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2,002 | 231 | 88,229,335 | ゲーム専用機以外のハードウェアによってプレイされるゲームは、パーソナルコンピュータを利用してプレイするパソコンゲームと、携帯電話やスマートフォン、スマートデバイスなどを使用するモバイルゲームとに分かれる。また、DVDなどの再生機能つきゲーム機でプレイすることのできるDVDプレイヤーズゲーム/UMDプレイヤーズゲーム/BDプレイヤーズゲームといったものも存在する。古くはVHDゲームやLDゲームといったものがあり、特に後者はLD-ROMやMEGA-LDといったハードもあった。「大型筐体ゲーム」という用語もプラットフォームによる分類の一種である。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,003 | 231 | 88,229,335 | アーケードゲームビジネスはコンピュータゲーム以前から存在しており、それらのゲーム機、特にビデオゲームのコンピュータ化が、1970年代のコンピュータゲームビジネスのルーツの一つである(『Pong』はビデオゲームであるが、最初の製品の時代にはコンピュータは使っていない)。1970年代のコンピュータゲームとしては、メインフレームやミニコンピュータ上で作られ遊ばれたものもあるが、前者はデモンストレーション用といった位置付けが強い。後者は『スペースウォー!』のようにアーケードゲームに発展したものもある。しかし最も多いのは『スタートレック』のように、次に述べるマイコンゲームになったパターンであろう。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,004 | 231 | 88,229,335 | 1970年代後半から急速に発展したパソコン(当時の呼称はマイコン)では、当初は自作や、公開されたプログラムリストによって自由に流通するプログラムの中の1ジャンルとしてゲームは人気のある分野であったが、ビル・ゲイツの努力(en:Open Letter to Hobbyistsを参照(1976))などもありパソコン向けプログラム製品を商品とした市場ができると、パソコンゲームも商品となるようになった。続いて、家庭用のテレビゲームがあらわれた。前述のアーケードやこれらのゲーム専用機は、1970年代のものは1機種につき1種類のゲーム、ないし多くても十数種類程度の最初から内蔵されたゲームが遊べるというものであった。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,005 | 231 | 88,229,335 | 1980年代にあらわれたアタリや任天堂のテレビゲーム機は、プログラム(ソフトウェア)をカートリッジに搭載のROMで供給するという形態により、ゲーム機本体をプラットフォーム化し、ゲームソフト市場を作った。後にはより小型化されディスプレイを内蔵した携帯型ゲーム機も発売された。以上の類型をまとめて「コンシューマーゲーム」(コンシューマー=民生市場向け→「家庭用」)とも呼ぶこともある。家庭用ゲーム機はその生産台数の多さから、任天堂ファミコンの場合ではリコーの各IC、セガサターンのSH2、セガドリームキャストのSH4など、集積回路産業に影響を与える存在にもなった。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,006 | 231 | 88,229,335 | アーケードのビデオゲームも高度化によりコストが高騰したこともあり、基本的な設計の流用から始まり、1990年代以降は多くの製品が何らかのプラットフォームをベースに設計されることがほとんどとなっており、カートリッジでソフトが供給されるようなプラットフォームもある。LSIの高性能化などにより1980年代から1990年代にあらわれた電子手帳や携帯情報端末でも、ゲームを遊べるものがあった。近年は携帯電話やスマートフォン/スマートデバイスで遊べるゲームという形態となっている。コンピュータの処理能力の進歩により映像表現や演出が高機能かつ多彩となっている。CGやシェーダ、アニメーション、バーチャルリアリティなど、機械学習/深層学習は特に話題を集めた。コンピュータゲームが、特にゲームソフトがどのような経路でプレーヤーに届けられているかで分類する方法である。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,007 | 231 | 88,229,335 | パッケージソフトウェア / ダウンロードゲーム(配信ゲーム) などと分類する。なお、同人ゲームという同好の士たちが交換したり小規模に販売するゲームというものもある(インディーズゲームとも)。以下に示すのは、既存のゲームジャンルを便宜的に区分して列挙したものである。既存のゲームジャンル幾つかに跨るものも存在し、それが新しいジャンルに発展したものもあるため、ジャンル分けも絶対的なものではない。テイルズ オブ シリーズのように独特のジャンル名が付けられる場合がある。操作技能要求系はいわゆる反射神経や動体視力がものを言うゲームであるが、その幾つかでは要素の出現パターンが決まっており、それらの暗記が求められるものもある。またコントローラーの性質で、遊び易かったり遊びにくかったりするという要素も強い傾向がある。操作技能不要系は即決的な判断よりも、熟考して判断することが重視されるゲームである。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,008 | 231 | 88,229,335 | より複雑なゲームルールである傾向が強く、また、遊ぶ時間も他のジャンルに比べ、長くなる傾向がある。セーブで中断に対応するものも多い。ゲームのジャンルとしては、ロールプレイングゲームやウォー・シミュレーションゲームのように、コンピュータゲームが生まれる以前から遊ばれていたものや、ボードゲーム/カードゲームといった卓上ゲームをコンピュータで遊べるようにしたものも多い。統合系は幾つかのゲームジャンルの要素を組み合わせたり、またはゲーム以外の概念を既存ゲームに組み込んだものである。登場当初は確定したジャンルが存在しなかったものも多い。RPGにアクションゲームの要素が加えられたアクションロールプレイングゲーム(ARPG)やパズルゲームにリアルタイム性を持たせたアクションパズルがある。リアルタイムストラテジー(RTS)は、シミュレーションゲームにリアルタイム性を持たせたものである。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,009 | 231 | 88,229,335 | 一時停止を使用しないことでプレイに緊張感を与え、ほとんどが戦闘を扱う。少人数のオンラインゲームに分類される。シミュレーションゲームにおける分類はウォー・シミュレーションゲームや歴史シミュレーションゲームとなる。マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)もある。他には、脳トレ・学習ゲームという分類もある。(脳トレゲームとは、川島隆太教授が提唱した脳トレを行うためのゲーム。中高年が適度に知力を使うことができ、特に高齢者などは老人性認知症の予防のためにやりたくなるゲーム。学習ゲームには、小学生~中学生~高校生などが学校の教科で学ぶ内容などでゲームを行うものなどもある。なお大人が子供に与えて知育玩具のように使う目的のゲームもあり、キッズコンピュータ・ピコのような教育用や教材用ソフトウェアもある。)オンラインゲームはコンピュータネットワークを利用して機能するゲームのジャンルである。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,010 | 231 | 88,229,335 | 古くはパソコン通信などであったが、2000年代に於いてその多くではインターネットへの対応を見せる。スタンドアローンなゲームに対して用い、狭義では常にネットワークに接続した状態で行うものを表す。インターネットの普及に伴って遠隔地にいるユーザ同士がプレイを共有するゲームソフトが登場している。ネットの多人数参加型コンピュータRPGとしてMORPG/MMORPGがある。プレイ人数による分類よりも他のプレイヤーとの関係による分類が有意と言える。2人対戦を基本とするゲームでも、アルゴリズム(人工知能)を対戦相手とした1人プレイのモードが存在する。これはコンピュータが対戦相手役を兼ねるものであり、プレイヤーが1人であってもゲーム内容は2人プレイと同質のものとなる。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,011 | 231 | 88,229,335 | 複数人が同時にプレイするコンシューマーゲームにおいては家庭内でゲーム機を介して他人とコミュニケーションするという意味合いもあって、協力関係であるものと競争関係にあるものが主流となっている。複数のプレイヤーが相互に一人プレイを行う形態もレトロゲームや、ボードゲームや『モノポリー』といったパーティーゲームをコンピュータゲーム化したものに見られる。携帯型ゲーム機ではセーブデータを複数保持することで、同じロムカートリッジで(厳密には各々のプレイヤーが個別に遊べるだけではあるが)複数プレイヤーに対応するものもある。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,012 | 231 | 88,229,335 | 2000年代より急速に進歩を見せたオンラインゲームのように、コンピュータネットワーク(インターネット)経由で他のプレイヤーと協力ないし競争するタイプのゲームも増え、こちらでは特定人数による対戦形態からMMORPGのように、ほぼ無制限なプレイヤー人数と同じ仮想世界を共有する形態も、一般化の傾向が見られる。おもに極端な特性を持つという理由から、プレイヤー層が限定されたり条件が示されたりする分類である。販売店で購入者の適格チェックが行われる場合もある。このような作品はいわゆる全年齢対象のような万人受けは最初から切り捨てて特定のプレイヤー層に特化しているため、老若男女に受け入れられるように配慮されていない。そのため対象プレイヤー層以外(成人向けゲームなら未成年者)には与えるべきではなく、また、場合によっては内容に関する注意・免責事項が必要であると考えられる。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,013 | 231 | 88,229,335 | ゲームの分類というのは、メーカーの意図どおりに行われるとは限らない。ゲームを販売する販売店側、通販側でも分類名を用意して行われることもあるし、プレーヤー側でも独特の分類が行われることがある。プレーヤーの特定の趣味嗜好に合うか合わないかで分類する場合もある。 | 分類 | コンピュータゲーム |
