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مَملكة أرَغـُون[1] أو رِيْدراغـُون أو رِيْدراقـُون [2] (Aragonese: Reino d'Aragón، Catalan: Regne d'Aragó، Latin: Regnum Aragonum، Spanish: Reino de Aragón) كانت مملكة قديمة في شرق شبه الجزيرة الإيبيرية، وتشير الأرقام إلى العصر الحديث للحكم الذاتي من أراغون (أراغون)، في إسبانيا.. ويجب عدم الخلط بين مملكة أراجون وتاج أراغون، التي كان مملكة آراغون عضوا فيه جنبا إلى جنب مع سائر الأقاليم مثل مملكة فالنسيا وامارة كتالونيا، وتشترك جميعا في نفس الملك.
الأصل
عمل حكام برشلونة بعد الفترة الإسلامية على توسيع كونتية برشلونة باسترداد المناطق المجاورة كجزر الباليار ومدينة فالنسيا وأسسوا ما عرف بمملكة أراجون والتي سيطرت على أجزاء واسعة من البحر المتوسط خلال القرن الثالث عشر الميلادي ووصلوا لمدن في أقصاه كأثينا.
كانت هذه المملكة في الأصل مقاطعة كارولينجية إقطاعية حول مدينة خاكا، التي كانت متحدة مع مملكة بامبلونا (مملكة نافارا لاحقا) في 925.. تم تقسيم مملكه اراجون من مملكة نافارا في 1035، وارتقى بها إلى المملكة راميرو الأول. كما أنها توسعت إلى الجنوب، وفتح الأرض من العرب الأندلس، عاصمة نقلت أولا إلى وشقة (1096)، وفيما بعد لسرقسطة (1118). بحلول 1285 للمناطق الجنوبية أراغون قد اتخذت من العرب.
كاستيا وأراغون
في القرن الخامس عشر للميلاد بدأ بعد ذلك التدهور الاقتصادي الذي رافقه اضطراب داخلي قام فيه نبلاء كتالونيا بدور مهم لنقمتهم على حكم السلالة ذات الأصل القشتالي. فوجد خوان الثاني (862-863هـ/1458-1459م) حلاً للمشكلتين بتزويج ابنه فرناندو بايزابيلا أخت هنري الرابع ملك قشتالة ووريثته، وحكمت هي وزوجها كلاً من قشتالة وأراغون معاً على أن تبقى لكل من المملكتين قوانينها الخاصة وعاداتها العرفية وتقاليدها ولغتها، وكانت هذه الخطوة الأولى في إِقرار وحدة إِسبانية القومية وتم في عهدهما القضاء على دولة غرناطة سنة 897هـ/1492م[3]
انظر أيضاً
تاج أرغون
كاستيا
مملكة ليون
مملكة كاستيا
إستيا
مراجع
تصنيف:الحقبة الحديثة المبكرة لإسبانيا
تصنيف:النهضة الإسبانية
تصنيف:انحلالات سنة 1707 في إسبانيا
تصنيف:أنظمة ملكية سابقة في أوروبا
تصنيف:إسبانيا الوسيطة
تصنيف:تاج أراغون
تصنيف:تاريخ أراغون
تصنيف:تأسيسات سنة 1035 في أوروبا
تصنيف:تأسيسات سنة 1035 في إسبانيا
تصنيف:دول سابقة في أوروبا
تصنيف:دول سابقة في شبه جزيرة أيبيريا
تصنيف:دول وأقاليم انحلت في 1707
تصنيف:دول وأقاليم انحلت في عقد 1700
تصنيف:دول وأقاليم تأسست في 1035
أراجون
تصنيف:ممالك سابقة
تصنيف:بلدان سابقة في تاريخ إسباني
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ローレンス・ウィンチェスター・ウェザビー(、1908年1月2日 - 1994年3月27日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、1950年から1955年まで、第48代ケンタッキー州知事となり、20世紀生まれでは初の知事となった。ルイビル大学を卒業した後、ジェファーソン郡の司法の世界から頭角を現し、1947年にはケンタッキー州副知事に選ばれ、アール・C・クレメンツ知事の下で務めた。ウェザビーはケンタッキー州では初の「働く」副知事と呼ばれた。なぜなら、ケンタッキー州上院で副知事が果たすべき任務に加えて、クレメンツが州予算を策定したり南部知事会議に出席させたりと他の任務も担うよう要求したからだった。1950年、クレメンツはアメリカ合衆国上院議員になるために州知事を辞任し、ウェザビーは第48代州知事に昇格した。ジェファーソン郡は郡庁所在地のルイビルが人口で州内第1位の都市であるにも拘わらず、ウェザビーはジェファーソン郡生まれでは唯一の州知事である[1]。
ウェザビーはケンタッキー州議会の特別会期を招集することで、州の歳入超過を教育予算に振り向け、州の給付金としたことで知事として称賛された。1951年、新たに州知事選挙の洗礼を受けて4年間任期に就任した。クレメンツ知事の時に始まった政策を継続し、その多くを拡張した。その中には道路建設の拡大や産業の多角化があった。1954年、アメリカ合衆国最高裁判所の「ブラウン対教育委員会裁判」判決による人種差別撤廃を肯定し、州内の学校で人種統合を進めるために人種に跨る監視委員会を指名した。1954年と1955年には南部知事会議の座長を務め、他の南部州知事にも人種統合を受け入れ実行するよう奨励した。
ウェザビーは知事の任期が明けるときに後継者としてバート・コームズを支持したが、元知事でウェザビーやクレメンツの党内派閥に対抗する派閥の領袖A・B・"ハッピー"・チャンドラーにコームズは屈した。1956年、ウェザビーがアルバン・W・バークリーの跡を継いでアメリカ合衆国上院議員になろうとした時もチャンドラーはウェザビーを支持せず、そのために共和党のジョン・シャーマン・クーパーに議席を奪われた。1964年から1966年、ウェザビーは州憲法を改定する委員会に務め、1966年にはケンタッキー州上院議員に選ばれ、州予算策定にかなりの指導力を発揮した。この後ウェザビーは政界から引退し、ブライトン・エンジニアリングの相談役を務めた。ウェザビーは腰を痛めたことからの合併症で1994年3月27日に死に、フランクフォート市のフランクフォート墓地に埋葬された。
初期の経歴
ローレンス・ウェザビーは1908年1月2日に、ケンタッキー州ミドルタウンで生まれた[2]。父はサミュエル・デイビス・ウェザビー、母はファニー(旧姓イェノワイン)であり、その4番目の子供だった[3]。祖父は南北戦争のときに北軍の軍医だった[3]。父も医者であり農園主だった。ウェザビーも子供の時に一族の農園で働いた[1]。
アンカレッジ高校を卒業した後、ルイビル大学の法学予科に入学した[1]。1927年と1928年にはルイビル大学・フットボールチームの優秀選手に選ばれた。1928年と1929年には野球チームの二塁手を務めており、1929年の優秀選手になった[4]。後にはルイビル大学のスポーツの殿堂に入れられた[5]。1929年法学士号を得て、ヘンリー・ティルフォード判事のもとで働くようなった[1]。この2人は1950年まで共同事業を続けた[6]。1930年4月24日、ウェザビーはヘレン・ドワイアーと結婚した。この夫妻には3人の子供が生まれた[7]。
ウェザビーは父の影響力もあり、若い時から地方政界で政治に興味を持つようになった[8]。教育委員に指名されることが魅力となり、すぐにローレンス郡民主党を率いたルランド・テイラーやベン・ユーイングの派に入った[1][8]。1933年にユーイングが郡判事に選出されると、ウェザビーをジェファーソン郡少年裁判所の非常勤検事に指名した[1]。ウェザビーは1937年までこの職にあり、その後も1942年と1943年にも務めた[2]。1943年3月、少年裁判所初の審理コミッショナーに指名された[7]。
副知事
1943年にはまた、第34民主党地区委員会の議長に選ばれ、1956年まで続けた[2]。1947年3月、副知事選挙に出馬するために、少年裁判所審理コミッショナーを辞任した[1]。民主党予備選挙で4人いた副知事候補の中で最強の者は、ビル・メイであり、アメリカ合衆国下院議員アンドリュー・J・メイの甥だった[9][10]。メイは知事候補者である。アール・C・クレメンツの支持を求めたが、おそらく下院議員のメイがクレメンツの政敵であるジョン・Y・ブラウン・シニアの同盟者だったので、メイの肩を持たなかった[10]。ウェザビーもクレメンツの公的お墨付きを得られなかったが、予備選挙で勝利し、本選挙でも共和党候補のオービル・M・ハワードを95,000以上の票差で破って当選した[7][11]。
クレメンツは予備選挙でウェザビーを支持しなかったものの、この2人は概してその立法政策で協調し、協業を進めた[11]。ある傍観者に言わせれば、ウェザビーはケンタッキー州で初の「働く」副知事だった[12]。それまでの副知事はケンタッキー州上院の宰領を執るという憲法上の義務以外は、あまり仕事をしなかったが、クレメンツの政権でウェザビーは予算案の策定を行い、議会調査委員会を主宰し、州商工会議所のツアーを主導し、南部知事会議に出席するなどの任務を与えられた[11][13]。クレメンツはまたウェザビーは州民主党中央委員会の執行役員にして、多くの重要な政治家と接触させた[13]。
ケンタッキー州知事
1950年11月27日、クレメンツがアメリカ合衆国上院議員に就任するために知事を辞任し、ウェザビーが州知事に昇格した[7]。知事として最初の行動の1つは、1,000万ドルに上る歳入超過を割り付けて消化するために、1951年3月6日に議会特別会期を招集したことだった[11]。この特別会期で承認された予算の使途には、教員の給与を上げること、必要とされることや州政府職員の給付金に当てることがあった[14]。この特別会期の結果としてウェザビーの人気が上がり、1951年に死去したバージル・チャップマンのアメリカ合衆国上院議員の議席を求めて出馬するか真剣に検討した[11]。ウェザビーはクレメンツやその他民主党の指導者層と相談し、州知事として新たな4年間の任期を求めて選挙に出ることに決めた[15]。
1951年選挙
民主党知事候補者の指名を求めて数人が検討されており、その中には元州知事のA・B・"ハッピー"・チャンドラーがおり、ちょうどメジャーリーグベースボールのコミッショナーを辞めるときだった[16]。チャンドラーが候補者になる可能性があることで、民主党のクレメンツの派閥も行動することになった[16]。チャンドラーとクレメンツは互いに相容れぬ政敵であり、クレメンツの派閥はウェザビーで纏まり、チャンドラーが再度指名を得るのを阻止する動機があった[16]。最終的にチャンドラーはクレメンツがウェザビーをコントロールしていると示唆しながらも、出馬しなかった。チャンドラーは1951年5月15日にウェザビーを支持した[17]。ウェザビーは1951年の民主党予備選挙でハウェル・ビンセントとジェシー・セシルを難なく破った。ケンタッキー州の予備選挙ではかつてない再大多数票を得た[15][17]。
本選挙では共和党公認でケンタッキー州控訴裁判所判事のユージーン・シラーと対戦した[18]。シラーは原理主義キリスト教徒であり、州政府は腐敗に満ちているので、自分だけがそれを止めさせることができると主張した[18]。シラーは北ケンタッキー州のギャンブルを取り上げて、州都フランクフォートを「ケンタッキー川に沿った我々のニネベと呼び、クレメンツとウェザビーの閣僚に対して収賄の告発を行い、ケンタッキー大学バスケットボール・チームを巻き込むスキャンダルになった[18]。
ウェザビーはシラーからの収賄の告発に応えて、収賄で告発された役人の1人を罷免した[19]。キャンベル郡やヘンダーソン郡での組織犯罪に対応するために、新たに編成したケンタッキー州警察を配置した[19]。さらに犯罪を撲滅するために、賭け事を認める施設のアルコール販売免許を取り消す法を支持した[20]。シラーは禁酒法を支持し、反カトリックの姿勢であり、州内田園部では支持されたが、成長する都市部の票には結びつかなかった[21]。投票ではウェザビー346,345票、シラー288,014票となり、ウェザビーが当選した[7]。
ウェザビー政権
ウェザビーの任期初期に、州財政朝鮮戦争の影響を受けて膨れ上がった[22]。州の財政では出来高払いを採用してきており、戦後はさらに歳入を上げることを強いられた[22]。ウェザビーは紙巻きたばこ、アルコール飲料、さらにパリミュチュエル方式の賭け事など罪悪税を課することで対応した[22]。しかし、消費税を課することについては議会を説得できなかった[22]。
ウェザビーの親しい家族の構成員3人が州道の交通事故で死亡したので、ウェザビーにとって道路の改良が優先事項になった[23]。クレメンツ政権のときに成立したガソリン税増税、ガロンあたり2セントを使い、ウェザビーの任期中に6,000マイル (10,000km) 近い道路の建設、再建、再舗装を行わせた[23]。この中でも重要な場所は、州では初の有料道路であるケンタッキー・ターンパイクであり、ルイビルとエリザベスタウンを繋いだ[20][24]。ウェザビーは時の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーに五大湖とメキシコ湾を結ぶ有料道路の建設を推奨した[25]。他の政治指導者がウェザビーに同調し、以前から論じられていた州間高速道路体系の建設についてアイゼンハワーを説得した[23]。改良された道路が観光客を増加させ、それで州立公園体系の予算を増やし、ケンタッキー州とバージニア州が共同で保有するブレイクス州間公園を追加することができた[26]。ウェザビーは州内で個人的なスポーツ遠征を行うことで、狩猟と釣りの好適地としてのケンタッキー州を全国に印象づけた[25]。
ウェザビーは、まだ農業が主流の州経済を多様化する試みも行った[25]。農業工業開発委員会を拡大し、工業用適地として特定するために土地の測量を実行させた[25]。州内で近代的空港の開発を奨励し、ビッグサンディ川の運河建設や、ケンタッキー川の閘門とダムの改良を奨励した[25]。州の商工会議所が行うツアーを自ら先導することも続けた[25]。その任期中に州内に誘致された企業には、ルイビルのゼネラル・エレクトリック・アプライアンス・パーク、パデューカのパデューカ・ガシアス・ディフュージョン・プラントがあった[27]。1954年、西部炭田のセントラルシティなど各地で起こった労働者の争議については、州警察を送って鎮めた[20]。しかし、工業界の手先にはならなかった。露天掘りを規制する最初の州法を成立させ、1954年には労働権法を廃案にした[25]。
ウェザビーは農業の必要性を無視したわけではなかった。その緑の牧草計画の下では、栽培穀物の多様化、牛肉生産の改善、土壌保全の奨励を行う法が成立した[25]。ソルト川、リッキング川、ケンタッキー川流域には国の洪水制御計画を適用させ、貴重な農地を守った[25]。1952年、州の農業官僚の仕事を統合する農業委員会を編成した[25]。ルイビルでクレメンツ政権で始まっていた州の催事グランド建設を完工まで監督し、州の農業の豊かさをうまく見せるようにした[24][25]。
教育分野の改良はウェザビー知事としての任期で特筆ものだった。その政権運営の中で、教育費予算を年間2,000万ドル増加させた[28]。教育用テレビネットワークの創設を要求し、州初の移動図書館計画に予算をつけた[20]。1954年、最小基金計画を支持し、生徒数ではなく必要性に応じて教育学区に予算を割り当てることを認める憲法改正を進めた[14]。
I
1954年と1955年、ウェザビーは南部知事会議の議長を務め、アメリカ合衆国最高裁判所の「ブラウン対教育委員会裁判」判決で出された、学校の人種統合命令を平和的に実行することを奨励した[14]。人種統合に反対する声明への署名を拒否した南部の州知事5人の1人となった[29]。ケンタッキー州では、公立学校の人種統合を監督させるために白人と黒人双方による諮問委員会を指名し、ほかの州に比べて、それほどの険悪さを生まずに実施させた[20]。人種統合は、ウェザビーと副知事の"ドク”・ビーチャムの意見が合わなかった問題だった[29]。しかしビーチャムはウェザビーの跡を受けて州知事になる望みがあったので、公然とウェザビーの行動に反対することはなかった[29]。
ウェザビーの知事としての業績には他に、精神医療局の創設、州内全体に置かれた15の総合病院と30の健康センターの建設があった[20]。1952年、非行少年に対する管理を行う中央機関として青年局を創設した[30]。新しい州立刑務所を建設し、執行猶予と仮釈放の制度を近代化し、大陪審や陪審員を選ぶ仕組みをより秩序だったものにした[20]。また選挙民が望む地域には選挙マシンを購入する予算を確保するなど選挙制度の改革も監督した[20]。行政改革の分野ではそれほど成功しなかった。州憲法を改訂して、州知事が連続して任期を務められるようにしようとしたが、失敗した[20]。州内の郡のいくつかを統合させることに、支持を得られなかった[20]。1955年、州民は18歳以上の普通選挙を認める憲法改定を承認したが、これにウェザビーは反対していた[20]。
その後の生活
クレメンツもウェザビーも次の知事としてバート・コームズを支持した[31]。ウェザビーは1951年にコームズをケンタッキー州控訴裁判所判事に指名し、ロイ・ヘルム判事の死去による穴を埋めていた[32]。クレメンツの仇敵ハッピー・チャンドラーが予備選挙でコームズに対抗して出馬し、コームズをクレメンツとウェザビーを嘲笑的に呼んだあだ名である「クレメンタイン」と「ウェザーバイン」の傀儡と批判した[33]。実際にチャンドラーは選挙戦をコームズに対してではなく、クレメンツとウェザビーを対象にして仕掛けていた[33]。クレメンツとウェザビーの政権で金の遣い過ぎを告発した[33]。チャンドラーの言に依れば、クレメンツは自分の事務所に2万ドルの絨毯を購入しており、ウェザビーはアフリカ産マホガニー材で事務所の壁を貼らせた[33]。チャンドラーは当選すれば、事務所には「良き正直なケンタッキー州の木材」を使用し、全州民を議事堂に招待して2万ドルの絨毯の上を歩かせると約束した[33]。最終的に納品書を調べれば、2万ドルの絨毯をクレメンツが購入した事実は無く、ウェザビーの壁材も地元の業者から購入し、貼らせていた[34]。チャンドラーの告発が不正確なものだったが、効果はあった。チャンドラーが予備選挙でコームズを破り、本選挙でも当選した。
ウェザビーは知事の任期が明けた後に、自営の法律実務を再開した[14]。1956年、アメリカ合衆国上院議員アルバン・W・バークリーが心臓発作で急死した[35]。これによりケンタッキー州は2人の上院議員を同時に選ぶ必要が生じた。クレメンツの任期があけ、バークリーの議席が空席ということだった[35]。アイゼンハワー大統領は元上院議員でインド大使のジョン・シャーマン・クーパーを説得して共和党の候補者とさせ、州内でのクーパーの大きな人気がアイゼンハワー自身の再選に効果をもたらすことを期待した[36]。バークリーの死は民主党が予備選挙を終えた後のことであり、候補者の選定に選挙を使えない時期だった[35]。民主党州委員会が、州知事の人気を終えてからまだ半年だったウェザビーを選定した[36]。
ウェザビーもクレメンツもチャンドラー知事からの支持を得られなかった[35]。さらに加えてアメリカ合衆国上院院内総務リンドン・B・ジョンソンが選挙戦中に心臓発作を起こし、院内総務補だったクレメンツが院内総務の仕事を引き継いで多忙となり、選挙戦がおろそかになった[35][35]。クレメンツが州内にいる時は、自分にとって元副知事だったウェザビーのために選挙運動を行った[35]。100万票以上が投じられた選挙で、クーパーは65,000票差でウェザビーを破り、クレメンツは7,000票差でサーストン・バラード・モートンに敗れた[37]。クレメンツにとっては30年ぶりに選挙で敗れることになり、ケンタッキー州民主党にとっては16年振りに再度上院議員のいない時期を経験することになった[37]。
この落選に続いてウェザビーはフランクリン郡に移転し、昔の政敵であるビル・メイからの支援でブライトン・エンジニアリングの役職に就いた[22][38]。1964年から1966年、ケンタッキー州憲法を改定する会議の代議員になった[2]。1965年、ケンタッキー州上院議員選挙に出馬して、メイの支持を得た[38]。ウェザビーはチャンドラーお気に入りの候補者を破ってこれに当選し、1966年から1968年まで上院議長代行に選ばれていた[2][3]。その采配は大変効果的だったので、1966年度州予算は僅か10日間議論され、31対5の票決で、ほとんど提出されたままの案が通った[39]。
ウェザビーは州上院での任務を終えた後、ブライトン・エンジニアリングに戻り、最後は副社長にもなった[38]。ウェザビーは腰を痛めた後の合併症が原因で1994年3月27日に死去した[22]。フランクフォート墓地に埋葬されている[2]。西ケンタッキー大学管理棟と、モアヘッド州立大学体育館はウェザビーの栄誉を称えて名付けられている[40][41]。
脚注
参考文献
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関連図書
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言語の起源(げんごのきげん)では、ヒトにおける言語の起源について記述する。
言語の起源は広範に議論される話題である。それにもかかわらず、究極的な起源やその年代についての合意は得られていない。経験的な証拠では限界があり、概して真剣な研究の対象にそぐわないものとみなし続けている。1866年に、パリ言語学協会はこの主題を禁止するまでに至った。この禁止令は西洋世界の大部分を通じて影響力を保っている[1]。今日、言語が最初に起こったのはどのように、なぜ、いつ、どこでなのかに関して数多くの仮説が存在する[2]。チャールズ・ダーウィンの自然選択による進化の理論がこの話題に対する空想を励起した100年前よりも今日の方が合意に至るのは困難である[3]。しかしながら、1990年代初頭以降、「科学の最難問」を考え始めるのに新しい方法でとりくむ言語学者、考古学者、心理学者、人類学者その他の専門家の数が増加している[4]。
アプローチ
言語の起源に対するアプローチは、何を基本的な前提にしているかによって分類することができる。「連続性理論」は、言語は複雑なので何もない所から急に完全な形で言語が現れるのを想像することはできないという考えに基づいている。言語は、私たちの祖先の霊長類の間で言語に先立つ前-言語的体系から発展してきたに違いない、とされる。「不連続性理論」は、逆の考え、つまり、言語は他に類のない特徴なのでヒト以外の動物の特徴と比較することはできないし、そのため人間の進化の過程で全く突然に表れたに違いない、という考えに基づいている。もう一つの異なる理論は、言語が概して一般的に符号化された生来の能力であると大抵みなしている前二者と違い、言語を主に文化的な、つまり、社会的な交流を通じて習得される体系だとみなす[5]。
ノーム・チョムスキーは不連続性理論の卓越した唱道者だが、この問題に関して彼は同僚たちの中で孤立している。約十万年前に言語機能(心―脳の構成要素)が「瞬間的に」「完全」もしくは「ほぼ完全」な形で出現するような進化の一度きりの突然変異が霊長類の一個体に起こった、と彼は主張している。続いて哲学的主張が手短に行われた。まず、進化について知られている者から:一個体における偶発的な遺伝的変化によって種のいかなる生物学的変化も起こり、そうした変化が交配可能な集団内で広がっていく。第二に、言語理論の計算機的観点から:求められる唯一の能力は心の再帰的データ構造(いわゆる離散的無限の性質、人の心に特異的に表れる)を構成・処理する認知能力である。ヒトの心に離散的無限という性質を付与するこの遺伝的変化は(Nを定数として)Nまで数え上げることができるなら無限に数え上げることができる(つまり、Nまで構成できるならN+1も構成できる)ことになる、とチョムスキーは主張している。このことは、論理的事実の問題として心が決まった数までしか数え上げられない状態から無限に数え上げられるようになる漸進的な変化の方法が存在しないのでヒトの言語機能の進化は跳躍進化であるという主張を前提としている。不正確な類推ではあるが、ヒトにおける言語機能の形成は結晶の形成に似ている。離散的無限は霊長類の過飽和状態の脳における種結晶であり、一たび一つの小さいがしかし決定的なかなめ石が進化によって生まれると物理的法則によって今にも発展してヒトの心にならんばかりになる[6][7]。
連続性に基づく理論は近年大多数の学者が唱えているが、発展をどのように把握するかに関しては諸説ある。言語を概ね先天的なものだとみなす人々の中には、―特にスティーヴン・ピンカー[8]は—ヒト以外の霊長類の中で先駆者を特定することを考えようとせず、単に言語機能は通常の漸進的な方法で発展したに違いないという考えを強調する者もいる[9]。言語を概ね先天的なものだとみなす人々の中には、―特にイブ・ウルベク[10]は—言語は霊長類のコミュニケーションからではなく、それより著しく複雑である霊長類の認知能力から発達してきたと述べる者もいる。マイケル・トマセロのような言語を社会的に習得されるコミュニケーションの道具とみなす人々は、言語は音声ではなくジェスチャーによる霊長類のコミュニケーションの認知的に制御された側面から発展してきたとみなす[11][12]。音声的な面での言語の先駆者を考える際には、連続性理論をとる人々の多くは言語が初期の人の歌う能力から発展してきたと想像する[13][14]。
言語の発生を何らかの社会的変化の結果とみなす人々は連続性か非連続性かという対立を超えた立場に立つ[15]。ここでいう社会的変化とは先例のないレベルでの公共的信託が生まれることによってそれまで休眠状態に置かれていた言語的創造を成す遺伝的能力を開放するようなものである[16][17][18]。「儀式・発話の共進化理論」はこのアプローチの一例である[19][20]。こういったグループに属する学者は、チンパンジーやボノボでも、野生状態ではほぼ使わないとはいえ、記号を使う能力を潜在的に有しているという事実を指摘する[21]。
言語の発生はヒトの先史時代にまで遡るので、関連する発展は歴史的痕跡を残していない。今日同等の過程を観察するのも不可能である。それにもかかわらず、近代において新しい手話―例えばニカラグア手話―の発生が、言語の発生に必然的に伴う発展の段階と創造の過程に関する知見をもしかしたら供給してくれるかもしれない[22]。もう一つのアプローチは初期の人類の化石を調査し、言語使用に対する肉体的な適応の痕跡を探すというものである[23][24]。絶滅した人類のDNAが見つかると、言語に関係する遺伝子―例えばFOXP2―の塩基配列をホモ・サピエンスのそれと比較することが有益となるかもしれないと考えられる場合もある[25]。さらにいま一つの、考古学的なアプローチでは、一般的な記号から特殊的な言語への発展に関する推測を正当化する論理的な主張が発展している一方で、ボディペインティングに用いる黄土色顔料の採掘や修正のような考古学的痕跡を残す(繰り返し行われる儀式的活動のような)象徴的な行動を頼りにする[26][27][28]。
言語の進化やその解剖学的な必要性の時間の範囲は、少なくとも原則上は、チンパンジー属(5-6百万年前)からヒト属の系統的多様性(2.3-2.4百万年前)から約150000-50000年前の完全な現代的行動まで広がっている。音声的コミュニケーションを著しく欠いていたであろうアウストラロピテクスが概して大型類人猿より洗練された音声的コミュニケーションを行っていたと唱える者はほとんどいない[29]が、約2.5百万年前の「ヒト属」の出現以降の発展については学者の間で諸説ある。原始的な言語様の体系(原言語)は「ホモ・ハビリス」と同時期に出現したと考える学者もいれば、記号によるコミュニケーションの発展はホモ・エレクトゥス(1.8百万年前)やホモ・ハイデルベルゲンシス(0.6百万年前)と同時期にすぎず、言語の発展は20万年前以内のホモ・サピエンスに似つかわしいと提議する学者もいる。
今日の近代語の拡散と多様性を達成するのに要求される時間を推量するために統計学的手法を利用して、カリフォルニア大学バークレー校の言語学者ジョハンナ・ニコールズは、音声言語は少なくとも10万年前に現生人類において現れたと主張している[30]。この発見は、ホモ・サピエンス種が形成されたのと大体同じ時期である中期旧石器時代のサブサハラ地域のどこかで言語が発生したであろうという遺伝学的・考古学的・古生物学的、その他の多くの証拠がそれぞれ独立に支持している[31]。
言語学者たちは「原始的」言語が現存しないことを認める。現在生きている人は皆、少なくとも大まかには、同等の複雑性・表現力を備えた言語を話している[32]。しかしながら、世界で話されている言語はずっと、複雑性に関して同等であり変わらなかったし現在もそうであるという20世紀のイデオロギーはもはや受け入れられない。より近年の研究によって、どのように言語の複雑性が歴史的時間を通じて言語間・言語内で違うのかが調査されてきた[33]。
進化のタイムライン
霊長類の言語
フィールド霊長類学者によって野生化での大型類人猿のコミュニケーションに関する有用な知見が提供され得る[34]。主要な発見は、ヒト以外の大型類人猿を含む霊長類が鳴き声を発すると、分類上異なる場合でもそれを聞いた別の霊長類が鳴き声を発した者の精神的・肉体的状態の微妙な段階的変化を評価しようとするということである[35]。彼らの喉頭の解剖学的構造ではヒトが出しているような多彩な音を出すことはできない。束縛の下で、 類人猿はヒトから初歩的な手話や、コンピュータのキーボードでのレクシグラム―対応する言葉と図表として似てはいない記号―の使用を教わってきた。例えば漢字のような、数百のレクシグラムを学び、使えるようになった類人猿もいる。
霊長類の脳のブローカ野やウェルニッケ野は音を認識するだけでなく、顔面、舌、口唇、喉頭の筋肉を制御する権能を持つ。霊長類は「音声的な鳴き声」をあげることでしられるが、こういった鳴き声は脳幹や大脳辺縁系の神経回路によって作られる[36]とされてきた。しかし、鳴いているチンパンジーの脳を近年スキャンしたところ、ブローカ野を使って鳴いていることが分かった[37]。また、サルがサルの鳴き声を聞くときに使っている脳の部位はヒトがヒトの発話を聞くときと同じだという証拠がある[38]。
野生化のものに関しては、ヴェルヴェット・モンキーのコミュニケーションが最も広範に研究されている[39]。彼らは十種の異なる音声を使い分けることで知られる。それらの音声の多くは天敵の到来をグループの仲間に警告するのに使われる。そのなかには「ヒョウの鳴き声」、「ヘビの鳴き声」、「ワシの鳴き声」などがある。それぞれの鳴き声はそれを聞いたサルに異なる防衛戦略をとらせる。科学者は拡声器とあらかじめ録音された音声を使ってサルの反応の予想を引き出すことができた。他の鳴き声は固体確認に使われうる。子ザルが鳴くと、その子の母親が子のもとに引き返してくるが、他のヴェルヴェット・モンキーは母ザルが何をするか見るために母ザルの方を向く[40]。
同様に、チンパンジーが(束縛の下で)異なる食べ物を指示する際に異なる「言葉」を使うことが研究者によって示されている。例えばブドウを指示するときにチンプが使う音声が研究者に記録されており、録音された音を聞くとブドウの絵を指すチンプもいる。
初期人類
発声を扱ううえで、初期のヒト属(2.5-0.8百万年前)の言語を扱う能力に関して著名な説がある。解剖学的に、3.5百万年前ごろのアウストラロピテクスにおいて発達した二足歩行という特質が頭蓋骨に変化をもたらし、声道をよりL字形にしたと信じている学者もいる。頸部の比較的下の方に位置する声道や喉頭といった構造はヒトが作り出す多くの音声、特に母音を作るうえで必須な必要条件である。喉頭の位置に基づいて、ネアンデルタール人ですら現生人類が作り出す全ての音を完全に出すのに必要な解剖学的構造を持っていないと信じている学者もいる[41][42]。さらに別の考え方では、喉頭の位置の低さは発声能力の発展とは無関係だとされる[43]。
「原言語(proto-language)」という術語は言語学者のデレク・ビッカートンが定義したもので、以下の物を欠く原始的なコミュニケーションの形式である:
完全に発達した統語構造
時制、相、助動詞、等々
独立の機能を持つ(つまり非語彙の)語彙
つまり、大型類人猿の言語と完全に発達した現生人類の言語との間のどこかに位置する、言語の進化の一段階のことである。ビッカートン(2009年)は、そういった原言語の最初の発生は初期のヒト属の出現に伴って起こったと提議し、ヒト属の発生をホモ・ハビリスが直面した腐肉食のニッチに行動を適応させないといけないという圧力と結びつけて考えている[44]。
L字形の声道のような解剖学的特徴は突然現れたのではなく徐々に進化してきた[45]。そのため、更新世初期の現生人類が持っている形式と霊長類が持っている形式の中間に位置するなんらかの形式のコミュニケーションをホモ・ハビリスやホモ・エレクトゥスが有していた可能性が最も高い[46]。
アルカイック・ホモ・サピエンス
「Hmmmmm」が前言語的なコミュニケーションの体系として、ホモ・エルガステルに始まる初期のヒト属に使用されていて、中期更新世のホモ・ハイデルベルゲンシスやホモ・ネアンデルターレンシスにおいて最高度に洗練された、とスティーヴン・ミズンが提言している。「Hmmmmm」はh</i>olistic(非組成的)、m</i>anipulative(発話は記述的な言明ではなく指令や提案である)、m</i>ulti-m</i>odal (ジェスチャーや模倣であるのと同じだけ音声的である)、m</i>usical、m</i>emeticの頭文字である[47]。
ホモ・ハイデルベルゲンシス
ホモ・ハイデルベルゲンシスはホモ・エルガステルと非常に近縁であった(移住した子孫である可能性が高い)。ホモ・エルガステルは声を出した初めてのヒト科動物とされ[48]、この点に関して継承した文化をホモ・ハイデルベルゲンシスが発展させてより洗練されたものにしており、原始的な形の記号言語を発展させた可能性がある。
ホモ・ネアンデルターレンシス
2007年にネアンデルタール人の舌骨が発見されたことで、ネアンデルタール人は解剖学的に現生人類と同じだけの音声を発する能力があるという説が唱えられるようになった。舌下神経は舌下神経管を通って舌の運動を制御しており、その大きさが言語能力を表しているとされる。30万年以上前に生きていたヒト科動物の舌下神経管はヒトよりもチンパンジーのそれにより近かった[49][50][51]。
しかし、ネアンデルタール人は解剖学的にはしゃべる能力があったとはいうものの、現生人類と全く同じ程度の言語を有していたかについては2004年にリチャード・G・クラインが疑問を呈している。彼の疑問は昔の人類の化石記録と石器一式に基づいている。ホモ・ハビリスの出現後2百万年の間ヒト科動物の石器技術はごくわずかしか変化しなかった。古い石器を広範にわたって研究しているクラインは、昔の人類の粗製石器一式は機能に基づいて分類することができないと述べ、ネアンデルタール人は石器の最終的な形態にほとんど関心を持たなかったようだと報告している。ネアンデルタール人は身体の方は言葉を発するのに十分なほど発達した器官を持っていても脳の方は現生人類のように言葉を話すのに要求されるレベルの複雑さに達していなかったであろうとクラインは主張している[52][53]。ネアンデルタール人の文化的・技術的洗練の程度の問題は今なお論争の的になっている。
ホモ・サピエンス
解剖学的に現生人類と同一である生物はエチオピアのオモ遺跡群の195000年前の化石記録で初めて現れる。しかし彼らは解剖学的には現生人類であるが、今のところ見つかっている考古学的証拠からはより古いホモ・ハイデルベルゲンシスとは違う行動をとっていたとはほとんど示されていない。彼らはアシュール石器と同レベルに留まっており、後期更新世の現生人類よりも狩りの能率が低かった[54]。より洗練されたムスティエ文化への移行は約120000年前に起こり、ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの間で共有された。
ホモ・サピエンスにおいて起こり、ホモ・ネアンデルターレンシスやその他のヒト属とは共有されなかった完全な現代的行動の発展は70000-50000年前に起こった。
初めて一つ以上の材料(例えば骨やシカの角)から作られ、(鏃、鑿、ナイフの刃、掘削具などの)様々な機能のカテゴリに分類できる、より洗練された道具の発展はしばしば完全に発達した言語の存在の証拠とみなされる、というのもそういった道具の製法を子孫に伝えるのに言語が必要だと考えられるからである[52][55]。
言語の進化における最大のステップは原始的なピジン言語様のコミュニケーションから現代の言語に比肩する文法・統語構造を完全に備えたクレオールのような言語への進歩にあった[39]。
このステップは突然変異のような脳のなんらかの生物学的変化によってのみ達成されえたと信じる学者もいる。一説にはFOXP2のような遺伝子が突然変異を起こして人がコミュニケーションを行えるようになったとされている。しかし、近年の分子生物学的研究により、ネアンデルタール人もホモ・サピエンスと同じFOXP2対立遺伝子を持つことが分かった[56]。それゆえ、ホモ・サピエンスのみに突然変異が起こったわけではない。むしろこのことは、この遺伝子上の変化がネアンデルタール人とホモ・サピエンスの分化に先立って起こったということを示唆している。
言語が数千年かけて発展してきたのか突然現れたのかという問題に関して、さらに注目すべき議論がある。
霊長類の脳に存在するウェルニッケ野とブローカ野はヒトの脳にも存在しているが、前者は認知タスク・知覚タスクに関わっており、後者は言語を使うのを助けている。霊長類の脳幹や大脳辺縁系において議論されているのと同じ神経回路が人間においては非言語的な音声(笑う、泣く、等々)を制御している。このため、人の言語中枢は全ての霊長類に共通して存在する神経回路を改良したものではないかと提言されている。この改良とその言語的コミュニケーションの能力はヒトに特有であるように見える。このことは、言語器官はヒトの系統が霊長類(チンプやボノボ)の系統から別れて以降に起源をもつということを示唆している。はっきり言えば、言葉を話すことはヒトに特有な、喉頭の改良だということである[36]。
出アフリカ説によれば、50000年前ごろ[57]にヒトの集団がアフリカを出発し、続いて、それまでヒト科動物が進出したことのなかったアメリカやオーストラリアをも含む世界各地に移住していった。それ以前にはホモ・サピエンスは現代的な認知・言語能力を獲得しておらず、結果として移住するのに要求される技術や個体数を欠いていたので、彼らは50000年以上前にはアフリカを出たことがなかったと信じている学者もいる[58]。しかし、それ以前にホモ・エレクトゥスが(言語の使用、洗練された道具、解剖学的現代性をほとんど欠いた状態で)どうにかしてアフリカを出て行ったことを考えると、解剖学的に現生人類と同じ生物がそんなに長い間アフリカに留まっていた理由が不明になる。
言語の起源の仮説
初期の推測
言語が自然の音、他の動物の鳴き声、ヒト自身の本能的な叫び声を記号やジェスチャーの助けを借りつつ模倣・改良したものに起源を負っていることは疑いえない。— ref stripmarker in |title= at position 80 (help)
1861年に、歴史言語学者のマックス・ミュラーが言葉の起源に関する試論のリストを発表した:[60]
ワンワン(Bow-wow)。「ワンワン説(Bow-wow theory)」もしくは「カッコー説(cuckoo theory)」は、ミュラーがドイツの哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーに帰した説で、初期の言葉を獣や鳥の鳴き声の模倣とみなしている。
プープー(Pooh-pooh)。「プープー説(Pooh-pooh theory)」では最初の言葉を感情的な、不意の発声や、苦痛、歓喜、驚愕その他によって引き起こされた絶叫とみなす。
ドンドン(Ding-Dong)。ミュラーは自ら「ドンドン説(Ding-Dong theory)」と呼ぶ説を提案した。この説では、全ての物は自然に共鳴振動を起こしており、それが何らかの形で人の初期の言葉に反映されたとする。
エイヤコーラ(Yo-he-ho)。「エイヤコーラ説(Yo-he-ho theory)」では、言語は集団でのリズミカルな労働から生まれたもので、例えば働く男たちが力を合わせようとして「ho」と叫んでいたのが「heave(持ち上げる)」に変化したとされる。
タータ(Ta-ta)。これはマックス・ミュラーのリストには登場しない説で、1930年にサー・リチャード・パジェットが発表した[61]。「タータ説(Ta-ta theory)」によれば、ヒトは手振りをまね、耳で聞くものにした舌の運動から初期の言葉を作り出した。
今日ではほとんどの学者が、以上の説は滑稽なほど素朴で見当違いだと言うほどには悪くない―彼らは徐々に精密な知見を得てはいるが―とみなしている[62][63]。これらの説について回る問題は、これらが非常に狭い意味で機械論的だということである。これらの説では、私たちの祖先が一たび意味と音を連結させて適切で巧妙な「機械論」に落ち着くと言語が自動的に発展するという考えが当然視されている。
信頼性と騙しの問題
ダーウィン的科学の観点からは、言語様のコミュニケーションが自然下で進化してくる上で第一の障害となるのは機械論的なものではない。むしろ、記号―音もしくは他の知覚できる形式と、それに対する意味との恣意的な結びつけ―が信頼できない、間違っているであろうものだという事実こそが第一の障害である[64]。諺にもある通り、「言うは易し[65]」なのである。信頼度の問題は、ダーウィン、ミュラー、その他の初期の進化論者には認識されていなかった。
動物の音声によるシグナルは大抵の場合本質的に信頼できる。ネコがのどを鳴らすとき、シグナルはその猫の満足している状態を直接に表している。それを信じることができるのは、ネコが正直な傾向があるからではなく、ネコには偽ってその音を出すことが不可能だからである。霊長類の音声的な鳴き声はネコの鳴き声よりは操作可能かもしれないが、やはり同じ理由により信頼できる―というのはそれらが偽りがたいものだからである[66]。霊長類の社会的知能は「マキャヴェリアン」―つまり、利己的で道徳的な良心の呵責にとらわれない。サルや類人猿はしばしば他のサルや類人猿をだますが、同時に、敵に騙されないように常に用心している[67]。逆説的だが、まさに霊長類の騙されまいとする用心こそが彼らにおいて言語的なものに連なる情報伝達の体系の進化を阻んでいる。ここで言語の発展が不可能になるのは、騙されないようにする最良の方法は直ちに証明できるものを除いてシグナルを無視することだからである。こういった用心をされると言葉は情報伝達の用をなさない[68]。
言葉によってだますことは容易である。言葉が嘘であったということがしばしば起これば、聞き手は言葉を無視することで対応しようとする。言語が働くためには話し手が一般的には誠実だと聞き手が信頼していなければならない[69]。言語に特有の性質として「ずらされた指示」がある。これは現在知覚している状況とは違う話題を指示できるということを指している。この性質のために発話は直近の「今」「ここ」に縛られない。このため、言語は普通ではないレベルの信頼を前提とする。このため言語の起源の理論は、他の動物ができていないとみられるやり方でヒトは何故お互いに信頼するようになれたのかを説明しなければならない(シグナル理論を参照)。
「母語」仮説
「母語」仮説は2004年にこの問題の可能な解決法として提案された[70]。ウィリアム・テカムザー・フィッチは、ダーウィンの血縁選択説[71]—血縁者間での遺伝子の利益の収束—がこの問題の答えの一部を成すと提言した。言語は元来「母語」であったとフィッチは主張している。最初のうち、母とその生物学的な子の間でのコミュニケーションのために言語が進化して、後に血縁関係にある大人たちにも広まると、話し手と聞き手の利益が一致する。遺伝子の利益が共有されると本来信頼できないシグナルであった言葉のために信頼と共同作業が生まれ、言葉が頼みがいのあるものとして受容されるようになって初めて進化し始めるとフィッチは主張している。
この理論を批判する者は、血縁選択が人に特有の物ではないことを指摘する。類人猿の母親はその子と遺伝子を共有しているし全ての動物がそうである。ではなぜ人だけが言葉をしゃべるのか?さらに、初期の人類が言語によるコミュニケーションを遺伝的に近縁な者とのみに制限していたというのも信じがたい。非血縁者とコミュニケーションをとったり互いに影響しあったりすることがインセスト・タブーによって禁じられていたに違いない。だから、フィッチの最初の前提を受け入れたとしても、仮定された「母語」のネットワークが血縁者から非血縁者へと広がることが説明できない[72]。
「義務的な互恵的利他行動」仮説
イブ・ウルベク[73]は、もう一つの標準的なダーウィン理論―「互恵的利他主義[74]」—に訴えて言語が進化するのに必要な異常なほど高いレベルの意図的な誠実さを説明している。「互恵的利他主義」は、「あなたが私の背中を掻いてくれたら私はあなたの背中を掻いてあげます」という原則で説明される。言語を扱う際には、これは「あなたが私に正直に話してくれたら私もあなたに正直に話します」ということになる。標準的なダーウィンの互恵的利他主義はしばしば互いに影響しあう個体間で生まれる関係だとウルベクは指摘する。しかし、言語がコミュニティー全体に広まるために必要となる互恵主義は個人の選択にまかされているどころか普遍的に強いられる必要があった。言語が進化するためには社会が全体として倫理規定に従っていなければならないとウルベクは結論している。
この説を批判する者は、いつ、どのように、誰に「義務的な互恵的利他行動」が強いられることがどうして可能であったかをこの説は説明できないということを指摘する。この欠点の救済策として様々な提案が申し出られてきた[75]。さらなる批判として、互恵的利他主義に基づいているとどうしても言語が働かないというものがある。会話が行える集団の中でヒトは、返答として聞き手が価値ある情報を提供しない限りは情報を保留するということは全くない。それに反して、彼らは社会的に価値のある情報を世界に宣伝したがっているようであり、返答として自分の考えを述べることのない聞き手にその情報をふれまわる[76]。
噂と毛づくろい仮説
ロビン・ダンバーによれば、噂は集団生活するヒトにとって、他の霊長類で毛づくろいがなしているのと同じ役割を担う―つまり噂のおかげで個々人が自分の人間関係を点検することができ、そのため「あなたが私の背中を掻いてくれたら私はあなたの背中を掻いてあげます」という原則に基づく友好関係を維持することができるのである。人類がまずまず大きな社会集団で生活し始めたために、知人友人全員と毛づくろいしあうという債務は不可能なほど時間がかかるようになった。この問題に対して、人類は「楽にできて非常に能率的な毛づくろい」―「声での毛づくろい」を発明した。今や、仲間を幸せにさせるためには手間のかからない音声による毛づくろいだけを行えばよい。それのおかげで、手は自由に他の債務をこなしつつ複数の仲間に同時に奉仕することができる。声での毛づくろいは徐々に言語―最初の内は「噂」という形―に進化していった[77]。
この理論を批判する者は、まさに「声での毛づくろい」の効率―言うは易しという事実―は時間と手間のかかる手での毛づくろいによって伝達される類の信号による参加の能力をひそかに害してきたと指摘する[78]。さらなる批判として、声での毛づくろい―喜ばせることはできても意味のない音声を出すこと―から認知的に複雑な構文の規則に従った発話への決定的な変化に関してこの理論は何も説明していないというものがある。
儀式・発話の共進化
儀式・発話の共進化説はクリス・ナイト[79]やジェローム・ルイス[80]、ニック・エンフィールド[81]、カミラ・パワー[82]、イアン・ワッツ[83]らによって熟議される以前に、本来、著名な社会人類学者のロイ・ラパポートによって提案されたものである[84]。認知科学者・ロボット工学者のリュック・スティールズ[85]は、自然人類学者・神経科学者のテレンス・ディーコンがそうである[86] ように、この一般的なアプローチのもう一人の卓越した唱道者である。
これらの学者たちは、「言語の起源の理論」のようなものは存在しえないと主張している。というのは、言語はばらばらの適応ではなく、より広範なもの―特に、全体としてのヒトの記号の文化―の内的な側面なのだからである[87]。子の広範な文脈と独立に言語を説明しようとする試みは、問題に対して解決を提出しないために見事空振りに終わってきた、とこれらの科学者たちは言っている。クレジットカードの発生をクレジットカードがその一部である広範な体系と独立に説明しようとする歴史家を想像できるだろうか? ある種の先進的資本主義社会―電子通信技術とデジタル計算機がすでに発明され、詐欺行為対策が行き届いているような―で制度的に認められた銀行の口座を持っている場合のみクレジットカードの使用は意味を成す。ほぼ同様に、言語も必要な社会機構・制度が一通りそろっていないと働かないであろう。例えば、野生下で類人猿がほかの類人猿とコミュニケーションをとる際には言語は働かない。最も賢い類人猿でもそういう状況下では言語を働かせられない。
嘘と代替物、言語に固有なもの[…]は言語に基づいた構造を有する全ての社会に問題を提起する。これはヒトの社会全てに言えることである。それゆえ、いやしくも言語が存在するならば「The Word」を打ち立てる必要があるし、The Wordは不変的な儀式によって打ち立てられる必要がある、と私は主張する。— ref stripmarker in |title= at position 72 (help)
この学派の主導者は、言うは易しということを指摘する。デジタルな幻覚と同じく、言葉は本質的に信頼できない。特別に賢い類人猿や、あるいは言葉を発することのできる類人猿ですら、野生化で言葉を使おうとしても、信念をなんら伝達できないであろう。本当に信念を伝えるような霊長類の発声―実際に彼らが使っている―は言葉とは違って、それらが感情的な表現である限りで、本質的に有意味で信頼できるものとなる、というのはそれらは比較的手間がかかっていて偽りづらいからである。
言語は実質的にコストがかからないデジタルなコントラストからなる。純粋な社会的慣習のように、この種のシグナルはダーウィン的な社会世界に関与する―それらは論理的不可能性である[89]。本質的に信頼できないために、言語は、ある種の社会―特に、記号の文化の上での事実(「制度上の事実」と言われることもある)が集団社会的承認を通じて構築・維持されているような社会―において信頼に値するという評価を構築できる場合にのみ働く[90]。いかなる狩猟採集社会においても、記号の文化の上での事実の中で信頼を構築する基本的な仕組みは集団的な「儀式」である[91]。それゆえ、言語の起源の研究者が直面する債務は大抵支持されている以上に多くの学問領域にわたる。それはヒトの記号の文化の進化による発生を総括的に扱うことを必然的に含み、対して言語は重要ではあるが補助的な構成要素にすぎない。
この理論の批判者にはノーム・チョムスキーがいるが、彼はこの理論を「非存在説」―まさに自然科学の研究対象としての言語の存在を否定している―と呼んでいる[92]。チョムスキー自身の理論は、言語は突然完成された形で現れる[93]というもので、これに対して彼を批判する者たちは、儀式・発話の共進化説では「存在しない」ものが―論理的構成物や手頃なSF―チョムスキーの理論ではそういった奇跡的な方法で現れているだけだと応答している[94]。この論争はいまだに解決を見ていない。
ジェスチャー理論
ジェスチャー理論では、簡素なコミュニケーションに使われたジェスチャーからヒトの言語が発展したとされる。
この理論は二種類の根拠によって支持されている。
ジェスチャーによる言語と音声による言語は同じ神経システムに依存している。大脳皮質の、口の運動を制御する領域と手の運動を制御する領域は互いに接している。
ヒト以外の霊長類は、少なくとも原始的なコミュニケーションにはジェスチャーや記号を使うことができる。また、彼らの使うジェスチャーのうちいくつかはヒトの物に似ている。例えば手をまっすぐ伸ばして行う「物乞いのポーズ」はヒトとチンパンジーが共有している[95]。
音声言語と手話はどちらも同じ神経構造に依存しているという、この説を強く支持する証拠が研究により明らかになった。大脳左半球に障害を抱え、手話を使った患者は手話を使ううえで、発話に問題のある患者が音声言語を使う場合と同様の不具合を示した[96]。手話を使うときと音声言語・書記言語を使うときとで大脳左半球の活動する領域に違いがないことが他の研究者により明らかになっている [97]。
ジェスチャー理論の重要な問題は、なぜ音声言語への移行が起こったのかである。さまざまな説明が提案された:
ヒトの祖先はどんどん多くの道具を使うようになっていった。それらの道具に手が占拠されたのでもはやジェスチャーを行う余裕がなくなった[98]。
手でジェスチャーを行うには話し手と聞き手が互いに見合うことが要求される。例えば夜や、葉によって視界が遮られているときなど、多くの状況では視覚的なコンタクトを取らずにコミュニケーションを行う必要がある。
混成理論では、かつては言語のある部分はジェスチャーの形を、別の部分は音声による模倣(「大騒ぎ」を模倣すること)の形をとっていたが、(類人猿やサルのそれのような)全てのシグナルが本質的に認知される必要もあったために、ジェスチャーや音声といった様々な様相が統合された、とする。この出来事において、複数の情報媒体はそれぞれ単に意図されている意味が明確になる必要があるだけでなくシグナルの信頼性において確信を抱かせる必要があった。一たびコミュニティー全体で契約上の合意が効力を持つだけでコミュニケーションの目的に対する信頼が自動的に当然視され、このことによって最終的にホモ・サピエンスは非常に能率的で、高速の―アナログではなくデジタルな―デフォルトの形式に移行しただろう、と提言されている。音声的な互いに異なる形質(音の差異)はこの目的にとって理想的なので、この時点で―本質的に説得力のある身体言語がもはやそれぞれのメッセージを伝えることを要求されなくなった時点で―手振りによるジェスチャーから現生人類のデジタルにコードされる「話される」言葉への根本的な信頼への決定的的な移行が生じている[99][100]。
ヒトは今でも話をするとき、特に共通の言語がないときに手や顔によるジェスチャーを用いる[101]。また、もちろん、膨大な数の手話も存在しており、一般的に聾者のコミュニティと結びつけて考えられている。言及しておくべき重要なこととして、手話は話し言葉に等しい複雑さ、洗練度、表現力を有する―認知機能も同等であるし使われる脳の部位も同じである。大きな違いは、「音素」が舌、歯、唇、息によって表現されて体の内部で作り出されるのではなくむしろ、手、体、顔で表現されることで身体の外部に作り出されることである。
ジェスチャー理論を批判する者は、霊長類においてより能率の低い非音声的なジェスチャーによるコミュニケーションが好まれて、(霊長類ではごく一部にしか現存しない)音の高さに基づいた初期の音声コミュニケーションが放棄された根本的な理由を示しがたいと、いうことに言及する。べつの挑戦として、「ジェスチャー・ファースト理論」がデイヴィッド・マクニールのような心理言語学者によって提起されている。
自己馴致類人猿理論
コシジロキンパラとその家禽化された亜種であるジュウシマツとの歌の違いを調査する研究によれば、野生のキンパラは高度に類型化された順序で歌を歌うが、家禽化された方は順序にほとんど縛られずに歌を歌う。野生のキンパラの場合、歌の統語構造はメスの好みに従わなければならず―性選択―、比較的固定されている。しかし、ジュウシマツの場合は、自然選択はブリーディング、この場合は色鮮やかな羽、に取って代わられている。そのため、選択圧から解放されて、類型化された歌の統語構造が霧散してしまえるようになる。1000世代も経るうちに、よく変化して学習される順序に取って代わられてしまう。さらに、野生のキンパラでは、他のキンパラから歌の順序を学ぶことはできない[102]。鳥類の泣鳴反応の分野では、先天的に知っている歌だけを歌える脳は非常に単純な神経経路しか持たない。強健な運動核(robust nucleus of arcopallium ;RA)と呼ばれる前脳の主な運動中枢は音声出力を中脳に連絡し、翻って脳幹へは運動核を突き出している。対照的に、歌を学習できる脳においては、RAは、学習や社会的経験に関係するものを含む、前脳の付加的な領域からの入力を受け取る。歌の生成の制御はより縛られなく、より分散的に、そしてより融通が利くようになる。
コミュニケーションの体系が高度に類型的な鳴き声・雄叫びのレパートリーに束縛されている他の霊長類と比較すると、ヒトは前もって指定された発声をほとんど有さない(その数少ない現存する例として笑うことや鳴くことがある)。しかも、こういった残存している先天的な発声は束縛された神経経路によって産生されているが、言語はヒトの脳の数多くの領域が関与する分散的なシステムによって産生される。
言語の顕著な特質として、言語を扱う能力は遺伝するが、言語自体は文化によって伝えられるということがある。言語に基づいた説明として構築されるのだが、物事を行う技術的な方法などの理解も文化を通じて伝えられる。そのため、言語を扱う能力と文化との強固な共進化的な軌道が見込める。最初おそらく初歩的な型の原言語を使っていた初期の人類は文化的な理解にアクセスしたほうがよかっただろう。そして子供の脳が最初に学ぶ原言語によって伝達される文化的な理解は既に得た利益を付与することで伝えられた可能性が高い。
そのため初期の人類は疑いなく理解に生き残るためのカギを与える文化的ニッチを作り出し、そういったニッチのもとで繁栄する能力を最大限に活用する進化的変化を経るニッチ構造に関わってきたし、関わり続けている。より重要なニッチにおいて本能が生存にとって重要であるように保つ作用を持つ選択圧はヒトが自ら作り出した文化的ニッチにより依存していくことを楽にすると期待されたが、文化的適応を楽にする革新―この場合は、言語を扱う能力における革新―が広がっていくことも期待された。
ヒトは自らを馴致した類人猿であるとみなすことは、ヒトの進化について考えるうえで有用な方策である。ちょうど飼いならされることでキンパラの類型化された歌の選択が寛容になされるように―メスによる選択がバード・ブリーダーや彼の客たちによる選択に取って代わられるように―、ヒトが文化的に馴致されることで、ヒトの数多くの霊長類的な特徴の上での選択が寛容になされ、古い経路が退化したり再構成されたりできるようになる。哺乳類の脳が発展する非常にあいまいな方法があると―それらは基本的に次の段階の神経相互作用の準備となる一揃いの神経相互作用とともに「ボトムアップ」に自己構成するのだが―退化した経路がシナプス形成の新しい機会を模索し、発見する傾向がある。この、脳内の神経経路の先天的な脱分化能力はヒトの言語が複雑な機能を持つうえで重要な役割を果たす。そして、キンパラの例のように、そういう脱分化は非常に短い期間で起こる[103][104]。
コミュニケーション、音声、言語
多くの科学者が音声と言語を区別している。(コミュニケーションのコンテクストとして、そしてとくに概念を形成してそれを伝えるための認知能力としての)言語は精神遅滞や学習障害でも(特異性言語障害のような)いくつかの場合には使えるし、動物界でも知られていると学者たちは信じている。例えば、いわゆるトーキング・バードは様々な能力によってヒトの音声をまねることができる。しかしこのヒトの出す音をまねる能力は統語能力の習得とは大きく異なる。同様に、音声を発することは、現代の手話が証明しているように、言語を使用する上で必須ではない。手話は音声よりむしろ手振りによる記号・文法を言語の基礎として利用している。モールス信号だとか手旗信号といった者の体系は別の形のコミュニケーションだが、必ずしも言語ではない。
ヒトの言語をヒト以外のコミュニケーションの体系から区別するカギとなる特性は再帰性であると主張されてきた[105]。この言語学的な意味での再帰は、例えば(The man with the old crusty eyepatch he wore since WWII) walked to (the store that burned down before his uncle had put down the downpayment)という複合的な文や、あるいはより情報量の少ないThe man walked to the store which the man who walked to the store walked toという文のように、語句の中に語句を挿入する(あるいは埋め込む)ことを言う。ムクドリ(Sturnus vulgaris)がこの再帰性を含む文法を習得できることがシカゴ大学での実験により明らかになった[106]。実験者たちはムクドリに文脈独立なという文法を訓練させた。ムクドリは文法的に許容できる発話を認め、そうでない発話を拒否することができたと彼らは報告している。さらに、ピラハン語はヒトの言語でありながら再帰性を示さないとダニエル・エヴェレットが主張している[107]。
ヒトの言語のカギとなる特性は問う能力にあるとも提言されている[108]。(特にボノボやチンパンジーのように)ヒトである調教師と(主に視覚的な形でのコミュニケーションを利用して)交流するようになり、複雑な質問や要求に正しく応じる能力を示す動物もいたが、彼らでも、そしてもっとも単純な形であっても自ら問いを発することはできなかった。ヒトの子供は統語構造を使い始める遥か前、彼らの発達段階のうち喃語期に(問うイントネーションを使うだけではあるが)初めて物を問うことができるようになる。異なる文化に属する赤子はそれぞれの社会環境で母語を習得するが、地球上に存在する言語は例外なく―声調言語であれ、非声調言語であれ、抑揚言語であれ、アクセント言語であれ―一般疑問文には上昇調の「問うイントネーション」を使用する [109][110]。この事実は問うイントネーションの普遍性の強い証明である。他に言及しておくべきこととして、激しい喜びの任意の表現は話し手の言語や国籍にかかわらず、概して下降調で発音され、これもまた普遍的であるということがある。
認知能力の発展と言語
言語を使用するものが有する一種の騙す能力は高いレベルの指示、つまり話し手にとって直近ではないものについて述べる能力である。この能力はしばしば心の理論、つまりそれぞれの欲求や意図を持っている自分とよく似た存在として他者を認識すること、と結びつけて考えられる。チョムスキー、ホイザー、フィンチ(2002年)によれば、この高いレベルの言及は六つの相からなる:
心の理論
個と性質の区別のような、非言語的・概念的な表現を習得する能力
指示の音声的シグナル
合理的・意図的なシステムとしての模倣
意図的なコミュニケーションの証拠としてのシグナル産生の任意の制御
数表現
心の理論
サイモン・バロン=コーエン(1999年)は、40000年以上前からの以下の物の使用の証拠に基づいて、心の理論は言語使用に先立たなければいけないと主張している:意図を持って行われるコミュニケーション、失敗したコミュニケーションの修繕、教育、意図的な説得、意図的なごまかし、計画や目的の共有、話題や焦点の意図的な共有、騙り。さらに、こういった能力を示す霊長類もいるが皆がそうではないとバロン=コーエンは主張している。コールとトマセロのチンパンジーに関する研究の中にはこのことを支持するものがあって、チンプはそれぞれ他のチンプにも意識、知識、意図があることを認識しているようだが、間違った信念については理解できていないようであるという。多くの霊長類が心の理論を幾分か認識しているような傾向を示すが、ヒトが持っているのと完全に同じ心の理論を持つ者はいない。
最終的に、言語使用のために心の理論が必要だという点に関してはある程度合意がなされている。そのため、ヒトにおいて心の理論が完全に発達したことが完全な言語の使用にとって必要な先駆者だったといえる。
数表現
ある注目すべき研究で、ラットとハトが食料を得るためにボタンをある回数押すよう要求された。彼らは四回以下の回数は非常に正確に区別できたが、回数が増えると失敗する確率が上がった(Chomsky, Hauser & Fitch, 2002)。松沢哲郎(1985年)はチンパンジーにアラビア数字を教えようとした。この点に関して霊長類と人との違いは非常に大きい、というのは1から9までの数字がそれぞれ一定の量を表していることを学ぶのにチンパンジーは訓練時間中に何千回もの思考を必要とするのである。だが、1、2、3まで(時には4も)を学んだヒトの子供は後者関数(つまり、2は1より1大きい、3は2より1大きい、4は3より1大きい;一たび4まで達すると子供はエウレカの瞬間を経てあらゆる整数「n」の価値が前の整数より1大きいことを理解する)を用いてより大きい整数の価値を理解する。要するに、霊長類は他の指示記号にアプローチするときと同様に数の意味を一つずつ覚えていくのに対し、ヒトの子供は最初に任意の記号のリスト(1,2,3,4...)を学ぶと続いてそれらの精確な意味を習得する[111]。この結果はヒトの数表現において言語の「無制限生成性」が適用されている証拠だとみなされうる[112]。
言語の構造
普遍文法
ノーム・チョムスキーと彼が築いた言語学派は、ヒトは生まれつき脳に普遍文法を固く組み込まれていると主張している。これ以外に子供が僅かな言語刺激だけでにどのように言語を習得するのかを説明する方法はないと彼らは主張している。普遍文法は地球上の言語の全文法体系を内包するある種の文法的なモデルからなるに違いないと彼らは主張している。普遍文法の初期設定は少なくとも見て取れる限りではクレオール言語と同じである。こういった初期設定は子どもが個別の言語に合わせて言語を習得する段になると無視される。子供が言語を習得するときには、最初の内はクレオール言語の文法と矛盾するような個別言語の特性よりもむしろクレオール様の特性を習得する[39]。
語彙音韻論的原則
チャールズ・ホケット(1966年)はヒトの言語を記述する上で本質的だとされる特性のリストを詳述した。語彙音韻論的領域では、このリストのうち二つの特性が最も重要である:
生産性:言語使用者は全く新しいメッセージを作ったり理解したりできる。
新しいメッセージは古いものを混ぜたり、古いものから類推したり、古いものを変化させたりすることで自由に作れる。
新しい要素も古い要素も状況・文脈に応じて自由に新しい意味論的債務にあてがわれる。つまり、あらゆる言語において新しい語法が作られ続けているのである。
(パターン形成の)二重性:数多くの有意味な要素が、都合のいいことに数の少ない、独立して意味を持つことはないがメッセージを差異化する要素によって作られている。
言語の音韻体系は有限個の単純な音素からなる。各言語の特有の音素配列論的規則の下でこういった音素が再結合・連結させられ、形態論的体系と際限ない語彙が生まれる。言語のカギとなる特性は、簡素で有限な音韻論的要素によって、規則がその中の各要素を決定しているような無限の語彙体系が生まれることと、意味がその形式に密接に結びついていることである。音韻論的統語論は先立って存在する音韻論的要素の単純な結合である。ヒトの言語のもう一つの本質的な特性もこれに関連している。先立って存在する要素を結びつける語彙統語論によって意味論的に新しく互いに異なる語彙論的要素が生まれる。
ある語彙音韻論的要素がヒトの外部に存在することで知られている。自然世界に存在するものは全て(もしくはほとんど全て)何らかの形式で記述されてきたが、ごく僅かなものが同一種内に共存している。鳥の歌、歌う類人猿、クジラの歌、これら全てが音韻論的統語論を示しているが、音的な要素を組み合わせて拡張された新しい意味を欠く大きな構造を作り上げている。ある種の霊長類は各要素が世界に存在するなんらかのものを指示するような単純な音韻体系を有している。しかし、ヒトの体系とは対照的に、こういった霊長類の体系の要素は通常個々独立して生じ、語彙統語論の欠如を示す。が語彙統語論を持ち、二種の鳴き声を組み合わせたりする(捕食者が来たことを示す「ブーム」という鳴き声と危険の兆しが去ったことを示す鳴き声が組み合わせられるなど)が、これが語彙論的、もしくは形態論的な現象なのかは不明確である。
ピジンとクレオール
ピジンは粗末な文法と限定された語彙しか持たない著しく単純な言語である。その初期段階においてピジンは主に名詞、動詞、形容詞からなり、冠詞、前置詞、接続詞、助動詞をほとんどあるいはまったく有さない。しばしば安定した語順を持たず、単語が語形変化を起こさない[39]。
ピジンを話す集団の間での交流が長期間にわたって維持されると、そのピジンは多くの世代を経てより複雑になることがある。ある世代の子供たちがピジンを自分たちの母語として採用すると、ピジンは固定的になり固定的な音韻論、統語論、形態論、統語的埋め込みを有して複雑な文法を身にまとったクレオール言語へと発展する。そういった言語の統語論および形態論はしばしばその両親となった言語のそれに明確には由来せず特有の革新を持つ。
世界中のクレオール言語が研究され、クレオール言語は文法の面で互いに著しい類似性を示し、一様にピジンから一世代で発展していることが分かった。この類似性は共通の言語に由来していないクレオールの間でも明白である。また、クレオールは独立に生じていても互いに類似している。統語論的類似性にはSVO語順であることも含まれる。異なる語順の言語から生じた場合でもクレオールはしばしばSVO語順へ発展する。クレオールは定冠詞と不定冠詞の同じ用法のパターンを有する傾向があり、また、親言語と違っていてもある一定の語句構造の移動規則を有する傾向がある。[39]。
言語の進化の生物学的なシナリオ
現在全人類が言語を有している。この中には旧大陸を発って4万年ほど経つタスマニア島やアンダマン諸島のアボリジニのような人々も含まれる。
言語の単一起源説は、全ての話されている音声言語がそこから生まれたような世界祖語と呼ばれることもある一つの祖語がかつて存在したという仮説である(これはむしろしばしば独立に生じてきたと知られている手話には当てはまらない)。
出アフリカ説によれば、15万年ほど前のアフリカに生きていたと推定される女性、ミトコンドリア・イヴに今日生きている人は皆由来するという。この説の下では、世界祖語がおおよそその頃にまで遡る可能性が出てくる[113]。ボトルネック効果も主張されており、なかでもトバ・カタストロフ理論では、7万年ほど前のある時点で世界全体で人口が1万5000~2万人程度まで減少したといわれている[114]。もしこれが本当に起こったなら、そういったボトルネックは世界祖語を話す人間の時代の優れた候補であり、世界祖語を話す人間が必ずしも言語の最初の発生に居合わせたわけではないということを表す。
多地域仮説は、現代話されている言葉は全ての大陸で独立に進化してきたという、単一起源説の唱道者には受け入れがたい主張を必然的に伴う[115][116]。
人間の発話の生物学的な基礎
喉頭の下降は先述したようにヒトの声道に特有の構造で音声および言語が発展する上で必要不可欠だとされている。しかし、これは水生哺乳類や大型のシカ(アカシカなど)の他の種でも見られるし、喉頭はイヌ、ヤギ、アリゲーターにおいても発声時に下降することが観察されている。ヒトにおいては、喉頭が下降することで声道の長さが伸び、ヒトが出せる音の多様性を広げている。ヒトにおける非音声的コミュニケーションの偏在性は言語が発展する上で喉頭の下降が必須ではない証拠となっていると主張する学者もいる。
おまけに喉頭の下降は言語的機能を持たず、(予期されていたよりも低い程度の音声化を通じて)動物の外見的な大きさを強調しすぎているきらいがある。そのため、喉頭の下降は音声を発する上で重要な役割を果たし、人が出すことのできる音声の多様性を広げるのにもかかわらず、特にこの目的のために発展してきたわけではなく前適応の例である、ホイザー、チョムスキー、フィッチ(2002年)やジェフリー・レイトマンによって主張されている。
歴史
宗教と神話学において
言語の起源を探すことは神話に由来する長い歴史を持つ。ほとんどの神話では人間に言語の発明を帰しておらず、ヒトの言語に先立つ神の言語について語られている。鳥の言語のような動物や魂とのコミュニケーションに使われる神秘的な言語も一般的であり、ルネサンスの時期に特に関心がもたれた。
歴史的実験
実験によって言語の起源を発見しようとした人々に関する逸話が歴史上数多く存在する。そういった話の最初の物がヘロドトスによって(『歴史』2.2)語られている。ファラオのプサメティコス1世(紀元前7世紀)が二人のヒトの子供を羊飼いに、彼らの最初の言葉が決定するまでは決して子供たちに話しかけてはいけないが羊飼かいは彼らに食料を与えて育てなければいけないという命令とともに育てさせた。子供のうちの一方が腕を投げ出して「ベコス」と叫ぶと羊飼いはその言葉はフリュギア語だと結論した、というのは「ベコス」はフリュギア語でパンを意味するからである。ここをもって最初の言語はフリュギア語だとプサンメティコス1世は結論した。スコットランドのジェームズ5世が同様の実験を試みたとされる。彼の実験の対象となった子供たちはヘブライ語を話したとされる[117]。中世の君主フリードリヒ2世とアクバルも同じ実験を行ったとされる。しかし彼らの実験対象となった子供たちは言葉を話さなかった[118]。
研究史
18世紀後半から19世紀前半にかけてヨーロッパの学者が、世界の言語は原始的なものから先進的なものまで発展の様々な段階におり、最も先進的だとされる印欧語において最高潮に達すると考えた。
近代的な言語学は18世紀後半になってやっと始まり、ヨハン・ゴットフリープ・ヘルダーやヨハン・クリストフ・アーデルンクのロマン主義的・アニミズム的な理論が19世紀までよく影響力を保った。言語の起源の問題は系統だったアプローチでは近づきがたかったようで、1866年にパリ言語学協会が言語の起源に関する討論を禁止し、答えることのできない問題とみなしたのは有名である。歴史言語学の体系的なアプローチが19世紀の間に徐々に発展し、カール・ブルークマンその他の青年文法学派においてその頂点に達した。
しかし、学者たちの言語の起源に対する関心は1950年代以降に普遍文法、集団比較、言語年代学といった新しい思想とともに(論争を伴いながら)徐々にしか再燃しなかった。
独立した分野としての「言語の起源」は神経言語学、心理言語学、人類の進化の研究から生まれてきた。1988年には『言語学の書誌』で「言語の起源」が独立した見出しで心理言語学の下位分野として紹介されている。進化言語学の専門の研究機関は1990年代にのみに起こっている今日の現象である。
ニカラグア手話の創生
1979年のサンディニスタ革命で誕生したニカラグア新政府は、国内が落ち着き始めたころに最初の国家的な施策として識字率向上を掲げ、その一環として聾者である子供に対する教育を始めた。これ以前にはニカラグアには聾者の共同体は存在しなかった。特別教育施設は最初に、50人の聾者児童が出席するプログラムを創立した。1983年には施設に400人の児童がいた。施設は世界中で使われている手話による教育設備をなんら有しなかった。そのため、児童は手話を教えられることはなかった。その代わりに言語プログラムでは話し言葉のスペイン語と読唇術が重視され、教師による手振りの使用は(アルファベットを表す単純なサインを使った)指で文字を綴ることに限定された。しかし児童は文字も、スペイン語の言葉の意味も理解できず、このプログラムは成功しなかった。
施設に最初に来た児童らは家族との生活の中で習得したごく僅かで未熟なジェスチャーしか使えなかった。しかし、初めて児童らが家族以外の集団で一緒にいるようになると、彼らは互いの手振りをもと自分が知っていたものに加えて使うようになった。さらに年数がたち、より多くの、より若い児童が参加すると、言語はより複雑さを増した。生徒とのコミュニケーションをあまりとれていなかった彼らの教師らは、児童が互いにコミュニケーションを取り始めたのを敬意を持って眺めた。
後にニカラグア政府はアメリカ合衆国ノースイースタン大学の手話の専門家ジュディー・ケグルの助けを懇請した。ケグルや他の研究者らはその言語の分析を始めると、年長の児童らのピジン様の言語を、より若い児童らが動詞の一致とその他の文法の規則を成立させて、高いレベルの複雑さへと到達させていることに気付いた[119]。
脚注
参考文献
関連項目
人類の進化
言語獲得
祖語 - 世界祖語
語族
文字
外部リンク
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旭日旗(きょくじつき)は、太陽および太陽光(旭光)を意匠化した旗。光線(光条)が22.5度で開く16条のもの(十六条旭日旗)がよく知られている。
概要
「旭日」の意匠自体は比較的古くから広く親しまれており、一部は「日足(ひあし)」と呼称され武家の家紋として用されていた(「日足紋」)[1][2]。特に九州地方の武家に好んで使用され、例として、肥前の龍造寺氏や筑後の草野氏の「十二日足紋」、肥後の菊池氏の「八つ日足紋」等がある。九州地方に多いのは肥前・肥後が「日(ヒ)の国」と呼称されていたことと関係があるという説がある[3][注 2]。旭日には古来からいくつもの種類があり、光線が四方八方に雲なく広がる意匠はハレを表現し、慶事などの際にめでたさ・景気の良さを強調するために用いられていた意匠でもあった[4][5]。また、紅白の組み合わせも同じく日本において古くよりハレを意味し、縁起物として多用されていたものであった。その旭日と紅白を意匠とし、日章旗(#国旗としての日章旗)を基に白地に太陽光を表す赤系の光線(旭光)を用いたものが「旭日旗」であり、1870年に大日本帝国陸軍の旗章たる「陸軍御国旗(軍旗)」として考案・採用、法令上初めて制定されたものが旭日旗の起源である(#軍旗・軍艦旗としての旭日旗)。遅れて1889年には、大日本帝国海軍においても軍艦旗として旭日旗を採用。第一次世界大戦時には陸軍の戦闘機の国籍標識に旭日の意匠が一時的に採用された。第二次世界大戦後においては、1954年の自衛隊の発足に伴い陸上自衛隊において「自衛隊旗」、海上自衛隊において「自衛艦旗」として旭日旗が採用されている。
この陸軍御国旗として考案された旭日旗は光線が16条(十六条旭日旗)であるが、いわゆる旭日旗全体では他にも4条・8条・12条・24条など光線の本数が多彩に渡るものが存在しており、これらも統一して旭日旗と称される。
軍旗に関わらず、明治時代以前から旭日の意匠が表現する「ハレ」・めでたさ・景気の良さにあやかり、民間においても祭、祝事、復興など祈願や企業・商品のロゴ、大漁旗、スポーツの応援に使用されている[6][7][8][9][10][11]。
1870年に大日本帝国陸軍の陸軍御国旗(軍旗)として初めて使用され、1889年に大日本帝国海軍の軍艦旗としても採用された。現在は、陸上自衛隊で自衛隊旗、海上自衛隊で自衛艦旗として使用されている。このような沿革から、戦前・戦中(日本軍)から戦後(自衛隊)までを通じた、日本の軍事のみを象徴すると見なして使用を禁止させようという主張が韓国、又は中国にある[12][13][14][15]
また、日本では、旭日旗と同様・類似の意匠は、戦前からを含め、現在に至るまで、商工業、商品デザイン、広告、スポーツ応援、その他の軍と無関係な民間・民生の分野においても広く普及しており、また、政府機関・公的機関においても、勲章や警察章などでも使用されている。
1922年(大正11年)、来日したイギリス王太子エドワード8世(のち国王)とその随行員が参加した祝賀会とその余興。会場の背景には旭日旗が掲げられていた
同左
同左
同左
日本軍の軍旗・軍艦旗としての旭日旗
国旗としての日章旗
江戸時代の1854年(安政元年)に日本船の船印として幕府に採用された「日章(日の丸)」の幟は、1859年(安政6年)に「日章」の旗(「日章旗」)になり、また事実上の日本の国旗(御国総標)となった。
開国以降、この日章旗は維新政府のもと1870年2月27日(明治3年1月27日)の「明治3年太政官布告第57号」で「御国旗(御國旗)」(=商船旗・軍艦旗)とされ、改めて日本の国旗として扱われるようになった。もともと「白地に赤丸(日章)」の意匠は平安時代末期から使用され、また縁起物として江戸時代当時には広く普及していたものであり、日章旗の意匠自体はこれに由来する。
軍旗・軍艦旗としての旭日旗
いわゆる「旭日旗」は、明治政府が事実上の「国旗」として上述の日章旗を制定したのとほぼ同時期、建軍まもない当時の帝国陸軍の軍旗として、1870年6月13日(明治3年5月15日)の「明治3年太政官布告第355号」で「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」として制定されたものである。この陸軍御国旗の意匠は、日章位置が日章旗と同じく中央に位置し、さらに皇室の紋章である菊花紋章と同じ16条の光線(十六条旭日旗、紅白を合わせれば十六八重表菊と同じ三二条)を放つ図案であり、兵部省(陸軍省の前身)において考案された。これは日章旗を幕府陸軍が軍旗として採用したため、それと敵対した新政府軍の系譜たる陸軍に新たな象徴たる軍旗(=旭日旗)が必要とされたことによる。
新生日本の各藩統合陸軍のシンボルであるこの陸軍御国旗は、近代陸軍編制の基幹部隊である連隊に対し授与されるもので、廃藩置県が終わり本格的に陸軍が発足したのちの1874年(明治7年)1月23日、大元帥である天皇(明治天皇)から近衛師団隷下の近衛歩兵第1連隊と近衛歩兵第2連隊に親授されている。なお、この軍旗授与式において明治天皇は「近衛歩兵第一連隊編制成ルヲ告ク 仍テ今<b data-parsoid='{"dsr":[6899,6907,3,3]}'>軍旗</b>一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々武威ヲ発揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」の勅語を軍旗と共に連隊に賜っており、当時から「陸軍御国旗」を指して「軍旗」と称す事は極めて一般的であった。
1879年(明治12年)12月2日、「明治12年太政官布告第130号」によって、従来の陸軍御国旗は旭日の意匠と竿頭の菊花紋章はそのままに、縦横の寸法を1m以下にし四方に房を付けたものにされ、名称を一般呼称であった「軍旗」と変え改めて制定し直された(「陸軍御国旗」を指して「軍旗」と称す事はかねてより一般的であった)。この軍旗は歩兵連隊および騎兵連隊に授与されたことから、俗称として「連隊旗(聯隊旗)」とも呼称されている。
その陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、「明治22年勅令第111号」で従来の日章旗から変更されるかたちで、海軍は陸軍の軍旗の意匠(旭日旗)を流用・模倣し、日章位置が旗竿側に寄る旭日旗を「軍艦旗」として制定している。
日本陸軍のものは、軍旗#大日本帝国陸軍を参照。
日本海軍のものは、軍艦旗#日本の軍艦旗・自衛艦旗、大日本帝国海軍の旗章を参照。
陸軍臨時航空隊の国籍標識
第一次世界大戦時に編成された日本軍初の実戦航空部隊(飛行部隊)たる、帝国陸軍の臨時航空隊飛行中隊の装備機(モーリス・ファルマン MF.7・ニューポール NG)の垂直尾翼には、「日本の機体」という国籍を明示するための「国籍標識」相当として「16条の旭日」が描かれており、これらは青島の戦いに投入されドイツ帝国陸海軍と交戦している[16]。後に日本軍航空部隊の国籍標識は「日章のラウンデル(日の丸)」となり、自衛隊航空部隊にもこれは継承され主翼や機体側面に描かれているが、最初期はこの様に「旭日」模様が用いられていた。
アメリカ合衆国における描写など
戦時のプロパガンダ映画における描写
ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)は、第二次大戦の時期に複数、ドナルドダックを主人公とする戦争プロパガンダ映画を制作しているが、その内、ドナルドダック・シリーズに含まれる『総統の顔』、『ドナルドの襲撃部隊』の2作品、および、アメリカ合衆国財務省からの依頼で制作されたためにシリーズに含まれない『新しい精神』、『43年の精神』の2作品では、アメリカ合衆国にとっての敵国軍としての日本軍を象徴する旗として旭日旗が登場し、同様にアメリカ合衆国にとっての敵国軍としてのドイツ軍を象徴する旗としてハーケンクロイツが登場するのと対置して描写されている[17][注 3]。
戦後のポップカルチャーにおける描写
米国が旭日旗に反感も持っていないことはさまざまな事例から確認ができる。在日米空軍、三沢基地、佐世保の米海軍基地など米国の国軍では公式のエンブレムに旭日旗が描かれており、1986年の米国映画トップガンには主人公の同僚パイロットが旭日旗の描かれたヘルメットを着用して登場している[18]。1980年ごろには米国で旭日旗のデザインは定着し、1984年の米国映画ベスト・キッドでは主人公が旭日旗柄の鉢巻き(Rising Sun Headband)を締めており、1985年にビルボード誌アルバム・チャートの74位を記録したラウドネスのアルバム「THUNDER IN THE EAST」のジャケットは旭日旗をモチーフにしている。
浮世絵・錦絵
戦前
「帝国陸軍の軍旗・旭日旗」は、上掲・後述の戦争画(浮世絵)や軍歌『敵は幾万』(歌詞第2番冒頭「風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ」)などで散見されるように、明治時代初期当時から既に有名な存在であった(例として、1877年(明治10年)2月15日開戦の西南戦争を題材とし、同年3月ないし4月の早々に描画・出版された一連の戦争画(錦絵・浮世絵)の内、『田原坂激戦之図』小林永濯、『九州植木口激戦図』『鹿児島征討記肥後国二重嶺戦争之図』早川松山、『鹿児島征討記之内 高瀬口河通之戦争』『鹿児島記聞之内 副将村田討死之図』大蘇芳年、『鹿児島戦記』楊洲周延、『鹿児島紀聞 吉次越激戦篠原討死之像』『城山攻撃戦図』山崎年信[19]他多数においては、官軍(帝国陸軍)の象徴として「陸軍御国旗(軍旗)」が描かれている)。
昭和2年に描かれた錦絵「帝都丸之内東京駅の偉観」では、東京駅の正面に日章旗と旭日旗が並んで掲げられている様子が描かれている[20]
自衛隊旗・自衛艦旗としての旭日旗
第二次世界大戦敗戦に伴い、日本の陸海軍は解体され軍旗としての旭日旗の歴史が一旦途切れるも、1954年(昭和29年)に発足した陸上自衛隊では旧陸軍時代の軍旗を元に考案された八条旭日旗の「自衛隊旗(連隊旗)」が、同じく同年発足の海上自衛隊では旧海軍時代の軍艦旗と同じ意匠の「自衛艦旗」が採用され、旭日旗の使用が復活した。この自衛隊旗と自衛艦旗の選定にあたり、保安庁の両幕僚監部は専門家に意見を伺うなどをしている。選定の庁議では艦旗が旧軍艦旗と同一であったことに懸念の声もあったが、保安庁次長の増原惠吉は「(両旗は)旭光を中心とした点で保安庁としての思想は一致している」としてそのままでの決定となった[21]。
陸上自衛隊のものは、軍旗#陸上自衛隊、自衛隊の旗#陸上自衛隊の旗を参照。
海上自衛隊のものは、軍艦旗#日本の軍艦旗・自衛艦旗、自衛隊の旗#海上自衛隊の旗を参照。
なお、陸上自衛隊が自衛隊旗として採用している八条旭日旗の意匠自体も十六条旭日旗と同時代の古くより存在しており、例として1880年(明治13年)に永島孟斎により描かれた箱館戦争を描いた浮世絵、『箱館大戦争之図』や『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』[22]では、官軍(新政府軍)が自衛隊旗の意匠とほぼ同じ八条旭日旗を掲げ、旧幕府軍と戦闘を行っている場面が描画されている。
民間・商業・スポーツなど僥倖利用
旭日の意匠は、「僥倖」(ぎょうこう)を意味し、ハレの祝辞に掲げられていたことにもちなみ、「軍旗・軍艦旗」の枠を超えて民間においても広く普及し、現代においても祝賀のイベントや「天晴れ」の象徴としても多く利用されており、漁師の大漁旗としても好んで使われ、また、「めでたい(時に脳天気という意味も含めて)」ことや「景気が良い」ことを表す漫画的表現などにも組み込まれることが多いデザインであり、或いは、以下のように民間において企業ブランドや商品デザインの一部などにも用いられている。
朝日新聞社の社旗等のブランドに使われている。1879年朝日新聞は、旭日の意匠を用いたデザイン(水平線上に半体をあらわして光を放つ赤い旭日の中に『朝』の字を白抜きにした図柄)を考案し、これを事件現場で取材する際の目印として大阪府庁に提出した。旭日章に似た目印である。この目印が書かれた提灯を持って火事の現場へ出入りしたという。1889年、この目印を左右二つに分ける形で二種類の社旗を作った。一般的な旭日旗の一部分を成すようなデザインとなっている[注 4]。又、この目印から、白抜きの朝の字を取り旭光の数を減らしたものが社章となっている[23][24]。これら社旗・社章のデザインは新聞販売所の看板等に見られる。さらに、社旗のデザインは同社所有の飛行機・ヘリにも使われている[25]。1937年より使用した神風号・朝風号では、機体の両側面と両翼の端に旭日の社旗のデザインが取り入れられている[26]。1952年より使用した朝風号(二代目)・若風号[27][28]から近年の「はやて」「あすか」(2002年より使用中)[29][30][31]に至るまで同様に旭日の社旗を配置したデザインを踏襲している[27]ただし、両翼部分については、戦前の二機は白抜きの朝の字が無く、戦後のものは白抜きの朝の字が入っている。また、戦後のものは左翼側の旭日意匠が翼の上に配置されている。朝日新聞社が主催する全国高校野球選手権大会においては、開幕試合の始球式は朝日新聞社のヘリコプターからボールを旭日の大阪本社社旗と供に投下する[29][32]。地方大会の始球式でも同様に投下が行われる[25]。なお、朝日新聞社ソウル支局においては、社旗を掲示していないと夕刊フジの取材に回答している[33]。
アサヒビールの名前由来の一つとして、「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日(旭日昇天)のごとき将来性、発展性を願ったもの」と言われる[34]。1958年に発売された日本発の缶ビールであるアサヒゴールドには旭日の意匠をつかったデザインを使用。レイモンド・ローウィによるデザインである。復刻版として2009年に発売された[35]。同じく2011年発売の復刻版である初号アサヒビール復刻版にも旭日の意匠が使われている。1892年当時の中井芳滝によるデザインをそのまま使用した。これらのデザインは1世紀に渡り「アサヒブランド」の象徴となっている[36]。
アサヒコーポレーションの履物ブランドのロゴに使われている。同社とブリヂストンの前身である「志まや」は1914年、「志まや足袋」から「アサヒ足袋」へと商品ブランドを変更する際に、「波にアサヒ」という旭日の意匠を使ったマークを採用した。当時の経営者石橋正二郎の祖父の代から続く古風な「志まや」から「アサヒ」へと商品イメージを一新する狙いがあった。大正から昭和にかけゴム靴の生産を始め、「アサヒ靴」というブランドにおいても同様の旭日のマークが使われており同社の代表的商標となった[37][38]。
あけぼののブランドマークとして缶詰や冷凍食品などの商品に使われている。
1911年、イギリスに遊学していた園田武彦がハンドレページと共同で作った「園田式飛行機」には、尾翼に旭日が描かれていた。同飛行機のエンジンは園田が日本に持ち帰り、民間航空の発展に繋がった[39]。
日本オーシャンレーシングクラブ(NORC、後に日本外洋帆走協会、現日本セーリング連盟)は、1954年1月の発足にあたり旧軍艦旗デザインの旭日旗をヨット国籍旗(エンサイン)として採用した。発足時のNORC副会長であるイギリス人の手によりロイズのヨット年鑑に公示登録がなされた。しかし、NORC国籍旗は同年7月の自衛隊発足後に自衛艦旗との「重複」が判明する。海自側から求められて旗のデザインは防衛庁に譲渡されることとなった[40][41][42]。NORCは新たに青地の左上(カントン)に八条旭日旗(旧大将旗)を配置した旗をエンサインとした[43][44]。
プロ野球中日ドラゴンズの私設応援団の全国竜心連合が応援旗として青地に旭日旗を描いた旗を使用している。
室山まゆみ原作のアニメ「あさりちゃん」ではオープニング冒頭のタイトルバックにおいて、藍色の空と黄色の暁光によって、地平線から昇る旭日が表現されている。
旭日デザインの大漁旗
明治・大正期の輸出用日本茶(緑茶)の木箱ラベル (Fujiyama Tea Co.)。このようなラベルは蘭字と呼ばれた。
朝日新聞社社旗
第92回夏の甲子園始球式。朝日新聞社ヘリから、ボールが旭日の大阪本社社旗と供に投下。(2010年8月7日)
1928年アムステルダムオリンピック 人見絹枝選手
サッカー
前述の様に勝利の祈願の旗として、サッカー日本代表戦でサポーターが応援旗として振ることがある[45]。日本代表のサポーターの中には、赤色をチームカラーの青色に変更した旭日旗を応援旗にする者もいる。また、、、、、等の他のチームのサポーターも赤色をチームカラーに変更したり、や、の様に横断幕の一種として掲げたり、コレオグラフィーとして表現するチームもある[46][47]。これは、国際サッカー連盟 (FIFA) が、そのスタジアム安全警備規定第60条第2項[48]で「試合主催者は、地元の警察当局と連携しながら、スタジアムやその近辺で、サポーターが挑発や攻撃的行為を行わないようにしなければならない。例えば、選手や審判、相手チームのサポーターが許容できないレベルの挑発や攻撃的なヤジや差別行為、さらには攻撃的、挑発的な内容を含んだ横断幕や旗などもこれに含まれる」と定めていることを根拠としている[注 5]。
また、日本サッカー協会 (JFA) も「試合運営管理規定」に「第4条(禁止行為)施設に入場しようとし、または入場した者は、運営・安全責任者が特に必要と認めた場合を除き、いかなる施設においても次の各号に掲げる行為をしてはならない」として同様の規定を有し、その中で「政治・思想・宗教・軍事・差別的な主義、主張、観念を表示、若しくは連想させるような掲示板、立て看板、横断幕、懸垂幕、のぼり、旗、プラカード、ゼッケン、文書、図面、印刷物等を持ち込み、又は設置、掲揚、着用、散布、貼付すること。」を禁止しており[49]、この内、「軍事(的な主義、主張、観念を表示、若しくは連想させるような)」という部分は、2010年2月から改訂・追記された規定である[50]。
日本のチーム(代表もクラブも含む)が主に中国や韓国など東アジアのチームと対戦する際、、また、Jリーグのクラブ・チームでもAFCチャンピオンズリーグでクラブ同士が対戦する場合にもスタジアムへ持ち込まないよう、現地の日本大使館やJリーグのクラブなどからサポーターへ指導されることがあり[51]、例えば、2008年、在中国の日本大使館は、2008年北京オリンピックにおいて中国を訪れる日本人に対し、「旭日旗を振るとトラブルを起こす可能性がある」「政治・民族・宗教的な旗の掲揚禁止」として、旭日旗を掲げることを避けるように呼び掛け[52]、また、川崎フロンターレは、2010年4月28日に中国・北京で開催されたアウェイ試合、AFCチャンピオンズリーグ2010・ vs (北京工人体育場)に際し、公式サイト内の観戦ガイドにおいて、「持ち込み禁止物」の中に、公安からの指示として「政治的に敏感な内容、ホームサポーター及び中国人を刺激すると判断される内容を記したものは禁止」「旭日旗、日の丸も禁止」と明記している[53]。
アジアサッカー連盟 (AFC) は、2017年4月25日に開催されたAFCチャンピオンズリーグ2017・ vs (水原ワールドカップ競技場)において、川崎サポーターが旭日旗を掲げた行為を「他国を差別・挑発する行為」に該当すると判断してクラブ(川崎フロンターレ)を処分した[54]のに対し、川崎は、このAFCによる「政治的、差別的」との判断に対し、当初のみならず判断が確定した後も公式サイトなどで不満・反論を示しつつも、処分が覆る可能性が低いとの見通しを明らかにした上でスポーツ仲裁裁判所(CAS)への提訴を断念し[55]、それに伴い、以降のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)における試合に際しては、ホームかアウェイかを問わず、また相手チームがオーストラリアのクラブ(メルボルン)であるケース[56]や日本国内のクラブ(浦和)であるケース[57][58]も含め、「対戦相手や会場に関わらず、同様の混乱が予想される可能性のあるバナー類(旭日旗等)の掲出については自粛を」と公式サイトで観戦者に呼び掛けている[59][60][61][62]。
ヨーロッパを拠点にFIFAワールドカップやUEFA欧州選手権においてサッカーにおける人種差別を根絶するためにプロモーション活動を行っているfare () は、スタジアムで禁止されるべき標章などをまとめた「Global guide to discriminatory practices in football」(仮訳「フットボールにおける差別的な行為へのグローバル・ガイド」)にて、旭日旗を明記している[15]。
ギャラリー
旧陸軍
軍旗(陸軍御国旗・連隊旗)。縦横比 約1:1.36
歩兵連隊軍旗。縦横比 約1:1.36
騎兵連隊軍旗。縦横比 1:1
歩兵第321連隊の軍旗(現存する実物)
満州事変にて軍旗を掲げ進軍する歩兵連隊
陸自
自衛隊旗。縦横比約1:1.19
手前より第10特科連隊、第35普通科連隊、第33普通科連隊、第14普通科連隊、第49普通科連隊の自衛隊旗
普通科教導連隊の自衛隊旗
自衛隊旗
陸上自衛隊宇都宮駐屯地記念行事。自衛隊旗。
第46普通科連隊の自衛隊旗。同連隊長とともに
旧海軍
軍艦旗。縦横比 2:3
海軍の大将旗
海軍の中将旗
海軍の少将旗
海軍の代将旗
海軍の司令旗
海軍の先任旗 (代将旗の紅白を反転)
空母「翔鶴」の軍艦旗
海自
自衛艦旗
護衛艦「こんごう」の自衛艦旗
海上自衛隊・自衛艦旗
SM-3を発射した、きりしま (護衛艦)
ひゅうが (護衛艦)
一般利用
大阪の100の名所を描いた『浪花百景』の一つ『三大橋』(国員、1854~1860年)。浪華三大橋の後ろから朝日が昇る構図。
『福神魚入船』(作者不明、19世紀江戸時代)。漁から戻ってきた船から、恵比寿は鯛を、大黒は蛸を引き揚げる。後景には旭日が描かれる。
『末広東京名所』より『江戸橋駅逓局』(国利、1882年)。旭日の扇子(末広)が描かれている。
『善悪児手柏』より『清盛入道』(安達吟光、1885年)
日清戦争・威海衛の戦いの戦勝を祝賀する慶應義塾によるカンテラ行列[63]を描いた絵。旭日旗および旭日を描いた看板を、日章旗や日章を描いた提灯等とともに掲げている
『各国旗尽十六むさし』(国利、1897年)。盤外右下部に見える日章旗と旭日旗を交差させたデザイン。右の表紙にも。
『山形電話開始紀念』葉書(山形郵便局、1907年)。明治40年11月26日に山形で電話交換サービスが開始された。
コクヨの最初期の商標。1917年に商標を「国誉」とし、その文字に朝日と桜をあしらったデザインとなった。
結核予防のハガキ『恐るべきは結核 努むべきは予防』(結核予防宣伝各団体、1925年)
第1回函館港まつりのポスター(Tomoh, 東京築地ジーチーサン商会、1935年)。開港時に通商条約を結んだ外国国旗と日章旗・旭日旗をあしらった提灯が描かれている。
入営者(徴集・召集で軍隊に入隊する者)を祝う場において、民家の軒先に掲げられた旭日旗と日章旗、1939年(昭和14年)
入営旗(軍隊に入隊する者を祝う旗)に描かれた旭日旗と日章旗
出征旗(出征する者を祝う旗。画像は軍犬)に描かれた旭日旗と日章旗
和歌山県串本町のトルコ記念館(1974年建設)の看板。救命ブイの中に旭日旗とトルコ国旗が描かれたマーク。近くにある慰霊碑にも同じマークがある。
野球場に掲出された、アサヒ靴の広告。左に旭日をあしらったロゴマーク。
朝日新聞(大阪本社)の社旗
宿泊客の見送り(礼文島)、2010年(平成22年)
大漁旗(洲本市)、2011年(平成23年)
日章旗と旭日旗を林立させてデモ行進する在日特権を許さない市民の会のデモ隊、外国人参政権反対デモにて、2010年1月
大日本麦酒時代のアサヒビールポスター上部。ビンのラベルに旭日のロゴ(2013年、東大阪市の居酒屋にて)。
日本生シルクパックステッカー(フランス語と日本語、1880年)
日本国外からの反応
韓国内の一部のインターネット上、韓国系の団体などから、2011年以降から韓国の一部のネチズンだけでなく韓国マスコミが主体的に強く非難する動きが見られる。そのため、2018年10月10日-14日から韓国の海軍基地で開催される国際観艦式(ko:대한민국 국제관함식)に14ヶ国21隻の軍艦と45ヶ国の代表団が参加する予定であることに国民誓願にて約1600人の韓国人が反対した。韓国海軍側は自衛隊は韓国で過去に開催された1998年と2008年の国際観艦式に海上自衛隊旗(旭日旗)を掲げて参加してきたことを指摘し、「日本の自衛隊が軍艦旗として旭日旗を使用していることから 韓国側で使用しないように強制的にすることはできない。」との立場を表明している[64][65]。韓国でも韓国がここ数年で突然大きく騒ぐようになった事実から、「その時は大丈夫で、今回はダメだという客観的理由を果たして説明することができるだろうか。」と、この論争で韓国が得る実益はあるのかと感情より事実に基づくべきとの声が僅かにある[66]。
韓国系などからの反発
webarchiveなどで確認できる限り、自国の芸能人などが旭日旗に似た赤い丸から赤い放射線デザインを含む衣装などを着用した際に、それらを問題視する一部の韓国や中国のネチズンのインターネット上の賛否の反応を俯瞰的に紹介する韓国や中国語メディアによる記事は、それらメディアの日本語版サイト等においても2001年からある。2001年に、中国メディアが一部の中国ネチズンからのインターネット上での批判を「物議」として報じた際には、衣装を提供した中国のファッション編集部は「何も言うことはない。それだけだ。」と返答したと伝えている。[67][68][69][70]。金大中大統領時代の1998年と盧武鉉大統領時代の2008年の韓国開催の国際観艦式に自衛隊が旭日旗デザインの自衛艦旗(軍艦旗)で参加した際には韓国政府やマスコミ、国内世論は特に大きな反応はしていない[64][71]。
2011年1月25日、サッカーアジア杯準決勝の日韓戦で日本人に対する侮蔑を意図したとされる「猿の真似」パフォーマンスを行った韓国代表の奇誠庸が、人種差別にあたるという批判に対し、「観客席にあった旭日旗への報復のために行った」と反論したことを契機に「旭日旗そのものに問題があり、国際社会から追放するべき」とする韓国世論の主張が大きく伝えられるようになった[72][73][74][74]。
2011年以降には韓国国内や国外などで、韓国人団体が旗や意匠を使った物品・影像等の撤去・除去を求める主張を受けた側の反応は様々であり「謝罪した」「撤去(除去)した」とメディアが伝えるケースもある[75][76][77][78][79]。IOC、ニューヨーク近代美術館はこれら韓国側の主張を退けている[80][81]。また、韓国メディアが主張が通ったと伝えるものの実際にはデザインが使われ続けるケースもある[82][83]。
2012年8月10日の韓国大統領李明博による竹島(韓国名:独島)上陸の直後に開催されたロンドンオリンピックサッカー3位決定戦において、朴鍾佑が「独島はわれわれの領土」と書かれたプラカードを競技場で高く掲げるという行為を行い、日本側は抗議し国際オリンピック委員会(IOC)も政治的表現を問題視したが、その一方で韓国では内村航平などが着用していた放射状のユニホームが標的となり[84]、「IOCが日本の旭日旗ユニフォームは黙認して、'独島セレモニー"の韓国サッカー選手について制裁を議論するは差別」と慰安婦がIOCに抗議文を送る騒ぎになった[85][86][87][88]。9月3日には、朝鮮日報が旭日旗について『「軍国主義の亡霊」旭日旗、日本では一般的』という記事の中で「朝日新聞の社旗にも旭日旗の模様があしらわれている」「アサヒビールが1892年発売のビールを再現した限定商品には旭日旗が描かれていた」「(コシノヒロコ氏はロンドン五輪女子体操代表のユニホームで)日の丸を配置して太陽が躍動する力強い美しさを表現した(と述べた)」などと紹介した[89]。
ロンドンオリンピックの直後に韓国は国際オリンピック委員会(IOC)に旭日旗に問題があると訴え、説明をしたが、IOC関係者は、そのような問題意識は初めて聞く内容であったとし[90]、またIOCのジャック・ロゲ委員長も朴鍾佑選手の竹島プラカード問題は政治的表現禁止規定違反だが、日本の旭日デザインは違反とはならないという判断を示した[80]。また、韓国は第二次大戦中に日本の植民地となった国々にも協調を呼びかけたが、理解は得られず(中国は韓国の問題意識は理解しつつも、国家間で決めることであり、スポーツの場で訴える内容のものではないと述べている)、韓国の新聞社は旭日旗を見ると韓国人は怒りがこみ上げるが、国際社会では何も問題とされておらず、「もう一つの国旗」程度と認識されている事を伝え、「政治家が外交的に先に解決すべき問題」と主張している[90]。
2013年、総合格闘家のジョルジュ・サンピエールはニック・ディアスとの試合において旭日旗が描かれた道着を着用した[91]。これに対して韓国人格闘家のジョン・チャンソンは自身のフェイスブックに「旭日旗はアジア人にとってハーケンクロイツと同様の戦争犯罪の象徴であり、日本軍はナチスのように「軍国主義」の名の下にこの旗を掲げ残虐行為をした[91]。日本政府の謝罪は十分ではなく、今も被害に苦しんでいる人がいる。」と抗議した。その抗議に対しサンピエールと道着をデザインしたHayabusaは「意図したものではなく、傷ついた人たちに謝りたい」と謝罪した[91]。
2013年7月28日の東アジア杯の日韓戦で韓国サポーターが安重根などの巨大な幕を掲げたが、これをJFAの抗議により前半終了後に韓国サッカー協会が強制撤去したことについて、韓国の安敏碩国会議員が同協会に謝罪を要求。その際に、安議員は「日本のサポーターが日本軍国主義を象徴する『旭日昇天旗』を持って入場した。国際サッカー連盟に訴えるべきだ」と要求した[92]。また韓国外務省も、東アジアカップサッカー日韓戦後の2013年8月1日の定例会見で「(旭日旗が)韓国国民と、過去に日本帝国主義の被害を受けた人々にどのような意味を持つものか日本はよく分かっているのではないか」と表明した(抗議が始まったのは2011年[72])[93]。
2013年9月、韓国の公共の場で旭日旗を掲げた場合、1年以下の懲役または300万ウォン(約28万円)以下の罰金を科す刑法改正案を韓国の国会議員が提出した[94]。これを受け菅義偉官房長官は「旭日旗が軍国主義の象徴という指摘は当たらない。大きな誤解がある」と批判。韓国政府に適切に対応するよう申し入れると述べた[94][95]。法案に関わる議員関係者によれば、2014年春に成立する可能性があると2013年に報じられて以降、法案成立の報道は無い[96]。
なお韓国国内でも、1998年、2008年時点でもほとんどの国民が無関心だったのに一貫性がないとの意見はあり[97]、2016年にも韓国海軍は「韓国が他国に行った時、艦艇の前方に海軍旗、後方に太極旗をつけるように、日本も海軍旗として使用する旭日旗と日本旗をつける」と説明した [98][99]。しかし、韓国国内の世論に押される形で、2018年の済州観艦式において韓国海軍は国旗だけを掲揚するように要請し、日本側はこれを拒否し参加を取り止めた[100][64][65]。中国もTHAAD問題などで艦艇の派遣を取り消し14カ国19隻の参加が予定されたが、マレーシアの不参加通知とフィリピン艦艇の12日のみの参加により、10カ国15隻となった[101]。韓国は艦艇上に自国国旗と韓国国旗のみを掲げる異例の要請をしていたが、軍艦旗と国旗が同じアメリカを除き、オーストラリア、タイ、シンガポール、カナダなどは国連海洋法条約上の国際常識に従い、軍艦旗で参加した。日本を意識した要請であり、韓国側は軍艦旗で参加した国に抗議表明はしなかった[102]。
対象の拡大
2008年時点では旭日旗そのものへの多くの韓国人も無関心だったが[71]、2011年以降から韓国人または韓国系のは赤色以外でも丸いモノから放射状に線が複数伸びてるデザインなどを見ると世界中で撤去や販売中止を求める活動をするように抗議対象が拡大している[103]。韓国国内ではカニエビバーガーの包装紙[104]や日の丸弁当[105]、黄色の丸から青い放射状の線が出ているTシャツ[106]、白い放射状の線のデザインされた青いユニフォーム[103]、赤いバラを持った女性と花の部分から赤い放射線状の線が出ているTシャツ[103]など批判対象は拡大している[103]。2012年には2009年に設計されて造られた京畿道高陽市花井駅の駅前広場の噴水を中心に放射状に線が広がる模様が入っているデザインが、上空から見るとそうだと猛批判されるようになった。デザイン者は「高陽市は井戸があった場所なので、生命の源泉としての井戸、そして歩行の中心となる中心線を強調したデザインにした」と旭日旗と広場のデザインは関係ないと反論した。共同設計者も「 花井広場のデザインは、花と水が一緒になる姿を表現している」「設計には多くのスタッフと協力メーカー、4度の住民公聴会などが開かれたが、誰も問題視しなかった。冷静にみてほしい」と過熱する批判に反論した[107]。
2014年にアメリカのペンシルベニア大学に留学していた韓国人が芸術文化研究ホール(ARCH)の食堂のステンドグラスが旭日旗[108]をモチーフしていると認定して韓国系学生会と共に学校対して撤去しろと抗議活動したことが校内新聞で明らかになると非韓国系の在校生から非難の声が上がった。韓国系のロビー団体まで連れてきたが270余年の歴史を持つ伝統校の建物だったため学校側に却下された[109]。2017年にはズワイガニが載ったデザインや絵が旭日旗に見えるとして韓国では頻繁に叩かれるようになっている。ズワイガニの入ったハンバーガーの包み紙や過去にも韓国人漫画家の漫画のキャラクターの背後のズワイガニが叩かれたことなどから中央日報はズワイガニは外見のために不要な誤解を受けるようにされた「失敗したデザイン生物」という汚名を得たと報道した [110]。産経新聞は中央日報を引用する形で、民族主義に傾倒する常軌を逸した反日・過度な反日は韓国のイメージを低下させるだけとの声が存在していることを紹介している[111]。
2018年12月、米国女優エバ・ガードナーの壁画に放射状の背景があり、韓国系市民団体による抗議でいったん撤去方針が決まったが、アーティストなどから表現の自由に抵触するという批判が殺到し、一時中止となった[112]。
日本人・日本国内からの反応
これらの反発に対し、日本人・日本国内からも様々な反応が見られる。
反発に反論する反応
産経新聞では、韓国の旭日旗に対する姿勢を批判し、第二次大戦中に日本の相手であった米国でさえ、旭日旗に対してなんの抗議もしていないし、それどころか友軍の旗として自然に敬意を表してくれている、と主張している[113]。産経新聞出版社長の皆川豪志は、自身が編集長を務めるオピニオンサイト「iRONNA」(産経デジタル)でまとめた記事の中で、韓国人が創刊時から旭日旗である朝日新聞社の社旗・社章(上述参照)を何ら問題にした事がない、と主張している[114]。
1980年代に時事通信ソウル特派員を務めた評論家の室谷克実は大韓民国では旭日旗は近年まで批判の対象とされていなかった[72]と述べ[73]、また、近現代史研究家の水間政憲によれば、かつては「朝鮮独立を認めさせた“象徴旗”として称えられていた」と主張している[115]。
SBIサーチナの如月隼人記者は、旭日旗をナチスドイツにおけるハーケンクロイツ旗と同じであるとする韓国内の一部の主張に対し、旭日旗の起源は「太陽信仰」であり「めでたさ」や「勢いのよさ」を表すのに対し、ハーケンクロイツ旗は成立の当初から「アーリア民族の優位性」をシンボル化したもの(「赤は社会理念」、「白は国家主義理念」、「ハーケンクロイツは、アーリア人種の勝利のために戦う使命」を表す)であって、両者の持つ背景は異なる、また、ドイツでは、第二次世界大戦中に使われていた軍旗「黒十字」の意匠が戦後もドイツ連邦軍の国籍標識に使用されており、軍旗が政治性をともなうとは限らない。さらに、もし韓国が「(日本が過去において)周辺国を侵略する際に使った国家的なシンボルは、すべて使うべきではない」と主張するならば、英国国旗やフランス軍旗など欧州列強が伝統的に用いてきた旗に対してすべて異議を唱えなければならず、さらには32万5900人の兵力をベトナムに送り込んだ韓国は、ベトナムが韓国軍旗に対して「わが国侵略のシンボルだった。使用は好ましくない」と主張した場合に自らの主義主張に基づき韓国の国旗や軍旗を排除するのか、と主張している[116]。
反発に親和的な反応
フリーライターの清義明は、スポーツの分野、特にサッカーにおいては、FIFAやAFCが中国や韓国など東アジア地域のクラブ・チームや代表チームと日本のチームとの対戦における旭日旗の掲出を「他国を差別・挑発する行為」と見なしているケースがあること(前述)を受け、ACL2017水原vs川崎戦を受けたAFCによる処分[51]や2018 FIFAワールドカップ・グループH 日本vsセネガル戦で掲げられた旭日旗に韓国メディアが反応したことに触れ[15]、「(太平洋戦争で日本が掲げた目標である)大東亜共栄圏が日本人の選民思想だととられても仕方ないことを日本はしてきた」と述べ、旭日旗が東アジア諸国に対して「差別的な存在」であるとして、韓国のチームとの対戦に限定せず、あらゆる国際試合で旭日旗を掲げるべきでない、と主張している[117]。
旭日旗に類似する意匠
国際的にも、類似した意匠は、国旗・軍旗として頻繁に使用され、東側諸国においては、マルクス・レーニン主義や社会主義的農村主義のシンボルとしてポスターなどに良く使われた。
アメリカ合衆国
アリゾナ州の州旗
中華人民共和国
毛沢東を中心とした旭日模様のプロパガンダポスターが多数製作されて、国中に掲載・宣伝された。これは毛沢東が旭日模様をとても気に入ってたからとの指摘がある。中華人民共和国では旭日模様のデザインが中国共産党の下で積極的に好んで利用されてきた歴史があるため、一部の中国ネチズンは騒いでも中国政府が旭日旗をほとんど言及しない理由となっている[118]。
マケドニア
マケドニア共和国の国旗は旭日旗に似た意匠となっている。もともと、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した当初はヴェルギナの星と呼ばれる意匠を国旗に使っていたが、この意匠を自領のマケドニア地域の旗に使っていたギリシャとの間の論争に発展し、1995年(平成7年)に現国旗に変更した。
マケドニア共和国の現国旗(1995~)。
マケドニア共和国の旧国旗(1991-1995)。
ギリシャ領マケドニアの旗。
ウクライナ・ドネツィク州
ウクライナのドネツィク州の州旗は旭日旗に類似した意匠である。
ドネツィク州の州旗
ベネズエラ・ララ州
ベネズエラ・ララ州の州旗
カレン民族解放軍
ミャンマー(ビルマ)に1949年にできたカレン民族解放軍は、軍旗に旭日旗に類似した意匠を用いている。
カレン民族解放軍 (KNLA) の旗
カレン民族同盟 (KNU) の旗
チベット亡命政府
チベットの政府であるガンデンポタンが1912年(明治45年/大正元年)に国旗として制定したチベット国旗は、旭日の意匠を持っている。これは、意匠の考案に日本人研究者で僧侶であった青木文教が関与していたこともあり、間接的に「帝国陸軍の軍旗たる旭日旗」の影響を受けたとされている(「日本の軍旗の半分を冩し取つた樣な旭日を置き」「此新軍旗は時々風に飜る調子で日本の軍旗の様に見えるので、更に改定する筈であつた」[119])。1949年の中華人民共和国のチベット侵攻の後に中国はガンデンポタンをチベットの地方政府として位置づけ、ガンデンポタンはこの旗をチベットの旗として使い続けた。さらに1959年、ダライ・ラマ14世に率いられたガンデンポタンはチベットを脱出し、インドにおいてチベット亡命政府として再編された。チベット亡命政府は現在にいたるまで、この旗を自国の国旗として使用している。
チベット国旗
ソビエト連邦
ソビエト連邦時代の1917年12月20日に創設されたソ連空軍の軍旗、ソビエト連邦構成共和国時代の1921年設立したグルジア共和国の国旗など、旧東側諸国(共産主義国家)でも旭日に相当ないし擬似する意匠は使用されていた。
ソ連空軍の軍旗
ロシア空軍の軍旗。ソ連空軍時代の軍旗をベースに意匠を変更
グルジア共和国の国旗。ソ連邦からの独立後は全く別の意匠の国旗に変更(グルジアの国旗)
統一教会
大韓民国の新宗教団体で1954年の設立以来、世界基督教統一神霊協会(統一教会)は、団体のマークに旭日を取り入れている[120]。
統一教会の紋章
脚注
注釈
出典
関連項目
日本の国旗
旭日章 - 勲章
旭日章 - 紋章
錦の御旗
馬印
大漁旗
外部リンク
自衛隊 鹿児島地方協力本部
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వడలి, పశ్చిమ గోదావరి జిల్లా, పెనుగొండ మండలానికి చెందిన గ్రామము.[1]
గణాంకాలు
జనాభా (2011) - మొత్తం 5,705 - పురుషుల సంఖ్య 2,874 - స్త్రీల సంఖ్య 2,831 - గృహాల సంఖ్య 1,666
2001 వ.సంవత్సరం జనాభా లెక్కల ప్రకారం గ్రామ జనాభా 5613.[1] ఇందులో పురుషుల సంఖ్య 2825, మహిళల సంఖ్య 2788, గ్రామంలో నివాస గృహాలు 1451 ఉన్నాయి.
