉台のところから身体をずらして、そちらの小庭に近い端の方へ行ってまたごろりと横になり、わけもなく懐かしい植物性の香気の立ち薫っているような夜気の流通を呼吸しながら、女の約束していった二時間のちのたよりを、それがどんなものであるかという不安でたまらないうちにもいいがたい楽しみに充ちた期待をもって待つ心でいた。\n あたりは静かなようでも、さすがに一歩出れば、すぐ繁華な夜の賑わいの街に近いところのこととて、折々人の通り過ぎるどよみが遠音にひびいてくる。しかし、そのためにひとしお静けさを増すかのように思われる。あんまり快い気持ちなので、私は肱を枕にしたまま、足の先を褞袍の裾にくるんで、うつらうつらとなっていた。そこへ女中が入ってきて、\n「お風召すといけまへん。もうお床おのべ致しまひょうか。......あの、どこかちょっとおいきやしたんどすか」\n「ああ、お今さんか。あんまり好い心地なのでうとうとしていた。......いや、ちょっと、もう少し待って下さい」\n「そうどすか。そやったら、どうぞええ時およびやしておくれやす」お今さんは、そのまままた静かにさがっていった。\n 時刻はだんだん移って、障子開けてそうしているのが冷えすぎるくらいに夜も更けてきた。ああ言っていったが、女はいつになったら本当に使いをよこすだろう。もう、そろそろここの家でも門を締めて寝てしまう時分である。もしこのままに放棄ってしまうようなことでもしたら、どうしてやろう。いっそ、このまま床を取らして寝ておろう。生なか目を覚まして起きていると、そのことばかり思って苦しくていけない、眠って忘れよう。そんなことを思いながら、またうとうとしているところへ、廊下を急ぐ足音にふと目を覚まされると、女中が襖の外に膝をついて、\n「お手紙どす」と、いって渡す封書を手にとってみると、走り書きの手紙で、「先ほどは失礼いたしました。まことにむさくるしいところなれど一しょにおこし下されたく候。あとはおめもじのうえにて」と書いてある。状袋を裏返してみたが、処も何も書いていない。\n「お今さん、どんな使いがこれを持ってきた」女中に訊ねると、\n「さあ、わたし、どや、よう知りまへんけど、何でも年とった女の人のようどした」\n「年とった女。まだ待っているだろうな」私にはすぐには合点がゆかなかった。\n「へえ、待ってはります」\n それで、急いで玄関のところに立ち出てみると、門の外にいるというので、また玄関から門のところまで、長い敷石の道を踏んで出てみると、そこには暗がりの中に彼女の母親が佇んでいた。\n「あっ、おかあはんですか。お久しゅうお目にかかりません」と思わず懐かしそうにいった。使いが母親であったので、私はもう、すっかり安心して好い心持ちになってしまった。\n「えらい御返事が遅うなって済まんさかい、ようお詫りをいうておくれやすいうて、あの娘がいうていました」母親は、門口の、頭のうえを照らしている電燈の蔭に身を隠すようにしながらいう。\n「どうも、こんな夜ふけに御苦労でした。じゃすぐ一緒に行きますから、ちょっと待っていて下さい、私着物を着てきますから」\n 私はまた座敷に取って返して衣服を更め、女中には、都合で外へ泊ってくるかも知れぬといい置いて、急いでまた出て来た。\n「お待ちどおさま。さあ行きましょう」\n" }, { "role": "assistant", "content": " 五\n\n 私は、それから母親の先に立ってゆく方へ後から蹤いて行った。もう夜は十二時もとうに過ぎているので、ことに東山の畔のこととて人の足音もふっつりと絶えていたが、蒼白く靄の立ちこめた空には、ちょうど十六、七日ばかりの月が明るく照らして、頭を仰のけて眺めると、そのまわりに暖かそうな月暈が銀を燻したように霞んで見えている。そんなに遅く外を歩いていて少しも寒くなく、何とも言えない好い心地の夜である。私は母親と肩を並べるように懐かしく傍に寄り添いながら、\n「おかあはん、ほんとうにお久しぶりでした。こうと、いつお目にかかったきり会いませんでしたか」といって私は過ぎたことを何かと思い浮べてみた。\n はじめて女を知った当座、自家はどこ、親たちはどうしている、兄弟はあるのかなどと訊いても、だれでも、人をよく見たうえでなければ容易に実のことをいうものではないが、追い追い親しむにつれて、親は、六十に近い母が今は一人あるきり、兄弟も多勢あったが、みんな子供のうちに死んで、たった一人大きくなるまでは残っていた弟が、それも去年二十歳で亡くなった。それがために母親はいうまでもなく自分までも、今日ではこの世に楽しみというものが少しもなくなったくらいに力を落している。叔父叔母といっても、いずれも母方の親類で、しかも母親とは腹の異った兄弟ばかり。父親の親類というのはどこにもなく、生命の綱とも杖とも柱とも頼んでいた弟に死なれてからは本当の母ひとり娘ひとりのたよりない境涯であった。彼女は、ほかのことはあまり言わなかったが、弟のことばかりは腹から忘れられないと思われて、懐かしそうによく話して聞かせた。私は、そんな身の上を聴くと、すぐさま自分の思いやりの性癖から「天の網島」の小春が「私ひとりを頼みの母さん、南辺に賃仕事して裏家住み。死んだあとでは袖乞非人の餓え死にをなされようかと、それのみ悲しさ」とかこち嘆くところを思い合わせて、いとさらにその女が可憐な者に思えたのであった。\n もとは父親の生きている時分から上京の方に住んでいたが、廊に奉公するようになって母親も一緒に近いところに越してきて、祇園町の片ほとりの路次裏に侘しい住いをしていた。そこへ訪ねていって初めて母親に会った。そして後々のことまで話した。彼女はこんな女にどうしてあんな鶴のような娘が出来たかと思われる、むくつけな婆さんであったが、それでも話の様子には根からの廊者でない質朴のところがあって、\n「ほんまの親一人子ひとりの頼りない身どすさかい、どうぞよろしゅうお願いいたします」といって、悲しい鼻にかかる声で、今のように零落せぬ、まだ一家の困らなかった時分のことなどを愚痴まじりに話してきかせた。その話によると、彼女の家はもと同じ京都でも府下の南山城の大河原に近い鷲峯山下の山の中にあったのであるが、二、三十年前に父親が京都へ移ってきた。故郷の山の中には田畑や山林などを相当に所持していたが随分昔のことで、その保管を頼んでいた人間が借金の抵当に入れてすっかり取られてなくしてしまった。\n「あれだけの物があればこの子にこない卑しい商売をさせんかて、あんたはん結構にしていられますのや」母親は心細い声でそんな古いことまでいっていた。\n 女もそこに坐って、黙って母親と私との話を聴いていたが、大きな黒い眼がひとりでに大きくなって充血するとともに玉のような露が潤んだ。\n「もう古いことどすやろ」と、彼女はただ一口おとなしく言って、母親の話もそれきりになった。\n その後夏の終りごろまでも京都の地にいる間たまに母親のところへも訪ねていってそのたびごと女の後々のことなど繰り返して話していたのであった。振り顧って指を折ってみると、もうあの時から足かけ五年になる。\n「おかあはん、あなたがどうしておられるか私、始終、心にかかっていたのです。手紙のたびにあなたのことを訊ねてもどこにいるのか、少しも委しいことを知らないものですから、一向不沙汰をしていました」\n「滅相もない。私こそ御不沙汰してます。あんたはんが始終無事にしといやすちゅうこと、いつもあの娘から聞いていました。ほんまにいつもお世話になりまして、お礼の申しようもおへんことどす」\n 月の下の夜道をそんなことを語り合いながら私たちはもう電車の音も途絶えた東山通りを下へしもへと歩いていった。そしてしばらく行ってから母親は、とある横町を建仁寺の裏門の方へ折れ曲りながら、\n「こっちゃへおいでやす」といって、少しゆくと、薄暗いむさくるしい路次の中へからから足音をさせて入っていった。私はその後から黙って蹤いてゆくと、すぐ路次の突当りの門をそっと扉を押し開いて先きに入り、\n「どうぞお入りやして」といって、私のつづいて入ったあとを閂を差してかたかた締めておいて、また先きに立って入口の潜戸をがらりと開けて入った。私もつづいて家の中に入ると、細長い通り庭がまたも一つ、ようよう体の入れるだけの小さい潜戸で仕切られていて、幽かな電燈の火影が表の間の襖ごしに洩れてくるほかは真暗である。母親はまたそのくぐりをごろごろと開けて向うへ入った。そして同じように、\n「どうぞ、こっちゃへずっとお入りやしとくれやす。暗うおすさかい、お気つけやして」\nといって中の茶の間の上り框の前に立って私のそっちへ入るのを待っている。私は手でそこらをさぐりながらまた入って行った。と、そこの茶の間の古い長火鉢の傍には、見たところ六十五、六の品の好い小綺麗な老婦人が静かに坐って煙草を喫っていた。母親はその老婦人にちょっと会釈しながら、私の方を向いて、\n「構いまへんよって、どうぞそこからお上がりやしてくれやす。お婆さん、どうぞ御免やしとくれやす」といって、自分から先きに長火鉢の前を通って、すぐその三畳の茶の間のつきあたりの襖の明いているところから見えている階段の方に上がってゆく。私はそれで、やっとだんだんわかってきた。\n「これは、この品の良い老婦人の家の二階を借りて同居しているのだな」と、心の中で思いながら自分もその老婦人に対して丁寧に腰を折って挨拶をしつつ、母親のあとから階段を上がっていった。すると、階段のすぐ取付きは六畳の汚れた座敷で、向うの隅に長火鉢だの茶棚などを置いてある。そして、その奥にはもう一間あって、そちらは八畳である。\n 母親は階段を上がるなり、\n「おいでやしたえ」とそっちへ声をかけると、今まで暗いところを通ってきた眼には馬鹿に明るい心地のする電燈の輝いている奥から女がさっきのままの姿で静かに立って来た。まるで先ほどの深く考え沈んでいる様子とは別人のごとく変って、打ち融けた調子で微笑みながら、\n「お越しやす。先ほどはえらい失礼しました。こんな、むさくるしいところに来てもろうて、済んまへんけど、あこよりここの方が気が置けいでよろしいやろ思うて」と、彼女はお世辞のない、生な調子でいって、八畳の座敷の方に私を案内した。\n 私はもう、それで、すっかり安心して嬉しくなってしまい、座敷と座敷の境の閾のところに立ったまま、そこらを見廻すと、八骨の右手の壁に沿うて高い重ね箪笥を二棹も置き並べ、向うの左手の一間の床の間にはちょっとした軸を掛けて、風炉釜などを置いている。見たところ、もう住み古した雑な座敷であるが、それでも八畳で広々としているのと、小綺麗に掃除をしているのとで何となく明るくて居心地が好さそうに思われる。座敷のまんなかに陶物の大きな火鉢を置いて、そばに汚れぬ座蒲団を並べ、私の来るのを待っていたようである。私は、つくづく感心しながら、\n「これは好いところだ、こんなところにいたのか。いつからここにいたの。まあ、それでもこんなところにいたのならば、私も遠くにいて長い間会わなくっても、及ばずながら心配して上げた効があったというものだ。うう好い箪笥を置いて」私はそういいながらなお立っていると、\n「まあ、どうぞここへお坐りやして」と、母子ともどもして言う。\n やがて火鉢の脇の蒲団に座を占めて、母親は次の間の自分の長火鉢のところから新しい宇治を煎れてきたり、女は菓子箱から菓子をとってすすめたりしながらしばらく差向いでそこで話していた。\n「長いことあんたはんにもお世話かけましたお蔭で私もちょっと楽になったとこどす」\n 自分でもよく口不調法だといっている彼女は、たらたらしい世辞もいわず、簡単な言葉でそんなことをいっていた。\n 私はいくらか咎めるような口調で、\n「そんならそれと、なぜ、もっと早くここへ来てくれ話をするとでも言ってくれなかったのだ。一カ月前こちらへ来てからばかりじゃない、もう今年の初めごろから、あんなにやいやい喧しいことを言ってよこしたのも、それを知らぬから、いらぬよけいな憎まれ言をいったようなものだった。こうして来てみて私は安心したけれど」\n すると、母親も次の間の襖の蔭から声をかけて、\n「この子がそういうていました。おかあはん、私は口が下手で、よういわんさかい、あんたから、おいでやしたら、ようお礼いうてえやちゅうて。......此家のことも、もっと早うにお返事すりゃ好うおしたのどすけど、この子が二月に一と月ほど、ちょっと心配するほど患いましたもんどすさかい、よう返事も出しまへなんだのどす」\n 私はそちらへ頭を振り向けながら、\n「いや、もう、こうして来て見て、思っていたほどでなかったので安心しました」と、そちらへ声をかけた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 奉「浅草鳥越片町幸兵衛手代萬助、本所元町與兵衛店恒太郎、訴訟人長二郎並びに家主源八、其の外名主代組合の者残らず出ましたか」\n 町「一同附添いましてござります」\n 奉「訴人長二郎、其の方は何歳に相成る」\n 長「へい、二十九でござります」\n 奉「其の方当月九日の夜五つ半時、鳥越片町龜甲屋幸兵衛並に妻柳を柳島押上堤において殺害いたしたる段、訴え出たが、何故に殺害いたしたのじゃ、包まず申上げい」\n 長「へい、只殺しましたので」\n 奉「只殺したでは相済まんぞ、殺した仔細を申せ」\n 長「其の事を申しますと両親の恥になりますから、何と仰しゃっても申上げる事は出来ません......何卒只人を殺しました廉で御処刑をお願い申します」\n 奉「幸兵衛手代萬助」\n 萬「へい」\n 奉「これなる長二郎は幸兵衛方へ出入をいたしおった由じゃが、何か遺恨を挟むような事はなかったか、何うじゃ」\n 萬「へい、恐れながら申上げます、長二郎は指物屋でございますから、昨年の夏頃から度々誂え物をいたし、多分の手間代を払い、主人夫婦が格別贔屓にいたして、度々長二郎の宅へも参りました、其の夜死骸の側に五十両の金包が落ちて居りましたのをもって見ますと、長二郎が其の金を奪ろうとして殺しまして、何かに慌てゝ金を奪らずに遁げたものと考えます」\n 奉「長二郎どうじゃ、左様か」\n 長「其の金は私が貰ったのを返したので、金なぞに目をくれるような私じゃアございません」\n 奉「然らば何故に殺したのじゃ、其の方の為になる得意先の夫婦を殺すとは、何か仔細がなければ相成らん、有体に申せ」\n 恒「恐れながら申上げます、長二は差上げました書面の通り、私親共の弟子でございまして、幼少の時から親孝心で実直で、道楽ということは怪我にもいたしませんで、余計な金があると正直な貧乏人に施すくらいで、仕事にかけては江戸一番という評判を取って居りますから、金銭に不自由をするような男ではござりませんから、悪心があってした事では無いと存じます」\n 源「申上げます、只今恒太郎から申上げました通り、長二郎は六年ほど私店内に住居いたしましたが只の一度夜宅を明けたことの無い、実体な辛抱人で、店賃は毎月十日前に納めて、時々釣は宜いから一杯飲めなぞと申しまして、心立の優しい慈悲深い性で、人なぞ殺すような男ではござりません」\n 萬「へい申上げます、私主人方で昨年の夏から長二に払いました手間料は、二百両足らずに相成ります、此の帳面を御覧を願います」\n と差出す帳面を同心が取次いで、目安方が読上げます。\n 奉「この帳面は幸兵衛の自筆か」\n 萬「へい左様でございます、此の通り格別贔屓にいたしまして、主人の妻は長二郎に女房の世話を致したいと申して居りましたから、私の考えますには、其の事を長二郎に話しましたのを長二郎が訝しく暁って、無礼な事でも申しかけたのを幸兵衛に告げましたので、幸兵衛が立腹いたして、身分が身分でございますから、後で紛紜の起らないように、出入留の手切金を夫婦で持ってまいったもんですから、此の事が世間へ知れては外聞にもなり、殊に恋のかなわない口惜紛れに、両人を殺したんであろうかとも存じます」\n 奉「長二郎、此の帳面の通り其の方手間料を受取ったか而して柳が其の方へ嫁の口入をいたしたか何うじゃ」\n 長「へい、よくは覚えませんが、其の位受取ったかも知れませんが、決して余計な物は貰やアしません、又嫁を貰えと云った事はありましたが、私が無礼なことを云いかけたなぞとは飛んでもない事でございます」\n 奉「それはそれで宜しいが、何故斯様に贔屓になる得意の恩人を殺したのじゃ、何ういう恨か有体に申せ」\n 長「別に恨というはございませんが、只あの夫婦を殺したくなりましたから殺したのでございます」\n 奉「黙れ......其の方天下の御法度を心得ぬか」\n 長「へい心得て居りますから、遁げ隠れもせずにお訴え申したのでございます」\n 奉「黙れ......有体に申上げぬは御法に背くのじゃ、こりゃ何じゃな、其の方狂気いたして居るな」\n 恒「申上げます、仰せの通り長二郎は全く逆上せて居ると存じます、平常斯ういう男ではございません、私親共は今年六十七歳の老体で、子供の時分から江戸一番の職人にまで仕上げました長二郎の身を案じて、夜も碌に眠りません程でございますによって、何卒老体の親共を不便と思召して、お慈悲の御沙汰をお願い申します、全く気違に相違ございませんから」\n 萬「成程気違だろう、主のある女に無理を云いかけて、此方で内証にしようと云うのを肯かずに、大恩のある出入場の旦那夫婦を殺すとア、正気の沙汰ではございますまい」\n 奉「萬助......其の方の主人夫婦を殺害いたした長二郎は狂人で、前後の弁えなくいたした事と相見えるが何うじゃ」\n 萬「へい、左様でございましょう」\n 奉「町役人共は何と思う、奉行は狂気じゃと思うが何うじゃ」\n 一同「お鑑定の通りと存じます」\n とお受けをいたしました。仔細を知りませんから、長二が人を殺したのは全く一時発狂をいたした事と思うたのでございましょうが、奉行は予て邸へ出入をする蔵前の坂倉屋の主人から、長二の身持の善き事と伎倆の非凡なることを聞いても居り、且長二が最初に親の恥になるから仔細は云えぬと申した口上に意味がありそうに思われますから悪意があって、殺したので無いということは推察いたし、何卒此の名人を殺したく無いとの考えで取調べると、仔細を白状しませんから、これを幸いに狂人にして命を助けたいと、語を其の方へ向けて調べるのを、怜悧な恒太郎が呑込んで、気違に相違ないと合槌を打つに、引込まれるとは知らず萬助までが長二を悪くする積りで、正気の沙汰でないと申しますから、奉行は心の内で窃かに喜んで、一同に念を押して、愈々狂人の取扱いにしようと致しますと、長二は案外に立腹をいたしまして、両眼に血を濺ぎ、額に青筋を現わし拳を握りつめて、白洲の隅まで響くような鋭き声で、\n 長「御奉行様へ申上げます」\n と云って奉行の顔を見上げました。\n\n 二十八\n" }, { "role": "assistant", "content": " さて長二郎が言葉を更めて奉行に向いましたので、恒太郎を始め家主源八其の他の人々は、何事を云出すか、お奉行のお慈悲で助命になるものを今さら余計なことを云っては困る、而て見ると愈々本当の気違であるかと一方ならず心配をして居りますと、長二は奉行の顔を見上げまして、\n 長「私は固より重い御処刑になるのを覚悟で、お訴え申しましたので、又此の儘生延びては天道様へ済みません、現在親を殺して気違だと云われるを幸いに、助かろうなぞという了簡は毛頭ございません、親殺しの私ですから、何卒御法通りお処刑をお願い申します」\n 奉「フム......然らば幸兵衛夫婦を其の方は親と申すのか」\n 長「左様でございます」\n 奉「何ういう仔細で幸兵衛夫婦を親と申すのじゃ、其の仔細を申せ」\n 長「此の事ばかりは親の恥になりますから申さずに御処刑を受けようと思いましたが、仔細を云わなけりゃア気違だと仰しゃるから、致し方がございません、其の理由を申上げますから、お聞取りをお願い申します」\n とそれより自分の背中に指の先の入る程の穴があるのを、九歳の時初めて知って母に尋ねると、母は泣いて答えませんので、自分も其の理由を知らずにいた処、去年の十一月職人の兼松と共に相州の湯河原で湯治中、温泉宿へ手伝に来た婆さんから自分は棄児であって、背中の穴は其の時受けた疵である事と、長左衛門夫婦は実の親でなく、実の親は名前は分らないが、斯々云々の者で、自分達の悪い事を掩わんがために棄てたのであるという事を初めて知って、実の親の非道を恨み、養い親の厚恩に感じて、養い親のため仏事を営み、菩提所の住持に身の上を話した時、幸兵衛に面会したのが縁となり、其の後種々の注文をして過分の手間料を払い、一方ならず贔屓にして、度々尋ねて来る様子が如何にも訝しくあり、殊に此の四月夫婦して尋ねて来た時、お柳が急病を発し、また此の九月柳島の別荘で余儀なく身の上を話して、背中の疵を見せると、お柳が驚いて癪を発した様子などを考えると、お柳は自分を産んだ実の母らしく思えるより、手を廻して幸兵衛夫婦の素性を探索すると、間違いなさそうでもあり、また幸兵衛が菩提所の住持に自分の素性を委しく尋ねたとの事を聞き、幸兵衛夫婦も自分を実子と思っては居れど、棄児にした廉があるから、今さら名告りかね、余所ながら贔屓にして親しむのに相違ないと思う折から、去る九日の夕方夫婦して尋ねて来て、親切に嫁を貰えと勧め、その手当に五十両の金を遣るというので、もう間違いはないと思って、自分から親子の名告をしてくれと迫った処、お柳は顕われたと思い、恟りして逃出そうとする、幸兵衛は其の事が知れては身の上と思ったと見え、自分を気違だの騙だのと罵りこづきまわして、お柳の手を取り、逃帰ったが、斯様な人から、一文半銭たゞ貰う謂れがないから、跡に残っていた五十両の金を返そうと二人を逐かけ、先へ出越して待っている押上堤で、図らずお柳の話を聞き正しく実の母親と知ったから、飛出して名告ってくれと迫るを、幸兵衛が支えて、粗暴を働き、短刀を抜いて切ろうとするゆえ、これを奪い取ろうと悶着の際、両人に疵を負わせ、遂に落命させしと、一点の偽りなく事の顛末を申し立てましたので、恒太郎源八を始め、孰れも大きに驚き、長二の身の上を案じ、大抵にしておけと云わぬばかりに、源八が窃と長二の袖を引くを、奉行は疾くも認められまして、\n 奉「こりゃ止むるな、控えておれ」\n\n 二十九\n\n 奉「長二郎、然らば其の方は全く両親を殺害致したのじゃな」\n 長「へい......まア左様いう次第ではございますが、幸兵衛という人は本当の親か義理の親か未だ判然分りません」\n 奉「左様か......こりゃ萬助、其の方幸兵衛と柳が夫婦になったのは何時か存じて居るか」\n 萬「へい、たしか五ヶ年前と承わりましたが、私は其の後に奉公住をいたしましたので」\n 奉「夫婦の者は当年何歳に相成るか存じて居るか」\n 萬「へい幸兵衛は五十三歳で、柳は四十七歳でございます」\n 奉「左様か」\n と奉行は眼を閉じて暫時思案の様子でありましたが、白洲を見渡して、\n 奉「長二郎、只今の申立てに聊かも偽りはあるまいな」\n 長「けちりんも嘘は申しません」\n 奉「追って吟味に及ぶ、長二郎入牢申付ける、萬助恒太郎儀は追って呼出す、一同立ちませい」\n 是にて此の日のお調べは相済みましたが、筒井侯は前にも申述べました通り、坂倉屋の主人又は林大學頭様から、長二の伎倆の非凡なる事を聞いておられますから、斯様な名人を殺すは惜いもの、何とかして助命させたいとの御心配で、狂人の扱いにしようと思召したのを、長二は却って怒り、事実を明白に申立てたので、折角の心尽しも無駄になりましたが、その気性の潔白なるに益々感服致されましたから、猶工夫をして助命させたいと思召し、一先ず調べを止めてお邸へ帰られました。当今は人殺にも過失殺故殺謀殺などとか申して、罪に軽重がございますから、少しの云廻しで人を殺しても死罪にならずにしまいますが、旧幕時代の法では、復讐の外は人を殺せば大抵死罪と決って居りますから、何分長二を助命いたす工夫がございませんので、筒井侯も思案に屈し、お居間に閉籠って居られますを、奥方が御心配なされて、\n 奥「日々の御繁務さぞお気疲れ遊ばしましょう、御欝散のため御酒でも召上り、先頃召抱えました島路と申す腰元は踊が上手とのことでございますから、お慰みに御所望遊ばしては如何でございます」\n 和泉「ムヽ、その島路と申すは出入町人助七の娘じゃな」\n 奥「左様にございます」\n 和「そんなら踊の所望は兎も角も、これへ呼んで酌を執らせい」\n と御意がございましたから、時を移さずお酒宴の支度が整いまして、殿様附と奥方附のお小姓お腰元奥女中が七八人ずらりッと列びまして、雪洞の灯が眩しいほどつきました。此の所へ文金の高髷に紫の矢筈絣の振袖で出てまいりましたのは、浅草蔵前の坂倉屋助七の娘お島で、当お邸へ奉公に上り、名を島路と改め、お腰元になりましたが、奥方附でございますから、殿様にはまだお言葉を戴いた事がありません、今日のお召は何事かと心配しながら奥方の後へ坐って、丁寧に一礼をいたしますを、殿様が御覧遊ばして、\n 和「それが島路か、これへ出て酌をせい」\n との御意でありますから、島路は恐る〳〵横の方へ進みましてお酌を致しますと、殿様は島路の顔を見詰めて、盃の方がおるすになりましたから、手が傾いて酒が翻れますのを、島路が振袖の袂で受けて、畳へ一滴もこぼしません、殿様はこれに心付かれて、残りの酒を一口に飲みほして、盃を奥方へさゝれましたから、島路は一礼をして元の席へ引退ろうと致しますのを、\n 和「島路待て」\n と呼留められましたので、並居る女中達は心の中で、さては御前様は島路に思召があるなと互に袖を引合って、羨ましく思って居ります、島路はお酒のこぼれたのを自分の粗相とでも思召して、お咎めなさるのではあるまいかと両手を突いたまゝ、其処に居ずくまっておりますと、殿様は此方へ膝を向けられました。\n\n 三十\n\n 和「ちょっと考え事を致して粗相をした、免せ......其方に尋ねる事があるが、其方も存じて居るであろう、其方の家へ出入をする木具職の長二郎と申す者は、当時江戸一番の名人であると申す事を、其方の父から聞及んで居るが、何ういう人物じゃ、職人じゃによって別に取抦はあるまいが、何ういう性質の者じゃ、知らんか」\n との御意に、島路は予て長二が伎倆の優れて居るに驚いて居るばかりでなく、慈善を好む心立の優しいのに似ず、金銭や威光に少しも屈せぬ見識の高いのに感服して居ります事ゆえ、お尋ねになったを幸い、お邸のお出入にして、長二を引立てゝやろうとの考えで、\n 島「お尋ねになりました木具職の長二郎と申します者は、親共が申上げました通り、江戸一番の名人と申す事で、其の者の造りました品は百年経っても狂いが出ませず、又何程粗暴に取扱いましても毀れる事がないと申すことでございます、左様な名人で多分な手間料を取りますが、衣類などは極々質素で、悪遊びをいたさず、正直な貧乏人を憐れんで救助するのを楽みにいたしますに就ては、女房があっては思うまゝに金銭を人に施すことが出来まいと申して、独身で居ります程の者で、職人には珍らしい心掛で、其の気性の潔白なのには親共も感心いたして居ります」\n 和「フム、それでは普通の職人が動ともすると喧嘩口論をいたして、互に疵をつけたりするような粗暴な人物じゃないの」\n 島「左様でございます、あゝいう心掛では無益な喧嘩口論などは決して致しますまいと存じます、殊に御酒は一滴も戴きませんと申す事でございますゆえ、過ちなどは無いことゝ存じますが、只今申上げました通り潔白な気性でございますゆえ、他から恥辱でも受けました節は、その恥辱を雪ぐまでは、一命を捨てゝも飽くまで意地を張るという性根の確かりいたした者かとも存じます」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「ごめんなさいまし」宿の婢が障子のそとからそう声をかけた、「あのう、まことに失礼でございますが」障子をあけた婢は、廊下へ手をついたまま気の毒そうに訊いた、「こちらさまのお国は伊予ではございませんでしょうか」\n「......どうして」大助は訝しそうに眼を向けた、「宿帳にしたためたとおりだよ、讃岐の高松の者だ、どうしてそんなことを訊くのかね」\n「どうしてでございますか、帳場でうかがって来いと申すものですから、どうもたいへん失礼を申しました、高松でいらっしゃるんでございますね」\n「そうだよ、なにか不審でもあるのかい」\n「いえ、なにか帳場で思い違えたのでございましょう、では御免下さいまし」婢はちらと藤尾のほうへ眼をはしらせた、そして丁寧に会釈して去っていった。\n 藤尾は硬ばった顔をしてじっと障子のあなたをみまもっていた、あの射止めるようなまなざしである、額のあたりが石にでもなったように白く固くなってみえた。\n「わたくしです」\n「......え」\n「わたくしを追って来たのです」\n つきつめたような表情とは反対に、しずかな低いこえでそう云った。大助にもその意味はすぐにわかった。\n「ああ討手のことですか」かれはわざと笑いながら、「兵馬さんが見たというのは本当かも知れませんね、脱藩者の追求はいまどこでも厳しいから、きっとそうでしょう、貴女がたのあとを跟けまわして、この箱根で網を張っていたのかも知れませんよ」\n「わたくし会いましょう」\n「会う、誰に会うんです、まさか討手に......いやそれは可笑しい」大助は手を振った、「貴女が会ってどうするんです、かれらが貴女と斬り合をするとでも思うんですか、冗談じゃない貴女には関わりのないことですよ」\n「いいえ関わりはございます」藤尾はきっぱりと云った、「わたくしは柿崎藤尾でございます、兵馬の妹でございますもの、兄の罪はわたくしの罪、お咎めをうけるのは当然でございます」\n「婦人の哲学ですね」大助はまたわざと笑った、「そんな罪科論より、問題は兵馬さんに罪があるかないかである、兵馬さんに罪科とよぶべきものがあれば、なるほど貴女もその咎をうけるがいいでしょう、しかし貴女は兵馬さんに罪があると思いますか」\n 藤尾はそっと眼を伏せた。大助はすかさず続けて云った。\n「むしろ貴女には兄上の志を継ぐべき責任さえあると思いますがね、いや、......どっちにしろ今夜はもう寝ましょう、明日のことは明日です、わたしが総てうまくやりますよ」\n 雨の音は絶え間もない。峡間の夜はすっかり更けていた。\n 大助はそれほど心配はしていなかった。\n 宿の帳場から訊ねにきたのが吉田藩の討手であるとしても、藤尾をそれと確認してのことでなく、四国の者で男女づれというところに眼をつけたのだと思われる。おそらくまだ疑いが解けないで見張っているだろうが、明日になって自分の姿を見れば間違いだということがわかるに違いない。\n ――そうだ、要慎のために藤尾を町人風の恰好にするほうがいい。\n そう思いながら、ふと大助は秀之進にどこからか見まもられているような気がしてはっとなった。\n ――どうしてそんなにその娘のために苦労するんだ。\n 秀之進のそう云う声が聞えるようにさえ思われた。あの意地の悪いほど無関心な、あらゆるものに超越した、蔑むような眼つきがまざまざと宙にうかぶ。\n ――なんにでも手を出す、誰にでも親切を押しつける、それがおまえの悪い癖だ、世の中のことはそう単純ではない、人間はそれぞれの運命をもっている、他人の僅かな力ではそれを動かすことはできない、おまえの今していることは、その娘のためというより自分の虚栄心を満足させたいだけのことだ、おまえの親切はいつもそうではないか。\n まるでそこに秀之進がいて、かれの口から云われるようにはっきりとそういう言葉が感じられた。尤もそれは今はじめてのことではなく、大助がなにかしら他人のために尽そうとする場合、きまって(そこに秀之進がいるといないに不拘)感ずる反省ではあったが。\n 寝に立とうとしたとき、ふと藤尾が眼をあげて云った。\n「あの、お伴れの早水さまと仰しゃるお方はどういう方でございますか」\n「早水ですか」大助はちょっと答えに困った、「そうですね、秀之進は、どういったらいいでしょう、かなり特異な性格の男で、人物はずばぬけているんですが、ちょっとこういう男だと説明しにくいですね」\n「わたくし、今でも......」と藤尾はしばらく間をおいて云った、「今でもあの方のお眼が忘れられませんの、あのとき、兄が刀を抜いてつきつけたとき、あの方がじっと兄のほうをごらんになった、しずかな、冷やかなお眼でございました、わたくし正直に申しますとあの方を憎みました」\n「......憎んだんですって」\n「ええ憎みました、人間はあんな眼で人を見るものではないと存じます」\n 大助はびっくりした、――この娘はひと眼で秀之進の性格を認めたのだ。そう気づいたからである。しかし藤尾はそれ以上なにも云わなかったが、大助は娘の言葉をくりかえし頭のなかで反芻していた。\n\n二\n\n「よう――これはこれは」\n 明くる朝まだほの暗い時分に大助が浴場へおりてゆくと、湯ぶねの中にいた男がびっくりしたような声で呼びかけた。\n「太橋さんの若旦那じゃありませんか、どうなさいました」\n「誰だいおまえは」\n 男には珍しく膚の白い、肉付のいいからだへ湯をかけながら大助はそっちへふり向いた。\n「誰だいは御挨拶でげすな、あわよくば人違いだと仰しゃりそうじゃありませんか、そううまくはいきがやの不動尊だ」\n 湯ぶねの中で立ちあがった男は軽薄な調子でべらべら饒舌りながら寄って来る。年は四十そこそこであろう、色のまっ黒な、馬のように長い顔つきで、前歯が一本かけたままになっている。本名は貝助、竹亭寒笑という号で人情本を書き、笑軒寒竹で雑俳をやり、竹田勘七というしかつめらしい名で劇作もするという男だった。\n「なんだ、からす貝か」\n「いきなりでげすか、へへん、からす貝とね、このまえはたしか黒馬とおいでなすったっけ、おかげで俳名に不自由はねえというやつさ、けれどもからす貝とはそもさん」\n「それよりおまえ富にでも当ったのか」\n「なにゆえでげす」\n「箱根で湯治などという芸当のできる柄じゃあるまい、それとも誰かのとりまきか」\n「そういう難舌だからとかく女に嫌われやす、へん、いま売りだしの竹亭寒笑『艶色恋の手車』の作者を知らねえな」\n「そんなばけ物は知らないよ」\n「冗談ぬきで若旦那、寒笑一代の傑作でげすぜ、馬喰町の和田平から今年の初刷りに出したのが大受け、二巻で大尾としたところが看客みなさまやいのやいののお好みにより巻を重ねること六たび、ようやく脱稿して斯くは山の湯へ疲れやすめという幕でげす」\n「からす貝の作が売れるとはとんだ世の中になったものだ、そんなことなら讃岐くんだりから出て来るんじゃあなかったよ」\n「ちょんと入れやす」寒笑は湯ぶねからあがって、「あらためて御挨拶、このたびは道中御無事でようこそ御入来、また昨年はお立ちの折いろいろと、えへん」\n「よせよせ、つばきが飛ぶぞ」\n「本当のところ今年はおくだりが遅うございましたね、あなたのこったからお国でまた道楽がすぎて当分御謹慎ということにでもなっていらっしゃるんだろう、梅八がそうお噂をしていやしたぜ」\n「梅八......?」大助はひょいと眼をあげた、「おい、寒笑先生おまえさん本当に大そう御出世をなすったねえ」\n「な、な、なんでげす若旦那」\n「お前が梅八を呼び捨てにできる身分になろうたあ思わなかった」\n「失言、失言、まさに失言」寒笑はいきなり手を合わせた、「お怒りなすっちゃあ困ります決してそんなつもりじゃねえのでこの頃ずっとなにして、なにしてるもんですからつい、ついその狎れっこで口が滑りやした、ひらに御勘弁を」\n「わかればいいのさ」大助も湯ぶねからあがって、きゅっきゅと小気味よくからだを拭きあげた、「久しぶりで一杯といいたいところだが、ちょっとおれの部屋へ来いというわけにいかないことがあるんだ、おまえどこにいる」\n「あたくしですか、あたくしは奥のたしか菊とかいいましたっけ」" }, { "role": "assistant", "content": "「あとでいくから待っていてくれ、少したのみがある」\n「よろしゅうございます」寒笑はそういいながら、「ですが若旦那、ひとつだけお願いがあるんでげすがね、いえまたお笑い草の種でげしょうが、あたくしと一緒に書肆の番頭が来ていますんで、次の作の趣向の相談に来ているんですが、ひとつ、......どうかその男のいるところではお手柔らかに、どうか」\n「お手柔らかにってどうお手柔らかなんだ」\n「からす貝、黒馬なんぞのたぐいを勘弁して頂きたいんで、へへ、実はこれでも当時は竹亭寒笑先生でげすからな」\n「そうかい」大助はにやりと笑った、「お手柔らかにね、わかったよ」\n 部屋へ戻ると藤尾はすっかり身じまいを済ませ、掻きあげた涼しい衿足をこっちへ向けて、窓からじっと雨の谷川を見ていた。\n「風呂へはいって来ませんか、今のうちならまだすいていますよ」\n「有難う存じます」\n「このまま梅雨にでもなりそうで肌がじとじとする、ひとあびするとあとがさっぱりしますよ」\n「......はい」\n 身動きもしないでじっと、凝ったようになにかを見ている。藤尾のようすに惹かれて大助がひょいとそっちを見た。谷川に渡してある小さな橋の上に、傘をさした武士が二人、この二階を見上げてなにか頷き合っていた。\n ――昨夜の人たちだな。\n 伊予の者ではないかと帳場へ訊きに来た、ゆうべの男たちに相違ない。そう気づいたので、大助はもう一方の障子も明け、わざとかれらに自分を見せるようにふるまった。\n「見おぼえのある顔ですか」\n「......はあ?」\n「あの橋の上の男たちです、ずっとああして見張っていたんですか」\n「そうのようでございます」\n「ああよく降るなあ」\n そう云いながら大助は両腕をうんと伸ばして欠伸をした。すると橋の上の武士たちはすたすたと向うへ、雨のなかを去っていった。\n「あなたの落着き場所を思いつきました」大助はふりかえって云った、「江戸へまいりましょう、こんな事にはもってこいの男をいまみつけて来ました、なに、あんな討手の二人や三人心配はいりませんよ」\n\n暦日\n\n一\n\n「なに、国もとから水戸へ使者が立ったと」\n 讃岐守頼胤はきっと眼をあげた。面ながの、眉の濃い柔和な顔だちが、ときに剃刀のようなするどさをみせる。いま内膳の申告を聴いてその条まできたとき、一瞬にしてその表情は掌をひるがえすかのようにするどく変ったが、その剃刀のような眼光こそ、内膳の期待していたものだった。\n「それはまことか」\n「事実でござります、亀阜荘さまの密旨をうけ、たぶん密書を持っておることと思われまするが、四月二十七日に高松を発足、東下つかまつったとござります」\n「使者はなに者だ」\n「藩士ではござりません、常々おそばへ出入りをつかまつる早水秀之進と申す郷士の伜だとのことでござります」頼胤は眼を宙にやった、内膳はしばらく待っていたが、「またその者は先日このお屋敷へまいり、校川宗兵衛のもとにて一夜をすごした事実がわかっております」\n「そして?......」\n「一夜だけでたち去りましたがおそらくそのまま水戸へくだったものと存ぜられます」\n「やってはまずかった」ちらと内膳に眼をくれた頼胤は、しかし、なにかを暗示しようとしている内膳の唇もとに気づいてはっとした、「そのほう、なにか差し出たことを致したな」\n「はて、......とはまた」内膳はそらとぼけた云いぶりで讃岐守を見あげた、「なにごとの仰せでござりましょうや、べつに差し出たことをつかまつった覚えはござりませんが」\n「申せ、その使者を、どうするつもりだ」\n「どうも御意のほどがようあいわかりませんけれども、その使者とは、亀阜荘さまより水戸への使者でござりますか」\n「よもや斬れと申したのではあるまいな」\n 頼胤は射通すような眼でひたと内膳の眼をねめつけた。内膳の唇もとにあるかなきかの微笑がうかんだ。\n「お上には唯今、やってはまずかったと仰せられました、内膳めもさように存じあげまする、亀阜荘さまにはお身軽なままに、ふとすると思召ししだいの気まぐれをあそばします、せっかくしずかな池に石を投じて、あらぬ波をお立てあそばす、これはなんとか」\n「亀阜荘のことは申すな」\n「申上げずに相済めば申上げは致しません、このたびの上申書によりますると、お身まわりにしきりと勤皇浪士をお近づけあそばし、近くは榎井の日柳長次郎と申す無頼の徒までお出入りつかまつるとのことにござります」\n「長次郎とは燕石のことか」\n「いかにも、さようの号もあったかと心得まするが」\n「日柳燕石は無頼か」\n 頼胤はそ知らぬ顔で云った。\n「わたくしは国もとよりの上申書によって言上つかまつりまするので」内膳は巧みに頼胤のかける罠から身をはずしながらいった、「なるほど長次郎は燕石などという号をもって詩文を作り、書物などにも眼をさらすようすではござりますが、それは世人を誑る方便にて、まことは博奕喧嘩を好み、その徒数百人を抱えて良民を苦しめおる事実が数多くござります、不穏の浪士どもをお近づけあそばし、またかような無頼の輩のお出入りが絶えませぬようでは、申すも憚りながらやがては御家のため不測の禍いをもまねくこととあいなり、まことにゆゆしき大事と存ぜられまする」\n 頼胤はぼんぼりの灯をじっと見まもっていた。かなりながいあいだだまっていたが、やがてつぶやくように、「......覚えて置こう」とうち切るように云った。\n「上申書につきましては以上申上げました如くにござりまするが、なおただいま」内膳はそっと眼をあげた、「おつぎまで結城が伺候つかまつっております、お眼どおり仰せつけ下さるよう」\n「ならぬ......」\n「抂げてお願い申上げまする、水府御老公さま御一身に関して、なにやら軽からぬ言上がこれあるやに......」\n「ならぬ、眼どおりならぬ」頼胤はきびしくはねつけた、そしてじっと見上げる内膳のからみつくような眼を、逆にするどくねめつけながら云った、「よい折だから申すが、結城はかねて不臣の始末があらわれて隠居謹慎を命ぜられた者のはずだ、その後もおりおりそのほう共と往来するようすであるが、水戸と当家とのあいだがらがとかく不調のおりから、それはふたしなみな仕方ではないか」\n「おそれながら、結城の隠居はかれが水戸家を思う忠節のためと存じまする、水戸家百年の安泰を謀るがために」\n「それを内膳から聞く要はない」頼胤はきっぱりと遮った、「さむらいとして主家の安泰を願わぬ者があるか、忠節を尽そうと思わぬ者があるか、主家の安泰を謀り忠節を尽す、それは武士として当然なことだ、みずから売り物にして世の同情を買うようなことではないぞ」\n 内膳はぐっと唇を噛んで面を伏せた。これまでにも讃岐守からそういう烈しい言葉をぶっつけられたことは再三ならずあった。けれどその夜のその言葉ほど、主君とおのれとのあいだに距離を感じさせられたことはない。\n ――ごしゅくんはもう、おれの掌中からとびだそうとしておられる、かれは御前を退下しながらそう思った。これは緊めてかからなければならぬ、さもないと、......さもないと。\n\n二\n\n 頼胤はひとりになりたかったので、近侍のものを遠ざけて茶室へはいった。\n 兄のことを耳にするといつも胸を圧迫されるような気持になる、ずっとまえから、いってみればかれが松平家の継嗣に立った頃からそうであった。――自分は兄を恐れているのだろうか、そんなことはない。――では嫌っているのだろうか、いや嫌っているどころか、むしろもっとしばしば会って話したいと思う、離れているからそう思うのではない、去年高松へ帰ったときはできるかぎりの暇をつくって会った、夜をこめて話したことも両三度はある。\n ――それならなぜ、兄の話がでるとこのように胸苦しくなるのか、つきつめて考えればその原因はわかっている、だがそれをはっきり認めることは頼胤にとっては苦痛なのだ、苦痛を忍んでそれを認めたところで、今さらその原因を覆えすことはできない、しかもそれに由る心苦しさは、兄のことに触れるたびに頼胤の胸をつよく圧迫するのであった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 大庭春吉は、そういうと、腕組みを解き、膝のうえに両手をのせて、軽く、頭を下げた。\n 金五郎は、仰天して、\n「大親方、なにをなさいます?」\n「玉井、わしは、前々から、お前を、永田組ではのうて、聯合組の大黒柱になって貰いたいと考えとった。それで、すこし、出過ぎたかも知れんが、永田組の札のあとに、玉井組の札を掛けることも、もう、すっかり、段取りしてしもうた。それから、本腰を入れて、仕事を切り盛りして欲しいと思うて、お前のために、家も一軒、借りてある。若い衆を十人くらいは置けるくらいの、ちょっとした二階家じゃ。そこへ、移って貰いたいと思うとる」\n「その家というのは、どこですの?」\n と、夫人が、訊ねた。\n「若松の新仲町じゃ。どうで、洞海湾の石炭荷役は、若松港が主じゃけ、仕事師は、若松に住んどらんと、本式にならん。この戸畑はなにかと不便じゃ。聯合組の事務所も、若松側にあるし、......な、玉井、そうしてくれ」\n「困りました」\n「若松は、うるさい奴が、いっぱい居るけ、怖いか?」\n「怖いことなんか、ないですけど......」\n「そんなら、行ってくれ。若松で、玉井組の看板を掛けて、立派な男になってくれ」\n「金さん、あたしからも頼みますよ」\n「帰って、家内と相談してから、御返事します」\n 金五郎は、牡丹雪を被りながら、重い足どりで、帰宅した。\n 金五郎夫婦は、額をつきあわせて、青息吐息である。\n「どうしたもんかなあ......?」\n「困ったわねえ」\n 港では、一つの仕事の権利を取り、組の名札を掛けることは、金的を射とめたと同じ栄誉となっている。このために、日夜、野心家の間に、血なまぐさい争闘が展開されているほどだ。\n ところが、金五郎の場合は、野心もなければ、欲望もなく、まして、運動をしたわけでもなかったのに、予想もしない、一つの組としての権利が、天くだって来たのであった。普通の者ならば、飛びあがって、この棚から落ちて来た巨大なボタ餅を、大あわてで掴むところだ。しかし、金五郎にとっては、この御馳走が、すこぶる苦痛なのであった。\n 夫婦の寝物語から、壮大な青春の夢は、まだ、消えていない。\n「おれは、ゆくゆくは、支那大陸に渡って、一旗あげる。幸い、日露戦争の勝利で、存分に活躍出来るようにもなったし......」\n「あたしは、やっぱり、ブラジルよ。大農場の経営、すてきだわ」\n 二人が、仲仕をしながら、力をあわせて働いたのも、その青雲の志あればこそといってよかった。\n ところが、複雑で微妙な人間の実生活は、二人を、ぐいぐいと、思いもかけぬ方向へ導いて行く。避けようと努力している方角へ、強力な運命の軛が、二人をねじ向ける。また、二人の気質が、否応なしに、人情の谷間へ落ち、そこへ二度と這いあがることが困難なほど、深々と、沈む結果をも将来しているようであった。\n ――若松。\n 金五郎も、マンも、猛獣のうようよしているジャングルとして、敬遠し、行くところでも、住むところでもない、と考えていたのに、運命の暴風に吹きまくられて、その若松に根を下さなくてならぬ廻りあわせが、おとずれつつあるのであった。\n「弱ったなあ......」\n「どうしたら、ええか知らん......?」\n 困惑しきっている金五郎夫婦を、憤然と、永田杢次が訪れて来た。しおれ切っている。\n「玉井、おれの後を頼む。長いこと、聯合組に尽したおれを番下げにするなんて、腸がちぎれそうじゃ。本来なら、腹いせに、事務所のまん前で、舌噛んで、死んでくれるところじゃが、お前が後をやってくれるちゅうんなら、我慢する。外の者がやるんじゃったら、承知すりゃせん」\n「親方、わたしは、いやです」\n「やってくれ。お前がやらにゃ、外の者から、仕事を取られるだけの話じゃ」\n「六ゾロの源」をはじめ、永田組の小方連中も、金五郎へ、懇請するところがあった。\n 松川源十は、いった。\n「金さん、おれたちは、みんな、よろこんで、あんたの子分になる。みんな、あんたのため、命も惜しまんというとる。玉井組の札を掛けて、おれたちの親分になっておくれ」\n 金五郎は、遂に、決心した。マンも、同意した。金五郎夫婦は、若松に移住した。\n 聯合組の事務所の壁から、古ぼけた「永田組」の札が外され、真新しい「玉井組」の札がかかげられた。\n その日は、明治三十九年二月十九日。\n 金五郎、二十七歳。\n その記念すべき日の朝、マンは、夫に、\n「あなた、あたし、赤ちゃんが出来たかも知れんわ」\n そういって、ぱっと顔を染めた。\n\n\n七人の敵\n\n「喧嘩じゃ。喧嘩じゃ」\n そう叫びながら、幔幕の外を、走って行く者があった。\n「どこで、やっとるんじゃろうか?」\n 角助が、呟くと、\n「放っとけや。珍しゅうもない。花見に喧嘩はつきもの、景物の一つたい。喧嘩のない花見は、花見のうちに入らん。そんなことより、おれが歌うけ、芸者衆、三味線をひけ」\n 島村ギンは、そういって、酒を一杯満たした湯呑茶碗を、ぐっと、一息に、飲みほした。\n「ドテラ婆さん」と呼びならされて、本名の方は忘れられているギンは、赤毛氈のうえに、胡床をかいて、もう、だいぶん、陶然たる様子だ。その名の起った、チャンチャンコまがいの袖なしドテラを着て、白足袋をはいている。女角力のように、堂々とした体格だ。色は浅黒く、利かぬ気らしい精博の気が顔にあふれ、糸のような細い眼に、異様な光がある。大丸髷に、桜の花びらが幾ひらも乗っている。\n 洞海湾を中心とする北九州を、眼下に一望できる金比羅神社の境内は、撩乱たる桜の花ざかり、晴れあがった春空の下で、各所に、花見宴が張られていた。\n「ドテラ婆さん」も、十四五人の子分づれで、朝から、気焔をあげていた。芸者も、五人ほど、席に侍って、取り持ちをしている。\n ギンの命令で、二人の芸者が、三味線を取りあげた。一人が、\n「なにをお歌いになるの?」\n「磯節。......ええな」\n 女親分は、細い眼をさらに細めて、歌いだした。\n\n若松名所を知らない人に、\n若松名物、知らせたい。\n金比羅山から、岬の山、\n桟橋、眺めりゃ、\n岡蒸気が、ピイ......\n\n まるで、申しあわせたかのように、眼下の鉄道桟橋のうえを走る汽車が、ピイッと、汽笛を鳴らしたので、どっと、拍手と笑い声とが起った。\n「さあ、今度は、角助どんの番じゃ。なんか、やれ」\n 男のような言葉つきであるが、その声は、黄色い金切り声である。\n「やります」\n 角助も酔っていて、そういうと、坐りなおした。正方形の醜悪な顔が、ベンガラ色になっている。膝のうえに乗せた手には、左の小指、薬指、右の小指、いずれも、第二関節から先がない。丸太ン棒のようである。\n「三味線は、要らん。日露戦争の尻とり歌じゃ。言葉の最後の字が、次の言葉の頭になっとるところを、照覧あれ」\n「講釈は、それくらいで、ええ」\n「そんなら」" }, { "role": "assistant", "content": " 角助は、天に顔をあげ、「日本の、乃木さんが、凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮国、クロポトキン、きん玉、マカローフ、褌、しめた......」\n「ちょっと待った」と、女親分が、笑いながら、「角助どんは、しめようにも、褌がないのとちがうか。いつも、ドジばかり踏んで、玉井から、赤恥かかされちょるが......」\n「玉井金五郎は、かならず、わたしが殺しますよ。まあ、見とって下さい」\n 芸者の中にいるお京の眼が、その言葉に、妖しく、光った。\n「玉井組も、今日は、来とりゃせんかね」\n「来とりますよ。幹部だけらしゅうて、六ゾロの源公たち、五六人、神社の裏手で、こっそりやっちょります」\n「金五郎は?」\n「さあ、後から来たかも知れんけんど、わたしが見たときは、子分だけでした」\n「玉井金五郎って、図々しい奴じゃないか。おれたちの縄張りの若松に、のそのそ、入りこんで来やがって、頭をもたげるなんて......」\n「ドテラ婆さん」は、憎々しげないいかたである。腕まくりし、ぐいぐいと、酒を飲む。\n 角助も、金五郎を憎む点では、誰にも劣らないので、\n「ヘン、あいつが、若松に来て、頭をもたげようたって、そうは問屋がおろしませんよ。畳のうえで死ぬ気なら、当てが外れまさあ」\n「玉井組は、半纏に、ここの金比羅さんと同じマークをつけとるなあ。生意気な」\n「名が金五郎じゃけ、丸の中に、金の字を入れたんでしょう。罰当りですよ。図に乗りやがって、......良心のある者なら、神様に遠慮せんならんとこですばい」\n「ちいたあ気の利いた子分でも、居るとかい?」\n「碌なのは、居らんですよ。六ゾロの源のような間抜けがボーシンじゃけ、後は大概わかっとる。田舎の郵便配達じゃったという大川時次郎、こいつ、金五郎の女房のおマンと、どうやら、田舎に居ったときから、怪しい仲じゃったちゅうけ、今に、痴話喧嘩が始まりますばい。間男の現場を、金五郎に見つかった、ちゅう噂も聞きましたよ」\n「それで、よう、玉井が黙っとるなあ?」\n「あいつ、おマンに首ったけで、オンテレ・メンピンじゃけ。わたしなら、惚れた女でも、間男したら、泣寝入りはせんです」\n「オコゼを釘にひっかけたような顔しとって、女に惚れる柄かい」\n その言葉で、一座は、どっと、笑った。角助はむくれた。\n「そのほかには?」\n「おマンの兄とかいう谷口林助、門司から、夫婦子供づれで、頼って来たんじゃけど、こいつは、人がええばっかりで、まるきりの意気地なしです。玉井金五郎が、若松で、玉井組の看板をあげたと知って、前の永田組の子分のほかに、方々から、いろんな奴がやって来たらしいですな。金五郎の郷里の四国から、鍛冶屋の清七という頓馬が来て、道具番をやったり、下関の彦島から、「ノロ甚」という綽名の、将棋は馬鹿に強いが、さっぱり仕事の出来ん大とぼけが来たり、それから......」\n 角助の口にかかると、玉井組は、一人残らず、能なしの役立たずで、堅められているように聞えた。\n お京は、笑いをこらえて、素知らぬ顔で、聞いていた。\n「三井物産では、今度、玉井に、焚料口を、一口、持たせるという話を聞いたが......?」\n「わたしも聞きました。ほんとらしいです」\n「他所者に、縄張の中で、御馳走の撰り食いをされちゃあ、他の者の顔は、丸つぶれじゃないか」\n「まあ、わたしに委せといて下さい」\n 角助は、そういって、自信ありげに、うなずき、指の短い両拳を握って、反っくりかえらせた胸を、どすんと、たたいた。\n 島村ギンは、ゆらゆらと、立ちあがった。\n「しんきくさい話は、やめじゃ。どんちゃん騒ぎをしようや。......芸者衆、踊らんか」\n そう喚くように、叫んだ。また、「若松名所を知らない人に」と、歌いだし、三味の音につれて、踊りはじめた。肥満した身体つきに似あわず、柔軟な手足のこなしである。それは、この「ドテラ婆さん」の前身を、物語っているもののようだった。\n 子分たちも、皆、立った。三人の芸者もまじって、円陣になった。にぎやかに、踊りながら、紅白だんだらの幔幕の内側を、ぐるぐる廻る。\n お京も、踊りの列のなかにあった。\n(聞きしにまさる大姐御だわ)\n ギンの豪快で、すさまじい女親分ぶりを、ひそかに、腹の中で、感歎していた。お京とて、鉄火の世界を渡り歩いた女であるが、どこに行っても、ギンのような女親分を見たことがなかった。女侠客といわれる者は、他にもあるが、「ドテラ婆さん」のような、男か女かわからない、人を殺すことを屁とも思っていない、執拗残忍な女に逢ったのははじめてだ。\n(金五郎さんは、殺されるかも知れない)\n その不安が、湧いて来るのだった。\n お京は、若松検番から、やはり、「お京」という芸名で、芸者に出ている。博多の待合から逃げられた金五郎に対して、長期作戦の腹を定めて、若松に来たのである。\n 監獄から帰った森新之助と、君香とが始めた「飛鳥」という置屋で、三味と踊りの出来る、年増芸者を探していると聞いて、そこへ抱えられた。金に窮してのうえではないので、自前でもよいのだが、身分を隠すため、わざと、借金をした。新之助も、君香も、「よい妓が来てくれた」といって、すこぶる、よろこんだ。二人とも、まだ、金五郎とのことは、なにも知っていない。\n 今日は、花見の客を、「ドテラ婆さん」と知って、志願して来たのである。ギンの方は、芸者を五人、花見線香をつけて出せ、というだけのことで、格別、お京に注意もしていなかった。\n「ああ、小便がしとうなった。芸者衆、肩を貸せ」\n 踊っていたギンは、そういうと、傍にいたお京と、染奴という若い芸者とを、引きよせた。両脇に抱きよせるようにし、太い両手を、二人の肩から首に巻きつけた。重くのしかかって、足どりも怪しく、幔幕の外に、出た。\n「危いですわ」\n お京が、たおれそうになったギンの身体を支えると、\n「酒くらいで、引っくりかやるドテラ婆と思うちょるか」\n そういって、女侠客は、全身を大きくゆるがして、哄笑した。\n 金比羅神社の裏手に、臨時共同便所がこしらえてあった。そこは、断崖になっている。石段は三百段あるから、そこから落ちれば、無論、命はない。\n ふっと、お京の胸に、悪逆の心が湧いた。\n(素知らぬ顔で、崖の下に落してやろうか。死んだところで、酔余の果ての過失として、誰も、疑う者はないにちがいない)\n すると、ギンが、急に、顔をあげて、呟いた。\n「おんや、玉井の奴、なにをしちょるとじゃろか? 江崎満吉の子分と、喧嘩やっちょるのか?」\n 大鳥居から、狛犬の石像にかけて、「若松金物商組合」という、紺の幕が張りめぐらしてある。\n そこのところで、金五郎が、四五人の遊び人風体の男たちと、なにか、いい争っていた。金五郎の方は、やわらかく話をしているが、相手は喧嘩腰だ。金五郎は、着物のうえから、玉井組の印半纏を羽織り、手に、一升徳利をぶら下げている。頬は赤いが、酔ってはいない。\n このなりゆきを、心配そうに眺めているのは、金物商組合の人たちらしい。事の起りは、金物屋連中が花見をしているところへ、江崎満吉の子分たちがやってきて、\n「ここは、おれたちの場じゃ。お前らは、他所に行け」\n と、立ち退きを命じたことが、発端のようだった。通りあわせた金五郎が、見るに見かねて、仲裁、に出たのである。\n「お前なんかの知ったことじゃない。すっこんどれ」\n 眼っかちの大男が、憎々しげに、怒鳴った。\n「話がわかったら、いつでも、すっこみます」\n「話はわかっとるじゃないか。おれたちがここで花見するけ、金物屋がどこかに行ったら、ええんじゃ」\n「この場所は、あんたがたの土地ですか?」\n「土地でなんか、あるもんか」\n「先約でもしてあったのですか?」\n「そんなもんは、しとらん」\n「そんなら、あんたがたが、無理ですよ。金物屋さんたちは、一週間も前から、契約して、ここを借りていなさる。今日も、朝早うから、準備をしに来て、いま、皆さん、お揃いで、弁当を開かれたところらしい。それを、追いだして、ここを占領しようというのは、どういうわけですか?」\n「どういうわけも、こういうわけも、あるもんか。ここの桜が一番きれいで、見晴らしもええけ、ここに、定めたんじゃ。つべこべ、要らん差し出口たたかんで、引き下がっとる方が、お前の身のためじゃろうで」\n「わたしの身のためでも、金物屋さんたちが困りなさる。どうですか? もう、ええ場所がないなら、わたしたちのところを譲ってもええから、金物屋さんの方は、勘弁してあげたら......?」\n「ここと定めたら、ここでやるんじゃ。......生意気な出しゃばり野郎奴、江崎満吉を知らんとか」\n そう叫ぶと、眼っかちの男は、拳をふりあげて、殴りかかって来た。金五郎が躱したので、よろめいた拍子に、石につまずいて、音を立ててたおれた。\n「やり居ったな」\n もう一人が喚くのと、残りの者が、金五郎に飛びかかるのと、同時だった。いうまでもなく、袋だたきにするつもりである。\n しかし、金五郎は、敏捷に飛びまわって、なかなか、掴まらない。