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ロシア | ロシアには182の民族が住み、移民は約700万人とされる多民族国家である。2010年の統計によると約80パーセントは東スラブ系民族となっており、ロシア人(民族)が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、ベラルーシ人やポーランド人を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。
テュルク系のタタール人はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、バシキール人やチュヴァシ人、トゥヴァ人、アルタイ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人、サハ人などのテュルク系民族はロシア全体の8.7パーセントを占める。
コーカサス系で最も多いのがチェチェン人で全体では6位の1パーセントを占め、イングーシ人、オセット人、アヴァール人、アルメニア人、グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はテュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。
ウラル系はマリ人、モルドヴィン人、カレリア人、ウドムルト人、ネネツ人などで構成され、全体の1.6パーセントを占めている。
そのほか、モンゴル系民族のカルムィク人、ブリヤート人、ツングース系民族のエヴェンキ人、エスキモー系のユピク人、さらに、ユダヤ人やゲルマン系のドイツ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。
ロシア語が公用語である。ロシアの各共和国の公用語として以下の29言語がある: アバザ語、アディゲ語、アルタイ語、アヴァル語、アゼルバイジャン語、バシキール語、ブリヤート語、チェチェン語、チュヴァシ語、エルジャ語、イングーシ語、カザフ語、カバルド語、カルムイク語(Kalmyk Oirat)、カラチャイ・バルカル語、ハカス語、コミ・ジリエーン語(コミ語)、レズギ語、マンシ語、マリ語、モクシャ語、ノガイ語、オセット語、タタール語、トゥバ語、ウドムルト語、サハ語、ウクライナ語、クリミア・タタール語。
法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある(ロシア連邦家族法典 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。 | 109 |
ロシア | 法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある(ロシア連邦家族法典 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。
結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる(同姓)、結婚前のまま(別姓)、姓を結合する(二重姓)の3通りあり(家族法典32条)、同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なおロシア連邦民法典19条により個人の姓・名前・父称の変更は一定の手続きにより可能である。
婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う(家族法典(ロシア語版、英語版)11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス(ロシア語: ЗАГС、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。
ロシアでは同性結婚は違法となっており、2020年以降、同国憲法においても同性結婚を明示的に禁止している。
ロシア人を含めた多くの民族がキリスト教正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。
2023年8月、9月の新学期から16~18歳の学生向けに使用される初めての全国統一歴史教科書が導入された。内容は、ソ連崩壊からプーチン統治時代、ウクライナ侵攻の原因に至るまで、ほぼ完璧にプーチンの歴史観と政権が用いている解釈が映し出されており、プーチン政権によるプロパガンダが強調される形となっている。
ロシア憲法においては、全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが、しかし2000年代半ばからは回復しており、平均余命は2006年と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった。 | 109 |
ロシア | ロシア憲法においては、全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが、しかし2000年代半ばからは回復しており、平均余命は2006年と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった。
2009年には、ロシアの平均余命は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死(アルコール依存、喫煙、交通事故、暴力犯罪)であった。このような男女の余命差と第二次世界大戦の戦死者によって人口男女差(英語版)は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は2006年から本格的に少子化対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や死亡率は徐々に改善されている。
年金の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、2030年までに引き上げが行われる。
世界動物保護協会の、動物保護指数によると、A-Gの7段階評価で、ロシアはDである。そのうち畜産動物保護の指数は、日本と同じく最低ランクのGとなっている。
2022年9月に、家畜の屠殺を規制する新しい規則が施行され、屠殺は「人道的な方法」で行うべきなどと規定された。しかし人道的な方法が明確化されていないため、動物保護団体から抗議されている。ロシア獣医師会会長は、牛は不適切に扱われているが「お金をたくさん払うよりも、安くて残酷な方法を使う方が簡単だからだ」と述べている。
2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う労働力不足を移民で賄おうとする『Moving to russia』政策 が始動、プロパガンダ的要素が強い移民推奨動画『Time to move to Russia!』等が製作された。ただ、『基本医療費無償・高齢者年金・障碍者年金・生活保護:基本的社会保障三点セット』しかない東欧諸国の生活水準でも『菜園付き別荘』所有可能なレベルなので、“ロシア人女性と結婚して付属品の『公営住宅』と『菜園付き別荘』も手に入れたい”と願う友好国からの移民希望者は多い。 | 109 |
ロシア | ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の犯罪情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「テロ行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 (0.5%増)で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減)となっている。都市部では外国人を狙った強盗やスリ、置き引き、詐欺、クレジットカードやキャッシュカードのスキミングなどの犯罪が多発しており、被害者の中には日本人も含まれているとの報告がある。
一方で、一般国民による反体制抗議運動は、集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているものの、それにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会などが開催されており、参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが、一部の無許可集会などの参加者が治安当局に逮捕されることもあり、旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会やデモには近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる。
国民の4人中3人がロシア正教徒で構成されているロシア連邦では「同性愛は聖書で禁止されている」ので蛇蝎の如く嫌われるが、挨拶代わりの「フレンチキス」や「ハグ」は握手と同様の社交辞令であり問題とはされない。
現状、この節は日本語版記事があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。
ロシアにおける検閲、言論の自由についての批判は、それぞれロシアにおける検閲、ロシアにおける報道の自由(英語版)を参照。
新聞
出版社
公的機関も含め、YouTubeやInstagramの利用も盛んである。 | 109 |
ロシア | 現状、この節は日本語版記事があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。
ロシアにおける検閲、言論の自由についての批判は、それぞれロシアにおける検閲、ロシアにおける報道の自由(英語版)を参照。
新聞
出版社
公的機関も含め、YouTubeやInstagramの利用も盛んである。
「子供番組の低予算放送枠内でもフルCGによる作画崩壊無い高品質のアニメーションが製作できる」体制がほぼ確立したため、アニメ制作現場ではCGアニメーション主流となっている。なお2Dアニメは「CGによって手描きアニメーション風の作画(セル画)でレンダリング、手描き風の表現による親しみやすい表現と懐かしさを表現する手法」としてセルルックCGアニメーションが確立、セルライクなアニメが絶滅したわけではない。
ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が16件、自然遺産が10件存在する(2015年の第39回世界遺産委員会終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。
クリスマスが1月7日なのは、キリスト教の宗教行事はロシア正教が公認しているユリウス暦に基づいて行われていることによる(正教会ではほかにエルサレム総主教庁、グルジア正教会、セルビア正教会、アトス山などがユリウス暦を採用している)。現在の暦であるグレゴリオ暦は、歴史的にはカトリック側が作った暦となっているためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)12月25日がユリウス暦(旧暦)の1月7日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。 | 109 |
ロシア | ソ連時代からオリンピックで毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。また、ロシアは1980年のモスクワオリンピックをはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピック(2014年ソチオリンピック)を、2018年にはサッカーのワールドカップ(2018 FIFAワールドカップ)を開催している。
国内プロリーグとしては、1992年に創設されたサッカーリーグの「ロシア・プレミアリーグ」や、2008年に創立されたアイスホッケーの「コンチネンタル・ホッケー・リーグ」などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、陸上競技、フェンシング、体操競技、新体操、アーティスティックスイミング、フィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア・旧ソ連発祥のスポーツとしては、日本の柔道と西洋のレスリングなどをベースに編み出されたサンボが挙げられる。
ロシアサッカー連合(RFU)によって構成されるサッカーロシア代表は、これまでUEFA欧州選手権には6度の出場歴があり、2008年大会ではアンドレイ・アルシャヴィンやロマン・パヴリュチェンコなどの活躍によりベスト4に輝いた。さらにFIFAワールドカップには4度の出場歴があり、2018年大会ではベスト8の成績を収めた。しかし続く2022年大会には、ロシアによるウクライナ侵攻に対して国際サッカー連盟(FIFA)が代表チームに参加停止の制裁を課した為、不戦敗で予選敗退となった。
他方で、ドーピング問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。2018年平昌オリンピックでは国家としての参加が認められず、ロシアの選手はOAR(オリンピック・アスリート・フロム・ロシア)という呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚や国歌の演奏はされず、代わりにオリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。 | 109 |
ロシア | この平昌大会から正式競技となったカーリング混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。さらに2019年に世界アンチ・ドーピング機関は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定した。それにより2021年の東京オリンピックと2022年北京オリンピックでは、ROC・RPCとして大会に参加した。 | 109 |
哲学 | 哲学(てつがく、フィロソフィー 英: philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー 英: philosopher)と呼ばれる。
現代では以下のように、文脈によって様々な意味をもつ多義語である。
「哲学」は英語で「フィロソフィー」といい、語源は古典ギリシア語の「フィロソフィア」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という日本語は、明治時代の学者西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である。(→#語源とその意味)
したがって、「フィロソフィー」というのは単に「知を愛する学」という意味であり、それだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない。この語では内容が規定されていないのである。哲学以外の大抵の学問は、分野名を聞いただけでおおよその内容が察せる(例えば「経済学」なら経済、「生物学」なら生物などのように)。ところが、哲学の場合は名前を聞いただけでは何を研究する学問なのか分からない。これは哲学という学問の対象が決して一定しておらず様々な考え方があることを示しており、哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方ないような特徴を備えている。(→#哲学の対象・主題)
このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られ、哲学に一定の方法が存在しうるわけではない。
以下は日本語辞典『広辞苑』での「哲学」の説明: | 110 |
哲学 | このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られ、哲学に一定の方法が存在しうるわけではない。
以下は日本語辞典『広辞苑』での「哲学」の説明:
1 〔...〕 物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、世界・社会関係・人生などの原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。
なお、以下は哲学用語としての「学(がく)」の説明:
ア(science(フランス)・(イギリス)・Wissenschaft(ドイツ))現実の全体あるいはそれの特殊な諸領域または側面に関する体系的認識。哲学および個別諸科学を含む。
観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学(人文科学)とされる場合もある。
近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。
啓蒙思想時代の哲学者であり、またドイツ観念論哲学の祖でもあり、そして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者、イマヌエル・カントは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。 | 110 |
哲学 | 現代思想において、特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。
古典ギリシア語の「フィロソフィア」(古希: φιλοσοφία、philosophia、ピロソピアー、フィロソフィア)という語は、「愛」を意味する名詞「フィロス」(φίλος)の動詞形「フィレイン」(φιλεῖν)と、「知」を意味する「ソフィア」(σοφία)が結び合わさったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスまたはその弟子プラトンが、自らを同時代のソフィストと区別するために用いてからとされている。
古典ギリシア語の「フィロソフィア」は、古代ローマのラテン語にも受け継がれ、中世以降のヨーロッパにも伝わった。20世紀の神学者ジャン・ルクレール(en:Jean Leclercq)によれば、古代ギリシアのフィロソフィアは理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、中世ヨーロッパの修道院でもこの用法が存続したとされる。一方、中世初期のセビリャのイシドールスはその百科事典的な著作『語源誌』(羅: Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている。
英語をはじめとした多くの言語で、古希: φιλοσοφίαをそのまま翻字した語が採用されている。例えば、羅: philosophia、英: philosophy、仏: philosophie、独: Philosophie、伊: filosofia、露: философия、阿: falsafahなどである。 | 110 |
哲学 | 英語をはじめとした多くの言語で、古希: φιλοσοφίαをそのまま翻字した語が採用されている。例えば、羅: philosophia、英: philosophy、仏: philosophie、独: Philosophie、伊: filosofia、露: философия、阿: falsafahなどである。
日本で現在用いられている「哲学」という訳語は、詳細な経緯は諸説あるが、大抵の場合、明治初期の知識人西周によって作られた造語(和製漢語)であると説明される。少なくとも、西周の『百一新論』1874年(明治7年)に「哲学」という語が見出される。そこに至る経緯としては、北宋の儒学者周敦頤の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり、この一節は儒学の概説書『近思録』にも収録されていて有名だった。この一節をもとに、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語として転用した。それを西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は文部省に採用され、1877年(明治10年)には東京大学の学科名にも用いられ、以降一般に浸透した。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している。
漢語の本場である中国では、西周が作った「哲学」という訳語が、いわば逆輸入されて現在も使われている。経緯としては、清末民初(1900年代前後)の知識人たちが、同じ漢字文化圏に属する日本の訳語を受容したことに由来する。
「哲」という漢字の意味(および同義字)は「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがある。字源としては、会意形声文字で「口」+「折(音符)」から。「折」は一刀両断すること。
「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。
17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている。 | 110 |
哲学 | 「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。
17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている。
日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学(つまり後述の自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。のちに文明開化が進んで西洋の諸学が正式に輸入されると、様々な訳案が出されたが、なかでも中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている(ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった)。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で、「わが日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べたことでも知られる。
上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。 | 110 |
哲学 | 上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。
「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学・宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた。この件に関して、明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学・インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている。
紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない(他の地域・時代の哲学まで眺めるとなおさらである)。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた。
ソクラテス以前の初期ギリシア哲学では、対象は(現在の意味とは異なっている自然ではあるが)「自然」であった。紀元前5世紀頃のソクラテスは < 不知の知 > の自覚を強調した。その弟子のプラトンや孫弟子のアリストテレスになると、人間的な事象と自然を対象とし、壮大な体系を樹立した。ヘレニズム・ローマ時代の哲学では、ストア派やエピクロス学派など、「自己の安心立命を求める方法」という身近で実践的な問題が中心となった(ヘレニズム哲学は哲学の範囲を倫理学に限定しようとしたとしばしば誤解されるが、ストア派やエピクロス派でも自然学や論理学、認識論といった様々な分野が研究された。平俗な言葉で倫理的主題を扱った印象の強い後期ストア派でも、セネカが『自然研究』を著している)。 | 110 |
哲学 | ヨーロッパ中世では、哲学の対象は自然でも人間でもなく「神」であったと謂われることが多い。しかし、カッシオドルスのように専ら医学・自然学を哲学とみなした例もある し、ヒッポのアウグスティヌスからオッカムのウィリアムに至る中世哲学者の多くは言語を対象とした哲学的考察に熱心に取り組んだ。また、中世の中頃以降は大学のカリキュラムとの関係で「哲学」が自由七科を指す言葉となり、神学はこの意味での「哲学」を基盤として学ばれるものであった。
さらに時代が下り近代になると、人間が中心的になり、自己に自信を持った時代であったので、「人間による認識」(人間は何をどの範囲において認識できるのか)ということの探求が最重要視された。「人間は理性的認識により真理を把握しうる」とする合理論者と、「人間は経験を超えた事柄については認識できない」とする経験論者が対立した。カントはこれら合理論と経験論を総合統一しようとした。
19世紀、20世紀ごろのニーチェ、ベルクソン、ディルタイらは、いわゆる「生の哲学」を探求し、「非合理な生」を哲学の対象とした。キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらの実存主義は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えた。
このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく、対象によって規定できる学問ではなく、冒頭で述べたように、ただ「philosophy」「愛知の学」とでも呼ぶしかない とされている。