2,014 | 232 | 87,584,570 | ゲームのタイトル一覧(ゲームのタイトルいちらん)では、ゲームのタイトルに関する一覧を列記する。 | __LEAD__ | ゲームのタイトル一覧 |
2,015 | 233 | 88,903,098 | ゲーム会社一覧(ゲームがいしゃいちらん)では、主に 「家庭用コンピュータゲームソフトウェアの開発または販売を行う日本国内の企業」 を一覧にまとめる。 | __LEAD__ | ゲーム会社一覧 |
2,016 | 233 | 88,903,098 | 「アルゼマーケティングジャパン」へ移行「SNK」(新社)へ版権などの移行「コーエーテクモゲームス」へ移行「コナミ」を経て「コナミデジタルエンタテインメント」へ移行「コナミデジタルエンタテインメント」発足以降「スクウェア・エニックス」へ移行「スパイク・チュンソフト」へ移行「セガ」の開発子会社(本社から分社された後再統合)「タカラトミー」へ移行「ディースリー・パブリッシャー」へ移行「バンダイナムコゲームス」を経て「バンダイナムコスタジオ」へ移行「B.B.スタジオ」へ移行「マーベラスAQL(後のマーベラス)」へ移行「KADOKAWA」に統合し、ブランドカンパニーへ移行。発売元を「角川ゲームス」に統合 | 吸収合併や事業譲渡などにより解散した会社 | ゲーム会社一覧 |
2,017 | 234 | 88,425,919 | 民族音楽(みんぞくおんがく)とは、英語のethnic musicの訳語で、「民族(=共通の言語・文化を持つ人の集団)が固有に伝承してきた音楽」の意味。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。 | __LEAD__ | 民族音楽 |
2,018 | 234 | 88,425,919 | この節の出典は、学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「民族音楽」の項もともとethnicには「異民族・異教徒」という意味があり、ethnic musicは「異民族・異教徒のエキゾチックで野蛮な音楽」というニュアンスがあった。歴史的にこの語は欧米で内外の異民族、特に異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多く、ヨーロッパ人が自民族の音楽を指す言葉としては使わなかった。日本に移入されたこの語は、(1)の意味から自国である日本を除外して「日本以外の非欧米の伝統的な音楽」の意味でつかわれた。近年は当たり前になったが、以前は例えば「フランスの民族音楽」などのような言い方はしなかった。伝統的な音楽への志向はまだ残っており、例えば「中国の民族音楽」と言った場合、京劇や民謡がすぐ思い浮かぶが、女子十二楽坊やラン・ランは通常含まない。 | 「民族音楽」の意味 | 民族音楽 |
2,019 | 234 | 88,425,919 | (1)(2)に含まれる西欧中心主義や自民族中心主義、および伝統的な音楽とそれ以外のジャンルを峻別する考え方への批判から、例えば「日本の民族音楽」といった場合、古典音楽・民謡・民俗芸能・歌謡曲やポピュラー音楽、日本人が作曲・演奏する西洋クラシック音楽に至るまでのあらゆる音楽を指すような用法が近年見られる。この立場を推し進めると「民族音楽」という語が不要になり、単に「○○の音楽」と言えばよいことになる。基本的には(3)の立場に立つが、「○○の音楽」と言った場合に想起されにくい音楽を示すためにあえて「○○の民族音楽」という語を使う用法。近年はこうした用法が主流になって来ている。例えば「ドイツの音楽」と言った場合、どうしてもクラシックが思い浮かびがちだが、「ドイツの民族音楽」と言われれば民謡や民族舞踊の存在を意識する。ロシア・中国・朝鮮などでは民族音楽という語をそのような意味で使っている。 | 「民族音楽」の意味 | 民族音楽 |
2,020 | 234 | 88,425,919 | 中国の用法では女子十二楽坊は立派に民族音楽である。中国・朝鮮では「民族楽器」「民族舞踊」と言う際の「民族」もほぼこれに準じる。「民族音楽」というより「エスニック・ミュージック」と呼ぶ場合が多い。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで異民族の音楽のエキゾチックさを楽しむ際にこの用法が使われる場合があるが、エキゾチックさを強調することは(1)の用法に近い部分があり、注意を要する。 | 「民族音楽」の意味 | 民族音楽 |
2,021 | 234 | 88,425,919 | ここでは世界で行われている音楽全て(広義のワールド・ミュージック)から、近代的な商業音楽(ポピュラー音楽)と、ポピュラー音楽の影響で生まれた融合音楽(狭義のワールド・ミュージック)と、西洋芸術音楽(クラシック音楽)を除いた音楽、つまり(4)の意味での民族音楽について、世界各地域の概観を示す。地域の区分は平凡社『音と映像による世界民族音楽体系』に準拠するが、旧ソ連地域はヨーロッパ、西アジア、中央アジア、チベット・モンゴル、極東シベリアに分割し、さらに極東シベリアをエスキモーと統合した。また地域名称は適宜現代的なものとし、それぞれに例を示した。当然ながら、地域の分割は様々な文明論・文化論で示されている区分(例えばハンチントンの『文明の衝突』など)とかなり似てくる。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,022 | 234 | 88,425,919 | 古代中国では三分損益法・十二律・五声(五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる儒教の儀式用の合奏が確立した。そこに西域からさまざまな楽器(琵琶など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では京劇という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった雅楽や声明(仏教音楽)の影響の下、能楽や歌舞伎などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では仮面劇が発達し、パンソリ(唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,023 | 234 | 88,425,919 | 日本では三弦は三味線のもととなった。こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。京劇、民楽(伝統的な楽器を用いたアンサンブル)(中国) 仮面劇、パンソリ(朝鮮半島) 雅楽、声明、能楽、歌舞伎(日本) 島唄、エイサー(琉球)などモンゴルは、五音音階を使うことは中国・朝鮮・日本と共通している。音楽の主流は声によるもので、モリン・ホール(馬頭琴)やリンベ(竹製の横笛)で伴奏され、強烈な声量と細かい節回しを特徴とする。五音音階に含まれる音はド・レ・ミ・ソ・ラであり、中国とも共通する明るいもので親しみやすい。ホーミーと呼ばれる1人の演奏者が同時に2種類の声を発声する倍音唱法も見られる。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,024 | 234 | 88,425,919 | (1) 喉の奥で発せられる一定した持続低音、(2) その低音に含まれる倍音を口腔の形を調整して発する高音の共鳴音で旋律をつくるというもの。どちらも広大な草原で声を届かせるためのものである。チベットは、ラマ教音楽の誕生した地であり、同じくラマ教を信奉したモンゴルの音楽に影響を与えた。ただチベット文化は弾圧されており、充分に調査されているとは言い難い。オルティン・ドー、ホーミー(モンゴル) 声明、ナンマ(チベット)など非常に多様な地域であるが、大まかには北部と南部に分けることができる。パキスタンとバングラデシュは北部、スリランカは南部の音楽と共通性が高い。インドの音楽は基本的には単旋律の音楽で、旋律楽器(声の場合もある。