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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"content": " 美濃の太田では、氏神の加茂県主神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽を作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)\n 信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡当郷村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜の蔓に引っ掛ってころんで、胡麻の茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔清明様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)\n 小谷四箇荘にも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土の奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、ぐみで眼をさしたことがあるからだといっております。(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)\n 東上総の小高、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍に自生するのを見付けても、驚いて御祈祷をするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。(南総之俚俗。千葉県夷隅郡千町村小高)\n 中国地方でも、伯耆の印賀村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲の方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)\n 近江の笠縫の天神様は、始めてこの村の麻畠の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡めで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。(北野誌。滋賀県栗太郡笠縫村川原)\n また蒲生郡の川合という村では、昔この地の領主河井右近太夫という人が、伊勢の楠原という所で戦をして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)\n 関東地方に来ると、下野の小中という村では、黍を栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。(安蘇史。栃木県安蘇郡旗川村小中)\n この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵を洗った清水、それから山鳥の羽の箭をきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)\n 眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣りの村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神の白鳥六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。(三州横山話。愛知県南設楽郡長篠村横川)\n 石城の大森という村では、庭渡神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)\n それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の独鈷抛山の観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中りました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。(口丹波口碑集。京都府南桑田郡稗田野村柿花)\n 羽後の男鹿半島では、北浦の山王様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭の達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山の嶺に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)\n この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。\n 野州南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子という方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。(下野神社沿革誌。栃木県芳賀郡山前村南高岡)"
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"content": " 奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。(相生集。福島県安積郡多田野村)\n\n\n機織り御前\n\n 越後の山奥の大木六という村には、村長で神主をしていた細矢という非常な旧家があって、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立って見ると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀られようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽ちすがめとなってしまって、それから以後この家へ生れる男子は、悉く一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞。新潟県南魚沼郡中之島村大木六)\n 大木六ではこの姫神を巻機権現ととなえて、今も引き続いて村の鎮守として祭っているのでありますが、土地によっては神を里中へお迎え申すことをせず、もとからの場所にこちらからお参りをして、拝んでいる村がいくらもあります。そうすると参拝する時と人とが分れ分れになって、もとからあった伝説もだんだんに変って来るのであります。それで山の神様が女であった。小さな子を連れた姥神であったということなども、後には忘れてしまったところがずいぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途から、いつまでもそれを覚えていなければならぬ場合もありました。例えば静かな谷川の淵の中で、機を織る梭の音をきくといい、または人が行くことも出来ぬような峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるというなどはそれで、こういう為事は男がしませんから、その為に山姥山姫のいい伝えはなお永く残るのであります。\n 殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至って親切であって、山路に迷っていると送ってくれる。またおりおりは村に降りて来て、機織り苧績みを手伝ってくれるという話もありました。また仕合せの好い人は、山奥にはいって、山姥の苧つくねという物を拾うことがたまにある。その糸はいくら使っても尽きることがないともいいました。また山姥が子を育てるという話も、決して足柄山の金太郎ばかりではありません。\n 以前はどこの国の山にも山姥がいたらしいのですが、今はわずかしか話が残っておらぬのであります。そうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであったことは、知っている者が殆どなくなりました。備後の岡三淵は、恐ろしい淵があるから出来た村の名で、おかみとは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈余もある大岩が立っていて、その名を山姥の布晒し岩といい、時々この岩のてっぺんには、白いものが掛かってひらめいていることがあるといいました。(芸藩通志。広島県双三郡作木村岡三淵)\n 因幡国の山奥の村にも、非常に大袈裟な山姥の話がありました。栗谷の布晒し岩から、それと並んだ麻尼の立て岩、箭渓の動ぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張って乾していたといいました。この間が二里ばかりもあります。また箭渓の村の西には、山姥の灰汁濾しと云う小さな谷があって、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまっています。この水でその山姥が布を晒していたというのであります。(因幡志。鳥取県岩美郡元塩見村栗谷)\n こういう話を子供までが、大笑いをしてきくようになりますと、だんだんと伝説がうそらしくなって来て、山の崩れたところを山姥が踏ん張った足跡だといったり、小便をしたあとだなどという話も出来て来ます。土佐の韮生の山の中などでは、岩に自然の溝が出来ているのを、昔山姥が麦を作っていた畝の跡だといいました。(南路志。高知県香美郡上韮生村柳瀬)\n 春になると子供が紙鳶をあげるのに、「山の神さん風おくれ」というところもあれば、また「山んぼ風おくれ」といっている土地もあります。今では山姥は少年の知り人のように、呼びかけられているのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな声で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだまといいますが、これは山姥がからかうのだと思っていた子供がありました。こだまというのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像していたのであります。\n 山姥は少し意地悪だ。いつも子供のいやがる様な、にくらしい口答えをよくするといって、あまんじゃくという言葉が、素直でない子のあだなのようになったのも、ほんとうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいったように、あまんもおまんも姥神さまのことであります。東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんが紅」といっておりました。天が半分ほども真赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしているのだといってたわむれたのであります。\n この山姥が機を織ったという話が、またいろいろの形に変って伝わっております。遠州の秋葉の山奥では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれぞれ大きな山の主になっているといい、その山姥がまた里近くへ来て、水のほとりで機を織っていたといいました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかったのを、千年余り前に神主が神に祈って、始めて授かった井戸だということで、この泉の名を機織の井というのは、その後奥山に山姥が久良支山から出て来て、このかたわらに住んで神様の衣を織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。そういういい伝えのある井戸は、まだこの近辺の村にも二つも三つもあります。(秋葉土産。静岡県周智郡犬居村領家)\n 秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと称えて、今でも火難を防ぐ神として拝んでいるのは、おおかたこの貴い泉を、支配する神であったからであろうと思います。山姥とこの三尺坊様とは、一通りならぬ深い関係があったので、そのお衣を山の姥が来て織ったというのも、それ相応な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭という村は、後に築地へ持って来た咳の姥の石像のあったところですが、その近くにも大登山秋葉寺という寺があって、いつの頃からか三尺坊を迎えて祀っています。この寺にも一夜にわき出したという清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいって、雨乞いの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、ここへも一人の姥が来て布を織ったことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の鏡を添えて寺におくり、姥はいずれへか行ってしまいました。その銭は永くこの寺の宝物となってのこり、布は和尚が死ぬときに着て行ったということであります。(相中襍志。神奈川県足柄下郡大窪村風祭)\n 今でも姥神は常に機を織っておられるが、それを人間の目には普通は見ることが出来ぬのだというところがあります。信州の松本附近では、人が病気になって神降しという者に考えてもらうと、水神のたたりだという場合が多いそうであります、水神様が水の上に五色の糸を綜て、機を織って遊んでいられるのを、知らずに飛び込んでその糸を切ったり汚したりすると、腹を立ててたたりなさるのだと、想像している人があったのであります。それが為に時々は小さな流れの岸などに、御幣を立て五色の糸を張って祭ってあるのを、見かけることがあったという話です。(郷土研究二編)"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 甚「旦那、只の鎌と思ってはいけねえ、只の鎌ではねえ、百姓の使うただの鎌とお前さん見てはいけねえ」\n 三「誰が見たって百姓の使う鎌だ、錆だらけだア」\n 甚「錆びた処が価値で、能っく見て、錆びたところに価値が有るので」\n 三「何う」\n と手に把って見ると、鎌の柄に丸の中に三の字の焼印が捺してあるのを見て、\n 三「甚藏、是は己の家の鎌だ、此の間與吉に持たして遣った、是は與吉の鎌だ」\n 甚「だから與吉が持ってればお前さんの処の鎌でしょう」\n 三「左様」\n 甚「それだから」\n 三「何が」\n 甚「何がって、旦那此の鎌はね、奥に誰も居やアしませんか」\n 三「誰も居やアせん」\n 甚「此の鎌に就いて何うしてもお前さんが二十両私にくれて宜い、私の親切をネ、鎌は詰らねえが私の親切を買って」\n 二十両何うしてもくれても宜い訳を話を致しますが、一寸一息吐きまして。\n\n二十九\n\n 引続きまして申上げました羽生村で三藏と申すは、質屋をして居りまして、田地の七八十石も持って居ります可なりの暮しで、斯様に良い暮しを致しますのは、三右衞門と云う親父が屋敷奉公致して居るうち、深見新左衞門に二拾両の金を貰って、死骸の這入りました葛籠を捨てまして国へ帰り、是が資本で只今は可なりに暮して居る。一体三藏と云う人は信実な人で、江戸の谷中七面前の下總屋と云う質屋の番頭奉公致して、事柄の解った男でございますから、\n 三「コウお前そう極りで其様な分らねえ事を云うが、己だから云うが、いゝか、何が親切で何う云う訳が有ったって草苅鎌を持って来て二十両金を貸せなどと云って、村の者もお前を置いては為にならねえと云う、此の間何と云った、私は此の村を離れましては何処でも鼻撮みで居処もございませんから、元の如く此の村に居られる様にして呉れと云うから、名主へ行って話をして、彼れは外面は瓦落〳〵して、鼻先ばかり悪徒じみて居りますが、腹の中はそれほど巧のある奴では無いと、斯う己が執成して置いたから居られる、云はゞ恩人だ、それを背くかお前、何で鎌を、何う云う訳で親切などと下らぬ事を云うんだえ」\n 甚「それなら打明けてお話申しますが此の間松村で一寸小博奕へ手を出して居るとだしぬけに御用と云うのでバラ〳〵逃げて入江の用水の中へ這入って、水の中を潜り込んで土手下のボサッカの中へ隠れて居ると、其処で人殺しがあり、キアッと云う女の声で、私も薄気味が悪いから首を上げて見たが暗くって訳が分らず、土砂降だが、稲光がピカ〳〵する度時々斯う様子が見えると、女を殺して金を盗んだ奴がある、宜うがすか、判然分りませんが、其の跡へ私が来て見ると、此の鎌が落ちて居る、此の鎌で殺したか、柄にベッタリ黒いものが付いて有るのは血じみサ、取上げて見ると丸に三の字の焼印が捺して有る、宜うがすか、旦那の家の鎌、ひょっとして他の奴が、此の鎌が女を殺した処に落ちて有るからにゃア此の鎌で殺したと、もしやお前さんが何様な係り合になるめえ物でもねえと思い、幸い旦那の御恩返しと思って、私が拾って家へ帰って今迄隠して居た、宜うがすか、お前さんの処で死骸を引取って己の家の姪と云うので法事も有ったのだから、お前さんの処で女を殺して物を取った訳はねえが、悪い奴が拾いでもすると、お前さんは善い人と思っては居るが、そう村中みんなお前さんを誉る者ばかりじゃアねえ、其の中には五人や八人は彼様になれる訳はねえと、工面が良いと憎まれる事も有りましょう、それから中には悪く云う奴もある私と斯う中好く、お前さんは江戸に奉公して江戸子同様と云うので、甚藏や悪い事はするナ、と番毎に斯う云ってお呉んなさるは有難えと思って居るが、私がお前さんに平生お世話に成って居りますから、娘を殺して金を取るような人でねえ事は知って居りますが、宜うがすか、お前さんと若し私が中が悪くって、忌々しい奴だ、何うかしてと思って居れば、私が鎌を持って、斯うだ此の鎌が落ちて有った是は三藏の処の鎌だと振廻して役所へでも持出せば、お前さんの腰へ否でも縄が付く、然うでないまでも、十日でも二十日でも身動きが出来ねえ、然うすりゃア年をとったお母様はじめ妹御も心配だ、其の心配を掛けさせ度くねえからねえ、然う云う馬鹿があるめえものでもねえのサ、私などは随分遣り兼ねえ性質だ、忌々しいと思えば遣る性質だけれども、御恩になって居るから、旦那が殺したと思う気遣もねえけれども、理屈を付ければまア何うでもなるのサ、彼様に身代のよくなるのも、些とは悪い事をして居るだろうぐらいの話をして居る奴もあるから、殺した跡で世間体が悪いから、死骸でも引取って、姪とか何とか名を付けて、とい弔いをしなければ成るめえと、さ、訝しく勘繰るといかねえから、他人に拾われねえ様に持って来たのだから、十日でも二十日でも留められて、引出されゝば入費が掛ると思って、只私の親切を二十両に買っておくんなさりゃア、是で博奕は止るから、ねえモシ旦那え」\n 三「コレ〳〵甚藏、然う汝が云うと己が殺して死骸を引取って、葬りでもした様に疑って、訝しくそんな事を云うのか」\n 甚「お前さん私が然う思うくれえなら、鎌は振廻して仕舞わア、大きな声じゃア云えねえが、是は旦那世間の人に知れねえように、私が黙って持って居るその親切を買って二十両、ね、もし、鎌は詰らねえが宜うがすか、お前さんと中が悪ければ、酷い畜生だなんて遣り兼ねえ性質だが、旦那にゃア時々小遣を貰ってる私だから、何とも思やアしねえがネ、厭に世間の人が思うから鎌を拾って持って来た、其の親切を買って、えゝ旦那、お前さん否と云えば無理にゃア頼まねえが、私は草苅鎌を二十両に売ろうと云う訳ではねえのサ、親切ずくだからネ、達てとは云わねえ、そうじゃアねえか、此の村に居てお前の呼吸が掛らなけりゃア村にも居られねえ、其の時はいやに悪い仕事をして逃げる、そうなりゃア何うでも宜いやア、ねえ、否でげすか、え、もし」\n と厭に絡んで云いがゝりますも、蝮と綽名をされる甚藏でございますから、うっかりすれば喰付かれますゆえ、仕方なく、\n 三「詰らぬ口を利かぬが宜いぜ、金は遣るから辛抱をしねえよ」\n とただ取られると知りながら、二十両の金を遣りまして甚藏を帰しますと、其の夜三藏の妹お累が寝て居ります座敷へ、二尺余りもある蛇が出ました。九月中旬になりましては田舎でも余り蛇は出ぬものでございますが、二度程出ましたので、墓場で驚きましたから何が出ても蛇と思い只今申す神経病、\n 累「アレー」\n と駈出して逃る途端母親が止め様とした機、田舎では大きな囲炉裏が切ってあります、上からは自在が掛って薬鑵の湯が沸って居た処へ双に反りまして、片面から肩へ熱湯を浴びました。\n\n三十\n\n お累が熱湯を浴びましたので、家中大騒ぎで、医者を呼びまして種々と手当を致しましたが何うしてもいかんもので、火傷の痕が出来ました。追々全快も致しましょうが、二十一二になる色盛の娘、顔にポツリと腫物が出来ましても、何うしたら宜かろうなどと大騒ぎを致すものでございますのに、お累は半面紫色に黒み掛りました上、片鬢兀るようになりましたから、当人は素より母親も心配して居ります。\n 累「あゝ情ない、この顔では此の間法蔵寺で逢った新吉さんにもう再び逢う事も出来ぬ」\n と思いますと是が気病になり、食も進まず、奥へ引籠ったきり出ません、母親は心配するが、兄三藏は中々分った人でございますから、\n 三「お母様、えーお累は何様な塩梅でございますねえ」\n 母「はアただ胸が支えて飯が喰えねえって幾ら勧めても喰えねえ〳〵と云う、疲れるといかねえから些と食ったら宜かんべえと勧めるが、涙ア翻して己ア此様な顔に成ったから駄目だ、何うせ此様な顔になった位えなら、おッ死んだ方が宜え。と其様な事べえ云ってハア手におえねえのサ、もっと大え負傷アして片輪になる者さえあるだに、左様心配しねえが宜えと云うが、彼は幼っけえ時から内気だから、ハア、泣ことばかりで何うしべえと思ってよ」\n 三「困りますね私も心配するなと云い聞せて置きますが、何う云うものか彼処へ引籠った切りで、気が霽れぬから庭でも見たら宜かろうと云うと、彼処は薄暗くって病気に宜うございますからと云いますが詰らん事を気に病むから何うも困ります」\n と話をして居ります。折から、お累は次の間の処へ参りましたから、\n 母「おゝ此方へ出ろとよう、出な」\n 三「あ、漸と出て来た」\n 母「此方へ来てナ、畑の花でも見て居たら些たア気が霽れようと、今兄どんと相談して居たゞ、えゝ、さア此処へ坐ってヨウ、よく出て来いッけナ、心配してはいけぬ、気を晴らさなければいかねえヨウ、兄どんの云うのにも、火傷しても火の中へ坐燻ったではねえ、湯気だから段々癒るとよ、少しぐれえ薄く痕が付くべえけれども、平常の白粉を着ければ知れねえ様になり段々薄くなるから心配しねえがえゝよ」\n 三「お前お母さんに斯う心配を掛けて、お母様がお食を勧めるのにお前は何故喫べない、段々疲れるよ、詰らん事をくよ〳〵してはいけませんよ、お前と私と是れから只た一人のお母様だから孝行を尽さなければならないのに、お前がお母様に心配を掛けちゃア孝行に成りません、顔は何様なに成ったって構わぬ、それならば片輪女には亭主がないと云うものでも有るまい、何様な跛でもてんぼうでも皆な亭主を持って居ります、えゝ火傷したくらいで気落して、お飯も喫べられないなんて、気落してはなりません、お母様が勧めるからお食りなさい、喫べられないなんて其様な事はありませんよ」\n 母「喫べなせえヨウ、久右衞門どんが、是なれば宜かろうって水街道へ行って生魚を買って来たゞ、随分旨い物だ常なら食べるだけれど、やア食えよウ」\n 三「お喫りなさい何う云う様子だ、容体を云いなさい、えゝ、何か云うとお前は下を向いてホロ〳〵泣いてばかり居て、お母様に御心配かけて仕様がないじゃアありませんか、え、十二三の小娘じゃアあるまいし、よウ、えゝ、何う云うものだ」"
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"role": "assistant",
"content": " 母「そんなに小言云わねえが宜えってに、其処が病えだからハア手におえねえだよ、兄どんの側に居ると小言を云われるから己が側へ来い、さア此方へ来い、〳〵」\n と手を引いて病間へ参ります。三藏も是は一通りの病気ではないと思いますから。\n 三「おせな」\n 下女せな「ヒえー」\n 三「何の事た、立って居て返辞をする奴が有るものか」\n せな「何だか」\n 三「坐りな」\n せな「何だか、呼るのは何だかてえに」\n 三「コレ家のお累の病気は何うも火傷をした許りでねえ、心に思う処が有るのでそれが気になってからの煩いと思って居るが、汝お久の寺詣に行った帰りは遅かったが、年頃で無理じゃアねえから他処へ寄ったか、隠さずと云いな」\n せな「ナアニ寄りは為ません、お寺様へ行ってお花上げて拝んで、雨降って来たからお寺様で借べえって法蔵寺様で傘借りて帰って来ただ」\n 三「汝なぜ隠す」\n せな「隠すにも隠さねえにも知んねえノ」\n 三「主人に物を隠すような者は奉公さしては置きません、なぜ隠す、云いなよ」\n せな「隠しも何うもしねえ、知んねえのに無理な事を云って、知って居れば知って居るって云うが、知んねえから知んねえと云うんだ」\n 三「コレ段々お累を責めて聞くに、実は兄様済まないが是々と云うから、なぜ早く云わんのだ、年頃で当然の事だ、と云って残らず打明けて己に話した、其の時はおせなが一緒に行って斯う〳〵と残らず話した、お累が云うのに汝は隠して居る、汝はなぜ然うだ、幼い中から面倒を見て遣ったのに」\n せな「アレまア、何て云うたろうか、よウお累様ア云ったか」\n 三「皆な云った」\n せな「アレまア、汝せえ云わなければ知れる気遣えねえから云うじゃアねえよと、己を口止して、自分からおッ饒舌るって、何てえこった」\n 三「皆ないいな、有体に云いナ」\n せな「有体ッたって別に無えだ、墓参りに行って年頃二十二三になる好い男が来て居て、お前さん何処の者だと云ったら江戸の者だと云って、近処に居る者だがお墓参りして無尽鬮引の呪えにするって、エー、雨降って来たから傘借りてお累さんと二人手え引きながら帰って来て、お累さんが云うにゃア、おせな彼様な好い男は無いやア、彼様な柔しげな人はねえ、己がに亭主を持たせるなれば彼ア云う人を亭主に持度いと云って、内所で云う事が有ったけえ、其の中に火傷してからもう駄目だ彼の人に逢いたくもこんな顔になっては駄目だって、それから飯も喰えねえだ」\n 三「然うか何うも訝しいと思った、様子がナ、汝に云われて漸く分った」\n せな「あれ、横着者め、お累様云わねえのか」\n 三「なにお累が云うものか」\n せな「彼だアもの、累も云ったから汝も云えってえ、己に云わして己云ったで事が分ったてえ、そんな事があるもんだ」\n 三「騒々しい、早く彼方へ往けよ」\n とこれから村方に作右衞門と云う口利が有ります、これを頼んで土手の甚藏の処へ掛合いに遣りました。\n\n三十一\n\n 作「御免なせえ」\n 甚「イヤお出でなせえ」\n 作「ハイ少し相談ぶちに参りましたがなア」\n 甚「能くお出なせえました」\n 作「私イ頼まれて少し相談ぶちに参ったが、お前等の家に此の頃年齢二十二三の若え色の白え江戸者が来て居ると云う話、それに就いて少し訳あって参った」\n 甚「左様で、出ちゃアいけねえ引込んで居ねえ」\n 新吉は薄気味が悪いから蒲団の積んで有る蔭へ潜り込んで仕舞いました。\n 甚「ヘエ、な、何です」\n 作「エヽ、今日少しな、訳が有って三藏どんが己が処え頭を下げて来て、偖作右衞門どん、何うも他の者に話をしては迚も埓が明かねえ、人一人は大事な者なれども、何うも是非がねえから無理にも始末を着けなければなんねえから、お前等をば頼むと云うまアーづ訳になって見れば、己も頼まれゝば後へも退けねえ訳だから、己が五十石の田地をぶち放っても此の話を着けねばなんねえ訳に成ったが其の男の事に付いて参っただ」\n 甚「ヘエーそうで、其の男と云うなア身寄でも親類でもねえ奴ですが、困るてえから私の処に食客だけれども、何を不調法しましたか、旦那堪忍しておくんなえ、田舎珍らしいから、柿なんぞをピョコ〳〵取って喰いかねゝえ奴だが、何でしょうか生埋にするなどというと、私も人情として誠に困りますがねえ、何を悪い事をしたか、何云う訳ですえ」\n 作「誰が柿イ取ったて」\n 甚「食客が柿を盗んだんでしょう」\n 作「柿など盗んだ何のと云う訳でねえ、そうでねえ、それ、お前知って居るが、三藏どんの妹娘は屋敷奉公して帰って来て居た処、お前等ア家のノウ、其の若え男を見て、何処かで一緒になったで口でもきゝ合った訳だんべえ、それでまア娘が気に、彼ア云う人を何卒亭主に為たいとか内儀になりてえとか云う訳で、心に思っても兄さまが堅えから八釜しい事云うので、処から段々胸へ詰って、飯も食べずに泣いてばかり居るから、医者どんも見放し、大切の一人娘だから金えぶっ積んでも好いた男なら貰って遣りてえが、他の者では頼まれねえが、作右衞門どん行ってくれと云う訳で、己が媒妁人役しなければなんねえてえ訳で来ただ」\n 甚「そんなら早くそう云ってくれゝば宜いに、胆を潰した、私は柿でも盗んだかと思って、そうか、それは有難え、じゃア何だね、妹娘が思い染めて恋煩いで、医者も見放すくれえで、何うでも聟に貰おうと云うのかね、是は有難え、新吉出や、ア此処へ出ろ、ごうぎな事をしやアがった、此処へ来や、旦那是は私の弟分で新吉てえます、是は作右衞門さんと云うお方でな、名主様から三番目に坐る方だ、此の方に頭を押えられちゃア村に居憎いやア、旦那に親眤になって置きねえ」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」\n「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね......問題は明日の芝居なんだが」\n「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で......」\n「そうかも知れんね」\n「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」\n「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。......同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」\n「あたし何だかドキドキして来たわ」\n「暑いからだろう」\n「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って......」\n こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。\n\n 呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰で、一階から三階までの窓を全部明放し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。\n 定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭しく観客に一礼して後、何事か喋舌り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。\n「あら。アレ寺本さんじゃない?」\n「ウム。以前はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」\n「いい声ね......」\n「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界に於きまして、仏蘭西のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二明星とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。......すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の実情を、一方も残らず御存じの事として演出致しますので、従ってその遭難の実情に関する説明は、勝手ながら略さして頂きます。そうしてここにはただ斯様な、予期致しませぬ過分の御ひいきのために、万一プログラムを差上げ落しました方が、おいでになりはしまいかと存じますから、そのような方々の、単なる御参考と致しまして、極めて心理的に構成されております各幕の内容を短簡に申上げさして頂くに止めます。\n 第一幕......探偵劇王殺害事件の遠因――兇賊生蕃小僧と等々力久蔵親分活躍の場面。二場。\n 第二幕......探偵劇王殺害の動機、及、殺害の現場。二場。\n 第三幕......探偵劇王の後継者、天川呉羽嬢、独白、独演。真相説明の場。一場。――以上――」\n 満場割れむばかりの拍手が起ったが今度は直ぐにピッタリと静まった。舞台の片隅で冷たいベルの音が断続する中に、幕が静かに揚り初めたからであった。\n 一階から三階までの窓は全部、いつの間にか閉されていた。場内はたまらない薄暗さと、蒸暑さに埋もれていたが、それでも何千の人が作る氷のような好奇心が、場内一パイに冴え返っていたせいであったろう。扇の影一つ動かない深海の底のような静寂さが、一人一人の左右の鼓膜からシンシンと泌み込んで来るのであった。\n 第一幕、第一場は、静岡県見付の町外れの国道に面する草原の場面であった。その草原の中央の平石に腰をかけている若親分、等々力久蔵の前に、金モール服の薬売人に化けた生蕃小僧こと、石栗虎太が胡座をかいて、ポケットの中からピストルを突付け、等々力久蔵の妻君の不行跡を曝露し、嘗て、或る処で、自分が等々力の妻君から貰ったという紫水晶の簪を見せびらかしつつ、甘木柳仙宅襲撃の仕事を見逃がしてくれるように頼み込む。等々力久蔵は暫く考えてから承諾の証拠に、紫水晶の簪を受取り、生蕃小僧と別れる。それから生蕃小僧が立去って後に、妻と世話人を草原に呼んで来て、証拠の簪を突付け、厳そかに離別を申渡し、涙を払いながら決然として立去る。木立の蔭からその光景を窺っていた生蕃小僧が立出で、腕を組んだまま物凄い冷笑を浮かべて等々力久蔵の後姿を見送り、\n「トテモ追出しゃあしめえと思ったが......この塩梅では愚図愚図しちゃいられねえぞ」\n と独りでうなずきながら立去る場面であった。\n 続いて舞台がまわると甘木柳仙自宅の場で、等々力久蔵が柳仙夫婦から娘の三枝を借受け、それとなく三枝に左様ならを云わせ、思入れよろしくあって退場する。そのままの場面で日が暮れると生蕃小僧が忍び入り、柳仙夫婦を惨殺し、家中を探しまわって僅少の小遣銭を奪い、等々力久蔵に計られたかなと不平満々の捨科白を残して立去るところであった。\n 幕が締ると皆ホッとして囁き合った。\n「ねえお兄様。イクラか書換えてあって?」\n「ウン。それが不思議なんだ。この幕は大体から見て僕が書下した通りなんだ。あんな大道具をどこに蔵って在ったんだろう......ただ柳仙夫婦の殺されの場がすこし違うようだね。あんな風に老人の柳仙が頭からダラダラ血を流して拝むところなんぞはなかったよ。キット睨まれると思ったからカゲにしておいたんだがね」\n「警察の人は来ているんでしょうか」\n「来ていても今晩は何も云わないのが不文律みたいになっているから大丈夫だよ。その代り明日になるとキット差止めるとか何とか威かして来るにきまっているんだ。もっとも呉羽さんは、それを覚悟の前で演ってるのかも知れないがね」\n「......でも轟さんと呉羽さんの前身だけは今の幕で想像が付くワケね」\n「ナアニ。みんな芝居だと思って見ているんだから、そんな余計な想像なんかしないだろう」\n「そうかしら......でもポオの原作なんて誰も思やしないわよ。あれじゃ......」\n「フフフ。黙ってろ。幕が開くから......オヤア......これあ西洋室だ......おれア日本室にしといた筈だが......」\n「......シッシッ......」\n 第二幕の第一場は大森の天川呉羽嬢邸内、轟九蔵氏自室の場面であった。部屋の構造から品物の配置、主人轟九蔵氏の扮装に到るまで、すべて実物の通りで、窓の外に咲き誇っている満開の桜までも、寸分違わない枝ぶりにあしらってある。\n その東の窓際の寝椅子に、着流しの轟九蔵氏が長くなっている足先の処に、美術学校の制服を着た、イガ栗頭の江馬兆策に扮した俳優が腰をかけている。その前に音楽学校のバンドを締めた美鳥ソックリの少女が姿勢正しく立って、美鳥のレコードを蔭歌にして独唱をしている体。それを轟氏が、如何にも幸福そうに眼を細くして聞いている。\n「うらわかき吾が望み 青々と晴れ渡り\n かがやかに雲流る 大空よああ大空よ」\n「うらわかき吾が思い はてしなく澄み渡り\n すずろかに風流る 大空よああ大空よ」\n「ウム。なかなか立派な声になった。学校というものは有難いものだ」\n 兄妹同時に頭を下げる。\n「ありがとう御座います」\n「ああ。御苦労だった、お蔭でいい心持になった......ウム。それからなあ。きょうは久し振りに娘の三枝と一所に夕食を喰べるのじゃから、お前たちも来て一所に喰べてくれ」\n 二人顔を見合わせて喜ぶ。\n「ハハハ。嬉しいか」\n「ありがとう御座います」\n「おじさま。ありがと」\n「うむ。なかなか言葉が上手になったな。もう日本人と変らんわい。ハハハ。どうだい。お前たちは日本と朝鮮とドッチが好きかね」\n「僕日本の方が好きです」"
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"role": "assistant",
"content": "「何故日本が好きかね」\n「朝鮮には先生みたいに外国人を可愛がる人が居りません」\n「ハハハ。外国人はよかったな。美鳥はどうだい」\n「あたし豆満江がもう一ペン見とう御座いますわ」\n「うむうむ。その気持はわかるよ。あの時分はお前達と雪の中で、ずいぶん苦労したからなあ」\n「おじ様が毎日鮭を捕えて来て、あたし達に喰べさして下さいましたわね」\n「アハハハ。ところでお前たちは、あれから毎日毎日三枝と兄妹みたようにして暮して来ているが、これから後も、このおじさんに万一の事があった時に、今までの通りに仲よくして暮して行けるかね。参考のために聞いておきたいが......」\n「出来ます。僕、呉羽さん大好きです」\n「美鳥はどうだい」\n「わたくし......好きです......トテモ。ですけど......何だか怖おう御座いますわ」\n「ナニ怖い。どうして......」\n 美鳥、恥かし気にしなだれる。轟氏もキマリ悪るそうに顔を撫でて笑う。\n「怖いことなんかチットモないんだよ。アレは負けん気が強いし、小さい時から世の中のウラばかり見て来とるから、あんな風になったんだよ。ホントは実に涙もろい、純情の強い人間なんだよ」\n「呉羽さんはエライ女ですよ。何でも御存じですからね。悪魔派の新体詩だの、未来派の絵の批評が出来るんだから僕、驚いちゃった」\n「ウム。わしの感化を受けとるかも知れん。わしも元来は平凡な、涙もろい人間と思うが、あんまり早くエライ人間になろうと思うて、自分の性格を裏切った人生の逆コースを取って来たために、物の見え方や聞こえ方が、普通の人間と丸で違ってしもうた。悪魔のする事が好きで好きで叶わん性格になってしもうた。ハハハ。怖がらんでもええぞ美鳥......お前たち兄妹に対しては俺はチットモ悪魔じゃない。平凡な平凡な涙もろい人間だ......その平凡な平凡な人間に時々立帰ってホッと一息したいために、お前達を養っているのだ......イヤ詰まらん事を云うた。それじゃ又、晩に来なさい。夕飯の準備が出来たら女中を迎えに遣るから......」\n「おじさま......さようなら......」\n「先生......さようなら......」\n「ああ。さようなら......」\n 二人が退場すると轟氏呼鈴を押し、這入って来た女中に三枝を呼んで来るように命じ、そのまま寝椅子に長くなる。\n 大きな桃割。真赤な振袖。金糸ずくめの帯を立矢の字に結んだ呉羽がイソイソと登場する。\n「あら......お父様。お呼びになったの」\n「......うむ。こっちへお出で......」\n「......嬉しい。又、どこかのお芝居へ連れてって下さるの」\n と呉羽嬢が甘たれかかるのを抱きあげて身を起した轟氏は立上って、入口の扉に鍵を卸し、窓のカアテンを閉して異様に笑いながら寝椅子に帰り、呉羽の身体を抱き上げる。\n「きょうは、私の方からお前にお願いがあるんだよ」\n と少し真面目に帰りながら、二人の身の上話を初め、前の幕の通りの事を簡略に物語り、二人が真実の親子でない事を明らかにする。\n その一言一句に肩をすぼめ、眼を閉じて魘えながらも、不思議なほど冷然と聞いていた呉羽は、やがて冷やかな黒い瞳をあげて微笑する。\n「それで妾にお願いって仰言るのはドンナ事なの......」\n 轟氏は忽ちハラハラと涙を流し、熱誠を籠めた態度で、呉羽の両手を握る。\n「......オ......俺は、お前を一人前に育て上げてから、両親の讐仇を討たせようと思って、そればっかりを楽しみの一本槍にして、今日まで生きて来たんだ」\n「......まあ......そんな事......どうでもよくってよ。今までの通りに可愛がって下されば、あたしはそれでいいのよ」\n「......ウウ......そ......それは......その通りだ。......と......ところがこの頃になって......俺は......俺に魔がさして来たんだ。もちろん最初の目的は決して......決して忘れやしない。必ず......必ず貫徹させて見せる。生蕃小僧は、お前の一生涯の讐敵だから、この間お前が頼んだように、誰にもわからない処で、一番恐ろしい......一番気持のいい方法で讐敵を取らしてやる決心をして、現在、極秘密の中に、この家の地下室でグングン準備を進めているところだが.........」\n「......アラッ......ホント......」\n「ホントウだとも。もっとも二......二三年ぐらいはかかる見込だがね。骨が折れるから......」\n「嬉しい。楽しみにして待っていますわ」\n「......と......ところがだ。この頃になったら、その上に......も......もう一つの別の目的が......オ......俺の心に巣喰い初めたのだ。そそ......その目的を押付けようとすればする程......その思いが募って......弥増して来て......もうもう一日も我慢が......で......出来なくなって来たんだ」\n「まあ。そのモウ一つの目的ってドンナ事?」\n「オ......俺は......お前をホントウに俺のものにしたくなったのだ。ああ......」\n 轟氏は涙を滝のように流し、両手を顔に当てる。呉羽は本能的に飛退いて、傍の椅子を小楯に取り冷やかに笑う。\n「まあ。あなた馬鹿ね。あたし今でも貴方のものじゃないの。この上に妾にどうしろって仰言るの......」\n「ウ......嘘でもいいから......オ......俺の妻になったつもりで......俺に仕えてくれ」\n「あら。厭な人。あなた妾を恋して、いらっしゃるのね」\n 轟氏は寝椅子からズルズルと辷り落ちてペッタリと両手を床に支える。乞食のようにペコペコと頭を下げる。\n「そ......そうなんだ。タ......助けると思ってこの俺の思いを......」\n 呉羽、椅子の背中に掴まったまま、仕方なさそうに身を反らして高笑いする。\n「ホホホホホホホホホホホ可笑しな方ね。ホホホホホホホホ......」\n その笑い声の中に電燈が消えて、場内が真暗になっても、笑い声は依然として或は妖艶に、或は奇怪に、又は神秘的にそうして忽ちクスグッタそうに満場を蠱惑しいしい引き続いている。\n そのうちにソノ笑い声が次第に淋しそうに、悲しそうに遠退いて行って、やがてフッツリと切れるトタンに舞台がパッと明るくなり、第二幕の第二場となる。\n 呉羽の姿は見えず。黒っぽいモーニングコートに縞ズボン白胴衣の轟氏がタダ独りで、事務机の前の廻転椅子に腰をかけて、金口煙草を吹かしながら一時二十五分を示している正面の大時計を見ている。左側のカアテンを引いた窓硝子の外に電光がしきりに閃めくと、窓の前の桜がスッカリ青葉になっているのが見える。その電光の前に覆面の生蕃小僧が現われコツコツと窓硝子をたたく。\n 轟氏が立って行って開けてやると両足を棒のように巻いた生蕃小僧が、手袋を穿めた片手にピストルを持って這入って来る。\n「ハハハ。よく約束を守ったな」\n 轟氏は用意の小切手を生蕃小僧に与える。\n「この次は真昼間、玄関から堂々と這入って来い。夜は却って迷惑だ」"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 言ひにくさうですが、それでも案外、スラスラとやつて退けて、平次の顏を下から艶めかしく見上げます。\n「いや一向――私には見當も付かなくて困つて居る。石原の利助のところへ行つて聽いて見なさるがいゝ、石原のは、何か當りが付いたと言ふことだ」\n「へエ――、石原の親分ぢや伺ふまでも御座いません」\n 妙に奧齒に物の揷まつたやうな微笑を浮べて、腰を浮かします。\n「あ、もう歸りなさるのか」\n「いづれ又お訪ね申上げます。それでは親分、お喧ましう御座いました」\n「あツ、待つた。お前さんの名は何と言ひなさる、それから町處は――」\n「いえ、それには及びません。用事があれば又私の方から參ります、それでは親分さん」\n 丁寧に會釋をしたと思ふと、滑るやうに戸口を出て、ツ、ツ、ツと路地の外へ。\n「八」\n「へエ――」\n「頼んだぞ」\n「合點」\n ガラツ八は女の後を追つて外へ飛出しましたが、暫くすると、つままれたやうな顏をして歸つて來ました。\n「どうだ、八」\n「親分、ありや人間ぢやありませんぜ。路地の外へ飛出すと、右へ行つたか左へ行つたか、皆暮わからねえ」\n「何だと」\n「煙のやうに消えつちまひましたよ」\n「乘物は居なかつたか」\n「それに油斷があるものですか、乘物と名の付くものはたつた一つ、飛んでもねえ立派な駕籠が、ずつと右手から左へ通り過ぎましたよ」\n「それだツ」\n「えツ」\n「あの女は、右手の方にズツと離れて待たして置いた駕籠へ乘つて、左手へ通り拔けたんだ。馬鹿野郎、それくらゐの事に氣が付かねえか」\n「あツ」\n と言つたが追つ付きません。\n その上、女の歸つた跡を見ると、留守中に探したものと見えて、用箪笥の抽斗に入れて置いた、平次の覺え書が紛失して居ります。その覺え書の中には奴殺しの一件から平次の見込みまで事細かに書いて居たのですから、これには全く驚いてしまひました。今更家をあけた雇婆さんを叱つたところで、オロオロするだけで何の足しにもなりません。\n\n六\n\n 平次の直感から言つても、船頭が下手人でないことは解つて居りますが、意地になつて楯をつく、石原の利助を仰え付けるほどの反證がありません。\n 船頭直助の母親は、涙乍らに平次のところへ飛込んで來たのは、その翌る日。――何とかして伜を助けてくれ、伜は酒癖が少し惡いだけで、根が神樣のやうな正直者、決して人などを殺す男ではない――と言ふのです。母親の言ひ分ですから、もとより掛値も自惚もあるでせうが、船頭の無實は平次も知り過ぎるほど知つて居ります。\n 併し、今の内に動きの取れない證據を進めて、石原の利助を取つて仰へない以上は、直助の命を救ふ道は先づ絶望と思はなければなりません。\n 母親は泣き乍ら歸つて行きました。平次を訪ねて慰められるどころか、反つて、大きい失望を背負はされたやうなものです。\n 併しこの悲みも永くは續きませんでした。藝妓殺しの下手人は、船頭直助でないと言ふ、消極的ではあるが、動きの取れぬ證據を提供してくれる事件が起つたのです。\n それは斯うでした。\n 今は跡形もありませんが、其頃流行つた瓦町の焙烙地藏樣の門前、お百度石の側で、同じ町内の糸屋の娘お駒が、銀簪に右の眼玉を突かれて、藝妓奴と同じやうに、無慙な死に樣をして居たのです。\n お駒は淺草から兩國までの間に、並ぶ者がないと言はれた美しさで、まだ十七になつたばかり、唄にも繪にもされた小町娘でした。それが何んの心願があつての夜詣りか知りませんが、焙烙地藏のお百度石の下に、眼を突かれた無慙な死體になつて發見されたのですから、江戸中の騷ぎは大變です。\n 利助や平次は言ふに及ばず、町方與力の笹野新三郎まで現場に驅け付けましたが、柳橋の藝妓殺しと、手口が全く同じだといふ外には、毛程の手掛りも殘つては居ません。\n 派手な縫模樣の單衣を着たお駒が、可愛らしい後ろ帶を引摺つて、半面紅に染んで死んで居た痛々しさは、馴れた眼にもツイ涙が浮かびます。\n「利助、平次、これは容易ならぬぞ、手柄爭ひをする時ではない。二人心を併せて下手人を探し出してくれ、下々の騷ぎは、何時かは必ずお上のお耳に入る」\n 斯う沁々新三郎に言はれると、平次も利助も愧ぢ入つて言葉もありません。\n 船頭の直助は其日のうちに許されましたが、さてかうなると、さすがの利助も、もう縛りやうにも縛る當がありません。\n そのうち、第三、第四の犧牲者が現はれました。第三人目は、お藏前の飮屋の看板娘おさん、これは錢湯の歸り、露地の入口で銀簪に眼を刺され、第四人目は駒形の小間物屋の若女房お國、所用で出かけた夫の歸りを待ち乍ら、店を早仕舞にして奧へ入つたばかりのところを、これも右の眼を銀簪で刺されて、長火鉢の側に無慙な死體を横たへて居たのです。\n 手口は四人とも判で押したやう、寸毫の違ひもありませんが、いづれも近々と傍へ寄つてやつたところを見ると、下手人は此界隈に住んで、犧牲者達の顏見知りの者でなければなりません。それからもう一つの特徴は、殺されたのは十七から二十五まで、年にも身分にも少しばかりの開きはありますが、いづれも評判の美人で、十人並と言つたのさへ、一人もありません。\n その頃若い女が、夜分一人で外へ出るのが怖いやうな事を言ふと、――ヘン、一かど美い女のつもりだから怖ろしいや――と言はれたくらゐ、何しろ江戸中煑えくり返るやうな騷ぎです。\n 南町奉行朝倉石見守は、與力筆頭笹野新三郎を呼び付けて鞭撻すると、笹野新三郎は利助や平次をせき立てる有樣、かう事件が深刻になつては、手柄爭ひどころの沙汰ではありません。\n\n七\n\n「親分、この四本の簪のうち、平打の二本だけは眞物の銀だが、あとの二本は眞鍮臺に銀流しをかけた、飛んだ贋物ですぜ」\n「何?」\n 錢形の平次もこれには驚きました。四人の女を殺した四本の簪を役所から借り出して、顏見知りの錺屋に鑑定して貰ふと、この始末です。\n 併し、銀流しと聞いて平次の心の中には、驚きの底にも一道の光明がサツと射し込みます。\n 大事な證據の簪はガラツ八に持たせて役所に返し、自分は其足で兩國の盛り場へ。\n 言ふ迄もなくその時分の東西の兩國の賑ひは、今の淺草の六區のやうなもの。見世物、輕業、歌舞伎芝居が軒を並べ、その間に水茶屋が建て込んで往來の客を呼ぶ外、少しの空地へもテキ屋が割り込んで、人寄せの獨樂やら、居合拔、三文手品、豆造、弘法樣の石芋、安玩具などを聲を涸らして賣つて居ります。\n その中に立ち交つて、銀流しの露店が一つ、大道の上に茣蓙を敷いて、その上に大小樣々の金物、――金盥やら、鈴やら、火箸やら、藥罐やら、錢やら、鍵やら、ありとあらゆるものを並べ、薄茶色の粉で磨いて、それを悉く銀色に光らせて口上を言つて居ります。\n「さア、よく見なさい。これはオランダ人から傳はつた、南蠻祕法の銀流し、彼處にもある、此處にもあると言ふ物ではない。ちよいと唾を付けて磨くと、どんな物でも立ちどころに銀になる。鍋の片ら、銅の藥罐、鍋鐵、眞鍮の煙管、何でも同じこと、お望みなら山吹色の小判でも、貴方がたの鼻の先で、見事瞬きする間に銀にしてお目にかける。嘘だと思ふ方は煙管でも、簪でも、お待ち合せのものを出して御覽じ、さア遠慮することはない――」\n 能辯にまくし立てる女を、ヒヨイと覗いて驚きました。\n いつぞや平次の留守宅へやつて來て、覺え書を盜んだ上に照れ隱しに銀簪の曲者の手掛りを聞いて行つた、あの凄いほど美しい中年増に紛れもなかつたのです。\n 併し平次は、人混みの中へ十手を閃めかして、眞晝の盛り場を騷がせるやうな事はしません。\n 手拭を出して、ちよいと頬冠りをしたまゝ、なほも人垣の間から、奇怪な女の一擧一動に、何物をも見盡さずには措かない眼を注ぎました。\n もう一つ驚いたことに、よく〳〵見ると、茣蓙の上に並べた大小樣々の金物は、悉くと言つてよいほどこの界隈で盜まれた品ばかり、それに銀流しをかけて、ズラリと諸人の前に並べたのは、底の知れない横着さです。\n この中には、青銅の香爐もあり、蝋銀の置物もあり、名作の鍔や目貫は言ふまでもなく、ひどいのになると、眞物の小判や小粒さへも交つて居る有樣。それへ一々銀流しをかけて鍋の片やら、藥罐の蓋と一緒に並べたのは、實に人を喰つたやり方です。\n 平次は、すつかり興味をそゝられて、其邊から去りもやらず、殆んど半日銀流しの美人を見張りました。夕方、人通りが少し疎になると、女はバタバタと店を仕舞つて、件の贓品やらガラクタやらを竹籠の中に投り込み、大風呂敷に包んで背負つた上、茣蓙を丸めて小脇に、馴れた樣子でスタスタと柳原の方へ引揚げて行きます。\n\n八\n"
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"role": "assistant",
"content": " 丁度たそがれ時、人通りが絶えて、町家も水の上も、一樣に雀色に見える頃でした。柳原の淋しい土手に掛ると、\n「ちよいと、お神さん、暫らく待つてもらひたいね」\n 平次はたまらず聲を掛けてしまひました。\n「何だえ、氣味が惡い、用といふのは私にかい」\n「さうだよ」\n「氣障な事をすると承知しないよ。憚り乍ら銀流しの、お六だよ」\n 相手の出やうを測り兼ねて、お六と名乘る女は夕闇をすかします。\n「お六、御用ツ、神妙にせえ」\n キラリと十手。\n「あツ、お前は平次」\n 飛退くと何うして肩から解いたか、重い荷物は草の上に落ちて、お六は柳を小楯に屹となります。\n「お六、逃がれぬところだ、觀念してお繩を頂けツ」\n「何をツ、銀流しのお六姐さんは、安岡ツ引の手に了へるやうな代物ぢやねえ。下手にあがくと棘を刺すよ」\n「默れツ」\n 平次は飛込んで女の肩をハタと打ちました。\n「あツ」\n 逃げようとする手首に絡んだのは、何時の間に掛けたか一條の捕繩。\n「神妙にせえ」\n これはお六が弱いのではなく、平次の手練があまりに鮮やかな爲でした。宵の人足が、三人と立ち止らないうちに、銀流しの美女は錢形平次の手でキリキリと縛り上げられてしまつたのです。\n 近所の自身番まで、繩付の女と大風呂敷包みを持ち込んで、ピシヤリと障子を締めきると、平次は早速、埃りを叩いて見ました。\n「女、もう叶はぬところだ、皆んな申上げて了へ」\n「平次、増長しちやいけないよ。調べはお役人のすることだ、岡つ引のくせに、お六姐さんの口を取らうなんて、生意氣だよ」\n と、大變な鼻息、嬌聲を發して、繩目の身をもがく年増の美しさは一通りではありません。一筋繩で行きさうもないと見て、平次は早速攻手を變へて見ました。\n「默れツ、若い女四人も殺して、命が幾つあつても足りないお前だが、素直にして居れば、まだお上にはお慈悲もあると言ふものだ」\n「何だつて? もう一度、言つて御覺よ。私が四人の若い女を殺した? 冗談も休み〳〵言つておくれ。盜みはしないと言はないが、人殺しなどは身に覺えのないことだ。銀流しのお六は、蟲を殺すのさへ嫌ひな佛性だよ。つまらない事を言つておくれでない」\n さすがにお六も驚いたやうです。\n「隱したつて駄目だよ、證據は銀流しの簪だ。柳橋で藝妓の奴を殺したのを手始めに、四人まで手にかけた、お前は鬼のやうな女だ」\n「何だ、その事か、それなら早くさう言へばいゝのに、――錢形の平次親分も箍が弛んだね」\n「何?」\n「柳橋で殺された藝妓の奴は、私の爲には親身の妹さ。私は放埒な上にやくざな亭主を持つて、夜盜の仲間にまで身を落したから、身内の迷惑を考へて餘所々々しくしてゐるうちに、可哀想に妹の奴が殺されてしまつたのだよ」\n「――」\n「何とかして敵を討ちたいと思ふばかりに、捕物の名人とか何とか言はれるお前さんのところへ行つて、樣子を探つたまでの事さ。覺え書を取つたのは惡かつたが、さうでもしなきア下手人の心當りを話してくれるお前ぢやあるまい」\n 平次の打撃は見るも氣の毒でした。お六は惡い女には相違ありませんが、眼に涙を浮べての述懷に嘘があらうとは思はれません。\n「よし、俺が惡かつた。繩も解いてやらう。默つて見逃してもやらう。空巣狙ひやコソ泥を縛つて手柄顏をするやうな平次ぢやねえ」\n「――」\n 平次は女の繩を解き乍ら、續けました。\n「其代り、これだけは隱さずに話してくれ、――近頃お前のところへ行つて、眞鍮の簪二本に銀流しを掛けさした女があるだらう」\n「ある、ある。その上不思議な事に金脚の簪にまで、念入りに銀流しをかけさせて、小錢がないから今晩戌刻の鐘が鳴つたら、筋違見附の側まで、簪を持つて金を受取りに來てくれと言つた―」\n「何、何?」\n\n九\n\n それから一刻ばかり後。\n 銀流しのお六は、筋違見附外の、薄暗い塀の蔭に立つて居りました。\n「銀流し屋さんかい」\n 何處からともなく現れた一人の女、薄暗がりの中で、顏は見えませんが、洗練された聲が、妙に人なつかしく響きます。\n「へエ――、御新造樣。お簪は確に持つて參りました」\n「有難う、それでは引替へにお代を上げますよ。それからこれはお駄賃」\n「まア、こんなに澤山、どうも有難う存じます」\n 小腰を屈めたお六の後ろへ、ヒラリと廻ると、女の左手は後ろから前髮に掛りました。\n「あツ」\n 實に非凡な強力。\n 惡黨がつて居るお六も、抗ふ力もなく首を延ばし上げられて、左の小脇にかい込まれると思ふ間もなく、薄月に閃めく銀簪、あはやお六の右の眼へ――。\n「えツ」\n 何處からともなく飛んで來た錢が一枚、怪しい女の振り上げた肘をハタと打ちました。\n「あつ」\n 簪は下に落ちて、砂利の上にチヤリンと鳴ると、怪しの女はお六を突き飛ばしてサツと五六歩、闇の中へ。\n「待て、御用ツ」\n 追ひすがつた十手は、發矢と女の肩を打ちました。\n× × ×\n 平次の手に捕へられた怪しの女は、踊りの師匠のお才だつたのです。\n この女は武家に育つて相當に武術も心得、ことに女には珍らしい強力でしたが、年頃になつてから身を持ち崩し、踊りの師匠になつて、世を忍んで居たのでした。\n 娘盛りの頃、強盜に手籠にされさうになつて、銀簪で眼を突いて危ふいところを免れたことがありました。それ以來、妙に銀簪で人の眼を突きたい衝動に惱まされ、どうしても思ひ止まることが出來なかつた――と、後で本人は白状して居ります。今日の言葉で言へば、ヒステリー性の偏執狂とでも言ふべきでせう。\n 一度は布袋屋の主人萬三郎と人知れず契りましたが、間もなく吉原藝妓の奴に見替へられたのを怨んで、あの晩、鶴吉の離屋を拔け出し、凉舟に歸つて、亂醉した船頭の睡りこけて居る隙に、奴の眼を突いて一と思ひに殺し、その上怨みある萬三郎の羽織の紐を千切つて死體の手に握らせるやうな小細工までしたのでした。\n それだけで止せば、恐らく誰も氣の付くものはなかつたでせうが、一度銀簪の誘惑に負けて血を見ると、一度常軌を逸したお才の頭は果てしもなく狂つて、自分より若くて美しい女さへ見れば、銀の簪で眼を突きたいといふ、恐ろしい誘惑に惱まされ始めたのです。\n 二人まで眞物の銀簪で殺しましたが、三人目から銀簪もなくなり、新しく求める力もなかつたので、眞鍮簪に銀流しを掛け、銀のつもりにして狂つた心を慰めました。\n 五人目にはそれも盡きました。たつた一本殘つた母の形見の金簪を持出して、それにまで銀流しをかけて、お六を最後の犧牲にしようとしたのです。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ウィネツカは札幌と大体緯度が同じくらいで、風物にも似たところがある。とくに春は感じがよく似ている。ともに北国のおそい春であるが、それにもまた捨てがたい情趣がある。\n 二度目のウィネツカの春を迎えて、異国の生活にも大分馴れたが、やはり少し草臥れたのかもしれない。二十年間住んだ札幌のことなどが、時々思い出される。アメリカから北海道へというような気持で、北国の春を、思いつくままに綴ってみた。\n\nウィネツカの早春\n\n シカゴの郊外、このウィネツカの町にも、ようやく春がきて、毎朝目をさますと、春の陽があたたかく、ガラス戸越しにさしこんでいる日がつづく。\n 今年は何十年ぶりとかで、雪の少かった年で、おかげで芝生は、早くから緑の姿をとり戻している。しかし何といっても緯度が高いので、立木はまだ冬の姿のままである。このあたりは、針葉樹は全然ないところで、街路樹も庭木も、みなエルムとか、樫とか、柏とかいう、闊葉樹ばかりである。それらの木は、まだ一月もしないと、新芽が出ないので、今のところは冬姿のままである。\n 街路樹はもちろんのこと、庭木といっても、日本でいう庭木とは、全く意味がちがっている。全然人工の加わっていない自然のままの立木である。このあたりは拓けてからまだそう年月が経っていないので、もとの原始林の立木を、そのまま残したものが多い。それでこれらの庭木は、たいていは、三階建の家の屋根をはるかに越す背の高い木が多い。そういう大きい立木が、芝生の中に、きわめて無造作に、にょきにょき立っているのが、即ちこの土地での庭なのである。\n こういう風景は、日本内地では、ちょっと見かけられないが、札幌では、何も珍しいことではない。札幌の北大の構内は、エルムの学園などといわれて、戦前のまだ豊かであった日本では、東京などの若い人たちの間に、大いに人気があった。あの北大のエルムも、原始林の立木を、そのまま残したものである。\n 十分に生長した闊葉樹の冬姿には、一種の魅力がある。葉がない点は、全く枯木と同じであるが、どこか枯木とは、ちがったところがある。葉は全然ないが、それは生きている。やがて緑の天蓋をもって、地上における人間の生活をまもってくれる気配が、その姿の中に秘められている。\n 葉がないという点では、枯木も冬姿の闊葉樹も、全く同じはずである。しかしわれわれの目には、生きているものと、死んだものとの差が、ちゃんと分る。いわゆる科学的にいったら、ちょっと変な話であるが、事実分るのだから仕方がない。\n もっともこの差は、案外簡単なところにあるようにも思われる。それは枝振りである。亭々とそびえる樫の大樹が、空一杯に枝を張り、その梢が無数の小枝に分れて、網の目のように交錯している。その一本一本の小枝の先端にまで生命がみなぎっているように見える。それは生きている枝の微妙な形から受ける印象であろう。枯木だったら、第一そういう細い枝などは、大半落ちていようし、また少し残っていても、形はかなり崩れてしまっているにちがいない。\n いずれにしても、北国の春に特有な単色の雲を背景に、葉のまだ出ない大きい闊葉樹の群が、細い小枝の網を空一杯に張っている姿を、窓越しに眺めていると、北海道のおそい春が思い出される。\n ワシントンの新木さんから、ポートマスの桜が四、五日早いらしい、皆で花見にきたらどうかというたよりがあった。何だか、残雪の札幌にいて、新聞で東京の花のたよりを読んでいるような気がした。\n\n北海道の山うど\n\n 前の戦争中、ニセコの山頂で、雪中飛行に関係のある研究をしていたので、ニセコ附近には、たくさん知り合いが出来た。\n そのうちの一人に、K村のYというおばさんがいた。山頂へ登る足場として、そのY家へは、始終立寄っていたが、そこでいろいろ北海道独特のものを御馳走になった。そのうちで、一番印象に残っているものの一つに山うどがある。\n 北海道の山うどは、少しかおりが強すぎるくらいで、香気の方では全く申し分がない。しかし一面その野性味が勝ちすぎて、少しあくどいのが欠点である。ところがYのおばさんのところで時々出してくれた山うどは、東京の一流の料理店で出すうどに、北海道の山の香気だけを添加したような趣きがあり、味もかおりも、全く申し分のないものであった。\n こういう山うどは、北海道に二十年も住んでいて、その時まで食べたことがなかった。それである日、おばさんに「このうどはどこで採ってくるのですか」ときいてみた。そしたら、おばさんは我が意を得たりとばかりに、「先生はこのうどが好きですか。これは私の自慢の品なんです。実は山うどをとってきて、畑で作ってみたが、どうも香気が抜けるので、近所の山を拓いて、そこに植えてみたら、こういううどが出来たんです」と、種あかしをしてくれた。\n 考えてみると、もう十年近くも昔の話である。十年前の山うどの香気を、今ごろになって思い出すというのも、ずいぶん妙な話で、われながら少し可笑しくなる。どうもその理由は、アメリカの食い物が一般にまずいからであるらしい。\n これは何も奇矯の言を弄しているわけではなく、本当にアメリカには美味いものが少いのである。もちろんうんと金を出せば、何でもあるだろうが、一般にはそういうことは望めない。普通のアメリカ人が食っているものは、ビフテキか、鶏のフライか、豚の揚げたのかである。品名だけ並べてみると、如何にも御馳走らしく見える。また若い中学生諸君にとっては、本当の御馳走であろう。しかしわれわれ年配のものにとっては、これらはいずれも人体に対する燃料であって、御馳走とはいい兼ねる。というのは、いずれも冷凍か、低温貯蔵品であって、味としては、牛も豚も七面鳥も、いずれも蛋白質の味しかしないのである。\n もっともこういう蛋白質には、栄養価は十分ある。それで山うどの香気を知らないアメリカ人は、こういうものを美味しい御馳走だと思って毎日食っているらしい。そして凄い馬力で一日中働いて、どんどん生産を上げている。しかしその生産品のかなりの部分は、諸外国への援助で消えてしまったり、また朝鮮で消耗されたりしている。考えてみれば、少し気の毒な気もする。\n こういうことをいっても、何もアメリカ人の勤労をわらうわけではない。日本人が、食物を人体の燃料として生産を上げ、アメリカ人が山うどの香気を解するところから、人間の幸福が生れるのではなかろうか。それはかなりむつかしいことではあるが、不可能とは考えられない。山を拓いたところに山うどを栽培した話などが、案外こういう問題の解決に参考になるような気がする。\n\n鰊\n\n 北海道はもう鰊も大分終りに近づいた頃であろう。北海道の食物の中で、一番美味しいものといえば、けっきょく鰊に落ち着くのではないかと思う。\n 東京などでは、鰊といえば、およそ不味いものの代表のようになっているが、あれは配給制度から受けた悪名で、鰊の罪ではない。鰊の味は、とくに鮮度によって、ひどくちがうので、北海道の鰊は、けっきょく北海道でなければ味わえないのである。"
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"role": "assistant",
"content": " ところがアメリカでは、案外に美味い魚が食べられる。冷凍食品が普及しているお蔭である。肉の方は、どうも冷凍は有難くないが、魚の方は案外にいい。初めは食料品店の冷凍魚などは、大いに軽蔑していたが、料理法を少し工夫すると、なかなか美味いものがあるので、この頃は少し見直している。\n 冷凍魚は、非常に便利である。いろいろな種類があるが、どれもちゃんともとの味をもっているので、ちょっと感心する。アラスカの蟹の肉の冷凍などは、巧くもどすと、北陸の蟹そっくりである。驚いたことには、烏賊の冷凍まであって、これは刺身にして食って、ちっとも変でない。生姜もあるし、醤油はひどく上等品がきているので、ほとんど不自由しない。鰊の冷凍したものがあったら、庭で炭火をおこして、もうもうと煙を立てて焼いて、近所の連中を驚かしてやりたいのだが、妙なことには、冷凍の生鰊は見当らないようである。たいてい温燻にするらしいので、それもちょっと煙らしただけで、半分生のようなのを、低温で保存したものである。これはなかなか美味い。\n 鰊や鰯は、アメリカと限らず、欧洲の諸国でも、上等の魚とされている。もっともアメリカのヘリングと、日本の鰊とが、全く同じものであるかどうかは知らないが、もし同じものだったら、鰊にはとんでもない大きいものがいることを、アメリカへきて初めて知った。というのは、シカゴの水族館には、三尺近い鰊が悠々と泳いでいるのである。\n シカゴのように、一番近い海から、六百マイル以上もはなれている、大陸の真中で、海の魚をかっている水族館があるのだから、ちょっと驚かされる。しかも魚がどれも皆非常に元気で、身体にこけの生えているような奴が、一匹もいない。この水族館は、私のお気に入りの場所で、もう三回も行ったのだから、大ていの魚とは、もうお馴染になっている。三尺の鰊も、もちろんお馴染の中の尤たるものである。\n ところが、先日フィルド博物館という、自然科学と人類学との博物館へ行ったら、とんでもない魚がいた。もっともこれは水族館ではないので、魚の標本は全部剥製になっているのであるが、その中に、長さ六尺近い大きい青魚が、壁の正面にかかっていた。形が鰊に似ているので、何だろうと思って、名札を見たら、ヘリングと書いてあるので、ひどく驚いた。\n ヘリングと鰊とが同じものかどうかは、専門家の人にきいてみなければ分らないが、非常に似たものにはちがいないであろう。とにかくアメリカには、長さ六尺の鰊がいるということは、私も初めて知ったが、鰊の本場の北海道の方の中にも、御存じない方が多いだろうと思って、ちょっとお知らせする。\n\nバターの洪水\n\n アメリカでは、時々思いがけないものが、生産過剰になって、政府が大いに面喰うことがあるらしい。その一つの例は、最近のバターの洪水である。\n バターの生産が、近年加速度的に増していたところに、この頃マーガリンが著しく進出してきたので、ひどく生産過剰になったわけである。政府は既に多量のバターの手持ちがあるのに、その上まだ毎日二百万ポンドの割合で買上げを余儀なくされているそうである。五月になると、バターの生産が最高期にはいるので、一日に五百万ポンドずつ買上げねばならなくなるだろうといわれている。\n アメリカの政府について、一つ感心することは、農民を非常に大切にしている点である。今までの例では、馬鈴薯の生産過剰が一番ひどかったらしいが、その時も政府の大量買上げで、どうにか農民が破産をまぬかれたそうである。一昨年だったか、その前の年だったか、コーンが生産過剰になった時も同様である。ところが今度は、バターがひどく余ってきたので、これも酪農保護のために、政府が一手に引き受けて、買上げをしているらしい。何でも今の見込では、この六月の末(アメリカの会計年度の終り)までには、五億ポンドのバターを手持ちすることになるだろうといわれている。\n 五億ポンドのバターというと、日本のバターの年間生産量からみて、その何十倍になるか、何百倍になるかよく知らないが、とんでもない量であることにはまちがいがない。ところで五億ポンドというのは、この六月末までの話で、その後も、速度は少し減るかもしれないが、生産が需要を上廻ることは確実であるから、政府の手持ちはどんどん殖えて行くであろう。いくらアメリカの政府が、酪農の保護に熱心でも、無制限に買上げることは出来ないから、いつかはこのバターの洪水が、もっと表面に出てくるにちがいない。\n 現在政府の買上げ値段は、一流品が六十七セント四分の三であるから、日本金にして、一ポンドが約二百四十五円である。二流品はそれより二セント安いので、一ポンド二百三十八円弱である。ところが貯蔵費が一ポンドについて、月に十七セント(六十一円強)かかる。四ヶ月も手持ちをすると、原価が倍になってしまう計算になる。それで政府の方でも、いつまでも手持ちをしていることは出来ないであろう。いよいよ持ち切れなくなった時には、その一部をなんらかの形で放出することになるにちがいない。\n バターが安く放出されることは、一般庶民の食生活にとっては結構なことであるが、酪農家にとっては、重大問題である。もし国外放出ということになったら、差し当り日本などが、その禍福を同時に蒙るわけである。一般の日本人にとっては有難いことであるが、それは同時に日本の酪農を潰してしまうことになり得る。そのところ痛しかゆしである。\n 酪農は、乳製品による金銭収入という以上に、地力の保持に絶対必要なものである。それで外国における酪製品の生産如何によって、日本の酪農が左右されては、これは重大な問題である。世界の中の日本というと、体裁はよいが、わずかな浪風でも、すぐひびいてくるところは、ちょっと厄介である。\n\n弾丸道路\n\n 東京大阪間に、弾丸道路をつくる案が、いよいよ実現されそうである。少くもその調査と予算の編成とには、とりかかったという話をきいた。どうも本気でとりあげるらしい。\n アメリカの道路のことを思えば、東京大阪間に、こういう弾丸道路が一つくらいあるのは当り前のことで、またそれが出来れば、輸送上非常な便宜が得られることも事実である。一千億円くらいかかるそうであるが、道路がよくなれば、ガソリンの消費量も減るし、車体の持ちもよくなるので、数年にして採算がとれることも本当であろう。\n しかし日本としては、そういう弾丸道路よりも、もっと手近かなところに、金もあまりかからないで、さらに重大な懸案がたくさんありそうである。第一、この弾丸道路で、現在の東海道線と同じだけの貨物をトラックで運ぶと、一年に二百三十億円のガソリンが要る。ディーゼル・トラックでも、重油を年に七十億円使わねばならない。これらのガソリンにしても、重油にしても、全部輸入しなければならないものである。もし輸入が止まれば、一千億円かけた道路が死んでしまう。ところでこれを鉄道にすると、石炭代四十億円ですむし、電化をすれば、電力代はわずか四億五千万円になってしまう。しかも石炭も電気も、国内で間に合うものである。これらの数字は、運輸方面では、日本有数のエキスパートS君の話であるから、十分信用していいと思う。これくらいはっきりしたことが分らないのだから、不思議な国である。\n 一体現在の日本で、なるべく外国にたよらず、自分で生きて行く道は何かといえば、開発が一番おくれている、北海道と東北とに望みをかけるのが、一番自然な考え方である。ところがたとえば北海道の開発にしても、一つ盲点が残されているが、それは輸送問題である。何といっても、最大の消費地である東京との連絡をよくしなければ、どうにもならない。北海道の山奥で、熊笹を切って荒地を拓くことだけを開発だと思ったら、とんでもない間違いである。\n この頃は大分よくなっているのであろうが、数年前には、東北線の貨車をとるのに、一ヶ月も二ヶ月もかかったことがある。あの細い糸のような東北線一本で、四国九州を併せただけの面積の北海道をぶら下げていて、それをあまり不思議に思わないのだから、まことに可笑しな話である。北海道の開発、即ち今日の日本の開発は、まず輸送問題を解決し、ついで住宅問題に手をつけるというような順序をとるべきであろう。日本の中心地との連絡を良くして、人間がまず普通に生活出来るようにすることが、開発の基礎である。その一つとしては、例えば東北線の複線化などが、まず第一に採り上げられるべき問題であろう。これだと恐らく弾丸道路の五分の一くらいの金で片附く問題で、しかも輸入云々の心配はいらない。\n 弾丸道路にしても、東北線の複線化にしても、こういう風に考えると、皆北海道の問題である。このように世界も日本も、それぞれひどく狭くなったところに、近代文明の特質がある点が、ちょっと面白く思われる。\n\nバチラーさんの話\n\n ここの研究所の工場に、B氏という七十歳くらいの老職長がいる。年にもめげず、身体も達者だし、眼もいいので、細かい機械類の細工は、たいていこの老人がしてくれる。一生涯職工で通して、ずっと精密機械をつくっていたというが、如何にもそういう感じの老職工である。\n 毎日十時には、この工場の片隅で、珈琲をわかして、皆でのむことになっている。普通は十分間の珈琲時間であるが、時には少し駄弁ることもある。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 私たち日本婦人は一九一九年において破天荒な刺戟を受けました。それは私たちが世界に触れると共に未来に触れたことです。久しく家庭と因習との窮屈な中に機械的の存在者であった私たちが、一躍して世界の生活に接触し、未来の生活理想と交渉するに到ったことは驚くべき激変と言わねばなりません。\n その一九一九年も今は過去に属してしまいました。そして私たちがこの新春を迎えることは、最早見苦しい旧吾を重ねることでなくて、ひたすらみずみずしい新吾を自ら生むことであると思います。\n 私たちは久しい間の、過去の屈従し現状を維持する生活に飽き飽きしました。それは人間性の無限の発芽を圧抑して、唯だ非人格的の存在を続けるだけの生活でした。私たちは既に朧ろげながらにもせよ、人間として感ずべく知るべき事の幾分を感じかつ知りました。私たちの生活――ほんとうに生活の名に値する生活は文化価値を実現する過程そのものでなくてはなりません。私たちは現在が如何に不完全であっても、この現在の中に絶えず未来へ伸びる人格の芽を持っていることを自負します。この人格発展の可能を信じその実現に努力することに由って、現状を打破しつつ併せて未来を招き寄せつつ、文化主義の生活の中に幾度も幾度も自己を自ら焚き、自ら新生したいと思います。\n\n *\n\n 私たちは今、自己と周囲とをじっと正視します。私たちは迷信の徒でもなく、奴隷でもなく、人形や機械でもないのですから、あらゆる物事に自由討究と自由批判との眼を向けます。\n そうして因習的な価値判断から一切を解放して、改めて新しい価値を、私たちのものである新しい合理的標準に由って定め、すべての秩序を正しき価値に由って配列しようと努力します。いわゆる改造の順序は、第一に生活価値の改造、即ち新しい理想の発見であり、第二に生活様式の改造即ち新しい秩序の構成という順序でなくてはなりません。\n\n *\n\n 私は生活の新しい理想を文化主義に発見し、生活を以て文化主義実現の過程とする者です。この事は既に他の機会で幾たびも述べました。従って私は、文化価値から絶縁した一切の事件を悉く私たちの生活の目的と幸福とを裏切るものとして排斥します。名は如何に美くしそうであっても、その精神が文化価値を持たずもしくは文化価値を持つことが微弱なものであれば、私はそれを拒むことに厳正な態度を取ろうと思います。いわゆる「妥協」とは、この態度を曖昧にする臆病を意味する言葉だと思います。今は私たち一人でも生きて行くだけの確信があるのに、そのうえ世界の道理が国際的正義の名を以て私たちに味方し声援する時代です。私たち婦人は今更小鳥の如く臆病であってはならないと思います。\n\n *\n\n 私は茲に少しばかり、我国の婦人界における指導者側の婦人たちに対して不満に思う所を述べようと思います。最近において私たちを指導されるそれらの婦人たちが特に増加したのは、その婦人たちもまた時代思想の激変に驚いて覚醒されたためでしょうから、私たちはそれらの婦人たちの勇気と熱心とを尊敬すると共に、喜んでいろいろの指導を受けたいと期待しています。殊に私のようにすべてに教養の足りない者から見ると、それらの婦人に多くの企て及びがたい長所を発見します。健康において、科学的知識において、文章と弁論において、活動的能力において、宣伝の実力において、細心な実際的施設において、一々私を驚嘆させます。私がいうまでもなく、新聞雑誌の読者は、それらの婦人を、教育界、宗教界、評論界等の各方面に発見されるでしょう。\n しかるに、それほど尊敬し、驚嘆している指導者たちのいずれに対しても、私が窃かに、最も大切な根本的な或物が欠けているという不満を感ぜねばならないのは、まことに遺憾千万なことだと思います。\n\n *\n\n それらの婦人たちは、従来の引込思案な指導者たちとちがい、いろいろ啓蒙運動や社会運動に積極的の活動を示されています。家庭内職の実演展覧会を開かれる人たちがあれば、混食や代用食の実演会を開かれる人たちがあり、家庭改良の展覧会を開かれる人たちがあれば、婦人労働奨励の演説会を開かれる人たちがあり、婦人職業紹介の団体、廃物利用会、托児所、虚礼廃止同盟の会合等を作られる人たちもあります。\n 私が不満に感じるのは、それら婦人たちの運動が唯だそれらの活動だけに終始して、その活動の中にそれ以上の最も大切な或物を示されないからです。また、その活動の外に、それ以上の最も大切な或物を直接の目的とした活動を全く示されないからです。\n\n *\n\n 私の言う「最も大切な或物」とは何でしょうか。一言にして言えば生活の理想です。言い換れば、それらの活動は唯だ目前の物質生活の利害のみを眼中に置いています。最も大切な文化生活の理想に照して、その価値を批判することが閑却されています。活動とはいえ、その実際は妄動に等しいものです。行き着く港を定めずに、激変しつつある時勢の荒浪の中に、無方針の航海を続けているのです。それらの指導者側の婦人たちは、私たちに対して自覚を叫ばれ、内省を奨められるのですが、私たちから見れば、自覚といい内省ということが何よりも「我々の生活の理想は如何」という第一義的なことに向けられねばならないことを、かえってそれらの婦人たちは失念しておられるように思われます。\n すべての活動は、それが文化価値実現の過程に役立つと否とに由って私たちの生活の内容となることが出来ます。文化生活の理想に由って批判されず精錬されない行為は、無駄と錯誤とが多く、中には反対に文化生活の創造を妨害するものさえあります。今後の生活が個人各自の自覚の上に立つ生活であらねばならぬというのは、この点に自覚することをいうのだと思います。"
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"role": "assistant",
"content": "\n *\n\n 私は少しく具体的に述べてそれらの先輩婦人たちに抗議します。指導者側のそれらの婦人たちの中の或人たちが、経済的労働を私たち婦人に奨励されるのを見ると、その目的が利殖の外に出でず、その方法が振売商人の暴利を狙う不正手段と大差のないものであるのに呆れます。例えば二円の資本で水菓子を工場の労働者に売って、一時間ほどの中に一円の純益を挙げるというような事を、得意になって私たちに教えられるのです。それは文化主義の理想と相容れない経済上の専制思想――即ち資本主義の思想であることに、その指導者が全く自覚を欠いておられることだと思います。\n また或人たちが各種にわたる家庭の内職を紹介して婦人や小児に奨励されるのを見ると、その労銀の余りに低いことや、その仕事の余りに人間を過労させることや、殊に幼年期の子女までを昼夜にわたって時間の制限もなく座職の中に虐使することやについて、経済的、倫理的、人道的の顧慮が全く払われていないのです。その一例を言えば、玩具の「起き上り小法師」を材料は手前持ちで千個作って、得る所の賃銀は纔かに壱円二十銭です。また麻を心にして布をくけ附ける下駄の鼻緒は百足作って十六銭の賃銀が与えられるだけです。一千個の「起き上り小法師」、百足の鼻緒、それは大分の熟練をつまねば、家庭の婦人の手で一日に仕上げることは出来ないものでしょう。今日物価の騰貴に追随して、是非ともその賃銀だけの収入を得なければならないとすれば、一日十五、六時間の勤労を費して、それを仕上げるでしょう。ああ、この単調な、不愉快な、大量な、苦痛な長時間の労働、其処には物質に使役される人間の機械化、過労のための人格の圧殺があるばかりです。乏しい賃銀ながら、それに由って生物として飢餓線を守ることは出来るでしょう。しかし人格者としての生活は無残にも枯されてしまいます。文化生活に必要な精神的教養の余裕もなければ、自己の天分に応じた独得の文化生活を創造する見込も全く断たれてしまいます。これが果して私たちのために望ましい家庭内職でしょうか。その指導者たる婦人たちは文化生活の理想について自覚がないために、その活動は、文化主義の敵である資本制度の下に盲従して、婦人や小児を賃銀奴隷の位地に堕落させるような意外な結果になっているのです。もしそれらの婦人たちの眼が生活の理想に向いて開いていたなら、そのような内職を無条件で取次ぐことなく、賃銀の値上を問屋に対して要求すると共に、内職の過労と人間の機械化とから解放されることを家庭の婦人たちに勧告されねばならないはずだと思います。全国の処女会に関係する指導者側の婦人たちが唯だ「強く働け」というような事ばかりを奨励されるのも、私から見れば何たる無自覚な言動であろうと浅ましく思われます。\n\n *\n\n また台所の構造の改良、廃物の利用、衣服の改良、混食代用食の奨励、贈答や送迎の廃止というようなことに努力される婦人たちについても、それが余りに局限された一部分の改革であって、今日の大局から見て、或物は閑問題であり、或物は徒労問題であり、また或物は文化生活を裏切るものであるとさえ思われます。\n 飢饉時代でない限り、人間に向って不味な食物を以て辛抱せよと奨励することは、人間の本能を無視した不自然な行為です。人間の料理法は永い年月の経験で今日に及んだのですから、一朝にして人間の新しい嗜好を促すような混食や代用食が発明されようとは思われません。それに、混食や代用食の実行を以て今日の食料品の価格騰貴を切り抜けようとするのは全く見当違いです。物価の調節は政治問題であり、経済問題であり、また政治家と資本家との道徳問題、乃至人生観の問題です。それらの方面に思い切った改革を要求せず、物価の暴騰を放任して置いて、唯だ大多数の経済的弱者である無産階級の人間に、その物質生活を退嬰し得るだけ退嬰せよ、飢えた動物のように如何なる不味い物でも取って露命だけを繋げというに等しい施設は愛をも聡明をも欠いた非人道的な施設だと思います。今日は一方に一人前の料理に百金を費す暴富階級が存在しているのです。それに対して一方に混食や代用食を取らねばならぬという大多数の人間のあるのは何たる偏頗な社会状態でしょう。指導者たる婦人たちがこういう社会状態の矛盾と偏頗とに対して改造運動を起すことなく、強い者の放縦と不仁非道とを許容して置いて、私たち無産階級の弱い者ばかりを、節倹や、過労や、減食や、粗食に由って機械と動物との位地にまで追い詰め、追い詰め、低下させようと努力されるのを見ると、私は文化生活の意義を自覚しない指導者たちを持つことの危険に戦慄します。\n\n *\n\n 廃物利用奨励の愚挙であることはかつて別に述べましたが、贈答や送迎の廃止に熱中される婦人たちに対しても、その事の徒労であるのを私は気の毒に思います。贈答には自ら限度があります。昔から贈答に由って家を亡し産を破ったという例を聞きません。それが物質的理由で出来なくなれば、各自が気が附いて止めずに置かない性質のものです。飲酒の害と同一に言われないものです。私は酒さえも絶対に禁じることに反対しています。贈答の弊害や浪費を注意するのは好いに違いありませんが、贈答や送迎を単に金銭や時間の利害ばかりで批判するのは、愛や趣味のような大切な人間性の発揚を無視した野蛮な行為です。動物や自然人には贈答や送迎の必要がないかも知れませんが、こういう功利主義以上の感情生活を撥無して何処に文化人の生活があり得るでしょうか。私はそれらの婦人たちが進んで芸術の無用をさえ説かれるに到ることを怖れます。\n 世の中には、功利主義的の打算ばかりで生きて行かれない事もありませんから、買物帳をきちょうめんに附けたり、食べる物も食べず、自分と良人と子供との営養を削り取ってまで貯金の殖えることを楽みにして、唯だ口先ばかりで愛とか趣味とかを説き、他人の吉事に祝の品も贈らず、時々の音信に添えて珍しい物の贈答もせねば、他人の旅行に送迎を廃するというような日送りも、それでその人たちの感情が満足される限り、その人たち自身の処世法としては自由であると思いますが、それを印刷物や手紙やで私たちにまで勧告されるに到っては迷惑千万だといわねばなりません。そのような非人情的な運動に、他人の感触を害してまで力瘤を入れられる必要が何処にあるでしょうか。私は敢てそれを無駄なことだと断言します、私たちは経済的の打算ばかりで生きるには余りに自己の尊貴を知り過ぎました。\n\n *\n\n 私は、指導者側の婦人たちが自身を先ず一切の因習から解放することの運動――自己改造の運動――を経ないで置いて、言い換れば、自分自身は旧世界の遺物である物質主義、功利主義、常識主義の汚染を洗い落さずに置いて、この破天荒な世界改造の新時代、あらゆる価値の顛倒しつつある今日に、未来の生活方向の指導者として、私たち一般の婦人に、その時代錯誤の各種の運動を試みられることの矛盾を反省して頂きたいために、以上の直言を敢てしました。\n それらの各種の運動が一時のお祭騒ぎでなく、如何に真面目に熱心に起されても、文化主義の理想と一致する所がなければ、文化主義から絶縁し孤立した一種の遊戯行動であって、いずれも文化運動の体系には属さないものになってしまいます。私たちにはそれがあらずもがなの行為に見えます。そうしてそれらの無用乃至有害な運動に、あたら精力を消耗される先輩婦人たちの徒労を惜みます。露骨にいえば、それらの低級な常識的、物質的、功利的の運動のみに忙しく暮される婦人たちは、どうしてそんな非文化的行動の中に生き甲斐を求められるのであろうかと不思議に思います。\n\n *\n\n 左右田博士は「文化主義の論理」という論文の中で「あるいはあるがままの状態に妥協をなして惰眠を貪らんとする保守主義、退嬰主義、凡俗主義、常識主義、乃至好都合主義や......単に物質的成功を以て文化に対する貢献なりと誤解し、煩瑣なる形式生活に追随するのみを知って人生の意義を解するを忘れたる物質主義素町人主義は皆排せざるべからず」といい、また「われらは道義のためにのみ生くるのではない。われらは常識の民としてのみ生くるのではない。いわんやわれらはいわゆる成功せんがためにのみ生くるのではない。われらは文化の帰趨に朝せんとして文化価値の実現を努むる人格として生きんとするのである」といって、文化生活の水準に登らない孤立無理想の生活を批難されましたが、最近の婦人運動には、この厳粛なる批難の前に撤廃するか、もしくは開眼を施すか、いずれかの勇断を要するものが多いように思います。\n\n *\n\n もしそれらの先輩婦人たちが早く文化生活の意義に通じておられたならば、その一々の社会的行動は、文化価値実現の理想を標準として批判され取捨されて、残るものはすべて文化運動の体系に繋がることが出来たでしょう。のみならず、現在の日本において、同じ文化運動でも、その本末と、軽重と急不急との序次を考察して、大局に関係するものを先とし、局部的なものを後廻しにするだけの用意があったでしょう。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": " 二年間あまり、世間から隔離されている間に、世間は全く変って了った。久し振りに会う友人達は、どうだ世の中は変ったろう、と得意そうに私をながめる。私は、いや思ったほど変ってはいない、と答えることにしているが、私の狼狽と敗北の色はさすがに隠す由もないと見えて、友人達はあまり私の言葉を信用しない様子だ。\n 尤も友人達の云うのは、私の思惑にも拘らず、案外無邪気な内容のものかも知れない。例えば菓子屋の前を通ってもガラス棚がまる空きであったり、米屋が米を家まで配達して呉れなくなったり、丸善が古本屋のようになっていたり、それからバットが大阪の粟オコシ然となったり、商人や交通機関の労務者が著しく権威ある者の如く語ったり、お客は一列に行儀よく並んで車を待っていたり、タクシーに乗りたくても都合がつかなかったり、その他その他数限りない新現象を、どうだ驚いたろう、と私に見せびらかす程度に過ぎないのかも知れない。私は田舎者が都会の親戚を訪ねた時のように待遇される、という程度かも知れない。\n 併しその程度の変化のことなら、私は別に驚きはしないのだ。私の知っていた旧社会から見れば変ったことは大いに変ったのではあるが、元来物を変らないように決めてかかっているのが認識の欠乏で、ものは変るのが当然であり、ことに社会というものが渓谷から平野へ出る川の水のように瀬になったり潭になったりして流れて行く生き物だというのは、現代人の常識であった筈だから、この頃急に変ったからと云って驚ろく方が間が抜けているのである。私が思ったほど変ってはいないというのも、その位いの変化には驚かないという意味で、あながち私の敗け惜しみでないと云って云えなくはない。\n それに、変ったろう、と得意そうに云う友人達も、その裏では案外得意でないように見受けられる場合が少くないのだ。こんなに都合悪い方へ変ったんだからね、と云うような心持ちで、丁度病人が健康な見舞客に対して自分の病気を誇示する場合のような得意にしか過ぎない場合も多いのだ。そういう不健康な得意さはつまりは少しも得意でないことに外ならないが、そうなると主客に顛倒して、私の方が勝利者の側に立つことになる。私はこんな種類の変化をそんなに困った変化などとは考えていない。\n 菓子屋に菓子がなければそれだけ私の経済の節約になるし、米が買いにくくなったので、「日本人は何と云っても三度三度米を喰わなければ」と云っていた封建時代育ちの老人達もその頑冥不霊を取り下げなくてはならなくなるし、特に乗車や出札口での一列制度は交通道徳上大変喜ばしい向上だし、其他其他なのである。こんな変化は、あたり前であるばかりか、そんなに困った変化でも何でもないので、驚かないと称する私の方が正しいようである。――処でこの間も知人の或る小商人が訪ねて来て、世の中は大分、かわって来ましたが、我々は今後どんなになるのか見通しを付けて下さい、と云われたので、事の意外に私は全く当惑して了った。私は紳士に盛り場の案内をたのまれた田舎漢のように呆然として了った。\n こういう皮相な行きあたりばったりの表面現象ではなく、もっと社会の芯の処に大きな変化があるが、それに驚ろいたかどうかと尋ねる友人も、勿論のことなくはないが、併し人間はものごとの本質については、そんなにビックリはしない性質を持っているようだ。人々がビックリしたり動揺したりするのは主として事物の表面についてであって、事物の本質の内面に動くものについては、大哲人ででもなければ中々驚嘆しない。私は幸か不幸か大哲人ではないようである。普通の人間は、表面現象でありながら現在の瞬間見えないものに就いては、恐怖などを感じるが、元来直接には現われない深部の変化については、仮りにそれを心得ていても、殆んど全く鈍感である。私も元来、そういう鈍感な人間の一人であるらしい。物は変るのが当り前だ、という気持ちが先に立って仕方がない。\n そうは云うものの、私は身辺の百般の変化が、何と云っても気になってならないことを、自白せぬわけには行かぬ。そして、気になるとなると、普通の人が気にならない処まで気になって来るのである。古代哲人のような驚歎の能力はないに拘らず、神と動物との中間的存在とか云われる後世風の人間の、あの配慮や心配は私のものであり、配慮や心配は大きなものに就いてよりも寧ろ小さなものに向っての方が豊富である処から、私は今の処、ごくつまらない変化やごく曖昧な推移に、却って一層大きな関心を持たされるのだ。そして私は、この頃特に友人達のことが気になるのである。友人達について色々のささやかな微細なことが気にかかるのである。\n 予め断っておかなくてはならないが、私は何も友情というものを人生至上の価値に数えているわけではない。友愛の対象は唯の一人でなければならぬというような、モンテーニュ風の気持ちは全く持たない。友人は多ければ多いほど楽しいものである。併し一人の友人もなくても、それは又それだけに独特な楽しみがあり得ようとも考えている。私は友人の去就に依存して一喜一憂する方ではない。或る瞬間に友人の性格がガラリと変ったなどと信じ込む一種の精神病は私とは縁遠い。だがそれにも拘らず、友人というものには私は絶大の興味を持っている。友情を頼みとはしないが、友人がどうしているかということは、一等面白い思索だ。之が一等私にとって気になることだ。\n まず友人に遭えば、私は、君はこの頃何をしているか、と尋ねる。何を職業としているか、どういう仕事に従事しているか、と訊ねるのである。他処他処しい友達甲斐のない質問であるが、遺憾ながらこういう儀礼を欠くとこの頃は現実の不便を生じるのだ。それ程この頃は友人達の生活に変化が多いのである。尋ねて見て感心することには――但し決して驚かないのだが――どの友人もどの友人も、相当の就職口があって毎日忙しくて暇がないという返答である。一躍一流会社の支店長級になり済したもの、庶民から一遍に新設官庁の役人に立身したもの、浪人から一足飛びに重役室の主人公となった者、新聞社や雑誌社の尤もな処へ目出たくおさまった者が〔多く?〕、今では曽つての文化的貧民などは地を払って無いのである。\n 勿論こういうことは何の不思議でもない。一般にそういう世の中だから、私の友人達もそうなったに過ぎない。それにしても私の旧友達、財産よりも頭脳の方が比較にならぬ程富んでいた私の旧友達が、財産に類似したものを頭脳の少し下位いにまで一斉に近づけたという事実は、友人である私にとっては、無関心ではいられないことである。之は菓子屋のガラス棚が空になったよりも遙に多く又深く、私の気になる変化ではないだろうか。\n 社会には現下、中小商工業者の転失業問題が喧ましいが、私の友人中には中小商工業者が尠いので問題にしないでおこう。それよりも、私の友情という世界の社会編制が、旧友達のこの一斉就職によって、どんな変化を蒙るか、ということの方が今の私に興味があるのである。私が世の中が変ったということを身近かに感じているのはさし当りこの辺からである。"
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"role": "assistant",
"content": " 私でない世間の人から見た場合、やはり似た現象は夫々身辺にあるに相違ないが、併しそれはただの就職現象の外へは出まい。処が私の身辺では、それがただの就職現象ではなくて、一つの文化現象を意味するのである。この一見さり気ない現象の内に、私は、大きく云って、文化の新しい一つの動向を感じ取る。彼等友人達は、偶然にも(併し総括して云えば必然と云うべきだろうが)、手頃の仕事が見つかったから奉職したに過ぎないのだが、元来が文化人である彼等のことだからその結果はこの後の文化の動きに何か或る変動を与えるに相違ないし、又逆に文化の或る変化が、おのずから彼等への需用と彼等の供給とを可能にしたとも見るべきだろう。この因果関係か相互関係かは、或いは友人達自身には大して気にならぬかも知れないが、私には気になる個処なのである。\n 友人達の就職というような咄しなので、私の気になる点が、あまりハッキリしないかも知れない。之の例として、旧友達が最近急に本を沢山書くようになり出したことを挙げれば、私の着目している個処が少し明らかになるだろう。\n 全く、私がしばらく留守をしている間に、何と私の旧友達(主に哲学者達)は、沢山本を書く習慣を得たことだろう。もし私が誇大妄想狂ならば、私のいないのを見すまして、この時とばかり著述をやり出した、と考えるに相違ない。アカデミーにいる沢山の旧友達、先輩、知人で、これと思われるような人は、大抵幾冊かの本を出し始めたが、どれも之まではあまり筆を執らなかった人達だ。以前私の考え方はこういう人達と全く一致しなかったが、その頃沈黙を守っていた人達が一斉に著作し始めた。して見ると私には、「自然は真空を忌む」というトリチェリーの命題が、舌の下まで昇って来て、之を抑えるのに骨が折れる。そういうことを口にすれば、私は立派な妄想症の精神病者に数えられるのだろうから。だが少くとも、そこには文化という空気の、交換に似たものがあるらしいと云うても、必ずしも不遜ではないだろう。この旧い空気が曽つて、今の新しい空気を排除していたのだろうか。今の新しい空気は、旧い空気によって排除されていなければならなかったような稀薄な空気だったのだろうか。アカデミーの友人達は曽つて何に遠慮して沈黙していたのだろうか。そして現在何にインスパイヤされて精力的に書いたりしゃべったりするようになったのだろうか。\n この旧友達の労作は、相当に内容の立派なものだと推定する理由がある。私は彼等の昔からの力量を知っているから、読まない内からその価値のあることが判るような気がする。これは以前から明らかな素質だった。併しそれが何故最近になって急に揃いも揃って発動することになったのか。この文化的祝砲の一斉射撃はどういう号令によって行われたのだろうか。――こう云って来ると、私がなぜ友人の就職なども、お節介にも気にかけるかが少しは判ろうと思う。\n 私はこの場合、アカデミーの勢というものを一寸考えさせられる。この一二年の間にアカデミーというものが大変力を増して来た。一つの可能性のような形で冬眠していたアカデミーの諸才能が、時を得て開花して未知の新しい実を結ぼうとしているらしいのが見られる。割合皮相な観察をする人達は、それは社会の新しい文化政策の必然的な影響によるのだ、と説明し去ることだろう。その説明は嘘ではない。併し抑々、この文化政策を可能にしたものは、他ならぬアカデミーの開花を促す当の因子だったのだろう。確かにここに文化の交替に似た或る模糊としたものがあって横たわっている。而もこの或る何物かが、私にとっては、友人達の変化として、私の友情の社会に於ける新編制の形をとって、ハッキリと身近かに現われて見えるのだ。\n アカデミーの旧友知人達が、急に著述をやり始めたのは、それは世間一般に出版が急に盛大になったからに外ならぬ、と人々は云うに違いない。つまり沢山売れるから本屋が沢山出したがるのであり、従って著者としては、冬眠していたアカデミーの才能を揺り動かして執筆の動員に参加したに過ぎない、と云うことも出来よう。そして本が売れるのには又夫々必至の原因があって、一つには大陸へ売れて行くこと、二つには比較的経済に余裕を得た軍需工業労働者が新しい読者になったこと、三つには一般の消費が規正されたから図書への消費が殖えたこと、四つには新体制の魅力やその性格の鮮明を中央から期待する意味に於て特に地方読者が増したこと、等々を挙げることが出来るだろう。又活字によって現地へ行ったような興奮を得るというのもあるだろう。だがそれにしても、アカデミーの著者達に、例えば私の友人達に、何かの新しい勇気か気魄が生じたのでなければ、新しく自信が出たのでなければ、どんなに本屋が要求した処で、出版にまで運ぶことはあるまいと私は考える。本が売れるから著述しようという心理は、少くとも私の知っている立派なアカデミシャンに、相応わしくないように考えられるが、どうだろうか。\n どうも、友人達を主体にして考える限り、問題は、彼等の新しい文化的勇気とでも云うべきものに帰するのではないだろうか。文化も戦闘と同じに、武器ばかりでは片づかずに、士気というものが大切だということを知ることが出来る。――もう一つ実例を挙げると、私の興味を持って気にしている個所が、もっと明瞭になるかも知れない。之も矢張り広い意味でアカデミーに学籍を置いている私の友人達又は知人達のことなのだが。\n 先日街頭で偶然一人の友人に会った。その内に訪ねようと思っていた友達なので、丁度よいと思って休憩を取りながら話しをして見たが、彼はしばらく会わない内に、可なり額がふけ、身なりも老成して来た。少くとも私にはそう見えたのである。話し振りにも落ち付きが出て、青年らしい稚気を脱却したことが眼についた。なぜと云うに、要するに彼はしばらく前、学位を取ったからなのだ。さて家に帰ってから数えてみると、私のごく親しい友人や比較的近しい友人達の内で、この一二年の内に学位を取ったものが、(医学博士は除いても)少くとも六、七人はいるのである。処が一二年前迄は、私の友人の内で学位を取ったものを殆んど知っていないのである。之は何としたことだろうか。\n 私は言葉通り無為と徒然との境遇の内に、いつか不惑の年の瀬を越えて了った。常識の一種からすれば四〇歳はたしかに生涯の一つの自然な転期である。研究室や実験室に立て籠った私位の年輩の学究達は、文科系統であろうと理科系統であろうと、やがて学位を得ていいような自然の季節であるかも知れない。がそれにしても、こんなに一遍に出揃うというのは何故だろう。いや今まで何故私の友人達は一向に博士にならなかったのだろうか。社会に於けるそうした自然現象の一種として説明するには、之は少し現金すぎるような気がするのだ。\n 最近日本の学界の水準がそれだけに高まったとも考えられる。いや少くとも、最近急にそういう高まりを自覚し自己認識するようになった一つの現われと云えるかも知れない。日本の科学的乃至学究的な文化の独立化や向上の最近の遽かな結果である、と見るべきかも知れない。併し疑問は依然として残る。何故、最近に、であり、又遽かに、であるのか。私はここでも、どうしても新らしい文化的勇気とでも、いうべきものを取り出さずには、話しがつかないと考えるのだ。\n 学位は著述と違って、本が売れるから本屋が出したがるというようなものではない。学位論文に取りかかって之を思い切って提出するまでには、多分相当の発心と決意とが要ることだろう。チャンスか潮時か、何かそうした稀な張り切りの頂点がなければなるまい。それは慥かに著述する場合の覚悟の比ではないだろう。と同時に学位を授与する側を見ても、個人的慫慂や一定の積極方針の強調や、又時には大盤振舞のような太っ肘や、学術政策的な決意やがなくてはならぬことと私は考える。いずれの側から云っても、学位を沢山授受されるには、とに角文化的勇気というものが、心理的に必要なのだ。お互いに気をよくしなければ実現しない現象だ。この一二年の間にアカデミーの周りには、急にこの文化的勇気や自信というものが横溢して来た、と見る他ない。私を最も捉えるのはこの間の消息である。私が、変ったと云って気にかけるのはこういう点にあるのである。\n だが問題は残る。この文化的勇気のような心理が抑々なぜ遽かに醸成されたのだろうか。――そうなると、私は、どうも、やはり一種の妄想を禁じ得ないのである。アカデミーの世界から、最近の二年又はもう少し前から、累進的に何ものかの威圧が取り除かれつつ今日に到った、と考える外ないのである。この威圧する幽霊が引き込んだので、アカデミックな学究文化が、急に自由を感じ始め、元気を出し始め、気をよくし始めたに相違ないという妄想である。そういうトリチェリーの真空の説である。この妄想は多分に神秘的だ。なぜと云うに之を充分合理的に論証したり実地に実証したりすることは出来ないらしいからだ。併し文化の空気が交替し、文化の重力の場が交替したらしいと云う限りでは、健全な常識だろう。ただそのために、私の友人達に博士が沢山一遍に出来たなどと云うから、神秘的幻想になるのだが。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "一\n\n さかまき靱負之助は息をはずませていた、顔には血のけがなかった、おそらくは櫛をいれるいとまもなかったのであろう、乱れかかる鬢の白毛は燭台の光をうけて、銀色にきらきらとふるえていた。――ああ靱負はうろたえている。真名女はそう思った。そしてそう思ったときに、自分のやくめがどんなに重大であるかということを悟った。\n「この事を誰が知っていますか」\n「まだわたくしだけでござります」\n「使の者はどうしました」\n「わたくしの住居にとめ置いてござります」\n 真名女はちょっと眼をつむった。――おちつかなくてはいけない、決してせいてはならない、いま自分が云うどんなひと言も忍城の運命にかかわらずにはいないのだ。つむった眼をしずかにみひらき、冷やかとも思える声で真名女は云った。\n「ではこなたはさがって、その使者を誰にも会わせぬようにはからって下さい、そして子の刻(午後十二時)までにとしより旗頭、それからものがしら全部を巽矢倉へ集めてもらいます」\n「すればやはり館林へ御合体でござりますか、それとも......」\n「あとで、それはあとで云います」\n きびしいこわねだった。\n「みなが集って、みなの意見をも聴いたうえで云います、それまでは決して表だたぬよう、ほかの者たちに気づかれぬようにして下さい」\n 靱負之助はさがっていった。\n 真名女はひとりになった、両手を膝に置いたままじっと眼をつむった。自分の心がどのような状態にあるか、まずそれをみきわめる必要がある。もしや動顛していはしまいか、平常から覚悟はきめていたと信ずる、その覚悟にゆるぎはないかどうか、じっと息をつめ、縫物の針のあとを数えるような冷やかな丹念さでおのれの心のありどころを追求した。......たしかに、心は動揺していた、つねにはあれほどはっきり自分を支えていた心の中心が、いまはぐらぐらとゆるぎだし、なんにでもよい、力かぎり縋りついてゆけるものを求めて足ずりをしているようだった。\n ――そうだ、この弱いうろたえた気持はたしかに自分のなかにある、これをごまかしてはいけない、自分はまずよくよくこの惑い乱れた心をつきとめるのだ。われとわがからだの腑分をするように、真名女は自分の臆した心をどこまでも追いつめていった。\n 豊臣秀吉が関白太政大臣の権勢と威力をもって、北条氏討伐のいくさをおこしたのは、そのまえの年(天正十七年)十月のことであった。天下の諸雄はほとんどその旗下にはせ参じ、明けて今年の三月には小田原城をまったく包囲してしまい、さらに石田三成、大谷吉継、長束正家らをして上野、武蔵、下総の諸国にある北条氏の属城を攻めおとすべく軍を進めさせた。......酒巻靱負之助のもとへ来た使者というのは館林城からのもので、すなわち石田三成が三万の大軍をもってくに境へ迫っている、すぐにこちらへ合体せよという知らせであった。北条氏はいくさが始まるとすぐ、関東諸国にある属城の主たちを小田原へ召集した、これは本城のまもりを固めると同時に、属下の離反をふせぐ策だったのである。城主たちはおのおのその兵の大半をつれて小田原城へたてこもった、したがって留守城はどこも防備がてうすだった、兵も武器もとぼしかった、それでみずからたのみがたしとみた足利、飯野、板倉、北大島、前岡、西島などの諸城の人々は、北条氏規の居城だった館林の城へ合体したのである。\n 忍の城主成田下総守氏長も子息氏範と共に精兵五百余騎をしたがえて去り、城に残った兵はわずかに三百そこそこだった、あとは老人と幼弱者と婦人たちだけで、もちろん武器も足りなかった。真名女は良人氏長の留守を預るとき、この事実をよく承知していた、そしてもしも小田原が落城し、関西の軍勢が押しよせて来るようになったら、城に火をかけていさぎよく自害しようと心をきめていた。――成田氏長の妻として、太田三楽斎のむすめとして、世に恥じぬ死にかたをするのが自分のつとめである。そう覚悟していたのだ。しかし事情はまったく違ってしまった、小田原城が重囲のうちにあってなお頑強にたたかっているとき、はやくも関西軍の一部が攻めよせて来たという、城に火をはなって死のうという覚悟は、小田原城が落ち、良人もわが子も討死をしたあとのことである、まだ本城はたたかっているし、良人もわが子もいくさのなかにいるのだ、自分の死ぬときはまだ来ていないのである、まかせて去った良人が生きているうちは、預った城をまもりとおすのが妻のつとめなのだ。\n\n二\n\n しかしはたしてそれが可能であろうか、三百にたらぬ兵と、充分でない武器とで、三万の敵軍に対抗することができるであろうか。\n 真名女は身ゆるぎもせずに坐っていた、あたりの空気が重みをもっていて、それが四方から圧し縮まってくるような息ぐるしさだった、堪えかねて喘いだ、誰かを呼んで身を支えてもらいたいというはげしい衝動を感じた、それはまさに堪えきれぬはげしさだったが、真名女は歯をくいしばって自分のそのよろめく心をみまもった。その衝動に負けてはならない、体を躱してもならない、――さあ弱音をあげるがよい。とかの女は自分に云った、――女はこころ弱いものだという、どれほど弱いか、どれほど臆病であるかすっかり吐きだしてしまうがよい、みせかけの強がりや、つくりものの勇気などではとてもこの難関に当ることはできないのだ、もっともっと、あるだけの弱さ、あるだけの脆さをだしきってしまえ、骨の髄まですはだかになるのだ。\n みずから自分を突きのめし、鞭うつような気持だった、それはたたかいであった、靱負之助がさがってから半刻あまりの時間ではあったけれど、その短い時間のうちに真名女のたたかいがあったのだ。どこかでひそやかな、さむざむとしたもの音がしていた、雨のようでもあり遠い潮鳴りのようでもある、かなりまえから耳についていたのが、しだいにはっきりしてきたと思うと、やがてそれは館の庭にある竹叢に風のわたる音だということがわかった、氏長が大和のくにから、はるばるとりよせた箆竹というもので、植えてから十年ほどにもなる、ひろくて長い優美な葉をつけ、雨にも風にもよきふぜいを添えるし、また矢を作るのに適していたから、殖えるにしたがって城中のそこかしこに植え移してあった。その竹叢にいま夜風がわたっているのだ、そしてそのさやさやと鳴るかすかな葉ずれの音をそれと聞きとめ、あああの竹だったかと思い当ったとき、真名女はふと、いつかしら自分の胸が軽くなっているのに気づいた。それは心がおちつき場をもったしるしだった、弱さは弱さなりに底がある、その底をつきとめ、その底をたしかに踏みしめたとき、竹叢にわたる風の音を聞きわけるゆとりができたのである。かの女はやがてしずかに眼をみひらいた、あれほどよろめきたゆたっていた心が、とにもかくにもおちついていた。自分には、自分にできるかぎりのことしかできない、十のもので百のたたかいをするちからは自分にはない、それはたしかだ、けれども十のものを十だけにたたかいきることはできそうだ。そういう気がしはじめた、軍の法もよくは知らないし、奇略とか妙策とかいうものもない、自分はごくあたりまえな女である、平凡なひとりの妻にすぎない、ただその平凡さをできるかぎり押しとおし、つらぬきとおすことよりほかになんのとりえもない、そしてそのかぎりなら自分にもできるはずだ。\n あらいざらい弱さ脆さを吐きだしてしまったあとの、おちつき場を得た心の底からすこしずつちからがわきあがってきた。それはもうごまかしではなかった、作りものでもなかった、真名女はそれでもなおよくそれをたしかめてから、はじめてふところ紙をとりだして両手をぬぐった、両の掌にはじっとりと膏汗がにじみ出ていたのである、それからしずかに座を立っておのれの居間へはいっていった。そこには二人の侍女が燭をまもっていたが、それをさがらせて、室の上座にかざってある鎧の前へいって坐った。それは良人が出陣をするときに、「いざという場合にはこれを氏長だと思って死ね」\n そう云いのこしていった品である、真名女はしっかりとその鎧をみまもった。\n「申上げます」襖のむこうで侍女の声がした、「酒巻殿おあがりにござります、みなみな仰せつけの場所に伺候つかまつりましたとの言上にござります」\n「やがて出ると申せ」\n 侍女はしずかに去った。真名女はなおしばらくのあいだじっと坐っていたが、やがて娘の甲斐姫に来るようにと伝えさせた。姫はそのとき十四歳だった、母に似たきわめてうるわしいみめかたちをもち、心もおとなびていたしからだつきもすぐれて大きかった。\n「申しきかすことがあります、こちらへおすすみなさい」\n 真名女はそう云って向き直った、甲斐姫はしずかに母の前へすすみ寄った。\n\n三\n\n 姫に良人の兜を捧げさせて、真名女が巽矢倉へわたったのは子の刻をかなり過ぎてからのことだった。そこには留守年寄の靱負之助をはじめ、成田康長、正木丹波、舟橋内匠、新田常陸介、成田次家などの旗がしら以下、番がしら格の者たち三十余人が集っていた。かれらの多くは老人であり、実戦の経験もほとんどなく、永禄三年に上杉謙信と戦ったときも、壮年で従軍したのは、そのなかで靱負之助ひとりといってよかった。もちろんこの期におよんで未練な考えをおこすほど卑怯な者はないであろう、しかし事態の重大さがかれらを動揺させていることはたしかだった、真名女はそれをはっきりと認めながら、「館林からの使者のおもむきは、靱負之助からすでにきいたことと思います」としずかに云った。"
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"content": "「使者の口上には、この城をひきはらって館林へ合体するようにとあります、みなみなはどう思われますか、ありようの意見を申し述べてもらいます」\n しばらくは息苦しい沈黙が広間を占めていた、それで靱負之助が答をうながすと、新田常陸介が同意の者の意見を代表して、館林城へ合体するのが良策であると答えた。\n「忍城はまもりもてうすく、兵も武器もとるにたらぬ数ではあり、とうてい大軍をひきうけて戦うことはできません、それにひきかえ館林の城は防備も堅く、上野八ヶ城の人数が合体しておりますから、これと力をあわせれば存分に合戦ができると存じます」\n「わかりました」\n 真名女はうなずいて人々をみまわした。\n「いま常陸介の申した意見をもっともと思う者は前へすすむがよい」\n かれらは互いに眼をみかわしたが、やがてほぼ半数の者が席をすすめた。\n「あとの者はべつに意見がありますか」\n「われらは」と舟橋内匠が云った、「いかようともおかた様のおぼしめしどおりにつかまつる所存でござります」\n「それは意見ではあるまい」常陸介がきっと向き直った、「おかた様おぼしめしどおりとは、われらも申すことだ、いくさ評定であるかぎり、殿お留守をあずかる責任をも考えあわせ、しかとした所存を申上ぐべきではないか」\n「これがわれらのしかとした所存なのだ」\n ふたりはそこで激しく議論をたたかわした。さいぜんからおなじ問題がやりとりされていたものとみえて、ほかの人々も二派にわかれて、こわだかに云いつのった。しかしやがて、だまって聴いている真名女に気づいて、はてしのない議論をやめた。しずかになった広間の四壁に、燭の光が人々の影をおどろおどろしくうつしだしている。\n「おかた様にはいかがおぼしめしまするか」\n 酒巻靱負之助がはじめて口をひらいた、真名女はうちかえすように云った。\n「わらわはこの城をまもります」\n 無造作な、なにげない言葉だった、常陸介がずっと顔をあげた。\n「軍議ゆえぶしつけにおうかがい申します、城のふせぎは備わらず、武器は足らず、しかも僅かに三百の兵をもって、おかた様には、まことに三万の軍勢とおたたかいあそばすお覚悟でござりますか」\n「そうです」\n「それにはなにかおぼしめす軍略でもござりますか、城の内外にある老幼婦女をどうあそばしまするか」\n「常陸介はわらわをなんとみるぞ」\n「............」\n「わらわを女とはみぬか、ここにいる姫を少女とはみぬか」\n 常陸介は言葉につまった。\n「おんなの口からはおこにもきこえようが、いかに堅固な城に拠ればとてたたかいに勝つとはきまるまい、余るほどの武器、精鋭すぐった大軍をもっても、負けいくさになるためしは数々ある。城にたよる者は城によって亡びる、武器にたよる者は武器によってやぶれる、大切なのは城でも武器でもなく、それをもちいうごかす人の心にあるのではないか、十万百万の兵も烏合の衆では足なみも揃うまい、これに対して一騎当千と申す言葉がある、これはその人の強さではなく、たたかう心のあらわれを申すものだと思う、その心のあらわれが、軍の運をきめるのではないか」\n すこしも気負った調子はなかった、平常どおりの優雅な夫人のこわねだった。\n「わらわは兵も武器も足らぬとは思いませぬ、弾丸ひとつ、矢ひと筋、その一つ一つにむだがなければ武庫にあるだけでも余るくらいです。兵はなるほど三百そこそこでしょう、けれどたたかいは兵だけがするものではない、忍の領土に生きる者はみな兵となってたたかう筈です、老人も、幼児も。婦女も、......すくなくともわらわと姫とはたたかいます」\n そう云って真名女はしずかにうわぎをぬいだ、甲斐姫もぬいだ、ふたりとも下には鎧の腹巻をつけていた。\n\n四\n\n 評定はその一瞬にきまった、館林へ合体しようと云った常陸介とその同意の人々も、むろん忍城のまもりにつく決意をかためた、真名女はその評定がもはやゆるぎのないものだとみきわめると、良人の兜をとってしずかにかぶり、\n「ではあらためて、唯今からわらわが忍城のあるじになります、この甲冑は下総守氏長さまのおきせかえでした、この甲冑をつけて命ずることは、下総守の下知と思ってもらいます」\n そう云いながら立ちあがった真名女のすがたは、甲冑もよく似合って、ひじょうに凜乎としたものだった、人々は歎賞のこえをあげながらひとしく平伏した。......真名女はそれをみおろしながら――これでたたかいの第二にも勝った。そう思い、兜の眉庇のかげでほっと太息をついた。はじめにおのれの弱い心に勝ち、ここでは城兵の戦う心をかためた。真名女はこうして、敵とたたかうまえに、まず味方の備えをたたかい取ったのである。\n あくる日の朝、酒巻、舟橋、成田次家、新田、成田康長の五人が本丸へまねかれた。真名女は甲冑をつけて上座につき、五人のつくべき役目を申しわたした、すなわち酒巻靱負之助は総奉行に軍監を兼ねる、舟橋内匠は武庫奉行、新田常陸介は槍、弓、鉄砲奉行、成田次家と康長は城塁奉行として、城の門木戸をかためる、そしてその各役目の下におくべき番がしら手代まできちんときめた。かくてその日のうちに、城下町はいうまでもなく、領内のはしはしまで城主の名をもって布令書がまわされた。それには関西の軍勢三万余騎が攻めて来ること、城主はじめ留守の将士は城をまもってたたかう覚悟のこと、領内の民たちのうち忍城にたてこもるべき心ある者は老幼婦女にかかわらず城へ入るべきこと、その心なき者は仔細なくたちのくべきこと、以上四カ条をわかりよく書いたものであった。その一方では、糧食から矢竹、鉛(弾丸をつくるため)、領内にある刀、槍のたぐいを買上げさせた。つぎの日あたりから領民が集りだした。城主の恩にむくゆるためか、領土をまもろうとする心からか、老人が女が子供たちが、みんなかたい決意の色をみせて集って来た、それは五日のあいだ続いた。そしてもう来る者はないときまったとき、真名女はかれらと対面をした。領民たちは本丸の馬場にあつまっていた、真名女は姫に兜を持たせて城壁の上へあらわれた、五人の旗がしらが扈従していたが、萌黄村濃の鎧に太刀を佩いた真名女のすがたは五人の武者をはるかにぬいてみごとだった。領民たちはその壮美なすがたに心をうたれ、互いに感動のこえをあげながら、あたらしくたたかいの決意を誓いあった。\n すぐに戦備がはじめられた。弾丸を鋳る者、矢を作る者、防塁を築く者、糧食を運ぶ者、木戸を結う者など、城の内外はめざましいほどの活気に満ちてきた。また城中の武士の婦人たちだけで城壁の外廓に壕を掘った、これはひじょうに大掛りなものだったが、しまいまで婦人たちだけでやりとおした。......この壕を掘りはじめてから間もなくのことである。靱負之助がみまわっていると、婦人たちのあるひと組が仕事の手をやすめて、なにかひそひそ囁きあっているのをみとめた。近寄ってなにをしているかとたずねると、ひとりが手に持っていた笄をさしだして、「このような品が壕のなかに落ちていましたので」とふしんそうに云った。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"content": " 踏絵は掌で頤を支えて山木の話を聞いていたが、ジロリと上眼使いをして、\n「よくわかった。わちきは嘘だと思わない。でもね、山木、もし、万一、お前がその時刻に「すず本」をぬけ出したのをだれかに見られたとしたらその話は通らない。説明しようとすればするほどいよいよお前は二進も三進もゆかないことになる。何しろ生優しい事件じゃないのだからね」\n 山木はまた臆病そうな眼つきになって、\n「しかし、王様が証明してくれるだろう。王様さえ......」\n 皆までいわせずに、\n「王様が殺されてたらどうする」\n 山木は泣き出さんばかりの顔になって眉を顰めていたが、ややしばらくの後、急に満面に喜色を漲らせ、\n「おい、踏ちゃん、助かった。大丈夫、大丈夫」\n と夢中になって泳ぎ出すようにしながら、\n「ああ、僥倖々々、ひょっとすると、これァ助かる......実はね、胸突坂を駈け降りながら、なにげなしに花子の家の二階を見上げると、花子がこうやって窓の閾に肘をついて真上の有明荘の方を眺めていた。月が顔へあたって、ふだんでも白すぎる顔が蒼白く闇の中に浮き上って、まるで女の恨みといったような凄い形相をしてるんだ。今にも宙乗りして、夜叉のように髪を振り乱して飛んで行きそうでゾッとした。......とにかく、俺が有明荘を出たのが四時少し前で、一件のあったのは四時十分ごろだとすれば、ひょっとすると花はあの一件を見ている。俺の記憶ではちょうど月は西へ廻って玄関の窓へまともに射しかけていたような気がするから花のところから何もかも見えた筈だ。......と、すれば俺は助かるわけなんだが......」\n 踏絵は唐突に口をひらいて、\n「花子が窓から顔を出していたというのは確かなんだね。はっきり見たんだね」\n「だから、夜叉のような面をして......」\n「花子の部屋に電灯がついていたかえ」\n「いや、真ッ暗だッた」\n 踏絵は上眼使いで額を睨み上げながら何か考え込んでいるふうだったが、ニヤリと唇を歪めて笑うと、\n「花子は確かに見ている。......見てる段じゃない、今朝、鶴子のところで何かおッ始まるてえことをちゃんと前から知ってたんだ」\n「えッ、それはどういうわけ......」\n「訳もくそもないさ。......考えてごらん、一体今まで花子の部屋の電灯が消えていたためしがあったかい? 暗いと疳が立って眠られないといって、いつも五燭の電灯をつけッぱなしにしているだろう。......わちきなんざ、夜更けて帰るときは山王下から駆けるようにして来て、あの明るい窓を見上げちゃいつもホッとするんだ。......それなのに、なぜ昨夜に限って消す? たとえ除夜の晩にしろ、朝の四時ってえ時間に、何の必要があってそんな面をして鶴子の方を見上げている?......土用中でもあるまいし、この寒中に、風に吹かれているわいな、はないでしょう。......とんだお軽だあ、風邪をひくぜ。......今朝、虎ノ門で逢った時、わちきがちょいと鎌をかけて見たらひきつけそうになったっけが、そのわけがこれでよく嚥み込めたよ」\n 山木は膝を揺り出して、\n「すると殺ったのはいよいよ王様だってえことになるわけだね。もし王様でなかったら、あの片意地な娘が黙ってなぞいる筈はない。いわんや君に鎌をかけられて、ひきつけそうになるわけがないじゃないか。これが何よりの証拠だ」\n「さあ、どうだかね」\n「どうだかッて......、王様が殺ったんだればこそ、警察があんな騒ぎをしたんだろう? 夕刊の記事を見たって、どれぐらい大仕掛に伏せたかよく判るんだ。六号活字で、たった五六行で片附けられているじゃないか。それに、もし王様でないとしたら、われわれをこんなふうに放ッて置きァしまい」\n 踏絵はジロリと上眼で山木の顔を見上げ、\n「そうさ、放って置きやしない。わちきたちを血眼になって探してるんだ。そいで、わちきと岩井はほうほうの体で「お茶松」へ逃げ込んだんだあ。「巴里」なんざ、もう裏表に張り込んでいるそうだ。それに、王様が日比谷公園から攫われたってえ評判もある。何だか急に様子が変って、物騒なことになっているんだ」\n 山木は急に顔色を変えてウロウロと膝を立て、脅えたような声で、\n「すると、こんなところにマゴマゴしてはいられない。臨検でも喰ったらそれっきりだ」\n とうろたえるのを、踏絵は手を取って引き据え、\n「なんでいまさららしくうろたえるんだ。うしろぐらいことがなかったら、何も恐いことなんかありゃしないじゃないか」\n 山木は今にも泣き出しそうな顔になって、声を潜めると、\n「恐いことがあるんだ。......実は、ここに持っている」\n 踏絵は、えッ、と息を嚥んで、\n「それは、本当?......まア、なんという馬鹿な......」"
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"role": "assistant",
"content": " 山木はキョトキョトと戸口の方に眼を走らせながら、\n「こんなところへ持ち込む気はなかったんだが、ひょんな羽目になって......」\n と、息をきり、\n「......で、有明荘を出ると真ッ直ぐに「すず本」の傍まで行ったんだが、自分で出向いて、昨夜のシャンパンの瓶をも、可笑しいと思い返して明石町の「呉竹」へ押し上り、女中に瓶を取らしてから四時ごろまで寝ころんでいたが、トイレットへ行きながら、なにげなく庭向うの四畳半を見ると、チラリと笑子とバロンセリの顔が見えた。......俺の睨んだところでは、あの刺客を「巴里」へ手引きしたのは笑子に違いないんだが、その笑子が俺を追い詰めて来た以上、その目的は判っている。部屋へ飛んで帰って、瓶を横抱きにして「呉竹」の門を出ようとすると、向う側の片側塀にハッチソンが凭れて何気ない体で張り込んでいる。こう素早いとは思わなかった。せっぱ詰って横手の庭へ走り込み、瓶をぶッ欠いて底だけ取り、板塀を乗り越えて天主公教会の横丁へ出、開国橋の側からタキシーを拾ってここへ逃げ込んだというわけなんだ」\n 突然、ガラリと間の襖が開いて、誰もいない筈の隣りの三畳から、ヌッと幸田節三が入って来た。いや幸田節三だけではない。例の幸田節三の相棒の酒月守、印東忠介、東京貴石倶楽部の松沢平吉、その他もう一人、黒サージの服を着て折鞄を抱えた執達吏体の男と、以上五人が次々に入って来ると、山木と踏絵を真ン中に押し包むようにして物もいわずに坐り込む。三畳はたちまち満員鰭詰となった。\n\n\n\n三十、一輪の洋瞿麦の事\n 並に呑気なる鼻唄の事\n\n\n\n さて夕陽新聞記者古市加十は、安南皇帝附き諜報部長宋秀陳から、今朝噴水の鶴が安南の国歌を唄ったという取とめない一揷話をきくと、卒然としてこの錯雑紛糾した事件の真相を洞察てしまった。どんな事があっても暗殺者の手から救い出し、今まさに帰京の途中にある仏国大使が伺候する明朝四時までにホテルに帰して置かねばならぬと、警視庁の全機構が眼も当てられぬ錯乱状態で捜査追究に力めているその当の安南皇帝は、つい警視庁の鼻の先、ところもあろうに日比谷公園の「噴水の鶴」の台座の下にいられると看破した。ああ、燈台下暗らしとはこのことだと、例によって卑俗極まる感慨を催しながら、及ぶ限りの才覚を非常招集してさまざまに考究したが、見受けるところ台座の方からは入って行けぬのだから、それはどうしたって何かの通路によってその下に到達されたのだと思う他はない。加十は小一時間近くベンチの上に坐って呻吟を続けていたが、やがて予期せざるインスピレーションのお見舞を受け、思わずピョンとばかりベンチから跳ね上った。\n 加十が北大の土木科に蛍雪の功を積んでいるうち、浅見博士の「徳川時代の上水道工事」の講義に追従するため、嫌々ながら、「享保撰要類集」や大久保主水の「天正日記」の古地図を引繰り返して、大伏樋の配置を研究した憶えがある。その記憶によれば芝田村町からこの日比谷ヶ原一帯の地下には、神田、玉川二上水の大伏樋が、さながらクレエト島の迷路のように縦横無数に交錯している筈なのである。\n 武蔵野はもと沼沢沮洳たる荒野原で、井戸を掘れば、汚水にあらざれば満潮干潮をほしいままにする海水が湧き出し、すこぶる清浄な水に乏しかった。家康はこの地に府を開くに当り、赤坂溜池及び神田山の下を流れる水を市中に疎通せしめて僅かに需用を充たしたが、常に混濁且つ涸渇するので、天正十八年大久保藤五郎に命じて上水池を検せしめたところ、井の頭池の水が飲用に適するを発見して神田上水を布設させたが、三代将軍家光の寛永年間には、玉川清右衛門に多摩川を水源にする玉川上水を設けしめ、さらに元祿年間には河村瑞軒の設計によって石神井村三宝池を水源とする千川上水を通じ、市井に大樋を伏せ、各所に溜井戸を設けてこれを市民の飲用に当てた。なお分水としては、三田、青山、亀有の三上水があった。\n この二上水大伏樋の通路を述べると、神田上水は北多摩郡三鷹村の井頭池に発し、上井草の善福寺池の水を合せて目白台の下に到り、小日向台の麓に沿って後楽園内を流れ、水道橋附近で大樋をもって神田川を渡り、神田、日本橋、京橋に供水し、日比谷門下の地下を通り数寄屋門附近で濠に達する。\n 玉川上水の方は西多摩野羽村から多摩川の水を分岐し、四谷大木戸から市中に入り、虎の門、田村町を経て日比谷に達し、一旦神田上水の大伏樋と合し、更に分れて山下門橋から西に迂回して馬場先門橋の附近で濠に達する。\n これらは上水の幹線だが、この大伏樋から無数の分樋が縦横に走り、麹町の地下一帯は、かのパリ市の暗渠道にも劣らぬ複雑極まる大地下道を構成している。一旦その大伏樋の中へ入れば、一度も地上に現われることなくして、一方は京橋、日本橋を経て小日向台町まで、一方は虎の門を経て四谷大木戸の地下に達することが出来るのである。栗田一夢の「天明雑集」を見ると、足立郡新井方村百姓市兵衛の伜新助、すなわち、例の稲葉小僧新助がこの大伏樋を利用して、自在に活躍している。天明五年九月十六日の夜、例の如く麻布六本木の附近から、当時廃止されていた青山上水の大伏樋へ入り、悠々と地下を漫歩して飯倉から芝新堀まで行き、黒田豊前守の下屋敷の庭先へ忽然と姿を現わしたところを、警衛の武士に発見されて捕われ、同年十月廿二日浅草で梟首になった。\n 明治四十四年に刊行された「東京市水道小誌」を見ると、明治四十年に岩崎久弥の千川水道会社の所有になった千川上水の旧伏樋だけは掘り起された事実が見えるが、他の大伏樋の迷路は、蜿蜒十数里にわたって今もなお大東京の地下を蜘蛛の巣のように這っているのである。大伏樋の事実は「上水樋仕様」の古地図と共にわれわれの記憶から失われ、そのような怪奇な大地下道が、アスファルトの砥道の下を縦横に走っていることを知るものはあまり多くはあるまい。「上水樋仕様」を見ると、大伏樋は高さ六尺、幅四尺五寸の、一種の地下溝渠で、周囲は大谷石で畳まれ、二町隔きに四間四方の溜井戸が設けられてある。今は四周の石壁は苔蒸し、半ばは風化して甚だしく脆質になっているが、なお自在にその内部を遊歩することが出来る。この秘密の暗道こそは、魔都「東京」を形成するあらゆる都市機構のうちもっとも魅惑に富む部分でなければならぬ。\n 加十の受売りをして思わず考証めいた閑筆を弄したが、まずこれぐらいで止めて置いて、すると、一体どこから皇帝はこの伏樋の中に入りこまれたものであろう。この暗道は地下十五尺のところを通っているのだから、容易なことで入り込むことが出来ぬ筈である。この附近に大建築でも始まっていれば、そこで大伏樋が断ち切られ暗道の口が露呈する筈だが......ふと思いついた。今、田村町一丁目で放送局の大地下工事が始まっている。地下二階の大建築だという事だから、思うに大伏樋は必ずやそこで断ち切られ、工事場のどこかで大暗道の入口がアングリと口を開いているに相違ない! つまり、王様は何かの都合でそこから入り込まれたのに違いない、という具合に、加十の推理は一気呵成にここまで辿り着いた。日ごろ血の廻りの悪い加十としては、なかなか天晴れな出来栄えだったのである。\n さて加十はそうと見込みをつけると日比谷公園を走り出し、足も空に放送局の工事場まで駆けて行ったが、いきなりそこへ入り込むかと思いのほか、一丁目の交叉点を越えて南佐久間町の方へ飛んで行く。小学校の裏手の、小さな門構えの家の玄関を引開けると、案内も乞わずにズンズンと二階へ上って行き、呆然としている女中を尻眼にかけ、壁際の大きな書棚の中を一心に掻き探し始める。\n この家は、もと北大教授、今は東京市土木局嘱託浅見厚太郎博士の邸なんだが、すると加十はここへ大伏樋の古地図を探しに来たものと思われる。さながら狂乱の有様で黴臭い古書箱をひっかき廻していたが、やがて、「天正日記」と誌された和綴の本を引っぱり出すと、巻末についている地図を引きちぎってポケットに納め、本棚の上に置いてあった小さな手携電燈を引ッ攫うと、物もいわずにその家を飛び出し、家の前でタクシイを拾って銀座の松坂屋の前に行き、茫然と町角に立って河童の皿のついた自動車の通行を計算している秀陳の傍へ行って、もう三十分したら田村町一丁目の放送局の工事場まで来るように口早に命じて置き、そのタクシイでまた田村町の角まで戻って来た。\n 板囲いの中へ入って行くと廿尺ほど掘り下げられた工事場の周りには、三台ばかりのコンクリート・ミキサアが夜風に湿めり、赤錆びたレールの上にはいくつもトロッコが引っ繰り返っている。鉄筋やモルタルの袋があちらこちらに堆高く積まれ、何さま物々しいばかりの有様。\n 加十は手携電燈の燈火をたよりに穴の縁を廻って、夜番詰所の小屋の傍まで行き、息をころして内部の様子を窺って見たが、さすが元日には夜番もここへ寝ないと見え、森閑として人の気配もない。また穴の縁まで戻って来てあちらこちらと眺めると、向う側に歩み板がついているからそっちへ廻って行ってそろそろと穴の底へ下りて行く。ちょうど基礎工事の割栗がすんだばかりのところで、大きな穴の四周には大地の断面が寒そうな地層図を描いて地膚を露き出している。見ると内幸町側の断面に、そこだけ大きなカンヴァスが懸けられてあるので、思わず胸を轟かしてその方へ走り寄り、そいつをひんまくって見ると、ああ、果して! 加十の推理には寸毫の誤りもなかった。\n そのカンヴァスの裏には、新宿の地下道のような古色蒼然たる暗道の入口が、欠伸でもするようにアングリと口を開けていたのである。\n 加十はあたかもグアナハニ島を発見したクリストファ・コロンブスの如き感慨をもって惚れ惚れと暗道の入口を眺めていたが、何気なくふと足元を見ると、平らに均された割栗の上で奇妙なものを発見した。\n それは他でもない、一輪の臙脂色のカアネーションが、今そこから咲き出したようなしおらしい様子をして闇の中に匂っていたのであった。この無趣味索然たる建築場の中に高価な早咲きの洋瞿麦が落ちているなど、これ以上不相応なことはない。されば、その嬌めかしさは一段であって、異様に加十の注意を惹いたのである。\n 加十がカアネーションを手に取って眺めると、それは茎を短かく切られ、明らかに服のボタン穴に揷されたものだということが判る。\n ああ、この一輪の花は建築場に詩趣を添えるほか、ある重大なことを物語っているのである。......王様はここから暗道へ入られた。\n 読者諸君も多分御記憶になっていられるでしょう。第一回、酒場「巴里」の場で、安南王宗竜皇帝が倫敦仕立てのタキシードの襟に婀娜に臙脂色のカアネーションを揷していられたことを。これがその夜の花だったのである。\n 加十は眼を輝かして花を眺めていたが、やがて喜悦に耐えぬ声音で、\n「ああ、果して果して、俺の見込みに間違いはなかった。これで王様が「鶴の噴水」の下にいられるという事が明瞭確実になった。......よし、ひとつこの古地図をたよりに台座の下まで辿り着き、王様を掴まえて談話を取ってやらねばならん」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "「ああ、それはほんとの事だ!」と、小倉は口走った。\n「僕は、社会の、秩序という大きな看板に隠れて、自分の利欲のみを得ようとしていた。それは全くだ」\n「ほうら、白状してしまったわ。あなたはね。高々船長ぐらいになって、三上さん見たいな人をいじめて、ご自分はまた、自動車か何かに乗った耄碌爺からわけもわからないことをいっていじめられたいの。およしなさい。仰向いて唾を吐くのはやめるものよ。だけど、あんたが船長になると、今度は、ほんとに純粋な生娘が、あんたに惚れてよ。そして、船が着くたんびに、あんたに、ダイヤモンドの指輪を『愛の表象』としてねだることよ、ホホホホホ。それは、あんたに幸福をもたらすわね。私みたいな、ええ、私は淫売よ、それが、どうしたっての、小倉さん、あんたは淫売よりも、一生涯を通じての娼妓がお好きな一人でしょうね、ホホホホ。だけど、あんたは、さっき『僕が愛してると同じように僕を愛してる女がある』っていったわね。私、私、私だってだれにも劣らない愛を持ってるんだわ、だけど、私は前科者なのよ。ホホホホホ。世の中の人間は、自分を縛ってる鉄の鎖が、人をも縛ってると思うと、安心して自分の鎖が軽くでもなるんだと見えるわ。それはね、奴隷道徳の鎖よ。因襲の鎖ってのよ。だけどね、小倉さん。私には、そんなことはないのよ。\n 私そんなこと、夢にも思わないんだけれど、たとえばね、もしか、私があんたを愛したくっても私が淫売ならその資格がないとでも、あんたはいいたいんだわね。いいえ、そうよ、ま、黙ってらっしゃい」彼女は、小倉が何もいおうとしてもいないのに、あわてて彼のいうのをさえぎった。\n「私はあんたに愛させてくれるように、頼む資格もないと思ってるのね。だけどね、小倉さん、私は幻の階段を追うような利己主義者は、私の方でいくら頼まれてもいやなのよ。それは意気地なしの考える生き方なんだもの。それは私たちが、こんな恥ずかしい商売をするよりも、もっともっと恥ずかしい、堕落した、外道のやり口よ。\n だけどもね、小倉さん、もしあんたが、そうでなかったら、もしあんたが立派な人間で階段なんぞ認めない人だったら、私は、私は、あんた見たいな人に初めて会ったことを白状してよ。そして、私は、あんたを、世界じゅうで一番強い、弱い者の味方としてなら、私はあんたを愛したいの。だけどもね、何だって私はばかなんだろう。あんたにはいい人があったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。\n 私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ......私おとうさんに......」\n\n 二一\n\n その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を鏝で焼くように重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であった。極度の歓びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合ったような一夜であった。\n 三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、各の思い出を、その夜は焼きつけた。それは永劫にさめることのないほどの夜であるべきであると思われた。それほどその夜は二人にとって大きな夜であった。\n 人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の下に転倒させるような重大な事件があり、社会においては、全社会を聳動せしめるような大事件がある。そして、それらの事件が必ず夜か昼かに行なわれ、その事件とはまるで関係なしに、夜になったり、朝になったりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、ばかげた、不思議な感じをきっと起こさせるものだ。中には「ああ、おれにとって、あれほど重大なことがあったのに、どうだろう、夜が明けた」と思わせるのである。\n 三上と、小倉とは、各が、そんなふうな感じをもって、朝の六時に起きた。二人ともはれぼったい目をしていた。\n 一夜は明けた。そして、重大なる事件は未解決のままに、夜を持ち越して、明けたのであった。それは、一夜を持ち越したために、事実の形を千倍もの太さにしてしまった。一夜――五時間――伝馬繋留――水夫睡眠――何でもないことであった。それは全くきわめて平凡な詰まらないことであった。\n ところが、それの舞台を、社会から、万寿丸にまで縮めると、問題が由々しく大きくなるのだった。\n とまれ、小倉は「階段」のことは忘れたにしても、一応は、本船へ帰ってから、万事を解決した方がいいと考えた。ところが、三上は、それはばかなやり方だ、と考えた。そこに、三上と小倉との差違があった。\n 二人はその家を出た。そして、海岸を伝馬のある方へ逆に歩きながら、その事件の締めくくりについて考え合った。\n「おらあ帰らんよ」と三上は、さっきからいい続けていた。\n「でも帰らなきゃ様子がわからないじゃないか」これは小倉の言い草だった。\n「様子はわからんでもいいよ。あの伝馬をたたき売るか、質に入れるかして、おれたちはどっかへ行った方がいいよ」三上は自分の計画を初めて口に出した。\n「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし行李もあるし、そいつあ弱るよ」小倉は全く困るのだった。彼は船長免状を取る試験のために、二度も沈没したりして、それに必要な履歴が実地として取ってあった。それは海員手帳に記入されてあった。\n「だから、さようならって僕がさっきからいうのに、いつまでも君がぐずぐず、ついて来るからよ。君はサンパンを雇って帰れ。そして、三上が伝馬を盗んだとでも、何とでもいって、置けばいいじゃないか。僕はこれを売って、どこかへ行くんだから。行李や、手帳なんぞほしくもないや。早く君は帰れ!」\n 三上はクルッと反対の方を向いて、桟橋の方へ歩を返した。小倉も無意識にそれに従った。\n「だって、すこしも君だけが悪いことはないじゃないか、大体船長が無理なんじゃないか、だから、帰ったって何ともないよ。帰った方がいいよ」小倉は、しきりに穏便な方法をとることを三上にすすめた。\n「何でもかんでもいやだよ、おれは。もし帰る気になったら、出帆間ぎわに帰る。それまでおれは隠れてて船の様子を見ることにするよ」\n 彼はこういってズンズン歩いて行った。\n 小倉は夢でも見続けているように、ボンヤリしながら、三上のあとから無意識に歩いた。\n 三上は波止場に来て、昨夜つないだ船の伝馬にヒョイッと飛び乗った。小倉も乗ろうとすると、手を振って「みんなに、出帆間ぎわにこれ――といって伝馬を指さして――で帰るからといっといてくれよ。なあ」といいながら、グーッと波止場を押して、離れてしまった。\n 小倉は失心したようにたたずんでいた。\n 三上は、その五人前もあるような腕に力をこめて橋の下をくぐって見えなくなってしまった。\n「なるほど、三上は帰れないはずだ。船長を脅かしたんだもんなあ、それを帰れといって、昨夜一晩泊まった、おれは何という白痴だったんだ。三上は、たとい理由があろうがあるまいが、どのみちやッつけられるに決まっていたんだ。三上は、伝馬を質に入れるなんて、やつ一流の計画を立てて行っちゃった。が、それがどんなこっけいなやり方であろうが、やつがのこのこ船へ帰るよりははるかにましなこった。知っていて、陥穽に首を突っ込むにゃ当たらないもんなあ」小倉は行く先を忘れた田舎者のように当惑げにそこへ突っ立っていた。彼の役割は、この上もなく奇妙な、こっけいないいようのない不思議なものになって来た。\n「船の伝馬に乗って来て、サンパンをやとって帰る! 一体どうしたんだ。そしてこの責任は、三上と僕とに、あるんだからなあ。どうなるんだ、一体。ままよ! 帰って見れやどうにかなるだろう」\n 彼はサンパンをやとって、万寿丸へ行くように頼んだ。\n「万寿はいつはいったんだい」と虱小屋から、はい出した兄弟がきいた。"
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{
"role": "assistant",
"content": "「昨夜おそくよ」彼は答えた。\n「けさここへ纜ってあった伝馬は、万寿のじゃなかったかい」と、船頭はきいた。\n「こいつらも知ってら。へ、知ってるはずだ。七時だもんなあ。だが、一体昨夜のことは、ほんとにこのおれが経験したこったろうか、それとも、......全く不思議だったなあ」小倉は昨夜の女のことを考えていた。彼女は賢いそして「純潔」な女だった。\n\n 二二\n\n 小倉は万寿丸へ帰った。当番のコーターマスターは、梯子をのぼり切ると、すぐに、小倉を取っつかまえた。\n「どうしたんだい。心配したぜ、昨夜は、流されやしなかったかって。そして伝馬はどうしたんだ、やっぱりやられたのかい」\n 船に残った者は、なるほど一切の事情を知らないはずであった。そして、サンパン止めくらいの荒れた夜中のことだから、伝馬をやられたために、夜帰れなかったんだと、船員たちは勝手に想像して気をもんでいたのだった。「伝馬は、船長を上陸させて置いて帰りに、橋をくぐる時に、打っつけて、こわれた――それほど古くも弱ってもいないんだが――といえば、船員たちには、どうにかこうにか、三上が帰って来ないで、サンパンの船頭がしゃべらない限りわかりはしないんだが、さてそれでは三上はどこへ行ったということになるし、何も隠し立てする必要もないから、すっかりぶちまけた方がいいだろう。それで悪かったら、またその時のことだ」と、小倉はとっさの間に考えた。\n「ナアに、やられやしないんだよ。妙なことになっちまって困ったんだよ」小倉はほんとに、今そのことについて、口を切って「実際これはおれの考えてるように簡単に片のつく問題じゃない、全く困ったことだ」ということを痛切に感じた。\n「どうしたんだ。一体、そして三上は?」\n「三上が伝馬で、けさ帰って来てるはずなんだよ」小倉は、三上が伝馬を売り飛ばすか質に入れるかするといった、その、とても実現できそうもない、彼の計画だけはいうまいと決心した。\n「冗談いっちゃいけない。だれも帰って来やしないぜ」\n「それじゃ、おもてでよく、すっかりその事情をくわしく話そう。ちょっと困ったことが起こったんだ。船長と三上とがけんかしたんだ。それを、今おもてで話そう。皆いるかなあ」小倉はこういいながら、もうおもてへのタラップを降りて、駆けて行った。\n おもてでは、ボースンから、大工、水夫たち、全部が、いつでも入港のできるように、準備を整えて、船長の帰るのを待っていた。それよりももっと、三上と小倉との消息について待ち切っていた。\n「どうも済まなかった。ただいま」と叫びながら小倉はそこへ駆け込んで来た。\n「どうしたい三上は」\n「さては女郎買いをしやがったな」\n「伝馬で帰ったのかい」\n「うまくやってやがらあ」\n 各人が考え、想像していたことの最初の言葉が、彼のまわりに、桟橋から船に落ちる石炭のように轟然と、同時に飛びかかった。\n 小倉は、かいつまんで昨夜の困難な航海から、船長の態度から、三上の行為から、宿屋へ――曖昧屋とはいわなかった――泊まって、凍りついた服をかわかして、けさまでかわくのを待っていたこと、三上は、黙って、宿を先へ出て、宿の者へは一足先へ船の伝馬で帰るからといい置いて行ったこと。あわてて飛んで出て、波止場へ来たときには、もう三上は影も見えなかったこと。船長はどんな措置をとるか、打っちゃってはとても置かないだろうということなどを、簡単に、しかし要領を摘まんで話した。\n セーラーたちは黙って聞いていた。そうして、三上が一足先へ出て、まだ帰って来ないということを、小倉ほどに心配しないのみならず、むしろそれをひどく痛快がった。\n「いっそ本船へ乗って逃げたらおもしろかったな」などと茶化しさえした。一向だれもその事に対して「こうしたらいいだろう」という意見を持ち出す者はなかった。だれもが、その単調でない、奇抜な話を聞いて、その話と、事件とに満足してしまった。\n 小倉はここでもまた彼が事柄をあまり簡単に見過ごしていたこと、今では彼一人だけが、当の責任者に転化したことを痛感した。\n 小倉は、非常に善良ではあるが、意志の弱い、そしていわゆる冷静な、分別のある若者だった。それで従っていつでも「事なかれ主義」であった。その逃避的な彼が、旋風的事件の中心に巻き込まれたのだから、たまらなかった。彼は何をどうしていいか、自分自身が何であるか、一体全体どうしたらいいんだか、さっぱり一切がわからなかった。\n だれもがそれまで打ち明けてもいないのに、いつでも、その人間の最も重大な秘密なことになって、自分の手で収まりがつきかねそうになると、だれもが、決して普段それほど親密でもないように見える、藤原へ、相談を持ちかけるのがきまり切った例になっていた。小倉も、この例によって、藤原へ意見を求めようと決心した。\n 藤原は、今まで自分が中心になっていた、その話から、避けて、一方のすみで、黙ってその事件の話を聞いていた。そして、煙草を「尻からヤニの出る」ほどに、やけにふかしているのだった。\n「藤原君。君はどうしたらいいと思うかい」と、小倉は藤原と向かい合って腰をおろしながらきいた。\n「よくはまだわからないけれど、僕の知ってる範囲では、君にも、三上君にも何らの責任はないと思うよ」と彼は答えた。\n「そうだろうか、だけど、三上は十円無理じい見たいにして借りたもんなあ。それに、昨夜は帰らないで、今日は伝馬をどっかへ持ってっちゃったしね。僕は今、一切が僕に責任がかかって来やしないかと思って心配してるんだよ、そら僕には責任があるんだけどね。どうしたらいいだろうか、船長が帰ったら、すぐにあやまりに行ったらどうだろう、ね」\n 小倉は途方に暮れていた。彼はその事柄が帳消しになるためなら、今から裸になって、海へ飛び込めといわれれば、そうすることの方をはるかに喜んで、かつ安心したであろう。彼は「これほどの問題が、まだ片づかない」という、宙ぶらりんの状態であることを極度に恐れた。彼は、この問題が、「いつかは現われるが、まだいつかそれはわからない」ような状態で、一、二か月も続くとすれば、彼は自分と三上との二つの行為をくるめて、道徳的にも、法律的にも――もしありとすれば――物質的にも、一切合切を自分で責任を背負った方がどのくらい楽だったかしれなかった。\n「おれはもう、これが三年越し引き続いた事柄のように考えられる」小倉は、ヒステリーの女のように伝馬の事以外から頭を持ち出すことができなかった。\n「船長にあやまりに行く? それもいいだろう。だが、お前、何を一体あやまるつもりなんだい。雇い入れもしないボーイ長の負傷を打っちゃらかしといて、自分だけは、夜中に上陸したことをかい。難破船のそばをスレスレに涼しい顔をして通過したことをかい。あやまる理由と、事柄とがあるなら進んであやまるがいいさ。だがあやまることのない時にあやまるのは、自分の正しさを誇示することになるか、または、単なるオベッカに止まるよ。そんなに君あわてることはないだろう。事の起こりから、終わりまで、冷静に考えて見たまえ。勝敗は別として、理由の正邪はどっちにあるか、すぐわかることじゃないか。港務の許可なしに夜陰に乗じてコッソリ上陸したり、検疫前に上陸したりすることは、よし、どんな凪の晩の宵の中であっても悪いことに相違はないだろう。だから順序として、その点からまずあやまるべきだろうよ」\n 藤原は、まるっ切りおれとは違った見方をしてる。だが、あれも一つの見方だ。随分乱暴な見方だが真実の見方だ。どうだろう。ほんとうに、ほんとうのことをやってもかまわないだろうか。と、小倉はまだ考えを決め得ずにいるのだった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " これですますかと思うと、真名古はまた「すず本」へ取って返し、今度は階下東側の印東の部屋へ入って行く。この部屋も同じようなつくりの六畳で、廊下を隔てた向うがせせっこましい庭になり、突き当りは築地まがいの高い塀になっている。廊下は左手の方へ鈎形に折れ曲って、その端が手洗場になっている。その左手は階段の降口で、廊下をもう一度曲ってそこから玄関へ出られるのである。手洗場には竹の櫺子格子を嵌めた瓢箪形の窓があって、その窓から見上げると、なるほどいま真名古が歩いた料理場の屋根を三分の二ほど見渡すことが出来る。あとの三分の一の土蔵に近い部分は、張り出した質屋の建物の蔭になってこの窓からは見えない。印東忠介がこの窓から、山木が屋根伝いに抜け出して行くのを見たというのは、これだけではすぐに信用することは出来ないとしても、それを見得る物理的条件はまず充分である。真名古は縁側の雨戸を繰り開けて注意深く庭先に降り立つ。この頃の霜壊で庭の土が極めて脆くなり、地面が鼹鼠の塚のように盛れ上って、堅い地面との間は空隙が出来ているから、わりに軽い物体でもその上に置かれれば跡を残さないということはない。現に真名古の靴跡などは、ちょうど灰の中に靴を踏み込んだように二寸ほど土の中にめり込んでしまった。隈なくそのあたりを探してみたが、足跡らしいものは一つもない。十二月二十七日以来東京には降雨がなく、また風も吹かない。四銃士の一人が、庭の方からは絶対に人が抜け出した跡がないと調査の結果を述べたのは、この器質的な条件のことをいったのである。印東の隣りの部屋はその夜客がなく、一つおいた奥の部屋に村雲笑子とサクソフォーン吹きのウイルソンというのがいた。その方の庭先も調べてみたが、ここにも足跡らしいものは一つも見当らない。少し後先になるが、では玄関の方はどうかといえば、(これは後で訊問したのだが、)定という女中が不寝番の役になって、臨検のあった五時まで帳場の六畳に坐って、朋輩の千代と南京豆を喰べながら無駄話をしていた。六時になったら水天宮様へ二人で初詣をするつもりだったので、結いたての髪を気にしいしい、二人共に横になるどころの段ではなかったのである。玄関から表へ出ようとすると、どんなことがあってもこの二人の目に触れずに通り抜けることは出来ない。真名古はまた二階へ取って返す。山木の隣りの部屋に踏絵とロナルドの部屋である。窓には櫺子格子が嵌って、すぐ下が庭になるから、この窓から忍び出すということは出来ない。後に残ったのはハッチソンと岩井通保の部屋である。岩井の部屋は太鼓なりの渡りを渡って廊下の端にあり、ハッチソンの部屋はそれに向き合うようになった翼の端にある。岩井の部屋は三畳の控えの間のついた六畳間で、印東の部屋とはちょうど反対側の西北に向いているから、木連格子の嵌った窓から見ると、備前堀を隔てて、建築中の本願寺の大きな屋根が、つい鼻の先にくろぐろと聳え立っている。一間半の窓で、三枚の半蔀が嵌っていて、必要があれば上に押し上げられるようになっている。半蔀を押し上げて見ると、すぐ下が玄関の屋根の上で、その端には大きな塘松が築地の塀を越して表の方に太い枝を差し伸べている。真名古はおどおどした様子で立っている女将の方を振返ると、\n「ゆうべ誰が皆の部屋割をしたのかね」\n と訊いてみる。岩井の御前様だという返事だった。真名古は例の通りねむそうに瞼を垂れたまま、窓の下の袋戸棚と框の上を調べ始める。奇妙なものがあった。といったところが別に驚くほどのものではない。むしろこんな場所には極めて有り勝ちなものである。廻りくどいことをいうのをよして簡単にいえば、それは瓢竹斎の竹籠に揷された白梅の投入である。根締に水仙が使ってある。これでは何の奇もない筈であるのに、真名古はそれに目をとめると、急に目付を鋭くしてシゲシゲと眺める。よく見ると、なるほどすこし変ったところがある。見るところ双月流の投入と思われるのだが、これが後ろ向きに置かれているのである。どんな心得のない人間だって、いや、これほどに揷ける心得があるならこんな馬鹿な置き方をするやつはない。正当の位置より四分の一回転ほど後ろ向になっている。真名古は女将に、\n「あれから誰かこの部屋へ入ったか」\n と訊く。入ってはならんというお達しで、垣覗きも致しませんという返事である。図を書いて示すと早いが、口でもいえないことはない。その竹籠は真中の蔀と右端の蔀との合せ目に置いてある。真名古は妙な実験を始める。竹籠を四分の一廻転だけ元へ戻して、つまりふつうに眺められるような位置に竹籠を据えなおしておいて、地袋の上へあがって窓から屋根の棟へ出ようとする。そのとたん、右の方へ突き出している白梅の柄が真名古のズボンの股のあたりに引ッ掛って、グルリと四分の一ほど後ろ向になった。その位置は真名古が先ほど不審そうに眺めたその位置である。この妙な経緯によって、ある人間がこの窓から屋根の上へ這い出したということが適確にいい得るのである。真名古は、例によって懐中電灯を照らしながら屋根の棟を伝って端の方へ歩いて行く。棟瓦の上には格別何の証跡もない。さてその端まで行くと、さっきもいった通り、大きな松が棟とすれすれになって伸び上り、太い枝を塀の外へ伸ばしている。真名古は屋根から松の枝へ乗り移る。枝を伝って行くとわけもなく塀の外へ出る。枝の下にはコンクリートの天水桶があって自然と爪先がその上に届く。わずか一跳躍で地面に降りる。そこにハッチソンが乗って来たロード・スタアが、その夜置かれてあったのである。\n 真名古は靴下のままノソノソと地面を歩いて、玄関からまた内部へ入る。最後に残ったハッチソンの部屋を調べるつもりなのである。さっきもいったように、ハッチソンの部屋は左翼の端にある。玄関の屋根を間に挾んで岩井の部屋と対蹠的の位置におかれるのである。ハッチソンの部屋は岩井の部屋と同巧異曲だが、ただ違うところは、この窓は通りに近いので、窓には半蔀の代りに低い忍返しが付いてい、通りを隔てて向うに備前橋を眺めるような位置にある。この忍返しの具合を見ると、ちょうど山木の部屋のそれと同じ構造である。山木が忍返しを越えて抜け出すことが出来たとすれば、ここからも抜け出せぬことはあるまい。忍返しの下には下便所の屋根が横通りの方へ伸びていて、その端はすぐ通りになる。いままでの三つの条件のうち、この最後の場合が一番いい。もっとも簡単に抜け出せるようになっている。調べて見ると、ここにもまた不思議なものがある。袋戸棚の傍らの柱のそばの紙張の壁の上に、微かながら薄黒い三本の指の跡が残っている。薄黒い油脂のようなものが指先に付いて、それが紙張の壁の上に微かな跡を残しているのである。壁の紙張は歳晩ま近に張りかえたものと見え、どの部分もまだ真新しく、この他には汚点など一つも見当らない。指の跡に眼を寄せて見ると、指の置き方でそれが左手の痕だということが判る。左手の人差指と中指と薬指。なぜこんなところに指の跡がついたか。やってみるとすぐわかる。屋根の棟から忍返しを越えて右足をまず地袋の棚の上へ置く。右手は窓の框に引っ掛けて躰を支え、少し躰を浮かせるようにして左足を地袋の上へ引き込む。そこで音を立てずに畳の上へ降りようとするには、左手は自然に伸びてそこの柱の方へ伸び、左手で柱に掴まりながら静かに畳の上へ足を降すことになる。三本の指の跡は柱に掴まった時に印されるべき筈なのである。\n 真名古は忍返しを越えて屋根の上へ出る。大して時間もとらずにまたすぐ戻って来た。屋根瓦の上を這い廻った手先が真ッ黒になった。それは、すぐ背中合せの、小田原町二丁目の横通りに高い銭湯の煙突が立っていて、風の具合でその煤がこの屋根の上へ落ちるからである。三本の指の跡も自然にこれで解決される。指紋をとって見ればそれがだれであるか、その方も容易に解決されよう。その指の跡は静かに畳の上へ降りるために付いたのではなくて、屋根を通ってこの部屋へ帰って来た男が、地袋の上で靴下を脱ぐために、左手で柱に体を支えたのだということがわかった。地袋の板の上に微かに薄黒い丸い跡が残っていて、それが煤のついた靴下の踵のあとだと見てとられるが、左足の跡だけで右足の方は見当らないからである。現に畳へ降りた真名古の靴下の跡は、その形なりに真黒な跡を畳の上につけてしまった。真名古も止むを得ず靴下を脱ぐ。部屋の襖を閉ち切ると、畳の上へに胡座をかいて、またしても首を垂れて動かなくなってしまった。\n どういう目的によるのか、今暁五時二十分の風検の以前に三人の人物が「すず本」から忍び出てまた帰って来ている。その時間はあたかも有明荘において松谷鶴子が殺害され、皇帝が勝手口から誘拐されたその時刻に相当するのである。ここにおいて、事件はまた一段と飛躍を遂げることになった。沈着緻密な真名古にとっても、この驚異はやはり相当なものであったろう。沈鬱な表情の中に一種苦悶に似た色が貫くように見えるのももっともな次第といわねばなるまい。真名古は印東のおしゃべりの実証を見るためにここに来たのだが、以外にもこういう奇怪な事実に直面せねばならぬことになった。\n 読者諸君は、あるいはこのような重大な検証を、たとえなんであれ部下の一人に任してとほんとしていた真名古の迂濶を指摘されるかも知れない。しかしこれは果して真名古の過誤であろうか。もしかりにあやまちだとするならば、それは天災とでもいうほどのものであろう。探偵小説では一人の探偵が、竈の灰の中まで覗き廻ってあらゆる功名を独占する。しかし、現実の社会ではそんなことはしないのが普通である。\n 真名古は「すず本」の実地検証を軽視したわけではない。現に四銃士のうちのもっとも敏腕な者を抜目なくここによこして充分に検証させている。四銃士の調査したところも、真名古が調査した結果と一向変りはなかった。庭先の土の器質にも玄関の出入りの条件にも人が抜け出したという証跡を挙げることは出来なかった。のみならず、四銃士氏は巧妙な訊問法によって六人の「カアマス・ショオ」の連中を一人ずつ取調べ、おのおの同衾者が自分の傍から抜け出した事実は絶対にないという口供を得ている。検証と訊問とともに少しも抜かりはなかったのである。\n では二階のこの通路はどうかといえば、これは脱出の公算の中へは入らない。なぜかといえば、考えて御覧なさい、われわれの日本家屋で、しかもこの稠密な東京市内では絶対に抜け出せない家屋などは一軒もないからである。日本の家屋は元来そんなふうに解放的な構造になっていることを公算の中に計算しなかったのは銃士の過失ではないのである。\n 花籠の四分の一廻転と、柱のわきの紙張の壁に微かについた指の跡で、それらの人物の行動を察知するのは、真名古のような比類ない穎才にして初めてなし得るのである。いや、こうもいえるなら、真名古だけにチャンスの神がついて廻っているので、他の如何なる秀才もこれに及び得ぬのであろう。\n 真名古の過失はこの比類ない穎才を、その当初自分で用いなかったというその一点に懸かる。しかしここにくればそれはもう運命のようなものである。「すず本」の検証にあまり重点を置かなかったのは、真名古のフィルムの感光膜にはそのとき殺人犯人並びに皇帝誘拐犯人としてのある人物の映像がすでに露出ずみになっていたからである。\n「すず本」の玄関でオートバイの停まる音がし、間もなく一人の警部が入って来て、「お茶松」の地下道でとめの死体が発見されたむねを告げる。真名古は黙然と目をつむっていたが、いつもの物憂そうな調子で、\n「日本座に出演している、金粉踊りのジャネット、手風琴弾きのロナルド、サクスフォーンのウイルソン、タップ・ダンスのメアリー、ローラスケートのジャックリイヌ、唄歌いのミリアム......、この六人をすぐ引き上げてくれ給え。私は三十分以内に本庁へ帰る」\n そして丸めた靴下を不器用に右手にさげ、ヒタヒタと素足で畳を踏みながら部屋を出て行った。\n\n"
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"role": "assistant",
"content": "\n二十九、一泊二十五銭の事\n 並に三鞭酒の瓶の事\n\n\n\n 浅草聖天横町、これをもう少し行くと日本堤になる。馬道と背中合せの、一口におかん通りという薄暗い横通り。簡易ホテルといえば今時の呼び方、御一泊十五銭、風呂も有り升。宿帳をつけると、番頭が湿った掌の上へバットを一本載せて、おつけなさいと差し出す例の木賃宿、これが軒並みに並んでいる。\n 入ると凸凹の黒土の土間で、地下足袋で踏み固められて黒く艶が出ている。青痰やら唾やら、何ともいえぬ悪臭がその土間から立ちのぼる。木理も見えぬほどに汚れた三尺の上り框のとっつきがすぐ階段になって、これを踏み昇ると坊主畳を敷いた三十畳ほどの大部屋があり、幟を染め直した蒲団を着たのが、河岸に鮪がついたほどに寝ころがっている。\n この大部屋と廊下一つ隔てた向うに三畳の小間がつづく。ここへ泊るのは特等級。宿賃もズンと高い。一泊二十五銭。幟でない蒲団を着ようと思うとまた五銭とられる。その奥まった特等室の煎餅蒲団の上に、胡坐をかくでもない、キチンとタキシードの膝を折って孤影悄然と坐っているのは、例の有明荘の六人の一人、有名なる珊瑚王の伜、山木元吉。\n 見ると髪はサンバラになり、顔の色は煤けてほとんど血の気もない。顔を不安げに引き歪め、額には苦悩の皺を刻んで、時々キョトキョトと入口の方へ血走った眼を走らせる。第四回、虎の門の晩成軒で川俣踏絵と怪し気な密会をしたまま、その後杳として姿を現わさなかったが、第九回に至ってこのような蕭条たる情景の中へ再び登場して来た。\n 裾も肩も埃まみれになって、どこを潜って来たのか、上衣の肘に鈎裂きまでこしらえ、いやはや見るもいぶせき有様。どうしたってこれが百万長者の珊瑚王の御子息とは見えない。トーキー出現のあおりを喰って失業の憂目に逢った楽士氏か、銀座裏のバアテンダー氏の成れの果てといったところ。まことに場所柄にふさわしい人体である。\n 秋風落莫とうち沈んでいるところへ、突然襖の外に人の足音がとまった気配がする。それを聞くと山木は、日ごろの緩慢な態度にも似ず、いきなり蒲団の上から跳ね上ってひと跨ぎで窓の傍まで飛んで行き、慌ててガラス戸を引き開けたが、厳重な忍返しが蓋のように窓を閉ざしているほか、太やかな鉄のボルトまで嵌め込まれていて首を通す隙もない。\n 襖の外の人物は遠慮会釈もなく、荒々しく襖をひき開けて部屋の中へ踏込んで来ると、ウロウロと鉄棒をかいさぐっている山木の肩に手をかけて力任せに引き戻すのである。\n もったいぶった書き方をしたが、これは別に刑事だというわけでもなかった。前回、「お茶松」の賭場に手入れがあるより早く、岩井通保と手に手をとってお茶ノ水の土手へ抜ける地下の暗道を通り、無事に天網を遁れた有明荘の住人の一人、岩井通保の秘密の情人、当時売出しのダンサー川俣踏絵そのひとであった。\n お茶ノ水の土手からまっすぐにここへ来たものと見え、手入れのあった時間からまだ三十分も経っていない。前回の通り、焔色の夜会服を着て、見るもいぶせきこの木賃宿の一室へ、さながらニジンスキイの「火の鳥」とでもいった花々しいようすで飛び込んで来た。\n 引き戻しておいて、力任せに山木の横っ面を撲りつけると、青い顔をしてぶるぶる顫えながら、\n「なんで、逃げ隠れする」\n と叫んだが、よほど思い余ったと見え、山木の胸に顔を埋めてヨゝと泣き出してしまった。\n 山木は痴のように口を開いて茫失していたが、やがて眼性の悪い細い瞼の間からポロポロ涙をこぼしながら力任せに踏絵を抱きしめ、"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「あの先刻用事があつて町へ參りましたらこんな花がありましたので買つて參つたのでございます。さうしますと母が其では國府田さんに揷してあげたらよからうと申しますので揷して見ましたのでございますがお氣に召しますかどうかお尋ねしてからと思ひまして此所へ出して置きましたのでございます」\n といつてランプを机へもどして蚊帳の釣手を一隅外してその射干の花を掛物の側へ置いた。僕は射干の花を見ながら正服をとる。娘は側に居て一々それを折釘へ掛ける。シャツをとると\n「少し汗に成りましたから明日洗濯致しませう」\n と丸めて障子の外へ出した。さうして\n「一寸お待ち下さいまし。只今お冷を持つて......」\n 言ひ捨てゝ急いで臺所に行つて金盥へ水を一杯汲んで來た。\n「どうぞお拭きなすつて」\n 手拭が浸してある。其時机の上のランプは障子へくつゝけて閾の上へおろしてあつた。僕は雨戸の間から外の月夜を見つゝ手拭で汗を拭く。汗の身體を拭き畢つたら急に心持がせい〳〵とした。金盥の水を庭へ捨てようとすると娘は\n「それは私が」\n といつて下駄箱から下駄を出して庭へおりた。低い四つ目垣には白い草莢竹桃の花の一簇がさいて居る。娘は金盥の水を手の先で草莢竹桃の根へ掛けた。更に葉から花へ掛ける。水の掛つた葉はきら〳〵と月の光を宿す。垣根の先には横須賀の市街が只一目で其先には海が一杯に月光を反射して銀の板の如く見える。走水から掛けて盆石の如き猿島が攫めさうである。娘は白地の浴衣に一杯に月光を浴びて金盥を手に提げた儘\n「おゝいゝ月だこと」\n と獨言をいひ乍らきら〳〵と光る白い花簇の側に佇んだ。手に提げた金盥もきら〳〵と光を放つて居る。僕は恍惚として此の冴えた外の月夜を見た。さうして自分でランプを机の上へもどして蚊帳の一隈を釣つてもぐり込んだ。娘は再び雜巾で縁側を拭いて雨戸をそつと立てゝかちんと掛金をかける。蚊帳へはひると有繋に暑苦しいので\n「うゝん」\n と唸るやうな聲を出してごろ〳〵して居ると娘は又臺所へ行つて何かこと〳〵音を立てゝ居る。\n「柳や國府田さんはお歸りなすつたのかい」\n 此時細君の聲がした。\n「大層召して入らつしやるやうでございますからさつきの氷がまだ解けますまいと思つて......」"
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"role": "assistant",
"content": " 娘の聲が微かに聞かれた。さうしたら氷袋へ氷を入れて折つた手拭と一つに盆へ乘せて持つて來て僕の枕元からそつと蚊帳へ入れてくれた。かういふことをして貰ふことは心の底から僕は嬉しかつたが然し一方に甚だ氣の毒に感じたから\n「どうぞ休んでくれませんか」\n といつた。娘は\n「消しませうか」\n と机の上のランプの心を引つこませて立つた。次の間は障子が開けた儘であるから娘の蚊帳がはつきり見える。さつきまで蚊帳へはひつて居たと見えて蒲團はまくつて後にあつて二分心のランプが其の蚊帳の中にあつて其側に雜誌のやうなものが開けてある。こちらのランプが消えたので次の間は餘計に明かになつた。娘は向の裾をぱさ〳〵とあふつてついと蚊帳へはひる。まだ帶をしめた儘である。蒲團をのべて蚊帳の外へ出る。蚊帳の向はランプを手前に置いてあるから只青く見えて居る。さら〳〵と帶を解く音のみが聞える。軈て白い手を裾から差し込んでランプを外へ出した。それと共にぼんやりと娘の屈んだ姿が表はれた。ランプが消えて家のうちが全く闇くなつた時ぱさ〳〵と復た蚊帳の裾をあふる音がしてさうして箱枕がぎり〳〵と微かに鳴つた。其夜は酷く寢苦しくて神經が興奮して居た。娘もどうしたのか時々寢返りするのを聞いた。僕は此夜からひどく煩惱した。それでも其時は出征したいのが山々で衞戍病院長と喧嘩した位であつたし其家に居たのも其後久しくなかつたから到頭踏み外す心配もなくて濟んだ。全く機會を與へられずにしまつたのが幸ひであつた。それから幾らも經たぬうちに僕は出征したのである。横須賀の停車場へ見送りに出てくれた人の中には聯隊長もあつたが日記に堀江令孃とあるのが此の娘のことである。それからはもう四年にも成るが其月夜のことは思ひ出すとすぐに眼の前に浮ぶ。或は生涯僕の記憶を離るゝことがないだらうと思ふのである。懷かしいのは其月夜である。\n 出征の途中内地は只がや〴〵と過ぎた。玄海灘へかゝる。天氣晴朗で波は靜かであつた。沖に泛んで居る漁師が運送船の通過するのを見て板子の下から魚を出しては海へはらり〳〵と投げて大手を擴げる。甲板では此を見て一齊に喝采する。水は空と相接して二つながら青い。兵卒の中には船が構はず進行して行くとあの空と水との間に挾まつてしまはないだらうかと懸念して居る奴があつた。七日目で青泥窪へついた。負傷兵の後送されて來るのに遭ふ。其中に一人知つてる奴があつた。穢い服の胴一杯に血が凝結して居る。數分間彼の噺を聞いた。或晩夜襲の命が下つた。砲臺からは機關砲を熾に浴せかける。土地へぴつたり伏しても自然の傾斜は顏が斜に上を向いて居る。其うち左の足がどさりと地べたへ叩きつけられたやうに感じた。そつと身體を捩つて手を觸れて見るとぬる〳〵とする。覺えずやられたといつた。尤も傷はどう成つて居るのか自分には分らない。繃帶を出して縛らうとすると後に居た戰友が俺がやつてやらうといふので足を投げ出して居ると其奴が急にぐつと酷い重みで自分の痛い足へのし掛つた。何をするのだといつても返辭がない。右の足でつゝついて見ても動かない。怪んで頭へ手を掛けて見るとぬる〳〵と血が流れ出して居る。驚いて能く探つて見ると腦天をやられて居た。それから酷く恐ろしくなつて疼痛も忘れて漸くのことで左の足を拔いてそれでも銃だけは放さずに偃ひながら下りて來た。ごろ〳〵して動かないのは味方の死骸である。それからどこを偃ひめぐつたか平らな處で穴があつたから轉げこむやうにして夜の明けるのを待つて居た。機關砲が時々桝から豆を戸板へまけるやうに遠く聞える。生きた思ひはなかつた。夜が明けて見ると砲臺に近い瓜畑で穴は砲彈の爆發した迹であつた。支那人が一人倒れて居る。死骸の懷を探しに來て逸れ彈を食つたのであつたかも知れぬ。瓜の花が血で赤くなつて居たといふ。自分の身體も一杯血に染んで居る。自分の上へ乘り掛つた戰友の血である。自分のは踵へ貫通銃創を負うて居たのであつた、とかういふ噺であつた。後では何でも平氣であつたが其時はそんな噺でも身體が引き締るやうに感じた。旅順へつくと間もなく横須賀から手紙が來た。僕等の衞生隊で内地の手紙を受取つたのは僕が一番早かつた。急に軟風が吹いて來たやうな感じであつた。僕も早速手紙を書いた。大小の事件は力めて報道した。陣中は暇な時は非常に暇なので出來るだけ精細に書いてやつた。それに對して一々義理をいうて來るのが待ち遠であつた。吸付煙草の評判は僕は得意になつて報道した。それはかうである。旅順の滯陣中に近傍の百姓等が病氣を診て貰ひに來た。他の軍醫等は五月蠅がつて碌々取り合はぬので遂僕の處へばかり來るやうになつた。隨つて土民の間に信用を博して其地に唯一の藪醫者とも懇意になつた。朝鮮髯の老人であつた。滑稽なことには其息子が花林糖賣であつた。少女に至るまで僕には心を置かなくなつた。少女は皆辮髮で赤い切を飾つて居る。容易に人には逢ふこともない。後家婆さんが少女と二人で住んで居る家があつた。ペラ〳〵した唐紙刷のよく支那から持つて來る繪紙の美人があるが額がくるりと丸くなつて居るあんな形の少女であつた。時々は裁縫までしてくれるやうになつた。脈搏を見てやらうと手をとつて見ても遁げぬ。僕はよく其婆さんの家へ行つた。それだけなら何もないのだが或時其婆さんが一口吸ひ付けて煙管を出した。雁首の開いた煙管で煙草は恐ろしく辛いのである。此は誰も知つたものはあるまいと思つて居ると隊中の評判になつてしまつた。馬丁が見て居て吹聽したのであつたのかも知れぬ。兎に角かういふ事件はもうすぐに手紙になつて横須賀へ行つた。こちらから餘計やれば先からも餘計よこす。此が陣中唯一の慰藉であつた。奉天の戰後には何と思つてか横須賀からは一々僕の手紙を淨寫して一册の本に綴つたのをよこしてくれた。自分でも其手紙の數には驚いた位であつた。月夜といへば旅順でも月夜はあつた。禿山の所々にひよろ〳〵と立つて居る芒をとつてビール罎に揷して月見の筵を張つた。然し其時は遼東の冷氣が漸く肌に浸み透る頃であつた。其月見の四五日前に某砲臺の攻撃があつた。非常な負傷兵は皆機關砲でやられて居た。負傷兵を收容するのは夜間のことであるから夜になつて運ばれて來るものは想像の外であつた。僕等の衞生隊は第一線の繃帶所であつたので應急手當をしてそれから野戰病院へ後送する役目であるが僕は其輕傷部の主任であつた。テントの内へは勿論はひり切れないのでごろ〳〵と外へ轉がして置く。應急手當といつても石鹸で一々傷を洗つてから繃帶をするのだからさうは間に合はぬ。テントの外にある負傷兵は毛布も無ければ外套もない。\n「水が欲しい」\n「繃帶がきつい」\n「血が出てしやうがない」\n「どうするんだあ」\n「擔架ア」\n と口々に訴へて叫ぶ。それで繃帶をするには何處でもぐるつと刀で服を切り拔いてそこを石鹸で洗ふのであるからシヤツへは冷たい水が浸みる。冴えた月の下に轉がつて寒さは怺へられぬ道理である。それで唸つたり泣たり慘澹たるものであつた。然し此の月夜も亦既に四年の前に成つてしまつた。講和になつた時は一日も早く横須賀へ行つて吸付烟草の噺もして見たかつたが内地へ凱旋の間際にはそのどさくさ騷ぎに紛れて遂機會を失し其内に病院へ奉職はする、それから開業して一身は束縛される。赤の他人に成つて其後はふつゝり消息もない。僕の一身は心と共に變化した。女の一身も變化したであらう。若し再び相逢ふ機會があつたとしても相互に戰爭の熱に浮されて居た時の心持になれるだらうか。それ處ではない、或は僕のことは思ひ出さないかも知れぬ。然し月夜のことは女の記憶をも去らないであらうと思はれる。一體此所へ開業するといふことが僕の本意ではなかつたのだ。だが七十になる父と喧嘩をすることも出來ず、自分の從來の失策も段々と自分の我を鈍らして到頭僕を下落さしてしまつたのだ。何だか急に藪醫者になつた心持がする。それに隣づかりが皆子供の時分からの知合ひだからどうも自分から大人らしく感ぜられぬ。先生といはれるのもいふのも調和が惡いといつたやうなものである。かういふことがある。此のすぐ裏の竹藪の先は寺の境内で大きな榎の木が一本ある。枝が横に出て居て登りいゝので其の實が黒くなると小學校の生徒がつけこんだ。榎の實は旨いので砂糖の實といつて居た。學校の歸りには屹度荷物を脊負つた儘登つては枝と枝とを渡つて歩いた。砂糖の實には椋鳥が群集して騷ぐのであつた。然し學校の放課後といふと何時も椋鳥は遠い空へ遁げて移るのであつた。僕も毎日行つた。然しこつそりと行つた。落ちたら危險だからといふので母が叱るからであつた。桑の實であると口が染つてなかなか落ちないが砂糖の實では其時捉まらなければ分らぬので腹一杯たべては平氣な顏で家へ歸るのであつた。さうすると何時か母が寺男へ頼んで置いたと見えて寺男が庭でも掃いて居るとすぐに追出される。居なければ登つてたべた。それを或時荷物は背負つて居たから取られなかつたがうつかり下駄を持つて行かれた。非常に驚いて謝罪つたが聽かない。僕は到頭泣き出してしまつた。さうしたら寺男は笑ひながら下駄を出して僕の身體を左の手で抱いて僕の足を盥へ入れて洗つてくれた。此の男が今でも白髮になつて生きて居る。此間指を腫らして診てくれといつて來た。さうして砂糖の實の噺をして何時の間にこんな先生さんに成つたかといつて涙を落した。かうしたことで郷里には懷かしいこともあるが又幅の利かぬことも多いのである......若いうちは要するに駄目だ』\n かういつて主人は息をつく。\n\n四\n\n『病院へ奉職したのは二月である。宇都宮は日光颪が吹きつゝあつたけれど滿洲の冬を凌いで來た爲めか寒いとは思はなかつた。僕は外科の主任を托せられた。其時僕と相前後して看護婦長が來た。此は博愛丸に乘つて出征した女で年輩も二十五六の體格もがつしりした中々私立病院などへ燻らせるのは惜しい位な女であつたが、以前病院に居たこともあるし其郷里が近いといふので院長の懇請を容れたのだといつた。看護婦長の連れて來たのだといつて一ヶ月許りして僕の外科室附に山田といふ看護婦が來た。其前にも外科室附が一人あつたが僕が奉職して間もなく、赤十字社の病院へ行く積りで試驗を受けたが落第したとかでそれで外聞が惡いとかいつて病院を出てしまつた。然し此の女は感服しない女であつた。後から來たのは性質が柔順でそれに十日でも二十日でも後れて來るとそこに多少の遠慮もあるからして勤め方が非常にいゝ。患者でも譽めないものはない。僕が夜外出して遲くなると火鉢へ火を起し灰を掛けて置く。それで患者からの遣物でもあると屹度僕の處へ持つて來る。其位だから外科室内に必要なものはちつとも滯りなく整理して置く。僕はいゝ看護婦が來てくれたものだと思つた。性質許りでなく其容貌が丸ぼちやの色白な愛嬌のある女であつた。僕は仕事が總て愉快であつた。戰地での經驗を應用して驚かしてくれようといふ樣な功名心もあつたが女を相手にして居るのは其頃はまだ愉快であつたのだ。戰地に足掛け二年も居て殺風景な境涯に餘儀なく働いて居たものはたま〳〵女を見るとどれを見ても好く見えた。丁度凱旋の途中汽車が遼陽の停車場へつくともう日本の女が居た。其時には滿載された兵卒が一時に勇み出して汽車がひつくりかへる樣な勢ひであつた。白い服を着て立ち働く看護婦も其當座僕の目には大抵よく見えたのである。手術の暇に僕が椅子に凭れて居ると看護婦は一々叮嚀に器械をガラス戸へ入れる。汚れ目のない服をきりつと腰で締めて居る。僕はそれを餘念もなく見て居るのであつた。バケツを提げて出て行く時に看護婦は扉をそつとしめながらちらと僕を見て行くことがある。さういふ時には空のバケツを提げて戻つて來て扉を開けてはひつて來る時には何となく一寸赤い顏をするのであつた。さういふ女であつたから僕は心から教へもした。兎に角外科室はいき〳〵して居るやうに感じた。だが世間といふものは迂濶に行かないもので尤もそれはずつと後になつて知つたのだが其の時分藥局生や其他の奴がどうも僕と其看護婦との間が變だといふ疑惑を抱いて蔭では騷いで居たさうだ。僕等は實際に於て疚しい所のあつたのではなしそんなことゝはちつとも知らずに居つたのである。固よりそれだから遠慮をしてどうといふことはなかつた。それを尚更ら不埒だといふので蔭では頻りに業を煑やして居たさうだ。或時妙なことから僕はそれを知つた。其頃病院はまだ新築してなかつたから宿直の醫員も藥局生も寢室は一つであつた。或晩僕が宿直であつた。うと〳〵して居ると藥局生の一人が騷ぎ出した。それは彼の蒲團が一枚どうかして無くなつたといふのである。さうして其蒲團が僕の上に掛けてあつたことが發見された。僕の夜具は何時も僕の看護婦がとつてくれる。其晩はどうしたことか故意にやつたのではなかつたのであらうがうつかりした間違ひをでかしたのである。一室のものは騷ぎ出した。明白地にはいはぬが當てつけらしく變だ怪しいと呶鳴る。呶鳴つては僕に見られると蒲團をかぶる。ランプが消えると足でどた〳〵と蒲團を叩く奴がある。僕は變な奴等だと思つたが然し默つてしまつた。其翌日看護婦は僕に何ともいはなかつたが非常に氣の毒さうにして小さくなつて居るのが著しく分つた。彼は其騷ぎを松田から聞いて知つたのださうだ。突然松田といつても分るまいが今僕の使つて居る松田であるが其時分は病院に居たのである。氏家の生れで山田と同郷であつたから外の奴より懇意にして何事も打ち明けて居たらしい。山田は鹿沼へ養女に行つて居たので以前は知らぬ同士であつたが同郷といふ觀念は互に懷かしがらせたと見えるのである。僕は山田の容子を見ていぢらしい女だと思つた。其後又こんな事があつた。宿直部屋で骨牌をやるとかで皆集つた。看護婦も集つた。其時僕はランプで書物を見て居る。騷がれるのが迷惑であつたからふとそんなことは詰らないぢやないかといつた。すると藥局生等はふいと立つて行つてしまつた。他の看護婦も立つてしまふ。山田が獨り殘つた。酷く心配さうな顏をして暫く坐つて居た。白い服をとつた彼は其服裝が富裕の身でないことを證據立てた。彼は僕の夜具をのべて去つた。それから蒲團の中で書物を讀み續けて居ると藥局の奴等が酒を飮んで來た樣子でどた〳〵と踏ン込んで來た。突然ランプを吹つ消した。さうして亂暴をはじめる。僕が激怒したから何をするんだと立ち上つて呶鳴りつけた。さうすると先生は病院の風紀を害するからだといふ奴がある。何を害して居るのだと詰問すると看護婦と變ぢやないかと無作法にもいふのである。僕は山田が置いて行つてくれた枕元の燐寸を探つてすりつけた。さうすると有繋に極りが惡くなつたと見えて一時に遁げて行つてしまつた。隣室へ行つて狡猾い奴だといつて松田を起して居る。松田は看護婦との關係から自然彼等の仲間入をしなかつたのである。僕が今あれを世話して居るのも其時分の縁故があるからである。僕は其晩はじめて彼等が此程猜忌の眼を以て見て居たのであつたかと驚いたのである。然し此事から其後までもどう云ふものか彼等に對しては自分から身を引いて避けて居た。軍隊に居た時分の心持にはなれなかつた。さうして何となくさういふことのある度に一層小さくなつて心配さうな顏をして働いて居る山田のことがいぢらしくて堪らなかつたのである。其後僕が宿直の晩であつた。酒を飮んで來て遂に松田へうつかりしたことをいつてしまつた。それは自分は山田を欲しいと思ふのだが一つ聞いて見てくれないかと露骨なことをいつたのである。然し酒が醒めてからは自然忘れたやうに成つて居ると或晩松田が相談したいことがあるからと誘ふので蕎麥屋へ行つた。松田は例の件ですがといひ出す。あれから早速本人に打ち明けると身分が違ふのであるから到底駄目なことゝ私は思ふけれど先生のたつての望みとあれば私の一身はお任せ申します。然し私には關係のある人もあるから其方へ手紙を出して見なければならぬと初めはかういふ挨拶であつた。一週間たつたら手紙が來た。もう私の身は私の自由に成つたどうか先生へ挨拶をしてくれと女はかういふのである。先生も其積りで居てくれと松田は述べるのであつた。僕はどうして松田抔へそんなことを打ち明けていつてしまつたのであつたかと彼の挨拶を聞かされては驚かざるを得なかつた。能く聞いて見ると女は氏家から養女に遣られたのださうだ。其成長するに隨つて不幸な一家は沒落した。主人が死ぬ時に鹿沼に病院を開いて居た人が縁戚の關係でもあつたか死後の一家を托した。それで彼は其病院の養子であつた一少年と一つに成るとか成らぬとか兎に角一生のことに就いて助言を得るだけの契約があつたのである。それで今東京に出て大學の助手をして居る其の養子に手紙を出したのである。其醫者といふのは本來必ず彼を迎へようといふ意志もなかつたらしいので、良縁があるならば其方へ身を任せたがよかろう自分は生涯の相談相手たることに變りはないからといふ返事であつた。然しかういふ相談を掛けた以上もう彼は其の養子に身を任せるといふことは義理の上にも出來なく成つたのであるから先生も能く考へてくれと松田は平生にませたことを附け加へた。僕はそんなことに成らうとは寸毫も思つて居なかつたのだから困却してしまつた。それから僕は郷里に在る父が頑固で到底貧窮の子女を容れ能はぬことや家庭が隨つて六かしいことや種々の情實を打ち明けて自分は山田を惡くは決して思はぬけれども成就しない縁と信じて居るからどうか其積りで居てくれと松田へ斷つた。僕は苦しかつた。其夜の酒は更に旨くなかつた。何故松田へ頼んだのであつたらうか然し頼んだことに誤りはない。矢張り僕には女に對して未練があつたのかも知れぬ。病院に奉職してからの僕はどうしても變であつた。其後松田は女へ斷りをいつたことゝは思つたがそれでも氣がゝりであつたから直接自分の事情を打ち明けた。女は疾に松田から聞いて知つて居る。最初から到底及ばぬ事と思つて居たのだから怨みに思ふ事もないといつた。然し僕が一言の失策をしみ〴〵と詫びた時にうつ向いた彼の白い膝に涙が三四點煮染んだ。僕は何となく果敢ない可愛想な感じがした。さうして自分も彼の一身の爲めには一肌拔いで世話してやらなければ成らぬと其時心に深く思つた。松田は此の事のために女が非常な煩悶をしたことを語つた。然し自制心の強い看護婦は擧動に何の變化もなく依然として忠實に働いて何處までも愼ましいのであつた。一人でも他人が側に居ると愛嬌のある彼は元氣よく笑ふのであるが僕と二人の時は打ち解けることもないといふ姿であつた。それが何となく齒痒いやうなもどかしいやうな感じがした。二人の關係は截然と極つたにも拘らず病院のうちの嫉妬は止まなかつた。藥局生は遂に庶務に迫つた。庶務のものは僕に一言もせずに彼を隔離室へ轉じた。僕は心中不滿に堪へなかつたがぢつと一言もいはなかつた。然し隔離室は裁判所に勤務して居た兄の夫婦と共に借りて居た家のすぐ近くであつたので彼は僕の家に往復した。僕を訪ねたのではない。其ずつと前からの懇意で姉を訪ねて來るのであつた。姉とは姉妹のやうであつた。姉は時々あれを妻にしたらよからうとまでいつた位である。兄にも勸めた。兄は俄に可否の判決は下さなかつたが彼を愛して居ることは姉に劣らなかつた。姉は僕が一家の事情まで打ち明けたこと抔は素より知らう筈がない。却て僕が最初から冷淡であつた樣に見て居たかも知れない。山田は姉と逢へば心底から快活に打ち解けて居た。それが僕獨りになると紙一枚の隔てがあるやうな態度であつた。其癖痒い所へ手の屆くやうに親切であつた。隔離室へ移してもさうであつたから他の嫉妬は益〻募つた。憐れな看護婦は到頭そのために解雇されて宇都宮を去らねばならなくなつた。其時姉と散々別れを惜んだ。二日間姉は彼を引き止めておいた。さうして停車場まで見送つた。本當に汽車に乘る時の容子はお氣の毒なと姉は歸つていつた。僕も其日は缺勤してしまつた。暫くして姉のもとへ手紙が來た。其後上京して芝口の或商家へ奉公に住み込んだ。おかみさんといふのは家附の娘でそれでヒステリーであるから我儘な人である。此までは下女が皆勤まらなかつたさうであるが私には少しも苦には成らぬ。近頃はおかみさんが怒らなくなつたというて旦那から譽められる。それでお内儀さんのお供をしては時々見物に出られるので今の所は何も不足もないから安心をして貰ひたい。只あなたにお目に懸れぬのが遺憾だといふのであつた。先生へも宜しくといふ一句があつた。僕は此一句が非常に滿足であつた。さうして其手紙を繰り返して見た。姉は現在の彼の身の上を心の底から悦んだ。此丈けのことならどうでもないのであるが事件といふものは不思議に發展して行くのである。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\nメレンゲ\n\n 暑い夏の日にビールをガブガブ飲む人がうらやましくてたまらない、西洋にいた時、神経衰弱を起してほんとにあじきなく退屈であった時など私の友人は酒ばかり飲んでいた。結構な身の上だ、あれで不平をいってるのはもっ体ない事だと思ったくらいだ、私などは窓を眺め天井を見詰めるより他に方法がなかった、本などはイライラしてとても読めるものではない、この残酷な退屈を紛らすために私は初めて排せつの楽しみを発見した、即ち大小便が出る時、出たあとの快感、鼻汁をかんだ爽快等だ、それからノミや南京虫にかまれた処をかいて快味を味って、しばらくこの世の苦労を忘れようとしたのであった。\n 楽しみや嗜好もここまで下落しては行つまりで人の前へ持出す事も出来ない。\n すると、煙草などは随分体裁がいい、美しくもあるし、全くうまくもあるし、腹はふくれず、かつ談話していても、相手と自分との間に丁度いい淡い煙幕が張られて、真とに長閑な心地がする。\n 私は以前煙草だけは愛用していたが、病気してから医者にやめさされた、やめた最初は談話中など相手の顔がはっきり見え過ぎて弱った事を覚えている。\n 私は最近、神戸のあるドイツ人が経営する、菓子とカフェーぐらいを出す家で実にうまい菓子を発見した、それは、上下二つの軽快にして白いカルメル様のふたの中に真白のクリームが充満しているのだ、かむとハラハラとふたが砕けて、クリームが舌へ流れ出すのだ、その甘さが堪らないのだ、そして胃の腑へ達する少し手前において煙の如く消滅してしまうような気がするのだ、しかしかなり甘いので二つ以上はたべられない、私の隣へ座った西洋人は五つたべた、うらやましかった。\n 私はこの頃、しばらく浮世を忘れるためにこの家へまで出かけるのである、そしてこの菓子をたべるのだ。この菓子の名を「メレンゲ」という。\n\n画工\n\n 絵描きというのは職業か何か、私にはまだはっきりと判らない、それというのが、どうも自分の仕事がほとんど売薬とか雑貨とかいう風に、店を開いて待ったとしても、向うから自発的に買いに来る人が一人もなかったりする事からさように思えるのかも知れない。第一絵描きは職業として一定の名前すら、はっきりしていないように思う、定った名があるのかも知れないが私はまだ知らない。\n 区役所の届けとか何かの場合にしばしば、御職業はと聞かれる事がある、私はそんな場合、変な気がして早速返事が口へ出て来ない、どうかすると無職ですと答えたりして後でいやな気になる事がある。\n 大体我々仲間でならば、絵描きとか、画家とか、ぼんやりした事で通っているようだが、一体本当の職業としての名は何んというのかと思う事がある。\n 私は一度区役所へ何かの用件で行った時、その帳簿をのぞいて見た事がある、すると、そこには小出楢重画工と記されてあった、すると区役所とか国家としての名称は画工というのが本当かも知れない、しかしそれも現代の日本画西洋画の絵描きは、ことごとく皆区役所へ行けば画工となっているのか、その辺は私によくわからないが、何んとか一定されているに違いないと思う、あまり必要でもない事だから知らずにいてもすむが時々可笑く思う事がある。\n 私は十幾年以前奈良の浅茅ヶ原で泥棒のために絵具箱とトランクを盗まれた事がある、その泥棒がつかまって、私は警察署へ出頭して絵具箱を頂戴して帰った、その時奈良の新聞には古い都だけあって、油絵師何某とかかれてあった。\n 油絵師などなかなか結構な名称ではあるが近代のお河童連には少し似合わない気がする。\n\n所得税\n\n 絵描きが、まだ職業であるかどうか自分でもはっきりしないうちに、私は所得税を支払うべき身分となってしまった、これは国民として慶賀すべき事で当然の事である、だが、肝腎の所得が怪しいから閉口する、私は、性来の健忘症と不精から、所得の申告というものをうっかり捨てておいたのだ、すると、私の収入をちゃんと見抜いて、それだけの税金が申渡された、しかしそれが、私の所得のまずかなり正確な処を見抜いてあったのには驚かされた、さすが専門家だと思った、私よりも税務署の役人の方が、私の財布をよく知っていそうな気さえした。\n するとまた次の年が来た、再び不注意にも私は申告を怠った、今度は私の収入はすこぶる増加していた、全くこれだけの収入が本当に確実にあったらどんなにいいだろうと、私は喜びかつ歎じた次第だ、可笑な事にはかなりの店を持った商人である処の私の友人Hよりも私の方が多額納税者となっていた事だった、もち論Hは税金としての最低額を収めているのである。\n\n鞆の嵐\n\n 旅行をして、私はああよかった、はなはだ愉快でしたと思って帰ったことがあまりないのでどうも思い出はよろしくない場合が多い。\n それはいつも旅行さきへ自分の仕事を持ち廻る為かも知れない。仕事の為に旅行するという旅商人が旅する如く官吏が出張する如く、あるいはより以上に仕事のことをのみ考えさせられて旅そのものを楽しむという心が仕事の下積みとなってしまうせいかと思う。\n まったく、われわれの旅は情なく悩ましい旅である。だから私はカンヷスとか、絵の道具とかいった何ものも持たず、ただふらりふらりと歩くことが一番楽しい気持ちである。ところで悲しいことには、山を見ても、海を見ても、家を見ても、木を見ても、いい日よりであっても、絵描きは絵を思わずにはいられないのだから困ったものだ。\n あの景色なら二〇号にうまくはまるだろうとか、あの色とあの色の調子は素晴らしいとか、これこそおれのモティフだとか、この景色は誰の絵に似ているとか、こんな美しいものなら絵の道具を持って来ればよかったとか、いろいろ様々のことを考えて、山川草木を無心に楽しむことが出来難いのである。\n 地図を案じ絵具をそろえ、トランクを担いで、いざ旅行だと思うと、もうはや多少重くなるのを感じる。汽車に乗れば窓からの景色が一つ一つ苦労の種となって現れる。いい構図だと思って見る時、汽車は猛烈に走っていて、たとい止まってくれたとしても泊るに家もない場所である。\n ようやく目的の地へ着くと、そこは家の屋根が平たくて、何々廻送店とかいったものが並んでいて、地図で眺めた夢らしいものは影もないのだ。そして宿屋は避暑客で一杯であって、彼らは芸者、情人、若い妻君等とともに寝そべっていたり、ビールを飲んでいたり、海水着をつけてみたり、芸者ははちはちをしてみたりやっているのだ。\n その中へ割り込んでカンヷスの枠を組み立て、金槌でガンガン釘を打ち込むという仕事を行うだけの神経と勇気が出るかどうか。"
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"role": "assistant",