学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。
これらの主題について論じられる事柄としては、定義、性質、複数の立場・見解の間の整理などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。 | 110 |
哲学 | これらの主題について論じられる事柄としては、定義、性質、複数の立場・見解の間の整理などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。
また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば論理実証主義)。 こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。
このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。
また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。
哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。
古代ギリシア哲学、自然哲学、形而上学、実念論、唯名論、大陸合理主義、イギリス経験論、ドイツ観念論、超越論的哲学、思弁哲学、生の哲学、現象学、実存主義、解釈学、新カント派、論理実証主義、構造主義、プラグマティズム、大陸哲学
特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、実在論、観念論、決定論、宿命論、機械論、相対主義、二元論、一元論、独我論、懐疑主義などがある。 | 110 |
哲学 | 特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、実在論、観念論、決定論、宿命論、機械論、相対主義、二元論、一元論、独我論、懐疑主義などがある。
哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。
地域による区分
主題による区分(分野)
貫成人が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち、「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つである。第一のタイプは自然、イデア、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、クロード・レヴィ=ストロースの構造やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲームがこれに該当する。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという。
古代ギリシャ哲学はイスラム世界に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝のカリフ、マームーン(786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台である「知恵の館」が設けられた。翻訳の大半は、ヤコブ派、ネストリオス派などの東方キリスト教徒が、シリア語を介して行った。
ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。
ネオプラトニズムについては、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。 | 110 |
哲学 | ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。
ネオプラトニズムについては、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。
キンディーはイスラーム最初の哲学者と言われる。 イブン=ザカリーヤー・ラージーは、アリストテレスの哲学ではなく、原子論やプラトン主義の影響を受けた珍しい哲学を展開した。 ファーラービーは、神から10の知性(=ヌース)が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。 イブン=シーナー(アヴィセンナ)はイスラーム哲学を完成させたと言われている。
イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、イブン=ルシュドが、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。
ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」 があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。
上述のようにフィロソフィア・フィロソフィ(古希:φιλοσοφία)という語そのものは西洋で生まれ、時代が下ってから東洋に伝わったものであるが、タイトルに東洋哲学と冠した書籍、書名に「中国哲学」が含まれる書籍、書名に「インド哲学」が含まれる書籍、書名に「日本哲学」もしくは「日本の哲学」を含む書籍、東洋の哲学者や学派個々の名称に哲学とつけて「~哲学」と称する例 が存在する。また、東洋哲学研究所、日本哲学史フォーラム といった団体が存在するほか、いくつもの大学で東洋哲学を研究する過程が設置されている。以上のように、東洋の思想を哲学と呼称する例はしばしばみられる。 | 110 |
哲学 | 哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。
中国では、春秋戦国時代に諸子百家が現れた。中でも老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家がよく取り上げられる。時代が下ると、南宋では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ、明代には朱子学を批判して陽明学が登場した。
東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが、現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。 これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある。
西田幾多郎(1870 - 1945)は、フッサール現象学などの西洋哲学および仏教などの東洋哲学の理解の上に、『善の研究』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である純粋経験の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学は「西田哲学」と呼ばれるようになった。
井筒俊彦(1914 - 1993)は、イスラーム思想を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、イスラームと老荘の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『意識と本質』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの神秘主義を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。
哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。 | 110 |
哲学 | 哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。
西洋哲学の萌芽ともいえるソクラテス以前の哲学の中には、それまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩は、それまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静、もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり、彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが、恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。
オルフェウスは‘清めの儀式’や天上・地獄の教義について述べていて、後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも、例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが、彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは、時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとし、その始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や、時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう。
宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。
また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが、例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較されることはある。 | 110 |
哲学 | また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが、例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較されることはある。
18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている
一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する不可知論的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。
中世哲学研究者の八木雄二は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、キリスト教哲学ということもできるし神学と呼ぶこともできる」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。
フランシス・マクドナルド・コーンフォードは著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家のエティエンヌ・ジルソン、科学哲学者のカール・ポパー もこれと同じ哲学観を持っている。
哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗は「哲学や思想や文学と、宗教や霊性論との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている。哲学者・倫理学者である内田樹は、「本物の哲学者はみんな死者と幽霊と異界の話をしている。」と述べている。 | 110 |
哲学 | 哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗は「哲学や思想や文学と、宗教や霊性論との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている。哲学者・倫理学者である内田樹は、「本物の哲学者はみんな死者と幽霊と異界の話をしている。」と述べている。
「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする。ソクラテス以来の西欧哲学の流れによれば、知を愛するという議論は、知を構築する方法を論じるという契機を含んでおり、思考をより望ましいものにするための方法の追及こそが哲学である、という主張である。ところが実際には「よい思考の方法」を見出したとしても、現実に適用するにあたっては「それを用いるべき」と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。このために思想と哲学の混用は避けられない。
哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。
一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」 であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、現代思想になるとする。 | 110 |
哲学 | 一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」 であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、現代思想になるとする。
一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が詩と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。
哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に文学部の中の「哲学科」で哲学を学ぶが欧米には「哲学部」という学部が存在する。
八木雄二は、前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で、人文科学は「哲学によってその事実内容が真であるかどうかの批判的吟味を受けることによって学問性を明らかにする」と述べている。自然科学は数学的方法を適用することで、数学的方法を適用できない人文科学は哲学によって、それらが理性的であるかが確認でき、そういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している(生物学のようにどちらの側面も持っていて、数学的方法に還元できない部分では哲学的吟味を受けるような学問もあるという)。
哲学を学ぶということについて、イマヌエル・カントは「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Phiolsophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」 という。その上でカントは「理性の学的な理論的使用は哲学か、もしくは数学のどちらかに属する」と主張している。 | 110 |
哲学 | 後世の著作物の中に太古の思想との類似性が見つけられる場合、それが先哲の思索を継承したのか、独自の着想によるものかは即断できないが、明らかに以前には無い発想が述べられている場合、しばしばそれが重要な哲学的な独創性(頂点の発見)を意味していることがある。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に否定され失われてしまうが、弟子達の著作によりその思想が後世にまで残り、多大な影響力を及ぼしているものがある。
思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。一方で、異なる学派間の対立は民衆の懐疑と嘲笑的態度、独断の蔓延とそれによる思想の貧困化につなり、戦乱が続いた時代は思想が停滞・後退した。ヨーロッパにおいて教会の権力が頂点に達した頃には、哲学はしばしば神学的な問題に用いられ、近代には先哲の批判的継承のうえに独自の哲学を打ち立てた近代哲学者たちが現れた。
逆に、哲学者自身が及ぼした影響の痕跡が後世に見られることもある。哲学が専ら同時代の観察と分析に徹しているという意見もある一方で、旺盛な活動によって世に知られた哲学者もいる。
他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。少なくとも近代哲学においてはデカルト以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。
ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。
三森定史によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」 としている。 | 110 |
哲学 | 三森定史によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」 としている。
哲学はその黎明期において、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれるタレス、アナクシマンドロスといった自然学者はいずれも自然現象の説明を目論んだ。19世紀までは科学(science)、自然科学(natural science)という言葉は現代的な意味で用いられておらず、それらに相当する分野を指す言葉としては「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われており(例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である)、今日的な意味での「哲学的」な自然の探求と「自然科学的」な自然の探求とは伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。
また近代に至っては実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場しさらに19世紀以降には目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化するという営みが科学の中心となってきた。
例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。 | 110 |
哲学 | 例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。
こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。
そうしたものの見方から捉えると、先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象でありそのために哲学的な時間論の対象となるわけである。
客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈であるが、これは自然科学というよりは、むしろ倫理学の領域であろう。
哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので自然科学によってもたらされる新たな発見はしばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。またそもそも古代の哲学者が成した科学的発見が自身の手による実験によって証明されていることがある。
自然科学が自然哲学から分化して以降、とくに近代の哲学者は自然科学者の成果を重視し両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきたし、また近代においては観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。また一方で、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題(科学方法論の原理論や科学的実在論といった問題)についてはむしろ哲学者が率先して考察を行ってきた(科学哲学の項参照)。あるいは科学が他の姿をとりうる論理的・現実的可能性を論じることで一度は忘れられた仮説を再発掘する原動力となったり新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。
歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。 | 110 |
哲学 | 歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。
なお、近年の英米哲学では認識論の自然化を提唱したクワインのように自然主義という名の下に哲学を自然科学の一部とする動きがある。
伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた。 論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。
推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた。
論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。
しかし逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では最初の前提が間違いで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう(参照:ヘンペルのカラス)。
この問題は重要で、たとえばジョン・スチュアート・ミルは三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。 | 110 |
哲学 | この問題は重要で、たとえばジョン・スチュアート・ミルは三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。
哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学、直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。
広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。
また、哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。
このような感受性や世界観は必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。
貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする。 | 110 |
哲学 | 貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする。
「心」や「意識」という問題を解明してきた脳科学・計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等に関連して、神経科学者・分子生物学者のフランシス・クリックは
と批判している。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と評価されている。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている。
実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う。また、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の 川村則行 は
等と述べている。
数学者・論理学者である田中一之は
と述べている。計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者・電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーンは、哲学者たちによる数学的な言及の多くが
と批判している。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた。同様の間違いは他の入門書などにも見られる。
フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた。たとえば | 110 |
哲学 | フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた。たとえば
という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。
数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた。
あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、 新しい公理や推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。
哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった。日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている。
ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている. | 110 |
哲学 | ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている.
哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学者ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数や不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない。
ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した。
宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている。
『利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスは
と述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。
また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した。
同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている。 | 110 |
哲学 | と述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。
また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した。
同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている。
哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した。彼は次のようにも記している。
また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して
と述べている。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」。
なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。
『科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している。
私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 ... 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。 | 110 |
哲学 | 『科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している。
私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 ... 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。
須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義が物理学者とは違うことは確かでしょう」としている。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べている。
須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した。
対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている。
哲学者の中島義道は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べている。哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている。
(中略)
学術博士・思想家の東浩紀は、哲学は「一種の観光」であり、そこに専門知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。
(中略) | 110 |
哲学 | 哲学者の中島義道は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べている。哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている。
(中略)
学術博士・思想家の東浩紀は、哲学は「一種の観光」であり、そこに専門知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。
(中略)
社会哲学者イヴォンヌ・シェラットの学術書『ヒトラーの哲学者たち Hitler's Philosophers』によると、第三帝国ナチス・ドイツは様々な形で哲学者たちと相互協力しており、アドルフ・ヒトラー自身も「哲人総統」、「哲人指導者」を自認して活動していた。
シェラットは以下のように述べている。
「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』は以下の解説をしている。
シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った。例えばマルティン・ハイデガーは21世紀でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている。かつて1933年にナチ党員となったハイデガーは、学術機関の「新総統」と公称し、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼がフライブルク大学新総長としてハーケンクロイツを掲げる就任演説を行った時だった。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の隊服を着ており、ナチ式敬礼をして壇上に登ると、ナチズムを「精神的指導」、「ドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さと力をもつに至るのである」と述べた。
ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というよりロマンチック(ロマン主義的)で文化的なナショナリストであると見なされ、出世は頭打ちになった。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、人種的排外主義においても行動していた。彼は
国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ
を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して
国家の健康を保全するために ... 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである
と主張したりした。
1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び | 110 |
哲学 | 国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ
を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して
国家の健康を保全するために ... 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである
と主張したりした。
1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び
この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ
を論じた。かつての同僚かつ友人だった哲学者カール・レーヴィットと対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い忠誠から由来している。そしてハイデガーの「存在」や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた。またハイデガーは自著『存在と時間』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人フッサールへの献辞を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した。
ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、
国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志
とも呼ばれるようになった。彼は「ナチ哲学者」たち──アルフレート・ローゼンベルク、カール・シュミット、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、アルフレート・ボイムラー、エルンスト・クリークなど──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を学生全般へ実行していった。そこでハイデガーは《人権・道徳・憐憫は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた。
かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は
と結論している。 | 110 |
哲学 | かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は
と結論している。
ハイデガーの愛人だったユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、「ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系出版の人脈を使って努力した。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者ジャン=ポール・サルトルさえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した。
アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった。例えば彼女は、アドルフ・アイヒマンを中心に「悪の陳腐さ」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった。その原因は例えば、
などだった。
『ヒトラーの哲学者たち』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫(比較社会文化学博士)と大久保友博(人間環境学博士)は
と述べている。訳者らによると、人文学者がナチスという暴力を擁護したことは、ある種の「人文学の敗北」、「教養主義の挫折」である。何故なら、人間は教養を身に付けたり本や音楽に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め加担しているからだという。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判している。
そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。
三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で
と締めくくっている。 | 110 |
哲学 | そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。
三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で
と締めくくっている。
社会看護学者ダンカン・C・ランドールと健康科学者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に中立で政治から切り離されているもの》だという考え方が含まれている。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる。
同論文によれば、哲学的テクストの文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う。
必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの解釈主義を拒絶すること」である。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な文脈からの)批判的研究を無視している。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論している。
理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。 | 110 |
哲学 | 理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。
大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある。
哲学者の森岡正博は、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する。
抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。
古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。 | 110 |
哲学 | 古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。
彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した
コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。 | 110 |
ブラックミュージック | ブラックミュージック (black music) あるいは黒人音楽(こくじんおんがく)とは、アメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。
強いビート感・グルーヴ感が特徴。
ブルース、ゴスペル、ソウル、R&B、ジャズ、ファンク、ヒップホップといった現在世界的に様々な形で展開されているジャンルを生み、またポップスやロック、カントリー等にも影響を与え、20世紀に生まれた多くのポピュラー音楽の源泉となった。
大きく分けると黒人霊歌やゴスペルなどの宗教歌 (sacred music) と、奴隷制時代のプランテーション・ソング (work song)から現代のヒップホップまで連なる世俗音楽 (secular music) の二つに分類できるが、その分類も便宜的な機能上のものであって、実質、ブラックミュージックはすべて呼応しあいコールアンドレスポンスのように境界なく連続している。 | 111 |
物理学 | 物理学(、英: physics)は、自然科学の一分野である。
古代ギリシアの自然学「φύσις」にその源があり、英語の「physics」という言葉も、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。19世紀から、物理現象のみを追求する「physics」として自然哲学から独立した意味を持つようになった。
物理学の古典的な研究分野は、物体の運動、光と色彩、音響、電気と磁気、熱、波動、天体の諸現象(物理現象)である。化学、生物学、地学などほかの自然科学に比べ数学との親和性が非常に強い。
材料力学や流体力学は巨視的現象の法則からなる独立した物理学上の理論体系である。ここで注意しなければならないのは材料力学や流体力学はそれらの適用範囲においては、他の理論から完全に閉じた理論体系として存在していることである。 現代の物理学は、たとえば素粒子論がある一方で熱力学があるように、巨視的現象の理論と微視的現象を記述する力学とをつなぐ理論や現象も、重要なテーマとして研究されている。一般的にこの分野では統計物理学と呼ばれる強力な手法が使われる。ルートヴィッヒ・ボルツマンらによって開発されたこの手法は、構成粒子の振る舞いを統計的に処理することによって、巨視的現象と結びつけるものである。
物理学では、理論やモデルを数式として表現することが多い。「これは、自然言語で記述するとどうしても厳密さに欠け、定量的な評価や複雑な推論をすることが難しいためである。数学は非常に強力な記号操作体系であるため、推論を一連の計算として実行することが可能なことと、複雑なモデルを正確・簡潔に表現することに適している。」
物理学の研究において最も重要なステップの一つは、物理法則を数式に表現する前の段階、観測された事実の中から記述すべき基本的な要素を抽出する行為である。電磁気学に貢献したマイケル・ファラデーが正規の教育を受けなかったため、数学的知識がなかったにもかかわらず、さまざまな発見を成し遂げたことや、ノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマンが液体ヘリウムについて論じた論文やジョージ・ガモフが初めてビッグバン理論を提唱した論文には数式が出てこないことは、自然界の中に記述すべき対象を見つけ出す営みが物理学において重要なステップであるということを示している。 | 112 |
物理学 | 物理学の歴史は一見異なる現象を、同一の法則の異なる側面であるとして、統一的に説明していく歴史でもあった(物理学の歴史そのものについては後述)。
地上付近での物体の落下と月の運動を同じ万有引力によるものとしたニュートンの重力の理論は、それまであった惑星の運動に関するケプラーの法則や、ガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、それまでアンドレ=マリ・アンペールやマイケル・ファラデーらが個別に発見していた電気と磁気の法則が、電磁気という一つの法則にまとめられることを導き、電磁波の存在を理論的に予言し、光が電磁波の一種であることを示した。
20世紀に入るとアルベルト・アインシュタインが相対性理論によって、時間と空間に関する認識を一変させた。彼はさらに重力と電磁気力に関する統一場理論の研究に取り組んだが実現しなかった。しかし、その後も統一場理論に関する研究は他の研究者たちによって続けられ、新しく発見された核力も含めて統一しようとする努力が続けられた。1967年頃電磁気力と弱い力に関する統一場理論(ワインバーグ・サラム理論)が提唱され、後の実験的な検証により理論の正当性が確立した。この理論により、電磁気力と弱い力は同じ力の異なる側面として説明されることになった。
自然界に存在する重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用のうち、上記の電弱統一理論を超えて、電磁気力、強い力、弱い力に関する統一場理論である大統一理論、重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用全てに関する統一場理論(例えば、超弦理論が候補)が研究されているが、実験的に検証されておらず、現在においても確立には至っていない(しばしば、上記の四つの相互作用に関する統一場理論は、既存の物理現象がその理論一つを基礎として理解できると考えられるため、万物の理論と呼ばれることがある)。