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,025 | 234 | 88,425,919 | シタール(北)・ビーナー(南)のような弦楽器や、バーンスリー(北)やヴェーヌ(南)といった横笛、ダブルリード楽器などが使われる)と伴奏楽器(タンブーラ(弦楽器)とムリダンガム、カンジーラ、ガタム(南)・タブラ(北)のような打楽器)によって演奏される。伴奏のうち、タンブーラはドローン(旋律をささえるための1音、またはそれ以上の持続音)を担当する。旋律は22律による7音音階とラーガに基づく。1オクターブを22の音に不均等分割する音律から7音を選び出して音階にするが、現実にはこれは4分音を含むと言うことである。ラーガは旋律を演奏するルールのようなもので、使う音や音の順番、強調すべき音、終わりの音などを決めており、北インドでは72種類、南インドでは10種類あるとされる。リズムはターラに基づく。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,026 | 234 | 88,425,919 | ターラは基本的なリズムパターンで、2拍や3拍の組み合わせでパターン化されており、一つの曲の中では一つのターラが使われ続ける。どちらもインドの音楽の基本であり、蛇使いの吹く笛もこの理論にきちんと当てはまる。カタック、バラタナーティヤム(インド)などインドと中国両方の影響を受けた地域だが、インドの文化の方が基層にあり、ヴェトナム・フィリピンを除いてはインド文化圏の辺境と言えそうである。始めインドからヒンドゥー教と仏教が、13世紀以後はイスラム教が流入し、半島部では仏教が、島嶼部ではイスラム教とヒンドゥー教がそれぞれ優勢である。このような歴史からか、インドで3~4世紀に成立した「ラーマーヤナ」(ラーマ王子の物語。インドの叙事詩)を題材とする舞踊劇や影絵芝居が方々で見られ、音楽とともに上演されて人気を博している。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,027 | 234 | 88,425,919 | 東南アジア独自の要素としては、青銅のゴング(銅鑼)やチャイム、青銅や竹や木製の鍵盤打楽器による野外の合奏が挙げられる。この地域では紀元前3~2世紀ころから儀式用のゴングが広く分布しており、これらは超自然的な力を持つと信じられてきた(ちなみにこれは日本にも伝わり、銅鐸となった)。そのような伝統に基づくものと考えられる。音楽は基本的に5音音階の地域が多いが、調律は1オクターブをほぼ5等分や7等分するなど、中国ともヨーロッパとも大幅に違い、わざと濁った響きになるように作られている。調律が合わない時に発生する「うなり」が超自然的な力を持つと考えられたため。リズムは2拍子系だが、複数の声や楽器がからみ合い、非常に複雑なリズムを作り出す。ガムラン、ケチャ(インドネシア) ワヤン(インドネシア・マレーシア) ピーパート合奏(タイ) ティンクリン(フィリピン)など | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,028 | 234 | 88,425,919 | サハラ砂漠以北のアフリカをマグリブ(日が沈む地=西方の意)と言い、文化的には西アジアと連続体とされる。この地域の国々はほぼ全てイスラム教を信仰しており文化的にも近い部分が多い。アラビア語が広く話されているが、長い歴史を持つイランのペルシャ語(および近縁な言語、タジキスタンやアフガニスタン)、強勢を誇ったオスマン・トルコのトルコ語(および近縁な言語、アゼルバイジャン)も有力な言語である。イスラム教の中では音楽を認める考えと邪悪なものとして退ける考えの対立が長く、キリスト教のように宗教儀式で公式に音楽を使うことはないが、聖典コーランの朗唱キラーアや1日5回の祈りを呼びかけるアザーンなどは大変音楽的に聞こえる。とくにコーラン朗唱には地域などにより何種類かあり,優秀者をたたえるコンクールもおこなわれる。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,029 | 234 | 88,425,919 | 伝統音楽では、単旋律、即興的、メリスマ的(音が長く伸びながら上下に動く)、微分音(半音の半分の音程)の使用、非常に複雑な拍子(48拍子まである)、ウード、サントゥール(カーヌーン)、ネイ(尺八のような笛)、ダラブッカ(太鼓の一種)、ラバーブ、スルナーイ(チャルメラのようなダブルリード楽器)の使用など、共通する特徴が見られる。なお、ウードは琵琶・リュート・ギターの、サントゥールはダルシマーやピアノの、カーヌーンはプサルテリウムやツィターやハープシコードの、ラバーブはバイオリン・二胡の、スルナーイはオーボエの祖先であり、長く先進地帯だったこの地域は楽器の宝庫である。また、オスマントルコ以来トルコはアラブ世界の音楽的中心地となったほか、古くから軍楽が見られ、その中で使われているシンバルやトライアングル、ナッカーラ(ティンパニの先祖)とともに、ヨーロッパの音楽に多大な影響を与えた。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,030 | 234 | 88,425,919 | サントゥールによる古典音楽(イラン) ベリー・ダンス(全域) メフテル(トルコ) レズギンカ(アゼルバイジャン・ダゲスタン)などカザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスと中国の新疆ウイグル自治区を指す。北のステップ地帯(シャーマニズムの影響が残る)と南のオアシス地帯(トルキスタン=トルコ族の地とも呼ばれる。西アジアの影響をいち早く取り入れた)に分かれる。どちらもトルコ系言語が主流であり、アナトリア半島に進出したセルジューク・トルコも中央アジアからイランを経てである。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,031 | 234 | 88,425,919 | 遊牧民の末裔が多く住み、イスラム教信仰やトルコ語・ペルシャ語(に近い言語)使用など、西アジア地域との歴史的・文化的な関係が深く、楽器は西アジアと共通するものが多く、明らかに西アジアの音楽用語が使われていたりする(シャシマコームとは「6つのマカーム」の意味で、マカームとはアラブ音楽の音階・旋法・旋律の意味である)。ただしカルナイ(長いトランペットのような楽器)はウズベキスタン・タジキスタンの楽器である。西アジアの音楽を主導したトルコの音楽の土台は中央アジア共通の民俗音楽であり、太鼓による軍楽の要素はトルコの軍楽のルーツである。キュイ(カザフスタン) シャシュマコーム(ウズベキスタン・タジキスタン)などサハラ砂漠より南の地域は黒人の数が圧倒的に多い社会である。言語はスワヒリ語やズールー語などで、声調を持つことを特徴としている。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,032 | 234 | 88,425,919 | 2000を超すといわれる多数の部族の中で伝承されている音楽は、きわめて多様であるが、いくつかの共通する特色をもっている。(1)さまざまな宗教儀礼や祭りなどと深く結びつき、部族社会の生活との深い関係があること(2)音楽や歌の旋律が声調に対応していること。話し太鼓として知られるトーキング・ドラムは、その典型の一つ。(3)きわめて複雑で高度なリズム。同時にいくつかのリズム型を奏するポリリズム、複数のリズムが交錯するクロスリズムなど(4)即興性。踊りと太鼓、あるいは歌詩と旋律、楽器と楽器などの場合、伝統的な旋律やリズムの型をもちながら、状況や場所、演奏者の感情によって自由に組み替えられる。楽器でアフリカにおいて最も注目されるのは、マリンバ、バランキ、ティンピラ、バラフォンなど多くの呼称をもつ旋律楽器の木琴類である。ヒョウタンの共鳴器をつける場合が多い。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,033 | 234 | 88,425,919 | この木琴類と同じく広範に分布するのが指ピアノとして知られるサンザである。使用される楽器は打楽器系が圧倒的に多いが、ナイジェリアなどイスラム文化の影響下にある地域では弦楽器を多く使用する。バラフォンの演奏、トーキングドラムの演奏、グリオ(世襲の演奏者)の演奏(西アフリカ) 指ピアノの演奏(全域)などほとんどの国がキリスト教を信仰している。教会で聖歌を歌う習慣がどの国にもあり、それぞれの民族音楽に影響を与えている。上流階級的な音楽はどの国も舞踏会だったり、オーケストラの演奏会だったり、オペラやバレエだったりであまり差はないが、お祭りや結婚式や酒場での歌・楽器の演奏・踊りなどの中に特徴的な民族音楽が見られる。ヨーロッパの民族音楽に共通する特徴は以下の通り。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,034 | 234 | 88,425,919 | ただ、イスラム勢力に支配されていたことのあるイベリア半島諸国やバルカン半島諸国は、ドイツ・イタリアを中心とするヨーロッパ中央部の音楽とは音階やリズムにかなり違った特徴も見られる。特にバルカン半島諸国では奇数拍子や変拍子が良く見られる。また、東欧諸国では明らかに西欧諸国と違う地声による発声、輪舞を主とする舞踊など、共通性が見られる。ピレネー山脈、鉄のカーテン(概ねゲルマン民族とスラブ民族の境界線)、オスマントルコの最大時の国境線(バルカン半島諸国を示す境界線)、カトリックと正教の境界線など、よくヨーロッパの潜在的な境界線とされるものは、民俗音楽の特徴の違いにも表れている。