"content": " 私が一〇年程以前のある真夏、鞆の津のある旅館へ泊ったことがある。それがちょうど右の状態そのままであった。その上、折悪しくもその日から猛烈な台風が襲来したものだ。瀬戸内海も仙酔島も風と雨と水沫とでめちゃめちゃとなってしまった。\n 海に面した側の私たちの部屋はことごとく、女中によって雨戸が締められた。\n こうなると暗くて、陰鬱で、蒸暑くて、私は一人で、他人は二人以上であるからやりきれない。寂しく羨ましく退屈でしゃくで、イライラする神経と金のない不安やらいろいろから、いかにも我慢がならないので、といってこの暴風雨にどこへ飛び出すわけにも行かなかった。\n 私は隣の若い夫婦の親愛な言葉や、憎さげに肥えた株屋といった人相の男と芸者達がやる賭博と、下等な笑い声をじっと忍従の心で聞くより他に道はなかった。\n 私はせめて家の屋根でも見ている方がましではないかと考えたので、女中に頼んで道路に面した側の部屋へ移転させてもらったのだ。ここは幸いにして雨も風も吹き込まず、ともかく町家並が眺め得られるので大いに幸いであった。\n ところで私は欄干へもたれて、向かい側に並ぶ家々を見渡して愕いたのだ。その家々というのは皆女郎屋なのである。その上狭い町だからその女郎屋の二階座敷は私の座敷から約一〇メートル位以上離れていないのだ。そして何もかもがことごとく見えるのだ。私は暑いのに一晩中欄干へも出られず、ふすまに面して憂鬱であった。その翌日も暴風雨はやまない。蒸暑い一日を繰り返し再びふすまの絵を眺めて一夜を送った。\n その翌日、太陽の光を見るや否や、私は停車場へかけつけて、何はともあれ大阪までの切符を買ってしまったのであった。\n 汽車に乗ってよく考えてみると、天気は素晴らしく美しいのだ。瀬戸内海の波は何ともいえず素晴らしく輝いているのだ。それに私は大阪行きの汽車に乗り込んでいるのだから馬鹿げているではないかと思ったことがある。\n\n夏の水難\n\n 女難は、必ずしも艶っぽいものとは限らないそうだ。電車の中で、ちょっと婆さんに足を踏まれても、女難の一つだという事を聞いた、あるいはそうかも知れないと思う。\n 私には水難の相があると、昔、或る人相見がいったのを覚えている。水難といっても、必ず溺死するものと、きまったものではないので、氷水を飲み過ぎて下痢を起こして寝たというのも水難といえばいえない事もないのだ。水難を怖れるためか、どうかは知らないが、私は性来、水に浸る事が大嫌いである、いかに三伏の酷暑であっても、海の風に吹かれると私の血は、腹の奥座へ逃げ込んでしまうのだ、ましてその水の中へ浸る事はなかなかの事なのである。やむをえないお交際から入ったとしても私の唇は、見る見るうちに紫色と変色して、慄えが止まらないのである。\n この頃のように、海水浴とか水泳とか、女が寒中に抜き手を切るとかいう事の流行する時代において、かかる事を申上げるのは、誠に恥かしい次第であるがいたし方のない事だ。従って私はいまだかつて水に浮いて見たためしがないのである。\n 静坐法というものが一時流行を極めた時、何んでも人間は、腹の中へ空気を押し込まなければ死んでしまうように聞かされたものだ。貴様のようなペコ腹は、うんと下腹で空気を吸えと随分うるさく説かれたものだ。幸この頃は静坐も下火となったので助かったと思っている。私は実行しなかったけれど幸にして、ほそぼそながらも死にはしなかった。\n ところが海水浴や水泳は静坐法よりも面白いものと見えて一向下火にならないので弱っている。大に盛んに泳いで見る事は頗る海国男子として結構な事であるが、人は自分のすきな事を他人にすすめたがるものなのだ。それは静坐法と同様だ。「それはききめがありますよ、一週間でこれこの通り」と下腹をわざわざあけて不愉快な臍を見せるのだ。私は当時随分沢山の臍の種類を見せてもらった。\n この、勧めたがるという事から、私の水難が起こって来るのである。昔は中学時代において散々悩まされたのだ。これは体育のためとあって、勧めるというよりもむしろ強制的である。濡れた褌をぶら下げて、暑い夕日の中を帰ってくる時の気色の悪さは、実に厭世の感を少年の心に目醒めさせた。従って私は水泳の時間は欠席するか蛤を漁る事によって、せめての鬱晴らしとしたものであった。\n 私の妻は何々水練場とかへ通っていたというので多少の心得がある処から夏になると海へ行きたがるのだ、初めのうちはそれで随分手古摺ったものだが、いかに亭主は海を好かぬかという事を了解するに及んで、この節はあまり誘わなくなったので私は最も手近い水難から救われたのである。\n 全くの処、細君の水泳を砂地の炎天できものを預かりながら眺めているという惨めさは憐れむべきカリカチュールでなくて何んであるか。私は最近芦屋へ移った。永い間の都会生活に比して、何んともいえず新鮮な心地がする。例えば大阪を仕舞風呂とすればこの辺りの空気は朝風呂の感じである。何もかもが結構であるが、ただ案じられるのは来るべき夏の水難である。海に近いという事がこの辺に住む人の一つの誇りである。西洋人の夫婦などは海水着のままでこの辺から走って行くそうである、という事を聞くにつけても心細いのだ。ぜひ朝の早いうちに一浴びして来なさいと、今から頻に勧められているのだ。\n そこで私は何かいい水難除けの呪でもないかといろいろ考えた末庭の松の枝へ海水着の濡れたのを懸けて置こうかと思う、そして絶えず女中に水をかけさせて置くのだ、もし誰れかが海へ行きましょうかと来るとすぐそのぬれた水着を示して、いやもう今帰ったばかりで......、ああ草疲たという顔をして見てはどうかとも思うのである。\n\n足の裏\n\n 現在の歓楽場から活動写真を引去ったら一体何が残るかと思える位、今は活動写真の世界であるが、私たちの小学校時代には、この活動写真がまだ発明されていなかった、その代用としては生人形、地獄極楽、化物屋敷、鏡ぬけ、ろくろ首の種あかし、奇術、軽業、女相撲、江州音頭、海女の手踊、にわかといった類のものが頗る多かった、その中でも江州音頭とか海女の手踊、女軽業などというものになると、これは踊りや芸その物よりも、多少女の身体及びその運動を観覧せしめるものだともいえるところの見世物であった。\n 私は、随分いろいろの見世物が好きで、しばしばその看板を眺めに行ったものである、少し人間の情味がわかるようになってからは、地獄極楽や鏡ぬけよりも、陰鬱なろくろ首や赤い長襦袢一枚で踊る江州音頭や女の軽業に、より多くの興味を持つようになった。\n\n 今の時代は結構だ、人間の裸身を観賞する自由が多少とも、与えられて来た、女身の美しい発達を美しいと見る事は頗る当然の事として許されるようになった、今の時代の男たちは海女の手踊りを見に行く必要がなくなって来たようである。\n 例えば海水浴へ行っても、何んと結構に美しい無数の足の動いている事だろう、われわれの展覧会の裸女は、それでも時々陳列を拒まれる場合もあるが、大体において観賞の自由が与えられて来た。街路では洋装の裾から二本の足が遠慮なく出ている、電車の釣革から女の腕がぶら下る、足の美しさがグラビヤ版となって世界に拡がる、そして娘の足は、太く長く美しさを増して来た、思えば日本の昔は窮屈であった。\n\n 昔、ある正月前の寒いころだった、私は千日前をあるいて海女の手踊の看板を見た、髪をふり乱して、赤い腰巻をした海女の一群がベックリンの人魚の戯れの絵の如く波に戯れているのである、それが頗る下品な、絵であったが、しかし遊心だけは妙に誘う処の絵であった。\n 私は以前から一度入って見たいと思いつつも、多少きまり悪さを感じていたのであるがこの日は思切って木戸銭を払った、なお中銭という無意味な金まで取られて穢い幕をくぐると、中には丁度洗湯位の浴槽に濁った水が溜っているのだった、わずかに五、六人の見物は黙って暗い電燈の下でその汚水を眺めていた、私もそれを眺めていたわけである、やがて印半纏を着た男が何かガンガンとたたいて、さアこれより海女の飛込と号令した、すると穢い女が二、三人次の部屋から現れてその汚水の中へ飛び込んだものだ、私は動物園を考えた。\n 見物人が一銭を水中へ投げると海女は巧に拾うのだ、その時海女は倒立ちとなって汚水から二本の青ざめた足を突き出した、その足の裏は萎びて、うすっぺらで不気味で、青くて、堅くて動物的で、実用で、即ち人間の立つ台の裏という感じなのであった。\n 私は、女の足の裏は今少し優美なものかと思っていたのだ、ところが全く厭な形相のものであった、女の足の裏がすべてこれだとすると考えものだとさえ思った、しかし世の美しい人たちの足の裏は決してかかる浅間しい形相はしていまいと考え直しても見たが、何はともあれ、私は一生涯忘れ得ぬ厭な感銘を足の裏から受けて小屋を飛び出した。\n 出てからも一度看板を見直して見たが看板には足の裏は描いていなかった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "「うまく死ねるぞ、と思って安心しました」\nと反撥してみたが、\n「同時に心臓がどきどきしました」\nと正直に白状してしまった。\n「ふうむ」\nと佐柄木は考え込んだ。\n「尾田さん。死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか」\n「まだ一度も探ってみません」\n「そうですか」\n そこで話を打ち切りにしようと思ったらしく佐柄木は立ち上がったが、また腰を下ろし、\n「あなたと初めてお会いした今日、こんなこと言って大変失礼ですけれど」\nと優しみを含めた声で前置きをすると、\n「尾田さん、僕には、あなたの気持が良く解る気がします。昼間お話しましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年以前のその時の僕の気持を、いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持、良く、解ります。でも、尾田さんきっと生きられますよ。きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう」\n 意外なことを言い出したので尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分潰れかかって、それがまたかたまったような佐柄木の顔は、話に力を入れるとひっつったように痙攣して、仄暗い電光を受けていっそう凹凸がひどく見えた。佐柄木はしばらく何ごとか深く考え耽っていたが、\n「とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います」\nと言った。不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。\n「まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かもしれません。今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕がいったいどう慰めたら良いのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに定まっているじゃありませんか」\n「良く解りました、あなたのおっしゃること」\n 続けて尾田は言おうとしたが、その時、\n「どうじょぐざん」\nと嗄れた声が向こう端の寝台から聞こえて来たので口をつぐんだ。佐柄木はさっと立ち上がると、その男の方へ歩んだ。「当直さん」と佐柄木を呼んだのだと初めて尾田は解した。\n「なんだい用は」\nとぶっきら棒に佐柄木が言った。\n「じょうべんがじたい」\n「小便だなよしよし。便所へ行くか、シービンにするか、どっちが良いんだ」\n「べんじょさいぐ」\n 佐柄木は馴れきった調子で男を背負い、廊下へ出て行った。背後から見ると、負われた男は二本とも足が無く、膝小僧のあたりに繃帯らしい白いものが覗いていた。\n「なんというもの凄い世界だろう。この中で佐柄木は生きると言うのだ。だが、自分はどう生きる態度を定めたら良いのだろう」\n 発病以来、初めて尾田の心に来た疑問だった。尾田は、しみじみと自分の掌を見、足を見、そして胸に掌をあててまさぐってみるのだった。何もかも奪われてしまって、ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。今さらのようにあたりを眺めて見た。膿汁に煙った空間があり、ずらりと並んだベッドがある。死にかかった重症者がその上に横たわって、他は繃帯でありガーゼであり、義足であり松葉杖であった。山積するそれらの中に今自分は腰かけている。――じっとそれらを眺めているうちに、尾田は、ぬるぬると全身にまつわりついて来る生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それは、鳥黐のようなねばり強さであった。\n 便所から帰って来た佐柄木は、男を以前のように寝かせてやり、\n「ほかに何か用はないか」\nと訊きながら布団をかけてやった。もう用はないと男が答えると、佐柄木はまた尾田の寝台に来て、\n「ね、尾田さん。新しい出発をしましょう。それには、まず癩に成りきることが必要だと思います」\nと言うのであった。便所へ連れて行ってやった男のことなど、もうすっかり忘れているらしく、それが強く尾田の心を打った。佐柄木の心には癩も病院も患者もないのであろう。この崩れかかった男の内部は、我々と全然異なった組織ででき上がっているのであろうか、尾田には少しずつ佐柄木の姿が大きく見え始めるのだった。\n「死にきれない、という事実の前に、僕もだんだん屈伏して行きそうです」\nと尾田が言うと、\n「そうでしょう」\nと佐柄木は尾田の顔を注意深く眺め、\n「でもあなたは、まだ癩に屈伏していられないでしょう。まだ大変お軽いのですし、実際に言って、癩に屈伏するのは容易じゃありませんからねえ。けれど一度は屈伏して、しっかりと癩者の眼を持たねばならないと思います。そうでなかったら、新しい勝負は始まりませんからね」\n「真剣勝負ですね」\n「そうですとも、果し合いのようなものですよ」\n\n 月夜のように蒼白く透明である。けれどどこにも月は出ていない、夜なのか昼なのかそれすら解らぬ。ただ蒼白く透明な原野である。その中を尾田は逃げた、逃げた。胸が弾んで呼吸が困難である。だがへたばっては殺される。必死で逃げねばならぬのだ。追手はぐんぐん迫って来る。迫って来る。心臓の響きが頭にまで伝わって来る、足がもつれる。幾度も転びそうになるのだ。追手の鯨波はもう間近まで寄せて来た。早くどこかへ隠れてしまおう。前を見てあっと棒立ちに竦んでしまう。柊の垣があるのだ。進退全く谷まった、喚声はもう耳もとで聞こえる。ふと見ると小さな小川が足もとにある、水のない堀割りだ、夢中で飛び込むと足がずるずると吸い込まれる。しまったと足を抜こうとするとまたずるりと吸い入れられる。はや腰までは沼の中だ。藻掻く、引っ掻く、だが沼は腰から腹、腹から胸へと上って来る一方だ。底のない泥沼だ、身動きもできなくなる。しびれたように足が利かない。眼を白くろさせて喘ぐばかりだ。うわああと喚声が頭上でする。あの野郎死んでるくせに逃げ出しやがった。畜生もう逃さんぞ。逃すものか。火炙りだ。捕まえろ。捕まえろ。入り乱れて聞こえて来るのだ。どすどすと凄い足音が地鳴りのように響いて来る。ぞうんと身の毛がよだって脊髄までが凍ってしまうようである。――殺される、殺される。熱い塊が胸の中でごろごろ転がるが一滴の涙も枯れ果ててしまっている。ふと気付くと蜜柑の木の下に立っている。見覚えのある蜜柑の木だ。蕭条と雨の降る夕暮れである。いつの間にか菅笠を被っている。白い着物を着て脚絆をつけて草鞋を穿いているのだ。追っ手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。蜜柑の根もとに跼んで息を殺す、とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく巨きな佐柄木だ。いつもの二倍もあるようだ。樹から見下している。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。二本の眉毛も逞しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っているはずの片方も今は無いのだ。驚いて幾度も撫でてみるがやっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。\n「お前はまだ癩病だな」\n 樹上から彼は言うのだ。"
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"role": "assistant",
"content": "「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか」\n 恐る怖る聴いてみる。\n「癒ったさ、癩病なんかいつでも癒るね」\n「それでは私も癒りましょうか」\n「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ」\n「どうしたら癒るのでしょうか。佐柄木さん。お願いですから、どうか教えてください」\n 太い眉毛をくねくねと歪めて佐柄木は笑う。\n「ね、お願いです。どうか、教えてください。ほんとうにこのとおりです」\n 両掌を合わせ、腰を折り、お祈りのような文句を口の中で呟く。\n「ふん、教えるもんか、教えるもんか。貴様はもう死んでしまったんだからな。死んでしまったんだからな」\n そして佐柄木はにたりと笑い、突如、耳の裂けるような声で大喝した。\n「まだ生きてやがるな、まだ、貴、貴様は生きてやがるな」\n そしてぎろりと眼をむいた。恐ろしい眼だ。義眼よりも恐ろしいと尾田は思う。逃げようと身構えるがもう遅い。さっと佐柄木が樹上から飛びついて来た。巨人佐柄木に易々と小腋に抱えられてしまったのだ。手を振り足を振るが巨人は知らん顔をしている。\n「さあ火炙りだ」\nと歩き出す。すぐ眼前に物凄い火柱が立っているのだ。炎々たる焔の渦がごおうっと音をたてている。あの火の中へ投げ込まれる。身も世もあらぬ思いでもがく。が及ばない。どうしよう、どうしよう、灼熱した風が吹いて来て貌を撫でる。全身にだらだらと冷汗が流れ出る。佐柄木はゆったりと火柱に進んで行く。投げられまいと佐柄木の胴体にしがみつく。佐柄木は身構えて調子をとり、ゆさりゆさりと揺すぶる。体がゆらいで火炎に近づくたびに焼けた空気が貌を撫でるのだ。尾田は必死で叫ぶのだ。\n「ころされるう。こ ろ さ れ る う。他人にころされるう――」\n 血の出るような声を搾り出すと、夢の中の尾田の声が、ベッドの上の尾田の耳へはっきり聞こえた。奇妙な瞬間だった。\n「ああ夢だった」\n 全身に冷たい汗をぐっしょりかいて、胸の鼓動が激しかった。他人にころされるうーと叫んだ声がまだ耳殻にこびりついていた。心は脅えきっていて、布団の中に深く首を押し込んで眼を閉じたままでいると、火柱が眼先にちらついた。再び悪夢の中へ惹きずり込まれて行くような気がし出して眼を開いた。もう幾時ころであろう、病室内は依然として悪臭に満ち、空気はどろんと濁ったまま穴倉のように無気味な静けさであった。胸から股のあたりへかけて、汗がぬるぬるしてい、気色の悪いこと一とおりではなかったが、起き上がることができなかった。しばらく、彼は体をちぢめて蝦のようにじっとしていた。小便を催しているが、朝まで辛棒しようと思った。とどこからか歔欷きが聞こえて来るので、おやと耳を澄ませると、時に高まり、時に低まりして、袋の中からでも聞こえて来るような声で断続した。唸くようなせつなさで、締め殺されるような声であった。高まった時はすぐ枕もとで聞こえるようだったが、低まった時は隣室からでも聞こえるように遠のいた。尾田はそろそろ首をもち上げてみた。ちょっとの間はどこで泣いているのか判らなかったが、それは、彼の真向かいのベッドだった。頭からすっぽり布団を被って、それが幽かに揺れていた。泣き声を他人に聞かれまいとして、なお激しくしゃくり上げて来るらしかった。\n「あっ、ちちちい」\n 泣き声ばかりではなく、何か激烈な痛みを訴える声が混じっているのに尾田は気付いた。さっきの夢にまだ心は慄のき続けていたが、泣き声があまりひどいので怪しみながら寝台の上に坐った。どうしたのか訊いてみようと思って立ち上がったが、当直の佐柄木もいるはずだと思いついたので、再び坐った。首をのばして当直寝台を見ると佐柄木は、腹ばって何か懸命に書き物をしているのだった。泣き声に気付かないのであろうか、尾田は一度声を掛けてみようかと思ったが、当直者が泣き声に気付かぬということはあるまいと思われるとともに、熱心に書いている邪魔をしては悪いとも思ったので、彼は黙って寝衣を更えた。寝衣はもちろん病院からくれたもので、経帷子とそっくりのものだった。\n 二列の寝台には見るに堪えない重症患者が、文字どおり気息奄々と眠っていた。誰も彼も大きく口を開いて眠っているのは、鼻を冒されて呼吸が困難なためであろう。尾田は心中に寒気を覚えながら、それでもここへ来て初めて彼らの姿を静かに眺めることができた。赤黒くなった坊主頭が弱い電光に鈍く光っていると、次にはてっぺんに大きな絆創膏を貼りつけているのだった。絆創膏の下には大きな穴でもあいているのだろう。そんな頭がずらりと並んでいる恰好は奇妙に滑稽な物凄さだった。尾田のすぐ左隣の男は、摺子木のように先の丸まった手をだらりと寝台から垂らしてい、その向かいは若い女で、仰向いている貌は無数の結節で荒れ果てていた。頭髪もほとんど抜け散って、後頭部にちょっとと、左右の側に毛虫でも這っている恰好でちょびちょびと生えているだけで、男なのか女なのか、なかなかに判断が困難だった。暑いのか彼女は足を布団の上にあげ、病的にむっちりと白い腕も袖がまくれて露わに布団の上に投げていた。惨たらしくも情慾的な姿だった。\n そのうち尾田の注意を惹いたのは、泣いている男の隣で、眉毛と頭髪はついているが、顎はぐいとひん曲がって、仰向いているのに口だけは横向きで、閉じることもできぬのであろう、だらしなく涎が白い糸になって垂れているのだった。年は四十を越えているらしい。寝台の下には義足が二本転がっていた。義足と言ってもトタン板の筒っぽで、先が細まり端に小さな足型がくっついているだけで、玩具のようなものだった。がその次の男に眼を移した時には、さすがに貌を外向けねばいられなかった。頭から貌、手足、その他全身が繃帯でぐるぐる巻きにされ、むし暑いのか布団はすっかり踏み落とされて、かろうじて端がベッドにしがみついていた。尾田は息をつめて恐る怖る眼を移すのだったが、全身がぞっと冷たくなって来た。これでも人間と信じて良いのか、陰部まで電光の下にさらして、そこにまで無数の結節が、黒い虫のように点々とできているのだった。もちろん一本の陰毛すらも散り果てているのだ。あそこまで癩菌は容赦なく食い荒らして行くのかと、尾田は身顫いした。こうなってまで、死にきれないのか、と尾田は吐息を初めて抜き、生命の醜悪な根強さが呪わしく思われた。\n 生きることの恐ろしさを切々と覚えながら、寝台を下りると便所へ出かけた。どうして自分はさっき首を縊らなかったのか、どうして江ノ島で海へ飛び込んでしまわなかったのか――便所へはいり、強烈な消毒薬を嗅ぐと、ふらふらと目眩がした。危うく扉にしがみついた、間髪だった。\n「たかを! 高雄」\nと呼ぶ声がはっきり聞こえた。はっとあたりを見廻したがもちろん誰もいない。幼い時から聞き覚えのある、誰かの声に相違なかったが誰の声か解らなかった。何かの錯覚に違いないと、尾田は気を静めたが、再びその声が飛びついて来そうでならなかった。小便までが凍ってしまうようで、なかなか出ず、焦りながら用を足すと急いで廊下へ出た。と隣室から来る盲人にばったり出会い、繃帯を巻いた掌ですうっと貌を撫でられた。あっと叫ぶところをかろうじて呑み込んだが、生きた心地はなかった。\n「こんばんは」\n 親しそうな声で盲人はそう言うと、また空間を探りながら便所の中へ消えて行った。\n「今晩は」\nと尾田も仕方なく挨拶したのだったが、声が顫えてならなかった。\n「これこそまさしく化物屋敷だ」\nと胸を沈めながら思った。\n\n 佐柄木は、まだ書きものに余念もない風であった。こんな真夜中に何を書いているのであろうと尾田は好奇心を興したが、声をかけるのもためらわれて、そのまま寝台に上った。すると、\n「尾田さん」\nと佐柄木が呼ぶのであった。\n「はあ」\nと尾田は返して、再びベッドを下りると佐柄木の方へ歩いて行った。\n「眠られませんか」\n「ええ、変な夢を見まして」\n 佐柄木の前には部厚なノォトが一冊置いてあり、それに今まで書いていたのであろう、かなり大きな文字であったが、ぎっしり書き込まれてあった。\n「御勉強ですか」\n「いえ、つまらないものなんですよ」\n 歔欷きは相変わらず、高まったり低まったりしながら、止むこともなく聞こえていた。\n「あの方どうなさったのですか」\n「神経痛なんです。そりゃあひどいですよ。大の男が一晩中泣き明かすのですからね」"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 葉子は顔をおおうたままきっぱりと矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出でなかった。\n 母屋のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。\n 心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。\n「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地の様子も玄人以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」\n 葉子は思わずぎょっとして息気がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやりと笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。\n「愛想が尽きたか......」\n 愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国奴、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない......と思っただけで葉子は怖毛をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっとした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめから倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病な驚きと躊躇とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間には、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんな事で愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちに素早くも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦にのみ見る極端に肉的な蠱惑の微笑がそれに代わって浮かみ出した。\n「ちょっと驚かされはしましたわ。......いいわ、わたしだってなんでもしますわ」\n 倉地は葉子が言わず語らずのうちに感激しているのを感得していた。\n「よしそれで話はわかった。木村......木村からもしぼり上げろ、構うものかい。人間並みに見られないおれたちが人間並みに振る舞っていてたまるかい。葉ちゃん......命」\n「命!......命!! 命※(感嘆符三つ)」\n 葉子は自分の激しい言葉に目もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力をこめて倉地を引き寄せた。膳の上のものが音を立ててくつがえるのを聞いたようだったが、そのあとは色も音もない焔の天地だった。すさまじく焼けただれた肉の欲念が葉子の心を全く暗ましてしまった。天国か地獄かそれは知らない。しかも何もかもみじんにつきくだいて、びりびりと震動する炎々たる焔に燃やし上げたこの有頂天の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉をかんだ。\n その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉の赤みが鰹節の心のように半透明にまっ赤に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘ずっぱく立てこもった酒と煙草の余燻の中に、すき間もる光線が、透明に輝く飴色の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤に充血して、精力に充ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は目の周囲に死色をさえ注していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。\n 降るような真昼の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気をとめるほど喉を干からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。\n やがて葉子は人を避けながら芝生の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然として潮干潟の泥を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。......葉子は茫然としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。\n 痲痺しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。\n ゆうべの事は夢ではなかったのだ......そして今見るこの景色も夢ではあり得ない......それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。\n この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵の深みを知った。そしてそこにしゃがんでしまって、苦い涙を泣き始めた。\n 懺悔の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。\n\n三四\n\n ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下には少しずつ硬ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には絶巓のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。\n 竹柴館の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱惑物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に娼婦以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人は、はた目には酸鼻だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽の実を互い互いから奪い合いながらずるずると壊れこんで行くのだった。\n しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷の期待が潜んでいた。一度ぎゅっとつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめとして葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を銷尽して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。\n とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。\n ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとりと上気して雀の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。\n「だれでしょう」\n 倉地は物惰さそうに、\n「岡だろう」\n といった。\n「いゝえきっと正井さんよ」\n「なあに岡だ」"
},
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"role": "assistant",
"content": "「じゃ賭けよ」\n 葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶もろくろくしないでいきなり岡の手をしっかりと取った。そして小さな声で、\n「よくいらしってね。その間着のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」\n 葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。\n「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて事がお上手だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今御褒美を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」\n そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬に強い接吻を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、\n「ばか!......このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。......まだ勉強か」\n といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、\n「愛さん、貞ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」\n と澄んだ美しい声で蓮葉に叫んだ。\n「そうお」\n という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。\n「貞ちゃんは今勉強が済んだのか」\n と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、\n「ええ今済んでよ」\n といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、\n「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」\n 重苦しくいい出した。\n「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも......ねえ貞ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)......なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」\n と葉子がいった。\n「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが古藤さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。......木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか億劫な質なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。でわたし、きょうは水曜日だから、用便外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」\n 葉子は倉地だけに顔が見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、\n「いいわね」\n と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるりと岡のほうに向き直った。\n「ようございますとも(葉子はそのようにアクセントを付けた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに結構。貞ちゃんもいいでしょう。またもう一人お友だちがふえて......しかも珍しい兵隊さんのお友だち......」\n「愛ねえさんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」\n と貞世は遠慮なくいった。\n「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」\n と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのようにいった。\n 岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。\n「いいでしょう。うまくやって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」\n 玄関に送り出してそう葉子はいった。\n「どうかなあいつ、古藤のやつは少し骨張り過ぎてる......が悪かったら元々だ......とにかくきょうおれのいないほうがよかろう」\n そういって倉地は出て行った。葉子は張り出しになっている六畳の部屋をきれいに片づけて、火鉢の中に香をたきこめて、心静かに目論見をめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる......。"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "しかし戒律を制定せられたかたは、佛自身であつた筈だが、衆學法などのやうな行儀作法に關する輕い規則は時により、處によりて後人が多少の改易もあつたことゝ思ふ、現に支那に存在する諸部の律文を見ても、此の間には、多少の出入損益はある、しかし何はともあれ、波羅夷罪に次いで重大な犯罪である、僧殘罪は決して恣に後人の取捨損益を許さない筈のもので、現に諸部の律文は其數が十三と云ふに於て一致して居る、從つて其の名稱も、佛在世の時代から存在して居つたことゝ見るべきである、然るに其の名稱の由來を見るに、一方では此種の罪を犯したものは、僧團の「あまりもの」とせらるゝからだと云ひ、他方ではこれを處分するには、始中終、僧團の集會の上で定むることが必要だからだと云ふ、佛が在世の當時此の名稱があつたことゝすると、佛が如何なる趣意で此の名稱を制定せられたか、あるときは、一方の趣意、あるときは又、一方の趣意で、かゝる名稱を用ひられたとは信ぜられない、必ずや確固たる理由又は趣意を以てかゝる名稱を用ゐられたに相違ない、然るに、これに種々の趣意を附して、變な説明を附し、はては行き詰つて、たゞ義味をとれ、其の文字を究むる必要はないなどに云つてしまつては、甚だ、佛に對してすまぬ心地がする、何とか二者の中、いづれかにきめたい、自分一個としては犯罪の處置につきて、始中終、僧團全體の出席を要するものは必ずしも僧殘罪には限らない、これより重き波羅夷罪の處分につきても然りである、だから「パーリ」語の「サングㇵーディセーサ」に對する説明は、はなはだ、感服せぬ、何はさておき、この語を分析して Samgha + ādi + sesa とするのは、そもそも曲解であると思ふ。これは Samgha + adisesa と分析すべきものである、梵語に改めて見れば Samgha + atiçesa である、これならば僧始終でなくて、立派に僧殘と云ふ意味になる、ちやうど、日本語で、山と寺との二語で、山中の寺と云ふ言葉を作つたときは「やまでら」と云ふて、「やまてら」とは云はない、即ち「でら」の「て」は「で」となる、「やまてら」と云つたら古では叡山と園城寺とならべ云ふときの略稱である、又、矢と木との二語で「矢につくる木」と云ふとすると、「柳」と云つて「やなき」とは云はない、即ち木の「き」は「ぎ」とかはる、これと同じく古代印度の俗語では、本來の清音は即ち、tとかkとか、pとか云ふやうな音は、もし二個の母音即ちaとかiとかuとか云ふやうな音に挾まつたときは、濁音のbとかgとかdとかになるが常である、一例を擧ぐると「ヷラルチ」の俗語語典に Ritvādisu to dah と云ふ規則がある、リツ(ritu)等の梵語ではtはdとなる意で、atiçesa の梵語が adisesa となることは、これで明白である、だから梵語ならば Samghātiçesa と云つたものが俗語で samghādisesa と發音する慣例になつて居つたに相違ない、前にも申した通り「パーリ」語と云ふものは多數學者の云ふやうに決して佛在世の當時の言葉でもなく、又、印度の一地方の方言でもなく、云はゞ佛教の教團の中に出來た非常に發達した文學語であるから、俗語から「パーリ」文にかき直すときに、てつきりこれは samgha ādi sesa だと誤解してdの音を其のまゝに放置したのがそも〳〵混雜を生じたもとで、少くも二千年間、敬虔なる佛教徒、正直な佛學者の疑惑を誘致して種々の牽強附會の説を惹起したもとであると自分は信ずる、最初から samghātiçesa と梵語で傳はつて居たら、こんなことにならなかつたことゝ思ふ、しかし佛教の最初、起つた時代は、文字でかいて傳へるよりも、口から口へ記憶を傳へると云ふが原則であつて殊に戒律の規則などは、たとひ文字で書いてあつたにしても、日常の座臥進退に密接の關係があつたものであるから、必ずこれを記憶して置かねばならぬ、此の頃の法律のやうに文字でかいて、もつて居つて、疑惑あるごとに開いて見ると云ふやうなことではとても間に合はぬ、南方の佛教徒は昔も今も、八日毎に開く布薩の會には、波羅提木叉の戒文を誦するから、すべて覺えて居らねばならぬ、たゞに佛教徒のみならず、古代印度の法典も、またさうであつて、これを專門にして居る人々は、暗誦して居らねばならぬ、また古代印度のみならず、古代羅馬にても、さうであつて、羅馬の市民は少くも十二銅表に刻んである法文は記憶して居らねばならぬ、さもなくば「フオラム」で訴訟があつた場合に、立會つて何の事か自分ではわからぬ恐がある、だから羅馬青年の學科の中には十二銅標の法文暗誦は第一になつて居つたことは「シセロ」の書を見れば明白である。\n佛教戒律の文も記憶で傳つた結果、種々其の語の由來について、判明せぬことが少くない、これらのことを明にして、はつきり、佛の本意を闡明したいと云ふのは、前猊下の御思召であつて、まことに結構な御趣意である、これには梵語で見て判然せぬときは、「パーリ」語でしらべて見、「パーリ」語でわからぬときは西藏文で見、なほ判らぬときは、中央亞細亞で、流沙の中から、西洋人、支那人、日本人が發掘した斷簡零楮について見ると云ふ必要が出來る次第である。\n餘談はさしおき、「パーリ」語の Samghādisesa は梵語の Samghātiçesa に相當することだけは、明瞭になつたとして、然らば現在存在する梵本の中に於て、僧殘罪の原語は Samghātiçesa であるかと云ふとさうでなく Samghāvaçesa である、atiçesa にしても avaçesa にしても「あまり」「のこり」即ち殘と云ふ義であるから、意味は同一であるが音が違ふ、佛在世の當時、いづれの語を使用せられたかと云ふと、それは淺學の自分には、まだ判明しない、これは後日の研究に讓りたい。\n\n(八)僧殘罪の名稱の由來縁起はこれだけとして、この波羅夷罪につぐ重罪の中に、佛は、何故に沙門の結婚を媒介することを入れられたか、一寸局外から考へると結婚の媒介は男女の淫樂を媒介するやうにも見えるから、いけないと意料さるゝが、なるほど、年頃の男女の私通を媒介するは、第一沙門たるの品位をも傷けるし、男女の淫樂の便益を計るのであるから、道徳上、よろしくないことは申すまでもないが、正式の結婚は必ずしも男女の淫樂のためでなく、今日ではいざ知らず、古代では印度でも、希臘羅馬でも一種の宗教的行爲であり、同時に又、法律的行爲である、宗教上から見れば、結婚と云ふ行爲によりて、甲家の女子が乙の家の男子に嫁すると云ふよりも、寧ろ、甲の家の守護神の下に居る一人が乙の家の守護神の下に移る行爲であり、また甲の家の祖先の亡靈が支那流の言葉で云へば永く、血食せんため、印度流の言葉で云へば倒懸地獄の苦みを免れんために祭祀をなし得べき資格あるもの即ち子孫殊に男子を生むに必要な行爲である、家の守護神とは祖先の亡靈又は祭壇に絶えず燃ゆる火又は火神である、印度ならば家の中にある三種の「アグニ」の神、羅馬ならば「ヹスター」、希臘ならば「ヘスチア」である、法律上から見れば、これに依り、舅姑に對する義務を負ひ、また、夫により扶養の權利を得、又結婚後自己名義の財産を所有する權利を得、又、所生の子に財産の相續分配等の權利を附與する一法律行爲である、隨而、正當の結婚行爲其物は、近代思想から云つても男女淫樂のための行爲でない、まして、家族主義の色彩が非常に濃厚であつた古代では決して、かく解すべきものでなく、甚だ純潔な、宗教行爲、法律行爲である、隨而これを媒酌することは、たとひ沙門の身であつても差支へはないと思ふが、佛は何故にこれを禁ぜられたかと云ふと、全く結婚其の物は不淨ではないが、結婚後、男女の遭遇する境遇が幸福であればよいが不幸にでもなると、媒介したものはいろ〳〵の惡評を世間なり、殊に女子の兩親、親族から受くることになつて、累を僧團に及ぼす恐があるから、かゝる制禁を設けられたものと見える、十誦律第三(張、三、十九、左)や、根本説一切有部毘奈耶第十三(張八、五十六右)などに見えた説明はさうなつてある、善見律毘婆沙第十三(寒八、七十丁左―七十一丁右)に於ても「パーリ」文の「スツタ、ビブㇵンガ」の中に僧殘(samghādisesa.v)の第五にも同樣の説明がある、後の二者では、佛は、舍衛國に居られたとき、優陀夷比丘又は六群比丘に對して呵責せられた結果、この制禁を設けられたことになつて居るが、前二者では舍衛國に居られたことだけは、變りはないが、黒鹿子又は鹿子長者の子、迦羅なるものの媒酌に對して、呵責せられた結果、此の制禁を設けられたことになつて居る、黒は kāla の譯であり、鹿子とは mrigāra の譯であることは否定出來ない、して見ると優陀夷(udāyī)と云ふ語の譯ではないことは、疑ない、佛弟子の中には Kālodāyī と云ふのが居るが、これを以て黒鹿子又は鹿子、長者の子迦羅とは譯されない、このあたり、どういふ風に會通すべきか、自分には出來ない、暫く博雅の教を待つことにする。\n\n(九)私通の媒介をするものは、男ならば印度で dūta 又は dūtaka であり女ならば dūti 又は dūtikā と云ふて極めて下等なものとなつて居る、十誦律の第三によると私通の種類に女の境遇から見て、十四種であり、有部律の方では十種になつて居る、「パーリ」の「スツタ、ヸブㇵンガ」でも十種である、即ち\n十誦律..................有部律...............善見律............スツタ、ヸブㇵンガ\n一、父所護............一、父護...............一、父護............2.pitu-rakkhitā(pitri-raksitā)\n二、母所護............二、母護...............二、母護............1.mātu-rakkhitā(mātri-raksitā)\n三、父母所護............................................................3.mātā-pitu-rakkhitā(mātā-pitri-raksitā)\n四、兄弟所護.........三、兄弟護............三、兄護............4.bhātu-rakkhitā(Bhrātri-raksitā)\n五、姉妹所護.........四、姉妹護............四、姉護............5.Bhagini-rakkhitā(Bhaginī-raksitā)\n六、舅護...............五、大公護..................................................................(çvaçura-raksitā)\n七、姑護...............六、大家護..................................................................(çvaçnī-raksitā)\n八、舅姑護\n九、親里護............七、親護...............五、宗親護.........6.ñāti-rakkhitā(jñāti-raksitā)\n十、姓護...............八、種護...............六、姓護............7.gotta-rakkhitā(gotra-raksitā)\n十一、自護............九、族護\n十二、法護............十、王法護............七、法護............8.dhamma-rakkhitā(dharma-raksitā)\n十三、十四、夫主護............法護.................................9.Sārakkha(Sāraksā)\n八、罸護............10.Sa-paridandā(Sa-paridandā)"
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{
"role": "assistant",
"content": "\nこゝで一寸、御斷りをして置くが「パーリ」語の表に次ぎ、括弧を附して掲げたものは「パーリ」語に基きて自分が假に梵語に直したものである、それから、有部律の第五と第六に、大公護、大家護とあるが、大公大家とは、夫の父母即ち嫁から云へば、舅姑であつて、姑と云ふ場合には大家の語は、「タイカ」と讀んではいけない、「タイコ」と讀まねばならぬ、つまり唐代以前の俗語である、餘計なことであるが梵語との對照上誤解をせないやうに願ひたい、\n十誦律の方では、十四種となつてあるが、十三しかない、尤も最後の夫主護と云ふのを夫によりて護らるゝもの、主によりて護らるゝものとの二つにすれば、十四種となる譯である、有部律の方では十種としてあるが實際には王法護の次に法護なるものを擧げて、事實十一種となつてある、善見律の方では十護となつてあるが八しかない、父母護兄弟姉妹護を加ふれば十護となるが恐らくは煩を厭ふて省きたものであらふ、「パーリ」文の「スツタ、ヸブㇵンガ」では十種の婦人を擧げて居る、支那譯の律には十誦律にしても、有部律にしても皆一々精細に十護の女子について説明してあるから、茲には省くことゝして、たゞ「パーリ」文の分だけを「スツタ、ヸブㇵンガ」の中にある説明を和譯して見ることゝした、\n\n(一)母によりて護られたる婦人とは、母はこれを監守し、保護し、自由にし、己が權力の下に置く婦人を云ふ、(二)父に依りて護られたる婦人とは父、(三)父母によりて護られたる婦人とは父母、(四)兄弟によりて護られたる婦人とは兄弟、(五)姉妹によりて護られたる婦人とは姉妹、(六)親戚によりて護られたる婦人とは親戚、(七)種姓によりて護られたる婦人とは同姓のもの、(八)法によりて護られたる婦人とは同法のもの、これを監守し、保護し、自由にし、己が權力の下に置く婦人を云ふ、(九)監守附きの婦人とは、たとひ、華鬘をつけ(年頃の處女の裝をなせる)ものたりとも、此の女は己がものなりと密室の中にすら、占有せられたるものなり(十)罸金附きの婦女とは凡そ、人某婦に通ずるものは、かれにはこれこゝの罸金を科すとて何人かによりて罸金を定められし婦人なり、\n\nこれによると「パーリ」文の第九は十誦律の第十三、第十四の夫主護に相當して居るやうで、所謂人のもちものになつて居る婦人を云ふのであるから、妻は勿論、妾、かこはれものだのが、この中に包含せらるゝ筈である、第十の罸金附の婦人とは、當時の印度の社會の現實を遺憾なく云ひ現はしたもので二三人よりて、一の女子をかこひ、又はもちものにして、これ以外のものにして、これに通ずることを拒まんため、豫め一定の罸金を定めて置くと云ふやうな制度で、今日の日本人から見ると可笑しいやうだが、しかし、これに類似の現象は、支那や、西洋には絶無とは云へない。\n\n(十)男子が私通の相手たる婦人の種類は、十種乃至十四種に別れてあるが、今度は法律又は習慣の認むる方法で結婚して人の妻になつた婦人には七種乃至十種あると云ふてある。\n\n 十誦律...............有部律...............善見律...............スツタ、ヸブㇵンガ\n一、索得............一、水授婦............一、物賈...............1.dhanakkītā(dhana-krītā)\n二、水得............二、財娉婦............二、樂住...............2.chanda-vāsinī(chanda-vāsinī)\n三、破得............三、王旗婦............三、雇住...............3.bhoga-vāsinī(bhoga-vāsinī)\n四、自來得.........四、自樂婦............四、衣物住............4.pata-vāsinī(pata-vāsinī)\n五、以衣食得......五、衣食婦............五、水得...............5.oda-pattakinī(udaka-dattā)\n六、合生得.........六、共活婦............六、鐶得...............6.obhata-cumbatā(〔avabhrita-cumbta〕)\n七、須臾得.........七、須臾婦............七、婢得...............7.dāsī cā bhariyā ca(dāsī ca bhāryā ca)\n八、執作...............8.kammakārī ca bhariyā ca(karmakārī ca dhajāhata)\n九、擧旗婦............9.dhaja-hritā(dhvaja-hritā)\n10.muhuttikā(tamkhanikā)(tatksanikā)\n\n十誦律の第一索得と云ふは、有部の第二の財娉婦に相當する、善見律の第三雇住、第四衣物住は十誦律や有部律の第五以衣食得、又は衣食婦に相當し、第六、第七、第八の鐶得、婢得、執作の三者合して、十誦律、有部律の第六合生得、共活婦即ち梵語で云へば sama-jīvikā に相當する、だから善見律は九種の婦を擧げて居るが、つまり、内容に於て變化はない、たゞ須臾得、須臾婦の目が他の律にはあるが善見律にはないことになる、「パーリ」文の律で、説明を見ると、第一の財物もて買得せる婦と云ふのは、財を出して、購ひ求め己が家に住居さす婦人である、第二の己が意樂で住する婦人と云ふのは好いた同志即ち女の好む男が、男の好む女を己が家に住居せしめたことを云ふので、今日の言葉で云はゞ、戀愛本位の結婚である、第三の食物を以て住居する婦人とは食物を與へて同棲せしむる婦人で、第四の衣裳で住居する婦人とは衣裳を與へて同棲せしむる婦人であり、第五の水得婦と云ふは、水瓶に手を觸れて、同棲せしむる婦人であり、第六の鐶を卸した婦と云ふは、婦人が頭に物を載せて運搬する際、据はりのよい樣に丸い枕のやうなものを髮上に戴く、(京都の近郷の八瀬大原の婦人などは藁で作つた鐶を戴いて居る)これを頭から卸さして、勞働をやめさせ、己が家に同棲せしむるからかく云つたもので、第七は婢であつて同時に婦としたもので、第八は家事を辨ずる女で、同時に婦となつたもの、第九は、旗鼓を樹てゝ戰陣の間に敵の婦女を囚へてつれ歸り、己の妻にしたもの、第十は暫時の間、夫婦關係を結んだもので、今日の言葉で云へば、自由結婚で嫌になれば、すぐ離れてもかまはないと云ふやうなものである、かく精細に婦の種類を列擧したのを見ると佛教の戒律の注釋せられた當時に印度の社會が認めて正當の妻であるとしたものは、ざつと七種乃至十種あつたもので、日本の今日に於て、法律上、妻といふものに比すれば甚だ其範圍は廣い、察するに、此等の戒律の注疏をした人々は自分達が法律家であつたか、然らざれば、當時の法律家の間に用ゐられた專門語を使用したものと思はれる、一讀するに今日の所謂法律家(ヂユリスト)が書いたのではないかを疑はれる、今、此等の語を古代印度の法典で今日にも傳はつてあるものゝ中に探つて見たが一向に見當らない、しかし内容に於ては類似の點がないでもない、古代印度の法典と云へば、日本の法學者間に一番よく知られて、しば〳〵引用せらるゝのは「マヌ」の法典である、しかし「マヌ」の法典は、各種の法典を集めて大成したもので決して一番舊い法典でないことだけは斷つて置く、「マヌ」の法典で妻と云ふものは左に掲ぐる樣式によつて、女が男と一所になつたときに出來るものである、"
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": "その時、しぐれがまた屋根の上をパラ〳〵と通つて行つた後から、窓のガラス障子に、何かがばたんと打つかるやうな音がした。風が出たな、あゝ、イヤなことだ、と、さう思つてゐるうちに、風にしては少し重みのあるやうなものが、つゞいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを叩いたやうであつたが、かすかに、\n「ニヤア」\nと云ふ声が、何処かに聞えた。まさか今時分、そんなことが、.........と、ぎくツとしながら、気のせゐかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、\n「ニヤア」\nと啼いてゐるのである。そしてそのあとから、あのばたんと云ふ音が聞えて来るのである。彼女は慌てゝ跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハツキリ、\n「ニヤア」\nと云ふのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、.........と云ふ音と同時に、黒い物の影がさつと掠めた。さうか、やつぱりさうだつたのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあつた。此の間こゝの二階にゐた時は、とう〳〵一度も啼かなかつたが、それは確かに、蘆屋時代に聞き馴れた声に違ひなかつた。\n\n急いで挿し込みのネヂを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から射す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかつた。想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リヽーは多分そこへ上つて、啼きながら窓を叩いてゐたのに違ひなく、あのばたんと云ふ音とたつた今見えた黒い影とは正しくそれだつたと思へるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行つたのであらうか。\n「リヽーや、.........」\nと、階下の夫婦を起さないやうに気がねしながら、彼女は闇に声を投げた。瓦が濡れて光つてゐるので、さつきのあれが時雨だつたことは疑ふ余地がないけれども、それがまるで譃だつたやうに、空には星がきら〳〵してゐる。眼の前を蔽ふ摩耶山の、幅広な、真つ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまつてゐるが、頂上のホテルに灯の燈つてゐるのが見える。彼女は張り出しへ片膝をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、\n「リヽーや」\nと、呼んだ。すると、\n「ニヤア」\nと云ふ返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、燐色に光る二つの眼の玉がだん〳〵近寄つて来るのである。\n「リヽーや」\n「ニヤア」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「リヽーや」\n「ニヤア」\n何度も〳〵、彼女が頻繁に呼び続けると、その度毎にリヽーは返辞をするのであつたが、こんなことは、つひぞ今迄にないことだつた。自分を可愛がつてくれる人と、内心嫌つてゐる人とをよく知つてゐて、庄造が呼べば答へるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしてゐたものだのに、今夜は幾度でも億劫がらずに答へるばかりでなく、次第に媚びを含んだやうな、何とも云へない優しい声を出すのである。そして、あの青く光る瞳を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄つて来ては、又すうつと向うへ行くのである。大方猫にしてみれば、自分が無愛想にしてゐた人に、今日から可愛がつて貰はうと思つて、いくらか今迄の無礼を詑びる心持も籠めて、あんな声を出してゐるのであらう。すつかり態度を改めて、庇護を仰ぐ気になつたことを、何とかして分つて貰はうと、一生懸命なのであらう。品子は初めて此の獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のやうに嬉しくつて、何度でも呼んでみるのであつたが、抱かうとしてもなか〳〵掴まへられないので、暫くの間、わざと窓際を離れてみると、やがてリヽーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。それから、全く思ひがけないことには、寝床の上にすわつてゐる品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。\nこれはまあ一体どうしたことか、―――彼女が呆れてゐるうちに、リヽーはあの、哀愁に充ちた眼差でじつと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへ靠れかゝつて来て、綿フランネルの寝間着の襟へ、額をぐいぐいと押し付けるので、此方からも頬ずりをしてやると、頤だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに舐め廻すのであつた。さう云へば、猫は二人きりになると接吻をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じやうな仕方で愛情を示すものだと聞いてゐたのは、これだつたのか、いつも人の見てゐない所で夫がこつそりリヽーを相手に楽しんでゐたのは、これをされてゐたのだつたか。―――彼女は猫に特有な日向臭い毛皮の匂を嗅がされ、ザラ〳〵と皮膚に引つかゝるやうな、痛痒い舌ざはりを顔ぢゆうに感じた。そして、突然、たまらなく可愛くなつて来て、\n「リヽーや」\nと云ひながら、夢中でぎゆツと抱きすくめると、何か、毛皮のところ〴〵に、冷めたく光るものがあるので、扨は今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行つたのであつた。\nそれにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰つたのはなぜであらう。恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなつて、戻つて来たのではないであらうか。僅か三里か四里のところを、三日もかゝつてうろ〳〵しながら、とう〳〵目的地へ行き着けないで引つ返して来るとは、リヽーにしては余り意気地がないやうだけれども、事に依ると此の可哀さうな獣は、もうそれほどに老衰してゐるのであらう。気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものゝ、視力だの、記憶力だの、嗅覚だのと云ふものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どつちの路を、どつちの方角から、どう云ふ風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行つては踏み迷ひ、此方へ行つては踏み迷ひして、又もとの場所へ戻つて来る。昔だつたら、一旦かうと思ひ込んだらどんなに路のない所でもガムシヤラに突進したものが、今では自信がなくなつて、様子の知れない所へ分け入ると怖気がついて、ひとりでに足がすくんでしまふ。きつとリヽーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、此の界隈をまご〳〵してゐたのであらう。さうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な〳〵此の二階の窓の近くへ忍び寄つて、入れて貰はうかどうしようかと躊躇ひながら、中の様子を窺がつてゐたのかも知れない。そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうづくまつて長い間考へてゐたのであらうが、室内にあかりが燈つたのと、俄かに雨が降つて来たのとで、急にあゝ云ふ啼き声を出して障子を叩く気になつたのであらう。でもほんたうに、よく帰つて来てくれたものだ。よつぽど辛い目に遭つたればこそであらうけれども、矢張私をアカの他人とは思つてゐない証拠なのだ。それに私も、今夜に限つてこんな時刻に電燈をつけて、雑誌を読んでゐたと云ふのは、虫が知らしたせゐなのだ。いや、考へれば、此の三日間ちよつとも眠れなかつたのも、実はリヽーの帰つて来るのが何となく待たれたからだつたのだ。さう思ふと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、\n「なあ、リヽーや、もう何処へも行けへんなあ。」\nと、さう云ひながら、もう一遍ぎゆつと抱きしめると、珍しいことにリヽーはじつと大人しくして、いつまでも抱かれてゐるのであつたが、その、物も云はずに唯悲しさうな眼つきをしてゐる年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらゐはつきり見透せるのであつた。\n「お前、きつとお腹減つてるやろけど、今夜はもう遅いよつてにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思ふけど、ま、仕方ない、此処わての家と違ふよつてに、明日の朝まで待ちなされや。」\n彼女は一と言〳〵に頬ずりをしてから、漸うリヽーを下に置いて、忘れてゐた窓の戸締まりをし、座布団で寝床を拵へてやり、あの時以来まだ押入に突つ込んであつたフンシを出してやりなどすると、リヽーはその間も始終後を追つて歩いて、足もとに絡み着くやうにした。そして少しでも立ち止まると、直ぐその傍へ走り寄つて、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、\n「えゝ、もうえゝがな、分つてるがな。さ、此処へ来て寝なさい〳〵。」\nと、座布団の上へ抱いて来てやつて、大急ぎであかりを消して、やつと彼女は自分の寝床へ這入つたのであつたが、それから一分とたゝないうちに、忽ちすうツと枕の近くにあの日向臭い匂がして来て、掛け布団をもく〳〵持ち上げながら、天鵞絨のやうな柔かい毛の物体が這入つて来た。と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行つて、裾のあたりを暫くの間うろ〳〵してから、又上の方へ上つて来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないやうになつてしまつたが、やがてさも気持の好さゝうな、非常に大きな音を立てゝ咽喉をゴロ〳〵鳴らし始めた。\nさう云へば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロ〳〵云ふのを、いつも隣で聞かされながら云ひ知れぬ嫉妬を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロ〳〵が大きな声に聞えるのは、よつぽど上機嫌なのであらうか、それとも自分の寝床の中だと、かう云ふ風にひゞくのであらうか。彼女はリヽーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよ〳〵した蹠の肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のやうな、嬉しいやうな心地がして、真つ暗な中で手さぐりしながら頸のあたりを撫でゝやつた。するとリヽーは一層大きくゴロ〳〵云ひ出して、とき〴〵、突然人差指の先へ、きゆツと噛み着いて歯型を附けるのであつたが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りのしぐさであることが分るのであつた。\nその明くる日から、リヽーはすつかり品子と仲好しになつてしまつて、心から信頼してゐる様子が見え、もう牛乳でも、花鰹節の御飯でも、何でもおいしさうに食べた。そしてフンシの砂の中へ日に幾度か排泄物を落すので、いつもその匂が四畳半の部屋の中へむうツと籠るやうになつたが、彼女はそれを嗅いでゐると、いろ〳〵な記憶が思ひがけなくよみがへつて、蘆屋時代のなつかしい日が戻つて来たやうに感ずるのであつた。なぜかと云つて、蘆屋の家では明けても暮れても此の匂がしてゐたではないか。あの家の中の襖にも、柱にも、壁にも、天井にも、皆此の匂が滲みついてゐて、彼女は夫や姑と一緒に四年の間これを嗅ぎながら、口惜しいことや悲しいことの数々に堪へて来たのではないか。だが、あの時分には、此の鼻持ちのならない匂を呪つてばかりゐたくせに、今はその同じ匂が何と甘い回想をそゝることよ。あの時分には此の匂故にひとしほ憎らしかつた猫が、今はその反対に、此の匂故に如何にいとほしいことよ。彼女はそのゝち毎晩のやうにリヽーを抱いて眠りながら、此の柔順で可愛らしい獣を、どうして昔はあんなにも嫌つたのかと思ふと、あの頃の自分と云ふものが、ひどく意地の悪い、鬼のやうな女にさへ見えて来るのであつた。\n\nさて此の場合、品子が此の猫の身柄について福子に嫌味な手紙を出したり、塚本を通してあんなに執拗く頼んだりした動機と云ふものを、一寸説明しておかなければならないのであるが、正直のところ、そこにはいたづらや意地悪の興味が手伝つてゐたことも確かであり、又庄造が猫に釣られて訪ねて来るかも知れないと云ふ万一の望みもあつたであらうが、そんな眼の前のことよりも、実はもつと遠い〳〵先のこと、―――ま、早くて半年、おそくて一年か二年もすれば、多分福子と庄造の仲が無事に行く筈はないのだからと、その時を見越してゐるのであつた。それと云ふのが、もと〳〵塚本の仲人口に乗せられて嫁に行つたのが不覚だつたので、今更あんな怠け者の、意気地なしの、働きのない男なんぞに、捨てられた方が仕合はせだつたかも知れないのだが、でも彼女としてどう考へても忌ま〳〵しく、あきらめきれない気がするのは、当人同士が飽きも飽かれもした訳ではないのに、ハタの人間が小細工をして追ひ出したのだと、さう云ふ一念があるからだつた。尤もそんなことを云ふと、いや、さう思ふのはお前さんの己惚れだ、それは成る程、姑との折合も悪かつたに違ひないけれども、夫婦仲だつてちつとも良いことはなかつたではないか、お前さんは御亭主をのろまだと云つて低能児扱ひにするし、御亭主はお前さんを我が強いと云つて鬱陶しがるし、いつも喧嘩ばかりしてゐたのを見ると、よく〳〵性が合はないのだ、もし御亭主がほんとにお前さんを好いてゐるなら、いくらハタから押し付けたつて、外に女を拵へる訳がありますまいと、さう露骨には云はない迄も、塚本などのお腹の中は大概さうにきまつてゐるのだが、それは庄造と云ふ人の性質を知らないからのことなので、彼女に云はせれば、いつたいあの人はハタから強く押し付けられたら、否も応もないのである。呑気と云ふのか、ぐうたらと云ふのか、其の人よりも此の人がいゝと云はれると、すぐふら〳〵とその気になつてしまふのだけれども、自分から女を拵へて古い女房を追ひ出したりする程、一途に思ひ詰める性分ではないのである。だから品子は熱烈に惚れられた覚えはないが、嫌はれたと云ふ気もしないので、周りの者が智慧をつけたりそゝのかしたりしなかつたら、よもや不縁にはならなかつたらう、自分がこんな憂き目を見るのは、全くおりんだの、福子だの、福子の親父だのと云ふものがお膳立てをしたからなのだと、さう思はれて、少し誇張した云ひ方をすれば、生木を割かれたやうな感じが胸の奥の方にくすぶつてゐるので、未練がましいやうだけれども、どうも此のまゝでは堪忍出来ないのであつた。\nしかし、それなら、うす〳〵おりんなどのしてゐることを感付かないでもなかつた時分に、何とか手段の施しやうがあつたゞらうに、―――いよ〳〵蘆屋を追ひ出される間際にだつて、もつと頑張つてみたらよかつたらうに、―――じたいさう云ふ策略にかけては姑のおりんと好い取組だと云はれた彼女が、案外あつさり旗を巻いて、おとなしく追ん出てしまつたのはなぜであらうか、日頃の負けず嫌ひにも似合はないと云ふことになるが、そこにはやつぱり彼女らしい思はくがないでもなかつた。ありていに云ふと、今度の事は彼女の方に最初幾分の油断があつたから斯うなつたので、それと云ふのも、あの多情者の、不良少女上りの福子を、何ぼ何でも忰の嫁にしようと迄はおりんも考へてゐないであらうし、又尻の軽い福子が、まさか辛抱する気もあるまいと、たかをくゝつてゐたからなのだが、そこに多少の目算違ひがあつたとしても、どうせ長続きのする二人でないと云ふ見透しに、今も変りはないのであつた。尤も福子は年も若いし、男好きのする顔だちだし、鼻にかける程の学問はないが女学校へも一二年行つてゐたのだし、それに何より持参金が附いてゐるのだから、庄造としては据ゑ膳の箸を取らぬ筈はなく、先づ当分は有卦に入つた気でゐるだらうけれども、福子の方がやがて庄造では喰ひ足らなくなつて、浮気をせずにはゐないであらう。何しろあの女は男一人を守れないたちで、もうその方では札附きになつてゐるのだから、どうせ今度も始まることは分りきつてゐるのだが、それが眼に余るやうになれば、いくら人の好い庄造だつて黙つてゐられないであらうし、おりんにしても匙を投げるにきまつてゐる。ぜんたい庄造は兎に角として、シツカリ者と云はれるおりんにそのくらゐなことが見えない筈はないのだけれども、今度は慾が手伝つたので、つい無理な細工をしたのかも知れない。だから品子は、こゝでなまじな悪あがきをするよりは、一と先づ敵に勝たしておいて、徐ろに後図を策しても晩くはないと云ふ腹なので、中々あきらめてはゐないのだつたが、でもそんなことは、無論塚本に対しても噫にも出しはしなかつた。うはべは同情が寄るやうに、なるべく哀れつぽいところを見せて、心の中では、どうしてもゝう一遍だけ彼処の家へ戻つてやる、今に見てゐろと思ひもし、又その思ひがいつかは遂げられるだらうと云ふ望みに生きてもゐるのだつた。"
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"role": "user",
"content": "「考えないほうがいい、あんたにはできっこもなし、やらせたくもないこった」\n「けれどもおれだって、生きなくっちゃならねえからな」と房二郎が云った、「できたら記事屋としてやってゆきてえし、そのために必要ならなんでもするつもりなんだ」\n おるいが盆を持ってはいって来、房二郎の膳を出すと、ゆきひらと茶碗、梅干の小皿と箸を並べ、お待ち遠さまと云った。房二郎は自分でやるからいいと云ったが、おるいは相手にせず、卵の入った粥を茶碗に取り、房二郎に渡した。彼は木内桜谷に、ちょっと待ってくれと云い、箸を取りあげた。粥の匂いを嗅ぐと、にわかに腹が減ってきたのである。粥は塩かげんもよく、卵も半熟で、こんなにうまい物があるだろうかと思いながら、房二郎は茶碗に二杯たべた。おるいはそのようすをたのしげに見ていて、お味が薄かったかしら、ときいた。\n「わからないな、なにしろ粥なんて、覚えてから初めて喰べたんでね」と房二郎は茶碗を置きながら云った、「しかしうまかったよ」\n「よかったわ、それだけあがれば大丈夫よ」おるいはゆきひらや茶碗を盆に移しながら、その代りに燗徳利と盃と、肴の小皿を二つ膳へのせた、「でも気をつけてね、やけになって、飲みたくもないのに飲んだりしてはだめですよ」\n「おれが叱られてるみてえだな」と木内は首をすくめて云った。\n おるいが去ると、房二郎は手酌で酒を一杯注ぎ、飲もうとはせずに、さあ聞こう、と緊張した顔つきで云った。\n「話してもむだなんだがな」木内は酒を啜って云った、「いや、話すほうが諦めがつくかもしれねえな、云っちまおう、――記事のたねを金にするというのはな、古い手だがゆすりなんだ」\n「ゆすりだって」\n「金持のうちの内情をあばいて、これこれの記事を瓦版にして売り出すんだが、お宅の名を書かなければならないので、あらかじめお知らせをしに来た、ともちかけるんだ」と木内は云った、「大店や金持ともなれば、世間に知られたくないようなないしょ事が、二つや三つはあるもんだ、金で済むことなら世間に恥をさらすことはねえからな、その記事を買いましょう、ということになるわけさ」\n 房二郎は膳の上から盃を取り、眉をしかめながら呷った、「へえー、そういうことかい、へえー、そいつはとびきりへちまの木だ」\n「おめえときどきそれを云うが、へちまは木にゃあならねえぜ」\n「どうして」と房二郎が反問した、「だって茄子の木ってことはみんな云うじゃねえか」\n「どっちでもいいが、茄子は一本立ちだから木と云ってもいいだろう、しかしへちまは竹とか木なんぞに絡みつく蔓草だからな、どうこじつけても木たあ云えねえんだ」\n\n五\n\n 房二郎は夢の中で、やわらかく、吸いつくような、熱い女の躯の重みを感じた。いつかの女だな、と彼はおぼろげに思った。女の躯は彼を上から蔽い、押しつけたり、緊めつけたりした。けんめいに苦痛を耐えているような女の声を聞きながら、また酔いすぎたんだな、と彼は思った。躯の一部に異様な感覚がおこり、その感覚が急に頂点に達したとき、彼は女のかすかな、わけのわからない叫び声を聞き、自分の全筋肉がばらばらにほぐされるのを感じた。\n\n「池さん、もう起きないとおくれるわよ」とおるいが云った、「もし文華堂へいらっしゃるんならだけれど」\n「いきますよ」うとうとしながらそう云ってから、房二郎は眼をさまして、枕許にいるおるいを見た、「ああ、あんたか」\n「あんまり飲んじゃだめだって云ったのに、こんなに飲んでばかりいるといまに躯をこわしちゃうわよ」\n「痛いな」と房二郎は云った、「けれども、男にはね、死ぬほうがよっぽど楽だっていうときがあるんだよ」\n「女にはそんなときがないとでもお思いですか」\n「痛いな」とまた房二郎は云った、「私は世間を覗いたばかりで、自分のことだってよくわからないんだから」と云って彼はてれたような顔つきになった、「――ゆうべはよっぽどおそかったんですか」\n「覚えていらっしゃらないの」\n「売り子の段平と久兵衛がいっしょだったんで、知らないところを引廻されたものだから、いつどうして帰ったか覚えがないんだ」\n おるいの顔に嬌かしい微笑がうかんだ、「売り子っていうのはやくざなかまの人なんでしょ」とおるいが云った、「まさか悪いところなどへいったんじゃないでしょうね」\n「そんなことはないさ」房二郎は顔をそむけた、「尤も、酔っていたから、どんなところを廻ったかよくはわからないがね」\n「女がいたんじゃないの」とおるいはさぐるような口ぶりできいた、「女のひとと浮気をしたんでしょ」\n「顔を洗おう」と云って彼は起きあがった、「そう休んでばかりもいられないからな」\n「卵粥が出来ててよ」\n 房二郎はけげんそうな眼をした、「へえー、どうして」\n「酔ったあとにはあれがお好きなんでしょ」\n「そんなことを云ったかな」\n「仰しゃらなくったってわかるわよ」と云っておるいは立った、「さあお起きなさい、半插へお湯を取っておくわ」\n\n 文華堂の前で、売り子の段平と会った。瓦版をひと重ね左の手に、古扇子を右手に持っていた。饅頭形の編笠をかぶり、尻端折りをした布子の下に、ほっそりした紺の股引をはいた脚が、いかにもいなせなように見えた。\n「ゆうべは世話になったな」と房二郎が云った、「だいぶ散財させたんじゃないのか」\n「なあに、顔馴染の店ばかりでね」と段平は苦笑いをした、「銭なんか使やしねえ、あるとき払いときまってるんだ」\n 房二郎は財布の中から幾らか出し、足りないだろうが割前に取っておいてくれ、と云って段平に渡した。そして段平が断わろうとするのを遮って、ゆうべはどこで別れたかときいた。\n「お宅の前でさ、あんまり酔ってたから送ってったんでさ」と段平が云った、「なにかあったんですか」\n「厄介をかけて済まなかった」と彼は云った。\n 記事部屋へあがると、木内桜谷が向う鉢巻をし、机に向かって、例のとおり酒を飲み飲み、いさましく筆をはしらせていた。房二郎は自分の机の前に坐ってから、財布を出して中をしらべてみた。家を出がけにおるいが、少し入れておいた、と云って渡してくれたものだ。いましがた段平に少しばかり割前を払ったとき、かなり多額にはいっているようなので、財布をあらためると、一分銀が三枚、二朱が二つと、銭が三十文あった。\n ――段平に遣ったのが二朱だった、とすればほぼ一両か。\n 財布をしまいながら、房二郎は顔を歪めた。部屋の借り賃も溜ってるし、こんな金を貰う義理はまったくない。すぐに返さなければならないが、手を付けてしまったのだから、このままでは返せないし、当分は返すあてもない。房二郎はすっかり気が重くなった。\n ――それにゆうべの女だ、いつかの晩と同じ女だと思うが、いったいあれはどこの家のどんな女だろう。\n よほど段平にきこうかと思ったが、どうにも口には出せなかった。桜田小路の家を出れば、そのまま生きた生活にはいれると思った。しかしこれまでのところ、世間は彼を拒絶し、押し戻すようにしか思えない。すべてがちぐはぐで、不合理で、いやらしく不潔な面だけしか彼にみせてはくれなかった。三男坊だから窮屈で不自由な生活だと思ったが、千二百石の旗本に育った神経には、文華堂などという、最低のからくりで経営する店や、町人ぐらしで触れるものごとの一つ一つに、やりきれないほどの抵抗を感じるのであった。\n「さあ値上げだ」突然、記事を書きとばしながら木内が云いだした、「月手当の値上げだ、さあさあ値上げだ値上げだ」\n「こっちも値上げだ」と隣りの八帖から彫り師の源さんの声が聞えた、「お店はほかに幾らもあるんだ、こんな手当で仕事をするなんてもうまっぴらだ」\n その声を聞いて、木内桜谷がにやりとし、肩をすくめるのを房二郎は見た。"
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"role": "assistant",
"content": "「そうだ値上げだ」と隣りの八帖から、こんどは絵師の常さんの声が聞えた、「子供の絵本を描いたって、もう少しはましな銭にならあ」\n 摺師の松やんはなにも云わず、なにかを刷っているばれんの、きゅっきゅっという音だけが、休みなしに聞えた。そこへ木原桜水がはいって来、皮肉な笑いをうかべながら、だいぶ賑やかですねと云って、記事だねの紙を木内桜谷の机の上に置いた。\n「辻斬りと、子供が大八車にひき殺された話です」と木原は云った、「辻斬りは浅草の二天門外、子供のひき殺されたのは神田の鍛冶町、子供は三つの女の子だったそうです」\n「たまには屑だねでねえのを持ってこいよ」木内は筆の手を休めずに云った、「そんな記事じゃあいくら売り子がそそっても、瓦版は売れやしねえぜ」\n「それを売れるように書くのが、木内さんの腕じゃあないのかな」と木原はにやにやしながら云った、「この夏、新吉原の女郎の心中はよく売れたそうじゃありませんか、二人とも死んだことになってるが、女郎のほうはまだぴんぴんしているし、あの瓦版のおかげで、たいそうはやってるそうですからね」\n「よしてくれ」と木内桜谷が云った、「そんなことは聞きたくもねえや」\n「筆の力ですよ」木原は軽薄に笑った、「木内さんが書けば、どんなに屑だねでも売れること間違いなしさ、しっかり頼みますよ」\n そしてへらへら笑いながら、木原桜水は出ていった。\n「たいした野郎だ」と木内は書きながら云った、「いいたねは金になるほうへ持ってゆき、安い屑だねはこっちへ持って来やあがる、それで実際に書くおれなんぞより、ずっと多くちょび髭から召し上げるんだからな、――なにが可笑しいんだ」\n 房二郎は手を振って、「いや違うんだ、その話じゃあないんだ」と云った、「いま桜水が神田鍛冶町と云ったとき、初めておまえさんに会ったときのことを思いだしたんだ」\n「沢茂のことかい」\n「刺身のかなっけのことじゃあねえ」と房二郎がまた忍び笑いをしながら云った、「あのときおれたちの脇に二人の客がいた、その一人がさ、子供が寝小便をしたので、こらしめのためにその蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと出してやった」\n「おれにも覚えがあるぜ」\n「ところが、――その男の家は亀戸辺にあるらしいが、子供は蒲団を背負ったまま、神田の多町までいっちまったっていうんだ」\n「子供のこったからな」と木内は書き続けながら云った、「好きなところへいくさ」\n そのあと、町内が迷子捜しで大騒ぎになったそうだ、と云おうとして、房二郎は急に口をつぐんだ。おまえはどうだ、という声が聞えたのである。芝の屋敷をとびだして、こんな卑しい、三文にもならない仕事をしている、おまえ自身は迷子じゃあないのか。\n ――人間はみんな迷子だ。\n 木内桜谷は芝居の座付き作者になろうとしたが、いまは瓦版の拵え記事などを書いて、かつかつに食っている。世間を欺き人を騙すような仕事をしながら、女房にがみがみ云われどおしで、首をちぢめているちょび髭も、源さん、常さん、松やん、そして飲み屋で会った名も知らず、顔もよく覚えていない男たちまで、考えてみるとみんな迷子みたような感じだった。\n ――よくつきつめてみると、人間ってものはみんな、自分のゆく道を捜して、一生迷いあるく迷子なんじゃないだろうか。\n 房二郎はますます心が重くなり、迷子のままで一生を終ったような、親族のたれかれを思いだして、深く長い溜息をついた。\n「どうした」と木内が呼びかけた、「また宿酔ですか」\n「そんなところだ、木内さんとはどこまでいっしょだったんですか」\n「両国広小路の横丁だったな」木内はやはり手を止めずに云った、「おまえさんは段平と久兵衛にとりまかれてたから、そのあとどうしたか、おれは知らないよ、なにかあったのかい」\n 房二郎は答えずに、また溜息をついた。\n\n六\n\n 十二月にはいって雪の降る朝、房二郎はいつもより半刻も早く、文華堂へでかけた。子供のじぶんから、彼は雪の降るのを見ると、家にじっとしていられず、すぐにとびだして友達をさそいだしたり、友達がいなければ独りで、赤坂の溜池や、馬場や、山王の森などをあるきまわるのが常であった。しかし下町の雪は積もるあとから掻き寄せられ、溝へ捨てられてしまい、狭い空地に残っているものも、きたならしくよごれていて、彼が少年のころ知っていた雪景色とは、まるでようすが違っていた。\n ――赤坂あたりはいまでもきれいだろうな。\n そんなことを思いながら文華堂へゆき、店の脇にある階段を登ろうとすると、女中のおかつがいそいで寄って来て、このあいだはまた有難うねと、顔を赤くして吃りながら云った。喰べたくないときにやる弁当の礼で、このあいだは鯖の味噌煮と煎り豆腐と、菜の胡麻よごしだったけれど、あんなにうまい物を喰べたのは生れて初めてで、喰べながら涙が出てしようがなかった。ということを、吃る者に特有のこまかい表現で語った。\n「わかったわかった」と房二郎は遮って云った、「今日のもよければ喰べていいよ、おれは欲しくないからな」\n そして礼を云われるのを避けるように、二階の記事部屋へあがっていった。時刻が早いのか、それとも雪のためか、まだ刷り部屋のほうにも人はいなかった。そして彼が自分の机に坐ろうとしたとき、裏の座敷で物を投げる音がし、主婦のおそでのきーっという叫び声が聞えた。\n「寄合いだなんて誰が信用するもんか」とおそでが叫んだ、「しとが知らないと思って、ばかにするのもいいかげんにしろ、さあ、ゆうべはどこへ泊って来た、どこのすべたあまと寝て来たんだ、云ってみろ」\n「済まなんだ、泊って来たりしてほんまに済まん」と文華の云うのが聞えた、「けど、寄合いは同業のつきあいだし、そのあとだかて、わて独りつきあいから抜けるちゅうわけにはいかんがな、もう帰ろ帰ろと思いながら、つい」\n おそでがまたなにか投げつけた。文華は襖をあけて逃げだし、廊下へ平伏した。あいにくなことに、女中が掃除したばかりだろう、こっちの記事部屋の障子がまだあけたままなので、平つく這った文華の、痩せた小さな、貧相な姿はまる見えだった。\n「このとおりや」と文華は廊下へ額をすりつけた、「泊ることはつきあいで泊ったが、おなごと寝たりなんぞしやへん、それは誰にきいてみてもわかることや、な、堪忍して、このとおりや堪忍して」\n「岡場所みたいなとこへ泊って、おまえが女も抱かずに寝る男か」\n「ほんまのことやて」と文華は云い張った、「自分でもなぜかいなあと思ったくらいや」\n おそでがきーっと叫び、またなにかを投げた。それは湯呑茶碗で、廊下へ叩きつけても割れず、記事部屋までころげて来た。文華は堪忍や堪忍やと云いながら、平つく這ったまま、頭を上げたり額を廊下にすりつけたりした。ばったのようにという表現を絵にしたような感じで、房二郎はどうにも見ているに耐えず、立ちあがって、刷り部屋から廊下へ出、階段をおりて店へいった。そこへ木内桜谷がはいって来たので、彼は眼くばせをし、二階を指さして頭を振った。\n「とにかくとんびへゆこう」房二郎は店の番傘を取って云った、「話はとんびへいってからにするよ」\n\n とんびの店はあいていなかった。二人はまた小網町の「沢茂」へいった。そこは船頭や荷揚げの親方などが寄るので、早くから店をあけているのであった。\n「人間てな面白いもんだな」話を聞いてから、木内が笑って首を振りながら云った、「あの女狐は七日ばかりまえに、桜水の若ぞうと浮気をしやあがった、記事だねを持って来たとき、ちょび髭がいなかったんで、そのまま逢曳き宿へしけ込んだのさ」\n「逢曳き宿なんて、初めて聞くな」\n「この裏に幾らもあるさ、江戸じゅうどこへいったって不自由なしさ」と云って酒を啜りながら、木内は顔をくしゃくしゃにして、皮肉に笑った、「おまえさんは千石の旗本育ちだからわかるまいがね」\n「ちょび髭はそれを知らないのかい」\n「知ってるさ」と木内は云った、「まえにも云った筈だが、夫婦となれば、そぶりだけだってそんなことに勘づかねえわけがねえ、ちょび髭はちゃんと知ってるんだ」\n「それなら今日なんぞ、どうしてやり返してやらないんだ」\n「金だよ、房やん」木内はそのよく動く眼をぎろっとさせた、「ちょび髭は女狐の持ってる金を覘ってるし、女狐はそれをよく知ってる、つまりお互いに化かしあいをやってるってところさ」\n「反吐が出そうだな」\n「世間をよく見てみな、みんなお互いに化かしあっているようなもんだぜ」\n 木内桜谷はそう云ってへらへらと笑った。房二郎はがくっと肩を落し、溜息をついて、こっちにも酒を呉れと云った。彼はそれまで香煎を啜っていたのだが、酒でも飲まなければどうにもやりきれない気持になったのであった。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": " 畑に出て見る。唯一叢の黄なる菜花に、白い蝶が面白そうに飛んで居る。南の方を見ると、中っ原、廻沢のあたり、桃の紅は淡く、李は白く、北を見ると仁左衛門の大欅が春の空を摩でつゝ褐色に煙って居る。\n 春の日も午近くなれば、大分青んで来た芝生に新楓の影繁く、遊びくたびれて二つ巴に寝て居る小さな母子の犬の黒光りする膚の上に、桜の花片が二つ三つほろ〳〵とこぼれる。風が吹く。木影が揺く。蛙が鳴く。一寸耳をびちっと動かした母犬は、またスヤ〳〵と夢をつゞける。\n 夕方は、まんまるな紅い日が、まんじりともせず悠々と西に落ちて行く。横雲が一寸一刷毛日の真中を横に抹って、画にして見せる。最早穂を孕んだ青麦が夕風にそよぐ。\n 夜は蛙の声の白い月夜。\n(明治四十三年)\n\n\nある夜\n\n 梅に晩く桜に早い四月一日の事。\n 余は三時過ぎから、ある事の為にある若い婦人を伴うて、粕谷から高輪に往った。午後の六時から十一時過ぎまで、ある家の主人を訪うてある事を弁じつゞけ、要領を得ずして其家を辞した時は、最早十二時近かった。それでも終電車に乗るを得て、婦人は三宅坂で下りて所縁の家へ、余は青山で下りて兄の家に往った。\n 寝入り端と見えて、門を敲けど呼べど叫べど醒めてくれぬ。つい近所に姪の家があるが、臨月近い彼女を驚かすのも面白くない。余は青山の通を御所の方へあるいて、交番に巡査を見出し、其指図で北町裏の宿屋を一二軒敲き起した。寤めは寤たが、満員と体の好い嘘を云って謝絶された。\n 電車はとくに寝に往って了った。夜が明けたら築地の病院に腫物を病んで入院して居る父を見舞うつもりで、其れ迄新橋停車場の待合室にでも往って寝ようと、月明りと電燈瓦斯の光を踏んで、ぶら〳〵溜池の通を歩いて新橋に往った。往って見ると此は不覚、扉がしまって居る。駅夫に聞くと、睡むそうな声して、四時半まではあけぬと云う。まだ二時前である。\n 電燈ばかり明るくてポンペイの廃墟の様に寂しい銀座の通りを歩いて東へ折れ、歌舞伎座前を築地の方へ往った。万年橋の袂に黙阿弥の芝居に出て来そうな夜啼饂飩が居る。夜は丑満頃で、薄寒くもあり、腹も減った。\n「おい、饂飩を一つくれんか」\n「へえ」\n 灯の蔭から六十近い爺が顔を出して一寸余を見たが、直ぐ団扇でばたばたやりはじめた。後の方には車が二台居る。車夫の一人は鼾をかいて居る。一人は蹴込に腰を据えて、膝かけを頭からかぶって黙って居る。\n「へえ、出来ました」\n 割箸を添えて爺が手渡す丼を受取って、一口啜ると、腥いダシでむかッと来たが、それでも二杯食った。\n「おい、もう二つこさえて呉れ」\n 余は代を払い、「ドウモ御馳走様! おい、旦那が下さるとよ」と車夫が他の一人を呼びさます声を聞きすてゝ万年橋を渡った。つい其処の歌舞伎座の書割にある様な紅味を帯びた十一日の月が電線にぶら下って居る。\n 築地外科病院の鉄扉は勿論しまって居た。父のと思わるゝ二階の一室に、ひいた窓帷越しに樺色の光がさして居る。余は耳を澄ました。人のうめき声がしたかと思うたが、其は僻耳であったかも知れぬ。父は熟睡して居るのであろう。其子の一人が今病室の光を眺めて、此深夜に窓の下を徘徊して居るとは夢にも知らぬであろう。\n 睡くなった。頭がしびれて来た。何処でもよい、此重い頭を横たえたくなった。余はうつら〳〵と夢心地に本願寺の近辺をぶらついた。体で余は歩かなかった。幽霊のようにふら〳〵とさまようた。不図墓地に入った。此処は余も知って居る。曾て一葉女史の墓を見に来た時歩き廻った墓地である。余は月あかりに墓と墓の間を縫うて歩いた。誰やらの墓の台石に腰かけて見た。然し此処は永く眠るべき場所である。一夜の死を享く可き場所ではない。余は墓地から追い出されて、また本願寺前の広場に出た。\n 不図本願寺の門があいて居るのを見つけた。門口には巡査か門番かの小屋があって、あかりがついて居る。然し誰咎むる者も無いので、突々と入って、本堂の縁に上った。大分西に傾いた月の光は地を這うて、本堂の縁は闇い蔭になって居る。やっと安息の場所を獲て、広縁に風呂敷を敷き、手枕をして横になった。少しウト〳〵するかと思うと、直ぐ頭の上で何やらばさ〳〵と云う響がした。余は眼を開いて頭上の闇を見た。同時に闇の中に「ク〻ク〻」と云う囁やきを聞いた。\n「あ、鳩だ」\n 余はまたウト〳〵となった。\n 月は次第に落ちて行く。\n(明治四十二年 四月一日)\n\n"
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"role": "assistant",
"content": "与右衛門さん\n\n 村の三月節句で、皆が遊んであるく。家は潰され、法律上の妻には出て往かれ、今は実家の厄介になって居る久さんが、何発心してか今日はまる〳〵の青坊主に剃って、手拭肩に独ぶら〳〵歩いて居る。\n 甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負って来た。「ドウもねえあなた、天道様に可愛がられまして、此通り真黒でございます」と頬を撫でる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛と鶴子の花簪を買うた。\n 小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門さんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用の釜を買わぬかの、植木の売物があるのと、蟻の砂糖につく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々本当にしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。\n 与右衛門さんは、村内切っての吾儘者剛慾者としてのけものにさるゝ男である。村内でも工面のよい方で、齢もまだ五十左右、がっしりした岩畳の体格、濃い眉の下に開いた蛇の目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺から足の爪先まで慾気満々として寸分のタルミも無い。岩畳な彼を容るゝその家は、基礎を切石にし、柱の数を多くし、屋根をトタンで包み、縁を欅で張り、木造の鬼の窟の如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其堅牢な意志の発現である。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其威に恐れぬものは無い。彼が家の麦からの束は、他家の二倍もある。彼が家の夜具は、宇都宮の釣天井程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ〳〵若者を凌ぐ婆さんである。婆さんの曰く、私の家は信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏なんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾自力宗の信者である。遠い神仏を信心するでもなければ、近所隣の思惑や評判を気にするでもなく、流行とか外聞とかつき合とか云うことは、一切禁物で、恃む所は自家の頭と腕、目ざすものは金である。与右衛門さんには道楽と云うものが無いが、金と酒は生命にかけて好きである。家で晩酌に飲み、村の集会で飲み、有権者だけに衆議院議員の選挙振舞で飲み、どうやらすると昼日中おかず媼さんの小店で一人で飲んで真赤な上機嫌になって、笑って無暗にお辞義をしたり、管を巻いたり、気焔を吐いたりして居ることがある。皆が店を覗いて、与右衛門さんのお株梅ヶ谷の独相撲がはじまりだ、と笑う。与右衛門さんは何処までも自己中心である。人が与右衛門さんの地所を世話すれば、世話人は差措いて必直談に来る。自身の世話しかけた地所を人が直談にすれば、一盃機嫌で怒鳴り込んで来る。\n 然し与右衛門さんは強慾であるかわり、彼は詐を云わぬ。詐は貨幣同様天下の通り物である。都でも、田舎でも、皆それ〴〵に詐をつく。多くの商売は詐に築かれた蜃気楼と云ってもよい。此辺の田舎でも、些とまとまった買物を頼めば、売主は頼まれた人に、受取は幾何金と書きましょうか、ときく。コムミッションの天引は殆不文律になって居る。人を見て値を云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人に薪を売った者がある。他の村人が、あまり値段が高いじゃないかと注意したら、売り主の曰く、そりゃ些ア高いかも知んねえが、何某さんは金持だもの、此様な時にでも些ア儲うけさして貰わにゃ、と。而して薪の売主は、衆議院議員選挙権を有って居る、新聞位は読んで居る男である。売る葺萱の中に屑をつめ込んで束を多くする位は何でも無い。\n 誰も平気に詐をつく。然し看板を出した慾張り屋の与右衛門さんは、詐を云わぬ、いかさまをせぬ。それから彼は作代に妻をもたせて一家を立てゝやったり、義弟が脚部に負傷したりすると、荷車にのせて自身挽いて一里余の道を何十度も医者へ通ったり、よく縁者の面倒を見る。与右衛門さんに自慢話がある。東京者が杉山か何か買って木を伐らした時、其木が倒れて誤って隣合って居る彼与右衛門が所有林の雑木の一本を折った。最初無断で杉を伐りはじめたのであった。与右衛門さんは例の毛虫眉をぴりりとさせて苦情を持込んだ。御自分に御買いになった木を御伐りになるに申分は無いが、何故此方の山の木まで御折りになったか、金が欲しくて苦情を申すでは無い、金は入りません、折れた木を元の様にして戴きたい。思いがけない剛敵に出会して、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方を困らせぬいた揚句、多分の賠償金と詫言をせしめて、やっと不承した。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く。そこで与右衛門さんを憚って、其の地所の隣地に一寸した事をするにも、屹度わたりをつける。\n 与右衛門さんは評判の長話家である。鍬を肩にして野ら仕事の出がけに鉢巻とって「今日は」の挨拶からはじめて、三十分一時間の立話は、珍らしくもない。今日も煙管をしまっては出し、しまっては出し、到頭二時間と云うものぶっ通しに話された。与右衛門さんは中々の精力家である。「どうもダイ産としては地所程好いダイ産はありませんからナ」の百万遍を聞かされた。\n「でも斯様な時代もあったですよ」\nと云って、与右衛門さんは九度目に抽き出した煙管に煙草をつめながら、斯様な話をした。\n 此辺はもと徳川様の天領で、納め物の米や何かは八王子の代官所まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切烏山にやるから貰ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽をつけて、やっと厄介な田を譲った。\n「嘘の様な話でさ。惜しい事さね、今ならば......」\nと云って、与右衛門さんは煙管の雁管をポンと火鉢にはたいて、今にも水が垂りそうな口もとをした。\n(明治四十四年 四月三日)\n\n\n五月五日\n\n 五月五日。日曜。節句。余等が結婚十九年の記念日。例によって赤の飯、若芽の味噌汁。\n 朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂神社の祭礼があるので、甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りが賑やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日に光る若葉の村々には、赭い鯉が緑の中からふわりと浮いて居る。麦の穂は一面白金色に光り、蛙鳴く田は紫雲英の紅を敷き、短冊形の苗代には最早嫩緑の針がぽつ〳〵芽ぐんで居る。夕雲雀が鳴く。日の入る甲州の山の方から塵のまじらぬ風がソヨ〳〵顔を吹く。府中の方から大国魂神社の大太鼓がドン〳〵と遙に響いて来る。\n 帰宅したのが六時過ぎ。正面に見て眩しくない大きな黄銅色の日輪が、今しも橋場の杉木立に沈みかけた所である。\n 本当に日が永い。\n 留守に隣から今年も檞餅をもらった。\n 留守に今一つの出来事があった。橋本のいさちゃんが、浜田の婆さんに連れられ、高島田、紋付、真白に塗って、婚礼の挨拶に来たそうだ。美しゅうござんした、と婢が云う。\n いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、貰われて橋本の女になった。橋本の嗣子が亡くなったので、実弟の谷さんを順養子にして、いさちゃんを妻わしたのである。余等が千歳村に越して程なく、時々遊びに来る村の娘の中に、垢ぬけした娘が居た。それがいさちゃんであった。彼女は高等小学を卒え、裁縫の稽古に通った。正月なんか、庇髪に結ってリボンをかけて着物を更えた所は、争われぬ都の娘であったが、それでも平生は平気に村の娘同様の仕事をして、路の悪い時は肥車の後押しもし、目籠背負って茄子隠元の収穫にも往った。実家の母やマアガレットに結って居る姉妹等が遊びに来ても、いさちゃんはさして恥じらう風情も無かった。\n 田舎は淋しい。人が殖え家が殖えるのは、田舎の歓喜である。人が喰合う都会では、人口の増加は苦痛の問題だが、自然を相手に人間の戦う田舎の村では、味方の人数が多い事は何よりも力で強味である。小人数の家は、田舎では惨なものだ。何の家でも、五人六人子供の無い家は無い。この部落でも、鴫田や寺本の様に屈強な男子の五人三人持て居る家は、家も栄るし、何かにつけて威勢がよい。養蚕が重な副業の此地方では、女の子も大切にされる。貧しい家が扶持とりに里子をとるばかりでなく、有福な家でも里子をとり、それなりに貰ってしまうのが少なくない。其まゝに大きくして、内の媳にするのが多い。所謂「蕾からとる花嫁御」である。一家総労働の農家では、主僕の間に隔がない様に、実の娘と養女の間に格別の差等はない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。\n 都会に近い田舎の事で、何の家も多少の親類を東京に有って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑の季節には、田舎からも東京に遊びに行く。辰爺さんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息ついて曰く、全く田舎が好えナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠に往っても鼻ア突つく、田舎に帰ると爽々するだ、親類のやつが百姓は一日にいくら儲かるってきくから、こちとらは帳面なンかつけやしねえ、年の暮になりゃ足りた時は足りた、剰らねえ時は剰らねえンだ、って左様云ってやりましたよ、と。\n 東京に往けば、人間に負けます、と皆が云う。麦の穂程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれて了う。其処に電話の鈴が鳴る。電車が通る。自動車が走る。号外が飛ぶ。何かは知らず滅多無性に忙しそうだ。斯様な渦の中に捲き込まれると、杢兵衛太五作も足の下が妙にこそばゆくなって、宛無しの電話でもかけ、要もないに電車に飛び乗りでもせねば済まぬ気になる。ゆっくりした田舎の時間空間の中に住み慣れては、東京好しといえど、久恋の住家では無い。だから皆帰りには欣々として帰って来る。\n 田舎では、豊かな生計の家でも、女を東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両遊学である。勿論弊害もあるが、軍隊に出た男は概して話せる男になって帰って来る。いさちゃんのお婿さんなども、日露戦争にも出て、何処やら垢ぬけのした在郷軍人である。奉公に出た女にも、東京に嫁入る者もあるが、田舎に帰って嫁ぐ者が多い。何を云うても田舎は豊かである。田舎に生れた者が田舎を恋うばかりでなく、都に生れた者でも田舎に育てば矢張田舎が恋しくなる。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "1\n\n「演劇」の範囲をどこまでひろげるかという問題は、けつきよく、「演劇」の定義次第であるが、また逆に、「演劇」に一つの定義を与えるとすれば、やはり、「演劇」の範囲をまず決めてかからなければならぬ。\n われわれが現在、「演劇」と呼んでいる舞台芸術は、狭い意味では、文学作品としての戯曲の上演を指す。これはもう論議の余地はあるまい。しかし、「戯曲の上演」といつても、そこに厳密な一線を引くことは、どうしても無理である。例えば、即興劇のような、あらかじめ準備された脚本によらず、俳優が舞台に出てから、いきなり「即興的」に対話のやりとりを始め、勝手に「動き」をつけ、彼等の当意即妙の工夫によつて、ひとつの筋を作りあげていく、というような「演劇」の種目も存在する。\n しかし、こういうものを例外として含めても、なおかつそのほかに、様々な特殊な上演形式があつて、俳優はその肉体を舞台に現わさず、その代りに「幻燈の人物像」を使つて、セリフだけを陰でいう、という方法もあり得る。つまり、戯曲、演技、舞台機構、演出、それらの組合せによつて、一つの「物語」が語られるという点で、正統的ともいうべき「演劇」の「かたち」は限定されることになる。\n そこで、ひろい意味では「演劇」の範疇にいれてもよいが、厳密には、それぞれの、固有の名称で呼ばれなければならぬような、一種の「演劇的創造」或は、「演劇的興行」がある。この場合には、おおかた、文学としての戯曲はもはや存在せず、単に物語の主題、または、構成が、音楽または舞踊の「演劇的展開」に利用されているにすぎない。「歌劇」および「舞踊劇」がこれである。ただ、そのうちに、ひとつ、「ラジオ・ドラマ」という特別な種目があつて、これは、「演劇」としての重要な要素を欠きながら、なおかつ、正統的な「演劇」と最も近い繋りをもつている。重要な要素というのは、視覚にうつたえるものが皆無だということで、普通、演劇は、少くとも、俳優のセリフとシグサとをもつて仕組まれるという原則に当てはまらないのである。\n ところが、ただそれだけなら、セリフのない演劇というものが、既に成り立つている。「黙劇」とも「無言劇」とも、「パントマイム」ともいう、俳優のシグサだけの舞台である。このことは、「演劇」の本質と深い関係があるわけで、要するに、俳優が一定の場所へ集つた「観衆」を前にして、じかに、その肉体の表情をもつて、物語りを物語ることが、原則として、演劇の演劇たるゆえんなのである。\n 従つて、ラジオ・ドラマが、「テレヴィジョン・ドラマ」になり、たとえそこに視覚にうつたえる要素が加つたとしても、俳優がじかに観衆の前で演技をしてみせ、互にその反応を示し合うのでなければ「演劇」としての真の「すがた」とはいえないことになる。\n それは、それでいいのである。\n\n2\n\n 狭い意味の演劇、文学としての戯曲の上演という限られた範囲をとつてみても、そこには、いろいろな条件の変化によつて、さまざまな「かたち」のものができあがる。\n「かたち」は単に外形を指すばかりでなく、その「内容」をも指すとすれば、その種類はどれだけあるか、大きな分類を行うことすら困難である。\n 一般に行われている見方に従い、いわゆる「演劇のジャンル」について、ひと通りの説明をしておこう。\n 最も古くから行われている「演劇」の大きな分け方は、誰でも知つている通り、「悲劇」と「喜劇」とである。これはもちろん、文学としての戯曲の分類であるが、ギリシア悲劇の流れを汲む悲劇の本質は、人間と神、乃至運命との対立抗争にあつて、苦悶し、慟哭する人間のすがたに、観衆は共鳴し、同情し、自己の罪と汚れとを、一瞬自覚することによつて、心を清められる、というのが、悲劇の効果とされていた。\n これに対して、一方、現実の世界を、露骨に、滑稽に描き出し、そこに反省と警告とをさりげなく示すものが、「喜劇」である。\n この二つの分け方は、たしかに、演劇の二つの大きな枝を明らかに区別したことにはなるが、時代は、この二つの枝を、常に、別々に伸ばそうとはしなかつた。\n イギリスにシェイクスピアが現われて、既に、この二つの枝は、時に、一本となつた。\n フランスでも、十八世紀になると、悲劇と喜劇との区別を無視しはじめた。いわゆる「悲喜劇」という代物が生れ、批評家はこれを「ジャンルの混淆」と言つた。悲劇でもなく喜劇でもないという中間的な色合いの戯曲も書かれるようになる。フランスで「ドラマ」という名称が使われだしたのはこの時代で、“Pièce”という名称は、悲劇でも喜劇でもない戯曲を指すために用いられるのである。\n ジャンルの混淆は、自然、「悲劇」と「喜劇」の性質をも徐々に変化させるに至つた。\n なお、そのほかに、劇場機構の改革、社会思潮の変化、外国文物の移入、などが原因となつて、演劇の相貌は急激に近代化し、複雑化し、自由奔放となつた。\n ことに、浪漫主義の運動を境として、各種芸術分野の活溌な新生命の探究となり、演劇の領域もまた、その影響を受けないわけにいかなかつた。\n 文学的流派の消長は、そのまま、演劇の面に著しい波紋を投げたことは、既に他の巻において述べられたとおりであるが、その間、演劇独自の立場で、いろいろの試みがなされ、さまざまな種が蒔かれた。そして、そのうちのあるものは、演劇に新たな傾向をもたらした。\n それらの種目をいちいちここで細かに挙げることはもはや繁雑にすぎるであろう。ただ、今日まで、一般に通用している名称だけをいくつか例にとつてみれば、次のようなものがある。\n\n\n心理劇 人間心理の追求、解剖を劇的に取扱つたもの。\n気分劇 舞台にある特殊な生活雰囲気をかもし出し、その気分的な味わいを生命とするもの。\n夢幻劇 架空な物語を美しい幻想の世界として描いたもの。\n神秘劇 人生の一事件に神秘主義的な解釈を織り込んだもの。\n社会劇 現代社会の病根に批判を加えようとするもの。\n問題劇 ひろく人生、社会の現実に即した問題をとらえ、論理的にその本体を究明しようとするもの。\n思想劇 一つの新しい思想を提出し、作者の主張をこれに托そうとするもの。\n歴史劇 歴史的事件、人物を素材としたもの。\n諷刺劇 人間社会を対象とし、これを諷刺的に扱つたもの。\n詩劇 (または韻文劇)文体としての詩的表現による戯曲の上演。\n宗教劇 宗教的な題材によつて、その宗教の教義の伝道乃至信仰の昂揚を目的とするもの。カトリック教の秘蹟劇などは、その一種である。\n怪奇劇 怪奇、グロテスクな事件、情景を舞台にのせ、観客にスリルの快感、こわいもの見たさの好奇心をそそろうとする演劇。パリのグラン・ギニョルなど。"
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"content": "\n\n なお、このほかに、いくらでもあるが、多分、これからもどこかで使われるかも知れぬもういくつかの名称をあげておこう。\n\n\n静劇 へんな名称であるが、これは、劇の概念が、「動的」なものと結びついているので、とくに、波瀾のない、激しい言葉のやりとりすらみられない、静寂な境地に観客を引き入れるような「演劇」を指す。\n沈黙劇 これは前大戦直後に、フランスで起つた演劇運動の一つの看板で、饒舌な対話を排し、努めて沈黙の効果を生かすことによつて、人間生活の深奥、機微を伝えようとする演劇を指す。\n仮面劇 俳優が仮面によつてそれぞれの役の性格を表現するもの。ギリシア劇、能などは、仮面劇の一種である。\n左翼劇 プロレタリア演劇ともいい、社会主義、主として共産主義の立場から、労働階級対資本主義の争闘を描き、階級革命のための宣伝、煽動を目的とするもの。即ち革命思想を鼓吹する社会劇の一種とみることができる。\n大衆劇 大衆のための演劇という意味では、例えば知識層を対象とするというような特定のものでない、広い範囲の要求にこたえる普遍性のある演劇を指す。しかし、実際には、純文学に対して大衆文学というように、主として「通俗」の意味と混同されている。\n科白劇 科はシグサ、白はセリフであるが、音楽や音響効果、装置や衣裳に相当の重点がおかれる演劇に対して、主として、戯曲の対話を活かした俳優の演技による舞台のイメイジを生命とする演劇を指す。\nメロドラマ 元来、音楽を伴う演劇の意であるが、今日では、興味本位のどぎつい「大芝居」の意に用いられる。筋は波瀾万丈、人物は類型的、泣かせたり笑わせたりすればよいという風な人を喰つたものであるが、この手法を特に新しい演劇の実験として用いる場合もある。\n翻訳劇 外国劇の翻訳を台本として用いるという意味であるが、この名称は、すこしおかしい。過渡的な名称であろう。\n翻案劇 外国劇を種本として、「日本もの」に書き直した台本。人名、地名等を変えるだけで比較的原作の面影を忠実に伝えたもの、単に荒筋だけをかりたもの、など、その程度はいろいろである。\n\n\n3\n\n「悲劇」という厳密な演劇のジャンルは、近代になつて、その影が薄くなつたけれども、「悲劇的」という言葉で現わされる、やや常識的で、あいまいな要素は、相変らず演劇の内容として可なりな部分を占めている。\n 悲劇的境遇とか、悲劇的性格とか、悲劇的結末とかいうような言葉は、一種の「演劇」の特色を指すために用いられている。そして、かかる「悲劇性」ゆえに、ある演劇を、「境遇悲劇」、「性格悲劇」、「田園悲劇」などと呼ぶ場合があるのである。\n「喜劇」の場合は、これに反して、その名称の用いられかたが、近代に至るほどひろくなり、多くの劇作家は、自作に「喜劇」と銘をうつことが、あたかも、「こは悲劇にあらず」と断るためであるかのような印象すら与えている。もちろん、実際は、その作家の「喜劇観」に基くものであるけれども、「喜劇」という名称が、それほど、近代演劇の一般性を代表するものと見ても差支えないのである。\n その面白い証拠として、例えば、チェーホフの『桜の園』や、ポルト・リシュの『過去』などという、一見「悲劇的」とさえ思われる戯曲が、作者自身によつて、はつきり、「喜劇」と名づけられていることを指摘すればよい。これは、まさしく、作者の人生観をもつてすれば、現代社会はそのまま「喜劇」であり、「現代人」は、宿命的に「喜劇的存在」であるという皮肉な現実主義の宣言にひとしいように思われるけれども、一方、それほどの深い意味をもたせずに、ただ、古代悲劇が、人間と神乃至運命との対決を主題とするのに反し、すべて人間と人間との関係には、もはや「悲劇」はあり得ず、これを「演劇」としてみれば、「喜劇」の部類に入れるのが当然だ、という解釈も成り立つのである。\n 西洋では、古典悲劇専門の俳優だけは、トラジェディアン、即ち悲劇俳優と呼んでいるけれども、その他の、一般の俳優は、コメディアンと称し、特に、「喜劇」のみをやらなくても、ただ「役者」という意味で通つていることも注意すべきである。\n それからまた、フランスの国立音楽演劇学校の演劇科は、悲劇科と喜劇科とに分れていて、前者は専ら古典悲劇の、後者は、古典喜劇を含む一般演劇の演技研究を目的としている。\n こういう風にみてくると、「喜劇」という名称の概念が、日本語で考えられるような、ある限られた性格を示すものではないともいえるのであつて、その辺のことは、演劇の様式を論ずるに当つて、一応心得ておくべきことである。\n なお、「喜劇」の本質そのものは、美学的にある厳密な定義が与えられないことはない。これはもちろん、「笑い」の哲学として、いく多の主張や研究が既に発表されているばかりでなく、そういう「喜劇的」要素を主とした演劇が文字どおりその名で呼ばれていることも否定できない。そして、それらの「喜劇的」作品は、その主題の性質によつて、また舞台の色調によつて、さまざまに分類され、固有の名称を与えられている。諷刺喜劇、風俗(或は世相)喜劇、恋愛喜劇、などというのがあり、フランスなどでは、十八世紀の頃、ヴォルテールによつて「歴史喜劇」なるものさえ、書かれたことがあり、「涙を催させる喜劇」(Comédie larmoyante)という反語的な名称で、その時代としては珍しい「ジャンル混淆」の戯曲を発明したルメルシエという作家もいる。近くはまた、エドモン・ロスタンの『シラノ』が、「英雄喜劇」(héroï - comique)と銘うつて発表されたことは、この戯曲の風変りな性格を想像させるに役立つた。\n\n4\n\n もともと、「喜劇」とは別個のものでありながら、今日では、「喜劇的」という意味で、その一種と見做されているものに、「ファルス」がある。英語風に読めば「ファース」であり、これを日本では、「笑劇」と訳しているようである。\n「ファルス」の歴史は非常に古いのであるが、現在、文献として残つている最古のものは、フランス十六世紀の所産である『代言人パトラン先生』で、この作品は作者不詳であるにも拘わらず、フランス古代劇の傑作とされ、「ファルス」にも高度な芸術性があることを再認識させる契機をつくつた。\n それ以来といつてもいいが、才能ある新作家のあるものは、特に「ファルス」の名を冠した劇的作品を発表するようになり、日本にもその余波が伝つて来たように思われる。\n「ファルス」の「喜劇味」は、むしろ、「道化味」と称すべきものであることが、最も大きな特色であろう。度外れた誇張によるとぼけた可笑味、きわどさと露骨さとを撒きちらす愛すべき素朴さ、最も庶民的な感情に根ざす権威の否定、というような点が、まず共通な色調としてあげられる。主題は常に寓話的ではあるが人生の機微にふれ、構成はおおまかで、表面、必然性を無視し、とくにその対話形式の、単純、率直、傍若無人、そして、しばしば、愚鈍と軽妙との交錯による滑らかな流動感が、ファルスの生命ともいえよう。\n 日本の「狂言」は、この意味で、まさに、立派な「ファルス」の一典型であるが、このジャンルの演劇は、たまたま、民衆の、自然発生的な、安手な娯楽的催しに端を発しがちであつて、文学的、乃至芸術的価値の点で、多くは、低い水準を脱し得ないのと、また逆に、現代文学の不必要な「真面目さ」が禍となつて、この種のジャンルの発展を妨げているとも考え得るのである。尊大な力の前で、狡猾な弱者がどんな振舞いに及ぶかという永遠の喜劇は、常に民衆の健康な笑いの対象となり得るのに、近代の日本は、この笑いさえも忘れようとしているのである。\n 今日わが国で、軽喜劇、時に「軽演劇」と呼ばれている一つの演劇ジャンルは、正確には、どういうものを指すのか、いずれ、その部門の担当者の解説があると思うが、私のみるところでは、どうも、西洋とおなじく、「軽い」を口実に、好い加減な、チャラッポコを演じて、よしとしているものが多いのではないかと思う。「ファルス」は、たとえ「笑劇」と訳すにしても、浅はかな笑いを誘う、軽佻浮薄な演劇を指すとは限らぬのである。\n\n5\n\n 演劇の「様式」という題目は、ジャンル(種目)という意味を含めた「かたち」の分類に主眼をおくつもりであるから、今までの分類を仮に「内容」のうえでの分類とすれば、これからすこし、「外形」からの分類をしてみることにする。\n まず、そのためには、演劇をかたちづくる要素を、二つの見方から、それぞれ並べていくと、第一に、最初に述べた正統的な「演劇」を組みたてるために必要な材料として、戯曲、俳優、舞台、演出、それから、観客、とをあげなければならない。"
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"role": "user",
"content": "驟雨一過、自然も人間もせい〴〵した。\n酔境無我、万象空。\n曇天、憂欝、孤独、寂滅。......\n待つ身はつらいな、立つたり座つたり、やつと御入来、飲む、食べる、しやべる、そして歩く、ほろ〳〵だ、とろ〳〵だ、よろ〳〵だ。\nとうたう畜舎の御厄介になる、いつもの通り。\nそれにしても理髪したのは大出来、金をあまり費はなかつたのも――費はせなかつたのも、自動車を呼び寄せなかつたのも大出来だつた。\n\n△これだけキチヨウメンであつて、そしてこれだけダラシないとは。......\n△在る、――こゝに在る。\n 存在、それが真実だ、詩だ。\n\n\n九月十五日 曇。\n\n五時過ぎには起きて新聞を読み、煙草をくゆらし戯談をいひ、そして戻つて来て、茶を沸かし御飯を食べた。\nやつぱり私は不死身に近い。\n今日明日は地下のお祭、お祭だとて私は。......\nおもしろい手紙をうけとつた、処女のにほひがする、何となく愉快になつた。\n午後、Nさん来訪、お互に無一文だからしばらく無駄話をして、さよならさよなら。\n柿の葉の落ちるのが目につくやうになつた。\n青柚子一つ、秋が匂ふ。\nあまつた御飯をおむすびにして焼いてをく、明日の糧です、一つ二つ三つ、四つあります。\nつつましく、あまりにつつましく。\n季節のうつりかはりが身にしみる。\n\n 固形アルコールについて\n味ふ酒は液体でないと困る。\n酔ふ酒は固形が便利だ。\n丸薬のやうに一粒二粒といつたやうな。\n酒量に応じて、その場合を考へて、一粒とか十粒とかを服用する。\n一粒ほろ〳〵十粒どろ〳〵なぞは至極面白からう。\n酔丹といふ名はいかが! 或は安楽丸。\n ×\n私は極楽蜻蛉だ。\n\n\n九月十六日 雨、晴れる、曇る。\n\n秋雨、しよう〳〵とふる、単衣一枚では肌寒く、手水も冷たく感じられる、火鉢がなつかしくなつておのづから手をかざすほど。\nせつかくのお祭が雨で気の毒なと思つてゐるうちにだん〳〵雲が切れて日ざしが洩れてきた、私にはお祭も(盆も正月も)ないけれど。\n秋風さらさらさら。\n待つ、待つ、待つ、――来ない、来ない、来ない。\nうたゝ寝していやな夢を見た、覚めてもしばらくはその情景から離れることが出来なかつた。\n夢は正直だ、意識しない自分をさらけだして見せてくれる、再思三省。\n今夜は蚊帳を吊らなかつた、胸が切なく寝苦しい一夜だつた。\n\n△銭なしデー\n いつもさうだ。\n△酒なしデー\n しば〳〵ある。\n△飯なしデー\n とき〴〵。\n そして最後に\n△命なしデー\n さよなら!\n\n\n九月十七日 秋晴。\n\n身心すが〳〵しい、澄んだ自分が出現する。\n身辺整理。\n今日も来ない、今日も。――\n空腹しみ〴〵読書。\nひよろ〳〵(何しろ昨日の朝食べたきりだから)散歩する、ついでに学校に寄つて新聞を読んでゐたら、ひよつこり樹明君(何といふ幸福、実は遠慮して逢はないでゐたのだ!)、遠慮しないで米を貰ふ、酒と魚とを買つて貰ふ、後から来るといふので、庵中独酌、待つてゐる。\n酒はうまいな、飯はうまいな。\n三十余時間ぶりに御飯がはいつたので胃がたまげて鳴つてゐる、どうだ、うまからう。\n私が――歯のない私が鮹を食べる!\n今夜は私も樹明君もおとなしかつた、飲んで食べて、さよなら、万歳!\n熟睡だつた、豚のやうに。\n一升ぺろり、よい、よい、よいとなあ!\n\n 彼に与へた言葉\n私がわるくなれば君もわるくなる。\n君がよくなれば私もよくなる。\nお互によくならう。\n\n\n九月十八日 晴、満洲事変記念日。\n\n宵寝をしたのであまり早起だつた。\n朝空の星のうつくしさ。\n身心平静、秋気清澄。\n百舌鳥が出て来た。\n胃の工合がよろしくない、当然すぎる当然!\n昼飯を食べてから、ふと思ひ立つて湯田へ行く、椹野川を土手づたひに溯る、葦の花、瀬の音、こほろぎのうた、お地蔵さま、秋草のいろ〳〵、......温泉で一浴して引き返す、徃復とも歩いたが(銭がないから)、近来のよい散歩だつた。\n温泉はありがたし、酒と飯とがあればいよ〳〵ありがたし、銭があればます〳〵ありがたし。\nやうやく花茗荷が咲いた。\n蚊帳を仕舞ふ、冬物の用意はどうぢや、質受をいそがないと風邪をひくぞ!\n\n三界万霊\n\n\n九月十九日 曇。\n\n秋風、間違なく秋風。\n子規忌、子規逝いて何年、年々鶏頭は赤し。\n花めうが匂ふ、それはあまりに独善的な。\n身辺整理、日記も書き改めるし、浴衣も洗濯しました。\n茶の木がもうかたいつぼみを持つてゐる。\nたよりいろ〳〵、ありがたし〳〵。\n昼飯をたべてゐるところへNさん来訪、何もないからいつしよに近郊散策、そのまゝ別れた。\n二人のなまけもの! わるくない題号だね!\n今日の散歩はNさんが青唐辛を貰つてくれた、帰庵早々佃煮にしてをく。\n左の太腿が痛い(昨日から)、そろ〳〵ヤキがまはつてもいゝころだ。\nかへつてぼんやりしてゐると、樹明君から来信、今日は御案内があるべきだらう、云々、御案内しようにも出来ませんよといふ。\n酒屋が酒を持つてくる(樹明君を通してSさんから)、樹明君が下物をぶらさげてくる。\n夕焼がうつくしい。\n三人で飲む、食べる、しやべる、――そして、それから例によつて例の如し。\nほろ〳〵ぼろ〳〵、とろ〳〵どろ〳〵、おそくもどることはもどつた、感心々々、感心々々。\n\n九月二十日 曇。\n\n朝酒がある、あれば飲まずにはゐられない私だ。\nやつと来た、それを持つて街へ、昼も夜もなくなつた、彼も私もなくなつた、......一切空々寂々だつた、濡れて戻つて寝た。......\n\n九月二十一日 晴。\n\n自責の念にたへなかつた、何といふ弱さだらう、自分が自分を制御することが出来ないとは!\n終日憂欝、堪へがたいものがあつた。\n\n九月廿二日 秋晴。\n\n朝、眼が覚めるといつも私は思ふ、――まだ生きてゐた、――今朝もさう思つたことである。\n山の鴉がやつて来て啼く、私は泣けない。\n身心重苦しく、沈欝、堪へがたし。\n虚心坦懐であれ、洒々落々たれ、淡々たれ、悠々たれ。\n午後はあんまり気がふさぐので近郊を散歩した、米と油とを買うて戻る。\n樹明君は来てゐない、来てくれさうにもない、九、一九の脱線でまた戒厳令をしかれたのかもわからない。\n今後は誓つて、よい酒、うまい酒、恥づかしくない酒、悔ゐない酒、――澄んでおちついた酒を飲まう、飲まなければならない。\n肉体――顔は正直だ、昨日今日の私の顔は私の心そのままだ、何といふ険悪、自分ながら見るに忍びなかつた。\n酒屋の小僧さんが、私の生活を心配してくれる、心配しなくつたつてよいよ、どうにかかうにか食つてはゆけます!\n寒山詩を読む、我心似秋月。......\n散歩して少し労れたところで晩酌をやつたので、だいぶ身心くつろいでゐるところへ、Kさん来訪、つゞいてNさん来訪、四方山話でのんびりした。\n別れてから、Nさんがしんせつにも持つてきて貸して下さつた婦人公論を読み散らして夜を更かした。\n\n九月廿三日 晴、彼岸中日。\n\n日本晴、ピクニツク日和、まさに人生行楽の秋。\n朝霧のすが〳〵しさ、朝の水を汲みあげると清新そのものだ。\n\n来るか来るかと燗して待てば\nあなた来ないで酒は無くなる\n待つても待つても\n来てくれない曼珠沙華が赤い\n\n此二章を樹明君にあげる。\n秋空一碧、一片の雲なし、私もあんなでありたい。\n地虫しきりに鳴く、私もあんなにうたひたい。\n自己を知れ、此一句に私の一切は尽きる。\n大毎記者Mさん来庵、ざつくばらんに話す、私のやうなものの言動が記事の一つとして役立てば、それもよからうではないか。\n午後は散歩、ついでに入浴。\n矢足は椿が多い、椿の里といつてもよからう(柿の里といつてもよいやうに)、今日もおばあさんとむすめさんとがその実をもいでゐる、絞つて油をとるために、――好ましい田園風景の一齣。\n何よりも私は自制力が欲しい。\n夜はやりきれなくて街へ出かけて飲んだ、泥酔した、あさましい事実だ!\n\n私に出来ることは二つ、たつた二つしかない――\n 酒を飲むこと。\n 句を作ること。\n願はくは、\n わるくない酒を飲むこと。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " よい句を作ること。\nそしてその二つを育むものとして――\n 歩くこと。\n 読むこと。\n\n\n九月廿四日 秋晴。\n\n弱者の悪、痴人の醜を痛感する。\n思索、批判、統制が足らない、厚顔無恥、そして無能無力だ!\n終日怏々。\n愛想が尽きたか! 未練はないか!\n甘えるなかれ、甘やかすなかれ。\n濁貧! 矛盾地獄! 孤独餓鬼!\n流れるままに流れろ、なるやうになれ。\n空は高い、私は弱い!\n死ぬるまで生きてをれ!\n現実の夢か、夢の現実か。\n苦悩は踊る!\n\n△反省、それは弱者の唯一の武器だ。\n△太陽を仰いで孤独を味ふ。\n△愚人、悪人、小人、狂人、――私はそのいづれぞ。\n 私は私の愚を守らう、守りたい。\n△疣、瘤、癌。\n どうか社会の疣でとどまりたい、瘤になつては困る、癌にはなれまい。\n\n\n九月廿五日 晴――曇。\n\n身心だいぶ落ちつく。\nわがこゝろ水の如かれ、わがこゝろ空の如かれ。\n午前、大毎のMさんが写真師を連れて来訪、私と庵とを写した、私といふ人間はつまらないが、萩にすすきの草屋はつまらなくはない。\n庵中独坐。\n曼珠沙華の花さかり、とても美しいが、その妖艶は強すぎる。\n悔恨、更生、精進。......\nさびしけりやうたへ。\n夜更けて、樹明君が酔つぱらつて転げこんだ、そして寝てしまつた、酔態あさましいものであつたが、人事ぢやない、それはまた私の姿でもあるのだ。\n頭部に腫物が出来て気分がすぐれない、しかし軽い疾病は現在の私にはむしろうれしいものだ。\n落ちついて睡れなかつた。\n夜明けの雨となつた。\n\n生死も真実、煩悩も真実、苦難も真実、弱さも醜さも愚かさも真実だ。\n生々死々、去々来々。\n矛盾そのままの調和、それが本当である、人生も自然のやうに。\n観照自得の境地。\n割り切れない、割り切らうとあせらない心境逍遙。\n放下着――無一物――一切空。\n\n\n九月廿六日 曇、――雨。\n\n樹明君ぼうぜん、私はせいぜんとして。\n酔中の自己について語り合ふ、そして笑ひ合ふ。\n雨しとしと、その音は私をおちつかせる、風さうさう、その声もおちつかせる。\n身辺整理。\n茶の花が咲いてゐた(此木には気がつかないでゐた、ずゐぶん早咲である)、好きな花だ、さつそく活けて飽かず観る、純日本的のよさがある。\n夕暮出かける、豆腐買ひに酒買ひに、地下足袋穿いて傘さして。\nNさん来庵、いつしよにほどよく飲んで食べて、それから歩く、ほどよく酔うて別れた、めでたしめでたし。\n酒はありがたい、おかげで今夜はぐつすりと寝た。\n日が短かくなつた、雨が――何物へもしみいるやうな、しみとほらないではやまないやうな雨が降りだした。\n\n 或るおだやかな夜の自問自答\n「酔ひましたね」\n「酔ひました」\n「歩きませうか」\n「歩きませう」\n「飲みませうか」\n「飲みませう」\n「面白いですな」\n「面白いですね」\n「帰りませうか」\n「帰りませう」\n「休みませうか」\n「休みませう」\n「さよなら」\n「さよなら」\n\n\n九月廿七日 雨――晴。\n\n未明に起きてごそごそ。――\n夜が長い、ああ長い。\n肌寒を感じる、冬物の御用意はいかゞ!\nKよ、ありがたう、おめでたう、私のさびしさかなしさはわかるまい、わからない方がよい。\nKさん来庵。\n午後出かける(これは当然必然だ)、そして例の通り、払へるだけ払つた気持はよいな、酔つぱらつた気持もわるくない。\n夕方帰つて見ると、盃せん浪藉、KさんとJさんとがやつてきて、飲んで、そして出かけたらしい。\nうたゝねしてゐるところへ樹明君来訪、二人の酔漢がそのまゝ寝てしまつた。\n天下泰平、徃生安楽国、ムニヤムニヤアーメン。\n\n△愚劣なる存在の一個――山頭火!\n△相手のないカンシヤク。\n△我れ観音とならん、いや我れは観音なり、といふくらゐの自信、いや、自惚があつてほしい。\n△物そのものを生かすこと。\n\n△1+1=21÷1=X 人生とはかういふものか 1-1=01×1=X\n\n△言葉の味\n 貧乏、銭なし、無一文、等々。\n△後悔しない私になりたい。\n\n\n九月廿八日 晴。\n\n樹明君悄然として出勤する、人間樹明のしほらしさは見るに忍びなかつた。\n朝酒! 幸か不幸か、どちらでも構はない。\n嫌な手紙を書いた、書きたくないけれど書かなければならなかつた、それを持つて駅のポストへ出かけて、そしてふら〳〵飲み歩いた(といつてもフトコロはヒンヂヤクだつた)、ぼろ〳〵になつた、とう〳〵また畜舎の御厄介になつた。......\n\n九月廿九日 秋晴。\n\n早朝帰庵。\nその日が来た、と思ふ。\nNさんがFさんと同道して来庵、私のことが記事として載つてゐる福日紙を持つて(先日のMさんが書いたのだ)、同道して散歩、たいへん労れて戻る。\n魚眠洞君の手紙はうれしかつた。\nKから新婚写真を送つてきた、それはもとより私を喜ばしたが、同時に私を憂欝にした(一昨日の結婚挨拶状と同様に)、親として父として人間として、私は屑の屑、下々の下だ!\n昨日も今日も酒があり肴がある。\n月のよろしさ。\nいつまでも睡れなかつた。\n\n芭蕉......感傷\n 富士川の渡。\n 市振の宿。\n蕪村......貧乏\n 悪妻。\n一茶......執着\n 大福帳。\n\n\n九月三十日 晴――曇。\n\n仲秋無月。\n肌寒く百舌鳥鋭し。\n沈静、読書、観賞。――\n昼食前に樹明君が来て、山口へ出張するから同伴しようといふ、一も二もなく出かける。\n湯田温泉はいつでもうれしい、あてもなく歩きまはつて句を拾ふ。\nそしていつしよに帰るべくバスに乗つたが、私だけはいつもの癖でどろ〳〵どろ〳〵。......\n\nKへの手紙\n (父と子との間)\n\n\n十月一日 曇。\n\n今夜も無月か、惜しいなあ。\n夜明け近くなつて帰つて来た。......\n樹明君神妙に早起して出勤、昨夜の君はいつもと違つてよかつた。......\n身心すぐれず、宿酔の気味、罰だ。......\nたよりいろ〳〵うれしかつた、Nさんからハガキを頂戴した、少女のたよりは私をまじめにしてくれる。\nどうかして酒から茶へ転向したい。\n私は飲む、浴びるほど酒を呷る、それはひつきよう空虚の苦杯なのだ。\n......私は泣いた、ひとり泣いた、何故の涙であるか、私自身にも解らない、私は私自身を笑つてやる、私のオイボレセンチを笑つてくれ、笑つてくれ。\nその日のその日がやつて来た。......\n終日終夜謹慎。\n夜ふけて雨、意識が水のやう。\n酒が飲みたくなくなり、飲めなくなるやうな気がする、それがウソかホントウかは時日が解いてくれるだらう。\n何事も自然のまゝに、自然そのものであれ。\n\n□石の自然を愛す。\n□茶の清寂を愛す。\n□A rolling Stone"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " ゴルテルと相並んで、殆んど同様の意見を発表せしものをモックとす。モックは宗教と民間信仰とを区別して曰く、此両個の信仰は、その相互の関係、甚だ密接にして、精密に之を区別し能わずと雖も、多くの場合に於て、民間信仰は、旧き宗教の一面にして、新しき宗教の発生と共に、国民の一部に潜伏するに至るを常とす。故に何れの国民を問わず、何れの時代を論ぜず、民間信仰は常に宗教の傍に存在するものなり。一方に於てはまた、民間信仰の説話となりて、現われたるもの、社会信仰の神格に就て、物語らるるに至りて、民間信仰の分子、宗教中に混入するに至る。此の如くにして、新しき宗教の発生によりて、其存在を失うものは、独り従来の宗教にして、民間信仰は、その生命を危くするものに非ずと知る可し。宗教と民間信仰との表現に、二個の機関あり。言語はその一にして、動作はその二なり。言語によりて、信仰の表現せられたるものを神話と云い、動作によりて、その表現せられたるものを祭祀と云う。神話に関する学問を、神話学と云う。故に神話学は、一方に於ては、民間信仰、即ち低級神話と、之に伴う祭祀即ち迷信的の儀式風習とを論じ他の一方に於ては、宗教的神話即ち高級神話と、之に伴う宗教的の、祭祀とを論ず。\n 其説に曰く、太古の民族に於て、形而上の存在に関する信仰は、一般に外囲の自然現象と、日常生活の現象とに基く。換言すれば、人間の心に感動を与うる凡てのものは、此の信仰発生の動機なり。人間は是等の自然現象と生活現象との裏面に、人間以上の存在を感じ、この存在は、時と共に発達して、自ら一種の形躰を具うるに至る。而して、此の如くにして生じたる存在は、その形躰に於ても人間或は動物と等しきが如く、その欲望と性情とに於ても亦た、人間或は動物の如し。飲食を供えて、其意を和らげ、祈祷によりて、その恵を求めんと欲するに至りて、茲に始めて祭祀あり。此等の存在に就て、言語を用い、想像を加えて、物語るに至りて、茲に始めて神話の萠芽を生ず。主観的の想像、次第に客観の存在を、その本来の基礎より遠け、終に全く之より分離し、或は自己の生活現象より、或は全く想像の中より、新しき性質を之に与え、新しき動作を之に結合するに至りて、神話を生ず。即ち詩が、その新しき材料を信仰に求めて、全く信仰を支配するに至りしなり。此点より見るときは、神話詩は国民詩の一部分たるに過ぎず。\n モックの此説は、その大躰に於て、ゴルテルの説と全然符合す。独り最近の神話学界に於ける、此二大家の学説の全然符合するのみに非ず、その神話学編纂の方法に於ても、亦た全く両者の一致を見る。今此二人の、神話の発生並びにその動機に関する学説と、人類学的神話学者ラングの所説とを比較するに、両者何れも、国民の信仰を以て神話発生の本源とし、その萠芽を精霊信仰に求むる点に於て、人間の心的内面と、四囲の自然界とを以て、信仰の二大根元とする点に於て、殆んど全く相一致するを見る可し。唯その傾向に於て、一方は主として宗教上の立脚地より、国民神話学の組織に勉め、一方は国民を離れて、主として人類学上の見地より、普く凡ての民族に亘りて、一個の比較神話学の基礎を立てんと試みたる点に於て、全くその方向を異にしたるのみ。\n かの二人、その日耳曼神話学に於て低級神話学と高級神話学とを分ち、先ず霊魂信仰を論じて、高級精霊信仰に及び、次に高級神話を論じて、最後に古代の宗教を叙述したり。一個の民族神話学の叙述として、未だ之より完全のものあるを見ず。将来の国民神話学の模範として、見るに足る。モックの著は、低級神話と高級神話との間の、関係を示すこと、聊か明瞭ならざるが如きは、寔に一個の欠点と云う可く、ゴルテルの著、その高級神話以下の章は、甚だ佳なるも、低級神話学の一篇は、その力を尽せしこと、多かりしにも拘わらず、大躰に於て取る可きも、個々の部分に於ては、未だ悉く信ず可からざるものあり。盖し低級神話学は、神話学編纂上、甚だ困難なる部分にして、将来の研究を待つこと多し。ラングの著には、先きに儀式風習神話を論じて、新しき神話学の基礎を立てんとを勉めしものあり。然れども、最も広く知られたるものは、その『風習と神話』にして、主として実例によりて、人類学的神話学の方法と学説とを論じ、言語学派の欠点を指摘して、その不可能を明かにす。近ごろ現われたる『近世神話学』は、言語学派に対して、最後の打撃を加えたるものにして、実例の説明、よりは、寧ろ学理の研究に重きを置く。\n 将来の比較神話学は、ラングの人類学的神話学に比して、更にその範囲を、拡大にせざる可からず、更にその立脚地を広大にせざる可からず。人類学的立脚地、固より可なり、宗教学的立脚地、また固より可なり。然れども、此両者を併せて、一となすに非ざれば、未だ二十世紀の人文学界の進歩に応ずるに足らず。かの両者を合せて、一となし、この新しき且つ大なる立脚地よりして、はじめて世界各民族の神話を比較し、研究してその発達の跡を考え、その発生の起源を求め、その解釈を施し、その成分を分解し、その伝播の跡を追及し、以て万事を包括する人文大科学の進歩に頁献するを得ん。この立脚地を称して、人文史的立脚地と云う。神話学は、宗教学にあらず、また人類学に非ず。一個の独立せる人文科学にして、宗教学、人類学、言語学等は、すべてその補助学科たる可く。従て独立せる比較神話学は、宗教学的立脚地若しくは人類学的立脚地と云うが如き、狭隘なる立地をすてて、凡て此等を包括する人文史的立脚地を取る可きなり。\n植物精霊信仰の形跡として植物説話\n\n 植物精霊信仰は、精霊信仰の一部なり。精霊信仰はその性質に於て、世界的なり、人類的なり。何れの民族も、その未開の時代に於て、嘗て一度び、この信仰を有せざりしはなし。ラングが嘗て論ぜし如く、未開種族は、その文化の或階段に於ては、四囲の自然物を、自己と同等の水平線上に、在るものと観察することあり。外物みな己れと等しく生命あり、活動あり。生命あり、活動あるものは、皆意志ありて、変形の力を有すと信ずることあり。此点に於ては、精霊信仰は、霊魂信仰と、聊か密接の間係を有すと云わざる可からず。植物精霊信仰は、自然精霊信仰の一部にして、今日尚この民間信仰を有する未開民族に於ては、この信仰の結果たる植物精霊説話を、その説話界に発見し得可く、既にこの信仰の階級を遥か後に遺せる、今日の文化民族に於ては、その伝承の低級神話界に、この種の説話を発見し得可し。諸神信仰の如き、偉大なる自然物崇拝の如き、動物拝祀の如きは、何人も直ちに之を理解し得可きも、植物精霊信仰に至りては、開化せる国民の間に於ては、聊か理解し難きの観なきに非ざるが故に、特にこの信仰を択びて、民間精密信仰の一例として、茲に少しく述べんと欲す。\n 植物精霊信仰の遺跡は、独り植物説話に於て、之を求め得可きのみには非ず。其他の説話中に於ても亦た、時としては、その形跡を認め得可く、其他言語、風習、儀式、典礼の中にも亦た、同様に之を発見し得可しと雖も、此等の凡ての部分に亘りて、普く之を追及せんことは、到底狭少なる紙面に於て、成し得可きことに非ざるのみならず、事の性質、比較神話学の領分以外に亘るを以て、茲には唯説話界中興味あるものの一種たる植物説話に於て、少しく其形跡を求めて、この種の説話の性質の大躰を示さんと欲す。既に古代希臘羅馬の説話界中に人間の植物に変化せしを説くもの多し。\n\n(イ)美男ナルチス、山の女精を慕うて、思を遂ぐる能わず、化して水仙となり、\n(ロ)アポロ神の愛せし美童、死して一種の燕子花となり、\n(ハ)アドニスは野猪に咬み殺されて、其血より福寿草を生じ、\n(ニ)キバリッソスは生ながら変じて一種の扁栢となり、\n(ホ)森の精ベリデスは、同じく化して、一種の雛菊となる、\n(ヘ)フィレモン、バウチス夫婦は、神の恵によりて、人間の寿命過ぎて尚、一対の檞樹として永遠に栄えたりと伝えらる。中世紀の或説話に曰く、\n(ト)或小女、旅なるその恋人の帰郷を待ちて、日々路傍に立ちて泣き暮らせしが、遂に化して、一種の野菊となれりと。\n\n 欧羅巴の植物説話に就ては、その詳細は、之を他日に譲り、茲には専ら東洋の説話界殊に日本の説話界より、少しく此種の例を挙けん。\n\n(イ)頼風の妻死して、女郎花となり、\n(ロ)『皿屋敷』のお菊殺されて、菊その跡に生じ、\n(ハ)虞美人死して、その墓に美人草を生じ、\n(ニ)娥皇女英の涙は化して紫竹を生じ、\n(ホ)定家の熱心は葛となりて、永く式子内親王の墓に纒う、\n(ヘ)童子女松原『常陸国風土記』に曰く、\n\n古有年少童子女、童称那賀寒田之郎子、女号海上安是之嬢子、並形容端正、光華郷里、相聞名声、同存望念、自愛心燃、経月累日、嬥歌之会、邂逅相過、于時郎子歌曰、\n\n伊夜是留乃、阿是乃古麻都爾、由布悉弖弖、\n\n和呼布利弥由母、阿是古志麻波母、\n\n嬢子報歌曰\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "宇志乎※(口/十)爾波、多多牟止伊※(門<上)止、奈西乃古何、\n\n夜蘇志麻加久理、和乎弥佐婆志理之。\n\n便欲相語、恐人知之、避自遊場、蔭松下、携手促膝、陳懐吐憤、既釈故恋之積疹、還起新歓之頻咲、于時玉露抄候、金風々節皎々桂月、照処、涙鶴之西洲、颯松颸吟処、度雁之東路、山寂寞兮巌泉旧、蕭条兮烟霜新、近山自覧黄葉散林之色、遥、海唯聴蒼波激磧之声、茲宵于茲楽、莫之楽、偏耽語之甘味、頓忘夜之将蘭、俄而鶏鳴狗吠、天暁日明、爰童子等、不知所為、遂愧人見、化成松樹、郎子謂奈美松、嬢子謂古津松自古著名、至今不改、\n\n 所謂古史神話の源泉材料中に於ては、此種の説話を発見するを得ず。此種の信仰の存在に関して、徴証を与うるもの殆んど稀なり。此の如きは、古史神話が主として、高級神話の記録たるに止り、低級神話は重に、その伝承を口誦に依頼せし結果なる可く、之によりて直ちに、古代に於けるかの信仰の存在を否定す可きに非ず。唯一二の稍々注意す可き事項あり、最古の詩集たる『万葉集』中に次の歌あり。\n\n君が代も吾代も知らん、磐代の岡根の草をいざ結びてな、\n磐代の浜松が枝を引結び、まさきく有らば、また還り見ん、\n磐代の野中に立てる結び松、心もとけず古へ念ほゆ、\n玉葛実ならぬ木には、千磐破る神ぞ著くと云う、成らぬ樹ごとに、\n忘れ草吾が紐につく、香山のふりにし里を忘れぬが為め、\n忘れ草吾が下紐に著けたれど、醜のしこ草、ことにし有けり、\n\n はじめの三首は、草或は松樹の枝を結びて、将来を約する事に関するもの、一種の植物咒力信仰の形跡を、示すものと見る可く、第四は一種の樹木信仰の、存在せしを示し、最後の二つは、咒力信仰を示す点に於て、はじめの三首と同様なり。神木の神聖にして、犯す可からざることは、太古よりの信仰にして、中古以来何れの神社も、「神木」を有せざるはなし。但し古史神話は、神木としては、唯「天香山の五百津真賢木」の一を記するのみ。樹木信仰と樹木祭祀とに関しては、中古以来の低級神話に於ては、其形跡の稍著しきを認むるも太古の高級神話、即ち古史神話は、此点に関しては、全く何事を知らざりしが如く、毫も推論の根拠を与うることなし。\n 古史に見ゆる、一種特別の形式を有する、一群の樹木説話は、之を名づけて、「大樹説話」と称するを得可し。其数少からざるもその形式に於ては、凡て同一なるを見る。『釈日本紀』に見ゆる二個の説話はその例証とするに足る可し。曰く筑後国風土記云々、昔し棟木一株郡家の南に生ぜり。其高九百七十丈、朝日の影は、肥前国藤津郡多良峯を蔽ひ、暮日の影は、肥後国山鹿郡荒爪の山を蔽うと。又曰く、播磨国風土記云々、明石駅家駒手の御井は難波高津宮天皇の御世に、楠、井口に生ぜり。朝日には淡路島を蔭くし、夕日には大倭島根をかくす。仍て其楠を伐りて舟を造るに、其迅きこと飛ぶが如く一檝に七浪を去り越ゆと。此二個の説話は、其前半に於ては、全く同一なり。其樹を代りて、舟を造ると云う点に於て、第二の説話は『古事記』のものと同じ。楠の船材に適することを説くもの、古来の記録甚だ多く、素盞嗚尊の神話また、このことを説く。此点より論ずるときは、此種の説話は、唯此樹の性質を賛美するを目的とするものにして、樹木信仰或は祭祀とは、何等の関係をも有せざる可し。其樹の大なるを説く点に於ては、日本の大樹説話は、盖し支那の大樹説話の摸倣なり。支那古代の文書に、此種の説話を記するもの頗る多し。\n 然れども、後世樹木精霊の信仰、漸く盛なるに及んで、かの説話とこの信仰と相合して、一個の大樹精霊説話を生じたり。『佐々木家記』に見ゆる説話は、即ち之なり。\n\n天文十年辛丑六月二日、今日武佐より言上、地の三四尺或は一丈下に、木葉枝の朽たるを掘出す。希有の事なりとて、数箇処掘出返し見るに皆同じ。其物を厭ぜり。黒く朽たる木の葉の塊りたるなり。屋形、希代の事なりとて、国の旧き日記を見給うに、其記に曰く、景行天皇六十年十月帝甚だ悩むことあり。之に依て、諸天に病悩を祈れども、終に其験なし。是に一覚と云占者あり、彼に命じ給うに、一覚曰く、当国の東に大木あり、此木甚だ帝に敵あり、早く此木を退治せらるれば、帝の病悩平治せんと。之に依て此木を伐るに、毎夜伐る所の木、本の如く成り、尽ること無し。然して彼覚を召して問給うに、伐る所の木屑、毎日焼かば、果して尽きんと云う。我は彼木の敵封たる葛なり。数年威を争うこと久し。其志帝に差向けて申す。即時に掻消すが如くに失す、彼木倒れぬ。此木枝葉、九里四方に盛なり。木、大さ数百丈。之に依て帝の病悩吊治す。此説話に於ては、\n(イ)葛の精霊が、\n(ロ)大樹の精霊を退治したるなり。\n(ハ)『万葉集』には、梅の精を詠じたる歌あり。\n(ニ)高砂住吉の松の精は、老人夫婦として現われ、\n(ホ)『三十三間堂』には、柳の精のことを作り、\n(ヘ)支那にては、芭蕉の精、女と化して、山中の庵に宿を求む。謡曲の中に、\n(ト)杜若の精を説き、遊行柳の精を説き、西行桜の精を説き、藤、朝顔、楓、菊等の精\n\nを説くは、盖し作者の作意にして、直接に民間説話よりその材料を取りたるには非ず。思うに、植物精霊の信仰は、国民固有の信仰の一部ならんも、精霊説話は、一個の詩的産物として、或点に於ては、その起原を支那に求めざる可からず。『元中記』に、秦文公終南山の梓樹を伐りしに。中に青牛ありしと見え、『白沢図』には、\n\n木之精名彭候、状如里狗無尾、可烹而食之、\n\nとあり、亦た『元中記』にも、\n\n千歳樹精為青羊、万歳樹精為青牛、多出遊人間、\n漢桓帝時出遊河上、忽見一青牛、従河中出直走盪、桓帝辺人皆驚走、大尉何公時為殿中将軍、有勇力、輙走逆之、牛見公往乃走還河、未至何公及牛、乃以手抜牛左足脱、以右手持斧、斫牛頭而殺之、此青牛是万年木精也、"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "\n十月十七日(火)\n 神嘗祭である。各新聞は台湾沖の戰果を伝え、大本営も十六日十五時これを発表す。この戰果につき、小磯首相は談話を発表し、「ことに今回の戰鬪に陸軍の雷撃機隊も参加し、この戰果をあげたことは、特筆大書さるべきことである」といっている。国家存亡のときに当り、陸海軍が一緒に戰爭をすることが、どうして特筆大書すべきことなのか。こんなことを総理大臣が言わねばならぬことが、特筆大書すべきことであろう。\n この戰果につき問題は、(一)日本側の損害は、発表に一切ふれていない。(二)敵の発表は日本側の損害を巨大に伝えていることである。將來、この辺の事情が明らかになろう。\n\n十月十九日(木)\n 三井本社から二千五百円を、日本外交史研究所のために貰う。三井本社総務部長大谷津氏の話では、ある軍人が三井幹部の前で、「三井ぐらい僕の力でも潰してしまえる」と言ったという。同氏いわく、「三井の金はいくらありましょうか。十二、三億かも知れませんが、そんな金は数日の戰費にも当らない。三井にはなにも力はありませんよ」と。日本においては三井財閥の力を過信するのは、マルキスト的公式論である。\n\n十月二十日(金)\n「米鬼」に対する宣伝各方面に起る。その中心は米国に居った人々である。海老名一雄、武藤省吾その他の人々が中心だ。先ごろ武藤君から僕のところに、「米鬼」の惡虐無道の写眞があるかと質ねてきた。\n\n十月二十一日(土)\n 台湾沖の海戰で勝利を得たというので、酒の特配があった。それを新聞は攻撃する。つまり、こんな誰にもわかることになると、攻撃するのである。\n 国際関係研究会で上田辰之助博士の中共に関する講演会あり。中国共産党は「日本解放委員会」という特別の部門をもっており、日本の軍国主義を打破するスローガンを掲げている。また北支の日本軍に現実に働きかけているという。\n 朝鮮人が脱出して中共に投ずるものも、かなり多いと。\n\n十月二十六日(木)\n 朝、足利の経済倶樂部に講演に赴く。車中から見れば、稻の取り入れの最中だ。それが女だけであるのが目立つ。\n 町に「殺せ、米鬼」という立看板がある。落下傘で降りたものを殺せというのであろう。日露戰爭の頃の武士道はもうない。国民が何ら近代的な考えも教わらず、古い伝統も失ったことを示すものである。\n\n十月二十七日(金)\n レイテに決戰的大戰鬪が行われている。米、英、ソ連は、二十三日ドゴール政権、二十五日ボノミ伊政権を承認した。\n 日本の新聞は、つねに米国の選挙と戰爭を結びつける。比島戰は選挙対策だというのである。各所でそういう質問をうけるから、僕はルーズベルトの下には党員もあり、専門軍人もある。ルーズベルトの意思通りには行かない。政治と戰爭を結びつけるところに、日本人が米国の政治を解さない事実があるのだと説明するのが常である。\n\n十月二十九日(日)\n 千葉豊治氏の追悼会をやる。そこで石黒忠篤氏(貴議)の話――\n 後藤新平伯は、朝鮮人がロシア国境内に数十万いることを知って、これはどうかせねばならぬと言った。当時、新聞は鮮人というと「不逞」という文字を冠したものだが、伯は沢山の中には赤がいるかも知れぬが、とにかく日本人という名をもっているものが外国にいる以上は、それを保護し、利用しなくてはならん、と言って、その案を千葉豊治君に起草させた、と。後藤伯がロシアに行ったのは、そんな関係もあった。\n 大藏公望男(貴議・前東亞研究所副総裁)いわく、「自分も後藤伯と前後してロシアに行った。後藤伯の任務の中には、たしかに朝鮮人および日本人の移民問題があり、先方の諒解を得て帰ったが、帰ってきて直ぐ伯は死んでしまった」と。\n\n十月三十一日(火)\n 晝、石橋君に招かる。石橋君は前夜柴山(兼四郎)陸軍次官と会食した。柴山は、軍人を工場やその他のところから引き揚げたいと考えているが、却って今では工場のほうが放さないと。\n\n十一月四日(日)\n 朝、畠をやっていると、工場に行く職工の一団が、軍歌をうたいながら通っている。指導者が歌うと、一同がそれを繰り返すのである。「大和男子と生れなば....散兵線の華と散れ」といった文句だ。肉彈戰を信じ、青年は国家のために死んで行くのである。\n\n十一月六日(月)\n 満鉄総裁小日山直登氏に逢う。同君いわく、「なんでもありませんよ。空襲? あんなものは直ぐ修繕工事ができますよ。米国なんかやっつけることは何でもないさ。なに、勝てますよ」といった調子。松岡流にて、とても強気である。\n\n十一月八日(水)\n 午前四時というのに、町会の人々が八幡樣にお参りするというので家内が行った。晩おそく演習したり、午前四時に起したり、人間を疲労させることばかり考えている。が、それが現在の世相だ。\n\n十一月九日(木)\n 大統領選挙にルーズベルト圧倒的に勝つ。\n 牧野英一博士の話――平塚の別莊で、垣根の棒を拔くものがある。そこで番人がとがめると、「空襲がくれば、誰のもの、彼のものも、なくなるではないか。そんなことを一々いう奴があるか」と平気でいう。「空襲がくれば掠奪などが公然行われる下地はできている」と博士は言った。\n\n十一月十一日(土)\n 大正大学教授浜田という人、参諜本部に「五、六十万の決死隊を米国に送り、パナマやアラスカをやっつける。そして、その半分は全国の佛教信者から募集する」と提議した由。一高、帝大を卒業した大学教授が、この程度の常識しかなし。\n われらの交遊の範囲では問題のないことが、異なる職域にある連中にとっては問題である。その無知驚くべきものあり。これでは前途なかなか遠し。それでもB29が東京を飛んだのに対し、これをどうにもできなかった日本空軍力に失望していた。日本の教育がいかに偏しているか、その中でも佛教徒というものが最も観念的である。\n\n十一月十二日(日)\n 汪兆銘、名古屋にて死去。\n\n十一月十三日(月)\n 尾崎秀実は十一月七日に死刑を執行されたそうだ。彼をソ連外交に利用しようというような噂もあったが、嘘であった。\n ソ連に広田元首相あたりを送って――民間から久原(房之助)を送るという噂もある――何か工作をしようとして、モロトフに伺いを立てると、モスクワには佐藤(尚武)大使がいるから、ほかに誰もいらないと言ったといわれる。かつて有田が行くという噂もあった。その目的は日ソ同盟だという。まさか重光がそのようなことを考えるとは思わぬが。\n\n十一月十四日(火)\n 朝、みぞれふる。"
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"content": " いわゆる体当りの記事が、新聞やラジオの大半を占めている。陸軍と海軍とが競爭で特攻隊の吹聽である。陸軍は万朶飛行隊、それから時宗隊、聖武隊、桜花隊など。海軍は神風隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊、若桜隊、初桜隊、彗星隊、梅花隊、左近隊だ。名の懷古的なことと考え方の單純なことが目につく。\n 国際関係研究会での話――近ごろ軍人があまり新聞に書いたり、ラジオで放送しなくなった。新陸軍大臣の方針らしいと。\n\n十一月十五日(水)\n 今日は東洋経済の五十周年記念日である。英国ならば石橋君はこの機会に Sir ぐらいにはなっていよう。日本では知識や文化に対する評価は極めて軽い。ことにジャーナリズムに対して。\n\n十一月十七日(金)\n 日本を侵略者と呼んだスターリンの演説に対し、政府は新聞雜誌に一切の批評を許さない。外務省あたりでは、スターリンがブルガリアに対するように、日本に宣戰布告するかに考えているそうだ。それに脅えて何事も言わぬのである。もっとも言わぬのも一つの外交である。が、強そうなことを言わぬのは、開戰以來今回が初めてであろう。\n\n十一月二十日(月)\n 朝、幣原男を訪問。いつまでベルを押しても出ない。あけたのは夫人であった。女中がいないとのことで、茶も出ない。二階の書斎に通さる。日本外交史研究所の講演を頼む。快諾す。顧問についても然り。だが、講演の速記をとることを嫌がる。どういう理由か。\n 小磯内閣の改造説有力。軍需相の藤原(銀次郎)、運通相の前田(米藏)はいずれも困難な局面だが、不思議なのは重光外相が変り、広田や有田が候補にあがっているということだ。\n 重光についてはスターリン演説が祟っているという。翼政会あたりでワンワン言っている。この前の議会で重光が「ソ連の態度が非常に親日的だ」と言ったのを、スターリン演説いらい、「そんな見方は間違いで、外相はダメだ」というわけらしい。重光は重光で、「ソ連と戰爭できなければ、ああ言うよりほかはないではないか」と言えばよいのを、「日本は防共協定以來、ソ連にいい感情を示したことがあるか。今ロシアより好意を示されることは期待できない」というようなことを言ったので、それが翼政会の無知な代議士連を怒らせたのだそうだ。\n 代議士で外交問題がわかるものは、きわめて僅かしかない。外務委員会には殆んど人が來ない。薯の問題などになると二百人もくるのに――蝋山君の話。\n\n十一月二十四日(金)\n 正午すぎ警戒警報についで空襲警報発令。後の発表によると七十機マリアナ方面より帝都にきたという。\n 毎日新聞のミダシに「典型的戰爭屋スプルーアンス」と米人を攻撃している。「戰爭屋」はそこいらにうじゃうじゃしているのに。\n\n十二月一日(金)\n 東京の制空権は完全に敵手に渡った。敵はいつでも日本を襲うことができる。しかも、きわめて安全だ。\n 米機連日の來襲で、横須賀翼壯では憤激大会最終日の來る十二月八日を期して、浦賀湾内久里浜のペルリ上陸記念碑を撤去することに決定し、差し当りこの碑の前面に「天誅」と書いた立札をたてることになった。\n\n十二月二日(土)\n 日本人が良心的でないのは、どこに原因があるのだろうか。考えていることと、まるで反対のことを言うのである。丸山国雄君の「ペリー侵略史」もそうであり、伊藤道夫君の米人鬼畜呼ばわりもそうである。また、海老名一雄君(元日米新聞主筆)がラジオや講演会での米人惨虐説の宣伝もそうだ。僕の周囲でこれをやらないものは、殆んどない。僕などが沈默を守っている唯一の存在だ。\n これは国家を最大絶対の存在と考え、その国策の線に沿うことが義務だという考え方、それと共にそうするほうが利益だという利益主義からであろう。外国ではそうした立場をとらない人々が少くない。そのアティチュードをつくることが、今後の教育の義務だ。\n\n十二月五日(火)\n 日本外交史研究所の発会式を挙ぐ。参加者二十二名、たまたま小野塚(喜平次)博士(前東大総長)の告別式あり。穂積博士、蝋山君などはそのため欠席。\n 出席者。幣原喜重郎男、桑木嚴翼、松田道一、柳沢健、鈴木文史朗、伊藤正徳、高橋雄豺、小汀利得、飯田清三、石橋湛山、田村幸策、植原悦二郎、高柳賢三、松本烝治、高木陸郎、宮川三郎、芦田均、馬場恒吾、三井高維、信夫淳平、鮎沢巖\n 僕および芦田均君の挨拶後、幣原男の日露戰及びワシントン会議当時の話あり。\n\n十二月七日(木)\n 高柳君とともに正金の加納久朗子を訪問。例によって気熖高し。同子の話――同子の所に憲兵を四人つけていた。そして、女中を買收してスパイにした。同子は女中がどうもおかしいと思って、とうとう実を吐かせた。そこで直ちに憲兵隊に電話をかけ、「これから行く」と言ったら、「こちらから参ります」といい、押問答の末、少尉がきた。彼は「手不足の際、四人なんて無用だ。一人を専任にし給え。その代り一日中どこにでもつれて行く」と言った。スパイ女中は「東條をどう思う」といったことを聞くので、「東條がルーズベルトやチャーチルと同等以上の人間とは思わぬが、お前もそう思わぬか」とあけすけに言ってやったという。\n 同子の話によると、吉田茂(元大使)のところにも、憲兵隊からスパイを書生に住み込ませたとのことである。\n\n十二月八日(金)\n 本日は戰爭勃発の三周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣、口調も東條より遙かに下手で、紋切り型である。こうした指導者しかもたぬ日本は憐れというべし。\n 今曉七時ごろ警報。この日に來るだろうというので、多くの平和産業は休んでいるとのこと。当局者も必ず來るだろうと予測している由。「仇討ち」思想だ。これらの事実は日本人がいかに米国を「日本的」に解しているかを示している。\n\n十二月九日(土)\n 午前三時ごろ警戒警報。起きて服裝を整う。これでは一般人は神経衰弱になろう。\n 七日に高柳君より今日外務次官官邸で、幣原男と会談するから、來てくれとの話あり。ところが今朝、外務次官より代理電話あり、遠慮してくれというのである。僕というジャーナリストを入れたくないのであろう。沢田廉三(次官)という男はコチコチの官僚型であるが、その眼からはわれらは一市井人にしか見えぬのであろう。実は僕は国民学術協会の会合があり、不承々々に承諾したのだが、こう先方から出られては不愉快である。\n その代り国民学術協会に出る。松本烝治、牧野英一、芦田均、杉森孝次郎、阿部賢一、藤木武一、小泉信三、長谷川如是閑の諸氏出席。\n 小泉信三氏は慶応義塾長で内閣顧問だ。痩せて、五貫目ほど減ったというが、それでも最近一貫五百匁ほどふえたという。驚いたことには、全く右翼的になっている。「戰爭がどうなっても、米国の奴隷になるよりいい」と彼はいう。「奴隷になるということは、どういうことでしょうか」というと、「講和條件にもよるが」と言う。「この戰爭が二年も続いたらどうなるか」と聞けば、「生活程度が低くなるだけで、戰爭はやれる」と答える。戰爭終結の処理というようなことは、以っての外だという態度であり、そういうことは考えても罪惡だというのである。\n 僕は淋しくなった。小泉氏のごときは、最も強靱なリベラリストだと思った。しかるに今これが全く反対であることを発見した。杉森氏に帰途「小泉氏は変った」というと、「自己の地位のプロテクションもあろうが」と言う。それにしても大臣待遇とか、塾長になれば、こうも変るものだろうか。日本人がそうなのか、学者は時の問題に諒解をもたぬのか。\n この間、伊藤正徳が松本氏に「小泉君は誰にも評判がいい」と言った。松本博士は義兄である。が、「誰にも評判がよくない。現に家では、あんな最右翼みたいなことを言ってと、評判が惡い。清沢さんのようになってくれるとよいがと言っていますよ」と言ったそうだ。\n 小泉氏に惡意はもたぬが「この人が」と淋しいことは事実である。\n 政府およびその関係者、識者は、まだ非常に強気である。最後までのことを突き進んで考えることを恐れているようだ。\n\n十二月十一日(日)\n 東洋経済の評議員会に出る。諸氏の談話によって、中部日本の地震が戰力に極めて重大な影響を与えたことを知った。日本の飛行機生産の少くも四割は名古屋附近にあり、その外に造船、重工業がその方面に多い。しかもそれらは海辺の埋立地に多いから、被害も多かったろうという。\n 震災のことを新聞は殆んど書かない。ラジオでは全く放送しなかった。\n 今日、午後一時二十二分、国内をあげて伊勢神宮に必勝祈願をした。首相のかねてからの提唱によるものだ。神風を吹かせるようにというのだろう。二十世紀の科学戰を指導する日本の首相は、神風をまき起す祈願を眞面目にやる人なのである。\n\n十二月十三日(水)\n 外交問題処理には屈伸性のある心的姿態が必要だ。これが日本人にはない。ユダヤ人問題を説く連中――現在、日本の中心になっている連中――に、とくに然り。\n「現代」十一月に座談会あり、「神州憤激して起つ」というのである。その中で御手洗辰雄は、米英的なるものを一掃すべきことを強調する。「それは何を措いても、国民の思想や精神に影響を与える立場にある指導者にして、親米的人物乃至は過去においてそういう傾向のあった人間は、たとえ政府の要路にあろうと、あるいは軍人であろうと、悉く危險人物と見て差支えない。そんな危險人物に先達してもらわなくても、眞に日本精神に徹しているものをもって、指導者の入れ替えを断行する。これが国民の憤激を沸きたたせる第一の先決問題と思います」と。無知燐れむべし。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 相手のあざやかな応酬に、新子はポッと赤くなりながら、さっきから返しそびれてキレイに畳んで懐にしまっていたハンカチーフを返した。\n 三人は、やがてブレッツを出た。\n 若い男と女との会話は、全く磁石のような力を持っているものだ。まして、新子の情感に溢れたほがらかな言葉づかいは、相手にひしひしと浸み込んで行くような性質のものだった。\n だから、わずかの間ではあったが、子爵の心には、新子に対する深い親愛と好意とが湧き上った。\n しかし、最後の言葉が、いけなかった。単数の愛人あり! それは(われに、近寄り給うな)と、いう警笛のようにも聞えた。\n\n五\n\n 子爵は、歩きながら考えた。単数の愛人って、誰だろうか。まさか、準之助氏ではあるまい。でも、昨日、新子が負傷した時の、準之助氏の狼狽えかたは、少し可笑しかった。それに、新子を見るときの情熱の籠った双眸! でも、まさかと子爵は、そんな考え方を捨てようとした。\n 両側の草原から、絶えず、清々しい香りが立ち上って、胸を気持よく柔らげるのであった。\n 小太郎が、大きい揚羽の蝶を見つけて、草原の中へ十間ばかり追いかけて行った。\n しばし黙っていた木賀子爵は、その機会に、\n「マダムは、難物ですが、前川氏は、きっといい味方になってくれるでしょう。あの人は、元来女性尊重主義者だから......」\n「まあ、なぜ......貴君はそんなことをおっしゃるのですの。」\n 木賀の云い方に、すぐ賛成するかと思った新子が、思いがけなく反撥したので、木賀は大きく見張った新子の視線を、あわててそらしながら、\n「僕が、あの人をほめては、いけないんですか。」と、タジタジしながら云った。\n「いいえ。お賞めになっても結構ですわ。でも、私とマダムと対立でもしているようにお考えになってはいやですわ。」と、新子は云った。\n 木賀は、新子の慎みぶかい予防線に、感心しながら肯いた。\n 新子は、自分が準之助氏から、ある危険を感ずるように、他人の眼にも、それが露わに映っているのかと思うと、いやだった。\n だから、子爵のそうした観察にハッキリ抗議したのである。\n きのうなんか、わずかに傷ついただけなのに、あの方はあんまり、あわてすぎていた。\n(やっぱり、あんな不当な謝礼は、頂くのではなかったかしら)金銭の収受は、男女の間をたちまち接近させるものではないかしら、と思ったりした。\n 白樺の繁みをぬけて、三人が母屋に近づいた時、バルコンの上で、お茶を飲んでいる準之助夫妻を、小太郎が、いちはやく見つけて、\n「パパとママが、あすこにいるよ。」と、遠くから指さした。\n 前川夫妻は、まだこちらに、気が付かないようだった。\n「とても、円満な夫婦のようじゃありませんか。」と、木賀子爵が、微苦笑しながら云った。\n「ご円満なのでしょう。」と、新子は、ちっとも皮肉を交えずに云った。\n「僕行って、お茶をいただく!」小太郎は、一散に建物の方へ急いだ。\n\n\n姉のために\n\n\n\n\n一\n\n 熱は冷めても祥子は高熱が続いた後なので容易に床を離れることが出来なかった。\n それだけ、退屈し切っていて、新子が病室へはいって行くと、すぐねだって、幼年雑誌や漫画の本を読んでもらった。その朝も、新子が病室へはいると、祥子は待ち兼ねていたように、\n「ご本よんで!」といった。\n「今日はもうよむご本ありませんよ。」\n「動物園見物。」\n「でも、これは三度目でしょう。」\n「三度目だっていいの。」\n「じゃ、およみしますわ。」新子は、枕元に坐って、読みはじめた。\n サアどっちからみる? ぼくライオンからみる。あたしゾウから。ゾウともおし。僕等はシシから。あらシシは十六ばんめにみるものよ。アア四四十六か。\n 祥子は、もういく度も聞いた洒落であるのに、ニコニコうれしがっているのであった。ちょうどその時、扉が開く気配がしたので、新子が顔を上げると準之助氏がはいって来た。\n「また、動物園見物か。何度目だい? お前が飽きなくっても、南條先生は飽き飽きしていらっしゃるだろう。あんまり、先生をいじめちゃいけないよ。」準之助氏は、にこやかに祥子を叱った。\n「先生だって、面白いのよ。ねえ、先生!」\n「ええ。とても。」と、新子も真面目に肯いて読みつづけた。\n 準之助氏は、本を読んでいる新子と、仰のけに寝ながら、新子の読む声に聞き惚れて、美しい黒目を一章一章に、うごかしている祥子とを、何か楽しい観物のようにしばらく眺めていた。\n そのとき、あわただしい足音がして、扉がノックされて、\n「どうぞ!」と、新子が答えるのも待たず、女中がはいって来て、新子に電報を手渡した。\n(今頃、何の電報!)と、思う胸騒ぎを、じっと抑えて、読み下すと、\n\n\nアスマデニ三〇〇エンツゴウシテクレ、イノチガケニテタノム、アネ\n\n\n と、いう電文だった。\n 姉の唐突な無法な依頼に、呆れて新子の顔は、サッと蒼ざめた。\n 一昨日の金は、着いたのだろうか。着いたとしたならば、その上に何の急用あっての金だろうか。恐らく母が入用の金ではあるまい。姉一人でいる金としたならば、一体何の金だろう。昨年あたり新聞でよく見た、左傾した女の人達が無理算段の金を作るように、まさかあの姉が急に左傾して、党へ出すとかいう金をでも作るわけでもあるまいに......。\n「どうなすったんです。南條さん!」準之助氏に、声をかけられて、新子はハッと狼狽した。\n「いいえ、つまんない用事なんですの。電報なんか打たなくっていいことなのですの、......ご免なさい祥子さん。先を読みましょうね。」\n ずいぶんながくかんがえてたのね。だから、カンガエールカンガエールカンガールて、だれいうとなしにそういってしまったのさ......\n だが、もう新子の声は、かすかにふるえて漫画の説明を読むには、一番不適当な声になっていた。\n\n二\n\n 祥子も、新子の声のふるえに気がついたと見え、もう漫画からは眼を離して子供らしく気づかわしげな眼を、新子の顔に向けていた。\n 新子は、それでも祥子の注意を絵本に向けようとあせって、また一ページばかりも、読みつづけた。\n「南條さん。本は、それくらいにしてどうですか。ねえ、祥子もういいだろう。」と準之助氏が口を出した。\n「ええ。」と、祥子も父の意を汲んで素直に、うなずいた。新子は泣きたいような気持で、本を下に置いた。\n「南條さん、不意の電報なんて、よくないことに定っているものですが、一体どういう報せなんです。構わなかったら、きかせて下さいませんか。」準之助氏は、たまりかねて訊いた。\n「先生のママさんが、ご病気なの?」と、腺病質で、勘のいい祥子までが、大きい眼を刮って、愛らしく新子に訊いた。\n 新子は、危うく涙になりそうな微笑で、首を振り、準之助氏の方を見上げながら、\n「ほんとうに、何でもございませんの。姉のつまんない勝手でございますの。お聞かせするような筋じゃございませんの。」と、いった。"
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"role": "assistant",
"content": "「じゃ、姉さんが、用事があるから、すぐにでも東京へ帰れとでもいうのですか。」\n「いいえ、そんなことでもございませんの。」\n「じゃ......」準之助氏は、しばらく考えて「貴女に無理な依頼でもして来たのですか。」\n「ええ。まあ......」と、新子は言葉を濁した。\n「依頼って、どんな性質のものですか。」\n「つまらない、出鱈目な事なんでございますの。」\n「というと......」準之助氏は、じっと新子を見つめながら、追及して来た。\n 新子は、ちょっと身がちぢむような気がした。相手は、あくまで紳士的に、礼を失しないように自分の窮状を察してくれようとするのであったが、それ以上は訊いてもらいたくはなかった。\n「あんまり唐突で、私にも、何が何だか分りませんの。早速問い合せの電報でも出してみようかと思っていますの。ほんとうに出しぬけで、......でも、ご心配して頂く筋じゃございませんの。」と、新子は、しっかりした態度で、準之助氏の好意を斥けた。\n 準之助氏は、新子の微笑にまぎらしている憂鬱そうな顔を、なおしばし見つめていたが、\n「貴女にも分らないとすれば、どうともしようがないですね。」と、いった。新子は、笑いながら、うなずいた。\n「じゃ、先生電報が来ても、ここのお家にいるんでしょう。」\n「ええ。いますとも、祥子さんと一しょでなければ、東京へ帰りませんわ。」\n「じゃ、すぐその間い合せの電報を打っていらっしゃい!」と、準之助氏がいってくれたのを機会に、新子は祥子の部屋を出た。\n\n三\n\n 新子は、自分の部屋へ帰って来たが、姉の無理解に、腹が立って仕方がなかった。自分に、三百円の大金が、どうして作れると思っているのだろう。百四十円という金を送ったので、それに味を占めて、前川さんに借りてくれとでもいうのなら、姉にも似ず、あさましい考え方だと思った。\n 無性に腹が立って、問い合せの電報も、断りの電報も、打つ気にならなかった。自分に、こんな電報を打ってよこすなど、ただ自分を苦しめ悩まし、不愉快にするだけではないか。\n 新子は、収まらぬ胸を落ちつけるつもりで、机の上に置かれてある、朝刊を取り上げた。\n 朝の内に、主人が読み、その次に夫人が読む、夫人は朝寝であるから、新子のところへ新聞が廻って来るのは、いつも祥子の勉強が了ってからであった。\n 三面をザッと読んでから、文芸欄を開いて、随筆や時評などを漫然と読んでいると、ふと「新劇研究会の公演」という見出しが眼についた。埋草のように六号で組まれたものだが、姉が関係していることを知っているだけに、新子の眸はひきつけられた。\n\n\n二十五日より今月末まで、S劇場で旗拳公演をしている、小池利男氏の統制下にある若い素人の劇団だ。出し物のうち、ルノルマンの「落伍者の群」は、稽古が足りない恨みがあるが、どこか新鮮な力の溢れている演出だ。殊に白鳥洋子の「彼女」は傑出している。恐らく、今度の公演での唯一の収穫だろう。聡明な理解に充ちた演技だ。この人の未来を嘱望せずには居られない。(IT生)\n\n\n 読みおわると、新子は胸がおどった。姉の圭子が問わず語りに、\n(妾、もし舞台に出るのであったら、白鳥洋子という芸名にするの。どう、白鳥洋子と、いうの?)と、いったのを思い出したからである。\n 姉は、実生活に、のんきで出鱈目であるだけに、一方にこんないい天分が、かくされているのだ。短い寸評だけれども、これ以上の認められ方なんて、ありゃしないわ。\n そう思うと、新子は姉に対する感激で胸に、グッと熱いものが、こみ上げて来るのだった。\n 今の今まで、姉に対して、懐いていた不愉快な感情までが、カラリと拭われたように無くなってしまった。そして、姉がずーっと、自分よりも、貴い人種のように思われて来た。\n(そうだ! あの無心のお金も、きっと今度の公演に必要欠くべからざる金なんだわ。女優なんかになることは、大反対の母に断られて、止むを得ず、自分に訴えて来たのだろう。わずか、三百円で、姉の女優としての素質が、ハッキリ認められるのなら、こんなに廉いことはないわ)\n S劇場の舞台で、観客を前にして、芝居をしている姉の姿が浮び上って来た。「落伍者の群」なら、新子も読んだことがある。「彼女」の台辞だって、切々に覚えている。そんなことを考えていると、新子は姉に対する、肉親らしい感激で、さっきとは別人のように、興奮してしまった。\n\n四\n\n どうせ、実生活には不向きな姉である。\n 大空に向って、翼を張り、自由に雄飛すべき天分の持主ならば、それを無理に、家庭生活の煩わしい鎖で、つなぎ止めて、平凡な生活を送らせるよりも、姉の思うままに芸術の世界へ、輝く脚光の国へ送り出してやるのが、妹としての、真の愛情ではあるまいか。天才的な姉のために、自分が犠牲になってやるのが、妹として正しい道ではないかしら。前川さんにお金を借りるくらいの危道を踏んでもいいのではないかしら。\n 今まで、姉の実生活的方面のみを軽蔑していた新子は、姉の他の輝かしい半面を見つけて、新子が実際的の人間であればあるだけ、その光輝に打たれて、すっかり興奮してしまった。\n 前川氏にお金のことをいい出すのはいやだ。しかし、その嫌さを忍んで、姉のこの機会を充分に生かしてやるのが、自分の義務かもしれないと新子は思った。\n 新子は、何か物に憑かれたようになって部屋を出た。前川氏は、まだ祥子さんの部屋にいるだろう。居てくれれば都合がいいと思いながら、階下へ降りて行った。\n 準之助氏は、新子の希望していたとおり、祥子の部屋に居て、今度は新子の代りに、祥子に本を読んで、きかしていた。\n 父と子は、にわかに晴れやかになった新子の顔を、いくらか不思議そうに迎えた。\n「どうなすったんです......?」と、準之助氏が、まず訊いた。\n「姉の電報の意味が分りましたの。」\n「ほう。どういうわけだったんですか。」準之助氏は、けげんそうであった。\n 新子は、折りたたんで持って来た新聞を、準之助氏の前に差出しながら、劇評のところを指して、\n「姉は、こんな道楽をしておりますの。白鳥洋子というのは、姉の芸名なのでございますの。」と説明した。新子の気持も言葉も、上ずっていた。\n 前川氏は、それに目を通すと、\n「はア。これは、素晴らしい讃辞じゃありませんか。」と、新子の満足そうな笑顔に、やさしい愛情に充ちた眼を向けた。\n「ええ。私もびっくり致しましたの。」と、新子はしおらしく合づちを打った。\n「それで、先刻の電報は?」\n「お金の無心なんですけれども、どうしてお金がいるのか分りませんでしたの。これで、分りましたわ。みんな、学生ばかりですから、この公演の途中で、資金が足りなくなって、困っているのだと思いますの。そして、私のところまで、あんなとばっちりのようなムリな電報を寄越したのでございますわ。これを見るまでは、何が何だか解らなかったんですもの。」と、新子は、少し浮かれてでもいるように、喋りつづけた。\n「そうですか。いや、それで安心しました。貴女のお姉さまなら、僕は欣んで後援しようじゃありませんか。」\n 新子は、嬉しくなって、頬がカーッとなった。\n\n五\n\n「失礼ですが、電報では、いくらほどご入用だと云うのですか。」準之助氏は、続けて訊いた。\n 新子は、準之助氏と、おずおず眼を合せながら云った。\n「もしも、こんなことが許して頂けるんでしたら......私の月々頂くものを、半年分ほどまとめて、拝借できないでしょうか。」\n「いや、いや、月給は月給、これはこれですよ。」と、準之助氏は、手を振りながら、\n「そのくらいでいいんでしたら、僕が貴女のお姉さんを後援する意味で、差しあげましょう。今日にでも、東京の事務所の方へ電話をして、お宅の方へお届けしましょう。」\n「先日、あんなお礼まで、頂いて。でも、あれは、母の方へ送りましたのですが、母は芝居なんかに、とても理解がありませんから、恐らく姉の方へは、ちっとも廻らなかったと思いますの。」新子は、真赤に上気しながら弁解した。\n「いや、ごもっともです。お年寄は、女優なんかになるといえば、恐らく大反対でしょう。」と、そういってから小さい娘に、\n「祥子や、安心しなさい。先生への電報は、わるい報知じゃなかったんだよ。パパは、ちょっとご用事が出来たから、『コンコン山のきつね』は、また後にしようね。」祥子が、素直にうなずくのを新子は、\n「今度は、私がお読みしましょうね。」と準之助氏の膝にある本を受けとった。\n「四谷のお宅は、谷町でしたね。谷町の何番地ですか。」\n「二十七番地でございますの。」\n「お姉さんのお名前は?」\n「圭子でございます。」\n「ケイ、どんなケイです。」\n「土を二つ重ねた。」\n「分りました。じゃ、出来れば今日中に届くように。遅くとも明日午前中に届くように。スリー・ハンドレッドでいいんですね。」と、念を押して、前川氏は部屋を出て行った。\n 新子は、前川氏の後姿を、ありがたく見送りながら、(いい方だわ。あの方が、私のことを心の底でどう思って、いらっしゃるにせよ、とにかく、いい方だわ。こんな問題に、こちらをちっとも、不愉快にせずに、あんなに美しくお金を出して下さるなんて!)と、思うと、たまらない気持になって、祥子にいった。\n「祥子さんのお父さまは、何ていい方でしょう。ほんとうに、いい方だわ。」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": " なおこの他の匿名の由来にも触れると、大野芳宜は、かつて那須野に旅した際、「思ふこと大野の小萩」という歌を作ったことからである。山崎千束は、私の生れ故郷田原の西を流れる市川の対岸福崎町山崎という所に、淵に臨んだ岩山があり、夜分その下を通った人が、山の上から川の中へ巨大な足がぬっと突込まれたのを見たという伝説がある。その土地を千束と呼んだいわれがあることによってつけた(千束は多分洗足なのであろう)。榎本御杖は、私が一時よく榎のことを書いて榎の杖に触れたことから、そして板垣小棠は、東京根岸のさる家の板塀越しに海棠が美しく望まれた印象から名づけた。なお私の養家先の柳田家は、家系の永続が困難な家で、そのたびに一族の安東、菅沼両家から養子を迎えたが、私の養父は安東家から来たので、安東と、その逆の語呂を合せて危西をつけた安東危西というのもあり、安東家とともに風伝流という槍術の師範の家菅沼の姓に、同家のあった美濃の国可児郡の郡名をとり菅沼可児彦と名づけたのもある。ちなみに風伝流という槍術の発祥は播州の明石である。\n またこの一族の祖先は一時神奈川県足柄上郡山北の川村という土地にいたことがあったので、川村の姓に、島崎藤村をからかう気も手伝って、彼の本名春樹にちなみ、訓みを同じくして杳樹をつけたのもある。小野吾滑は、小野小町の伝説に現われる「あなめあなめ」の歌に由来し、清水松亭という名は古い知り人の名を借りた。森緑は私の祖母の祖母にあたる人の出身地福崎町の、いまの新町の森という家の名にゆかりをもたせ、森の色は緑であるからという理由でつけたのである。\n\n\n兄弟のこと\n\n\n\n\n\n\n兄の望郷心\n\n\n 一ぺんは記しておきたく思うのは、早く郷里を出た長兄の鼎が、自分の生家に対していろいろの回顧を持ち、自分の幼少であった時分の思い出をたくさんもっていた点である。この兄が郷里で小学校長をしていたこと、若くして娶った兄嫁と不縁になり、志を興して東京に出たことは前にも述べた。この最初の兄嫁が幼い義弟の私に、その後も大変親切であった有難さが、七十何年後のいまも忘られないと、この「故郷七十年」で書いたのに対し、その兄嫁の近親の人たちから、はからずも心の籠った通信を頂いたことは、近ごろにない嬉しさであった。\n 下総の布川に開業していた長兄は、医者という商売柄、一週間と家を空けるわけにはいかないので、いつも播州のことを心にかけ、噂を絶えずしながら年取って、殆んど播州へは帰らずに終ってしまった。懐しそうに語る話は、じつに旧式で、兄と私とは年が十五も違うので、同じ辻川や播州の観念が大分ちがっていたのである。\n 年若く師範学校を出て村に帰り、小学校長になったころ、村には兄を助けてくれる同年輩の人が多かったが、東京に出て五、六年も医者の修行をしているうちに、これらの仲間の上にもはげしい時代の変遷があった。中には不幸にあって英気沮喪したのもあり、兄としては、帰ってみてもだれも頼りになるものはなくなっていた。私が「あなたのお友だちは」と聞くと、いちばん親しかったのはだれ、同僚としていちばんよく付合ったのは何某など答えたこともあった。東京へ送り出すときには、酒を酌み交したり、旅費を作ってくれたり、餞別をくれたりして見送ってくれた連中が、世の波にのりおくれたりして、皆かなり暮し向きが酷くなってしまった。代りに出てきたのが、兄からみると年配の違う若い者であった。\n 帰村するのには、大まかなゆったりした縁故があればこそ、心をひかれるのだが、その糸が切れ、一つこの男を働かせて、なんて考えてくれる者がいなければ、やはり寂しいことであった。かつて同じ部落の中でも、とくに隣組付合いをした人々でも、都会に出たものがやって来ると、鉢巻を取って挨拶しなければならない。つい面倒だから、知らんふりをしてすごしてしまう。いいかえると、私どもが知らん間に上流階級の人になってしまっていたわけであった。私だけでももう少し頻々と帰るとよかったのだが、明治二十六年に帰り、次は三十一年、それから次が三十五年というふうに、間が開いたので、その間に他所から嫁が来たり、他へ移ったりして、故郷というものが、人間を離れて山水だけになってしまうのであった。これはまことに寂しいことである。ただ私は村というものを馬鹿にせず、村の成立ちとか変遷とかを自分の村で経験しなくなってからも、他所の村で十分味わうことが出来たわけである。このように私自身はまだよかったが、他郷に終始した長兄にとっては、人間と離れた故郷というものが、じつに寂しい感じのものであったに相違ない。\n 長兄は郷里を出て東京に来るときには、決してもう帰らないという気持ではなかった。しかし不在の五、六年間に大分郷里の事情が変ってしまい、ことに前にいった村の有志家のうち、ちょとした蹉跌で失脚するものが少なくなかった。例えば藤本といって義侠心もあり、個人的にも長兄を可愛がっていた家が、瞬く間に不幸続きとなり、兄が帰っても相談にのってくれそうもなくなった。そういうことがいろいろあって、兄にはもうとても駄目だと思われたらしいのである。\n そのうえ、もっと大きな理由は、郷里の親類が皆医者だということである。私の家はしばらく医者をやめていたので、今さらそれらの親類の中へ割り込んで、競争するのは嫌だという点があった。そうこう考えた末、二度目の兄嫁として茨城県人を貰ったものらしく、大分郷里を出るときの心持とは変っていたように思う。それが偶然の手伝った移住の原因であった。\n 親の方でも仕方なしに、後から関東へ出て来たが、母などは郷里の常識しかもっていなかったわけだから、どうも双方のために不為なことが少なくなかった。明治二十二年の夏から、二十九年に父母が亡くなるまで、体も大分弱っていたし、気持も何となくイライラするようなこともあった。あんな思いをせずに亡くなったのだったら、と思うこともあるが、仕方のないものである。\n 長兄はそんなわけで何かというと郷里の話をしたが、それはたいてい、子供の私が聞いても時勢遅れとしか取れないようなことであった。こんなことがある。\n 明治になってから、わが国でも急に木綿織の反物類が盛んになり、一時日本の棉作りの黄金時代のようなときがあった。初めは大和とか河内など近畿地方の平地で余計に作っていた。それが次第にひろがり、山陽線の両側などでは、夜など棉の実が割れ、畑が一面に白くなって月夜のように明るく、それは綺麗なものだった。田圃の水をなくした所にずうっと植え、所々とびとびに摘み取る棉畑の面白さ、美しさというものは関東には少ないものであった。\n 明治の初めのころ、政府は米にも棉にも高い保護税をかけて、国産を奨励して輸入を防いでいたが、日清戦争のころになると、だんだんそれができなくなり、保護税をやめて、輸入を緩やかにした。それがたしか明治二十九年ぐらいを境にして、それ以来国内ではぱたっと棉を作らなくなり、唐糸が急激に入って来たのである。織物にするには、繊維の長い唐糸(外来綿糸)の方がより適しているので、日本棉は年々減ってきたのである。\n そんなときに長兄は、茨城県に棉畑を奨励しようとして、種苗を取り寄せたのだから、旧式な話で、成功するはずもなかった。何分にも明治十六年に郷里を出たころの知識を元手に、関東地方の人と交りを結ぼうとして努力をしたのだから、うまくゆかなかったのである。\n いちばん郷里に帰りたく思い、そして一生播州のアクセントと国訛りの抜けなかった長兄が、とうとう郷里に帰らなくなったのだから、ときにイライラすることもあったらしく、われわれとしても気の毒に思ったのであった。\n\n"
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"role": "assistant",
"content": "一人前の話\n\n\n 長兄松岡鼎が神戸の師範に入る以前のことである。近所の子供を集めて鬼ごっこして遊んでいるので、母が「十五歳にもなって......」と叱責したそうである。すると兄が「タバコ入れを買っておくれなら」と答えたのを、折から居合せた尾芝の祖父が聞いていて、「もっともなことだ。おれが買ってやろう」といった、という。\n この話は考えるといろいろなことを意味しているようである。当時一般農家の子弟が一人前になるための元服の儀式は、十五歳のときときまっており、これを境に一人前の若い衆になったという精神的な自覚を与えられたものである。ところが私の家は不幸にして、子供を若い衆の仲間に入れることなく、単に教訓だけで形づけようとしたのである。従って兄がタバコ入れを買ってくれと要求し、祖父が兄のその言に感動したということが、私はいまなら理解できるのである。つまり子弟の成長には一つの明らかなきりをつける必要があるということである。\n 当時のきりのつけ方について面白い記憶がある。私が子供のころ母について近所の家に行っていたときに、その家の母親が「伜はお宮詣りに行きました」という。母は「お宮詣り? ああ元服だね」と祝辞をのべたが、先方の母は「はい、新しい下帯でね」といいながら、子供をかえりみて、一ぺんオエハンに見てもらえというと、その子はうんとすなおに、両の手で前をひろげるが、そこにはせっかくの現物がないのである。叱られたり笑われたりして、走ってお宮にさがしに行ったが、ちょうど石段の中ほどに「ゆ」の字形をして落ちていたのを、あったといってもって戻って来た。\n こんな無邪気な少年が、一人前の若者となるには、どうしても二、三年の中間期があった。それを播州などではヒノデ(日の出)と呼んでいた。ヒノデはまことによい言葉だが、たいていの児童は、この期間に少しずつ母が教え得なかった人生を学んで行くのである。あるいは小若い衆という地方もあり、また青二サイなどともいわれるが、二サイはじつはニイセ、新しいセ、すなわち娶り得る者の意味である。\n 私たち兄弟三人はこういう空気の中に生れながら、ついに正式の成人教育を受けずにしまった。もとは僧侶とか特殊な芸人とかの、わずかな数に限られていたのが、新しい教育の進むにつれて、年ましにその勢力が増大して、よくも考えずに古い習わしを崩壊させたのは、一種の無血革命ともいうべきものだった。そうしてこの目に見えぬ変動の中に、次第に消えたり忘れつくされたりしたものに、まだいろいろの重大なものがあった。国の近世史の軽く取扱われていたことは、何だか自分たちにも責任があるように思う。\n 終戦十数年後の今日まで、この問題はなお未解決、あるいは混乱の複雑化ともいえる。人が自由に交通し得る年齢と、世に出て働き得る時期とには、段々と大きなズレが出来て来る。いちばん困るのは少年という日本語で、このごろは少年といわれる若者に、とんでもない犯罪人が時々出て来る。漢語の元の意味ではただ「若い人」だったかもしれぬが、われわれは明治二十一年の雑誌『少年園』以来、単に男の子供という意味にこの語を使って来た。もし範囲をひろげるなら、もっとはっきりとその変革を公示しなければならぬ。察するところこれは近代の「青年」という名に対する、極端な警戒からで、前なら青年といってよかったものを、考えもなしに改めたものと思う。青年という名の用途を制限するのは結構だが、それを「少年」にさしかえられてはたまったものでない。言葉を気にかけない人たちを政治家にせぬように、選挙人がまず考えて見なければならぬと思う。\n\n\n長兄の境涯\n\n\n 私一人だけはどういうものか酒を飲まないが、兄弟は皆酒を飲んだ。中でも長兄だけは、どちらかというと酒癖が悪い方であった。面白くないことがあると余計飲む、すると日ごろは用心深くていわないようなことも口にする。外で人に迷惑をかけると、それっきりになってしまうこともあるが、家庭でそれをやると、いつまでも後味が残ることになる。おまけに少し飲みすぎると、翌日から寝てしまう。そのうち少し大患いしたことなどもあって、物心つく年ごろの私は、私なりにいろいろのことを考えてしまった。兄は、もう一人井上の次兄があったが、他家へ行ってしまっているし、長兄には子供が三人もあるのに、こんなに不養生で、身体が弱いとすると、両親を抱えて、私としても考えなければならないと思うようになった。もともと私は医者は嫌なのだが、一家を背負ってゆくためには仕方がない。万一の場合は医者の開業試験ぐらいは受けられるようにしておこうと、そんな悲愴な決心まで子供の私はしたのであった。その後兄はねることもよくねるし、飲むこともかなりよく飲んだが、それでいてだんだん大人しくなって、幸いなことには、とうとう七十五まで生きながらえた。\n 医者の方もなかなか繁昌して、万事が思うようになるので、一時は政治に興味をもち、千葉の県会議員になったり、一期だけではあったが、布佐の町長を勤めたこともあった。その町長になった時の記念として、面白いことに兄は利根川にはじめて橋をかけて、千葉の布佐と対岸の茨城の布川とを結びつけた。まるで布佐町長の兄の便利みたいな長い橋が、昔からあった有名な渡し場にかかったわけである。ちょうど茨城の方から成田鉄道の停車場にゆく道になっていたので、私共のおった布佐の近所がずいぶん繁華になった。橋の名は「さかえ橋」といい、これは井上の兄が県境だから境橋と名づけたのだが、あの地方のイとエの発音の混同から村議会でサカエに訛ってしまったものだとか伝えている。今もこの橋は残っていて、私は橋を渡ったり、写真を見たりするたびに、長兄の一生というものを思い出すのである。一生を酒を唯一の慰めにして、他郷にいる寂しさを逃れていたのが、兄の境涯であった。\n これは少しも自慢にならない逸話なのだが、あるとき貞明皇后さまに、人がわれわれ兄弟のことを、「あそこは四人兄弟がありまして、それぞれ何か仕事をしております」と申上げたところ、「もう一人、上のが田舎にいるはずだ」と仰言ったという話が伝わっている。それを聞いた兄は非常に感激し、「それでもう本望」と、それこそ涙滂沱として喜んだのであった。自分は弟どもの世に出るのを裏から助けて、一種の犠牲になったような感じを秘かにもっていたのに、図らずも、その自分に玉の御声が掛けられたと感激して、非常に生きる張り合いを覚えたわけであったろう。\n\n\n次兄、井上家に入る\n\n\n 次兄通泰の養家井上家は、辻川と同じ元田原村の一部落、吉田という所の旧家であった。村の中心をなしていた名家で、村との関係がまるでお寺と檀家のように思われた。他にも独立した家があったが、井上家を囲んで何十軒かの小さな家が周囲に集まっていた。播州の海岸に英賀という所があるが、井上家は初めそこにいたという。小寺家の統治時代というから、ずいぶん古いことだが、その時代に今の吉田へ移って落着いたように伝えられている。系図に依れば、河野の一族ということで、現に河野通有の兜というのが代々伝わって来ている。次兄の歌の中で比較的いい歌に、\n\n遠き祖の片身の鎧万代にいかで我が名も伝へてしがな\n\nというのがある。兜を鎧というのは普通よくあることであって、これは有名な歌になり、父なども非常に喜んだ歌であった。次兄は父母が姫路の熊川舎に学監として行っていた時代に、そこで生れ、私と年が九つちがっている。十一の年の暮に養子に行っているから、幼い私の知らないころの話であった。私が物心ついた時にはもう井上の兄さんといっていた。幼名は泰蔵といったが、河野の一族に入ったので、通泰と名を改めたわけである。\n 井上の養父は碩平といって、一時姫路病院に勤めてなかなか評判の高い医者であったが、通泰はこの時代に貰われていった。いくつの時に村へ帰って来たか、私にはもちろん覚えはない。ただ他所の子供より比較的早く、十四、五歳で東京へ勉強に出たことだけははっきりしている。東京には姫路の学者で、国富重彦という人がいたので、その人などの世話になっていたのではないかと思う。大学予備門のまた予備校みたいな所に入って、簡単な勉強をし、それから大学予備門にいっていたようだが、その留守中、私は井上家を一番の娯しみの場所にして出入した。行けば非常によく世話をしてくれたし、そのうえ家は立派なので、始終遊びに行っていた。次兄の養父母のことは、今もよく覚えている。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "一\n\n 柳原の土手下、丁度御郡代屋敷前の滅法淋しい處に生首が一つ轉がつて居りました。\n 朝市へ行く八百屋さんが見つけて大騷ぎになり、係り合ひの町役人や、彌次馬まで加はつて搜した揚句、間もなく首のない死骸が水際の藪の中から見つかり、それが見知り人があつて、豊島町一丁目で公儀御用の紙問屋越前屋の大番頭清六と判つたのは、大分陽が高くなつてからでした。\n ガラツ八の八五郎の大袈裟な注進で、錢形平次が來たのはまだ檢屍前。\n「寄るな〳〵見世物ぢやねエ」\n そんな調子で露拂ひをするガラツ八の後ろから平次は虔ましい顏を出して、初秋の陽の明るく當る筵を剥ぎました。\n 殺された清六は五十七八、小作りの胡麻鹽髷、典型的な番頭ですが、死骸の虐たらしさは、物馴れた平次にも顏を反けさせます。\n「辻斬でせうね、ひどい事をするぢやありませんか」\n 八五郎は横から覗きました。\n「――」\n 平次は默つて首を振りました。こんな下手な辻斬があるわけもありません。\n「越前屋からは、まだ引取り手が來ませんよ。親分」\n 八五郎はそれが不平さうです。\n「ツイ二十日前に、主人が卒中で死んだばかりだから、無理もないが――」\n 町役人は辯解がましく口を入れました。さう言へば越前屋の主人佐兵衞が急死したことは、平次もガラツ八も聽いて居りました。重なる不幸で、越前屋の混雜は思ひやられます。\n「――その上店のこと萬端取仕切つてゐる甥の吉三郎さんが、大阪へ商賣用で行つてゐるとかで、迎ひの飛脚を出す騷ぎでしたよ」\n 町役人は更に註を入れました。\n「濡れ手拭を持つてゐるところを見ると、風呂の歸りでせうね。親分」\n「鬢も濡れてゐるよ。――風呂の歸りに、わざ〳〵柳原河岸へ出るのは變ぢやないか。それに――」\n 平次は首を傾けて居ります。\n「何か變なことがあつたんですか、親分」\n「變なことだらけだ」\n「首を斬るのは穩かぢやねエ。辻斬でなくても、下手人は武家に決つてるやうなものですね」\n と八五郎。\n「穩かな人殺しといふのはないだらうが、――この下手人は武家ぢやないよ」\n「へエ――」\n「やつとうの心得などのない人間だ」\n「何だつて、それぢや首を斬り落したんでせう」\n「それが解れば一ぺんに下手人が擧がるよ」\n「?」\n「どうかしたら、一度絞め殺して置いて、それから首を斬り落したのかも知れない。生き身の人間がこんなに斬りさいなまれ乍ら、默つて居るわけはねエ、いくら柳原でも、家もあれば人も通る」\n 平次は早くも事件の祕密に觸れて行くのでした。\n「親分、死骸の側に斯んな物が落ちて居たさうだが、何かの役に立ちますかえ」\n 懷中煙草が一つ――印傳の叺に赤銅の虻の金具を附けた、見事な品を町役人は平次に渡しました。\n「これは良いものが手に入つた。何處に落ちてゐたんだ?」\n「死骸の下敷きになつてましたよ」\n「文句はねエな。死骸の下に煙草入をねぢ込むやうな物好きな野郎はあるめえから」\n ガラツ八は又尖つた口を入れます。\n 其の時、ドカドカと驅け付けて來たのは、豊島町一丁目の越前屋の人達です。\n\n二\n\n 越前屋の同勢の中で頭立つたのは、これも主人の甥で金次といふ若者。まだ二十五六の、遊び癖の拔け切らないのを、叔父の佐兵衞に引取られて、年上の從兄吉三郎と一緒に、商賣を仕込まれてゐるといつた、一寸好い男です。\n その外姪のお辰といつて、二十一になる美しいの、居候で浪人者の岩根源左衞門。これは名前だけは怖かない敵役のやうですが、ヒヨロヒヨロとした青白い四十男で、劍術よりは下駄の鼻緒を直したり、障子を張つたり月代を當つたりすることのうまい人間です。あとは奉公人多勢、唯もう逆上氣味で、番頭の遺骸を中に騷ぐばかり。\n「店の支配人は居ないのか。――騷いでばかり居ちや調べが出來ない」\n 檢屍の同心苅田孫右衞門は、驅けつけ樣、この混亂を睨め廻しました。\n「へエ、支配人の吉三郎は大阪へ行つて居ります」\n 甥の金次は小腰を屈めます。\n「番頭の清六が殺されて、支配人が留守だとすると、あとの取締りは誰がするのだ」\n「私で御座います、へエ」\n 若くて少し道樂強さうな、金次に、越前屋の取締は出來るかどうか、同心苅田孫右衞門も胡散な眉を寄せました。\n「支配人は何時歸るのだ」\n「二十日前に主人佐兵衞が頓死いたしましたので、その日のうちに大阪へ急使を出しました。何分上り下り二十四日の旅程で、大阪で出發前に一二日手間取ると見ても、あと六七日經たなければ、江戸へは戻りません」\n「それでは、支配人の吉三郎が戻るまで、お前が代つて店の支配をすると思つて差支へはあるまいな」\n「へエー」\n「此處では調べもなるまい。一同の者は番所へ參れ、死骸も運んで來るがよい」\n 苅田孫右衞門が先に立つて、一同の者をツイ眼と鼻の間の、淺草橋番所へ引揚げました。\n 調べの結果、いろ〳〵の事が判つて行きます。主人佐兵衞が二十日前に死んだのは、明かに卒中で、これは越前屋の者が口を揃へて言ふことに疑ひもありません。\n 支配人の吉三郎は丁度三十の働き盛りで、評判の商賣熱心、伯父の代理で大阪へ行つたのは一と月前、ゆく〳〵越前屋の身上はこの甥に讓られるだらうといふ噂もありますが、一方吉三郎と嫁合せる筈で、同じ越前屋に引取つて養つてゐる姪のお辰は、もう一人の甥の金次と氣が合ひ、兎角吉三郎を嫌ふ樣子があり、佐兵衞はそればかり氣にして居りました。\n 吉三郎と金次は、どちらも佐兵衞の甥に相違ありませんが、年上の吉三郎は少し陰氣ですが、思慮分別もあり、人間も堅くて、商賣熱心な上、伯父の佐兵衞にも悉く氣に入つて居りますが、若い甥の金次は、明るくて好い男で、皆んなに可愛がられる代り、道樂氣が拔けないので、伯父の佐兵衞には、甘えたり、叱られたり、まるつ切り子供扱ひにされて居ります。\n「昨夜の事を詳しく申して見るが宜い」\n 苅田孫右衞門は促しました。\n「番頭の清六どんが、手拭を下げてブラリと出たのは、店が閉つてから――戌刻半(九時)時分で御座いました。清六どんは恐ろしい湯好きで、内風呂の立たない晩は、必ず町内の巴風呂へ參ります」\n 金次は皆んなの顏を見乍ら、思ひ出し思ひ出し續けました。\n「――清六どんの出たのは、皆んなよく存じて居ります。それつ切り一刻待つても歸らないので、表戸を閉めさせ、裏口を開けて寢てしまひました」\n「不用心ぢやないか」\n「でも、夜遊びなどする人ではなし、必ず歸ると思ひましたので」\n「それつ切り歸らなかつたのだな」\n「へエ。――昨夜歸らないのを、今朝になつて氣がつきました、店中で騷いでゐると、柳原で殺されてゐるといふお使ひで――」\n「ところで昨夜誰も出た者はないのか」\n「なかつた筈で御座います」\n「裏口を開けたまゝ寢てしまつたのなら、それから出た者があるかも知れないではないか。――風呂から歸りかけてゐる清六を途中から柳原へ誘ひ出して、殺すといふ術もある――」\n 苅田孫右衞門はさすがに氣が付きます。\n「番頭さんは長湯かえ」\n 錢形平次は不意に口を挾みました。\n「いえ早い方で、毎晩入るから。――俺のは烏の行水だ――と申して居りました」\n 金次はぼんやり顏を擧げます。\n「表戸を締めたのは、確かに番頭が出てから一刻も經つた後だらうな」\n「手代の巳之松と丁稚の三吉が締めました。間違ひは御座いません」\n「その間お前は何をしてゐたんだ」\n「帳場で帳合を見て居りました」\n「誰も外へ出たものはないな」\n「へエ」\n 平次は細かく店中の者の不在證明を調べて行くのです。\n「お辰さんは?」\n「奧でお仕事をして居りました」"