వదలి పశ్చిమ గోదావరి జిల్లా, పెనుగొండ మండలంలోని గ్రామం. ఇది మండల కేంద్రమైన పెనుగొండ నుండి 5 కి. మీ. దూరం లోను, సమీప పట్టణమైన తణుకు నుండి 20 కి. మీ. దూరంలోనూ ఉంది. 2011 భారత జనగణన గణాంకాల ప్రకారం ఈ గ్రామం 1666 ఇళ్లతో, 5705 జనాభాతో 685 హెక్టార్లలో విస్తరించి ఉంది. గ్రామంలో మగవారి సంఖ్య 2874, ఆడవారి సంఖ్య 2831. షెడ్యూల్డ్ కులాల సంఖ్య 985 కాగా షెడ్యూల్డ్ తెగల సంఖ్య 32. గ్రామం యొక్క జనగణన లొకేషన్ కోడ్ 588675[2].పిన్ కోడ్: 534320.
విద్యా సౌకర్యాలు
గ్రామంలో రెండుప్రైవేటు బాలబడులు ఉన్నాయి. ప్రభుత్వ ప్రాథమిక పాఠశాలలు రెండు, ప్రైవేటు ప్రాథమిక పాఠశాలలు రెండు, ప్రభుత్వ ప్రాథమికోన్నత పాఠశాల ఒకటి, ప్రభుత్వ మాధ్యమిక పాఠశాల ఒకటి ఉన్నాయి. సమీప జూనియర్ కళాశాల, ప్రభుత్వ ఆర్ట్స్ / సైన్స్ డిగ్రీ కళాశాల, అనియత విద్యా కేంద్రం , పెనుగొండ లోను, ఇంజనీరింగ్ కళాశాల , మేనేజిమెంటు కళాశాల, పాలీటెక్నిక్లు, సమీప వృత్తి విద్యా శిక్షణ పాఠశాల తణుకు లోను, దివ్యాంగుల ప్రత్యేక పాఠశాల, సమీప వైద్య కళాశాల ఏలూరు లోను
వైద్య సౌకర్యం
ప్రభుత్వ వైద్య సౌకర్యం
వదలిలో ఉన్న ఒక ప్రాథమిక ఆరోగ్య ఉప కేంద్రంలో డాక్టర్లు లేరు. ముగ్గురు పారామెడికల్ సిబ్బంది ఉన్నారు. ఒక పశు వైద్యశాలలో ఒక డాక్టరు, ఇద్దరు పారామెడికల్ సిబ్బందీ ఉన్నారు. ఒక సంచార వైద్య శాలలో డాక్టర్లు లేరు. ముగ్గురు పారామెడికల్ సిబ్బంది ఉన్నారు.
ప్రాథమిక ఆరోగ్య కేంద్రం గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. కుటుంబ సంక్షేమ కేంద్రం గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. సమీప సామాజిక ఆరోగ్య కేంద్రం, మాతా శిశు సంరక్షణ కేంద్రం, టి. బి వైద్యశాల గ్రామం నుండి 10 కి.మీ. కంటే ఎక్కువ దూరంలో ఉన్నాయి. అలోపతి ఆసుపత్రి, ప్రత్యామ్నాయ ఔషధ ఆసుపత్రి, డిస్పెన్సరీ గ్రామం నుండి 10 కి.మీ. కంటే ఎక్కువ దూరంలో ఉన్నాయి.
ప్రైవేటు వైద్య సౌకర్యం
గ్రామంలో 2 ప్రైవేటు వైద్య సౌకర్యాలున్నాయి. డిగ్రీ లేని డాక్టర్లు ఏడుగురు ఉన్నారు. మూడు మందుల దుకాణాలు ఉన్నాయి.
తాగు నీరు
గ్రామంలో కుళాయిల ద్వారా రక్షిత మంచినీటి సరఫరా జరుగుతోంది. బావుల నీరు కూడా అందుబాటులో ఉంది. గ్రామంలో ఏడాది పొడుగునా చేతిపంపుల ద్వారా నీరు అందుతుంది. బోరుబావుల ద్వారా కూడా ఏడాది పొడుగునా నీరు అందుతుంది. కాలువ/వాగు/నది ద్వారా, చెరువు ద్వారా కూడా గ్రామానికి తాగునీరు లభిస్తుంది.
పారిశుధ్యం
మురుగునీరు బహిరంగ కాలువల ద్వారా ప్రవహిస్తుంది. మురుగునీరు బహిరంగంగా, కచ్చా కాలువల ద్వారా కూడా ప్రవహిస్తుంది. మురుగునీటిని నేరుగా జలవనరుల్లోకి వదులుతున్నారు. గ్రామంలో సంపూర్ణ పారిశుధ్య పథకం అమలవుతోంది. సామాజిక మరుగుదొడ్డి సౌకర్యం లేదు. ఇంటింటికీ తిరిగి వ్యర్థాలను సేకరించే వ్యవస్థ లేదు. సామాజిక బయోగ్యాస్ ఉత్పాదక వ్యవస్థ లేదు. చెత్తను వీధుల పక్కనే పారబోస్తారు.
సమాచార, రవాణా సౌకర్యాలు
వదలిలో సబ్ పోస్టాఫీసు సౌకర్యం ఉంది. పోస్టాఫీసు సౌకర్యం, పోస్ట్ అండ్ టెలిగ్రాఫ్ ఆఫీసు గ్రామానికి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉన్నాయి.
లాండ్ లైన్ టెలిఫోన్, పబ్లిక్ ఫోన్ ఆఫీసు, మొబైల్ ఫోన్ మొదలైన సౌకర్యాలు ఉన్నాయి. ఇంటర్నెట్ కెఫె / సామాన్య సేవా కేంద్రం, ప్రైవేటు కొరియర్ గ్రామానికి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉన్నాయి. గ్రామానికి సమీప ప్రాంతాల నుండి ప్రభుత్వ రవాణా సంస్థ బస్సులు తిరుగుతున్నాయి. సమీప గ్రామాల నుండి ఆటో సౌకర్యం కూడా ఉంది. వ్యవసాయం కొరకు వాడేందుకు గ్రామంలో ట్రాక్టర్లున్నాయి. ప్రైవేటు బస్సు సౌకర్యం, రైల్వే స్టేషన్ మొదలైనవి గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి. జిల్లా రహదారి గ్రామం గుండా పోతోంది. జాతీయ రహదారి, రాష్ట్ర రహదారి, ప్రధాన జిల్లా రహదారి గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉన్నాయి. గ్రామంలో తారు రోడ్లు, కంకర రోడ్లు, మట్టిరోడ్లూ ఉన్నాయి.
మార్కెటింగు, బ్యాంకింగు
గ్రామంలో వాణిజ్య బ్యాంకు ఉంది. గ్రామంలో స్వయం సహాయక బృందం, పౌర సరఫరాల కేంద్రం, వారం వారం సంత ఉన్నాయి. రోజువారీ మార్కెట్ గ్రామం నుండి 5 కి.మీ. లోపు దూరంలో ఉంది. ఏటీఎమ్, సహకార బ్యాంకు, వ్యవసాయ పరపతి సంఘం గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉన్నాయి. వ్యవసాయ మార్కెటింగ్ సొసైటీ గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది.
ఆరోగ్యం, పోషణ, వినోద సౌకర్యాలు
గ్రామంలో సమీకృత బాలల అభివృద్ధి పథకం, అంగన్ వాడీ కేంద్రం, ఇతర పోషకాహార కేంద్రాలు, ఆశా కార్యకర్త ఉన్నాయి. గ్రామంలో వార్తాపత్రిక పంపిణీ జరుగుతుంది. అసెంబ్లీ పోలింగ్ స్టేషన్, జనన మరణాల నమోదు కార్యాలయం ఉన్నాయి. ఆటల మైదానం గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. సినిమా హాలు, గ్రంథాలయం, పబ్లిక్ రీడింగ్ రూం గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉన్నాయి.
విద్యుత్తు
గ్రామంలో గృహావసరాల నిమిత్తం విద్యుత్ సరఫరా వ్యవస్థ ఉంది. రోజుకు 7 గంటల పాటు వ్యవసాయానికి, 18 గంటల పాటు వాణిజ్య అవసరాల కోసం కూడా విద్యుత్ సరఫరా చేస్తున్నారు.
భూమి వినియోగం
వదలిలో భూ వినియోగం కింది విధంగా ఉంది:
వ్యవసాయేతర వినియోగంలో ఉన్న భూమి: 64 హెక్టార్ల
వ్యవసాయం చేయదగ్గ బంజరు భూమి: 79 హెక్టార్లు
నికరంగా విత్తిన భూమి: 540 హెక్టార్లు
వివిధ వనరుల నుండి సాగునీరు లభిస్తున్న భూమి: 540 హెక్టార్లు
నీటిపారుదల సౌకర్యాలు
వదలిలో వ్యవసాయానికి నీటి సరఫరా కింది వనరుల ద్వారా జరుగుతోంది.
కాలువలు: 540 హెక్టార్లు
ఉత్పత్తి
వదలిలో ఈ కింది వస్తువులు ఉత్పత్తి అవుతున్నాయి.
ప్రధాన పంటలు
వరి, కూరగాయలు
పారిశ్రామిక ఉత్పత్తులు
బియ్యం, ఇటుకలు, బకెట్లు
మూలాలు
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Manchester United ni kilabu cha kandanda cha Uingereza, ambacho ni kimojawapo kati ya vilabu maarufu sana ulimwenguni, na kina makao katika Old Trafford eneo la Greater Manchester. Kilabu hiki kilikuwa mwanachama mwanzilishi wa Ligi ya Premier mwaka 1992, na kimeshiriki katika divisheni ya juu ya kandanda ya Uingereza tangu mwaka wa 1938, isipokuwa msimu wa 1974-1975. Mahudhurio ya wastani kwenye kilabu yamekuwa ya juu kuliko timu nyingine yoyote katika kandanda ya Uingereza kwa misimu yote isipokuwa sita tangu 1964-65.[3]
Manchester United ndiyo bingwa wa sasa wa Uingereza na washikilizi wa Kombe la Dunia la Vilabu, baada ya kushinda Ligi ya Primia 2008-09 na Kombe la Dunia la FIFA. Kilabu hicho ni miongoni mwa vilabu vyenye ufanisi mkubwa katika historia ya kandanda ya Uingereza na kimeshinda mataji makubwa 22 tangu Alex Ferguson alipochukua wadhifa wa meneja wake mnamo Novemba 1986. Mwaka wa 1968, kilikuwa kilabu cha kwanza kushinda Kombe la Uropa kwa kucharaza Benfica 4-1. Walishinda kombe la pili la Ulaya kama sehemu ya ushindi wa mataji matatu mwaka 1999, na la tatu mwaka wa 2008, kabla ya kumaliza katika nafasi ya pili mwaka wa cha 2009. Kilabu hicho kinashikilia rekodi mbili ya kushinda mataji mengi ya Ligi ya Uingereza mara 18 na pia kushikilia rekodi kwa wingi wa kutwaa kombe la FA ikiwa imeshinda mara 11.[4]
Tangu mwisho wa mwaka ya 1990, kilabu hicho kimekuwa mojawapo ya vilabu tajiri duniani kilicho na mapato ya juu kuliko kilabu chochote,[5] na sasa kinatajwa kama kilabu chenye thamani zaidi katika mchezo wowote, na makisio ya thamana ya takriban bilioni £ 1.136 (bilioni € 1.319 ) Aprili 2009.[6] Manchester United ilikuwa mwanachama mwanzilishi wa kundi la vilabu la G-14 la Vilabu kuu vya kandanda Uingereza, ambalo halipo tena, na European Club Association, muungano uliochukua nafasi yake.[7]
Alex Ferguson amekuwa meneja wa kilabu hicho tangu 6 Novemba 1986 alipojiunga na kilabu hicho kutoka Aberdeen baada ya kung'atuka kwa Ron Atkinson.[8] Nahodha wa kilabu wa sasa ni Garry Neville, aliyechukua nafasi ya Roy Keane Novemba 2005.[9]
Historia
Miaka ya mwanzo (1878–1945)
Kilabu kilianzishwa kikijulikana kama Newton Heath L & YR F.C. mwaka wa 1878 kama timu ya kazi ya bohari la Reli la Lancashire na Yorkshire huko Newton Heath. Mashati ya kilabu hiyo yalikuwa ya kijani na nusu dhahabu. Walicheza kwenye uwanja mdogo, uliochakaa huko North Road kwa miaka kumi na mitano, kabla ya kuhamia Bank Street katika mji wa karibu wa Clayton mwaka wa 1893. Kilabu kilikuwa kimeingia ligi ya kandanda ya Football Leagu mwaka uliotangulia na kuanza kukatiza uhusiano wake na bohari la reli, na ikawa kampuni ya kujitegemea, ikimteua katibu wa kilabu na kudondoasha herufi “L&YR” kutoka jina lao na kujiita Newton Heath F.C. Muda mrefu haukupita, mwaka 1902, kilabu kilikaribia kufilisika, kikawa na madeni ya zaidi ya £2,500. Wakati mmoja, uwanja wao wa Bank Street ulifungwa na wadai wao.[10]
Kabla ya kufungwa kabisa, kilabu kilipokea uwekezaji mkubwa kutoka kwa J. H. Davies, mkurugenzi mtendaji wa Manchester Breweries.[11] Kuna tetesi kuwa Harry Stafford, nahodha wa kilabu alikuwa akijivunia mbwa wake wa thamani wa aina ya St. Bernard katika mkutano wa kuchangishia kilabu fedha, wakati Davies alipomwendea ili kumnunua mbwa huyo. Stafford alikataa, lakini aliweza kumshawishi Davies kuwekeza katika kilabu na kuwa mwenyekiti wake.[12] Iliamuliwa katika kikao cha bodi ya mapema kuwa kilabu kilihitaji kubadilishwa jina ili kuashiria mwanzo huo mpya. Manchester Central na Manchester Celtic ni miongoni mwa majina yaliopendekezwa kabla ya Louis Rocca, mhamiaji mchanga kutoka Italy aliposema "Ndugu zangu, mbona tusijiite Manchester united?"[13] Jina hilo lilibakia hivyo, na Manchester United likawa jina rasmi tarehe 26 Aprili 1902. Davies pia aliamua itakuwa vyema kubadili rangi za kilabu, walitupilia mbalirangi za kijani na nusu dhahabu za Newton Health na kuchagua nyekundu na nyeupe kuwa rangi za Manchester United.
Ernest Mangnall aliteuliwa kama katibu wa kilabu baada ya James West ambaye alikuwa amejiizulu kama meneja tarehe 28 Septemba 1902. Mangnall alitwikwa jukumu la kujitahidi kukifika kilabu kwenye Divisheni ya kwanza, na kushindwa kidogo tu katika jaribio la kwanza kusudio hilo kwa jaribuio la, walipomaliza katika nafasi ya tano katika Divisheni ya pili. Mangnall aliamua kwamba ilikuwa muhimu kuleta machipukizi katika klabu, na kuwasajili wachezaji kama vile Harry Moger katika lango, Dick Duckworth, beki wa nyuma na Jack Picken mbele lakini ilikuwa na beki wa nyuma mwingine kwa jina la Charlie Roberts aliyeleta mabadiliko makubwa. Alinunuliwa kwa £750 kutoka Grimsby Town Aprili 1904, na kuisaidi klabu kumaliza msimu wa 1903-04 kikiwa kimekosa alama moja tu kipandishwe ngazi iliyofuata.
Hata hivyo, haikuchukua muda mrefu, kilabu kilipandishwa cheo hadi Divisheni ya Kwanza kwa mara ya kwanza chini ya jina mpya na kumaliza katika nafasi ya pili katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1905-06. Msimu wa kujiiimarisha ulifuatia, huku kilabu ikimaliza katika nafasi ya nane, kabla ya kutwaa taji lao la kwanza la ligi mwaka wa 1908. Katika siku za karibuni,Manchester City ilikuwa ikichunguzwa kwa kuwalipa baadhi ya wachezaji wao mshahara uliozidi kiwango kilichopendekezwa na masharti ya FA. Walipigwa faini ya £250 na wachezaji wao kumi na wanane wakapigwa marufuku kuwachezea tena. United hawakusita kukabiliana na hali hiyo na kuwatwaa Billy Meredith (almaarufu Welsh Wizard) na Sandy Turnbull, miongoni mwa wengine. Vijana hao wageni kutoka mji jirani hawakuruhusiwa kucheza hadi tarehe mosi mwaka wa 1907, kwa sababu ya marufuku yao, kwa hivyo hatua hiyo iliahirishwa hadi msimu wa 1907-08 ili waweze kuendeleza jitihada za united kutwaa taji. Na hilo walifanya, walianza kampeni yao kwa kishindo kwa kuishinda Sheffield United 2-1 na kuanzisha msururu wa ushindi mfululilizo mara kumi. Licha ya msimu kuonekana wenye tatizo mwishoni, United ilifaulu kushikilia na kumaliza msimu kwa pointi tisa mbele ya wapinzani wao wa karibu Aston Villa.
Msimu uliofuatia ulianza kwa United kujitwalia fedha nyingine, Charity Shield,[14] ambayo ilikuwa ya kwanza kuwahi kutolewa na kumalizia kwa taji jingine, taji la kwanza kwa kilabu cha FA, ambalo lilipanda mbegu njema ya kile kimekuwa rekodi ya mataji ya FA. Jinsi walivyokuwa katika kampeni ya taji la kwanza la klabu, Turnbull na Meredith walikuwa na umuhimu katika msimu huu, Turnbull akifunga bao la ushindi katika Finali ya kombe la FA. Ilibidi Klabu kusubiri miaka mingine miwili kabla ya kushinda makombe mengine zaidi, kilishinda Divisheni ya Kwanza kwa mara ya pili katika msimu wa 1910-11. Wakati huo huo, United ilihamia uga wao mpy wa Old Trafford. Walichezea mmchuano wao wa kwanza huko tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool, lakini wakapoteza 4-3 baada ya kupoteza ushindi wao wa 3-0. Kisha wakasalia bila kombe tena katika msimu wa 1911-12, ambao haukuwa tu wa mwisho kwa Mangnall kuhusikia (alihamia Manchester City baada ya miaka kumi na United), lakini pia wakati wa mwisho kwa klabu kushinda Divisheni ya Kwanza baada ya miaka 41, muda mrefu zaidi ambao klabu imekaa bila kushinda ligi katika historia yake.
Kwa miaka kumi iliyofuata, klabu kilishuhudia hali ya kudidimia polepole kabla ya kushushwa ngazi ya chini, Division ya pili katika 1922. Walipandishwa ngazi tena mwaka 1925, wakang'ang'ana kufika nusu ya msimamo wa ligi, na wakashushwa ngazi tena mwaka wa 1931. Katika miaka minane iliyotangulia Vita vya Pili vya Dunia, klabu kilididimia na kuwa klabu yo-yo, kikafikia kiwango chao cha chini zaidi cha nafasi ya 20 katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1934. Walipandishwa tena katika msimu wa mwisho kabla ya Vita vya Pili vya Dunia. Walijihakikishia nafasi yao katika kiwango cha juu baada ya vita kwa kumaliza katika nafasi ya 14 katika msimu wa 1938-39.
Kipindi cha Busby (1945-1969)
1945 ilishuhudia kuteuliwa kwa Matt Busby kuwa msimamizi katika Old Trafford. Alitumia mtindo usio wa kawaida kufanya kazi yake, akisisitiza kuwa aruhusiwe kuchagua timu yake mwenyewe, kuchagua wachezaji atakaowaajiri na kuwafunza mwenyewe. Mwenyewe alikuwa tayari amepoteza kazi ya usimamizi kwenye kilabu chake cha awali, Liverpool, kwa sababu klabu kiliona kazi hizo kama za wakurugenzi lakini United ikaamua kujaribu mawazo bunifu ya Busby. Wa kwanza kusajiliwa na Busby hakuwa mchezaji, bali meneja msaidizi mpya kwa jina la Jimmy Murphy. Hatua hatari ambayo klabu ilichukulia kumteua Bushy ilileta mazao ya mara moja, klabu kilipomaliza katika nafasi ya pili katika ligi ya 1947, 1483 na 1949 na kushinda kombe la FA 1948, kutokana na juhudi za wazao wa hapo watatu, Stan Pearson, Jack Rowley na Charlie Mitten (Rowley na Pearson walifunga katika fainali ya kombe la 1948), na pia kiungo wa kati kutoka Kazini Mashariki, Allenby Chilton.
Charlie Mitten alikuwa amekimbilia Kolombia kutafuta mshahara bora,lakini wachezaji waliobaki waliweza kushinda taji la Divisheni ya Kwanza baadaye mwaka 1952. Hata hivyo, Busby alijua kwamba timu za kandanda zilihitaji zaidi ya tajriba, kwa hivyo alitumia sera ya kuleta wachezaji kutoka katika timu ya vijana pale ilipowezekana. Mara ya kwanza, wachezaji wachanga kama vile Roger Byrne, Bill Foulkes, Mark Jones na Dennis Viollet, walichukua muda kuzoea timu kuu, na kuteremka hadi nafasi ya nane mwaka 1956, lakini timu hiyo ilishinda ligi tena katika mwaka wa 1956 kwa umri wa wastani miaka 22 tu, na kufunga mabao 103 wakati huo. Sera ya kuteua vijana iliyowekwa na Busby sasa imekuwa fadhila mahususi kwa vipindi vilivyofanikiwa zaidi katika historia ya klabu (katikati ya 1950, kati na mwisho wa miaka ya 1960 na miak 1990). Kundi asilia la vijana wachezaji lilijulikana kama Busby Babes, ambapo aliyevuma sana alikuwa kiungo wa pembeni Duncan Edwards. Kijana huyo kutoka Dudley, West Midlands aliichezea United kwa mara ya kwanza kabisa akiwa na umri wa miaka 16 tu mwaka 1953. Ilisemekana kuwa Edwards angeweza kucheza katika nafasi yoyote uwanjani, na wengi waliomwona akicheza walisema kuwa yeye ndiye alikuwa mchezaji maarufu kabisa katika historia ya mchezo huo. Msimu uliofuata, 1956-57, walishinda ligi tena na kufikia fainali ya Kombe la FA, na kupoteza kwa Aston Villa. Pia ilikuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushindana katika kombe la Uropa, kwa amri ya FA, ambayo ilikuwa imeiinyima Chelsea fursa sawa na hiyo msimu uliotangulia, na kufika nusu fainali kabla ya kung'olewa na Real Madrid. Ikielekea nusu fainali hizo, United pia iliacha rekodi kwa ushindi ambayo bado ipo kama washindi wakuu katika mashindano yote, kwa kuwachapa mabingwa wa Ubelgiji Anderlecht mabao 10-0 ugani Maine Road.
Janga liliikumba msimu uliofuata, wakati ndege iliyokuwa imewabeba wachezaji kurejea nyumbani kutoka mchuano wa European Cup ilipoanguka pindi ilipoanza kupaa baada ya kutua kujaza mafuta huko Munich, Ujerumani. Ajali hiyo ya ndege Munich ya 6 Februari 1958 ilisababisha vifo vya wachezaji - Geoff Bent, Roger Byrne, Eddie Colman, Duncan Edwards, Marko Jones, Daudi Pegg, Tommy Taylor na Liam "Billy" Whelan - na abiria wengine kumi na watano, pamoja na wafanyikazi wa United Walter Crickmer, Bert Whalley na Tom Curry.[15] Tayari kulikuwa na majaribio mawili ya kupaa kabla hilo la tatu lililoishia maafa, lilisababishwa na kujazana kwa tope mwishoni mwa barabara ya ndege na hivyo kupunguza kasi ya ndege hadi kiwango kisichotosha kupaa. Ndege iliteleza nje ya mwishoni mwa barabara ya kupaa, kupitia uani na kuingia katika nyumba ambazo hazikuwa na watu watu. Mlindalango wa United Harry Gregg alifanikiwa kutozirai baada ya ajali, na kwa kuhofia kulipuka kwa ndege wakati wowote, aliwakamata Bobby Charlton-ambaye alikuwa ameichezea United mechi yake ya kwanza kabisa miezi 18 tu iliyopita – na Denni Viollet viunoni na kuwavuta mahali salama. Wachezaji 7 wa United walikufa katika eneo la tukio, huku Duncan Edwards akifa majuma mawili baadaye hospitalini. Wing'a wa kulia Johnny Berry pia alinusurika ajali hiyo, lakini majeraha aliyopata kwenye ajali yalisitisha ghafla uchezaji wa kandanda. Matt Busby hakutumainiwa kuishi zaidi na madaktari wa Munich na wakati mmoja alifanyiwa Maombi ya Mwisho, lakini alipata afueni kimiujiza na hatimaye aliruhusiwa kutoka hospitalini baada ya kulazwa kwa zaidi ya miezi miwili.
Kulikuwa na uvumi kuwa klabu ingefilisika na kujiondoa kutoka mashindano yote, lakini Jimmy Murphy aliposhikilia usukani kama meneja huku Busby akiendelea kupona majeraha, klabu kiliendelea kucheza kwa timu hafifu. Licha ya ajali hiyo, walifika fainali ya kombe la FA tena, ambapo walipoteza dhidi ya Bolton Wanderers. Mwishoni mwa msimu, UEFA iliipa FA nafasi ya kuwasilisha United na mabingwa wa msimu Wolverhampton Wanderers, kushiriki kombe la Uropa mwaka 1958-59 kama heshima kwa waathiriwa lakini FA ilikataa. United ilimudu kuikaba Wolves koo msimu uliofuata, huku ikimaliza katika nafasi ya kuridhisha ya pili; haikuwa mbaya kwa timu iliyokuwa imepoteza wachezaji tisa katika ajali ya ndege ya Munich.
Busby aliijenga upya tena timu hiyo mapema miaka ya 1960, akisajili wachezaji kama vile Denis Law na Pat Crerand, wakati huo huo akilea kizazi chake kipya cha vijana chipukizi. Huenda maarufu zaidi katika kundi hili jipya alikuwa kijana kutoka Belfast aliyeitwa George Best. Best alikuwa na uanariadha wa kipekee , lakini kipawa chake cha thamani zaidi kilikuwa kudhibiti mpira. Miguu yake ya kasi ilimruhusu kupenya kwenye mwanya wowote katika ngome ya wapinzani, hata uwe mdogo kiasi gani. Timu hiyo ilitwaa Kombe la FA mwaka wa 1963, ingawa ilimaliza katika nafasi ya 19 katika Daraja la Kwanza. Shangwe za ushindi wa Kombe la FA zilionekana kuwaimarisha wachezaji, waliosaidia klabu kufikia nafasi ya pili 1964, na kuimarika zaidi kwa kushinda ligi katika mwaka wa 1965 na 1967. United ilishinda kombe la Uropa 1968 kwa kuinyuka Eusébio's Benfica 4-1 kwenye fainali na kuwa kilabu cha kwanza Uingereza kushinda shindano hilo. Timu hii ya United ilikuwa maarufu kwa kuwa na wanakandanda watatu bora wa Mwaka barani Uropa: Bobby Charlton, Denis Law na George Best. Matt Busby alijiuzulu kama meneja 1969 na nafasi yake kuchukuliwa na kocha wa akiba na pia aliyekuwa mchezaji wa United, Wilf McGuinness.
1969-1986
United ilijitahidi kujaza nafasi ya Busby, na timu ilitatizika chini ya Wilf McGunness katika msimu wa 1969-70, ilipomaliza katika nafasi ya kukatisha tamaa ya nane, na kufuatiwa na kuanza vibaya katika msimu wa 1970-1971, McGunnies alishushwa madaraka na kuwa kocha wa timu ya akiba. Busby alishawishwa kurudi klabuni, japo kwa miezi sita pekee. Matokeo yalikuwa bora chini ya uongozi wa Busby, lakini hatimaye aliondoka klabuni kwa mara ya mwisho katika majira ya joto ya 1971. Hayo yakijiri, United ilikuwa imewapoteza wachezaji wa hali ya juu kama Nobby Stiles na Pat Crerand.
Licha ya kumwomba maneja aliyeiongoza Celtic kushinda kombe la Uropa Jock Stein, kuwa meneja wake, Stein alikubali kwa mkataba wa mazungumzo kujiunga na United, lakini akaghairi msimamo dakika za mwisho- Frank O’Farrell aliteuliwa kumrithi Busby. Hata hivyo, kama Mc Guinness, O’Farrell alidumu chini ya miezi 18, tofauti kati ya wawili hao ni kuwa O’Farrell aliitikia matokea ya timu yasiyo ya kuridhisha kwa kuleta vipaji vipya, wakutajika hasa ni Martini Buchaman kutoka Aberdeen kwa malipo ya £125,000. Tommy Docherty akawa meneja mwishoni mwa 1972. Docherty, au "Doc", aliiokoa United kutoshushwa ngazi msimu huo lakini walishushwa mwaka 1974, wakati ambapo nyota watatu , Best, Law na Charlton walikuwa wamekihama klabu. Denis Law alikuwa amehamia Manchester City katika majira ya joto ya 1973, na kuishia kufunga bao ambalo watu wengi husema liliishusha ngazi ya United, kwa adabu alikataa kusherehekea pamoja na wanatimu wenzake. Wachezaji kama vile Lou Macari, Stewart Houston na Brian Greenhoff waliletwa kuchukua nafasi za Best, Law na Charlton lakini hakuna aliyefikia kimo cha watatu hao waliotangulia.
Timu iliweza kupandishwa ngazi katika jaribio la kwanza, huku kijana Steve Coppell akishiriki mchuano wake wa kwanza kuelekea mwisho wa msimu baada ya kujiunga na klabu kutoka Tranmere Rovers na kufika fainali za Kombe la FA mwaka 1976, lakini walishindwa na Southampton. Walifika fainali tena mwaka 1977, walipoishinda Liverpool 2-1. Pamoja na mafanikio na umaarufu wake miongoni mwa mashabiki, Docherty alipigwa kalamu mara baada ya fainali ilipopatikana kuwa alikuwa na uhusiano wa kimapenzi na mke wa mtaalamu wa tibamaungo (physiotherapist).
Dave Sexton alichukua nafasi ya Docherty kama meneja katika majira ya joto ya 1977 na kuifanya timu kucheza mtindo wa kujihami zaidi. Mtindo huu haukupendwa na mashabiki ambao walikuwa wamezoea mtindo wa kandanda ya kushambulia iliyopendelewa na Docherty na Busby. Usajili mkuu wa wachezaji uliofanyika chini ya Sexton ulihusisha Joe Jordan, Gordon McQueen, Gary Baileyna na Ray Wilkins lakini kwa sababu ya mtindo wa kujihamu wa Sexton, United ilishindwa kutoka katika safu ya kati isipokuwa mara moja tu, ilipomaliza katika nafasi ya timu mbili bora na ikaweza kufikia finali ya kombe la F.A mara moja, ilipoteza kwa timu ya Arsenal. Kwa sababu ya ukosefu huu wa vikombe, Sexton alifutwa mwaka wa 1981, ingawa alikuwa ameshinda michuano yake yote saba ya mwisho.
Nafasi yake ilichukuliwa na mshaufu Ron Atkinson ambaye fikra zake za ucheshi zilidhihirika katika vilabu alivyosimamia. Mara moja alivunja rekodi ya Uingereza ya ada ya uhamisho kwa kumsajili Bryan Robson kutoka klabu yake ya zamani, West Bromwich Albion. Robson aliibuka kuwa kile wengi walifikiria kuwa mchezaji bora kiungo cha kati wa United tangu Duncan Edwards. Timu ya Atkinson iliweza kushuhudia usajili mpya wa wachezaji kama vile Jesper Olsen, Paul McGrath na Gordon Strachan ambao walicheza na wliokuwa wachezaji wa timu ya vijana wakiwemo Norman Whiteside na Mark Hughes. United ilishinda Kombe la FA mara mbili katika miaka mitatu, katika mwaka wa 1983 na 1985, walipigiwa upatu kushinda Ligi katika msimu wa 1985-86 kabla ya kushinda mechi zao kumi za kwanza ligini jambo lililopelekea kuwepo na tofauti ya pointi kumi kati yao na wapinzani wao mwanzoni mwa mwezi wa Oktoba. Hata hivyo, muundo wa timu uliporomoka na United ikamaliza msimu huo katika nafasi ya nne. Uhafifu wa timu uliendelea katika msimu uliofuata, na United ilikuwa ikichungulia kushushwa ngazi kuanzia mwanzo wa Novemba 1986, Atkinson alifutwa.
Enzi ya Alex Ferguson, kabla ya Treble [1986-1998]
Alex Ferguson aliwasili kutoka Aberdeen kuchukua nafasi ya Atkinson siku hiyo hiyo aliyofutwa Atkinson, alikuja pamoja na meneja msaidizi wake, Archie Knox. Ingawa mechi yake ya kwanza uongozini, dhidi ya Oxford United tarehe 8 Novemba 1986 alishindwa 2-0, Ferguson aliiongoza klabu kumalizia nafasi ya 11 katika ligi. Kumaliza katika nafasi ya pili 1987-88, pamoja na Brian McClair kuwa mchezaji wa kwanza wa United tangu George Best na kufunga mabao ishirini katika msimu wa ligi, huenda kuliwafanya mashabiki kuwa na matumaini kidogo kwa siku za usoni lakini walirejelea haraka uhafifu kwa kumalizia nafasi ya 11 mwaka 1989.
Wachezaji wengi waliosajiliwa na Ferguson hawakufikia matarajio ya mashabiki, na meneja iliripotiwa nusura aachishwe kazi mwanzoni mwa 1990, wengi waliamini kwamba kushindwa kwao na Nottingham Forest katika duru ya tatu ya Kombe la FA kungetia muhuri hatma yake. Bao la Marko Robins kunako dakika 56 liliiwezesha United kushinda mchuano huo na kuwaweka katika king'ang'anyiro kilichowapeleka hadi fainali iliyofanyika Wembley, ambapo waliitinga Crystal Palace 1-0 katika mchuano wa marudio baada ya sare ya 3-3 katika mechi ya awali. Mwaka uliofuata, United ilifika fainali ya League Cup na kupoteza kwa bao 1-0 kwa timu ya aliyekuwa meneja wao Ron Atkinson Sheffield Wednesday. Hata hivyo, msimu ulimalizika kwa ushindi wa kwanza wa Kombe la Washindi wa Vilabu (Cup Winners 'Cup), walipoiadhibu Barcelona 2-1 katika fainali ugani Rotterdam. Ushindi wa taji la Cup Winners uliiruhusu timu kucheza katika UEFA Super Cup mwaka 1991 ambapo waaliwashinda waliokuwa washindi wa Kombe la Ulaya Red Star Belgrade 1-0 uwanjani Old Trafford. Mechi hiyo ilipaswa kuchezwa kwa michuano miwili lakini kutokana na ukosefu wa utulivu wa kisiasa nchini Yugoslavia wakati huo, UEFA iliamua kwamba mchuano wa Old Trafford tu ndio utakaochezwa. Kushiriki kwa mara ya pili mfululizo katika fainali ya kombe la Ligi kulitokea mwaka 1992, United wakati huo iliifunga Nottingham Forest 1-0 ugani Wembley.
Wakati huo huo, matukio yalikuwa yakiendelea nje ya uwanja mwishoni mwa mwongo, huku mwenyekiti Martin Edwards akijaribu kuiuza klabu kwa mkwasi Michael Knighton mwaka 1989. Uuzaji huo wa milioni £20 ulikuwa karibu kuthibitishwa huku Knighton akiingia Old Trafford akiwa na sare ya Manchester United na akifanya mbwembwe kadha kabla ya kuvurumisha mpira kuelekea langoni upande wa Stretford ugani humo. Knighton aliweza kuona rekodi za kifedha za klabu, lakini, kabla ya mkataba wa uuzaji kukamilishwa washauri wake wa kifedha walikataa na mpango huo ukafutiliwa. Hata hivyo, kwa kuwa Knighton alikuwa na ufahamu wa jinsi mambo yalivyokuwa yakiendeshwa klabuni, alipewa wadhifa katika bodi ya klabu kama njia ya kumfanya kubaki kimya kuhusu jambo hilo. Mwaka 1991, ikihitaji msaada zaidi wa kifedha kufuatia Ripoti ya Taylor klabu ilianza uuzaji katika Soko la Hisa la London kwa thamana iliyokisiwa kuwa paundi milioni 47, na kuleta katika macho ya umma hali yake ya kifedha. Martin Edwards alihifadhi wadhifa wake kama mwenyekiti, lakini sasa klabu ilikuwa ikimilikiwa na umma.
Majira ya joto ya mwaka 1991 pia yalishuhudia kuwasili kwa mlindalango raiya wa Denmak Peter Schmeichel, ambaye kutofungwa kwake katika michuano 17 kuliipa United rekodi bora ya kujihami katika Divisheni ya kwanza msimu wa 1991-92na kuwasaidia kumaliza katika nafasi ya pili nyuma ya Leeds United, ndani ya safu hizo kulikuwa na sogora fulani Mfaransa aliyeitwa Eric Cantona. Alex Ferguson alitambua haja ya United ya kuwa na mshambulizi kama njia ya kumzuia Mark Hughes na Brian McClair na alijaribu - na kushindwa - mara kadhaa kumsajili mshambuliaji wa Sheffield Wednesday David Hirst, lakini wakati meneja wa Leeds Howard Wilkinson alipompigia Martin Edwards mwezi Novemba 1992 kuuliza kuhusu uwezekano wa kupatikana kwa Denis Irwin, mazungumzo hayo yaligeuka haraka na kumhusu Cantona. Kwa mshangao wa Edward na Ferguson, vilabu hivyo viwili viliweza kukubaliana kwa ada ya pauni milioni 1.2 ili kumpata Mfaransa huyo thabiti. Kuwasili kwa Cantona kuliipa United mwamko muhimu sana na kuisaidia timu hiyo kuweza kujishindia taji la kwanza la Ligi tangu mwaka wa 1967. Baada ya kusajiliwa kwa Roy Keane kutoka Nottngham Forest mnamo mwaka wa Julai 1993, United iliweza kushinda taji la pili mtawalia kwa mara ya kwanza tangu mwaka wa 1957 kwenye mwaka uliofuata, kabla ya kushinda kombe la FA ili kukamilisha "Ushindi pacha" wa kwanza katika historia ya Kilabu hiyo. Mwaka huo, hata hivyo, klabu kiliomboleza kufuatia kifo cha aliyekuwa meneja na mkurugenzi wa klabu Matt Busby, aliyekufa tarehe 20 Januari 1994.
Msimu wa 1994-95 ulikuwa wa kwanza kwa klabu kumaliza bila kombe tangu 1988-89, ingawa walicheza vizuri hadi katika wiki ya mwisho wa msimu na kufikiwa fainali ya FA Cup, ambapo walipoteza kwa Everton. Andy Cole alisajiliwa kutoka Newcastle United kwa gharama iliyoweka rekodi Uingereza ya paundi milioni £6 pamoja na Keith Gillespie. Hata hivyo, baada mchuanio wa kwanza wa Cole akiwa United, Eric Cantona alipokea marufuku ya miezi nane kwa kuruka ndani ya eneo umati na kumuumiza Mathayo Simmons shabiki wa Crystal Palace, ambaye alikuwa amemdhihaki Cantona kutokana na rangi ya ngozi yake akiondoka uwanjani wakati wa mchuano wa United ugani Selhurst Park. Kusimamishwa kwa Cantona kulitolewa na baadhi kama sababu ya United kushindwa kukamilisha kwa mataji matatu "hat-trick" msimu huo. Kutofanikiwa kama ilivyotarajiwa msimu huo kulimsababisha Ferguson kufanya marekebisho makuu katika timu aliwauza Paul Ince, Andrei Kanchelskis na Mark Hughes na kujaza nafasi zaoo kwa wachezaji kutoka katika timu ya vijana wa klabu hiyo, akiwemo David Beckham, Gary Neville, Phil Neville na Paul Scholes. Baada ya kushindwa 3-1 na Aston Villa katika siku ya ufunguzi wa msimu 1995-96, mwanahabari wa televisheni maarufu Alan Hansen alitoa kauli maarufu kwa kusema "kamwe hamtashinda chochote mkiwa na watoto."[16] Wachezaji kadhaa wapya, ambao baadhi yao kwa haraka walijumuishwa katika michuano ya kimataifa ya mara kwa mara na timu ya Uingereza, waliitikia vizuri na kutokana na motisha ya kurejea kwa Cantona Oktoba 1995, United ikawa klabu ya kwanza ya Uingereza kuwahi kushinda mataji mawili mara mbili, ufanisi uliokuja kujulikana kama "Double Double".[17]
Nahodha Steve Bruce aliondoka kuelekea Birmingham City mwezi Julai 1996, na Alex Ferguson akamtaja Eric Cantona kama nahodha mpya wa klabu. Aliiongoza timu kutwaa taji la nne la ligi kati ya miaka mitano katika 1996-97 kabla ya kustaafu kutoka kandanda akiwa na umri wa 30 ilipofika mwisho wa msimu huo. Teddy Sheringham aliletwa kuchukua nafasi yake, na shati yake tambulika nambari 7 ikakabidhiwa David Beckham. Walianza msimu wa 1997-98 vizuri, lakini wakapoteza michuano mitano baada ya Krismasi na kumaliza katika nafasi ya pili, pointi moja nyuma ya washindi mara mbili Arsenal. Baada ya kipindi bila mshindani wa kila mara kuwania taji ligi, hii ilikuwa dhibitisho ya kuwasili kwa Arsenal kama mshindani halisi ambao wangegombea katika miaka michache iliyofuata.
Ushindi mara tatu, Treble (1998–99)
Msimu wa 1998-99 kwa Manchester United ulikuwa na mafanikio sana katika historia ya vilabu vya kandanda nchini Uingereza kwani walikuwa timu ya pekee ya Uingereza iliyowahi kushinda mataji matatu - Ligi Kuu (Premier), kombe la FA na taji la mabingwa UEFA Champions Leaguae katika msimu huo.[18] Baada ya msimu wa wasiwasi wa Ligi ya Premier, Manchester United ilitwaa taji hilo kwenye siku ya mwisho ya fainali kwa kuwashinda Tottenham Hotspur mabao 2-1, huku Arsenal ikiishinda Aston Villa bao 1-0.[19] Kutwaa taji la Ligi ya Premier kulikuwa sehemu ya kwanza ya ushindi mara tatu (treble), sehemu moja ambayo meneja Alex Ferguson aliieleza kuwa ngumu zaidi.[19] Katika Fainali ya kombe la FA United ilikabiliana na Newcastle United na kushinda 2-0 kwa mabao kutoka kwa Teddy Sheringham na Paul Scholes.[20] Katika mechi ya mwisho ya msimu wa 1999 walicheza UEFA Chapions League Final na kuishinda timu ya Bayern Munich katika kile kinafikiriwa kuwa mwamko mkuu sana kuwahi kushuhudiwa, mchuano ulikuwa umeingia muda wa ziada wakiwa wameshindwa kwa bao moja kabla ya kutoka nyuma na kufunga mara mbili na hivyo kushinda 2-1.[18] Ferguson baadaye alipongezwa kwa huduma zake katika kandanda na kutunukiwa heshima ya taifa inayompa ruhusa kuitwa "sir".[21] Kuhitimisha mwaka huo wa kuvunja rekodi, Manchester United ilishinda kombe la Intercontinental baada ya kuinyuka Palmeiras bao 1-0 mjini Tokyo.[22]
Baada ya kipindi cha ushindi Mara Tatu (1999-hadi sasa)
United ilishinda ligi mwaka 2000 na 2001, lakini vyombo vya habari vikaona kana kwamba klabu kimeshindwa msimu huo kwa sababu kilishindwa kutwaa tena taji la Ulaya. Mwaka 2000, Manchester United ilikuwa mojawapo ya timu 14 waanzilishi wa G-14, kundi la vilabu vya soka mashuhuri Ulaya.[23] Klabu hicho pia kilikataa kushiriki kombe la FA 1999-2000 na badala yake kushiriki katika mashindano ya uzinduzi wa taji la FIFA la Klabu Bingwa Duniani Brazil, kilitaja shinikizo kutoka kwa FA, UEFA na kamati ya Uingereza iliyokuwa ikishughulikia kombe la dunia la 2006. Ferguson aliweka mikakati ya kujihami ili kufanya iwe vigumu kwa United kushindwa Ulaya, lakini mikakati hiyo haikuwa na mafanikio kwani United ilikamilisha msimu wa Ligi Kuu ya 2001-02 katika nafasi ya tatu. Walitwaa tena ligi msimu uliofuata (2002-03) na kuanza msimu uliofuata vizuri, lakini hali yao ilishuka kwa kiasi kikubwa baada ya Rio Ferdinand kupokezwa marufuku tata ya miezi minane kwa kutohudhuria upimaji wa madawa ya kulevya. Walishinda kombe la FA 2004, hata hivyo, waliibandua nje Arsenal (hatimaye Arsenal ilishinda taji la Ligi Kuu msimu huo) wakiwa njiani kuelekea fainali ambako waliishinda Millwall.
Msimu wa 2004-2005 ulijawa na hali ya kutofunga mabao, hasa kutokana na jeraha la mshambulizi Ruud van Nistelrooy na United ikamaliza msimu huo bila taji lolote na katika nafasi ya tatu. Wakati huu, hata kombe la FA liliwaponyoka kwani Arsenal iliishinda United kwa mikwaju ya penalti baada ya kutoka sare baada ya kucheza kwa dakika 120. Nje ya uwanja, hadithi kuu ilikuwa uwezekano wa klabu kuchukuliwa, tarehe 12 Mei 2005 na mfanyibiashara wa Kimarekani Malcom Glazer ambaye aliweza kupata udhibiti wa klabu hiyo kupitia uwekezaji kutumia kampuni yake ya Red Football Ltd. katika ununuzi uliothaminiwa kufikia kima cha takribani milioni £800 (wakati huo ikikisiwa kuwa sawa na dola bilioni 1.5).[24][25] Tarehe 16 Mei, aliziongeza hisa zake hadi 75% zinazohitajika kukiondoa klabu hicho kutoka Soko la Hisa na kukifanya kuwa binafsi tena, alitangaza nia yake kufanya hivyo katuka muda wa siku 20.[25] Tarehe 8 Juni, aliwateua wanawe katika bodi ya Manchester United kama wakurugenzi wasio watendaji.[26]
United ilianza vibaya msimu wa 2005-06, huku kiungo wa kati Roy Keane akiondoka kujiunga na Celtic baada ya kuwakosoa hadharani wachezaji wenzake kadhaa. Klabu pia ilikuwa imeshindwa kuhitimu kufuzu kwa awamu ya mwondoaano wa UEFA Champions League kwa zaidi ya mwongo mmoja, baada ya kupoteza kwa Benfica. Msimu huu pia walikumbwa na mikosi kadhaa ya majeraha kwa wachezaji wakuu kama vile Gabriel Heinze, Alan Smith, Ryan Giggs na Paul Scholes. Hata hivyo, walizuiliwa kuachwa mikono mitupu katika misimu mifululizo- masikitiko ambayo yalikuwa hayajashuhudiwa kwa miaka 17 iliyopita-kwa kushinda kombe la Ligi ya 2006, baada ya kuwalaza majirani zao waliopandishwa cheo Wigan Athletic katika fainali kwa mabao 4-0. United pia ilijihakikishia nafasi ya pili na kufuzu moja kwa moja kushiriki michuano ya Ligi ya Mabingwa (Champions League) siku ya mwisho ya msimu kwa kuishinda Charlton Athletic 4-0. Mwishoni mwa msimu wa 2005-06, mmoja wa washambuliaji wa United, Ruud van Nistelrooy, alikihama klabu na kujiunga na Real Madrid, kutokana na ugomvi baina yake na Alex Ferguson.[27]
Mnamo Julai 2006, klabu kilitangaza mpango wa ufadhili mpya. Kiasi cha jumla kitakuwa £ milioni 660, ambayo italipiwa riba ya £ milioni 62 kwa mwaka.[28] Matokeo ya mpango huu mpya wa ufadhili utakuwa punguzo la asilimia 30 ya malipo ya kila mwaka.[29] Uwanjani, msimu wa 2006-07 ulishuhudia United ikirejea na mtindo wao wa kandanda ya kushambulia ambao ndio ulikuwa msingi wa miaka yao ya ufanisi mwishoni mwa miaka ya 1990, wakifunga takriban mabao 20 zaidi ya Chelsea waliokuwa katika nafasi ya pili baada ya michuano 32. Januari 2007, United ilimsajili Henrik Larsson kwa mkopo wa miezi miwili kutoka Helsingborg ya Uswidi, mshambuliaji alitekeleza jukumu muhimu sana katika kuisaidia United kuingia nusu fainali ya Ligi ya Mabingwa,[30] huku ikiwa na matumaini ya kushinda mataji matatu kwa mara ya pili, hata hivyo, baada ya kufikia nusu fainali, United iliaibishwa na Milan kwa jumla ya mabao 3-5.[31] Miaka minne baada taji lao la mwisho, United ilishinda taji la Premier League tarehe 6 Mei 2007 baada ya Chelsea kutoka sare na Arsenal jambo lililoiacha The Blues pointi saba nyuma ikiwa imesaza michuano miwili ili kumaliza, kufuatia ushindi wa United wa 1-0 katika mchuano wa timu kutoka mji wa Manchester "Derby" siku iliyopita na kuifanya kombe lao la 9 la Ligi ya Premier katika misimu 15 ya uwepo wa ligi hiyo. Hata hivyo, ushindi pacha "Double" wa mara ya nne ambao haukutarajiwa haukutokea baada ya Chelsea kuifunga United 1-0 katika muda wa ziada katika kombe la kwanza la FA kufanyika katika uwanja mpya wa Wembley; wa kwanza kufanyika nchini Uingereza tangu uwanja wa zamani kubomolewe miaka saba iliyopita.
Kipindi cha kati ya 2007-08 kilishuhudia United ikimaliza kwa kushinda mataji mawili ya Ulaya licha ya kuanza vibaya msimu huo walipojipata katika nafasi 17 katika Ligi Kuu baada ya kushiriki katika mechi tatu. Hata hivyo, tarehe 11 Mei 2008, United ilihifadhi taji la Ligi ya Premier kufuatia ushindi dhidi ya Wigan Athletic. Huku washindani wao katika taji hilo Chelsea wakiweza tu kutoka sare na Bolton Wanderers, United iliweza kumaliza msimu kwa alama mbili mbele. Klabu pia ilifika fainali ya Kombe la Ulaya kwa mara ya tatu katika historia yake, baada ya kuvishinda vilabu kama Barcelona na Roma ili kufuzu kwa fainali. Waliifunga Chelsea katika mikwaju ya penalti 6-5 katika fainali ugani Luzhniki Moscow baada ya kutoka sare ya 1-1 katika muda wa kawaida tarehe 21 Mei 2008. Kupitia ushindi huu , walijipatia taji lao la tatu la Ulaya na kuweka rekodi yao kutowahi kupoteza fainali kubwa ya Ulaya. Kisadfa, msimu huu ulikuwa wa miaka 100 tangu Manchester United iliposhinda taji lao la kwanza la Ligi, ilikuwa miaka 50 baada ya ajali ya ndege ya Munich na miaka 40 baada ya Manchester United kuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushinda taji la Ulaya. Fainali ya Kombe la Ulaya ilishuhudia pia Ryan Giggs akiichezea klabu hiyo kwa mara ya 759, na kumpita Bobby Charlton aliyekuwa akishikilia rekodi ya kuichezea mara nyingi zaidi klabu hicho.
Kabla ya kuanza kwa msimu wa 2008-09, United walishiriki na kushinda tuzo ya ngao yaFA Community Shield ya 2008. United walifunga Portsmouth katika mikwaju ya penalti 3-1, washindi wa Kikombe cha FA cha 2007-08, baada ya mechi kukamilika kwa sare tasa ya 0-0 ndani ya dakika 90. Mnamo tarehe 21 Desemba 2008, United waliongezea nishani zaidi kwenye hazina yao ya tuzo kwa kushinda katika fainali ya Kombe la Ulimwengu la Vilabu vya FIFA kwa kuishinda LDU Quito kutoka Ecuador kwa bao 1-0 kule Japan, Wayne Rooney ndiye aliyefunga bao la ushindi. Miezi miwili baadaye, waliliongezea kombe la Ligi ya 2009 katika hazina yao ya tuzo kwa kuishinda Tottenham Hotspur mabao 4-1 kwenye mikwaju ya penalti.[32] Mnamo tarehe 16 Mei, United waliweza kuwahi taji la 11 katika Ligi ya Primia - na taji la ujumla la 18 katika Ligi – baada ya kuenda sare tasa ya 0-0 nyumbani kwao wakicheza na Arsenal huku wakishinda mataji matatu mtawalia ya Ligi ya Premier kwa mara ya pili.[33] Mnamo tarehe 27 Mei 2009, Barcelona waliweza kuishinda Manchester United mabao 2-0 katika fainali ya Ligi Mabingwa kule Rome, yaliyofungwa na Samuel Eto'o na Lionel Messi.[34] Fainali ya Ligi ya Mabingwa ilitokea kuwa mechi ya mwisho kwa Carlos Tévez – ambaye mkataba wake ulikamilika mnamo tarehe 30 Juni – na Christiano Ronaldo – aliyeuzwa kwa Real Madrid kwa gharama ya milioni £80, kuvunja rekodi ya dunia ya kuhamisha na kusajiliwa kwa Kaka na Real Madrid kutoka Milan kwa gharama ya milioni £56. Hata hivyo, United waliitikia hasara hizo kwa kumhamisha na kumsajili Michael Owen bila gharama yoyote, Antonio Valencia kwa milioni £17 na Gabriel Obertan kwa gharama ya milioni £3.
Msimu wa 2009-10 ulianza vizuri kwa timu ya Manchester United, licha ya kushindwa 1-0 na timu ya Burnley kule Turf Moor iliyokuwa pigo kubwa kwao. Wingi wa ushindi ukafuata hatimaye, pamoja na ushindi wa kusisimua dhidi ya Manchester City kwa mabao 4-3, uliopatikana mnamo dakika ya 96 kutokana na bao lake Michael Owen. Hata hivyo, mchezo isioridhisha uliwafanya kushindwa mabao 2-0 na Liverpool uwanjani Antfield. Kufikia 1 Novemba, Manchester United ni ya pili katika ligi, alama 2 nyuma ya Chelsea. Katika Ligi ya Mabingwa, United kwa sasa ndio washindi wa kwanza kwenye kundi lao, pamoja na ushindi dhidi ya Beşiktaş na CSKA Moscow na ushindi dhidi ya Wolfsburg huko nyumbani kwao. Mnamo tarehe 3 Novemba, Manchester United waliweza kuhifadhi na kuhitimu kutoka katika kikundi kwa kupata mabao sare 3-3 dhidi ya CKSA Moscow.
Nembo na rangi za klabu
Katika enzi zake kama Newton Heath, klabu kilitumia mavazi ya rangi tofauti, inayotambuliwa zaidi ni shati la rangi ya manjano na kijani lililovaliwa kuanzia 1878 hadi 1892, na tena 1894-1896; vazi hili la milia lilitumika tena katika michuano ya ugenini mapema miaka ya 1990. Mavazi mengine yaliyovaliwa na Newton Heath ni pamoja na shati jekundu lililokuwa na weupe robo yake (1892-1894) na shati jeupe lisilo kuwa na milia (1896-1902), zote hizi zilivaliwa na kaptura ya rangi ya samawati.[35] Katika mwaka wa 1902, pamoja na klabu kubadili jina na kuwa Manchester United, klabu pia kilibadili rangi zake kuwa jezi nyekundu, kaptura nyeupe na soksi nyeusi, ambayo imesalia kuwa sare wastani ya Man Utd katika michuano ya nyumbani tangu wakati huo. Kilicho tofauti na haya ni jezi ambazo timu ilivaa ikicheza fainali ya kombe la FA 1909 na Briston City ambayo ilikuwa nyeupe na mshipi mwekundu wa muundo wa “V”.[36] Mtindo huu ulifufuliwa katika miaka ya 1920 kabla United kurudia mashati yenye rangi nyekundu pekee, pia ilitumika kwa ajili ya michuano ya nyumbani na ugenini katika msimu wa 2009-10 kama njia ya kusherehekea miaka 100 katika Old Trafford.[37][38]
Jezi za kuchezea ugenini kawaida huwa nyeupe na kaptura nyeusi na soksi nyeupe, lakini rangi nyingine zimetumika, ikiwa ni pamoja na shati iliyokuwa na milia ya samawati na nyeupe iliyotumika kati ya 1903-1916, sare nyeusi kila kitu kilichotumika mwaka 1994, 2003 na 2007 na shati la blue iliyokuwa na mistari myembamba mwaka 2000. Mojawapo ya sare iliyokuwa maarufu kwa wengi, japo haikudumu, ni sare ya United iliyokuwa ya michuano ya ugenini ya rangi ya kijivu pekee iliyotumika kati ya 1995-96, iliacha kutumiwa baada ya timu kushindwa mchezo mmoja wakati walikuwa wameivaa. Katika muda wa mapumziko wakicheza dhidi ya Southampton, wakati united ilikuwa imetingwa 3-0, walibadilisha mavazi na kuvaa sare ya samawati na nyeupe lakini bado wakashindwa 3-1. Kulingana na wachezaji, mavazi ya kijivu hayakuwa yakionekana vyema jambo lililosababisha matokeo duni.[39] Sare nyingine maarufu ya kucheza ugenini ya Man Utd ilikuwa uweza wa kuvalika pande zote, ilikuwa na milia ya nyeupe na mikono mieusi na mstari wa kidhahabu upande mmoja na milia ya kidhahabu na mstari mweusi upande mwingine. Shati hii ilitolewa kama sare ya mwisho iliyoshonwa na Umbro kwa klabu kabla ya kuanza kuhudumiwa na Nike, na iliadhimisha miaka 100 tangu klabu kilipobadili jina lake kutoka Newton Heath kuwa Manchester United.
Sare ya tatu ambayo huvaliwa katika michuano ya nyumbani ni samawati tangu shati hadi sokisi kwa heshima ya sare iliyovaliwa 1968 timu iliposhinda Kombe la Ulaya, ukumbusho wa moja kwa moja ulifanywa na klabu 2008-09 kukumbuka miaka 40 ya jezi la tatu la 1968. Kinyume na desturi hii ni kuwa ni pamoja na sare ya rangi ya manjano iliyovaliwa katika miaka ya 1970, sare iliyotajwa hapo awali ya mistari ya samawati na nyeupe kuanzia 1996, ambayo ilionekana kuwapendeza sana mashabiki, na shati jeupe iliyokuwa na mikato ya mlazo wa rangi nyeusi na nyekundu kuanzia 2004. United pia imetumia shati zilizo wahi kutumika kama ya mazoezi kuwa sare zao za tatu, iliwahi kutumia sare nyeusi toka juu hadi chini katika msimu 1998-99 na shati samawati iliyokuwa na rangi ya damu ya mzee ubavuni mwaka 2001 kwa michuano dhidi ya Southampton na PSV Eindhoven.
Hivi sasa, jezi ya nyumbani ya Manchester United ni nyekundu na iliyo na tepe nyeusi isiyokolea kifuani. Nembo ya klabu huwa juu ya ngao nyeusi yenye ukubwa sawa upande wa kushoto wa V, ilihali alama ya Nike ni nyeupe na huwa upande wa kulia; nembo ya AIG pia ni nyeupe. Katika kukumbuka miaka 100 tangu kufunguliwa kwa uwanja wa klabu hicho cha Old Trafford kuna kitambulisho kinachosoma “Uwanja wa ndoto tangu 1910” (The Theatre of Dreams Since 1910) kilichoshikishwa upande wa mshono. Shati la nyumbani huvaliwa na kaptura nyeupe iliyo na mistari myekundu inayoteremka pande zote mbili za miguu, na soksi nyeusi iliyo na mkato mwekundu.[37] Hivi karibuni sare ya kucheza ugenini imekaribiana katika muundo na sare ya nyumbani, lakini shati ni jeusi lililo na utepe wa samawati kifuani na nembo ya klabu huwa juu ya ngao ya samawati. Sawa na sare ya nyumbani, nembo ya wadhamini iko katikati na kwa rangi nyeupe. Kaptura pia ni nyeusi na milia ya samawati ikielekea chini, huku soksi nazo zikiwa nyeusi na tepe ya samawati.[38] Sare ya ugenini ya klabu ya msimu wa 2008-09, inayojumuisha shati jeupe lililo na mstari wa samawati kwenda chini ubavuni na ukosi wa samawati ilio na mkato mwekundu, unaotumiwa kama sare ya tatu ya msimu wa 2009-10. Ikivaliwa pamoja na kaptura za samawati na soksi nyeupe, jezi la tatu lina nembo za wafadhili kwa rangi ya samawati pamoja na herufi "MUFC" nyuma ya ukosi.Beji ya klabu inakalia nguo nyeupe kushoto mwa kifua.[40][41]
Nembo ya Manchester United imebadilishwa mara chache, lakini umbo la kimsingi limebakia sawa. Beji hiyo imechukuliwa kutoka kwa nembo ya jiji la Manchester. Picha ya Shetani kwenye beji ya klabu ilitokana na lakabu ya klabu “Red Devils” (Shetani Wekundu); lililoanza kutumika mapema miaka ya 1960 baada ya Matt Busby kusikia likirejelea timu ya raga ya Salford kutokana na jezi zao nyekundu.[42] Kufikia mwisho wa miaka ya 1960 nembo hiyo ya shetani ilianza kujumuishwa katika utaratibu na shali za klabu kabla ya kujumuishwa kwenye beji ya klabu mnamo 1970 ikishikilia mkuki wenye ncha tatu. Katika mwaka wa 1998, beji iliundwa upya tena, wakati huu maneno "Footbal Club" yakiondolewa.[43]
Wachezaji
Kikosi cha timu ya kwanza
Kama ilivyokuwa 29 Oktoba 2009,kulingana na vyanzo mseto katika tovuti rasmi.[44][45]
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer1GKEdwin van der Sar2DFGary Neville (captain)3DFPatrice Evra4MFOwen Hargreaves5DFRio Ferdinand6DFWes Brown7FWMichael Owen8MFAnderson9FWDimitar Berbatov10FWWayne Rooney11MFRyan Giggs (vice-captain)12GKBen Foster13MFPark Ji-Sung14MFZoran Tošić15DFNemanja Vidić16MFMichael Carrick17MFNani18MFPaul Scholes
No.PositionPlayer19FWDanny Welbeck20DFFábio21DFRafael22DFJohn O'Shea23DFJonny Evans24MFDarren Fletcher25MFAntonio Valencia26FWGabriel Obertan27FWFederico Macheda28MFDarron Gibson29GKTomasz Kuszczak30DFRitchie De Laet31MFCorry Evans38GKRon-Robert Zieler41FWJoshua King42MFMagnus Wolff Eikrem43MFMatthew James
Wa mkopo
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer35MFTom Cleverley (at Watford until 3 Januari 2010)[46]36MFDavid Gray (at Plymouth Argyle until 18 Desemba 2009)[47]37DFCraig Cathcart (at Watford until 4 Januari 2010)[48]
No.PositionPlayer40GKBen Amos (at Peterborough United until 29 Novemba 2009)[49]—FWMame Biram Diouf (at Molde until 31 Desemba 2009)[50]
Wa ziada na walio chuoni
Kwa kikosi cha wachezaji wa ziada na walio chuoni, tazama Manchester United F.C. Reserves and Academy.