積極的に、立ち向かう気がないので、逃げてばかりいる。しかし、たまに、相手と組みあうと、かならず、江崎の子分の方が、引っくりかえるか、呻き声を立てて、伸びるかした。\n 金五郎は、暴漢をおさえつけておいて、口の中に、一升徳利の酒をそそぎこんだ。\n 素手では駄目とみて、悪漢たちは五人とも、匕首を抜いた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n ○\n\n\n\n玉くしげ御室の山のさなかづらさ寝ずは遂にありがつましじ 〔巻二・九四〕 藤原鎌足\n\n 内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に答え贈った歌であるが、王女が鎌足に「たまくしげ覆ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)という歌を贈った。櫛笥の蓋をすることが楽に出来るし、蓋を開けることも楽だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。\n「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、玉匣をあけて見んというミから御室山のミに続けた。或はミは中身のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。博士はカツと清んで訓んでいる。ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。「いや遠く君がいまさば有不勝自」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも依勝益士」(巻七・一三五二)等の例がある。\n 鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に押つけないところなども微妙でいい。「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。「生けるもの遂にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ遂に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。\n\n ○\n\n\n吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり 〔巻二・九五〕 藤原鎌足\n\n 内大臣藤原卿(鎌足)が采女安見児を娶った時に作った歌である。\n 一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。\n「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。\n この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。そこで注釈家の間に寓意説、例えば守部の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を慥かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の巧も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。けれどもそういう説は一つの穿ちに過ぎないとおもう。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。\n\n ○\n\n\nわが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 〔巻二・一〇三〕 天武天皇\n\n 天武天皇が藤原夫人に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女、五百重娘で、新田部皇子の御母、大原大刀自ともいわれた方である。夫人は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市郡飛鳥村小原の地である。\n 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。\n 天皇が飛鳥の清御原の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。\n\n ○\n\n\nわが岡の龗神に言ひて降らしめし雪の摧し其処に散りけむ 〔巻二・一〇四〕 藤原夫人\n\n 藤原夫人が、前の御製に和え奉ったものである。龗神というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の龗神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の御揶揄に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。\n\n ○\n\n\n我が背子を大和へ遣ると小夜更けてあかとき露にわが立ち霑れし 〔巻二・一〇五〕 大伯皇女\n\n 大津皇子(天武天皇第三皇子)が窃かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯皇女に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の関係にある。\n 一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に鶏鳴露とあるが、鶏鳴(四更丑刻)は午前二時から四時迄であり、また万葉に五更露爾(巻十・二二一三)ともあって、五更(寅刻)は午前四時から六時迄であるから、夜の更から程なく暁に続くのである。そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。\n 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀ったのが露われて、朱鳥元年十月三日死を賜わった。伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。「わが背子」は、普通恋人または夫のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。親しんでいえば同一に帰着するからである。「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が活いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この吾子を韓国へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。\n\n ○\n" }, { "role": "assistant", "content": "\n二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ 〔巻二・一〇六〕 大伯皇女\n\n 大伯皇女の御歌で前の歌の続と看做していい。一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな風にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成ナラズモ覚束ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。\n\n ○\n\n\nあしひきの山の雫に妹待つとわれ立ち沾れぬ山の雫に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子\n\n 大津皇子が石川郎女(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、おまえの来るのを待って、山の木の下に立っていたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、というのである。「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の「足引城」説が平凡だが一番真に近いか。「足は山の脚、引は長く引延へたるを云。城とは凡て一構なる地を云て此は即ち山の平なる処をいふ」(古事記伝)というのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。\n 右に石川郎女の和え奉った歌は、「吾を待つと君が沾れけむあしひきの山の雫にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。\n\n ○\n\n\n古に恋ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴きわたり行く 〔巻二・一一一〕 弓削皇子\n\n 持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、従駕の弓削皇子(天武天皇第六皇子)から、京に留まっていた額田王に与えられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、杜鵑の啼く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。\n 一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉の御井のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。\n「古」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に情緒充足し何とも言えぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く稀であることを知って置く方がいい。「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁にして静和な響をたたえている。\n 額田王は右の御歌に「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和えている。皇子の御歌には杜鵑のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。\n\n ○\n\n\n人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女\n\n 但馬皇女(天武天皇皇女)が穂積皇子(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向のよれる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃かに穂積皇子に接せられたのが露われた時の御歌である。\n「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽く。特に皇女が皇子に逢うために、秘かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。\n\n ○\n\n\n石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿\n\n 柿本人麿が石見の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀郡下府上府)にいたもののようである。妻はその近くの角の里(今の都濃津附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川の岸に出たもののようである。\n 大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。\n 角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。\n\n ○\n\n\n小竹の葉はみ山もさやに乱れども吾は妹おもふ別れ来ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿\n\n 前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越をし、備後にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。\n 大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱れていても、わが心はそれに紛れることなくただ一向に、別れて来た妻のことをおもっている。\n 今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗に歌っているから軽妙に滑って行かないのである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\nシューマンの作品とそのレコード\n\n\n シューマンの作曲の特色的にして興味深いものは、大袈裟なシンフォニーよりは、むしろピアノ曲と歌曲でなければならない。四つの交響曲はそれぞれの因縁と苦心が潜み、シューマンを語る上にはきわめて大事な役割を持つものであり、その一つ一つがシューマンの抱懐した大浪漫主義の理想を高らかに歌った、きわめて超凡にして気品の高いものであるにしても、その構成が色彩的でなく、灰色の重圧と、鬱陶しい単一さを持ったもので、一般人が聴いて決して面白いものではなく、レコードにも甚だ少ない。わずかに「ライン」と呼ばれる「第三交響曲=変ホ長調(作品九七)」をパリ音楽院交響管弦団をコッポラの指揮したビクター・レコードが、現役的なものであるにすぎない(JD三三九―四一)。これも小気の利いたイージーな演奏で、シューマンの憂鬱は見る由もない(この曲はきわめて明るい美しいものとされているが、シューマンの晩年作で、もう少し濃い陰影であってよいわけである)。\n\nピアノ曲\n\n ピアノ音楽に対するシューマンの開拓は、ショパン、リストと共に大きな分野を代表し、その作品はきわめて良心的で、高貴な深々とした芸術境に到達したものである。\n そのうちで通俗的興味と芸術的気品とを兼ね備えたのは「謝肉祭(作品九)」をもって第一とするであろう。謝肉祭の仮装に擬らえた幾多の小曲から成ったものであるが、その中にはシューマンの主張と矜持と、洒落と道楽気と、淡い恋と友情とが蔵されており、技巧的にもシューマンのピアノ曲のエッセンスを集めてこの上もなく面白い。レコードは吹込みは新しくないが、ビクターのコルトー演奏をもって第一とし(JD七五一―三)、同じビクターのラフマニノフがそれに次ぐだろう。由来当代のシューマン弾き中、その教養と心構えと、趣味と技巧とにおいてシューマン的であること、コルトーに及ぶものはなく、シューマンの持つロマンティシズムは、コルトーによって最もよく理解再現されると言っても差しつかえはあるまい。ラフマニノフは筆者の旧著で非難しているが、聴き直してみると、この個性の強烈な演奏にも、不思議な良さを持っていることを承服させられるだろう。\n「幼き日の思い出」(または子供の情景)は他愛のないようではあるが、子供の世界を描いて、童心と詩味の豊かな曲である。これもビクターのコルトーの演奏をもって白眉とし(JD八四〇―一)、ほかにビクターのモイセイヴィッチ、同じくナイ、コロムビアのナットなどがある。しかし迷わずにコルトーを採って決して悔はない。この中の有名な「夢想」はヴァイオリンやチェロに編曲して有名になっているが、カサルスのビクター・レコード(JE五九)は古い録音ながら名品で、コロムビアのマレシャルとフォイアマンは録音の鮮麗さで愛されよう。ヴァイオリンではビクターのエルマンが定評がある(JE一六三)。\n「ダヴィッド同盟舞曲集(作品六)」は、「謝肉祭」ほど多彩な面白さはないが、クララに対するシューマンの情熱とも言い、理想主義的なシューマンの俗衆への示威とも解される。レコードではビクターのコルトーが唯一で見事だ(JD一五〇二―四)。\n「クライスレリアーナ(作品一六)」は同名の小説を題材としたもので、皮肉で諧謔的であるべきはずだが、シューマンの突き詰めた生真面目さと、一種の情熱が不思議な悩ましさを織り出す、コルトーのが唯一で立派なレコードだ(ビクターJD九五一―四)。\n「交響的練習曲(作品一三)」は一つの主題と九つの変奏曲と一つの終曲から成る幽玄な曲でこの優麗さを私は愛する。レコードは、ビクターのコルトーは鬱然たる感じのする名演奏で(七四九三―五)、ほかに三、四種のレコードも入っているが、コルトーに比べると薄手で散漫で問題にならない。\n\n「幻想小曲集(作品一二)」は「謝肉祭」とはまた違った連絡のない小曲を集めたもので、ビクターには「幻想曲(作品一二)」の名で老ピアニスト、バウアーのが入っている。しかしこの中で面白いのは「飛躍」や「夢のもつれ」や「何故」などで、一曲入ったのでは、旧盤時代のパデレフスキーの「飛躍」や「何故」を思い出す。\n「幻想曲ハ長調(作品一七)」は前者とは全く違った長大な曲で、シューマンの純粋な幻想に面白さがある。レコードではビクターにバックハウスの歯切の良い技巧的に美しいのが入っている(JD一一六二―五)。\n「胡蝶の曲(作品二)」はきわめて初期の曲で、稚気愛すべきものがある。コルトーのが良い(ビクターJE九七―八)。その他ホロヴィッツの「アラベスク」(ビクターJE二〇五)、パデレフスキーの「予言鳥」(ビクター一四二六)などが挙げられよう。\n「ピアノ・ソナタ=ト短調(作品二二)」はビクターにホロヴィッツのがある。見事ではあるが大して面白いものではない。\n\n歌曲\n\n「詩人の恋」はハイネの詩のよさと共に、シューマンのリードに対する抱懐と天分を傾け、一面クララへの愛情の氾濫を描いたものと言ってよい。全曲レコードはビクターにバリトンのデニスの歌ったのと(D二〇六二―四)、パンゼラがコルトーのピアノ伴奏で歌ったのと(JD七九八―八〇〇)ふた通り入っているが、パンゼラはきわめて巧者でコルトーのピアノ伴奏がすばらしいにしても、私はやはりデニスの情緒と魅力とを採りたい。身も心も打ち込んだような、優しく物悲しい表現である。\n「女の愛と生涯(作品四二)」は「詩人の恋」と共にシューマンの二大歌曲集の一つで、シューマンがクララと結婚した年、即ち伝記家の「歌の年」の傑作である。乙女の愛の芽生えから結婚、出産、最後に寡婦の淋しさまで八曲に歌ったもので、その純粋な愛情と美しい悩みは人を揺り動かす。レコードではコロムビアのロッテ・レーマンの歌ったのが絶対的に良い(J五三九二―五)。これはピアノを交えた管弦楽伴奏で、シューマンのリードを冒涜すること甚だしいものであるが、それにもかかわらずレーマンの歌は見事で、纏綿たる情緒と清らかな愛の表現は何に例えようもない。私の好きなレコードの一つである。\n\n 一枚物の歌のレコードでは、一番有名なのは「二人の擲弾兵」であろう。巧みにフランスの国歌を使って、ナポレオン軍の敗残兵を歌った技巧が面白い。レコードではポリドールのシュルスヌス(六〇二〇三、後にシュルスヌス愛唱曲集第二集)が傑出し、ビクターのシャリアピン(六六一九)がそれに次ぐだろう。\n「胡桃の樹」はシューマン的な良い歌である。ピアノ伴奏部に重点が置かれ、そこに非難もあれば特色もある。ポリドールのスレザーク(E二〇七またはスレザーク愛唱曲集の内)は情愛兼ね備わった名演奏で、続いてはビクターのエリザベト・シューマン(JD一一〇)あたりが良かろう。ほかに「蓮の花」のレーマン、「月の夜」のシュルスヌス、「春」のシューマンなどがとにもかくにも良いものであろう。\n\n協奏曲と室内楽曲\n\n「ヴァイオリン協奏曲=ニ短調」は最近発見された遺作で、その発見の経緯が興味をよんだばかりでなく、曲も晩年のものにしてはきわめて面白い。当時ヨアヒムがこの曲に潜む狂気的なものを感じて演奏を忌避したというのは、伝説の誤りでなければ、ヨアヒムの偏見であろうと思う。おそらくこの曲は古今のヴァイオリン協奏曲でも十指――あるいは五指に屈うべき傑作の一つと言って差しつかえはない。\n レコードはドイツにおける初演のクーレンカンプ(テレフンケン二三六五三―六)と、アメリカにおける初演のメニューイン(ビクターJD一五一四―七S)とが入っているが、こればかりは、正直で優麗で、打ち込んだ気持のクーレンカンプに同情が持たれる。近頃のメニューインのうまさは格別なものがあり、この曲においても驚くべき天賦を示しているが、ヴァイオリンの世の中は必ずしもメニューイン万能ではなく(もちろんメニューインに与する人も少なくないだろうが)、この曲に示した曖昧にして大袈裟な身振りは、クーレンカンプの素直にして端麗な趣に及ばないものを思わしめる。\n「ピアノ協奏曲=イ短調(作品五四)」はきわめて有名な曲であり、シューマンにとっては傑作の一つである。この曲を良人シューマンのために精一杯弾いて、その頃の無理解な――あるいは無理解を装わんとする聴衆を説得せんとした、名媛クララ夫人の努力が今に偲ばれて床しい。レコードではビクターにコルトーの名盤がある(JD三四七―五〇)。管弦楽はロンドン・フィルハーモニックで指揮はロナルド卿、壮麗きわまる演奏で、この豊かな美しさに帽子を脱ぐ。コロムビアのナットは気の清んだフランス風のリアリズムが特色である(J八二七九―八二)。「チェロ協奏曲=イ短調(作品一二九)」はヴァイオリン協奏曲と共にシューマンの弦楽器をマスターした名曲と言えるだろう。優雅な美しい曲である。ビクターのピアティゴルスキーのが良い(JD三五三―五)。指揮はバルビロリ、管弦団はロンドン・フィルハーモニック。\n" }, { "role": "assistant", "content": "「ヴァイオリン・ソナタ」には良いのがなく、「ピアノ三重奏曲=ニ短調(作品六三)」にコルトー、ティボー、カサルスの名盤がある(ビクターVD八二三二―五)。これも吹込みは新しくないが、世紀の三重奏団とも言うべきカサルス・トリオの傑作の一つで、この幽婉さは比類もない。\n\n「弦楽四重奏曲」では第一番のイ短調(作品四一ノ一)を入れたカペエ弦楽四重奏団のコロムビア・レコード(J七六二九―三一)ひと組あれば沢山だ。吹込みは古いが洗練された美しさは例えようもない。がしかし、シューマンの弦楽四重奏曲は素人に面白くないことも事実である。気魄と想念はひとかどのものがあったにしても、弦楽器の性格を把握して、自由に扱い兼ねたのがシューマンの欠点で、これはいたしかたのないことである。\n「ピアノ五重奏曲=変ホ長調(作品四四)」、これは傑作だ。シューマンらしい執拗な暗さはあるにしても、とにもかくにも飛躍的で、シューマンの生涯のうちでも幸福な時期を暗示する曲である。レコードはビクターにシュナーベルとプロ・アルテ弦楽四重奏団の組合せで入っている(JD六九一―四)。この組合せでは良いものであろう。\n\n\n\n\nピアノの巨匠リスト\n\n\n\n\n交響曲詩の父\n\n 十二曲の交響曲詩を書いて、楽壇に大きな時代を画し、近代音楽の黎明の鐘を高らかに撞き出したフランツ・リスト、――一面においてピアニストとして前人未踏の境地を拓き、パガニーニのヴァイオリンにおける如く、神話的にまで高められた技巧の征服者リストこそはまことに巨匠雲の如き十九世紀中葉の欧州楽壇においても、最も興味深き存在であったと言わねばならない。\n 筆者はきわめて最近電車の中で、若いインテリらしい婦人が、その友人達と交えている会話の中に、リストという言葉を聞いて思わず聴き耳を立てた。婦人は言うのである。\n『私は近頃リストの伝記を読んで、すっかり感心してしまいました。昔からのエライ音楽者の中にも、リストほど立派な人はありませんね』――と。\n この言葉は私にいろいろのことを思わせるのであった。\n 今からざっと百年前、二十歳から三十代のフランツ・リストの磁石的魅力は、全欧州至るところに五彩の颶風を捲き起さずにはおかなかった。ある婦人達はリストの触った花について論争し、ある婦人達はリストの捨てた葉巻の吸いさしを捜し回り、有閑婦人達の中には、金と境遇の許す限り、町から町へ、国から国へとリストの後を追い回すのさえあったのである。\n この女軍の包囲から免れるために、リストは僧衣をもって武装するほかはなかった。彼はついに聖フランシスの帰依者となり、ローマ・カトリックの僧位を獲て始めて生活の安らかさを確保したのである。\n\n豊かなる愛\n\n リストの魅力は、百年後の今日までもインテリ婦人を感嘆せしむるのはなぜであろうか。私はもう一度リストの伝記を調べて見て、その由来するところを探究せざるを得なかった。\n リストが古今無双のピアニストであり、革命的な作曲家であることが、大きな魅力であったには相違ないが、それよりも大きな原因は、リストの豊かな愛情と、類い稀なる優雅さと、さらに、その人間的な高さが、リストをしてあらゆる人の「崇敬の的」たらしめたのであろう。\n リストはその作曲を通してでも、多くの渇仰者と少なからざる排撃者とを持っている。リストの作曲はルービンシュタインの所論を俟つまでもなく、きわめて饒舌で表面的で、わけてもピアノ曲は技巧重点主義で、煩に堪えざらんとする者は決して少なくない。その人柄に関しても、かつて若き日のブラームスが、ヨアヒムの紹介で、欧州楽壇の大御所的存在であったリストを訪ね、彼を取巻く空気の、虚偽と、付和と、贅沢と驕慢とに驚いて逃げ出したのはあまりにも有名な逸話である。\n リストの大袈裟なジェスチュア、儀礼、人をそらさぬお世辞――すべてそれは、田舎者のブラームスには、我慢のならないものであったに相違あるまい。しかし、それをもって直ちにリストを毛嫌いし、リストを排撃せんとする者があったならば、それはあまりにも早計である。リストはそういった派手好みで、道徳的にはきわめて弱気でさえあったにしても、あらゆる人に寛大で、豊かな愛情と、行届いた同情とを持った、生まれながらの長者であったのである。\n ある伝記者はリストの豊かなる愛情を讃美して、それは全く比類のないものであったと言っている。彼は接する者誰にでも、満腔の親しさと愛とを注ぎかけずにはおかなかった。彼の教養のよさと、その品性の高さがそうさせたのであろう。どんなに冷淡で厳格な人でも――時にはリストの敵でさえも、ついには彼に因えられて、その渇仰者の一人にならずにはいられなかったのである。\n リストは友人としてはこの上もない人であった。彼は決して裏切ることも渝ることもなかった。弟子達にとっても、リストほど親切な師はあり得ず、友人達にとって、リストほど頼もしい男はなかった。\n リストの世話好きは実に抜群の美徳であった。ポーランドの青年ショパンがいかにリストの恩恵でフランスの楽壇にデビューしたか、映画「別れの曲」は嘘八百の筋であるにしてもその心持だけでも伝えている。当時全欧の楽壇を敵として闘うの概があったシューマンは、リストに激励され、後援されてどれだけ助かったかわからない。故郷のフランスで理解されなかったベルリオーズの「幻想交響曲」を、ワイマールで上演して、その驚くべき芸術を紹介し、ドイツ人にまず理解させてやったのもリストである。轗軻不遇のワグナーを激励し、その難解極まる名作を上演して、世に知らしめたのもリストである。「タンホイザー」や「ローエングリン」が、リストの助けなしでは、あれほどまで順調に世に受け入れられなかったであろう。\n リストは生まれながらにして嫉妬ということを知らなかったと言われている。「嫉妬を知らない天才」――これほど高貴な存在がこの世の中にあろうか。彼は誰の成功をも心から喜ぶ真心と雅量とを持っていた。徳川時代の江戸の伊達衆のように、彼は人に物を頼まれて「否」ということの出来ない人間であった。その財布の口は、必要でさえあればいつでも開いた。\n ウィーンの都にあの立派なベートーヴェンの記念碑を、ほとんど一人で建てたのはリストであった。一音楽家の仕事として、それは決して容易なことではない。\n ある田舎の町にリストが行った時、ちょうどその町にリストの門弟と称する女流ピアニストの独奏会があった。リストはその女流ピアニストの名を聴いたことさえなく、もちろんリストの門弟などではなかった。不思議なことに思いながらホテルに室を取ったリストは、間もなく一人の若い婦人の訪問を受けた。婦人はリストの門弟と触れ込んだ女流ピアニストであったが、涙を流して、「先生のお名前でも拝借しなければ、私のピアノなどを聴いて下さる方もありません」と詑びるのであった。\n リストは鷹揚にうなずいて、婦人をなだめながら、とにもかくにも、ホテルのピアノでその晩のプログラムにある曲を弾かせ、二、三の技巧上の注意を与えた後、「私はあなたにピアノを教えた。この後リストの弟子と言っていっこう差しつかえはありません」と、婦人の白い額に、――リストがよく出来たお弟子にいつでもしてやるように、軽く接吻してやった。女流ピアニストの名は逸したが、リストの親切ぶりは大方こういった類である。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」\n「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で......」\n 沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとり言をもらしていたことは、彼女自身気がつかない。\n もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇が、波のように、そこここのすみずみから湧きおこってきている。\n どこか坂下の町家でたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木の音。\n やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グット刀をおし反らした。\n「ハテ、面妖な! いまたしかにどこかで、アノ、源三郎――伊賀の暴れん坊の笑い声が、響いたような気がしましたが」\n 何やらゾッとするのをかくして、お蓮様はあでやかに笑った。\n「ホホホ、仏様が笑うものですか、気のせいですよ――しじゅう気がとがめているものだから」\n「それはそうと、お後室様、あの丹下左膳とやらは、萩乃様をおつれして、いったいどこへまいったのでござりましょうな」\n「そんなことはどうでもいいじゃないの。わたしはなんだか、もうもう気がふさいで......」\n「ハッハッハッハ、それは、お一人でこんなところにこもって、何やかやともの思いをなさるからじゃ。サ、あちらへまいりましょう」\n と手を取らんばかり。\n 丹波はお蓮様に従って、長い渡り廊下を道場のほうへ。\n 残影で西の空は赤い。庭にも、もう暮色が流れて、葉末をゆるがせて渡る夕風は、一日の汗を一度にかわかす。\n と、ヒョイと見ると、その庭におり立って、手桶の水を柄杓で、下草や石燈籠の根に、ザブリザブリとかけてまわっている人があるんです。\n 帷子に茶献上――口のなかで謡曲でもうなりながら、無心に水打つ姿。\n が、ハッとして足をすくませた丹波とお蓮様、チラリふり返ったその若侍の蒼白い横顔には、思わず、ギョッと......!\n\n街の所作事\n\n\n一\n\n 塗師町代地の前は、松平越中守様のお上屋敷で。\n 角から角まで、ずっと築地塀がつづいている。\n その狭い横町に、いっぱいの人だかり......。\n とんぼ頭の子供をおぶった近所のおかみさん、稽古帰りのきいちゃんみいちゃん、道具箱を肩に、キュッと緒の締まった麻裏をつっかけた大工さん、宗匠頭巾の横町の御隠居、肩の継ぎに、編笠の影深い御浪人。\n そういった街の人々が、ぐるりと輪をつくっています。\n 酒屋の御用聞きが、配達の徳利を二つ三つ地面にころがして、油を売っていると、野良犬がその徳利を、なんと勘ちがいしてかしきりになめまわしているのも、江戸の町らしいひとつの情景。\n あれも人の子樽拾い......これは冬の気分。\n 今は夏ですから、酒屋の小僧も大いばりで、十二、三のいたずら盛りのが、はだかのうえへ、三河屋と書いた印判纏を一枚ひっかけ、\n「エエイ、ちくしょう、泣かしゃアがる!」\n と三河屋の小僧さん、人のあいだから中をのぞきながら、伝法に鼻をこすりあげている。\n その人だかりのなかを見ますと......いや、のぞくまでもない。\n この狭い横町いっぱいに、唄声が氾濫しているのだ。\n その唄を聞けば――イヤ、聞くまでもない。\n 先刻御承知の、\n\n「むこうの辻のお地蔵さん、涎くり進上、お饅頭進上、ちょいときくから教えておくれ」\n\n 皆様おなじみの、あのチョビ安つくるところの親をたずねる唄です。\n 人の輪の中に突っ立って、大声にこれを唄うチョビ安兄哥......ひさしぶりのチョビ安だが、その服装がまたたいへんなもので。\n 四十、五十のやくざでも着るような、藍万筋のこまかい単衣に、算盤絞りの三尺を、ぐっと締め、お尻の上にチョッキリ結んで、手拭を吉原かぶり、わざと身幅の狭いしたてですから、胸がはだけて、真新しい白木綿の腹巻が、キリッと光って見えようというもの。\n 工面のいいときのあのつづみの与の公が、よくこんな服装をして、駒形から浅草のあたりをおしまわっていたものですが、今のチョビ安、まるであの与吉の、人形みたようだ。\n それが、意外な恰好に鉦を持って、拍子おもしろくチンチンたたきながら、\n「エイお立ちあいの衆! 焼野のきぎす夜の鶴、子を思う親の情に変りはねえが、親を思う子の情は、親のねえ子ではじめてわかるものだ。孝行をしたい時分に親はなし、石に蒲団は着せられずとか、昔からいろいろ言ってあるが、こりゃあ親が死んでしまってから、はじめて親の恩を知る心を言ったもので、おいらなんざア自慢じゃアねえが、生まれ落ちるとから、親の面ッてものはおがんだことがねえんだ。ここにいるこのお美夜ちゃんも、お母さんがどこにいるかわからないんだよ。おいらの両親は、伊賀国柳生の者だとばっかり、皆目手がかりがねえんだが、もしお立ちあいの中に、心あたりのある人があったら、ちょいと知らせておくんなせエ。いい功徳になるぜ。サア、夏のことだ、前口上が長えと、芸が腐らあ。ハッ、お美夜太夫! お美夜ちゃん! とくらア。ヘッ、のんきなしょうべえだネ」\n「あいよ」\n そばに立っているお美夜ちゃんが、ニッコリ答える。この暑いのに振袖で、帯を猫じゃらしに結び、唐人髷に金の前差しをピラピラさせたお美夜ちゃん、かあいい顔を真っ赤にさせて、いっぱいの汗だ。\n「ようよう! 夫婦の雛形!」\n「待ってました! 手鍋さげてもの意気で、ひとつ願いやすぜ」\n いろんな声がかかる。\n\n二\n\n 芸といっても、たったひとつを売りもの。\n チョビ安の「辻のお地蔵さん」に合わせて、お美夜ちゃんがいろいろと父母を恋うる所作事をして見せるんです。\n 振付けは言わずと知れた、藤間チョビ安。\n「むこうの辻のお地蔵さん」で、お美夜ちゃんは首をかしげて、かあいいしなをしながら、左の手で右の袂をだき、右の人さし指でむこうを指さす動作をする。\n 見物は感に堪えて、見ています。\n「ちょいと聞くから」で、その手を返して、お地蔵さんの肩をたたく手つき。「教えておくれ」のところは、胸に両手を合わせて、身をもむように、一心に頼むこころを表わす。\n「涎くり進上、お饅頭進上」と、お美夜ちゃんは涎くりの手まねやら、お饅頭をこねたり、餡をつめたり、ふかしたりの仕草、なかなかいそがしい。\n「オウ、姐ちゃん、その饅頭をこっちへもひとつ」\n「二人とも親なし児なんですってねえ。マア、なんてかあいそうな」\n「ちょいと乙な手つきでげすな」\n「コレ、およしちゃん、この兄ちゃんも姉ちゃんも、お父さんもお母さんもないんですとさ。それを思ったら、こうして母ちゃんにだっこしているよしちゃんなんか、ほんとにありがたいと思わなくちゃあいけませんよ」\n とこれを機会に、親の恩をひとくさりお説教する町のおかみさんもある。\n 唄が佳境にはいってくると、しみじみ身につまされるチョビ安、思わず、自分とじぶんの声に引きいれられて涙ぐみ、一段と声をはりあげて、\n「あたいの父はどこへ行た\n あたいのお母......」\n「小僧め、唄いながら泣いてやがら」\n「ヤイヤイ、唄うのと泣くのと、別々にしねえナ」\n「何を言やんで、とんちきメ! 情知らず! この兄ちゃんの身にもなってみねえ。好きや道楽で町に立って、こんなことをしてるんじゃアねえや。親をさがしあてようッて一心なんだ」\n「そうとも、そうとも! そんな同情のねえことをぬかすやつア、江戸ッ子の名折れだ。オ、見りゃあ、伊勢甚の極道息子じゃアねえか。てめえなんかに、この兄ちゃんの心意気がわかってたまるもんけエ。代地ッ児の面よごしだ。たたんじめエ!」\n あやうく喧嘩が始まりそう。\n「エエ、じれったいお地蔵さん」の唄声に合わせて、お美夜ちゃんは両の袂を振りまわし、さもじれったそうな態度よろしく、「石では口がきけないね」で口に両手を重ねて、身もだえしながら狂乱の体......これでおしまいです。\n チョンと鉦を打ち上げたチョビ安、\n「オオ、お立ちあいの衆、この中にも、親の気も知らずに悪所通いに身をもちくずして、かけがえのねえ父やお母あに、泣きを見せているろくでなしが、一匹や二匹はいるようだが、おいらの唄で、胸に手を置いてとっくり考えてみるがいいや。なあ、お美夜太夫」\n「ええ、そうよ、そうだともサ」\n と美夜ちゃんは、なんでも合いづちを打つ役目。" }, { "role": "assistant", "content": " 群衆がちょっとしんみりしたところをねらって、チョビ安大声に、\n「ヤイヤイッ! 何をポカンとしてやがるんでエ! おいらもお美夜ちゃんも、おまんまをいただかずに踊ったり唄ったりしてるんじゃアねえや。と、これだけ言ったらわかろうじゃねえか。サア、たんまりお鳥目を投げたり、投げたり! チャリンといい音のする小判の一枚や二枚、降ってきそうな天気だがなア」\n と、大きなことを言う。\n 投げ銭の催促です。\n\n三\n\n「オウ、こちとらアナ、何もてめえッちに感心してもらおうと思って、唄ったり踊ったりしてるんじゃねえや」\n チョビ安は、小さな握りこぶしで、鼻の頭をグイとこすり上げながら、\n「エコウ、ほめてばかりいねえで、銭を投げなってことヨ。オイそこへゆく番頭さん、金を集める段になって、逃げるッてえテはねえぜ。なんでエ、しみったれめ!」\n 一流の毒舌が、チョビ安の場合にはかあいい愛嬌となって、あっちからも、こっちからもバラバラッと小粒が飛ぶ。\n「むやみにほうらねえで、どうせのことなら、おひねりにしてくんねえ。お賽銭じゃアねえんだ」\n 拾い集めた小銭を、両手の中でお美夜ちゃんの耳へ、ガチャガチャと振ってみせて、\n「太夫さん、お立ちあいの衆がこんなにお鳥目をくだすったよ。お美夜ちゃんからも、お礼を言ってくんねえナ」\n「まア、ほんとうにありがとうございます」\n お美夜ちゃんは恥ずかしそうに、唐人髷の頭を、まんべんなくまわりへ下げる。\n そのあいだチョビ安はうしろの町家の天水桶のかげにしゃがみこんで、地面へ敷いた手拭の上へ、\n「一枚、二枚......」\n と銭を数え落としていたが、立ちあがって見物のほうへ向かい、\n「オイ、これじゃア一日のかせぎに、ちょっと足りねえや。もうちっと出そうなもんじゃあねえか。おう、そこにいる御隠居さん、十徳なんか着こんで、えらく茶人ぶっていらっしゃるが、そうやってふところンなかで、巾着切りの用心に財布をにぎってばかりいねえでサ、その財布のひもを、ちっとといたらどんなもんだい」\n 名指された御老人は、苦笑しながら、小銭をつかんだ手を十徳の袖口から出して、チョビ安へ渡す。\n ドッと湧く爆笑。\n もう、忍びやかな夕陽の影が、片側の松平越中様の海鼠塀にはい寄って、頭上のけやきのこずえを渡る宵風には、涼味があふれる。\n 早い家では灯を入れて、腰高の油障子に、ポッと屋号が浮かび出ています。\n なつかしい江戸のたそがれどき。\n「サア、散った、散った。いつまで立っていたって、もう今日はこれで店仕舞えだ。だがな、明日もここで、『辻のお地蔵さん』の所作事をお眼にかけるから、お知りあいの方々おさそい合わせのうえ、にぎにぎしく御見物のほどを......ナンテ、さア、お美夜ちゃん。巣へ帰ろうなあ。作爺さんと泰軒小父ちゃんの待っている、あの竜泉寺のトンガリ長屋へヨ」\n「アイ」\n お振袖のかあいい女の子と、意気な兄イの見本のような、こましゃくれたチョビ安と、二人の小さな影が、まるで道行きのように手を引き合って、長い横町を遠ざかる。そして、夕陽のカッと射す角を曲がって、浅草のほうへ消えてゆくのを、町の人々はまだ立ちどまって、見送っている。\n ガヤガヤ笑いながら、\n「兄妹でしょうか」\n「イヤ、そうじゃあねえらしいんです。あの、口のよくまわる男の子は、父も母もないとかで、それを探すために、ああやって辻芸を売って、江戸じゅうを歩いているんだそうですよ」\n「だけど、おめえ、あの女の子にも、母親がねえとか言っていたじゃアねえか」\n「それはそうと、二人の仲のいいことったら、どうでげす。振りわけ髪の筒井筒、あのまま成人させて、夫婦にしてやりてえものでげすナ」\n\nお迎え駕籠\n\n\n一\n\n「すまなかったなあ、お美夜ちゃん。今日は朝から踊りつづけで、くたびれやしないかい?」\n「ううん、そんなでもないの」\n「足が痛くはねえかい?」\n「ええ、ちょっとね。でも、たいしたことはないわ」\n「ほんとにおめえには、気の毒だよ。遊びてえ盛りを、こうやっておいらといっしょに、日がな一日辻に立って、稼業するんだからなあ」\n とチョビ安、言うことだけ聞くと、いっぱしの大人が子供を相手にしているようだ。\n 遊びたい盛りなんて、自分はいくつだと思っている。\n こまかい藍万筋の袖へ、片手を突っこんで、こう、肩のところで弥造をおっ立てたチョビ安。\n 吉原かぶりにしていた手拭を、今はパラリと取って二つ折り、肩にかけています。\n 下目に、横っちょで結んだ算盤絞りの白木綿の三尺が、歩くたんびにやくざにねじれる。\n 身幅の狭い着物ですから、かあいい脛がチラチラ見えて。\n その意気なことったら、ほんとに、見せたいような風俗。\n にがみばしった――と言いたいところですが、顔だけはどうもしようがない。これで顔にむこうッ疵でもあれば、うってつけの服装なんですが、それこそ、辻のお地蔵さんへあげるお饅頭みたいな、愛くるしい顔だ。\n 片手に、お美夜ちゃんの手を引いて、\n「なア、これで泰軒先生に、今夜も寝酒の一杯もやってもらえようってもんだ」\n「ねえ、安さん......」\n とお美夜ちゃんは、チョビ安のこまっちゃくれたのがうつったのか、これも、いつからともなくませた口をきく。\n「あたいね、毎日のことだけど、いつもあすこんところでは泣かされちゃうのよ――あのホラ、あたいの父はどこにいる、あたいのお母どこへ行った、で、あたしがネ、こう、手をかざして、お父ちゃんやお母ちゃんを探してまわる物狂いのところね――何度やっても、あそこは身につまされるわ。きょうも涙ぐんだの」\n「おいらもそうだよ。どうもあすこはいけねえ。思わず涙声になっちまって、こっぱずかしくっていけねえや。だけどなア、考えてみると、おいらのような運の悪いものも、またとねえだろうよ」\n お美夜ちゃんは、その小さな手で、ギュッとチョビ安の手を握りかえして、\n「アラ、思い出したように、どうしてそんな心細いことを言うの? あたい、泣きたくなっちゃうわ」\n「おいらも、何も言いたかねえけどさ、だって、そうだろうじゃアねえか。やっと橋下の乞食小屋で、かりにも、父てエ名のつくお侍を一人拾い上げて、まあ、父のつもりで孝行をつくす気でいたところが、そのお父上は穴埋めにされて、おまけに水浸しときたもんだ。いかに強えお父上でも、あれじゃア形なしにちげえねえ。でも、死骸の出ねえところをみると、ヒョッとすると――どこにどうしているかなア、あのお父上は」\n 木履に冷飯草履と、二人の小さな歩がからみ合って、竜泉寺はトンガリ長屋のほうへ......。\n その横町の居酒屋、川越屋の土間へとびこんだチョビ安は、威勢よく、\n「オ、爺ツアん、いつもの口を、五合ばかりもらおうじゃあねえか。飲む口に待っていられてみると、どうも手ぶらじゃア帰れねえや」\n\n二\n\n 柳生家の定紋を打ったお駕籠が一丁、とんがり長屋の中ほど、作爺さんの家の前に、止まっています。\n 紺看板に梵天帯のお陸尺が、せまい路地いっぱいに、いばり返って控えている。\n「オウオウ、寄るんじゃアねえ」\n「コラッ、この餓鬼ッ! そんなきたねえ手で、お駕籠にさわると承知しねえぞ」\n 陸尺の一人が、そう言って子供をどなりつける。ヨチヨチ駕籠のそばへ歩いてきて、金色の金物のみごとなお駕籠へ、手を触れてみようとしていた三つばかりの男の子が、わっと泣きだす。\n 母親らしいおかみさんが、子供を抱きかかえて、\n「なんだい、おまえさん、何をするんだい。子供に罪はないじゃないか」\n 取りまいている長屋の連中のなかから、\n「このトンガリ長屋へ来て、きいたふうなまねをしやがると、けえりには駕籠をかつぐかわりに、仏様にしてその駕籠へのせてけえすぞ」\n「どこの大名か知らねえが、このトンガリ長屋は貧乏人の領地だ。気をつけて口をきくがいいや」\n「何を洒落くせえ。柳生一刀流にはむかう気なら、かかってこい」\n なんかと、駕籠かきと長屋の人々と、ワイワイいう騒ぎだ。\n そのののしり合う声々を戸外に聞いて、田丸主水正は、ここ作爺さんの住居......たった一間っきりの家に、四角くなってすわっている。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 銀子も貧乏ゆえに、あっちで喰われこっちで喰われ、身を削いで親や妹たちのために糧を稼ぐ女の一人なので、青年八百屋が彼女のために、何となしにジャン・バルジャンを読ませようとしたのも、意識したとしないにかかわらず、どこか理窟に合わないこともなさそうであった。\n 銀子は主人や婆やの目を偸みながら、急速度で読んで行った。\n「一片のパンから、こんなことになるものかな。」\n 彼女はテイマの意味もよく解らないながらに、筋だけでも興味は尽きず、ある時は寝床のなかに縮こまりながら、障子が白々するのも気づかずに読み耽り、四五日で読んでしまった。\n「これすっかり読んでしまったわ。とても面白かったわ。」\n「解った?」\n「解った。」\n「じゃ明日また何かもって来てやろう。」\n 今度は「巌窟王」であったが、婦人公論もおいて行った。\n ある晩方銀子は婦人公論を、膝に載せたまま、餉台に突っ伏して、ぐっすり眠っていた。主人夫婦は電話で呼ばれ、訴訟上の要談で、弁護士の家へ行っており、婆やは在方の親類に預けてある子供が病気なので、昼ごろから暇をもらって出て行き、小寿々はお座敷へ行っていた。そのころ猪野の詐欺横領事件は、大審院まで持ち込まれ、審理中であるらしく、猪野はいつも憂鬱そうに、奥の八畳に閉じ籠もり、酒ばかり呑んでいた。どうもそれが却下されそうな形勢にあるということも、銀子は倉持から聞いていた。渡弁護士は倉持には父方の叔父であり、後見人でもあった。倉持は幼い時に父に訣れ、倉持家にふさわしい出の母の手一つに育てられて来たものだったが、法律家の渡弁護士が自然、主人歿後の倉持家に重要な地位を占めることとなり、年の若い倉持にほ、ちょっと目の上の瘤という感じで、母が信用しすぎていはしないかと思えてならなかった。倉持家のために親切だとも思えるし、そうでもないように思えたりして、法律家であるだけに、頼もしくもあり不安でもあった。それも年を取るにつれて、金銭上のことは一切自分が見ることになり、手がけてみると、この倉持の動産不動産の大きな財産にも見通しがつき、曖昧な点はなさそうであったが、今までに何かされてはいなかったかという気もするのだった。\n\n六\n\n「おい、おい。」\n 玄関わきの廊下から、声をかけるものがあるので、寿々龍の銀子は目をさまし、振り返って見ると、それが倉持であった。\n 彼は駱駝の将校マントにステッソンの帽を冠り、いつもの通り袴を穿いていた。\n「あらどうしたの、遅がけだわね。」\n「むむ、ちょっと銀行に用事があって、少し手間取ったものだから、途中自転車屋へ寄ったり何かして......。」\n 河の上流にある倉持の家は、写真で見ても下手なお寺より大きい構えで、棟の瓦に定紋の九曜星が浮き出しており、長々しい系図が語っているように、平家の落武者だというのはとにかくとしても、古い豪族の末裔であることは疑えない。\n「倉持さんの家へ行ってごらん、とても大したもんだから。」\n 寿々廼家のお神も言っていたが、銀子にはちょっと見当もつきかねた。\n 彼は町へ出て来るのに、船で河を下るか、車で陸を来るかして、駅まで出て汽車に乗るのだったが、船も汽車に間に合わなくなると、通し車で飛ばすのだった。初め一二箇月のうちは、母が心配するというので、少しくらいおそくなっても大抵かえることにして、場所も駅に近い家に決めていたが、いずれも年が若いだけに人前を憚り、今にも立ちあがりそうに腕時計を見い見い、思い切って帰りもしないで、結局腰を据えそうになり、銀子もおどおどしながら、無言の表情で引き留め、また飲み直すのだったが、そういう時倉持はきまって仙台にいる、学校友達をだしに使い、母の前を繕うのであった。二タ月三月たつと次第にそれが頻繁になり、寿々龍の銀子も寂しくなると、文章を上手に書く本家の抱えに頼んで、手紙を書いてもらったりするので、自然足が繁くなるのだったが、倉持の家には、朝から晩まで家の雑用を達してくれている忠実な男がいて、郵便物に注意し、女からのだと見ると、母に気取られぬように、そっと若主人に手渡しすることになっていた。\n 倉持も町から帰って行くと、別れたばかりの銀子にすぐ手紙をかき、母が自分を信用しきっているので、告白する機会がなくて困るとか、逢っている時は口へも出せなかったその時の感想とか、一日の家庭の出来事、自身の処理した事件の報告など純情を披瀝して来るので、銀子も顔が熱くなり、ひた向きな異性の熱情を真向に感ずるのだった。\n「僕いつもの処へ行っているから君もすぐ来たまえ。そのままでいいよ。」\n 倉持はそう言って出て行ったが、銀子はちょっと顔を直し、子供に留守を頼んで家を出たが、そこは河に近い日和山の裾にある料亭で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢にも蕾らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅を売る茶店もあって、銀子も朋輩と連れ立ち残雪の下から草の萌え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火も見えるのであった。\n 銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。\n 倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂から出し、銀子の指にはめた。指環の台は純金であったが、環状に並べた九つの小粒の真珠の真ん中に、一つの大きな真珠があり、倉持家の定紋に造られたもので、贈り主の父の母に対する愛情のいかに深かったかを示すものであり、それを偸み出して女に贈る坊っちゃんらしい彼の熱情に、銀子も少し驚きの目を見張っていた。\n「そんなことしていいんですの。」\n「僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。」\n「え、有難いと思うわ。」\n\n七\n\n 桜の咲く五月ともなると、梅も桃も一時に咲き、嫩葉の萌え出る木々の梢や、草の蘇える黒土から、咽ぶような瘟気を発散し、寒さに怯えがちの銀子も、何となし脊丈が伸びるような歓びを感ずるのであった。暗澹たる水のうえを、幻のごとく飛んで行く鴎も寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎娘のように自然に対する敏感な感傷癖も、格別なかったけれど、他国もの同士のなかに縛られている辛さが、隙洩る風のように時々心に当たって来て、いっそどこかへすっ飛んでしまおうかと思うこともあったが、来たからにはここで一と芝居うとうという肚もあり、乗りかかった運命を保って行くつもりで、自分では腕に綯りをかけている気であった。倉持がくれた指環をとにかく預かることにして、紙にくるんでそっと鏡台の抽斗に仕舞っておいたが、そのころからまた一層親しみが加わり、彼は帰ることを忘れたように、四日も五日も引っかかっていることがあり、寿々廼家のお神も少し薬が利きすぎたような感じで、いくらか銀子を牽制気味の態度を取るのであった。お神も猪野の事件で特別骨を折ってもらっている、渡弁護士への義理もあり、一年も稼がさないうちに、たとい前借を払うにしても、銀子を倉持に浚って行かれるのも口惜しいので、とかくほかの座敷を投げやりにして、倉持に夢中になっている銀子に、水を差そうとするのであった。腕に綯りをかけるといっても、銀子は倉持を搾る気はなく、お神が決めたもの以上に強請るのでもなく、未婚の男でこれと思うようなものも、めったにないので、千葉で挫折った結婚生活への憧憬が、倉持の純情を対象として、一本気な彼女の心に現実化されようとしているのだった。\n「当分のあいだ、どこか一軒君に家をもたせて、僕が時々通って来る。それだったら母もきっと承認してくれようし、周囲の人もだんだん君を認めて来るだろうと思う。そうしておいて――それではやはり家の方が留守になりがちで困るから、いっそ家へ入れたらということに、僕がうまく親類や子分に運動するんだよ。」\n 倉持は言うのであった。\n 一粒きりの家の相続人であり、母の唯一の頼りである倉持のことだから、それも事によると巧く行かないとも限らないとは思いながらも、銀子はその気になれなかった。\n「妾だわね。」\n「いや、そういう意味じゃないよ。結婚の一つの道程だよ。」\n「あたし貴方の家の財産や門閥は、どうでもいいのよ。妾が嫌いなのよ。私をそうやっておいて、どこかのお嬢さんと結婚するに決まっているわ。きっとそうよ。貴方がそのつもりでなくても、そうなります。いやだわそんなの。」" }, { "role": "assistant", "content": "「僕を信用しないのかな。」\n 倉持は頭を掻き、話はそれぎりになった。\n 世間見ずの銀子もお神がそれとなく暗示する通り、身分の不釣合ということを考えないわけではなかったが、彼女たちの育って来た環境が、産まれながらに、複雑な階級の差別感を植えつける余裕も機縁もなく、大して僻んだり羨んだりもしない代りに、卑下もしないのだった。俄成金は時に方図もない札びらを切り、千金のダイヤも硝子玉ほどにも光を放たないのであった。\n しかし銀子は千々に思い惑い、ある時ぽつぽつした彼女一流の丸っこい字で、母へ手紙を書き、この結婚談の成行きを占ってもらうことにした。もちろん銀子は小野の総領娘で、よそへ片附き籍を移すには、法律の手続を執らなければならず、父の同意も得なければならなかった。彼女はこの土地へ来てから、月々二三十円ずつ仕送りをしており、それを倉持に話すと、\n「そうきちきち毎月送らん方がいいよ。お父さんまだ働けん年でもないんだろう。君を当てにしないように、たまにはすっぽかすのもいいじゃないか。ここへ来る時、前借金を全部資本にやったんだもの、君の義務は十分果たしているわけだ。」\n そう言われて、銀子もその気になり、組んだ為替をそのまま留保し、次ぎの月もずるをきめていたのだったが、母の返辞が来てみると、金の催促もあった。占いは、大変好い話で、当人は十分その気になっているけれど、この縁談には邪魔が入り、破れるというのであった。\n 銀子は気持が暗くなり、高いところから突き落とされたような感じだったが、占いを全く信ずる気にもなれなかった。\n\n八\n\n 八月の中旬に倉持が神経痛が持病の母について、遠い青森の温泉へ行っている間に、銀子もちょっと小手術を受けるために、産婦人科へ入院した。\n 銀子は二月ほど前に、千葉で結婚をし損なった栗栖が、この土地の病院の産婦人科の主任となって赴任したことを知っていたが、わざと寿々廼家のかかりつけの、個人経営の医院で手術を受けることにした。\n 彼女が栗栖に逢ったのは、山手にあるある料亭の宴会にお約束を受けた時で、同じ料亭の別の座敷も受けていて、その方がお馴染の鰹の罐詰屋と銀行の貸出係との商談の席であり、骨も折れないので、二三人の芸者とお料理を運んだりお酌をしたりしていると、廊下を隔てた、見晴らしのいい広間の宴会席の方では、電気のつく時分に、ようやくぼつぼつ人が集まり、晴れやかな笑い声などが起こり、碁石の音もしていた。その話し声のなかに、廊下を通って行く時から、聴いたような声だと思う声が一つあり、ふと栗栖の声を思い出し、よく似た声もあるものだと、聴耳を立てていたのだったが、錯覚であろうかとも思っていた。まさか栗栖がこの土地へ来ようとは思えなかった。\n 十五六人の集まりで、配膳が始まり、席が定まった時分に、寿々龍の銀子も女中に声かけられ、三十畳ばかりの広間へ入って行き、女中の運んで来た銚子をもつと、つかつかと正面床の間の方へ行き、土地では看板の古い家の姐さんの坐っている床柱から二三人下の方へ来て、うろ覚えの四十年輩の男から酌をしはじめ、ふと正座の客を見ると、それが思いもかけぬ栗栖であり、しばらくの間に額が少し禿げかかり、色も黒く丸々肥っていた。目と目が合った瞬間おやと思って銀子は視線をそらしたが、栗栖もそっと俛むいて猪口を手にした。\n 銀子はこうした身の上の恋愛といったようなものを、ほんの刹那々々のもので、別れてしまえばそれきり思い出しも出されもしないものと、簡単に片づけていたので、この土地へ来てからはあの葛藤も自然忘れているのだったが、その当座は自分の意地張りからわざと破してしまったあの恋愛にいやな気持が残ってならなかった。次第にそれが郷愁のなかに熔け込み、周囲との触れ合いで時々起こるしこりのような硬い気持が、何から来るのか自分にも解らなかった。\n\nおばアこなア、芸者子にもなりゃしゃんせ\n人の座敷に巣を造らん鴎か 飛び止まらん鴎か コバイテコバイテ\n\n 土地の芸者はよくこんなおばア子節を唄い囃すのだったが、銀子にはなかなかその郷土調が出ず、旅芸者におちた悲哀を深くするように思えて、好きではなかった。\n 銀子はしかし栗栖を避けるわけに行かず、お座附がすんで、酒がまわり席が乱れるころになって、栗栖が呼ぶので傍へ行くと、彼は盃を干し、\n「しばらくだったね。」\n と言って銀子に差すのを、銀子は銚子を取りあげて酌をした。\n「君がこんなところへ来ていようとは思わなかったよ。」\n「私もくウさんがこんな処へ来ようとは思わなかったわ。」\n「いつ来たんだい。」\n「この正月よ。」\n 窶れていた千葉時代から見ると、銀子も肉がつき大人になっていた。