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"content": " これも金次の證明ですが、手代、小僧、誰の顏にも、それに反對の色はありません。\n「岩根さん――とか言ひましたね。旦那は?」\n「裏の四疊半――これは私の部屋だ。其處へ潛つて、早寢をして居りましたよ」\n 居候浪人――岩根源左衞門は多勢の後ろから、首だけヒヨロ高い身體を浮かしました、恐ろしく碎けた二本差です。\n「お部屋へ引取つた時刻は?」\n「酉刻半――いや戌刻近かつたかな。小僧の三吉がよく知つてゐるよ」\n その部屋から、そつと拔出せるかどうか、それはいづれ後刻實地を調べる外はありません。\n「ところで、此の煙草入は誰の物だ」\n 平次はズラリと並んだ越前屋の奉公人の鼻先へ、何の技巧もなく、死體の下にあつた印傳の煙草入をズイと出したのです。\n「私の品で御座いますが」\n 金次の答へも、それに劣らず無造作でした。\n「これが死骸の下から出て來たのはどういふわけだ」\n「――」\n 恐ろしい緘默、重つ苦しい空氣の中で、越前屋の奉公人達は、お互の顏をそつと盜み見て居ります。\n\n三\n\n それから二日、越前屋の番頭殺しの下手人は、わけもなく擧がりさうで、一向眼鼻もつかなかつたのです。\n 越前屋は數萬兩の大身代で、その跡取は當然問題になるべき筈ですが、遺言状を預つてゐる筈の番頭清六が殺され、支配人の吉三郎が大阪から歸らなくては、何が何やら見當も付きません。一番疑はれるのは、當然吉三郎と相續爭ひになる甥の金次ですが、金次は亥刻半(十一時)過ぎまで帳場に居たことが明かになり、早い湯の清六がそれ迄風呂に浸つて居る筈はないのですから、これは煙草入の證據があつたに拘らず、辛くも繩目を免れました。尤もその煙草入も半歳程前に支配人の吉三郎から貰つたもので、滅多に持つて歩くやうなザツな品でないといふことも辯解の一つになりました。\n 浪人の岩根源左衞門も、佐兵衞の遠縁に當るさうで、遺言状がなくなれば、何かの利得にありつける一人ですが、當夜自分の部屋で早寢をしたといふに嘘はなく、店中の人の起きて居るうちは、人に姿を見られないやうに、外へ出ることなどは思ひも寄りません。\n 姪のお辰も當然疑ひの圈内に入るべきですが、二十一になる華奢なお辰では、蟲一匹潰すのさへむづかしく、大の男の首をちよん切ることなどは、どう考へても出來ないことです。此上は支配人の吉三郎が歸るのを待つて、第二段の活動に入り、遺言状でも搜し出して、下手人の當りをつける外はないことになりましたが、清六が殺されてから二日目の晩、\n「親分、助けて下さい」\n 向柳原の伯母さんの家にとぐろを卷いて居るガラツ八の八五郎のところへ、思はぬ人間が飛込んで來ました。\n「何だ。植木屋の松さんぢやないか。どうしたといふんだ」\n それは近所に住んでゐる植木屋の松五郎といふ中年男、八五郎とはよく馬の合ふ正直者です。\n「あつしは殺されさうなんで」\n「何を言ふんだ、親の敵でも討たれる覺えがあるのか」\n「冗談ぢやありませんよ」\n「それとも人に狙はれるほど金でも入つたのか」\n「それなら有難てえが。――相變らずのピイピイで」\n「さア判らねえ。女出入りにしちや、松さん少し汚なく老け過ぎたぜ」\n 八五郎は何處までも茶にして居るのです。\n「兎も角、聞いて下さいよ、八五郎親分。一昨日の晩は越前屋の歸り、柳原でいきなり暗闇から白刄で突つかけられ、跣足になつて逃げ出したし、昨夜は家へ押込みが入つて、すんでの事に寢首を掻かれるところだつたし、ツイ先刻は兩國橋の上から、もう少しで大川へ突き落されるところでしたよ。欄干に掴まつたから宜いやうなものの、さうでもなきや、あつしは徳利同樣だ、今頃は土左衞門になつて居るところで。――ブルブルブル」\n 松五郎は首を縮めるのでした。\n「成程そいつは物騷だ。――何か人に狙はれる覺えがあるのかい」\n「ないこともありませんよ」\n「何だい、そいつは?」\n「越前屋の番頭さんが殺された一件で」\n「フーム」\n 八五郎もツイ乘出しました。\n「あつしはね、越前屋の亡くなつた旦那には可愛がられましたよ。お前は少し馬鹿だが正直で氣がおけなくて宜い――つて」\n「成程ね」\n「――で、番頭の清六さんとあつしを呼んで旦那の仰しやるには――私も段々取る年で、何時ぽつくり行かないものでもない。氣になるのは死んだ跡の越前屋の相續だ。口で言つたんぢや世間で信用しない者もあるだらうから、遺言状を作つて、私が死んだ後、甥の吉三郎と金次と、姪のお辰と、それに番頭の清六とお前が立ち會ひの上で見ることにして置き度い――と斯ういふわけで」\n「フーム、フーム」\n「番頭の清六さんとあつしを手傳はせて、三人力を協せて遺言状を隱しましたよ」\n「何處に隱したんだ」\n「そいつは滅多に言へません。番頭さんが、死んだ上は、吉三郎さんが、大阪から歸つた上で、皆んな顏を合せて、あつしから申上げ、遺言状を取出して、その通りにしなきやなりません」\n「お前を殺して、どうしようと言ふのだらう――その遺言状を奪る氣かな」\n「あつしを殺せば、遺言状の隱し場所は誰にも判りやしません。番頭さんは殺されてしまつたし、遺言状は其のまゝ腐つて了ひますよ」\n「腐つて了ふ」\n「へエー」\n「兎も角、そいつは俺一人の思案ぢや埒があかない。ちよいと錢形の親分のところへ行つて見ないか」\n 八五郎はさすがに己を知つて居りました。\n「もう外へ出るのは御免ですよ。此處へ來るんだつて、容易のことぢやなかつたんで、誰か跟けて居る樣子で」\n「氣の弱いことを言ふな」\n「でも、何處から白刄が飛出すか、わかつたものぢやありません」\n「よし〳〵、それぢや俺だけ行つて來る。此家から外へ出ちやならねえよ」\n「出ろつたつて出やしません」\n「大丈夫だな」\n 八五郎は萬事を伯母に任せて、親分の錢形平次の家へ驅けつけました。\n\n四\n\n ガラツ八が平次をつれて引返して來たのは、それからほんの一刻の後。\n「松五郎さんは直ぐ歸つたよ」\n あれほど頼まれた伯母は、けろりとして斯んな事をいふのです。\n「えツ、あんなに言つて置いたのに、何だつて歸つたんだらう」\n 八五郎は甚だ拍子拔けの氣味でした。\n「だつて松さんの伜の――丑松とか言つたね。――あの子が迎へに來たんだよ」\n「仕樣がないなア」\n「松五郎の家といふのは遠くはあるまい。行つて見ようか、八」\n 平次は氣輕にさう言つてくれます。\n 其處から、松五郎の家までは、ほんの五六丁。\n が、二人は行き着く前に、大變な事件にでつくはしてゐたのです。\n「何だえ、八、あの人だかりは?」\n 柳原土手、提灯の行き交ふ中へ、平次とガラツ八は顏を持つて行きました。\n「あ、大變ツ、松さんが」\n それは思ひも寄らぬ事でした。植木屋の松五郎は後ろから胸のあたりを一と突きにされて、土手の上にこと切れ、血だらけの死骸に取縋つて、十三になる伜の丑松は泣いてゐるではありませんか。\n「どうした、丑松」\n それを抱き起すやうに、八五郎。\n「わーん、ちやんが、ちやんが、親分」\n 小伜はもう他愛もありません。\n いろ〳〵なだめて訊くと、八五郎の伯母の家から父親とつれ立つて、此處までやつて來ると、いきなり後ろから追ひ拔いた男が、父親――松五郎の背中から脇差を突つ立て、はツと思ふ間もなく逃げ去つたといふのです。\n 素より人相も判らず、身扮もはつきりしません。\n 盜られたものは一つもなく、急所の重傷に、松五郎は直ぐ息が絶えた樣子ですが、死に際にたつた一と言。\n「ちやんは苦しさうに、石、石、――つて言つたよ。石を拾つて、惡者へ抛れといふ事かと思つたが、眞つ暗でもう何んにも見えなかつたんだ」\n 丑松の言つたのはたつたこれだけ、何の事やら見當もつきません。曲者の姿で、幼い丑松の眼にも氣の付いたのは、草鞋脚絆に足を堅めてゐたことですが、その晩は小雨が降つて、何となく薄寒かつたので、曲者が草鞋脚絆に身を堅めてゐたところで大した不思議ではありません。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " というような事を書いております。私どもは人生を橋渡りに喩えた、アジソンの『ミルザの幻影』と思い較べて、この人生の譬喩を非常に意味ふかく感じます。\n 人生の書物に再版はない 人生は一巻の書物! たしかにそれはほんとうでしょう。私どもがお互いにペンや筆で書いた書物には、「再版」ということがあります。しかし人生の書物には、決して再版ということはありませぬ。有名な戯曲家チェホフもいっています。「人生が二度とくりかえされるものなら、一度は手習い、一度は清書」といっていますが、習字のお稽古だったら、それも可能でしょう。だが、人生は手習いと清書とをわけてやることはできません。手習いがそのまま清書であり、清書がそのまま手習いです。したがってほんとうの書物ではミスプリントがあれば、すなわち誤植があれば、ここが間違っていた、あすこが違っていたというので、後から「正誤表」をつけたり、訂正したりすることができますが、「人生の書物」は、それができないのです。誤植は誤植のまま、誤りはあやまりのままで、永遠に残されてゆくのです。後になって、ああもしておけばよかった、こうもしておけばよかったと後悔しても、すべては皆後の祭りです。ロングフェローが、\n「いたずらに過去を悔やむこと勿れ。甘き未来に望みをかけるな。生きよ、励めよ、この現在に」\n といっているのは、たしかにそれです。かの蓮如上人が、\n「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法のことは急げ急げ」\n といっているのは、たしかに面白い語です。しかし「明日と申すことあるまじく候」というのは、なにも独り仏法にのみ限ったことではないのです。でき得べくんば、私どもが人生の書物を書く場合にも、この心持で、なるべく誤植のないように、後から訂正をしなくてもすむように、書いてゆきたいものです。少なくとも「汗」と「膏」の労働によって、勤労によって、一ページずつを、毎日元気に、朗らかな気持で、書いてゆきたいものです。まことに人生のほんとうの喜び楽しみは、断じて、あくことなき所有慾や物質慾によって充たされるものではありません。人生創造の愉快な進軍ラッパは、放縦なる享楽の生活に打ち勝って、地味な、真面目な「勤労」に従事することによってのみ、高く、そして勇ましく、吹き鳴らされるのではありませんか。\n おもうに、人生を「橋渡り」に、あるいは「一巻の書物」に譬えることも、きわめて巧みな譬喩ではありますが、結局、なんといっても私ども人間の一生は旅行です。生まれ落ちてから、死ぬまでの一生は、一つの旅路です。しかし、その旅は、「名物をくうが無筆の道中記」でよいものでしょうか。私どもは二度とないこの尊い人生を、物見遊山の旅路と心得て、果たしてそれでよいものでしょうか。私どもの人生は、断じて「盥よりたらいに移る五十年」であってはなりません。\n 東海道中膝栗毛のこと 十遍舎一九の書いた『東海道中膝栗毛』という書物をご存じでしょう。弥次郎兵衛、喜多八の旅行ものがたりです。旅の恥はかきすて、浮世は三分五厘と、人生を茶化して渡る、彼らの馬鹿気な行動を読んだ時、全く私どもはふき出さずにはおられません。彼らは、お江戸日本橋をふり出してから、京の都へ落ちつくまで、東海道の五十三次、どの宿でも、どこの宿場でも、ほんとうに失敗のし通しです。人を馬鹿にしたようなあの茶目ぶり、読んで面白いには相違ありませんが、しかしなんだか嬲られているようで、寂しい感じも起こるのです。「とかく浮世は色と慾」といったような人生観が、あまりにも露骨に描かれているので、人間の浅ましさが、まざまざ感じられて、厭な気にもなるのです。道中膝栗毛だからまだよいが、これがもしも私どもの人生の旅路だとしたなら、果たしてどんなものでしょうか。どうせ長くない命だ。勝手に、したい放題なことをして、世を渡るという、そんな不真面目な人生観は、極力排撃せねばならぬのです。いったい私どもの人生は誰でもみんな、ある一つの「使命」を帯びている旅なのです。ひょっこりこの世に生まれ出て、ボンヤリ人生を暮らしてゆくべきではないのです。しかし、世の中には人間の一生道中を、用事を帯びているとも知らず、ただうかうかと暮らしてゆくものが、案外に多いのです。果たしてそれでよいものでしょうか。「うかうかと暮らすようでも瓢箪の、胸のあたりにしめくくりあり」とも申しています。私には私だけの用事があるのです。人間多しといえども、私以外にいま一人の私はいないのです。私は私より偉くもないが、また私よりつまらぬ人間でもないのです。\n 所詮、私は私です。私の用事は、この私が自分でやらねばなりません。私以外に、誰がこの私の仕事をやってくれるものがありましょう? だから、私どもは、なにも他人の仕事を羨む必要はないのです。他人は他人です。私は私の本分を尽くすうちに、満足を見出してゆくべきです。したがって、私たちは、決して自分の使命を他人に誇るべきではありません。靴屋が靴を作り、桶屋が桶を作るように、黙って自分の仕事を、忠実にやってゆけばよいのです。だが、私どもの人生の旅路は、坦々たるアスファルトの鋪道ではありません。山あり、川あり、谷あり、沼ありです。\n\n\n越えなばと思いし峯に来てみればなおゆくさきは山路なりけり\n\n\n です。「人間万事塞翁が馬」です。よいことがあったかと思うと、その蔭にはもう不幸が忍び寄っているのです。落胆の沼に陥り、絶望の城に捕虜になったかと思うと、いつの間にやら、また享楽の都を通る旅人になっているのです。いたずらに悲観することも、無駄なことですが、楽観することも慎まねばなりません。油断と無理とはいつの時代でも禁物です。\n なんでもない、つまらぬことに悲観して、もう、身のおきどころがないなどと、世をはかなみ、命を捨てることは、ほんとうにもったいない話です。行き詰まって、絶体絶命の時こそ「ちょっと待て!」です。「立ち止まって視よ」です。すべからく目を翻してみることです。思いかえすこと、見直すことです。心を転ずることです。「転心の一句」こそ、行詰まりの打開策です。「裸にて生まれてきたになに不足」の一句によって、安田宝丹翁は、更生したといわれています。事業に失敗したあげ句の果て、もう死のうとまで決心した彼は、この一句によって復活しました。そしてとうとう後の宝丹翁とまでなったと聞いています。「転」の一字こそ、まさしく更生の鍵です。禍を転じて福となす(転禍為福)といわれているように、私どもはこのたびの敗戦を契機として、ぜひともこの「転」の一字を十分に噛みしめ、味わい、再建日本のための貴い資糧とせねばならぬと存じます。\n ところで人生を旅路と考え、弥次郎兵衛、喜多八の膝栗毛を思い、東海道五十三次の昔の旅を偲ぶとき、私どもは、ここにあの善財童子の求道譚を思い起こすのです。善財童子は文殊菩薩の指南によって、南方はるかに五十三の善智識を尋ね、ついに法界に証入して、まさしく悟れる仏陀になったのですが、この物語は、かの『華厳経』(第一講をみよ)のほとんど大半を占めている有名な話です。人生の旅路を、菩薩の修業に託して説いてくれた古えの聖者の心持が、尊くありがたく感ぜられるのです。おそらく、東海道の宿場を五十三の数に分けたことは、この善財童子の求道譚に、ヒントを得たものと存じます。\n「林を出て還ってまた林中に入る。便ち是れ娑羅仏廟の東、獅子吼ゆる時芳草緑、象王廻る処落花紅なりし」\n と仏国禅師は、善財の求道の旅を讃嘆しておりますが、いうまでもなく、獅子とは、文殊菩薩のこと、象王とは普賢菩薩のことです。文殊と普賢の二人によって、まさしく青年善財は、ついに悟りの世界に到達したのです。私どもはバンヤンの『天路歴程』や、ダンテの『神曲』に比して、優るとも決して劣らぬ感銘を、この求道物語からうけるのです。私どもは善財童子のように、人生の旅路を、一歩一歩真面目に、真剣に、後悔のないように歩いてゆきたいものであります。\n さて前置きがたいへん長くなりましたが、これからお話しするところは、\n「故に知る。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能く一切の苦を除く、真実にして虚からず」\n という一節であります。\n 不思議な呪 ところで、ここで問題になるのは「呪」ということです。呪とは口偏に兄という字ですが、普通にこの呪という字は「のろい」とか、「のろう」とかいうふうに読まれています。で、「呪」といえば世間では、「のろってやる」とか「うらんでやる」という、たいへん物騒な場合に用いる語のように考えられています。しかしまたこれと同時に、この呪という字は「呪文を唱える」とか「呪禁をする」とかいったように、「まじない」というふうにも解釈されているのです。毎日、新聞の社会記事に目を通しますと、呪禁をやって、とんでもない事をしでかす人の多いことに私どもは呆れるというよりも、むしろ悲しく思うことがあります。怪しげな呪禁や祈祷をして、助かる病人まで殺してみたり、医者の薬を遠ざけて、ますます病気を悪くしてみたり、盛んに迷信や邪信を鼓吹して、愚夫愚婦を惑わしている、いいかげんな呪術師がありますが、ほんとうにこれは羊頭を掲げて狗肉を売るもので、あくまでそれは宗教の名において排撃せねばなりません。世間には「真言秘密の法」などと看板を掲げて、やたらに怪しげな修法をやっているものもありますが、真言の祈祷はそんな浅薄な迷信を煽るようなものでは、断じてないのです。それこそ神聖なる真言の教えを冒涜する、獅子身中の虫といわざるを得ないのです。しかし、いったいこの「呪」という字は、気のせいか、眼でみるとその恰好からしてあまり感じのよくない字です。世間では「呪」というと、ただちに迷信を聯想するほど、とかく敬遠されている語です。けれどもこれが一たび仏教の専門語として、用いられる時には、きわめて深遠な尊い意味をもってくるのです。めんどうなむずかしい学問的な詮索は別として、この「呪」という字は、梵語の曼怛羅という字を翻訳したものです。したがってそれは、真言または陀羅尼などという語と、同様な意味をもっているのです。いうまでもなく、真言とは、「まことの言葉」です。まことの言葉は、神聖にして、犯すべからざる語です。私たち凡夫の語には、うそいつわりが多いが、仏の言葉には、決してうそいつわりはありません。「世間虚仮、唯仏是真」と聖徳太子は仰せられたといいますが、全くその通りで、凡夫の世界はいつわりの多い世界です。私どもは平生よく「うそも方便だ」ナンテ平気で、うそいつわりをいい、ヒドイのは「うそが、方便だ」と考えている人があります。が、凡夫の言葉は、「真言」ではなくて「虚言」です。この虚言すなわちうそ偽りについてこんな話があります。それはかの無窓国師の話です。国師は足利尊氏を発心せしめた有名な人ですが、この無窓国師は「長寿の秘訣」すなわち長生の方法について、こんな事をいっています。\n「人は長生きせんと思えば、嘘をいうべからず。嘘は心をつかいて、少しの事にも心を労せり。人は心気だに労せざれば、命ながき事、疑うべからず」\n といって、さらに、\n「無病第一の利、知足第一の富、善友第一の親、涅槃第一の楽」\n といっておりますが、真理は平凡だといわれるように、たしかにこれは真理のことばです。\n まことに無窓国師のいわれる通り、仏の言葉には、嘘がないから、仏は長寿の人です。不死の人です。いわゆる無限の生命を保てる、無量寿であるわけです。次に陀羅尼という語ですが、これもまた梵語で、翻訳すれば「惣持」、総べてを持つということで、あの鶴見の惣持寺の惣持です。で、陀羅尼とは、つまりあらゆる経典のエッセンスで、一字に無量の義を総べ、一切の功徳をことごとく持っているという意味です。世間の売薬に「陀羅助」というにがい薬があります。これはたいへん古い薬で、私ども子供のころ、腹痛の時には、よくこの薬を服まされたものですが、これはくわしくはダラニスケ(陀羅尼助)で、この薬は万病によく利くという所から、梵語の陀羅尼を、そのままそっくり「薬の名」としたのだろうと思います。ただし、陀羅尼助の助が、どんな意味であるか、私にはわかりませんが、おそらくこの薬をのめば助かる、という意味でつけたものだろうと思います。要するに、厳密にいえばマントラとダラニとは、多少意味が異なっていますが、結局は、真言も陀羅尼も呪ということも、だいたい同じでありまして、神聖なる仏の言葉、その言葉の中には、実に無量の功徳が含まれているというのであります。仏教特に真言密教では、非常にこの呪を尊重していますが、いったい真言宗という宗旨は、法身の真言に基礎をおいているので、日本の密教のことを、真言宗というのです。弘法大師は、「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す」(秘鍵)といっておられますが、これによって呪の意味をご理解願いたいと存じます。ところで、この「呪」についてこんな話があります。それはちょっと聞くと、いかにも、陳腐な話ですが、味わってみるとなかなかふかい味のある話です。\n 阿弥陀さまは留守 ある日のことです。有名な白隠禅師がお寺で提唱していたときのこと、その聴衆の中に、一人の念仏信者のお爺さんがありました。禅師の話を聞きつつ、しきりに小声で、お念仏を唱えていました。禅師は提唱を終わってから、その老人を自分の居間に呼んで、試みに念仏の功徳を尋ねてみたのです。"
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"role": "assistant",
"content": "「いったいお念仏はなんの呪いになるか」\n と問うたのです。その時に老人の答えが面白いのです。\n「禅師、これは凡夫が如来になる呪いです」\n というのです。そこで白隠は、\n「その呪いはいったい誰が作られたか、阿弥陀さまはどこにおられる仏さまか。いまでも阿弥陀さまは極楽にござるかの」\n といって、いろいろと念仏信者の老人を試したのです。すると老人の答えが実に振るっているのです。\n「禅師さま、阿弥陀さまは、いまお留守です」\n と、こういったのです。阿弥陀さまはいま極楽にいないという答えです。留守だという不思議な答えを聞いた白隠は、さらに、\n「しからばどこへ行ってござるか」\n と追及しました。その時老人は、\n「衆生済度のために、諸国を行脚せられています」\n と答えました。そこで禅師は、\n「では今ごろはどこまで来てござるか」\n と尋ねた時に、その老人は静かにこういいました。\n「禅師さま、阿弥陀さまは、ただ今ここにおいでです」\n といって、老人はおもむろに自分の胸に手をあてたのでした。これにはさすがの白隠もスッカリ感心したという話が伝わっています。果たしてこれが、事実であったかどうか、詮索の余地もありましょうが、自力教の極端である禅宗と、他力教の極端である真宗とは、たといその説明方法においてこそ、異なりはあっても、結局はいずれも大乗仏教である以上、\n「仏、我れにあり」\n という安心においては、なんの異なりもないのです。\n\n\n南無といえば阿弥陀来にけり一つ身をわれとやいわん仏とやいわん\n\n\n です。念仏によるか、坐禅によるか、信心によるか、公案(坐禅)によるか、その行く道程は違っていても、到着すべきゴールは一つです。\n\n\n宗論はどちら負けても釈迦の恥\n\n\n と川柳子も諷刺しておりますが、いたずらに私どもは、自力だ、他力だ、などという「宗論」の諍いに、貴重な時間を浪費せずして、どこまでも自分に縁のある教えによって、その教えのままに、真剣に、その教えを実践すべきだと思います。目ざす理想の天地は、結局般若の世界です。般若への道には、むろんいろいろありますが、目的地は結局一つです。「般若は三世の諸仏を産み、三世の諸仏は般若を説く」と、古人はいっておりますが、「仏に成る」という仏教の理想は、つまり般若の世界に到達することです。ところで、この『心経』の本文には、「是れ大神呪、是れ大明呪、是れ無上呪、是れ無等等呪」といって、四種の「呪」が挙げてありますが、要するに、これは般若波羅蜜多は、最も勝れた仏の真言だ、ということをいったものです。つまりこの般若波羅蜜多が、そのまま陀羅尼なのです。真言なのです。呪なのです。で、この般若の功徳を四通りに説明し、讃嘆したのが、ここにあるこの四種の呪です。さてまず第一に、「是れ大神呪なり」とは、神とは霊妙不可思議という意味ですから、これ大神呪なりということは、われら人間の浅薄な知識では、容易に測り知ることのできぬ、霊妙不可思議なる仏のことばだということです。次に「是れ大明呪なり」とは、明とは、光明の明ですから、この般若の真言こそ永遠に光り輝く、仏の神聖なることばだということです。次に「是れ無上呪なり」とは、この上もない最上の呪文だということです。次に「是れ無等等呪なり」とは、とうてい何物にも比較することのできない、勝れた呪文だということです。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": "「卑怯なっ、何故立たぬ」\n 百城は、大人気なく、女一人ぐらいを対手に、立ちたくなかったが、七瀬は、立ちもしない百城に、女と侮られていることを感じると、だんだん憎しみを深くしながら\n(娘を欺し、自分を欺して――顔に似ぬ、図々しい――)\n と――そう感じて来ると、気が苛立って来た。\n「立てっ」\n 七瀬が、こう叫んだ時、廊下に足音がして、女中が近づいて来た。\n「今、入ってはならぬ」\n 百城は、この場を人に見せて、邸を騒がしたくはなかった。それから、綱手への志としても、七瀬を殺したくなかった。押えて、よく訳をいえば、判ると、考えていた。\n「娘の敵」\n 七瀬は、近づいたが、踏み込みもしないで、斬りつけた。百城は、自分の好意を無にして、女中の耳へ十分入るように、そんなことを叫んだ七瀬へ、怒りが湧いてきた。躱して立上った。そして、鞘ぐるみの脇差を突き出して\n「この家の主人に聞えたなら、縄目の恥を見ますぞ。はしたない」\n 廊下から\n「百城様」\n と、女中が呼んだ。その途端\n「えいっ」\n 七瀬が、再び斬りつけた。百城が、払った。かんと、強い響きがして、七瀬の左手が、刀の柄から離れた。七瀬は、蒼白になって、ヒステリカルな眼を光らせて\n「おのれ――よくも、娘を――」\n 七瀬は、二度の失敗に、取乱しかけてきた。及ばぬ腕だと、知ると、一太刀も斬らないで、自殺しなくてはならぬ口惜しさに、脣も、身体も、拳も、脚も、わなわな顫え出してきた。廊下に人の走って来る音がした。と同時に、七瀬は、両手に力を込めて、斬りつけた。躱した。畳みかけた。躱した。百城は、足も動かさずに、巧みに、上半身を躱していたが、七瀬は、足許を乱して、百城の躱す巧みさと、自分の刀の短さとに、苛立ちながら、身体を浮かして、次の刀を、手いっぱいに――腰までも延し切って、斬りつけた途端――さっと、百城の身体が、沈むと、右手の鞘が、七瀬の両腕の下を、払い上げた。襖が開いて\n「何事じゃ」\n 四ツ本が、刀を持って入って来た。そして\n「無礼者っ」\n と、叫んだ。七瀬は、腕を打たれて刀を取落そうとして、刀の方へ気をとられた隙、百城は、左手で、七瀬の肱を掴んだ。七瀬は、もがきながら\n「放せっ」\n と、髪を乱して叫んだ。\n「この、たわけ者がっ」\n 四ツ本が、七瀬の腰を蹴ると、同時に、肩を力任せに突飛ばした。七瀬は、裾を乱して、倒れかけたが――百城の手が、肱から離れた刹那、力任せに、刀を振廻した。その刀尖が、四ツ本の頬から鼻へかけて掠めた。すっと、薄赤い線が、滲み出ると、忽ち、血の粒が、湧き上って来た。それを、ちらっと見ながら、七瀬は、倒れまいと、片膝をついたが、それでも支えきれずに、倒れかけて、畳へ左手をついて、転ぶのを防ぎながら、四ツ本の顔を見ると狂人のように\n「覚えたか」\n と、四ツ本を睨んだ。四ツ本は、脣を噛むと同時に、抜き討ちに、大きく一足踏み込んで、斬り降ろした。七瀬は、首をすくめ、眼を閉じて、右手の刀で、受けようとした。百城が\n「待った」\n と、叫んで、手を出して、四ツ本の腕を押えたが、遅かった。刀は、七瀬の腋の下から、胸へかけて、打込んでいた。\n「ううっ、わっ」\n と、叫ぶと、七瀬は、刀を落して、両手を広げたが、すぐ、胸のところへ縮めて、顫わせながら、転がってしまった。\n\n鷹野変\n\n 薄く、低く、土煙を揚げて、片側並木の、田圃道から、村の中へ、三十人余りの、乗馬と、徒歩の人々が、入って来た。\n 子供が、家から走って出て、周章てて引込むし、百姓の女は、赤ん坊を背負って、軒下へ立つし、鶏は、馬の脚下から、飛び立って、駈け込んだ。\n(久光ではなかろうか)\n と、小太郎は、思った。久しく杜絶えていた鷹狩を、久光が、将軍から、鷹匠をかりて、試みるということを聞いていたし、この辺の近くに、お鷹野のあることも、知っていた。\n 先に立つ二人の徒歩のすぐ後に、拳へ、鷹を止めた二人の鷹匠が、裏金の笠に、小紋の鷹野支度をして、馬上で、つづいていた。そして、その後方に、久光が、同じ姿をして、徒歩士を、左右――茅葺の屋根、軒下に釣るした、いろいろのもの、道傍へ、軒下へ寄って、小さくなっている百姓などを、微笑で眺めつづけていた。\n(久光であろう、きっと――)\n と、小太郎が、百姓家の軒下から、家の横へ入って、近づいて来る人々の顔を、はっきり見ようとすると、先頭の一人の士が、急に走り出して来て、右手へ入ってしまった。\n(御場段切れだ)\n 小太郎は、往来へ一足出て、士の入ったところを見て\n(そうだ)\n 一行は、寺の前で立止まった。久光のほか、悉く馬から降りて、二十人余りの者が、一列に立ち並んだ。胡牀を持っている者。医者らしい坊主頭。槍持。挟箱――そんなものも見えていた。人々が、頭を下げると、久光が、馬をすすめた。二人の鷹匠と、三人の近侍と、それだけになって、近づいて来た。小太郎は、又、隠れた。鷹野へは、多人数で行けぬから、近くへ、供を残しておいて、小人数で行くのが、御場段切れの、法であった。\n(久光を討つなら、今だ)\n 小太郎は、少し、逆上したように、大きく息をついて、馬の足音の近づくのへ、神経を立てていた。\n 朱総と、紫総とを、脚につけた鷹を据えて、鷹匠が、現れると、すぐ、馬が見えて、その金と、朱との、豪華な鞍の上に、久光の、横顔が笑っていた。\n(矢張り、そうだ――討つにしても、討たんにしても――いいや、隙があったなら、討つ方がよい――いいや、わしの敵は、牧だ。牧を討って、父の怨みを晴らすまで、なまじのことをしてはならぬ)\n 小太郎は、腕組をして、考えていた。\n(とにかく、お鷹野のところまで、蹤けて行って――)\n 小太郎は、編笠の中から、寺の方を見て、人影の無いのを見定めると、遥かに行く、久光の馬を追って、歩きだした。\n(いいや、私の怨みを晴らすよりも、元兇を除くことが、大切ではないか? そうだ)\n 小太郎は、心の中で、頷いた。だが、牧のことを考える時のように、憤りが、口惜しさが、湧き立って来なかった。\n 牧を討つ、ということは、自分の心の中から押滲んで来る力であったが、久光を討つということは、人から、命ぜられてすることのように思えた。\n(矢張り、牧を先に――久光を、後に)\n そう考えたが、お鷹野の方へは、歩いて行っていた。一人の百姓風の男が、腕組をし、頬冠りをして、小太郎の前を、歩いていた。\n(見つかったなら、疑われるかもしれん――近寄らない方がいい)\n そうも、思ったし\n(顔見知りの者は居ないであろう)\n とも、思った。いつの間にか、久光の姿は、無くなっていた。\n\n 街道の右手に、雑木林の点在している広い原があった。黒い森と、幾段にもなった草原とが、高くなり、低くなりして、遥かまでつづいていた。\n 小太郎の前を歩いていた男が、林の中へ入って行って、草の中へしゃがんだ。そして、ちらっと、小太郎の方を見た。\n 小太郎は、腕組をして、往来に立ったまま、小さく、黒く、動いて行く、久光の人数を、じっと眺めていた。村の若者、子供などが、口々に語りながら、原へ入る畝道のところまで来て\n「あいつ、お鷹野へ、入っとる」\n と、草原の男へいった。所々に、立札が立っていて、原へ入るのを、禁じてあった。男は、子供の言葉が聞えたらしいが、腰から、煙草入を出して、煙管を口にくわえた。小太郎は、子供達が\n「あんな遠くへ行っちゃ、見えねえではねえか」\n とか\n「詰んないから、戻ろうよ」\n とか、いいつつ、じっと、鷹狩の方を眺めている子供の側に立っていたが、男の顔を見ると\n(見覚えのある――)\n と、思った。そして、男の口から出る煙に包まれている眼を、口を、じっと見つめていたが一\n(広岡だ)\n 胸が、突かれた。\n(久光を狙っているのだ。きっと――)\n 小太郎は、編笠をきたまま、畝を越えて、草を踏んで、徐かに、男の方へ近づいた。男は、ゆっくりと、だが、手際よく、煙管を、腰へ差して、立上った。\n「仙波じゃ」\n 小太郎は、低くいった。\n「そうらしいと思うた。人目に立つ」\n と、広岡は、口早にいって、立木の多い、少し、村の方へ引返した窪地のところへ、歩いて行った。小太郎も、村人を警戒しながら、素知らぬ振りをして、ついて行った。子供も、若者も、ちりぢりになって――若者は、畠へ、子供は、走って、遊んでいた。\n「討つ所存か」\n 小太郎は、編笠をとった。\n「その疵は?」"
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"role": "assistant",
"content": " 広岡は、生々しい、小太郎の頸の疵を見ていった。\n「叡山で、牧を襲って」\n「そうだってのう。大した働きをしたと、聞いたが――」\n 広岡は、こういって、久光の方を、ちらっと、振向いてから\n「益満が、引受けんで、わしへ廻って来たが、究竟の機じゃ」\n「うむ」\n「何うして、貴公は、また」\n 広岡は、一人の同志の来たことに、嬉しくもあったが\n(もし、小太郎の方が、討ったなら、自分の立場が無くなる)\n とも、考えて、こう聞いた。\n「つい、ふらふらと――そこで、見たものじゃから」\n「討つか?」\n「さあ――」\n 久光の一行は、鷹を放ったらしく、小さい、黒点が、一直線に、昇って行った。その昇って行く下のところに、白い点が、急速度に閃いていた。黒点が、昇りつめたらしく、ぴたっと止まると、その瞬間、流星の落ちるように、その白い点の方角へ、落ちかかった。それは、正確そのもののように――そして、白点が、上下に、左右に、あわただしく閃く、と見る瞬間、黒と白とは一つになって、一直線に落下して、忽ち、見えなくなってしまった。\n\n 久光の人数が、原の中を、二人の方へ、動き出すと同時に、二人は、草原を出て、村の方へ歩き出した。村への入口に、汚い、小さい地蔵堂があった。破れた扉に、赤い、白い涎かけが、いくつも縛りつけてあったし、堂の中の石地蔵は頭の上にまで、それを乗せていた。\n(討つか――討つまいか)\n 小太郎には、未だ、決心が、つかなかった。だが、広岡が\n「ここより外にはない。ここなら、警固方から見えぬ。あちらからも、判らぬ」\n 二人は、地蔵堂の横に立った。そこは、久光からは、堂の蔭になっていたし、警固の者のいる寺からは、百姓家の蔭に――そうして、堂の前は、雑木の林であった。広岡が\n「初太刀は、某に――仕損じても、仕損じんでも」\n 小太郎は、頷いた。広岡は、往来を覗いて見て\n「もう、出て来る頃じゃに」\n と、呟いた。そして、懐中している脇差の鯉口をゆるめて、目釘へ、唾をつけていた。小太郎は\n(この男を、犬死さす訳にも行かぬ――いいや、五人に、二人としても、久光と、鷹匠は物の数ではない。さすれば、三人に二人――十中の九まで、仕損じはない――久光は討てる。易々として討てるなら、討って――この場を逃げて、牧をも討つ――そうだ、何う逃げるかが考えるべきところじゃ。要は、逃路、逃げる方法――)\n 小太郎が、じっと、地上を眺めていると\n「出た」\n と、広岡がいった。小太郎は、一足引いた。久光の一行が、今、二人の立っている畝道から出て来て、近づいて来るのが、頭の中へ、鮮かに描き出された。\n 広岡は、ぴたりと、堂の板へ、右手をつけて、その手に、一尺八寸の大脇差を抜いて、持っていた。小太郎は、片膝を、地につけて、広岡の脚下から、頭を下げて、丁度、堂の縁側の下から、往来へ現れて来る、久光の一行の脚を見るように、構えていた。\n「未だか」\n 広岡が聞いた。\n「うむ」\n 二人は、少し、顔色を蒼くしていた。\n「見えた――松の前――もう二三間」\n そこまでいって、小太郎は立上った。と同時に、鉄蹄の響き、人の足音がして――その瞬間、広岡は、往来へ閃き出ていた。そして\n「御家のためにっ」\n と、叫んだ。\n 久光は、馬を乗下げようと、馬上で、身体を反らしていた。一人の鷹匠は、馬にぶっつかりながら、周章てて馬の横へ廻った。一人の近侍は、鞘ぐるみ、刀を抜いて――馬上の久光へ斬りかかろうと、片手上段で、飛びかかった広岡の刀を払った。\n 小太郎は、久光の顔に、狼狽と、恐怖との歪みを見た。そして、供の三人が\n「曲者っ、曲者っ」\n と、叫んだり、一人の鷹匠が\n「大変だっ」\n と、叫びながら、走り出したのを見ると\n(斬られるな)\n と、思った。だが、三人の近侍は、馬側へ集まって、一人は、素手で\n「広岡っ。たわけっ、たわけっ」\n と、狂的に絶叫しながら、広岡へ組みつこうとした。広岡は、初太刀を払われて、二の太刀を――片手突きに突いた。\n「誰か」\n と、久光は、絶叫して、鞍の上で、身体を反らせた。馬が、前足をあがいた。久光は、落ちまいと、手綱を引きしめていたが、突いた刀が、帯へ、刀尖が当ると同時に、ぐらっと、大きく揺れた。\n\n 久光は、蒼白になっていた。広岡の刀の、反対側へ飛び降りて、馬を楯にするという寸法よりも、馬を走らせて、逃げようとしていたが、広岡の刀を避けて、身体を反らしたり、曲げたりしたため、馬が走らなかった。\n 広岡は、一人の近侍を組みつかせたまま、素早く、三度目の刀を、振下ろしたが、それは、一人の鞘ぐるみの刀で、受留められてしまった。\n「仙波っ」\n 広岡は、捻じ倒そうとする近侍の脚がらみに、よろめきながら、こう叫んだ。一人が、広岡の後方から、組みついて、右腕を掴んだ。\n「仙波っ」\n 広岡が、又、叫んだ。小太郎は、ほんの瞬間に起った刃の閃き、人々の格闘を、自分に関係の無い人々が起したように、眺めていたが、広岡が、つづけざまに、来援を求めた叫びを聞くと\n「おお」\n と、答えた。人々は、夢中に、組み合っていたが、久光は、小太郎の返事を聞くと同時に、ちらっと、小太郎を見た。その眼と、小太郎の眼とが、ぶつかった。久光の眼の表情は、怒りと、驚きと、恐れとの混じたものであった。小太郎は、それを見ると同時に、編笠を捨てて、お叩頭をした。\n(討つべき人ではない)\n と、感じた。それは、武士としての、本能的な、主君に対する感情であった。\n「仙波っ」\n 右手の、自由を失った広岡は、三人に組みつかれて、脚をよろめかし、手を振上げ、身体をもがいて、闘っていた。\n(不覚だ。ああいう、斬込み方をするなど、何故、近侍を一人倒しておいてから、斬りつけぬ?)\n 小太郎は、不用意な襲い方をして、すぐ、自分に、援けを叫んでいる広岡に、憤りたくなった。\n 久光は、手綱を捌いて、鞍へ、落ちつくと共に\n「手に余らば、斬れ」\n と、云って、馬を走らせて行った。広岡は、それを見もしないで\n「何をっ」\n と、叫んだ――そして、その瞬間、四人は、一塊になって、よろよろと、二三尺よろめくと、転んでしまった。広岡は、上からも、下からも、抱き締められて、顔も、身体も見えなかった。\n(広岡を助けて逃してやらなくては)\n 小太郎が、そう思って、一足踏み出した時、多勢の叫び声と、足音とが、聞えて来た。\n(見つかってはいけない。犬死だ)\n と、思った。素早く、編笠を拾い上げて、かぶろうとすると、人々の身体の下、脚の間から、広岡の、乱れた髪、歪んだ顔が見えた。広岡は、ちらっと、小太郎を見て\n「卑怯者っ」\n と、叫んだ。\n「いいや――」\n と、小太郎も、叫んだが、すぐ、堂の後方へ走って入った。\n「卑怯者っ、卑法者っ」\n と、つづけざまに、絶叫した。\n と、同時に、一人の侍が\n「何か、縛るもの――何をっ、何をっ」\n と、叫んでいるのが、聞えた。\n(捕えられた)\n 小太郎は、そう思いながら、堂の裏の林の中へ、走り込んでいた。\n\n「師匠、一寸、顔を貸してもらいたいが」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一九一〇年八月におこった幸徳秋水たちのいわゆる「大逆事件」が、高まる労働運動を封殺して絶対主義権力を守るために利用された大仕掛な捏造事件であったことは、今日すべての人の前に明らかである。\n しかしこの事件の真相をつきとめることさえも許されなかった当時の情勢の中で、「大逆事件」は、片山潜、堺利彦、西川光二郎、山口孤剣によって大衆化した社会主義運動を地下に追いやったばかりでなく、フランスから帰って間もなかった永井荷風の作家的生涯を戯作者の低さに追放し、『白樺』を中心として起った日本の人道主義文学運動を、社会的推進力にかけた超階級的な世界天才主義に枠づける動因となった。そして一方では、自然主義文学運動の日本的な変種としての「私小説」が志賀直哉によって現代文学の主流とされるまでに完成されてゆくことにもなった。\n 平塚らいてう、尾竹紅吉などによっておこされた青鞜社の運動がその本質はブルジョア婦人解放に限界されていたにもかかわらず、当時の進歩的な評論家生田長江、馬場孤蝶、阿部次郎、高村光太郎、中沢臨川、内田魯庵などによって支持され、社会的に大きい波紋を描いたのも、政治・労働運動に民衆の発展する意志を表現することを得なくなった進歩的インテリゲンチャの一動向であった。\n 雑誌『青鞜』は、「元始、女性は太陽であった」その女性の天才を「心霊上の自由」によって発揮させるというらいてうの理想によって発刊された。『青鞜』には、小金井喜美子、長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子から、まだ少女であった神近市子、山川菊栄、岡本かの子その他を網羅して瀬沼夏葉はチェホフの「桜の園」の翻訳を掲載した。野上彌生子が「ソーニャ・コヴァレフスカヤ」の伝記を翻訳してのせたのもこの雑誌であった。\n「新しい女」というよび方がうまれた。たばこをのむこと、酒を飲むこと、吉原へ行ってみることなどさえも婦人解放の表現であるとされた時代であった。イプセン、エレン・ケイの婦人解放思想がうけ入れられたが、やがて奥村博史と結婚したらいてうの生活が家庭の平和をもとめて『青鞜』の仕事から分離したことと、その後をひきついだ伊藤野枝がアナーキスト大杉栄とむすばれて、神近市子との間に大きい生活破綻をおこしたことなどから、『青鞜』は歴史の波間に没した。\n 同時代にあらわれた『白樺』のヒューマニストたちが、『青鞜』のグループと終始或る隔りをもちつづけたことは、注目される。学習院の上流青年を中心とした『白樺』の人々のこの時代の作品には彼らの女性交渉の二つの面がみいだされる。彼らは一方では同じ階級の令嬢たちに、自分たちの思想を理解し、献身してそれを支持するヒューマニズムのめざめを期待すると同時に、他の面では、封建的な吉原での遊興を拒まず、売笑婦にふれ、召使と若様の性的交渉をもった。白樺の人々のヒューマニズムの半面につよく存在している上流男子の男尊と、われ知らずの専制の習慣は、彼らの日常になれた女のしつけやものいいを野蛮にけちらして、彼女たちが生れて育って来たそれぞれの地方のなまりがひびく声々で、婦人解放を叫び行動する『青鞜』の女性たちに、へきえきしたであろうことは今日ユーモアをもって想像するにかたくない。\n「元始、女性は太陽であった」といったらいてうの落日のはやさや、晶子の情熱の燠の姿に身をもってあらがうように、田村俊子の作品がうちだされた。露英という号をもって露伴に師事していた田村俊子は、やがて露伴の文学的垣をやぶって一九〇九年大阪毎日新聞の懸賞に「あきらめ」という長篇で当選した。三年のちに発表された短篇「魔」「誓言」「女作者」「木乃伊の口紅」「炮烙の刑」などは『青鞜』によった人々が、それぞれ断片的な表現で主張していた女の自我を、愛欲の面で奔放に描き出した作品であった。次第に生活の力も創作の力も失ってきた夫、田村松魚との生活のもつれのなかで、「あきらめ」がかかれた。はじめは松魚のはげましやおどしによって書いた俊子は、この仕事ののち、「自分の力を自力でみつけて動き出した。」一作毎に俊子の文学的な地位と経済の独立が確立した。そして彼女は自分を支配するものは自分自身以外にはないという自覚にたつと同時に、その生活と文学との官能の場面でも男の支配から脱しようとする女の自我を描き出した。\n 田村俊子の色彩の濃い、熱度の高い男女の世界は、女の自我をテーマとして貫いている点では、当時流行のダヌンチオの小説にも似た強烈さがあった。けれどもその一面には、彼女が浅草の札差の家に生い立ったという特別な雰囲気から、江戸末期の人情本めいた情痴と頽廃とがつきまとった。自分が愛したい者を愛することは「私の意志」であり、それは決して悪いことをしているのではない。愛のさめた良人が強制する良人の権利に屈従して謝るよりは、愛する男を愛し通して「炮烙の刑」をうけようというはげしい女の情熱をもえたたせた。\n『みだれ髪』の境地からすすんで、愛における女の自我の主張にすすんだことは、俊子の文学の近代的な要素とみることができる。しかしこまかに彼女の作品の世界に入ってみたとき、彼女が男を愛するといっている感情の内容や、それは私の意志だといっている言葉の実体が、意外にもおぼつかない、一人のみこみであったことが見出される。私の意志によって男を愛してゆくにしても、そのような男を選ぶ俊子の選択のよりどころはどこにおかれたのだろう。俊子は作中の女主人公に云わせている。「自分の紅総のように乱れる時々の感情をその上にも綾してくれるなつかしい男の心」にこそひかれると。「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることはできませんよ。あれも男の技術ですもの」と。\n このような角度で男女が結ばれてゆくなかに、どんな新しいヒューマニティとモラルがあるというのだろう。経済能力が女にあるというだけで、男と女の立場が逆さになっただけのことだとは思われなかったのだろうか。田村俊子は、そういう省察によって、自分の文学をわずらわされることがなかったようにみえる。それがどのように濃厚な雰囲気をもっていようとも、社会生活から遮断された愛欲の世界の単調さが、生活と文学とを消耗させないではおかなかった。彼女の自我は、自我を鞭撻してマンネリズムとなった境地から追いたて、新しい道に前進させてゆくだけの骨格をもっていなかった。俊子の文学は近松秋江の「舞鶴心中」幹彦の祇園ものにまじって情話「小さん金五郎」などを書くようになった。当時ジャーナリズムには赤木桁平が「遊蕩文学」となづけて排撃した情痴の文学が流行していた。俊子の人及び作家としての精神の中には情痴の女作者として腐りきるにはたえないものがあった。彼女は一九一八年頃愛人を追ってアメリカへ去った。\n 俊子が、その未熟であった社会感覚から、あやまって女の自我の発揮であると強調した男に対する積極性は、ほとんど全く同じくりかえしで、のちに三宅やす子の上にあらわれた。三宅恒方博士の死後彼女にとってせまくるしかった家庭生活から解放されたやす子は、花圃を長老とする三宅家の監視を反撥して「未亡人論」を書いた。良人に死なれた婦人にむけられてきた封建的な偏見に対して、率直に闘いを宣言した。この一冊によってやす子は啓蒙的な婦人評論家、作家として成功した。四十歳をいくらもすぎないで生涯を終ったやす子が、晩年にある青年を愛して批評がおこったとき、「偉い男がおしゃくを可愛がるように、女が男を可愛がるのが何故悪いだろう」という意味をいった。\n 俊子とやす子と、二人の言葉は、あまり女に自由のない日本の社会の悲劇を語っている。同時に、資本主義社会の矛盾の中で「恋愛の自由」が畸型的なものにならざるをえない悲劇をも語っている。"
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"role": "assistant",
"content": " 一葉以来、晶子、らいてう、俊子と、これらの婦人たちは、なんと勇敢にとび立とうとしてきただろう。そして、なんと打ち勝ちがたい力で、その翼をおられてきただろう。\n 夏目漱石は、婦人に対して辛辣な文学者であった。「吾輩は猫である」の中に女の度しがたい非条理性が戯画的にとりあげられて以来、「明暗」にいたるまで、彼のリアリスティックな作品に登場する現実的な女性は、男にとって不可解な「我」を内心にひそめて、何かというと小細工をもてあそぶ存在としてみられている。ところが、漱石は「虞美人草」「琴のそら音」などのロマンティックな作品では、その時代の現実には見出せなかっただろうと思われるように自意識の強い、教養があることさえ、そのひとをいやみにしているような若い女性を仮想している。もしそれらの女主人公を現実のひとがわが身の上に模したとすれば、それは、らいてうでもあろうかと思われる人物である。\n 漱石はイギリス文学――特にジョージ・メレディスなどの影響によって、男と女の葛藤の核心に自意識を発見しながら、もう一歩をすすめて日本の家庭生活において自我がどうして不自然なしこりとなり、非条理な発現をするようになってきているかという分析にまですすまなかった。漱石の生活と文学には、森鴎外の場合とちがった率直さで、封建的なものと、近代的なものとがからまりあってあらわれている。彼はイギリスの文学の中に婦人作家のジョージ・エリオットが評価されていることを認めることはできた。けれども田村俊子などが活動しはじめたについて意見を求められたときの彼の答えは、時代的でありまた性格的であった。漱石は、教育や職業上の技能がだんだん男女ひとしいものになってくるから、女らしいとか女らしくないとかいうことで小説の価値が決定されるものではないという正当な見解を語っている。しかし、それにつづけて次のようにも語っている。「作者と作品とをわけて、どうもこういうはなはだしいことを書くような女は嫁にすることは困るということはまた別で、作品の上にはいいえられないが作者の上にはいっても差支えはない」と。\n このようにして漱石が矛盾に足をとられ、過去の勇敢な婦人作家たちが自然発生的な自身の生活と文学の限界で解決することのできなかった婦人の社会的悪環境の問題として、有島武郎は「或る女」の女主人公葉子をとらえるまで前進した。しかし「或る女」において女主人公葉子は自分を有閑階級の腐敗に寄生する苦悩から救い出す社会的モメントを最後までとらえることができなかった。葉子とともに、作者有島武郎も自分自身生活と文学とを発展的に良心的インテリゲンチャとして成長させるための飛躍をなし得なかった。\n 中條(宮本)百合子は、一九一六年「貧しき人々の群」によって困難な婦人作家としての出発をした。少女の年齢にいたこの作者のおさなさはその作品に散見しているけれども、東北の寒村とそこに営まれている貧しい小作農民の生活についての観察、その村の地主の孫として経験された生活への省察などは、素朴ななりにリアルな生活感につらぬかれていた。婦人作家の作品といえば男女のいきさつのものがたりに限られていたような当時、自然へのみずみずしい感応とある程度の社会性をもった取材との組合わされた「貧しき人々の群」は人道主義的なテーマとともに一つの新しい出現を意味した。野上彌生子・中條百合子などの生活感情と文学とは硯友社文学の影響から全くときはなされたものであった。\n\n 渦潮(一九一八―一九三二年)\n\n 一九一四年八月にはじめられた第一次ヨーロッパ大戦は一九一七年十一月に終った。この大戦の結果、世界にはじめてプロレタリアートの政権が樹立された。帝制ロシアはソヴェト同盟となった。ドイツ、オーストリー、ハンガリーなどの専制君主制は崩壊した。この世界史的な激動は日本にもデモクラシーの声をよびさまし、労働運動と無産階級の文化・文学運動をめざますこととなった。\n 一九二三年九月の関東大震災は、この天災を大衆運動の抑圧のために利用した権力によって、社会主義者、朝鮮労働者の虐殺がおこなわれ『青鞜』に活躍した伊藤野枝は、大杉栄とともに憲兵に殺された。けれども、『種蒔く人』(一九二一年)によって芽ばえた無産階級の芸術運動は、その後、一歩一歩とおしすすめられてゆく社会主義理論の展開によって、経済・政治・文化の創造における労働者階級の任務と、その勝利の道があきらかにされ、アナーキズムとコムミュニズムとの区別もはっきりして、一九二八年には雑誌『戦旗』が発刊された。そして蔵原惟人のプロレタリア・リアリズムへの道が、プロレタリア芸術の創作方法の基本的な方向をしめすものとなった。\n『戦旗』には徳永直「太陽のない街」小林多喜二「一九二八年三月十五日」中野重治「鉄の話」そのほか、プロレタリア文学の代表的作品がのりはじめた。「キャラメル工場から」という作品で、窪川(佐多)稲子がプロレタリア婦人作家として誕生したのもこのころであった。赤いマントをきて、キャラメル工場へ通う十三歳の少女をかこむ都会の下層小市民の不安定な生活と、幼年労働の現実が、リアリスティックで柔軟な筆致で追究されているこの作品は、当時のプロレタリア文学に一つの新しい、しんみりとした局面をひらいた。つづいて、稲子は、「お目見得」「レストラン・洛陽」などにおいて勤労する少女、女性の生活を描いた。労働者階級の意識のたかまりと組織の成立とともにプロレタリア文学運動が進出するにつれて、彼女の創作は「四・一六の朝」「幹部女工の涙」(一九三〇)「別れ」(一九三一)「何を為すべきか」(一九三一)「進路」(一九三三)「押し流さる」(一九三四)と成長して行った。\n 日本プロレタリア作家同盟には、窪川稲子のほか松田解子・平林英子、詩人の北山雅子(佐藤さち子)・一田アキ・木村好子・翻訳家松井圭子、一九二七年に「伸子」を完結し、その後ソヴェト同盟へ赴いて一九三一年からプロレタリア文学運動に参加するようになった中條百合子。ロシア文学専攻の湯浅芳子。まだ作品をもってあらわれていなかったが、『戦旗』のかげの力として大きい貢献をしていた壺井栄などがあった。『戦旗』がそうであったように『ナップ』の周囲にも、日本全国の労働者階級の文化・文学的欲求が反映されていて通信・投書などにあらわれる婦人の執筆者は、生産の各部門と、各地方にわたった。一九三一年に、『婦人戦旗』が発展して『働く婦人』が日本プロレタリア文化連盟から発刊された。この編集は、連盟に加っていたプロレタリア演劇・美術・音楽・映画・教育・エスペラント・医療各団体からの編集員によって行われたのであった。『種蒔く人』の執筆者であった山川菊栄・神近市子などは、それぞれの政治的立場から、プロレタリア運動には参加しなかった。一九二七年『文芸戦線』に「施療室にて」を発表した平林たい子は、「投げすてよ!」などとともにアナーキスティックに混乱した経済生活と男女関係の中で苦しみながらそこからのぬけ道を求めている一人の無産女性を力づよく描いて注目された。彼女はアナーキズムとボルシェビズムとの理論闘争の時を通じてアナーキズムの陣営にのこり、その後、プロレタリア文学運動に沿って歩みながら、常に、『ナップ』とは対比的な立場に自身をおいて、「独特」さを示そうとしている婦人作家として経て来た。\n 一九二二年に生まれた日本共産党は非合法の組織であったが、ともかく、労働者階級の経済・政治・文化・文学運動が互につながりをもって展開されるようになったことは、自由民権時代このかた窒息させられていた日本の、社会的な文学への要望を、より進んだ認識で成長させる可能を与えた。たとえば窪川稲子が、次々に現代文学にこれまでに発見することのできなかったすぐれた階級的作品をもたらすようになったのは、彼女の才能の単なる偶然の開花であっただろうか。また、中條百合子が、プロレタリア文化・文学活動の波にもまれながら、「新しきシベリアを横切る」そのほかソヴェト同盟の社会主義社会の生活と文学のありようを精力的に紹介して、「冬を越す蕾」などの評論をかくようになって行ったというのは何故だったろうか。"
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"role": "user",
"content": "一\n\n「八、丁度宜いところだ。今お前を呼びにやらうと思つて居たが――」\n 平次はお勝手口から八五郎の迎へに飛び出さうとして居る女房のお靜を呼び留めて、改めてドブ板を高々と踏み鳴らして來る、八五郎の長い影法師を迎へ入れたのでした。\n「親分、お早やうございます」\n「お早やうぢやないぜ、世間樣はもう晝飯の支度だ」\n やがて江戸の街も花に埋もれやうといふ三月の中旬、廣重の鞠子の繪を見るやうに、空までが桃色に燻じたある日のことでした。\n「何んか御馳走の口でもあるんですか、――尤も先刻朝飯が濟んだばかりだ――」\n「あんな野郎だ。呆れてものが言へねえ、――お前路地の入口の邊で五十年配の下男風の男に逢つた筈だが」\n「逢ひましたよ。ももんがあ見たいな――あの親爺が施主なんで?」\n「馬鹿だなア、まだ喰ひ氣に取つ憑かれてやがる、――あれはお前駒込の大分限で、大地主の漆原重三郎の召使だ」\n「へエ?」\n「その漆原家に不思議なことがあつたので、娘のお新といふのが、下男の茂吉をそつと俺のところへよこしたのだ。直ぐ來て下さるやうにと、折入つての頼みだが、雲を掴むやうな話で、氣が乘らねえから、お前に瀬踏をして貰はうと思つたのだよ」\n「へエ? あつしも氣が乘らなかつたらどうしませう」\n 斯う言つた遠慮のない八五郎です。\n「馬鹿野郎、俺はあの邊に顏を知られ過ぎて居るし、冒頭つから人騷がせをしたくないからお前を頼んでゐるんぢやないか」\n 平次は到頭癇癪玉を破裂さしてしまひました。少しでも新しい事件を手掛けさせて、腕も顏もよくさせようといふ親心も知らずに、仕事の選り好みなどする八五郎が齒痒かつたのでせう。\n「だから行きますよ。行かないなんて言やしません。雲だつて霧だつて掴みますとも」\n「それに使をよこした漆原の主人の妹のお新といふのは駒込一番の良いきりやうで、吉祥寺が近いから、語り傳への八百屋お七の生れ變りだらうといふ評判を取つてゐるさうだ」\n「行きますとも、そいつは是非あつしをやつて下さい」\n「良い娘と聽くと、いきなり乘り出して來るから現金過ぎて腹も立たねえ」\n「仕事の張合ひといふものですよ。親分、一體駒込の漆原にどんなことがあつたんで?」\n 八五郎は膝を前めます。平次のひやかしくらゐでは驚く色もありません。\n「漆原の主人重三郎が一と月前に死んだのさ。年は三十五で病氣は三年も前から床に就いて居る長い間の癆咳。これは壽命で何んの不思議もないが、その後に殘された筈の七八千兩の大金が、何處に隱してあるか小判の片らも見えない」\n「有るやうで無いのは金――と言つた落ちで?」\n「いや、金は確かに七八千兩、どうかしたら一萬兩近くもあつた筈なんだ。これは支配人をしてゐる叔父の總兵衞も、手代の春之助も知つて居ることで、死んだ後で調べて見るまで、無くなつたことさへ氣が付かずに居たんだ」\n「へエ」\n「變な顏をするなよ、八。寶搜しは俺も嫌ひだ、そんなものを搜しに行けと言つてるわけぢやねえ。實はその寶搜しで人が一人死んだとしたら、どんなものだ」\n「――」\n「一應は怪我で死んだことにして葬ひを出すには仔細はないが、その死に樣が不氣味だから、一度見て置いてくれと、亡くなつた主人重三郎の妹で、今では跡取りのお新が、下男の茂吉爺やを使ひによこしたのだよ」\n「それぢや兎も角行つて見ませう」\n「急に彈みが付きやがつて――嫌な野郎だなお前は」\n 平次にからかはれ乍らも、八五郎は絲目の切れた凧のやうに飛び出してしまひました。\n\n二\n\n 神田明神下から駒込まで、馬のやうに達者な八五郎に取つては、一と汗かくほどの道ではありません。\n「御免よ、――俺は向柳原の八五郎といふ者だが、支配人の總兵衞が變な死にやうをしたさうぢやないか、ちよいと見せて貰ひ度えが――」\n 懷中の十手をちよいと覗かせると、一も二もありません。\n「へエ、へエ、飛んだ御手數をかけます。支配人が空井戸の中で死んで居るのを、下女のお源が見付けまして先刻漸く入棺したばかりで御座いますが――」\n「お前は?」\n「手代の春之助と申します。亡くなつた主人の甥に當りますが、へエ」\n 二十八九の、それは腰の低い着實さうな男でした。どちらかと言へば美男型で、肉の薄い青白い顏や、調子の滑らかさなどは、世に謂ふ女好きのする人間でせう。\n「死骸は何處にあるんだ」\n「此方へ、どうぞ」\n 八五郎が案内されたのは、店の隣の六疊でした。\n 漆原といふのは江戸開府以前からの舊家で、曾ては漆の宏大な畠を持つて居たと傳へられ、漆が黄金の如く貴かりし時代、長い世代に亙つて貯へた富は、萬といふ數に上つたのも、決して不思議ではなかつたのです。\n 江戸の發展と共に、漆畠は宅地に代へられ、漆長者が駒込の大地主と變つて、さて幾十年經つたことでせう。\n 從つて漆原家の屋敷といふのは、小大名の下屋敷ほどの宏大なもので、士分ではないにしても、漆原といふ苗字を堂々と名乘つて通る家柄だつたのです。\n「これでございますが――」\n 早桶は吟味したものですが、蓋をあけて覗くと、まことにそれは膽を潰さずには居られない凄まじさです。五十年輩の支配人總兵衞の死骸は、首筋から背中へかけて恐ろしい力で叩き潰され、それはさながら一塊の肉泥になつて居るではありませんか。\n「うむ、これはひどいな」\n 念佛氣のない八五郎も、思はず片手拜みに、あわてて蓋をさせたほど、それは慘憺たるものでした。\n「上から二十貫もある石が落ちたのですから、ひとたまりもなかつたことでせう」\n 手代の春之助は不氣味さうに後ろへ退り乍ら、それでも一と通りの説明はしてくれました。\n「空井戸の中で死んだと言つたやうだな」\n「へエ」\n「その井戸を見たいが――」\n 八五郎は春之助の案内で大きい家を貫通する廣い土間に降りて、其處から裏口へ、そして昔の漆畠の名殘りの少しばかりの野菜畠を通つて、藪の蔭になつて居る空井戸を覗いて居りました。\n 灌木の葉と枯葉とに埋め殘されて、空井戸の口は黒々と見えて居りますが、古い御影の井桁が崩れたなりに殘つて居るので、さすがに怪我や過ちで墜ち込む心配はありません。\n「支配人はこの底に落ち込んで、大きい石に打たれて死んで居りました」\n 無氣味さうに春之助は、眞つ黒な井戸の口を指さすのでした。\n「どうしてこの中に死骸があるとわかつたのだ。ちよいと覗いたくらゐぢや、わからないぜ」\n 井戸は深くて、中は眞つ暗です。\n「下女のお源が見付けました。――今朝何時になく支配人が起きて來ないので、部屋を覗きましたが、床を敷いた樣子もなく、家中搜しても見付からないのに、外へ出た樣子もありません」\n「?」\n「下駄箱には履物もあり、――着換へをした樣子もなかつたのです。その騷ぎの中で下女のお源が、フト空井戸を覗いて見る氣になつたのでございませう。不斷危ない〳〵と言はれて居た井戸ですから」\n 春之助の言ふことは一應筋が通ります。\n「梯子と提灯を貸してくれ」\n「へエ」\n 春之助が物置の方へ行くと、間もなく下男の茂吉に九つ梯子を持たせ、自分は灯の入つた提灯を持つて戻つて來ました。\n「俺が降りて見る、灯を」\n 井戸の中に梯子を入れると、提灯を持つた八五郎は、何んの躊躇もなく降りて行きました。\n 井戸は床までの深さざつと三間くらゐ、石を疊みあげた極めて原始的なものですが、底は乾ききつて水もなく、斑々たる血潮の飛び散つて居るのも無氣味です。\n 一番下に一と抱へほどの大きい石があり、それを金梃か何にかで動かした樣子で、見事に石垣から脱かれて居ります。支配人の總兵衞が、そんな作業をして居る時、上から二十貫近い石を投げ落したのかも知れず、さういふことになれば、これは明かに殺しでなければなりません。"
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"role": "assistant",
"content": " なほもよく搜して居ると、上から落ちたらしい大石の下から、一枚の小判と何やら書いた紙片を見つけました。紙片は懷中深くしまひ込み、小判だけは手代の春之助に見せるつもりで、手に持つたまゝ梯子に足をかけましたが、\n「おや?」\n ふと石を拔いた穴の奧に、何やら四角なもののあることに氣がついたのです。\n 手を入れて見ると、それは紛れもなく木の箱で、大骨折りで拔き出すと土に塗れた千兩箱とわかりました。尤も錠前は開いたまゝ、中には一枚の小判も入つては居りません。\n\n三\n\n 八五郎は一と月前に死んだ主人重三郎の後添ひお豐、妹のお新、下男の茂吉、下女のお源などに一とわたり會つて見ましたが、お豐は豐滿で仇つぽい年増で、お新はあどけない可愛らしい娘。そして下女のお源は達者で依怙地な中年女といふ印象を受けた外に、何んの手掛りも手繰れず、その日の夕刻にぼんやり明神下の錢形平次の家へ歸つて來ました。\n「親分、腑に落ちないことばかりですよ」\n 長火鉢の前にドカリと坐つた八五郎は、懷手も拔かずに、鼻の穴を擴げるのです。\n「腑なんてものを、お前は持つて歩くのか」\n 平次は自若として驚く樣子もありません。粉煙草もお仕舞になつて、欠伸を噛みしめ乍ら八五郎の歸りを待つて居たのです。\n「これを見て下さいよ、親分。こいつが空井戸の中に、小判と一緒に落ちて居たとしたらどんなものです」\n 八五郎は懷中から出した紙片の皺を伸ばして、猫板の上に擴げました。\n「こいつは面白さうだ」\n 紙片にはかなり達者な文字で、\n ――裏の空井戸の底、大石を拔けば、その奧に――\n と、讀めるのです。\n「この字は誰の筆跡なんだ。訊かなかつたのか――お前のことだから」\n「聽きましたよ。間違ひもなく亡くなつた主人の筆跡なんださうで」\n「成程、主人は長患ひで死んだといふが、遺言のやうなものはなかつたのか」\n「あつたさうですよ。萬一の時は、店は妹お新に繼がせる、婿はお新の氣に入つた男で、親類方の苦情さへなければ誰でも構はない、――それに世間のことばかりだつたと言ひますが――尤もそんな事は皆んな主人の四十九日が過ぎてから親類共が寄つて決めることになつて居たさうで」\n「金のことは何んにも遺言はなかつたのか」\n「忘れたのか、皮肉なのか、金を何處に隱したか、聽いた者は一人もありません」\n「ところで、お前はどう思ふ?」\n 平次は八五郎の智慧のほどを試すといふよりは、自分の推理の基礎を堅め度い樣子でした。\n「一度空井戸へ隱したが、ワケあつて取り出し、他の場所へ移したんぢやありませんか。井戸の中には小判が一枚と、空つぽの千兩箱が一つあるだけで、あとは何んにもありませんよ」\n「空井戸の中へ、一度千兩箱を八つも隱した樣子があるのか」\n「それがないから不思議なんで」\n「變なことだらけだな。その紙片に書いてある文句も不思議なら、小判一枚だけ落ちて居たのも判じ物だ。それに二十貫あまりの石を上から落したのが、支配人を殺す氣でやつたこととしても、大の男二人がかりでなきや出來ないことぢやないか」\n 平次の疑問はピタリピタリと急所を押へて行きます。\n「尤も井戸の上の方に、その大石の拔け落ちた穴はありますよ」\n「下の石を動かしたので、石垣が緩んで上の大石が落ちたのなら、話はそれつきりだ。殺し手がなくなれば十手にも捕繩にも及ばねえ」\n「そんなものですかねえ、――尤もあの店中で、人でも殺しさうなのは、死んだ主人の後添ひのお豐くらゐのものですね。妙に色つぽくて、慾が深さうで、氣になる素振りを見せ度がる女ですよ」\n「――」\n「その上お豐は手代の春之跡と仲が好いんださうで、春之助もまた死んだ主人の甥の癖に、後家と何んとか噂を立てられるのは、褒めたことぢやありませんね」\n「そんな事を誰から聽いた」\n「下女のお源は漏りのある柄杓のやうな女で、腹にあることは一刻とも持ち堪へられない性分ですよ」\n「フム」\n「主人の重三郎が死んでしまつた上は、支配人の總兵衞さへ居なきや、お豐は勝手に振舞へるわけでせう。妹のお新は十八の小娘だし、あとは下男のモモンガアーの茂吉たつた一人。誰に憚かる者もありやしません」\n「だが、女では二十貫の石を持ち上げて、井戸に落し込む藝當はむづかしからう」\n\n四\n\n「サア大變ツ」\n 八五郎の大變が舞ひ込んだのは、それから三日目、櫻日和の美しい朝でした。\n「到頭來やがつた。イヤに生暖けえから、今日あたりはお前の大變が來るだらうと思つて居たよ」\n「地震と間違へちやいけません、――到頭駒込の漆原の家に、二度目の間違ひが起りましたよ」\n「間違ひといふと、殺しぢやないのか」\n「それが變なんで、外に下男の茂吉が居ますから、當人から訊いて下さい」\n「よし〳〵、妙に彈みが付いて居る樣子ぢや唯事ぢやあるまい、一緒に出かけるとしよう」\n 手早く支度をし平次が路地へ出ると、其處には下男の茂吉が、ノソリと立つて居りました。五十前後の大きな老爺で、顏の道具の荒い、生涯江戸の水を呑ませても、訛も垢も拔けさうもない仁體です。\n「御苦勞樣でごぜえます。錢形の親分樣」\n「どんな事があつたのだえ、爺さん」\n 平次は氣輕にそれを迎へます。\n「どうにも斯うにも、大變なことでごぜえますよ」\n「――」\n「御新造樣――亡くなつた主人のお連れ合ひのお豊さんでごぜえますよ。その方が昨夜から姿を見せないので、知合ひの人をやつて訊いたり、空井戸を覗いたりして居ると、今朝になつてそれが、内から締めきつた藏の中で、變な死にやうをして居るぢやございませんか」\n「變な死にやう?」\n「山國で猪や狼を捕る虎挾みといふ罠に首を突つ込んで山猫のやうな顏をして、もがき死に死んで居たのを、今朝になつて見付けましただ」\n 茂吉は大きく固唾を呑みました。このむくつけき庭男は、色つぽい後家のお豐に對して、あまり好感は持つて居なかつた樣子です。\n「どうして藏の中に居るとわかつたのだ」\n 平次の問ひは直ちに事件の大事な鍵に觸れて行きます。\n「藏の鍵が無くなつて居るし、藏の入口にはお豐さんの下駄が脱ぎ捨ててありましただよ。それから大騷動になつて、錠前屋を呼んで來て、漸く藏の戸を開けて入ると――」\n 茂吉は其處まで話すと、何うやら禁句に觸れたやうに又ゴクリと固唾を呑むのでした。\n 話は併しそれつきりで、茂吉の口からは、それ以上何んにも引出せさうもありません。\n 駒込の漆原家へ行くと、さすがに大變な騷ぎでした。お豐はきりやう好みで貰はれた後添ひで、もとは山下のいろは茶屋に奉公したことがあり、實家といふ程のこともありませんが、それでも亡くなつた主人の配偶には相違なく、舊家だけに、いざとなると驅けつけて來る親類だけでも大變な數になります。\n「親分さん方度々御苦勞樣で」\n 店に迎へてくれたのは、人付きの良い手代の春之助でした。\n「佛樣は?」\n「こちらでございますが」\n 土間をずつと奧へ入つて、離屋になつた十二疊の廣間に、お豐の死骸は寢かしてありました。\n 膝行り寄つて一と眼、平次もさすがに顏を反けたほどです。息の通つて居るうちは、それは美しくも色つぽくもあつたことでせうが、猪や熊を捕る虎挾みで絞め殺されたお豐の死に顏は、醜怪で不氣味で、二た眼とは見られぬ物凄い有樣だつたのです。\n 顏は樽のやうにむくんで、眼はクワツと見開いたまゝ、少し眼球が飛び出し加減になつて居るのも、この命を斷つた道具の恐ろしさを物語つて居ります。\n 首筋は紫色に腫れ上がつて居りますが、多分首の骨を折つた上に喉佛を碎いて居ることでせう。いろ〳〵の死顏を見て居る錢形平次も罠に陷ちて死んだ人間の恐ろしさは始めて見るのでした。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 世界情勢の高速度的推移の中には、今ごろヴェルダンの戦場を見物したりすることを何だか Up-to-date でなく思わせるようなものがある。私たちがヴェルダンに行ったのは咋年(一九三九年)の初夏、まだ今度の大戦の始まらないうちではあったけれども、その時でさえすでに現代から懸け離れた一種の古戦場でも弔うような気持があった。ところが、それから二三箇月もすると、いよいよ新しい戦争の幕は切って落され、ヴェルダンを古戦場の如く感じる気持は一層強くなった。\n 丁度パリに来ていられた姉崎先生をお誘いした時、先生は一九一八年の停戦直後にヴェルダンを訪問されたきりなので、二十年後のヴェルダンがいかに変化しているかに興昧を持っていられるようだった。私たちはヴェルダンは初めてで、ドイツに行っても、イタリアに行っても、フランスでも、イギリスでも、何となしに底気味のわるい空気が漂っていて、いつ戦雲が捲き起らないとも知れなかったので、不安な未来を予想しながら二十年前の世界悲劇の痕迹を踏査することに少からぬ興味を持った。\n その日、朝早く、自動車で出かけ、夜に入ってパリに帰りついたのだが、帰りにランスとソアッソンの寺を見ようという計画を立てていたので、ヴェルダンには小半日きりいなかった。それでも自由のきく車で見て廻れたおかげで、遊覧バスなどで見るよりはゆっくり見られた。\n パリを出て東へ一直線に駈けらせると三十分ほどでモーの町を通り過ぎた。マルヌ河に沿うた古い町で、パリに供給する小麦・チーズ・卵・家禽・野菜などの多くは此処から運ばれると聞いていたが、通りすがりに一番に目を惹いたものは、街路の左側に高い方塔を一つ聳やかしたゴティク様式の古いカテドラルだった。八百年の星霜を経てどす黒く寂び、雅致を失わない程度にがっちりと力強く立ってる風貌が私たちにしばらく車を停めさせた。覗いて見ると、薄暗い内陣の両側には型の如く天井の一段低い側堂が付いて、外陣は一つきりで、唱歌席の装飾なども簡古で似合わしく思われた。しかし、行手を急いでいて、ゆっくり見ていられなかったから、前の荒物屋みたいた店で絵端書を買って思い出のよすがとすることにした。\n それからマルヌを渡り、美しい田舎道を百二三十キロも走ったと思う頃、シャーロンの町を通った。毛織物の名産地で、此処にも古いカテドラルがあるということだったが、目につかないで通り過ぎ、それから先は方向を少し北へ振って行くように道がついていた。レジレットという村のあたりからは樹林が目立って多くなり、道も上ったり下ったり、曲りくねったりして、ショファにはうるさいかも知れないが、見て通る者には今までの平たい郊野よりは趣があってよかった。道の両側には高い並木がつづき、その間から緑の牧場や畑が透いて見えた。\n クレルモンの手前で、道ばたの大きな桜の木に長い梯子を二つ掛けて、百姓の親爺と娘がさくらんぼをもいでいた。あれを売ってくれないか知らと弥生子がいい出し、車を停めショファに懸け合わせると、やろうというので、銀貨を二つ渡すと、親爺も娘も梯子から下りて、食いきれないほどたくさん籠に入れて持って来た。それを私たちは新聞紙に載せて、膝の上にひろげ、摘まみながら進んだ。日ざしが次第に強くなり、いいかげんに咽喉が渇いて来たのでうまかった。\n クレルモンといい、レジレットといい、この辺一帯はアルゴンヌの森林地帯の一部で、大戦の時は一時ドイツ軍に占領されていた土地である。もうヴェルダンの前線までは二十キロあるかないかぐらいだった。\n\n 二\n\n ヴェルダンの町に入って第一にする仕事は食事をすませることだった。広い石段の上に戦捷記念塔が高く聳えている。その石段の前にちょっとしたレストランがあった。ヴェルダン見物が流行ると見えて、中は客で一ぱいだった。\n 食事がすむと、徒歩で町の見物をした。ヴェルダンはローマ人征服時代からの町だけに、規模は小さいけれども、道が狭く、石畳が古く、坂が多くて、趣がある。ヨーロッパはどこへ行っても古い形がよく保存されていておもしろい。ヴェルダンはローマ帝国の勢力が弛んで後、一時蛮人の侵入を受けて荒らされたが、五世紀以後アウストラシア王国に属していたのを、九世紀になってフランスに併合され、その後、ドイツに占領されたり、その羈絆から脱したり、市民権が強くなってからはローマ法王の勢力に対抗したりしていたが、完全にフランス王権の支配下に帰したのは、ウェストファリア条約(一五五三年)以後のことだった。尤も、その後とてもしばしばドイツ(プロイセン)の勢力に侵されてはいたが。何しろ、パリからは二百五六十キロもあるのに、東はわずか五十キロでドイツに接し、その北には同じ距離でリュクサンブール公国があり、そのすぐ北にはベルジク王国があるといったような辺彊だから、われわれのような孤立した島国に居住してる者には想像もつかないほどの微妙な国際感情が早くから芽生えて発達して来たものらしい。\n だから城砦などもなかなか堅固なもので、ヴェルダン城はフランスでも一流の堅城といわれていた。もと十世紀の僧城を改築したもので、南はムューズの河岸に城壁を築き、他の三方には濠を繞らし、高い櫓を立て、日本の封建時代の城を思わせるものがある。中に入ると十世紀の僧城時代の地下窖なども見られるということだが、今は兵営になっていて入ることができなかった。\n カテドラルは十三世紀頃かと思われるゴティク様式で、方塔が二つ揃ってどっしりしてるが装飾にはロマネスクの形式が取り入れられた所があるようだった。それよりも気に入ったのは、町の四つの入口に建てられた中世の塔門で、殊に最もよく保存されてるショーセーはその橋と共にヴェルダンを飾る第一の美観である。それが戦火で壊されなかったのは、郊外のスーヴィルからかけて前面幾つもの塁砦がよく護られたからだった。\n\n 三"
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"role": "assistant",
"content": "\n 私たちは町の見物をざっとすませると、また車に乗って戦跡巡覧に出かけた。\n 町の北端でラ・ムューズを横断して少し行くとスーヴィルの村である。此処を最後の塁砦としてヴェルダンは死守された。子供たちが二三人自転車を乗り廻して楽しそうに遊んでいた。村をはずれて右へ折れると、道はどんどん登りになって、ヴェルダンの町が目の下に展開する。道の両側には高さ三メートルばかりの雑木が一面に茂っている。それを見て姉崎先生は感慨に耽っていられた。先生が一九一八年に訪問された時には、此の辺は一木一草もなくなっていたそうだが、二十年の間にひこばえがこれだけに成長したものと見える。尤も、戦争前はこの辺からかけてアルゴンヌまで巨木の大森林だったということではあるが。\n 車はまず東の端のヴォーの砲塁の前に停まった。白っぽい岩山が低く東西にうねり連り、それを墻壁にして構築された塁砦で、南側には幾つも土窖の口が開いて居り、中には石でテューブ型に畳み上げられた営舎があり、町で買って来た当時の写真で見ると、両側に寝台が二段に組み立てられ、兵士が靴を穿いて外套を被たまま身体を横たえ、銃剣といっしょに鉄兜やガス・マスクを枕もとに置いている。その時の事を案内者の老兵士が私たちを導いて話して聞かした。その頃のフランス軍はひどく強かったものらしく、ヴォーの戦争は一九一六年二月からで、六月に一度ドイツ軍に占領されたのを十月に逆襲し、十一月には完全に奪還した。それが非常に近い距離の間で行われたのだから戦慄すべき肉迫戦が繰り返されたことは実地を見て殊に痛感される。\n 穴から出て私たちは塁砦の上に攀じ登った。鉄条網の間から赤い芥子の花が夏草の中に交って咲き出ているのも、血を連想させるというよりはもっと深い意味に於いて美しく感じられた。あたりにはまだ鉄条網が銹びたままで張り残されてあったり、塹壕が草に埋もれて保存されてあったりするのは、戦争の残虐を思い出させる誘導とはなるが、それよりも時の整理は力強く、自然の勢いはすべてのものを復活させ、生が死を乗り越えて進むことを実感させられることの方が多い。だから私は万里征人未だ還らずといったような感懐よりも、流血の土中から咲き出た一本の芥子の花に永遠の生命の美しさを見て、自然の偉大さを思い、同時に人間の愚かさを感じないわけにはいかなかった。全く、よくも懲りないで侵し合いを繰り返すものだ。三十年を一時代とする習慣は此の節では世界の動きのテンポが速いので二十年を一時代とすることに改めてもよかろう。実際一時代たつと人間の健忘性は過去の痛苦を実感しなくなると見え、誰が始め出すのか知らないが、今にもヴェルダンのような悲劇がどこかでまた起ろうとしてる。そうしてヴェルダンそのものは一つの見せ物として保存され、物ずきな人間たちが、まるで自分たちには拘わりのないことのようなのんきな顔をして見物に出かけているのである。\n 見物のコースは、ヴォーからもう一度スーヴィルに戻り、北へ東へ回って、今度はドーモンの塁砦に辿りついた。ここはヴォーよりも一段と規模が大きく、穴の中の営舎も数多く、まるで地下街のようだ。感心したことの一つは、どこの穴倉の営舎にも必ず礼拝堂があることで、宗教は近代に入って人の霊魂を支配しなくなったとはいわれるけれども、それでも、カトリックの国々では殊に、宗教から全く絶縁した生活は見られないが、生命を賭けての戦場では一層それが必要されるものと見え、ヴェルダンだけではなく、エスパーニャに行ってトレドーのアルカサルの白軍籠城の営舎を見た時も、其処に礼拝堂を発見して心を動かされたことがあった。若い兵士たちが戦死する時、最後に呼びかける言葉は母の名でなければマリアの名だと聞いている。\n ヴェルダンで戦死した兵士たちの共同墓地へ行く途中、大きな瀕死の獅子の彫像を載せた石の台を左に見た。百三十師建設記念碑と銘してあった。ドイツ軍は北方から攻めて来てこの地点から先へは進めなかった。その付近も一面の樹林である。停戦当時は砲火のため樹林は根こそぎ失われてしまい、夥しい戦死者の遺骨と兵器が散乱していたそうだが、今日ではむしろ公園のような外貌を持っている。\n 戦死者共同墓地は、フランス軍のはシメティエ・ナシオナールという名が付いている。ドーモンの塁砦を東北に見はるかす高地の上に素晴らしく大きな蒲鉾型の納骨堂が横たわり、その中央に高い燈台塔が立っている。そうしてその前面の斜面に白い十字架の墓標が何千か何万か数えきれないほど整然と列んでいるのが、一目に見わたすと、さながらオランダで見たテューリップの畑のようだ。納骨堂の中には、身内の人たちでもあろうか、花などを持った参詣者も少からず見受けられた。\n それから西の方へ車を廻わすと、トラセエ・デ・バイオネット(銃剣の塹壕)と呼ばれる記念館がある。コンクリートの廻廊風の建物で、床は塹壕をそのままに残して銃剣が幾つも突き刺さっている。或る物には珠数を掛け、或る物には一枝の花を揷し、また或る物には Terre de Vendée(故郷の土)と記した袋に一握りの土を入れて吊してあったりするのが、いたましかった。\n そこから道を隔てて向側の窪地は、ラヴァン・ド・ラ・モール(死の谷)と名づけられ、今は灌木が深深と茂ってるけれども、その当時は死屍累々の恐ろしい光景を呈した所だという。私は道ばたに咲き出た松虫草の花やひるがおの花に明るい陽光の降り濺いでる静寂の中に彳んで、阿鼻叫喚の修羅の光景を実感して見ようとしたけれども、あまりにも平和な今の環境は全くそれを不可能にした。\n また車に乗って西北二十三キロの高地なるモン・フォーコンへ行く間には小さい村落を幾つか通り過ぎたが、他のフランス軍の墓地も一つ二つ見た。モン・フォーコンはドイツ軍の有力な陣地の一つで、それをアメリカ軍が占領したので、アメリカの建てた高い戦捷記念石柱が聳え立っている。柱の頂上の台座には左手に炬火を捧げた男の像が立ち、下の台石には一九一八年にアメリカ軍の占領した四つの地名が刻んである。ムューズ高原・バリクール高原・ロマーニュ高原及びアルゴンヌの森。しかし、アメリカ軍は戦争の終末に近づいて不用意に勢って飛び込んで、かなりひどい犠牲を払ったのだということだ。記念柱の下にはアメリカ人らしい遊覧客が車を二三台乗り捨てて眺めていた。\n 私たちは記念柱の裏の高地に登って、物凄く破壊された寺の跡を見てまわり、ついでにロマーニュの戦跡を訪ねて、アルゴンヌの森を抜けた。ロマーニュにはシメティエ・アメリケエン(米軍共同墓地)があり、付近にはシメティエ・アルマン(独軍共同墓地)が二つほど見られた。後者では十字架が黒く塗られてあった。黒と白と色は塗り分けられても、こうして死んでしまえば敵も味方もなく、恐らく彼等は人生を寝ざめのわるい一場の(原本三字伏字)夢と観じて、それさえも今はあらかた忘れ果てているだろう。天よ、気の毒な子供たちに平安を与え給え!\n\n 四\n\n 死んでしまえば敵も味方もなくなると言ったが、生きてる時でさえ敵も味方もなくなるという一つの実例を私たちは私たちのショファに聞いた。彼は二十年前フランス軍の一兵士としてヴェルダンの戦線に出ていた。この辺でのことだったといって指ざしたのがヴォーの塁砦の付近だったように記憶するから、ヴォーかスーヴィルかでの出来事だろう。敵と味方が短距離で対抗して戦っていた。たまらなく咽喉が渇いて水が欲しくなり、夜にまぎれて脱け出して、村はずれの井戸に水飲みに出かけると、向うからも黒い影が二つ三つ忍び寄って水を捜しに来る者がある。たしかに敵兵だとわかってはいたけれども、こっちも撃とうとはしないし、向うも懸かろうとはしない。黙って水を汲んで別れてしまう。そんなことがよくあったそうだ。その時は(原本十五字伏字)お互いに人間に返っているので、憐みと同情が双方の心に湧いていたのである。\n その興味ある話を聞かしてくれたショファは頑丈な骨格をした四十男で、ヴェルダンで多くの戦友を喪い、自分も左の腕をやられて死にかけていたのが、恢復して自動車の操縦ができる程になったのだといった。また戦争が始まったら出なければならないのかと聞いたら、負傷して免役になったからもう出ないだろうといっていた。戦争は怖いだろうというと、戦争は怖いといっていた。\n 今一つ似たような話を私たちはエスパーニャでも聞いた。最近の内乱で赤軍と白軍と対立して諸所で戦った。私たちはブルゴスからマドリィへ行く途中で、車を停めてその塹壕の幾つかを覗いて見た。塹壕の距離は敵と味方と近い所は二十メートルとなかった。不思議に思ったのは、赤軍の塹壕と白軍の塹壕と対抗し、白軍の塹壕の向側にまた赤軍の塹壕があり、その先にまた白軍の塹壕があるといった風に、何のことはない塹壕のだんだら染が出来上ってるような箇所があった。それ等には今一一標柱が立てられて、其処も一種の見せ物となっていた。また、赤軍といい、白軍といい、初めは思想的対立であったが、後では必ずしもそうでなく、むしろ行政区劃的対立となって、Aの村の者は全部赤軍に編入され、Bの村の者は悉く白軍に召集されるといったような奇観を呈し、それがため、兄弟別れ別れに敵味方の塹壕に対峙するというようなことも少からずあった。これは戦線に立って実戦を見た矢野公使の話であるが、ある時白軍の塹壕の中にいた兄が首を出すと、赤軍の塹壕の中から射撃しようとして狙ってる者があった。見ると弟だったので、おい、おれだぞ、と、どなって銃を下させたというようなこともあった。そんな風だから、冷静に考えると、何のために戦争をしてるのかわからなくなることもあったらしい。おもしろいのは、夜になると敵の塹壕でレコードをかけてダンスを始め出すと、その調子に合せて味方の塹壕でもダンスをやるというようなこともあった。昼間は(原本伏字)撃ち合った者が、夜になると同じ旋律に心を溶け合わせて踊る。こうなると、戦争の方が本気なのか、踊る方が本気なのかわからなくなる。恐らく本人たち同士といえどもわからないのだろう。わからないからこそ、そういった矛盾したこともやれるのである。(原本伏字) ヴェルダンでも、そういったことがしばしばあったに相違ない。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "序\n\n この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。\n この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。\n 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。\n 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。\n明治四十四年一月京都にて\n西田幾多郎\n\n\n再版の序\n\n この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とに専なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。\n大正十年一月西田幾多郎\n\n\n版を新にするに当って"
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{
"role": "assistant",
"content": "\n この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこの儘として置くの外はない。\n 今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然非難せられても致方はない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。\n フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。\n昭和十一年十月著者\n\n\n\n第一編 純粋経験\n\n第一章 純粋経験\n\n 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。\n 右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外いわゆる意識の縁暈 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James, A World of Pure Experience)。しからば情意の現象は如何というに、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。\n さて、かく我々に直接であって、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、これより少しくその性質を考えて見よう。先ず純粋経験は単純であるか、はた複雑であるかの問題が起ってくる。直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられた者であるとか、また後にてこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology, p. 252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。\n 純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。しかしいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の形を失うことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでもこの形において現われるものである。瞬間的知覚の如き者でも決してこの形に背くことはない。たとえば一目して物の全体を知覚すると思う場合でも、仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚地を失わぬのである。この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいえないように思われるかも知れない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いていなければならぬ。注意はこれに由りて導かれるのである。またこれに反し、表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。また表象だけであった時には、夢においてのように全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。\n 今なお少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するのである。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用が働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといわねばならぬ。純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である。勿論選択的意志より見ればかくの如く衝動的意志によりて支配せられるのはかえって意志の束縛であるかも知れぬが、選択的意志とは已に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在における現在の活動にあるのである。元来、意志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。要するに経験の意味とか判断とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或は判断の中に現われたる者は原経験より抽象せられたるその一部であって、その内容においてはかえってこれよりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断によりて前に無かった者が加えられたのではない。"
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"role": "user",
"content": " 手紙の形で書かれてあるし、書いた本人は毒を呷って死んでいるのだから、おそらく遺書だろうとは思うのだが、発見した場所が場所だから、どうもその点がハッキリせぬ。\n もし仮に遺書だとしても、果してその中込礼子という、婦人に宛て送るつもりで書いたのか、書き終ったら気が変って、そのままうっ棄って置いたのか? それともこれを下書きにして、もう送ってしまったのか? そういう点が、一切不明である。\n ともかく革表紙、仏蘭西仮綴じの立派なノートである。そのノートに、ペンでビッシリと書いてある。それが表紙を食い破られ、角々を噛じられ、鼠の糞埃まみれになって出て来たのだから、刑事はフウムと小首を傾けた。\n 最初の頁には、子供のいたずら書きのように、右から左から横から斜めから、ただ中込礼子さま中込礼子さまと、七つ八つくらいも書いてあったろう。遺書か、自分の悶々の情を、散ずるための気晴らしか? その点はハッキリせぬが、いずれにせよその中込礼子という、女性を思い泛べながら、書いたものであろうということだけは、確実である。\n それともう一つは、筆が渋って苦悶して、その間無意識に中込礼子礼子と書いているうちに、やがて堰を破った洪水のように、どっと気持が溢れ出たものであろうということも、ありありと推量される。中込礼子......中込礼子......どうもどこかで、聞いたことのあるような名だが、と考えているうちに、おおあの女か! と刑事の頭には、新聞や雑誌で見たことのあるその婦人の美しい顔が泛んで来た。ほう、あの中込礼子だったのか?\n 婦人というよりも、令嬢と呼んだ方が、適当だったかも知れん。そしてまた中込礼子その人が、どれほど有名だというのでもない。富豪の令嬢で、巴里帰りの新進ピアニストというので、新聞や雑誌に写真は出ていたが、その父親の富豪の方が、有名だったのだ。日台紡績の社長で、東洋綿業の社長で、中込精密機械工業の社長として日本中に鳴り響いている財界屈指の富豪だということは、こんな山の中の刑事の頭にまでも、沁み込んでいる。\n そこで、中込礼子の美しいおもざしを思い泛べながら、厚い埃を払って刑事は、このノートを読み出したのであるが、もしその中込礼子の四字が、田舎刑事の好奇心を惹かなかったら、この全文が出る機会は、おそらく永久になかったであろうと考えられる。\n\n一\n\n 中込礼子様。\n 私の身体にも、全身に黴菌が、付着しているだろうと思われます。この手紙はお読みになる前に、どうか厳重に消毒して下さい。\n 長い前置きを、書くことができません。余計な文字を弄んでいる余裕が、まったくありませんから、切迫詰まった書き方になって、読みにくいでしょうが勘弁して下さい。\n せめて仏蘭西の任期が終って、日本へ帰るまで待って下さいと、お頼みしていた言葉を快くお聞き容れ下さって、妹さんたちがそれぞれ楽しい家庭を営んでいられるにもかかわらず、じっと私の帰りを待っていて下さったことに対して、なんとお礼の申上げようもありません。そして、貴方がお待ちになり私の待ち切っていた、帰国の今日こういう手紙を書かなければならなくなったことを、なんと説明したらいいかわかりません。\n お父様お母様には、到底私から書く言葉がありませんから、どうぞこの手紙を御覧に入れて、貴方からくれぐれもお詫びを、仰言って下さい。\n 十二月四日付で、本省から帰朝の内命に、接しました。本省欧米局の、第一課長になるようにとの、電報でした。それで十二月九日、巴里オルリー空港を発って、エール・フランス機で、帰国の途に就きました。\n 多勢の人々に見送られて、口々に祝詞を浴びせられて、私はまことにうれしかった。久々で日本へ帰れることもうれしかったが、それよりももっと心が躍ったのは、日本に貴方が待っていて下さるということと、その貴方ともいよいよ結婚が、できるということだったのです。\n 結婚式にはまず第一に、母に来てもらって喜んでもらおうと、長い間私は夢を見ていましたが、その私の夢は、一年も前から跡方もなく崩れ去っていました。昨年の十月、母が腎臓病で亡なったという知らせを、兄から受け取っていたからです。\n 母は山深い故郷で、一生を送って一度も東京へ、出たことがありません。貴方と結婚して、東京の郊外へでも家を持ったら、母を呼んで一緒に暮したら、どんなに母が喜んでくれるだろうと、それがいつも私の懐いていた長い間の、夢だったのです。\n ですから、母が亡なったという知らせを受取った時、私は胸に大きな空洞が、できたような気がしてぼんやりしました。早く結婚してくれという、口癖のような母の頼みを斥けて、せめて内地勤務になるまでもう少し独身で勉強していたいと私が我を張っていたばっかりに母の生前、なんの喜びも与えずに死なせてしまったかと思うと、それが悔まれてなりませんでした。\n 仏蘭西へ来る前に、倫敦に三年、ジュネーヴに一年、長い海外生活で、母とろくろく家庭の団欒さえ味わっていないことを考えると、それが拭い去ることのできぬ、悲しみになっていましたが、それでも貴方のことを考えて、まだ悲しみを慰めることができました。\n 飛行機では、本省情報文化局長に就任のため、帰朝される倫敦駐箚の城田前公使と、一緒でした。\n「おい、未来の大使!」\n と笑いながら公使が、背後から肩を叩かれました。\n「三十になるやならずで、欧米一課長には抜かれるし、中込氏の令嬢は射落とすし、地位と美人と財力と......果報者! 日本へ着いたら一体、何を振舞ってくれるんだね?」\n 公使に冷やかされるまでもなく、私もそうだと感じました。母の亡なったことだけは、淋しい限りですが、私のような農家の次男に生れてこの幸福は、まったく身に余る仕合せだと思いました。\n 貴方と結婚することが私に財力なぞを与えることには少しもなりませんが、この時だけはこの公使の言葉さえも、一層私の幸福感を、増大させました。男と生れたからには、私も一度は政治家として、大臣くらいにはなってみたいと思ったからなのです。\n 政治家になって政党を操縦するのには、何千万何億という資金を、必要とするでしょう。外務省の官吏なぞを何十年勤めたからとて、そんな大金なぞのできようはずは、ありません。ですからその時は、貴方のお兄様に頼んでお父様にでも、軍資金を出して戴いて......なぞと、考えたからなのです。\n が、別段政治家になりたいと、真剣に考えていたわけでもありません。ただ、取り留めもない夢のような空想を、描いていたに過ぎないのです。久々で帰る故国への途......その故国には懐かしい貴方の顔が見え......兄の顔、嫂の顔が泛び......友達たちの顔......その懐かしい故国への途々、埃及阿剌比亜あたりの沙漠や、ペルシャ湾印度洋の白波を、雲海遥かの下に俯瞰しながら、そうした取り留めもない空想に耽っていたことは、どんなに楽しい夢だったか知れません。\n\n二\n"
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"role": "assistant",
"content": " 風邪を引いたのでしょう。ラングーンを出て、タイ、カンボジアの上空あたりを、機が突っ切っている時分から悪感がして、なんとなく身体がゾクゾクするので、一人で本を読んでいるのを見ると、東京はどこに泊ってるのだ? と、公使が聞かれました。そして、親類の家の離れに泊っていたが、その親類ももう東京にいないから、どこかホテルでも探して泊るつもりだと聞くと、そんな他人のところへいくよりも、いっそ家へまっすぐ、帰ったらどうだ? といってくれました。\n「どうせこの飛行機は、英国将校たちを降ろすんで、岩国も降りるそうだから、君の家まで直きじゃないか!」\n と勧めてくれました。\n「君の帰朝命令は、まだ間があるのだから、四、五日ゆっくりと静養して来給え、どうせ逢うんだから、僕が君の方の局長にも次官にも、よくそういって置こう」\n と勧められて、ひとまず私も家へ帰ることに決めました。そういうわけで、東京へ着いたら着任の挨拶を済ませてすぐ、貴方にお眼にかかりに行こうと、羅馬から電報まで打って置きながら、予定を変更して、急に家へ、足を向けることにしたのです。\n 予定通り機は、十時四十分岩国空港に、着きました。ここで公使に別れを告げて、機を降りました。そして、飯笹まで行って、さらに私鉄線に乗り換えて、翌る日の午後の三時には下河内の駅へ、着きました。私の家はこの駅から北方、蓮華寺岳という山の麓に向って、さらに七里ばかり駅の前からガタガタの乗合い自動車で、峠を越えなければなりません。山裾をめぐっていくつかの峠を越えて、まことに辺鄙極まりないところです。\n かねて帰国の手紙は出して置きましたが、いつ訪ねるとも知らせてない私が、鞄を抱えてバスから降りて来たのに、まずその辺に遊んでいた友治という兄の長男が、眼敏く見つけて駈け寄って来ました。\n「叔父さんが、帰って来たよう! 新次郎叔父さんだよう」\n と狂喜の叫びを挙げて、私から引っ攫り取った鞄を、片手にヨチヨチと、鍬を担いで通りかかった下男が、またその鞄を受取って、甥を取り巻いて洟を垂らしながら、眼を円くしている下男や小作人の子供たち! 広い門内へ入った時には、手を拭き拭きびっくりしたように、嫂が飛び出して来ますし、下女や下男たちが......近所の人たちが駈け付けて来、知らせに驚いて出先から、兄が飛んで来ますし、ひっそりとした田舎の家が、たちまち人の大群に取り繞かれて、破れるような騒ぎになりました。\n 辺鄙な田舎ですから、家も家の周囲も、まことに駄々っ広いのです。裏の山林を背にして、先祖代々の屋敷は、昔となんの変りもありません。棟を掩うて鬱蒼と繁った、高い杉の防風林も、玄関の前に瘤々の根を張った、百日紅の老樹も、また昔の庄屋時代から続いている、三棟四棟の崩れかかった土蔵も、奥庭の石灯籠や泉水も、一木一草に至るまで、昔となんの変りもありません。\n が、気のせいか母の亡なった家は、うつろな淋しさを伝えて来ます。私が中学生の頃に、兄が亡なった父の跡を嗣いで、いわば昔から母は、兄の寄人同然な隠居の身の上でしたが、しかもそれでも母のいない家の中というものは、大黒柱の欠けた建物のように、なんともいえぬ寂寥さを、感じさせて来ます。\n 発熱前の身体はザワザワと、なんともいえぬ弛い気持がします。\n「さあさ、大切な身体だ、寝ろ寝ろ! おかの! 早く新次郎の床を、とってやらんけえ!」\n と兄も気を揉みますし、嫂は小女を指図して、奥の十二畳の座敷に、床をのべてくれました。詰めかけて来る昔の友達や、村人たちとの応対は兄夫婦に任せて、私は床の中へ潜り込みましたが、こういう田舎の人というものは聞き伝えてそれからそれと、引っ切りなしに詰めかけて来るのです。\n 兄も嫂も私の前では、出さぬように努めていますが、村人たちとは遠慮もなく、方言まる出しの高声で話しているのが、手に取るように聞えて来ます。\n どんな豪華なホテルの寝台よりも、数年振りに懐かしい故国で、ゆったりと寛ぐ安易さを、しみじみと感ぜずにはいられませんでした。そしてこうして寝ていると、学生時代の夏冬の休みに、母の許へ帰って来た時のような昔なつかしい気持がして、母のいない淋しさと、やがて貴方と一緒になる楽しさなぞを考えながら、うとうとしていました。\n\n三\n\n 三日ばかりたって、風邪は完全に直りました。茶の間で、兄と久し振り水入らずで、母の臨終前後の模様や、家の跡始末なぞを、詳しく聞きました。母は一昨々年の四月頃から持病の腎臓病が悪化して、昨年の十月到頭、萎縮腎で亡なったということ。亡なるまで口癖のようにお前のことをいっていられたから、こうしてお前が帰って来てくれれば、どんなに喜んでいられるかということなぞ。\n そして、本来ならば墓は、村の慈恩寺の先祖代々の墓所に、埋葬するのが当り前なのだが、ふとした縁で一、二年前から、隣り村のそのまた隣り村、北野村の宗源寺の和尚さんが、母と懇意になって病床でたびたび、和尚さんの法話を聞いて眼を閉じたら、ぜひ宗源寺へ葬って欲しいというたっての望みであったから、そこへ埋めたということ。\n これも本来なればこの機会にお墓詣りをしてもらいたいのだが、忙しいだろうからいったん東京へ帰って、折りを見てまたゆっくり、お墓詣りに戻って来て欲しいということなぞ。\n 私も、母の墓詣りをしたいと思いました。朧ろ気ながら覚えているのは、少年の頃母の埋まっているその宗源寺へ、私も遊びに行ったことがあって、その寺というのを知っているのです。二つばかり離れた村とはいいながら、ここからたっぷり五里くらいは、あるでしょう。\n おまけに峠を三つも四つも越えて、山坂道の界隈殆ど人家も人の姿もない、物淋しいところで子供の頃遊びにいった時も、なんだか物の怪にでも襲われたような気持で、逃げ帰って来たことを覚えています。田舎の寺ですから、どうせ藁か萱葺き屋根の、大きかったか小さかったかそこまでは記憶もありませんが、ただ苔の生えた高い石段を登ったところに、太い柱の山門が聳え立って、両側には朱も碧も剥げ落ちた木地まる出しの、大きな仁王様が眼を怒らせて突っ立っていたことを、覚えているのです。\n 本堂は昔焼けて、ただこの山門だけが二、三百年も前から、残っているのだとか聞いていましたが、あの遠さでは一日がかりでなければ、お墓詣りにも行くことはできますまい。では、ともかく着任の挨拶をしてから、役所の都合を見てまたゆっくり、出かけて来ることにしよう、その時連れてって欲しいと、兄に頼みました。\n「亮三郎も、えろう嘆いての、一人の親だのに、夫婦揃って遠くへ来てるばっけえに、親の死目にも、逢うことがでけんというて来ただが、わしが付いとるから、余計な心配は、するに及ばんというてやったんじゃ」\n 亮三郎というのは、九大医学部の助教授をしている弟です。結核薬物研究のため、今ハーヴァード大学へ派遣されています。子供のない気楽さから、弟の妻も手芸の研究で、夫婦揃って亜米利加へ行っているのです。\n「だからお前も、お墓詣りに出て来るんなら、命日とかそんな堅苦しいことを守るには及ばん。まず、そのお嬢さんと、結婚してからでええじゃなえかのう。その方をどのくらい阿母さまも、お喜びなさるかわかんねえ。......そうせえ、そうせえ」\n と兄はいうのです。そして私も、そうしようと思いました。兄ほど優しい、親に素直な人を、見たことがありません。私がいなくても弟がいなくても、この兄さえいれば母は、なんの思い残すところもなく、この世を去ったに違いないのです。ですから、兄の指図通りにしようと思いました。\n 兄は、学問のある人でもなければ、学校を満足に出た人でもありません。中学を卒業した年に、父が死んだものですから、小作人との契約や、昔でいえば年貢の収納、田畑山林の管理、桃畑、葡萄園の経営等、家の仕事を見るために、母の頼みで父の跡を、嗣いだのです。学校の成績が、群を抜いていたそうですから、そのまま学校へ行っていたら、すぐれた人になっていたでしょうが、兄は母の言葉を容れて、そのすぐれた素質を別段惜しいとも思わず、それ以来この山の中で、作男たちと家業に、励んでいたのです。\n その代り、自分にできなかった学業を、弟の私たち二人には、思う存分やらせようとしていたのです。別段貧しいためというのではありませんが、いわば家業と弟たちの犠牲になって、行きたい学校もしたい学問も止めて、しかも一言半句の不平をいうでもなければ、不快な顔色を見せるでもなく、黙々として家の棄石に甘んじているこの兄の心を思えば、高等学校にいる時も大学にいる時も、また任官して倫敦や巴里にいる時も、私はどんなに感謝の念を、懐いていたか知れないのです。\n そして、思いは弟も同じだったのでしょう。私のところへよこす弟の手紙も、常に兄への感謝の念を述べていました。"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " しかし、上使から高時の台命をきいてみると、やはり凶は凶であったが、自分の上に降りかかって来た凶ではなかった。\n すなわち、執権奉書の文言どおりに言いわたされた口上というのは、\n\n前ノ源中納言北畠具行ハ、先帝ノ帷幄ニカクレ、天下ヲ禍乱ニ投ジタル逆謀ノ首魁タリシ事、スデニ歴乎タリ。\n護送ニ及バズ、途上、ソノ居ル所ニオイテ、死罪ニ処セ。\n\n と、いうのであった。\n そしてなお、\n「執刑は、佐々木入道道誉に申しつくる。なお道誉には、その儀、果たし次第、早々、鎌倉表へ身のみにて、罷り出ずべきこと――」\n とも両使は言った。\n 道誉の答えは、弾んでいた。遅疑なく、お受けしたせつなに「おれは助かった」とする禍いの転嫁にほッとしていたのは、彼ならずとも、人間のあさましさ、ぜひがないともいえばいえる。\n だが。\n 外の涼風に、再生の快を味わったすぐ後では、さすが、\n「あの中納言が、それと、ここで知ったら、どんなに愕とするだろう。また、この道誉を恨むだろうか」\n と、辛い立場におかれた自分に気がついて、なんともいえぬ当惑と、自己嫌厭に、ふっとその佇立はくるまれ出した。\n おとといの晩、あの愛知川の長者の宿で語りあかしたときの、具行のよろこびようや、新しい希望に、涙まで垂れて恩を謝していた顔が――どうしようもなく、道誉の眼さきにつきまとう。\n が、彼は、そんな蚊ばしらみたいな心の迷いを、しいて心で払いのけながら、\n「......俗にもいうぞ、背に腹はかえられん、と。......はて、まだかな」\n と、門に立って、街道の西を見ていた。――輿は、摺針峠の上で、あれから、一ト息入れてでもいたのだろうか、同勢、だいぶ遅れているらしい。\n が、まもなく彼方に、列の先頭が見え出した。道誉は、それの近づくのも待ちきれず、馬の背にまたがった。\n そして、自身からも、馬を駈けさせて、街道中で、列の先頭にぶつかるやいな、\n「北へ折れろ。彼方の辻を、北の方へ曲がれ」\n と、やにわに、指さした。\n 先頭は、まごつき、輿も人馬も、いちど通りすぎた町屋の辻の角まで、あとずさりに押し戻された。\n 近江の山、美濃ざかいの山、どっちを向いても山ばかりな駅路だが、その柏原の街道を、北へ三、四丁ほど折れて行くと、さらに一つの山の山すそへ出る。\n「よかろう」\n 道誉は、列へ、号令をくだした。\n 自身もサッと馬を降りる。\n「その辺へ、輿をおろせ」\n と、つづいて言った。\n 輿の内の北畠具行は、さっきから怪しんで、しきりに「......どこへ行くのか」と、警固の兵に訊いていたらしいが、もとより兵も知らないのである。――ここへ来て、命ぜられるまま、輿を、青芒のなかへ下ろした。\n「はて。ここは街道とも思われぬに、なんで?」\n 具行は、きのうも今日も、しごく快活に過ごしていたが、よほど不安に突かれたとみえ、板輿の内から顔をさし出して、\n「道誉。......誰ぞ、道誉をこれへ呼んでくれぬか」\n と、言っていた。\n けれど、馬の尻や、兵たちの汗の背が、彼の眼をさえぎッているだけで、たれも答えてくれる者すらない。\n そのはずだった。\n 道誉の姿は、そこから百歩も彼方の、山寺の裏口らしい崩れ築土の蔭に、床几をすえ、民谷玄蕃、田子六郎左衛門などの、おもなる家臣と、何やら鳩首している様子なのである。\n「よいか、六郎左」\n 道誉は、仔細を話していたのだ。そう念を押した上で、ふところから、自分がさきに受けた鎌倉の一状を取り出して、\n「太刀執りは、そちたちにまかせる。――まずこの執権の御奉書を読みきかせ、すみやかに、刑を執りおこなってしまうのだ。わしは近くでは見るにたえん。ここにいて、検分しておる。早くいたせ」\n と、いいつけた。\n「はっ。かしこまりました」\n 二人は、床几のまえを離れた。いつになく意気地のない主人と、妙な気もしないでなかった。――それに、おとといからの雷鳴り癖が今日も遠くで鳴り出している。――全く風もハタとやみ、伊吹山の上半身は、厚い垂れ雲の幕に徐々と隠されてくるなど、太刀執りを命ぜられた者の気持ちも、決していいものではありえなかった。\n わけても。\n きのうあたりからは、たいへん、機げんのよかった中納言殿だったのにと思うと、彼らにしても、輿のそばへ立ったときは、ひとしい人間感に取り憑かれて、何とも、ことばが、切れなかった。しかし、\n「上意ですッ」\n 言ったとたんに、玄蕃も六郎左も、武者そのものになっていた。\n「源中納言殿。輿をお出なさい。御奉書を読みきかせる」\n「なに」\n 具行は、彼らの語気で、すでに何かを感じたように、さっと、血のひいた顔をみせた。荒らかに、兵が輿の引戸を開ける弾みに、転び出して、\n「上意とは、何か」\n と、草に坐って、聞き詰ッた。\n「されば、鎌倉どのの上意でおざる」\n すると、具行は、憤然として、それを叱ッた。\n「だまんなさい。源中納言は朝廷の臣だ。朝命なればわかるが、そのほかの上意などとは心得ぬ。ものは気をつけていうものぞ」\n 彼の反撥を食うと、かえって、仮借は無用と、玄蕃も六郎左も、その傲岸を、露骨にして、\n「しゃらくさい小理窟を」\n と、せせら笑った。\n「朝廷朝廷と、公卿はいうが、そんな公卿念仏を、たれが今どき、ありがたがろうか。――事ごと、鎌倉殿の下に、からくも、あがめられている飾り物の朝廷であろうがな。おれどもは、武士だ。朝廷の禄一ト粒食ったことはない武士だ。――四の五を吐かさず、つつしんでうけたまわれ」\n と、圧倒し、\n「上意っ」\n と、かさねて言いかぶせた。\n やはり具行は公卿だった。「――無知にはかなわん」といいたげに、そのまま口をつぐんでしまった。\n とつぜん、伊吹の雲の破れから、冷たい疾風が、裾野をなぐッて、襟もとを打つ。俄に、晩のような暗さを見てのせいか、昼のきりぎりすが啾々と啼き立ち、どこかでは遠雷鳴が、いよいよ空の形相を、具行の胸そのもののようにしていた。\n「......前ノ源中納言具行ハ」\n 玄蕃は、執権奉書を披いて、彼への、死罪の申し渡しを、高々と、読み出している。\n 一句一句、声を張っても、声は風にちぎられて飛び、雷鳴に消されがちだった。\n「......以上」\n と、彼がむすんだとき、\n「この上は、お覚悟を」\n と、ややいたわり気味に言ったのは、田子六郎左の方だった。すぐうしろの、まろい小丘の一本松を指さして、\n「ここは背も埋む萱原。あれまでお運びたまわれい。おなじことなら、ご最期には、人の聞えにも、おすずやかがよろしゅうおざろう」\n と、うながした。\n しかし、なかなか起つ容子もない具行だった。今にして、悔やまれもし、恨みはつきない。\n すでに、相坂ノ関を越えたとき、死は、覚悟して出たのである。だのに道誉は途中で、自分へ再生の望みあるを、ささやいた。自分は正直に狂喜した。そして彼も一味の士と信じて、何もかも打ち明けた。十年の知盟と交わすように、酒杯をかたむけ合い、たとえ半夜ながら、刎頸の友を契ッた仲ではないか。\n その道誉は、どうしたのだ。どこにいるのだ。\n 姿も見せない。\n 一たん、覚悟した自分を、死にたくないと、叫ばしておいて、這奴め、どこへかくれたのか。\n「......武士ども」\n 具行は、容易に処理のつかない未練と怒りを、眸にもキラキラさせて。\n「道誉はなぜ見えぬか。かりそめにも、源中納言を刑するに、雑武者の手をもってする法やある。――道誉にまいれと申せ」\n「まず、お立ちなされ」\n「いや、参らぬうちは、動かぬ」"
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"role": "assistant",
"content": "「立たぬとあれば」\n「下郎ッ、何とするッ」\n「ぜひもおざらん。松の下まで引ッ立てる」\n「やあ、理不尽な。道誉にも会わさず、ムザと刃を下してみよ、その刃へ噛みついて、なんじらの頭上へ、呪いの雷を呼び降ろしてくれるぞ」\n すさまじい叱咤なのだ。またそれを疑わせぬかのように、青白い稲妻が武士たちの影にひらめいた。\n 丘の一本松の下には、さっきから、一枚の蓆が展べてあった。具行を斬るための支度である。\n その蓆が、吹き起されたとおもうと、生き物みたいに、風をはらんで、遠くにいた道誉のそばまで飛んで行った。\n 道誉は大ゲサな恟みをみせて、はッと振り向いたが、\n「なにしておるのだ」\n と、すぐ彼方の群れへ、眼を戻して、\n「玄蕃と六郎左へ、早くいたせと申して来い。いまにも、大夕立になりそうだわ」\n 床几脇の一人へいったが、逆にその玄蕃が、強風の中をこッちへ泳いで来るのが見えた。\n「どうしたっ。玄蕃」\n「殿っ。手におえませんっ」\n「何が手におえん?」\n「身は朝廷の臣、その源中納言を刑するに、道誉が顔を見せぬという仕方やある。道誉に一言すべきことあり。道誉参れと、猛り叫んで、うごきませぬ」\n「しゃっ、吠えさすな。かまわん、うごかぬなら、その場で行え」\n「ところが」\n「なにを惑う?」\n「容易ならぬことを口走ります。斬らば斬れ、道誉も死の道づれにいたすぞと」\n「ばッ、ばかな」\n「いや、無態も相なりません。兵どもに聞かれるのは、まだしもですが、そこらの山寺の僧や雑人どもが、はや、何事かと知って、あわれ、北畠ノ源中納言でおわすぞよと、ものめずらに、寄りたかっておりますれば」\n「いわぬことか。暇どるからだわ。――して、往生ぎわの悪い中納言が、いったい何をば、言い散らすのか」\n「あたりの僧や里人へ、身の末期を見とどけよ、と申すかと思えば、ここで道誉と会わずとも、百日の間には、必ず道誉と、冥途にて会わん、などと恨みをほざきおりまする」\n「そういうのか」\n「そう言います」\n「いやなやつだなあ」\n「でなくてさえ、ご嫌疑中の殿のお立場、この上不利を叫ばせては、人の聞えも悪かろうと、そこを惧れて、六郎左が今しきりと、なだめているところでおざりまする。......いかがなされますな」\n「では、源中納言、少しはおちついている様か」\n「殿を、お呼びしてまいると、なだめおきましたので」\n「たわけめ」\n 道誉はもう歩き出している。歩きながら、風の中で、言い散らしていたことばだった。\n「それでは......行くしかないわ......ぜひもない......僧になったつもりで......引導をわたしてやる」\n やがて、近づく道誉の姿を見つけると、具行は、青芒の戦ぎの中で、ただ一つの戦がない趺坐の石仏のごとく、硬直して、きっと相手をにらまえていた。\n「............」\n 道誉は眼をそらした。\n もちろん、意識的であるが、そうは見えないほど自然に、周りにいる兵以外の顔を見まわして、そのうちの山寺の僧たちへ、なに事かを、低目な声でいいつけている。\n それから、やおら、仏ずきな老婆が、野の石仏でも拝むような恰好で、具行の姿の前に、ぺったりと、ひれ伏した。\n「道誉っ。いやさ、似非入道」\n 具行の眼光は、まるで灰色の闇にある燐だった。\n「わしの顔が仰げぬのか。......いや見られまいわ。愛知川の一夜、そちは何とわしに申したか」\n「はい」\n「もし、姿を見せずば、わしはこの首へ、断刀をうくる一せつなでも、そちの腹ぐろさと、腹の秘を、天地へ叫んでやる気だった......」\n「あいや、羽林(中納言ノ別称)どの」\n 道誉は、かろくさえぎって。\n「愛知川の夜も今も、道誉に変りはございません。もし、豹変のできる道誉なれば、執権の御奉書をかさに、誇りこそすれ、何条、気の弱さなど見せて姿をかくしていましょうか。......道誉は気弱者、末期のおすがたを、拝すにたえないのでござりまする」\n「............」\n「さるゆえ、御生害を仰ぐにも、市の人目の中で、辱をお与えしてはならじと、家来どもにも申しつけ、自身は彼方の山寺に床几をおいて、蔭ながらのお念仏を誦しまいらせていたのでした」\n「............」\n「しかも、ここの伊吹山下は、累代佐々木の領土です。思うに、京よりお身を預かり下って、鎌倉どのの御命よんどころなく、この地で、ご生害を見るなども、仏法でいう、先世の宿業とやらでございましょうか」\n「............」\n「つい、徒らに遠くで不覚な袖をぬらしておりましたが、以てのほかなお怒りときき、動顛して、これへまいりました次第。......いやいや、とかく深いおことばなり、道誉のこころざしは、ここではちと申し難うござりますれば」\n 彼は立って。\n また、後ろを見まわして。\n「これ、里人たち。これは貴人のごさいご、興じ見るものではないぞ。遠くへ散れ。また、兵どもも静かにここでひかえておれ」\n それから、もいちど、具行へたいして、ていねいに身を屈した。\n「あの丘にて、心ゆくまで、お名残りを惜しませられませ。山僧に申しつけて、ただいま、筆墨をとりにやりました。さだめし、遺書をやりたいお心のうちの方々もおありでしょう。――せめては道誉がうけたまわって、後々にでも......」\n 一人の兵が、蓆を松の根がたへ敷き直しているのが見えた。\n 具行は、やっと、平常心をとりもどしたように、黙然と立った。――道誉のあとから、歩を運ばせつつ、謎を見るように、道誉の背を凝視していた。しかし、歩くしかなく、いまは観念の姿だった。\n その数百歩の間にも、やむまなく、風がつよい。稲妻は、彼の弔花のようだった。やがて松の下へ、彼が坐ったと見えたせつなも、一閃のいなびかりが、松のみどりを、ぱっと浮かせた。\n「道誉。......愛知川の夜も、今の自分も、変らない道誉だと、申したな。その心底を、もいちど、死出のみやげに、たしかめおきたい。その本心を」\n 具行が問いかけた時である。ちょうど、山僧がそこへ届けて来た硯、料紙を見て、これ幸いのように、道誉は言った。\n「いやまず、ご遺書を先に......。ご辞世のお歌でも、一ト筆これに」\n 辞世をといわれて、具行はつい筆を持った。いや持たせられたといってよい。\n 彼はここで、もいちど、道誉の胸を存分きいてみたかった。いま死す自分へ、嘘をいう要はあるまい。ねがわくば、人を信じ、世を信じ、笑って死にたいと、あせっていたのだ。\n しかし、ここへ来ると、道誉の態度はただ、死の介添人として、刑の進行を努めるだけで、何も語ろうなどとはしない。\n「万事休すか」\n 死の座は、無力の座だ。いやおうなしだ。とたんに、寸秒の刻々も、具行には、心ぜわしい。\n 直前の死が描き出す、幼時の父母のおもかげ、自分の少年時の姿、後醍醐もまだ帥ノ宮といっていた頃のお顔やら、あの人、この君など、数十年の宮廷生活が、回顧の電光となって、あたまのうちに、明滅する。\n 惹いては、\n「隠岐の帝さえ、ご息災なら、いつかはきっと」\n と、遠くへ、祈りの目をあげた。\n すると。――その眼の前には、忽然と、隠岐の荒海が近づいていた。いちめん、白い微粒な霧の怒濤が睫毛をふさぐほど押し流れて来たのであった。\n 伊吹も見えず、野も見えず、そして丘のぐるりに、十人ほどの黒法師の影が薄く立木みたいな裸足姿を立ちならべて......何か、経文を誦しはじめている。\n 経に和して、しきりな雷鳴が耳を打つ。それにつれ、誦経も、だんだんに、高かった。\n「道誉っ」\n「はっ。ご遺書の、おしたためは、すみましたか」\n「まだだ」\n「ポツと、雨が襟を打ってまいりました。いざ、料紙の濡れぬまに」\n「そこらの、読経の声は?」\n「近くの山僧たちです。ご最期の手向けに、集うて来たもの。無下にも追えません。お心をなだめられ、彼らの往生の偈を、受けておやりくださいまし」\n「嘘をいえ! そちが迎えにやった僧侶だろう」\n 具行は、看破した。\n だが彼は、道誉の二タ股を、嘲ると共に、自分の未練な姿にも、辱を覚えた。\n ――いやもッと覚悟を急かれたのは、とたんに、田子六郎左衛門の影が、袖ダスキを結んで、道誉のうしろから、抜き刀をさげて、ツツとこっちへ歩いて来たことだった。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " みなさん、よくごぞんじのように、シナでは、皇帝はシナ人で、またそのおそばづかえのひとたちも、シナ人です。\n さて、このお話は、だいぶ昔のことなのですがそれだけに、たれもわすれてしまわないうち、きいておくねうちもあろうというものです。\n ところで、そのシナの皇帝の御殿というのは、どこもかしこも、みごとな、せとものずくめでして、それこそ、世界一きらびやかなものでした。\n なにしろ、とても大したお金をかけて、ぜいたくにできているかわり、こわれやすくて、うっかりさわると、あぶないので、よほどきをつけてそのそばをとおらなければなりません。御苑にはまた、およそめずらしい、かわり種の花ばかりさいていました。なかでもうつくしい花には、そばをとおるものが、いやでもそれにきのつくように、りりりといいねになるぎんのすずがつけてありました。ほんとうに、皇帝の御苑は、なにからなにまでじょうずにくふうがこらしてあって、それに、はてしなくひろいので、おかかえの庭作でも、いったいどこがさかいなのか、よくはわからないくらいでした。なんでもかまわずどこまでもあるいて行くと、りっぱな林にでました。そこはたかい木立があって、そのむこうに、ふかいみずうみをたたえていました。林をではずれるとすぐ水で、そこまで木のえだがのびているみぎわちかく、帆をかけたまま、大きなふねをこぎよせることもできました。\n さて、この林のなかに、うつくしいこえでうたう、一羽のさよなきどりがすんでいましたが、そのなきごえがいかにもいいので、日びのいとなみにおわれているまずしい漁師ですらも、晩、網をあげにでていって、ふと、このことりのうたが耳にはいると、ついたちどまって、ききほれてしまいました。\n「どうもたまらない。なんていいこえなんだ。」と、漁師はいいましたが、やがてしごとにかかると、それなり、さよなきどりのこともわすれていました。でもつぎの晩、さよなきどりのうたっているところへ、漁師がまた網にでてきました。そうして、またおなじことをいいました。\n「どうもたまらない、なんていいこえなんだ。」\n せかいじゅうのくにぐにから、旅行者が皇帝のみやこにやってきました。そうして、皇帝の御殿と御苑のりっぱなのにかんしんしましたが、やはり、このさよなきどりのうたをきくと、口をそろえて、\n「どうもこれがいっとうだな。」といいました。で、旅行者たちは、国にかえりますと、まずことりのはなしをしました。学者たちは、その都と御殿と御苑のことをいろいろと本にかきました。でもさよなきどりのことはけっして忘れないどころか、この国いちばんはこれだときめてしまいました。それから、詩のつくれるひとたちは、深いみずうみのほとりの林にうたう、さよなきどりのことばかりを、この上ないうつくしい詩につくりました。\n こういう本は、世界じゅうひろまって、やがてそのなかの二三冊は、皇帝のお手もとにとどきました。皇帝は金のいすにこしをかけて、なんべんもなんべんもおよみになって、いちいちわが意をえたりというように、うなずかれました。ごじぶんの都や御殿や御苑のことを、うつくしい筆でしるしているのをよむのは、なるほどたのしいことでした。\n「さはいえど、なお、さよなきどりこそ、こよなきものなれ。」と、そのあとにしかし、ちゃんとかいてありました。\n「はてな。」と、皇帝は首をおかしげになりました。「さよなきどりというか。そんな鳥のいることはとんとしらなかった。そんな鳥がこの帝国のうちに、しかも、この庭うちにすんでいるというのか。ついきいたこともなかったわい。それほどのものを、本でよんではじめてしるとは、いったいどうしたことだ。」\n そこで皇帝は、さっそく侍従長をおめしになりました。この役人は、たいそう、かくしきばった男で、みぶんの下のものが、おそるおそるはなしかけたり、または、ものでもたずねても、ただ「ペ」とこたえるだけでした。ただしこの「ペ」というのに、べつだんのいみはないのです。\n「この本でみると、ここにさよなきどりというふしぎな鳥がいることになっているが。」と、皇帝はおたずねになりました。「しかもそれがわが大帝国内で、これが第一等のものだとしている。それをどうして、いままでわたしにいわなかったのであるか。」\n「わたくしもまだ、そのようなもののあることは、うけたまわったことがございません。」と、侍従長はいいました。「ついぞまだ、宮中へすいさんいたしたこともございません。」\n「こんばん、さっそく、そのさよなきどりとやらをつれてまいって、わがめんぜんでうたわせてみせよ。」と、皇帝はおっしゃいました。「みすみす、じぶんがもっていて、世界じゅうそれをしっているのに、かんじんのわたしが、しらないではすまされまい。」\n「ついぞはや、これまでききおよばないことでございます。」と、侍従長は申しました。「さっそくたずねてみまする。みつけてまいりまする。」\n さて、そうはおこたえ申しあげたものの、どこへいって、それをみつけたものでしょう。侍従長は御殿じゅうの階段を上ったり下りたり、廊下や広間のこらずかけぬけました。でもたれにあってきいても、さよなきどりのはなしなんか、きいたというものはありません。そこで侍従長は、また皇帝のごぜんにかけもどってきて、さよなきどりのことは、本をかきましたものの、かってなつくりばなしにちがいありませんと申しました。\n「おそれながら陛下、すべて書物にかいてありますことを、そのままお用いになってはなりません。あれはこしらえごとでございます。いわば、妖術魔法のるいでございます。」\n「いや、しかし、わたしがこの鳥のことをよんだ本というのは、」と、皇帝はおっしゃいました。「叡聖文武なる日本皇帝よりおくられたもので、それにうそいつわりの書いてあろうはずはないぞ。わたしはぜひとも、さよなきどりのこえをきく。どうあっても、こんばんつれてまいれ。かれはわたしの第一のきにいりであるぞ。それゆえ、そのとおり、とりはからわぬにおいては、この宮中につかえるたれかれのこらず、夕食ののち、横ッ腹をふむことにいたすから、さようこころえよ。」\n「チン ペ。」と、侍従長は申しました。それからまた、ありったけの階段を上ったり下りたり、廊下や広間をのこらずかけぬけました。御殿の役人たちも、たれでも横ッ腹をふみにじられたくはないので、そのはんぶんは、いっしょになって、かけまわりました。そこで、世界じゅうがしっていて、御殿にいるひとたちだけがしらない、ふしぎな、さよなきどりのそうさくが、はじまりました。\n とうとうおしまいに、役人たちのつかまえたのは、お台所の下ばたらきのしがないむすめでした。そのむすめは、こういいました、\n「まあ、さよなきどりですって、わたしはよくしっておりますわ。ええ、なんていいこえでうたうでしょう。まいばん、わたくしは、びょうきでねている、かわいそうなかあさんのところへ、ごちそうのおあまりを、いただいてもっていくことにしておりますの。かあさんは、湖水のふちに、すんでいましてね、そこからわたしがかえってくるとき、くたびれて、林のなかでやすんでいますと、さよなきどりの歌がきこえます。きいているうち、まるでかあさんに、ほおずりしてもらうようなきもちになりましてね、つい涙がでてくるのでございます。」\n「これこれ、女中。」と、侍従長はいいました。「おまえに、お台所でしっかりした役をつけてやって、おかみがお食事をめしあがるところを、おがめるようにしてあげる。そのかわり、そのさよなきどりのいるところへ、あんないしてもらいたい。あの鳥は、さっそく、こんばん、ごぜんにめされるのでな。」\n そこでみんな、そのむすめについて、さよなきどりがいつもうたうという、林のなかへはいって行きました。御殿のお役人が、はんぶんまで、いっしょについていきました。みんながぞろぞろ、ならんであるいて行きますと、いっぴきのめうしが、もうと、なきだしました。\n「やあ。」と、わかい小姓がいいました。「これでわかったよ。ちいさないきものにしては、どうもめずらしくしっかりしたこえだ。あれなら、たしかもうせん、きいたことがあるぞ。」\n「いいえ、あれはめうしが、うなっているのよ。」と、お台所の下ばたらきむすめがいいました。\n「鳥のところまでは、まだなかなかですわ。」\n こんどはかえるが、ぬまの中で、けろけろとなきはじめました。\n「りっぱなこえだ。」と、皇室づきの説教師がいいました。「これ、どこかに、さよなきどりのこえをききつけましたぞ。まるでお寺のちいさなかねがなるようじゃ。」\n「いいえ、あれはかえるでございますわ。」と、お台所むすめはいいました。「でも、ここまでくれは、もうじき鳥もきこえるでしょう。」\n こういっているとき、ちょうどさよなきどりが、なきはじめました。\n「ああ、あれです。」と、むすめはいいました。「ほら、あすこに、とまっているでしょう。」\n こういって、このむすめは、むこうの枝にとまっている、灰色したことりを、ゆびさしました。"
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"content": "「はてね。」と、侍従長はいいました。「あんなようすをしているとは、おもいもよらなかったよ。なんてつまらない鳥なんだ。われわれ高貴のものが、おおぜいそばにきたのにおじて、羽根のいろもなくしてしまったにちがいない。」\n「さよなきどりちゃん。」と、お台所むすめは、大きなこえで、いいました。「陛下さまが、ぜひごぜんで、うたわせて、ききたいとおっしゃるのよ。」\n「それはけっこうこの上なしです。」と、さよなきどりはいいました。そうして、さっそくうたいだしましたが、そのこえのよさといったらありません。\n「まるで玻璃鐘の音じゃな。」と、侍従長はいいました。「あのちいさなのどが、よくもうごくものだ。どうもいままであれをきいていなかったのがふしぎだ。あれなら宮中でも、上上のお首尾じゃろう。」\n「陛下さまのごぜんですから、もういちどうたうことにいたしましょうか。」と、さよなきどりはいいましたが、それは、皇帝ごじしんそこの場にきておいでになることと、おもっていたからでした。\n「いや、あっぱれなる小歌手、さよなきどりくん。」と、侍従長はいいました。「こんばん、宮中のえんかいに、君を招待するのは、大いによろこばしいことです。君は、かならずそのうつくしいこえで、わが叡聖文武なる皇帝陛下を、うっとりとさせられることでござろう。」\n「わたしのうたは、林の青葉の中できいていただくのに、かぎるのですがね。」と、さよなきどりはいいました。でも、ぜひにという陛下のおのぞみだときいて、いそいそついていきました。\n 御殿はうつくしく、かざりたてられました。せとものでできているかべも、ゆかも、何千とない金のランプのひかりで、きらきらかがやいていました。れいの、りりり、りりりとなるうつくしい花は、のこらずお廊下のところにならべられました。そこを、人びとがあちこちとはしりまわると、そのあおりかぜで、のこらずのすずがなりひびいて、じぶんのこえもきこえないほどでした。\n 皇帝のおでましになる大ひろまのまん中に、金のとまり木がおかれました。それにあのさよなきどりがとまることになっていました。宮中の役人たちのこらず、そこにならびました。あのお台所の下ばたらきむすめも、いまではせいしきに、宮中づきのごぜん部係にとりたてられたので、ひろ間のとびらのうしろにたつことをゆるされました。みんな大礼服のはれすがたで、いっせいに、陛下がえしゃくなさった灰いろのことりに目をむけました。\n さて、さよなきどりは、まことにすばらしくうたってのけたので、皇帝のお目にはなみだが、みるみるあふれてきて、それがほおをつたわって、ながれおちたほどでした。するとさよなきどりは、なおといっそういいこえで、それは、人びとのこころのおくそこに、じいんとしみいるように、うたいました。陛下は、たいそう、およろこびになって、さよなきどりのくびに、ごじぶんの、金のうわぐつをかけてやろうとおっしゃいました。しかし、さよなきどりは、ありがとうございますが、もうじゅうぶんに、ごほうびは、いただいておりますといいました。\n「わたくしは、陛下のお目になみだのやどったところを、はいけんいたしました。もうそれだけで、わたくしには、それがなによりもけっこうなたからでございます。皇帝の涙というものは、かくべつなちからをもっております。神かけて、もうそれが身にあまるごほうびでございます。」\n こういって、そのとき、さよなきどりは、またもこえをはりあげて、あまい、たのしいうたをうたいました。\n「まあ、ついぞおぼえのない、いかにもやさしくなでさすられるようなかんじでございますわ。」と、まわりにたった貴婦人たちがいいました。それからというもの、このご婦人たちは、ひとからはなしかけられると、まず口に水をふくんで、わざとぐぐとやって、それで、さよなきどりになったつもりでいました。とうとう、すえずえの、べっとうとか、おはしたというひとたちまでが、この鳥には、すっかりかんしんしたと、いいだしました。\n この連中をまんぞくさせることは、この世の中でおよそむずかしいことでしたから、これはたいしたことでした。つまり、さよなきどりは、ほんとうに、うまくやってのけたわけでした。\n さて、さよなきどりは、それなり宮中にとめられることになりました。じぶん用のとりかごをいただいて、まいにち、ひる二どと、よるいちどとだけ、外出をゆるされました。でかけるときには、十二人のめしつかいがひとりひとり、とりのあしにむすびつけたきぬいとを、しっかりもって、おともをして行きました。こんなふうにしてでかけたのでは、いっこうにおもしろいはずがありませんでした。\n このめずらしいさよなきどりのことは、みやこじゅうのひょうばんになりました。そうして、ふたりであえば、そのひとりが、\n「*さよ。」と、いうと、あいては、「なき。」とこたえます。\n\n*デンマークの原語では「ナデル(小夜)」。「ガール(啼鳥)」。「ガール」にはおばかさんの意味もある。\n\n それから、ふたりはほっとためいきをついて、それでおたがい、わけがわかっていました。いや、物売のこどもまでが、十一人も、さよなきどりという名をつけられたくらいです。でも、そのうちのひとりとして、ふしらしいもののうたえるのどでは、ありませんでした。――\n ところで、ある日、皇帝のおてもとに、大きな小包がとどきました。その包のうわがきに、「さよなきどり。」と、ありました。\n「さあ、わが国の有名なことりのことを書いたしょもつが、またきたわい。」\n 皇帝はこうおっしゃいましたが、こんどは、本ではなくて、はこにはいった、ちいさなさいく物でした。それはほんものにみまがうこしらえものの、さよなきどりでしたが、ダイヤモンドだの、ルビイだの、サファイヤだのの宝石が、ちりばめてありました。ねじをまくと、さっそく、このさいく物の鳥は、ほんものの鳥のうたうとおりを、ひとふしうたいました。そうして、上したに尾をうごかすと、金や、銀が、きらきらひかりました。首のまわりに、ちいさなリボンがいわえつけてあって、それに、\n「日本皇帝のさよなきどり、中華皇帝のそれにはおよびもつかぬ、おはずかしきものながら。」と、書いてありました。\n「これはたいしたものだ。」と、みんなはいいました。そうして、このさいく物のことりをはこんできたものは、さっそく、帝室さよなきどり献上使、というしょうごうをたまわりました。\n「いっしょになかしたら、さぞおもしろい二部合唱がきけるだろう。」\n そこで、ふたつのさよなきどりは、いっしょにうたうことになりました。でも、これはうまくいきませんでした。それは、ほんもののさよなきどりは、かってに、じぶんのふしでうたって行きましたし、さいく物のことりは、ワルツのふしでやったからでした。\n「いや、これはさいく物のことりがわるいのではございません。」と、宮内楽師長がいいました。「どうしてふしはたしかなもので、わたくしどもの流儀にまったくかなっております。」\n そこで、こんどは、さいく物のことりだけがうたいました。ほんもののとおなじようにうまくやって、しかもちょいとみたところでは、ほんものよりは、ずっときれいでした。それはまるで腕輪か、胸にとめるピンのように、ぴかぴかひかっていました。\n さいく物のことりは、おなじところを三十三回も、うたいましたが、くたびれたようすもありませんでした。みんなはそれでも、もういちどはじめから、ききなおしたいようでしたが、皇帝は、いきているさよなきどりにも、なにかうたわせようじゃないかと、おっしゃいました。――ところが、それはどこへいったのでしょう。たれひとりとして、ほんもののさよなきどりが、あいていたまどからとびだして、もとのみどりの森にかえっていったことに、気づいたものは、ありませんでした。\n「いったい、これはどうしたというわけなのか。」と、皇帝はおっしゃいました。ところが、御殿の人たちは、ほんもののさよなきどりのことを、わるくいって、あのさよなきどりのやつ、ずいぶん恩しらずだといいました。\n「なあに、こちらには、世界一上等の鳥がいるのだ。」と、みんないいました。\n そこで、さいく物のことりが、またうたわせられることになりました。これで三十四回おなじうたをきくわけになったのですが、それでもなかなか、ふしがむずかしいので、たれにもよくおぼえることができませんでした。で、楽師長は、よけいこのとりをほめちぎって、これはまったく、ほんもののさよなきどりにくらべて、つくりといい、たくさんのみごとなダイヤモンド飾りといい、ことさら、なかのしかけといったら、どうして、ほんものよりはずっとりっぱなものだといいきりました。\n「なぜと申しまするに、みなさま、とりわけ陛下におかせられまして、ごらんのとおり、ほんもののさよなきどりにいたしますると、つぎになにをうたいだすか、まえもって、はかりしることができません。しかるに、このさいくどりにおきましては、すべてがはっきりきまっております。かならずそうなって、かわることがございません。これはこうだと、せつめいができます。なかをあけて、どうワルツがいれてあるか、それがうたいすすんで、歌がつぎからつぎへとうつって行きますぐあいを、人民ども、だれのあたまにもはいるように、しめしてみせることが、できるのでございます――。」"
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"role": "user",
"content": " しかし、その董卓も、当時の暴臣どもも、多くは、すでに異郷で白骨になっている。――ただ今なお、董卓の遺臣の郭汜、李傕のふたりがあくまで、漢室の癌となって、帝に禍いしていた。\n 漢室と董卓とは、思えば、よほどの悪因縁に見える。\n「人は住んでいないのであろうか」\n 帝は、あまりの淋しさに、扈従の人々をかえりみて問われた。\n「以前の城門街あたりに、みすぼらしい茅屋が、数百戸あるようです。――それも連年の飢饉や疫病のために、辛くも暮している民ばかりのようです」\n 侍臣は、そうお答えした。\n その後、公卿たちは、戸帳を作り、住民の数を詮議し、同時に年号も、\n 建安元年\n と、改元した。\n 何にしても、皇居の仮普請が急がれたが、そういう状態なので、土木を起すにも人力はなし、また、朝廷に財もないので、きわめて粗末なただ雨露をしのぎ、政事を執るに足るだけの仮御所がそこに建てられた。\n ところが。\n 仮御所は建っても、供御の穀物もなければ、百官の食糧もない。\n 尚書郎以下の者は、みな跣足となり、廃園の瓦を起して、畑を耕し、樹の皮をはいで餅とし、草の根を煮て汁としたりして、その日その日の生計に働いた。\n また、それ以上の役人でも、どうせ朝廟の政務といっても、さし当って何もないので、暇があれば、山に入って木の実を採り、鳥獣を漁り、薪や柴を伐りあつめて来て、辛くも、帝の供御を調えた。\n「あさましい世を見るものであります。けれど、いつまでこうしていても、ひとりでに、忠臣が顕れ、万戸が建ち並んで、昔日の洛陽にかえろうとも思われません。――なんとかご思案なければなりますまい」\n 或る時、太尉楊彪から、それとなく帝に奏上した。\n もとより、帝にも、「よい策だにあれば」という思召しであるから、楊彪に、如何にせばよいかと、ご下問あると、楊彪はここに一策ありと次のような意見をのべた。\n「今、山東の曹操は、良将謀士を麾下に集めて、蓄うところの兵数十万といわれています。ただ、彼に今ないものは、その旗幟の上に唱える大義の名分のみです。――今もし、天子、勅を下し給うて、社稷の守りをお命じあれば、曹操は風を望んで参りましょう」\n 帝は、楊彪の意見を、許容なされた。そこで間もなく、勅使は洛陽を立って、山東へ急ぎ下った。\n\n二\n\n 山東の地は遠いが、帝が洛陽へ還幸されたことは、いちはやく聞えていた。\n 黄河の水は一日に千里を下る。夜の明けるたび、舟行の客は新しい噂を諸地方へ撒いてゆく。\n「目に見えないが大きく動いている。刻々、動いて休まない天体と地上。......ああ偉大だ、悠久な運行だ。大丈夫たる者、この間に生れて、真に、生き甲斐ある生命をつかまないでどうする! おれもあの群星の中の一星であるに」\n 曹操は天を仰いでいた。\n 山東の気温はまだ晩秋だった。城楼の上、銀河は煙り、星夜の天は美しかった。\n 彼も今は往年の白面慷慨の一青年ではない。\n 山東一帯を鎮撫してから、一躍建徳将軍に封ぜられ、費亭侯の爵に叙せられ、養うところの兵二十万、帷幕に持つ謀士勇将の数も、今や彼の大志を行うに不足でなかった。\n「これからだ!」\n 彼は、自分にいう。\n「曹操が、曹操の生命を真につかむのは、これからだ。――われこの土に生れたり矣。――見よ、これからだぞ」\n 彼は、今の小成と栄華と、人爵とをもって、甘んじる男ではなかった。\n その兵は、現状の無事を保守する番兵ではない。攻進を目ざしてやまない兵だ。その城は、今の幸福を偸む逸楽の寝床ではない、前進また前進の足場である。彼の抱負ははかり知れないほど大きい。彼の夢はたぶんに、詩人的な幻想をふくんではいる。けれど、詩人の意思のごとく弱くない。\n「将軍。......そんな所においででしたか。宴席からお姿が見えなくなったので、皆どこへ行かれたのかと呟いています」\n「やあ、夏侯惇か。いつになく今夜は酔ったので、独り酒を醒ましに出ていた」\n「まさに、長夜の御宴にふさわしい晩ですな」\n「まだまだ歓楽も、おれはこんなことでは足らない」\n「――が、みな満足しております」\n「小さい人々だ」\n そこへ、曹操の弟曹仁が、なにか、緊張した眼ざしをして登って来た。\n「兄上っ」\n「なんだ、あわただしく」\n「ただ今、県城から早打ちが来ました。洛陽から天子の勅使が下向されるそうです」\n「わしへ?」\n「もとよりです。黄河を上陸って旅途をつづけ、勅使の一行は、明日あたり領内へ着こうとの知らせでした」\n「ついに来たか、ついに来たか」\n「え。――兄上には、もう分っていたんですか」\n「分るも分らぬもない。来るべきものが当然に来たのだ」\n「ははあ......?」\n「ちょうど今宵はみな宴席にいるな」\n「はい」\n「口を嗽ぎ、手を浄め、酒面を洗って、大評議の閣へ集まれと伝えろ。わしも直ぐそれへ臨むであろう」\n「はっ」\n 曹仁は、馳け去った。\n 楼台を降った曹操は、冷泉に嗽いし、衣服をかえ、帯剣を鏘々と鳴らしながら、石廊を大歩して行った。\n 閣の大広間には、すでに群臣が集まっていた。たった今まで酒席にはしゃいでいた諸将も、一瞬に、姿勢を正し、烱々と眸をそろえながら、大将曹操の姿を迎えた。\n「荀彧」\n 曹操は、指名して云った。\n「きのう、そちが予に向って吐いた意見を、そのまま、この席でのべろ。――勅使はすでに山東に下られている。曹操の肚はもうきまっているが、一応荀彧から大義を明らかにのべさせる。荀彧、立て」\n「はっ」\n 荀彧は起立して、今、天子を扶くる者は、英雄の大徳であり、天下の人心を収める大略であるという意見を、理論立てて滔々と演説した。\n\n三\n\n 勅使が、山東へ降ってから、一ヵ月ほど後のことである。\n「たいへんです」\n 洛陽の朝臣は、根をふるわれた落葉のように、仮普請の宮門を出入りして、みな顔色を失っていた。\n 一騎。\n また、一騎。\n この日、早馬が引きもきらず、貧しい宮門に着いて、鞍から飛びおりた物見の武士は、転ぶが如く次々に奥へかくれた。\n「董承。いかにせばよいであろうか」\n 帝のお顔には、この夏から秋頃の、恐ろしい思い出がまた、深刻ににじみ出ているのが仰がれた。\n 李傕と郭汜の二軍が、その後、大軍を整え、捲土重来して、洛陽へ攻め上って来るとの急報が伝えられて来たのである。\n「曹操へつかわした使者はまだ帰らず、朕、いずこにか身を隠さん」\n と、帝は、諸臣に急を諮りながら、呪われたご運命を、眸のうちに哭いておられた。\n「ぜひもありません」\n 董承は、頭をたれて、\n「――この上は、再び、仮宮をお捨てあって、曹操が方へ、お落ちになられるが、上策かと思われますが」\n すると、楊奉、韓暹の二人がいった。\n「曹操をお頼りあるも、曹操の心の程はわかりません。彼にも如何なる野心があるか、知れたものではないでしょう。――それよりは、臣らがある限りの兵をひっさげて、賊を防いでみます」\n「お言葉は勇ましいが、門郭城壁の構えもなく、兵も少ないのに、どうして防ぎきれようか」\n「侮り給うな。われらも武人だ」\n「いや、万一、敗れてからでは、間に合わぬ。天子を何処へお移し申すか。暴賊の手にまかすような破滅となったら、それこそおのおのの武勇も......」\n と、争っているところへ、室の外で、誰か二、三の人々が呶鳴った。\n「何を長々しいご詮議だて、そんな場合ではありませんぞ、もはや敵の先鋒が、あれあのとおり、馬煙をあげ、鼓を鳴らして、近づいて来るではありませんかっ」\n 帝は、驚愕して、座を起たれ、皇后の御手を取って、皇居の裏から御車にかくれた。侍衛の人々、文武の諸官、追うもあり、残るもあり、一時に混雑に陥ちてしまった。\n 御車は、南へ向って、あわただしく落ちて行かれた。\n 街道の道の辺には、飢民が幾人もたおれていた。\n 飢えた百姓の子や老爺は、枯れ草の根を掘りちらしていた。餓鬼のごとく、冬の虫を見つけて、むしゃむしゃ喰っている。腹膨れの幼児があるかと思うと、土を舐めながら、どんよりした眼で、\n ――なぜ生れたのか。"
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"role": "assistant",
"content": " と云いたげに、この世の空をぼんやり見ている女がある。\n 奔馬や、帝の御車や、裸足のままの公卿たちや、戟をかかえた兵や将や、激流のような一陣の砂けむりが、うろたえた喚き声をつつんで、その前を通って行った。\n 土を舐め、草の根を喰っている、無数の飢えたる眼の前を後から後から通って行くのであった。\n「アレ。なにけ? ......」\n「なんじゃろ?」\n 無智な飢民の眼には、悲しむべきこの実相も、なんの異変とも映らぬもののようだった。\n 戟の光を見ても、悍馬のいななきを聞いても、その眼や耳は、おどろきを失っていた。恐怖する知覚さえ喪失している飢民の群れだった。\n ――が、やがて。\n 李傕、郭汜の大軍が、帝の御車を追って、後方から真っ黒に地をおおって来ると、どこへくぐってしまったものか、もう飢民の影も、鳥一羽も、野には見えなかった。\n\n四\n\n 砂塵と悲鳴につつまれながら、帝の御車は辛くも十数里を奔って来られたが、ふと行く手の曠野に横たわる丘の一端から、たちまち、漠々たる馬煙が立昇って来るのが見えたので、\n「や、や?」\n「あの大軍は?」\n「敵ではないか?」\n「早......前にも敵か?」\n と、扈従の宮人たちは、みなさわぎ立て、帝にも、愕然と眉をひそめられた。\n 進退ここにきわまるかと、御車に従う者たちが度を失って喚くので、皇后も泣き声を洩らさせ給い、帝も、御簾のうちから幾度となく、\n「道を変えよ」と叫ばれた。\n しかし、今さら道を変えて奔ってもどうなろう。後ろも敵軍、前も敵軍。\n そう考えたか、扈従の武臣朝官たちは、早くもここを最期と叫んだり、或る者は、逃げる工夫に血眼をさまよわせていた。\n ところへ!\n 彼方から唯二、三騎。それは武者とも見えない扮装の者が、何か懸命に大声をあげながら、こなたへ馳けて来るのが見えた。\n「あっ。見たような」\n「朝臣らしいぞ」\n「そうだ、前に、勅使として、山東へ下った者たちだ」\n 意外。その人々は、やがて息せきながら駒を飛び降りるや、御車の前へひれ伏して、\n「陛下。ただ今帰りました」\n と、奏上した。\n 帝には、なお、怪訝りのとけぬご容子で、\n「あれに見ゆる大軍は、そも、何ものの軍勢か」\n「さればにて候、――山東の曹将軍には、われらを迎え、詔勅を拝するや、即日、お味方を号令し給い、その第一陣として、夏侯惇、そのほか十余将の御幕下に、五万の兵を授けられ、はやこれまで参ったものでござりまする」\n「えっ......ではお味方に馳せ上った山東の兵よな」\n 御車の周囲にひしめいていた人々は、使者のことばを聞くと、一度に生色を取りもどし躍り上がらんばかりに狂喜した。\n そこへ、鏘々たる鎧光をあつめた一隊の駿馬は早、近づいて来た。\n 夏侯惇、許褚、典韋などを先にして、山東の猛将十数名であった。\n 御車を見ると、\n「礼!」\n と、戒め合って、さすがに規律正しく一斉にザザザッと、鞍から飛びおりた。\n そして、列を正しながら、約十歩ほど出て、夏侯惇が一同を代表していった。\n「ご覧の如く、臣ら、長途を急ぎ参って、甲冑を帯し、剣を横たえておりますれば、謹んで、闕下にご謁を賜う身仕度もいたしかねます。――願わくは、軍旗をもって、直奏おゆるしあらんことを」\n さすがに聞えた山東の勇将、言語明晰、態度も立派だった。\n 帝は、一時のお歓びばかりでなく、いとど頼母しく思し召されて、\n「鞍馬長途の馳駆、なんで服装を問おう。今日、朕が危急に馳せ参った労と忠節に対しては、他日、必ず重き恩賞をもって酬ゆるであろうぞ」\n と、宣うた。\n 夏侯惇以下、謹んで再拝した。\n その後で夏侯惇はふたたび、\n「主人曹操は、大軍を調うため、数日の暇を要しますが、臣ら、先鋒として、これに参りましたからには、何とぞ、御心安らかに、何事もおまかせおき給わりますように」と、奏した。\n 帝は、御眉を開いてうなずかれた。\n 御車をかこむ武臣も宮人たちも、異口同音、万歳万歳を歓呼した。\n ――ところへ、\n「東の方より敵が見える」と、告げる者があった。\n\n五\n\n「いや、敵ではあるまい。お鎮まりあれ」と、夏侯惇はすぐ馬を駆って、鞍の上からはるかへ手をかざしていたが、やがて戻って来ると、一同へ告げた。\n「案のごとく、ただ今、東方から続々と影を見せて来た軍勢は、敵にはあらで、曹将軍の御弟曹洪を大将とし、李典、楽進を副将として、先陣の後ろ備えとして参った歩兵勢三万にござります」\n 帝は、いやが上にも、歓ばれて、\n「またも、味方の勢か」\n と、一度に御心を安んじて、かえって、がっかりなされたほどだった。\n 間もなく、曹洪の歩兵勢も、着陣の鐘を鳴らし、万歳の声のうちに、大将曹洪は、聖駕の前へ進んで礼を施した。\n 帝は、曹洪を見て、「御身の兄曹操こそ、真に、朕が社稷の臣である」といわれた。\n 都落ちのはかない轍を地に描いて来た御車は、いちやく、八万の精兵に擁せられて、その轍の跡をすぐ洛陽へ引っ返して行った。\n ――とは知らず、洛陽を突破して、殺到した郭汜、李傕の聯合勢は、その前方に、思わぬ大軍が上って来るのを見て、\n「はてな?」と、眼をこすった。\n「いぶかしいことではある。朝臣のうちに、何者か、妖邪の法を行う者があるのではないか。たった今、わずかの近臣をつれて逃げのびた帝のまわりに、あのような軍馬が一時に現れるわけはない。妖術をもって、われらの目をくらましている幻の兵だ。恐るることはない。突き破れ」\n と、当って来た。\n 幻の兵は、強かった。現実に、山東軍の新しい兵備と、勃興的な闘志を示した。\n 何かは堪るべき。\n 雑軍に等しい――しかも旧態依然たる李傕や郭汜の兵は存分に打ちのめされて、十方へ散乱した。\n「血祭の第一戦だ。――斬って斬って斬りまくれ」\n 夏侯惇は、荒ぶる兵へ、なおさら気負いかけた。\n 血、血、血――曠野から洛陽の中まで、道は血しおでつながった。\n その日、半日だけで、馘った敵屍体の数は、一万余と称せられた。\n 黄昏ごろ。\n 帝は玉体につつがもなく、洛陽の故宮へ入御され、兵馬は城外に陣を取って、旺なる篝火を焚いた。\n 幾年ぶりかで、洛陽の地上に、約八、九万の軍馬が屯したのである。篝火に仄赤く空が染められただけでも、その夜、帝のお眠りは久々ぶりに深かったに違いない。\n 程なく。\n 曹操もまた、大軍を率いて、洛陽へ上って来た。その勢威だけでも、敵は雲散霧消してしまった。\n「曹操が上洛した」\n「曹将軍が上られた」\n 人心は日輪を仰ぐごとく彼の姿を待った。彼の名は、彼が作ったわけでもない大きな人気につつまれて洛陽の紫雲に浮かび上がってきた。\n 彼が、都に入る日、その旗本はすべて、朱い盔、朱地金襴の戦袍、朱柄の槍、朱い幟旗を揃えて、八卦の吉瑞にかたどって陣列を立て、その中央に、大将曹操をかこんで、一鼓六足、大地を踏み鳴らして入城した。\n 迎える者、仰ぐ者、\n「この人こそ、兵馬の長者」と懼れぬはなかった。\n が、曹操は、さして驕らず、すぐ帝にまみえて、しかも、帝のおゆるしのないうちは、階下に低く屈して、貧弱な仮宮とはいえ、いたずらに殿上を踏まなかった。\n\n火星と金星\n\n一\n"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " とかなんとか、店子の人柄に期待をかけ、アメリカの家賃に依存して、なり振りかまわず、気がねなく貧乏のできるバラック仕立ての楽園に、一日も長く居据わることをねがっていたが、接収解除の布告についで、五月のはじめ、家屋返還通知のハガキが届いた。引渡しに先だって、五月四日の午前十一時から、家具什器の点検引合わせ、ならびに建築構造物の損傷改変の有無を調査するから、立ち会うようにという命令なのである。\n 石田家におけるその夜の家族会議は、湿りに湿って、露もしとどのありさまだった。\n 家族会議といっても、長男の五十雄君はつづきの六畳で寝て居り、生臭い人生と一切やりとりをしない気でいる長女の千々子さまは、自分の居場所にきめている玄関の三畳へひっこんで音もたてない。\n けっきょくのところ、破れ褞袍を重ねにした石田氏と、ほつれ放題の男物のカーディガンをひっかけて髪をふり乱した賢夫人が、六年の間、ただの一度も片附けられたことのない茶の間のチャブ台を挾んで向きあい、かくいう次女の百々子がオブザアバーの格で、ほどいいところに、漫然と介在しているにすぎない。\n「あなたは、どうか知れませんが、あたしにとっては、このうえもない気楽な境涯でした。六年間ぐらい、人間らしい生活をしたことはありませんでしたね......ご近所は、気のいいおかみさんばかりで、草履と下駄をちんばに穿いて駆けだしたって笑いもしないし、大根の一本買いも、ここじゃあたり前のことで、照れないですみます。要るものは、みな手近にあって、なんでも居なりで用が足りるし......こういっちゃなんですが、きれいにする精もないから、お掃除なんかもしない。めんどくさいと、茶の間へ七輪を持ちこんで、朝から小鍋立てというんです。あなたにしたって、結構すぎるくらいのものだったでしょう。この生活に別れるのだと思うと......」\n 嘘かまことか、賢夫人は調達局のハガキをながめながら、綿々と失楽園の嘆きをうたいあげた。\n この点、石田氏も同感なので、愚痴のひとつもいいたいところだったのだろうが、それでは見識にかかわると思ったのか、\n「今更そんなことをいってみたって、どうにもなりはしない。問題は、あの家で、どう、やりくりしていくかということなんだ。お前さんのつもりは、どうなんだね?」\n「あたしのつもりをきかれたって、お返事のしようがありませんね。どうせ、あたしの力には及ばないことなんですから......わずかばかりの俸給で、あの大きな邸を、どう切りまわせとおっしゃるんです? それはご無理というものですわ」\n「俺の俸給の高は、いわなくともわかっている。あれは真理や原則のようなもので、たやすく動くことはない。来年になれば、急に十倍になるなんて性質のものではない。俸給のことをとやかくいうのは、言いがかりというものだ。相談をしているんだから、相談をしているような返事をしなくてはいけない」\n「そうおっしゃいますが、これは相談にはなるまいと思うんです。あなたとあたしと、考えていることの根本がちがうんですから」\n「へえ、どういう点で?」\n「あなたは邸に移ることにきめていらっしゃるようですが、あたしは、なんとかしてあそこへ住まずにすめるように......つまりは、この生活をつづける方法がないものかと、そればっかり考えているんです。この点を調整しないかぎり、相談など、成り立つわけはなかろうじゃありませんか」\n「そうねがえるなら、俺にとっても、これ以上のことはない。なにか、名案でもあるのかね」\n「あの邸を都へ寄附して、博物館にでもしてもらうわけにはいかないのでしょうか」\n「夫婦は同体というが、頭のなかまで似ているとは思わなかった。苦しまぎれに、俺もそんなことを考えたことがあったが、いまとなっては、そういうこともできない」\n「どうしてでしょう」\n「役所では、俺の顔を見るたびに、どいつもこいつも、おめでとう、おめでとうという。俺には、皮肉を言われているとしか思えないんだが、そう言われたうえは、どうしたって、ひっこみがつかない。どんなことがあったって、帰らぬわけにはいかんじゃないか」\n「そうでしょうか」\n「このバラック住まいは、俺にとっても、涙のでるほどありがたいものだったが、それも、住むべき家を接収されたという、国家的な建前があったればこそで、解除になった以上、どう理由をつけたって、これ以上こんなところに住んでいるわけにはいかない......なまじい、下手な工作をしたりすると、腹のなかを見ぬかれてしまう。あきらめて当座の運命に従うほかはない......このハガキに、こう書いてある......個人住宅が旧所有主に返されるときには、新たに、移転料と復帰費用が支払われる。なお、原状回復のため、最高、三ヵ月の賃借料を払う......原状回復というのは、なんのことだかわからないが、三ヵ月の家賃のほかに、移転料と復帰費用をくれるというんだ。どのくらい出すつもりか知らないが、それはそれとして、三ヵ月分の家賃が保証されているわけだから、移るだけは移っておいて、三ヵ月の間に、なんとか方法を考えることにしたらどうだろう」\n「あたしの意志がよく通じなかったようですが、明日から、すぐどうなるなんてことを、心配しているわけじゃないんですよ。あなたは忘れていらっしゃるようですが、お家賃は、最初から三月後の後払いで、一昨日、四月三十日に受け取ったのは、一月の分でしたから、二、三、四と、あとまだ三ヵ月は、だまっていても、ひきつづいて家賃が入る勘定なんです」\n「すっかり忘れていた。すると、なんだね、原状回復費の三ヵ月分と家賃の三ヵ月分......合わせて六ヵ月は息がつけるわけだ。それだけの時間があったら、なにかいい知慧も出るだろうさ......まずこれでひと安心だ。前途に光明がみえたぞ」\n「さあ、どうでしょう。そんなことで安心していられるなら、誰も心配などしやしません。終戦の直後は、山ノ手の土地や建物は、無代でも貰い手がないような時期でしたから、相続税は......それも切り換え前の旧円で、嘘みたいに安くてすみましたが、こんどの資産の再評価では、基準どおりにピシピシやられるでしょうから、六ヵ月分の家賃をみな投げだしたって、とても追いつく話ではありません。そのほうは、いったいどうなさるおつもりなんです?」\n 石田氏は褞袍の懐手を、大裟袈にうしろへまわし、動物園の猿のようにポリポリ背中を掻きながら、ものをいうたびに波のように揺れるぽってりとした賢夫人の口もとを、貧相な上眼づかいでジロジロとながめていたが、いうことがなくなったとみえて、詰まらなそうな顔で、むっつりと黙りこんでしまった。\n 賢夫人はやめない。肥りすぎた物臭さのせいで、億劫がって、めったに口をきかないが、はずみがついてころがりだすと、とめようにもとまらなくなるのである。\n「言いかけたついでだから、洗いざらい言わせていただきますが、この間の試験だってそうです。高級官吏試験虎の巻、なんていうあやしげな本を読んで、準備ができたらしいようなことをいって、胡魔化していらしたけど、あんないい加減なことじゃ、落第するのがあたりまえです。法規運用問題のほうはともかく、かんじんの農林関係の統計問題が、一つもわからなかったなんて、いくらなんでも、ひどすぎるじゃありませんか」\n「法の根拠や範囲について、原則や習慣が確立していないと、手も足も出ないのが官吏の特性なんだから、これァどうしようもない。何事にも、しっかりした規定があって、それに従って動くようにばかり躾けられてきたのだから、官吏試験などという事例のないことは、俺にはできない。落第したって、べつに恥だとは思わないね」\n「恥でないかもしれないけど、いやですね......試験をいい加減になすったのは、首を切られたって、アメリカの家賃で楽々食えると、あてにもならないことをあてにして、いい気になっていたからでしょう......その結果が、このとおりです。あんな大屋台を背負いこんで、税金を払うために、いまよりひどい暮らしをするなんて、バカげたことがあるでしょうか」\n 石田氏は胸もとから手先だけだし、豊かとはいいにくい、薄手な口髭を撫でていたが、\n「そんなに厄介なら、火をつけて焼いてしまえばいい。それ以外に、手はなかろう」\n 虚無的なことをいって、会議を荒しにかかると、五十雄君が、\n「ちょっと、言わしてもらって、いいですか」\n と、つづきの六畳から仲裁に入った。\n 特攻隊に入る前は、赤くなったり黒くなったり、思想の色目を変えるのにいそがしく、頭脳の発達は、高校の一年生ぐらいのところでとまったが、ベッドにしばりつけられて、天井ばかりながめて暮らしているうちに、すき透るように眼のなかが澄んできて、どこかの聖人みたいな神々しい顔つきになった。めったにものを言わないが、なにかもめごとがあると、単純だが落ち着いた、道徳的な意見をのべる。千々子さまだけは例外だが、石田一家の倫理の規範は、ほとんどすべての場合、ジェラルミンのバックボーンを背負ったわが家の『良心』によって支配される。この楽園において、五十雄君の声は、あたかも神の声に近いものになっているのである\n「鎌倉のなにやら氏の家は、ひどいボロ家だったそうですが、根太からぶちなおして、モデル・ハウスのような立派な洋館になっているそうです......明日は日曜だから、みんなで出かけて行って、実物を見てみたらどうです。またちがった意見が出るかもしれないな」\n 神の声が、そうおっしゃった。\n それで、石田氏夫妻、長女、次女という組合せで、ともかく行って、実物を見てくることになった。\n"
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"role": "assistant",
"content": "\nミスタ・ワニ\n\n一\n\n 石田氏と百々子が寝ている六畳の襖を、千々子さまがホトホトと叩く。\n「ハイヤーが来ますから、起きなさいね」\n「ハイヤーが、どうしたって?」\n「市兵衛町へ行くんでしょう、忘れたの?」\n わが家の楽園のある向山町は、目黒と境を接する渋谷のどんづまりで、空襲で焼けたあとへ、簡易住宅とバラックが、西向きやら東向きやら、てんでの方角へ入口を向け、櫛の歯のようにひしめきあっているので、家と家の間には道らしい道もない。道幅のある恵比須の通りへ出るには、よその家の庭を横切ったり、勝手口を跨いだり、二尺ほどの狭い庇合いを、身体を横にして擦りぬけたりするような芸当を、ものの十五分もやらなくてはならない。わが家の楽園は、そういうややこしい迷路の、奥のまた奥にあって、物見高い訪問者を避けるには恰好の地になっているが、とてもハイヤーなんか、辷りこむセキはないのである。\n「ハイヤーは、どこへ来るっていうの?」\n「恵比須の通りの、薬屋の角......なにをぐずぐずいってるのよッ。起きなさいったら、起きなさい」\n 笑わしてはいけない。恵比須からなら、高級車ですッ飛ばせば、七、八分で市兵衛町へ行く。ところで、わが家のバラックから恵比須の通りへ出るまでには、いま言ったように、歩いて十五分はかかる。車で走るより、車のあるところへ行くのに時間がかかるのでは、なんのためのハイヤーなのか訳がわからない。\n ようすが変なので、玄関の三畳をのぞいてみると、賢夫人が第一装のアフタヌンをすんなりと着こんでいる。千々子さまのほうは半礼装で、戦中、ぽっくりいった愛人と見合いをするとき、たった一度だけした桃色真珠の首飾りをつけ、バラック社会とは縁もゆかりもない、別世界のひとのような顔ですましているのにはおどろいた。\n 五十雄君は、明日になったら意見が変わるだろうと予言したが、市兵衛町へむかしの家を見に行くというだけのことで、七年の間、親昵をかさねてきた庶民生活を、こうも、あっさりと裏切るようでは、この先の変節ぶりが、いまから思いやられるようであった、\n そこへ石田氏が洗いざらしの古浴衣を、寝癖のついた猪首に着、冴えない顔で起きてきたが、二人の突然異変をながめるなり、よほど印象が悪かったとみえて、ツイ眼を外らしてしまった。\n もともと寛容な性なので、かくいう百々子は、そうまでのことはしなかったが、石田氏のほうは、腹をたてて、すっかりひねくれてしまい、わざわざ、袖口に貧のほつれの見えるスコッチの古服に着換え、煤払いに雇われてきた労働者一般といった恰好で、\n「仕度がよかったら、出かけようか」\n と、慇懃に庭先から別世界のひとたちを誘った。\n 庭の木戸から前の横通りへ繰りだすと、なにごとかとおどろいて、流し元から走りだしてきた、七年の朋輩なる近所のおかみさんや小娘は、桃色真珠の光に眼を射られてタジタジになり、わけもわからずに、むやみにお辞儀をするのは、気の毒とも恐縮ともいいようのない光景であった。\n ハイヤーに乗ると間もなく、あっという間に麻布の家の前に着いた。\n 大きな石の門の前に、拳銃をさげたSPのガードが一人立っていたが、石田氏が英文の身分証明を見せると、通ってよろしいと、愛想よくうなずいてみせた。\n 御所造りの表玄関につづく、砂利道をうねり上って行くと、軍所属の家具を引き取りにきた米軍の大トラックが三台、車寄せの前にとまって、空色の労働服を着たアメリカ人が五人ばかり、芝生に寝ころがって煙草を喫っていた。\n それはともかく、あまりにも変わりはてた一帯のようすに、石田の一家は思わず眼を見張った。\n 古代の呪いがかかっているような、くすみにくすんだ大玄関の式台と、欅の大引扉は、眼もさめるような青林檎色のペンキを塗られ、ディッケンスの古いアメリカの絵にある、清教徒の郷土の館邸のようなロマンチックな見かけになっていた。\n 御所造りの一廓につづく、もの佗びた明治風の洋館の屋根は、釉のかかったピカピカ光る緑色の陶瓦に葺きなおされ、無骨な窓枠がはまっていた窓は、のこらず線の細いスチールサッシュにかわり、軒蛇腹と胴蛇腹は、褪紅色と薄桃色の染め分けで、三色クリームのかかったデコレーション・ケーキそっくりという、笑いだしたくなるような花やいだようすを見せている。\n うるさい勾配のついた江戸千家風の茶庭は、いちめんに平らな芝生になり、大きな緋鯉のいる、ひろびろとした丸池があったあたりに、飛込み台と供水ポンプのついたタイル張りのプールができ、いぜん、筋落ちの小滝が、すずしい音をたてていた築山のつづきの崖は、コンクリートで塗りつぶされ、テニス・コートの背壁に使われているという、信じられないような変貌をとげていた。\n 庭もそうだが、長女の変わりかたも、はげしかった。麻布の家の門を入るなり、千々子さまは、ひとがちがったようになってしまった。浮世のことは、万事、嫌といった、ひとの気持を滅入らせるような、じめじめした表情はどこかへ飛んでしまい、思いだし笑いをしたり、口のなかでブツブツいったり、ひとりで浮き浮きしていた。プールとテニス・コートの全景をながめやり、まわりの風致に調和するような音楽的な声で、\n「これが、お化けでも出そうだった、あの気味の悪い邸なんでしょうか......むかしのおもかげなんか、どこにもありませんわねえ」\n と、うっとりしたみたいな声で、石田氏にいった。石田氏は、面白くもないような顔で、舌打ちをしながら、\n「おもかげどころか! あそこをみろ。バカなことをするやつも、あるもんだ」\n と西の地境いのほうを指した。\n 庭端の地境いになるところに、大きな松林があって、真西からさしかける陽を防いでいたものだが、樹齢五百年という有名な黒松の樹牆が、一本のこらず、おなじ高さに頭をちょん切られたうえ、幾何模様のように枝を間引かれてしまったので、地境い一帯が、むやみに陽あたりがよくなっている。\n さすがの百々子も、呆れて、ゲラゲラ笑っていると、お早うございますといって、調達局の調査班だという若いひとがやってきた。\n「さっそくですが、おねがいいたします」\n 引合せの前に、改変の程度を、ざっと下見しておいてくれというので、それから、四人でつながって、邸のなかを見て歩いた。\n 足ついでに、西北にあたる一廓からはじめる。\n 西北の端になるところは、もとは上ノ厠といって、繧繝縁の畳を敷いた、二ノ間付き八畳の厠で、地袋の棚に、書見台と青磁の香炉が載っているという、格調の高い場所だったが、そこが、どういう都合でか、三方にフランス窓をあけた、小粋な小客間に改造されているのには仰天した。\n 植込みのなかに突きだした『ご不浄のサロン』は、芽出しの若葉に三方から囲まれ、ソファに坐って窓のほうを見ると、いぜん、われわれが、しゃがみながらながめたその位置に、むかしどおりの布袋竹と丁字の葉むらが、そよそよと風にそよいでいる。お尻のあたりが、みょうに、こそばゆくて、落ち着いて掛けていることができなかった。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "心霊は信じ得られるか\n\n リーダーズダイジェスト誌の五月号に、『心の領域』というかなり長文の記事がある。デューク大学の「超心理学」実験室長ライン博士の著書の紹介である。\n 超心理学というのは、従来の心理学の範囲を超越した心理現象を研究する学問という意味であろう。たとえば読心術とか、透視(千里眼)とか、予見とかいう種類の精神作用を研究する学問なのである。\n 従来の心理学はもちろん科学の一分野であり、少なくも広い意味での科学の中に含まれている。この超心理学に類似の「学問」は、以前からもあったので、何も珍しいことではない。いわゆる心霊現象の話は、日本でも外国でも昔からあり、み子とか、口寄せとか、妖術師とかいうふうな話は、人類につきものであった。\n もっともこれらは如何なる意味でも学問という形にはなっていなかった。ところが十九世紀の末頃から、心霊現象の研究が、一種の学問の形をとり出した。各国にいろいろな団体などが出来て、こういう現象に特に興味を有する人たちの間では、かなり活溌な運動が展開されてきた。そういう傾向は、日本よりもむしろ科学の発達した欧米諸国の間に強く見られた。英国の有名な物理学者のオリバー・ロッジ卿が、晩年に熱心な心霊研究者となった話はあまりにも有名である。\n 日本のこの種の話は、明治時代の有名な千里眼にしても、近年或る術師が東京の真ん中で何処とかの山から宝剣を飛来させようとした事件にしても、まことに他愛のない子供だましの話であった。しかし欧米の心霊研究者たちの研究の中には、かなり真面目なものがあり、方法も科学的と言い得る方法がとり入れられて来た。そして読心術、或いは精神感応現象くらいまでのところは、科学者の中にも承認する人もあるようであった。\n ところでライン博士の今度の著書にある研究は、従来一部の心霊同好者の間に行われていた不完全な実験を大学の実験室で、数学者と協同して、「科学的」に完全な形で大規模に行なったという点に特徴がある。\n 実験は、読心術即ち精神感応と、透視即ち千里眼と、予見と、精神動力との四種類に分けることが出来る。そしてそれらが全部肯定的な結果となったというのである。以下ダイジェスト誌の記事によって、その簡単な説明をしておこう。\n\n読心術の実験\n\n 一人の人が或る物体または絵を考えている時、他の人が別室またはもっと遠く離れたところにいて、その物体または絵を言いあてる実験である。この実験はオリバー・ロッジ卿時代からいろいろなところでくり返し行われて来たもので、「科学的に研究された最初の心霊現象」ということになっている。\n ライン博士によると、この実験は一九二〇年代に、二つの著名な大学の実験室で行われ、その他にも個人研究者の探究はおびただしいものがあるそうである。そして「およそ調査研究なるものの標準に照らして判断すると、これら実験の結果は、読心作用を相当よく立証するものであった。」そしてこの証明は「すべての科学を支配していた物質主義的思想傾向に対して最も重大な挑戦をなすものであった」という。もっともこれだけの説明では、批判のしようがないが、此処で注意しておく必要のあることは、この証明は、統計的な意味での証明であると思われることである。というのは、もちろん百発百中というのではない、統計学で計算した偶然の暗合よりも適中率が多いという意味と思われる。「およそ調査研究なるものの標準に照らして」というのは、そういう意味であろう。\n\n透視の実験\n\n ライン博士或いはこの記事の筆者が強調するのは、この実験である。この記事の中にも引用されているが、夢の中で自分の弟が自殺する光景を見た或る女が、夫にせがんでその弟の住んでいる町へ自動車でかけつけてみたら、果してその光景のままの姿で弟が自殺していたという。この種類の話は、昔からいくらもある話で、科学者としては、「そうですか」と聞き流しておくより他に方法はない。\n ライン博士ももちろんそんな話を強調しているわけではない。問題はデューク大学およびコロラド大学その他で行なった一連の透視実験の結果である。その方法は、各種の簡単な図形を五種類選び、それを一つずつ描いたカードを五枚作る。図形は、円、四角、星形、十字、波状線の五種類である。そういうカードを五通り作って、合計二十五枚を一組の透視(実験用標準)カードとする。即ち一組の透視カードは、円、四角など五種類のものが、それぞれ五枚ずつあることになる。\n 実験はその二十五枚のカードをよく切って、一枚ずつ順々に全部言い当てさせるのである。「偶然だけならば、数学的に割り出された平均適中率は、二十五枚につき五枚である。そこで被実験者がこの一組を四回やり、適中率平均一回につき七・五点をあげたとすると、この三十枚適中という総点数は、百五十対一の割合でなければ偶然には出て来ないものだと言うことが出来る。」こういう方法で沢山の人について多数の実験を行い、その点数をつけた。デューク大学の実験では、一番成績のよかった人は、七百回の実験で平均八枚適中という成績をあげた。\n 一番大がかりの実験は、コロラド大学で、三年にわたり、若い心理学者と数学者、ともに女性の人であるが、その二人によって行われた。その実験をうけたうち成績のよい人たちは、五千五百回以上の実験で、適中一回平均六・八五点をあげ、一万二千回の全実験の平均は適中五・八三点であった。「こういう点数を偶然だけであげるいう可能性は、天文学的な数字になるであろう。」\n この透視の実験は、カードと被実験者との距離をいろいろにかえても行われた。初めはテーブルをへだてて坐り、次には百ヤードはなれて行うというふうな実験がされた。また二百五十マイルはなれた土地でも行われた。それ等の実験は、「距離そのものは超感覚的知覚には何の影響も及ぼさない」即ち「心の力は空間の限界によって制限されない」という結果になった。\n\n予見の実験\n\n 人間が未来を予知できるか否かという実験を行なった。この実験と次の精神動力の研究とが、このライン博士の著書の中でも、特に新しい研究である。\n 一九三三年に、デューク大学で初めてこの実験が行われた。方法は一組の透視カードの順序が、ばらばらにきり交ぜた後でどういう順序になるかを予言するというのである。「四千五百回以上試みて適中した予言の数は、単なるチャンスに対しては四十万対一というところまで来た。」しかし手でカードをきり交ぜることは面白くないので、さらに機械できり交ぜる実験が行われた。それ等の「四つの実験は何れも重要な結果をもたらした」そうである。\n\n精神動力の実験\n\n 前の実験で、カードを機械できり交ぜてもなお予知が出来るとすると、被実験者なり実験者なりの心が、機械そのものに直接影響を与えているかもしれないということが考えられる。それでこの全く新しい精神動力の研究が始められることになった。"
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"role": "assistant",
"content": " 骸子をふる場合に、自分の出したい目を念じてふると、その目が出るという一種の信仰は、日本でも昔からあったが、アメリカでも同様なことが考えられているらしい。それでライン博士は、骸子を用いてこの実験を行なった。\n 代表的な実験は、二つの骸子をふって、その目の合計が七になるように念ずることにした。六と一、五と二、四と三との三組が合格である。十二回ふるごとに成功した数をかぞえ、それを何回もくり返し、偶然の成功率と比較してみるのである。骸子のふり方が問題であって、初めは手でふったが、後には筒からふったり、完全に機械だけでふる方法も考案された。\n 実験の結果は、「偶然以上の数字を示す傾向にあった」くらいで、前の透視カードの実験のような高い数字は得られなかったらしい。しかし他方において、透視カード実験の場合よりは多くの人々が、骸子には相当成功するようであった。そして「何十万回となく実験をやった結果、われわれは精神が物質の上に働き得る力を持つことは事実であることを発見した。」\n いろいろ大きさのちがう骸子も試みられた。また距離の影響もしらべてみた。「デューク大学で行なった実験の一つでは、実験台になる人と骸子を二十五フィート離してみた。実験を受けた者が一つの装置に取りつけた紐を引張ると、骸子は引力によって落ちる仕組みになっていた。それでも結果はやはり変らなかった。」\n この精神動力の実験は、まだ不充分なところもあるが、ライン博士は、この骸子の運動を左右するものは、物質的な作用としての脳髄ではなく、実に非物質的な力としての心であると確信している。\n この骸子の実験にしても、前の透視の実験にしても、被実験者の精神状態によって成績が左右されることはもちろんである。実験室にオブザーバーがはいって来ると、その妨害の効果が一目瞭然に出てきて、成績はずっと落ちる。「被実験者に、彼がうとうととなるだけで完全には眠ってしまわない程度の睡眠剤をのませた。すると彼は透視カード実験で偶然以上の点数をあげる能力を殆んど失ってしまった。この麻酔剤の効果を消すため強い興奮剤をあてがうと、その人の点数は再び彼のいつもの平均率にはっきりと上ってきた。」その他精神力を集中させるために冗談に賭けをしかけたり、子供には懸賞の御褒美を約束したりして、異常な好成績をあげた例が、断片的に沢山あげられている。精神作用である以上は、そういうことが当然あるべきなのである。\n\n心霊現象と科学者\n\n ライン博士は、過去十二年に亙って、この方面の研究をつづけて来たそうである。また同様な研究は、アメリカおよびヨーロッパ各大学の研究室でも進められている。「近年ではオックスフォード及びケンブリッジを始め、いくつかの主だった英国の大学が、これら超感覚的知覚を取り扱った論文に博士号を授けている。」\n アメリカ数学統計研究会の或る年次大会では、「ライン博士の調査中、その統計的分析は根本的に正しい。もし攻撃されるとすれば、それは数学的根拠以外の根拠に基づくものでなければならぬ」という公表があった。\n またケンブリッジ大学の心理学者ザウレス教授は「この現象の現実性は、およそ科学的調査によって立証し得る最大程度の確実さをもって立証されたものと見なさねばならぬ」と声明している。\n それで問題は、これほど確立された証拠を、現代の科学が、何故とり入れないかという点に帰する。ライン博士は「これら研究の結果発見されたことを、科学は一般に受け入れているか? 多くの科学者は個人としては受け入れているが、科学者としては受け入れていない。しかし私は、結局受け入れられることは必定だと信ずる。何故ならばそれ以外に途はないからである」と強調している。\n 事実これ等の現象が、この研究者たちの信ずるとおりにその実在性が確認されたのならば、それは学問上の大問題である。科学者もそれに無関心でいるわけにはゆかない。それだのに現実には、科学者たちは、全然こういう問題にはたずさわらない。その理由として、ライン博士は、次の二点をあげている。科学者たちは、それ等の結果を自然の電子説に合致せしめることが出来ようとの誤った想定の下にとりあげる。ところが実験の結果は物理原則の世界の外に科学者をつれ出す。それで「あたかも指にやけどをした時のようにあわてて問題をすべて投げ出してしまう。」今一つ深刻な理由は、科学者が職業上の地位を失うという危懼である。「自分の家族は食べて行かねばならないから」「自分の学校が反対するだろうから」というのが、その理由である。\n 私は此処で、この『心の領域』の問題を批判することは出来ない。\n その理由は、原著を見ていないので、このリーダーズダイジェストの紹介の記事だけでは、批判するだけの材料が揃っていないからである。\n しかしこういう問題に対して、科学がどういう態度であるべきかということだけは言える。もっとも以下の説明は、リーダーズダイジェストの記事を基礎としての話であって、その記事が原著の意を十分に伝えていない場合は、話は別である。その点はお断りしておく。\n いわゆる心霊現象については、科学は無関心でいてちっとも差支えない。それは完全に場ちがいの問題であるからである。特にいわゆる心霊術師の場合に、そういう問題を一々とり合っていては、科学者は身体がいくつあっても足りない。ただ明治時代の千里眼事件のように、社会的弊害が著しくなった時には、社会人の一人として立ち会う義務があるだけである。\n\n心霊学はいまだ将来の問題\n\n ところで今度の『心の領域』の場合は、それとは少し話がちがっている。それは学問として登場して来た。少なくとも登場を申し込んで来たからである。それで科学も当然それと協議をする必要がある。協議というのは、取り入れるという意味ではない。科学がこういう問題を何故取り入れないかを論ずる前に、取り入れるべき性質のものか否かを吟味してみる必要がある。\n『心の領域』でとり上げた四つの問題、精神感応、透視、予見、精神動力のうち、初めの三つと、最後の一つとは性質が根本的に異なっていることにまず注意する必要がある。というのは、初めの三つは、純粋に精神作用だけのもので、現代の物質科学で取り扱っている範囲外の問題である。それでそういう現象の実在性がもし確立されても、現代の科学には少なくも物質科学には、何の影響もない。精神作用のうちの超感覚的のものを、科学者は電子や原子で説明しようとは思っていないからである。\n ただもしそういう超感覚的現象の研究に、現代の科学の研究方法を導入したいという希望があれば、それに助言を与えることは出来る。たとえば、この記事にある「透視」の実験は、科学の言葉での透視ではないことに注意をうながす必要がある。レントゲン線で透視するような意味での透視の実験にはなっていない。カードの絵を五種類覚えさせておいて、そのどれであるかを言い当てさせるのであるから、これはカードの物質を透して視るのではなく、頭の中にある五種類の図形の像を視るのである。\n それでこれは透視の実験ではない。ただその一つを選択した時に、それが現実のカードと一致したら、それは物質と精神との感応を示すことにはなる。そういう作用があることがもし確認されたら、それは興味のあることで、そういう現象をとり扱う別の学問が出来るであろうが、それは現代の科学とは別のものである。\n もしその学問で、現代の科学と同じ方法を使いたければ、例えば透視の実験ならば、棒を何本か密閉した箱の中に入れ、その箱を振って、棒がどういう形に組み合わされているかを当てさせるような方法が考えられる。実験者も知らない形であるから、箱を透して視る以外に道が無いわけである。そういう実験が成功すれば、それは透視の実験になるであろう。\n 実験者と被実験者との精神感応ならば、どういう意識しない表情の伝達とか、癖のつながりとか、記憶の連絡とかいうようなものがあるかもしれないから、それは科学者が立ち入るところまで、まだ問題が形を成していない。\n『心の領域』の実験の中で、一番問題になるのは、精神動力の実験である。骸子のころがり方を支配する力は、現在までの科学では機械的の力ということになっている。それに精神力が作用するとしたら、それは現代科学の基礎をゆるがす大問題である。科学とは別の新しい学問が出来るというような話ではない。しかしこの実験結果の批判は、「何十万回となく実験をやった結果として、われわれは精神が物質の上に働き得る力を持つことは事実であることを発見した」というだけの記事では、どうにも手のつけようがない。\n 骸子の実験にしても、前の透視カードの実験にしても、科学者の眼からみると、わざわざ問題を複雑にしている傾向があるように思われる。\n 例えば二つの骸子の目の合計が七になるような実験を、何万回くり返しても、なかなか確定的な議論は得られない。骸子を手でふる場合は、もちろん人間の癖がはいってくるが、機械でふっても機械の癖がはいってくることは同じことである。\n それでもしはっきりした結果が欲しかったら、一つの骸子を一を出したいと念じながら機械で何千回とふってその目の出た回数を記録し、次に三を出したいと念じながら、その同じ機械で同回数だけふってみるというふうにして研究するのが、一番早道である。そういう実験だったら、恐らく結果は出ないだろうと思われる。もしそれが出たら、初めて科学者も、この問題に手をつける義務があるであろう。"
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"role": "user",
"content": " リャボーヴィチは勝負ごとといったらカルタのほかには一切やったことのない男なので、球突台のそばにつっ立って、勝負をしている連中の顔をつまらなそうに眺めていたが、こっちはてんでに上着のボタンを外し、両手にキューを構えて、横行闊歩したり、地口を叩いたり、何やら素人にはわからない言葉をわめいたりしていた。勝負をしている連中は彼には眼もくれず、ただたまに中の誰かが肘で彼を小突いたり、うっかりキューを彼の服に引っ掛けたりなどした時、はじめて顔を振り向けて、『pardon !』と言うだけだった。最初のゲームはまだ終らなかったが、彼は早くも退屈してしまって、自分は余計者だ、邪魔なばかりだと、そんな気がしはじめた。......ふとまた広間へ帰ってみたくなったので、彼はそこを出た。\n その帰りみちで、彼はちょっとした椿事に出くわすことになったのである。中途まで来て気がついてみると、方角をまちがえているらしかった。途中で例の従僕三人の寝呆け姿にお目にかからなければならないはずだということは、彼もはっきり記憶しているが、五つ六つ部屋を通り抜けても、彼らの姿は地へ潜ったか空へ翔ったか、杳として影も形もなかった。これは間違ったと気づいた彼が、少し後戻りをして、あらためて右手へ曲ってみると、今度は薄暗い書斎風の部屋へ踏み込んでしまった。さっき撞球室へ行く時には見かけなかった部屋である。ここにものの半分間ほど佇んでから、彼は行き当りばったり眼についた扉を思い切って押しひらいて、今度は完全に真暗な部屋へはいってしまった。突当りには扉口の隙間が見え、そこからきららかな光が射し込んでいる。その扉の向うからは、もの悲しいマズルカの調べが鈍いひびきを伝えて来る。この部屋も、あの広間と同じように、窓という窓が一ぱい開け放してあって、ポプラや紫丁香花や薔薇の匂いが馥郁と香っていた。\n リャボーヴィチは思案に暮れて立ちどまってしまった。......とそのとき、彼が思いもかけなかったことには、気ぜわしげな足音とさらさらという衣ずれの音が聞えて、息はずませた女の声が囁やくように『まあやっとね!』と言ったかと思うと、二本の柔らかな、いい匂いのする、紛うかたなき女性の腕が、彼の頸へ巻きついて来て、彼の頬へあたたかい頬がひたりとばかり押しつけられたその途端に、接吻の音がちゅと響いた。がその時早くその時遅く、接吻した女は微かな叫び声を立てて、リャボーヴィチの受けた感じでいうと、さも厭らしそうに彼からぱっと飛びのいた。彼のほうでもあやうく声を立てそうになって、そのまま例のきららかな扉口の隙間めがけて突進した。......\n 彼がもとの広間へ戻って来たとき、彼の心臓はどきどきいっていたし、手は手で人目につくほどひどく顫えていたので、彼は大急ぎで両手を背中へかくしてしまった。初めのうち彼は、自分が今しがた女に抱きつかれて接吻されたという事実を満座の人びとがちゃんと知っているような気がして、羞恥と恐怖の念に苦しめられ、小さくなっておどおどとあたりを見𢌞してばかりいたが、やがて広間の人々が相も変らず暢気至極に踊ったり、喋ったりしている様子を見とどけると、彼はやっと安心がいって、今夜はじめて味わった感覚、生れ落ちてこの方ついぞ一度も経験したおぼえのない感覚に、身も心もすっかり任せきってしまった。彼には何やら不思議なことが起っていたのである。......つい今しがた、いい匂いのするふっくらと柔らかな両腕に抱きしめられた彼の頸筋は、香油でも塗られたような気持がしていたし、頬はというと、見知らぬ女に接吻された左の口髭のあたりが、まるで薄荷水でも滴らしたように微かにいい気持にすうすうして、そこをこすればこするほど、そのすうすうした感じがますます強烈になってゆくといった始末で、彼は全身、頭のてっぺんから足の先まで、ついぞ味わったことのない不思議な感じで一ぱいになってしまい、しかも、その感じが刻一刻と増大してゆくのだった。......彼は踊りたくなった、喋りたくなった、庭へ駈け出したり、大声で笑ったりしたくなった。......彼は自分が猫背で、ぱっとしない人間だということも、自分の頬髯は山猫みたいで、おまけに『もやもやした風采』(と或る時の婦人連の会話の中で自分の風采が評されていたのを、彼はひょっくり立聴きしたことがあった)の持主であることも、きれいさっぱり忘れてしまった。そこへ通りかかったラッベクの奥さんに向って、彼はにっこり笑いかけたが、それがいかにも闊達な愛嬌たっぷりの笑顔だったもので、相手は思わず足をとめて、怪訝そうに彼の顔をまじまじと眺めた。\n「どうもお宅がおそろしく気に入っちまいまして!......」彼は眼鏡を直し直しそう言った。\n 将軍夫人はにっと笑って、この邸はまだ彼女の父親の持物になっていると話してきかせ、さて話頭を転じてあなたの御両親はまだ御存命か、軍隊のほうにはもう永らくお勤めか、どうしてそんなに痩せていらっしゃるのか、などと問いかけた。自分の問いに対する返事が一通り済むと、彼女はそのまま向うへ行ってしまったが、彼のほうでは奥さんと言葉を交してからは一段と愛想よくにこにこしはじめて、今夜の俺はなんて飛切り上等の人たちに取巻かれているんだろうと考えていた。......\n 夜食の卓についたリャボーヴィチは、すすめられる料理を片っぱしから機械的に平らげ、飲物もぐいぐいと飲んで、人の話なんぞはてんで耳へ受けつけずに、つい先刻の事件をなんとか自分の得心のゆくように説明をつけてみようと一所懸命になっていた。......なるほどあの事件は、神秘的なロマンティクな性質を帯びてはいるけれど、さりとて解釈をつけるのは別に難事ではなかった。察するところどこかのお嬢さんか奥さんが、あの真暗な部屋で誰かと逢引の約束をして、長いこと待たされた挙句に神経がいらいらしてしまって、ついリャボーヴィチを当の相手と思い込んだものに違いない。ましてやリャボーヴィチは、あの暗い部屋を通り抜ける途中で、思案に暮れて立ちどまった、つまりこっちもやはり、何かを待ち設ける人のような様子をしたのであってみれば、この想像はますます的確さを加えるといわなければならない。......と、そんな工合にリャボーヴィチは、例の接吻をわれとわが心に説明した。\n『だがいったいどれだろうな、あの女は?』と彼はいならぶ婦人の顔をじろじろ見ながら考えた。『とにかく若い女に違いあるまいて、年寄りは逢引なんかしないからな。おまけに、あの女がちゃんと教養のそなわった婦人だということは、その衣ずれの音からも、あの匂いからも、あの声音からもわかることだ......』\n 彼は例の藤色の令嬢にふと眼をとめたが、するとこのお嬢さんがすっかり気に入ってしまった。彼女は美しい肩と腕の持主で、それに才気の溢れる顔つきで、えもいわれぬ声をしていた。リャボーヴィチは、このお嬢さんを眺めているうちに、余人ならぬまさにこのひとが、あの行きずりの見知らぬ女であってくれたらさぞよかろうと思った。......ところが彼女は、ふとその時なにかお世辞笑いをしはじめて、よく通った長い鼻すじに皺を寄せた途端に、彼にはその鼻の恰好がいかにも時代おくれのような気がして来た。そこで彼は視線を転じて、黒い衣裳をつけた金髪令嬢を眺めはじめた。これは今の令嬢に比べて年も若く、態度もさらりと眼つきも純真で、鬢の毛をちょっぴり垂らしているところがとても可愛らしくて、おまけに、ひどく綺麗な口つきで葡萄酒のグラスを味わっていた。リャボーヴィチは今度は、この娘がそうだったらさぞよかろうと思った。けれども間もなく彼は、彼女の顔が平べったいことに気がついて、その隣りの女に眼を移した。\n『この当て物はなかなか骨だわい』と彼は、空想を逞しゅうしながら考えるのだった。『あの藤色の娘から肩と腕だけを頂戴して、金髪娘の鬢の毛をくっつけ、眼はロブィトコの左に坐っている娘さんのを拝借する、そうすると......』\n 彼の心の中でこんな組み合せを作ってみると、自分に接吻した娘の面影、彼のあらまほしいと思う面影がまんまと出来あがりはしたものの、さてずらりと見渡したところ、席上にはさっぱり見当らなかった。......\n 夜食がすむと、満腹した上ほろ酔い機嫌になった客たちは、暇を告げたり礼を述べたりしはじめた。主人夫妻はまたしても、一同に泊っていって貰えないことを詫びはじめた。\n「じつにはやなんとも喜ばしいことですわい、皆さん!」と将軍は、しきりにお愛想を振りまいたが、しかも今度は本心からだった(多分それは、客を迎える時よりも送り出す時のほうが、遙かに真心のこもった親切な態度になるという、人間の通有性にもとづくものだろう)。「じつに喜ばしいことですわい! お帰りにも、どうか立寄って下さい! 他人行儀は抜きにしてな! おや、どこへ行かれるな? 上の道を行くおつもりかな? それはいかん、庭を抜けて行き給え、下の道をな――そのほうが近道ですわい。」\n 将校連は庭へ出た。明々とした光や騒音に馴れたあとなので、彼らにはその庭が一しお暗く静かなように思われた。木戸のところまでは一同黙々として歩を運んだ。みんなほろ酔い機嫌で、浮々して、満足しきった気分だったものの、暗がりと静けさのおかげで、その暫しの間ちょいと瞑想に引入れられたのである。おそらくその一人一人の脳裡には、リャボーヴィチと同様に、ひとつ考えが浮んだに相違ない――果して自分にも、いつかはあのラッベクのように、大きな邸や家族や庭を持つ時が来るものだろうか、そしてよし本心からではないにせよ、人々を厚くもてなして、満腹させたり酩酊させたり満足させたりするような身分に、やはりなれるものだろうか?"