Waliokuwa wachezaji hapo awali
Kwa maelezo juu ya wachezaji wa zamani, tazama Orodha ya wachezaji wa klabu ya Soka ya Manchester United na Category:Manchester United F.C. players
Manahodha wa klabu
Rekodi za wachezaji
Kwa mujibu wa mechi iliyochezwa tarehe 8 Novemba 2009 na kulingana na takwimu ya tovuti rasmi.[52] Wachezaji walioandikwa kwa maandishi kolezo ndiyo bado wanaichezea timu ya Manchester United.
Walioshiriki michuano mingi
Waliofunga zaidi
Washindi wa matuzo
Ballon d'Or
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa Ballon d'Or wakati wakiichezea Manchester United:
Denis Law - 1964
Bobby Charlton - 1966
George Best - 1968
Cristiano Ronaldo - 2008
European Golden Shoe ( taji la kiatu cha dhahabu cha Ulaya)
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa European Golden Shoe wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo (mabao 31 ) - 2008
Tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka wakati wakiichezea Manchester United:
David Beckham - 1999
Cristiano Ronaldo - 2008
Mchezaji wa mwaka wa FIFA
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo laMchezaji wa mwaka wa FIFA wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo - 2008
Timu ya akina dada
Timu ya soka ya akina dada ya Manchester United yaani Manchester United Ladies FC ilianzishwa mwaka 1977 kama klabu ya mashabiki akina dada yaani Manchester United Supporters Club Ladies. Walijiunga na ligi ya Three Counties League mwaka 1979, na wakawa wanachama waanzilishi wa ligi ya wanawake wa eneo la kaskazini (North West Women's Regional Footbal League) mwaka 1989, walipogeuza jina lao rasmi na kuwa Manchester United Ladies FC. Ingawa walishushwa kutoka katika ligi msimu wao wa kwanza, walipandishwa ngazi tena baada ya msimu huo na kushinda taji ya ligi ya 1995-96. Msimu wa 1998-99, timu hiyo ilijiunga na Northern Combination, hatua mbili chini ya Ligi Kuu ya wanawake ya FA. Waliletwa rasmi chini ya mwavuli wa Manchester United FC mwanzo wa msimu wa 2001-02, lakini walivunjiliwa mbali kiutata mwanzo wa msimu wa 2004-05 kwa sababu za kifedha. Uamuzi huo ulikumbwa na upinzani ikizingatiwa faida inayopatikana na Manchester United na pia kutokana na ukweli kuwa timu ziliondolewa ligi zao zote kabla hata wachezaji kuarifiwa kuhusu uamuzi huo. Hata hivyo, klabu bado kilishiriki katika kandanda ya wasichana kwa kutoa mafundisho kwa wasichana chini ya umri wa miaka 16.[53]
Maafisa wa klabu
Mmiliki: Malcolm Glazer
Rais wa heshima: Martin Edwards
Manchester United Limited
Wenyekiti wenz: Joel Glazer & Avram Glazer
Afisa mkuu mtendaji: David Gill
Afisa mkuu wa utekelezaji: Michael Bolingbroke
Mkurugenzi wa Kibiashara: Richard Arnold
Mkurugenzi mtendaji: Ed Woodward
Wakurugenzi wasio watendaji: Bryan Glazer, Kevin Glazer, Edward Glazer & Darcie Glazer
Manchester United Football Club
Wakurugenzi: David Gill, Michael Edelson, Sir Bobby Charlton, Maurice Watkins
Katibu wa Klabu: Ken Ramsden
Naibu katibu wa klabu: Ken Merrett
Balozi wa kimataifa: Bryan Robson
Maafisa wa ukufunzi na wa kimatibabu
Meneja: Sir Alex Ferguson
Naibu meneja: Mike Phelan
Mkufunzi wa timu ya kwanza: René Meulensteen
Mkufunzi wa walindalango: Eric Steele
Mkufunzi wa mazoezi: Tony Strudwick
Mkufunzi wa nguvu & uzoefu: Mick Clegg
Mkuu wa utendaji wa binadamu: Dr. Richard Hawkins [54]
Meneja wa timu ya ziada: Ole Gunnar Solskjær
Mkufunzi wa timu ya ziada: Warren Joyce
Skauti mkuu: Jim Lawlor
Skauti mkuu wa Ulaya: Martin Ferguson
Mkurugenzi wa chuo cha vijana: Brian McClair
Mkurugenzi wa kandanda ya vijana: Jimmy Ryan
Daktari wa klabu: Dr. Steve McNally
Naibu daktari wa klabu: Dr. Tony Gill
Mwanatibamaungo wa timu ya kwanza: Rob Swire
Historia ya usimamizi
Ufuasi
Kabla ya Vita ya Pili vya Dunia, mashabiki wachache wa kandanda wa Uingereza walisafiri mbali kutazama michezo kwa sababu ya muda, gharama, na vikwazo vya kivifaa kama vile uhaba wa magari miongoni mwa wakaazi. Jinsi City na United walivyocheza michuano ya nyumbani kwa kubadilishana siku za Jumamosi, Wanamanchester wengi wangetazama United juma moja na juma lifuatalo City, lakini baada ya vita, ushindani mkali ukaibuka na ikawa kawaida zaidi kwa shabiki kuchagua kufuata timu moja pekee.
United iliposhinda ligi mwaka 1956, walikuwa na ufuasi wastani wa juu zaidi wa mahudhurio ya ligi nyumbani, rekodi iliyokuwa inashikiliwa na Newcastle United kwa miaka michache iliyotangulia. Kufuatia ajali yao ya ndege Munich mwaka wa 1958, watu zaidi walianza kushabikia United na wengi wakaanza kuhudhuria michuano. Hii illisababisha ushabiki kwa United kupanuka sababu moja inayofanya United kuwa mahudhurio ya juu katika ligi ya kandanda ya Uingereza kwa takribani kila msimu tangu wakati huo, hata wakati waliposhushwa ngazi na kuwa katika Divisheni ya Pili 1974-75.[3] Kwa kweli, kwa misimu miwili ambayo United haikuwa na mahudhurio ya ligi, Old Trafford ilikuwa ikifanyiwa kazi kubwa ya ujenzi (1971-72 na 1992-93).
Ripoti ya mwaka 2002, kwa anwani Do You come From Manchester?, Ilionyesha kuwa asilimia kubwa ya wanunuzi wa tiketi za msimu za Manchester City huishi katika wilaya za posta za Manchester, wakati United ilikuwa na idadi kamili juu ya wanunuzu wa tiketi za msimu wanaoishi katika eneo moja.[55]
Katika miaka ya 1990 na mapema miaka ya 2000, chanzo cha wasiwasi kwa mashabiki wengi wa United kilikuwa uwezekano wa klabu kununuliwa. Kundi la wafuasi IMUSA (Independent Manchester United Supporters' Association) lilijihusisha sana katika kupinga ununuzi uliotarajiwa wa Rupert Murdoch mwaka 1998. Kundi lingine lililotoa shinikizo klabu kisiuzwe, Shareholders United against Murdoch (ambalo baadaye lilikuwa Shareholders United na sasa ni Manchester United Supporters' Trust) liliundwa wakati huu kuhamasisha wafuasi kununua hisa za klabu, ili kwa kiasi kuwawezesha wafuasi kuwa na usemi zaidi katika masuala yaliyowatia wasiwasi kama vile bei na mgao wa tiketi, na kwa kiasi kupunguza hatari ya watu wasiohitajika kununua hisa za kutosha kumiliki klabu. Hata hivyo, mpango huu ulishindwa kumzuia Malcolm Glazer kuwa mmiliki mwenye hisa nyingi. Wafuasi wengi walikasirishwa, na baadhi walibuni klabu asi kwa jina F.C. United of Manchester. Licha ya hasira ya baadhi ya wafuasi kwa wamiliki wapya, mahudhurio yameendelea kuongezeka.
Hisia zilizotolewa na mashabiki hao, wakati mwingine umeshutumiwa. Mwaka 2000, maoni yaliyotolewa kuhusu baadhi ya mashabiki katika Old Trafford na nahodha wa wakati huo Roy Keane, kwamba baadhi ya mashabiki hawawezi hata " kuendeleza neno kandanda, acha kuielewa" yalipelekea wao kutajwa kama "mashabiki wanaohudhuria mchuano kufurahia ukarimu wa klabu na wala si kuishabikia".[56] Alex Ferguson pia ametoa maoni kadhaa kuhusu mashabiki kiasi kwamba alidai kuwa hali iliyoshuhudiwa tarehe 1 Januari 2008 ilikuwa kama "matanga".[57] Baadaye aliongeza, "Nadhani kumekuwa na siku kama hizi hapo nyuma. Ilitokea miaka michache iliyopita, wakati tulipotawala".[57] Baada ya ushindi maarufu wa 1-0 dhidi ya Barcelona ugani Old Trafford, ambao uliiwezesha United kushiriki katika fainali ya Ligi ya Mabingwa ( Champions League) Moscow, Ferguson alisema kwamba mashabiki wa United "walikuwa wapevu sana" na kwamba wao "walituwezesha kufanikiwa".[58][59]
Uwanja
Klabu kilipoanzishwa mara ya kwanza, Newton Heath alicheza michuano yao ya nyumbani kwenye uwanja mdogo ulio North Road, Newton Heath. Hata hivyo, timu geni zilizokuja kucheza uwanjani humo zililalamikia hali yake, ambayo ilikuwa "bwawa upande mmoja na uliojaa miamba kama ya timbo upande mwingine".[10] vyumba vya kubadilishia nguo pia havikuwa vya kujivunia, vilikuwa umbali wa kutembea dakika kumi katika baa ya Three Crowns iliyokuwa Oldham Road. Baadaye walihamishiwa Shears Hotel, mkahawa mwingine uliokuwa Oldham Road, hata hivyo mabadiliko yalihitajika kama klabu ilitaka kuendelea katika Ligi ya Kandanda.
Heath walibaki katika uwanja wao wa North Road kwa miaka kumi na mitano 1878-1893, mwaka mmoja baada ya kuingia Football League na baadaye kuhamia makao mapya Bank Street hapo Clayton. Uwanja mpya haukuwa mzuri sana, vipande vichache vya nyasi vilijipenyeza usoni mwa changarawe na mawingu ya moshi yalifuka kutoka katika kiwanda kilichokuwa karibu. Wakati mmoja, Walsall Town Swifts ilikataa kucheza kutokana na hali mbaya ya uwanja. Changarawe ilimwagwa uwanjani na walinda uga, hatimaye wageni wakawashawishi kucheza na kupoteza 14-0. walipinga matokeo hayo, wakitaja hali mbaya ya uwanja kama sababu ya wao kushindwa, mchuano ukarudiwa. Hali haikuwa nzuri sana wakati wa marudiano, timu ya Walsall ilishindwa tena, ingawa wakati huu walibugia 9-0 tu.[10]
Mwaka wa 1902, klabu karibu kifilisike na uwanja wa Bank Street ulifungwa na mdai kutokana na klabu kushindwa kulipa deni lake. Klabu kiliokolewa katika dakika za mwisho na nahodha Harry Stafford ambaye aliweza kuchangisha fedha za kutosha kulipia mchuano wa ugenini Bristol City na kupata uwanja wa muda karibu na Harpurhey kwa kuchezea duru nyingine dhidi ya Blackpool.[60]
Kufuatia uwekezaji kuimarisha klabu tena, jina lilibadilishwa na kuwa Manchester United, ingawa kulikuwa na hamu ya kupata uwanja uliokubalika. Wiki sita kabla ya mchuano wa kwanza wa United kuwania Kombe la FA Aprili 1909, Old Trafford ilitajwa kuwa nyumbani kwa Manchester United kufuatia ununuzi wa ardhi muhimu kwa takribani £ 60,000. Msanifumijengo Archibald Leitch aliajiriwa na mwenyekiti wa United John Henry Davies na kupewa bajeti ya £ 30.000 kwa ajili ya ujenzi. Mipango asilia ilionyesha kuwa uwanja ungefaa kujengwa kuhimili watu 100.000, ingawa idadi hiyo ilipunguzwa hadi 77,000. Licha ya hilo, rekodi ya mahudhurio ya 76,962 ilirekodiwa, ambayo hata sasa ni zaidi ya idadi rasmi inayokubalika katika uwanja huo. Ujenzi ulifanywa na Messrs Brameld na Smith wa Manchester. Katika ufunguzi wa uwanja, tiketi za kusimama ziligharimu peni sita, wakati viti ghali zaidi katika jukwaa kuu zililipiwa shilingi tano. Mchezo wa ufunguzi ulikuwa tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool FC, na wageni wakashinda kwa 4-3. Kama ilivyotokea, mabadiliko ya uwanja yalitokea wakati mwafaka zaidi - siku chache tu baada ya klabu kucheza mchuano wao wa mwisho ugani Bank Street, mojawapo ya jukwaa liliangushwa chini na dhoruba.[61]
Kupigwa kwa bomu wakati wa Vita vya Pili vya Dunia, tarehe 11 Machi 1941, kuliharibu sehemu kubwa ya uwanja, hasa jukwaa kuu. Handaki la kati katika South Stand ndilo la pekee lililobakia katika robo hiyo ya uwanja. Baada ya vita, United iliwasilisha ripoti kwa Tume ya Madhara ya Vita na kupokea fidia ya £ 22.278 kwa ajili ya ukarabati wa uwanja huo. Ingawa uwanja ulijengwa upya tena 1949, hakuna mchuano uliosakatwa Old Trafford kwa takribani miaka 10 michuano ya "nyumbani" katika kipindi hicho ilichezwa katika uwanja wa Manchester City, Maine Road. Manchester City iliilipisha United £ 5,000 kwa mwaka kwa matumizi ya uwanja wao, pamoja na asilimia fulani ya ada ya kiingilio.[62]
Marekebisho mengine yalitokea baadaye, yakianza na kuwekwa paa upande wa Stretford End kisha ikawekwa pande za North Stand na East Stand. Hata hivyo, mtindo wa zamani wa paa uliwazuia mashabiki wengi kutazama na hivyo, kupelekea kuboreshwa kwa paa hizo kuwa zilizoinuka na ambazo bado zipo katika uwanja huo leo. Stretford End lilikuwa jukwaa la mwisho kufanyiwa ukarabati wa kuinuliwa paa, kazi iliyokamilika kwa muda ufaao kuruhusu michuano ya msimu wa 1993-94.[63]
Taa za uwanjani ziliwekwa kwa mara ya kwanza uwanjani katikati ya miaka ya 1950. Viunzi180-foot (55m) vinne vikuu vilijengwa, kila kimoja kikiwa na taa 54. Mfumo mzima wa taa uliigharima klabu £ 40,000, na kutumika mara ya kwanza katika mechi ya tarehe 25 Machi 1957. Hata hivyo, taa mtindo zamani zilibomolewa mwaka wa 1987, na kubadilishwa na taa za kisasa zilizowekwa katika paa la kila jukwaa, zinadumu hadi leo.
Mwaka 1990, kufuatia janga la Hillsborough Disaster, ripoti ilitolewa iliyotaka viwanja vyote kukarabatiwa ili kuruhusu mashabiki wanaoketi pekee, hilo lilipelekea ukarabati ulioshusha idadi ya mashabiki wanaoruhusiwa hadi takribani 44,000. Hata hivyo, umaarufu wa klabu ulimaanisha kuwa maendeleo zaidi yangetokea. Mwaka 1995, North Stand ilijengwa kuwa na daraka tatu na kuongeza idadi inayoruhusiwa hadi takribani 55,000. Hii ilifuatiwa na upanuzi kwanza wa jukwaa la East na kisha West kufikisha jumla ya idadi ya 68,000. Upanuzi wa hivi karibuni zaidi ulikamilika mwaka 2006, ambapo robo iliyopo North-East na North West ilifunguliwa, na kufikisha rekodi ya idadi ya sasa ya 76,098, 104 tu chini ya upeo wa idadi inayoruhusiwa.[63]
Imekadiriwa kwamba kwa maendeleo zaidi kufanyiwa uwanja, hasa Southern Stand ambayo ndio hadi sasa ina daraka moja tu, gharama ya uboreshaji inaweza kukaribia £ million 114 ambazo tayari zimetumika kuboresha uwanja huo katika miaka kumi na minne iliyopita. Hii ni kutokana na ukweli kwamba ingebidi takriban nyumba hamsini kununuliwa na klabu, hilo huenda likaongeza usumbufu kwa wakazi wa mtaa huo,na upanuzi wowote ungelazimika kujengwa juu ya laini ya reli inayopita karibu na uwanja huo. Kwa kweli , upanuzi huo utajumuisha kuifanya South Stand kuwa na angalau daraka mbili na kujaza jukwaa za South-West na South-East kuhifadhi umbo la "bakuli" la uwanja huo. Makadirio ya sasa yanaashiria kuwa uwanja huo ukijengwa hivyo utakuwa na uwezo wa kuhimili takriban mashabiki 96,000, zaidi wa uwanja mpya wa Wembley.[63]
Udhamini
AIG ndio wadhamini wakuu wa Manchester United, na kama sehemu ya mpango huo wa udhamini nembo yao imebandikwa mbele ya mashati ya klabu na bidhaa nyingi nyinginezo za klabu. Udhamini wa AIG ulitangazwa na afisa mtendaji wa Manchester United David Gill tarehe 6 Aprili 2006, ina thamani ya £ milioni 56.5 rekodi ya aina yake nchini Uingereza na ya kulipwa kwa takribani miaka minne (£ milioni 14.1 kila mwaka).[64] Udhamini huo ulikuwa wenye thamani zaidi dunia mwezi Septemba 2006 baada ya kubatilishwa kwa udhamini wa £ milioni 15 kila mwaka kati ya Juventus na kampuni ya mafuta ya Tamoil.[65] Tarehe 21 Januari 2009, ilitangaza kuwa AIG haitafanya upya udhamini wao wa klabu ifikapo mwisho wa udhamini wa sasa Mei 2010. Hata hivyo, si wazi ikiwa mkataba wa AIG kusimamia MU Finance utaendelea.[66] Kampuni ya bima ya marekani Aon ilitajwa kama mdhamini mkuu wa klabu tarehe 3 Juni 2009, huku udhamini wao kwa klabu ukianza kutekelezwa mwanzo wa msimu wa 2010-11.[67] Masharti ya mpango huo hawakufichuliwa, lakini imeripotiwa kuwa una thamani ya takriban £ million 80 kwa takriban miaka minne, ambayo itaifanya kuwa mdhamini mkuu zaidi katika historia ya kandanda.[68]
Klabu kimekuwa na wadhamini wakuu watatu tu wa shati. Wa kwanza na waliohudumu kwa muda mrefu zaidi walikuwa Sharp Electronics, ambao walifadhili klabu kuanzia 1982 hadi 2000, ilikuwa moja ya udhamini wa faida kubwa na wa muda mrefu katika Soka ya Uingereza.[69][70] Nembo ya Sharp ilikuwa mbele ya shati za United katika miaka hiyo 17, wakati ambao timu ilishinda mataji saba ya Ligi Kuu, tano za Kombe la FA, moja la Football League, moja la Washindi wa makombe ya Ulaya na moja la Kombe la Ulaya. Vodafone ilichukua udhamini kwa mkataba wa awali wa miaka minne wa £ million 30 tarehe 11 Februari 2000, udhamini ulianza mwanzo wa msimu wa 2000-01.[69][70] Mnamo Desemba 2003, udhamini ulirefushwa kwa miaka minne na Vodafone ikakubaliana kulipa £ million 36 zaidi kwa miaka minne ya 2004-2008.[71] Hata hivyo, tarehe 23 Novemba 2005, Vodafone ilitangaza kuwa itakomesha udhamini wake Mei 2006 ili kuangazia zaidi udhamini wao wa UEFA Champions League.[72]
Vivyo hivyo, klabu imekuwa na washonaji huru nne tu wa sare yake, wa kwanza walikuwa kampuni ya Uingereza UMBRO. Admiral ilichukua usukani mwaka 1975, na kuwa kampuni ya kwanza ya kuweka nembo yao kwenye shati la Manchester United mwaka wa 1976.[73] Adidas ilifuatiwa mwaka 1980,[74] kabla Umbro kuanzaa kipindi chao cha pili kama watengenezaji wa sare za klabu hiyo mwaka wa 1992.[75] Udhamini wa Umbro ulidumu kwa miaka kumi zaidi kabla ya klabu kupata udhamini wa kuvunja rekodi - £ million 302.9 kutoka kwa Nike. Makubaliano na Nike yatadumu kwa miaka 13 ya awali, na kuendelea hadi angalau mwaka wa 2015.[76]
Washindani
Kihistoria, washindani wa karibu wa Manchester United wamekuwa Liverpool, Manchester City na Leeds United.[77][78] Hivi sasa, mashabiki wengi huona Liverpool kama washindani wao wakubwa kutokana na mafanikio ya klabu zote mbili,[79] ingawa bado wengine huiorodhesha Manchester City kama wapinzani wao wakuu.
Ushindani na Liverpool ulianza katika miaka ya 1960 wakati klabu hizo mbili zilikuwa kati ya klabu imara zaidi Uingereza, na zimekuwa zikishindana kwa karibu sana kila msimu tangu zamani. Ushindani wa Manchester City ulianza wakati wa enzi ya Newton Heath ya miaka ya 1890 na imebakia kali kutokana na klabu hizi mbili kuwa katika divisheni sawa kwa muda mrefu wa historia yao. Huku ushindani ukiwa na msingi wa ukinzani wa jadi kati yaYorkshire-Lancashire, ushindani kati yao na Leeds United ulianza mwishoni mwa miaka ya 1960 wakati Leeds ilitawazwa mshindi, na kuendelea katika miaka ya 1970 na 1980 kabla kufikia kilele wakati Leeds ilipoiadhibu United katika taji la ligi 1992.
Tuzo
Nchini Uingereza
Ligi
Ligi Kuu: [80] 11
1992-93, 1993-94, 1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08, 2008-09
Divisheni ya kwanza: [80] 7
1907-08, 1910-11, 1951-52, 1955-56, 1956-57, 1964-65, 1966-67
Divisheni ya pili: [80] 2
1935-36, 1974-75
Vikombe
Kombe la FA: 11
1909, 1948, 1963, 1977, 1983, 1985, 1990, 1994, 1996, 1999, 2004
Kombe ya Ligi: 3
1992, 2006, 2009
FA Charity / Community Shield: 17 (washindi waziwazi mara 13, mara 4 imegawanywa)
1908, 1911, 1952, 1956, 1957, 1965 *, 1967 *, 1977 *, 1983, 1990 *, 1993, 1994, 1996, 1997, 2003, 2007, 2008 (* washindi wa pamoja)
Ya Ulaya
Kombe la Ulaya / UEFA Champions League: 3
1968, 1999, 2008
UEFA Cup Winners' Cup: 1
1991
UEFA Super Cup: 1
1991
Duniani
Kombe la Mabara: 1
1999
Kombe la FIFA la Klabu za Dunia: 1
2008
Ushindi wa mataji mawili au matatu
Mataji mawili:
Ligi na Kombe la FA: 3
1994, 1996, 1999 (kama sehemu ya Utatu)
Ligi na Kombe ya Ligi: 1
2009
Mataji mawili ya Ulaya (Ligi na Kombe la Ulaya): 2
1999 (kama sehemu ya ya Utatu), 2008
"Utatu" (League, Kombe la FA na Kombe la Ulaya): 1
1999
Hasa mashindano mafupi kama vile Charity / Community Shield, Kombe la mabara, Kombe la FIFA la klabu za Dunia au Super Cup hazifikiriwi kwa jumla kuchangia Ushindi mara mbili au tatu.
Taji kuu la peke ambalo Manchester United haijashinda kamwe ni Kombe la UEFA,[81] ingawa walifika robo-fainali mwaka 1984-85 na nusu fainali ya mashindano tangulizi ya michuano hiyo Inter-Cities Fairs Cup, mwaka wa 1964-65.[82][83]
Tazama pia
Vilabu tajiri vya kandanda
Miungano ya mashabiki
IMUSA
Manchester United Supporters 'Trust
Vijarida
Red Issue
United we Stand (kijarida)
Red News
Marejeo
Viungo vya nje
Main Page on BBC Sport: –
katika skysports.com
katika premierleague.com
Jamii:Manchester United FC
Jamii:Vilabu Mpira vya Uingereza
Jamii:Klabu za Ligi Kuu
Jamii:Klabu za Ligi ya Kandanda | https://sw.wikipedia.org/wiki/Manchester%20United%20F.C. |
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চর্যাপদ বাংলা ভাষার প্রাচীনতম পদ সংকলন তথা সাহিত্য নিদর্শন। নব্য ভারতীয় আর্যভাষারও প্রাচীনতর রচনা এটি।[1] খ্রিস্টীয় অষ্টম থেকে দ্বাদশ শতাব্দীর মধ্যবর্তী সময়ে রচিত এই গীতিপদাবলির রচয়িতারা ছিলেন সহজিয়া বৌদ্ধ সিদ্ধাচার্যগণ। বৌদ্ধ ধর্মের গূঢ় অর্থ সাংকেতিক রূপের আশ্রয়ে ব্যাখ্যার উদ্দেশ্যেই তাঁরা পদগুলো রচনা করেছিলেন। বাংলা সাধন সংগীত শাখাটির সূত্রপাতও হয়েছিলো এই চর্যাপদ থেকেই। সে বিবেচনায় এটি একটি ধর্মগ্রন্থজাতীয় রচনা। একই সঙ্গে সমকালীন বাংলার সামাজিক ও প্রাকৃতিক চিত্রাবলি এই পদগুলোতে উজ্জ্বল। এর সাহিত্যগুণ এখনও চিত্তাকর্ষক।[ক] ১৯০৭ খ্রিস্টাব্দে মহামহোপাধ্যায় হরপ্রসাদ শাস্ত্রী, নেপালের রাজদরবারের গ্রন্থশালা থেকে চর্যার একটি খণ্ডিত পুঁথি উদ্ধার করেন। পরবর্তীতে আচার্য সুনীতিকুমার চট্টোপাধ্যায় ভাষাতাত্ত্বিক বিশ্লেষণের মাধ্যমে চর্যাপদের সঙ্গে বাংলা ভাষার অনস্বীকার্য যোগসূত্র বৈজ্ঞানিক যুক্তিসহ প্রতিষ্ঠিত করেন। চর্যাপদের প্রধান কবিগণ হলেন লুইপাদ, কাহ্নপাদ, ভুসুকুপাদ, শবরপাদ প্রমুখ।
আবিষ্কার
বাংলায় মুসলমান আধিপত্য প্রতিষ্ঠিত হবার আগে ব্রাহ্মণ্য হিন্দুসমাজের পীড়নের আশঙ্কায় বাংলার বৌদ্ধগণ তাঁদের ধর্মীয় পুঁথিপত্র নিয়ে শিষ্যদেরকে সঙ্গী করে নেপাল, ভুটান ও তিব্বতে পলায়ন করেছিলেন– এই ধারণার বশবর্তী হয়ে হরপ্রসাদ শাস্ত্রী চারবার নেপাল পরিভ্রমণ করেন। ১৮৯৭ সালে বৌদ্ধ লোকাচার সংক্রান্ত তথ্য সংগ্রহের জন্য তিনি প্রথমবার নেপাল ভ্রমণ করেন। ১৮৯৮ সালের তার দ্বিতীয়বার নেপাল ভ্রমণের সময় তিনি কিছু বৌদ্ধ ধর্মীয় পুঁথিপত্র সংগ্রহ করেন। ১৯০৭ খ্রিস্টাব্দে তৃতীয়বার নেপাল ভ্রমণকালে চর্যাচর্যবিনিশ্চয় নামক একটি পুঁথি নেপাল রাজদরবারের অভিলিপিশালায় আবিষ্কার করেন। চর্যাচর্যবিনিশ্চয়, সরহপাদের দোহা এবং অদ্বয় বজ্রের সংস্কৃত সহজাম্নায় পঞ্জিকা, কৃষ্ণাচার্য বা কাহ্নপাদের দোহা, আচার্যপাদের সংস্কৃত মেখলা নামক টীকা ও আগেই আবিষ্কৃত ডাকার্ণব পুঁথি একত্রে ১৯১৬ খ্রিস্টাব্দে (শ্রাবণ, ১৩২৩ বঙ্গাব্দ) বঙ্গীয় সাহিত্য পরিষদ থেকে হাজার বছরের পুরাণ বাঙ্গালা বৌদ্ধগান ও দোঁহা শিরোনামে সম্পাদকীয় ভূমিকাসহ প্রকাশ করেন হরপ্রসাদ শাস্ত্রী।[2] হরপ্রসাদ শাস্ত্রী মোট ৪৬টি পূর্ণাঙ্গ ও একটি খণ্ডিত পদ পেয়েছিলেন। পুঁথিটির মধ্যে কয়েকটি পাতা ছেঁড়া ছিল। প্রবোধচন্দ্র বাগচী চর্যার যে তিব্বতি অনুবাদ সংগ্রহ করেন তাতে আরও চারটি পদের অনুবাদসহ ওই খণ্ডপদটির অনুবাদও পাওয়া যায়। মূল পুঁথির পদের সংখ্যা ছিল ৫১।[1] মূল তিব্বতি অনুবাদের ভিত্তিতে সিদ্ধান্ত হয়েছে যে, মূল পুঁথির নাম চর্যাগীতিকোষ এবং এতে ১০০টি পদ ছিল। হরপ্রসাদ শাস্ত্রী আবিষ্কৃত পুঁথিটি চর্যাগীতিকোষ থেকে নির্বাচিত পুঁথিসমূহের সমূল টীকাভাষ্য।[3]
নামকরণ
আবিষ্কৃত পুঁথিতে চর্যা-পদাবলির যে নাম পাওয়া যায় সেটি হল 'চর্যাচর্যবিনিশ্চয়'। হরপ্রসাদ শাস্ত্রী তাঁর সম্পাদিত গ্রন্থে এই নামটিই ব্যবহার করেছেন, সংক্ষেপে এটি ‘বৌদ্ধগান ও দোহা’ বা ‘চর্যাপদ’ নামেও অভিহিত হয়ে থাকে।[4] কিন্তু আবিষ্কৃত পুঁথিটি যেহেতু মূল পুঁথি নয়, মূল পুঁথির নকলমাত্র এবং মূল পুঁথিটি (তিব্বতি পুঁথি) যেহেতু এপর্যন্ত অনাবিষ্কৃত, সেই কারণে পরবর্তীকালে চর্যা-পদাবলির প্রকৃত নাম নিয়ে পণ্ডিতদের মধ্যে বিতর্কের সৃষ্টি হয়।
মহামহোপাধ্যায় বিধুশেখর শাস্ত্রী ১৯২৮ খ্রিস্টাব্দে চর্যার প্রথম পদের সংস্কৃত টীকাটি (শ্রীলূয়ীচরণাদিসিদ্ধরচিতেঽপ্যাশ্চর্যচর্যাচয়ে। সদ্বর্ত্মাবগমায় নির্ম্মল গিরাং টীকাং বিধাস্যে স্ফুটনম।।) উদ্ধৃত করে শ্লোকাংশের 'আশ্চর্যচর্যাচয়' কথাটিকে গ্রন্থনাম হিসাবে গ্রহণ করার প্রস্তাব রাখেন। তাঁর মতে, 'আশ্চর্যচর্যাচয়' কথাটিই নেপালী পুঁথি নকলকারীর ভুলবশত 'চর্যাচর্যবিনিশ্চয়' হয়েছে। তবে এই মতের যথার্থতা বিষয়ে আচার্য অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায় সন্দেহ প্রকাশ করেন।[5] প্রবোধচন্দ্র বাগচী ওই একই সূত্র ধরে চর্যা-পুঁথির নাম 'চর্যাশ্চর্যবিনিশ্চয়' রাখার পক্ষপাতী ছিলেন। কিন্তু আচার্য অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায় এই মত খণ্ডন করে লিখেছেন, "'আশ্চর্যচর্যাচয়' নামটিও অযুক্তিযুক্ত নয়। কিন্তু 'চর্যাচর্যবিনিশ্চয়' ও 'আশ্চর্যচর্যাচয়', দুই নামকে মিলিয়ে 'চর্যাশ্চর্যবিনিশ্চয়' নামটি গ্রহণ করা যায় না। কারণ এই 'জোরকলম' শব্দটি আধুনিক পণ্ডিতজনের পরিকল্পিত।”[6]
আধুনিক গবেষকগণ তেঙ্গুর গ্রন্থমালা (Bastan-hgyar) থেকে অনুমান করেন মূল পুঁথিটির নাম ছিল চর্যাগীতিকোষ এবং তার সংস্কৃত টীকাটি 'চর্যাচর্যবিনিশ্চয়' — অধ্যাপক অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায়ও এই মত গ্রহণ করেছেন।[7]
রচনাকাল
চর্যার রচনার সময়কাল নিয়েও ইতিহাস গবেষকদের মধ্যে মতবিরোধ আছে। সুনীতিকুমার চট্টোপাধ্যায় ও প্রবোধচন্দ্র বাগচীর মতে চর্যার পদগুলি খ্রিস্টীয় দশম থেকে দ্বাদশ শতাব্দীর মধ্যবর্তী সময়ে রচিত। কিন্তু ডক্টর মুহম্মদ শহীদুল্লাহ ও রাহুল সাংকৃত্যায়ন এই সময়কালকে আরও ২০০ বছর পিছিয়ে দিয়ে চর্যার রচনাকাল খ্রিস্টীয় অষ্টম থেকে দ্বাদশ শতাব্দী বলে মতপ্রকাশ করেছেন।
হরপ্রসাদ শাস্ত্রীর মতে অতীশ দীপঙ্কর শ্রীজ্ঞান (৯৮০ – ১০৫৩ খ্রিস্টাব্দ) তিব্বত যাত্রার পূর্বে (১০৩০ খ্রিস্টাব্দ) লুইপাদের অভিসময়বিহঙ্গ রচনায় সাহায্য করেছিলেন। একথা সত্য হলে লুইপাদ দশম শতাব্দীর শেষভাগে বর্তমান থাকবেন। অপরদিকে তিব্বতি কিংবদন্তী অনুসারে তিনিই সিদ্ধাচার্যদের আদিগুরু; অর্থাৎ, চর্যার সময়কালও দশম শতাব্দীর পূর্বে হতে পারে না।[7]
অন্যদিকে কেমব্রিজ বিশ্ববিদ্যালয়ের গ্রন্থাগারে হেবজ্রপঞ্জিকাযোগরত্নমালা নামে এক বৌদ্ধতান্ত্রিক পুঁথির সন্ধান মেলে, যেটির রচনাকাল শেষ পালরাজা গোবিন্দপালের (১১৫৫ খ্রিস্টাব্দ) শাসনকাল। বিশেষজ্ঞদের মতে এই পুঁথির রচয়িতা শ্রীকৃষ্ণাচার্যই প্রকৃতপক্ষে চর্যার কাহ্নপাদ বা চর্যা-টীকার কৃষ্ণাচার্য। নাথ সাহিত্য অনুযায়ী কাহ্নপাদের গুরু জালন্ধরিপাদ বা হাড়িপা, যিনি গোরক্ষনাথের শিষ্য ছিলেন। আবার মারাঠি গ্রন্থ জ্ঞানেশ্বরী (রচনাকাল আনুমানিক ১২৯০ খ্রিস্টাব্দ) থেকে জানা যায় উক্ত গ্রন্থের রচয়িতা জ্ঞানদেব দীক্ষালাভ করেন নিবৃত্তিনাথের কাছ থেকে, যিনি গোরক্ষনাথের শিষ্য গেইনীনাথ বা গোয়নীনাথের থেকে দীক্ষাপ্রাপ্ত। সেই হিসাবেও কাহ্নপাদকে দ্বাদশ শতাব্দীর মানুষ বলে মনে হয়।[7]
এইসব তথ্যপ্রমাণের ভিত্তিতে চর্যার পদগুলি খ্রিস্টীয় দশম থেকে দ্বাদশ শতাব্দীর মধ্যবর্তী সময়ে রচিত বলেই অনুমিত হয়। তবে তার পরেও দু-তিনশো বছর ধরে গোপনে চর্যাগীতি রচিত হয়েছিল। শশিভূষণ দাশগুপ্ত নেপাল ও তরাই অঞ্চল থেকে এই ধরণের শতাধিক পদ উদ্ধার করেছেন ১৯৮৯ খ্রিস্টাব্দে। এগুলো কলকাতা বিশ্ববিদ্যালয় থেকে অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায়ের সম্পাদনায় নব চর্যাপদ নামে সংকলিত ও প্রকাশিত হয়।[8]
কবি
চর্যার কবিগণ সিদ্ধাচার্য নামে পরিচিত; সাধারণত বজ্রযানী ও সহজযানী আচার্যগণই এই নামে অভিহিত হতেন। তিব্বতি ও ভারতীয় কিংবদন্তিতে এরাই 'চৌরাশি সিদ্ধা' নামে পরিচিত। তবে এই ৮৪ জন সিদ্ধাচার্য আসলে কারা ছিলেন তা সঠিক জানা যায় নি।[9]
চর্যার কবিরা ছিলেন পূর্ব ভারত ও নেপাল রাষ্ট্রের বিভিন্ন অঞ্চলের অধিবাসী। কেউ পূর্ববঙ্গ, কেউ উত্তরবঙ্গ, কেউ বা রাঢ়ের অধিবাসী ছিলেন। কেউ কেউ বিহার, কেউ ওড়িশা, কেউ বা আবার অসম বা কামরূপের বাসিন্দাও ছিলেন। এঁরা ব্রাহ্মণ, কায়স্থ, ক্ষত্রিয়, বণিক এমনকি অন্ত্যজ শ্রেণী থেকেও এসেছিলেন। কেউ কেউ রাজবংশজাতও ছিলেন। এঁরা পূর্বাশ্রমের পিতৃপ্রদত্ত নাম ত্যাগ করেছিলেন বলে নাম দেখে এঁদের জাতি স্থির করা যায় না। এঁরা হিন্দুধর্মের সনাতন শাস্ত্রবিধান মানতেন না বলে এঁদের বেদবিরোধী ও নাস্তিক আখ্যা দেওয়া হয়। সাধনার নামে গোপনে কেউ কেউ যৌনাচারও করতেন বলে আধুনিক গবেষকগণ মত প্রকাশ করেন।[10]
আবিষ্কৃত পুঁথিটিতে ৫০টি চর্যায় মোট ২৪ জন সিদ্ধাচার্যের নাম পাওয়া যায়। এঁরা হলেন: লুই, কুক্কুরী, বিরুআ, গুণ্ডরী, চাটিল, ভুসুকু, কাহ্ন, কাম্বলাম্বর, ডোম্বী, শান্তি, মহিত্তা, বীণা, সরহ, শবর, আজদেব, ঢেণ্ঢণ, দারিক, ভাদে, তাড়ক, কঙ্কণ, জয়নন্দী, ধাম, তান্তী পা, লাড়ীডোম্বী। এঁদের মধ্যে লাড়ীডোম্বীর পদটি পাওয়া যায়নি। ২৪, ২৫ ও ৪৮ সংখ্যক পদগুলি হরপ্রসাদ শাস্ত্রী আবিষ্কৃত পুঁথিতে না থাকলেও ডক্টর প্রবোধচন্দ্র বাগচী আবিষ্কৃত তিব্বতি অনুবাদে এগুলির রচয়িতার নাম উল্লিখিত হয়েছে যথাক্রমে কাহ্ন, তান্তী পা ও কুক্কুরী।[11] এই নামগুলির অধিকাংশই তাঁদের ছদ্মনাম এবং ভনিতার শেষে তাঁরা নামের সঙ্গে 'পা' (<পদ) শব্দটি সম্ভ্রমবাচক অর্থে ব্যবহার করতেন।
সাধারণভাবে লুইপাদকেই আদি সিদ্ধাচার্য মনে করা হয়। তাঞ্জর বর্ণনা অনুযায়ী তিনি ছিলেন বাঙালি। তিনি মগধের বাসিন্দা ছিলেন ও রাঢ় ও ময়ূরভঞ্জে আজও তাঁর নাম শ্রদ্ধাভরে স্মরণ করা হয়। চর্যার টীকায় তাঁর অন্য নাম লূয়ীপাদ বা লূয়ীচরণ। ১ ও ২৯ সংখ্যক পদদুটি তাঁর রচিত।[12]
চর্যার পুঁথিতে সর্বাধিক সংখ্যক পদের রচয়িতা কাহ্ন বা কাহ্নপাদ। তিনি কৃষ্ণাচার্য, কৃষ্ণপাদ ও কৃষ্ণবজ্র নামেও পরিচিত। তাঁর রচিত পদের সংখ্যা ১৩টি। পুঁথিতে তাঁর মোট ১২টি পদ (পদ – ৭, ৯, ১০, ১১, ১২, ১৩, ১৮, ১৯, ৩৬, ৪০, ৪২ ও ৪৫) পাওয়া যায়।[12] তাঁর রচিত ২৪ নম্বর পদটি পাওয়া যায়নি। ইনি ওড়িশার এক ব্রাহ্মণ বংশে জন্মগ্রহণ করেন বলে জানা যায়। শৌরসেনী অপভ্রংশ ও মাগধী অপভ্রংশজাত বাংলায় তিনি পদ রচনা করতেন।[13] ভুসুকুপাদ বাঙালি ছিলেন বলে অনেকের অনুমান। কেউ কেউ তাঁকে চর্যাগানের শান্তিপাদের সঙ্গে অভিন্ন মনে করেন।[14] চর্যার পুঁথিতে তাঁর আটটি পদ (পদ – ৬, ২১, ২৩, ২৭, ৩০, ৪১, ৪৩, ৪৯) আছে।[12] এছাড়া সরহপাদ চারটি (পদ – ২২, ৩২, ৩৮, ৩৯), কুক্কুরীপাদ তিনটি (পদ – ২, ২০, ৪৮) এবং শান্তিপাদ (পদ – ১৫ ও ২৬) ও শবরপাদ দুইটি পদ (পদ – ২৮ ও ৫০) রচনা করেন। একটি করে পদ রচনা করেন বিরুআ (পদ ৩), গুণ্ডরী (পদ ৪), চাটিল (পদ ৫), কম্বলাম্বরপাদ (পদ ৮), ডোম্বীপাদ (পদ ১৪), মহিণ্ডা (পদ ১৬), বীণাপাদ (পদ ১৭), আজদেব (পদ ৩১), ঢেণ্ঢণ (পদ ৩৩), দারিক (পদ ৩৪), ভদ্রপাদ (পদ ৩৫), তাড়ক (পদ ৩৭), কঙ্কণ (পদ ৪৪), জয়নন্দী (পদ ৪৬), ধাম (পদ ৪৭) ও তান্তী পা (পদ ২৫, মূল বিলুপ্ত)। নাড়ীডোম্বীপাদের পদটি পাওয়া যায় না।[15]
ভাষা
চর্যাপদের ভাষা বাংলা কি-না সে বিষয়ে বিতর্কের সৃষ্টি হয়েছিল পরবর্তীকালে যার অবসান হয়েছে। এটি সৃজ্যমান বাংলা ভাষার একটি গুরুত্বপূর্ণ নিদর্শন। চর্যাপদের রচয়িতা বৌদ্ধ সিদ্ধাচার্যগণ সংস্কৃতে পারদর্শী হলেও তাঁরা তৎকালীন অপরিণত বাংলাতেই পদগুলি রচনা করেছিলেন। চর্যাপদের ভাষা বাংলা ভাষার অদ্যাবধি আবিষ্কৃত আদিতম রূপ। অসমীয়া, ওড়িয়া বা মৈথিলি বিদ্বজ্জনেরা এই ভাষায় নিজেদের পূর্বসূরিত্বের সন্ধান করলেও ভাষাবৈজ্ঞানিক অনুসন্ধানের ফল বাংলা ভাষারই অনুকূল। এই ভাষা সম্প্রদায়বিশেষের সাধন-সঙ্গীতের ভাষা বিধায় অস্পষ্ট ও দুর্বোধ্য; যদিও এতে উল্লিখিত ছন্দ ও রাগ-রাগিনী পরবর্তীকালের বাঙালি কবিদের পথনির্দেশিকারূপে কাজ করে।তবে প্রাচীন কবিদের মতে এটিতে সন্ধ্যা বা আলোআঁধারি ভাষা ব্যবহার করা হয় সেইসাথে গদ্য ছন্দ ব্যবহৃত হয় ।
ভাষা-বিতর্ক
চর্যা পদসংগ্রহ প্রকাশিত হবার পর চর্যার ভাষা নিয়ে যেমন প্রচুর গবেষণা হয়েছে, তেমনি ভারতের অন্যান্য অঞ্চলের বিদ্বজ্জনেরা এই ভাষার উপর নিজ নিজ মাতৃভাষার অধিকার দাবি করে বিতর্ক সৃষ্টি করেছেন।
হরপ্রসাদ শাস্ত্রী তাঁর সম্পাদিত হাজার বছরের পুরাণ বাঙ্গালা বৌদ্ধ গান ও দোহা গ্রন্থের ভূমিকায় চর্যাচর্যবিনিশ্চয়, সরহপাদ ও কৃষ্ণাচার্যের দোহা এবং ডাকার্ণব-কে সম্পূর্ণ প্রাচীন বাংলার নিদর্শন বলে দাবি করেছেন। শ্রীকৃষ্ণকীর্তন কাব্যের আবিষ্কর্তা ও সম্পাদক বসন্তরঞ্জন রায় বিদ্বদ্বল্লভও তাঁর দাবিকে সমর্থন করেন। ১৯২০ খ্রিস্টাব্দে বিজয়চন্দ্র মজুমদার তাঁদের দাবি অস্বীকার করে চর্যা ও অন্যান্য কবিতাগুলির সঙ্গে বাংলা ভাষার সম্বন্ধের দাবি নস্যাৎ করার চেষ্টা করেন। কিন্তু ১৯২৬ খ্রিস্টাব্দে ডক্টর সুনীতিকুমার চট্টোপাধ্যায় তাঁর The Origin and Development of the Bengali Language গ্রন্থে চর্যাগান ও দোহাগুলির ধ্বনিতত্ত্ব, ব্যাকরণ ও ছন্দ বিশ্লেষণ করে শুধুমাত্র এইগুলিকেই প্রাচীন বাংলার নিদর্শন হিসাবে গ্রহণ করেন। ১৯২৭ খ্রিস্টাব্দে ডক্টর মুহম্মদ শহীদুল্লাহ প্যারিস থেকে প্রকাশিত Les Chants Mystique de Saraha et de Kanha গ্রন্থে সুনীতিকুমারের মত গ্রহণ করেন।[16]
যে সকল ভাষাতাত্ত্বিক বৈশিষ্ট্য চর্যার সঙ্গে বাংলার সম্পর্ককে প্রমাণ করে সেগুলি হল[17]:
সম্বন্ধ পদে – অর বিভক্তি, সম্প্রদানে –কে, সম্প্রদানবাচক অনুসর্গ – অন্তরে (মধ্যযুগীয় ও আধুনিক রূপ – তরে), অধিকরণে – অন্ত, – ত, অধিকরণবাচক অনুসর্গ – মাঝে, অতীত ক্রিয়ায় – ইল এবং ভবিষ্যত ক্রিয়ায় – ইব। চর্যা মৈথিলী বা পূরবীয়া হিন্দিতে রচিত হলে অতীত ক্রিয়ায় – অল ও ভবিষ্যতে – অব যুক্ত হত।
গুনিয়া, লেহঁ, দিল, ভণিআঁ, সড়ি, পড়িআঁ, উঠি গেল, আখি বুজিঅ, ধরণ ন জাঅ, কহন না জাই, পার করেই, নিদ গেলা, আপনা মাংসে হরিণা বৈরী, হাড়ীত ভাত নাহি ইত্যাদি বাগভঙ্গিমা ও শব্দযোজনা বাংলা ভাষায় পরবর্তীকালেও সুলভ। এর সঙ্গে অবশ্য তসু, জৈসন, জিস, কাঁহি, পুছমি প্রভৃতি পশ্চিমা অপভ্রংশের শব্দও আছে। তবে সেগুলি মূলত কৃতঋণ শব্দ হিসাবেই চর্যায় ব্যবহৃত হয়েছে।
এছাড়া সম্প্রদানে – ক এবং – সাথ, – লাগ, – লগ-এর বদলে সঙ্গে, সম অনুসর্গের ব্যবহার এবং নাসিক্যধ্বনির বাহুল্যের জন্য চর্যার ভাষাকে রাঢ় অঞ্চলের ভাষা বলে মনে করা হয়। অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায় মন্তব্য করেছেন, “চর্যার আচার্যেরা কামরূপ, সোমপুরী, বিক্রমপুর – যেখান থেকেই আসুন না কেন, আশ্চর্যের বিষয়, এঁরা সকলেই রাঢ় অঞ্চলের ভাষানীতি গ্রহণ করেছিলেন।”[17]
রাহুল সাংকৃত্যায়ন বা অন্যান্য ভাষার বিদ্বজ্জনেরা যাঁরা চর্যাকে নিজ নিজ ভাষার প্রাচীন নিদর্শন বলে দাবি করেছিলেন, তাঁরা এই রকম সুস্পষ্ট ও সুসংহত বৈজ্ঞানিক প্রমাণের দ্বারা নিজেদের দাবি প্রতিষ্ঠিত করতে সক্ষম হন নি।
সন্ধ্যাভাষা
চর্যাপদের ভাষা অস্পষ্ট ও দুর্বোধ্য। সেই কারণে চর্যায় ব্যবহৃত ভাষাকে হরপ্রসাদ শাস্ত্রী বলেছেন সন্ধ্যাভাষা। তাঁর মতে,
“সহজিয়া ধর্মের সকল বই-ই সন্ধ্যা ভাষায় লেখা। সন্ধ্যা ভাষার মানে আলো-আঁধারি ভাষা, কতক আলো, কতক অন্ধকার, খানিক বুঝা যায়, খানিকটা বুঝা যায় না। অর্থাৎ, এই সকল উঁচু অঙ্গের ধর্মকথার ভিতরে একটা অন্য ভাবের কথাও আছে। সেটা খুলিয়া ব্যাখ্যা করিবার নয়। যাঁহারা সাধনভজন করেন তাঁহারাই সে কথা বুঝিবেন, আমাদের বুঝিয়া কাজ নাই।”[18]
বজ্রযানী ও সহজযানী গ্রন্থকারগণ প্রায়শ ‘সন্ধ্যাভাষয়া বোদ্ধব্যম্’ বলে এক রহস্যের ইঙ্গিত দিতেন। বজ্রযানী গ্রন্থগুলিতে ‘সন্ধ্যাভাষা’ শব্দটি বহুল-ব্যবহৃত। তিব্বতি ভাষায় ‘সন্ধ্যাভাষা’র অর্থ ‘প্রহেলিকাচ্ছলে উক্ত দুরুহ তত্ত্বের ব্যাখ্যা’। যদিও মহামহোপাধ্যায় বিধুশেখর শাস্ত্রী ও ডক্টর প্রবোধচন্দ্র বাগচী ‘সন্ধ্যা’র বদলে সন্-ধা ধাতু থেকে নিষ্পন্ন ‘সন্ধা’ শব্দটি ব্যবহারের পক্ষপাতী। তাঁদের মতে, ‘সন্ধ্যা’ লিপিকরদের প্রমাদ। "সন্ধা" শব্দের অর্থ ‘অভিপ্রেত, উদ্দিষ্ট, আভিপ্রায়িক বচন’। ম্যাক্সমুলার ‘সন্ধা’র অর্থ করেছেন "প্রচ্ছন্ন উক্তি" ("hidden saying")। চর্যার ধর্মীয় প্রসঙ্গের সঙ্গে ‘সন্ধা’ এ-দিক দিয়ে যুক্তিগ্রাহ্য হলেও, যেহেতু অধিকাংশ পুঁথিতেই ‘সন্ধ্যা’ শব্দটি রয়েছে সেই কারণে হরপ্রসাদের অর্থেই আধুনিক গবেষকগণ এই শব্দটি গ্রহণ করেছেন।[19]
চর্যাপদের গুপ্ত ভাষার বৌদ্ধ – তান্ত্রিক ব্যাখ্যার চেষ্টা করা হয়েছে।[20]
ভাষাতত্ত্ব
প্রাচীন বাংলার ভাষাতাত্ত্বিক বৈশিষ্ট্যগুলির সন্ধানে প্রাকৃত বাংলায় রচিত চর্যাপদ একটি মূল্যবান উপাদান। ১৯২৬ খ্রিস্টাব্দে ডক্টর সুনীতিকুমার চট্টোপাধ্যায় প্রথম এই বৈশিষ্ট্যগুলি নিয়ে বিজ্ঞানসম্মত আলোচনা করেন তাঁর The Origin and Development of the Bengali Language গ্রন্থে। এরপর ডক্টর সুকুমার সেন, ডক্টর মুহম্মদ শহীদুল্লাহ, তারাপদ মুখোপাধ্যায়, পরেশচন্দ্র মজুমদার ও ডক্টর রামেশ্বর শ' চর্যার ভাষাতত্ত্ব নিয়ে বিস্তারিত গবেষণা করেন। ফলে আজ চর্যার ভাষার স্বরূপটি অনেক বেশি সুস্পষ্ট হয়ে গেছে।[21]
ধ্বনিতত্ত্ব
চর্যায় অ-কার কিছু বেশি বিবৃত (open); কতকটা আধুনিক আ-এর কাছাকাছি। সম্ভবত আদিস্বরের শ্বাসাঘাতের জন্য অ/আ ধ্বনির বিপর্যয় দেখা যায়। যেমন: অইস/আইস, কবালী/কাবালী, সমাঅ/সামাঅ ইত্যাদি।
ব্যঞ্জনধ্বনির ক্ষেত্রে প্রধান বৈশিষ্ট্য হলো: পদমধ্যে ‘হ’-ধ্বনির সংরক্ষণ (যেমন: খনহ, তঁহি, করহ ইত্যাদি); মহাপ্রাণ বর্ণের অস্তিত্ব (যেমন: আহ্মে, কাহ্ন, দিঢ় ইত্যাদি) এবং ওড়িয়া-সুলভ ‘ল’ (l)-ধ্বনি বজায় থাকা।
প্রাকৃতের সমযুগ্মব্যঞ্জন সরলীকৃত হয়ে চর্যায় একক ব্যঞ্জনে পরিণত হয়েছে। ফলে পূর্বস্বরের পূরকদীর্ঘত্ব ঘটেছে। যেমন: প্রাচীন ভারতীয় আর্য ‘মধ্য’> মধ্য ভারতীয় আর্য "মজ্ঝ" > প্রাকৃত বাংলা ‘মাঝ’ ইত্যাদি।
নাসিক্যব্যঞ্জনের পূর্বস্বর দীর্ঘত্বলাভের সঙ্গে সঙ্গে অনুনাসিক হয়ে গেছে। যেমন: চন্দ্র>চন্দ>চাঁদ ইত্যাদি।
পাশাপাশি অবস্থিত একাধিক স্বরধ্বনির অস্তিত্ব লক্ষ্য করা যায়। যেমন: উদাস>উআস। পদান্তেও স্বরধ্বনির ব্যবহার দেখা যায়। যেমন: ভণতি>ভণই ইত্যাদি।
পদান্তে স্থিত একাধিক স্বর যৌগিক স্বররূপে উচ্চারিত হতো এবং ক্রমে দুইয়ে মিলে একক স্বরে পরিণত হত। যেমন: প্রাচীন ভারতীয় আর্য ‘পুস্তিকা’> মধ্য ভারতীয় আর্য ‘পোত্থিআ’> প্রাকৃত বাংলা ‘পোথী’ ইত্যাদি।
‘য়’-শ্রুতি বিদ্যমান ছিল; ‘ব’-শ্রুতিও দেখা গেছে। যেমন: নিয়ড্ডী>নিয়ড়ি; নাই>নাবী ইত্যাদি।
চর্যায় স্বরসংগতির দু-একটি উদাহরণ মেলে। যেমন: সসুরা (< শ্বশুর) ইত্যাদি।
"শ", "ষ", "স" এবং "ন", "ণ" – এর যথেচ্ছ ব্যবহার দেখা যায়। যেমন: নিঅ/ণিঅ, নাবী/ণাবী, সহজে/ষহজে, আস(< আশা) ইত্যাদি।
দীর্ঘস্বর ও হ্রস স্বরের উচ্চারণের পার্থক্য হ্রাস পেয়েছিল। যেমন: শবরি/সবরী, জোই/জোঈ ইত্যাদি।
পদের আদিতে "য" – ধ্বনি "জ" – ধ্বনিতে পরিণত হয়েছিল। যেমন: জাই/যাই।
রূপতত্ত্ব
চর্যার নামপদের লিঙ্গভেদ ছাড়াও সর্বনাম, বিশেষণ, সম্বন্ধবাচক শব্দেও লিঙ্গভেদ ছিল। যেমন: হরিণ/হরিণী, শবরা/শবরী, ‘রাতি পোহাইলি’, ‘গুঞ্জরী মালী’ ইত্যাদি।
একবচন-বহুবচনের পার্থক্য ছিল; সংখ্যাবাচক শব্দযোগে, সমষ্টিবাচক পদযোগে এবং দ্বিরুক্তিপদ প্রয়োগের দ্বারা বহুবচন বোঝান হতো। যেমন: ‘বতিস জোইনী’, ‘পঞ্চবিডাল’, ‘উঁচা উঁচা পাবত’ ইত্যাদি।
চর্যায় কারক মুখ্যত দুটি। যথা: মুখ্যকারক ও গৌণকারক। মুখ্যকারকে বিভক্তি শূণ্য বা – এ। যেমন: ‘সরহ ভণই’, ‘কুম্ভীরে খাঅ’ ইত্যাদি। গৌণকারকে – এঁ বা – এ বিভক্তি। যেমন: ‘সহজে থির করি’ (কর্ম কারক), "কুঠারে ছিজঅ" (করণ কারক), "হিএঁ মাঝে" (অধিকরণ কারক) ইত্যাদি। বিভক্তিহীনতার উদাহরণও পাওয়া যায়। যেমন: ‘কায়া তরুবর’।
– এর ও -ক বিভক্তির মাধ্যমে সম্বন্ধপদ নিষ্পন্ন হতো। যেমন: ‘রুখের তেন্তুলি’, ‘করণক পাটের আস’ ইত্যাদি।
– ক, – কে ও – রে বিভক্তি দ্বারা গৌণকর্মের ও সম্প্রদানের পদসিদ্ধ হতো। যেমন: ‘নাশক’, ‘বাহবকে পারই’, ‘রসানেরে কংখা’ ইত্যাদি।
– ই, – এ, – হি, – তেঁ ও –ত অধিকরণের বিভক্তি হিসাবে ব্যবহৃত হতো। যেমন: ‘নিঅড়ি’, ‘ঘরে’, ‘হিঅহি’, ‘সুখদুখেতেঁ’, ‘হাঁড়িত’ ইত্যাদি।
করণের বিশিষ্ট বিভক্তি –এঁ সপ্তমীর সঙ্গে প্রায় অভিন্ন হওয়ার কারণেও – তেঁ, – এতেঁ, – তে বিভক্তি দেখা যায়। যেমন: ‘সাঁদে’ (<শব্দেন), ‘বোধেঁ’ (<বোধেন), ‘মতিএঁ’, ‘সুখদুখেতেঁ’ (< সুখদুঃখ + এ + ত + এন)।
অপাদানে অপভ্রষ্ট থেকে আগত – হুঁ বিভক্তি দু-একটি পাওয়া গেছে। যেমন: ‘খেপহুঁ’, ‘রঅনহুঁ’।
চর্যাপদে গৌণকারকে ব্যবহৃত অনুসর্গেও (postposition) বৈচিত্র্য দেখা যায়। যেমন: ‘ডোম্বী-এর সঙ্গে’ (নামবাচক অনুসর্গ), ‘দিআঁ চঞ্চালী’ (অসমাপিকা অনুসর্গ)।
সংস্কৃতের মতো কর্মভাববাচ্যের প্রচুর উদাহরণ চর্যাপদে আছে। যেমন: ‘নাব ন ভেলা দীসই’, ‘ধরণ ন জাই’ ইত্যাদি।
চর্যাপদে যৌগিক কালের উদাহরণ না থাকলেও যৌগিক ক্রিয়ার উদাহরণ প্রচুর আছে। যেমন: ‘গুণিআ লেহুঁ’, ‘নিদ গেল’ ইত্যাদি।
নিষ্ঠাপ্রত্যয়ে – এ বিভক্তি দেখা যায়। যেমন: ‘সহজে থির করি’ ইত্যাদি।
চর্যায় এমন সব বিশিষ্ট প্রয়োগ আছে যা বাংলা ভাষাভিন্ন অন্য ভাষায় পাওয়া যায় না। যেমন: ‘ভান্তি ন বাসসি’, ‘দুহিল দুধু’ ইত্যাদি।
কর্মভাববাচ্যে অতীতকালে – ই, – ইল এবং ভবিষ্যতকালে – ইব বিভক্তির প্রয়োগ দেখা যায়। যেমন: ‘চলিল কাহ্ন’, ‘মই ভাইব’ ইত্যাদি।
প্রাচীন বাংলার চর্যাপদে ব্যবহৃত প্রবচনগুলি বাংলা ভাষায় ঐতিহ্যবাহী। যেমন: ‘হাড়িত ভাত নাহি নিতি আবেশী’, ‘আপনা মাংসেঁ হরিণা বৈরী’ ইত্যাদি।
ছন্দ ও অলংকার
চর্যার পদগুলি প্রধানত পয়ার ও ত্রিপদী পদে রচিত। এতে মাত্রাছন্দের প্রভাবও দেখা যায়। ১৬ মাত্রার পাদাকুলক ছন্দের ব্যবহারই এখানে বেশি। তবে সর্বত্র নির্দিষ্ট মাত্রারীতি দেখা যায়নি। ছন্দপংক্তির পর্বসংখ্যাগত বৈচিত্র্যও এই পদগুলির অন্যতম বৈশিষ্ট্য। ডক্টর অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায় মনে করেন, “তত্ত্বকথার ব্যাখ্যা এবং তাকে ব্রাহ্মণ সমাজের শ্যেনদৃষ্টি থেকে গোপন করা – এই দিকে পদকর্তারা এবং সিদ্ধাচার্যরা অত্যন্ত সচেতন ছিলেন বলে কবিতার আঙ্গিকের দিকে দৃষ্টি দেবার অবকাশ পাননি। তবে একটা কথা সত্য, চর্যাগানেই সর্বপ্রথম পয়ার-ত্রিপদীর আদিসুর ধ্বনিত হয়েছে। সংস্কৃতে রচিত গীতগোবিন্দও এর প্রভাব অস্বীকার করতে পারেনি।”[22]
চর্যায় অনুপ্রাসের প্রয়োগ ব্যাপক। প্রায় প্রতিটি পদই অন্ত্যমিলযুক্ত। অন্তানুপ্রাসও প্রচুর। যেমন: “বাহ তু ডোম্বী বাহ লো ডোম্বী বাটত ভইলা উদারা”। চর্যায় উল্লিখিত ছন্দ ও অলংকারগুলি পরবর্তীকালের কবিদের পথপ্রদর্শকস্বরূপ হয়েছিল।[22]
চর্যাসংগীত
চর্যাপদ একাধিক চরণবিশিষ্ট, অন্ত্যমিলযুক্ত ও গীতিধর্মী। প্রসঙ্গত উল্লেখ্য, সংস্কৃত সাহিত্যের চিত্রধর্মী শ্লোক বাংলা সাহিত্যের উপর কোনও স্থায়ী প্রভাব বিস্তার করতে পারেনি। বরং চর্যার গীতিকবিতাগুলিই পরবর্তী বাংলা কাব্যসঙ্গীতের আঙ্গিকের ক্ষেত্রে আদর্শ হয়ে ওঠে। অন্যদিকে চর্যার কবিরা যে তাঁদের ধর্মদর্শন ও সাধনপদ্ধতি রূপকের আড়ালে ব্যক্ত করে গান বেঁধেছিলেন, পরবর্তীকালের হিন্দু ও মুসলমান উভয় সম্প্রদায়ের সাধককবিরা সেই আদর্শেই তাঁদের স্ব স্ব ধর্মীয় সাধনসঙ্গীত রচনায় প্রবৃত্ত হন। বৈষ্ণব পদাবলি, বাউল গান, সুফি মুর্শিদি গান, নাথপন্থী দেহযোগী গান বা শাক্তপদাবলি– সবই চর্যাসংগীতের উত্তরসূরী।[23]
চর্যার পদগুলিতে পদকর্তাদের নামের সঙ্গে বিভিন্ন রাগ-রাগিনীর নামও পাওয়া যায়। এথেকে সহজেই অনুমিত হয় যে, এই পদগুলি সুরসহযোগে গাওয়া হতো। পটমঞ্জরী রাগে চর্যার ১১টি পদ (পদ –১, ৬, ৭, ৯, ১১, ১৭, ২০, ২৯, ৩১, ৩৩ ও ৩৬) নিবদ্ধ। এই রাগে গাওয়া পদের সংখ্যাই সর্বাধিক। এরপরেই মল্লারী রাগে ৫টি পদ (পদ – ৩০, ৩৫, ৪৪, ৪৫ ও ৪৯) নিবদ্ধ রয়েছে। ৪টি করে পদ ভৈরবী (পদ-১২, ১৬, ১৯ ও ৩৮), কামোদ (পদ – ১৩, ২৭, ৩৭ ও ৪২), বরাড়ী (চর্যায় অপর নাম বলাড্ডি, পদ- ২১, ২৩, ২৮ ও ৩৪) এবং গুঞ্জরী (চর্যায় অপর নাম গুঁজরী বা কহূ গুংজরী, পদ – ৫, ২২, ৪১ ও ৪৭) রাগে নিবদ্ধ। গৌড় (চর্যায় নাম গবড়া বা গউড়া, পদ – ২, ৩, ১৮) রাগে ৩টি পদ নিবদ্ধ।
দেশাখ (চর্যায় অপর নাম দ্বেশাখ, পদ – ১০ ও ৩২), রামকেলি (চর্যায় অপর নাম রামক্রী, পদ – ১৫ ও ৫০), আশাবরী (চর্যায় অপর নাম শিবরী বা শবরী, পদ – ২৬ ও ৪৬) ও মালসী (চর্যায় অপর নাম মালসী গবুড়া, পদ- ৩৯ ও ৪০) রাগে ২টি করে এবং অরু (পদ ৪), দেবগিরি (চর্যায় অপর নাম দেবক্রী, পদ ৮), ধানশী (চর্যায় অপর নাম ধনসী,পদ ১৪) ও বঙ্গাল (পদ ৩৩) রাগে একটি করে পদ নিবদ্ধ। ২৫তম পদটি খণ্ডিত ও এর রাগনির্দেশ জানা যায় না।[24]
চর্যাগীতিতে প্রতি পদের প্রত্যেক দুই লাইনের শেষে ধ্রু এই শব্দটি পাওয়া যায়, যা ধুঁয়া বা ধ্রুবপদের সংকেত বলে ঐতিহাসিক নীহাররঞ্জন রায় মনে করেছেন। চর্যাপদের সংস্কৃত টীকাতে ধ্রুবপদেন দৃঢ়ীকুর্বন, ধ্রুবপদেন চতুর্থানন্দমুদ্দীপয়ন্নাহ ইত্যাদি ব্যাখ্যা থেকে এই প্রমাণ পাওয়া যায়। তিব্বতীতে এই পদকে ধু পদ বলা হয়েছে। প্রত্যেক পদ গাইবার পর শ্রোতাকে আকৃষ্ট করার জন্য বারবার ধ্রুবপদ গাইবার রীতি ছিল।[25]
বাংলা ভাষা ও সঙ্গীতের প্রাচীন নিদর্শন চর্যাপদ। ১৯০৭ সালে হরপ্রসাদ শাস্ত্রী নেপালের রাজগ্রন্থাগার থেকে এর পুথি আবিষ্কার করেন। আবিষ্কৃত পুথিটির নাম চর্যাশ্চর্যবিনিশ্চয়। এটি মূলত প্রাপ্ত ৪৭টি গানের সংকলন। খ্রিস্টীয় নবম থেকে দ্বাদশ শতকের মধ্যে গানগুলি রচিত।[26]
বর্তমান কালের বাংলা গানের স্থায়ী, অন্তরা, সঞ্চারী ও আভোগ এই চার কলির পরিবর্তে সেকালে ছিল উদ্গ্রাহ, মেলাপক, ধ্রুব ও আভোগ। এগুলিকে বলা হতো ধাতু। এই চারটি ধাতুর মধ্যে উদ্গ্রাহ ও ধ্রুব সব গানেই থাকত, অন্য দুটি বাধ্যতামূলক ছিল না। তাই একটি ধাতু বর্জিত হলে সেই গানকে বলা হতো ত্রিধাতুক, আর দুটি বর্জিত হলে দ্বিধাতুক। সাধারণভাবে সঙ্গীতকে তখন প্রবন্ধগীত বলা হতো। মেলাপকবর্জিত বলে চর্যাগুলি ত্রিধাতুক প্রবন্ধগীত।[26]
ধর্ম
সিদ্ধাচার্যগণ অসামান্য কবিত্বশক্তির অধিকারী হলেও তাঁরা মূলত ছিলেন সাধক। বৌদ্ধ সহজযানী চিন্তা, দর্শন ও সাধনপদ্ধতিই তাই চর্যাপদের উপজীব্য হয়ে ওঠে। এই সহজযানী দর্শন একান্তই ভাববাদী। সিদ্ধাচার্যগণ সহজমার্গের পথিক ছিলেন। শুষ্ক তত্ত্বকথা নিয়ে তাঁরা সন্তুষ্ট থাকতেন না। সেজন্য প্রথাগত সংস্কারের ধারও তাঁরা ধরতেন না।
মায়াপ্রপঞ্চ ও দ্বৈতবোধের ঊর্ধ্বে স্থিত যে ‘বোধিচিত্ত’, সকল প্রকার দ্বৈতবোধ পরিহার করে সাধনযোগে অবধূতিকা</i>মার্গের পথে সেই ‘বোধিচিত্ত’কে ‘মহাসুখকমল’-এ স্থিত করাই সিদ্ধাচার্যদের সাধনার লক্ষ্য ছিল।[27] এই ‘মহাসুখ’ সহজযান মতে একটি বিশেষ তত্ত্ব। সাধক ‘মহাসুখ’ লাভ করলে মায়াময় পৃথিবী সম্পর্কে জ্ঞানরহিত হন। এখানে হিন্দুদর্শনের সমাধিতত্ত্বের সঙ্গে ‘মহাসুখ’ দর্শনের সাদৃশ্য লক্ষ করা যায়। চর্যাকারগণ গুরুবাদকে স্বীকার করেছেন। কুক্কুরীপাদের মতে, এক কোটি লোকের মধ্যে একজন চর্যার গূহ্যার্থ অনুধাবনে সক্ষম। সেক্ষেত্রে গুরুভিন্ন গতি নেই।[28] বাস্তবিকই চর্যার কথা লৌকিক অর্থের বদলে সংকেতে আবৃত হওয়ায় তা সর্বসাধারণের বুদ্ধিতে ঠিক ধরে না। এই দ্বৈতার্থের কয়েকটি নিদর্শন হলো: নিঃশ্বাস-প্রশ্বাস অর্থে 'চন্দ্র', চিত্ত অর্থে 'হরিণ', জ্ঞানমুদ্রা অর্থে 'হরিণী', মহাসুখকায় অর্থে 'নৌকা', শবরী অর্থে 'দেবী নৈরাত্মা' ইত্যাদি।[29]
সাহিত্যমূল্য
চর্যার বিষয় ধর্মকেন্দ্রিক ও তত্ত্ববহুল হলেও তার বাহ্যিক রূপটি লৌকিক ও সামাজিক জীবনের সঙ্গে অঙ্গাঙ্গীভাবে জড়িত। এর ফলে চর্যাপদের সাহিত্যিক মূল্যটি অস্বীকার করা যায় না। চর্যার কোনও কোনও পদে তত্ত্ব তার কাব্যের রূপটিকে ছাপিয়ে গেছে। সেইসব পদের সাহিত্যমূল্য নগন্য। কিন্তু অনেক পদেই যেসকল রূপকের আড়ালে ধর্মকথা ব্যাখ্যা করা হয়েছে তার সজীবতা ও পার্থিব সুবাস তাকে একটি সর্বাঙ্গসুন্দর কাব্যচিত্ররূপে তুলে ধরেছে। এইসব পদের সাহিত্যমূল্য অপরিসীম।
এই চিত্রকল্পগুলিই চর্যার সাহিত্যমূল্য বহন করছে। গুণ্ডরীপাদের একটি পদ পার্থিব প্রেমের তীব্র আর্তিতে জীবন্ত: “যোইণি তঁই বিণু খনহিঁ ন জীবমি। / তো মুহ চুম্বী কমলরস পীবমি” (পদ ৪, অর্থাৎ – যোগিনী, তোমাকে ছাড়া মুহুর্তকালও বাঁচব না। তোমার মুখ চুম্বন করে কমলরস অর্থাৎ পদ্মমধু পান করব।)
শবরপাদের একটি পদে দেখা যায় নরনারীর প্রেমের এক অপূর্ব চিত্রণ –
উঁচা উঁচা পাবত তঁহি বসই সবরী বালী।
মোরঙ্গি পীচ্ছ পরহিণ সবরী গীবত গুঞ্জরী মালী।।
উমত সবরো পাগল শবরো মা কর গুলী গুহাডা তোহৌরি।
ণিঅ ঘরনি ণামে সহজ সুন্দারী।।
ণাণা তরুবর মৌলিল রে গঅণত লাগেলি ডালী।
একেলী সবরী এ বণ হিণ্ডই কর্ণ কুণ্ডলবজ্রধারী।।
(পদ ২৮, অর্থাৎ – উঁচু পর্বতে শবরী বালিকা বাস করে। তার মাথায় ময়ূরপুচ্ছ, গলায় গুঞ্জামালিকা। নানা তরু মুকুলিত হলো। তাদের শাখা-প্রশাখা আকাশে বিস্তৃত হলো। শবর-শবরীর প্রেমে পাগল হলো। কামনার রঙে তাদের হৃদয় রঙিন ও উদ্দাম। শয্যা পাতা হলো। শবর-শবরী প্রেমাবেশে রাত্রিযাপন করলো।)
আবার সমাজ ও মানুষের প্রতি অকৃত্রিম দরদও আধুনিক পাঠকের দৃষ্টি আকর্ষণ করে। ঢেণ্ঢণের পদে দেখা যায় – “টালত মোর ঘর নাহি পরবেষী। / হাড়ীত ভাত নাঁহি নিতি আবেশী।” (পদ ৩৩, অর্থাৎ- টিলার উপর আমার ঘর, কোনও প্রতিবেশী নেই। হাঁড়িতেও ভাত নেই, তবু নিত্য অতিথি আসে।)
কোনও কোনও পদে নিছক দর্শনকথা অসামান্য চিত্ররূপের মাধ্যমে ফুটে উঠেছে। চাটিল লিখছেন – “ভবণই গহণগম্ভীরা বেগেঁ বাহী। দুআন্তে চিখিল মাঝেঁ ন ঠাহী।” (পদ ৫, অর্থাৎ – ভবনদী গহন ও গম্ভীর অর্থাৎ প্রবল বেগে প্রবহমান। তার দুইতীর কর্দমাক্ত ও পিচ্ছিল।)
আবার কখনও বা তত্ত্বের ব্যাখ্যায় যে প্রহেলিকার অবতারণা করা হয়েছে, সেগুলিও অসামান্য সাহিত্যগুণমণ্ডিত হয়ে উঠেছে। যেমন: কুক্কুরীপাদ লিখেছেন – “দুলি দুহি পিটা ধরণ ন জাই। / রুখের তেন্তুলি কুম্ভীরে খাঅ।।” (পদ ২, অর্থাৎ- মাদী কাছিম দোহন করে দুধ পাত্রে রাখা যাচ্ছে না। গাছের তেঁতুল কুমিরে খাচ্ছে।)[30]
চর্যাপদ ও বাঙালি জীবন
thumbnail|রাজশাহী কলেজ গ্রন্থাগারে সংরক্ষিত দূর্লভ চর্যাপদ এর অংশবিশেষ
চর্যাগীতিতে ব্যবহৃত উপমা ও রূপকল্পগুলি তৎকালীন বাংলার সমাজজীবন, পরিবারজীবন ও প্রাকৃতিক উপাদান থেকে সংগৃহীত। প্রসঙ্গত মনে রাখা প্রয়োজন, সেই যুগে বাংলার ভৌগোলিক সীমা আজকের পশ্চিমবঙ্গ-বাংলাদেশ ভূখণ্ডের বাইরেও পূর্বে অসম ও পশ্চিমে বিহার, ঝাড়খণ্ড ও পূর্ব উত্তর প্রদেশ পর্যন্ত বিস্তৃত ছিল।
চর্যাকারগণ সাধক হলেও কাঠখোট্টা তত্ত্বজ্ঞানী ছিলেন না। চারপাশের রূপরসময় পৃথিবীর সৌন্দর্য তাঁরা অকুণ্ঠ পান করে তাঁদের কাব্যকে সজীব ও প্রাণোচ্ছল করে তুলেছিলেন। এই কারণে তৎকালীন বাংলার ভূগোল ও সমাজ সম্পর্কে যে স্পষ্ট ছবি চর্যাপদ থেকে পাওয়া যায়, তা সেই সময়কার বাঙালির ইতিহাস রচনায় একটি অত্যন্ত গুরুত্বপূর্ণ উপাদান।
ভৌগোলিক উপাদান
চর্যায় নদী ও নৌকা-সংক্রান্ত রূপকের সংখ্যাধিক্য নদীমাতৃক বাংলার কথা স্মরণ করিয়ে দেয়। সাঁকো, কেডুয়াল, গুণ টানা, দাঁড় টানা, পাল তোলা, সেঁউতি, কাছি, খুণ্টী, উজান বাওয়া প্রভৃতি বারবার চর্যায় উল্লিখিত হয়েছে।
৩৮তম পদে দেখা যায়-
কাঅ ণাবডহি খান্টি মন কেডুয়াল।
সদগুরুবঅণে ধর পতবাল। ।
অর্থাৎ- কায় [হইল] ছোট নৌকাখানি, মন [হইল] কেরোয়াল। সদ্গুরু-বচনে পতবাল (পাল) ধর। (অনুবাদ: সুকুমার সেন)
এছাড়া পর্বত ও অরণ্যের উল্লেখও চর্যায় দেখা যায়।
বাঙলা সাহিত্যে শ্রেণীসংগ্রামের সূচনা হয়েছিল প্রথম চর্যাপদাবলীতেই। এ-কবিতাগুলোতে আছে অনেক সুন্দর সুন্দর উপমা; আছে মনোহর কথা, যা সত্যিকার কবি না হ'লে কেউ বলতে পারে না। একজন কবি একটি জিনিশ সম্বন্ধে বলেছেন, সে-জিনিশটি জলে যেমন চাঁদের প্রতিবিম্ব পড়ে, তার মতো সত্যও নয়, আবার মিথ্যেও নয়। এ-রকম চমৎকার কথা অনেক পরে বলেছেন রবীন্দ্রনাথ 'সাধারন মেয়ে' নামক একটি বিখ্যাত কবিতায়। রবীন্দ্রনাথ বলেছেন, "হীরে বসানো সোনার ফুল কি সত্য, তবু কি সত্য নয়?" সোনায় বানানো হীরেবসানো ফুল তো আর সত্যিকার ফুল নয়, ওটা হচ্ছে বানানো মিছে ফুল। ও ফুল বাগানে ফোটে না, তবু আমরা তাকে ফুল বলি।
সামাজিক উপাদান
চর্যায় বাঙালি সমাজের, বিশেষত ব্রাহ্মণ্যপীড়িত অন্ত্যজ সমাজের এক দরদী চিত্র অঙ্কিত হয়েছে। ডোম, শবর, চণ্ডাল প্রভৃতি অন্ত্যজ সম্প্রদায়ের জীবন ও জীবিকার নানা তথ্য এই পদগুলি থেকে জানা যায়। আবার পারিবারিক জীবনের আচার ও ব্যভিচার উভয়ই সমান দক্ষতায় ফুটে উঠেছে চর্যার পদগুলিতে (২তম পদটি দ্রষ্টব্য)।
কাহ্নপাদের একটি পদে সেকালের বিবাহ-অনুষ্ঠানের চিত্র ধরা পড়েছে। সে যুগের খেলাধুলা, নৃত্যগীত ও আমোদপ্রমোদের চিত্রও চর্যাকারগণ সুপটু হাতে এঁকেছেন। বীণাপাদের ১৭তম পদটিতে আছে– “নাচন্তি বাজিল গান্তি দেবী। বুদ্ধ নাটক বিষমা হোই।।” (অর্থাৎ- বজ্রযান নাচছেন, দেবী গাইছেন আর বুদ্ধনাটক অভিনীত হচ্ছে।)
একটি কবিতায় এক দুঃখী কবি তাঁর সংসারের অভাবের ছবি এতো মর্মস্পর্শী ক'রে এঁকেছেন যে পড়তে পড়তে শিউরে উঠতে হয়। কবির ভাষা তুলে দিচ্ছি: "টালত মোর ঘর নাহি পড়বেষী। হাড়ীত ভাত নাহি নিতি আবেশী।। বেঙ্গ সংসার বডহিল জাঅ। দুহিল দুধ কি বেন্টে ষামায়।।" (অর্থ: টিলার ওপরে আমার ঘর, আমার কোনো প্রতিবেশী নেই। হাঁড়িতে আমার ভাত নেই, আমি প্রতিদিন উপোস থাকি। বেঙের মতো প্রতিদিন আমার সংসার বেড়ে চলেছে, যে-দুধ দোহানো হয়েছে তা আবার ফিরে যাচ্ছে গাভীর বাঁটে।)
এছাড়াও সেযুগের ধর্মীয় ক্রিয়াকাণ্ড, সাজসজ্জা, তৈজসপত্র, বাদ্যযন্ত্র, নিত্যব্যবহার্য জিনিসপত্র, খাদ্যপানীয় সবই চর্যার গানগুলিতে টুকরো টুকরো ছবির আকারে ধরা পড়েছে।[31][32]
চর্যাপদে নারীদের অবস্থান
চর্যাপদের যুগে নারীরা খুব স্বাধীন ছিলেন বলে জানা যায়। তারা স্বেচ্ছায় সঙ্গী ও পেশা নির্বাচনের অধিকার রাখতেন। কুক্করীপা গৃহবধূর ছল করা নিয়ে বলেছেন, "সে দিনের বেলায় কাকের ডাকে ভয় পায়, কিন্তু রাতে প্রেমিকের সঙ্গে দেখা করতে যায়।"
ডোম্বীপাদের ১৪ নম্বর পদে নারীদের নৌকা চালনা, লোক পারাপার, নৌকার জলসিঞ্চন ইত্যাদি কর্মে অংশগ্রহণের উল্লেখ পাওয়া যায়। এছাড়া সেসময় নারীরা গুরুর স্থানও অধিকার করেছিল।[33]
প্রবাদ
চর্যাপদে প্রবাদ বাক্য ৬টি।[34] এগুলো হলো:
পাদটীকা
গ্রন্থসূত্র
চর্যা পদসংকলন
হাজার বছরের পুরাণ বাঙ্গালা ভাষায় বৌদ্ধ গান ও দোহা, হরপ্রসাদ শাস্ত্রী, বঙ্গীয় সাহিত্য পরিষদ, কলকাতা, ১৩২৩
চর্যাগীতি পদাবলী, সুকুমার সেন, আনন্দ পাবলিশার্স প্রাইভেট লিমিটেড, কলকাতা, ১৯৯৫
নব চর্যাপদ, শশিভূষণ দাশগুপ্ত সংগৃহীত ও অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায় সম্পাদিত, কলকাতা বিশ্ববিদ্যালয়, কলকাতা, ১৯৮৯
চর্যাগীতিকা - সম্পাদনায় মুহম্মদ আবদুল হাই ও আনোয়ার পাশা
"অবণাগবণ ; সমকালীন বাংলা ভাষায় প্রাচীন চর্যার রূপান্তরিত গীতবাণী", সাইমন জাকারিয়া, অ্যাডর্ন পাবলিকেশন, ঢাকা, ২০১০
সাহিত্যের ইতিহাস ও অন্যান্য আলোচনা
বাংলা সাহিত্যের ইতিবৃত্ত, প্রথম খণ্ড, অসিতকুমার বন্দ্যোপাধ্যায়, মডার্ণ বুক এজেন্সী প্রাইভেট লিমিটেড, কলকাতা, ২০০৬
বাংলা সাহিত্যের সমগ্র ইতিহাস, ক্ষেত্র গুপ্ত, গ্রন্থনিলয়, কলকাতা, ২০০১
The Origin and Development of the Bengali Language, সুনীতিকুমার চট্টোপাধ্যায়, কলকাতা বিশ্ববিদ্যালয়, কলকাতা, ১৯২৬
Materials for a Critical Edition of the Old Bengali Charyapadas (A comparative study of the text and the Tibetan translation), Part I, প্রবোধচন্দ্র বাগচী, Journal of the Department of Letters, Vol. XXX, কলকাতা বিশ্ববিদ্যালয়, কলকাতা, ১৯৩৮
বাঙ্গালীর ইতিহাস: আদি পর্ব, নীহাররঞ্জন রায়, দে’জ পাবলিশিং, কলকাতা, অগ্রহায়ণ, ১৪১০
বাংলা সাহিত্যের ইতিহাস, মাহবুবুল আলম??
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"বাংলা সাহিত্যের অলিখিত ইতিহাস", সাইমন জাকারিয়া ও নাজমীন মর্তুজা, অ্যাডর্ন পাবলিকেশন, ঢাকা, ২০১০
তথ্যসূত্র
আরও দেখুন
বঙ্গীয় সাহিত্য পরিষদ
হরপ্রসাদ শাস্ত্রী
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المساواة بين الجنسين هي سهولة الوصول إلى الموارد بغض النظر عن نوع الجنس ، ويتضمن هذا المشاركة الأقتصادية وفي صناعة القرار وتقييم السلوكيات المختلفة والحاجات وهذا بالمساواة بغض النظر عن الجنس.
كما أشارت منظمة العمل الدولية في الصفحة 48 من مقالة مبادئ حقوق النساء العاملات والمساواة بين الجنسين المنشورة عام 2000:
المساواة بين الجنسين هي المساواة بين الرجل والمرأة وتضمن مفهوم اننا جميعًا بشر، فالرجال والنساء هم أحرار في تطوير قدراتهم الشخصية وليصنعوا القرارات بدون الحدود المرسومة بواسطة الأفكار النمطية. المساواة بين الجنسين تعني أن السلوكيات المختلفة والتطلعات وأحتياجات المرأة والرجل يجب أن تؤخذ في الاعتبار ويتم تقييمها وتفضيلها بمنتهى المساواة. هذا لا يعني أن الرجل والمرأة يجب ان يكونوا متشابهين ولكن حقوقهم ومسؤولياتهم وفرصهم لا تعتمد على نوع جنسهم. المساواة بين الجنسين تعني الانصاف في المعاملة بين الرجل والمراة طبقًا لأحتياجتهم الخاصة. هذا من الممكن أن يتضمن المساواة في المعاملة او المعاملة المختلفة ولكن الأهتمام بالمساواة في الحقوق والمنافع والواجبات والفرص.
المساواة بين الجنسين هي الهدف بينما الحياد الجنسي والانصاف الجنسي هي الطرق التي تساعد في تحقيق الهدف. يُستخدم التكافؤ بين الجنسين لقياس التوازن بين الجنسين في اي موقف، حيث انها من الممكن ان تساعد في تحقيق المساواة بين الجنسين ولكنها ليست الهدف نفسه. المساواة بين الجنسين أكبر من تمثيل العدل، أنها مربوطة بقوة بحقوق النساء، وعادة تتطلب تغيير سياسي.
تقول اليونيسيف أن المساواة بين الجنسين تعني أن "الرجال والنساء الأولاد والبنات يتمتعوا بنفس الحقوق والموارد والفرص والحماية. أنها لا تطلب ان يكون الرجال والنساء، الأولاد والاطفال متشابهين أو ان يتم معاملتهم بالمثل"[1]
على مقياس عالمي، تحقيق المساواة بين الجنسين تطلب تقويض ممارسات مؤذية تجاه النساء والبنات مثل الاتجار الجنسي وقتل الأناث والعنف الجنسي في الحروب وغيرها من طرق القمع الأخرى. يوضح صندوق الأمم المتحده للأسكان "أنه على الرغم من الموافقة العالمية باعطاء المراة حقوقها الا انه مازال النساء أكثر عرضة من الرجال للفقر والأمية، ولديهم حظ اقل في حق الملكية والتدريب والتوظيف. أنهم أقل نشاطًا في السياسة من الرجال وأكثر عرضة ليصبحوا ضحايا للعنف المنزلي.[2]
في 2017 يعتبر المساواة بين الجنسين هو الهدف الخامس من سبعة عشر هدف تنموي خاص بالأمم المتحدة. يتم قياس عدم المساواة بين الجنسين سنويًا بواسطة برنامج تقارير التنمية البشرية لبرنامج الأمم المتحدة الإنمائي.