\n お安くないなかと知って、みんながわいわい囃すので、銀子も銀行家の座敷へ逃げて来たが、広間で呼ぶ声がしきりに聞こえ、女中も呼ぶので再び出て行き、陽気に三味線などひいてわざと躁いだ。\n それから一度栗栖らしい口がかかって来たが、倉持の座敷へ出ていたので逢えず、病院へ入ってから、どこで聞きつけたか、見舞に来てくれたが、銀子も今はかえって世間が憚られ、わざとよそよそしくしていた。\n「ここへ入院するくらいなら、なぜ僕にそう言わなかったんだ。」\n 栗栖は云っていた。\n 銀子の病室は、交りばんこに罐詰の水菓子や、ケ―キの折などもって見舞がてら遊びに来る、家の抱えや本家の養女たちで賑わい、河の洲に工場をもっている罐詰屋の野良子息や、道楽半分に町に写場をもっている山手の地主の総領子息も、三日にあげず訪ねて来た。顔の生白いこの写真屋は土地の言葉でいう兄さんで、来たてからの客であり、倉持とは比べものにもならないが、銀子のためには玉稼ぎに打ってつけの若い衆で、お神や仕込みの歓心を買うために、来るたびに土産物を持ち込み、銀子の言いなり放題に、そこらの料亭を遊び歩いていた。\n\n九\n\n ある日の午後、銀子は看護婦の小谷さんと、彼女の恋愛問題について話し合っていた。小谷さんは今仙台の兵営にいる、同じ村の中学出の青年との間に、時々ラブレタアのやり取りがあり、別に、院長の甥でこの夏帰省した工科の学生と新たな恋愛が発生し、苦しんでいるのだった。彼女は仙台から来た手紙を一々銀子に見せるのだったが、工科の学生と逢った時の彼の言葉や行動をも一々報告した。\n「学生さんの方が貴女に魅力がありそうね。だけど兵隊さんの方が誠意がありそうね。」\n その時軽く戸をノックしたと思うと、本家の養女の寿々千代の愛子が顔を出し、続いて見知らぬ男が一人戸口に現われた。\n「こないだお話しした私の彼氏紹介するわ。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " その汗を、額いっぱいに浮きださせて、\n「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」\n わめきたっている侍がある。\n 長屋の真ん中、作爺さんの住居です。\n さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。\n 一間っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。\n 昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。\n 狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。\n お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています......。\n 作爺さんは、すこしもあわてない。\n 押入れの前にぴったりすわって、\n「へい、ある筋より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」\n「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」\n「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手応えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」\n「だまれ。だまれ、汝のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」\n\n二\n\n あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行して来た者があったと見えて――。\n そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?\n 林念寺前の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?\n それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?\n あるいは......。\n その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。\n ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か......?\n こうなると、さっぱりわかりません。\n だいたい、あのつづみの与吉なる兄さんは、あっちへべったり、こっちへベッタリ、その場その場の風向きで、得になるほうにつくのだから、はたして誰がこの与吉の報告を買いこんで、壺の木箱がここにきていることを知り出したのか、そいつはちょっと見当がつかない。\n 今や、四方八方から、壺をうかがっているありさま。\n まだ、このほかに、巷の豪、蒲生泰軒先生まで、これは何かしら自分一人の考えから、ああして壺をつけまわしているらしい。\n 年長らしい赭ら顔の侍が、とうとうしびれをきらして、さけびをあげました。\n「親爺! どけイ! その押入れをさがさせろっ」\n「いや、お言葉ではござりますが、手前も、引き受けてお預かりしたものを、そう安々と――」\n「何をぬかす。いたい目を見ぬうちに、おとなしくわきへ寄ったがよいぞ」\n「しかし、私はあくまでも、内容は壺ではねえと存じますので」\n「まあ、よい。壺でなくて、何がはいっておる? うん? 開けて見れば、わかることだ」\n「お侍様、りっぱな旦那方が、四人もおそろいになって、もし箱の中身が壺でございません時には、いったいどう遊ばすおつもりで――?」\n「うむ、それはおもしろい。賭けをしようというのじゃな。さようさ、その箱に壺がはいっておらん場合には......」\n と、ひとりが他の三人の顔を見ますと、三人は一時にうなずいて、\n「そのときは、やむを得ん。拙者らの身分を明かすといたそう。親爺、それでどうじゃ、不服か」\n「なるほど。あなた方のおみこみがはずれたら、御身分をおあかしくださるか。いや、結構でござります」\n「待て、待て。そこで、もし壺がはいっておった場合には、貴様、いかがいたす」\n「この白髪首を......と、申し上げたいところでござりますが、こんな首に御用はござりますまい。なんなりと――」\n「よし、それなる娘を申し受けるといたそう。子供のことじゃ、連れていってどうしようとは言わぬ。屋敷にでも召し使うが、そのかわり、おやじ、生涯会われぬぞ」\n「ようがす」\n と、うなずいた作爺さん、さっと押入れをあけて鬱金の風呂敷に包んだ例の茶壺の木箱をとりだし、四人の前におきました。\n「さ! お開けなすって」\n\n三\n\n 四人のうちのひとり、小膝を突いて、袖をたくしあげた。\n「世話をやかせた壺だ......」\n「これさえ手に入れれば、こっちの勝ちだテ」\n 他の三人をはじめ、作爺さんの手が、ふろしきの結び目をとく手に、集中した。\n お美夜ちゃんも、隅のほうから、伸びあがって見ている。\n 家の中が静かになったので、長屋の連中も一人ふたり、路地をはいって来て、おっかなビックリの顔が戸口にのぞいています。\n バラリ、ふろしきがほどける。現われたのは、黒ずんだ桐の木箱で、十字に真田紐がかかっている。\n その紐をとき、ふたをとる――中にもう一つ、布をかぶっているその布をのぞくと、\n「ヤヤッ! こ、これはなんだ......!」\n 四人はいっしょに、驚愕のさけびをあげた。\n 石だ!――手ごろの大きさの石、左膳の小屋のそばにころがっていた、河原の石なんです。\n ウウム! と唸った四人、眼をこすって、その石をみつめました。\n しかも。\n 水で洗われて円くなっている石の表面に、墨痕あざやかに、字が書いてある――。\n 虚々実々......と、大きく読める。\n 下に、小さく、いずれをまことと白真弓......とあるんです。\n あの丹下左膳が、チョビ安にこの壺を持たして、ここ作爺さんのもとへ預けによこした時、左膳も相当なもので、どこからか同じような箱と風呂敷を見つけてきて、それは橋下の自分の小屋へ置くことにしたと言いましたが、さては、かんじんのこけ猿の茶壺は、そっちの箱に入っていて、いまだに左膳の掘立て小屋にあるとみえる。\n 囮につかわれたチョビ安――さてこそ、人眼につきやすい、あのおとなびた武士の扮装で、真っ昼間、壺の箱を抱えて小屋を出たわけ。\n じぶんの小屋から、壺の箱らしいものが出れば、必ず、なに者かがあとをつけるに相違ないと、左膳はにらんでいた。\n まさに、そのとおり......おまけに、こどものくせに、いっぱしの侍の風をした異装だから、まるでチンドン屋みたいなもので、あの日あのチョビ安が、与吉にとって絶好の尾行の的となったのは、当然で。\n それがまた、左膳のねらいどころ。\n 開けてくやしき玉手箱――この四人のびっくりぎょうてんも、左膳のおもわくどおりであります。\n 石のおもてに、左膳が左腕をふるって認めた文字......虚々実々、いずれをまことと白真弓――この揶揄と皮肉と、挑戦をこめた冷い字を、ジッと見つめていた四人は、いっせいに顔をあげて、\n「やられたナ、見事に」\n「ウム。すると、壺はまだ、例の乞食小屋に――」\n「むろん、あるにきまっておる!」\n 作爺さんを無視して、四人バタバタと家を駈け出ようとするから、こんどは、作爺さんが承知しません。\n「ちょっとお待ちを......それでは約束がちがいます」\n と呼びとめました。\n\n引越蕎麦\n\n\n一\n\n お約束が違いはしませんか......と、引きとめられた四人の侍は、一時に、作爺さんを振りかえって、威丈高――。\n「約束? いかなる約束をいたしたか、身どもはすこしもおぼえておらんぞ」\n 作爺さんは、畳に片手を突いて、にじりよった。\n こんな裏長屋に住む、羅宇なおしのお爺さんとは思えない人品骨柄が、不意に、その作爺さんの物腰ようすに現われて、とんがり長屋の作爺さんとは世を忍ぶ仮りの名、実は......と言いたい閃きが、なにやらパッと、その開きなおった作爺さんの身辺に燃えあがって、四人は思わず、歩きかかっていた歩をとめて見なおしました。\n「これは、両刀をお番えになるお武家様のお言葉とはおぼえませぬ。その箱をあける前に、中身が壺であったら、この私の小女郎をお連れなさる、そのかわり、もし壺がはいっておらなんだ節は、お四人様のお身分をおあかしくださると、あれほどかたい口約束ではござりませなんだか」" }, { "role": "assistant", "content": " 作爺さんの枯れ木のような顔に、さっと血の色がのぼって。\n「このとおり、箱のなかみは石ではござりませぬか。さ、御身分をおあかしください」\n 詰めよられた四人は、ちょっと当惑の顔を見あわせたが、箱をあけた頭だった一人が、のしかかるようににらみおろし、\n「これ、これ、約束とは対等の人間の間で申すことだ。武士と武士、町人と町人のあいだなら、重んずべき約束もなりたとうが、貴様のような、乞食同然のやつと、武士の拙者等と、約束もへちまもあるものか」\n くるしまぎれに、理外の理屈をあみだして、またもや家を出かかりますから、作爺さんは別人のように、声を荒らげ、\n「何を申さるる! 自らの言は食むさえあるに、その得手かってのいい分......」\n いいかける作爺さんを、じっと見ていた一人は、\n「これ、その方は根ッからの長屋住まいではないナ。ただいまの其方の言動、曰くある者と見た。何者の変身か、その方こそ名を名乗れ」\n その尾について、もう一人が、\n「そうだ。拙者らの身分、身分と申して、この親爺こそ、ただものではあるまい。おいっ、身もとを明かせ。明かさぬかっ」\n 作爺さんは、はっとわれに返ったようで、\n「と、とんでもございません。私はただの羅宇なおしの作爺で、お歴々の前に、身分を明かすなんのと、そんな――」\n「貴様、この箱に壺がはいっておらんことを、前にあけて見て知っておっただろう」\n「いえ、あけては見ませぬ。が、手に持った重みから、なんと申しましょうか、手応えが、茶壺ではないと感じておりましたので」\n「手に持っただけで、それだけのことがわかるとすれば、いよいよ貴様は、何者かの変名――」\n「問答無益だ!」\n 一人がさけんだ。\n「はじめから約束が違う以上、当方こそ約束どおりに、この娘を引っさらって行かねばならぬ」\n と、いきなり、隅にふるえているお美夜ちゃんを横だきにかかえこんで、追いすがる作爺さんをしりめにかけ、そろって家を出ようとするとたん、ぬっと戸口をふさいで立ったのは、房々と肩にたらした合総、松の木のような腕っ節にぶらりとさげたのは、一升入りの貧乏徳利で......。\n\n二\n\n 泣きさけぶお美夜ちゃんを片手にかかえた一人、それにつづく三人が、掌を合わせて追いすがる作爺さんを一喝して、その長屋を立ち出でようとしているところへ――。\n ずいと土間へはいりこんできたのは、あの、風来坊の蒲生泰軒先生。\n 元来が風のような先生で、空の下、地の上ならば、どこでも自分の家と心得ているのですから、到るところへふらっと現われるのは、当然で。\n いつでも、どこにでもいるのが泰軒居士......同時に、さア用があるとなると、どこを探してもいないのが、この泰軒先生なのだ。\n いま、この通りかかった竜泉寺の横町で、長屋の前のただならない人だかりを見て、何事だろうとはいって来たのですが、\n「わっはっはっは――」\n と、まず、笑いとばした泰軒は、\n「めざしが四匹、年寄りと娘を相手に、えらく威張っておるな」\n 尻切れ草履をぬぎ捨てて、埃だらけの足のまま、あがりこんできました。\n あっけにとられたのは四人で、思わずお美夜ちゃんを畳へおろし、\n「なんだ、貴様は!」\n「人に名を聞くなら、自ら先に名乗ってから、きくものだ」\n「貴様ごときに、名乗る名は持たぬ」\n 事面倒になりそうなので、そうお茶をにごした四人が、長居は無用と、こそこそと出て行こうとする後ろから、また、われっかえるような泰軒の笑い声がひびいて、\n「名乗らんでも、おれにはちゃんとわかっているぞ。道場へ帰ったら、丹波にそう言え。長屋にあります箱は、偽物でした、とナ」\n「道場? どこの道場?」\n「丹波とは、何者のことか」\n と、そう四人は、口ぐちにしらをきったが、本郷の道場の者と見破られた以上、このうえどじを踏まないようにと、連れ立って足ばやに、路地を出ながら、\n「おどろいたな。あの仁王のようなやつが、おれたちが司馬道場の者と知っているとは――」\n「あいつは、そもそも何者であろう」\n「虚々実々、いずれをまことと白真弓......か、うまく一ぱいくわされたぞ」\n「かの与吉と申す町人、われわれにこんな恥をかかせやがって、眼にものみせてくれるぞ」\n 空威張り――肩で風を切って、とんがり長屋の路地を出てゆく。もうこうなると、長屋の連中は強気一点ばりで、\n「おう、どうでえ。八や、あの鬼みてえな乞食先生が、フラリとはいっていったら、めだか四匹逃げ出したぜ」\n「おうい、おっかア、波の花を持ってきなよ。あの四人のさんぴんのうしろから、ばらばらっと撒いてやれ」\n 振りかえってにらみつけると、どっと湧く笑い。四人は逃げるように、妻恋坂をさして立ち去りましたが、さて、そのあと。\n せまっくるしい作爺さんの家では、きちんとすわりなおしたお爺さんが、お美夜ちゃんをそばへひきつけて、\n「どなたかは存じませぬが――」\n 大胡坐の泰軒先生へ向かって、初対面の挨拶をはじめていた。\n\n三\n\n「どなたかは存じませぬが――」\n と言いかけた作爺さんの言葉を、泰軒居士は、ムンズとひったくるように、\n「いや、おれがどなたかは、このおれも御存じないような始末でナ......かたっくるしい挨拶は、ぬき、ぬき――」\n 大声に笑われて、作爺さんは眼をパチクリ......鬚むくじゃらの泰軒の顔におどろいて、お美夜ちゃんは、そっと作爺さんのかげへかくれましたが。\n 何を見たものか泰軒、突如、戸口へ向かって濁声をはりあげたものだ。\n「見世物じゃないっ! 何を見とるかっ!」\n 権幕におどろいて、おもてからのぞいていた長屋の連中、\n「突っ腹に聞くと、眼のまわりそうな声だ」\n「おっそろしい人間じゃあねえか。侍ともなんとも、得体のしれぬ化け物だ」\n 口々にささやきながら、溝板を鳴らして逃げちっていくと、遠のく足音を聞きすました泰軒は、やおら形をあらため、\n「卒爾ながら、おたずね申す」\n いやに他所行きの声です。\n「それなる馬の彫り物は、どなたのお作でござるかな?」\n と指さした部屋の隅には、木片に彫った小さな馬の像が、ころがっているんです。\n そばに、うすよごれた布に、大小数種の鑿、小刀などがひろげてあり、彫った木屑がちらかっているのは、さっきあの四人が押しこんで来る前まで、作爺さん、この仕事をしていたらしいので。\n いつかも、あのチョビ安が、突然里帰りの形でこの石ころの入った木箱を持ちこんできた時、作爺さんは部屋じゅう木屑だらけにして、何か鉋をかけていましたが、あのときもひどくあわてて、その鉋屑や木片を押入れへ投げこんだように、今も、この泰軒の言葉に大いに狼狽した作爺さんは、\n「イエ、ナニ、お眼にとまって恐れ入りますが、これが、まあ、私の道楽なので、商売に出ない日は、こうして木片を刻んでは、おもちゃにしております。お恥ずかしい次第で」\n と聞いた泰軒、何を思ったかやにわに手を伸ばし、その小さな馬の像を拾いあげるや、きちんとすわりなおして、しばし黙々とながめていたが、ややあって、\n「ウーム! 御貴殿のお作でござるか。さぞかし、ひそかに会心のお作......」\n うなりだしてしまった。\n その、キラリとあげた泰軒の眼を受けて、こんどは作爺さんが、おそろしく驚いたようす。\n「や! それを傑作とごらんになるところを見ると――」\n じっと泰軒をみつめて、作爺さん、小首をひねり、\n「ウーム......」\n いっしょにうなっている。\n まったく、現代で申せば、民芸とでもいうのでしょうか。稚拙がおもしろみの木彫りとしか、素人の眼にうつらない。\n と! いきなり泰軒が、大声をはりあげて、\n「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥殿――」\n 叫ぶように言って、作爺さんの顔を、穴のあくほど......。\n\n四\n\n 作爺さんの驚きは、言語に絶した。\n しばらくは、口もきけなかったが、やがてのことに、深いためいきとともに、\n「どうしてそれを!......かく言う拙者を作阿弥と看破さるるとは、貴殿は、容易ならざる眼力の持主――」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ヘルマンは指定された時刻の来るあいだ、虎のようにからだを顫わせていた。夜の十時ごろ、彼はすでに伯爵夫人邸の前へ行っていた。天気はひどく悪かった。風は非常に激しく吹いて、雨まじりの雪は大きい花びらを飛ばしていた。街燈は暗く、街は鎮まりかえっていた。憐れな老馬に牽かせてゆく橇の人が、こんな夜に迷っている通行人を怪しむように見返りながら通った。ヘルマンは外套で深く包まれていたので、風も雪も身に沁みなかった。\n やっとのことで、伯爵夫人の馬車は玄関さきへ牽き出された。黒い毛皮の外套に包まれた、腰のまがった老夫人を、二人の馭者が抱えるようにして連れ出すと、すぐにそのあとから、温かそうな外套をきて、頭に新しい花の環を頂いたリザヴェッタが附き添って出て来た。馬車のドアがしまって、車は柔らかい雪の上を静かに馳せ去ると、門番は玄関のドアをしめて、窓は暗くなった。\n ヘルマンは人のいない邸の近くを往きつ戻りつしていたが、とうとう街燈の下に立ちどまって時計を見ると、十一時を二十分過ぎていた。ちょうど十一時半になったときに、ヘルマンは邸の石段を昇って照り輝いている廊下を通ると、そこに番人は見えなかった。彼は急いで階段をあがって控え室のドアをあけると、一人の侍者がランプのそばで、古風な椅子に腰をかけながら眠っていたので、ヘルマンは跫音を忍ばせながらそのそばを通り過ぎた。応接間も食堂もまっ暗であったが、控え室のランプの光りが幽かながらもそこまで洩れていた。\n ヘルマンは伯爵夫人の寝室まで来た。古い偶像でいっぱいになっている神龕には、金色のランプがともっていた。色のあせたふっくらした椅子と柔らかそうなクッションを置いた長椅子が、陰気ではあるがいかにも調和よく、部屋の中に二つずつ並んでいて、壁にはシナの絹が懸かっていた。一方の壁には、パリでルブラン夫人の描いた二つの肖像画の額が懸かっていたが、一枚はどっしりとした赭ら顔の四十ぐらいの男で、派手な緑色の礼服の胸に勲章を一つ下げていた。他の一枚は美しい妙齢の婦人で、鉤鼻で、ひたいの髪を巻いて、髪粉をつけた髪には薔薇の花が挿してあった。隅ずみには磁器製の男の牧人と女の牧人や、有名なレフロイの工場製の食堂用時計や、紙匣や、球転(一種の賭博)の道具をはじめとして、モンゴルフィエールの軽気球や、メスメルの磁石が世間を騒がせた前世紀の終わりにはやった、婦人の娯楽用の玩具がたくさんにならべてあった。\n ヘルマンは衝立のうしろへ忍んで行った。そのうしろには一つの小さい寝台があり、右の方には私室のドア、左の方には廊下へ出るドアがあった。そこで、彼は左の方のドアをあけると、果たして彼女の部屋へ達している小さい螺旋形の階段が見えた。――しかも彼は、引っ返してまっ暗な私室へはいって行った。\n 時はしずかに過ぎた。邸内は寂として鎮まり返っていた。応接間の時計が十二時を打つと、その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまた森となってしまった。ヘルマンは火のないストーブに凭りながら立っていた。危険ではあるが、避け難き計画を決心した人のように、その心臓は規則正しく動悸を打って、彼は落ちつき払っていた。\n 午前一時が鳴った。それから二時を打ったころ、彼は馬車のわだちの音を遠く聞いたので、われにもあらで興奮を覚えた。やがて馬車はだんだんに近づいて停まった。馬車の踏み段をおろす音がきこえた。邸の中がにわかにざわめいて、召使いたちが上を下へと走り廻りながら呼びかわす声が入り乱れてきこえたが、そのうちにすべての部屋には明かりがとぼされた。三人の古風な寝室係の女中が寝室へはいって来ると、間もなく伯爵夫人があらわれて、死んだ者のようにヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰を落とした。\n ヘルマンは隙間から覗いていると、リザヴェッタ・イヴァノヴナが彼のすぐそばを通った。彼女が螺旋形の階段を急いで昇ってゆく跫音を聞いた刹那、彼の心臓は良心の苛責といったようなもののためにちくりと刺されるような気もしたが、そんな感動はすぐ消えて、彼の心臓はまたもとのように規則正しく動悸を打っていた。\n 伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、薔薇の花で飾った帽子を取って、髪粉を塗った仮髪をきちんと刈ってある白髪からはずすと、髪針が彼女の周囲の床にばらばらと散った。銀糸で縫いをしてある黄いろい繻子の着物は、彼女の脾れている足もとへ落ちた。\n ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ秘密を残らず見とどけた。夫人はようように夜の帽子をかぶって、寝衣を着たが、こうした服装のほうが年相応によく似合うので、彼女はそんなに忌らしくも、醜くもなくなった。\n 普通のすべての年寄りのように、夫人は眠られないので困っていた。着物を着替えてから、彼女は窓ぎわのヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰をかけると、召使いを下がらせた。蝋燭を消してしまったので、寝室にはただ一つのランプだけがともっていた。夫人は真っ黄と見えるような顔をして、締まりのない唇をもぐもぐさせながら、体をあちらこちらへ揺すぶっていた。彼女のどんよりした眼は心の空虚をあらわし、また彼女が体を揺すぶっているのは自己の意志で動かしているのではなく、神経作用の結果であることを誰でも考えるであろう。\n 突然この死人のような顔に、なんとも言いようのない表情があらわれて、唇の顫えも止まり、眼も活気づいて来た。夫人の前に一人の見知らぬ男が突っ立っていたからであった。\n「びっくりなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい」と、彼は低いながらもしっかりした声で言った。「わたくしはあなたに危害を加える意志は少しもございません。ただ、あなたにお願いがあって参りました」\n 夫人は彼の言葉がまったく聞こえないかのように、黙って彼を見詰めていた。ヘルマンはこの女は聾だと思って、その耳の方へからだをかがめて、もう一度繰り返して言ったが、老夫人はやはり黙っていた。\n「あなたは、わたくしの一生の幸福を保証して下さることがお出来になるのです」と、ヘルマンは言いつづけた。「しかも、あなたには一銭のご損害をお掛け申さないのです。わたくしはあなたが勝負に勝つ切り札をご指定なさることがお出来になるということを、聞いて知っておるのです」\n こう言って、ヘルマンは言葉を切った。夫人がようやく自分の希望を諒解して、それに答える言葉を考えているように見えたからであった。\n「それは冗談です」と、彼女は答えた。「ほんの冗談に言ったまでのことです」\n「いえ、冗談ではありません」と、ヘルマンは言い返した。「シャプリッツキイを覚えていらっしゃるでしょう。あなたはあの人に三枚の骨牌の秘密をお教えになって、勝負にお勝たせになりましたではありませんか」\n 夫人は明らかに不安になって来た。彼女の顔には烈しい心の動揺があらわれたが、またすぐに消えてしまった。\n「あなたは三枚の必勝骨牌をご指定なされないのですね」と、ヘルマンはまた言った。\n 夫人は依然として黙っていたので、ヘルマンは更に言葉をつづけた。\n「あなたは、誰にその秘密をお伝えなさるおつもりですか。あなたのお孫さんにですか。あの人たちは別にあなたに秘密を授けてもらわなくとも、有りあまるほどのお金持ちです。それだけに、あの人たちは金の価値を知りません。あなたの秘密は金使いの荒い人には、なんの益するところもありません。父の遺産を保管することの出来ないような人間は、たとい悪魔を手先に使ったにしても、結局はあわれな死に方をしなければならないのでしょう。わたくしはそんな人間ではございません。わたくしは金の値いというものをよく知っております。あなたもわたくしには、三枚の切り札の秘密をお拒みにはならないでしょう。さあ、いかがですか」\n 彼はひと息ついて、ふるえながらに相手の返事を待っていたが、夫人は依然として沈黙を守っているので、ヘルマンはその前にひざまずいた。\n「あなたのお心が、いやしくも恋愛の感情を経験していられるならば......」と、彼は言った。「そうして、もしもその法悦をいまだに覚えていられるならば......。かりにもあなたがお産みになったお子さんの初めての声にほほえまれた事がおありでしたらば......。いやしくも人間としてのある感情が、あなたの胸のうちにお湧きになった事がおありでしたらば、わたくしは妻として、恋人として、母としての愛情におすがり申してお願い申します。どうぞ私のこの嘆願を斥けないで下さい。どうぞあなたの秘密をわたくしにお洩らし下さい。あなたにはもうなんのお入り用もないではありませんか。たといどんな恐ろしい罪を受けようとも、永遠の神の救いを失おうとも、悪魔とどんな取り引きをしようとも、わたくしはけっして厭いません。......考えて下さい。......あなたはお年を召しておられます。そんなに長くはこの世においでになられないお体です......わたくしはあなたの罪を自分のたましいに引き受ける覚悟でおります。どうぞあなたの秘密をわたくしにお伝え下さい。一人の男の幸福が、あなたのお手に握られているということを思い出してください。いいえ、わたくし一人ではありません、わたくしの子孫までがあなたを祝福し、あなたを聖者として尊敬するでしょう......」\n 夫人は一言も答えなかった。ヘルマンは立ち上がった。\n「老いぼれの鬼婆め」と、彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「よし。否応なしに返事をさせてやろう」\n 彼はポケットからピストルを把り出した。\n それを見ると、夫人は再びその顔に烈しい感動をあらわして、射殺されまいとするかのように頭を振り、手を上げたかと思うと、うしろへそり返ったままに気を失った。" }, { "role": "assistant", "content": "「さあ、もうこんな子供じみたくだらないことはやめましょう」と、ヘルマンは彼女の手をとりながら言った。「もうお願い申すのもこれが最後です。どうぞわたくしにあなたの三枚の切り札の名を教えて下さい。それとも、お忌ですか」\n 夫人は返事をしなかった。ヘルマンは彼女が死んだのを知った。\n\n 四\n\n リザヴェッタ・イヴァノヴナは夜会服を着たままで、自分の部屋に坐って、深い物思いに沈んでいた。邸へ帰ると、彼女は忌いやながら自分の用をうけたまわりに来た部屋付きの召使いにむかって、着物はわたし一人で脱ぐからといって、早そうにそこを立ち去らせてしまった。そうして、ヘルマンが来ていることを期待しながら、また一面には来ていてくれないようにと望みながら、胸を躍らせて自分の部屋へ昇って行った。ひと目見ると、彼女は彼がいないことをさとった。そうして、彼に約束を守らないようにさせてくれた自分の運命に感謝した。彼女は着物も着かえずに腰をかけたままで、ちょっとの間に自分をこんなにも深入りさせてしまった今までの経過を考えた。\n 彼女が窓から初めて青年士官を見たときから三週間を過ぎなかった。――それにもかかわらず、彼女はすでに彼と文通し、男に夜の会見を許すようになった。彼女は男の手紙の終わりに書いてあったので、初めてその名を知ったぐらいで、まだその男と言葉を交したこともなければ、男の声も――今夜までは、その噂さえも聞いたことはなかった。ところが不思議なことには、今夜の舞踏会の席上で、ポーリン・N公爵の令嬢がいつになく自分と踊らなかったので、すっかり気を悪くしてしまったトムスキイが、おまえばかりが女ではないぞといった復讐的の態度で、リザヴェッタに相手を申し込んで、始めからしまいまで彼女とマズルカを踊りつづけた。その間、彼は絶えずリザヴェッタが工兵士官ばかりを贔屓にしていることをからかった挙げ句、彼女が想像している以上に、自分は深く立ち入って万事を知っているとまことしやかに言った。実際彼女は自分の秘密を彼に知られてしまったのかといくたびか疑ったほどに、彼の冗談のあるものは巧くあたった。\n「どなたからそんなことをお聞きになりました」と、ほほえみながら彼女は訊いた。\n「君の親しい人の友達からさ」と、トムスキイは答えた。「ある非常に有名な人からさ」\n「では、その有名なかたというのは......」\n「その人の名はヘルマンというのだ」\n リザヴェッタは黙っていた。彼女の手足はまったく感覚がなくなった。\n「そのヘルマンという男はね」と、トムスキイは言葉をつづけた。「ローマンチックの人物でね。ちょっと横顔がナポレオンに似ていて、たましいはメフィストフェレスだね。まあ、僕の信じているところだけでも、彼の良心には三つの罪悪がある......。おい、どうした。ひどく蒼い顔をしているじゃないか」\n「わたくし、少し頭痛がしますので......。そこで、そのヘルマンとかおっしゃるかたは、どんなことをなさいましたの。お話をして下さいませんか」\n「ヘルマンはね、自分のあるお友達に非常な不平をいだいているのだ。彼はいつも、自分がそのお友達の地位であったら、もっと違ったことをすると言っているが......。僕はどうもヘルマン自身が君におぼしめしがあると思うのだ。少なくとも、彼はその友達が君のことを話すときには、眼の色を変えて耳を傾けているからね」\n「では、どこでそのかたはわたくしをご覧なすったのでしょう」\n「たぶん教会だろう。それとも観兵式かな。......さあ、どこで見そめたかは神様よりほかには知るまいな。ひょっとしたら君の部屋で、君がねむっている間かもしれないぞ。とにかく、あの男ときたら......」\n ちょうどその時に、三人の婦人が彼のところへ近づいて来て、「お忘れになって。それとも、覚えていらしった......」と、フランス語で問いかけたので、この会話はリザヴェッタをさんざん焦らしたままで、それなりになってしまった。\n トムスキイが選んだ婦人はポーリン公爵令嬢その人であった。公爵令嬢はいくたびもトムスキイと踊っているうちに、彼とすっかり仲直りをして、踊りが済んだのちに彼は公爵令嬢を彼女の椅子に連れて行った。そうして自分の席へ戻ると、彼はもうヘルマンのことも、リザヴェッタのこともまったく忘れていた。リザヴェッタは中止された会話を再びつづけたく思ったが、マズルカもやがて終わって、そのうちに老伯爵夫人は帰ることになった。\n トムスキイの言葉は、舞踏中によくあるならいの軽い無駄話に過ぎなかったが、この若い夢想家のリザヴェッタの心に深く沁み込んだ。トムスキイによってえがかれた半身像は、彼女自身の心のうちに描いていたものと一致していたのみならず、このいろいろのでたらめの話のお蔭で、彼女の崇拝者の顔に才能があらわれていることを知ると同時に、彼女の空想をうっとりとさせるような特長がさらに加わって来たのであった。彼女は今、露出した腕を組み、花の髪飾りを付けたままの頭を素肌の胸のあたりに垂れて坐っていた。\n 突然にドアがあいて、ヘルマンが現われたので、彼女ははっとした。\n「どこにおいでなさいました」と、彼女はおどおどしながら声を忍ばせて訊いた。\n「老伯爵夫人の寝室に......」と、ヘルマンは答えた。「わたしは今、伯爵夫人のところから来たばかりです。夫人は死んでいます」\n「え。なんですって......」\n「それですから、わたしは伯爵夫人の死の原因となるのを恐れているのです」と、ヘルマンは付け足した。\n リザヴェッタは彼をながめていた。そうして、トムスキイの言葉が彼女の心の中でこう反響しているのに気がついた。「この男は少なくとも良心に三つの罪悪を持っているぞ!」\n ヘルマンは彼女のそばの窓に腰をかけて、一部始終を物語った。\n リザヴェッタは恐ろしさに顫えながら彼の話に耳をかたむけていた。今までの感傷的な手紙、熱烈な愛情、大胆な執拗な愛慾の要求――それらのものはすべて愛ではなかった。金――彼のたましいがあこがれていたのは金であった。貧しい彼女には彼の愛慾を満足させ、愛する男を幸福にすることは出来なかった。このあわれな娘は、盗人であり、かつは彼女の老いたる恩人の殺害者である男の盲目的玩具にほかならなかったのではないか。彼女は後悔のもだえに苦い涙をながした。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「では奥様、恐れ入りますがハンブルグまで、このお嬢様と御同室でどうぞ! あいにく込み合っておりますもんですから」\n「奥様、失礼いたします」\n と外務次官の令嬢も、同じような淑やかさで、夫人の向い側に席を占める。\n「さあ、どうぞ!」\n とにこやかに会釈を返して、窓枠に頬杖を突きながら夫人は身体を斜めに、移り行く窓外の景色に見惚れていた。美しさといい上品さ鷹揚さ、どこから見てもまずは寸分の隙もない上流貴婦人である。殊に際立って眼が婀娜っぽい! ハハアこいつだな、頸飾りを調べに偽フィリップ殿下のお供をして行った女は! そして公爵未亡人から、殿下の寵姫と思われている女は! と頷く。問題のボール函包みは無造作に網棚に抛り上げられてある。旅行鞄の一つは足許に、もう一つの小型の方は、大切そうに脇に引きつけられてある。\n 誰が見ても、その引きつけられた旅行鞄の方に大切なものが詰まってると思うだろう。なんとか近付きになりたいが、そう無暗に話しかけるわけにもならぬ。嬢も、自分の旅行鞄に片脚を載せて、雑誌を出して読み出した。雑誌の陰から眼を走らせると、何か思案顔に夫人はサラサラと、電報用紙に万年筆を走らせている。書き終ると車掌にでも頼むのであろう、扉をあけて出て行った。\n と、やがて戻って来ると、用が済んで吻としたといわんばかりの面持で膝掛けを引き寄せながら途端に彼女と眼が合った。にっこりと靨を刻んで、人を逸さぬ調子で話しかけてくる。\n「お嬢様は、どちらまで、おいでになりますの?」\n「ハ、わたくし、あの......巴里まで、まいります」\n「まあ巴里まで、わたくしブレーメンまでまいりますのよ、ではしばらく御一緒に、まいれますわね。......いいですわ、今頃おいでになりますと、巴里はまだまだ暖かですから、シャンゼリゼーなぞ、さぞ賑っておりますでしょう、いいですわねえ」\n と、恍惚と眼を細めた。\n「わたくしも子供の時分巴里で育ちましたから、いつまでたってもあの景色、忘れられませんわ」\n と独語のように呟く。\n「巴里はどちらにいらっしゃいましたの?」\n と今度は、外務次官の令嬢が問う。\n「ハア、あの、拉丁区にねえ、セーヌを越して、エッフェル塔や凱旋門の見えますあたりにねえ......父が永らくあすこで、商売をしていましたもんですから。ほんとうに懐かしい所ですわ」\n 水の流れるように、爽やかな声音であった。\n パチンと、宝石を鏤めた琥珀の煙草ケースを開く。\n「いかが? お嬢様、お一つどうぞ」\n 自分も一本抜いて、フーッと薫り高い息を吐き出した。丁抹では、コペンハーゲン市のことを商人の都と呼んでいる。\n「キョーベンハムは、どちらにお住まいでいらっしゃいますの?」\n「ハア、王貴街に父の官舎がございますもんですから......でもわたくし叔父がボストンにおりまして、子供の時分から永らく、向うへ行っておりましたの。亡くなりましたもんですから、帰ってまいりましたら自分の故国でもなんだかまるで、よその国へでも行ったような気がいたしましてオホホホホホホ」\n とこの亜米利加帰りの外務次官の令嬢も、伯爵夫人に負けず劣らず、流暢の弁を奮う。\n「まあ、どうしても、長いこと向うにいらっしゃいましたんでは、そういう気がなさいますでしょうねえ」\n と夫人が情濃やかそうな瞳を瞬く。\n「わたくし、ローレンス街に、住まっておりますのよ。御存知でいらっしゃいましょう? グリプトテークの美術館のございます所、あの広場の脇のごく閑静な所ですわ。......わたくしイェルヴァ・ステーンセンと申しますの。伯爵ステーンセンと、お聞き下さいますればスグわかります。お帰りになりましたら、ぜひどうぞ、お訪ね下さいまして」\n「わたくしこそ、これを御縁に、どうぞ! わたくし、クラーラ・オールセンと申しますの」\n と女探偵は、次第次第に外務次官令嬢に深入りしていったが、こんな会話のやり取りほど、世にも実意のない、狐と狸の化かし合いはなかったであろう。オールセン外務次官の弟が、ボストンにいて死んだというのも、ほんものの次官が聞いたら眼を廻すであろうが、伯爵夫人の父親が商人で、巴里に住んでいたというのも、眉唾ものであろう。アイネス嬢の洗い立てたところでは、この女はナンシー郊外アヴィアン村に生まれて、八つの年にリヨン市に移っている。父親は村の錺屋、商売に失敗して村にいた堪れなくて、リヨン市では洗濯屋をしてたはずである。食うや食わずの貧しさから、この女は十四の年から踊り子に出た。子供の時から手癖が悪くて、踊り子の時代朋輩の物を盗んで、二回もリヨン市の警察に挙げられている。\n 十六の年には、賭博師の情夫を持って、男に唆されてマルセーユに出奔して、曖昧屋の前借りを踏み倒して訴えられている。そして男に棄てられた十八の年に、その頃リヨン大学の学生だったステーンセン伯爵に見初められて、ズルズルに伯爵家に入り込んだという、堂々たる経歴の持主になっているのであったが、その前借り踏み倒しの伯爵夫人と、氏名詐称のオールセン外務次官令嬢の探偵とは、どのくらいの間も狐と狸の化かし合い問答を続けていたことであろうか?\n「いかがです、お一つ、召し上りになりません?」\n と車中の徒然に、夫人は旅行鞄から出したインゲ百貨店製の上等なチョコレートを自分の口に含む。\n 次官の令嬢も煙草ケースを出して「どうぞ」と火を磨って差し出した。\n「アブドラ十六番ですのね、いい煙草ですわ......でもこの煙草はわたしには少し強過ぎるかしら......」\n やがて汽車は疾駆を終えて、喘ぎながらクーゾルの駅へ入って来た。\n「奥様、ちょっと御免遊ばして......」\n と令嬢が車を降りて、新鮮な空気を呼吸すべく、長いホームを往きつ戻りつ散歩している時に、旅客を装って三等車に乗っていた応援の探偵の一人が、これも往きつ戻りつホームを散歩しているのと擦れ違う。\n 擦れ違った拍子に、この探偵が毒蛇からでも頼まれたのであろう、唇を動かさずに腹話術みたいな声で、独語を言った。\n「明朝六時半、ハンメルスフェーヘンに着く。一室準備せられたし、ネッセンゲルト・ホテルへ、ステーンセン伯爵夫人」独語だから、別段、返事をする必要はない。そのまま知らん顔して、探偵も通り過ぎれば、アイネス嬢もまた、振り向きもせず車室へ戻って、再びオールセン令嬢になり澄ましてしまう。ハンメルスフェーヘンとブレーメンとでは、およそ西と南へ、大変な違いであった。\n ブレーメンへ行くと見せかけて通し切符を買っておいて、実際はハンメルスフェーヘンへ行くとならば、汽車は西独の国境駅フレンスブルグで乗り換えなければならぬ。してみれば嬢の仕事は、そのフレンスブルグの駅まで余すところ四時間ばかりの間に片付けなければならぬ。雑誌に眼を注ぎながらも、網棚の上のボール函包みが、ようやく焦慮の種になってきた。\n その焦慮を読み取ろうとするかのように、何気ない体を装いつつ夫人のほほ笑んだ瞳が時々ちらっと嬢の面を掠めてくる。ハハアと女探偵には、頷くものがあった。ブレーメンへ行くともハンメルスフェーヘンへ行くとも、まだこの女の行く先はわからぬが、自分が探偵であるかどうかを探るために、偽電をまずハンメルスフェーヘンへ打ってみて、人の顔色を読もうとしているのだな。そしてさっきから時々、車室の外へ出て行くのは、留守中の自分の挙動を見ようとしているのだな。それならば焦燥を鵜の毛で突いたほどにも見せるということは、自分自らを探偵であると告白するようなものであった。そのアイネス嬢の心を知ってか知らずにか、夫人は相変らず優雅な挙措を作りながら、時々にこやかに話しかけてくる。ボロを出してはならぬから、なるべく言葉短に次官令嬢は受け答えていたが、およそその間に彼女の知り得たことは、この女が容易ならぬ才智の女だということであった。手癖は悪いかも知れぬが、小娘の時代から男狂いはしていたかも知れぬが、さすがに伯爵に眼をつけられるだけあって、頭はどこかすばらしく、鋭角的に発達しているな! と、驚かずにはいられなかったのであった。\n 列車はいよいよ、丁抹領最終端の、ヴェステルバーゲンの駅へ入って来た。この駅から西独逸の国境駅フレンスブルグまで、約四十分。列車が駅を出外れると、丁抹と西独逸側との税関吏が荷物検査のために乗り込んで来るはずになっている。そしてこの駅がトンヅール方面への区間列車の分岐点になっているのと、近くにフォーゲルホルンスの景勝地を控えているため、子供連れの物見遊山の客や乗る人降りる人、密輸入業者たちも、ここで一息入れるであろうし、遥かに北フリジア諸島の山々を、北海の煙波の彼方に望み見て、長いホームはかなりの雑踏を極めている。\n その混雑を眺めながら、例によって往きつ戻りつ散歩していたら、向うからさっきとは違う別な探偵がやって来る。擦れ違いざまに小さく丸めた紙切れを、ポケットの中へ投げ込んで行った。後で便所へ入って開いてみたら、\n「明朝八時、オーベルン着、部屋の用意頼むファルク・ホテルへ、ステーンセン伯爵夫人」\n もはや伯爵夫人が、何を考えているかは明白であった。どこへ行こうとしているかはまだわからないが、それもおそらくここ二、三十分内に、税関の検査の終るまでには、ハッキリするであろう。ともかく、ブレーメンへ行くのでもなければ、ハンメルスフェーヘンやオーベルンへ行くのでもないことだけは、明瞭である。その行きもしない土地のホテルへ電報を打っているということは、もう夫人が鋭い感覚で、自分を探偵だと感づいている証拠であった。それらの電報がことごとく嬢の耳へ筒抜けになるとの計算の下に、偽電を至る所へ打って嬢を惑乱させようと企んでいるのであった。\n ようし、それならばと、嬢の考えも決まった。決心が決まれば、もう何も焦るところはない。おそらく税関吏と組んで一芝居打つであろうから、その税関吏の様子を見守っていた上で、一網打尽に逮捕してしまおうと肚を決めたのであった。\n\n" }, { "role": "assistant", "content": "ヴェステルバーゲンの税関吏\n\n 車が勾配にさしかかった頃おいに、二人ばかりの税関吏が、扉をノックしてきた。\n「国境税関です、お荷物を、検査させていただきます」\n 西独側の税関吏は、全部丁抹側に委せていると見えて、ただ入口に突っ立っているだけであったが、丁抹側の三十二、三の痩せた税関吏と、その上役らしい肥った四十くらいの税関吏とが、荷物を引っ繰り返しオックリ返して仔細に調べる。\n もちろんアイネス嬢に調べられて困るような物なぞの、あろうはずがない。ほんの着換えと下着一、二枚、まさかの時の用意に、男装用の洋袴くらいのものであった。大体が、旅客の体裁を装うために持って来ている旅行鞄に過ぎなかったのに、それさえ、一枚一枚手に取って振るってみているが、予想に違わず夫人の荷物ときたら、ろくろく眼も通さずにポンポン通関済みのスタンプを押している。嬢の眼は、その肥った税関吏の一挙一動に注がれている。殊に注目していたのは、例の網棚のボール函包みであった。\n 税関吏の手がかかって、スルスルと紐が解かれる。ちらと眺めたそのボール函の中からは、いつぞやのエッベの注進どおり、長方形の金鍍金をした安物らしい歌い時計が現れた。\n「奥様、これは何ですか?」\n と肥った税関吏が居丈高に、立ちハダカル。\n「時計ですの。......歌い時計なんですの!」\n「時計にしては、大分重いようですな」\n「その中に......その中に少し実は、わたくしの装身具類を、詰めてきたものですから」\n「いけませんな、そういうことをしては! 税関の眼を晦ますためだと、誤解されても仕方がありませんぞ! 中を開けて、お見せなさい」\n 夫人に向って突っ立っている、その肥った税関吏の背の陰になって、嬢の方からは見えなかったが、夫人が時計の裏蓋を開けて見せている様子であった。途端に税関吏の太い濁った声が、一際高く耳を打ってきた。\n「いけません、いけません、これは奥様、禁制品じゃありませんか。このまま、お通しするわけにはゆきません。いったん、税関で、調べた上でのことになります」\n「そうすると......没収になるのでしょうか?」\n「没収になるか、還付になるか、調べた上でなければ、御返事はできかねます。ともかくあなたも、このままお通しするわけにはゆきませんから、一応税関まで御同行下さい。次の駅で、下車する用意をしておいて下さい。これはともかく、税関でお預りします」\n 再び時計はボール函に納められて、無造作に紐をかけてそれを持って、税関吏は立ち去ってしまった。\n「まあ、バカバカしいったら、ありゃしませんわ! こんなバカゲタこと......自分の指環を詰めてきたのに、持ってかれてしまって! おまけに税関に出頭しろなんて! なんて、バカバカしいんでしょう」\n 聞えよがしに苦笑しいしい、税関吏に穿じり返された荷物の始末をしている。嬢はじっとそれを眺めていた。やっと後片付けも終ると、\n「まだ二十分もあるわ......」\n と腕時計を見ながら席に腰を降ろした。\n「どうぞ」\n とケースを開いて彼女にも勧めると、一本を取って、ライターを磨る。いよいよ来たな! と苦笑した。パチンとケースを開くと、そのままさっきは差し出したのを、今度は夫人の抜いた煙草はケースの真ん中から、その片隅にさあお上りなさい! と言わんばかりに三、四本並んでいる。\n「せっかくですけれど、奥様、もうわたくし、奥様のお煙草は、いただかないことにしましたの。御遠慮申し上げますわ」\n「おや! 妙なことを仰有る、どうなすって?」\n と夫人の艶やかな瞳が瞬く。\n「でもわたくし」と彼女の面を、冷笑が走った。いよいよ狐と狸が、正体を暴露し合う時がきた。「まだ行きがけの駄賃に、麻酔は頂戴したくはございませんの」\n「麻酔? 行きがけの駄賃に、麻酔? 何のことなんですの? 何だかあなたの仰有ること、サッパリ飲み込めませんけれど」\n と怪訝そうにほほ笑みながら、ほほ笑んだ手がソロリソロリと、外套のポケットの中へはいってゆく。\n「次の駅で、......フレンスブルグでお降りになる前に、麻酔を下さろうなんて、随分奥様もお人が悪いじゃございませんの?」\n「............」\n 口許に笑いを忘れたまま、夫人の眼を炎が走った。\n「それならば......それならば......」\n と次の瞬間さっと手が、躍り出す。\n「こ、これではいかがですの」\n 予期したように、女持ち小型拳銃の銃口が!\n が、彼女の方が、もっと素早かった。\n「いきますのよ、奥様、プスッと! 少しでもオカシナ真似をなさると」\n 夫人の胴に突きつけた銃口が、コチコチと相手の身体を刳る。\n「もっと手を挙げて! ほら、もっと上へ挙げて! もう少し......ほら、もう少し上へ!」\n 隙を見て、ガーンと砕けんばかり、拳銃で相手の銃持つ手を殴りつけた。\n「呀っ!」\n と辟易ぐ拍子に、ズドンと一発! 夫人の銃弾が背後の扉に逸て、濛々と白煙が立ち込める。床に転がった拳銃を、素早く靴で払い退ける。\n「夫人、そこへ掛けなさい! 手を動かすんじゃないというのに! わたしの銃は、ダテではないよ。お掛けというに、わからないか!」\n ギリギリと歯を噛み鳴らしながら、食いつかんばかりの形相で、無念そうに夫人が座席に腰を下ろす。\n「まだ、手を動かすか! 手を挙げなさいというに、撃たれたいか!」\n 已むなく一発、威嚇に発射した。再び白煙が濛々と立ち込めて、弾は窓硝子を貫いて、大空へ飛び去った。鼻を劈く硝煙の香に、顔色変えてやっと夫人が手の動きを止めた。心臓に照準をつけたまま、次第次第に身を退らせてくる。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " わッと小屋の中は総立の大どよめき。\n「兄さん! 兄さん! あれが早乙女の御前さまじゃ。お救い願えてようござりましたな。早う肌をお入れなんし......」\n 打ちよろこびながら小芳が手伝って十五郎の肌をおさめさせたところへ、木戸からずいずい主水之介が戻って来ると、裁きに手落ちがない。\n「その方たちも出い!」\n「でも、あっしたちゃ――」\n「売られた喧嘩であろうとも、出入りがあった上は両成敗じゃ。何かと芝居の邪魔になる。早う出い!」\n「なるほど、お裁き、よく分りました。ご尤もでござります――お見物のみなさま、飛んだお騒がせ致しまして相すみませぬ。下総十五郎、おわびいたしまする。小芳! 梅甫さん! 殿様のお裁きに手落ちはねえ。出ましょうよ」\n 下総十五郎、背中の野ざらし彫りは伊達ではないとみえるのです。物分りよく立ち去ったあとから小屋のうちは、またひとしきりどッとどよめき立ちました。\n\n四\n\n「御前。有難うござります! 申しようもござりませぬ。すんでのことに狂言が割れますところを有難うござります!」\n 事もなげに舞台の奥へ引き揚げていった主水之介を見てとるや、楽屋姿のまま飛び出して、拝まんばかりに迎えたのは団十郎でした。\n「何ともお礼の言いようがござりませぬ。御前なればこそ、怪我人も出ずに納まりましてござります。お礼の申しようもござんせぬ」\n「そうでもないのよ。丸く納まったとすればこの眉間傷のお蔭じゃ。身共に礼は要らぬわい!」\n「いいえ、左様ではござりませぬ。手前風情がご贔屓頂いておりますさえも身の冥加、そのうえ直き直きにあのようなお扱いを頂きましては空恐しゅうござります。甚だぶしつけでござりまするが――」\n「何じゃい。退屈払いでもしてくれると申すか」\n「致しまする段ではござりませぬ。日頃御贔屓に預りまするお礼方々、今宵深川へお供させて頂きとうござりまするが、いかがでござります」\n「深川はどこじゃ。女子がおるか」\n「御前は御名代の女ぎらい、――いいえ、おすきなようなお嫌いなような変ったお気性でござりますゆえ、手前にいささか趣向がござります。女子もおると思えばおるような、いないと思えばいないようなところでござります」\n さすがは団十郎です。主水之介ほどの男を招くからには、何かあッと言わせるようなすばらしい思いつきがあるらしい口吻でした。\n「気に入った。その言い草が面白い。主水之介も嫌いなような好きなような顔をして参ろうぞ。早う舞台を勤めい」\n「有難い倖せでござります。お退屈でござりましょうが、ハネるまでこの楽屋ででも御待ち下さりませ」\n その大切りのひと幕が終ったのは、街にチラリ、ホラリと夏の灯の涼しい夕まぐれでした。\n「では、お約束の趣向に取りかかりますゆえ、少々お待ち下さりませ。――おい。誰か、若い者、若い者は誰かおりませぬか」\n 番頭を呼び招くと団十郎は、何の趣向にとりかかろうというのか、小声でそっと命じました。\n「さき程ちょっと耳打ちしておいたから来て下さる筈だ。上方の親方を呼んで来な」\n「いいえ、お使いには及びませぬ。参りました」\n まるで声は女です。恥ずかしそうに身をくねらせながら、鬘下地の艶な姿を見せたのは、上方下りの立女形上村吉三郎でした。\n「お初に......」\n「おう。主水之介じゃ。世の中がちと退屈でのう。楽屋トンビをしておるのよ。舞台は言うがまでもないが、そうしておる姿もなかなかあでやかじゃのう」\n「御前が、御笑談ばっかり......。江戸の親方さん、では、身支度に――」\n「ああ、急いでね。早乙女のお殿様のお目の前で女に化ってお見せ申すのも一興だから、一ツ腕によりをかけて頼みますよ」\n「ようます」\n 吉三郎の姿は、みるみるうちに女と変りました。しかも只の女ではない。持ち役そのままの傾城姿、奥州に早変りしたのです。いや、その声は言うもさらなり、言葉までがすっかり吉原育ちの傾城言葉に変りました。\n「ごぜん、どうざます。女子に見えますかえ。およろしかったら、わちきに酌なとさせておくんなまし......」\n「わはは、そうか、そうか、団十郎め、心憎い趣向をやりおった。女子がおると思えばおるような、いないと思えばいないようなと申したはこのことか。いや、いないどころか立派な女子じゃわい。主水之介、苦労がしとうなった。どうじゃ、奥州、いっそ成田屋を撒いてどこぞでしっぽり濡れてみるか」\n「お口さきばっかり......。では成田屋さん、お伴させて頂きんしょう」\n 櫛、こうがい、裲襠姿のままで吉三郎が真ん中、先を成田屋、うしろに主水之介がつづいて、木挽町の楽屋を出た三挺の列ね駕籠は、ひたひたと深川を目ざしました。\n すだれ越しに街の灯がゆれて、大川端は、涼味肌に沁みるようです......。\n さしかかったのが江戸名代の永代橋。\n「あの、もうし、かご屋さん......」\n 渡り切ると、不意に簾垂れの中から、吉三郎の奥州が、もじもじしながら恥ずかしそうに呼びとめました。\n「ちょっと、あの、かごを止めてくんなんし......」\n「へえへえ。止めますがお気分でもわりいんですかい」\n「いいえ、あの、わちき、――おししがやりたい......」\n 主水之介の目が簾垂れの中で、思わずピカリと光りました。消え入るような声で恥じらわしげに、おししがやりたいと言ったその声は、何ともかとも言いがたくなまめかしかったからです。\n ――しかもその身のこなし!\n どう見てもそれは男ではない。\n「ごぜん、ごめんなんし......」\n パッと赤くもみじを散らして、消えも入りたげに、恥じらい恥じらい、駕籠の向うの小蔭へいって身をこごませると、さながらに女そのままの風情で用を足しました。\n そのえも言いがたいなまめかしさ!......。\n その身だしなみの言いようなきゆかしさ!......。\n「ああ、いい女形だな......。名人芸だ」\n 思わず団十郎が感に堪えかねたように、すだれの中から呟きました。\n 主水之介もまた恍惚となって見とれました。\n そのまに駕籠は大川端を下って料亭へ。\n\n五\n\n「いらっしゃいまし!......」\n「あら! 成田屋さんじゃござんせんか。どうぞ! どうぞ! さあどうぞ......」\n 行きつけのうちと見えて、下へも置かない歓待ぶりです。\n 屋号は谷の家。\n 川にのぞんだ座敷には、いく張りかの涼しげな夏提灯がつるされて、青い灯影が川風にゆれながら流れ散って、ひとしおに涼しげでした。\n「ま! 花魁も......」\n「傷の御前も......」\n 婢たちは、目が高いと言っていいか、低いと言っていいか、主水之介をそれと看破って成田屋、おいらん、二人が取巻きの川涼みと思ったらしく、忽ちそこへ見る目もさらに涼しい幾品かの酒肴を運びました。\n「おいらん、一献汲むか」\n「あい。お酌いたしんす......」\n「のう、成田屋」\n「はッ」\n「は、とは返事がきびしいぞ。市川流の返事は舞台だけの売り物じゃ。もそっと二枚目の返事をせんと、奥州に振られるぞ。さきほどのおししは、十万石位のおししだったのう」" }, { "role": "assistant", "content": "「あんなことを! 憎らしい御前ざます。覚えておいでなんし。そのようなてんごうお言いなんすなら――」\n くねりと身をくねらせて吉三郎の奥州が、やさしく主水之介を睨めながら、チクリと膝のあたりをつねりました。――こぼるるばかりの仇ッぽさ、退屈男上機嫌です。\n「痛い! 痛い! おししが十万石なら、この痛さは百万石じゃ。――のう、成田屋。昼間の喧嘩も女がもとらしいが、そち、あの女を見たか」\n「いいえ、御本尊にはお目にかかりませぬが、番頭どもがきき出して参った話しによると、曲輪上りだそうでござります。玄人でいた頃、あの二人が張り合っていたそうでござりましてな、売ったお武家さまは、腰本治右衛門とかおっしゃるお歴々、売られたお方は湯島とやらの町絵師とかききました。ところがいぶかしいことにはその絵師の住いに、ときどきどろどろと――」\n「出るか!」\n「尾花のような幽霊とやらが折々出ると申すんですよ。それもおかしい、売った工合もおかしい、御前のお扱いをうけて、あの場はどうにか無事に納まりましたが、あとで何かまたやったんではないかと、番頭どもも心配しておりましてござります」\n「のう」\n「また喧嘩に花が咲きましたら、何をいうにも対手は七人、それにお武家、先ず十中八九――」\n「どくろ首の入れ墨男が負けじゃと申すか」\n「ではないかと思いまする。狂言の方ではえてして、あの類の勇み肌が勝つことに筋が仕組まれておりまするが、啖呵では勝ちましても、本身の刄先が飛び出したとなりますると、筋書通りに参りますまいかと思いまする」\n「いや、そうでない。