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"role": "assistant",
"content": " 木戸を出ると、彼らはみんな一斉に喋りはじめて、わけもいわれもなしに大声で笑いだした。その頃はもう彼らは小径にかかっていて、それがだらだらと川の方へ下り、それからはすぐ水際に沿って、岸辺の藪や、水に洗われて窪んだ場所や、水面に枝を垂れている柳などのまわりを縫いながら、うねうねと走っていた。岸辺と小径とはどうにか見えていたけれど、向う岸はすっかり闇の中に沈んでいた。暗い水面のそこここに星影がうつって、それがちらちら顫えたり砕け散ったりするので、それでやっと川の流れの急なことが察せられた。静かだった。向う岸では寝呆けた山しぎが悲しそうな声を立て、こっち岸では、とある藪の繁みで、将校たちの群にはさらに気をとめる様子もなく、小夜鶯が声をかぎりに歌いはじめた。将校たちはその繁みのそばに暫らく足をとめてちょいと揺すぶってみたりしたが、小夜鶯は平気で歌っていた。\n「こいつはどうだい?」と感歎の叫びがひとしきり聞えた。「俺たちがすぐそばに立っとるのに、やつめ平気の平左でいるぜ! なんて図々しいやつだろう!」\n 行程が終りに近づくと、小径は上りになって、教会の柵のところで本道に合わさっていた。そこで将校たちは、上り坂の強行軍の疲れが出て、ちょっと腰をおろして煙草をふかした。向う岸にその時、ぼうっと赤い一点の火影があらわれたので、彼らは手持ち無沙汰のあまり、長いことかかって、あれは焚火だろうか、窓の燈だろうか、それとも何かほかの物だろうかと評定していた。リャボーヴィチもやはり火影を眺めていたが、彼にはその火影がまるで例の接吻の一件を知っているような顔つきをして、しきりに彼の方に微笑みかけたり、目くばせしたりしているような気がした。\n 宿舎へたどりつくと、リャボーヴィチは手早く服を脱いで横になった。彼と同じ農家に泊ることになったのは例のロブィトコと、もう一人メルズリャコーフという中尉だった。これはもの静かな口数の少い好青年で、その仲間では教養ある士官として通っており、いやしくも本のひろげられる場所ならどこででも、つねづね肌身はなさず持ち歩いている『ヨーロッパ通報』〔(当時のリベラリスティクな大雑誌)〕をあけて読んでいるという男だった。ロブィトコは服を脱いでからも、なんだかもの足りなそうな顔をして、部屋の隅から隅へ長いこと行ったり来たりしていたが、やがて従卒を呼んで、ビールを買いに外へ出した。メルズリャコーフは横になると、枕もとに蝋燭を立てて、一心不乱に『ヨーロッパ通報』を読みだした。\n『一体どれだろうな、あの女は?』とリャボーヴィチは煤ぼけた天井を眺めながら考えていた。\n 彼の頸筋は、いまだに香油でも塗られたような気持だったし、口のあたりはまるで薄荷水でも滴らしたようにすうすうしていた。彼の想像の中にはちらちらと、藤色の令嬢の肩だの腕だの、黒服の金髪令嬢の鬢の毛だの純真な眼つきだの、そうかと思うと誰彼の腰だの衣裳だのブローチだのが、浮んだり消えたりしていた。彼はそうした幻の上に自分の注意をじっと据えてみようと努力したけれど、相手のほうではお構いなしに跳ね𢌞ったり、微塵に砕け散ったり、明滅したりするのだった。やがて、誰でも、眼をつぶると見えるあの広びろした真黒な背景の上から、今いったような幻がすっかり消え失せてしまうと、今度は彼の耳に気ぜわしげな足音や、さらさらいう衣ずれの音や、ちゅっという接吻の響きがきこえだして、――強烈な、これという理由もない歓喜の情が、彼をとらえてしまった。......その嬉しさに身をゆだねながら、彼は従卒が帰って来て、ビールはありませんと復命するのを夢うつつのうちに聞いていた。ロブィトコはおそろしく憤慨して、またもや大股に歩きはじめた。\n「なあ、こいつ白痴じゃないのかい?」と彼は、リャボーヴィチの前に立停ったり、メルズリャコーフの前に立停ったりしながら言うのだった。「ビール一つ見つけられんなんて、木偶の坊とも大馬鹿とも、方図が知れんじゃないか! ああん? いやさ、こいつ横着なんじゃないのかい?」\n「当り前ですよ、こんな所にビールがあるもんですか」とメルズリャコーフが言ったが、眼は相変らず『ヨーロッパ通報』から離しもしない。\n「へえ? 君はそう思うのかい?」とロブィトコはからんで行った。「やれやれ情けない話だ、この僕だったらたとえ月世界へ抛り出されたところで、即座にビールでも女でも見つけだして差上げるぜ! そうだ、これから一っ走り行って見つけて来よう。......もし見つからなかったら、僕を卑劣漢とでもなんとでも呼び給えだ!」\n 彼はぐずぐずと長いことかかって服をつけ、大きな長靴をやっとこさで穿いてから、黙々として巻煙草を一本すい終ってから、ようやく出て行った。\n「ラッベク、グラッベク、ロァッベクか。」彼は玄関で立停りながらぼやきはじめた。「一人で行くのはつまらんなあ、畜生め。リャボーヴィチ、君ひとつプロムナージュ〔(プロムナード(散歩)の覚え違え)〕を試みないかい? ええ?」\n 返事がなかったので、彼は引返して来て、ぐずぐずしながら服を脱いで、寝床に横になった。メルズリャコーフは溜息をつくと、『ヨーロッパ通報』を傍へ押しやって、蝋燭を吹き消した。「ふむ、そうか?......」とロブィトコは暗闇の中で巻煙草を喫いつけながら呟いた。\n リャボーヴィチは頭からすっぽり毛布を引っかぶって、からだを蝦みたいに丸めると、想像の中で例のちらちらする幻を拾いあつめて、一つの完全な姿にまとめ上げようとしだした。ところがさっぱり駄目だった。間もなく彼は眠りに落ちてしまったが、彼が最後に考えたことは、誰かが自分を愛撫して喜ばせてくれたのだ、自分の生涯に何かしら並々ならぬ、馬鹿らしい、とはいえ頗るもって甘美なよろこばしい出来事があったのだ、ということだった。この想念は夢の中でも彼を離れなかった。\n 彼が眼をさました時には、頸筋の香油を塗られたような気持や、唇のあたりの薄荷水を滴らしたようなすうすうした感じはもうなかったが、ぞくぞくするような嬉しさは昨夜と変りなく、胸の中に寄せつ返しつしていた。彼は悦びにうっとりしながら、さし昇る朝日を受けて金色に輝いている窓枠を眺めたり、往来に始まっている人や車の動きに耳を傾けたりした。すぐ窓の下で大きな話声がしていた。リャボーヴィチの隊の中隊長をしているレベデツキイが、今しがた旅団に追いついたところで、日ごろ物静かに話しつけない人だものだから、とても大きな声で部下の曹長を相手にしゃべっていた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「母上も、ごきげんか......」\n と、ひとみを静かにした。\n 老母はすでに七十四である。妻の寧子も四十に近い。一日家をあけても、妻はともあれ、老母は年が年なので、心にかかるものらしい。\n「はい。おかわりなくいらせられました。御母堂さまには、かえって、戦の忙しさに、殿が不養生はしておらぬやと、殿のお身の方をお案じなされておいででした」\n「また、あの子は灸をすえおるかと、訊かれたことであろ」\n 佐吉は笑って、その通りです、と答えた。\n 他を遠ざけて、ふたりだけの対座に、こう笑い声の出たはずみに、秀吉はまた、ふと、\n「茶々は? ......。茶々たちも、元気ようしていたか」\n と、たずねた。\n「は、あの、お三方の姫さまたちで」\n 佐吉はちょっと思い出せぬような顔してみせた。待っていましたという風に答えては、佐吉め、嗅ぎつけておるナと、かえってこの主人にはおもしろくない気持が後日にやってくるにちがいない。ぼやっとして見せるに限ると、考えたからである。\n その証拠には今、茶々は? と、ぎごちなく訊ねたとたんに、主人は、家臣にたいする主人顔もくずして、何ともつかぬごま化し顔に、羞恥らいみたいな色をふくみ、ひどくテレてお在すではないか。\n 佐吉は、敏くもそう見てとり、心のうちでは、おかしくてならなかった。\n 三人の姫たちとは、いうまでもなく、おととし北ノ庄落城のみぎり、城将柴田勝家と夫人のお市の方が、幼き子らには罪なきものをと、その養育を、秀吉に託してきたあのときの可憐な息女三名のことである。\n その後、秀吉は、わが子のように、この姫たちを家に養い、大坂城普請のときも、特に、彼女たちのために明るい一小曲輪を設計させ、黄金の籠に名鳥を飼っているように、折々そこをのぞいては、共によろこんでいたのだった。\n が、この名鳥とこの飼主のあいだには、将来、それだけの関係ではすまないものが約束されそうなことは、たれにも予測できることだった。とりわけ三人の姫のうちでも、長女の茶々の君は、年ばえもちょうどことし妙齢十八、世にはあるまじき麗人よと、そろそろ城内のうわさにもなりかけている。北ノ庄の業火が世に生みのこした名花だという人もあり、織田どのの由来美人系の血をひかれて、母君のお市の御方にも増してお美しいとほめ称える者もある。何しても、大坂新城の竣工と、茶々の君のめっきり人目立ってきたこととが、何か、時を同じゅうして、羽柴家の家運の季節を象徴しているようでもあった。\n 十八の茶々の君のそうした佳麗さが、秀吉の眼をひかないわけはない。この道にかけても、六韜の奥の手、三略の妙に通じている主人である。或いは、そろそろ暮夜ひそかなる花盗人を真似て、一度や二度ぐらいは、茶々の君に声をたてられて、逃げ帰っておられるやもしれない。――そんな匂いを石田佐吉は前からうすうす嗅いでいたところである。おかしさをつつもうとするがつつみ得ない。\n「佐吉。なにを笑う」\n 秀吉は見とがめた。が、自分も少し、おかしげである。やはり佐吉の気持はもう見ていた。\n「いや、何という儀でもございませぬが、軍務にまぎれ、このたびは、お三方の御起居までは、ついお伺いもせで戻りましたので」\n「そうか。ふム......まあ、よい」\n と、秀吉の方から急にその話を逃げて――「途上、淀川や京都あたりの風聞は、どうじゃな」\n と、世間ばなしへ転じた。\n 遠くへ、使いをやると、秀吉はかならず、これを訊ねた。世上の機微、人心の動向を、以って、つねに打診しているらしかった。\n「いずこにあっても、きのうきょうは、戦のことでもちきりです。淀川は舟で上りましたが」\n「淀と申せば、淀、枚方、伏見などの葭や葦は、よく刈れておるか。運上も収れておるか」\n「おかげをもって、だいぶ佐吉の身入りはよいようにございます」\n「それはよかった」\n と、秀吉はよろこんでくれた。佐吉も、同僚なみに、近ごろは相当な侍どもを抱えているのに、くれてやる禄にも困っておりはしないかということを、主人が案じてくれていることが、佐吉には、よく分っており、またありがたかった。\n 賤ヶ嶽の後、同僚の加藤福島を始め、七本槍とうたわれた若者はみな千石、二千石の加増をもらったが、佐吉は、実戦の武功といっては、首一つ取っていないので、彼にも加増の恩命があったとき、固くそれを辞退していた。――そしてそれに代るに、淀川すじの枚方、伏見、淀などの不用地に枯れ捨てになっている葭や葦を自由に刈りとることと、附近の運上権(河川税)の支配を願った。与える方にとっては、無価値のものであった。が、佐吉のこと、それをどう利用し、どのくらいな収入としているか、秀吉は興味をもって見ていたのである。\n 佐吉がそれを乞うとき、もし私にその不用地を賜わるならば、事あるとき、一万石取りに匹敵する侍を出して、軍務のお役にたててみせます、と大言していた。――これも秀吉が、おもしろいことをいうやつだと思ったことのひとつだった。\n その佐吉から京都大坂の世情を徴してみると、信雄に端を発したこんどの戦争は、たれも秀吉対信雄とは考えていない。秀吉対家康と見ているのだ。信長なき後、秀吉にとって、せっかく平和になるかと思われたものが、またぞろ、天下を二つにわかち、諸州にわたる大戦争が眼前に来たものとして、人心は極度な不安にくるまれているという。\n たとえば、堂上のうちにも、大いにこれを悲しむ者があり、多聞院日記の筆者のごときは、天正十三年三月の日記の一項に、\n\n ――天下動乱ノ色アラハル。如何ニ成リユク可キヤラン。心細キ者ナリ。神慮ニ任セ、闇々トシテ明ケ暮スマデ也。端ナキ事端ナキ事。\n\n と、その痛嘆を書きつけているがごときものが、一般の世態にも、もっと濃厚に露骨に見られていたであろう。\n(人間はなぜこう戦争のない世には生きてゆけないのか?)\n これがこの節、世上の疑問だった。\n 応仁以来、戦争の惨はなめつくし、生きるべくあらゆる試煉にも辛抱づよくされて来た庶民だが、この頃はすこし懐疑的になりかけてきた。\n いったい、こんどの戦こそ、天下分け目というが、二つの天下なら二つのまま、何とか折合いはつかぬものか。つきそうなものではないか。世間はそう考える。\n 口に平和を約さない指導者はなく、戦の酸鼻を知らない士人もなく、始まればすぐ生命をおびやかされるを怖れない庶民はない。人間という人間ことごとくが平和を希っていない者はないのだ。戦を呪っていることは確かなのだ。それでいて熄まない。熄んだとおもうと直ちに次の戦争へ準備する。勢力の分布がたった二つの世になってもなお停止しないばかりか、かえってそれは、従来の恐怖よりも、最大な険悪さを帯び、天下総がかりの規模と犠牲とをおもわせる。\n これは人間のせいではない。人間がやるとすれば、人間ほど愚かな動物はないということになる。\n では、何が、何ものが、それをやるのか。\n 個人ではない。人間の結合したものがやるのだといえる。\n 正しい人間性というものは、必ず、一箇のものでなければ、人間性として見ることはできない。\n 人間と人間とが群をなし、万、億と結合したものは、もう人間ではなく、奇態なる地上の群生動物にすぎない。これを人間と観、人間的解釈に拠ろうとするから、わけが分らなくなるのである。\n だから庶民はいっている。\n(天下を二つに持ち分ければ、どんな理想も栄華もできそうなものじゃないか。何だって、分け目の勝負を賭けてまで、それを独り占めにしたがるのだろう?)\n 凡下の俗言だが、これは個人の通念的正しさをいっているものだ。時の秀吉にせよ、家康にせよ、それくらいなことは分っているにちがいない。一箇の人間としてはである。しかし、過去、現在を通観してくると、世の中が人間意志だけでうごいて来たとおもうのは人間の錯覚で、実は、人間以外の宇宙の意志といったようなものも多分にある。宇宙意志というのが当たらなければ、人間もまた、太陽、月、星のごとき宇宙循環に約された運命に、どうしても動かされているといってもいい。\n いずれにせよ、時の代表者となった者は、もう純粋なる一人間とはよべない。秀吉にしても家康にしてもである。一箇の中に、無数の人間意志や宇宙意志を融合しており、彼自身は、それを“われ”だとしている者である。また周囲も、庶民も、それを“彼”だとしている者である。そしてその“我なり彼なる者”に、物々しい位階官職や姓名や特種な風貌があるために、これを人間同士で「何のなにがし殿」とつよく印象しあうが、実は、姓名官職はすべてみなこれ単なる仮の符牒でしかない。その正体は、たくさんな人間の中の、やはり一つの生命体にすぎないのである。\n こう観てくると、あわれ庶民の望んでいる平和はいつも遠いようだ。しかし、時の代表者とて、平和を望んでいないのではない。いや誰よりもその到達を熱望しまた実現をいそいでいる者だ。が、彼には、条件がある。彼はその目的の権化でもあった。だから相反する者に会えば、両者は忽ち戦争に入る。いかなる外交の秘策も敢然として行いきる。――そして、この代表者の意志とうごきの間を縫って、無数の人間――あるがままな人間のすがたが、譎詐、闘争、貪欲の本能に躍り、また犠牲、責任、仁愛の善美な精神をも飛躍させる。これが人間みずから人間の住む時の地上を作りもし、彩りもし、また副産物として、ときには、文化の飛躍をも示すという――解き難いふしぎを天正の世にも見せているのであった。\n\n地図屏風\n"
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"role": "assistant",
"content": " 佐吉が退がる。\n 入れ代りに、金森金五、蜂屋頼隆のふたりが見える。\n「あちらへ移ろう」\n 秀吉は、席を換え、橋廊下をこえた一棟へ入った。\n そこの口も、庭まわりにも、小姓を番にたてて、長いこと、密談だった。\n 金森、蜂屋のふたりは、今、北陸にある丹羽長秀の麾下の将だ。秀吉は、長秀を味方にすべく、先頃から、肺腑をくだいている容子だった。\n もし長秀をして、敵方へ走らしめんか、これは彼として由々しい不利とおもう。戦力の上ばかりでなく、戦争名分の上に、信雄や家康の云い分を、世上に信じさせる力が大きい。――なぜならば、丹羽長秀という者は、柴田に次ぐ信長の重臣であったのみでなく、この乱世にめずらしい、温厚篤実な人物という信用をもっているからだ。\n それだけに名分では歩の悪いことを承知の秀吉は、是が非でも、彼を味方に加えねばと、きょうまでも、長秀の歓心を買うためには、百方手をつくしていたのである。\n もちろん家康や信雄からも、あらゆる誘引策が長秀へ向けられていることも確実だ。しかし秀吉の熱意にはついに彼もうごかされたか、数日前、まず助勢として、金森、蜂屋の二将を北陸からさし向けて来た。秀吉はよろこんだが、さりとてまだ安心はしていなかった。\n「御祐筆に、すぐこれへ参るようにとの仰せですぞ」\n 金森金五が、ひとり出て来て、番の小姓へいいつけた。\n 大村由己がすぐやって来た。\n 中では、秀吉のことばに従って、彼が筆をとり、長文な書状が書かれ始めていた。――丹羽長秀宛にである。\n 箇条箇条のうちの、重なるところをいってみれば。\n\n一去る十一日、美濃守秀長へ下された御書面を拝見し、涙がこぼれ申した。\n一五畿内の固めはもちろん、西国表まで、丈夫に申しかため申した。勢州表の戦況は、ここ坂本において、さしずいたし、甲賀、伊勢の間にも、城三ヵ所も、新たに築き、味方は毎日の勝報に士気いよいよふるい申しておる。\n一美濃方面は、御存じの池田勝入、稲葉伊予、森武蔵など、慥乎と構えており、別条なく、江州永原に、孫七郎秀次、高山右近、中川秀政、そのほか一万四、五千もの人数を、陣取らせ申した。\n一秀長をば守山に。於次(秀勝)をば草津に。長岡越中(細川忠興)をば勢多に陣取らせ申した。また、加藤作内、堀尾茂助をば、甲賀のまん中にすえおき、筒井は大和に、こちらの人数を副え、さしおき申した。\n一備前、美作、因幡など、西国表は、一人もうごかさず、大磐石。紀州、泉州へも、昨日、蜂須賀、黒田、生駒、赤松などの人数六、七千も増してやり申した。\n\n このほか、秀吉は、このたび大戦にのぞむ兵力配備を、微に入り細にわたり、しかも具体的に、一切ぶちまけて長秀への書面に書かせた。そしてまた、\n\n一右のように、こちらは万々御懸念は御無用であるが、御身の御用心と、御城の御用心こそ、肝要たるべきこと。\n\n と、かえって、長秀の健康に注意を云い添え、さらに、前田又左衛門利家こそ、北陸では無二の同心の者だし、北陸の一の木戸でもあるゆえ、せっかく充分に意志の疎通を計られて、唇歯のお交わりあるようにとも云い添えている。さらに終りには、\n\n一もしそちらに人数がお入用なら、蜂屋、金森はお返しする。そのほか五千や一万の軍勢はいつでも加勢に向ける余裕があり申す。\n一このところ、世上一般は、物狂いのていで、人心恟々としており申すが、筑前は覚悟をもって、ここ十四、五日のうちには、きっと世をしずめて見せ申すべくに付、くれぐれお案じなきように。\n\n として、擱筆させた。\n 使者はこれを持って、この数寄屋からすぐ北陸へいそいだ。\n 伊勢方面からの戦況報告の使いだけでも、夕刻までに、三回も着いた。\n その書状を見、使いを引いて、直接、情勢を聞き、またことづてを託し、返書をかかせたりしながら、夕飯はたべた。夕飯はほかの侍臣も交えて大書院でたべた。\n 大書院の一隅に、屏風がある。一双全面にわたり、日本全国の地図が金泥のうえに描かれてあった。秀吉は、それへ眼をやるとふと、\n「越後へやった使いは、まだ何の沙汰もないか。――上杉景勝へやった使者どもじゃよ」\n と、あたりへ訊ねた。\n「まだ、日数にいたしましても」\n と、指を繰って、遠国の不便を語ると、秀吉も指を繰って、\n「そうか。きょうは十三日だったな」\n と、あらためて日を呟いた。\n 木曾の木曾義昌へも、使いが出してある。常陸の佐竹義重へも数度の密使が通っていた。そのほか地図屏風に見える細長い国の端から端まで、彼の外交網はゆきとどいていた。\n 秀吉は由来、戦は最後の手段なりとしていた。外交こそ戦であるという信条なのである。故主信長の弔い合戦という名分をかかげ、山崎の一戦に光秀を討ったとき以外はみなそうだった。\n だが彼のは、外交のための外交ではない。また、外交あっての軍力でもない。――常に、軍力あっての外交なのだ。軍威軍容を万全にそなえてからいつもものをいうのである。丹羽長秀に送った手紙の内容にも、その独参湯的な味がつつまれている。\n が、家康には、この手もきかない。\n たれにも黙っているが、実は秀吉は、事態のこうなる前に、密かに人を浜松へやって、\n(筑前が其許に好意をもっていることは、前年、其許の官位昇進のために、この方から朝廷へ奏請したことを思い合わされてもお分りであろうと思う。御辺とこの方とが、何故、戦わねばならぬ理由があろうか。信雄どのというお方は、元来ああした御性格だと、暗愚は天下の定評になっている。愚昧な遺族を擁して、御辺がいくら名分をふり廻しても、世間は其許の挙を仁人の義軍とは申すまい。結局、つまらないことではないか。ふたりが喧嘩するなどは。――もし賢明な御辺がそこに気づいて、この方と将来の共栄を約すならば、御辺の所領へ、美濃尾張の二州をさらに加えようではないか。以って、尊意は如何となすか)\n と、云い送った。\n 相手による。これは明らかに秀吉の失敗に帰した。が秀吉は、信雄と手切れになった後までも、なお使いを立てて前にもまさる好条件を附して、家康を口説こうと試みた。\n 使いは、家康の激怒を買って、ほうほうのていで戻って来た。その報告に、\n(筑前は、家康を知らぬ)\n といわれました、と使者は秀吉に語った。すると秀吉は、苦笑して、\n(家康も筑前の真は分らぬのだ)\n と、いった。が、このことはあまり彼の上出来とはいえない。彼もそれきり触れなかった。で、側臣でも裏面でこんな交渉が行われていたとは誰も知らなかった。\n なにしても、ここ坂本におけるかれの起居は、日々繁忙をきわめていた。伊勢南尾張方面の軍司令部と、北陸東奥から南紀西国にわたる全土の外交諜報本部をかねていた。こういう機密な中枢部としては、大坂表よりも、坂本のほうが地理的にも時間的にも便であり、使者の往来も、人目立たず、四道八通の利があった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " あとは五十嵐が、出来上った紙風船を、お椀を積むように、ドンドン積み重ねてゆく。すると、ときどき検査係が廻って来て、その風船の山を向うへ搬んでいってしまう。\n 私と五十嵐とは、うまく呼吸を合わせて、\n「はッ、――」ポン。\n「いやア。――」ポン。\n と、まるで鼓を打っているように、紙風船の肛門を貼ってゆくのであった。――だがこんな仕事は、せいぜい一と月もやれば、いやになるものだった。\n しかし月日の経つのは早いもので、そのうちに刑務所のお正月を、とうとう五度、迎えてしまった。やがて二月が来れば、いよいよ娑婆の人になれることとなった。その後、あのラジウムは遂に怪しまれることもなく、私の独房の箒の中に、五年の歳月を送ったのだった。私に新たな希望の光がだんだんと明るく燃えだした。私は暮夜、あの鉛筆の芯ほどのラジウムを掌の上に転がしては、紅い灯のつく裏街の風景などを胸に描いていた。\n ところが出獄も、もうあと三週間に迫ったという一月二十五日のこと、私の独房に、思いがけない二人の来訪者があった。\n「オイ、一九九四号、起きてるか。――」\n 看守の後から背広姿の二人の訪客が入って来た。私は保釈出獄の使者だろうと直感した。\n(オヤ)私は心の中で訝った。二人の客のうちの一人は、見知り越しの医務長だった。もう一人は、日焼けのした背の高いスポーツマンのような男だった。\n「この男ですよ。入ったときは、実にひどい痔でしてナ、ところが私の例の治療法で、予期しないほど早く癒ってしまいました」\n「はア、はア」\n「どうか何なとお話下さい。あとでこの男の患部を御覧に入れましょう」\n「いや、それには及びません。ただ、すこし話をして見たいです」\n「それはどうぞ御自由に......」\n その見馴れぬ紳士は、私の痔病について、いろいろと質問を発した。私はそれについて淀みなく返事をすることに勉めた。しかしあの病院のことだけは言わなかった。\n 紳士は大した質問もせずに、医務長と共に引上げていった。\n そのあとで私はガッカリして、便器の上に蓋をして作ってある椅子の上に腰を下した。\n(どうも変だナ)\n 紳士は一見医師としか見えぬ質問をしていったが、どうも医師くさいところに欠けているような気がした。疵を持つ脛には、それがピーンと響いたのだった。\n(探偵かしら......)\n にわかの不安に私の胸は戦きはじめた。\n(これァいかん)\n 私は真先に、ラジウムの処分問題を考えた。この調子では、私の肉ポケットに入れて出ることは、明かに危険であると感じた。きっと出獄の前に、いまの二人が私の肉ポケットを点検するだろう。そのときこそ百年目に違いない。――私は至急に別なラジウムの隠し場所を考え出さねばならなかった。\n「オイ丸田」と作業場で声をかけたのは五十嵐だった。\n「昨夜は大したお客さまだったナ」\n「うん」\n「あの若い方を知っているかネ」\n「背の高い男のことだろう。――知らない」\n「知らない? はッはッはッ。馬鹿だなァお前は。あれは帆村という探偵だぜ」\n「探偵? やっぱりそうか」\n「どうだ思い当ることがあろうがナ」\n「うん。――いいや、無い」\n「う、嘘をつけ。おれが力になってやる。手前の仕事のうちで、まだ警察に知れていないのがあるネ」\n「いいや、何にも無い!」\n 私はいつになく、この無二の親友の好意を斥けたのだった。いくら五ヶ年の親友だって、こればかりは打ち明けかねるというものだ。\n それから私たちは、無言の裡に仕事をやった。それは私たちにとって珍らしいことだった。二人はこの仕事の間に、たとえ話がないにしろ、軽い憎れ口や懸声などをかけて仕事をするのが例だったから。\n 黙っているお蔭で、遂に私は素晴らしいことを発見した。それはあのラジウムを、安全に獄外へ搬びだす工夫だった。まず大丈夫うまく行くと思われる一つの思い付きだった。\n その日、昼食が済んで、囚人たちは一旦各自の監房へ入れられ、暫くの休息を与えられた。やがて鐘の音と共に、またゾロゾロと列を組んで、作業場に入っていった。そのとき私は、あのラジウムを裸のままで持ち出した。それは柿色の制服の、腰のところにある縫い目に入れて置いた。\n 作業場へ入ると、私は一同に準備を命じた。私は組長だったから、作業の初めにあたって、一同の面倒を見てやるため、あっちへいったり、こっちへ来たりすることが許されていた。\n「オイ、材料を見せろ」\n と私は痩せギスの青年に云った。\n「へえ、これだけ出来ています」\n 私はその紙風船の花びらの束を解いて、パラパラと引繰りかえしていたが、\n「おい、一枚足りないぞ」\n「え?」\n「ナニ、いいよいいよ」と私は云いながら、隅ッこに駄目な花びらが乱雑にまるめてあるところへ寄った。そして中から、一枚の柿色の花びらを取った。「こいつを入れとこう」\n「それは駄目です」\n 柿色の花びらというのは、実は不合格にすべきものだった。それは蝋紙の黄の上に、間違って桃色が二重刷になったものだった。これは二色が重なって、柿色という思いもかけぬ色紙になった。元来すこし位、色が変わっても、子供の玩具のことだからいいことになっているのだが、柿色という色は囚人の制服と同じ色であるところから、われわれ囚人の方で厭がってハネることにしているのであった、それは看守も大目に見ていたのだった。\n「なアに、一枚だけだ。これでいいよ。あとは捨てろ。この屑山を直ぐ捨てて来い」\n そういうなり私は、柿色の花びらを一枚束の中に加えた。一枚ぐらい余分に加わっても別に作業に不都合はなかった。\n それが済むと、私は自分の作業台のところへ帰って来た。そこには五十嵐が何喰わぬ顔で待っていた。\n 作業は始まった。\n 私は柿色の花びらのついた紙風船が、もう来るか来るかと、首を長くして待った。\n(あ、来たぞ)柿色の紙風船は、遂に私たちの方に廻って来た。五十嵐は無造作に二つに折って、バサリと球の上に被せた。\n「やあ」ポーン。\n と私は丸い風船の尻あてを貼りつけた。だがそこに千番に一番のかねあい......というほどでもないが、糊のついたところに例の裸のラジウムをくっつけるが早いか、その方を下にしてポーンと柿色の紙風船に貼りつけたのであった、つまり鉛筆の芯の折れほどのラジウムは、紙風船の花びらと尻あてとの紙の間に巧みに貼り込まれてしまったのだった。\n「いやァ。――」ポン。\n 五十嵐は同じ調子で、そのラジウム入りの風船をひっくりかえした。私はチラリと彼の顔を見たが、彼は口をだらしなく開いて、眼は睡むそうに半開になっていた。彼は私の大それた計画に爪ほども気がついていないらしかった。私は大安心をして、ポーンと丸い色紙を貼りつけたのだった。五十嵐はその柿色の紙風船に見向きもせず、腕をサッと横に伸ばして今まで出来た紙風船の上に積みかさねた。そこへお誂え向きに検査係が来て、その一と山の紙風船を向うへ持っていった。私はうまくいったと心中躍りあがらんばかりに喜び、ホッと溜息をもらした。\n こうしてラジウムは、柿色の紙風船の中に入ったまま、私の手を離れていったのだった。\n それから後の話は別にするほどのこともない。私は予定より二週間ばかり早く、刑務所を出された。出るときは、果してあの帆村とかいう探偵立合いの下に、肉ポケットの中を入念に調べられたが、それは彼等を失望させるに役立ったばかりだった。私が出所したあとで、私の囚人服や独房内が、大勢の看守の手で大騒ぎをして取調べられていることだろうと思って、噴き出したくなった。\n 娑婆の風は実にいいものだった。ピューッと空ッ風が吹いて来ると、オーヴァーの襟を深々と立てた。\n「ああ、寒い」\n 風が寒いのを感じるなんて、何という幸福なことだろう。私は五年間に貰いためた労役の賃金の入った状袋をしっかりと握りながら、物珍らしげに、四辺を見廻したのだった。\n そこへ一台の円タクが来た。呼びとめて、車を浅草へ走らせる。円タクに乗るのも、あれ以来だった。私は手を内懐へ入れて、状袋の中から五十銭玉を裸のまま取り出した。"
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"role": "assistant",
"content": "「旦那、浅草はどこです」\n「あ、浅草の、そうだ浅草橋の近所でいいよ」\n「浅草橋ならすこし行き過ぎましたよ」\n「いや、近くならばどこでもいい。降して呉れ」\n 私は綺麗な鋪道の上に下りた。だが何となく刑務所の仕事場を思い出させるようなコンクリートの路面だった。私は厭な気がした。\n そこで私は、トコトコ歩き出した。\n 訪ねる先は、七軒町の玩具問屋、丸福商店だった。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、相当まごついたが、やっと思う店を探しあてた。店頭には賑かに凧や羽根がぶら下り、セルロイドのラッパだの、サーベルだの、紙で拵えた鉄兜だの、それからそれへと、さまざまなものが所も狭く、天井から下っていた。――私は臆面もなく、店先へ腰を下した。\n「いらっしゃいまし。何、あげます?」\n と小僧さんが尋ねた。\n「ああ、紙風船が欲しいのですがネ、すこし注文があるので、一ついろいろ見せて下さい」\n「よろしゅうございます。――紙風船といいますと、こんなところで......」\n と小僧さんは指さした。なんのことだ、私の坐った膝の前、あの懐しい紙風船が山と積まれているのだ。\n(おお。――)\n 私の胸は早鐘のように鳴りだした。風船を両手でかき集め、しっかり圧えたい衝動に駆られた。だが私も、刑務所生活をして、いやにキョトキョトして来たものである。\n「そうですネ。――」\n と私は無理に気を落ち着けて、風船の山を上から下へと調べていった。\n(柿色の風船は?)\n 無い、無い。無いことはないのだが......。およそ私の居た刑務所の紙風船は、一つのこらずこの丸福商店に買われることになっているのだ。それは刑務所で入札の結果、本年も紙風船は丸福に落ちていたのだった。だから柿色の紙風船は、この店にあるより外に、行く先がなかった。売れたのかしら?\n「......もう風船はないのですか」\n「唯今、これだけで......」\n「そうですか。どこかにしまってあるんじゃないですか」\n「いいえ」\n 小僧さんは悲しいことを云った。\n 私はガッカリして、立ち上る元気もなかった。そのとき奥から番頭らしいのが、声をかけた。\n「吉松。さっき、あすこから来たのがあるじゃないか。あれを御覧に入れなさい」\n「ああ、そうでしたネ。......少々お待ち下さい。今日入った分がございましたから」\n「今日入ったのですか。ああ、そうですか」\n 私は悦びに飴のように崩れてくる顔の形を、どうすることも出来なかった。小僧さんは、大きいハトロン紙の包みをベリベリと剥いた。\n「これは如何さまで......」\n「ああ――。」\n 私は一と目で、柿色の紙風船が重なっているところを見付けた。\n「あ、こいつはお誂え向きだ。こいつを買いましょう。」\n 私は十円紙幣を抛り出して、沢山の風船を買った。小僧さんが包んでくれる間も、誰かが邪魔にやって来ないかと、気が気じゃなかった。だがそれは杞憂にすぎなかった。\n 私は風船の入った包みをぶら下げて、店を出た。ところが店の前を五六間行くか行かないところで、私はギョッとした。私の顔見知りの男が、向うから歩いて来るのである。それは帆村という探偵に違いなかった。\n(これは――)と咄嗟に私は決心を固めたが、幸いにも帆村探偵は、並び並んだ玩具問屋の看板にばかり気をとられて歩いているらしかった。私はスルリと電柱の蔭に隠れて、とうとうこの間抜け探偵をやりすごした。\n 私はすぐに円タクを雇うと、両国へ走らせた。国技館前で降りて、横丁を入ってゆくと、幸楽館という円宿ホテルがあった。私はそこの扉を押した。\n 三階へ上り、部屋からお手伝いさんを追い出すのももどかしかった。宿泊料とチップを受けとって、ふくら雀のようなお手伝いさんが出てゆくと、私は外套を脱ぎ、上衣を脱いだ。そして持ってきた包みをベリベリと剥がした。ナイフなんか使う遑がない。すべて爪の先で破った。\n 出て来た出て来た。\n「柿色の紙風船だァ!」\n 外の紙風船は、室内にカーニヴァルの花吹雪のように散った。\n「これだ、これだッ」\n とうとう探しあてた柿色の紙風船だった。私の眼は感きわまって、俄かに曇った。その泪を襯衣の袖で横なぐりにこすりながら、私は紙風船の丸い尻あてのところを指先で探った。\n「オヤ?」\n どうしたのだろう。尻あてのところに確かに手に触れなければならない硬いものが、どうしても触れないのだ。そこはスケートリンクのように平坦だった。\n「そんな筈はない!」\n 怺えきれなくなった私は、尻あてに指先をかけると、ベリベリと引っぺがした。すっかり裏をかえして調べてみた。ところが、やっぱり何も見当らない。これは尻あてと、呼吸を吹きこむ口紙の方と間違ったかナと思って、今度はそっちの方をひき毮ってみた。が、やっぱり無い。そんな筈はない。そんな筈はない。が、どうしても見当らないのだった。\n「ああーッ」\n 私の腰はヘナヘナと床の上に崩れてしまった。夢ならば醒めよと思った。神様、もう冗談はよしましょうと叫んだ。時間よ、紙風船を破く前に帰れよと喚きたてた。だが、そんなことが何の役に立つというのだ。絶望、絶望、大絶望だった。数万の毛穴から、身体中のエネルギーが水蒸気のように放散してしまった。私は脱ぎ捨てられた着物のようになって、いつまでも床の上に倒れていた。\n\n それはどれほど後だったかしらぬ。私はようやく気がついて、床の上に起き直った。\n 考えてみると、随分馬鹿な話だった。あれほどうまく隠しおおせた三万五千円のラジウムが、とうとう行方不明になってしまったのだ。だが、あの日までは私の手のうちにあったラジウムである。現在も地球上の、どっかに存在している筈であった。\n そう思うと又口惜し泪がポロポロ流れ落ちて来るのだった。人生の名誉を賭けたあのラジウムを、そんなに簡単に失ってなるものかと歯ぎしり噛んだ。\n「一体どこで失ったんだろう?」\n 私はあの日からのちのことをいろいろと思い綴って見た。いろいろと考えられはしたが、結局しっかりしたことは判らない。しかし一旦糊で紙の間に入れたラジウムが、こんな短期に脱け落ちるのはおかしい。といって風船が違ったわけでもない。この柿色の風船のように、半端な色花びらを接ぎ合わせたものは外にない筈だ。\n 私は同じことを、いくたびも繰り返し繰り返し考え直した。考え直しているうちに、ふと気がついたことがあった!\n「おお、あれかも知れない」\n 私はムクリと起き上った。\n「いや、あれに違いないぞ。うん、そうだ」\n 私の全身には、俄かに血潮の流れが早くなった。手足がビリビリと慄えてきた。\n「よォし、畜生......」\n 私は戸外の暗闇に走り出でた。\n\n さてそれから後のことを、どう皆さんに伝えたらいいだろうか。私はすこし語りつかれたので、結末を簡単に述べようと思う。その結末というのは、恐らく、もう皆さんの目にハッキリと映っていることと思う。そういって判らなければ、もっと明瞭に云おう。\n 皆さんは、二月二十日付の朝刊を見られたであろうと思う。その社会面の中で、なにが皆さんを最も駭かしたであろうか。\n それは云うまでもあるまい。\n「山麓の荒小屋に発見されたる怪屍体」という見出しで、「昨十九日午前八時、×大学生××は××山麓の荒れ小屋の中に於て休息せんとしたところ、図らずもその中に年齢四十二三歳と推定される男の素裸の怪屍体を発見した。警報をうけて警視庁の大江山捜査課長以下は、鑑識課員を伴って現場に急行した。現場には同人のものらしき和服と二重まわしが脱ぎ捨てられてあったが、その外に何のため使用したか長い麻縄が遺棄されてあった。其の他に持ちものはない。屍体は即日解剖に附せられたが、この男の死因は主として飢餓によるものと判明した。尚屍体の特徴として、左肋骨の下に、著しい潰瘍の存することを発見した。しかしその成因其他については未詳であるが、とにかく兇行に関係のある重大なる謎として係官の注意を集めている。"
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"role": "user",
"content": " 歸ると見せて、十歩、二十歩、元來た道を梅屋敷の方へ引返すと、後ろからは、何やら物の氣はひ、そつと振り返ると、先刻の男らしいのが、短銃を腕だめにしたまゝ、執こく後を跟けて來るのです。\n「野郎ツ、ふざけた事を」\n 平次の反抗心は勃然として湧き起ります。\n 少し急ぎ足に、とある屋敷の角を曲ると、其處に待ち構へて、ヌツと後から來た男の鼻の先へ姿を現はしました。\n「あツ」\n 飛込んで一當て、水落へ喰はせると、男は脆くもヘタ〳〵と崩折れるのを、引摺るやうに、木立の中へ。\n 平次は其處で、氣を喪つた男から、袷を剥ぎ取り、腰に下げてあつた、小判形の門鑑を拜借し、手拭の頬冠りに、手早く變裝して、手に持つた短銃までも取上げてしまひました。\n 日頃の錢形には無い荒療治ですが、紫御殿の秘密が容易ならぬものと見て取つて、精一杯の陣を立てるのです。\n 男がやゝ氣を取直したときは、自分の帶でメチヤ〳〵に縛られ、丁寧に猿轡まで噛まされて、林の中の薪小屋に抛り込まれて居りました。\n「氣の毒だが、暫らく我慢しろよ。その代り、一刻もすると、お前の持物は皆んな返してやる」\n 丁寧な捨ぜりふを殘して、平次は紫御殿の中へ入つて行くのです。\n\n四\n\n「お、兄哥か、變な野郎は追つ拂つたのか」\n 門番に聲を掛けられて、平次はギヨツとしましたが、持つてゐた短筒を見せて、\n「ウン」\n たつたそれ丈け、顎をしやくつて、庭へ入りました。小判形の門鑑を取出すにも及びません。\n 御殿の中の和讃は、素晴らしく美しいものでした。それは異國的で、妖艶で、美しい女聲の大合唱が、岸を打つ浪のやうに、夜の空氣をかき立てるのです。\n その頃日本中に流行つた。隱し念佛の歌の無い合唱を、もう少し派手に美しくしたもので、心ある人が聽いたら、それは切支丹宗門のお祈の歌に似て居ると言つたかも知れません。\n その女聲の大合唱を支配して、リン〳〵と響く、若々しい乙女の聲は、まことに鈴を振るやうで、何に譬へやうもなく、聽く者の肺腑に沁み入ります。\n 部屋から部屋、廊下から廊下を過ぎて、奧の一と間に近づいた平次は、漸く大合唱の湧き起る場所を突き留めて、几帳をかゝげて、そつと覗きました。\n「――」\n 危ふく聲を出しかけたのも無理はありません。中は百疊敷ほどの大廣間で、正面に羽二重と錦の帳をかゝげ、かけ並べた燭臺に照らされて、二十四人の巫女が、聲を合せて歌ひ乍ら、翩飜として舞つて居るのです。\n 巫女は皆若く美しく、さながら繪にある天女の裝ひです。羽衣を飜へし、朱の袴さばきも見事に、歌ひ且つ踊るのです。歌も踊も、曾て見慣れたものでは無く、全く此世のものとも覺えず、言葉の無い大合唱は、船を覆へし舟人を殺すといふ傳説の人魚の歌を聽くやうな、得も言はれぬ妖しさと美しさです。\n 平凡で退屈な生活に馴れた人達は、此世の中に、斯うした歡樂境もあつたのかと、たつた一と目で膽をつぶすことでせう。平次はさながら、龍宮城とやらに迷ひ込んだやうな心持で、暫らくは自分を忘れて居りました。\n わけても、歌の音頭をとる十八九の娘と、踊のリーダーになつて居る、十六七の娘の非凡さは大したものでした。言葉の無い歌は、聽く人々の心持を有頂天にし、踊る手振りの見事さは、そのまゝ羽が生えて飛ぶ、天女の舞のやうな感じがするのです。\n 妖惡で邪まな美しさ、聽く者、見る者を、全身的な陶醉に誘ふ道具立の數々、つい平次もうつとりして了ひさうです。いや平次ばかりでは無く、廣間の疊の上に並んだ、百人あまりの信者達も、兩手を合せ、何やら小聲に稱へ乍ら、全くの恍惚境に陷つて居るではありませんか。\n やがて、歌も踊も一段落になつた頃、平次はそつと几帳のかげを離れ、尚も奧へと進んで行きました。\n 何處からとも無く射して來る薄灯を便りに、此冒險は果てしも無く續きます。ところ〴〵道が盡きると、窓から月の光が射し込んだり、思はぬところに部屋があつたりします。\n ヒソヒソと囁やく人の聲に驚いて、幾度此まゝ引揚げようと思つたか知れませんが、平次は分捕つた短銃を握りしめて、それを頼りに、三階へ登つてしまひました。\n 覺束ない足さぐりで、此處まで來るのは、まことに容易ならぬ骨折ですが、三階の大廣間を開けて、平次は此處まで來たのが、決して無駄では無かつたと氣がつきました。其處には、滅多には見られぬ、渾天儀が据ゑつけてあつたではありませんか。\n 天體の觀測、わけても星辰の運行を測る渾天儀は、幕府の天文方にでも行かなければ、容易に見られる品では無く、こんな場所にあらうとは、想像も出來ないことです。\n 尤も、日本の昔の天文學は、今日考へたよりは進歩したもので、徳川時代の初期には、月日の蝕も暦の上で豫言され、學者達は既に地動説も知り、日月星辰の運行も、一と通りは觀測して居たのです。\n だが併し、民間の――しかもお宗旨の建物に、斯んな機構を持つて居るといふことは、全く客易ならぬことであり、平次の分捕つて來た、和蘭渡りらしい、精巧な元込短銃と照し合せて、事件の重大さに、平次の五體が引き緊ります。\n もう一つ驚いたことは、この建築の見事さでした。勾欄、廻廊、すべて異國的で、戸一枚、柱一本にも、並々ならぬ仕掛がありさうですが、平次の眼も其處までは及びません。江戸の五重塔の多くが、此時代前後に造られ、桂離宮のやうな、世界的な美しい建築も造られた時代で、井筒屋の寄進で、金に飽かして造れば、これ位のものが出來たのも無理のないことです。\n 一萬兩と言ふ金は、今の相場にして、何億に相當するでせう。\n「あ、根津の辰三郎だ」\n 平次はフト思ひ當りました。江戸の大工では、彫物の左甚五郎、建物の辰三郎と並び稱された棟梁で、その名匠が金に飽かして造れば、この建物も別に不思議ではありません。\n 三階の渾天儀の側に、一つの臺があります。それは天井から太い鎖で吊つた臺で、一間四方ほどの眞ん中に、床几を据ゑてあるのが、妙に平次の好奇心をそゝります。\n フト、その上に人間が乘つて、何をするのだらう――と、そんな事を考へ乍ら、半分は惡戯兒らしい氣紛れで、平次はその上に乘つて見ました。\n そんな事を考へ乍ら、床几に腰をおろした平次は、\n「あツ」\n 思はず聲を出しました。臺は平次を乘せたまゝ、スル〳〵〳〵と下へ落ち込んで行くのです。\n エレベーター、と今の人には直ぐ氣がつくことでせうが、平次はもとよりそれを知る筈もなく、あれよ〳〵と思ふうち、臺は平次と共に、三間、五間と落ちて、建物の底と思ふあたりに、フンワリと止つてくれたのです。\n あとで考へて見ると、臺が平次を載せて下へ降りる途中、もう一つの臺が、下から上へ同じ早さで昇つたやうです。多分ハネ釣瓶の仕掛けを、齒車で加減して、下から上へ昇るのは人手を借り、上から下へ降りるのは、獨りでも動いてくれるのでせう。\n ところ〴〵に鐵の網を掛けた夜明しの行燈が掛けてあり、明りは、覺束ない乍らも、何處からか射してをります。此處から廊下を辿つて居るうちに、外へ出る道が見付かるでせう。\n 平次はそんな心持で、五六間進むと、\n「おや」\n 足にさはつたのは、一つの懷中煙草入です。手に取上げて、疎い灯に透して見ると、妙に貧乏臭くて、中が空つぽで、カラリと落ちた眞鍮の煙管が少し潰れて、紛れもなくそれは、八五郎愛用の品ではありませんか。\n 此間から見えなかつた八五郎、さてはこんなところに潜つて居たのかと思ふと、謎は一應解けますが、さて心配が又一つ殖えたわけです。\n さて、煙草入が落ちてゐる樣子では、八五郎は此邊に居るかもわかりませんが、お互に人目を憚つて居ては、合圖をかはす手段も無いのです。\n 思ひ付いたのは、何んかの事件で、八五郎と合圖を交したとき、三つづつ二つ、三つづつ二つと、戸を叩いたことがあります。試みにそれを用ひて、廊下の戸を其處から始めて先へ〳〵と叩いて行きました。\n「お、親分」\n 不意に押し潰されるやうな聲、それは二つ三つ先の戸を叩いた時、納戸らしい板敷の一と間から、ドタリ〳〵と駄々つ兒の足音らしいものと一緒に聽えるのです。\n「馬鹿ツ、――そんな大きな音を立てる奴があるものか、靜かにしろ」\n 入つて見ると、當の八五郎は、散々に縛り上げられた上、布團で卷かれて猿轡まで噛まされ、でつかい蓑虫のやうに轉がされて居るではありませんか。\n 手早く解いてやると、\n「濟みませんね、親分、どうなるかと思ひましたよ」\n 八五郎は隨分長く縛られて居たらしく、手足關節などを念入りに揉んで、漸くあんよは上手と立ち上がりました。\n「何んて間拔けな恰好をして居るんだ。何時から縛られて居たんだ」\n「面目次第もありません、全くあつしが惡かつたんで」\n「何んか惡事に加擔でもしたのか」\n「そんな氣のきいた話ぢやありません。紫教が、あんまり御利益があらたかなんで、ちよつと覗いて見ようとしましたが、町方役人とわかつて、どうしても入れてくれません。無理に潜り込んで調べると、半日も經たないうちに見付かり、町方の御用聞などは不淨だからと、繩を打つてこの有樣で」"
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"role": "assistant",
"content": "「お前が、どうして町方のものとわかつたんだ」\n「この良い男つ振りを知つてる奴があつたんで」\n「長んがい顎が證人か」\n「まア、そんなことで、その上十手と捕繩を見付けられちや、どうすることも出來ません。口惜しいが昆布卷にされて、此處へ抛り込まれてから二日」\n「何んといふことだ」\n「その代り、いろ〳〵のことがわかりましたよ。兎も角外へ出ませう」\n 八五郎に促がされて、二人はどうやら塀を乘り越えました。丁度月が隱れて、庭には人影もなく、その上、林の方で何やら騷いでゐるのは、平次に縛られた男が猿轡を外して、騷ぎ立てゝ居るのでせう。\n「あ、腹が減つた、もう歩けませんよ、親分」\n「仕樣のねえ奴だ、話は後で聽くとして、それでは」\n 本當に動けさうも無い八五郎を、近所の蕎麥屋に連れ込んで、喰はせ乍ら話させる外はありません。\n\n五\n\n「こいつは全く一世一代の大縮尻でしたよ」\n「一世一代が顏見世毎に出て來るよ」\n「からかはないで下さいよ。あつしが斯んなに腹の減つたのだけでも一世一代ぢやありませんか」\n「成る程ね。それにつけても、あんまり詰め込むなよ、毒だぜ。爺さんが、仕入れた蕎麥がおしまひになり相で心配して居るぜ」\n「大丈夫ですよ、まだ八杯しか喰ひません」\n「あんな野郎だ、――ところで一伍一什をブチまけても宜からう、お前の腹も底が入れば、喰ひ乍らでも話せる筈だ」\n「全く大縮尻で、――親分が考へるやうに金儲に入つたわけぢやありません。供へた金が倍増しになると言つたところで、穴のあいたのが二三十枚ぢや、百倍になつたつて多寡が知れてますよ」\n「成程、御利益も貧乏人には大したことは無いといふわけか」\n「あつしは手柄を立てゝ、世間の人をアツと言はせ度かつたんで、親分の前だが、何時までもガラツ八扱ひぢや可哀想でせう」\n「そいつは氣が付かなかつたな。これからは八五郎親分と、親の附けた名で稱んでやらうよ」\n「親分に當てつけたわけぢやありません。あつしはガラツ八でも、ガラ六でも結構ですが、世間樣に、錢形の親分の子分に、斯んな男がゐると思はせ度かつたんですよ。いつも錢形の親分と一緒で無きや、ろくな巾着切も縛れないと思はれると、口惜しいぢやありませんか」\n「よしわかつた。お前が俺を相手に手柄爭ひをしてくれるのは、嬉しいことだよ。ところで、その先はどうした」\n「二日の間縛られて、布團むしにされただけのことで、小便を堪へるのが精一杯」\n「馬鹿野郎」\n「だつて、垂れ流しちや、親分の顏にも拘はるでせう」\n「よし、その話はいづれ春永に、小便を堪へる法といふことにして承はらう。それつ切りか」\n「それつ切りかはひどいでせう。見付かつて縛られるまで、兎も角半日もあの紫御殿の穴藏から三階までウロ〳〵して居たんですから、大概のことは見てしまひました」\n「そいつは大手柄だつた。――ところで、どんな事に氣が付いた」\n「先づ第一に、紫琴女といふのは二十五六の、滅法良い女だといふこと」\n「フーム」\n「少し傳法で、仇つぽくて、水の垂れさうな年増ですよ、四十の五十のといふのは大嘘」\n「で?」\n「それが錢形の親分に惚れて居るんで」\n「馬鹿ツ、冗談も休み〳〵言へツ」\n「本當ですよ、本人が言ふんだから嘘ぢや無いでせう。――先刻も赤井主水の手下が、鐵砲で錢形の親分を狙ひ撃ちにしようとしたから、小石を飛ばして狙ひを狂はしてやつた。錢形の親分は何んにも知らずに、矢でも鐵砲でも持つて來いと言つた顏をするんだもの、お前の親分の平次も、男つ振りは良いけれど、大したもんぢや無いね――つて、面白さうに含み笑ひをして居ましたよ。あの含み笑ひが大したもので、聽いただけでウズ〳〵するでせう」\n「――」\n 平次は恐ろしく苦い顏をして默つてしまひました。\n「そして、斯う言ふんです。錢形の親分を此處へつれて來たかつたけれど、大燒餅の赤井主水は何を言ふかわからないから、暫らく泳がして置く――つてね」\n「フム」\n「私は縛られて居るけれど、親分は泳がされて居るわけだ」\n「ふざけちやいけない。話はそれつ切りか」\n「赤井主水は凄い男ですよ。軍師で學者で、武藝が出來て、苦み走つた中年男で、紫琴女に夢中で」\n「何? 二人は夫婦ぢや無いのか」\n「間違ひありませんよ、唯の男と女で」\n「お前は妙なことに目が屆くな」\n「川柳にありますね、『そでなくてあの、處置振りがなるものか――』つてね、喧嘩もせず目くばせもせず、甘つたれもせず、あんな夫婦があるものですか」\n「で?」\n「尤も、二人はうんと溜めましたよ。あの下げ臺(エレベーター)の下に、箱を敷き詰めた床があります」\n「フーム」\n「それが皆んな千兩箱ならどうします。チユウチユウタコカイナと勘定して見ると、ざつと六十八」\n「――」\n あまりの話に平次も默つてしまひました。\n「その隣は開けずの間で、其處へは誰も入れません。下男がうつかり手燭を持つて近づくと、赤井主水に眼から火が出るほど叱り飛ばされましたよ。(其處は入つちやならねえ、傍へ寄るんでも、冠行燈を持つて行け)とね」\n「外には」\n「二階の紫琴女の部屋は、道具が皆んな、三つ葉葵の紋が附いてますよ。それ丈けでも縛れると思ふんですが」\n「いや、赤井主水は公卿侍で、如才なく寺社の方に渡りをつけて居る。それに紫琴女は御連枝だとも言ふ」\n「そいつは大變ですね、親分」\n「調べて見なければわかるまいよ。ところで、疲れて居るだらうな、お前は?」\n「御冗談で、腹さへ一杯なら、此處から明神下へだつて驅けて行きますよ」\n「空きつ腹に、うんと詰め込んで、驅けちや毒だ、ソロ〳〵と行つて」\n「何處へ行くんです」\n「根津の辰三郎といふ棟梁、江戸一番といふ名人だ。その人に逢つて、紫御殿を拵へたのは親方かと訊いてくれ。辰三郎に間違ひあるまいと思ふが、念のためよく確めてから、それならば、紫御殿の繪圖面を貸してくれと持込むんだ、建てた棟梁は必ず寫しの繪圖面を持つて居る筈だ。その上、繪圖面に描いてない隱し梯子や、入口も出口も無い部屋、穴藏などがあることだらうと思ふ。それを詳しく訊き出してくれ」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n(三回)\n\n◎此の屋敷で一月一杯居りましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へに越して呉れましたから、丁度晦日に伏見を立つて京都の薩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るからと籠にのり、私は男粧して兵隊の中に雑つて行きました......、笑止かつたですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが、白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持つて来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び其上へ頬冠りをして鉄砲を担ひで行きました。処が私は鉄漿を付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御卿様だなどと戯謔つて居りました。小松さんは遙る〴〵馬に騎つて迎へに来て、お龍さん足が傷むだらうと私の鞋を解いて石でたゝひて呉れました。京都へ着くと西郷さんが玄関へ飛び出して、能う来た〳〵お龍今度はお前の手柄が第一だ、お前が居なかつたら皆の命が無いのだつたと扇を開いて煽り立て、ソラ菓子だの茶だのつて大そう大事にしてくれました。つゞまり二月は茲で暮し三月の三日一先づ薩摩へ行つては如何と西郷さんが勤めるので、小松さんの持船の三国丸へ乗つて私も一処に薩摩へ下りました。\n◎逆鋒ですが、山へ登たのは田中吉兵衛さんと龍馬と私と三人でした。(千里駒にはお龍が書生を伴ひて登山し逆鋒を抜き、後ち龍馬に叱られたりとあれど事実然らず)小松さんが霧島の湯治に行つて居りまして私等も一処でしたが、或日私が山へ登つて見たいと云ふと、言ひ出したら聞かぬ奴だから連れて行つてやらうと龍馬が云ひまして、山は御飯は禁物だからコレを弁当にと小松さんがカステイラの切つたのを呉れました。此の絵(千里駒のお龍逆鋒を抜く図)は違つて居ます。鋒の上は天狗の面を二ツ鋳付けて一尺回りもありませうか、から金で中は空で軽あるいのです。私が抜ひて見度う御座いますと云ふと、龍馬はやつて見よ六ヶ敷けりや手伝つてやると笑つて居りましたが田中さんは色を青くして、ソソレを抜けば火が降ると昔から言つてあるどうぞ罷めて下さいと云ふ、私は何に大丈夫と鉾の根の石をサツ〳〵と掻のけ、一息に引抜いて倒した儘で帰りました。\n◎此の顔(龍馬伝の揷絵)は大分似て居ます。頬はモ少し痩せて目は少し角が立つて居ました。眉の上には大きな痣があつて其外にも黒子がポツ〳〵あるので、写真は奇麗に取れんのですヨ。背には黒毛が一杯生えて居まして何時も石鹸で洗ふのでした。長州の伊藤助太夫の家内が、阪本さんは平生きたない風をして居つて顔付も恐ろしい様な人だつたが、此間は顔も奇麗に肥え大変立派になつて入らつしやつた、吃度死花が咲いたのでせう、間もなく没くなられたと云ひました、コレは後ちの事です。\n◎龍馬の歌もボツ〳〵ありましたが一々おぼえては居りませぬ、助太夫の家で一晩歌会をした時龍馬が、\n\n行く春も心やすげに見ゆる哉\n 花なき里の夕ぐれのそら\n玉月山松の葉もりの春の月\n 秋はあはれとなど思ひけむ\n\nと咏みました、私も退窟で堪らぬから\n\n薄墨の雲と見る間に筆の山\n 門司の浦はにそゝぐ夕立\n\nと咏んで、コレは歌でせうかと差し出すと、皆な手を拍つてうまい〳〵なんて笑ひました、ホホホヽヽヽヽヽ。龍馬が土佐で咏んだ歌に、\n\nさよふけて月をもめでし賤の男の\n 庭の小萩の露を知りけり\n\nと云ふのがあります。伏見で江戸へ出立の時に、\n\n又あふと思ふ心をしるべにて\n 道なき世にも出づる旅かな\n\nと咏みました。私の歌ですか......ホホ蕪拙ですよ。伏見の騒動の当時咏んで龍馬に見せたのが一ツあります。\n\n思ひきや宇治の河瀬の末つひに\n 君と伏見の月を見むとは\n"
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"role": "assistant",
"content": "と云ふのです、龍馬の都々逸がありますよ、斯う云ふのです\n とん〳〵と登る梯子の真中程で、国を去つて薩摩同士(雪山按ずるに当時龍馬は姓名を変じ薩藩士と称して幕府の嫌疑を避け居たり。故に詩句の三巴遠を変じて薩摩同志とせるか)楼に上る貧乏の春(雪山按ずるにお龍氏も亦お春と変名し居たり。故に詩句の万里の秋を変じて殊更に春とせるか)辛抱しやんせと目に涙。\nと云ふのです。小松さんの作つたのも一つ覚えて居ます。\n\n西の国からお主の使ひ、風蕭々として易水寒し壮士一たび去つて又還らず、ならにや動かぬ武士の道\n\n\n(四回)\n\n◎龍馬はソレは〳〵妙な男でして丸で人さんとは一風違つて居たのです。少しでも間違つた事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白に誤りさへすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く〳〵せねばならぬぞと丁寧に教へて呉れました。衣物なども余り奇麗にすると気嫌が悪るいので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから誰れのと問ふたら、己れの単衣を誰れか取つて行つたから、おれは西郷から此の衣物を貰つて来たと云ひました。長崎の小曽根で一日宿の主人等と花見に行く時お内儀さんが、今日は美いのを御召しなさいと云つたけれど、私は平生着の次ぎのを被て行きましたが、龍馬が後で聞いてヨカツタ〳〵と云つて喜びました。十人行けば十人の中で何処の誰れやら分らぬ様にして居れと常に私に言ひ聞かせ、人に軽蔑せられると云へば、夫れが面白いじや無いかと云つて居りました。\n◎一戦争済めば山中へ這入つて安楽に暮す積り、役人になるのはおれは否ぢや、退屈な時聞きたいから月琴でも習つて置けとお師匠さんを探して呉れましたので、私は暫く稽古しましたが、あなたに聞ひて頂くならモ少し幼少い時分から稽古して置けば宜かつたと大笑でした。\n◎兄さんは龍馬とは親子程年が違つて居ました。一番上が兄さん(権平)で次がお乙女さん其次が高松太郎の母、其次が又女で龍馬は末子です。龍馬が常に云つていました、おれは若い時親に死別れてからはお乙女姉さんの世話になつて成長つたので親の恩より姉さんの恩が大いつてね。大変姉さんと中好しで、何時でも長い〳〵手紙を寄しましたが兄さんには匿して書くので、龍馬に遣る手紙を色男かなんかにやる様におれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いた事を国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしてはあなたが大変私にのろい様に見えるからお廃止なさいと止めました。姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今姑らく略しぬ。されど這の女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期し端を改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。\n◎私の名ですか、矢ツ張り龍馬の龍の字です。初めて逢つた時分お前の名のりよふは何う云ふ字かと問ひますから斯く〳〵と書いて見せると、夫れではおれの名と一緒だと笑つて居りました。\n◎私の父は楢崎将作(千里駒に将監とあるは誤也)と云ふのです。青蓮院様の侍医でしたが漢学は貫名海岸先生に習つたのであの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。また頼三樹さんや池内大角(吉田松陰らと倶に斬らる)などゝも親密で私が幼少い時分には能う往来きして居ました。\n◎長岡健吉(今井順静の変名)は龍馬が大変可愛がつて薩摩へも連れて行きましたが、朝寝をしてどうもならぬのです。処が犬が大嫌でしたから蒲団を被つて寝て居る時には、犬を枕元へ坐らせて置て揺り起すと、ヘイと云つて起き上り犬を見れば直ぐ又蒲団を引ツ被つて姉さん(海援隊の者はお龍を姉さんと呼び居たり)は悪るい事をする、なぞ云つて居りました。龍馬が長岡の様なキツイ顔付で犬が恐ろしいとは不思議ぢやないかと笑つて居りましたが、明治の初め東京で死んだのです。\n◎野村辰太郎と与三郎(権平氏の女婿乃ち龍馬の甥に当る)と二人連で土佐を脱走して来たのです。丁度越前から二人来て海援隊へ入れて呉れと云つて居りましたが、野村と与三郎とは此処の隅ではペチヤ〳〵彼処の隅ではペチヤ〳〵とお国の事斗り話して居るので龍馬が大変腹を立て、お国の事は話さいでも知つて居る、天下を料理するものはどの国は斯様〳〵の有様、君の国は如何の風とか問ふたり聞ひたりしてこそ学問になるのだ。今越前から来て居るのをソツチのけにして置て自分勝手な話し斗りするとは怪しからぬ、と散々叱つて貴様の様な奴は役に立たぬから帰つて仕舞へと怒つて居りました。\n◎忠広の刀、あれは兄さんが龍馬に、この刀が欲しいかと云ふから、欲しいと云へば、脱走せねば与ると云ふ、そんなら私も思案して見ませうと一旦返したさうですが、後に甲浦まで帰つた時、兄さんから龍馬に送つて呉れたのです。長州へ持つて来て見せました。\n◎役者を一人かゝへた事があります。舞や踊りが上手でしたが、今日が踊り納だから一ツ踊つて、今日限り一切踊ることはならぬぞと踊らせました。後藤(象次郎)さんが、君の家来には役者も居るかと笑つた時龍馬が、役者も居れば花児も居るが腸丈は奇麗なぞと云つたさうです。白峰駿馬は越後の生れ、左柳高次は讃州志度の者で本名は浦田運次郎、高次と云ふのは龍馬が与つた名です。\n◎支那人の子を一人抱へました。父親は上海辺の者で長崎へ商売に来て居て出来た子で名は矢ツ張り支那流の六ツか敷い名でしたが、龍馬が支那から日本へまで遙る〴〵来たのだからと春木和助と云ふ名をやりました。\n\n(五回)\n\n◎橋本久太夫は元幕府の軍艦へ乗つて居たので、大酒呑でしたが舟の乗り方は中々上手でした。大坂沖で舟の中で酒場喧嘩をし出来し、海へ飛び込んで逃げて来て抱へて呉れと云ふから家来にしたのです。後に薩摩から長崎へ廻航の時甑灘で大浪に逢ひ、船は揺れる、人は酔ふ、仕方が無いのです。私はテーブルに向ひ腰をかけ月琴を弾いて居ると、龍馬は側でニコ〳〵笑ひながら聴いて居りました。暫くして便所へ行かうと思つたが船が揺つて歩けぬから匍匐う様にして行つて見ると、皆んな酔つて唸つて居るに久太夫が独り五体を帆穡へ縛り付け帆を捲ひたり張つたりして働いて居りましたが、私を見るより、奥さんでさへ起きて居るぞ貴様等恥を知れ〳〵と大声で呼はつて居りました。天草港へ着きかけると皆な起きて来て衣物を着換へるやら顔を洗ふやら大騒ぎ、久太夫は独り蹲んで見て居りましたが私が、港が見えだすとソンナ真似をしてお前等何だ酔つて寝て居た癖に、と云ふと橋本がソラ見よ皆来て誤れ〳〵、と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指さすと皆平伏して真とに悪うご座りましたと誤つて居りました。ホヽ私悪いことをしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな酔ふ者は酔ふ酔はぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。ソレから港へ着くと薩摩の旗を樹てゝ居るから迎へに来る筈ですが浪が荒くつて来れないのです。下るには桟橋もなし困つて居ると久太夫が碇を向の岸へ投げ上げ綱を伝つて岸へ上り、荷物など皆な一人で世話して仕舞ひました。龍馬が大さう喜んで、お龍よ橋本の仕事は実に潔ひ、己れの抱へる者は皆なコンな者だと褒めて居りました。\n◎新宮次郎さんは土佐の新宮村の人で始めは馬之助と云つて髯が立派で美しい人でした。龍馬が云つてますには、己は前へ立つて籔でも岩でもヅン〳〵押し分けて道開きをするので、其の跡は新宮が鎌や鍬やで奇麗に繕つて呉れるのだつて......。あの広井磐之助の仇討はこの新宮さんが助太刀をしたのです。(千里駒には龍馬が助太刀したりとあれど誤也)話を聞けばソレお話にもならぬ......。アノとんと騒ぎから起つたので仇討をする程の事では無い、と龍馬が云つて居りました。討たれた棚橋とか云ふ男にも、龍馬が気の毒に思つて、君をねらつて居る者があるから早く逃げよと云つたら、討ちたければ討つがよい此方も夫れ丈の用心する、と云つて居ましたそうな。\n◎武市(半平太)さんには一度逢ひました。江戸から国へ帰る時京都へ立寄つて龍馬に一緒に帰らぬかと云ふから、今お国では誰れでも彼れでも捕へて斬つて居るから、帰つたら必ずヤラれると留めたけれども、武市さんは無理に帰つて、果してあの通り割腹する様になりました。龍馬が、おれも武市と一緒に帰つて居たもんなら命は無いのぢあつた。武市は正直過ぎるからヤられた惜しい事をした、と云つて溜息をして話しました。\n◎門田為之助さんは肺病で死んだのです、長州俊姫様の嫁入りの事で奔走して居ましたが一度面会に来て、私も此の事が成就せねば切腹せねばならぬから、事によるともうお目にはかゝらぬと云ふから餞別をして上げましたが甘くヤツたのです。門田は立派にヤツて呉れて難有い、仕損じたら土佐の名を汚すのぢやつたと龍馬が嬉しがつて居りました。\n\n(六回)\n\n◎海援隊の積立金ですが、アレは管野や白峰や中島やが洋行して使つて仕舞つたのです。龍馬が斬られた時は私は長州の伊東助太夫の家に居りました。丁度十一月の十六日の夜私は龍馬が、全身朱に染んで血刀を提げしよんぼりと枕元に立つて居る夢を見て、ハテ気掛りな龍馬に怪我でもありはせぬかと独り心配して居りますと、翌る十七日の夕方左柳高次が早馬で馳せ付け私の前へ平伏して、姉さん、と云つたきり太息をついて居りますから、扨ては愈々と覚悟して、こみ上げる涙をじつと抑へ、左柳これを着かへなさいと縮緬の襦袢を一枚出してやつて別室で休息させ、私は妹の君江と共に香を焚て心斗りの法事を営みました。九日目に三吉さんや助太夫やも寄合つて更めて法事を営みましたが、私は泣いては恥しいと堪え〳〵していましたが到頭堪え切れなくなつて、鋏で以て頭の髪をふツつりと切り取つて龍馬の霊前へ供へるが否や、覚えずワツと泣き伏しました。ソレから色々して居る内中島と石田英吉、山本幸堂の三人が迎へに来て、一旦長崎へ下り龍馬の遺言で菅野と君江との婚礼を済ませ、それから大坂へ出て、土佐へ帰りました。其跡で中島菅野白峰の三人が洋行したのです。\n◎龍馬の石碑なども元は薩摩で削つたのです。私はソレを聞いて吃驚し海援隊の者に話すとソレは不都合と云つて、つゞまり其石を薩摩から譲り受けて海援隊の名義で立てました。\n◎千葉の娘はお佐野(千里駒には光子とありて龍馬より懸想したりと記したれど想ふに作者が面白く読ません為めに殊更ら構へたるものなるべし)と云つてお転婆だつたさうです。親が剣道の指南番だつたから御殿へも出入したものか一橋公の日記を盗み出して龍馬に呉れたので、龍馬は徳川家の内幕をすつかり知ることが出来たさうです。お佐野はおれの為めには随分骨を折てくれたがおれは何だか好かぬから取り合はなかつたと云つて居りました。\n◎龍馬の生れた日ですか、天保六年の十一月十五日で丁度斬られた月日(慶応三年十一月十五日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には十月とあります、どちらが真だか分りませぬ。龍馬の名乗りの直柔と云ふのは後に換へた名で初は直蔭と云つたのです。伏見で居た時分に、直蔭は何日迄も日蔭者の様でイケないから直柔と換へると云つて換へました。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 生活を創造してゆくよろこびを体得すれば、と書かれていましたが、ここにもやはり新鮮にうつものがあります。これまで常に、中絶した作品について、注意して下すっていた。しかも私はもとは、一旦かきはじめた作品を中途でやめたことは一度もなかった。必ずまとめて来ている。それが30年以後にはいくつかあって、当時自分としては、これまでなかったこと故、時間的な側からしか理由を見ることが出来ずにいました。今は、その理由も、時間的な外部の条件と合わせつつ、はっきりわかる。何か薄弱な、意識せざる抗弁的にきこえたというのは、その程度をぬけている心持にとってさもありなんと思われ、いくらか情けなくもきけたでしょうし(そのわからなさ、わからないという状態が語っている弱さ低さ)、そういう点でも、随分忍耐をもっていて下すったわけです。私は今会得されて来ているいくつかの点は確保して、手をゆるめず、仕事をしてゆきたい心持です。そうすると忽ち因果はめぐって、早ね早おきせざるを得ないというのは、何という天の配剤でしょう(!)\n きょうは大層早く床に入り休みます。そして御褒美の一つとして、詩集の中から、愛する小騎士物語をとり出します。雄々しい小騎士が、泉のほとりで一日一夜のうちにめぐりあった六度の冒険の物語。覚えていらっしゃるでしょう? この物語の魅力は、えらばれた者である小騎士が、自身の威力を未だ知らず、死して死せざる命の力に深く驚歎する美しい発見にあると思います。深い深い命への讚歎が流れ響いています。ありふれたドンキホーテの物語でないところ何と面白いでしょう。愛らしき小騎士に祝福を。\n さて、お約束の表をつけます。\n 二月二十一日から三月二日迄\n 起床 消燈\n二十一日 七・〇〇 十時\n二十二日 七・三〇(小説かきはじめる)一〇・二〇\n二十三日 七・一〇 一〇・三〇\n二十四日 六・四〇 一〇・四〇\n二十五日 七・〇〇 一一・〇〇\n二十六日 七・四〇 九・五〇\n二十七日 六・五〇 一〇・三五\n二十八日 七・〇〇 一一・一〇\n三月一日 七・四〇 一一・三〇\n 二日 八・〇〇 一〇・四五頃\n ――○――\n でくまひくまについて云えばやはり、浮きつ沈みつ反落線を彷徨して居ります。でも勘弁ね。(つきものがつくと頭が冴えるというか。)\n これからのプランは、この線を平らにすることと、本よみとをやりつつ、次の書くものをおなかのなかでこねる仕事です。或は間もなく伝記にとりかかろうかとも考えて居ります。\n 朝そちらにゆき十一時ごろはかえる。決して、それだけの時間や何かで計り知れぬ印象をうけますから、この間うち、ものをかくとき印象から脱するためにもかえって早昼をたべてすこしずつ、三十分ぐらい眠りました。そういうのです、ひどい集注でしょう、五分、十分が。つづければ一日そのうちに生活しつづけます。去年の後半はそのようでした、勿論それだけの必要があり必然でしたが。印象はその方向で放散されないから、内部へ吸収を待つから。ではおやすみなさい。今夜はのうのうと眠ります。では明日に。\n\n 三月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n"
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"content": " 三月八日 第二十信\n 今机のあたりに匂っているこの薄紅梅の香いを封じてあげたいこと。外は風がつよい日ですが、しずかな朝の室内に心持よく匂っています。この二枝は、日曜日に寿江子が哀れな犢になったあと、電車にのって武蔵嵐山というところまで当てずっぽに出かけ、そこに畠山重忠の館趾の梅林というのを見たときの土産。この花は薄紅梅ですが、私は昔、女が紅梅重ねと云って着た色の濃い濃い紅梅が実に好きです。こうやってしげしげと見ると、梅の花は、花の裏の萼のところも美しく蕊の見える表より裏が面白い位ですね。その梅林の路に農士学校というのがありました。黒紋付に下駄をはいた書生が、牛肉の包みか何かぶら下げて田舎道を歩いていました。\n 犢は、けさ熱川へ出発いたしました。おひささんをつけてやりました。ひさは今夜かえります。久しくあけていた家へ行って、布団ほしたり炭買ったり米買ったりするのにポツンと一人では何だか可哀そうだったから。正直に一人ゆくと思うとね。だものでつけてやった次第です。この頃は犢の生活も私に対してフランクになって、フランクになれるように整理されて来て何よりです。体の方も糖も大分ましで、私が病院にいた間あの位動けたからこの次かえる時分には又よくなって居りましょう。寿江子は熱川からかえるとノミにくわれたあとだらけになって、日にやけて、来ます。借りている家の納屋にひどいノミがいるのですって。そのわきを通るのにくわれる由。又ひどいのでしょう。六月に私が島田へゆくとき留守番にかえって来るプランです。\n さて、三月四日づけのお手紙をありがとう。きのうついたこと、申した通り。今度はそちらから下さる手紙の番号よく永つづきして覚えていらっしゃること。いつぞやも番号つけて下さり、でも程なくなくなってしまったことがありました。私の方は日記につけておくのだけれども。\n ところで、あなたはいい本をおよみになったことね、本当に!「朝起のすすめ」! 何とよく役にお立てになるでしょう! あなたがこの位引用なさる本はこれまであったでしょうか?!(このニヤニヤ顔)しかし、真面目に、十分の睡眠を失わない早ね早おきは、そのはじめと終りが体にいいばかりでなく、そういう一日は、当然一日の使いかたをしゃんとするから大いによろしいということになり、私は勿論、本気で心がけて居ります。その点は御安心下さい。けさも実に大笑いしました。寿江子が、いろいろ私に気をつけろと云って、「私から申上げるのは恐縮ですが、どうぞ益〻早ね早おきを遊せ」と云ったから。其那挨拶をさせるだけでも大したことだと大笑いでした。おそらく犢の生涯に初めての挨拶ではないかしら。あなたの鼓舞激励、(プラス叱咜も少々)遂に犢に及ぶ有様です。夜になると、私がキューキュー云って、おそくなるまいとしているのも彼女を感激させたのかもしれません。そのキューキューぶりはお目にかけたいと思います。朝は大したことないわけですが、夜のキューキュー加減と云ったら。\n 御褒美はありがとう。折角の特製牛乳のこと故、ワイングラス一杯では足りません。あれは小さいものですもの。数杯のんだときにでも、私たちはたっぷり大きいコップでのむ習慣でした。大抵の疲れや風邪ぐらいはあれで癒ります。\n 詩譚、うれしかった。物語のこまかい節は不思議と覚えていて、題のはっきりしないときは妙な工合です、教えて下すってありがとう。二人の番兵たちの名はピム、パムでした。桜坊色の帽子をかぶって、雄々しい騎士のためにでなければ決して城門は開かず、円い楯をひかえて立っている姿はなかなか愛すべきです。ピムとパムとは、朝も夜も丘の頂に立って、ゆるやかな丘陵の起伏、微かに芳しい森林越しに海の潮ざいを聴いている。ときに潮ざいは高まり、波は磯にあふれ、ピム、パムが騎士の到着を待つ心は張られた弦のように鋭くなり風のそよぎにもふるえる程だが、そのようなピム、パムたちの風情は深い、そして真面目な美しさへの感動をもって語られています。\n 生活というものが、ジグザグの線で進み、しかもまことにエッチラオッチラであること。それは実に痛感します。一寸手をゆるめれば、一方が小休み的状態から居眠り的な程度に陥ったりしてしまう。エッチラオッチラにしろ、足の運びのように、一方ずつが、ともかく前へと運び出されつつ相互に動いているときはましですが。自分が、どのような資質をもっているかということについての探求や自覚は、どうも女は男のひとよりも、社会の歴史のためや環境的なものによって、ぼんやりして居りますね。そう思われる。男が生存のために、最も低俗な水準からであるとしても、俺のとり得はどこかということは、考える。学生時代から考える。そのような人的マサツが早くからある。大多数のものは、その探究と俗処世法と結びつけて、自分の世渡りの方法をかためてゆく。女はその点でも自然発生的ですね。だから、つよい資質の特色があるものが、僅かに自然発生的にその道に赴き、相当行って自覚的努力に目覚める場合が多く、それより更に多い例は、自然発生的な資質は、環境が自然に発生させているマイナスによってこれまた自然発生的に害われ、萎靡させられ、未開発のまま消滅してしまう。\n 私などは、所謂文壇的野心など全くなくて小説をかきはじめそのような事情が自然発生的であったと共に、それから後の長い期間が模索の方向の健全さにおいても、破壊と建て直しのやりかたにおいても、本質的には自然の命じるまま、というところがありました。あなたが、余程先、手紙のなかでユリのよさや健康性が相当つよくてもそれは内在的なものとしての範囲から出ない場合が多いと、文学のことにふれて云っていらしたことがある、その点だと思います。だから、自分にわかるところまでは実にわかっても、わからないことに到ると平然と自信をもってわからないでいる式の撞着が、おのずから生じることが多かったわけです。内在的本質ということについても、あのときは字は分っていたし、返事に、わかったこととして答えていたかもしれませんが、このお手紙に云われている通り、案外ほんとに合点の行っているのは昨今のことかもしれないとも思います。この頃の生活は私のこね直しというか、芸術の成長の上でもう一段追っ立てる上からも、私にとっては、実に一つ一つを含味反芻する経験(内的に)の日々であって、枠のとれた肉体で(この枠のこと、前にかいた手紙にありますが、覚えていらっしゃるかしら)現実へ入ってゆく感じです。\n 私たちの生活というものに腰がきまって来る、そのきまりのなまはんじゃくさが減少するにつれて、ぐるりが見え来るし、じりっとした工合が変って来て、ものを書く心持も亦えぐさが本ものに近づいてゆく。あなたがこわい顔をもして私のまわりからいろんなケチくさいつきものをぐんぐんこわさせていらしたことの価値も、今にして十分わかります。よく、自発的にやらないということについて、きつく仰云ったし、これからもきっと云われるでしょうが、自発的にやらないところがあるのは即ちその意味がわかっていない、或はそのことの真意の在りどころがつかめていないので、(私はわかってもやらないという気質ではないから)私の場合には幸、あなたの云いつけは反くまいという努力が原初的な形であるので、それによってフーフー云ってやって、さて成程とわかる式ですね。\n 一人の資質が三様四様の才能の最高最良な開花を見せることなど現実には稀有でしょうね。私は、終局においては賢明である目前の愚、或は鈍と、たゆまざる根で、やってゆく。そして何がどこまでゆくか一杯のところで生涯が終って、一杯ギリギリまでやったと自身で思えれば、よろこびとします。素直であり、素直であるがために現実が客観的現実のありようにおいて見えざるを得ず、それが見える以上見えないことにはならないという、そういう力が、芸術の背柱をなすわけですが、そこまで身ぐるみ成るのは大事業ですね。掃除がすっかりすんだというような固定的なものでないことはわかります。あの掃除では、ゴミはこれ程たまるものかと感歎したのですもの。掃除のあと、スーとして寒いようになった程ですもの。そこへその肌にあたる空気の工合におどろいたのですもの。真の愉しさ、生活のよろこばしい共感が、高まるための相互の献身と努力にしかないと云うことは、明らかなのだと思っていて、先頃はそういう努力がないとか足りないとか云うことがあり得ざることといきばって、そのことにだけ執していたから、哀れにも腹立たしき次第でした。そういう折のあなたが私を御覧になる独特の表情を思い出すと、切なかったことも思い出し、涙が滲むようだけれど、ひとりでに笑えもします。実にあなたは表情的なのを、その程度を、御自分で知っていらっしゃるでしょうか。唇一つの工合で私はもうハアとなってへこたれることがあるのを。こわい、こわいこわさ。そして全くそのこわさの深さに深くあり豊富に溢れるその反対のもの。この机の上の瓶から紅梅の小枝を折ってあなたの胸に插しながら、ききたいと思います。あなたはどうしてそういう方? ね、どうしてそういう方でしょう!\n 毎日の暮しかたについてのプラン。どういうのが一番実現に近く能率的でもあるでしょう。ものを書くには、直接よまず、動かずこねる時間という時間もスケジュールの中には大切にとられねばならず。今のところは、一寸書いたように、十一時ごろまでにかえり、早ひるをたべて、書くものがあるときは一寸休んでから書きはじめるという方法をとっていました。用事で出かけるときは、なるたけそちらからのかえりに方向をまとめておいて廻ること。そのようにしています。日曜はうちにいたい心持です。動坂で私が散歩したいと云いあなたはうちにいようと仰云ったああいう些細なことも、今わかるようなものです。余り自由学園式割当て生活で、それを守るための生活みたいなのは愚の骨頂だし。\n そちらに往復の乗物では(大体のりものではよまず。どうも揺れながら子供のうちからものをよんで乱視になったらしいから)読まず。そちらで三四十分(最小限待つ)その間によみたい小説類をよむことにして居ります。かえってから午後の時間四五時間本気の読みもの。夜はこね時間。それが場合によって夜と昼と入れちがうこともあるわけです。それに私には手紙をかくために三四時間いる。きょうなんかでも。その位かかります。案外と思うようにかかります。こして見ると、栄さんと喋る時間、戸塚へ一寸よる時間がないようでしょう? 実際としてはそれがいりますし。勿論それは月に二三度ですが、この頃では。そして、なるたけ昼間にしてしまいました。夜だとついのびてしまうから。勉強の時間がそれでも削られる場合が生じるでしょうね。すこしずつしか読書が捗らないと叱られそうで気がひけます。なるたけうまくやって見ますが。私の速力をずっとおとしてよむから。おちざるを得ない相手でもあり。表のむらや何か、又どうぞ辛棒して見て下さい。むらがあっても絶えずというところからはじめたいと思いますから。本月一杯は読書を中心にして、来月は他に仕事が迫らなかったら、例の伝記をつづけてかきはじめ、それに必要な哲学の本を並行によんでゆくようにしたいと思います。五月にかかるでしょう終るには。六月の島田はどのようになるか未定ですが、あなたのお考えとそのときの事情でもしすこし永くいるようでしたら一つ訳したい小説があります、ゴールスワージの。女の生活を彼らしい正義感で扱ったものですが。それを集注的にやろうかと考え中です。どうかして読む方と書く方ぶつからずくみ合わせたい。出勤はもう問題でありません、御飯ですもの。\n 家も、心がけているがなかなかです。本当に歩く距離でなくても十五分ぐらいだといいと思います。尤もこの頃は大分馴れて、大して苦でもないけれど。\n おひささんの結婚話もまとまりそうですがいつ頃までうちにいられるか、代りがあるかないか。ない方が多く、そうとすれば、又考えようがあるわけです。それは又もうすこし先のこと。\n すっかりおなかがすいてしまいました。では珍しくすこし余白をのこしておしまい。その位空いてしまったの。\n 四日の手紙もう着きましたろうか。南江堂と金原たのみましたが、本やの名から本がきまって、そちらの状態についてどうなのかしらと考えられます。お大切に。体の工合どうでいらっしゃるということはやっぱりよく知りたいのです。\n\n 三月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 三月十一日 第二十一信\n 九日づけのお手紙をありがとう。くりかえしてよみ、心からの good wishes を感じ、ありがたく思います。作品のことについてここにふれられていること、そして又お会いしたとき云われた点、いろいろ深い興味と現実の諸問題をふくんで居て、反芻の味と必要とがあると思われます。\n 主題のことにふれては、全くそう思います。そのことは自然その題材に向ったときに面したことでしたが、私の心持のやまれぬ動きからどうしても書きたくてね。昨年後半からこの頃にかけての私の内的な状態では、この題材や主題のように、心をつかんでいるもの、書きたさに溢れる心持のものを先ず書いてゆくことの必要さを感じていたので、ほかにふり向けなかった。こういう心理は面白いものであると思います。底の粒々に一つずつふれてゆくように、この作品を書いてしまわなければ、自分の心の新しいありようが自身にたしかめられないというか、沈みたいと思うと石を抱くような、というか何かそういう必然の欲求が、こういう全く心臓に響いているものをつかませたわけです。だから自分では久しぶりに好きな心持で考えることの出来る作品です。これとして、やはり一つ、小さい一歩の前へ出た(自分の感覚ではシンと沈潜した)作品だと思います。だから此がのってものらなくても、これからすこしましな作品を生んでゆける創作の生理が感覚されたようなところがある次第です。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ろれつの廻らない出鱈目のうちにも、ほぼ本性は見える。やっぱりこの娘を口説き損ねて逃げられ、逃げた先はこの道場の中と思ったがそうでなく、別邸のお蘭の部屋へ逃げ込んだのだ、あそこへ逃げ込まれては実は少し困るのだ。それは、明日になってお部屋様の角が怖いから、今晩のうちに先手を打って、御機嫌をとっておかねばならぬという用心であることは明らかで、存外この男も、お蘭に対して弱味を抑えられていることが見えないではない。\n ほどなく、戸口に立ちすくんでしまった娘の肩へ手をかけた兵馬、\n「心配なさるな、主人は行ってしまいましたよ」\n その声が存外若くして、そうしてやさしいのに、立ちすくんだ女の子は息を吹き返さないということはありません。\n 振返って見ると、最初の印象では雲を突くばかりの大男が手に白刃を提げて迫っていると見たのが、こうして見ると、自分とはいくらも違わないところの、まだ前髪立ちの若い侍で、抜き放されていたと思った白刃は、いつしか鞘に納められて、右の手に軽く提げ、その左の手で、和らかに自分の肩を叩いて言葉をかけたというよりは、慰めを与えられたといってよい程に、物静かなあしらいですから、娘の子は全く生き返った思いでこちらを向いてしまいました。\n 前にいう通り、神前の燈が朧ろで、はっきりとはわからないのですが、その輪郭と言い、その物ごしと言い、いま受けた印象をいよいよ鮮かにするのみで、微塵も、敵意と危険とを感ぜしめられないものですから、ホッと息をついて、\n「どうも、とんだ失礼をいたしてしまいました」\n こうなってみると、自分の寝まき姿が恥かしい。\n だが、やっぱり神前の薄明りが幸いして、取乱した女の姿を、そう露骨に見せるということはありませんでした。\n「まあ、こちらへいらっしゃい、まだ、ここを出てはいけません――もう少しここに忍んでいらっしゃい」\n この若い、おだやかな、敵意と危険とを微塵も感ぜしめない人は、徹底的に念の入った親切と用心で、静かに、道場の虎を描いた衝立の方に娘を誘いました。\n\n三十五\n\n こうして道場の中はひっそりしているけれども、中庭を歩いて行く胡見沢は、いよいよ陽気になって、何かクドクドと口走りながら、庭をぐるぐる廻っているところを見ると、この男は酔うとむやみに陽気になり、御機嫌がよくなり、人が好くなってしまう点は、神尾主膳あたりとは全く酒癖を異にしているらしい。\n やや暫くして、例のお部屋様の戸の外に立ってことことと叩き、\n「お蘭さん、お蘭さん、お蘭さんはおらんかね、ちょっとここをあけて頂戴」\n 人の好いのを通り越して、全くだらしのない呼び声です。\n でも、中ではこのだらしのない呼び声が聞えていなければならないのに、いっこう返事がありません。返事がないものですから、\n「お蘭さん、お目醒めでないかい、おらがお蘭さんはおらんのかい」\n 何といういやらしい猫撫声だ。\n これではまるで、お人好しの宿六が、嬶天下の御機嫌をとりに来たようなものではないか、郡民畏怖の的である新お代官の権威のために取らない。\n それにも拘らず、中ではいっこう返事がない。返事がないということは、中にたずねる人が存在していないということではなく、たずねる人がお冠を曲げてお拗ねあそばしているから、それであらたかな御返しがないのだ――ということを誰も言っては聞かせないが、本人の良心に充分覚えがあるらしい。そこで御機嫌斜めな内つ方の御思惑を察してみると、お代官も権柄ずくではどうにもならないから、下手に出てその雲行きの和らぎを待つよりほかはないとあきらめたものらしい。\n 甚だ器量の悪い締出しを食っている新お代官は、お蘭さんはおらんかい程度の洒落では到底、内なる人の角を折ることはできないと観念したものか、やはり、こういう時は強いて御機嫌に逆らうよりは、時間に解決させるのがいちばん安全にして賢明なる手段だと、そこは政治家だけに、転換の妙を悟ったものか、いいかげんにしてまたその開かざる戸の外を立去ってしまいました。\n 立去ったとはいえ、自分の本宅へ帰って眠るというわけではないにきまっている。よし中でお返事がないとしてみたところで、このお返事のなかったことを理由として、自分が安眠の床に帰ってでもしまおうものなら、明日が大変である。それほど薄情なお方とは思わなかった、お暇を下さい、わたしよりもっと若いのをたんと引入れて可愛がりなさいだのなんだのと、矢つぎ早に射かけられるのが、とうてい受けきれたものでない――だから時間に解決させるといったところで、明朝までというような悠長な時間を意味するのでなく、もう一ぺん通り庭を廻って来て、またここに立とうというだけの時間であること、疑いもありません。\n こうして、新お代官はまたお庭めぐりをはじめだしました。でも性癖はやむを得ないもので、絶えずニコニコと嬉しそうに、クドクドととめどもないことを口走り、そうして植込から、泉水の岸から、藤棚の下、燈籠のまわり......をグルグルと廻っています。\n その新お代官の服装を見ると、これはまた思いきやでしょう。今晩の婦人たちは、女のくせにたしなみがない、みんなだらしのない寝まき姿で、飛んだりはねたりしているこの深夜に、さすがこの新お代官だけは、きっちりと武装をしているのであります。武装といっても、まさか鎧兜をつけているわけではないが、近頃はやるダンブクロというのを穿いて、陣羽織をつけていることだけは確かです。\n してみれば、この新お代官、昼のうち農兵の調練を検閲に行ったということだから、あのまま深夜のお帰りで、まだ衣帯を解く遑もあらせられず、家庭に於てまたこの調練だ――ということも、ほぼ想像がつくのであります。\n 果して庭を、どうどうめぐりすること三べん、またも以前の戸口まで舞い戻って来て、\n「お蘭さん――」\n だが、今度は意外な手答えのあるのに驚かされてしまいました。\n「誰だい」\nと言って戸の隙間からのぞき込もうとした新お代官は、それとは別の方面で意外な物の気のするのを感じました。\n それは、その辺一帯の庭は芝生になって、そのさきは小砂利を洲浜形とでもいったように敷いてあったのだが、その芝生の上に、夫婦になって二本高く茂っている孟宗竹の下で、物影の動くのを認めたからです。\n 甘いといったって、だらしがないといったって、そこは、新お代官をつとめるほどの身だから、甘い人には甘かろうし、だらしない場合にはだらしないだろうが、それが決して人格の全部ではない。辛い時には辛酷以上に辛い、敏い時には狡猾以上に敏いところはなければならないから、この物影がグッとこたえたものと見なければなりません。\n「誰だ――」\n 無論、返事はないのです。返事のないことがいよいよ許せないのは、内と外とは全く違ったもので、内の奴は返事のないほどこちらが下手に痛み入るほかはないが、この外の奴の返事のないのは――これは全くようしゃがならない、時節柄ではあり、現に先日の夜も、こういう奴があってこの屋敷を騒がし、宿直の宇津木と黒崎とに腕をさすらせたものである。\n「誰だ、今そこへ動いたのは。その竹のうちにひそんでいるのは何者じゃ」\n 鋭い声でたしなめたが、やっぱり返事はない、内からも、外からも......\n そこで新お代官が焦れ出しました。\n 苟くもわが城郭のうちを外より来っておかす者がある、それが、他人ならぬ主人自身の眼に触れた以上、そのままにして、今晩もまた取逃しました――では、代官の権威面目がいずれにある。\n そういきり立った時に、急に、腰のさびしさを感じました。前に言う通り武装こそしているが、腰の物は一切忘れていた、刀は持たないまでも、脇差も抛りっぱなしで出て来た――あわただしく両手を振ってみたが、得物とてはなんにもない、思わずあたりを振向いたけれども、暗い中に転がっている物とては、芝生の上に小石一つも目に入らない。\n「お蘭――刀を出せ、いや、鉄砲を、いや、用意のあの短筒を持参いたせ――」\n 今までの、内に向いての言葉は拙い駄洒落であり、歎願であったけれども、この時のは真剣なる命令でありました。\n だが、歎願も歎願ととられない限り、命令も命令として徹底しないのは是非もない。静御前でもあろうものなら、言われないさきに、逸早く用意の武器を持ち出して供給するのですが、お蘭さんは、まだまだ旦那を焦らし足りない、もう少し見ていて、いよいよ降参して来た時に、こちらの見識を見せてやろうというつもりでもあろう......一向に手答えのないこと以前の如し。\n そこで、新お代官はついに両の拳を握りました。この場合、拳を握るよりほかに戦闘準備の手はなかったものでしょう。でも、格闘の以前に威嚇をもってするが順序だということを忘れなかったと見え、\n「怪しい奴、逃げ隠れたとて、この代官の眼は節穴ではないぞ、闇をも見抜く力があるぞ、たった今、それへ忍んで失せたは何者じゃ、これへ出え、これへ出え」"
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{
"role": "assistant",
"content": " この威嚇に対しても手答えのないこと、内外共に同じ。\n その時に新お代官は、一種異常なる恐怖を感じてきました。\n そうして、この恐怖のうちに、自分が赤手空拳で立っているということを痛感しました。\n いかに、この場合、赤手空拳が危険であるかということを、ヒタヒタと感じました。今日、三福寺の上野で調練の時、農兵の中に盗賊がいたのを見つけて、それを広場に立たせて、農兵どもに一斉射撃をさせて帰って来たことを、この新お代官は妥当にして且つ痛快な処罰法だと自分ながら感心して帰って来たが、今や、自分がちょうどその射たれた農兵と同じ立場に置かれてあるような危険を、どこからともなくひたひたと感ぜしめられてしまいました。\n 武器さえあれば、自分とても腕に覚えがないではない、飛びかかって手討にもしてくれるのだが、先方に当りのつかない敵に向って、空手で飛びかかるようなことは、こちらに相応の心得があるだけに、決してできるものではない。さりとて、ここで弱味を見せて、自分が引返しでもして、先方が得たり賢しと逆襲でもして来ようものなら、いったいどうするのだ、白昼、平野の中で、鉄砲玉の一斉射撃の筒を向けられたのと同じ立場ではないか。\n 酔いはすっかり冷めたし、新お代官の特別製の太いだんぶくろが、こんにゃくのように慄え出しました。\n この場合、最も応急の策としては、声をあげて助けを呼ぶのほかはないのだが、その声というものは、いくら張り上げても、この際、茶化されて、いよいよ相手の意地悪い沈黙を要求するよりほかの効果のないことになっている。ならば、もっといっそう大声をあげて、ここの屋敷近くには名にし負う宇津木兵馬もいることだし、黒崎その他の手だれもいることだし、なお本陣の方には幾多の猛者が養うてあるのだから、出合え、出合えと呼びさえすれば、お代官自身が手を下すまでもないはずになっているのに――その声が出ない。\n「う、う、う」\nとお代官は、連続的に一種異様なる唸り声を立てはじめたものです。\n 内なるお蘭さんは、この連続的な一種異様の唸りを聞くと共に、腹をかかえて笑いこけるのを我慢がしきれなかったに相違ない、大将とうとう泡を吹いた。泡を吹いたには違いないが、まだ本式の降参を申し入れたのではない。おれが悪かった、済まなかった、今後は慎しむから、今晩のところは、ひとつかんべんしてやって下さいという口上が出てこそはじめて、開門を差許すべきもので、まだこの辺の程度で折れては、今後の見せしめのためにも悪い......と、お蘭はこんなに考えているに相違ない。\n「う、う、う、う」\n 連続的の泡吹きが、なおつづく。\n お蘭さんはいよいよお茶を沸かしきれないのを、じっと我慢している。\n「う、う、う、う」\n もう一息の辛抱だ、もう一泡お吹きなさい、そうすれば助けて上げます......\n「助けてくれ――」\n おやおや、助けてくれ! は少し大仰だ、だが、まだいけない、わしが悪かったから、あやまりますという口上が出ない限りは......\n しかし、この「助けてくれ!」の絶叫は、かなりにすさまじく、そうして真剣味を以て響いたものでありました。\n この声は、ここのお蘭さんのお茶沸かしの燃料を加えただけではなく、当然、道場にいた宇津木兵馬あたりの耳にも入らなければならないほどの絶叫でしたが、道場の方からも、何の挨拶さえもなかったのは、前同様の経路で、ここ暫くは知って知らぬ顔、聞いて聞かぬふりをして、気流をそらすのが最上の場合と兵馬もさとっているのでしょう。そこで兵馬も、どうしても、この一場の酔興が幕を下ろすまでは、窮鳥の懐ろに入ったと同様な、まだ知らないこの若い娘を擁して、道場の衝立の後ろに息を殺しているのが、自他を活かす所以だと考えたのでしょう。\n そこで、いずれからも反応もなく、喝采もないのに、ここ、芝生の上の新お代官の独り茶番は、極度の昂奮をもって続演せられているというわけです。\n「あ、わ、わ、あ、わ、わ」\n う、う、うという、今まで連続的の母音が、今度は、あ、わ、わ、わという子音にかわっただけ、それだけ緊張がゆるんだとも聞えるし、気力が尽きたのだと想われないではありません。\n どうしたものか、その時になって、やにわに拳を振って、その夫婦立っている孟宗の蔭へ、シャニムニ武者振りついて行きました。武者振りついて行ったというよりも、孟宗の蔭に物があって、緊張がゆるみ力が尽きた呼吸を見はからって、このお代官をスーッと吸い寄せてしまったと見るのが本当でしょう。\n「だあ――」\n お芝居も、だあ――まで来ればおしまいです。\n 夫婦立ちの孟宗竹の蔭から、白刃が突きあがるように飛び出して、飛びかかって来た新お代官の、胸から咽喉へなぞえに突き上ったかと見ると、それがうしろへ閃いて、返す刀に真黒い大玉が一つ、例の洲浜形にこしらえた小砂利の上へカッ飛んだものは、嘘も隠しもなく、そのお茶番を首尾よく舞い済ました新お代官の生首でありました。\n そこで、すべての空気がすっかり流れ去ってしまい、夫婦竹の孟宗の後ろには覆面の物影が、竹と直立を争うほどすんなりと立ち尽しているのを見れば見られるばかりです。\n お茶番にしても、あんまり身が入り過ぎている。こちらも少々、からかい方の薬が強過ぎたと、折れて出たのが内にいたお蘭の方です。\n「御前、いいかげんにあそばせよ」\nと言って、ここにはじめて内からカラリと戸をあけて、同時に、しどけない自分の半身をもこちらへ見せたものですが、もうお茶番はすっかり済みました。\n 第一、登場役者がそこにいませんもの......お蘭の方も、少々こちらの薬が効き過ぎたことを多少気の毒の感に打たれた時......すーっと自分の身が引き寄せられ、夫婦竹の中に吸いこまれたことを感じ、\n「あれ――そんなお手荒く......」\nと言ってみたものですが、その声がフッとかき消されてしまって、その身は獅豹に捕えられた斑馬のように、ずるずると芝生の上を引きずられて行くのを見ます。身体が引きずられて行くから、帯も、下締のようなものも、一切がずるずると引きずられて、そうして植込の茂みの方へ消えて行ってしまうのです。\n それっきりで、何とも叫びを立てないから、静かなことは一層静かになってしまいました。\n\n三十六\n\n これより先、代官屋敷からは程遠からぬ三本松の辻に辻待ちをしていた二梃の駕籠、都合四人の雲助が、客を待ちあぐみながら、こんな話をしていました。\n「今日、三福寺の上野青ヶ原へ農兵の調練を見に行ったかよ。行かなかった、行かなくって仕合せだったな」\n「それはまたどうして」\n「どうしてったって、調練は調練でいいが、見たくもねえ景物を見せられちゃって、胸が悪くてたまらねえ」\n「手前らしくもねえ、鉄砲の音で腰でも抜かしたか」\n「いいにゃ、そんなことじゃねえ」\n「どうした」\n「どうしたったって、鉄砲で人間がやられたのを、今日という今日、眼の前で見せられて、おりゃあ夕飯が食えなかったよ」\n「そうか、何だってまた、人間が鉄砲で打たれちまったんだ」\n「それがつまりお仕置よ。何か手癖が悪くて仲間の物を盗った奴があって、それが見つかったものだ。ふだんならば、何とかごまかしが利いたかも知れねえが、お代官がお調べの調練だ、なまぬるいことじゃ示しにならねえというようなわけで、そいつを原っぱの真中へ立たせて置いて、その組の農兵が三十人、銃先を揃えて、打ったというわけなんだ」"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " じいさんは、老人とも思われぬはやさで走っています。パッパッと、太い木の幹から、木の幹へと、身をかくしながら逃げるのです。\n 庭のすみに、築山があります。じいさんは、その上にかけあがって、山のうしろの木のしげみのなかに、かくれました。そのしげみは、葉と葉が、すきまもなく重なりあっているので、いくら懐中電灯をてらしても、相手のすがたを見ることができません。\n しかたがないので、警官たちは、手わけをして、両方から、しげみのなかにわけいって、はさみうちにしようとしましたが、まんなかで、両方の警官が、ぶつかっても、じいさんのすがたは、どこにもないのでした。しげみにかくれたと見せかけて、そのうしろから、どこかへ逃げさったのにちがいありません。\n それがわかると、小林少年は、ふと、あることを思いついて、いちもくさんに、西洋館の建物のなかにかけこみました。そして、廊下づたいに、助造じいさんの部屋へいそいだのです。\n じいさんの部屋の板戸は、ぴったりしまっていました。しかし、その前に立って耳をすましますと、部屋の中で、ごそごそと、ものの動く音が、聞こえてくるのです。じいさんは、なにかだいじなものを、部屋へ取りにもどったのかもしれません。\n むろん、それを持って逃げだすつもりでしょう。やがて、板戸をひらいて、とびだしてくるかもしれません。そう考えたので、小林君は廊下のまがり角までもどって、そこに身をかくし、そっと、ようすをうかがっていました。\n しばらくすると、スーッと板戸がひらきました。そして、その中から出てきたのは......。\n 廊下のうす暗い電灯の光のなかへ、ピカピカ金色に光るものが、パッと、顔を出したのです。燐のように青く光る二つの目、恐ろしい口から、ニューッと出ている白い牙。やがて、たくましい前足を、廊下へ、ふみだしました。黄金豹です。じいさんの部屋にかくれていたのは......あの怪獣、黄金豹だったのです。\n いまは、もう豹のぜんしんが、廊下にあらわれました。そして、ゆうぜんとして、こちらへ歩いてくるのです。うす暗い電灯の下でも、黄金のかがやきは目もくらむばかりです。\n 小林君は、とっさに、物置らしい部屋のドアをひらいて、その中に身をかくし、ドアを、ほそめにひらいて、豹の通りすぎるのをまちました。\n その前を、黄金の怪獣は、スーッと、通りすぎていきました。すぐに、ドアから首を出して見おくりますと、豹は廊下を右のほうへ、まがっていきます。小林君は、足音をしのばせて、そのあとをつけました。\n 黄金豹は、もう一つ、廊下をまがって、二階への階段をのぼっていきます。西洋館には表と裏に、二つ階段があって、それは、裏のほうの階段なのです。\n 電灯から遠くて、階段はひどく暗いのですが、豹のからだが光っているので、見うしなうことはありません。怪獣は、階段をかけあがり、二階の廊下を走って、こんどは、三階への階段を、のぼっていきます。\n この西洋館は二階だてなのですが、その大屋根の上に、一坪ほどの小部屋が、塔のように、とびだしているのです。三階への階段は、その塔の部屋へのぼるためのものでした。\n 怪獣は、いったい、なにを考えているのでしょう。塔の部屋へのぼっても、そこがいきどまりですから、もう、逃げみちはなくなってしまいます。なんのために、三階などへのぼっていくのでしょう。\n 塔の部屋は、たった一坪ほどのせまい場所ですから、小林君が、あがっていけば、すぐに、相手に気づかれてしまいます。それで、階段の中途でとまって、しばらく、ようすをうかがっていましたが、すると、ガタンと、塔の部屋のガラス窓の開く音が聞こえました。\n「しまった。あいつ、屋根へ逃げるつもりだったんだな!」\n 小林君は、いそいで階段の上までのぼり、そこから首を出して、塔の部屋をのぞいて見ました。\n その小部屋には、電灯がついていないので、まっ暗ですが、空あかりで、かすかにもののかたちが見えます。あのピカピカ光った黄金豹がいれば、すぐにわかるはずですが、それらしいものは、なにも見えません。そして、窓のガラス戸が開けっぱなしになっていることがわかりました。豹はもう屋根へ出てしまったのです。\n 小林君は、部屋にあがって、はうようにして、窓のところまでいってみました。\n 窓のそとには、低いらんかんがあって、その下は、すぐ屋根になっています。赤がわらの急な屋根です。その屋根の中途に金色の大きなものが、うずくまっていました。......黄金豹です。\n 小林君は、しばらく、ためらっていましたが、ついに、けっしんをして、いきなり、ポケットから、探偵七つ道具の一つの、銀色の呼びこ(ふえ)をとりだすと、おもいきって吹きならしました。警官たちをよびあつめるためです。\n 黄金豹は、びっくりしたように、こちらに、首をふりむけました。闇のなかに、青い目が、らんらんと光っています。\n 小林君も負けないで、豹の目をにらみかえしました。少年と怪獣との、息づまるにらみあいです。\n ああ、小林君は、いったいどうなるのでしょう? 恐ろしい黄金豹は、いまにも、小林君に、とびかかってくるのではないでしょうか。\n\n金色のにじ\n\n まだ、庭にいた人たちが、小林君の呼びこの音をききつけて、西洋館の下へ、集まってきました。空には満月に近い月が、こうこうと、かがやいています。さっきまで、雲にかくれていた月が、パッと、顔を出したのです。その光で、二階の上の物見台にいる小林君のすがたが、よく見えます。\n 小林君は下の人たちに、屋根の上を、ゆびさして、そこに豹がいることを、しらせました。それで、下の人たちも、金色に光る豹のすがたに、気づいたものですから、ふたりの若い警官が、いきなり洋館のなかへとびこんで、物見台へと、階段をかけ登ってきました。手にはピストルをにぎっています。\n 警官たちは、小林君のいるところまでくると、\n「よし、ぼくらが、屋根に出て、うち殺してやる。きみは、あぶないから、そこにいたまえ。」\nとささやいて、らんかんを乗りこし、屋根の上へ出ていきました。しかし、ひじょうに急な屋根ですから、はうようにして、進むほかはありません。ふたりの警官は、まるで黒いヤモリのように、屋根の上に、はらばいになって、じりじりと、豹のほうへ近よっていきます。\n 黄金豹は、燐のように光る目で、それをにらみつけました。そして、人間どもをあざけるように、身がるに、ピョイピョイと、とぶようにして、屋根のむねを乗りこし、むこうがわへ、かくれてしまいました。\n 警官たちは、いそいで、そのあとを追い、やっと、屋根のむねに、たどりつき、そこに馬のりになって、はんたいがわの屋根を見おろしました。\n そのときには、小林少年も、物見台から出て、むねづたいに、警官たちのそばまで、きていました。屋根のむねは、三十センチほどの幅で、たいらになっているので、そこをつたうのは、わけがないのです。\n 三人が、むねにまたがって、見ていますと、黄金豹は、急な屋根を、するすると、すべるように、むこうのはしへ、おりていきます。そして、屋根のはしまでいくと、からだを、グッとちぢめて、パッと、空中にはねあがりました。いきおいをこめて、とんだのです。空中に、金色の大きなかたまりが、キラキラと、虹のようにきらめきました。\n「アッ、いけない。あいつ、とびおりて、逃げるんだッ。」\n 警官のひとりが、叫んだかと思うと、バン......と、はげしい音がしました。ピストルをうったのです。それにつづいて、もうひとりの警官も、ピストルを、うちました。\n しかし、二はつとも、あたりません。そのとき、豹は、西洋館の下のコンクリート塀にとびついていました。そして、アッとおもうまに、その塀の頂上から、そとへとびおりて、すがたをかくしてしまいました。それが、ひじょうに、すばやくて、もうピストルを、うつひまもなかったのです。\n「おうい、塀のそとへ、逃げたぞう。こっちがわだ。みんなこっちがわの、塀のそとへ、まわってくれ......。」\n 警官が、両手をメガホンのように口の前にあてて、下の人たちにどなりました。下の庭には、三人の警官と、園田さんの書生や、会社の人などが、大ぜいいましたので、「それッ。」というと、裏門からかけだしていきました。そして、豹がとびおりた場所を、さがしまわったのですが、あの金色の怪物は、もう、どこにもいませんでした。またしても、魔法をつかって、消えうせてしまったのでしょうか。いや、消えたのではありません。それから、すこしたって、黄金豹は、ふしぎな場所に、すがたをあらわしました。\n 園田さんのやしきから、五、六百メートルはなれた町に、一けんの大きなお湯やがありました。そこに、高い煙突がそびえているのですが、その煙突の鉄ばしごを、金色の怪物がよじ登っているのです。しかし、夜ふけのことですから、まだ、それに、気がつきません。"
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{
"role": "assistant",
"content": " 町の電灯が、一つ一つ、消えていくにしたがって、月の光は、いよいよ、そのかがやきをまし、家々の屋根は、雪でもふったように白く光っています。その白い屋根を目の下に見て、黄金豹は、煙突のはしごを、いちだん、いちだん、ゆうゆうとして、登っていくのです。\n その近くの、一けんのうちの二階の窓から、ひとりの少女が、のぞいていました。この少女は、夜なかに目をさまして、あまり月が明るいので、カーテンをひらいて、ガラス窓のそとをながめたのです。\n すると、すぐむこうのお湯やの煙突を、金色の大きなものが、登っているのが目につきました。それは、じつにふしぎなけしきでした。まっ白な月の光のなかを、金色の動物が、高い煙突へ、よじ登っているのです。少女は、「夢を見ているのかしら。」と思いました。\n しかし、夢ではありません。たしかに、じぶんはおきているのです。たしかに、金色の動物が、煙突を登っているのです。\n 少女はそのとき、ふと、新聞に出ていた『黄金豹』のことを思いだしました。\n「アッ、もしかしたら、あれが黄金豹かもしれない。」\n 少女は、まっ青になって、窓ぎわをはなれ部屋をとびだすと、階段をかけおりました。\n 下の茶の間にはおとうさんと、おかあさんが、まだ、おきていました。\n「たいへんよ!」\n あわただしい足音に、おとうさんも、おかあさんも、びっくりして、こちらを見ました。\n「どうしたんだ。まっ青な顔をして。」\n「黄金豹よ。」\n「エッ、黄金豹だって? なにをいってるんだ。夢でも見たんじゃないか。」\n「そうじゃないわ。お湯やの煙突を登っているの。きてごらんなさい。二階の窓から見えるから。」\n おとうさんは、「そんなばかなことが。」といわぬばかりに、しぶしぶ立って、二階へあがりましたが、ガラス窓から、ひと目、外をのぞくと、「アッ。」といって、立ちすくんでしまいました。\n 黄金豹は、もう、煙突の頂上近くまで登っていたのです。金色のからだに、黒いはんてんがあります。たしかに黄金の豹です。おとうさんは下にかけおりて、電話口にとびつきました。そして、近くの警察へ、このことをしらせたのです。警察からは、すぐに、数名の警官が、お湯やへかけつけてきました。いっぽう、警察から園田さんの家へ電話をかけたので、まだそこにいた五人の警官や、小林少年や、書生などが、いそいで、お湯やへやってきました。\n\n空中曲芸\n\n 園田家と警察と、両方から集まった人たちが、お湯やの裏庭にひしめきあって、煙突の上をながめています。また、近所の人たちも、さわぎをききつけて、表へ出てきたので、そのへんは、たいへんなさわぎになりました。お湯やの三助さんや、町の青年たちは、ふろばの大屋根にのぼって、ワアワア、さわいでいます。\n「よしッ、こんどこそ、ぼくたちで、うち殺してやる。」\n 園田さんの屋根で、豹をとり逃がした、ふたりの若い警官が、手に手にピストルをにぎって、煙突のはしごへ登っていきます。さっきの、かたきうちをするつもりでしょう。\n それを見ると、下にいた人たちは、「ワーッ。」と、声をたてました。勇敢なふたりの警官を、ほめたたえているのです。\n 警官たちは、細いまっすぐの鉄ばしごを、ぐんぐん登っていきました。\n 煙突の頂上には、黄金豹がうずくまって、下を見おろしています。ふたりの警官は、かた手にピストルをかまえながら、怪獣めがけて、登っていくのです。そのふたりの黒いすがたが登るにつれて、だんだん小さくなっていきます。\n ふたりは、もう七、八だんで、頂上というところまで登りつきました。ふたりの目には、怪獣が、ぐんぐん、大きく見えてきます。怪獣は、ものすごい顔でにらみつけているのです。いまにも、とびかかってきそうです。警官たちは、もし、とびかかってきたら、すぐ、ピストルをぶっぱなす、かくごでした。\n そのときです。ギョッとするようなことが、おこりました。\n 金色のかたまりが、煙突の頂上から、パアッと、落ちてきたのです。ふたりの警官は、豹がじぶんたちに、とびかかってきたのだと思い、いきなりピストルを、ぶっぱなしました。しかし、ピストルの弾がとびだすころには、金色のかたまりは、もう警官の背中をとおりこして、ずっと下のほうに落ちていました。\n 黄金豹は、警官に追いつめられ、せっぱつまって、とびおりたのでしょうか。いくら怪獣でも、こんな高いところから落ちたら、大けがをするか、ヒョッとしたら、死んでしまうかもしれません。\n 下からは、「ワアッ。」という人ごえが、わきあがってきました。豹がとびおりたので、驚いた叫び声です。ふたりの警官は、おもわず下をながめました。煙突の下に集まっている人たちが、小さく見えています。しかし、そのへんに、豹が落ちたようすはありません。人々は、やっぱり、上のほうを見あげているではありませんか。警官たちは、キョロキョロと、足の下を見まわしました。\n「オヤッ、あんなところに......。」\n 黄金豹は、煙突のなかほどの空中に、ふわふわと、ただよっていたのです。煙突からも、はしごからも、はなれた空中に、ただよっていたのです。\n 怪獣は空中に浮きあがる魔力を、もっているのでしょうか。いや、そうではありません。綱がついています。長い綱が、煙突の頂上に出っぱった鉄のわくにくくりつけてあり、そこから豹のからだまで、綱がついているのです。怪獣はその長い綱につかまって、するすると、すべりおりたのです。いったい、そんな綱が、どこにあったのでしょうか。それに、豹のような動物の足で、綱につかまることができるものでしょうか。しかし、千年のこうをへた魔もののことです。人間のように、綱につかまる力が、そなわっているかもしれません。\n みるみる、その綱が、ぶらんこのように、左右にゆれはじめました。豹が綱にとりすがって、はずみをつけて、ふっているのです。綱のさがっているのは、はしごのはんたいがわで、しかも、煙突からははなれているので、警官がいくら手をのばしても、綱をつかむことはできません。ピストルの弾で、綱をきろうとして、二、三ぱつ、うちましたが、ゆれている細い綱ですから、うまくあたりません。\n そのうちに、綱のゆれかたは、だんだん、大きくなってきました。豹が、一生けんめいに、はずみをつけているからです。\n 綱のさきの金色の怪獣は、サーッと、空中にまいあがったかとおもうと、恐ろしいいきおいで下へ落ちていき、こんどは、はんたいのほうの空中へ、高く高くまいあがるのです。ぶらんこよりはずっと長い綱ですから、そのゆれかたも、びっくりするほど、大きいのです。\n 恐ろしいけれども、じつに、美しいけしきでした。こうこうと、てりわたる月の光のなかを、キラキラ光る金のかたまりが、三十メートルほどの空中を、あっちへいったり、こっちへいったり、太い金のすじをひいてゆれているのです。大きな大きな時計の、金色のふりこが、大空いっぱいに、ゆれているのです。\n ゆれながら、怪獣は、どこかに、けんとうをつけていたようです。そして、いちばん大きくゆれるころあいを見すまして、パッと綱をはなしました。すると、いきおいがついていたのですから、豹は、まるで大きな金色の弾丸のように、空中を、はるかむこうへとんでいきました。またしても、美しい金色の虹が、キラキラとかがやきました。\n 豹がとんでいったのは、町のおもて通りにある、三階だての雑貨商の屋上でした。それはコンクリートの洋館で、屋上はたいらな物ほし場になっているのです。怪獣はその屋上に、うまく、とびおりました。そして、穴のようになった下へおりる階段に、すがたを消してしまいました。\n その雑貨商には、ミドリ商会という大きな看板が出ていました。それが、煙突に登っている警官にも、よくよめるのです。\n「おもて通りの、雑貨屋だッ。ミドリ商会という店だッ。あいつは、いま、屋上から下へおりていった。はやく、あの店を、とりかこんでくれえ......。」\n 煙突の上の警官が、声をふりしぼって、下の人たちに叫びました。\n お湯やから、ミドリ商会までは、五十メートルもありません。人々は、なだれをうって、そのほうへ、かけだしました。警官や園田家の人たちばかりでなく、おおぜいの町の人たちも、まじっているのです。\n たちまち、ミドリ商会のまわりは、黒山の人だかりになりました。警官たちは、その人々をかきわけて、表と裏から雑貨商のなかへ、はいっていきました。そして、てんでにピストルをかまえて、一階、二階、三階と、うちのなかを、くまなく捜しまわったのです。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ぜひなく、二人も、\n「では、お気をつけて」\n と、定遠の一行を、庁の門外まで、見送った。\n すると、その夜も明けないうちに、弾正忠定遠とその随員を送って行った国庁の兵が、逃げ帰って来て、\n「一大事です。途中、将門の兵に取囲まれ有無もいわせず、弾正忠様には、捕虜として、敵の手に奪われてしまいました。――その他の随員も、みな縄目をうけて、将門の陣中へ引っ立てられた様子に見えます」\n と、意気地のない報告であった。\n しかも、二十名も付けてやった兵のうち、帰って来たのは四、五名にすぎない。\n「すわ、将門が挑戦して来る前ぶれとみえるぞ」\n 為憲は、暁のうちに、陣頭に立ち、国府の内も、色めき立っていた。\n ――と、その朝。将門方から、騎馬甲冑の一団が、進んで来て、\n「これは、下総の平将門が使者です。常陸の国司維茂どのに物申す事のあって推参して候。――維茂どのの営へ導き給え」\n と、為憲の陣前に向い、まんまると寄り合いながら、大声にいっていた。\n\n危険な舌の持主\n\n 常陸側の首脳部と、将門方の軍使とが、国庁の広庭で会見したのは、その日の昼で、冬の冴えきった空に、陽がらんとして燦き、双方、いかめしく、床几を並べて、対峙した。\n「せっかくのお申し入れだが、その藤原玄明という男は、当庁にあって、府官にあるまじき悪行を働き、ついに身の置き所もなくて、他国へ奔った人間でおざる。――いわば当国としては、追捕中の前科者と申すべき者だ。――左様な人間を、いかに将門殿のお扱いでも、罪を解いて、旧職に復すわけには参らぬ。お断りする。明確にお断りする」\n 維茂の返答である。\n その返答でも分るように、将門方の軍使は、将門の扱いと称して、玄明の無罪と、彼への追捕を止めることを、常陸側へ、求めたのだった。\n「御宥免は、出来ないでしょうか」\n こういったのは、将門方を代表して、ここに使いとして来た御厨三郎将頼で、\n「......さて、困ったのう」\n と、副使格で付いてきた藤原不死人の横顔を見て呟いた。\n 将頼は、初めから、この出兵に、反対だった。それに、藤原玄明の人物も分っていたし、その罪科も知っている。どう聞いても、先方のいい分の方が正しく思えて仕方がない。\n だが、副使役を買って将頼について来た不死人はまた違う。穏和な将頼とは、人間も違うし、その目的も肚も違っている。\n 彼はさっきから不逞な面構えをして、顔から飛び出すような眼を以て、相手の維茂、為憲以下の者を睨まえていたが、\n「や、お待ち下さい。お言葉ですが」\n と、このとき初めて口を開いた。\n「なるほど、仰せの如く、玄明には、多少の罪もあるでしょう。たとえば、国外へ逃亡するさい、行方郡、河内郡などの官倉の物を持って逃げたとか、また、在職中にも、貢税の者の頭を刎ねたとか、訴訟を聴くのに、一方から収賄を受けたとか。......だが一体、常陸の国庁には、そんな事は一切しない良吏ばかりがいると仰っしゃるのか。他の府官には、一点の罪悪の蔭もないと仰せかな。その辺は、どうです。念のため、承っておきたいが」\n 為憲は、ぴりっと、眉をうごかした。\n 貞盛は、ここに姿を見せていない。――もし、為憲が発言してはと、問題のもつれを怖れて、維茂はあわてて答えた。\n「お訊ねは、少々、お門違いではないか。そんな事は、貴公へ御返辞する限りではない」\n「何を......いや何で門違いといわれるか」\n「ここは常陸の国ですぞ。下総の領下ではない。他国の内政に、いらざる御懸念は止めて欲しい」\n「なるほど。そう出る事であろうとは心得ていた。しかし、常陸の国庁に勤めていた府官が、主人相馬殿(将門)にすがって、豊田の館に泣きこんで来ていることを御存知か。――国司たる御辺の不始末が、隣国へまで、迷惑をかけたものとは思われぬのか」\n「これは思いもよらぬいい懸りだ」と、維茂は、顔じゅうに不快な皺を描いて――「元々、常陸においても、日頃から悪評の高かった人物。わけて官舎を荒らして逃亡したような者を、匿わるるこそ、当方から見れば、怪しからぬ思いがしておる。......何で、御門を頼って行ったなら、突ッ刎ねて下さらんのか。また、隣国の誼みを思わるるならば、一応、常陸の国庁へ、御通諜でもして給わらんのか。こちらこそ不満でおざる」\n「窮鳥懐に入れば――という事もある。主人将門殿は、弱者にたいし、そういう事は出来ないお人柄なのだ」\n「ならば、それでもよい。しかし、そんな小我の情を以て、玄明を赦免せよの、追捕を解けのと、他国の内政へ、お口出しなどは、大いに困る」\n「いや、その内政が紊れておるため、かく隣国へまで人騒がせをさせたのではないか。国司として、謝罪もなすべきに、傲然、余計な口出しはするなと、いわんばかりな態度は何事だ」\n「当国として、詫びる筋はないゆえ詫びぬまでの事、べつに傲慢なお答えはしておらぬ」\n「何せい、そんな一片の挨拶で、追い返されたなどといっては帰れん。玄明の罪を解いて、謝意を表すか、あるいは、一戦も辞さんと仰せられるか。明白な御返辞を聞こう」\n「貴公の態度こそ、まるで喧嘩腰だ。よう思うてもみられい。明らかな罪人を罪なしとして免したり、その上、国司が膝を曲げて詫びるなどという馬鹿げた事がどうして出来ますか。そんな事をしたら藤原維茂は、府官の長として、明日から庁務を執ることはできません。――何と威嚇なさろうと、お断りのほかはない」\n「なに。威嚇だと。いつ威嚇したか。――御辺の部下のために、わざわざ、穏便な話し合いをつけに来たものを、威嚇とは、何事だ。おいッ、何とかいえ、維茂どの」\n 不死人は、だんだんに声を荒らげた。努めて、相手の激発を誘おうと仕掛けてゆく。\n しかし、さすがに、国司の維茂は、その手には乗って来ない。怒りの代りに、にゅっと、無理な笑いをたたえて見せる。――老練だな、と不死人は見たので、ついに暴言を承知で「......おいッ、何とかいえ」と、一喝を放ってみたのである。そしてわざと、語気にふさわしい眼気も示して、為憲の顔を見ていったのである。\n 果たせるかな、為憲はすぐそれに引っ懸って来た。維茂が何かいうまもあらず、火を呼んだ油壺のように、くわっと口を開いた。\n「だまれっ。先刻からいわしておけば、好き勝手な小理屈をひねくり廻す奴めが。――わずか一小吏の扱い事に、仰山な兵馬を進め、しかも、挨拶もなく常陸の国土へ踏みこんで来るとは何事だ。それでも、威嚇でないといえるか」\n「お。いわれたな。......いわれたのは御子息為憲どのか」不死人は、その不気味なほど動じない面構えに、ニコと冷笑をうかべた。彼にとって、この血気らしい息子は、好餌に見えたにちがいない。どうしても、ここで事件を紛糾させ、ここに戦端を切らして、坂東一面を燎原の火に染め、遠く、南の海に拠って、大挙の機を待ちかまえている藤原純友たち一味に、答えてやらなければならない時が来ていた。\n で、不死人は、舌なめずりして、為憲の憤怒を、弄んだ。\n「やあ、為憲どの。父上とはちがい、あんたなら耄碌もしておるまい。――兵馬を従えて来たのが悪いというが、それ程、常陸は物騒な国だから、要心に如くなしと考えてのことだ。主人や自分の身を守るのがなぜ悪い」\n「なに、常陸は物騒だと」\n「白ばッくれては困る。お若いくせに」\n「事々にいい懸りをつけるな。かつて常陸から下総へ理不尽な兵など一兵も入れた事はないぞ」\n「だが、一挙にそれをやろうと、密々、謀んでおられるではないか」\n「ば、ばかな事を。何を証拠に」\n「証拠呼ばわりなどはおかしい。聞きたくば、ここへ右馬允貞盛を呼んで来い」\n「えっ。......貞盛などが」"
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"role": "assistant",
"content": "「さ、連れていらっしゃいっ。どうだ。貞盛がこの国庁に折々姿を現わし、しかも数日前からいることも、こっちでは既に偵知している」\n「問うに落ちず語るに落つ。汝らこそ、その通り、常に密偵を使って、犬の如く、他領を探っているのであろう」\n「探っておらんとはいうまい。それも自領の安全を護るためだ。何となれば、貞盛こそは、年来、相馬殿を亡くさんと、都と坂東の間を往来し、あらゆる虚構と奸智をかたむけて、主人将門殿を呪咀している卑劣者だ。――その貞盛が、常陸に潜伏している。......何でこれが、黙視できるか」\n「............」\n「しかも、貞盛にそそのかされて、御辺父子も、兵力を増大にし、弓馬の猛訓練をさせて、虎視眈々と、下総の境を窺っている者ではないか」\n「............」\n「なお、武器を蓄え、兵糧を積み、庁の政務などは、怠っても、軍備を第一に努めているとは、玄明の告げ口に聞くまでもなく、われらの諜報には確かめられている。......そのため、貢税の時務を滞り、領民も怨嗟の声を放っているとは、つい今日の夜明け方、わが陣中へ立ち寄った弾正忠定遠どのの話でもあった」\n「何を申す。その定遠どのは、汝らの兵が、捕虜として引っ立てたのではないか。そのような暴力と脅迫を以ていわした言葉が、何の証拠になろう」\n「あはははは。こうすべて内部が分ってしまっては、さすが維茂どのも、二の句があるまい」\n「分った。......すべては、喧嘩を売るために、そして常陸へ兵を入れる口実を作るために、よくよく企んで来た事だの。そうだ、売る喧嘩なら買ってやる。ただし、口幅ったい名分をいうのはよせ。汝らは明らかに暴賊だ」\n「暴賊と申したな」\n「いった。土の暴賊だ。しかし、われにも備えはある。常陸の寸土も、汝らに渡すことではない」\n「よしっ。話は終った」\n 不死人は、そういって立ち上がった。そしてさっきからしきりに何かいおうとしている将頼には、ついに何もいわせず仕舞いに帰ってしまった。\n\n火魔と火の粉\n\n 右馬允貞盛は、国庁の内から、庭上における下総と常陸側の談判を、息をこらして覗いていた。\n「......はてな。甲冑は着ているが、あのよくしゃべっておる将頼の側の男は、たしかにどこか見覚えのある顔だが」\n 彼は、それのみに、気を奪われていた。\n「そうだ。――八坂の不死人。あの純友一味の不死人にちがいない」\n そう思い出したせつな、彼は、身の毛がよだつような気がした。\n ひと頃、都では、群盗の首領として、魔魅のような跳梁をほしいままにし、刑部省の獄中で死んだというような噂のうちに、その姿は洛中から掻き消えていたが、年経つと、また現われて、空也念仏の人だかりへ、夜毎に不穏な流説を撒いたり、南海へ行ったり、またこの坂東地方を徘徊していたり――そして今日は将門方の軍使の一名となってこれへ臨んでいる。\n 何という不可解な、そして変現に巧みな男だろう。天地を飛行するとか、神出鬼没とかいうのは、あんな男の事ではあるまいか。\n「恐るべき奴が将門に味方している......」\n やがて、相互のいい分は、決裂したとみえ、維茂父子は、昂奮の醒めきれない面を硬めたまま、国庁の内へ戻って来た。\n「帰りましたな。将門の使者共は」\n「じつに乱暴ないいぐさだ。談合でも何でもない」\n 維茂は、憤然と呟き、為憲は、充血した眼で、貞盛を見ながら、強いて苦笑して告げた。\n「矢は放たれたも同じだ。一戦あるのみですよ」\n「が、為憲どの。大丈夫か」\n「その為に、ここ数ヵ月、兵馬も鍛えてある。奴らに負けをとるものか」\n「きょうの使者のうちで、ひとりでしゃべっていた男があったでしょう。あれに油断はなりませんぞ」\n「藤原不死人とか、名乗っていたが、あれが何だというのです」\n「南海の乱賊、藤原純友とも交わっている人物です。一時は、検非違使の手に捕われて、刑部省の獄中で死んだはずだが、それがまだ東国へ来て生きている......」\n「純友の......?」と、維茂父子もその噂は聞いていないでもないが、南海の賊だの、純友といわれても、それは千里も先の別世界なものとしか心に響いて来なかった。\n「そうだ、自分は......」と、貞盛は俄にその冷たい眉宇に意識的な意気を描いて、「――これから山越えして、下野の田沼へ参ろう。かねてお味方を頼み入れてある田原藤太秀郷どのに、急をお告げして、援軍を仰がねばならぬ」\n 半ばは、独り語のようにいい、庁の廊を急ぎ足に出て行った。\n 従来、どんなばあいでも、決して、戦場には立たないで来た貞盛である。この日も、その要心が働いたのであろうが、彼としては、やや姿を消すのに、時を失したきらいがないでもない。\n なぜならば、時すでに、国庁の内は、すわ戦ぞ、将門が襲せて来るぞという声々に、何ともいえない恐怖の波がうねっていた。夜来、戦備は固めているはずなのに、いざとなると、やはり“将門恐怖”の心理が、騒然と、府官や兵の中に作用を起した。\n 貞盛は、従者の控えへ駈けて行ったが、そこには牛浜忠太も他の郎党の影も見えない。\n 庁の四門を見歩いても、恟々たる守りの兵が、そそけ立った顔を鉄にくるんでいるのが騒めいているのだ。それを眺めると、彼も“将門恐怖”に囚われ出した。将門の敵愾心の執拗さ、その駆使する兵馬の迅さ、それは、かつて信濃路の千曲川に追い詰められたときも、いやという程、身を以てその経験を舐めさせられている貞盛であった。恐いと思い出したら、世に誰よりも、将門の恐さというものを彼ほど知っている者はない。\n おびただしい兵馬や町の庶民が逃げ廻る間を、彼は心もそらに、仮のわが家まで帰ってみた。そしてしばらく休んでいると、忠太と郎党たちとは、かえって彼の姿が見えないのを憂えて、ここへ探しに帰って来た。\n「旅だ、旅だ。山越えして、下野の田沼へ行くぞ。大急ぎで、旅装をせい」\n 慌ただしい事だった。彼も従者も、すべて狩衣の上に、甲冑を着こみ、平常とちがい、弓、長柄など、物々しく掻い持って、同勢二十余名、山の方へ急ぎ出した。\n するともう町の一角には、将門の兵が乱入していた。\n 寡兵を以て、常陸の大軍へ当って来たので、その攻勢には、堤を切って落ちて来た濁流のような勢いがある。\n 貞盛は、矢の中を、行き迷い、彼方此方と、西の山道へ出る安全な落ち口をさがし歩いた。\n そのうちに、民家の一部から、黒煙が揚がった。煙の下には必ず精悍なる将門方の兵馬が駈けてゆく。\n 激戦は半日以上もつづき、やがて暮色も迫る頃だった。どうしたのか、まだ守りは崩れず、常陸勢の鉄兵の中に、安泰と見えていた国庁の内部から、味方の失火か、めらめらと、真っ赤な焔が上がり始めた。\n それは見るまに、官衙の廂から廂へ、大きな焔の波濤をなし、常陸勢は、たちまち混乱に陥ちてしまった。大書庫や貢税倉の棟からも、どす赤い焔が、唸りをたてて噴き始めた。\n「――裏切だ。味方のうちから、寝返った者があるぞ」\n 火焔に染まった赤い大地を、こう呼ばわり呼ばわり、戟を躍らせながら、駈け廻っている、七、八人の兵があった。常陸方は誰あってそれを敵の忍びと疑っていなかった。ところが、やがて打ち破られた門から外へ向って、火旋風と共に走り出して来たのを見ると、それは不死人が都から連れて来た手下の禿鷹、蜘蛛太、穴彦などという一連の出没自在な剽盗仲間であった。\n\n老獣\n\n 国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ奔った貞盛の主従が、秀郷を頼って、やがて赤城山麓の田原の館に辿り着いたのは、十二月に入ったばかりの寒い日だった。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 私がいつでも問題にしていたのは、どうしてこのようながやがやとした群の中から、たった一羽の相手を見定めるのであろうかということであった。背格好といい着ている着物のがらまで、これほどもよく似た者がまちがえも騙されもせずに、ある者とは親しくまたある者とはやや冷淡に、時々は闘争までするというのが不審に堪えなかった。しかし一心に同じ巣の雛を愛している場合はもちろん、そうでなくとも彼等の行動には隠れたる指導があって、しばしば一つの屋根にとまり、同じ梢に集まっているということが、馴れない連中との見分けを容易にするらしい上に、群の中でも個々の一羽の見覚えがついているのだということがこの頃やや判って来た。鶯や目白のような素人には何とも致し方のない小鳥でも、詳しく見究めたら仲間うちだけで、通用している個性というものはきっとあると思うが、雀に至っては外からでもほぼ明かな特徴がそれぞれに備わっている。これが雀界の社会学の、今に成立つだろうと思う一つの理由であって、自分がもし今少しの時間をもちまた眼が良かったら、先ず第一に彼等の頬の黒い斑を、形と大きさによって分類したことであろう。ごく大体の気のついた点をいうと、雀の頬の黒い毛の部分は、よほど遠くからでも見分けられるほどの、大小と輪廓の差があって、周りが白だから殊にはっきりしている。これさえ覚えてしまえばたとえ何千羽の群の中にいても、友を見失うような懸念はないのである。私の想像では、これがこの一種族の他に立優った強みであると共に、人に名前があり住家があって、いつでも再会し得るために別れやすくなった如く、幾分か彼等の行動を自由にし、かつ複雑にしているのではないかと思う。雀はきたない鳥だがその文化は他の動物よりも少し進んでいる、と思ってもよいような事実が次々に心づかれるのである。\n\n雀の家庭\n\n 春さきこの鳥の言葉が急に多くなり、また活溌になるのは誰でも気がつくが、これは彼等が人に近く、従ってまた慎みがないためとも説明し得られるかも知らぬ。ただ雀は少なくとも境遇によって、かなり色々と生活ぶりを変える鳥であることは、その挙動を見ている者の感ぜずにはいられぬことで、それが淋しい深山の鳥、または獣などの数少ない群であったら、恐らくこういう真似は出来まいと思うと、この無限の繁殖の理由が、先ず一つはわかったような気がする。冬から続いて仲よくしている雀が、さっさと巣を造ってもう一番子を孵したろうと思う頃まで、まだ相手がきまらず飛んであるく雀がある。口に一筋の建築材料をくわえて、同じ処で長い間同じ音を鳴き続けているのが、急に早調子になるから出て見ると、きっとその傍へ今一羽やって来て、いかにもその声を聴くような様子をしている。古い日本語でカタラウというのがこれかと察せられる。即ちここで一緒になって、家を持とうではないかという相談である。鳥の世界でも、やはり雄の方が機嫌を取るらしい事実はある。たとえば百舌などは夜の引明けに、小高い木の枝に二羽ならんでいて、その一羽だけが何度でも下に降りて、巣になりそうな叢に飛んで行っては帰って来る。ある時はまた食物を拾って来ては食わせる。それを雛見たように両翼を顫わせながら、口をあけて食べさせてもらうのが雌であった。これと同じ挙動は他の小鳥にも、巣に就く前にしばしば見られる。鶏などでも食物を見つけると、雄は食べずに相手を喚び集め、または土を掻き散らして食物があるという様子をして、だまして喚びよせようとするものもある。だから雀の場合にも、藁などをくわえた不自由な口で、鳴いて相手を誘なうのは雄の方かも知れぬが、巣の計画には雌の方が熱心な小鳥も多いから、今はまだ何とも言えないのである。\n 食物と住居の安全と、この二つが大切な相談の題目であることは想像し得られる。これについての意見が異なると、そう簡単には近よって来ぬのが常法で、これをただ雀の好き嫌いと解し、もしくは稀に雀望のない雀があるかのように、言った人もあるが私は賛成しない。ここでも個性というものが現われるとすれば、早く子を持ちたいという念願は殊に強く、そのためにやや大胆に過ぎた場処の選択をする者と、それに同意し兼ねる仲間が多いということは有り得るかと思う。山に住む鳥には食料は問題が小さく、巣の方に余分の注意を向けているらしい形跡が著しい。彼等の営巣風習には時代の変化が見られず、また地域の差異もずっと少なくて、かなり厳重に古い法則を守っている。それに反して雀はこの点が自由である。瓦葺きが普及すれば瓦の間に、萱葺が厚くなればこれに穴をあけて住み、人がいなかった昔はどうしていたろうかを、もう考えて見ることも出来ぬようになっている。雀の食物だってそう乏しいわけでもないが、あたりが騒々しくておちおちと食べられぬ場合が多い上に、子育ての前後になると生きたものを捜さねばならぬので、一層その計画が立てにくく、勢いその方へ多く気を取られて、住居の問題をいい加減に解決するのではないかと思う。雀が巣の場所を定める方針の、出たらめであることは著名である。そうしてまた恐ろしく仕事が早い。私の家では二日置きに風呂を立てていた頃、毎度煙突の口に巣を食った雀が、落ちて死ぬのを憐んだことがあった。北海道のある停車場では、腰赤燕の泥の巣の壊れたのに、せっせと草を運んでいる雀を見たことがある。相州の海岸ではたしかにまた松の木の地上三尺ばかりに、巣をかけ卵を産んだ雀を知っているのである。こういう点から見ると何だか野蛮なようだが、大よそ今日知られている小鳥の中で、彼ほど自在に生き方を変えて、環境に適応しようとする者はあろうとは思えない。外の家畜が利用せられてばかりいるとは反対に、彼等は輒ち人を利用し村里を利用して、村雀または里雀となっているのである。\n\n雀の引越し"
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"role": "assistant",
"content": "\n もしも雀が食料の獲得ということに重きを置くこともなく、ただ徒らに住居の選択にぞんざいであるというのだったら、これは一向にだめな鳥ということになるが、それでこの通り繁昌して行けようとは私には思われない。やはりこの二つは婚姻育児の条件ではあるが、鳥によりまたその境遇によって、幾分かいずれかを軽く重く、見なければならぬ事情があったものと思われる。妻を求める頃の挙動を見ていても、食物は大抵大丈夫、住居はこの辺がよかろうではないかと啼くものと、虫の狩場はここときめた、巣は先ずここで我慢をしようと相談を掛けるのと、二通りあることはほぼわかる。雀も決して住居の方に、鶏見たように呑気でないことは、早く巣作るものが形勝と安全とを先占し、よっぽど遅くなってから、巣箱の店借りに来るのでも察せられる。既に多くの人に気づかれていることは、四十雀が家を捜しまわって、巣箱の近くへ来てもまだ考えている。それを里雀が見かけると急いで先へ入り、またはまだ相手もきまらぬのに邪魔をしようとする。だから巣箱の穴を出来るだけ小さくして、始めから雀が断念するように、四十雀だけにしか入れぬようにしなければならぬのである。意地の悪いやつだと舌打ちする人もあるが、雀の立場からいえば気がもめるのであろう。しかし人を信用する経験も、山野の鳥よりは雀の方が多くもっている。これほど悪太郎の多い人間社会を信ずるというのも軽慮のようだが、それでも人里ではまだ危険の種類が少ない。そうして馴れて忘れてしまった危険も多いかと思う。私の家では落葉松の高い幹に縛って置いた巣箱が三越製であった。主人も考えが足りなくて、屋根の板の薄いのを気にしなかったところ、二春まで続けて親子二代とも何かに喰われてしまった。多分は村の外の林に棲む梟のしわざだったろう。屋根の板を剥し割って夜の中に荒して行ったのである。大屋も店子も共にこの危険には無智であった。深山の鳥ならば恐らくは本能がこれを避けさせたことと思う。\n しかもこの危険が、もし少しでも予知し得られるものだったら、選んだ後でも何かの処置を取ったであろうことは、幸いにしてこれを確かめる機会が私にはあった。鳥類の不安の感じはかえって人間よりはずっと鋭敏なのである。ただ我々のような推理の力が具わらぬために、梟にも襲われ煙突からも落ちるのみならず、むだな恐怖によって大きな損をするのである。この砧村の野の中に住んだ当座、私は庭に僅かな芝生を設けて、春の緑を楽しんでいたが、毎日のようにその中に雀の卵の破片を見かける。時には傷のない卵もあり、または孵化したばかりの雛が、落ちていて蟻にたかられていることもあった。その頃は近所のそちこちに大工づかいの音がきこえ、トラックのやたらに飛びまわる時であったから、雀も落付きが悪くて外へ移ろうとするのだろうと思った。故川口孫治郎君が訪ねて来られた際に、この想像を私が話して見ると、待って下さいよと川口氏はいった。雀には借家がありませんからねえ。急に引越して行く先がありますまいからねともいった。それもそうだとは思うが、この事実にはそれより以外の説明があり得ない。つまりこの現象はまだ鳥学界でも問題になっていないのである。もう少し見ていてやりましょうとまた数年を重ねたが、ついぞ雀が雛または卵を抱えて、飛んで行くのを見たことはなかった。これは夜明けの最も気力の旺んな時刻とか、またはよくよく人影の見えぬときを見定めて、決行するものと考えられる。芝の上に卵や雛の落ちていることは、気をつけているためかいよいよ多くなる。それで一計を案じて窓の外の手の届く処に、ごく簡単な大ぶりな巣箱を引掛けた。最初はもちろん中に入ろうとしない。それでも春がたけてどうにもならぬという時分に、晩婚の雀がこれへ来て家を持った。六七日の間はそっとして置いて、もうよかろうと脇の戸から、手を入れて見ると卵を生んでいる。やがて子が孵ってじいじいと幽かに啼き始めてから、毎朝手を入れて撫でて見ることにしていた。さぞ雀のおっかさんが、煙草くさい児だといっていやがるでしょうと娘たちがいうので、なに小鳥には嗅覚がないということだなどと冗談をいっていると、たった三日か四日で、あの柔かな何ともいえない肌ざわりのものが、突如として箱の中から消えてしまっている。さてこそと取下して見ると中は藻抜の殻であった。独りで飛んで行った気づかいはないのである。行く先に頃合いの空家があろうとなかろうと、少しく不安を感ずると食ってしまうという親さえあるのだ。とにかくここには置かれぬというだけでそっと抱え出し、何かに驚けば取落して行くものと見える。恐らく安全に育つということは、この成長状態では望めないであろう。つまらぬ試験をしたものだと今に気が咎めている。それからまた気のついたことだが、家の近所で見る巣立雀の中には、人ならば七八つもちがうと思う年齢の差が見られる。一家の都合とか両親の気持とかでは、かなり思い切って早い巣立ちをさせるらしいのである。いたずらっ児時代の記憶を喚起して見ても、瓦をめくって親かとまちがえるような大きな子雀を見たこともあれば、また椽先などへ入って来るのには、時々は腋の下などの赤裸なのもいる。こういうのは出ても満足には成長せぬかも知れぬが、とにかく雀は住居に関心が淡いと言っても、やはり一定の要求だけはあって、それが充されぬと愛する者の生命を賭しても、立退いてしまわずにはいないのである。それ位ならもう少し巣を作る前に、周囲の条件を吟味すればいいのにと思うが、やはり内側にそう十分な熟慮と、忍耐とをさせないような促迫があるらしいのである。自然を愛する人々の、もう一足だけ前に進んで、考えて見なければならぬ問題がここに残っている。私の家では餌箱に粟を絶やさず、虫などは幾らでも拾えるように庭を荒して、これで食物だけは保障してやったと思っているが、そうすればまた粗末な巣でも急いで作って、こうして中途に悲しい思いをするような、雀ばかりが多くなって来るのである。\n\n雀の国語\n\n 語学といっているような雀の語の研究は、我々には到底出来ない。いかに恵まれたる公冶長であっても、雀と話をしようとする企ては成立たず、またそんな入用もないからである。文字を雀が用いていないということも、少なからず我々の観察を簡単にする。人間の国語でも、一応はこういう純な状態から学び始めた方がよいように、私はこの頃考え始めて来た。通弁を頼まずにはそれは無理のように見えるが、幸いなことには鳥の言葉は数がいたって少ない。何度も聴いているうちには意味はやがて判るので、ただ判りましたということを他人に示すことが、幾分か面倒なだけである。だから私は誰一人として信用する者がないということを、覚悟の上でこの報告をするのであるが、そういう中でも少しは同感の人もあろうかと思うことは、雀の国の言葉が比較的に、どの鳥類よりも複雑だという一事である。すぐ近くへ来て啼く頬白やアオジまたは鶺鴒というような、一括して田舎ではスズメと呼ぶものを比べて見ても、語数の多いことにかけては里雀に及ぶものはない。四十雀は幾分か啼声に変化が多く、山に入ってあれも四十雀かと、不思議に思うことがある位であり、コガワラヒワなども聴いていると囀りに二色三色、地鳴きも場合によって全く別なものを使うが、頬白にいたっては雄は半日でも同じ調子の高音をくり返し、雌はごく無口でただ時々地鳴きをする。藁雀やジョウビタキは毎度のように来ても、啼声はただ一種で囀りもしない。これに反して雀は饒舌の評が高いだけに、それはそれは色々の語を持っている。正しい対訳が下しにくい故に、列挙もまた容易でないが、先ず誰でも知っていると思うのは、遠い処から何かあぶないことがあって遁げて来る場合、これは一語ずつ引離して、かなりはっきりと発音するので、いかにも我々の「やれうれしや」に似た感じを与える。次には婚約がいよいよ成って、これから巣に就こうとする際の悦びの声、こちらは細く美しくかつ連続して、これくらい顕著に幸福の感を表示するものはない。それからまた警戒の声でも、猫が木の下へ来た場合と子供などの近よる時とは、馴れてしまえば素人にでも差別がよくわかる。仲間がこれを聴いて危険の性質を、即座に諒解することは言うまでもなかろう。これと一羽が害に遭うて、騒ぎ立てる時とはまた声がちがっている。余りに人らしい解釈かも知れぬが、私などはこれを「同情に堪えぬ」と訳している。苦しいまたはかなしいを意味するらしい声は、喧嘩をして地に落ちようとする時などに聴かれるが、これと黐竿で刺された時とはよく似ていても、周囲にいる雀の態度は大分ちがうから、よく聴き分けたら多少の差があるのであろう。野原に出て行って稲架の間などで遊ぶ時の声と、夕方ねどこにしている木や竹藪に戻って、騒ぎ立てるものとはよほどよく似ている。これは多分取止めのない昂奮であって、会話というよりはむしろ運動の方に近いものと思われる。それと早暁のぽつぽつと眼を覚ます際の言葉とは、同じ鳥の朝夕とは思われぬほどの相違があり、こちらは「ここにいる」、もしくは「皆はどうした」とかいう風にも聞き取られ、僅かな数で木にとまっている時には、昼間でもこれとよく似た言葉を使うことがある。\n 囀ずるということは今日の鳥屋の意味では、雀には全くないようにも思われるが、これは本来は雀などから始まった語らしいから、現在の用法が変っているのである。人間でいうならばよそ心、鳥としては最も自然な無為の生活をしている際の、これぞという定まった目途もなしに、いつまでも同じ調子の言葉をくり返すということは、いかに気ぜわしない雀とても、丸々その楽しみを奪われてはいない。子供らが聴いて共鳴をするのもこの声に限られているのは、隠れた意味のあることかと思う。雀は何と鳴くと彼等に尋ねて見ると、チュンと鳴くというのが即ち囀ずりであった。これを平板にまたは尻揚りに、あるいは一つ置きにアクセントを取替えて、許されるなら晩までも、際限もなく唱えておろうとするのを見ると、この語には詩歌俳諧と同じく、差当っての目途はなく、聴いている仲間もこれを用向きだとは認めていなかったのである。それをなんらかの大切な交通語の、間に取りまぜて使おうとする故に、外の者にはいよいよ解しにくく、また非常に騒々しいおしゃべりとも評せられることは、ちょうど我々が駄洒落を興じているところを、西洋人などが立聴きしたようなものであろう。南の島々では雀をユムンドリという者が多い。ユムンは「よむ」であって暗誦のことである。何だか物々しい意味がありそうで、それが判らぬためになおのこと、よくも覚えたものだという感じを人に与える。雀の語によって霊界の神秘を知ったという昔話が、空想せられた動機もここにあるかと思う。沖縄の炭焼長者の女房などは、雀に山原の炭焼き谷に行けと教えられて、長者の始祖になったといわれている。ここではクルクルというのが雀の囀ずりの声であった。我々がチュンチュンと聴き、スズメと写していた音を、島ではクルクルと聴き、従ってまたこの鳥をクラと呼んでいるのであった。"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " いろいろに思う人の言葉の中に、私のほんとの価値があるのでもなく、心をたのんで置くのでありません。\n 私は私なのです。それ故私の一生を駄目にするのも、価値をあらせるのも、皆私次第なのだと思うことは、間違っていましょうか。\n 自分が尊いと思うものの前には、私はいつでも膝を折り、礼拝する謙譲さをもっています。より偉大なもの、よりよいもの、美くしいものに、私は殆ど貪婪なような渇仰をもっています。\n けれども、不正だと思うものの前には、私はどんなことがあっても頭を垂れることはありますまい。臆病になることもありますまい。\n ただ、一度ほかない私の一生を、不正なものに穢されるのは、何といってもあまりもったいないことではないでしょうか、私は、よくなれるかもしれないものを、悪いことの中へ投げこんでしまう勇気はありません。私は、ただよりよくありたいためにばかり生きています。考えています。そして苦しんでいるのです。\n ここまで来て、私は、何だかあまり興奮しているのに心附きました。自分のことばかり云っていて、何だか少し極りの悪いような心持が致します。\n けれども、云いたいだけを云い、書きたいだけを書いてあげられ、見て戴ける方は、あなた以外にない私に、どうぞ思うままを云わせて下さいまし。\n そして、この燃焼が無駄に消えないように、お祈り下さいませ。お目にかかりたいと思っております。\n\n 手紙はここで終っている。\n かような心の状態にあった彼女は、自分の周囲の総体的の運動とは、まるで違った方向に、彼女の路を踏もうとしていた。\n それ故、その総体的の方向を変化させる力などは、もちろん持たなかった彼女は、当然来るべき孤独のうちに、否でも応でも自らを見出さなければならなかったのである。\n\n五\n\n\n人には自己なる領地より大なる領地あることなし。\n而して汝孤ならば汝は全く自らのものたるべし。\n レオナルド・ダ・ヴィンチ。\n\nそれは真理だろう。\nけれども、これほど貧しい頭を持ち、これほど磨かれない魂の自覚に苦しめられながら、それを満たすために、輝やかせるために、自分は独りであらゆる破調に堪えて行かなければならないのか......\n\n 彼女は実に悠久な悲哀に心を打たれた。\n けれども、その悲哀は自分の心から勇気を抜き去ったり、疲れを覚えさせたりするような悲しみではなく、かえって、心に底力を与え、雄々しさを添えるものであることを彼女は感じた。\n そして、無限に起って来るべき不調和と、衝突とに向って、それが必然なものであり、止を得ないものであるなら、どこまでも当って、自分の路を開いて行こうとする決心が、しっかりと揺がない根を彼女の心に下したのであった。\n どんなことが来ようと、自分は決して顔をそむけまいという意志は強かった。\n 先達のない山路を、どうにかして、一歩でも昇ろうとする努力は確かに勇ましかった。\n けれども、その不断の力の緊張は、やがて驚くべき苦痛をもって現われて来たのである。\n 両手を左右に拡げることを、毎日の間に幾度かしている。けれども、それを拡げたままで五分保っていなければならない苦しさは、ちょっと考えると雑作のない単純な運動とも思われない量をもっている。\n 上げたときと同じにしておこうと思っても、きっと幾度かは殆ど不可抗力に近い重みをもって垂れそうになって来る通りに、彼女のちっとも緩みのない心、休息を与えられることのない心は、ときどき息が詰りそうな陰鬱を伴って沈んで来る。\n 何の音もしない、何の色もない、すべての刺戟から庇護された隠遁所を求めて、悲しく四方を見まわし、萎え麻痺れるようになった頭が、今にも恐ろしい断念をもって垂れそうになって来ることもある。\n けれども、そういうもう一歩という際で、彼女にまた新らしい勇気と、感激とを与えて、より雑多な刺戟の中へ振返らせるものが、彼女の感受するいろいろな感動を透した上の方から、いつも朝暁のようにすがすがしい、なごやかな力に満ちた新鮮な空気を送ってよこすものがあった。\n そのものは何なのか、彼女には解らない。\n 何だかは知らないが、偉大な魂を感じ得る「心持」を与えられた彼女は、その自分が神と呼び、守霊と呼びかけて、人と人との交渉においては、どうしても満たされない絶対的服従の渇仰と、愛情とを傾け尽して敬愛しているものをも、やはり或る一つの「心持」を感じるのだとほか云いようがなかったのである。\n そして、その「心持」は明かに地上のものではなかった。自分の万事を洞察し、弱ろうとする生活の焔に、ちょうどそのときというときに適当な油を注ぎかけながら、一生の間自分を見守り、叱咜し鼓舞して「下さる」ものなのである。美くしい月光の揺曳のうちにも、光輝燦然たる太陽のうち、または木や草や、一本の苔にまでも宿っている彼女の守霊は、あらゆる時と場所との規則を超脱して、泣いて行く彼女を愛撫し、激昂に震える彼女を静かに、なだめるのである。\n 心が暗く、陰気に沈むごとに、彼女は唯一の避難所であり礼拝所である美くしい木立の茂みのうちに坐って、幾度輝やかしい守霊の鼓舞を感じたことであろう。\n 幹と枝々との麗わしい均斉、軟らかな輪郭と、その密度によってところどころの変化をもつ静かな緑色の群葉に飾られた樹木は、光線の工合によって、細密な樹皮の凹凸を、さながら活動する群集のように見せながら、影と陰との錯綜、直線と曲線との微妙な縺れ合いに、ただ、彼等のみがもつ静粛な、けれどもどんな律動をも包蔵した力の調和を示している。\n 高い上の方の洞に寄生木の育っている、大きな大きな欅の根元に倚りかかりながら、彼女はなだらかな起伏をもって続いているこの柔かい草に被われた地の奥を想う。\n 縦横に行き違っている太い、細い、樹々の根の網の間には、無数の虫螻が、或は暖く蟄し、或はそろそろと彼等の殻を脱ぎかけ、落積った枯葉の厚い層の奥には、青白いまぼろしのような彼等の子孫が、音もない揺籃の夢にまどろんでいるだろう。\n 掘り出されない数限りない宝石や化石の底を洗って、サラサラ、サラサラとせせらぐ水。\n 絶えず燃えくるめき、うなりを立てる不思議な焔。\n その熱と、その水とに潤されて、地の濃やかな肌からは湿っぽい、なごやかな薫りが立ちのぼり、老木の切株から、なよなよと萌え出した優雅な蘖の葉は、微かな微かな空気の流動と自分の鼓動とのしおらしい合奏につれて、目にもとまらぬ舞を舞う。\n この到らぬ隈もない音と音との調和、物と影との離れることのない睦まじい結合を繞って、ゆるやかに脈打つ生命の力を感じるとき。彼女は祈らずにはいられない感動に打たれるのである。\n 霊感にさほど遠くない感情の火花が、美くしく彼女の胸の中に輝きわたる。\n そして、守霊は無言のうちに、生きることの美くしさ、努力の光栄を、彼女の魂に吹きこむのである。\n 神よ、我に不断の力を与え給え......。\n 明日という日が、また希望を盛り返す。\n 彼女は、もう決して辛いものではなくなった独りのうちに静かに浸って、与えられた自らの生命の多種多様な力の現れと、僅かずつ育って行く心とに、謙譲な愛に満ちた奉仕を感じるのであった。\n\n かようにして、箇我のうちにまったく閉じこもった彼女の生活は、ちょうど曇った夏の夜のような様子で過ぎて行った。折々鋭い稲妻の閃光が暗い闇を劈いて一瞬の間、周囲を青白い輝きの中に包みはしても、光りの消えたと同時に、またその暗い闇がすべてを領してしまう。\n それと同様に、ときどきは、いかほど熾んな感激の焔に照らされはしても、彼女の生活の元来は暗かった。そして、夏の夜がそうである通りに、闇とはいっても、微かにおぼろに、物の形、姿だけは浮んで見えるほの明りに足元をさぐりさぐり、彼女はより明るみへ、より輝きへと、歩を向けて行っていたのである。\n そして、彼女の心附かないうちに、生活の律動は、読み物の影響と、或る程度まで養われた道徳意識の影響と、今まで続いて来た生活の形式の反動との力を集めて或る次の一点へ徐々に彼女を動かしていた。\n 自分ばかり凝視していた彼女の眼は、そろそろと自分より不幸な、より惨めな、そしてそれ等に対して、自分が無関心であったのを恥かしく思わずにはいられない一方面に転ぜられ始めたのである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 不当な圧迫や、服従の強制に対して、絶えず不満を感じていた彼女が、自分よりもっともっとそれ等の堪えがたいあらゆることに堪えて、物質的にも精神的にも劣者の位置に甘んじていなければならない者に心附いたとき、どのくらいの同情に打たれたことであろう。\n そして、それ等の気の毒な人々に、自分も知らず識らず圧迫を加え、強制を加えて、まるで知らないでいたことにいかほどの悔を感じたことであったろう。\n 自分は仕合わせに、不正だと思ったことには、どこまでも対抗して行く力を与えられている。その反抗に対して機嫌を損じる者があれば、いくらあっても、自分はちっとも恐ろしくはないと思っていられる。けれども......。彼女はほんとに興奮せずにはいられなかった。\n 生命を権利も、それがたとい法律では保護され、飽くまで主張し得べく制定されてはいても、実際の生活においては、物質的、精神的により豊かな者、力強い者に、殆ど無条件で蹂躙され、屈服させられなければならない人々が、到るところに満ちているではないか。\n 卑怯な、卑劣な弱い者酷めが、公然と行われているのに、自分はどうして、平気でその仲間入りをしていたのだろう。\n 彼等も人であり、自分も人であるのに、一方が一方を虐げるのが、どうして正しいことだといえよう。\n 彼女は、忘られない印象を自分の心の上に遺して行方も分らず去った、或る一人の労働者の姿を想い浮べた。可哀そうだと思いながら、記憶から薄らいでいた、一人の少年を思い浮べた。\n それ等の皆、泣いていた人々、自分が悲哀に打たれ、泣くことさえ憚るようにしてひそやかに啜泣いていた人々。\n 慰めてのない彼等の苦痛、軽ぜられていた生命の歎息が、無限の哀愁のうちに、ひたひたと迫って来るのを、彼女は感じずにはいられなかった。\n 破れた、穢い穢い上衣の肩の上に垂れて、激しく痙攣していたあの青い顔、深い溜息。\n 彼女は、記憶の中のその人に向って、\n「泣くのはおやめなさい。しっかりおしなさい。一緒にどうにかして行きましょう!」\nと呼びかけずにはいられなかった。\n そして、あのとき、もし自分が大人だったら、そうっと彼が泣く訳を聞けるだろうのにと思った心持は、そのときよりはっきりとした解答、彼の泣いた訳も、結果も分っているという心持を伴って、一層の同情を喚び起したのである。\n「彼も人間である。私も人間である。私が生きるために、彼の命を軽ずるのは正しいことか」\n\n狆に縮緬の着物を着せて、お附きの人間をつけて置く人が、彼の門前で死に瀕する行倒れを放って置くのは正しいことか。\nそういう人に媚びて、ほんとの同情をごまかしたり、知らない振りをするのは正しいことか。\n優しい鼓舞と助力は待ち望まれている。彼等の歎息に耳をかせ。\n\n 彼女は、書きながら、心がブーンブーンと鳴り響くような心持がした。\n「弱い者、気の毒なものが虐げられるのが悪いのなら、そうでないように出来るだけやってみることに、何の躊躇がいろう。\n よりよく、より正しい方へとすべては試みられなければならないのではないか、\n どんな辛い目にあっても、自分は彼等のために尽す。ほんとの正しい、人間らしいいつくしみ合いに祝福あれ!」\n 彼女は希望に打たれて、泣き出さずにいられなかった。そして、\n「ああやっと来た! やっと自分のほんとの生活が見つかった! おてんとうさま。私の神様。\n 私は嬉しい。ほんとに、ほんとに嬉しい」\nと、躍り上るような字で書きつけた鉛筆を、投げ出した彼女は、せっかく書いた字が皆めちゃめちゃになってしまうほど、涙をこぼした。\n 悪霊のような煩悶や、懊悩のうちに埋没していた自分のほんとの生活、絶えず求め、絶えず憧れていた生活の正路が、今、この今ようやく自分に向って彼の美くしい、立派な姿を現わしたように思われていたのである。\n 彼女は、自分の願望を成就させるに熱中した。\n 寛容な、謙譲な愛によって仲よく、睦しく助け合って行く自分達を想い、心が安らかに幸福な一群が、楽しく元気よくほんとの「自分達の働き」にいそしむ様子を描きながら、自分の許されている範囲において、真剣に彼女は、出来るだけのことをして行ったのである。\n これ以外には決してないと思われる仕事に対して、たとい量は少く、範囲は狭くあろうとも、彼女の真面目さは絶大であった。徹頭徹尾一生懸命であった。\n そして、些細な失策や、爪ずきには決してひるまない希望を持っていたのである。\n けれども、時が経つままに、彼女の理想がどんなに薄弱なものであり、その方法や動機が、動揺しやすい基礎の上に立っていたかを、証明するような事件が、次から次へと起って来た。そして、彼女の物質的助力や、熱心にはしたつもりの助言は失敗に帰したことが明瞭に示されることにならなければならなかったのである。\n 客観的の立場からみれば、それは当然来るべきものであった。それどころか、若し来なければ、彼女は恐ろしい不幸に陥らなければならなかったほど、それは意味ある、「尊い失敗」であった。\n けれども、最初のあの嬉しさに対し、希望に対し、第一に引き上げ、高められるべきはずだった多くの「彼等の魂」を、もとのままの場所からちっとも動かし得ずに、遺さなければならなかったことは、彼女にいかほどの、苦痛を感じさせ、赤面を感じさせたことだろう。\n かつて、「ああやっと来た!」と書いた言葉の前へ面を被いながら、彼女は\n 達者で働いておくれ! 私の悲しい親友よ!\nという、訣別の辞を与えなければならなかったのである。\n\n六\n\n まったく。悲しき親友よ!\n「私はきっと今に何か捕える。どんな小さいものでもお互に喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞ待っておくれ」\n 彼女は、否でも応でも、彼等に向って別れの手を振らなければならなかった。\n が、何かを捕えようとして延した片手の方角には、いったい何があったろう。\n 失敗した計画が、しおしおとうなだれて行くあとについて、これこそ自分の一生を通じてするべき仕事だと思われた確信が、淋しい後姿を見せながら、今までより一層渾沌とした、深い深い霧の海の中へ、そろそろと彼の姿を没してしまうのばかりが見られる。\n そして、目前には、遺されたいろいろの問題――ほんとの愛情、善悪の対立の可不可――が、黒く押し黙って、彼女の混惑した心に、寒い陰をなげたのであった。\n「私は、私の全部において失敗してしまった。大変悲しい。恥かしい思いに攻められる。そして、なおその上、失敗した思想以上に、一分も進んではいない頼りなさ、不安を感じずにはいられない。けれども、\n 神よ我に強き力を与へ給え......。\n 私は決して絶望はしない。絶望してはいられない。真面目な科学者は、彼の片目を盲にした爆発物を、なお残りの隻眼で分析する勇気と、熱愛と、献身とを持つ」\n 彼女は確かに失望もし、情けない恥かしさに心を満たされもした。\n けれども、極度な歓喜に燃え熾った感情が、この失策によって鎮められ、しめされて、底に非常な熱は保留されているが、触れるものを焼きつける危険な焔は押えられた今、まったく思いがけないもの――静かに落着いて、悲しげな不思議な微笑を浮べながら、\n まあ、まあ落着きなさい。え、落着きなさい。"
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"content": " そういう抒情性は文字の上から消されます。面白いでしょう? 今日の表情が、平板であらざるを得ないではないの、ねえ。小さい鏡は小さい鏡ぐるみ、より大きい鏡にうつして、その中で小ささを示すしかないような工合ね。\n ね、私は熱烈に考えているのよ、日本の文学の正統の歴史的発展は、この現実の世界史的な把握や描き出ししかない、と。そのような発展を、日本が自身窒息させるということは、大きい損失であることを学ばなければならないのですが。自分たちが日本を代表していると思っているような人々は、時を得たる人間の喜劇とシャブロンに陥っているから。ああ、何と私はもっと早く心の成長をしたいでしょう。ちょいとうっかりすると軽率になったりするところのない、そんな心配のない心になりたいでしょうねえ。\n 野蛮への楯としてのヒューマニズムの話。ここも又、よ。自分ではそれが質的一般性に立って云われるべきものでないのは知っているつもりなのです。一般から云おうというつもりはないのです。その時代に、そのような楯ももち出されるプラスとマイナスの面を明らかにしたかったの。マイナスの歴史の断面から発生したプラスとでもいうような本質であるから。たとえば作品の現実では各人の各様の持味の肯定になって、石坂だの岡本だのという怪花をひらいたのだ、と。さもなければ、舟橋のように人情に堕した、と。あの部分は、これから後五年ぐらいとまとめて本にするとき、書き直されるべきですね。\n こんどこの本がまとまったことと、「朝の風」をかいたことは私にとって実に意義あることでした。本のまとまった意義は、こんな手紙もいただけるモメントとなったという意味で。「朝の風」は、私の感情の切ない底をついているという意味で。\n いろいろのこまかい、しかも実質的なこと、少なからず得て居ります。この二つの仕事から、自分として自分を分析する新しいモメントをとらえたような気もいたします。私の小説と評論とはきわめて興味ある関係なのですもの。評論でそのような仕事もしてゆく、その心の根の思いというようなところを「広場」にしろ「おもかげ」にしろかいていて、「朝の風」は叫んでいる口は見えるが声は消されたような姿をも示していて。その意味で「朝の風」は底をついたのよ。一つの大きい心理的な飛躍が準備されたと感じます。短篇集をまとめてよんだら、そのことを自分に一層はっきり知ることが出来ると思います。たとえば、これまでの作品では題材とテーマが、いつも二つのものをふくんでいるの。「広場」系のもの、それから「乳房」「三月の第四日曜」その他。主観的素材、客観的素材。それがちゃんぽんにあらわれました。「海流」がもし完成されたら、そこの中で、評論で私が統一しているような統一された自他があらわされ、身につけられたのでしょうが、それが中絶したために、そういう時代の気流のために、一方は「朝の風」で底をついたわけです。この関係は本当に微妙よ。こんなかきかたでわかって頂けるかしら。短篇集には、はっきり私の苦しみが映っていると信じます。私の苦しみが映っていて、その私の苦しみが時代のものであるということがどの位語られているか。個性の道があらわれていると思うの。\n この次の長いものでは、それを統一してゆくことが会得されたようです。それは一つのよろこびよ。そして、ここまでに示されている永い期間の困難というものは、私の過去の文学の伝統だの、性格だのが原因となっていると思います。私は私小説から発生して居りますからね。人道主義的なものであっても私 からはじまって居ります。よしや多くの展開の可能をふくんでいるとしても、私 からはじまったということは文学の歴史において何ごとかであるのです。それが拡大され、拡大されてゆく過程で、ある永い期間、やっぱり自分を追求してゆきぬかなくては、本質の飛躍の出来ないところ、ひどいものねえ。\n 私がもしいくらかましな芸術家であったとしたら、それはつまり、あれをかいてみ、これをかいてみ、という風に血路を求めずやっぱり自分を追いつめて、やっとのりこす底まで辿りついたところにあるでしょう。十年がかりでそこまで自分をひっぱったところにあるというのでしょう。私小説が真の質的発展をとげてゆく道というものは、こんなにも困難な、永い時間を要することです。異った質としてはじめからあらわれる次の正統な文学世代は、この永い苦しい時期を知らず、真に新しいものとしてあらわれる筈なのですが、それは現れず、一層小市民的な方向での細分された才能があらわれているということは、考えさせられます。\n(おや、きょうはおみこしが出ているわ、ワッショワッショイ、ワッショワッショとやっている声がして来ました。)\n 私の精神・感情には、心理学の所謂つよいつよいコンプレックスがあるわけです。それをすべて文学の仕事のためにプラスとして転開してゆくということが、つまり私の全生涯の仕事ね。その集合観念を、自分にとって圧迫的なものとせず、且つ知らず知らずそれに圧迫されず、それをよい、モティーヴとして活かしぬくということです。この前の手紙、私は心の病気めいたものをもっていると申しましたろう? あれもこのコンプレックスの一つね。もっともっと私は達人になって自分のコンプレックスを解放する力をもたなければならないのです。そして、それがこれからの小説の方向です。図書館、本当に可笑しかったこと。全部で三冊よ、私の送ったのは。上野、大橋、日比谷。明日は芥川の「河童」について伺います、どこに書かれているのか。\n\n十一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 十一月十三日 第七十八信\n お手紙(十一日づけ)ありがとう。きょうのお手紙は本当にいい手紙です。何だか酸素のたっぷりした空気、オゾンのゆたかな空気が鼻腔から快く流れ入るような感銘です。これはほんとにいい手紙です。\n そして、それにつけ、これと逆な感じを受ける気持や場所やを考えると、妙な気がします。文壇的知識人というものが、歴史的な知識人としての皮膚の新陳代謝をおくらしてゆく過程が――そして其はやはり現実の、或は目の前の身すぎ世すぎからの敗北として、同時に自分自身の旧いもちものへの敗北として――こんなに明瞭に示され感じられるというのは。\n ほんとにこれはいい手紙です。\n 新しい文学が潮流としての存在をなくしたことについての考えかた、そのもののつづきとして「形式と内容」がとりあげられているところがあります。過去の業績の正しい評価を示さず、かかれているということは、云われているとおりですね。\n そして、筆者は、この「形式と内容」が、作品の内部関係でより展開されていないままになっているところから、次第に二つが分裂して其々の云いのがれ的文学傾向となってゆくことに対してあれをかいたのでしょう。「人間にかえれ」が、生産文学・農民文学などのバッコに対してかかれたように。「対象としての文学現象が論理的分析はされても歴史的分析、対象の基礎の分析が不十分なこと」これはまことに真髄にふれた言葉です。一人のひとについてだけのことでは決して決してないと思います。\n そして、更に思えるのは、論理的分析は論理の方法を知っていれば出来ることでありますが、歴史的分析はもっとその人の身についた歴史的なもの、歴史的生活力の底からしかほとばしらないということ。従って、論理的分析は頭脳的に作業され得ることになり、実生活との分離のままに行われるところがあり、そのものとして一種の形式論理になってもゆくということ。これらは、あの論文の筆者が、評論だけをかいていると人間がよくならない、小説をかかないと云々と云ったとき、私は、変で、それはそういう人もあるだろうと答えた、その機微にもふれています。私は永い間そのことが念頭からはなれず、何故と云えば、私は自分が評論のようなものをかいて、人間がよくならないと思えないし、そんな妙なことがあり得るかと思っていたので、しかし、こういう二つのもの、論理的分析と歴史的分析の関係が、はっきりつかめなかったのでした。\n 私の疑問であった多くのことが、この二つのことで腑に落ちました。これは種々の点からあなたが思ってもいらっしゃらないようなキイポイントとなって、私に周囲の事態を理解させます。\n 私には、自分でその二つの関係がつかめなかったように所謂論理的でないところがありますから。自分たちの生活の実感から私には歴史への感覚がめざまされているので、その自然発生のつよさは、感情の内部で一つのコンプレックスとなっているほど(前の手紙にかいたように、ね)でしょう? 時代を経てゆく一人一人の姿は何と複雑でしょう。"
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"role": "assistant",
"content": " そしてね、あなたはお笑いになるでしょう。あの本の筆者に対して、多くの人は魅力がない、肉体がないというのよ。そう評するものはと云えば、論理的推論にさえ堪えない存在であるにかかわらず。何と悲しい喜劇でしょう。\n その人に即して云えば、論理的な合理に立とうとせずにいられないだけ前進性をもっていて、その半面に真の歴史的分析は自身の生活に対してさえし得ないものをもっている。今日、ゴに熱中して徹夜していられるところがある。そういうところへの悲しさが、私の場合では又コンプレックスのかたまりを大きくしてゆくというようなわけね。(時代のありさまとの関係として)\n いろいろと実にうれしい。わかって。自分は何と自然発生でしょう。この手紙一つをしみじみと眺め、私は自分の内がモヤモヤしていて、力が弱いのをびっくりするようです。いろんなとき、どうも其は変だ、という感じをなかなかリアリスティックな根拠で分析したり構成したり出来ない。\n 勉強というもののされかたをも考えます。私の場合は、自然発生のものの整理、それの混迷からの救い出し、生活的成長のため、コンプレックスを、歴史性のなかで解いてゆくために不可欠であり、他の人にとっては、論理の展開の筋を見つけ出すために読まれずに、自分の生活へ切り込む刃としてよまれる必要もあるでしょうし。\n きょうのお手紙のなかにあることは、この数回からの私の理解に瞳を入れられたところがあります。私はね、たとえば「論理的なものはとりも直さず正統な歴史的見かたしかあり得ない」という単純な確信に立っていたから、逆に、歴史性に或る程度立って云っていられることの内にある論理的なものと歴史的なものとの分裂の誤りを見つけ出されなくて、ひっかかるのです。歴史性の小さい入口から、誘いこまれて全体を肯定したりしてしまう。よくわかるでしょう? 自分のうちのモヤモヤというのはそこから発生するのです。\n 本当にありがとう、ね。段々たのしくなって来ます。勉強してゆく愉快な思い、新鮮なよろこびが湧き立てられます。\n 前の手紙でかいていた歴史的背景、歴史的な根拠をもつ心理的コンプレックスの、文学としての見かたもゆたかにされます。たとえば中野のスタイルと自分の制作態度とのちがい。それとの関係で云える伊藤整たちの登場人物(余計者の自覚によりつよく立ったあげくの積極性と平野の云っているところのもの)との関係など。\n 友情についての話。あの中で、私は友情一般が云えないこと、仕事のなかで人生への共通態度は最もはっきり現れるのだから、その態度如何で、友達になり得る人なり得ない人との区別が生じること(つまり私的生活の中での友人になり得ない人でも公的場面でつき合ってゆく事務上の接触をもつことはあり得るのですから)、そして、一般の若い女のひとたちは、共通な人生への態度を感じると、そこにすぐ恋愛的なものを描き出してその曖昧なところをたのしむような傾向をもっているから、それに対して、私は特に友情と恋愛の感情が、女として区別されて自覚されなければ不健全だと強調しているわけだったのですが。その点不明瞭ですか? あれをよんだ女のひとの何人かは、異性の間の友情が、ああいうものであってはつまらない、と云ったそうです。その位、女の社会感情は狭いのね。公人としての同僚感と、その同僚のうちから友情が見出されるということは直接同じだとはしていないつもりですが。同じでないからあの文章の中で、同じつとめに働いている同性や異性の間で、同僚として顔をつき合わしていても、ちがった利害の対立におかれる仲間の方が多い、その中で、共通な生活態度が見出されたとき、それは友情となるが、それがすぐ恋愛的なものと混同されて、友情そのものとして成長しにくい場合が多いということを主張しているわけなのですが。きっと整理が不足しているのでしょうね。もしそういう印象を与えるとすれば。同僚感というものを、生活態度の共感という範囲に限ってだけ云われなくても、それは自然でしょう? もしそう云われれば、その同僚感において友人として必要な人、そうでない人という区別も生じないわけですから。同僚感というものは友情より広汎な、内容の錯交したものでしょう。\n しかし、これについて書かれているいろいろと複雑な心持、ヒントは非常によく感じられました。その点で、この文章をとりあげて云っていらっしゃるいろんなことも実生活的によくわかったと思います。すでに現実にいくつかの経験がありますもの、ね。そして、たとえば、前の方でそれについてかいている評論の筆者とのことについて考えてみても、友情そのものがやはりひろいというかいろいろまじっているし。でも又ふっと考えて、たとえば、同僚感という文字があの文章の中に一つもつかわれていなかったということについて考えます。そのことで、このお手紙に云われている点は(感覚というものの根源の微妙さとして)あたっていますね。それも面白いと思います。なかなかギロリはつよい光度をもっていて愉快ね。\n 新しい読書は、大変活々とした感情でよまれます。もとよんだときとは又ちがいます。□期としての生々しさがちがうから。五五一頁ある本です、よんでいるのは。\n 文学について、国民文学ということも、私の考えている或は感じていることの健康さが一層明かに感じられるのですが。\n 毎日の早さどうでしょう。\n きのうは、『漁村』という全国漁業組合の雑誌に婦人のための文章をかいて、漁村の婦人の生活にふれたものをかいてみるために、いろいろしらべて、年かん類勉強したら、日本は四面海もてかこまれし国なのに、漁村生活の調査が不十分にしかされていないのには何だかびっくりしました。すこしは、それについて知りたいと思いました。生活力がないのではないのですもの、富山のかみさんたちの例を見たって。海と女とのいきさつは、海女に集約されていますが(これまでは)、随分いろいろの問題があると思います。農村の女の辛苦とは又ちがったその日ぐらしの不安が時間的に農村の女より女にひまがあっても成長させないモメントとなっていると思いました。漁村の女について私たちは知らないことにおどろきました。\n 島田からのお手紙で、母さんが御出勤ですって。いいわね。午後二時間ほど友ちゃんと交代ですって。なかなかいいわね。お母さんのために大変ようございます。では明後日に。\n\n十一月二十二日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 十一月十三日 第七十九信\n 今、よんでいて大変面白く思ったこと。イタリーの歴史ですが、一四年において、そこは仕合わせな例外としての一つの力を保っていたものが、その力を失って行った過程というもの。この二十五年間の世界史というものは実にウェルズなどのよくかくところではないということを痛感いたしますね。\n「ロマン・ロランの会見記」が(山本実彦)出ています、『文芸』に。ロマン・ロランがもし本当にそれらの言葉を云ったのであったら、やっぱり歴史の進みというものは、ある巨大な価値をもったものの、命数をもつきさせる時期をもつものであるということを感じなければならないと思います。彼等夫妻がある都会のホテルに滞在していたとき毎日細君に花束を届けてよこした一人の人間を、そのことからいい人間、チストカが意外ないい人間という風に判断するとすれば、それは最も凡俗な女流作家或は文学少女の人物評価の基準でなければなりません。現代という時期があらゆるものの評価のよりどころを狂わせていることはどれ程の激しさでしょう。第一次の大戦より確にその点もすすんで居りますね。それはそうだわね。だってあの頃ヒヨヒヨしていたムッソリーニが今日は三巨頭の一人なのですものね。だから二十五年は面白いと思います。\n ハハアとあなたはニヤリとなさいますでしょう、「ユリはわかるものを読めば喋り出さずにはいられないのだナ」と。そして、これをかいているのは二十二日なのよ。一週間も経ちました。その間にいろんなことがあって。\n 二十日までに『文芸』の方をすっかりまとめてしまおうとして熱中しているところへ、女の作家が文芸中央会というのに参加するためにどうこうと長谷川のおばあさんや間宮君にうごかされて度々来て、私はそういうことには現在自分として進まないので消極ですが、はたでドシドシつくって行ったり、そのために外出もしたり。おまけに、物干の木がくさっていて、布団をとりこもうとしてふみぬいて、片脚をおっことしてすっかり紫色にしたり。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「ああ、けつこうです」秘書は、部屋から姿を消しながら、息を切つて言つた。「その人に弁護士の所へ来てもらいましよう」\n こうして、二人が弁護士の事務所でストレイカー博士に会うために隣町へ急行すると、ブラウン神父はもうそこに坐つて、重そうなこうもり傘の上に手を組んだまま、事務所でたつたひとり相手になつてくれている人と愉快そうにしやべつているところであつた。ストレイカー博士も来ていたが、どうやらたつたいま来たばかりと見えて、手袋を注意深くシルクハットの中に入れ、そのシルクハットを小さなテーブルの上に置いているところであつた。そして坊さんのお月様のようにまんまるい顔や眼鏡のおだやかで明るい表情と、その話相手になつていた、かなり年取つたごま塩まじりの弁護士の忍び笑いとを思い合わせると、医者がまだ死のニュースを知らせていないことがよくわかつた。\n「やつと美しい朝になりました」とブラウン神父は言つていた。「あの嵐は頭上を通り過ぎたようです。大きな黒雲がありましたが、雨は一滴も降らなかつたようですな」\n「一滴も降りません」と弁護士は、ペンをおもちやにしながら、相槌を打つた。この人は事務所の共同経営者のうち三人目のダイク氏であつた。「いまは空に雲一つありません。休日向きの日です」そのとき彼は新来の連中に気がついて目を上げると、ペンを下に置いて立ちあがつた。「ああ、ハーカーさん、いかがですか? 提督はまもなくお帰りだそうですね」そこでハーカーが話し出すと、その声が室内にうつろに響きわたつた。\n「残念ながら、われわれは悲しいニュースの使者です。クレイブン提督はお屋敷へ帰りつかないうちにおぼれてしまいました」\n 静かな事務室の空気そのものが、変つてしまつた......そのくせ動かないでいた坊さんと弁護士の態度には変りがなかつた。二人ともハーカーの顔を見つめて、言いかけていた冗談が唇に凍りついたような顔をしていた。二人とも「おぼれた」という言葉をおうむがえしにくりかえして、おたがいに顔を見合わせてから、また報告者の顔を見た。それからちよつとガヤガヤして口々に質問が出た。\n「いつそんなことになつたのですか?」と坊さんがきいた。\n「どこで発見されたのですか?」と弁護士がきいた。\n「発見されたのは」と警部が言つた......「緑人亭から程近い浜のそばのあの池の中でした......引き上げたときは、緑色の浮きかすや雑草にすつかりおおわれていたので、ほとんど見分けがつかないくらいでした。しかしここにいるストレイカー博士が――どうしたんです、ブラウン神父? どこか悪いんですか?」\n「緑人......」とブラウン神父は身ぶるいして言つた。「すみません......取り乱して失礼しました」\n「どう取り乱したんですか?」と警部は目をみはつてきいた。\n「提督が緑色の浮きかすにおおわれていたせいでしような」坊さんは、かなりふるえ声で笑つてから、言つた。それからいくらかしつかりと言いそえた。「わしは海草だつたろうと思いましたのでな」\n この時分にはみんなが坊さんの顔を見て、気が違つたのではないだろうかと怪しんでいたのは無理もなかつた。それでいて次ぎの決定的な驚きは坊さんから出た言葉ではなかつた。死んだような沈黙の後に、口をひらいたのは医者であつた。\n ストレイカー博士は、一見しただけでも、すぐ目につく人であつた。大へん背が高くやせこけていて、キチンとした医者らしい服装をしていた......しかもビクトリア中期以後ほとんど見られないような流行を守つていた。まだ比較的若いのに、茶色の顎ひげを大へん長くしてチョッキの上までひろげていた。それと対照的に、荒削りだが美しい顔が、妙に青ざめてみえた。彼の立派な容貌が割引されていたのは、深くくぼんだ目が、やぶにらみというほどではないが、かすかにやぶにらみのような感じがしたからでもあつた。みんなが彼のこういう点に注目したのは、口をひらいたとたんに、この人は何とも言いようのない権威者らしい態度を見せたからであつた。しかし彼が言つたのはこれだけであつた――\n「こまかく言えば、クレイブン提督がおぼれたことについては、もう一つだけ言うことがあります」それから考えこみながらつけくわえた......「クレイブン提督はおぼれたのではありません」\n 警部は、いままでにない早さでふり向くと、矢のように質問を投げかけた。\n「わたしはたつたいま死体をしらべてきました」とストレイカー博士は言つた。「死因は小さな短剣ようの先きのとがつた刃物で心臓をつらぬいた刺し傷です。死体を池に隠したのは、死後のことで、それもしばらくたつてからです」\n ブラウン神父は、めつたに見せたことのないような大へんいきいきした目で、ストレイカー博士を眺めていた。そして事務所にいたグループが解散しはじめると、ブラウンはうまく医者をつかまえて、往来を引き返しながら、また少し話しこんでいた。やや形式的な遺書の問題以外には、みんなが残つているほどの用は大してなかつたからであつた。せつかちな若い秘書は老弁護士の職業的な礼儀正しい態度にやや悩まされた。しかしおしまいには弁護士は、警部の権威よりもむしろ坊さんのじよさいない態度に動かされて、別に秘密にする必要のない問題まで秘密にする癖をやめてしまつた。ダイク氏は、提督の遺書は大へんまともな平凡な書類で、全部を一人子のオリーブに残すことになつているし、実際この事実をお隠しするような特別な理由は何もありませんと、ニコニコしながら認めた。\n 医者と坊さんは町からクレイブン邸の方角へ出る往来をゆつくり歩いていた。ハーカーは、どこへ行くつもりか、例の生れつきの熱心さでブラウンより先きに飛びだしていた。しかし一足遅れたこの二人は歩いている方角よりもおたがいの議論のほうに夢中になつているらしかつた。背の高い医者がそばにならんでいる背の低い坊さんにこう言つたときの口調は、なんだか謎めいていた――\n「ところで神父さん、あなたはこの問題についてどう思われますか?」\n ブラウン神父は、しばらく相手の顔をかなり熱心に見ていたが、やがて言つた――「なるほど、わしは一つ二つ思いついたことがあります。したが一番困るのは、わしはお嬢さんには或る程度お目にかかつていますが、提督をほとんど知りませんでしたからな」\n「提督は世の中に一人も敵がいないと噂されるような方でした」医者は無気味なほど顔を動かさずに言つた。\n「どうやらあなたの話ですと、噂以外に何かあるようですな」\n「ああ、これはわたしには関係のない問題です」ストレイカーはあわてて、だがかなり荒つぽく、言つた。「あの方はなかなか気むずかしかつたようです。一度わたしを或る手術のことで告訴すると言つて脅したことがありました。だが考えなおしてくだすつたと思います。わたしの想像では、あの方は部下にかなり荒つぽかつたに違いありません」\n ブラウン神父の目はずつと前方を大またに歩いていく秘書の姿に釘づけになつていた......見つめているうちに、特に急いでいる原因がわかつてきた。五十ヤードほど前方に、提督の令嬢が屋敷のほうへ行く道をブラブラしていた。まもなく秘書は令嬢と肩をならべた。そのあとしばらくブラウン神父が背中を向けた二人の無言の劇を見守つていると、やがて遠くに消えてしまつた。秘書は明らかに何かで大へん興奮していた。しかし坊さんは、それが何だか見当がついていたとしても、口には出さなかつた。医者の家へ行く曲り角まで来たとき、ブラウンは手短かにこう言つただけであつた――「もう何かお話しくださることはありませんでしような」\n「あるはずがないじやありませんか?」医者は大へんぶつきらぼうに答えて、大またに立ち去つてしまつたので、その最後の一言は、話すようなことはないという意味なのか、それとも話はあつても話す必要はないという意味なのか、どつちともはつきりしなかつた。"
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"role": "assistant",
"content": " ブラウン神父は、二人の若い人の跡を追つて、ひとりトボトボと進んで行つた。しかし提督の大庭園の並木道から玄関にさしかかつたとき、令嬢の動作に思わず足を止めた。令嬢がふいにふり向いて、まつすぐブラウンのほうへ来たからであつた。異常なほど顔が青ざめ、目は、何かこれまでに見られなかつた、しかもなんとも言いようのない激しい感情に輝いていた。\n「神父さま」と彼女は低い声で言つた。「できるだけ早くあなたにお話しなければなりませんわ。わたくしの言うことを聞いてくださらなければいけませんわ。ほかにどうしようもないのです」\n「もちろん、うかがいますとも」坊さんは、浮浪児に時間をきかれたときのように、冷静に答えた。「どこへ行つてお話しましようか?」\n 令嬢は偶然行きあたつた屋敷内のかなり荒れはてたアズマヤに案内した。そしてギザギザの大きな葉がむらがつてついたてのようになつているうしろに腰をおろした。彼女は、まるではりつめている気持をすぐに解きはなさないと気絶でもしそうなようすで、すぐに話しはじめた。\n「ハロルド・ハーカーがわたくしにいろんなことを話しました。恐ろしい事ばかりです」\n 坊さんがうなずくと、令嬢は急いで話を進めた。「ロジャー・ルークのことなんです。あなたはロジャーの噂をご存じですか?」\n「わしの聞いているのは、海軍仲間では彼を陽気なロジャーと呼んでいることです......これはロジャーさんが海賊の旗じるしのドクロとぶつちがいの骨みたいな顔をしていて、ちつとも陽気な顔を見せたことがないからだそうです」\n「いつもそうだとはかぎりませんのよ」とオリーブは低い声で言つた。「あの人には何かよほど変なことがあつたに違いありませんわ。わたくしはおたがいに子供だつたときからあの人をよく知つていました。いつもあすこの砂浜で一緒に遊びました。あの人は無鉄砲で、いつも海賊になる話ばかりしていました。たぶんあの人は、いわばスリラー小説を読んで犯罪が好きになるようなたちだつたのでしよう。でもあの人が海賊になるんだと言つていたころはかなり詩的なところがありました。あの時分はほんとに陽気なロジャーでした。あの人は、伝説どおりにほんとに海へ出て行きたいという気持を持ち続けた、最後の少年だつたと思いますわ。そしてとうとう家の人たちもあの人が海軍にはいるのを認めなければなりませんでした。それで......」\n「なるほど」とブラウン神父は辛抱強く言つた。\n「そうなんです」と彼女は、珍しく楽しそうな気分を見せて、それを認めた。「かわいそうにロジャーは海軍に失望したのだと思いますわ。海軍士官が口にナイフをくわえたり、血にまみれた短剣や真黒な旗を振りまわしたりすることはめつたにありませんもの。でもそれだけではあの人の変りようが説明できませんわ。あの人はほんとに固苦しくなりました......鈍くて無口になりました......歩きまわつている死人でした。あの人はいつもわたくしを避けるんです。でもそんなことはどうでもいいんです。わたくしは、きつとわたくしに関係のない何か大きな悲しみがあつて、それで参つてしまつたのだろうと思つていました。ところがいまになると――ええもしハロルドの話がほんとうだとすれば、その悲しみはまるで気違いになるか悪魔に取りつかれるかしたようなものだつたのですわ」\n「するとハロルドの話というのはどんな話ですか?」と坊さんはきいた。\n「あんまり恐ろしい話で、わたくしの口からは申しあげられないくらいです。ハロルドは、あの晩ロジャーが父のうしろから忍びよつて、ためらいながら、やがて剣を引き抜いたのを見たと、誓言しているんです......それにあのお医者さまの話では、父は刃物で刺されたのだそうです......。わたくしはロジャー・ルークがそんなことに関係したとはどうしても信じられません。あの人の偏屈と父のかんしやくから時には口論になつたことがあります。でも口論なんて何でもないことじやありませんか? わたくしはかならずしも昔からのお友達の弁護をしているわけじやないのです。だつてあの人は友達らしくさえしてくれないんですもの。でも昔の知り人だというだけでも、或る程度確信せずにはいられないことがあります。それなのにハロルドの誓言ではあの人が......」\n「ハロルドはずいぶん誓言することがあるようですな」とブラウン神父は言つた。\n ふいに沈黙がひろがつた。しばらくして彼女は別人のような口調で言つた――\n「ええ、ハロルドはほかにもいろいろ誓言していることがあります。ハロルド・ハーカーはたつたいまわたくしに求婚したんです」\n「おめでとうはあなたに言つたらいいのか、それともむしろハーカーさんに言つたほうがいいのかな?」とブラウンは尋ねた。\n「わたくしは待たなければいけないと言つたんです。ハロルドは待つのは不得手です」彼女はまたフッと彼女には不似合いなこつけい感におそわれていた――「ハロルドは、あなたこそぼくの理想で、ぼくの生涯の望みだというようなことを言いました。あの人はアメリカに住んでいたことがあるんです......でもどういうわけかわたくしは、あの人がドルの話をしているときにそれを思い出さないで、理想について話してくれているときに、やつとそれを思い出しました」\n「では、どうやらあなたがロジャーについての真相を知りたいと言われるのは、ハロルドの問題で決心しなければならないからでしような」ブラウンはごくやさしく言つた。\n 彼女は体を固くして顔をしかめたが、やがて同じようにだしぬけにニッコリして、言つた――「まあ、あなたは何でもよくご存じですわ」\n「わしは何もわかつてやしません......特にそういうことはな」と坊さんは厳粛に言つた。「わしにわかつているのは、だれがあなたのお父さまを殺したかということだけです」彼女はハッとして、立ちあがると、サッと血の気のなくなつた顔で相手を見つめた。ブラウン神父は顔をしかめて、話を進めた――「わしは、初めてそれに気がついたとき、バカなまねをしました......ちようどみんなが、どこで死体が発見されたかときいてから、緑色の浮きかすや緑人亭について話していたときでした」\n それからブラウンも立ちあがつた。改めて決心したように例のぶかつこうなこうもり傘をつかむと、改めて厳粛に令嬢に話しかけた。\n「そのほかにもわかつていることがあつて、それはまだ申しあげますまい。たぶん悪いニュースですぞ......したがあなたが想像なすつてるような悪いことではありません」ブラウンは外套のボタンをすつかりかけてから、門のほうへ向いた。\n「わしはあなたのそのルークさんに会いに行くつもりです。ハーカーさんがあの人の歩いているのを見たという場所の近くにある、海岸の小屋の中です。どうもそこにあの人がいそうな気がします」そう言うとブラウンは急いで浜のほうへ行つてしまつた。\n オリーブは空想に富んでいた......おそらくあまり空想に富んでいるので、ブラウンが投げかけたような暗示を考えこませておくのは安全ではなかつたろう。しかしブラウンは、むしろ彼女の物思いを一番ホッとさせる助けを見つけ出そうとして、急いだのであつた。ブラウン神父が最初にフッと気がついてギョッとしたことと、あの池や居酒屋について言つた気まぐれな言葉とのあいだの神秘的なつながりが、彼女の空想を悩まして、何かを象徴する無数の醜悪な形になつて現われた。緑色の人が、いやらしい雑草を踏み分けながら月下の田舎道を歩いている幽霊になつた......緑人亭の看板が、絞首台からぶらさがつているような、宙釣りの人間の姿になつた......そして池そのものが居酒屋になつた――死んだ船乗りのための暗い水底の居酒屋であつた。それでもブラウンはそういう夢魔をくつがえすために一番早い方法を取つたので、やがて夜以上に神秘的な感じがする目のくらむような昼の光をあびせかけるつもりであつた。\n というのは日が沈まないうちに、或る物が彼女の生活に帰つてきて、全世界をもう一度あべこべにひつくりかえしたからである......その或る物を自分がこれほど望んでいるとは、ふいにそれが許された今日になるまで、彼女はほとんど気がつかずにいたのであつた......その或る物は、夢と同じに、古くからのなじみ深いものであるが、それでいていまだに理解できないで信じられなかつた物であつた。それはロジャー・ルークが砂浜を大またに横切つてきたからであつた......そしてまだ遠くに黒い点のような姿を見せたときから、彼女は彼のようすが変つているのにすぐ気がついた。そしてだんだん近づいてくるにつれて、彼女はルークの浅黒い顔が喜びにあふれた笑いでいきいきしているのを見た。ルークは、まるで二人が一度も別れたことがなかつたように、まつすぐ彼女のほうにやつてくると、彼女の肩をつかんで言つた――「サア、これからぼくがきみのめんどうをみられるんだ......神さまのおかげだ」\n 彼女は何と返事したかわからないくらいであつた。しかし気がついてみるといつのまにか、なぜあなたはそんなに人が変つたように幸福そうなのと、かなり激しく尋ねていた。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続と披露している。\n ▼明治六年(五十七歳)望月\n ▼同 七年(五十八歳)正尊、景清\n ▼同十一年(六十二歳)卒都婆小町\n ▼同十三年(六十四歳)石橋(前記)\n ▼同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家\n この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚を嘗めた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。\n 明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後滔天の勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。\n 人々は吾国固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈とラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。\n こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達していたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押の槍、長刀以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。\n 事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀の鍔と一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。\n 能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思い半に過ぐるものがある。\n\n 専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事に疎かった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを守り遂げる事が出来ないで、馴れない商売で損亡を招く者が多く、又蓄える事を知らなかった人々は、急転直下して極端な貧窮状態に陥る外なかったのである。\n その頃の事を目の当り見聞した人も漸く少くなったが、その窮状を語る話は数々あった。何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇を貼るとか楊枝を削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、已むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。\n\n という実に今から考えても夢のような惨澹たる時代であった。\n こうした傾向の中心たる東京の真只中で窮乏に安んじながら能楽を捨てなかった翁の恩師能静氏の如きは実に鶏群中の一鶴と称すべきであったろう。\n もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格を稟け継いだ事は云う迄もない。\n 翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。\n 七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)\n\n さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ......これはこれは......御念の入りまして......」\n と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。\n そればかりでない。\n 翁は市内櫛田神社(素戔男尊、奇稲田姫を祭る)、光雲神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤したものであった。\n これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々として一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労......」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔色ばかり心配していたものであった。\n\n かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流......主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来上懸の発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々として翁一流の下懸式呂張を根柢とした豪壮一本調子な喜多流擬いの節調を学び初め、観世流の美点を没却した憾があった。"