さらに、東欧諸国やイベリア半島にはジプシー(ロマ)がかなりの数いる。ジプシーはさまざまな町を移動しながら、音楽を演奏したり、金属を加工した馬具を販売したりして生活していた人たちで、インド北西部が発祥の地と言われている。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,035 | 234 | 88,425,919 | ジプシーは職業音楽家としてこれらの国で人気を博し、これらの国の民族音楽に影響を与えたとされている。フラメンコ(スペイン) ヨーデル(スイス) カンツォーネ(イタリア) チャールダーシュ(ハンガリー) コサック・ダンス(ウクライナ) チャストゥーシカ(ロシア) バグパイプ演奏(スコットランド)など極東シベリアにはロシア人が進出する前から遊牧民・狩猟民・漁労民が生活しており、それぞれ固有の文化を今でも残している。極東シベリアでは口琴や団扇太鼓が広く使われているが、衣装がモンゴル・中国・アイヌ・日本のはっぴに少しずつ似ていたり、祭りの雰囲気が日本の東北地方を思わせたりするのが興味深い。エスキモーの文化はロシア・アメリカ・カナダからグリーンランドまで広がっているが、死霊を慰め狩猟(クジラ,クマ,アザラシなど)の成功を祈願する儀礼、歓迎や娯楽のために、踊りや太鼓をともなう歌をうたう。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,036 | 234 | 88,425,919 | 歌は個人の所有財産で、贈答も可能である。喉を緊張させ声門と横隔膜を震わせる発声法が用いられ、舌打ちや叫び声などが装飾的に使われる。やはり団扇太鼓の使用が見られる。ジャンル名は明確なものはないが、歌・民族楽器アンサンブル・民族舞踊(極東シベリア)や歌・ドラムダンス(エスキモー)などネイティブ・アメリカンについて書く。宗教や儀礼に関する踊りを伴い、太鼓やラットルで伴奏する歌が多い。歌は、夢や幻覚を通して超自然的存在から授けられるとし、演奏には呪術師が関わった。喉を緊張させた発声や裏声に特徴があり、エスキモーやシベリア原住民、南米のインディオとの共通性が感じられる。ジャンル名は明確なものはないが、それぞれの部族に儀式の歌・祭りの歌・戦いの歌や踊りが見られる。白人と黒人が長く反目を続けた北アメリカと違って人種間の混血が多かったのが南アメリカの特徴であり、音楽もそのような歴史を反映している。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,037 | 234 | 88,425,919 | どちらにせよ、踊りを伴う活発な音楽が特徴で、ラテンなどと呼ばれ世界的に人気がある。ルンバ、ハバネラ、マンボ(キューバ)、レゲエ(ジャマイカ)、サンバ(ブラジル)、マリネラ(ペルー)、タンゴ(アルゼンチン)など、この地域はリズムの宝庫である。カンシオン・ランチェーラ、メキシカン・ハット・ダンス(メキシコ) グアヒーラ(キューバ) カポエイラ(ブラジル) フォルクローレ(ペルー)などニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、及び太平洋の島々(ハワイを含む)。東南アジアから船に乗って人類が広がっていったと考えられており、人が住み始めたのが最も遅い地域である。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、日本などに占領され、影響を受け続けた歴史があり、西洋音楽の影響が見られる部分も多いが、近年独立し、自分たちの古来の文化を見直そうという動きが盛んである。 | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,038 | 234 | 88,425,919 | 全体的には、楽器の使用は控えめで、身体打奏(体をたたいて音を出したり、リズムをとったり)が広い地域で見られる。フラ(ハワイ)、ヒメネ・ターラバ、オテア(タヒチ)、ティティトレア(ニュージーランド・マオリ族)など | 世界各地域の概観 | 民族音楽 |
2,039 | 234 | 88,425,919 | 音楽は、(マンダ教徒などを除けば)、およそあらゆる民族が持っているものであり、人間の文化には不可欠かどうかはともかく、あらゆる文化圏に於いて、それなりの音楽が存在すると広く信じられている。こうした主張は音楽人類学者のジョン・ブラッキングやアラン・メリアムらによって広められたものである。ただし、近年ではアメリカや日本のろう者の間で、自らを少数民族と位置づける論調もあり、彼らが(一切音響を用いない手話歌はともかく)一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることから、「あらゆる民族が音楽を持っている」という信念に反対する者もいる。 | 「全ての民族は音楽を持っている」のか? | 民族音楽 |
2,040 | 235 | 87,529,527 | 村上 もとか(むらかみ もとか、本名:村上 紀香、1951年6月3日 - )は、日本の漫画家。東京都世田谷区出身、練馬区在住。男性。 | __LEAD__ | 村上もとか |
2,041 | 235 | 87,529,527 | 父親が映画会社の美術部に勤務していたこともあり、幼い頃から絵に親しみ、少年時代にはプラモデルの箱絵の戦車や飛行機を描く日々を送った。また近所の女の子の家にあった少女漫画雑誌で「フイチンさん」を読み、満州への憧れを持つなど後の作風に繋がる影響を受ける。当初は小説の挿絵画家を目指すも、1960年代の漫画の隆盛を機に漫画に興味が移り、高校時代に手塚治虫が創刊した漫画雑誌『COM』の影響を受け、本格的に漫画家を目指すようになった。神奈川県立大和高等学校卒業後は建築製図の職業訓練校に進むも中退し、近くに住んでいた漫画家の望月あきらのもとに押しかけ無理やりアシスタントにしてもらったが、半年後事情があってアシスタントチームが解散になり、そこから雑誌に漫画を投稿する日々を過ごした。その後は中島徳博の下でアシスタントを務める。 | 略歴 | 村上もとか |
2,042 | 235 | 87,529,527 | 1972年、投稿した作品が編集者の目に留まり、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載の「燃えて走れ」でデビュー。以降、同誌を中心に活躍するも、文芸的な志向や劇画的なタッチの自身の作風から限界を感じ、青年誌的な内容を含んだ作品を多く掲載していた小学館の少年漫画誌に活躍の場を移し、『赤いペガサス』(週刊少年サンデー)や『岳人列伝』(少年ビッグコミック)などスポーツを題材にした作品を発表、繊細な描写を含んだ力強い作風で注目を浴びた。1981年には、『週刊少年サンデー』に連載を開始した『六三四の剣』が大ヒットを記録した。テレビアニメ(テレビ東京系)、ゲーム化に加えて、読者層である小学生の間で、剣道が部活動の人気になるほどの剣道ブームが起きたほか、迫力のある試合シーンや個性豊かな登場人物とその成長の過程を丹念に描き出したドラマ性は、子供ならず大人層からも注目を浴びた。 | 略歴 | 村上もとか |
2,043 | 235 | 87,529,527 | 12年間の『週刊少年サンデー』での活躍を経て、1991年からは、『ビッグコミックオリジナル』に『龍-RON-』を連載開始する。昭和初期の日本を舞台に、財閥の一人息子として生まれた青年を軸に、彼の周囲の様々な人々が織り成す群像劇を中心に、サスペンスやSF的な要素を交え、高い人気を確立した。15年にわたる長期連載となり、小学館漫画賞青年一般部門受賞などの栄誉に輝いたこの作品は、村上の代表作となっただけでなく、漫画家としての活動にも大きな転機をもたらすこととなった。『龍-RON-』と並行して、人の心を読むことのできる少女を通して現代社会に生きる人々の心を描いた『ミコ・ヒミコ』や戦前のフランス美術界をテーマにした『メロドラマ』など幅広い作品を発表し、1996年には古巣である集英社に復帰し、法曹界を舞台にした『検事犬神』を『スーパージャンプ』に連載する。 | 略歴 | 村上もとか |
2,044 | 235 | 87,529,527 | 2000年から同誌に連載された『JIN-仁-』では、幕末にタイムスリップした医師の目を通して人間の尊厳を描くなど、熟練したドラマ性から高い評判を呼び、テレビドラマ化(TBS系、大沢たかお主演)されると高視聴率を記録するなど、話題を集めている。 | 略歴 | 村上もとか |
2,045 | 236 | 87,454,642 | 青木 光恵(あおき みつえ、1969年2月24日 - )は、日本の漫画家。兵庫県尼崎市出身。夙川学院短期大学デザイン科卒。一児(娘)の母。夫は小形克宏。 | __LEAD__ | 青木光恵 |
2,046 | 236 | 87,454,642 | 1988年頃に、写真誌『Pink House』(KIYO出版)から『中華』にてデビュー。以降、一般情報誌・女性誌・4コマ誌・青年誌などに作品を発表する。1993年、当時雑誌編集者として活動していた小形克宏と結婚。2000年代前半から慢性的な腱鞘炎などの持病などにより、時折連載を休載するなど仕事をセーブしていたが、近年は主に太田出版の『マンガ・エロティクス・エフ』や若い女性向けの雑誌である祥伝社の『フィールヤング』などに作品を発表していた。2009年、竹書房の4コマ漫画雑誌『まんがくらぶオリジナル』3月号から10月号に永森裕二原作の『幼獣マメシバ』を連載していたほか、一迅社『コミック百合姫』7月発売号にて『プリンセス♥プリンセス』のゲスト掲載を経て10月号より新連載化された。また芳文社『まんがタイムラブリー』にて10月号から12月号にかけて『青木くんの彼女』がゲスト掲載されていた。 | 来歴 | 青木光恵 |