喧嘩とても胆のものじゃ。抜身の二本三本あの度胸ならへし折ろうわい」\n「いいえ、やられましてござります......」\n そのとき不意でした。突然、不気味に言った声と一緒に、するするとうしろの襖が開くと、降って湧いたかのように、そこへ姿を見せた男がある。血達磨のように全身朱に染って、喘ぎながら手をついているのです。\n「ま! 怕い!......」\n すがりついた吉三郎の奥州を抱きかかえながら、ギョッとなって主水之介も目を瞠りました。\n「おう! そちは!」\n 同時におどろきの声がはぜました。\n 誰あろう、十五郎なのです、血に包まれたその男こそは、今噂をしたばかりの下総十五郎だったのです。\n\n六\n\n 血を見て、傷を見て、いたずらにうろたえるような退屈男ではない。主水之介は、しんしんと目を光らして、十五郎の先ず傷個所を見しらべました。\n 右腕に二カ所、左肩に一カ所、腰に一カ所、小鬢に一カ所、背の方にもあるらしいが、目に見えるは以上の五カ所です。\n しかし血は惨たらしい程に噴いていても、傷は皆浅い。\n「女! 焼酎を一升ほど持って参れ。なにはともかく手当をしてやろう。襦袢でも肌衣でもよい、巻き巾になりそうなものを沢山持って参れ」\n 諸事無駄もなく、また手馴れたことでした。\n 団十郎も手を貸し、吉三郎のおいらんも片袖をくわえて甲斐々々しく手伝い、血止めの手当が出来てしまうと、下総十五郎がまたすばらしく精悍なのです。\n「焼酎がヒリヒリと沁みていい心持がいたしやす。ぶしつけでござんすが、景気づけに一杯呑ましておくんなさいまし」\n 激痛をこらえて、歪んだように笑うと、なみなみ注いだ大盃をギュウと一気に呑みほしながら、ぶるぶると身ぶるいを立てました。\n 主水之介の声が泳ぎ出しました。\n「小気味のよい男じゃのう。対手はさっきのあれか」\n「そうでござんす。喧嘩両成敗じゃ、おまえらも小屋を出ろと、殿様がお裁きなすったんで、御言葉通り出るは出たんですが、出れば刄物三昧になるは知れ切ったこと、――ええ、ままよ、おれも下総十五郎だ、江戸で膾斬りになってみるのも、地獄へいってからの話の種だと、男らしく斬られる覚悟をしたんですが、妹という足手まといがござんす。どうにかして女たちふたりを逃がさなくちゃならねえ、しかし、逃がすにはあの通りの真ッ昼間、日の暮れるまで待とうとお茶屋で待って、こっそりふたりを裏から駕籠で落してから、あっしひとりでいのちを張りにいったんでござんす」\n「喧嘩の花はどこで咲いた」\n「小屋を出ると、案の定黒鍬組の奴等が、今出るか今出るかと待っていやがったとみえて、来いというからあの前の河岸ッぷちへいったんでござんす。抜いたのは手下のあの六人でした。さすがに腰本治右衛門だけや抜かなかったところが親分でござんす」\n「得物もあるまいに、よくそれだけの傷で済んだものじゃのう。どうしてまたその姿でここへ参った」\n「そのことでござんす。こっちは只の素人、向うはともかくも二本差が六匹、無手の素町人が六人の侍を対手にして斬り殺されたと世間に知れたら、下総十五郎褒め者になっても死に恥じは掻くめえと、いのちを棄てる覚悟でござんしたが、斬られているうちに、ふいッと妹たちふたりのことを思い出したんでござんす。喧嘩のもとというのは妹のあの小芳、死ぬあっしゃいいが、あとで黒鍬組の奴等がきっと何かあのふたりにあくどい真似をするだろうと思いつきましたんで、こいつうっかり死なれねえ、死ぬにゃどなたかに妹たちふたりの身の上を頼んでからと、御迷惑なことですが、ふと気のついたのはお殿様のことでござんした。男が気ッ腑を張ってお頼み申したら、お眉間傷にかけても御いやとはおっしゃるまいと、地獄の一丁目から急に逃げ出して、楽屋の中へ駈け込んだんでござんす。ところが、お殿様たちはこっちへもうひと足違い――成田屋さんのお弟子さんでござんしょう、大層もなく御親切なお方がひとりおいでなすってな、行った先は深川の谷の家だ、気付けをあげます、駕籠も雇うてあげます、すぐにおいでなさいましと、いろいろ涙のこぼれるような御介抱をして下さいましたんで、こんな血まみれの姿のまますぐ、おあとをお慕い申して来たんでござんす」\n「ほほう、そうか。では主水之介にそちの気ッ腑を買えと申すんじゃな」\n「十五郎、無駄は申しませぬ。あっしの気ッ腑はともかく、妹たちは惚れ合った同士、不憫と思召しでござりましたら、うしろ楯となってやって下さいまし......」\n「嫌と申したら?」\n「.........」\n「人の喧嘩じゃ、身共の知ったことではない、嫌じゃ勝手にせいと申したら何とする?」\n「.........」\n「どうする了簡じゃ」\n「いたし方がござんせぬ」\n さみしそうな声でした。あの気性なら、この気性を買って下さるだろうと思ったのに、当てがはずれたか! ――口では言わなかったが、十五郎は急にこの世がさみしくなったとみえるのです。全身これ精悍と思われた男が、しょんぼり立ち上がると、生血にもつれたおどろ髪を川風にそよがせながら、しょんぼりと出て行きました。\n「まてッ」\n 刹那でした。ひとたび命を張れば豹虎のごとく、ひとたび悲しめば枯れ葉のごとくに打ち沈んで行くその生一本の気性が、こよなくも主水之介の胸を衝ったのです。\n「眉間傷貸してやる! 妹の住いはいずれじゃ」\n「え! じゃ、あの!......」\n「眉間傷に暑気払いさせてやろうわい。小芳とやらの住いはいずれじゃ」\n「十五郎、うれしくて声も出ませぬ。神田の明神裏の篠原梅甫というのが配れ合いでござんす。手前、ご案内いたします......」\n「無用じゃ。その怪我ほってもおかれまい。そちはどこぞへ隠れて傷養生せい。成田屋、その方も江戸ッ児じゃ。下総男にひと肌ぬがぬか」\n「よろしゅうござります。医者のこと、隠れ家のこと、一切お引きうけいたしましょう。たんと眉間傷を啼かしておいでなさいまし」\n「味を言うのう。吉三郎のおいらん、浮気するでないぞ」\n「あんなことを......。ぬしさんこそ、小芳さんとやらに岡惚れしんすなえ」\n「腰本黒鍬左衛門とはちと手筋が違うわい。アハハ......。世の中にはまだ退屈払いがたんとあるのう。女共、気まぐれ主水之介、罷り帰るぞ。乗物仕立てい」\n 眉間傷の出馬となると、主水之介の声までが冴えるのです。――ゆらゆらゆれて行く駕籠の右と左りに、江戸の夏の灯の海が涯なくつづきました。\n\n七\n\n 鐘が鳴る......。\n そんなにふけたわけではないが、明神裏というと元々宵の口から、街の底のようなさみしい街なのです。\n「これか。惚れた同士の恋の巣は、どこかやっぱり洒落ておるのう。駕籠屋ども、すき見するでない。早う行け」\n 灯影一ツ洩れない暗い玄関先へ、主水之介はずかずかと這入りました。\n 右手の寒竹の繁みが、ザアッと鳴った。\n 生き埋めの井戸の上のあの繁みなのです。\n しかし、何も出たわけではない。黒い影も白い影も何の影もない。\n うちの中もしいんと静まり返っているのです。\n 仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。\n 退屈男はどんどんと上がりました。\n 梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。\n「どうした!」\n「.........?」\n「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「兄弟三人とも海軍だよ。閣下の次も閣下で、その下が大佐だ。僕の仲人はこの大佐の親友だから、橋本家のことが詳しい。当然その大佐が来ていたんだ。僕は仲人から話を聞いて閣下の性格を呑み込んでいたから、テストが受け好かった」\n「すると保険会社の重役は奥さんの弟だろうか?」\n「奥さんの弟は一人が海軍で一人がお医者さんだ。もう一人はアメリカへ行って何かやっている。僕は仲人を物色する為めに関係を悉皆調べたんだ」\n「それじゃ少し話が違う」\n「ハッハヽヽ」\n と安達君が笑い出した。\n「何だい?」\n と吉川君が向き直った。\n「器用に嘘をついたろう?」\n「うむ?」\n「鈍いぞ」\n「此奴、やったのか?」\n「一寸こんなものさ」\n「ふうむ」\n「失敬しちゃったよ」\n と安達君は思い知らせた。無論後から告白する積りだったが、斯う早く機会が来ようとは思わなかった。未だ申込金額の訂正が叶うのは仕合せだった。瀬戸君も経緯を聞いて、大笑いをした。\n 続いて吉川君の持ち出した紳士協定は瀬戸君の退けるところとなった。その為めに、吉川君と瀬戸君の間に議論が起った。\n「別に責任は負わせない。紳士的に正々堂々とやろうと言うんだ」\n「僕もその積りだけれど、お互に推薦し合うなんて無意味な協定は御免蒙る。それじゃ競争にならない」\n「推薦し合うんじゃない。悪口を言わないようにするのが紳士的だろう?」\n「僕は寧ろ紳士的に正々堂々と君達を攻撃する積りだ」\n「態〻悪口を言うのか?」\n「悪口じゃない。事実を述べるのさ。例えば吉川君は酒を飲むかと訊かれた場合決して取繕わない。悪いことは何でも攻撃の材料に使う」\n「好いことは何うする?」\n「あるのかい? 好いことが」\n「............」\n「よく自己を吟味して見給え」\n「君、それは失敬な言分じゃなかろうか?」\n「お互に好いところがあると思っていると大間違だよ。頭の隅っこにこの間見た映画の知識があるばかりだろう?」\n「土佐犬!」\n「冷静を失っちゃいけない。お互にと言っている」\n「馬鹿野郎!」\n「君、君」\n と安達君は吉川君を捉えてしまった。\n「土佐犬は負けないぞ。何処までも正々堂々とやる」\n と瀬戸君も気色ばんで、吉川君と睨み合った。\n「弱ったな、これは」\n と安達君は持て余した。家の主婦が聞きつけたのか、お茶を替えに来て、ジロ〳〵眺めて行った。三人は甚だ具合が悪かった。\n「瀬戸君」\n「何だい?」\n「協定は撤回する」\n と吉川君は稍〻落ちついた。\n「然うしてくれ給え」\n「その反対に手段を択ばずってことにしよう。僕は毒瓦斯を使う」\n「宜いとも、虚々実々だ」\n「大きなことは勝ってから言え」\n「僕は直ぐ行動を開始するから驚くな」\n「それは此方から断って置く」\n「友情の試験だ。これで持ち続くようなら本当に管仲、鮑叔、デーモン、ピシアスだろう」\n「又始めやがった」\n「安達君も宜いだろうね?」\n「うむ」\n「君は僕よりも吉川君を警戒する必要がある」\n「それがもう手だろう?」\n「然うかも知れない。兎に角、驚かないことだ」\n「大丈夫だ」\n と安達君も意気込んで、期待とは全く反対の協定が成立してしまった。\n その翌晩、吉川君は閣下の家へ呼ばれて、面会を果した。しかし安達君には知らせなかった。安達君は土曜の晩に橋本家から日曜の朝の都合を問い合わされて初めて吉川君がもう済んだことを覚った。先頃から日曜には必ず新事件が発生する。安達君は気を落ちつけて、橋本家へ出頭した。応接間へ通ると直ぐに、地震が揺っても立たない覚悟を思い出した。待ち始めてから不図気がつくと、テーブルの上に紙と鉛筆が置いてあった。謄写版刷りの書式だった。項目が並んで、下が余白になっている。申込者氏名、生年月日、出生地、原籍、現住所、両親及びその職業、両親の兄弟姉妹及びその職業、兄弟姉妹及びその職業、卒業学校、兵役関係、賞罰、職業、収入、趣味、酒量、健康状態及び病歴、親友五名を挙げよ。旧師五名を挙げよ。社会地位十年後の見込、同二十年後の見込、申込の動機、仮設の配偶者との相識関係、仮設の配偶者に関する感想、云々。項目が多いから、三枚に亙っていた。\n 安達君は書式を見詰めて考え込んだ。窓の方に人の気色がしたから振り向いたら、弼君が首を出したのだった。\n「安達さん、書き込むんですよ。書き込むんです」\n と弼君は書く手真似をして逃げて行った。\n 安達君は成程と思った。こんな気の利かないことでは覚束ないと少し慌てゝ、早速書き込みに着手した。初めの方は機械的だったけれど、十年後の見込からは作文の試験の心得になった。仮設の配偶者というのは無論佳子さんのことだ。それとの相識関係とそれに関する感想には特別念を入れた。漸く書き終って読み直しているところへ、閣下と奥さんが入って来た。\n「やあ。これは態〻何うも」\n と閣下が一揖した。外では時々顔を合せるけれど、言葉を交すのは初めてだった。安達君は鄭重に挨拶を申述べた。\n「何うぞおかけ下さいませ」\n と奥さんが寛がせてくれる。\n 閣下は書類を手に取って、至って事務的に目を通し始めた。\n「酒量ナミというのは何合ぐらいの標準ですかな?」\n「ナミじゃありません。ナシです。字が拙いものですから......」\n「はゝあ。量ナシですか? 量を知らずというと、これは大変だ」\n「いや、飲まないんでございます」\n「ハッハヽヽ」\n と閣下は諢ったのだった。\n「実は会なぞで友達に勧められますと、少しやるんですけれど、先頃からやめる決心をしています。元来好きではないんでございますから」\n「少しは宜いでしょう」\n「しかし些っとも甘くないんです」\n「御丈夫のようですが、徴兵の方は何ういう次第で乙種ですか?」\n「胸囲が少し狭いものですから」\n「乙種ですと、召集される可能性がありますな?」\n「はあ」\n「脅威を感じてはいませんか?」\n「大丈夫です。ハッハヽヽ」\n と安達君は急いで笑い足した。そら来たと思ったのである。\n「親友は三名しかないんですか?」\n「可なり親しいのがまだあるんですけれど、皆似たり寄ったりの程度ですから、後から書き足す積りでいて、つい忘れました。もう二人書きましょう」\n「いや、これで結構です。この三人の中、吉川君と瀬戸君が申込んでいるのを御承知ですか?」\n「はあ」\n「その為め将来の交際が危機に瀕するような虞はありませんか?」\n「ない積りです。尤も競争中は有らゆる手段を尽して出し抜き合います」\n「はゝあ」\n「親友だからといって、決して用捨は致しません。突っ転ばされた奴が間抜けという申合せです」\n「面白いな、これは。お寅、何うだ?」\n と閣下は奥さんを見返った。\n「お案じ申上げていた通りでございますわ」\n「しかし、やる以上はそれぐらいの意気込みがなければいかん。男らしくやって貰いたい」\n「然うお煽りになっては困ります。智子の時で懲りてるじゃございませんか?」\n と奥さんは抗議の口調だった。\n「あの連中と違って、今度の三人は、相許している親友だ。まさか腕力には及ぶまい。安達君」\n「はあ」\n「実はあれの姉の縁談の折、競争者が決闘をすると言い出したのです」\n「はゝあ」\n「俺が差止めて、同時にキッパリと申渡しました。鷸蚌の争いによって漁夫の利を占めたのが今の婿です。正々堂々の競争は結構ですが、暴力ということが俺の耳に入ったら、もうお仕舞いですよ」\n「その辺は決して御心配に及びません」\n「念の為めです。実は俺は甚だ満足に思っています。三人が三人ながら三人を親友の筆頭に書いていながら競争をする。これは三人が三人の人格を証明しているんです」\n「はあ」\n「やって戴きましょう」\n と閣下は当然安達君の立場を認めてくれた。引き続く話の中に、この問題に関する閣下の意見が出た。それは娘の婿は娘に選定させるのが本当だということだった。しかし広く世間へ出て探す次第に行かないから、親が然るべき候補者を吟味して当てがう。娘は交際して見て、その中から気に入ったのを極める。\n「それでございますから、実は甚だ手前勝手で相済みません」\n と奥さんが申添えた。\n「何う致しまして」\n「早速でございますが、次の日曜に又お出を願えませんでしょうか?」\n「伺います」\n「お三人御一緒に集まって戴いて、私から改めてお願い申上げます」\n「恐れ入ります」\n「私はこれで引き下りますが、主人からまだ種々とお話がございましょうから、何うぞ御ゆっくり」" }, { "role": "assistant", "content": "「しかしもう大分お邪魔を申上げました」\n「いや、安達君、これからだ」\n と閣下が引き止めた。\n「安達さん、何うぞ御用心を」\n「はあ?」\n「オホヽヽヽ」\n と奥さんは会釈して姿を消した。\n\n宣戦布告の日\n\n 次の日曜の朝は九時出頭ということだった。競争者三人が橋本さんの家の応接間で顔を合せるのである。安達君は支度を終って、腕時計を見ながら、\n「時間厳守は紳士の美徳」\n と英語で口吟んだ。\n「何あに? それは」\n と大谷夫人が訊いた。大谷氏はもうゴルフに出掛けてしまったから、奥さんは掣肘されるところなく、軍師として附き添っていた。\n「時間厳守は英国紳士の美徳と申します。閣下は海軍ですから、英国流でしょう。僕は九時が鳴る時、玄関の電鈴を押します」\n「結構ね」\n「まだ二十五分あります」\n「今日は屹度佳子さんが御同席でございましょう」\n「はあ。それを考えると、もう胸がドキ〳〵します」\n「そんな気の弱いことじゃ駄目よ」\n「何ういうものでしょうかね? 道で会っても然うです。遠くから見かけて、あゝ、佳子さんだなと思うと、もう胸が乱調子になって、早鐘を打つんです」\n「それじゃお貰いになった後が大変ですわね。始終なら心臓が弱ってしまいましょう」\n「その時はその時で、強心剤を持薬に飲みます」\n「まあ」\n「ハッハヽヽ」\n「贔屓目もありましょうけれど、あなたが一番有望よ。風采といい態度といい」\n「それは始終見慣れていらっしゃるからですよ。風采では吉川君に敵いません。態度の落ちついているのは瀬戸君です」\n「何方も侮り難い強敵には相違ありませんが、本当のところはあなたよ。お二人とも要領が好いから、実力以上に見えるんですわ」\n「僕は以下に見える性分です。第一、口が重いです」\n「それほどでもありませんわ。随分おやりになるじゃございませんか?」\n「北海道は損ですよ。瀬戸君だって郷里は土佐ですけれど、東京生れですから、矢張り何処となく軽いです。僕は何うしても東北人の重っ苦しいところが抜け切れません」\n「でも斯ういう人と分ってしまえば、軽薄なところが些っともないんですから、あなたが一番ですわ」\n「分らせる法はないでしょうか?」\n「それは交際している中に、自然に分ります。宅の主人にしても、初めのうちは丁度あなたのようでございましたから」\n「心細いですな」\n「まあ! ひどいわ」\n「失礼申上げました。御主人のように謹厳そのものじゃないという意味です」\n と安達君は誤魔化した。\n 女中のお清さんが稍〻慌しく上って来て、\n「奥さま、唯今......」\n と口ごもった。\n「何あに?」\n「唯今丸尾さんの奥さまが......」\n「丸尾さんの奥さまが何うしましたの?」\n「お通りになりました」\n「馬鹿ね、お前は」\n 奥さんは窘めたが、先日のことを思い起して、\n「橋本さんへいらしったとでも言うの?」\n「はあ。唯今吉川さんと御一緒に橋本さんの御門へお入りになりました」\n「あらまあ!」\n「これは機先を制された」\n と安達君は弾ねるように立ち上って、階段へ急いだ。奥さんも続いて下りた。\n「お待ち下さい」\n「これだから油断がなりません」\n「仲人同伴ってことを御主人なり奥さんなりが仰有ったんでございますか?」\n「いや、一向」\n「丸尾さんは何処までも私を出し抜く積りですわね」\n「僕、もう出掛けます」\n と安達君は帽子に手をかけた。\n「私もお供致しましょうか?」\n「さあ」\n「考えて見ると、今日は正式の訪問ですから、仲人同伴が本当かも知れませんわ」\n「............」\n「玄関まで送り届けて、御主人なり奥さんなりにお目通りして、それでは何分宜しくお願い申上げますって」\n「行って参ります」\n「あゝ、困った〳〵」\n と奥さんは念を入れたいにも、今からではお化粧が間に合わない。外出の折は十以上若返ることを原則にしている。況して相手が丸尾夫人だ。\n 橋本さんのところはつい目と鼻の間だ。距離の関係から言えば安達君が最も有力に縄張りを主張出来る。安達君は玄関の靴の数で、吉川君ばかりでなく瀬戸君ももう来ていることを認めた。丸尾夫人のらしい草履がお清の注進を裏書していた。北海道も昨今は一生懸命だから頭が働く。\n「やあ。早かったね」\n「上には上がある。瀬戸君が第一着だった」\n「この間は失敬。相変らずかい?」\n と瀬戸君は落ちつき払っていた。\n「君は一人かい?」\n「一人とは?」\n「仲人同伴じゃないのかい?」\n「一人さ。何分宜しく」\n「それでこそ正々堂々だ」\n と安達君は吉川君へ一本利かせた。\n「僕は附き添いがあるんだよ」\n と吉川君は早速反応を示した。\n「チャンと分っているんだ」\n「二階から見ていたんだろう?」\n「いや、スパイをつけてある」\n「これは凄い」\n「一々手に取るように判るんだ」\n と安達君は威張った。\n「その辺と違って、内気なお坊っちゃんは一人じゃ恥かしいんだよ」\n「そんな柄かい?」\n「ハッハヽヽ」\n「人一倍厚いくせに」\n「それだから薄く見せる必要があるだろう。丸尾夫人の細工は流石だよ。今に分る」\n と吉川君も負けていない。\n 瀬戸君はこの会話を全く余所に、ポケットから洋書を出して読み始めた。二人を歯牙にかけないという態度だった。吉川君は安達君に目まぜをした。\n「やっているよ。相応に」\n「うむ。学者は違う」\n「寸陰を惜しむところを閣下に見て貰いたいんだろう」\n「しかし、この際本を忘れないのは感心だよ」\n「それこそ厚口の方だからさ。千枚張りだもの、ビクともしない」\n「何だって?」\n 瀬戸君が見返った。\n「厚い本だと言うのさ」\n「ポケット版だよ。君の面の皮ほど厚くない」\n「厳しく来たね」\n「断って置くが、この間の非紳士協定を忘れないことだぜ」\n「言うにや及ぶ」\n「安達君もね」\n「生馬の目を抜いてやる」\n と安達君が力み返った。三人の競争意識は最高潮に達していた。\n 間もなく閣下と奥さんが現れた。続いて丸尾夫人が佳子さんを扶けるようにして入って来た。佳子さんは流石に具合が悪いと見えて真赤になって俯向いた。丸尾夫人は直ぐに吉川君の側へ行って立ち並んだ。成程、附き添いという形だった。吉川君が又心得たもので、その折二人から離れて夫人の方へ一歩寄ったのである。閣下は改めて佳子さんを紹介した後、\n「皆さん、これは全然相互信頼の問題です。私共はあなた方の人格に信頼して、佳子と自由に交際をして戴きます。あなた方も私共を信頼して、誠意を尽して下さいます。佳子としても結局あなた方の中から一番信頼に値すると思う人を択ぶことになります。私共両親は決して奇を衒うものではありません。先頃も申上げました通り、これは娘に一番適当な婿を授けたいという親心の発露であります」\n と厳格な調子で説き始めた。\n「何うぞお席に」\n と奥さんが気を利かして、\n「あなたもお掛けにならないと、御演説のようになって困ります」\n「よし〳〵」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「――落して来ました」\n おつるはそばまで来てそう云い、額の汗を拭きながら頬笑んだ。\n「うまくやれたかしら」\n「ああ、――」栄三郎はわれに返ったような眼つきをした、「有難う、気がつかなかったよ、ちょっと待っていてくれ」\n「どうなさるの」\n 彼は返辞をせずに歩きだした。\n 二十間ばかりいった夏草の上に、半ばひらいたその扇子が落ちていた。薄と薄の間の、短い萱草の上に、――金地に赤く花を描いた華やかな色が、まわりの夏草の緑から浮きあがってみえた。\n「これだ、これだ、――」栄三郎は昂奮して呟いた、「これを枯野に置くんだ、道傍の枯草の上に、......これでできた」\n そのとき高い人声が聞えた。\n 喚くような声だったので、振返ってみると、二人の侍がおつるになにかどなっていた。いま登って来たのだろう、二人とも酔っているとみえてひょろひょろしているし、一人は手に大きな瓢を持っていた。\n ――こいつはいかん。\n 栄三郎は走りだした。途中で三尺ばかりの枯枝を拾い、走りながら見ると、侍の一人がおつるの手を掴んだ。\n「あたしは芸妓です」とおつるの云うのが聞えた、「だからお客さまがお望みになれば、山へだってお供をしますよ」\n「なにを云うか、この不義者」\n おつるの手を掴んだ男がそう喚いた。\n ――不義者。\n 栄三郎はその言葉を、はっきり耳にとめながら、そこへ駆けつけるなり、その男を力いっぱい突きとばした。相手は横ざまにはねとばされ、足を取られて転倒した。\n「いけません栄さま、待って下さい」\n おつるがそう叫んで止めようとした。しかしそれより早く、もう一人の侍が、持っていた瓢を抛りだして、刀を抜いた。\n「危ないから向うへいってくれ」と栄三郎はおつるに叫んだ、「早く、――私は大丈夫だ」\n そして枯枝を持ち直した。\n\n七\n\n おつると樋の山へいった日から五日めに、石川孝之介が栄三郎を訪ねて来た。\n 五日という時間は偶然ではなかった。孝之介はそのあいだに知るべき事を知り、なすべき計画の手順をつけたのであった。栄三郎は本式の下絵を描こうとしていた。十帖と八帖の座敷いっぱいに、御殿の襖とほぼ同じ寸法の紙を延べ、初めの下絵をもとにしてあら描きにかかったところであった。この離れ座敷には、あと長四帖がひと間あるが、そこは敷きっ放しの夜具と蚊帳でいっぱいになっている。食事は握り飯と梅干と茶だけで、それはおけいが運んで来るのだが、長四帖まで来て声をかけると、そこで持って来たのを置き、空いている分を持って彼女はそこから母屋へ戻ってゆくのである。その下絵が仕上るまでは、仕事場へは誰も入らないことになっていた。庭には高野槇の生垣で仕切がしてあり、その木戸にも掛金が掛けたままになっているが、石川孝之介はその掛金を外して、勝手に入って来たのであった。\n 庭は芝生であるし、孝之介は草履をはいているので、彼が広縁の近くへ来るまで、栄三郎はまったく気がつかなかった。孝之介は広縁のそばへ来て、そこに立って暫く眺めていた。その(まばたきをしない)大きな眼で、栄三郎の手もとをじっと眺めていて、やがて軽く咳をした。栄三郎はとびあがりそうになった。そこへ誰か来ようなどとは考えもしなかったし、熱中し緊張しすぎていたので、それが石川孝之介であり、無断で入って来たのだと知ると、怒りのために躯がふるえるようであった。\n 二人はお互いの眼を見合った。\n「驚かしたようだな」\n やがて孝之介が云った。\n「驚かすつもりはなかったんだ、しかし本当に驚かされたのは私のほうなんだがね」\n「失礼ですが困りますね」\n「わかっている、話が済めばすぐに帰るよ」と孝之介は云った、「二人だけで話したいことがあるんだ、ごく簡単なことなんだが、角屋には聞かせたくないんでね」\n 栄三郎は筆を下に置き、手の甲で額の汗を拭いた。孝之介は扇子で胸もとを煽ぎながら、皮肉なうす笑いをうかべて栄三郎を見た。\n「このあいだは樋の山で派手な一と幕があったそうだな」\n「それが要談ですか」\n「それだけが要談ではないが、関係がなくもないんだ」孝之介はゆっくりと云った、「あの女はこの土地いちばんの売れっ妓だが、それを二度か三度逢っただけで、さっそく人眼のない山の上へ伴れ出すというのは、いい腕だ、おまけに侍二人が抜刀してかかるのを、きれいに叩き伏せるに到ってはね」\n「あの二人は泥酔していましたよ」\n「しかし侍には相違ないんだ」\n「前後もわからないほど泥酔していました」と栄三郎は云った、「また、あの人たちのためにも断わっておきますが、私はなにもしたわけではない、あの二人は自分で転んだのです、酔いすぎていて満足に刀を振上げることもできなかった、一人が自分の力に負けて転ぶと、他の一人がそれに蹴つまずいて転んだ、それだけのことだったんです」\n「そう云えば、かれらの弁護になるとでも思うのかね」\n 孝之介は面白そうに喉で笑った。まっ白で丈夫そうな歯をみせ、いかにも興ありげな笑いかたで笑った。栄三郎は口をつぐんだ。\n「どっちでもいいが、あの二人とは会わないようにするんだな、あまり出歩かないほうがいい、ここは土地が狭いし、それに、――」と孝之介は一種の表情で栄三郎を見た、「襖絵のほうも競争者が出ることになったからね」\n 栄三郎は相手を見あげた。\n「そうなんだ」と孝之介は頷いた、「これは角屋にはないしょだがね、私の父が家老職という責任上、一人の絵師にだけ任せておくわけにはいかないというんだ、それでもう一人、土佐派の絵師で、――名は云えないけれども、父が古くから知っている者があるので、それにも頼むことになったのだ」\n「そういうことなら」と栄三郎は云った、「私は辞退することにします」\n「自信がないというわけか」\n「不愉快だからです」\n「そうはいかないんだ」と孝之介は首を振った、「もう一人の絵師に頼んだのは念のためで、正式の揮毫者はやはり其許だからね、このことを角屋に話さないのは、角屋が其許に遠慮して、なにか奔走しはしないかと思われるからだ、其許の絵をまもるためにね」\n「たとえば、どういうふうにです」\n「どういうふうにでもさ、――角屋は富豪だし、金のちからは大きいからね」\n 栄三郎はこれは罠だなと思った。孝之介は栄三郎がそう思ったことを見てとった、彼は相手がそう受取るように、話をもっていったようであった。\n「要談はそれだけだが」と孝之介は音をさせて扇子を閉じた、「其許のほうになにか云うことがあるかね」\n 栄三郎は黙って相手を見ていた。孝之介はおうように目礼をし、また扇子を半ばひらいて、それで陽をよけながら去っていった。すると、おそらく渡り廊下のあたりで、それを見ていたのだろう、すぐにおけいが広縁を廻ってあらわれた。\n「ごめんなさい先生」とおけいは済まなそうに云った、「あの人止めてもきかなかったんです、困るからって、母さんがずいぶん云ったのに、勝手にずんずん入って来てしまったんです」\n「いいよいいよ、大したことじゃない」" }, { "role": "assistant", "content": "「どんな用があって来たんですの」\n「話すほどのことじゃないよ」栄三郎はおけいのほうは見ずに筆を取った、「心配しなくてもいいってお母さんにそう云っておくれ」\n おけいはなお、なにか云いたそうであったが、栄三郎が紙に向ったので、そのまま、気遣わしげに母屋のほうへ去った。おけいが去るとまもなく、栄三郎は紙をにらんだまま溜息をつき、筆を投げて立ちあがった。\n「だめだ」と彼は吐きだすように呟き、広縁へ出て庭のかなたを見た、「なにかわけがある、競作をさせようというのはあいつの親ではなく、あいつ自身の企んだことだ、なにかわけがあって、あいつが自分で、――」栄三郎は、ふと口をつぐんだ。\n ――おつるのことか。\n 樋の山の出来事も無関係ではない、と孝之介は云った。そのことがいまはっきりと栄三郎の頭にうかんできた。するとにわかに、彼はおつるに逢いたいという衝動に駆られ、まるでうしろからせきたてられでもするように、そわそわと着替えにかかった。\n\n八\n\n おつるはもう他の座敷へ出ていた。桑名屋にも昼から客があり、栄三郎は階下の暗い六帖へとおされた。同じような小座敷の並んでいるいちばん奥で、縁側から三尺ほど隔てて檜葉の高い生垣があり、その向うは路次に沿って小さなしもたやになっているらしく、子供の駆けまわる声などがま近に聞えた。――おさとは南側の窓をあけたり、縁側へ簾を垂らしたりしながら、此処は暗くて狭いけれども、二階のように屋根の照返しがないし、冷たい風が入るから案外涼しいのだ、などといった。\n「ほんのひと足ちがいでした」とおさとは気の毒そうに云った、「今日はいらっしゃるに違いないって、お午ごろに来たまんまお帳場で遊んでいらしったんですよ」\n「当分来ない約束だったんだ」\n「あんなこと仰しゃって」おさとは、なにもかも知っているというふうに笑った、「――昨日もおとついも来て、いらっしゃらないかしらってずっと待ってらっしゃいましたわ、今日も帰るときに、もしいらしったらすぐ知らせてくれ、できたらぬけてでも来るからって、諄いほど念を押していましたわ」\n「もういいよ、酒を持って来てくれ」\n 栄三郎は団扇を取って窓のほうへ寄った。\n 樋の山へいった日のことであるが、桑名屋へ戻って飲みながら、おつるのほうから卒然と「暫く逢うのはよそう」と云いだした。栄三郎も頷いた。相手はにんきしょうばいであるし、二人で山歩きなどしているところをみつかったのだから、暫くほとぼりを冷ますほうがいい。そう思って、当分は来ないからと約束をしたのである。幸い本下絵にかかったので、どうやら気は紛れていたようなものの、逢いにゆきたいという気持を抑えることは、相当な努力であった。\n「――自分で云いだしたのに」\n そう呟きながら、栄三郎は窓に倚ったまま、ふとべそをかくような顔つきをした。その南側の窓の外もすぐ板塀で、板塀の向うは隣りの家の裏とくっついており、厨で炊事でもしているのか、板塀に沿ってしきりに煙がながれていた。\n「お待ちどおさま」おさとが膳を運んで来て云った、「おつる姐さんの云いつけで、ほかの芸妓衆はどなたも呼んではいけないっていうことですけれど、ようございましょうか」\n 栄三郎は「いいとも」と答えた。\n 問屋筋と船の客が五つ組あるそうで、おさともおちついて坐ってはいられず、栄螺さんのほかには小女が二人いるだけだったから、栄三郎は殆んど独りで飲んでいた。――日が昏れてまもなく、二階の座敷があいたと知らせて来たが、もう酔って面倒なので、おさとが移ろうとすすめるのを、そのまま飲み続けていると、やがて八時ちかい頃になっておつるがあらわれた。また例の(男の子が歩くような)足つきで手を振りながら縁側へあらわれると、ちょうど酒を替えに来ていたおさとに向って、片方の手をひらひらさせ、\n「いいわおさとちゃん、あっちへいって」\n と命令するように云った。\n 栄三郎はおつるの顔を見ていた。縁側へあらわれたときから、ずっと黙って見まもっていたが、おつるは彼のほうは見ようともせず、おさとが、なにかふざけたようなことを云いながら去ってゆくと、初めてこちらへ眼を向け、そうしていきなり彼にとびついた。栄三郎は支えようとしたが、全身でとびつかれて支えきれずおつるを抱きとめたままうしろへ倒れた。\n「どうするんだ、柔術の稽古かね」\n 彼はそう云って起きようとしたが、おつるは上から重なってしがみついたまま、躯をふるわせて泣きはじめた。しっかりと押付けた彼女の頬から、なま温かく涙が自分の首筋を濡らすのを栄三郎は感じた。おつるは固くしがみついた手で彼の躯を揺すり、ううっとしゃがれた泣き声を喉でころしながら、さも苦しげに身もだえをした。\n「なにかあったのか」栄三郎が訊いた、「なにを泣くんだ、どうしたんだ」\n おつるは答えなかった。暫くして泣き声が鎮まり、大きく二度、溜息をついて、栄三郎に背を向けて起きあがり、まだしゃくりあげながら涙を拭いた。なにかいやなことでもあったのか、栄三郎も起きて坐り直しながら訊くと、黙って頭を振り、彼のほうへ振向いて恥ずかしそうに笑った。\n「おどろいたね」と栄三郎が云った、「酔ってるんだな」\n「ずいぶんながかったわ」\n おつるは膳のほうへ寄りながら云った。もともとしゃがれ声のうえに泣いたあとなので、その言葉はひどくかすれ、殆んど聞きとれないくらいだった。\n「もういらっしゃらないのかと思ったわ」\n「わかってるじゃないか」栄三郎は盃を取った、「あんな約束をしたばかりだし仕事があったから、がまんしていたんだ」\n「毎日、待っていたのよ」おつるは彼に酌をし、手早く自分の盃にも注いだ、「――逢いたかったわ」\n 栄三郎はぎゅっと眼をつむった。短いそのひと言が、まるで鋭利な刃物かなにかのように、彼の心のまん中に刺し込まれたという感じである。彼は盃を口へもってゆきながら頷き、それから低い声で云った。\n「頼むよ、どうかそれを云わないでくれ」\n「あなたが悪いのよ」とおつるが云った、「あなたが初めにいらしったのが悪かったのよ」\n「それだけじゃない、たとえ私が来たにしろ、おまえが私の座敷へあらわれなければよかったんだ」\n「ふしぎね、この家へはあんまり来ないのに」とおつるは云った、「久しぶりにお座敷があって、お客さまが帰ったからお帳場で遊んでいたの、ここのおかみさんとは古いお友達で、来ると自分の家みたいにしているし、おかみさんのほうでも遠慮がないから、ちょっともう一つお座敷を手伝ってちょうだいって云われたのよ」\n「それなら悪いのはおかみさんじゃないか」\n「あたし三度もお礼を云って笑われちまったわ、ね、――」とおつるは膝で栄三郎のそばへ寄った、「生れてっから初めてよ、こんな気持、本当に初めて、嬉しいわ」\n そして強く栄三郎の手を握った。\n 四半刻ばかりそんなふうにしているうち、おつるは急に立ちあがって「海を見にゆこう」と云いだした。栄三郎もすぐに立ち、そこの縁側から庭下駄をはいて、三尺ばかりの狭い庭を生垣に沿ってゆき、裏木戸をあけて外へ出た。\n「断わらなくってもいいのか」\n「あとであやまるからいいの」\n おつるは「こっちです」と云って、暗い路次を足早にぬけていった。\n 夕凪ぎの時刻が過ぎて風が出ていた。どこをどうゆくのか栄三郎にはわからない、少し広い横丁には燈火が明るく、軒先に縁台などを出して、涼んでいる人たちの姿が見え、二人の歩いてゆく暗い裏道でも、浴衣がけで団扇を持った男女とすれちがったりした。――栄三郎にはおつるに訊きたいことがあった。彼は師の宗渓と遊んだ経験で、こういう世界の女は誰かの世話にならなくてはやってゆけない、ということを知っていた。売れっ妓は売れっ妓なりに、ただ座敷を稼ぐだけではやってゆけないような、巧みな仕組ができている。土地は変ってもそういう点には変りはない筈で、おつるにも世話をされる人がいるであろう。それは初めから予想していたが、今日の石川孝之介の態度で、それが孝之介自身ではないかという疑念をもったのである。\n「ねえ、――」と栄三郎は囁くような声で云った、「おつるにはもう、誰かいるんだね」\n おつるは立停った。そこは竹藪と松林に挾まれた、まっ暗な道の上でちょうど海のほうへと曲る坂のおり口のところであった。\n\n九\n\n おつるは暗がりの中で彼をみつめ、「ええ」と低くあいまいに頷いたが、すぐ思い返したようにさばさばと云った。\n「旦那でしょ、そりゃあいますとも、子供もいますわ」\n「子供もいるって」栄三郎はちょっと信じかねた、「しかし、それならなぜ、――どうしてまた座敷へ出たりなんぞするんだ」\n「だって好きなんですもの、あたし芸妓が好きなんです、家に引込んで糠味噌臭くなるなんて性に合わないんです」おつるはこう云うと喉の奥で笑った、「さあいきましょ、この坂をおりると海よ」\n そしてぱっと裾を蹴りながら、いっさんに坂を駆けおりていった。坂は長くはないが、かなり勾配が急で、おまけに岩がごろごろしている、栄三郎がその岩を一つ一つ踏むようにおりてゆき、下の砂浜へ出たと思うと、おつるが汀のところで叫びたてた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n\n長き日の黙の久しさ 堪へ来つゝ、このさ夜なかに、一人もの言ふ\n人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ\nひそかなる心をもりて をはりけむ。命のきはに、言ふこともなく\nゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり\n山岸に、昼を 地虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり\nこの島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ\n静かなる ひと日なりけり。日ねもすに 心ねもごろのふみを 書きたり\nあやまたずあらしめし かのをみな子も、かつ〴〵 我を 忘れゆきけむ\n青空の うらさびしさや。麻布でら 霞むいらかを ゆびざしにけり\n\n\n その日の帰りに、迢空は私を送るために山小屋から、雨でつぶれ川になった山道を一緒に下りた。真中が掘られた山道はがらがらの小石と泥で、飛び飛びにぬかるみを避けて歩かなければならなかった。\n「あの男の歌は全部はったりですよ。はったりを取ったら何ものこりはしませんよ」\n 迢空はこの人には、まれに見る激しい口調でそう言い、心の憤りが足もとに勢いづいて、石を避けてがつがつ歩いたが、足もとが危なかった。ふとした話で私は迢空の怒りというものを見たのだ。\n この山小屋から町への買物は、伊馬春部が送ってくれた自転車で岡野がしてくれる、自転車は町の入口に預けてあるという話であった。愛弟子で私の知っているのは小谷恒、伊馬春部、岡野弘彦、加藤守雄、小笹功、藤井春洋くらいだった。それらの愛弟子は、ことごとく眉目清秀の人達であり、終生妻というもの、女というものに近づかなかった迢空は、わかい男のこちこちした頬の、そのこちこちの中に何時も愛情をおぼえ、とりわけ従順とか反抗を読みとることで、女にあるものよりも、もっと手強いくらくらした眩暈状態のものを愛していたらしかった。\n\n 藤井春洋はそのもっとも愛された人、藤井春洋は二十三の時から硫黄島で戦死するまで、迢空の身の廻りや雑誌社出版社、講演、金銭の出入れまで、迢空のいうままに仕事をし、二人は兄弟のように仲善く、或る時はわかい二十三の妻と、四十二歳の男とが暮らしていたのである。藤井春洋は眼は大きくいきいきしていて、頬はいくらかあお白く色の変らない、がっしりした体格を持っていた。講演、講義、町の食事、歌舞伎、調査旅行の何処にも藤井は連れ立った。\n 死歿十何年か前、軽井沢の私の家に、二人で牡蠣を貰ったからといい、牡蠣を籠に入れ、竹竿の真中にそれをぶら下げて、よいしょ、よいしょとかついで搬んで来たことがあった。私に牡蠣をくれる事よりも二人でかついで来たことが面白かったらしく思えた。藤井の頬ははずんで女にも見られるこちこちが、そのこちこちのゆえに歯がゆげな爽快があった。\n またの別の日、迢空の使で藤井は私の東京の家に、その著書を度たび、とどけてくれたことがあったが、その折は先生とは言わずに、折口があがるはずですがといい、折口と呼びすてであった。\n またのある日、京浜電車の中で迢空と会ったが、やはり藤井の白い顔がそばに連れ立っていて、それは此方へと何かの包みを藤井が迢空の手から、持ちかえていた。\n また別の日にはすぐ折口があとから来ますからといい、藤井は私の家の庭にある縁台に腰を下ろして待っていた。手を膝の上に置いて庭に眼をやる藤井は、二重瞼が大きく開けていて大きな娘さんのように見えた。\n 昭和十六年十二月、迢空は藤井が入隊するので、第九師団のある金沢まで送って行った。七聯隊は兼六公園とならんでいて、兵隊は石川門から入隊していたが、身動きも出来ない入隊者と見送人の間を、このただならぬ愛弟子と先生が人にもまれながら戦雲此処にも漂うかと思える、混乱の中をじりじりと兵営に向って歩いていた。迢空は入隊前からもそうだが、今もこの藤井がそばにいなくなるということが、自分にどういう空っぽな日々をおくらせるかということを、周囲の群衆がざわめく程、痛切に感じた。藤井はむしろぽかんとした睡眠不足の眼を、何処に何を見ているかも自分で判っていない風で、やはりじりじりと人に押されて歩いていた。この年の遅い雪が兵営の屋根の上にちらつき出している......。\n 正午近く藤井は兵隊服を窮屈に裸になって着替え、迢空は襟元を引いてやり、そしてズボンをすぐはけるようにひろげて差し出すと、不機嫌になっている藤井は邪険にそれを引きたくり、僕は一人で着ますよ、打棄って置いてと変った声音で叱った。それは度たび叱ることがあるので、迢空はすぐ着なれてしまうよとばつを合せていってみたが、藤井は塩からい眼に悲しそうな容子を見せまいとして、兵隊服なんかに着なれてたまるもんですかと言い放った。しかし陸軍少尉の制服ははじめて迢空の眼に、映画に見る好ましい外人部隊のある一士官の恰好を捉えることができた。肩章にある二つの金色の星は、いつも著書の背中に金文字を愛するかれに、好感と、りりしさを与えてくれた。\n 藤井はやはり怒った顔付だったが、さすがに迢空がたたむ背広の生あたたかい服を自分でたたんで、それを風呂敷に包みこんだ。まもなく点呼の時間が来て迢空は包みを提げ、藤井は広場の点呼場に去った。迢空はもとの石川門から公園の土手に登って、もみじの濡れた落ち葉にうつる空と雪とを見て、それを踏んで公園の坂を下りて行った。かれの抱いた虚しさは展がる一方であり、召集されるということは同時に戦死することに間違いない、そのころの日本人のいのちの約束事だった。だから藤井の死を見送ると同じ意味なのだ。\n だが、翌年藤井は召集から解除され、十二月に退営、迢空はこれを迎えに長時間の、その頃の混乱した列車に乗りこんだ。かれの心にふたたび倖せが展がり、虚しいものが消え失せた。公園わきの小立野に宿をとった迢空は、藤井と冬の兼六公園を歩き、町を歩き、料理店で蟹料理、鱈の料理をたべ、迢空の不思議な愛情は藤井の大きい眼にそそがれ、藤井は迢空の眼が危なくなると、炬燵から出て少し大声になって言った。\n「こんど召集されたら硫黄島あたりで、お陀仏ですよ、まるで命を誰かに吊られているようなものだ。」\n 金沢の愉しい三日間は過ぎた。翌年か翌々年かに藤井はふたたび金沢の兵営に入隊、迢空は例の長い列車に乗り込んで金沢まで付添うて行った。わかばの兼六公園は美しかったが、こんどは本物の戦地行きに決まっていたので、迢空はぞっくり心の肉をくい取られ、前の年と同じ生温かい藤井の背広をつつみ込んだ風呂敷包を提げ、兵営を出て公園の坂を下りた。迢空はむなしい考えの中で藤井春洋を養子として、籍を入れ、愛情のうえに法律というものを取り入れることに、ふしぎな熱意をおぼえた。かれが詩の作為に古語をちりばめるくせが、この人事のうえにも現われて来たのだ。かれは法律に好意を感じたのはこの機会ばかりであった。\n 藤井春洋は昭和二十年三月、四十歳で硫黄島で戦死した。その前年、昭和十九年七月、春洋硫黄島着任直後、七月二十一日に迢空は藤井を養子として入籍したのである。十七年間にわたるいたいけな一文学博士折口信夫と、歌人藤井春洋の世にもまれな愛情生活がここで、おわりを告げた。能登の浜べに「折口春洋ならびにその父信夫の墓」と誌された二人の墓が相ならんで築かれ、「人も馬も道行きつかれ死にゝけり」とうたったそれが、迢空自らのうえにも加えられていた。これを書く私にすらいずれは来るはずのそれを、いか様にしても人間は拒むことが出来ないのだ。\n\n\n\n新盆\n\n 盂蘭盆会 近づきにけり―。\nしづかなる空に むかひて\nなげきせむ我と 思ひきや―\n(中略)\nわが子は つひに還らず―\nわが子を いつとか待たむ―。\nわが子の果てにし 島に、\n しづかなる月日経行きて、\n そのあとも今は 消ゆらむ―。\n\n日曝しにさらす 毛ごろも\nありし日の汝が服見れば、\n 染め深き青鈍色も\nかくならむ兆の喪の色―。\n かくなりて 何か思はむ。\n" }, { "role": "assistant", "content": " 盂蘭盆の棚をつくりて\n 供へたる野山の物の\nあな寂し 色ぞ花やぐ―。\n芋 瓜の牛馬つくり\n 我ひとり見つゝぞ 笑ふ。\nあまり 拙劣に―\n\n反歌\n\n都べの盆の月夜の 身に沁みて苛き 暑さを ことしさへ在り\nはるかなる島べの土の、目にしみて 我はおもほゆ。盆の月夜に\n\n\n 折口家にひとりの美しい中年の女の人が、だいぶ以前から仕えていた。神式の葬礼の日に彼女は化粧はしていないが、面長で血色の好い口かずもすくなげなその女の人が、茶とか座ぶとんとか色紙類とか、門人が品物の在りかを聞くと直ぐうなずいて、それに応えて品物を取り出すふうは折口家に親しい間柄に見えた。お手伝によそから来た人でないことは、着なれた着物がふだんのままに、からだをつつんで馴染んでいる様子にうかがわれた。\n あの女の人は誰でしょうかと小谷恒に聞くと、あの人は迢空の身の廻りを十年も気をつけて来た人で、女中代りにはたらいていて、歌も作る京都の生まれの人だといった。先生はあの人をばあやと呼んで、相当、気難しくつかっていられたが、あの人は無口で永く感心に仕えてくれたと小谷恒はいった。年若い男が絶えず迢空のそばにいて、その若い男と睦じく暮らしている毎日を、この美しい女中さんはどういう眼で眺め、どういう女気で何物かを察していたろうかと、私は神主が弔詞を読み上げるとしおしおと泣くこの人を、泣く人という言葉どおりの重さで眼にいれた。文学博士折口信夫は女の人には眼もくれない人ではない、かえって普通の人よりも純度が高く鋭い見立をしていた。私の家に来て病妻を見るとすぐ言われた。あ、あなたは童女に変りましたね、と。そういう鋭さを持つ迢空は、この十年も仕えるまだ若い女人を、ばあやと呼び、時にはしゃれて、おばばと古言葉で呼んで優しくはあったろうが、この人を女と見ることはほとんどなかったと小谷恒はいった。\n この女の人は迢空死後、十万円の手当を遺族から貰って、京都の生まれ在所に戻った。私はさめざめと泣いていた人を、折口家の梅の木の見える背戸近い縁側で見てから、むかしの古い人、泣くだけしか迢空にやれなかった血色の好い女の人を、その後どうしていられるかを思った。この情景はこまかく物を見る迢空の、ただ一つ見落したしおしおとした女光景であった。\n\n 愛弟子藤井春洋は、近眼鏡をかけていた。近眼でもあり実用的にかけていたのであろうが、迢空は自分でも眼鏡をかけていて眼鏡が好きであったらしい。誰でも愛する人の眼を眼鏡の冷たい光の間に見ることは、一段ときらめいて変った眼が見られるから好きなのである。若い小谷恒にも迢空はよく眼鏡をかけるように言い、小谷恒はなかなか眼鏡はかけなかった。理髪店に行くたびに迢空は髪を長くしてはいけない、理髪店の美学をそのまま受けとって眉を作るとか、むやみに髪を変に分けたりなぞしないように、しつこく注意をした。迢空はまだ四十二、三歳であり藤井もいた折口家では、若いお弟子はたいてい少々長めのざんぎり頭だった。迢空がざんぎり頭を愛したのは、年が若く見え、少年の風采を髣髴させたいからであった。\n ある日小谷が理髪店から戻って来て、髪も長めに刈って分けているのを見ると、迢空は憤然として机の曳出しをがたぴしやり、一梃の鋏を手にもつと縁側に出て突っ立って言った。\n「わしがあれ程短かく刈って来い言っているのに、きみは聞き分けんのか、此処へ来い、わしが刈ってやる。」\n 当時コカインを鼻に注入していて、頭のメイセキをもとめていた迢空は、少し中毒気味で錆びた鋏の先を震わして、上方訛で呶鳴った。\n「理髪店が刈っちゃったものを、どう言いへん。」\n「理髪店の言いなりになる阿呆があるか、此処にきちんと坐った。そしてタオルを膝にあてるのだ。」\n 迢空はひとつまみずつの髪を、指の先ではね上げるとざくっと刈り、また、ざくっと切り、こんどは調子にあぶらが乗って、ざくざく勢いこんで刈って行った。小谷恒は眼をとじていた。一旦、こうと言い出したら、やらさねばならんと覚悟を決めていた。刈った落ち髪はタオルの上を黒々とそめて来た。迢空はそれらの髪をこんどは細かく揃え、鋏を立てて整えた。\n 頭髪刈りを終えると、迢空はまたコカインを仰向けに鼻孔に注しこみ、小谷恒は湯殿に頭を洗いに下りた。二人はもう何にも言わなかった。呼吸をはずませた迢空は、それを鎮めるためにじっとしていて、小谷恒が洗って来た頭を見ることがつらそうであり、そんな迢空の我儘は極めてさびしいものに算えられた。そして急に迢空は小谷の機嫌を取るために、軽快そうな用事を頼んでそれで気を紛らせようとしていた。\n 迢空はもう一つ小谷恒に、ほとんどせがむように言い、小谷恒はそれを何時も聞きすてにしていることがあった。それは最初はただ、小谷も眼鏡をかけるといいということであった。次には君に眼鏡はきっと似合うと言って、自分の眼鏡を外してこれをかけて見たまえと、小谷がそれをかけて見せるとよく似合うと言い、そして君も眼鏡をかけろというのである。例によって一旦言い出すとそれを停める人ではない、自分で素透しの硝子玉と、銀ぶちの眼鏡を買って来て、今日からこれを架けるのだと言う。\n 小谷恒は度の強い眼鏡をかけ、ある夕方遅く、迢空とつれ立ってお菜を買いに出かけた。ふだん迢空の眼のとまらない処で、小谷は眼鏡を外していたが、一緒に町に出るのには、眼鏡をかけないわけにはゆかなかった。大井町出石の裏町を二人は南京豆を噛みながら、迢空は下駄をがらがら引き摺って歩き、小谷は眼鏡のせいで道路の面が、波打って見え、奇体な歩き方をして行った。突然、裏町の角で懐中電燈の光がさっと迢空の顔を射りつけ、迢空はこの無礼な男と対い合った。この男は警察の者で不審訊問に引っかかったのだ。迢空は他人の顔を懐中電燈で照らす奴があるかと言ったが、刑事は君達は何処かで喧嘩でもして来て、怪我をしているのではないか、変な歩き方をしている、隠さずに言えと来た。一人は下駄を引き摺り、一人は極度の眼鏡のせいで道路が凸凹に見え、ひょろついて歩いているのだから、何処から見ても変な恰好に違いない。\n 迢空は名刺を帽子の裏側からつまみ出して、この無礼な男に渡した。この無礼な男は何々大学教授と書いた名刺を永い間懐中電燈の明りで見入ってから、こんな大学があったかな、ついおれは聞いたことがないと言って、更に疑義に堪えざるふうに言った。\n「それにしても大学教授ともあろう人が、今頃晩のお菜を買いに出るということは可笑しいじゃないか。」\n「大学教授だってお菜は買うさ。」\n 小谷恒は眼鏡をぴかっと光らせた。\n 迢空は眼鏡がこの場合役立ったと思った。二人とも眼鏡をかけていなかったら、もっと変な男に思われたかも判らない。\n 迢空はとにかくわしの家まで尾いて来て、人物をたしかめろ、と言い、刑事はのろのろと尾いて来た。小谷はこの騒ぎの間に眼鏡を外したが、足もとが明るくなり良く見極めがついてしゃんと歩けた。刑事はこの足もとをまた不思議そうに見入った。家の近くまで来ると、刑事は、あ、この家の先生でしたかと言って、ぐずつくと此方が危ないと見え、さっさと引き上げて行った。\n 翌々日、出講の学校の階段で、小谷は迢空のうしろから登って行ったが、階段が凹凸に見え、踏み外して転がり墜ちた。迢空はその原因が眼鏡にあることを知ると、階段下で、低い声で耳のそばに来て言った。\n「階段を登るときは君、眼鏡を外さないと危ないぞ。」\n\n\n\nきずつけずあれ\n\nわが為は 墓もつくらじ―。\n然れども 亡き後なれば、\n すべもなし。ひとのまに〳〵―\n\n かそかに たゞ ひそかにあれ\n\n 生ける時さびしかりければ、\n 若し 然あらば、\n よき一族の 遠びとの葬り処近く―。\n\n そのほどの暫しは、\n 村びとも知りて 見過し、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 應仁元年に四十八歳で明に渡つた畫僧雪舟が大陸に見出したものは、その大きな破壞の過ぎた跡で、そこには江南に發達した宗教と藝術があり、遣唐使時代の昔に思ひ比べたら、全くの別天地ではなかつたらうか。\n\n いろ〳〵書きつけて見たいことは多く、文藝上の近代のはじめを足利時代に置き、支那より禪僧雪舟なぞの歸來するに及んでロマンチックな一新時代の開けて來たのがその近代のはじめであるとする岡倉覺三の意見も紹介したく、徳川中期から明治年代へかけて明清あたりの先入主となつた大陸の影響で東洋的なもののすべてを推斷するのは避けたいことなども語りたいと思ふが、こゝには盡せない。\n\n第三の眼\n\n 古い佛像に、眼を三つ具へた相好のものがある。どういふ製作者があゝいふかほかたちを考へ出して、それを佛像に刻んだものか知らないが、一つの眼は眉間のまん中から上に縱について、額のところに光つてゐる。ちよつと考へると、氣味の惡いものだ。何か怪物の異相のやうにも思はれるものだ。しかしさうでない。あの眼こそ、第三の眼といふものであらう。それを形にあらはしたものであらう。\n 愚かなものでも、第三の眼を見開くことが出來る。だん〳〵この世の旅をして、いろ〳〵な人にも交つて見るうちには、いつの間にかあの眼で物を見ることが出來るやうになる。あの眼は、いつたい何を見る眼か。\n\n若葉して御眼の雫ぬぐはばや\n これは芭蕉が奈良の招提寺を訪ねた時の吟である。翁が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌の浦の方を𢌞つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃であつたといふ。その招提寺に翁は鑑眞和尚の像といふものを拜んだ。翁が『雫ぬぐはばや』と吟じたほど心を打たれたといふのも和尚の眼であるが、この眼がまた、たゞの眼とも思はれない。そのことをこゝに書き添へる。\n『笈の小文』といふは、その折の芭蕉翁の紀行である。その中に、『招提寺、鑑眞和尚來朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御眼のうち鹽風吹き入りて、終に御眼盲させ給ふ』とあるのが、それだ。鑑眞和尚の傳記によると、實際は日本への航海の途中に失明したものでもなく、和尚がこの國へ向けて出發する以前に、この準備を心掛ける頃にすでに盲目の人であつたといふことである。おそらく、そのまぶたのぬれない時はなかつたほど、涙の多い生涯を送つた人とも思はれるが、一方にはその盲目が反つて物を明かに見る別の眼を見開かせたであらう。\n\n交通の變革が持ち來すもの\n\n『舟の上に生涯を浮べ、馬の口をとらへて老を迎ふるものは、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。』\n『奧の細道』を讀んだほどの人で、この昔の教師の言葉から旅の意味を教へられなかつたものはあるまい。背に雨具、筆、墨のたぐひ、あるひは夜の防ぎにもと紙布、ゆかたの類までも用意して百里二百里の道を踏んだといふ頃にわたしたちの心を馳せるとしたら、そして初しぐれの來る季節を想像し、山茶花なぞの咲く宿々を想像するとしたら、旅人と自分の名を呼ばれようと言つた昔の人の姿がおのづとそこに浮んで來る。\n\n 朝を思ひ、又夕を思ふべし、とか。昔の人に取つてこそ、旅も修行ではあつたらう。前途百里の思ひに胸が塞がると言ひ、日々の道中に雨風を厭ふと言ひ、旅は九日路のものなら十日かゝつて行けと言ふほどにして、思はず荒く踏み立てる足まで大切にするやうな昔の人の心づかひは、今日旅するものの知らないことである。思へばわたしたちの踏む道は變つて來た。多くの人に取つて、旅は最早修行でもない。電車、自動車は一ト息にわたしたちを終點地へと運んで行く。今のわたしたちには、雨具を背にする必要もない。笠を日に傾け、夜の防ぎとなるものを肩に掛けるやうな必要もない。わたしたちはひたすら前進する力の速さをたよりとして、目的とするところへ到着することをのみ考へるやうになつた。\n\n 今のわたしたちの周圍には、動搖のうちに靜かに立つものがないでもない。波の上にある舵手、海岸にある燈臺守、鐵道の側にある線路番人、町にある交通巡査なぞがそれだ。これらの人達の信號や相圖を必要とするほどに、わたしたちの旅は急がしく、めまぐるしくなつて來た。わたしたちは必要に應じて、實に瞬間に物を見定めたり、判斷したり、決定したりしなければならない。\n\n こんなにわたしたちの生活は變りつゝある。わたしたちが現にこの世の旅から學ぶものは、これを過去の人達に比べたら、何といふ大きな相違だらう。