古典的な物理学では、物理現象が発生する空間と時間は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、重力の理論(一般相対性理論)によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、現代物理学では、物理現象に時間と空間、物質とエネルギーを含める。 | 112 |
物理学 | 古典的な物理学では、物理現象が発生する空間と時間は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、重力の理論(一般相対性理論)によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、現代物理学では、物理現象に時間と空間、物質とエネルギーを含める。
物理学はほかの自然科学と密接に関係している。物理学で得られた知見が非常に強力なために、他の自然科学の分野の問題の解決に寄与することも多く、生物学、医学など他の分野との連携も進んでいる。特に化学においては密接に関連する分野が多く、特に物理学的な手法を用いる分野として物理化学という分野が設けられている。生物学においても、生物の骨格や筋肉を力学的に考察したり、遺伝子レベルでの解析や進化の物理的考察を行う分子生物学がある。地球科学においても地球を物理的な手法を用いて研究する地球物理学があり、地震学・気象学・海洋物理学・地球電磁気学等は地球物理学の代表的な分野であるといえる。
今日の物理学は自然科学のみならず人文科学・社会科学とも関係している。人文科学においては哲学との学際領域に自然哲学がある。また、心理学も精神物理学を通じて物理学と関係している。社会科学においては中学校・高等学校における教科としての物理は教育学と密接に関係しており、経済現象を物理的に解明する経済物理学は経済学との学際的分野であるといえる。
天動説や暦の作成などの天文学が最古の物理学である。初期文明であるシュメール人、古代エジプト人、インダス文明などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され、現代からすれば非科学的な現象の説明もされたが、これがのちの天文学や物理学へと成長する。
16世紀以前のヨーロッパにおいて科学は、キリスト教的な要素を含んだアリストテレスの自然哲学が主流であった。アリストテレスは物質の振る舞いを「目的論」(もしくは「目的因」)によって説明し、例えば天体が地球の周りを回るのは回転しようとする目的があるためだとした。自然哲学は観測よりも哲学を重視したため、試行的な試験で事象を説明する現代科学とは性質が異なる。また、この時既に数学は中東やエジプトなどで発達していたが、自然哲学的な物理に使われることはなかった。 | 112 |
物理学 | しかし古代ギリシアにおいて実証的な考え方がされていなかったわけではなく、紀元前3世紀のアルキメデスは自然哲学では無視されていた数学を自然と結びつけ、数学や物理に数々の貢献をした。続くヒッパルコスやプトレマイオスなども幾何学や天文学を発達させた。また、アリストテレスの時代より前の紀元前5世紀にはすでにレウキッポスやデモクリトスなどがそれまでの超自然的説明を否定して自然現象には原因となる理論があるとして原子の存在などを考えていた。
中世のイスラームの学者は、他のギリシャ文化と共にアリストテレスの物理学を継承した。その黄金期には観察と先験的な推論に重点を置いた初期の科学的方法を発展させた。最も注目すべきは、イブン・サール、アル・キンディー、イブン・アル・ハイサム、アル・ファリス、アビセナ等による視覚と視力の分野である。アル・ハイサムが書いた「光学の本(Kitābal-Manāẓir)」は視覚に関する古代ギリシャの考え方を最初に反証したばかりでなく、新しい理論を作り出した。この本では史上初、ピンホールカメラの現象を研究することで、目自体の仕組みをさらに詳しく調べた。解剖学と既存の知識を使って、どのように光が目に入り、焦点が合い、目の後ろに投影されるかを説明したのである。さらに、現代の写真撮影の開発から数百年前に、既にカメラ・オブスクラを発明した。
全7冊の「光学の本(Kitab al-Manathir)」は、600年以上にわたって、東洋と西洋の中世の芸術における視覚の理論から、視点の性質への学問全体の考え方に大きな影響を与えた。 ロバート・グロステストやレオナルド・ダ・ヴィンチから、ルネ・デカルト、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンまで、後世の多くのヨーロッパの学者や思想家が影響を受けている。 | 112 |
物理学 | 全7冊の「光学の本(Kitab al-Manathir)」は、600年以上にわたって、東洋と西洋の中世の芸術における視覚の理論から、視点の性質への学問全体の考え方に大きな影響を与えた。 ロバート・グロステストやレオナルド・ダ・ヴィンチから、ルネ・デカルト、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンまで、後世の多くのヨーロッパの学者や思想家が影響を受けている。
近世に入り、科学的研究法の発展の中で実験による理論検証の重要性が認識され始めた。16世紀後半、ガリレオ・ガリレイは力学現象の研究を行い、落体の法則と慣性の法則を見出した。1687年にアイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』を出版した。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功した。ニュートンの理論の中で最も基礎的な法則として、運動の法則と万有引力の法則が挙げられる。これらの法則は、天体の運行などの観測結果をよく説明することができた。ニュートン自身は力学法則を幾何学を用いて記述したが、オイラーなど後世の研究者によってそれらの理論は代数学的に記述されるようになった。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ウィリアム・ローワン・ハミルトンらは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果を導いた。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述する。
18世紀から、ロバート・ボイル、トマス・ヤングら大勢の学者によって熱力学が発展した。1733年に、ダニエル・ベルヌーイが熱力学的な結果を導くために古典力学とともに統計論を用いた。これが統計力学の起こりである。1798年に、ランフォードは力学的仕事が熱に変換されることを示した。1820年代にはサディ・カルノーがカルノーサイクルによる熱力学の研究を行い、1840年代に、ジェームズ・プレスコット・ジュールは力学的エネルギーを含めた熱についてのエネルギーの保存則を証明した。1850年にはルドルフ・クラウジウスが熱力学第一法則および熱力学第二法則を定式化した。 | 112 |
物理学 | 電気と磁気の挙動はマイケル・ファラデー、ゲオルク・オームらによって研究された。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは1855年から1864年までに発表した3つの論文で、マクスウェルの方程式で記述される電磁気学という単一理論で二つの現象を統一的に説明した。この理論によって光は電磁波であると予言された。この予言は後にハインリヒ・ヘルツによって実証された。
1895年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見し、1896年にはアンリ・ベクレルがウランの放射能を、1898年にはピエール・キュリーとマリ・キュリーがウランよりも強力な放射能を持つラジウムを発見した。これが核物理学の起こりとなった。
原子の存在そのものは紀元前5世紀にレウキッポスとデモクリトスの原子論によって想定されていたが、近代的な原子論は1808年にジョン・ドルトンによって提唱された。ジョセフ・ジョン・トムソンは1899年に、原子よりもはるかに小さな質量を持ち、負の電荷を持つ電子の発見を発表し、1904年には、最初の原子のモデルを提案した。このモデルは現在プラムプディング模型として知られている。
1905年、アルベルト・アインシュタインは特殊相対性理論を発表した。アインシュタインの相対性理論において、時間と空間は独立した実体とは扱われず、時空という一つの実体に統一される。相対性理論は、ニュートン力学とは異なる慣性座標系間の変換を定める。相対速度の小さな運動に関して、ニュートン力学と相対論は近似的に一致する。このことはニュートン力学の形式に沿って定式化された相対論的力学において明確になる。
1915年、アインシュタインは特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論で重力を説明した。特殊相対論によって、力学と電磁気学の理論は整合的に説明できるようになったが、重力に関してはニュートンの万有引力の法則以上の満足な説明を与えることができなかった。一般相対論によって、重力の作用を含めた包括的な説明ができるようになった。一般相対論において、ニュートンの万有引力の法則は低質量かつ低エネルギーの領域における近似理論と見なすことができた。 | 112 |
物理学 | 1911年に、アーネスト・ラザフォードの下で原子の研究が進展し、その時の散乱実験から、電荷を持つ物質を核とする原子像(ラザフォード模型)が提唱された。原子核を構成する正電荷の粒子は陽子と呼ばれる。電気的に中性な構成物質である中性子は1932年にジェームズ・チャドウィックによって発見された。
1900年代初頭に、マックス・プランク、アインシュタイン、ニールス・ボーアたちは量子論を発展させ、離散的なエネルギー準位の導入によってさまざまな特異な実験結果を説明した。1925年にヴェルナー・ハイゼンベルクらが、そして1926年にエルヴィン・シュレーディンガーとポール・ディラックが量子力学を定式化し、それによって前期量子論は解釈された。量子力学において物理測定の結果は本質的に確率的である。つまり、理論はそれらの確率の計算法を与える。量子力学は小さな長さの尺度での物質の振る舞いをうまく記述する。
また、量子力学は凝縮系物理学の理論的な道具を提供した。凝縮系物理学では誘電体、半導体、金属、超伝導、超流動、磁性体といった現象、物質群を含む固体と液体の物理的振る舞いを研究する。凝縮系物理学の先駆者であるフェリクス・ブロッホは、結晶構造中の電子の振る舞いの量子力学的記述を1928年に生み出した。
第二次世界大戦の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合国のマンハッタン計画は成功を収めた。アメリカでは、エンリコ・フェルミが率いたチームが1942年に最初の人工的な核連鎖反応を達成し、1945年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードで世界初の核爆弾が爆発した。
場の量子論は、特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。それは、リチャード・P・ファインマン、朝永振一郎、ジュリアン・セイモア・シュウインガー、フリーマン・ダイソンらの仕事によって1940年代後半に現代的な形に至った。彼らは電磁相互作用を記述する量子電磁力学の理論を定式化した。 | 112 |
物理学 | 場の量子論は、特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。それは、リチャード・P・ファインマン、朝永振一郎、ジュリアン・セイモア・シュウインガー、フリーマン・ダイソンらの仕事によって1940年代後半に現代的な形に至った。彼らは電磁相互作用を記述する量子電磁力学の理論を定式化した。
場の量子論は基本的な力と素粒子を研究する現代の素粒子物理学の枠組みを提供した。1954年に楊振寧とロバート・ミルズはゲージ理論という分野を発展させた。それは標準模型の枠組みを提供した。1970年代に完成した標準模型は今日観測される素粒子のほとんどすべてをうまく記述する。
場の量子論の方法は、多粒子系を扱う統計物理学にも応用されている。松原武生は場の量子論で用いられるグリーン関数を、統計物理学において初めて使用した。このグリーン関数の方法はロシアのアレクセイ・アブリコソフらにより発展され、固体中の電子の磁性や超伝導の研究に用いられた。
2018年時点において、物理学の多くの分野で研究が進展している。
スーパーカミオカンデの実験からニュートリノの質量が0でないことが判明した。このことを理論の立場から理解しようとするならば、既存の標準理論の枠組みを越えた理解が必要である。質量のあるニュートリノの物理は現在理論と実験が影響しあい活発に研究されている領域である。今後数年で粒子加速器によるTeV(テラ電子ボルト)領域のエネルギー尺度の探査はさらに活発になるであろう。実験物理学者はそこでヒッグス粒子や超対称性粒子の証拠を見つけられるのではないかと期待している。
量子力学と一般相対性理論を量子重力の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはまだ結実していない。現在の有望な候補はM理論とループ量子重力理論である。 | 112 |
物理学 | 量子力学と一般相対性理論を量子重力の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはまだ結実していない。現在の有望な候補はM理論とループ量子重力理論である。
宇宙物理学の分野でも1990年代から2000年代にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降、大口径望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡・COBE・WMAP などの宇宙探査機によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり、宇宙論の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。ビッグバン理論及びインフレーションモデルに基づく現代のΛ-CDM宇宙モデルはこれらの観測とよく合致しているが、反面、ダークマターの正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられるダークエネルギーの存在など、依然として謎となっている問題も残されている。これ以外に、ガンマ線バーストや超高エネルギー宇宙線の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な宇宙探査プロジェクトが進行している。
凝縮物質の物理において、高温超伝導の理論的説明は、未解明の問題として残されている。量子ドットなど単一の電子・光子を用いたデバイス技術の発展により、量子力学の基礎について実験的検証が可能になってきており、さらにはスピントロニクスや量子コンピュータなどへの応用展開が期待される。 | 112 |
新聞学 | 新聞学(しんぶんがく)は、以下の意味で用いられる。
1916年、カール・ビュッヒャー(ドイツ語版)の尽力により、ライプツィヒ大学に「新聞学 (Zeitungswissenschaft)」の名を冠した研究所(現在はライプツィヒ大学メディア・コミュニケーション研究所(ドイツ語版))が設立され、正式な初代代表者となったのは、1926年から1933年に代表を務めたエリック・エフェルト(ドイツ語版)であった。1926年には、『Zeitungswissenschaft(新聞学)』と題した最初の学術誌が、カール・デスター(ドイツ語版)とヴァルター・ハイデ(ドイツ語版)によって創刊された。1930年代には、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学にも新聞学部門が設けられた。その主任であったエミール・ドヴィファート(ドイツ語版)は、長きにわたる闘争と幾多の議論を経て、映画やラジオもすべて新聞学の研究対象に含まれるものとし、新聞学の拡張を行なった。新聞学は、コミュニケーション学の先駆けであったと考えられる。
日本の大学には、もっぱら新聞学について教育する部門として新聞学科などが設けられている場合がある。
1932年、上智大学の専門部に新聞科が設置された。これは1948年に、学制改革を経て文学部新聞学科となった。GHQの指導により、戦後の1946年には早稲田大学政治経済学部に新聞学科がつくられた(1966年に新規募集を停止)。その前後、慶應義塾大学(1946年10月、新聞研究室)、明治大学(1946年、新聞高等研究科)、日本大学(1947年9月、法文学部新聞学科、のち法学部新聞学科)、関西大学(1949年4月、文学部新聞学科、のち社会学部メディア専攻)が同時期の学制改革として続く。なお、東京大学では、東京帝国大学に1929年設立した文学部新聞研究室を戦後の1949年に改組して新聞研究所となった。この新聞研究所は、1992年に社会情報研究所と名称変更して、現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府に吸収された。
1951年に日本新聞学会が設立され、日本におけるマス・コミュニケーション研究の中心的な学会となっていたが、1991年の決定に基づいて、学会の名称は1993年に日本マス・コミュニケーション学会へ改められた。 | 115 |
新聞学 | 1951年に日本新聞学会が設立され、日本におけるマス・コミュニケーション研究の中心的な学会となっていたが、1991年の決定に基づいて、学会の名称は1993年に日本マス・コミュニケーション学会へ改められた。
日本新聞学会が1952年から刊行していた学術誌『新聞学評論』は、学会名の改称を受けて、1993年から『マス・コミュニケーション研究』と改題された。 | 115 |
ソクラテス | ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 – 紀元前399年)は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人として認識されている。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、キオス島のイオン(英語版)の断片である『旅行記』(英語: Travel Journal)は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している。
プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス(英語: elenchus、反対論証)を有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている。
ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。
釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。
生前のソクラテスと直接面識・交流があった人物による、ソクラテスの言行・人物像について述べられたまとまったテキストで、今日まで伝わっているものとしては、ソクラテスの死後に書かれた、
がある。(他には、ソクラテス存命中に発表された喜劇作家アリストパネスの作品『雲』もあるが、こちらは戯画化された登場人物にソクラテスの名を冠しているだけで、実際のソクラテスの人物像理解にはあまり参考にならない。) | 117 |