2,047 | 236 | 87,454,642 | また『まんがくらぶオリジナル』にて『はなむら酒店』が2回のゲスト掲載を経て2010年5月発売分の7月号より新連載化された。 | 来歴 | 青木光恵 |
2,048 | 236 | 87,454,642 | 短編のギャグ漫画や4コマ作品、エッセイを多く執筆。近年はストーリー性のある軽妙なコメディ作品も多く執筆している。デビュー当時から「可愛い女の子」を描くのが得意な漫画家として知られ、特に『女の子が好き♥』の主人公などに代表されるようなグラマーな女性を多く描く。太く柔らかい線で描かれたシンプルな絵柄が特徴。「可愛い女の子が大好き」「巨乳好き」「できるものなら女の子とセックスしてみたい。私バイかもしれん」ということをたびたび言明しており、ガールズラブを題材にした作品も多数発表している。本人曰く「あまり萌えないので男の子を描くのは比較的苦手」とのこと。そのため、百合を苦手とする者からの抗議もあり、対応に困っている、と自身のHPの日記などで漏らしている。デビュー当時の短編集「青木光恵のSelfish Comics」において既に現在の画風をほぼ完成させていた。代表作に『小梅ちゃんが行く!! | 概要 | 青木光恵 |
2,049 | 236 | 87,454,642 | 』があるが、ここでは主人公が大阪人であることが強調されている。続編『小梅ちゃんが行く!!R』(この「R」は、Returnからきていて当時のアニメ『セーラームーンR』を意識したという説もある)で主人公が上京してからも、常に大阪人としてのアイデンティティが強調される。西原理恵子と親しかったことがあり、西原の無頼派エッセイ漫画に登場したことがある。他に内田春菊や寺島令子とも交友があったことが複数の単行本への帯部分へのコメントやゲスト寄稿などがあることから見て取れる。また自身同人活動用ブログでは金澤尚子とも仲が良い旨が公表されている。 | 概要 | 青木光恵 |
2,050 | 237 | 88,802,801 | 赤塚 不二夫(あかつか ふじお、1935年〈昭和10年〉9月14日 - 2008年〈平成20年〉8月2日)は、日本の漫画家、タレント、俳優である。本名:赤塚 藤雄(読み同じ)。満州国熱河省出身。 | __LEAD__ | 赤塚不二夫 |
2,051 | 237 | 88,802,801 | 小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなる影響を受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画『嵐をこえて』で1956年(昭和31年)にデビュー。その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年(昭和42年)に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」 と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。 | 概要 | 赤塚不二夫 |
2,052 | 237 | 88,802,801 | 1935年(昭和10年)9月14日、満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口(中国語版)との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる。古北口は中国内地である河北省と満州・熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり、当時は満州国と中華民国(冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,053 | 237 | 88,802,801 | 父親である赤塚藤七(1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より関東軍憲兵となり同年9月の満州事変に際して奉天で巡察警邏、郵便検閲、鉄道警察、国際連盟リットン調査団護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満州国警察古北口国境警備隊の保安局特務警察官として当時華北分離工作による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への定着宣撫工作、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,054 | 237 | 88,802,801 | 父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、田河水泡の『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助』 といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円(現在の400〜500万円に相当)もの懸賞金がかけられていたにも関わらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,055 | 237 | 88,802,801 | 母親であるリヨ(1911年 - 1970年8月20日・満59歳没、旧姓:寺東)は奈良県生駒郡矢田村(現・大和郡山市矢田口)出身で藤七との結婚前には満州で芸妓をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的に再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また1968年(昭和43年)に藤七が結核に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,056 | 237 | 88,802,801 | なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している。現地での掃討作戦及び華北分離工作の進展により古北口地域の治安情勢が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散。その後、日中戦争(北支事変・支那事変)の勃発により日本軍が華北(北支)へと侵攻するのに合わせて(日本勢力圏と対峙していた国民革命軍・八路軍との前線が移動したことで)父・藤七は更なる危険な辺境任務を任されることとなり時には四海冶、二道河へ父親・藤七だけで単身赴任、あるいは母親・リヨと赤塚ら子供達ごと大連の親類へと預けられるか、一家で灤平、小白旗、興隆、東陵、馬蘭関と中国大陸・華北の辺境を転々とすることとなった。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,057 | 237 | 88,802,801 | この時期に赤塚の弟妹として妹・寿満子(長女・昭和13年生)が承徳県、弟・義大(次男・昭和15年生)が古北口、弟・宣洋(次男・昭和17年生)が青龍県にて生まれている。1944年(昭和19年)、父・藤七は特務警察官の職を辞し奉天で鉄西消防分署長となった。1945年(昭和20年)8月15日、小学4年生の赤塚は奉天で終戦を迎えた。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,058 | 237 | 88,802,801 | しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵(内務人民委員部政治将校)に助けられながらも葫芦島在留日本人大送還によって葫芦島から大発動艇に乗船し4日間かけて6月15日、(赤塚にとって初めて見る日本・内地である)佐世保港に到着、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,059 | 237 | 88,802,801 | 引き揚げまでに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という。父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入して小学5年生となった。一家が満州帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,060 | 237 | 88,802,801 | この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と仲良くなり学校生活が一転、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページのSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,061 | 237 | 88,802,801 | 中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。赤塚が14歳になったその年の暮れに父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,062 | 237 | 88,802,801 | 母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)809番地に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という。