والمساواة بين الجنسين هو هدف لخلق التكافؤ بين الجنسين وتمتعهم بكافة الحقوق والامتيازات في جميع مجالات الحياة، أحد أهداف الالفية للأمم المتحدة ، من أجل المشاركة في التنمية وبناء المجتمع وإنهاء كافة اشكال التمييز ضد المرأة [3]، النابعة من الاعتقاد أن الإختلاف بيولوجى بين الجنس يصف الأدوار المفروضة اجتماعيا ، هذه الافتراضات والنظم الثقافات التي وضعت أساس الاختلافات البيولوجية بين الرجال والنساء هى التي تخلق هويات نوع الجنس، ومن ثم التمييز بسبب الفوارق بين الجنسين وأشكال لا تعد ولا تحصى من أشكال عدم المساواة بين الجنسين ويشمل هذا الهدف جعل حقوق المرأة على قدم المساواة مع الرجل، وجعل أيضا حقوق الرجل على قدم المساواة للمرأة ، ويتخذ التمييز بسبب التفرقة بين الجنسين أشكالا مختلفة كثيرة، حقوق الإنسان , العمل ، الملكية .
التاريخ
لقد قامت جماعة الشاكرز (بمعنى الهزازين)، وهي مجموعة إنجيلية من المتبتلين تأسست في أمريكا في عام 1774، بممارسة المساواة بين الجنسين بعد بدئهم تنظيم جماعتهم المذهبية المنشقة عن الكنيسة. فلقد راودت رئيس كهنوت الشاكرز المركزي في عام 1788، جوزيف مياكام، رؤية مفادها أنه تجب المساواة بين الجنسين، ولذلك أتى بـ لوسي رايت في الكهنوت بصفتها نظيرته من الجنس الآخر، أي النساء، وقاما معًا بإعادة هيكلة مجتمع الشاكرز من أجل تحقيق المساواة في الحقوق بين الجنسين.
كما أسس كل من مياكام ورايت فرقًا قيادية، حيث يكون لكل رئيس كنيسة شريك من النساء للاهتمام بالرعاية الروحانية للنساء، مثلما هو يفعل مع الرجال. ويكون لكل شماس نظير له من النساء. وكان الرجال يشرفون على الرجال، والنساء تشرفن على النساء. وتعيش النساء معًا كما يعيش الرجال معًا. ففي مجتمع الشاكرز، لم يكن يجب أن يتملك الرجال النساء أو أن يتحكموا فيهن.
وبعد وفاة مياكام في عام 1796، ترأست رايت كهنوت الشاكرز حتى وافتها المنية في عام 1821. ومع تقدمهم، حافظ الشاكرز على نموذج القيادة ثنائية الجنس هذه لمدة تزيد عن 200 عام.
كما أنهم روجوا لفكرة المساواة مع المدافعين عن حقوق المرأة. ففي عام 1853، كتب الأخ بجماعة الشاكرز ويليام ليونارد أن مذهب الشاكرز وضع حدًا "لإهانة وقمع المرأة"، وأشار إلى أن مناقشات الرأي العام حول حقوق المرأة، وكذلك بعض الإصلاحات الاجتماعية الأخرى، قد بدأت عن الشاكرز نتيجة لاعترافهم بأن الرب له جانب ذكوري وآخر أنثوي.
ولقد صرح رئيس طائفة الشاكرز فريدريك إيفانز في عام 1859 بمعتقداتهم بقوة حيث كتب إن الطائفة كانت "أول من حرر المرأة من العبودية التي فرضتها عليها جميع الأنظمة الدينية الأخرى (بشكل أو بآخر)، وإعطائها الحقوق العادلة والمساوية مع تلك الخاصة بالرجال، والتي يدعو إليها الرب والطبيعة لتشابه المرأة مع الرجل شكلاً وعقلاً". ولقد انضم كل من إيفانز ونظيرته الرئيسية أنطوانيت دووليتل إلى المدافعين عن حقوق المرأة في منابر المتحدثين في أرجاء الولايات الشمالية الشرقية في الولايات المتحدة في سبعينيات القرن التاسع عشر.
لقد كتب أحد زائري الشاكرز في 1875 إن "كلاً من الجنسين يعمل في نطاق العمل المناسب له، وهناك احترام وتوقير وخضوع ملائم من النساء للرجال في النطاق الخاص به ومن الرجال للنساء في النطاق الخاص بهن، [مع التشديد على ذلك]، ومن ثم ففي أي من هذه المجتمعات سيجد المدافعون المتحمسون عن "حقوق المرأة" إدراكًا واقعيًا لأفكارهم المثالية في هذا الخصوص".[4]
لقد كان الشاكرز أكثر من مجرد طائفة دينية متطرفة على هامش المجتمع الأمريكي؛ فلقد نقلوا المساواة بين الجنسين من حيز الأفكار إلى حيز الممارسة. وأظهروا أن المساواة يمكن تطبيقها مع كيفية تحقيق ذلك.[5]
وفي المجتمع بصفة عامة، بدأت الحركة نحو المساواة الاجتماعية، وخاصة في الدول الغربية، مع حركة تصويت النساء التي خرجت في أواخر القرن التاسع عشر، والتي سعت إلى السماح للنساء بالتصويت والتعيين في المناصب بالانتخاب.
ولقد حدثت تغييرات كبيرة في حقوق الملكية الخاصة بالنساء، وخاصة فيما يتعلق بحالتهن الاجتماعية. (على سبيل المثال راجع، قانون الملكية للنساء المتزوجات لعام 1882.)
في ستينيات القرن العشرين، تطورت حركة أكثر شمولية للمساواة الاجتماعية معتمدة على تحرر المرأة والنسوية. وكانت القضية الرئيسية هي أن حقوق المرأة يجب أن تكون هي نفسها التي يتمتع بها الرجال. كما استمرت في التركيز على قضايا أخرى محددة.
وقد شهدت أيضًا التغييرات في الاتجاهات الخاصة بالمساواة في فرص التعليم للفتيان والفتيات تحولاً ثقافيًا.
وكانت هناك تغييرات جذرية مع مرور الوقت في الاتجاهات، مما أسفر عن تشريعات أكثر عدلاً
وحدثت بعض التغييرات عن طريق اعتماد سياسات التمييز الإيجابي. وتضمنت التغييرات أيضًا تغييرات في وجهات النظر الاجتماعية، بما في ذلك "أجور متساوية مقابل أعمال متساوية" فضلاً عن إتاحة معظم المهن للرجال والنساء بصورة متساوية، في الكثير من الدول. فعلى سبيل المثال، تسمح الكثير من الدول حاليًا أن تقوم المرأة بالخدمة في القوات المسلحة والشرطة وبأن تقوم بعمل رجال الإطفاء - وهي الأعمال التقليدية التي كانت حكرًا على الرجال. وعلى الرغم من أن هذه المهن لا يزال يهيمن عليها الرجال، إلا أن عددًا من النساء ينشط حاليًا على نحو متزايد، لا سيما في المجالات التوجيهية مثل السياسة، كما يشغلن مناصب رفيعة في مجال الأعمال التجارية.
وعلى نحو مماثل، يعمل الرجال بشكل متزايد في مهن كانت تعد بالنسبة للأجيال السابقة أنها عمل المرأة، مثل التمريض والتنظيف ورعاية الأطفال. في المواقف الداخلية، يتم تقاسم الاختلافات البيولوجية بين الرجال والنساء فيما يخص النشاطات التي تتعلق بالحمل بشكل عام كلما أمكن ذلك، والدور الخاص بتربية الأبناء لا يعتبر إلى حد بعيد دورًا مقتصرًا على النساء، وبهذا قد تتمتع الزوجة بالحرية لمتابعة مسارها الوظيفي بعد الزواج والولادة.
وهناك مظهر آخر من مظاهر التغيير في الاتجاهات الاجتماعية وهو عدم أخذ المرأة للقب زوجها عند الزواج بشكل تلقائي أو الجمع فيما بين الأسماء كما هو الحال في عادات التسمية بإسبانيا.
يعتبر الكثير من الناس أن الهدف من المساواة الاجتماعية لم يتحقق بشكل كامل، لا سيما في الدول غير الغربية. وهناك قضية مثيرة للجدل إلى حد بعيد تتعلق بالمساواة الاجتماعية ألا وهي دور المرأة في المجتمعات ذات التوجه الديني. على سبيل المثال، فقد أشار إعلان القاهرة لحقوق الإنسان في الإسلام إلى أن المرأة مساوية للرجل في الكرامة الإنسانية، ولها من الحق مثل ما عليها من الواجبات، وكان هذا مقبولاً في العديد من الدول ذات الأغلبية المسلمة. وفي بعض الكنائس المسيحية، فإن ممارسة الطقوس الكنسية للنساء لا تزال بها عناصر من طقوس التطهير، وربما يكون ترسيم النساء للكهنوت مقيدًا أو ممنوعًا. ويعتقد بعض المسيحيين أو المسلمين في التكاملية، وهو رأي يقول إن للرجال والنساء أدوارًا مختلفة ولكنها متكاملة. وقد يكون هذا الرأي معارضًا لوجهات النظر الخاصة بالمساواة الاجتماعية وأهدافها.
بالإضافة إلى ذلك، هناك أيضًا دول غير غربية ذات نزعة دينية منخفضة، حيث لا يزال هناك جدل حول المساواة الاجتماعية. في الصين، أدى التفضيل الثقافي للأطفال الذكور إلى نقص عدد النساء في تعداد السكان. وقد اتخذت الحركة النسوية في اليابان خطوات واسعة أسفرت عن مكتب المساواة بين الجنسين، ولكن تظل اليابان منخفضة المستوى فيما يتعلق بالمساواة الاجتماعية مقارنة بغيرها من الدول الصناعية.
ولم يتم تبني جميع أفكار المساواة الاجتماعية على مستوى شعبي. فعلى سبيل المثال: على الرغم من حرية أن تكون عاري الصدر (حرية الأثداء) وهو الحق في أن تكون عاري الصدر في الأماكن العامة، فإنه يُطبق في كثير من الأحيان على الرجال فقط ويظل مسألة هامشية. ويعد تقبل الرضاعة الطبيعية في الأماكن العامة أكثر شيوعًا، لا سيما في الأماكن شبه الخاصة مثل المطاعم.[6]
ما بعد الحرب
منذ الحرب العالمية الثانية، صنعت حركة حرية المراة والنسوية حركة عامة تجاه الأعتراف بحقوق النساء. حيث تبنت الأمم المتحدة والوكالات العالمية الأخرى أتفاقيات عديدة لتشجيع المساواة بين الجنسين، لم يتم تبني هذه الأتفاقيات بواسطة جميع الدول، وقد تضمنت هذه الأتفاقيات
أتفاقية منع التميز في مجال التعليم والتي تم تبنيها عام 1960 وطبقت بالقوة بين عامي 1962 و 1968.
أتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة والتي تم تبنيها عام 1979 بواسطة الأمم المتحدة.
إعلان بشأن القضاء على العنف ضد المرأة والذي تم تبنيه بواسطة الأمم المتحدة عام 1993.
الأمم المتحدة
هي رؤية أن الرجال والنساء يجب أن يتم معاملتهم بمساواه أجتماعيًا وأقتصاديًا وفي جميع الاوجه في المجتمع والا يتم التمييز ضدهم على أساس الجنس. المساواة بين الجنسين هي واحدة من أهداف الأمم المتحدة.[7][8]
الجهود المبذولة للتصدي لعدم المساواة
لقد حددت المنظمات العالمية المساواة الاجتماعية وفقًا لحقوق الإنسان، ولا سيما حقوق المرأة والتنمية الاقتصادية.[9][10] تصف منظمة اليونيسيف المساواة الاجتماعية بأنها "تعني أن النساء والرجال والفتيات والفتيان يتمتعون بالحقوق نفسها والموارد والفرص والحماية. وهي لا تتطلب أن يكون الفتيات والفتيان أو النساء والرجال متماثلين أو أن تتم معاملتهم تمامًا على حد سواء".[11]
وقد أعلن صندوق الأمم المتحدة للسكان أن الرجال والنساء لديهم الحق في المساواة.[12] وتمثل "المساواة الاجتماعية" أحد أهداف مشروع الألفية التابع للأمم المتحدة، من أجل القضاء على الفقر في العالم بحلول عام 2015؛ ويزعم المشروع أن "جميع الأهداف ترتبط ارتباطًا مباشرًا بحقوق المرأة، والمجتمعات التي لا تمنح المرأة حقوقًا مساوية للرجل لا تتمكن مطلقًا من تحقيق التنمية على نحو مستدام".[10]
وبالتالي، فإن تعزيز المساواة الاجتماعية يعتبر تشجيعًا من أجل تحقيق المزيد من الازدهار الاقتصادي.[9] على سبيل المثال، فقد تم تحذير دول الوطن العربي التي تحرم المرأة من تكافؤ الفرص في تقرير برعاية الأمم المتحدة في عام 2008، حيث أشار إلى أن عدم التمكين هذا يمثل عاملاً حاسمًا يعوق عودة هذه الدول إلى مصاف الدول الأولى لقادة العالم في التجارة والتعليم والثقافة.[13]
افتتح الاتحاد الأوروبي في عام 2010 المعهد الأوروبي للمساواة الاجتماعية (EIGE) في فيلنيوس في ليتوانيا من أجل تعزيز المساواة الاجتماعية ومناهضة التمييز على أساس الجنس.
ومن الجدير بالملاحظة كذلك أن المساواة الاجتماعية هي جزء من المناهج الدراسية الوطنية في بريطانيا العظمى وفي العديد من الدول الأوروبية الأخرى. وتتجه مناهج التربية الشخصية والاجتماعية والصحية والتعليم الديني واكتساب اللغة إلى تناول موضوعات المساواة الاجتماعية باعتبارها موضوعًا خطيرًا للمناقشة وتحليل آثارها على المجتمع.
وتعتبر كريستين دي بيزان مؤيدة قوية للمساواة بين الجنسين, ووضحت هذا في كتابها " كتاب مدينة السيدات" حيث يوضح ان أضطهاد المراة يقوم على تحيز غير عقلاني، مشيرة إلى أوجه التقدم العديدة التي قد تصنعها المرأة على الأرجح نتيجة أخذ دورها المنوط به"
التحيز الجنسي
هناك بعض النقد الموجه من النسويين تجاه الخطاب السياسي لأجل المساواة، حيث يقولون أن استراتيجيات المساواة بين الجنسين سطحية ولا تسعى إلى تحدي سيطرة الذكور ولكنها تسعى فقط إلى تحسين الوضع.[14] ولكنها تسعى فقط إلى تحسين وضع النساء ضمن السياق الاجتماعي لتبعيتهن للرجال، كما دفعوا بالسياسات العامة الرسمية لموضع الشك، لأنها تُطبّق بسياق مجتمع ذكوري، ويتحكم بها عملاء لنظام ذكوري بالغالب، سواء بشكل مباشر أم غير مباشر، وتوجّهت إحدى انتقادات سياسات المساواة بين الجنسين تلك بشكل خاص للإتحاد الأوروبي، بأنه يركّز على نحو غير متناسب على السياسات التي تسعى لدمج النساء بالحياة العامة، دون أن تخاطب حقاً الاضطهاد الذي تتعرضن له على الصعيد الخاص.[upper-roman 1]
كما انتقد النسويون التركيز على حال المرأة في الدول غير غربية، مع تجاهل المشاكل الموجودة في الغرب غالباً، وهو شكل من الإمبرالية وتعزيز الأفضلية الأخلاقية للغرب، وطريقة لتمثيل العنف المنزلي على أنها شيء يخصّ "الآخرين العنيفين"، وليس الثقافات الغربية ذات التطور المزعوم،[upper-roman 2]
من أهم النقد الموجه هو التركيز على حال المرأة في الدول الغير غربية وتجاهل المشاكل الموجودة في الغرب.[15] هذا النقد يشير إلى أن المرأة في العالم الغربي تواجه مشاكل مماثلة مثل الاغتصاب والعنف المنزلي، ونبهوا ايضًا ان المراة واجهت تميز قانوني حتى عقود قليلة، على سبيل المثال، في بعض الدول الغربية مثل سويسرا واليونان واسبانيا وفرنسا حصلت النساء على حقوق المساواة في قانون الأسرة في ثمانيات القرن الماضي فقط. نقد أخر موجه أن الخطاب غير موحد مع جميع انواع حالات اضطهاد المراة مثل جريمة الشرف (منتشرة بكثرة في بعض مناطق أسيا وشمال أفريقيا والدول العربية) مقارنًا بجرائم العاطفة الموجودة في جميع انحاء امريكيا اللاتينية حيث انها لا تلاقي نفس الأهتمام. وهناك أيضًا بعض الدول الأوربية مثل سويسرا التي أعطت حقوق المرأة ببطء شديد. فهناك العديد من الأسئلة حول كيفية قياس المساواة بين الجنسين واذا كان بالفعل الغرب هو الأفضل في أعطاء حقوق المرأة. حيث هناك دراسة في 2010 وجدت أنه من بين أكثر 20 دولة في اعطاء المراة حقوقها في مجال العلم في مستوى الجامعات أكثرهم كانت دول اعتبرت عالميًا مسجلة بمستوى قليل في اعطاء حقوق المرأة.[16]
وأشار أحد الانتقادات الأخرى إلى أن الخطاب العام غير شامل لجميع أنواع اضطهاد المرأة، فمثلاً تأخذ جرائم الشرف (منتشرة بكثرة في بعض مناطق أسيا وشمال أفريقيا والدول العربية) حيّزاً كبيراً من الجدال العام، بينما لا تتلقى أنواع العنف الأخرى، كجرائم الانفعال على امتداد أنحاء أمريكا اللاتينية نفس الأهتمام في الغرب، كما دارت نقاشات حول تجاهل انتقاد بعض القوانين في العديد من الدول النامية تأثير الاستعمارية على هذه الأنظمة القانونية، إذ أثارت بعض المفاهيم كالتغريب، والتشبيه بأوروبا، الجدال ، باعتبارها تذكّر بالاستعمارية سابقاً، وكذلك لأن بعض الدول الغربية، مثل سويسرا، تباطأت بذاتها في إعطاء المرأة حقوقها القانونية.[17]
كما أُطلِقت اعتراضات على طريقة تقديم الإعلام الغربي للنساء من مختلف الثقاقات لتثبيت صور نمطية عنهنّ، كالنساء الآسيويات والشرق أوروبيات "المطيعات"، وهي نمطية مرتبطة عن كثب مع خدمات طلب الرجال لنساء من قوائم تروّجن فيها أنفسهن للزواج، وتُعتبر هذه النمطيات خاطئة بشكل صارخ غالباَ، فمثلاُ تحتل النساء في العديد من البلدان الشرق أوروبية مراتب مهنية عالية، فاعترض العديد من مؤيدي النسوية على فكرة أن النساء في تلك البلدان بحاجة لـ"إنقاذ" الغرب.[18]
المجهودات لمحاربة عدم المساواة
في عام 2010 أفتتح الأتحاد الأوربي المعهد الأوربي للمساواة بين الجنسين للتشجيع على المساواة بين الجنسين ولمحاربة التفرقة الجنسية، وفي عام 2015 نشر الأتحاد الأوربي خطة العمل للمساواة بين الجنسين لأعوام 2016 – 2020.[19]
المساواة بين الجنسين هي جزء من منهج قومي في بريطانيا العظمي ودول أوروبية أخرى.[20]
هناك بحث مهم سلط الضوء على كيف عدم المساواة بين الجنسين من الممكن أن تؤدي إلى تقويض التطوير والصحة، ومن أجل التغلب على عدم المساواة بين الجنسين يوضح صندوق الأمم المتحدة للسكان أن "تمكين المرأة والمساواة بين الجنسين يتطلب تدخلات استراتيجية على جميع مستويات البرامج ورسم السياسات، هذه المستويات تتضمن الصحة الأنجابية، التمكين الأقتصادي، التمكين التعليمي، والتمكين السياسي.[21]
بقول صندوق الأمم المتحدة للسكان "وضحت الأبحاث بأنه العمل مع الرجال والأولاد مثل النساء والبنات يشجيع المساواة بين الجنسين ويساهم في تحسين الصحة والتنمية.[21]
الصحة والأمان
الثوابت الأجتماعية الجنسية والتي هي تعتبر ثوابت اجتماعية في بعض الدول تكون غالبًا لها تأثير على الصحة مثل عدم السماح للمرأة للسفر بمفردها خارج المنزل للذهاب إلى المستشفى، وأيضًا النساء يتم منعهم بحكم العرف في بعض الدول من أن تطلب من زوجها استخدام واقي ذكري، وهذه العادات والأعراف الأجتماعية قد تسبب ضررًا بالغًا لصحة المرأة.
العنف تجاه المرأة
العنف تجاه المرأة هو مصطلع يتم أستخدامه لتوضيح الأفعال العنيفة التى تُرتكب ضد المرأة، هذا النوع من العنف هو متركز على المرأة، وهذا يعني ان هذا النوع من العنف يتم فعله ضد المرأة وهذا لمجرد أنها مرأة. وقد تم لفت الأنتباه العالمي للعنف وسوء معاملة النساء في الزواج، وهذا يتضمن العنف المرتكب داخل الزواج "العنف الأسري" وأيضًا العنف المرتبط بالزواج نتيجة العادات والتقاليد مثل زواج الأطفال، الزواج الأجباري.
طبقًا لبعض النظريات فأن العنف ضد المرأة هو غالبًا يكون بسبب قبول العنف ضدها في العديد من الثقافات، وفي دراسة بالولايات المتحدة أخرى أظهرت أنه العنف ضد المرأة يكون أكثر عند المهاجرين.[22][23]
وفي البلاد التي تكون فيها عمليات القتل الجماعي وعمليات الاختطاف المسلحة والأضطرابات المدنية وغيرها من الأعمال المماثلة نادرة، يكون الغالبية من عمليات قتل النساء بواسطة شريك أو شريك سابق.
في بعض أجزاء العالم الكثير من أشكال العنف ضد المرأة مقبولة وتُعتبر جزء طبيعي من الحياه اليومية.
في بعض البلدان يتم اعتبار العنف ضد المرأة هو جريمة ضد الذكر المالك للمرأة مثل الزواج أو الأب أو الأخ وليس جريمة ضد المرأة نفسها، وهذا يؤدي الي قيام الرجال بممارسة العنف على المرأة من أجل الأنتقام من شخص ذكر أخر في عائلة المرأة مثل الأغتصاب الأنتقامي وهو نوع من الأغتصاب موجود في جزر المحيط الهادئ والذي يعني اغتصاب انثى بواسطة مجموعة من الذكور من أجل الانتقام من فعل قام به ذكر من عائلتها مثل أخوها أو أبوها، ويكون غرض هذا الأغتصاب هو إذلال الأب أو الأخ كعقاب له على فعل ما. ومن الممكن أن تواجه الضحية جريمة شرف على يد أحد أعضاء العائلة الذكور.[24]
الصحة الأنجابية والجنسية والحقوق
من المهم جدًا أن تحصل المرأة على حقها في حرية التصرف والتحكم في جسدها مثل قرارات الأنجاب والحاجة إلى المساواة بين الجنسين للأجل وشجع على تحقيق هذه الأهداف المؤتمر العالمي الرابع للمرأة في بكين ومؤتمر الأمم المتحدة الدولي للسكان والتنمية كما وضحت منظمة الصحة العالمية ان تشجيع المساواة بين الجنسين مهم جدًا لأجل محاربة الأيدز.[25]
ويعتبر وفاة الأمومة (هو وفاة المراة أثناء الحمل) مشكلة ضخمة في أجزاء عديدة من العالم، ووضح صندوق الأمم المتحدة للسكان أنه هناك واجب على الدول لحماية حقوق المرأة الصحية، ولكن هناك عديد من الدول لا تلتزم بهذا، لا يُعتبر فقط وفاة الأمومة اليوم مشكلة تنموية ولكنها أيضًا مشكلة من مشاكل حقوق الأنسان.[26]
ويعتبر حق المرأة في الأنجاب والحرية الجنسية مرفوض في العديد من الدول حيث هناك العديد من الدول تفرض الزواج وتبيح زواج الأطفال وتجريم الأفعال الجنسية بالتراضي مثل ممارسة الجنس خارج اطار الزواج، وعدم تجريم الأغتصاب الزوجي، والعنف نتيجة أختيار المرأة مثل جريمة الشرف. وتعتبر في الغالب الصحة الجنسية للمرأة غير مُعترف بيها في المجتمعات التي لا تعترف بالحرية الجنسية للمرأة. ولدى الفتيات المراهقات أكبر نسبة خطر من الأجبار الجنسي، وأعتلال الصحة الجنسية ونتائج الأنجاب السلبية، حيث أن الأخطار التي يواجهوها أكبر من التي يواجها الأولاد والرجال وهذا بسبب عدم المساواة بين الجنسين.
تنظيم الأسرة والأجهاض
تنظيم الأسرة هو حرية تقرير عدد الأطفال المولودين والفرق في السن بينهم ولاسيما عن طريق وسائل منع الحمل. الأجهاض هو إنزال الحمل وأنهاءه قبل الأكتمال. تختلف قوانين الأجهاض بشكل كبير بأختلاف الدولة، ويعتمد وسائل منع الحمل والأجهاض على القوانين والمجتمع والأعراف الثقافية والدينية. بعض البلدان لديها قوانين ليبرالية تحل هذه القضايا، ولكن من الناحية العملية يصعب الوصول إلى هذه الخدمات بسبب الأطباء والصيادلة وغيرهم من العاملين في المجالين الأجتماعي والطبي.[27][28] يُعتبر تنظيم الأسرة مهم جدًا من جانب حقوق المراة خصوصًا في الأماكن التي يوجد بها سوء تغذية والتي يمكن ان تؤدي إلى تعريض صحة المرأة للخطر وأيضًا تعتبر عامل مهم في تقليل الفقر.[29]
تنظيم الأسرة غالبًا ما يتم معارضته بواسطة الحكومات التي لها سياسات قوية في تشجيع الولادة. فهناك العديد من الأمثلة على هذه الأفعال في القرن العشرين مثل السياسات العدوانية في تشجيع الولادة لرومانيا الأشتراكية والبانيا الأشتراكية. وكان الجواز الأجباري أيضًا يتم ممارسته بواسطة بعض السلطات الحكومية من أجل تحقيق الكثافة السكانية المرادة. فمثًلا الحزب السياسي الحاكم الخمير الحمر في كومبوديا كان يجبر الناس على الزواج من أجل زيادة السكان وتكملة الثورة.[30] على العكس كان هناك سياسة الطفل الواحد في الصين بين أعوام 1979 – 2015 وكان تتضمن عقوبات للأسرة التي لديها أكثر من طفل واحد وكان من ضمنها الأجهاض. وهناك بعض الحكومات التي كانت تمنع عرق معين او مجموعة اجتماعية معينة من التناسل مثل السياسيات التي طبقت ضد الأقليات العرقية في أوروبا وأمريكا الشمالية في القرن العشرين وحديثًا في أمريكا اللاتينية ضد السكان الأصليين في تسعينيات القرن الماضي، فمثلًا في بيرو تم أتهام الرئيس ألبترو فوجيموري بارتكاب الأبداة الجمعية وبجرائم ضد الأنسانية نتيجة برامج التعقيم التي وضعتها أدارته مستهدفة السكان الأصليين.[31]
التحقيق في الجرائم المرتكبة ضد النساء
عبرت منظمة حقوق الأنسان عن قلقها بشأن حصانة الجناه في جرائم ضد المرأة وهي جرائم يتم تجاهلها بواسطة السلطات.[32] خصوصًا قضايا قتل النساء في أمريكًا اللاتينية نتيجة العنف الأسري.[33][34]
النساء عادة لا يستطيعون أن يأخذوا حقهم عن طريق المؤسسات القانونية. حيث قالت الأمم المتحدة "شيء شائع جدًا ان ترفض مؤسسات العدالة مثل الشرطة والمحاكم تحقيق العدالة للمرأة" حيث يتم منع المراة من اللجوء القانوني لأن المؤسسات القانونية نفسها تعمل بطريقة لا تحقق العدل للمرأة التي تتعرض للعنف.
ويدوّن ريتشارد بوسنر: «اعتُبر الاغتصاب تقليدياً إهانة للأب أو الزوج بحرمانه من ميزة قيّمة، وهي عفة زوجته أو عذرية ابنته.»[upper-roman 3] وبالتالي كان يُنظر للاغتصاب في الكثير من الثقافات –وبعضها باقٍ حتى اليوم– على أنه جريمة بحق شرق العائلة، عوضاً عن الاعتبار الذاتي للمرأة الضحيّة، وبالنتيجة كان احتمال مواجهة ضحيات الاغتصاب لعنف أسري قائماً، وبحالات متطرفة تعرّضن لجرائم شرف على يد أحد أعضاء العائلة الذكور.[35]
الممارسات التقليدية الضارة
تعبر الممارسات التقليدية الضارة عن أشكال العنف التي تُتركب في مجتمعات معينة لتصبح ممارسة ثقافية ومقبولة. بالرغم أن الرجال من الممكن أن يتأثروا الا أن النساء الصغيرات يعتبروا ضحايا لمثل هذه الأفعال أكثر. وهذا يحدث في بيئة حيث النساء والفتيات ليس لديهم حقوق وفرص مساوية للرجال.[36] وطبقًا للمفوضية السامية للامم المتحدة لحقوق الأنسان هذه الممارسات تتضمن:
ختان النساء والزواج المبكر والتابوهات العديدة والممارسات التي تمنع المرأة من التحكم في خصوبتها الخاصة مثل ممارسات الولادة التقليدية،وتفضيل الأبن على الأبنة وأثاره على حالة الطفلة ووأد البنات والحمل المبكر وسعر المهر.
تفضيل الأبن تعني التفضيلات الثقافية للأولاد على البنات والتي تتمثل فيه أجهاض الفتيات أثناء الحمل ووأد البنات أو هجر او أهمال أو إساءة معاملة الفتيات.[36]
وايضًا الأساءات المتعلقة بالتغذية والتابوهات فيما يتعلق ببعض الأطعمة مما يؤدي إلى سوء تغذية النساء والذي من الممكن أن يعرض صحتها للخطر خصوصًا إن كانت حامل.[36]
وهناك النظام الطبقي في الهند الذي أدى إلى حظر المساس (هي ممارسة اجتماعية دينية تقوم على نبذ جماعة اقلية بإقصائهم عن السياق العام بحكم العادات الاجتماعية أو الأحكام القانونية) والتي كانت تقوم أيضًا على التفرقة الجنسية والتي أدت إلى تفرقة مضاعفة للنساء المنبوذون.[37] في استطلاع رأي عام 2014 أعترف 27% من الهنود بممارستهم حظر المساس.[38]
من الممكن ان تكون التقاليد القبلية مؤذية للرجال أيضًا على سبيل المثال كانت تستخدم قبائل الماوي النملة الرصاصة في بعض الطقوس حيث كان يجب على الرجال ان يرتدوا قفازات من مئات النملة الرصاصة لمدة عشر دقايق، حيث تسبب هذه النملة ألم شديد يشبه الرصاصة، وكان يجب ان يغوض هذه التجربة الأولاد لعشرون مرة ليتم أعتبارهم محاربون.[39]
عادات أخرى مضرة تتضمن أختطاف العروس (هي عادة يقوم العريس باختطاف عروسته) والأستعباد الجنسي وكي الثدي وأرث الأمراة (وفيه يُفرض على الأرملة أن تتزوج من أحد أقارب زوجها المتوفي حتى لو كان أخوه).[40][41][42][43]
تشويه الأعضاء التناسلية للنساء
تعتبر الأمم اليونيسف وصندوق الامم المتحدة للسكان تشويه الأعضاء التناسلية للنساء مظهر من مظاهر عدم المساواة الجنسية بشدة. وهو لا يزال قائمًا لأسباب عديدة، في بعض المجتمعات على سبيل المثال يتم أعتبارها طقوس ضرورية في مجتمعات أخرى يتم أعتبارها ضرورة للزواج وفي بعض المجتمعات – سواء مسيحي أو مسلم أو يهودي – يتم ربط هذه الممارسات باعتقادات دينية.[44]
حيث من المعتقد أنه يوجد حوالي 125 مليون أمراة وفتاه تم أجراء لهم عملية ختان النساء في 29 دولة. وحوالي نصف النساء في اثيوبيا ومصر تم أجراء هذه العملية لهم.[45] وهو أكثر شيوعًا للفتيات في سن الرضاعة حتى 15 سنة.[46]
الزواج الأجباري
الزواج المبكر وزواج الأطفال والزواج الأجباري منتشر في أجزاء من آسيا وأفريقيا، أغلبية الضحايا نساء بين عمر الثمانية عشر والثلاثة والعشرون.[46] هذا النوع من الزواج من الممكن أن يؤدي إلى تأثيرات ضارة على تعليم الفتاه وتطويرها ومن الممكن أن يعرض الفتيات إلى عزلة أجتماعية وسوء معاملة.[36][47][48]
في عام 2013 قامت الأمم المتحدة بدعوات لأنهاء الزواج الأجباري ووضحت أن الزواج المبكر والأجباري للفتيات هو ممارسات مؤذية تنتهك حرية المراة وتضر بحقوق الأنسان وترتبط بالممارسات الضارة الأخرى وانتهاكات حقوق الأنسان وإن لهذه الأنتهاكات أثر سلبي على النساء والفتيات.[49] بالرغم من الالتزامات الدولية بواسطة الحكومات لأنهاء زواج الأطفال الا أنه واحده من كل ثلاثة بنات في الدول النامية (بأستثناء الصين) سوف يتزوجون قبل الوصول لسن ال 18.[50] ووضح صندوق الأمم المتحدة للسكان أنه أكثر من 67 مليون فتاه بين سن ال 20 – 24 في 2010 تم تزوجيهم كفتيات، النصف كان في آسيا والخمس كان في أفريقيا، في العقد القادم سيتم تزويج حوالي 14.2 مليون فتاه تحت ال 18 عام كل سنة. مما يعني تزويج 39 الف فتاه تحت ال 18 عام كل يوم. وسترتفع هذه النسبة لمتوسط 15.1 مليون فتاة كل عام، بدءاً من العام 2021 وحتى 2030، إذا استمرت الحال على هذا الشكل.
المهر
هي أموال أو ممتلكات أو شيء ذو قيمة يتم دفعه بواسطة العروس أو أسرته إلى أهل العروسة. هذا التقليد عادة ما يقود النساء إلى تقليل قدرتها على التحكم في خصوبتها. على سبيل المثال في غانا الشمالية يعتبر دفع المهر للعروسة هو علامة على طلب المرأة لتحمل عبئ الحمل وتربية الأطفال والمرأة التي تتحكم في الولادة تواجه تهديدات وعنف.[51] حيث تم نقد عادة دفع المهر لأنها تساهم في سوء معاملة المرأة في الزواج وتمنعهم من ترك الزيجات المسيئة. تقترح الأمم المتحدة للمراة الغاء المهر ووضحت بأنه " يجب أن بنص التشريع على أن الطلاق لا يتوقف على عودة المهر ولا يجوز تفسير هذه الأحكام على أنها تقلل من قدرة المراة على الطلاق وتنص على أنه مرتكب العنف المنزلي بما في ذلك الأغتصاب الزوجي لا يمكنه أن يستخدم حقيقة انه دفع المهر كدفاع عن تهمة العنف المنزلي.[52]
عادة المهر أيضًا من الممكن أن تقوض حرية المرأة، حيث أنه اذا أرادت زوجة أن تترك زوجها من الممكن أن يطلب منها عودة المهر الذي دفعه لعائلة المرأة ومن الممكن أن ترفض عائلة المرأة دفعه أو لا تستطيع دفعه، مما يجعل من الصعوبة تخلص المرأة من عنف زوجها.[53][54]
الأقتصاد والسياسة العامة
التمكين السياسي للمرأة
تشجيع المساواة بين الجنسين يساعد على تشجيع الأزدهار الأقتصادي.[7] حيث أن نشاط المراة الأقتصادي هو مقياس شائع لمدى المساواة بين الجنسين في الأقتصاد.
التفرقة بين الجنسين عادة يؤدي إلى حصول المرأة على وظائف بأجر قليل وكونه غير مناسب سوف يؤدي إلى الفقر والتفرقة والأستغلال.[55] وهناك مجموعة متزايدة من الوثائق البحثية التي تعمل على تمكين المرأة من أمكانية توفير الوصول إلى الخدمات المالية الرسمية إلى التدريب على الممارسات الزراعية وأدارة الأعمال، على الرغم من الحاجة إلى مزيد من الأبحاث لتأكيد فعالية هذه التدخلات.[56]
التحيز الجنسي ايضًا موجود في تقديم الخدمات والمنتجات. ويشير مصطلح ضريبة المراة والمعروف أيضًا بالضريبة الوردية إلى التسعيرة الجنسية حيث أن المنتجات والخدمات يتم تقديمها للنساء أغلى من مثيلتها للرجال. هذا التميز القائم على السعر يتضمن شركات تبيع وحدات متطابقة تقريبًا لنفس المنتج أو الخدمة بأسعار مختلفة. أظهرت دراسات ان المراة تدفع 1400 دولار فالسنة أكثر من الرجال نتيجة هذا التميز في السعر.[57]
ترتيبات العمل والرعاية المعتمدة على نوع الجنس
منذ خمسينيات القرن الماضي نقد علماء الأجتماع والنسويين ترتيبات العمل والرعاية المعتمدة على نوع الجنس ودور الذكر عائل الأسرة. حددت السياسات الرجل على أنه الأب الذي يعتبر أداه لتغيير العلاقات بين الجنسين.[58] الكسب المشترك والزواج المشترك هو علاقة حيث يشترك الشريكان في مشاركة جزء من المسؤليات بداخل وخارج المنزل وهذا عادة موجود في الدول الغربية.
كما يوجد بعض البلدان الغربية التي تشدد بقوه على المراة التي تؤدي دور ربات البيوت بدلأ من دورها المهني وهذا يشمل أجزاء من أوروبا الناطقة بالألمانية مثل ألمانيا والنمسا وسويسرا فضلًا عن هولندا وأيرلندا.
وتتمثل إحدى المسائل الرئيسية في ضمان المساواة بين الجنسين في مكان العمل في أحترام حقوق الأمومة والحقوق الأنجابية للمرأة[59]. والدول المختلفة لديها قواعد مختلفة فيما يتعلق بأجازة التمومة وثمة مسألة هامة أخرى تتمثل في ضمان عدم منع المرأة العاملة بحكم القانون من الحصول على طفل. حيث أنه في بعض البلدان يطلب أصحاب العمل من النساء توقيع بعض الوثائق الرسمية أو غير الرسمية التي تنص على انه لن تصبح حامل والا سوف تواجه عقابًا قانونيًا. وكثيرًا ما تواجه النساء انتهاكات خطيرة لحقوقهن الإنجابية على يد رؤوساهم في العمل وصنفت منظمة العمل الدولية الأجهاض القسري الذي يفرضه صاحب العمل على أنه أستغلال في العمل. وتشمل الأنتهاكات الأخرى مثل أختبارات كشف العذرية الروتينية للنساء العاملات الغير متزوجات.[60][61]
حرية التنقل
وتختلف درجة مشاركة المرأة في الحياه العامة باختلاف الثقافة والخصائص الأجتماعية وكان عزل النساء داخل المنزل ممارسة شائعة في الطبقات العليا في مجتمعات كثيرة، ولا يزال هذا الحال اليوم في مجتمعات عديدة. قبل القرن العشرين كان شائعًا أيضًا في أجزاء من جنوب أوروبا مثل أسبانيا.
ولا تزال حرية تنقل المرأة مقيدة قانونًا في بعض أنحاء العالم. وغالبًا ما يكون هذا القيد راجعًا إلى قوانين الزواج. ففي بعض البلدان يجب على المرأة أن تكون بصحبة أحد أولياء أمورها الذكور مثل الزوج أو قريب ذكري وهذا عندما يغادرن المنزل.[62]
امكانية وصول الفتيات إلى التعليم
في أجزاء عديدة من العالم تكون إمكانية حصول الفتيات على التعليم محدودة للغاية. وفي كثير من الأحيان في الدول النامية تحرم المرأة من فرص التعليم حيث تواجه الفتيات والنساء عقبات كثيرة. وتشمل الزواج المبكر والزواج الأجباري، الحمل المبكر، التحيز الجنسي في المدرسة والمنزل والعنف في الطريق إلى المدرسة أو داخل المدرسة وحولها والمسافات الطويلة إلى المدرسة والتعرض لفيروس الايدز، الرسوم المدرسية التي غالبًا ما تؤدي غالبًا إلى إرسال الأباء أبناهم فقط إلى المدرسة، عدم وجود نهج ومواد تراعي الفروق بين الجنسين في الفصول الدراسية.[63][64][65] ووفقًا للمفوضية السامية لحقوق الانسان وقعت العديد من الهجمات على المدارس في جميع أنحاء العالم في الفترة من 2009 – 2014 مع تركيز عدد من هذه الهجمات تحديدًا على الفتيات والآباء والمدرسين الذين يدعون إلى المساواة بين الجنسين في التعليم.[66] ويقول صندوق الأمم المتحدة:[67]
"حوالي ثلثي البالغين في العالم من النساء مع وجود تعليم يقيد حصول المرأة على المعلومات والفرص. وفي العام فأن زيادة التحصيل العلمي للمرأة والفتاة سوف يعود بالفائدة على الأفراد والأجيال المقبلة على السواء. ويرتبط ارتفاع مستويات تعليم المرأة أرتباطًا قويًا بانخفاض معدل وفيات الرضع وانخفاض معدلات الخصوبة فضلًا عن تحقيق نتائج أفضل لأطفالهن.
المشاركة السياسية للمرأة
المرأة تمثل تمثيلًا ضعيفًا في معظم البرلمانات الوطنية.[68] ودعا قرار الجمعية العامة للأمم المتحدة لعام 2011 بشأن المشاركة السياسية للمراة إلى مشاركة المرأة في السياسة، وأعربت عن قلقها أزاء حقيقة أن النساء في كل جزء من العالم لا يزالن مهمشات إلى حد كبير في المجال السياسي.[69] حيث أنه فقط 22% من البرلمانيين في جميع أنحاء العالم من النساء وبالتالي لا يزال الرجال يشغلون معظم المناصب السياسية.[67] وأعتبارًا من نوفمبر 2014 شكلت النساء 28% من أعضاء مجلس النواب في الدول الأعضاء في الأتحاد الأوروبي.
في بعض الدول الغربية المرأة قد حصلت على حقها مؤخرًا في التصويت.
وفي عام 2015 كان 61.3% من مجلس النواب في البرلمان من النساء، وهي أعلى نسبة في أي مكان في العالم ولكن في جميع أنحاء العالم كانت واحدة من هاتين الهيئتين حيث كانت النساء تشكل الأغلبية، والأخر هو مجلس النواب في بوليفيا.[70]
قوانين الزواج والطلاق والملكية واللوائح
ومن الأمور الأساسية لتحقيق المساواة بين الجنسين هي المساواة في الحقوق بين المراة والرجل في الزواج والطلاق والملكية، وقد دعت أتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة إلى أنهاء قوانين الأسرة التمييزية.[71] وفي عام 2013 ذكرت الأمم المتحدة للمرأة أنه على الرغم من أن 115 بلدًا على الأقل تعترف بحقوق متساوية في الأراضي للنساء والرجال ، فان التنفيذ الفعال لا يزال يشكل تحديًا كبيرًا.[72]
وكثيرًا ما نوقشت المعاملة القانونية والأجتماعية للنساء المتزوجات كقضية سياسية منذ القرن التاسع عشر. حتى السبعينات كانت التبعية القانونية للمرأة المتزوجة شائعة في البلدان الأوروبية، من خلال قوانين الزواج التي كانت تمنح السلطة القانونية للزوج. في عام 987 أصدر مجلس أوروبا القرار (78) 27 المتعلق بالمساواة بين الزوجين في القانون المدني.[73] وكانت سويسرا واحده من أخر البلدان في أوروبا التي أنشات المساواة بين الجنسين في الزواج، وفي هذه البلد كانت المراة المتزوجة تواجه تقيدًا شديدًا في حقوقها حتى عام 1988، عندما دخلت الاصلاحات القانونية التي تنص على المساواة بين الجنسين في الزواج والغاء السلطة القانونية للزوج، وقد تمت الموافقة على هذه الإصلاحات في عام 1985 من قبل الناخبين في استفتاء الذين صوتوا لصالح القرار بموافقة 54.7%.[74][75][76][77] وفي هولندا لم يتحقق في عام 1984 سوى المساواة القانونية الكاملة بين الزوج والزوجة فقبل عام 1984 نص القانون على أن راي الزوج يسود على الزوجة فيما يتعلق بمسائل من قبيل القرارات المتعلقة بتعليم الأطفال ومكان إقامة الأسرة.[78][79][80]
وفي الولايات المتحدة أنتهى تمامًا التبعية القانونية للزوجة لزوجها عام 1981.[81]
وكانت هناك لاتزال المعاملة الغير متساوية للمراة المتزوجة في مختلف جوانب الحياه اليومية. على سبيل المثال في أستراليا حتى عام 1983 كان على الزوج أن يأذن بطلب لجواز سفر أسترالي للمرأة المتزوجة وهناك العديد من الممارسات الأخرى.[82] وفي العديد من البلدان تم أشتراط موافقة الزواج لتقديم طلب الحصول على قروض مصرفية وبطاقات أئتمان من قبل أمراة منزوجة، فضلًا عن فرض قيود على حقوق المرأة الانجابية، مثل اشتراط ان يوافق الزوج على استخدام الزوجة وسائل منع الحمل أو الأجهاض.[83][84] وفي بعض الأماكن وعلى الرغم من أن القانون نفسه لم يعد يتطلب موافقة الزوج على مختلف الاجراءات التي اتخذتها الزوجة فان الممارسة مستمرة بحكم الأمر الواقع.
ولا تزال القوانين المنظمة للزواج والطلاق تنطوي على تمييز ضد المرأة في كثير من البلدان، في العراق الزوج له الحق القانوني في معاقبة زوجاته، حيث تنص الفقرة 41 من القانون الجنائي على انه لا توجد جريمة اذا اركتب فعل ما اثناء ممارسته الحق القانوني. في التسعينيات والقرن الحادي والعشرين، تم أحراز تقدم في العديد من البلدان في افريقيا، على سبيل المثال، ناميبيا حيث انه تم الغاء قانون السلطة الزوجية للزوج في عام 1996، في بوتسوانا الغي في عام 2004، وفي ليسوتو الغى في عام 2006.[85] ولا يزال العنف ضد الزوجة مقبولًا من الناحية القانونية في بعض البلدان على سبيل المثال في عام 2010 قضت المحكمة العليا في الإمارات العربية المتحدة بان للرجل الحق في تأديب زوجته وأطفاله جسديًا ما دام لم يترك علامات بدنيه.[86] وجرى انتقاد تجريم الزنا باعتباره شيء يستخدم ضد المرأة وتحرض على العنف ضد المرأة مثل جرائم العاطفة وجرائم الشرف.
الأجتماعية والأيدولوجية
المساواة السياسية الجنسية بين الزوجين
وقد نفذت حركتات أخريان في بلدان ذات عدد كبير من السكان الأكراد المساواة السياسية بين الجنسين. كانت الحركة الكردية في جنوب شرق تركيا بقيادة حزب المناطق الديمقراطي والحزب الديمقراطي الشعبي، منذ عام 2006 أو قبله وتتولي رئاسة عمده منطقتين و97 مدينة رجل وأمراة معًا، وكلاهما يدعى رؤساء البلديات. كما يقود مكاتب الحزب رجل وأمراة. وشكلت مجالس محلية كان يتعين أيضًا ان يرأسها رجل وأمراة معًا ومع ذلك ففي نوفمبر 2016 شنت الحكومة التركية حملة ضد الحزب الديمقراطي الشعبي وحكمت على عشرة من اعضائها في البرلمان بما في ذلك زعماء الحزب الذكور والإناث.[87]
وقد قاد حزب الاتحاد الديمقراطي حركة في شمال سوريا الكردية ايضًا، حيث كانت في شمال سوريا كل القرى والبلدات والمدن يحكمها رجل وامراه من حزب التحاد الديمقراطي. وشكلت المجالس المحلية حيث يجب ان يكون لكل جنس تمثيل 40% كما يتعين تمثيل الأقليات.[88]
القوالب النمطية للجنس
وتنشأ القوالب النمطية الجنسية من الأدوار المسندة اجتماعيًا للمرأة والرجل في المجال الخاص والعام، سواء في المنزل أو في مكان العمل وفي الأسرة، حيث ينظر إلى المرأة عادة على انها يجب توضع في اطار الأم، مما يضعها في تصنيف نموذجي لكونها داعمة او موفرة الرعاية. ومن المتوقع ان ترغب المرأة في الأضطلاع بدور الأم وان تتحمل المسؤولية الاساسيه لاحتياجات الاسرة المعيشية. وينظر إلى نظرائهم من الرجال على انهم طموحون لأن الرجال عادة ما ينظر اليهم في مكان العمل على أنهم المعيل الأساسي لأسرته.[89] وبسبب هذه الآراء والتوقعات كثيرًا ما تواجه المرأة التمييز في المجال العام مثل مكان العمل.[89]
والدور الجنسي هو مجموعة من القواعد الاجتماعية التي تملي انواع السلوكيات التي تعتبر عمومًا مقبولة أو مناسبة أو مرغوبة بالنسبة للأشخاص على أساس جنسهم وتتركز الأدوار الجنسية عادة على مفاهيم الأنوثة والذكورة على الرغم من وجود أستثناءات وأختلافات.
تصوير المرأة في وسائل الأعلام
وقد تم نقد طريق تمثيل المرأة في وسائل الأعلام باعتبارها تشجع القوالب النمطية السلبية بين الجنسين. ويشير استغلال المراة في وسائل الاعلام إلى الانتقادات التي تفرض على استخدام المراة أو تعريفها في وسائل الإعلام الجماهيري عندما يستهدف هذا الاستخدام أو التصوير زيادة جاذبية والخدمات أو المنتجات على حساب أو دون اعتبار لمصالح المرأة التي يتم تصويرها أو النساء بصفة عامة. وتشمل المخاوف حقيقة ان جميع اشكال وسائل الاعلام لديها القدرة على تشكيل تصورات السكان وتصوير تصورات نمطية غير واقعية من خلال تصوير النساء اما ربات البيوت أو كوعاء جنسي.[90] وقد أظهرت مجموعة واسعة من الدراسات التي اجريت حول مسألة تصوير المراة في وسائل الإعلام ان المراة غالبًا ما تصور على انها غير عقلانية وهشة وغير ذكية وخاضعة للرجل. وقد أظهرت البحوث ان الصور النمطية مثل هذه لها أثر سلبي على الصحة العقلية لكثير من المشاهدات اللواتي يشعرن بالالتزام بهذه الأدوار مما يسبب مشاكل نفسية واكتئاب وقلق.
ووفقًا لدراسة أخرى يمكن أن تؤدي الطريقة التي تصورها وسائل الإعلام في كثير من الأحيان بالنسبة للمراة ذات المظهر العادي إلى عدم الثقة بالنفس نتيجة الأستخدام من قبل الأعلام للنساء الجذابات بشكل غير عادي، كما انه من الممكن ان يؤدي إلى زيادة احتمالات العنف الجنسي وقبوله، وتوقعات غير واقعية من قبل الرجال لكيفيه ان تنظر المرأة و تتصرف. وايضًا اضطرابات نفسية وفقدان للشهية وغيرها. ويتم التأكيد كثيرًا على اهمية المظهر الجسدي وتعزيزه في وقت مبكر في معظم الفتيات، حيث قد وجدت دراسة انه ما يقرب من نصف الاناث من سن 8 – 6 سنوات يريدوا ان يصبحوا أقل حجمًا.[91]
أطلاع المرأة على حقوقها
في العديد من الدول تكمن المشكلة في عدم وجود تشريعات كافية، في دول أخرى لا تتمثل المشكلة في عدم وجود اطار قانوني بل أن معظم النساء لا يعرفن حقوقهن القانونية. وهذا هو الحال بوجه خاص لأن العديد من القوانين التي تتناول حقوق المرأة في تاريخ حديث العهد. وهذا النقص في المعرفة يتيح للمعتدين ان يقودوا الضحايا صراحة أو ضمنًا إلى الأعتقاد بان إساءة معاملتهم تقع ضمن حقوقهم. وقط ينطبق هذا على مجموعة واسعة من الانتهاكات تتراوح بين العنف المنزلي والتمييز في العمل.[92][93] وينص برنامج الأمم المتحدة الإنمائي على أنه "من أجل النهوض بالعدالة بين الجنسين يجب على المرأة أن تعرف حقوقها وأن تكون قادرة على الوصول إلى النظم القانونية.[94]
ويذكر إعلان الأمم المتحدة لعام 1993 بشان القضاء على العنف ضد المرأة "ينبغي للدول أيضًا أن تبلغ المرأة بحقوقها"[95]. إن تطبيق التشريعات الوقائية ضد العنف ليس له أثر يذكر إذا لم تكن النساء يعرفن كيفية استخدامه: فعلى سبيل المثال وجدت دراسة عن النساء البدويات في إسرائيل أن 60% لا يعرفن ما هي الأفعال غير القانونية.[96] كما أظهر تقرير لمنظمة العفو الدولية في هنغاريا في استطلاع للرأى العام ل 1200 شخص في عام 2006 أنه هناك 62% منهم لا يعرفون أن الأغتصاب الزوجي غير قانوني (تم حذره في عام 1997) وبالتالي نادرًا ما يتم الأبلاغ عن الجريمة.[97][98] ومن المهم أيضًا ضمان فهم المرأة للقضايا الصحية إلى أدنى حد مكن، فغياب إماكنية الحصول على المعلومات الطبية الموثوقة والأجراءات الطبية يضر بصحة المرأة.[99]
تعميم المنظور الجنسي
ويصف تعميم المنظور الجنسي بانه السياسة العامة لتقييم مختلف الأثار المترتبة على المرأة والرجل في أي أجراء سياسي مقرر، بما في ذلك التشريعات والبرامج، في جميع المجالات والمستويات، بهدف تحقيق المساواة بين الجنسين.[100] وقد أقترحت فكرة تعميم المنظور الجنسي لأول مرة في المؤتمر العالمي الثالث المعني بالمرأة المعقود في نيروبي في كيينيا عام 1985. وقد وضعت هذه الفكرة في مجتمع الأمم المتحدة الإنمائي.[101] تعميم المنظور الجنسي "هو ضمان أن تكون المنظور الجنسي والأهتمام بهدف المساواة بين الجنسين محور جميع الأنشطة"[102]
ووفقًا لتعريف مجلس أوروبا" "تعميم المنظور الجنسي هو إعادة تنظيم وتحسين وتطوير وتقييم عمليات السياسات بحيث يدمج منظور المساواة بين الجنسين في جميع السياسات على جميع المستويات وفي جميع المراحل"[103]
والنهج المتكامل لتعميم مراعاة المنظور الجنسي هو محاولة تشكيل تحالفات ومنابر مشتركة تجمع بين طموحات الإيمان والمساواة بين الجنسين من أجل النهوض بحقوق الأنسان.[104] وعلى سبيل المثال، أجرى الصندوق في أذربيجان دراسة عن المساواة بين الجنسين من خلال مقارنة نص اتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة مع بعض المراجع والمصادر الأسلامية المعترف بيها على نطاق واسع. وتعكس النتائج أوجه الشبه بين الأتفاقية والعديد من مبادئ الكتاب المقدس. وقد عرضت الدراسة قضايا محددة بما في ذلك العنف ضد المراة وزواج الأطفال واحترام كرامة المرأة والمساواة في المشاركة الأقتصادية والسياسية للمرأة، واستدمت الدراسة لاحقًا لإنتاج مواد تدريبية موجهة نحو توعية القادة الدينين.[104]
مراجع
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وصلات خارجية
, on the relationship between gender equality, the rule of law and the الأمم المتحدة.
, Forum for women, minorities, members of the gay community and those who are otherwise marginalized.
, the United Nations Internet Gateway on Gender Equality and Empowerment of Women
, the United Nations Development Program's Gender Team
, International forum of gender experts working in support of gender equality. Development Co-operation Directorate of the منظمة التعاون الاقتصادي والتنمية
, gender activities at the OECD Development Centre
World Bank
Gender equality in Sweden (news collection)
(about gender and the built environment)
*
تصنيف:أخلاقيات
تصنيف:أدوار جنسية
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تصنيف:النظرية النسوية
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تصنيف:نظريات سياسية
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Ли Ха́рви О́свальд (English: Lee Harvey Oswald; 18 октября 1939, Новый Орлеан, Луизиана, США — 24 ноября 1963, Даллас, Техас, США)[1] — единственный официальный подозреваемый в убийстве американского президента Джона Кеннеди. По закону США умерший не может быть судим, но по выводам Комиссии Уоррена он назван убийцей.
Бывший морской пехотинец США, некоторое время живший (октябрь 1959 — июнь 1962) в Советском Союзе, Освальд был первоначально арестован за убийство полицейского, примерно через 40 минут после того, как был застрелен Кеннеди. Подозреваемый также в убийстве Кеннеди, Освальд отрицал свою причастность к обоим убийствам. Два дня спустя[2], во время перевода из полицейского управления в окружную тюрьму, Освальд был застрелен владельцем ночного клуба Джеком Руби. Это убийство попало в телевизионный репортаж и было показано в прямом эфире[3].
Согласно выводам Комиссии Уоррена (1964), Освальд 22 ноября 1963 года за 5,6 секунды совершил три выстрела в машину президента с шестого этажа книжного склада в г. Даллас, штат Техас (в результате которых президент Кеннеди был убит, губернатор Техаса Конналли был тяжело ранен, а один из прохожих получил легкое ранение), а затем убил местного полицейского. Согласно выводам комиссии, он «действовал в одиночку и без чьего-либо совета или помощи».
Биография
Детство
Освальд родился в Новом Орлеане 18 октября 1939 года[4], в семье Роберта Эдварда Ли Освальда-старшего (4 марта 1896 — 9 сентября 1939) и Маргариты Фрэнсис Клавье (19 июля 1907 — 17 января 1981). У Освальда было двое братьев — родной Роберт Эдвард Ли Освальд и единоутробный Джон Эдвард Пик[5].
Отец Освальда умер до рождения сына, и мать растила детей одна. Когда Освальду было два года, мать вынуждена была отправить детей в детский дом на тринадцать месяцев, так как была не в состоянии содержать их.
В Новом Орлеане в октябре 1955 года Освальд оставил учёбу в школе через месяц после поступления в десятый класс[6] и устроился работать клерком в офисе, а затем курьером в Новом Орлеане. Ради продолжения учёбы его семья вернулась в Форт-Уорт в июле 1956 года, и он был вновь зачислен в 10-й класс в сентябре, но в октябре Освальд снова оставил школу, на этот раз чтобы поступить в Корпус морской пехоты США[5]. Диплом средней школы он так и не получил. До семнадцати лет Освальд проживал в 22 разных местах и поменял 12 школ.
Хотя он с трудом писал связно[7], он много читал и до 15 лет утверждал, что является марксистом. В своём дневнике он писал: «Я искал своё место в обществе, а затем я открыл для себя социалистическую литературу. Мне пришлось откапывать книги на пыльных полках библиотек». В 16 лет он написал в Социалистическую партию Америки для получения информации о молодёжной социалистической лиге, заявив, что он изучал социалистические принципы более пятнадцати месяцев[8]. Тем не менее, Эдвард Вебель, самый близкий друг Освальда в его период жизни в Новом Орлеане, сказал комиссии Уоррена, что в утверждении, будто Освальд изучал коммунизм, было «много вздора». Вебель сказал, что Освальд часто читал «мусор в мягкой обложке»[9][10].
Служба в морской пехоте
Освальд поступил на службу в Корпус морской пехоты Соединённых Штатов Америки 24 октября 1956 года, в день своего семнадцатилетия. Он боготворил своего старшего брата Роберта и на фотографии полиции, после его ареста в Далласе, видно, что Ли носит кольцо морских пехотинцев брата[11]. Один из очевидцев свидетельствует комиссии Уоррена, что Освальд поступил на службу, возможно, для того, чтобы оторваться от влияния своей властной матери[12].
Первоначально Освальд проходил обучение как оператор радиолокационной станции[13]. Закончив обучение седьмым в классе из тридцати человек, в июле 1957 года был направлен на базу Макас Эль Торо[14], а затем в сентябре на базу на военно-морской авиации в Ацуги (Япония) в составе морской эскадрильи Air Control 1.
Как и все морские пехотинцы, Освальд проходил обучение и сдавал экзамен по стрельбе, выбив 212 очков в декабре 1956 года[6], чуть выше необходимого минимума для квалификации в качестве снайпера. Но в мае 1959 года набрал лишь 191 очко, что было на одно очко меньше норматива для «меткого стрелка» («marksman») по шкале «marksman--sharpshooter--expert»[15].
За время службы Освальд трижды попадал под трибунал. Первый раз за то, что прострелил себе локоть из пистолета. А затем за драку с сержантом он был понижен в звании из рядового первого класса до рядового и заключён в тюрьму. В третий раз был наказан за то, что во время ночного караула на Филиппинах он, по непонятным причинам, выстрелил из винтовки в джунгли[16].
Сослуживцы называли Освальда «Кролик Оззи» по аналогии с мультипликационным персонажем, а иногда «Освальдскович» (English: «Oswaldskovich») из-за его просоветских взглядов. В декабре 1958 года он был переведён обратно в Эль-Торо, где в задачи его подразделения входило управление полётами для подготовки солдат и офицеров для службы за рубежом. Служившие там офицеры утверждали, что Освальд был компетентным руководителем группы[17].
Во время службы в морской пехоте Освальд изучал русский язык. В феврале 1959 года он сдал экзамен на знание письменного и разговорного русского языка. Его знания были оценены как слабые[18]. 11 сентября 1959 года он уволился в запас, ссылаясь на то, что его мать нуждается в помощи[6][19][20].
Жизнь в СССР
В октябре 1959 года, незадолго до своего двадцатилетия, Освальд приезжает в Советский Союз. Эта поездка планируется заранее. Он представил несколько фиктивных заявлений в зарубежные университеты с целью получения студенческой визы. Освальд провёл два дня вместе со своей матерью в Форт-Уэрт, а затем 20 сентября отправился на корабле из Нового Орлеана в Гавр (Франция), откуда сразу же переправился в Англию. Приехав в Саутгемптон 9 октября, он сказал таможенным чиновникам, что планирует остаться в Соединённом Королевстве на неделю, прежде чем приступить к учёбе в Швейцарии. Но в тот же день он отправился на самолёте в Хельсинки, где 14 октября получил советскую визу. На следующий день Освальд отправился из Хельсинки на поезде и прибыл в Москву 16 октября[21].
Сразу после прибытия Освальд заявил о своём желании получить советское гражданство, но 21 октября его ходатайство было отклонено[22]. Тогда Освальд вскрыл вены на левой руке в ванне своего гостиничного номера, после чего был помещён в психиатрическую больницу[23][24].
31 октября Освальд явился в посольство США в Москве, заявив, что желает отказаться от американского гражданства[25][26]. О бегстве морского пехотинца США в Советский Союз было сообщено на первой полосе Ассошиэйтед Пресс и в других газетах в 1959 году[27].
Освальд хотел учиться в МГУ, но его направили в Минск работать токарем на «Минский радиозавод имени Ленина», занимающийся производством бытовой и военно-космической электроники. Он получал увеличенный оклад и пособие, всего около 700 рублей в месяц (в 5 раз больше, чем обычные рабочие на предприятии)[28], в марте 1960 года получил меблированную однокомнатную квартиру в престижном доме по адресу: улица Калинина, 4, квартира 24 (с 1961 г. — улица Коммунистическая)[29], но при этом находился под постоянным наблюдением. По месту работы его активно обучал русскому языку и курировал тогда ещё старший инженер С. С. Шушкевич[30].
Через некоторое время Освальду стало скучно в Минске[31]. В январе 1961 года он пишет в своём дневнике: «Я начинаю пересматривать своё желание остаться. Работа серая, деньги негде тратить, нет ночных клубов и боулинга, нет мест отдыха, кроме профсоюзных танцев. С меня достаточно»[32]. Вскоре после этого Освальд (который официально не отказался от гражданства США) написал в посольство США в Москве запрос на возвращение его американского паспорта и предложение вернуться в США, если обвинения против него будут сняты[33].
В марте 1961 года Освальд познакомился с 19-летней студенткой Мариной Николаевной Прусаковой, и менее чем через шесть недель они поженились[34][35]. 15 февраля 1962 года у Освальда и Марины родилась дочь Джун. 24 мая 1962 года Освальд и Марина получают в посольстве США в Москве документы, позволяющие ей эмигрировать в США[36], после чего Освальд, Марина и их маленькая дочь покинули Советский Союз[37].
Жизнь в Далласе
После возвращения в Америку Освальд с семьёй поселился в метроплексе Даллас/Форт-Уэрт, недалеко от матери и брата Роберта, и начал писать мемуары о жизни в Советском Союзе. Хотя он в конце концов отказался от этого проекта, в поисках материалов он познакомился с русскими эмигрантами в этом районе. В своих показаниях комиссии Уоррена Александр Клейнлерер сказал, что русские эмигранты сочувствовали Марине, Освальда же просто терпели, так как считали его грубым и высокомерным[38].
Хотя русские эмигранты прекратили общаться с Мариной, Освальды подружились с 51-летним русским эмигрантом Джорджем де Мореншильдом () хорошо образованным геологом-нефтяником[39]. Уроженец России, де Мореншильд сообщил Комиссии Уоррена, что Освальд «… замечательно владел русским языком»[40]. Марина в то же время подружилась с двумя квакерами: Рут Пэйн[41], которая пыталась учить русский язык, и её мужем Михаилом, который работал в «Bell Helicopter»[42]. Рут Пэйн утверждала, что она впервые встретилась с Освальдами на вечеринке, устроенной Джорджем де Мореншильдом[43].
В Новом Орлеане
24 апреля 1963 года Освальд приехал в Новый Орлеан[44] и устроился на работу в , владелец которой, Уильям Рейли, был членом организации , выступающей против режима Кастро[45]. Освальд работал смазчиком на «Reily», но был уволен в июле, «потому что его… работа не была удовлетворительной и потому, что он проводил слишком много времени, слоняясь в гараже по соседству, где он читал журналы об оружии и охоте»[46][47].
26 мая Освальд написал письмо в Нью-Йоркскую штаб-квартиру «Комитета за справедливую политику по отношению к Кубе» (), выступавшего в поддержку Кубинской революции, в котором предложил взять в аренду за свой счёт небольшой офис, с целью формирования филиала FPCC в Новом Орлеане[48]. В ответе, который Освальд получил через три дня, ему не рекомендовали открывать офис, «по крайней мере не … в самом начале»[49]. В последующем письме Освальд ответил: «Несмотря на ваш совет, я решил открыть офис сразу»[50].
Будучи единственным членом Ново-Орлеанской ячейки FPCC, Освальд в местной типографии напечатал 500 анкет, 300 членских билетов и 1000 листовок с заголовком «Руки прочь от Кубы»[51]. По словам Марины, Ли сказал ей подписать его членский билет именем «A.J. Hidell»[52].
5 и 6 августа Освальд посетил магазин кубинского эмигранта Карлоса Бронье (). Бронье был делегатом Революционного Студенческого Директората (DRE), организации, выступающей против режима Фиделя Кастро. Позже Бронье рассказал комиссии Уоррена, что он считал, что целью посещений Освальда было внедрение в его группу[53]. 9 августа Освальд в центре Нового Орлеана раздавал листовки в поддержку Кастро. Бронье столкнулся с Освальдом, утверждая, что он уведомлён о листовках Освальда от друга. Завязалась драка, и Освальд, Бронье и два друга Бронье были арестованы за нарушение общественного порядка[54]. Перед тем как покинуть полицейский участок, Освальд захотел поговорить с агентом ФБР. Приехавший агент Джон Куигли более часа беседовал с Освальдом[55].
Одна из листовок Освальда с его собственноручной пометкой была отправлена с адреса «544 Камп Стрит»[56]. Этот адрес находился в Здании «Ньюмен Билдинг», в котором с октября 1961 по февраль 1962 года размещался радикальный Кубинский революционный совет[57][58]. В том же здании находилось частное детективное агентство Гая Банистера, бывшего агента ФБР. Агентство Банистера занималось расследованием деятельности выступающих против Кастро организаций в районе Нового Орлеана. В сентябре 1960 года ЦРУ рассматривало возможность использования агентства Гая Банистера для внешней разведки[59][60].
В конце 1970-х годов Специальный комитет по терроризму исследовал возможную связь Освальда и агентства Банистера. Хотя Комитет не смог допросить Гая Банистера, так как он умер в 1964 году, комитет допросил его брата Росса. Росс сказал Комитету, что его брат неоднократно говорил об Освальде и его листовках. Росс предположил, что Освальд использовал адрес «544 Камп Стрит» для отправки листовок, чтобы спровоцировать Гая[61].
Секретарь Гая Банистера, Дельфина Робертс, рассказывала писателю Энтони Саммерсу, что она видела Освальда в офисе Банистера, когда он заполнял одну из анкет агентов. Она утверждала, что Освальд неоднократно приходил в офис. Он, казалось, был знаком с Банистером[62]. Специальный комитет по терроризму изучил показания Робертс и установил, что из-за противоречий в её показаниях и отсутствия независимых подтверждений достоверность её заявлений не может быть установлена[63].
Деятельность Освальда в середине 1963 года в Новом Орлеане была позже изучена окружным прокурором Нового Орлеана Джимом Гаррисоном как часть его расследования по делу Клея Шоу в 1969 году. Гаррисона особенно интересовал соратник Гая Банистера — человек по имени [64] — и его возможная связь с Освальдом, от которой сам Ферри отказывался[65]. Ферри умер до того, как Гаррисон завершил своё расследование[66]. Шоу, обвинённый в заговоре с целью убийства Джона Кеннеди, был признан невиновным.
В Мексике
Подруга Марины, Рут Пэйн, отвезла Марину с ребёнком на машине из Нового Орлеана в свой дом в Ирвинге, штат Техас, недалеко от Далласа, 23 сентября 1963 года[67][68]. Освальд остался в Новом Орлеане, по крайней мере, ещё на два дня, чтобы получить чек по безработице. Через некоторое время вместо Далласа он поехал на автобусе в Хьюстон, откуда отправился в Мексику. По дороге он рассказывал другим пассажирам, что планирует поездку на Кубу[69]. В Мехико он обратился за транзитной визой в посольство Кубы[70], утверждая, что желает посетить Кубу на обратном пути в Советский Союз. Кубинские чиновники настаивали на предварительном одобрении со стороны советского посольства.
Освальд обратился в советское посольство в Мексике и попросил предоставить убежище. С ним беседовал разведчик КГБ под прикрытием Николай Леонов, который впоследствии вспоминал[71]:
Передо мной предстал очень худой, я бы даже сказал, истощённый человек с бегающими, нервными глазами и болезненно трясущимися руками. Освальд пожаловался, что после возвращения в Соединённые Штаты из СССР, где он работал на автомобильном заводе в Минске, его постоянно преследуют неизвестные лица и организации. Я предложил ему написать заявление в Президиум Верховного Совета: он испортил полдюжины листов бумаги, и несмотря на то, что я практически диктовал ему текст письма, он так и не смог завершить его. У него так тряслись руки, что он рвал пером бумагу, и, в конце концов, плюнул на всё, назвал советских дипломатов бюрократами и бездушными людьми, заявил, что не может ждать четыре месяца, необходимые для рассмотрения его документов, и пойдёт в кубинское посольство. Освальд всё время говорил, что за ним следят, и поэтому он был вынужден приобрести револьвер. Он продемонстрировал его мне, открыл барабан, и вдруг из него высыпались патроны. Мы с ним вдвоём на четвереньках собирали их, чтобы вновь заложить в барабан. И вот через некоторое время я узнаю́, что этот человек убил американского президента. Думаю, он был физически на это не способен. Чтобы выстрелить из снайперской винтовки на расстояние 200—300 метров, нужно иметь хорошие спортивные данные и железные нервы. Ни того, ни другого у него не было.
Пять дней Освальд курсировал между консульствами, добиваясь получения визы[72]. В конце концов кубинский консул отклонил запрос, сказав, что такой человек, как Освальд, вместо оказания помощи Кубинской революции приносит только вред[73].
Возвращение в Даллас
В октябре 1963 года соседка Освальда Рут Пэйн сообщила, что на книжном складе, где работает её сын Уэсли Фрейзер, имеется вакансия, и 16 октября, после собеседования, Освальд приступил к работе[74]. Всю неделю Освальд жил в Далласе на съёмной квартире[75], а на выходные ездил к семье в Ирвинг. Поскольку сам Освальд машину не водил, то по понедельникам и пятницам ездил с Уэсли Фрейзером.
20 октября в семье Освальдов родилась вторая дочь.
Покушение на генерала Уокера
Марина Освальд сообщила комиссии Уоррена, что Ли Харви Освальд признался ей в ночь на 10 апреля 1963 года, что он стрелял в генерала Эдвина Уокера и в тот же вечер спрятал винтовку[76].
Комиссия Уоррена пришла к выводу, что 10 апреля 1963 года Освальд попытался убить генерал-майора в отставке Эдвина Уокера, ярого антикоммуниста, сторонника сегрегации и члена «Общества Джона Бёрча». В 1961 году Уокер был отстранён от командования 24-й дивизией американской армии в Западной Германии за распространение правой литературы в своих войсках[77][78].
В дальнейшем Уокер резко выступал против расовой интеграции в университете штата Миссисипи, что привело к его аресту. Он был помещён в психиатрическую больницу по приказу брата президента Кеннеди, генерального прокурора Роберта Кеннеди, но большое жюри отказалось обвинять его[79]. Жена Освальда, Марина, рассказала комиссии Уоррена, что Освальд считал Уокера лидером «фашистской организации»[80].
В марте 1963 года Освальд заказал по почте винтовку «Carcano» калибра 6,5 мм, используя псевдоним «А. Хиделл»[81]. Таким же способом он приобрёл револьвер «Smith & Wesson» Model 10, калибра .38[82].
Комиссия Уоррена пришла к выводу, что Освальд стрелял в Уокера через окно с расстояния менее 30 метров, в то время как генерал сидел за столом в своём доме; пуля попала в оконную раму, а её фрагменты ранили Уокера в предплечье. Марина сообщила комиссии Уоррена, что Освальд сказал ей, что он стрелял в Уокера[80]. Специальный комитет по терроризму США заявил, что «настоятельно рекомендуется представить доказательства», что именно Освальд осуществлял стрельбу[83].
До убийства Кеннеди в Далласе у полиции не было подозреваемых по делу о стрельбе в Уокера[84], но подозрение пало на Освальда через несколько часов после его ареста[85]. Пуля, ранившая Уокера, была слишком деформирована для проведения баллистической экспертизы[86], но нейтронно-активационный анализ позже показал, что она, «весьма вероятно», сделана тем же производителем и выпущена из той же винтовки, что и те две пули, которые позже поразили Кеннеди.
Убийство Кеннеди и Типпита
Накануне
В ноябре 1963 года агенты ФБР в то время, когда Ли Харви отсутствовал, дважды посещали семью Пейна для получения информации о Марине, которую подозревали в том, что она — советский агент[87]. Примерно за неделю до визита Кеннеди Освальд посетил отделение ФБР в Далласе, чтобы встретиться со специальным агентом Джеймсом Хости, но поскольку Хости не было на месте, Освальд оставил ему записку следующего содержания: «Пусть это будет предупреждением я взорву ФБР и Департамент полиции Далласа, если не прекратите беспокоить мою жену. Подпись: Ли Харви Освальд». Мнения насчёт содержания записки разделились — пригрозил ли Освальд «взорвать ФБР» или просто «сообщить об этом в вышестоящие инстанции»[88]. Хости сообщил, что в записке говорилось: «Если вы что-нибудь хотите узнать обо мне, приходите поговорить со мной напрямую. Если вы не перестанете беспокоить мою жену, я приму меры и сообщу об этом в соответствующие органы».
По словам агента ФБР Джеймса Хости, через два дня после убийства руководитель секретариата отделения ФБР в Далласе Дж. Гордон Шанклин приказал уничтожить записку, оставленную Освальдом. Но в своих показаниях перед комиссией Уоррена Шанклин утверждал, что не давал такого распоряжения и сообщил, что ничего не слышал о такой записке. ФБР признало, что показания Хости и Шанклина противоречили друг другу, но это дело расследоваться дальше не будет[89][90].
Убийство
За несколько дней до прибытия Кеннеди в нескольких газетах был описан маршрут проезда президентского кортежа, в том числе было указано, что он будет проходить мимо книжного склада, в котором работал Освальд[91]. 21 ноября (четверг) Освальд попросил Фрейзера съездить в Ирвинг, что было необычно в середине недели, заявив, что он забыл забрать карнизы для своей съёмной квартиры. На следующее утро в пятницу он вернулся в Даллас с Фрейзером. Дома он оставил 170 долларов и обручальное кольцо[92], но взял с собой длинный бумажный мешок[93]. Коллега Освальда Чарльз Гивенс сообщил, что он видел Освальда на шестом этаже склада в 11:55, за 35 минут до убийства.
Позиция стрелка
По данным ряда правительственных расследований, в том числе комиссии Уоррена, около 12:30 22 ноября, когда кортеж Кеннеди проезжал по Дили-плаза, Освальд трижды выстрелил из винтовки с шестого этажа, из окна в юго-восточном углу склада школьных учебников[94], убив президента и серьёзно ранив губернатора Техаса Джона Конналли. Когда через 15—20 минут после убийства полицейские прибыли на шестой этаж здания, угловое окно было наполовину приоткрыто. Место стрельбы в углу помещения было отгорожено стенкой из картонных коробок из-под книг, чтобы снайпер смог спокойно действовать незамеченным случайными свидетелями. Такие же коробки были, по мнению специалистов, использованы как опора для стрелка, поскольку угол прицеливания очень крутой, иначе для первого выстрела стрелок должен почти стоять у окна. Освальд действовал крайне практично, он не стрелял из самой выгодной позиции — пока лимузин двигался прямо на стрелка и когда делал поворот. Он подождал, пока эскорт начнёт удаляться по Элм Стрит. Таким образом, сотрудники безопасности не увидели ствола винтовки в окне, агенты смотрят в основном вперёд и в стороны, а остающееся позади пространство считается проверенным. Дистанция стрельбы была короткой — 80 м.
По данным следствия, сразу после выстрелов Освальд прошёл через весь этаж от места стрельбы, где остались гильзы, и спрятал винтовку за картонными коробками непосредственно перед выходом. Затем он спустился по задней лестнице. Полицейские прочёсывали этаж за этажом, готовые к перестрелке, но только один полицейский встретил Освальда. Через полторы минуты после стрельбы на втором этаже в столовой Освальд столкнулся с полицейским Маррионом Бейкером в сопровождении начальника Освальда, Роя Трулли. Бейкер отпустил Освальда после того, как Трулли опознал его как своего работника[95]. (Бейкер первоначально написал в своём заявлении в ФБР, что Освальд «пил кока-колу». Затем он изменил свою историю и не упомянул о кока-коле в своих показаниях комиссии Уоррена). Освальд вышел со склада через главный вход перед тем, как полиция заблокировала его. Руководитель Освальда, Рой Трулли, позже указал офицерам полиции, что Освальд был единственным сотрудником, который пропал[96][97]. Сейчас в этом здании действует музей — Sixth Floor-museum, где сохраняется обстановка трагического дня.
Около 12:40 Освальд сел на автобус, но вышел, не доезжая двух кварталов до места жительства[98]. Затем он сел на такси и примерно в 13:00 приехал домой. По словам его экономки Робертс, он сразу же быстро отправился в свою комнату[99]. Робертс утверждала, что Освальд вышел через несколько минут уже в пиджаке, которого на нём не было, когда он вошёл. Последний раз она видела Освальда стоящим на автобусной остановке[100].
Освальд был замечен свидетелем недалеко от перекрёстка Восточной 10-й улицы и Северной Паттон-авеню, на расстоянии около 1,4 километра к юго-востоку от дома, где он жил[101]. По данным комиссии Уоррена, Освальд был остановлен патрульным полицейским Типпитом, беседовавшим с ним через окно машины[102]. Между 13:11 и 13:14 Типпит стал выходить из своего автомобиля и сразу же был убит четырьмя выстрелами[102][103]. Многочисленные свидетели слышали выстрелы и видели уходящего человека с револьвером[104]. На месте происшествия были обнаружены четыре гильзы, по заключению экспертов (составленному ещё до работы комиссии Уоррена[105]), извлечённые из револьвера, позже найденного у Освальда. Тем не менее, пули, извлечённые из тела Типпита, не были идентифицированы как выпущенные из револьвера Освальда[105][106].
Арест
Уборщик магазина Джонни Брюер сообщил, что спустя несколько минут он увидел Освальда, прячущегося в нише у входа в магазин. Посчитав его действия подозрительными, Брюэр проследил за ним и заметил, как Освальд прошёл по улице и проник в находящийся рядом Театр Техаса, не заплатив за вход[107]. Он сообщил об этом контролёру театра, который позвонил в полицию примерно в 13:40[108].
Когда приехала полиция, Брюер опознал его, и Освальд вышел сдаться со словами: «Ну всё, это конец»[109], а затем ударил офицера. После борьбы он был разоружён[110]. Когда его выводили из театра, Освальд крикнул, что он — жертва жестокости полиции[109].
Около 2 часов пополудни Освальд был доставлен в здание департамента полиции, где был допрошен детективом Джимом Лавелом по делу об убийстве полицейского Типпита. Когда капитан Д. Уилл Фриц услышал имя Освальда, он сказал, что это сотрудник книжного склада, объявленный пропавшим без вести и подозреваемый в убийстве Кеннеди[111][112]. Освальд был арестован; ему было предъявлено обвинение в обоих убийствах[113].
Вскоре после своего ареста Освальд, встретившись с журналистами в коридоре, заявил: «Я ни в кого не стрелял. <…> Меня задержали, потому что я жил в Советском Союзе. Я просто козёл отпущения!» (English: They’re taking me in because of the fact I lived in the Soviet Union. I’m just a patsy!) Позже, на пресс-конференции, журналист спросил: «Вы убили президента?». Освальд, которому к этому времени уже было предъявлено обвинение в убийстве Типпита, но ещё не предъявлено обвинение в убийстве Кеннеди, ответил: «Нет, меня в этом не обвиняли. Мне никто не говорил про это. Впервые я услышал об этом, когда кто-то из репортёров в зале спросил меня об этом». Когда его выводили, ему был задан вопрос: «Как вы повредили свои глаза?». Освальд ответил: «Меня ударил полицейский»[114][115][116].
Допрос в полиции
Освальда допрашивали несколько раз в течение тех двух дней, пока он находился в Департаменте полиции Далласа. Он отрицал убийство Кеннеди и Типпита, отрицал владение винтовкой, сказал, что две его фотографии с винтовкой и пистолетом в руках были фальшивками, отрицал, что говорил своему коллеге, что хотел ехать в Ирвинг за карнизами, отрицал пронесение длинного тяжёлого пакета на работу в утро убийства. Комиссия Уоррена также отметила, что Освальд отрицал знакомство с А. Д. Хиделлом, а когда ему показали поддельную карту, которая была у него в момент ареста, отказался отвечать на любые вопросы, касающиеся его, сказав: «…у вас есть карта, и вы сами знаете о нём столько же, сколько и я»[117]. Комиссия Уоррена отметила, что поддельная карта была выписана на имя «Алек Джеймс Хиделл» (English: Alek James Hidell)[118].
Во время своего первого допроса в пятницу 22 ноября на вопрос, где он был в момент убийства президента, Освальд ответил агенту ФБР Джеймсу Хости и капитану полиции Далласа Уиллу Фрицу, что он обедал на первом этаже склада, а затем поднялся на второй этаж за кока-колой, где встретился с полицейским[119][120][121][122]. Во время последнего допроса 24 ноября, по данным инспектора Гарри Холмса, Освальда снова спросили, где он был в момент стрельбы. Холмс (присутствовавший на допросе по приглашению капитана Фрица) утверждал, что Освальд ответил, что он работал на верхнем этаже, а после стрельбы спустился вниз, где столкнулся с полицейским[123].
Освальд несколько раз во время допросов и встреч с журналистами требовал адвоката. Но когда представитель Коллегии адвокатов Далласа встретился с ним в камере в субботу, Освальд отказался от его услуг, заявив, что хочет, чтобы его интересы представлял Джон Абт, главный юрисконсульт Коммунистической партии США, или юрист, связанный с Американским союзом защиты гражданских свобод[124][125]. Освальды и Рут Пэйн пытались связаться с Абтом по телефону несколько раз в субботу и воскресенье[126][127], но Абт уехал на выходные[128]. Освальд также отклонил предложение своего брата Роберта воспользоваться услугами местного адвоката[129].
Убийство Освальда
В воскресенье, 24 ноября, Освальда вели через подвал полицейского управления Далласа для перевода в окружную тюрьму Далласа. В 11:21 владелец ночного клуба в Далласе Джек Руби вышел из толпы и выстрелил Освальду в живот. Освальд умер в 13:07 всё в той же больнице Далласа «Парклэнд», где двумя днями ранее умер Кеннеди[75].
Перевод Освальда широко освещался СМИ в прямом эфире, в том числе корреспондентом телеканала CBS News Айком Паппасом; свидетелями произошедшего стали миллионы телезрителей[130]. Это событие также было запечатлено на широко известной фотографии (слева). Руби позже сказал, что он потерял голову от убийства Кеннеди и что его мотивом для убийства Освальда было стремление «…избавить миссис Кеннеди от расстройства, сопряжённого с рассмотрением этого дела в суде» (English: …saving Mrs. Kennedy the discomfiture of coming back to trial)[131]. Существует версия, что действия Руби были частью заговора[132].
Освальд похоронен на кладбище Форт-Уэрт Роуз Хилл Парк Мемориал. Первоначально установленное на могиле надгробие с указанием полного имени и дат рождения и смерти было в дальнейшем украдено; его заменили гранитной плитой с лаконичной надписью «Освальд» (OSWALD)[133][134][135].
Официальные расследования
Комиссия Уоррена
Комиссии Уоррена, созданная президентом Линдоном Джонсоном для расследования убийства, пришла к выводу, что Освальд действовал в одиночку (эта точка зрения известна как теория боевика-одиночки). Комиссия не смогла установить мотивы действий Освальда:
Очевидно, что у Освальда была предопределённая враждебность по отношению к окружающей его среде. Ему, кажется, не удалось установить серьёзные отношения с другими людьми. Он был вечно недоволен окружающим его миром. Задолго до убийства он выразил свою ненависть к американскому обществу и действовал в знак протеста против него. Поиски Освальдом того, что он считал идеальным обществом, были обречены с самого начала. Он искал для себя место в истории — роль «великого человека», который был бы признан в своё время. Приверженность к марксизму и коммунизму, как представляется, была ещё одним важным фактором в его мотивации. Он также продемонстрировал способность действовать решительно и без оглядки на последствия, если такие действия будут способствовать достижению сиюминутных целей. Этот и многие другие факторы могли сформировать характер Ли Харви Освальда, и возник человек, способный на убийство президента Кеннеди.
Расследование комиссии было закрыто, но около 3 % материалов до сих пор не обнародованы, что продолжает провоцировать домыслы среди исследователей убийства Кеннеди.
Рэмси Кларк
В 1968 году Группа Рэмси Кларка изучила различные фотографии, рентгеновские снимки, документы и другие доказательства и пришла к выводу, что Кеннеди был убит двумя пулями сверху и сзади, одна из которых прошла у основания шеи справа, не задев кость, другая, оказавшаяся смертельной, вошла в череп сзади справа[136].
Специальный комитет по терроризму
В 1979 году после анализа доказательств и предварительного расследования Специальный комитет по терроризму США пришёл к выводу, что Освальд действовал в одиночку. Однако в конце разбирательства Комитету была представлена аудиозапись звуков, которые якобы были слышны в Дили-плаза до, во время и после выстрелов. После экспертизы Комитет пересмотрел своё решение и сообщил, что есть высокая вероятность того, что в Кеннеди стреляли два киллера и Кеннеди, вероятно, убит в результате заговора. Хотя Комитет и был не в состоянии идентифицировать другого бандита или масштаб заговора, он сделал ряд дополнительных выводов о вероятности или малой вероятности того, что существуют определённые группы, которые могли быть заинтересованы в устранении Кеннеди[137].