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"role": "assistant",
"content": " かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、\n「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流の節を謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」\n と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。\n 日本の辺鄙福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守し、敬神敦厚の美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、茲に於て首肯されるであろう。\n 同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力を竭し、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々たる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。\n 明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。\n 当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽んで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。\n ところで、その能静氏の追善能に就いては只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。\n ところが出仕してみると華族池田茂政、前田利鬯、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」という懇な御言葉であった。\n その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。\n しかしこの時の翁の立場から見ると、徒らな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。\n「重々難有御言葉。何分老年と申し覚束なき事に存候。しかし御方様よりの仰せに付、畏まり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀御請申上候」\n と翁の手記に在る。\n 同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。\n その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、嵩にかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、却って得るところが些ないのを怨んだという佳話が残っているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさが偲ばれるようである。因にこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。\n 尚この時に翁は能楽装束附の大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束附方を伝習した。尤も斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。\n その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。\n「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、傲った意地の悪いところが些しもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」\n なお六平太氏は只圓翁について語る。\n「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙に装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカを括って引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」\n「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」\n「面白いのは梅干の種子を大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んで袂に入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子なので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」\n 云々......と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。\n かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞いに伺ったところ、御垢付の御召物を頂戴したという。\n 因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由で聊か無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。\n\n 明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。\n その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗に謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。\n\n 明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器、斗掻、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": " 佐渡守は、これを見ると、また顔をしかめながら、面倒臭そうに、横を向いた。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n「主」の意に従えば、「家」が危い。「家」を立てようとすれば、「主」の意に悖る事になる。嘗は、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから、彼は、容易く、「家」のために「主」を犠牲にした。\n しかし、自分には、それが出来ない。自分は、「家」の利害だけを計るには、余りに「主」に親しみすぎている。「家」のために、ただ、「家」と云う名のために、どうして、現在の「主」を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、破魔弓こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解きをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。......\n そうかと云って、「主」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自身にも凶事が起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯一の、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。\n 遠くで稲妻のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 修理は、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とり上せる気色もない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か安堵して、その日はそのまま、下って来た。\n それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口を利かない。いや、ただ一度、小雨のふる日に、時鳥の啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを潮に、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖のように口をつぐんで、じっと襖障子を見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。\n 所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。\n「先達、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚束ないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」\n 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――\n「御尤もでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも......」\n「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」\n 修理、こう云って、苦々しげに、微笑した。\n「さようでもございますまい。」\n 宇左衛門は、傷しそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容子もない。\n「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城させてはくれまいか。」\n 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。\n「それも、たった一度じゃ。」\n「恐れながら、その儀ばかりは。」\n「いかぬか。」\n 二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。\n「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」\n ほどを経て、修理が云った。\n「登城を許せば、その方が、一門衆の不興をうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家来にも見離された乱心者じゃ。」\n そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。\n「世の嘲りはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更なつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」\n 彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、額を畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。\n「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体のうございます。」\n 彼は、修理の手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中に、佐渡守の前で云い切った語を、再びありありと思い浮べた。\n「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門皺腹を仕れば、すむ事でございまする。私一人の粗忽にして、きっと御登城おさせ申しましょう。」\n これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の外れた笑い声を洩らした。\n「おお、許してくれるか。忝い。忝いぞよ。」\n そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。\n「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」\n 人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝を進めて、行燈の火影に恐る恐る、修理の眼の中を窺った。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 三 刃傷\n\n 延享四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理は、殿中で、何の恩怨もない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教を殺害した。その顛末は、こうである。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。元姫君と云われた宗教の内室さえ、武芸の道には明かった。まして宗教の嗜みに、疎な所などのあるべき筈はない。それが、「三斎の末なればこそ細川は、二歳に斬られ、五歳ごとなる。」と諷われるような死を遂げたのは、完く時の運であろう。\n そう云えば、細川家には、この凶変の起る前兆が、後になって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川伊佐羅子の上屋敷が、火事で焼けた。これは、邸内に妙見大菩薩があって、その神前の水吹石と云う石が、火災のある毎に水を吹くので、未嘗、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、魚籃の愛染院から奉ったのを見ると、御武運長久御息災とある可き所に災の字が書いてない。これは、上野宿坊の院代へ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。\n そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才木茂右衛門と云う男が目付へ来て、「明十五日は、殿の御身に大変があるかも知れませぬ。昨夜天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。」と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信を措いていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず近習の者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す能狂言とか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云う廉で、出仕だけは止めにならなかったらしい。\n それが、翌日になると、また不吉な前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下に着換えてから、八幡大菩薩に、神酒を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓の手から神酒を入れた瓶子を二つ、三宝へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 翌日、越中守は登城すると、御坊主田代祐悦が供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木閑斎をつれて、湯呑み所際の厠へはいって、用を足した。さて、厠を出て、うすぐらい手水所で手を洗っていると突然後から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間へ閃いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、四の間の縁に仆れてしまうと、脇差をそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。\n ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽して、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷を知るものがない。それを、暫くしてから、漸く本間定五郎と云う小拾人が、御番所から下部屋へ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付へ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭久下善兵衛、御徒目付土田半右衛門、菰田仁右衛門、などが駈けつける。――殿中では忽ち、蜂の巣を破ったような騒動が出来した。\n それから、一同集って、手負いを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸く微な声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「上下を着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。創は「首構七寸程、左肩六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇また頭に疵二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋違に一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本阿波守は勿論、大目付河野豊前守も立ち合って、一まず手負いを、焚火の間へ舁ぎこんだ。そうしてそのまわりを小屏風で囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介抱した。中でも松平兵部少輔は、ここへ舁ぎこむ途中から、最も親切に劬ったので、わき眼にも、情誼の篤さが忍ばれたそうである。\n その間に、一方では老中若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大手先の大小名の家来は、驚破、殿中に椿事があったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海嘯のように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷の相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下を着た男」を見つける事が出来なかったからである。\n すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝井宗賀と云う御坊主のために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚火の間の近くの厠の中を見ると、鬢の毛をかき乱した男が一人、影のように蹲っている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙嚢から鋏を出して、そのかき乱した鬢の毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗賀は、側へよって声をかけた。\n「どなたでござる。」\n「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」\n 男は、しわがれた声で、こう答えた。\n もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男を厠の中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。\n 御徒目付はまた、それを蘇鉄の間へつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃傷の仔細を問い質した。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶々口を開けば、ただ時鳥の事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発狂していたのである。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大御所吉宗の内意を受けて、手負いと披露したまま駕籠で中の口から、平川口へ出て引きとらせた。公に死去の届が出たのは、二十一日の事である。\n 修理は、越中守が引きとった後で、すぐに水野監物に預けられた。これも中の口から、平川口へ、青網をかけた駕籠で出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷子を着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警固した。――この行列は、監物の日頃不意に備える手配が、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。\n それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上使に立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守手疵養生不相叶致死去候に付、水野監物宅にて切腹被申付者也」と云うのである。\n 修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気色もない。そこで、介錯に立った水野の家来吉田弥三左衛門が、止むを得ず後からその首をうち落した。うち落したと云っても、喉の皮一重はのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬骨の高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。\n 検使は、これを見ると、血のにおいを嗅ぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは「修理病気に付、禁足申付候様にと屹度、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる凶事出来、七千石断絶に及び候段、言語道断の不届者」という罪状である。\n 板倉周防守、同式部、同佐渡守、酒井左衛門尉、松平右近将監等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木閑斎は、扶持を召上げられた上、追放になった。\n\n ―――――――――――――――――――――――――\n\n 修理の刃傷は、恐らく過失であろう。細川家の九曜の星と、板倉家の九曜の巴と衣類の紋所が似ているために、修理は、佐渡守を刺そうとして、誤って越中守を害したのである。以前、毛利主水正を、水野隼人正が斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手水所のような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " しかしながらアダム・スミスは、地主に帰する比例は生産費の減少によって増加し、従って地主の得る所は貧弱な生産物の場合よりも豊富な生産物の場合の方が、分量もより大であり割合もより大であろう、と主張している。彼は曰く、『米田は最も肥沃な麦畑よりも遥かにより多量の食物を生産する。毎年各々三十ブッシェルないし六十ブッシェルの二毛作が、一エーカアの通常の生産物であると云われている。従ってその耕作はより多くの労働を必要とするけれども、遥かにより多くの剰余がそのすべての労働を維持した後に残る。従って人々の普通のかつ愛好の植物性食物でありかつ耕作者達が主としてそれをもって維持されている所の米の産国においては、麦産国におけるよりも、このより大なる剰余のより大なる分前が地主に帰属するはずである。』\n ビウキャナン氏も述べている、『麦よりも豊富に産出する何らかの他の生産物が人民の一般の食物となるとすれば、それが豊富になるに比例して地主の地代が増加すべきことは全く明かである。』\n もし馬鈴薯が人民の一般の食物となるとすれば、地主は長い間地代の減少によって悩むであろう。彼らはおそらく現在受領しているだけの人間の生活資料を受領しないであろうが、他方その生活資料はその現在価値の三分の一に下落するであろう。しかし地主の地代の一部分がそれに費されるすべての製造貨物は、その原料たる粗生原料品の下落と、その時にその生産に当てらるべき土地の肥沃度の増加のみとから起る所の下落以外の下落を蒙らないであろう。\n 人口の増加よりして以前と同一の質の土地が耕作されるに至る時は、地主は啻に以前と同一比例の生産物を取得するばかりでなく更にそれはまた以前と同一の価値を有つであろう。かくて地代は以前と同一であろうが、しかしながら利潤は、食物の価格従ってまた労賃が大いに下落するであろうから、大いに騰貴するであろう。高い利潤は資本の蓄積に有利である。労働に対する需要は更に増加し、そして地主は土地に対する需要の増加によって永久的に利得するであろう。\n もちろん同一の諸々の土地からかくも豊富な食物が生産され得る時には、それは極めてより高度に耕作され、従ってそれは社会の進歩につれて、以前よりも遥かにより高い地代を生じかつ遥かにより多くの人口を支持するであろう。このことは地主に対し必ず大いに有利であり、かつ本書が必ず樹立せんとする所の、すべての法外な利潤はその性質上短期間でしかないが、それはけだし、土壌の全剰余生産物は、蓄積を奨励するに足るほどの過度の利潤をさえ控除した後は、終局的に地主に帰さなければならぬから、という原理と一致するものである。\n かくも豊富な生産物が惹起す如きかかる低廉な労働の価格と共に、啻に既に耕作されている土地が遥かにより多量の生産物を産出するのみならず、それは、大なる附加的資本をしてそこに使用し得しめ、またより大なる価値をしてそれから引去られ得しめ、そして同時に、極めて劣等な土地が高い利潤をもって耕作され得、その結果として地主並びに消費者の全階級は大いに利得を受けるのである。最も重要な消費物を生産する機械たる土地は改良され、そしてその仕事が需要されるにつれて良い報酬を受けるであろう。すべての利益は、最初の間は、労働者、資本家、及び消費者がこれを享受するが、しかし人口の増加につれて、それは次第に土地所有者に移転されるであろう。\n(一一七)社会が直接の利害関係を有ち地主が間接の利益関係を有っている所のかかる改良を別にすれば、地主の利益は常に消費者及び製造業者のそれと対立している。穀物は、単にそれを生産するに附加的労働が必要であるというだけの理由で、すなわちその生産費が増加したという理由で、永続的により高い価格にあり得る。同一の原因は常に地代を引上げる、従って穀物の生産に伴う費用の増加するのは地主の利益となる。しかしながら、これは消費者の利益ではない。彼にとっては、穀物が貨幣及び諸貨物に相対して低廉なことが望ましいが、それは穀物が購買されるのは常に諸貨物または貨幣であるからである。穀物価格が高いことは製造業者の利益でもないが、それはけだし、穀物の高い価格は高い労賃を惹起すが、しかし彼れの貨物の価格を高めはしないからである。かくて啻に彼れの貨物のより多くが、または同じことになるが、彼れの貨物のより多くの価値が、彼自身消費する穀物と引換に与えられなければならぬのみならず、更にまたより多くのものがまたはより多くのものの価値が、彼れの労働者に労賃として与えられなければならぬが、それに対しては彼は何らの補償をも得ないのである。従って地主を除くすべての階級は穀価の騰貴によって損害を蒙るであろう。地主と一般公衆との間の取引は、売手も買手も同様に利得すると言い得られる商売上の取引とは異り、損失は全然一方にまた利得は全然他方に帰するのである。そしてもし穀物が輸入によってより低廉に取得され得るならば、輸入しないために起る損失は、一方にとって、他方にとっての利得よりも遥かにより大である。\n アダム・スミスは、貨幣価値の低いことと穀物の価値の高いこととの間に何らの区別もなさず、従って地主の利益は社会の他のものの利益と反するものではない、と推論している。第一の場合においては、貨幣がすべての貨物に比して低く、他の場合においては、穀物が諸貨物並びに貨幣に比してより高いのである。\n アダム・スミスの次の記述は、低い貨幣価値には適用し得るが、しかしそれは高い穀物価値には全然適用し得ないものである。『もし(穀物の)輸入が常に自由であるならば、我国の農業者及び全紳士はおそらく、年々、輸入が大抵の時に事実上禁止されている現在において彼らが得るよりもより少い貨幣を、その穀物に比して得るであろうが、しかし彼らが得る貨幣はより多くの価値を有ち、すべての他の種類の財貨のより多くを購買し、そしてより多くの労働を雇傭するであろう。従って、彼らの真実の富、彼らの真実の収入は、たとえより少量の銀によって現わされるであろうとはいえ、現在におけると同一であろう。そして彼らは、現在耕作しているだけの穀物を耕作する能力を失わせられることも、これを阻害されることも、ないであろう。これに反し、穀物の貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、すべての他の貨物の貨幣価格はやや下落せしめるから、それは、このことが起った国の産業に、すべての外国市場におけるある利益を与え、ひいてはその産業を奨励しかつ増加せしめる傾向がある。しかし穀物に対する内国市場の範囲は、それが栽培される国の一般産業または穀物と引換えに与えるために他の何物かを生産する人々の数に比例しなければならない。しかしあらゆる国において、内国市場は、穀物に対する最も手近なかつ最も便利な市場であると共に、また同様の穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場である。従って穀物の平均貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場を拡張し、ひいてはその栽培を阻害することなくこれを奨励する傾向を有つものである。』\n 金及び銀の豊富と低廉とより生ずる穀価の騰落は、地主にとっては何でもないことであるが、それはけだしまさにアダム・スミスの述べている如くに、あらゆる種類の生産物が平等にその影響を蒙るからである。しかし穀物の相対価格の騰貴は常に地主に極めて有利である。けだし第一に、それは彼にその地代としてより多量の穀物を与え、そして第二に、穀物の各等量について、彼はより多量の貨幣に対してのみならず貨幣が購買し得るあらゆる貨物のより多量に対しても支配権を有つからである。\n\n\n 第二十五章 植民地貿易について"
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"role": "assistant",
"content": "\n(一一八)アダム・スミスは、その植民地貿易に関する考察において、最も十分に、自由貿易の利益、及び植民地が母国によりその生産物を最も高価な市場で売り、その製造品及び必要品を最も低廉な市場で買うことを妨げられるに当り蒙る不公正を説明した。彼は、あらゆる国をしてその産業の生産物をその好む時と所とにおいて自由に交換せしめることによって、世界の労働の最良の分配が齎され、かつ人類生活の必要品及び享楽品の最大量が確保されることを説明した。\n 彼はまた、疑いもなく全体の利益を促進するこの通商の自由はまた各特定国のそれをも促進するものであり、またヨオロッパ諸国がその各々の植民地について採用した狭隘な政策は、その利益が犠牲にされる植民地と同様に母国自身にとっても有害であることを説明せんと企てた。\n 彼は曰く、『植民地貿易の独占は、重商主義のすべての他の下賤なかつ悪性な方策と同様に、すべての他国の産業を抑圧するが、しかし主として植民地の産業を抑圧するものであり、それがその利益のために設けられた国の産業を少しも増加せしめず、かえってこれを減少せしめるのである。』\n しかしながら彼れの主題のこの部分は、彼が植民地に対するこの制度の不公正を説明している場合の如くに明瞭にかつ確然と取扱われていないのである。\n(一一九)母国は時にその領有植民地に加える制限によって利得しないかどうかを、思うに、疑い得よう。例えばもし英国がフランスの植民地であるならば、フランスが織物や毛織布やまたはその他の貨物の輸出に対して英国の支払う重い奨励金によって利得することを誰が疑い得よう? 奨励金の問題を検討するに当って、穀物が我国において一クヲタアにつき四磅であると仮定して、吾々は、英国で一クヲタアにつき一〇シリングの奨励金が輸出に与えられるならば、穀物はフランスでは三磅一〇シリングに下落すべきことを知った。さてもし穀物がフランスで以前に一クヲタアにつき三磅一五シリングであったならば、フランスの消費者はすべての輸入穀物に対し一クヲタアにつき五シリングだけ利得したであろう。もしフランスにおける穀物の自然価格が以前に四磅であったならば、彼らは一クヲタアにつき一〇シリングという奨励金の全額を利得したであろう。フランスはかくの如く英国の蒙る損失だけ利得するであろう。すなわちフランスは英国が失ったものの単に一部分を利得するに過ぎぬのではなく、その全部を利得するのである。\n しかしながら輸出奨励金は内国政策の一方策であって、母国によっては容易には課せられ得るものではないと言われるかもしれない。\n もしジャメイカ及びオランダが各々生産する貨物を、英国の仲介なしに交換するのが、両国の利益に適合するならば、オランダとジャメイカの両国がこの交換を妨げられるために両国の利益が害されるべきことは全く確実ではある。しかしジャメイカがその財貨を英国に送り、そしてそこでそれをオランダの財貨と交換せざるを得ないならば、英国の資本または英国代理店が、しからざればそれが従事しなかった職業に用いられるであろう。それは、英国ではなくオランダ及びジャメイカによって支払われた奨励金によって、そこに誘致されるのである。\n 二国における労働の不利益な分配によって受ける損失は、その一方にとっては有利であるかもしれぬが、しかし他方は実際かかる分配によって起る損失以上のものを蒙る、ということは、アダム・スミス自身によって述べられている。そしてこのことは、もしそれが真実であるならば、植民地にとっては大いに有害な一方策は、母国にとっては部分的に有利であるかもしれぬことを、直ちに証明するであろう。\n 彼は通商条約を論じて曰く、『ある国民が条約によって自らを束縛し、ある外国からの一定の諸財貨の輸入を、他のすべての外国からの輸入は禁止しながら、許可し、またはある国の財貨を、他のすべての国の財貨には関税を課しながらこれを免除する時には、その通商がかくの如き特恵を受けている国または少くともその国の商人及び製造業者は、必然的に条約から大きな便益を得るに相違ない。かかる商人及び製造業者は、彼らに対してかくも寛大なこの国においては一種の独占を享受する。その国は、彼らの財貨に対するより広大なかつより有利な市場となる。より広大なというのは、、他の諸国民の財貨が排斥されまたはより重い関税を賦課されていて、彼らからより多量を購買するからであり、より有利なというのは、特恵国の商人はそこで一種の独占を享受していて、しばしばその財貨を、すべての他の国の自由競争に曝される場合よりもより高い価格で販売するからである。』\n 通商条約を締結している二国が母国とその植民地とであるとしよう、そして、アダム・スミスは明かに、母国はその植民地を圧迫することによって利益を享け得よう、としているのである。しかしながら、外国市場の独占が排他的一会社の手中にない限り、内国の購買者が貨物に支払う以上のものを外国の購買者が支払うことはなく、かかる双方の購買者が支払う価格は、それらの貨物が生産される国でのその自然価格と大して異ならないであろう、と云われるかもしれない。例えば英国は、通常の事情の下においては常に、フランスの財貨をフランスにおけるそれらの財貨の自然価格で買うことが出来、またフランスは英国の財貨を英国におけるその自然価格で買うという等しい特権を有っているであろう。しかしこれらの価格でならば条約がなくとも財貨は買われるであろう。しからば両当事国にとっていかなる利益または不利益を条約は有つのであるか?\n 輸入国にとってのこの条約の不利益はこうであろう。すなわちそれはその国をして、一貨物を、例えば英国からこの国がおそらくそれをある他の国の遥かにより低い自然価格で購買し得る時に、英国におけるその貨物の自然価格で購買せしめるであろう。かくてそれは一般資本の分配を不利益ならしめ、それは主として、条約により最も不生産的な市場で購買せざるを得ない国の負担する所となる。しかしそれは売手にある想像上の独占の故をもって何らの利益を与えるものではない。けだし彼は、自国人の競争によってその財貨をその自然価格以上に売るのを妨げられるからであるが、彼はそれを、彼がそれをフランス、スペイン、または西印度へ輸出しようとまたは国内消費のためにそれを売ろうと、この自然価格で販売するであろう。\n しからば条約中の約定の利益はいかなるものであるか? それはこうである。すなわちかかる特定の財貨は、もし英国のみがこの特定の市場に供給するという特権を有つということがなかったならば、そこで輸出のために作られ得なかったであろうが、けだし自然価格のより低い国の競争が、それらの貨物を売却するすべての機会をこの国から奪っていたから、ということである。\n(一二〇)しかしながら、もし英国がその製造する何らかの他の財貨を、フランスの市場において、またはそれと等しい利益をもって何らかの他の市場において、同一額だけ確実に売却し得るならば、このことはほとんど大したことではなかったであろう。英国の目的は、例えば、五、〇〇〇磅の価値を有つある分量のフランスの葡萄酒を買うことである、――しからばこの国は、この目的のために五、〇〇〇磅を得んとしてどこかへその財貨を輸出するであろう。しかしもし貿易が自由であるならば、他国の競争のために、英国における毛織布の自然価格が英国に、毛織布の売却によって五、〇〇〇磅を取得せしめ、またかかる資本用途によって通常利潤を取得せしめ得るに足るほど低くあることが妨げられるであろう。かくて英国の勤労は何らかの他の貨物に用いられねばならない。しかし現在の貨幣価値において、それが他国の自然価格で売却し得る生産物は無いかもしれない。その結果はどうであろうか? 英国の葡萄酒飲用者はその葡萄酒に対して依然五、〇〇〇磅を喜んで与える、従って五、〇〇〇磅の貨幣がその目的のためにフランスへ輸出される。この貨幣の輸出によって、英国においてその価値は騰貴し、他国においては下落する。そしてそれと共に英国産業によって生産されるすべての貨物の自然価格もまた下落する。貨幣価値の騰貴は貨物の価格の下落と同じことである。五、〇〇〇磅を取得するために英国貨物が今や輸出されるであろう。けだしその下落せる自然価格でそれは今や他国の財貨と競争し得るからである。しかしながら、必要とされる五、〇〇〇磅を取得するためにより多くの財貨が低い価格で売られ、そしてこの額はそれが得られた時には、同一量の葡萄酒を取得しないであろう。けだし英国における貨幣の減少がその国における財貨の自然価格を下落せしめたのに、フランスにおける貨幣の増加はフランスにおける財貨及び葡萄酒の自然価格を騰貴せしめたが故である。かくて貿易が完全に自由である時には、英国が通商条約によって特恵を得ている時よりも、英国貨物と交換に、より少量の葡萄酒が輸入されるからである。しかしながら、利潤の率は変動していないであろう。貨幣はこの二国において相対価値において変動しており、そしてフランスの得る利益は、一定量のフランス財貨と交換に、より多量の英国財貨を得ることであるが、他方英国の蒙る損失は、一定分量の英国の財貨と交換により少量のフランス財貨を得ることにあるであろう。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " そうした中に、菊王の姿も揉まれていた。俊基はうれしかった。\n だが。――彼に托してある楠木への密書に考え及ぶと、その彼が、もうこんな巷に出ていることすら不安になった。......で、わざとその菊王へは、眼にものいわせて、きッと怖い顔してみせた。\n すると、菊王は、振っていた手をひっこめて、急にくるっと、人ごみを分けて、蹴上の中腹にある大きな榛の木の方へ駈けて行った。\n 見ると、榛の木蔭には、一茎の秋草みたいに、被衣した一人の女房がたたずんでいた。じっと、こなたを見まもっている姿から、声なき声が、俊基の胸をついて来た。\n「あっ、小右京よ。......小右京」\n つい、不覚な涙に胸もみだれかけたが、しかし彼は、ゆうべ見た人妻の波路をべつな心で思い出していた。\n 究極に立った女の愛と、男の愛との、折合いのつかない食い違いが、小右京と自分の間にもなくはないと、考えられた。何かむごたらしい両性の差が、自分らの上にもまざと在るのを知った。\n\n悲歌\n\n 押送の同勢は、やがて東海道の泊りを、かさねていた。\n 木曾川で数日川止めに遭ったほか、概して道中の日和はよかった。ただし護送輿の足なみ。いやでも道は捗どらない。\n 特に、峠などの山坂にかかれば、そのたびに、\n「お乗り換えを」\n と、うながされ、資朝と俊基は、輿の上から、裸馬の背へ移された。\n 初め、武者どもは心ひそかに「――鎌倉殿を仆さんなどと、夢では、大それた野望をいだく公卿も、馬にはよう乗れまい」と見ていたが、俊基も資朝も、上手であった。いっこう乗馬も恐れない。\n かえって、倦み疲れた輿から解放されたような容子で、その日も、馬の背の俊基は、峠の途中で、\n「ここは、どこ」\n と、訊ねたりした。\n「宇津ノ山でおざる」\n 護送の兵は、むッそりいう。\n 俊基は、眉に迫る晩秋の富士を仰いで、\n「はや、駿河路か」\n と、咳いた。そしてとつぜん、伊勢物語の業平の歌を、朗々と吟じ出した。\n\n駿河なる\n宇津ノ山べの\nうつつにも\n夢にも\n人に会はぬなりけり\n\n すると、それに応じて、前を行く裸馬の背からも、日野資朝が同じように、晴々と、こう歌った。\n\n明日やまた\nきのふの声に驚かん\n今日はうつつの\n宇津ノ山越え\n\n 満目の散り紅葉は、若い公卿志士の悲調をそそッたものであろう。しかし、その二人が、虜囚の身も忘れて愉しげに見えるなどは、護送使には我慢がならない。\n「ち。うるさいな」\n 工藤右衛門次郎のそばから、すぐ一名の武者が、馳せ戻って、裸馬の二人へ呶鳴った。\n「両所っ。話を交わしてはならん。黙って行かれい」\n 俊基が、笑って答えた。\n「話はせぬ。これは古歌だ。これだけいる鎌倉武士、伊勢物語の歌の一つぐらい、知る者はいないのか」\n ――ほどなく、峠も越えると、安倍川の西だった。手越ヶ原の官道に添って、両側の並木を綴る賑やかな一駅は手越ノ宿。晩の泊りはそこときまった。\n 公役の宿所には、それが大勢のばあいほど、土地の小寺院や長者屋敷などが、まま利用されていた。\n その夜も、二人の身柄は、宿場うちの無量光院へ泊められたが、しかし、室は例の如く隔離された。資朝、俊基、どっちからも、一方はどこにいるやら察しもつかない。\n 晩の宿駅では、絃歌がわいていた。手越ノ遊女といえば、古くから海道一の聞えがある。ここを通って、名もなさず過ぎるのは、武士の名折れぞ、と婆娑羅者はいうのである。そのせいでか、宵すぎると、無量光院に詰めていた警固の武士も、いつのまにやら宿場の灯を目あてに、こそこそとみな忍び出して行った風である。\n「......俊基さま。蔵人さま」\n どこかで、誰かが呼ぶ。\n 俊基は、何度も耳を疑った。そしてついに室の障子を開け、そっと廻廊の闇へ首を出してみた。どうも、声は床下らしい。\n つい先刻まで、廻廊の角に頑張っていた警固の者も、宿場の灯にそそられて行ったか、いつのまにやら影も見えない。\n と、見さだめて、\n「たれだ、床下に潜む者は」\n 俊基は、廊の欄の際まで身を辷り出して行った。そしてその上半身を、欄に屈ませると、\n「おっ。蔵人さま」\n まぎれなく地には人影があった。べたと土に這い伏したまま、上の人をじっと見上げている。\n 膏薬売りか針売りか、とにかく、そんな風態の旅商人――。\n 俊基は、警戒した。うかとは口も開けない気がして、なお、しげしげとその顔を見まもっていたが、\n「や、そちは」\n 仰天せざるを得なかった。\n すると、下の影は、そのまま地底へでも消え入りたそうな姿をした。そのうえさらに、その頭巾額を、地にすりつけて。\n「船木頼春にござりまする。......生きて、おん前に出るなど、死以上の苦痛にござりますが、妻の嫉妬から、思わぬ大変事を惹き起し、兄左近のみか、御一味の方々にまで」\n「あ。待て」\n 俊基は彼の声を抑えて、要心ぶかい眼をくばった。\n 彼は、それでもなお、気がすまぬらしく、廻廊の角まで立ち、裏手を見た上、戻って来た。\n「ひそと申せ。どこにも人は見えぬが、夜気のしじま......」\n「お気づかいなされますな。夜番の武士もこよいは諸所で、飲み呆うけておりますれば」\n「して、そちは何のため、これへ来たか」\n「妻の科は私の科、今生にて、一度はお詫び申さねばと、都から見え隠れにおあとを慕い、やっと、こよい本意を遂げたような次第。何とぞ......この上はただ、ゆるすとの、御一言を......。それさえ伺えば、いつ死んでも惜しからぬ頼春の身にござりますれば」\n「うウむ。では本心、裏切ったわけではないのか」\n「妻の波路に、ふと、事を打明けたは、一生の不覚でしたが、頼春も武士の端くれ」\n「ならば、死ぬな。事もはや、今日の仕儀と相なっては、追ッかけにそちが死んで見せたところで何になろうぞ。大事はまだ、ここで終ったわけでない」\n「とは申せ。兄左近や一味の多くを討死させたのみか、上の御宸念をも煩わせ奉った身が、どの面さげて」\n「さまで、悔やむなれば、なおさらのことだ。その慚愧を、この後の国事へ尽すがいい」\n「と仰せられる意味は」\n「たとえば、時を待って、河内の楠木多聞兵衛正成をたずねて行け。かならず、そちによい死に場所を与えてくれよう」\n「はっ。おことばを証として、きっと、楠木殿を訪うことにいたしまする」\n「が、さし当って、べつに一つの頼みもある。......頼春」\n 肌着の深くから、小さく結んだ文を取出して、彼はかさねて、下の顔へ、こう咡いた。\n「――じつは、かねて意中をしたためおいたこの一書を、折あらば、資朝卿の御手へ渡さんものと、道中、隙を窺うていたが、さて警固の眼の隙もない。卿には、こよいはどこにお眠りか、そちならば近づき得よう。そっと、忍び寄って、これをお手渡ししてくれまいか」"
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"role": "assistant",
"content": " おそらく、当夜の手越ノ宿では、護送使一行のあらましが、女を買いに出たり、宿所へ酒を持ち込んでいたのであろう。なにしろ晩くまで、寝つかない戯れ声や鼻唄が寺内にも聞えていた。\n ――それも、ばたとやんで、山門の屯も、庫裡、廻廊の辺も、寝ぎたない兵の鼾になった四更(夜明け前)の頃だった。\n 俊基は、ふと眼ざめた。\n 背中の下で、啄木の啄むような小さい物音を知り、\n「さては、頼春か」\n すぐ起きて、廊の欄へ、顔を見せた。と、その顔の前へ、下から黙って人の片手が伸びてきた。\n 手は一通の書を示している。\n すばやく、受けとって。\n「資朝卿の御返書か」\n たずねたが、手を引くやいな、下の頼春は、別れの辞儀を見せたのみで、何もいわず、土龍のように姿を消した。\n「......さてこそ」\n 廊の隅々には、打ち重なったまま、熟れ柿みたいな臭気を抱いて寝くたれている兵が見える。――俊基は足を忍ばせて、室へもどり、消えかけている燭の灯を掻き立てた。\n 資朝卿の筆に間違いない。\n その中で、資朝は、こう告げている。\n\n ――自分が思うところは、そのまま、貴公の思うところと、一致していた。\n 罪は一人がかぶればよい。\n 貴公は、我れ一人死の庭につかんと仰せあるが、自分の覚悟もすでに極っている。貴公は世に残り給え。\n なんとなれば。\n 貴公の英才や俊敏な活動力は、自分には真似もできないことだ。我れとて多少の自負もないではないが、一世の上に大機運を呼び起し、時乱の先駆に立ってゆくほどな素質には欠けている。\n かつは、貴公よりも、自分の方が上卿(上官)であり、年上でもある。鎌倉の司断も、おそらく張本人は、この資朝と見るだろう。もし貴公が、主謀者は我れなりと主張しても、それにより、資朝を不問に付すはずもない。\n さすれば、貴公の死は、むだになる。\n 大事は今がほんの端緒。一名の生命といえ、おろそかにはならぬ。みかどの御為、一新の世直しの為、貴公は生命を惜しまれたい。\n 罪は、資朝が一身にかぶる。\n 鎌倉の裁きに屈せず、貴公はあくまで言い抜けろ。友を売るなどという小義にこだわらず、助かって欲しい。そして再び貴公が都に帰って、帝座の周囲を鼓舞する日のあらんことを、神かけて祈る。\n ――もう二度とは、こんな好機にも恵まれまい。これを以て、資朝のこの世における遺言の筆を擱く。\n 君よ迷うな。\n 読後、御火中の事。\n\n 読み終ると、俊基はすぐそれを、灯にかざした。\n 油も尽きていたか。紙が燃えると、反対に燭は消えた。冥々たる真の闇が、辺りを塗りつぶす。\n しかし、枕についた顔は、闇に迷い漂う物みたいに、ぽっかりと眼をあいていた。\n「......資朝卿のお旨は、さながら、さきに自分が、妻の小右京や頼春に与えたことばと何の変りもない。今度はそれをわが身が受けることか。さても死にたくはないものかな......」\n あくる朝の安倍川渡りには、手越ノ遊女たちの一と群れが、河原まで送りに来ていた。\n もとより囚人輿には、後朝の惜しみなどあろうはずもない。――彼女らは心得て、朝霧の中に離れていた。とはいえ、腫れぼったい今朝の顔を見ればすぐ判る。――護送使の工藤、諏訪などの頭立った面々には、さすがテレ気味がおおいきれない。\n およそ海道宿々の遊女は、いよいよ殖えるばかりに見える。公私共に、男の体は、遊女から遊女の手へと、夜ごと引き継がれてゆくような旅だった。――ここから先にも、清見潟、黄瀬川、足柄、大磯小磯、そして鎌倉口の仮粧坂まで、ほとんど道の辺の花を見かけない宿場はない。\n だが、路傍の花も、道々の風光も、何の旅情でもありえなかった。日ならずして、護送の列は、鎌倉の府に入る。\n 少憩の後、\n「両名の身は、審問の相すむまで、侍所に預け置かる」\n と、沙汰される。\n ここでも、日野資朝と日野俊基とは、顔を合せる折もなかった。隔離は完全に行われ、監禁の場所も、極秘に付された。\n おそらく、資朝も俊基も、\n「裁きは、すぐにも」\n と予期していたろう。\n が、その審問はなかなか開かれそうもなかった。そしてこの直後、時局の側面的な変化が、朝廷と幕府の間に、見え初めていた。\n × ×\n × ×\n 資朝、俊基が関東の囚われとなった後も、中央における事変の余震は、一日たりと、熄んではいない。\n 六波羅の探索は、ますます露骨を極めていた。\n 何のかのと理由づけては、白昼、得物を持った鎧武者が、内裏にまで立ち入って来た。校書殿の大庭やら梨壺のあたりにすら、うさんな者が、まま見かけられたりするのだった。\n「いまいましさよ」\n 朝廷の自尊には、耐えがたい侮辱であった。\n 特に、天皇後醍醐は、お気も烈しい。\n まだ、法皇後宇多が御在世のうちは、その機鋒も、多分にひそめておいでだったが、この年六月、御父の法皇がみまかられた後は、いちばい“北条討伐”の密謀に積極的なお励みがみえていた。\n 常に何かの燃焼がなければ、あり余って、持て余すような健康と智と豪気とを併せておられるような御肉体だ。\n それが志を共にする公卿側近や、野に潜む宮方の輩をして、いよいよ、\n「時は近い」\n と、理由もなく気負わせつつあったことは否みえない。\n たとえば、近来の文談会なども、六波羅など眼中にもない振舞だったし、そこでの口吻は、みな天皇の御意志かの如く受けとられ、倒幕の大業も、宣旨一枚の料紙で足るような驕りに酔っていた風であった。\n が、ひとたび、武家の武断に出会ってみると、現実には全く手も足も出ない朝廷だったことを、いやでも思い知らされぬわけにゆかない。「いまいましさよ」との逆鱗もさることだった。\n しかも、この先まだ第二波、第三波と、どんな圧迫があるかと観ている公卿たちは、昼夜、みかどの御無念そうな眉を繞って、大内裏の広大な無力の森のうちで、今はただ恟々と、ただ事の打開策に集議ばかりしている有様だった。\n ようやく、何か打開の一案が見いだされたものであろうか。\n その集議は、やっと、\n「ともあれ、それに」\n と、やや落着いて、夕べをさかいに、ひとまず諸卿は中殿(清涼殿)の昼ノ御座から西の渡殿を、休息のため、退がって行った。\n やがて、お湯殿の上屋のあたりで、みかどのお声がしていた。「......廉子を呼べ」と、仰っしゃったようである。浴後の御髪やおん衣の奉仕に侍いていた女官のひとりが、\n「はい」\n と、后町の方へ、スリ足を早めて行った。\n 后町とは、女官たちのいわゆる御所ことばで、正しくは常寧殿、あるいは五節殿とよぶ。つまり中宮ノ御方や女御など、あまたな寵姫の起居している所で、五節ノ舞には、舞姫のためにもここの一殿が用いられる。\n「......お召しとや。すぐ罷ります」\n 三位ノ局、阿野廉子は、仰せと聞くと、いま夕化粧もすましたばかりなのに、もいちど櫛笥ノ間へ入って、鏡をとりあげ、入念に黛や臙脂をあらためてから立った。\n そして、庭と大屋根、水と欄とを、およそ幾棟か知れぬほど巧みに組みあわせた後宮建築の廊を、いかにも王妃の艶とは、この女性にきらめいている物かとばかり、御溝水のせせらぎと共に歩んで行くのだった。\n まことに、彼女のほこらしさにすれば、后町ノ廊を通うたびにも、常に独りで、こう思惟していたことでもあろうか。\n「......七殿の後宮のうちでも、召さるるはいつも、この身ばかり。わけて、関東へのお憤りに、公卿集議の日ごとのお疲れにも、わらわだけは、御心をお慰めするに足るものか。藤壺ノ御方も、桐壺ノ君とても、あれからは、お召しもないに」\n 彼女が中殿へ伺った頃は、みかどはすでに、御餉ノ間の御座について、陪膳のお相手を待ち久しげにしておられた。\n しめやかに、そこでしばしお二人だけの晩餐になる。\n それが終ると、席はまた清涼の昼の御座へ移された。――なおまだ、夜の御殿へお入りないのは、一たん休息に退がった公卿たちが、ふたたび御前にまかるはずだったからである。\n「......では、鎌倉へつかわすその御告文とやらを、大炊どのが、ただ今、したためておるのでございますか」\n「さよう......。集議、ぜひもなければと、ついに今日、それには極ったがの。さて、その文案は、むずかしかろ」\n「告文とは、どんな意味を持つものやら。みことのり、綸旨、それともちがいましょうか」\n「申さば、天子の私信。このたびの変も、陰謀とやらも、全く、天子自身は、あずかり知るところでなかった――という言い訳を遣わすようなもの。北条方とすれば、まさしゅう、天皇の詫び状なりと、鬼の首でも取ったように、見るであろうよ」\n「ま。くちおしい限りではございませぬか。万乗の大君をして、さまで幕府の鼻息に阿るような策をおすすめ申さいでも、毎日の公卿集議には、もそッとほかによいお智恵も」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 大坂、京都、名古屋、江戸――流浪の先を考えてみるが、何処に知己があるわけではなし、賽ころの目をたのむように頼りがない。賽ころに必然がないように、又八にも必然がないのだった。何かここに起ってくる偶然があれば、それに引かれて行こうと思う。\n だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。虫の音と露とが深くなるばかりだった。単衣のすそはびっしょり濡れて足に巻きつき、草の実がたかって、脛がむず痒い。\n 又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり飢じくなっていた。胃液まで空っぽなのだ。追手の心配がなくなってからは、急に歩くことが苦痛になっていた。\n「......何処かで寝たいものだ」\n その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。それは野末に見えた一軒の屋の棟だった。近づいてみると垣も門も暴風の時に傾いたまま誰も起してやり手がない。おそらく屋根も満足なものではあるまい。しかし一度は貴人の別荘とされて、都あたりから、糸毛の輦に﨟たけた麗人が、萩を分けて通ったこともありそうな家造りなのである。又八はその無門の門を通って中へ入り、秋草の中に埋まっている離亭や母屋をながめて、ふと玉葉集の中にある西行の、\n\n会ひしりて侍りける人の伏見にすむと聞きて尋ねまかりけるに、庭の草、道も見えずしげりて虫の啼きければ――「わけて入る袖にあはれをかけよとて露けき庭に虫さへぞ啼く」\n\n ――そんな文句を思いだして、肌寒げに立ちすくんでいると、当然人は住んでいないものとばかり思っていた家の奥に、風で燃え出した炉の火がぱっと赤く見え、しばらくすると尺八の音がそこから聞えだした。\n\n七\n\n ちょうどよい塒とここに一夜を明かしている虚無僧らしいのである。炉の火が赤く立つと、大きな人影が婆娑として壁に映る。独り尺八を吹いているのだ。それはまた他人に聞かそうためでもなく自ら誇って陶酔している音でもない。秋の夜の孤寂の遣る瀬なさを、無我と三昧に過ごしているだけのことなのだ。\n 一曲終ると、\n「ああ」\n 虚無僧は、ここは野中の一軒家と、安心しきっているらしく独り言に――\n「四十不惑というが、おれは四十を七つも越えてからあんな失策をやって、禄を離れ家名をつぶし、剰え独りの子まで他国へ流浪させてしまった。......考えれば慚愧にたえない。死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。......このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十だいほど危ないものはない。油断のならない山坂だ。まして女に関しては」\n 胡坐の前に、尺八を縦に突き、その歌口へ両手をかさねて、\n「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の怪我にもならなかった。......ところが、四十だいとなると、女に対してすることが厚顔ましくもなるし、それがお通の場合のような事件になると、今度は世間がゆるさない。そして、致命的な外聞になってしまった。禄も家もわが子にも離れるような失敗になってしまった。......そして、この失敗も、二十だい三十だいなら取り返せるが、四十だいの失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」\n 盲人のように俯向いたまま、声を出してそういっているのである。\n ――又八は、彼のいる近くの部屋までそっと上がって行ったが、炉の火にぽっと浮いている虚無僧の痩せおとろえた頬の影や、野犬のように尖っている肩や、脂けないほつれ毛などを見つつ、その告白を聞いていると、夜鬼のすがたを思い出して、ぞっと背がすくんでしまい、近寄って話しかける気持になどはとてもなれなかった。\n「アア......それを......おれは......」\n 虚無僧は、天井を仰向いた。骸骨のように鼻の穴が大きく又八のほうから見える。凡の浪人の垢じみた着物を着て、その胸に、普化禅師の末弟という証ばかりに黒い袈裟をつけているに過ぎないのである。敷いている一枚の筵は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の衾であり雨露の家だった。\n「――いっても、返らないことだが、四十だいほど、油断のならない年頃はない。自分だけが、いっぱし世の中も観、人生もわかったつもりで、少しばかりかち得た地位に思い上がって、ともすると、女に対しても、臆面のない振舞に出るものだから、おのれのような失敗を――運命の神から背負い投げを喰わされるのだ。......慚愧のいたりだ」\n 誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、\n「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。――こうして懺悔の中に、なお許してくれる自然のふところに生きて行かれるから」\n と、ふと涙をこぼし、\n「――だが、済まないのは、わが子に対してだ。おれのした結果は、おれに酬うより、あの城太郎のほうへより多く祟っている。とにかく、姫路の池田侯に藩臣としてこのおれが歴乎としていれば、あの子だって、千石侍の一人息子だ。それが今では、故郷を離れ、父を離れ......。イヤそれよりも、あの城太郎が成人して、この父が、四十だいになってから、女のことで藩地から放逐されたなどと知る日が来たら、おれはどうしよう。おれは子に会わす顔がない」\n ――しばらくは、両手で顔をおおっていたが、やがて何思ったか、炉のそばを立つと、\n「やめよう、また愚痴が出て来おった。......おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」\n 尺八を持って、彼は外へ出て行った。\n\n八\n\n 妙な虚無僧である。よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた鼻下にはうすいどじょう髭が生えていたように思う。そう年を老っているほどでもないのに、ひどくよぼよぼした足元だった。\n ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。ぱちぱちと夜風がそれを煽っている。燃え折れた柴の火は、床を焦がしているではないか。\n「あぶねえ、あぶねえ」\n 又八はそこへ行って、土瓶の水をじゅっとかけた。これが野中の破れ邸だからいいようなものの飛鳥朝や鎌倉時代の二度と地上に建てることのできない寺院などであったらどうだろうと考えて、\n「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」\n と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。\n 家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。だから彼らは、金堂の壁画の中ですら平然と火を燃やす。世の中に無用に生きているに過ぎない一個の空骸を暖めるために火を燃やす。\n「だが......浮浪人だけが悪いともいえねえな」\n 又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。それは何が生んだかといえば、戦だった。戦によってぐんぐん地位を占めてゆく者も多い代りに、芥のように捨てられてゆく人間の数も実に夥しい。これが次の文化の手枷、足枷となるのもやむを得ない自然の因果といえよう。そういう浮浪の徒が、国宝の塔を焚火で焼く数よりは、戦が、意識しつつ、高野や叡山や皇都の物を焼いたほうが、遥かに大きな地域であった。\n「......ほ。洒落たものがあるぞ」\n 又八はふと横を見てつぶやいた。ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい閑雅な造りなのである。そこの小床の棚に、彼の眼をひいた物がある。\n 高価な花瓶や香炉などではない。口の欠けた徳利と、黒い鍋だった。鍋には食べ残した雑炊がまだ半分残っているし、徳利は振ってみると、ごぼっと音がして、欠けた口から酒がにおう。\n「ありがたい」\n こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている遑はない。徳利の濁り酒をのみ、鍋を空にして、又八は、\n「ああ、腹が満った」\n ごろんと手枕になる。\n トロトロと炉の火もとに眠りかける。雨のように野は虫の音に更けてゆく。戸外ばかりでなく、壁も啼く、天井も啼く、破れ畳も啼きすだく。\n「そうだ」\n 何か思い出したとみえる。むくりと彼は起き直った。懐中にある一個の包み――かの顎の半分ない武者修行から、死に際に頼まれて持って来た包みの中を――こうしている間に一度見ておこう。そう急に思いついたらしい。\n 解いてみた。――それは蘇芳染の汚れきった風呂敷だった。中から出て来たのは、洗いざらした襦袢だの普通の旅行者の持つ用具などであったが、その着がえをひろげてみると、いかにも大事そうに、油紙でくるんである巻紙大の物と路銀の金入れであろう、どさっと重い音が膝の前に落ちた。\n\n九\n\n むらさき革の巾着であった。その金入れの中には、金銀取交ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、\n「これは他人の金だ」\n と、殊さらにつぶやいた。\n もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。軸には花梨の木が用いてあり、表装には金襴の古裂れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を抱かせられる。\n「何だろ?」\n 全く見当のつかない品物だった。巻を下へ置いて、端の方から徐々に繰り展げて見てゆくと――\n\n 印可\n一 中条流太刀之法\n一 表\n電光、車、円流、浮きふね\n一 裏\n金剛、高上、無極\n一 右七剣\n神文之上\n口伝授受之事\n 月 日\n 越前宇坂之庄浄教寺村\n 富田入道勢源門流\n 後学 鐘巻自斎\n佐々木小次郎殿"
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{
"role": "assistant",
"content": "\n とあって、その後に別な紙片を貼り足したと思われるところには「奥書」と題して、左の一首の極意の歌が書いてあるのであった。\n\n掘らぬ井に\nたまらぬ水に\n月映して\n影もかたちもなき\n人ぞ汲む\n\n「......ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」\n そこまでは又八にもすぐ分ったが、鐘巻自斎という人物については、何の知識もなかった。\n もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、\n(アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か)\n と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を外他通家といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道勢源の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか辺鄙な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。\n そういう詮索よりも、\n「――佐々木小次郎殿? ......ははアすると、この小次郎というのが、きょう伏見のお城工事で、無残な死に方をしたあの武者修行の名だな」\n と、そこに頷いて、\n「強いはずだ。この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。惜しい死に方をしたものだな。......さだめしこの世に心残りなことだったろう。あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。――そしておれに頼むといったのは、やはりこの品だろう。これを郷里の知る辺へでも届けてくれといいたかったに違いない」\n 又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。\n ――また、ごろりと彼は横になっていた。肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。\n ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い野面から尺八の音が聞えて来る。\n 何を求め、何を呼ぶのか。彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。――とにかくそれは物狂わしいまで夜もすがら吹いて野をさまよっていたが、又八はもう疲れきって、熟睡してしまったので、尺八の音も虫の音も、すべて昏々の中であった。\n\n狐雨\n\n一\n\n 野は灰色に曇っている。今朝の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。\n 戸の吹き仆されている厨に、狐の足痕がまざまざ残っていた。夜が明けても、栗鼠はそこらにうろついている。\n「アア、寒い」\n 虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。\n 夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。\n うす汚い袷も袈裟も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に魅かされた男のように草の実や露でよごれていた。きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、風邪をひき込んだのであろう、鼻のうえに皺をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな嚔を一つ放つ。\n ありやなしやの薄いどじょう髭の先に、鼻汁がかかった。恬として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。\n「......そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」\n つぶやいて起ち上がり、そこも狐狸妖怪の足痕だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。\n 捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。もちろん、見つからないほどでもないが――\n(おや?)\n うろたえた眼をして見廻している。あるべきところに酒の壺がないのだ。しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その空の容器とともに、肱枕をして、涎をながして眠っている見つけない人間をも見出し、\n「誰だろ?」\n 及び腰に覗き込んだ。\n よく眠っている男だった。撲りつけても眼を醒ましそうもない大鼾声をかいているのである。酒はこいつが飲んだのだな――と思うとその鼾声に腹が立つ。\n まだ事件があった。今朝の朝飯として食べのこしておいた鍋の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。\n 虚無僧は顔いろを変えた。死活の問題であった。\n「やいっ」\n 蹴とばすと、\n「ウ......ウむ......」\n 又八は、肱を外してむっくと首をあげかけた。\n「やいっ」\n つづいて、もう一ツ、眼ざましに足蹴を食らわすと、\n「何しやがる」\n 寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。\n「おれを、足蹴にしたな、おれを」\n「したくらいでは、腹が癒えんわい。おのれ、誰に断って、ここにある雑炊飯のあまりと酒を食らったか」\n「おぬしのか」\n「わしのじゃ!」\n「それやあ済まなかった」\n「済まなかったで済もうか」\n「謝る」\n「謝るとだけでことは納まらん」\n「じゃあ、どうしたらいいんだ」\n「かやせ」\n「返せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の生命のつなぎになっているものをどうしようもねえ」\n「わしとて、生きて行かねばならん者だ。一日尺八をふいて、人の門辺に立っても、ようよう貰うところは、一炊ぎの米と濁酒の一合の代が関の山じゃ。......そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて堪ろうか。かやせ! かやせ!」\n 餓鬼の声である。どじょう髭の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て威猛高に喚いた。\n\n二\n\n「さもしいことをいうな」と又八は蔑んで――\n「多寡が鍋底の雑炊飯や、一合に足らぬ濁り酒のことで、青筋を立てるほどのことはあるまいが」\n 虚無僧は執こく憤って、\n「ばかをいえ、残り飯でも、この身にとれば一日の糧だ、一日の生命だ。かやせっ、かやさなければ――」\n「どうするって」\n「うぬっ」\n 又八の腕くびを掴まえ、\n「ただはおかぬっ」\n「ふざけるなっ」\n 振り離して、又八は、虚無僧の襟がみを掴み寄せた。\n 飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な粘りがある。"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 十月四日、鵡川に初霜があつた。薄雪の樣に白い道を進んで日高に入ると、さすが馬産國だけに、親馬が通ると、そのあとへ必ず小馬がてく〳〵ついて行くのに出會ふことが多い。そして、沙流川にかかつた九十五間のおほ橋の欄間には、驅け馬を切り拔いてある。また、アイノ人の本場平取村が近いだけに、髯武者のアイノや口のあたりに入れ墨したメノコを見ることが多く、その一セカチ(男兒)の如きは、義雄等の馬車について一二町も走つた。\n 門別から荷馬車に乘り換へたが、その村を拔ける時、後ろを返り見ると、遙か西方に膽振の樽前山の噴火が見えた。眞ツ直ぐに白い煙りが立つてゐるかと思へば、直ぐまたその柱が倒れて、雪と見分けが附かなくなつた。\n 義雄はそれを見て考へた、あれほど活氣ある火力を根としながらも、空天につツ立つた煙りは周圍の壓迫に負けて倒れるのであるから、地腹に隱れた火力は、丁度、義雄自身が發展の出來ない鬱憤であらうと。\n がうツと、一と聲物凄い響きが渠のあたまの中でしたかと思ふと、その火山の大爆發當時のありさまが暝目のうちに浮んだ。その時、西風が吹いてゐるのであらう、日高の方面へ向つて、その噴出した熔岩の灰が雲と發散して、御空も暗くなるほどに廣がつた。\n その結果が、今、義雄の目を開らいて見る火山灰地である。數百年もしくは數千年以前に出來たその地層がまざ〳〵と殘つてゐて、膽振から日高の一半に渡つて地下六七寸乃至一尺のところに、五寸乃至一尺の火山灰層となつて、その白い線が土地の高低を切り開らいた道路の左右に郵便列車の中腹の如く、くツきりととほつてゐる。\n\n 厚別から、いよ〳〵乘馬でなければならなくなつたが、義雄は腰がふらつきながらも心配したほどでもなかつた。右には出張つた小山のつづきを、左りには洋々たる太平洋の海面を見おろし、落馬しても怪我はない砂濱を驅けらせる時など、尻の痛いのも忘れて、渠の心は延び〳〵した。そして、下下方まで五里の道を、もツとも他の乘り手に從つてだが、午後二時から四時までの二時間に乘つて來ることが出來た。\n 日高附近は至るところ、耕地よりも牧場、牛よりも馬を主としてゐて、國柄と事業方針との明らかによく一致してゐるところを見ると、義雄は自分の事業心に思ひ合せてなか〳〵懷かしくなつた。その上、染退川の奧には、大理石があるさうだし、松前侯が掘りかけた金鑛もあるさうだし。また鐵鑛があるのだらう、磁石がとまつたことがある。などいふことを聽くと、もう、さういふ石や金屬のにほひが鼻さきにちらついて來る。\n 下下方の宿に着いてから、\n「トリキタカヘン」といふ電報を勇に當てて打つた。それと行き違ひに勇から轉送して來た電報には、\n「ダイジオコルスグコイ」とあつた。樺太の弟からで、その大事とは製造事業に關する弟と從兄弟との衝突で――弟は義雄の代理として金錢上の締めくくりをしなければならないが、製造かたの從兄弟が動かなければ全く融通が利かないのである。それが爲めに、あちらで抵當に這入つてゐる所有物件を債權者から沒收されることになるといふのだらう。然し、もう、如何に製造かたが働らいても、蟹のあがる時期でないから、どうせ駄目とあきらめてゐる義雄には、それが左ほど大事でもなかつた。その上、弟なり、從兄弟なりをはたから見れば、義雄等すべての上に關する金錢もしくは勞力を用ひながら、見す〳〵分り切つた失敗をやつた馬鹿もの共だといふ輕侮の念も加はつて來て、その實、泣きたい樣な心持ちが却つて非常に不眞面目の返電となつた。乃ち、\n「ドウセダメカツテニカヘレ」と、これだ。\n そして、お鳥に關する勇の返電を待ちながら、義雄は遠藤と共に碁を打つたり、村長並びに地方有志の陳状を聽いたりしてゐたが、一向その返事は來ない。それが氣になつて溜らないのである。\n 褥へ這入つてからも、疲れてはゐながら、ゆうべの樣に眠りつけない。お鳥が到着しさへすれば、勇が出さないでも、かの女から直接に返電しさうなものだ。それが來ないのを見ると、まだ途中にまごついてゐるのか知らん? ひよツとすれば、途中であの病氣が惡くなり、困つてゐるのではなからうか? 或は、また汽車か宿屋で違つた男に出會ひ、急に變心して、方向を轉じたのではなからうか?\n どうせ、不信用な女だから、自分と離れてゐれば、どんなことがあるか分らない。よしんば、やつて來たとて、自分の重い責任が出來るだけだから、いツそ、變心して呉れた方が面倒臭くないのかも知れない。どうせ、女の病氣の爲め同衾も出來ない。いや、同衾するのを自分は恐れてゐる。自分は青年時代の樣な戀愛神聖論者ではない。内容の空しいのを知らない樣な理想家ではない。肉靈の合致しない戀などで、自分はどうせ滿足出來ない。\n さうかと云つて、また、お鳥が初めてその心身を投げ出した時のこまやかな情交を義雄が記憶してゐるばかりに、自分並びにかの女の病氣中數ヶ月間、渠はただ手足の接觸ばかりによつて滿足してゐたこともあるのを思ひ出される。\n あの皮膚の美しさ、やはらかさ! 敷島などの、とても、及ぶところでない。そして、敷島との關係も、やがて絶えるのだらう。どうせ、自分の全部を見て呉れた上の戀ではないからと思ふ。\n「あ、こりや〳〵」といふ聲に目を開らくと、義雄と褥を並べて寢てゐる遠藤の寢言であつた。直ぐまたぐう〳〵いびきをかいてゐる。\n「ああ呑氣にはなれない。」敷島が渠自身に期待するのも、矢ツ張り、かの山の客や遠藤の樣な男であつて、決して渠自身ではないと考へられる。\n 渠の考へは、かうして、お鳥と敷島と樺太とを幾遍となく巡囘するので、ます〳〵睡魔の入り込む透きがない。\n 渠は苦しまぎれに起き出でて、ランプの光と冴える神經に筆を持たせて、けふの「印象雜記」を書いた。\n その翌朝、雨を冐して馬上、新冠の御料牧場を見に行く途中で、染退川荒廢の跡を調べ、中下方に於ける淡路團體の農村を見た。この村を見ては、義雄は自分の故郷淡路に關する記憶を呼び起さずにはゐられなかつた。\n 王政維新の頃、淡路に於いて稻田騷動なるものがあつた。阿波藩の淡路城代稻田氏が藩から獨立しようとする逆心があると誤解し、阿波直參の士族どもが、城代並びにその家來(阿波藩から見れば、「また家來」)を洲本の城に包圍した。そして、義雄の江戸から引きあげて來た父並びにすべての親戚は包圍軍の方に加はる關係であつた。\n それが爲めに、稻田がたの士族の子弟(全くの田舍者だ)が勢力ある小學校に於いては、義雄は「江戸ツ子の部落民」として、いつも排斥され、迫害されてゐた。同國の部落民が「ねツから、ね」と云ふからである。義雄の孤立的な陰鬱性と傲慢な獨立心とはこの間に養はれたものだと、義雄自身もさう考へてゐるのだ。\n ところが、稻田がたで淡路にゐ殘つた士族どもは殆どすべて意久地なしばかりで、その他はみな明治四年(まだ、義雄の生れない時)、明治十八年(義雄が小學校を出た頃)の兩度に、その城主に從つて北海道へ移住した。そして、渠等には淡路をなつかしい故郷と思ふ樣な氣がなかつたと云ふのは、かの騷動の時、渠等のうちには、その妻女は直參派の爲めに強姦されたり、姙婦はその局部を竹槍で刺し通されたといふ樣な目に會つてゐるものがあるからである。\n この鬱憤並びに主君と同住するといふことが渠等の北海道開拓に對する熱心の一大原因であつたらうと、義雄は考へた。第一囘の移住者等が國を船出する時は三百戸ばかりあつたが、紀州の熊野沖で難船し、百五十戸分の溺死者を生じた爲め、半數だけ(それが、現今では、僅かに三十戸)が北海道開拓の祖である。それが中下方にあるが、第二囘の五十戸は、今、同じ川添ひの碧蘂村にある。兩村は實に北海道の模範村になつてゐる。\n 一見して、耕耘に熱心なことや永久的設備をしてかかつたことなどが分る。"
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"role": "assistant",
"content": " 石狩原野の如きは、札幌でも、岩見澤でも、矢鱈に無考へで樹木を切り倒したり、燒き棄てたりして、市街地や田園などに風致がなくなつたばかりでなく、風防林までも切り無くして、平原の風を吹くがままにしたところがある。然し淡路人の村には、大樹のところ〴〵切り殘して風致を保つてゐる上に、家屋も他の方面で見る樣な假小屋的でなく、永久的な建築をしてある。\n 遠藤も、この中下方に這入つてからは、道すがら馬をとどめて、あたりを頻りにながめてゐたが、後れて進む義雄を返り見て、\n「どうです、この邊の田園的風致は! わたくしの理想は、北海道中至るところにかういふ村を拵らへさせたいのです。」\n「いいです、ね。」義雄も渠のそばに近よつて馬をとどめる。\n 無理想の刹那的充實を主張する義雄に取つては、理想の、何のと云ふことは下等に聽えるのであるが、地方紳士の言としては、別に反對するほどのこともないから、進んで簡單に淡路團來道當時の事情を語つて聽かせた。\n「は、はア!」遠藤は感心して、「さういふ悲慘なことが原因になつて、かう云ふ美しい村落が出來たのです、なア。」\n「面白い理由があるでせう」と義雄は得意になつた。そして、自分もまた、この村の黨與の子弟からいぢめられたのが元で、今でも故郷に對しては恨みこそあれ、何等のなつかしみもないことを遠藤等に語る。然しこの村の一農家の生垣をめぐらした庭内に憇ひ、子供の時に聽いた淡路なまりの言葉に接した時は、何となくなつかしい氣がした。そして、染退川が年々五十町も百町歩も渠等の沖積土質の田を缺壞して行く爲め、その度毎に村人の戸數が減じて行くことを説明された時は、自分の身がその沖積土の如く喰ひへらされて行く思ひがした。\n 馬に多少の興味が出て來たのと牧畜に考へがあるのとで、義雄は御料牧場に行つても遠藤と共に注意して同場長の説明などを聽いた。\n 全數、千七百餘頭――そのおもな種類はトロター、ハクニー、サラブレド、クリブランドベー、トラケーネンなどだが、競馬用にはサラブレドが最もよく、この種の第二スプーネー號と云ふのが園田實徳の一萬五千圓で買つた馬の父であつた。そのうち馬屋から引き出して歩かせて見せたが、それ〴〵特色があつた。脊の高いのや毛艶のいいのや、姿勢の正しいのや、足の運びの面白いのや――そして、アラビア種のすべて目が鋭く涼しいのが、最も深い印象を義雄の心に殘した。\n 周圍二十里、面積三萬三千二百十町歩、放牧區域七十二區、各區をめぐる牧柵の延長七十里に達する大牧場――高臺の放牧地は、天然のままだが、造つた樣に出來てゐて、恰も間伐したかの如く、樹木がいい加減に合ひを置いて生えてゐる地上には牧草が青々と育つて、實に氣持ちのいい景色だ。義雄等は、行きには、その間を驛遞の痩せ馬に乘つて得意げに走つたが、立派な馬を澤山見た歸りには、渠等は一種の恥辱を感じた如く、逃げる樣にして驅け出した。\n 市父並に遠佛のヌツカにアイノの家が十餘戸ある。義雄等はその一つを訪問して見たが、耕地を持つてゐて、不完全(雜草を充分に拔き取つてない)ながら、農業をやつてゐるだけに、生活状態が樺太に於ける一般土人よりも多少進歩してゐる。家には立派な床板も張つてあり、子供は小學校で習つた字を綺麗に障子に書いてあつた。\n ゆふかた、昨夜のと同じ宿に引ツ返し、馬上八里の疲れを湯に這入つてくつろげてから、\n「あれをみな買はうと思ひますが、なア」と遠藤は物思はしげに云ふ。\n「そりやアいいです、ね。」義雄は牧場で見て來たうちの、七八頭の拂ひ下げ馬のことだと思ふ。有名な第二スプーネー號の種を孕んでゐるのも這入つてゐる。然し渠がさう云ふのに物思はしげなのは、拂ひ下げ代金三千餘圓の工面を考へてゐるらしかつた。\n 遠藤は北見に一大牧馬場を持つてゐる。それが、昨年不時の大雪の爲めに、放牧の馬と共に、一夜のうちに一丈ばかりも下に埋められた。そのまま凍死した馬が多かつたが、少數は積雪の中から首だけ出してゐたので、辛うじて掘り出すことが出來た。その埋め合せに、一層いい種類の馬を買ひたいので、渠は御料牧場を一つにはおもな目的にして來たのだと語つた。\n「人間なら、とても、そんな馬鹿らしい眞似はしてをりますまいが」と、渠は矢ツ張り凍死した馬どもを思ひ出す樣子をして、「然しそこがまた馬の可愛いところです。いつも人間を信じて、人間の云ひなり放題になつてをるところへ持つて來て、いきなり、ひどい雪に會うたのだから、溜らない。強い奴こそあせつて、首だけでも出してをつたから助かつたものの、弱い奴は丸でもがき死をした樣なものだ。」\n 面白いので、義雄はいろ〳〵馬の話を聽いてゐたが、今夜も亦返電は勇からも、お鳥からも來なかつた。\n 夜に入つて大風雨があり、慣れない海岸の旅亭で、物凄い浪の音が不安な枕に響いて來ては、いツそのこと、おほ津浪でもやつて來て、自分と共にお鳥、敷島、事業の念などもすツかり消えてしまふがいいと云ふ樣な空想も起つた。そして、その空想が實際津浪が寄せて來はしないかと思はれるほどの浪の音に合體して、義雄は夜ぢゆう安らかな夢に入ることが出來なかつた。\n\n 春立村の如きは、シヤモ(和人)とアイノとの見すぼらしい雜居部落で、板どりやその他の草をさかさまに編み並べて、家の壁板に換へてある。そして、板もしくは草の家根には、それが暴風に飛ばされない爲め、澤山の石ころをのせてある。海岸には昨夜の名殘りおほ浪がうち寄せてる。その浪もとに立つて、みるめの樣な襤褸をまとつたシヤモやアイノが、長い紐のさきに石を結びつけたのを浪間へ投げ込んでは、昆布を拾ひあげてゐる。それが高い崖の上を驅ける義雄等によく見えた。\n 火山灰がなくなるに從つて、日高の道は平原から山路になる。そして、膽振の鵡川まで三間幅であつた縣道が、そこから二間半に狹まり、また二間しかなくなつた上に排水用意が足りないので、いつもじめ〳〵して乾かない。\n もと浦河支廳長をしてゐた某の如きは、韓太子來遊の際、他の馬車と衝突して、自分の馬車が顛覆した爲め、大怪我をして、いまだに療養中だと聽く。\n また、義雄等の聽かされたのに據ると、三石村の村長は、崖崩れの爲めにその乘り馬車が直下數十丈の荒磯へころげ落ちかかつた。幸ひ馬の前足が道路のふちにとまつたばかりに、僅かに引きあげられて、生命に異状がなくツてすんだ。足の強い馬であつたからでもあらうが、その時馬の努力と云つたら、今思つても凄いほどで、その眼からは光が出る樣、全身はびツしより熱汗を發したさうだ。\n「馬はそれで可愛がられるのです」と、遠藤が云つた。\n「さうでせう、ね――然し」と、義雄は話に力を入れて、「馬ばかりがさうではないでせう。人間もさうした努力がいのちです。熱心が目の玉から火を發するほどの刹那をねらはなければ、とても、自己の立ち場を確かめることは出來ません。」\n「御尤もです、なア。」\n「僕はいつも考へてゐますが、現代では、大きな事業家と云はれる人々に最も多くさういふ境界を經驗してゐるものがあります。」かう云つて、渠は政治家などでもまだ〳〵今のところ不眞面目があり過ぎること。文藝界の人々はまたその上を越して馬鹿呑氣であること。然し渠の主張する樣な緊張した熱心と眞面目とが、物質的な實業界から政治界に及び、外部的な政治界から内部的な文藝界に充實するに至ると、わが日本が世界の一強國どころでなく、世界唯一の優強國になること、などを語る。"
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"role": "user",
"content": " しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。他の注意を惹く粧飾としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚に訊いて見た。\n「そう旨くは行かないものかな」\n 彼は黙って煙草を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。\n\n六\n\n「おいお延」\n 彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。\n「今時分そんなものを出してどうするんだい」\n お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。\n「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」\n「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」\n 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側へ出て厠の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。\n「あなた、あなた」\n 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。\n「何か御用なの」\n 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢よりもむしろ大事なものであった。\n「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」\n「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」\n 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。\n「郵便函の中を探させましょうか」\n「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」\n「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」\n 御延は玄関の障子を開けて沓脱へ下りようとした。\n「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」\n「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」\n 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上に胡坐をかいた。そうしてそこに燦爛と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。\n すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。\n「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」\n こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。\n「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」\n「何だ書留じゃないのか」\n 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着の荒い御召の縞柄を眺めながら独りごとのように云った。\n「困るな」\n「どうなすったの」\n「なに大した事じゃない」\n 見栄の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。\n\n七\n\n「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんな事を云って来て......」\n「いったいどういう訳なんでしょう」\n 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。\n「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、だいぶ臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ」\n 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。\n「なにそんな家賃なんぞ当にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし」\n 津田の言葉に偽はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。\n「御父さまはきっと私達が要らない贅沢をして、むやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」\n「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯に変りはないかも知れないが、周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」\n 津田は平生からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。\n「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」\n 夫の手前老人に対する批評を憚かった細君の話頭は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語のように云った。\n「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが......」\n お延は夫の顔を見つめた。\n「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」\n「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒は開かないよ」\n「でもほかに当がなければ仕方なかないの」\n「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」\n「そうね」\n その時津田は真ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。\n「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」\n"
},
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"role": "assistant",
"content": "八\n\n「厭よ、あたし」\n お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。\n「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」\n お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。\n「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし......」\n 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。\n「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」\n お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事がようやく津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。\n「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。買い被られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」\n「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」\n 津田は追窮もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。\n お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。\n「これどうかしましょうか」\n 彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。\n「どうかするって、どうするんだい」\n「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」\n 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。\n「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」\n「ないわ、そんな事」\n お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。\n「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」\n「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」\n 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。お延は弁解した。\n「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」\n 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜りを傷けるという意味において彼は躊躇した。\n「まあよく考えて見よう」\n 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。\n\n九\n\n 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。しかし彼は下りがけ、向は上りがけだったので、擦れ違に叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。\n「何か用かい」\n 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。\n「ちょっと......」\n「君自身の用事かい」\n 津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。跋の悪そうな顔つきをした彼は答えた。\n「そうです。ちょっと......」\n「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」\n「はあ。気がつかない事をして失礼しました」\n 音のしないように戸を締めた津田はまた自分の机の前に帰った。\n 午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。\n「どこかへ行かれたのかい」\n 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使に訊いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。\n「ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」\n 毎日人の出入の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執った。\n 時間になった時、彼はほかの人よりも一足後れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。\n 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。\n「津田は吉川と特別の知り合である」\n 彼は時々こういう事実を背中に背負って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。\n\n十\n\n 厳めしい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。津田はその上半部に透し彫のように篏め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。中には大きな花崗石の沓脱が静かに横たわっていた。それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。\n「まだ御帰りになりません」\n 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊いた。\n「奥さんはおいでですか」\n「奥さんはいらっしゃいます」\n 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。\n「ではどうぞ奥さんに」\n 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。\n 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 三位卿は混惑してきた脳髄をいきなり村正かなんぞの鋭利な閃刃で、スッカリと薙ぎ抜けられたような心地がして、踏みしめている足の裏から、かすかな戦慄さえおぼえた。\n「ここへやって来る以上は弦之丞も、死にもの狂いに違いありません。たださえ腕の冴えた奴、そいつが夜叉になって暴れ廻った日には、とても、同心方やあっしの手では抑えがつきません。どうか、よろしく一つお手配を願いとうございます」\n「そうか......」と、すべてを聞き終った有村は、下唇を締めて、こうしてはおられないという焦躁を、静かな動作のうちにゆるがせた。\n「眼八、そちはこの足で麓へ急げ、そして山見付の溜りへ急を知らせ、十分に、手分けをしておくよう、この有村がいいつけじゃと伝えるがよい」\n「合点です、じゃ......」と、笠をかつぐのと目礼を一緒に、釘抜きの眼八、汗の乾くまもなく、足を急がせて、倶利伽羅坂を降りて行った。\n 後に残った四人、何かヒソヒソささやいていたが、やがて、目配せをしあって、柵の尽きる所から重畳した岩脈へ這い上がり、ヒラリ、ヒラリ、山牢の地域へおどり込む。\n まだ七刻を過ぎたころ、黄昏には間のある時刻だが、剣山の高所、陽は遠く山間に蔭って、逆しまに射す日光が頂にのみカッと赫く、谷、峡、山のひだなどにはもう暗紫色な深い陰影がつくられている。\n 咲き乱れている山神の錫杖、身を隠すばかりな茅萱などの間をザクザクとかき分けて、やがて小高い瘤山の洞窟へ這い寄った四人――。\n お十夜と天堂一角は、抜刀を背後へ廻して膝歩きに、ソッと、穴の両脇から、息を殺して暗い奥を覗きこむ。\n スウ――と下がっていた一本の銀糸に、びっくりしたらしい蜘蛛が一匹、岩天井へ手繰り上がった。\n\n 氷室のような冷気を感じながら天堂とお十夜孫兵衛、洞窟の奥へスルスルと這い進んで行った。\n「ヤ、いねえぞ」\n 先へ向った孫兵衛の声が、暗闇の突き当たりから、ガアーンと響いて返ってきた。\n「ナニ、おらんと?」\n「ウーム、見えない」\n「さてはほかへ隠れおったな」\n「隠れたって、間者牢の柵、あれより外へは出られねえものを」\n「こんな中に生きていても、やはり生命は惜しいものとみえる。出よう、外へ」\n 手探りで後戻りをしはじめたが天堂一角、またひょいと気がついたように、\n「どこぞ横穴へでもへばりついているようなことはあるまいな」\n「いや、そんな隠れ場所はねえようだが......」\n と答えながら、お十夜は後ろを眺めなおした。\n しかし、なくはなかった。\n よくよく闇に眼を馴らしていると、妙な所が一ヵ所ある。\n どんづまりの真ッ暗な岩壁が、右側へ少し窪みこんでいるらしい。その袋穴の漆壺みたいな狭い所に、人の眼らしいものがギラリと光っている。動かずに光っている。そして、孫兵衛を睨みつけている。\n けれど、にわかにそれが人の眼だとは断定されない。なにしろそれ以外には何も見えないのである。で――孫兵衛は抜刀を後ろ廻しにひそめたまま、屈身を伸ばして、ジッと自分の息を殺した。すると、向うの呼吸が感じられた。世阿弥はやはりそこにじっとしていたのだ。\n 一角は、孫兵衛の最初にいないといったのを信じて、気早に外へ這い出していた。\n「ふーん、すくみこんでいるな」と感づいたけれど、お十夜は、あえて助勢を呼ぼうとは思わない。\n 十年以上、日蔭干しになっている死にぞこない、そぼろ助広で一突きに抉るくらいはなんの造作もないこと。そう思っている。\n しかし暗い、どんな得物を持って、どう構えているか見当がつかない。窮鼠猫を噛むということも一応思ってみる必要がある。ちょっと暗闇に眸が馴れてこないうちは迂濶に飛びかかれぬ気もした。\n すると不意に、岩壁の窪みへじっとしたまま、目無魚のごとく動かずにいた甲賀世阿弥が、\n「おおう! ......」と、不意に、太い息をもらして、さらにまた低く、\n「オウ......」と驚いたような声を繰り返した。\n この暗所に棲みなれている世阿弥の眸は、自然生理的に、闇の中でも見とおしが利く筈だが、お十夜には、皆目、対手の見当がつかない。ただ、爛と射る双つの眼を感じるばかりだ。\n「狂いだすな、こいつア。よし、そのほうが始末がいい」と、かれは世阿弥が呻いたのを、恐怖のあまりだと思って、爪を立って来る猛獣を待つくらいな覚悟をもった。\n だが、相手は身ゆるぎもしないで、\n「そこへまいったのは、川島郷に棲んでいた原士、関屋孫兵衛に相違ないと思うがどうだ」\n といった。\n「あっ......」孫兵衛は、ズバリと気構えを割られて、思わず、見えぬ闇にムダな目をみはった。\n「世阿弥! てめえはどうしておれの氏素姓を知っているのか」\n「知っておるとも、知っているわけがあるのだ! 孫兵衛、お前もよく思いだしてみるがいい」\n「思いだせ......ウーム、不思議だなあ......何しろそちの面がまるで見えない」\n「もう一昔も以前のことだから、こっちの顔が見えたにしろ、或いは思いだされまい。わしも、わしを殺しに来た人間の前で、そんなことを思い浮かぶ筈はなかったが、フトお前の頭巾を見て思いだされた、その、じゅうや頭巾を見て」\n「な......なンだって......」\n 頭巾といわれて、孫兵衛の声は意気地なくみだれてきた。\n 外の光線で見たなら、面貌まッ蒼に変っていたかもしれぬ。\n 世阿弥には、ありありとその態が見て取れた。\n「因縁だな......」\n かれはこう嘆じた。\n「お前がおれを殺しに来る......まさか川島にいたあの孫兵衛が、わしを殺しに来ようとは......、ウウム面白い、冷やかに生死を超えて人の世の流転を観じれば、おれがお前に殺されるのも面白い」\n「とすると、てめえはこの山牢へ捕まってくる前に、川島の村にも忍んでいたことがあるんだな」\n「川島の郷はおろか、阿波の要所、探り廻らぬところはない。まだ誰に話したこともないが、徳島城の殿中にまで、わしの足跡が印してある。そして、一番永く身を隠していた家が、孫兵衛、お前とお前の母親とがふたり暮らしで棲んでいた川島の丘のお前の屋敷だ」\n「えっ! お、おれの元の屋敷にいたッて?」\n「しかし、そうはいっても、隠密の甲賀世阿弥を、みつめていたでは、いつまで、考えだされる筈がない。十一年前、わしは阿波へ入り込むと同時に、すぐに畳屋に化けていたよ、紺の股引にお城半纏を着て、畳針のおかげで御普請を幸いに、本丸にまで入り込んだものじゃ。そして、いたる所を畳屋の職人で歩いた末に、川島の郷で、元のお前の屋敷の畳代えにも雇われて行った」\n「はて? ......」孫兵衛には、まだ何を話されているのか思い当らない。ただしきりと気になるのは、世阿弥が頭巾の秘密を知っているらしい口ぶりである。\n\n 世阿弥は覚悟をしていた。死に直面しつつ話すのである。その態度は、姿に見えなくても、語韻に感じるので、お十夜も、殺すべく握っていた大刀を忘れかけた。\n「――原士の屋敷はすべてだが、お前の屋敷も旧家でかなり広かった。わしは畳代えの職人で、名前はかりに六蔵といっていた。あの奥の十八畳の部屋、十二畳の客間、六畳の茶の間、十畳の書院」\n 孫兵衛は自分の旧屋敷の畳数を心でかぞえた。世阿弥のいうところ一畳の間違いもない。\n「そして、玄関、女中部屋、仏間だな。話はその仏間から起こってくる。そこの古いお厨子は青漆塗りで玉虫貝の研ぎ出しであったかと思う、その厨子の前へ、朝に夕に眉目のいやしくない老婆が、合掌する、不思議はない、御先祖を拝むのだ。ところがそこから不思議が生れた、わしが、畳代えの手をかけた日に、敷きつめの工合をなおす響きから、お厨子のそばの柱がポンと口を開いた。ちょうど、平掌が楽に入るくらい、切り嵌めになっている埋木がとれて落ちたのだ」\n「ウーム、分った」\n「分ったろう」"
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{
"role": "assistant",
"content": "「じゃてめえは、それが縁になって、半年ほど下男になっていたあの六蔵か」\n「そうだ、お前の母親は、それからぜひ屋敷にいてくれという、わしも都合のいいことだ、隠密甲賀世阿弥は当分下男ということに早変りした。するとまもなくお前の母者人が重病にかかった。うすうす事情を眺めていると、その当時、関屋孫兵衛というひとり息子、博奕は打つ、女色にはふける、手のつけられない放埒に、それが病のもとらしかった」\n ガチャッと、何か金属性な音がしたので、世阿弥は突然言葉を切った。\n すでに最前、合歓の木の下で、鋭い鏃にかすめられた時から、自分へも、俵一八郎と同じ運命が訪れてきたなと直覚して、覚悟はきめているかれだったが、話し半ばに、剣の音を聞くと、やはりぎょっとして舌が吊りあがった。\n 見ると――世阿弥の眼で見ると――お十夜は大刀をつかんでいる手をにわかに、バッタリと前へついたのであった。その鍔の音だった。\n で、言葉を次ごうとすると、先に、岩穴を出た一角が、\n「お十夜、何をいたしているのだ!」ととば口から奥へ言った。井戸へどなったように、その声が、おそろしく大きく響く。\n 孫兵衛はハッとして、大刀を持ちなおした。\n しかし、声に応じて世阿弥をすぐに突き殺す気は出なかった。\n 今の話は、多分な好奇心もあり、後に、阿波守の耳へ伝えていい重要なこともあるが、何より、彼をたじろがせたのは、自分の母親のことを、世阿弥が話しかけているせいだ。\n あらゆる放埒、物盗り、辻斬りまでやって、なお恬然たる悪行の甘さを夢みるお十夜だが、母を思う時、かれはもろい人間だった。不思議なくらい、その常識の一ツだけは、誰にも負けない善人孫兵衛であった。\n もっとも、悪党の常として、お十夜も、母親のことなどは、おくびにも口に出していったことはない。よその母親が手を曳かれてゆくのを、後ろからバッサリ斬るくらいな無情さは平気で持ちあわす男であって、自分の女親のこととなるとから意気地のない特殊な愛情の持主だ。\n が、孫兵衛は、身辺の者や悪行仲間に、そんな微量な人情でもあることを気取られるのは、ひどく恥辱だと信じ、倶利伽羅紋々の文身に急所が一ヵ所彫り落ちているような考えで、努めてまる彫の悪人を気どっていた。\n 後にも前にも、たった一度、何に感じてか、その彫落しの気持を口に洩らしたというのが、木曾路へかかる旅籠で、飯盛の女を買った晩、周馬と一角に向って、\n「おれもさまざまな女に逢ったが、いつまでも好きな女は、やはり、おふくろという女ひとりだ」\n と、冗談まじりにいったくらいなもの。\n 今度七、八年ぶりで阿波へ帰り、剣山へ来る途中、郷里の川島へ立ち寄ったかれが、こッそりと、屋敷裏の丸い墓石と逢ってきたことも、誰も知らない事実である。\n で、孫兵衛は、たじろいだ。\n 世阿弥がまだ母親のことを何かいいそうなので、すぐに殺すのは惜しかった。\n「おウ! 孫兵衛!」\n 一角がまたどなっている。\n「おらんと見たら早く出てこい、手分けをして探さねばならぬ」\n「待て」と、孫兵衛も奥から胴間声で、「ちょっと横穴を見つけたから念のためにあらためている」\n「そうか、さてはそこだな」\n「オイ、待て、入ってくるな」\n「なぜ」\n「怖ろしく狭そうだ。それより、ここはおれ一人でいいから、ほかを探してくれ、いなかったらすぐに出てゆく」\n「ウム、じゃ入念に頼むぞ」\n「ぬかるものか! 周馬と三位卿は?」\n「血眼でそこらをかき分けている」\n 一角の立ち去った足音を聞いて、孫兵衛はふたたび暗闇の眼へ問いかけた。\n「だが世阿弥! 初めにてめえは、おれの頭巾を見て思い浮かんだといったが、こいつア腑に落ちねえ。隠密から畳屋、畳屋から下男と、三段に化けてあの当時すましていた者にしろ、おれの頭巾の曰くを知っているはずはねえんだが」\n\n 世阿弥の眼と孫兵衛の影が向い合って、洞窟の奥の不思議な暗闇問答は、それからであった。\n「わしがお前の頭巾の秘密を知らないと思っているのか」\n と世阿弥がいった。するとお十夜も、ふと、\n「あの晩は、おれとおふくろ、あとは身寄りだけだった」と古い記憶をよび起こした。\n「いかにも、わしは使いに出されていた、吉野川を越えて向う地へ」\n「その間に......」とお十夜はゴックと唾を飲む音を重苦しくさせて、「おれのおふくろは息を引き取ったのだ」\n「世間の者は、不審とも気づかなかったろうが、わしには読めた。なみの下男なら知らぬこと、かりにも大内府直遣の隠密、しかも棲み込んでいる家の中の出来事だ。その夜以来、孫兵衛、いつのまにかお前のその十夜頭巾が脱れないものになっていたな」\n「おう、ではあの時、使いに出て行った後のことを?」\n「いかにも、残らず見届けていた。お前の母が危篤というと、すぐに七人の肉親ばかりが集まった。そこは例の厨子のある仏間、出入りに錠をおろしあたりを見張り、そして、静かにお前の母の枕元をとり巻いた。......と、あの柱だな。切り嵌めにして妙なものを埋め込んであるあの柱だ。それより前に、わしが畳を敷き代えた日に、埋木の口が落ちた途端には、何か、燦然としたものを見たが、お前の母親が茶の間から飛んできて、妙にあわてて隠したものだ。その柱へ、臨終にのぞんでいるお前の病母は、枕へ頭をのせたまま、弱い眸を向けたようだ。そうして、あれを......という意味を見せると、寂としていた七人の中から、ひとりが立ってうやうやしく埋木をはずし......」\n「ウーム......」\n と、孫兵衛、頭の鉢をしんしんと締めつけられるように呻いて、\n「もういい! 話は止めろ」\n 突然、対手の声を打ち消した。\n「世阿弥、おれはてめえを殺さなけれやならない。分っているだろうな」\n「うむ」自若として、\n「この春、俵一八郎が殺られているから、わしにもやがてやってくるだろうと思っていたところ、観念はしている。だがの、孫兵衛、もう少し話してもいいじゃないか」\n「つまらねえ」\n「いや、愉悦だ、わしは話したい」\n「おれはてめえを殺そうとしているのだ。殺されるこの孫兵衛と話をするのが、愉悦だというばかはあるめえ」\n「この身を殺す敵でも悪人でも、こうして、世間の人間と口をきくのはわしにとると言いようのない珍しさだからな、まアゆるしてくれ、そこで今の話だが......」と、世阿弥は低い声音で、平調な言葉を自然につづける。\n「――臨終の間際に、あれをと、お前の母親が、柱の隠し穴から取りださせたものを、細い蝋細工みたいな手にふるえながら持った。白蛇の喉をおさえるようにつかんでいた。そうして、しばらく口のうちで、経文のようなことを唱えていた」\n「で、世阿弥、それをてめえは、いったいどこで見ていたのだ」\n「――使いに出ると見せかけて、わしは天井裏に潜んでいた、甲賀流の忍法、塵も落しはしない筈だ。そこで息を殺していると、病人の指の間に小蛇の首みたいな形のものが、弱い灯明にもさんらんとしている。と七人の肉親の者たち、みんなシーンと後ずさりをし、顔を上げる者はなかった。ああいう時には原士という者も、みな怖ろしく森厳だ、儀礼みだれず古武士のよう、ことにその晩の七人は、川島郷の原士の中でも、また特別な密盟組らしい、切ッても切れない因縁の仲間だ」\n「やめろ、どこまで聞いてもくだらねえ、もうそんな思い出話なんざア聞きたくもない」\n「わしにも、少し謎が残っている、まあ今しばらく聞くがいい」\n「止めろというのに、くどい奴だ! サ、殺しにかかるぞ」\n「耳に飽きたらその時に、黙って、突くとも斬るともするがよい。世阿弥はここにかがまったきり、とても、逃げる体力はないのだから。――でお前の母親だ、その時、絶え絶えな息づかいで、お前に涙ぐましい意見をいったな、後生だと、わが子に手を合せて、改心を迫ったな。だのに孫兵衛、そちは邪悪の権化のように、一生悪事はやめられぬと答えた」\n「当りめえだ、死んでゆくお袋に嘘がいえるか」\n「それはいい、悪党の率直もいいが」\n「チッ!」と、舌打ちして「おふくろの幽霊みたいに、おれにいったい何を説こうっていうんだ」"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 田山白雲のための船の一室におさめられた柳田平治は、そこで、彼は長い刀を枕にして、ゴロリと横になって、船室の天井に向けて太い息をふっと吹きかけ、\n「いやだ、こんなところに長居をしたくない、そう思うと一刻もいやだ――本来、おれは江戸へ出て武者修行をするつもりで来たのだ、こんな毛唐まがいの船の中へ捕虜にされるつもりで来たのではない」\n こう言って、奮然として起き、枕とした例の長い刀を取り上げてみたが、さすがにまた思い直さざるを得ざるところのものがある。\n「第一、手形がない」\n 道中唯一の旅行券を渡頭で、いい気になって居合を抜いた瞬間に、何者にか抜き取られてしまっている。ちぇッ。\n「第二、田山先生に済まない」\n 駈落者護衛の使命だけは無事に果したが、まだ、少なくとも三日間の後に帰ると言った田山先生を、この船で待受けると言った約束は残っている。\n さすがにこれだけの理由と事情とが、一時の癇癪を抑えるだけの力を持っておりました。\n それに、もう一つ――いろいろ自分を船で引廻してくれる、あのお松さんという娘――あの人はいい人だ、あの娘さんだけには断然、好感が持てる。\n こんなことを考えているところへ、扉をコツコツと叩いて、一人の小坊主が、お盆を目八分に捧げて突然入って来たものですから、柳田平治も多少驚きました。\n 平治が多少驚いたのに頓着せず、右の小坊主は、ちょっと頭を下げて、それからお盆を恭しく平治の前の畳の上に置き、そうしてまた恭しく平治に一礼して、無言で入って来て、無言で出て行ってしまいました。\n 平治として、百物語の一ツ目小僧にお茶を運ばれたような思いがしないではありません。\n 変な小坊主だ、坊主頭に、ちょっぴりと毛を置いて、着ている服は紅髯のとは様子が違うし、目玉、髪の毛も青くはないが、やっぱり我朝のものではない。変な奴ばかり集まっている船だ。\n もちろんこれは、舟の乗組の一人、聾にして唖、イエスキリストを信ずること深き支那少年金椎であったことを、柳田平治はまだ知りませんでした。\n\n 百四十七\n\n その時分、青梅の裏宿の七兵衛は、例の怪足力で出羽奥州の広っ原のまんなかを、真一文字に歩いていたのです。\n 旅に慣れきった七兵衛も、これは広い荒野原だと、呆れずにはいられません。\n 同時に、これもやむを得ない、自分は今、名にし負う奥州の安達ヶ原の真中を歩かせられているのだ。\n 安達ヶ原だから、広いのもやむを得ない。しかし、こうして覚えのある足に馬力をかけてさえいれば、たとえ安達ヶ原であろうと、唐天竺であろうと、怯れを見せるがものはない。ただ、今まで自分の経験に於てはじめて見る荒涼たる広っ原だと、多少の呆れをなしたもので、退倒を来たしたわけではないのです。\n 安達ヶ原だから広い。その広い安達ヶ原を歩かせられていると観念してみれば、いまさら広いことに呆れるというのも知恵のない話だとあきらめて、せっせと足に任せて歩いているが、太陽がようやく自分の背の方に廻ったことに気がつくと、さあ、今晩の宿だ。東海東山の旅路では、どう紛れこんでも、何かある。山神村祠か山小屋、瓜小屋の類を、どこかの隅で見つけないことはないのだが、奥州安達ヶ原とくると、ないといえば、石っころ一つない――土を掘って、穴を作って寝るか、木の上へ枝をかき集めて巣を作って眠るか。\n いったい、この安達ヶ原というやつは、どこで尽きるのだ。\n 七兵衛は歩きながら、こういう疑問をわれと自問自答してみましたが、七兵衛の地理学上の素養が、この際、それと明答を与えてくれませんでした。\n それそれ、奥州の涯は外ヶ浜というところだと聞いている。してみると、この安達ヶ原を通り抜けると、外ヶ浜へ出る――外ヶ浜はいいが、浜となってみると、それからは海で、そこで陸地が尽きるのだ。安達ヶ原を乗切るのはいいが、乗りきって海へ出てしまったんではなんにもなるまいではないか。そのくらいなら、ドコかで方向転換をしなければならぬ。\n 方向転換の手段方法として、方位方角の観念だけは、七兵衛の経験と感覚が、その用を為すに充分である。どう間違っても、天に日があり、地に草木がある限り、東西南北の観念をあやまるような七兵衛ではないが、しかし、東西南北がたよりになるのは、そのうちのどれか一方に目的がある場合に限るので、東西南北いずれの方へ出たら近路につけるかという観念のない時には、東西南北そのものが指針とはならないのです。\n 長州の奇傑高杉晋作は、「本日東西南北に向って発向仕り候」と手紙に書いたそうだが、最初からそういう無目的を目的として発向するなら是非もないが、少なくとも今の場合の七兵衛は、いかに生来の怪足力とはいえ、歩くことのために歩いているのではない、どうかして無事に人里に出たいものだ、正しい方向に向って帰着を得たいものだ――と衷心に深く欣求して、ひたぶるに歩いているのです。\n 東西南北のいずれを問わず、ともかく何かひっかかりのある地点へ出てみたいものだと歩いているのです。ところが、やっぱり原は呆れ返るほど広い。\n「安達ヶ原は広いなア――」\nと七兵衛が、今更の如くにまた呆れた時分に、日は野末に落ちかかりました。\n\n 百四十八\n\n 常の七兵衛ならば、足に於て自信があるように、旅に於ても、その用意のほどに抜かりはありませんでした。\n たとえば、この行程幾日、もし間違って横へ走っても何日――その間の地理学上、よし絶食しても幾日の間――そういうことの予算をちゃんと胸に畳んで走りもし、逃げもし、変通もしていたのですが、今回は、なにしろはじめての奥州路、その用意をするにも、しないにも、その機会と材料とを絶対に与えられない縄抜けの身となって、着のみ着のままで仙台領を脱走して来たのです。\n 燧道具と附木だけは、辛うじて船頭小屋からかっぱらって来たが、それ以外には何物もない。\n 常ならば懐中に少なくとも七ツ道具を忍ばせている。その七ツ道具は、多年の経験によって洗練研究しつくされている独特の七ツ道具で、それが商売物にもなれば、旅行用にもなる。\n よしまた、そんなものがなくとも、人間の部落を成す土地をさえ見つけ出せば、七兵衛の本職として、そこから無断で、自由に、相当のものを徴発して来るのは、袋の中のものを取り出すと同様の能力を与えられている身だが、他のものを盗まねば生きられぬという浅ましい本能よりも、盗むべき何物もない荒涼さの方がたまらない。\n ついに日が暮れました。\n 足の七兵衛は疲れるということを知らないが、腹の七兵衛は、餓えるということを知っている。ああ、今夜もまた夜通し歩かねばならないのか。\n 歩くのはなんでもないが、腹がすいている。それも時によっては、二日や三日食わないで歩けといわれれば歩けないこともないが、そうして至れり尽すところが外ヶ浜ではやりきれない。つまり、行手に希望がありさえすれば、疲労も、飢餓も、頑張るだけ頑張って行く張合いというものがあるが、さて、頑張り通した揚句が外ヶ浜ではたいがいうんざりする。\n さすがの七兵衛も、これにはうんざりしながら、そうかといって、足をとどめようとするなんらの引っかかりもなく、行くにつれて宵は深くなる。星は相当あるべき晩なのですが、降るというほどではないが、天が曇っている。\n 真闇な晩です。\n しかしまた、真闇ということは、決して常人ほどに七兵衛を難渋させる事情とはならない。彼は弁信のような神秘的な勘は持っていないが、多年の商売柄と、それから幾分の天才とで、暗中よく相当に物を見るの明を保有している。そこで暗いということは苦にせずして、怪足力に馬力を加えて行っているうちに、幸か不幸か、遥かに彼方にたしかに一点の火を認めました。\n 火のあるところに人があり、文明がある、という哲理は、前に田山白雲の場合にも書きました。七兵衛は、その敏感な眼を以て、数町か、数里か、とにかく行手のある地点で一つの火光を認めてしまったものですから、七兵衛ほどの曲者も、\n「占めた!」\nと叫んで、その怪足力がまたはずみ出したのはやむを得ません。\n 七兵衛の眼はあやまたず、たしかに一点の火光があり、その火光を洩らすところの一つ家がある!\n だが、およそほかと違って、安達ヶ原の一軒家――見つけたことが幸か不幸かわかるまい。\n\n 百四十九\n\n「そうだ、安達ヶ原の黒塚には鬼がいる!」\n 七兵衛ほどの代物だが、それと感づいた時に一時は、たじろぎました。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 安達ヶ原といえば、誰だって「一つ家」を思い出さないものはあるまいが、「一つ家」を思い出す限り、その「一つ家」の中に棲んでいるものが「鬼」でなくて何だ。\n 鬼は有難くないな。\n とうとう、安達ヶ原へ迷いこんで、鬼の籠る一つ家へ追い込まれてしまった。\n 有難くねえな。\n 七兵衛は苦笑いをしてしまいました。いかに科学の力に乏しい七兵衛とは言いながら、いかにまた土地柄が奥州安達ヶ原とは言いながら、田村麿の昔ならいざ知らず、今の世に「鬼」なんぞが棲んでたまるか――と冷笑するくらいの聡明さを持たない七兵衛ではないが、こういう時間、こういう場合に置かれてみると、どうしてもその聡明さが取戻せない。ばかばかしいと思いながら、やっぱり、あちらに見えるあの一つ家は鬼の隠れ家だ、そうでなければこんなところに、こんなに一軒家の生活が成り立つわけのものではない。\n 七兵衛は、鬼の存在を、事実に於て否定しながら、想像に於て、どうしても絶滅を期することができない。\n しかし、この際に於ては、鬼であろうとも、夜叉であろうとも、取って食われようとも、食われまいとも、あの一つ家を叩いてみるよりほかはない。まして自分として、鬼とも組もうというほどの力持ちではないが、なにもそう鬼だからといって、弱味ばかりを見せていていい柄ではない。おれも武州青梅の裏宿七兵衛だ。安達の鬼が出て、食おうとも言わない先から逃げては名折れになる。\n ここで、はじめて七兵衛は、鬼に対する一種の敵愾心と、満々たる稚気とを振い起して、その一つ家に向って近づいてみると、ほどなく――右の一つ家のつい眼の前のところへ来て、小流れにでくわしました。\n 人間のすむところの家には火がなければならぬと同一の理由をもって、水がなければならない。鬼といえども、口があって、腹がある動物である以上は、水のないところに棲息はできないはずだ。こうなければならないと、七兵衛はその小流れを肯定しつつ軽く飛び越えて見ると、この小流れから一つ家に到るまでの間が、まだ相当の空地になっている。その空地に塚を置いたように、相当の間隔を置いて、幾つもの土饅頭がある。その土饅頭に、一本二本ずつの卒塔婆がおっ立っている。\n それはまあいいとして、その土饅頭を数えて行くと、いま掘りっ放しの穴がある。穴の傍らに、極めて粗造りな棺箱が荒縄でからげられて、無雑作に押しころがされてある。\n その荒涼さには、七兵衛ほどのくせものも、ぎょっとせざるを得なかった。その粗造りな棺箱の板の隙間を、七兵衛が鋭い眼を以て透し眺めると、中にはまさしく人骨と、人肉が、バラバラになって詰め込まれて、すきまからまでハミ出してさえいる。\n「鬼に喰われた人間の食い残されだ!」\n 遮二無二そう思わせられると、ここでも七兵衛ほどの曲者が、思わず身の毛をよだてざるを得ません。\n\n 百五十\n\n これが、音にきく安達の黒塚で、この棺箱の中がすなわち鬼に喰いちらかされた人骨だ――事実、今時、そんなことが有り得るはずはないが、想像としては、どうしてもそれより以外へ出ることはできない。\n 当然、自分は、その安達の黒塚の鬼の棲処へ送りつけられて来たものだ。もう退引がならない。\n だが、鬼は鬼としても、こうして食い散らかした人間の骨を、御粗末ながら棺箱の中へ納めて置くというところに幾分の殊勝さがある。まして、こうして幾つもの土饅頭、いずれ鬼共が思うさま貪り食った残骨の名残りでもあろうが、それにしても、形ばかりでも埋めて、土を盛り上げた上に、卒塔婆の一本も立てようというのが、鬼としては、いささか仏心あるやり方だ。今時の鬼は、なかなか開けて来ている。七兵衛は、こんなような冷笑気分も交って、やがて思いきって、一つ家の前へ進んで、その戸を叩いてみると、中からかえって怯えたような声で、\n「おや、誰だえなア、今頃、戸を叩くのは」\n「ちょっとお頼み申します」\n「誰だえなア」\n「ええ、旅のものなんでございますが、道に迷いましてからに」\n「旅の衆かエ――まあ、どちらからござらしたのし」\n「ええ、西の方から参りました」\n「西の方から、では、小平の方からいらしたな」\n 小平が西だか東だか知らないけれども、七兵衛は、この際、よけいなダメを押す必要はないと考えて、\n「はい、左様でございます」\n「ほんとかなあ、よくまあ、この夜中に、鬼にも喰われねえで......」\n「え......」\nと、七兵衛がまた聞き耳を立てました。先方のいま言った言葉の意味は、よくまあこの夜中に鬼にも喰われないで、無事にやって来たな――とこういう意味に相違ないから、七兵衛が先を打たれてしまったように感じました。鬼に喰われずにここまで来たんではない。これから鬼に対面して、喰われるか、喰うかの土壇場のつもりで来ているのだ。\n 七兵衛の狼狽に頓着なく、先方は早や無雑作に土間へ下りて来て、七兵衛の叩いた戸を内からあけにかかりながら言うことには、\n「よく、まあ、鬼にも喰われずにござらしたのし、お前さん、岩見重太郎かのし」\n「いや、どうも、おかげさまで――」\n 岩見重太郎呼ばわりまでされたので、七兵衛も内心いよいよ転倒恐縮せしめられていると、無雑作にガラッと戸をあけて、面を現わした主は、鬼どころではなく、人間も人間、人間の中の極めて温良質朴な男です。\n「今晩は......」\n「よくまあ......」\n「恐れ入ります......」\n 充分に身構えをして見直したのですが、やっぱり、山里に見る普通の百姓体の若い者以外の何者でもないし、その肩越しにのぞいて見ても、しきり戸棚の彼方に、人骨がころがっているようなことはない。炉にはよく火が燃えている。これが銀のような毛を乱した婆様でもあると、凄味も百パーセントになるが、こんな普通平凡な田舎男では、化けっぷりに趣向がなさ過ぎる――\n と思いながら、七兵衛はこの一つ家の中へ入りますと、男が非常に親切に炉辺に招じながらも、口に繰返して、\n「よくまあ、鬼に喰われませんで......」\n\n 百五十一\n\n おかげさまで鬼に喰われもせずここまで来たことはごらんの通りだが、そうそう繰返して言われると、ここへ来るまでには、鬼に喰われるのが当然で、喰われないで無事で来たことが意外であったというようにとれる。\n もしまたこの質朴な田舎男が、仮りに鬼の化け物であるとしてみると、まさにこれから人を捕って喰おうとしながら、表向き、こんな空々しい言葉を吐くのが、もう既に人を喰っている。\n 七兵衛は面憎くその男を見直そうとしたが、どうも、憎めない。どう見直しても、鬼がこんな模範青年のような人相に化け得られるはずもなく、またその必要もあるまい。そこで再び、鬼というやつは婆様に化けたがるものである、現に安達の一つ家は、鬼婆アを主としてはじめて有名であり、渡辺綱をたばかりに来た鬼も、婆様の姿をして来たればこそ有効である。世に鬼婆アというものはあるが、鬼爺イというのはあんまり聞かない。まして、鬼がこんな凄味の利かない模範青年に化けたってはじまらないじゃないか。\n でも、無気味な感じは持ちながら、七兵衛は、あんまり遠慮もせずに、炉中へ土足のままふんごんで、あたらせてもらいました。\n 真黒い鍋の中で、何かグツグツと煮ている。無論、米ではない、粟でもない、さりとて稗でもない、薯でもない。七兵衛は、その鍋の中を判断し兼ねていたが、そうかといって、人間の肝を煮ているわけでもないようです。\n そうすると、件の男が薪を折りくべながら、\n「でもまあ、よく鬼に喰われませんでのし」\n またしても......あまりのしつっこさに、七兵衛グッと癪にさわり、\n「鬼には喰われなかったが、若衆さん、安達ヶ原の広いにゃ驚きやしたよ」\n「へえ――」\n 相当、壺を言ったつもりなのが、先方はかえってキョトンとして、ねっから響かないのであります。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "浮世絵の鑑賞\n\n一\n\n 我邦現代における西洋文明模倣の状況を窺ひ見るに、都市の改築を始めとして家屋什器庭園衣服に到るまで時代の趣味一般の趨勢に徴して、転た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。\n 余かつて仏国より帰来りし頃、たまたま芝霊廟の門前に立てる明治政庁初期の官吏某の銅像の制作を見るや、その制作者は何が故に新旧両様の美術に対してその効果上相互の不利益たるべきかかる地点を選択せしや、全くその意を了解するに苦しみたる事あり。余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が何ら愛惜の念もなく見附と呼馴れし旧都の古城門を取払ひなほ勢に乗じてその周囲に繁茂せる古松を濫伐するを見、日本人の歴史に対する精神の有無を疑はざるを得ざりき。泰西の都市にありては一樹の古木一宇の堂舎といへども、なほ民族過去の光栄を表現すべき貴重なる宝物として尊敬せらるるは、既に幾多漫遊者の見知する処ならずや。然るにわが国において歴史の尊重は唯だ保守頑冥の徒が功利的口実の便宜となるのみにして、一般の国民に対してはかへつて学芸の進歩と知識の開発に多大の妨害をなすに過ぎず。これらは実に僅少なる一、二の例証のみ。余は甚しく憤りきまた悲しみき。然れども幸ひにしてこの悲憤と絶望とはやがて余をして日本人古来の遺伝性たる諦めの無差別観に入らしむる階梯となりぬ。見ずや、上野の老杉は黙々として語らず訴へず、独りおのれの命数を知り従容として枯死し行けり。無情の草木遥に有情の人に優るところなからずや。\n 余は初めて現代の我が社会は現代人のものにして余らの決して嘴を容るべきものにあらざる事を知りぬ。ここにおいて、古蹟の破棄も時代の醜化もまた再び何らの憤慨を催さしめず。そはかへつてこの上もなき諷刺的滑稽の材料を提供するが故に、一変して最も詭弁的なる興味の中心となりぬ。然れども茶番は要するに茶番たるに過ぎず。いかに洒脱なる幇間といへども徹頭徹尾扇子に頭を叩いてのみ日を送り得べきものに非ず。余は日々時代の茶番に打興ずる事を勉むると共に、また時としては心ひそかに整頓せる過去の生活を空想せざるを得ざりき。過去を夢見んには残されたる過去の文学美術の力によらざるべからず。これ余が広重と北斎との江戸名所絵によりて都会とその近郊の風景を見ん事を冀ひ、鳥居奥村派の制作によりて衣服の模様器具の意匠を尋ね、天明以後の美人画によりては、専制時代の疲弊堕落せる平民の生活を窺ひ、身につまさるる悲哀の美感を求めし所以とす。\n\n二\n\n 浮世絵は余をして実に渾然たる夢想の世界に遊ばしむ。浮世絵は外人の賞するが如く啻に美術としての価値のみに留まらず、余に対しては実に宗教の如き精神的慰藉を感ぜしむるなり。特殊なるこの美術は圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。当時政府の保護を得たる狩野家即ち日本十八世紀のアカデミイ画派の作品は決してこの時代の美術的光栄を後世に伝ふるものとはならざりき。しかしてそは全く遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。官営芸術の虚妄なるに対抗し、真正自由なる芸術の勝利を立証したるものならずや。宮武外骨氏の『筆禍史』は委さにその事跡を考証叙述して余すなし。余また茲に多くいふの要あるを見ず。\n\n三\n\n 浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹たる行燈の火影を見るの思ひあり。油画の色には強き意味あり主張ありて能く制作者の精神を示せり。これに反して、もし木板摺の眠気なる色彩中に制作者の精神ありとせば、そは全く専制時代の萎微したる人心の反映のみ。余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも娼婦が啜り泣きする忍び音を聞く如き、この裏悲しく頼りなき色調を忘るる事能はざるなり。余は現代の社会に接触して、常に強者の横暴を極むる事を見て義憤する時、飜つてこの頼りなき色彩の美を思ひその中に潜める哀訴の旋律によりて、暗黒なる過去を再現せしむれば、忽ち東洋固有の専制的精神の何たるかを知ると共に、深く正義を云々するの愚なることを悟らずんばあらず。希臘の美術はアポロンを神となしたる国土に発生し、浮世絵は虫けら同然なる町人の手によりて、日当り悪しき横町の借家に制作せられぬ。今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度合理の眼を以てその外皮を看破せば武断政治の精神は毫も百年以前と異ることなし。江戸木板画の悲しき色彩が、全く時間の懸隔なく深くわが胸底に浸み入りて常に親密なる囁きを伝ふる所以けだし偶然にあらざるべし。余は何が故か近来主張を有する強き西洋の芸術に対しては、宛ら山嶽を望むが如く唯茫然としてこれを仰ぎ見るの傾きあるに反し、一度その眼を転じて、個性に乏しく単調にして疲労せる江戸の文学美術に対すれば、忽ち精神的並に肉体的に麻痺の慰安を感ぜざるを得ず。されば余の浮世絵に関する鑑賞といひ研究といふが如き、元より厳密なる審美の学理に因るものならず。もし問ふものあらば余は唯特別なる事情の下に、特別なる一種の芸術を喜ぶと答へんのみ。いはんや泰西人の浮世絵に関する審美的工芸的研究は既に遠く十年以前全く細微に渉りて完了せられたるにおいてをや。\n\n四\n\n 余は既に幾度か木にて造り紙にて張りたる日本伝来の家屋に住し春風秋雨四季の気候に対する郷土的感覚の如何を叙述したり。此の如く脆弱にして清楚なる家屋と此の如く湿気に満ち変化に富める気候の中に棲息すれば、かつて広大堅固なる西洋の居室に直立闊歩したりし時とは、百般の事自ら嗜好を異にするはけだし当然の事たるべし。余にしてもしマロック皮の大椅子に横りて図書室に食後の葉巻を吹かすの富を有せしめば、自らピアノと油絵と大理石の彫刻を欲すべし。然れども幸か不幸か、余は今なほ畳の上に両脚を折曲げ乏しき火鉢の炭火によりて寒を凌ぎ、簾を動かす朝の風、廂を打つ夜半の雨を聴く人たり。清貧と安逸と無聊の生涯を喜び、酔生夢死に満足せんと力むるものたり。曇りし空の光は軒先に遮られ、障子の紙を透してここに特殊の陰影をなす。かかる居室に適応すべき美術は、先づその形小ならざるべからず、その質は軽からざるべからず。然るに現代の新しき制作品中、余は不幸にしていまだ西洋の miniature または銅板画に類すべきものあるを見ず。浮世絵木板摺はよくこの欠陥を補ふものにあらずや。都門の劇場に拙劣なる翻訳劇出づるや、朋党相結んで直ちにこれを以て新しき芸術の出現と叫び、官営の美術展覧場に賤しき画工ら虚名の鎬を削れば、猜疑嫉妬の俗論轟々として沸くが如き時、秋の雨しとしとと降りそそぎて、虫の音次第に消え行く郊外の侘住居に、倦みつかれたる昼下り、尋ね来る友もなきまま、独り窃に浮世絵取出して眺むれば、ああ、春章写楽豊国は江戸盛時の演劇を眼前に髣髴たらしめ、歌麿栄之は不夜城の歓楽に人を誘ひ、北斎広重は閑雅なる市中の風景に遊ばしむ。余はこれに依つて自ら慰むる処なしとせざるなり。\n\n五\n\n 近世的の大詩人ヴェルハアレンの詩篇に、そが郷国フランドルの古画に現はれたる生活慾の横溢を称美したる一章あり。\n\n\nArt flamand, tu les connus, toi\nEt tu les aimes bien, les gouges,\nAu torse épais, aux tétons rouges;\nTes plus fièrs chefs-d'œuvres en font foi.\n\nQue tu peignes reines, déesses,\nOu nymphes, émergeant des flots,\nPar troupes, en roses îlots,\nOu sirènes enchanteresses,\n"
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"content": "Ou Pomons aux coutours pleins,\nSymbolisant les saisons belles,\nGrand art des maitres ce sont elles,\nCe sont les gouges que tu peins.\n\nフランドルの美術よ、汝こそはよく彼の淫婦を知りたれ。よくかの乳房赤く肉逞しき淫婦を愛したれ。フランドルの美術の傑作はいづれかその証ならざる。\nその妃を描き女神を描き、或は紅の島に群れなして波間に浮ぶナンフ或は妖艶の人魚の姫。\n或はまた四季の眺めを形取る肉付のよきポモンの女神。およそフランドル名家の描きし大作は、皆これかの淫蕩なる婦女にあらざるなきを。\n\n\n この詩章を読みて卑猥なりとなすものあらば、そはこの詩章の深意を解すること能はざるものなり。ヴェルハアレンはフランドルの美術に現れし裸体の婦女によりて偉大なる人間の活力を想像し賞讃措く能はざりしなり。彼は清浄と禁慾を主としたる従来の道徳及び宗教の柵外に出で、生活の充実と意志の向上を以て人生の真意義となせり。永劫の理想に向つて人生意気の赴く所、ここに偉大の感情あり。悲壮の美あり、崇高の観念あり。汚辱も淫慾も皆これ人類活力の一現象ならずして何ぞ。彼の尊ぶ所は深甚なる意気の旺盛のみ。\n\n\nDans la splendeur des paysages,\nEt des palais, lambrissés d'or,\nDans la pourpre et dans le décor\nSomptueux des anciens âges,\n\nVos femmes suaient la santé,\nRouges de sang, blanches de graisse;\nElles menaient les ruts en laisse,\nAvec des airs de royauté.\n\n絶佳明媚の山水、粉壁朱欄燦然たる宮闕の中、壮麗なる古代の装飾に囲繞せられて、フランドル画中の婦女は皆脂肪ぎりて肌白く血液に満ちて色赤く、おのが身の強健に堪へざる如く汗かけり。これらの婦女は恣にその淫情を解放して意気揚々いささかの羞る色だもなし。\n\n\n これ欧洲新思想の急先鋒たるヴェルハアレンが郷土の美術を詠じたる最後の一章たり。フランドルはもと自由の国たり。フラマン人は西班牙政庁の羈絆を脱するや最近十九世紀の文明に乗じて一大飛躍を試みたる国民たり。ヴェルハアレンが Rubens, Van Dyck, Teniers ら十七世紀の名画を見その強烈なる色彩に感激したるは毫も怪しむに足らざるなり。しかして余は今自己の何たるかを反省すれば、余はヴェルハアレンの如く白耳義人にあらずして日本人なりき。生れながらにしてその運命と境遇とを異にする東洋人なり。恋愛の至情はいふも更なり、異性に対する凡ての性慾的感覚を以て社会的最大の罪悪となされたる法制を戴くものたり。泣く児と地頭には勝つべからざる事を教へられたる人間たり。物いへば唇寒きを知る国民たり。ヴェルハアレンを感奮せしめたる生血滴る羊の美肉と芳醇の葡萄酒と逞しき婦女の画も何かはせん。ああ余は浮世絵を愛す。苦界十年親のために身を売りたる遊女が絵姿はわれを泣かしむ。竹格子の窓によりて唯だ茫然と流るる水を眺むる芸者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麦売の行燈淋し気に残る川端の夜景はわれを酔はしむ。雨夜の月に啼く時鳥、時雨に散る秋の木の葉、落花の風にかすれ行く鐘の音、行き暮るる山路の雪、およそ果敢なく頼りなく望みなく、この世は唯だ夢とのみ訳もなく嗟嘆せしむるもの悉くわれには親し、われには懐し。\n\n六\n\n 浮世絵は元より木板画にのみ限られたるにあらず。師宣、政信、懐月堂等の諸家は板画と共に多く肉筆画の制作をなせしが、鳥居清信専ら役者絵の板下を描き、宮川長春これに対して肉筆美人画を専らとせしより、中古の浮世絵はやや確然として肉筆派と板下派との二流に分るるの観ありき。しかして明和二年に至り、鈴木春信初めて精巧なる木板彩色摺の法を発見せしより浮世絵の傑作品は多く板画に止まり、肉筆の制作は湖龍斎、春章、清長、北斎らの或る作品を除くの外、多く賞讃するに足るものなきに至りぬ。浮世絵肉筆画の木板摺に及ばざる理由は、専らその色彩の調和に存す。木板摺においてはそが工芸的制作の必然的結果として、ここに特殊の色調を生じ、各色の音楽的調和によりて企てずして自から画面に空気の感情を起さしむるといへども、肉筆画にありては、朱、胡粉、墨等の顔料は皆そのままに独立して生硬なる色彩の乱雑を生ずるのみ。これ画家の罪にあらずして日本画の物質的材料の欠点たり。今諸家の制作を見るに、木板色摺のいまだ進歩せざりし紅絵の時代においては、板下画家はその色彩の規範を常に肉筆画に仰ぎたれども、後には全く反対となり、肉筆画の色彩をばかへつて木板画に倣はんとするに至りぬ。ゴンクウルは歌麿が蚊帳美人の掛物につきて、その蚊帳の緑色と女帯の黒色との用法の如き全く板画に則りしものとなせり。肉筆画の木板画に及ばざる他の理由は布局の点なり。木板画は春信以後その描かれたる人物は必ず背景を有しここに渾然たる一面の絵画をなす、然らざれば地色の淡彩によりてよく温柔なる美妙の感情を誘へり。然るに此の如きは全く肉筆画の企て得ざる処とす。試みに今土佐狩野円山等各派の制作と浮世絵とを比較するに、浮世絵肉筆画は東洋固有の審美的趣味よりしてその筆力及び墨色の気品に関しては決して最高の地位を占むるものにはあらざるべし。唯木板彩色摺において始めて動かしがたき独特の価値を生ず。浮世絵の特色は板画にあり。板画の特色は優しき色調にあり。これがために浮世絵は能く泰西の美術に対抗し得るなり。\n\n七\n\n 新しき国民音楽いまだ起らず、新しき国民美術なほ出でず、唯だ一時的なる模倣と試作の濫出を見るの時代においては、元よりわが民族的芸術の前途を予想する事能はざるや論なし。余は徒に唯多くの疑問を有するのみ。ピアノは果して日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油画と大理石とは果して日本特有なる造形美を紹介すべき唯一の道たりや。余は余りに数理的なる西洋音楽の根本的性質と、落花落葉虫語鳥声等の単純可憐なる日本的自然の音楽とに対して、先づその懸隔の甚だしきに驚かずんばあらず。余は日本人の描ける油画にして、日本の婦女と日本の風景及び室内を描けるものに対しては常に熱心なる注意を怠らず。然れども余は不幸にしていまだかつて油画の描きたる日本婦女の髷及び頭髪に対し、あるひは友禅、絣、縞、絞等の衣服の紋様に対して、何ら美妙の感覚に触れたる事なく、また縁側、袖垣、障子、箪笥等の日本的家居及び什器に対して、毫も親密なる特殊の情趣を催したる事なし。余はしばしば同一の画家の制作につきて、その描ける西洋の風景は日本の風景よりも遥に優秀なるが如き感をなせり。一歩を進めて妄断する事を憚らざれば油画は金髪の婦女と西洋の風景とを描くに適するものといふべし。余は決して邦人の制作する現代の油画を嫌ふものにあらず、然れども奈何にせん、歌麿と北斎とは今日の油画よりも遥によく余の感覚に向つて日本の婦女と日本風景の含有する秘密を語るが故に、余はその以上の新しき天才の制作に接するまで、容易に江戸の美術家を忘るること能はずといふのみ。日本都市の外観と社会の風俗人情は遠からずして全く変ずべし。痛ましくも米国化すべし。浅間しくも独逸化すべし。然れども日本の気候と天象と草木とは黒潮の流れにひたされたる火山質の島嶼の存するかぎり、永遠に初夏晩秋の夕陽は猩々緋の如く赤かるべし。永遠に中秋月夜の山水は藍の如く青かるべし。椿と紅梅の花に降る春の雪はまた永遠に友禅模様の染色の如く絢爛たるべし。婦女の頭髪は焼鏝をもて殊更に縮さざる限り、永遠に水櫛の鬢の美しさを誇るに適すべし。然らば浮世絵は永遠に日本なる太平洋上の島嶼に生るるものの感情に対して必ず親密なる私語を伝ふる処あるべきなり。浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外に輸出せられたり。悲しからずや。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"content": "お千絵様\n\n みぞれ模様の冬空になった。明和二年のその年も十一月の中旬を過ぎて。\n ここは江戸表――お茶の水の南添いに起伏している駿河台の丘。日ごとに葉をもがれてゆく裸木は、女が抜毛を傷むように、寒々と風に泣いている。\n 虱しぼりの半手拭を月代に掛けて、継の当った千種の股引を穿き、背中へ鉄砲笊をかついだ男が、\n「屑ウーイ。屑ウーイ」\n 馴れない声で、鈴木町の裏を流していた。\n「エエ寒い。こいつが関東の空ッ風か......」\n と、胴ぶるいをした屑屋の肩へ、パラパラと落葉の雨が舞いかかった。\n「寒いのはとにかくだが、さっぱり呼んでくれねえのは心細い。せめてこの近所に馴染ができれば、ちッたあ様子も聞かれるだろうと思うが......なにしろすること、なすことはずれてきやがる。考えてみると俺は三十六、今年は大厄だったんだなア」\n 愚痴をこぼしてフラフラと一、二町、うつむいたまま歩いて来ると、頭の上の窓口から、\n「屑屋さん」\n と、女の声で呼び込まれた。\n 呼ばれたので急に思い出したように、\n「屑ウーイ」と、商売声を出したから、呼んだ女もおかしくなれば、屑屋も自分ながらてれ臭そうにあおむいた。\n「屑屋でございますが......」と、もう一度、窓に見える女の顔へ頭を下げると、\n「あッちへ廻って下さいな」\n「へ、お勝手口へ?」\n「そこに潜り戸があるだろう」\n「ございます、ございます」ガラリと開けた水口の戸も開けっ放しに、鉄砲笊と一緒に入り込んだ。\n「たいそうお寒うございますな」\n「縁側のほうへお廻りよ、少しばかり古反古を払いますから」\n 打ち見たところ、五人扶持ぐらいな御小人の住居でもあろうか。勝手つづきの庭も手狭で、気のよさそうな木綿着の御新造が払い物を出してきた。\n 煙草の火を借りて話し込んだ屑屋、さっきからこの界隈の噂ばなしをしきりに聞きたがって、\n「時に御新造様......、この駿河台にある甲賀組というのは、たしか、この前の囲いの中にある、真っ黒なお屋敷のことじゃございませんでしたか」\n「そうだよ、墨屋敷といってね、二十七家の隠密役の方ばかりが、この一つ所にお住まいになっている」\n「二十七軒もありますか。フーム、ずいぶん広いものでございますなア」とわざとらしく感心して、ちょっと相手の容子をみたが、その眸の底に鋭い光が潜んでいた。\n「申しちゃ失礼でございますが、隠密役なんていう方は、平常は何の御用もねえでしょうに、これだけの家筋をそれぞれ立てておく将軍様の世帯も、大きなもんじゃありませんか」\n「だからだんだんとその家筋を、お上でも減らすようにしているという話だね」\n「そうでしょう。権現様の時代には、戦もあれば敵も多い、そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召し抱えになる必要がありましたろうが、今じゃ天下泰平だ。なんとか口実をつけて減らす算段もするでしょうさ」\n「現にツイ先頃も、また一軒のお古い屋敷が絶家になって潰れたという話だよ」\n「そうそう、それは甲賀世阿弥様という、二十七軒の中でも、宗家といわれた家筋でございましょう」\n「オヤ、お前よく知っておいでじゃないか」\n「実は、御新造様......」と屑屋はあたりへ気配りして、にわかに声を低くした。\n「わっしの不馴れな様子でもお分りでしょうが、まったくは、これは本業じゃございませんので」\n「えっ......」と内儀は少し後ずさって、「まあ、気味の悪い屑屋さんだ。毎日この辺ばかり歩いているし、それに稼業馴れないふうだから、可哀そうに思って呼んでやったのに......、じゃ、屑屋は世間態だけなのね」\n「もし、御新造様。そうお驚きなすッちゃ困ります」\n「困るのは私のほう、そんな仮面をかぶって世渡りするような者なら、迷惑ですから、サッサと帰って下さいまし」\n「決して、盗ッ人や騙りじゃございませぬ。どうかご安心なすって、その甲賀家のことについてご存じだけ、お聞かせなすって下さいませんか」\n「いいえ、素姓の知れない者などと、めったな話はできません」\n「じゃ、その身柄を正直に明かします。もし......御新造様、わっしはこれが本業なのでございます」と、内懐から抜いた紺房の十手を、そッと内儀の前に出して、虱しぼりの手拭をとった。\n\n「まあ」と、内儀は十手を見て、いっそう気味悪そうな面持をした。とんだ屑屋を呼び入れてしまったと、今になって後悔する色がありありとみえる。\n「ですが、決してこちらさまへ、ご迷惑をおかけ申しは致しません」と、髷からはずした手拭を折り畳んで、縁先へ腰を入れた男は、目明し万吉、彼であった。\n「深い事情は申されませんが、わっしは大阪東奉行所の手先です。といっても内々は、少し道楽半分な目的に憂き身をやつしておるので......」出された茶を啜って、素姓を明かした目明し万吉。後は程のいいこしらえごとを口実に、近頃、絶家になってしまったという甲賀家の消息を根掘り葉掘り訊きはじめた。\n 禅定寺峠の上から、弦之丞と西東に立ち別れ、一足先に江戸へ入った万吉は、まだ何かの都合で、お千絵様にも会ってはいないらしかった。\n という次第は。\n 彼が江戸へ入ると真っ先に、この駿河台の墨屋敷、甲賀家の門を訪れたのは無論だったが、ひょいと見ると門札の名が変っている。その門札には、甲賀世阿弥の代りに「旅川周馬」という文字が書かれてあった。\n しまッた! 遂に間に合わなかったのである。つまり第一に阿波へ立った銀五郎がああいうはめとなり、何の便りもなく半年以上の日が過ぎたため、隠密組の法規通り、満十年帰らぬ甲賀世阿弥は、客死したものとお上に見なされ、そのお家は断絶の命が下されてしまったのだ。\n ああ、何もかも鶍の喙――と落胆したが、とにかく、その代がわりになっている旅川周馬という者に会い、絶家したお千絵様が、どこに身を落ちつけたか、それを尋ねてみるにしかずと門をくぐった。\n ところが、玄関はピッタリ釘付け、庭口も錠を下ろしてある様子。呼べど出てくる人はなく、昼だというのにすべての雨戸も閉じきってある。\n 黒い板塀の周りを巡ってみると、十年も主がいなかった甲賀宗家。この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構えだが、広いだけに荒れ方も甚だしく、雑草離々として古社ででもあるような相だ。\n と――瓦腰の隅座敷、そこの窓だけが細目に一ヵ所開いていた。万吉がふと目をつけて、塀の穴から差し覗いてみると、やッぱり人の気配はない。シーンとして狐狸の棲家かと思われるくらい。\n だが――ここに必ず誰か棲んでいることを、その時、万吉に教えてくれたものがあった。何かといえば、その部屋の腰壁と垣の間に落ちていた丸い紙屑だ――雨に打たれた様子もなく、フワリと草の上に浮いているのは、捨てたばかりの手拭紙に相違ない。\n いつか俵一八郎に、今度のことは目的が大きい、必ずケチな目明し根性を出すなよ、といわれてもいたが、こんな物が目に触れると検索心がムラムラする。万吉はそこらの棒切れを拾って、塀の穴から腕を伸ばし、その紙屑の玉をかきよせて手に取った。\n 嗅いでみると、プーンと伽羅油のにおいがする。そして皺をのばした紙の中からもつれた髪の毛が四、五本出た。その一本を指に伸ばして見て、彼は女の毛だということを知った。\n「してみるとこの屋敷は、お千絵様が立ち退いた後へ、旅川周馬とかいう奴や、女も住んでいるらしい。とすると、おかしいなあ......なんだって、こう草茫々としたまま方々釘付けにしてあるんだろう?」\n 耳をつねって考えても、どうもはっきりした見当がつかないふう。\n で、今度はこの一廓の、ほかの墨屋敷を訪れて尋ね廻った。ところが、誰の答えも一致して、"
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"role": "assistant",
"content": "「アア、お千絵様でございますか。お気の毒でございますねえ。ですけれど、手前方では、あのお方のことについて、何の存じ寄りもございません」と、ことに話を避けるのみか、姿を見たこともないという家ばかりだ。\n 毎日、同じ姿で聞き歩くのも変なので、俄屑屋を思いついた。これならどこの横丁へでも自由に入れる。日に一度ずつ墨屋敷の近所を歩き廻ったところで怪しまれる気づかいはない。\n そうしてようよう今日呼びこまれた家の内儀が、どうやら甲賀家や墨屋敷の事情に詳しい口ぶりなので、万吉は、わざと生地をはいでみせて、この手がかりを遁すまいとしたのである。\n\n 万吉が上手に口裏を探ってみると、そこの主は元甲賀組とも多少由縁のあった者らしく、初めは気をすくませていた内儀も、だんだん隙を緩めてしゃべりだした。\n「では何でございますか、そのお千絵様の居所さえ、お分りになればよろしいので」\n「ええ、それさえ知れれば、こんな寒空に鉄砲笊を担いで、毎日歩き廻ることもねえんです。で御新造様、一体お千絵様は、どこへ立ち退いてしまったものでしょうね?」\n「さあ、そこには深い事情があるようでして......」\n「な、なるほど。わっしもちっとばかり小耳に挟んでおりましたが、同じ甲賀組の中の者で、あのお方の縹緻と、世阿弥の残した財宝に目をつけて、つきまとっている奴もあるそうですな」\n「それなんですよ。あのお千絵様のお苦しみはね」\n「して、そいつの名は?」\n「旅川周馬というお人......。ア、うっかりよそで、私がしゃべったなどというて下さいますなえ」\n「ええ、おっしゃるまでもございません」\n「その周馬が、あの滅亡したお屋敷を、お代地としてお上からいただいたのをよいことにして、世間へはお千絵様が他へ立ち退いたように言いふらし、その実、門も戸も釘付けにしたまま、あの屋敷の奥に押しこめてあるのでございます。ええ、それは組仲間の者でもうすうす知っている人もあるでしょうが、なにしろ悪智にたけた周馬に仇をされるのが恐ろしさに、誰も、知らぬ顔をよそおっているのでございます」\n「へえ? じゃお千絵様は、やっぱりあの屋敷にいるんですか。ナーンだ、それじゃいくら屑籠を背負って、世間を嗅ぎ歩いても知れねえ訳だ。......イヤ、大きにどうもありがとう存じました、それだけ教えていただけば、後は商売商売というやつで、どんなことをしてもきっとお目にかかります」\n と万吉は礼をいって、また虱しぼりの手拭を頭にのせ、鉄砲笊を背中へ廻して往来へ出た。\n やがてその姿は、出た所から遠くない墨屋敷の堤囲いへ入り、甲賀家の古い黒塀に沿って、ピタ、ピタと藁草履の音をすりながら、\n「屑ウーイ。屑ウーイ」\n 張りしまっている心とは反対に、わざと間の抜けた濁み声を流していった。\n と――万吉は立ち止まって、ズウと後ろを見廻した。あっちこっちに黒い屋敷の塀や樹木が見えるのみで、この囲い内は人通りのない所だ。\n 万吉が立ち止まった所は、いつか初めてここを訪れた時、細目にあいている小窓を見たあの辺である。そこへ立つと目明し万吉、耳朶をつねってちょっと何か考えこむ。\n そして塀の節穴へ目を当てた。覗いてみると屋敷の中、相変らず森閑とはしているが、今日もあの窓の戸が四、五寸ほど開いている。\n「ははあ、やッぱりここだな。ここより外に人臭い様子がねえ。いつか草の中に、髪の毛のついた手拭紙が捨ててあったのもこの辺だ。ほかに女気もないという話、きっと座敷牢とでもいう按配になっているのかも知れねえ、一つ当ってみようか......」\n 何の造作もなく、万吉は塀の朽ちた穴を探して犬のように這い込んだ。どうせ犬の真似をしたついでだ、と思ったのでもなかろうが、そのまま膝で歩き寄って、隅座敷の窓の下へ屈み込む。\n そして、ややしばらく、じっと耳を澄ましていたが、時折黄色い銀杏の葉が、廂を打ってハラハラと落ちてくるほか、物音らしい音はない。\n はてな、やっぱり誰もいないのかしら? ......と思っていると、家の中でごく密やかに袋戸棚でも開けたような辷り音がした。そして柔らかい絹ずれが窓の近くへ寄ってきた。\n 窓を開けて、お千絵様が顔でも出してくれるような都合になれば、まことにありがたい偶然だが、なかなかそう願って叶う訳には行かない。\n で、万吉。遂に痺れがきれてしまったので、試みに羽目板をコツンコツンと指の尖で叩いてみた。だがやはり、いつまでたっても、中からあけて覗く気配がなかった。\n しかしそれにあせって、もし人違いな旅川周馬とでも、面と向ってしまった際には、それこそだいぶこと面倒になるだろう。としばらく我慢してみたが、どうもこっちから当りをつけるより仕方がなくなって、万吉は、いざといえば、半分逃げ支度の気構えを取って、\n「お千絵様......」と、聞き取れぬほど低い声をかけてみた。窓は屋敷作りなので背が届かぬほど高目にあった。\n「お千絵さま」\n 二度目に呼ぶと、\n「誰......?」\n すぐ低い答えが洩れてきた。しかもきわめて優しい女の返辞! 万吉はドキンと胸を躍らすと一緒に思わず「ありがてえ」と心の奥で呟いたことである。\n\n「そうおっしゃるのは、お千絵様でございましょうか」\n 姿は隠して、眼だけを白く上ずらせながら、も一度こう呼んでみると、今度はしばらく何の答えもなかったが、やがてよほど間をおいてから、\n「誰......?」\n かすかな女の声が前と同じに繰り返された。\n「その私は、お目にかかった上でなければ申されませぬが」\n 万吉はソロソロ身を伸ばして、\n「あなたは、甲賀世阿弥様の御息女、あの、お千絵様でございましょうな」\n くどいようだが、なお念を押すと、\n「エエ」\n とはばかるようなうなずきが、万吉の耳へやっと届いてきた。その声を聞くと、一遍に重荷が下りた心地がして、彼は、初めてのびのびと腰を立てて、雨戸の隙が四、五寸ほど障子になっている高窓の口を見上げたが、背が足らないので隙見をすることができない。\n だが、まアこれで安心というもの。やはりここがお千絵様の部屋だったものと見える。\n とかく、目明しなどという者は、八ツ当りに当った時と慢心の味に狎れて、いつでも物の裏を観よう、裏を行こうとする癖があるから、正直に、表が表で来たり、白が白で目の前に存在していたりすると、かえって己れの小智慧にからかわれて、神楽堂の外で神楽舞をやっているような、お話にならない骨折損をやるものだ――ということを、この時万吉、悟ったかどうだか。\n「では、お千絵様でいらっしゃいますな。さようなら申しあげますが......」と閉まっている窓の下から頭を下げて、\n「実はわっしは、大阪表からまいりましたもので、はい、是非折り入って内密にお目にかかりたいと存じますが」こういって、彼はまた向うの声を待っていた。しかし、こっちでさんざん疑心を抱いたように、先でも多少の警戒をもつとみえて、待てど容易に返辞がない。\n で万吉は、その疑惑を先に解いて貰うために、\n「決して、お案じなさる者じゃございません。あなた様のよくご承知な、法月弦之丞様からの使いで、大事な用をおびてまいった者でございますから」\n「えっ......」と驚く声。\n「はい」\n 応えがあったと万吉は固唾をのむ。\n「法月さんから?」\n「ご存じでございましょうが」と、その図に乗って、何の気もなく爪先立ちになり、上の窓框へ手をかけると、不意に! 窓の隙からその手をグイとつかみ取りに引き込まれて、格子へ絡みつけるように、強く捻じつけられてしまった。\n「あッ」\n と彼は羽目板へ足を踏んがけたが、もがけばもがくほど窓の角に手が縊れてしまうばかりだ。\n ちぇッ、不覚! 優しい女の声であったばかりに、油断しぬいていたのは俺にも似げなかったと、万吉は歯を食いしばって振りほどこうと試みたが、窓縁を力に両手で抑えつけている家の中の者と、爪尖立ちをして締木にかけられている下の者とは、地の利において大変な相違がある。\n こういう結果になってみると、やはり世の中には二一天作の五ばかりには行かず、二四が九であったり、三五十九である場合も常に心得ておかなければならないかも知れぬ。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「うむ、たえした挨拶だな、俺らまた姊弟つちやさうえもんぢやあんめえと思つてたんだつけな」おつたは少し勃然とした容子を見せた。\n「姊等が云ふこと聽いたつ位どんなことされつか分んねえから」勘次は自棄に蕎麥の幹を打ちつけ〳〵しつゝいつた。彼は而して一目もおつたを見なかつた。\n「什麽ことするつて俺ら泥棒はしねえぞ、勘次」其の切れた目尻に一種の凄味を持つておつたが立つた時、卯平はのつそりと戸口に大きな躯幹を運ばせた。\n 卯平はおつたを見て例の如く窪んだ茶色の目を蹙める樣にした。\n「おやこつちのおとつゝあん、暫くでがしたねどうも、御機嫌よろしがすね」おつたはそら〴〵しい程打つて變つた調子でいつた。\n「まあこつちへでも來さつせえね」卯平は隱居へおつたを導いた。\n「俺らいま外から歸つて來たばかしだが、何でがすね」卯平はぶすりと聞いた。\n「ほんにはあ、他人にや聞かせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目の野郎が一人あんだが、これ三十近くにもなるものをねえ、只打棄つても置けねえから嫁とらせべと思つて、えゝ鹽梅のがそれ口掛つたもんだから勘次げも一噺すべと思つて來た處なのさ、わしもこんで義理は缺くの厭だかんね」\n「さうしたら此の村落にえゝ鹽梅の家あるもんだから借りて身上持たせべと思つて保證に立つてくろつちつた處がたえした挨拶なのさ、三十錢か五十錢の家賃をねえ、不便だんべぢやねえかねえ不具の甥つ子のことをねえ、保證に立つた位身上潰れるつち挨拶なのさ、ねえこれ、年齡とつちやこつちのおとつゝあん先も短けえのに心底のえゝものでなくつちや、萬一の時が心配だからねえ、後の者の厄介に成りてえつちな皆おんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵つちのが心底のえゝ女だつちんだからわしも欲しいのさ本當の噺がねえ、さう云つちや我慾の樣だがおんなじもんなら軟けえ言辭でも掛けてくれる嫁でなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」おつたは狹い戸口に立つた儘洋傘の先で土へ穴を穿ちながら勘次の方をぢろつと見つゝいきり立つていつた。\n「そりや、はあ、さうだが」只此だけいつて寡言な卯平は自分の意を得たといふ樣に始終窪んだ目を蹙めて手からは煙管を放さなかつた。勘次は庭から偸むやうに視ては卯平がおつたへ威勢をつけて居るやうに思つた。彼は解いて打つて更に藁で括つた蕎麥の束をどさりと遠くへ擲つた。葉が更にぐつたりと萎れた鳳仙花の枝がすかりと裂て先が地についた。\n「姊等、大層なこと云つたつて、老人の面倒見たゝ云へめえ」勘次はぶつ〳〵と獨語した。おつたの耳にも微かにそれが聞えた。おつたは屹と見た。\n「おとつゝあ默つてるもんだ」おつぎは輕く勘次を制して\n「お晝餐だぞはあ」とおつぎは更に勘次へ注意した。\n「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷がした、わしや歸りませうはあ、一刻も居ちや邪魔でがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔に成んねえ方がようがすよねえ」おつたは洋傘を開いて\n「岡目でも知れまさあねえ、假令どうでも俵まで持つてられて、辨償つて見た處で三十錢か五十錢のことだんべぢやねえか、出來るも出來ねえもあるもんぢやねえ」とおつたは忌々敷さに其の口を止めなかつた。\n「お晝餐はどうでがすね」おつぎはそれでも怖づ〳〵おつたへいつた。\n「俺ら、はあ要らねえともね」おつたは蕎麥の種子の一杯に散らけた庭を遠慮もなく一直線に不駄の跡をつけた。\n「勘次等、親子仲よくつてよかんべ、世間の聞えも立派だあ、親身のもなあ、お蔭で肩身が廣くつてえゝや」おつたは庭の出口から一寸顧みていつた。さうしてさつさと行つて畢つた。隣の庭の麥打の連中は、靜かになつたこちらの庭を嘲るやうに騷いでは又騷ぐのが聞えた。勘次は只力を極めて蕎麥の幹を打つて遂に一言も吐かなかつた。おつぎは垣根の上に浮んだおつたの洋傘が見えなくなるまで暫くぽつさりとして庭に立た。卯平は煙管を噛んだ儘凝然として默つて居た。卯平は暫くして鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立つた。彼はいきなり蕎麥幹の束を大きな足で蹴つた。彼は更に短い竹の棒を持つて行つてきつと力を極めて地に突き透した。垂れた鳳仙花の枝は竹の杖に縛りつけようとして手を觸れたらぽろりと莖から離れて畢つた。卯平は忌々敷相に打棄つた。卯平がのつそりと大きな躯幹を立てた傍に向日葵は悉く日に背いて昂然として立つて居る。向日葵は蕾が非常に膨れて黄色に成つてから卯平が植ゑたのであつた。其の時はもう蕾はどうしても日のいふこと聽いて動かないので、暑いさうして乾燥の烈しい日がそれを憎んで硬い下葉をがさ〳〵に枯らした。それでも強い莖はすつと立つて、大抵はがつかりと暑さに打たれて居る草木の間に誇つたやうに見えた。其の一杯に開いた皿の樣な花が庭先からいつでも冷かな三人を嘲るものゝやうに見えるのであつた。\n 竹の棒はぎつと突き透した儘いつまでも空しく鳳仙花の傍に立つて居た。\n"
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"role": "assistant",
"content": "二〇\n\n 秋だ。\n 孰れの梢も繁茂する力が其の極度に達して其處に凋落の俤が微かに浮んだ。毎日透徹した空をぢり〳〵と軋りながら高熱を放射しつゝあつた日も餘りに長い晝の時間に倦まうとして、空からさうして地上の凡てが漸く變調を呈した。心もとなげな雲が簇々と南から駈け走つて、其度毎に驟雨をざあと斜に注ぐ。雨は畑の乾いた土にまぶれて、軈て飛沫を作物の下葉に蹴つて、更に濁水が白い泡を乘せつゝ低きを求めて去つた。それも僅に桑の木へ絡んだ晝顏の花に一杯の量を注いでは慌てゝ疾驅しつゝからりと熱した空が拭はれることも有るのであるが、驟雨は後から後からと驅つて來るので曉の白まぬうちから麥を搗いて庭一杯に筵を干た百姓をどうかすると五月蠅く苛めた。土地でいふ其の降つ掛けは一日で止まねば三日とか五日とか必ず奇數の日で畢つた。降つ掛けが來てから瓜畑は悉く蔓も葉も俄にがら〳〵に枯れて悲慘に成つて畢つた。極めてそつと然も騷がし相に動く雲が高く低く反對の方向に交叉しつゝあるのを見ると共に、枯燥しかけた草木の葉が相觸れ相打つてはだん〳〵と破れつゝざわ〳〵と悲しげな響を立てゝ鳴つた。凄い程冴えた夜の空は忙しげな雲が月を呑んで直に後へ吐き出し〳〵走つた。月は反對に遁げつゝ走つた。秋風だ。櫟や楢や雜木や凡てが節制を失つて悉く裏葉も肌膚も隱す隙がなくざあつと吹かれて只騷いだ。夜は寂しさに凡ての梢が相耳語きつゝ餘計に騷いだ。まだ暑い空氣を冷たくしつゝ豪雨が更に幾日か草木の葉を苛めては降つて〳〵又降つた。例年の如き季節の洪水が残酷に河川の沿岸を舐つた。洪水の去つた後は、丁度過激な精神の疲勞から俄に老衰した者の如く、半死の状態を呈した草木は皆白髮に變じて其の力ない葉先を秋風に吹き靡かされた。鬼怒川の土手に繁茂した篠の根に纏はつて居る短い鴨跖草も葉から莖から泥に塗れて居ながら尚生命を保ちつゝ日毎に憐れげな花をつけた。蛼が滅入る樣に其の蔭に鳴いた。空を遙に飛んだ椋鳥の群が幾つかに分れて、地上に低く騷いでは梢を求めてぎい〳〵と鳴きつゝ落付かなかつた。到る處荒れた藪の端や土手の瘠せた篠の梢に乘り掛つて、之を噛めば齒がこぼれるといはれて居る毒な仙人草が其の手を幾らでも延して思ひ切つて蟠つた蔓が白い花を一杯につけて、さうして活々としたものは自分のみであることを誇るものゝ如く、秋風に吹かれつゝ白い布の樣にふは〳〵と動いた。\n 勘次の村落は臺地であるのと鬼怒川の土手が篠の密生した根の力を以て僅ながら崩壤する土を引き止めたので損害が輕く濟んだ。それでも幾日か降り續いた雨が水を蓄へて低い畑は暫く乾くことがなかつた。田も其の水の爲に浸つた箇所が少くなかつた。勘次は日となく夜となく田畑を歩いて只管心を惱ましたが、漸く自分の田畑の作物が僅な損害に畢つたことを慥めた時は彼は激甚な被害地の状况を傳聞して自分の寧ろ幸であつたことを竊に悦んだ。彼が大豆を引いて庭に運んだ頃はまだ暑い日が落付いて毬の割れ始めた栗の木の梢から庭をぢり〳〵と照して居た。根が幾日もぐつしりと水に浸つてた大豆は黄色味の勝つた褐色の莢も幹も泥で汚れた樣に黒ずんで居た。\n 大豆を引いたのはそれでも稀な晴天であつたので「いひ返し」に來る筈に成つて居た南の女房を頼んだ。彼等は相互の便宜上手間の交換をするのであるが、彼等はそれを「いひどり」というて居る。それで其の借りた手間を返すのがいひがへしである。大豆は庭に運ぶと共に一攫みにしては根を上にして先を丸く開いて互の幹が支柱に成るやうにして庭一杯に立てゝ干した。煙草を一服吸ふだけの時間に、成熟しきつた大豆は漸くぱち〳〵と輕い快い響を立てつゝ爆ぜ始めた。大豆は悉く庭の土に倒された。三人は連枷を執つて端からだん〳〵と幹を打つた。おつぎと南の女房とは相竝んで勘次に對して交互に打ち卸す連枷がどさり〳〵と庭の土を打つと硬ばつた大豆の幹はしやりゝ〳〵と乾燥した輕い響を交へてくすんだ穢い莢が白く割れて薄青いつやゝかな豆の粒が威勢よく跳ね出してみんな幹の下に潜り込んで畢ふ。三人が一遍大豆の幹を踏んで渡つたら幹がぐつと落付いた。\n おつぎは晝餐の支度の茶を沸した。三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出てそれから栗の木の陰に暫く蹲まつた儘憩うて居た。\n「おや〳〵まあ、こつちの方はえゝこつたなあ、大豆でもかうだにとれて」おつたは小柄な身體を割合に大股に運んで妙な足拍手を取りつゝ這入つて來た。勘次はちらと見て栗の木の幹を後にした儘俯向いて畢つた。おつたは更に介意ないやうな態度でずつと戸口へ行つて、斜に肩へ掛けた風呂敷包をおろした。\n「おゝ重たかつた」と少し汗ばんだ額を手拭でふきながら洋傘を仰向に戸口へ置いて、洋傘の中へ其の風呂敷包を置いた。南の女房はおつたを見て立つた。\n「おやまあ、暫らくでがしたね」とおつたは、先に世辭をいうた。\n「さういへばまあ、あつちの方は酷え洪水だつち噺だつけがどうでござんしたね」女房は手拭をとつていつた。\n「噺の外でがさどうも、彼此れはあ、小卅日にも成んべが、まあだかたでどつちから手つけてえゝか分んねえんでがさどうもはあ、わし等方見てえに洪水ばかし出たんぢや、居んのも厭んなつちまあやうなのせ本當に、さう云つてもこつちの方はようがすね」おつたは相手を見つけて力を得たやうにいつた。\n「此んでもまさか、此の村落だつて隨分かぶつた處も有んだから全然なんともねえつちこともねえがねえ」南の女房は聲を低くしていつた。\n「そんでも此處らぢや居る處にや支障ねえんだからなんちつても諦めはようがさね、わし等方なんぞぢや、土手へ筵圍ひしてやつとこせ凌いだものなんぼ有つたかせ、土手に居ても雨せえなけりやえゝが、降られちや酷えつち噺でがしたよ、そんでもまあわし等、家に居られんな居られたんだからまあ同じにもようがしたのせ、そんでも床の上へ四斗樽かう倒にして置えてね、其上へ板渡してやつとまあ居通しあんしたがね、煮燒すんのもやつとこせで、隣近所は有つたつて往つたり來たりすんぢやなし、何程心細えか分んねえもんですよ、尤もこれ、死ぬ者せえあんだから斯うして居られんな難有え樣なもんぢやあるが、そんでも四斗樽の太え箍ん處むぐつた時や、夜横に成つて見たつて直耳の側でさら〳〵つとかう水が動いてんだから、放心眠つたらそつくり持つてかれつかどうだか分んねえと思つてね、ぼつちりともはあ云はんねえで居たのせえ、\n それから板の端ん處からそろつと手出して見つと宵の口にやさうでもねえのがひやつと手の先が直ぐ水へ觸つた時にや悚然とする樣でがしたよ、それからはあ船は枕元へ繋いでたんだが、本當に枕元なのせえ、みんなして凝つて狹えつたつて窮屈だつてやつと居る丈なんだから、天井へは頭打つゝかり相で生命でも何でも蹙めらつる樣なおもひでさ、そんでもまあ到頭遁げもしねえで居らつたんだから、家でも持つてかれたものからぢや運がえゝのせえ、まあ晝間はなんちつても方々見えてえゝが、夜がなんぼにも小凄くつてねえ」おつたは自分の怖ろしかつた經驗を聞いてくれるのを悦ぶやうに語り續けるのであつた。\n「そんでまあ、それもえゝが蛙だの蛇だのが來てね、蛙はなんだが蛇がなんぼにも厭ではあ、棒で引つ掛けて遠くの方へ打ん投げて見ても、執念深えつちのか又ぞよ〳〵泳いで來て、それも夜がねえ萬一のことが有つちやと思ふもんだから明り點けてたんだが其の所爲か餘計に來る樣で、薄つ闇え明りだからぢつき側へ來てからでなくつちや分んねえし、首擡げてんの見ちや本當に厭でねえ」おつたは幾らいつても竭きない當時を髣髴せしめようとする容子でいつた。\n 栗の木の陰に居た勘次はだん〳〵と幾らづゝでも洪水の噺に興味を感じても來たし、それから假令どうでも尋ねて來た姊に挨拶もせぬのは他人の手前が許容さないので漸く立つて\n「姊等も隨分ひでえ目に遭たんだな」彼はいひながら家の内へおつたを導いた。大豆の埃を厭うて雨戸は閉め切つてあつたので、大戸を一杯に開けても内は少し闇く且暑かつた。おつぎは先頃の樣に直に竈を焚いて柄杓で二三杯の水を茶釜へ注した。\n「なんちつても、かうえ豆とれるなんておめえ等方はえゝのよなあ、俺ら方ぢや土手の近くで手の有るもなあ、田の畦豆引つこ拔えて土手の中ツ腹へ干しちや見た樣だが、まあだなんちつても莢が本當に膨れねえんだから、ほんの豆の形したつち位なもんだべな、そりやさうと此の豆はえゝ豆だな、甘相でなあ」おつたは閾を跨いで手先の豆を少し攫んで見ていつた。それからおつたは洋傘と一つに置いた先刻の風呂敷包を持ち込んでさうして又臀を据ゑた。\n「水ん中に居ちや仕事するにも仕事はなしさなあ、それからみんな棒の先へ鈎くつゝけて魚釣りしたのよ、庭で幾らでも鮒釣れるつちんだから知らねえものが見ちや酷く困んねえ奴等だと思ふ位なもんだんべのさ」おつたは一杯の茶を啜つて喉を濕した。おつぎも南の女房も眼を据ゑて默つて聞いて居た。勘次は六ヶ敷顏をして居ながらも熱心に聞いた。\n「後が酷くつてな、縁の下でも何でも泥が一杯で、そえつあゝ掻ん出せばえゝんだが床板が白つ黴に成つちやつて此れがまだなか〳〵干ねえから疊なんざ何時敷つ込めるもんだか分んねえのさ、そんでまた田でも畑でも引つ被つた處は水干てから腐つてるもんだから其の臭えことが又噺にやなんねえや、俺ら作物ばかし困んだと思つたら、畑の桐の木でも樫の木でも今ん成つてからぼろ〳〵葉々が落こつちやつて可怖えもんだよ」おつたはいひながら風呂敷を解いた。やまと煮と書いた牛肉の鑵詰が三本と菓子でもあるかと思ふ小さな紙包の堅めた食鹽の四つ五つとが出た。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 空はすでに朝。\n 地はまだ夜。\n 物売りの声も流れていない。\n 深淵を逆さに刷くような、紺碧のふかい雲形――きょう一日の小春日を約束して、早暁の微風は羽毛のごとくかぐわしい。\n 明け六つごろだった。朝の早い町家並びでも、正月いっぱいはなんと言っても遊戯心地、休み半分、年季小僧も飯炊きも、そう早くから叩き起されもしないから、夜が明けたと言っても東の色だけで、江戸の巷まちには、まだ蒼茫たる暗黒のにおいが漂い残っていた。\n 昼から夜になろうとする誰そや彼、たそがれの頃を、俗に逢魔が刻といって、物の怪が立つ、通り魔が走るなどといいなしているが、それよりもいっそう不気味な時刻は、むしろこの、夜から昼に変ろうとする江戸の朝ぼらけ――大江戸という甍の海が新しい一日の生活にその十二時の喜怒哀楽に眼覚めんとする今それは、眠っていた巨人が揺るぎ起きようとする姿にも似て、巷都を圧す静寂の奥に、しんしんと底唸りを孕んでいるかに思われる。いわば、長夜の臥床からさめようとする直前、一段深く熟睡に落ち込む瞬間がある。そうした払暁のひとときだった。\n この耳に蝋を注ぎ込んだようなしずけさを破って、\n「桜見よとて名をつけて、まず朝ざくら夕ざくら――、」例の勘弁勘次の胴間声が、合点長屋の露地に沸いた。「えい、えい、どうなと首尾して逢わしゃんせ、とくらあ。畜生め! 勘弁ならねえ。」\n 綽名の由祖の「勘弁ならねえ」を呶鳴り散らしている勘弁勘次――神田の伯母から歳暮に貰った、というと人聞がいいがじつは無断借用といったところが真実らしい、浅黄に紺の、味噌漉し縞縮緬の女物の紙入れを素膚に、これだけは人柄の掴み絞りの三尺、亀島町の薬種問屋近江屋がお年玉に配った新の手拭いを首に結んで、ここ合点小路の目明し親分、釘抜藤吉身内の勘次は、いつものとおり、こうして朝っぱらから大元気だった。\n いい気もちそうに、しきりに声高に唄いつづけている。\n「可愛がられた竹の子も、いまは抜かれて割られて、桶の箍に掛けられて締められた――ってのはどうでえ。勘弁ならねえや。ざまあ見やがれ。」\n 起き出たばかりの勘次である。まだ眠っている露地うち、自宅の軒下に立って、こう独りで威張りながら、せっせと松注連飾りを除り外しているのだった。\n 嘉永二年、一月十五日。この日、はじめて無事の越年を祝って、家々の門松、しめ繩を払い、削り掛りを下げる。元日からきょうまでを松のうち、あるいは注連の内と称したわけで、また、この朝早くそれらのかざり物を焼き捨てる。二日の書初めを燃やす。これは往古、漢土から爆竹の風が伝わって、左義長と言って代々行われた土俗が遺っているのである。おなじく十五日、貴賤小豆粥を炊くのは、平安の世のいわゆる餅粥の節供で、同時に毬杖をもって女の腰を打つしきたりも、江戸をはじめ諸国に見られた。が、この本八丁堀三丁目をちょっと横に切れた合点長屋の藤吉部屋は、親分乾児の男三人、女気抜きの世帯だから、小豆粥は粥でも、杖でたたく柳の腰は持ち合わせがない。それでも、世間なみに松かざりだけは焼いておこうと、さてこそ珍しく勘次の早起きとなったのだが――「勘弁ならねえ」の喧嘩口調で、毮るように取った型ばかりの門松や注連繩を、溝板を避けて露地の真ん中へ積み上げた勘次が、六尺近い身体を窮屈そうにしゃがませて、舌打ちとともに燧石の火を移そうとしていると――角の海老床、おもて通りの御小間物金座屋、あちこちで雨戸を繰る音。\n 小蛇の舌のような炎が群立って、白いけむりが、人のいない露地を罩める。\n と、その時である。あわただしい急足が合点小路へ駈け込んで来て、頭天のてっぺんから噴き出すような声が、勘弁勘次の耳を打った。\n「たっ、た、大変だ、大変だ! おっ、親分在宿かえ。」\n\n 二\n\n 江戸っ児のなかでも気の早い、いなせな渡世の寄り合っている八丁堀合点小路の奥の一棟――そのころ八丁堀合点長屋の釘抜藤吉といえば、広い八百八町にも二人と肩を並べる者のない凄腕の目明しであった。さる御家人の次男坊と生れた彼は、お定まりどおり、放蕩に身を持ち崩したあげくの果てが、七世までの勘当となり、しばらく草鞋を穿いて雲水の托鉢僧と洒落のめし日本全国津々浦々を放浪していたが、やがてお江戸へ舞い戻って気負いの群からあたまを擡げ、今では押しも押されもしない十手捕繩の大親分――朱総仲間の日の下開山とまでなっているのであった。脚が釘抜のように曲がっているところから、釘抜藤吉という異名を取っていたが、じっさいその顔のどこかに釘抜のような正確な、執拗な力強さが現れていた。小柄な、貧弱な体格の所有主であったが、腕にだけ不思議な金剛力があって、柱の釘をぐいと引いて抜くという江戸中一般の取り沙汰であった。これが、彼を釘抜と呼ばしめた真個の原因であったかもしれないが、本人の藤吉は、その名をひそかに誇りにしているらしく、身内の者どもは、藤吉の鳩尾に松葉のような、小さな釘抜の刺青のあることを知っていた。現代の言葉でいえば、異常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた壱岐殿坂の三人殺しや、浅草仲店の片腕事件などを綺麗に洗って名を売り出したばかりか、当時江戸中に散っていた大小の眼あかし岡っ引の連中は、たいがい一度は藤吉部屋で釜の下を吹いた覚えのある者で、また彼らの社会では、そうした経験が何よりの誇りであり、頭と腕に対するひとつの保証でもあった。で、繩張りの厳格な約束にもかかわらず、藤吉だけはどこの問題へでも無条件に口を出すことが暗黙のうちに許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかった。そのかわり頼まれればいつでも一肌脱いで、寝食を忘れるのがつねであった。つぎからつぎと各方面から難物が持ち込まれた。それを、多くの場合推理一つで、快刀乱麻の解決を与えてきていた。お堀の水に松の影が映らない日はあっても、釘抜の親分の白眼んだ犯人に外れはないと、江戸の町まちに流行の唄となって、無心の子守女さえお手玉の合の間に口ずさむほどの人気であった。\n ――「八丁堀合点長屋店人釘抜藤吉捕物覚書」という題で遺っている、大福帳のような体裁の、半紙を長く二つ折りにした横綴じの写本である。筆者は不明だが、釘抜藤吉の事件帖である。その筆初め「のの字の刀痕のこと」の項に、親分藤吉の人物と名声をこう説明してあるのだ。それは以前、藤吉第一話のなかに書いたことだが、いまこうして、もう一度くり返しておくことも、あながち無駄ではあるまい。\n 大声を上げて飛び込んで来たのは、町火消しに組の頭常吉だった。\n 竹片を突き刺して、火の通りをよくしていた勘弁勘次は、その竹を焚火のなかへ投げすてて、びっくり、腰を伸ばした。\n「なんでえ。でっけえ声をしやがって――おお頭じゃあねえか。てえへんとは大いに変ると書く。めったに大変などと言うめえぞ。勘弁ならねえ。」\n「勘さんか、」とに組は肩で呼吸をして、「や、偉えことになった。大鍋のお美野さんがお前――。」\n 言いかけたとき、立てつけの悪い藤吉方の格子戸を内部からがたぴし開けて、なんともいいようのない不思議な、眠そうな声が、水を撒くように冷たく、低く聞えて来た。\n「かんかんのう、きうのれす、きうはきうれんれん、にいくわんさん、いんぴんたいたい、しいくわんさん......。」\n 文化の末、大阪の荒木座で道楽者の素人芝居があって、その時人気を呼んだ唐人唄と称する与太ものなのだが、これが江戸へもはいって、未だちょいちょい流行っている。それはいいが、今その唐唄をお経のように厳かに唱えながら現れたのは、藤吉第二の乾児――といっても二人きりなのだが、その二の乾児のとむらい彦、葬式彦兵衛だった。\n 勘次があくまで鉄火者なのに引きかえて、この下っ引の葬式彦兵衛は、まるで絵に描いた幽霊のような存在で、しじゅう何かしらこの唐人唄のようなことを、ぶつくさ口の中でつぶやいているのみか、紙屑籠を肩に毎日江戸の巷を風に吹かれて歩くのが持前の道楽、有名な無口家で、たいがいの用はにやりと笑って済ましておくが、そのかわり物を言う時には必要以上大きな声を発して辺りの人をびっくりさせた。そして、超人間的に感覚の発達した男だった。朝も晩も鉄砲籠を肩に、足に任せてほっつき廻っているので、大路小路の町名、露地抜け裏、江戸の地理にはことごとく通じていた。こうして屑拾いになりすまして種を上げる。犯人を尾ける。役得でもないがいろいろの落しものを拾って来る。時には善根顔に、病気の仔猫などを大事そうに抱えこんでくる。親分の釘抜藤吉はじめ、勘弁ならねえの勘弁勘次、この葬式彦兵衛、まことに変物揃いの合点長屋であった。\n「大変とは大いに変る。こりゃあ理窟だ。」\n 唐人唄を中止した彦兵衛、きょうも早朝から紙屑拾いに出かける気か、笊を背に、長い竹箸を手に、ぶらりと出て来て、こう常吉と勘次へ半々に、挨拶でもなく、茶化すでもなく、いつもの無表情な顔でしきりに感心しているところで、やにわに家のなかから藤吉の声がした。"
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"role": "assistant",