ソクラテス | 生前のソクラテスと直接面識・交流があった人物による、ソクラテスの言行・人物像について述べられたまとまったテキストで、今日まで伝わっているものとしては、ソクラテスの死後に書かれた、
がある。(他には、ソクラテス存命中に発表された喜劇作家アリストパネスの作品『雲』もあるが、こちらは戯画化された登場人物にソクラテスの名を冠しているだけで、実際のソクラテスの人物像理解にはあまり参考にならない。)
後世のテキストとしては、アリストテレスの『形而上学』第1巻におけるわずかな言及を除けば、約600年後に伝聞情報をまとめた、
がある。
したがって、一般的にソクラテスの人物像や思想の推定は、クセノポンとプラトンの著作を土台とし、さらにディオゲネスの『列伝』情報で補強する形で行われる。
クセノポンとプラトンが描いているソクラテスの人物像は、
など、概ね共通している。
しかし、決定的に異なるのが、クセノポンが『ソクラテスの思い出』(メモラビリア)の第4巻第7章において、ソクラテスが、
といった有用性・実用性に欠けるものを学ぶことに賛成しなかった(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。) | 117 |
ソクラテス | といった有用性・実用性に欠けるものを学ぶことに賛成しなかった(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。)
プラトンが対話篇で描くソクラテスは、クセノポンが描く場合と同じく敬神的ではあるものの、イデア論の萌芽が見える初期の『クラテュロス』の頃から徐々にプラトン自身の思想の代弁者となり、中期以降に至ってはピュタゴラス派やエレア派の徒と交わりながら、イデア論を展開したり、魂の肉体からの浄化(カタルシス)を主張したり、弁証術と並んで幾何学の教育の重要性を説いたり、宇宙や冥府の構造について盛んに言及したがるなど、イタリア半島的・アカデメイア的な哲学者然とした佇まいが顕著になるが、クセノポンが描く実際のソクラテス像は、もっと人間社会・国家にとっての有用性・実用性を重視し、実学を好んだ人物像となっている。(さらに、同書『思い出』の第3巻第8章・第4巻第6章などでは、ソクラテスにとっての(個別具体的な事物の中に存する)「美・善」とは、あくまでも人間にとっての個別具体的な様々な需要の充足性と不可分に結びついた、具体的かつ相対的なものであったこと、すなわちプラトンのイデア論とはむしろ対極的なものであったことが、述べられている。) | 117 |
ソクラテス | また、クセノポンはヘルモゲネスから聞いた話として、裁判前のソクラテスは、老齢によって身体・思考・記憶が衰え、これまでのような「善き生き方」を全うできなくなることへの懸念を持っていて、裁判を自分の人生の幕引きにはいい機会と捉えていたことを、『ソクラテスの思い出』や『ソクラテスの弁明』で暴露しており、そうした面には触れずに「愚かな大衆に追いやられた悲劇的な死」を印象付けるプラトンの描き方とは一線を画している。(また、実際にソクラテスが「老齢に引っ張られて思考・記憶が衰える」と考えていたとすると、「身体から独立した不滅の魂」を主張するプラトンの思想、中でも特に、『パイドン』等で述べられているように、全人生をかけて人間(哲学者)として最高度に魂を鍛えてイデアの想起(アナムネーシス)と身体からの浄化(カタルシス)を行ってきたはずの、プラトンが描くソクラテス像にとっては、矛盾した都合の悪い事実となる。)
父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦い(英語版)で重装歩兵として従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。
プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答(エレンコス,ἔλεγχος)することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。 | 117 |
ソクラテス | しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。
こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる。
これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える) | 117 |
ソクラテス | (古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えばヘシオドスの『神統記』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「汝自身を知れ」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「節制」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。)
ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった。
又、そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスが『雲』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていたことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。 | 117 |
ソクラテス | このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。
ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑(毒殺刑)を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。
神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。
紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。) | 117 |
ソクラテス | 紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。)
ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えていた。
ソクラテスの家族については、クセノポンやプラトンの著作でも一部言及されているが、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のうち、ソクラテスについて記述した第2巻第5章に、特に詳細にまとめられている。
それによると父親は石工(彫刻家)ソプロニスコス、母親は産婆パイナレテであり、アテナイのアロペケ区(英語版)で生まれ育った。
妻はクサンティッペと、「義人」ことアリステイデスの娘ミュルトの2人であったとされる。2人の妻がいたのは、当時のアテナイが人口不足を解消するために議決した一夫多妻政策(法律上の妻は1人に限るが、ほかの女性との間に子供を設けてもよい、とする措置)に沿ったものであったとされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正妻であったか、またどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列伝』ではそれらの諸説が併記されている。
クサンティッペとの間にランプロクレス、ミュルトとの間にソプロニスコス、メネクセノスの、計3名の息子をもうけた。 | 117 |
ソクラテス | クサンティッペとの間にランプロクレス、ミュルトとの間にソプロニスコス、メネクセノスの、計3名の息子をもうけた。
クサンティッペは口やかましく激情的な性格だったことが各資料の記述からうかがえ、『列伝』の他にも、プラトンの『パイドン』での大声で泣きわめく記述や、クセノポンの『ソクラテスの思い出』第2巻第2章での母親の口やかましさに反抗する息子ランプロクレスを諭すソクラテスの記述、同じくクセノポンの『饗宴』第2章にてアンティステネスがソクラテスに妻クサンティッペについて問い質す記述がある。
ソクラテスの思想は、内容的にはイオニア学派の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。
それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の自覚」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。
ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第1巻序章の記述によると、イオニア学派が始めた「自然哲学(自然学)」、イタリア学派(ピュタゴラス派・エレア派)が始めた「数理哲学・論理哲学(論理学)」に対して、ソクラテスは第3の哲学としての「道徳哲学(倫理学)」の祖に位置付けられる。 | 117 |
ソクラテス | ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第1巻序章の記述によると、イオニア学派が始めた「自然哲学(自然学)」、イタリア学派(ピュタゴラス派・エレア派)が始めた「数理哲学・論理哲学(論理学)」に対して、ソクラテスは第3の哲学としての「道徳哲学(倫理学)」の祖に位置付けられる。
ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、アカデメイアの創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、挙げることができる。
また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。 | 117 |
ソクラテス | また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。
柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、ギリシャのソクラテスもまた交換様式Dを開示したとみられる。
ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。 | 117 |
ソクラテス | ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。
まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。
ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、ペルシャ戦争を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、ペロポネソス戦争の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、アナクサゴラスがその代表として持ち出される)の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。
ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものであることの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。
しかし、ペロポネソス戦争の敗戦とその後の三十人政権による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。 | 117 |
ソクラテス | しかし、ペロポネソス戦争の敗戦とその後の三十人政権による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。
ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する独断論者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。 | 117 |
ソクラテス | ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する独断論者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。
彼の「無知の自覚」(近年では、無知の知とは誤解で、「不知の自覚」とも訳される)を背景とした知・無知に対するこだわり(とその効用)は、『ソクラテスの弁明』の終盤、死刑が確定した後の、死についての自身の見解を聴衆に語るくだりにおいて鮮明かつ象徴的に見て取ることができる。彼はそこで、(後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことがうかがえる)。しかし一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。 | 117 |
ソクラテス | このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。
ただし、ここでもその前後で「ダイモニオン」による諫止がなかったからこの死は善いことであるとか、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえない、また神々も決して彼の事を忘れない」ことを真理と認める必要があるとか付言していることからもわかるように、ソクラテスの「無知の知」を背景とした抑制した態度は、単なる不可知論や相対主義に終始するものではなく、また論理的帰結のみに頼るものでもなく、常にそこを補う神々への素朴で楽観的な信仰などの「独断」と抱き合わせで成り立っていることに注意が必要と言える。ソクラテスの思想には全般にわたってこういった二面性が孕まれている。
また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「産婆術(助産術)」と呼ばれている。ソクラテスのもちいた問答法は、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させて、相手自身で真理を発見させた。こうして知者と自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は、エイロネイア(イロニー)と呼ばれる。 | 117 |
ソクラテス | プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気......とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である弁論術(レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そして、そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。
なお、話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば、「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。
こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『ゴルギアス』に登場するカルリクレスや、『国家』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモとして、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。 | 117 |
ソクラテス | こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。
彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテー(αρετη、arete徳)である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。
『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し、「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?そのような不正が許されるのか?」と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた。
これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。 | 117 |
ソクラテス | これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。
ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、ソフィストのような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。
ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。
ソクラテスは、書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた。
ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。
ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。
ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。 | 117 |
ソクラテス | ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。
ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。
ソクラテスは、よりよく知識を伝えるには、相手の理解に合わせて問いを投げかけて考えを促し、誤解を避けるために表現を選び、知識を伝える適切なタイミングを計ることが必要であり、それができるのは書物ではなく対話だけだと考えていた。
ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「ソクラテス問題」として知られる一連の問題を発生させている。
同時代の作家の内、劇作家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においてギリシャのソフィストたちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる。
同じくソクラテスの弟子であるプラトンの記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に『メノン』以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。
他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたるアリストテレスによる記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。