Достоверность записи была поставлена под сомнение; некоторые вообще не считали эту запись записью убийства[138]. Главный адвокат комитета Г. Роберт Блейк рассказал ABC News в 2003 году, что по меньшей мере 20 человек слышали выстрел с травяного холма и что заговор доказан на основе свидетельских показаний и акустических данных, но в 2004 году он говорил об этом уже с меньшей уверенностью[139]. Полицейский Маклейн, чья запись рации, установленной на его мотоцикле, использовалась в качестве доказательства[140][141], неоднократно заявлял, что он ещё не был на Дили-плаза в момент убийства[142]. Маклейн спрашивал: «Если бы это было моё радио на моём мотоцикле, то почему не слышно езды с ускорением и воя моей сирены, когда мы тут же понеслись в больницу?»[143]
В 1982 году группа из двенадцати учёных, назначенных Национальной академией наук (НАН) во главе с Но́рманом Ра́мзеем, сделала вывод, что запись, представленная в Комитет, имела серьёзные недостатки. Впоследствии, в 2001 году, в статье в журнале Science and Justice британского Судебно-медицинского общества, заявил, что в расследовании НАН были недостатки, и сделал вывод с 96,3 процентами уверенности, что по меньшей мере два киллера стреляли по президенту Кеннеди, и что по крайней мере один выстрел был сделан с травяного холма[144].
Другие расследования и версии
Многие критики не согласились с результатами работы комиссии Уоррена и предложили ряд других версий: например, что Освальд был в сговоре с другими или не принимал участия вообще, но был подставлен.
В октябре 1981 года с согласия Марины, могила Освальда была вскрыта для проверки версии, предложенной писателем Майклом Эддоусом: что во время пребывания Освальда в СССР он был заменён на двойника и именно этот двойник, а не Освальд, убил Кеннеди и похоронен в могиле Освальда, и что на эксгумированых останках, следовательно, нет хирургического шрама, который, как известно, был у Освальда. Тем не менее, сравнение стоматологических снимков Освальда и эксгумированного трупа подтвердило, что похоронен именно Освальд. Шрам также присутствовал[145].
В 2010 году оригинальный гроб Освальда был продан с аукциона за $ 87 000[146].
Фотографии на заднем дворе
«Фотографии на заднем дворе» сделаны Мариной Освальд, предположительно, около 31 марта 1963 года фотоаппаратом Освальда. На одной из них Освальд держит две марксистские газеты The Militant и The Worker и винтовку, пистолет находится в кобуре[147]. После ареста Освальд утверждал, что фотография была подделкой, но в 1964 году Марина в свидетельских показаниях сообщила, что она сделала эту и другие фотографии по желанию Освальда[148]. Позже она это неоднократно подтверждала[149][150][151][152]. Эти фотографии отмечены как CE 133-А и CE 133-B. На CE 133-А Освальд держит винтовку в левой руке и газеты в правой. На фото СЕ 133-B Освальд держит винтовку в правой руке. Мать Освальда сообщила, что на следующий день после убийства она и Марина уничтожили ещё одну фотографию с Освальдом, где он держит винтовку двумя руками над головой; надпись на фотографии гласила: «Моей дочери Джун»[153].
1 апреля 1977 года Специальный комитет по терроризму получил ещё один снимок CE-133-А от вдовы Джорджа де Мореншильда. На обратной стороне было написано на русском языке: «Охотник на фашистов — ха-ха-ха!». Также на лицевой стороне фотографии было написано на английском: «Для моего друга Джорджа, Ли Освальд, 5/IV/63»[154]. Экспертиза почерка установила, что надпись на английском языке и подпись сделаны рукой Освальда. После двух фотографий и одного негатива, Комитет Сената по разведке нашёл в 1976 году третью фотографию на заднем дворе (CE 133-C), на которой Освальд стоит с газетами в правой руке.
Эти фотографии, широко известные как одни из самых существенных доказательств против Освальда, были подвергнуты тщательной экспертизе[155]. Эксперты, с которыми консультировался Специальный комитет по терроризму, пришли к выводу, что они были подлинными[156][157]. Марина Освальд всегда утверждала, что она сама делала эти снимки, и фотография от де Мореншильда с автографом Освальда чётко указывает, что они существовали и до убийства Кеннеди. Тем не менее, некоторые продолжают оспаривать их подлинность, обращая внимание, в частности, на прямой подбородок (на других фотографиях он заострённый) и на наклон тела, как если бы человек на фотографии опирался на стену[158]. Учёный Хани Фарид провёл цифровой анализ фотографий и пришёл к выводу, что фотографии почти наверняка не были изменены[159][160].
Освальд в популярной культуре
Фильм «Джон Ф. Кеннеди. Выстрелы в Далласе», режиссёр Оливер Стоун — в фильме подробно рассматривается предположительная версия заговора с убийством и последующими событиями. Освальда играет Гэри Олдмен.
В фильме «Из мира в мир» в одном из параллельных миров Освальд убивает президента Кеннеди.
Ли Харви Освальд является персонажем манги Наоки Урасавы . По сюжету манги он не является убийцей Кеннеди, но позволяет поймать себя, чтобы спасти свидетельницу, которая видела настоящих убийц.
Сюжет книги Стивена Кинга «11/22/63» посвящён рассказу о попытке главного героя спасти президента Кеннеди от убийства путём предотвращения рокового выстрела Освальда. В 2016 году по роману был снят сериал, роль Ли исполнил Дэниел Уэббер.
В телесериале «Тёмные небеса» (Dark Skies) есть эпизод, в котором убийство Кеннеди представлено как операция инопланетян (Освальд контролируется инопланетянами).
В телесериале «Квантовый скачок» главный герой доктор Сэм Беккет в первой и второй серии пятого сезона перевоплощается в Ли Харви Освальда — человека, подозреваемого в убийстве президента Джона Кеннеди.
В кинофильме «Цельнометаллическая оболочка» Стэнли Кубрика комендор-сержант Хартман восхищался навыками убийцы Ли Харви Освальда, а также намекнул, что того учили стрелять в морской пехоте.
В эпизоде из фильма «Солт» говорится, что из СССР в США вместо Ли Харви Освальда вернулся советский разведчик по имени Алек, который и убил Джона Кеннеди.
См. также
Убийство Джона Кеннеди
Примечания
Ссылки
, на котором он работал в Минске в 1960—62 годах.
, в которой приняли участие музыканты из Белоруссии, России, Польши, Греции, Франции и США.
Категория:Убийцы США
Категория:Убийцы президентов
Категория:Убитые в США
Категория:Умершие от огнестрельного оружия
Категория:Убийство Джона Кеннеди
Категория:Похороненные в Техасе | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9E%D1%81%D0%B2%D0%B0%D0%BB%D1%8C%D0%B4%2C%20%D0%9B%D0%B8%20%D0%A5%D0%B0%D1%80%D0%B2%D0%B8 |
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Joanne Kathleen Rowling atau lebih dikenal sebagai J.K. Rowling (). Sebagai seorang ibu tunggal yang tinggal di Edinburgh, Skotlandia, Rowling menjadi sorotan kesusasteraan internasional pada tahun 1999 saat tiga seri pertama novel remaja Harry Potter mengambil alih tiga tempat teratas dalam daftar New York Times best-seller setelah memperoleh kemenangan yang sama di Britania Raya. Kekayaan Rowling semakin bertambah saat seri ke-4, Harry Potter dan Piala Api diterbitkan pada bulan Juli tahun 2000. Seri ini menjadi buku paling laris penjualannya dalam sejarah.
Perintis Harry Potter
Sebagai seorang lulusan Universitas Exeter, Rowling berpindah ke Portugal pada tahun 1990 untuk mengajar Bahasa Inggris. Di sana dia berjumpa dan menikah dengan seorang wartawan Portugis. Anak perempuan mereka, Jessica dilahirkan pada tahun 1993. Selepas perkawinannya berakhir dengan perceraian, Rowling berpindah ke Edinburgh bersama-sama dengan anaknya tinggal berdekatan dengan rumah adik perempuan Rowling. Di Edinburgh, Rowling menghadapi masalah untuk menghidupi diri dan anaknya. Semasa hidup dalam kesusahan itu, Rowling mulai menulis sebuah buku. Dikatakan Rowling mendapat ide tentang penulisan buku itu sewaktu dalam perjalanan menaiki kereta api dari Manchester ke London pada tahun 1990. Setelah beberapa kali ditolak, Rowling berhasil menjual buku itu, Harry Potter dan Batu Bertuah untuk jumlah sebanyak $4000.
Menjelang musim panas pada tahun 2000, tiga buku pertama Harry Potter: Harry Potter dan Batu Bertuah, Harry Potter dan Kamar Rahasia, dan Harry Potter dan Tawanan Azkaban telah menangguk keuntungan lebih kurang 480 juta dolar AS dalam masa tiga tahun dengan cetakan 35 juta naskah dalam 35 bahasa. Pada Juli 2000, Harry Potter dan Piala Api telah dicetak buat pertama kalinya sebanyak 5,3 juta naskah dengan pesanan tambahan sebanyak 1,8 juta naskah. Rowling, yang kini salah seorang wanita terkaya di Britania, merancang untuk mengarang tujuh buah buku bagi seri tersebut yang setiap satunya meriwayatkan tentang setiap tahun Harry Potter yaitu seorang bocah penyihir dan temannya berada di Sekolah Sihir Hogwarts. Buku kelimanya, Harry Potter dan Orde Phoenix, telah mulai dipasarkan pada 12 tengah malam 21 Juni 2003, serentak di seluruh dunia selepas lebih kurang 3 tahun buku keempat diterbitkan.
Buku keenam Harry Potter dan Pangeran Berdarah-Campuran juga telah diluncurkan secara resmi serentak di seluruh dunia pada pukul 12.01 malam 16 Juli 2005. Untuk melancarkan peluncuran buku tersebut, ia mengadakan keramaian istimewa di Edinburgh Castle. Ia melibatkan diri dalam beberapa salam jumpa dan meluangkan waktu dengan pembaca kanak-kanak yang meminati bukunya. Sejauh ini, peluncuran buku keenamnya di seluruh dunia lebih mendapat perhatian dari peluncuran buku Harry Potter yang lain.
Setelah melewati kesuksesan dengan buku keenam, Rowling meluncurkan buku ketujuhnya yang berjudul Harry Potter dan Relikui Kematian pada tahun 2007.
Dari Buku ke Layar Lebar
Harry Potter and the Sorcerer’s Stone telah diangkat ke layar lebar di bawah arahan sutradara Chris Colombus yang mulai ditayangkan pada 16 November 2001. Pada ujung minggu pembukaannya di Amerika Serikat, film tersebut telah memecahkan rekor dengan keuntungan sekitar 93,5 juta dolar AS (20 juta dolar lebih banyak dari pemegang rekor terdahulu yaitu film 1999, The Lost World: Jurassic Park). Pada ujung tahun itu, film tersebut juga telah menjadi film paling banyak mendapat keuntungan sepanjang 2001. Sekuel film seri ini, Harry Potter and the Chamber of Secrets, mulai ditayangkan pada 15 November 2002 dan menjadi film ketiga untuk pembukaan ujung minggu terbaik dalam sejarah pecah panggung.
Film ketiga, Harry Potter and the Prisoner of Azkaban telah mulai ditayangkan pada 4 Juni 2004.
Keluarga
Penghujung Desember 2001, Rowling menikah dengan Dr. Neil Murray di rumah mereka di Skotlandia. Anak kedua dan anak lelaki pertama mereka, David Gordon Rowling Murray, dilahirkan pada 24 Maret 2003, di Royal Infirmary, Edinburgh. Untuk menjaga anaknya itu, Rowling mengatakan dia akan jarang muncul di depan orang banyak dan menandatangani buku kelima yang pada saat itu baru dilancarkan. Tak berapa lama selepas mengumumkan buku keenam seri Harry Potter setelah sempura ditulis, Rowling melahirkan anak perempuan pada 23 Januari 2005 dan dinamai Mackenzie Jean Rowling Murray.
Kini, J.K. Rowling telah selesai mengarang buku ketujuh dan terakhir dari seri tersebut. Ia mengatakan ia tidak akan menyambung lagi seri itu dan ia ingin mencoba mengarang suatu genre yang baru.
Lihat pula
Harry Potter
Pranala luar
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Rowling
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개(학명: Canis lupus familiaris)는 식육목 개과 개속에 속하는 동물로, 회색늑대(Canis lupus)의 아종으로,[1] 현대에서 가장 널리 분포하며 개체 수가 가장 많은 지상 육식 동물이다.[2][3][4][5][6] 개는 인류가 최초로 가축으로 삼은 동물로 알려져 있으며[7], 역사적으로 애완견, 사냥견으로서 길러 왔으며 인간의 친구(Man's best friend)라고도 불린다.
미토콘드리아 DNA 분석 결과 현대의 개와 회색늑대는 대략 10만 년 전에 분화된 것으로 추정되어 왔는데, 2013년 개의 화석을 이용한 분석에서는 33,000 - 36,000년 전 사이에 분화가 이루어 졌을 것으로 보고 있다.[7][8]
개는 여러 모로 유용하였기 때문에 모든 원시 인류 사회가 개를 길렀다.[9] 개는 사냥, 목축, 운송, 경비와 같은 일에 사용되고 있으며, 애완 동물로 기르기도 한다. 사람들은 이러한 일들에 적합하도록 오래 전부터 개를 다양한 품종으로 육종하였다.[10]
대한민국을 비롯한 여러 소수 문화에서 개고기를 먹지만[11], 다른 여러 문화에서는 개고기를 먹는 것을 금한다. 고대 로마 시기의 역사가인 유스티누스는 페르시아의 왕 다리우스가 카르타고에게 개고기와 인신공양을 금지하는 포고를 내렸다고 기록하고 있고, 서구의 대부분 문화에서 개고기를 먹는 것은 금기로 취급된다.[11] 이슬람에서는 재난이 닥친 특별한 상황이 아니라면 개고기가 금지된다.[12] 오늘날에도 개고기를 먹는 문제는 문화적 논란의 대상이다.[13]
청나라 만주족은 태조 누르하치가 개한테서 구해진적이 있다는 전설로 인해 개를 먹지 않는다고 한다.
개의 수명은 보통 12 - 16년 정도이지만, 최근 장수하는 개가 늘어나는 추세이다.[14] 2001년 생물학자 레이 쿠니퍼는 전 세계 개의 개체수를 약 4억 마리 정도로 추정했고[15], 2013년 하지홍은 10억 마리 이상으로 추정했다.[16]
진화와 역사
개의 진화 경로나 가축화의 과정에 대해서는 여러 이견이 있으나 확실하지는 않다. 어떤 학자는 야생 늑대가 인간의 무리와 함께 살면서 개로 종분화가 되었다고 보기도 하고, 다른 경우엔 늑대에서 생물학적으로 갈라져 나온 개의 조상 개체군이 인간에 의해 길러지기 시작한 것으로 보기도 한다.[17] 그러나, 개의 조상이 회색늑대인 것 만큼은 분명하다. 다른 생물종들의 경우 일반적으로 종분화 이후에는 번식력이 있는 잡종이 생산되지 않는 것과 달리, 개과의 늑대, 코요테, 자칼, 개는 서로 자유롭게 교잡할 수 있으며 이들의 잡종 역시 번식력을 유지한다. 이는 이들이 유전적으로 매우 가까운 관계임을 나타낸다.[18]
유전자 연구에 따르면 개는 늑대로부터 약 10만 년 전 이전에 분리된 것으로 추측되며[19], 2013년 개의 화석을 이용한 분석에서는 33,000 - 36,000년 전 사이에 분화가 이루어 졌을 것으로 보고 있다.[7] 개가 인간에 길들여진 시기는 약 1만 5천 년 전 이후 또는 1만 4천 년 ~ 1만 2천 년 전으로 추정되며,[20] 최소한 9천 년 전에는 가축으로 기르고 있었다.[21] 인간이 개를 기른 것을 증명하는 유적 가운데 가장 오래 된 것은 이라크의 팔레가우라 동굴에서 발견된 개 뼈이다.[22] 마지막 빙하기인 1만2천 년 전 해수면이 낮아져 베링 해협이 육지가 되었을 때 아메리카 원주민의 선조들이 아메리카 대륙으로 건너가면서 개도 함께 데려갔을 것으로 보기도 한다.[23]
개들 가운데에는 다시 야생 생활을 하는 경우도 있는데, 오스트레일리아의 딩고가 대표적이다. 딩고는 아시아 지역에서 사람들과 함께 3,000 - 4,000 년 전(또는 1만년 전) 오스트레일리아로 건너가 야생화되었다. 오스트레일리아 원주민들은 딩고를 사냥하여 가죽을 이용하거나, 길들여 캥거루 사냥에 사용하였다.[24]
계통 분류
역할
개는 오랫동안 사냥과 목축, 경비 등의 목적으로 길러져 왔다. 오늘날에도 전통적인 목적에 따른 품종이 길러지고 훈육되고 있다.[25] 사냥개는 사냥의 대상에 따라 수렵견, 조렵견으로 불리기도 하는데, 사냥 습성에 따라 시각형 하운드와 후각형 하운드로 구분된다. 눈으로 추적물을 쫓는 시각형 하운드로는 그레이하운드가 대표적이고, 후각형 하운드로는 비글이 대표적이다.[26] 목축견으로는 올드 잉글리시 쉽독이나, 콜리가 대표적이며[27]. 일본종인 아키타도 목축견이다.[28] 수레나 썰매를 끄는 일을 하는 사역견으로는 시베리안허스키, 로트바일러, 마스티프 등이 있고, 경비견으로는 불테리어, 미니어처 슈나우저, 진도개와 같은 개가 쓰이며, 군견이나 경찰견으로는 저먼 셰퍼드, 도베르만핀셔와 같은 개들이 쓰인다. 세인트 버나드는 인명구조견으로 유명하다. 모든 품종의 개들이 애완견으로 길러지고 있으나, 특히 애완용으로 품종이 육종 된 것에는 푸들, 치와와, 시추와 같은 것이 있다.[27]
최근에는 개의 역할이 더 넓어져, 시각장애인을 인도하는 맹인인도견이나.[29] , 사람들의 건강 회복을 돕는 치료견[30] 과 같은 역할을 하는 개들도 있다.
반려견
개는 아주 오래전부터 사람들과 친화적인 관계를 맺어왔다. 그러나 오늘날과 같이 애완 동물로서 널리 퍼지게 된 것은 제2차 세계대전 이후이다.[31] 오늘날 애완견 대다수가 집 안에서 사람과 함께 사는 것과 달리 1950년대에서 1960년대까지만 해도 마당에 개의 집을 따로 만들어 키우는 것이 일반적이었다.[32] 1980년대에 들어 애완견의 반려 동물 역할이 더 부각되면서[33] 개를 집안으로 들여 키우는 경우가 많아졌다.[34]
오늘날 반려견은 가족의 일원으로 여겨진다. 반려견에 대한 이러한 시각 변화는 크게 보아 두 종류의 새로운 흐름을 만들어 내었다. 하나는 개를 독립적인 주체로 여기고 개의 개성과 습관등을 파악하며 소통하려는 흐름이고, 다른 하나는 가족의 일원으로서 개다운 개를 기르기 위해 매일 규칙적인 훈련을 시키는 경우이다.[35]
개가 가족의 중요한 구성원으로 인식되면서 관련 상품 역시 광범위한 시장을 형성하고 있다. 사료와 급수기 같은 생필품뿐만 아니라, 향수, 의상 등의 상품이 팔리고 있으며, 미용, 치료, 훈련과 같은 서비스 시장의 규모 역시 광대하다.[36] 2013년 대한민국의 애견 시장 규모는 2조원 정도로 추산된다.[37]
애견협회에서는 애완견을 목적으로 개량된 작은 품종의 개들을 특히 토이종으로 분류한다.[38] 그러나, 최근에는 모든 품종의 개들이 애완견으로 길러지고 있다. 원래는 사냥개로서 개량된 품종의 개들을 애완견으로 기르는 경우엔 훈련과 사육에 애를 먹는 경우도 있다. 집안에서 기르기 어렵다는 이유로 비글, 미니어처 슈나우저, 코커 스패니얼을 3대 악마견이라 부르기도 한다.[39]
애완견을 기르다 버리는 일이 사회 문제가 되기도 한다.[40] 대한민국의 경우 가장 많이 버려지는 품종은 몰티즈, 시추, 요크셔테리어 등이며 대형견으로는 진돗개가 많이 버려진다.[41]
사역견
개는 여러 가지 일에 이용된다. 전통적으로 이용되었던 사냥이나 운반과 같은 일은 오늘날 대부분의 지역에서 산업적 의미를 잃었지만 스포츠로 변형되어 여전히 이루어지고 있다. 캐나다 유콘 준주의 화이트호스에서 미국 알래스카주 페어뱅크스까지의 1,600km 거리를 달리는 눈썰매 경주가 해마다 열리고 있다. 눈썰매를 끄는 견종으로는 시베리안허스키가 대표적이다.[42]
한편, 경비견이나 탐지견으로 이용되는 것은 꾸준히 이어지고 있어 대한민국의 경우 2013년 기준으로 71마리의 마약탐지견이 세관에서 운용되고 있다. 마약탐지견으로는 주로 래브라도리트리버 종이 이용된다.[43] 리트리버는 맹인인도견으로도 적합한 품종이다.[44] 2010년 기준으로 대한민국에는 63 마리의 안내견이 맹인과 함께 생활하고 있으며, 연간 10 마리 정도가 새로 안내견이 되고 있다. 미국의 경우는 연간 610 - 630 마리 정도의 안내견이 새로 배출된다.[45]
품종
사람들은 원하는 역할에 알맞도록 오래전부터 개에 대한 품종개량을 하여 왔다.[10] 근대의 품종 분류는 영국에서 시작되어 여러 나라로 전파되었다. 영국애견협회는 개의 품종을 크게 사냥개인가 그렇지 않은가로 나누었는데, 사냥개는 건독, 하운드, 테리어로 나누고, 개로는 유틸리티, 페스러럴, 토이 종을 포함한 7개 종으로 나누었다. 미국애견협회는 하운드, 스포팅, 테리어, 논스포팅, 워킹, 허딩, 토이, 미설레니어스 등 8개 종으로 구분하고 있다. 한국애견협회는 미국의 품종 구분에 한국종을 추가로 넣어 분류하고 있다.[46]
한국종 가운데 진도개와 풍산개, 삽살개가 천연기념물로 지정되어 있고, 경주개 동경이, 제주개 등에 대한 천연기념물 추가 지정이 추진되고 있다.[47]
개의 품종개량은 사람의 손을 거친 인위적 선택이기 때문에 적은 수의 개체군에서 많은 자손이 나오게 되는 경우가 있다. 이러한 유전자 병목 현상은 유전적 대립 형질가운데 일부를 사라지게 한다. 개의 품종개량에서는 최초의 교배 개체군 선택에서, 그리고 품종을 공인 받기 위해 특정한 특징만을 남기는 과정에서 유전자 병목 현상이 일어날 수 있다.[48] 적절한 유전적 건강성을 확보하지 않으면 품종 자체가 특이한 유전적 질병을 가지게 되기도 한다. 예를 들면 유전적으로 고관절이형성증을 갖는 경우가 있다. 또한 유전되지 않는 질병이라 할지라도 유전적으로 그 병에 취약한 품종이 있다. 도베르만과 로트와일러는 유독 파보바이러스에 취약하다.[49]
여러 종류의 개
저먼 셰퍼드
요크셔 테리어
치와와
비글
래브라도 리트리버
닥스훈트
도베르만
차우차우
진돗개
전 세계에는 군종 개가 수백 종이 있다. 순종은 부모의 품종이 같은 경우이다. 부모의 품종이 서로 다른 개를 교배종이라 하고 여러 품종이 혼합되어 조상의 품종을 전혀 알 수 없을 때를 잡종이라 한다.
생물학적 특징
골격
개의 골격은 아래와 같다.(아래 참조)[50]
A - 목뼈(7 개)B - 등뼈(13 개)C - 허리뼈(7 개)D - 엉치뼈(3 개)E - 꼬리뼈(20 - 23 개)(1) 머리뼈(2) 위턱뼈(3) 아래턱뼈(4) 고리뼈(5) 중쇠뼈(6) 어깨뼈(7) 어깨뼈가시(8) 위팔뼈(9) 노뼈(10) 자뼈(11) 발가락뼈(앞발)(12) 발바닥뼈(앞발)(13) 발목뼈(앞발)(14) 가슴뼈(15) 갈비 연골(16) 갈비뼈(13 쌍)(17)발가락뼈(뒷발)(18)발바닥뼈(뒷발)(19) 발목뼈(뒷발)(20) 발꿈치뼈(21) 종아리뼈(22) 정강이뼈(23) 무릎뼈(24) 넙다리뼈(25) 궁둥뼈(26) 엉덩뼈
감각
시각
널리 알려진 바와 달리 개들도 색상을 구분할 수 있다.[51] 색상의 구분은 눈의 망막에 있는 원추세포에서 담당하는데, 원추세포엔 세 종류가 있어서 긴 파장의 빛(붉은색)을 감지하는 것과 중간 파장(녹색), 짧은 파장(파란색, 보라색)을 감지하는 것으로 나뉜다. 개는 인간과 달리 긴 파장과 중간 파장을 감지하는 원추세포가 거의 없어 푸른색 계통만을 뚜렷이 구분한다. 인간에 비유하면 적녹 색맹이라고 할 수 있다.[52]
개의 눈에는 원추세포가 적어 색상 분별력이 떨어지지만, 대신 간상세포가 많아 어두운 곳에서 물체의 윤곽은 쉽게 구분한다. 또한 점멸융합율이 높아 순간적인 움직임에 민감하다. 정지된 영상을 빠르게 바꾸어 보내면 잔상 효과에 의해 동영상으로 인식하게 된다. 인간의 경우 이것을 구분하는 점멸융합율은 약 1초당 60회 정도 이지만, 개는 70-80회에 달한다. 따라서 인간은 텔레비전 드라마를 보며 자연스러운 동영상이라고 느끼지만, 개는 정지된 영상이 빠르게 깜박이는 것으로 인식한다. 이 때문에 개는 텔레비전 영상에 반응하지 않는다.[53] 2011년 글로벌 식품 제조사인 네슬레는 개가 반응하도록 점멸율을 높인 광고를 선보이기도 하였다.[54]
청각
개는 약 40 Hz에서 60,000Hz 사이의 진동수를 갖는 소리를 들을 수 있다.[55] 이는 인간의 청각보다 훨씬 뛰어난 것이다.[56] 또한 개는 귀를 소리가 나는 방향으로 세워 보다 집중하여 들을 수 있다.[57] 개의 겉귀에는 17개의 근육이 있어 귀의 방향과 모양을 조정한다.[58]
후각
개가 냄새를 맡을 때는 평소 숨을 쉴 때와는 달리 킁킁거리는데, 콧구멍을 통해 들어온 공기를 가두어서 보다 냄새를 잘 맡기 위한 행동이다. 개는 한 번 맡았던 냄새를 기억하여 냄새를 식별한다. 개가 냄새를 기억하는 메커니즘은 아직 정확히 밝혀지지 않았다.[59]
사람과 개 모두 코 속의 상피 조직을 통해 냄새를 맡는다. 공기 중에 기화된 분자가 상피에 달라붙으면 후각수용기가 냄새를 인식하여 뇌로 전달한다. 사람에게는 약 1천만 개의 후각수용기가 있는데 반해, 개의 후각수용기는 약 10억 개나 된다.[60] 블러드하운드 종의 후각수용기는 30억개에 달한다.[61] 이 때문에 개는 사람에 비해 매우 민감한 후각을 갖고 있다. 개는 냄새를 보다 잘 맡기 위해 코끝을 늘 축축한 상태로 유지하려고 자주 혀로 핥는다.[62]
개는 뛰어난 후각을 사용하는 여러가지 일에 쓰인다. 마약의 탐지와 같은 일이 대표적이다.[43] 인간 질병의 치료를 위한 연구도 진행되고 있는데, 플로리다대학교 수의학과에서는 주인의 종아리에 난 악성종양을 개가 물어 뜯은 사례를 바탕으로 질병의 발견에 개를 이용하는 연구를 하고 있다.[63]
미각
개는 짠맛, 단맛, 신맛, 쓴맛을 모두 느끼지만 사람의 미각세포가 9천여개인 것에 반해 개의 미각세포는 1천7백여개로 다른 감각에 비해 둔한 편이다. 고기 맛과 단 맛을 가장 잘 느끼며 짠맛을 거의 느끼지 못하는데, 개가 주로 섭취하는 고기에 염분이 충분하므로 염분을 따로 보충할 필요가 없어 짠맛을 느끼는 수용기가 적다.[51]
개에게 해로운 음식과 성분
개의 종류마다 달리 반응할 수 있으나, 일반적으로 다음의 음식들을 주면 안 된다.[64]
기타 특징
개도 혈액형 구분이 있다. 1번에서 7번까지의 숫자로 분류되는 개의 혈액형은 최소 13개 이상으로 알려져 있다. 항원-항체 반응을 보이는 대표적인 혈액형은 1.1, 1.2, 3, 4, 5, 그리고 7번 혈액형이다.[66]
개의 피부는 두 종류의 털로 덮혀있다. 안 쪽에 부드럽고 미세한 털이 나 있고, 그 위로 길고 뻗뻗한 털이 난다. 개는 봄 가을에 털갈이를 한다.[67] 두 번째 털은 개의 품종마다 달라서 곧게 자란 직모, 거칠고 뻣뻣한 직모, 곱슬거리는 긴털, 크게 구불거리는 털, 짧은 털 등 다양한 모양이 있고, 색상도 흰색, 검정, 붉은색을 바탕으로 다양한 변형이 있다.[68]
행동
개는 주인 또는 우두머리로부터 통제받고 명령받는 것을 배워야 한다. 정확한 규칙과 규율에 따라 기르지 못한 개는 스트레스를 받으며 자신이 집단이나 가족의 리더가 되려고 하는 경향을 보인다.[69]
개고기
세계의 소수 여러 문화에서 개고기를 먹는다. 중국은 고대에서부터 개고기를 주요 식육의 하나로 다루었다. 고대 중국 유적인 앙소·용안 유적에서는 돼지뼈와 함께 개뼈가 다른 동물의 뼈에 비해 압도적으로 많이 발굴되었다. 논어에도 제사 때 개고기를 올린다는 구절이 있다.[70] 그러나, 한나라 말기부터 개고기를 꺼리기 시작하여 오늘날에는 광둥 성 지역을 중심으로한 일부에서만 개고기를 먹는다.[71] 중국뿐만 아니라 한국, 베트남, 필리핀, 인도네시아 등 아시아 지역에선 오래전부터 개고기를 먹었다.[72] 개고기는 아시아뿐만 아니라 베르베르족이 사는 아프리카 마그레브 지역이나, 스페인과 스위스의 일부 지역에서도 먹었다.[73]
한국에서 개고기는 오랫동안 즐겨왔던 음식이다. 특히 조선시대에 이르러 면서 개고기 식용이 활발해져 《음식디미방》, 《산림경제》, 《규합총서》 등 여러 책에 다양한 요리법이 소개되었다.[74]
반면, 개고기에 강한 터부를 갖는 문화도 있는데, 조로아스터교는 개를 신성한 동물로 여겼고, 조로아스터교를 믿던 고대 페르시아는 개고기를 엄금하였다. 페르시아의 다리우스 1세는 새로 편입된 아프리카 지역에 개고기 금지를 포고하기도 하였다.[11] 오늘날 영국과 프랑스 등의 서구 유럽에서는 개고기를 먹는 것에 매우 비판적이다. 이때문에 2002년 한일 월드컵 당시 한국의 개고기 문화가 비난 받기도 하였다.[75]
최근 전통적으로 개고기를 먹던 문화권에서도 개를 반려 동물로 여기는 사람들을 중심으로 개고기를 반대하는 사람이 늘고 있다.[76] 그러나, 여전히 개고기를 즐기는 사람들은 전통적인 음식문화를 비난하는 것은 옮지 않다고 주장한다.[77] 대한민국에서는 개를 가축으로 인정하지 않고 있어 식용을 목적으로한 개 도살은 원칙적으로 불법의 소지가 있다. 식육용 개를 사육하는 쪽에서는 이 때문에 도축과 조리 과정에 위생을 위한 규제를 만들지 못하고 있다고 지적하지만, 개고기를 반대하는 쪽에서는 개를 가축으로 인정할 경우 애완견이나 유기견에 대한 광범위한 도살이 있을 것이라고 우려하고 있다.[78]
문화
개는 주인을 잘 따르며, 주인은 개가 쉬거나 잠을 잘 수 있는 개집과 음식, 생활공간을 제공하고 개는 주인과 그 재산을 지키거나 함께 어울리는 관계가 형성된다. 때로는 개가 주인의 감정에 큰 영향을 주기도 한다.[79] 오랜 역사에 걸쳐 개를 기르면서 개와 관련된 이야기, 속담, 문화, 터부와 같은 것들이 생겨났다. 개는 충직의 상징으로 여겨져 견마지로(犬馬之勞) , 몽골제국의 사준사구와 같은 관용어가 만들어지기도 하였지만, 가치 없는 것이나 난잡한 것에 비유되기도 한다. 대부분의 문화에서 사람을 개에 빗대는 것은 심한 욕설이다.
한국에서는 개와 관련된 많은 속담이 전해 내려오고 있는데, “개같이 벌어서 정승같이 산다”거나 “서당 개 삼년에 풍월을 한다”와 같은 말들이 있다.[80]
60 간지를 사용하는 나라에서 개는 12지지 가운데 11번째인 술에 해당한다.[81]
대중 문화
오수의 개와 같은 충직한 개 이야기들이 전해져 온다.
돌아온 백구를 소재로니메이션과 게임이 제작되었다.
스누피는 비글을 모티브로 했다.
드루피, 루니툰의 헥터, 톰과 제리의 스파이크, 구피 등 여러 만화캐릭터가 있다.
명견 래시는 콜리를 캐릭터로 삼은 미국 드라마이다.
같이 보기
고양이
가축
개과
늑대
각주
외부 링크
, 한국학중앙연구원
, 《브리태니커백과》
분류:개속
분류:모델 생물
분류:회색늑대의 아종
분류:1758년 기재된 동물
분류:게놈 해독이 완료된 동물
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Raksila on kaupunginosa Oulussa keskustan suuralueella. Se sijaitsee keskustan, linja-autoaseman ja rautatieaseman läheisyydessä. Alueella asuu noin 1500 vakinaista asukasta. Lisäksi alueella sijaitsee muutaman sadan opiskelijan asuttama Välkkylän opiskelijakylä. Raksilassa on useita automarketteja, ja siellä sijaitsee urheilukeskus. Alueen urheilutilat ovat Ouluhalli, Raksilan pesäpallostadion, uimahalli, Oulun keskuspaloaseman kellaritiloissa sijaitseva ilma-aserata sekä Raksilan jäähalli ja tekojäärata.
Raksila rajoittuu pohjoisessa Intiön, lännessä Vaaran, idässä Kontinkankaan ja etelässä Karjasillan kaupunginosiin. Vaaraa ja Raksilaa erottaa rautatien itäpuolella kulkeva Ratakatu. Karjasiltaa ja Raksilaa erottaa Kainuuntie (valtatie 22), ja market-aluetta ja Intiön kaupunginosaa erottaa Kajaanintie. Pohjantie (valtatie 4) erottaa Raksilan Kontinkankaasta.
Raksilasta tunnetaan parhaiten niin kutsuttu Puu-Raksila, jossa sijaitsee 1900-luvun alkupuolella rakennettuja omakotitaloja. Raksilan puutaloalue on yksi Oulun parhaiten säilyneistä. Paavo Rintalan vuonna 1962 valmistuneen romaanin Pojat, ja siihen perustuvan Mikko Niskasen ohjaaman samannimisen elokuvan tapahtumat sijoittuivat Raksilan maisemiin.[1]
Ratakadun ja Syrjäkadun välisten kortteleiden uusi asemakaava hyväksyttiin valtuustossa 1964, minkä jälkeen kortteleihin nousi muutama tornitalo ja muita kerrostaloja. Kaavan ulkopuolelle jääneiden puutalokortteleiden asukkaat aloittivat taistelun säilyttämisen puolesta ja onnistuivat estämään Raksilan itäosan muuttumisen kerrostaloalueeksi.[2]
Vuonna 1976 avattiin Raksilaan nykyiset kaupan suuryksiköt eli niin kutsuttu Raksilan kauppakeskus tai Raksilan marketit. Kauppakeskukseen avattiin tuolloin Eka-market-, (myöhemmin Euromarket) Sokos-market- (myöhemmin Prisma) ja K-Citymarket -hypermarketketjujen myymälät.[3]
Alueena Raksila on varsin erikoinen sekoitus uutta ja vanhaa.
Kuvia
Teuvo Pakkalan katu ja puu-Raksilaa.
Puu-Raksilaa.
Karjakatu 24, jossa kirjailija Paavo Rintala asui nuoruudenvuosinaan.
Oulun Energia Areena.
Oulun uimahalli.
Raksilan pesäpallostadion.
Raksilan marketit.
Lähteet
Aiheesta muualla
*
| https://fi.wikipedia.org/wiki/Raksila |
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Kiswahili ni lugha ya Kibantu yenye misamiati mingi ya Kiarabu (30%), lakini sasa ya Kiingereza pia (10%), inayozungumzwa katika eneo kubwa la Afrika ya Mashariki.
Lugha hii ina utajiri mkubwa wa misamiati, misemo, methali, mashairi, mafumbo, vitendawili na nyimbo. Kiswahili hutumika kufundishia shuleni na kuna vitabu vingi vilivyotungwa kwa kutumia lugha hiyo, vikiwa pamoja na vile vya hadithi, hekaya au riwaya.
Historia ya lugha
Lugha ilianza takriban miaka 800-1000 iliyopita katika mazingira ya vituo vya biashara vya pwani ambako wafanyabiashara kutoka Uarabuni, Uajemi na Uhindi walikutana na wenyeji Waafrika. Lugha kuu ya kimataifa ya biashara hiyo ilikuwa Kiarabu.
Inaonekana ya kwamba lugha mpya ilijitokeza wakati wenyeji wa pwani, waliokuwa wasemaji wa lugha za Kibantu, walipopokea maneno mengi hasa ya Kiarabu katika mawasiliano yao. Kwa hiyo msingi wa Kiswahili ni sarufi na msamiati wa Kibantu pamoja na maneno mengi ya Kiarabu. Imekadiriwa ya kwamba karibu theluthi moja ya maneno ya Kiswahili yana asili ya Kiarabu.
Kando ya Kiarabu toka zamani pia kuna athira ya lugha mbalimbali kama Kiajemi, Kihindi na Kireno.
Kuanzia karne ya 20 hadi sasa maneno mengi yamepokewa kutoka Kiingereza, na katika Jamhuri ya Kidemokrasia ya Kongo Kifaransa, lakini pia kutoka lugha nyingine, Kiarabu kikiwa mojawapo.
Kwa karne nyingi iliandikwa kwa herufi za Kiarabu (سواحلي sawahili au لغة سواحيلية lugha sawahiliya).
Sarufi ya kwanza pamoja na kamusi iliandikwa mwaka 1848 na Dokta Ludwig Krapf huko Rabai Mpya / Mombasa.
Kiswahili kilikuwa na lahaja nyingi kutokana na lugha mbalimbali za Kibantu zilizochangia katika eneo husika.
Tangu karne ya 19 lugha ilianza kuenea barani kwa njia ya biashara.
Wakati wa ukoloni wa Uingereza lugha ilisanifishwa na Kamati ya kimaeneo ya lugha ya Kiswahili kwenye msingi wa lahaja ya Unguja.
Wasemaji
Hakuna hakika kuhusu idadi ya wasemaji wa lugha hiyo; idadi zinazotajwa zinatofautiana.
Wasemaji wanaoitumia kama lugha ya kwanza hawapungui milioni 15-25, na wasemaji wanaoitumia kama lugha ya pili ni zaidi ya milioni 40-70.
Idadi ya wasemaji wa lugha ya kwanza inakua haraka, kwa sababu lugha inaenea katika maeneo ambapo lugha nyingine zilikuwa lugha kuu, na hasa katika miji ya Tanzania imekuwa lugha kuu, badala ya lugha za kikabila, kutokana na mchanganyiko wa watu hata ndani ya nyumba moja, kama vile wanapooana watu wa makabila tofauti, jambo ambalo limekuwa la kawaida hasa Tanzania, ambayo inaongoza kwa matumizi ya Kiswahili. Kwa watoto wengi kimekuwa lugha mama.
Kati ya nchi nyingine ambapo Kiswahili kinatumika kuna Kenya, Uganda, Kongo-Kinshasa, Rwanda, Burundi, Msumbiji, Somalia na visiwa vya Bahari Hindi kama Visiwa vya Ngazija (Komoro).
Lugha rasmi
Kiswahili kimekuwa lugha rasmi katika nchi zifuatazo:
Tanzania: ni lugha ya taifa; ni lugha ya shule za msingi, lugha ya utawala serikalini na mahakamani; inatumika kote nchini, makanisani, misikitini, redioni, kwenye runinga na idadi kubwa ya magazeti. Serikali inatakiwa kukiendeleza Kiswahili kwa sababu ni lugha ya taifa. Sera ya elimu ya mwaka 2015 imechagua Kiswahili katika miaka 10 ijayo kiwe lugha ya kufundishia katika ngazi zote, ikiwemo ile ya chuo kikuu
Kenya: ni lugha ya taifa tena lugha rasmi, sawa na Kiingereza, baada ya rasimu ya katiba mpya kupitishwa tarehe 4 Agosti 2010; Kiswahili ni lugha ya kwanza ya mawasiliano kati ya wananchi wakikutana nje ya eneo lenye kabila moja tu; ni lugha inayofundishwa lakini si lugha ya kufundisha mashuleni; ni lugha inayotumika na polisi na jeshi, ni lugha ya kuhutubia wananchi mjini na kitaifa; sehemu za ibada makanisani zinatumia Kiswahili; kuna gazeti moja tu la Kiswahili; sehemu za programu redioni na kwenye runinga ni kwa Kiswahili. Hata hivyo, lugha inachanganywa mara nyingi na Kiingereza na lugha za maeneo au za kikabila.
Uganda: kimetangazwa kuwa lugha ya taifa tangu 2005; iliwahi kuwa lugha ya taifa wakati wa utawala wa Idi Amin; wakati wa ukoloni ilifundishwa mashuleni ikaelekea kuwa lugha rasmi pamoja na Kiingereza lakini matumizi haya yalipingwa hasa na Waganda hivyo Waingereza waliacha mipango hiyo. Ni lugha ya polisi na jeshi, hali ambayo imeleta ugumu kwa lugha kukubalika na wananchi wengi kutokana na historia ya utawala wa kijeshi Uganda; watu wengi bado hukumbuka hasa matusi ya wanajeshi waliowatesa wakisema Kiswahili. Lakini kuna maeneo ya Uganda ambako Kiswahili kinatumiwa na watu wengi kama lugha ya sokoni na barabarani. Wona UBC, WBS tv. Mwaka 2005 bunge lilipiga kura kukifanya lugha rasmi ya pili kwa kuwa kinazungumzwa zaidi (nje ya Buganda).
Rwanda: tarehe 8 Februari 2017 bunge lilifanya Kiswahili lugha rasmi ya nne baada ya Kinyarwanda, Kifaransa na Kiingereza.
Jamhuri ya Kidemokrasia ya Kongo: Kiswahili ni kati ya lugha nne za kitaifa (pamoja na Kilingala, Kiluba na Kikongo), pia lugha ya jeshi. Kiswahili kilifika mashariki ya nchi na misafara ya biashara ya watumwa na pembe za ndovu kutoka Zanzibar na pwani ya Tanganyika. Imeenea zaidi kati ya mchanganyiko wa wafanyakazi kwenye migodi ya Shaba.
Lugha ya kwanza, lugha ya pili
Kiasili Kiswahili kilikuwa lugha ya kwanza tu ya wakazi wa miji ya Waswahili kwenye pwani, katika sehemu za pwani pia kijijini. Baada ya kuenea kimekuwa lugha ya watu wengi mjini hasa Tanzania lakini pia Kenya.
Kimeenea zaidi kama lugha ya mawasiliano na biashara pale ambako watu wa makabila mbalimbali wanakutana. Pamoja na nchi zinazotajwa hapo juu Kiswahili kinatumika katika Kaskazini ya Msumbiji, Kusini kabisa ya Somalia, Mashariki ya Burundi.
Maeneo ya mpaka wa Tanzania kuna pia wasemaji kadhaa huko Malawi na Zambia.
Tanzania na Kenya zilipokea wakimbizi wengi waliojifunza Kiswahili lakini hakuna uhakika kama bado kinatumika wakirudi Rwanda, Sudan au Somalia.
Kimataifa
Lugha hii leo imekuwa na umuhimu mkubwa duniani kwa jumla, na hasa Afrika, kwa sababu ya kuenea kwake nchi mbali mbali, na kukusanya kwake watu wa makabila na nchi kadha wa kadha wakaweza kufahamiana kwa lugha moja, hasa ilivyokuwa ni lugha mojawapo katika lugha kubwa za Africa ambazo zinachukuwa mahala pa lugha za kigeni na Wakoloni, kama Kiarabu, Kiurdu, Kiebrania, Kireno na kadhalika.
Leo imekuwa inatumiwa katika kusambaza habari katika vituo mbali mbali ulimwenguni kama vile Sauti ya Amerika, BBC, Deutsche Welle, Monte Carlo, RFI, na nchi nyinginezo kama vile Uchina, Urusi, Irani.
Aidha, imekuwa ni mojawapo ya lugha muhimu zinazofundishwa katika vyuo vikuu nchini Marekani, Uingereza, Ulaya bara, Urusi, Uchina, na barani Afrika.
Maendeleo ya Kiswahili
Lugha ina maendeleo: inaweza kukua, kukwama au kufa. Athira nyingi hutokea bila mpangilio pale ambako wasemaji wanapokea maneno mapya, wanaacha kutumia maneno mengine au hubadilisha kawaida ya matamshi au sarufi. Haya yote hutokea pia katika uwanja wa Kiswahili.
Kuna mzaha unaosimuliwa hasa Tanzania: Kiswahili kilizaliwa Unguja, kilikua Tanzania Bara, kikafa Kenya na kuzikwa Uganda. Hali halisi Kiswahili kina maendeleo yake katika nchi hizo zote labda zaidi Kongo.
Lakini itategemea pia juhudi za serikali kama umoja wa lugha utatunzwa kwa sababu kuna athari nyingi kutoka lugha za kila eneo zinazoingia katika ukuzi wa Kiswahili kwa namna zinazotofauitiana.
Taasisi zinazokuza Kiswahili
Kuna taasisi zinazolenga kukuza na kuimarisha Kiswahili kama vile Taasisi ya Taaluma za Kiswahili (TATAKI) kwenye Chuo Kikuu cha Dar es Salaam pamoja na idara za Kiswahili katika vyuo vikuu vingine vya Kenya na pia Uganda.
Nchini Tanzania kuna Baraza la Kiswahili la Taifa (BAKITA) na Baraza la Kiswahili Zanzibar (BAKIZA) ilhali nchini Kenya kuna Chama cha Kiswahili cha Taifa (CHAKITA). BAKITA na CHAKITA pamoja na wawakilishi kutoka Uganda wanaandaa kuundwa kwa Baraza la Kiswahili la Afrika Mashariki (BAKAMA).
Uchunguzi wa Kiswahili huendelea pia katika idara za vyuo vikuu vingi duniani, kwa mfano katika Institute National des Langues et Civilisations Orientales, jijini Paris, Ufaransa. Matumizi yake ni kwa njia ya lahaja za Kingwana.
Kamusi za Kiswahili
Kati ya shughuli muhimu za taasisi hizo, mojawapo ni kazi ya kukuza misamiati ya Kiswahili yaani kutafuta maneno mapya au kupanua matumizi ya maneno yaliyopo ili kutaja mambo ya maisha ya kisasa yaliyobadilika. Utunzi wa kamusi za Kiswahili hupanua elimu hiyo.
Faida ya kutumia Kiswahili kwa mataifa ya Afrika
1. Kusaidia kuleta umoja wa bara zima.
2. Kudumisha utamaduni wa Kiafrika kuliko kufuata kasumba.
3. Kufanya Waafrika waamini zaidi mambo yao kuliko kutegemea tu ya kigeni.
4. Kurahisisha upatikanaji wa ajira kwa watumiaji wa lugha hiyo hata nje ya Afrika.
5. Kukuza sekta ya utalii.
Tazama pia
Historia ya Kiswahili
Uenezi wa Kiswahili
Lahaja za Kiswahili
Marejeo
Ashton, E. O. 1944. Swahili Grammar (Including Intonation). London: Longmans.
Hinnebusch, T. J. 1979. "Swahili". Katika: T. Shopen (mhariri) Languages and Their Status, uk. 209-293. Cambridge, Massachusetts: Winthrop.
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Język suahili,
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Viungo vya nje
(Kiingereza)
(Kiingereza)
(Kiingereza/Kifaransa)
(Kijerumani/Kiswahili)
(Kijerumani/Kiswahili)
Jamii:Afrika
Jamii:Lugha za Tanzania
Jamii:Lugha za Kenya
Jamii:Lugha za Kibantu
Jamii:Waswahili
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Palestiinan vapautuksen kansanrintama (PFLP, , , al-Jabha al-ša‘biyya li-taḥrīr Filasṭīn) on marxilais-leniniläinen palestiinalainen poliittinen ja sotilaallinen järjestö. Se on ollut toiseksi suurin Palestiinan vapautusjärjestön (PLO) muodostavista ryhmistä. Se on tavallisesti ollut kovan linjan edustaja Palestiinan itsenäisyyspyrkimyksissä vastakohtana maltillisemmalle Fatahille (PLO:n suurin ryhmä). PFLP vastusti Oslon rauhansopimusta ja vastusti pitkään kahden valtion ratkaisua Israelin–Palestiinan-kiistassa. Nykyään järjestö ei edusta asiassa enää niin jyrkkää linjaa kuin ensimmäisen intifadan puhjetessa 1987, ja vuonna 1999 PFLP sopi PLO:n johdon kanssa neuvotteluista Israelin kanssa.
PFLP syntyi arabien kansallisesta liikkeestä (ANM), jonka perusti tri George Habash, kristitty palestiinalainen, jonka perhe karkotettiin Palestiinasta vuoden 1948 Israelin itsenäisyyssodan aikana. Palestiinan vapautusarmeijan kanssa ANM perusti vuonna 1966 paluun sankarit -kommandoryhmän. Kesäkuun 1967 kuuden päivän sodan jälkeen ANM ja eräät muut ryhmät, kuten Ahmad Jibrilin Palestiinan vapautusrintama muodostivat PFLP:n Habash johtajana. Vuoden 1968 alussa PFLP:llä oli 1300 taistelijaa. Syyria tuki sitä taloudellisesti ja sen koulutusleirit olivat Jordaniassa. PFLP kaappasi israelilaisen El Alin matkustajakoneen 23. kesäkuuta 1968, kaikki 16 matkustajaa vapautettiin[1]. Tämä oli Lähi-idän konfliktin ensimmäinen konekaappaus. PFLP julistautui 1969 marxilais-leniniläiseksi, mutta tuki edelleen panarabismia.
Ahmad Jibril erosi 1968 PFLP:sta ja perusti oman PFLP-GC:nsä. Vuonna 1969 siitä erosi maolainen Palestiinan vapautuksen demokraattinen rintama (DFLP, aluksi nimellä PDFLP) ja 1972 Palestiinan vapautuksen kansallinen vallankumouksellinen rintama (PRFLP). Jordanian mustan syyskuun jälkeen, jolloin kaikki aseelliset ryhmät karkotettiin maasta.
PFLP liittyi PLO:hin, jossa se oli aikoinaan toiseksi suurin ryhmä, mutta erosi sen toimeenpanevasta komiteasta 1974 syyttäessään Jasser Arafatin ja Fatahin johtamaa PLO:ta Israelin tuhoamisen päämäärän pettämisestä ja siirtymisestä kahden valtion politiikkaan. PFLP kuului niin sanottuihin rejektionisteihin, jotka eivät uskoneet minkäänlaisten neuvottelujen Israelin kanssa olevan mahdollista. Se palasi kuitenkin toimintaan 1981. Vuonna 1990 PFLP:n Jordanian osastosta tuli poliittinen puolue Jordanian kansan demokraattinen yhtenäisyyspuolue (Hizb al-wahda al-ša’biya al-dimuqratiyya al-urduni).
PFLP boikotoi vuoden 1996 vaaleja, ja sitä alettiin pitää merkityksettömänä radikaalien islamististen ryhmien, kuten Hamasin kannatuksen kasvaessa nopeasti 1993–1996 ja Neuvostoliiton hajoamisen myötä marxismi-leninismin antaessa tilaa islamismille.
George Habash luopui PFLP:n johtajuudesta vuonna 2000 kuudennessa puoluekokouksessa, jolloin hänen seuraajakseen valittiin Abu Ali Mustafa. Israelin helikopterit tappoivat Mustafan raketein 27. elokuuta 2000 Länsirannalla Ramallahissa. PFLP ampui kostoksi Israelin äärioikeistolaisen turismiministerin Rehavam Ze’evin 17. marraskuuta. Ahmad Sa’dat valittiin uudeksi pääsihteeriksi 3. lokakuuta 2001. Palestiinalaishallinto vangitsi hänet tammikuussa 2002 Israelin ja Yhdysvaltain painostuksen vuoksi kuten muutamat muutkin Ze’evin murhasta epäillyt. Korkein oikeus tuomitsi vangitsemisen lainvastaiseksi, mutta palestiinalaishallinto ei suostunut vapauttamaan häntä. 14. maaliskuuta 2006 Israelin puolustusvoimat hyökkäsi Jerikoon ja valtasi kymmentuntisen piirityksen jälkeen vankilan ja vei Sa’datin ja viisi muuta vankia Israeliin tuomittavaksi. Israelilainen sotilastuomioistuin tuomitsi 25. joulukuuta 2008 Sa’datin laittoman terroristijärjestön johtamisesta 30 vuodeksi vankeuteen[2].
PFLP osallistui Palestiinalaishallinnon parlamenttivaaleihin vuonna 2006 "Marttyyri Abu Ali Mustafa" -vaalilistalla, joka sai 4,25% äänistä[3].
Euroopan unioni ja Yhdysvallat pitävät PFLP:tä terroristijärjestönä[4][5].
PLFP:n toiminta
Lähteet
Luokka:Kommunistiset puolueet
Luokka:Palestiinalaiset järjestöt
Luokka:Äärivasemmistolaiset terroristijärjestöt
Luokka:Israelin–Palestiinan konflikti
Luokka:Nationalistiset puolueet
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카라(, )는 DSP 미디어 소속으로 활동한 대한민국의 4인조 걸 그룹이다. 그룹명 카라(χαρα)는 그리스어로 "달콤한 멜로디"라는 뜻이다.[1] 카라는 2007년부터 2016년이 될 때까지 460만장 이상의 음반판매고를 올렸다.
2016년 1월 15일, 멤버 허영지를 제외한 세 명의 멤버가 소속사와의 계약이 만료되었다. 다만 그룹 활동이 중단되었을 뿐, 공식 해체를 선언한 것은 아니다.
활동
2007-08: 데뷔와 the First Bloooooming, 멤버 교체
2007년 3월 21일, 박규리, 한승연, 김성희, 니콜 4명으로 구성된 카라의 프로필과 사진이 공개되었다. 그 후 3월 29일 첫 정규 앨범 the First Bloooooming을 발매하였고, 같은 날 Mnet 《엠카운트다운》에서 "Break It"으로 데뷔 무대를 가졌다. 이어 4월 6일 "Break It"의 뮤직비디오가 공개되었고 4월 22일에는 이효리와 KBS 《뮤직뱅크》에서 합동 무대를 갖기도 하였으며 5월 27일까지 활동했다.
그 후 팬들을 위한 후속곡 투표를 실시하였고 "맘에 들면 (If U Wanna)"이 뽑혀, 6월 9일 쇼! 음악중심에서 첫 무대를 선보였다. "Break It"과는 달리 "맘에 들면 (If U Wanna)"는 귀여운 콘셉트의 반전된 매력으로 많은 관심을 받았고 6월 10일 드림콘서트에 출연하게 되었다. 6월 13일 뮤직비디오가 공개되고 활동을 시작하였으나 불과 6번 가량의 공연을 갖는 데 불과했고 방송 노출 미비 등의 악재가 많았으며 7월 15일에 마지막 굿바이 무대를 가졌다. 그리고 다시 후속곡으로 "Secret World"를 울산 Summer Festival을 첫 무대로 활동을 시작, 9월 2일에 마무리했다.
그 해 Mnet KM Music Festival 신인상 후보로 지명되었으나, 당시 "Tell me" 로 화제를 끌던 원더걸스에게 수상 기회가 주어져 데뷔 연도에는 당초 받았던 많은 기대에 비해 큰 성과를 이루지 못했다. 그 이후 카라는 존폐 기로에까지 서게 되었고 멤버 한승연은 그룹의 인지도 향상을 위해 여러 케이블 TV 방송에서 꾸준하게 활동하는 등 많은 노력을 기울이기도 하였다. 그러나 2008년 2월 28일 팀의 메인 보컬이었던 김성희가 개인 사유를 이유로 전격 탈퇴하여 큰 위기를 맞게 된 카라는 그 해 구하라와 강지영을 영입하여 우여곡절 끝에 7월 1일부터 5인조로 활동하였다.
2008-09: Rock U, Pretty Girl과 Honey, Revolution
7월 24일, 새 멤버로 구성된 카라가 M.net 《엠카운트다운》에서 "Rock U"로 화려한 컴백무대를 가졌다. 이어 7월 31일 첫 미니 앨범 1st Mini Album을 발매하였다. 하지만 새 멤버를 뽑은지 3개월이 채 안 되는 상황에서 무리하게 컴백한 탓인지 가창력 논란이 일어나는 등 또다시 악연이 시작되는 듯 보였다. 하지만 인기가요에서 처음으로 Take 7에 드는 등 대중들은 차차 관심을 보이기 시작했다. 그 후 핑클의 "Now", 이효리의 "U-Go-Girl" 합동무대를 하는등 카라는 점점 더 관심을 받기 시작했다. 그리고 약 두 달 뒤인 9월의 마지막 무대를 끝으로 활동을 마무리하면서 첫 번째 정규앨범과는 달리 많은 공연을 선보였다.
11월 29일, 두 번째 미니앨범 Pretty Girl의 타이틀곡 "Pretty Girl"의 티저영상이 공개되었다. 이 티저영상은 12시간 만에 조회수 5만을 넘는 등 대박을 터뜨릴 만한 조짐을 보이기 시작했다. 12월 4일 앨범 발매와 함께 M.net 《엠카운트다운》에서 컴백무대를 가지게 되었다. "Pretty Girl"은 카라 데뷔 이래 처음으로 차트에서 2위까지 오르는 위력을 보였으며, 더불어 안무인 '화장춤', '당당하게 걷기 춤', '예예 춤' 등의 춤들이 인기를 얻었다. 특히 '예예 춤'은 팬들이 고무장갑을 착용하고 그 춤을 함께 추는 응원을 선보였고, 이것 또한 역시 많은 관심의 대상이 되었다. "Pretty Girl"은 태국에서는 활동 없이 Pop Chart 1위를 하는 영광을 안게 되었다. "Pretty Girl"은 또한 해외 활동을 전혀 하지 않았지만 2009년에 태국 AS TV 아시아 팝 차트에서 1위를 했다. 그 후, 동남아시아와 일본, 중국에서 많은 러브콜을 받았다. 2009년 9월 17일에는 태국에서 Thai-Korean Concert에 출연해서 많은 해외팬들을 즐겁게 하였으며, 2009년 태국 Channel V Asia TOP 50에서 "Wanna"와 "Honey"가 각각 31위, 46위에 랭크되기도 하였다. 2009년 2월 10일, "Pretty Girl" 활동 후 카라는 투표를 통해 후속곡으로 뽑힌 "Honey"의 안무 동영상을 공개하였으며 2월 13일 티저영상을 공개하였다. "Honey"는 두 번째 미니앨범에 수록된 곡 "하니"의 재편집곡이기도 하다. 2월 14일 쇼! 음악중심에서 첫 무대를 가지고, 2월 16일 뮤직 비디오를 공개하였다. 이어 2월 18일 첫 스페셜 앨범을 발매하였다. "Honey"는 안무 중 '꿀 찍어먹기 춤'이 큰 인기를 끌었고, 음원 차트에서도 상위권에 랭크 되어 3월 5일에는 Mnet 《엠카운트다운》에서 마침내 데뷔 후 약 2년 만에 처음으로 음악프로그램 1위의 감격을 맛보았다. 또한 3월 8일 인기가요에서는 뮤티즌송을 수상해 처음으로 공중파 1위를 차지했고, 4월 말 마지막 무대로써 활동을 마무리했다.
7월 24일, "Wanna"의 티저영상을 공개하고 7월 29일 뮤직비디오를 공개하였다. 또한 7월 30일에는 두 번째 정규앨범 Revolution의 일반판과 한정판이 동시 발매되었고, 이어 7월 31일 뮤직뱅크에서 "Wanna"와 "미스터"로 여태까지 보여주지 않았던 새로운 컨셉으로 화려한 컴백하였으며 두 곡 모두 여러 음원차트에서 상위권에 랭크 되었다. 수록곡 중 "미스터"는 안무 중 '엉덩이춤'이 선풍적인 인기를 끌게 되었다. 급기야는 타이틀곡 "Wanna"보다 훨씬 많은 인기를 얻고, 더 많은 관심을 갖게 되는 해프닝이 발생하기도 하였다. 그리하여 결국 "미스터"가 후속곡이 아닌 더블타이틀곡으로 바뀌는 상황까지 발생하여, 8월 15일 처음으로 완곡을 선보이게 되었다. 하지만 아이러니컬하게도 8월 30일 인기가요에서 "Wanna"가 쟁쟁한 후보들을 이겨내고 1위를 거머쥔 데 반해, 반대로 "미스터"는 음악 방송에서 중위권만을 유지하는 데 그쳤다. "미스터"는 뮤직비디오를 제작하지 않았지만, CF와 패러디 영상 등에 실리며 화제를 불러 일으켰다.
2010: Lupin, Jumping 및 일본 진출
1월 19일, 태국에서 Revolution (2nd Album) (Thailand Edition)을 발매하였고, 2월 7일, 일본 도쿄 아카사카 BLITZ에서 2회에 걸쳐 열린 팬 미팅을 진행하였다. 이때 일본의 개그맨인 게키단 히토리가 카라의 팬이라고 밝힌 바 있다.[2][3] 또한 아라시의 숙제군에 영상 출연 하였으며[4], 모닝구무스메의 전 멤버 야구치 마리가 개인 블로그에 카라를 소개해 화제가 된 바 있다.[5]2월 12일, 타이틀 곡 "루팡(Lupin)"의 티저영상이 공개되었다. 그리고 2월 17일 0시 "루팡(Lupin)"의 음원이 공개되었고 얼마 되지 않아 주요 음원 사이트에서 1위를 차지하였다. 2월 18일 세 번째 미니앨범이 발매되고, 모든 수록곡이 공개되었다. 그리고 2월 22일 "루팡(Lupin)"의 뮤직비디오가 공개되었고, '비상구춤' , '할라 춤' 등 안무가 수많은 이슈를 불러일으켰다. 맴버 한승연은 당초의 긴 머리를 보브단발로 짧게 자르는 등 어린 소녀에서 성숙미 있는 이미지 전환을 시도하였으며 니콜 역시 보이쉬한 스타일 전환으로 화제가 되었다. 컨셉은 프랑스 추리 소설의 주인공 아르센 뤼팽의 이미지를 차용하여 괴도로서 어둡고 신비한 분위기로 잡았다. 2월 25일, 엠카운트다운으로 컴백하였고 컴백무대에서는 "루팡(Lupin)" 과 "Umbrella" 두 곡을 불렀다. 카라는 이번 앨범을 활동하면서 최초로 뮤직뱅크 K-차트 1위에 올랐는데, "루팡(Lupin)"은 뮤직뱅크 K-차트에서 3주 연속 1위,[6] 인기가요 뮤티즌송 수상, 엠카운트다운 2주 연속 1위에 오르는 등 데뷔 이래 최고의 인기를 얻었다.[7] 하지만 천안함 침몰사건으로 인하여 많은 프로그램이 결방함에 따라4월 18일 SBS 인기가요까지 활동 예정이었던 일정은 4월 15일에 마무리되었다. 이후 카라는 일본에 진출해 활동하였으며, 이후 귀국하여 네 번째 EP 음반 Jumping을 발매했다. 타이틀곡 "점핑 (Jumping)"은 '스키 점프 춤' 등으로 인기를 모으며 뮤직뱅크에서 3주 연속 1위를 차지했고, 연이어 600회 특집을 맞은 인기가요에서도 정상을 차지하며 다시 한 번 인기를 입증했다.[8]
카라는 일본 유니버설 뮤직 재팬 내 하위 레이블인 유니버설 시그마과 계약을 체결한뒤, 4월 28일 Special Premium Box을 발표하였고, 오리콘 차트 데일리 7위로 진입하였다 [9].
5월 일본 데뷔 앨범 발매를 기점으로 여름 무렵부터 본격적인 일본 활동이 시작되었다.
5월 8일 일본 도쿄에서 열린 음반발매 이벤트겸 기자회견장에서 데뷔 타이틀곡으로 〈미스터〉를 발표하였다. 이어 다음날인 5월 9일에는 일본 요코하마 미나토미라이 홀에서 공식 팬클럽 창단식을 가졌다. 8월 11일 일본 데뷔 싱글 《미스터》 (일본어판)를 발매해 예약판매로 1,2,3위를 모두 차지하였고,[10] 같은 날 닛폰 TV '숫키리-마리우드'에서 〈미스터〉를 아시아 최초로 공연하였다. '미스터'는 오리콘 데일리차트 5위에 랭크되었고, 일본 아이튠즈 뮤직비디오 차트에서도 1위에 올랐다.[11][12] 또한 8월 11일 109 앞에서 30분간 게릴라 콘서트를 열 계획이었지만, 3000명이 몰려 3분만에 콘서트를 끝내는 사건이 발생하였다.[13] 14일 신키바 스튜디오 코스트에서 `미스터` 발매 기념 악수회를 가지고, 15일 귀국하였다.
한편, 미스터는 일본에서 시부야의 8개의 대형 LCD를 통해 뮤직비디오 상영 및 유명 편의점 1800여개 매장에서 BGM, 앨범 재킷 전시와 뮤직비디오 상영 등 다양한 프로모션으로 진행되었다.[14] 또한 카라의 첫 일본 데뷔 싱글이 오리콘 싱글 차트 주간 5위를 기록하여 아시아 여성 그룹으로는 최초로, 30여년만에 일본외 해외 여성 그룹이 톱10에 들어가는 오르는 기록을 남겼다.[15] 여기에 이어 9월 29일에 발매한 'KARA BEST 2007-2010' 역시 오리콘 앨범 차트 주간 2위를 기록하여 최초로 한국 걸그룹이 톱 10에 진입하였다. 이 기록은 한국어 앨범으로서는 일본에 진출한 모든 앨범을 통틀어 최고 성적이며 2010년 일본에서 데뷔한 모든 신인 중 최고 성적이기도 하다.[16] 또한 이 앨범은 한국어 앨범 최초로 10만장 판매를 달성하여 골드 인증을 받았다.[17] 11월 10일에 발표한 일본 2번째 싱글 점핑은 오리콘 주간 차트 2위, 11월 24일 발매된 첫 번째 정규 앨범 Girl's Talk 역시 오리콘 주간 차트 2위에 올랐으며 Girl's Talk는 첫 주 11여만장을 판매하여 골드 인증을 받았다. 2011년 2월 1일에 Girl's Talk는 10주 연속 Top 10 안에 들었으며, 꾸준한 판매를 기록하였다. 또한, 2월 1일 기준으로 판매량이 29만장을 기록하여 플래티넘 또한 인증 받았다.
2011: STEP과 Super Girl
2011년 1월, 카라가 주연을 맡은 일본 드라마 우라카라가 TV 도쿄에서 방영되었다. 한국에서는 케이블 채널 tvN에서 《카라의 이중생활》이란 제목으로 방송되었다. 이 드라마는 일본과 한국에서 많은 관심을 받았다. 2월 23일에는 일본 'KARA Best Clip' 뮤직비디오 모음집 발표하였다. 새 싱글 앨범 제트코스터 러브 또한 많은 관심을 받았다. 새 싱글 앨범에는 우라카라 엔딩 곡인 「今、贈りたい『ありがとう』」(지금 전하고 싶은 말, '고마워요')가 커플곡으로 들어갔다. 제트코스터 러브는 TBC (Japanese Aesthetic Salons) 광고에서 CM 송으로 쓰이고 있고 [18][19], 일본 7개 도시에서 200개의 옥외광고를 했다. 카라의 신곡 제트 코스터 러브는 정식 앨범 발매전 선 공개한 음원이 일본 최대 모바일사이트인 레코초크 벨소리 차트 1위에 오르기도 했다.[20] 3월 1일 유니버설 재팬을 통해 타이틀 곡 제트코스터 러브 뮤직비디오 티저가 공개된 후 폭발적인 반응이 나타났다. 싱글 곡의 커플링 곡이자 우라카라 드라마 엔딩곡은 8회 "승연과 유령" 편에서 노래하는 장면이 공개되었다. 3월 11일 발생한 일본 동북 대지진과 쓰나미로 인한 피해자들의 지원을 위해 카라와 DSP 미디어는 새 싱글의 앨범과 음원의 모든 수익을 기부하기로 결정했다.[21] 또한 카라 멤버들은 자필로 편지를 써서 피해를 입은 일본팬을 위로했다. 카라의 친필 메시지를 받은 일본 누리꾼들은 "일본 팬들을 위한 마음 씀씀이가 고맙다며 언젠가 이 모든 것이 지나가면 카라를 일본에서 다시 보길 바란다”며 고마운 마음을 드러냈다.[22] 한편, 지진으로 인해 앨범 발매가 연기되자 구하라는 안타까운 마음에 개인적으로 1억원을 기부했다.[23] 이후 4월 6일에 발표한 일본 3번째 싱글 제트코스터 러브는 발매 첫주, 해외 여성 그룹으로 오리콘 싱글 차트를 집계한 이후 43년만에 사상 첫 주간 차트 1위에 오르는 기록을 세웠다.
그러나 이 과정에서 이 과정에서 카라는 해체 위기에 몰렸으나 이호연이 과거 태진아의 매니저를 했던 경험이 있어서 태진아와 친분이 있었는데 카라가 해체된다는 소식을 들은 태진아는 카라 멤버들에게 직접 찾아와서 중재해서 카라의 해체를 막았다. 이 때문에 카라의 팬덤에서는 태진아를 마음속 깊이 존경하게 되었다.[24]
2011년 8월 19일, 세 번째 정규 앨범 STEP의 1차 티저가 공개되었고, 9월 1일 2차 티저를 공개하며 컴백을 알렸다. 2011년 8월 30일 세 번째 정규 앨범 STEP을 발매했고, 가온 앨범 차트 1위를 차지했다. 이후 9월 한 달 동안 97,000장의 판매고를 올리며 2NE1에 이어 2011년 걸 그룹으로는 두 번째로 월간 차트 1위를 차지했다.[25] 동명의 타이틀곡 "STEP"은 가온 다운로드 차트에서 2주 연속 1위에 올랐고,[26] 가온 디지털 종합차트에서는 2주 동안 2위에 머물렀다.[27] "STEP"은 또한 한국어 노래로는 처음으로 일본 레코초쿠의 벨소리 부문 주간 차트에서 1위에 올랐다.[28] 이 외에 《엠카운트다운》, 《뮤직뱅크》, 《인기가요》와 같은 모든 음악 프로그램에서 1위에 올랐다. 이후 카라는 2011년 10월 9일 《인기가요》를 마지막으로 3주간의 짧은 한국 활동을 마쳤다.[29]
카라는 한국에서의 활동이 끝난 뒤, 2011년 11월 23일 일본에서의 두 번째 정규 앨범 Super Girl을 발매하였고 첫주동안 27만 5천여장의 판매고를 올려 오리콘 앨범 주간 1위를 기록하였고[30] 발매 4주차에도 오리콘 앨범 차트 주간 1위를 차지하였으며 2011년 11월 오리콘 앨범 차트 월간 랭킹 1위를 차지하였다.
12월19일, 「제44회오리콘연간 랭킹2011」의 아티스트별 토탈 세일즈 부문에서 49.3억엔(181.9만매)로 연간 4위를 차지하였다. 또, 앨범 Super Girl이 발매로부터 3주 만에 45.1만매가 판매, 작품별 앨범 판매 부문에서 연간 7위를 차지하였다.[31] 12월 31일 홍백가합전에 출장하여 2부 오프닝을 맡았으며, 가와나카 미유키(川中美幸), 와다 아키코(和田アキ子), 텐도 요시미(天童よしみ)가 미스터의 엉덩이춤을 흉내내었다.
2012: KARASIA와 PANDORA, Girls Forever
1월 3일 일본 니혼TV '스타드래프트'에서 걸그룹 카라가 '일본인이 좋아하는 100명의 스타'로 선정되어 한국 아이돌 가수 중 유일하게 순위에 이름을 올렸으며[32] 1월 26일에 발간된 한국문화산업교류재단의 한류총서 4번째 시리즈 ‘한류 포에버:일본편’에 따르면 한국 가수 중 가장 먼저 떠오른 가수와 가장 좋아하는 가수로 카라가 1위를 차지했다.[33]
광고모델로서의 위상도 대단하여 2월 6일 대상의 홍초가 일본에서 카라를 광고 모델로 기용하여 전년 대비 35배 매출 성장, 500억의 매출을 기록했다고 발표하였다.[34]
카라의 최초의 단독공연인 카라시아가 2월 18일, 2월 19일 이틀간 서울 송파구 방이동 올림픽공원 체조경기장에서 개최되었는데 18일 공연에서 니콜이 발목 인대를 다치는 부상을 당하였으나[35] 19일 공연에 정상적으로 참가하였다. 공연 이후 2월 21일에 박규리가 성대결절수술을 받았다.[36]
2011년에 '스텝’이 일본 최대 모바일 사이트인 ‘레코초쿠’에서 한국어 곡 최초로 착신 음원부문 주간차트 1위를 차지한데 이어, 2월 22일 공개된 ‘스텝’의 일본어 번안 곡 역시 29일 주간차트에서 1위를 차지하였는데[37] 한국어곡과 일본어번안곡이 모두 착신음원부문 주간차트 1위를 기록한 것은 한국 가수 최초이다.
3월 4일 일본 오키나와 셀룰러 스타디움 나하에서 열린 '2012 월드뮤직 페스티벌 인 오키나와'에 참가하여 엔딩무대를 맡았는데, 박규리는 성대결절로 인해 참가하지 못했고, 니콜은 인대 부상으로 의자에 앉은 채로 노래를 불렀다.[38] 3월 21일 2010년 8월 발표된 카라의 일본 첫 싱글 '미스터'가 한국가수 최초로 단일 음원 판매 200만건을 돌파했고,[39] 3월 25일에는 일본 카라시아 콘서트 투어가 전석 매진되어 2회 3만석의 추가 판매를 시작했다.[40] 3월 27일 유니버설 뮤직과 체결했던 현지 음반 유통 계약이 2012년 8월 만료를 앞두고 2013년 12월까지 1년 4개월 간 연장되었다.[41] 3월 31일에는 대만에서 팬미팅을 가졌으며, 4월 9일 일본 후지TV '헤이헤이헤이 뮤직챔프'에서 '일본 1990년대 이후 노래방 애창곡' 1위로 카라의 '미스터'를 선정했다.[42] 4월 24일 한국 걸그룹 최초 실사 피규어의 한정 예약 판매을 시작했다.[43] 5월 9일 일본의 유명 리서치 전문 회사인 ‘비디오 리서치’가 실시한 일본 내 유명인을 대상으로 한 인기도 조사에서 해외 스타로는 유일하게 카라가 28위에 이름을 올렸다. ‘비디오 리서치’ 순위는 일종의 ‘모델 호감도’를 나타내는 집계로, 일본 내 광고 전문가들이 실제 광고기획 자료로 사용하고 있는 큰 신뢰도를 가진 순위이다.[44]
4월 14일, 4월 15일 일본 요코하마 아레나, 4월 18일, 4월 19일 나고야의 가이시 홀, 4월 27일, 4월 28일 오사카의 오사카 성 홀, 4월 30일, 5월 1일 후쿠오카의 마린멧세, 5월 15일, 5월 16일 도쿄의 요요기경기장제일체육관(16일 공연에는 마에다 아츠코를 비롯한 AKB48멤버들이 방문하였다.),[45] 5월 26일, 5월 27일 사이타마 슈퍼 아레나에서 카라시아 공연이 열렸다(12공연 전석 매진, 약 15만명 동원). 5월 27일 공연은 일본 전역 60개 극장에서 동시생중계되었으며 극장티켓 또한 전석매진되었다.[46] 6월 4일 인베스트조선에 1조 4천억의 사무라이 본드 발행으로 일본 시장의 투자를 이끌어낸 숨은 공신이 카라라는 내용의 기사가 실렸다.[47] 6월 16일, 6월 17일 오사카에서 열린 '러브 원 페스티벌 시즌2'에 참가하여 엔딩무대를 맡았다.[48] 6월 18일 카라의 향수 K5J(Kara 5 Jewel)가 일본 1,200여 매장에서 판매가 시작되었다.[49] 7월 3일 일본 오사카의 통천각이 2011년 카라의 방문 이후 입장객이 120% 증가, 카라가 시식한 파르페의 매출이 3배 증가하였다고 도쿄스포츠가 보도하였다.[50] 7월 5일 오리콘 기준, 한국 가수 중 최단 기간(1년11개월), 최소 싱글(6장)로 싱글판매 100만장을 돌파하였고,[51] 11월에는 한국걸그룹 최초로 오리콘 총판 3백만장을 넘어섰다.[52] 7월 9일 싱가포르 Causeway Point에서 팬 사인회가 성황리에 개최되었으며, 7월 10일 싱가포르 Festive Grand Theatre에서 K5J 향수 쇼케이스가 열렸다.7월 11일 일본 엔터테인먼트 전문 잡지 닛케 엔터테인먼트에서 조사한 ‘2012년 상반기 탤런트 파워랭킹’에서 6위(10대 여성 대상)로 랭크되어 해외아티스트 중 유일하게 10위 안에 들었다.[53]
8월 13일~8월 20일 한국에서 판도라의 개인 티저 및 단체 티저를 공개하였고,8월 22일 카라 판도라 뮤직비디오 공개 및 쇼케이스가 실시되었으며,[54] 여러 개의 예능프로와 가요프로그램에 출연하며 한국에서의 활동도 계속되었다. 10월 8일 일본에서의 유니버셜 SIGMA Fes.의 합동공연 도중 도쿄돔공연이 발표되었고, 12월 8일 카라의 첫 도쿄돔 단독 공연 티켓이 일반 예매 5분만에 매진되었다.[55] 한국 걸그룹의 도쿄돔 단독공연은 카라가 최초이다.[56]
2013: 도쿄돔 단독공연, Fantastic Girls와 Full Bloom
2013년 1월 6일 일본 도쿄돔 콘서트 'KARASIA 2013 HAPPY NEW YEAR IN DOKYO DOME' 무대에 선 카라는 4만 5천석을 가득 메운 관중 앞에서 공연을 펼쳤으며, 공연전에 판매된 카라상품(굿즈)들 역시 모두 매진되며 최고의 인기를 입증하였다.[57]
1월 15일 말레이시아에서 열린 '제27회 골든디스크 시상식'에서 음반 본상과 말레이시아최고인기상을 수상하고[58] 4월 18일 중국 마카오에서 열린 '제 17회 차이나 뮤직 어워드'에서 '최고 인기 국제그룹상(The Most Popular CMA International Group)'을 수상[59] 하며 한국, 일본 뿐 아니라 말레이시아와 중국 등에서의 인기 또한 입증하였다. 한편 일본 요미우리 신문이 4월 5일 발표한 "일본인이 가장 친밀감을 느끼는 한국인" 설문 조사에서 김연아에 이어 2위를 차지하여 한국연예인 중 가장 많은 지지를 받았으며[60] 5월 31일에는 한국문화산업교류재단이 실시한 '가장 만나고 싶은 한류스타' 설문조사에서 1위를 차지하였다고 보도되었다.[61] 일본에서의 활동도 이어졌는데 1월 24일 도쿄 국제전시장에서 개최된 제24회 일본 주얼리 베스트드레서상 시상식에서 여성특별상을 수상하였고,[62] 2월 20일 유미 카츠라의 웨딩컬렉션에 참석,[63] 3월 2일에는 일본 마쿠하리 멧세 국제전시장에서 열린 합동 공연 '유-익스프레스 라이브 2013'에 참여해 링고스타 등과 함께 공연했다.[64]★
3월 27일 일본에서의 8번째 싱글 바이바이 해피데이즈!를 발매하고 프로모션 활동으로 여러 예능프로그램과 음악프로그램에 출연함과 동시에 한국에서의 개인활동도 활발해 2013년 4월 박규리는 네일샵 파리스에 남장여자의 캐릭터로 주연으로 출연하였으며[65] 한승연은 일말의 순정에 선미 역할, 장옥정, 사랑에 살다에 숙빈최씨 역할로 출연하였고,[66] 구하라는 일본의 싱어송라이터 후쿠야마 마사하루와 함께 '하라플러스' 프로젝트 그룹을 결성해 일본 후지TV의 드라마 갈릴레오의 한국어버전 주제곡을 불렀다.[67] 또한 멤버 5명이 각각의 단막극에 주인공으로 김규태PD 연출 의 5부작 씨네 드라마 '시크릿 러브' 에 출연하였다.[68]
10월 8일,10월 9일 일본요코하마 아레나에서의 시작으로 10월 16일~10월 17일 일본 후쿠오카 마린 엣세, 10월 23일~10월 24일 일본 오사카성 홀, 10월 29일~10월 30일 일본 나고야 가이시 홀, 11월 9일~11월 10일 일본 후쿠이 산 돔, 11월 19일~11월 20일 일본 사이타마 슈퍼 아레나, 11월 23일~11월 24일 일본 고베 월드기념홀에서의 두번째 카라시아 투어 공연을 성황리에 개최하여 15만명의 관객을 동원하였다.[69]
2014: 멤버 탈퇴 및 카라 프로젝트, Day&Night
2014년 1월 14일, DSP미디어는 니콜과의 전속 계약이 2014년 1월 16일부로 종료된다고 알렸다. 이어 4월 5일, DSP미디어는 강지영과의 전속 계약 종료를 알렸다. 니콜과 강지영의 탈퇴 이후 새 멤버 선발을 위해 카라 프로젝트가 실시되었고 이는 MBC Music에서 5월 27일 부터 7월 1일까지 방영되어 마지막 생방송을 통해 허영지가 새 멤버로 선발되면서 결성 초기와 마찬가지로 다시 4인조 체제로 새출발하게 되었다. 이후 8월 18일 미니앨범 6집 Day&Night 가 발표 되었고 타이틀곡 맘마미아로 8월 27일 MBC MUSIC 쇼챔피언에서 1위를 수상하였고, 10월 24일~11월19일까지 세번째 카라시아 투어 공연을 개최하였다. 12월부터 구하라의 리얼리티 프로그램 하라 온앤오프가 MBC Music에서 방송되었다.
2015: Summer☆gic , In Love , Girl's Story
1월 6일《SBS MTV Best Of Best》베스트 뮤직비디오 부문에서 수상하였고,
1월 28일 《제 4회 가온 차트 K-POP 어워드》- K-POP 월드한류스타상을 수상하며 국내에서의 입지를 다졌다.
2015년 4월 일본에서 새 싱글 Summer☆gic을 발매하였다. 새멤버 허영지 영입, 4인조로 개편된 이후로는 최초로 오리콘 데일리 1위, 주간 2위를 기록하며 성공적으로 일본활동을 하던 중, 2015년 5월 14일, 카라 소속사는 카라의 컴백 티저 이미지를 공개하며 곧바로 한국 앨범활동을 이어갈것을 예고했다. 이후 5월 26일 미니앨범 7집 In Love가 발표됐다. 이후 타이틀곡 'CUPID'로 더쇼에서 컴백과 동시에 1위를 수상하였고, Mnet 엠카운트다운과 SBS 인기가요 등에서 1위후보 , 2위에 올랐다.
그리고 가온 주간 소셜차트에서 1위, 앨범차트에서 2위를 기록하였다.
6월 17일에는 일본에서 새멤버 영지 영입 이후 최초로 일본에서 정규음반 "Girl's Story"가 발매되었으며, 7월 15일 멤버 구하라는 타이틀곡 "초코칩 쿠키(feat.기리보이)" 로 첫 솔로 데뷔 무대를 가졌다.
9월 한 달간은 ‘KARA 4th JAPAN TOUR 2015 KARASIA’로 네번째 일본 투어를 시작하였다. 오사카를 시작으로 나고야, 히로시마, 후쿠오카, 도쿄 등 7개 도시에서 총 13회 투어 공연을 펼치며 카라시아를 성공적으로 마쳤다.
2016: 3인의 계약 만료
멤버 박규리, 한승연, 구하라는 2016년 1월 15일 소속사 DSP 미디어와의 계약이 만료되면서 허영지만 DSP 미디어 소속으로 남게 되었다. DSP미디어는 3인과의 계약이 만료되었을 뿐 카라의 해체를 의미하는 것은 아니며, '카라'라는 그룹은 그대로 유지된다고 밝히며 훗날 재결합의 가능성을 남겨두고 있는 상태다.
구성원
멤버 변천사
음반 목록
음반 외 활동
수상 내역
각주
외부 링크
/ 대한민국
/ 일본
분류:골든디스크 본상 수상 음악가
분류:하이원 서울가요대상 본상 수상 음악가
분류:Mnet 아시안 뮤직 어워드 수상 음악가
분류:Mnet 엠카운트다운 1위 수상자
분류:KBS 뮤직뱅크 1위 수상자
분류:SBS 인기가요 뮤티즌송 수상자
분류:SBS MTV 더 쇼 초이스 수상자
분류:MBC MUSIC 쇼 챔피언 챔피언송 수상자
분류:NHK 홍백가합전 출연자
분류:DSP 미디어 소속
분류:유니버설 뮤직 그룹 음악가
분류:2000년대 음악 그룹
분류:2010년대 음악 그룹
분류:2007년 결성된 음악 그룹
분류:한국어 음악 그룹
분류:일본어 음악 그룹
분류:대한민국의 팝 음악 그룹
분류:대한민국의 댄스 음악 그룹
분류:대한민국의 걸 그룹
분류:대한민국의 아이돌 그룹
분류:K-pop 음악 그룹
분류:4인조 음악 그룹
분류:2007년 데뷔
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النيتروجين (أو الآزوت) هو عنصر كيميائي رمزه N وعدده الذري 7، ويقع ضمن عناصر الدورة الثانية وعلى رأس المجموعة الخامسة عشر في الجدول الدوري وذلك كعنصر مجموعة رئيسي، حيث أن مجموعته تسمّى باسمه مجموعة النتروجين. يصنف النتروجين ضمن اللافلزات، ويكون في الشروط العادية من الضغط ودرجة الحرارة على شكل N2 وهو غاز ثنائي الذرة، وعديم اللون والطعم والرائحة.
النتروجين عنصر شائع في الكون، حيث يدخل في تركيب درب التبانة والمجموعة الشمسية، وعلى كوكب الأرض يشكّل غاز النتروجين 78% من الغلاف الجوي للأرض، وبالتالي هو أكثر العناصر الكيميائية النقية من حيث الوفرة؛ أما في القشرة الأرضية، فمن النادر أن يوجد عنصر النتروجين على شكل أملاح لاعضوية. بالمقابل، يدخل عنصر النتروجين في الطبيعة -بشكل عضوي- في تركيب جميع الأنسجة الحيّة، وذلك بشكل أساسي في الأحماض الأمينية (وبالتالي في البروتينات)، وكذلك في الأحماض النووية حمض نووي ريبوزي منقوص الأكسجين وحمض نووي ريبوزي؛ وفي الصناعة يشكّل النتروجين العديد من المركّبات المهمة كالأمونيا وحمض النتريك والسيانيد، ويدخل أيضاً كعنصر مهم في صناعة الأسمدة.
التاريخ وأصل التسمية
عرفت مركبات النتروجين منذ العصور الوسطى، فقد عرف جابر بن حيان حمض النتريك باسم ماء النار (aqua fortis)، كما عرف الماء الملكي (aqua regia)، وهو مزيج من حمض النتريك مع حمض الهيدروكلوريك، وسمي بالملكي لقدرته على إذابة الذهب. استعملت مركبات النتروجين لاحقاً في تحضير البارود ثم في صناعة الأسمدة.
اكتشف غاز النتروجين من قبل العالم دانيال رذرفورد سنة 1772، والذي أسماه حينها الهواء المضر أو المؤذي noxious air،[1][2] وذلك على الرغم من أنه لم يكن يعتبره كعنصر كيميائي مستقل، لكنه ميّزه عن الهواء المُثَبَّت، والذي كان يقصد به غاز ثنائي أكسيد الكربون في تلك الأحيان، حيث أن حقيقة أن هناك مكوّن للهواء لا يساعد على الاحتراق كانت معروفة بالنسبة لرذرفورد.[3] في الوقت نفسه تقريباً، دُرس النتروجين من قبل العلماء كارل فلهلم شيله وهنري كافنديش وجوزيف بريستلي، والذين أقروا أن النتروجين جزء من الهواء، وأشاروا إليه باسم الهواء المحروق أو هواء الفلوجستون. بالمقابل، قام أنطوان لافوازييه بتسمية ذلك الغاز الخامل الذي يطفئ اللهب ويميت الحيوانات باسم آزوت azote، وذلك من الكلمة الإغريقية آزوتوس بمعنى لا حياة.[4] ولا يزال يشار إلى عنصر النتروجين باسم الآزوت في بعض اللغات مثل الفرنسية والإيطالية والروسية والتركية. بالمقابل يشار إلى هذا العنصر في اللغة الألمانية باسم Stickstoff، بمعنى المادة المطفئة للهب.