1952年(昭和27年)に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店に就職した。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,063 | 237 | 88,802,801 | ドラム缶を塗る仕事の他、映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できる事となり、このときバスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けたという。また、この看板屋の経験は赤塚に大きな影響を与えており「看板屋では、配色とか技術的な面でマンガに役立った。明朝体でもゴシック体でも、作品タイトルは全部自分でかけるようになったし...。デザイン学校に通っていたようなもんだね」と語っている。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。初採用は新潟の看板屋時代をテーマにした作品であり、1954年5月号に掲載された。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,064 | 237 | 88,802,801 | 18歳だった1954年(昭和29年)頃に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川のエビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫やよこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった。『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし、1956年(昭和31年)6月、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,065 | 237 | 88,802,801 | 以後、1998年4月発行の文庫版『ひみつのアッコちゃん』まで、曙出版とは40年以上に渡る付き合いとなる。この長期間に渡る契約は曙出版の社長が同郷の新潟であったことが大きく関係しており、赤塚は「実はそのときあんまり色よい返事をもらえそうになかったけれど、最後に出身地の話になってオレと同じ新潟出身だったので、なんとかうまく話がまとまった」と語っている。同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,066 | 237 | 88,802,801 | 当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、父と同郷でもあるトキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。1958年(昭和33年)、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,067 | 237 | 88,802,801 | 合作ペンネーム「いずみあすか」 名義で作品を発表した。合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」 で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去。その間に、横山光輝の出張アシスタントをつとめたこともある。1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,068 | 237 | 88,802,801 | 1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社(現在の西新宿)にフジオ・プロダクションを設立。1969年に株式会社化している。この年に長女のりえ子が誕生。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっている他、主題歌2本の作詞も手掛けている。1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,069 | 237 | 88,802,801 | 1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となる。その後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。1970年11月22日-23日にかけて10年余振りに新潟へ帰郷。サイン会では約300枚の色紙1枚1枚に丁寧にイラストを描き、クラス会にも参加した。「サイン会の時ももっと手を抜いてと言われたけど、それができない。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,070 | 237 | 88,802,801 | 故郷の子供たちにそれができないんです」と語り、以後、晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ、同級生との交流、ファンサービスを行っている。1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者である武居俊樹宛てに新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,071 | 237 | 88,802,801 | 当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。1971年(昭和46年)9月25日、『天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。1972年(昭和47年)に『天才バカボン』他の作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,072 | 237 | 88,802,801 | 多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊。1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚。1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田 一郎」(やまだ いちろう)とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等の全てのタイトルを「山田一郎」名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり3か月で元に戻した。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,073 | 237 | 88,802,801 | 一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。1975年(昭和50年)10月6日、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,074 | 237 | 88,802,801 | この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本、月刊誌7本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり、長いスランプに陥っている事を公言。1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,075 | 237 | 88,802,801 | 1979年(昭和54年)、3月31日、にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七がすい臓ガンの転移により71歳で死去している。1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,076 | 237 | 88,802,801 | 1985年(昭和61年)4月から12月にかけて、当時連載中だった「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)の『TOKIOとカケル』、「オール読物」(文藝春秋)の『赤塚不二夫の文学散歩』、「2001」(祥伝社)の『にっぽん笑来ばなし』、「サンデー毎日」(毎日新聞社)の『赤塚不二夫のどうしてくれる!?』などが立て続けに終了し、ついにマンガ連載は「サンケイ新聞 日曜版」(産経新聞社)の7コマ作品『いじわる時事』1本だけになってしまう。以後しばらく低迷期が続くが、1986年秋から「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で『「大先生」を読む。』、「話のチャンネル」(日本文芸社)で『花ちゃん寝る』、「週刊大衆」(双葉社)で『ヤラセテおじさん』の連載が開始。いずれも大ヒットとまではいかなかったものの、これらが赤塚の漫画家“復帰作”となった。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,077 | 237 | 88,802,801 | 1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。