ソクラテスの弟子の一人とされるクセノポンは『ソクラテスの思い出』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想(プラトン主義)を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある。
また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。 | 117 |
ソクラテス | また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。
『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。
この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説はキリスト教の聖霊論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」というナザレのイエスの教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも孔子に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である。
クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。
ストア派の創始者であるキティオンのゼノンは商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。 | 117 |
ソクラテス | クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。
ストア派の創始者であるキティオンのゼノンは商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。
ソクラテスが死後の哲学に与えた影響は計り知れないほど大きく、エピクロス派とピュロン派を除けば、ソクラテス以降ほとんどの哲学の起源が彼に求められる。ヘレニズムの時代における代表的な例としてはプラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオン、キュニコス派、ストア派などが中でもソクラテスの影響を強く受けた哲学の学派として挙げられる。そしてソクラテスの哲学に対する関心は紀元3世紀まで拡大し続けた。また、ソクラテス自身が人生の目的やアレテーとはいったい何かという問いに対し答えを示さなかったことにより、この時代の様々な学派はそれぞれの答えを主張し、ソクラテスの思想に異なる解釈をした。他にも彼によって、この時代から哲学の関心は自然界の理解から人間の理解へと移ってゆくことになる。
そして中世になるとソクラテスの思想は、アリストテレスやストア学派の思想と並んで、イスラム中東に伝わった。プラトンのソクラテスに関する著作や他の古代ギリシャ文学は、アル・キンディー、ジャビール・イブン・ハイヤーン、ムゥタズィラといった初期のイスラム学者によってアラビア語に翻訳され、その中でソクラテスは、生き方に哲学を反映させる人物として、ムハンマドと対比され賞賛された。それに伴い中東ではソクラテスの教義はイスラムの信仰に合う形で改変されることになる。例としてこの時代のイスラムの学者は、ソクラテスを一神教と死後の救済を主張する哲学者として記している。これらによって、アラビア語圏におけるソクラテスの影響は現在もなお続いている。
また、ビザンツ帝国の下でもラクタンティウス、エウセビオス、アウグスティヌスなどのキリスト教神学者たちにより、ソクラテスに関する著作は保存され、キリスト教的観点から研究された。コンスタンティノープル陥落後も、多くの文献はローマ・キリスト教世界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻訳されることになるものの、初めのうちはキリスト教徒によって懐疑的に扱われた。 | 117 |
ソクラテス | また、ビザンツ帝国の下でもラクタンティウス、エウセビオス、アウグスティヌスなどのキリスト教神学者たちにより、ソクラテスに関する著作は保存され、キリスト教的観点から研究された。コンスタンティノープル陥落後も、多くの文献はローマ・キリスト教世界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻訳されることになるものの、初めのうちはキリスト教徒によって懐疑的に扱われた。
しかしイタリア・ルネサンス初期に入り、ソクラテスに関する2つの物語が書かれ、一方で人文主義運動が高まることによって、作家たちはソクラテスに対する関心を復活させてゆくことになった 。
近世フランスでは、さまざまな小説や風刺劇の中で、ソクラテスの哲学的思想よりもむしろ彼の私生活に焦点が置かれた。この時代、無神論で告発されたキリスト教徒のソクラテスを描いたテオフィル・ド・ヴィアウのように、同時代の論争を浮き彫りにするためにソクラテスを利用した思想家もいれば、ヴォルテールのようにソクラテスを理性に基づく神学者の象徴として扱う見方もあった。ミシェル・ド・モンテーニュは、ソクラテスを当時の宗教狂信者に対抗する合理主義と結びつけ、ソクラテスについて幅広く書いたことでも知られる。
18世紀には、ドイツ観念論、主にヘーゲルの著作を通じて、ソクラテスに対する哲学的関心が復活した。ヘーゲルは、ソクラテスは、自由な主観性あるいは自己決定の原則を哲学に導入することによって、人類の歴史における転換点を作ったと考えた。しかしヘーゲルはソクラテスの功績を称える一方で、ソクラテスの自己決定への主張はシトリヒカイト(国家の制度や法律によって形成される生き方を意味するヘーゲルの言葉)を破壊するものであるとして、アテネの議会の判決を正当化する一面もある。またヘーゲルは、ソクラテスが合理主義を用いるのは、プロタゴラスが人間の理性に焦点を当てたこと(「人間は万物の尺度である」というモットーに集約されている)を継承したものであり、現実について客観的な結論に到達するのに役立つのは我々の理性である、と言い換えたものであると見ている。加えて、ヘーゲルはソクラテスを古代における懐疑哲学の先駆者とみなしたが、その理由を明確に説明することはなかった。 | 117 |
ソクラテス | またセーレン・キルケゴールはソクラテスを師と仰ぎ、彼に関する修士論文『ソクラテスの継続的参照とアイロニーの概念』を執筆した。そこでは、ソクラテスは道徳哲学者ではなく、純粋にアイロニストであると論じている。彼はまた、ソクラテスが書くことを避けたことにも注目した。キルケゴールよると彼が文字によって語ることを避けたのは、ソクラテスが自分の無知を受け入れたことに由来する謙虚さの表れであるという。そして彼はプラトンの『弁明』だけが本当のソクラテスのに近いとし、キルケゴールは著作群の中で何度もソクラテスについて言及し、後年の著作ではソクラテスの思想から倫理学的な要素を見出した。ソクラテスはキルケゴールにとって研究対象であっただけでなく、理想像でもあった。キルケゴールは哲学者としての自分のあり方をソクラテスになぞらえていた。キリスト教が形式にとらわれ本来の意味を見失っていると考えた彼は、「自分の仕事はソクラテスの仕事であり、キリスト教徒であることが何であるかの定義を考えることである」と語り、こうしてキルケゴールは、ソクラテスが知識の所有を否定したように、自身がキリスト教徒であることを否定した。
一方でフリードリヒ・ニーチェはソクラテスの西洋文化への影響を批判した。最初の著書『悲劇の誕生』(1872年)では、紀元前4世紀以降の古代ギリシャ文明の劣化の責任はソクラテスにあるとした論じた。またニーチェにとってソクラテスは、哲学の範囲をソクラテス以前の自然主義から合理主義や知識主義に変えた責任があるとした。彼は自身の著書の中で、「私はソクラテスではなく、彼以前の哲学者こそが古代ギリシアの先導者であると考えている。」「エンペドクレスとデモクリトスによってギリシアは人間存在、その理不尽さ、苦しみを正く理解する道を歩んでいた。しかしソクラテスのせいで人類はその答えに辿り着けないでいる」と批判する。つまり、ニーチェは、人間の文化が倒錯しているのは、今日の西洋文化がソクラテスより継承された文化であるからだと考えた。また後に出版された『偶像の黄昏』(1887年)において、ニーチェはソクラテスに対する批判を続け、ソクラテス的思考法における理性と美徳や幸福との恣意的な結びつきに焦点を当てた。 | 117 |
ソクラテス | 20世紀の大陸哲学者のハンナ・アーレント、レオ・シュトラウス、カール・ポパーは、全体主義体制の台頭、第二次世界大戦の恐怖を体験した後、ソクラテスに対し良心の象徴としての見方を強めた。アーレントは『エルサレムのアイヒマン』(1963年)の中で、ソクラテスの絶え間ない問いかけと自己反省が、悪の凡庸性を防ぐことができると示唆している。またシュトラウスは、ソクラテスの政治思想はプラトンと類似していると考え、プラトンの『共和国』に登場するソクラテスの主張が、民主的なポリスが理想的な国家形態でないことを例証していると考える。そしてポパーは、ソクラテスはプラトンの全体主義思想に反対していると主張する。ポパーにとって、ソクラテスの個人主義やアテネの民主主義は、『開かれた社会とその敵』(1945年)で述べられているポパーの「開かれた社会」の概念を反映していると語る。 | 117 |
スポーツ | スポーツ(アメリカ英語: sports、イギリス英語: sport)は、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動(競技)の総称である。
「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。
和製漢語では「遊戯」「体育」「競技」「運動競技」などと訳されたが、現在では片仮名で表記するのが一般的であり、「スポーツ」と「体育」は区別される概念である。朝鮮語でも同様である。中国語では現在でもスポーツを「体育」と呼ぶ。
日本では大正時代末ころから「スポーツ」という言葉は一般化されたが、当時は欧米から入ってきた運動そのものだけを指していた。日本でも「スポーツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの武道が競技として発展し「スポーツ」として認知されるようになったりしたのは戦後のことである。
その他にも、古代オリンピアの時代から詩歌や歌劇などの文学や演奏、絵画や彫刻などの造形・建築、鳩レースやドッグレース、数学やクイズ・謎解き、チェスやポーカーなどのボードゲームやカードゲームなど、人類史においては幅広い分野でスポーツ化が行われて楽しまれてきた。近代オリンピックにおいても完全アマチュア化が図られる1964年東京オリンピックの直前まで、絵画・造形・文学・建築・音楽などの分野が正式競技として採用されていた。 | 120 |
スポーツ | 「スポーツ」の英語表記には、集合的な意味で用いるsportと、種目別に表現するような場合に用いるa sport / sportsの二種類がある。また、“sports medicine”や“sports injury”などのように形容詞的に用いる場合には、sportsという語が用いられることが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で用いる場合にも“sports”という慣用表現が多用される。しかし、学会の名称や学術書の表題などのように学術的な意味で集合的に用いる場合には、“North American Society for Sport Management”や“Journal of Sport History”などのように、語尾に“s”を付けない表記が大多数を占めている。
スポーツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めて古代から全世界において行われており、古代エジプト王朝成立以前のエジプトにおいてすでに競走が行われていたことがわかっている。古代文明のうちでスポーツを特に重視したのは古代ギリシアであり、紀元前776年以降オリュンピアで4年に1回行われた古代オリンピックはギリシアの全都市が参加する大規模なもので、大会期間中は戦争が禁じられ、勝者には栄誉が与えられた。なお、ギリシアではこのほかにもネメアー大祭、イストミア大祭、ピューティア大祭といった大競技大会が開催されていた。古代オリンピックはローマ帝国の統治下でも継続し、おそらく393年に行われた第293回大会まで1000年以上継続したが、394年にキリスト教の支持の元でテオドシウス1世によって禁止令が発出されたことによって終わりを迎えた。 | 120 |
スポーツ | スポーツそのものは世界各地で盛んに行われてきたが、19世紀中頃になるとイギリスにおいてルールの整備と組織化が相次いで行われ、近代スポーツが誕生した。近代スポーツの誕生は、スポーツの隆盛と競技種目数の増加を招いた。サッカーとラグビーのように、いくつかの種目はルールの確定と厳格化によって原型から分化し、異なるスポーツとして発展し始めた。いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになったが、特にイギリスの植民地においては、イギリス発祥のスポーツがそのまま伝播し、クリケットやラグビーのように共通のスポーツ文化を保持するようになった。また、野球やアメリカン・フットボールのように、スポーツが伝播した先で現地文化の影響を受けて変化し、新たな競技として分化することも珍しくなかった。フランスのピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの復興を唱え、1896年には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック大会は徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていった。
近代スポーツは当初アマチュアリズムに重点が置かれていたが、19世紀後半よりアメリカでスポーツのプロ化がはじまり、やがてヨーロッパにも広がっていった。1970年代に入るとスポーツ・フォー・オール政策が各国で導入されてスポーツの一般市民への普及が図られ、また1980年代に入ると大規模競技大会の商業化が急速に進んで、スポーツ人口および商業規模は大幅に拡大した。
スポーツには様々な分類方法がある。
たとえば、商業活動を禁止する「アマチュア・スポーツ」と、商業活動を目的とする「プロフェッショナル・スポーツ」に大別する方法がある。
特に技術や記録などの向上を目指し、個人や集団で極限への挑戦を追求するスポーツは「ハイパフォーマンス(エリート)・スポーツ」と呼称される。それに対して日本では独自に、老若男女だれもがスポーツに「楽しみ」を求め、健康づくりや社交の場として行うスポーツ、身近な生活の場に取り入れられているスポーツを「生涯スポーツ」、競技ではなく娯楽を主たる目的として行うスポーツを「レクリエーショナル・スポーツ」と命名し促進している。 | 120 |
スポーツ | 何らかの障害者を持つ人々が行うスポーツは「障害者スポーツ」と呼ばれる。非常に多くの種類があり、競技会も多種で、大規模な国際大会であるパラリンピックも行われている。
競技の公平性を保つために、性別や体重別による階級制による分類も多くのスポーツで採用されている。ただし近年では生物学的な性と異なるジェンダーによる参加が増加し、競技としての公平性が議論されている。従来の男性・女性に加えて「その他」の性別を設けたり、平等性の観点からジェンダーレス(男女混合)に回帰するスポーツ運営も増えている。
フィールドや環境で分類する方法もある。水場を利用して行うスポーツなどは「ウォータースポーツ」と呼ばれる。水泳、水球、サーフィン、ウィンドサーフィンなどが含まれる。ウォータースポーツの中でも、特に海で行うものを「マリンスポーツ」と分類する。同様に夏季に行われるスポーツをサマースポーツ、冬季に行われるスポーツをウィンタースポーツとも呼ばれる。動力として風や空気の力を主に利用し操作するスポーツを「ウィンド・スポーツ」と分類することもある。パラグライディング(=パラグライダーで飛ぶこと)などが挙げられる。
道具としてボール(球)を用いるスポーツを「ball sports(球技)」、器械を用いるスポーツを「キネマティックスポーツ(器械競技)」、 また近年ではビデオゲームや電子機器を用いた競技が台頭するとe-Sportsと分類されるようになった。ボード(=板状の道具)に乗るようにして行うスポーツを「ボードスポーツ」と分類する。スケートボード、スノーボード、サーフィン、ウィンドサーフィン等々が含まれる。
狩猟対象としてではなく競技者が道具として動物を使うスポーツを動物スポーツと分類する。スポーツと動物の関係は多様であり、馬術や競馬のように人が直接乗るものや、闘牛や闘鶏のように動物同士を戦わせるものなどさまざまな種類が存在する。
20世紀中ころに動物に変わり自動車や飛行機などエンジンのついた乗り物を操作する競技が登場すると、モーター(原動機)スポーツと呼称するようになった。 | 120 |
スポーツ | 狩猟対象としてではなく競技者が道具として動物を使うスポーツを動物スポーツと分類する。スポーツと動物の関係は多様であり、馬術や競馬のように人が直接乗るものや、闘牛や闘鶏のように動物同士を戦わせるものなどさまざまな種類が存在する。
20世紀中ころに動物に変わり自動車や飛行機などエンジンのついた乗り物を操作する競技が登場すると、モーター(原動機)スポーツと呼称するようになった。
「武道」にはさまざまな面があるが、「スポーツ」に分類することはある。ただし、「スポーツ」に分類してしまうことが適切なのか不適切なのか、議論を生むことはある。また、たとえば合気道は基本的に試合形式では行わない。合気道の師範は一般に、合気道をスポーツと呼ぶことには違和感を表明している。
伝統的なスポーツと比較しつつ、新しく考案されたスポーツを「ニュースポーツ」と分類することもある。
スポーツのゲーム形式については以下のような分類がある。スポーツ競技一覧も併せて参照のこと。
個人の成績だけで勝負を決めるもの。
相手と直接対戦し、勝敗を決めるスポーツのこと。
相手と同時に対戦して着順で優劣を決めるか、個別に所要時間の記録をとってその結果で優劣を決めるスポーツのこと。
相手とは同時に対戦はせず、優劣が決まるスポーツのこと。
かつてフィギュアスケートは相対評価の6点満点方式だったが、2002年ソルトレークシティオリンピックの不正採点事件を機に加点方式に変更されたといわれる。基礎点に加点・減点した「技術点」と表現力の5項目を得点化した「演技点」の合算。
オリンピックのモットーとして有名な、「より速く、より高く、より強く(Citius・Altius・Fortius)」という三語法は、1996年版の14.に書かれているという情報がある。「2011年7月8日から有効」版には第1章の10.に書かれている。
主なスポーツのファンの人口は、下図のようになっている。 | 120 |
スポーツ | オリンピックのモットーとして有名な、「より速く、より高く、より強く(Citius・Altius・Fortius)」という三語法は、1996年版の14.に書かれているという情報がある。「2011年7月8日から有効」版には第1章の10.に書かれている。
主なスポーツのファンの人口は、下図のようになっている。
各種スポーツではそれぞれ競技大会が行われ、また複数の競技を総合的に開催する総合競技大会も数多く行われている。こうした大会は地方レベルから国家レベル、各大州レベルから全世界レベルに至るまでさまざまな規模のものが存在し、また参加型・観戦型のどちらの大会も行われる。総合競技大会の中でも最も大規模かつ著名なものは4年に1度行われるオリンピックである。このほか、アジア競技大会のように地域別のもの、コモンウェルスゲームズのように政治的紐帯によるものなど、さまざまな区分による総合競技大会が存在する。また、各種競技単独で世界各国が参加して行われる国際大会も数多く存在する。こうした国際大会の中で最も大規模かつ人気のあるものはサッカーのFIFAワールドカップである。