أما كلمة نتروجين فقد ابتدعت من الكيميائي جان أنطوان شابتال وذلك من الإغريقية νίτρον نطرون (والتي كانت تشير إلى مصطلح يشمل ملح النتر، وفي الوقت نفسه إلى كربونات الصوديوم، إذ لم يكن يميز بينهما)، ومن -γενής جين بمعنى مولّد؛ أي أن الكلمة تحمل معنى مولّد النتر. كان شابتال يريد بذلك الإشارة إلى النتر، وهي المادة الكيميائية (نترات البوتاسيوم) التي كانت لازمة من أجل إنتاج حمض النتريك، والذي كان قد اكتشف أنه يحوي على غاز النتروجين.[5]
مع تطور البحث العلمي، دخل النتروجين في العديد من التجارب الفيزيائية والكيميائية. ففي سنة 1910 قام جون ويليام ستروت، المعروف باسم لورد رايلي، بالقيام بتجربة اكتشف فيها النتروجين الفعّال، وهو تعبير استخدمه للإشارة إلى النتروجين الذرّي، والذي هو عبارة عن متآصل أحادي الذرة للنتروجين تحصّل عليه في جهاز أنبوب التفريغ على شكل غمامة ذات لون أصفر ساطع. لم يدم التشكل طويلاً، إذ سرعان ما تفاعل بدوره بشكل انفجاري مع الزئبق، حيث تشكّل نتريد الزئبق.[6]
أدى تطوّر التقنيات الصناعية إلى ظهور تقنيات سهّلت من عملية تثبيت النتروجين مثل عملية فرانك-كارو (1895–1899) وعملية أوستفالد (1902) وعملية هابر-بوش (1908–1913)، مما سهّل من إمكانية استحصال مركبات النتروجين المختلفة.[7]
الوفرة الطبيعية
يشكّل غاز النتروجين (N2) أكبر نسبة في الغازات المكوّنة للغلاف الجوّي للأرض، حيث أنّ نسبته تبلغ 78.08% حجماً في الهواء الجاف، و75.53% وزناً في الهواء الجاف.[8] أمّا في القشرة الأرضية فإن النتروجين قليل الوفرة الطبيعية نسبياً، إذ أن المعادن الحاوية على النتروجين غالباً ما تكون على شكل أملاح مثل نترات البوتاسيوم (ملح بيتر) أو نترات الصوديوم (ملح تشيلي) أو كلوريد الأمونيوم (ملح النشادر)، وجميع هذه الأملاح منحلّة، لذلك يندر وجود ترسبات معدنية منها.
إن النتروجين هو عنصر شائع الانتشار في الكون، إذ يقدّر أن ترتيبه السابع من حيث وفرة العناصر الكيميائية بالنسبة لكتلتها في درب التبانة.[9] ينشأ عنصر النتروجين في الكون نتيجة تفاعلات الانصهار النجمي وذلك من عنصري الهيدروجين والكربون في المستعرّات الأعظمية،[9] وفي النجوم عن طريق دورة CNO.[10] اكتشفت آثار من النتروجين الجزيئي ومركّبات النتروجين في الوسط بين النجمي وذلك باستخدام المقراب الفضائي (FUSE).[11] كما يدخل النتروجين الجزيئي في تركيب الغلاف الجوي لقمر تيتان الذي يدور في فلك كوكب زحل.[12]
يدخل النتروجين في تركيب كافة المتعضيات الحية، فهو مكوّن أساسي للبروتينات والأحماض النووية، وجزيئات حيوية أخرى مثل الإنزيمات. يشكّل النتروجين عادةً ما بين 2 - 6% من الوزن الجاف للمادة النباتية، ووسطياً حوالي 1.5%.[13] يوجد النتروجين بكميّات وفيرة في فضلات الحيوانات وذرق الطيور، وذلك على شكل يوريا وحمض اليوريك وعلى شكل أملاح الأمونيوم.
الإنتاج والتحضير
يصنّف غاز النتروجين من ضمن الغازات الصناعية، التي لها تطبيقات مهمة، وينتج عن طريق إسالة الهواء بالضغط والتبريد ثم التقطير التجزيئي للهواء السائل لفصل غازي الأكسجين والنتروجين وذلك حسب عملية ليندة. أو عن طريق استخدام وسائل ميكانيكية باستخدام الهواء الغازي، أي باستخدام امتزاز تأرجح الضغط أو غشاء تناضحي عكسي. تتم الطريقة الأخيرة عن طريق تمرير الهواء بضغط مرتفع يتراوح بين 5 إلى 12 بار عبر غشاء اصطناعي، وبما أن سرعة الانتشار لغازات النتروجين والآرغون عبر تلك الأغشية هي أبطأ من التي لغازات الأكسجين وبخار الماء وثنائي أكسيد الكربون، فإن غاز النتروجين بالتالي يزداد تركيزه في الطرف الداخلي للغشاء، وبإجراء ضبط لسرعة التدفق، يمكن الحصول على غاز النتروجين بنقاوة تصل إلى 99%.
تعد وسيلة تقطير الهواء الأسلوب التجاري للحصول على النتروجين، والذي يحصل عليه غالباً كناتج ثانوي من عملية إنتاج غاز الأكسجين، وذلك من أجل الصناعات المختلفة. يزوّد النتروجين عادةً في أسطوانات غاز مضغوط، ويرمز لها عندما تكون نقية وخالية من الأكسجين برمز OFN وذلك من oxygen-free nitrogen،[14] والتي يمكن أن تصل درجة نقاوتها إلى 99.99999%. يحصل على النتروجين عالي النقاوة، والذي تكون فيه نسبة الشوائب من الغازات أقل من 1 جزء في البليون (ppb)، عن طريق تكرار عملية الامتزاز/الانتزاز على الزيوليت.
يحضّر غاز النتروجين مخبرياً من المعالجة الحرارية لمحلول مائي من نتريت الأمونيوم أو محلول مائي لمزيج من كلوريد الأمونيوم مع نتريت الصوديوم:[15]
N
H
4
C
l
+
N
a
N
O
2
⟶
N
a
C
l
+
2
H
2
O
+
N
2
↑
{\displaystyle \mathrm {NH_{4}Cl\ +\ NaNO_{2}\longrightarrow \ NaCl\ +\ 2\ H_{2}O\ +\ N_{2}\uparrow } }
تعطي طريقة التحضير هذه شوائب بكميات قليلة من غاز أحادي أكسيد النتروجين NO وحمض النتريك HNO3، والتي يمكن إزالتها بتمرير الغاز في محلول من ثنائي كرومات البوتاسيوم في حمض الكبريتيك.[15]
يمكن الحصول على غاز النتروجين بشكل نقي جداً في المختبر من إجراء عملية تفكك حراري لمركب أزيد الباريوم أو أزيد الصوديوم:[16][17]
2
N
a
N
3
⟶
Δ
T
2
N
a
+
3
N
2
{\displaystyle \mathrm {2\ NaN_{3}\ } \mathrm {{\stackrel {\Delta T}{\longrightarrow }}\ 2\ Na\ +\ 3\ N_{2}} }
النظائر
هناك نظيرين مستقرين للنتروجين وهما نتروجين-14 14N و نتروجين-15 15N، لكن الوفرة الطبيعية الأكبر هي للنظير 14N، والتي تبلغ 99.634%. إن التفاعلات الحيوية مثل التمثّل والنترجة ونزع النتروجين تتحكم بنسب نظائر النتروجين الطبيعية في التربة، حيث تعمد تلك التفاعلات على تخصيب 15N في الركيزة وتقلله في الناتج.[18] أما في الغلاف الجوي، فإن هناك نسبة بسيطة من النتروجين الجزيئي يكون فيه كل من النظيرين الطبيعيين 14N15N موجودين (0.73%)، أما الباقي فهو تقريباً بالكامل من 14N2.[19]
توجد أيضاً نظائر مصطنعة للنتروجين، يتراوح عدد الكتلة فيها بين 12 - 19، ومن بينها النظير نتروجين-13 13N، الذي يبلغ عمر النصف له عشر دقائق، أما باقي النظائر المصطنعة فلها عمر نصف من مرتبة عدة ثوان أو أقل.[20] يحضّر 16N من النظير أكسجين-16 16O في الماء، وله نصف عمر حوالي 7.1 ثانية،[20] ويصدر عند اضمحلاله أشعة غاما ذات طاقة مرتفعة تتراوح بين 5-7 ميغاإلكترون فولت.[20][21] يستخدم 16N كمبرّد في مفاعل الماء المضغوط ومفاعل الماء المغلي.[21]
الخواص الفيزيائية
في الشروط العادية من الضغط ودرجة الحرارة، فإن النتروجين الجزيئي هو عبارة عن غاز عديم اللون والرائحة والمذاق، وغير قابل للاشتعال. يتكثف النتروجين ويتسيّل عند -196 °س (77 كلفن) ليصبح سائلاً عديم اللون (النتروجين السائل)، وهو سائل أقل كثافة من الماء (0.808 غ/مل)، ويستخدم في التبريد العميق.[22] يتجمّد النتروجين السائل عند −210 °س (63 كلفن)،[23] وذلك إلى شكل متآصل بلوري متراص، والذي يأخذ يتحول إلى الشكل المتآصل البلوري المكعب عند −237.6 °س (35.4 كلفن)، والذي يعرف باسم الطور ألفا.[24] إن النقطة الحرجة للنتروجين هي عند درجة حرارة مقدارها −146.95 °س وضغط 33.9 بار، وتكون الكثافة الحرجة 0.314 غ/سم3. إن انحلالية غاز النتروجين في الماء ضعيفة، وهي تبلغ 23.2 مغ/ل عند الدرجة 0 °س.
حضّرت متآصلات غير مستقرة للنتروجين مخبرياً، وكانت تتألف من جزيئات ذات أكثر من ذرتي نتروجين مثل N3 (ثلاثي النتروجين) و N4 (رباعي النتروجين).[25] عند ضغوط مرتفعة جداً (حوالي 1.1 مليون وحدة ضغط جوي) ودرجات حرارة مرتفعة (2000 كلفن) فإنه يمكن الحصول على صيغ بلورية بوليمرية من النتروجين، والتي لها بنية بلورية شبيهة بالألماس مثل N4 (رباعي النتروجين)، والذي يعرف باسم الألماس النتروجيني.[26][27] من المتآصلات النظرية للننتروجين كل من N6، الذي يعرف باسم هكسازين، وهو متآصل افتراضي للنتروجين ترتبط فيه الذرات بشكل مشابه لارتباط ذرات الكربون في البنزين،[28] بالإضافة إلى N8، الذي يعرف باسم أوكتاآزاكوبان (ثماني آزا الكوبان)، وهو متآصل افتراضي للنتروجين ترتبط فيه ذرات النتروجين على شكل فراغي يشبه المكعب، وذلك بشكل مشابه لارتباط ذرات الكربون في الكوبان.[29] تشير الحسايات النظرية أن N6 غير مستقر بشكل كبير، في حين أنه يتوقع أن يكون N8 مستقر حركياً، وذلك بسبب تناظر المدارات الجزيئية.[30]
في أنبوب تفريغ يمكن لغاز النتروجين أن يتوهج وذلك تحت الشروط التالية: أن تكون تخلية الأنبوب بضغط يتراوح بين 5-10 ميلي بار، وجهد عالي حوالي 1.8 كيلوفولت، وشدة تيار تصل إلى 18 ميلي أمبير، وتردد يبلغ 35 كيلوهرتز. عند تلك الشروط تحدث عودة ارتباط لجزيئات الغاز المؤينة، ويصدر طيف لوني مميز للنتروجين.[31] إن النتروجين الجزيئي (14N2) ذو شفافية بالنسبة للأشعة المرئية وتحت الحمراء، لأنه جزيء متجانس مكوّن من نفس الذرة، وبالتالي لا يوجد عزم ثنائي قطب قادر على التأثر مع الإشعاع الكهرومغناطيسي عند أطوال الموجة تلك. بالمقابل، يحدث هناك امتصاص في مجال الأشعة فوق البنفسجية،[32] وذلك عند أطوال موجة حوالي 100 نانومتر. يترافق ذلك مع حدوث انتقالات إلكترونية في الجزيء إلى حالات تكون فيها الغمامة الإلكترونية غير متساوية التوزيع بين ذرتي النتروجين، مما يؤدي إلى الاستقطاب. يحدث هذا الامتصاص للأشعة فوق البنفسجية من جزيئات النتروجين في طبقات الجو العليا في الأرض وغيرها من الكواكب. يؤدي امتصاص الأشعة فوق البنفسجية والأشعة الكونية من جزيئات غاز النتروجين في طبقات الجو العليا إلى حدوث وهج جوي مرئي، وهو ناتج عن انفصام الرابطة الجزيئية وتشكل النتروجين الذري، والذي يرتبط بدوره مع الأكسجين ليشكل جزيئات أحادي أكسيد النتروجين (NO).
الخواص الكيميائية
يصنّف عنصر النتروجين ضمن اللافلزات، وله كهرسلبية مقدارها 3.04.[33] هناك خمس إلكترونات موجودة في غلاف التكافؤ الخارجي للذرّة، وذلك حسب التوزيع الإلكتروني 2s2p3، بالتالي حسب قاعدة الثمانيات، فإن النتروجين هو ثلاثي التكافؤ في أغلب مركباته، والتي تكون جلّها ذات صفة تساهمية. إن النتروجين هو العنصر الوحيد في مجموعته، مجموعة النتروجين، القادر على الارتباط بنفسه،[34] ويبلغ طول الرابطة الثلاثية بين الذرتين (N≡N) في النتروجين الجزيئي 109.76 بيكومتر، وهي واحدة من أقوى الروابط الكيميائية، إذ أن طاقة تفككها تصل إلى 942 كيلوجول/مول،[35] مما يعني أنه تلزم طاقة تنشيط مرتفعة لكسر تلك الرابطة وللارتباط مع عناصر أخرى.
إن النتروجين على العموم غير نشيط كيميائياً عند الدرجات العادية من الضغط ودرجة الحرارة، إلا في حال كان المتفاعل ذو نشاط كيميائي كبير. على سبيل المثال، يتفاعل النتروجين مع فلز الليثيوم ليعطي مركب نتريد الليثيوم:[36][37]
6
L
i
+
N
2
→
100
∘
C
2
L
i
3
N
{\displaystyle \mathrm {6\ Li\ +N_{2}\ {\xrightarrow {100^{\circ }C}}\ 2\ Li_{3}N} }
]
يقوم النتروجين بالدخول على شكل ناتج إضافة مع العديد من الفلزات الانتقالية، ويسمى الناتج حينها باسم معقد تناسقي ثنائي النتروجين، وكمثال على ذلك المعقد التالي مع الروثينيوم 2+[(Ru(NH3)5(N2]، كما تبدو بنيته في الشكل المرفق. تجدر الإشارة إلى أن ربيطة N2 لا يتم الحصول عليها من الارتباط المباشر مع النتروجين الجزيئي، إنما من تفكك الهيدرازين. هناك معقدات أخرى على ذات النسق مثل IrCl(N2)(PPh3)2 و W(N2)2(Ph2PCH2CH2PPh2)2. توضح هذه المعقدات أن النتروجين الجزيئي N2 يمكن أن يرتبط مع الفلزات في إنزيم نتروجيناز ومع الحفاز في عملية هابر-بوش.[38]
كانت عملية هابر-بوش لاصطناع الأمونياك من النتروجين والهيدروجين البوابة التي مكّنت من تثبيت النتروجين صناعياً في المركبات الكيميائية. تتم العملية عادة باستخدام حفاز من أكسيد الحديد الثنائي والثلاثي Fe3O4 عند درجات حرارة حوالي 500 °س وضغط مقداره 200 وحدة ضغط جوي. هناك طرق أخرى لاختزال النتروجين إلى الأمونياك، مثل استخدام حفاز من معقد للموليبدنوم بوجود وسط مانح للبروتونات.[37]
المركبات الكيميائية
يعد الأمونياك (NH3) من أكثر مركبات النتروجين أهمية، وهو ينتج من عملية تثبيت النتروجين الصناعية من خلال عملية هابر-بوش، وهو يصنف كيميائياً على أنه هيدريد للنتروجين. من الهيدريدات الأخرى للنتروجين مركب الهيدرازين N2H4. للأمونياك خواص قاعدية، وهو ينحل في الماء مشكلاً أيونات الأمونيوم +NH4، كما يشكل أيونات الأميد -NH2، والنتريد -N3، ولها أملاح معروفة. من الأنيونات الأخرى مركبات الأزيد -N3، والتي لها بنية جزيئية خطية ومتساوية إلكترونياً مع ثنائي أكسيد الكربون، وهي من المركبات السامة مثل مركبات السيانيد. يرتبط النتروجين مع الهالوجينات ليشكل مركبات ثلاثي هاليد النتروجين والتي تشمل ثلاثي فلوريد النتروجين NF3 وثلاثي كلوريد النتروجين NCl3 وثلاثي بروميد النتروجين NBr3 وثلاثي يوديد النتروجين NI3.
هناك عدة أكاسيد للنتروجين، والتي يشار إليها اختصاراً بالرمز NOx. من هذه الأكاسيد أكسيد النتروز (أحادي أكسيد ثنائي النتروجين N2O)، والذي يسمى غاز الضحك، وله تأثير تخديري. هناك أيضاً أكسيد النتريك (أحادي أكسيد النيتروجين NO)، وهو جذر كيميائي حر يستخدم في توصيل الإشارة عند النباتات والحيوانات. يكون ثنائي أكسيد النتروجين على شكل غاز أحمر اللون، وهو سام ويدخل في تركيب الضبخان. إن الأكاسيد المذكورة (الدنيا) للنتروجين هي أكاسيد مستقرة، في حين أن الأكاسيد العليا مثل ثلاثي أكسيد ثنائي النتروجين N2O3 ورباعي أكسيد ثنائي النتروجين N2O4 وخماسي أكسيد ثنائي النتروجين N2O5 هي غير مستقرة وتتفكك لتطلق غاز النتروجين N2.
تميل أكاسيد النتروجين إلى الانحلال في الماء، حيث يعطي أحادي أكسيد النتروجين عند انحلاله حمض النتروز HNO2، والذي ينتج أملاح النتريت، بالمقابل، فإن ثنائي أكسيد النتروجين يعطي عند انحلاله في الماء حمض النتريك HNO3، والذي ينتج أملاح النترات. من أحماض النتروجين أيضاً هناك حمض تحت النتروز H2N2O2، والذي تدعى أملاحه باسم تحت نتريت (هيبونتريت). يدخل النتروجين مع الكربون في تركيب حمض هيدروسيانيك، وعندما يضاف إليه الأكسجين نحصل على مجموعة من أحماض هيدروكسوسيانيك والأملاح الموافقة، مثل حمض السيانيك H-O-C≡N وأملاحه من السيانات، وحمض إيزوسيانيك O=C=N-H وأملاحه من إيزوسيانات، حمض الفلمنيك H-C≡N-O وأملاحه من الفلمينات.
يدخل النتروجين في تركيب العديد من المركبات العضوية مثل الأمينات والأحماض الأمينية والبروتينات والببتيدات والأميدات ومركبات النترو ومركبات الآزو والنتريلات والإيمينات والإينامينات، بالإضافة إلى المركبات الحلقية غير المتجانسة النتروجينية.
الدور الحيوي
إن النتروجين هو من العناصر المهمة لوجود الحياة على سطح الأرض، إذ أنه يدخل في تركيب الأحماض الأمينية والنووية.[8] لا يمكن للنباتات أو الحيوانات أن تحصل على عنصر النتروجين من الغلاف الجوي مباشرة، حيث ينبغي الحصول عليه على شكل مركبات، بعملية تدعى تثبيت النتروجين. تعد الهطولات على اختلافها أحد المصادر الطبيعية التي تجلب كميات من الأمونيوم والنترات إلى سطح الأرض، وذلك أثناء تشكلها في طبقات الجو عند حدوث البرق.[39] إن أغلب النتروجين المثبّت الموجود في التربة والذي يصل إلى جذور النباتات يكون على شكل نترات، في حين أن الأمونيوم يستهلك من نباتات الظلة.[40]
هناك أنواع خاصة من البكتريا (مثل ريزوبيا Rhizobium trifolium) لها القدرة على تثبيت النتروجين، وذلك بسبب وجود إنزيم نتروجيناز، والذي يستطيع تحويل غاز النتروجين إلى شكل الأمونيوم الكثر فائدة بالنسبة للمتعضيات العليا. يمكن لهذه البكتريا أن تعيش بشكل منفرد وحر في التربة مثل الآزوتية، ولكنها عادة ما تدخل في علاقة تعايش في العقد الجذرية في النباتات البقلية (مثل الفول والنفل وغيرها)، في بعض النباتات من الفصائل الأخرى مثل النغت وكازارينا والنباتات الكبدية.[41] يقوم مبدأ التعايش هنا على تقديم البكتريا للنتروجين على شكل مثبت، والذي يكون غالباً على شكل أمونيوم، والذي يحول في النبات إلى أحماض أمينية لتشكيل البروتينات وجزيئات حيوية أخرى. بالمقابل، فإن النبات يفرز السكر إلى البكتريا كي تؤمن غذائها.[41]
تستطيع النباتات أن تستفيد من النتروجين على شكل نترات بشكل مباشر، والذي يمكن أن يكون موجوداً في التربة من الترسبات الطبيعية للمعادن، أو من الأسمدة التركيبية، أو من فضلات الحيوانات، أو من التحلل العضوي. تتحوّل كمية النترات الممتصة على هذه الشاكلة إلى نتريت عن طريق إنزيم نترات ريدوكتاز (مختزل النترات)، ومن ثم يتحول إلى الأمونياك عن طريق إنزيم آخر وهو نتريت ريدوكتاز (مختزل النتريت).[41]
إن مركبات النتروجين مهمة جداً وأساسية في التركيب الحيوي للنباتات والحيوانات. تستخدم الحيوانات الأحماض الأمينية الحاوية على النتروجين من مصادر نباتية كأساس لكافة التفاعلات الكيميائية الحيوية المعتمدة على النتروجين، مثل اصطناع البروتينات والأحماض النووية. تكون الحشرات التي تتغذى على النباتات معتمدة على كمية النتروجين في نظامها الغذائي، بحيث أنه في حال تغيير كمية السماد الآزوتي المقدم إلى النبات فإن ذلك يؤثر على معدل التناسل لتلك الحشرات المتغذية على ذلك النبات.[42] للجذر الكيميائي الحر أكسيد النتريك NO دوراً مهماً في فيزيولوجيا الحيوانات.[43]
يؤدي استقلاب البروتينات الحاوية على النتروجين عند الحيوانات إلى إخراج (الإفراغ) على شكل يوريا، أما استقلاب الأحماض النووية فيعطي بالإضافة إلى اليوريا مركب حمض اليوريك. إن الرائحة المميزة لتحلل اللحم الحيواني يعود إلى تشكل مركبات أمينية طويلة السلسلة مثل بوتريسكين وكادافيرين، والتي هي بدورها نواتج تكسير الأحماض الأمينية أورنيثين ولايسين، على الترتيب، وذلك من البروتينات المتحللة.[44]
يعطي التحلل الحيوي في النهاية النتروجين على شكل غاز N2 والذي يعود إلى الغلاف الجوي ليغلق ما يسمى دورة النتروجين.[41]
الاستخدامات
للنتروجين العديد من التطبيقات المهمة، سواءً إن كان بالحالة الغازية أو بالحالة السائلة.
غاز النتروجين
يستخدم غاز النتروجين كغاز خامل، وذلك عند الحاجة إلى وسط بديل عن الهواء عندما تكون تفاعلات أكسدة-اختزال غير مرغوبة.[8] من الأمثلة على ذلك في المجال الصناعي استخدام غاز النتروجين في مزيج مع غاز ثنائي أكسيد الكربون كمادة حافظة للأغذية. يعد النتروجين النقي أحد الإضافات الغذائية ويحمل رقم إي E941.[45][46] من الأمثلة الأخرى لاستخدام النتروجين كغاز خامل دخوله في ملء المصابيح المتوهجة كبديل رخيص الثمن عن الآرغون.[47]
يستخدم النتروجين في صناعة الفولاذ،[48] ويستخدم في بعض أنظمة وقود الطائرات من أجل تخفيف خطر اشتعال الوقود، فيما يدعى باسم أنظمة التخميل،[49] كما يستخدم في ملء إطارات عجلات الطائرات وسيارات السباق.[50] يعود السبب في ذلك إلى النتروجين النقي يقي بخموله الكيميائي من أخطار حدوث انفجارات أثناء الإقلاع والهبوط أو أثناء ارتفاع درجات الحرارة نتيجة الاحتكاك.
في العمل المخبري الكيميائي يستخدم النتروجين في مجال تحضير العينات، حيث يستخدم للتجفيف من أجل تركيز العينات عن طريق إنقاص الحجم بتمرير تيار من النتروجين المضغوط على سطح العينة السائلة.[51]
يدخل النتروجين في تفاعل تحضير سياناميد الكالسيوم وذلك حسب المعادلة:
C
a
C
2
+
N
2
⟶
C
a
(
C
N
)
2
⟶
C
a
2
+
−
N
=
C
=
N
−
+
C
{\displaystyle \mathrm {CaC_{2}+N_{2}\longrightarrow \ Ca(CN)_{2}\longrightarrow \ Ca^{2+}\ ^{-}N=C=N^{-}\ +C} }
النتروجين السائل
يعد النتروجين السائل أحد أشهر وسائل المبردات في التبريد العميق. وغالباً ما يستخدم في المختبرات الكيميائية وينقل في إناء ديوار، وذلك من دون حدوث تبخر كبير.[52] مثل الثلج الجاف، يستخدم النتروجين السائل في مجال التثليج، فعلى سبيل المثال يستخدم من أجل الحفظ بالتجميد للعينات الحيوية مثل الدم والنطاف والبويضات، ومن أجل العلاج بالتبريد لبعض الحالات الجلدية مثل الثآليل.[53] يستخدم النتروجين السائل أيضاً في تجهيز المصيدة الباردة في بعض المختبرات، وفي تبريد وحدة المكشاف في أجهزة الفحص المخبرية مثل أجهزة الأشعة تحت الحمراء والأشعة السينية. من التطبيقات الأخرى للنتروجين السائل استخدامه من أجل تبريد وحدة المعالجة المركزية للحواسيب الفائقة الضخمة.[54]
مركبات النتروجين
إن القدرة على الحصول على مركبات من النتروجين هي واحدة من العمليات المهمة، إذ أنه حتى بداية القرن العشرين، كانت الإمكانية الوحيدة لحدوث ذلك هي عن طريق طبيعي فقط، وذلك عن طريق المتعضيات والبكتريا. وكان الأسلوب الوحيد للحصول تلك المركبات من معالجة الترسبات الطبيعية مثل ملح النتر. تغيرت الأمور مع تطور العمليات الصناعية الكيميائية مثل عملية فرانك-كارو لإنتاج السياناميد، وعملية أوستفالد من إجل إنتاج حمض النتريك وأملاح النترات من الأمونياك،[8] ومن ثم عملية هابر-بوش لإنتاج الأمونياك.[23]
كانت الأملاح العضوية واللاعضوية لحمض النتريك تاريخياً أحد المصادر المهمة في الصناعات المختلفة. على سبيل المثال، كان مركب نترات البوتاسيوم مستخدماً بكثرة في صناعة البارود،[8] أما نترات الأمونيوم فكان بستخدم في صناعة الأسمدة والمتفجرات.[8] هناك العديد من المركبات العضوية المنترجة والتي كانت تستخدم في صناعة المتفجرات، مثل نتروغليسرين وثلاثي نترو التولوين (TNT)،[8] بالإضافة إلى نتروسيليلوز.[55] يستخدم حمض النتريك كمؤكسد في الصواريخ العاملة على الوقود السائل، أما الهيدرازين ومشتقاته فتستخدم كمواد دافعة أحادية.
وجد لأكسيد النتروز (غاز الضحك N2O) خواص مخدرة منذ القرن التاسع عشر، وهو يستعمل إلى الآن في بعض الحالات الجراحية. يدخل النتروجين في تركيب عدد كبير جداً من العقاقير والأدوية على شكل مركبات عضوية بمجموعات وظيفية مختلفة، وخاصة أشباه القلويات الموجودة في العقاقير المستخلصة من النباتات.
احتياطات الأمان
إن الإطلاق السريع لغاز النتروجين في حجرة أو مكان مغلق يمكن أن يزيح الأكسجين، مما يشكل بالتالي خطر الاختناق، ويحدث ذلك مع وجود أعراض محذّرة قليلة، إذ أن الجسم السباتي في جسم الإنسان ذو نظام استشعاري بطيء نسبياً لنقص الأكسجين.[56]
إن استنشاق غاز النتروجين عند ضغوط جزئية مرتفعة (أكثر من 4 بار، والتي يمكن أن تصادف عند أعماق دون 30 متر تحت سطح البحر في غوص سكوبا) له تأثير تخديري، فيما يعرف باسم تخدير الأعماق، حيث يشعر الغواص بفقدان جزئي للوعي، شبيهة بالتي تحصل عند استنشاق أكسيد النتروس.[57][58] يستطيع النتروجين أن ينحل في مجرى الدم وفي الدهون داخل الجسم. يؤدي تخفيض الضغط المفاجئ، وخاصة في حالة الصعود السريع إلى السطح عند الغواصين، إلى حدوث حالة مرضية خطيرة تعرف باسم مرض تخفيف الضغط، والذي تتشكل فيه فقاعات من غاز النتروجين في مجرى الدم والأعصاب ومناطق حيوية أخرى في الجسم.[59][60]
يؤدي التلامس المباشر للجلد مع النتروجين السائل إلى حدوث عضة برد (تثليج)، والتي يمكن أن تحدث فوراً، أو تأخذ عدة ثوان، وذلك حسب درجة حرارة السائل. لذلك يجب الانتباه وارتداء قفازات ووسائل الحماية المخبرية عند التعامل مع النتروجين السائل. تستخدم حساسات أكسجين في بعض الأحيان كوسيلة وقاية عند العمل بالنتروجين السائل وذلك من أجل تنبيه العمال عند حدوث انسكاب في مكان محصور.[61]
المراجع
وصلات خارجية
*
تصنيف:عناصر كيميائية
تصنيف:غازات صناعية
تصنيف:لافلزات ثنائية الذرة
تصنيف:مبردات
تصنيف:مجموعة النيتروجين
تصنيف:معدلات تفارغية موجبة لمستقبل غابا أ
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মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র (English: United States of America ইউনাইটেড্ স্টেইট্স্ অফ্ আমেরিকা; সংক্ষেপে ইউনাইটেড স্টেটস বা ইউ. এস.) উত্তর আমেরিকায় অবস্থিত একান্ন রাজ্য ও একটি যুক্তরাষ্ট্রীয় জেলা নিয়ে গঠিত এক যুক্তরাষ্ট্রীয় সাংবিধানিক প্রজাতন্ত্র। এই দেশটি যুক্তরাষ্ট্র নামেও পরিচিত। উত্তর আমেরিকা মহাদেশের মধ্যভাগে অবস্থিত আটচল্লিশটি রাজ্য ও রাজধানী ওয়াশিংটন ডিসি অঞ্চলসহ মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের মূল ভূখণ্ডটি পশ্চিমে প্রশান্ত ও পূর্বে আটলান্টিক মহাসাগরদ্বয়ের মধ্যস্থলে অবস্থিত; এই অঞ্চলের উত্তর ও দক্ষিণ সীমান্তে অবস্থিত যথাক্রমে কানাডা ও মেক্সিকো রাষ্ট্রদ্বয়। আলাস্কা রাজ্যটি অবস্থিত মহাদেশের উত্তর-পশ্চিমে; এই রাজ্যের পূর্ব সীমান্তে রয়েছে কানাডা ও পশ্চিমে বেরিং প্রণালী পেরিয়ে রয়েছে রাশিয়া। হাওয়াই রাজ্যটি মধ্য-প্রশান্ত মহাসাগরীয় অঞ্চলে অবস্থিত একটি দ্বীপপুঞ্জ। এছাড়াও ক্যারিবীয় সাগর ও প্রশান্ত মহাসাগরের অনেক অঞ্চল মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের অধিকারভুক্ত।
মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের আয়তন প্রায় ৯৮.৩ লক্ষ বর্গকিলোমিটার (৩৭.৯ লক্ষ বর্গমাইল)। দেশটির জনসংখ্যা প্রায় ৩০ কোটি ৯০ লক্ষ। সামগ্রিক আয়তনের হিসেবে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র বিশ্বের তৃতীয় অথবা চতুর্থ বৃহত্তম রাষ্ট্র। আবার স্থলভূমির আয়তন ও জনসংখ্যার হিসেবে যুক্তরাষ্ট্র বিশ্বের তৃতীয় বৃহত্তম দেশ। মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের সমাজ বিশ্বের সর্বাপেক্ষা বৈচিত্র্যমণ্ডিত বহুজাতিক সমাজব্যবস্থা। বহু দেশ থেকে বিভিন্ন জাতির মানুষের অভিবাসনের ফলে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র আজ একটি বহুসংস্কৃতিবাদী দেশ।[10] মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের অর্থনীতি বিশ্বের বৃহত্তম জাতীয় অর্থনীতি। ২০০৮ সালে দেশের আনুমানিক জিডিপি হার ছিল ১৪.৪ ট্রিলিয়ন মার্কিন ডলার (নামমাত্র বিশ্ব জিডিপির এক চতুর্থাংশ এবং ক্রয় ক্ষমতা সমতায় বিশ্ব জিডিপির এক পঞ্চমাংশ)।[11][12]
আমেরিকার আদিম অধিবাসীরা সম্ভবত এশীয় বংশোদ্ভুত। মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের মূল ভূখণ্ডে এরা কয়েক হাজার বছর ধরে বসবাস করছে। তবে নেটিভ আমেরিকানদের জনসংখ্যা ইউরোপীয় উপনিবেশ স্থাপনের পর থেকে মহামারী ও যুদ্ধবিগ্রহের প্রকোপে ব্যাপক হ্রাস পায়। প্রাথমিক পর্যায়ে আটলান্টিক মহাসাগর তীরস্থ উত্তর আমেরিকার তেরোটি ব্রিটিশ উপনিবেশ নিয়ে গঠিত হয়েছিল মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র। ১৭৭৬ সালের ৪ জুলাই এই উপনিবেশগুলি একটি স্বাধীনতার ঘোষণাপত্র জারি করে। এই ঘোষণাপত্রের মাধ্যমে উপনিবেশগুলি তাঁদের আত্মনিয়ন্ত্রণের অধিকার ঘোষণা করে এবং একটি সমবায় সংঘের প্রতিষ্ঠা করে। আমেরিকার স্বাধীনতা যুদ্ধে এই বিদ্রোহী রাজ্যগুলি গ্রেট ব্রিটেনকে পরাস্ত করে। এই যুদ্ধ ছিল ঔপনিবেশিকতার ইতিহাসে প্রথম সফল ঔপনিবেশিক স্বাধীনতা যুদ্ধ।[13] ১৭৮৭ সালের ১৭ সেপ্টেম্বর ক্যালিফোর্নিয়া কনভেনশন বর্তমান মার্কিন সংবিধানটি গ্রহণ করে। পরের বছর এই সংবিধান সাক্ষরিত হলে যুক্তরাষ্ট্র একটি শক্তিশালী কেন্দ্রীয় সরকার সহ একক প্রজাতন্ত্রে পরিণত হয়। ১৭৯১ সালে সাক্ষরিত এবং দশটি সংবিধান সংশোধনী সম্বলিত বিল অফ রাইটস একাধিক মৌলিক নাগরিক অধিকার ও স্বাধীনতা সুনিশ্চিত করে।
ঊনবিংশ শতাব্দীতে যুক্তরাষ্ট্র ফ্রান্স, স্পেন, যুক্তরাজ্য, মেক্সিকো ও রাশিয়ার থেকে জমি অধিগ্রহণ করে এবং টেক্সাস প্রজাতন্ত্র ও হাওয়াই প্রজাতন্ত্র অধিকার করে নেয়। ১৮৬০-এর দশকে রাজ্যসমূহের অধিকার ও দাসপ্রথার বিস্তারকে কেন্দ্র করে গ্রামীণ দক্ষিণাঞ্চল ও শিল্পোন্নত উত্তরাঞ্চলের বিবাদ এক গৃহযুদ্ধের জন্ম দেয়। উত্তরাঞ্চলের বিজয়ের ফলে দেশের চিরস্থায়ী বিভাজন রোধ করা সম্ভব হয়। এরপরই যুক্তরাষ্ট্রে দাসপ্রথা আইনত রদ করা হয়। ১৮৭০-এর দশকেই মার্কিন অর্থনীতি বিশ্বের বৃহত্তম অর্থনীতির শিরোপা পায়।[14] স্পেন-মার্কিন যুদ্ধ ও প্রথম বিশ্বযুদ্ধ সামরিক শক্তি হিসেবে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রকে প্রতিষ্ঠা দান করে। দ্বিতীয় বিশ্বযুদ্ধের সময় এই দেশ প্রথম পরমাণু শক্তিধর রাষ্ট্র হিসেবে আত্মপ্রকাশ করে এবং রাষ্ট্রসংঘ নিরাপত্তা পরিষদে স্থায়ী সদস্যপদ লাভ করে। ঠান্ডা যুদ্ধের শেষভাগে এবং সোভিয়েত ইউনিয়নের পতনের পর মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র বিশ্বের একমাত্র মহাশক্তিধর রাষ্ট্রে পরিণত হয়। বিশ্বের মোট সামরিক ব্যয়ের দুই-পঞ্চমাংশ খরচ করে এই দেশ। বর্তমানে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র বিশ্বের অন্যতম প্রধান অর্থনৈতিক, রাজনৈতিক ও সাংস্কৃতিক শক্তিধর রাষ্ট্র।[15] ১৯৩০ এর দশকে ও একবিংশ শতকের প্রথম দশকের শেষে আমেরিকার অর্থনীতি 'অর্থনেতিক মহামন্দা' বা 'গ্রেট ডিপ্রেশন'র স্বীকার হয়।
নামকরণ
১৫০৭ সালে জার্মান মানচিত্রকর মার্টিন ওয়াল্ডসিম্যুলার বিশ্বের একটি মানচিত্র প্রকাশ করেন। এই মানচিত্রে তিনি ইতালীয় আবিষ্কারক ও মানচিত্রকর আমেরিগো ভেসপুচির নামানুসারে পশ্চিম গোলার্ধের নামকরণ করেন "আমেরিকা"।[16] মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের স্বাধীনতার ঘোষণাপত্রে পূর্বতন ব্রিটিশ উপনিবেশগুলি প্রথম দেশের আধুনিক নামটি ব্যবহার করে। ১৭৭৬ সালের ৪ জুলাই "unanimous Declaration of the thirteen united States of America" নামে এই ঘোষণাপত্রটি "Representatives of the united States of America" কর্তৃক গৃহীত হয়।[17] ১৭৭৭ সালের ১৫ নভেম্বর দ্বিতীয় মহাদেশীয় কংগ্রেসে আর্টিকলস অফ কনফেডারেশন বিধিবদ্ধকরণের মাধ্যমে বর্তমান নামটি চূড়ান্ত হয়। এই আর্টিকেলে বলা হয়েছিল: "The Stile of this Confederacy shall be 'The United States of America.'" সংক্ষিপ্ত নাম হিসেবে the United States নামটি প্রামাণ্য। অন্যান্য প্রচলিত নামগুলি হল the U.S., the USA, ও America। কথ্য নামগুলি হল the U.S. of A. ও the States। ক্রিস্টোফার কলম্বাসের নামানুসারে কলম্বিয়া নামটি এককালে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের নাম হিসেবে ব্যবহৃত হত। "ডিস্ট্রিক্ট অফ কলম্বিয়া" নামের মধ্যে এই নামটির আজও অস্তিত্ব রয়েছে।
মার্কিন নাগরিকেরা বাংলা ভাষায় "মার্কিনী" নামে পরিচিত। মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র-সংক্রান্ত বিশেষণ হিসেবে "মার্কিন" শব্দটি ব্যবহার করা হয়।[18]
ইতিহাস
আদি আমেরিকান ও ইউরোপীয় উপনিবেশ
যুক্তরাষ্ট্রের মূল ভূমি এবং আলাস্কাতে বর্তমানে যে আদিবাসীরা বাস করে তারা এশিয়া থেকে অভিবাসী হয়ে এ অঞ্চলে এসেছিল। তারা আজ থেকে প্রায় ৪০,০০০ বছর আগে থেকে আসা শুরু করেছিল বলে ধারণা করা হয়। কমপক্ষে ১২,০০০ বছর আগে তাদের আসার ব্যাপারটি তো প্রায় নিশ্চিত। প্রাক-কলাম্বীয় যুগের অনেক আদিইবাসী সম্প্রদায়ই অগ্রসর কৃষি, স্থাপত্য এবং রাজ্য-সদৃশ সমাজব্যবস্থা গড়ে তুলেছিল। ইউরোপীয় অভিযাত্রী ক্রিস্টোফার কলম্বাস ১৪৯৩ সালের নভেম্বর ১৯ তারিখে আমেরিকা অঞ্চলের পুয়ের্তো রিকোতে এসেছিলেন। এর মাধ্যমে আদিবাসী আমেরিকানদের সাথে ইউরোপীয়দের প্রথম পরিচয় হয়। এর পর অধিকাংশ আমেরিকান আদিবাসীরাই ইউরেশিয়া অঞ্চলের মহামারী রোগে আক্রান্ত হয়ে মারা গেছে।
সে সময় আমেরিকায় ইউরোপীয় উপনিবেশ স্থাপনকারীদের বাসস্থান ছিল মূলত ফ্লোরিডায়। সেই ঔপরিবেশিক উপনিবেশগুলোর মধ্যে বর্তমানে কেবল ১৫৬৫ সালে স্থাপিত সেন্ট অগাস্টিন উপনিবেশটিই টিকে আছে। এছাড়া ফরাসি পশুর লোম ব্যবসায়ীরা গ্রেট লেক্সের নিকটে নিউ ফ্রান্স নামক একটি বাসস্থল গড়ে তুলেছিল। এর পরে স্পেনীয়রা বর্তমান যুক্তরাষ্ট্রের দক্ষিণ-পশ্চিম অঞ্চলে বিস্তৃত উপনিবেশ প্রতিষ্ঠা করে। এই অঞ্চল বর্তমান মেক্সিকোর অন্তর্গত। প্রথম সফল ইংরেজ উপনিবেশ ছিল ১৬০৭ সালে জেম্সটাউনে প্রতিষ্ঠিত ভার্জিনিয়া উপনিবেশ এবং ১৬২০ সালে প্রতিষ্ঠিত প্লিমাথ (ইংরেজি: Plymouth) উপনিবেশ। ১৬২৮ সালে ম্যাসাচুসেট্স বে উপনিবেশ প্রতিষ্ঠার উদ্দেশ্যে উপর্যুপরি অর্থায়নের পর ইংরেজদের মধ্যে অভিবাসনের জোয়ার বয়ে যায়। ১৬৩৪ সালের মধ্যে নিউ ইংল্যান্ডে প্রায় ১০,০০০ পিউরিটান বাসস্থান গড়ে তোলে। ১৬১০-এর দশকের শেষ দিকে ব্রিটিশ সেদেশের বিপ্লবীদের মধ্যে ৫০,০০০ জনকে আমেরিকায় ব্রিটিশ উপনিবেশসমূহে স্থানান্তর করে। ১৬১৪ সাল থেকে নেদারল্যান্ডের উপনিবেশিকরা হাডসন নদীর নিম্নভূমি জুড়ে এবং ম্যানহাটন দ্বীপ ও নিউ আমস্টারডামে বসতি গড়ে তুলেছিল। ১৬৩৮ সালে সুয়েডীয়রা ডেলওয়্যার নদীর পাশ জুড়ে ছোট একটি উপনিবেশ গড়ে তুলেছিল যার নাম ছিল নিউ সুইডেন। কিন্তু ১৬৫৫ সালে ডাচরা তা অধিকার করে নেয়।
ফরাসি এবং ভারতীয় যুদ্ধের মাধ্যমে প্রায় ৭ বছর ধরে ঔপনিবেশিক সম্প্রসারণ চলতে থাকে। ব্রিটেন ফ্রান্সের কাছ থেকে কানাডা দখল করে নেয়। কিন্তু দক্ষিণাঞ্চলীয় উপনিবেশসমূহ থেকে ফ্রাঙ্কোফোনের জনগণরা রাজনৈতিকভাবে বিচ্ছিন্ন ছিল। ১৬৭৪ সালে ইঙ্গ-ডেনীয় যুদ্ধে ডাচদেরকে পরাজিত করে ব্রিটেন প্রাক্তন ডাচ উপনিবেশসমূহ দখল করে নেয়। এর পর প্রাক্তন নিউ নেদারল্যান্ডের নাম রাখা হয় নিউ ইয়র্ক। ১৭২৯ সালে ক্যারোলিনাসমূহের বিভাজন এবং ১৭৩২ সালে জর্জিয়ার উপনিবেশিকীকরণের পর ১৩টি পৃথক পৃথক ব্রিটিশ উপনিবেশ সৃষ্টি হয়। এই ১৩টি উপনিবেশ মিলেই পরবর্তীকালে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের প্রতিষ্ঠা করেছিল। যাহোক, এই রাজ্যগুলোর প্রত্যেকটিতে সক্রিয় স্থানীয় এবং উপনিবেশিক সরকার ছিল যা স্বাধীন মানুষদের নির্বাচনের মাধ্যমে জন্ম লাভ করতো। রাজ্যগুলোর চেতনার মূলে ছিল ইংরেজদের প্রাচীন অধিকারের প্রতি আত্ম নিবেদন এবং স্ব-নিয়ন্ত্রিত সরকার পদ্ধতির অনুপ্রেরণা যা পরবর্তীকালে প্রজাতান্ত্রিক ব্যবস্থার জন্ম দেয়। সবগুলো রাজ্যেই আফ্রিকান দাসদের নিয়ে বাণিজ্য করা বৈধতা পেয়েছিল। উচ্চ জন্ম হার, নিম্ন মৃত্যু হার এবং চিরস্থায়ী অভিভাবসনের কারণে উপনিবেশগুলোর জনসংখ্যা প্রতি ২৫ বছরে দ্বিগুণ হয়ে যেতে থাকে।
সরকার ব্যবস্থা
মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রে একটি যুক্তরাষ্ট্রীয় প্রজাতান্ত্রিক সরকার ব্যবস্থা বিদ্যমান। রাষ্ট্রপ্রধান ও সরকার প্রধান। আইনসভা দ্বিকাক্ষিক। নিম্নকক্ষের নাম হাউজ অভ রেপ্রেজেন্টেটিভ্স এবং এর সদস্যসংখ্যা ৪৩৫। উচ্চকক্ষের নাম সেনেট এবং এর সদস্যসংখ্যা ১০০। ভোট প্রদানের যোগ্যতা অর্জনের বয়স ১৮। ১৭৮৭ সালের ১৭ই সেপ্টেম্বর মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের সংবিধান প্রণয়ন করা হয় এবং ১৭৮৯ সালের ৪ঠা মার্চ থেকে এটি কার্যকর করা হয়। সুপ্রিম কোর্ট দেশের সর্বোচ্চ বিচারালয়।
প্রায় চার শতাব্দী আগে প্রণীত মার্কিন সরকার ব্যবস্থা সারা বিশ্বের প্রশংসা লাভ করেছে। মার্কিন জীবনের সাথে এটি ওতপ্রোতভাবে সম্পর্কিত। মার্কিন সরকারব্যবস্থা শুরু থেকেই গণতন্ত্রকে শাসনব্যবস্থা হিসেবে গ্রহণ করেছে।
মার্কিন সরকার ব্যবস্থা যুক্তরাষ্ট্রীয়, প্রাদেশিক ও স্থানীয় আইন, এবং এগুলিকে নির্বাহকারী বিভিন্ন প্রতিষ্ঠানের সমন্বয়ে গঠিত। ফেডারেল যুক্তরাষ্ট্রীয় সরকারের কেন্দ্র ওয়াশিংটন ডিসি-তে অবস্থিত।
যুক্তরাষ্ট্রের সরকারের একটি মূলনীতি হল প্রতিনিধিত্বমূলক গণতন্ত্র। এই ব্যবস্থায় লোকেরা তাদের নিজেদের নেতা নির্বাচনের মাধ্যমে নিজেদের শাসন করে। মার্কিন গণতন্ত্র বেশ কিছু আদর্শের উপর প্রতিষ্ঠিত। জনগণকে সংখ্যাগরিষ্ঠের মতামত মেনে নিতে হবে। সংখ্যালঘুদের অধিকার সংরক্ষণ করতে হবে। নাগরিকদেরকে আইনী শাসন ব্যবস্থায় বাস করার জন্য সম্মত হতে হবে। মতামত ও ধারণার উন্মুক্ত আদানপ্রদানে কোন বাধার সৃষ্টি করা যাবে না। আইনের চোখে সবাই সমান। সরকার জনগণের সেবায় নিয়োজিত হবে এবং এর ক্ষমতা জনগণের কাছ থেকেই আসবে।
এই আদর্শগুলি বাস্তবায়নের লক্ষ্যে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের সরকারব্যবস্থা চারটি উপাদান দিয়ে গঠন করা হয়েছে। ১) জনগণের সার্বভৌমত্ব ২) প্রতিনিধিত্বমূলক সরকার ৩) ক্ষমতার পরীক্ষা ও ভারসাম্য (checks and balances) এবং ৪) ফেডেরালবাদ, যেখানে সরকারের বিভিন্ন স্তরে বিভিন্ন ধরনের ক্ষমতা অংশীদারী করা হয়।
আরও দেখুন
ভূগোল
মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র উত্তর আমেরিকা মহাদেশের মধ্যভাগে অবস্থিত। এর উত্তরে কানাডা এবং দক্ষিণে সংযুক্ত মেক্সিকান রাষ্ট্রসমূহ অবস্থিত। পূর্বে আটলান্টিক মহাসাগর এবং পশ্চিমে প্রশান্ত মহাসাগর দ্বারা বেষ্টিত এই দেশ। এছাড়া হাওয়াই দ্বীপপুঞ্জ, আলাস্কা অঙ্গরাজ্য এবং অসংখ্য ক্ষুদ্র ক্ষুদ্র বিচ্ছিন্ন ভূমি এই রাষ্ট্রের অন্তর্ভুক্ত।
মহাদেশীয় যুক্তরাষ্ট্রের টপোগ্রাফিক মানচিত্র
আয়তনের ভিত্তিতে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র পৃথিবী তৃতীয় অথবা চতুর্থ বৃহৎ জাতি। এর আগে বা পরে চীনের অবস্থান। কিন্তু একটি অঞ্চল নিয়ে ভারত ও চীনের মধ্যে মতবিরোধ থাকায় এই বিষয়ের সুরাহা করা সম্ভব হয়নি। কেবল স্থলভাগের দিক দিয়ে চিন্তা করলে যুক্তরাষ্ট্র পৃথিবীর তৃতীয় বৃহৎ যার আগে কেবল রাশিয়া ও চীন আর পরে রয়েছে কানাডা। মহাদেশীয় যুক্তরাষ্ট্রের সীমানা অতি বিস্তৃত, আটলান্টিক থেকে প্রশান্ত মহাসাগর পর্যন্ত, উত্তরে কানাডা থেকে দক্ষিণে মেক্সিকো ও মেক্সিকো উপসাগর পর্যন্ত এর সীমার মধ্যে অন্তর্ভুক্ত। আয়তনের ভিত্তিতে এর বৃহত্তম অঙ্গরাজ্য হচ্ছে আলাস্কা। কানাডার মাধ্যমে পৃথকীকৃত এই রাজ্যটি প্রশান্ত ও আর্কটিক মহাসাগরকে স্পর্শ করেছে। উত্তর আমেরিকার দক্ষিণ-পশ্চিমে প্রশান্ত মহাসাগরের বুক অবস্থিত হাওয়াই দ্বীপপুঞ্জ এই দেশেরই অন্তর্ভুক্ত। দেশটির বৃহত্তম এবং সবচেয়ে জনবহুল অঞ্চল পুয়ের্তো রিকো ক্যারিবীয় দ্বীপপুঞ্জের উত্তর-পূর্ব অংশে অবস্থিত। যুক্তরাষ্ট্রের পূর্বাঞ্চলে পাওয়া যায় সবুজ ভূমি ও কৃষি ফসল আবাদের উর্বর অঞ্চল, পাথুরে পাহাড়, তৃণাচ্ছাদিত সামান্য ঢেউ খেলানো বিস্তীর্ণ ভূমি, উত্তর বায়ুর সাথে সামঞ্জস্যশীল বনভূমি দ্বারা বৈশিষ্ট্যমণ্ডিত হচ্ছে পশ্চিমাঞ্চল, আর দক্ষিণ-পশ্চিমে কেবল বিরান মরুভূমি। উত্তর-পশ্চিমে আটলান্টিকের কোল ঘেঁষে অবস্থিত বৃহৎ হ্রদ এলাকায়ই দেশটির অধিকাংশ মানুষের বসতি। গুয়াম অঞ্চল এবং আলাস্কার সবচেয়ে পশ্চিম প্রান্তের কিছু অঞ্চল ছাড়া পুরো দেশটাই উত্তর গোলার্ধে অবস্থিত।
পরিমাপ পদ্ধতি
যুক্তরাষ্ট্রে বিশেষ একক ব্যবস্থা বিদ্যমান রয়েছে। তারা ব্রিটিশদের ব্যবহৃত একক হিসেবে মাইল, গজ এবং ফারেনহাইট ইত্যাদি এককগুলো ব্যবহার করে না।[19] এর পরিবর্তে ইউ.এস গ্যালন এবং ইউ.এস পিন্ট পরিমাণের একক হিসেবে ব্যবহার করে। এছাড়াও, মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র পৃথিবীর তিনটি দেশের মধ্যে একটি, যারা আন্তর্জাতিক একক পদ্ধতি ব্যবহার করে না। মেট্রিক পদ্ধতিকে একক হিসেবে ধরে বিজ্ঞান, চিকিৎসা এবং অনেক শিল্পখাতে উত্তরোত্তর বৃদ্ধি করছে।[20]
তথ্যসূত্র
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This article is about the demographic features of the population of South Korea, including population density, ethnicity, education level, health of the populace, economic status, religious affiliations and other aspects of the population.
In June 2012, South Korea's population reached 50 million.[1] Since the 2000s, South Korea has been struggling with a low birthrate, leading some researchers to suggest that if current population trends hold, the country's population will shrink to approximately 38 million population towards the end of the 21st century.[2] In 2018, fertility in South Korea became again a topic of international debate after only 26,500 babies were born in October and an estimated of 325,000 babies in the year, causing the country to have the lowest birth rate in the world.[3][4][5] By the end of 2016, South Korea's population has surpassed 51 million people.[6]
Background
In South Korea, a variety of different Asian people had migrated to the Korean Peninsula in past centuries, however few have remain permanent. South Korea and North Korea are among the world's most ethnically homogenous nations. Both North Korea and South Korea equate nationality or citizenship with membership in a single, homogenous ethnic group and politicized notion of "race."
The common language and especially race are viewed as important elements by South Koreans in terms of identity, more than citizenship.
Population trends
Population of South Korea by age and sex (demographic pyramid)
as on 1955-09-01
as on 1960-11-01
as on 1965-11-01
as on 1970-10-01
as on 1975-11-01
as on 1980-11-01
as on 1985-11-01
as on 1990-11-01
as on 1995-11-01
as on 2000-11-01
as on 2005-11-01
as on 2010-11-01
as on 2015-11-01
Live births, deaths of South Korea (1925~2016)
Crude births, deaths rate of South Korea (1925~2016)
According to Worldometers' South Korea Population Forecast statistics, South Korea is supposed to have a .36% yearly change increase by 2020, a .28% yearly change increase by 2025, a .18% yearly change increase by 52,701,817, and a .04% yearly change increase by 2035.[7] According to those same statistics, the years from 2040 to 2050 are supposed to have a steady decline of yearly change percentages.[7]
The population of South Korea showed robust growth since the republic's establishment in 1948, and then dramatically slowed down with the effects of its economic growth. In the first official census, taken in 1949, the total population of South Korea was calculated at 20,188,641 people. The 1985 census total was 40,466,577. Population growth was slow, averaging about 1.1% annually during the period from 1949 to 1955, when the population registered at 21.5 million. Growth accelerated between 1955 and 1966 to 29.2 million or an annual average of 2.8%, but declined significantly during the period 1966 to 1985 to an annual average of 1.7%. Thereafter, the annual average growth rate was estimated to be less than 1%, similar to the low growth rates of most industrialized countries and to the target figure set by the Ministry of Health and Social Affairs for the 1990s. As of January 1, 1989, the population of South Korea was estimated to be approximately 42.2 million.
The proportion of the total population under fifteen years of age has risen and fallen with the growth rate. In 1955 approximately 41.2% of the population was under fifteen years of age, a percentage that rose to 43.5% in 1966 before falling to 38.3% in 1975, 34.2% in 1980, and 29.9% in 1985. In the past, the large proportion of children relative to the total population put great strains on the country's economy, particularly because substantial resources were invested in education facilities. With the slowdown in the population growth rate and a rise in the median age (from 18.7 years to 21.8 years between 1960 and 1980), the age structure of the population has begun to resemble the columnar pattern typical of developed countries, rather than the pyramidal pattern found in most parts of the Third World.
The decline in the population growth rate and in the proportion of people under fifteen years of age after 1966 reflected the success of official and unofficial birth control programs. The government of President Syngman Rhee (1948–60) was conservative in such matters. Although Christian churches initiated a family planning campaign in 1957, it was not until 1962 that the government of Park Chung Hee, alarmed at the way in which the rapidly increasing population was undermining economic growth, began a nationwide family planning program. Other factors that contributed to a slowdown in population growth included urbanization, later marriage ages for both men and women, higher education levels, a greater number of women in the labor force, and better health standards.
Public and private agencies involved in family planning included the Ministry of Health and Social Affairs, the Ministry of Home Affairs, the Planned Parenthood Federation of Korea, and the Korea Institute of Family Planning. In the late 1980s, their activities included distribution of free birth control devices and information, classes for women on family planning methods, and the granting of special subsidies and privileges (such as low-interest housing loans) to parents who agreed to undergo sterilization. There were 502,000 South Koreans sterilized in 1984, as compared with 426,000 in the previous year.[8]
The 1973 Maternal and Child Health Law legalized abortion. In 1983 the government began suspending medical insurance benefits for maternal care for pregnant women with three or more children. It also denied tax deductions for education expenses to parents with two or more children.
As in China, cultural attitudes posed problems for family planning programs. A strong preference for sons—who in Korea's traditional Confucian value system are expected to care for their parents in old age and carry on the family name—means that parents with only daughters usually continued to have children until a son is born. The government encouraged married couples to have only one child. This has been a prominent theme in public service advertising, which stresses "have a single child and raise it well."
Total fertility rates (the average number of births a woman will have during her lifetime) fell from 6.1 births per female in 1960 to 4.2 in 1970, 2.8 in 1980, and 2.4 in 1984. The number of live births, recorded as 711,810 in 1978, grew to a high of 917,860 in 1982. This development stirred apprehensions among family planning experts of a new "baby boom." By 1986, however, the number of live births had declined to 806,041.
Decline in population growth continued, and between 2005 and 2010 total fertility rate for South Korean women was 1.21, one of the world's lowest according to the United Nations.[9] Fertility rate well below the replacement level of 2.1 births per female has triggered a national alarm, with dire predictions of an aging society unable to grow or support its elderly. Recent Korean governments have prioritized the issue on its agenda, promising to enact social reforms that will encourage women to have children.
The country's population increased to 46 million by the end of the twentieth century, with growth rates ranging between 0.9% and 1.2%. The population is expected to stabilize (that is, cease to grow) in the year 2023 at around 52.6 million people. In the words of Asiaweek magazine, the "stabilized tally will approximate the number of Filipinos in 1983, but squeezed into less than a third of their [the Philippines'] space."
Population settlement patterns
South Korea is one of the world's most densely populated countries, with an estimated 425 people per square kilometer in 1989—over sixteen times the average population density of the United States in the late 1980s.[10] By comparison, China had an estimated 114 people, the Federal Republic of Germany (West Germany) 246 people, and Japan 323 people per square kilometer in the late 1980s. Because about 70% of South Korea's land area is mountainous and the population is concentrated in the lowland areas, actual population densities were in general greater than the average. As early as 1975, it was estimated that the density of South Korea's thirty-five cities, each of which had a population of 50,000 or more inhabitants, was 3,700 people per square kilometer. Because of continued migration to urban areas, the figure was doubtless higher in the late 1980s.
In 1988 Seoul had a population density of 17,030 people per square kilometer as compared with 13,816 people per square kilometer in 1980. The second largest city, Busan, had a density of 8,504 people per square kilometer in 1988 as compared with 7,272 people in 1980. Kyonggi Province, which surrounds the capital and contains Inch'on, the country's fourth largest city, was the most densely populated province; Kangwon Province in the northeast was the least densely populated province.
According to the government's Economic Planning Board, the population density will be 530 people per square kilometer by 2023, the year the population is expected to stabilize.
Rural areas in South Korea consist of agglomerated villages in river valleys and range from a few houses to several hundred.[11] These villages are located in the south that are backed by hills and give strong protection from winter winds.[11]
Since 1960, the pace of urbanization in South Korea has hit a considerable decline in population of rural areas and the traditional rural lifestyle has been slowly fading away.[11]
Aging population
South Korea faces the problem of a rapidly aging population. In fact, the speed of aging in Korea is unprecedented in human history,[12] 18 years to double aging population from 7 – 14% (least number of years),[13] overtaking even Japan. Statistics support this observation, the percentage of elderly aged 65 and above, has sharply risen from 3.3% in 1955 to 10.7% in 2009.[14] The shape of its population has changed from a pyramid in the 1990s, with more young people and fewer old people, to a diamond shape in 2010, with less young people and a large proportion of middle-age individuals.[15]
There are several implications and issues associated with an aging population. A rapidly aging population is likely to have several negative implications on the labour force. In particular, experts predict that this might lead to a shrinking of the labour force. As an increasing proportion of people enter their 50s and 60s, they either choose to retire or are forced to retire by their companies. As such, there would be a decrease in the percentage of economically active people in the population. Also, with rapid aging, it is highly likely that there would be an imbalance in the young-old percentage of the workforce. This might lead to a lack of vibrancy and innovation in the labour force, since it is helmed mainly by the middle-age workers. Data shows that while there are fewer young people in society, the percentage of economically active population, made up of people ages 15 – 64, has gone up by 20% from 55.5% to 72.5%.[14] This shows that the labour force is indeed largely made up of middle-aged workers.
A possible consequence might be that South Korea would be a less attractive candidate for investment. Investors might decide to relocate to countries like Vietnam and China, where there is an abundance of cheaper, younger labour. If employers were to choose to maintain operations in South Korea, there is a possibility that they might incur higher costs in retraining or upgrading the skills of this group of middle-age workers. On top of that, higher healthcare costs might also be incurred [16] and the government would need to set aside more money to maintain a good healthcare system to cater to the elderly.
Due to the very low birth rate, South Korea is predicted to enter a Russian Cross pattern once the large generation born in the 1960s starts to die off, with potentially decades of population decline.
Urbanization
Like other newly industrializing economies, South Korea experienced rapid growth of urban areas caused by the migration of large numbers of people from the countryside. In the eighteenth and nineteenth centuries, Seoul, by far the largest urban settlement, had a population of about 190,000 people. There was a striking contrast with Japan, where Edo (Tokyo) had as many as 1 million inhabitants and the urban population comprised as much as 10% to 15% of the total during the Tokugawa Period (1600–1868). During the closing years of the Choson Dynasty and the first years of Japanese colonial rule, the urban population of Korea was no more than 3% of the total. After 1930, when the Japanese began industrial development on the Korean Peninsula, particularly in the northern provinces adjacent to Manchuria, the urban portion of the population began to grow, reaching 11.6% for all of Korea in 1940.
Between 1945 and 1985, the urban population of South Korea grew from 14.5% to 65.4% of the total population. In 1988 the Economic Planning Board estimated that the urban portion of the population will reach 78.3% by the end of the twentieth century. Most of this urban increase was attributable to migration rather than to natural growth of the urban population. Urban birth rates have generally been lower than the national average. The extent of urbanization in South Korea, however, is not fully revealed in these statistics. Urban population was defined in the national census as being restricted to those municipalities with 50,000 or more inhabitants. Although many settlements with fewer than 50,000 inhabitants were satellite towns of Seoul or other large cities or mining communities in northeastern Kangwon Province, which would be considered urban in terms of the living conditions and occupations of the inhabitants, they still were officially classified as rural.
The dislocation caused by the Korean War accounted for the rapid increase in urban population during the early 1950s. Hundreds of thousands of refugees, many of them from North Korea, streamed into the cities. During the post-Korean War period, rural people left their ancestral villages in search of greater economic and educational opportunities in the cities. By the late 1960s, migration had become a serious problem, not only because cities were terribly overcrowded, but also because the rural areas were losing the most youthful and productive members of their labor force.
In 1970, the Park Chung Hee government launched the Saemaul Undong (New Community Movement) as a rural reconstruction and self-help movement to improve economic conditions in the villages, close the wide gap in income between rural and urban areas, and stem urban migration—as well as to build a political base. Despite a huge amount of government sponsored publicity, especially during the Park era, it was not clear by the late 1980s that the Saemaul undong had achieved its objectives. By that time many, if not most, farming and fishing villages consisted of older persons; relatively few able-bodied men and women remained to work in the fields or to fish. This trend was apparent in government statistics for the 1986–87 period: the proportion of people fifty years old or older living in farming communities grew from 28.7% in 1986 to 30.6% in 1987, while the number of people in their twenties living in farming communities declined from 11.3% to 10.8%. The nationwide percentages for people fifty years old or older and in their twenties were, in 1986, 14.9% and 20.2%, respectively (see Agriculture, ch. 3).
In 1985 the largest cities were Seoul (9,645,932 inhabitants), Busan (3,516,807), Daegu (2,030,672), Incheon (1,387,491), Gwangju (906,129), and Daejeon (866,695). According to government statistics, the population of Seoul, one of the world's largest cities, surpassed 10 million people in late 1988. Seoul's average annual population growth rate during the late 1980s was more than 3%. Two-thirds of this growth was attributable to migration rather than to natural increase. Surveys revealed that "new employment or seeking a new job," "job transfer," and "business" were major reasons given by new immigrants for coming to the capital. Other factors cited by immigrants included "education" and "a more convenient area to live."
To alleviate overcrowding in Seoul's downtown area, the city government drew up a master plan in the mid-1980s that envisioned the development of four "core zones" by 2000: the original downtown area, Yongdongpo-Yeouido, Yongdong, and Jamsil. Satellite towns also would be established or expanded. In the late 1980s, statistics revealed that the daytime or commuter population of downtown Seoul was as much as six times the officially registered population. If the master plan is successful, many commuters will travel to work in a core area nearer their homes, and the downtown area's daytime population will decrease. Many government ministries have been moved out of Seoul, and the army, navy, and air force headquarters have been relocated to Daejeon.
In 1985 the population of Seoul constituted 23.8% of the national total. Provincial cities, however, experienced equal and, in many cases, greater expansion than the capital. Growth was particularly spectacular in the southeastern coastal region, which encompasses the port cities of Busan, Masan, Yosu, Chinhae, Ulsan, and Pohang. Census figures show that Ulsan's population increased eighteenfold, growing from 30,000 to 551,300 inhabitants between 1960 and 1985. With the exception of Yosu, all of these cities are in South Kyongsang Province, a region that has been an especially favored recipient of government development projects. By comparison, the population of Kwangju, capital of South Cholla Province, increased less than threefold between 1960 and 1985, growing from 315,000 to 906,129 inhabitants.
Rapid urban growth has brought familiar problems to developed and developing countries alike. The construction of large numbers of high-rise apartment complexes in Seoul and other large cities alleviated housing shortages to some extent. But it also imposed hardship on the tens of thousands of people who were obliged to relocate from their old neighborhoods because they could not afford the rents in the new buildings. In the late 1980s, squatter areas consisting of one-story shacks still existed in some parts of Seoul. Housing for all but the wealthiest was generally cramped. The concentration of factories in urban areas, the rapid growth of motorized traffic, and the widespread use of coal for heating during the severe winter months caused dangerous levels of air and water pollution, issues that still persist today even after years of environmentally friendly policies.
Like other newly industrializing economies, South Korea experienced rapid growth of urban areas caused by the migration of large numbers of people from the countryside. In 2016, 82.59 percent of South Korea's total population lived in urban areas and cities.[17]
Vital statistics
UN estimates
Source:[18]
Life expectancy at birth from 1908 to 2015
Sources: Our World In Data and the United Nations.
1865-1949
1950-2015
Source: UN World Population Prospects[20]
Total Fertility Rate from 1900 to 1924
The total fertility rate is the number of children born per woman. It is based on fairly good data for the entire period. Sources: Our World In Data and Gapminder Foundation.[21]
Registered births and deaths
Source:[18]
Current natural population growth
[22]
Births from January–October 2017 = 305,700
Births from January–October 2018 = 278,600
Deaths from January–October 2017 = 234,200
Deaths from January–October 2018 = 247,900
Natural growth from January–October 2017 = 71,500
Natural growth from January–October 2018 = 30,700
Ethnic groups
South Korea is a relatively homogeneous society with an absolute majority of the population of Korean ethnicity who account for approximately 96% of the total population of the Korean Republic. However, with its emergence as an economic powerhouse, opportunities for foreign immigrants increased and in 2007 the number of foreign citizens resident in South Korea passed the million mark for the first time in history,[23] and the number reached 2 million in 2016. 1,016,000 of them came from China, with more than half of them being ethnic Koreans of Chinese citizenship. The next largest group was from Vietnam with 149,000 residents. The third largest group was from the United States with 117,000 residents, excluding the American troops stationed in the country. Thailand, Philippines, Uzbekistan and other countries followed.
Chinese in South Korea
When the People's Republic of China and South Korea reformed relationship was settled in, several Chinese migrants had emerged in South Korea in 1992.[24] In the early 1900s, a trade agreement allowed merchants from China conduct business trades in South Korea.[24]
North Americans in South Korea
South Korea's immigration rules are especially strict for non-Asians.[24] The South Koreans place various regulations on individuals applying for citizenship via marriage with one required to pass a Korean language proficiency test and have an annual income more than 14 million wons.[24] Due to this fact, most North Americans come to the country either as tourists or professionals.[24]
Vietnamese in South Korea
The relationship between Vietnamese and South Koreans goes back to the year 1200 when Ly Duong had left to Goreyeo in Korea after a succession of power dispute. Nowadays, Vietnamese migrants that go to South Korea are introduced to local husbands via marriage agencies.[24]
Filipinos in South Korea
The relationship between Filipinos and South Koreans can be traced back to the 1950s during the Korean war.[24] Over 7,500 Filipino soldiers fought on the United Nations' side to assist South Korea's conflict with North Korea.[24] During 2007, there was estimated to be around 70,000 Filipino immigrants in South Korea.[24] The mass rural urban migration led to a shortage of young women in those areas.[24] This led many Filipino brides find their way to South Korea and migrate over there.[24]
Below are the foreigner groups in South Korea that number more than 5,000.
Nationalities of foreign nationals in South Korea (2016 Census)China1,016,607Vietnam149,384United States140,222Thailand100,860Philippines56,980Uzbekistan54,490Japan51,297Indonesia47,606Cambodia45,832Mongolia35,206Nepal34,108Taiwan34,003Sri Lanka27,650Canada26,107Myanmar22,455Russia16,913Hong Kong16,728Bangladesh15,482Australia13,870Pakistan12,639Kazakhstan11,895India10,515Malaysia9,484United Kingdom7,180Singapore6,709France5,292Kyrgyzstan5,005
Languages
The Korean language is the native language spoken by the vast majority of the population. English is widely taught in both public and private schools as a foreign language. However, general fluency in English in the country is relatively low compared to other industrialized developed countries. There is a Chinese minority who speak Mandarin and Cantonese. Some elderly may still speak Japanese, which was official during the Japanese rule in Korea (1905–1945).[25][25]
In different areas of South Korea, different dialects are spoken. For example, the Gyeongsang dialect spoken around Busan and Daegu to the south sounds quite rough and aggressive compared to standard Korean.[25]
Religion
Koreans have historically, lived under the religious influences of shamanism, Buddhism, Daoism, or Confucianism.[26]
Korea is a country where the world's most major religions, Christianity, Buddhism, Confucianism and Islam, peacefully coexist.[27] According to 2005 statistics, 53% of Korean population has a religion and 2008 statistics show that over 510 religious organizations were in the South Korea population.[27]
Nonreligious: 46.5%
Buddhism: 22.8%
Protestantism: 18.3%
Catholicism: 10.9%
Other: 1.4%
CIA World Factbook demographic statistics
The following demographic statistics are from the CIA World Factbook, unless otherwise indicated.[28]
Age structure
0–14 years: 13.21% (male 3,484,398/female 3,276,984)
15–24 years: 12.66% (male 3,415,998/female 3,065,144)
25–54 years: 45.52% (male 11,992,462/female 11,303,726)
55–64 years: 14.49% (male 3,660,888/female 3,756,947)
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Literacy
Definition: age 15 and over can read and write
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Koreans living overseas
Large-scale emigration from Korea began around 1904 and continued until the end of World War II. During the Korea under Japanese rule period, many Koreans emigrated to Manchuria (present-day China's northeastern provinces of Liaoning, Jilin, and Heilongjiang), other parts of China, the Soviet Union, Hawaii, and the contiguous United States.
Most emigrated for economic reasons; employment opportunities were scarce, and many Korean farmers lost their land after the Japanese introduced a system of land registration and private land tenure, imposed higher land taxes, and promoted the growth of an absentee landlord class charging exorbitant rents. Koreans from the northern provinces of Korea went mainly to Manchuria, China, and Siberia. Many people from the southern provinces went to Japan. Koreans were conscripted into Japanese labor battalions or the Japanese army, especially during World War II. In the 1940–44 period, nearly 2 million Koreans lived in Japan, 1.4 million in Manchuria, 600,000 in Siberia, and 130,000 in China. An estimated 40,000 Koreans were scattered among other countries. At the end of World War II, approximately 2 million Koreans were repatriated from Japan and Manchuria.
More than 4 million ethnic Koreans lived outside the peninsula during the early 1980s. The largest group, about 1.7 million people, lived in China, the descendants of the Korean farmers who had left the country during the Japanese occupation. Most had assumed Chinese citizenship. The Soviet Union had about 430,000 ethnic Koreans.[29]
By contrast, many of Japan's approximately 700,000 Koreans had below-average standards of living. This situation occurred partly because of discrimination by the Japanese majority and partly because a large number of resident Koreans, loyal to the North Korean regime of Kim Il Sung, preferred to remain separate from and hostile to the Japanese mainstream. The pro–North Korea Chongryon (General Association of Korean Residents in Japan) initially was more successful than the pro–South Korea Mindan (Association for Korean Residents in Japan) in attracting adherents among residents in Japan. Since diplomatic relations were established between Seoul and Tokyo in 1965, however, the South Korean government has taken an active role in promoting the interests of their residents in Japan in negotiations with the Japanese government. It also has provided subsidies to Korean schools in Japan and other community activities.
By the end of 1988 there were over two million South Koreans residing overseas. North America was the destination of over 1.2 million. South Koreans also were residents of Australia (100,000), Central and South America (45,000), the Middle East (12,000), Western Europe (40,000), New Zealand (30,000), other Asian countries (27,000), and Africa (25,000). A limited number of South Korean government-sponsored migrants settled in Chile, Argentina, and other Latin American countries.
Because of South Korea's rapid economic expansion, an increasing number of its citizens reside abroad on a temporary basis as business executives, technical personnel, foreign students, and construction workers. A large number of formerly expatriate South Koreans have returned to South Korea primarily because of the country's much improved economic conditions and the difficulties they experienced in adjusting to living abroad.
See also
Demographics of North Korea
Koreans
South Korea
List of Korea-related topics
Ethnic Chinese in Korea
Vietnamese people in South Korea
Filipinos in South Korea
This article incorporatespublic domain material from the Library of Congress Country Studieswebsite .
This article incorporatespublic domain material from the CIA World Factbookwebsite .
, Park Young-bum, Migration Information Source, December 2004.
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ลุยจี อาโลอีซีโอ กัลวานี[1] (Italian: Luigi Aloisio Galvani, Latin: Aloysius Galvani; 9 กันยายน ค.ศ. 1737 – 4 ธันวาคม ค.ศ. 1798) เป็นนักฟิสิกส์และแพทย์ชาวอิตาลี เป็นผู้บุกเบิกการศึกษาแม่เหล็กไฟฟ้าชีวภาพ
ประวัติ
ลุยจิ กัลวานี เกิดเมื่อ ค.ศ. 1737 เป็นบุตรของโดเมนีโกและบาร์บารา ฟอสกี เมื่อเติบโตเป็นวัยรุ่น กัลวานีมีความตั้งใจจะเป็นนักบวช แต่ทางบ้านไม่ยินยอม จึงเข้าเรียนที่มหาวิทยาลัยโบโลญญาแทน โดยเลือกเรียนวิชาแพทย์ กัลวานีศึกษางานของฮิปพอคราทีส, กาเลน และแอวิเซนนา และนอกจากนี้เขายังเรียนวิชาศัลยศาสตร์อีกด้วย ในปี ค.ศ. 1762 เขาก็ได้รับตำแหน่งอาจารย์และแต่งงานกับบุตรสาวของศาสตราจารย์คนหนึ่งในมหาวิทยาลัย
ต่อมากัลวานีได้ย้ายจากการสอนศัลยศาสตร์มาเป็นกายวิภาคศาสตร์ และเริ่มสนใจในการศึกษากระแสไฟฟ้าในสิ่งมีชีวิต เขาทำการทดลองโดยแตะคีมไปที่ขากบที่วางอยู่บนจานโลหะ ผลที่ได้คือขากบนั้นกระตุก จากผลการทดลองนี้ กัลวานีจึงสรุปว่าในตัวกบมีกระแสไฟฟ้าอยู่ ทำให้เกิดปฏิกิริยาขึ้นเมื่อใช้คีมแตะ เพราะคีมทำจากเหล็กซึ่งเป็นตัวนำไฟฟ้า เขาเรียกการหดตัวของกล้ามเนื้อเมื่อถูกกระตุ้นด้วยกระแสไฟฟ้าว่า แกลวานิซึม (galvanism) และเรียกพลังงานที่ทำให้ขากบกระตุกว่า "ไฟฟ้าชีวภาพ" (animal electricity)
กัลวานียังคงศึกษาเรื่องแม่เหล็กไฟฟ้าชีวภาพอย่างต่อเนื่อง จวบจนบั้นปลายชีวิตที่เขาต้องประสบกับสถานการณ์ทางการเมืองที่ผันผวน กัลวานีถูกขับออกจากตำแหน่งอาจารย์และถูกระงับเงินช่วยเหลือ เขาเสียชีวิตในปี ค.ศ. 1798 อย่างคนสิ้นเนื้อประดาตัว
สิ่งสืบเนื่อง
การทดลองขากบของกัลวานีเป็นแนวทางให้อาเลสซานโดร โวลตาใช้สร้างแบตเตอรีชิ้นแรกของโลก
ชื่อของกัลวานียังถูกนำไปใช้เรียกอุปกรณ์ไฟฟ้าต่างๆ อาทิเช่น เซลล์กัลวานิก, กัลวานอมิเตอร์, กัลวาไนเซชัน เป็นต้น
อ้างอิง
แหล่งข้อมูลอื่น
Media related to ลุยจี กัลวานี at Wikimedia Commons
หมวดหมู่:นักฟิสิกส์ชาวอิตาลี
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প্রিন্স দ্বারকানাথ ঠাকুর (১৭৯৪ – ১লা আগষ্ট, ১৮৪৬) কলকাতার সুবিদিত জোড়াসাঁকো ঠাকুর বাড়ির প্রতিষ্ঠাতা এবং ব্যবসায় বিনিয়োগকারী ও উদ্যোক্তা। দ্বারকানাথ ঠাকুরের জীবনযাপন ছিল রাজসিক ও জাঁকজমকপূর্ণ।
বংশ পরিচয়
ব্রিটেনে অবস্থানকালে তাঁর সমকালীনরা তাঁকে প্রিন্স নামে অভিহিত করেন এবং এভাবেই কলকাতায়ও তিনি প্রিন্স হিসেবে পরিচিতি লাভ করেন। দেবেন্দ্রনাথ ঠাকুরের পিতা এবং রবীন্দ্রনাথ ঠাকুরের পিতামহ দ্বারকানাথ ঠাকুর ছিলেন ঐ সকল সমকালীন বানিয়া ও মুৎসুদ্দিদের (ইউরোপীয় বণিকদের প্রতিনিধি ও কর্মকর্তা) একজন যারা বাঙালি শিল্প-বাণিজ্যের উদ্যোক্তা ও সামাজিক-রাজনৈতিক কর্মযোগীদের প্রথম প্রজন্ম সৃষ্টি করেছিলেন।
ঠাকুররা ছিলেন রাঢ়ী শ্রেণির ব্রাহ্মণ৷তাঁদের এক পূর্বপুরুষ দীননাথ বর্ধমান জেলার কুশ নামক একটি গ্রাম পান৷সেই থেকে তাঁর নাম হয় দীননাথ কুশারী৷[1]
[2]
[3]
পরবর্তীকালে কুশারীরা বর্ধমান থেকে সারা বাংলায় ছড়িয়ে যায়৷একটি শাখা যায় যশোরে৷
ঠাকুর পরিবারের যে ব্যক্তিটি প্রথমবারের মতো যশোরের পৈতৃক বাড়ি পরিত্যাগ করে ভাগ্যাম্বেষণে কলকাতায় আসেন এবং ইউরোপীয় কোম্পানিতে বানিয়া হিসেবে যোগ দেন তাঁর নাম পঞ্চানন ঠাকুর। সপ্তদশ শতাব্দীর শেষ দিকে তিনি ফরাসি কোম্পানিতে কাজ করেন।
সেকালের বাংলার অন্যান্য কুলীন ব্রাহ্মণ পরিবারের মতো ঠাকুর পরিবারও নিজেদের কুলীন ব্রাহ্মণ হিসেবে দাবি করেন। রাজা আদিশূর বেশ কয়েকটি ব্রাহ্মণ পরিবারকে কনৌজ থেকে আমন্ত্রণ জানান। ঠাকুর পরিবার নিজেদের তাদেরই উত্তরসূরি বলে দাবি করতেন। কিন্তু কোন কোন গবেষকের মতে, তাঁরা স্থানীয় এবং অপেক্ষাকৃত নীচুবর্ণের ব্রাহ্মণ যাঁরা পীরালি ব্রাহ্মণ হিসেবে পরিচিত ছিলেন। উঁচু বর্ণের ব্রাহ্মণদের সঙ্গে তাঁদের কোনরকম সম্পর্ক ছিল না। ঠাকুর পরিবারের আদি প্রতিষ্ঠাতা জয়রাম ১৭৬০-৬২ সাল পর্যন্ত চব্বিশ পরগনা জেলার একজন আমিন ছিলেন। তাঁর চারপুত্রের একজন নীলমণি (মৃঃ ১৭৯১) ছিলেন চট্টগ্রাম জেলার সেরেস্তাদার। তিনি অগাধ অর্থবিত্তের অধিকারী হয়ে জয়রাম নির্মিত পাথুরিয়াঘাটার পৈতৃক বাড়ি ছেড়ে জোড়াসাঁকোয় এক সুরম্য ভবন নির্মাণ করে সেখানে বসবাস করেন। এ বাড়িতেই রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর জন্মগ্রহণ করেন ও বেড়ে ওঠেন। নীলমণির পুত্র রামলোচনও একজন ধনী বানিয়া ও বাণিজ্যপতি হিসেবে প্রতিষ্ঠা লাভ করেন। তিনি অপুত্রক ছিলেন বলে ভ্রাতা রামমণি ঠাকুরের পুত্র দ্বারকানাথকে দত্তক পুত্ররূপে গ্রহণ করেন।তাঁদের পারিবারিক উপাধি ‘ঠাকুর’ গোবিন্দপুর গ্রামের মৎস্যজীবী লোকদের দেওয়া। কারণ নিম্নবর্ণের এসব জেলে পাল-পার্বণে পীরালি ব্রাহ্মণগণের পৌরোহিত্য লাভ করাকে তারা সৌভাগ্য বলে মনে করত।
শিক্ষা ও কর্মজীবন
সে যুগের সামাজিক গতিচেতনা ও নবজাগরণে ঠাকুর পরিবার উদ্যোগীর ভূমিকায় অবতীর্ণ হয়ে সমাজে নিজেদের অবস্থান সুদৃঢ করতে সক্ষম হয়। এ পারিবারিক ও সামাজিক প্রেক্ষাপটেই কর্মযোগী দ্বারকানাথ ঠাকুরের আবির্ভাব। কয়েক পুরুষ ধরে উচ্চবর্ণের ব্রাহ্মণদের সঙ্গে শ্লথ সম্পর্ক এবং জ্ঞাতিকলহের কারণে মানসিকভাবে আহত দ্বারকানাথ ঠাকুর নিজের উদ্ভাবনাশক্তি ও আত্মমর্যাদাবোধে স্থিতধী হয়ে স্বাধীন বণিকবৃত্তিতে নিয়োজিত হন। বর্ণগত বৈষম্যের কারণে ঠাকুর পরিবারের কোন সদস্য এমনকি রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর পর্যন্ত কোন কুলীন ব্রাহ্মণ পরিবারের সঙ্গে বৈবাহিক সম্পর্ক স্থাপন করতে পারেন নি।
রবার্ট গুটলার ফারগুসন নামক একজন ব্রিটিশ আইনজীবীর অধীনে শিক্ষানবিশ হিসেবে দ্বারকানাথ চিরস্থায়ী বন্দোবস্ত সম্পর্কিত আইন এবং কলকাতা সুপ্রিম কোর্ট, সদর ও জেলা আদালতের যাবতীয় আইন ও কার্যপ্রণালী বিষয়ে অধ্যয়ন করেন। ১৮১৫ সালে তিনি সফলভাবে আইন ব্যবসা শুরু করেন। অচিরেই তিনি পিতা রামলোচনের নিকট থেকে উত্তরাধিকারসূত্রে প্রাপ্ত জমিদারির সীমানা প্রসারে সক্রিয় হয়ে ওঠেন। ১৮৩০ সালে দ্বারকানাথ রাজশাহী জেলার কালীগ্রামের জমিদারি এবং ১৮৩৪ সালে পাবনার শাহজাদপুরের জমিদারি নিলামে ক্রয় করেন। তাঁর জমিদারিতে বেশ কিছু অংশীদার ও সহ-অংশীদার ছিলেন। কিন্তু তিনি বহরমপুর, পাণ্ডুয়া, কালীগ্রাম ও শাহজাদপুরে চারটি বড় জমিদারির মালিক ছিলেন এবং এগুলিতে তাঁর কোন অংশীদার ছিল না। ১৮৪০ সালে সেগুলি তিনি তাঁর সন্তান ও তাঁদের উত্তরাধিকারীদের ট্রাস্ট করে দেন। দ্বারকানাথ ঠাকুরের জমিদারি পরিচালনার একটি বিশেষ বৈশিষ্ট্য ছিল। তিনি এটিকে সামন্ততন্ত্রের দৃষ্টিকোণ থেকে না দেখে মূলধনের সৃষ্টিশীল প্রসার হিসেবে বিবেচনা করেন। এক্ষেত্রে তিনি সমকালীন জমিদারদের চেয়ে ব্যতিক্রম ছিলেন। জমিদারি পরিচালনার জন্য তিনি কয়েকজন ইউরোপীয় বিশেষজ্ঞ নিয়োগ করেছিলেন।
দ্বারকানাথের জীবনে সৌভাগ্যের অগ্রযাত্রা শুরু হয় ১৮২৮ সালে তাঁর সেরেস্তাদারের চাকরি লাভের মধ্য দিয়ে। পরবর্তী সময়ে লবণ ও আফিমের আবগারি বোর্ডে দীউয়ানের পদ লাভ করে তাঁর আরও উন্নতি হয়। দীউয়ান হিসেবে তিনি বারো বছর চাকরি করেন। চাকরির পাশাপাশি লবণ প্রস্তুতকারক ও অন্যান্যদের মধ্যে অর্থ লগ্নি করে তিনি মহাজনি ব্যবসায় যোগ দেন। তাঁর সহকর্মী ও সমসাময়িক ব্যক্তিবর্গ এ কাজটিকে প্রকারান্তরে উৎকোচ গ্রহণের শামিল বলে মনে করতেন। ঘটনাক্রমে একবার দ্বারকানাথকে এ জন্য অভিযুক্ত করা হয়। কিন্তু যথাযথ প্রমাণের অভাবে তিনি কোর্ট থেকে সসম্মানে অব্যাহতি লাভ করেন। মহাজনি ব্যবসা ছাড়াও তিনি বিখ্যাত ম্যাকিনটশ অ্যান্ড কোম্পানির সঙ্গে যৌথভাবে রপ্তানি বাণিজ্যে মূলধন বিনিয়োগ করেন। ১৮২৯ সালে প্রতিষ্ঠিত ইউনিয়ন ব্যাংক-এরও তিনি অংশীদার ছিলেন। জমিদারি পরিচালনাসহ দ্বারকানাথের এসব কর্মকাণ্ড কোম্পানির অধীনে চাকরি করার পাশাপাশি চলতে থাকে।
১৮৩৫ সালে সরকারের পক্ষ থেকে দ্বারকানাথকে সম্মানসূচক ‘জাস্টিস অব দি পীস’ পদ প্রদান করা হয়। তখন থেকেই এ পদটি প্রথমবারের মতো ভারতীয়দের জন্য চালু হয়। ১৮৪০ সালের মধ্যে দ্বারকানাথ তাঁর মূলধনি কারবারের সাফল্যের শিখরে উপনীত হন। তিনি জাহাজ ব্যবসা, রপ্তানি বাণিজ্য, বীমা, ব্যাংকিং, কয়লা খনি, নীলচাষ, শহরের গৃহায়ণ প্রকল্প এবং জমিদারি তালুকে অর্থ বিনিয়োগ করেন। তাঁর ব্যবসার তদারকি করার জন্য তিনি কয়েকজন ইউরোপীয় ম্যানেজার নিযুক্ত করেন।
ইউরোপীয় ও স্বদেশী বন্ধুদের উৎসাহে অনুপ্রাণিত হয়ে দ্বারকানাথ ঠাকুর তাঁর বন্ধু ও দার্শনিক রাজা রামমোহন রায় এর মতো ব্রিটেন যাওয়ার সিদ্ধান্ত গ্রহণ করেন। ১৮৪২ সালের ৯ জানুয়ারি তিনি নিজস্ব স্টিমার ‘দি ইন্ডিয়া’ যোগে সুয়েজের পথে যাত্রা করেন। তাঁর সফরসঙ্গী ছিলেন ইউরোপীয় চিকিৎসক ডা. ম্যাকগাওয়ান, তাঁর ভাগনে চন্দ্রমোহন চ্যাটার্জী, ব্যক্তিগত সহকারী পরমানন্দ মৈত্র, তিন জন হিন্দু ভৃত্য ও একজন মুসলমান বাবুর্চি। বিলেতে তাঁকে রাজকীয় সংবর্ধনা জ্ঞাপন করেন ব্রিটিশ প্রধানমন্ত্রী রবার্ট পীল, বোর্ড অব কন্ট্রোল এর প্রেসিডেন্ট লর্ড ফিটজার্যাল্ড, প্রিন্স এলবার্ট, কেন্ট-এর রাজকুমারী এবং রানী ভিক্টোরিয়া। ২৩ জুন তিনি রানীর সঙ্গে রাজকীয় সৈন্যবাহিনী পরিদর্শন করে অতিবাহিত করেন। ৮ জুলাই রানী তাঁকে নৈশভোজে আপ্যায়ন করেন। দ্বারকানাথ সম্পর্কে রানী তাঁর ডায়রিতে লেখেন:
““ব্রাহ্মণ ভদ্রলোক বেশ ভাল ইংরেজি বলেন এবং তিনি একজন বুদ্ধিমান ও চমৎকার মানুষ””[4]
১৫ অক্টোবর দ্বারকানাথ ইংল্যান্ড থেকে প্যারিসে যান। ২৮ অক্টোবর ফ্রান্সের রাজা লুই ফিলিপ তাঁকে সেন্ট ক্লাউডে এক সংবর্ধনা দেন। ১৮৪২ সালের ডিসেম্বরে তিনি কলকাতা প্রত্যাবর্তন করেন। উনিশ শতকের চল্লিশের দশকের গোড়ার দিকের ব্যবসায়িক মন্দা এবং দ্বারকানাথের নবলব্ধ আড়ম্বরপূর্ণ জীবনযাপন এ দুয়ে মিলে তাঁর ব্যবসাক্ষেত্রে বিরূপ প্রতিক্রিয়া সৃষ্টি করে। ফলে তিনি বহু ব্যক্তি ও কোম্পানির কাছে ঋণী হয়ে পড়েন। এ ঋণের বোঝা তাঁর মৃত্যু পর্যন্ত ক্রমাগতভাবে বাড়তেই থাকে। পরিণামে তাঁর পুত্র দেবেন্দ্রনাথকে পিতার ঋণের দায় বহন করতে হয় এবং গোটা পরিবারকে দায়মুক্ত করতেই তাঁর সারাজীবন কেটে যায়। মহামন্দায় কেবল দ্বারকানাথই নন, আরও অনেক ব্যবসায়ীর জীবনে চরম বিপর্যয় নেমে আসে।
বস্তুত, ১৮৩০-৩৩-এর মহামন্দায় দ্বারকানাথের উত্থান ঘটে এবং ১৮৪৫-৪৮-এ তিনি এর শিকার হন। অবশ্য তাঁর শ্রেষ্ঠ সাফল্য নিহিত রয়েছে অন্যত্র। ব্যবসা-বাণিজ্যে ইউরোপীয়দের সঙ্গে সহযোগিতা চলে আসছিল দীর্ঘদিন ধরেই। কিন্তু দ্বারকানাথই প্রথম বাঙালি যিনি ইউরোপীয়দের সমকক্ষ হিসেবে স্বীকৃতি লাভ করেন। স্বীয় যোগ্যতাবলে ব্রিটিশ বণিকদের বাণিজ্য জগতে একজন সমান অংশীদার রূপে নিজের অবস্থান প্রতিষ্ঠা করে দ্বারকানাথ প্রচলিত নিয়মের ব্যত্যয় ঘটান।
১৮৪৬ সালে লন্ডনে কিছুকাল রোগভোগের পর তাঁর জীবনাবসান ঘটে।
তথ্যসূত্র
সংসদ বাঙ্গালি চরিতাভিধান-চতুর্থ সংস্করণ-প্রথম খন্ড-অঞ্জলি বসু
Blair B Kling, Partner in Empire: Dwarkanath Tagore and the Age of Enterprise in Eastern India, Calcutta, 1981;
NK Sinha, The Economic History of Bengal 1793 – 1848, III, Calcutta, 1984.