この年の夏、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、秋から子ども向け月刊誌「コミックボンボン」(講談社)で『天才バカボン』と『おそ松くん』の新作連載がスタートし、赤塚は漫画家として見事に復活を遂げた。翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,078 | 237 | 88,802,801 | その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社。1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKのドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,079 | 237 | 88,802,801 | 1997年(平成9年)6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は2002年まで、「これでいいのだ! | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,080 | 237 | 88,802,801 | 赤塚不二夫展」とタイトルを変え、上野の森美術館や新潟市美術館、横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都美術館えき、増田町まんが美術館など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。また、赤塚の故郷である新潟市美術館では「郷土作家シリーズ」と題し、新潟の各施設に寄贈した直筆画のほか、四ツ合中学校(現・潟東中学校)の同級生・小林利明氏が保管していた処女作『ダイヤモンド島』の原画20枚が初公開された。初日には赤塚本人も出席し、サイン会やトークイベントに参加。「若い頃、漫画家を目指していたこの新潟で、漫画家となって作品を見てもらえることがものすごく嬉しい。」「新潟時代は漫画家になりたくて一生懸命勉強していたところ。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,081 | 237 | 88,802,801 | 本屋で漫画雑誌を探したり、パーマ屋や映画館の看板を描いたり、思い出深い。きょうは感無量です」「新潟で個展を開けることは、とても嬉しい。なんとも幸せです」と喜んだ。当時、赤塚の側にいたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「赤塚は珍しくスーツ姿で登場した。何度となく会っているが、スーツを着た赤塚を見たのは初めてだった。いつもなら襟の付いたシャツなら良いほうで、ほとんどTシャツで通すのだが......」、赤塚本人は「ここは特別だからね」と語っていたという。同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され、22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,082 | 237 | 88,802,801 | 」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ、体重は13キロ減少した。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した。1998年(平成10年)、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始されるが、1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,083 | 237 | 88,802,801 | 1999年(平成11年)1月、共同通信社配信により「新潟日報」(新潟日報社)ほか全国各紙に新作読み切り『お正月ざんす』が掲載される。『おそ松くん』の後日談を描いた作品で、絵本やイラストなどを除く完成した漫画作品としては、本作が最後となった。なお、本遺作は赤塚の手による下書きや没アイデアも残されており、2021年7月刊行の『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)に収録された。2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術、その後は順調に回復し、11月1日には退院を果たす。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,084 | 237 | 88,802,801 | ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料(印税)を辞退している。2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された。2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,085 | 237 | 88,802,801 | また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』が発売された。2005年(平成17年)からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されているほか、2008年(平成20年)からは『天才バカボン』を皮切りに、各タイトルの収録エピソード数を更に充実させた電子書籍がebookjapanより配信されている。(ただし、2021年現在、未配信のタイトルもある。)2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。しかし当時、赤塚の妻を取材していたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「念願の記念館ではあったが、喜びも半分というところだった」という。妻の本音は「新宿か、せめて新潟に建てたかった」からだ。その後、新宿や新潟に移転されることはなく、2020年(令和2年)3月27日を持って閉館された。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,086 | 237 | 88,802,801 | 2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。満72歳だった(享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた。赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,087 | 237 | 88,802,801 | また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。赤塚の葬儀では藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,088 | 237 | 88,802,801 | 喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、赤塚門下の古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ話題となった(項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い。アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区の落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「オッパイだ、オッパイ」。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,089 | 237 | 88,802,801 | 最後に残した漫画原稿のネームは、未完成となった『メチャクチャ ヤジキタバカ道中』の65ページ目「思い出をつみ重ねていくのが人生なのよ、イヤーン!H」。最後の仕事は、倒れる前日(2002年4月9日)、18年間欠かさず続けてきた東京アニメーター学院の入学式スピーチとなった。2009年(平成21年)、ヒットアニメの原作提供という観点から、東京国際アニメフェア2009で第5回功労賞を受賞。同年8月より東京銀座の松屋百貨店で「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」を開催、これを皮切りに全国巡業で開催される。2011年(平成23年)、浅野忠信、堀北真希主演による『これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年、綾瀬はるか主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・川村泰祐)が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,090 | 237 | 88,802,801 | 2013年(平成25年)、新潟市にゆかりのある漫画家の作品などを展示する「新潟市マンガの家」「新潟市マンガ・アニメ情報館」がオープン。