参加に対して報酬を得られるかどうかによって、スポーツ選手はアマチュアスポーツとプロフェッショナルスポーツの2つに分けられる。また、報酬を得ているもののそれのみで生計を立てられないセミプロの選手も存在する。 | 120 |
スポーツ | 参加に対して報酬を得られるかどうかによって、スポーツ選手はアマチュアスポーツとプロフェッショナルスポーツの2つに分けられる。また、報酬を得ているもののそれのみで生計を立てられないセミプロの選手も存在する。
アマチュアとして一般市民が余暇の1つとして行うスポーツは多岐にわたっており、市民チームやクラブは無数に存在するほか、市民マラソンのように一般市民が参加できる個人競技大会も存在する。競技スポーツだけでなく、健康のために個人で行うスポーツの参加者も多く、ジョギングやエアロビクスなどの流行と隆盛をもたらした。世界最大のスポーツ大会であるオリンピックは、創設者のクーベルタン以降長らくアマチュアリズムの理想を掲げており、アマチュアしか出場することができなかった。なかでも第5代国際オリンピック委員会(IOC)会長だったアベリー・ブランデージは強硬なアマチュア論者として知られ、プロの排除を厳格に遂行したが、この頃にはソヴィエト連邦をはじめとする共産圏諸国が国家の威信をかけて育成した、いわゆる「ステート・アマ」の進出が進んでおり、この方針は多くの摩擦を引き起こした。こうしたことからブランデージ退任後の1974年にこの方針は削除され、以後プロの進出が急速に進んだ。
これに対し、一部の人気のあるスポーツにおいては優秀なプレイヤーがプロフェッショナル化し、スポーツ参加のみで生計を立てることができるようになっている。各国において人気のあるスポーツは異なるため、プロ化しているスポーツも国ごとに異なっている。人気に高いスポーツには多くの観客が集まり、さらにマスメディアによって放映される試合には膨大な数の視聴者を見込むことができるため、一部のプロスポーツでは莫大な金額が動き、トッププレイヤーは高額な報酬を得ることができる。スポーツ選手としての収入のほか、トッププレイヤーはコマーシャルの出演によっても多額の収入を得られる場合がある。こうしたことから、世界の年収ランキングにおいては数人のトップ選手がランクインすることが常である。
スポーツは参加者・ファンともに膨大な人口がいるため、スポーツに関連した産業も巨大なものとなっている。 | 120 |
スポーツ | スポーツは参加者・ファンともに膨大な人口がいるため、スポーツに関連した産業も巨大なものとなっている。
スポーツ用品産業には各種スポーツに専用の道具を生産するものだけでなく、例えば各チームのユニフォームや、スポーツ用シューズの生産なども含まれる。こうしたスポーツ用品は参加者のほか、お気に入りの選手と同じ商品を求めるファンや、機能やデザインを気に入った一般市民をも販売対象としている。
メディア産業において、スポーツは重要な地位を占めている。プロスポーツの試合や世界大会のスポーツ中継には膨大な数の視聴者がおり、その広告収入を見込んで有力スポーツのイベントには莫大な放映権料が提示される。放映権料のほかに、スポーツイベントにおいては有力企業がスポンサーシップを獲得し、資金を拠出する代わりに独占的な広告の権利を得る。こうしたスポンサー契約は高い広告効果を持つため、各社は契約獲得にしのぎを削っている。放映権料はプロスポーツやオリンピックなどの大規模競技大会において総収入の過半を占めることが常であり、スポーツ界を支える柱の一つとなっているが、一方でマスメディアの都合により試合時間や時期の変更、さらには競技ルールの変更が行われることもある。テレビやラジオでは試合中継のほかにも、結果がスポーツニュースとして流され、翌日の新聞でもしばしば大きく報道される。スポーツ関係を主に扱うスポーツ新聞も各国に存在し、各スポーツに特化したスポーツ雑誌も多数発行されている。
登山やスキー、水上スポーツなど一部のスポーツは特定の場所でしか行うことができないため、スポーツを行うことを目的としたスポーツツーリズムも盛んに行われている。特に冬季にはアルプス山脈地方を中心に多くの観光客がスキーリゾートを訪れ、スキー客数は増加の一途をたどっている。また、大規模なスポーツイベントを観戦するための旅行や、スポーツチームが合宿や遠征を行うための旅行もスポーツツーリズムの小さくない部分を占める。スポーツツーリズムは該当地域の経済に好影響を与える一方で、環境や文化の破壊などの問題をもたらす場合もある。 | 120 |
スポーツ | スポーツと賭博の間の関係は国によってさまざまである。2009年には、世界の商業賭博総額3350億ドルの内、競馬が7%、スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博を完全に禁じている国も珍しくなく、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では戦前から認められていた競馬に加え、1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化されたほか、2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。
19世紀以降、いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになった。スポーツはルールの共有や整備を通じて、発祥地の文化を越えて普遍的な方向へと進む傾向があるが、一方で元々それを固有文化としていた地域においては、固有性と普遍性の間で衝突が起きる場合がある。それぞれの競技には国際的な統括団体として国際競技連盟が存在しており、各国の国内競技連盟間の調整や国際大会の主催、各国間の相互交流などを行っている。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっており、サッカーのように比較的偏りなく全世界で行われるスポーツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集中している野球や、イギリス連邦諸国で主に行われるクリケットやラグビーのように一部地域で強い人気を持つものもある。こうした国際的な人気スポーツに対し、ある1カ国や1民族で長く行われている民族スポーツも世界各地に存在し、根強い人気を誇っている。
スポーツとナショナリズムの間には、すでに19世紀において強い相関が認められ、21世紀においても各種国際大会の勝敗は各国のナショナリズムの高揚をもたらす。1969年には、関係の極度に悪化していたホンジュラスとエルサルバドル間の対立が1970 FIFAワールドカップ・予選の両国対決をきっかけに爆発し、サッカー戦争と呼ばれる戦争へとつながったこともある。国家を形成しない民族においてもこれは同様であり、その民族固有のスポーツを通して民族ナショナリズムの確立を目指すことは広く見られる。 | 120 |
スポーツ | 多くの文明において、身体を鍛えることは教育の一環として非常に重視されていた。ヨーロッパにおいては、それまで教育においては軽視されていた体育がルネサンス期以降カリキュラムに採り入れられるようになり、19世紀に義務教育が導入されると体育も必修科目となった。日本でも明治政府がこの考え方を取り入れ、1872年の学制発布時に教科の一つとなり、以後学校教科としての体育が定着していった。
スポーツを対象とした学問分野はスポーツ科学と総称される。スポーツ科学の起源は19世紀末にさかのぼり、当初はより高い身体能力の構築や選手の治療といったスポーツ医学の分野からはじまったが、やがてスポーツ社会学など人文・社会科学分野にも広がりを見せるようになり、また自然科学においても医学以外の分野へ発展していった。1970年代には人類学との関連も始まり、1980年代にはスポーツ人類学が確立した。こうしたスポーツ科学の発展はより競技者の能力を引き出せる質の高いスポーツ用具の開発を促し、また映像技術の活用によってより優れたスポーツ技術が一般化され、記録の更新へとつながっていった。判定にもビデオ判定が導入されることにより、誤審の減少へとつながっている。
スポーツは市民の文化や健康にとって欠かせないものと考えられており、多くの国家でスポーツを振興するためのスポーツ政策が実施されている。プロスポーツの拡大やスポーツ人口の増大は都市におけるスポーツスタジアムの建設を不可欠なものとしたが、こうしたスタジアム建設は都市にとって大規模な再開発や都市基盤整備の契機となる。なかでもオリンピックやサッカーワールドカップのような大規模スポーツイベントが経済・文化的にもたらす影響は大きく、例えば1964年東京オリンピックでは開催に合わせて新幹線など各種インフラが整備され、開催国である日本に大きな変革をもたらした。
スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている。 | 120 |
スポーツ | スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている。
美的な事柄についての哲学である美学の領域において、近年スポーツに注目する理論家が増えてきた。例えば、デビッド・ベストは、スポーツと芸術との類似性について書き、倫理との関連性なしにスポーツが純粋に美的なものに近いことを強調した。ベストは、芸術の特徴として、人生に道徳的な考察をもたらす能力を持っていることを挙げる。スポーツにはこのような能力はないが、多くのスポーツの楽しみは間違いなく美的なものであると彼は考えた。
1998年にスロヴェニア共和国のリュブリャナで行われた第14回国際美学会議で発表された、ヴォルフガング・ヴェルシュの論考「スポーツー美学の視点から、さらには藝術として?」は、鋭い洞察力を以て、スポーツが芸術に似ているところを解析し、現代の文化状況に問いを投げかけた。かつて精神を鍛える手段として、倫理の領域に属するものと見倣されていたスポーツは、いまでは、美的/感性的なものとして、芸術の性格を顕著に示すようになり、「今日の the popular art」と呼びうるものになっている、とヴェルシュは考えた。 | 120 |
両国国技館 | 両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。
プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。
なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館と表記している。
1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。
その後、日本大学が日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった(下記詳述)。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。
先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。
1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け[臨時に設備を設けて行なうこと]による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興行との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。 | 121 |
両国国技館 | 設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。
こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務める伯爵板垣退助が提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。ところが大の相撲好きだった作家の江見水蔭が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「角力は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・年寄の三代尾車(元大関大戸平)はこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。これを受けて6月1日付の『朝日新聞』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここに神事から国技へと変貌を遂げたのである。なお命名が最後までずれ込んだため当初の番付表などにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。
1917年(大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。 | 121 |
両国国技館 | 1917年(大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。
新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。1920年(大正9年)9月1日に再建興行したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年(大正13年)1月に愛知県名古屋市で本場所が行われたこともある。
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)、1月の初場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。このため5月(夏)場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の1932年(昭和7年)10月場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。
なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は別日程で神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年(明治5年)以来72年ぶりであった。 | 121 |
両国国技館 | なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は別日程で神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年(明治5年)以来72年ぶりであった。
1945年(昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲の被害を受けて再度焼失。そのため5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが、皇族・閑院宮載仁親王(5月20日死去)で旧皇室服喪令による喪中や、空襲で延期され、6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月に春日野部屋で開催)。
日本の降伏による第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)10月26日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により接収され、メモリアルホールとして改称・改装された。改装は1946年(昭和21年)9月24日完了。改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。
占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の1946年(昭和21年)11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。 | 121 |
両国国技館 | 以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年(昭和26年)9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。
1952年(昭和27年)4月1日の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。
国際スタジアムは旧国技館を1958年6月に日本大学に譲渡し、「日本大学講堂」(通称:日大講堂)となる。
日大講堂は、日大の行事よりも、プロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行イベントに使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており、1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場のジャック・ブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ、他にも輪島功一と小熊正二の世界戦が行われた。
1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。
1976年(昭和51年)、日大講堂での全日本プロレスの興行において、大相撲からプロレスラーに転向した天龍源一郎の断髪式が盛大に行われた。
1975年(昭和50年)千日前デパート火災を教訓におこなわれた消防法改正により、スプリンクラーの設備がないままでは施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが、老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された1977年4月以降は、ほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして、1978年に大学へ善処するよう注文を付けている。 | 121 |
両国国技館 | 1975年(昭和50年)千日前デパート火災を教訓におこなわれた消防法改正により、スプリンクラーの設備がないままでは施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが、老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された1977年4月以降は、ほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして、1978年に大学へ善処するよう注文を付けている。
1982年 (昭和57年)4月の消防法改正により大規模施設にスプリンクラーの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり、翌1983年(昭和58年)に解体された。以降、日大の入学式・卒業式は日本武道館で挙行されるようになった。
日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。
解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場シアターΧ(シアターカイ。Χはラテン文字の「エックス」ではなくギリシア文字の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。