"content": "「大鍋のお美野さんがどうかしましたかい。」\n 渋い太い、咽喉のかすれた巻舌である。釘抜藤吉、起きて聴いていたのだ。\n\n 三\n\n 宗右衛門橋から比丘尼橋、いわゆる大根河岸に沿った一劃を白魚屋敷といって、ここに一般に大鍋と呼ばれている鍋屋という大きな旅籠がある。\n 訴訟用で諸国から出府する者のための公事宿と、普通の商人宿を兼ねていて、間口も広く、格式も相当高く、まず界隈での老舗だったが三年前に亭主が故くなって今は女主人お美野、これは、もと柳橋で鳴らした妓で、今年三十一、二の年増ざかり、美人も美人だしそれに、決して人を外らさないなかなかの腕っこき、女ひとりでこれだけの大屋台を背負って立って小揺ぎもさせないどころか、鍋屋は、このお美野の代になってからかえって発展したくらいだという。非常に身長の高い女で、よく言えばすらりとした、悪くいえば半鐘泥棒式の、しかし、前身が前身だけにいまだに凄いような阿娜者だったが、このお美野にかぎって、若後家にもかかわらず、またこうした人出入りの激しい客稼業にも似合わず、浮いたうわさなぞついぞ立ったことがないのだった。\n 前夜、十四日の真夜中、丑の下刻とあるから八つ半、いまで言う午前三時ごろだった。\n この大鍋の階下の一室に宿泊していた、武州小金井の穀屋の番頭で初太郎というのが、なにかしらほとほとと雨戸を叩く音で眼を覚ました――。\n と、言いさして、に組の頭常吉は、まだ薄暗い合点長屋の土間口に押し並んだ藤吉、勘次、彦兵衛の顔を、探るように見廻している。事件出来とみて、紙屑拾いに出かけようとしていた葬式彦も引き留められ、勘次は、あわてふためいている常吉を案内して広くもない玄関へ通すと、破れ半纏をひっかけた藤吉親分が、鳩尾の釘抜の文身をちらちらさせて、上り框にしゃがんでいたのだった。片方に荒塩を盛って房楊子を使いながら、\n「朝あ結構冷えるのう。」と、じろりに組を見上げて、「のう常さん、知ってのとおり、おらあ気が短えんだ。長話は願い下げよ。なんですかい、その、大鍋の泊り客で武州小金井の穀屋の番頭初太郎てえのが、夜中にひょっこり起き上がって、戸惑いでもしたってえのかい。」\n 勘次も彦兵衛も、にやりと顔を笑わせたが、に組の常吉は、冗談どころではないといったふうに大仰に手を振って、\n「なんの、なんの――。」ちょっと声を低めた。「親分、愕きなさんなよ、戸惑いは戸惑いでも、お美野さんが彼の世へ戸惑いをなすった――。」\n えっ! とでも驚くかと思いのほか、藤吉の表情は依然として石のようである。大声を揚げたのは勘次だった。\n「なにっ? お美野さんが――そ、そいつぁ勘弁ならねえ。彼の世へ戸惑いといやあ自害だろうが、してまた何の理由あって自害なんど――。」\n「さ、それがよ、なに、戸惑いとは言ったものの、勘さんの前だが、自害ではねえのだ。」\n「なにを言やがる。勘弁ならねえ。あの弁天様のようなお美野さんを手に掛けるやつが、日本じゅうにあるはずはねえんだ。」\n とむらい彦が、いつになく馬鹿叮嚀に口を挾んで、\n「ま、お美野さんがお故くなりになったとすりゃあ、ちょっくら蔵前へ走らせたでごぜえやしょうな。常磐津の名取りで文字若さんてえ女が、お美野さんの妹さんでね、三好代地に稽古場の看板を上げていなさるのだが――。」\n「いや、人をやるもやらねえもねえ。」に組は、想い出したように新たに狼狽しながら、「運よくその師匠の文字若さんが、四、五日前から鍋屋さんに泊り込みでね、あっしゃあ今の先、大鍋さんの若い者に叩き出されて駈けつけたんだが、文字若さんの命令で、すぐ、こちらの親分をお迎えにこうしてすっ飛んで来やしたのさ。素人のあっしなんか、どうにも勘考のつけようのねえ不思議な死に様だあね。何て言ったってお前、お美野さんの屍骸がよ、その初太郎てえ野郎の眼の前で、こう宙乗りをやらかしたんでごわすからな――あうへっ! これだけは釘抜の親分も、どうやら手を焼きゃあしねえかと、ま、こいつああっしの、余計な心配かもしれねえが――。」\n すっくと起ち上った釘抜藤吉だった。五尺そこそこの矮躯に紺の脚絆、一枚引っかけた盲目縞長ばんてん、刀の下緒のような真田紐を帯代りにちょっきり結んで、なるほど両脚が釘抜のように内側へ曲がっている。いわゆるがに股というなかで、もっとも猛烈な部に属する。慾目にも風采が上っているなどと言えないばかりか、正直のところ、まず珍々妙々なる老爺であった。\n 藤吉は、鷲掴みにした手拭いをはだけた懐ろから覗かせて、ちょこちょこと土間に降り立った。話なかばだから、驚いたのはに組だった。出口を塞ぐように立ちはだかって、\n「親分、どちらへ――。」\n 言いかけた彼は、二度びっくりしなければならなかった。つと振り向いた藤吉の顔である。別人のような活気が漲って、獲物を香ぎつけた猟犬の鋭さが、その眇の気味のある双眼に凝って、躍動して、放射している。その瞬間、に組の頭常吉は、この藤吉の眼の光に、柄にもなく現世で一番美しい、そして一ばん恐しい物を見たような気がした。それは、人間の意力が高潮に達した時に発する、一種の火花のようなものかもしれなかった。\n\n 四\n\n「どこへ行く? べら棒め! 知れたこっちゃあねえか、大鍋へ出張って、ちっといじくってみべえか――勘、汝も来い。」\n「あい。」\n「彦、手前も気になるようなら随いてくるがいいや。」\n「へえ。お供させていただきやす。」\n「頭あ、ことの次第はみちみち承るとしよう。」\n 勘次が、戸前の焚火に水をぶっかけてそのまま合点小路を立ち出でた。なんとも奇妙な同行四人である。まともな恰好をしているのは常吉だけで、取られつづけの博奕打ちのような藤吉親分、真っ黒な痩せた脛で味噌こし縞ちりめんの女物の裾を蹴散らかして行く勘次兄哥、どんな時も商売を忘れないで、紙屑、鼻緒、木ぎれ、さては襤褸でござれ何でござれ、歩きながら器用な長箸で摘んでは肩越しに竹籠へ抛り込んでゆく葬式彦兵衛――何のことはない、さながら判じ物のような百鬼朝行が、本八丁堀三丁目、二丁目、一丁目とまっすぐに、松屋町宗印屋敷を左手に弾正橋を渡ると、本材木町八丁目、竹川岸から大根河岸までは、京橋を越えてほんの一足だ。炭町、具足町の家々の庇の朱いろの矢のように陽線が躍り染めて、冬の朝靄のなかに白く呼吸づく江戸の騒音が、聞こえ出していた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " かなり長い旅をして来たものらしく、直接に江戸へ入らないところを見ると、或いは王子を通り越して千住方面へ出るつもりかも知れません。先に立ったのはやや背の高い男、あとのは中背で前のよりは年も若い男。\n「兄貴」\n 人通りの絶えたところで後のが声をかけました。その声を聞くとなんのことはない、これは執念深い片腕の男、がんりきの百でありました。\n「何だ」\n 振返ったのは、取りも直さず七兵衛であります。\n「今夜はどこへ泊るんだ」\n 百蔵は今ごろこんなことを言って、七兵衛に尋ねてみるのもワザとらしくあります。\n「どこにしようかなあ」\n 歩いて来るには歩いて来たものの、二人はまだどこといってきめた宿がないもののようであります。\n「今っからこの姿で、吉原へも行けめえじゃねえか」\nとがんりきが言う。\n「そうよ」\n「王子の扇屋へ泊ろうじゃねえか」\n「いけねえ」\n 七兵衛が首を左右に振りました。\n「どうして」\n がんりきは笠越しに七兵衛の面を見る。\n「あすこはこのごろ、役人が出入りをしている、滝の川の方に普請事があって、それであの家が会所のようなことになっているから、上役人が始終出入りをしているんだ」\n「そうか」\n がんりきも暫らく口を噤んでしまいました。口を噤んでも二人は、なおせっせと道を歩いているのであります。\n「それじゃあどうするんだ」\n がんりきが、また駄目を出しはじめます。\n「どうしようか、お前よく考えてみな」\n 七兵衛は煮えきらないのであります。がんりきはそれをもどかしがって、\n「考えてみなと言ったって、兄貴がその気にならなけりゃ仕方がねえ。実のところは俺らはモウ小遣銭もねえのだ、さしあたってなんとか工面をしなけりゃならねえのだが、兄貴だって同じことだろう。命からがらで甲州から逃げて来たんだ、ここまで息をつく暇もありゃしねえ、いくら人の物をわが物とするこちとらだって、海の中から潮水を掬って来るのとはわけが違うんだ」\n「今夜はなんとか仕事をしなくちゃならねえな」\n「知れたことよ、そのことを言ってるんだ。いま聞けば、扇屋は何か役人の普請事の会所になっているというじゃねえか、そこへひとつ今晩は御厄介になろうじゃねえか」\n「俺もそう思ってるんだ。普請事というのは何か鉄砲の煙硝蔵を立てるとかいうことなんだそうだ、なにしろお上の仕事だから、小さな仕事ではあるめえと思う、お金方も出張っているだろうし、突っついてみたら一箱や二箱の仕事はあるだろうと思う」\n「そいつは耳寄りだ、兄貴、お前はいいところへ気がついていた」\n「だから、そうきまったらどこかで一休みして、ゆっくり出かけるとしよう」\n「合点だ」\n こう言って二人は、板橋街道の夕暮を見渡しました。\n\n その晩になって、王子権現の境内へ二つの黒い影が、異った方からめぐり合わせて来て、稲荷の裏でパッタリと面が合いました。\n「兄貴」\n「百か」\n 前の通り二人は百蔵と七兵衛とです。板橋街道の夕暮で見た二人の姿は、純然たる旅の人でありました。ここでは忍びの者のような姿であります。けれども二人とも脇差は差していて、足もまた厳重に固めていました。\n「どうした」\n「冗談じゃねえ」\n 頭と頭とを、こっきらことするほどに密着けて、百蔵が、\n「役人の会所になっているというから、様子を見ていりゃあ、役人らしいのは一人も泊っていねえじゃねえか、それに普請のお金方とやらも詰めている塩梅はねえし、ふりの宿屋と別に変った事はねえ、なにも俺らと兄貴が、こうして息を詰めて仕事にかかるがものはねえんだ、兄貴にしちゃあ、近頃の眼違いだ、お気の毒のようなものだ」\n 少しばかり、せせら笑ってかかると、七兵衛はそれを気にかけないで、\n「それに違えねえ。おれも様子を見てから、こりゃ抜かったと直ぐに気がついたから、引上げようと思ってると、手前が何に当りをつけたか、奥の方へグングンと入り込んで出て来ねえから、引返すわけにもいかなかったのだ。こりゃあ強ち俺の眼違えというわけでもねえのだ、この間までは確かにここが会所になっていたのだが、普請が出来上ったから、あっちへ移ったのだろう、あんまり遠いところでもねえから、ひとつこの足でその新しい普請場の方へ出かけてみよう」\n「なるほど」\n「さあ出かけよう」\n この二人は、板橋街道で打合せた通り、王子の扇屋を覘ったものであったに違いないが、その見込みが少しく外れたものであるらしい。けれども外れた見込みは、遠くもないところで遂げられそうな自信をもっているらしい。七兵衛は、百蔵を引き立て、その方へ急ごうとすると、がんりきはなぜか、あんまり進まない面をして、\n「普請場とやらへは、兄貴一人で行っちゃあもれえめえか」\n「ナニ、おれに一人でやれというのか」\n「俺らは、どうもそっちの方は気が進まねえことがあるんだ」\n「ハテな」\n「実は、扇屋でいま見つけ物をして来たから、その方が心がかりになって、金なんぞはあんまり欲しくもなくなったのさ」\n「おやおや」\n「そういうわけだから、兄貴一人で普請場へ行って当座の稼ぎをして来てくんねえ、俺らは俺らで自前の仕事をしてみてえんだ」\n「この野郎、扇屋の女中部屋の寝像にでも見恍れて、またよくねえ了見を出したとみえるな、世話の焼けた野郎だ」\n「まあ、いいから任しておいてくれ、兄貴は兄貴で兵糧方を持ってもらいてえ、俺らは俺らで、これ見たかということを別にして見せるんだ」"
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"role": "assistant",
"content": "「また、笹子峠のように遣り損なって泣面をかかねえものだ」\n「ナニ、あの時だって、まんざら遣り損なったというものでもねえのさ、それにあの時は相手が相手だけれど、今夜のは、たった一人ほうりっぱなしにしてあるのだから、袋の中の物を持って来るようなものだ」\n「まあ、よせと言ってもよすのじゃあるめえから、手前の勝手にしてみるがいい、懲りてみるのも薬だ」\n「有難え」\n 二人で一緒に仕事をするはずであったのが、ここで二つに分れて仕事をすることになります。\n ここで二人のよからぬ者が手筈を分けて、一方は火薬製造所の普請場の方へと出かけて行き、一方はまた扇屋をさして出かけて行くことにきまったらしくあります。\n がんりきの方は、心得て直ぐさまその場から姿を隠したが、七兵衛は少しばかり行って踏みとどまり、\n「野郎、いったい何をやり出すんだか」\nと言って、七兵衛は普請場の方へ行こうとした爪先を変えて、がんりきが出て行った方へ素早く歩き出したところを見ると、そのあとをつけて、あの小ざかしい片腕が、何を見つけて何をやり出すのだか、それを突留めようとするものらしくあります。\n ややあって七兵衛は、音無川の岸の木蔭の暗いところから、扇屋の裏口を覗いて立っていました。どこといって起きている家はなく、そうかと言って、いまがんりきが忍び込んでいるらしい物の音も聞えません。けれども七兵衛は、この口を守って、中からの消息を待って動かないのは、何か自信があるらしいのであります。\n 果して縁側の戸が一枚あけてあったところから、人の頭がうごめき出でました。\n「出たな」\nと言って七兵衛は微笑みました。\n なるほど、それは人影である。闇の中でも慣れた目でよく見れば、中から這い出すようにして庭へ下りる人は、小脇に白い物を抱えていることがわかります。その物は何物であるかわからないけれども、それを片腕に抱えて、極めて巧妙に家の中から脱け出して来たものであることが一見してわかります。\n 七兵衛は、じっとその様子を見ていました。果してその黒い人影は庭へ下り立ったが、そこで前後を見廻して暫らく佇んでいました。\n 待っていたこの裏木戸へ来たら、出会頭に取って押えてやろうと、ほほえんでいた七兵衛のいる方へは、ちょっと向いたきりで人影は、庭の燈籠の蔭へ小走りに走って行くと、急に姿が見えなくなりました。\n「おや?」\n 七兵衛は少しばかり泡を食って、再び眼を拭って見たけれど、それっきり人影が庭から姿をかき消すようになってしまったから、\n「出し抜かれたかな」\n 木の繁みから音無川の谷の中へ下りて見たところが、そこに忍び返しをつけた塀があります。\n「こいつはいけねえ」\n 七兵衛はその下を潜ろうか、上を乗り越えようかと思案したけれど、それは咄嗟の場合、さすがの七兵衛も、どうしていいかわからぬくらいの邪魔物でありました。\n「ちょッ」\n 仕方がないからわざわざ岸へ上って、家のまわりを、遠くから一廻りして表へ出て見ました。\n こうして前後を見廻したけれど、いま庭で立消えになったがんりきの姿は、いずれにも認めることができません。\n「野郎、まだ中に隠れているな、おれがあとをつけたことを感づいたもんだから、この屋敷の中で立往生をしていやがる、それともほかに抜け道をこしらえておいたものか、それにしては手廻しがよすぎるが、どうしてもあの裏手よりほかに逃げ道はねえはずなんだが......ハテ」\n 七兵衛は、また裏の方へ廻って見ました。そこでもまた再びその影も形も認めることができないから、ともかくも中へ入ってみようとする気になったらしく、そっとその木戸を押してみると、雑作なく開いた途端に、\n「泥棒、泥棒、泥棒」\n\n 泥棒、泥棒と騒ぎ立てられた時分には、七兵衛もがんりきも、さいぜんの権現の稲荷の社前へ来ていました。\n「兄貴、細工は流々、この通りだ」\n がんりきは社前のところへ腰をかけて自慢そうに鼻うごめかすと、七兵衛も同じように腰をかけて苦笑い。\n「いったい、そりゃ何の真似だ」\n「何の真似だと言ったって兄貴、お前と俺らが甲府でやり損なった仕返しが、どうやらここでできたというもんだ、自分ながら思い設けぬ手柄だ、兄貴の前だけれども、こういうことはおれでなくってはできねえ芸当なんだ。そもそもここへ連れて来た女というのを、兄貴、お前はいったい誰だと思うんだ、お前のその皮肉な笑い方を見ると、またおれが女中部屋の寝像に現を抜かして、ついこんな性悪をやらかしたように安く見ていなさるようだが、憚りながらそんな玉じゃねえんだ。もっとも、おれもはじめからその見込みで入ったわけではなし、兄貴の差図で入ったのだから、手柄の半分はお前の方へ譲ってもいいようなものだが、兄貴だって、この代物がこの通りということはまだお気がつくめえな。おれが語り聞かした上で、それと合点がゆきゃあ、なるほど、百、手前の腕は片一方だが、両腕のあるおれが恐れ入ったものだ、見上げたものだと、ここに初めて兜を脱ぐに違えねえ」\n「何を言ってやがるんだ」\n「まあまあ、緒から引き出して話をする。そもそも兄貴とおれとが、甲府のお城のお天守の天辺でしたあのいたずらから事の筋が引いてるんだ。あの時、二人で提灯をぶらさげて、甲府の町のやつらを噪がせて、天狗だとか魔物だとか言わせて、溜飲を下げてみたけれど、憎らしいのはあの勤番支配の駒井能登守という奴よ、あいつが鉄砲を向けたばっかりにこっちは、すっかり化けの皮を剥がれて、二度とあの悪戯ができなくなったんだ。それも兄貴、あの時に、あの能登守という奴が、打つ気で覘いをつけたんなら、兄貴の身体でも、俺らの身体でも微塵になって飛ぶはずのところを、ワザと提灯だけを打って落したのが皮肉じゃねえか。あんまり癪にさわるから、その後、なんとかあの能登守に、いたずらをしかけて溜飲を下げてやらなくちゃあ、七兵衛はいざ知らず、がんりきの沽券が下るからと、いろいろ苦心はしてみたけれど、どうも兄貴の前だが、やっぱりあの屋敷には豪勢強い犬がいる、それでうっかり近寄れねえでいたところへ、急にあの能登守がお役替えで江戸詰ということになったと聞いて、手の中の珠を取られたように思った。ところが今夜という今夜、ほんとうに思いがけなく、思う存分にその仕返しができたことを思うと、天道様がまだこちとらをお見捨てなさらねえのだ。俺らは甲州から持ち越した溜飲が、初めてグッとさがったんで、嬉しくてたまらねえ。と言って、ひとりよがりをここへ並べて、永く兄貴に擽ってえ思いをさせるのも罪な話だから、うちあけてしまうが、実は俺らが今ここへ連れて来た女というのは別じゃあねえ、甲府にあって一問題おこした例の、能登守の大切の大切のお部屋様なんだ」\n「エエ!」\n「どんなもんだ」\n がんりきは、いよいよ得意になって社殿の中を尻目にかける。この社殿の中へ、その手柄にかける当の者を運び来って隠して置くものらしくあります。それでがんりきはなお得意になって、七兵衛をも尻目にかけながら、\n「俺らは、ただこうして溜飲を下げさえすりゃそれでいいのだ、なにもこのお部屋様を、煮て喰おうとも焼いて喰おうとも言いはしねえのだ、これから先の料理方は兄貴次第だ、よろしくお頼み申してえものだな」\n がんりきはこんなことを言って、さて猿臂を伸ばして稲荷の扉の中へ手を入れて、何物をか引き出そうとしました。それは七兵衛にとっても多少の好奇心であり、また心安からぬことでないではありません。この野郎、ほんとうにその女をここへ浚って来たのかどうか、本来、こういうことを手柄に心得ている人間にしても、あまりに無茶で、乱暴で、殺風景であるから、七兵衛もムッとして苦い面をして、がんりきを睨めていました。\n「それこの通りだ」\nと言ってがんりきが、苦い顔をしている七兵衛の眼の前へ突きつけたのは、やや身分の高かるべき女の人の着る一領の裲襠と、別に何かの包みでありました。幸いにしてそこには、この裲襠を纏うていた当の人の姿は見えないから、まず安心というものでしょう。\n「これがどうしたんだ」\n 七兵衛はその裲襠と、がんりきの面を等分にながめていると、がんりきは、\n「これがその、講釈で聞いた晋の予譲とやらの出来損ないだ、おれの片腕では、残念ながら正のままであの女をどうすることもできねえんだ、時と暇を貸してくれたら、どうにかならねえこともあるめえが、差当って今夜という今夜、あれを正のままで物にするのはむつかしいから、そのあたりにあったこの裲襠と、床の間にあったこの二品、どうやらこれが金目のものらしいから、引浚って出て来たのだ。ともかくも、これだけの物があれば、これを道具に能登守にいたずらをしてやる筋書は、いくらでも書けようというものだ。この裲襠を見ねえ、地は縮緬で、模様は松竹梅だか何だか知らねえが、ずいぶん見事なものだ、それでこの通りいい香りがするわい、伽羅とか沈香とかいうやつの香りなんだろう、これを一番、能登守に持って行って狂言の種にして、奴がどんな面をするか、それを見てやりてえものだ。こっちの方の二品は、こりゃ錦の袋入りの守り刀と来ている、もう一つはズッシリとしたこの重味、この二つとも、殿様からの御拝領なんだろう、まだ結び目も解かず、封も切らずにあるやつが、手つかずこっちへ授かったというのも返す返す有難え話だ。さあ、兄貴、俺らの方はこの通りまずまず当座の仕事としては大当りに近い方だが、兄貴の方の仕事はどうなるんだ、まだこれから出かけてみても遅いわけではあるめえから、その舶来の煙硝蔵とやらへ、俺らもお伴をしてみてえものだな」\n がんりきはひきつづいて手柄話と盗んで来た品物とを、鼻高々と七兵衛の前へ並べて吹聴しているのを七兵衛は、やはり苦々しく聞いていたが、\n「なるほど、そいつはかなり気の利いた仕事をしたものだ、けれども、その手前が、甲府から持越しの意趣を晴らしてえという当の相手はどこにいるんだ、甲府で失策った能登守という殿様は、いま江戸にも姿が見えねえのだ、そうして田舎芝居の盲景清のように、恨みの衣裳を引張り廻してみたところで、肝腎の頼朝公が不足していたんじゃあ、芝居にもなるめえじゃねえか」\n 七兵衛はこう言って、がんりきをばかにしたような面をすると、\n「ナーニ、あの女がここにいるからには、大将だってまんざら遠いところにいるでもあるめえ」\n「手前は、まだその見当がつかねえのか」\n「兄貴、お前はまたそれを知ってるのか」\n こんなことを話し合っているうちに、二人の話がハタと止んで、やがて滝の川の方面へ忍んで行くらしくあります。\n\n その翌朝、駒井甚三郎は、例の研究室の前の塀に、ふと妙なものがかかっているのを認めました。皮を剥いだもののように、一枚の裲襠が塀に張りつけてありました。その上に刀の小柄を突き刺して、それに錦の袋に入れた守り刀様のものがぶらさげてありました。\n 駒井甚三郎がそれを見た時は、まだ夜があけはなれないうちで、誰もその以前に気がついたものはありませんでした。それを一目見ると駒井甚三郎の面に、非常な不快な色がサッと流れました。それは裲襠も守り刀も、共に見覚えのある品でありました。篤と見ているうちにいよいよ不快の色で満たされて、この時はさすがにこの人も、その憤懣を隠すことができないらしくありました。"
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": " 石川の持って来た雑誌の中に、「明星」の四月号があった。清三はそれを手に取って、初めは藤島武二や中沢弘光の木版画のあざやかなのを見ていたが、やがて、晶子の歌に熱心に見入った。新しい「明星派」の傾向が清三のかわいた胸にはさながら泉のように感じられた。\n 石川はそれを見て笑って、\n「もう見てる。違ったもんだね、崇拝者は!」\n「だって実際いいんだもの」\n「何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」\n いつかもやった明星派是非論、それを三人はまたくり返して論じた。\n\n七\n\n 夜はもう十二時を過ぎた。雨滴れの音はまだしている。時々ザッと降って行く気勢も聞き取られる。城址の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。\n 一室には三つ床が敷いてあった。小さい丸髷とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」といく度となく言った。\n「ランプを枕元につけておいて、つい寝込んでしまうと危いから」とも忠告した。その母親も寝てしまって、父親の鼾に交って、かすかな呼吸がスウスウ聞こえる。さらぬだに紙の笠が古いのに、先ほど心が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。清三は借りて来た「明星」をほとんどわれを忘れるほど熱心に読み耽った。\n\n椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る\n\n わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。色桃に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。かれは一首ごとに一頁ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒から羽生まで雨にそぼぬれて来た辛さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。\n 時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。鼠の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。\n 雨は降ったりはれたりしていた。人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴れの音が軒の樋をつたって落ちた。\n いつまであこがれていたッてしかたがない。「もう寝よう」と思って、起き上がって、暗い洋燈を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠に行った。手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。\n 障子を閉てる音に母親が眼を覚まして、\n「清三かえ?」\n「ああ」\n「まだ寝ずにいるのかえ」\n「今、寝るところなんだ」\n「早くお寝よ......明日が眠いよ」と言って、寝返りをして、\n「もう何時だえ」\n「二時が今鳴った」\n「二時......もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」\n「ああ」\n で、蒲団の中にはいって、洋燈をフッと吹き消した。\n\n八\n\n 翌日、午後一時ごろ、白縞の袴を着けて、借りて来た足駄を下げた清三と、なかばはげた、新紬の古ぼけた縞の羽織を着た父親とは、行田の町はずれをつれ立って歩いて行った。雨あがりの空はやや曇って、時々思い出したように薄い日影がさした。町と村との境をかぎった川には、葦や藺や白楊がもう青々と芽を出していたが、家鴨が五六羽ギャアギャア鳴いて、番傘と蛇の目傘とがその岸に並べて干されてあった。町に買い物に来た近所の百姓は腰をかけてしきりに饂飩を食っていた。\n 並んで歩く親子の後ろ姿は、低い庇や地焼の瓦でふいた家根や、襁褓を干しつらねた軒や石屋の工作場や、鍛冶屋や、娘の青縞を織っている家や、子供の集まっている駄菓子屋などの両側に連なった間を静かに動いて行った。と、向こうから頭に番台を載せて、上に小旗を無数にヒラヒラさしたあめ屋が太鼓をおもしろくたたきながらやって来る。\n 父親は近在の新郷というところの豪家に二三日前書画の幅を五六品預けて置いて来た。今日行っていくらかにして来なければならないと思って、午後から弥勒に行く清三といっしょに出かけて来たのである。\n ここまで来る間に、父親は町の懇意な人に二人会った。一人は気のおけないなかまの者で、「どこへ行くけえ? そうけえ、新郷へ行くけえ、あそこはどうもな、吝嗇な人間ばかりで、ねっかららちがあかんな」と言って声高くその中年の男は笑った。一人は町の豪家の書画道楽の主人で、それが向こうから来ると、父親はていねいに挨拶をして立ちどまった。「この間のは、どうも悪いようだねえ、どうもあやしい」と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出所がしっかりしていますから、折り紙つきですから」と父親はしきりに弁解した。清三は五六間先からふり返って見ると、父親がしきりに腰を低くして、頭を下げている。そのはげた額を、薄い日影がテラテラ照らした。\n 加須に行く街道と館林に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。それから向こうはひろびろした野になっている。野のところどころにはこんもりとした森があって、その間に白堊の土蔵などが見えている。まだ犁を入れぬ田には、げんげが赤い毛氈を敷いたようにきれいに咲いた。商家の若旦那らしい男が平坦な街道に滑らかに自転車をきしらして来た。\n 路は野から村にはいったり村から野に出たりした。樫の高い生垣で家を囲んだ豪家もあれば、青苔が汚なく生えた溝を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。街道におろし菓子屋が荷を下していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。\n 新郷へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。\n「今度はいつ来るな、お前」\n「この次の土曜日には帰る」\n「それまでに少しはどうかならんか」\n「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」\n「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」\n 清三は返事をしなかった。\n やがて別れるところに来た。新郷へはこれから一田圃越せば行ける。\n「それじゃ気をつけてな」\n「ああ」\n そこには庚申塚が立っていた。禿頭の父親が猫背になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞の袴をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。\n\n九\n\n その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪へんや、あゝわれつひに田舎の一教師に埋れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫! 一語以て後日に寄す」と書いた。なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。\n 翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。\n 今度はもうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった。教員室にはいると、校長は卓に向かって、何か書類の調物をしていたが、\n「さアはいりたまえ」と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子をすすめた。"
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"role": "assistant",
"content": "「お気の毒でした。ようやくすっかり決まりました。なかなかめんどうでしてな......昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」\n 校長は言葉をついで、\n「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていてもいいけれど......考えがありますか」\n「どこか寄宿するよいところがございますまいか」とこれをきっかけに清三が問うた。\n「どうも田舎だから、格好なところがなくって......」\n「ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど......」\n「そうですな......一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」\n 二時間すんだところで、清三は同僚になるべき人々に紹介された。関という準教員は、にこにこと気がおけぬようなところがあった。大島という校長次席は四十五六ぐらいの年かっこうで、頭はもうだいぶ白く、ちょっと見ると窮屈そうな人であるが、笑うと、顔にやさしい表情が出て、初等教育にはさもさも熟達しているように見えた。「はあ、この方が林さん、私は大島と申します。何分よろしく」と言った言葉の調子にも世なれたところがあった。次に狩野という顔に疣のある訓導と杉田という肥った師範校出とが紹介された。師範校出はなんだかそッ気ないような挨拶をした、女教員は下を向いてにこにこしていた。\n 次の時間の授業の始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。かれは卓のところに立って、新しい教員を生徒に紹介した。\n「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになりまして、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生でございますから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」\n 校長のわきに立って、少しうつむきかげんに、顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた。生徒は黙って校長の言葉を聞いた。\n 次の時間には、その新しい先生の姿は、第三教室の卓の前にあらわれた。そこには高等一年生の十二三歳の児童がずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、いずれも眼をそのほうに向けて黙ってしまった。\n 新しい教師は卓の前に来て椅子に腰を掛けたが、その顔は赤かった。読本を一冊持って来たが、卓の上に顔をたれたまま、しばしの間は、その教科書の頁をひるがえして見ていた。\n 後ろのほうでささやく声がおりおりした。\n 教室の硝子戸は埃にまみれて灰色に汚なくよごれているが、そこはちょうど日影が黄いろくさして、戸外では雀が百囀をしている。通りを荷車のきしる音がガタガタ聞こえた。\n 隣の教室からは、女教員の細くとがった声が聞こえ出した。\n しばらくして思い切ったというように、新しい教師は顔をあげた。髪の延びた、額の広い眉のこいその顔には一種の努力が見えた。\n「第何課からですか」\n こう言った声は広い教室にひろがって聞こえた。\n「第何課からですか」とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」\n こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。\n 答えがあっちこっちから雑然として起こった。清三は生徒の示した読本の頁をひろげた。もうこの時は初めて教場に立った苦痛がよほど薄らいでいた。どうせ教えずにはすまされぬ身である。どうせ自分のベストをつくすよりほかにしかたがないのである。人がなんと言おうが、どう思おうが、そんなことに頓着していられる場合でない。こう思ったかれの心は軽くなった。\n「それでは始めますから」\n 新しい教師は第六課を読み始めた。\n 生徒は早いしかしなめらかな流るるような声を聞いた。前の老朽教師の低い蜂のうなるような活気のない声にくらべては、たいへんな違いである。しかしその声はとかく早過ぎて生徒の耳にとまらぬところが多かった。生徒は本よりも先生の顔ばかり見ていた。\n「どうです、これでわかりますか」\n「いま少しゆっくり読んでください」\n いろいろな声があっちこっちから起こった。二度目には、つとめてゆっくりした調子で読んだ。\n「どうです、このくらいならわかりますか」\n にこにこと笑顔を見せて、なれなれしげにかれは言った。\n「先生、あとのはよくわかりました」\n「いま少し早くってもようございます」\n などと生徒は言った。\n「今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?」\n「二度」\n「二度です」\n という声がそこにもここにも起こった。\n「それじゃこれでいいですな」と清三は生徒の存外無邪気な調子に元気づいて、「でも、初めのが早過ぎましたからいま一度読んであげましょう、よく聞いておいでなさい」\n 今度のはいっそうはっきりしていた。早くもおそくもなかった。\n 読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白い可愛い子に読ませてみたり何かした。読めるのもあれば読めぬのもあった。清三は文章の中からむずかしい文字を拾って、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。ことにむずかしい字には圏点をつけてそのそばに片仮名でルビをふってみせた。卓の前に初めて立った時の苦痛はいつかぬぐうがごとく消えて、自分ながらやりさえすればやれるものだという快感が胸にあふれた。やがて時間が来てベルが鳴った。\n 昼飯は小川屋から運んで来てくれた。正午の休みに生徒らはみんな運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくって、綾を取ったり、お手玉をもてあそんだりしている。運動場をふちどって、白楊の緑葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。\n 清三は廊下の柱によりかかって、無心に戯れ遊ぶ生徒らにみとれていた。そこにやって来たのは、関という教員であった。\n やさしい眼色と、にこにこした円満な顔には、初めて会った時から、人のよさそうなという感を清三の胸に起こさせた。この人には隔てをおかずに話ができるという気もした。\n「どうでした、一時間おすみになりましたか」\n「え......」\n「どうも初めてというものは、工合いの悪いものでしてな......私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ」\n「どうもなれないものですから」\n この同情を清三もうれしく思った。\n「私の前に勤めていた方はどういう方でした」\n「あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが......やはり若いものがずんずん出て来るものだから......それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから」\n「家には財産があるんですか」\n「財産ということもありますまいが、子息が荒物屋の店をしておりますから」\n「そうですか」\n こんな普通な会話もこの若い二人を近づける動機とはなった。二人はベルの鳴るまでそこに立って話した。\n 午後には理科と習字とを教えた。\n 夜は宿直室に泊まった。宿直室は六畳で、その隣に小使室があった。小使室には大きな囲爐裏に火がかっかっと起こって、自在鍵につるした鉄瓶はつねに煮えくりかえっていた。その向こうは流し元で、手桶のそばに茶碗や箸が置いてあった。棚には桶と摺り鉢が伏せてあった。\n その夜は大島訓導の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、ちょっと浦和にいて、それからここに赴任したという。家は大越在で、十五歳になる娘と九歳になる男の児がある。初めて会った時と打ち解けて話し合った時と感じはまるで違っていた。大島先生は一合の晩酌に真赤になって、教育上の経験やら若い者のためになるような話やらを得意になってして聞かせた。\n 湯屋が通りにあった。細い煙筒から煙が青く黒くあがっているのを見たことがある。格子戸が男湯と女湯とにわかれて、はいるとそこに番台があった。湯気の白くいっぱいにこもった中に、箱洋燈がボンヤリと暗くついていて、筧から落ちる上がり水の音が高く聞こえた。湯殿は掃除が行き届かぬので、気味悪くヌラヌラと滑る。清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思い浮かべた。"
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"role": "user",
"content": " 能の芸術価値は、ひとへにそれが舞台芸術としての存在の上に係つてゐるものであるから、演出が殆んど能の全価値であるといつてもよい。\n それほど重大な演出の問題が、従来能の研究者の間に於いて等閑視されて来たのは、能の研究といへば多くは文学的に能の台本(謡曲)の訓詁註釈に没頭するとか、原典批判を試みるとか、或ひは、歴史的に能の発生・発展に関する史実の探究に専心するとか、さういつた方面にのみ注意が向けられてゐた結果である。それ等も、もとより必要な検討事項ではあるが、そのために能の研究の最も根本的な基本となるべき芸術学的・美学的研究が取り残されたことは遺憾である。\n 能の芸術学的・美学的研究の対象となるものはどうしても能の演出そのものでなければならぬ。それを知るには、一流一派に偏することなく、能の実演を(なるべく良い技術を数多く)根気よく見なければならぬ。それには相当の年月を要することであり、しかも常に新鮮な目を以て批判的に観察してかからねばならぬ。毎月、或ひは毎週、能を見る人の数は少くないけれども、彼等の大部分はウタヒを稽古してゐる好事家で、しかも一流一派の盲目的信仰者であり、自分のウタヒの技術を増進する目的で(見るためでなく)単に聞くために能舞台へ出かけるやうな片寄つた熱心家であるか、さうでなければ稽古仲間の義理附合に席を取つて社交的に集まるといつたやうな有閑人である。いづれにしても、能舞台へは行くが能芸術とはおよそ関係のないやうな人間が大多数であり、能の研究はおろか、能の鑑賞をさへ敢へてしないやうな人たちである。さういつた人たちの会費を基礎にした会員組織乃至社団法人組織の上で舞つて見せなければならぬ能役者も気の毒ではあるが、それに較べると、芝居の方が(芝居その物は営業本位でかなり愚劣なものばかり毎月並べ立ててはゐるけれども)、見物人の大部分は見て娯しむために出かけるので、鑑賞といふ点からいへば、まだしも能よりは確かにより多く熱心に鑑賞されてゐるわけである。\n さうでなくてさへ、能の演出は見物人の教養を標準にするやうに制約されて、時代に依り、世態に依り、断えず変化しつつあるので、(演出者自身はそれを意識してゐなくとも)、教養の低い見物人を主体とする大衆に引きずられて演出その物が次第に低下して行くであらうことは避けられぬ運命である。\n それにつけても一見不思議に感じられることは、能には、少くとも近代の能には、厳密な意味での舞台監督者といふ者がない。今日では、シテ(主役)は必ずしも舞台監督者ではない。ワキよりも地頭よりも未熟なシテの役者をわれわれはしばしば見る。後見は、見方に依つては舞台監督者の資格を持ち得る筈であるが、近頃の後見は助手以上の資格を持つ者は殆んどなく、時としては助手の資格をさへ持ち得ない者さへ見受けられる。本来シテが舞台の上で故障を起して舞ひつづけることができなくなつた場合は、後見が立ちどころに代役を勤めるべき約束があつたのだが、さういつた頼もしい後見は殆んど見られなくなつた。故宝生九郎翁は舞台から引退して後も、しばしば後見を勤め、また時として地頭を勤めてゐた。後見座にゐても、地謡の中に交つてゐても、彼が目を光らしてゐる限り、舞台は奇妙に引きしまつて、隠然たる一箇の舞台監督者であつたことは皆人の知るところであるが、九郎歿後そんな有力な舞台監督者を一人として発見することができないのは、能界の混沌状態を如実に暴露してゐるものと言はなければならぬ。\n 昔はどうであつたかといふと、一座の棟梁(大夫)といふ者が実力を持つてゐて、完全な統制が演出の上に及んでゐた。永享二年の奥書のある世阿弥の「習道書」を見てもわかるやうに、能は、もろもろの役員――シテ・ワキ・ツレ・アヒ・囃子方・地謡――の演戯が完全な一つの調和を保つてこそ初めて「舞歌平頭の成就」は生ずるのであるから、各員思ひ思ひの表現をすることは許されなかつた。誰が中心になつてゐたかといふと、もちろん棟梁のシテが中心であり、標準であつて、その他の役を担当するすべてを世阿弥は連人と呼んでゐるが、その連人たる者はすべて「一座棟梁の習道を本として、その教へのままに芸曲をなすべし」と規定されてゐた。即ち棟梁のシテの指導に従つて、その監督の下に演戯せねばならないのであつた。例へば、ワキに対しては、「棟梁の掟の程拍子を中心に案得して倶行同心の曲風をなすべし」と教へ、鼓方に対しては、「何をも一心のシテに任せ」「シテの心を受けて」事をなすべしと教へ、笛方に対しては、「シテの音声を聞き合せて調感をなし、音声を彩るべし」と教へ、アヒの狂言に対しても、「笑の中に楽を含む」といふことを記憶して、シテの調子をこはさない程度に自然の滑稽味を作り出すやうにすべしと教へてゐる。要するに、すべての役役の人は「一座のシテの感」を基準として行動すべきことを示したもので、その掟は長く守られてゐた。\n しかし、それには一座の棟梁たる者は他の誰よりもすぐれた技芸者たることが必要条件であつた。また、事実、幕府時代の能の制度は(多少の例外はあつても)概して一座の棟梁を第一の技芸者として作り上げ得るやうにできてゐた。けれども今日は必ずしもさうでなく、各流派の実際について見ても、家元自身が第一の技芸者であるものは一人か二人に過ぎない。殊にまた、ワキ・アヒ・囃子方に至つては、昔の座附の制度は滅びてしまつて相互の間に遠慮もあり、譲り合ひもあり、少くとも明治時代の統制さへも期待することはできなくなつてゐる。\n 昔の能は統制の中にも或る程度の自由競争があつて、シテとワキと、シテと囃子方と、囃子方と地謡と、真剣に鎬を削つて、負けず劣らず張り合ひながらも、全体としての調和を皆考へてゐたといはれる。そこに能の面白味があつて、表面はシテを基本として推しながら、決して安価な妥協をせず、真実は懸命に対抗して、即かず離れずの妙技を見せることを最上とした。けれども今日では(全体の技術の水準が下つたせゐもあらうが)互ひにいいかげんな所で妥協して、昔の金春大夫と宮王大夫の逸話にあるやうな真剣勝負的な競演などは見られなくなつた。\n 金春大夫、名は安照、禅曲と号し、俗に大大夫と呼ばれた。太閤秀吉に贔屓されて、桃山時代の能界の第一人者であつた。或る日秀吉が大大夫に「二人静」を所望した。大大夫は適当なツレがないからといつて辞退した。「二人静」は両ジテともいはれる能で、シテとツレと相舞をするので、シテに劣らぬほどのツレを得なければ舞へない。大大夫が辞退したのはその理由からであつた。しかし、金春には当時七大夫と呼ばれて、大夫を称するツレの家が七つもあつた。殊にそのうちでも宮王大夫は大大夫にも劣らぬ勘能の者であつた。秀吉は大大夫と宮王大夫を並べて「二人静」が見たかつたのである。ところが大大夫は宮王大夫と仲違ひをしてゐたので、彼と共演したくなかつた。その事情を陳述すると、秀吉は承知しないで、此の能一番に限つて共演しろ、その後はまた仲違をしたくば勝手にしろ、といつた。大大夫は仕方なく承諾した。当日まで二人は申し合せなどはもちろんすることなく、いよいよ幕を出る間際になつて、宮王大夫は大大夫に向ひ、どちらが先に出るのかと聞いた。大大夫は宮王大夫に先に出ろといつた。先に出る方がツレの役である。やがて二人は舞台に出ても、日頃の鬱憤が晴れないで、互ひに協調しなければならぬことは知つてゐながらもそれがしたくなく、互ひにむきになつて対抗しながらも併し不調和になつてはいけないといふことは知りきつてゐた。その真剣な競演はクセになつて絶頂に達した。「神の宮滝」の地で、一人が正面へサシ込むと、他の一人はわざと下をサシ廻し、「西河の滝」で、一人が下を見ると、他の一人は上を見る。と、いつたやうな風で、互ひに即くまい即くまいと努めながら、それでゐて、要所要所は一糸乱れず呼吸が合つてゐたので、秀吉は期待した以上の面白い能を見ることができて満足したといふのである。\n 此の話はどの程度まで事実であるか知らないが、昔の能の演出の一つの情景を伝へてゐる点で興味がある。能に限らず、すべて昔の日本の技芸は各人が真剣になつて最善をつくすところに妙味があつた。剣道などでは殊にそれが生命となつてゐた。その場に臨むと、親、親に非ず、師、師に非ず、といつたやうな意気があつた。その意気が昔は能の演出の生命であつた。しかし、今日の能の演出にはその意気はあまり見られなくなつた。もしそれが全く見られなくなつた時は、能は(今日の舞楽と同じやうに)憐れな美しい屍骸と化した時である。能は、少くとも形式だけは、まだ長くつづくであらう。しかし、現下の状態では余命幾ばくぞやの感なきを得ない。\n 事態かくの如くなつた以上は、もはや昔の演出の組織の如くシテを舞台監督者と見做して統制しようとしても、それは木に縁つて魚を求めるが如きものである。実行の可能な一つの方法としては、宝生九郎翁の如く、最も有能な実力者が後見となつて、或ひは地頭となつて、演出を監督すべきである。しかし、その前に、能役者・アヒ・囃子方・地謡の性根から入れ替へてかからなければならぬことは言ふまでもない。"
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"role": "assistant",
"content": " さて、舞台監督の談義が少し長くなつたが、前にも述べた如く、能の芸術価値は殆んど全くその演出の上に係つてゐるのであるから、その演出の理論と実際について少し詳細に亘つて述べて見たいとは思ふけれども、それだけでも優に一巻となるほどの大きな問題であるから、それは他の機会に譲ることとして、此処には極めて基本的な一二の点だけに触れて置くことにしよう。\n 能の演出を根本的に裏づけるものは序・破・急の原則である。序は初めの部分で、それをば遅滞しないやうに大まかに進め、見物人の興味を早く主要部の方へ導く方針で運ばせねばならぬ。次の主要部に於いては、見物人を十分に娯しませるやうに、表現を細かに砕き(それを砕破もしくば破といふ)、それが為の進行の遅滞は止むを得ない。しかし、最後の部分になると、もはや見せるべき重な物は見せてしまつたし、聞かせるべき重な物は聞かせてしまつたのだから、終局に向つて急ぐだけの仕事が残つてゐる。だから急といふ。此の序・破・急は、一面から見れば時の速さの原則であり、また他の一面から見れば、表現の密度の原則である。表現の密度が粗ければ、従つてテンポも早くなり、表現の密度が細やかになれば、同時にテンポも緩くなる。だから、序の部分は表現がやや粗く、テンポもやや早く、破の部分は表現が細やかで、テンポも緩く、急の部分は表現が最も粗く、テンポも最も早くなるのは自然の道理である。\n 此の原則は能のすべての表現を支配する。一番の能を演じる時も此の原則で行はれ、一部の詞章を表現するにも此の原則で行はれ、また一聯の番組(例へば五番立の演能)を上演する場合にも此の原則以外にそれを支配すべき法則はない。\n 例へば「高砂」を演じるとする。初めにワキ・ワキヅレが次第の囃子で登場して一定の場所に着座するまでは序の部分であるから、これは粘らずにサラリと運ばねばならぬ。次に一声の囃子でシテ・シテヅレが登場して一定の場所に達する所はすでに破の部分に入つたのである(破の第一段)から、ワキ・ワキヅレの登場よりもずつと位を持つて、表現も細やかになり、それだけテンポも緩くなつてよい。次にワキとシテ・シテヅレの問答が始まつて初同(最初の同吟)の終るまで(破の第二段)は、同じ調子のつづきではあるけれども、まだその次に主要な部分が控へてゐるので、テンポも緩くなり過ぎてはならない。次のクリ・サシ・クセからロンギの終りまで(破の第三段)は全曲の最も主要な部分であり、表現も入念に、従つてテンポも緩くなつてよい。(といつても此の曲は脇能であるから、緩さにもそれ相応の程度のあることはいふまでもない。)併し、その次の中入後のワキ・ワキヅレの待謡から、後ジテの出端の登場・神舞・切のロンギまでは、全曲の急の部分であるから、これはテンポを早めて颯爽たる所を見せねばならぬ。\n 此の序・破・急の原則はすべての能に皆適用されるべきものであるが、曲に依つて必ずしも一一の能が悉く五段(序一段・破三段・急一段)に区分されるとは限らず、中には四段に区分されるのが妥当の物もあり、或ひは六段に区分されるべき物もあるけれども、概括的に見て序・破・急の原則に当て嵌らないものとてはないのである。\n その原則はまた一番の能の中の一部分にも適用される。例へば「高砂」の急の部分、即ち中入後の部分だけについて見ても、初めのワキ・ワキヅレの待謡は序の部分、次の後ジテの出端の登場から神舞までは破の部分、最後の切は急の部分である。\n 更にその最後の切だけについて見ても、その中にもまた序・破・急があり、更にその中のどの一部分について見ても、そこにもまた序・破・急がある。といつたやうに、全体的にも部分的にも、序・破・急の原則は緊密に表現を支配してゐる。\n 更に幾番かの能を連結して一つの番組を作成する場合にも、その演出を支配するものは序・破・急の原則である。例へば五番の能をつなぎ合せて上演する場合ならば、初番の脇能は序の能であり、二番目修羅物・三番目鬘物・四番目現在物は破の能であり、五番目鬼物は急の能である。さうして破の能三番の中心たる鬘物は、同時に番組全体の中心でもあるから、最も肝要の能であり、表現も最も慎重に行はれねばならぬ。また三番立の演能の場合ならば、その編成の方法は幾通りもあり得るが、例へば初番に修羅物を置けばそれが当日の序の能であり、次に狂女物を据ゑればそれが破の能であり、最後に早舞物を持つて来ればそれが急の能である。修羅物は五番立の演出の時は破の初めの能であつても、初番に置かれる時は序の能の位で演じられなければならず、また狂女物は本来(五番立の標準でいへば)破の末の能であつて、急の能に接近した調子を持つてゐるべきであるが、それが三番立の演出の二番目に据ゑられた時は、番組の中心となるのだから、破の能の位で演じられなければならぬ。\n かくの如く、一つ一つの能は単独にそれ自身の調子の位は持つけれども、演出の位置の変更に依つてその調子の位合に変動が生じるといふのは、どこまでも序・破・急の原則が演出を一つの完全な表現として仕立て上げねばならぬからである。\n 序・破・急の原則は、歴史的には、もと舞楽の表現の原理として伝へられたものであつたが、それを巧みに能の表現の原理として取り入れたのは主として世阿弥の功績である。しかしその名称こそは特殊であるが、すべての芸術的表現に於いて、意識的にか無意識的にか、苟くも此の法則に支配されないものはないといつてよい。ただそれを逸早く自覚して表現の基本原理として適用した所に、能の演出の様式の確立が助けられたといふ強みがあつた。\n 能の演出は割合に早く様式化されてしまつたけれども、能役者は、少くとも彼が芸術家である限りは、その様式化された技術の束縛の範囲内だけに跼蹐してゐることは忍べなかつた。彼は絶えず自由を求め、自己を表現しようと努めた。その努力が甚だ末梢的な技術の上にのみ止まるものもあつたけれども、またしばしば技術を突き抜けて、より多く精神的な芸術の根本表現を揺り動かさうとするものもあつた。能の技術は、昔から名人・上手といはれた多くの役者たちの発明の堆積であるから、その伝統を習得することは自己の表現の基礎を形作ることに役立つのはいふまでもないが、そこで止まつてしまつては徒らに先人の真似事をするのみであつて、彼自身の芸術ではない。真の芸術家は先人の伝統を踏まへてその上に一歩を踏み出さねば安んじられるものではない。ただ未熟な者が先人の技術の堆積の上にも攀ぢ登れないで、ほしいままに自己を発揮しようとすると甚だ拙劣醜悪なものを見せることになるので、それは慎まねばならぬとされてはあるが、すでに先人の伝統を体得した以上は、そこから彼自身の芸術が始まるべきだといふことを忘れてはならない。それ故に、創意に富む芸術家は、先人未踏の領域に分け入らうとする野心を持つ。能役者にも古来しばしばさういつた冒険者があつて、謂はゆる「一工夫」を試みる者が少くなかつた。いたづらに旧弊を固執しようとする者の目には異端視されるであらうが、能を自己の芸術表現の手段として考へる者に取つては止むに止まれぬ衝動の発揮であつた。われわれは、さういつた芸術的冒険者の努力を買つてやるべきである。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n 本陣油屋の奥の座敷では、逸見多四郎義利が、眼をさまして起き上った。\n\n3\n 多四郎は聞き耳を澄ましたが、\n「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。\n と、左の隣部屋から、\n「はい」という源女の声が聞こえ、\n「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。\n「宿に騒動が起こったようじゃ。......ともかくも身仕度してこの部屋へ!」\n 間もなく厳重に身拵えした、東馬と源女とが入って来た。\n その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。\n そこへ番頭が顔を出し、\n「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」\n こう云ってあわただしく走って行った。\n「何はあれ宿の様子を見よう」\n 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。\n 多四郎がこの地へやって来た理由は?\n 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。\n さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。\n 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地のように飛んだ。\n「これは危険だ、ここにいては不可ない、野の方へ! 耕地の方へ!」\n こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。\n その後から二人は従いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。\n\n 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。\n(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。\n(宿を出てともかくも外へ行こう)\n 仕度をして外へ出た。\n(主水様は?)\n こんな場合にも思った。\n\n4\n 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!\n 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。\n 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。\n 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望は別れることにあった。\n そのお妻の姿が見えない。\n(よしこの隙に立ち去ろう)\n で、身仕度して外へ出た。\n(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)\n で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。\n 喚声、悲鳴、馬のいななき!\n 破壊する音、逃げまどう足音?\n 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!\n 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!\n その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。\n 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。\n 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々として凄まじく、髻千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。\n「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。\n それが澄江であるからであった。\n「陣十様か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。\n「汝逃げるか! 忘恩の女郎!」\n そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!\n「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、\n「思い知れ――ッ」と切った。\n が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。\n「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。\n と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅装束をした武士であった。\n「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」\n「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」\n\n5\n 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。\n「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。\n「澄江! 澄江! おおおお澄江!」\n 思わず流れる涙であった。\n 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、\n「澄江であったか、おおおお澄江で! ......昼間鍵屋の二階の欄で。......それにいたしてもよくぞ無事で! ......別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で......」\n しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて\n「やあ汝は鴫澤主水! この陣十郎を見忘れはしまい! ......本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ......見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。\n「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」\n かかる場合にも鴫澤主水、親の敵の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!\n(どこに?)と声の来た方角を見た。\n 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。\n が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!\n ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、\n「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。\n「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」\n 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ......陣十郎を陣十郎を!\n(妾には討てぬ! 妾には討てぬ!)\n「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」\n その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!\n 宿は狂乱! 宿は狂乱\n「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」\n「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」\n 一間に逼った討ち手討たれ手!\n 音!\n 太刀音!\n 合ったは一合オ――ッ!\n「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!\n いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!\n 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!\n その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!\n「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」\n「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」\n「お兄イ様ア――ッ」"
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"role": "assistant",
"content": "「妹ヨ――ッ」\n「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」\n\n6\n 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。\n 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。\n 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。\n 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。\n 要介達は何故来たか?\n 源女を逸見多四郎に取られた。\n 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。\n と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。\n(では我々も追って行こう)\n おりから林蔵も行くという。\n では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。\n 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。\n と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、\n「焼き討ちだ――ッ!」\n「馬が逃げた――ッ!」\n「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」\n「切り合っているぞ――ッ!」\n「焼き討ちだ――ッ」\n 耳にして要介は足を止めた。\n「林蔵々々、少し待て!」\n「へい、先生、大変ですなア」\n「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」\n「そうですとも先生迂闊には行けない」\n「宿を避けて野を行こう」\n「そうしましょう、さあ野郎共、その意で行け、街道から反れろ」\n「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。\n 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。\n と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。\n その光で行手を見れば、博徒の一団が屯していて、宿の様子を眺めていた。\n(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)\n 渡世人の仁義である。\n「藤作々々」と林蔵は呼んだ。\n「へい、親分、何でござんす」\n「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」\n「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。\n「親分、大変で、猪之松の野郎で」\n「ナニ猪之松? ううん、そうか!」\n 見る見る額に青筋を立てた。\n「先生々々、秋山先生!」\n「何だ?」と要介は振り返った。\n「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」\n「猪之松? ふうん、おおそうか」\n 要介も向こうを睨むように見た。\n\n7\n「林蔵!」としかし要介は云った。\n「猪之松には其方怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」\n「何故です先生、何故いけません?」\n「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」\n「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」\n「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」\n「ようがす、それじゃアその準備だ。......やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ......それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」\n「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。\n と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。\n「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。\n「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」\n「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、\n「うん、藤作が見えたっけ」\n「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」\n「俺もそうだと睨んでいる」\n「さて、そこで、どうしましょう?」\n「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」\n「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」\n「嘉門様がお居でなさらあ。......素人の客人を護衛って行く俺らだ、喧嘩は不可ねえ、解ったろうな」\n「なるほどなア、こいつア理屈だ。......じゃア静まって居りやしょう」\n この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。\n 眼ざとく認めたのが要介であった。\n「杉氏」と要介は声をかけた。\n「あの武家をよくご覧」\n 浪之助は見やったが、\n「先生ありゃア逸見先生で」\n「であろうな、わしもそう見た」\n「先生、女は源女さんですよ」\n「そうらしい、わしもそうと見た。......よし」と云うと秋山要介、つかつか進み出て声をかけた。\n「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」\n さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。\n\n8\n「これはこれは秋山先生か」\n こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。\n「不思議な所でお逢い申した」\n「いや」と要介は苦笑いをし、\n「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」\n「期する処? はてさてそれは?」\n「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」\n「拙者を追っかけ? ......何故でござるな?」\n「源女殿を当方へいただくために」\n「............」\n「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。......なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。......」\n「............」\n「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」\n「............」\n「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 怪老人の四角なメガネのおくに、二つの目がランランとかがやいていました。金色に光っているようにさえ、感じられました。老人はこの大発明に、もう、うちょうてんになっているのです。大友少年も、聞けば聞くほど、この発明の、あまりのおそろしさに、ブルブルと、からだがふるえてくるのを、どうすることもできませんでした。\n 老人は、しばらくだまって、大友少年の顔を見つめていましたが、やがて、ニヤニヤと、みょうな笑いを浮かべながら、こんなことを言いました。\n「どうだね、大友君、わしの弟子になりたくはないかね。そして、この大発明をたすける気にはならないかね。」\n「それには、どうすればいいんですか。」\n 大友君は、おそるおそるたずねました。\n「きみが、透明人間第四号になってくれればいいんだよ。」\n 老人は、やっぱりニコニコしながら、ギョッとするような、おそろしいことを言うのです。\n「いやです。ぼく、いやです。透明人間にされるなんて、いやです。」\n 大友君は、まっさおになって、さけびました。\n「ハハハ......、きみはこわがっているね。なあに、ちっとも、こわいことなんか、ありゃしないよ。そこの手術台で、ひと晩ねむればいいんだよ。はじめに、ねむり薬を注射するから、何も知らないで、グッスリ、ねむってしまうよ。そうして、目がさめると、きみはもう、透明人間になっているのだ。だれにも見られないで、どんなことだって、できるのだ。きみは、童話の魔法使いになったと同じなんだ。え、どうだね。夢のような話じゃないか。こんなおもしろいことが、ほかにあると思うかね。」\n「いやです。ぼくの顔やからだが、なくなってしまうなんて、いやです。おとうさんや、おかあさんは、ぼくにあえなくなるし、友だちとも、わかれなければなりません。そんなことは、いやです。ぼく、魔法使いなんかに、なりたくありません。」\n 大友君は、ひっしになって、ふしょうちを、となえましたが、老人が、それに耳をかたむけるはずはありません。\n「そんなに、いやかね。だが、いくらいやだと言っても、きみは、わしのとりこなんだ。逃げようとしても、この部屋には出口がない。ひみつ戸をあけるやりかたさえ、きみは知らないのだ。わしの命令にしたがうほかはないのだよ。さあ、いい子だから、おじいさんの言うことをきいて、じっとしているんだよ。」\n 怪老人は、そう言いながら、いきなりイスから立ちあがると、パッとコウモリのはねのように、外とうのそでをひろげて、大友少年に飛びかかってきました。そして、アッというまに、こわきにかかえて、手術台のそばに行き、その上にねかせてしまいました。もう、いくらジタバタしてもだめです。怪老人の鉄のような腕にしめつけられて、身うごきさえできないのです。大友君は、とうとうかんねんの目をとじました。\n 左の腕が、まくりあげられたのを知っていました。しかし、もう目をひらきません。もがいてみたって、どうにもならないのです。やがて、腕にチクリと、虫のさすようないたみを感じました。注射針がささったのです。\n「さあ、これでいい。きみはすぐ、ねむくなるよ。」\n 大友君はもう何も考えないで、じっとしていました。しばらくすると、からだじゅうが、だるくなってきました。なんだかいい気持ちです。ウツラウツラとねむくなってきました。どこからか、なつかしい子守うたが、きこえるような気がしました。そして、いつともなく、ふかいねむりにおちてゆくのでした。\n\n透明少年\n\n それから、どれほどの時間がたったのか、わかりませんが、大友君は夢からさめたように、しぜんに目をひらきました。やっぱり、手足が何かにしめつけられていて、すこしも身うごきができません。\n しかし、それは怪老人の腕ではなくて、グルグルまきのほそびきでした。大友君はイスにかけさせられ、両手両足を、ほそびきで、しばりつけられていたのです。\n そばにはだれもいません。一坪ほどの、せまい箱のような場所です。ふと気がつくと、正面のかべに、なにか光ったものがあります。鏡です。三十センチ四方ほどの鏡が、かべに、はめこみになっているのです。大友君は、それが鏡だとわかるまでに、一分もかかりました。そこには、なんとも、えたいのしれない、へんてこなものが、うつっていたからです。\n 鏡の中には、学生服の胸から上だけが、こちらをむいていました。しかし、その服のえりの上には、首がないのです。学生服は大友君の着ているのと、しわのよりかたから、ボタンの図案まで、まったく同じでした。その鏡にうつっているのは、自分にちがいないのです。それでいて、首だけが、まるで、ふきとったように、消えてしまっているのです。\n 大友君は、あまりのおそろしさに、からだがガタガタふるえてきました。顔もまっさおになったのでしょう。しかし、その顔は人の目には見えません。顔がなくなっていたのです。からだもなくなっていたのです。大友君は、いつのまにか、透明人間にされてしまったのです。鏡に学生服だけが、うつっているのは、そのためだったのです。\n みなさん、自分のからだが、まったく目に見えなくなったら、どんな気持ちがすると、思いますか。自分が、この世から消えてしまうのです。しかし、ちゃんと生きているのです。むかしの忍術使いは、自分のからだを、かきけすことができたそうですが、でも、それは一時のことです。また、もとのすがたにもどれたのです。ところが、大友君は、もう二度と、もとのすがたには、なれません。一生、目に見えない人間として、くらさなければならないのです。世の中に、こんなおそろしいことが、またとあるでしょうか。\n 大友君はそれを思うと、なんとも言えないかなしみが、こみあげてきました。「おかあさーん。」と、さけびたくなるのを、やっと、歯をくいしばって、こらえました。しかし、なみだをとめることは、できません。あついなみだが、ほおをつたって、ながれているのが、よくわかります。でも、そのなみだは、目には見えないのです。前の鏡には、何もうつらないのです。\n「おお、気がついたか、きぶんはどうだね。」\n ふりむくと、横ての小さなドアがひらいて、そこから、怪老人の四角なメガネが、のぞいていました。\n「きみはもう、人の目に見えない透明人間になったのだよ。きみがいまニコニコ笑っているのか、べそをかいているのか、わしにも見えない。どうだね、さびしいかね。それとも、たのしいかね。きみはきょうから猿飛佐助のように、どんなことだって、できるんだよ。すばらしい透明怪人になったのだよ。さあ、元気をだしたまえ。」\n 怪老人は、大友君のそばに近づくと、イスごと持ちあげて、大友君を小部屋のそとに、つれだしました。暗い土の廊下です。そこで、手足のなわをほどき、大友君をだきあげて、どこかへはこんでいくのです。\n「ちょっとのまのしんぼうだ。きみが空気男のくらしになれるまで、すこし、きゅうくつな思いをしてもらわなければならん。ひょっと、逃げだされでもしたら、たいへんだからね。いま逃げだしたら、きみは透明人間というものに、なれていないから、すぐつかまってしまう。目には見えなくても、からだはあるんだから、一度つかまったら、もうおしまいだよ。だから、きみは、しばらく、ここにはいっているんだ。」\n ガチャンと音がして、鉄のこうし戸がひらきました。その前のゆかに、しょくだいがおいてあって、小さなローソクの光が、ぼんやりと、あたりを照らしています。\n 老人は大友君を鉄ごうしの中に入れて、ピッタリ戸をしめると、そとから、かぎをかけてしまいました。\n それは動物園の猛獣のオリのような鉄ごうしの牢屋でした。大友君はそこに、とじこめられてしまったのです。\n「しばらくの、がまんだ。食事はちゃんと、はこんであげるからね。」\n 老人は長い白ひげをふるわせて、声をたてないで、笑いました。四角なメガネが、ローソクの火をうけて、きみ悪くキラキラと光りました。老人はそのローソクを手にもち、どことも知れず、たちさってしまいました。\n 大友少年は、ローソクのなくなった、まっくらやみの中で、つめたいコンクリートのゆかに、うずくまっていました。なんともいえない、さびしさと、かなしさに、うちひしがれて、うずくまっていました。\n\nB・Dバッジ\n"
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"role": "assistant",
"content": " お話かわって、こちらは小林団長をはじめ、少年探偵団の少年たちです。大友君が洞窟のとりことなった夜のあくる日、少年たちは、学校からかえると、すぐに、島田少年のおうちにあつまってきました。\n 警察の人たちは、ゆうべおそくまで、ゆくえ不明になった大友君を、さがしましたが、夜ふけのことではあり、ついにみつかりませんでした。それで、中村捜査係長たちはひとまず警視庁にひきあげ、そこの一室に透明怪人捜査本部をもうけて、東京全都にわたる、大がかりな活動をはじめたのです。黒川記者も、警視庁の記者クラブにつめきって、たえず捜査本部に顔をだしていました。\n しかし、少年探偵団の少年たちには、透明怪人をとらえることよりも、さしあたって、副団長の大友君の身のうえがしんぱいです。なんとしてでも、大友君をさがしださねばなりません。そこで、少年たちは警察にまかせておかないで、自分たちの手で、副団長のゆくえを、つきとめようと決心したのです。\n 小林団長は、島田少年のうちで電話をかりて、電話のある、団員たちに、指令をあたえ、それぞれ近所の団員に、つたえさせるというやりかたで、たちまち六人の少年が、島田邸にかけつけることになりました。\n 一時間ほどで、すっかり人数がそろったので、小林君は、あわせて十人の少年を五組にわけ、島田邸を出発点として、五つのちがった道を、捜索させることにしました。\n「B・Dバッジをさがすんだよ。大友君はきっと、あれを使ったにちがいない、あれさえみつければ、もう、しめたものだ。」\n 小林団長は出発する少年たちに、そういう注意をあたえました。B・Dバッジとは、いったいなんでしょうか。それは、やがて、わかります。一組の少年が、まもなく、そのバッジをみつけるのです。\n 第一班から第五班までにわけた少年捜索隊の、第二班にあたったふたりの少年が、ぐうぜんにも、ゆうべ、透明怪人の自動車が、はしりさった方角を、うけもつことになりました。\n しかし、少年たちは、そんなことは、すこしも知らないのですから、ただ、あてずっぽうに、足のむくほうへと、あるいてゆきました。ひとりは町の右がわを、ひとりは左がわを、というふうに、手わけをして、キョロキョロあたりを見まわし、ことに、地面には、するどい目をそそぎながら、すすむのです。\n 町かどをいくつもまがって、一キロほどあるいたとき、右がわの少年が、とつぜん、ハッとしたように立ちどまりました。すぐ目の前の地面に、小さな銀色に光ったものが、落ちていたからです。\n 少年は、そこにしゃがんで、手ばやく銀色のものを、ひろいあげ、左がわにいたともだちを、手まねきしました。\n「やっぱり、そうだったよ。これB・Dバッジだよ。」\n「ウン、そうだ。これとおなじだね。」\n 少年のひとりは、ポケットから、銀色のバッジをとりだして、くらべて見ました。たしかに、B・Dバッジです。\n「すてきだ。これで大友君のゆくえがわかるね。」\n 少年たちの顔に、いきいきしたよろこびの色が、浮かんできました。\n ここで、ちょっと、B・Dバッジの説明をしなければなりません。『少年探偵団』という本に、このバッジのことが、くわしく書いてあるのですが、それは少年探偵団員の記章なのです。B・Dというのは、「少年」と「探偵」にあたる英語のかしら文字をとって、そのBとDとを、もようみたいに組みあわせ、記章の図案にしたことから、名づけられたのです。\n このB・Dバッジには、団員のしるしというほかに、いろいろなつかいみちがありました。まず第一に、それは重い鉛でできているので、ふだん、それをたくさんポケットに入れておけば、いざというときの、石つぶてのかわりになる。第二には、敵のすみかに、とじこめられたようなとき、バッジのうらのやわらかい鉛の面に、ナイフで字を書いて、窓や塀のそとへなげて、通信をすることができる。第三には、バッジのうちの針に、糸をむすびつけて、水の深さをはかることができる。第四には、てごめになって、どこかへ、つれさられるようなばあいに、このバッジを、道におとしておけば、方向を知らせる目じるしになる。そのほか、まだ、いろいろな使いみちがあるのです。\n 団員たちは、このバッジを、学生服の胸のうちがわにつけて、何かのおりには、そこをひらいて見せて、団員であることを、知らせあうのですが、そのほかに、団員たちのポケットには、二十個から三十個ぐらいのバッジが、いつでも、よういしてあるのでした。\n 大友君は、透明怪人の自動車の屋根に、身をふせているあいだに、町かどをまがるたびに、ポケットから、B・Dバッジを一つずつ、とりだして、道におとしておいたのです。いま二人の少年が、みつけたのは、それの一つにちがいありません。\n ふたりはそれから、目をさらのようにして、地面ばかり、にらみつけて、すすみました。町かどへくるたびに、ふたりが手わけをして、べつべつの方向にはしりだし、バッジをみつけると、口笛をふいて、もうひとりを呼びよせ、いっしょになって、その道をすすんでいくのです。そして、バッジからバッジへとたどっていくうちに、とうとう、あの焼けあとの原っぱに出ました。\n「へんだね。こんな広い原っぱへ来てしまったぜ。」\n「きっと、この原っぱに、何か、ひみつがあるんだな。ごらん、あすこにもバッジがおちている。大友君のいるところは、もう遠くはないようだね。」\n そして、そのバッジの落ちている場所まですすむと、また、むこうの草の中に、銀色に光るものが、見えました。\n「おお、あすこにもある。」「ここにもおちていた。」と、むちゅうになって、バッジをひろいながら、あるいているうちに、少年たちは、ついに、あの防空ごうの入り口にたっしたのです。\n 草におおわれた、防空ごうの入り口を発見したとき、ふたりの少年は、なんだかゾーッとして、思わず顔を見あわせました。\n「ホラ、ここに、こんなにバッジがおちている、大友君はこの穴の中へ、つれこまれたのに、ちがいないよ。」\n ひとりが、五つ六つ、かたまって、おちているバッジを指さしながら、ささやき声で、言いました。穴の中のくらやみには、何者がいるかわかりません。うっかり大きな声は、だせないのです。\n「よしここにきまった。ぼくはそのへんにかくれて見はっているから、きみは近くの電話をかりて、小林団長に知らせてくれたまえ。ぼくたちだけで、この穴の中へはいっては、しっぱいするかもしれない。やっぱり、団長から中村捜査係長に知らせてもらうほうがいい。」\n この少年は、大友君よりも、用心ぶかかったのです。かれは近くのくさむらに、身をすくめて、洞窟の入り口を見はりました。もうひとりの少年は、電話をかりるために、町のほうへ、矢のように、はしりだしました。\n\n暗中の妖魔\n\n それから一時間あまりのち、午後五時ごろのことです。れいの原っぱの防空ごうの前に、ものものしい警官隊がおしよせていました。\n 先頭には、この洞窟を発見した案内役の少年のひとりと、小林団長、つづいて、中村捜査係長と黒川記者、そのあとに六人の警官が、武装に身をかためて、したがっています。洞窟のやみの中に、ふみこむのですから、全員、懐中電灯を手にしているのです。\n「きみたち三人は、この穴の入り口に、がんばって、中からにげだすやつがあったら、ひっとらえてくれたまえ。あいては目に見えないやつだから、ただ見はっていたのでは、だめだ。捕じょうをのばして、ぼくたちがはいったあとで、入り口にあみをはるんだ。ほそびきを、縦横に、はりめぐらすんだ。そうすれば、透明怪人だって、からだはあるんだから、逃げだそうとすれば、すぐわかってしまう。もし、ほそびきが、へんな動きかたをしたら、いきなりとびついて、ひっとらえるんだ。わかったね。」\n 中村係長は、三人の警官に、そう命じておいて、「では、ぼくが先頭をつとめるよ。」と言いながら、身をかがめて、いきなり、くらやみの洞窟の中へ、ふみこんでゆきました。鬼係長と言われているほどあって、さすがに勇敢な捜査係長です。\n それにまけじと、黒川記者が、あとにつづき、それから、小林少年というじゅんで、のこる少年ふたりと警官三人も、ぜんぶ洞窟の中に、すいこまれてゆきました。\n 大友君のばあいとちがって、懐中電灯がありますし、それに、八人という同勢ですから、心じょうぶです。例の洞窟の行きどまりの、小さな穴を、はいくぐって、おくの広い場所に出ました。そして、そこにある板のドアを、ぜんぶ、ひらいて見ましたが、大友君のすがたは、どこにもありません。透明怪人は目に見えないやつですから、いるかいないか、わかりませんが、ふしぎなことに、すこしも人のけはいがしないのです。まるで、空家のように、シーンと、しずまりかえっているのです。\n いくつかの小部屋を、のこりなく、しらべて、さいごに、たどりついたのは、れいの怪老人の研究室でした。ふしぎなことに、そこへ通じる、ひみつ戸が、みな、あけっぱなしになっていたのです。\n 研究室もからっぽでした。はじめて、この部屋にはいった中村係長や小林少年は、それと気づくはずもないのですが、研究室の中のようすが、大友少年が見たときとは、ひどく、かわっていました。たなの薬びんや、きみょうな器械などが、半分いじょうも、なくなって、あとには、つまらないガラクタが、のこっているばかりです。まるで、ひっこしをしたあとのような感じなのです。怪老人は、警官隊のくることを知って、はやくも、どこかへ逃げさってしまったのでしょうか。"
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"role": "user",
"content": "「へ。」\n「もう騙されつこない。」\n「どうする氣だ。」\n「まだどうしてよいか考へないわ、あいつの處にもどらないだけはほんまだ、あいつは今夜あたりから搜しまはるだらう。あいつはそんな男さ、あんな奴の嬶になり手は、金岩の町にも、大野の町にもゐないからね、そんなバカ女はあたしで打止めだらうから、あいつはさがし𢌞つて謝まりにやつて來るだらうて、かへつてやるもんか。」\n「今夜は何處で寢る。」\n「さあ、今夜はな。」\n「舟で寢い。」\n「この舟で。」\n「蓆屋根の下はぬくといぞ。安火もこしらへてある。」\n「どれ見せて。」\n「どうや、ちやんとしたものだらう。」\n「まるで料理屋みたいだね。茂平やんはここで毎日寢て、自分で米焚いてやつてゐるの。」\n「二十年もな、舟も二度賣つて二度買つた、舟を買ふごとに料理屋は廣間だらけになる。ハハ。」\n「こんなだと知つてゐたら大根や牛蒡の一束もくれるんだつけ。」\n「これでこの川で夜釣で鯰や鮒はくひたいほど釣れるし、いけすで鯰は生かして置くから大根なぞ、くひたくねえ。」\n「へ、生簀もあるのか。」\n「女のほかは何でもある。女だけはさう生簀に生かして置くわけにゆかねえ、女は鮒とちがつて大かいからな。」\n「ヒヒヒヒ。」\n「お咲さ。」\n「あんだ。」\n「おめえ淺吉コワイか。」\n「あんなのろすけどこがコワイもんか。」\n「な。」\n「あんだ。」\n「今夜泊れよ舟で......」\n「ヒヒヒ。」\n「牛鍋作るべ、牛好きやろ。砂糖うんといれてさ。」\n「砂糖うんといれてね、ヒヒ。」\n「風もないし、町でおらしこたま仕入れて來ら。上肉をえらんで買ふべ。」\n「そんなに上肉でなくともええ、肉でさへあればええ、上肉はかへつてほんとは美味くない......。」\n「ぢや中肉にするか。」\n「中肉で白いぽたぽたのあぶらのあるところがええ。」\n 田舟は上元寺の裏手の葦の中で停つたが、往來からは田舟のとほるのが注意して寢かせて竿をつかつて行けば、まるで舟のすがたは見えない。へさきを突きこんだ裏手は人の通れるだけ葦を刈りこんであつて、上元寺から一人の尼さんが下りて來た、何處かで見張つてゐたのであらう若い尼さんは重い袋を提げ、默つて茂平に手渡した。茂平は蓆屋根の下から桝と箕とを持つて來た。\n 若い尼さんはしやがんで葦の中にゐて、ちよつと見にはすがたは見えないやうにしてゐた。お咲は尼さんの顏を見ないで平原のうしろの白山山脈を見上げてゐた。\n「秤つてもいいな。」\n「どうぞ。」\n「これで寒すすめの全部の上りかね。」\n「二十一日間の上りです。農家でもお米はたいせつにしてゐるから、なかなか下されはせん。」\n「二斗八升あるがあんたのおもはくはどうや。」\n「二斗八升でいいのや。」\n「では百八十圓の二斗で三千六百圓、八升分の千四百四十圓を合せると、〆て五千四十圓になるな、ええと、それでは五千四十圓たしかにお渡ししますよ。」\n「おほきに。」\n「この次は?」\n「一日と十五日の上りやから寄つてくだされ。」\n「庵主さんによろしういつてな。」\n「どうも有難うござした。」\n 田舟は川のまん中に出た。茂平は米をべつの袋にいれると、それにぼろの半纏をかけた。\n「貰つて歩いたお米もみな賣るんだな、うまい商賣だわね。」\n「一つの村に一つあての寺があるんだ、そこを集めて歩く仲使ひのこめ屋もゐるが、尼さんでなきや米は持つてゐないよ。」\n「どうしてだ。」\n「どうしてだか、尼さんは米の貰ひが外れないらしい。」\n 田舟は町端れにかかり、例の金岩の町の火見櫓が見えて來て、こんどは牛乳屋の裏の、小さい牧場の柵とすれすれにへさきが突きこまれた。箱に入れた夕方しぼりの牛乳が、手渡しで舟にはこばれ、牧場主の矢ノ島は、お咲の顏を見ると茂平にいつた。\n「別嬪のお客さまを何處につれて行くんかね。」\n「うふ......」\n「舟ぢや世間知らずだあ。」\n「滅多なことは矢ノ島さん、言はんといてくれや、あたしや烏渡足を借りただけや。」\n「さうか、ぢやお靜かに。」\n「うふ......」\n 茂平は曖昧に笑つて岸をはなれた。\n お咲は頬をふくらかし、いやな乳屋だといつて、暇さへあれば乳しぼりの手傳ひに來いと誘ひをかけるが、乳しぼりに行つて皆が乳房をしぼられてかへるのが落ちだといつた。\n「乳やをしてゐると女ぐせが惡くなるといふが、乳は白いからか。」\n「ばかな茂平やん、乳の色が白くても何の女にえんがあるんだ。」\n 鹽風呂で名のある海異館の二階の手すりで、夕化粧をした二人の女が先刻から人奪川をすべつて來る茂平舟を注意して見てゐた。茂平の方でも氣がつくと、手をあげて見せるし、女達も手をふつて何やら合圖をした。金岩の町ではただ一軒の料理屋であり、まはりを作つた庭ごしらへでは、ちよつと城のやうに豪華なものであつた。\n「あの人達は何のためにあんなに手をふつてゐるの。」\n「これを待つてゐるのさ。」\n「お米のことか。」\n「尼寺の米が料理屋で食はれるんだからなあ、全く米つてやつは妙なところを歩き𢌞つてゐるもんだ。」\n「茂平やんはそこで儲けようてんだな。」\n「うむ、一升について五十圓はねると、千四百圓のまうけになる、つまり上元寺から此處まではこぶ手間賃が手取り千四百圓に化けるのさ。」\n「茂平やんはりこう者だなあ。」\n「列車ぢや虱潰しにやられるので、ここらはみな舟ではこぶんだ、ほらいま上つてくる舟を見ろ、葦の中をわざと縫つて行くぢやねえか。」\n すれちがひの舟は、茂平に聲をかけていつた。女を乘せてがうせいぢやないか。どこの女だつぺ、併し茂平はそれには答へずにどうや、二百圓で二斗ばかり分けてくれまいかといひ、金は生まだといつた。對手の舟ぬしは早いところ賣るべと、一包みの布袋を茂平の舟にどかんと投げこみ、舟はちよつと尻振りになりお咲は驚いて、おつさん、いたはつてくれろといつた。おつさんはこの女ごさんは舟ははじめてと見え、顏色をかへてゐるといつた。では勘定しな、四枚あるぜ、と茂平は金を渡すと葦の茂りから再び舟をすべらせ、かれらは取引を濟すとこともなく別れた。\n「茂平やんは金はふんだんに持つてゐる。あたしやいままでそんなことを知らずにゐた。」\n「金がないと商賣ができないのだ、自分でも浮かり使へない金ばかりさ。」\n 舟は海異館の洗濯場に着き、米は女中達に渡された。あはせて一俵に近い巨額の札束は、茂平の手のひらでさらさら勘定の札音を立てた。お咲はぞつとしてほそながい青氣の色の札を、こんなに無雜作にあつかふ茂平を見直して、まぶしく眺めた。\n 煙草色の夕日のこもりを見せた曇天では、葦の茂りの下の方からくらみがかつて來た。\n 人奪川に口を開けてゐる或る一つの小さい沼は、葦の茂りでほとんど沼であるやうな空明りも、水の色さへ見せてゐない處があつた。舟をすべらせると葦の茂りの上にがりがりと這入りこみ、そして一度水に打倒された葦の塊は舟底からはなれると、一さいに群生状態にかへつて茂平舟はすつぽり葦の中に隱れてしまひ、外からどんなに透して見ても、舟も人も見えない葦の中に隱れてしまふ好箇の逃場であつた。\n お咲は肉を買ひに出かけるといつた茂平が、突然かへつて來ると何處からどう町に行つたのであらう、夥しい食料を買ひこんで、包みをといてならべた。お咲は七輪に火をおこして蓆屋根の下に、二人分の座ぶとんをならべ、苞刀とまないたと碗皿をならべて待つてゐた。あたりには物音もない、蓆屋根の下はあたたか過ぎるくらゐで、かれらは安火にもぐり、安火の上に炬燵盤を置いて相對することになつたのである。勿論、酒は藥罐でもう燗がついてゐた。\n「ほう、お咲さきれいに顏がはりがしたぢやないか。」\n「茂平やんの剃刀をかりてあたつたわ、何年ぶりだか。」\n「見ちがへるくらゐ冴えて來たぜ、やはり女といふものは場所と時によつてはちよつとめかして見たくなるもんだ。」\n「ヒヒヒ。」\n「一つどうや。」\n「ん。」\n「酒はいけるかの。」\n「すぐ醉ふよ、ほらもう、ぽつぽとして來た。」\n「も一つ。」\n「ん。」\n「明日な、映畫でも見て夕方喜右衞門橋の下で待つてゐてくれ、おら、迎へに行く。」\n「ん。」\n「これみんな使つたつていいんだ。」"
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"role": "assistant",
"content": "「こんなにお前たくさんなくとも、活動見られるよ。」\n「好きなものを買ふがいい。」\n「ん。」\n この不思議な二人の人間の間違ひが、葦の茂りにかこまれた舟の中で、ありふれたことがらのやうに展げられようとしてゐた時、茂平はふと口をすべらせた。\n「お咲さ、お前お鹽藏町の家に行つたことがあるかね。」\n「お鹽藏町つて學校の裏のかい。」\n「お前のお祖母さんのゐる家だべ。」\n「何でも五つか六つくらゐの時に、あそびに行つた覺えがあるな、奧二階のある家やがあそこにお母がゐた。」\n「お母はあそこで死んださ。」\n「疊の上でね、うれしい疊の上に死んだとすると......」\n「當り前だよ、だが、あの家はお前のものやつたのさ。」\n「ほう、お母は美しかつたか。」\n「氣立がよかつたから一文も貰へずに捨てられたのさ。」\n「誰に?」\n「大野町の大野屋といふ材木商だ、そんときはお前のお母は病らつて臥てゐた、さうだな三年くらゐ臥てゐただらう。」\n「あたしやお鹽藏町の家で顏洗つたことをおぼえてゐるが、お祖母ちやんはお母のことは何でも知つてゐるわけだな、お祖母ちやんにあひたいな。」\n「眼くされ婆あだ、慾の皮がつッ張つてな、三世帶に家ぢゆうを貸して食つてゐるのだ、お前がたづねて行つたらいやがるだらう、會ひたがるめえ。」\n「あたしやあひたい。お母のお母だもの。」\n「お前にまだそんなうぶな氣があるのかなあ。」\n「生きた親類てものを見たいのだ、松原の淺吉野郎の顏だけを見て生きてきたら、親類の一人くらゐに會ひたいのが當り前ぢやないか。」\n「それもさうや、ところで安火は裾に入れてかういふふうに床をとるか。」\n「寢返りすると舟がうごくわね。」\n 茂平は醉つたまぎれに着物をきかへて、ふいに意想外なことをいつた。\n「お前のお母もこの舟で寢たぜ。」\n「何だと......」\n お咲は顏を擡げた。\n「お母ともここで寢たといふのさ。」\n「ほんまか。」\n「うそはいはない。」\n お咲は起き直り、枕をはねのけた。\n「ちくしよ、よくもお母のことをいまごろ言ひ出しやがつたな。」\n「いや、うそだ、うそだ。」\n「うそもほんともあるものか、わいらのやうな人間にお母が舟にまで寢にくるやうなお人か、これは先刻の金だ、こんなもので胡麻化さうたつて胡麻化されるものか。」\n「何處に行くんだ。」\n「道路にあがつてかへるんだ。」\n「何處からあがらうといふのだ。」\n「お前は船頭だから道まで着けるのが役がらだから、舟を出してくれ。」\n「誰がいまごろ舟が漕げるものか、道に出たつてお前の寢るところがねえぢやねえか。」\n「どうでもいいから道に上げてくれ。」\n「お母のことは戲談だから了見してくれ。」\n「それぢやお前がどこかに出て行け、あたしや一人でここで寢る。」\n「ふん、それもよからう、まあ、そんな手荒いことはお互にいはないことにしよう。」\n「寄ると火を放けるぞ。枯葦は一堪りもないわよ。」\n「燐寸を放せ。」\n「放すものか。」\n「淺吉仕込みの女だけあつて暴れるな。」\n「わいらの手込みになるもんかね。わいらはこんなふうにあたしのお母もここで手込みにしくさつたのだらう、そしてその娘のあたしにもその手で對つて來ようとしやがる。川聾め。」\n「叩きのめすぞ。」\n「あたしや遣らうとしたらここら一面火を放つたつて平氣な女だよ、やりかねないわ、對手を見てからかかるがいい。」\n「どうしてもをかにあがるか。」\n「いつ時もゐたくない、早くあげてくれ。」\n「上肉も食はずにバカな女だ。」\n「お母のことをきくと何食つても、食つた氣がしない......」\n 舟はもとの葦の上をがりがり掻き分け、水心に出ると向岸の葦の中に突き込まれ、お咲は道路に飛び上るとあとをも見ずに町への桑畑の切株を避けながら畠をつッ切つて行つた。まだ八時になつたばかりで店屋の燈はあかるく、あそぶ子供の群が道路にのこつてゐた。\n 火見櫓下の菓子屋で草餅を一包買ひ、四辻を裏町にまがらうとすると反對の通りにふいに鱶のやうな男が、乏しい店屋の電燈の明るみに浮び出た、淺吉だつた。お咲はふん今頃まで搜し𢌞つてゐるのだなと、小氣味好げに調子づいた氣になり、すぐお鹽藏町に出た。絶縁同樣になつて途中で祖母に出會つても、その家をたづねたことはまるでなかつた。子供心に覺えてゐる家の間取りは頭にあつたが、今夜、三十年ぶりにたづねるといふことは、自分ながら不思議でどうかしてゐると思つた。べに殼塗りのしもたや作りの重いくぐり戸を開けてはいると、爐にゐる祖母のいくは一應誰方かといひ、何の用事で來たかを待構へてゐるふうであつた。不思議なことは三十年も來たことのない家の中で、祖母は毎日會つてゐるふうに、わけもなく隔てを外して振舞うていつた。\n「いま淺吉がお前をさがしにやつて來たが、會はなんだかの。」\n「會はなんだ。」\n「いさかひしたのか。」\n「え、ちよつと......」\n 祖母のかたはらに二階借りをしてゐる安島といふ郵便局員が、獵銃の手入れをしながらお咲を見た。この男ならしじゆう松林をうろついて、うまく射止めた小鳥を拾ひにお咲の松原に這入つてきたこともあつた。安島はちよつと頭を下げて見せ、けふ射つたつぐみ、しなへ、かしどりを網袋に入れて裏手に出て行つたのは、毛をむしるためらしかつた。\n「お母のほんとのことが聞きたくて來たんだが......」\n「いまごろ變なことをいふ子だね。」\n「お母は此處の家でほんとに死んだのけ。」\n「この家さ、ほらあの六疊間での。」\n「では疊の上だわね。」\n「何いつてゐるのこの子は?」\n「三味線に紐つけて縊れたとか、松街道で野垂死にしたとかいふ奴があるので、あたしや實際のこと承りに上つたのや、祖母ちやんは知つてゐなさると思つてな。」\n「なにバカ吐く奴は淺吉か。」\n「うん。」\n「お母はかんのん樣のやうなよい死に樣ぢやつた。」\n「色白やつたからな。」\n 二階への階段ぎはに二挺の三味線が、袋入りのまま下がつてゐた。お咲は子供時分にもここにこの三味線が下がつてゐて、爪立てをしてその胴皮に指をふれて見たことが、あつた。\n「お母は祖母ちやんのほんまの子か。」\n「ほんまの子や。」\n「祖母ちやんがお母を貰つて來て育てたと聞いたが、祖母ちやんの時世では貰ひ子がはやつたとも聞いてゐましたが、ほんまのことを話してくれね。」\n「何疑ふのや。」\n「ではお母、いくつに死にはつた。」\n「.........」\n「あたし位牌を拜みたうてな、位牌のあるところどの部屋か。」\n「よそ樣に貸してゐる部屋にあるのぢや。」\n「それで見せられんていふのか。」\n「さうや。」\n「位牌は誰のものや。」\n「わたしのものや。」\n「祖母ちやんの物が自分で見られないちふ法があるか、あたしや見たい、見せなきや今夜かへれん。」\n「お咲さ、おほ聲出すでねえ。」\n「あたしや拜みたいばつかりにやつて來たのだ。」\n「三十年も打つちやり放しにしてさ、いまごろ位牌がどうの、どこで死んだのつて、よく暴れに來られたものだ、どの面さげて人並みのことがいへるのや、餅一つ供へにも來たことのない奴がさ。」\n「三十年もおまゐりに來なかつたから、來たのぢやないか、見せんなら見なくともいいわ。」\n お咲は立ち上ると、そこに小鳥の毛を毟り終つた安島といふ男が寒む寒むといつて戻つて來た。網袋に鼠の赤裸になつたやうな小鳥が、殘酷に折り重なつて毟られた毛並と反對の、いやな死態を見せてゐた。\n「あんたこれ食べるの。」\n「食ふさ、春先の小鳥はあぶらが乘つてゐて美味いよ。」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「うまいにも、まずいにも、誇張しないでくれ」\n「聴かせてもらおう」\n エロアは急がない。彼はまず聴衆にしっかり用意をさせようとする。彼は、自作の脚本を読む前に、短い、気の利いた序文というようなもので、その解説をして置こうと思うのだが、まあ、二三思いついた、それも月並みな予告をする。\n「わたしはこの劇の価値が、どれほどのものかということは知っています。これはわたしの手始めです。いわば、開幕劇に等しいものです。たいした問題にはならないのです」\n そして、彼はついに余計なことまでしゃべる。詩人ウイレムは書物のページを繰っているようなふりをし、ウイレム夫人は、鏡を出して、髪の毛をあちこち押えてみたりする、この様子だと、彼らはその瞬間、朗読のあることを忘れているとしか思えない。\n エロアの細君はどうしているかというと、彼女は一言もしゃべらない。避け難い危急が切迫しているかのように心を戦かせながら、珈琲を注いでまわる。小さい丸い水溜りが光を反射し、そして、茶碗の中で湯気を立てる。\n 突然、独りで、エロアが決心をする。\n「席に着いてくれたまえ。始めるよ」\n 相手はまだぐずぐずしている。ウイレム夫人は、自由で真直ぐなただの椅子よりも、肱掛椅子の底に埋っていたほうが楽ではないかと考えている。\n「後へ退って下さい」――エロアはいう――「近くでは工合いがわるい」\n 詩人ウイレムは華奢な脚を組み合わせ、肱をつき、指を口髭にあて、やがて、のべつにそれを捻るのである。顔を影に向けて眼をつぶる。\n「もう一言」――ウイレム夫人が言う――「黙っていなくっちゃいけないんですか。それとも、朗読の間、感じたことを申し上げてもようござんしょうか」\n「黙っていて戴いたほうが結構です」\n エロアは、こういって、なお、意気地なくつけたす。\n「もっとも、どうにも我慢がおできにならないというような場合は、こりゃ別ですがね」\n「黙っていましょう。さあ、どうぞ」――ウイレム夫人は言う。\n エロアの細君は見えない。彼女は戸棚の横に隠れている。彼女は両手を胸に当てて、息苦しさに悩んでいる。\n エロアはウイレム夫妻の顔を見て、卑怯にも微笑を送る。ランプの傘を下げる。呟払いをする。それから、潰れたような、どこから出るともわからない、子供が読本の拾い読みをするような声で、弔辞を読むような声で、彼は原稿を読み始める。\n まず作者の名、その住所、それから標題、それから人物の名、背景、こう読んで行く。それだけでもう息が切れそうになる。誰かが一言励ましてくれればいいと思うほど、ぐったりする。\n 彼は陰険な敵の前で最初の数句を読み上げる。しばらくの間、彼の声は、乞食女のように、行から行をたどる。\n が、やがて、彼は耳を欹てる。\n ひとしきり座が動揺した。そうだ、ウイレム夫人が動いた。そして溜め息をつく。彼女の口から、ひと声漏れる。どんな意味だったろう。エロアはそれが好ましいものであることを望むばかりである。彼は読み続ける。半分は原稿に、半分は聴衆に気を取られながら読み続ける。間もなく、さらに感歎の叫びが聞こえる。ウイレム夫人の唇からそれが漏れる。今度こそは、もう疑う余地はない。彼女の気に入ったのだ。彼女ははっきり、こう言う。\n「こりゃどうして、たいしたもんだわ」\n 直ちにエロアは、力を得て、調子を変える。細かい味をみせる。声という声は残らず出す。ウイレム夫人にさえ気に入れば、それでいいではないか。彼はもう恐れるところはない。で、彼は、彼女のほうに向き直り、これからは、彼女のために、この優しい頼みがいのある婦人のために読むのである。彼女はしきりに感興の抑え難きを示し、「おお」とか「ああ」とか「まあ、いい」とか「申し分なし」とかを連発する。\n それは嬉々として舞い上る放鳥の群れである。\n エロアの一言一句はことごとく効果を生む。二人は戦う。彼の一撃また一撃に、彼女は讃歎の叫びを以て応ずるのである。\n しかるに、ほかのものはどうか。もう一人は、詩人は、批判者は、彼はどう考えているか。\n エロアは朗読を中止する。そして言う。\n「ちょっとひと息つかしてくれたまえ。一杯水を飲ましてくれたまえ。喉が渇いた」\n そして、ウイレムに、眼で問いかける。\n 詩人は口髭を捻りまわしている。ぶらりと下った一方の脚で拍子を取っている。わからない、まるでわからない。彼は眠っているように見える。\n「どうだね」――エロアは言う。\n「親愛なるエロア君」――詩人はようやく重々しい口調で言う――「僕が詩人で、君が散文家であることは、僕にとって仕合せだ。さもないと、僕は非常に苦しい立場にあるわけだ。君は散文を書く。僕は韻文を作る。われわれは、だから競争者ではない。で、僕は少しも嫉妬を感じないで、こう言うことができる――心の心まで使い古された言葉を使わなければならないが、今聴いているのは、確かに傑作だ」\n 彼は口を噤む。エロアは、そう言う場合の常として、抗議を申し立てない。彼は草稿を卓上に置く。彼の手は顫えているからである。かれの細君は隠れ場所から出て来て、尼さんのような足取りで彼に近づき、彼の額に唇をあてる。\n 一同の生命は極度に緊張する。おそらく、他の人々の命が、ここで吸収されて、外では縮められているかもしれない。\n エロアは綴った紙を取り上げる。\n 公園の柵の真中にいた山羊が、見物人の合図に、何事かと物珍らしそうに柵の方に走って来る、ちょうどそれのように、一同の顔が彼に近づく。その顔はエロアのにおいを嗅いでいる。彼はそれを見て顔が火のようにほてる。\n 彼は、安らかな気持で、地の底から湧くような、そして熱情に満ちた声で、終りまで読む。彼は一同の満足に身を委ねる。ここぞと思う科白を空で言って見る。ウイレム夫人の輝かしい顔に絶えず感謝の微笑を送る。彼女は瞼で聴いている。その口と、すっきりした鼻の孔で聴いている。遠くのほうにある耳は、この場合なんの役にも立たない。エロアの眼に、彼女はあらゆる詩的表現を超越した美しさをもっているように見える。彼は、無限に開ける眼界を前にして、何人も、沈思黙考、形容の辞を求めようとしてしかも求め得ない、ある山の頂上に登りつめた、そういう気持で、意気揚々と朗読を終った。\n 一同は起ち上った。\n「いじってごらんなさい。あたくしの手、こんなに汗」――ウイレム夫人は言う――「何度、大きな声が出そうになったかわかりませんわ。好いだの、非常に好いだの、そんなことじゃないの。すてき! ただそれだけ」\n 詩人ウイレムは書斎の中を行ったり来たりしている。彼はそわそわしている。そして、誰にともなく話しかける。\n「そこには、才能以上のものがある。そこにはほとんど......。想像していたよりもずっといいものだ。先生が下らないものを書くとは思ってはいなかった。陽気な、機智に富んだ、気の利いたものだぐらいに思っていた。胸を抉るような感動、そういう特質があるとは、夢にも知らなかった。それにさ、読み方も手に入ったものだ。ほかのものなら、もっと頭で行くところだ。もっと派手に行くところだ。山気を出すところだ。先生は、魂全体で読んでいる。自然だ。人間の言葉だ」\n「偉大な人間の」――ウイレム夫人が言う。\n「批評にうつろう」――エロアが言う。\n「批評すべき何ものも認めない」――詩人ウイレムは言う――「一つ留保をして置こう。それも、はっきりそうだとは言えない。僕は標題が内容をうまく伝えていないと思う。少し言い表わす範囲が狭いと思う。用心し過ぎていると思う。いじけていると思う。もっとそれが、旗印のように広く、堂々としているほうがいいと思う。つまりそれは、これからの模倣者に路をさえぎることにもなり、君が決定的に実現したものを、再び繰り返そうという無法な欲望を頓挫させることにもなるのだ。が、それは僕が間違っているかもわからない、約束は小さく実行は大きいほうがいいかもわからない。そのほうが目覚ましい驚歎を喚び起こすかもわからない」\n「考え直してみよう」――エロアは言う――「や、どうもありがとう。それだけ友情を示してくれれば、あとのことは甘んじてうけいれる。僕は君たちを信じている。君たちは、そういう調子で、僕を嬲るようなことはしないと思う。僕は疑わない。僕は夢を見ているのだとは思わない。僕はこういう自分を滑稽だとも思わない。心の底から、満足しきった男の心の底から、君たちに感謝する」\n「もう一度、どこか一番面白いところを読んで下さればいいのに」――ウイレム夫人は言う。\n「いや、それではせっかくの興が醒めます」\n 彼はもう足が地につかない。彼は宙に舞い上る。空を飛ぶ、満身に日光を浴びながら。それでも、いくらか寂しい気がする。なぜなら、また地上に降りて来なければならない。忘れ難き瞬間の後に、暗い瞬間が来ることを考えたからである。そして、一つの傑作は、次の傑作を呼び、求め、遂に際限がないことを考えたからである。\n「あたし、どんなに肩身が広いでしょう」――細君は彼に言う――「そんな偉い方のそばについていて、恥かしくないようにするには、あたし、どうしたらいいかしら」\n「お前か、可愛いお前か、そうさな、まず第一に、そんなに泣かないこった。馬鹿だな、さあ、そんなに泣かないこった」\n\n\n榛のうつろの実\n\n みんな、わたしのようだろうか。わたしは一人の女と悶着が起こると、その女が死んでしまえばいいと思う。\n\n 時として人を窓から突き落としたい。また時として、自分自身を投げ出したい。\n\n 今日は何曜だろう。写真の種板にも感光しないような人物を見る。ガラスの眼玉でものを読む。舌を垂れて、一語一語の間に草が生えるような文句をしゃべる。嵌木の床でもこするように自分の額をさする。嚔をする。鼻をすする。咳をする。......\n"
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"role": "assistant",
"content": " 一生涯われわれが、めいめい、二人の幸福に身を委ねたなら、われわれは、めいめい、二倍だけ幸福なわけだ。つまり一倍だけ多過ぎるわけだ。\n\n 予め見越しをつけたことで、それのあたった例しがない。愉快な不意打ちばかりくおうと思えば、いやな計画をいくつも立てておけばいい。\n\n わたしは生活とその煩累を遁れ、人の言う、夢の世界に隠れ家を求めようとする。わたしは、終夜、帽子を根気よく探す夢を見た。\n\n 友情は、二人の気分が長短相助け合う間しか続かないものだ。\n\n 癪にさわらない雷というものをわたしは知らない。\n\n 厭なものが厭なほど、好きなものが好きではない。\n\n 怨むことはできるが、わたしはどうしても復讐することができない。だから、怨んでもなんにもならない。おとなしくしているほうがましだ。\n\n フランス語こそ情けない言葉―― Tournure という語は、同時に、女の尻と男の頭に使われる。\n\n 奥さん、わたくしはあなたにこの社交界風俗研究をお薦めします。著者は、まぎれもない貴公子文学者、手袋をはめ、ブウロオニュの森で、馬に乗って書いたのです。\n\n あなたは、本棚の中で、書物が自分で位置を換え、ドオデが一冊、ゾラの上へ攀じ登ったりなにかするのにお気づきですか。\n\n わたしは、自然によらなければ書かない。わたしは、生きた尨犬の背中でペンを拭う。\n\n 日が暮れた、地球はまた一転した。夜の隧道の下を、ゆるやかに、物事が通って行こうとする。\n\n なんだ、なんというあやふやなかっこうをした樹だ。嘘をつく女の鼻のように、葉が北風に揺れている。\n\n 樹の生茂った中を歩いていたら、わたしの長靴は泥の塊りで重くなった。私はそれを取りのけようと思った。わたしは、森の中でひとかけの木片を見出すことが、どんなにむつかしいかを知った。\n\n 乗合馬車で、わたしは奥のほうに腰をかけた。最初のうち、席を譲るまいとして、馬の臀を睨んでいた。一人の若い女が車掌台に昇る。可愛らしい、健康そうな女。彼女は立っていて差し支えない。ついで、年を取った婦人、上品で金持らしい。どうして馬車を傭わないんだ。その先に、子供と籠を抱えた貧しげな仕事女がいる。善行を行なおうという考えがわたしを誘惑する。しかし、あの籠をどこへ置くか。それに馬車の中にはわたしより若い男子諸君がいくらもいる。いきなり、別に理由もなく(というのは、この最後に乗り込んで来た女は、年寄りでもなく若くもない、好くもなくわるくもない。まして、わたしに何も請求したわけではない。人の顔を穴のあくほど見据える、例の図々しい女でもない。彼女は中を覗いても見ない)わたしは起ち上る。足と膝との二重の障害を押し分ける。そして、厳かな調子で言う――「お神さん、さ、わたしの席をお譲りしましょう」――。すると、この婦人は「いいえ、ありがとう」と、丁寧な潤いのない返事をする。そうだ、断わられたのだ。それは彼女の権利だ。返す言葉もない。わたしは、敵意をもった膝の間へ、しょんぼりとまた腰をおろすより仕方がない。だが、降りたほうがましだ。\n\n 今日は、わたしに取って、人道的気まぐれの日と見える。またしても、哀れな老人が歩道から歩道へ車道を横ぎるのを助けてみたくなる。ところで、この老人は、わたしにしがみついて、「すみません」と「ありがとう」と濫発し、わたしに彼の祝福を与え、なお神の祝福を約束し、それが、人を鼻で嗤ってるような群集の視線を浴びながらである。わたしは、中途で、通りの真中へ彼を置き去りにした。\n\n おれが二スウもっていれば、二人で分けよう。十スウあれば五スウはお前にやる。だが、兄弟、こんなふうにして、十万フランまでは、半分わけにするんだと思ったら間違いだ。われわれの共有財産は懐金に限るんだ。それはそうと、おれはまだなんにもない。みんなお前が取ってもいい。\n\n もし、婚礼の日、指輪を新婦の指に嵌めるかわりに、その輪を鼻へ通すのであったら、離婚は無用になるだろう。\n\n ××さん、あなたがわたしをほんとうに愛して下さる時、わたしは量ってみました。その時、あなたの眼の輝きは、四十燭光でした。\n\n 女というよりも花、花のようにしなやかで、花のように香わしいあなたは、花の言葉で話をなさった――もし花が方言を使うなら。\n\n 一人の女を愛している時――君は言う――その女に贈物をする日は、決して予め選んだ日ではない。その前日に渡さないではおられない。\n\n わたしは、わたしの愛する女に言う――「おれは、よく、自分はどういう気持なのかわからないことがある。馬鹿になるんじゃないかと思うことがある」\n「なによ、あんた、つまらない、お馬鹿さんね」と、彼女が言う。\n\n わたしの好きな好きな××さん、あなたはもうわたしを愛してはいませんね。ずっと以前には、わたしが長くあっちにいると、あなたはそっと戸をたたきに来る。そして、心配そうに、わたしに尋ねたものです――「おかげんがおわるいんじゃないの、あなた」\n 今では、わたしがあっちで死のうとしていても知らん顔をしているでしょう。\n\n 今夜、寝る前に、わたしは空の星を算える。星はことごとくそこに在る。それで、わたしは、人生について、自分でも腑に落ちないと思われるほど、きわめて下らない考察をめぐらす。\n それから、習慣に従って、子供の時のように、自分の行ないを反省して見る。夜具の中で十字を切る勇気はない。で、情けなく思う。自分を軽蔑する。うんと自分を叱って見る。自分で自分が擲りたくなる。\n まあ、まあ、気を落ちつけろ。鼾をかけ。徳操はお前の鼻と関係はない。\n\n 自分も人間でありながら、その人間がわたしを人間嫌いにする。\n\n\nエロア対エロア\n\n ――お前は、今日も、昨日言ったことを残らず言った。\n ――お前は、最初の男に言った、「君の秘密を守る」と。お前は次の男に言った、「固く秘密を守る約束で、君にだけこのことを打明ける」と。そして、お前はそれと同じことを誰彼になく言った。\n ――お前は、接吻さえしたいと思うものに邪慳なことを、憎みおそれているものに優しいことを言った。\n ――お前は、一般論として言った――「女という女はすべて、間抜けだ」と。そして、それらの一人一人に向かっては、特別に、彼女はほかの女よりも勝れていると言った。\n ――お前は、ある婦人に不躾なことを言った――「これは、あなたに言うのではありません」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "「知らんぜや、知らんぜや。」\nと惣兵衛ちやんは、新太郎ちやんがまだ帰つて来ないのに、詰つてゐた。\n 新太郎ちやんが帰つて来るまで、長い間二人は、一足も動かずに立つてゐた。新太郎ちやんが息を切らして、ベソをかきながら戻つて来ると、惣兵衛ちやんはまたいつた。\n「知らんぜや、知らんぜや。」\n 新太郎ちやんは、ベソをかきながら立つてゐるだけで、謝罪りもしなかつた。これは謝罪つたりしていいやうな、小つぽけな出来事ではないのである。\n「かへせ、かへせ。」\nと惣兵衛ちやんがいつた。それは無理な話だと栄蔵は思つたが、何もいふことは出来なかつた。新太郎ちやんは相変らず黙つて立つてゐるだけであつた。\n「かへせ。かへさんとてめえの父つあんにいひつけるぞ。てめえの父つあんは、家にをつた嘉助だらう。嘉助にいひつけるぞォ。」\n 新太郎ちやんの顔が、ゆがんで涙がぼろぼろとこぼれた。可哀さうだなあと栄蔵は思つた。\n 役者に逃げてゆかれた三人が、すごすごと畠の道を帰ることになつた。途中まで来ると新太郎ちやんが、さんざん泣いたあとのきつぱりした声で、\n「俺、かへすで、お父ちやんにいはんでくれよね。」\nといつた。\n あんな高価な紙鳶を手に入れるどういふ目論見なのか解らなかつたが、その声の中には、きつと返して見せるといふ凜とした意志の閃があつた。\n\n 銭といふものは、大人が儲けて大人が使ふのである。だから銭は大人の手から大人の手に渡るのであつて、子供には関係しないのである。時々子供はお使にやらされる場合、一つか二つのお鳥目を持つことが出来る。それが、子供の銭と関係する唯一つの機会である。\n 乞食は働かないで、家毎に鳥目を貰つて歩く。あんなことなら、子供にだつて出来さうである。しかし、よく考へて見ると、あれでさへ大人だけのことであつて、子供には出来ない。かりに、子供が一軒の門口に立つて「何かめぐんでやつて下さい。」と乞食らしく上手にいつたとしよう。しかし、その家の人はきつと何もくれないだらう。くれないどころか、この子供は悪戯をするのだと感違ひして、棒でもつて追つぱらふだらう。\n 乞食でさへ子供には出来ない。それだのに新太郎ちやんは、あの高い紙鳶をちやんと買つて返すといつた。しかもお家のお父さん、お母さんに内証で。一体どうしてするつもりなのだらう。――栄蔵には不思議だつた。\n しかし或日、謎は解けた。\n あれからしばらくたつた温い日、栄蔵は勉強に疲れた頭を、海から来る新鮮な風にあてて休めるため、波打際の方へおりていつた。\n すると引潮の中に、膝のあたりまではいつた新太郎ちやんが、何か棒のやうなものを、水の中へさしこんで、ちやうど石けりの線をひく時のやうな恰好で、ゆるゆると後退りしてゐる姿が小さく見えた。今日もやはり赤ん坊の妹を脊負つて。\n 何をしてゐるのだらう。\n「新太郎ちやァん。」\nと栄蔵は口に手をあてて呼んだ。\n 新太郎ちやんは、顔をあげてこちらを見た。栄蔵をみとめると、にこつと笑つたが、忙しいときに誰でもするやうに、すぐその微笑をひつこめて、また一心に手元の水面をみつめてゐる。\n 何か捕つてゐるのだらう。\n 邪魔をしないつもりで、栄蔵が黙つて船にもたれて休んでゐると、間もなく新太郎ちやんが、陸へあがつて来た。棒と思つたのは、鉄の熊手である。\n「何を捕つた?」\nと栄蔵がきいた。\n 新太郎ちやんは、にこにこしながら、そばによつて来て、腰につけてゐる小さい籠を、のぞかせてくれた。中には、濡れてぴんぴんしてゐるえびが数匹はいつてゐた。\n「これどうする?」\n 新太郎ちやんは、にこにこしてゐて返事をしない。そして、ついて来なよといふやうな顔付をして歩き出した。栄蔵はついていつた。\n 一軒の船宿のところへ来ると、新太郎ちやんは、ここだよといふやうに、栄蔵の方へにこにこと笑つておいて、勝手口からはいつていつた。そして間もなく出て来ると、垢にまみれた猿みたいな掌を、ぱつと開いて、真中に四角な穴のあいたお鳥目を一つ見せた。\n これで解つた。さうだつたのかと栄蔵は思つた。\n それで、もう、どれだけ貯金出来たのだらう。新太郎ちやんはまた目顔で、栄蔵を家へつれていつた。\n 栄蔵は、背戸口の井戸のところで待たされてゐた。新太郎ちやんは、中へはいつてゆき、やがて出て来ると、あたりに人のゐないのを確めて、懐中からそつと出して見せた。藁のぜにさしに貫かれて、お鳥目が五つ六つ重なつてゐた。\n 栄蔵は知つてゐた。あのます紙鳶を買ふには、この十倍ものお銭が必要であるといふことを。しかし、それにも拘らず、栄蔵の心には希望の泉が湧き出した。新太郎ちやんは、きつと、それだけのお銭を自分の手で貯めるだらう。\n その日から栄蔵の頭の中には、新太郎ちやんのぜにさしの姿ばかりが、はいつてゐた。新太郎ちやんの顔を見るたびに、ぜにさしを見せて貰つた。一つか二つくらゐづつ、その度に銭はふえてゐた。\n そんな或日、栄蔵は家のために米を搗いた。いつも松さんが搗くのだが、ちやうどその時松さんは、足に腫物が出来てゐたので、搗けなかつた。馴れない仕事なので、栄蔵はつらかつた。一臼搗けた頃には、一日野山を歩きまはつて来たやうに、草臥れてしまつた。\n すむとお母さんは、\n「ぢや、お駄賃をあげよう。」\nと栄蔵の大好物の石榴を二つ出してくれた。\n 栄蔵は手にうけとつたが、ちよつと考へてお母さんに返した。\n お母さんは、いつもと栄蔵の様子が違ふので奇妙に思つた。\n「お母さん、あのう......。」\nといひ出して、栄蔵はためらつた。\n「何ですか。」\n「これは弟達にやつて下さい。」\n「あの子達には、もうあげたから、いいのですよ。これはあんたの分です。」\n「お母さん、わたしは、お銭が欲しいのです。」\n さういつて栄蔵は羞しさうにうつむいた。\n お母さんは驚いた。栄蔵がお銭をくれなどといつたのは始めてだからだ。お母さんは栄蔵の顔をまじまじと見た。\n「本でも買ふのですか。」\n「いいえ。」\n「それぢや、何にするのです。」\n 栄蔵はしばらく黙つてゐた。下唇をもぐもぐ噛みながら。\n お母さんの眼には、急に栄蔵が大人になつたやうに見えた。穏和しかつたこの子も、こんなことをいひ出すやうになつたと思つた。\n やがて栄蔵は、\n「くれないなら、いいんです。」\nとちよつと反抗するやうにいつた。\n「あげないことはありません。でも何に費ふのですか。」\n「いひたくないのです。」\n お母さんは、またしばらく息子の顔をまじまじと見てゐた。この子を疑ふことは出来ない、と胸の中でいつた。\n「どれほど入用?」\n「乞食にあげる位で結構です。」\n お母さんは、あちらへ行つて、間もなく帰つて来た。そして栄蔵の手に、お鳥目を十ばかりのせた。\n「これで間に合ひますか。」\n「こんなに乞食にやるんですか。」\n お母さんは笑つて、\n「でもこのお乞食さんは、米を搗いてくれたから。」\n 栄蔵は両手の中へ、こほろぎでも入れたやうに銭を持つて、ちよつと会釈して家を出ていつた。お銭を持つたことがあまりないので、その持ち方を知らないのであつた。\n 栄蔵には、まだ一つ心配があつた。勝気な新太郎ちやんが、そのお銭の寄贈を拒んだ上、ぷんぷん怒りはしないかといふことだつた。\n「新太郎ちやん、あれどうなつた?」\nと栄蔵は、新太郎ちやんの顔を見るときいた。あれといふのは、ぜにさしのことである。\n 新太郎ちやんは、家の中へはいつていつて、大事なものを持つて来た。栄蔵は受けとつて端つこから、かぞへ始めた。新太郎ちやんも、その手許を見てゐる。\n 栄蔵は頭をあげて、\n「ちよつと、あつち向いてなよ。」\n「どして?」\n「いいから、ちよつとあつち向いてなよ。あの鶏を見てなよ。」\n 新太郎ちやんは、向かふを向いたが、背中の赤ん坊は、お腫物の少くなつた顔で、栄蔵の方を見てゐる。赤ん坊なら見てゐても構はない。栄蔵は持つて来た鳥目を、ぜにさしに一つ一つとほした。\n「だいぶん、ふえたね。」\nと栄蔵は空とぼけていつた。\n 新太郎ちやんは、こつちに向きなほつた。そしてぜにさしを受けとると、\n「俺、栄坊ちやんが今何したか知つとるよ。」\nといつた。そして眼をパシパシとやつてうつむいた。\n「かにしてね。」\nと栄蔵はあやまつた。\n 新太郎ちやんは、何もいふことが出来なかつた。勝気な田舎の貧しい少年は、嬉しくても感謝をする言葉を知らないのである。"
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"content": " 新太郎ちやんは、黙つて背戸口から家の中へ姿を隠してしまつた。\n 栄蔵はそれでよかつた。兎も角あのぜにさしのお銭の、増えることが出来たのだから。\n\n 新太郎ちやんの努力の、実を結ぶときが遂にやつて来た。新太郎ちやんが栄蔵に応援されながら、苦心に苦心を重ねて、こつそり貯めて来たお鳥目は、ぜにさしにいつぱいになつた。\n「今からね、長岡へ行つて紙鳶を買つて来るんだ。」\nと新太郎ちやんは、背中の赤ん坊をゆすりあげていつた。その顔は輝いてゐた。\n「一人?」\nと栄蔵はびつくりしてきいた。\n「前に父ちやんについて行つたことがあるから、道、知つとるよ。」\n さう新太郎ちやんは、平気らしく答へた。\n しかし栄蔵は、新太郎ちやんは心細いに違ひないと思つた。真昼、白く光つて続く長い長い道。川を越えたり、丘をまはつたりしてゆく知らない道。それに、知らない村の子供達は、きつとかういつて石を投げつけたりするのだ。「やあい、他村がんち、糞がんち。」\n 出来ることなら栄蔵は、ついて行つてやりたかつた。しかしお家の用事で、それが出来なかつた。\n「道、間違へちや駄目だよ。」\nと栄蔵はいつた。\n「うん。」\nといつて新太郎ちやんは、すたすたと歩いていつた。そして行つてしまつた。\n 夕方になつて、栄蔵がお燈明の油を買ひに行つたとき、暗くなりかけた道を向かふから、新太郎ちやんが足をひきずりながら帰つて来た。新太郎ちやんは、やつぱりやり遂げた。大きい紙鳶を、楯のやうに肩につけて、持つてゐたのである。\n「よかつたね。」\nと栄蔵がいふと、新太郎ちやんは笑はうとしたが、あまり草臥れてゐるので、笑へなかつた。\n 自分のたやすく送つた半日といふ時間を、新太郎ちやんは、どんなに心と体を労してすごしたか、思ふと栄蔵の胸はいたんだ。\n\n 次の日栄蔵は、塾で惣兵衛ちやんに予告した。\n「明日、遊びに行つてもいいね。」\n「うん、栄坊ちやんなら、いつ来てもいいつて母さんは、いつてゐたよ。」\n「ほかの者が行つちやいけない?」\n「ううん。母さんは子供が嫌だもんだから、子供が家へ遊びに来ると、頭がやめるつていふのさ。」\n「新ちやんも行くよ。」\n「新ちやん?」\n「ほら、あの新太郎ちやん。」\n「新太郎ちやん?」\n この調子では、惣兵衛ちやんはもう、紙鳶のことを忘れてしまつてゐるかもしれない。忘れてしまはれては大変である。それでは新太郎ちやんの努力が水の泡になる。\n「ほら、いつか紙鳶を一緒にあげた......。」\n「紙鳶を?」\n 案の定、忘れてしまつてゐる。\n「お前の家の裏の畑で、紙鳶を一緒にあげたらう。お前の真つ新の大きい紙鳶を。そして逃がしてしまつたぢやないか。」\n 惣兵衛ちやんは、しばらく眼の玉をぎよろぎよろさせてゐたが、\n「うん、そんなことがあつたね。うん、さうさう、家にゐた嘉助の餓鬼ね。」\n 惣兵衛ちやんの家では、お祖母さんでも誰でも、他所の子を餓鬼といふんだな、と栄蔵は思つた。\n「あんなもん、来ん方がいいな。」\nと惣兵衛ちやんがいつた。\n「一緒に行きたいさうだから、いいぢやないか。」\n「どして?」\n「どしてつてことないけど......。」\n その理由は、いへなかつた。惣兵衛ちやんを驚かせてやりたかつたからだ。その方が、一層新太郎ちやんの努力の、仕甲斐があらはれるといふものだ。\n そして翌日になると、栄蔵は、買つたばかりの紙鳶を持つた新太郎ちやんと一緒に、尼ヶ瀬の惣兵衛ちやんの家へ出掛けた。\n「惣兵衛ちやんが見ると、びつくりするよ。」\nと栄蔵がいふと、新太郎ちやんは、\n「うん。」\nと嬉しさうに笑つた。\n「ほんとに、こんな、同じのがあつてよかつたね。」\n「一軒の家にはなかつたけど、もう一軒の家できいたら、あつた。」\n「あれで買へた?」\n「夏だもんだで、紙鳶なんか買ふもんが無いから、負けてくれた。」\n「新太郎ちやん、こんないい紙鳶、自分のにしたいだらう?」\n「ううん。」\nと首を横にふつた。\n 心の負債を早く払つてしまひたいのだ、ただそれだけなのだ、と栄蔵は想像した。\n 今日の新太郎ちやんは、気が張つてゐたので、惣兵衛ちやんの家の前で、野良犬のやうな恰好はしなかつた。栄蔵のすぐあとに続いて閾をまたいだ。\n 惣兵衛ちやんは、土蔵の陰に置かれた縁台の上で、矢を削つてゐた。かたはらには、生木の枝をまげて作つた下手な弓がおいてあつた。惣兵衛ちやんの六つばかりの弟が、熱心に兄さんの手もとを見てゐた。\n「それ、ミツちやんの弓?」\nと栄蔵がきいた。ミツちやんは、惣兵衛ちやんの弟の名である。\n「ううん。」\nと惣兵衛ちやんは首を横にふつた。ミツちやんは、兄さんのお友達が、いいことをいつてくれたので、嬉しさうな顔をした。さつきからその弓がほしくてしやうがなかつたからだ。しかし兄さんの惣兵衛ちやんは、ミツちやんがちよつとでも弓に手を触れると、癇筋を立ててがなるのであつた。\n しばらく栄蔵達は、惣兵衛ちやんの仕事を見てゐたが、いつまでたつても止めさうもなかつたので、とうとう栄蔵がしびれをきらして、\n「あのね、惣ちやん。」\nといつた。\n 惣兵衛ちやんは顔もあげずに、\n「うん。」\nと答へた。\n「新太郎ちやんが、いつか逃がした紙鳶ね、あれを買つて持つて来たよ。」\n 栄蔵と新太郎ちやんは、これをきいたらさすがの惣兵衛ちやんも、びつくりして顔をあげるだらう、と思つた。が、案に相違して、惣兵衛ちやんは竹を下手くそに削つてゐるばかりだつた。そして、\n「ンぢや、そこに置いといて。」\nとつまらないもののやうにいつた。\n 栄蔵はすかしを喰はされた気がした。こんな筈ではなかつた、と思つた。\n 新太郎ちやんも、栄蔵と同じ感を抱かされたらしく、情ないやうな微笑をちよつとうかべながら、持つて来た紙鳶を、蔵の入口にもたせかけた。\n 惣兵衛ちやんは矢を削つてしまふと、前垂から緑い削り屑を、はらひ落しながら、ふと紙鳶に眼をとめた。\n ――よしッ、と栄蔵は、期待で胸がをどつた。惣兵衛ちやんは驚いたに違ひない。そして新太郎ちやんに訳をきき、その努力に感謝感激し、自分の心ない言葉を、あやまるに違ひない。\n しかし栄蔵の期待は、またはづれた。惣兵衛ちやんは、まるで紙鳶には興味がないといふやうに、ぷいと横を向いてしまつたからである。\n その時、家の中からお祖母さんが、惣兵衛ちやんを呼んだ。惣兵衛ちやんは、はいつていつた。\n「栄坊ちやん、おいでよ。」\nと惣兵衛ちやんが家の中から呼んだ。きつと何か御馳走があるのだ。それを貧乏人の子、新太郎ちやんには、やりたくないので、栄蔵だけを呼ぶのだ。栄蔵も新太郎ちやんも、それがよく解つてゐたので、顔を見合はせると又新太郎ちやんが、情ないやうな表情になつた。\n「新太郎ちやんもおいでよ。」\nと栄蔵はいつた。\n 新太郎ちやんは、ぐづぐづしたが、\n「いいから、おいでよ。」\nと無理にひつぱつていつた。\n お祖母さんは、貧乏人の餓鬼までついて来たので憎らしいといふ顔付をしたが、仕方がないので、新太郎ちやんにも、西瓜をくれてやつた。切れつぱしのところをちつぽり。\n 西瓜はおいしかつた。が、そのあとで、三人が庭に出て来ると、大変なことが待つてゐた。ミツちやんが兄さんのゐない間に、とうとう欲望を抑へきれなくなり、兄さんの弓を持つてしまつたのである。そして一層いけないことに、大事な紙鳶を的の代りに使つてしまつたのである。"
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"content": "\n\n\n\nフィヒテ ヨハン・ゴットリープ Johann Gottlieb Fichte(一七六二―一八一四)\n\n カント哲学から出発してシェリング(F. Schelling)、ヘーゲル(G. W. F. Hegel)に直接に影響を与えたドイツの有力な哲学者であり、独逸観念論の典型的な代表者と看做される。ザクセン州のランメナウの貧しい織紐工の息子として産れ、道徳的・宗教的情操の持主であった。年少にしてレッシング(G. E. Lessing)やクロップシュトック(F. G. Klopstock)、ルソー(J. J. Rousseau)等に影響され、人間社会の良き教師となることを希望した。一豪族の援助によって一七八〇年イェナ大学に入り神学を専攻の傍ら言語学、古典学等の研究に従い法律学には特殊の興味を有った。後ウィッテンベルクを経てライプツィッヒ大学に転じチューリッヒでは家庭教師となる。フランス革命に際会し、モンテスキュー(Ch. d. S. Montesquieu)やペスタロッチ(J. H. Pestalozzi)から動かされ、又ゲーテ(J. W. v. Goethe)やウィーラント(C. M. Wieland)等の詩人に傾倒した。併し自ら詩才に乏しいのを知って斯の道を断念した。未来の忠実なる妻ラーンを得たのはチューリッヒに於てである。\n 一七九〇年私講師としてのフィヒテは一学生からカント哲学の講義を求められ之を機会としてカント哲学の研究を始めた。その結果、彼は従来彼を苦しめて来た決定論と自由意思論との対立がカントによって始めて解かれることが出来たと考えた。そこで翌年彼はカントの神学の立場に立って、『あらゆる啓示の批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)を書き、ケーニヒスベルクのカントを訪ね、其周旋によって匿名の下に之を出版した(一七九二年)。世人は当時之をカントの作と評判したがカント自身の言明によってフィヒテのものであることが知れ、彼の名は一時に挙った。一七九三年の第二版ではすでにラインホルト(C. L. Reinhold)からの影響が著しい。一七九三年シュルツェ(G. E. Schultze)の著『エネシデムス』に対する評論を発表し、カントとラインホルトとを弁護した。この評論はすでにフィヒテ自身の意志とは独立に、この二人の先輩の立場を踏み越えているものであって、後のフィヒテ哲学たる「知識学」の萌芽をなすものである。其後直ちに『知識学又は所謂哲学の概念に就いて』(Über den Begriff der Wissenschaftslehre oder sogenannten Philosophie, 1793)を書き、認められてラインホルトの後を襲ってイェナ大学の教授となる。翌九四年大著『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, 1795)に著手した。当時大学に於ける学生に対する彼の影響は極めて大きく、そして彼自身之に重大な意味を認めていたのである。人類の道徳的教育こそが『学者の本分』(一七九七年の著書)だと考えられたから(一八〇五年には『学者の本質』Über das Wesen des Gelehrten を講演した)。さて彼の主著によれば、カント哲学の欠点は統一と体系とに乏しいことに存する。カント哲学は原理によって組織的に「発生的方法」に従って展開されねばならぬ。併しそうするためには知識の根柢、諸学の基礎を論ずる「知識学」こそ真の哲学でなければならない。かくてカントの所謂物自体は絶対自我の概念にまで変更されるべきであり、そしてこの自我とは外でもない行為的・実践的な事行(Tathandlung)そのものに外ならぬ(カントに於ける実践理性の優位がこれ)。絶対自我は自己を自ら措定することによって初めて自我であることが出来、この措定作用の過程の中に存在の諸範疇が展開して来るのであるが、併し自我が理論的な領域で自らを措定している限り、夫はどこまで行っても「非我」に撞着せざるを得ない非我は茲では却って自我を制限するものとして現われる。併しこの非我も実は自我の作用の所産の外ではあり得ない筈であるから、自我は非我を克服して自らのものとなすべき努力の当為を負わされて来る。この時自我は理論的領域から実践的領域に移り、そこで初めて非我との対立を解消して自我本来の面目に到着する。之が道徳の世界である。処でこの叙述の体系は現実そのものの構造と一つであることを注意せねばならぬ、と云うのは之は現実に関する思想ではなくて、この思想そのものが現実だと云うのである。かくしてこそ初めて哲学は真正の意味での体系を有つことが出来る。こう考えることが観念論の典型たる所以である。但し茲でいう自我は決して個人的な経験的な自己でもなく又所謂意識という如き主観でもない。その限りフィヒテの立場は寧ろ客観的であると考えられるべく又より正しくは主客の対立を絶した絶対的な立場と考えられるべきである。一七九六年『知識学の原理による自然法の基礎』(Grundlage des Naturrechts nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)を出版。『知識学序説』第一及び第二(Erste und zweite Einleitung in die Wissenschaftslehre)は九七年、『学者の本分』(Bestimmung des Gelehrten)も同年、『知識学の新敍述の試み』(Versuch einer neuen Darstellung der Wissenschaftslehre)も同年に出た。\n 一七九八年の『道徳論』(Das System der Sittenlehre nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)によれば、吾々の唯一の信仰の対象は人格の自由と義務とである。之こそが神の世界支配ということの唯一の意味である。活きた道徳的秩序がそれ自身神なのである。この同じ思想は、同年フォルベルク(F. K. Forberg)の論文への序論としてフィヒテが書いた「神的世界支配への我々の信仰の根拠に就いて」にも現われた。処が彼は、この論文が無神論を説くものであるという理由で、フォルベルクと共に訴えられ、かねての同僚との不和や政府に対するフィヒテの強情も手伝って、一七九九年彼はイェナ大学の教職を失い、ベルリンに移ることを余儀なくされた。之がフィヒテの無神論争と呼ばれるものである。一八〇〇年『人間の招命』(Bestimmung des Menschen)、『封鎖的商業国家』(Der geschlossene Handelsstaat, ein philosophischer Entwurf als Anhang zur Rechtslehre)を書く。前者に於て吾々は、彼の『知識学』の中に、平素の宗教哲学的研究が如何に次第に実を結びつつあるかを見ることが出来る。一八〇四年以降の彼は新約のヨハネ書の研究によってこの傾向を愈々著しくした。一八〇四年の『知識学』によれば従前の知識学に出ていた自我の概念はもはや単に倫理的な努力という規定を持つものではなくなって宗教的な諦観の色彩を以て描かれている。自我は絶対的実在としての神となる。世界の根柢には愛が横たわる、人間的自由の目的は絶対知としての浄福である。一八〇六年には『聖浄生活への指針又は宗教論』(Die Anweisung zum seligen Leben od. die Religionslehre)が出た。同年『現代の特色』(Grundzüge der gegenwärtigen Zeitalters)が出ている。吾々の存在の根拠たるこの神的愛に於て初めて吾々は団体の一員として活動することが出来る。自己は団体に於て初めて自己の目的を見出す、神的愛に基いた此真の団体は神の啓示である。で今、祖国という団体の内に現われる神的なるものを愛することが真の愛国心でなければならぬ。かくて「独逸国民に告ぐ」(Reden an die deutsche Nation)が仏軍侵入の際(一八〇七―一八〇八年)ベルリンに於ける講演となった。フィヒテはすでに一八〇五年エルランゲン大学の教授に任命され、翌年亦ケーニヒスベルク大学の教授として仮の任命を受けたが、一八一〇年ベルリン大学が建設されるに当って該大学教授となった。フィヒテに対する社会一般の信望は日に日に大となりつつあったのである。一八一二年に再び『道徳論の体系』を書いているが、以前の道徳論と比較して宗教的色彩が濃いことは云うまでもない。個人の性格は団体へ関与することに於て初めて成り立ち、団体意識こそ真の道徳的意識である。義務や当為は従前とは異ってもはや道徳の内的本質ではなく、その根柢には之を規定するものとして愛が横たわっていると説かれている。――フィヒテの知識学の諸叙述が次第に論理的なものから宗教的なものに移行して行ったことは興味ある事実でなければならない。従って始め当為や努力の裡に考えられていた意志の弁証法は、後に到ってはもはや現実自身のもつ規定ではなくて絶対者たる現実に関する体系的叙述のみが有つ規定にまで限定されたことは注目に値する。――祖国のために全力を挙げていたフィヒテは、ベルリンの衛戌病院に特志看護婦として働いていた忠実な妻がチブスで倒れて間もなく、妻の病気が伝染して死んだ。\n カント自身は夫を承認しなかったが、フィヒテは初め自分の哲学が全くカント哲学を原理によって組織化するものに外ならぬと信じていた。この組織・体系の概念はヘーゲルの観念論の体系に到って最も具体的な形を取ったものである。併しフィヒテの観念論がカントの夫と異なる特色はそれが何よりも専ら倫理的或いは宗教的であった点に存する。と云うのはフィヒテにとってはカントが実は最初の問題となし、後にはまたシェリングが取り上げた処の自然という概念は、至極軽い位置をしか与えられていないのである。フィヒテの全集は同じく哲学者である息子の小フィヒテによって出版された(本集八巻、遺稿三巻)(一八三四―五年)。メディクス(F. Medicus)の編纂にかかる選集(六巻)(一九〇八―一二年)がある。\n"
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"content": "参考文献――Hase, K., Tenaisches Fchte-Büchlein, 1856; Loewe, J. H., Die Philosophie Fichtes, 1862; Lassalle, F., Die Philosophie Fichtes und die Bedeutung des deutschen Volksgeistes, 1862; Windelband, W., Fichtes Idee des deutschen Staates, 1890; Rickert, H., Fichtes Atheismusstreit, 1899; Fischer, K., Fichtes Leben, Werke und Lehre, 1900; Léon, X., La Philosophie de Fichte, 1902; Lask, E., Fichtes Idealismus und die Geschichte, 1902; Fuchs, E., Vom Werden dreier Denker, 1904; Medicus, F., Fichte, 1905.\n\n\n\n\nプレハーノフ ゲオルギー・ヴァレンチノヴィッチ Georgii Valentinovich Plekhanov(一八五六―一九一八)\n\n ロシアに於けるマルクス主義の卓越した理論家であり同時に実践家である。今日のロシア・マルクス主義のために哲学的基礎を固めた点と、ロシア共産党の成立及び発展に与って極めて有力であった点とで、忘れる事の出来ない人物。就中政治的指導者の第一人者としてレーニンを推すならば之に並ぶべき理論家はプレハーノフを措いて外にない。タンボフ県に生れ、学生時代から夙にナロードニキ(人民主義者)の群に投じて革命運動に参加し、後『土地と自由』誌に拠って有力な活動を試みた。一八七八・九年のペテルスブルクのストライキに刺戟されて同誌上にロシア労働運動に関する論文を発表しているがそこに於てはまだナロードニキ風のイデオロギーを捨て得なかったに拘らず、すでにマルクス主義的鋒芒が現われているのを見逃せない。之はまだ彼がマルクス・エンゲルスの文献を読んでいない時のことである。マルクス・エンゲルスの著述に親しんで愈々真正のマルクス主義者となったのは、一八八〇年西ヨーロッパに亡命した以後であり、この時始めてナロードニキのイデオロギーを完全に脱することが出来た。一八八三年『社会主義と政治闘争』を著す。翌年アクセリロート(P. Akselrod)、ドイッチュ(L. Deutsch)、ザスーリチ(V. Zasulich)と共に、ロシアに於ける最初の社会民主主義的組織である「労働解放団」を組織した。之が今日のロシア共産党の母胎たる社会民主主義労働党の前身である。\n 彼は単にマルクス主義の優れたる弘布者であったばかりでなく、マルクス・エンゲルスの根本思想の正統を継ぐ深刻にして独自な理論的闘将であり、正統マルクス主義の展開擁護のために誠に輝かしい独創を示した。彼は夙にヘーゲル哲学に親しむことを知っていたのである。就中ベルンシュタイン(E. Bernstein)の率いるマルクス修正派が有力になって来た時(一八九〇年)、彼は何が真正の正統マルクス主義であるかを示すことに於て絶大な理論的功績を示した。修正派が当時の現実の経済並びに社会状勢を理由としてマルクス主義を補正すべきであると説いたに対して、プレハーノフは之等自称批判者達の非弁証法的思惟方法が何等マルクス主義の補正ではなくてその歪曲に過ぎないものであるとして一蹴した。国際的「日和見主義」或はロシアに於けるその分派たる「経済主義」と「ストゥルーヴェ主義」とに対する、又「ロシア社会学派」の主観主義や又はナロードニキ主義やに対する闘争に於ても、彼の右に出た者を見ない。彼はかくてマルクス主義哲学を組織的に遂行することによって国際的な社会主義運動のために稀に見る大きな実践的影響を与えた。それ故レーニンはプレハーノフの著述を能く学ぶのでなければマルクス主義を根本的に理解することは出来ないと云っている。実際この時期に於て書かれた凡ゆる領域に於ける彼の理論的労作は世界的文献として通用したし、又今後もそうなければならぬであろう。『無政府主義と社会主義』は一八九四年フランス語で書かれ、間もなく英・独語に飜訳された。『チェルヌイシェフスキー研究』も同年に出版、哲学的著作として最も重きをなしている『一元論的歴史観の展開の問題に対して』(川内唯彦訳、史的一元論)は一八九五年ツァーリの検閲の網を潜ってロシア語で出版された。一八九六年には『唯物論史のための寄与』(恐らく母語で書かれたもの)が出版された。\n 彼は一八八九年以来第二インタナショナルの主導者として、エンゲルス、カウツキー、ベーベル等と共に活動していたのであるが、中でも彼とレーニンとの関係は最も宿命的であったように見える。後輩レーニンの台頭と共に十数年来のプレハーノフの権威はすでに多少の動揺を免れなかったが、それでもロシア社会民主党の第二回大会(一九〇三年)を経るまでは、この二人の代表的闘士は恰も各々の分担を協定したかのように夫々政治闘争と理論闘争とを以て相寄りながら活動することが出来た。両者は機関紙『イスクラ』(火花)と『ザリャー』(黎明)とに拠って経済主義への偏向の克服と中央集権的革命党への結成とのために戦ったのである。第二回大会に当ってボリシェヴィキとメンシェヴィキとが分裂するに到った時、『イスクラ』をボリシェヴィキの指導の下に編集すべく選ばれたのもこの二人であった。之に拠ってプレハーノフは昔日の才能をボリシェヴィキとして再び思うままに発揮することが出来た。処がその後数ヵ月を出ない中、彼はイスクラ編集者としてメンシェヴィキの人々をも迎える事を提言するに到ったが、レーニンは之を却けてイスクラを脱退した。かくてイスクラはメンシェヴィキのものとなり、レーニンと袂別したプレハーノフは爾後暫くの間全くのメンシェヴィキとして止まった(『吾等の批判者の批判』が一九〇六年ロシア語で出版された)。併し社会民主党がその苦難期(一九〇七年後の数年間)に入るや、プレハーノフは結果に於て再びボリシェヴィキの味方となり党のために計り知れぬ功績を立てた。彼は再びレーニンと共に一方に於ては党内の経験批判論者に対して、他方に於いては党清算主義者に対して、奮闘を続けた(レーニンの『唯物論と経験批判論』は一九〇九年に出ている、そしてプレハーノフの『マルクス主義の根本問題』は一九〇八年に出た)。特に当時依然として、メンシェヴィキの権威であった彼が、メンシェヴィキとして止りながら、メンシェヴィキの党清算主義者に対して破壊的な演説を敢行したことは、レーニン等ボルシェヴィキにとっては百万の味方に値したことである。ボリシェヴィズムへの彼の接近は一九一二年まで続いたと見ることが出来る。\n 然るに欧州大戦に臨んではプレハーノフは極端なる社会愛国主義的立場を取り、一九一七年の三月革命を経てもその立場を棄てなかった。彼は死に到るまでソヴィエト権力を承認しなかったのではあるが、十月革命(一九一七年)の成就した後はボリシェヴィキ及びソヴィエト政府に対して公然の敵として現われることを躊躇した。一九〇五年(党ボリシェヴィキ第三回大会・メンシェヴィキ第一回大会の年)以来、『ロシア社会思想史』の著述に取り掛り、一九一四年第一巻を出版したが、この書物に於ける研究方法の中にすでに、何故彼が祖国防衛主義者とならねばならなかったかが暗示されているとも云われている。\n 上記以外の労作は多く Neue Zeit 誌上に発表されたが邦訳となった著述は『階級社会の芸術』(蔵原惟人訳)、『芸術論』(外村史郎訳)、『文学論』(外村史郎訳)、『マルクス主義宗教論』(川内唯彦訳)等である。何れもマルクス主義的文化理論の典型と看做される。全集(リヤザーノフ編集、ロシア版二六巻、一九二三―二五)が出ている。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\nこの幾年間はあなたと同じ世界にいながらすでに他界で生存するもののような気持ちでたいしたことのない限りはおたよりを聞こうともしませんでした。仮名書きの物を読むのは目に時間がかかり、念仏を怠ることになり、無益であるとしたのです。またこちらのたよりもあげませんでしたが、承ると姫君が東宮の後宮へはいられ、そして男宮をお生み申されたそうで、私は深くおよろこびを申し上げる。その理由はみじめな僧の身で今さら名利を思うのではありません。過去の私は恩愛の念から離れることができず、六時の勤行をいたしながらも、仏に願うことはただあなたに関することで、自身の浄土往生の願いは第二にしていましたが、初めから言えば、あなたが生まれてくる年の二月の某日の夜の夢に、こんなことを見たのです、私自身は須弥山を右の手にささげているのです。その山の左右から月と日の光がさしてあたりを照らしています。私には山の陰影が落ちて光のさしてくることはないのです。私はその山を広い海の上に浮かべて置いて、自身は小さい船に乗って西のほうをさして行くので終わったのです。その夢のさめた朝から私の心にはある自信ができたのですが、何によってそうした夢に象徴されたような幸福に近づきうるかという見当がつかなかったところ、ちょうどそのころから母の胎に妊まれたのがあなたです。普通の書物にも仏典にも夢を信じてよいことが多く書かれてありますから、無力な親でいてあなたをたいせつなものにして育てていましたが、そのために物質的に不足なことのないようにと京の生活をやめて地方官の中へはいったのです。ここでまた私の身の上に悪いことが起こり、しまいに土着して出家の人になり、あなたは姫君をお生みになったそのころのことは知っておいでになるとおりです。その時代に私は多くの願を立てていましたが、皆神仏のお容れになることになり、あなたは幸福な人になられました。姫君が国の母の御位をお占めになった暁には住吉の神をはじめとして仏様への願果たしをなさるようにと申しておきます。私の大願がかなった今では、はるかに西方の十万億の道を隔てた世界の、九階級の中の上の仏の座が得られることも信じられます。今から蓮華をお持ちになる迎えの仏にお逢いする夕べまでを私は水草の清い山にはいってお勤めをしています。\n\n\n光いでん暁近くなりにけり今ぞ見しよの夢語りする\n\n\n そして日づけがある。またあとへ、\n\n私の命の終わる月日もお知りになる必要はありません。人が古い習慣で親のために着る喪服などもあなたはお着けにならないでお置きなさい。人間の私の子ではなく、別な生命を受けているものとお思いになって、私のためにはただ人の功徳になることをなさればよろしい。この世の愉楽をわが物としておいでになる時にも後世のことを忘れぬようになさい。私の志す世界へ行っておれば必ずまた逢うことができるのです。娑婆のかなたの岸も再会の得られる期の現われてくることを思っておいでなさい。\n\n こう書いて終わってあった。また入道が住吉の社へ奉った多くの願文を集めて入れた沈の木の箱の封じものも添えてあった。尼君への手紙は細かなことは言わずに、ただ、\n\nこの月の十四日に今までの家を離れて深山へはいります。つまらぬわが身を熊狼に施します。あなたはなお生きていて幸いの花の美しく咲く日におあいなさい。光明の中の世界でまた逢いましょう。\n\n と書かれただけのものであった。読んだあとで尼君は使いの僧に入道のことを聞いた。\n「お手紙をお書きになりましてから三日めに庵を結んでおかれました奥山へお移りになったのでございます。私どもはお見送りに山の麓へまで参ったのですが、そこから皆をお帰しになりまして、あちらへは僧を一人と少年を一人だけお供にしてお行きになりました。御出家をなさいました時を悲しみの終わりかと思いましたが、悲しいことはそれで済まなかったのでございます。以前から仏勤めをなさいますひまひまに、お身体を楽になさいましてはお弾きになりました琴と琵琶を持ってよこさせになりまして、仏前でお暇乞いにお弾きになりましたあとで、楽器を御堂へ寄進されました。そのほかのいろいろな物も御堂へ御寄付なさいまして、余りの分をお弟子の六十幾人、それは親しくお仕えした人数ですが、それへお分けになり、なお残りました分を京の御財産へおつけになりました。いっさいをこんなふうに清算なさいまして深山の雲霞の中に紛れておはいりになりましたあとのわれわれ弟子どもはどんなに悲しんでいるかしれません」\n と播磨の僧は言った。これも少年侍として京からついて行った者で、今は老法師で主に取り残された悲哀を顔に見せている。仏の御弟子で堅い信仰を持ちながらこの人さえ主を失った歎きから脱しうることができないのであるから、まして尼君の歎きは並み並みのことでなかった。\n 明石夫人はたいてい南の町のほうへばかり行っていたが、明石の使いが入道の手紙をもたらしたことを尼君が報らせて来たため、そっと北の町へ帰って来た。この人は自重していて少しのことによって軽々しく往来することはしないのであるが、悲しいたよりがあったというので忍びやかに出て来たのである。見ると尼君は非常に悲しいふうをしてすわっていた。燈を近くへ寄せさせて夫人は手紙を読んでみると、自身からもとどめがたい涙が流れた。他人にとっては何でもないことも子としては忘れがたい思い出になる昔のことが多くて、常に恋しくばかり思われた父は、こうして自分たちから永久に去ったのかと思うと、どうしようもない深い悲しみに落ちるばかりであった。この夢の話によって、自分に不相応な未来を期待して、人並みの幸福を受けさせずに苦しめる父であるようにある時代の自分が恨んだのも、一つの夢を頼みにした父であったからであると、はじめて理解のできた気もした。少したって尼君は、\n「あなたがあったために輝かしい光栄にも私は浴していますが、またあなたのためにどれほどの苦労を心でしたことか。たいしたことのない家の子ではあっても、生まれた京を捨てて田舎へ行ったころも不運な私だと思われましたがね。あとになって生きながら別れなければならぬとは予想せずに、同じ蓮華の上へ生まれて行く時まで変わらぬ夫婦でいようとも互いに思って、愛の生活には満足して年月を送ったのですが、にわかにあなたの境遇が変わって、私もそれといっしょに捨てた世の中へ帰り、あなたがたが幸福に恵まれるのを目に見ては喜びながらも、一方では別れ別れになっている寂しさ、たよりなさを常に思って悲しんでいましたが、とうとう遠く隔たったままでお別れしてしまったのが残念に思われます。若い時代のあの方も人並みな処世法はおとりにならずに、風変わりな人だったが、縁あって若い時から愛し合った二人の中には深い信頼があったものですよ。どうしてこの世の中でいながら逢うことのできない所へあの方は行っておしまいなすったのだろう」\n と言って泣いた。夫人も非常に泣いた。\n「こうお言いになっても、すばらしい将来などというものが私にあるものですか。価値のない私がどうなりうるものでもないのですから、私を愛してくだすったお父様にお目にかかることもできずにいるこの悲しみにそれは代えられるほどのものと思われませんが、私たちは幸福な姫君をこの世にあらしめるために、悲しい思いも科せられているものと思うよりほかはありません。そんなふうにして山へおはいりになっては、無常のこの世ですもの、知らぬまにおかくれになるようなことになっては悲しゅうございますね」\n とも言い、夜通し尼君と入道の話をしていた。\n「昨日は私のあちらにいますのを院が見ていらっしゃったのですから、にわかに消えたようにこちらへ来ていましては、軽率に思召すでしょう。私自身のためにはどうでもよろしゅうございますが、姫君に累を及ぼすのがおかわいそうで自由な行動ができませんから」\n こう言って夫人は夜明けに南の町へ行くのであった。\n「若宮はいかがでいらっしゃいますか。お目にかかることはできないものですかね」\n このことでも尼君は泣いた。\n「そのうち拝見ができますよ。姫君もあなたを愛しておいでになって、時々あなたのことをお話しになりますよ。院もよく何かの時に、自分らの希望が実現されていくものなら、そんなことを不安に思っては済まないが、なるべくは尼君を生きさせておいてみせたいと仰せになりますよ。御希望とはどんなことでしょう」\n と夫人が言うと、尼君は急に笑顔になって、\n「だから私達の運命というものは常識で考えられない珍しいものなのですよ」\n とよろこぶ。手紙の箱を女房に持たせて明石は淑景舎の方の所へ帰った。\n 東宮から早く参るようにという御催促のしきりにあるのを、\n「ごもっともですわね。若宮様もいらっしゃるのですもの、どんなに早くお逢いあそばしたいでしょう」"
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"role": "assistant",
"content": " と紫夫人も言って、院は若宮を東宮へお上らせする用意をしておいでになった。桐壺の方は退出のお許しが容易に得られなかったのに懲りて、この機会に今しばらく実家の人になっていたい気持ちでいるのである。小さい身体で女の大難を経てきたのであったから、少し顔が痩せ細って非常に艶な姿になっていた。\n「はっきりとなさいませんから、もう少しこちらで御養生をなさいますほうがいいと思います」\n と言うのは明石夫人の意見であった。\n「少し細られたこの姿をお目にかけるのはかえってまたよい結果のあるものなのだ」\n などと院は言っておいでになるのである。明石は紫の女王などが対へ帰ったあとの静かな夕方に、姫君のそばへ来て、文書のはいった沈の木箱を見せ、入道のことを語るのであった。\n「すべてのことが成り終わりますまでは、こんな物をお目にかけないほうがいいのかもしれませんが、人の命は無常なものでございますからね。何も御承知にならぬうちに私が亡くなりますことがありましても、必ずしも臨終にあなた様のおいでがいただける身の上でもございませんから、とにかく健在なうちにこうしたこともお聞かせしておくほうがよいと存じまして、それに字が悪くて読みにくいものでございますがこの手紙もお見せすることにいたしましたから、御覧なさいませ。この箱の中の願文はお居間の置き棚などへしまってお置きになりまして、何をなさることも可能な時がまいりましたら、これに書かれてございます神様などへ入道がいたしました願のお酬いをなすってくださいませ。他人にはお話をなさらないほうがよろしゅうございます。私はもうあなたのお身の上で何が不安ということもなくなったのでございますから、尼になりたい気がしきりにいたすのでございまして、長くお世話を申し上げることはできないでございましょう。あなたは対のお母様の御恩をお忘れになってはいけませんよ。ありがたい方でございます。拝見いたしまして、ああしたりっぱな人格の方は必ず命も長くお恵まれになるだろうと思っております。あなたとごいっしょにおりますことはあなたの幸福でないと私が思いまして、はじめて女王様にあなたをお譲り申し上げました時には、これほどまでの愛をあなたにお持ちになることは想像できませんで、それ以後もただ世間並みのよいといわれる継母ぐらいのことと思いましたが、あの方の御愛情はそんなものではありませんでした。あの方にお任せいたしますほど安心なことはないとよく私はわかったのでございます」\n などと明石は淑景舎に言った。姫君は涙ぐんで聞いていた。実母に対しても打ち解けたふうができず、おとなしくものの多く言われない姫君なのである。入道の手紙は若い心に無気味なこわい気のされるようなことが、古檀紙の分厚い黄色がかった、それでも薫物の香の染んだのへ五、六枚に書かれてあるのを、姫君は身にしむふうで読んでいて額髪が涙にぬれていく様子が艶であった。\n 院は女三の宮のお座敷のほうにおいでになったのであるが、中の戸をあけてにわかにこちらへお見えになったのを知って、明石夫人は急なことで姫君の前に出された文書類を隠すことができず、几帳を少し前のほうへ引き寄せ、自身もその蔭へ姿を隠してしまった。\n「若宮が私の足音でお目ざめになりませんでしたか。しばらくでも見ずにいては恋しいものだから」\n と院がお言いになっても姫君は黙っているのを見て、明石が、\n「対へおつれになったのでございます」\n と言った。\n「けしからんね、若宮をわが物顔にして懐中からお放ししないのだから。始終自身の着物をぬらして脱ぎかえているのですよ。軽々しく宮様をあちらへおやりするようなことはよろしくない。こちらへ拝見に来ればいいではないか」\n「思いやりのないことを仰せになります。内親王様であってもあの女王様に御養育おされになるのがふさわしいことと存じられますのに、まして男宮様は、そんなに尊貴でおありあそばしても、あちこちおつれ申すほどのことが何でございましょう。御冗談にでも女王様のことをそんなふうにおっしゃってはよろしくございません」\n 明石夫人はこう抗弁した。院はお笑いになって、\n「ではもうあなたがたにお任せきりにすべきだね。このごろはだれからも私は冷淡に扱われる。今のようなたしなめを言ったりする人もある。そうじゃありませんか、こんなに顔を隠していて、私を悪くばかり」\n と、お言いになって、几帳を横へお引きになると、明石は清い顔をして中の柱に品よくよりかかっているのであった。先刻の箱もあわてて隠すのが恥ずかしく思われてそのままにしてあった。\n「何の箱ですか。恋する男が長い歌を詠んで封じて来たもののような気がする」\n 院がこうお言いになると、\n「いやな御想像でございますね。御自身がお若返りになりましたので、私どもさえまで承ったこともないような御冗談をこのごろは伺います」\n と明石は言って微笑を見せていたが、悲しそうな様子は瞭然とわかるのであったから、不思議にお思いになるふうのあるのに困って、明石が言った。\n「あの明石の岩窟から、そっとよこしました経巻とか、まだお酬いのできておりません願文の残りとかなのでございますが、姫君にも昔のことをお話しする時があれば、これもお目にかけたらどうかと申してもまいっているのでございますが、ただ今はまだそうしたものを御覧なさいます時期でもないのでございますから、お手をおつけになりません」\n お聞きになって、娘と母に悲しい表情の見えるのももっともであるとお思いになった。\n「あれ以後ますます深い信仰の道を歩んでおいでになることであろう。長命をされて長い間のお勤めが仏にできたのだから結構だね。世間で有名になっている高僧という者もよく観察してみると、俗臭のない者は少なくて、賢い点には尊敬の念も払われるが、私には飽き足らず思われる所がある、あの人だけはりっぱな僧だと私にも思われる。僧がらずにいながら、心持ちはこの世界以上の世界と交渉しているふうに見えた人ですよ。今ではまして係累もなくなって、超然としておられるだろうあの人が想像される。手軽な身分であればそっと行って逢いたい人だ」\n 院はこうお言いになった。\n「ただ今はもうあの家も捨てまして、鳥の声もせぬ山へはいったそうでございます」\n「ではその際に書き残されたものなのだね。あなたからもたよりはしていますか。尼さんはどんなに悲しんでおいでになるだろう。親子の仲とはまた違った深い愛情が夫婦の仲にはあるものだからね」\n 院も涙ぐんでおいでになった。\n「あれからのちいろいろな経験をし、いろいろな種類の人にも逢ったが、昔のあの人ほど心を惹く人物はなくて、私にも恋しく思われる人なのだから、そんなことがあれば夫婦であった尼君の心はいたむことだろう」\n ともお言いになる院に、入道の夢の話をお思い合わせになることがあろうもしれぬと明石夫人はその手紙を取り出した。\n「変わった梵字とか申すような字はこれに似ておりますが読みにくい字で書かれましたものでも御参考になることが混じっているようでございますからお目にかけます。昔の別れにももう今日のあることを申しておりまして、あきらめたつもりでおりましても、やはりまた悲しゅうございます」\n と言い、感じの悪くない程度に泣いた。院は手にお取りになって、\n「りっぱじゃありませんか。老いぼけてなどいないいい字だ。どんな芸にも達しておられて、尊敬さるべき人なのだが、処世の術だけはうまくゆかなかった人だね。あの人の祖父の大臣は賢明な政治家だったのが、ある一つのことで失敗をされたために、その報いで子孫が栄えないなどと言う人もあったが、女系をもってすれば繁栄でないとは言われなくなったのも、あの人の信仰が御仏を動かしたといってよいことですね」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " こんなことを言うのを聞いて薫は非常に泣いた。父君の成仏の道の妨げをさえしているかと病女王もそれを聞いて、そのまま息も絶えんばかりに悲しんだ。ぜひとも父君がまだ冥府の道をさまよっておいでになるうちに自分も行って、同じ所へまいりたいと思うのであった。阿闍梨は多く語らずに座を立って行った。\n この常不軽の行はこの辺の村々をはじめとして、京の町々にまでもまわって家々の門に額を突く行であって、寒い夜明けの風を避けるために、師の阿闍梨のまいっている山荘へはいり、中門の所へすわって回向の言葉を述べているその末段に言われることが、故人の遺族の身にしみじみとしむのであった。客である中納言も仏に帰依する人であったから、これも泣きながら聞いていた。\n 中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの几帳の蔭に来ている気配を薫は知り、居ずまいを正して、\n「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊いものですね」\n と言い、また、\n\n\n霜さゆる汀の千鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな\n\n\n これをただ言葉のようにして言った。\n 恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。\n\n\nあかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る\n\n\n あまりに似合わしくない代わり役であったが、つたなくもない声づかいで弁はこの役を勤めた。こうした言葉の贈答にも、遠慮深くはありながらなつかしい才気のにおいの覚えられるこの女王とも、姉女王を死が奪ったあとではよそよそになってしまわねばならぬではないか、何もかも失うことになればどんな気がするであろうと薫は恐ろしいことのようにさえ思った。阿闍梨の夢に八の宮が現われておいでになったことを思っても、このいたましい二人の女王があの世からお気がかりにお見えになることかもしれぬと思われる薫は、山の御寺へも誦経の使いを出し、そのほかの所々へも読経をさせる使いをすぐに立てた。宮廷のほうへも、私邸のほうへもお暇を乞い、神々への祭り、祓までも隙なくさせて姫君の快癒のみ待つ薫であったが、見えぬ罪により得ている病ではないのであったから、効験は現われてこなかった。病者自身が、生かせてほしいと仏に願っておればともかくであるが、女王にすれば、病になったのを幸いとして死にたいと念じていることであるから、祈祷の効目もないわけである。死ぬほうがよい、中納言がこうしてつききりになっていて介抱をされるのでは、癒ったあとの自分はその妻になるよりほかの道はない、そうかといって、今見る熱愛とのちの日の愛情とが変わり、自分も恨むことになり、煩悶が絶えなくなるのはいとわしい。もしこの病で死ぬことができなかった場合には、病身であることに託して尼になろう、そうしてこそ互いの愛は永久に保たれることになるのであるから、ぜひそうしなければならぬと姫君は深く思うようになって、死ぬにしても、生きるにしても出家のことはぜひ実行したいと考えるのであるが、そんな賢げに聞こえることは薫に言い出されなくて、中の君に、\n「私の病気は癒るのでないような気がしますからね、仏のお弟子になることによって、命の助かる例もあると言いますから、あなたからそのことを阿闍梨に頼んでください」\n こう言ってみた。皆が泣いて、\n「とんでもない仰せでございます。あんなに御心配をしていらっしゃいます中納言様がどれほど御落胆あそばすかしれません」\n だれもこんなことを言って、唯一の庇護者である薫にこの望みを取り次ごうとしないのを病女王は残念に思っていた。\n 女王の病のために薫が宇治に滞在していることを、それからそれへと話に聞き、慰問にわざわざ来る人もあった。深く愛している様子を察している部下の人、家職の人たちはいろいろの祈祷を依頼しにまわるのに狂奔していた。\n 今日は五節の当日であると薫は京を思いやっていた。風がひどくなり、雪もあわただしく降り荒れていた。京の中の天気はこんなでもあるまいがと切実に心細さを感じていた薫は、この人と夫婦になれずに終わるのであろうかと考えられる点に、運命の恨めしさはあったが、そんなことは今さら思うべきでない、なつかしい可憐なふうで、ただしばらくでも以前のように思うことの言い合える時があればいいのであるがと物思わしくしていた。明るくならないままで日が暮れた。\n\n\nかきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな\n\n\n 薫の歌である。この人のいてくれるのをだれも力に頼んでいた。\n いつもの近い席に薫がいる時に、几帳などを風が乱暴に吹き上げるため中の君は向こうのほうへはいった。老いた女房などもきまり悪がって隠れてしまった間に、近々と病床へ薫は寄って、\n「どんな御気分ですか、私が精神を集中して快くおなりになるのを祈っているのに、その効がなくて、もう声すら聞かせていただけなくなったのは悲しいことじゃありませんか。私をあとに残して行っておしまいになったらどんなに恨めしいでしょう」\n 泣く泣くこう言った。もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知って袖で顔をよく隠していた。\n「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」\n 薫を深く憐むふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどうしようもなかった。自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、と思って見つめる薫であったが、いよいよ可憐で、美しい点ばかりが見いだされる。腕なども細く細く細くなって影のようにはかなくは見えながらも色合いが変わらず、白く美しくなよなよとして、白い服の柔らかなのを身につけ夜着は少し下へ押しやってある。それはちょうど中に胴というもののない雛人形を寝かせたようなのである。髪は多すぎるとは思われぬほどの量で床の上にあった。枕から下がったあたりがつやつやと美しいのを見ても、この人がどうなってしまうのであろう、助かりそうも見えぬではないかと限りなく惜しまれた。長く病臥していて何のつくろいもしていない人が、盛装して気どった美人というものよりはるかにすぐれていて、見ているうちに魂も、この人と合致するために自分を離れて行くように思われた。\n「あなたがいよいよ私を捨ててお行きになることになったら、私も生きていませんよ。けれど、人の命は思うようになるものでなく、生きていねばならぬことになりましたら、私は深い山へはいってしまおうと思います。ただその際にお妹様を心細い状態であとへお残しするだけが苦痛に思われます」"
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"role": "assistant",
"content": " 中納言は少しでもものを言わせたいために、病者が最も関心を持つはずの人のことを言ってみると、姫君は顔を隠していた袖を少し引き直して、\n「私はこうして短命で終わる予感があったものですから、あなたの御好意を解しないように思われますのが苦しくて、残っていく人を私の代わりと思ってくださるようにとそう願っていたのですが、あなたがそのとおりにしてくださいましたら、どんなに安心だったかと思いましてね、それだけが心残りで死なれない気もいたします」\n と言った。\n「こんなふうに悲しい思いばかりをしなければならないのが私の宿命だったのでしょう。私はあなた以外のだれとも夫婦になる気は持ってなかったものですから、あなたの好意にもそむいたわけなのです。今さら残念であの方がお気の毒でなりません。しかし御心配をなさることはありませんよ。あの方のことは」\n などともなだめていた薫は、姫君が苦しそうなふうであるのを見て、修法の僧などを近くへ呼び入れさせ、効験をよく現わす人々に加持をさせた。そして自身でも念じ入っていた。人生をことさらいとわしくなっている薫でないために、道へ深く入れようとされる仏などが、今こうした大きな悲しみをさせるのではなかろうか。見ているうちに何かの植物が枯れていくように総角の姫君の死んだのは悲しいことであった。引きとめることもできず、足摺りしたいほどに薫は思い、人が何と思うともはばかる気はなくなっていた。臨終と見て中の君が自分もともに死にたいとはげしい悲嘆にくれたのも道理である。涙におぼれている女王を、例の忠告好きの女房たちは、こんな場合に肉親がそばで歎くのはよろしくないことになっていると言って、無理に他の室へ伴って行った。\n 源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台の灯を高く掲げて近くへ寄せ、恋人をながめるのであったが、少し袖で隠している顔もただ眠っているようで、変わったと思われるところもなく美しく横たわっている姫君を、このままにして乾燥した玉虫の骸のように永久に自分から離さずに置く方法があればよいと、こんなことも思った。遺骸として始末するために人が髪を直した時に、さっと芳香が立った。それはなつかしい生きていた日のままのにおいであった。どの点でこの人に欠点があるとしてのけにくい執着を除けばいいのであろう、あまりにも完全な女性であった。この人の死が自分を信仰へ導こうとする仏の方便であるならば、恐怖もされるような、悲しみも忘れられるほど変相を見せられたいと仏を念じているのであるが、悲しみはますます深まるばかりであったから、せめて早く煙にすることをしようと思い、葬送の儀式のことなどを命じてさせるのもまた苦しいことであった。空を歩くような気持ちを覚えて薫は葬場へ行ったのであるが、火葬の煙さえも多くは立たなかったのにはかなさをさらに感じて山荘へ帰った。\n 忌籠りする僧の数も多くて、心細さは少し慰むはずであったが、中の君はだれにもだれにも先立たれた不幸な女として人から見られるのすら恥ずかしいと思い沈んでいて、この人も生きた姫君とは思われないほどであった。兵部卿の宮からも御慰問の品々が贈られたのであるが、恨めしいと思い込んだ姉君の気持ちを、ついに緩和させずじまいになされた方だと思うと、中の君はお受けしてうれしいとは思わなかった。\n 中納言は人生の悲しみを切実に味わった今度のことを機会に、出家したいと思う心はあるのであるが、三条の母宮の思召しもはばかられ、それとこの中の君の境遇の心細さは見捨てられないものに思われて煩悶をしながら、故女王の言ったとおりに、短命で死ぬ人の代わりに中の君を娶るのもよかった、自分の身を分けた同じものに思えと言われても、恋の相手を変える気にその当時の自分はなれなかった、こんな孤独の人にして物思いをさせるのであったなら、故人を忍ぶ相手として二人で語り合う身になっておればよかったのであるとも思った。かりそめにも京へ出ることをせず、物思いをしてこもっていることを知って、世間の人も故人を薫が深く愛していたことを知り、宮中をはじめとして諸方面からの慰問の使いが山荘を多く訪れた。\n 女王の歿後の日はずんずんとたっていく。七日七日の法要にも尊いことを多くして志の深い弔いを故人のために怠らぬ源中納言も、妻を失った良人でないため喪服は着けることのできないため、ことに大姫君を尊敬して仕えた女房らの濃い墨染めの袖を見ても、\n\n\nくれなゐに落つる涙もかひなきはかたみの色を染めぬなりけり\n\n\n こんなことがつぶやかれ、浅い紅の下の単衣の袖を涙に濡らしているこの人は、あくまで艶できれいであった。女房たちがのぞきながら、\n「姫君のお亡れになった悲しみは別として、この殿様がこちらにずっとおいでくださいますことに私たちはもう馴らされていて、忌が済んでお帰りになることを思うと、お別れが惜しくて悲しいではありませんか。なんという宿命でしょう。こんなに真心の深い方をお二方とも御冷淡になすって、御縁をお結びにならなかったとはね」\n とも言って泣き合っていた。\n「こちらの姫君をあの方のお形見とみなして、今後はいろいろ昔の話を申し上げ、また承りもしたいと思うのです。他人のように思召さないでください」\n と薫は中の君へ言わせたが、すべての点で自分は薄命な女であると思う心から恥じられて、中の君はまだ話し合おうとはしなかった。この女王のほうはあざやかな美人で、娘らしいところと、気高いところは多分に持っていたが、なつかしい柔らかな嫋々たる美というものは故人に劣っていると事に触れて薫は思った。\n 雪の暗く降り暮らした日、終日物思いをしていた薫は、世人が愛しにくいものに言う十二月の月の冴えてかかった空を、御簾を巻き上げてながめていると、御寺の鐘の声が今日も暮れたとかすかに響いてきた。\n\n\nおくれじと空行く月を慕ふかな終ひにすむべきこの世ならねば\n\n\n 風がはげしくなったので、揚げ戸を皆おろさせるのであったが、四辺の山影をうつした宇治川の汀の氷に宿っている月が美しく見えた。京の家の作りみがいた庭にもこんな趣きは見がたいものであるがと薫は思った。病体にもせよあの人が生きていてくれたならば、こんな景色も共にながめて語ることができたであろうと思うと、悲しみが胸から外へあふれ出すような気がした。\n\n\n恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山には跡を消なまし\n\n\n 死を求める雪山童子が鬼に教えられた偈の文も得たい、それを唱えてこの川へ身を投げ、亡き人に逢おうと薫が思ったというのは、あまりに未練な求道者というべきである。\n 中納言は女房たちを皆そばへ呼び集めて、話などをさせて聞いていた。様子のりっぱであることと、親切な性情を知っている女たちであるから、その中の若い人らは身にしむほどの思いで好意を持った。老いた人たちは薫を見ることによっても故人が惜しまれてならなかった。\n「御病気の重くなりましたのも、兵部卿の宮様のお態度に失望をなさいまして、世間体も恥ずかしいとお思いになりますのを、さすがに中の君様には、それほどにまで思召すとはお隠しになりまして、ただお一人心の中でだけ世の中を悲観し続けていらっしゃいますうちに、お食欲などもまるでなくなっておしまいになりまして、御衰弱に御衰弱が重なってまいったようでございます。表面には物思いをあそばすふうをお見せにならずに、深く胸の中で悩んでいらっしったのでございます。それに中の君様に結婚をおさせになりましたことは父宮様の御遺戒にもそむいたことであったと、いつもそれをお心の苦になさいましたのでございますよ」\n こんなことを言って、いつの時、いつかこうお言いになったことがあるなどと大姫君のことを語って、だれもだれも際限なく泣いた。自分の計らいが原因して苦しい物思いを故人にさせたと、あやまちを取り返しうるものなら取り返したく思って薫は聞いたのであって、恋人の死そのものだけでなく、すべての人生が恨めしく、念誦を哀れなふうにしていて、眠りについたかと思うとまたすぐに目ざめていた。\n この早朝の雪の気の寒い時に、人声が多く聞こえてきて、馬の脚音さえもした。こうした未明に雪を分けてだれも山荘へ近づくはずがないと僧たちもそれを聞いて思っていると、それは目だたぬ狩衣姿で兵部卿の宮が訪ねておいでになったのであった。ひどく衣服を濡らしてはいっておいでになった。妻戸をおたたきになる音に、宮でおありになろうことを想像した薫は、蔭になったほうの室へひそかにはいっていた。まだ女王の忌の日が残っているのであるが、心がかりに堪えぬように思召して、一晩じゅう雪に吹き迷わされになりながらここへ宮はお着きになったのである。こんな悪天候をものともあそばさなかった御訪問であったから、恨めしさも紛らされていってもいいのであろうが、中の君は逢ってお話をする気にはなれなかった。宮の御誠意のなさに姉を煩悶させ続けていたころの恥ずかしかったこと、その気持ちを直させることもしていただけなかったのであるから今になって真心をつくしてくださることになっても、もうおそい、かいがないと深く中の君は思うのであって、女房のだれもが道理を説いて勧めた結果、ようやく物越しでお逢いすることになり、宮は今までの怠りのお言いわけをあそばすのであるが、ただじっと聞き入っているばかりの中の君で、この人さえも、あるかないかのような心細い命の人と思われ、続いてどうかなるのではあるまいかと思われる気配も見えるのを、宮はお悲しみになって、今日は何事も犠牲にしてよいという気におなりになりお帰りにならないことになった。物越しなどでなく、直接に逢いたいと宮はいろいろお訴えになるのであったが、"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n とめどもなく走る馬のあとを追うて、宇治山田の米友は、野と、山と、村と、森と、田の中を、かなり向う見ずに走りました。\n しかし、相手は何をいうにも馬のことです。さしもの米友も、追いあぐねるのが当然でしたが、そうかといって、そのまま引返す米友ではありません。ことに右の放たれたる馬には、長浜で買入れた家財雑具はいうに足らないとしても、たったいま両替したばっかりの何千というお金が、確実に背負わせられている。金額の多少を論ずるわけではないが、ことにあのお嬢様が、この米友を見込んで用心棒を依頼してある、その責任感から言っても、追及するところまでは追及せずにはおられないでしょう。\n それはそうとして、米友もまた心得たところもある。奔馬というものは、前から捉えるに易くして、後ろから追うにはこの通り骨だが、そうかといって馬というやつは、蝶々トンボの類と違って、どう間違っても空中へ向けて逸走することはない。天馬空を往くという例外もあるにはあるが、通例としてはせいぜい地上を走るだけのものである。ああしてせいぜい地上を走っているそのうちには前途から誰か心得のある奴が出て来て取捕まえてくれるか、そうでなければ馬め自身が行詰るところまで行って、立往生するか、顛落するかよりほかはないものだ――ただ、往来雑沓の町中ででもあるというと、他の人畜に危害を与えるおそれもあるが、その点に於てこういう野中では安心なものだ――という腹が米友にあるから、焦りつつも、いくらかの余裕をもって走ることができるのです。\n ところが、案に相違して、なかなか前途から、心得のありそうな奴が飛び出して取抑えてくれそうもなし、何かこの奔馬をして、行きつまらせるところの障碍物といったようなものも容易にないのであります。\n ついに一つのやや大きな川原中へ飛び出してしまいました。\n「川へ来やがった」\n 川原道を、ついにこの馬がガムシャラに走るのです――その川原の幾筋もの流れをむやみに乗切って、ずんずん飛んで行く馬は、まだ石田村の門前でひっぱたかれた逆上が下りないで、お先まっくらがさせる業なのでしょう。\n やむことを得ず、米友もつづいて川原の中へ飛び下りました。\n 逆上し切ってお先真暗なことに於て、奔れ馬ばかりを笑われませんでした。幾分の余裕を存して追いかけて来たつもりの米友自身すらも、この時分はかなり目先がもうげんじていました。\n「わーっ」\nという喚声が、行手の川の向う岸から揚って、そうしてバラバラと礫の雨が降って来た時は、米友が、屹となって向う岸を見込むと、その鼻先へ、今の今までまっしぐらという文字通りに走って来た放れ馬の奴が、不意に乗返して来たものですから、その当座の米友は土用波の返しを喰ったように驚いたが、その辺はまた心得たもので、\n「よし来た!」\n 何がよし来た! だかわからないけれども、今まで追いかけても追いかけても追いかけ足りなかった目的物が、今度は頼みもしないのに、自分で折返し畳み返して来たのですから、勿怪の幸いと言えば言うものの、この際、米友でなければ、たしかに引返し馬のために乗りつぶされてしまったことは疑うべくもありません。\n そこを、心得たりと身を沈めて、轡づらをしっかと取った米友、\n「どう、どう、どう――しっかりしやがれやあい」\n 米友ほどの人格者に握られた轡ですから、何のことはありませんでした、その途端に、馬の逆上がすっかり引下ったと見えて、大きな目もパッカリと見えるようになってみると、疲労そのものが一時に露出したらしく、馬相応の、嵐のような息をついて立ちすくみの体です――ここで米友は完全に奔馬を取捕まえることの目的を達しました。\n その目的だけは完全に達したけれども、前後左右の分別までがハッキリと手に取れているわけでもなく、頭にうつっているわけでもないのです。\n 第一、今までガムシャラに走り続けていたこの馬のやつが、今ここへ来てどうして不意に折返して来たか、前途に心得ある人が出て来たわけでもなし、広い河原で、これぞといって障碍物もありはしないのに――こいつがここで不意にあと戻りをやり出した理由と原因とは、よくわかっていないのです。しかし、その理由と、原因をわざわざと探し求めるまでもなく、米友の身の周囲に降りそそぐ石礫が、とりあえずこの不穏を報告する。\n\n 二\n\n 片手で馬の轡を取りながら、そうして、石の飛んで来る前岸を見込むと、さても夥しい人出。\n 向う岸の土手の全部が、ほとんど人を以て埋っている光景を、米友がはじめて見ました。\n「やあ、大変な人だな、蟻町のようだ」\n 石の礫は、その夥しい人類の中から降って湧いて来ていることに相違ないが、この夥しい人類が、いつのまに、何のためにここへ現われたのだか、それはひとまず米友の思案に余りました。\n なるほど、荒れ馬の飛んで来るのは危ない。それ故に村の人が警戒を試むるのもよろしい。だが一頭の家畜のために、これだけの人数が繰出して来るとは――第一、馬がこの川原へ来るか来ないうちに、その危険をおもんぱかって、これだけの人数をかり集め得たとすれば、その人寄せは人間業ではない。\n しかしまた、他に目的あってここに待構えているんなら、何かその目的物がありそうなものだが、あいつらの面という面、目という目は、みんなこっちばっかりを見合せていやがる――だから、この一匹の馬のためにあの人数が繰出されたと見るよりほかはねえ、大仰なこった。\n おやおや、竹槍を持ってるぜ、竹槍を林の如くあの通り揃えて持っている。こいつは驚いたな、タカが一匹の放れ馬のために、危ねえ!\n クルクル眼を廻して、驚いてながめているうちにも、礫の雨が絶えず降って来て、同時に向う岸で口々に、おれたちに向って何かを罵りかけているようだが、ガヤガヤして何のことだか聞きとれねえ。\n 米友としては、奔馬追及の目的は完全に達せられたことだし、たとい、彼等が無理無体に礫の雨を降らしたところで、ここでなにも、好んで、宇治山田の網受けの芸当をしてお目にかける必要のないところですから、その飛んで来る石の雨は片時も早く避けた方が賢いと思慮したものですから、おもむろに馬の口をとってこちらの岸へ戻って来ると、「発止!」これはまた、どうしたことでしょう、今度は戻って来る方の岸から、礫の雨が飛んで来ました。\n「こいつは驚いた」\n 米友は馬の口をひかえて、戻り来る岸の上を見ると、そこにも土手の上いっぱい、芋の子を盛ったような人出です。それが口々に罵っている、竹槍を持っている、米友と馬とをのぞんで石の雨を降らしかける、それは前岸の光景と全く同じことです。\n 自分ながら落着いたつもりが、まだ血迷っていた。向きをかえたつもりだが、実はもう一ぺん廻り過ごして同じ方向に向いちまったか。あわて者が馬へ逆さに乗って尻尾を見て、「おやこの馬には頭がねえ」と言ったが、乗り直して頭を見て、「尻尾もねえ」と言ったという笑い噺がある。そうでなければ大きな鏡仕掛で、あちらの幻像を、こちらへがんどう返しにうつし取ったものと見なければならないが、事実上、米友がどちらを向いて見ても、両岸が同じ光景だものですから、一時、どうしても、そこに馬の口を取りながら、立ちすくみの姿勢をとらざるを得ませんでした。\n「わからねえ。わからねえ奴等だ」\n それは、馬が駈けて行く方が用心するのは当然であるとしても、その用心か惰力かなにかで文句を言い、石の一つも投げてみようという手ずさみは、まあわかっているが、もうこの通り、馬も取鎮めてしまって、そうして穏かに曳いて帰ろうてえのに、その引返した方の奴が、悪口を言ってこっちへ石を投げかけるてえのは、わからねえ理窟じゃねえか。\n こういう人気の土地か知らねえが――こんなことは初めてだ、一匹の馬のために、まあ、見るがいい、後から後からとあの人出は、村方総出だ。\n おやおや、竹槍を持ったのが、バラバラこっちへやって来るぜ。\n また、向う岸からも竹槍を持った奴が、バラバラとこっちへやって来るぜ。いったいどうしようてえんだ、このおいらと、馬とを、両方から挟み討ちにして、あの竹槍で突っつき殺さずにゃ置かねえという了見か――それはいよいよわからねえ。第一、この馬とおいらが、何を悪いことをしたのだえ。\n 馬はやみくもに駈けたばっかりだ、おいらはそれを追っかけて来たばっかりなんだ、老人子供の一人にだって、怪我あさせたわけじゃあねえんだ。村を騒がせて済まなかったといえば済まなかったに違えねえんだから、その点はおいらだって詫びをしろと言えばしねえとは言わねえよ。なにもこっちも好きこのんで、馬を飛ばしたわけじゃねえんだ、馬が何かに驚いて飛び出したんだ、何に驚いたんだか、そんなことはまだ原因をたしかめる暇もなく、おいらはこうして追いかけて来たんだが――なんにしてもこっちに責任のある馬には馬なんだから、詫びろと言えば詫びらあな、あやまれと言えばあやまってやらあ――それをお前、何もこっちに一言も言わさねえで、両岸から挟みうちにして竹槍で突っつき殺そうたあ酷過ぎる!"