\n" }, { "role": "assistant", "content": " 金錢は重要な交通機關ではなからうか。わたしは金錢の本質をさう考へるやうになつた。言語もまた重要な交通機關ではなからうか。わたしは言語の本質をもさう考へるやうになつた。交通の持ち來す變革がこんなことをわたしに教へた。\n\n町人蜂谷源十郎の覺書\n\n いつぞや郷里の方へ歸つた折に、八幡屋といふ家に殘つた古い町人の覺書を見つけた。今の八幡屋の當主は村醫者であるが、その先祖は通り名の蜂谷源十郎で知られた地方の町人であつた。わたしが見つけた覺書は、その二代目蜂谷源十郎の殘したものである。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。\n\n わたしの郷里の方のことで言つて見ても、純百姓の家に殘つてゐる古い記録はあまり見當らない。彼等にそんな暇がなかつたためかと言へば、さうばかりとは思はれない。農閑期といふものもある。彼等に文字がなかつたためかと言へば、これまた、さうばかりとは思はれない。彼等の中には百姓總代なり組頭なりとして、隨分宿村の相談にあづかり、相應に文字を解する人はゐた筈である。こんなに百姓が書いたものを殘さないといふは、全く彼等のたづさはる仕事の性質によることであらう。多くの百姓は僅かに古い小遣帳ぐらゐを殘し、その長い苦鬪の歴史をも、土に親しんで見た多年の經驗をも、或は老後の思ひ出をも、あまり筆にはしなかつたもののやうである。\n そこへ行くと、町人の中には隨分筆まめな人もある。わたしの郷里も今では全くの農村であるが、以前は東西交通の要路とも言ふべき街道筋に當つてゐたから、その驛路時代に三十歳の頃から七十二歳の晩年まで、四十年間殆んど一日も缺かさずにと言つていゝくらゐの日記を殘した町人もある。これは百姓と町人との生活の相違によることは勿論であるが、一つには彼等町人が帳場格子の前に坐り、帳面をくりひろげ、硯箱を引き寄せ、自然と筆に親しむ機會も多かつたところから來てゐよう。今から百四十餘年ほど前に、蜂谷源十郎の殘した覺書も、やはりさうした町人の手に成つたものの一つだ。\n もとより、これは一町人の覺書に過ぎない。然し源十郎がその子に宛てたもので、他人に見せるために書いたやうな性質のものではない。それだけ本當のことも出てゐて、徳川時代に於ける町人が私生活の奧も窺へるかと思ふ。半紙二つ折りの横綴の古帳に、事細かく、當時流行つた御家流の書體で達者に書きしるしてある。天保三年、源十郎五十歳の頃の覺書である。\n 源十郎は先づその子に宛、先代の隱居のことを語つてゐる。八幡屋の普請をはじめたのは、その年から數へて二十五年前、すなはち寶暦七年のことで、當時隱居は六十五歳、二代目源十郎としての彼が二十五歳の時であつたと言ひ、それから土藏、米倉、小屋、その他の建物を造るためには五六年の間かゝつたが、それらを成就するまでの隱居の辛勞は日々しばらくも彼には忘れられないと語つて見せてある。\n この源十郎に言はせると、彼は兄弟四人の末子に生れた。もと〳〵馬籠(わたしの郷里)なぞは至つてひどいところで、古から困窮な宿であつたから、有徳者と言へるほどの者なぞ一向になく、彼が子供の時分に一分か二分の金を借りるにも隣宿の妻籠か美濃の中津川邊でするくらゐのところで、中津川備前屋の親仁伊左衞門なぞは師走の月にでもなると馬籠下町の紋九郎方に來て十日あまりも滯在し、町中へ小貸しなどして、それで漸く宿内のものが年の暮の始末をしたやうなところであつた。隱居の咄にはよくそのことが出た。さういふ土地柄で隱居は四人も子供があつたから、心勞も一通りでなく、それに馬籠は街道筋といひながら町並の家居も惡いところだから、どうかして家を建て直したら旅人の泊り客も多からうとの考へから、その經營に取りかゝつたが、さて、その建直しを成就しようとなると古金で六十六兩の借金が出來た。これは大借ではあるが、まだその頃は隱居も四十になるやならずのことであり、なにとぞして精出し、神佛に非禮な行ひもしなかつたら、志の成し遂げられないこともあるまいと考へ、子供をも路頭には立てまいとの念願から、更に隱居の奮發となつた。言つて見れば、山家での朝の草刈りも、青草を見かける頃から、九月、十月の霜をつかむまで、毎朝二度づゝは刈り、晝は人並に農業を勤め、晩は泊り客を第一にした。その間には、すこしづゝ米商ひもして、殊に八幡屋は蜂屋から分れた家ではあつたが、その元をたゞせば一旦打ち絶えた宿役人の家柄ででもあつたと見えて、年寄役をも勤めた。そんなところから隱居は出發して、漸く彼源十郎が少年と成つた頃にはすこしは勝手も𢌞り、ます〳〵隱居の精出したことは彼もすこしは見覺えてゐると言つてある。\n こんな境涯の中で、四人目の彼への心當てなぞは思ひもよらないことであつた。彼はそれを言つて見せて、それでも兄弟は追々と一人づゝ片付き、末子の彼までが町中に家を持つ迄の隱居の辛苦は、なか〳〵言葉にも筆にも盡しがたいものがあつたといふ。馬籠なぞでは、代々總領は親の仕來つたやうに、百姓は百姓、駕籠かきは駕籠かき、それも長男と生れたもののみが親の仕事を繼げるのであつて、次男からは十三四歳の頃より奉公し、二十四五歳にもなつて己が引き合ふ女房も出來る頃には、自前で漸く賃取り仕事にもありつくやうなものであるが、末には我が生地にも居られないで、後に雲助となつたものもこれ迄には數多くある。のみならず、親の心からは、相續の子よりも反つてさうした次男三男の方に一段の不便も増さう。それを思へば、一生親の胸を傷め、かた〴〵不幸なものはその數を知らない。たとへ實體に勤めたところで、彼の如く末子に生れたものは、成身しても七里役(飛脚)か、馬追、駕籠かきと極まつた身分の時代にあつて、兎にもかくにも彼は例外の仕合せを兩親の側に見出した。しばらくもその冥加を彼が忘れたら、生れ得たまゝの馬追か駕籠かきで生涯を終るか、それも恥づかしくなれば遠國へでも走り、非人乞食の仲間入りより外なかつたであらう。そこまで源十郎は覺書に書いて來て、更に『その方ども』といふ昔風な言葉でその子に呼びかけ、お前達はその末子の自分の子供で、言はゞ末の末のものである。東西を知る頃より草刈奉公にも遣はすべき筈のところ、隱居の御蔭で、われらが身分にも過ぎた成し下され方といふものである。冥加のほども恐ろしい。自分としてはしばらくもそのことを忘れないが、元來お前達は得生もすくなしのくせに、口悧巧で人に出過ぎ、殊に馬籠は人少なのところゆゑ、われら如きのものまでが宿方の役人を勤めるところから――尤も、自分としては、日々わが身の『俗生』を顧みはするものゝ、自然と人の敬ふにつけて自分等の本を忘れ、兎角人目にあまることは、漸くこの五十の歳に及んでそれを知つたとも言つてある。\n 源十郎は又、すでに他へ縁付いてゐる娘のことをも、この覺書に書き添へることを忘れなかつた。\n『その方どもは、わけて女子兄弟とては一人のことにて、殊に母早世ゆゑ、成身に隨ひ追々便りなからんと、われらとても一入不便にぞんじ申し候。縁付き候ても子持ちのことにこれあり、且は年頃にても女子は親の家へ遊びに參るを樂みにいたし候よし世間にてほゞ承はり候へども、母なきところにては是等のこと一人の娘不便の事に候。なにとぞ、兄は兩親に成り替り、隨分目をかけ呉れ候やうにとぞんじたてまつり候。たとへ、一段不便をかけ候ても、兄は姉程には心安くなきものに候へば、これらのところをも考へ、たゞ何事も神佛ならびに先祖の御蔭によることを思ひ、しばらくも冥加を忘れず、御禮申し、家業第一に相勤め申すべく候。』\n この覺書の末には、折ふしは兄弟うち寄つて慰みにこれを一覽するがいゝといふやうな、優しい言葉も殘してある。\n\n 源十郎がその子に殘さうと思ひ立つた覺書は長いこと心掛けたものらしく、明和九年、彼が三十九歳の頃に、すでにその下書をつくりはじめ、五十歳の頃になつて更に筆を加へた部分もあるらしい。それほど彼は初代八幡屋の父が出發當時のことを忘れさうな子孫の末を案じたらしく思はれる。\n それから三年後、天明六年の六月十二日の日附で、彼は今一通の別な覺書をつくつた。『御隱居御存生の中の御咄あらまし覺書』として、やはり前のものと同じやうな半紙二つ折りの横とぢの古帳であるが、それには、\n『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にて隙に候間、覺書いたし候――源十郎五十三歳記す』\n とある。これを見ても、二代目としての彼は父の隱居の仕事を幾倍かにひろげ、五十三歳の頃にはすでにかなり大きな造り酒屋に坐つて、その子に酒の一番火入でもさせ、越しかた、行く末を思ひながら、後の覺書をつくらうとするやうな人であつたらうと思はれる。\n\n『八十年來の浮世の思ひ出、すべて思ひ出し〳〵、あらまし書きつく。』\n これは源十郎が後の覺書のはじに書き添へた言葉だ。五十餘歳にして、八十年來の浮世の思ひ出とは異樣にも聞えるが、おそらく彼は八十歳の老齡までも生きてゐた人で、後から〳〵思ひ出し〳〵、書き足した部分もあつたのであらう。前後二通の覺書は、彼が長い年月をかけて、その子のために用意して置いて行つたものと見ていゝ。殊に、後の覺書は前のものの不足を補はうとして、多少重複したところがなくもないが、一層こまやかに、心を籠めて書いてある。\n もう一度、源十郎のやうな町人をして、彼等自身をこゝに語らせたい。彼に言はせると、自分等は代々の百姓で、先代より困窮のよしにうけたまはつてゐるが、兩親が追々の骨折りで當時安樂に暮すやうになつた。これは、まつたく先祖と兩親との御蔭である。自分が若年の頃から朝晩の咄にうけたまはつたところによると、隱居は十八歳で身上を受け取り、蜂谷の名跡をつぎ、馬籠宿の年寄役を勤め、二十八九の頃に八幡屋の普請をしたが、困窮の際であつたから農業にも精出してやつた。母人はまた母人で、この隱居を助けて、夜通し普請の折の木の片を燈し、それを油火に替へたとやら。その頃、母が片手間の商賣には豆腐屋をして、夜通し石臼をひき、その間には三四人の子供をひかへての辛勞から、夜一夜安氣に眠つたこともなかつたといふ。新宅のことで、夜番の燈火を表にあげる時には、毎朝々々夜明け前の軒行燈の下掃除をして置いて、その油布巾で戸障子の敷居などを拭いたものであつたともいふ。若年の頃からこの彼が耳にしたところでは、當家八幡屋、本家蜂屋の普請より三十七年目、すなはち寶暦八年に普請工事に着手し、翌年落成して家を移したといふことであるが、それから隱居は十九年も存生であつた。初代としての隱居が出發當時のことを言へば、田地を仕立てるにも、芝草用意もなりかねるところから、麥ですこしづゝ刈り作り、その頃本家蜂屋では隣村湯舟澤から來る人足の宿をしてゐたところから思ひ付いて、その馴染の人達から米三斗づゝ内證で借り受け、それを食米に宛てた。そして秋米で四斗づゝ返すほどに苦心した。これとても彼の祖母が口をきいて、隣村の人足達に特に頼んだから出來たことであつたといふ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " この恨みは当然、大塔ノ宮遺臣のあいだに強かった。かねがね屈強な侍や多くの兵を内に蓄えていた宮家でもある。――この者どもは扶持にも離れかけたが、しかし浮浪にまではならずにそのほとんどが新田義貞の麾下にかかえられた。近ごろとみに義貞の二条烏丸屋敷の周辺が喧騒にみち、尊氏罵倒の気概りんりんたるものがあるのも、ひとつはこれによるといってよい。\n 異様な充血はしかしここだけの現象ではなかった。\n 千種忠顕の邸なども近来は、半公卿半武将ともいえる陣装を構えており、つねに義貞をはじめ、目ぼしい武門との連絡を、緊密にもっていた。――無二の味方とばかりおもっていた佐々木道誉が、尊氏へ奔ってしまったなどのことが――彼をしてこのさいの警戒心をいちばい強めさせていたにはちがいない。\n その忠顕は、外では義貞とむすび、公卿僉議では、たれよりつよい主戦論をとっていた。そして後醍醐へもしばしば直奏の下に迫るなどの熱中のしかたであった。\n\n この日ごろのお悩みは龍顔のうえにもうすぐろい隈となって、さしもお身の細りすらうかがわれる後醍醐だった。\n いつの公卿僉議にも、\n「......まずは」\n とのみで入御。また、\n「考えておく」\n とばかりで御裁可はない。\n いわんや、千種忠顕が直々の奏上などに、ご意志を左右されるはずもなく、\n「ま、さは逸るな。息りたつな。坊門ノ清忠ら一部の意見にも耳をかせ」\n と、抑えてしまう。\n 要するに、僉議の決まらぬ原因は、ほかならぬ帝のお心にあったのだ。――そして暗に清忠の説を支持しておられるやのふしがあるのも、あるいは帝のおむねを彼にいわせているものなのかもしれなかった。\n その左大臣坊門ノ宰相清忠ひとりは、ほかの激越な即戦主義者とは大いにちがって、\n「尊氏にも功はある」\n と、言い、\n「その功もたちまち措いて、ただ罪のみをあらだてるのは如何かとおもう。――たとえば元弘の六波羅探題攻めのさい、彼の反り忠がなかったら、あのせつ天皇御帰還は仰げぬことであったかもしれぬ。――また高時の滅亡をはやめたのも、ひとえに義貞の善戦によるとはいえ、もし足利千寿王が一軍の参陣なくんば、これまたどうであったろうか。――そのほか戦後の混乱時に、よく闕下の治安を維持したなども、尊氏の功は少なしとせぬ。......さればこそ。おん諱名の『尊』の一字をさえ賜うたほどなご嘉賞ではなかったか。さるを......手のひら返すごとく、逆賊とよび、王軍をくだして討たんなどとは、それこそ朝廷の不見識、朝令暮改のたのみなさを、われから世へあかす愚でなくてなんであろう。よろしくここは人心をなだめ、いくたびなりと尊氏の存意をただして、事を政治による解決へ見いだしてゆく工夫こそ、われら朝臣の務めと申すべきではなかろうか」\n というのであった。\n これが衆論にうけつけられなかったのは、前述のとおりである。けれど後醍醐の顧慮のうちには、ほぼこれと同じなものが、たゆたっていた。\n 元来、この君としては、尊氏なる人間を、根からお嫌いではないのである。いや人間的には彼の一種魅力めいたものに引かれてさえおいでになる。君臣というかきさえなければ一壺酒を中において膝ぐみで議論してみたい男ですらあるくらいな思召しなのだ。かつは彼には実力がある。その実力にも御意はつねに、あの薄らあばたの一壮者を、御無視できない。\n 断\n のお迷いはかくてつづくばかりだった。このさいにおける英断には、玄以に学んだ儒学も、大燈、夢窓の両禅師からうけた禅の丹心も、その活機を見つけるところもない幾十日の昼の御座、夜ノ御殿のおん悩みらしかった。――そして来るべきものはひたひたと月日がついに帝をも浸してきた。突如、即戦派には有力な材料が、諸国から帝のおん目の前につきつけられた。\n それは何かといえば。鎌倉から発した檄――すなわち足利家による――諸国への軍勢催促状なのだった。\n「かかる物が国元へまいりました由。朝へ二心なきおちかいに、内覧に入れたてまつりまする」\n と、在京武門の国々から届け出てきたその数は、何十通にもおよんでいた。\n 尊氏の逆心を証拠だてるにはこれ究竟なものである。ひと束にして僉議の席へもちだされた。\n 帝も御覧あるに。\n\n新田右衛門佐義貞\n誅伐セズンバ有ル可カラズ\n一族相催シ\n急ギ馳セ参ジラレヨ\n\n と、すべて同文で、また、はなはだ簡である。そして日付けもみな一様に、\n 十一月二日\n の発になっている。\n だが、署名は尊氏ではなく、左馬頭とあり、すなわち弟直義の花押だった。\n 内覧ののち、僉議の公卿一統へ廻覧された。色めきたつ小声小声の下にすべての者がやがて見終る。\n「みられたか」\n 洞院ノ実世が言った。\n 千種忠顕、二条為冬など、声をそろえて。\n「この檄に見るも、王軍のお手まわしはもうおそいほどだ。名を、義貞誅伐にかり、賊はすでに、全国から起たんとしておる」\n「檄の名分を、君側ノ奸ヲ除ク、というところへ持ってゆくのは、いつのばあいでも、むほん人が世のていをつくろう口実ときまっている。はや一日とて、猶予あるべきではない」\n「しかも、尊氏の狡さよ」\n という者もあった。\n「檄の上に、わが名はあらわさず、弟直義の名を唱うなども、這奴の隠れ蓑! 見すかさるるわ」\n このとき、坊門ノ清忠はなお、いつもの騒がない語調で、\n「いやいや悪しゅうとれば物事はいかようにも悪しゅうとれる。つたえ聞くに、尊氏は先の月、違勅の畏れをいって諸政を弟の直義に託し、身は謹慎を表するため、浄光明寺に入ったままふかくつつしんでいると申す。――そして以後は、元弘における戦死者の霊をなぐさめんがため、高時の旧館のあとに、円頓宝戒寺の建立をするなど、ひたすら恭順の意を表しているとあるが」\n「それよ、そこが尊氏の食えぬところとお気がつかぬか。――つたえ聞くところなら、這奴は一族の斯波家長なるものを、私に、奥州管領となし、ひそかに奥州へ下向せしめたと聞いておる。――これなども、事をあぐる日、奥州東北の地を、同時にわが麾下に取り込まんとする謀意でなくてなんであろうぞ」\n 清忠は一言もなかった。\n そのうえにも、また、ちょうどこのころ。大塔ノ宮の侍女南ノ御方が、宮のおかたみなどをたずさえて、病後のやつれもまだ癒えぬ身でやっと都へたどりついてきた。――果然、これによって、宮の死は、足利家の一武士の兇刃によってなされたことが明白になった。――後醍醐もこれのみは、よもやとしておられただけに、南ノ方からつぶさな当夜の惨状をおききとりあるや、さすが御父子である。逆鱗すさまじい御けしきだた。朝敵、それ以上にも増す尊氏兄弟へのお憎しみが、どっとお胸の堰を切った。\n\n 朝廷が尊氏討伐を決定してこれを公卿僉議に宣したのは、十一月に入ってからのことにはちがいないが、その幾日頃であったろうか。\n「公卿補任」をみるに、\n\n在、陸奥ノ府\n陸奥守北畠顕家\n十一月十二日\n鎮守府将軍ト為ル\n\n とあるに徴しても、この日すでに東征の用意があったのはあきらかだ。\n これはいうまでもなく東海東山両道から兵をすすめるのみでなく、北の奥羽からも官軍を攻めのぼらせて鎌倉を挟撃させようとの兵略にほかならなかった。しかし鎮守府将軍の官位はさきに尊氏へさずけられていたのだから、いまそれを褫奪して、顕家へ与えられたことにもなる。\n ところが、「神皇正統記」にもみえる通り、ここに、\n\n十一月十日あまりにや\n謀叛のよし聞えける尊氏\nかへつて\n義貞追討の請ひを\n闕下に奏し奉る\n\n と、ある一ト波瀾が起き、これが問題の、尊氏が細川和氏を使者として、朝廷へさし出した“義貞弾劾状”であったのだろう。さらに「元弘日記裏書」によれば、" }, { "role": "assistant", "content": "\n尊氏ノ奏状到来\n十一月十八日\n\n との明記もあり。――いずれにせよ、すでに官軍発向の準備や任命などに、朝廷の内外ともに沸くばかりな空気のところへ、この奏状がとどいたことはたしかであった。\n ところで、その上書なる物だが。そのなかで尊氏はこう訴えているのである。\n 義貞と自分との、年来にわたる確執を述べ、つまるところ、このようなはめになったのも、ひとえに佞臣の讒口によるもので、その張本は義貞であるとし、\n「――願わくば、乱将義貞誅伐の勅許をたまわりたい。つくすべき忠も、荼毒の輩が君の側らにはびこっていたのでは捧げようもない。君側の奸を一掃してのうえでなら、微臣たりとも海内静謐のためどんな御奉公も決していとう者ではない。どうかご推量を仰ぎたい。恐惶謹言」\n と、結んでいるのだ。\n 内覧のあと。\n 上卿のおもなる者もこれを見た日のことである。千種忠顕は参内の帰途、新田義貞の烏丸屋敷をたずねていた。そして云々と、わけを語り、弾劾文の写しを彼にみせたのだった。\n「............」\n 義貞は読んでゆくなかばのうちに、もうありありと感情に燃やされた色で耳のあたりまで紅くしていた。\n「心外な」\n と、一ト言いって。\n「......千種どの。これに黙っていては、佞臣乱賊の汚名を義貞が自認しているものになる。義貞も一文を駁して内覧に供えたい。そのような前例はどうであろうか」\n「なんの、前例の顧慮などいるものか。すでに御辺は、王軍の大将として、ご内定もみておるのだ。――尊氏の奏状など、その一行の文も、おとりあげにはなっておらんが、それにせよ、ご潔白を立てる要はある」\n その夜、義貞は灯をかきたてて、痛烈な反駁の一文を草し、あくる日ただちに上覧にいれた。\n 義貞の上奏文は、じつに激越な文辞であった。自分に対する尊氏の弾劾状を、完膚なきまでにたたいて「尊氏兄弟こそは、大逆無道な人非人である」ときめつけ、箇条書きに、尊氏の“八逆の罪”なるものをそれにあげている。\n\n一つ 臣義貞が上野の旗上ゲは五月八日であり、尊氏が宮方へ返り忠して六波羅攻めに出たのは同月七日だった。相距ること八百余里。何で一日のまに連絡がとれよう。それを尊氏は、あたかも自分の令で新田を起たせたかのように誣奏している。これ罪の一つ。\n一つ 尊氏みずからはじっさいには元弘の鎌倉攻略に参加しておらず、幼弱な千寿王に少数の兵をつけて、新田の陣借をしていただけのものにすぎない。しかるにそれも足利の功として誇っている。これ世上を欺瞞し上を偽る。罪の二。\n一つ 尊氏の六波羅にあるや、みだりにみずから奉行を称え、上のみゆるしもなき御教書を発し、親王の卒をとらえて、これを斬刑するなど、身、司直にもあらざるに法を執り行う。これ罪の三。\n一つ 東国にあっては、ひそかに禁府を開き、公の物をもって、私の恩を売り、征夷大将軍の位名を偽称す。その罪の四。\n一つ 軍功の施与は朝廷直々の令に待つべきを、北条時行を追って府に入るや、僭上にも身勝手に諸所公領の地を割いて、これを餓狼の将士に分つ。罪の五たり。\n一つ さきには讒構をもうけて、巧みに、兵部卿ノ親王(大塔ノ宮)を流離に陥す。その罪の六。\n一つ 親王の御罰は、ひとえに宮の驕りをこらす聖衷に存するを、私怨をふくんで、これを囹圄に幽す。罪の七。\n一つ 混乱に乗じて、部下の兇兵を使嗾し、宮に害刃を加えたてまつる。天人ともに憎むところ。その罪の八。\n\n 以上のあとに、\n\n伏して請ふ\n乾臨明照のもと\n尊氏直義以下\n逆党の誅命あらん事を\n畏みて 奏し仰ぐ\n義貞 誠惶誠恐謹言\n\n とした長文だった。\n 尊氏の言いぶん。\n 義貞の言いぶん。\n いずれが是か非などは、もはや問題の時期ではない。またたれがみても、尊氏のそれは、義貞との確執を口実に、鉾をかえて挑発している詭弁のもののようだし、義貞がかぞえあげた尊氏の八逆のほうが、はるかにその論拠にも力があった。しいて歪曲している点もなくはないが、不倶戴天の仇敵をやッつけた筆誅の余勢である。多少の誇張はしかたがあるまい。\n しかも、彼の昨今は、\n「待ちに待ったる日が来た!」\n と心を奮ッている風だった。得意さだった。\n その義貞への朝命は、十八日に降り、十九日には、はや京中出陣ぶれの勢揃いがおこなわれていた。――早朝に、彼は曠れの大よろいを着かざって、いそいそと参内に向った。朝敵征伐の節度(出征の祝い)を賜わるためにである。義貞はかがやく栄光の中に自分をみていた。\n 朝敵追討大将軍の首途\n それには当然、朝廷でもなみならぬ期待のもとに、ずいぶん、古式に則ってその鼓舞をさかんならしめたものらしい。\n 王軍をうごかす。\n それじたいが、朝廷の浮沈もここに賭けたことになる。やぶれれば朝廷たりとも、争覇の敵の驕りに屈する覚悟のもとでなければならない。\n その大任を負って、新田右衛門佐義貞はいま、身のしまるおもいで、南殿の下にぬかずいた。――すこしさがって、弟の脇屋義助、式部義治、堀口美濃などの身内が、これまた、ひとかたまりに平伏している。\n 御庭の階下には、内弁、外弁、八座、八省の公卿百官がしゅくと整列しており、その視線はすべて、義貞ひとつに自然そそがれたままだった。――日ごろにも見てはいるが――わけて今日はその人物にたのみをかけて、\n この人に栄えあれ\n と祈りをこめた衆目だった。\n 義貞はそれを感じる。武門最上な本懐と感じる。彼はすでにかつての旗上げの日、郷土の産土神に願文をささげて、\n\n――古ヨリ源平両家、朝ニ仕ヘテ、平氏世ヲ乱ストキハ、源氏コレヲ鎮メ、源氏世ヲ侵ス日ハ、平家コレヲ治ム\n\n と、告白していた。彼にもこの下心はあったのだ。いまや平氏の北条はない。足利が取って代ろうとしている。しかし自分も源氏の嫡流だ。有資格者である。八逆の賊尊氏を逐って、自分が覇武の権を取ッて代るに、世上の誰もふしぎとはしまい。\n しかも優渥なるみことのりと大将軍の印綬を賜わってそれに向うのだ。義貞はすでに尊氏を呑んでいた。やがて下された祝酒の一ト口にさえ、それは色になって彼のおもてをほの紅くした。\n 朝廷では、万一このたびの東征にやぶれでもしたら、建武新政の緒も根本からくつがえるものと、さまざま古例の吉凶なども案じて、治承四年、頼朝追罰のさいに、三位惟盛をつかわされたさいの仕きたりは不吉であった、よろしくこんどは天慶承平の例に倣うべきであるというところから、特に、義貞へは節刀を賜わり、やがて、三たびの万歳の唱えのうちに、華々と、彼のすがたは大内を退出してきた。\n そして衛府の門を出ると、なに思ったか、\n「高倉へ」\n と、軍兵をうながして、彼の馬はとうとうと先をきって二条高倉ノ辻へ馳せむかっていた。そこで馬を止め、\n「やよ船田ノ入道、朝敵退治の都立ちには古例がある。知っているか。古式いたせ」\n と、一つの門を指さして、命令した。\n そこは今は人もなき、旧足利直義の空館なのである。――船田ノ入道は、その前に兵をそろえて、三たび鬨の声をあげさせ、また、三すじの鏑矢を邸内へ射込んだのち、中門の柱を切っておとした。\n するとここの鬨の声にあわせて、三条河原の空でも、わああっと、武者の諸声がわきあがっていた。\n 上将軍の陣であった。\n 大将軍義貞のほかに、後醍醐の一ノ宮、中務尊良親王が、上将に任ぜられ、この日ともに都を立つこととはなっていた。\n まもなく、義貞の軍は、尊良親王の騎馬一群をまん中に迎え入れて、その長蛇のながれは、順次、三条口からえんえんと東していた。\n このさい、親王の中書軍がささげていた日月の錦の旗が、とつぜん突風に狂い、竿頭から地に落ちたので、人々みな、\n「あな忌まわし」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "老人形師\n\n 小説家大江蘭堂は、人形師の仕事部屋のことを書く必要に迫られた。ブリタニカや、アメリカナや、大百科辞典をひいて見たが、そういう具体的なことはわからなかった。\n 蘭堂は、いつも服をつくらせている銀座の洋服屋に電話をかけた。そして、表の店に飾ってあるマネキン人形は、どこから仕入れているのかと訊ねた。\n マネキン問屋の電話番号がわかったので、そこへ電話した。こちらは小説家の大江蘭堂だが、人形師の仕事部屋が見たい。なるべく奇怪な仕事部屋がいい。一つ変り者の人形師を教えてくれないかと云うと、先方は電話口で、エヘヘヘヘヘと気味わるく笑った。\n「あなたさまは、あの恐ろしい怪奇小説をお書きになる大江蘭堂先生でございますか。エヘヘヘヘヘ、それでしたら、ちょうどおあつらえむきの老人の人形師がございますよ。名人ですがね、そのアトリエには、だれもはいったものがございません。秘密にしているのです。しかしね、先生、先生でしたら見せてくれますよ。伴天連爺さんは、いえね、これがその人形師のあだ名でございますが、その伴天連爺さんは、あなたさまが好きなのです。あなたさまの小説の大の愛読者なのでございます。いつも、いちど先生にお目にかかって、お話がうかがいたいと申しております。先生のことなら、きっと喜んで、秘密のアトリエを見せてくれますよ」\n ひどくお愛想のいい店員であった。伴天連爺さんのアトリエは世田谷の経堂にあるのだという。ぜひ、その爺さんに紹介してくれとたのむと、電話で、先方の都合を聞いて見ますから、しばらくお待ち下さいといって、いちど電話を切ったが、間もなく返事が来た。\n「先生、先方はよろこんでおります。今晩七時ごろに手がすくから、その頃おたずねくだされば、お待ちすると云っております。先生にくれぐれもよろしくと申しました」\n そこで、大江蘭堂は、その晩、経堂の伴天連爺さんを訪問することにした。\n 経堂の駅で電車をおりて、教えられた道を十丁ほど行くと、街角に大きな石地蔵が立っていた。その向うは森になっていて、森のわきを歩いて行くと、生垣や塀ばかりの屋敷町で、ところどころに草の生えた空地があった。ボンヤリした街燈をたよりに、やっと目的の家にたどりついた。ガラスの割れた門燈が「日暮紋三」という表札を照らしていた。これが伴天連爺さんの本名なのである。\n とびらもない門をはいって行くと、草の中に古い木造の洋館が建っていた。\n こちらの足音を聞きつけたのであろう。玄関のドアがひらいて、赤い光の中に小柄な老人のシルエットが浮き出した。赤い光はチロチロ動いていた。老人は燭台を自分のからだのうしろに持って、こちらをじっと見ているらしかった。\n「大江蘭堂先生でしょうな? どうぞ、おはいり下さい。お待ちしておりました」\n 何かの鳥がさえずっているような、妙に若々しい声であった。\n「わたしがバテレンじじいです。よくおいで下さった。さア、こちらへおはいりください」\n 手をとらんばかりにして、廊下のドアをひらき、書斎らしい洋間に請じ入れた。\n 部屋にも電燈はなかった。爺さんはあたりの様子を見せるように、太い蝋燭の燭台をふりてらしてから、それを机の上に置いた。\n 書棚にえたいの知れぬ古本がならんでいた。壁には、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体解剖図の大きな複製がベタベタ貼りつけてあった。村役場にあるような粗末な木机と木の椅子、蘭堂はその一つにかけさせられ、爺さんも向かいあって腰かけた。\n これはすばらしい。これはもう、そのまま怪談の材料になる。蘭堂はホクホクしていた。爺さんも蘭堂に会えたのが、ひどく嬉しいらしく、\n「よく来て下さった。なんでもお見せします。なんでもお話しします。じゃが、その前に一ぱい如何ですな。上等のコニャックがあります」\n そういって、本棚の古本のあいだに入れてあった、変な形の酒瓶とグラスを二つ持って来て、酒をついだ。蘭堂がグラスを取って、嗅いで見ると、なるほどすばらしいコニャックだ。チビリとやって、爺さんの顔を見ていると、爺さんもチビリとやって、ニヤニヤと笑った。\n「人形師の秘密がお知りになりたいのですな、小説にお書きになる?」\n だんだん蝋燭の光が目に慣れて来た。爺さんは、六十五六歳に見えた。黒いダブダブの洋服を着て、痩せて、顔におそろしく皺があった。目は澄んでいた。茶色の瞳だった。顔にも老年のシミが目立っていた。\n「マネキン人形は鋸屑と紙を型にはめて、そとがわにビニールを塗るのですか」\n「そういうのもあります。いろいろありますよ。しかし、わたしは、ショーウィンドウのマネキンなんか造りません。そんなものは、弟子たちにやらせます。わたしは本職の人形師です。子供の時分に、安本亀八に弟子入りしたこともある。日本式の生人形ですよ。桐の木に彫るのです。上から胡粉を塗ってみがくのです。これは今でもやりますがね。しかし、なんといっても蝋人形ですね。ロンドンのチュソー夫人の蝋人形館のあれです。わたしは今から二十年ほど前に、ロンドンへ行って、あの人形を見て来ました。日本の生人形も名人が造ったやつは生きてますが、チュソー夫人の蝋人形と来たら、まるで人間ですね。生きているのですよ。死体人形なら、ほんとうに死んでいるのですよ。大江先生はロンドンへおいでになったことは......?」\n「ありません。しかし、チュソー夫人のことは本を読んで知ってますよ。僕もあの蝋人形は好きですね。皮膚がすき通って、血が通っているようでしょう」\n「そうです、そうです。血が通っています。死体人形なら、脈がとまったようです」\n「で、あなたは、蝋人形を造っておられるのですか」\n「そうです。今は蝋人形がおもです。医学校や博物館の生理模型ですよ。病気の模型が多いのです。だが、それはただ金儲けのためです。美術とは云えません。わたしは模型人形で暮らしを立てて、一方で美術人形の研究をしているのですよ。大江先生はむろんご承知でしょうが、ホフマンの『砂男』に出て来る美しい娘人形、オリンピア嬢でしたかね。あれがわたしの念願ですよ。おわかりでしょう。世の中の青年たちが真剣に恋をするような人形ですね」\n 伴天連爺さんは、なかなか物知りであった。ホフマンのナタニエル青年は、生きた娘よりも、人形のオリンピアに命がけの恋をしたのである。\n「それでは、ジェローム・ケイ・ジェロームの『ダンス人形』をお読みになったことがありますか」\n 蘭堂はつい誘いこまれて、西洋小説の話をはじめた。すると爺さんはニコニコして、\n「読みましたとも、あれはわたしの一ばん好きな小説の一つですよ。娘たちのダンスの相手として、いつまで踊っても疲れない鉄の男人形を造ってやる人形師の名人の話でしょう。わたしはああいう名人になりたくて、修業したのですよ。あの鉄の人形も、生きて動き出したのですね。一人の娘を抱いたまま、無限に踊りつづけたのですね。実にいい話だ。ああいう小説を読むと、人形師の生き甲斐を感じますよ」\n ジェロームの「ダンス人形」は訳が出ていないはずだから、この老人形師は外国語も読めるのであろう。あらためて書棚の古本を眺めると、英語でもフランス語でもドイツ語でもない背文字があった。蘭堂はなんだか気味がわるくなって来た。目の前の皺だらけの小さな老人が、奥底の知れない人物に感じられて来た。\n「蝋人形はどうして造るのですか。やはり型にはめるのですか」\n「粘土で原型を造ることもありますが、直接実物からとる場合もあるのです」\n「実物からとは?」\n「食堂のショーウィンドウに並んでいる蝋製の料理見本をごらんになったことがあるでしょう。あれは実物に石膏をぶっかけて、女型をつくることが多いのですよ。そこへ蝋を流しこんで固め、彩色するのです。人間でも同じことです。ただ石膏がたくさんいるだけですよ」\n「じゃあ、人間の肌に石膏をぬるのですね」\n「そうです。ごらんなさい。ここに見本がありますよ。ホラ、これがわたしの手です。実物と見くらべてごらんなさい」\n やっぱり本棚の古本のあいだから、ひらいた人間の手を取り出して、机の上においた。手首のところから切りとった手の平である。老人形師は、自分の手をひらいて、それとならべて机の上にさし出した。小さな皺の一つ一つ、しなびた老人の手の色合が、そのまま出ている。どちらが本物かわからないほどであった。\n「これは、わたしの手に石膏をぬって、女型をとったのです。全身をとるのも、りくつは同じですよ」\n「では、ほんとうの人間からとった全身人形も造ったことがあるのですね」\n「ありますとも、画家がモデルを使うように、人形師もモデルを使うのです。モデルはドロドロの石膏にうずまるのですから、あまり気持がよくありませんがね。顔をとるときは、鼻の穴にゴム管を通して、息ができるようにしておくのです。たいていの娘はいやがりますが、なかには、石膏にとじこめられ、抱きしめられるような気持が好きだといって、進んでモデルになる娘もいますよ」\n 伴天連爺さんは、歯の抜けた口をあけて、ニヤニヤと笑った。\n「そのアトリエを見せていただきたいものですね」" }, { "role": "assistant", "content": "「むろん、お見せしますよ。では、これをすっかり飲んでから、アトリエへ行きましょう、今晩はうすら寒いですから、からだをあたためてからね」\n 老人はそういって、グラスを取りあげ、グッとのみほした。蘭堂もそれにならった。強い酒が腹にしみわたって、からだがほてってくるようであった。\n 老人は机の上の燭台を持って、先に立った。そのとき、蝋燭の光の加減で、机の上にほうり出してある蝋製の手首が少し動いたように見えた。それから、まっ暗な廊下を三間ほど行ったところで、老人は何かカチカチ云わせている。ポケットから取り出した鍵でドアをあけようとしているのだ。\n「このあいだ電燈会社と喧嘩をしてしまいましてね、電燈がつかないのです。少々暗いが、我慢して下さい。もっとも、わたしは夜は仕事をしませんから、電燈がなくても、べつに差支えありませんがね」\n 弁解をしているうちに、ドアがひらくと、彼は燭台をヌッとこちらへさし出して、しばらく、じっと蘭堂の顔を見つめていた。\n「びっくりしてはいけませんよ。なにしろ蝋人形というやつは、ちょっと気味のわるいものですからね」\n 警告するように云って、部屋の中へはいって行った。蘭堂は年甲斐もなく、少し怖くなって来たが、それがまた、たまらない魅力でもあった。彼はオズオズと老人のあとにつづいた。\n\n妖美人\n\n 燭台の蝋燭が部屋の中をソロソロと動いて行った。その光の中へ、何もない床や、粘土のかたまりや、彫刻用のコテや、石膏のかけらや、いろいろのガラクタが、次々と現われては消えて行く。そして、ピッタリ光が動かなくなった。そこに異様な物体が横たわっていた。大きなものであった。\n「これ、なんですか」\n 気味がわるくて、黙っていられなかった。\n「よくごらんなさい。死骸ですよ。断末魔です。知死期です。わたしの自慢の作品ですよ」\n 土色の男のからだであった。目が血ばしって赤く、唇がまっ青だった。頸から胸にかけて、黒い血が凝固していた。頭にも胸にも腿にもほんとうの毛が植えてあった。\n「これもほんとうの人間から型を取ったのですか」\n 蘭堂は声が震えないように用心しなければならなかった。\n「そうです。生きた人間からです。まさか死骸からではありませんよ」\n 伴天連爺さんは、そういってから、フフと笑った。\n その次には、皮膚病の半身像や、変てこな局部像が、いろいろ並んでいた。並んでいるというよりは、ころがっていた。ひどく生き生きとして、今にも動き出しそうなものもあった。\n「このつぎに、面白いものがあります。蝋燭を消しますよ。でないと、感じが出ないのです」\n フッと火が消えて、まっ黒なビロードに包まれた感じであった。突然めくらになったように、まったく何も見えなかった。\n「さア、両手を出して、さわってごらんなさい。目で見てはちっとも美しくないけれども、手でさわれば、たまらない美しさです。わたしが考え出した類のない美術品です。ですから、夜をえらんだのですよ。先生にわざと夜来ていただいたのです。目で見ないで、手だけで見るというのには、昼間はぐあいがわるいですからね。これは手で見るのですよ。つまり触覚の美術です」\n 蘭堂はいわれるままに、オズオズとそれにさわって見た。冷たいなめらかな肌であった。\n「もっと手をのばして、全体をなでまわしてごらんなさい」\n だんだん手をのばして行くと、それは人間のからだに似たものであることがわかった。しかし、普通の人間ではない。手が何本もある。足が何本もある。肉体の山と谷が無数にある。\n はじめは薄気味がわるかった。不快でさえあった。だが、なでまわしているうちに、神経の底から妙な感じが湧き上がって来た。今まで一度も経験しなかった不思議な快感であった。そこには、想像し得るあらゆる美しい曲線が、微妙に組合わされていた。スベスベした、なだらかな運動感があった。手が自然にすべって行く、そのすべり方に、異様な快感があった。それは触覚だけでなくて運動感覚にも訴える美しさであった。\n 老人は暗闇の中で、息の音も立てないで、小説家の感動を感じ取ろうとしていた。蘭堂の両の手が、はじめはゆるゆると、やがて、徐々に速度を増して、ついには恐ろしい早さで、その物体の上を、這いまわった。恍惚として、時のたつのも忘れて、這いまわった。\n「すばらしい。これはすばらしいですよ。ぼくはこんな美しいものに初めてさわりました。これは何という微妙な曲線でしょう。いったい、どんな法則から割り出した曲線でしょう。......」\n 闇の中から、老人のフフという笑い声がした。\n「さっきから、もう三十分もたちましたよ。ずいぶんお気に入ったものですね。さア、つぎに移りましょう。もっとお見せするものがあるのです」\n 闇の中で手をとられて、その場を離れた。四五歩もあるくと、シュウとマッチがすられて、再び蝋燭が輝いた。いそいでうしろを見たが、さっきのふしぎな曲線の物体は見えなかった。老人は用心ぶかく、あの物体に覆いの布をかけてしまったのかも知れない。\n「これですよ。この中ですよ」\n 燭台をかざしたのは、一つの大きな黒い箱の上であった。それは西洋の装飾寝棺に似ていた。そと側の黒い色が漆のように光っていた。\n 老人は燭台をおくと、またポケットから鍵束をとり出して、その黒い長い箱の錠前をはずした。そして、燭台をかざしながら、その蓋をソロソロとひらいて行った。\n 蝋燭の光といっしょに、目がチラチラした。箱の中には、白いなめらかなものが横たわっていた。蓋がすっかりひらいてしまうと、それは美しい裸体の女であることがわかった。\n 蘭堂は愕然として、一歩うしろにさがった。蝋人形というものが、こんな恐ろしい美を持っているとは、思いもよらなかった。ああ、これが生きた人間でなく蝋細工だなんて、そんなバカなことがあるものか。\n「お気に入りましたか。美しい女でしょう。これは生きているのですよ」\n 老人はささやくような低い声で云った。すると、その声が蝋人形に通じたように、美しい瞼がブルブルとふるえて、パッと目をひらいた。蝋細工ではない、ほんとうの目であった。それがじっと蘭堂の顔を見つめていた。蘭堂の皷動が早くなった。逃げ出したいような恐怖を感じた。\n 伴天連爺さんとはよくも名づけた。彼は伴天連の魔術を心得ているのであろうか。\n「ハハハ、大江蘭堂さんは、こんなものに驚く方ではないと思いましたがね。あなた、顔が青くなっていますよ。ハハハハハ、わたしは天下の大江蘭堂をびっくりさせましたね。先生のお書きになる怪談と、わたしの発明した怪談と、どっちが怖いでしょうかね」\n 爺さんは顔じゅうを、すぼめた提灯のように皺だらけにして、歯の抜けた口を耳まで拡げて、悪魔のように笑っていた。\n「これが蝋人形ですか。なにかカラクリ仕掛けでもあるのですか。ああ、目だけじゃない。唇が動いている。息をしている......」\n「生きているでしょう。あなた、わたしのトリックにかかりましたね。これはほんとうに生きているのですよ。人造人間じゃありません。さわってごらんなさい」\n 老人は無理に蘭堂の手を引っぱって、箱の中に横たわっている美女の肌にさわらせた。その肌は暖かくて弾力があった。\n すると、人形が、くすぐったいと云うように、身もだえして、ムクムクと起き上がった。その時は、さすがの怪奇小説家も心臓が止まる思いをしたが、すぐに、それは老人形師の子供らしいトリックであることがわかった。箱づめになっていたのは、人形ではなく、ほんとうの生きた人間にすぎないことがわかった。\n「ひどいいたずらをしますね。可哀そうにこのお嬢さんは、箱の中で、さぞ息ぐるしかったことでしょう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「おでんや、おでん!」\n「饂飩あがんなはらんか、饂飩。」\n「煎餅買いなはれ、買いなはれ。」\n 鮨の香気が芬として、あるが中に、硝子戸越の紅は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪と見た。......頬被したお百姓、空籠荷うて行違う。\n 軒より高い競売もある。\n 傘さした飴屋の前で、奥深い白木の階に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途へ、今大鳥居を潜るよと見た、見る目も彩な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病の床を小春日和に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯で褄取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々と拾ったのが、たちまち電のごとく、颯と、照々とある円柱に影を残して、鳥居際から衝と左へ切れた。\n が、目にも留まらぬばかり、掻消すがごとくに見えなくなった。\n 高く競売屋が居る、古いが、黒くがっしりした屋根越の其方の空、一点の雲もなく、冴えた水色の隈なき中に、浅葱や、樺や、朱や、青や、色づき初めた銀杏の梢に、風の戦ぐ、と視めたのは、皆見世ものの立幟。\n 太鼓に、鉦に、ひしひしと、打寄する跫音の、遠巻きめいて、遥に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜をかけた、大阪中の賑いである。\n\n 十五\n\n「御覧なさい、これが亀の池です。」\n と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために架けたと云うより、築山の景色に刻んだような、天満宮の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は視ないで、向う岸へ外れた。\n 階を昇って跪いた時、言い知らぬ神霊に、引緊った身の、拍手も堅く附着たのが、このところまで退出て、やっと掌の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳んだのを見たのであった。\n 麩でも投げたか、奴と二人で、同じ状に洋傘を傾けて、熟と池の面を見入っている。\n 初阪は、不思議な物語に伝える類の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕れた、世にも凄いまで美しい婦の手から、一通玉章を秘めた文箱を託って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人が受取りに出たような気がしてならぬ。\n しかもそれは、途中互にもの言うにさえ、声の疲れた......激しい人の波を泳いで来た、殷賑、心斎橋、高麗橋と相並ぶ、天満の町筋を徹してであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞の感が身に迫った。参詣群集、隙間のない、宮、社の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中は分けて見る事がおりおりある。\n ちょうど池の辺には、この時、他に人影も見えなかった。......\n 橋の上に小児を連れた乳母が居たが、此方から連立って、二人が行掛った機会に、\n「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方へ徐々帰った。その状が、人間界へ立帰るごとくに見えた。\n 池は小さくて、武蔵野の埴生の小屋が今あらば、その潦ばかりだけれども、深翠に萌黄を累ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔滑。牡丹を彫らぬ欄干も、巌を削った趣がある。あまつさえ、水底に主が棲む......その逸するのを封ずるために、雲に結えて鉄の網を張り詰めたように、百千の細な影が、漣立って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満た亀なのであった。\n 枯蓮もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄ヶ島の赤蜻蛉。\n 鯡鯉の背は飜々と、お珊の裳の影に靡く。\n 居たのは、つい、橋の其方であった。\n 半襟は、黒に、蘆の穂が幽に白い、紺地によりがらみの細い格子、お召縮緬の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。\n 髪の艶も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽らしいくすんだ中に、晃々と冴えがある、きっぱりした地の藍鼠に、小豆色と茶と紺と、すらすらと色の通った縞の乱立。\n 蒼空の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅に、茶は萌黄に、紺は紫の隈を染めて、明い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年古る池に、ただその、すらりと雪を束ねたのに、霧ながら木の葉に綾なす、虹を取って、細く滑かに美しく、肩に掛けて背に捌き、腰に流したようである。汀は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。\n 光線は白かった。\n\n 十六\n\n その艶なのが、女の童を従えた風で、奴と彳む。......汀に寄って......流木めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗れに生簀の蓋のように見えるのがあった。日は水を劃って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。\n それへ、ほかほかと甲を干した、木の葉に交って青銭の散った状して、大小の亀は十ウ二十、磧の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――\n いずれ一度は擒となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔売買をされたという黒奴の男女を思出させる。島、海、沢、藪をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜には潜んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。\n 故郷なる、何を見るやら、向は違っても一つ一つ、首を据えて目を睜る。が、人も、もの言わず、活ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽に、えへん、と咳払をしそうで寂しい。\n 一頭、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉しく、絹糸の虹を視めたに違いない。\n「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」\n 男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭れて低声で云う。あえて忍音には及ばぬ事を。けれども、......ここで云うのは、直に話すほど、間近な人に皆聞える。\n「まったく、魚じゃ鯔の面色が瓜二つだよ。」\n その何に似ているかは言わずとも知れよう。\n「ああああ、板の下から潜出して、一つ水の中から顕れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」\n 成程、たらたらと漆のような腹を正的に、甲に濡色の薄紅をさしたのが、仰向けに鰓を此方へ、むっくりとして、そして頭の尖に黄色く輪取った、その目が凸にくるりと見えて、鱗のざらめく蒼味がかった手を、ト板の縁へ突張って、水から半分ぬい、と出た。\n「大将、甲羅干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」\n と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。\n が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。\n「今度は乗るぜ。」\n やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張った。が、力足らず、乗出した勢が余って、取外ずすと、ずんと沈む。\n「や、不可い。」\n たちまち猛然としてまた浮いた。\n で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上げる。\n「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。\n 汀のお珊は、褄をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田は、洋傘を畳んで支いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇して覗込む。\n この度は、場処を替えようとするらしい。\n 斜に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹で操るがごとくになって、夥多の可心持に乾いた亀の子を、カラカラと載せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟として嚔したもの一つない。\n 板の一方は細いのである。\n そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込めそうに見えた。\n いや、困った事は、重量に圧されて、板が引傾いたために、だふん、と潜る。\n「ほい、しまった。いや、串戯じゃない。しっかり頼むぜ。」\n と、男衆は欄干をトントン叩く。\n あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛った。と思うと、ずぼりと出る。" }, { "role": "assistant", "content": "「蛙だと青柳硯と云うんです。」\n「まったくさ。」\n\n 十七\n\n けれども、その時もし遂げなかった。\n「ああ、惜い。」\n 男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。\n「執念深いもんですね。」\n「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」\n と言う間もなかった。\n この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺ぐばかり力が入って、その手を扁平く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。\n「ははあ、考えた。」\n「あいつを力に取って伸上るんです、や、や、どッこい。やれ情ない。」\n ざぶりと他愛なく、またもや沈む。\n 男衆が時計を視た。\n「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々帰りましょう。」\n「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」\n「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛るかも知れませんから。」\n「妙に残惜いようだよ。」\n 男衆は、汀の婦にちょいと目を遣って、密と片頬笑して声を潜めた。\n「串戯じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄りと美しい五色の霧が、冷々と掛るようです。......変に凄いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会に、黒雲を捲起して、震動雷電......」\n「さあ、出掛けよう。」\n 二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央から取って返す。\n やがて、渡果てようとした時である。\n「ちょっと、ちょっと。」\n と背後から、優いが張のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。\n 袖を合せて、前後に、ト斉しく振返ると、洋傘は畳んで、それは奴に持たした。縺毛一条もない黒髪は、取って捌いたかと思うばかり、痩ぎすな、透通るような頬を包んで、正面に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉が細かった。\n「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。\n 奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。\n「そうどす。」と判然云って莞爾する、瞼に薄く色が染まって、類なき紅葉の中の俤である。\n「一遍お待ちやす......思を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私が手伝うさかいな。」\n 猶予いあえず、バチンと蓮の果の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留の黄金金具、緑の照々と輝く玉を、烏羽玉の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染を柔な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、縋れよ、引かむ、とすらりと投げた。\n 帯留は、銀の曇ったような打紐と見えた。\n その尖は水に潜って、亀の子は、ばくりと紐を噛む、ト袖口を軽く袂を絞った、小腕白く雪を伸べた。が、重量がかかるか、引く手に幽に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸、膚に白い処は云うまでもない、袖、褄の、艶に色めく姿、爪尖まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。\n\n 十八\n\n 池の面は、蒼く、お珊の唇のあたりに影を籠めた。\n 風少し吹添って、城ある乾の天暗く、天満宮の屋の棟が淀り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠めて。......この水のある空ばかり、雲に硝子を嵌めたるごとく、美女の虹の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木の葉は淡く、松の影が颯と濃い。\n 打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕の色ながら、しろじろと鱗が光って、その友染に搦んだなりに懐中から一条の蛇の蜿り出た、思いかけず、ものの凄じい形になった。\n「あ、」\n と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。\n 奴はじりじりと後に退った。\n お珊は汀にすっくと立った。が、血が留って、俤は瑪瑙の白さを削ったのであった。\n この婦が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。