1985年(昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。建設計画発表から3年の歳月で1984年(昭和59年)11月30日に完成、12月3日には新国技館敷地内に移転した相撲教習所の開所式、土俵祭が行われた。翌年1月9日、中曾根康弘首相をはじめ約3200人を招いて盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。この1月場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。 | 121 |
両国国技館 | 蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。春日野理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が安芸ノ海関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が...という思いがつのっていったんです」と述べ、"両国帰還"の姿勢を鮮明にする。
春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど国鉄が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。1980年(昭和55年)2月、春日野理事長、高木文雄国鉄総裁、鈴木俊一都知事、内山榮一台東区長、山崎榮次郎墨田区長の五者会談が都庁で開催され、その結果、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、1982年(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、1983年(昭和58年)4月27日に着工した。なお、両国移転計画が頓挫した場合の代替案として、江東区長の小松崎軍次が辰巳2丁目の埋立地(都有地)への移転案を出していた。 | 121 |
両国国技館 | 大相撲の本場所、引退相撲、NHK福祉大相撲などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて、新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦(2014年、2018年、2019年を除く)に使用され、1991年(平成3年)から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年(平成4年)からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。
煌(きら)めく青春 南関東総体2014では相撲競技の会場となった。
プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日の全日本プロレス(当日のメインイベントはジャンボ鶴田&天龍源一郎 対 ロード・ウォリアーズのインターナショナル・タッグ選手権試合)であった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。
新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木 対 ブルーザー・ブロディ戦)である。だが、前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。しかし、1987年12月27日にたけしプロレス軍団の登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際に座布団を破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(1989年2月に解除)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際、リング上に大量の座布団が投げられたため以後、座布団の使用が禁止されている。現在は年2回(4月と10月)のビッグマッチと8月のG1 CLIMAXの優勝決定戦に使用されている。
一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。 | 121 |
両国国技館 | 一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。
全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。
1986年4月5日に、全日本女子プロレス(当日のメインイベントはデビル雅美 対 ライオネス飛鳥のWWWA世界シングル選手権試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、JWP、LLPW(現:LLPW-X)がビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。2014年10月11日にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。2021年12月29日にスターダムが8年ぶりに開催され、翌2022年も同日に開催した。また、2022年3月19日には東京女子プロレスが初進出した。
2009年にはインディー団体のDDTプロレスリングも進出して「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。2015年には同じくインディー団体の大日本プロレスも進出(デスマッチを売りにしている団体であるが、蛍光灯・ガラス・画鋲など、破片等が飛散する凶器の使用は禁止)。2023年8月にはGLEAT(2021年7月旗揚げ)が「GLEAT ver.MEGA」を開催予定。 | 121 |
両国国技館 | 2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本大会「WWE RAW Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は2011年(同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災及び福島第一原発事故の影響で12月に横浜アリーナで開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催していた。2012年は「WWE Presents SMACK DOWN WORLD TOUR 2012」、2013年、2014年には「WWE Live」が。2015年は「The Beast in the East」。2016年以降は「WWE Live Japan」として開催され、2019年は「WWE Live Tokyo」との名称で開催されたが、現状この大会が最後となっている。
2010年から2015年までIGFが「INOKI BOM-BA-YE」を開催し、2012年以降は大晦日興行として行われていた。
2015年11月15日には、元力士でもあった天龍源一郎の引退興行が催された。
過去には近畿を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(大田区体育館建て替えのための代替。現在は建て替え後の大田区総合体育館を使用)。FFF(1998年解散)、格闘探偵団バトラーツ(2001年解散)も会場として使用したことがある。
ボクシングでは、浜田剛史(帝拳)が出場した世界戦(WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。2017年には村田諒太がここで世界王者となり、日本人初となるオリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。
また、世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで、1998年スーパーフェザー級王者・コウジ有沢(草加有沢) vs 挑戦者・畑山隆則(横浜光)の史上最大の日本タイトルマッチ、2000年フライ級王者・セレス小林(国際) vs 挑戦者・浅井勇登(緑)、スーパーライト級王者・小野淳一(新日本木村) vs 挑戦者・前田宏行(角海老宝石)、王者・コウジ vs 挑戦者・玉置厚司(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。
2020年東京オリンピックではボクシング競技会場として使用された。 | 121 |
両国国技館 | 2020年東京オリンピックではボクシング競技会場として使用された。
その他格闘技では、高田延彦が1991年12月にUWFインターナショナル「格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後も極真会館(松井館長)主催の全日本空手道選手権大会と全世界ウェイト制空手道選手権大会、パンクラス、SRC、THE OUTSIDER、シュートボクシング、ONEなどで開催実績がある。
他のスポーツ競技では、1985年の新・両国国技館開場の年に日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。
2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。
2018年10月にはプロ卓球リーグ:Tリーグ開幕戦の会場として使用された。
また、試合が行われたわけではないが、2020年、2021年にプロ野球・読売ジャイアンツがファン感謝デーの会場として使用した。
1985年12月31日には、民放同時放送『ゆく年くる年』(幹事局:日本テレビ)のメイン会場として使用された。
1986年4月29日には、内閣の主催により昭和天皇御在位60年記念式典を挙行した。
1992年には格闘ゲーム『ストリートファイターII』、1993年にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、1994年にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれもスーパーファミコン版)の全国大会が行われた。
同1992年12月6日には『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。『バーチャレーシング』や『ソニック2』、『ベア・ナックル2』等のゲーム大会やUFOキャッチャー選手権が開かれたりや司会者にマイケル富岡、ゲストに所ジョージ、高橋由美子、大森うたえもん、大川興業、林原めぐみ等が出演した。メガドライブやメガCDの新作ソフトの出品がラインナップされた。
アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストという、高等専門学校のロボットの性能技術を競うコンクールでは、1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。 | 121 |
両国国技館 | アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストという、高等専門学校のロボットの性能技術を競うコンクールでは、1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。
蔵前国技館時代から日本民謡協会主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年から品川区立総合区民会館に会場を移動して継続開催されている。
また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、1988年秋にはアメリカのアイドル歌手ティファニーのコンサートが催されたり、2007年11月22日に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」が開催され、石野卓球、大沢伸一らが出演した。
2018年11月にはポール・マッカートニーが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。
アニメ・ゲーム関係では、2007年12月24日には堀江由衣が声優としては初めて単独コンサートを行い、2015年11月28日・29日にはAQUAPLUS作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、2018年10月6日・7日には『それいけ!アンパンマン』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。
また、両国国技館傍に本社を置くライオンや、芸能プロダクション・アミューズの株主総会も当地で開催される。アミューズは株主総会の後に所属アーティストによるライブ及びイベントを開催しており、これまでにPerfume、福山雅治、原由子、安田顕らが出演している。
年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。その後もさだはほぼ毎年両国国技館でカウントダウンコンサートと『今夜も生でさだまさし』元日特番の公開生放送を行っている。 | 121 |
両国国技館 | 年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。その後もさだはほぼ毎年両国国技館でカウントダウンコンサートと『今夜も生でさだまさし』元日特番の公開生放送を行っている。
2010年には演芸コンテスト「M-1グランプリ」の準決勝会場としても使用されたほか、2019年からは日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のメイン会場として使用されている。また、『満点☆青空レストラン』・『行列のできる法律相談所』の生放送でも使われた。なお、2020年、2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客で開催された。
2015年6月2日、ミュージシャンの星野源がリーダーを務めるインストバンド・SAKEROCKの解散ライブが開催された。
2022年3月23日には、放送大学の学位記授与式が開催されている。更に同年からベストボディ・ジャパン協会主催のベストボディ・ジャパン日本大会が開催されている。
相撲協会は国技館を蔵前国技館時代は土俵の上にリングを組む女子プロレスや女子格闘技の大会、興行、イベントには当初は貸していたが女人禁制により貸さなくなっていた。男子のものでも花束嬢などの女性はリングには上がらせないようにしていた。両国国技館になって土俵はエレベーター式の昇降型となり地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。
リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。
アマチュアの国際相撲連盟主催世界相撲選手権大会は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが世界女子相撲選手権大会が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。 | 121 |
両国国技館 | リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。
アマチュアの国際相撲連盟主催世界相撲選手権大会は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが世界女子相撲選手権大会が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。
わんぱく相撲全国大会については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。この問題についてはわんぱく相撲全国大会主催の東京青年会議所が2019年にわんぱく相撲女子全国大会を開設することによって解決を図っている。
2005年、ヒップホップのイベント『B BOY PARK』のMCバトルは国技館の土俵上で行われた。出場者に女性ラッパーのCOMA-CHIがいた。ハイヒールは脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。平成期以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。
2007年9月19日(大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。
女人禁制のため断髪式でも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位大関だった千代大海の国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。 | 121 |
薬学 | 薬学(やくがく、英語: pharmacy)とは、薬物を専門とする学問である。医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学に大別される。
1940年代以前は、前者は医学における一大分野であり、後者は有機化学の主たるテーマの1つであった。20世紀に入り有機化学、生物学および医学の著しい発展とともに「薬」を軸とする学問分野も展開し、1950年代になると、(日本では)それらを統合した薬学を専攻する機関として薬学部が設置され、医学や化学などとの領域分担が明確になっていった。
日本では、大学で6年制の薬学科を修了すると薬剤師国家試験の受験資格が与えられる。したがって薬剤師は必ず学士(薬学)以上の学位を有する。しかし、薬学者には博士(理学)、博士(工学)、博士(医学)、博士(歯学)や博士(農学)などの博士(薬学)以外の学位を持つ場合も見受けられる。
薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。
有機化学 - 物理化学 - 分析化学 - 放射化学 - 医薬品化学 - 天然物化学 - 生物有機化学 - 生薬学 - 栄養学 - 農薬学 - 火薬学 - 創薬学 - 熱帯医学 - 感染症学 - 生理学 - 細胞生物学 - 微生物学 - ウイルス学 - 寄生虫学 - 分子生物学 - 免疫学 - 生化学
薬学の応用としての医学との学際的分野であるが、大きく二つに分けると次のようになる。
医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い薬剤学・臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。
薬理学 - 生物薬剤学 - 薬物動態学 - 調剤学 - 製剤学 - 医療薬剤学 - 病理学 - 内科学 - 外科学 - 看護学 - 予防医学 - 病態生理学 - 医薬品情報学 - 日本薬局方 - 薬物学 - 生薬学 - 漢方薬学 - 歯科薬理学 - 臨床化学 - 神経化学 - 粉体工学- 薬局薬学- 病院薬学
衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。
衛生化学 - 環境科学 - 疫学 - 公衆衛生学 - 家畜衛生学 - 病態生化学 - 毒性学 - 生態学 | 122 |
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