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"role": "assistant",
"content": " タカが一頭の馬の畜生のことじゃねえか――まるで、これじゃ戦だ――まさかこの馬が千両からの金を積んでいることを知っていて、それを取りてえから、ああして人数を集めたわけじゃあるめえ。そうだとすれば、村中が心を合せて切取り強盗を商売にしているようなわけのものだが、今時そういう商売の村というのはあるめえ。第一、この馬が千両からの銭金をつけているかいねえか、それまで見きわめちゃいめえがな。\n おやおや、来るよ来るよ、本当にやって来るぜ、あの通り若い奴が、竹槍を持って、こっちの岸からも御同様。さあ、もう仕方がねえ、こうなったからはこっちも了見をしなくちゃならねえ。\n 米友は川原の真中でじだんだを踏みました。同時に、両方の岸から、すさまじい鬨の声が起りました。\n 竹槍をしごいた両岸の先陣五六名ずつが、その声に煽られて、奔馬のような勢いで、米友をめがけて――事実、米友としては、そう見るよりほかに見ようがない――両方から殺到し来るのです。\n こうなると米友は、もはや、じだんだだけでは許されない。\n もういやです。米友としてもこんなところでまたしても武勇伝は現わしたくはないのですが、実際、身に降りかかる火の粉は払わなければならない。払って置いて相当の弁明が聞かれなければ、もうそれまで――そういう覚悟をきめることには未練のない男です。\n そこで、足場を見計らってお手のものの杖槍を二三度、素振りをしてみてからに、懐中へ手を入れると、久しく試みなかった菱の実のような穂先を取り出して、しっかとその先を食いこませたものです。\n その時また、わあっ! と両岸で山の崩れるような鬨の声。\n\n 三\n\n 全く理不尽千万な、乱暴至極な、前後から一応の弁明もさせずに、竹槍の槍ぶすまを作って、米友一人と、駄馬一頭とをめがけて襲い来る暴挙。これは甲州街道の雲助でさえもあえてしなかったところの兇暴です。しかし、事ここに至っては、いかにことを好まない米友であるにしてからが、勢い決死的に応戦の覚悟をきめること以外には、正当防衛の手段は無いのです。\n 躍り立った米友は、その応戦の準備をしている途端に、なんだか急に、風向きが変って、予想の当てが外れたようにも受取れる――それは、自分と馬とにばっかり向って来るものと思いきっていた両岸の竹槍の槍ぶすまが、決して引返したというわけではないが、ある地点へ来ると、明らかにその槍先の当てが違っている、向きがそれているということを米友が認めました。\n 当てが違っており、向きがそれているとしてからが、河原を真中にして、川原の両岸の土手から同じように進んで来ることは少しも変化はないのですが、その槍先が――つまり、米友と駄馬との焦点に向ってのみ集中し来るものとばっかり信じていたのが、途中にして、そうでなかったということが明らかにわかったのです。\n ある地点で、米友の的を外してしまったそれからは、中に何も置かず、川と川原だけで、そうして、両岸の竹槍と竹槍とが、対陣の形によって、おのおの両方から取詰めて行っていることを米友が明らかに認めました。\n「なあーんだ」\nと、それを知った瞬間に、米友が思わず力負けがして息を抜いたのは、べつだん事柄を軽んじたわけでもなければ、案外なばかばかしさから、噛んで吐き出したというわけでもない。\n つまり、この火の粉は、自分の身にのみ降りかかるものと信じきって構えていたのが、実はわが身に降りかかるのではない、ということを知って、個人的に一安心したということに止まり、事件そのものの性質の危険性が、それで解消したというわけでは決してないことを認めると共に、一旦「なあーんだ」と言って、ばかばかしそうに力を抜いた米友が、再び別な用心を以て構えを立て直さないわけにはゆかなかったのです。それというのは、被る人が誰であろうとも、火の粉は火の粉です。火の粉が自分の身の上へ落ちて来るのじゃなかった、ということを認めて安心したのはいいが、それが人の身の上なら落ちかかって来てもいい、という理窟にはならないのです。\n 充分の危険性あるものは、危険性あるものとしてなお存在し、それが自分の頭を外れたとは言いながら、他人の頭へなら落ちてもかまわない、という論法にはならないのであります。\n 両岸の竹槍の槍ぶすまは、米友を焦点とすることから明らかにそれ出したけれども、その相手が消滅に帰したというのではなく、手取早く言えば、今度は米友とその馬とを抜きにして、ひたひたと竹槍同士の対抗の形となって、ジリジリ押しをはじめている。\n「なあーんだ、ここでも戦ごっこがはじまってやがる」\nと米友が冷笑しました。道庵先生が関ヶ原で演じた模擬戦を、ここでも誰かが模倣している。\n 面白くもねえ――と米友がさげすみました。本来、米友は、道庵がするような芝居気たっぷりがあまり好きではないのです。紙幟を押立て、模造大御所で納まり返って、あたら金銭と時間をつぶし、いい年をした奴が、戦争ごっこをしてみたところで、何が面白れえ――\n 子供じゃあるめえし――と言って、米友がさげすむのも無理はないのです。道庵先生は、本来ああいうことが好きに出来てるんだ。つまり病なんだ。病では死ぬ者さえあるんだから、どうも、あの先生に限って、仕方がねえと諦めてるんだが、病でもなんでもねえ、いい年をした奴等が、こう大勢寄り集まって、あっちでもこっちでも戦争ごっこをするたあ、呆れ返ったものじゃねえか。\n 稼業を休んでさ――年に一度か二度のお祭なら仕方がねえが、見たところ、これは決してお祭じゃねえんだ。\n ちぇッ――\n 米友は、冷笑しながらそれを見ていると、事の体そのものは全く冗談でもなければ、いたずらでもない、好きでやっているわけでも、病で狂っているわけでもない、まして、お祭騒ぎでなんぞあるべき余裕や賑わいはちっとも見えないのみならず、明らかに殺気そのものが紛々濛々と湧いているのです。\n\n 四\n\n 今や、最初に米友をめざして突き進んで来た両岸の十数名は、それは先陣でありました。\n 先陣は勇者中の勇者のすることです。米友を的としての槍先はこのとき全くそれたが、槍と槍とが川原の真中で出逢ったところですなわち白兵戦が演ぜられるのかと思うとそうでなく、ある地点へ行くと、また急角度に槍先が変って、今度は両方の先陣とも、川をさしはさんで並行線になって、まっしぐらに駈け登って行くところを見ると、そこに水門口があります。\n 一方は井堰。\n ちょうど、山崎の合戦で、羽柴軍と明智軍とが天王山を争うたように、この両箇の先陣が、その水門口をめがけて我先にと競いかかる有様が、米友にハッキリと読めました。\n「ははア――水門だな」\n 今や明らかに両軍争奪の的が、米友及びその馬であることは消滅すると共に、新たなる目的物の存在がわかりました。\n 目的はあの「水門口」の奪い合いだということは、馬鹿でない米友の頭にかっきりとわからないはずはありません。\n「よくあることだ!」\n それは芝居気たっぷりな模擬戦でもなければ、見得や慰みでやるお祭でもない。好きと病で、稼業を休んで、ああしているわけではない。全くの戦争だ、いや、戦争以上の生活の戦いだ。\n 水争いである――よくあることだ、ひでりの年には。\n 水を取ると取らないとは、二つの村の収穫に関係するのである。一年の収穫は、百姓の生活の全部に匹敵するのである。彼等両岸の村々の者が、その収穫のために水を得ようとするのは、その生活のために生命を守ろうとするのと同じことだ。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "多「お前は今年の十五夜から交際っていて、口と心と違った事はねえから正直な人だと思っていたが、お前遊ぶじゃアねいなア」\n久「遊ぶじゃアねえ、お前より此方が遊ばれると思っていたら、本当だった」\n多「本当に藤野屋杢左衞門が一人娘を己に呉れると云えば、藤野屋は横着な奴だなア」\n久「何で横着だ」\n多「己が働きを見抜いて彼奴が嫁によこそうと云うのは、どうも油断がなんねえ、駄目だから断ってくんねえ」\n久「なに断る、多助さんお前勿体ねえ事を云わねえもんだ、彼れを貰えば長持が幾棹、田地が幾許来るか知れねえ、これが本当の天から授かって来た宝じゃアねえか」\n多「駄目だねえ、私ア計り炭屋、先方は御用達で金はあんべいが、幾ら有っても使えばなくなってしまう、己ア稼ぎじゃア夫婦倶稼ぎでなければなんねえに、先方はお嬢様だから飯は炊けねえし、味噌漉を提げて買物にも往かれめえ、己ア家へ来ても女中でも一緒に附いて来て朝寐をして、お引ずりで銀の股引を穿いた箸をチャラ〳〵云わして飯を食って居ちゃア、飯が食えねえ、そうすると幾ら有っても直ぐに金がなくなってしまう、身代の為にならねえ、釣合わぬは不縁の元だからお断り申す、往って断って来てくんねえ」\n久「フウン成程、お飯は炊けねえ、己ア一途に宜いと思って、屹度世話をすると云ったから断るのは間が悪いねえ」\n多「間が悪くっても断ってくんねえ」\n久「あゝ〳〵鼻の先にぶら下っている宝を取らねえのか、残念だなア、仕方がねえ、往って断って来よう」\n と云いながら久八は藤野屋へ参り、\n久「へー参りました」\n杢「今度は表から来たか」\n久「先刻戴いたお菓子は持って参ります」\n杢「炭屋さんに話をしましたか」\n久「へい、話しましたがどうも」\n杢「うっかり返事をしますまいねえ、御用達の娘と炭屋とは釣合わない、釣合わぬは不縁の元ぐらいの事は云いましたろう」\n久「あなた立聞をしましたろう」\n杢「なアに立聞はしませんが、彼の人だから其の位の事は云いましたろう」\n久「其の通り云いましたよ、夫婦倶稼ぎをするのだから、金は使えばなくなる、お嬢様だからお飯は炊けず、味噌漉を提げて買物にも行けねえ、お引摺りでは身上の為めにならねえからお断り申すと云いました」\n杢「成程至極尤もだが、何ういう人の娘なら嫁に貰うだろうね」\n久「計り炭屋でございますから、明樽買いの娘でもあったら貰いましょう」\n杢「お飯を炊くのは習わせなかったが、柔らかい物を着るのは嫌いで、針仕事も覚え、髪も自分で結いますが、飯を炊くことは知りませんが、宜い、久八さんお前さんに娘を遣りましょう、お前さんの家に一年でも半年でも置いて、お飯も炊かせ、徳利を提げて買物に往かれるようにして、多助さんの所へ嫁にやって下さいな」\n久「あの私の娘に、本当でございますか」\n杢「嘘は吐かない」\n久「宜しい、これで多助さんが貰わないと云えば喧嘩をします、忘れないでお菓子を戴いて参ります、左様なら」\n と又帰って、多助に藤野屋の申した事を話しますと、多助は首を傾けて思わずハタと膝を敲きまして、\n多「成程面白い、明樽買へ彼れ程の大家の娘をくれて、計り炭屋の嫁に遣りたいと云うなら貰っても宜しい、お前の娘なら貰おうが、私一存で定める事は出来ない、主人に相談して主人が持ってもいゝと云えば貰おうから、暫く待っておくんなせえ」\n久「そんなら早く往って相談して来るがいゝ」\n とこれから多助が参りますのでございますが、中々冗には歩きません、炭荷を担いで、「計り炭は宜しゅう、計り炭は宜しゅう」と商いをして儲けながらまいります。山口屋の納屋の所へ荷を下しまして店の方から入り、\n多「番頭さん御無沙汰をしました」\n和「いや暫く来ないが何うしたえ、旦那様も案じて入っしゃる、色々風聞も聞いたが大分繁昌だそうで、誠に結構だねえ」\n多「えゝ直ぐに旦那様にお目にかゝり、お話し申してえ事があって参りやした」\n和「そうかい、台所の方へお𢌞り」\n といいますから、多助は草鞋を脱いで上ります。番頭は多助のまいりました事を主人に知らせますと、主人も大きに喜んで、\n善「誠に宜く来た、私も逢いたいと思っていたが、尋ねもしず、一人で嘸忙がしかろうと思って案じていた」\n多「誠に御無沙汰を致しました、切めて一日置きにもお見舞に出てえと思って居りやしたが、見世を出して夜も商いをしやすから、忙しくってつい御無沙汰をしました」\n善「却って無沙汰の方が宜しい、誠に宜く来た、何か用があって、何か話したい事があるそうだが何だえ、おいお前、多助が来ましたよ」\n女房「宜くお出でだねえ、此の間芳に尋ねてやれと云ったけれども、寄りもしず、塩梅でも悪い時には独りものだから、薬を煎じる者もなくって困るだろうと思っていたが、大層繁昌だそうで、蔭ながら喜んでいますよ」\n多「誠にそれもこれも皆旦那様のお蔭で、誠に繁昌して、此の節は粉炭も無くなりましたから、旦那様の炭を買って打毀して売ろうと思って、そうして私もこれから稼いで金を貯めて、国へ帰って家を立てゝいと思って居りやす」\n善「それは誠に結構な事で」\n多「就きまして私嫁を一人貰えと云って、人が世話をしやすが、一人口は食えねえが二人口は食えるという譬えもありやすから、旦那さまがまアだ早いといえば持たずに居やすし、持っても宜いといえば貰おうと思って、旦那様に相談に来やした」\n善「世話をする人があれば貰うがいゝよ、媒介口と云うものは甘い事を云うものだから、能く先方を問糺して貰うが宜しい、再縁でもする女か」\n多「旦那斯ういう訳でございます」\n とこれから明樽買の世話で、親元はこれ〳〵と申して、明樽買の娘にして貰おうという事を話しますと、山口屋善右衞門は案外の話に実に感心しまして、\n善「多助それというのもお前の心掛にある、神仏のお恵みにあるから、これを貰わないと云う訳はない、貰え〳〵〳〵」\n多「はい〳〵〳〵」\n女房「誠に思掛けない話じゃないか、其の親が遣ろうというのも感心だが、娘がお前にサ、お前だって男は悪くはないが、担ぎ商いをするのを見抜いて来たいという其の子も感心ではありませんか、ねえ旦那」\n善「誠に結構だ、己が媒妁をしましょう」\n多「それはいけません、藤野屋から来るなら山口屋の旦那様の媒妁が宜しいが、明樽買の岩田屋久八の娘にするのだから、山口屋の旦那じゃアいけません、少し過ぎますが、番頭さんが家を持って、夫婦一対揃って居るというから、和平さんにお頼み申しましょう」\n善「宜しい、そんなら和平に言い附けるが、婚礼は何日だえ」\n多「先方は何というか知んねえが、十二月の十五日と定めました」\n善「それは何う云う訳で」\n多「日は吉いか悪いか知らねえが、私が国を出たのが八月十五日で、店を出したのも十五日だから、大切の日を忘れねえ為め十五日にしましょう」\n善「左様さ、三日だから至極宜しかろう、それだが隣から直ぐ来るのは変だろうから、何処へか𢌞って来るかえ」\n多「なアに直ぐに来やす」\n善「何処か高張でも出す所があるだろう」\n多「婚礼は何うか昼の午の刻に願えてい」\n善「それは可笑しい、お大名の婚礼なら午の刻だが、計り炭屋の婚礼に昼は可笑しい、夜がいゝよ、夜がいゝよ」\n多「どうかそれだけは昼にして下せえ、夜は出来ねえ」\n善「何故夜は出来ない」\n多「それでも夜すると商いが出来ねえ」\n善「商売は一日ぐらい休んでも宜いじゃアないか」\n多「それは私ア構わねえが、方々の内儀さん達が待って居るから、朝は商売に出なければなんねえ、又夜は家で商いをするから、遠くから内儀さんが前掛の下へ味噌漉を入れて買いに来るのに、今日は家が婚礼だからと云って断ると冗足をするべいじゃねえ、炭がなければ此の寒いのに木片を焚いてブウ〳〵云ってあたるくらいで、大勢の人に寒い思いをさせなければなんねえから、朝商いをして夜商いをして、それから寐せえすればよかんべい」"
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"role": "assistant",
"content": "善「そりゃア寝るのは宜いが、成程人の難儀になるのだから其の方が宜かろう、それじゃア上下を着るかね」\n多「どうして〳〵」\n善「先方が藤野屋杢左衞門だから婿も上下ぐらいは着なくっちゃアなるまい」\n多「なアに私ア此の筒袖で宜うがんす」\n善「どうか身の出世だから袴羽織でやって呉れ」\n とこれから和平を呼んで話しますと、和平も大きに悦んで承知しました。\n多「旦那様どうか一寸着物と羽織を貸しておくんなせえ」\n善「何処へ往くんだ」\n多「これから往って来る処があるから」\n善「どんな着物がいゝな」\n多「なアに一寸したので宜うがんす」\n善「これ忰のを貸してやれ、結城紬のが宜しい」\n とこれから着まして、多助が戸田様のお屋敷へ参り、実父鹽原角右衞門に会い、婚礼の事を相談を致しますというお話でございますが、一寸一息つきまして申上げましょう。\n\n十八\n\n 多助は主人山口屋善右衞門から着物と羽織を借り、これを着まして戸田様の屋敷にいる実父鹽原角右衞門の所へ往きましたが、丁度十ヶ年ぶりでございます、尤も五年前危難の節実父には逢いましたが、匇卒に別れましたゆえ、今日は染々物語をしようと思いまして屋敷へまいり、\n多「お頼み申します、お頼み申します」\n男「どーれ」\n多「手前は山口屋善右衞門の手代多助と申します、旦那様へお目通りを願いやす」\n男「左様か、少々控えて居れ......えゝ山口屋善右衞門方の手代多助と申すものがまいりまして、旦那様へお目通りを致したいと申します」\n角「なに多助がまいったと、如何いう形でまいった、また筒袖を着てまいったか」\n男「いゝえ羽織を着て参りました」\n清「私もあれぎり逢いませんから、どうか貴方お義理堅いのも程がありますからお逢い下さいまし」\n角「多助をこれへ通せ」\n男「はい」\n と云いながら玄関へまいり、\n男「此方へ通らっしゃい」\n多「はい」\n と云って座敷へ通りましたが、母の顔は十年ぶり、父の顔も五年前に見たが真の闇で見たのですから能く分りません。多助は実に懐かしく胸が塞がって、\n多「御機嫌宜しゅう」\n と云うなりにピッタリ畳へ頭を摺付けて居ります。\n角「誠に久しく逢いません、人の噂に山口屋善右衞門方の奉公を勤め上げて、何か本所辺へ店を出して、大分繁昌の様子も聞いて居ったが、何か用事があって参ったとか、用向を申せ、互に無事でいてめでたい」\n多「私もお目に懸りてえと思って居ても、奉公の中は只お屋敷で御両親様のお達者で入っしゃると云う事を蔭ながら聞きますばかり、私も望みが叶いまして山口屋を首尾好く十一年勤め上げ、相生町へ店を出し繁昌して忙がしいので間合もなく、夫故お屋敷へも出ませんでしたが、今日は御機嫌伺いながらまいりまして」\n清「誠に旦那様もお年をとるし、最う尋ねて来そうなものだと思っていても、旦那様はお義理がお堅いから沼田の養父に済まんと仰しゃって、お逢いなさらなかったが、今日は立派になって来て誠に嬉しい事で」\n多「私も嬉しゅうござえます、就きまして国へ帰ろうと思って居りましたが、山口屋に預けた金が三百両ばかりで、国に帰って家を立てべいとは存じましたが、江戸で稼いでもう七八百両貯めてから帰るべいと思いやして、店出しをしやした所が、有難え事に繁昌します、私もまだ三十一だから今十年も稼げば国の家も大く立てられ、親類の家も立てべいと思って居りやした所が、女房を世話をする人があって、主人も得心でごぜえますが、持っても宜しいか宜しくねえか伺えに参りやした」\n角「誠に手前が堅くして居る所からそう云う訳になるので、誠に恐悦の事だ、何ういう者の娘じゃ、山口屋善右衞門が得心で持たせるという女房なら宜しい、それは結構だ」\n清「最うこんなに立派に成って来ましても、矢張少さい心持で居りますが、女房を持つようになって誠に結構だねえ、先方は何う云うもので、女房の身分は」\n多「身分はこれ〳〵」\n と前申上げました藤野屋の事から、明樽買の娘にして貰う事を細かに申すを聞いて、角右衞門は学問のある人だけに暫く考えて、\n角「多助、誠に得難い幸いだ、貰え〳〵、向うも藤野屋杢左衞門の娘、仮令樽屋からよこしても、婚礼の時は世間へ対して振袖ぐらいは着せてよこすだろうな」\n清「そりゃア貴方仮令炭屋でも婚礼の席は立派にしなければなりませんから、嫁も地赤に縫い模様の振袖に白の掛位は着なければなりません、多助も世が世なら上下ぐらいは附けなければなりませんが、運悪くあゝ云う事になったから、どうか貴方御紋付を遣って下さいまし」\n角「そうサ、上下も入るなら遣るから持って往くがいゝ」\n多「主人から紋付の着物と羽織と袴を祝ってくれましたからいりません」\n角「何を出せ、袴と盛景を出せ」\n と備前盛景の一刀を出させまして、\n角「これは手前の身の固めの祝いとしてやる、又此の五十金も遣わす」\n多「誠に有難い事で、お身に附きました物を戴きますのは誠に有難うございますが、お腰の物は炭屋には入りませんから頂戴致しません」\n角「左様で無い、町人でも脇差の一腰ぐらいはなければならんものだ、これは祖父様からのお譲りものだから取って置け」\n多「へい、それでは戴きやすが、此の五十両は戴きません」\n角「だが、宜く考えて見ろ、沼田の鹽原角右衞門殿は同姓の交誼で手前を藁の上から取上げて育てゝ八歳に成って返す時、礼として五十金を贈られ、拙者は其の五十金を持って身姿を整え、江戸へ出て只今斯うやって三百五十石頂戴致すようになったのは、角右衞門殿の恩義、其の時申し受けた金を只今返金に及ぶのだから、此の金を以て沼田の家を立てる足しにすれば、己の気も済むから、これは強って受取れ」\n多「御尤もでございますから、此の金を以て養父の法事をいたし、余りで馬でも買いますようにしましょう」\n角「婚礼は幾日だな」\n多「えゝ来月十五日でございます」\n角「夕景から行って模様を見たいな」\n多「婚礼は正午の刻に極めました」\n角「はてね、何ういう訳で」\n多「これには深い訳があります」\n角「左様か、立派にやれ、立派にやれ」\n清「あゝ是は揷古した櫛笄、昔物ゆえ気には入るまいけれど、嫁御へ私が心ばかりの祝物、常に此の櫛と笄をさして舅姑が側に居ると心得、油断なく家を思い、夫を大切に致すよう私が申したと云って遣わしておくれ」\n多「ハヽ有難く戴きます、左様なら御機嫌宜しゅう」\n と暇乞いをしますと、両親が玄関まで送って来まして、嬉し涙をこぼしますを見て、\n多「左様なら時節があれば又お目に懸ります」\n と云いつゝ別れを告げ帰って来まして、早速久八を以て藤野屋へ挨拶を致しますと、藤野屋のお嬢様はこれから十五日まで樽屋久八の家で御飯炊の稽古を致して居ましたが、扨て十二月十五日となりますと、女親は妙なもので、たとえ樽屋へ遣っても嫁に往く時の品とて拵えて置いた縫模様の振袖は多助に話をして、当日だけは着せて遣りたいと云う。多助は袴羽織でお花は縫模様の振袖と大和錦の帯を締め、髪は文金の高髷にふさ〳〵と結いまして、少し白粉も濃く粧けまして、和平夫婦が三々九度の盃を手に取上げる折から、表の方から半合羽を著て、今河岸の船から上って来たという様子で這入ってまいりましたのは、炭の荷主で、飛駒村の吉田八右衞門でございます。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": "『これが私の妻春枝。』と私に紹介せ、更に夫人に向つて、私と彼とが昔おなじ學びの友であつた事、私が今回の旅行の次第、また之から日本まで夫人等と航海を共にするやうになつた不思議の縁を言葉短に語ると、夫人は『おや。』と言つたまゝいと懷かし氣に進み寄る。年の頃廿六七、眉の麗はしい口元の優しい丁度天女の樣な美人、私は一目見て、此夫人は其容姿の如く、心も美はしく、世にも高貴き婦人と思つた。\n一通りの挨拶終つて後、夫人は愛兒を麾くと、招かれて臆する色もなく私の膝許近く進み寄つた少年、年齡は八歳、名は日出雄と呼ぶ由、清楚とした水兵風の洋服姿で、髮の房々とした、色のくつきりと白い、口元は父君の凛々しきに似、眼元は母君の清しきを其儘に、見るから可憐の少年。私は端なくも、昨夜ローマ府からの滊車の中で讀んだ『小公子』といふ小説中の、あの愛らしい〳〵小主人公を聯想した。\n日出雄少年は海外萬里の地に生れて、父母の外には本國人を見る事も稀なる事とて、幼き心にも懷かしとか、憘しとか思つたのであらう、其清しい眼で、しげ〳〵と私の顏を見上げて居つたが\n『おや、叔父さんは日本人!。』と言つた。\n『私は日本人ですよ、日出雄さんと同じお國の人ですよ。』と私は抱き寄せて\n『日出雄さんは日本人が好きなの、日本のお國を愛しますか。』と問ふと少年は元氣よく\n『あ、私は日本が大好きなんですよ、日本へ皈りたくつてなりませんの、でねえ、毎日〳〵日の丸の旗を立てゝ、街で戰爭事をしますの、爾してねえ、日の丸の旗は強いのですよ、何時でも勝つてばつかり居ますの。』\n『おゝ、左樣でせうとも〳〵。』と私は餘りの可愛さに少年を頭上高く差し上げて、大日本帝國萬歳と※(口+斗)ぶと、少年も私の頭の上で萬歳々々と小躍をする。濱島は浩然大笑した、春枝夫人は眼を細うして\n『あら、日出雄は、ま、どんなに憘しいんでせう。』と言つて、紅のハンカチーフに笑顏を蔽ふた。\n\n 第二回 魔の日魔の刻\n\n送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港\n\n それから談話にはまた一段の花が咲いて、日永の五月の空もいつか夕陽が斜に射すやうにあつたので、私は一先づ暇乞せんと折を見て『いづれ今夜弦月丸にて――。』と立ちかけると、濱島は周章て押止め\n『ま、ま、お待ちなさい、お待ちなさい、今から旅亭へ皈つたとて何になります。久ぶりの面會なるを今日は足る程語つて今夜の御出發も是非に私の家より。』と夫人とも〴〵切に勸めるので、元來無遠慮勝の私は、然らば御意の儘にと、旅亭の手荷物は當家の馬丁を取りに使はし、此處から三人打揃つて出發する事になつた。\nいろ〳〵の厚き待遇を受けた後、夜の八時頃になると、當家の番頭手代をはじめ下婢下僕に至るまで、一同が集つて送別の催をする相で、私も招かれて其席へ連なつた。春枝夫人は世にすぐれて慈愛に富める人、日出雄少年は彼等の間に此上なく愛重せられて居つたので、誰とて袂別を惜まぬものはない、然し主人の濱島は東洋の豪傑風で、泣く事などは大厭の性質であるから一同は其心を酌んで、表面に涙を流す者などは一人も無かつた。イヤ、茲に只一人特別に私の眼に止つた者があつた。それは席の末座に列つて居つた一個の年老たる伊太利の婦人で、此女は日出雄少年の保姆にと、久しき以前に、遠き田舍から雇入れた女の相で、背の低い、白髮の、極く正直相な老女であるが、前の程より愁然と頭を埀れて、丁度死出の旅路に行く人を送るかの如く、頻りに涙を流して居る。\n私は何故ともなく異樣に感じた。\n『オヤ、亞尼がまた詰らぬ事を考へて泣いて居りますよ。』と、春枝夫人は良人の顏を眺めた。\n頓て、此集會も終ると、十時間近で、いよ〳〵弦月丸へ乘船の時刻とはなつたので、濱島の一家族と、私とは同じ馬車で、多の人に見送られながら波止塲に來り、其邊の或茶亭に休憇した、此處で彼等の間には、それ〳〵袂別の言もあらうと思つたので、私は氣轉よく一人離れて波打際へと歩み出した。\n此時にふと心付くと、何者か私の後にこそ〳〵と尾行して來る樣子、オヤ變だと振返る、途端に其影は轉ぶが如く私の足許へ走り寄つた。見ると、こは先刻送別の席で、只一人で泣いて居つた亞尼と呼べる老女であつた。\n『おや、お前は。』と私は歩行を止めると、老女は今も猶ほ泣きながら\n『賓人よ、お願ひで厶ります。』と兩手を合せて私を仰ぎ見た。\n『お前は亞尼とか云つたねえ、何の用かね。』と私は靜かに問ふた。老女は虫のやうな聲で『賓人よ。』と暫時私の顏を眺めて居つたが\n『あの、妾の奧樣と日出雄樣とは今夜の弦月丸で、貴方と御同道に日本へ御出發になる相ですが、それを御延べになる事は出來ますまいか。』と恐る〳〵口を開いたのである。ハテ、妙な事を言ふ女だと私は眉を顰めたが、よく見ると、老女は、何事にか痛く心を惱まして居る樣子なので、私は逆らはない\n『左樣さねえ、もう延ばす事は出來まいよ。』と輕く言つて\n『然し、お前は何故其樣に嘆くのかね。』と言葉やさしく問ひかけると、此一言に老女は少しく顏を擡げ\n『實に賓人よ、私はこれ程悲しい事はありません。はじめて奧樣や日出雄樣が、日本へお皈りになると承つた時は本當に魂消えましたよ、然しそれは致方もありませんが、其後よく承ると、御出帆の時日は時もあらうに、今夜の十一時半......。』といひかけて唇をふるはし\n『あの、あの、今夜十一時半に御出帆になつては――。』\n『何、今夜の滊船で出發すると如何したのだ。』と私は眼を睜つた。亞尼は胸の鏡に手を當てゝ\n『私は神樣に誓つて申しますよ、貴方はまだ御存じはありますまいが、大變な事があります。此事は旦那樣にも奧樣にも毎度か申上げて、何卒今夜の御出帆丈けは御見合せ下さいと御願ひ申したのですが、御兩方共たゞ笑つて「亞尼や其樣に心配するには及ばないよ。」と仰せあるばかり、少しも御聽許にはならないのです。けれど賓人よ、私はよく存じて居ります、今夜の弦月丸とかで御出發になつては、奧樣も、日出雄樣も、决して御無事では濟みませんよ。』\n『無事で濟まんとは――。』と私は思はず釣込まれた。\n『はい、决して御無事には濟みません。』と、亞尼は眞面目になつた、私の顏を頼母し氣に見上げて"
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"content": "『私は貴方を信じますよ、貴方は决してお笑ひになりますまいねえ。』と前置をして斯う言つた。\n『ウルピノ山の聖人の仰つた樣に、昔から色々の口碑のある中で、船旅程時日を選ばねばならぬものはありません、凶日に旅立つた人は屹度災難に出逢ひますよ。これは本當です、現に私の一人の悴も、七八年以前の事、私が切に止めるのも聽かで、十月の祟の日に家出をしたばかりに、終に世に恐ろしい海蛇に捕られてしまいました。私にはよく分つて居ますよ。奧樣とて日出雄樣とて今夜御出帆になつたら决して御無事では濟みません、はい、其理由は、今日は五月の十六日で魔の日でせう、爾して、今夜の十一時半といふは、何んと恐ろしいでは御座いませんか、魔の刻限ですもの。』\n私は聽きながらプツと吹き出す處であつた。けれど老女は少しも構はず\n『賓人よ、笑ひ事ではありませぬ、魔の日魔の刻といふのは、一年中でも一番に不吉な時なのです、他の日の澤山あるのに、此日、此刻限に御出帆になるといふのは何んの因果でせう、私は考へると居ても立つても居られませぬ。其上、私は懇意の船乘さんに聞いて見ますと、今度の航海には、弦月丸に澤山の黄金と眞珠とが積入れてあります相な、黄金と眞珠とが波の荒い海上で集ると、屹度恐ろしい祟を致します。あゝ、不吉の上にも不吉。賓人よ、私の心の千分の一でもお察しになつたら、どうか奧樣と日出雄樣を助けると思つて、今夜の御出帆をお延べ下さい。』と拜まぬばかりに手を合せた。聽いて見るとイヤハヤ無※((禾+尤)/上/日)な話! 西洋でもいろ〳〵と縁起を語る人はあるが、此老女のやうなのはまア珍らしからう。私は大笑ひに笑つてやらうと考へたが、待てよ、たとへ迷信でも、其主人の身の上を慮ふこと斯くまで深く、かくも眞面目で居る者を、無下に嘲笑すでもあるまいと氣付いたので、込み上げて來る可笑さを無理に怺えて\n『亞尼!。』と一聲呼びかけた。\n『亞尼! お前の言ふ事はよく分つたよ、其忠實なる心をば御主人樣も奧樣もどんなにかお悦びだらう、けれど――。』と彼女の顏を眺め\n『けれどお前の言ふ事は、みんな昔の話で、今では魔の日も祟の日も無くなつたよ。』\n『あゝ、貴方も矢張お笑ひなさるのですか。』と亞尼はいと情なき顏に眼を閉ぢた。\n『いや、决して笑ふのではないが、其事は心配するには及ばぬよ、奧樣も日出雄少年も、私が生命にかけて保護して上げる。』と言つたが、亞尼は殆んど絶望極りなき顏で\n『あゝ、もう無益だよ〳〵。』とすゝり泣きしながら、むつくと立上り\n『神樣、佛樣、奧樣と日出雄樣の御身をお助け下さい。』と叫んだ儘、狂氣の如くに走り去つた。\n丁度此時、休憩所では乘船の仕度も整つたと見へ、濱島の頻りに私を呼ぶ聲が聽えた。\n\n 第三回 怪の船\n\n銅鑼の響――ビール樽の船長――白色の檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸\n\n 春枝夫人と、日出雄少年と、私とが、多の身送人に袂別を告げて、波止塲から凖備の小蒸滊船で、遙かの沖合に停泊して居る弦月丸に乘組んだのは其夜十時※(「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」)ぎ三十分。濱島武文と、他に三人の人は本船まで見送つて來た。\n此弦月丸といふのは、伊太利の東方滊船會社の持船で、噸數六千四百。二本の煙筒に四本檣の頗る巨大な船である、此度支那及び日本の各港へ向つての航海には、夥しき鐵材と、黄金眞珠等少なからざる貴重品を搭載して居る相で、其船脚も餘程深く沈んで見えた。\n弦月丸の舷梯へ達すると、私共の乘船の事は既に乘客名簿で分つて居つたので、船丁は走つて來て、急はしく荷物を運ぶやら、接待員は恭しく帽を脱して、甲板に混雜せる夥多の人を押分るやらして、吾等は導かれて船の中部に近き一等船室に入つた。どの滊船でも左樣だが、同じ等級の船室の中でも、中部の船室は最も多く人の望む所である。何故かと言へば航海中船の動搖を感ずる事が比較的に少ない爲で、此室を占領する爲には虎鬚の獨逸人や、羅馬風の鼻の高い佛蘭西人等に隨分競爭者が澤山あつたが、幸にもネープルス市中で「富貴なる日本人。」と盛名隆々たる濱島武文の特別なる盡力があつたので、吾等は遂に此最上の船室を占領する事になつた。加ふるに春枝夫人、日出雄少年の部室と私の部室とは直ぐ隣合つて居つたので萬事に就いて都合が宜からうと思はるゝ。\n私は元來膝栗毛的の旅行であるから、何も面倒はない、手提革包一個を船室の中へ投込んだまゝ直ぐ春枝夫人等の船室へ訪づれた。此時夫人は少年を膝に上せて、其良君や他の三人を相手に談話をして居つたが、私の姿を見るより\n『おや、もうお片附になりましたの。』といつて嬋娟たる姿は急ぎ立ち迎へた。\n『なあに、柳川君には片附けるやうな荷物もないのさ。』と濱島は聲高く笑つて『さあ。』とすゝめた倚子によつて、私も此仲間入。最早袂別の時刻も迫つて來たので、いろ〳〵の談話はそれからそれと盡くる間も無かつたが、兎角する程に、ガラン、ガラ、ガラン、ガラ、と船中に布れ廻る銅鑼の響が囂しく聽えた。\n『あら、あら、あの音は――。』と日出雄少年は眼をまん丸にして母君の優しき顏を仰ぐと、春枝夫人は默然として、其良君を見る。濱島武文は靜かに立上つて\n『もう、袂別の時刻になつたよ。』と他の三人を顧見た。\nすべて、海上の規則では、船の出港の十分乃至十五分前に、船中を布れ廻る銅鑼の響の聽ゆると共に本船を立去らねばならぬのである。で、濱島は此時最早此船を去らんとて私の手を握りて袂別の言葉厚く、夫人にも二言三言云つた後、その愛兒をば右手に抱き寄せて、其房々とした頭髮を撫でながら\n『日出雄や、汝と父とは、之から長時の間別れるのだが、汝は兼々父の言ふやうに、世に俊れた人となつて――有爲な海軍士官となつて、日本帝國の干城となる志を忘れてはなりませんよ。』と言ひ終つて、少年が默つて點頭くのを笑まし氣に打ち見やりつゝ、他の三人を促して船室を出た。\n先刻は見送られた吾等は今は彼等を此船より送り出さんと、私は右手に少年を導き、流石に悄然たる春枝夫人を扶けて甲板に出ると、今宵は陰暦十三夜、深碧の空には一片の雲もなく、月は浩々と冴え渡りて、加ふるに遙かの沖に停泊して居る三四艘の某國軍艦からは、始終探海電燈をもつて海面を照して居るので、其明なる事は白晝を欺くばかりで、波のまに〳〵浮沈んで居る浮標の形さへいと明に見える程だ。\n濱島は船の舷梯まで到つた時、今一度此方を振返つて、夫人とその愛兒との顏を打眺めたが、何か心にかゝる事のあるが如く私に瞳を轉じて\n『柳川君、然らば之にてお別れ申すが、春枝と日出雄の事は何分にも――。』と彼は日頃の豪壯なる性質には似合はぬ迄、氣遣はし氣に、恰も何者か空中に力強き腕のありて、彼を此塲に捕へ居るが如くいとゞ立去り兼ねて見へた。之が俗に謂ふ虫の知らせとでもいふものであらうかと、後に思ひ當つたが、此時はたゞ離別の情さこそと思ひ遣るばかりで、私は打點頭き『濱島君よ、心豐かにいよ〳〵榮え玉へ、君が夫人と愛兒の御身は、此柳川の生命にかけても守護しまいらすべし。』と答へると彼は莞爾と打笑み、こも〴〵三人と握手して、其儘舷梯を降り、先刻から待受けて居つた小蒸滊船に身を移すと、小蒸滊船は忽ち波を蹴立てゝ、波止塲の方へと歸つて行く、其仇浪の立騷ぐ邊海鳥二三羽夢に鳴いて、うたゝ旅客の膓を斷つばかり、日出雄少年は無邪氣である\n『あら、父君は單獨で何處へいらつしやつたの、もうお皈りにはならないのですか。』と母君の纎手に依りすがると春枝夫人は凛々しとはいひ、女心のそゞろに哀を催して、愁然と見送る良人の行方、月は白晝のやうに明だが、小蒸滊船の形は次第々々に朧になつて、殘る煙のみぞ長き名殘を留めた。\n『夫人、すこし、甲板の上でも逍遙して見ませうか。』と私は二人を誘つた。かく氣の沈んで居る時には、賑はしき光景にても眺めなば、幾分か心を慰むる因ともならんと考へたので、私は兩人を引連れて、此時一番に賑はしく見えた船首の方へ歩を移した。\n最早、出港の時刻も迫つて居る事とて、此邊は仲々の混雜であつた。輕き服裝せる船丁等は宙になつて驅けめぐり、逞ましき骨格せる夥多の船員等は自己が持塲〳〵に列を作りて、後部の舷梯は既に引揚げられたり。今しも船首甲板に於ける一等運轉手の指揮の下に、はや一團の水夫等は捲揚機の周圍に走せ集つて、次の一令と共に錨鎖を卷揚げん身構。船橋の上にはビール樽のやうに肥滿した船長が、赤き頬髯を捻りつゝ傲然と四方を睥睨して居る。私は三々五々群をなして、其處此處に立つて居る、顏色の際立つて白い白耳義人や、「コスメチツク」で鼻髯を劍のやうに塗り固めた佛蘭西の若紳士や、あまりに酒を飮んで酒のために鼻の赤くなつた獨逸の陸軍士官や、其他美人の標本ともいふ可き伊太利の女俳優や、色の無暗に黒い印度邊の大富豪の船客等の間に立交つて、此目醒ましき光景を見廻しつゝ、春枝夫人とくさ〴〵の物語をして居つたが、此時不意にだ、實に不意に私の背部で、『や、や、や、しまつたゾ。』と一度に※(口+斗)ぶ水夫の聲、同時に物あり、甲板に落ちて微塵に碎けた物音のしたので、私は急ぎ振返つて見ると、其處では今しも、二三の水夫が滑車をもつて前檣高く掲げんとした一個の白色燈――それは船が航海中、安全進航の表章となるべき球形の檣燈が、何かの機會で糸の縁を離れて、檣上二十呎ばかりの所から流星の如く落下して、あはやと言ふ間に船長が立てる船橋に衝つて、燈は微塵に碎け、燈光はパツと消える、船長驚いて身を躱す拍子に足踏滑らして、船橋の階段を二三段眞逆に落ちた。水夫共は『あツ』とばかり顏の色を變た。船長は周章てゝ起上つたが、怒氣滿面、けれど自己が醜態に怒る事も出來ず、ビール樽のやうな腹に手を當てゝ、物凄い眼に水夫共を睨み付けると、此時私の傍には鬚の長い、頭の禿た、如何にも古風らしい一個の英國人が立つて居つたが、此活劇を見るより、ぶるぶると身慄して"
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"content": " これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ〳〵牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反の廉を以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙漫歩を楽しみ得るの日の来らんことを鶴首している次第である。\n\n商店繁昌記\n\n どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗とか大商店とかいうものが殆どないようだ。何れも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)\n 酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらは併し普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場に充てている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。\n 菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店、塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂、機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ〴〵負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石に早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。\n その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。尤もどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。\n ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具師的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、外では知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。\n\nカッフエ其他\n\n カッフエ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それ〴〵のちがった特長を有し、それ〴〵のちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいいとか悪いとかいうようなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフエといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。\n 田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態々食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはここで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる常連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物がたべられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。\n 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフエを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないいカッフエが出来、それで益々土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフエ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小じんまりとしているに反して、やや散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。\n この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。"
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"role": "assistant",
"content": " 震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部として文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木清方さんなどは今でも贔屓にしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾が室内屋台の上に吊るされている。\n\n花街神楽坂\n\n 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ〳〵と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。\n この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、併し惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分著るしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤、末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の噂をそのまま記すだけに止めよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)の江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。\n 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔の快い気持で、ぶら〳〵と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りも疎らになり、両側の夜店もそろ〳〵しまいかけていた折柄車止の提灯が引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前に額ずいているのも見られた。新内の流しが此方の横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使いの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ〳〵いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフエからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら〳〵した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。\n\n追憶\n\n 私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染だが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。\n 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。\n その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ〳〵した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手にお閻魔様があり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう〳〵とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。\n 私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しい傷しい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。\n 私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋の都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。\n その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀、土肥、水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会の基を作った由緒づきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": " 叔父のところへ知らせてやれば、おそらく身許は判るだろうと思うのですけれど、うっかりしたことを言っていいか悪いか判りませんから、わたくしは急いで家へ帰って来て、母にその話をしますと、母も顔をしかめて考えていましたが、そんなことに係り合うと面倒だから、決してなんにも言ってはならないと戒めました。それでもなんだか気にかかるとみえて、母はまた考えながら起ちあがりました。\n「おまえ、見違いじゃあるまいね。確かにきのうの女だろうね。」\n「ええ、確かにきのうの人でした。」と、わたくしは受合うように言いました。\n「それじゃ会津屋へ行って、叔父さんにそっと耳打ちをして来ようかねえ。」\n 母は思いきって出て行きました。そのうちに日も暮れてしまって、例の蚊いぶしの時刻になりましたが、わたくしは今夜もぼんやりして、ただ坐ったままでその女のことばかりを考えていました。\n 雷に撃たれて死んだのですから、別に叔父の迷惑になるようなこともあるまいとは思うのですが、ともかくも叔父の識っている人が変死を遂げたということだけでも、決していい心持はいたしません。その女は夕立の最中になんでこの横町へ来たのだろう。もしやわたしの家へたずねて来る途中ではなかったか。そうすると、わたくしの家の者も自身番へ呼出されて、なにかのお調べを受けはしまいかなどと、それからそれへといろいろのことを考えて、いよいよ忌な心持になっているところへ、母があわただしく帰って来ました。\n「まあちゃん。」\n わたくしを呼ぶ声がふだんと変っているので、なんだかぎょっとして振返ると、母は息をはずませながら小声で言い聞かせました。\n「会津屋のさあちゃんが何処へか行ってしまったとさ。」\n「あら、さあちゃんが......。どうして......。」\n わたしもびっくりしました。\n\n 三\n\n 母の話はこういうのでございます。\n 会津屋の姉お定は、きょうのお午ごろに妹と一緒にお稽古から帰って、お午の御飯をたべてしまって、それから近所の糸屋へ糸を買いに行くといって出たままで帰って来ない。家でも不審に思って、糸屋へ聞合せにやると、お定はけさから一度も買い物に来ないという。いよいよ不思議に思って、妹のお由のお友達のところを二、三軒たずねて歩いたのですが、お定はやはりどこへも姿を見せないというのです。\n 叔父は例の通りに、朝から家を出たぎりですから、叔母ひとりが頻りに心配しているうちに、夕立が降ってくる、雷が鳴るというわけで、母も妹も不安がますます大きくなるばかり。そのうちに夕立もやんだので、夕の御飯を食べてから、叔母はその相談ながらわたくしの家へ来るつもりであったそうでございます。そこへこちらから尋ねて行ったので、まあ丁度よいところへといったようなわけで、叔母は母にむかって早速にその話を始めたのです。こちらから話そうと思って出かけたところを、あべこべに向うから話しかけられて、母も少し面喰らったそうでございます。\n お定の家出にも驚かされましたが、こちらも話すだけのことは話さなければなりませんので、母もかの女のことを話し出しますと、叔母も不思議そうな顔をして聴いていました。そんな女については一向に心あたりがないと言ったそうで......。なにしろこの頃の叔父のことですから、どこにどういう知人が出来ているのか、叔母にも見当が付かないらしいのでございます。\n 一方には会津屋のむすめが家出をする、一方には叔父に係り合いのあるらしい女が雷に撃たれている。この二つの事件がまるで別々であるのか、それともその間に何かの縁をひいているのか、それも一切わからないので、叔母も母もなんだか夢のような心持で、ただ溜息をついているばかりでしたが、一方の女のことはともかくも、娘の家出――多分そうだろうと思われるのですが、この方はそのままにして置くことは出来ませんから、店の者にも言い付けて、それぞれに手分けをして心あたりを探させることにしたというのでございます。\n 半日ぐらい帰らないからといって、こんなに騒ぐのもおかしいと思召すかも知れませんが、その頃の堅気の家のむすめは誰にも断りなしに遠いところへ行くことはありません。たとい近所へ行くにしても必ず断って出る筈ですから、小半日もその行くえが知れないとなれば、ひと騒ぎでございます。ましてことし十八という年頃の娘ですから尚更のことで、誰かと駈落ちでもしたか、誰かにかどわかされたか、なにしろ唯事ではあるまいと思うのが普通の人情でございます。叔母が心配するのも無理はありません。\n いつまで叔母と向い合って、溜息をついていても果てしがないので、母はまた来るからといって一旦帰って来たのでございます。その話をしてしまって、母はわたくしに訊きました。\n「さあちゃんは何処かの若い人と仲よくしていたかしら。おまえ、知らないかえ。」\n「そんなことは......。あたし知りませんわ。」\n「ほんとうに知らないかえ。」\n 幾たび念を押されても、わたくしは全く知らないのでございます。お定がよその若い男と心安くしているなどというのは、今まで一度も見たこともなし、そんな噂を聞いたこともありません。さっきの夕立の最中に、お定はどこにどうしていたのでしょう。それを思うと、わたくしはまたむやみに悲しくなりました。\n 母はまたこんなことをささやきました。\n「今、帰る途中で聞いたらば、さっきの死骸は自身番へ運んで行ったが、まだ御検視が済まないそうだよ。」\n「どこの人でしょうねえ。」\n「それは判らないけれども......。おまえ、決してうっかりした事を言っちゃあいけないよ。誰に訊かれても黙っているんだよ。叔父さんと一緒に歩いていたなんぞと言っちゃあいけないよ。」と、母は繰返して口留めをしました。\n うっかりしたことを言って、それが飛んでもない係り合いになって、町奉行所の白洲へたびたび呼出されるようなことがあっては大変ですから、母は堅く口留めをするのでございます。幾度もおなじことを申すようですが、まったくその時のわたくしは怖いような、悲しいような、なんともいえない心持でございました。\n 五つ(午後八時)過ぎになって、母は再び会津屋へ出て行きましたが、お定の行くえはやはり知れません。叔父も帰って来ないのでございます。といって、わたくし共がどうすることも出来ないのですから、母もわたくしも心配しながらその晩は遅く寝床にはいりました。夕立のあとは余ほど涼しくなったのでございますが、二人ながらおちおち眠られませんでした。\n 寝苦しい一夜を明かすと、あしたは晴れていて朝から暑くなりました。雷に撃たれた銀杏の木は、大きい枝を半分折られたのですが、その幹には蝉が飛んで来て、ゆうべの事なんぞはなんにも知らないように朝からそうぞうしく鳴いていました。裏の井戸へ水を汲みに出ると、近所の娘やおかみさんが二、三人あつまって、ゆうべの女の噂で賑わっていました。そのなかで仕事師のおかみさんが、その後の成行きを一番よく知っていて、みんなに話して聞かせました。\n「あの女はよい辰という遊び人の娘で、去年まで新宿の芸妓をしていたんですとさ。それが近江屋という質屋の旦那の世話になって、今では商売をやめて家にぶらぶらしていたんだそうです。お父さんは遊び人で、土地でも相当に顔が売れていた男なんですが、五、六年前からよいよいになってしまって、この頃では草履をはいて、杖をついて、ようよう近所を歩くくらいのことしか出来なくなったので、世間ではよい辰といっているんです。それでも娘がいい旦那をつかまえているので、まあ楽隠居のような訳だったのですが、その金箱が不意にこんなことになってしまっては、お父さんもさぞ力を落しているでしょうよ。若い時からずいぶん人を泣かせているから、年を取ってこうなるのは当り前だなんぞと言う人もありますけれど、なにしろ自分はよいよいになって、稼ぎ人のむすめに死なれたのですから、まったく気の毒ですよ。むすめの名ですか。娘はお春といって、芸妓に出ているときは小春といっていたそうです。小春が治兵衛と心中しないで、青大将を冥途の道連れじゃあ、あんまり可哀そうじゃありませんか。」\n おかみさんは他人事だと思って、笑いながら話していましたが、わたくしはその一言一句を聞きはずすまいと、一生懸命に耳を引っ立てていました。\n「人の噂ですから、確かなことは判りませんがね。」と、おかみさんはまた言いました。「なんでもそのお春という女には内所の色男があって、きのうもそこへ逢いに行く途中で、あんなことになったらしいというんですよ。」\n「それじゃあ、その男というのがこの辺にいるんでしょうか。」と、となりの左官屋のむすめが訊きました。"
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"role": "assistant",
"content": "「大方そうでしょうよ。うっかり出て来ると面倒だと思って、知らん顔をして引っ込んでいるんでしょうが、そんな不人情なことをすると、女の恨みがおそろしいじゃありませんか。女の思いが蛇と一緒になって執りつかれた日にゃあ、大抵の男も参ってしまいまさあね。」と、おかみさんはまた笑いました。\n 家へはいって、わたくしは母にそっと話しますと、母は考えていました。\n「それにしても、まさかに叔父さんがその相手じゃあるまい。」\n「そうでしょうねえ。」\n「そりゃ男のことだから何ともいえないけれど、叔父さんは四十一で、親子ほども年が違うんだからねえ。」と、母はあくまでもそれを信じないような口ぶりでした。\n 叔父がその女の相手であるかないかは別として、ともかくも叔父がその女を識っているのは事実ですから、叔父が帰って来れば恐らく詳しいことも判るだろうと思われました。母はけさも会津屋へ出かけて行きましたが、叔父もお定もやはり音沙汰なしだというのでございます。\n 母と入れかわって、わたくしも見舞ながら会津屋へ行きますと、叔母はいろいろの苦労でゆうべはまんじりともしなかったということで、気ぬけがしたように唯ぼんやりしていました。気の毒とも何とも言いようがありません。妹のお由はお稽古を休んで、きょうは家にいました。どなたも大抵お気付きになっていることと存じますが、きのうお定がわたくしと別れるときに、およっちゃんと仲よくしてくれと言いました。それから家へ帰って、間もなくどこへか行ってしまったのですから、覚悟の上の家出ではないかと思われます。\n わたくしがなぜそれを母に洩らさないかといいますと、お定が家出をしたあとで迂濶にそんなことを言い出すと、そんなことがあったらば、なぜ早くわたしに言わないのかと母に叱られるのが怖ろしいので、ゆうべは勿論、けさになっても黙っていたのではございますが、こうして会津屋の店へ来て、叔母や店の人たちの苦労ありそうな顔をみていますと、わたくしももう黙ってはいられないような気になりました。\n それでも、叔母に向っては言い出しにくいので、帰るときにお由を表へ呼出して、小声でそのことを話しますと、お由は案外平気な顔をしていました。\n「あたし知っているわ。姉さんはふうちゃんと一緒に、どっかに隠れているのよ。」\n わたくしはまたびっくりしました。兄の房太郎は奉公中の身の上でございます。それが叔父のむすめを誘い出してどこにか隠れている。そんなことのあろう筈がありません。お由がなぜそんなことを言うのかと、わたくしは呆れてその顔をながめていますと、お由の眼はいつかうるんで来ました。\n「ねえさん、あんまりだわ。」\n 前にも申す通り、お定は総領ですから婿を取らなければなりません。そこで、妹娘のお由を兄の房太郎に娶わせるという内約束になっていることは、わたくしも薄うす知っています。その妹の男を姉が横取りして、一緒にどこへか姿をかくしたとすれば、妹のお由が恨むのも無理はありません。しかしお定はそんな人間でしょうか。兄はそんな人間でしょうか。わたくしにはどうしても本当の事とは思われませんので、いろいろにその子細を詮議してみましたが、お由も確かな証拠を握っているのではないらしいのです。それでもきっとそれに相違ないと、涙をこぼして口惜しがっているのです。\n 嘘か、本当か、なにしろこうなってはうかうかしていられないので、わたくしは急いで家へ帰って、母にそれを訴えますと、母も顔の色を変えました。万一それが本当ならば、お定ばかりのことではなく、兄もお店をしくじるのは知れていますから、母はすぐに支度をして、京橋の店へその実否をただしに行くことになりまして、慌てて着物を着かえているうちに、俄かに持病が起りました。\n 母の持病は癪でございます。この頃の暑さで幾らか弱っていたところへ、きのうからいろいろの心配がつづきまして、ゆうべも碌ろく眠らない上に、今は又、飛んでもないことを聞かされたので、持病の癪が急に取りつめて来たのでございます。持病ですから、わたくしも馴れてはいますが、それでも打っちゃっては置かれませんので、近所の鍼医さんを呼んで来て、いつものように針を打って貰いますと、まずいい塩梅におちつきましたが、母の癖で、癪を起しますと小半日は起きられないのでございます。\n「あいにくだねえ。」\n 母は焦れて無理にも起きようとしますが、日盛りに出て行って、また途中で倒れでもしては大変ですから、いろいろになだめて片陰の出来るまで寝かして置きまして、やがて七つ半を過ぎた頃から出してやりました。まだ不安心ですから、駕籠を頼もうかと言いましたが、母はもう大丈夫だと、歩いて出て行きました。\n わたくしが独りで留守番をするのは、今に始まった事ではありませんが、きょうはなんだか心さびしくてなりませんでした。日が暮れ切ってから会津屋の叔母が蒼い顔をして尋ねて来まして、叔父もお定もまだ行くえが知れない。お岩稲荷のお神籤を取ってみたらば、凶と出たということでした。\n「おっかさんはどこへ......。」\n その返事にはわたくしも少し困りました。兄のことで京橋へ出て行ったと正直に話すわけにもゆかないので、芝の方によい占い者があるので、そこへ見てもらいに行ったと、いい加減の嘘をついて置きました。それもわたくしの知恵ではございません。もし会津屋から誰かが来たらば、まずそう言って置けと母から教えられていたのでございます。それでも知らぬが仏というのでございましょう。叔母は気の毒そうに溜息をついていました。\n「みんなに心配をかけて済まないねえ。」\n 叔母もこれから市ヶ谷の方の占い者のところへ行くといって帰りました。今夜も暑い晩で、近所の家では表へ縁台を出して涼んでいるらしく、方々で賑やかな笑い声もきこえますが、わたくしは泣き出したいくらいに気が沈んで、門端へ出ようともしませんでした。女の足で京橋まで行ったのですから、暇どれるのは判っていますが、母の帰って来るのがむやみに待たれます。そこへ会津屋の利吉という小僧がたずねて来ました。\n「おかみさんはこちらへ来ていませんか。」\n「さっき見えたんですけれど、これから市ヶ谷の占い者のところへ行く、といって帰りましたよ。」と、わたくしは正直に答えました。「そうして、おかみさんに何か用があるの。」\n「ええ。」と、利吉は少し考えながら言いました。「実はおよっちゃんが......。」\n「およっちゃんがどうして......。」と、わたくしはどきりとしました。\n「おかみさんが出ると、すぐ後から出て行って、いまだに帰って来ないんです。」\n お由も家出をしたのでしょうか。わたくしは驚くのを通り越して、呆れてしまいました。\n\n 四\n\n この場合ですから、会津屋でもむやみに騒ぐのでしょうが、お由はまだほんとうに家出したかどうだか判ったものではないと、利吉の帰ったあとでわたくしは考え直しました。そう思っても何だか不安心で、母の帰るのをいよいよ待っていますと、五つ(午後八時)をよほど過ぎた頃に、母は汗をふきながら帰って来ました。それでもほっとしたような顔をして、笑いながら話しました。\n「およっちゃんは人騒がせに何を言ったんだろう。ふうちゃんは京橋のお店にちゃんと勤めているんだよ。」\n わたくしもまずほっとしました。\n「それからいろいろ訊いてみたけれど、あの子はまったくなんにも知らないんだよ。およっちゃんももう十六だから、何かやきもちを焼いて、そんな詰まらないことを言ったんだろうが......。」と、母は嘲るようにまた笑いました。「人騒がせでも何でも構わない。それが嘘でまあまあよかったよ。もし本当だった日には、それこそ実に大変だからねえ。」\n 母は安心したとみえて、暑いのも疲れたのも忘れたように、馬鹿に機嫌がいいのでございます。\n それをまたおどろかすのも気の毒でしたけれども、しょせん黙ってはいられないことですから、叔母がたずねて来たことと、お由が家出をしたらしいことを、逐一に話してきかせますと、母は「まあ」と言ったばかりで、折角の笑い顔がまた俄かにくもってしまいました。"
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[
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 或る靄のふかい朝――\n 僕はカメラを頸にかけて、幅のひろい高橋のたもとに立っていた。\n 朝靄のなかに、見上げるような高橋が、女の胸のようなゆるやかな曲線を描いて、眼界を区切っていた。組たてられた鉄橋のビームは、じっとりと水滴に濡れていた。橋を越えた彼方には、同じ形をした倉庫の灰色の壁が無言のまま向きあっていたが、途中から靄のなかに融けこんで、いつものようにその遠い端までは見えない。\n 気象台の予報はうまくあたった。暁方にはかなり濃い靄がたちこめましょう――と、アナウンサーはいったが、そのとおりだ。\n 朝靄のなかから靴音がして、霜ふりとカーキー色の職工服が三々五々現れては、また靄のなかに消えてゆく。僕はそういう構図で写真を撮りたいばかりに、こんなに早く橋のたもとに立っているのである。\n レンズ・カバーをとって、焦点硝子の上に落ちる映像にしきりにレバーを動かせていると、誰か僕のうしろにソッと忍びよった者のあるのを意識した。だが――\n 焦点硝子の上には、橋の向うから突然現れた一台の自動車がうつった。緩々とこっちへ走ってくる。それが実に奇妙な形だった。低いボデーの上に黒い西洋棺桶のようなものが載っている。そして運転しているのは女だった。気品のある鼻すじの高い悧巧そうな顔――だがヒステリー的に痩せぎすの女。とにかくその思いがけないスナップ材料に、僕はおもいきり喰い下がって、遂にパシャンとシャッターを切った。\n 眼をあげて、そこを通りゆく奇妙な荷物を積んだ自動車をもう一度仔細に観察した。エンジン床の低いオープン自動車を操縦するのは、耳目の整ったわりに若く見える三十前の女だった。蝋細工のように透きとおった白い顔、そして幾何学的な高い鼻ばしら、漆黒の断髪、喪服のように真黒なドレス。ひと目でインテリとわかる婦人だった。\n 奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々に下りている上、耳が生えているように、丈夫な黒革製の手携ハンドルが一つならずも二つもついていた。\n 棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。\n 婦人は蝋人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。\n「お気に召しましたか。ねえ旦那」\n「ああ、気に入ったね」\n「――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――」\n「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」\n 僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に――\n「おお君は一体誰だい」\n 僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。\n「私かネ、わたしはこの街にくっついている煤みたいな男でさあ」\n といって彼は歯のない齦を見せて笑った。\n「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私はあのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネ」\n そういって、若い男はブルブル慄える指を、紫色の下唇にもっていった。\n\n 或る高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチーズ・トーストとを懐しがる若い男の話――\n「さっき御覧になったヒルミ夫人――あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に通暁しています。世にも稀なる大天才ですね。\n 田内整形外科術――というのは、ヒルミ夫人の誇るべきアルバイトです。ご存知ではないですか。近世の整形外科学は、ヒルミ夫人の手によってすっかり書きかえられてしまったんですよ。どんなに書きかえられたか、それもご存知ないのですか。これからお話してゆくうちに、ひとりでに分ってきましょうが、なにしろここ五ヶ年のヒルミ夫人の努力で、普通にゆけば五十年は充分かかるという進歩をやり上げてしまったのですからネ。まあ政治的文句はそれくらいにして、事実談にうつりましょう。ちょっと事実とは信じられないほどの奇怪なる事件なんですよ」\n と、若い男はポツリポツリと語りだした。――\n\n 斯界の最高権威となったヒルミ夫人は、一昨年ついに結婚生活に入った。\n その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。それは或る絹織物の出る北方の町に知られた金持の三男だといいふらされていた。誰もそれを信じている。ところがそれは真赤な偽りなのだ。それを証拠だてるのに甚だ都合のよい話がある。ほんの短いエピソードなのだが。\n それは一昨年の冬二月のことだった。\n 或る下町で、物凄い斬込み騒ぎがあった。\n 双方ともに死傷十数名という激しいものだったが、その外に、運わるく側杖をくって斬り倒された「モニカの千太郎」という街の不良少年があった。白塗りの救急車で、押しかけて搬びこんだのが外ならぬヒルミ夫人の外科病院だった。\n モニカの千太郎は顔面に三ヶ所と肋を五寸ほど斬り下げられ、生命危篤であった。普通の病院だったらとても助からないところだが、ヒルミ夫人は感ずるところあって、特別研究室に入れ、日夜自分がついて治療にあたった。その甲斐あって、病人はたいへん元気づき、面会に来た警察官を愕かせなどしたものだが、そのうち繃帯がとれそうになったとき、千太郎は病院から脱走してしまった。\n ヒルミ夫人の届出でに、警察では愕いて駈けつけたが、厳重だといっても病院のことだから抜けだす道はいくらもある。まあ仕方がないということになった。\n そのうちに、また元の古巣へたちまわるにちがいないから、そのときに逮捕できるだろうと、警察では案外落ちついていた。\n ところがその後千太郎は、すこしも元の古巣へ姿をあらわさなかった。警察でも不審をもち、東京の地から草鞋をはいて地方へ出たのかと思って、それぞれに問いあわせてみたが、千太郎はどこにも草鞋をぬいでいなかった。そんなわけで、モニカの千太郎は愛用のハーモニカ一挺とともに失踪人の仲間に入ってしまった。"
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"role": "assistant",
"content": " ヒルミ夫人が結婚生活に入ったのが、それから二ヶ月経った後のことだった。\n 万吉郎という五つも年齢下の男を婿に迎えたわけだが、ヒルミ夫人の見染めただけあって、人形のように顔形のととのった美男子だった。\n いずくんぞ知らんというやつで、この万吉郎なるお婿さまこそ実はモニカの千太郎であったのである。\n そういうといかにもこじつけ話のように聞えるであろう。いくら千太郎がお婿さまに化けても、顔馴染の警官や、元の仲間の者にあえば、ひとめでモニカの千太郎がうまく化けこんでいやがると気がつくと思うだろうが、なかなかそうはゆかない。今までは顔を見ただけでは全く千太郎と見わけのつかない万吉郎だった。つまり万吉郎なるお婿さまは、モニカの千太郎とは全く別な顔をもっていたのである。千太郎もいい男であつたが、万吉郎の顔は、さらにいい男ぶりであり、しかも顔形は全く別の種類に分類されてしかるべきものだった。\n それにも拘らず、万吉郎は千太郎の化けた人間に相違なかったのである。\n では、どういうところから、そういう不思議な顔形の違いが起ったのであろうか。その答は簡単である。ヒルミ夫人の特別研究室のうちで、千太郎の顔は新しく万吉郎の顔に修整されてしまったのである。それこそはヒルミ夫人の劃期的なアルバイト、田内整形外科術の偉力によるものだった。\n「ワタクシハ予テ世間ニ於テ人間ノ美ト醜トニヨル差別待遇ノ甚ダシイノニ大ナル軽蔑ヲ抱イテイタ」とヒルミ夫人はその論文に記している。「美人ト不美人トノ相違ノ真髄ハ何処ニアリヤト考エルノニ、要スルニ夫レハ主トシテ眉目ノ立体幾何学的問題ニ在ル。眉目ノ寸法、配列等ガ当ヲ得レバ美人トナリ、マタ当ヲ得ザレバ醜人トナル。而モ美醜間ニ於ケル眉目ノ寸法配列等ノ差タルヤ極メテ僅少ニ過ギナイ。美人ノ眼ガ僅カ一度傾ケバタチマチ醜人ト化シ、醜人ノ唇僅カ一糎短カケレバ美人ト化スト云ッタ塩梅デアル。左様ナ一度トカ一糎トカ僅少ノ幾何学的問題ニ一生ヲ棒ニフル者ガ少クナイノハ実ニ嗤ウベキコトデアル。吾ガ整形手術ニ於テハ、夫レ等僅少ナル寸法ヲ短縮スル等ノ技術ハ極メテ容易デアル。凡ソ人体各部ノ整形手術中、人間ノ顔ホド簡単ニ整形形状変更等ヲナシ得ル部分ハ他ニナイ。殊ニソノ整形ノ効果ノ大ナルコト、他ノ部位ノ比デハナイ。若シ本書ニ説述シタ吾ガ田内整形手術ガ全世界ニ普及セラレタル暁ニハ、世界中ニ只一人ノ醜イ人間モ存在シナクナルデアロウ云々」\n 実に大胆なるヒルミ夫人の所説だった。というよりは、なんという強い自信であろうといった方がいいかもしれない。\n 医学博士ヒルミ夫人のいうところに随えば、人間の恰好を変えることなんか訳はないというのだった。ことに、大した面積でもない凸凹した人間の顔などは、粘土細工同様に自由にこね直すことができると断言しているのであった。ヒルミ夫人の門に教を乞う外科医がこのごろ非常な数にのぼっているのも、このような夫人の愕くべき手術効果がそれからそれへと云いつたえられたがためであろう。\n ヒルミ夫人が、なぜモニカの千太郎の何処に惹きつけられて花婿に択んだのか、それはまた別の興味ある問題だが、とにかく結果として、千太郎は万吉郎と名乗って、年上のヒルミ夫人のお伽をするようになったのである。\n 当事者を除いては、誰もこの大秘密を知る者はない。もちろん警察でも、まさか千太郎が顔をすっかり変えて、ヒルミ夫人の花婿に納まっているとは気がつかなかった。そこでこの奇妙な新婦新郎は、誰も知らない秘密に更に快い興奮を加えつつ、翠帳紅閨に枕を並べて比翼連理の語らいに夜の短かさを嘆ずることとはなった。\n ヒルミ夫人の生活様式は、同棲生活を機会として、全く一変してしまった。彼女は篤き学究であったがゆえに、新しい生活様式についても超人的な探求と実行とをもって臨み、毎夜のごとく魂を忘れたる人のように底しれぬ深き陶酔境に彷徨しつづけるのであった。\n「――いくら何でも、これでは生命が続かないよ」\n と、いまは心臆した若き新郎が、ひそかに忌憚なき言葉をはいた。\n 不良少年として、なにごとにもあれ知らぬこととてはなく、常人としては耐えがたい訓練を経てきた千太郎――ではない万吉郎であったけれど、その広汎なる知識をもってしても遂に想像できなかったほどの超人的女性の俘囚となってしまって、今は黄色い悲鳴をあげるしか術のないいとも惨めな有様とはなった。\n「あなた。きょうはまるで元気がないのネ。どうかしたの」\n と、薄ものを身にまとったヒルミ夫人は鏡の前で髪を梳りながら、若い夫に訊いた。\n「どうしたって、お前――」\n と、万吉郎は天井に煙草の煙をふきあげながら、かすれた声で応えた。\n「まあ、――」\n 夫人は鏡面ごしに、このところひどく黄いろく萎びた夫の顔を眺めた。だんだんとこみあげてくる心配が、ヒルミ夫人を百パアセントの人妻から次第次第に抜けださせていった。そして間もなく彼女は百パアセントのヒルミ博士となりきった。\n「ハハア、分りました」と、ヒルミ夫人は胸を張り鼻をツンと上にのばしていった。それはヒルミ夫人が診察するとき必ず出す癖であった。「男性て、ほんとにか細くできている者ネ。でもあたしがそれに気がついたからには、もう大丈夫よ。すっかり安心していていいわ。当分毎日注射をしてあげましょう」\n ヒルミ夫人が確信をもっていったとおり、萎びたる万吉郎は注射のおかげでメキメキと元気を恢復していった。そして三旬を越えないうちに、婿入りの前よりも、ずっとずっと強き精力の持主とはなっていた。\n「治療にかけちゃ、うちのかかあは、なかなか大したもんだ」と、万吉郎は鼻の下を人さし指でグイとこすった。「いやそれよりもかかあのあの口ぶりを真似ていうと、現代の医学は実に跳躍的進歩をとげた――というべきであろうかナ、うふん。とにかくこうなると、俺は現代の医学というものにもっと深い関心を持たなくちゃならんて」\n そんなことがあってから後、万吉郎はヒルミ夫人に対し積極的にいろいろの治療をねだったのである。\n ヒルミ夫人にとっては、万吉郎は世界の至宝であったから、少々無理なことでも喜んで聞き入れた。しかし新しい治療をするについては、面倒でも、しっかりした臨床実験の上に立つことが必要であった。そのためにヒルミ夫人は朝早くから夜遅くまで、手術着に身をかため、熱心に入院患者を切ったり縫ったりした。\n ヒルミ夫人の評判は、いよいよ高くなった。博士は結婚せられてたいへん仕事に熱心を加えたという賞讃の声が方々から聞えた。全くヒルミ夫人は、その昔、田内新整形外科術をマスターするために見せた熾烈なる研究態度のそれ以上熾烈な研究慾に燃え、病院のなかに電気メスの把手を執りつづけたのである。しかしヒルミ夫人の研究熱は、その昔の純粋なのに比べて、これはただ若き夫万吉郎に媚びんがための努力であったとは、純潔女史のために惜しんでもあまりある次第だが、なにがこうもヒルミ夫人を可憐にさせたかを考えるとき、夫人の夫万吉郎に対する火山のように灼熱する恋慕の心を不愍に思わずにはいられない。\n 不愍がられる値打はあったであろうヒルミ夫人の立場であったけれど、その狂愛の対象たる万吉郎にとって、それは必ずしも極楽に座している想いではありかねた。\n 早くいえば、不良少年あがりの万吉郎にとっては、ヒルミ夫人一人を守っていることに倦き倦きしてきたのであった。\n もちろんヒルミ夫人は、その卓越した治療手腕をもって万吉郎の体力を、かのスーパー弩級戦艦の出現にたとえてもいいほどの奇蹟的成績をもってすっかり改造してしまったのであった。だから万吉郎は、いまや文字どおり鬼に金棒の強味を加えたわけであった。ヒルミ夫人は自らも過不足なきまでに満足感に達し、万吉郎はいよいよ強豪ぶりを発揮していった。しかも万吉郎の心の隅には、黄いろく萎びた新婚早々のころ、一度ヒルミ夫人に対して抱いた恐怖観念がいつまでも汚点のようにしみこんでいて、それが時にふれ、気がかりな脅威をよび起こし、その脅威はすこしずつヒルミ夫人に対する嫌悪の情に変ってゆくのを、どうすることもできなかった。\n 万吉郎は、なんとかしてヒルミ夫人の身体から抜けだしたいと思った。といって完全に抜けだしてしまったのでは、こんどは生活の上に大きな脅威をうける。もう彼は、地道にコツコツ働いて、月給五十円也というような小額のサラリーマン生活をする気はなかった。ヒルミ夫人のもとにいて、懐手をしながら三度三度の食事にも事かかず、シーズンごとに新しい背広を作りかえ、そしてちょっと街へ出ても半夜に百円ちかい小遣銭をまきちらすような今の生活を捨てる気は全然なかった。経済状態はそのようにして置いて、只身体だけをヒルミ夫人のもとから解放したいと思っていたのである。\n そんな贅沢な願望が、うまく達せられるものであろうか?\n だが万吉郎も、ただの燕ではなかった。もとを洗えば、不良仲間での智慧袋であり、参謀頭でもあった。奈翁の云い草ではないが、彼の覘ったもので、ついぞ彼の手に入らなかったものなんか一つもなかったぐらいだから、或いは頭脳の絶対的よさくらべをして見ると、万吉郎の頭脳はヒルミ夫人のそれに比して、すこし上手であったかもしれない。\n 万吉郎は、この六ヶ敷い問題の解答をひねりだすために、気をかえて、昔彼が好んで徘徊していた大川端へブラリと出かけた。\n どす黒い河の水が、バチャンバチャンと石垣を洗っていた。発動機船が、泥をつんだ大きな曳船を三つもあとにくっつけて、ゴトゴトと紫の煙を吐きながら川下へ下っていった。鴎が五、六羽、風にふきながされるようにして細長い嘴をカツカツと叩いていた。河口の方からは、時折なまぐさい潮の匂いが漂ってくる。\n 万吉郎は宿題をゆるゆると考えるために、人気のない川添いの砂利置場に腰を下ろした。\n なにかこう素晴らしい思いつきというものはないか?"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "この Exotic の一巻を\n三郎兄上に献ず、\n兄上は小弟を愛し小弟\nを是認し小弟を保護し\nたまう一人の人なり。\n\n\n\n序に代うるの詩二編\n\n\n孤独の楽調\n\n三味線の音が秋の都会を流れて行く。\n霧と瓦斯との青白き光が\nMitily の邦の悲哀を思わせる\n宵。........................\n\n唄うを聞けや。\n艶もなき中年の女の歌、\n節は秋の夜の時雨よりも\n凋落の情調ぞ。\n\n私の思い出は涙ぐみ\nただ何とはなしに人の情の怨まるる。\nその三味線と女の歌の聞こゆる間。\n\n木の葉が瓦斯の光に散っている。\n\n君代さん\n\nさし櫛に月の光が落ちている\n君代さん。\n\n冴えた霜夜の\n秋の白さ。\n\n涙ぐみつつ露は窓のガラスに伝い\n老いたる木の葉は散っている。\n\n君代さん\n十八の君代さん\n\n鼈甲のさし櫛は\n若いあなたには老けすぎた。\n\n(別れし夕の私の印象。)\n\n\n死に行く人魚\n\n\n時代 騎士の盛なりし頃\n場所 レモンの花の咲く南の国\n人物 序を語る人\n 公子\n 女子\n 領主"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 従者\n Fなる魔法使い\n 騎士、音楽家、使女、童、(多数)\n\n\n序を語る人\n 旧教僧侶の着る如き長き黒衣を肩より垂れ、胸に紅き薔薇花をさす。青白き少年の仮面を冠る。\n独白――\n レモンの花の咲く南方の暖国はここであります。黄昏は薔薇色の光を長く西の空に保ち、海には濃き藍の面を鴎が群れ飛び、鴎を驚かして滑り行く帆船は遙かの沖をめがけます。日は音なく昇り、音なく沈み、星と露とは常に白く冷やかにちょうど蛋白石のように輝きます。湖水の岸には橄欖の林あり、瑠璃鳥はその枝に囀る。林の奥に森あり、香り強き樟脳は群れて繁り、繁みの陰には国の人々珍しき祭を執り行う。ああその祭たるや筆にも言葉には尽くせません。螺鈿の箱に入れた土耳古石を捧げて歩む少女の一群、緑玉髄を冠に着けたる年若き騎士の一団。司祭の頭には黄金の冠あり。......御厨の前の幕をかかぐる時、神体は見えざれども数千人の人々は声を揃えてサンタマリヤを唱う。その唱命は海の彼方の異国の涯にまで響きます。――この美しい南国の人々の心はどのように華やかでござりましょう、その人々の語り合う恋は、どのように秘密の烈しさを有していることでしょう。この脚本は、その秘密の烈しい恋を基として、演じられるのでござります。私はこれからこの脚本の諸々の色と匂い、光と陰、無音と音楽とをお話し致しましょう。\n この脚本は夕暮より始まり、次の日の夜半に終ります。夜はこの脚本の舞台であります。この脚本には短ホ調の音楽と、短嬰ヘ調の音楽とが入ります。尚その他いろいろの楽器、例えば死せる人を弔う鐘、遂げられざる恋の憂いを洩らす憐のバイオリン、悪魔の誘惑を意味する銀の竪琴、騎士の吹く角の笛、楯につけたる鉄と真鍮の喇叭、そして波も松風も嘶く駒も、白き柩と共に歌う小供等も、楽器と云えば云えましょう。――これらの楽器がはいります。この脚本には「死に行く人魚」の歌が歌われます。嫉妬よりの契約が交わされます。海と自由と、幻のような舟と、舟の中の音楽と、音楽を奏した未知の若者とを恋うる少女が現われます。この少女は恋の贈物として深山鈴蘭の純潔の花を愛さずに、暗の手に培われた、紅の薔薇を愛します。(と自分の胸より紅薔薇を抜き取り観客に見せ)このような罪の贈物を愛します。(花を床上に投げ棄て)かくて少女は恋の獲物を失います。\n 過去の恋をなつかしむあまり、恋の記念に造った音楽堂は、対岸の絶壁の上に立てられ、悲劇はその堂内で演じられます。譬えその悲劇が諸君の御眼には見えずとも、諸君は必ず憐れと覚しめすでしょう。悲劇の主人公は、美しい少年であります。少年の美しさは何と云って形容したらいいでしょう。猶太の王女が恋したと云う、ヨハネの幼顔よりも美しく、ラハエルよりも美しい。ギリシヤの彫刻の裸体美でも、少年の美には及びません。この少年が「死に行く人魚の歌」を歌います。けれども恋の競技の音楽堂で歌ったのではありません。たれこめた自分の室で、つれない女子に物を思わせようと、又血汐のような罌粟畑で、銀の呪詛をのがれんと、競技の前の夜の半ばに、歌ったのでござります。噫! その「死に行く人魚」の歌は、世にも悲しい弔いの歌となりました。\n 婚儀の式場とも成るべき音楽堂からは葬式の柩が出で、つがいの鴛鴦の浮くべき海の上には、柩をのせた小舟が浮かび、嘆きの歌を唄わんとして集った小供等は、曇った声で弔いの歌を唄います。祝して鳴らさるる筈の鐘は凶事を伝え、諸国より集りし騎士音楽家は、驚きと怒りと悲しみとを、不思議を見たる瞳に充たせ、ものも云わずに柩を送ります。そして月桂樹の冠はFなる魔法使いの頭に落ち、Fなる魔法使いは、その名誉ある冠を以て、空想の少女を眩さんとし、猩々緋の舌を動かします。――しかも凶は正に敗け、最後の勝利は公子に帰して、月桂樹は幼い天才に渡ります。――神よ、正しき者に幸あれ!\n 領主は、凍れる棒の如くに気死して壁により、忠僕は天を睨み、やがて声を上げて泣き仆れます。噫! 幸福たらんとして不幸となり、楽しからんとして憂いを呼び、平和たらんとして、凶事動乱、潮のように湧き起ります。(と片手を高く差し上げ)、この諸々の喜怒哀楽が、霧に包まれた宝玉のように、水の中の王冠のように、煙の中の城のように、おぼろげに諸君の眼に映る時、諸君は無理の解釈をなされずに、有るがまま、見ゆるがまま、聞こえるがままにくみ取って戴きたい。(片手を下し、後方に静かに退場しつつ)如何にFなる魔法使いが、銀の竪琴に魔を呼ぶか、如何にレモンの花の咲く南方の国の人々が、燃え狂う恋路を辿り行くか、諸君はこの幕が開くと共に、残る方なく知ることが出来ましょう。(と一礼して退場)\n\n\n 第一場\n\n\n領主の館の一室 正面に出入口ありて裏庭に通ず。裏庭を距てて静かなる湾あり、湾の対岸は削れるが如き絶壁にしてその頂上には古き白亜の音楽堂あり(但し之は背景なり)、出入口の左右に大いなる窓あり。窓には窓掛けなく自由に湾の風景を望み得べし。なお室の左右に出入口あり、左の口は主屋に通じ右の口は高殿に通ず。高殿は領主の一子にして年若く美しき音楽の天才ある公子の居室とす。左の窓に近く大いなる丸テーブルあり、丸テーブルを囲みて寝台と椅子とあり。以上の建築装飾は総て中世紀頃の型を用う。\n時 夕暮れ落日の頃。\n季 初夏。薔薇、レモンの花盛り。\n\n領主 (品位ある風采、この時代の豪族に似つかわしき服装、腰に剣をつるす。左の窓口によりて湾の風景を眺む。)今日の夕日は平素よりは別して美しく静かに見える。小鳥や風に送られて日は海に沈まんとし、猩々緋の雲は戦の旗のように空の涯を流れている。沈まんとする日の美しさはどうだ。黄金の車が焼け爛れながら水晶盤の上へ落ちるようだ。櫛の歯のような御光は珊瑚をとかして振り撒いたような空と海とへ、霧時雨のようにふりそそいでいる。その光は一刻一刻に変わり、その色は次第次第に移って行く。沈まんとする日の上には猶太王の袍に似た、金繍のヘリある雲の一群がじっと動かずに浮かんでいる。その雲の上には風信子石のような星が唯一つ、淡く光っているが、やがて日が沈みきると一緒にダイヤモンドのようにキラキラと輝くのであろう。その星の上は緑青のように澄んで青い夕暮れの空で、風が小鳥の眠りを誘うように、やさしくやさしく渡っている。(間)猶太王の袍に似た雲が動き出した。錦の蛇のように長く細く延びて行く。風が吹くからだろう。細く長く延びた雲は日の面を掠めるばかりにして、海の面へ垂れ下がって来る。(間)海は親切の心を持っているように、雲の影を残らずうつしている。(語を強め)海は寛大だ!\n従者 (始めより領主の後方に謹んで彳みいる、白髪、忠実質朴の風采、恐る恐る小さき声にて)御前様。\n領主 (聞こえぬ如く)海は寛大だ。海は聖人の心のように寛大だ! だがしかし、また法官のように冷やかで厳かで一点の偽りも許さない。仮面偽体虚飾の悪徳は、この海の鏡にうつった時、すっかり化けの皮が剥げてしまう。海は鏡だ。だからあるがままに空の色や光や形が映るのだ。\n従者 御前様。\n領主 (聞こえぬ如く)それにしても今日の海の美しく平和のことはどうだ。今までもかなり平和で美しい夕べはあったけれど、今日のように漣一つ立たず、飛魚一つ躍らぬと云うことはなかった。今日の静けさは美人の死のようだ。\n従者 (気づかわしげに)美人の死のようだ!\n領主 (急に振り返り)何時からおまえはそこにいたのか。\n従者 はい、先刻からお呼び申しておりました。\n領主 そうか、一向知らなかった(とまた窓に向い)。どうだ今日の夕日の美しさは、建国の日のようじゃないか。お前の衰えた眼にも少しは立派に見えようがな。ほら、帆をなかば張った船が岩陰から現われた。帆は夕日で燃えるように赤く、水に映った様子が人魚そっくりだ。あれは人魚の舟だ。人魚の舟は地平線をめがけて進んで行く。日が沈み限る頃、地平線の上へ行き着くだろう。沈む日と人魚の舟とが一緒になって、地平線の外へ消え失せる時、月がそろそろと昇り始めるのだ。綿帽子を取りはずされた嫁様のように恥かしさとかがやかしさとで、どんなに月は下界の美貌に恍惚とするだろう。そして、月の秋波があの絶壁の上の音楽堂に注がれた時、どんなにあの白い建築が、方解石のように美しく、形よく見えることだろう。あの白衣を着けたラマ僧のような音楽堂が(間)それは月夜のことだ、今この夕日に照り輝いている有様も、何と神々しい姿ではないか。円錐形の銀板の屋根は、洪水のように光を漲らせ、幾万となく打ちつけた銀の鋲は、騎士の鎧よりも目覚ましい。白壁は薔薇色の陰を帯び、窓の掛け布は恋人の腕にすがった乙女のように力なく垂れ下がり、それに空の七色が接吻している。(間)海に突き出した高殿の一郭は岩の上の鷲の巣のように、まことにあやうく見えるけれど、勇ましさも一層で、美しさはそのあやうく勇ましい所にひそんでいる。あの高殿で恋を語ったら、どんなに悦しいことだろう。\n従者 御前様!\n領主 (うるさげに)何だと云うに。\n従者 もう窓から外を見るはおよし遊ばせ。\n領主 いいではないか、外を見るのは俺の勝手だ。お前は俺の云いつけた通り、御客様を御馳走する準備をせい。(とまた窓の外を向き)ああ初夏の夕べほど気持ちのよいものはない。草花の雌蘂には咽せかえる程の香りがあり、花弁にはルビーのような露が溜り、黄金虫は囁くような恋の唸りや、訴えるような羽音をさせて、花から花、梢から梢へと飛び巡る。物の音色、光や陰には優しい艶が着き、人々の眼差しには、たえられぬ内心の悶えや恋や喜びが、恥かしい程あふれている。(間)だが俺の心はどうだ、(破裂せる如き調子)俺の心はまるで謀反人の心のように、絶えず苦しみ、気を遣い、他人の思慮を憚り、そして常時疑っている。(窓を離れる。――と従者と顔を見合わせる)まだいたのか。\n従者 はい、お殿様のお心を伺わぬうちは参りませぬ。\n領主 (不審そうに)俺の心の何を伺うと云うのか。\n従者 お隠し遊ばしても、チャンと存じておりまする。ハイ、チャンと存じておりまする。あなた様がこれんばかりの時から今日が日まで、一日も離れずお付き申し上げた私でござりますもの、お殿様のお心の中は、私自身の心の中よりも、ずんと詳しく存じぬいておりまする。ハイ。\n領主 それがどうしたと云うのか。\n従者 お隠し遊ばしても駄目でござります。\n領主 (いらいらとして)くどい奴だな、俺は何も隠してはいないじゃないか。それともお前には隠しているように見えると云うのか。\n従者 ハイ、その通りでござります。お殿様は一から十まで近頃はお隠しなされておりまする。\n領主 何も別に隠している覚えはないが、それでも、かくしているように見えると云うなら為方がない。そう見られるばかりだ。(と復た窓の方へ向かんとするを引き止め)\n従者 (眤っと主人の顔を眺め)お顔もおやつれ遊ばしました。頬も額も青玉のように青褪めておりまする。\n領主 俺は元から、あまり肥えてはいなかった、そして色も青かった。(やや悲しげに)それに近頃は............。\n従者 (遮り)あの女子がこの館へ参られてからは、一層お痩せなされたと申しましても間違いではござりますまい。\n領主 (顔色を変えず)何を云うのか。\n従者 お気に障りましたら御免下さりませ。\n領主 別に気にも障らんが、お前はどうも俺を誤解しているようだ。\n従者 ハイハイ、ひょっとすると左様かも知れませぬ。いえいえ、屹度左様に違いござりますまい。あれほど御発明であられたお殿様が(と声を落として、昔を追想するが如き姿)十年前のあの日、あの事件のあったばかりに、からりと様子がお変りなされ、気抜けしたような御心となり、閉じ篭もってばかりおられました。(間)かと思うとまた近頃、あの女子をこの館へ引き入れられてからは、以前と違い、活発にはなられましたが、御家来衆に対しては昔ほどお情けをおかけ下されず、一にも十にもあの女子のためばかりを計られて、お館の乱れるのもおかまいなされぬのでござりますもの、ハイ、発明のお殿様でさえ、そのようなお心得違いのある世の中に、私のような賎しい奴が、考え違いをするのはあたりまえでござります。\n領主 そのように、ムキにならずとものことだ。そんなら何か、近頃俺が皆の者に対して不親切になったから、それが気に食わぬと云うのか。\n従者 そればかりではござりませぬ。近頃は大変にソワソワなされます。まるで十七、八の若者が初恋を知った時のように。\n領主 (苦笑)それが気まずいと申すのか。\n従者 そればかりではござりませぬ。近頃は何彼と疑い深くなられました。これもあの女子のためでござりましょう。\n領主 あの女子、あの女子とよく云うが、彼女は決して悪い女ではない。ほんの無邪気な性質で、例えて云って見れば、空を自由にかけたがる白い雲のようなものだ。(少し考え)もっとも、あまり空をかけたがるので、心もち、フワフワとしてはいるが、それが決して、あの女子の美しい容貌と正直の心とを傷つけはしない。\n従者 よく存じておりまする。\n領主 それではもうよいではないか(とまた窓に向かわんとするを従者は再び引きとめ)、\n従者 たとえ、女子の性質はよいと致しましても、お殿様の御性質お振る舞いを近頃のように変えさせますれば、何のためにもなりませぬ。却って悪い性質の女子でも、お殿様の性質を変えぬならば、その女子の方が御身の為また私共の為かと存じます。......一体、あの女子は、どこからお連れなされました。\n領主 海の彼方の淋しい浜辺から、(と窓を離れて丸テーブルの傍の寝台の上に腰をおろす)、海の彼方の淋しい浜辺で、消えて行く帆舟の影を泣きながら見送っていた――あの女子が見送っていた。――それを俺が連れて来たのだ。(間)あの日は、涙ぐんだ日が浜に散っている貝殻と、水に濡れた大きい岩と、そして女子の頬を伝う二筋の涙とを白く照らしていた。女子は忍び泣きに泣きながら、片手に赤い薔薇の花を持ち、それを高く振りかざし、地平線の辺へ消えて行く帆舟を見送っておったのだ。荒れ果てた海岸の淋しい淋しい午後だった。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 俺はどこまでも歩いていった。だが、泥濘の道を足駄で歩いてるので、しまいには疲れてきた。少し休みたいなと思い思い歩いてるうちに、上野公園に出て、動物園があることを思い出した。\n 動物園の中は、昔来た時とはすっかり模様が変っていた。けれど馴染の象や熊は昔通りだった。俺はぼんやり一廻りしてから、大きな水禽の檻の前に腰を下した。年末のせいか、粗らに見物人があるきりで、ひっそりしてる中に鳥の鳴声だけが冴えていた。俺は鼻糞をほじくりながら、いつまでもじっとしていた。背中がぞくぞく寒かったが、それくらいは仕方なかった。薄曇りの雲越しに、どんよりした太陽がだんだん傾いていった。\n そのうちに、身体が冷えると共に空腹を覚えだした。俺は苦笑しながら立上った。動物の餌にする煎餅の五銭の袋を二つ買って、両方の袂へ忍ばせた。その煎餅を体裁に二つ三つ象へ投げやってから、こそこそと動物園を出た。そして公園の木立の影を歩きながら、煎餅をかじった。その自分自身が惨めで仕方なかった。\n 煎餅をかじったのが、却って腹のためにいけなかった。大急ぎで呑み込んだ固いやつが、空っ腹の底でごそごそしてるような気がした。そして一時間ばかりたつと、もりを一杯食うために、饂飩屋へ飛び込まずにはいられなかった。\n さて、晩になって、俺はまた昨日と同じような破目に陥った。いくら何でも、このまま家へは一寸帰りにくかった。笹木のことで池部が来るかも知れないと思ったが、それももう面倒くさかった。蟇口の底を見ると、まだ三十銭残っていた。お久が今日の運動費に入れてくれたのが、それで全部になるわけだった。何に使ってくれようかと思ってるうちに、ふと小さな活動小屋が眼についたので、本当に財布の底をはたいてその中にはいった。\n 所が、はいってすぐバットに火をつけてると、白い上っ張りをつけた女がやって来て、あちらで吸って下さいと云った。俺はおとなしくその狭い喫煙所の方へ行った。水のはいったブリキの金盥をのせてる小さな卓子を、粗末な木の腰掛が取巻いていた。俺はそこに腰を下して、卓子に両肱をつきながら、ぼんやり煙草を吹かした。弁士の声や華やかな映画や広間にぎっしりつまってる看客などから、変に気圧される心地がして仕方なかった。馬鹿馬鹿しいと思う心の下から、自暴ぎみの反抗心が湧いてきた。何に対してだかは分らないが、なあに俺だって......という気持になった。そしてじっと考え込んだ。\n 俺はその時くらい孤独な感じに打たれたことはない。何もかも遠くなって、世界の真中にただ一人投り出された心地だった。弁士が饒舌り立てている、何百人もの人がぎっしりつまっている、表には満員の電車が通っている、慌しい大勢の足音がしている、自動車も走っている......然しそういうものは、みんなこの俺には関係のない他の世界だ。俺はただ一人きりだ。この身体とこの生命とだけが俺の世界だ!......そう思ってると、非常に自由な晴々とした気持になっていった。俺は何でも出来そうだった。\n そうだ、何でも! 無一文で正月を迎えることも......金がいるというなら、盗み取ってくることも......笹木に内通していくらか搾り取ってやることも......場合によっては、妻や子供を捨てて一人身になることも......あの神棚を打ち壊してやることも......何だって出来ないとは限らない。みんな寄ってたかって俺をどうしようというのだ? 打ちかかって来るなら来てみろ、俺は笑ってやらあ!\n その時俺は、どんなことを考えたか自分でもよくは知らなかった。けれどただ、俺は非常に自由な力強い気になったのだった。何でも出来る雑多な力が、自分のうちにうごめいてるのを感じたのだった。そして輝かしいような気のする額を、汚い小さな卓子の上に伏せて、長い間我を忘れて考え込んでいた。\n 何だかあたりがざわざわするようなので、ふと我に返ると、丁度写真の代り目の休憩時間だった。四五人の者が喫煙所へはいって来た。俺は立上って、喫煙所から出で、活動小屋から外に出てしまった。\n 少し可笑しいぞ、と自分で思うくらいに俺は興奮していた。足が軽いし寒い空気が快いし、胸の奥まですーっと風が流れ込むし、ぱっとした街路の光までが物珍らしかった。こいつは猶更可笑しいぞ、と思ってるうちにぼーっとして、いつのまにか自分を取失ったような気持になった。だがやはりまだ晴々としていた。\n それから俺は長い間歩き廻った。そしていつのまにか自分の家の近くまで来ていた。見覚えのある角の荒物屋に気がつくと同時に、誰かに後ろから肩を叩かれた――どっちが先だったか自分でも分らない。俺は振返って見た。池部と谷山とが立っていた。\n「今君の家へ行った所だぜ。」と池部が云った。\n「そうか。」と俺は答えた。\n「丁度よくぶつかってよかった。だが、いくら呼んでも返辞をしねえなあ酷えよ。」\n「そうだったのか。」と俺は云った。\n「一体朝から何処を歩き廻ってたんだ。」\n「何処って当はねえから、ただ歩いてたんだ。」\n「ただ歩くって奴があるもんか。」\n「歩きでもしなけりゃ仕方ねえからな。」\n「そいつあ面白えや。」と谷山は云って、往来の真中で笑い出した。\n 大きな図体を揺ってせり上ぐるその笑い声を聞くと、俺は愉快になってきた。\n「どっかで一杯やらねえか。」と俺は云い出した。「ただ俺は一文もねえが、君達少しは持ってるだろう。」\n「うむ、よかろう。」\n そして三人で、近くの小さな酒場にはいっていった。\n 池部は妙に俺の方をじろじろ窺っていた。俺は一寸気に障った。その俺の顔色を察してか、彼はこう尋ねかけてきた。\n「君、金の工面はついたのか。」\n「つかねえよ。」\n「じゃあ一体どうするつもりだい。」\n「どうもこうもねえさ。正月は向うからやってくらあね。」\n その時突然に谷山が、本当に困るならどうにかしてやろうと云い出した。沢山は出来ないが四五十のことなら何とかなるかも知れないと......。俺は一寸びくりとした。驚きとも感謝ともつかない、電気にでも触れたような気持だった。それを俺は強いて押えつけて云った。\n「大丈夫かね、こう押しつまってるのに......。」\n「変梃な云い方をするなよ。まあ明日まで待て、何とかしてみるから。......そんなに切羽詰ってるんなら、早く俺に相談してくれるとよかったんだ。」\n「だが、君はいつもぴいぴいじゃねえか。」\n「ぴいぴいだから、またどっかに抜け途もあるってことさ。......大丈夫俺が引受けてやらあ。」\n「本当か。......じゃあ頼むぜ。」\n そして俺は、自分の気弱さを自分で叱りながらも、涙ぐんでしまった。それをてれ隠しにする気味もあって、しきりに酒をあおった。\n「もう行こうじゃねえか。」と池部はふいに云い出した。「君早く帰ってやるがいいぜ、しきりに待ってたから。」\n 俺は先程からの池部の様子で、彼が何か腹に一物あることを気付ていた。それが今の言葉で愈々はっきりしてきた。考えてみれば、笹木のことを一言も云わないのが不思議だった。向うでそうなら、こちらから切り出してやれという気になった。\n「君、笹木の話はどうなったんだ?」"
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"content": "「いや......また明日相談しようよ。」\n その逃げ言葉を俺は追いつめてやった。彼は暫く黙り込んで、それから谷山と眼で相図した上で、初めて話しだした。\n ――その日の朝、池部は笹木の所へ寄ってみた。一寸出かけてるとのことだった。それでまた晩に行ってみた。すると小僧が出て来た。笹木は関西の方へ旅に出ていて、正月も松が過ぎてでなければ帰らないとの答えだった。池部は細君に逢いたがった。然し細君も今日は不在だと小僧は答えた。池部は変な気持で帰ってきたが、どう考えても腑に落ちなかった。其処へ谷山が来合せた。二人でいろいろ考え合せてみると、誰か笹木へ内通した者が居るに違いなかった。それで笹木は留守をつかってるに違いなかった。二人は忌々しくなって腹を立てた。もう引っ叩いてでもやらなければ、その腹の虫の納りがつかなかった。然し大勢ではまた手違いを起すかも知れないので、二人でやっつけることにした、而もその晩に......。\n「じゃあ何で俺の家へ寄ったんだ?」と俺は尋ねてみた。\n「一寸通りがかりに......。」と池部は言葉尻を濁した。\n 嘘を云ってるなと俺は思った。お久が何か余計なことを饒舌ったので、それで俺を敬遠しようとしてるのに違いなかった。然しそんなことを詮索してる隙はなかった。こうなったからには俺は後へは引けなかった。一緒に行くことを頑強に主張してやった。池部もしまいには折れて出た。\n 俺達が酒場から出て笹木の家へ向った時は、もう十一時を過ぎていた。空に処々雲切れがして、寒い北風が地面を低く吹いていた。俺達は出来るだけ急いだ。三十分ばかりで笹木の家の前まで来た。然しどうして笹木を捕えるかが厄介だった。いきなり踏み込んでいってもし本当に不在ででもあったら、いい恥曝しだった。それかって呼び出す方法もなかった。居るか居ないかを外から確かめるより外はなかった。\n 表戸はもうすっかり閉め切ってあった。それに耳をつけて聞いてみたが、中はひっそりとして何の物音もしなかった。その上、長く立聞きをする訳にもゆかなかった。ちらほらとまだ人通りがしていた。困ったなと思ってると、池部が勝手口の路次を見付けた。開扉には締りがしてなかった。俺達は泥坊のようにそっと忍び込んだ。つき当りの勝手許まで辿りついて、其処に身を潜めた。中では何かことことと用をしてるらしかった。それがしいんと静まり返った。人声一つ聞えなかった。俺達は怨めしげに、斜め上の二階を見上げた。その戸の隙間から洩れてる光に、僅かな望みを繋いだ。然しいくら待っても、笹木のらしい人声は聞き取れなかった。もう寝てしまってるのかも知れないし、或は実際居ないのかも知れなかった。どうしたものだろう......と俺達は囁き合った。いつまで待ってればよいのやら、更に見当がつかなかった。しまいに谷山は焦れだして、小さな石を一つ二階の雨戸に投げつけてみた。何の応えもなかった。身体がぞくぞく冷えきっていった。\n 俺達は何度も、表通りへ出てみたり、また裏口へ忍び込んだりした。そのうちに陰鬱な云いようのない気持になってきた。それかって今更すごすご帰ってゆく訳にもいかなかった。底のない淵へずるずる落込んでゆくようなものだった。待てば待つほど、その待ったということに心が縛られていった。そして、無理に心をもぎ離して立去るか、思い切って踏み込んでみるか、その二つの間の距離がじりじりと狭まっていった。俺達は最後にも一度、路次の中に釘付になった。\n その時、全く天の助けだった、家の中にどかどかと足音がして、勝手許の戸が開いたかと思うと、ぱっと光がさした。その光を浴びて出て来た横顔は、意外にも浅井だった。手に下駄を下げていた。続いて笹木の姿が見えた。二人は二三歩踏み出してきた。\n 俺達は余りの意外さに面喰った。その驚きからさめると、凡ての事情が一度にはっきりしてきた。もう疑う余地もなかったし、問い訊す必要もなかった。三人同時に飛び出した。向うは棒立ちになった。それから身構えをした。両方で一寸睥み合った。力一杯に気と気で押し合った。そして息が続かなくなった時、俺は真先に笹木へ飛びかかって、拳固で横面を一つ張りつけてやった。笹木はぐたりと倒れた......と俺が思ってるうちに、足にはいてた下駄を掴んで、立ち上りざま俺の頭を狙ってきた。避ける隙も何もなかった。がーんと頭のしんまで響き渡った。眼がくらくらとした。それからはもう夢中だった。\n 殆んど瞬く間だった。俺達三人は、ぼんやりつっ立って顔を見合った。地面には、笹木と浅井とがぶっ倒れて唸っていた。俺達は黙って其処を立去った。不思議なことには、初めから言葉一つ口に出さなかったし、立去る時にも捨台辞一つせず、唾一つひっかけなかった。そして俺達は黙りこくったまま、広い通りを十町余り歩いてきた。その時谷山は、手に握ってた棒切を初めて投げ捨てた。\n「どうしたんだ。」\n「これで奴等の向う脛をかっ払ってやったんだ。」\n そしてまた四五町行くと、谷山はふいに俺へ言葉をかけた。\n「俺は本当に金を工面してくるぜ。」\n 俺はその意味が分らないで、彼の顔を見返してやった。そして咄嗟に、酒場での彼の約束は嘘で、此度のは本気であるということが分った。\n 俺は笑いたくなった。笑っちゃいけないような気がしたが、一人でに笑いが飛び出してきた。谷山も笑った。池部が眉根をひそめて――何を不快がったのか――俺の方をじろりと見た。が俺は気にしなかった。三人は本当の仲間だということを胸のどん底に感じでいた。\n やがて俺は彼等と別れた。\n「明日の晩行くぜ。」と谷山は云った。\n「俺も一緒に行く。」と池部は云った。\n 俺は一人でぶらりと帰っていった。池部と谷山も、やはり一寸口を利いただけで別れてゆくだろう、考えてみて、また笑いたくなった。思い切って高笑いしてやろうかな、と思っているうちに、頭がぼんやりしてきた。\n 家の前まで来ると、何故ともなく前後を透して見て、薄暗い小路に人影もないのを見定めてから、そっと格子を開いた。それからつかつかと上り込んでいった。\n 第一に俺の眼についたのは、神棚の明々とした蝋燭の火だった。一寸不快になった所へ、お久が顔色を変えて俺の方を見上げた。\n「どうしたんだよ、お前さん、頭から血が流れてるー。」\n「えッ!」\n 頭に手をやってみると、左の耳の上の方が円く脹れ上って、ねっとりと血がにじんでいた。あれだな......と思うと同時に、ひどく頭が痛んできた。俺は何とも云わずに、そのまま台所へ行って、血を洗って頭を冷した。いい気持だった。\n 暫くして俺はまた戻ってきたが、その間お久は、火鉢の側で石のように固くなっていた。そして俺の姿を見ると、いきなり罵り立てた。\n「やっぱりそうだったんだ! 私お前さんをそんな人だとは思わなかった。自分でよくも恥しくないんだね。浅間しくないんだね!......私もうお前さんから鐚一文だって貰やしない。ええ貰うもんか、飢え死にしたって貰やしない。さぞたんとお金を持ってきたんだろうね。そんなものなんか溝の中へでも棄っちまいなよ。恥知らずにも程がある!......。」\n 俺は呆気にとられた。\n「何を云っ......。」しまいまで云いきれなかった。\n「いくら白ばくれたって、私にはちゃんと分ってるよ。さあ白状しておしまい! お前さんは、池部と谷山に殴られたんだろうが。」\n そこまで聞くと、俺にも漸く分ってきた。俺は苦笑いしながら、反対に尋ねかけてやった。\n「お前は池部に何か云ったんだろう?」\n「云ったともさ。私お前さんをそんな男だとは知らなかった! 私立派に云ってやったよ、うちの人は笹木に内通するような男じゃないって。......ほんとに私の顔にまで泥をぬってさ、どうしてくれるつもりだよ。」\n「まあ待てよ、早合点しちゃいけねえ。」と云いながら俺は其処に坐り込んだ「明日の晩になりゃあ、何もかも分らあね。池部と谷山とが一緒に来ることになってるんだ。谷山は金を工面してきてくれる筈だぜ。」\n「え、じゃあどうしたんだよ、一体......。」\n 真剣に引き緊ってた彼女の顔が、ぽかんと眼と口とを打開いてくる様は、一寸滑稽だった。俺は笑いながら、大体のことを話してやった。そして池部と谷山とに別れた所まで話すと、彼女は咽び上げて泣き出した。\n「泣く奴があるか、馬鹿な!」\n と云ったが、俺も一寸どうしていいか困った。まあ泣くだけ泣かしておけ、という気になって煙草に火をつけた。\n その時俺は、本当に冷水をでも浴びたようにどっと震え上った。何気なく隣りの室を見ると、半分ばかり開いてる襖の間から、斜かいに射しこんでる電燈の光をちょっと受けて、何か人間の形をしたものが、布団の上に坐っていた。じゃ......とよくよく眼を据えてみると、信一が起き上って、寝呆け面でこちらを見てるのだった。"
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"role": "user",
"content": " ぼくは本間君という先輩の給仕と二人で階下の広い属官室の一隅にボロ椅子を与えられていた。本間君は専売局の女工という女工の半分くらいまでの名を知っていた。その中の一人と日曜日に本牧の海岸へ遊びに行った話もした。ぼくは羨ましげに聞きほじった。ここに長くいる間には自分にもそんな幸運が巡って来そうな気がした。「そのうち、君の好きな子に紹介してやるよ」と彼は云った。ぼくは息づまるほど本気な顔をして頷いた。\n 属官室の正面にある懸時計は、懶いチクタクを一日中繰返している。折々刻み煙草の煙管を叩く音や、ペン、算盤、咳払いなどが沈澱した空気をよけい重くしていた。どれもこれも猫背がちな姿には、和服に袴もあり、薄汚れた背広に固いカラーの人もいた。ハイカラという流行語が生きていた時代である。その中から「給仕っ」と、一種の調子をおびた声がかかる。命じられた書類などを持ってほかの室へ行く。水曜日には東京の本省から事務官の出張があり、事務官の室へも行った。\n 事務官は若い瀟洒な金ブチ眼鏡の官吏さんであり、広い一室と立派な卓に構えていた。この人の卓へ、初めて書類やお茶を運んでゆく前に、ぼくは温厚な老守衛長から、お作法の予習をうけた。九谷焼の湯呑茶碗を茶托に乗せたのを目八分に捧げ、ドアの開け方、足の運び方、退歩の礼など、ずいぶんやかましい躾けであった。だから第一回のときには、手がふるえた。よほど偉い人と思われたのであった。\n 五時には退ける。朝も今までの何業よりも遅くていい。間にも、本など読めた。それに白衣の女神たちとも眸を交わせるし、ぼくは今までにない明るい足どりで通勤をつづけていた。けれど小島の小母さんは、すぐぼくに夜学をすすめ、あちこちの夜間中学校から規則書を取り寄せてくれたりした。\n ところが、何があったのか、秋頃から小母さんはぱったりぼくの家に見えなくなった。母は何も語らない。けれど何かがあったに違いなかった。どうかした拍子には父の感情的な口吻が洩れるのだった。「女らしくない女は俺は嫌いだ」と云い「少しばかり世話になったからって、そうそう立ち入られて堪るものじゃない。英の方針だの勉強だのと、そんな事は、親として百も承知だ。それをあの調子で俺をやりこめるまで、ツベコベ云やがる」と、父は憤慨した。さては、ぼくの事から小母さんと父とが口喧嘩にでもなったのか。それならぼくは夜学など諦めてもいい。そう思った事であったが、なお母にたずねてみると、そればかりではなかったらしい。父は小母さんの侠気に乗じて金の無心か何か持ち出したものらしい。それでも小母さんは好意をもって例の気性から「何とかしましょう」と引きうけて帰ったが、夫君の小島氏が承知せず、絶交せよとまで、不快にそれを取った。母はそれをぼくへ話しながら「......無理もないのよ、小母さんの立場は。......お父さんを悪く云うんじゃないけれど、まったくお父さんという人は」と、小島さん夫婦の方に同情していた。そして「そんな事を、あの人たちに云えた義理ではないのに」とも嘆いた。\n まもなく小島さん夫妻は、どこか近県税務署へ栄転してしまった。引っ越し先の通知も来なかった。母は「何一つ恩返しもできないで」と、くよくよ独り詫びていた。しかし父は噯にもそんな事は云わない人である。腹では悔やんだり詫びていても、口では、「何だ、何がお世話になったものか。七円ばかりの給料しか貰えない所へなど世話しやがって」。そんな悪たれをいう病人なのだ。ぼくは、その一語を耳に挟むと、その日に「廃めます」と、父へ云った。「廃めて、勤め口があるのか」と、父が気色を更えた。ぼくは反抗する為の反抗語をさがして父の色をなお突いた。「ええ、有っても無くても、廃めたらいいんでしょう。どうせ七円ばかしの給料なんか、家の足しにもならないんでしょうから」。すると父は「貴さま、いつそんな口をきくようになった」と、頭から一喝した。負けずに、ぼくも口ごたえした。激すと、父は忽ち顔を朱にして烈しい咳に咽んだ。持病の胃潰瘍のほか、この頃から、父には執拗な喘息が併発していた。咳き込むと、数時間は、母に背を撫でさせて苦しむのである。だから母は、ぼくが父へ反抗を示すと、台所にいても何処にいても、すぐ駈けこんで来てぼくの方を叱った。ぼくは母に叱られるのは何ともなく、母に負けるのも口惜しくはなかった。けれど「謝れっ」と言い猛る父には、嘘にも手をつかえて謝れなかった。\n それも結局は、母の為に自分をまげて、「すみません......」と、手をつかえるほか無かったのだが、どっと涙があふれ出てとまらなかった。ぼくは何度も、自分の母の兄弟から二人の発狂者が出ていることを思い出して、ふと慄然となる事があった。事実、父と争って、疾風のごとく外へ飛び出し、一晩中、母を痩せる思いにおいた事も一、二度ならずあった。それとぼくにはいつかしら少年らしい明るさが失われ、ややもすると独り物蔭へ行って泣き抜くような性情が強くなっていた。そして、それも父の癇に触ることが多かった。父はぼくを不良な生れ損いみたいによく面罵した。事実、ぼくは成長するに従って、父に少しでもよい面を見せようとはしなかった。故意に、父を憂えさせるような素振りや仕向け方ばかり見せた。\n\n 暮の近い十二月であった。母は思い余っての事だったろう。厚ぼったい手紙を書いて「英ちゃん、東京まで一人でお使いに行ける?」と、ぼくへ云った。\n 渋谷の松濤園が開放され、その頃そこの土木工事監督に、母の実弟山上三郎が勤めていた。「三郎叔父さんの所へ」と、母は父に内緒で云うのであった。汽車賃だけを握って、ぼくは東京へ行き、松濤園の工事作業事務所を訪ねた。\n 三郎叔父は以前、長いこと、ぼくの家に食客をしていたことがある。だから顔はよく知っていた。「暢気屋さん――」という綽名があり、始終ニコニコしている人柄のよい小肥りな青年技師だった。だが一度、精神病の発作を起して、長く入院していたことがあり、その後恢復して、鍋島家との縁故からそこに勤めていたのである。\n 手紙を読むと「しようがないな、姉さんもいつまでも、これじゃあ」と呟いて、一円紙幣を一枚封筒に入れてくれた。そして工事場へ行ってしまったので、ぼくもすぐ帰るほかなかった。けれど汽車賃は、行きの片道分だけしか持って出なかったので、汽車に乗るとすれば、封筒を破って、一円紙幣をくずさなければならなかった。その一円紙幣を、くずす気になれなかった。その儘、母へ見せてやりたいと思い、とうとう、渋谷から横浜まで、道を訊き訊き、歩いて帰った。足を棒のようにし、腹もぺこぺこになって、やっと家へ辿り着いたのは、何でも夜半過ぎか夜明けだった。\n しかしこの一円紙幣も、もちろんすぐ焼け石に水だった。奉公先のカエや、きのなども、年暮には僅かな給金を貯めたのを持って、母の顔を見にちょっと帰って来た。長女のきのは、これこそ暢気屋さんで、わが家の貧乏などは、眼に映らない質だった。芝居見物に連れて行かれた話やら、奉公先の主人の豪奢な生活などを、笑いまじりにキャッキャッと話して、さっさと勇んで帰ってゆく。カエの方は、まるで性質も反対だった。来ると母に「お母さん、納豆売りしてもいいから家に居たい」と、いつも云った。父は、きのの方が好きであった。\n ぼくは今度こそ、家を出たいと思っていた。\n 諸所の口入れ所を歩き廻った末、日の出町の周旋屋で、よい口があると云われた。先はおなじ日の出町一丁目の続木商店であった。もう大晦日も近い日であった。ぼくは周旋屋を通して、いくらかの給金の前借を頼んだ。目見得をすると、それも先方できき入れてくれた。ぼくは、前借で得たなにがしの金と、周旋屋の婆さんがくれた菜漬をブラ下げて、大晦日の晩、家に帰った。そして続木商店へは五日から住み込みで勤める約束をしてきたことを母に告げた。そして金を見たらよろこんでくれるだろうと一途に思っていたところ「......住込みかえ?」と云って、母は世にも淋しげな顔をした。白い涙のすじを頬に見せた。母はその年暮頃には、もうぼくらにも分る大きなお腹をしていたのである。ぼくが家に居なくなるのは堪え難い心細さであったのだろう。父へたいしては、多少、復讐気味な反抗心さえ抱いていたぼくも、母の案外な反射を見て忽ち後悔していた。けれど、母もぼくが前借までして来た気もちを、よろこんでくれなかったわけではない。むしろ悲しい欣し泣きだったのかもしれなかった。ぼくは弟を連れて、戸部の大通りにある年の市へ出かけ、露店ののし餅やら輪飾りなどを買い歩いた。\n\n\n小俳人\n"
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"role": "assistant",
"content": "\n 続木商店は食料、洋酒、雑貨を商っていた。日の出町通りでも屈指な店舗だった。が、小売はどうでもいい風で、ほんとの営業活動は横須賀支店の方にあった。看板には“内外雑貨海軍御用達”とある。つまり横浜本店はその仕入部と、主人夫婦の住居をかねたものだった。\n ぼくはここの丁稚に住込むと、その日に名前を改められた。主人から「英吉としなさい」と云い渡されたのである。以後、主人夫婦は英吉と呼び、ほかの店員や奥の者は、英どんとぼくを呼んだ。\n 主人の続木氏はやや背は足りないが色白で小肥りな紳商然たる人で、やたらに金歯や金グサリや金ブチ眼鏡など光らせている嫌味を除けば、四十がらみの好男子で、いつも上等な葉巻を咥え、大丸髷をきれいに結い上げた若いきれいな御しんさん(御新造さんの略、おかみさんのこと)を携えて、本店と横須賀支店とを一週間おきに往復していた。\n 間もなく店員たちの蔭口で知ったが、御しんさんはもと真金町遊廓の神風楼でお職を張っていた全盛の花魁だったとの事である。が、そんな前身は、みじん感じられず、今でいう八頭身型の美人であった上、教養もあるらしく、常に容姿はくずさず、旦那の続木氏と並ぶと御しんさんの方が立派ですらあった。ぼくら丁稚番頭たちは、よくこの美男美女の若い主人夫妻が人力車をつらねて出入りするのを店で送り迎えするのだったが、御しんさんの姿には往来の人も足をとめる程だった。しかし店の通い番頭から奥の者まで、どっちかというと旦那よりはその若くて美しい御しんさんの方にみなビリビリしていた。「御しんさんに嫌われたらこの店には勤まらない」という風がどこかにある。まだ新米の小僧にすぎない身にも、自然世間的な神経がそんな風にぼくを大人びさせ、ぼくも御しんさんから「英吉」とよばれるとき、特に気を働かせたようだった。\n\n 他人の家の御飯はこれで二度目の経験である。だから初めて川村印章店へやられた時みたいな幼さはなかった。年老った通い番頭、住込みの若い店員、先輩の小僧中僧などに追い廻されても、けっこう元気でよく働く英どんではあったようだ。――けれど唯、また家を離れてみると、あんな悲惨なわが家なのに、相変らず家のことのみが忘れられない。ぼくの性分なのか、余りに母の肌がよすぎたせいなのか、ぼくが出た後、どうして暮しているかと、そればかりは念頭を離れなかった。\n すると、住込んでからまだ一ヵ月と経たない或る夕方のこと、九つになる弟の素助の影が、一人で前の舗道を行ったり来たりしている。店にいたぼくは、すぐ胸騒ぎを覚え、あわてて外へ出た。そして「何しに来たの? 家に何かあったの?」と訊ねたところ、弟はベソを掻き掻き、お使いに来たわけを訴えた。それは何でも「きのうから家じゅう御飯も何も喰べていない......」というような意味だった。途方に暮れるとはこんな時のことか。ぼくは胸がつぶれてしまい、どうしていいか分らなくなった。唯、咄嗟には、ちょうど持合せていた五銭白銅が一枚あった。それはこの頃毎晩のように九時か十時というと、主人の御老母の部屋へよばれて、按摩をするのがぼくの日課となっていた。ぼくはさんざん父の足腰を揉まされた経験があるので「英吉がいちばん上手や」と御隠居にほめられていた。そして数日前に、御褒美に貰った五銭なのである。それを弟に持たせて帰したが、いくら物の安い頃でも白銅一個で一家の飢えがしのげるとは、ぼくにも考えられていない。\n やがて夕飯になったが、飯も喉に入らなかった。自分だけがこんなに飯や汁も口に出来るという事自体が悲しかった。で、通い番頭の平井さんが帰りかけるのをつかまえて「母が急病なので今夜だけお暇をください」と頼んでみた。平井老人は「さ、旦那もお留守だし」と難しい顔をしたが、結局、御隠居さまに一応伺ってから「じゃあ、十一時までに帰るんだぜ。十一時までだよ」と許してくれた。\n その口吻に甘えて、ぼくは又「お給金で返済しますから」と、店の陳列にある牛缶を二個前借した。それを持って、その晩、西戸部のわが家へ駈けるように行った。\n ところで、後々まで、このときのぼくの失敗を、生前の母ともよく思い出しては笑い話にした事だったが、ぼくは弟の知らせで、一家が餓死寸前の急場のように感じたので、家へ行く途中で、蕎麦屋で蕎麦のカケを幾杯か註文していた。とにかくすぐ食べられる物を算段するため少年の頭脳でありッたけの智恵をしぼったつもりだった。\n じっさい、それは病床の父から幾人もの小さい弟妹たちの餓死をくいとめた物ではあった。行ってみると母すら力を失って仆れていた。きのうから一食もせず、雨戸も開けず一日を唯飢えの中に、墓場のように寝ていたというのである。\n 今のような民生委員制度も何もないあの時代では、おそらく一家が餓死しても、餓死した後でなければ、近所隣りも気がつかなかったであろう。又、そうなるまで、なす術も工夫も知らないぼくの両親ではあった。だから、ぼくの後からすぐ蕎麦屋の出前持ちの景気のいい声と共に、そこへ運ばれて来た蕎麦のカケは起死回生の物だった。まったく、どんな歓喜と慄えつくようなよろこびでそれを啜り合ったことか。それを今、思い出そうと努めても思い出せない。昨日の事に過ぎないあの終戦後の餓鬼道にちかい味覚や雑多な体験も、ぼくらはもう忘れかけている。と同様に、その折の記憶は前世紀層化してしまっているようだ。唯、忘れ難いというだけのものを残して生きつづけて来た。忘却は救いだが、思えばぼくを横着な者にもしている。\n\n 牛缶一個を切り、その汁にまで湯を注いで皆で飲み合い、ぼくは一先ず安心して店へ帰った。それはいいが、慌てた余りに、ぼくがあても無しに蕎麦をあつらえて行った為、母はそれから幾日間、何杯かのカケ蕎麦の代が払えず、毎日出前持ちに門口に立たれて催促され、あんなに困ったことはないと、後々もよく笑いばなしにした。しかしそれ程、ぼくはその晩を、一家の危急と慌てたのだった。\n それから一ヵ月半ほど経って、ぼくは横須賀支店へ廻された。\n 当分、横浜へも帰れないので、主人から半日のお暇が出、その事を家へ知らせに寄った。この日もぼくには感銘が深い。前の場合よりは、もっと印象的な記憶がある。というのは、思いがけなく、ぼくの弟が一人ふえていたからだった。母は産褥に横たわってい、産れてから間のない赤ンぼをそばに寝かせていた。これが三男の晋だった。\n ぼくは産褥の枕辺に坐って、出来立ての人間の子をしげしげ覗いた。いかにも小さく、しなびて見え、そして真っ赤な皮膚にトウモロコシの生ぶ毛みたいな毛が頭の辺に少し生えていた。\n 母は、ぼくの支店行きを聞いても、ぼくを励まそうとするのか、それとも何かべつに生計の目あてがついていたのか、そう落胆はしなかった。父もこの日は機嫌がよかった。ぼくは明るく横須賀へ立った。\n 横須賀支店は、若松町の辺で、坂下から数歩の表通りだった。店のまん前には、浅黄暖簾に“てんぷら、若松亭”と染め抜いた料亭があった。舞台で見る信濃屋お半みたいな、結綿に鹿の子帯の娘が、よく海軍士官やお客と暖簾の蔭でふざけていた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 海上は、まっ暗で、なにがなんだかわからない。救命ボートが四隻、しずかにうかんでいる。\n ごぼごぼどーんと、うしろではげしい音がしたが、これが和島丸の最後のこえのようなものだった。機関の中に海水がながれこんでその爆発となったものであろう。水柱が夜目にも、ぼーっとうすあかるく立って、ボート上の船員たちの胸をかきみだした。\n なにゆえの無警告の撃沈であろう。\n 暗さは暗し、なに者の仕業だか、一向にわからない。佐伯船長は、第一号のボートにのってじっと唇をかんでいた。\n「船長、ボートは全部無事です。第一、第二、第三、第四の順序にずっとならびました」\n 事務長が、暗がりのなかから報告した。さっきから、ボートのうえで手提信号灯がうちふられていたが、全部のボートが無事勢ぞろいをしたことを伝えたものであろう。\n「そうか。では前進。針路は真東だ」\n えいえいのかけごえもいさましく、四艘のボートは、暗い海上をこぎだした。\n「おい古谷局長」\n 船長が、無線局長をよんだ。\n「はあ、ここに居ります」\n 古谷局長も、いまは一本のオールを握って、一生けんめいに漕いでいる。\n「本船の救難信号は、無電で出したろうね」\n「はあ、最後まで正味三分間はありましたろう。その間、頑張って打電しました」\n「どこからか応答はなかったかね」\n「それが残念にも、一つもないので――」\n「こっちの無電は、たしかに電波を出しているのだろうね」\n「それは心配ありません。なにしろ打電している時間が短いものですからそれで返事が得られなかったものと思われます」\n「ふーむ」\n このうえは、救難信号をききつけたどこかの汽船が、一刻もはやくこの地点に助けに来てくれるのをまつより外はない。さっきまでは、こっちが遭難船を助けに急いだのに、今はその逆になって、こっちが助けを呼ぶ身となった。なんという逆転だろう。\n「おい古谷局長」しばらくして、船長はふたたび局長をよんだ。\n「はあ、ここに居ります」\n「さっき本船から無電したとき、本船が魚雷に見舞われたことを打電したかね」\n「はあ、それは本社宛の電報に、とりあえず報告しておきました。銚子局を経て、本社へ届くことでしょう」\n「そうか。それはよかった」\n 船長の声が、暗闇の中に消えた。洋上は、すこし風が出てきた。舷から、波がしきりにぱしゃんぱしゃんと、しぶきをあげてとびこむ。\n「さあ、元気を出して漕ぐんだ。あと二時間もすれば、夜が白むだろう」\n 事務長は、大きなこえで、一同に元気をつけた。そのときであった。\n「あっ、船が! 大きな船が通る」\n「えっ、大きな船が通るって、それはどこだ?」\n「あそこだ。あそこといっても見えないかもしれないが、左舷前方だ」\n「えっ、左舷前方か」\n 一同は、その方をふりかえった。なるほど暗い海上を、船体を青白く光らせた船の形のようなものが、すーうと通りすぎようとしている。\n「あっ、あれか。かなり大きな船じゃないか。呼ぼうや」\n「待て。うっかりしたことはするな。第一あの船を見ろ。無灯で通っているじゃないか。あれじゃないかなあ。和島丸へ魚雷をぶっぱなしたのは」\n「ふん、そうかもしれない。すると、うっかり呼べないや」\n\n\n 火花する船腹\n\n\n 佐伯船長も、おどろく眼で、その青白く光る怪船をじっと見つめていた。\n ふしぎな船もあるものだ。まるで幽霊船が通っているとしか見えない。\n「船長、試みにあの船を撃ってみてはどうでしょうか。ここに一挺小銃を持ってきています」\n 小銃で幽霊船を撃ってみるか。それもいいだろう。しかし万一あれが本当の幽霊船でなく、どこかの軍艦ででもあったとしたら、そのときはこっちはとんだ目にあわなければならない。\n「まあ待て。決して撃つな」\n 船長は、はやる船員をおさえた。そのとき第二号のボートが船長ののっている第一号艇にちかづいて、しきりに信号灯をふっている。\n「船長、第二号艇から信号です」\n「おお、なんだ」\n「無電技士の丸尾からの報告です。さっき彼は檣のうえから探照灯で洋上をさがしたところ、附近海上に一艘の貨物船らし無灯の船を発見した。その船が今左舷向こうを通るというのです」\n「そうか。分かったと返事をしろ」\n 船長は大きく肯いた。怪しい船だ。船長は、なおもじっと、通りすぎようとする青白い怪船のぼんやりした形を見守っていたが、なに思ったか、\n「おい、小銃を持っているのは貝谷だったな」\n「はい、貝谷です」\n「よし貝谷。かまうことはないからあの船へ一発だけ小銃をうってみろ。吃水よりすこし上の船腹を狙うんだ」\n「はい、心得ました」\n しばらくすると、どーんと銃声一発汐風ふく暗い洋上の空気をゆりうごかした。射程はわずかに百メートルぐらいだから、見事に命中である。\n 船長はじっと怪船の方をみつめていたが、弾丸が怪船の船腹に命中してぱっと火花が散ったのを認めた。\n「ははあ、そうか。幽霊船だと思ったが、弾丸があたって火花が出るようでは、やはり本物の鉄板を張った船なんだ。じゃあ、今にあの船は、騒ぎだすだろう。おいみんな、油断するな」\n 船長は声をはげましていった。だが、ボートから撃たれた怪船は、しーんとしずまりかえって、今や前方をすーっと通りすぎてゆく。\n「これはへんだな」と、船長は小首をかしげた。船長の考えでは、小銃でうたれたのだからいくら寝坊でも甲板へとびあがってきて、こっちへむいて騒ぐだろうと思ったのに、それがすっかりあてはずれになった。彼は思いきって、次の決心をしなければならなかった。\n「おい、貝谷居るか」\n「はい、居りますよ。もっと撃ちますか」\n「うん、撃て。私が号令をかけるごとに一発ずつ撃って見ろ。狙いどころは、さっきとおなじところだ」\n「よし。ではいいか。一発撃て!」\n どーんと、はげしい銃声だ。弾丸はかーんと船腹にあたってまたちかっと火花がでた。だが青白い怪船は、やはり林のようにしずかであった。\n「もう一発だ。撃て!」\n そうして三発の弾丸を空しくつかいはたして、なんの手応えもなかった。\n 幽霊船か、そうでないか。――たしかに鉄板の張ってある船らしいが、誰も出てこないとはどうしたわけだ。\n そのうちに、怪船は船足をはやめて、ボート隊から全く見えなくなってしまった。なんだか狐に鼻をつままれたようだ。\n 船長は無言で考えにふける。洋上に風はだんだん吹きつける。\n 四艘のボートの運命はどうなるのであろうか。\n\n\n 風浪あらし\n\n\n 船腹が青白く光る無灯の怪汽船は、闇にまぎれてどこかへいってしまった。あとには、四隻の遭難ボートが、たがいに離れまいとして、闇の中に信号灯をふりながら洋上を漂ってゆく。風が次第に吹きつのってくる。ボートの揺れはだんだんと大きくなる。\n 第一号艇には、佐伯船長がじっと考えこんでいた。\n(一体どうしたというのであろう。難破船があるという無電によって、人命をすくうため現場までいってみれば、それらしい船影はなくて、あの不吉な黒リボンの花輪が漂っていた。とたんに魚雷の攻撃をうけて、口惜しくも本船はたくさんの貨物とともに海底ふかく沈んでしまった。それからボートにのって洋上を漂っていると、そこへあの恐しい無灯の汽船だ。なぜ本船を沈めなければならなかったか。そして本船の敵は、一体なに者だろうか)\n どう考えてみても、そのわけが分らない。それは洋上で会った災難で、和島丸であろうと他の船であろうとどれでもよかったのだとすれば、なんという不運な出来ごとだろう。\n 船長が、とつおいつ、覆面の敵に対してこののちどうしようかと、思案にくれていたとき、そばにいた古谷局長が、暗闇の中から声をかけた。\n「船長、風浪がはげしくなってきて、他のボートがだんだん離れてゆくようです。このままでは、ばらばらになるかもしれません」\n「おおそうか」\n 船長は、はっと顔をあげて、洋上を見まわした。なるほど、他のボートについている信号灯が、たいへん小さくなったようだ。そしてその灯火が上下へはげしく揺れている。\n「うむ、これはますます荒れてくるぞ。針路を真東にとることは無理だ。無理にそれをやるとボートが沈没してしまうし、船員が疲れ切って大事をひきおこす危険がある。よし、古谷局長、風浪にさからわぬようにして夜明けをまつことにしよう。他のボートへ、それを知らせてくれ」\n 船長の言葉に従って、古谷局長はすぐに信号灯をふって他のボートへ信号をおくった。\n その信号は、どうやらこうやら、他のボートへも通じたらしかった。\n それを合図のように、洋上をふきまくる風は一層はげしさを加えた。どーんと、すごい物音とともに、潮がざざーっと頭のうえから滝のように落ちてくる。"
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"role": "assistant",
"content": "「おい、手の空いている者は、水をかい出せ。ぐずぐずしているとボートはひっくりかえるぞ」\n 船長はぬかりなく命令をくだした。\n 生か死か。ボートの乗組員は、いまや全身の力を傾けて風浪と闘うのであった。\n\n\n 死んだような洋上\n\n\n 乗組員の死闘は、夜明までつづいた。\n さすがの風浪も、乗組員のねばりづよさに敬意を表したものか、東の空が白むとともに、だんだんと勢いをよわめていった。そして夜が明けはなたれた頃には、風も浪も、まるで嘘のように穏やかにおさまっていた。\n「おう、助かったぞ」\n 乗組員は、安心の色をうかべると、そのままごろりと横になった。俄かに睡魔がやってきた。みんな死んだようになって、睡眠をむさぼる。\n 船長も、いつの間にか深い睡りにおちていた。が、彼は一時間もするとぱっと眼をさました。\n「やっ、不覚にも睡ってしまった。こいつはいけない」\n 船長は眼をこすりながら、艇内を見まわした。誰も彼も死人のような顔をしている。\n 空は、うすぐもりだ。まだ天候回復とまではゆかない。だから油断は禁物である。\n「そうだ。他のボートはどうしたろう」\n 船長は、眼をぱちぱちさせながら、洋上をぐるっと見わたした。だが求めるボートの影は、どこにも見えなかった。\n「おい、古谷君起きろ!」\n 船長は、傍に仆れている無電局長の身体をゆすぶった。\n 局長は、びっくりして跳ね起きた。\n「おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね」\n「えっ、他のボートが見えないのですか。三隻とも見えませんか」\n 局長はおどろいたらしい。船長が望遠鏡をわたすと、彼はそれを眼にあてて、水平線をいくども見まわした。\n「どうだ、見えるか」\n 局長は、それに対して返事もせず、その代りに望遠鏡を眼から放して、首を左右にふった。\n「どこへいってしまったんだろうな」\n 船長は、ため息をついた。\n「さあ、助かるには助かって、どこかに漂流しているんだとはおもいますが......」\n 局長はそういったが、しかしそれはなにも自信があっていったことではなかった。\n ボートは西へ西へと流れていた。どうやら潮流のうえにのっているらしい。\n「おい古谷君、無電装置を持ってこなかったかね」\n と船長がきいた。\n「はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が水浸しになって、絶縁がすっかり駄目になりました。はなはだ残念です」\n「ふうむ、そいつは惜しいことをした」\n 船長は眼を洋上にむけた。\n そのうちどこからか、汽船が通りあわすかもしれない。だがそれは運次第であって、そんなものを期待していてはいけないのであった。確たる今後の方針をどうするか、それをきめて置かなければならない。\n そのころ、乗組員たちが、ぼつぼつ起きてきた。\n「ああ夢だったか。俺はまだ風浪と闘っている気がしていたが......」\n 風浪は凪いだ。だが風浪よりもわるいものが、彼等を待っているのだ。\n それは飢と渇とであった。いや、飢より渇の方がはるかに恐ろしい。雲はだんだん薄くなって、熱い陽ざしがじりじりとボートのうえへさしてきた。この分では、飲料水の樽は、すぐからになるだろう。\n「船長、漕がなくてもいいのですか」\n「うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう」\n 船長は、たいへん呑気そうな口をきいた。だが彼は、本当はひとり、心のうちでこまかいところまで考えていたのだ。こうなれば、部下の体力を無駄につかわないことが大切だった。できるだけ永く、部下を元気に保っておかなければならない。\n「おーい、水を呑ませてくれ。咽喉が焼けつきそうだ」\n 船員の一人が、くるしそうなこえをあげた。\n「船長、水を呑ませていいですか」\n「うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない」\n「えっ、あとは夕方までいけないのですか」\n\n\n 漂流するボート\n\n\n たった一杯の水が、どのくらい遭難の船員たちを元気づけたかしれなかった。\n 次に海水にびしょびしょに濡れた握り飯が一箇ずつ分配された。おはちを持ちこんであったので、握り飯にもありつけたのである。\n「おい、そこにあるのは缶詰じゃないか」\n「おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を卓子掛にくるんで持ちこんだのだった。こんな大事なものを、すっかり忘れていた」\n わずか十個に足りない缶詰だったけれど、遭難ボートにとっては、意外な御馳走であった。\n「おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか」\n「待て、船長に伺ってみよう」\n 船長は、さっきから黙って、その方を見ていたので、部下にいわれるまえに口をひらいた。\n「あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を貯えておくのが勝ちだ。一個だけあけて、皆に廻すがいい」\n「たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない」\n 船員は不平らしくいって、唾をのみこんだ。\n 船長は、どうしても一個しか、缶詰をあけることをゆるさなかった。太平洋の遭難船で、半年以上も漂流していた例さえあるんだ。うまくいっても、一ヶ月や二ヶ月は漂流する覚悟でやらないと、計算がちがってくる。なにしろボートのうえには、二十四名の者が、ぎっしりのりこんでいるのだった。\n「水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください」\n「うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい」\n 船長は、子供にいいきかせるようにいった。だが、実のところ、太陽の直射熱はいよいよはげしくなって、誰の咽喉もからからにかわいてくるのだった。これでは、いくら水を呑んでも足りるはずがない。\n「おーい、みんな。ボートのうえに日蔽いをつくるんだ。シャツでもズボンでもいいから、ぬいでもいいものを集めろ。そしてつぎあわせるんだ。そうすれば、咽喉の乾くのがとまる」\n 船長は命令をくだした。\n 部下は、それをきくと、元気になったように見えた。手持ぶさたのうえに、がっかりしていたところへ、ともかくも船長からやるべき仕事をあたえられたからであった。\n よせ布細工の日蔽いは、だんだんと綴られ、そして、大きくなっていった。\n やがてボートのうえに、この日蔽いは張られて、窮屈ながら辛うじて全員の身体を灼けつくような太陽から遮ることができるようになった。\n「もうすこし布があれば帆が作れるんだがなあ」\n「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様がないじゃないか」\n そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。\n それは正午に近いころだった。\n 貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。\n「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」\n「えっ、ボートか」\n「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」\n 貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。\n 今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに一隻のボートが、うかんでいた。\n「おーい、和島丸のボート」\n「おーい、一号艇はここにいるぞ」\n 一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに喚き、そしてせっかく張った日蔽いをはねのけながら手をふった。\n「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」\n そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "4.馬鹿や阿呆に對しては己が賢明なる所以を明かにする道は一つしかない、してそれは吾々が彼等と全然口をきかないといふことだ。\n5.この劇作家が登場させる人物はそろひもそろつて辯舌さわやかな人達のみで、かつ行動の動機をとてもまことしやかに述べ立てるものだから、見物の方では大抵の場合一番最後に喋つた人物の方に味方して了ふ。\n6.この概念は決して四角な圓といつた樣な意見に於て矛盾するわけではない。\n7.彼の力は巨人のそれであり、彼の勇氣は獅子のそれであつた。\n8.ギリシヤ本土の住民の民謠と島嶼地帶のそれの民謠とは根本的に相違した特徴を持つてゐる。\n9.私はお前の脅迫もお前の一味の脅迫も何のそのだ。\n10.ある悲劇的體驗から女性全般を忌み憤つて近づけない絶對的な女性の敵、そんなものは只小説に出て來るだけである。\n\n\n196 【2】1.吾々はこの眞相を明かにする手段を發見するだらう。\n\n2.吾々はこれに善處する手段を發見するだらう。\n3.吾々はそのことを成し遂げる手段を發見するだらう。\n\n【3】3.では、吾々の間に起つたことはもう言ふまい:さつぱりと水に流さう。[Schwamm は海綿で作つた黒板拭を言ふ。Schw. darüber とは Streichen wir mit Schwamm darüber!]――あいつの云ふことにはやはり本當なところがあると思ふ、私はそれを信じないわけにはいかない。Das regnet! こいつはひどく降るなあ。\n\n\n和譯P.156 1.人はいざといふ場合には自分の所有物を破壞しても差支なからう、如何となれば、所有と云へば吾人はある物權に對する、それを破壞する權能をも含めた全幅の支配權を考へるのが常だから。\n\n2.これなどは實に下らない樂觀主義であつて、如何なる事實もそれを裏書しはしない、この點に就ては後に再び述ベるであらう。\n3.それとそして何等かの意味に於てそれに關聯する事柄が社會學の對象である。\n4.哲學は、他の諸科學が自明の事實として、その本來の目的を追求するためには前提とせざるを得ないところのそのものを特に取扱ふ。\n5.著者はスペースを節約しなくてはならぬ、從つて既に他者が云つて了つたことについてはもはや呶々の言を費したくない。\n\n\n197 1.乞食が貧乏詩人に出合つた、さうするとこの詩人は乞食に施物を乞ふた。[dieser, jener ノ區別ヲ明瞭ナラシメルタメワザト奇拔ナ事實ヲ擇ンダノデス]\n\n2.彼は知らない女に話しかけた、彼女は驚いてふり返つた。\n3.夫と妻が自分達だけになると前者は後者に向つてどこか惡いのかと尋ねた。\n\n\n198 【1】solcher hohe Gast は斯くの如き hoher Gast であつて solcher は Gast のみではなく hoher Gast 總體にかゝります。然るに solcher, hoher Gast(Komma と hoher に注意!)となると solcher Gast であり hoher Gast である、即ち二つの形容詞が別々に名詞にかゝります、――第二表の solcher, uns allen w. Gast は後に述べた方です。\n\n【5】1.風邪そのものは大しておそろしくない。[「風邪そのもの」= Erkältung als solche 又は Erkältung als Erkältung 又は Erk. an und für sich][#「[「風邪そのもの」」は底本では「(「風邪そのもの」」]\n\n2.人は妻に欺かれた夫共を輕蔑する、自分自身でさう(その一人に;自分自身でそれに)なるまでは。(人ノ事ダカラ笑ツテヰラレル)。\n3.醫者は彼に二三ヶ月南フランスで暮すことをすゝめた、彼はしかしそれは(そんなこと、そのやうな贅澤)は彼の金力には及ばぬと返答した。\n4.彼女は私と私の兄弟を博士と呼んだ、私の兄はほんとにさうなんだけど、私はしかしさうではない。\n\n\n199 1.今晩私は公に演説しろと云はれてゐる、これは何んと云つても選擧などゝいふものゝ習慣だ。\n\n2.「彼はお前にきつと何か遺産を殘すだらう」と叔父ウルリヒは彼女に云つた。\n\n「さあどうでせうかね、ウールリヒ叔父さん!」と彼女は嘆息した「金持と偉い方とかいふものは、何んと云つても皆利己主義者なんだわ」\n\n\n和譯P.159 1.このビルデング[Haus はよくビル、アパートもしくはデパート等を指す。]の三階に最新型のマルキストと古臭い哲學者が住んでゐる。哲學者の方はいつも貧乏だがマルキストは大金持になつた。\n\n2.合同運動といふ奴は所謂民族の自由運動とは全然別な特質をもつてゐる。後者はいゝ氣持な浮れ氣分で始まるが、前者は多少たりとも物になり相な運動なら、合同の最も合理的な形式は何んぞやといふ極く地味な問題に向けられてゐる。\n3.健康程有難いものはないと。たとへ健康を持つてゐたところで本當の使途を知らない人々の信仰第一箇條がこれである。\n4.俺は偶然ここに居て、俺の不利益になるやうなお前の云草をすつかり聞いて了つた。やい、貴樣にきくが、何の權利があつてそんな惡口を云ふのだ。\n5.哲學を研究することは決して不合理な不可知な世界を合理的、概念的な世界に換へることなど[etwa]ではなくて、むしろ世界の超合理的な一面に對する感じを鋭どめ、不可知のものは不可知とし祕密は祕密として己も體驗し又他にも體驗せしめることである。\n\n\n201 1.大衆はたゞ恬然として誰憚らず出鱈目を云つてのける樣な民衆指導者の言にのみ信を置く。\n\n2.人はただ斷乎たる行動に出る人物を信頼する。\n3.私は義務のそれ以外の何等の掟にも從はぬ。\n\n\n和譯P.161 1.大宣傳をするところの企業にのみ信を置くといふ、これが即ち一般人の許すべからざる無智である。\n\n2.名詞の位置にその代表として立つところのその語を代名詞と呼ぶ。\n3.如何なる眞理と雖も、それを認めるところの人々、或はより適切に云へば、それを認める意思のある人々にとつてのみ妥當である。\n4.私はかうみてゐる、即ち人はそもそも常に最も理解するところの少ないものに關しても最も素晴しい與太を飛ばすものだ。\n5.生涯一人の女の持つ魅力を歎賞せざるを得ないとなれば隨分退窟なことだが、若しそもそもいまだ嘗つて彼女が持つたこともない魅力を歎賞してゐなくてはならないとなると猶更退屈なことだ。[況んや美しからざる妻君をやの意]\n\n\n202 1.吾々の子どもは嘗て吾々がやつた同じ愚をまた始めからやり直す。\n\n2.あいつはちつとも昔と變らないね、フランツの奴は。[gut は多少馬鹿にした愛稱である]\n\n【1】1.國家が教會を支持すれば、教會も亦國家を支持する義務があるわけだ。(ihrerseit sauch ハ ihrerseits auch ト訂正)\n\n2.彼は大統領自身ではなく、その代理人と面會したに過ぎなかつた。\n\n【2】1.英語とドイツ語は同一語系から發してゐる。\n\n2.英語とドイツ語は同一系統に屬する。\n3.印度歐羅巴人種は源は同一種族であり同一言語を使用してゐた。\n\n【3】1.ゆるゆる急げとドイツの諺は云ふ。同じことを意味する日本語に於ける好一對は何んといふか。\n\n\n208 11.Dietrich 合鍵\n\nvon, durch, mit の差はほゞこの頃に述べた方針に從つて使ひ分けるといふ意味で、その使ひ分けにはかなり微妙な語感を要しますから、ある具體的な場合を捕へてこの場合は必ず von だ、或は durch だ等と斷言することは危險です、大體の據り處を示したものと思つて下さい。\n\n\n209 1.彼は善美なりし往時を述懷する[想ひ起す意味もあれば:又この方がむしろ普通ですが、追懷的に言及する意味もあります]\n\nMan tanzt,に就て:必ずしも「誰かが」踊つてゐるの意のみならず「皆が」「吾々が」「私が」「お前が」etc. の場合にも用ひることに關して注意を喚起されたし。\n\nP.166 1.Die Kellertür wird vom Koch aufgeschlossen.\n\n――コツクが地下室の戸をあける。\n\n2.Sein Name wird überall genannt.\n\n――どこへ行つても彼の名を耳にする。"
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"role": "assistant",
"content": "\n3.Eines Tages werde ich von einem längst vergessenen Jugendfreund aufgesucht.\n\n――ある日久しく忘れてゐた竹馬の友が私の所へやつて來た。\n\n4.Der Sohn wird von dem Vater mit einem unerwarteten Geschenk überrascht.\n\n――父が子息に思ひがけない時に思ひがけない贈物をする。\n\n5.Es wird heute den ganzen Tag gearbeitet,[den ganzen Tag ガアルカラトテ Heute wird der ganze Tag gearbeitet. トスベカラズ]――今日は一日働く。\n\n6.Das Geschäft des altersschwachen Vaters wird von dem (durch den) Sohn geleitet.\n\n――息子が老衰した父の代りに店をあづかる。(或は事業を指導する。)[ワザワザ Geschäft トイフト大抵營業、店舖ヲ指シマス。]\n\n7.Eine mustergültige Weltgeschichte wurde von dem berühmten Universitätsprofessor geschrieben.\n\n――有名な大學教授が模範的な世界史を書いた。\n\n8.Der Talgrund wird von einem Waldstrom durchbraust.\n\nEs wird der Talgrund von einem Waldstrom durchbraust.\n――溪流が谷底をざわめき流れる。\n\n9.Der Müßiggang wird von unserem Lehrer verdammt.\n\n――吾々の先生はずぼらはいけないと云ふ。\n\n10.Es wurde gesegelt, gerudert und geschwommen.\n\n――或はヨットを操り、或はボートをこぎ、或は泳いだ。\n\n\n和譯P.166 1.アダム・スミスの説は、人間の行爲は全て利己主義の命ずるが儘に行はれるといふ例の有名な前提から出發してゐる。\n\n2.レマルクの映畫「西部戰線異状なし」は一再ならず政府委員によつて上映を禁止された。\n3.一國民の一致結束は、擧つて死地に赴くといふ際に於て最も力強いものである。\n4.思惟や認識が行はれる場合にはあらかじめ限界が劃される必要がある[定義のことを云ふ]。限定[定義]無しに思惟に何んの據所もなく、第一認識などは成立しない。\n5.彼の大規模な計畫の實行は只一つの偶發事に依つて妨げられたに過ぎない。\n\nP.168 1.娘や、心配することはないよ、私がお前さんの夫と話してみよう。かうした世間的な人物といふものはいつの時代にも私達女の意の儘になつて來たものだからね。\n\n2.第一に重要なことはそもそも着手することが出來ることだ。まづ一たび筆なり鍬なり手にとつて最初の一筆なり一鍬なりをおろして了へば仕事はずつとずつと容易になつて來る。\n3.大衆が藝術を引下げると一般に主張されてゐるのは正しくない、藝術家が大衆を引下げるのである、そして藝術が衰微した時代には必ずそれは藝術家に依つて滅されて了つたのである。\n4.本邦では、未だ嘗て古い憲法を再吟味し近代的事態に適合させる試みが爲されたことがない。\n5.人間の徳は、それが習慣になつて了はない間は確かな所有ではない。[solange sie nicht zur Gewohnheit geworden ist]\n\n\n211P.170 ☞3.遂に示談といふ所まで行かなくて、彼は結局被告といふことになつた。\n\n4.彼は正座したまゝ悚然と感動に打たれて了つた。\n\n☞1.部屋は掃除したのだが、ちつとも掃除したやうに(綺麗に)なつてない。馘になつて了へば、結局馘(失業)だ。\n\n2.[ausbauen 充實する、完成する、擴充する、abbauen 緊縮する、淘汰する、馘首する]\n3.ピアノはたつた今調律(し)たばかりなのに、もう音階が狂つてゐる(あたり前でない)。\n\n\n212 1.私の樣に度々手術を受けると遂には少しも怖しくなくなる。\n\n2.いつ貴君は入學許可されたのか?\n\n備考: 若し Wann sind Sie immatrikuliert? と問はれたら、意地惡く出ようと思へばわざわざこれを worden の省略を見ずに前項に述べた完了状態と誤解した振りをして Jetzt!(今在校生です)と答へることも出來よう、けれども問ふた人にしてみれば今在校生(状態)はわかり切つた話で、實は入學した期日を問はうとするのです。これで210項と212項との差が解りませう。\n\n\n213 1.此の樣な重大な處置は充分考慮される必要がある。\n\n2.私は小さな子どもを四人持つてるが、こいつらも皆なそれぞれ手がかゝる。\n3.かういふ機微な關係はよほど愼重に取扱ふ必要がある。\n\nP.171 1.觀衆は娯まされ感動させられることを欲する。觀衆が慰安を欲してゐる際に努力など要求すると彼等は不滿足である。\n\n\n214 1.彼は博物館に行つた、入場した、廣間をいくつも通り拔けた、そして二階に着いた。[以下すべて状態語法は、日本語では必ずそれに該當する動作語法を用ひないと日本語として妙になります。]\n\n2.彼は足を滑らした、よろめいた、キヤット云つた、前へのめつた、そして地面に倒れた。\n\n\n和譯 1.既に此の夏仕事は始まつた、まだしばらくはかかるだらうが結局立派な建物がたつだらう。\n\n2.彼にとつては、階段を自分の部屋へ昇つて行き、戸を後にしめてさて、愈〻自分の身體が自分のものになるといふ瞬間程有難いものはなかつた。\n3.獵區Xに於ける野猪狩りに於て、ある山林學生が野獸の追跡中に地面に倒れた。その際彼の銃が發射して、彈丸が仲間の背後から胸の中へ通貫した。後者は其場で死亡した。\n4.「水!」これが彼の發し得た唯一の言葉であつた。一滴の水に彼の生命は懸つてゐたのである。仲間は水を持つて來て、彼の顏に水を浴せ、彼に飮ませた、かくてドクトル・バールトは助かつた。\n5.すると一人の綺麗な少女が彼の前にやつて來た。彼女は一寸おぢぎをして、彼にバラの花を渡した、そして、彼が彼女に禮も云ひ得ないうちに、再び人込みの中に紛れ去つた。\n6.人々は長い間彼を待つてゐた。彼は來た、彼等に云ひたいことを云はせ、それをぢつと聽いた後、ちよつと考へて、それから手紙を二三書くと、それで問題は片づいた。\n\n\n215 A.der alte (Strauß) B.der Alte(例の老人は)\n\n\n和譯P.175 1.人は時代の變轉を感じ、そして其の背後に常住不變の永遠性なるものを感ずる。\n\n2.お孃さん、あなたの將來の幸福を祝して乾盃[盃を打ち合せる、anklingen とも云ふ]することをこの見知らぬ[私に]お許し下さい。\n3.凡そ吾人が人腦の營みを把捉するところとして又しても結局個々の事象、從つて有限者を手にせざるはないのである。全體を把握し、況んや概念で表現する等に至つては到底不可能なことである。[wo wir は wo wir auch, wo wir immer(例へどこで......しようとも)――解釋:精神活動(學問、宗教、藝術、政治、交際)の野は廣い、何處を wo 把へ packen てもそれは單なる一側面(Einzelnes, Endliches)であるに過ぎない。]\n\nP.175 4.現代に於ける本當の不幸者とは貧乏人ではなくむしろ失業者である。\n\n5.議長は再三言葉を愼しめと注意した、しかしその議員は宰相を莫迦と怒鳴り續けた。[zur Ordnung rufen 議長が鈴を振つて一同もしくは辯士に何等かの注意を與へること]\n6.全歐洲諸國家を打つて一丸とし、一つの共和國にするといふことは多くのドイツ學者の理想であつた。\n7.この老人は再び無一文となつた、そして嘗て彼に好意を示したことのある昔の知己を二三訪ねた。\n8.以前は、それはもう(schon)よほど金持で、うんと金を使ふとかそれとも官吏仲間に親類でもないと自分が官吏に(einer = es od. ein solcher)なるわけに行かなかつた。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 起きて、朝飯たべて、それから二人で畑ごしらえをしました。この娘さんは畑の畦を切り、わたしは去年の秋からこしらえてあった肥料をかけ、又土をかけ、小松菜やふだん草やを蒔きました。種が余りよくなくて自信ないけれども買いに行っていると、きょうのことにならないから、蒔いてしまいました。この節の野菜なしと来たらお話の外ですから。「この頃のような暮しだと、こわくない半日だの不安のない一時間が実にうれしいわね、玉のようね、だから、そういうとき、本当にたのしいことをしたいと思うのに、ダラダラ儲けた話でつぶれるとくやしいのよ」そんなことを云い乍ら、桜の鉢をいれかえたり、水仙の球根を植えたり、シャボテンに土をかけたりして、殆ど終ったら警報が出ました。\n 今、午後三時頃。二度目の解除。わたしは、そのたのしい数刻を尊重して小机をかかえこみ、瀧川という子は、わたしの上っぱりを縫いはじめました。風が出て来て、カナリアのチイチイチイ、チチチチチというメロディアスな声を吹きちぎります。\n きのうは、朝六時にトラックが来て、春木屋の荷と人とをつんで茨城の田舎へ運びました。ここの家には今おやじと中学二年の弟とがいます。弟はずっとここから京華に通うでしょう、おやじは、東京にうちがなくなったから上京すればここに泊ります。「その代りあっちからお米や何かは運びますから」「その代りと云わなくたっていいさ、もって来てお貰いしなくちゃどうせならないにきまってはいても、ね」\n わたしたちが畑をしているとき、細君は椽にかけてつくろいものをしています、息子はムツという犬を抱いてムツが何か食当りしてくにゃくにゃだと云ってしらべています。都会の人って面白いのね、わたしたちは誰かが土いじりしていると、つい誘われて何かしたくなるのに、町の人ってものは、そういう気分が全くないものと見えるのね。\n きのうは、六時頃起きて荷出しにガタガタしたから、何となしうんざりして思い切って成城までモンペとりに出かけました。行ってよかったとくりかえしました。この頃は、わたしの歩く道はどこも焼けっ原で、はげしい人々ばかりで、風呂しきで頬かぶりして歩きます、成城には、まだこわいことが一度もないもんだから、まだ生活を味っている、という空気が往来にも漂っていて、家々の垣根もちゃんと手入れされ、芝生は芝生で日光を吸い、紅梅が咲いたりして居りました、風がなかったので、長い道ものびやかに歩き、親切に友達が縫ってくれたモンペをもらって、夜八時頃はらはらでかえりました、瀧川さんと。\n そして、こういうことを思いつきました、近いうちに、ここへ行って、二日ほど泊って、すっかり休んで来よう、と。考えて見ると、この新年以来、わたしの生活もなかなか大したもので、よく風邪もひかず、病気もしずしのいだものだと思われます、もっとひどくなるに当って、このガタガタな空気をすこしはなれて違った家で、ちがった話して、神経を休めることは大切な養生と思いました。来週のうちに、あなたの御都合のつくときそういたしましょう。土、日、は、東京がこの間うち、いつもやられたのでわたしがいないのは逃げた感じになっていけないと思って、きのうもはらはらし乍らかえった次第でした。時々そうして友人のところへ泊ったりして、段々わたしがいないことにならそうとも思います。一ヵ月に一度ぜひという用事があるという丈になれば、東京暮しにしろ場所は変り得るかもしれませんから。然しわたしの経済事情では、わたし丈別箇の生活というものを殆ど不可能にしています、そのことは、それから先の生活形態のことにも関係するので何かいい方法はないかと考え中です。生活費などというものは、この頃、予算でやれるものでなくなりましたし、或意味では、金で駄目ですから、生活の場所というものは極めてむずかしいことになって来ました。このことは、頻りに考えているのよ、疎開の先をきめる上にも。開成山へ行くのは一番すらりとした道です。しかし、あすこには行きしぶります、わたしまであっちにかたまってしまうというのは、いいこころもちがいたしません。汽車が通じないものとして考えなければなりませんものね。あすこから往復も出来ないと見るべきです、現在もう、そうなのですから。ずっとずっと遠方だって、事情が何とかなれば、行ききりだっていいと思うわ。そちらでの生活が何とかなる見とおしさえつけば。東京との連絡は絶えますし振替とか為替はきかなくなりますし金銭そのものが大いに変化いたしましょうし。どうかいい智慧を拝借。あらゆる面で旅行はむずかしくなり停滞してしまうのではないかと気にかかって居ります。疎開荷物でさえ、今たのんだら倉庫で二三ヵ月の由です。人を運ぶのも、なかなかのようよ。人には人がいります。その人が不足していて。だからわたしも案外東京ぐるりでの生活が継続するのではないかと思います。先ず第一段として、旧市内より外に暮すところを見つけようと思いますが、それもつまるところ、ここがやけてからのことでしょうね。ここがなくなれば菅谷夫婦は、自分たちの便宜によって別になるだろうと想像されます、但菅谷が徴用ですから田舎へ行くことはないでしょうが、縁辺を辿って。「タシュケント。パンの市」という昔の小説のように、食物の確保されるところへ、と向って。わたしはそういうときついてゆく気にはなれません。\n この頃又バルザックよみはじめました。「ウージェニ・グランデ」。そして、何となし思います、文学の本質は何と善良であろうか、と。大作家たる人々は共通の善良さ、善良を愛さずにいられない心の衝動を生涯もって居りますね。俗人は、善良におどろかなくなるし、感じなくなるし発見しなくなるし自分で善良でなくなることをもって大人になったと思います。そして老いさらばうのです。芸術家や政治家の偉大な人々は、人間の善良を信じ、発見し、それに動かされる衝動を枯死させない精神力をもっていて、それ故に不思議な若々しさと単純である故の高貴さをもっています。\n わたしはバルザックを生き返らして、一枚の写真を見せてやりたいと思いました。それは数日前の新聞に出ていたものです、三人の人間が並んで写っていたの、チャーチルは厚外套にくるまって、ずんぐりで、髪がうすく、眼の碧さが写真でも分る眼つきで口が大きいの、あくまで、ゆるぎなきリアリストという風丰です。\n となりに笑い乍ら話しているセオドアは、めっきりふけました。この何年かの生活のはげしさがまざまざと見えます、彼の大テーブルの上の象牙の大小の象の列は昔のままかもしれませんが。やつれて、脚の不自由なこの男は、快活だのに、雰囲気にハムレット的な優柔さ動揺があるのは何と面白いでしょう、この人の輪廓は震動して居ります。彼の精神力の限度に達しているという感じです、まさに溢れんとしているようです、矛盾が。ハムレット的雰囲気というのは、実に実に面白い、こんな写真はじめてです。右の端に元帥服を着た人は、英語で交わされる二人の話に、笑顔で向いています、アゼルバイジャンの髭はなくなって格幅よくどっしりと若々しく手を何と上品にくみ合わせて、首を二人に向けているでしょう。気品というものは、かかるもの也という風よ。チャーチルは荒海で古びた指導のあざらしのように巨大ですが、あまりのリアリズムのために美を失っています。ハムレット風の顫動は、思いやれる様々の点での興味をひくとは云え、そこに感じられるのはよろこびではないと思います。アンの「北方への旅」にあるああいう揺れ(彼女のスケールでは、気の利いたようでもあり機智的であるようにもあらわれる、あの聰明さとそうでないものとの間の微妙なニュアンス)気品人間的尊貴の美しさというものは大した大したものね。わたしははいバルザックさんと見せてやりたいのよ。人類の、こういういくつかの典型を、あなたはどこまで描けますか、と。わたしは、バルザックが困惑するだろうと思って大いに笑えるのよ。彼も大きい心情により、その強壮な心臓によって、気品にうたれるでしょうと思います。しかし彼にその気品の再現は出来ないわ。彼が生涯をその間に投じた利害の波瀾、地位の争奪、奸計のどこの糸をひっぱっても、その品位に到達する筋はないから。品位の解説をするものは、一見それと全く違った文飾ない現実でありますから。面白いわねえ。わたしは、その一葉の写真が、これこそ現代史と呼ばれるべきと思いました。\n こういう写真が、こんな粗末な、刷のわるい新聞に出る、現代は正にそういうときなのです。\n そして、わたしは、十八の少女のように、自分もどうか気品ある人間になりたいと渇望を感じます。十八の娘は、そう感じる丈です。が、今のわたしは生活によって、そういう気品の価値はいかに高いものであるかを学んで居りますから、その渇望はひとしお切実であり、謙遜であり、且つ執拗です。ねえ、ほんとうに精神の輝は何と覆えないでしょう、才能だの、賢こさだの、というものでは到底輝き出せないつやと品位がとりかこんでいるような、その立派さの極単純になっているそういう複雑さ。ああ、ああ。わたしのリズムは高くなって、わたしのささやかなオーデをうたいたくなります。「わたしは知っている」という題で。わたしは知っている、その箱は出来のわるいみにくいものだけれども裡には一かたまりの純金。無垢なる黄金、よろこびの源。世故にたけた年よりは、きっとわざとその箱をこしらえておくのだろう。余り無垢なるものが、時より早く歳月に消耗されてしまわないように、と。無垢なる黄金が、小銭に鋳られてあっちに、こっちに、散ばってしまわないように、と。生き古りて来た年より、人類の、思慮ふかい吝嗇さ、いじわるさ。それらを、わたしは知っている。こういう詩の断片もあるのよ。明日は月曜日ですが森長さんの返事をもって参ります。\n"
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"role": "assistant",
"content": " 三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕\n\n 三月二十二日夜\n 今、十時十五分前です。そして珍らしい状況で、この手紙をかいて居ります、鷺の宮なの。そこまではきょう申しあげていたから平凡ですが、ここへ来て二十分もしないうちにわたし一人留守番をすることになって細君とまあちゃんが出かけ、七時頃帰るのが、まだ戻りません、ひどい風ね、ここの廊下に立ってガラス戸越しに見ると、南東の方が濛々と茶色にけむって居りました。そっちが市内なのね、日の出あたりの埃のひどさお話にならず、市中塵埃全く目も口も開きかねました。細君と娘とは、野菜のために出かけました。大した骨折りよ、ね。この風、あの混む電車、距離。でも、ここの台所を見ると、あるのは、くされかかったゴボー1/3本だけです。正直な窮乏の姿よ、行かざるを得ません。\n わたしは、前の手紙でお話したように、家じゅうとどろとどろで、おまけに寿江が来、まだ開成山からの娘も居り、寿江が例のとおり気づまりないかめしい在りようをしているので気が疲れて、迚も、出かけるからと云われて一緒に出てあのひどい駅で揉み通す元気がありませんでした。それで留守番をひきうけました。七輪に火をおこし、湯をわかし、ジャリジャリの顔を洗い、髪をとかし、おむすびをたべ、そして床に入って五時まで、ゆっくりと横になって居りました。\n 同じ東京でも、目下のところ第一線的地域にいる人間、やけ出された人しかいないような地域にいる者と、こうしてまだ傷かない土、春の樹木のある地域とでは、こんなにして横になっていても何とのびやかさが違うんだろうと、どこかの窓のカーテンが展かれたようないい心地です。同時に、こう考えるの。この風に、そして、旦那さんの安否が不明なのに、電話がかかれば其をのがせなくて出かけて行く生活も大抵でない、と。今は、平常ののびやかさというものは、どこにもないのがあたり前となりました。例えば、わたしの行く家で一ヵ所として室内がちゃんとしているところはないわ。いざという時外へ出すものそういうものが椽側に出ています。壕代りに戸棚が開いていて、いろいろのものが出され積み重ねられています。うちだって、先ずあの風情ゆたかな玄関が、出そこねたコモ包みで荷揚場のようです。そして内玄関へまわると、すこし広いところに焼けぼっくいの材木やトタンがきな臭くつまれて居ります。\n 七時に帰るのが十時とは可哀そうね。どんなに疲れるでしょう、帰ったら顔洗うように、とお湯わかしてあったのに、もう火がないわ、きっと。でも勝手に炭をつかうとわるいし。炭どこでもないないよ。お湯を、フトンの中に入れて来ましょうヤカンを。そしたらいいわ、帰ってお茶をのむにも、ね。\n 留守番の間に、厚生閣から十五年に出た『短篇四十人集』というのを見ました。十五年頃の作品の内容は、ひどいものねえ。作家と云えないような、習作が作家いって並んでいます。なかでは、尾崎一雄のが作家らしいし大人の作品です。そして、読み乍ら、どうしてどの作品も文学らしい題だけもつけないのかと作家のカンについて奇妙に思いました。最後に集めてある室生犀星の古もの(庭におく石の手洗の話)の作なんか鬼ヶ島という題だったら一寸面白いと思える文章が作品のなかにそのままちゃんとあるのに「宝」です。川端康成でさえ別の作品集の中で「母の初恋」というつまらない題を平気でつけているんですもの、これなんかはもっともっといい題をつけていい作品なのよ文学的に。だのに。やっぱりこれも作中に「愛の稲妻」という言葉があって、それの上を切って稲妻としたらずっと文学なのにね。ホンヤクして見て母の初恋なんて、文学作品の題でしょうか。婦人雑誌のよみ切り小説だって、ましな題をつけます。惜しいし奇妙ね、全く。\n 日本の人は、大体一定の様式をもちません。ナイーヴね、題を見てもそれを思います。短篇が断片に通じます。それにつけても『春桃』の中の「かかし」や「記念像」を思い出します。およみになりましたかしら。いい作品でしょう、きょうは久しぶりで十五年度の作品をいくつもよんで、様々の感想にうたれます。こういう程度の作品と作家とで、出版インフレは通過したのであった、と。『ヨーロッパの七つの謎』を土曜日までに読もうとしてけさも熱心によみ、且つ考えていたので、その対比を一層つよく感じます。人間的善意というものの質量についても。\n『七つの謎』は、やはり面白い本であるし真面目な教訓にみちた一巻であると思います。人間の善意というものの成長について一つの時代を画したものであり、欧州というものの連関を知らせるものでもあり、善意が、ある段階において現実の推進にとりのこされ得るものであること、そういう場合、それはその個人の悲劇にとどまらず善意の悲劇であることなどを感じさせます。\n 愛というものは、いつも淳樸であり、若々しく善良でその意味では稚いけれども、愛によって賢しと云うこともあり、愛によって勁しということもあります。善意というものはやっぱり若々しく永遠に若いものだけれども歴史の段階に即して成長するということは或種の人々にとって不可能なものなのね、つまりその結果は、善意が実功をあらわさず奸悪を凌駕する雄々しい美しい決断と智謀とをもたず善意はお人よしに通じてしまい、高貴な精神も萎えてしまうのね、現実の前に。\n この『七つの謎』をよむと、欧州の或る種の良質な精神が、第一次大戦から今次の大戦までの間に経て来た苦悩と努力と混乱(現実の見かたの小ささ。代表的個人――政治家で世界の平和が支配されているように考える誤り)とがまざまざと理解されます。\n 本国の運動に対してさえ良識ある者は有害としたローゼンベルグの「神話」がこちらで売れたのは、悲劇の一つです。その亜流を輩出させたのは更に。一般に他国の文化その他を摂取するとき、素地との磁力関係で、精煉された面より、より粗な面が吸着するということは注目に価すると思います。どの国でもそういう危険をもっているのね。何故でしょう、歴史の喰いちがいの大きい二者の間で特にこのことは顕著です、文学者は、飽くまでも善良で、賢くつよくなければなりません。自身の善意を、悲劇たらしめてはなりません。ジュール・ロマンは、さすがに平静を失わず七つの謎を解明しようとして居りますが、善意が悲劇に到達したそのことについての反省はされていません。善意のボン・ノム加減で赤面していません。従って彼はこの本を書くことで崩れた善意像の破片の整理をしたでしょうが、果して、次の段階で新しい善意で羽搏き得る発展をしたでしょうか。生物として六十歳という年齢は成長期でないけれど、その人間が善意を貫徹して生きようとするならば、善意そのものの永遠の若さに従順となってその成長に応じて生物的限界を飛躍しなければならないでしょう。しかしこれをなしとげたものは歴史上ごく稀です。(まあ、もう十一時すぎよ。どうしたのでしょう。すこし心配になって来ました。最後の電車で帰るのでしょうか、一人でいるのはいいけれども。どうしたのでしょうね、本当に)"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「無論食ふ方さ」\n「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働らく方が方便なら、食ひ易い様に、働らき方を合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働らいたつて、又どう働らいたつて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」\n「まだ理論的だね、何うも。夫で一向差支ないぢやないか」\n「では極上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱られたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」\n「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」\n「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ」\n「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益遣る義務がある。なあ三千代」\n「本当ですわ」\n「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とう〳〵御仕舞になつた。\n\n七の一\n\n 代助は風呂へ這入た。\n「先生、何うです、御燗は。もう少し燃させませうか」と門野が突然入り口から顔を出した。門野は斯う云ふ事には能く気の付く男である。代助は、凝と湯に浸つた儘、\n「結構」と答へた。すると、門野が、\n「ですか」と云ひ棄てゝ、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味を有つて、独りにや〳〵と笑つた。代助には人の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為時々苦しい思もする。ある時、友達の御親爺さんが死んで、葬式の供に立つたが、不図其友達が装束を着て、青竹を突いて、柩のあとへ付いて行く姿を見て可笑しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父の顔を見たら、急に吹き出したくなつて弱り抜いた事がある。自宅に風呂を買はない時分には、つい近所の銭湯に行つたが、其所に一人の骨骼の逞ましい三助がゐた。是が行くたんびに、奥から飛び出して来て、流しませうと云つては脊中を擦る。代助は其奴に体をごし〳〵遣られる度に、どうしても、埃及人に遣られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。\n まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の心臓の鼓動を、増したり、減したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する癖のある代助は、ためしに遣つて見たくなつて、一日に二三回位怖々ながら試してゐるうちに、何うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。\n 湯のなかに、静かに浸つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持つて行つたが、どん〳〵と云ふ命の音を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ出して、すぐ流しへ下りた。さうして、其所に胡坐をかいた儘、茫然と、自分の足を見詰めてゐた。すると其足が変になり始めた。どうも自分の胴から生えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法に横はつてゐる様に思はれて来た。さうなると、今迄は気が付かなかつたが、実に見るに堪えない程醜くいものである。毛が不揃に延びて、青い筋が所々に蔓つて、如何にも不思議な動物である。\n 代助は又湯に這入つて、平岡の云つた通り、全たく暇があり過ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から出て、鏡に自分の姿を写した時、又平岡の言葉を思ひ出した。幅の厚い西洋髪剃で、顎と頬を剃る段になつて、其鋭どい刃が、鏡の裏で閃く色が、一種むづ痒い様な気持を起さした。是が烈敷なると、高い塔の上から、遥かの下を見下すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終つた。\n 茶の間を抜け様とする拍子に、\n「何うも先生は旨いよ」と門野が婆さんに話してゐた。\n「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、\n「やあ、もう御上りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ帰つて、椅子に腰を掛けて休息してゐた。\n 休息しながら、斯う頭が妙な方面に鋭どく働き出しちや、身体の毒だから、些と旅行でもしやうかと思つて見た。一つは近来持ち上つた結婚問題を避けるに都合が好いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に掛つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り三千代の事が気にかかるのである。代助は其所迄押して来ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。\n\n七の二\n\n 代助が三千代と知り合になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であつた。代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合から云ふと、もつと地味で、気持から云ふと、もう少し沈んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合つてゐた。三千代は其妹である。\n 此菅沼は東京近県のもので、学生になつた二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今迄の下宿を引き払つて、二人して家を持つた。其時妹は国の高等女学校を卒業した許で、年は慥十八とか云ふ話であつたが、派出な半襟を掛けて、肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通ひ始めた。\n 菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、椽側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆た鉄の様に、頗る異しい色をしてゐた。其一本は殆んど枯れ掛かつて、上の方には丸裸の骨許残つた所に、夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若い画家が住んでゐた。車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居であつた。\n 代助は其所へ能く遊びに行つた。始めて三千代に逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持つて出る丈であつた。其癖狭い家だから、隣の室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行かなかつた。"
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"role": "assistant",