\n 日も待たず、その翌の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜芝居で振舞った、酒の上の暴虐の負債を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風を引繞らした、四海波静に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶の長柄を取って、橘活けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。\n 晴の装束は、お珊が金子に飽かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。\n まず上席のお美津を謂おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬のかけおろし。橘に実を抱かせた笄を両方に、雲井の薫をたきしめた、烏帽子、狩衣。朱総の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞、朱鷺色絹に白い裏、膚の雪の紅の襲に透くよう媚かしく、白の紗の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子の帯、箱文庫。\n 含羞む瞼を染めて、玉の項を差俯向く、ト見ると、雛鶴一羽、松の羽衣掻取って、曙の雲の上なる、宴に召さるる風情がある。\n 同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏そうな、多一は浅葱紗の素袍着て、白衣の袖を粛ましやかに、膝に両手を差置いた。\n 前なるお美津は、小鼓に八雲琴、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵に銀鋲打った欄干づき、輻も漆の車屋台に、前囃子とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。\n 後囃子が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児ばかり、すり鉦に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。\n 二人を前に、銚子を控えて、人交ぜもしなかった......その時お珊の装は、また立勝って目覚しや。\n\n 十九\n\n 宝の市の屋台に付いて、市女また姫とも称うる十二人の美女が練る。......\n 練衣小袿の紅の袴、とばかりでは言足らぬ。ただその上下を装束くにも、支度の夜は丑満頃より、女紅場に顔を揃えて一人々々沐浴をするが、雪の膚も、白脛も、その湯は一人ずつ紅を流し、白粉を汲替える。髪を洗い、櫛を入れ、丈より長く解捌いて、緑の雫すらすらと、香枕の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣を着け、袴を穿くと、しらしらと早や旭の影が、霧を破って色を映す。\n さて住吉の朝ぼらけ、白妙の松の樹の間を、静々と詣で進む、路の裳を、皐月御殿、市の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。......\n その市の姫十二人、御殿の正面に揖して出づれば、神官、威儀正しく彼処にあり。土器の神酒、結び昆布。やがて檜扇を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄や、金銀の縫箔光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢を繞る松林に日の射す中に、一列に並居る時、巫子するすると立出でて、美女の面一人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛を描く、と聞く。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 大正八年八月四日。\n 青楓君と大月に下りたのは午前九時三十三分だつた。停車場の前に並んでゐる小さい低い赤と青で塗つた平たい馬車と宿屋の前に吊してある無數の雜色の手拭みたいな講中のビラがまづ目についた。次の汽車で來る二人の同行者を待つために、私たちは濱野屋といふ家の二階の奧の間に寢ころんで、すぐ前に横たはつてゐる圓いずんぐりした山の形に感心したり、その山の向の方から吹いて來る割合に涼しい風を褒めたり、地圖を開いて見てこの邊は千二百尺に近いことを發見して、道理で風が涼しいんだと思つたり、隣りの部屋に圓座をつくつて登山の用意をしてゐる講中の群を物珍らしく眺めたり、それを青楓君は寫生したり、東京では印刷職工のストライキのため新聞が四五日休刊になつてゐたので甲府の新聞を手に取つて見る氣になつたり、その中で早稻田の片上君が甲府の或る教育會の夏期講習で文藝と教育の問題に關して氣燄をあげたといふ記事を讀んだり、そんなことをして時間をつぶしてゐるうちにおひるになつたので、鮎と鯉と卵で晝飯を食つて、そこいらをぶらついて、さんざ停車場で退屈した末に、やつと午後零時三十何分かの下りが着いた。槇村君と虚山君が小さい寫眞機を手に下げて大變な意氣込で下りて來た。吉田口までは馬車で行く豫定であつたが、暑い日に照りつけられてガタガタ四時間半も搖られて行くのは閉口するといふので、自動車で出かけることになつた。吉田口まで十三圓、船津まで十五圓といふ賃金表が出てゐる。船津まで乘つて、都合に依つたら今日の内に西湖か精進までのさうといふ説も出たが、草鞋の手前もあるので(青楓君だけは靴)とにかく吉田から先は歩いて見ようといふことになつた。\n 十分ほど前に出た數臺の鐵道馬車をば大月の町はづれで追ひ越し、今朝九時三十分の汽車でついた人たちを乘せた馬車をば谷村と吉田の中間で追ひ越して、一時間と少しで吉田の町に入つた。銅の大鳥居をくぐつてどんどん上つて行くので、何處まで持つて行くつもりかと思つてゐたら、ショフアは心得顏に町はづれの芙蓉閣の門に横づけにした。寺のやうに古びた大きな玄關の欄間に寄進札のやうな長い板が何枚も貼り付けてあつて、昔から此の家に泊つた官職の高い人たちの名前がそれに書きつけてあつた。スター博士も一昨夜此處に泊つたとかいふことであつた。私たちは草鞋のまま玄關前に椅子を四つ列べて、五萬分一の地圖を擴げて主人から行先の道程について説明を聞いた。召使の男たちも四五人私たちの周りに立つて口を插んだ。それ等の話を綜合すると、河口湖を横斷したところで、それから先は精進湖までは泊まるやうな家はないから、今日は船津に一泊するより外はあるまいといふことであつた。船津までは吉田から約一里ださうである。\n 吉田から先は少し歩かうと云ふことであつたけれども、わぎわざ歩くほどの價値もなささうな所だから、それに、歩くとなると槇村君の提げて來た大きなカバンのために人夫を一人傭はねばならぬので、矢張り鐵道馬車で出かける事にした。桑と黍と小松の間の下り道をのろのろと一頭の馬が首を振り振り曳いて行くのである。富士は曇つて裾野だけが明るく展けてゐた。馭者の親爺は小倉の洋服に下駄を突つかけて馭者臺に棒立ちになり、馬の爲に絶えず口笛を吹いてゐた。之は信玄鐘懸の松だとか、あれがみさか峠だとか、一一槇村君の問に答へてゐたが、あとでは、あれはただの山だといふやうな事を云ふやうになつた。\n 馬車を見捨てた所からだらだらと坂を下りると、すぐ目の下に河口湖が青く沈んで見えた。寺があつて、社があつて、其處を入りかけて右へ折れると、岩の上に箱を戴せたやうな家がある。青楓君が數年前寫生に來て泊つてたことがあるといふので、その宿屋に入る。虚山君と槇村君は草鞋を解かないで、寫眞機を持つて何處へか行つてしまつた。\n 私と青楓君は浴衣に着替へて湖水を眺めたり雲に蔽はれた富士を見たりしてゐたが、まだ日が高くて二階には相當のほてりがあり、外へ出て見たところで大してしようもなささうだから、(實際、河口湖は平凡である、)やがて歸つて來た兩君と一緒になつて寢ころびながら、例の大カバンの中から罐詰のソオセイジを取り出したり、ミルクココアをこさへたりして雜談に耽つた。\n やがてお湯が立つたといふので湯殿へ行つて見ると、風呂の中から湖水の片端が見下されるのはよいが、此の地方は水汲に骨が折れるから風呂桶の中からしやくひ出すことを斷るといふ貼札が出てゐた。といつて、別に上り湯があるではなし、洗面用の水桶から汲み出して洗ふか、風呂桶の中であかを洗ひ落すかするより外はない。それは我慢もできたが、その晩私たちは田舍芝居を見に行つて夕立に逢つて足をよごして歸つたから湯殿へ足を洗ひに行くと、もう風呂は拔いてあつて、洗面用の桶の水が暖かい。すかして見ると脂がひどく浮いてゐた。それで、翌る朝は持つて來た水筒の水で含嗽をするといふやうなわけであつた。それから蚤の多い事と電燈の暗い事と食べ物のまづい事(東京から來たといふ骨つきの刺身など)と、便所の清潔でない事と、これ等は何とかならぬものだらうかと思つた。最後に女中の一人が赤い腰卷の上から、笹縁の附いた薄いアッパッパを一枚着たきりで給仕をしたりするに至つては、みんなあきれ返つてなんにも言はなくなつてしまつた。\n 五日。\n 五時と六時の間に日が出た。それが山の上に現はれる前に湖水の中へ突き出した小山の縁が一番に金色に光り出して、それからその向の山、手前の水面が輝いて行く變化は美しかつた。前の晩に頼んで置いた舟の用意が出來たといふ知らせはまだ皆んなの寢てゐる内にあつた。朝飯がすむとおかみが上つて來て、船便を借りたいといふ人が二人あるといふことであつた。私たちは差支へないと答へた。\n 今日は湖水を二つ横斷して、その間にある小さい峠を越えて、三つ目の湖水に達するまでに二里の森林を通り拔けねばならぬので、例の大カバンのために一人の人夫を傭ふことにした。船津から精進まで二圓といふ約束で。\n 渡船は宿屋のすぐ下の濱邊から出て、向の長濱といふ小さい村に着いた。九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。\n 舟の中の話は船津の宿屋の惡口が大部分であつた。此間亡くなつた和田垣博士の駄洒落の話をする者もあつた。青楓君はその間眠つてゐた。道づれになつた二人の青年は默つて、舳の方に頬杖をついて山ばかり見てゐた。二人とも切り立ての脊廣に赤靴をはいて、ゲイトルもかけてゐなければ洋傘も持つてゐなかつた。" }, { "role": "assistant", "content": " 長濱に上るとすぐ道は上りになり、照りつける日は熱かつたけれども、三十分の後には私達は鳥坂峠の頂上に立つてゐた。其處から今渡つて來た河口湖を後に見下し、これから横ぎらうとする西湖を目の下に見やつた眺めは、恐らくいつまでも忘れられないであらう。更に、西湖の向に青木ヶ原の樹海を見渡し、それに續く丘陵の先に龍ヶ嶽(その頭は富士と同じやうにまだ雲の中に隱れてゐた)を見た景色は、たとへば、此處から引返すとしても私たちは此の旅行を後悔しないだらうと思はれる程度のものであつた。峠の涼しい風に吹かれながら、虚山・槇村の兩君は寫眞機を抱へて頻りに駈け廻つてゐた。\n それから西湖の村へ下りるのはわけはなかつた。湖は漢音でよみ、村の名はのの字を入れて訓讀するのださうである。鳥坂峠を上つた高さと下りた高さとから測つて、私たちには、西湖の方が河口湖より餘程水面が高いやうに思はれたから、西湖で雇つた船頭に聞いて見ると、何百尺と違ふといふことであつた。さう云へば、長濱の山の側面に水力電氣の例の竪琴のやうな裝置がしてあるのを見た。\n 西湖は周りにすぐ山が迫つて、河口湖よりは暗いけれども、それだけ靜寂の氣に多く充ちて、私には高く値ぶみされる。けれども舟で渡るよりも、鳥坂峠から見下した景色の方が遙かによい。舟で行くと、その間に富士が斷えず見えてゐるのがうれしい。湖の中程から美人はとうとうそのヴェイルをとつてしまつた。虚山君が誰よりも喜んで聲に出してその美人に挨拶した。私たちは紅葉の季節に來た方がよかつただらうといふことに意見が一致した。青木ヶ原の湖水に面した方は雜木が夥しく茂つてゐたから、霜に色づく時の眺めが思ひやられた。\n 舟を見捨てて一丁ほど桑畠の間を歩いて行くと根場といふ村である。まだおひるには早いけれども、これから森林にかかるのだから腹をこしらへて置かうといふことになり、村に入つて二軒目の綱と桃太郎といふ二つの名札の出てゐる家を探して晝飯の用意を頼んだ。これは船頭に聞いて來たのである。二人の道づれの青年を合せて六人、それに人夫を入れて七人分の飯をたいて貰ひ、ジャガタラ芋を鹽煮にして貰ひ、それに新鮮な胡瓜を刻んで花鰹をふりかけて、意外にうまい食卓についた。青楓君を徴發係にして近所の家から牛肉と魚肉の罐詰を買つて來て食つて見たが、これはまづくて食へなかつた。そこで槇村君の例の大カバンからシカゴ製の罐詰を出して口直しをした。\n 厚意ある桃太郎君とその細君と肥大したその母らしい人を相手にして私たちが行先の道筋について相談をしてゐる時に、婦人を乘せた山駕籠が一梃森の方から湖の方へ私たちの前を通つて行つた。その婦人は駕籠の外に袖を垂らして團扇をつかつてゐた。その後から白い兩手をむき出しにして帽子をかぶつてゐない若いアメリカ人らしい青年と、あひの子らしい髮の赤い日本服(浴衣)を着た少女がついて行つた。さうして最後にリユックサックを脊負つた中年の日本紳士がついて來たが、その人だけが私たちの休んでゐる家に入つて來て、桃太郎君と長いこと話をしてゐた。あとから聞くと、その人が精進ホテルの支配人だとか持主だとかいふことであつた。山駕籠の婦人はその細君で、病氣のために東京とか甲府とかへつれて行くのだといふことであつた。\n やがて其處を出て森へかかると精進まで一里三十丁といふ標柱が立つてゐた。なでしこが澤山咲いてゐたが、それよりも薊の葉の大きく生き生きしてゐるのが氣持ちよく見られた。併し私たちの失望したことは、何處まで行つても道が森の中へ入らないで、森の外ばかりを縫つてゐることであつた。さうして山の裾の右側で、日がまともに照りつけるので、暑くてたまらない。槇村君は大町桂月の紀行を讀んで來て、仰いで天を見ずといふ句があつたけれども、これでは仰いで木を見ずだと云つて不平をこぼした。道案内の人夫をつかまへて、外に森の中を通れる道があるのではないかと聞いても、それは西湖へ出ないで船津から鳴澤を通つて行く時のことで、根場へ上つた以上は此の道より外に行きやうはないといふことだつた。それなら風穴へ出る道(これは案内記で知つた)があるだらうと云ふと、知らないといふ。無能な道案内だとは思つたがあきらめることにして、中を通つたら涼しさうに思へる深い森林をよそ目に見ながら、暑い思ひをしてやつとの事で精進湖の縁に辿りついた。その五六丁手前で、一臺のガタ馬車が後から來て私たちを追ひ越して行つた。その中にはさつきのアメリカ人らしい青年と浴衣を着た髮の赤い娘が乘つてゐた。\n 湖水の縁まで下りた時には、その二人の男女は白いボートを漕いでホテルまでのまん中ほどへもう出てゐた。ホテルは對岸の突き出た崖の上に支那カバンを載せたやうに載つかつてゐた。人夫が大きな聲で呼びかけたけれども、ボートは歸つて來なかつた。丁度そこに二人の村の男が立つてゐたので、それに頼んでホテルまで舟を出して貰ふことにした。村は右手の山を越えて半里ほどの所に在るから此處から普通ホテルへ行く人は大きな聲でどなるのだ。さうするとホテルの人が聞きつけてボートで迎へに來るのだといつた。のんきで面白さうだけれども、不便と云へば此の上もない不便である。ホテルまでの距離は周圍が靜かだから呼聲でも聞こえるか知れないけれども、窓に立つてゐる人が男か女か見わけがつかない位に離れてゐる。道づれの二人の青年は、私たちより少し先に來て水の傍に立つて宿屋のある村の方とホテルの立つてゐる對岸を見くらべて話し合つてゐたが、私たちが舟を雇つてゐるのを見ると、また一緒にホテルへ同行することになつた。\n 此處の湖は西湖よりも一層閑寂の趣があつて、それでゐて西湖ほど陰氣でなく、――それは半分は山に圍まれてゐるけれども、他の半面が直接に裾野に續いてゐるので、――美しさから云つても一等であるが、どうしてか水が減つて(岸に一丈ほど白い所が水面の上に殘つてゐた)方々に熔岩の洲が夥しく浮き出してゐた。けれども舟を漕ぐ男は、これは一時的の現象だと云つた。\n ホテルは外國人が三人(内二人婦人)と日本人が一人泊つてゐるきりであつたから、ベッドの二つづつある部屋を三つ借りることができた。廊下口から上つて行くと、家の中がからんとしてゐて、なんだか空屋に入つたやうであつた。日本風の宿屋なら、先づ足を洗つたり茶が出たりするところであるが、私たちは草鞋も脚絆も解かないでぼんやり椅子にかけたまま、初めの十分間を不平を云ひながら過した。不平は皆んな足を投げ出したいといふのであつた。浴衣に着かへて廊下の手摺にでも兩足を投げ出したいといふのであつた。さうして風呂に入つて汗を流したいといふのであつた。さうして寢ころんで頬杖ついて話したいといふのであつた。それが出來ないからホテルといふものは親しみがないといふのであつた。これは日本人の生活の安易性から來た一つの習慣ではあるけれども、その場合の私たちの實感でもあつた。\n とにかくベルを押して水を取り寄せ、人の分前の少くならぬやうに氣を遣ひながら顏と手を洗ひ、それから炭酸水にウィスキをまぜて飮んだり、熱いコオヒを啜つたりした。それを運ぶのは、前週中に來た一人のウェィタと、一昨日から來てゐるといふ東京市麻布區六本木の少女である。――讀者は、私たちが宿屋につくとすぐ女中の戸籍をもう知つてゐるのに不審を懷かれるかも知れないが、これは恐らく諸君だつてさうであらうと思ふが、日本の紳士の一般の癖として、宿屋について、女中がまづお茶を持つてデブューすると、お前はどこから來てゐるか、名前は何といふか、更に、年は幾つか、......全く必要もない質問を發する習慣がある。\n 私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍〻そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。私たちは明日の旅程について相談した。裾野を馬で越して大宮へ出ようといふ説と、峠を三つ越して甲府へ出ようといふ説が問題になつた。遂に前説が勝つて、ミス・六本木を呼び、馬を六頭明朝用意するやうに云ひつけてくれと頼んだ。馬はこれから約一里向の本栖の村から引いて來るのだから今夜の内に命じて置かないと仕事に出てしまふだらうといふことであつた。\n 精進湖で景色の美しさと共に氣に入つたことは、一體の空氣の靜かさであつた。山の間の湖といふ感じは今までの内で此處が一等である。ホテルの中も閑靜で、二間ほど離れた部屋から女の聲で英語らしいアクセントが微かに漏れるのと、時時ピヤノの音が聞こえるのと、それから日が入つて珍らしい鳥の啼き聲がし出したのと、音のするのはそれきりであつた。さうして今日途中で逢つたアメリカ人らしい若い男が相變らず上衣なしの姿で、大きなパイプをくはへながら窓の下を行つたり來たりしてゐた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " だから「宗教復興」の現象を、社会に対するプチブルの不安の意識から説明することは、嘘ではないとしても、決して事物の本質を衝くものはないのである。軍義的分子と官僚とを引き具する所の日本型大ブルジョアジーの刹那的な安心の表現こそ、日本特有の「宗教復興」の本質をなす。――無論、大ブルジョアのこの刹那的な大安心は、小ブルジョアにとっては却って不安の種にもなろう。丁度積極的な階級にとっては夫が憤怒の種にならねばならぬと同じに。\n\n 二 宗教団体法案はなぜ必要か\n\n 議会に提出すべき「宗教団体法案」の草案が文部省の手によって決定された。いわゆる宗教法案なるものは宗教家の側からする多年の要望だったのであるが、しかしそれと同時に信教の自由の建前からいって、宗教そのものを官庁が取締るかのような宗教法案は、宗教家自身の感情からいってもすぐ様賛成出来ないものだろう。宗教法案の立案が企てられて以来三十余年に至る今日まで、該法の成立し得なかった理由の一つはここにあったろう。\n そこで今案が決定された法案が、実はいわゆる宗教法ではなくて、宗教団体法であることを注目しなければならない。宗教そのもの(もしそういうものがどこかにあるとすれば)を取締るのではなくて、単に宗教団体だけを取締ろうというのが、この法案の自慢したいところだと思う。\n 尤も宗教団体を取締ることが、実質上は宗教自体の取締りを意味して来ることは自明なことではあるが、然し今大切な点は、仮に名目上の問題であるにしても、少なくとも宗教そのものの自律、いわゆる信教の自由、というものを日本の支配者機関が尊重し又尊重するように見せかけるという、その心がけ自身にあるのである。なぜそう云うかというと、実際には一種の信教の自由にぞくしている処の「思想」の自由などは、こうした名目上の問題としても、今日すでに決して認められてはならないからである。たとえば「民族的信念」(これも確かにその言葉が示す通り信教にぞくするだろう)は、その内容の巨細に至るまで取り締りを受けねばならぬことが、政府によって声明されている。これから見ると宗教の方は殆んど極楽浄土の感なきを得まい。\n だがこれは、今日の日本の「宗教」なるものが、その一切の差異にも拘らず、つまり本質の一定した間違いのないもので、それが「宗教」である限り特に取締りを必要としない底のものであることを、ハッキリと告げているのである。支配者当局は考える、取締るべきものは宗教ではない、却って宗教類似のもの、新興宗教・類似宗教・インチキ宗教・その他等々だ、宗教をして不逞な思想の類に太刀打ちさせるためには、まず宗教そのものをこうしたものから護らねばならぬ、と。そこで宗教団体法なるものが出て来る。\n だから宗教団体法は宗教をその社会的不信用から救済する使命を持っている。第一、教派・宗派・教団・を法人とすることによって、宗教団体の主脳者と財政との関係を切り離し、管長や教団代表者が金銭上の汚名を受けることを妨ぐ。それから第二に、いわゆる類似宗教(これを本当の宗教団体から区別して宗教結社と呼ぶ)を宗教団体に準じて取扱うことによって、これを向上昇格させる。そうすれば少なくともインチキ宗教と非インチキ宗教とを区別することに役立ち、宗教が元来決してインチキでないということを、特に社会に明示するのに役立つのである。宗教団体法がインチキ宗教取締りの目的を有っているというのは、この意味においてなのである。\n 要するにこの宗教団体法案なるものは、宗教団体の社会的経済的存在における世間的な信用を高め、従っておのずから間接に、しかし的確に、宗教そのものの社会的権威を擁護しようというのである。単に信教の自由を許すとか奨励するとかいうのではない。積極的に宗教を(だが必ずしもその自由をではないことを注意せよ)押し立て、ひけらかす。それが政府の宗教団体法の社会的意義だ。宗教はいつの間にか社会の、為政者の、それ程大切なペットかマスコット見たいなものになっているのである。\n 文部省はすでに学校における宗教教育の採用について苦心を払っている。教育における明治初年来の政教分離の方針には、大いに手心を加えよと学校に向かって訓令している。宗教的情操は教育上絶対に必要だと告白している。宗教は今や日本にとって非常に大切なお客様となった。インチキ宗教(もしインチキでない宗教があったとすれば)が流行するということ自身もまた、これと全く同じ日本社会のお客様としてなのである。\n だが凡そ宗教についてそのインチキと非インチキとをどこで区別してよいか、無論当局の誰にも判るはずはない。誰か烏の雌雄を知らんや焉である。そこで宗教の代りに、宗教団体の方を標準にしてこれを決定しようというわけなのである。\n\n 三 大本教与し易し\n\n 一九三六年三月十三日を期して、かねての懸案であった大本教禁圧が実行された。司法大臣は出口王仁三郎以下八名の大本教幹部の起訴を検事局に命令し、同時に内務大臣は皇道大本以下八個の大本教団体の解散を発令した。大本教幹部の大本教に基く罪状が不敬罪と治安維持法違反である以上、同教諸団体の解散は当然と云わねばならぬ。\n だが大本教を以て所謂邪教の代表と見做すことは必ずしも当っていない。自然科学的真理を蹂躙し更に又社会科学的真理を蹂躙するものは、豈大本教に限ろうか、否豈所謂邪教に限らんやだ。いや豈宗教に限ろうやだ。大本教が特に弾圧の代表者として選ばれたのは正に夫が単なる邪教ではなくて、もう少し凄みのある邪教、即ち所謂妖教・怪教であったからだ。妖怪や化物は一種の凄みを有っている、なぜかというと夫は何等かの現実に似ているからだ。吾々の現に知っているものに似かよった処があればある程その凄みに現実味がある。それが化物のもつリアリティーというものだ。まるで見たこともないような別なものなら恐れることも慄えることもあるまい。\n 大本教の犯罪味は前にも云った通り不敬罪と治安維持法違反とである。即ちいずれにしてもその不当な皇道主義を標榜した点がいけないのである。わが国家の神聖を保持するためにはかかる妖気は払い清めなくてはならぬ、それが又わが国に於ける宗教そのものを護るためのお祓いにもなる。かくて大本教は処断された。私は為政者と共に之を欣快とするものである。" }, { "role": "assistant", "content": " 併しそれはそうでも、私は大して飛び上る程うれしいとは思わない。大本教が如何に妖凄だとは云え、司法省や内務省が、宗教的な(いや寧ろ反宗教的な?)行為しか出来ないような物理的に無力なこの一勢力を、やっつけることが出来るということは、あまりに当り前のことで、今更出かしたとも有難いとも感じない位いだ。これは司法大臣が選考し直されても、警保局長が休職更迭になっても、大丈夫出来ることだからだ。この妖怪めいた皇道主義振りや妄想的な政治的信仰ならば、之を祓い潔めるためには一通の電話と一葉の命令書で充分なのである。\n 尤も容易しいことを敢行したからと云って批難する人間はいない筈だ、これはやさしいことであったには相違ないが、その効果から云えば絶大で徹底的な意味を有っているのだから、やはり吾々は大いに喜ぶべきだろう。と云うのは、大本教が弾圧された結果、大本教と普通の宗教とを加えて二で割ったような偽似怪教とでもいうようなものが生長するのではなくて、大本教の宗教行為だけではなくその精神や意図そのものまでが、完全に合法性を失って了ったのである。大本教弾圧はその意味に於て大本教に取っては完全に零化かマイナスを意味する。大本教はいい気になってばかりいたため、その精神を何とか活かすためにみずから、予め不敬な点や治維法違反の点を整理する建前を取って見せることに気づかなかったから、今回のような徹底的な失墜を招いたのである。もし大本教にしてもう少し尤もらしい自己統制を行なうことが出来たら、この世の中は却って益々大本教的になって、その精神や意図が実質的に実現出来たかも知れない、危い処だった。\n 何年の何月何日に建直しが行なわれるという代りに、徐々に建直しが行なわれたり何かするのだったら、世の中は知らぬ間に大本教のものになって了ったかも知れない。而も世間の人間は夫が一向大本教的であるとは気がつかぬかも知れない。邪教や妖教的になったとは思わずに、ノルマルに宗教的になったと世間では考えるかも知れない。――処が幸にしてそこを大本教は覘うことを知らなかった。併しもう片づいたのだから少なくとも大本教に限っては、心配は無用だ。大本教は非常時主義から見事に落伍したのだから。\n\n\n 27 ブルジョア哲学とその宗教化的本質\n\n 今日のブルジョア哲学は、いうまでもなく、殆んど総て観念論である。観念論という規定は言葉としては稍々マンネリズムに堕した感がなくはないが、併し今日夫が意味する内容に就いて云えば、極めて、生々とした概念だといわねばなるまい。それはあとに述べるとして、今日の所謂ブルジョア哲学というものが何を指すかも、問題でなくはないのである。この点を少しハッキリさせておかないといけないだろう。\n 元来の単純な意味ではブルジョア哲学とはブルジョアジーのイデオロギーとしての哲学を指すのである。つまりブルジョアジー階級の哲学であるが、ブルジョアの階級哲学と云ってもいいだろう。ブルジョア階級出身の哲学者による哲学には限らぬ、又ブルジョア階級にぞくする哲学者の哲学には限らぬ。又ブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・利害乃至意識を、無意識的又意識的に表現した哲学だけがブルジョア哲学でもない。なぜかというと、現代社会は勿論ブルジョアジーだけで出来上ってはいないが、それにも拘らず資本制の支配する社会なのである。だからブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・な利害や意識を、必ずしも直接に云い表わしたものでなくても、それがブルジョア社会の支配的権力と観念的連絡がありさえしたら、やはりブルジョア哲学なのである。ブルジョア社会に於ける政治的支配と平行して支配的な哲学、という意味でも亦ブルジョア哲学の名は価値があるのだ。\n 日本のブルジョア社会に於て支配的な政治的権力を持つものが、必ずしもブルジョアジー自身でないことは、勿論のことだ。或いは純粋なブルジョアジーは日本のブルジョアジーを代表するものではないと云った方がいいだろう。封建的・軍義的・官僚的なファッショ(日本型ファッショ)が直接の支配者である。だからもし、ブルジョア哲学なるものを、ブルジョアジー自身の、又は純然たるブルジョアジーの、哲学に限定して了うなら、日本に於けるブルジョア哲学は、極めて数が少ないか或いは極めて微力であるか、それとも全然今はないとさえ云っていいかも知れない程だ。では今日の多くの日本主義思想乃至哲学、東洋的神秘主義と見做されているもの、其の他等々はブルジョア哲学ではないのか。少なくともそういう日本ファッショ哲学乃至日本ファッショ的哲学は、このブルジョア制社会に於て、支配的なのだが、そういう支配的な哲学はブルジョア哲学ではないのか。ブルジョア哲学が、単純にブルジョアジーの哲学だと云って片づけられない所以である。\n 西田哲学がブルジョア哲学か、それとも封建的哲学であるか、という問題が出されたこともあるが、この設問はだから同じく誤っているのである。日本の多くのブルジョア哲学が封建的な関心なしにはブルジョア哲学になり得ないということが、大切な要点だ。つまり日本のブルジョア社会に於て、その政治的支配力と平行した支配力を有つ哲学は、ブルジョア哲学であろうと封建的哲学であろうと、ブルジョア哲学にぞくさねばならぬわけだ。区別はその後に与えられねばならぬ。\n かくてブルジョア社会に於ける支配力と平行して支配的である哲学が、ブルジョア哲学というものの意味であるが、このブルジョア哲学の諸形態の多くが、今日観念論だというのである。\n 観念論の規定は精神から自然を説明することにあると云われている。この際精神とか自然とかいう用語は、一定の哲学史的常識に沿うて用いられているわけで、この言葉を別の仕方で理解するなら、この規定は全くの無意味にさえなるのであるが、従って吾々は常にこの種の規定を、現在に生きている具体的なカテゴリーによって具体化してしか実用に供することは出来ないわけだ。だから之を以て直ちに観念論の形式的な定義だなどとは思いもよらぬので、吾々は現下の文化事情にそくして、観念論を歴史的に定義しなくてはならない。所で今日の観念論、つまりブルジョア哲学は、どういう規定をもっているか。\n 古来からお誂え向きに出来た露骨な観念論=観念唯一主義や精神万能主義=などは極めて少なかった。露骨な観念万能主義を被覆する点に於て複雑化したことは、特に今日の観念論の特色をなす。今日の観念論は極めて高度の発達をしているから、心理学的な意識や精神、自然科学的な自然や物質、を直接の問題としない。例えば自然と云われるものはもはや自然科学で取り扱っている自然ではない、そういう自然は本当の自然のほんの常識的な一部分に過ぎない。本当の自然はその内に客体と主体との対立の統一を含んでいる。その意味から云うと自然の内には精神が含まれている。否精神と自然とが対立し乍ら一つに統一されることによって、初めて自然も精神もあり得るのだ、云々と云う。この際の精神なるものは無論心や観念のことではなくて、かの形而下的でない、超物理的な、自然の対立物としての或るものなのだ、という具合にである。\n 用いられるカテゴリーがこのように形而下的で日常的なものから、形而上的な形而上学的なものにまで変質するのが、今日の観念論の一つの共通な特色である。尤もこの際如何に形而上的なカテゴリーが事物の関係を説明するにしても、その説明が説明される事象自身にピッタリ要点々々で当っているなら、その結果は決して形而上的だとは云われない。処が観念論の特色は、そういう実証的な検証を与えることも出来ないし、又与えようとも欲しないという処にあるのである。人間にぞくすべき主体のモメントが自然の内にすでにあるという、そういう主体的契機がなければ自然は哲学的なカテゴリーにならぬという。そういう自然が何等の実証性を有たないことは、宇宙開闢直後の自然に就いてでも考えて見ればすぐ判ることで、今日の自然科学的常識は、人間のいない自然がまず存在したことを実証する観察や実験に基いているからだ。\n 観念論はここに実証界と非実証界との不遠慮な峻別を想定している。と云うのは実証界に就いての理論の代りに、非実証界に就いての理論を以て、凡てを悉そうとするのである。之は単純なことであり、知れ切ったことのように思われているが、実は根柢的な意味のあることだ。古来の所謂形而上学に対する不信は、単に形而上的なカテゴリーで物を云うから起きたのではない。哲学が物理的・形而下的・なカテゴリーだけで物を云うことの出来ないのは当然であって、そこに哲学の深い真理もあるというものだが、併し不信を買った根拠は、実証界とは独立に非実証界の秩序を打ち建て、この天上の秩序を以て地上の秩序におきかえたり、之に干渉したり、之を統制したり、しようとする企ての内にあったのである。\n 神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返せ、ということから始まって、神のものはカエサルのものを支配することとなり、更に神のものがカエサルのものとなり、又逆にカエサルのものは神のものとなる。神の秩序のカエサルの秩序からの独立、神の国のカエサルの国からの独立、そして前者の支配、それから前者の唯一独立存在、理論の上でそういう事情になるのが、古来の形而上学の特色であった。今日の観念論はそういう形而上学の理論的に精練されたものに他ならない。\n\n 現代の観念論は併し、観念論として他に特有の発達を持っている。従来の観念論は精神や観念を中心概念として持ち出した。その後の近世観念論は意識という根本概念を中心とした。実体論から認識論にまで進んだのである。だが認識論は一方に於て意識の歴史的内容に注目しなければならなくなり、意識は認識論からフィロロギー(文献学)主義の世界へと移された。歴史的観念論は歴史からフィロロギーを導き出したのである。かくて意識は今や論理学的乃至先験心理学的な意識から、文化論的な意味に於ける意識にまで、つまり「意味」というものにまで、変って来たのである。観念も精神も意識も、この意味というものに帰着する。意味とは事物の存在ではなくして事物の存在が吾々にとって持っている処の「意味」のことなのだ。勿論事物自身とそれが有つ意味そのものとは別であるが、実際は事物が意味を有つという一つのリアリスティックな関係が大切なのだ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「失礼でございますけれど、あちらへいらして頂きたいとのことでございます。」\n みよやの言葉に、北村はへんにびくりとしたように立ち上った。\n「たいへん散らかしておりますけれど......。」\n 導かれたのは台所の方で、新らしい庭下駄が揃えてあった。靴下をずらして下駄をつっかけ、外に出ると、千重子が駆けて来た。\n「なあんだ、君か。」\n その大声を、し、と千重子は制した。\n そこの空地に、竹の縁台が一つある。平素は、菜っ葉とか芋とかその他の洗い物などが、水を切るために並べられるぐらいなものであろう。その縁台に、古い畳表を展べ、座布団を敷き、大きな盆を置き、盆には酒肴が並んでいた。柿の葉の茂みが、深い木影をあたりに落している。\n「いかが? お酒には涼しい方がお宜しいでしょう。」\n 洋装では少し肉付の不足を思わせる彼女のすらりとした姿を、北村は初めて見るもののように眺めた。\n「だしぬけに、いつ帰って来たのかね。」\n「さっきよ。井上のおばさまがいらしたでしょう。」\n「私の知らない人だ。」\n「小父さまはそうでも、わたし、今ちょっと、井上のおばさまにお逢いしたくありませんの。さっき、遠くからおばさまの姿を見かけて、家にいらっしゃるのを見届けて、よっぽど、も少し外をぶらついてこようかと思ったけれど、重い荷物をさげてたものだから、置きに帰って来たの。すると、小父さまがいらしてるんでしょう。助かったわ。これで一生懸命、知恵をしぼったつもりよ。屋台店、ね、屋台店を小父さまは讃美していらしたわね。この屋台店、いかが?」\n「そりゃあ、申し分ないがね。然し、どうも理屈が違うようだ。屋台店が主なのか、その井上のおばさんとかを避けるためのカムフラージュが主なのか、そこのところがはっきりせんね。」\n「一挙両得.........一石二鳥......。」\n 歌うように言って、千重子は笑った。それから突然、縁台に腰掛けてる足先で地面を二三度強く蹴った。\n「井上のおばさま、ずいぶん失礼よ。ほんとは田島さんの方が失礼なんだけれど、それはあのひとの持ち前だもの、井上のおばさままで失礼にならなくったっていいわ。例のわたしとの縁談のことよ。こうなんです。いつまでもあやふやなままでは困る。田島さんにもほかに幾つも縁談があるが、こちら様との話がはっきりしないうちは、先方へ返事のしようがないし、こちら様もたぶん同じことだろうし、この際、はっきりした御返事が承りたいと、そう仰言ったそうですの。だからわたし、はっきり、お母さまにお断りしたわ。田島さんとの縁談をきっぱり断ったわ。それから、わたくしはまだ縁談の行列の中に並ぶつもりはございませんと、はっきり言ったの。だって、行列をつくって、あとがたくさんつかえているから、先頭から順々に片付けてゆかなくてはならないと、そういう考えですもの。何もかも行列ね。縁談まで行列ね。わたし、いや、そんな行列、いやだわ。」\n「その、君の返事を、お母さんが今日なさるのかい。」\n「いいえ、こないだなさった筈よ。だから、今日またおばさまがいらしたのには、なにか、別な失礼なお話でもあるんでしょう。考えてみると、お母さまも失礼よ。お父さまもちょっとね。みんな失礼ばかり。わたし癇癪を起して、はっきりお断りしてよかったわ。なんだかさっぱりして、自由な身になったような気がするの。」\n 千重子は猪口を取って酒を飲んだ。\n「お母さま、なにか仰言いませんでしたの。」\n「君の所謂失礼の問題かね。そんなこと、お母さんには分りはしないよ。何の話もなかった。」\n 北村は煙草に火をつけて、少しく歩いた。鵞鳥の話を思い出しておかしくなり、くるりと千重子の方へ向き返った。\n「君は、鵞鳥の絵をかいたことがあるかね。」\n「鵞鳥の絵......ないわ。」\n「一度も。」\n「ええ。なぜ?」\n「それじゃ話にならん。」\n 北村は縁台に戻ってきて、酒を飲んだ。\n「これは内緒の話なんだがね......。君のお母さんはすばらしい空想家だ。」\n 鵞鳥を飼えば最上の泥坊よけになるという話を、富子の説に更に尾鰭をつけて披露してやった。\n「それを、知人から聞いたように話すんだから、お母さんもなかなか技巧家だ。」\n 千重子は薄笑しながら聞いていた。北村が話し終っても、まだ微笑していた。\n「嘘じゃない。ほんとの話だよ。」\n「ええ、ほんとの話よ。」\n「なにが。鵞鳥のことかい。」\n「いいえ、それをひとからお聞きなすったということ。須永のおばさまからよ。なんかの時、ひょっとお洩らしなすったことがあるの。須永のおばさまからからかわれたことには、ちっとも気がおつきにならないんですもの。わたしだったら、須永のおばさまに御返事してあげるわ。わたくしどもでは、お説に従いまして、鵞鳥を飼うことに致しました。お宅さまでは、驢馬をお飼い遊ばしてはいかがでございますか。驢馬の肉は、牛肉よりもおいしいそうでございますし、驢馬の乳は、牛乳よりも滋養が豊かだそうでございますし、驢馬はたいへんおとなしくて、子供の遊び相手に丁度よいそうでございますし......。もっともっと、たくさんでたらめを並べ立ててあげるわ。」\n「なんだい、それは。」\n「鵞鳥にしろ、驢馬にしろ、ヨーロッパでは、おばかさんという意味にも使われるんでしょう。」\n「ああ、おばかさんか。」\n「須永のおばさまは、面白いかたよ。」\n「然し、ねえ、私の話し方がまずかったが、実は、お母さんとしては、鵞鳥が主じゃなくて、鵞鳥を飼う池の方が主らしいんだ。よくは分らないがね。」\n「池のことなら分るわ。言ってみれば、老後の楽しみで、また老後の見栄ね。お父さまも賛成よ。ただ、順一さんの口真似をすれば、実行に移すプロモーターがなかった。」\n「鵞鳥がそれだと言うのかい。」\n「お母さまの中で、ガアガア鳴き立てているんでしょう。」\n「それこそ、失礼な言い草だ。」\n「小父さまの中には、お酒がぐつぐつ沸き立っている。」\n「千重子の中には......。」\n「とんびが、ヒョロヒョロ鳴いている。」\n 二人は声を揃えて笑ったが、千重子の笑いが哀調に変ろうとするとたん、二人とも笑いをやめて、ひたと眼を見合った。先刻から、最も大切な事柄の外側をぐるぐる廻って戯れてたようなものだが、もうごまかしがきかなくなった。\n「どうして来なかったんだい。」と北村は言った。\n 千重子は黙っていた。房々と縮れてる髪の毛の中で耳が真赤になった。\n「菅原君が帰って来たと聞いたら、すぐにも飛んで来るかと思って、待っていたよ。」\n「意地わる。」\n 千重子は睨むまねをしたが、瞬間、その眼にいっぱい涙がわき、立ち上ってくるりと向うをむき、こんどは、倒れるように北村の胸に倚りかかってきた。そしてそこに顔を隠して泣いた。\n「どうしたんだい。何かあったのかい。」\n 千重子は頭を振った。暫くして、顔を挙げ、極りわるそうに微笑んだ。\n「ごめんなさい。」\n「まあいいさ、飲もう。」\n 千重子が熱い銚子を二本いっしょに持って来ると、北村は手酌でしきりに猪口を重ねながら、菅原洋平のことを話した。彼の旅行のこと、帰って来てからのこと、新居のことなど......だが実は、北村もよくは知らないのである。\n「あの天神下の家に菅原君が住むようになろうとは、これは奇縁だね。」\n それについては、千重子は何の興味も持たないらしかった。その家屋の様子も全然知らないのである。その代り彼女は、周組南一家のことをいろいろ尋ねた。だがこれについては、紹興の店以外、北村は殆んど知るところがないのである。\n「小父さま、これから淋しくおなりなさるわね。」\n「菅原君がいなくなるからかい。なあに、もともとだ。初めから臨時のつもりだったんだ。」\n「わたし、時々伺うわ。絵も勉強するつもりよ。」\n「お父さんが、どうやら病気らしいじゃないか。そんなに出歩くわけにもゆくまい。」\n「大丈夫よ、八重子さんがいるから。八重子さんて、この頃まったく感心よ。いつもお父さまの側につきっきりなの。そしてめちゃくちゃに編物ばかりしてるのよ。毛糸の玉を幾つもころがして、手袋だの靴下だの、帽子だの、スエータだの......今に外套まで編むんだと言い出すかも知れないわ。そりゃあ器用よ。一つの編み方を幾通りにも応用するの。そして夢中になってるかと思うと、お父さまがちょっと身動きなすっても、すぐ御用をしてあげるのよ。言われない先にお父さまの気持ちを察してしまうのね。八重子さんが側にいないと、お父さまはよけい淋しそうなの。今も八重子さん、お父さまの側で編物をしてるんでしょう。」\n 北村の眼に涙が浮んできた。それを怪訝そうに千重子は見守った。" }, { "role": "assistant", "content": "「酒に酔ってくるとね、私も君のお父さんと同様、感傷癖に囚えられるんだ。私の方が病気なのか、お父さんの方が酔っているのか、どっちかだね。ただ一つ、ふしぎなことがある。私はもともと、君の家とは親戚の間柄だというばかりでなく、お父さんにはたいへん世話になった。いろいろ援助を受けた。世話をし援助をするからには、する方にも好意があったわけだ。其後、どうしたものか、まあ私の不徳の至すところ、ふしだらの至すところ、だんだん疎遠になり、飲んだくれとか、ペンキ屋さんとか、有難くない愛称を頂戴した始末さ。ところが、最近、様子が変ってきた。君たちのことを言ってるんじゃないよ。お母さんや、お父さんのことだ。やって来ると、嫌な顔一つ見せられないし、親しくもてなされ、酒まで充分に飲まされる。つまり、松本家の酒庫が私に喜んで解放される。これは一体どうしたことなんだ。どういうわけなんだ。私はへんに落着かない気持ちだ。ひがんでるんじゃないよ。なんだか腑に落ちないんだ。どういうわけなんだ。」\n 酔いながら、饒舌りながら、北村は酒を飲んだ。千重子は考え深そうな眼付きになっていった。\n「それはね、小父さまの存在の問題よ。」\n「なんだい、存在の問題て。」\n「小父さまがいらっしゃるということ、それが、お父さまにもお母さまにも、やはり心強いのよ。」\n「ばか言っちゃいかん。却って荷厄介さ。」\n「厄介な荷物でも、無いより有った方がいいわ。」\n 北村は千重子の顔を見つめた。\n「そんなことは、哲学者の言うことだ。詭弁家の言うことだ。」\n「わたし考えたのよ。小父さまのように、ただ存在してるということだけでも何かになるという、そういう人間になりたいと......。」\n「誰だって、そんな風に言えばそうじゃないか。」\n「いいえ、違うわ。ちょっと説明しにくいけれど.........。」\n 話が通じなくなると、二人はぼんやり顔を見合せて頬笑んだ。頬笑みがすべてを解決してくれるのである。\n 然し、その時、北村も千重子も全く予期しないことが起った。\n\n十\n\n 台所口から顔を覗かせて、富子夫人があわただしく呼びかけた。\n「そんなところで、何をしているんですか。小泉先生と、大勢いらしてるんですよ。いろいろ御用があります。北村さんも、ちょっと手助って下さい。」\n 富子の顔は、言葉といっしょにそこから消えた。\n 対外的には、つまり社交的には、富子は聊かも取り乱したところを見せない代りに、内部では、つまり家庭の裏面では、せかせか駆け廻ることがある。今ちょうど、そうしてるところだった。\n 小泉先生と大勢、と富子は言ったが、来客は三人に過ぎなかった。先刻からの井上夫人と、新たに小泉博士と田島章吾がやって来ただけだ。但し、こちらにとっては不意打ちではあるが、先方にも手違いがあった。\n 章吾と千重子との縁談の仲人として、井上夫人は、幾度か松本家へやって来るうちに、近頃の順造の様子を富子から聞かされ、これはどうしても小泉博士の診察を受けさせねばいけないと考えた。その意を田島にも伝えた。縁談とは別な問題だ。そして井上夫人が富子を説き伏せに来てるところへ、田島が小泉博士を連れて来てしまったのである。\n 小泉博士と松本順造とは昔から懇意な仲だ。小泉は松本が寝ついてるものと思ったらしく、すぐに病室へ通ろうとした。富子は困った。散らかしているからと口実を設けて、順造のところへ行った。\n 順造は寝ながら書物を読んでおり、縁側で八重子が毛糸の編物をしていた。\n「なんです、いつもいつも編物ばかりして。少し片付けなさい。」\n 心にもなく小言を言って、それから、小泉博士が来てることを順造に知らせた。\n 順造は半身を起した。\n「なに、小泉君。お前が呼んだのか。」\n「いいえ。ふいにいらっしゃいました。」と富子はきっぱり答えた。\n「診察に来たのか。通りがかりに寄ったのか。」\n「さあ、よく分りませんが......。」\n 富子はその先を言いかねて、息を呑んだ。順造が癇癖を起しはしないかと恐れた。\n「小泉君一人か。」\n「田島さんと御一緒です。それに、先程から、わたくしのところへ、井上の奥様が見えております。」\n 順造は暫く黙っていた。庭の方に眼をやって、その様子は、何も考えていない風だった。\n「わしの方から行こう。」そしてちょっと間を置いた。「着物を替えよう。」\n ふしぎなことに、順造の表情はなんだか明るくさえなったようである。禿げあがってる頭から額へかけて、外光の反映がさしてるせいか、精力的にさえ見える。茶の間の廊下を通る時、彼はじろりと北村の方を一瞥した。\n 順造が応接室に姿を現わすと、一同はびっくりしたように立ち上った。順造は頬に微笑を刻んで、井上夫人と田島とに軽く会釈をし小泉の方へ真直に進んでいった。\n「やあ、暫くだね。」\n 小泉は頷いて、相手の様子を、見るような見ないようなずるい眼差しで観察し、ソファーに身を落して煙草に火をつけた。\n「君は、病気ではなかったのかい。」\n「いや、仮病さ。僕が仮病をしておると、まわりの者は本当の病気だと思うし、本当に病気をしたら、こんどは仮病だと思うだろう。」\n 微笑の皺が頬には寄ったが、笑いはしなかった。\n「然し、医者はそんなことにごまかされんね。」\n「ごまかされるようでは、こちらが助からん。いずれ、病気になったら、君に診て貰うよ。」\n「なるべく、そんなことにならん方がいいね。」\n 言葉がとぎれると、突然、田島が饒舌りだした。\n「おじさん、僕はびっくりしましたよ。おじさんが寝たっきりで、まだ小泉先生にも診て貰ってない、と聞いたものだから、驚きましたね。御存知の通り、僕の父は手後れで、あんなことになりましたが、その父が、つくづく言いました。人間、年をとると、月に一回ぐらい、健康診断をする必要がある。松本君なんか、あの通り......気丈夫だから、猶更、健康診断の必要がある。少しでもおかしな点があったら、小泉先生に密告しろ。とそんなことを言い残しました。僕は父の言葉を、忠実に実行するつもりです。いつでも、小泉先生に密告しますよ。然し、密告なんて、卑劣ですからね。僕をそんな立場に置かないためにも、おじさんは、健康診断をお受けなさらなければいけませんよ。」\n 順造は眉根に不快な皺を寄せて、田島の方をじろりと見やったが、返事はしなかった。返事の代りに、紅茶へウイスキーをたらした。そして小泉にもすすめた。\n「サントリーの最上品だそうだが、僕には洋酒のことはよく分らん。君はくわしいから、味ってみてくれ。」\n「この頃は、味覚もすっかり下落してしまったよ。」\n「そうだ。何もかもだ。」\n 順造は富子の方を顧みた。\n「北村君がいたじゃないか。あれがいちばん喜びそうだ。呼んで来いよ。」\n 富子は暫くして戻って来て、北村さんはあちらで日本酒を飲んで、少し酔っているから......と返事をした。\n「酔っておればなおいい。呼んで来い。」\n 富子がはっと思ったほどきつい調子だった。\n こんどはすぐ、富子は北村を連れて来た。\n 北村は古ぼけた黒服の上衣に釦をきっかりはめ、酔ってるとは見えない態度で、一同に挨拶して、順造のそばに行き、いきなりウイスキーの瓶を取り上げて眺めた。\n「どうだい。」と順造は微笑した。\n「飲んでみなけりゃあ、分りませんね。」\n「それはそうだ。」\n「も少しつぎましょうか。」と北村は順造の紅茶茶碗を指した。\n「いや、もういい。小泉君の方はいけるよ。」\n 北村は小泉の紅茶へ少したらして、ウイスキーの瓶をかかえたまま、片方の小卓の田島のそばに坐った。\n「しばらく。この方は、君もまんざらではないでしょう。」\n 彼は二つのグラスにウイスキーをついだ。田島はなにか腑に落ちないらしく、低く囁いた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n カザノヴァの回想録を訳しはじめてみると、いろいろな問題が自分にも起こつて来るし、この書物の解説といふやうなものが同時になくてはならぬといふ気がするので、既に世にあらはれている文献をできるだけ探す一方、自分自身のメモもひと通り作つておきたいと思つてゐる。これから二十巻ぐらゐに分けてつぎつぎに刊行する予定の訳本に、いくらかづゝでもそのノートをのせるやうにしたい。\n「人間カザノヴァ」は、私が今、一番興味を惹かれてゐる「人間の典型」の一つである。\n 十二三年前のこと、私はふとカザノヴァを読んでみる気になつた。フラマリオン版の古典叢書で全八巻といふ大部なものだが、私は一と夏かゝつてぼつぼつ読んだ。時には読み耽るといふ状態に自分で気がついて、やゝそらおそろしくなることもあつた。\n ともかく、天下の珍書である。そして、私のこの書物から受けた印象から云へば、カザノヴァといふ人物は、聞きしにまさる「痛快な男」である。\n もちろん、稀代の漁色家といふ一面で、ドン・ファンの向ふを張る腕前は、さすがに名声に恥ぢないものではあるが(ドン・ファンとの比較は古来好事家の間で屡〻行はれてゐる。カザノヴァ論には欠かすことのできない重要な一項目である)、この十八世紀の生んだヴェネチア人は、決してそれだけの代物ではない。これはまさしく、人間の歴史が永く記念すべきエポック・メーキングで、ヨオロッパ人はあるひはそれほどにも思はぬかもしれぬが、われわれ東洋人の眼にうつる彼の人間像は、過去現在を通じて、最も注目すべき一つの典型、「解放の途上にある」人間の、ある特殊な条件のもとに示された裸のすがた、しかも、極めて逞しい、魅力に富む裸のすがたなのである。\n われわれも同様に「ヨオロッパ精神」と呼ぶもの、かのギリシャとヘブライの伝統のなかに芽生えた人間性の発展の過程は、必ずしもつねに平坦な軌道に乗つてはゐない。ルネッサンスは、一方から言へば、叡智の開花ではあつたが、また一方からみると、混沌への突入である。光明ははるか彼方にあつて、足許はまだ暗く、「自由」は観念として人々を覚醒させたとは言へ、その「自由」は、まだ求めて得られるか得られぬかが問題で、それは畢竟自己以外のところにあつた。つまり、「自由」はどこかになければならぬことを知り、何が「自由」であるかを悟りはじめ、「自由」をわがものとするために戦はねばならぬ時機であつた。そして、その状態は、十八世紀まで続いたのである。\n といふ意味は、「人間は自由」だといふことを、観念としてではなく、身をもつて感じ得るまでに数世紀を要したといふ事実に眼をふさいではならぬといふことである。つまり、人間の自由は、なによりも、己れみづからこれを束縛してゐることに思ひ至る必要があつた。かくて、ヨオロッパに於ける人間改造は、十八世紀の開幕によつて、やうやく一段落を告げた。近代社会革命の精神的準備が曲りなりにもできたと言つていゝのである。\n 私は、この世紀に登場するヨオロッパのいくたりかの代表的人物について、その例をあげたいのだが、いまその暇はない。たゞ興味あることは、封建末期の硬化した政治的、社会的情勢のなかで、制度が人間を縛るといふ考へに先行して、既に、民衆の大多数は、自分が自分の主人であることを感じ、かつ、信じるやうになつてゐたこと、従つて、生活のあらゆる分野、私生活はもちろん、その公生活の数々の場面に於て、放縦が単なる放縦でなく、無軌道は無軌道でも、おほかた、それは明快な信条を伴つた自律的無軌道とも言ふべき性質をおびてゐたといふことである。\n 彼らは、なるほど、多分に前時代の風習を身につけ、まだ階級の框といふものを脱してゐない。しかしながら、いはゆる世の掟の重圧を重圧とする程度と、その階級意識の内容は、明らかに大きな変化を示してゐる。権力は権力そのものとして彼らの利害を左右するけれども、権力をもつ人間に対する彼らの不敵な対抗策は、その弱点に乗じ、これをある程度翻弄し、時には、それを最大限度に利用することによつて完全に遂行されてゐる。ボオマルシェの「フィガロの結婚」はこの種の無頼性と階級意識を取り扱つた極めて代表的な諷刺喜劇である。\n ジャック・カザノヴァは実にかういふ時代に生れ、育ち、かういふ時代の民衆の魂をその全生活のなかに活かしきつた人間である。言ひかへれば、彼こそは、自ら「自由なり」と信じ、かつ感じ、その行動のすべてをそこから出発させた、おそらくは最初の、そして完全な「自由人」の一人だつたやうに思はれる。\n 自由だと信じることは、自由な筈だと信じることではない。自分はどこまでも自由だと真に信じるものは、身をもつてそれを感じ、すべての行動をその上に築くものでなければならぬ。自由でなければならぬと知りながら、自由な行動に出ることができないのは、たゞ、その人間に力と勇気とが欠けてゐるからではあるまいか。もし己れの自由がなにものかのために束縛されてゐるなら、それと戦ひ、或は巧みにそれをすりぬける手段を選ぶ自由が彼にはあるのである。\n こゝから、いはゆる個人の自由の限界がどこにあるかといふ社会契約と近代道徳の原理が生れるのであるが、それはまた別の話である。\n 十八世紀は、ともかくも、「人間の自由」が生活感覚として文字どほり血肉化し、それまでにはごく少数の人々にしか知られてゐなかつた「自由の味」が、民衆にもわかりかけて来た時代である。つまり、「人間の解放」がまづ人間の内部に於てあらまし形をとゝのへたのである。\n かういふ事情をひと通り理解したうへでないと、カザノヴァのやうな人物の出現にわれわれとしてはそれほど興味はもてない。なぜなら、回想録を書かない似而非なるカザノヴァは、いつの時代にも、その類型を求めることは容易だからである。ところが、わがカザノヴァは、決して、いかなる時代にも生れ得るやうな単なる猟奇家でもなく、また色事師でもない。彼のおほらかさは、その天性によるよりも、むしろ、「時代の子」なるがゆゑであり、その行動に著しい生彩を与へる彼の勇気さへも、彼が、自ら言ふやうに、「おれは自由だ」と信じる、その信念の如きものから生れ出てゐると思はれる。彼が、なによりも、自分で自分を束縛する一切の妥協を排してゐるのをみればわかる。\n 彼はまた、同時に、時代の波に乗る「国際宮廷ゴロ」の札附の一人でもあるが、このことがまた、彼を類例のない多彩な猟奇物語の作者たらしめたのであつて、ルソオの告白にみる過剰な自意識によつて読者を不必要に悩ますことがないのである。\n なにはともあれ、私は私なりに、このヨオロッパの名物男にすつかり興味を惹かれてしまつたのだが、この回想録から得た感銘をさう簡単に説明できるものではない。しかし、はつきり言へることは、この書物は、世間の一部で想像されてゐるやうに、エロチックな場面で人の眼をそばだたしめるといふだけのものでは断じてなく、それを含めてではあるが、やはり全体を通じて、彼、カザノヴァなる人間の、なにものをも畏れない生き方、屡〻、平然と死地に赴くあの澄みきつた態度、それは、死とすれすれに生きる生命の鼓動に耳を傾け、死を超えた生の凱歌に自ら酔はんがための勇気のいる酔興が、この書物のどの頁にもあふれてゐるといふことである。" }, { "role": "assistant", "content": " なるほど、彼は、ときに理窟は言ふ。その哲学はヴォルテエルの君臨する百科辞典派の口吻を真似たやうなところがあつて、風潮は争はれぬといふ気もするが、それは決して、彼にとつて致命的なことではなく、却つてそれは一種の愛嬌になつてゐる。