赤塚作品や赤塚キャラを用いたアトラクションが常設展示される。2015年(平成27年)、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『フランダースの犬』のコラボレート企画『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで陽の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,091 | 237 | 88,802,801 | また、大人になった『おそ松くん』の六つ子兄弟のその後を描いたアニメ『おそ松さん』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年(平成29年)に第2期、2020年(令和2年)に第3期が放映される。2016年(平成28年)4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画プロデュース:坂本雅司/監督:冨永昌敬/特別協力:フジオ・プロダクション)が、ポレポレ東中野、下北沢トリウッド、新潟・市民映画館シネ・ウインドほか、全国にてロードショー公開される。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,092 | 237 | 88,802,801 | 2021年(令和3年)、それまで単行本未収録だった幻の18作品をまとめた『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)が刊行。1986年の連載作品『花ちゃん寝る』全13話をメインに、『モトムくん』『イレズミ作戦』『ナンカナイト物語』『トラベ郎』『赤塚不二夫のギャグ漫字』『愛情レストラン』『ウナギイヌ』『仲良きことは美しき哉』『愛しのモンローちゃん』『たまごっちなのだ!!』『用心棒』など、それまで存在を知られていなかった作品の数々が、赤塚の事務所であるフジオ・プロダクションによって多数発掘された。また、赤塚の生涯最後の読み切り短編『お正月ざんす』が単行本に初収録されたほか、同作の別アイデア(未発表原稿)『おめでたいのだ』の存在が明らかになった。 | 生涯 | 赤塚不二夫 |
2,093 | 237 | 88,802,801 | 晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合う事が出来なかった事と自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、たこ八郎、壁村耐三、滝田ゆうを挙げている。なおアシスタントだった古谷三敏によると、若い頃は一滴も飲めなかったという。愛猫家。1979年(昭和54年)から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画『七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年(平成9年)に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,094 | 237 | 88,802,801 | また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしていることもあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをする事が多かった。同じく『おそ松くん』の母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。ニンジンと締切日にきびしい編集者。関西人。雑誌連載『赤塚不二夫の人生相談』第25回(『週刊プレイボーイ』1994年51号)では「オレ、新潟から上京してきて、一生懸命、標準語しゃべろうって苦労した方じゃない。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,095 | 237 | 88,802,801 | だから、あいつらが我が物顔で関西弁しゃべってるの聞くの大っ嫌い」「ただ、困ったことに、オレがこの世で一番好きだったオレのおふくろが奈良の大和郡山出身の生粋の関西人なんだ」「弱っちゃうよ。オレの体には確実に、このセコくてウルさい関西人の血が流れてんだから」「オレはあくまで父親の故郷・新潟の人間として生きてやる。そして、関西の人間なんてサイテーだ!って言い続けてやるぞ!」と語っている。『ひみつのアッコちゃん』の主人公・加賀美あつ子と『おそ松くん』のトト子が似ていることについて、1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際、赤塚自身は「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,096 | 237 | 88,802,801 | 山下洋輔らジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちだが、赤塚はジャズを一切聴かず、歌謡曲好き・美空ひばり好きだった。水木しげるの娘・赤塚不二夫の娘・手塚治虫の娘による対談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』内でも赤塚がジャズを聴いていないのは謎だとネタにされているが、これは『おそ松くん』内でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人(山下の師匠的存在)が新宿ピット・インの機関紙に赤塚に寄稿してもらおうとフジオプロに訪問したのがきっかけで赤塚と山下洋輔の交流が生まれたからである(件のイヤミのギャグは長谷邦夫発案によるものであり、赤塚の寄稿の話はなくなったが、この相倉の来訪をきっかけに長谷がピット・インに入り浸るようになり、その後、赤塚も山下洋輔の一派の面白さを聞きつけ、山下に会うためにジャズ関連の場所を訪れるようになった)。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,097 | 237 | 88,802,801 | 1968年(昭和43年)、NHKの漫才コンクールで、志賀あきら、榎本晴夫コンビに「求む!秘書」という台本を書き下ろし、準優勝という好成績を収めた。また、この時の様子は『お笑い招待席』(1969年6月7日放送)で放映されている。2010年(平成22年)、誕生日である9月14日、Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた。名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのは赤塚だと言われており、曙出版・講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている。またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身で、のちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,098 | 237 | 88,802,801 | 曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に7階建てのビルを建てるまでに成長し、他に出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる。その後、曙出版の社長が死去した際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという。自宅兼事務所(フジオ・プロダクション)のある下落合・中井周辺を愛し、地元住人たちと積極的に交流していた。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,099 | 237 | 88,802,801 | マンガには「下落合」というワードが頻繁に登場するほか、居酒屋の「権八」、電気屋の「ツツイサウンド」、蕎麦屋の「長寿庵」、寿司屋の「白雪寿司」など、実在の店舗名が多数登場している。また、中井駅から下落合駅の一帯を描いた『わが街』という作品も発表している。1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた。1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,100 | 237 | 88,802,801 | タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。1982年(昭和57年)、写真家・荒木経惟との交友から、『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネーム、および本名(赤塚藤雄)とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
2,101 | 237 | 88,802,801 | 1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。タモリや高平、滝らと結成したグループ。上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。 | 人物 | 赤塚不二夫 |
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