"content": " 三千代と口を利き出したのは、どんな機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦口を利き出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安くなつて仕舞つた。\n 平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立つて、来た事もある。さうして、代助と前後して、三千代と懇意になつた。三千代は兄と此二人に食付いて、時々池の端抔を散歩した事がある。\n 四人は此関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云ふのが、田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊つてゐた。此母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日寐起する例になつてゐたんだが、其時は帰る前日から熱が出だして、全く動けなくなつた。それが一週間の後窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり返して、とう〳〵死んで仕舞つた。それ許ではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、是も程なく亡くなつた。国にはたゞ父親が一人残つた。\n それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞旁礼を述べた。\n 其年の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なつて貰つたのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であつた。\n 結婚して間もなく二人は東京を去つた。国に居た父は思はざるある事情の為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代は何方かと云へば、今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付いてゐられる様にして遣りたい気がする。代助はもう一返嫂に相談して、此間の金を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた。\n\n七の三\n\n けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗ひ浚い嘵舌り散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る様になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼の本当に知りたい点は、却つて此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故に金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有つてゐなかつたのである。\n 其上平岡の留守へ行き中てゝ、今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家にゐる以上は、詳しい話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張つてゐる。見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。\n 代助は、兎も角もまづ嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂にちび〳〵、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急に痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層此方から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜んでゐた。\n 生暖かい風の吹く日であつた。曇つた天気が何時迄も無精に空に引掛つて、中々暮れさうにない四時過から家を出て、兄の宅迄電車で行つた。青山御所の少し手前迄来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦れ違つたから、向ふは元より気が付かずに過ぎ去つた。代助は次の停留所で下りた。\n 兄の家の門を這入ると、客間でピアノの音がした。代助は一寸砂利の上に立ち留つたが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥てゐた。代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振つて、斑な顔を急に上げた。さうして尾を揺かした。\n 入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後、すぐ西洋間の方へ来て、戸を明けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かして居た。其傍に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色のリボンと、それから黄色い縮緬の帯が、一時に風に吹かれて空に流れる様を、鮮かに頭の中に刻み込んでゐる。\n 母子は同時に振り向いた。\n「おや」\n 縫子の方は、黙つて馳けて来た。さうして、代助の手をぐい〳〵引張つた。代助はピヤノの傍迄来た。\n「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」\n 梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向ふから斯う云つた。\n「代さん、此所ん所を一寸遣つて見せて下さい」\n 代助は黙つて嫂と入れ替つた。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働かした後、\n「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。\n\n七の四\n\n それから三十分程の間、母子して交る〴〵楽器の前に坐つては、一つ所を復習してゐたが、やがて梅子が、\n「もう廃しませう。彼方へ行つて、御飯でも食ませう。叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗くなつてゐた。代助は先刻から、ピヤノの音を聞いて、嫂や姪の白い手の動く様子を見て、さうして時々は例の欄間の画を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出る時、振り返つたら、紺青の波が摧けて、白く吹き返す所丈が、暗い中に判然見えた。代助は此大濤の上に黄金色の雲の峰を一面に描かした。さうして、其雲の峰をよく見ると、真裸な女性の巨人が、髪を乱し、身を躍らして、一団となつて、暴れ狂つてゐる様に、旨く輪廓を取らした。代助はヷルキイルを雲に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付かない、偉な塊を脳中に髣髴して、ひそかに嬉しがつてゐた。が偖出来上つて、壁の中へ嵌め込んでみると、想像したよりは不味かつた。梅子と共に部屋を出た時は、此ヷルキイルは殆んど見えなかつた。紺青の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡の大きな塊が薄白く見えた。\n 居間にはもう電燈が点いてゐた。代助は其所で、梅子と共に晩食を済ました。子供二人も卓を共にした。誠太郎に兄の部室からマニラを一本取つて来さして、夫を吹かしながら、雑談をした。やがて、小供は明日の下読をする時間だと云ふので、母から注意を受けて、自分の部屋へ引き取つたので、後は差し向になつた。\n 代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ〳〵進行を始めた。先づ父と兄が綱曳で車を急がして何所へ行つたのだとか、此間は兄さんに御馳走になつたとか、あなたは何故麻布の園遊会へ来なかつたのだとか、御父さんの漢詩は大抵法螺だとか、色々聞いたり答へたりして居るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外でもない。父と兄が、近来目に立つ様に、忙しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々寐るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始つたんですと、代助は平気な顔で聞いて見た。すると、嫂も普通の調子で、さうですね、何か始つたんでせう。御父さんも、兄さんも私には何にも仰しやらないから、知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間の御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来た。\n 今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云つて呉れと云ふ電話を伝へた儘、書生は再び出て行つた。代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、些御願があつて来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "大正七年\n大正八年\n\n\n大正七年漫吟\n\n斎藤茂吉送別歌会\n\n\n\n大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て\n\n\n\nわが住める家のいらかの白霜を見ずて行かむ日近づきにけり\n\n長崎著任後折にふれたる\n\nうつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥しにけり\n\n据風呂を買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る\n\n東京にのこし来しをさなごの茂太もおほきくなりにつらむか\n\nかりずみのねむりは浅くさめしかば外面の道に雨降りをるかな\n\n聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞こゆ\n\nゆふぐれて浦上村をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ\n\n電灯にむれとべる羽蟻おのづから羽をおとして畳をありく\n\nうなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり\n\n灰いろの海鳥むれし田中には朝日のひかりすがしくさせり\n\nとほく来てひとり寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り\n\n陸奥に友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや\n\nわれつひに和に生きざらむとおもへども何にこのごろ友つぎつぎに死す\n\nおもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ\n\nかりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ\n\nうつしみはつひに悲しとおもへども迫り来ひとのいのちの悲しさ\n\nむし暑き家のとのもに降る雨のひびきの鋭さわれやつかれし\n\n長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり\n\n仮住の家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ\n\nわが家の石垣に生ふる虎耳草その葉かげより蚊は出でにけり\n\nすぢ向ひの家に大工の夜為事の長崎訛きくはさびしも\n\n長崎歌会\n\n\n\n大正七年十一月十一日於斎藤茂吉宅 題「夜」\n\n\n\nはやり風をおそれいましめてしぐれ来し浅夜の床に一人寝にけり\n\n大正八年雑詠\n\n奉迎摂政宮殿下歌 長崎日日新聞所載\n\n豊栄といや新らしくなり成れる国見をせすといでましたまふ\n\nかけまくもあやにかしこし年古れる長崎のうみに御艦はてたまふ\n\n百千代と祝ぎてとどろく大砲に応へとよもす春の群山\n\nみ民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ港の天にとほらざらめや\n(長崎日日新聞、十首中存四首)\n友に与ふ\n\n港をよろふ山の若葉に光さしあはれ静かなるこのゆく春や\n\n長崎は石だたみ道ヴェネチアの古りし小路のごととこそ聞け\n\nおのづからきこゆる音の清しさよ春の山よりながれくる水\n\nはりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは痛々しかり\n\nよわよわと幽かなりともはからひの濁りあらすなわれの世過に\n(長崎日日新聞)\n八月三十日\n\n\n\n長崎同人小集を土橋青村宅に開く\n\n\n\nこほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり乱れたる心しましなごみぬ\n\n長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを\n\n九月二日 日ごろ独りゐを寂しむ\n\n白たへのさるすべりの花散りをりて仏の寺の日の光はや\n\n中町の天主堂の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし\n\n九月十日 晧台寺\n\nヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦にてすなはち道富丈吉生みき\n\n九月十日 天主堂\n\n浦上天主堂無元罪サンタマリアの殿堂あるひは単純に御堂とぞいふ\n\n外国よりわたり来れる霊父らも「昼夜勤労」ここにみまかりぬ\n\n九月十二日\n\n\n\n独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ\n\n\n\n長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入りつ\n\n四海楼に陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来\n\n九月二十五日 古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂を訪ふ。猶太新年なり\n\n猶太紀元五千六百八〇年その新年のけふに会へりき\n\n満州よりここに来れる若者は叫びて泣くも卓にすがりて\n\n長崎の商人としてゐる Lessner も Cohn も耀く法服を著つ\n\n十月二十五日\n\n\n\n平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等\n\n\n\n阿蘭陀の商人たちは自らの生業のためにこれを遺しき\n\nあはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし\n\nわれは見つ肥前平戸の年ふりし神楽の舞を海わたり来て\n\n十月 東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ\n\n巡業に来ゐる出羽嶽わが家にチャンポン食ひぬ不足もいはず\n\n十月三十日 夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く\n\n南蛮絵の渡来も花粉の飛びてくる趣なしていつしかにあり\n\n十月三十日\n\n\n\n光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ\n\n\n\nこの址にいろいろの樹あり竹林に冬の蠅の飛ぶ音のする\n\n十一月六日\n\n\n\n司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」\n\n\n\n江漢が此処に来りて心こめし色をし見なむ雲中観音図\n\n十二月二十八日 渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ\n\n隠元の八十一歳の筆といふ老いし聖の面しおもほゆ\n\n十二月三十日\n\n\n\n十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ\n\n\n\n四歳の茂太をつれて大浦の洋食くひに今宵は来たり\n\nはやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子外に行かしめず\n\n寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす\n\n大正九年\n\n一月六日\n\n\n\n東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく\n\n\n\nはやりかぜ一年おそれ過ぎ来しが吾は臥りて現ともなし\n\n二月某日 臥床。私立孤児院は我家の向隣なり\n\n朝な朝な正信偈よむ稚児ら親あらなくにこゑ楽しかり\n\nわが病やうやく癒えて心に染む朝の経よむ稚等のこゑ\n\n対岸の造船所より聞こえくる鉄の響は遠あらしのごとし\n\n鉄を打つ音遠暴風のごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで\n\n三月一日 連日勤務す\n\n東京より来にしをさなご夕ごとに吾をむかへてこゑを挙ぐるも\n\n五月四日 大光寺にて三浦達雄一周忌歌会を催す\n\n長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し蟇が鳴けるかな外の池にて\n\n外のもにて魚が跳ねたり時のまの魚跳ねし音寂しかりけれ\n\n藤浪の花は長しと君はいふ夜の色いよよ深くなりつつ\n\n君死にしよりまる一年になるといふ五月はじめに君死にしかも\n\nこのみ寺は山ゆゑ夜のしづかなる林の中に鷺啼きにけり\n\n山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀いろの港見えつも\n\nここのみ寺より目したに見ゆる唐寺の門の甍も暮れゆかむとす\n\n五月二十四日\n\n\n\n大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予\n\n\n\nシイボルトを中心とせるのみならずなほ洋学の源とほし\n\n五月二十五日 ひとり西坂をゆく\n\n西坂を伴天連不浄の地といひて言継ぎにけり悲しくもあるか\n\n短冊二種\n\nおもほえず長崎に来て豊けき君がこころに親しみにけり(永山図書館長に)\n\n長崎のいにし古ごと明らむる君ぞたふときあはれたふとき(古賀十二郎翁に)\n\n\n"
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"content": "「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)\n\n\n\nささやけき薬草の一つとおもへども烟草のみしよりすでに幾とせ\n\n\n\n武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ\n\n\n\n大音寺の樟の太樹を見てかへり公教会報の歌を写すも\n\n五月三十日 雷が丘、雨声楼(秋帆別邸)辰巳にて夕餐会等を催す\n\n萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ\n\n六月一日\n\n\n\nひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」\n\n\n\n長崎の麦の秋なるくもり日にわれひとりこそこころ安けれ\n\n六月二日 西浦上伊木力に到る\n\n畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも\n\n六月二十五日\n\n\n\n六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診\n\n\n\n病ある人いくたりかこの室を出入りにけむ壁は厚しも\n\nゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる\n\n闇深きに蟋蟀鳴けり聞き居れど病人吾は心しづかにあらな\n\n六月二十七日\n\n\n\n血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ\n\n\n\nわが心あらしの和ぎたらむがごとし寝所に居りて水飲みにけり\n\nくらやみに向ひてわれは目を開きぬ限もあらぬものの寂けさ\n\n若き友ひとり傍に来つつ居りこの友もつひに病を持てり\n\n七月二日 県立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を専らにす\n\nあらくさの繁れる見ればいけるがに地息のぼりて青き香ぞする\n\n午すぎごろわが病室の入口に鶉の卵売りに来りぬ\n\nゆふぐれの泰山木の白花はわれのなげきをおほふがごとし\n\n七月二十二日 高谷寛日々来りてクロームカルシウムの注射せり\n\nわが家の狭き中庭を照らしつつかげり行く光を愛しみにけり\n\nひと坪ほどの中庭のせまきにもいのち闘ふ昆虫が居り\n\n年わかき内科医君は日ごと来てわが静脈に薬入れゆく\n\n長崎に来りて四年の夏ふけむ白さるすべり咲くは未か\n\n七月二十四日 島木赤彦はるばる来りて予の病を問ふ\n\n長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより\n\nよしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな\n\n温泉嶽療養\n\n\n\n大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。\n\n\n\nこの道は山峡ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ\n\nこの道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか\n\n赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが\n\n草むらのかなしき花よわれ病みし生やしなふ山の草むら\n\nみちのくに稚くしてかなしみし釣鐘草の花を摘みたり\n\nうつせみの命を愛しみ地響きて湯いづる山にわれは来にけり\n\n温泉にのぼり来りて吾は居り常なきかなや雲光さへ\n\n温泉のむらを離れてほのぐらき谿の中にて水の音ぞする\n\n谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ\n\n千々和灘にむかひて低く幾つ谷息づくごとし山のうねりは\n\n高々と山のうへより目守るとき天草の灘雲とぢにけり\n\n七月二十八日\n\nきぞの朝友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ恋しむ\n\n家いでて来にしたひらに青膚の温泉嶽の道見ゆるかな\n\n小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我はちかづく\n\n山の根の木立くろくして静けきを家いで来つつ恋ふることあり\n\n羊歯のしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉ひとつ近くに鳴きつ\n\nたまたまは咳の音きこえつつ山の深きに木こる人あり\n\n臥処にて身を寂しみしわれに見ゆ山の背並のうねりてゆくが\n\nあそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗く遠やま明し\n\n夏の日の牧の高原しづまりて温泉の山暮れゆくを見たり\n\n遠風のいまだ聞こゆる高原に夕さりくれば馬むれにけり\n\n水光ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき\n\n七月二十九日 広河原道其他、前田徳八郎、高谷寛のぼり来\n\n松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり\n\n合歓の花ひくく匂ひてありたるを手折らむとする心利もなし\n\nあまつ日は既にのぼりて向山に晩蝉鳴けどここには鳴かず\n\n行きずりの道のべにして茱萸の実ははつかに紅し紅極まらなむ\n\n赤土の道より黒土の坂となり往くも反るも心にぞ留む\n\n七月三十日\n\n湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計を照らす\n\n長崎に二年居りて聞かざりし暁がたの蝉のもろごゑ\n\nまくらべに時計と手帳置きたるにいまだ射しくるあけがたの月\n\n起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は傾きにつつ\n\n山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉聞けば蟋蟀に似たり\n\nあかつきのさ霧に濡れてかすかなる虫捕ぐさの咲けるこのやま\n\n寂しさに堪ふる寝所に明暮れし吾にせまりて青き山々\n\n七月三十日、三十一日 別所奥、林中\n\n温泉の別所の奥は遠く来し西洋人もまじりて住めり\n\n木もれ日はしめれる土の一ところ微かなる虫の遊ばむとする\n\n谿水のながるる音も巌かげになりて聞こえぬこのひと時を\n\n牛ふたつ林のなかに来り居りきのふも此処に来りてゐしか\n\nあまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに\n\n露西亜よりのがれ来れる童子らもはざまの滝に水あみにけり\n\n八月一日 一切経滝等\n\n幾重なる山のはざまに滝のあり切支丹宗の歴史を持ちて\n\n深き峡南ひらきておち激つ滝のゆくへを吾はおもひき\n\nこの山に湧きいだしたる幾泉あひ寄り峡の底ひに落激つ\n\n安息をおもひて心みだれざりふもとの山に紅き日かたむく\n\n落つる日の夕かがやきはこの山の平に居りてしばしだに見む\n\n八月二日\n\nあかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く蜩のこゑ\n\nたぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原に一日すぐしぬ\n\n温泉が嶽に十日こもれど我が咽のすがすがしからぬを一人さびしむ\n\n水激ちけむ因縁も知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ\n\nひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず日照る近山\n\nかなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき\n\n八月三日 谿\n\nけふもまた山泉なる砂のべに居るかな病める咽を愛しみて\n\n谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし\n\n雨はれし後の谿水いたいたしきのふも今日も赭く色づき走る\n\nこの山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉一つ地におりたつ\n\n山かげの楢の木原の下枝にも山蚕が居りて鳥知らざらむ\n\n大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも\n\n八月三日 広河原道\n\nわがあゆむ山の細道に片よりに薊しげれば小林なすも\n\n山なみの此処にあひ迫る深谿を見おろすときに心落ちゐず\n\nしばしして吾が立向ふ温泉の妙見が嶽の雲のかがやき\n\n長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字など人名きざめり\n\n多良嶽とあひむかふとき温泉の秋立つ山にころもひるがへる\n\n吾が憩ふひとついただきに漆の木いまだ小さく人かへりみず\n\nめぐりつつ岨をし来れば島山と天草の海ひらけたり見ゆ\n\nなぎさには白浪の寄るところ見えこの高きより見らくしよしも\n\nものなべて秋にしむかふ広河原の水のほとりに馬居り走らず\n\n山かげに今日も聞ければ晩蝉は秋蟋蟀の寂しさに似つ\n\nやまかがし草に入りゆくに足とどむ額の汗を拭きつつ吾は\n\n八月四日 谿、温泉神社(四面宮、国魂神社)裏の石原に沈黙せり\n\n石原に来り黙せばわが生石のうへ過ぎし雲のかげにひとし\n\n小さなる螇蚸のたぐひ跳ねゆきぬ水涸れをりて白き石はら\n\n曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ\n\nけふ一日雲のうごきのありありて石原のうへに眩暈をおぼゆ\n\n音たてて硫黄ふきいづるところより近き木立に山蚕ゐるなり\n\n八月五日 広河原地、絹笠山\n\nこの山を吾あゆむとき長崎の真昼の砲を聞きつつあはれ\n\n絹笠の峰ちかくして長崎の真昼を告ぐる砲の音きこゆ\n\nふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き牛等は水飲みにけり\n\n山はらを貫きめぐる道ありて馬駈けゆくがをりをりに見ゆ"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 肚はすわった。\n 彼はそう決意して眠りについたが、翌日になると、なお、もう一応自己の信念をたしかめてみたくなったか、丞府の吏に、\n「荀彧を呼びにやれ」と、いいつけた。\n\n四\n\n やがて、荀彧は召しによって府へ現れた。\n 曹操は、特に人を遠ざけて、閣のうちに彼を待っていた。\n「荀彧か。きょうはそちに、取りわけ重大な意見を問いたいため呼んだわけだが、まず、これを一見するがよい」\n「書簡ですか」\n「そうだ。昨日、袁紹の使いが着いて、はるばる齎してきたもの。即ち、袁紹の自筆である」\n「......なるほど」\n「これを読んで、そちはどう感じるな」\n「一言で申せば、辞句は無礼尊大であるし、また、書面でいってきたことは、虫のよい手前勝手としか思われません」\n「そうだろう。――袁紹の無礼には、積年、予は忍んできたつもりだが、かくまで愚弄されては、もはや堪忍もいつ破れるか知れぬ気がする」\n「ごもっともです」\n「――ただ、どう考えても、袁紹を討つには、まだいささか予の力が不足しておる」\n「よくご自省なさいました。その通りであります」\n「しかし、断じて予は彼を征伐しようと思う。そちの意見は、どうだ?」\n「必ず行うてよろしいでしょう」\n「賛成か」\n「仰せまでもございません」\n「予は勝つか」\n「ご必勝、疑いもありません。わが君には四勝の特長あり、袁紹には四敗の欠点がありますから」\n と、荀彧は、きのう郭嘉がのべた意見と同じように、両者の人物を比較して、その得失を論じた。\n 曹操は、手を打って、大いに笑いながら、\n「いや、そちの意見も、郭嘉のことばも、まるで割符を合わせたようだ。予も、欠点の多いことは知っている。そういいところばかりある完全な人間ではないよ」\n と、彼の言をさえぎってからまた、真面目に云い直した。\n「しからば、袁紹の使いを斬って、即時、彼に宣戦してもよいか」\n「いや! その儀は?」\n「いけないか」\n「断じて、今は」\n「なぜ」\n「呂布をお忘れあってはなりません。常に、都をうかがっている後門の虎を。――それに、荊州方面の物情もまだ決して安んじられません」\n「では、なお将来まで、袁紹の無礼に忍ばねばならんか」\n「至誠をもって、天子を輔け、至仁をもって士農を愛し、おもむろに新しい時勢を転回して、時勢と袁紹とを戦わせるべきです。――ご自身、戦う必要のないまでに、時代の推移に、袁紹の旧官僚陣が自壊作用を起してくるのを待ち、最後の一押しという時に、兵をうごかせば、万全でしょう」\n「ちと、気が長いな」\n「何の、一瞬です。――時勢の歩みというものは、こうしている間も、目に見えず、おそろしい迅さでうごいている。――が、植物の成長のように、人間の子の育つように、目には見えぬので、長い気がするのですが、実は天地の運行と共に、またたくうちに変ってゆくものです。――何せよ、ここはもう一応、ご忍耐が肝要でしょう」\n 郭嘉、荀彧ふたりの意見が、まったく同じなので曹操も遂に迷いを捨て、次の日、袁紹の使者を丞相府に呼んで、\n「ご要求の件、承知した」\n と、曹操から答えて、糧米、馬匹、そのほか、おびただしい軍需品をととのえて渡した。そして、使者には、盛大な宴を設けてねぎらい、また、その帰るに際しては特に、朝廷に奏請して、袁紹を大将軍太尉にすすめ、冀州、青州、幽州、并州の四州をあわせて領さるべし――と云い送った。\n\n健啖天下一\n\n一\n\n 黄河をわたり、河北の野遠く、袁紹の使いは、曹操から莫大な兵糧軍需品を、蜿蜒数百頭の馬輛に積載して帰って行った。\n やがて、曹操の返書も、使者の手から、袁紹の手にとどいた。\n 袁紹のよろこび方は絶大なものだった。それも道理、曹操の色よい返辞には、次のような意味が認めてあった。\n\nまず、閣下の健勝を祝します。\n次には、\n閣下がこの度、北平(河北省・満城附近)の征伐を思い立たれたご壮図に対しては、自分からも満腔の誠意をもって、ご必勝を祈るものであります。\n馬匹糧米など軍需の品々も、できる限り後方よりご援助しますから、河南には少しもご憂慮なく、一路北平の公孫瓚をご討伐あって万民安堵のため、いよいよ国家鎮護の大を成し遂げられんことを万祷しております。\nただ、お詫びせねばならぬ一事は、不肖、守護の任にある許都の地も、何かと事繁く、秩序の維持上、兵を要しますので、折角ながら兵員をお貸しする儀だけは、ご希望にそうことができません。なお、\n勅命に依って、\n貴下を、大将軍太尉にすすめ、併せて冀、青、幽、并の四州の大侯に封ずとのお旨であります。ご領受あらんことを。\n\n「いや、曹操の返辞も、どうかと思っていたが、この文面、このたびの扱い、万端、至れり尽せりである。彼も存外、誠実な漢とみゆる」\n 袁紹は安心した。\n そこで大挙、北平攻略への軍事行動を開始し、しばらく西南の注意を怠っていた。\n × × ×\n 夜は、貂蝉をはべらせて、酒宴に溺れ、昼は陳大夫父子を近づけて、無二の者と、何事も相談していた。\n それが、呂布の近状であった。\n ひそかに憂えていた臣は陳宮である。きょうもにがにがしげに彼は呂布へ諫言を呈した。\n「陳珪父子の者を、ご信用になるも結構ですが、あまり心腹の大事まで彼らにお諮りあるのは如何かと思われます。――言葉の色よく媚言巧みに、彼らが君を甘やかしている態度は、まるで幇間ではありませんか」\n「陳宮、そちはこの呂布を、暗愚だというのか」\n「そんなわけではありません」\n「ではなぜ、おれに讒言して、賢人をしりぞけようとするか」\n「彼ら父子を、真実、賢人だと思っていらっしゃるのですか」\n「少なくとも、呂布にとってはまたなき良臣といえる」\n「――ああ」\n「何がああだ、人の寵をそねむものと、貴様こそ、諂佞の誹をうけるぞ」\n「もう何も申しあげる力もございません」\n 陳宮は、退いた、忠ならんとすれば、却って諂佞の臣と主人の口からまでいわれる。\n「如かず、門を閉じて」と、彼はしばらく引籠ったまま徐州城へも出なかった。そのうち北方の公孫瓚と袁紹との戦乱が聞えてくる。四隣の物情はなんとなく騒然たるものを感ぜしめる。\n「そうだ。狩猟にでも行って、浩然の気を養おう」\n 一僕を連れて、彼は秋の山野を狩り歩いた。\n すると、一人の怪しげな男を認めた。旅姿をしたその男は陳宮の顔を見ると、あわてて逃げだした。\n「......はてな?」\n やり過してから、陳宮は小首を傾けていたが、何思ったか、にわかに弓に矢をつがえて、馳けてゆく先の男へ狙いすました。\n\n二\n\n 矢は狙いあやまたず、旅人の脚を射止めた。\n 猟犬のように、下僕の童子はそれへ飛びかかってゆく。\n 陳宮も、弓を投げすてて、後から馳けだした。猛烈に反抗するその男を召捕って、きびしく拷問してみると、それは、小沛の城から玄徳の返簡をもらって、許都へ帰る使いの者ということが分った。\n「曹操の密書をおびて、玄徳へ手わたしてきた、というのか」\n「はい......」\n「では、玄徳から曹操へ宛てた返書を、それに持っておるだろう」\n「いえ、それはもう、先へ行った伝馬の者がたずさえてゆきましたから手前は持っておりません」\n「偽りを申せ」\n「嘘ではございません」\n「きっとか」\n 陳宮が、剣に手をかけると、旅の男は、飛び上がった。\n とたんに、真赤な霧風が剣光をまいた。大地には、首と胴が形を変えて離ればなれになっている。\n「童子、死骸を検べてみろ」\n「ご主人様。......袍の襟を解いたらこんな物が出てきました」\n「オオ。玄徳の返書だ」"
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"role": "assistant",
"content": " 陣宮は、一読すると、\n「誰にも、口外するなよ。わしはこれから、徐州城へ参るゆえ、弓を持って、おまえは先に邸へ帰れ」\n 供の童子にいい残して、陳宮はその足ですぐ登城した。\n そして、呂布に謁し、云々と仔細を告げて、玄徳から曹操へ宛てた返簡を見せると、呂布は、鬢髪をふるわせて、激怒した。\n「匹夫、玄徳め。――いつのまにか曹操と諜しあわせて、この呂布を亡ぼさんと謀っておったな」\n 直ちに、陳宮、臧覇の二大将に兵を授け、\n「小沛の城を一揉みにもみ潰し、玄徳を生捕って来れ」と、命じた。\n 陳宮は謀士である。小沛は小城と見ても無謀には立ち向わない。\n 彼は、附近の泰山にいる強盗群を語らって、強盗の領袖、孫観、呉敦、昌豨、尹礼などという輩に、\n「山東の州軍を荒し廻れ。今なら、伐取り勝手次第」と、けしかけた。\n 宋憲、魏続の二将はいちはやく汝頴地方へ軍を突き出して、小沛のうしろを扼し、本軍は徐州を発して正面に小沛へ迫り、三方から封鎖しておめきよせた。\n 玄徳は、驚愕した。\n「さては、返書を持たせて帰した使いが、途中召捕られて、曹操の意思が、呂布へ洩れたか」\n と、胆を寒うした。\n 先頃、曹操から、密書をもって云いよこしたことばには、呂布を討つ機会は、実に今をおいてはない。北方の袁紹も、北平と事を構えて、黄河からこっちを顧みている遑はなし、呂布、袁術のあいだも、国交の誼みなく、予と其許とが呼応して起てば、呂布は孤立の地にある。まことに、易々たる事業というべきではないか。\n 要するに、戦備の催促である。もちろん劉玄徳は、敢然、協力のむねを返簡した。――呂布が見て怒ったのも当然であった。\n「関羽は西門を守れ、張飛は東門に備えろ、孫乾は北門へ。また、南門の防ぎには、この玄徳が当る」\n 取りあえず部署をさだめた。\n なにしろ急場だ。城内鼎の沸くような騒ぎである。――その混乱というのに、関羽と張飛のふたりは、何事か西門の下で口論していた。\n\n三\n\n なにを口喧嘩しているのか。\n この戦の中に。\n また、義兄弟仲のくせして。――と兵卒たちが、守備をすてて、関羽、張飛のまわりへ立って聞いていると、\n「なぜ、敵将を追うなと止めるか。敵の勇将を見て、追わぬほどなら、戦などやめたがいい」\n といっているのが張飛。\n それに対して、関羽は、\n「いや、張遼という人物は、敵ながら武芸に秀で、しかも恥を知り、従順な色が見える。――だから生かしておきたいのだ。そこが武将のふくみというものではないか」\n と、諭したり、説破したり、論争に努めている。\n 玄徳の耳にはいったとみえ、\n「この際、何事か」と、叱りがきた。\n「関羽、どっちが理か非か。家兄の前へ出て埓を明けよう」\n 張飛は、関羽を引っぱって、遂に、玄徳の前まで議論を持ちだした。\n で、双方の云い分を玄徳が聞いてみると、こういう次第であった。\n その日、早朝の戦に。\n 呂布の一方の大将張遼が、関羽の守っている西門へ押しよせて来た。\n 関羽は、城門の上から、\n「敵ながらよい武者振りと思ったら、貴公は張遼ではないか。君ほどな人物も、呂布の如き粗暴で浅薄な人間を主君に持ったため、いつも無名の戦や、反逆の戦場に出て、武人か強盗か疑われるような働きをせねばならぬとは、同情にたえないことだ。――武将と生れたからには戦わば正義の為、死なば君国の為といわれるような生涯をしたいものだが、可惜、忠義のこころざしも、貴公としては、向け場がござるまい」\n と、大音ながら、話しかけるような口調で呼びかけた。\n すると――\n 寄手をひいて、猛然、攻めかけてきた張遼が、なに思ったか、急に馬をめぐらして、今度は張飛の守っている東の門へ攻めに廻った様子である。\n そこで関羽は、馬を馳せて、張飛の守っている部署へ行き、\n「討って出るな」と、極力止めた。\n「――張遼は惜しい漢だ。彼には正義の軍につきたい心と、恥を知る良心がある」\n と、敵とはいえ、助けておきたい心もちと理由とを、張飛に力説した。\n「おれの部署へ来て、よけいな指揮はしてもらいたくない」\n 張飛は、肯かない。\n そこで口論となり、時を移してしまったので、寄手の張遼も、余りに無反応な城門に、不審を起したものか、やがて、退いてしまったというわけであった。\n「惜しいと云いたいのは、張遼を討ちもらしたことで、まったく、関羽に邪魔されたようなものだ。家兄、これでも、関羽のほうに理がありましょうか」\n 張飛は、例の如く、駄々をこねだして、玄徳に訴えた。\n 玄徳も、裁きに困ったが、\n「まあ、よいではないか。捕えても逃がしても、大海の魚一尾、張遼一名のために、天下が変るわけもあるまい」\n と、どっちつかずに、双方を慰撫した。\n × × ×\n どこかで、可憐な少女の歌う声がする。\n 十里城外は、戦乱の巷というのに、ここの一廓は静かな秋の陽にみち、芙蓉の花に、雲は麗しく、木犀のにおいを慕って、小さい秋蝶が低く舞ってゆく。\n\nにらの花が、地面にいっぱい\n金かんざし、銀かんざし\nお嫁にゆく小姑に似合おう\n小姑のお聟さんは\n背むしの地主老爺\n床にねるにも、おんぶする\n卓へつくにも、だっこする\n隣のお百姓さん\n見ない振りしておいで\n誰も笑わないことにしよう\n前世の因縁、しかたがない\n\n 徐州城内の、北苑、呂布の家族や女たちのみいる禁園であった。十四ばかりの少女が、芙蓉の花を折りながら歌っている。歌に甘えて、その背へ、うしろから抱きついているのは、少女の妹であろう。やっと歩けるほどな幼さである。\n\n四\n\n 誰もいないと思ってか、少女は手折った芙蓉を髪に挿し、また、声を張りあげて歌っていた。\n\n妹是桂花 香千里\n哥是蜜蜂 万里来\n蜜蜂見花 団々転\n花見蜜蜂 朶々開\n\n 呂布はその声に、後閣の窓から首を出した。\n 眼をほそめて、娘の歌に聞き恍れている顔つきである。\n「............」\n 姉は十四、妹は五ツ。\n ふたりとも、呂布の娘である。\n 十四の姉のほうは、先頃、袁術の息子へ嫁がせるまでになって、一夜、盛大な歓宴をひらき、珠簾の輿にのせて、淮南の道へと見送ったが、にわかに、模様が変ったため、兵を派して輿を途中から連れもどし、そのまま、もとの深窓に封じてしまった、――あの花嫁御寮なのである。\n 花嫁はまだ小さい。\n 国と国の政略も知らない。戦争がどこに起っているかも知らない。父親の胸のうちも、徐州の城の運命も知らない。\n ただ歌っている――そして幼い妹と手をつないでくるくるめぐっていたが、ふと、父の呂布の顔を、後閣の窓に見たので、\n「あら!」\n と、顔を紅らめながら母たちの住んでいる北苑の深房へ馳けこんでしまった。\n「はははは。まだまことに無邪気な姫君でいらっしゃいますな」\n 呂布のそばには、家臣の郝萌が顔をならべてたたずんでいた。\n「む、む。......あのようにまだ子どもだからな、可憐しいよ」\n 呂布は腕をくんだ。――なにか娘のことについて、沈吟しているようだった。\n 室には郝萌と彼と、ただ二人きりで、最前から何か密談していたところである。\n その郝萌は、玄徳から曹操へ宛てた例の返簡が、呂布の手に入って、こんどの戦端となった、その日に、\n(急ぎ淮南へ参って、袁術に会い、先頃の縁談は、まったく曹操にさまたげられて、一旦はお約束にそむいたものの、依然、貴家との婚姻はねがっているところである。――と申して、至急取りまとめて来い)との秘命をうけて、早馬で淮南へ向い、つい今しがた、袁術からの返辞を持って、これへ帰ってきたものであった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 禁制違反或は或条件の違犯によりて、死の起原を説くもの、独り日本神話、猶太神話、希臘神話のみにあらず、未開民族の神話にその例多し。未開民族は好んで、禁制を説き、条件を説き、その違犯によりて、種々の事件の起源を説明し、多くの現象を解釈せんと欲す。今日の文化民族も亦た、嘗て同様の信仰を有したりしことは、その民間説話の示せる、無数の徴証によりて、之を証明するを得可し。茲に南洋民族の神話界より、死の起原に関する二個の説話を挙げん。第一の説話に従えば、人間の祖、最初の夫婦は、蝙蝠の住める或一個の樹に近づくことを禁ぜられ居たり。然るに或日、婦は薪を拾わんと欲して、かの禁を破りて、此樹に近づきしかば、蝙蝠は飛び去りて、之より人間に死あるに至れり。此説話が、果して純粋の南洋説話なるや、或は猶太説話の分子を含むや。此疑問に関しては、何等の明確なる答をなすことを得ず。第二の説話に至りては、恐らく純粋の者なるが如し。曰く、最初の人の子、或時傷を得たり。両親にして、其子の傷を癒し得ば、死は决して人間に来る可からざりしなり。然るに、其両親の治療、効を奏せざりしかば、死は遂に人界に来れりと。こは条件の違反なりと、解釈す可し。「ベンガル」の「ニンフォー」人の神話にもまた曰く、はじめには、人間は死することなかりき、唯或池に浴することを禁ぜられたり。然るに、此禁を破りて、かの池に浴せし者あり。之より凡て人間は、死を免かれざるに至れりと。同様の例は、尚多く之を挙ぐるを得可し。其説くところ、各々同じからざるも、禁制もしくは条件の違背によりて、人間の死の起源を説明する点に於ては、凡て一致す。此等の説話は、或点より観察して、凡て死の起原に関する説明説話なり、と云うことを得可し。\n 希臘神話に、プロメトイスあり、天上の火を窃んで、人間に与う。「マオリ」神話にも亦た、一個の英雄あり、下界より火を得て、之を人界に伝う。この英雄マウイは、純粋の神に非ず、また初期の天然神にも非ず。然どもまた、純粋の人間にも非ず。半神半人の英雄神にして、其性質大にプロメトイスに似たり。プロメトイスは、人文の創始者なり、マウイもまた、多くの人文的事業を為せり。「ニュージーランド」神話は、この英雄神に就て語りて曰く、此子の洗礼に際して、其父その当然務む可かりし宗教的儀式の幾分を、省略したり。此こと不幸にも、大なる不祥の原因となりて、其時まで不死なりし人間は、此より後死せざるを得ざるに至れりと。此説話もまた、或条件の違反によりて、死の起源を説く点に於ては、前に述べたる数個の説話と比較す可きも、マウイが「ニュージーランド」神話の英雄たる点に於て、偉大なる人文神たる点に於て、人間界に火を伝えたる神なりと云う点に於ては、之を希臘神話と、比較せざる可からず。\n プロメトイスは火を窃めり、マウイもまた火を窃めり。かくて人間界に、火あるに至りしなり。或者が火を盗みしことによりて、火の起原を説明するは、多くの未開民族に於て、その例を求め得可く、世界大拡布説話の一として、此説話を観察するを得可し。プロメトイスは、如何にして、火を盗みしや。或説話は曰く、一個の管を以て、ツォイスの祭壇より之を盗めりと。他の説話は曰く、太陽より之を取れりと。南洋土人の間に、稍似たる説話あり。曰く、或黒奴縄に攀じて、太陽に達し、かくて其火を人間に伝えたりと。更に同じく南洋の他の説話に曰く、火は最初二人の婦人の専有なりしに、或男かの婦を欺きて、他に向わしめ、その他を見し間に、其火を盗みて広く之を伝えたりと。更に他の説話に曰く、はじめ鶴と鼠と結婚せし時には、未だ世界に火あらざりき。或時鶴戯に二個の木片を摩擦して、偶然に火を鑚るの法を発見し、鼠と共に之を秘し居たりしに、遂に隼の知る所となりて、その木片を盗まれたりと。同様の例は、南洋以外にもまた、多く之を発見することを得可し。或は魚の所有なりし火を、他の獣来りて、之を盗みしと云い、或は鳥の火の盗みしを説くものあり。此等の盗火説話は如何に之を解釈す可きや。人類学的比較神話学者「ラング」の説明は次の如し。\n 如何なる未開の民族も、火の用法を知らざるなく、火を起す法を知らざるはなし。而も未開民族に在りては、火を起す方法は、文化民族に於けるが如く、簡単ならざるが故に、一度び火を失わんか、更に之を得るに、甚しき労苦と困難とを忍ばざるを得ず。故に火を貴重すること甚しく、之を神として祭るに至ること、其例甚だ少からず。火の起原に関して、多くの説話の存ずるは、怪しむに足らず。然らば、何故に或者の火を盗みしによりて、其起原を説明するや。曰く、此説話は其根拠を、未開民族実際の風習に有す。彼等は火を作るの方法を知るも、其方法甚だ不便にして、多くの労苦を忍ばざるを得ざるが故に、屡ば之を作ることを好まず。一度作りし火は、注意して之を持続せんことを勉むるも、若し不幸にして、其火絶ゆる時は、必ず他より之を得んことを求む可し。然れども、火を貴重すること甚しき時代に於ては、人々は己れの火を惜みて、容易に之を他へ与うることを肯ぜざる可く、或は四憐互に敵たるの時代に於ては、决して之を他へ分つを許さざる可し。是に於てか、財産を掠むるが如く、婦女を奪うが如く、火もまた之を盗みしなる可し。かくの如きは、未開時代の習俗としては、决して異常の現象に非ざるなり。盗火説話は此の習俗によりて、之を説明するを得可し。\n\n第四章 洪水神話\n\n第一節 支那洪水神話の英雄\n\n 支那洪水説話は、支那国民の太古より伝えし史的説話の中、最も有名なるものの一にして、堯の命を受けて、治水の任に当りしも、九年に至るまで、遂に績を挙げ得ざりし、父の鯀に代りて、舜の世に及んで、遂に治水平土の大事業を完成せし禹は、即ち此大洪水説話の英雄なり。九年の大洪水を治めし此英雄が、後に至りて、堯舜と共に、聖人として尊崇せらるるに至りしは、毫も怪しむに足らざる可く、従て、幾多の歳月を経過せし間に於て、種々の説話的分子の、此英雄の身辺に、凝集附着して、其結果、禹が真の史的人物なるや、或は単に一個の神話的英雄に過ぎざるや、殆んど分明ならざるに至りしも、亦た甚だ了解し易き発達なり。\n 禹の父鯀は、失敗者なり。堯より受けし大任を全うする能わず、失敗の歴史を残して亡びぬ。然れども、彼は大英雄の父なり。唯禹の父なるが故に、空前の大業を成就せし英雄の父なるが故に、鯀に就ても、後世種々の説話作為せられ、大洪水の説話に附帯して、禹の名と共に、此失敗者たる父の名も、永久に不朽なるを得るに至りしなり。『述異記』と『拾遺記』とは、鯀に就て次の説話を記す。互に異同あるも、大躰に於て略一致す。\n\n堯使鯀治水、不勝其任、遂誅鯀于羽山、化為黄能、入于羽泉、黄能即黄熊也、陸居曰熊、水居曰能、\n\n帰蔵云、鯀死三歳不腐、剖之以呉刀、化為黄龍、\n\n堯命夏鯀治水、九載無蹟、鯀自沈於羽淵、化為玄魚、時揚鬚振鱗、横修波之上、見者謂為河精、羽淵与河通源也、海民於羽山之中、修立鯀廟、四時以致祭祀、常見玄魚与蚊龍跳躍而出、観者驚而畏矣、至舜命禹疏川尊岳済巨海、則黿鼂、而為梁踰翠岑、則神龍而為馭、行徧日月之墟、惟不践羽山之地、\n\n 此説話は国民固有の龍神信仰と、洪水説話の英雄の父とを、結合したるものなり。鯀の失敗は、罪す可きものならん。其誅せられしは、恐らく当然ならん。然れども鯀は禹の父なり、国民の大恩人として、大事業の成功者として、永遠に記憶す可き豪傑の父なり。此父を殺すは、正史の筆は如何にもあれ、国民感謝の情に於て、到底忍ぶ可からざるなり。仮令また彼を殺すも、唯之を殺せしままにして棄て置くは、少くとも国民的感情或は国民感謝の情と、衝突するを免かれず。是に於て、或は鯀は自ら羽淵に沈みしにて、殺されしには非ずと云い、或はその羽淵に沈みし後は、化して玄魚となりしと云い、或はまた、殺されし後三年まで、其屍躰朽ちず、化して黄能となり、或は黄龍となりしと云い、鯀の死後に就て、種々の説話を作為するに至る。海民が鯀の廟を立てて、四時の祭祀を致すと云い、舜天下を周遊して、独り羽山の地を践まずと云うは、国民感謝の情に於て、当に然る可きを見るなり。その玄魚に化せしと云い、黄能或は黄龍に化せしと云い、鯀の飽まで水に関係を有するは、その治水の事業に関係せしによるか、或はまた、鯀の文字の魚に従うによりて、生じたる説話なるか。此点に関しては、茲に明かに判断するを得ず。"
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"role": "assistant",
"content": " 豪傑の出生に関して、種々の奇怪の説話を伝うるは、凡ての国民を通じて、同様なるも、殊に支那国民の間に於て、その著しきを見る。今、禹の出生並に事業に関して、諸書の記する所に従って、二三の説話を挙げん。\n\n禹娶於莘氏女、名曰女嬉、年壮未孳、嬉於砥山、得慧苡而呑之、意為人所感、因而妊孕、剖脅而産高密、家西羌地、曰石紐、\n父鯀妻修、已見流星貫昂、夢接意感、又呑神珠慧苡、胷拆而生禹於石胷有玉斗、足文履已、故名文命字高密身長九尺、長於西羌、\n古有大禹、女禍十九代孫、寿三百六十歳、入九嶷山仙飛去、後三千六百歳、堯理天下、洪水既甚、人民墊溺、大禹念之、仍化生於石紐山、泉女狄暮汲水、得石子、如珠、愛而呑之有娠、十四月生子、及長能知泉源、\n禹鑿龍関之山、亦謂之龍門、至一空巌、深数十里、幽暗不可復進、禹乃負火而進、有獣状如豕、銜夜明之珠、其光如燭、又有青犬、行吠於前、禹計可十里、迷於昼夜、既覚漸明見、向来豕犬変為人形、皆著玄衣、又見一神、蛇身人面、禹因与神語、神即示禹八卦之図、列於金板之上、又有八神侍側、禹曰、華胥生聖人、是汝耶、答曰、華胥是九河神女、以生余也、乃探玉簡授禹、長一丈二寸、以合十二時之数、使量度天地、禹即執持此簡、以平定水土、蛇身之神、即羲皇也、\n\n 第三の伝承は、洪水説話の英雄禹を以て、古の大禹の再生なりとし、最後の伝承は、龍門山の洞中に於ける義皇と禹との会合を記す。蛇身の神は、即ち義皇なりと云うは、『帝王世紀』に、\n大昊帝庖犠氏風姓也、燧人之世有巨人跡、華胥以足履之有娠、生伏羲于成紀、蛇身人首、有成徳、\nと記するに同じ。一般に国民的英雄に関して、その通常人の如く死せしを説かずして、或は天上に於て、或は海底に於て、或はまた、深山の奥に於て、その永久に生存するを説くは、国民説話の普通の現象にして、不死の英雄の説話は、諸の国民の伝承に其例多し。日本武尊は白鳥と化し、道真は昇天して雷神となり、九郎判官義経は、衣川に死せずして、蝦夷へ渡りて「アイヌ」の神となれり。ホドソン河の発見者ヘンリック、ホドソンは、山中にリップを留め、日耳曼人侵入の皇帝フリードリッヒ、バルバロッサは、カール大王もしくはオットー皇帝と等しく、今尚山中に生存すと伝う。瑞西聯邦の建設者は、四林湖に沿える岩窟の中に眠り「コルンブルヒ」附近の或空洞の中には、ホルガー、ダンスケその従者と共に、今尚一個の円卓を囲んで座す。\n アーサー大王は、必ず帰り来る可とは、「ブリトン」人の信ずる所にして、「セルヴィア」人は、今尚其国民的英雄クラルエヴィッチ、マルコの帰り来りて、国民を率いて、立つの日ある可きを信じて之を待つ。黄帝は龍に乗りて、白日昇天し、伝説は天上の星となりて、永遠に下界を照らす。伏義の如き偉大なる国民的人文英雄をして、通常人と同じく永久に此世に死せしむるは、国民的感謝の情に於て、到底忍ぶ可からざるなり。是に於てか、説話は伝えて曰く、伏義は蛇身人首の神となりて、龍門山の洞奥に在り。其洞奥に在りて、絶えず国民の運命を監視しつつありと。九年の大洪水は、国民の人文をば、その根底より破壊せんとする大厄運なり。この大厄運の眼前に迫り来りし瞬間に於て、伏義は然る可き大人物を択び、豕と犬とを遣して、此人物を直接にその洞奥に招き、彼と問答し、彼に玉簡を授け、彼をして、治水平土の大業を成就せしめしなり。国民的説話として、之を解釈するに、極めて自然にして、毫も理解し難きところあるを見ず。\n 鯀の場合に就ても亦た、同様のことを云い得可し。その玄魚となり、黄能となり、或は黄龍となりしも、また其の神として祀らるに至りしも、等しく同様の事情による。\n 以上は寧ろ、大洪水説話の枝葉の部分に関する議論にして、説話其ものの本躰には、直接の間係甚だ少きも、国民的英雄に関する説話伝説の一例として、他の民族にも、同様の実例甚だ多く、比較説話学上の一個の問題として、其研究は少からざる興味を有するが故に、茲に洪水説話の研究に際して、その附加として、少しくその議論を試みしのみ。洪水説話に関しても、他の説話の場合に於けると等しく茲に一個の疑問を生ず。即ち此説話は真正の歴史的事実説話なりや、或はまた、一個の普通の説話に過ぎざるや。若し此説話にして、一個の説話に過ぎずとせば、其本源は之を何処に求む可きや。換言すれば、此説話は、支那国民の純粋なる産物なるや。或はまた、他より伝来せしものなるや。此疑問にして、解釈せられざる間は、大洪水説話は解釈せられたりとは、云う能わざるなり。此解釈は、之を比較神話学に求む可し。\n\n第二節 洪水説話の比較\n\n 大洪水説話は、或点より観察するときは、世界的説話なり。諸の民族の間に於て、同様の説話を発見することを、得可ければなり。其中にて最も有名なるもの、最も広く伝播せし如く見ゆるものは、猶太旧記に見ゆる、「ヘブライ」説話にして、基督教の伝播が、此説話の伝播に与って、大に力ありしことは、茲に之を云うの必要なし。此説話の最初の形式の、如何なりしやは、今日より之を想像すること能わずと雖も、かの記の語る所によれば、洪水の原因は、人間の堕落にして、之を起せしは、万物の創造者エホバなり。通常称して、ノアの洪水と云うもの、即ち之なり。『創世記』は、記して曰く、\n\n人始加多於地、亦有生女者、神子輩、見人之女為美、随其所欲而娶之耶和華曰、我霊必不因人有過恒争之、蓋其為肉体、姑弛期一百二十年、当時有偉大夫在世、其後神子輩、与人之女同室、生子、亦為英雄即古有声名之人、耶和華神見世人之悪貫盃、凡其心念之所図惟者、恒惟作匿、故耶和華悔已造人於地、而心憂之、耶和華曰、我所造之人、我将剪滅於地、自人及獣毘蠢、飛鳥、蓋我悔造之矣惟揶亜獲恩那和華前、挙世自壊於神前、強暴徧於地、神鑑観下土、見其自壊、因在地兆民尽壊其所行、神謂揶亜曰、兆民之末期、近及我前矣、盖強暴徧地、我将併其他而滅之、\n七日後、洪水氾濫於地、適揶亜在世六百年二月十七日、是日大淵之源潰、天破其隙、雨注於地、四旬昼夜、水溢於地、歴一百五十日、"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 雪国の山奥の寒村に若い禅僧が住んでゐた。身持ちがわるく、村人の評判はいい方ではなかつた。\n 禅僧に限らず村の知識階級は概して移住者でありすべて好色のために悪評であつた。医者がさうである。医者も禅僧とほぼ同年輩の三十四五で、隣村の医者の推薦によつて学校の研究室からいきなり山奥の雪国へやつてきたが、ぞろりとした着流しに白足袋といふ風俗で、自動車の迎へがなければ往診に応じないといふ男、その自動車は隣字の小さな温泉場に春半から秋半の半年だけ三四台たむろしてゐる、勿論中産以下の、順つて村大半の百姓には雇へない。\n 農村へ旅行するなら南の方へ行くことだ。北の農家は暗さがあるばかりで、旅行者を慰めるに足る詩趣の方は数へるほどもありはしない。この山奥の農村では年に三人ぐらゐづつ自殺者がある。方法は首吊りと、菱の密生した古沼へ飛び込むことの二つである。原因は食へないからといふだけで、尤も時々は失恋自殺もあるのだが、後者の方は都会のそれと同じことで、村人の話題になつても陽気ではある。珍らしく一人の旅人がこの村へきて、散歩にでたら葬式にでつくはした。この葬式は山陰の崩れさうな農家から出発、今や禅寺をさして行進を開始したところだが、先頭が坊主で、次に幟のやうなものをかついだ男、それにつづく七八名で、ヂャランヂャラ〳〵といふ金鉢のやうなものをすりまはしながら行進するのが寒々とした中にも異様な夢幻へ心を誘ふ風景であつた。こんな山奥でも人は死ぬ、余りに当然なことながら、夢のやうにはかない気がした。きつと年寄りが死んだんでせうね? と旅人は傍らの農夫にたづねてみた。へえ年寄りが首をくくつて死んだのです、え、自殺? そんなことがこの山奥にもあるのですか? へえ年に三四人づつあるやうです。貴方の足もとの、ほらこの沼へとびこんでその年寄りは冷めたくなつて浮いてゐたのです。棒がとどかないので、私達が盥に乗りだして引上げたのですが、盥に菱がからまつて私達までなんべん水へ落ちさうになつたか知れません、と言ふのであつた。旅人は一度に白々とした気持を感じた。全てが一家族のやうな小さな村にも路頭に迷つて死をもとめる人がある、都会の自殺には覇気がありむしろ弾力もある生命力が感じられるが、この山奥の自殺者の無力さ加減、絶望なぞと一口に言つても、もと〳〵言ひたてるほどの望みすらないところへ、それが愈々絶えたとなると一体どういふ澱みきつた空しさだけが残るだらうか、考へただけでも旅人はうんざりして暗くならざるを得なかつた。この山村の自殺は小石を一つつまみあげて古沼の中へ落すことと同じやうな努力も張り合ひもない出来事に見えた。\n 医者は多少の財産があるのか、夏場は温泉で遊び冬は橇を走らして遠い町へ遊びにでかけた。夏の山路は九十九折で夜道は自動車も危険だが、冬は谷が雪でうづまり夜も雪明りで何心配なく橇が谷を走るのだ。そのうちに村の娘を孕まして問題を起した。\n 知識階級の移住者には小学校の先生があるが、この人達も評判がわるい。男女教員の風儀だとか吝嗇とか不勤勉といふことが村人の眼にあまるのである。ところがさういふ村人は森の小獣と同じやうに野合にふけつてゐるのである。盆踊りを季節の絶頂にした本能の走るがままの夏期のたわむれ、丈余の雪に青春の足跡をしるしてゐる夜這ひ、村人達の生活から将又思ひ出からそれをとりのぞいたら生々とした何が残らう! 半年村をとざしてしまふ深雪だけでも彼等の勤労の生活は南方の半分になるわけだが、山々を段々に切りひらいて清水を満した水田と暗澹たる気候で米の実りの悪いことは改めて言ふまでもないことである。豊穣といふ感じが、気候や風景に就ても同断であるが、その生活に就ても全く見当らないのである。\n\n 禅僧は同じ村のお綱といふ若い農婦に惚れた。この農婦が普通の女ではなかつた。野性そのままの女であつた。\n お綱は小学校に通ふ頃から春に目覚めて数名の若者を手玉にとつたと言はれるほどの娘。小学校を卒業すると町の工場へ女工に送られたが居堪らず、東京へ逃げて自分勝手に女中奉公した。昔郡役所のあつた町に小金持の老人があつたが、借金のかたとでもいふわけか、お綱は呼び寄せられてこの老人の妾になつた。その時が十八。五年目に老人が死んだ、妾時代お綱は出入りの男達と相手選ばずの浮気をしたが、老人が死ぬと身体一つでのこ〳〵村へもどつてきた。身体のほかに持つてゐたのは頭抜けた楽天性と健忘性と野性のままの性慾だつた。村へきても誰はばからず本能の走るがままに生活した。さういふお綱に惚れて、自殺したうぶな男もあつたのである。\n ある時村へ一人の旅人がきた。隣字の温泉へ行くつもりのものが生憎と行暮れて、この字では唯一軒の旅籠兼居酒屋の暖簾をくぐつたのである。農家の土間へ牀机をすえ手製の卓を置いただけの暗い不潔な家で、いはゆる地方でだるまといふ種類に属する一見三十五六、娼妓あがりの淫をすすめる年増女が一人ゐた。こんな疲弊した山村では淫売がむしろ快活な労働にもなるのだらうが、見るからに快活、無邪気、陽気で、健康な女がゐるのである。さういふだるまの一人がこの店にもゐた。\n 旅人がこの銘酒屋の暖簾をくぐつて現はれたとき、土間の卓には禅僧がお綱と共に地酒をのんでゐる時であつた。山村のことで旅人をむかへる部屋が年中用意されてゐるわけでもないから、部屋の支度をととのへるあひだ、旅人も卓によつて地酒をのんだ。旅人を見るとお綱の浮気の虫が動いた。\n 部屋の支度ができ、旅人は二階へ上つて、だるまを相手に改めて酒をのみはじめた。暫くすると階段をのぼる威勢のいい跫音がとんとんとんと弾んできて、お綱がにや〳〵笑ひながら旅人の部屋へ現れた。坐らうともしないで、すくすく延びきつた肢体をくねらせながら突立つたままであるが、片手を目の下へもつて行き、のぞき眼鏡のやうな手の恰好をこしらへて人差指でおいでおいでをしたのである。旅人は莫迦々々しさに苦笑せずにゐられなかつた。\n「ここへ暫く泊るの?」\n「明日から温泉へ泊るのだ」\n「明日の晩、今時分ここへおいで」\n 野性の持つあの大胆な、キラ〳〵となまめかしく光る流眄を送り、お綱はくるりとふりむいた。さうして歩きだしたと思ふと、そんな婆あと遊ぶんぢやないよ、と言ひすて、野禽のやうにけたたましい笑ひ声をたてながら階段を調子をとつて駈け降りて行つた。面喰つた旅人よりも、禅僧の悩みの方が複雑であつたのは言ふまでもあるまい。お綱の奴が急に二階へとんとん登つて行つた意味は一目瞭然であるから、さかりのついた猫の声と同様のけたたましい笑ひ声を耳にしては、腸のよぢれる思ひがしたことであらう。\n 翌朝旅人が温泉へ向けて出発すると、その一町ほどうしろから禅僧がうなだれがちに歩いてゐた。禅僧は旅人に一言頼みたいことがあつたのである。あの野性のままの女を旅先の気まぐれな玩具にしないでくれ、と。禅僧は栄養不良でヒョロ〳〵やせ、顔色は不健康な土色だつた。強度の近視眼で、怪しむやうに人を視凝める癖があつた。縞目も分らないほど古く汚れた背広を着て、脚絆に草鞋をはいてゐた。\n 禅僧のたど〳〵しい足どりがそれでも十間ぐらゐの距離まで旅人に近づいた時のことだが、旅人は九十九折の山径のとある曲路にさしかかつた。一方は山の岩肌、一方は谷だ。\n 突然頭上のくさむらから人間の頭ほどある石が落ちて、旅人の眼の先一尺のところを掠め、石は径にはづみながら、大きな音響を木魂しながら深い谷底へ落ちていつた。旅人が慄然として頭をあげると、姿はもはや見えないが頭上のくさむらをわけ灌木の中をくぐつて逃げて行く者の気配がはつきり分つた。"
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"content": "「あいつですよ。ゆふべ私と酒をのんでゐた女、突然貴方の部屋へおしかけていつた農婦です」\n 咄嗟の出来事にこれも面喰つて足速やに駈けつけた禅僧は、蒼ざめ、つきつめた顔をかすかに痙攣させながら旅人に言つた。\n「あいつは貴方に気があるのです。いいえ、貴方に限らず、初めて会つた男には誰にしろ色目をつかひ、からかひたい気持を懐かずにゐられぬのです。恐らくあいつは今朝早くからあの岩角へまたがり、石をだきながら貴方の通るのを待ちかまえてゐたのでせう。楽しい気持でいつぱいで、その石が貴方に当つて怪我をさせたらどうしやう、といふことはてんで頭になかつたに違ひないのです。二年前のことですが、やつぱりかういふ山径を好きな男と肩を並べて歩いてゐるうちに、突然男を谷底へ突き落したことがあるのです。幸ひ男は松の枝にひつかかつて谷へ落ちこむことだけはまぬかれましたが、松の枝にぶらさがつて男が必死にもがいてゐると、あいつは径に腹這ひになつて首をのばし男の様子をキラキラ光る眼差しで視凝めながら、悦楽の亢奮のために息をはづませてゐたといふ話があるのですよ。あいつに散々あやつられたあげく、菱の密生した沼へ身を投げて死んだ若者が二人もあります。たとひ男が身を投げたつて、だいいち昨日の男を今日は忘れてゐるのですよ。貴方の場合にしたつて、今日は貴方に気があります。さうしてあいつはあの岩角にまたがり、異体の知れぬ悦楽の亢奮に酔ひながら、石をだいて貴方の通るのを待ちかまえてゐたのです。殺意だとか罪悪だとかそんなものぢやないんです。子供がパチンコで豚をねらふよりよつぽど無邪気で、罪悪の内省がないのですよ。いぢらしい女です。正体はただそれだけでつきるのですが――」\n 禅僧の語気には、旅人が呆気にとられてしまふほど熱がこもつてきたのであつた。さうしてそれからどうなつたか、然し旅人の話は村の噂に残つてゐない。\n\n お綱の逸話では、煙草工場の女工カルメン組打の一場景に彷彿としたこんな話もあるのだ。\n 時は盆踊りの季節。ひと月おくれの八月の行事で、夏の短い雪国では言ふまでもなく凋落の季節、本能の年の最後の饗宴でもある。盆踊りは山の頂きのぶなに囲まれた神社の境内で、お綱も踊りに狂つてゐた。その日のホセは道路工事の土方で、居酒屋で酒をのみながら、店の老婆を走らしてお綱を迎ひにやつたが、お綱は踊りに狂つてゐて耳をかさうともしなかつた。\n さうかうするうち踊りの列に異変が起つた。突然お綱が一人の娘を突き倒して、馬乗りになり、つかむ、殴る、つねる、お綱には腕力があるから、娘の鼻と唇から血潮が流れでた。原因といふのは、お綱が踊りながら女に向つて、お前の色男が俺に色目をつかつたよとからかつたところから、この娘がやつきになつて俺の色男はお妾あがりに手出しをしないよ、そこでお綱がカッとしてこの野郎と組ついたといふ次第であつた。娘の顔を血まみれにしては、お綱が人々に憎まれたのも仕方がなかつた。\n 五六名の若者が忽ちお綱をとりかこんだ。一人がお綱の襟首を掴んで血塗れの娘の胸から力まかせに引離したが、お綱はくるりと振向いてサッと片腕をふり男の顔を力一杯張りつけた。それから一足とびのいて、ゲタゲタと腹をよぢつて笑ひだした。張られた男はお綱をめがけて飛びかかつた。右手をとらへて後手にねぢあげやうとしたのであるが、お綱は男の手首に血の滲むまで噛みついて執られた腕をふりはなし、男の胃袋をめがけて激しいそして敏活な一撃の頭突きをくらはせた。ひとたまりもなく倒れる男に馬乗りとなつて、苦悶のためにのたうつ男の首をしめて地面へぐい〳〵おしつけた。きしむやうな満悦の笑ひに胸をはづませ、無我夢中のていで顔面をなぐり、つねつた。\n 四五名の若者達は激怒して各々お綱を蹴倒したが、お綱は忽ち猛然と立ち上ると、誰を選ばず飛びかかり、噛みつき、引掻き、なぐりかかつた。もはやその悦楽の亢奮は色情狂を思はせた。淫慾は酔ひのやうに全身にまはり、敏活な動作につれて、満悦の笑声がきしむやうに洩れるのである。蹴倒される、ひとたまりもなく転ろがる。地面へ顔のめりこむほど、てひどく倒されることもあつた。然しはねかへるバネのやうに飛びかかつて行くのである。性こりもなくじやれつく牝犬もこれほどしつこくはあるまいと思はれ、若者達も流石に根負けのじぶんになつて、お綱は淫乱そのものの瞳を燃やして歓声をあげ、若者達の囲みをやぶつて闇の奥へころがるやうに走り去つた。ひときは高く哄笑をひいて。\n 憎しみにもえ激怒のために亢奮したといひながらそれが色情の一変形であつたところの若者達は、自分ながらしつこさの醜怪に気付くほど野性そのままの衝動にかられ、然しもはや自制の力はなかつたのだが、七八名一団となつてお綱のあとを追ひかけていつた。お綱は居酒屋へかけこんだ。そこには土方が待つてゐた。お綱は土方の卓に倒れた。彼には決して理解することのできなかつた逸楽のあとの満足のために疲れきつた肢体をなげだし、お綱は苦しげに笑ひのしぶきを吐きだしてゐた。若者達の一団が追ひついた。――\n 甚だありふれた事情が起つた。同時に奇妙な事件であつた。\n 居酒屋にはホセのほかにも一人の土方がだるまを相手にしてゐたが、彼等はこの土地の鈍重な自然人とは種属がちがつて、流れ者の度胸と機に応ずる才智があつた。二人の土方は立ち上つた。若者達は顔色と言葉を失ひ、あとじさりした。道路へぢり〳〵さがつていつた。二人の土方も道路へでた。若者達の一団に気転のきいた一人がゐたらここで一言わびるだけで万事無難に終つたのだが、鈍重な気候や自然はさういふ気転と仇敵の間柄ではぜひもない。こんな騒ぎが起つてゐても村は眠つてゐるのである。もとより人家すら三十間に一軒ぐらひの間隔で至つてまばらなものであるが、その住人も山の頂きの踊りの方へ出払つてゐる。赤ん坊と植物と暗闇だけではこの騒ぎも誰知る人があるまいと思ひのほか、生憎の人物がどうしたはづみかこの場に居合はしてゐたのである。禅僧であつた。\n 異様なさうして貧弱な肉塊が突然土方に躍りかかつた。それが禅僧と分るまで、若者達の誰一人禅僧の存在に気付いた者がゐなかつたのだ。彼は殴られ、投げだされ、蹴られ、そして冷めたい地面の上であつけなくのびてしまつた。土方は居酒屋へひきあげた。若者達が禅僧のまはりに歩みよると、彼は鼻血を流してゐた。彼は人々の存在にも気付かぬやうに這ひ起きて、長い時間を費して何物かを地上に探し漸く拾ひ当てた物品によつて探し物が眼鏡であつたと人々に分つた。一つの咳も洩らしはせず、それが唯一の念願のやうに、寺院の方へ消えていつた。\n とはいへお綱に対する彼の恋情の純粋さももとより当にはならないことで、だるまの言に順へば、その助平坊主の肉慾ほどあくどさしつこさに身の毛のよだつ思ひをすることもないと言ふのであつた。\n\n 疲弊した村のことで御布施の集りがよからう筈はない。金包みの代りに米とか野菜ですますやうな習慣が次第に一般にひろがつて、禅僧は食ふだけが漸くだつた。\n 禅僧は恋情やみがたくなつたものか、お綱の母親(父はもはや死んでゐる)に向つて結婚の交渉をはじめた。禅僧の内輪の生活が次第に栄養不良になる一方の乏しいものでも、貧農の目から見れば坊主は裕福といふ昔からの考へがいくらか残つてはゐる。働き者をとられるとその日から暮しにこまるといふ理由で五十円の結納金、結婚後は月々十円の扶助料といふ条件をお綱の母親がもちだした。一歩もひかうとしなかつた。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": "\n公主嶺農事試験所の羊群\n\n\n撫順炭坑の露天掘り\n\n 駅へ引返すと、馬車の用意が出来てゐたので農事試験場へ向つた。車上で加藤さんは、此地方が内蒙古の達爾罕王旗下に属し、西北三里余の所に清朝の公主の墓があるので公主嶺の称がある。その公主は蒙古王に嫁する途中で病死したのである。此地は南北満洲の分水界になつてゐて、海抜が最も高く南する水は遼河へ、北する水は松花江へ注ぐことなどを話された。\n 農事試験場の門に達する並木路の楊柳が先づ美くしかつた。大正二年に創められた場内は総面積が二百十三町歩あり、中に作物試験用地が四十二町、放牧地と飼料栽培地が百六十五町を占めてゐる。往路に見た熊岳城の試験場は是れの分場である。満鉄は満蒙の将来の開発のため、猶此外に、鄭家屯、鳳凰城、得利寺、海竜城、黒山屯、長春、遼陽、鉄嶺、湯崗子等に農場試験地や牧場等を経営してゐるが、此地のが最も大きな規模を備へてゐる。生憎多数の場員が一人残らず運動会へ行つてゐられたので、何の説明をも聞くことが出来ないのに失望したが、併し一人の場丁の支那人に案内せられて、目で見学し得るものだけは見るのであつた。満鉄本社にゐられる画家眞山孝治さんの画題に度度なつた羊の群を、涯もない牧草の上で見ることは出来なかつたが、幾棟もある小屋を開けて貰つて雑多の羊を総べて見て廻つた。支那の辞書の「羊」の部に沢山のむつかしい羊の字のあるのを、実物に由つて示される気がした。支那及び蒙古種の外に外国種との雑種も出来てゐるのである。豚にも多くの種類が飼養されてゐた。私達は牧草を分けて一列の大きな楊柳の蔭で小憇した。その楊柳も度度眞山さんの絵に入つたものである。よく晴れたお納戸色の空を牧草の原と疎らな楊柳の上に見て、煙草の煙が近く三人の前に靡くのは長閑であつた。運動会の花火の音も此処までは聞えなかつた。そこへ在留邦人の夫婦が子供を伴れながら、弁当らしい物を提げて、同じ木蔭の少し離れた草の上へ坐られたのは、運動会の人出を避けて此の曠濶な野天の日光に親む風雅な人人としてなつかしく感ぜられた。\n 公主嶺駅へ引返して、駅の食堂で少し遅れた昼食を取つてゐると、洮南で逢つた森立名さんが四平街から汽車で著かれた。私達を此処まで迎へに来て、共に奉天まで行つて歌を詠まうとせられるのである。私達は洮南で約束して置いた事を果される森さんの御深切を喜んだ。午後二時四分発の汽車は一行四人を奉天へ直行せしめた。\n\n奉天に著く\n\n 公主嶺から以南は遼河平原と称せられ、遼河の流域に属して、奉天省の全面積の五分の一を占め、南満洲の東部山地と遼西山地との間に、北東から南西に伸びて山海関に達する、広大にして肥沃な平原で、もと蒙古の遊牧地であつた所も、今は漢人の勤労に由つてよく耕され、大豆、高粱其他の穀物の産地となつてゐる。真夏には高粱の為めに展望を妨げられるのであるが、私達は高粱が三四寸伸びただけの緑野の涯も無く霞んでゐるのを車窓に眺めながら、四人で歌を詠んでゐた。四平街までは生面の地であるが、それから先は往路に通つた所である。\n 奉天駅へ午後八時三十分に著いて、満鉄の社会主事河村牧男さんのお出迎へを受け、駅の楼上にある大和ホテルへ泊つた。新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津を立つて京奉鉄道で奉天へ帰ると云ふ事である。それで支那側も在留邦人の重な官公人達も張の出迎へに忙しいらしい。北京が国民政府の勢力に帰したとすれば、当分は混乱するであらうから、私達の北京訪問は全く断念せねばならなかつた。奉天見物を後にして、明日撫順を日返りで観る予定にしてゐた私達は、食事を済ませ、一浴したあとで早く寝てしまつた。\n ×\n ホテルは深夜にも汽車の出入する汽笛や響きのために殆ど眠られなかつた。翌朝私は早く起きて東京の子供に送る手紙を書いてゐると、へんな音が幽かに聞えた。顔を洗つてゐる良人も其れを聞いた。二人は唯だ騒音の多い所へ来たと思つてゐた。それから二十分も経たぬ中に、階下の駅の構内で俄かに人の往来の騒がしいのを感じたが、猶私達は乗客の込み合ふためであらうと思つてゐた。一時間の後に別室に泊つてゐられた森さんと加藤さんとが意外な変事を告げられた。満鉄京奉両線の交叉するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒竜江省督軍の呉俊陞も殪れ、其他にも支那官人と婦人との死者が多い様子だと云ひ、また爆破と同時にガアドの上の満鉄線を守備してゐた日本兵と京奉線の番をしてゐた支那兵との間に銃火が交換されたと云ふのである。私達は初めて今先のへんな爆音の正体を知つたと共に、厭な或る直覚が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。さうして斉斉哈爾で一週間前に逢つた呉夫人がどんなに慟哭せられることであらうと想つて心が傷んだ。それから朝の食事をして九時二十五分発の撫順支線の汽車に乗るまでの間、私達は此の事変について色色の謡言蜚語の伝へられるのを聞いた。それは皆日本人として耳にするに忍びないものばかりであつた。奉天は今城内も城外も惶惑と戒厳と混乱との中に在ると想はれた。\n"
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"role": "assistant",
"content": "撫順\n\n 私達は予定通り、加藤森二氏と奉天の騒ぎを後にして汽車に乗つた。良人の心に\n行き遇へる張督軍の変なども砂けぶりすと見て過ぐるのみ\nと云ふ歌の浮んだのは此時であつた。森さんは「ガアドの上の満鉄の線路が吹き飛ばされたので、四平街へ帰れないとすれば撫順へお供する」と云つて同行せられたのである。外に今朝私達を撫順から迎へに来て下さつた撫順炭鉱庶務課の原田周藏さんが案内役として同車せられた。汽車は渾河駅から撫順支線に入つて東行すること二十九哩強である。途中駅の深井駅附近から二里弱の北にある東陵(清の太租の墓)を望遠鏡で眺めることが出来た。\n 撫順は奉天の東北十三里、長白山脈の西南に派出した丘陵の間にある低地で、東西に伸びること四里、太古に氾濫した水が上流の樹木を此処に堆積して石炭層を作つたのであらうと云はれる地形である。その北側の丘陵に沿うて渾河が流れ、撫順炭鉱は河に向いて平均三十度の傾斜を以て、幅約一里、面積壱八二〇万坪、炭層の厚さ平均百参十尺、最も厚い所が四百弐十尺、埋蔵量拾億噸、その砿区は数箇所に分れて、大竪坑、斜坑、大露天掘坑等の採掘法を異にし、運炭、選炭、排水、通気、動力、注沙、照明等に、有らゆる新式の設備が出来てゐる。満鉄の大資源は実に鉄道部と共に此の炭砿のあるが為めである。私達は何よりも撫順の旧市街にある大露天掘の偉観に驚いた。竪横に深く坑道を穿つて採掘する物であると思つてゐた炭砿の概念は忽ちに裏切られて、唯だ表皮の油頁岩層を三四丈も剥いで取れば、下は一面に石炭なのである。天に向いて大きな口を開いた大地の怪物を初めは怖ろしく醜い形と感じたが、その一辺から少しく下りて段層を成した上に立つと、羅馬時代の大きな野外劇場を更に幾倍したやうな壮観を覚えて、こんなにして自然を利用する人間を智慧のある一種の蟻だと感じるのであつた。その剥ぎ取つた油頁岩は贅物でなく、それを乾溜して重油を製してゐる。猶この石炭には琥珀を含んでゐると聞いて、試みに同行の男達が附近にある炭塊を石に打ち附けると、しばしば小粒の星屑が光つてゐるのを見受けた。\n 撫順にある永安台の新市街は、旧市街の地下の炭田が露天掘の砿区となつた為めに近く移された満鉄経営の欧風日本街である。建築も道路も整然として美くしい。私は其処にある高等女学校で学生達に短い話をした後、学校の前の筑紫館で昼食を一行と共にし、午後は風致と眺望とに富んだ丘陵の上の公園の若葉の蔭に小憇し、また渾河の左岸を歩いて上流の対岸の山麓にある撫順城を遠望した。それからまた筑紫館へ引返して夕食を取つた後、小学校へ行つて満鉄主催の夜の講演を良人と二人で済ませて汽車に乗り、四人が奉天に帰つたのは午後十一時であつた。\n\n奉天の五日\n\n 六月四日になつた。良人も私も此の奉天では、木下杢太郎さんが「支那南北記」で書かれたやうな、異邦の古都にある、乏しいながらも或る情趣と知識とに触れることを期待して来たのに、突発した張作霖の爆死事件は、私達の心象を兎角新聞記者的旅行の観察に偏せしめようとするに至つた。これは厭な事であるが、併しまた冷淡に看過することも出来なかつた。昨朝の事変の真相が何故かまだ今日になつても明白でない。張が絶命したか否かさへも判然しないで、いろいろの流言が日支人の間に行はれ、城内の大帥府では遭難した張を自動車で運び去つたまま何事も発表しないのである。さうして、城中の支那軍が日本街を襲ふ噂などがある。\n 今日私達は加藤さんと午前に住吉町の朝日新聞の支局に局長の大井二郎さんを訪ねた。大井さんは其の少年時代から私達と特別に親しくしてゐる仲である。大井さんは局員達と共に事変後の探訪と通信とに取込んでゐられ、昨夜は一睡もしなかつたと云はれる。爆破した列車の現状の写真を直ぐ飛行機で送つたから、今日の大坂の夕刊には間に合つたであらうと云はれるのを聞いて、私達も共に喜んだ。大井さんは青森市の旧家の子であるが、継母との事情で、早く兄の一郎さんと前後して東京に出で、自ら労働しながら苦学して英語を修められ、誠実と勤勉と敏活とを備へて、人に愛せられる性格が、今日の位置を作つた。前年も此地にゐて郭松齢事件に機敏な報道をして手腕を本社に認められたが、今度は支局長として二箇月前に東京から派遣されたのである。大井さんが事変に就て聞かせて下さつた所は、昨日から私達の直感してゐた所と大差が無かつた。\n 朝日の支局を辞して、附近のレストオランで昼食を済ませてゐると、長濱哲三郎さんが自動車を以て迎へに来られた。長濱さんは私達の友人茅野蕭蕭、三樹退三両氏と大学時代からの友人で、私達が東京を立つ前に特に書を寄せて奉天の滞遊を勧められた人である。今は此地に満鉄の経営してゐる南満医科大学の学生監をしてゐられる。私達は先づ其の大学を観に行つた。附属地の一端に広大な地域を占め、宏壮な欧風建築と共に内部諸室もまた完備してゐる。日支両国の学生を収容してゐるが、今日は昨日の事変のために休校してゐた。屋上へ出て展望しながら長濱さんの地理的説明を聞いた。奉天は唐代より久しく瀋州と称せられた地方で、元代に瀋陽と云ひ、清の太祖の十四年以来奉天と称せられる。遼河源流の一つである渾河(一名瀋水)を北西に望んで、東へ延びた沃野の中に位置し、西は満鉄線に沿うて鉄道附属地に東北より西南に長方形を成した日本の新市街が、奉天駅から放射状に浪華平安の二大街を貫通し、それに大小の街区が分布され、舗道、並木、上下水道、欧風建築等の整然とした文化都市を実現してゐる。併し住民の七割強が支那人であるのは長春の日本市街と同様である。その東に奉天城外の商埠地(居留地)が凹字を左向にした形で日本市街を半ば囲み、内外人の商舗を列ねた殷賑な市街を成し、日本を初め諸外国の領事館も其処に置かれてゐる。それより東に奉天城があり、城は辺城と内城とに分れて、辺城は高さ七尺、周回一万六千米突の土壁を以て内城を囲み、内城と辺城との間にある四方の広大な支那市街は東西南北の各大街に沢山の胡同(横町)が属してゐる。その辺城に大小の辺門が設けられ、大学の屋上から真西にその大西辺門が望まれる。今日は晴れた日で展望にはよいが、屋上の日光が私達に暑気を感ぜしめた。私は階下の室でお茶を頂きながら、嘗て此処に教授をしてゐられた木下杢太郎さんが、どの室であの支那人の白雲頭の研究論文を完成されたのであらうかと想うて、兄に対するやうな思慕を感じるのであつた。\n ×\n 事変の後に城内へ行くのは危険だと云はれたが、長濱さんの御配慮で、陳源さんと云ふ大学の職員で日本語の達者な支那人を同行し、大学の自動車で奉天城に向つた。日本市街を過ぎる中に私の心を寒くしたのは、砲兵が野砲を挽いて行軍し、大街の要所要所に歩兵が伏射の形で銃を擬し、また各所で工兵が堅固な角材で鹿柴を組み立ててゐる事であつた。今朝ホテルの窓から幾つかの列車が板にペンキで樹木の檜を書いてカムフラアジユを施してゐたのと思ひ合せて、支那兵の万一の襲撃に備へてゐるのだと直感したが、今にも市街戦が起り相な光景は大袈裟すぎると思はれた。\n 商埠地を過ぎて大西辺門から辺城に入ると、門内には支那の戒厳令が布かれて、銃に剣を附けた一隊の支那兵が将校に引率されて門内の左右を固めてゐる。併し私達の自動車は誰何されずに通過した。辺城の中の市街は賑つてゐるが一人の日本人にも逢はない。さうして街街の支那人の私達を目送する様子が何となく不気味であつた。それから内城の大西門へ達した。内城の壁は黒い煉瓦で築かれ、高さ三丈余、周囲五千米突、壁上の広さは優に野砲を据ゑる事が出来る。清の太宗の天聡五年(西紀一六三一)の築造である。この内城の大西門内にも左右に銃剣の列が光つてゐた。私は大東門に向ふ大街を真直に行き、財政庁の角から右折して満鉄公所を訪ねた。公所は満鉄の公使館と云つてもよい程壮麗な、半支半欧の建築である。公所長の鎌田彌助氏が折好く居合された。\n 鎌田氏は斉斉哈爾の早川氏と同じく有名な支那通である。早川氏が呉俊陞と義兄弟の約があるやうに、鎌田氏も張作霖と義兄弟の親交を訂せられてゐる。鎌田氏の顔には悲愁と困惑との色が明かに見えた。氏は私達が城内へ来たことを甚だしい冒険だと云はれ、「あなた方にはお分りにならぬが、昨日から此の門前を支那人の云つて通る言葉は、我我日本人に対して容易ならぬ怖ろしい事を云つてゐる。久しく此地にゐる私達にとつて、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」と云はれる。「今朝この家の壁へ乱暴な事を書いた支那人があつたので直ぐに消させました」とも云はれる。氏の令夫人は昨晩の汽車で大連へ避難され、其他の婦人達も附属地へ立退かせたので、公所には男子の社員ばかりが残り、支那の雇人も皆辞し去つたと云ふことである。\n 鎌田氏は昨日張作霖遭難の現場へ駆けつけて行つた時の光景を話しながら、ヅボンの隠しから幅七分、長さ四寸程の支那のカルタ「紙牌」を幾片か出して見せ、爆破した列車の中に焼け残つてゐたのを拾つて来たと云はれる。張作霖と呉俊陞の一行は朝早く目覚めて車中で紙牌を弄してゐたのであつた。先生は公所の屋上へ私達を導いて、附近一町の所にある大帥府や少し離れた呉俊陞の邸などを指示せられた。張の遺骸のある大帥府は弔訪者の込み合ふ様子もなく、意外に寂としてゐる。まだ喪を発しないで療養中の体にしてゐる。呉の死も同様に秘せられてゐるので、両将軍の死は支那人にも日本人にもまだ半信半疑である。鎌田氏さへも断言を避けてゐられた。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"content": "「......ふム。これは城主の宗治から、隆景と元春へ宛てた返書らしい。灯を、もそっと手もとへ」\n 秀吉は披いて黙読していた。\n その返書の文面から察しると、毛利の援軍が、見るかぎりな泥湖に当面して、いかに失望落胆したかがよく窺われる。\n 折角これまで、大軍をもって急援に駈けつけて来たが、四方満々の水に囲まれた高松の城へは如何とも救いの手をのばす策がない。――如かず、一時羽柴軍へ降伏して城中数千の生命をたすけ、然る後、時期を見て本国へ帰って来い。\n 察するにまずこんな意味の密書を、隆景と元春の名で城中へ届けたものにちがいない。\n それに対して、いま秀吉が手に入れた宗治の返書は、こう答えているのであった。\n\nわれら城中の者を、不愍と思し召され、まことに御仁慈のこもった御命ではありますが、この一城は、今や全中国の要、高松の落ちることは、即、毛利家の失墜を意味します。せっかくながらわれら元就公以来恩顧のともがらは、敵に凱歌を売って一日たりと生きのびんなどという者は、匹夫の端に至るまで思いもしておりません。みなこの城と共に死なんの覚悟で籠城を固めておるのです。どうかわれらにお懸念なく、そちらのお味方御一統にも、どうかここ興亡のさかいに千載の悔いをおのこしあらぬように、万全のお備えを祈っております。\n\n 孤城のうちの宗治は、こういう返辞の下に、却って援軍の味方を、励ましているのであった。\n 捕われた毛利の臣は、秀吉の訊問にたいして、思いのほか率直に答えた。――すでに宗治の返書を敵に読まれている以上、頑なに隠しだてしたところで無益と覚っているものらしい。\n「逃げ去ったもう一名の使者は誰か」\n という質問にも、その男は、\n「吉川家の臣、転小四郎」\n と、明白に答え、\n「汝は」\n と、訊かれて、\n「同じく、山澄六蔵」\n と告げ、少しも悪びれない。\n 秀吉もまた、そう執こく根掘り葉掘りはしなかった。士を辱めずという程度である。大局から観て無用なことは無用に附し、むしろ彼の気もちはべつな方へはたらいていた。\n「一豊」\n「はい」\n「いいだろう。もうよい。この武士は縄を解いて、陣外へ放してやれ」\n「え。放しますか」\n「泥湖を泳ぎ渡って、寒げにみゆる。粥など喰べさせて、途中、また捕まらぬよう、持宝院下まで、送ってやれ」\n「かしこまりました」\n 山内一豊は、縁を下りて、彼の縄を解いてやった。当然、死を覚悟していたにちがいない山澄六蔵は、却って、急に度を失っていた。一豊にうながされて、秀吉のほうへ黙礼し、早々に起ちかけると、秀吉はまたよびかえして、\n「そちの主人、吉川元春どのには、近ごろも健在かな。このたびはまた、馬之山以来の対陣と相成った。筑前がよろしく申しおったと伝えてくれよ」\n と、いった。\n 六蔵は坐り直していた。秀吉の恩に感じて、心から頭を垂れた。\n「申し伝えまする」\n「それと、毛利どのの帷幕には、参謀を承って、恵瓊という軍僧が出入りしておらるるであろう。安国寺の恵瓊というて」\n「はい。おられまする」\n「久しゅう会わぬ。あの御房へも、会うた節には、よろしくたのむ」\n 雨の中を、戸外の人影が立ち去ると、秀吉はすぐ佐柿弥右衛門を室内に顧みて、\n「いまの書状は持ったか」\n「確とおあずかり申しました」\n「大事な機密もしたためてあるし、かたがた、右府様(信長)へ直々お目にかけるもの。途中の変に心してまいれよ」\n「ぬかりはございませぬ」\n「いま捕われて来た吉川家の臣にせよ、そちに劣らぬ覚悟をもって使いに立ったにちがいない。しかも捕われてかくの如く、清水宗治と吉川元春との意志は手にとるごとく筑前に読みとられてしもうた。くれぐれも、要意のうえに要意をしてゆけよ」\n「はいッ......」\n「では、大儀だが、すぐ立て」\n「おいとまをいただきまする」\n 佐柿弥右衛門もやがて退った。\n 秀吉はひとり燭に対していた。こよい弥右衛門に託して安土へ急がせた書簡は、急遽、信長自身の来援をこの地に仰ぐためのものだった。\n 孤城高松の運命は、もう網の中の魚に似ている。\n それを救うべく、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の総将から全軍も、挙げてこれへ会同している。\n 時なる哉。中国の覇業は今、この一挙に完成しよう。秀吉は、この壮観を、信長にも見せたいと希った。また、この重大なる勝敗のわかれを、決定的に確保するためにも、信長の出馬を仰ぐことが万全と信じたのであった。\n\n饗宴\n\n ――一転、眼を移して、安土の府のきょうこの頃を眺めるならば。\n ここの城市の景観と、中国の戦陣とは、一脈の繋がりもない別天地かと、疑われるほどな相違がある。\n 香りの高い新鮮な文化。\n それに相応しく華麗豪放な往来人の姿。燦爛たる大天守の金碧を繍いつづる青葉若葉、――ここでは中国に見られたあの泥土の闘いも人の汗も、遠いものにしか考えられない。\n 五月十五日から、十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤を前提とする水攻めの計が実行にうつされて、秀吉以下、黒田官兵衛その他不眠不休に、その工を督していたあいだである。\n その時分を、この安土では、さながら盆と正月を、一度に迎えたような賑いで、全城全市、盛装していた。\n 何事ぞといえば。\n この安土城に信長が一箇の大賓を迎えるためであった。\n それほどな大賓とは、一体誰か。\n もとよりかくれもない人ではあるが、今日信長からこれほどな礼遇をうける人として、あらためてその人を想念にのぼすときは、世のなかも革まって来たが、人も進み時代の先駆もみな、ようやく大人になって来たものだという感がなきを得ない。\n すなわち、五月十五日、府に着いて、安土の城へはいったその大賓とは、徳川家康、ことし四十一になる人だった。"
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"content": " 表面の称えは、\n「十三年ぶりに上方見物を」\n というにあったが、信長が甲州凱旋の道を東海道に選んで、多分に彼の好遇と歓待に甘えて帰った後、わずかまだ一ヵ月を出ないうちのことであるから、信長としては、その返礼の意味をふくめ、家康としては、さらにその効を大にすべく、また、ようやく革新統業の第二段階に入ったこの際に、将来の大策について怠るべきときでないとして、彼としては実にめずらしく、大がかりな行装と列伍をしたがえて、公式に訪れたものであった。\n 宿所は城下の大宝院。\n 接待の奉行は惟任日向守光秀。\n 信長の息信忠も、中国へ加勢にゆく支度中だったが、信長は、\n「何を措いても珍客には」\n と、彼をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈に命じては、あらゆる佳肴鮮味の粋をあつめた。そして、十五日から十七日まで、三日にわたる大饗宴を予定した。それについて、\n(いったい、信長公ほどなお方が、どうして、八ツも年下な、しかもその国がらとて、貧しい弱小からやっと近年勢威を示し出した徳川殿などへ、これ程までな御歓待をなさるのか。何か弱いしりでもおありなのか)\n 坊間、多少こんな取沙汰がないでもなかった。\n 或る者は、いう。\n(あたりまえなことを、異なように云いなさんな。織田徳川の同盟は、そもそも二十余年の誼みではないか。この譎詐権謀だらけな乱世の下に、二十余年来も、おたがいに猜疑せず、違約せず、争わず、信義の交わりをつづけて来ただけでも、こんなうれしいことはないじゃないか。何の理窟や理由が要ろう。それだけでも信長公としては、心から歓びあう値打があるというものだ)\n(いやいや、それもあるが、甲州御凱旋の時の、お礼心であろう)\n(何の何の、そんな小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それには、関東以北を、徳川殿の手にゆだねて、後顧の憂いなく、西へも南へも進出できる構えをまず立てねばならぬ。そうした御談合などもぽつぽつ運んでいるにちがいないよ)\n 等、等、等。庶民たちの臆測にも、時によって、ばかにならない含蓄がある。\n 実をいえば、家康の参向は、信長にとって、折から、出先の客、というものであった。\n これより前に、秀吉との打合わせもあって、彼は近日、自身中国へ出馬し、中国もまた甲州のごとく、一挙に席巻し、一気に統治の実をあげてしまおうと、息信忠もつれてゆく予定で安土へ呼び、今や出陣の準備に忙しい最中であったのである。\n ――にもかかわらず。\n ひとたび安土の大賓として家康を待つや、それらの大事も抛って、心から客を迎え、また全家中の臣もことごとく、その接待のために用いて、\n「最善をつくせよ。お客をして寸毫の不興もあらしむるな」\n と、ほとんど軍令と異らない意気をもっていいつけた。\n 宿舎の結構、調度の善美、朝暮の佳酒珍膳など、もちろんのことだが、信長が家康にうけてもらいたいものは、やはり市井人の長屋交際とか、田舎人の炉辺の馳走とも違わない、その「物」よりは「心」であったこというまでもない。\n 信長にこの「こころ」があったればこそ、二十余年の同盟がこの乱世に完うされて来たともいえよう。また家康のほうからいわせれば、恃む味方としては、ずいぶん気骨の折れる相手だが、時によってのわがままも、得手勝手も、皮を剥いた信長の真底には、利害一てんばりのみでない、真実と呼び得るもの。――それがあるのを知っているので、稀には、三斗の酢を呑まされるようなことがあっても、まずまずと、飽くまでこの人を立て、この人に従いてゆこうという気もちを持ち続けたものであろう。\n そうして、この両者の、同盟二十余年間のうち、いずれが得をし、いずれが損をなしたかを、極めて第三者的にながめるならば、それは両方の得であったといい得る。\n もし、青年立志のとき、早くから、信長が家康を盟友としていなかったら、今日、安土の府の厳存を見ることなど、思いもよらないし、またもし、家康が信長の援助を得ていなかったら、その生い立ちから栄養不良の児みたいであったあの弱小三河の国が、よく以後の四隣の圧迫に耐え得てきたかどうか。たとえば、長篠の一戦を考えてみただけでも、猛虎のまえの一片の餌でしかなかったのではないかと思われる。\n 心交と利害。こう二つの結びあいを離れて、さらにふたりの性格を箇々にながめてみると、なおその友誼を完うし合った底に、津々たる両者の人間の味が噛みしめられる。\n 一言にしてそれをいえば。\n 信長には、用心ぶかい家康などには、到底、空想もなし得ない経綸の雄志と、壮大極まる計画があった。理想に伴う実行力があった。\n これを反対に、信長から家康を観るに、自分の持たない特徴を多分に持っていることを認めていたにちがいない。辛抱づよい、困苦に耐える、奢らない、誇らない。また織田家の宿将とのあいだにも、かりそめに摩擦を起さない。分を知って野望をあらわさず、よく内に蓄えて、同盟国に危うさを気労わせない。そして同じ敵対国にたいしては、常に重きをなしているから無言の防塁はつねに織田の後方を確乎として扶翼している。\n いわば理想的な友国であり、個人としては頼もしい知己だった。二十余年間にあったあらゆる辛苦と危機を顧みるとき、信長は家康を、\n(わが糟糠の妻)\n とも思ったに相違ない。安土第一の殊勲者とも心では称えていたろう。その人に報うきょうの饗宴であり礼遇である。彼としてはなお足らないほどな気はしても、過ぎるとは思わなかったにちがいない。\n ――けれど、主人側の余りな緊張が、時によって、却って客をはらはらさせるような場合は、世上一般の饗宴にもまま例のあることである。\n その日、客の家康は、安土山上の総見寺の舞楽殿で、猿楽能を見物した。桟敷には、近衛殿もおられたし、主人役の信長のほか、穴山梅雪、長雲、友閑、夕菴、長安などの年寄衆、小姓衆、そのほか徳川家の家臣もいながれて陪観していた。\n 梅若太夫が、大織冠、田歌の二番を舞った。出来栄えよく、主客はやんやと褒め囃した。\n で、梅若太夫へかさねて、\n「お能を御覧に入れよ」\n と、命が下った。\n ところが、どうしたのか、能のほうは、不出来であった。謡のことばを忘れて、二、三度もつかえたりした。\n やや興をそがれたが、そのあとをすぐ幸若八郎九郎太夫が、和田のさかもりを舞って、鮮やかに舞い納めたので、主賓の家康始め、一同みな興じ入って、梅若太夫の些細な落度などは、たれも心にとめていなかった。\n 殊に家康は、主のこの馳走に、心からの歓びを示すことに怠りなく、自分の家臣を楽屋へ使いに立てて、\n「いずれも結構に拝見した。わけて幸若の舞は、もう一さし見たいほどである」\n と讃辞を言伝けさせ、梅若、幸若のふたりへ、金子百両、帷子五十を祝儀として贈りとどけた。\n しかし楽屋では、同時に、それどころでない騒ぎが起っていた。――というのは、梅若の能の失態にたいして、信長から、\n「大切な尊客の前において、不用意なる能をお目にかけなどしたは、醜しき曲事たるばかりでなく、芸者として、平常の心がけの不つつかによる。芸道の鍛錬も、武家の兵法も、変りあるべきでない。見せしめのため、梅若太夫の首を刎ねい」\n という叱責が、家臣菅屋九右衛門、長谷川竹の両人から厳かにここへ沙汰され、楽屋中の者は、色を失って、打ち顫えながら詫び入っていたところなのである。\n 家康のとりなしで、後にようやく、信長も怒りを解いて、\n「ゆるしおく」\n とはいったが、そのため、一時はみなどうなるかと、きょうの宴楽も仇に思われたほどだった。\n しかし、他人が衝撃をうけたほどは、信長自身は、その不快をいつまでも持っているわけでもなかった。その証拠には梅若の過怠をゆるすと、\n「褒美を惜しんでの叱言にはあらず――」\n といって、森蘭丸を楽屋へやり、幸若同様に梅若へも、金子拾枚の祝儀を与えている。\n また、こういう歓待の行き過ぎもひとえに信長が客へたいしての、誠意のあふれにほかならないと思われる例には、その翌日、高雲寺御殿での馳走には、右大臣信長自身が、家康のまえに、饗膳を据えた一事を見てもわかることである。\n ――が、家康は、かくまで自分をなぐさめてくれる信長以下、接待役の丹羽長秀、堀久太郎、菅屋九右衛門などの真心に無上な感謝を抱きながらも、時折、ふと物足らないものを覚えて、ついそれを座談のうちに信長へ質してしまった。\n「御馳走役として、初めから私へ附けおかれた日向殿(光秀)にはいかが致されたか。きょうも見えず、きのうの御能拝見にも見うけず、おとといも姿を見なかったようにぞんずるが......?」\n 家康の問いに、信長は、\n「ああ、光秀のことをお訊ねであるか。彼は、都合によって、十五日の夜、坂本へ帰城いたした。......そうそう、にわかのこととて、御宿所へ、挨拶に参じるいとまもなく、安土を退去いたしたものとみゆる」\n 至極すずやかなのだ。そう答える信長の眉にも容子にも、ほとんど、何らの特殊的な感情といったようなものはあらわれていない。\n 実のところ家康はすこし心配もしていたのである。巷間、噂まちまちで、変な揣摩臆測も行われているからだった。しかし今、信長のあっさりした返辞やこだわりのない姿を見ては、巷の取沙汰はすべて無用な思い煩いに過ぎないものと否定された。また、そうあるべき筈とも彼の常識で考えられた。\n ところがその夜、家康が自身の宿所大宝院へ帰ってから、酒井左衛門尉、石川伯耆などの家老たちが、家中の人々が聞き知ったところを蒐めてのはなしによると、惟任日向守光秀の帰国については、そう軽々とは聞き流せない複雑性があるようにまた考え直されて来たのである。\n まず、衆説を取りまとめた真相というのは、大体、次のような事柄が、光秀の急なる帰国の原因となったことは確かだった。\n それは。――家康の着いた十五日のこと。信長は予告なしに饗応奉行の台所屋敷へ臨検した。このところ安土は照入梅のような蒸暑さであったせいか、乾物や生魚の臭いがぷんぷんと鼻へ襲った。のみならず堺や京から大量に集荷した食糧が、解きかけてあったり積んであったり、ひどく散らかっていた。内容がどんな珍味佳肴であろうと用捨なく蠅は群れたかってくる。信長の顔にも肩にもそれはたかる。"
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"role": "user",
"content": "「赤羽で今電氣を焚くところをこさへて居るが、其れが出來るとはや......」こんな事を話して居る男があつた。電氣を焚くといふ言葉が面白かつた。日本語もかういふ工合に活用させる人ばかりだつたら、字を見なければ分らない或は字を見ても讀めないやうな生硬な術語などをやめてしまつて、もう少し親しみのあるものに代へる事が出來さうである。國語調査會とかいふものでかういふいゝ言葉を調べ上げたらよささうに思はれた。\n 浦和の停車場からすぐに町外れへ出て甘藷や里芋やいろいろの畑の中をぶら〳〵歩いた。とある雜木林の出つ鼻の落葉の上に風呂敷をしいて坐り込んで向ひの丘を寫し始めた。平生は唯美しいとばかりで不注意に見過して居る秋の森の複雜な色の諧調は全く臆病な素人繪かきを途方にくれさせる。未だ眼の鋭くない吾々初學者に取つては恐らく此れ程いゝ材料はあるまい。しかし黒人になれば多分唯一面のちやぶ臺、一握の卓布の面の上にでも矢張りこれだけの色彩の錯綜が認められるのであらう。それ程になるのも考へものであるとも思ふが、併し假令樂しみ事にしろやつぱり其處迄行かなければつまらないとも思ふ。\n 畑に栽培されて居る植物の色が一切れ毎にそれ〴〵一つも同じものはない。打返されて露出して居る土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれ〴〵に違つた色のニュアンスがある。それ等の可也に不規則な平面的分布が透視法といふ原理に統一されて、其處に美しい幾何學的の整合を示して居る。此等の色を一つ取りかへても、線を一つ引き違へても、もう駄目だといふ氣がする。\n 十歳位の男の子が二人來て後の方で見て居た。「いゝねえ」「いゝ色だねえ」などゝ云つて居るのが矢張り子供らしい世辭のやうに聞こえた。遠慮深い小さな聲で云つて居るのであつたが流石に昨日の大宮の車夫とはちがつて、畫の中の物體を指摘したりしないで「色」を云つたりする處がそれだけ新しい時代の子供であるのかも知れない。\n 此處はいゝ加減に切上げて丘の上の畑の中を歩いた。黍を主題にしたのが一枚描き度かつたがどうも工合のいゝ背景が見付からなかつた。同じ畑の中を何遍も往復して居るのを少し離れた畑で働いて居た農夫が怪しんで居るやうで少し氣が引けた。自分が農夫になつて見た時に此の繪具箱をぶら下げて歩いて居る自分が如何にも東京ののらくら者に見えるので心細かつた。とう〳〵鐵道線路の傍の崖の上に腰かけて、一枚ざつとどうにか書き上げてしまつた。\n\n 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里の新開町を通つて町はづれに出た。戰爭の爲に出來たらしい小工場が到處に小規模な生産をやつて居る。兎も角も自分の子供の時にはみんな貴重な舶來物であつた品物が、ちやんと此處等のこんな見窄らしい工場で出來て綺麗なラベルなどを貼られて市場に出てくるのであらう。其れだけでも日本がえらくなつたには相違ない。此れでもし世界中の他の國が昔の儘に「足踏」をして、日本の追付くのを待つて居てくれたら嘸いいだらう。\n 町はづれに近く青いペンキ塗りの新築が目に付いた。それを主題にしたスケッチを一枚描かうと思つて適當な場所を搜して居ると、ちやんとした本物の畫學生らしいのが二人、同じ「青い家」を取入れて八號位の畫布を描いて居るのに出合つた。一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝に架つた板橋を使つて居た。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色つぽい調子が目に付いた。\n 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝の崖の縁に坐つて溝渠と道路のパースペクチーヴを眞中に入れたのを描いた。近處の子供等が入り代り何人となく覗きに來た。此邊の子供には大分專門的の知識があつて「チューブ」だの「パレット」だのといふ言葉を云つて居るのが聞こえた。そして浦和邊の子供とは凡ての質が違つて居た。\n 歸りに、腰に敷いて居た大きな布片の塵を拂はうとした拍子に取落した。それが溝の崖のずつと下の方に引つかゝつて容易には取り上げる事が出來ないので、其儘にして歸つた。此の布切れがやつぱり今でも引つかゝつて居るかも知れない。此日かいた繪を見ると、繪の下の方に此の布切れがぶら下つて居るやうな氣がして仕方がない。人殺しをした人間の或る場合の心持は何處か此れと似たものがあるのかも知れない。(中略)\n\n 十月廿九日、土曜。王子電車で小臺の渡迄行つた。名前だけで想像して居た此の渡場は武藏野の尾花の末を流れる川の岸の淋しい物哀れな小驛であつたが、來て見ると先づ大きな料理屋兼旅館が並んで居る間にペンキ塗りの安西洋料理屋があつたり、川の岸にはいろんな粗末な工場があつたり、そして猪苗代湖の水力で起した電壓幾萬幾千ボルトの三相交流が河の高い空を跨いで居るのに驚かされた。\n 先月からの雨に荒川が溢れたと見えて、川沿の草木はみんな泥水をかむつたまゝに干上つて一樣に情ない灰色をして居た。全色盲の見た自然は或はこんなものだらうかといふ氣がして不愉快であつた。\n 高壓電線の支柱の處迄來ると、河から直角に掘り込んで來た小さな溝渠があつた。此れに沿うて二條のトロの鐵軌が敷いてあつて、二三町距てた電車通の神社の脇に通じて居る。溝渠の向側には小規模の鐵工場らしいものゝ廢墟がある。永い間雨曝しになつて居るらしい鐵の構造物はすつかり赤錆がして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示して居る。煙突なども倒れかゝつたまゝになつて何となく荒れ果てた眺である。此の工場の爲に掘つたかと思はれる裏の溜池には掘割溝から河の水を導き入れてあつた。其の水門が崩れた儘になつて居るのも畫趣があつた。池の對岸の石垣の上には竹藪があつて、其の中から一本の大榎が聳えて居るが、其の梢の紅や黄を帶びた色彩が何とも云はれない美しい。樹の影には他の工場の倉庫らしい丹塗りの單純な建物が半面を日に照らされて輝いて居る。其の前には廢工場の汀に茂つた花薄が銀のやうに光つて居る。\n 溝の此方に畫架を据ゑて對岸の榎と赤い倉庫と薄との三角形を主題にして描き始めた。\n 描いて居るすぐ傍には新しい木の香のする材木が積んであつた。又少し離れた處には大きな土管がいくつも砂利の上にころがしてあつた。私が其處へ來る前から、中學の一年か二年位と見える子供が唯一人材木の上に腰をかけて居たが、私が描き始めると傍へ來て大人しく見て居た。そして何時迄も其處を離れないで見て居るのであつた。\n 其内に土方のやうなものが二三人すぐ背後の方へ來て材木の上に腰かけて何かしきりに話し合つて居た。誰か其處に來る筈の人――それは多分親分か何かゞ未だ來て居ないのを待遠しがつて噂をして居るらしかつた。傍に「繪を描いて居る男」などは全で問題にならないらしい程熱心に話合つて居た。\n 其内に荷馬車の音がして大勢の人夫がやつて來て、材木を轉がしては車に積み始めたので、私はしばらく畫架を片よせて避けなければならなかつた。そこで少し離れた土管に腰をかけて煙草を吸ひながら描きかけの繪の穴を埋める事を考へて居た。\n 人夫の中には繪を覗きに來るものもあつた。そして色々人を笑はせる心算らしい粗暴な或は卑猥な言語を並べたりした。「あの曲つた煙突をかくといゝんだがなあ」などゝいふ者もあつた。「文展へ行つて見ろ、島村觀山とか寺岡廣業とか、あゝいふのはみんな大家だぜ、こんなのとはちがわあ」「あれでも何處かへ持つて行きあ、三十圓や五十圓にやあなるんだよ」などといふのも聞こえた。\n さつきの子供はいつ迄も其處いらを離れずにぶら〳〵して居た。遠足にしては唯一人といふのも可笑しかつた。餘程繪が好きなので、かうして油繪の出來て行く道筋を飽きずにおしまひまで見屆けようとして居るのかと思つても見た。\n 一度去つた荷車と人夫は再び歸つて來た。彼等の仕事しながらの會話によつて對岸の廢工場が某の鑄物工場であつた事、それが漸く竣成していよ〳〵製造を始めようとする途端に經濟界の大變動が突發して其儘廢墟になつてしまつた事などを知つた。"
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"role": "assistant",
"content": " 繪具箱を片付ける頃には夕日が傾いて廢墟の汀の花薄は黄金の色に染められた。其處に堆積した土塊のやうなものはよく見るとみな石炭であつた。溜池の岸には子供が二三人釣を垂れて居た。熔爐の屋根には一羽の鴉が首を傾けて何かしら考へて居た。\n 繪として見る時には美しく面白い此の廢墟の影に、多數の人の家の悲慘な運命が隱れて居るのを、此の瞬間迄私は少しも考へないで居た。一度氣が付くともう眼の前の繪は消えて其處にはさま〴〵な悲劇の場面が現はれた。\n 利慾の外に何物もない人達が戰時の風雲に乘じて色々な際どい仕事に手を出し、それが殆んど豫期された筈の變動の爲に倒れたのはどうにも仕方がないとしても、さういふ人の妻子の身の上は考へて見れば氣の毒である。\n 突然すぐ前の溝の中から呼びかけるものがある。見ると河の方から一艘の荷船が何時の間にかはひつて來て居る。市中の堀などでよく見かけるやうな、船を家として渡つて行く家族の一つである。舳に立つて居る五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さつきから私の繪を見て居た中學生であつた。\n 子供に關する凡ての事が稻妻の閃めくやうに私の頭の中に照し出された。今日は土曜である。市の中學から恐らく一週間ぶりに歸つた子供は此一夜を父母と同じ苫の下で明かさうとするのであらう。其れを迎に來た親と、待ち草臥れた子供とが、船と岸とで默つて向合つて居る淋しい姿を見比べた時に、何だか急に胸の邊がくすぐつたくなつて知らぬ間に涙が出て居た。何の爲の涙であつたか自分でも分らない。\n 繪の世界は此上もなく美しい。暫く此の美しい世界に逃れて病を養はうと思つても、繪の底に隱れた世の中が少しの心の隙間を窺つてすぐに眼の前に迫つて來る。此れは私の繪が弱いのか世の中が強いのか、どつちだか此れもよく分らない。\n 一つの工場が倒れる一方に他の工場は新に建てられて居る。さつきの材木も矢張り何處かの工場のである事が人夫の話から判斷された。工業が衰へた譯でもないらしい。個體が死んでも種が榮えれば國家は安泰である。個體の死に附隨する感傷的な哀詩などは考へない方が健全でいゝかも知れない。\n 工場のみならず到處に安普請の家が建ちかゝつて居るのが此間中目について居た。一と頃騷がしかつた住宅難の解決がこんな風にしてなしくづしに付いて居るかと思はれた。未だ荒壁が塗りかけになつて建具も張つてない家に無理無體に家財を持ち込んで、座敷の眞中に築いた夜具や箪笥の胸壁の中で飯を食つて居る若夫婦が目に付いたりした。\n 新開地を追うて來て新に店を構へた仕出し屋の主人が店先に頬杖を突いて行儀惡く寢ころんで居る眼の前へ、膳椀の類を出し並べて賣り付けようとして居る行商人もあつた。其處らの森陰の汚ない藁屋の障子の奧からは端唄の三味線をさらつて居る音も聞こえた。かうして我大東京はだらしなく無設計に横に擴がつて、美しい武藏野を何處迄もと蠶食して行くのである。こんなにしなくても市中の地の底へ何層樓のアパートメントでも建てた方がよささうに思はれる。さうしないと、おしまひには米や大根を地下室の棚で作らなければならない事になるかも知れない。\n 伯林の郊外で未だ家のちつとも建たない原野に、道路だけが立派に磨いた土瀝青張りに出來上つて、美術的なランプ柱が行列して居るのを、少し馬鹿々々しいやうにも感じたのであつたが、やつぱりあゝしなければかうなるのは當り前だと思はれた。\n 想ふに「場末の新開町」といふ言葉は今の東京市の殆んど全部に當嵌まる言葉である。\n\n 十一月二日、水曜。澁谷から玉川電車に乘つた。東京の市街が何處迄も〳〵續いて居るのにいつもながら驚かされた。\n 世田ヶ谷といふ處が何處かしら東京附近にあるといふ事だけ知つて、それがどの方面だかは今日迄つい知らずに居たが、今此處を通つて始めて知つた。成程兵隊の居さうなといふ事が町に並んで居る店屋の種類からも想像されるのであつた。\n 駒澤村といふのが矢張り此の線路にある事も始めて知つた。頭の中で離れ〳〵になつて何の連絡もなかつた色々の場所が丁度數珠の珠を絲に連ねるやうに、電車線路に貫かれてつながり合つて來るのが一寸面白かつた。\n 學校で教つたり書物を讀んだりして得た知識も矢張り離れ離れになり勝ちなものである。唯自分が何かの問題にまともにぶつかつて、其方の必要から此等の知識を通り拔ける時に、凡ての空虚な知識が體驗の絲に貫かれて始めて活きて連結して來る。此れと同じやうなものだと思ふ。\n 農科の實科の學生が二三人乘つて居た。みんな大きな包のやうなものを携へて居る。休日でもないのに何處へ行くのだらうと思つて氣をつけて居た。すると途中からもう一人同じ帽章をつけたのが乘り込んで、いきなり入口に近く腰掛けて居た一人の肩をたゝき「オイ、どうした」と聲をかけた。其の言葉の響の或る機微な特徴で、私は此の學生が固有の日本人でない事を知つた。氣を付けて見ると、つい私の隣にかけて居た連れの一人の讀んで居る新聞が漢字ばかりのものであつた。容貌から見るとどうも中國ではなくて朝鮮から來た人達らしく思はれた。\n 玉川の磧では工兵が架橋演習をやつて居た。あまりきらきらする河原には私の搜すやうな畫題はなかつたので、河と此れに並行した丘との間の畑地を當もなく東へ歩いて行つた。廣い廣い桃畑があるが、樹はもうみんな葉をふるつてしまつて、果實を包んだ紙の取り殘されたのが雨にたゝけてくつついて居る。少しはなれて見ると密生した梢の色が紫色にぼうと煙つたやうに見える。畑の間を縫ふ小道の傍の處々に黄ばんだ榛の樹の梢も美しい。\n 丘の上へ登つて見ようと思つて道を搜して居ると池の樣なものゝ傍に出た。漣一つ立たない池に映つた丘の森の色も又なく美しいものである。汀に茂る葭の斷間に釣をして居る人があつた。私の近づく足音を聞くと振返つて何だかひどく落ち付かぬ風を見せた。もし此の池で釣魚をする事が禁ぜられてゞも居るか、さうでないとすれば、此の人は矢張り自分の樣なたちの、云はゞ据りの惡い良心をもつた人間だらうと思はれた。そして惡い事をして居なくても、人から惡い事をして居ると思はれはしないかと思ふと同時に、實際惡い事をして居ると同じ心持になるといふたちの男かも知れないと思つた。そして同病相憐む心から私は急いで其處を通り過ぎねばならなかつた。\n 漸く丘の下の往還に出ると、丁度其處から登る坂道があつた。登りつめると綺麗な芝を植ゑた斜面から玉川沿の平野一面を見晴す事が出來た。併し其れよりも私の眼を牽いたのは、丘の上の畑の向側に柹の大木が幾本となく並んで其の葉が一面に紅葉して居るのであつた。其向ふは一段低くなつて居ると見えて柹の梢の下にある家の藁葺屋根だけが地面にのつかつて居るやうに見えて居た。此處で畫架を立てゝ二時間餘りを無心に過した。\n 崖を下りて停車場の方へ行く道傍には清らかな小流が音を立てゝ流れて居た。小川の岸に茂る色々の灌木はみんなさま〴〵の秋の色彩に染められて居た。小川と丘との間の一帶の地に、別莊らしい家が處々に建つて居る。後には森を背負ひ、門前の小川には小橋がかゝつて居る、何となしに閑寂な趣のある好い土地だと思ふ。併し此の小川の流が衞生の方から少し氣になる點もあると思つた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " あれで、余り骨を折ったから、はやりかぜにかかるだろうと云っているほどですもの、あたりで。空気のわるさは旱天と云うとこんなかというばかりですものね。\n 二月六日にかいて下すったお手紙、けさ(七日)つきました。私は、ですから何だか毎日手紙頂いたような気よ。第四信とありますが、五信よ。\n 森長さんへのこと、岡林さんへのこと。わかりました。それは結構でしょう。森長さんへ二度目の分ほどいるでしょうか。今すぐわかりません、というのはね、何しろそんなわけで、大蔵省方面の条件の整備について、私大いにまわらぬ頭をひねっているのです。ところがそっちがまだ大体のプランというところまで組立たないので、この二三日のうちに底をはたいていいのかどうか。ちょっとお待ち下さい。それを条件に入れてプランを立てて見ますから。不得手中の不得手でどうもすみませんが。\n『東京堂』一月号のこと、きょう、この手紙と一緒に送り出します。「風と共に」は第一の方でしょうと思います。世界名作全集が四五月ごろから中央公論から出ます。これはいくつもそんなプランのある中で一番いいでしょうから買います。一番下らぬのが新潮の。\n 地図は『年鑑』の附録の方でしょう? テリヨキのあるのは。\n 寒暖計いいでしょう? 買いました。水銀にあかい色のついたのです。お湯のだものいいわねえ。本当に実用的で親愛で。特製詩集は、表紙の装幀に何かの実のようなふっくりした薄赤い二粒の円い珠飾りのついたののことだろうと思います。ありがとう。よろこびということばを、ひとくちに浅く云わず、その一つ一つの響きを大切に区切って味うと、これは何と深く立体的な句でしょう。心の峯々のようなボリュームさえあります。詩集が私の生活にもたらされてから、はじめてそういうよろこびの感じが実感のなかにとらえられているのもうれしいことです。この頃ひらく頁には、希望という句もあるのですが、それは非常にユニークなもので、何というのかしら、希望の先駆、それは人が希望と呼んでいるそういうものになるのだろうかというような極めて複雑微妙な格調のものです。ニュアンスのごく濃いものです。よろこびの豊富横溢している数章と、この希望のそよぎは風の中にあって、という句との間には、時間という虹のそり橋が描かれています。しかも、瞬間に圧縮されるめずらしい形での生活としての時間が描かれていて、なかなか興味つきぬものがあります。插画が作者たちの手で入念に描かれていて面白いこと。\n 紀さんは、なかなかよく経験して来ています。責任(部下の生命その他)を深く知って来たというだけでも人間の重みが加りました。生活のモラルのなかで、責任という感覚は大抵、一家の範囲を出ないのが多いから。(一家の父、一家の主等々。日常的世帯的)勿論、あり得る最大限のひろさでそれが感じられているのではないけれども。皆が価値評価に対する従来のめやすを揺られるところは大変面白い。歴史の中ではっきりしためあてがあって経過されてゆく事情、条件というすじが通っていないから、現象的にああだのにこう、こうだのに一方にはああ、と並べて、変な空漠を感じている。これは面白いことね。\n やっぱりそうだけれども、紀さんが、歴史というものに大変興味をもってかえったのは面白いと思います。現在につくられつつある歴史という感じまで来て。緑郎は、もう送金が出来ないからかえるしかないでしょう。達ちゃんたちのことを、紀さんがかえったのでしきりに思います。干魚が大変便利でうまいそうですから送ってやります。ではこれで。益〻お大切に。\n\n二月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 二月九日 第十三信\n うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。\n きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。二月を如月というのは面白いことね。夕刻風にふきはらわれて暗くなりながら青くエナメルのように寂しく透明になる空の色を見て、なにか如月という感じがわかるようです。すこし今つかれて。話ししたくなって。\n まあ、この炭何と匂うのでしょう、匂うというときれいだが、ガスを出すのでしょう、胸苦しい。ガラス戸をあけ放しにして。\n さて、御機嫌はいかがでしょう。ずっと平調でしょうか。七日にかいた手紙で、いろいろ健康に危険な空気のことおわかりになったかしら。御心配下さるといけないと思って。私はいいあんばいに変調なくて居ります。神経の緊張もいくらかおさまりました。\n 八日はね、大した先約で出かけました、というのはお久さんのところへ。蒲田のアパートに居ります。八日が誕生日なのですって。是非来てくれと、正月に来たとき云っていたので、約束していたので多賀ちゃんをつれて出かけました。六畳のアパートで、それでも窓がひろい空と樫の木に向っていて、大きいタンスやワードローブ、茶ダンス、デスクとぎっしり。デスクの上には『焼入れと焼戻し』というような本がのっています。デスクの前のかべには「ミレーの晩鐘」の蝋刷りと子供をおぶったもんぺの若い母が馬をひっぱってゆく時かの絵がはりつけてあります。そういう住居でおひささんは私が手製の五目ずしがすきと知っているので、わざわざこしらえてくれて居りました。ハイガ米で酢がきかないの。\n 二時間ほど話してかえりには駅まで送って来て柵の外に立って動くまで見送って居りました。くりかえしよろしくと申して居りました。相変らず情のふかいひと。こういう天然の情のこまやかさと、ごく月並なものの目安とがこんがらかって年を経た後のお久さんを考えると、何といったらいいでしょう。ああ小母ちゃんよ、と思いますね。あなたへのよろしくにしても、そのうちにこめられる心持は、目白時代よりは複雑なのがわかります。彼女も妻の心がわかりかかっているのですものね。そういうところも可愛らしく思われました。結婚式を十二社で(新宿の先の)やったのですって。東京での、よ。そのとき私を招ぼうとしてすっかり仕度していて、お久さんの発議でやめたのですって。来て貰うのも気の毒と。それを話して大笑い。だって急にそんなこと云われても私にはそういう場所にふさわしい黒の裾模様なんというものはもって居りませんものね。矢沢という貸衣裳屋はうちかけまでもっているでしょうけれど、私の身幅はないでしょうから。\n 蒲田からはなかなか遠いこと。あの辺は水道が大変よくなくてお茶がくそうございます。あんなに戸数がひろがると思わず水圧がひくくて、出ないときがあるのですって。二階だから猶。\n 池上の方の田圃の中に三間の家があって三十六円也、片はじからふさがっているそうです。"
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"role": "assistant",
"content": " この家の二階がね、六畳一つで、スケッチに御覧になったとおりです。ここへ入って来ると、私は机に向うしかないの、ゆとりがなくて。それで余りいやだからもう一つ四畳半がのらないかと思って国男さんに相談したら、五百円でも無理のよし。防火材がなくてはならないから。坪二百円でも駄目では三間で36、もするわけです。\n きのう、道でルーズリーフの手帖を買おうとしたらデパートなんかにはありませんでした。ルーズリーフをつかおうというわけは、ちょいちょいいろいろかくのです、耳にとまった会話、景色、そのほかいろいろ。これまでどの位ちょっとしたノートや紙切れにかいたでしょう。けれどもそれをちっとも整理してないのです。だから、何か小説をかくとき、季節のことや何か、不便です。それでハハアと今ごろ(!)気がついて、ルーズリーフをつかって、それをはずしてファイルして月雪花からあらゆることを整理しておこうと思いついたのです。よんだものについてのメモにしろ。そしたらいざというとき引くのに楽です。これまで大衆作家やジャーナリストしかそういうことはしなかったようですが、ちがった内容でそれがされることも私たちにとっては決して不自然でないのですもの。生活の環と内容が大きくなると、やはりその必要というか便利かが生じます。\n 机の引出しをすっかり空っぽにして整理しているうちにいつか、五月ごろの雨上りの景色をかいている紙切れが出て、何だかその頃の空気がぱっと顔にかかって来るように新鮮でした。だからおしいなアと思ってそして考えていて思いついたのです。仕事してゆく自分自分の方法が、こんなにしてたまって来る、見出されて来るのは面白いこと、ね。\n 十三日に、どこかお湯のあるところへゆきたくてキョトキョトしましたが、おやめにいたします。無理だから。もし鵠沼にちょっと泊れるところでもあれば、一晩海のそばで眠って来ますが。きっと、一人でいろんなこと一どきに考えて、それで温泉へでも行きたくなってしまったのね。どうもそうらしく思えます。理研のレバーはよくきいて、気分としてはそんな気分でも仕事はやって居ります。何と面白いでしょう。ミケルアンジェロが、フィレンツェにいられなくなって、ローマ暮しで心は悲愁に充ちているとき益〻仕事に熱中したというのをいつかよんで、そういうところまで責められている芸の術というものはこれまた稀有だといろいろ感じました。しかし、そういうことは生きかたの方向としては、もっと貧しい芸の術の場合でもあり得ると思うとたのしくなります。人間の生活のキャパシティーというものはおもしろいものね。\n キャパシティーからつづいてのわけでもないけれども、この前のお手紙で云っていらしたお礼のことね。あれは、先のことはともかく、お話しのとおりしておきましょう。考えて見れば先のことはともかくならば猶更というところもありますから。でも額はどうでしょう。やはりおっしゃるだけが適当でしょうか。私は、先に予期されていなかったこともあるし、半分でよいのではないかという気がいたしますが。どうでしょう。半分ずつにしておきたいと思います。そして早速とり計らいましょう。(信濃町のおじいさん、あちらへは、お手紙にあっただけでした。森長さんの二度目の分と同じだけ。(これは暮のうちのことですが)その位にしておかないと写しものの方のことで、しがくがつかないままゴチャゴチャになってしまうといけませんから。このところ些か芸当ですから。ポーランド人の手品がいります、何もないところから一着のズボンをつくり出すポーランド人の手品ということわざがありますが。)\n 富ちゃんのお嫁さんがきまりそうです。下松で小さいあきないをしている人の娘ですって。結構です。岩本という人の妹をぜひ貰ってくれと云われたが、それは困るとことわった由。そのひとが達ちゃんのお嫁さんになってはこまる、という同じ意味でことわったそうです。きっと決定すれば富ちゃんから手紙さし上げることでしょうが。野原の小母さまの顔が見えます。きょう私へ羽織の裏のいいのを送って下さいました。\n どうかお大切に。小包つきました。袷お送り下さい、どうぞ。\n\n二月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 二月十三日の夜 第十四信\n 十日づけのお手紙どうも、どうもありがとう。これがどんなにしてきょうのおくりものになったかお話しいたしましょう、いろいろと重って吉日だったから。\n きのうは朝先ずそちらへゆき、フリージアとスウィートピーの花をたのみました。スウィートピイなんて子供めいているようですが、でもあの花々の柔かい色合いはやはりやさしいものを語って居りますから。フリージアもいい匂いです、ユリの花とは少しちがうけれども。たっぷりそれらの花をあげたいと思ってそのようにして、玉子が抽象的になってしまったからミカンなどを。\n それから新宿へ行って、ちょっとおかずを買って、多賀ちゃんと落合って、十一時の小田急で鵠沼へゆきました。久しぶりで海の近くの空気の心地よさ。その小原さんという娘さんは、丁度おなかをこわした後だと云って一層やつれていて、そのやつれた顔をほころばしてよろこんでくれました。すこし散歩したりしてかえって来たら雨。ああよく降って来たというわけで、九時頃鵠沼ホテルというのへ行って午後に話しておいた部屋へ上りました。いかがかと思ったが、笑ってしまって。というのは、その部屋はね、ホテルですからね、何しろ。安アパート式に西洋窓で、大きいワードローブが突立っていて、天井は白、羽目は板、間の壁は薄桃色という、つまりお祝の鳥の子餅の箱の中に入ったようなの。でもいいや、ね。とそれから入浴し、その風呂はいい心持。そして次の間に床をとったのを見たら、スタンドは気がきいているが、そこもアパートなの。そして、その主人が茶気たっぷりできっと天蓋つきの Bed を置こうとしたと見えて、天井から枠が宙に下って来ているというわけです。\n でもいい心持に手足のばして眠って、きょうは特別とおそくまで床の中にいて、それから朝食をたべ、本をすこしよみ、正午近くパンを買って、又そのひとの室へ行きました。(鵠沼ホテル)\n そこの家は日本風の昔からある離室をいくつかもっていて、そちらの方はちゃんとした日本式のところで、茶がかっていて大分落付きます。月ぎめをやっているそうでした。90.00 から。この月ぎめというところに一寸気をひかれ離れを検分したわけです。休むとき、不意に人に来られっこのないところにいるというのは何といいでしょう。仕事いそがしいとき、人の来っこないという心持は何といいでしょう。ここなら新宿から一時間二十分、デンワもきくし、夜でも東京へ楽に出られるし、などいろいろと条件を考えたわけです。こんなことを条件に浮べて見たというわけよ。\n 四時二分で鵠沼を出て、五時すぎついて、新宿で一寸夕飯たべて、かえって、幸子ちゃんのところへ門の鍵やポストのものとりにたかちゃんが行っていて、私は火をおこしていたら、「おでんわです」というので黄色いドテラの上に羽織きて出かけたら、栗林氏でした。この電話は私をすっかりなぐさめました。あああなたにも小さいおくりもの、とうれしかった。そこへこのお手紙がもって来られたという次第です。いい折のいい折についたでしょう? ねえ、そして速達にしようかと思ったとあるのですもの。これはいいおくりものでなかろう筈はないでしょう? それに、題とはこれは全くふさわしい頂きものです。この間うち考えていたのです、折々。本当にいいわ。このまま正題にします。時代の鏡という表現も云わば蛇足で、これは題にならないと思っていたのでした。本当にありがとう。実にぴったりとしたおくりものです、私たちの間にしかありようのないおくりものです。呉々もありがとう。ペン軸も。いつも原稿はペンばかりです。こんど出かけたとき、念をいれてさがして使いいい、永年使うようなのを見つけましょう。\n 年表は、『哲学年表』の組みかたで社会一般、婦人一般、文化、文学、婦人作家という分けかたにして見ました。そうすると、或年、どっさり社会的な事件、婦人の問題が生じているとき、婦人作家はどう活動していたかが分って、それが貧寒であるということからも、暗示するものは少くないわけです。本当は作品を列挙すべきでしょうね。何年何年と。そこまで調べが届くかどうか。やれたらやった方がいいのですが。何とか懇話会(六日ごろの)あれは長谷川のお婆さんによろしくやられたのでした。その経験でいろいろ分ったからもう大丈夫です。どうぞ御安心下さい。\n お手紙に伊豆かどこかの小旅行は云々とあって、迚も伊豆まではのびなかったネと多賀ちゃんと大笑いしました。でも休まった工合です。休まったのが、かえってからいろいろわるくないことですっかり体に入った感じです。又明日からせっせと仕事です。大日本印刷(牛込)なんかさえ夜業全廃です、モーターをとめるから。そのため〆切りのくりあげで大したことになりました。これまで一ヵ月のうち十日間はややひまであったのが、もうすこし本当の仕事のため準備があれば、休む日はなくなります。\n 読みもの、いろいろ妙なところで、骨格になって来て面白く思われます。ナイティンゲールのことがあって、その天使めいた伝説をただした伝記をかくのですが、そのことにふれて、イギリスの働く人たちの生活状態をしらべた文献がすぐ念頭にうかんで来て、やはり極めてリアリスティックな背景を描かせますし、クリミヤ戦争で兵隊が苦しんだことにしろ、それと同じ時代にそのことを関心して、前の本の親友がふれている、庶民生活のひどい扱われ方として。なかなか面白うございます。ジャック・ロンドンの「奈落の人々」がやはりふれて来ます。いろいろ大変面白く、歴史の現実の豊富を、ごっそりとすくい上げて見られるうれしさを感じます。\n 私は、この頃、いつか(一昨年のころ)云っていらしたように歴史上の題材を正当に扱われるかもしれないと思うようになりました。一つ何かいい歴史小説があってもいいわね。長篇として。歴史小説の正しさのわかるものとして書けたら。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": " と高く笑つて、\n「それにしても、考へると、可笑くつてなんねえだよ。あの大い睾丸を拘へてよ、それで姫ツ子を自由に為ようつて言んだから、こいつは中々骨が折れるあ!」\n と言ふのが例だ。\n で、其からといふものは、重右衛門は好く湯田中に出懸けて行つたが、金を費ふ割に余りちやほやされないので、つねに悒々として楽しまなかつたといふ事である。\n 其中には段々家は失敗に失敗を重ねて、祖父が一人真面目に心配して居るけれど、さてそれを何うする事も出来ず田地は益々人手に渡つて、祖父の死んだ時(それは丁度重右衛門が二十二の時であつた)にはもう田畠合せて一町歩位しか無かつたとの話だ。ことに、その祖父の死ぬ時に一つの悲しい話がある。それは、其頃重右衛門は湯田中に深く陥つて居る女があつたとかで、家の衰へて行くのにも頓着せず、米を売つた代価とか、蚕を売つた金とかありさへすれば、五両なり十両なりそれを残らず引攫つて飛出して、四日、五日、その金の有らん限り、流連して更に家に帰らうとも為なかつた。父親と母親とは重右街門とは始めから仲が悪いので、商売を為るとか言つて、其頃長野へ出て居つたから、家には只死に瀕した祖父一人。その祖父は曾て孫を此上なく寵愛して、凡そ祖父の孫に対する愛は、遺憾なく尽して居つたにも拘らず、その死の床には侍つて居るものが一人も無いとは!\n 二日程前から病に罹つて、老人はその腰の曲つた姿を家の外に顕はさなかつたが、其三日目の晩に、あまり家の中がしんとして居ると言ふので、隣の者が行つて見ると、老人行火に凭り懸つたまゝ、丸くなつて打伏して居る。\n「爺様! 何うだね」\n と声を懸けても、返事が無い。\n「爺様!」\n と再び呼んでも、猶返事を為ようとも為ない。これは不思議だと怪んで、急いで傍に行つて見ると、体がぐたりとして水涕を出したまゝ、早既に締が切れて居る。驚いて、これを村の世話役に報告する、湯田中の重右衛門に使を出す、と、重右衛門は遊廓の二階で、大睾丸を抱へて大騒を遣つて居る最中だつたさうで、祖父が死んだといふ悲むべき報知を聞いても、更に涙一つ滴さうでもなく、「死んで了つたものは仕方が無え、明日帰つて、緩り葬礼を出して遣るから、もう帰つて呉れても好い」との無情な言草には、使の者も殆ど呆れ返つたとの事だ。\n 兎に角重右衛門は此頃からそろ〳〵評判が悪くなつたので、その祖父の孫に対する愛を知つて居る人は、他村の者までも、重右衛門の最後の必ず好くないといふ事を私語き合つたのである。\n 祖父が死んだので、父親母親は一先村へ帰つて、少時其家に住んで居た。が、この親子の間柄といふものは、祖父が余り過度に愛した故でもあらうが、それは驚くばかり冷かで、何かと言つては、直き親子で衝突して、撲り合ひを始める。仲裁に入ると、その仲裁に入つた者まで撲り飛ばして、傷を負はせるといふ有様なので、後には誰も相手に為る者が無くなつて了つた。で、この親と子の間に少なからざる活闘が演じられたが、重右衛門は体格が大きく、馬鹿力があつて、其上意地が非常に強く、酒を飲むと、殆ど親子の見さかひも無くなつて了ふものだから、流石の親達も終には呆れ返つてこんな子息の傍には居られぬ、と一年許して、又長野へ出て行つた。\n これからが重右衛門の罪悪史である。祖父は歿くなる、親は追出す、もう誰一人その我儘を抑めるものが無くなつたので、初めの中は自分の家の財産を抵当に、彼方此方から金を工面して、猶その放蕩を続けて居た。けれど重右衛門とて、丸きり意識を失つた馬鹿者でも無いから、満更その自分の一生に就いて思慮を費やさぬ事も無いので、時にはいろ〳〵その将来の事を苦にして、自分の家の没落をも何うかして恢復したいと思つた事もあつたらしい。其証拠には、それから、大凡一年ばかり経つと、丸で人間が変つたかと思はれるやうに、もうふつゝりと女郎買をやめて、小作人まかせに荒れて居た田地を耕し、人の為めに馬を曳いて賃金を取り、養蚕の手伝をして日当を稼ぐなど、それは村の人が一時眼を聳だてる程の勤勉なる労働者と為つた\n 其頃である。稍その信用が恢復しようとした頃である。村に世話好の男があつて、重右衛門も此頃では余程身持も修まつて来たやうだし、あゝ勤勉に労働する処を見ると、将来にも左程希望が無いとも云へぬ。一つ相応な嫁を周旋して、一層身が堅まるやうに為て遣らうではないかといふ者があつたが、それに賛成する者も随分あつて、彼れかこれかといよ〳〵相応の嫁を探して遣る事と為つた。\n 其候補者には誰が為つたらう。\n その頃、村の尽頭に老婆と一緒に駄菓子の見世を出して、子供等を相手に、亀の子焼などを商つて、辛うじて其日の生活を立てて行く女があつた。生れは何でも越後の者だといふ事だが、其処に住んだのは、七八年前の事で、始めはその父親らしい腰の曲つた顔の燻つた汚らしい爺様も居つた相だが、それは間もなく死んで、今では母の老婆と二人暮し。村の若い者などが時々遊びに行く事があつても、不器量で、無愛想で、おまけに口が少し訥ると来て居るから、誰も物好に手を出すものもなく、二十五歳の今日まで、男といふものは猫より外に抱いた事も無かつた。けれど其性質は悪くはない相で、子供などには中々優しくする様子であるから、何うだ、重右衛門、姿色よりも心と言ふ譬もある、あれを貰ふ気は無いかと勧めた。\n 重右衛門も流石に二の足を踏んだに相違ないが、余りに人から執念く勧めらるゝので、それでは何うか好いやうにして下され、私等は、ハア、どうせ不具者でごすでと言つて承知して、それより一月ならざるに、重右衛門の寂しい家宅にはをり〳〵女の笑ふ声が聞える様になつた。\n 村の人はこれで重右衛門の身が堅まつたと思つて喜んだのである。けれどそれは少くとも重右衛門のやうな性格と重右衛門のやうな先天的不備なところがある人間には間違つた皮相な観察であつた。一体重右衛門といふ男は負け嫌ひの、横着の、図々しいところがあつて、そして其上に烈しい〳〵熱情を有つて居る。で、この熱情が旨く用ひられると、中々大した事業をも為るし、人の眼を驚かす程の偉功をも建てる事が出来るのだけれど、惜しい事には、この男にはこれを行ふ力が欠けて居る。先天的に欠けて居る。この男には「自分は不具者、自分は普通の人間と肩を並べることが出来ぬ不具もの」といふ考が、小児の中からその頭脳に浸み込んで居て、何かすぐれた事でも為ようと思ふと、直ぐその悲しむべき考が脳を衝いて上つて来る。そしてこの不具者といふ消極的思想が言ふべからざる不快の念をその熱情の唯中に、丁度氷でもあるかのやうに、極めて烈しく打込んで行く。この不快の念、これが起るほど、かれには辛いことはなく、又これが起るほど、かれには忌々しい事はない。何故自分は不具に生れたか、何故自分は他の人と同じ天分を受ける事が出来なかつたか。\n 親が憎い、己を不具に生み付けた親が憎い。となると、自分の全身には殆ど火焔を帯びた不動尊も啻ならざる、憎悪、怨恨、嫉妬などの徹骨の苦々しい情が、寸時もじつとして居られぬほどに簇つて来て、口惜しくつて〳〵、忌々しくつて〳〵、出来るものならば、この天地を引裂いて、この世の中を闇にして、それで、自分も真逆様にその暗い深い穴の中に落ちて行つたなら、何んなに心地が快いだらうといふやうな浅ましい心が起る。\n かういふ時には、譬へ一銭の銅貨を持つて居らないでも、酒を飲まなければ、何うしても腹の中の虫が承知しない。仕方が無いから、居酒屋に飛んで行つて一杯飲む、二杯飲む。あとは一升、二升。\n 重右衛門の為めには、女房が出来たのは余り好い事では無かつたが、もし二人の間に早く子供が生れたなら、或は重右衛門のこの腹の虫を全く医し得たかも知れぬ。けれど不幸にも一年の間に子をつくることが出来なかつた二人の仲は、次第に殺伐に為り、乱暴に為り、無遠慮になつて、そして、その場句には、泣声、尖声を出しての大立廻。それも度重なつては、犬の喧嘩と振向いて見るものなく、女房の顔には殆ど生傷が絶えぬといふやうな寧ろ浅ましい境遇に陥つて行つた。\n その結果として、折角身持が治り懸けた重右衛門が再び遊廓に足を踏み入れるやうに為り、少しく手を下し始めた荒廃した田地の開墾が全く委棄せられて了つたのも、これも余儀ない次第であらう。\n 倘し、この危機に処して、一家の女房たるものが、少しく怜悧であつたならば、狂瀾を既に倒るゝに翻し、危難を未だ来らざるに拒ぐは、さして難い事では無いのである。が、天は不幸なるこの重右衛門にこの纔かなる恩恵をすら惜んで与へなかつたので、尋常よりも尚数等愚劣なるかれの妻は、この危機に際して、あらう事か、不貞腐にも、夫の留守を幸ひに、山に住む猟師のあらくれ男と密通した。\n そして、それの露顕した時、\n「だつて、その位は当り前だア。お前さアばか、勝手な真似して、己ら尤められる積はねえだ」\n とほざいた。"
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"content": " 重右衛門は怒つたの、怒らないのツて、\n「何だ、この女!」\n と一喝して、いきなり、その髪を執つて、引摺倒し、拳の痛くなるほど、滅茶苦茶に撲つた。そして半死半生になつた女房を尻目にかけて、其儘湯田中へと飛んで行つた。そして、酒......酒......酒。\n で、これからと言ふものは、重右衛門は全く身を持崩して了つたので、女郎買を為るばかりではない、悪い山の猟師と墾意に為つて、賭博を打つ、喧嘩を為る、茶屋女を買ふ、瞬く間にその残つて居る田地をも悉く人手に渡して、猶其上に宅地と家屋敷を抵当に、放蕩費を借りようとして居るのだが、誰もあんな無法者に金を貸して、抵当として家屋敷を押へた処が、跡で何んな苦情を持出さぬものでもないと、恐毛振つて相手に為ぬので、そればかりは猶其後少時、かれの所有権ある不動産として残つて居た。\n ある時かういふ奇談がある。\n かれはその三日前ばかりから、湯田中に流連して、いつもの馴染を買つて居たが、さて帰らうとして、それに払ふべき金が無い。仕方が無いから、苦情やら忌味やらを言はれ〳〵、三里の山道を妓夫を引張つて遣つて来て見ると家の道具はもう大方持出して叩き売つて仕舞つたので、これと言つて金目なものは一つも無い。妓夫は怒るし、仕末に困つて、何うしようと思つて居ると、裏の馬小屋で、主人が居ないので、三日間食はずに、腹を減して居つた、栗毛の三歳が、物音を聞き付けて、一声高く嘶いた。\n「やア、まだ馬が居るア」\n と言つて、平気でそれを曳出して、飯をも与ヘずに、妓夫に渡した。そして、彼はその馬を売つた残りの金を費ふべく、再び湯田中へと飛び出して行つたのである。\n 其事が誰言ふとなく村の者に伝つて、孫(祖父の口癖に言つた)が馬を引張つて来て、又馬を引張つて行かれたとよと大評判の種となつた。\n それから、三年。かれが到頭家屋敷を抵当に取られて、忌々しさの余に、その家に火を放ち、露顕して長野の監獄に捕へらるゝ迄其間の行為は、多くは暗黒と罪悪とばかりで、少しも改善の面影を顕はさなかつたが、只一度......只一度次のやうな事があつた。\n それは何でも其家屋の抵当に入つてから後の事だ相だが、ある日かれは金を借ようと思つて、上塩山の上尾貞七の家を訪ねた事があつた。この上尾貞七と謂ふのは、根本三之助などと同じく、一時は非常に逆境に沈淪して、村には殆ど身を措く事が出来ぬ程に為つた事のある男で、それから憤を発して、江戸へ出て、廿年の間に、何う世の荒波を泳いだか、一万円近くの資産を作つて帰つて来て、今では上塩山第一の富豪と立てられる身分である。重右衛門が訪ねると、快く面会して、その用向の程を聞き、言ふがまゝに十五円ばかりの金を貸し、さて真面目な声で、貞七が、「実はお前さんの事は、兼ねて噂に聞いて知つて居つたが、生れた村といふものは、まことに狭いもので、とても其処に居ては、思ふやうな事は出来ない。私なども......覚えが有るが、村の人々に一度信用せられぬとなると、もう何んなに藻掻いても、とても其村では何うする事も出来なくなる。お前さんも随分村では悪い者のやうに言はれるが、何うだね、一奮発する気は無いか」\n 重右衛門は黙つて居る。\n「私なども......それア、随分酷い眼に逢つた。親には見放される、兄弟には唾を吐き懸けられる、村の人にはてんから相手にされぬといふ始末で、夜逃の様にして村を出て行つたが、其時の悲しかつた事は今でも忘れない。あの倉沢の先の吹上の水の出て居る処があるが、あそこで、石に腰を懸けて、もうこれで村に帰つて来るか何うだかと思つた時は、情なくなつて涙が出て、いつそこゝで死んで了はうかとすら思つた程であつた。けれど......思返して、何うせ死ぬ位なら、江戸に行つて死ぬのも同じだ、死んだ積りで、量見を入れかへて、働いて見よう......とてく〳〵と歩き出したが、それが私の運の開け始めで、それでまア、兎に角今の身分に為つた......」\n「私なんざア、駄目でごす.....」\n と重右衛門は言つたが、其顔はおのづから垂れて、眼からは大きな涙がほろ〳〵と膝の上に落ちた。\n「駄目な事があるものか。私などもお前さんの様に、其時は駄目だと思つた。けれどその駄目が今日のやうな身分になる始となつたぢやがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好けない」\n 答の無いのに再び言葉を続いで、\n「村の奴などは何とでも勝手に言はせて置くが好い。世の中は広いのだから、何も村に居なければならねえと言ふのでもねえ、男と生れたからにや、東京にでも出て一旗挙げて来る様で無けりや、話にも何にも為らねえと言ふ者だ......」\n 重右衛門は殆ど情に堪へないといふ風で潮の如く漲つて来る涙を辛うじて下唇を咬みつゝ押へて居た。\n「本当でごいすよ、私は決して自分に覚えの無え事を言ふんぢやねえんだから、......本当に一つ奮発さつしやれ、屹度それや立身するに極つてるから」\n「私は駄目でごす......」と涙の込み上げて来るのを押へて、「私ア、とても貴郎の真似は出来ねえでごす。一体、もうこんな体格でごいすだで」\n「そんな事はあるものか」と貞七は口では言つたが、成程それで十分に奮発する事も出来ないのかと思ふと、一層同情の念が加はつて、愈慰藉して遣らずには居られなくなつた。\n「本当にそんな事は無い。世の中にはお前さんなどよりも数等利かぬ体で、立派な事業を為た人はいくらもある。盲目で学者になつた塙検校と言ふ人も居るし、跛足で大金持に為つた大俣の惣七といふ男もある。お前さんの体位で、そんな弱い事を言つて居ては仕方がない。本当に一つ......遣つて見さつしやる気は無えかね。私ア、東京にも随分知つてる人も居るだて、一生懸命に為る積なら、いくらも世話は為て遣るだが」\n「難有い、さう仰つて下さる人は、貴郎ばかり。決して......決して」と重右衛門は言葉を涙につかへさせながら、「決して忘れない、この御厚恩は! けれど私ア、駄目でごす。体格さへかうでなければ、今までこんなにして村にまご〳〵して居るんぢや御座せんが......。私は駄目でごす......」\n と又涙をほろ〳〵と落した。\n これは貞七の後での話だが実際その時は気の毒に為つて、あんな弱い憐れむべき者を村では何故あのやうに虐待するのであらう。元はと言へば気ばかり有つて、体が自由にならぬから、それで彼様な自暴自棄な真似を為るのであるのに......と心から同情を表さずには居られなかつたといふ事だ。実際、重右衛門だとて、人間だから、今のやうな乱暴を働いても、元はその位のやさしい処があつたかも知れない。けれどその体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造つたと共に、その性質も亦その罪悪の上に大なる影響を与へたに相違ないと、自分は友の話を聞きながら、つくづく心の中に思つた。"
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"role": "user",
"content": " わたくしは抽斎の事蹟を叙して、始て其師京水に言及した。次で此年丙申に先つこと二十年文化丙子に、京水の養父錦橋が歿した時、わたくしは再び其子京水の事を語つた。わたくしは此に養父と書した。錦橋が京水の実父なりや養父なりやは、曩にわたくしは決することを得ずに、疑問として残して置いた。しかもわたくしは実父説に重きを置いて、養父説をば一説として併せ存して置いた。是は錦橋が幕府に対して実子と申し立てゝゐたらしかつた故であつた。今わたくしは錦橋が確に寛政十二年の書上に京水を以て実子となしてゐたことを知つてゐる。そして又それが虚構であつたことをも知つてゐる。\n わたくしは初に京水を語つた時と、再び京水を語つた時との間に、錦橋の宗家の後裔たる池田鑑三郎さんと相見た。是が研究上稍大なる進歩であつたことは勿論である。\n しかしわたくしの主として知らむと欲したのは、父錦橋にあらずして子京水である。鑑三郎は嫡子京水善直の廃せられた後、其父錦橋の門人中より出でて宗家を継いだ霧渓晋の後裔である。鑑三郎に縁つて分家京水の事を知ることは困難であつた。\n わたくしは百方捜索して京水の後裔を識らむとした。しかし久しく何の得る所も無かつた。\n 然るにわたくしは本伝に錦橋の死を記した後、今京水の死を記する前、即ち再び京水を説いた時と三たび京水を説く時との間に、図らずも京水の後裔と相見た。\n わたくしの錦橋の死を記した文が新聞に連載せられてゐた頃の事である。当時品川に住んでゐて、町役場に出入する一知人がわたくしに書を寄せた。「高著伊沢蘭軒新聞にて拝読致居候処、痘科池田京水と申者の事蹟に御不審の箇条有之候と相見え候。然るに貴説に右京水の一子と相成居候全安の名、当町役場の書類中に有之候。但し此池田全安は現存者にして或は時代相違ならむかとも被存、若し同名異人なるときは、無用の穿鑿に可有之候へ共、兎も角も左に宿所姓名抄出、御一報申上候。」此書の末に「南品川猟師町三十九番地池田全安」と低書してあつた。わたくしは此に書を裁した知人の名を公にする必要を認めない。わたくしは永く其人がわたくしの研究上頗る重大なる資料を得る媒をなしたことを忘れぬであらう。\n わたくしは直に池田全安と云ふ人を訪ふことに決意して、先づ書を贈つて先方の都合を問ひ合せた。然るに全安さんは書を以て答へずに、自らわたくしの家にたづねて来た。\n\nその二百十九\n\n 一知人がわたくしに品川に池田全安と云ふ人のあることを報じた。それは池田京水の子と名を同じうしてゐるが故であつた。わたくしは其人を訪はむと欲して書を寄せた。そして其人の忽ち刺を通ずるに会つた。\n わたくしは伊沢分家の語る所を聞いて、全安が嘉永二年に二十余歳で婿入をしたことを知つてゐた。若し客が其人だとすると、九十歳前後になつてゐなくてはならない。此の如き長寿の人も固より絶無では無い。しかし容易に未知の人を訪問しはせぬであらう。\n 又客が若し池田京水の族人でなかつたら、わたくしの書を得て、わたくしを見ようとはせぬであらう。\n 推するに客は京水の子全安の名を襲いだものではなからうか。わたくしは咄嗟の間に此の如く思量した。そして客を引見した。\n 座に入り来つたのは、洋服を著た偉丈夫である。躯幹長大にして、筋骨が逞しい。打見るところは、僅に四十歳を踰えたかとおもはれる。\n わたくしは此方より訪ふべき人に訪はれたのであるから、先づ其枉顧の好意を謝した。そして京水との親属関係を問うた。\n「京水はわたくしの祖父でございます」と客は答へた。\n「さやうでしたか。それではあなたは御尊父様のお名をお襲ぎなさいましたのですね。失礼ながら御実子でお出なさいますか。」\n「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」\n「御尊父様は。」\n「父は明治十四年に亡くなりました。」\n わたくしの推測は偶中した。客は京水の孫であつた。京水の子全安に養はれて、其名を襲いだものであつた。\n わたくしは客に池田京水に関する研究の経過を告げた。向島嶺松寺にあつた京水の墓は、曾て富士川游さんが往弔したのに、寺が廃せられて、他の池田氏の諸墓と共に踪跡を失した事、諸墓の中池田宗家に係る錦橋以下数人の墓石は、其末裔鑑三郎さんに由つて処分せられ、其法諡は一石に併せ刻せられて、現に上野共同墓地に存する事、然るに分家の一なる京水の一族の墓は其なりゆきを知ることを得なかつた事等である。\n わたくしは江戸黄檗禅刹記の事をも客に告げた。禅刹記に嶺松寺を載せ、併て池田氏の墓に及んでゐることは、人あつてわたくしに教へた。その錦橋の墓誌を録してゐることは推知せられる。しかし京水の墓誌は有らうか無からうか。わたくしは前に再び池田氏の事を説いた時、疑を存して置いた。後渋江保さんは上野図書館を訪ふ序に、わたくしのために禅刹記を閲してくれた。錦橋の墓誌は収められてゐて、京水のものは収められてゐなかつたのである。わたくしは客に此憾をも語つた。\n\nその二百二十\n\n わたくしは池田京水の孫全安さんを引見して、先づわたくしの京水の事蹟を探討した経過を語つた。わたくしの談は探墓談であつた。是はわたくしが京水墓誌の全文と其撰者とを知らむことを欲した故である。\n 京水の孫全安即二世全安は、わたくしに向島嶺松寺にあつた池田分家の諸墓のなりゆきを告げた。わたくしは京水の子と孫とが同名なるを以て、以下彼を初代全安と書し、此を二世全安と書して識別し易からしむることとする。\n 池田分家は宗家即錦橋の家にあつて廃嫡せられた京水に由つて創立せられた。京水の後は嫡男瑞長直頼が襲いだ。瑞長の弟初代全安は一たび伊沢分家に婿入して離縁せられ、後更に分立して一家を成した。伊沢氏の例に倣つて言へば、初代全安の家は「又分家」である。今二世全安のわたくしに告げた所の諸墓のなりゆきは、此分家と又分家との諸墓のなりゆきである。\n 嶺松寺の廃せらるるに当つて、二世全安は祖父京水の卑属たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てゝ「池田家累世之墓」と題した。是は宗家の裔鑑三郎さんが錦橋霧渓一系の合墓を上野共同墓地に立てたと同時の事である。嶺松寺池田氏の諸墓は此時二地に分ち徙され、その宗家に係かるものは鑑三郎に由つて上野へ遣られ、その分家と又分家とに係かるものは二世全安に由つて巣鴨へ遣られたのである。\n 是に於てわたくしは向島弘福寺主の言ふ所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事を聞かなかつたのである。\n 然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、毫も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであつた。そして女はわたくしを欺かなかつた。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙の後であつた。"
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"role": "assistant",
"content": " 今は錦橋霧渓一系の合墓が上野にあり、京水瑞長系と京水全安系との両系の合墓が雑司谷にあるのである。\n そして京水の墓誌は永遠に湮滅してしまつた。其全文を読み、其撰者の誰なるを知らむと欲するわたくしの望の糸は此に全く断ち切られたのである。\n\nその二百二十一\n\n わたくしが池田京水墓誌の全文を読み又其撰者の誰なるを知らむと欲したのは、京水の身上に疑ふべき事があつて、わたくしはこれが解決を墓誌に求めたのである。\n 然るに墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅びた。又わたくしの望を繋いでゐた江戸黄檗禅刹記も京水の墓誌をば載せてゐない。\n 幸に我客二世全安さんは、別に京水身上の疑を解くに足るべき文書を蔵してゐた。それは京水自筆の巻物である。\n 此巻物は「文政四年冬十一月九日朝より夜の子の刻に至るの間調薬看病の暇に書、名奫、字河澄、号京水、一号酔醒、又号生酔道人、仏諡可用宗経」と云ふ奥書があつて、下に華押がある。又他の箇所には「善直誌」と署してある。文政四年は京水三十六歳の時で、巻子中の記載に拠るに、京水は上野三枚橋の畔の家にあつて書したのである。しかし京水は此時全巻を書したのでは無い。彼「善直誌」と署した部分の如きは、これに先つて書したものと覚しく、又これに後れて追書した文字は天保六年七月二日に及んでゐる。即ち終焉に先つこと僅に一年である。\n 此巻物の内容は極て豊富である。わたくしをして奈何に其梗概を読者に伝ふべきかに惑はしむる程豊富である。わたくしは此に内容の梗概に筆を著けむとするに臨んで、先づ読者に一事を告げて置きたい。それはわたくしの曾て懐いてゐた疑が、未だ全くは解けぬまでも、半以上此に由つて解けたと云ふ事である。此巻物が略わたくしを属饜せしめたと云ふ事である。\n わたくしの筆を著くることを難んずるのは、此巻物の内容が啻に豊富なるのみではなく、又極て複雑してゐて、その入り乱れた糸の千筋を解きほぐすに、許多の思慮を要するからである。此巻物は首に「参正池田家譜」と題してあつて、其体裁より言へば系図である。しかし単に系図として看ても、全巻には三種の系図を包容してゐる。\n 第一は初代池田瑞仙が寛政十二年庚申四月に幕府に呈した系図である。わたくしは早く此にその頗る杜撰のものであつたことをことわつて置く。今便宜上これを錦橋本と名づける。第二は初代池田瑞仙の曾祖父嵩山正直、初代瑞仙は誤つてこれを祖父とした。此嵩山正直の弟成俊の玄孫水津氏某女の有してゐた所の系図である。是は体裁の整はぬものでありながら、書法真率にして牽強の痕がない。今これを水津本と名づける。第三は京水が水津本を用ゐて錦橋本を訂正した系図で、所謂参正池田家譜である。今これを京水本と名づける。\n わたくしは前に再び京水を説いた時、初代瑞仙の宗家を襲いだ霧渓晋の姻家窪田氏所蔵の「池田氏系図」を引用した。今よりして看れば、是は前三本とは全く別で、錦橋本の本づく所である。初代瑞仙の曾祖父嵩山正直の妹が溝挾氏に嫁した。其裔溝挾瀬兵衛が此系図を有してゐた。初代瑞仙は系図を幕府に呈せむがために、これを借抄したのである。今これを溝挾本と名づける。\n\nその二百二十二\n\n 池田京水自筆の巻物の事を叙して、わたくしは池田氏系図の三本が其中に収めてあると云つた。しかし巻物の内容中尊重すべきものは、独り系図のみではない。\n 第一に初代瑞仙の伝がある。是は寛政庚申の書上で、極て杜撰なものではあるが、京水の校註あるが故に尊い。第二に京水自家の履歴がある。苟くも京水を知らむと欲するものは、此に由らざることを得ない。第三に系図錦橋本の書後がある。是は数行の文ではあるが、一読人をして震慄せしむべきものがある。第四に系図水津本の序記がある。若し紙背に徹する眼光を以て読むときは、其中に一箇の薄命なる女子の生涯が髣髴として現れるであらう。此女子の運命は実に小説よりも奇である。\n わたくしは初め二世池田全安さんの手より此巻物を受けて披閲した時、京水の轗軻不遇の境界をおもひ遣つて、嗟歎すること良久しかつた。わたくしは借留数月にして、全文を手抄した。\n 記事は此より巻物の梗概に入る。梗概は原本の次第に拘らずに、年月を逐うて記する。錦橋の祖先の事は努めて省略し、錦橋の事も亦これに準じ、京水の事に至つて稍詳叙する積である。\n 系図は京水本に従へば生田頼宗から起つてゐる。天児屋根命二十二世の孫が藤原鎌足で、鎌足十四世の孫が忠実である。忠実の子が悪左府頼長、頼長の子が兼長、兼長の子が生田頼宗である。\n 頼宗は蒲冠者範頼に仕へた。頼宗の女は範頼の子頼信を生んだ。頼宗はこれを養つて嗣となした。嫡孫承祖である。錦橋本は此頼信より起つてゐる。此故に生田氏は京水本に従へば藤原氏となり、錦橋本に従へば清和源氏となるのである。しかし此遠祖の事は、わたくしはこれを批評の範囲外に置く。\n 頼信十六世の孫が嵩山正直である。此世数は京水本に従つて記し、復た諸本の異同を問はない。亦わたくしの評することを敢てせぬ所だからである。\n 嵩山正直は始て池田氏を称した。明人戴笠の痘科を伝へたと称するものは此嵩山である。此授受の年月には疑がある。嵩山は戴笠が岩国に淹留してゐた時、其治法を伝へたと云ふ。然るに戴笠の岩国に来たのは、僧となつて独立と号した後で、寛文中の事となるらしい。嵩山の歿年万治二年と云ふに契はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。\n 嵩山正直の子は正俊、正俊の子は杏仙正明、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。\n\nその二百二十三\n\n わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図水津本と溝挾本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。\n 生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊と云ひ、これが信道五世の孫光の養子となつて水津氏に復り、成俊の子に成豊、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女である。是が旁系水津氏である。\n 次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。\n わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙直卿の実子三世瑞仙直温の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文愈長うして其矛盾の痕は愈著しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。\n 錦橋初代瑞仙は小字を幾之助と云つた。名は善郷、一の名は独美、字は善卿、錦橋は其号、瑞仙は其通称であつた。わたくしは前に錦橋が公文に字善卿を書したのを怪んだ。京水はこれを辨じてゐる。「善郷。或作善卿者。以字混名乗也。」"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": " と云ったかどうか。\n これも腕に撚をかけた向う鉢巻という奴で、そこいらを一ツゆすぶった。\n 東京会館は腰を抜かした。\n 丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。\n そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。\n 然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。\n その中でも帝国ホテルは極新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。\n こんな事実を眼のあたり見て行くと、そこに何らかの暗示がありはしないか。\n 活動や風俗はもとより、商店の広告からカフェーの設備と、何から何まで米国式流行の日本に何等かの警告を与えている「ある意味」が潜んではいないか。\n すくなくとも、一種の「恐米病」又は「酔米病」に囚われている日本には、しっかりしたものは一人も居ない。只「地震鯰」が一匹控えているだけという証拠になりはしまいか。\n\n青空を又押上げる?\n\n 地震に居残った旧式の大建築、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。\n そのうち七割は飲食店や、菓子、缶詰なぞいう食料品店。あとの三割が煙草屋、雑誌屋、玉突き、理髪、銭湯、占師、貸本屋といったようなもの。それが又大部分が中等以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端な和洋折衷の姿である。\n その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼、天プラ、すし等はほかに見られぬ安価なうまいものが見られる。\n たとえば洋食や支那料理で二十銭から五十銭も奮発すれば、充分に腹が張るのがある。簡易の一汁一菜が十二銭乃至十五銭、かなりの出前弁当が二十銭、アイスクリームとアズキアイスは最下五銭から十銭位のがある。\n どうしてこんな店ばかり集まっているかと云うと、この辺の商売の大顧客とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに雇われた人足達と、その大建築に雲の如く出入りする腰弁達の三つである。その中でも腰弁たちは、身なりだけはなかなか立派なのが多いが、その割りに安物を漁るので、扨こそ彼等を当て込んだ「うまい」「安い」という文化的? な看板がこの辺に殖えたのである。\n とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。\n 銀座に来ると模様がガラリと違う。\n 地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇き並んで、見様によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。\n 裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩の気分がチョイチョイ出ている。\n 京橋を渡りすこし宛落ちて来て、バラック気分が次第に露骨になって来る。同じ毒々しさにも重みがなくて、今にも剥げチョロけそうである。その中に性懲りもなく建てた化粧煉瓦のセメント建築や、昔の焼け残りの大建築が並んでいるといった塩梅で、この辺迄来ると青空も余程広々と輝いて、往来に近付いて見える。\n 震災前まで東京の空は、次から次に建った大建築のために高く高く押し上げられる一方であったが、それが又こうして急に落ちて来た。これを又押し上げるか押し上げぬかは、日本の建築界の将来に於ける興味ある研究問題ではあるまいか。\n 裏通りも同様にアケスケな処が殖えて来て、飾も何もないボール箱式が多く、かなりの大きな家をトタン板で貼固めた、ペスト予防よろしくといったようなのも珍らしくない。\n この程度のバラックが神田あたりまで続いているが、一度万世橋と東京駅を連ねる高架線のガードを潜ると、又一段と安っぽくなって来る。\n 表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。\n 外神田の河岸近くの一帯は、あの大火に不思議に焼け残ったのであるが、その黒い土蔵や、昔風の瓦葺きの屋根、寂びた白壁などが並んだ落ち付いた町並みと、柳原あたりの(この辺は昔もあまり立派な町並みではなかったが)バラックを見比べると、坐ろに今昔の感に打たれざるを得ない。\n\n一年後の死骸臭\n\n 上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどことなく気取って、勿体ぶっているのに反して、無暗に大きな看板や、家に不似合な強烈な電燈を並べた店が、広小路を中心に高く低く並んで安ッポイ派手な気分を見せている。これは処柄から止むを得ないであろう。尤もそのウラには、寧ろ貧民窟に近い長屋式の家が、ゴチャゴチャしている事が表通りから見える。\n ここから電車通りを菊屋橋伝通院の方へ、平凡なバラック気分を通り抜けると浅草へ来る。\n ここへ来ると又ガラリとバラック振りが違って、内容も外飾りも只派手一方になる。真に五色五彩、眼も眩むばかりで、何の事はない、児童の絵本の中を行くような気がする。正にバラックの「安ッポサ」と「アクドサ」を極度に発揮したものである。これも処柄とはいいながら、あまり甚だしいのでギョッとするようなのも珍らしくない。\n この気分の中心は、無論、浅草の第六区であるが、ここは論外である。\n 尤も論外と云えば浅草全体が論外かも知れぬが、震災後はそれが一層甚だしくなった。ヘドの出そうな建築の彩り、眼の玉を引っ掴む広告、耳にたたき込む音楽、魂を奪わねば止まぬ旗や、看板なぞが、押し合いヘシ合い競争をして、気も遠くなる程バラック気分を煽り立てている。その安ッポさ......物凄さ......。\n ところが吾妻橋を渡って河一すじ向うに行くと、ガラリと別世界に来たような気持ちになる。\n 深川のセメント、安田邸、日本ビールなぞいう大建築がチラリホラリとしているだけで、あとは二階さえない位の安バラックや、震災当時のままの掘立小屋、又はそれ以下の乞食にも劣る「屋根石――十間板」のつながりである。"
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"role": "assistant",
"content": " しかもそれがベタ一面にあるわけではない。震災後まだ草も生え込み得ない焼け土の空地が到る処にあって、甚だしきに到っては、震災当時この辺に漲っていた死骸のにおいを残しているところもある。\n このにおいは、震災直後の東京を見た人たちの鼻に死ぬまで付いているのだそうで、云うに云われぬ陰惨な気持ちを暖むるものである。\n 記者が今度東京に来た初めに、「鍛冶橋から日本銀行へ行く河岸をあるいて見ろ、死骸のにおいがするから」と云われて行って見たら、成る程忘れもせぬにおいがした。しかし、まさか丸一年も経った今日この頃まで、こんなにおいがする筈はないと疑っていたが、この辺へ来て見るといかにも間違いないと思った。この辺にあった死骸はみんな半焼けになっていたので、腐りかねているのかも知れないが、とにかくいい気持ちでない。その酢っぱい腥いにおいは、バラックの生々しい赤や青の屋根の間を仄かに漂うて、云うに云われぬイヤラシイ深刻な気分を作っている。小雨の降る夜中なぞはとても平気で通れまいと思われるような処もある。\n 序に書いておくが、この辺は震災前まで「河向う」と云われていた......今でも河向うには相違ないが......日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であった。しかも一度この「河向う」へ落ちて来た江戸ッ子は、二度と再びこの河を越えて一旗揚げた例がない......「河向う」という言葉と「絶望」という言葉とは、場合によって同じような意味に使われている位であった。極端に意味を強めて云えば、「河向う」は「生きた江戸ッ子の墓場」であった。\n 然るに昨年の九月一日夜の大火は、そこを最も猛烈に焼き立てて、あれだけの死骸の山を築いた。その死骸の臭が今も残っているとは、何という深刻な自然の皮肉であろう。\n 以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれでバラック以上の鉄筋建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。\n 只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の不景気で増加の度をゆるめている事を付記しておく。\n\n日本人の頭の悲哀\n\n 一口にバラックと云っても、その中にいろんな階級がある事は前に述べた通りであるが、その各階級の中にも又いろんな変化があって、なかなか面白い。一々見て行くと、何の事はない、人間の智恵や工夫の展覧会である。思い切ったものや、セツナイもの、又は御尤も至極なのや、呆れ返らせられるものなぞが、それからそれへと果てしもない。\n そのどれもこれもが、申し合わせたように一致しているのは、「何でも驚かしてやろう」という気分である。\n 尤もこれは表通りの競争の烈しい町並に多く見受けるのであるが、裏通りでもこの気分は多少に拘らず流れている。\n 中にはコリント式やイオニヤ式、ドリヤ式なぞいう恐ろしく気取ったのもあるが、しかしその生地がセメント塗りで恰好だけ作ってあるので、却てつまらなく見える。\n それよりもルネッサンス式の変化したもの、ゴシック式を今一層シツッコクしたものなぞが光っている。その中でも又一番活躍して眼を惹くのは、セセッション式以後の新様式を用いたものである。\n 未来派式、印象派式はもとより、何という式かわからぬが、往来に面した窓を様々の形にして色硝子と鏡をチャンポンにはめ込んだり、要りもしないバルコニを突出して白ペンキ塗りの格子を張りまわしたり、外側の壁をわざと板張りにして色ペンキで表現派模様を塗りコクッタリ、そのほか、飾り煉瓦や色の付いた壁土であらん限りの模様を工夫して、屋根の形や柱の恰好までも変化を与えている。\n 特別に変ったのでは、青黒いセメントで陰気な牢獄のような四角い家を作り、前にタッタ一ツ孤光燈を燭している(水銀燈ではなかったとも思う)のがある。\n 亜剌比亜式の平べったい煉瓦積み(煉瓦は板壁にペンキで描いたもの)に、カーキー色と赤のダンダラの日除けを張りまわしているのがある。\n 復興式に支那式の色硝子の窓をはめて済ましているかと思うと、小学校のような平凡な家に北欧式の急傾斜な屋根を乗っけている......その近所に露西亜式の旧教会のような丸屋根がある......洋館に破風作りがある......と思うと、南米やアルプスあたりの絵はがきにある丸木小屋をわざわざこしらえたのもあるといったような始末......で、一面から見れば世界各国の建築様式の掃き集めと云ってよい。\n ショーウインドや内部の模様はあまり管々しくなるから略するが、要するに外観と同様変化自在で、その大部分は俗悪な壁紙、色ペンキ、又はケバケバしいカアテンや鏡の応用であることは云う迄もない。\n 東京人は、その家が地震で潰れて、大火で焼けてしまうと、すっかり気がかわった。今までの江戸時代の名残、又は明治時代の建築の中にジッと我慢していなければならぬ境遇から、一時に解放された。\n 同時に、地震と火事でみじめにたたき付けられた気持ちのする反動が、これに加わった。そこへ市区改正を予期した、一時間に合せの気分が加わった。\n そうした気分の東京人は、与えられたバラック建築の自由自在な手軽い特徴を利用して、持っている限りの建築趣味を発揮した。有らん限りの智恵と工夫とを表現した。その結果がこの通りだとすると、日本人の思想もあらかたこんなものではあるまいかと考えられる。誠にハヤ恐れ入った光景である。\n 千変万化なバラック表現の底を流るる智恵と工夫の浅墓さ、そこに流るる一種の悲哀は、直ちに日本人のアタマの悲哀を裏書するものではあるまいか。\n こうした見かけばかり恐ろしく、派手な内容の、薄ッペラなバラック町の気分に朝から晩まで涵っている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。しかし東京人の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内の交通機関、わけても電車と自動車がどんな風に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるのである。\n\n全市が親知らず\n\n 東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この上殖やせば到る処の停留所に電車の行列が出来るばかり――否、現在でもその傾きがあって困るとの事。こうなると、あとは地下線と高架線よりほかに抜け道がないとは、一般の所謂識者の観察である。\n 何だか知らないが、こむことこむこと。\n「須田町は花の都の親知らず」\n と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争とか優勝劣敗とか、適者生存とかいう学問上の言葉を、一番手っ取り早く説明するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、車掌と運転手の居る処を交通遮断している。そうでもしなければ運転不能に陥るかも知れない。\n そんならば空いた電車は一つも無いかというと、そうでもない。非常に混んでいる反対側の線は、大抵ガラ空きだから、いよいよ困る。\n 東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車を各二度と見たが、僅かの間に数町の間電車の行列が出来た。その行列のおしまいをのぞいて、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。\n 九月の二十八日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その間に電車から降りて歩き出した人で、往来は人の波を打った。電車が動き出してから、その人の波がどこまで続いているか見ていたら十二三町に及んだ。\n 電車を降りてあるき出す人の心理状態はいろいろであろうが、十五分位の停車で、しかも架線工事だから山は見えている。いくら降りても知れたもので、記者の見たところでは全車台の三分の一位にしか見えなかった。それで往来は博覧会の出盛りのようになるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。\n 或る人の話に依ると、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。\n その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け......といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「ほんとにあのころは、あなた親切にして下すったわ。」\n 頼りのない声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、\n「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。\n 過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。\n「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」\n「お聞きしているのよ。」\n 逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。\n「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」\n 日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。\n「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」\n どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。\n「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」\n 久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。\n「さア、早く出なさいよ。」\n と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。\n 矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久慈と別れた。久慈はひとり公園へ這入っていった。樹の幹の間で毬を奪い合っている子供の群れの中を通り、編物をしている老婆たちの間をぬけ、左方のベルレーヌの立像のある方へ繁みを廻っていった時、背を見せた真紀子はベンチにかけて手帳に何かを書きつけていた。\n「お待ちどお。」\n 久慈は何んとなく争いの支度をすませた気持ちで、どさりと身体を投げ出すように真紀子の横へ腰かけた。\n「俳句よ、こんなのどうかしら。」\n 真紀子はにっこり笑いながらも久慈を見ず、眼を手帳に落したまま彼の方へ肩をよせて来て俳句を見せた。昨夜のことを一口も訊ねずいきなりこんなにして来る真紀子に、久慈は何ぜともなくたじろぎながら手帳を覗いた。\n「とつくにの子ら眠りおり青き踏む――いいね。これは。」\n 久慈はこう云って後方にある廻転木馬や遊動円木の傍の乳母車の中で眠っている幼児を見たり、前方に拡がった美しい芝生を見たりした。このあたりだけ繁みが枝を空にさし交して下に青い空洞を造り、少し窪み加減のその芝生の中央にベルレーヌの像が立っていた。\n「円木の揺れやむを見て青き踏む――」\n 手帳にはこんな句の他にも一つ、『人待てば鏡冴ゆなり青落葉』というのが消してあった。久慈はこれらの句を見ながらも、そのうち真紀子が昨夜逃げ出していった自分を責めるだろうとひそかに待っていたが、どういうものか真紀子は昨日のことには一切触れる様子は見えなかった。どちらもいうべきことのそれぞれ苦心を持っているときに、何んの前ぶれもなく俳句を持ち出した真紀子の機智には、これを意識して謀んだ彼女の術策かと久慈は暫く疑いもしたが、それにしても出来ている句には心の乱れや汚さがないのを感じ、描かれる明るい句境の気持ちのままほッとべルレーヌの像を仰ぐのだった。三人の裸形の女が下から狂わしげに身を搓じらせて仰いでいる真上に、ぬっと半身を浮かべたベルレーヌの烱烱とした眼光が、何物をかうち貫き、パンテオンの尖塔をはるかに見詰めて立っている。\n やはりこの泥酔ばかりしていた詩人も悩んだものは女人のことではなかったのだ。あれが男性の理想を見据えている眼だと久慈は思い、昨夜からの自分もそれに似ている困却の様子を何んと真紀子に報らせたものかと考えた。\n「円木の揺れやむを見て青き踏む――その方がいいかな。」\n とまた久慈は呟くように云った。\n「私もこの方がいいんじゃないかと思うの。」\n「いいねその方が。意味が深いし、君の心境もよく出ていてなかなか美しいや。青踏派だな君は。」\n 久慈は実際に自分たち二人の心中の遊動円木も、揺れやんでいる後の静かな会合のように進んでゆくのを感じ、心に暗示を与えてから徐徐に今日一日の青芝を踏みたいと希う真紀子の努力もよく分るのだった。\n「もう一つ二つ作ってあなたから東野さんに見てお貰い出来ない。何んと仰言るかしらこんなの?」\n 手帳を受け取ってそう云う真紀子の顔を久慈は見返りながら、\n「駄目だ、東野さんこんなの俳句じゃない抒情詩だというね、あの人は俳句を踏み込みだというから、見せたってやられるだけだよ。」\n「いいわ、その方が。」真紀子は笑った。\n「しかし、俳句が踏み込みだなんて、よく分らないね。お負けに僕の足を踏みつけたからな。」\n 久慈はこう云ったとき東野が足を踏みつけた後で、この痛みどこより来ると云ったその踏み込みの疑問を思い出した。まったくそういえば、ただこのように真紀子と静かにじっと並んでいるだけでは、二人にとって何事でもないのかもしれぬと思った。どちらも互に踏み込み合って乱れた後の静けさからは、まだ遠い自分たちだと気がつくと、ああ、まだこのままには済まぬぞと思い、また女たちを踏み下したまま前方をきっと高い眉毛で見詰めているベルレーヌの心境が、さらに深く内奥で拡がりわたって来るのだった。\n\n\n その日は真紀子は一日久慈に柔順で優しいばかりではなかった。昨夜とはうって変った淑やかさで化粧も絶えず気をつけ、彼を見上げる眼も細かい心遣いに生き生きと変化し、些細な買物にも久慈のままに随った。食事場も行きつけの店の一二は開店していたので昨日のようには誰も困らず、夕食のときは矢代や千鶴子と一緒に四人はドームで不便なくすますことが出来た。\n 久慈はもうこの夜は真紀子と別れていることの出来ぬ、最後の夜になるだろうと覚悟を決めていたので、夕食のコーヒーになったとき一同に、"
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"role": "assistant",
"content": "「どうだね、今夜はこれからみなでタバランへ行こうか。」\n と誘ってみた。タバランというのはパリでは一頭地を抜いて優秀な踊場を兼ねたレビュー館である。みなの者らはすぐ賛成したが、まだそれまでには時間が少し早かった。\n 久慈はこの夜はあまりいつものように物を言わなかった。次ぎ次ぎに信じていたものが頭の中で崩れてゆく拠り所のない元気のなさで、食事をしている外人たちの顔もどれもみな鬱陶しく見え、ふと身体を動かすときにも、心の頼りになるのはこの椅子だけかと思ったりするのだった。それでもどうかした拍子に花嫁になろうとしている真紀子の、どこかの一点が突然美しく見えて来ると、行手に光りのさし始めたように心を躍らし、今のはあれは何んだったのだろうと、暫くは頭に残った印象を追ったりした。その度びに、\n「まだ俺は美しさが好きなんだ。こんなに美しさが好きなところを見ると、まだ俺は外道なんだ。」とこう思い、そろそろ夜に入ろうとしている自分の変化を感じて来るのだった。\n「ね、君。」と久慈は矢代の方を向いて云った。「僕はこのごろときどき思うんだが、近代人の求めている意志というものは美でもなければ真でもない、そうかといって善でもない、あるその他の何ものかだと思うんだが、どうかね君は。」\n「じゃ、何んだ、悪か。」\n と矢代は事もなげに云ってのけた。久慈は我が意を得たという風に眼を輝かせた。\n「そうだ、どうも悪に近いが悪じゃない。例えばこの電気を見たまえ。僕らの求めている電気に似たような、そんな精神は言葉にはまだ無いのだ。だから、たった一つの言葉を誰かが発明すれば助かるのだよ。それがないのだなア。」\n と久慈はぼんやりと電灯の光りを仰いで云った。\n「愛とか智とかあるじゃないか。あんまり沢山ありすぎて、みんな馬鹿になってるのだよ。こんなにあっちゃまごまごして、何を拾ったらいいのか知らんのさ。遣欧使の堕落だよ。」\n「いや、違う、一番肝腎のものがたった一つないのだ。それでみんな屑拾いになったんだ。電気を見てるとどうもそう思う。だいいち、これは物理学でもなければ化学でもないからな。そのも一つ向うの悪の華みたいなものだ。こうなれば、一切の言葉が無になったと同様だよ。」\n 云い出せばまたきりもなく話し出し、争い出すのを感じて二人は黙った。千鶴子はその隙を見て一同に散歩をしようとすすめて立った。\n「言葉が無になったら歩くに限る。」\n と矢代も笑いながら千鶴子の後につづいてカフェーから出ていった。前からの様子で久慈は、昨夜から今朝へかけて二度も千鶴子と会った自分を、まだ矢代は知っていないのだと、問わず語らず勘づいていたが、今はそれを云うべき時期でもないと思い、ただ一人それを知って黙っている千鶴子の巧みな装いに応じつつ、こちらも知らぬげにこうして歩いてゆくのは、秘密でもないある正しいものを秘密の色に包み隠し、やがてはそのようにしてしまう奇術に似た運動だと思った。それは忘れようと努力している二人にも拘らず、ときどき視線の合うある瞬間に、まったく二人から独立した生物のようにびりびりと繊細に慄え、振り落すわけにはいかぬ。どんなに遠く放れていようとも、またどんなに二人が嫌い合おうとも、どこまでも延びつづいてやまぬ稲妻のような意識だった。\n タバランへ一同の着いたときは九時を少し廻っていた。レビューはもう始まっていた。ここはそんなに広くはなく、舞台で二十人ほどの踊子のようやく踊れるばかりの浅さに、観客席の中央へ能舞台を床の高さに低めてせり出した客の踊場が附いているだけだったが、レビューとバンドの統一された見事さ、またその幕間に踊る客たちの踊りと、舞台のレビューの交錯する瞬時といえども停滞のない俊敏さは、心を巻き込む機械のような格調をもった時間となって流れ迫って来るのである。\n 一同はシャンパンを舐めながら踊らずにレビューばかりを眺めていた。完全な均整を失わず踊る踊子の並列した裸体と、その一貫した筋肉の美を揃えた総体の開閉、収縮、屈伸が、ことりことりと鳴る単音のような明快さでつづいてゆく。――久慈だけは、ここは二度目だったが他のものは初めてだったから、最初の間は踊りの単調さに何んの感動もなく見ているばかりだった。すると、二幕三幕と淡淡とした確実さで進んでいくうち、間髪の間違いもない同じ調子の運動の持続に矢代は、\n「これは素晴らしいところだ。」\n と先ず歎声を上げた。\n「ほんとにこんなレビュー初めて見たわ。」\n 真紀子も今までちょうど同じ興奮の伝わっていたことを報らせたい風だった。\n 舞台から眼を放さない千鶴子も黙ってそれに頷いた。\n ところがその舞台の単調な体操に似た二十人の踊りが、弁を開いてゆく甘美な花のように次第に複雑な膨らみを示して来るのだった。\n 久慈はいまに一同何んともほどこすすべなく陶酔していくだろうと予想していたが、自分ももう興奮を感じ始めた。\n「これを見ていると、僕らはやはり東洋人だという気がして来るね。」\n と久慈は矢代に囁いた。\n 踊子たちの胴から腰、腰から脚と眺めていても、緊った乳房の高まりは勿論のこと、腹部に這入った一条の横皺まで同一の人間の分散した姿かと思われるほど酷似した肉体だった。それらの筋肉の律動は、またバンドのリズムに無類に敏感な反応を示しながら、廻し眼鏡に顕れる六華のような端正な開きをし、閉ったかと思うと延び、廻転しながらも捻じれ、細片になっては綜合され、遅滞もなければ早急さもないある一定の、ことりことりという死のような単調さで総てが流れていくのだった。\n「凄いなア。」\n 久慈は見ているうちにそれが人間の踊りとは見えなくなって来て云った。真黒な天鵞絨の緞帳を背景にして、踊る人間の全系列を支配した幾何学模様のその完璧化は、名状しがたい華奢なナイフの踊りのように見えて来るのだった。そうして、幕が降りると、観客を中央へ吸いよせるバンドが急調子に噴き上った。\n「踊りましょうか。」\n と真紀子はもうこれ以上見てばかりではおれないらしく久慈を見て誘った。久慈は真紀子と組み、千鶴子は矢代と組んで客たちの中へ流れていった。めぐる度びに矢代の背から顕れる千鶴子と久慈はときどき視線を合せた。しかし、千鶴子は、昼間の動揺を悔む手堅さで一層矢代への親しさを泛べ正しく廻った。千鶴子のその微笑に、久慈もまた自分の支えている真紀子をいたわるターンが深まるのだった。\n 幕が上ると、客席へ戻る客たちの揺れやまぬ間に、もう舞台では空中に吊り下った月の輪を中心に、三つの弁となった人体のゆるやかな踊りが始まった。鳥の毛を頭にさした裸女の群れが、その皮膚を舞台いっぱいによせ合い、下からじっと月を仰いで動かぬ一面のローズ色の雲の形となり、静かに月に随って棚びき流れていく。すると、見るまに舞台いっぱいに拡った静かな雲の一端が、どっと溢れて客席の踊り場の中へ雪崩れ下った。そして、溌剌としたピッチの踊りに急変すると、旋回しつつ左右に分れてはまた一つに収縮し、月の吸引のまま再び舞台に逆流していった。その後を客たちは、潮にひかれる人の群れのように総立ち上って踊り場へ流れ込んだ。久慈は舞台の上と下とのそれらの踊りの合一していく壮観さに、思わず立って今度は千鶴子と組んで流れた。矢代も真紀子と組んだ。翻る度びに肩越しに閃めく真紀子の眼が青く光っては遠ざかりうっとりとした半眼でまた顕れる。舞台の空中の月は招くように銀色の輪から腕を延ばし、脚を廻し、雲と人とを見詰めては光りを放ち変えていくのだった。\n「真紀子さん、今日はどんな御容子でして?」\n 千鶴子は昼間の首尾も気がかりなのか胸を反らし、初めて久慈を仰いだ。\n「なかなか平和でした。心配したほどのことでもないな。」と久慈は答えた。\n「じゃ、やはりお定めになったの。」\n「もう定めようかと思ってます。」\n 久慈はそう云いながらも、あんなに自分を揺り動かした千鶴子の背中に、今こうして手を廻しているにも拘らず、真紀子との結婚の意志を決めたとなると、ぴたりと不安がなくなって来るのを覚え、何んと男女は隠微な動きをするものだろうと、遠ざかっている真紀子の方を見るのだった。\n 上下の踊りがだんだん運行する宇宙の形を整えて来るに随い、その階調の中から顕れて来るように、離れていた真紀子の顔が軽快なターンをとって近づいた。すると、その半眼の瞼がまた久慈に昨夜の薔薇の記憶を呼び戻し、廻りすすむ自分の胸もその紅いの一点をめぐって崩れ流れていくように思われるのであった。\n\n\n 窓にまで這入って来る雀の人馴れた囀りが下の繁みの中へ吸い込まれた。蛇口をひねり久慈は湯を洗面の陶器に満たしてから、石鹸の泡を腕までつけてたんねんに洗った。朝の光線に皮膚が少し青ざめて見えたが、擦るうちに腕は赤味を帯んで来た。"
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Subsets and Splits