思考は、彼にあつては、単に行動の附属物にすぎず、行動こそは彼のすべてだと言つてもよいからである。思索する彼の頭脳は、彼の生きる姿の溌刺とした全像に比すれば、まさに帽子の羽根飾にもひとしいもので、彼の生涯は、彼の語り方によつて面白くされたといふより、むしろ、彼がそれを語るとき、彼はその生涯を再びまざまざと生きてみせてゐるからである。\n\n二\n\n カザノヴァに関する文献は、ちよつと調べただけでも相当にあるらしい。私は、実は、さういふ方面の研究についてほとんどなんの知識もない。たゞ、偶然に、ミュッセ、レニエ、サント・ブウヴ等のカザノヴァ回想録読後感を読んだことがあるくらゐのものだが、最近、シュテファン・ツワイグのカザノヴァ論を読んで、大いに啓発されるところがあり、かつ、この論文が極めてすぐれたものであるのに感心した。\n さすがにユダヤ系の批評家らしい鋭さと、ねばりと、陰翳をそらさぬ明快さと、そして、ある種の理想主義的立場とをもつて、彼はカザノヴァなる怪物に真正面から立ち向ひ、見事にその急所をついてはゐるけれども、彼の厳しさも寛大さも、私に言はせると、たゞ時代と民族とをいくらか異にしたヨオロッパ人同士のなにもかも呑み込んだ批評であり、価値づけであるといふ気がしてならぬ。これが、ミュッセになると、時代も近く、民族もおなじラテン系といふわけあひからか、カザノヴァを観る眼は、不思議なほど、表面的な興味にとゞまつてゐる。\n 私は、敢て言へば、近代ヨオロッパ人のすべてを通じて、よかれあしかれ、いくらかづゝでもカザノヴァを身内に住まはせてゐるか、カザノヴァ的なものを通過してゐさうに思へるのである。\n ツワイグは言ふ――「この生きる名人に比して、自分らを捏土細工の職人かなんぞのやうに思はざるを得ない。男たる以上、ゲーテ、ミケロアンジェロ、バルザックなどよりも、むしろカザノヴァになりたいと思ふことも、間々あるどころか、なんべんもあるだらうと思はれる」と。また、かうも言ふ――「世の女たちがこの大の女蕩しに余りにも抵抗しすぎなかつたといつて、正直のところ、われわれは彼女たちを咎める柄ではないかもしれぬ。なにゆゑなら、そもそも、われわれ自身が彼に出逢ふ毎に、彼の生き方の魅力と情熱にころりと参つてしまふのだから。じつさい、あつさり白状してしまはう。男にとつて、激しい羨望の念にかられることなしに、カザノヴァの回想録を読むことは容易な業ではないのである」と。\n かういふツワイグも、いよいよカザノヴァの解剖にとりかゝると、決してそのメスに手心を加へはしない。曰く――「行動と快楽の人々は、あらゆる詩人達よりも自分等の生活した事柄を語らねばならぬ筈だのに、彼らにはその手段が欠けてゐる。それに反して、創作家達は、物語の種をつくる体験をほとんど持つてゐないために、それを考へ出さなければならぬ。詩人が興味ある伝記をもつことが稀有であるやうに、真に心を奪ふやうな伝記をもつてゐる人々でそれを物語ることのできる人々は珍しい。こゝに於て、カザノヴァが代表するところの、素晴しい、唯一無二とも言ひたい『成功』が産みだされるのである」\n こゝでツワイグがはつきりさせてゐることは、カザノヴァ回想録の古典文学としての地位である。イタリアに例をとつてみても、カザノヴァと同時代、或はその前後に出た傑れた文学者、カザノヴァ輩はその足もとにも及びつかないほど隆々たる文名を馳せた人々が、今日、その名も作品も歴史の塵のなかに埋れてしまつたのに、かれカザノヴァ一人、その回想録一篇をもつて、後世に大きな足跡を残した所以を、ツワイグは、いまいましさうに、しかし、微笑を以て語る――「彼は完全に勝負に勝つた。この不当な勝利に対して、どんな憤慨も抗議も無駄に終つた。われらが畏友を、その道徳の欠如の点で、例のことに関して彼の真実の足りない点で、人々は彼を軽蔑することもできよう。人々は歴史家としての彼に抗議すること、芸術家としての彼を否認することもできよう。人々に出来ないことは、たつた一つのことしかないのだ。彼をもう一度死なせるといふこと――。なぜなら、あらゆる詩人、あらゆる思想家の筆をわづらはしても、爾来、世界は、彼の生涯ほどロマネスクな小説を編み出し、彼の人物ぐらゐ、架空的で、しかも生き生きとした人物を考へだしたためしはないからである」と。\n\n三\n\n ジャック・カザノヴァは、一七二五年、ヴェネチア生れの旅廻りの俳優を父とし、同じ町の職人の娘で、後に歌劇の舞台を踏んだ一女性を母として、当時のいはゆる小市民の家庭の血を享けた。主に祖母の手で育てられ、学校教育もまづ十分に受けた。十五歳の彼は、神学者の資格でヴェネチアの教会へ乗り込み、最初の説教をしたくらゐである。十六歳で法学博士の学位をとつたと自分では言つてゐる。化学、数学、医学、歴史、哲学、文学、なんでもひととほり噛つてゐる。殊に、金になる学問はちやんと身につけ、占星と錬金は得意とするところらしい。それと同時に、貴族たちの仲間入りをするためには、自らド・サンガル(de Seingalt)なる由緒ありげな騎士名を僭称し、舞踏、剣術、乗馬、射撃、いづれも人に後れをとらず、ことに、骨牌ではその道の玄人になり、一方、古典語はもちろん、ヨオロッパ諸国の国語をあらまし自由に話すといふ抜目のなさである。\n 彼は、職業らしい職業をもたない。すべてその時々の風の吹きまはしで何にでもなる。金融事業家を気取り、オペラの台本を書き、鉱山に手を出し、絹の染色法を新しく考案するかたはら、ヴァイオリンの演奏会を開き、農業経営の抱負を語り、植民地駐屯の副官になりすまし、秘密の金庫の鍵を開け、女優周旋業を思ひ立ち、ポオランド王国の歴史と彼自身の脱獄記を併せて出版し、プロシャ王フレデリックに見込まれて幼年学校の舎監に就任し、ロシヤ女帝エカテリナに暦の改正を勧告し、なんとか肩書をこしらへてヨオロッパを股にかけるが、不良外人として到るところ国外追放の処分を受け、屡〻乞食同然の旅の空で、財布か美女か、思ひがけぬ地位を手に入れるのである。\n「この浮気な俗物は、悪魔に取り憑かれた人間とも違ふ」と、ツワイグは断定する。おそらく、それはさうであらう。「彼を動揺させる唯一匹の悪魔と言へば、それは簡単に退屈と呼ばれてゐるところのものだ」と彼は附け加へるのだが、なるほど、厳密にいふなら、精神の遊戯にまつたく興味をもたず、またそれを楽しむ能力を欠いた、カザノヴァといふ人間のなかに、「感覚の新しい刺戟」を追ひまはして疲れることのない、一種のスポーツマンのタイプを見出すことはできぬであらうか。\n 誤解のないために言へば、十八世紀は、既に、浪曼主義のアンニュイ即ち倦怠がいろいろの形で目ざめつゝあつた時代ではあるが、カザノヴァは、かゝる精神の孤高ともいふべき領域にはいさゝか無縁な存在で、彼の瞑想は手近な現実の野心にすぎず、独居に耐へ得ぬ習慣は、むしろ、生理的な衝動が彼を常に静止の状態に落ちつかせないだけのことである。ツワイグも亦、このことは決して見落としてゐるわけではない。その証拠に、別のところで、彼は言ふ――「その弾力性と順応性は、彼が決して熟考しないといふところに専ら由来してゐるのだ」と。\n 思慮分別ほど、彼に苦手なものはないやうである。すべての人間を比較的道徳的にすると考へられてゐる思慮分別こそ、彼の敵ではないまでも、彼の生活術にとつて無用の長物なのである。\n 彼は、しかし、なかなか道徳を気にしないわけではない。たゞ彼の道徳観はすこぶる身勝手なもので、理性に不信を投げかけてみるところ、彼がもうちやんと合理主義の洗礼をうけた十八世紀人になりきつてゐることを思はせる。彼の道徳は、「真実を愛し、真実に仕へる」ことである。そして、真実とは、彼にあつては、事物の内奥に深くひそむものではなく、見るがまゝの自然、あるがまゝの己れのすがた、といふことらしい。従つて、欲するところを行ひ、愛するものに近づき、為し得ることに全力をあげ、そして、無益に他を傷つけさへしなければ、彼の良心は平静なのである。彼の道徳は、それゆゑに、時として、曲事を曲事と見なさず、欺瞞も、ことさらではなく、至極当り前に、才気ある企らみの部類に入れてしまふ。厄介な話ではあるが、彼には彼の信条の如きものがあり、一切の行動は、まづ、自己に忠実であつたかどうか、巧妙に成し遂げられたかどうか、によつて、その価値がきまるのである。それは、あたかも、芸術作品に対する品評の尺度の如きものがあるだけである。彼の決意は、ツワイグの例のうまい比喩をかりれば、彼自身の関節から生じると言へば言へよう。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 真理が具体的普遍であることは、之を認識に於ける真理獲得の過程に活かせて見る限り、優れた真実である。だが之をこの過程=方法から離して、終局的な終止体系の内に位置づけようとするなら、それは全くの誤りだ。現実に於ては、相対立する契機を通しての矛盾の克服でない真理はないし、又一層大切なことには、相対立する諸真理を通して勝利を占めて行く真理しかないのである。具体的普遍はこの克服と勝利との闘争場裏に於て初めて意味を有つのだ。だから、例えば一切の諸真実の公平な総合や如才のない止揚が真理だというなら、それ程誤った真理はない。――つまり之は一方に於ては真理の絶対性の問題である。実践的模写説によれば、絶対的真理はカント風の物自体と共に、ないものである。真理は常に客観的な真理だ、だがそれは常に相対的に止まるのが現実である。処がヘーゲルに於ては真理は絶対的であるかのように見える。\n 他方、真理のこの現実的な相対性が、真理の階級性の問題に一つづきであるのは、云うまでもない。真理の階級性というと、二二が四という算術は階級によってどう違うか、などと反問する底の反対者が多いが、物事はもっと断片的にでなく、包括的に考えられねばならぬ。道徳上の真理になぜ階級性がないか。政治上の論理にどうして階級性がないか。消費主義的経済学と生産主義的経済学とはなぜ対立するか。進化論や弁証法はなぜ階級的反感を招いたか。真理の階級性は、単に真理の獲得の因縁が階級的に制約を持っているというだけではない。真理内容が往々にして事実上階級的利害を反映することによって、一定の特色を帯び、そして他に対して対立を呼び、又はそれ自身が歪曲されるということだ。之は何と云っても真理の相対性に帰することで、真理の絶対性にとっては名誉なことではない。だが問題は絶対真理のことではなくて現実の諸真理の間のことだ。すると真理の階級性なるものは、夫々の階級的な真理の間の闘争と、一方の他方に対する勝利による発展、ということを云い表わす。単に真理が相対的であることを云い表わすのではなくて、却って真理が如何にしてその与えられた相対性を克服するかの道筋を説明するものなのだ。\n だから真理の階級性は、真理の相対主義的主観性を指向しようとするのではなく、却って、相対的な現実の真理事情のもつ客観的な方向量を指向するものである。この階級的主観の相対の間に於ける客観的方向量を、真理の党派性とマルクス主義では呼んでいる。之は当然、実践的模写説の採用する処とならねばならぬ。普通、党派性は常識的には偏頗な宗派性のことと考えられている。だが真理というものは或る論理的張力を有つ。そういう張力はただの傾向などではなくてシステムである。真理の階級性という以上、ただの階級的属性のことではなくて、それに照応する論理的システムを意味しなくてはならぬが、夫が真理の党派性だ。その党派性を論理的に貫徹出来るような階級的真理でなければ、克服し勝利する真理であり得る筈がない。――この意味に於ける論理の階級性・党派性・の分析を与えた最初の人は、恐らくJ・ディーツゲンだろう。彼の哲学的理論には多分の挾雑物があるが、彼が持ち出した「プロレタリア論理学」という観念は注目に値いするものである。マルクス・エンゲルス・を経てレーニンは、この要点の最も明快で鋭い理解者であった。\n 今日、階級性と並んで民族性や国民性が唱えられているが、之は真理の国民的・民族的・事実上の特色を指すだけであって、それ以上のものへ出ることは出来ない。之は民族性や国民性のもつ党派性(?)という論理的な問題には行き得ない。論理は常に矛盾によって媒介される。そこでは、テーゼとアンティ・テーゼとの二者が必要であり、又一切の対立が二者へ要約されることを必要とする。一切の社会階層身分が、二つの階級に要約されるとすれば、それは社会の矛盾による進展という論理的な本質に照応するからのことだ。処が諸民族・諸国民・の関係は、そういう論理的一双性乃至二体性を持たぬ。真理では論理的首尾一貫が問題であって、ただのあれこれの断片的特色が問題ではない。このことを忘れると、忽ち思考が混乱するのだ。――さて以上のような考察を参照しないならば、ヘーゲル風の具体普遍真理説も、死んだものと選ぶ処がなかっただろう。\n 実践的模写説による真理の観念は、従来の殆んど一切のブルジョア観念論(乃至ブルジョア唯物論)の認識論による真理諸観念を止揚するものだと見ていいだろう。――真理の問題はまだ之では説き尽くせないが、他の章の折に触れて見て行こう。\n\n\n第四章 意識について\n\n\n 以上述べた真理の観念は、主として理論的認識に即した真理、即ち理論的な真理、を中心とするのであった。普遍の範囲に於て理解された認識論ならば、真理をそういうものに制限するのも無理からぬことだ。だが真理をわざわざそういうものに限定することは、この観念を日常活用されている常識語から絶縁して使うことを意味する。それはアカデミックな用語としては一応の役に立っても、現実の言葉としては一つの抽象物でしかない。真理は決して単に理論的なものには限らぬ。芸術的真理や道徳的真理、更に宗教的真理というものさえ、考えられなくはない。真理を真実と呼び直せば、この点おのずから明らかだろう。" }, { "role": "assistant", "content": " 真理を理論的なものに制限して考察することは、つまりごく普通の学術的惰性に従った意味に於ける論理に之を限定することだ。論理学というものは比較的内容が一定したものとも考えられるが(例えば学校論理学のように)、併し理論となると必ずしも一定した規定を世間では与え得ない。強いて云えば、考えの道筋というようなことを論理と呼んでいる。日本語としてはそうだ。欧米語としては言葉の上では論理と論理学との区別はないので、特に論理そのものを研究対象とするらしく響く論理学なるものを云い表わす為には、別に「論理の科学」と呼んだ方が紛わしくないのだが、そう呼ばない限り、論理も論理学も同じ言葉で云い表わされる。之は単に言葉の区別が足りないのではなくて、却って論理乃至論理学(ロジック)の本性を告げる意義の深い現象なのだが、それは後に触れよう。だがそれにも拘らず、論理と論理学とは区別すれば出来ないのではない。処で、狭義にアカデミックに真理という観念を持ち出すと、それは、論理学的なものではないまでも、少なくとも論理的なものと考えられるのを常とする(但しこの場合の論理学は普通のアカデミックな意味の範囲に於ける夫としてだ)。\n 併し、真理をこういう論理のものと限定することは、大して重大な意味のあることではなかった。真理の十全な意義は、いつもこうした「論理」をはみ出している。真理は単に論理的であるばかりでなく、心理的でもあるのだ。否時とすると、凡そ論理的ではなくて却って常に心理的なものだと云ってもいい位いである。心理に根を持たない真理は、どこか空に浮いた公式のようなもので、そのままでは真実ではない、真理ではないのである、リアリティーがないとも考えられる。――だから広範な意味に於ける(そしてそれこそが最も日常的に活きた用語になるわけだが)真理は、もはや論理には尽きず、寧ろ心理――サイコロジーなのだ。真理が単に理論的なものに限定され得なかった所以である。\n だが理論的なものでも、実は普通考えられているように、ただの理論的なものではないのだ。科学は理論的だと云う。勿論そうに相違ない。けれども夫が理論的であるということは、実は世間で無雑作にそう考えているような事態ではないのである。科学に理論的なもの以外のものが含まれているというのでは必ずしもない。理論が生命である諸科学に、そういうものが含まれているとしても、夫は科学を不純にこそすれ、決して科学の名誉には寄与しないだろう。理論そのものが、世間の常識の云うようなただの理論的なものではないと云うのだ。現に科学はそれが純粋であればある程、却って、結局に於て愈々実際的で実践的な価値を得て来るわけで、そうでなければ科学の純粋性とは、ただの科学に於ける芸術至上主義のようなものをしか意味し得ない筈だ。\n それと平行して、論理的なものも亦、決して世間で普通考えているように論理的なものではない。事物の歴史的運動は一定の能動的な法則を持っている。そういう歴史的法則を論理と見做すことも、強ち不自然なことではない。論理は元来、何かの意味で客観的なものであったから無理はない。だが単なる事物だけで、それが認識(広義に於ける)されるということがないならば、この事物の客観的法則を論理と呼ぶ動機はなかった筈だ。すると論理とは認識主観を一枚揷入することによって初めて意味を得る処の言葉である。で論理が認識主観=意識から離れては考えることの出来ないのは、当然なことだ。論理はその横たわる台床からすれば、その身を置く場所からすれば、意識にぞくする。夫をこの言葉の第一の意義とする。この台床の上にあって、意識を客観化する力を持つものが論理だ。それは意識を貫き、意識を動かし、意識を進める自発的な力を意味しようとするものである。だから感情にも意志にもロジックは不可欠だ。単に情意が論理と無関係でないというだけではなく、情意を動かし進め貫くメカニズムが、論理と呼ばれ得る。\n ただ感情の論理などというと、何か論理という言葉にそぐわない感じのする理由は、論理という言葉が、或る自主的で自発的な能力のようなものを指すことになっているのに、感情や意志は感性や実践によって動機づけられて起こるので、そこでは一応論理の自主性が認められず、感性や実践の契機の方が却って能動性を有つと考えられるからだ。だがそれにしても、感情や意志の動いて行く形式は、感情や意志のメカニズムは、論理という形を取る。情意の論理という言葉に意味のある所以だ――云って見るなら、而も、独り情意に限らず、理論自身さえが、実は論理のイニシャティヴで発動するのではなかった。理論の動機そのものは極めて感性的なものであり又実際的なものだ。理論の展開のメカニズムを運用するものも亦、情意的な感情的な感性的実践なのだ。ただその運用のメカニズムが、論理と呼ばれるに他ならない。理論に於ては併し、論理はなおその自主的自発力を随所に顕示する、情意に於ては論理はそのものとしては顕現しないで、他ならぬ感情の必然性として、又意志力として、みずからを変装しつつ現わすのである。\n さてこういう感情の必然性や意志力、それから、之によって浸透された思考一般は、その骨格を洗い出せば、広義に於ける論理=ロジックと呼んでもいいものであるが、そのためには心理=サイコロジーというもっと穏当な言葉があるわけだ。心理とは感じ方であり欲し方であり考え方である。心理法則というのも、実は心理現象の内に見出されるただの一般関係の定式というものではない。凡そただの反覆する普遍的関係などというものは、まだ本当の法則ではない、法則の前触れにすぎない。法則という以上、一種の因果関係・動機づけ関係・がなくてはならぬ。と云うのは、その法則が現象を動かしているのだということが大切だ。そうでなくて現象の動いた結果或るしかじかの関係が抽出出来たというだけならば、それは因果関係とはさし当り無関係な統計的相関性というようなもので、まだ関数関係にさえ行き得ない(関数は因果に関する数学的表象だ)。で、心理法則は心理を動かす法則であり、それが所謂サイコロジーというものだ。それ故に又、この心理法則の研究である心理学は、心理と一緒にサイコロジーと呼ばれる。\n スタンダールの『恋愛論』は恋愛の心理法則を抽出している。だがこの心理法則の具体的な叙述は、彼の『赤と黒』のサイコロジーに他ならない。ジュリアン・ソレルの二つの恋は、夫々必然な発展法則を持っている。それはソレルの性格(階級的な!)からの演繹として現われている。これはタイプのオリジナリティーによってよりも、寧ろそのタイプを通して描写された心理の法則性によって、読者を打つ。このサイコロジーは殆んどロジックと云っていい位いだ。之に反してメリメの『カルメン』の恋の魅力は、心理描写によるよりも専ら性格描写によるものだろう。読者はカルメンの心理の必然性によってよりも、彼女の性格のあまりに鮮かな印象に撃たれる。彼女の浮気な心理がなぜああ動くのか判らぬ点を、読者はカルメンの性格というものによって理解するのだ。サイコロジーは表面に出ていないと見てもいい。序でにもう一つの恋物語を引き合いに出すならば、デュマ・フィスの『椿姫』がいいだろう。之は最も純粋な恋愛情緒を物語るが、決してサイコロジーを描いて優れたものではあるまい。\n でつまり、サイコロジーはただの情緒や意欲ではなくて、之を動かし之を貫くメカニズムのことだ。私はなぜ之をロジックと区別せねばならぬか、理解するに苦しむ。蓋し心理と論理との区別なるものは、ごく便宜的な一応のものであるのか、それとも何か他の区別を漫然とこういう常識的区別の惰性で置きかえたのか(例えば文学に於ける思想性と無思想性との区別などの代理として)、そうでなければ研究室の哲学的アカデミシャンが、論理を論理学と考え、心理を心理学と考える、一種の職業的錯覚によるのであろう(論理主義と心理主義との対比などが之だ)。――だから真理というものも、それが広範な当然な資格のものである限り、論理と共に心理にぞくする。\n 尤もこんなことは、初めから当り前のことで、真理が心理=サイコロジーにぞくさないなどと思っている人間は一人もいないだろう。世間の活きた常識ではそうなのだ。だが真理というものが、一旦認識論なる科学の対象とされると、必ずしも真理をそういうものとばかり考えない、いや殆んど全くそうは考えない、というのが学界の事実なのだから、この真の駄目を押しておく必要があるのだ。それに、認識論の実践的な課題の一つは、こういう日常的に活用されている真理観念に、統一的な解明を与えるという点にもあったのである。\n さて真理を単に所謂論理のものとして限定する代りに、夫が心理にぞくすることをもハッキリさせるならば、と云うのはつまり、論理というものを生きた現実のプロセスとして包括的に見るならばだが、その時意味の所在のハッキリする問題は、虚偽(乃至誤謬)の問題である。そして前にも云ったように、真理のディアレクティックな観念は、虚偽との連関を見ずには得られなかったのだ。\n 虚偽乃至誤謬に関する考察は、普通の論理学教科書に相当整備された形で採録されている。誤謬又は虚偽の諸公式が配列されている。だが虚偽乃至誤謬の問題の要点は、そういう一種の不正な推論式の模型というような処にあるのではない。夫は云わば、学校論理学の問題ではなくて、認識論の問題である。と云うことは、虚偽乃至誤謬の本性が何であるかは、単なる所謂「論理」に終始しようとする所謂(形式)論理学では解けない。虚偽や誤謬は論理と心理との連関に地盤を有っている。その根柢は極めて深い処に横たわる。真実の深い根柢と同じ深度を有っているのである。虚偽や誤謬は、少なくともまず、心理=サイコロジーの内から発する。所謂論理は、単に虚偽を排斥するものでしかない。処が虚偽は如何に排斥されても、心理的に現実なのだ。\n 虚偽は心理に対立する、否定的に対立する。否定は決してただの欠如というようなものではないから(之はスコラ哲学者の云う通りだ)、それ自身の積極性(マイナスの積極性)を持っている。之をただの真理の裏がえしと見て済ますことは出来ない。神学は之を悪の問題として取り上げた。その取り上げのポーズは今の場合意味はないが、悪がただの善の欠如でないという認識は、今重要だ。カントは論理学の裏面をディアレクティクと呼び、そこで虚偽の問題に触れようとした。併し論理学の一部分がディアレクティクであるのではないので、論理そのものが弁証法であった筈だ。虚偽は真理の裏面ではなくて、真理の前面をも占領し得る。だからこそ初めて問題なのだ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " いかにも遠く離れて、このポル・エヴァンの村があるやうに思はれた。それをどうしてこんなに遲くまで居たことだらう!\n 折々彼等はパンポルやログヰヴイから歸つて來る人達に行き逢つた。さうした影法師が近寄つて來る毎に、彼女は彼を思つた、ヤンを思つた。けれど、遠くからでも見分けがつけられた。そして直ぐに彼女は思ひを裏切られた。彼女の足は、頭髮のやうにからみ合つた長い鳶色の草のなかにからまつた。それらは地上に散亂してゐる海藻であつた。\n プルウエゾクの十字架の處で、彼女はこの老人に挨拶して、家に歸つて呉れるやうに言つた。パンポルの燈火がもう見えてゐた。そしてもう何も怖ろしいことのあるはずはなかつた。さうだ、今度はこれですべてが濟んでしまつた....そして、いつ彼女がヤンに逢へるか、それが何人にわかることだらう!....\n 彼女はもう一度ポル・エヴァンへ行くだけの口實を見出せないことはなかつた。けれど、その訪問を重ねることは彼女のためにあまり善くは見えないであらう。もつと自分を抑へる勇氣を持つて、もつと誇りかにしてゐなければなるまい。若しシルヹストルさへ、自分の若いあの相談相手さへ、ゐてくれたら、ヤンに逢ひに行つて貰つて、彼の本當の心持を訊いて貰ふことも出來たであらう。けれど彼はもう遠くへ行つてゐる――しかも、何年歸らないのか、それさへわからない....\n\n四\n\n『嫁を貰へつて?』とヤンはその晩兩親にいつた。『俺に嫁を貰へつて? えゝ! 何だつて一體、嫁なんか貰ふんだい。俺はお前達と一緒にゐりや、これくらゐ仕合せなことはないと思つてゐるんだ――心配もないし、何人とも喧嘩をするぢやなし、おまけに海から歸つて來りや、毎晩熱いうまいスープも吸はれるしさ....あゝ、解つた、さうだ、今日うちへ來てゐたあの娘のことを言つてるんだな。だが、第一あんな金持の娘が俺達のやうな貧乏人をどうかう思ふなんて、そいつがさつぱり俺にや判らねえんだ。いや、俺はあの女に限らず、だれとでも婚禮はしないつもりだ。そのことをよく考へて見たんだ。俺はそんなつもりはねえ』\n 二人の年とつたガオ達は無言で顏を見合せた。彼等はひどく失望した。二人は色々話し合つた末に、あの娘なら、たしか自分等の立派なヤンを厭だといふはずはないと信じてゐたからであつた。けれど、これ以上言つても無駄なことは解つてゐるので、彼等は、強ひようとはしなかつた。殊に母親は頭を下げて、一言もいはなかつた。彼女は、今では殆ど、この家族の頭になつてゐる長男の意志をば尊敬した。彼は母親にはいつも極く優しく、穩かで、細かな暮し向きのことでは子供よりも從順であつた。が、重大なことになると、以前から絶對の權威を持つてゐて、傍から何と迫つても、はねかへして、冷靜な、猛烈な獨立心をもつてゐた。\n 彼は夜遲くまで起きてゐることはなかつた。他の漁師達のやうに彼もやはりいつも夜明け前に起きる習慣を持つてゐたからであつた。そして夕飯の後、八時頃になると、いかにも滿足さうに、ログヰヴイから買つて來たわなと、新らしい網とをまた一渡り眺めやつてから、いかにも落ちついた靜かな心持で着物を脱ぎはじめた。やがて彼は弟のローメックと一緒に薔薇色更紗のカーテンを引いた床のなかで寢るために二階へ上つた。\n\n五\n\n 二週間この方、シルヹストルは、ゴオドのその若い相談相手は、ブレストの隊へはいつてゐた。――家ばかり戀しがつて、けれど非常におとなしく、勇ましげに、青色の開いた襟をつけて、紅い冠毛のついた帽子を冠つて、いかにも立派な水兵らしく、脊の高い體躯をゆつくりした足取りで運んでゐた。そして心の底ではいつも、年寄つた祖母が傍にゐないのを淋しがつて、昔通りな、まるで無邪氣な子供のやうであつた。\n ある一夜、彼はいつものやうに、同じ地方から來てゐる仲間と一緒に醉つ拂つた。彼等の一隊は腕と腕とを組み合はせて、聲の限りに歌ひながら隊へ歸つて來た。\n また或る日曜日に彼は劇場へ行つて、二階に陣取つてゐた。舞臺では或る大芝居が演ぜられてゐた。水兵等はその中の一人の反逆者に氣を立たせられて、「ウー」といふ聲をその男に浴びせかけた。それ等の聲は集まつて、西風のやうに騷々しく聞えた。それに劇場内はむつとするほど暖かで、空氣も無く、席もないやうに思はれた。彼は外衣を脱がうとして、上官から譴責された。そして、終りの頃には眠り込んでしまつた。\n 眞夜なか過ぎになつて、營舍へ歸らうとする途で、彼は帽子も冠らずに、街路を歩いてゐる年増の女達に逢つた。\n『ねえ、ちよいと、お前さん』と彼等は嗄れた、粗野な聲で言つた。\n 彼はすぐ彼女等の求めてゐることが解つた。彼は人の想像してゐる程うぶな人間ではなかつた。けれど、年寄つた祖母やマリー・ガオのことを不圖思ひ出したので、彼は馬鹿にするやうにその女達の前を通りすぎ、無邪氣な、からかふやうな笑ひをうかばせて、自分の美しさと、若さとを誇りかに、それ等の女を見下してやつた。その魔女等はこの水兵の澄ました態度に驚かされた。\n『あの人を見た、お前さん!....氣をつけて早くお逃げ、早くお逃げ。いまに食はれるよ』\n やがて、彼女等が彼に呼びかけるそれ等の卑猥な聲は、日曜日の夜の街路に充ちてゐる定かならぬ物音のなかへ消え込んでしまつた。\n\n 彼は氷島に於ける如く、ブレストでも同じ振舞ひをしてゐた。海上に於ける如く、彼の身持は清かつた――けれど他の者共は決してそれを笑はなかつた。彼が強かつたからであつた。そしてそれが水兵達に尊敬の念を起させたからであつた。\n\n六\n\n 或る日、彼は司令部へ呼ばれた。そして、臺灣沖にゐる艦隊へ加はるために、支那へ向けられることになつたと告げられた。\n 彼は疾うからさうなりはしまひかと危ぶんでゐた。彼は新聞を讀んでゐる者から其の地に起つた戰爭がなか〳〵終りさうもないといふ事を聞いてゐたからであつた。\n 彼等の出發が迫つてゐるので、いつもなら、出征者等に、家へ歸つて暇乞をして來ることが許されるのだが、それさへ出來ないといふことを、彼は同時に告げられた。五日間のうちに彼は準備をして、出發しなければならならかつた。\n 彼は激しい心の動搖を感じた。一方には、長い航海と、未知の世界と、戰爭とに關する魅力と、また、總てのものから離れてゆく苦痛と、期しがたい生還とがあつた。\n 幾千の事實が彼の頭の中で渦紋を卷いてゐた。營舍の内の彼の周圍でも大騷ぎが起つてゐた。其處にゐる澤山の水兵達もやはり支那艦隊へ編入される命令を受けたのであつた。\n そこで、彼は大急ぎで、憫れな老祖母に手紙を書いた。彼は床へ腰を卸して、わく〳〵するやうな夢心地で、彼と同じやうに近く出發する若い水兵達が往つたり來たりして、騷がしい聲を立ててゐる中で、大急ぎで鉛筆を走らした。\n\n七\n\n『彼奴の情婦にしちや、すこし年寄りだな』、それから二日たつた日、他の水兵達は彼の後姿を笑ひながら、さういつた。『けれど、馬鹿に仲が善ささうだな』\n 彼等は、彼が他の人達と同じやうに、女に腕をかして、懷かしげにその方へ體躯を曲げて、そしていかにも樂しさうに何か話しながら、ルクウブランスの街路を歩いてゐる姿を初めて見たので、興がつてゐた。" }, { "role": "assistant", "content": " 後ろから見たところでは、その女は體躯つきのいかにも敏捷な、小柄な女であつた、――今の流行としてはやゝ短かすぎるスカートと、小さな褐色の肩掛と、そして大きなパンポル風の頭飾と。\n 彼女の方でも彼の腕へ身を凭せかけながら、親しげに彼を眺めるやうに彼の方へ身を曲げてゐた。\n『あの情婦はすこしお婆さんだな』\n 彼等は、それが生れ故郷から來た彼の老祖母だといふことを知つてゐながら、何の惡氣もなくそんなことを言つた。\n ....彼女は、孫から出發の知らせを受けて、ひどく驚かされて、急いでやつて來た、――支那とのこの戰爭は、パンポルの界隈だけでも既に澤山の水兵を犧牲にしてゐた。\n 彼女は乏しい貯への金を殘らず集めて、日曜日の晴着と、頭飾の掛更へとを厚紙の箱の中へ入れて、少くももう一度孫に接吻するつもりで出て來たのであつた。\n 彼女は着くと直ぐ營舍に彼を訪ねて行つた。が、最初、隊附の副官は彼を呼び出す事を拒んだ。\n『是非逢ひたいといふなら、ね、お婆さん、隊長のところへ行つて話して御覽、そら、其處へ行くのが隊長なんだ。』\n で、彼女はすぐ彼の方へ行つた。彼は心を動かされた。\n『モアンに服を着更へさせてやれ』と彼は言つた。\n で、モアンは一時に四段づゝも飛び上つて、外出服と着更へに行つた。――そのあひだ老祖母は、いつものやうに、彼を樂しませてやることを考へながら、奇妙な顏つきをして、副官の後ろで、恭〻しくしてゐた。\n やがて、孫が頸を抉つた外出服に着かへて出て來たのを見ると、彼女は彼が立派になつたのに驚かされた。黒い髭は、水兵達の間のその年の流行に從つて、理髮師の手でさき尖りに刈られてあつた。胸を開けた襯衣の縁は溝をつくつてゐた。そして帽子には、端に金色の錨をかいた長いひら〳〵した飾紐がついてゐた。\n 瞬間、彼女は息子のピェールを見るやうな氣がした。ピェールもまた、二十年前に、艦隊の檣兵になつてゐた。彼女の後に逃げ去つた長い過去や、總ての死んだ人々の思ひ出が現在の上へ竊かに悲しい影を投じた。\n 悲しみは直ぐ消え失せた。二人は腕を靼み合はせて、樂しげに連れ立つて、出て行つた。――そしてその時、人々は彼女を彼の戀人として、『すこし婆さんすぎる』と言つたのであつた。\n 彼女は彼をつれて二人きりで食事をしに、或る宿屋へはいつて行つた。それはパンポルから出た人のやつてゐた宿屋で、餘り高くないといふ評判を彼女は人から聞いてゐた。やがてまた、彼等は腕を組み合はせて、ブレストの町中を、いろ〳〵な店の飾りつけを見て歩いた。けれど、彼女には孫を笑はせるために思ひついて言つたことくらゐ樂しいものは他になかつた、――それはパンポルのブルトン語で話されたので、傍を通る人達には少しも解らなかつた。\n\n八\n\n 彼女は彼と三日滯在した、――祝ひの三日間、その上に暗い「やがて」が漂つてゐた、ちやうど許しの三日間のやうに。\n そして、つひに彼女は彼を殘して、ブルバラネクへ歸らなければならなくなつた。第一に彼女の乏しい貯へが盡きたからであつた。それにシルヹストルはいよ〳〵一日おいてその翌日出發することになつたからであつた。そして水兵等は大切な航海へ出發する前日は、營舍内から出ることを固く禁ぜられてゐる、(これは一寸考へると、寧ろ殘酷な習慣のやうに思はれるが、出征せんとする間際に、水兵等が陷り易い脱船に對する必然の豫防である。)\n おゝ、その最後の日! 彼女は孫になにか面白いことを言はうといくら腦髓を絞つても、無駄であつた。何も考へられない。たゞ涙が溢れて來るばかりで、歔欷が絶えず彼女の咽喉を詰らせた。孫の腕へ身を凭せかけて、彼女はいろ〳〵と心添へをした。それがまた彼を泣きたくさせた。最後に二人は共々祈りをするやうに會堂へはいつて行つた。\n 彼女は夕方の汽車で歸ることにした。餘計な金のかゝらないやうに、彼等は停車場まで歩いて行つた。彼は行李を持つたり、強い腕で彼女の身體を支へたりした。彼女はその腕へすつかり體の重みを投げかけてゐた。\n 氣の毒な婆さんは疲れてゐた。すつかり疲れてゐた。彼女はこの三四日間に、あれこれと氣をくばつてゐたので、もう何もすることができなかつた。背は褐色の肩掛の下で、身を伸ばす力も無く、全く屈まつてゐた。彼女はいつもの若々しい體躯の樣子もすつかりなくしてしまひ、七十六といふ壓へつけるやうな年の重荷をひどく身に感じた。これですべてが終つてしまふかと思ふと、そして數分の後には彼と別れなければならないのかと思ふと、彼女の心は引き裂かれるやうであつた。しかも彼の行くのは支那であつた。遠い殺戮の巷であつた! 今はまだ彼は自分の傍にゐた。今はまだ自分の哀れな手が彼を掴んでゐた....けれどやがて彼は出發するであらう。彼女の意志も、彼の祖母としての、あらゆる涙も、あらゆる絶望も、彼を止める役には立たないであらう!....\n 切符や、食物の籠や、手袋などがうるさいので、氣がいら立ち、體躯をふるはせながら、彼女は彼に最後の心添へをした。その一つ一つに彼は極く低い聲で、小さく、すなほに、ハイ〳〵と受け答へした。子供のやうな樣子で、親切な柔しい眼で彼女を見ながら、彼女の方へ懷かしさうに頭を曲げてゐた。\n『さあ、お婆さん、乘るのか乘らないのか、早くしなくちやいけない!』\n 汽鑵はしゆう〳〵いつた。乘り遲れてはならないと氣を揉んで、彼女は彼の手から紙箱を取つたが、それをまた下へ落して、最後にもう一度孫の頸のまはりへ彼女の兩腕を投げかけた。\n 彼等は停車場の注意の多くを身邊に集めた。けれど彼等はもう何人にも笑ひを起させる暇もなかつた。驛員等に急ぎ立てられ、疲れはて、當惑して、彼女は眼につき次第の車室の内へ身を投げ込んだ。すると扉が後ろでバタンと閉ぢられた。その間にシルヹストルは、水夫の敏捷な驅け足で、飛んでゐる鳥のやうに輪を描いて、ぐるつと停車場をまはつて、彼女の過ぎるのを見るのに間に合ふやうに外の柵の處まで出た。\n 高い汽笛の音と、騷々しく軋る車輪の響きと――祖母は通り過ぎた。――彼は柵に倚りかゝつて、若々しく、美しく、ひら〳〵するリボンのついた帽子を振つた。すると彼女は三等室の窓の外へ體躯を伸ばしてたやすく彼の眼につくやうに、手巾で合圖をした。出來る限り長い間、その孫の青黒い姿の見える限り、彼女は彼に眼をそゝいだ。そして心の限りをつくして、『復た逢ふこと』を彼に投げかけた。水夫等の出發に際して人々が言ふその不確かなオ・ルヴォアルを。\n 氣の毒なお婆さん、可愛いシルヹストルをよく見てお置き、最後の瞬間までも、彼の消えゆく面影をとめてお置き、それは永久其處から消えてしまふであらう。\n やがて、もう彼の姿が見えなくなつた時、彼女は腰掛へ身を倒して、晴れの頭飾が皺になるのもかまはずに、身も消えるやうに、さめ〴〵とすゝりないた。\n 彼は頭を垂れて、大粒な涙を頬に流しながら、しづかに歸つて行つた。秋の夜は既に落ちてゐた。瓦斯の火が何處にもともされた。水兵等の祝ひが既に始まつてゐた。何物にも氣をとめないで、彼はブレストの町を横切つた。やがてルクウブランスへの橋へ、そして自分の營舍へ歸つて行つた。\n『ねえ、ちよいと、貴郎』かうした嗄れた聲が、もう街路をうろつき始めた例の女達の口から聞かれた。\n 彼は歸るとすぐ吊床の中へ身を倒した。そして獨りきりで泣きながら、朝まで殆ど睡らずに明かした。\n\n九\n\n ........................................................................" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " すると大晦日の晩、木山はその日は朝から集金に出かけて行つたが、たとひ何んなことがあつても二千円の金は持つて来なければならない筈であつた。取引き上のことは、木山も一切話さなかつたし、晴代も聴かうとはしないのだつたが、この頃になつて、時には二人の間にそんな話も出るので、晴代もいくらか筋道が呑み込めてゐた。二千にしても三千にしても、荷主や親店への支払ひに持つて行かれるので、手につくのは知れたものだつた。千円も集まれば可い方だと思つてゐた。\n 晴代は年が越せるか何うかもわからないやうな不安と慌忙しさの中に、春を迎へる用意をしてゐた。父親や妹たちも来て手伝つてゐた。今年になつて初めて歳の市で買つて来た神棚や仏壇を掃除して、牛蒡締を取りかへたり、花をあげたりした。\n「私も二十六になるのかいな。」\n 年越し蕎麦を父と妹に饗応ひながら、晴代は上方言葉で自分を嗤つた。\n 父親は木工場からもらつたボオナスが少し多かつたので、お歳暮をきばつたのだつたが、若い時分から馬気違ひなので、競馬好きの木山とうまが合つてゐた。父はこの秋の中山の競馬でふと木山に出逢つて、こゝで逢つたことは晴代には絶対秘密だと言つて、五十円くれたことがあつた。そんな話をしながら父は上機嫌だつたが、隣りの家主から二つ溜まつてゐる家賃の催促が来たところで、急に興ざめのした形で、妹を促して帰つて行つた。\n 晴代の帯に挾んだ蟇口には、もう幾らの金もなかつた。ラヂオとか新聞とか、電燈瓦斯、薪炭などの小払ひは何うにかすましたのだつたが、明日は年始に来る客もあるので、その用意も必要であつた。彼女は曾つてのお座敷着や帯などにも、いくらか手がついてゐたが、それだけは極力防止してゐた。それを当てにしてゐた木山が不服さうに言ふので、晴代も木山の足腰のないことを責めて、つい夫婦喧嘩にまで爆発したのも最近のことであつた。\n 木山は口の利き方の鉄火になつて来る晴代に疳癪を起して、いきなり手を振りあげた。\n 晴代は所詮駄目だといふ気がしたが、それも二人の大きな亀裂であつた。\n 夜がふけるに従つて、晴代は心配になつて来た。自転車のベルの音がする度に、耳を聳てゐたが、除夜の鐘が鳴り出しても、木山は帰つて来なかつた。晴代はぢつとしてゐられなくなつた。そんな間にも、いつか木山が仲間が山へ行くのだと、ちやらつぽこを言つて、朝日靴などもつて出かけて行つたが、それを待合に忘れて来たものらしく、靴をおいて来た宿へ葉書を出す出すと言ひながら其れきりになつてしまつたが、考へてみると憎めないところもあつた。晴代は父のボオナスを当てにする訳ではなかつたけれど、長いあひだの犠牲を考へると、今夜のやうな場合、少しくらゐ用立ててもらつてもいゝと思つたので、戸締りをして家を出たが、途中で罪のない木山を思ひ出して、独りで微笑んでゐた。\n「金さへあれば私達もさう不幸ではない筈なのに。」\n あわたゞしい電車の吊皮に垂下りながら、晴代はつくづく思ふのだつた。それもさう大した慾望ではなかつた。月々の支払が満足に出来て、月に二三回暢びりした気持で映画を見るとか、旅行するとか、その位の余裕があればそれで十分だつた。\n 錦糸町の家へあがると、戸がしまつて皆な寝てゐたが、母が起きてくれた。母は長火鉢の火を掻きたてて、\n「何うしたんだよ、今頃......。」\n 父親も後ろ向きになつて傍に寝てゐた。\n 商売に出てゐる間、病身な妹も多かつたので、月々百円から百五十円くらゐは貢ぎつゞけて来た晴代ではあつたが、たとひ十円でも金の無心は言ひ出しにくかつた。\n 晴代はくだ〳〵したことは言ひたくなかつた。\n「阿母さん済まないけれど、二十円ばかり借りられないか知ら。」\n 母は厭な顔をした。そして何かくど〳〵言訳しながら、漸と半分だけ出してくれた。\n 何か冷いものが脊筋を流れて、晴代はむつとしたが突き返せもしなかつた。\n 木山は何うしたかと聞くので、晴代は耳に入れたくはなかつたが、隠さず話した。\n「お前も呑気ぢやないかね。今は何時だと思ふのだよ。」\n 晴代も気が気でなかつたので、急いで帰つて見たが、やつぱり帰つてゐなかつた。晴代は頭脳が変になりさうだつた。そして蟇口の残りを二十円足して家賃の内金をしてから、三停留所もの先きまで行つて自動電話へ入つて、木山の母の引手茶屋へかけて見た。\n「あれからずつと来ませんよ。」\n 母は答へたが、その「あれから」も何時のことか解らなかつた。\n「あの人にも困りますね。いくら何でももう元日の朝だといふのに、何処をふらついてゐるんでせうね。」\n 晴代は知り合ひの待合へもかけて見たが、お神と話してゐるうちに、てつきりさうだと思ふ家に気がついた。そこは晴代も遊びに行つたことのある芸者屋だつたが、そこで始まる遊び事は、孰かといへば素人の加はつてはならない半商売人筋のものであつた。お神と主人も加はる例だつたが、風向きが悪いとなると、疲れたからと言つて席をはづして、寺銭をあげることへかゝつて行くといふ風だつた。\n 晴代は堪らないと思つたので、急いで円タクを飛ばした。皆んなにお煽らかされて、札びら切つてゐる木山の顔が目に見えるやうだつた。\n 自動車をおりてから、軒並み細つこい電燈の出てゐる、静かな町へ入つて来ると、結婚前後のことが遣瀬なく思ひ出せて来て仕方がなかつた。泣くにも泣かれないやうな気持だつた。\n 目星をつけた家の気勢を暫く窺つた後、格子戸を開けてみると、額の蒼白い、眉毛の濃い、目の大きい四十がらみのお神が長火鉢のところにゐて、ちよつと困惑した顔だつた。\n「宅が来てゐません?」\n 晴代は息をはずませてゐた。\n「二階にゐますがね、晴ちやんが来てもゐない積りにしてゐてくれと言はれてゐるのよ。」\n「これでせう。」\n 晴代は鼻の先きへ指をやつて、もう上へ上つてゐた。\n「後で怨まれるから、私は下にゐなかつたことにして、上つてごらんなさい。」\n 二階へ上つてみると、奥の四畳半にぴち〳〵音がして、窃やかな話声が籠つてゐた。襖をあけると、男が四人車座に坐つてゐた。丼や鮨や蜜柑のやうなものが、そつち此方に散らばつて、煙が濛々してゐた。晴代は割り込むやうにして、木山の傍に坐つたが、木山は苦笑してゐた。\n こゝで厭味など言つて喧嘩をするでもないと思つたので、晴代は晴代らしく棄身の戦法に出た。\n「私も引きたいわ。」\n 晴代が言ふので、幇間あがりの主人が顔をあげた。\n「あんたも遣るんですかい。」\n「何うせ皆さんには敵ひませんけど、役くらゐは知つてますよ。」\n 木山はちやうど休んでゐたが、\n「止せよ、二人だと負けるから。」" }, { "role": "assistant", "content": "「あんたの景気何う?」\n「今夜は大曲りだ。ちつとも手がつかない。」\n さすがに木山は悄げてゐた。\n「緑ちやん今夜は外れだね。屹度これから好いよ。それに女の人が一枚入ると、がらりと変つて来るよ。晴ちやん助勢して、取りかへしなさいよ。」\n 晴代は腹も立たなかつた。木山が摺るなら此方も鼻ツ張りを強く、滅茶苦茶を引いてやらうと云ふ気になつた。\n 木山と反対の側に、直きに晴代の座が出来た。二三百円も負けたかと思つたが、それどころではないらしい木山の悄げ方であつた。\n 晴代は手も見ないで引つ切りなしに戦つた。勿論出る度にやられた。木山も出ると負け出ると負けして、悉皆気を腐らせてゐた。\n「もう止めだ。おい帰らう。」\n 木山は晴代を促した。\n「いいわよ、何うせ負けついでだから、うんと負けたら可いぢやないの。」\n 木山は苦惨な顔を歪めてゐたが、晴代は反つて朗らかだつた。皆なが呆れて晴代を見てゐるうちに、無気味な沈黙がやつて来た。嵩にかゝる晴代を止めるものもあつた。晴代も素直に札を投げ出した。\n 計算する段になつて、脹れてゐた木山の財布も、あらかたぺちやんこになつてしまつた。\n やがて二人そろつて外へ出たのは三時を聞いてからであつた。晴代はいくら集まつたかとか、いくら負けたかとか聞くのも無益だと思つたので、それには触れようともしなかつた。\n 木山は帰ると直ぐ、口も利かずに蒲団を被つて寝てしまつた。\n\n 四\n\n 伝票の書き方、客の扱ひ方、各種の洋酒や料理の名など、一日二日は馴れた女給が教へてくれ、番も自分のに割り込ませるやうにしてくれた。\n 遣つてみると、古い仕来りがないだけに、何か頼りない感じだつたが、あの世界のやうに、抱へ主や、出先きのお神、女中といつた大姑小姑がゐないのは、成程新しい職業の自由さに違ひないのだが、それだけに今まで一定の軌道のうへで仕事をしてゐたものに取つては気骨の折れるところもあつた。勿論あの世界の空気にも、今以つて昵み切れないものがあり、商売の型にはまるには、余程自己を殺さなければならなかつた。何よりも体を汚さなければならないのが辛かつた。商売と思つて目を瞑つても瞑り切れないものがあつた。疳性に洗つても洗つても、洗ひ切れない汚涜がしみついてゐるやうな感じだつた。その思ひから解放されるだけでも助かると思つたが、チップの分配など見ると、それも何だか浅猿しくて、貞操の取引きが、露骨な直接交渉で行はれるのも、感じがよくなかつた。\n 誰よりも年が上であり、客を通して見た世界の視野も比較的広く、教養といふ程のことはなくても、辛い体験で男を見る目も一と通り出来てゐるうへに、気分に濁りがないので、直きに朋輩から立てられるやうになつた。髪の形、頬紅やアイシャドウの使ひ方なども教はつて、何うにか女給タイプにはなつて来たのだつたが、どこか此処の雰囲気に折り合ひかねるところもあつた。結婚の破滅から東京へ出て来て、慰藉料の請求訴訟の入費で頭脳を悩ましてゐる師範出のインテレ、都会に氾濫してゐるモダンな空気のなかに、何か憧れの世界を捜さうとして、結婚を嫌つて東京へ出ては来たが、ひどい結核で、毎夜棄鉢な酒ばかり呷つてゐる十八の娘、ヱロの交渉となると、何時もオ・ケで進んで一手に引受けることにしてゐる北海道産れの女、等々。\n 晴代はよく一緒の車で帰ることにしてゐる、北山静枝といふ美しい女に頼まれて、客にさそはれて銀座裏のおでん屋へ入つたり、鮨を奢られたりしたものだが、客の覘つてゐる若い朋輩の援護隊として、二三人一組になつて、函嶺へドライブした時には、留守が気になつて、まだ夜のあけないうちに、散々に酔ひつぶされた二人の客を残して、皆んなで引揚げて来たのだつたが、呑気ものの木山は、戸締りもしないで、ぐつすり寝込んでゐた。晴代は何か後暗いやうな気がして、食卓のうへに散らかつたものを取り片着け、いつも通りに炊事に働いたが、その音に目をさました木山は、昨夜の話を「ふむ、ふむ。」と唯聞いてゐるだけで、何だか張り合ひがなかつた。\n 一隊で吉原へ繰りこんだこともあつた。鈴蘭で雑炊を食べてから、妓楼へ押し上つたのだつたが、花魁の部屋で、身のうへ話をきいてゐるうちにいつか夜が更けて、晴代は朝方ちかい三時頃に、そつと其処を脱け出し引手茶屋のお辰を呼びおこし、そこに泊めてもらつたことから、彼女のカフヱ勤めも、母に知れてしまつたのだつた。\n「ちよつと拙かつたね。」\n 見え坊の木山が、晴代のカフヱ通ひを内心恥かしく思つてゐることも、それで解つた訳だつたが、それよりも晴代が銀座へ勤めるやうになつてから、彼の惰性的な遊び癖も一層嵩じて来ない訳に行かなかつた。それも空虚な時間を過しかねる彼の気弱さからだと思はれたが、夫婦生活の憂欝と倦怠から解放された気安さだとも解釈されない事もなかつた。\n 晴代は朋輩の一人の与瀬二三子が大したことはないが、株屋の手代をペトロンにもつて木挽町でアパアト住ひをしてゐたが、その部屋へも遊びに行つた。部屋には人形や玩具や、小型の三面鏡、気取つたクション、小綺麗な茶箪笥などがちま〳〵と飾られて、晴代も可憐な其の愛の巣を、ちよつと好いなと思つたものだが、それよりも、時間になると大抵その男がやつて来て、サラダにビイルくらゐ取つて、帰りはいつも一緒なのが、笑へない光景だと思つた。\n「一度来てよ。」\n 言つてみたところで、極り悪がりやの木山が、あの近所へでも来てくれる筈もなかつたし、もうそんな甘い感じもしなかつた。\n 或る晩晴代は腹が痛んだので、朋輩に頼んで一時間ばかり早く帰つて来た。腹の痛みは途中から薄らいで来たが、それも偶には好いと思つた。晴代はコックやバアテンダアなどにも特に親しまれてゐて、冷えから来る腹痛みにバアテンダアのくれるウヰスキイを呑むと、直きに納まるのだつたが、その日は昼飯の時に食べた海老魚のフライにでも中てられたのか、ウヰスキイの効き目も薄かつた。コックの松山は、ちよつと見るとフランチョット・トーン張りの上品ぶつた顔をしてゐたが、肌触りに荒い感じがあつて、何うかすると酷い恐い目をするのだつたが、晴代に失恋の悩みを聴いてもらつたところから、親しみが生じて、料理を特別に一皿作つてくれることも屡々あつた。昼飯の時間になると、ボオイが晴代のところへやつて来て、\n「晴代さん、あんた皆なが食べてしまつた頃、一番後に来て下さいつて。」\n 年上だけに晴代もバアテンやコックには切れ離れよく気をつけてやつてゐた。\n 松山はもう三十四五の、女房も子もある男だつたが、さう云ふことが女に知れてから、逃げを打つやうになつた。晴代の来たてには、その女もまだ「月魄」に出てゐて、何うかすると物蔭で立話をしてゐたり、二人揃つて出勤することもあつたが、何時の間にか女は姿を消してしまつた。\n「僕は彼奴の変心を詰つてやらうと思つて、ナイフを忍ばせてアパアトへ行つたもんですよ。ところが其の晩彼奴は何処かで、男と逢つてゐたんだね。彼奴の友達の部屋で夜明かし飲んで、朝まで頑張つてみたが、到頭帰つて来ないんだ。その相手の男も大凡見当がついてゐるんだ。此処へも二三度来た歯医者なんだ。」\n「止した方がいゝでせうね。そんな人追つかけて見たつて仕様がないぢやないの。それに貴方は奥さんも子供もあるんでせう。」\n「晴代さんでも逃げますか。」\n「第一瞞されないわ。」\n 晴代は気軽に解決したものの、考へてみると、妻があるとは知らないで、北海道まで一緒に落ちて行かうと思つた男が曾つて自分にもあつた。入り揚げた金に男も未練をもつたが、晴代も引かされた。しかし何か腑におちない処があつた。親しい出先きから思ひついて電話をかけて見ると、出て来たのが細君であつた。そして晴代がさめて来ると、男は一層へばつて来た。それが晴代の最近の住替の動機だつたが、或る日一直からかゝつて、馴染だと言ふので行つてみると、土地の興行界の顔役や請負師らしい男が五六人頭をそろへてゐるなかに、その男がにや〳〵してゐた。そして其が晴代の木山との結婚を急いだ又の動機でもあつた。\n その夜も晴代はそつとバアテンから貰つたレモンを十ばかり紙にくるんで土産に持つて帰つた。木山は珍らしく家にゐて、火鉢の傍で茹小豆を食べてゐた。小豆の好きな木山は、よく自分で瓦斯にかけて煮て食べてゐた。\n 晴代はレモンを出して見せながら、\n「今日は一日何してゐたの。」\n「春から一度も行かないから、ちよつと家へ顔出して来たよ。」\n「何か言つてゐた。私のカフヱへ出てること。」\n「晴ちやんのことだから、何処へおつ投り出しておいても、間違ひはないだらうけれど、余り褒めた事でもないつて言つてゐたよ。」\n 晴代は三月の二日が、ちやうど木山たちの父親の十三回忌に当ることを想ひ出した。父親は日本橋の木綿問屋だつたが、生きてゐる間は、仕送りもして偶には遣つて来た。木山も其の父の話をする時は、相撲なぞへ連れて行かれた其の頃が懐かしさうであつた。新婚旅行気分で晴代と一晩熱海で泊つた時も、その噂が出た。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 前に乾山は土いじりに対し、その手を惜しんだと私は言った。これは工人としての心構え、もしくはその態度の定め方にもよることであって、決して一気に論じ去るわけには行かないが、密かに思うのに、陶磁の美の発現は、所謂かわらけのままに於ても、なお且つ奪うことが出来ないほどでなければならない。ただ模様を入れ、絵を描く、これだけが陶磁本来の仕事ではない。即ち陶磁は模様を以て装われない前に、あくまでも作者の個性が練り込まれなければならない。ここに於て陶人、真にその栄光を全幅にすべきである。\n 乾山の作として、最も多く見られる桝形、角皿等の大部分から、その絵を取り除いて、単に無地の鉢、無地の皿としてこれを見る時、世に名高い乾山その人を、その中からどれだけの分量を、購い得べき勇気を持つことが出来るであろう。\n ここで再び帝室博物館の光琳乾山合作の鉢を見るに、表面の光琳は実に洒然として、少しもその本然を偽ろうとしていない。人物の風相もそうである。寂明光琳という四字の書も全くいつも通りの光琳である。それに引きかえ、裏の大日本乾山の署名のなんと汗ダクものであることよ。それも決して心掛けばかりでないらしいのは、器体が自作でない不満を償おうとするために、大きく、しかも堂々と、右の大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所居尚古斎とやっているのである。と言うのは、字そのものに争い難い心理的陰影を宿しているからである。そしてこれがために、いつもの乾山のうまい書が、力のある字が、どれほど良心の咎めを受けて、弱く作為的なつまらぬものになっているか、わからぬほどである。\n 挿入写真の皿の絵や字について見るとき、僅か数筆を費しただけで、しっかりとその本領を掴み得た竹の図、乾山の面目そのままを飾り気なしに、さらりと出して見せた書。ここには乾山が、たまたま自作の器体に、安堵し得たその心持の嬉しさというものの精神反射を見るのである。かくてこそ、陶人乾山と膝つき合わして相語り得られるではないか。(昭和八年)\n\n乾山の絵と陶器\n\n ふとした話から乾山という名が出た時、世の人は乾山を一議に及ばず、それは画人だ......と頭に響くか、陶人......と感ずるか、はたまた絵の達人、陶の名人と認識するか。\n 陶人としての巨匠には、仁清と木米の存在が著しい存在である。乾山をそれら両者に比すべき陶人とするか。\n 私に言わせれば、世人はそうはっきりと答えられるほど乾山を見極めているのではなく、乾山の絵に接すれば乾山の絵に感激し、乾山の陶器を観れば乾山の陶器に感心する。別段ハッキリと乾山を画人と決めず、陶人だとも確認もせず、唯、昔から多くの人々が、乾山、乾山と言うから、雷同的に夢見る如く、乾山をそらんじているまでであるくらいではないか。\n 乾山は光琳の如く専門画人でなく陶人として立った人だが、陶人としては絵が殊に秀れて一家をなすところから、絵の遺作も少なくはないのだろう。事実、絵も容易なものではないが、陶作が専門だから本当のところ、陶作がうまいのだろう。陶器を作る余力が絵画の存在になったのだろう......くらいの程度な認識者の多いことは否めない。\n されば乾山の作品について真贋を決めんとする場合、相当な鑑賞家までが正否の判断に苦しんでいる。\n 乾山が絵ばかり描く人であったとすると、鑑識家の方でもその肚で様子の探りようもあるが、別個に陶人としてあまりにも著名なために、絵のみならば......と独り決めしている人たちも、うかうか乾山には手が出せないと感じるものらしい。本当に乾山は絵がうまいのか、陶器が本職的にうまいのか......がどうも判明しないところから、いずれを本職的に見て標準を定めてよいか、困ったこととしている向きも少なくない。こんな事情のもとに、鑑定上断言を憚る様子が見えるのである。\n 乾山の贋作に巨金を投じて漸く手に入れた多くの人のあることを私は知っている。これは乾山の絵が素人くさい描法であり、その陶磁も素人的と言えないこともないからである。変に欲を出すとそこに引っ掛かる。乾山という物、先ずこんなものだろうと早合点させる点があるからである。全く乾山は生涯本職根性に成れなかった人だ。だから時時の気持で、気儘な作品を見せている。そこが乾山の特色と見て差支えなかろう。されば乾山に意を遣るものは、先ず乾山を見透すだけの心眼を養わねばならぬ。それには乾山の柄のみが嗜好であっただけでは埒があかないのである。絵と陶器を別個な美術であるとするような不可解な美術眼であってはいけない。(昭和九年)\n\n木米の世界\n\n 青木木米は名を佐平、字は玄佐、幼名八十八、みずからその八十八を米の字に換え、青木の木を取って木米と号した。\n また、百六散人、九々鱗の号もある。明和四年(一七六七)尾張の士家に生まれて、天保四年(一八三三)六十七歳で京都に死んだ。\n 陶法を奥田穎川に学んで粟田に於て焼いた。文政五年(一八二二)青蓮院の宮の御用窯を命ぜられた。山陽、竹田等と親交があった。\n\n 世間ではよく言う、木米の作品の轆轤は総てその助手久太がやったものであると、恰もそれを見てでもいたかのように言うが、私はこれを否定したい。