বিষয়শ্রেণী:১৭৯৪-এ জন্ম
বিষয়শ্রেণী:১৮৪৬-এ মৃত্যু
বিষয়শ্রেণী:বাঙালি শিক্ষাবিদ
বিষয়শ্রেণী:ব্রাহ্মধর্ম প্রচারক
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বিষয়শ্রেণী:হিন্দু দার্শনিক
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} | మోతె లేదా మోతే, తెలంగాణ రాష్ట్రం, సూర్యాపేట జిల్లాకు చెందిన మండలం.[1]
ఇది సమీప పట్టణమైన సూర్యాపేట నుండి 20 కి. మీ. దూరంలో ఉంది.
మండల జనాభా
2011 భారత జనగణన గణాంకాల ప్రకారం మండల పరిధిలోని జనాభా - మొత్తం 44,132 - పురుషులు 22,212 - స్త్రీలు 21,920
మండలంలోని రెవిన్యూ గ్రామాలు
రవిపహాడ్
సర్వారం
కూడలి
ఉర్లుగుండ
నెరెదవాయి
అన్నారిగూడెం
విభలపూర్
బుర్కచర్ల
సిరికొండ
నామవరం
రాఘవపూరం
మోతే
హుసైనాబాద్
తుమ్మలపల్లి
మామిల్లగూడెం
మూలాలు
వెలుపలి లంకెలు
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شجرة الكاكاو متار موطنها الأصلي أمريكا الجنوبية. بذورها تستخدم في صناعة الكاكاو والشيكولاتة.
تنمو الشيكولاتة على الشجرة القارية دائمة الخضرة والمعروفة بشجرة "الكاكاو" التي يحصد منها بذور تمثل المصادر المختلفة لجميع منتجات الكاكاو ومنها الشيكولاتة. وكانت تلك الشجرة تنمو في المناطق البرية من المناطق الاستوائية في أمريكا الجنوبية منذ 4000 سنة قبل الميلاد.
وتتميز شجرة الكاكاو بأوراقها العريضة وتنمو حتى تصل إلى ارتفاع 7.5 م وتشبه بذور الكاكاو أو حبوبها إلى حدكبير اللوز.
تاريخ اكتشاف الكاكاو
تم اكتشاف شجرة الكاكاو من قبل شعوب المايا والآزتيك في أمريكا الشمالية والوسطى قبل 2000 عام من الآن. وقد كانت هذه الشعوب تقوم بعصر بذور الكاكاو وطحنها لإنتاج شراب الكاكاو. والملاحظ ان شراب الكاكاو حينها لم يكن محلي ولكن اعتادت هذه الشعوب على إضافة بهارات قد تكون حارة بعض الشيء لإضافة نكهة إلى شراب الكاكاو. من الجدير بالذكر أن الرسومات التاريخية في حضارة المايا توضح تعلق أهلها بشجرة الكاكاو وهي إحدى الدلائل على أنهم أول من اكتشف هذه الشجرة، وقد لعبت الشيكولاتة أو ما عرفت سابقاً بالكاكاو دوراً بارزاً في حياة المايا، إذ كان علية القوم يدفنون موتاهم ويضعون في قبورهم أنية أحشاء الكاكاو لاعتقادهم بأن هذا المشروب يشيع في نفوسهم البهجة في العالم الآخر.
مع الغزو الأسباني لمكسيكو (شعوب ال (Aztects في عام 1520 طمعا في الثروات التي تملكها الأراضي المكسيكية, وجد الأسبان ما لم يكن في الحسبان (الشوكليت) وكانت البداية لقصة انتشار الشوكليت في باقي دول العالم. قام الإسبان بنقل بذور الكاكاو إلى أوروبا واستعبدوا المكسيكان ليقوموا بإنتاج حبوب الكاكاو لهم لتصديرها إلى أوروبا مع تغيير بسيط في الطعم النهائي لشراب الكاكاو.
لم يعجب الأسبان طعم شراب الكاكاو على الطريقة الأمريكية فقاموا بتغيير البهارات المضافة للشراب وكانوا أول من خلط شراب الكاكاو بالسكر والحليب وفضلوا تقديمه حارا بعكس الأمريكان الذين كانوا يفضلونه باردا.
لم يكف الإنتاج الأمريكي للكاكاو الاستهلاك الأسباني في الجهة المقابلة فكان الحل الوحيد لزيادة عدد العمال هو الاستعباد. بدأت حركة استعباد كبيرة في شعوب ال Maya & Aztects من قبل المستعمرين الأسبان وقد كان استهلاك الأسبان للكاكاو في الفترة ما بين عام 1759 وعام 1788 حوالي 12 مليون باوند في كل عام.
ظلت فكرة صنع الكاكاو سرا لا يملكه في أوروبا إلا الأسبان لمدة 100 عام منذ قدوم الكاكاو من أمريكا. وأصبح تقديم شراب الكاكاو في الطبقات الراقية والنبيلة من الأمور الأساسية وأيضا انتشر شراب الكاكاو في الكنائس الأسبانية وساعد هذا على انتشارها في باقي دول أوروبا بسرعة كبيرة ولم تفلح محاولات الأسبان للاحتفاظ بخلطة الكاكاو لأنفسهم مدة أطول.
الإنتاج
الكاكاو يزرع على مساحة 70,000كم² (27,000ميل²) حول العالم. الإحصائيات مأخوذة من الفاو لعام 2005:
سعر الإنتاج تم حسابه على أساس الأسعار الدولية في عام 1999-2001
المكونات
بذور الكاكاو النيئة تحتوي على مغنسيوم، نحاس، حديد، فوسفور، كالسيوم، بوتاسيوم، فيتامين ألف، فيتامين ج، فيتامين دي وغيرها. .
زراعة ثمرة الشيكولاتة ومراحل تصنيعها
الزراعة
الموطن الأصلي لشجرة الكاكاو هو الغابات الاستوائية الممطرة بأمريكا الجنوبية، ويمكن زراعتها في أي بلد استوائي، تتوفر فيه تربة غنية جيدة الصرف واغزارة في الرطوبة طيلة السنة، وهي لن تنمو حتى في المنطقة الاستوائية لو زاد الارتفاع عن حوالي 836 مترا. وموسم الحصاد يبدأ من أكتوبر حتى مارس وفي غانا تنتج الأشجار بمعدل رطلين من الكاكاو المجفف لكل شجرة في السنة، إذا زرعت بمعدل 360 شجرة للفدان الواحد. وتستمر في الإنتاج حوالي 40 سنة.
الحصاد والتصنيع
تقتطع الثمرة من النبات بسكين خاص، وتسحق لفصل البذور من اللبن، وتخمر البذور وتجفف كما سبق وصفه، وبذلك تصبح البذور الجافة، جاهزة للنقل إلى المصنع، حيث تنظف وتحمص في إسطوانات دوارة. وبعد ذلك تكسر البذور المحمصة إلى قطع صغيرة، وتفصل القشور عن لب البذور بعملية تذرية ثم تطحن قطع اللب، التي تعرف باسم Nibs بين إسطوانات دوارة، فتتحول إلى كتلة شبه سائلة، بسبب ما بها من زيت، وتسمى حنيئذ كتلة الكاكاو. وابتداء من هذه المرحلة تختلف المعاملة تبعا للمطلوب من المنتج، شيكولاتة أو كاكاو، يزال حوالي نصف الزيت أو زبدة الكاكو بواسطة الضغط، ثم تطحن العجينة اليابسة التي تنتج الخليط جيدا، يبين إسطوانات دوارة مصنوعة من الحجر، ولصنع الشوكولاتة اللبن، يضاف اللبن المجفف أو المكثف، ويحتفظ بالخليط حارا نوعا ما أثناء العملية. وفي هذه المرحلة الأخيرة يصبح تركيز الخليط، بحيث يتجمد عندما يبرد، واليوم يشهد العالم افراطاً في احتساء الكاكاو والقهوة كشراب حلو المذاق، أو ممزوج بالحليب.
مراحل تصنيع الشوكولاته
1- يتم اعداد الشوكولاته من بذور الكاكاو التي يتم استخراجها من الثمار الكبيرة التي تنتجها شجرة الكاكاو، في كل ثمرة كبيرة يوجد على الأقل 30-50 بذرة صغيرة من بذور الكاكاو
2- يتم تسخين البذور إلى درجة حرارة معينة وتترك بضعة أيام حتى تتخمر ويتحول لونها إلى اللون البني المعتاد للكاكاو ومن ثم تجفف الحبوب بالشمس ويتم ارسالها لمصانع اعداد الشوكولاته.
3- يتم طحن الحبوب للحصول على بودرة الكاكاو ومن ثم يتم عصر الحبوب للحصول على زبدة الكوكاو
4- تصنع الشكولاته بشكلها النهائي عن طريق خلط بودرة الكوكاو وزبدة الكوكاو مع الحليب والسكر
فوائد الكاكاو
الكاكاو شجرة معمرة وبذورها تشفي الحمى والسعال والكاكاو مدرة للبول ومقوية للقلب والكلى, ان الثيوبرومين الموجود في بذور الكاكاو يريح العضلة الملساء للانبوب الهضمي وهذا ربما هو السبب الذي يجعل الكثير من الناس يتناولون الشوكولاته حتى بعد امتلاء البطن بالأطعمة إذا اراد ان يريح معدته بعد وجبة دسمة, والغلاف الخارجي لبذور الكاكاو والذي يعرف بالقصرة (Teast) يستخدم في الوقت الحاضر لعلاج مشاكل الكبد والمثانة والكلى والسكري وكمقوٍ عام وكمادة مقبضة ضد الإسهال، أكدت دراسة طبية أسترالية حديثة أن نصف الذين يعانون من الاكتئاب يلجأون إلى تناول قطع من الشوكولاتة حيث يحسون بعدها بانتعاش حالتهم النفسية وتحسن في مزاجهم.
ووجدت الدراسة التي نشرت نتائجها في دورية British Journal of Psychiatry الطبية أن 54 بالمائة من الذين لجأوا إلى الشوكولاتة كانوا يعانون من اضطراب في مزاجهم وخوف من رفض المجتمع لهم.
وشملت الدراسة، التي أعدها باحثون في أستراليا، ألفين و600 شخصاً من الذين يعانون من درجات متفاوتة من الاكتئاب. وقال معد الدراسة في جامعة ساوث ويلز الدكتور غوردون باركر إن إيجاد علاقة بين اشتهاء الشوكولاتة وأمزجة الناس كان أمرا مثيرا بالنسبة لنا.
الجدير بالذكر أن العديد من الأبحاث أثبتت في السابق أن تناول مكعبات قليلة من الشوكولاتة يوميا قد يقي من ضيق الشرايين ويساعد في إقلال مخاطر الإصابة بأمراض القلب.
ولم تقتصر فوائد الشوكولاته فقط على القلب والأوعية الدموية، لكنها امتدت أيضا إلى الأسنان حيث أعلن عدد من العلماء اليابانيين أنها من أكثر المواد مقدرة على التغلب على طبقة «البليك» المسببة للتسوس.
فوائد الكاكاو للوقاية من السكري
ذكرت دراسة حديثة أجريت في يونيو عام 2013 من قبل باحثين في جامعة بنسلفانيا الأمريكية على الفئران انخفاض خطر الإصابة بمرض السكري بنسبة 30%. ويشير الباحثون إلى دور الفلافونويدات في الوقاية من السكري عن طريق خفض مستوى الدهون الثلاثية والدهون في الكبد التي تزيد من مخاطر الإصابة بالسكري. وقال الدكتور "جوش لامبرت" أستاذ علوم الغذاء في جامعة ولاية بنسلفانيا بالولايات المتحدة أنهم قد لاحظوا انخفاض وزن الجسم أيضاً بصورة بسيطة ولكنه انخفاض مهم على أية حال على الرغم من ضآلته. كان العلماء قد أضافوا إلى النظام الغذائي للفئران ما يعادل 10 ملاعق كبيرة أو 5 أكواب من الكاكاو طوال فترة الدراسة والتي بلغت 12 أسبوعاً.
فوائد الكاكاو لضغط الدم
أكدت دراسة أجريت عام 2012 أن تناول مشروب الكاكاو (الهوت شوكلت) والشوكولاتة السوداء يعمل على خفض ارتفاع ضغط الدم عند الأشخاص الذين لا تزيد معدلات ضغطهم عن 85/140. وأرجع الباحثون في هذه الدراسة الأمر إلى الفلافونويدات التي توجد في الكاكاو.
المعلومات الغذائية
يحتوي كل كوب من بودرة الكاكاو غير المحلّى (86 غ)، بحسب وزارة الزراعة الأميركية على المعلومات الغذائية التالية:
السعرات الحرارية: 196
الدهون: 11.78
الكاربوهيدرات: 49.79
الألياف: 28.6
السكر: 1.50
البروتينات: 16.86
اقرأ أيضاً
شجرة الكاكاو
شوكولاتة
كعكة الشوكولاتة
كونراد يوهانيس فان هوتن
مراجع
وصلات خارجية
at the Encyclopedia of Life
- Supporting Sustainable Cocoa Farming
The food of the Gods – the nature, growth, cultivation, manufacture and history of Cocoa, by Brandon Head, from مشروع غوتنبرغ
- Science Friday on الإذاعة الوطنية العامة, 2006-06-09
(Stewart R. Hinsley)
تصنيف:أشجار الأمازون
تصنيف:أشجار البرازيل
تصنيف:أشجار المكسيك
تصنيف:أشجار بليز
تصنيف:أشجار بيرو
تصنيف:أشجار سورينام
تصنيف:أشجار غواتيمالا
تصنيف:أشجار غيانا
تصنيف:أشجار كولومبيا
تصنيف:أصنوفات سماها كارولوس لينيوس
تصنيف:ثيوبروما
تصنيف:شوكولاتة
تصنيف:كافيين
تصنيف:محاصيل الأمريكتين
تصنيف:محاصيل البيرو
تصنيف:محاصيل المكسيك
تصنيف:محاصيل زراعية
تصنيف:منبهات
تصنيف:منتجات حرجية غير خشبية
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علم الاجتماع هو الدراسة العلمية للسلوك الاجتماعي للأفراد، والأساليب التي ينتظم بها المجتمع بإتباع خطوات المنهج العلمي[1]. وهو توجه أكاديمي جديد نسبياً تطور في أوائل القرن التاسع عشرِ ويهتم بالقواعد والعمليات الاجتماعية التي تربط وتفصل الناس ليس فقط كأفراد، لكن كأعضاء جمعيات ومجموعات ومؤسسات.
علم الاجتماع يهتم بسلوكنا ككائنات اجتماعية؛ وهكذا يشكل حقلا جامعا لعدة اهتمامات من تحليل عملية الاتصالات القصيرة بين الأفراد المجهولين في الشارع إلى دراسة العمليات الاجتماعية العالمية. بشكل أعم، علم الاجتماع هو الدراسة العلمية للمجموعات الاجتماعية والكيانات خلال تحرّكِ بشري في كافة أنحاء حياتهم. هناك توجه حالي في علمِ الاجتماع لجَعله ذي توجه تطبيقي أكثر للناس الذين يُريدونَ العَمَل في مكانِ تطبيقي.
تساعد نتائج البحث الاجتماعي قادة المجتمع من أكاديميين، خبراء تربية، ومشرّعين، ومديرين، وسياسيين وغيرهم ممن يهتمون بحَلّ وفهم المشاكل الاجتماعية وصياغة سياسات عامة مناسبة. ويعمل أكثر علماء الاجتماع في عدة اختصاصات، مثل التنظيم الاجتماعي، والتغير الاجتماعي، والتقسيم الطبقي الاجتماعي، وقدرة التنقل الاجتماعية؛ العلاقات العرقية والإثنية؛ التعليم؛ العائلة؛ عِلْم النفس الاجتماعي؛ عِلْم الاجتماع المقارن والسياسي والريفي والحضري؛ الأدوار والعلاقات الإنسانية؛ علم السكان؛ علم الشيخوخة؛ علم الإجرام؛ والممارسات الاجتماعية.
نشأة علم الاجتماع
علم الاجتماع توجه أكاديمي جديد نسبيا بين علومِ الاجتماعيات الأخرى بما فيها الاقتصادِ، عِلْم السياسة، عِلْم الإنسان، التاريخ، وعلم النفْس. لكن الأفكار المؤسسة له، على أية حال، ذات تاريخ طويل ويُمْكِنُ أَنْ نتتبّعَ أصولَها في خَلِيط المَعرِفَة الإنسَانِيَّةِ والفلسفة المشتركة. لقد ظهر علم الاجتماع كما هو حاليا كصياغة علمية في أوائِل القرن التاسع عشرِ، كرَدّ أكاديمي على تحدي الحداثةِ: فالعالم كَانَ يتحول إلى كل متكامل ومترابط أكثر فأكثر، في حين أصبحت حياة الأفراد أكثر فردية وانعزالا. تمنى علماء الاجتماع أَنْ يَفْهموا التحولات التي طرأت على المجموعاتَ الاجتماعيةَ، متطلعين لتَطوير دواءَ للتفككِ الاجتماعيِ.
أبو زيد عبد الرحمن بن محمد بن خلدون المعروف أكثر باسم ابن خلدون (ولد في 27 مايو 1332 وتوفي في 19 مارس 1406) كان فلكيا، اقتصاديا، مؤرخا، فقيها، حافظا، عالم رياضيات، استراتيجيا عسكريا، فيلسوفا، غدائيا ورجل دولة، يعتبر مؤسس علم الاجتماع. ولد في عهد الحفصيين بإفريقية في ما يعرف الآن بـتونس، أصله من الأندلس من مزرعة هاسيندا توري دي دونيا ماريا الحالية القريبة من دوس هرماناس (إشبيلية). (انظر تطور علم الاجتماع)
ويُعَد "أوجست كونت" الذي صك هذا المصطلح عام 1830 وربط فيه بين الكلمة اللاتينية Socius، وتعني شعباً أو قبيلة أو مدينة متحالفة مع روما (وأصبحت تعني فيما بعد كلمة المجتمع Society)، والكلمة اليونانية Logos، وتعني العقل أو المعرفة. وسرعان ما انتشر هذا المصطلح بشكل واسع، وأصبح يُستخدم فعلياً في جميع اللغات للدلالة على كل دراسة علمية واعية ودقيقة نسبياً للمجتمع. وتَمنّى كونت توحيد كل الدِراسات البشرية بما في ذلك التاريخِ وعِلْمِ النفْس والاقتصاد. وكان مخططه الاجتماعي الخاص مثاليا يعود إلى القرن التاسع عشرِ؛ حيث اعتقدَ أن كل أنماط الحياة الإنسانية لجميع الشعوب في كل البقاع مَرّتْ من خلالِ نفس المراحلِ التاريخيةِ المُتميّزةِ وبهذا، إذا أمكن للشخصُ أَنْ يُدرك مراحل هذا التطور، فيُمْكِنُ له أَنْ يَصفَ العلاجَ للأمراضِ الاجتماعية.
الكتاب الأول في 'علم الاجتماع' حمل نفس الاسم وكُتب في منتصف القرن التاسع عشرِ من قِبل الفيلسوف الإنجليزيِ هيربرت سبينسر. في الولايات المتّحدة، وعُلّم هذا التخصص باسمه للمرة الأولى في جامعة كانساس، لورانس في 1890 تحت عنوانِ فصلَ علم الاجتماع (فصل علم الاجتماع المستمرِ الأقدم في أمريكا وقسم التاريخِ وعلم الاجتماع أُسّسا في 1891) أما قسم الجامعةِ المستقل الكامل الأول لعلم الاجتماع في الولايات المتّحدة أُسّستْ في 1892 في جامعة شيكاغو مِن قِبل ألبيون دبليو، التي أسّست المجلّة الأمريكية لعلم الاجتماع في 1895. وأسّسَ القسم الأوروبي الأول لعلمِ الاجتماع في 1895 في جامعة بوردو مِن قِبل إميل دوركايم مؤسس عام 1896، وفي 1919 أُسّس قسم علم اجتماع في ألمانيا في جامعة لودفيج ماكسيميليانز في ميونخ مِن قِبل ماكس فيبر وفي 1920 في بولندا من قبل فلوريان زنانيكي. أما أقسام علمِ الاجتماع الأولى في المملكة المتحدة فقد أسست بعد الحرب العالمية الثانية.
بدأَ تعاون ماكس فيبر الدولي في علم الاجتماع في 1893 عندما تأسس معهد رينيه الصغير الدولي لعلم الاجتماع التي التحقت بجمعية علم الاجتماع الدولية الكبيرة بدءا من 1949. وفي 1905 أسست الجمعية الاجتماعية الأمريكية، الجمعية الأكبر في العالم من علماء الاجتماع المحترفين.
تتضمن قائمة العلماء النظريين "الكلاسيكيين" الآخرين لعِلْمِ الاجتماع مِنْ القرونِ العشرونِ المبكّرةِ والتاسعة عشرةِ المتأخّرةِ كلا من كارل ماركس، توينيز، ميل دوركهايم، باريتو، و ماكس فيبر.
أما في حالة كونت، كان جميع علماء الاجتماع هؤلاء لا يعتبرون أنفسهم "علماء اجتماع" فقط. وكانت أعمالهم تناقش الأديان، التعليم، الاقتصاد، علم النفس، الأخلاق، الفلسفة، وعلم اللاهوت.
لكن باستثناء ماركس، كان تأثيرهم الأكبر ضمن علم الاجتماع، وما زال علم الاجتماع هو المجال الأبرز لتطبيق نظرياتهم. اعتبرت دراسات كارل ماركس المبكرة الاجتماعية حقلا مشابها للعلوم الطبيعة مثل الفيزياء أو علم الأحياء. كنتيجة لذلك، جادل العديد من الباحثين بأن الطريقة والمنهج المستعملان في العلوم المتماسكة منهجيا تناسب بشكل مثالي الاستعمال في دراسات علم الاجتماع. وكان استخدام الطريقة العلمية وتشديد النزعة التجريبيةِ امتيازَ علم الاجتماع عن علم اللاهوت، والفلسفة، الميتافيزيقيا. هذا أدى إلى علم اجتماع معترف به كعِلْم تجريبي. هذه النظرة الاجتماعية المبكّرة، مدعومة من قبل كونت، أدت إلى الفلسفة الواقعية، المستندة على الطبيعية الاجتماعية.
على أية حال، بحدود القرن التاسع عشر وضعت الدراسات ذات التوجه الطبيعي لدراسة الحياة الاجتماعية موضع سؤال وشك من قبل العلماء مثل ديلتي وريكيرت، الذي جادل بأنّ العالم الطبيعيَ يختلفُ عن العالمِ الاجتماعي بينما يتميز المجتمع الإنساني بسمات فريدة مثل المعاني، الرموز، القواعد الأخلاقية، المعايير، والقيم. هذه العناصرِ في المجتمع تُؤدي إلى نشوء الثقافات الإنسانية. وجهة النظر هذه كَانتْ قد طوّرت مِن قِبل ماكس فيبير، الذي قدّمها ضِدّ الفلسفة الواقعيةَ (عِلْم اجتماع إنساني). طبقاً لهذه وجهةِ النظر، التي تعتبر وثيقة الصلةُ بالبحث الاجتماعيِ ضد الطبيعيةَ يجب أَن تركّزَ الدراسات على البشرِ وقِيَمهم الثقافية. هذا أدّى إلى بعض الخلاف على مدى إمكانية وضع خطَ فاصل بين البحث الشخصي والموضوعي أثّر بالتالي على الدراسات التفسيرية. أيضاً، النزاعات المماثلة، خصوصاً في عصرِ الإنترنت، أدّت إلى خلق فروع غير احترافية من العلوم الاجتماعية.
مفهوم علم الاجتماع
يُلاحظ الفرد داخل المجتمع أن وسائل الإعلام المختلفة تطالعه بأنباء وأخبار معينة، منها ما يتعلق بكوارث طبيعية، وأخرى تتعلق بصراعات ومشكلات تحتاج إلى حلول، وقسم آخر يتحدث عن قضايا العمل واضطرابات العمال، وقسم يتعرض لاتجاهات مشجعي كرة القدم. مثل هذه الأحداث ـ إذا صح أن نُطلق عليها هذه التسمية ـ هي أحداث عامة تحدث في الحياة اليومية؛ ولكن أحياناً يتساءل المرء لِمَ أصبح الآن مشجعو كرة القدم أكثر عنفاً عما كانوا عليه في الماضي؟ ولِماذا يجد بعض الأزواج أن الحياة الزوجية أصبحت لا تُطاق؟ فعندما نسأل أنفسنا مثل هذه الأسئلة، فإننا نسأل سؤالاً "اجتماعياً"، بمعنى أننا معنيون أو مهتمون بالطريقة التي يسلك بها الأفراد في المجتمع، وتأثير ذلك السلوك على أنفسهم وعلى المجتمع. ومعنى ذلك، أن مفهوم "الاجتماعي" هو المفهوم الأساسي في علم الاجتماع؛ لأن الفرد لا يملك إلاّ أن يكون كائناً اجتماعياً يعيش في وسط اجتماعي وعلى اتصال مستمر ببقية أفراد المجتمع، بحيث يندمج في محيطهم ويتفاعل معهم بصورة إيجابية. وهذا يؤكد أنه من دون وجود تفاعل إنساني مستمر، لا يمكن أن يُطلق علينا صفة "اجتماعية".
أما موضوع علم الاجتماع، فهو من المسائل التي تناولها جدل ساخن ومستمر خلال القرنين التاسع عشر والعشرين. وقد انحصر نطاقه في دراسة موضوعين رئيسيين، هما: الحقائق الاجتماعية، والعمليات الاجتماعية. وعلى الرغم من أن هذين الموضوعين محورين أساسيان في علم الاجتماع دون غيره، إلا أن الجدل لا يزال ساخناً. فقد ذهب "هربرت سبنسر" –مثلاً- إلى أن علم الاجتماع هو العلم الذي يصف ويفسر نشأة وتطور النظم الاجتماعية والضبط الاجتماعي والعلاقات بين النظم الاجتماعية؛ وأن عليه أن يقارن بين المجتمعات البشرية، على اختلاف أنواعها وأشكالها، أو بين المجتمعات على اختلاف نشأتها وتطورها، وأن يهتم بدراسة عمليتي البناء والوظيفة الاجتماعية.
ولكن "جورج زيمل" يرى ضرورة التفرقة بين ما هو اجتماعي، والعلم الاجتماعي فالمجال الاجتماعي يتضمن ما يدور بين الناس، أما العلم الاجتماعي فهو المجال الذي يتناوله الدارس الاجتماعي، لتحديد وتحليل الجوانب المهمة له.
وهذا ينقلنا إلى موضوع آخر يهتم به علم الاجتماع، وهو الحقائق العلمية ، فالحقائق تستدعي بالدرجة الأولى إثباتها؛ لأنها معلومات مؤكدة لحالة ما. ويمكن أن يُتفق عليها إذا كان علم الاجتماع يتوصل إلى الحقائق العلمية بالبحث العلمي المنظم، وإذا كانت وجهات النظر أو الآراء تتكون دون الرجوع إلى الحقيقة؛ فإن الاجتماعيين يقبلون الآراء ووجهات النظر، التي تستند إلى حقائق علمية. إن علم الاجتماع هو الدراسة العلمية لمظاهر أو جوانب الحياة الاجتماعية للفرد، فهو كم من المعرفة تكوّن خلال تراكم استخدام المنهج العلمي في دراسة أبنية ومكونات الحياة الاجتماعية.
يدرس علماء الاجتماع سلوك الأفراد في مضمونه الجمعي، فلا يوجد إنسان منعزل بذاته؛ ولكنه وغيره من الأفراد يتعاملون معاً في حدود الجماعات الاجتماعية. فكل إنسان يولد داخل جماعة ويمضي بقية حياته في علاقات اجتماعية منمطة. فكل عملية يقوم بها الفرد، كاختيار شريك هي مرهونة بالمجتمع. فردود أفعالنا ومظاهر سلوكنا في كثير من الأحيان تكون نتيجة لتوقعات أفراد المجتمع الآخرين منا، من جهة، ونتيجة للتفاعل الاجتماعي بيننا وبينهم، من جهة أخرى. ويتوقع كل فرد منا سلوكاً معيناً من أقاربه وأصدقائه، وحتى من أولئك الأفراد الذين نلتقي بهم عبر الشارع؛ كذلك، فإن أولئك الأفراد يتوقعون منا سلوكاً معيناً في كل موقف. إذن يمكن أن نطلق على حياة الجماعة أنها "نمطية". فإذا حاول الإنسان فهم وتفسير أفعال الآخرين، فإنه يحتاج إلى وقت طويل لدراسة الأشكال التي تنظم بها الجماعات وظائفها وطرق تأديتها. وهذا النوع من دراسة الحياة الاجتماعية هو محور اهتمام علم الاجتماع. لذا، حدد كل من "كامبل يونغ" و"ريموند ماك"، علم الاجتماع بأنه الدراسة العلمية للمظاهر الاجتماعية للحياة الإنسانية والمعرفة البشرية المرتبطة بها، من خلال عملية التفاعل الاجتماعي (ويعني بذلك المثير والاستجابة المتعاقبة أو المتبادلة بين اثنين أو أكثر من الناس)، ومن ثَم، يهتم علم الاجتماع بالإنسان والسياق الاجتماعي والجماعة الإنسانية.
أما "بيتريم سروكين"، فيرى أن علم الاجتماع هو ذلك المفهوم الذي يشير إلى جميع المعلومات الخاصة بالتشابه بين مختلف الجماعات الإنسانية، وأنماط التفاعل المشترك بين مختلف جوانب الحياة الاجتماعية الإنسانية؛ لذلك عرّفه بأنه العلم الذي يدرس الثقافة الاجتماعية، كما عرّفه بأنه دراسة الخصائص العامة المشتركة بين جميع أنواع المظاهر الاجتماعية والعلاقات بين هذه الأنواع، وكذلك العلاقات بين الظواهر الاجتماعية وغير الاجتماعية. أما "رايت ميلز"، فيرى أن علم الاجتماع هو العلم الذي يدرس البناء الاجتماعي للمجتمع والعلاقات المتبادلة بين أجزائه، وما يطرأ على ذلك من تغير. أما "جورج ليندبرج"، فيرى أن علم الاجتماع هو علم المجتمع؛ بينما يرى "ماكيفر" أنه العلم الذي يدرس العلاقات الاجتماعية.
يتضح مما سبق مدى تعدد وتباين تعريفات علم الاجتماع، وهذا إن دل على شيء فإنما يدل على أهمية هذا العلم واتساع أنشطته ومجالاته المتنوعة. كما يُلاحظ أيضاً، على هذه التعريفات أنها أحياناً توسّع نطاق هذا العلم حتى تجعله يشمل نطاق المجتمع كله، الأمر الذي يوضح صعوبة الاتفاق حول تعريف محدد ومتفق عليه بين المشتغلين بهذا العلم.
الخصائص الأساسية لعلم الاجتماع
علم الاجتماع علم تجريبي يقوم على الملاحظة وإعمال الفكر في الظواهر الاجتماعية، لا على البحث في مسائل ميتافيزيقية (علم ما بعد الطبيعة)، كما أن نتائجه ليست تأملية بل تفسر العلاقات بين موضوعات البحث الاجتماعي تفسيراً علمياً.
علم الاجتماع علم تراكمي، بمعنى أن النظريات الاجتماعية الجديدة تستند على نظريات أخرى سابقة عليها.
علم الاجتماع ليس علماً أخلاقياً، بمعنى أن عالم الاجتماع لا يسأل عما إذا كانت الأفعال الاجتماعية خيراً أم شراً، ولا يصدر أحكاماً أخلاقية؛ ولكنه ينشد تفسيرها.
أهم القضايا التي يدور حولها علم الاجتماع
العلاقات الاجتماعية المتبادلة بين الناس، من خلال عمليات التفاعل الاجتماعي، من أجل معرفة مظاهر التماثل والاختلاف.
المجتمع وظواهره وبناؤه ووظيفته.
مكونات الأبنية الاجتماعية المختلفة، مثل الجماعات العامة.
المقارنة بين الظواهر والحقائق الاجتماعية المختلفة.
العلم ورياضيات علم الاجتماع
يدرس علماء الاجتماع المجتمع والسلوك الاجتماعي بفحص المجموعات والمؤسسات الاجتماعية التي يشكلها البشر، بالإضافة إلى السياسة والدين والتجمعات المختلفة وتنظيمات العمل. كما يدرسون أيضاً السلوك، والتفاعل الاجتماعي بين المجموعات، يتتبع أصلهم ونموهم، ويحلل تأثيرَ نشاطات المجموعة على الأعضاء الأفراد. يهتم علماء الاجتماع بخصائص المجموعات الاجتماعية والمنظمات والمؤسسات؛ وكيفية تأثر الأفراد من قبل بعضهم البعض وبالمجموعاتِ التي يعودون إليها؛ وتأثير الميزات الاجتماعية مثل الجنس، العمر، أَو الحياة اليومية. تساعد نتائج البحث الاجتماعيِ المربين، والمشرعين والمدراء والآخرون المهتمون بحل المشاكل الاجتماعية وصياغة سياسة عامة. يعمل أكثر علماء الاجتماع في واحد أو أكثرِ من التنظيمات الاجتماعية، مثل المنظمة الاجتماعية التقسيم الطبقي، وقدرة التنقل؛ العلاقات العرقية؛ تعليم؛ العائلة؛ علم النفس الاجتماعي؛ والحضري، والريفي، سياسي، وعلم الاجتماع المقارن؛ أدوار جنس وعلاقات؛ علم السكان؛ علم الشيخوخة؛ علم الإجرام؛ والممارسات الاجتماعية.
العناصر الأساسية لعلم الاجتماع
المجتمع
جماعات من البشر تعيش على قطعة محددة من الأرض لفترة طويلة من الزمن تسمح بإقامة علاقات مستمرة ومستقرة مع تحقيق درجة من الاكتفاء الذاتي
مقومات المجتمع
1. الأرض محددة.
2. البشر أي السكان.
3. الاستمرار في الزمن أي علاقات تاريخية.
4. الحد الأدنى من الاكتفاء الذاتي.
تصنيف المجتمعات
تصنيف ثنائي: أي ريف وحضر ومجتمع صناعي وزراعي.
تصنيف تطوري: مجتمع بدائي – عبودي - إقطاعي - رأسمالي - شيوعي - .
تصنيف مقارن: أي على أساس مؤشرات عن أعداد السكان في مجتمعات مختلفة.
الثقافة
لها معنى ضيق وهي صنوف من الفكر والفن والأدب ولها معنى واسع وهي تشير إلى مخططات الحياة التي يكتسبها الإنسان بوصفة عضو في المجتمع أو هي ارث المجتمع من العادات والتقاليد وطرق الحياة التي يتبعها الفرد لسد حاجاته ولكي نفهم الثقافة لابد من التفرقة بين عدة مفاهيم.
التميز بين الثقافة المادية والثقافة المعنوية فالمادية كل ما هو ملموس مثل الملابس وأدوات الطعام والمعنوية تشير إلى كل ما يتصل بالرموز والعادات والتقاليد. التميز بين الثقافة العامة والثقافة الفرعية: فالعامة هي كل ما يشترك فيه أفراد المجتمع بشكل عام والفرعية هي ثقافة جماعة معينة مثل ثقافة الريف والحضر أو الرجال والنساء. التميز بين الثقافة المثالية والواقعية.
خصائص الثقافة
العمومية: فالثقافة عامة يشترك فيها كل أفراد المجتمع.
الاكتساب بالتعلم: فالطفل لا يولد حامل للثقافة وإنما يكتسبها بالتعلم.
الرمزية: تصب الفلسفة في الوعاء الرمزي داخل المجتمع ألا وهو اللغة.
التجريد: رغم إن الثقافة تمارس في الحياة اليومية إلا أنها لها بناء مجرد في ذهن الأفراد.
البناء الاجتماعي
العلاقات المستقرة والثابتة عبر الزمن التي يدخل فيها الفرد كالأسرة وفهم البناء الاجتماعي يتطلب فهم:
المكانة: وهي الموقع الذي يشغله الفرد في البناء الاجتماعي ويتحدد في ضوء تقييم المجتمع للأفراد.
الدور: ويعنى الجانب السلوكي للمكانة أي ما يجب أن يقوم به الفرد لتحقيق هذه المكانة.
والبناء الاجتماعي: هي تماسك جماعة صغيرة او كبيرة بقيم وعادات حميدة تأصيلية.
النظام الاجتماعي
هو مجموعة الأدوار الاجتماعية المنظمة التي تتصل بمجال معين من مجالات الحياة الاجتماعية والتي تخضع لمعايير وقواعد اجتماعية ثابتة كالأسرة والعمل ودور العبادة
هو شكلا منظما ضمن نشاط معين يتضمن مجموعة من القواعد والطرق واساليب العمل والسلوك
العمليات الاجتماعية
هي مجموعة التغيرات والتفاعلات التي تؤدى إلى ظهور نمط متكرر من السلوك والتي تخلق حركة دينامكية تضع المجتمع في حالة تغيير مستمر وهي تشير إلى حالة حركة وتَدافُع وانتقال المجتمع من حالة إلى حالة.
خصائصها: في حالة تغير أو دينامكية، لابد أن يترتب عليها نمط متكرر من السلوك، ترتبط بالنمط العام للتغيير في المجتمع، تدل على حالة التشكيل حالة إلى أخرى مثل تحول المجتمع الريفي إلى حضر أو المجتمع الزراعي إلى صناعي.
عمليات تتصل بنقل الثقافة مثل التنشئة الاجتماعية عبر الأسرة والمؤسسات التعليمية.
النسق الاجتماعي
أي العناصر المتفاعلة التي يحقق كل منها وظيفة في المنظومة العامة للنسق ويشكل النسق وحدة في بناء كلُّي ويمكن أن نطلق على كلِ من وحدات السلوك نسق إذا توافرت فيه الشروط الآتية:
وجود مكونات أو عناصر
وجود وظائف واضحة لهذه المكونات
وجود تفاعل ب
وجود بيئة خارجية يتعايش معها النسق ويؤدى وظيفته
بعض المفاهيم التي تساعد على الفهم:
مفهوم الفعل الاجتماعي: هو أي ممارسة سلوكية تتجه نحو تحقيق هدف معين في ضوء قاعدة سلوكية يقرها المجتمع وباستخدام وسيلة مشروعة
الفاعل والآخر: الفاعل هو الشخص الذي يقوم بالسلوك والآخر هو الذي يستقبل السلوك وهو الذي يكوّن التفاعل الاجتماعي
الموقف الاجتماعي: هو الإطار الاجتماعي الذي يظهر فيه التفاعل ويضم سلسلة من التفاعلات تتصل بموضوع معين مثل أن نناقش موضوع أو عيد ميلاد
العلاقات الاجتماعية: وهناك نوعين من التفاعلات:
التفاعل العابر أو اللحظي أو المؤقت: وهو الذي يحدث لفترة عابرة من الزمن وقد يكون تلقائي وغير منظم مثل تجمع الحشود لركوب القطار وهناك تفاعلات عابرة منظمة مثل تجمع الطلاب في قاعة الدرس
التفاعلات الدائمة والمستمرة: هي التفاعلات التي تتم بين مجموعة من الأفراد يعرفون بعضهم بعضا ويتفاعلون بشكل يومي مثل تفاعلات الأسرة والعمل
انظر أيضاً
نظرية اجتماعية
علماء اجتماع عراقيون
نظرية الشبكات
نظرية الغرس الثقافي
العائلة في الإعلانات
المصادر والمراجع
المصادر
الـعربيَّة
الإنتاج العربي في علم الاجتماع: قائمة ببليوجرافية مشروحة، 1924-1995 / إشراف أحمد زايد، محمد الجوهري. القاهرة: جامعة القاهرة، كلية الآداب، مركز البحوث والدراسات الاجتماعية، 2001.
دراسات في علم الاجتماع: مهداة إلى روح الأستاذ الدكتور مصطفى الخشاب / أحمد النكلاوي؛ تحرير أحمد زايد. القاهرة: مركز البحوث والدراسات الاجتماعية، كلية الآداب، جامعة القاهرة، 2003.
(بالعربية).
أندريه كاراطائف - . ISBN 5-484-00414-4(بالإنجليزية)
مقاتل من الصحراء، موضوعات اجتماعية ونفسية.
محمد حامد يوسف، "علم الاجتماع: النشأة والمجالات"، المكتب العلمي للنشر والتوزيع، الإسكندرية، 1995.
ميشيل مان، "موسوعة العلوم الاجتماعية"، ترجمة عادل الهواري وسعد مصلوح، مكتبة الفلاح، الإمارات، 1994.
الأجنبيَّة
- idiosyncratic but content-rich social theory site by David Gauntlett
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Jesser, C.J., Social Theory Revisited, The Dryden Press, Illionis, 1975.
Young, K., and Mack, R., Sociology and Social Life, American Book Company, N.Y., 1965.
المراجع
وصلات خارجية
مناهج للدراسة الذاتية
*
تصنيف:علوم سلوكية
تصنيف:مصطلحات علم الاجتماع
| https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%B9%D9%84%D9%85%20%D8%A7%D9%84%D8%A7%D8%AC%D8%AA%D9%85%D8%A7%D8%B9 |
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jmpl|Pemandangan kota
Napoli (Inggris: Naples, Latin: Neapolis dari bahasa Yunani: Νέα Πόλις - Néa Pólis ("Kota Baru")) merupakan kota terbesar ketiga di Italia setelah Roma dan Milan. Kota ini didirikan pada sekitar abad ke-7 atau 6 SM dan sekarang penduduknya berjumlah 1.000.470 jiwa (31 Mei 2005). Napoli adalah ibu kota regione Campania. Napoli kaya akan tradisi, sejarah, seni dan kebudayaan, dan dikenal sebagai tempat asal pizza serta terkenal akan es krimnya (dinamakan neapolitano).
Sekarang, pusat bersejarah kota ini didaftarkan oleh UNESCO sebagai Situs Warisan Dunia.
Kota kembar
Atena, Yunani
Budapest, Hongaria
Kolkata, India
Qafshah, Tunisia
Nablus, Palestina
Izmir, Turki
Palma de Mallorca, Spanyol
Baku, Azerbaijan
Buenos Aires, Argentina
Kagoshima, Jepang
Salvador de Bahia, Brasil
Sarajevo, Bosnia dan Herzegovina
Valencia, Venezuela
Zhengzhou, Republik Rakyat Tiongkok
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Referensi
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بالتزامن مع الإنفجار السكاني إتجهت أغلب دول العالم لاستخدام الطاقة الشمسية لتعويض نقص الطاقة في الشبكة الكهربية في حين بدأت عدد من الدول المتقدمة مثل ألمانيا والصين والولايات المتحدة بالإعتماد عليه كمصدر بديل للطاقة التقليدية للحد من الإعتماد على الوقود. وحديثا بدأ الإعتماد على الخلايا الشمسية لتوصيل الكهرباء إلى الأماكن المنعزلة والتي يصعب توصيل الكهرباء لها من الشبكة الكهربية لإنعزلها أو لارتفاع تكلفة ربطها بالشبكة. تستخدم محطات الطاقة الشمسية نوعين من التكنولوجيا لكل منهما تطبيقاته الخاصة:
فقد يكون النظام الشمسي عبارة عن ألواح شمسية على أسطح المنازل والمباني (PV)، أو في مزارع شمسية تثبت فيها الألواح على ارتفاع مناسب من الأرض وبميل يحدد على حسب زاوية سقوط الأشعة الشمسية في المكان، يقوم النظام (يتكون من ألواح شمسية، إنفرتر، بطارية، كونفرتر لتحويل التيار المستمر إلى تيار متردد) بتحويل الطاقة الشمسية مباشرة إلى طاقة كهربائية.
محطات طاقة شمسية مركزة (CSP) تعرف أيضا بمحطات الطاقة الشمسية الحرارية، وتختلف عن النظام الشمسي البسيط بأنه يستخدم الطاقة الحرارية الشمسية لصنع بخار، ليمر على توربينات فيما بعد مولدا الكهرباء.
تختلف معدلات نمو الطاقة الشمسية بشكل واضح من بلد إلى بلد. فمع نهاية 2014، إزدادت القدرة التراكمية للطاقة الشمسية حوالي 40 جيجاوات (GW) لتصل تقريبا إلى 178 جيجاوات، كافية لتوفير حوالي 1% من إستهلاك العالم للكهرباء المقدر بحوالي 18,400 تيراوات ساعة (TWh). في عام 2014، كانت أكثر الدول إنتاجا للطاقة الشمسية هي الصين تليها اليابان والولايات المتحدة، كما تصدرت المملكة المتحدة قائمة الدول الأوروبية الأكثر إنتاجا للطاقة الشمسية بعد فرنسا وألمانيا التي تربعت على عرش الدول المنتجة للطاقة الشمسية لأكثر من سنة بسعة إجمالية تصل إلى 38.2 جيجاوات.
أما الوافدين الجدد لهذا العام الذين دخلوا مباشرة إلى قائمة أكبر 10 دول في العالم لإنتاج الطاقة الشمسية فكانا شيلي وجنوب أفريقيا. يوجد الآن حوالي 20 بلد سعتها الإجمالية تخطت 1 جيجاوات مثل تايلند، هولندا وسويسرا. إرتفعت نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في إيطاليا وألمانيا واليونان فأصبحت كافية لتغطيه 7% و 8% من إستهلاك هذه الدول للكهرباء.[4][5]
لم يكن الحال لمحطات الطاقة الشمسية المركزة (CSP) المتوقف نموها لأكثر من عقدين كحال الأنظمة الشمسية العادية (pv) النامية يوما بعد يوم. ولكن في عام 2007 شهدت هذه التكنولوجيا تقدما ملحوظا، فتم إنشاء محطات بتكلفة أرخص.[6] تتمركز أغلب محطات الطاقة الشمسية المركزة في أسبانيا والولايات المتحدة، على عكس محطات الطاقة الشمسية العادية (pv) التي يمكن إنشاؤها في أي مكان. في يناير 2015، كانت أكبر محطات للطاقة الشمسية في العالم هم:
محطات الطاقة الشمسية (pv)
محطة دسرت سنلايت للطاقة الشمسية بسعة إجمالية 550 ميجاوات، ومحطة توباز سولار فارم للطاقة الشمسية بسعة 550 ميجاوات أيضا. تقع المزرعتين في جنوب كاليفورنيا.
مزرعة لونجيانجكسيا للطاقة الشمسية في الصين بسعة 320 ميجاوات.
مزرعة تشارانكا في الهند بسعة 345 ميجاوات.
مزرعة مورو في ألمانيا بسعة 166 ميجاوات.
محطات الطاقة الشمسية المركزة (CSP)
محطة ايفانباه للطاقة الشمسية في صحراء موهافي بكاليفورنيا بسعة 377 ميجاوات.
محطة توليد الطاقة الشمسية المركزة في الولايات المتحدة بسعة 354 ميجاوات.
محطة سولنوفا للطاقة الشمسية في أسبانيا بسعة 150 ميجاوات.
محطة أندلوسيا للطاقة الشمسية في أسبانيا بسعة 150 ميجاوات.
المرحلة الأولى لمحطة شمس في الإمارات العربية بسعة 100 ميجاوات.
التوزيع العالمي
تجد إحصائيات تاريخية وحديثة عن التوزيع العالمي للطاقة الشمسية في هذه المقالات:
نمو محطات الطاقة الشمسية المركزة حول العالم
نمو الخلايا الشمسية
أفريقيا
تمتاز أغلب دول أفريقيا بارتفاع معدل الإشعاع الشمسي السنوي لها، خاصة في المناطق الجافة كالصحاري (مثل الصحراء الكبرى) والسهول (مثل منطقة الساحل).[9] مما يتيح للحكومات إنشاء المزارع الشمسية في أغلب المناطق دون الحاجة إلى استخدام تكنولوجيات متطورة لتركيز وتجميع الأشعة الشمسية. تتقارب معدلات سقوط الأشعة الشمسية في دول أفريقيا بنسبة كبيرة تصل إلى حوالي 85٪ لتستقبل حوالي 2000 كيلو وات ساعة/ متر مربع في العام الواحد.
أشارت دراسة أجريت مؤخرا إلى أن أفريقيا إذا إستغلت 0.3٪ مساحة دول شمال أفريقيا ستولد طاقة كافية لتغطية إستهلاك دول الإتحاد الأوروبي.[10]
شمال أفريقيا
الجزائر
تمتلك الجزائر ما يمكنها لتصبح رائدة الطاقة الشمسية في منطقة الشرق الأوسط، مع توليد يصل إلى 170 تيرا وات ساعة سنويا. ففي عام 2011، نجحت في بناء أول محطة للطاقة الحرارية الشمسية في منطقة حاسي الرمل. هذه المحطة المركبة تولد 25 ميجاوات من الطاقة الشمسية المركزة مع 130 ميجاوات مولدة من توربينات محطة غازية.
بالإضافة إلى ذلك، شرعت الجزائر في عام 2011 في البدء بتطوير برنامج للطاقة المتجددة كالخلايا الشمسية (PV)، الطاقة الشمسية المركزة (CSP)، طاقة الرياح. يهدف البرنامج إلى تثبيت 12 جيجاوات من الطاقة بحلول عام 2030.[11]
المغرب
تمتلك المغرب أحد أعلى معدلات الإشعاع في العالم فتعرض أغلب البلد لأكثر من 3,000 ساعة في السنة وقد تصل إلى 3,600 ساعة في الصحراء. وحديثا قامت المغرب ببناء محطة من أكبر محطات الطاقة الشمسية في العالم بتكلفة وصلت لحوالي 9 مليار دولار. تهدف المحطة إلى توليد 2,000 ميجاوات من الطاقة الشمسية بحلول عام 2020.[12] كما يتم بناء خمس محطات للطاقة الشمسية تشمل محطات خلايا شمسية ومحطات للطاقة الشمسية المركزة.
تم تكوين الوكالة المغربية للطاقة الشمسية (مازن)، ملكية مشتركة بين الحكومة والقطاع الخاص للإشراف على المشروع. تم الانتهاء من المحطة الأولى في عام 2015،[13] بينما سيتم الانتهاء من باقي المشروع في عام 2020. وأعلنت الوكالة أن المشروع سيوفر 38% من إحتياج المغرب السنوي للكهرباء.
تعتبر المغرب هي البلد الأفريقية الوحيدة المتصلة شبكيا بأوروبا بواسطة مشروع ديزرتيك.[14]
مصر
وصلت السعة الكهربية الكلية المتولدة بالطاقة الشمسية في مصر إلى 4.5 ميجاوات. فمع أكثر من 4,000 ساعة من أشعة الشمس سنوياً تعتبر مصر من البلاد الغنية في ذلك المجال إذا تم إستغلاله كما يجب. نتيجة النمو السكاني السريع وإعتماد مصر على الطرق التقليدية في توليد الكهرباء (بلغت نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في الشبكة الكهربية 1% فقط) تحدث سلسلة من إنقطاع التيار الكهربي في موسم الصيف من كل عام.[15][16] المحطة الوحيدة التي تتجاوز سعتها حاجز 10 ميجاوات هي محطة مركبة (ديزل/طاقة شمسية) تعمل على تطويرها شركة مصدر الإماراتية.[17]
يعتبر ضخ وتحلية المياة في المناطق النائية، وتوصيل الكهرباء للريف من أهم تطبيقات الطاقة الشمسية.
أفريقيا جنوب الصحراء
الصومال
بدأت الصومال بالاتجاه إلى استخدام الطاقة الشمسية منذ عام 2012،[18] مشتركة بذلك مع سبع دول أفريقية أخرى في تكوين برنامج السنوات المشرقة المعني بمجال الطاقة الشمسية وإنارة الشوارع.[19][20] تعتمد الصومال في توليد الطاقة على الفحم والخشب فقط، ولذلك فإن ما يقرب 90% من سكان الصومال لا يملكون كهرباء.[21]
جنوب أفريقيا
من المتوقع وصول السعة الكلية للطاقة الشمسية لجنوب أفريقيا بحلول عام 2030 إلى 8,400 ميجاوات، جنبا إلى جنب مع 8,400 ميجاوات من طاقة الرياح.[22] يتجاوز معدل الإشعاع الشمسي في جنوب أفريقيا كلا من دول أوروبا وروسيا وأغلب دول أمريكا الشمالية.[23]
آسيا
شرق آسيا
الصين
تصدرت الصين قائمة الدول الأكثر إنتاجا للطاقة الشمسية لأكثر من عام. ففي عام 2007 كان إنتاج الصين من الطاقة الشمسية حوالي 1700 ميجاوات، أي ما يقرب من نصف الإنتاج العالمي البالغ حينها 3800 ميجاوات، مع العلم أن 99% من الإنتاج المحلي لها تم تصديره.[24] في الفترة ما بين 2009 و 2011 وصل الإنتاج لأربعة أضعاف قيمته الأصلية، وأقر الإتحاد الأوروبي أن العائد السنوي من بيع الصين للطاقة الشمسية في الأسواق الأوروبية قد تجاوز حد 20 مليار دولار أمريكي.[25][26] في نهاية مارس 2015، أعلنت الصين أن السعة الكهربية المثبته لديها بلغ 33.12 جيجاوات[27] وأنها تهدف إلى إضافة 15 جيجاوات بنهاية العام.[28] تعتير مزرعة غولمود الشمسية من أكبر محطات الطاقة الشمسية في الصين بسعة 200 ميجاوات.
اليابان
شهدت اليابان تطور كبير في الطاقة الشمسية منذ أواخر التسعينات. فمع تثبيت 4,914 ميجاوات في نهاية عام 2011 أصبحت اليابان إحدى الدول الخمس الرائدة في ذلك المجال، محتلة بذلك المركز الثالث لأكبر التثبيتات بعد ألمانيا وإيطاليا.[29] كما إحتفظت بمركزها كثاني أكبر سوق للطاقة الشمسية في العالم لعامين متتاليين 2013 و 2014، بسعة 6.9 و 9.6 جيجاوات على التوالي.[30][31][32] بحلول نهاية عام 2014، وصلت السعة الكلية إلى 23.3 جيجاوات متغطية بذلك إيطاليا (صاحبة رصيد 18.5 جيجاوات ) لتصبح بذلك ثالث أكبر منتج للطاقة الشمسية في العالم بعد ألمانيا (38.2 جيجاوات ) والصين (28.2 جيجاوات ). منتجة بذلك طاقة كافية لتغطيه 2.5% من الطلب السنوي للكهرباء في البلاد.
يتراوح معدل الإشعاع الشمسي في اليابان ما بين 4.3 و 4.8 كيلو وات ساعة لكل متر مربع في اليوم.
كوريا الجنوبية
في عام 2009، وصلت سعة محطة الطاقة الشمسية في سنان، مقاطعة جولا الجنوبية، كوريا الجنوبية إلى 24 ميجاوات. لتكون بذلك أكبر محطة للطاقة الشمسية في آسيا، حيث قامت شركة كونيرجي الألمانية بتطوير المحطة بتكلفة وصلت إلى حوالي 150 مليون دولار أمريكي. بينما إنشئت المحطة من قبل شركة دونغيانغ للمنشآت الهندسية.[33]
تيوان
أعلنت الحكومة التيوانية عن خطة طويلة الأجل لزيادة السعة لتصل إلى 4,500 ميجاوات بحلول عام 2020، ولجعل أكثر من 7.5 مليون تيواني يستخدم الطاقة الشمسية بحلول عام 2030.
جنوب شرق آسيا
بورما
وصل إنتاج الطاقة الشمسية في بورما إلى 51,973.8 تيرا وات ساعة في العام، بمعدل إشعاع شمسي يومي وصل إلى 5 ساعات.
تستخدم الطاقة الشمسية في المناطق الريفية بشكل كبير في شحن البطاريات وضخ المياة.[34] مع العلم بأن حوالي 70% من سكان بورما البالغ عددهم 50 مليون يعيشون في المناطق الريفية.[35]
الفلبين
في عام 2012، إستطاعت الفلبين توليد 1,320 ميجاوات من الطاقة الشمسية.[36]
تايلاند
في عام 2015، إستطاعت تايلاند توليد كهرباء باستخدام الطاقة الشمسية أكبر من دول جنوب شرق آسيا مجتمعة. معلنه أنها بنهاية عام 2015، سيتراوح التوليد بها ما بين 2,500-2,800 ميجاوات مقارنة بأكثر من 1,300 ميجاوات في عام 2014. وأنها تحاول الوصول إلى 6,000 ميجاواتبحلول عام 2036، وهو ما يعادل 9% من إجمالي توليد الكهرباء.[37]
جنوب آسيا
الهند
تمتلك الهند كل المقومات المطلوبة لتطوير تكنولوجيا الخلايا الشمسية، فلديها معدل إشعاع شمسي كبير وكثافة سكانية عالية (يمكن إستغلال بيوت السكان لإنشاء أنظمة شمسية على سطحها). تعمل الحكومة على زيادة المشاريع وإستغلال 35,000 كيلومتر مربع( 8,600,000 فدان) في صحراء طهار لزيادة التوليد من 700 جيجاوات إلى 2,100 جيجاوات.
في يوليو 2009، كشفت الهند النقاب عن خطة 19bn لإنشاء محطة للطاقة الشمسية بحلول عام 2020.[38] في إطار هذه الخطة، نصت الحكومة على وجوب استخدام أجهزة تعمل بالطاقة الشمسية وأن يكون التطبيق إلزامي في جميع المباني الحكومية، فضلا عن المستشفيات والفنادق.[39] في 18 نوفمبر 2009، أعلنت الهند عن إستعدادها للبدء في حملتها عن الطاقة الشمسية جنبا إلى جنب مع برامج لتغير المناخ، يهدف المشروع لتوليد 1,000 ميجاوات بحلول عام 2013، و 20,000 ميجاوات بحلول عام 2021-2022.[40]
وفقا لتقرير إذاعة جرين تك (GTM) عام 2011 أن توليد الطاقة الشمسية في الهند سيزداد بصورة واضحة في الخمس سنوات القادمة. تم تأكيد هذا التوقع فإرتفع التوليد من 10 ميجاوات في عام 2010 ليصل إلى 6,000 ميجاواتفي مايو 2016.[41] أدى هبوط أسعار الألواح الكهروضوئية (الخلايا الشمسية)، المستورده من الصين والولايات المتحدة إلى إنخفاض تكلفة الأنظمة الشمسية. بالرغم من ذلك تواجة الهند عجزا في الكهرباء يتراوح ما بين 10٪ و 13٪ من الإحتياج اليومي للكهرباء.".[42]
تم تشييد حديقة تشارانكا للطاقة الشمسية بسعة 214 ميجاوات في 19 أبريل 2012، تمثل هذه الحديقة جنبا إلى جنب مع محطة كجرات ذات السعة الجمالية 605 ميجاوات ثلثي إنتاج الهند من الطاقة الشمسية.[43] كما تم بناء العديد من محطات الطاقة الشمسية في ولاية راجاستان[44] مثل مزرعة دهيروبه أمباني للطاقة الشمسية بسعة إجمالية 40 ميجاوات المنشئة في 31 مارس 2012.[45]
تعمل الهند أيضا على إنشاء مشروع للطاقة الشمسية على القناة على طول 19,000 كيلومتر (12,000 ميل) لتوليد 1 ميجاوات من الطاقة النظيفة سنويا،[46][47] ومنع تبخر 9,000 كيلو لتر (2,400,000 غالون أمريكي) سنويا من القناة.[48]
تم الإعلان في 31 أكتوبر 2016، أن نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في الشبكة الكهربية في الهند تجاوزت 8727.62 ميجاوات.[49]
باكستان
إستعانت باكستان بتمويل الشركة الصينية تبيا (TBEA) لإنشاء مزرعة للطاقة الشمسية في صحراء جولستان قرب يازمان، على بعد حوالي 30 كم من شرق مدينة باهاوالبور. تم إنشاء المزرعة على مساحة 5,000 فدان، كافية لتوليد 100 ميجاوات. كما قامت شركة صينية أخرى تدعى زونيرجي بإنشاء محطة للطاقة الشمسية بقدرة 900 ميجاوات في نفس المنطقة.[50][51]
بلغت تكلفة إنهاء المرحلة الأولى للمشروع 15 مليار روبية تقريبا، وتم التسليم في فترة مثالية 11 شهرا فقط. وتم الاستعانة بالحكومة الصينية للانتهاء من المرحلة الثانية بسعة تصل إلى 900 ميجاوات.[52]
غرب آسيا
قبرص
تتوافر الطاقة الشمسية في قبرص أكثر مما تتوافر في أغلب دول أوروبا. تهدف قبرص بأن تصل نسبة مشاركة الطاقة الشمسية بنوعيها الخلايا الشمسية وأنظمة الطاقة الشمسية المركزة إلى 7% بحلول عام 2020. لتصبح بذلك واحدة من أكثر الدول مشاركة في سوق الطاقة المتجددة بعد إسبانيا بهدف 8%، ومع ألمانيا بنفس الهدف 7%، سابقة بذلك اليونان (5%)، البرتغال (4%) ومالطا (1%).[53]
كأغلب دول أوروبا تعتبر تدفئة وتسخين المياة من أهم تطبيقات الطاقة الشمسية في قبرص. ففي عام 2010، كانت قبرص على قائمة الدول الأوروبية من حيث نصيب الفرد من التدفئة الشمسية برصيد 611 وات للفرد. سابقة بذلك النمسا (385)، اليونان (253) وألمانيا (120).[54]
جورجيا
في السنوات الأخيرة بدأت جورجيا بالظهور في سوق الطاقة الشمسية مع إمتلاكها معدل إشعاع شمسي عالي.[55]
إسرائيل
لا يوجد نفط في المستعمرات الإسرائيلية. وبسبب سياسة الاحتلال الإسرائيلي وضعف علاقتها مع دول الجوار أصبح البحث عن مصدر ثابت للطاقة أولوية وطنية.[56][57] أدى ذلك إلى اتجاه إسرائيل للطاقة الشمسية، لتنجح في جعل تكلفة الطاقة الشمسية منافسة لتكلفة الوقود الحفري مستفيده من الموقع الجغرافي وارتفاع معدل الإشعاع الشمسي.[58] فعلى سبيل المثال أدى ارتفاع معدل الإشعاع الشمسي السنوي في صحراء النقب إلى تسهيل عملية البحث العلمي وتطوير الصناعة بصورة مستمرة. يعتبر هاري تابور وديفيد فايمن من مركز بن جوريون القومي للطاقة الشمسية من أبرز رواد المجال.[56] في نهاية عام 2008، تم إقرار نظام التعريفات لتشجيع إنشاء المزيد من المشاريع المنزلية (أنظمة على أسطح المنازل) والتجارية (المزارع والمحطات).
الأردن
تقع الأردن ضمن حزام الطاقة الشمسية العالي، فمع معدل إشعاعها العالي الذي يتراوح من 5 إلى 7 كيلو وات في الساعة لكل متر مربع تقوم المناطق الريفية ببناء أنظمة شمسية تستخدم في الإضاءة وضخ وتحلية المياة وخدمات أخرى تصل لأعلى من 1000 كيلو وات، بالإضافة إلى ما يقرب من 15% تقريبا من المنازل تستخدم الطاقة الشمسية في تسخين المياة. في مايو 2012، تم إفتتاح محطة في مدينة حسن للعلوم بسعة 280 كيلو وات.[59]
وفي فبراير 2015، تم الإعلان عن خطة لوضع خلايا شمسية على أسطح أكثر من 6000 مسجد في أنحاء البلاد.[60]
في أكتوبر 2016، وقعت الأردن اتفاقية شراء طاقة مع شركة مصدر الإماراتية لبناء أكبر محطة للطاقة الشمسية داخل الأردن بسعة 200 ميجاوات.[61] ومن المتوقع الانتهاء من ذلك المشروع في عام 2018، يهدف المشروع أن يوفر لأكثر من 110,000 أسرة محلية إحتياجها السنوي من الكهرباء.
المملكة العربية السعودية
أعلنت كا كير (Ka-care)، الوكالة السعودية المكلفة بتطوير قطاع الطاقة المتجددة في مايو 2012، أن الحكومة تعمل على تثبيت 41 جيجاوات من الطاقة الشمسية بحلول عام 2032، تم تقليل الهدف فيما بعد ليصبح 9.5 جيجاوات فقط. من وقت الإعلان عن الخطة قامت الحكومة بتثبيت 0.003 جيجاوات فقط من الطاقة الشمسية.[62]
الإمارات العربية المتحدة
في عام 2013، تم الانتهاء من محطة الطاقة الشمسية شمس 1، بسعة 100 ميجاوات بالقرب من أبو ظبي. بتكلفة قاربت 600 مليون دولار أصبحت محطة شمس 1 أكبر محطة للطاقة الشمسية المركزة خارج الولايات المتحدة وأسبانيا. ومن المتوقع أن تكون هناك شمس 2 وشمس 3.[63]
اليمن
تم إنشاء محطة صغيرة للطاقة الشمسية في اليمن بسعة 3 كيلو وات ببطاريات في مدينة عدن.[64] بدأ طلاب المدارس حديثا بالاهتمام بتكنولوجيا الطاقة الشمسية فقام بصنع وتطوير مراوح ومصابيح شمسية تعمل من 6 إلى 12 ساعة.[65] كما بدأ العمل على محطة للطاقة الشمسية المركزة بسعة 10,000 جيجاوات ساعة في العام.[66]
أوروبا
تباطأ نمو الطاقة الشمسية في أوروبا إلى حد كبير منذ عام 2011. يرجع ذلك إلى إنخفاض الاهتمام في بعض الأسواق الرئيسية مثل ألمانيا وإيطاليا بالطاقة الشمسية ، بينما تزايد الاهتمام في المملكة المتحدة وبعض البلدان الأوروبية الصغيرة أملين في أن يحققوا أهدافا أكبر مما حققوها في عام 2014.[67] إستطاعت أسبانيا زيادة 350 ميجاوات من الطاقة الشمسية المركزة (CSP) أي محققة نمو يصل إلى +18% لتصل هي الرائدة في ذلك المجال. في عام 2013، بلغت نسبة مشاركة دول أوروبا من الطاقة الشمسية ما يزيد عن 60% من الطاقة الكلية.
أوروبا الشرقية والوسطى
بلغاريا
نجحت بلغاريا بتحقيق رقم قياسي جديد في عام 2012 عندما تضاعفت السعة الكهروضوئية عدة مرات لتتجاوز حاجز 1 جيجاوات. ولكن في عام 2013 توقفت مسيرة النمو.
التشيك
شارفت الطاقة الشمسية في التشيك في أواخر عام 2010 على تخطى حاجز 2 جيجاوات. وبلغ التثبيت أقل من 10 ميجاوات في عام 2011 نتيجة خفض تسعيرة الوحدة 25٪، بعد تثبيت 1500 ميجاوات في العام السابق. زادت المنشآت إلى 109 ميجاوات في عام 2012. ولم يتم الإعلان عن زيادات جديدة في عام 2014.
بولندا
كحال أغلب الدول الأوروبية بدأت بولندا بالاتجاه إلى استخدام الطاقة المتجددة بشكل عام والطاقة الشمسية بشكل خاص بنوعيه كالأنظمة الشمسية والطاقة الشمسية الحرارية. في نهاية عام 2012، كانت سعة محطات الطاقة الشمسية المتصلة بالشبكة قد تجاوزت حاجز 1.29 ميجاوات.[68] وفي نهاية عام 2014، كانت بولندا قد استخدمت 1,700,000 متر مربع من المياه (18,000,000 متر مربع) كمجمع للطاقة الشمسية الحرارية لتوليد 1,200 ميجاوات من الكهرباء.
تأتي محطات الطاقة الشمسية الحرارية في المركز الثاني بعد محطات الغاز الحيوي في قائمة الطاقة المتجددة الأكثر استخداما في بولندا. وفي عام 2014 جاءت بولندا في المرتبة الرابعة في مبيعات الطاقة الشمسية في الأسواق الأوروبية.[69]
وفقا لوكالة الشمسية البولندية، أنه بحلول يونيو 2016، تم تثبيت ما يقرب من 91,82 ميجاوات.[70]
رومانيا
نجحت رومانيا في تثبيت 740.4 ميجاوات في عام 2013 بزيادة 15 ضعف عن ما تم تحقيقه في عام 2012. تمتلك رومانيا 210 يوم شمسي في السنة بمعدل إشعاع شمسي جيد يتراوح ما بين 1,000- 1,300 كيلووات ساعة لكل متر مربع في السنة. تتركز محطات الطاقة الشمسية في رومانيا في منطقة ساحل البحر الأسود، دوبروجيا واولتينيا.
روسيا
التوليد الحالي للطاقة الشمسية في روسيا متواضع جدا وصل إلى 5 ميجاوات، ولكن هناك خطط لتثبيت 70 ميجاوات بحلول عام 2012-2013 بتكلفة تصل إلى 210 مليون دولار في مشروع مشترك بين روسنانو ورينوفا.[71]
تركيا
في عام 2014، زادت الطاقة الكلية في تركيا من 40 ميجاوات إلى 58 ميجاوات بنهاية العام.
أوكرانيا
بدأت أوكرانيا من فترة قريبة بالإعتماد على الألواح الشمسية لتوليد الكهرباء اللازمة. ففي عام 2011، كان 90% من الكهرباء متولدة من الطاقة النووية والفحم. للحد من ذلك، بدأت أوكرانيا بالإعتماد على أحد أهم برامج الطاقة في العالم UAH 5.0509، حيث يصل سعر الكيلو وات إلى 0.46 يورو. ونجحت في نهاية عام 2011 بإنشاء مزرعة بروفو أكبر مزرعة طاقة شمسية في أوروبا بسعة إجمالية تصل إلى 100 ميجاوات[72].
شمال أوروبا
الدنمارك
تهدف الدنمارك بحلول عام 2050 أن تصل نسبة الطاقة المتجددة فيها إلى 100% [73]. الهدف المراد لعام 2020 وهو الوصول إلى 200 ميجاوات تم تحقيقة قبل 8 أعوام من السنة المحددة أي في عام 2012، ومنذ ذلك الحين يتم تثبيت 36 ميجاوات شهريا. وصلت السعة الكلية للطاقة الشمسية في الدنمارك إلى 790 ميجاوات في أواخر عام 2015[74]. من المتوقع الوصول إلى 3400 ميجاوات بحلول عام 2030[75][76].
فنلندا
يعتبر تسخين المياة هو أهم استخدام للطاقة الشمسية في فنلندا ثم يأتي بعد ذلك توليد الكهرباء. فبإعتبارها بلد شمالي، فإن أيام الصيف لديها طويلة وأيام الشتاء قصيرة. فوق الدائرة القطبية الشمالية، قد لا تشرق الشمس لعدة أيام في الشتاء، بل وفي الصيف أيضا. بسبب أن زاوية سقوط الأشعة الشمسية قليلة، يتم وضع الألواح الشمسية في الجزء الجنوبي من المنازل عوضا عن تثبيتها على الأسطح كما هو الحال في أغلب الدول.
في الفترة ما بين عام 1993 وعام 1999 نجحت فنلندا في توليد ما يقرب من 1 جيجاوات ساعة، وبين عام 2000 و 2004 أنتجت 2 جيجاوات ساعة تقريبا، بينما في عام 2005 قامت بتوليد 3 جيجاوات ساعة. أما في عام 2012، وصلت سعة الطاقة الشمسية في فنلندا إلى 11 ميجاوات.[77] في الفترة ما بين عام 1995 و 2010 تم استخدام حوالي 163000 متر مربع للتسخين الشمسي. في عام 2006، بلغت مساحة المنطقة المستخدمة 16493 متر مربع.[78]
فنلندا ليست عضوا في أي برنامج للوكالة الدولية للطاقة، أو لرابطة الصناعات الكهربائية الضوئية الإسكندنافية.
ليتوانيا
بدأت ليتوانيا حديثا بالاتجاه إلى الطاقة المتجددة خصوصا الطاقة الشمسية. ففي الأشهر التسع الأولى من عام 2013،[79] قامت بتوليد 39 جيجاوات ساعة.
فتمتلك أكثر من 1,580 مشروع صغير بسعة إجمالية 59.4 ميجاوات، يتراوح سعة المشروع من عدة كيووات إلى 2,500 كيلووات. غير المحطات غير المتصلة بالشبكة.[80]
المملكة المتحدة
في نهاية عام 2011، كانت هناك أكثر 230,000 مشروع طاقة شمسية في المملكة المتحدة،[81] بسعة كلية 750 ميجاوات.[82] بحلول فبراير 2012، وصلت السعة الكلية إلى 1,000 ميجاوات.[83] لتنمو بعد ذلك سريعا في السنوات الأخيرة نتيجة لإنخفاض تكلفة الألواح الشمسية (PV)، وإعادة تجديد التسعيرة في إبريل 2010.[81] في عام 2012، أعلنت الحكومة أنه في خلال ثمان سنوات ستدخل تكنولوجيا الطاقة الشمسية أكثر من 4 مليون منزل إنجليزي،[84] وبحلول عام 2020 سيكون قد تم تثبيت 22,000 ميجاوات.[81] في إبريل 2015، إرتفعت السعة الكلية لتصل إلى 6,562 ميجاوات من أكثر 698,860 منشآة.[85]
جنوب أوروبا
اليونان
بحلول سبتمبر 2013، وصلت السعة الكلية للطاقة الشمسية في اليونان إلى 2,523.5 ميجاوات بعد تثبيت حوالي 987.2 ميجاوات في الفترة ما بين يناير وسبتمبر لعام 2013 بالرغم من الأزمة المالية التي تمر بها البلد.[86] تأتي اليونان في المرتبة الخامسة فيما يتعلق بنصيب الفرد من الطاقة الشمسية بالوات. ومن المتوقع أن تصل نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في الشبكة الكهربية إلى 7% في عام 2014.[87]
من المخطط إنشاء محطة للطاقة الشمسية في جزيرة كريت. بالإضافة إلى الأبحاث التي تهدف إلى خفض تكلفة الألواح الشمسية وزيادة كفاءتها. كما تهدف إلى زيادة عدد الأنظمة المنشأة على أسطح المنازل.
إيطاليا
بحلول نهاية 2010، كان هناك 155,977 محطة للطاقة الشمسية بسعة إجمالية 3,469.9 ميجاوات.[88] إرتفعت أعداد المحطات والسعة الكلية في الفترة ما بين عام 2009 و 2010 نتيجة الحوافز العالية التي قام بها كونتو انيرجيا. ففي عامين فقط تضاعفت السعة ثلاثه أضعاف.[88]
في عام 2010 تم توليد ما يقرب من 1,905.7 جيجاوات ساعة. لتصبح معدلات النمو سريعة جدا في السنوات الأخيرة ففي عام 2010 كان معدل النمو 182% بالمقارنة ب 251% في عام 2009.[88] جاء أكثر من خمس إجمالي الإنتاج في عام 2010 من جنوب منطقة بوليا.[88]
في ديسمبر 2012، وصلت السعة الكلية إلى 17 جيجاوات موفرة فرص عمل لأكثر من 100,000 فرد في تصميم الخلايا وتركيبها.[89]
البرتغال
تم الانتهاء حديثا من بناء محطة سيربا للطاقة الشمسية في البرتغال، أحد أكثر الدول الأوروبية المتعرضة للشمس.[90] بلغت سعة المحطة 11 ميجاوات على مساحة 150 فدان (0.61 كيلومتر مربع) تضم المحطة 52,000 لوح شمسي على ارتفاع 2 متر من سطح الأرض لتظل المنطقة صالحة للرعي. يهدف المشروع إلى توفير الطاقة اللازمة لأكثر من 8,000 منزل ومنع 30,000 طن من إنبعاثات غاز ثاني أكسيد الكربون سنويا.[91][92]
تقع محطة مورا للطاقة الشمسية في بلدية مورا، منطقة ألنتيجو الداخلية، البرتغال. تتكون المحطة من مرحلتين، الأولى تم الانتهاء منها في 13 شهر وتسليمها في عام 2008، أما الثانية فتم تسليمها في عام 2010. بلغت تكلفة إنشاء المحطة حوالي 250 مليون يورو
اسبانيا
تعتبر إسبانيا واحدة من أكثر الدول التي ساهمت في تطوير الطاقة الشمسية، حيث أن عدد ساعات ظهور الشمس لديها من أكبر عدد الساعات في أوروبا. أعلنت أسبانيا أن نسبة مشاركة الطاقة المتجددة سيصل إلى 12% بحلول عام 2010، وتثبيت 3000 ميجاوات من الطاقة الشمسية.[93]
تحتل إسبانيا المركز الرابع في قائمة أكثر الدول إنتاجا للطاقة الشمسية وتقوم بتصدير 80% من إنتاجها إلى ألمانيا.[94] في عام 2008، أعلنت أنها تستهدف الوصول إلى 2.6 جيجاوات،[95] ثم أعلنت مرة أخرى ارتفاع الهدف إلى 3.5 جيجاوات.[96] ليصل التوليد في نهاية عام 2010 إلى 4 جيجاوات، منتجة ما يقرب من 6.9 تيراوات ساعة، كافية لتغطية 2.7% من إحتياجها للكهرباء.
أزال قرار وزاري صدر في مارس 2004 الحواجز الإقتصادية لربط تكنولوجيات الطاقة المتجددة بالشبكة الكهربية. بالإضافة للمرسوم الملكي رقم 436/2004 لتغيير تسعيرة وحدة الطاقة. لم يستمر دعم الحكومة الإسبانية طويلا،[97] ففي أعقاب الأزمة المالية الشهيرة في 2008 أخفضت الحكومة دعهما للطاقة الشمسية وحددت زيادة 500 ميجاوات فقط سنويا.[98]
أوروبا الغربية
النمسا
وصلت السعة الكلية للطاقة الشمسية في النمسا حوالي 421.7 ميجاوات في نهاية عام 2012، بزيادة 234.5 ميجاوات عن العام السابق. معظم الطاقة متصلة بالشبكة.[99] لطالما كان نمو الطاقة الشمسية في النمسا متواضعا لسنوات عديدة، على عكس العديد من الدول الأوروبية الأخرى كألمانيا وإيطاليا وإسبانيا الذين كانوا يسجلون أرقام قياسية عاما بعد عام حتى عام 2011. لينقلب الحال في عام 2012، حيث قامت النمسا بتثبيت ما يقرب من 200 ميجاوات في العام الواحد فيما كان السوق الأوروبي يمر بأزمة. تتوقع وكالة الطاقة الشمسية بأوروبا أن النمسا ستكون من أكثر الدول المؤثرة في سوق الطاقة الشمسية العالمي في السنوات القليلة القادمة.[100]
بلجيكا
في أكتوبر 2009، أعلنت مدينة أنتويرب عن نيتهم في إستغلال مساحة 2,500 متر مربع لبناء ألواح شمسية على أسطح المنازل والمباني العامة لتوليد 265,000 كيلووات ساعة في العام.[101]
في ديسمبر 2009، أعلنت كاتون نات عن نيتهم في تثبيت ألواح شمسية على مساحة 800,000 متر مربع في أماكن مختلفة مثل أنتويرب.[102] ومن المتوقع أن تصل نسبة النمو في المنطقة الفلمنكية إلى 25% لتكون المنطقة الأكثر نموا في أوروبا،[102] بتكلفة كلية 166 مليون يورو.[103]
فرنسا
نمت الطاقة الشمسية في فرنسا بشكل هائل فوصل التوليد إلى أكثر من 4000 جيجاوات ساعة سنويا. في عام 2013، زادت السعة الكهربية بمقدار 613 ميجاوات من الطاقة الشمسية فقط. بما يعادل 45% من الزيادة في السنة السابقة، حينما تم إضافة 1115 ميجاوات. بنهاية مارس 2015، وصلت السعة التراكمية للطاقة الشمسية إلى ما يقارب 5.2 جيجاوات، بعد إضافة 223.22 ميجاوات إلى شبكة الطاقة في الربع الأول من نفس العام. وبذلك أصبحت فرنسا في المركز السابع في قائمة أكثر الدول إنتاجا للطاقة الشمسية بعد ألمانيا، والصين، وإيطاليا، واليابان، والولايات المتحدة وإسبانيا.
وصل عدد المنشآت التي أنجزت ينهاية عام 2011 إلى 242295 منشأة، 0.2% فقط فوق 250 كيلو وات، بنصيب 38.6% من عدد المنشأت. بينما كان 89.1% أقل من 3 كيلو واتأو أقل برصيد 20.3% من عدد المنشأت الكلي[104].
ألمانيا
تربعت ألمانيا على قمة دول العالم المنتجة للطاقة الشمسية منذ عام 2005 لأكثر من سبع سنوات برصيد توليد وصل إلى 36 جيجاوات في فبراير 2014.[105] لتصل نسبة مساهمة الطاقة الشمسية في ذلك العام إلى 6% من إجمالي إنتاج الكهرباء في الشبكة الكهربية. على الرغم من انتهاء فترة الإزدهار في عام 2012 وإنخفاض السوق الوطني للطاقة الشمسية في ألمانيا نتيجة التعديلات في قانون الطاقة المتجددة (EEG) الذي ينص على أن تخفيض تسعيرة وحدة الطاقة، وضع قيود على المنشآت لكي لا تزيد سعتها عن 10 ميجاوات.[106]
يضمن التعديل الجديد لقانون (EEG) المساعدات المالية بشرط أن لا تزيد السعة الكلية للبلد لم تصل إلى 52 جيجاوات. كما حدد حجم الزيادة السنوية ليتراوح ما بين 2.5 - 3.5 جيجاوات. كما نص على أن تكون نسبة مشاركة الطاقة المتجددة يتراوح ما بين 40 - 45 ٪ في الشبكة الكهربائية بحلول عام 2025، ومن 55-60% بحلول عام 2035.[107]
في الفترة ما بين عامي 2010 و 2012 تم تثبيت ما يقرب من 22 جيجاوات، بما يعادل ثلث السعة في ذلك الوقت.
توجد العديد من محطات الطاقة الشمسية كبيرة الحجم في ألمانيا مثل سينفتينبيرج سولار بارك، فينستيروالدي سولار بارك، محطة ليبروز للطاقة الشمسية، محطة ستراسكيرشن الشمسية، ومحطة فالدبولينتز للطاقة الشمسية وكيوتين سولار بارك.
هولندا
كان أكبر تثبيت للطاقة الشمسية في هولندا عام 2002 عندما نجحت في تثبيت 2.2 ميجاوات في هارلمرمير[108]، في عام 2011، تم تثبيت 500 كيلو وات على أسطح محطة روتردام المركزية[109]. في عام 2015 تم البدء في إنشاء محطة خلايا شمسية بسعة 6 ميجاوات على جزيرة أمالاند[110].
سويسرا
نمت الطاقة الشمسية في سويسرا نموا سريعا في السنوات الأخيرة الماضية بسبب إنخفاض تكلفة الإنشاء والتسهيلات التي قامت بها الحكومة لتشجيع الإستثمار في هذا المجال. في عام 2013، زادت السعة التراكمية 69٪ ووصلت تقريبا إلى 730 ميجاوات، تدخل الطاقة الشمسية في حوالي 0.8٪ في التطبيقات غير الكهربائية للبلد بتقدير 544 جيجاوات ساعة[111].