もっとも、これは木米が一通り以上に学問を有して、所謂学者肌でいたということ、その仕事にまたそれだけ特別の高い見識と器量を持っていたということ、その他、いろいろの意味に於て、その人をより立派にすべく、この場合、泥だらけの轆轤仕事から救い出したつもりで言うのかも知れぬ。\n が、木米も察するところ、そこまで尊び且つ憐んで貰いたくはないであろう。そんなことよりも、木米は木米として、その目指していたおのずからなる世界がある。即ち、その世界をもっと深く見て欲しいのではなかろうか。勿論、助手久太なる者があったというからには、久太も所詮何かとお手伝いはしたに違いなかろうが、要するに久太は久太、木米は木米、人の違うが如くに、その仕事もおのずから異ならざるを得ないではないか。そこで実際問題はどの辺までが木米その人のものであろうか、ということになるのである。\n" }, { "role": "assistant", "content": " また世間では言う。木米の作った急須は、その把手を逆に立ててみて、器体が決してころばないと。かくて人々は木米の急須とさえ見れば、この軽業のような芸当を敢えてやり、しきりと通がって感心し、童興にふける。ところが更に甚だしい者になると、器体をさかさまにしても、木米の作である限り蓋が口べりに引っ掛かって、容易に落ちて来ないなどと、我も我もと危なっかしい手つきで、その実験を試みる。\n 従って木米の急須であるとされるものは、哀れにもこのような法外の鑑定法によって、いつまでその身を危険にさらさねばならないか知れぬのである。\n しかし、仮りにそれが実証に一番都合のいい方法であるにしても、それは木米が注いだ用途上の細密な心掛けとして首肯すべき筋のものであって、決して木米芸術の第一義を決する何物でもないことは言うまでもない。\n 木米をこの「金襴手」について見るに、先ず地肌に施した赤釉の塗り方にその最も著しい特徴の現われがある。如何にも無造作に、濃淡お構いなしで、ただわけもなくムタムタと筆をあてがっているだけかと思うばかりの姿である。もしこれが普通の手法においてされるならば、濃淡なしに濃度の平均を保たせつつ、これを克明に塗り潰すのが上手物に対する定法である。\n 木米のこの大胆にムタムタとやった下手物赤絵に見るような無心の超技巧的な塗り方は、彼が得意の手法というよりも、むしろ彼の個性そのものの美しい流露であると見なければならぬ。その人の個性に限り許された一種の技法、無法の法と名付けてしかるべきものであろう。そして、この木米独特のムタムタな筆づかいが放発する美観というものは、それ自体が何となく自然の風韻にもかなって、見る者の楽しみを一層永くさせ、しかも、肩を凝らせないかのようである。\n 木米の自性、已に天真にして清浄、従ってその筆には臭みがない。下手な加減がない、無理な取捨がない。唯そこにあるのは、いつも投げ出されただけの個性的な如実相のみである。しかし、これは木米が独特の南画に見せた以上の、その個性の大成就と考え併せることによって、なんら矛盾もなく、すらりと首肯されるものではないかと思う。\n 次に木米が用いた赤絵の原料としての良質さは、実際格別のものである。さもなくば、他にいかほどの手段を尽そうとも、先ずあれだけの呈色を期待することはむずかしいと言いたい。彼はあの赤絵の原料をどこからどうして手に入れることが出来たか、今となっては知る由もないが、一般には紅殻をよく磨ることによって、しかるべき色沢の誘導を考えるようであるが、それもいざとなった場合、合わせ料の硝子質の多少の相違によって、その色沢の期待は忽ち裏切られ、却って飴の光沢を感ずるような軟弱で軽薄な色沢を求めてしまわねばならない。\n 密かに考えるに、木米はその赤絵の材料を師奥田穎川によって得たことだろう。そして別に手裏の操作のよろしきを加えたのであろう。良工は良材を選ぶ。真に良工ででもなければ、良材があったにしても見付け出すことは出来ない。その点からして、例えば仁清にしても、保全にしても、確かに軌を一にしたはずである。こうしてこそ、その仕事は初めてほんとうに美しく輝き出すのである。\n この作品に於て特に留意されなければならないのは、金彩に加えられた針金の線の妙味である。その遅渋的暢達な趣きの半面に見られる古拙であって、しかも、穏健な筆調は前例無比として、これをどう褒めていいかわからぬくらいである。\n 木米という人、その腹に覚えのどこまで確かであったことだろう。その線の一条一条ことごとく生きて、一般凡者のやる割出しの線や、その他、乾燥無味な作風とは全く形を異にしている。一条の線そのものが即ち美的価値の上下そのものである。いやしくも木米の作品に於て、描かれたり、また塗られたりした何物かがあったならば、その筆触や筆情を通じて木米の心機に触れる事実が、その作品の真価を決定すべき唯一の頼みとなるべきであろう。まことに木米の作品のような個性的に匂いの高いものは、その人の本然を見ない限り、到底その真実の味を味わえないものだと考えるのである。\n この器もなるほど木米その人のやりそうなことだと思わせる個所がままある。急須の把手の内部へそっと釉薬を流して、しかも、それをおよそ半分の処で打止め、その上に赤絵の具を要約的に塗ってきまりをつけ、尚且つそれが客付から見て、邪魔しないようにした用意あるかに見えることなどがそれである。その臨機応変、効果第一のやり方――これなども、この人以外には余り見られぬ個性の発露ではなかろうか。\n 更に底辺を見ると、一部の胎土が小さく二重層を成して溜って残っているが、これは木米の了見であったればこそ、箆を用いてつくろうような常識に甘んじ得なかったのであろうと考えるのである。ちょっと見た処は、やりっぱなしに似ているが、その実、偶然の成行を直ぐに取って活用し、器体の景観的条件にするという当意即妙の関心、そこに天才木米の面目というようなものが、直ちに思いやられて、微笑を禁じ得ないことになるのである。\n 唐草模様の金泥塗抹に於ても濃淡自在なものである。普通ならば金箔を切り張りしたかの如く、丹念な金泥の塗り方をするのであるが、彼は無造作にそれを避けたと言うよりは、むしろ最初からかような点には留意しないのであるらしい。そしてここにも天真の個性を投げ出してかかっているのであった。実に無造作だ、当意的だ、天来的だ、否、ただ陶法単伝の一旨を、極意的にさっさとやって退けたまでだった。彼がいかに特異性のある「工人」であったか、その消息はここにもまた十二分に読み得られようと思う。\n(昭和八年)\n\n奥田穎川作赤呉須小鉢\n\n 今泉さんの著書に「奥田穎川、名は庸徳、通称を茂一郎、又茂右衛門と称した。穎川は、其の号である。尚、其の他に、陸方山の号もある。享保年間、五条大黒町に住して、製陶に従って居った」とある。また「清水の海老屋清兵衛に学んで一家を成し、善く支那の古陶瓷の模しものに妙を得、其精妙の作に臻っては、殆ど彼我の弁別も為し難い程である」とあるが、この説は今泉さんの粗忽でしょう。なぜならば、穎川と中国は、彼我の弁別がすこぶる明瞭であるからであります。今泉さんは「就中其の呉須赤絵に臻っては銘が無かったら、何うしても支那としか見えぬ位に、上手に出来て居る」と言っておられますが、この説もいけませんね。そこへゆくと、奥田誠一さんの穎川赤呉須説明の条に「其筆力勁健描法奔放支那の呉須赤絵の遠く及ばぬ所があります」の方が賛成率が多いのです。\n 穎川の特質は調子の高い点にあります。六兵衛とか道八とかいうものは、うまいの、まずいのと言ったところで高が知れたところがあります。それは大体に於て調子が低いからであります。穎川となりますと、彼の木米以下の物であるか、木米以上の物であるかと問題が出ますと、おそらく明瞭に答える人はありますまい。穎川の作品はそういうものであります。木米の調子の高いことは誰しも知るところでありましょう。その先生であり、師匠であった穎川もかくの如く調子が高いといたしますと、木米は最初から穎川の感化に恵まれて大変な利益を受け、その天才を育てあげる上に、どんなに得したかわからないでしょう。ちょうど鉄斎が幼少から蓮月尼に薫陶を受けたようなものであります。\n 事実、我々が見まして、穎川は調子の高い、しっかりした創作の出来る立派な芸術家であって、職人肌ではありません。穎川の染付の立派なものを見ておりませんし、数もいくらも見ませんから、私としては早計に断定は出来かねますが、まあ穎川としては十分の成果を収めなかったのではないかと思っております。しかし、呉須赤絵となりますと、非常なものでありまして、創作力を多分に持っております。\n 永楽保全も赤呉須写しは大分得意であったと見えまして、見栄えのあるその作品をたくさん遺しておりますが、大体がコピー的名作であって、創作的能力は少ないのであります。\n 穎川となりますと、先ず万暦赤絵の釉薬の特徴であります薄氷色の白き半透明な分厚な釉薬を、苦心して作り上げた跡を見せ、それにまた所謂赤呉須という赤い顔料を仁清にも負けない、乾山にも負けない、中国の魁鉢のような代表的な赤の色にも引けを取らないまでに、赤の顔料製作に成功を収めた跡が見えます。\n 穎川は中国明代に出来た赤呉須中、有名な魁鉢、あるいはそれに類似の当時の下手物である赤絵物をモットーとして、自己に移したようでありますが、見本品をそのままコピーするようなことは好まなかったと見え、器体の形体や様式は随分自分勝手なことをしております。この小鉢にしましても、自分勝手な好みでありまして、こんな様子のものは、中国にはないのであります。\n 穎川は中国明代の赤呉須の「心」を、しかと掴まえた人でありまして、こればかりはどうしても放さぬ人でありますが、手法上の工夫になりますと、断然自由であります。ですからその作品は精妙でありましても、彼我の弁別がなしがたいなど言う曖昧なものではありません。ところで、中国明代の赤呉須鉢とはどんなものかと申しますと、それは穎川の手本であり、先生ではありますが、当時は大量生産として無意識的に作られた中華そばくらいの容れ物である劣等器であります。これを写した穎川の作品は、認識上の見識を有する芸術的個人作であります。個人作の権威、その製作意識と技術上に於て余人の追随を許さぬだけの天分を要します。今、穎川の仕事を見てみますと、第一が土の仕事、第二が釉薬の研究、第三が赤の顔料製作、絵画の力、能書である点、そのいずれでも穎川ならではという容易に後人の追随を許さぬ立派さが具わっております。その立派さというのも色々ありますが、木米といずれが立派かという立派さであります。木米は多種多様を写す才能があって認められ、穎川はたった一つを採って動かぬ鈍重さを持って立ち、それによって、彼の人格の豊かさを示し、人を端的に動かしています。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "1\n\n 月のかげが低い屋根に落ちている。場所は博多、中洲の水茶屋、常盤館の裏門の前で俥のとまる音がした。――入ってきたのは洗いざらしの白い薩摩絣を着ながしにした長身肥大の杉山茂丸である。杉山は、右が納屋、左が薪の束の堆高く積んである狭い通路を大股に歩いて植込のふかい中庭の前へ出た。\n 壊れかかった柴折戸をあけると、池の水蓮に灯かげがぼうと映っている。杉山は竹垣にそって庭石づたいに池をひと廻りして大きい石灯籠のかげになっている茶室の横へ出た。片手で松の幹を抱え、身体を斜めにして池の正面にある広間を透かすように眺めると通常「豪傑部屋」と呼ばれている宴会専用のほそ長い部屋は、襖も障子もあけ放しにされて、そこから真正面に見える欄間の上には、何時も見馴れている山陽外史の、「雲耶山耶呉耶越」――と達筆にまかせて伸び放題に書きなぐった天草夜泊の詩がうすい翳を刻んでいる。新任の福岡県令安場保和をかこむ実業家たちの小宴であった。安場は玄洋社とも多少のつながりがある。元を洗えば、その頃元老院議官であった安場を説いて、福岡県知事たらしめようとしたのも、杉山であるし、「明治の聖代に筑前の梁山泊なぞに誘拐されてたまるものか」――と一蹴する安場を追窮して、「いや、明治の聖代に藩閥高給のお鬚の塵を払うのと青年子弟の高邁な気風の中で日を過すのとどっちがいい」と、大言壮語して磊落豪宕をもって聞えた安場にひと泡吹かせたのも白面空手の一書生である杉山であった。彼は安場を説得したばかりではない。親分である山田顕義に一身の運命を托しているから相談の上で返事しようと、最後の逃口上を打った安場の言葉をしっかりとおさえてすぐひらき直った。「――よろしい、然らば山田閣下のことはわが輩がひきうけました。山田閣下に一身を托されるのは少々心ぼそいが、人物払底の今日であってみれば九州統一を図るにはどうしても先生をさらってゆくよりほかに道はない、こうなればわが輩も命がけです、やるところまではやりますぞ」。\n 杉山はその足ですぐ後藤象次郎を訪ね、無理矢理に紹介状をもらって山田顕義を自邸に訪れすぐ膝詰談判をはじめたのである。剛愎な山田が杉山の法螺に吹きまくられたと解釈するのは必ずしも穏当でないかも知れぬが、しかしその安場が福岡県令となって赴任してきたのはそれから一ト月経つか経たぬうちであった。してみると杉山が投じた一石が多少の効果を奏したことを否定するわけにはゆくまい。\n 宴席には人の姿が入りみだれ、びっこをひいた安場の顔は何処にあるのかわからなかったが、しいんと大気をひきしめるようにひびいてくる博多節の音じめさえ、さすがに浪人や書生たちの酒宴の席に聴くボロ三味線とはちがっておのずから一つの格を示している。やっているな、――と思うと、杉山の顔にはかくしきれぬ微笑がうかんできた。兎にも角にも安場を此処まで引きずりだしてきた力が自分の胸三寸にあったと思うと、誰に対してともなく、ざまァみやがれ、という気持がどっとこみあげてきたのである。\n そのまま杉山は茶室の濡れ縁の方へ廻った。――その夜、同志の来島と星成とそこで会食する手筈になっているのだ。時間には少しおくれたが、杉山は無造作な声で、\n「よう」。\n と呼びかけながら入っていった。若い妓をよんで、よろしく接待させるようにと女中に頼んでおいたのだが、部屋の中には小卓を挟んで、双肌脱ぎになった星成喬太郎と、垢じみた棒縞の手織木綿の単衣に茶っぽい小倉袴をつけた来島が不興そうな顔をして向いあっている。\n「何や」。\n 片手で団扇をつかいながら星成がとげとげしい声でいった。「二時間も客を待たしといて、あんた何処をうろついて御座った?」。\n「御免、御免、――用があって八幡へ行ったけん遅うなった、駅から俥で駈けつけたところじゃよ、汗びっしょりじゃ」。\n 沈鬱そうな来島の眼にふれると杉山はそっと視線を外らしながら、\n「それに、ちゃんと女中に言いつけといたんじゃが、妓たちはどうしおったんじゃ、気の利かんやつ等じゃのう、――県令の宴会で逆上せあがっているわけでもなかじゃろに、どっちにしてもおくれたのはおれが悪か、機嫌を直して飲め!」。\n 杉山は星成のコップに酒をなみなみと注ぎ入れた。それから、大きく手を鳴らそうとするのを、\n「来てくれたらもう文句は言わん、あんたのことじゃけん、何処かで大法螺でも吹いているうちにおれたちのことはケロリと忘れたのかと思うとった」。\n「バカをいうな、――それよりも妓を聘ぼう」。\n「いや、――」\n と、黙っていた来島が窪んだ眼をパチパチと動かした。\n「妓はいらん、――さっきも二、三人来おったがかえしたばかりじゃ」。\n「かえした?」。\n「――妓がいると気が散っていかん。今夜は宴会じゃないからのう」。\n「どうも貴様には歯が立たん、――何か急いでいることでもあっとや?」。\n「今夜、――吉見屋でみんなが待っとるけんのう」。\n「下名島町か、そんなものはほっとけ、それよりも貴様と膝を交えて話したいことがある」。\n「そうもゆかん、送別会じゃでのう」。\n「送別会というのは貴公のか?」。\n「そうじゃよ、――あんたもいっしょに行かんか」。\n「そんなら」。\n 杉山の眉が不意に曇った。「いよいよ出発と決めたのか、――」。\n「うん、何よりも実行じゃ」。\n 来島はむっつりとして口を噤んだ。杉山はそっとあたりへ気を配るようにうしろを振りかえった。縁先までのびた八ツ手の葉が灯かげの中にキラキラと光っている。\n「それで、――」。\n 杉山は来島の眼から来る殺気をひやりと胸の底にかんじた。「何時立つんじゃ?」。\n「今夜おそく船に乗る、――予定は一ト月もあればよか、東京の形勢次第では二、三日でかえるかも知れん、送別会というと大袈裟ばってん、事の次第によっちゃ同志の結束は固めておかんきゃならんからのう」。\n「うん」。\n 杉山は大きくうなずきながら手酌でついだ盃の酒をひと息に吸いこんでから、\n「――何しろ容易ならん時勢じゃ、何れはおれたちも命を捨てる覚悟はせにゃなるまいが、どうも貴公は血気に逸りすぎる。短気のために大策を誤っちゃいかんぞ、むろん大隈の条約改正問題は天下の大事にちがいない、――しかしだ、憤りを発すべき問題はこれだけじゃない、志あるものは誰も彼も憤慨悲憤を胸におさめている」。\n「そこたい」。\n 星成が皮肉そうに唇を歪めた。「胸におさめたところでどうもならんじゃないかな、事態は一刻の猶予も許さぬところにある」。" }, { "role": "assistant", "content": "「まァ、待ちゃい」。\n と、杉山は片手で軽くおさえながらむっつりと圧しだまっている来島の顔を覗きこんだ。\n「おれはそのことで貴公等二人に会いたかったのじゃ、――事態が切迫しているだけに一歩誤ったらとり返しのつかないことになる。去年の鹿鳴館騒ぎをどう思う。廟堂の諸公は腸まで腐っている。その中でも大隈はまだましなくらいのものじゃ、伊藤や井上は骨がらみにひとしい、そこでおれはこう考える、条約改正を中止させることも肝要じゃが、それよりもこれを機会に天下の正論を激化させることの方がはるかに重大だぞ、大隈事件にぶつかることによっておれたちは天下の積弊を掃蕩する機会をつかまえんと出来ん、昔、沛公が志を得たのは秦の無道をおさえて一世の正論を激化させたからじゃ、こいつを踏みちがえると大へんなことになる、――何といっても今日の時勢に備えるのは言論のほかにはなか、去年貴公が松島屋で井上(馨)を刺していたら、あの老奸の息の根を止めることが出来ていたかも知れんが、それがために今日のように正論を激化させる機会は失ってしまったかも知れぬ、おれの恐るるところはそこじゃ、博浪沙の一撃は効を奏しても玄洋社は根こそぎにぶっ倒れていたかも知れん」。\n「待ちゃい」。\n 来島の眼が不意にするどく輝きだしたのである。「そりゃあ、――あんたのいうとおりかも知れんが、しかし言論は言論じゃ、国論をいかに激化させたところで、もし条約改正が実行されてしまったら、日本中の老若男女がことごとく志士仁人に変ったとしても、もうあとの祭じゃ、あんたはおれが井上をやっつけなかったことを正論のために祝福すべきことのように言うばってん、果してどげんなったか、そんなことはやってみなくっちゃわかるまいが」。\n「いや、わかる、――大西郷があれだけの衆望を担いながら、武力をもってしてはどうにも出来なかったじゃなかや、君側の奸を掃蕩しようと思うなら、言論のほかにはなか、もし西郷が言論をもって九州を風靡して立ったらおそらく天下は意の儘になっていたろう、貴公そう思わんか」。\n 膝に置いた杉山の手首がわなわなと顫えている。――来島はこみあげてくる感情をおさえるようにじっと唇を噛みしめた。「まるでちがう、――なるほど当節は武力の時代じゃなか、そうかといって言論の時代でもなか、あんたは土佐の言論風にあてられすぎているぞ」。\n「それなら何の時代だ?」。\n「――一騎打ちじゃ」。\n 来島は懐ろに入れた左手でぐっと臍下丹田をおさえた。「単刀直入事を決する時代じゃよ、今日の急務は天下の輿論を捲き起すことじゃなくて、条約改正を是が非でも中止させるということにある、――言論の起るのはそれから先きの話じゃ、大西郷が兵を挙げて失敗したことはたしかに貴公のいうとおりだが、おれはあれだけの人傑が揃っていて何故一騎打ちの勝負をしなかったか、それだけを今でも残念に思うとる、死を決した人間が百人あったら大戦争を起して途方もない犠牲を払わなくとも立派に目的を貫徹することが出来たろう」。\n ぼそぼそと語る来島の声には次第に底力が加わってきた。杉山は動かすことのできない来島の決意をハッキリ見究めたような気もちになった。急に冷めたい水が脊筋に伝わるような不安に襲われたのである。去年、井上を刺そうとして行方を晦ました彼を社中の同人が総がかりで探しだし、やっと頭山満の説得によって事無きを得たときのことがふと杉山の頭にうかんできた。今夜の会見も、所詮はそのときと同じ不安の実体を突きとめようとする魂胆の故に外ならぬのだ。――それが、今、彼の眼の前にいる来島は去年の来島ともちがっている。去年の来島は感情の動きに唆しかけられながら井上に対する私憤を脱しきれないでいるところがあった。しかし、今夜の来島の顔にはかすかな感情の曇りもない。何時もならば、言葉が乱れ、論理もしどろもどろになる彼が熱するにつれてますます冷静になってくるのも不思議であるが、しかし、それよりも一層不思議なことは、大抵の場合自分の方が圧倒的にぐいぐい対手をおさえつける習慣を持っている杉山が、ともすれば逆にねじ伏せられそうになるもどかしさをどうすることもできないことであった。\n「じゃが」。\n と、杉山はそわそわした調子で言葉を濁した。「大隈と井上とは違うぞ」。\n「何が違う――?」。\n「大隈は井上ほど老獪じゃなかぞ」。\n「そのことか、――そりゃちがうじゃろう、大隈が井上よりも良心があるということならそれもわかる、しかし、そんなことはどっちでもいいことじゃ、大隈と井上の人物の優劣論をやるときじゃなか、あんた、少しどげんかしとるぞ、わしは大隈を憎んじゃおらん、条約改正を中止させる、そのほかに余計なことを考える必要が何処にある」。\n 庭石を踏む下駄の音が聞え、若い女中が銚子を持って近づいてきたが、杉山を見ると、すぐ、\n「だん(旦那)さん」。\n と呼びかけた。安場県令がちょっとでもいいから杉山に顔をだしてくれというのである。\n「おれが此処にいるのがどうしてわかった?」。\n「そりゃ、だんさん、――さっき御りょん(女将)さんが」。\n 杉山は忌まいましそうに顔をしかめた。すると、すかさず来島が、\n「おれたちもそろそろ引きあげるか、――杉山、あんたは用がすんだら吉見屋へ来るといいが」。\n「まア、待っとれ、おれはちょっと顔を出してすぐかえってくるけん、――今夜はいよいよ貴公たちと別れともない晩になってきたぞ」。\n 二人が東上するということは数日前から知友のあいだに伝わっていた。事態の急を告げていることを知らぬ杉山ではない。――知らぬどころか彼はあらゆることを知りつくしているのだ。しかし輿論の大勢が圧倒的に改正案反対に傾いているときに果して大隈が民論を押しきって実行するかどうかこいつは疑わしい。反対論は在野の政客だけではなく廟堂の意見さえ決定しようとしている。井上(馨)よりも大隈よりも最初の張本人である伊藤(博文)の腰がぐらつきだしている今日、伊藤の傀儡(杉山はそう解釈していた)であるにすぎぬ大隈が、彼の政治的生命を犠牲にしてまで実行に着手するかどうか、――杉山は民論の急先鋒であることを自任しながらも腹の底では高を括っていたのである。それよりも、彼はこの機運をつかんで藩閥政治を倒すことの方がはるかに重要だと考えていた。それに、玄洋社からは頭山と美和(作次郎)が同志をつれて中央に乗りだしていっている。彼は一ト月前に後藤(象二郎)の胸の底を打診してかえったばかりだ。谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太等を中心とする反対論の火の手は日に日に高まっているし、大隈の支配下にある外務省の中でさえ若い外交官の小村寿太郎なぞは反対論を唱えているではないか。九州でも、長いあいだ犬猿の感情を持ちあつかいかねていた玄洋社と熊本国権党が、どっちから先に寄り進んだというわけでもなしに近づいて、条約改正中止を断行する意気込をもって筑前協会を組織し、大隈が唯一の恃みとする九州改進党に対抗しようとしているのだ。井上の保安条令以来狂い立った民論はもう防ぎようのないところまで来ている。そのように沸騰する民論の動きの見えぬ大隈ではない。彼は唯乗りかかった船の始末に迷っているのだ。――頑張りきれるところまでがんばって、民論の潮流が自分に有利な方向へ展開して来そうなところでひと芝居打とうとする大隈の腹を、杉山は彼一流の人間認識によって簡単に読みとろうとしていたのである。そこへ来島がとびだしていって途方もないことをやりだしたら、大隈の決意を逆な方向へ導く結果になるかも知れぬ。来島が何のために上京するかということが朧気ながら見当のついている彼にとっては、厭が応でも防ぎとめなければならないのだ。民論の動きを誤ることを恐れるだけではない。玄洋社の将来にとっても、――否々もう一歩踏込んで言えば、ようやく動きだす方向に動いてきた天下の大勢を自分の筋書どおりに導いてゆくためにも。\n 策士をもって自任する杉山は来島を説得するくらいのことは朝飯前だと高を括っていたのである。ところが、今夜の来島は並大抵の覚悟ではないものを持っているらしい。言ってみれば、推せども敲けども動かぬ巌乗な岩のような冷たさが彼の心に犇々とくる。そこへ、ほかの女中がやってきた。――安場がどうしても顔を出してくれという。じゃあ、すぐ行くからといって女中を返すと、杉山は急に深刻な表情をして言った。\n「――これからはいよいよおれたちが命がけで君国に奉公しなけりゃならんときがくる、上京するのもいいが命だけは大切にしろよ、貴公は命を粗末にしすぎる、これだけはくれぐれも頼むぞ、のう、恒喜」。\n 杉山の眼には涙がにじんでいる。「約束してくれよ、決して軽はずみなことをしないということを」。\n「おれは何も考えてはおらん」。\n と恒喜が渋りがちな声で言った。「用がすんだら吉見屋へ来るといいのう、――みんなも久しぶりで杉山の長広舌を聴きたがっとるよ」。\n「よし、きっとゆく」。\n「待っとる、――時間はたっぷりあるから急がんでもいい」。\n\n2\n\n 杉山が出てゆくと、星成はすぐ浴衣をひっかけ、部屋の隅に皺くちゃにしたまま投げすててあった袴を穿いた。\n「おい行こう」。\n 促すようにいうのを、来島は正坐したままで、\n「待て、――」。\n と低い声で呼びかけた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 承応二年五月はじめの或る日、三河のくに岡崎藩の老職をつとめる鈴木惣兵衛の屋敷へ、ひとりの浪人者が訪れて来て面会を求めた。用件を訊かせると、町道場をひらきたいに就いて願いの筋があるということだった。......そのとき矢作橋の改修工事がはじまったばかりで、惣兵衛は煩忙なからだであったが、町道場ということはかねて藩主水野忠善からもはなしが出たことがあるので、ともかくも会おうと客間へとおさせた。客は十時隼人となのった、三十二三とみえる、あまり背丈は高くないが、逞しい骨組で、太い眉と一文字にひき結んだ大きな唇とが精悍な気質を思わせた。「わたくしは、五十日ほどまえに御城下へまいりました、唯今は両町の伊五兵衛と申す者の長屋に住んでおります、家族は七重と申す妻とふたり残念ながら未だ子にめぐまれておりません、尤も右はすでに御奉行役所へ届け出たとおりでございます」かれは落ちついた調子でそう述べた。生国は甲斐。郷士の子でまだ主取りをしたことはない。流名は一刀流であるが、就いてまなんだ師の名は仔細があっていえないという。それだけのことを聞くあいだに、惣兵衛はちょっと云いようのない好感が胸へ湧きあがってくるのを覚えた。かくべつどこに惹きつけられたというのでもないその男を見ているだけで、なにやらゆたかにおおらかな気持が感じられたのである。\n「当藩には、いま梶井図書介という新蔭流の師範がいて、家中の教授をしておる、けれどもこれだけでは、家中ぜんぶに充分の稽古はつけられないし、もしも適当な師範がいて別に教授をすれば、却って互いに修業のはげみともなるので、実はしかるべき兵法家を求めたいと思っていたところだった、尤もすぐ師範としてお取立てになるとは申しかねる、当分のあいだは町道場として稽古をつけて貰わねばなるまいが」\n「失礼でございますが、わたくしがお願いに出ましたのは、仰せのおもむきとは少し違うのでございます」十時隼人は、ちょっと具合がわるそうに惣兵衛の言葉をさえぎった、「わたくしは足軽衆のうちからその志のある人々にかぎって稽古をつけたいのでございます」\n「ほう、足軽にかぎって」惣兵衛はにがい顔をした、「それはどういう仔細か知らぬが、さむらいには教授せぬというわけなのだな」\n「わたくしは兵法家ではございません、教授などという人がましい技は持ちませんので、ただ御城下に住居させ頂く御恩の万分の一にもあいなればと存じ、おのれの分相応にいささかのお役に立ちたい考えだけでございます」\n「それで、......わしへの願いと申すのは」\n「足軽衆への、稽古をお許しねがいたいと存じます」隼人はつつましく云った、「稽古は未明から日の出までとかぎり、お勤めには差支えのないように計らいます、如何でございましょうか」\n「それだけのことならば別に仔細もないであろう、尤も一応は支配むきへその旨を申してやる、追て沙汰をするであろう」\n「忝のうございます、よろしくお願い申上げます」隼人は、鄭重に挨拶をして辞去した。\n その日のうちに、惣兵衛は足軽支配を呼んではなしをした。支配役は寧ろよろこんだ。ちかごろ足軽たちには、そういう機会がだんだんと少なくなり、このままではやがて武士としての心構えも疎くなるのではないかと惧れていた。早速その手配を致しましょうと非常な乗り気だった。......そして、それからひと月ほど経った。惣兵衛は繁務に追われてそのことはそのまま忘れ過していたが、或る日ふと思いだして、「いつぞやの浪人者はどうしておるか」と、足軽支配に訊いた、「足軽共は稽古にかよっておるか、道場のようすはどうだ」\n「ただいま十人ほどかよっております」支配役はそう云って笑いながら、「みんななかなか熱心のようでございますが、道場というのが草原でございまして......」\n「草原というと、ただの草原か」\n「ただの草原でございます、両町の裏の小川に沿った広い草原でやっております」\n ふうんと惣兵衛はなにやら云いたげに鼻を鳴らした。しかしそのまま口をつぐんで事務に戻った。明くる早朝、まだほの暗い時刻に、惣兵衛は独りでそっと屋敷をでかけていった。霧のふかい朝で、少し早足にゆくと胸元がしっとりとなるほどだった。両町というのは、城下のほとんど東端にちかいところだった。およその見当をつけて裏へぬけると、霧にかすんで青田と雑木林とが、暈したようにうちわたしてみえる。そしてその霧のかなたから「えい」「おう」というはげしい、元気いっぱいの掛声が伝わって来た。「ほう、やっておるな」惣兵衛は足早にそちらへ近寄っていった。\n\n二\n\n「稽古を終ります」十時隼人がそう叫ぶと、十人あまりの足軽たちはいっせいに木剣をおろし、隼人の前に集って会釈した。みんな着物を浸すほど、汗みずくになっていた。「御苦労でした、支度ができたようですから、すぐに汗を拭いて来て下さい」そう云って隼人が去ると、かれらは小川の畔へいって肌脱ぎになり、黙って手早く汗を拭いた。二十前後の者が多く、なかには三十五六とみえるのもいる。こういう時こういう者たちに有りがちな無駄ばなしがでるでもなく、みんな黙って、いかにもてきぱきとした動作だった。......そのあいだに、向うでは十時隼人が、ひとりのまだ若い婦人(それが妻の七重だった)といっしょに、大きな鍋と椀箱を運んで来て草原へ据えた。" }, { "role": "assistant", "content": "「支度ができました、来て坐って下さい」\n 隼人がそう呼びかけた。足軽たちは互いに眼を見交わしなにか頷き合いながら、近寄っていって鍋の前の草地へ坐った。そして隼人の妻が大鍋の蓋をとろうとしたとき、「頂戴するまえに今朝はひとつお願いがございます」と、一人が改まった態度で云いだした。「なにごとです」「わたくし共は、もう三十日あまりお稽古を受けにかよっております、稽古をつけて頂くうえに、十余人の者が毎朝こうして馳走にあずかりましては、忝ないと申上げるよりも却って心苦しいのです、甚だ申兼ねたことではございますが、御教授料としてではなくわたくし共の寸志と致しまして、今後そくばくの料をお受けが願いたいのでございます」「わたくし共、一同のお願いでございます」別の一人がそういい、みんながそこへ揃って手をついた。「是非おききとどけ下さいますよう」「お志はよくわかるが、それはお断り申します」隼人は微笑しながらいった、「初めに申上げたとおり拙者は兵法家ではない、あなたがたに教えるのではなく、ごいっしょに武道の稽古をする修業者にすぎないのです、また一椀の薯粥は拙者から進ぜるものではなく、天の恵み国土の恩なのだ、拙者はただ、そのなかつぎをしているまでのことです、出来なくなれば仕方がないが出来るあいだは差上げますから、そんな心配は無用にして喰べて下さい、さあいっしょにやりましょう」誰もなにもいえなかった。妻女が盛りつける熱い薯粥の椀が配られると、隼人がまず箸をとり、みんな感動の溢れた表情で、うまそうに喰べはじめた。\n 惣兵衛はこれだけのことを見て、気づかれぬようにその場を去った。妙な気持だった。いま聞いた話のもようでは隼人は教授料も受けず、毎朝かれらに薯粥を出しているらしい。どういうつもりか見当もつかないが、なにかしら、尋常でないものが感じられる。殊に足軽たちの虔しい態度や、いかにもひたむきなようすがかれを驚かせた。――これは注意する要があるぞ、惣兵衛は自分が許可した責任者なので、そう思いながらそれからも時々そっと見にゆくことを続けた。......稽古は未明にかぎっていた。ちょっと時刻に遅れてゆくと終ってしまう。人数は少しずつ殖えて、いつか三十人あまりになったが、毎朝の薯粥は必ずみんなに出していた。――たとえ薯粥にもせよ、あれだけの人数へ欠かさずやるのは容易いことではない。そう思っているうちに、惣兵衛はいつかその場の雰囲気に強く心を惹かれるようになった。隼人の稽古ぶりは凛烈であったが、終って鍋を囲むときになると、にわかに温かい、なごやかな空気がみんなを包む。早朝のはげしい稽古のあとで、師弟が膝をつき合せて粥を啜るのだから、なごやかな感じに包まれるのは当然だろうが、それは寧ろ隼人のゆたかにおおらかな人柄からくるものらしかった、また慎しやかに微笑を湛えて接待する妻の七重の姿も、その場に明るい楽しい色彩を添えていた。――あの仲間にはいって、いっしょにあの粥を啜ったらさぞ楽しいことだろう。惣兵衛はそう考えて思わず足を進めようとしたことさえあった。\n 季節は真夏になって、七月にはいった或る早朝のことだった。例になく早く、まだ足許も暗い時刻にいってみるとちょうどこれから稽古が始まるというところへゆき合わした。稽古着に短袴をつけた隼人が三十余人の門人たちの前に額をあげて立ち、ぱきぱきとよく徹る声で云っていた。「今日から稽古の法を変えて、打ち太刀をはじめる、その前にひと言いって置きたい」かれはぐっと三十余人を見まわして、「貴公たちは合戦に臨めば軍兵となって戦うのだ、軍兵ということを、雑兵などと卑下してはならぬ、いくさの指揮、計略は部将から出るが、合戦の主体となるものは軍兵だ、いかにすぐれた大将が指揮をとっても、戦う主体の軍兵が不鍛錬ではたたかいには勝てない」と、一同の腸へしみ透るような調子でいった。\n\n三\n\n「では軍兵としての鍛錬とはなにか、一途不退転の心だ、命令のあるところ水火を辞せざるの覚悟だ、口で云うことは容易いが、一途不退転の心とはそうやすやすと鍛えられるものではない、その例を見せよう」そう云って隼人は、傍に置いてあった、青竹の一本をとりあげ、百歩ばかり先の地面へ突き立てた。そして戻って来ると、しずかに刀を抜いてふり返った。「ここから走っていって、あの竹を二つに斬り割るのだ、拙者がやってみせるから見ろ」みんな眸子を凝らして見まもっている。隼人は刀を右脇につけると無雑作に走りだした、走りだしは無雑作だったが、やがてすばらしい速度で一文字に疾走し、きらりと大剣が空にひらめいたとみるや、「えいっ」という烈しい気合と共に、竹の上をぱっと向うへとび越えていた、青竹はみごとに真中から二つに割れ、地に突き立ったままぶるぶると震えていた。「佐野氏やってごらんなさい」戻って来た隼人は、門人のひとりにそう声をかけ、自分はまた青竹の一本を持って引返していった。......佐野と呼ばれた男は前へ出てゆき支度を直してしずかに大剣を抜いた。\n このあいだに青竹を立てた隼人は、佐野が位置につくのをみて、「待て」と呼びかけた、「これを青竹と思ってはならんぞ、甲冑に身をかため太刀をふりかぶっている敵兵と思って来い、こちらの太刀は、そこもとの面へゆくかも知れぬ、胴を払うかも知れぬ、そのつもりで肚を据えてかかれ、よいか」\n 佐野という男の眼つきが変った、かれは抜いた刀を掴みしばらく青竹の立っているあたりをぐっと睨んでいたが、やがて意を決したように走りだした、間百歩ひと息に疾走していって刀を振上げる、その刹那に隼人が、「面へ行くぞ!」と絶叫した、まるで壁にでもつき当ったように、そのひと声で佐野は身を反らしながら踏み止まった、竹との距離は九尺ほどあった。\n「つぎ早瀬氏お出なさい」隼人は一顧も与えずそう叫んだ、「戦場へ出た覚悟でやるのだ、この青竹は敵だ、ゆだんをすると逆に斬られる、そのつもりで来い......さあ」\n 早瀬というのはまだ二十そこそこの青年だった、かれは前の例をよく心にとめたようすで、ひとりなにか頷きながら位置に立ち、やがて呼吸をはかって走りだした、こんどは隼人は声をかけなかった、早瀬はいっさんに走せつけ、刀をふるってえいと斬りつけた。しかし青竹と刀の切尖とは五尺もはなれていたし、斬りつけた余勢でかれは右へのめって膝をついてしまった。\n「代ってつぎ松田氏」隼人はすぐそう叫んだ。五人まで続けざまにやらせたが四人めのひとりが、青竹を叩き伏せただけで、ほかの者はみな失敗した。\n「みんな見たとおりだ」隼人は元の場所へ戻って来て、ずっとかれらを見なおしながらいった、「青竹一本でも今のようにしてはなかなか斬ることができない、なぜ斬れないか、それは貴公たちの頭に疑惧が生れるからだ、甲冑を着け太刀を持った敵兵と思えという拙者の言葉で、貴公たちの眼に敵が見えてくる、間近に迫った『面へゆくぞ』と叫べば、敵兵の剣が面へ来るさまが見える、そのときやられるかも知れぬという疑惧が生れて距離を誤ったり躰勢が崩れたりするのだ、......さっき云った一途不退転の心とは、つまりこの疑惧の念をうちやぶることから始めなければならぬ、相手が青竹であれ敵の強兵であれ、走りだしたら真一文字にいって斬り倒すその一途のほかには微塵もゆるぎがあってはならぬ、その鍛錬をこれから打ち太刀の稽古でやってゆくのだ、ではもういちど拙者が見せてやる、よいか」\n 惣兵衛はその稽古の終るまで、ほとんど時の移るのも忘れて見まもっていた。――ただ者ではない。屋敷へ帰ってからも、かれの頭のなかはそのことでいっぱいだった。「軍兵の覚悟」という言葉も明確だし、青竹を使っての教えぶりも要を得ている。そして全体を通しての湧きあがるような情熱が、三十余人の者へびしびしとはいってゆくさまは更にみごとなものだった。――あんな事をさせて置くには惜しい、機会をみて世に出すべき人物だ。それまでの興味とは違った角度から、惣兵衛は改めて隼人に注意しはじめた。そして間もなくその機会が来たのである。......新秋八月の或る日、惣兵衛は矢作橋改修の工事場へでかけていった。橋の上下にかなり大掛りな護岸工事をする設計で、それがほぼ出来かかっている。かれはその模様を下役人の案内でずっと見て廻った。\n\n四\n\n 秋とはいっても、日盛りはまだ暑さがひどかった。工事場はいちめんに埃立って、石を運んだり土を起したりする雇い人足や足軽たちの群が汗まみれになって右往左往していた。......するとそのなかで差担いで石を運んでいる若い足軽の一人と、見張り番の侍とのあいだに、とつぜん喧嘩が始まった。事の起りはこうだ、足軽が石を運んで通るたびにその侍が同僚たちと口を合わせて嘲弄する。「あのぶ態な腰つきをみろ、満足に石運もできはせぬ、あれで剣道稽古などをするとは笑止なやつだ」「まさにそのとおり、役にも立たぬ稽古がよいなどをするから、大切の役目に日雇い人足ほどの働きもできぬのだ、お上から頂く扶持は盗んでいるのも同様だぞ」若い足軽は、耳にもかけなかった。それで侍たちは図に乗り、なん度めかに通りかかった足軽の足下へ、ひょいと六尺棒をつき出した。重い石を担いでいるので、除けようがなかった。若い足軽はあっと叫びながらのめり、土埃をあげながら転倒した。\n「なにをなさる」はね起きたかれは、我慢の緒を切ったらしく、いきなり侍の手から六尺棒を奪い取ると、足をかけてぴしりと踏み折った。「おのれ無礼者」と相手の侍は拳をあげて殴りかかったが、足軽はその腕を逆に掴み、つけ入ったとみるや、腰車にかけてだっと投げた。見ていた侍の伴れ三人は意外な結果にとりのぼせたとみえ、「うぬ叩き伏せろ」と叫び、ひとりは「斬ってしまえ」と喚いて刀を抜いた。足軽は無腰だったが、いま踏み折った棒の半分をすばやく拾いとると、つぶてのように三人のなかにとび込んでいった。些かも臆せぬ断乎たる態度で、......そして一人の刀を突き落し、一人を躰当りで突き倒した。このありさまを認めたのであろう、向うからさらに七八人の侍たちが駆けつけて来て、まさに大事に及ぼうとしたとき、工事場の人足の中から一人の男がとびだして、両者の間へ割ってはいった。「お待ちなさい、このうえ騒ぎを大きくしては武士の体面にかかわりましょう、場所がらをお考えなさい」かれはそう叱呼しながら、大手をひろげて立ち塞がった。その声の凛乎たる響きと、立ち塞がった身構えのするどさに、さすが殺気だった侍たちも思わず踏み止まった。そこをすかさず、「相手は足軽一人、御家中の士大勢でとり詰めては云分が立ちますまい、お退きあれ」きめつけるように叫んだ。そして、そのとき鈴木惣兵衛が工事支配の役人たちといっしょにそこへ近寄って来た。「役目を捨ててなにごとだ、見苦しいぞ」惣兵衛の一喝は決定的だった、「この場の詮議は追てする、みな持場へかえれ、みだりに騒ぎたてると、屹度申しつけるぞ」喧嘩の当人たちも、駆け集って来た者も、この一言で潮の退くように散っていった。そして止めにはいったくだんの人足もすばやく去ろうとしたが、「その男、しばらく待て」と、惣兵衛がきびしく呼び止めた。" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「柩に釘を打つのにでございますか。お手伝いはいりません。」\n「いいえ。柩をおろすのに。」\n「どこへおろします?」\n「窖の中へです。」\n「どの窖でございますか。」\n「祭壇の下の。」\n フォーシュルヴァンはぞっとした。\n「祭壇の下の窖。」\n「祭壇の下の。」\n「けれども......。」\n「鉄の棒があるでしょう。」\n「ございます。けれども......。」\n「お前は鉄の輪に棒を差し入れてその石を起こすのです。」\n「けれども......。」\n「死んだ方のお望みには従わなければなりません。礼拝堂の祭壇の下の窖の中へ葬られること、汚れた土地の中へ行かないこと、生きてる間祈りをしていた場所に死んでもとどまりたいこと、それがクリュシフィクシオン長老の最後の御希望でありました。あの方はそれを私どもに願われました、云いかえれば、おいいつけなさいました。」\n「けれども、それは禁じられてあります。」\n「人間によって禁じられていますが、神によって命ぜられているのです。」\n「もし知れましたら?」\n「私たちはお前を信じています。」\n「おお私は、この壁の石と同様口外はいたしません。」\n「集会が催されています。私は声の母たちになお相談したのですが、皆評議の上で、クリュシフィクシオン長老は御希望どおりにその柩に納めて祭壇の下に葬ることに、きまったのです。まあ考えてごらん、もしここで奇蹟が行なわれたらどうでしょう! 組合のものにとっては何という神の栄光でしょう! 奇蹟というものは墓から現われて来るものです。」\n「けれども、長老様、もし衛生係りの役人が......。」\n「聖ベネディクト二世は、墓の事でコンスタンチヌス・ポゴナチウス皇帝と争われました。」\n「それでも警察の人が......。」\n「コンスタンス皇帝の時に、ゴールにはいってこられた七人のドイツの王様の一人であったコノデメールは、宗門の規定で葬られること、すなわち祭壇の下に葬られることを、修道士たちの権利として特に認可されました。」\n「けれども警視庁の検察官が......。」\n「世俗のことは十字架に対しては何でもありません。シャルトルーズ派の十一番目の会長であったマルタンは次の箴言をその派に与えられました。世の変転を通じて十字架は立つなり。」\n「アーメン。」とフォーシュルヴァンは終わりのラテン語に対して言った。彼はラテン語を聞くごとに、いつもそうしてごまかすのだった。\n 長く沈黙を守っていた者にとっては、だれか一人聞き手があればそれで足りるものである。ある時、ジムナストラスという修辞学の教師が牢獄から出たが、多くの両刀論法や三段論法などが全身にいっぱいつまっていて、立ち木に出会うとたちまちその前に立ち止まり、それに弁論をしかけ、それを説服するために大変な努力をしたという話がある。修道院長は、平素は厳格な緘黙の規則に縛られていたので、言葉の袋がはちきれそうにいっぱいふくらんでいた。それで立ち上がって、水門を切って放ったがように滔々と弁じ立てた。\n「私は右にベネディクトと左にベルナールとを味方に持っています。ベルナールといえば、クレールヴォーの最初の修道院長でありました。ブールゴーニュのフォンテーヌは、彼を生んだ祝福された土地です。父をテスランといい、母をアレートと申しました。彼はクレールヴォーに至るまでにまずシトーに止まっていました。シャーロン・スュール・ソーヌの司教ギーヨーム・ド・シャンポーから修道院長の位を授かりました。彼に導かれた修練士が七百人ありまして、彼の建てた修道院が百六十あります。一一四〇年にはサンスの会議でアベーラールを説き伏せ、また、ピエール・ド・ブリュイやその弟子のアンリや、その他アポストリックといわれていた邪教徒の一種を説き伏せました。それから、アルノー・ド・ブレスをうちひしぎ、ユダヤ人殺戮者のラウール修道士をうち破り、一一四八年にはランスの会議を統べ、ポアティエの司教ジルベール・ド・ラ・ポレーを罪し、エオン・ド・レトアールを罪し、諸侯の軋轢をやめさせ、ルイ・ル・ジューヌ王の目を開かせ、法王ウーゼニウス三世に助言し、タンプル騎士団を整え、十字軍を説き回り、生涯に二百五十の奇蹟を行ない、一日に三十九の奇蹟を行なったこともあります。それからベネディクトと言えば、モンテ・カシノの総主教であり、神聖修道院の基を定めた第二の人であり、西方のバジリオスであります(訳者注 四世紀ギリシャ教会の神父にしてキリスト教修道院の創設者)。彼の派からは、四十人の法王がいで、二百人の枢機官がいで、五十人の総主教と、千六百人の大司教と、四千六百人の司教と、四人の皇帝と、十二人の皇后と、四十六人の国王と、四十一人の王妃と、三千六百人の列聖者とが出ました。一四〇〇年来、連綿と続いています。一方に聖ベルナール、他方に衛生の役人、一方に聖ベネディクト、他方に風紀監督官! 国家や、風紀や、葬儀や、規則や、行政や、そんなものを私たちは一々知ってるものですか。まあどんなふうに私たちが扱われてるかを見たら、だれだって憤慨するでしょう。私たちには、自分の塵をイエス・キリストにささげるの権利さえも許されていません。衛生などは革命が発明したものです。神が警察に属するようになったのです。そういうのが今の時代です。おだまりなさい、フォーヴァン!」\n フォーシュルヴァンはその折檻の下にあって、気が気でなかった。修道院長は続けた。\n「埋葬地に対する修道院の権利は、だれにもわかりきったことです。それを否定するのは、狂信者か迷いの者かばかりです。私たちは今恐ろしい混乱の時代に生きています。人は皆、知るべきことを知らず、知るべからざることを知っています。皆汚れており、信仰を失っています。至大なる聖ベルナールと、十三世紀のある坊さんで、いわゆるポーヴル・カトリックのベルナールといわれた人とを、皆混同してしまってるような時代です。また、ルイ十六世の断頭台とイエス・キリストの十字架とをいっしょにするほど神を恐れない者もいます。ルイ十六世は一人の国王にすぎなかったのです。ただ神にのみ心を向くべきです。そうすればもはや、正しい人も不正な人もなくなります。今の人はヴォルテールという名前を知って、セザール・ド・ブュスという名前を知りません。けれどもセザール・ド・ブュスは至福を得た人で、ヴォルテールは不幸な人です。この前の大司教ペリゴール枢機官は、シャール・ド・ゴンドランがベリュールのあとを継ぎ、フランソア・ブールゴアンがゴンドランのあとを継ぎ、ジャン・フランソア・スノールがブールゴアンのあとを継ぎ、サント・マルト長老がジャン・フランソア・スノールのあとを継いだこと、そういうことも知らなかったのです。人がコトン長老の名前を知ってるのは、オラトアール派の創立に力を尽した三人のうちの一人であったからではなく、新教派の国王アンリ四世のために自分の名を提供して誓言の材料に供したからです。サン・フランソア・ド・サールが世俗の人に好まれるのは、カルタ遊びにごまかしをしたからです。それにまた人は宗教を攻撃します。それもただ、悪い牧師たちがいたからです。ガプの司教サジテールがアンブロンの司教サローヌの兄弟であり、二人ともモンモルの衣鉢を継いだからです。しかし、そういうことも結局どれだけの影響がありましょう。そういうことがあってもやはり、マルタン・ド・トゥールは聖者でありまして、自分のマントの半分を貧しい人に与えたではありませんか。人は聖者たちを迫害します。人は真実に対しては目をふさぎます。暗黒が普通のこととなっています。が、盲目な獣こそ最も猛悪な獣です。だれもまじめに地獄のことを考えていないのです。何という恥知らずの人民どもでしょう! 国王の名によってということは今日、革命の名によってという意味になっています。もう人は、生者に負うところのものも知らず、死者に負うところのものも知りません。聖者のように死ぬことは禁じられています。墳墓は俗事となっています。これは恐ろしいことです。法王聖レオ二世は、特別な宸翰を二つ書かれました、一つはピエール・ノテールに、一つはヴィジゴートの王に。それは、死者に関する問題について、太守の権力と皇帝の主権とに反抗し、それをしりぞけんためのものでした。シャーロンの司教ゴーティエは、その問題についてブールゴーニュ公オトンに対抗されました。昔の役人はその点については同意しました。昔は私たちは、世事に関しても勢力を持っていました。この会派の会長シトーの修道院長は、ブールゴーニュの議会の世襲の評議員でありました。私たちは私たちの死者について欲するとおりに行なうのです。聖ベネディクトは五四三年三月二十一日土曜日にイタリーのモンテ・カシノで死なれましたが、そのお身体は、フランスのサン・ブノア・スュール・ロアールといわれるフルーリー修道院にあるではありませんか。これは確かな事実です。私は邪道の聖歌者を忌み、修道院長をきらい、信徒を憎むのですが、だれでも私が言ったことに反対を唱える者をなおいっそう軽蔑するでしょう。アルヌール・ヴィオンやガブリエル・ブュスランやトリテームやモーロリキュスやリュク・ダシュリー師などの書いたものを読めばわかることです。」\n 院長は息をついた。それからフォーシュルヴァンの方へ向いて言った。\n「フォーヴァン爺さん、わかりましたか。」\n「わかりました、長老様。」\n「お前をあてにしてよいでしょうね。」\n「御命令どおりにいたします。」\n「そうです。」\n「私はこの修道院に身をささげています。」\n「ではそうきめます。お前は柩の蓋をするのです。修道女たちがそれを礼拝堂に持ってゆきます。死の祭式を唱えます。それからみな修道院の方へ帰ります。夜の十一時から十二時までの間に、お前は鉄の棒を持って来るのですよ。万事ごく秘密に行なうのです。礼拝堂の中には四人の歌唱の長老とアッサンシオン長老とお前とのほかはだれもいませんでしょう。」\n「それと柱に就かれてる修道女が。」\n「それは決してふり向きません。」\n「けれども音は聞くでございましょう。」\n「いいえ聞こうとはしますまい。それに、修道院の中で知れることも、世間には知れません。」\n またちょっと言葉がとぎれた。院長は続けた。\n「お前はその鈴をはずすがよい。柱に就いてる修道女にお前のきたことを知らせるには及ばないから。」\n「長老様。」\n「なに? フォーヴァン爺さん。」\n「検死のお医者はもうこられましたか。」\n「今日の四時にこられるでしょう。お医者を呼びにゆく鐘はもう鳴らされました。お前はそれを少しもききませんでしたか。」" }, { "role": "assistant", "content": "「自分の鐘の音ばかりにしか注意しておりませんので。」\n「それでよいのです、フォーヴァン爺さん。」\n「長老様、少なくとも六尺くらいの槓桿がいりますでしょう。」\n「どこから持ってきます?」\n「鉄格子のある所には必ず鉄の棒がございます。庭のすみにも鉄の切れが山ほどございます。」\n「十二時より四五十分前がよい。忘れてはなりませんよ。」\n「長老様?」\n「何です?」\n「まだほかにこんな御用がございましたら、ちょうど私の弟が強い力を持っておりますので。トルコ人のように強うございます。」\n「できるだけ早くやらなければいけませんよ。」\n「そう早くはできませんのです。私は身体がよくききません。それで一人の手助けがいるのでございます。第一跛者でございます。」\n「跛者なのは罪ではありません。天のお恵みかも知れません。にせの法王グレゴリウスと戦ってベネディクト八世を立てられた皇帝ハインリッヒ二世も、聖者と跛者という二つの綽名を持っていられます。」\n「二つの外套は悪くはございません。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。彼の耳は実際いくらか聞き違いをすることがあった。\n「フォーヴァン爺さん、一時間くらいはかかるつもりでいます。それくらいはみておかなければなりますまい。十一時には鉄の棒を持って、主祭壇の所へきますようにね。十二時には祭式が初まります。それより十五分くらい前にはすっかり済ましておかなければなりません。」\n「何事でも組合の方々のためには一生懸命にいたします。確かにいたします。私は柩に釘を打ちます。十一時きっかりに礼拝堂へ参ります。歌唱の長老たちとアブサンシオン長老とがきていられるのでございますな。なるべくなら男二人の方がよろしゅうございますが、なにかまいません。槓桿を持って参ります。窖を開きまして、柩をおろしまして、そしてまた窖を閉じます。そういたせば何の跡も残りますまい。政府も気づきはしますまい。長老様、それですっかりよろしいんでございますな。」\n「いいえ。」\n「まだ何かございますか。」\n「空の棺が残っています。」\n それでちょっと行き止まった。フォーシュルヴァンは考え込んだ。院長も考え込んだ。\n「フォーヴァン爺さん、棺をどうしたらいいでしょうかね。」\n「それは地の中へ埋めましょう。」\n「空のままで?」\n また沈黙が落ちてきた。フォーシュルヴァンは左の手で、困難な問題を解決したかのような身振りをした。\n「長老様、私が会堂の低い室で棺に釘を打つのでございます。そして私のほかにはだれもそこへははいれません。そして私が棺に喪布を掛けるのでございましょう。」\n「そうです。けれども人夫たちは、それを車にのせ、そしてまた墓穴の中にそれをおろすので、中に何もはいっていないことに気づくでしょう。」\n「なるほど、畜......」とフォーシュルヴァンは叫んだ。\n 院長は十字を切って、じっと庭番の顔をながめた。生という、あとの一語は彼の喉につかえて出なかった。\n 彼は急いで、その悪い言葉を忘れさすために一つの方法を考えついた。\n「長老様、私は棺の中に土を入れて置きましょう。そういたせば人がはいっているようになりますでしょう。」\n「なるほどね。土は人間と同じものです。ではそうしてお前はからの棺を処分してくれますね。」\n「お引き受けいたします。」\n その時まで心配そうで曇っていた修道院長の顔は、再び晴れ晴れとなった。彼女は庭番に、上役が下級の者をさがらする時のような合い図をした。フォーシュルヴァンは扉の方へさがって行った。彼がまさに出ようとする時、院長は静かに声を高めて言った。\n「フォーヴァン爺さん、私はお前を満足に思いますよ。あした葬式がすんだら、お前の弟を連れておいでなさい。そして、その娘も連れて来るように言っておやりなさい。」\n\n四 ジャン・ヴァルジャンとアウスティン・カスティーレホーの記事\n\n 跛者の急ぎ足は片目の者の色目と同じで、中々目的物に届かないものである。その上、フォーシュルヴァンはまったく途方にくれていた。彼は庭のすみの小屋に帰りつくまでに、かれこれ十五分もかかった。コゼットはもう目をさましていた。ジャン・ヴァルジャンは彼女を火のそばにすわらしていた。フォーシュルヴァンがはいってきた時、ジャン・ヴァルジャンは壁にかかってる庭番の負い籠をコゼットに示しながら言っていた。\n「よく私の言うことをお聞き、コゼット。私たちはこの家から出なければなりません。けれどもまた帰ってきて、楽しく暮らせるんです。ここのお爺さんが、お前をあの中に入れてかついで行ってくれます。そしてあるお上さんの家で私を待っているんですよ。私がすぐに連れにやってきます。とりわけ、テナルディエの上さんにつかまりたくないから、よく言うことを聞いて、何にも言ってはいけませんよ。」\n コゼットはまじめな様子でうなずいた。\n フォーシュルヴァンが扉を開く音に、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。\n「どうだったね?」\n「すっかりうまくいきました、もう何も残っていません。」とフォーシュルヴァンは言った。「私はあなたがはいれるように許可を受けてきました。しかしあなたを入れる前に、あなたを出さなければなりません。困まるのはそのことです。娘さんの方はわけはありません。」\n「お前さんが連れ出してくれるんだね。」\n「黙っていてくれましょうね。」\n「それは受け合うよ。」\n「ですがあなたの方は? マドレーヌさん。」\n そして心配しきってちょっと口をつぐんだ後、フォーシュルヴァンは叫んだ。\n「どうか、はいってこられた所から出ていって下さい。」\n ジャン・ヴァルジャンは最初そう言われた時と同じように、ただ一言答えた。「できない。」\n フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに向かってというより、むしろ独語するようにつぶやいた。\n「も一つ困まったことがある。土を入れるとは言ったが、ただ身体の代わりに土を入れたんでは、どうも本物と思えないだろう。うまくはゆくまい。ぐらぐらして、動くだろう。人夫どもは感づくだろう。ねえマドレーヌさん、政府に気づかれるでしょうな。」" } ]