قديما، كانت سويسرا إحدى الدول الرائدة في مجال الطاقة الشمسية في فترة الثمانينات وأوائل التسعينات، لكن منذ ذلك الحين فقدت إيقاعها السريع وسبقها جيرانها مثل إيطاليا وألمانيا. ولكن مع إغلاق محطات الطاقة النووية، فإن سوق الكهرباء السويسري يمر حاليا بأكبر تغيير له في التاريخ[112][113].
أمريكا الشمالية
كندا
كانت محطة سارنيا للطاقة الشمسية بالقرب من سارنيا، أونتاريو في سبتمبر 2010 المحطة الأكبر في العالم بسعة وصلت إلى 80 ميجاوات.[114] حتى سبقته محطة في الصين. تم إنشاء المصنع على مساحة 950 فدان (380 هكتار) تحتوي المحطة على 1.3 مليون خلية شمسية رفيعة على مساحة 966,000 متر مربع (96.6 هكتار). وصل الإنتاج السنوي للطاقة ما يقرب من 120,000 ميجاوات ساعة ما يمنع إنبعاث 39,000 طن من غاز ثاني أكسيد الكربون.
لدى كندا العديد من المناطق قليلة السكان ولكن يصعب الوصول إليها، غير معرضة لأشعة الشمس بشكل جيد نظرا لمرور البلد على خطوط عرض عليا. في الفترة الأخيرة بدأ استخدام الخلايا الشمسية كوحدات مستقلة غير متصلة بالشبكة تستخدم لتوليد ونقل الكهرباء في المناطق النائية، معدات الاتصال السلكية واللاسلكية، محطات رصد الغاز الطبيعي والأجهزة الملاحية. نمى سوق الطاقة الشمسية الكندي بسرعة كبيرة في الآونة الأخيرة، قامت فيها الشركات الكندية بصنع خلايا شمسية، أدوات تحكم، مضخات مياة متخصصة، نظم إضاءة وثلاجات عالية الكفاءة.[115] تعتبر أونتاريو من أكثر المدن الداعمة لنمو الطاقة الشمسية.
توجد أهم تطبيقات الخلايا الشمسية في المجتمعات الشمالية، والتي تعتمد بشكل كبير على وقود الديزل عالي التكلفة في توليد الكهرباء.من سبعينات القرن الماضي، شجعت الحكومة الإتحادية والصناعية تطوير تكنولوجيات الطاقة الشمسية لهذه المجتمعات. تم تركيز أغلب الجهد على تطوير النظم الهجينو التي توفر الطاقة 24 ساعة في اليوم، باستخدام الطاقة الشمسية عندما تتوفر أشعة الشمس، بالاقتران مع مصدر آخر للطاقة.[115]
المكسيك
كانت المكسيك أكبر منتج للطاقة الشمسية في أمريكا اللاتينية حتى فترة قريبة قبل أن تتجاوزها تشيلي. تخطط تشيلي لبناء محطة مركبة سعة الطاقة الشمسية فيها 30 ميجاوات مع توربينه غاز بقدرة 400 ميجاوات لتوفير الكهرباء اللازمة لمدينة أغوا بريستا، سونورا. لتمويل هذا المشروع أخذت كندا قرض بلغت قيمته 50 مليون دولار أمريكي من البنك الدولي.[116]
الولايات المتحدة
تزامن إنخفاض تكلفة إنشاء محطات الطاقة الشمسية مع النمو السريع في تكنولوجيا الطاقة الشمسية. ففي نهاية عام 2015،[117][118] وصلت السعة الكلية إلى 27 جيجاوات ( 25.6 جيجاوات طاقة شمسية، 1.8 جيجاوات طاقة شمسية مركزة). تتوقع رابطة صناعات الطاقة الشمسية الأمريكية أنه سيتم إضافة ما يقرب من 90 جيجاوات من الطاقة الشمسية في الست سنوات القادمة، لتتجاوز السعة الكلية حاجز 100 جيجاوات بحلول عام 2021.[119]
تشير إحصائيات إدارة معلومات الطاقة في الولايات المتحدة أن نسبة مشاركة الطاقة الشمسية قد وصل إلى 0.65% من إجمالي الطاقة الكهربائية في عام 2015، أعلى مما تم تحقيقة في عام 2005 بحوالي 0.01%.[120] يختلف إنتاج الطاقة الشمسية من ولاية إلى أخرى على حسب معدل الإشعاع الشمسي فعلى سبيل المثال تتجاوز نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في ولاية كاليفورنيا 7%.[121][122]
ألزمت الحكومة 29 ولاية على استخدام الطاقة المتجددة والوصول لهدف محدد بحلول أكتوبر 2015، تم إضمان الطاقة الشمسية في 20 ولاية منهم.[123][124] وكنتيجة لذلك تم إنشاء ما يقرب من 784,000 نظام شمسي على أسطح المنازل والمباني العامة في الربع الثاني من عام 2015.[125]
أوقيانوسيا
تعهد عدد لا بأس به من جزر المحيط الهادئ برفع استخدامهم للطاقة الشمسية، وأنها ستصبح مثال للبلاد الأخرى لتقليل إعتمادهم على الوقود الحفري عالي الثمن. تم تمويل عدد كبير من محطات الطاقة الشمسية من قبل اليابان، نيوزيلندا، والإمارات العربية المتحدة. تم ربط العديد من محطات الطاقة الشمسية بالشبكة الكهربية في توفالو، وفيجي، وكيريباتي.[126] تم توقيع اتفاقية تعاون مشترك بين الجزر ومؤسسة مصدر التابعة لدولة الإمارات العربية المتحدة في عام 2016 تضمن توليد 1 ميجاوات في جزر سليمان، 500 كيلو وات في ناورو، 600 كيلو وات في جزر مارشال، 600 كيلو وات في ميكرونيزيا غير محطة مركبة (ديزل وطاقة شمسية) في بالاو.[127][128] كما تم إنشاء محطة سامو الأمريكية بسعة 2 ميجاوات في مطار باغو باغو.[129]
أستراليا
وصلت السعة الكلية للطاقة الشمسية في استراليا في يونيو 2016 إلى ما يقرب من 5,400 ميجاوات.[130] تقع أكبر محطة للطاقة الشمسية في أستراليا في نيجنان بسعة 100 ميجاوات التي كانت تعتبر المحطة الأكبر في نصف الكرة الجنوبي عندما تم الانتهاء من إنشاءها. كما توجد مزرعة موري للطاقة الشمسية بسعة 56 ميجاوات، محطة هيل للطاقة الشمسية بسعة 53 ميجاوات، مزرعة رويالا بسعة 20 ميجاوات، مزرعة نهر جرينرو بسعة 10 ميجاوات بالقرب من جيرالدتون، غرب أستراليا.
تم إنشاء محطة طاقة شمسية حرارية بسعة 9 ميجاوات في محطة ليديل للطاقة. تستخدم المحطة نظام عاكس للأشعة الشمسية تم تطويرة في أستراليا. حيث يتم توجية البخار المتولد من الطاقة الشمسية إلى سخان للفحم بقدرة 600 ميجاوات. بسبب أضرار الفحم تم تحويل المحطة في بداية عام 2016 إلى محطة بوست بسعة 40 ميجاوات.[131]
نيوزيلندا
لم تتجاوز نسبة مشاركة الطاقة الشمسية في نيوزيلندا 0.1% بسبب تركيز الحكومة على الطاقة الكهرمائية، الطاقة الحرارية الأرضية وطاقة الرياح كأهم مصادر الطاقة المتجددة. تم تركيب أنظمة للطاقة الشمسية في 42 مدرسة في نيوزيلندا وفقا لبرنامج شولجين، وهو برنامج تم تطويره لتعليم الطلاب عن تكنولوجيا الطاقة الشمسية. تمتلك كل مدرسة لوحة شمسية بسعة 2 كيلو وات. في الفترة بين فبراير 2007 و 29 ديسمبر 2012 تم توليد ما يقرب من 395.714 ميجاوات.[132]
في عام 2010، تم إنشاء أكبر مزرعة شمسية في نيوزيلندا تعمل بالألواح الشمسية الرفيعة بسعة 20 كيلو وات في هوبارد للأطعمة.[133] بينما تم إنشاء نظام شمسي في كوينزتاون في عام 2009.[134] في إبريل 2012، تم إنشاء أكبر محطة للطاقة الشمسية بسعة 68.4 كيلو وات لتوفير 70% من الكهرباء اللازمة في جنوب أوكلاند.[135][136]
أمريكا الجنوبية
في الآونة الأخيرة بدأت العديد من بلدان أمريكا الجنوبية بالاهتمام بالطاقة الشمسية مثل شيلي وبيرو.[137]
البرازيل
كان هدف البرازيل هو الوصول إلى 69 ميجاوات بنهاية عام 2015 وتغطية إحتياج 0.01% من إحتياج سكانها للكهرباء. تم الإعلان في نوفمبر 2015 عن وجود 1,300 نظام شمسي فقط متصل بالشبكة وأنه بحلول عام 2024 سيكون قد تم الانتهاء من توصيل 1.2 مليون نظام.[138]
تمتلك البرازيل واحدا من أعلى معدلات الطاقة الشمسية في العالم، فيتراوح معدلها اليومي من 4.25 إلى 6.5 ساعة.[139]
تشيلي
تم إفتتاح محطة روميرو للطاقة الشمسية في نوفمبر 2016 في فالينار في منطقة أتاكاما.[140] لتصبح بذلك أكبر مزرعة للطاقة الشمسية في أمريكا اللاتينية في ذلك الوقت.
في النصف الأول من عام 2015، وصلت سعة الطاقة الشمسية في تشيلي إلى 546 ميجاوات، غير محاولة تثبيت 1,647 ميجاوات.[141]
أمريكا الوسطى ومنطقة البحر الكاريبي
أمريكا الوسطى
دخلت أغلب دول أمريكا الوسطى سوق الطاقة الشمسية في عام 2014. وبحلول عام 2015 وصلت السعة الكهربائية في كلا من هندوراس إلى 460 ميجاوات، غواتيمالا (98 ميجاوات)، بنما (62 ميجاوات).[142]
منطقة البحر الكاريبي
بدأت أغلب جزر البحر الكاريبي بالاتجاه إلى بناء محطات الطاقة الشمسية مثل جمهورية الدومينيك، جامايكا، سانت كيتس ونيفيس، هايتي وبربادوس.
جمهورية الدومينيك
توجد بجمهورية الدومينيك أكبر محطة للطاقة الشمسية في منطقة البحر الكاريبي بسعة 33.5 ميجاوات. كما توجد خطة لرفع سعتها لإنتاج 51,000,000 كيلو وات ساعة في السنة.[143][144]
جامايكا
في عام 2014، تم تثبيت نظام شمسي بسعة 1.6 ميجاوات في منتجع على شاطئ بحر، بالقرب من العاصمة الرعية لوكيا في أبرشية هانوفر.[145][146] تم تطويرها من قبل سوفوس جامايكا،[147] لتبقى هي المحطة الأكبر في جامايكا حتى عام 2015 عندما تم إنشاء محطة أبرشية كلاريندون بسعة 20 ميجاوات.[148][149][150]
لا يوجد قاعدة بيانات مؤكدة لمعرفة السعة الكلية للطاقة الشمسية في جامايكا أو نسبة مساهمة الطاقة الشمسية في الشبكة الكهربائية، ولكن المعلومات على الإنترنت يذكر أن في منتصف عام 2015، كان هناك أكثر من 3.7 ميجاوات متصلة بالشبكة،[146] 1.6 ميجاوات على أسطح المنازل وحوالي 500 كيلو وات تجاري في العاصمة كينغستون.[151]
انظر أيضا
نمو الخلايا الشمسية
المصادر
وصلات خارجية
تصنيف:الطاقة الشمسية حسب البلد
تصنيف:خلايا كهروضوئية
تصنيف:طاقة متجددة
تصنيف:طاقة شمسية
تصنيف:الوكالة الدولية للطاقة المتجددة
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కాఫీ అనేది ఒక ఉత్సాహపానీయము. కాఫీ చెట్ల పండ్ల నుండి లభించే గింజలను ఎండబెట్టి వేగించి పొడి చేసి కాఫీ తయారీకి ఉపయోగిస్తారు.
కాఫీగింజలను దాదాపు 70 దేశాలలో పండిస్తున్నారు. కాఫీ పంటను ముఖ్యముగా లాటిన్ అమెరికా, దక్షిణా ఈశాన్య ఆసియా మరియు ఆఫ్రికాదేశాలలో విస్తారంగా పండిస్తున్నారు. వేగించని పచ్చి కాఫీ గింజల వాణిజ్యము ప్రపంచంలో అత్యధికంగా జరిగే ప్రసిద్ధ వాణిజ్యాలలో ఒకటి. కాఫీ గింజలలో ఉన్న కాఫి అనే పదార్ధము మానవులను ఉత్సాహపరుస్తుందని ఊహించబడుతుంది. కాఫీ ప్రపంచంలో అత్యధికంగా సేవించే ఉత్తేజపూరితమైన పానీయము. కాఫీ అనేది ఒక ప్రసిద్ధ పానీయం. ప్రపంచ వ్యాప్తంగా అన్నిప్రాంతాలలో దొరికే ఈ పానీయం. పెద్దల నుండి పిన్నల వరకు అనేకంగా అలవాటు పడిన ఉత్తేజాన్ని కలిగించే పానీయము. కాఫీ గింజలను సువాసన వచ్చేవరకు వేగించి పొడిచేసి దానిని నీటితో మరిగంచి ఆ నీటిని వడకట్టి కాఫీ డికాషన్ తయారు చేస్తారు. కాఫీ డికాషన్ లో పంచదారను చేర్చి పానీయంగా వేడిగా త్రాగుతారు. మనదేశంలో కాఫీ డికాషన్ లో పాలను చేర్చి త్రాగే అలవాటు కాని అమెరికా మరియు ఐరోపా లాంటి
దేశాలలో పాలను చేర్చకుండా అధికంగా త్రాగుతుంటారు. కాఫీని అతి వేడిగానూ, అతి చల్లగానూ త్రాగడం చాలా మందికి అలవాటు. కాఫీ ఒక ఉత్సాహ పానీయం. దీనిని అనేకంగా ఉదయపు వేళలో ఉట్టిది గానూ మిగిలిన సమయాలలో అల్పాహారంతోనూ త్రాగడం అలవాటు. ప్రస్తుతం స్నేహితులు బంధువులు వచ్చినపుడు కాఫీతో సత్కరించడం సాధారణం అయింది. విందులు వినోదాలలో కాఫీలు అతి ముఖ్యం అయ్యాయి. ఉత్తర అమెరికాలో 1688లో కాఫీ సేవించిన ఘటన పేర్కొనబడింది. కాఫీ అనేక సమాజాలలో వారి సంస్కృతిలో ప్రధాన పాత్ర వహిస్తూ జీవిత ఆహారపు శైలిలో ఒక భాగం అయింది.
పేరు చరిత్ర
కాఫీ ఇధియోపియా గొర్రెల కాపరులచే యదేచ్చగా 9వ శతాబ్దములో కనిపెట్టబడింది. ఇధియోపియా కొడ ప్రాంతాలలో మేతమేస్తున్న గొర్రెలు ఒక విధమైన మొక్కలలో ఉన్న పండ్లలను తిని ఉత్సాహంతో గంతులు వేస్తున్న గొర్రెలను గమనించి ఆపండ్లలో ఏదో వింతైన శక్తి ఉన్నట్లు గ్రహించి వాటిని ఉపయోగించడము ప్రారంభించి దానికి కాల్ది అని నామకరణము చేశారు. తరువాతి కాలంలో ఇది ఈజిప్ట్, యేమన్ దేశాలలో వ్యాప్తి చెందింది. 15 వ శతాబ్దానికి ఇది మధ్య తూర్పు దేశాలైన ఉత్తర ఆఫ్రికా, పర్షియా, టర్కీలని చేరింది.
1585 వ సంవత్సరములో లెయాన్ హార్డ్ ర్యూవుల్ఫ్ (Leonhard Rauwolf) అనే జర్మన్ డాక్టర్ తన పది సంవత్సరాల తూర్పు దేశ వాసము చేసి తిరిగి జర్మనీ చేరుకున్న తరువాత కాఫీని నరాల బాధా నివారిణిగా తీసుకొమ్మని రోగులకు సలహా ఇచ్చాడు.
ఇదీ దాని సారాంశము
“బున్ను అనే మొక్కల పండ్లతో నీటిని చేర్చి తయారుచేసిన ఇంకులా ఉండే నల్లని ద్రవము ఉదయము ఒక పార్సిలియన్ కప్ నిండా త్రాగాలి. ఇది నరాల బలహీనతను ముఖ్యముగా కడుపుకి సంబధించిన బాధని దూరము చేయటానికి ఉపయోగంగా ఉంటుంది”
ముస్లిమ్ దేశాలనుండి కాఫీ ఇటలీ దేశానికి వ్యాప్తి చెందింది.క్రమంగా కాఫీ ఉత్తర ఆఫ్రికా, వెనిస్, ఈజిప్ట్, మధ్యప్రాచ్యదేశాల మధ్య ముఖ్యమైన వాణిజ్య వస్తువైంది. వెనిస్ నుండి మిగిలిన ఐరోపా ఖండములో ఇది వ్యాప్తి చెందటము ప్రారంభించింది. 8వ పోప్ క్లెమెన్ట్ దీనిని క్రైస్తవ పానీయంగా గుర్తించడంతో ఇది
క్రైస్తవుల అంగీకారాన్ని పొంది వారి సంప్రదాయ పానీయంగా చోటు చేసుకుంది. యురోపియన్ మొట్టమొదటి కాఫీశాల 1645 లో ఇటలీలో ప్రారంభించబడింది.
కాఫీని పెద్ద మొత్తంగా డచ్ దిగుమతి చేసుకోవడం ప్రారంభించింది. అరబ్ దేశాలు కాఫీ మొక్కలను, పచ్చి కాఫీ గింజలను ఎగుమతి చేయడంపై నిషేధం విధించడంతో డచి కాఫీ మొక్కల పెంపకాన్ని జావా,సిలోన్ లలో ప్రారంభించింది.ఈస్టిండియా కంపనీ వలన కాఫీ ఇంగ్లండ్ లో వ్యాప్తి చెందింది తరువాత ఫ్రాన్స్, ఆస్ట్రేలియా, పోలెండ్, వియన్నాలలో వ్యాప్తి చెందింది.ఉత్త్రర అమెరికాలలో కాలనీల కాలంలో ప్రారభమైన కాఫీ వాడకము ఐరోపా లా ప్రారంభంలో అమెరికన్లను ఆకర్షించకపోయనా కాఫీకి అమెరికన్ల మధ్య కొంత చోటు మాత్రం లభించింది.తరువాతి కాలంలో అవసరానికి కావలసినంత సరుకు లభించని కారణంగా వ్యాపారులచే కాఫీ ధర విపరీతంగా పెరగసాగింది. 1812 లో జరిగిన యుద్ధానంతరము టీ దిగుమతులు ఇంగ్లండ్ తాత్కాలికంగా నిలిపి వేయడంతో అమెరికాలో కాఫీ వాడకం ఊపందుకుంది. కాఫీ పొడి తయారీలో సాకేతిక నైపుణయము మెరుగుపడసాగింది. తరువాతి కాలంలో అమెరికన్ల మధ్య కాఫీ తప్పనిసరి ఆహార పానీయాలలో ఒకటిగా మారింది.
కాఫీ యథియోపియన్ల ద్వారా కాకతాళీయంగా కనిపెట్టబడినదే అయినా దీనిని పంటలుగా పండిండించి అభివృద్ధిచేసిన ఘనత మాత్రము అరేబియనులదే. 15వ శతాబ్ద మధ్యకాలంలో కాఫీని సేవించినట్ల ఆధాలు లభ్యమౌతున్నాయి. దక్షిణా అరేబియా ఏమన్ చెందిన సూఫీలు దీనిని సేవించినట్లు ఆధారాలు లభ్యమౌతున్నాయి. ముస్లిమ్ దేశాల నుండి ఇది ఇటలీకి విస్తరించింది. తరువాత ఇండోనేషియా, తూర్పు ఐరోపా మరియూ అమెరికాలకు విస్తరించింది.
కాఫీ చెట్లు వాడని పచ్చదనాన్ని కలిగిన చిన్న చెట్లు. ఇవి సాధారణంగా కొండ ప్రాంతాల్లో నాటబడతాయి. ఇవి 3-9 మీటర్ల ఎత్తువరకు పెరుగుతాయి. ఇవి సామాన్యంగా సంవత్సరానికి ఒకసారి ఆకుపచ్చ గింజల రూపంలో వికసిస్తాయి. ఎనిమిదవ సంవత్సరంలో ఇది వాణిజ్యమైన మంచి దిగుబడిని ఇవ్వగలుగుతుంది. కాఫీ పానీయాన్ని తాగుతున్నప్పుడు అందులో ఉన్న కెఫిన్ (ఆల్కలాయిడ్) మనకు కావలసిన ఉత్సాహాన్నిచ్చి మానసిక స్థితిని ఒక ఉచ్ఛ దశకు తీసుకెళ్తుంది. అందులో ఉన్న మరో వస్తువు కాఫీయోల్ చాలా హాయినిచ్చే రుచి సువాసలనలు కాఫీకి అందజేస్తుంది. కాఫీకి చికోరీ చేర్చడం వలన ఒక విధమైన రుచి వస్తుంది. కాఫీ తీసుకోవడం ద్వారా అల్జీమర్ వ్యాధులకు చెక్ పెట్టవచ్చునని దక్షిణ ఫ్లోరిడా యూనివర్శిటీ అధ్యయనంలో తేలింది. కాఫీలోని కఫేన్లు శరీరంలోని రక్తపు స్థాయిని పెంచుతుందని ఆ అధ్యయనంలో వెల్లడైంది. కాఫీ గింజల్లోని కఫేన్ల ద్వారా జ్ఞాపకశక్తికి సంబంధించిన వ్యాధులు కూడా నయమవుతాయని తెలియవచ్చింది. కఫెనేటెడ్ కాఫీ సాధారణంగా రక్తపు గ్లూకోజ్ స్థాయిని పెంచుతుందని యూఎస్ఎఫ్ న్యూరోసైంటిస్ట్ చవాన్హయ్ కో తెలిపారు. అలాగే కాఫీ తాగడం వల్ల ఉత్సాహం, చురుకుదనం కలగడమే కాకుండా గుండెకు మేలు జరుగుతుంది. కెఫిన్ గుండెకు రక్షణ కల్పిస్తుంది. క్రమం తప్పకుండా కాఫీ సేవించడం వల్ల గుండె క్రమబద్ధంగా పనిచేస్తుందని సర్వేలో తేలింది. కెఫిన్ కాపీ తాగడం ద్వారా మెదడు చురుగ్గా పనిచేస్తుందని చవాన్ వెల్లడించారు.
ఒక రోజుకు రెండు లేదా మూడు కప్పుల కాఫీ తాగితే పక్షవాతం వంటి వ్యాధులు దరిచేరవని స్వీడన్కు చెందిన పరిశోధకులు నిర్వహించిన ఒక అధ్యయనంలో తేలింది. అదేసమయంలో ఇష్టానుసారంగా తాగితే మాత్రం బీపీ వంటి రోగాలు కొని తెచ్చుకున్నట్టేనని వారు హెచ్చరిస్తున్నారు. స్వీడన్లోని పరిశోధకులు నిర్వహించిన ఈ అధ్యయన వివరాలను పరిశీలిస్తే.. 1960 నుంచి స్టాక్హోమ్లోని కరోలిన్స్కా ఇన్స్టిట్యూట్ పరిశోధకులు దాదాపు ఐదు లక్షల మంది కాఫీ ప్రియులపై ఈ అధ్యయనం చేసినట్టు తెలిపింది. కాఫీ తాగితే మెదడులో రక్తం గడ్డ కట్టడాన్ని 14 శాతం తగ్గిస్తుందని వారు తెలిపారు. అలాగే, కాఫీ ద్వారా చెడ్డ కొలస్ట్రాల్ నుంచి మెదడును కాపాడవచ్చు. అయితే కాఫీ మోతాదు ఎక్కువైతే రక్తపోటు వచ్చే ప్రమాదం కూడా ఉందని వారు హెచ్చరించారు. ఈ విషయాలన్నీ అమెరికల్ జర్నల్లో ప్రచురితం చేశారు. కాఫీ తాగే వారిలో కెఫీన్ ప్రభావం అధికంగా ఉంటుందన్నారు. ఇది రక్తపు పోటును పెంచుతుందని తద్వారా ధమనులు మొద్దుబారుతుందన్నారు. పైపెచ్చు.. గుండె వేగాన్ని పెంచే ఒత్తిడి హార్మోన్ స్థాయిలను పెంచుతుందన్నారు. ఈ విషయం అమెరికాకు చెందిన హార్వర్డ్ మెడికల్ స్కూల్ నిపుణులు 400 మందిపై గుండెపోటు బాధితులపై జరిపిన సర్వేలో వెల్లడైనట్టు డైలీ టైమ్స్ పత్రిక పేర్కొంది.
కాఫీ మరీ అనారోగ్యకరమైన వ్యసనమేమి కాదని ఇటీవల ఓ అధ్యయనంలో తేలింది. కాఫీతో కొన్ని ఆరోగ్యకరమైన లాభాలు కూడా ఉన్నాయని ఈ అధ్యయనంలో తేలింది. టైప్ 2 డయాబెటిస్, గుండె సంబంధింత వ్యాధులు, సమస్యలతో బాధపడేవారికి కాఫీ మేలు చేస్తుందని తెలిసింది. కానీ కొన్ని సైడ్ ఎఫెక్ట్లు కూడా ఉన్నాయని తేలింది. కాఫీలోని కెఫీన్ మూలంగా శరీరంలో ఒకరకమైన వ్యాధి నిరోధక శక్తి అనూహ్యంగా పెరుగుతుంది. ఫలితంగా ఈ శక్తి కార్డియోవాస్క్యులర్ వ్యాధులు, క్యాన్సర్, టైప్2 డయాబెటిస్ సమస్యలను నివారిస్తుంది. కాఫీలో కేలరీలు కూడా తక్కువగా ఉంటాయి. కప్పు కాఫీలో 6 కేలరీలు ఉంటే అందులో కలిపే చక్కెరలో 23 నుంచి 27 కేలరీలు ఉంటాయి. కాఫీలో చక్కెర కలపకుంటే కేలరీలు పెరిగే సమస్యే ఉండదు.
లో (low) బ్లడ్ ప్రెషర్తో బాధపడే వారికి కాఫీ ఎంతో మేలు చేస్తుంది. దీన్ని సేవిస్తే బ్లడ్ ప్రెషర్ లెవెల్స్ క్రమ,క్రమంగా పెరుగుతాయి. కానీ ఎక్కువగా కాఫీ తీసుకుంటే శరీరంలో యాంటిఆక్సిడెంట్స్ పెరుగుతాయి. ఫలితంగా గుండెలో మండినట్టవుతుంది. జీర్ణ సంబంధిత సమస్యలు కూడా ఏర్పడతాయి. కాఫీ ఎక్కువగా తీసుకుంటే ‘కాఫీ జిట్టర్స్’ అనే స్థితికి చేరుకుంటారు. కెఫీన్ ఎక్కువగా శరీరంలో చేరడం వల్ల యాంగ్టిటీతో పాటు నిద్రలేమి సమస్యలు కూడా ఏర్పడతాయి. ఎక్కువగా దీన్ని సేవిస్తే ఎసిడిటీ వంటి సమస్యలతో బాధపడాల్సి వస్తుంది. వీటన్నింటినీ దృష్టిలో పెట్టుకొని కాఫీని అవసరమైన మేరకు సేవిస్తేనే మేలు జరుగుతుందని వైద్య నిపుణులు చెబుతున్నారు.
కాఫీలోని మంచి గుణాలు (positive effects):
ప్రతిరోజూ దీర్ఘకాలము కాఫీ వాడితే గుండెజబ్బులు, మధుమేహము వచ్చే అవకాశము తగ్గుతుంది .
కాఫీ వాడకం వల్ల వుద్ధాప్యము దూరమవుతుందని శాస్త్రవేత్తలు నమ్ముతున్నారు,
కాఫీ లోని కెఫిన్ .. న్యూరొట్రాన్స్మిటర్స్ అయిన " నార్ ఎడ్రినాలిన్ , అసిటైల్ కొలిన్ , డోపమైన్" స్థాయిలను ఎక్కువ చేస్తుంది . వీటిమూలాన పనిలో ఏకాగ్రత, చురుకుతనము, జ్ఞాపకశక్తి మెరుగుపడతాయి
కెఫిన్ తక్కువమోతాదో ఉత్సాహాన్ని పెంచి ... అలసటను తగ్గిస్తుంది,
కెఫిన్ మెటబాలిక్ రేట్ ను ఎక్కువచేస్తుంది ....తాత్కాలికంగా ఉసారుగా ఉండేటట్లు చేస్తుంది .
కెఫిన్ క్యాస్సర్ వచ్చే అవకాశాలు తగ్గిస్తుందని నిపుణులు అంటున్నారు .
కెఫిన్ " పార్కిన్సోనిజం " జబ్బు వచ్చే అవకాశాలు తగ్గిస్తుందని శాస్త్రజ్ఞులు అంటున్నారు .
కెఫిన్ " టైప్ 2 మెధుమేహము " వచ్చే రిష్క్ తగ్గిస్తుందని ఆధారాలు ఉన్నాయి.
కెఫిన్ కొన్ని కాలేయ క్యాన్సర్లు రానీయదని పరిశోధనలు ఉన్నాయి .
కాఫీలోని చెడు గుణాలు (Negative effects):
కెఫిన్ " రక్తనాళాలను కుదించడం (vasoconstruction) వలన రక్తపోటు పెరిగే అవకాశము ఉన్నది . హై బ్లడ్ ప్రషర్ వలన అనేక గుండె జబ్బులు ... స్ట్రోక్ లు,రక్తనాళాలు మూసుకుపోవడము ... వచ్చే అవకాశము ఉన్నది .
కెఫిన్ శరీరములో చలన కదలికలు (Motor movements) నియంత్రించడము వలన చేతులు వణకడము అనే గుణము కలుగవచ్చును .
కెఫిన్ Diuretic గా పనిచేయడం ద్వారా అతిమూత్రము కలుగజేయును .
కెఫిన్ కార్టిసాల్ (cortisol) తయారీ ఎక్కువ చేయడం వల్ల cortisol Tolerence పెరుగును.
కెఫిన్ ఎక్కువమోతాదులో గాబరా (anxiety) ని కలుగుజేయును .
కెఫిన్ అలవాటుగా మారి అది త్రాగడం మానివేసే పక్షములో విత్డ్రాల్ (withdrawal) లక్షణాలు .. తలనొప్పి, అలసట, నీరసము, సమయస్ఫూర్తి లోపము కలుగును .
కెఫిన్ ఎక్కువైతే నిద్రలేమి కలిగి ... తత్సంబందిత దుష్పరిణామాలు కలుగును .
కాఫీ పరిమితములో తాగితే తప్పులేదుగాని .... ఇది ఒక అలవాటుగా మారును . అదిలేనిదే నిత్య కృత్యాలు, కార్యక్రమాలు
స్త్రీలకు కాఫీ మంచిది
రోజుకు రెందు (2) కప్పులు కాఫీ తాగితే స్త్రీల ఆరోగ్యము మెరుగా ఉంటుందని తాజా పరిశోధనలు, ముఖ్యముగా గుండె ఆరోగ్యము చెడిపోయే ప్రమాధము, పక్షవాతము వచ్చే అవకాశాలు తగ్గుతాయి అని అంటారు . కాఫీ సేవనము వల్ల స్ట్రోక్ వచ్చే ప్రమాదము 22-25 శాతం ఆడవారిలో తగ్గిందని స్వీడెన్ పరిశోధకులు తేల్చిన అంశము . కాఫీ వల్ల ఇన్సులిన్ సెన్సివిటీ మెరుగవుతుంది . ఆక్షిడేటివ్ ఒత్త్తిడి తగ్గుతుంది . ఇన్ఫ్లమేషన్ తగ్గుతుంది . దాదాపు 35 వేలమంది స్త్రీలమీద 10 సం.ల కాలం పాటు జరిపిన పరిశోధనల ఫలితం అని అంటున్నారు .
జ్ఞాపకశక్తిని పెంచే కాఫీ
కాఫీలు, టీలు కడుపు నింపుతాయా, ఆరోగ్యాన్నిస్తాయా అని చాలా మంది సణుగుతూ ఉంటారు. దానికి కారణం దాని వల్ల ఆరోగ్యానికి ఏదైనా హాని జరుగుతుందేమోనన్న భయంతో. కానీ ఇప్పుడు భోజనాన్ని తగ్గించి మరీ రోజుకోసారైనా కాఫీ తాగండీ, ఆరోగ్యాన్ని కాపాడుకోండని వైద్య నిపుణులు చెబుతున్నారు. చాలా వరకు చూస్తే కొంతమంది జ్ఞాపక శక్తి తగ్గిపోతోందని బాధపడుతుంటారు. అయితే ఇక నుంచి కాఫీ తాగండి. నడుం కొలత పెరిగిపోతోందని దిగులు పడుతున్న వారు కూడా కాఫీ తాగితే వారి బాధ తగ్గిపోతుంది. ఈ వాస్తవాలన్నీ ఇటీవల జరిపిన ఒక అధ్యయనంలో వెల్లడయ్యాయి. రాత్రి పూట భోజనం మితంగా తీసుకుని ఒక కప్పు కాఫీ తాగితే జ్ఞాపక శక్తి పెరగడంతోపాటు నడుం కూడా సన్న బడుతుందట. మెదడు చురుగ్గా పనిచేయాలంటే అప్పుడప్పుడు కడుపును మాడ్చుకుంటే మంచిదని కూడా డాక్టర్లు చెబుతున్నారు. ఇలా ఉపవాసం ఉండటం వల్ల ఒంట్లోని క్యాలరీలు ఖర్చయి ఆరోగ్యవంతంగా ఉండడంతోపాటు ఆయుర్దాయం పెరుగుతుందని నిపుణులు అంటున్నారు. క్యాలరీలు బాగా ఖర్చయితే జ్ఞాపకశక్తికి, పరిజ్ఞాన శక్తికి అవసరమైన మెదడులోని సీఆర్ఈబీఐ అనే ప్రోటీన్ బాగా ఉత్పత్తి అవుతుందని వైద్య పరిశోధనలో తేలింది. ఇలా చేయడం వల్ల రోజుకు సుమారు 600 క్యాలరీలు ఖర్చవుతాయట. అందువల్ల కాఫీలు తాగితే ఆరోగ్యం చెడిపోతుందన్న అపోహలు వదిలేసి మితాహారం, కప్పు కాఫీతో మీ రాత్రి మెనూ సిద్ధం చేసుకోండి.
కాఫీ తోటలు
1820లో వాణిజ్య పరంగా బ్రిటిష్ ప్రభుత్వపాలనా కాలంలో ప్రారంభించారు. 19వ శతాబ్దం చివరికంతా పడమటి కనుమల్లో కాఫీ తోటలు విస్తరించాయి. ప్రస్తుత కాలంలోనూ ఇవి భారత కాఫీ పరిశ్రమలో ప్రాధాన్యత కలిగి ఉన్నాయి. సంప్రదాయ రీతుల్లో పండించే తమిళనాడు, కేరళ మరియు కర్నాటక రాష్ట్రాలు దేశంలో కాఫీ పంటలో 98% పంటను అందిస్తాయి. దేశీయ కాఫీ ఉత్పత్తులలో 68% కర్నాటక రాష్ట్రంలో పండిస్తారు. ఇటీవలి కాలంలో ఆంధ్రా, ఒరిస్సాకు చెందిన గిరిజనులు తూర్పు కనుమల్లో కాఫీ తోటల పెంపకం ప్రారంభించారు. కొన్ని ఈశాన్య రాష్ట్రాలు నూతనంగా కాఫీతోటల పెంపకం ప్రారంభించారు. ఇవి వ్యాపార సంస్థలు పెద్ద మొత్తంలోనూ మరికొన్ని చిన్నచిన్న తోటల్లోనూ కాఫీ గింజలు పండిస్తున్నారు. అమెరికాలో 1720లో కాఫీ తోటల పెంపకం ఆరంభించినట్లు చారిత్రక ఆధారాలు చెప్తున్నాయి. ప్రపంచంలో అత్యధికంగా కాఫీ ఉత్పత్తి బ్రెజిల్ దేశంలో జరుగుతుంది. ప్రస్తుతం కాఫీ పంటను 60 దేశాలు పండిస్తున్నాయి. వీటిలో అధికం వర్ధమాన దేశాలే కావడం విశేషం. ప్రపంచంలో కాఫీ వినియోగంలో అమెరికా ప్రథమ స్థానంలో ఉండగా తరువాతి స్థానాలలో జపాన్, యురేపియన్ దేశాలున్నాయి.
తూర్పు కనుమల్లో అరకు కాఫీ
1898లో ఆంధ్రప్రదేశ్లో తూర్పు కనుమల పరిధిలోకి వచ్చే తూర్పుగోదావరి జిల్లా పాములేరు లోయలో బ్రిటిషు అధికారి ‘బ్రాడీ’ చేత కాఫీ పంట ప్రారంభమైంది. అక్కడ నుంచి తూర్పుగోదావరిజిల్లా పుల్లంగి, విశాఖ జిల్లా అరకు, చింతపల్లి, గూడెం గిరిజన ప్రాంతాల్లోకి కాఫీ పంట సాగు విస్తరించింది. 1920 ప్రాంతాకి కాఫీ తోట సాగు అరకు లోయలోని అనంతగిరి మరియు చింతపల్లి ప్రాంతానికి విస్తరించినా అది విస్తృత వ్యాప్తికి నోచుకోలేదు. ఆంధ్రప్రదేశ్ అటవీశాఖ 1960లో విశాఖ జిల్లాలోని రిజర్వ్ అటవీ ప్రాంతంలో కాఫీ పంటను 10,100 ఎకరాల్లో అభివృద్ధి చేసారు. ఈ కాఫీ తోటల్ని 1985లో అటవీ అభివృద్ధి సంస్ధకు అప్పచెప్పారు.1956 లో గిరిజన సహకార సంస్ధ (జిసిసి) ఏర్పడ్డాక కాఫీ బోర్డు వారు ఈ సంస్ధని కాఫీ తోట అభివృద్ధి కోసం వుపయోగించుకోవాని ఉద్దేశించారు. ఆ రకంగా గుర్తింపబడి, గిరిజనుల ద్వారా కాఫీ తోట పెంపంకంలో జిసిసి కృషి చేయడం ప్రారంభమైంది. 1975 నుంచి 1985 వరకు జిసిసిలో ఒక ప్రత్యేక కాఫీ తోట అభివృద్ధి విభాగం పనిచేస్తూ సుమారు 4000 హెక్టర్ల కాఫీ తోట పెంపకం గిరిజన ప్రాంతాల్లో మొదయ్యింది. ఈ రకంగా సేంద్రీయ పద్ధతుల్లో గిరిజనుల చేత అరకులోయలో పండుతున్న కాఫీకి ‘అరకుకాఫీ’ అనే పేరు స్ధిరపడింది.
1985 తర్వాత జిసిసి ఆధ్వర్యంలో అరకు కాఫీ అభివృద్ధి కోసం గిరిజన సహకార కాఫీ అభివృద్ధి సంస్ధ () స్ధాపించబడింది. ఈ రకంగా ‘జిసిసి’ ద్వారా మరియు జిసిపిడిసి ద్వారా అభివృద్ధి చేసిన కాఫీ తోటల్ని గిరిజన రైతుకు ఒక్కో కుటుంబానికి రెండు ఎకరాల చొప్పున పంచి ఇవ్వడం జరిగింది. 2015 సంవత్సరంలో గిరిజన కోఆపరేటివ్ ప్లాంటేషన్ డెవప్మెంట్ కార్పోరేషన్ వారు ఈ అరకు కాఫీని అందరికి అందుబాటులో తీసుకురావటానికి లో అమ్మడం మొదలు పెట్టారు.
1997 జూలైలో జిసిపిడిసి సంస్ధ కార్యకలాపాలను సిబ్బందితో సహా ఐటిడిఎలో విలీనంచేసి కాఫీ అభివృద్ధి కార్యక్రమాలను పంచవర్ష ప్రణాళికబద్ధంగానూ, ఉపాధి హామీ నిధుల సహాయంతో అభివృద్ధి చేసిఈ నాటికి లక్ష ఎకరాలకు చేరి, కాఫీ తోటలు గిరిజన రైతుల ద్వారా సాగుచేయబడుతున్నాయి.
భారతదేశంలో పశ్చిమ కనుమల ప్రాంతం కాఫీ తోటల పెంపకంలో గత శతాబ్ది కాలంలో బాగా అభివృద్ధి చెందితే, తూర్పుకనుమల ప్రాంతం కాఫీ పంటలో యింకా అభివృద్ధి చెందుతూనేవున్నది. ఇందులో ఆంధ్రప్రదేశ్లోని విశాఖజిల్లా గిరిజన ప్రాంతాల్లో అరకు, చింతపల్లి ప్రాంతాల్లో అరేబికా రకం ప్రసిద్ధి చెందింది. పనస, సిల్వర్ఓక్, మరియు అరటి చెట్ల నీడలో పెరిగే ఈ కాఫీ సేంద్రియ పద్ధతుల్లో సాగుచేయబడుతున్నది. ఈ ఏజెన్సీ ప్రాంతాల్లో నివసిస్తున్న గిరిజన కుటుంబాలలో లక్షకు పైగా గిరిజన రైతులు ఈ కాఫీ పంట ద్వారా ఆర్థికంగా నిలదొక్కుకుంటున్నారు. ఈ ప్రాంత గిరిజనులు తాము సాంప్రదాయకంగా చేసే పోడు వ్యవసాయాన్ని విడిచిపెట్టి పెద్ద ఎత్తున కాఫీ తోటల పెంపకాన్ని ఆశ్రయిస్తున్నారు. అరకులోయలో పండుతున్న కాఫీ సుమారు 900 నుంచి 1100 మీటర్ల ఎత్తున పండినదైనందువలన ఇక్కడి నేలలో మిళితమైన క్షారగుణం కలిగినందువల్ల ఇక్కడి పండే కాఫీకి కొన్ని ప్రత్యేక లక్షణాలు ఏర్పడ్డాయి. కాఫీ గింజ పరిమాణం లోగాని, నేలసారం వలన కలిగే గుణాల వలన, మిళితమైన పుల్లటి జీర జిహ్వకి తగులుతూ, స్పష్టమైన గాఢతర, సువాసన, మరియు నాలుకకి తగలగానే నరాల్ని కదిలించే క్షారగుణంతో ‘అరకు కాఫీ’ ఒక ప్రత్యేకమైన రుచి గల కాఫీగా గుర్తించబడుతోంది.
1956లో గిరిజన సహకార సంస్ధ ప్రారంభంతో గిరిజన కాఫీ అభివృద్ధి కూడా వేగవంతం అయింది. 2015-16 సంవత్సరంలో గిరిజన సహకార సంస్ధ 1400 టన్నుల కాఫీని గిరిజన రైతుల నుంచి సేకరించి అంతర్జాల వేలం ద్వారా విక్రయించడం ద్వారా అంతర్జాతీయ కాఫీ ధరను గిరిజన రైతుకి అందించడం విశేషం. గిరిజన సహకార సంస్థ అరకు వ్యాలీ కాఫీ, వైశాఖి కాఫీ అనే పేరుతో రెండు కాఫీ ఉత్పత్తులను మార్కెట్లో విక్రయిస్తున్నది.
కాఫీతోటలలో రకాలు
కాఫీతోటలు ప్రధానంగా రెండు రకాలు.ఒకటి అరేబియా రెండవది రోబస్టా.అరేబియా రకం ఎత్తైన ప్రాంతాలలోనూ రోబస్టా రకం దిగువ ప్రాంతాలలోనూ బాగా పెరుగుతాయి.
కాఫీ షాపులు
ప్రపంచ చరిత్రలో మొట్టమొదటి కాఫీ షాపు వెనిస్ నగరంలో 1683లో స్థాపించబడింది. మక్కాలో స్థాపించబడిన కాఫీ షాపులను "కవే కేన్స్" అని పిలువబడ్డాయి.
చదరంగం ప్రదేశాలలో, ముచ్చటించుకునే బహిరంగ ప్రదేశాలలో, విహార సమయాలలో కాఫీ షాపులు విజయం సాధించాయి. పాతకాలంనుండి కాఫీ షాపులను అందంగా అలంకరించడం అలవాటు. కాఫీ షాపులలో సామాజిక మరియు వాణిజ్య సమావేశాలు చోటు చేసుకున్నాయి.ప్రపంచంలో పెద్దది లండన్ కి చెందినది అయిన ఇన్సూరెన్స్ మార్కెట్ లాయిడ్స్ సంస్థ కాఫీ షాపులో రూపు దిద్దుకున్నట్లు కథనం.
మూలాలు
వర్గం:పానీయాలు
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Shark Bay on lahti Länsi-Australiassa Australian läntisimmällä kohdalla yli 800 kilometriä Perthistä pohjoiseen. Noin 13000 neliökilometrin laajuisen lahden erottaa Intian valtamerestä Edel Landin niemimaa ja kolmen saaren ketju. Lahti on matala ja suolainen, ja se elättää monipuolista lajistoa. Siellä on muun muassa maailman laajimpiin kuuluvat meriruohoniityt ja huomattavat dugongi- ja valaspopulaatiot. Lisäksi alueelta löytyy muutama tuhat vuotta vanhoja stromatoliittejä. Iso osa lahdesta kuuluu moniin suojelualueisiin, ja lahti kuuluu myös Unescon maailmanperintöluetteloon.
Dirk Hartog saapui vuonna 1616 ensimmäisenä eurooppalaisena alueelle. Nimensä se sai William Dampierilta vuonna 1699. Monet maantieteelliset piirteet puolestaan on nimetty 1800-luvun alussa kymmenien päivien ajan lahtea kartoittaneen retkikunnan mukaan. Helmenpyynti oli pitkän alueen merkittävin elinkeino. Turismi on kuitenkin kehittynyt 1960-luvun jälkeen, ja alueella vierailee vuosittain noin 170000 turistia. Monkey Miassa on syötetty delfiinejä jo 1960-luvulta lähtien.
Maantiede ja ilmasto
Shark Bay sijaitsee Australian länsirannikolla Intian valtameressä. Lahti on noin 100 kilometriä leveä ja pohjois-eteläsuunnassa noin 200 kilometriä pitkä. Sen pinta-ala on noin 13000 neliökilometriä. Sen keskisyvyys on 9 metriä ja suurin syvyys 29 metriä.[1] Lahden rantaviiva on W-kirjaimen muotoinen. Oikea sakara kulkee pitkin mannermaan rantaviiva, keskisakaran muodostaa Peronin niemimaa ja vasemman sakaran Edel Landin niemimaa. Edel Landin piirteisiin kuuluvat hiekkakivimaastot ja valkoiset hiekkadyynit. Sen läntinen ranta päättyy yllättäen kallioseinämiin ja itäistä rantaa halkovat useat pitkänomaiset lahdet ja lahdelmat, joissa on useita pieniä saaria. Peronin niemimaalla sen sijaan on punaisia hiekkadyynejä ja tasankoja, joista löytyy birrida-nimellä kutsuttuja kipsialtaita.[2] Edel Landin niemimaa jatkuu merelle Dirk Hartogin, Dorren- ja Bernierinsaarena, jotka muodostavat esteen lahden ja meren välille.[1]
Virtaus merestä lahteen on rajoittunut, mutta etelään kulkeva Leeuwinin merivirta tuo lämmintä ja vähäsuolaista trooppista vettä lahteen levestä Dorren- ja Dirk Hartogin saaren välisestä salmesta sekä Dirk Hartogin saaren ja Edel Landin niemimaan välisestä salmesta. Lahden suolaisuus vaihtelee länsi- ja pohjoisosien merellisestä 35–40 ppt:n Shark Baun oikeanpuolisen lahdelman pohjukkan 56–70 ppt:hen.[3]
Shark Bayn alueella yhdistyy kolme merkittävää ilmastotyyppiä, mutta sen ympäristön ilmasto vaihtelee silti puolikuivasta kuivaan. Kesät ovat usein kuumia ja kuivia ja talvet leutoja; kesälämpötilat ovat yleensä 20–35 astetta ja talvilämpötilat 10–20 astetta. Vuotuinen sademäärä on vähäinen, ja lahden itäosissa sadanta on noin 200 millimetriä ja lounaisosissa noin 400 millimetriä vuodessa. Meriveden lämpötila vaihtelee lahden ulkopuolella elokuun 20,9 asteesta helmikuun 26 asteeseen. Lahden sisäosissa vesilämpötila on elokuussa 17 astetta ja suurin mitattu lämpötila helmikuussa 27 astetta.[3]
Luonto
Kasvillisuus
Shark Bay sijaitsee juuri kahden kasvillisuusvyöhykkeen siirtymäalueella. Siellä yhdistyvät Australian sisämaan kuiva ja lounaisosien lauhkea vyöhyke. Kuivalla alueella pääkasveja ovat akaasiat, Tecticornia-suvun mehikasvit ja Spinifex-suvun heinäkasvit. Peronin niemimaa kuuluu pääosin kuivaan vyöhykkeeseen. Proteakasvit ja myrttikasvit puolestaan ovat valtalajeja lauhkean vyöhykkeen alueilla, joihin kuuluvat lahden ympäristön länsi- ja eteläosat.[4]
Itse lahti on tunnettu meriruohon kasvupaikka. Siellä kasvaa 12 meriruoholajia, ja se on yksi maailman monipuolisimmista meriruohon kasvualueista. Meriruohot peittävät noin 4000 neliökilometrin alueen lahdesta, ja 1030 neliökilometrin laajuinen Wooramel Seagrass Bank on maailman suurin meriruohosärkkä.[5] Runsaslukuisimmat lajit ovat Amphibolis antarctica ja Posidonia australis, jotka muodostavat 90 prosenttia meriruohoniityistä.[6]
Eläimistö
Lahti on tunnettu merieläimistään. Siellä elää muun muassa 10000–12000 dugongia, eli noin 10 prosenttia koko maailman populaatiosta.[7] Valaista lahdessa tavataan pullonokkadelfiineihin kuuluvaa Tursiops aduncusta, ryhävalasta, etelänmustavalasta, lahtivalasta ja miekkavalasta.[6] Ryhävalaille ja etelänmustavalaille lahti on muuttomatkojen pysähdyspaikka.[8] Tursiops aduncus -delfiinit puolestaan tulevat usein syötettäviksi Monkey Miaan; vain Mauritanian Banc d’Arguinin kansallispuistossa ja Brasilian pohjoisrannikolla sijaitsevassa paikassa on ruokittu delfiinejä yhtä kauan.[6]
Shark Bayn monipuoliseen linnustoon kuuluu yli 230 lajia, eli noin 35 prosenttia Australian linnuista. Pesiviä merilintuja on 11 lajia, ja niihin kuuluvat muun muassa sääksi ja räyskä. Alueen sammakko- ja matelijalajisto on myös monipuolinen, ja siellä elää lähes sata lajia, joista yhdeksän on kotoperäisiä.[6] Uhanalaiset liemikilpikonnat ja valekarettikilpikonnat pesivät lahden hiekkarannoilla.[8]
Shark Bayltä on tavattu 323 kalalajia, joista 83 prosenttia on trooppisten, 11 prosenttia lämpimien ja 6 prosenttia viileiden vesien lajeja. Haita, kuten tiikerihaita, valashaita ja jättilaishaita on paljon, samoin myös rauskuja on runsaasti. Lisäksi lahti on merkittävä lisääntymispaikka monille äyriäisille, polttiaiseläimille ja onteloeläimille.[9]
Stromatoliitit
Lahden eteläosassa Hamelin Poolin alueella mikrobit rakentavat noin 2000–3000 vuotta vanhoja stromatoliittejä, jotka ovat syanobakteerien rakentamia kivimuodostelmia. Vaikka Shark Bayn stromatoliitit ovatkin nuoria, niitä pidetään yleisesti Maan varhaisimpina elämänmuotoina. Ensimmäiset stromatoliitit ilmestyivät todennäköisesti 3,5 miljardia vuotta sitten. Shark Bayn lisäksi nykyään eläviä stromatoliitteja löytyy vain kahdesta paikasta Bahamalla.[10]
Suojelu
Shark Bay on kuulunut vuodesta 1991 sen luontoarvojen takia Unescon maailmanperintöluetteloon. Perintökohde käsittää noin 2,2 miljoonan hehtaarin laajuisen alueen.[11] Siitä noin miljoona hehtaaria kuuluu erilaisiin suojelualueisiin. Shark Bayn merensuojelualue on luonnonsuojelualueista suurin; se on noin 749000 hehtaarin laajuinen. Lisäksi alueella on muun muassa François Péronin kansallispuisto. Kaikkiaan Shark Bayn alueella on 12 erilaista suojelualuetta.[1]
Shark Bay ja ihminen
Historia
Todisteita Australian alkuperäisasukkaiden asutuksesta Shark Bayn alueella on löydetty 4200 vuoden takaa. Suhteellisen leuto ilmasto on ollut suotuisa pysyvälle asutukselle, ja esimerkiksi Peronin niemimaalta ja Dirk Hartogin saarelta on löytynyt useita esihistoriallisia tunkioita.[9]
Dirk Hartog saapui vuonna 1616 todennäköisesti ensimmäisenä eurooppalaisena Länsi-Australiaan. Sen kunniaksi Dirk Hartogin saaren pohjoisosaan on pystetty muistolaatta. Englantilainen merirosvo William Dampier nimesi lahden vuonna 1699. Ranska lähetti vuonna 1800 Nicolas Baudinin johtaman Géographen ja Jacques Hamelinin Naturalisten tutkimaan eteläistä pallonpuoliskoa. Jälkimmäinen niistä kartoitti Shark Bayn aluetta 49 päivän ajan. Louis de Freycinet ja François Péron tutkivat Dirk Hartogin saaren lahdelmia ja Peronin niemimaata ja Pierre Faure läntistä lahtea. Suurin osa Shark Bayn luonnonkohteista on saanut nimensä tämän retkikunnan jäsenistön mukaan.[9]
Shark Bayn alueelle muutti vuoden 1850 jälkeen guanonkerääjiä, helmenpyytäjiä, kalastajia, puunhakkaajia ja paimenia. Helmenpyynti oli 1940-luvulle saakka merkittävin elinkeino. Kalastuksen suosio oli huipussaan 1960-luvulla, mutta sen jälkeen ala alkoi taantua tiukempien pyyntikiintiöiden takia. Lisäksi Carnarvonin valaanpyyntiasemalta pyydettiin vuosien 1950–1962 aikana 7852 ryhävalasta, kunnes toiminta kaatui valaiden häviämiseen alueelta. Rannikon valtatie saavutti Shark Bayn 1960-luvulla, jolloin alkoi turistien tuleminen alueelle.[9]
Asutus ja turismi
Shark Bayn ympäristössä asuu noin tuhat ihmistä. Alueen keskellä sijaitsevassa Denhamin kylässä on noin 450 asukasta. Alueen pääasiallisin elinkeino on turismi, mutta Carnarvonin kylässä on myös kalastusta. Turismi on lisääntynyt paljon vuoden 1985 jälkeen, kun Denhamiin ulottui ensimmäinen päällystetty tie. Nykyään siellä vierailee vuosittain noin 170000 turistia, jotka tulevat paikalle kalastamaan tai tapaamaan delfiinejä, joita on ruokittu Monkey Miassa jo 1960-luvulta lähtien.[12]
Lähteet
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Viitteet
Aiheesta muualla
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Luokka:46 Australia, Oseania, Napamaat
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ปฏิบัติการเอนเทบเบ (English: Operation Entebbe) หรือ ปฏิบัติการธันเดอร์โบลต์ (English: Operation Thunderbolt) เป็นภารกิจช่วยเหลือตัวประกันในการต่อต้านการก่อการร้ายที่ประสบความสำเร็จ ดำเนินการโดยหน่วยคอมมานโดของกองกำลังป้องกันอิสราเอล (IDF) ที่ท่าอากาศยานเอนเทบเบในประเทศยูกันดาเมื่อวันที่ 4 กรกฎาคม ค.ศ. 1976 [7]
โดยในวันที่ 27 มิถุนายน ซึ่งเป็นหนึ่งสัปดาห์ก่อนหน้า เครื่องบินของแอร์ฟรานซ์ซึ่งมีผู้โดยสาร 248 คนถูกจี้โดยสองสมาชิกของฝ่ายปฏิบัติการภายนอกแนวร่วมประชาชนเพื่อการปลดปล่อยปาเลสไตน์ (PFLP-EO) ภายใต้คำสั่งของวะดี ฮัดดัด (ผู้ที่ได้แตกหักก่อนหน้านี้จากองค์การพีเอฟแอลพี ของจอร์จ ฮาบาช)[8] และสองสมาชิกของหน่วยลับคอมมิวนิสต์ปฏิวัติเยอรมัน สลัดอากาศมีเป้าหมายที่จะปลดปล่อยชาวปาเลสไตน์และผู้ทำสงครามที่อยู่ในสังกัด 40 คนที่ถูกคุมขังในอิสราเอลและนักโทษอีก 13 คนในอีก 4 ประเทศเพื่อแลกกับตัวประกัน[9] เที่ยวบินที่มาจากเทลอาวีฟเดิมมีจุดหมายปลายทางที่กรุงปารีส ถูกเบี่ยงเบนไปหลังจากหยุดพักระหว่างทางในกรุงเอเธนส์ผ่านเบงกาซีสู่เอนเทบเบ ซึ่งเป็นท่าอากาศยานหลักของประเทศยูกันดา โดยรัฐบาลยูกันดาสนับสนุนการจี้เครื่องบิน และจอมเผด็จการอีดี อามิน ได้ต้อนรับพวกเขาเป็นการส่วนตัว[10] อามินได้รับแจ้งเรื่องการจี้เครื่องบินตั้งแต่เริ่มแรก[11] หลังจากย้ายตัวประกันทั้งหมดจากเครื่องบินไปยังอาคารสนามบินที่ไม่ได้ใช้แล้ว พวกสลัดอากาศได้แยกชาวอิสราเอล กับผู้ที่ไม่ใช่ชาวยิวอิสราเอลจำนวนมากทั้งหมดออกจากกลุ่มใหญ่ แล้วบังคับให้พวกเขาเข้าไปในห้องแยกต่างหาก[12][13][14] ในอีกสองวันต่อมา 148 ตัวประกันที่ไม่ใช่อิสราเอลได้รับการปล่อยตัวและบินสู่ปารีส[13][14][15] ส่วนเก้าสิบสี่คนที่เหลือ เป็นชาวอิสราเอล ที่เป็นผู้โดยสาร พร้อมกับลูกเรือ 12 คนของแอร์ฟรานซ์ยังคงเป็นตัวประกันและถูกขู่เข็ญด้วยความตาย[16][17]
กองกำลังป้องกันอิสราเอลได้ดำเนินการตามข้อมูลที่ได้รับจากมอสสาดซึ่งเป็นหน่วยสืบราชการลับของประเทศอิสราเอล ผู้ก่อการขู่ว่าจะสังหารตัวประกันหากไม่ได้ทำการปล่อยตัวนักโทษ และภัยคุกคามนี้ได้นำไปสู่การวางแผนปฏิบัติการกู้ภัย[18] แผนเหล่านี้รวมถึงการเตรียมพร้อมสำหรับการต่อต้านอาวุธจากกองทหารยูกันดา[19]
การดำเนินการเกิดขึ้นในเวลากลางคืน เครื่องบินขนส่งของอิสราเอล บรรทุกคอมมานโด 100 คนกว่า 4,000 กิโลเมตร (2,500 ไมล์) ไปยังประเทศยูกันดาเพื่อดำเนินการช่วยเหลือ การปฏิบัติการ ซึ่งใช้เวลาหนึ่งสัปดาห์ในการวางแผน ใช้เวลา 90 นาที จากตัวประกันที่เหลือ 106 คนนั้น 102 คนได้รับการช่วยเหลือ และสามคนถูกฆ่าตาย ส่วนตัวประกันอีกรายที่อยู่ในโรงพยาบาลได้ถูกสังหารในภายหลัง คอมมานโดอิสราเอลห้าคนได้รับบาดเจ็บ และคอมมานโดยศพันโทอีกหนึ่งนายคือโยนาทัน เนทันยาฮู ถูกฆ่าตาย สลัดอากาศทั้งหมดและทหารยูกันดาสี่สิบห้ารายถูกสังหาร ส่วนมิก-17 และมิก-21 สิบเอ็ดลำ[5][6] ที่สร้างโดยโซเวียตของกองทัพอากาศยูกันดาถูกทำลาย[4] แหล่งข่าวเคนยาให้การสนับสนุนอิสราเอล และผลที่ตามมาของปฏิบัติการ อีดี อามิน ออกคำสั่งเพื่อแก้แค้นและฆ่าชาวเคนยาที่อยู่ในประเทศยูกันดาหลายร้อยคนหลังจากนั้น[20] โดยชาวเคนยาในประเทศยูกันดา 245 คนถูกฆ่าตายและ 3,000 คนได้หนีไป[21]
ปฏิบัติการเอนเทบเบ มีชื่อรหัสทางทหารคือ<b data-parsoid='{"dsr":[10228,10257,3,3]}'>ปฏิบัติการธันเดอร์โบลต์ บางครั้งอ้างถึงในฐานะ<b data-parsoid='{"dsr":[10297,10320,3,3]}'>ปฏิบัติการโยนาทัน เพื่อเป็นอนุสรณ์แด่หัวหน้าหน่วยที่ชื่อโยนาทัน เนทันยาฮู ซึ่งเป็นพี่ชายของเบนจามิน เนทันยาฮู ผู้เป็นนายกรัฐมนตรีอิสราเอลคนปัจจุบัน[22]
การจี้เครื่องบิน
เมื่อวันที่ 27 มิถุนายน ค.ศ. 1976 สายการบินแอร์ฟรานซ์ เที่ยวบินที่ 139 ซึ่งเป็นเครื่องบินแอร์บัส อา300เบ4-203 ทะเบียนแอฟ-เบเวเชเช (c/n 019) ได้ออกจากเมืองเทลอาวีฟ ประเทศอิสราเอล ได้พาผู้โดยสาร 246 คนที่ส่วนใหญ่เป็นชาวยิวและชาวอิสราเอล กับลูกเรืออีก 12 คน[23][24] แล้วบินสู่กรุงเอเธนส์ ประเทศกรีซ ซึ่งมีผู้โดยสารเพิ่มอีก 58 คน ที่รวมถึงสลัดอากาศสี่คน[25][nb 1] โดยเดินทางจากปารีสเวลา 12:30 น. เพียงแค่หลังการบินขึ้นไป เที่ยวบินถูกจี้โดยชาวปาเลสไตน์สองคนจากฝ่ายปฏิบัติการภายนอกแนวร่วมประชาชนเพื่อการปลดปล่อยปาเลสไตน์ (PFLP-EO) และโดยชาวเยอรมันสองคน ซึ่งได้แก่วินฟรีด เบอเซ และบรีกิทเท คุลมันน์ จากหน่วยลับคอมมิวนิสต์ปฏิวัติเยอรมัน พวกสลัดอากาศทำให้เที่ยวบินเขวสู่เบงกาซี ประเทศลิเบีย[26] โดยทำการจอดบนพื้นดินเป็นเวลาเจ็ดชั่วโมงสำหรับการเติมน้ำมัน ในช่วงเวลาดังกล่าวสลัดอากาศได้ปล่อยตัวแพทริเซีย มาร์เทลล์ ซึ่งเป็นพลเมืองอิสราเอลที่เกิดในอังกฤษที่แกล้งทำเป็นว่ามีการแท้งลูก[18][27] เครื่องบินออกจากเบงกาซี และเวลา 15.15 น. ในวันที่ 28 มากกว่า 24 ชั่วโมงหลังจากเที่ยวบินเดิม เครื่องบินก็มาถึงท่าอากาศยานเอนเทบเบในประเทศยูกันดา[26]
สถานการณ์ตัวประกันที่ท่าอากาศยานเอนเทบเบ
ที่เอนเทบเบ สลัดอากาศที่เข้าร่วมอย่างน้อยสี่คน ได้รับการสนับสนุนโดยกองกำลังของประธานาธิบดียูกันดา อีดี อามิน[28] พวกสลัดอากาศย้ายผู้โดยสารไปยังฮอลล์การขนส่งของเทอร์มินัลสนามบินเก่าที่ถูกทิ้งร้าง ที่พวกเขากักขังตัวประกันไว้ภายใต้การเฝ้าระวังสำหรับวันต่อ ๆ ไป อามินมาเยี่ยมตัวประกันเกือบทุกวัน มีข้อมูลใหม่ ๆ เกี่ยวกับความคืบหน้าของพวกเขา และสัญญาว่าจะใช้ความพยายามของเขาเพื่อให้พวกตัวประกันเป็นอิสระผ่านข้อต่อรอง[23]
เมื่อวันที่ 28 มิถุนายน สลัดอากาศพีเอฟแอลพี-อีโอ ได้ออกแถลงการณ์และตั้งข้อเรียกร้องของพวกเขานอกเหนือจากค่าไถ่ 5 ล้านดอลลาร์สหรัฐสำหรับการปลดปล่อยเครื่องบิน พวกเขาเรียกร้องให้ปล่อยตัวชาวปาเลสไตน์และกลุ่มก่อการร้ายโปรปาเลสไตน์ 53 คน ซึ่ง 40 คนเป็นนักโทษในอิสราเอล[29] พวกเขาขู่ว่าถ้าข้อเรียกร้องเหล่านี้ไม่ได้รับการตอบสนอง พวกเขาจะเริ่มฆ่าตัวประกันในวันที่ 1 กรกฎาคม ค.ศ. 1976 [30]
การแยกตัวประกันออกเป็นสองกลุ่ม
เมื่อวันที่ 29 มิถุนายน หลังจากทหารยูกันดาได้เปิดทางเข้าห้องถัดจากห้องโถงรอที่แออัดโดยการทำลายกำแพงแยก สลัดอากาศได้แยกชาวอิสราเอล (รวมทั้งผู้ถือสองสัญชาติ) ออกจากตัวประกันคนอื่น ๆ[nb 2] และบอกให้ย้ายไปที่ห้องข้างเคียง[32] ขณะที่พวกเขาทำเช่นนั้น ผู้รอดชีวิตจากฮอโลคอสต์คนหนึ่งได้แสดงให้เห็นว่าสลัดอากาศวินฟรีด เบอเซ มีหมายเลขทะเบียนค่ายสักบนแขนของเขา แต่เบอเซคัดค้านว่า "ฉันไม่ใช่นาซี! ... ฉันเป็นคนที่มีอุดมการณ์"[37] นอกจากนี้ ตัวประกันที่ไม่ใช่ชาวอิสราเอลห้าคน สองคู่สมรสชาวยิวออร์ทอดอกซ์นิกายหมวกดำ[23] จากสหรัฐและเบลเยียม[8] และชาวฝรั่งเศสในประเทศอิสราเอล ได้ถูกบังคับให้เข้าร่วมกลุ่มชาวอิสราเอล[34] ตามที่โมนิค เอปสไตน์ คาเลปสกี เผย ตัวประกันชาวฝรั่งเศสในจำนวนห้าคน ผู้จับกุมได้แยกแยะพวกเขาออกเพื่อตั้งคำถามและสงสัยว่าพวกเขาซ่อนสถานะของอิสราเอลไว้[34] ในทางกลับกัน อ้างอิงจากมีแชล โกฌู-โกลแบร์ก ซึ่งเป็นตัวประกันชาวฝรั่งเศส เผยว่า ผู้จับกุมล้มเหลวในการระบุชาวอิสราเอลอย่างน้อยหนึ่งคนในหมู่ผู้โดยสารที่มีสองสัญชาติแล้วใช้หนังสือเดินทางที่ไม่ใช่อิสราเอล และเขาก็ปล่อยให้เป็นอิสระในภายหลัง ในฐานะส่วนหนึ่งของการปล่อยตัวครั้งที่สองของตัวประกันที่ไม่ใช่อิสราเอล[36] ส่วนเจเน็ต อัลม็อก ซึ่งเป็นพลเมืองสหรัฐ, โจเซลีน โมนิเยร์ ผู้หญิงชาวฝรั่งเศส (ซึ่งสามีหรือแฟนหนุ่มเป็นชาวอิสราเอล)[38][39] และฌ็อง-ฌัก มีมัวนี พลเมืองสัญชาติฝรั่งเศส-อิสราเอล ชื่อของเขาไม่ได้ถูกเรียกขึ้นมาในระหว่างการอ่านหนังสือเดินทางแบบเดิม แต่ได้รายงานเข้าร่วมกลุ่มตัวประกันอิสราเอลโดยความสมัครใจของตนเอง[40]
การปล่อยตัวตัวประกันที่ไม่ใช่อิสราเอลส่วนใหญ่
เมื่อวันที่ 30 มิถุนายน สลัดอากาศได้ปล่อยตัวตัวประกัน 48 ราย กลุ่มคนที่ไม่ได้เป็นชาวอิสราเอลได้รับการปลดปล่อยออกมา – ผู้โดยสารส่วนใหญ่เป็นผู้สูงอายุและผู้ป่วย และมารดาที่มีบุตร สี่สิบเจ็ดคนดังกล่าวได้บินสู่ปารีส และผู้โดยสารคนหนึ่งได้รับการรักษาในโรงพยาบาลเป็นเวลาหนึ่งวัน เมื่อวันที่ 1 กรกฎาคม หลังจากที่รัฐบาลอิสราเอลได้ประกาศข้อตกลงการเจรจา ผู้จับตัวประกันยื่นคำร้องถึงเที่ยงวันในวันที่ 4 กรกฎาคม และปล่อยกลุ่มผู้ถูกกักขังที่ไม่ได้เป็นชาวอิสราเอลอีก 100 คน ที่บินสู่ปารีสอีกครั้งในไม่กี่ชั่วโมงต่อมา ในบรรดา 106 ตัวประกันที่อยู่ข้างหลังกับผู้จับกุมที่ท่าอากาศยานเอนเทบเบ เป็นลูกเรือของแอร์ฟรานซ์ 12 คนผู้ปฏิเสธที่จะออกไป[41] ผู้โดยสารวัยรุ่นชาวฝรั่งเศสประมาณสิบคน และกลุ่มชาวอิสราเอลประมาณ 84 คน[1][7][26][42]
การวางแผนปฏิบัติการ
ในสัปดาห์ก่อนการจู่โจม อิสราเอลพยายามใช้หนทางการเมืองเพื่อให้ได้รับการปลดปล่อยตัวประกัน หลายแหล่งข่าวระบุว่าคณะรัฐมนตรีอิสราเอลเตรียมที่จะปล่อยนักโทษปาเลสไตน์หากทางออกทางทหารดูเหมือนจะไม่ประสบความสำเร็จ บารุค "เบอร์กา" บาร์-เลฟ เจ้าหน้าที่ของกองกำลังป้องกันอิสราเอลที่เกษียณแล้ว รู้จักอีดี อามิน เป็นเวลาหลายปีและได้รับการพิจารณาว่ามีความสัมพันธ์ส่วนตัวที่ดีกับเขา ตามคำร้องขอของคณะรัฐมนตรี เขาได้พูดคุยกับอามินทางโทรศัพท์หลายครั้ง โดยพยายามที่จะให้มีการปล่อยตัวประกัน แต่ก็ไม่ประสบความสำเร็จ[43][44] รัฐบาลอิสราเอลยังเข้าหารัฐบาลสหรัฐเพื่อส่งข้อความถึงประธานาธิบดีอียิปต์ อันวัร อัสซาดาต เพื่อขอให้เขาขอให้อามินปล่อยตัวประกัน[45] ส่วนนายกรัฐมนตรียิตซัค ราบิน และรัฐมนตรีว่าการกระทรวงกลาโหมชิมอน เปเรส ใช้เวลาหนึ่งสัปดาห์ว่าไม่เห็นด้วยในการให้ตามความต้องการของสลัดอากาศ (ตำแหน่งของราบิน) หรือไม่ เพื่อป้องกันการก่อการร้ายมากขึ้น (ตำแหน่งของเปเรส)[46]
ในเส้นตายของวันที่ 1 กรกฎาคม[47] คณะรัฐมนตรีอิสราเอลเสนอให้เจรจากับสลัดอากาศเพื่อขยายกำหนดสู่วันที่ 4 กรกฎาคม ซึ่งอามินเองก็ยังขอให้พวกเขาขยายเวลาจนถึงวันที่ดังกล่าว ซึ่งหมายความว่าเขาสามารถเดินทางทางการทูตไปยังพอร์ตลูอิส ประเทศมอริเชียส เพื่อส่งมอบตำแหน่งประธานขององค์การเอกภาพแอฟริกาแก่ซีวูซากูร์ รามกูลัม อย่างเป็นทางการ[48] การขยายเส้นตายของตัวประกันนี้เป็นสิ่งสำคัญที่จะทำให้กองกำลังอิสราเอลมีเวลาพอที่จะเดินทางไปเอนเทบเบได้[25]
ในวันที่ 3 กรกฎาคม เวลา 18:30 น. คณะรัฐมนตรีของอิสราเอลอนุมัติภารกิจช่วยชีวิต[49] ที่นำเสนอโดยพลตรี เยกูเทียล "กูที" อดัม และพลจัตวา แดน ชอมรอน ซึ่งชอมรอนได้รับการแต่งตั้งเป็นผู้บัญชาการปฏิบัติการ[50]
ความพยายามในการแก้ปัญหาด้านการทูต
ขณะที่เกิดวิกฤติขึ้น มีความพยายามที่จะเจรจาปล่อยตัวประกัน ตามเอกสารทางการทูตที่ไม่เป็นความลับ รัฐบาลอียิปต์ภายใต้ซาดาต พยายามเจรจากับทั้งองค์การปลดปล่อยปาเลสไตน์และรัฐบาลยูกันดา[51][52] โดยประธานองค์การปลดปล่อยปาเลสไตน์ ยัสเซอร์ อาราฟัต ได้ส่งฮานิ อัล-ฮัสซัน ซึ่งเป็นผู้ช่วยการเมืองของเขาไปยังประเทศยูกันดาในฐานะทูตพิเศษเพื่อเจรจากับผู้จับตัวประกันและอามิน[8] อย่างไรก็ตาม สลัดอากาศฝ่ายปฏิบัติการภายนอกแนวร่วมประชาชนเพื่อการปลดปล่อยปาเลสไตน์ได้ปฏิเสธที่จะพบเขา[53]
การเตรียมการโจมตีโฉบฉวย
เมื่อหน่วยงานของอิสราเอลล้มเหลวในการเจรจาทางการเมือง พวกเขาตัดสินใจว่าทางเลือกเดียวของพวกเขาคือการโจมตีเพื่อช่วยเหลือตัวประกัน พันโท โจชัว ชานี นักบินนำของปฏิบัติการ กล่าวในภายหลังว่าชาวอิสราเอลเริ่มคิดแผนกู้ภัยในขั้นต้น ที่เกี่ยวข้องกับการหย่อนหน่วยคอมมานโดกองทัพเรือเข้าทะเลสาบวิกตอเรีย หน่วยคอมมานโดจะต้องขี่เรือยางไปยังท่าอากาศยานที่ตั้งอยู่บริเวณริมทะเลสาบ พวกเขาวางแผนที่จะสังหารสลัดอากาศ และหลังจากปลดปล่อยตัวประกัน พวกเขาจะขอร้องอามินเพื่อเดินทางกลับบ้าน ทว่า ฝ่ายอิสราเอลละทิ้งแผนนี้เพราะมีเวลาที่จำเป็นไม่เพียงพอ และเพราะพวกเขาได้รับข่าวว่าทะเลสาบวิกตอเรียเป็นที่อยู่อาศัยของจระเข้แม่น้ำไนล์[54]
อัมนอน ไบรัน ซึ่งเป็นเจ้าหน้าที่ข่าวกรองของภารกิจ ได้ระบุในภายหลังว่าไม่ทราบรูปแบบที่ถูกต้องของท่าอากาศยาน รวมถึงตำแหน่งที่แน่นอนของตัวประกัน และไม่ทราบด้วยว่าอาคารนั้นจะเตรียมวัตถุระเบิดไว้ด้วยหรือไม่[46]
การเติมเชื้อเพลิงอากาศยาน
ในขณะที่กำลังวางแผนการโจมตีโฉบฉวย กองกำลังอิสราเอลต้องวางแผนที่จะเติมน้ำมันเครื่องบินซี-130 เฮอร์คิวลิส ที่พวกเขาตั้งใจจะใช้ในระหว่างการเดินทางสู่เอนเทบเบ ฝ่ายอิสราเอลขาดความสามารถด้านการส่งกำลังบำรุงในการทหารเพื่อการเติมน้ำมันกลางอากาศสี่ถึงหกเที่ยวบินที่ห่างจากน่านฟ้าของประเทศอิสราเอล ในขณะที่หลายประเทศในแอฟริกาตะวันออก รวมทั้งการส่งกำลังบำรุงในการทหารประเทศเคนยาที่เข้าข้าง ต่างก็ไม่มีใครอยากให้อามินหรือชาวปาเลสไตน์โกรธแค้นโดยการอนุญาตให้ฝ่ายอิสราเอลลงจอดเครื่องบินภายในเขตแดนของตน
การโจมตีโฉบฉวยไม่สามารถดำเนินการได้หากปราศจากความช่วยเหลือจากรัฐบาลแอฟริกาตะวันออกอย่างน้อยหนึ่งแห่ง ชาวยิวเจ้าของกลุ่มบริษัทบริหารโรงแรมบล็อกในประเทศเคนยา พร้อมกับสมาชิกคนอื่น ๆ ของชุมชนชาวยิวและชาวอิสราเอลในกรุงไนโรบี อาจใช้อิทธิพลทางการเมืองและเศรษฐกิจของพวกเขาเพื่อช่วยชักชวนประธานาธิบดีเคนยา โจโม เคนยัตตา ให้ช่วยอิสราเอล ซึ่งรัฐบาลอิสราเอลได้รับอนุญาตจากเคนยาให้กองกำลังป้องกันอิสราเอลข้ามน่านฟ้าเคนยาและเติมเชื้อเพลิงที่ท่าอากาศยานนานาชาติโจโม เคนยัตตา[55]
รัฐมนตรีว่าการกระทรวงเกษตรเคนยา บรูซ แมคเคนซี ได้ชี้ชวนเคนยัตตาผู้เป็นประธานาธิบดีเคนยา เพื่ออนุญาตให้มอสสาดเก็บรวบรวมข้อมูลก่อนปฏิบัติการ และเพื่อให้กองทัพอากาศอิสราเอลสามารถเข้าถึงท่าอากาศยานไนโรบีได้[56] ในการตอบโต้ ประธานาธิบดียูกันดา อีดี อามิน สั่งให้ตัวแทนยูกันดาลอบสังหารแมคเคนซี โดยเขาถูกสังหารเมื่อวันที่ 24 พฤษภาคม ค.ศ. 1978 เมื่อมีการระเบิดที่ติดกับเครื่องบินของเขา[56][57][58][59] ต่อมา เมเออร์ อามิต ซึ่งเป็นผู้อำนวยการของมอสสาด ได้ปลูกป่าในประเทศอิสราเอลในชื่อของแมคเคนซี[56]
หน่วยสืบราชการลับตัวประกัน
มอสสาดสร้างภาพที่ถูกต้องเกี่ยวกับสถานที่ของตัวประกัน, จำนวนของสลัดอากาศ และการมีส่วนร่วมของกองทัพยูกันดาจากการปล่อยตัวประกันในปารีส[60] นอกจากนี้ บริษัทตัวแทนอิสราเอลมีส่วนร่วมในการสร้างโครงการในแอฟริกาในช่วงคริสต์ทศวรรษ 1960 ถึงคริสต์ทศวรรษ 1970 และในขณะที่เตรียมการโจมตีโฉบฉวยกองทัพอิสราเอลได้ปรึกษากับโซเลลโบเนห์ ซึ่งเป็นบริษัทก่อสร้างขนาดใหญ่ของอิสราเอลที่สร้างเทอร์มินอลที่คุมตัวประกันไว้[61] ขณะที่กำลังวางแผนปฏิบัติการทางทหาร กองกำลังป้องกันอิสราเอลได้สร้างแบบจำลองบางส่วนของอาคารผู้โดยสารที่ท่าอากาศยานโดยได้รับความช่วยเหลือจากพลเรือนผู้ช่วยสร้างต้นฉบับ
มูกิ เบตเซอร์ กล่าวในการสัมภาษณ์ในภายหลังว่า นักสืบมอสสาดได้สัมภาษณ์ตัวประกันที่ได้รับการปล่อยตัวออกมาอย่างครอบคลุม เขากล่าวว่าผู้โดยสารชาวฝรั่งเศส-ยิว มีพื้นฐานทางทหารและ"ความจำยอดเยี่ยม"โดยให้ข้อมูลโดยละเอียดเกี่ยวกับจำนวนอาวุธที่ถือโดยผู้คุมตัวประกัน[62] หลังจากที่เบตเซอร์รวบรวมข่าวกรองและวางแผนไว้หลายวันแล้ว เครื่องบินขนส่งซี-130 เฮอร์คิวลิสของกองทัพอากาศอิสราเอลสี่ลำได้ลอบบินสู่ท่าอากาศยานเอนเทบเบในตอนเที่ยงคืนโดยไม่มีการตรวจพบโดยการควบคุมการจราจรทางอากาศของเอนเทบเบ
กองกำลังพิเศษ
กองกำลังพิเศษภาคพื้นดินของอิสราเอลมีจำนวนประมาณ 100 คน และประกอบไปด้วย:[50]
หน่วยคำสั่งพื้นดินและควบคุม
กลุ่มเล็ก ๆ นี้ประกอบด้วยผู้ปฏิบัติการและผู้บัญชาการภาคพื้นดินโดยรวม พลจัตวา แดน ชอมรอน, ตัวแทนกองทัพอากาศ พันเอก อามี อายาลอน และบุคลากรการสื่อสารรวมถึงการสนับสนุน
หน่วยโจมตี
หน่วยจู่โจม 29 คน นำโดยพันโท โยนาทัน เนทันยาฮู – กองกำลังนี้ประกอบด้วยคอมมานโดจากซาเยเรตแมตคาล และได้รับภารกิจหลักในการโจมตีเทอร์มินอลเก่าและช่วยเหลือตัวประกัน พันตรีเบตเซอร์เป็นผู้นำหนึ่งในทีมโจมตีของหน่วย และรับคำสั่งหลังพันโทเนทันยาฮูถูกสังหาร
หน่วยคุ้มกัน
กองกำลังพลร่ม นำโดยพันเอก มาทัน วิลไน – ได้รับมอบหมายด้านการคุ้มกันบริเวณท่าอากาศยานพลเรือน, ทำทางให้โล่งและคุ้มกันบริเวณรันเวย์ ตลอดจนการป้องกันและการเติมเชื้อเพลิงเครื่องบินอิสราเอลในเอนเทบเบ
กองกำลังโกลานี นำโดยพันเอก อูรี ซากิ – ได้รับมอบหมายให้คุ้มกันเครื่องบินซี-130 เฮอร์คิวลิส สำหรับการโยกย้ายตัวประกัน โดยนำมาจอดให้ใกล้กับเทอร์มินอลให้ได้มากที่สุดเท่าที่จะเป็นไปได้ และพาตัวประกันขึ้นเครื่อง รวมถึงทำหน้าที่เป็นกองหนุนทั่วไป
กองกำลังซาเยเรตแมตคาล นำโดยพันตรี ชอล โมฟัซ – ได้รับมอบหมายให้ทำทางขึ้นลงสำหรับเครื่องบินทหารให้โล่ง และทำลายฝูงเครื่องบินรบมิกบนพิ้นดิน เพื่อป้องกันการแทรกแซงที่เป็นไปได้โดยกองทัพอากาศยูกันดา รวมถึงกองกำลังภาคพื้นดินที่เป็นศัตรูจากเมืองเอนเทบเบ
การโจมตีโฉบฉวย
เส้นทางการโจมตี
สำหรับการบินออกจากชาร์ม เอล ชีค[63] กองกำลังพิเศษได้บินไปตามเส้นทางการบินระหว่างประเทศผ่านทะเลแดง ส่วนใหญ่บินที่ความสูงไม่เกิน 30 เมตร (100 ฟุต) เพื่อหลีกเลี่ยงการตรวจจับเรดาร์โดยกองกำลังอียิปต์, ซูดาน และซาอุดีอาระเบีย ครั้นใกล้ทางใต้ของทะเลแดง เครื่องบินซี-130 เฮอร์คิวลิส เลี้ยวไปทางใต้และผ่านทางใต้ของประเทศจิบูตี จากที่นั่น พวกเขาบินไปทางตะวันออกเฉียงเหนือของไนโรบี ประเทศเคนยา แล้วเป็นไปได้ว่าได้ทำการบินข้ามประเทศโซมาเลีย และพื้นที่โอกาเดนของประเทศเอธิโอเปีย พวกเขาเลี้ยวไปทางทิศตะวันตก ผ่านอีสต์แอฟริกันริฟต์และเหนือทะเลสาบวิกตอเรีย[64]
เครื่องบินโบอิง 707 จำนวนสองลำบินตามเครื่องบินบรรทุกสินค้า โบอิงลำแรกมีสิ่งอำนวยความสะดวกทางการแพทย์และได้ลงจอดที่ท่าอากาศยานนานาชาติโจโม เคนยัตตา ในกรุงไนโรบี ประเทศเคนยา ส่วนเยกูเทียล อดัม ซึ่งเป็นผู้บัญชาการของปฏิบัติการ ได้ขึ้นเครื่องโบอิงลำที่สอง ซึ่งวนไปรอบ ๆ ท่าอากาศยานเอนเทบเบระหว่างการโจมตี[50]
กองทัพอิสราเอลลงจอดที่เอนเทบเบในวันที่ 3 กรกฎาคมเวลา 23:00 น. ตามเวลามาตรฐานอิสราเอล โดยประตูบรรทุกสินค้าได้เปิดแล้ว เนื่องจากรูปแบบที่ถูกต้องของสนามบินไม่เป็นที่รู้จัก เครื่องบินลำแรกเกือบร่อนเข้าไปในคลอง[46] รถเมอร์เซเดสสีดำซึ่งดูเหมือนกับรถของประธานาธิบดี อีดี อามิน และแลนด์โรเวอร์ที่มาพร้อมกับเมอร์เซเดสของอามินถูกนำมาใช้ด้วยกัน ฝ่ายอิสราเอลหวังว่าพวกเขาสามารถใช้รถของพวกเขาเพื่อหลีกเลี่ยงจุดตรวจรักษาความปลอดภัยได้ เมื่อซี-130 เฮอร์คิวลิส ลงจอด สมาชิกของทีมโจมตีของอิสราเอลขับรถไปที่อาคารผู้โดยสารในแบบเดียวกับอามิน[19][65] ขณะที่พวกเขาเข้าใกล้เทอร์มินอล ทหารยูกันดาสองคนเกิดนึกได้ว่า เครื่องที่อามินเพิ่งซื้อมาเป็นเมอร์เซเดสสีขาว จึงได้มีการสั่งให้หยุดยานพาหนะลง[66] เนทันยาฮูสั่งหน่วยคอมมานโดยิงทหารโดยใช้ปืนพกเก็บเสียง แต่พวกเขาไม่ได้ฆ่าพวกนั้น[19] นี่เป็นการขัดกับแผนและขัดต่อคำสั่ง[46] ขณะที่พวกเขาออกไป หน่วยคอมมาโดอิสราเอลในแลนด์โรเวอร์ที่ตามหลังคันหนึ่งได้สังหารฝ่ายตรงข้ามด้วยปืนไรเฟิลที่ไม่สามารถอำพรางได้[19] จากความกลัวว่าสลัดอากาศจะตื่นตัวก่อนเวลาอันควร ทีมโจมตีจึงได้เข้าถึงเทอร์มินอลด้วยความรวดเร็ว[65]
การช่วยชีวิตตัวประกัน
ฝ่ายอิสราเอลทิ้งรถไว้และวิ่งไปที่เทอร์มินอล ตัวประกันอยู่ในห้องโถงใหญ่ของอาคารสนามบิน ซึ่งติดกับรันเวย์โดยตรง ในการเข้าสู่เทอร์มินอล หน่วยคอมมานโดได้ตะโกนผ่านโทรโข่ง "หมอบลง! หมอบลง! เราเป็นทหารอิสราเอล" ทั้งในภาษาฮีบรูและอังกฤษ ทว่า ฌ็อง-ฌัก มีมัวนี ซึ่งเป็นชาวฝรั่งเศสอพยพไปยังอิสราเอลอายุ 19 ปี ได้ลุกขึ้นยืนและถูกฆ่าตายเมื่อมูกิ เบตเซอร์ ซึ่งเป็นผู้บัญชาการฝ่ายอิสราเอลและทหารอีกคนหนึ่งเข้าใจผิดว่าเขาเป็นสลัดอากาศและได้ยิงเขา[26] ส่วนปัสโก โคเอน ซึ่งเป็นตัวประกันอายุ 52 ปีอีกคนหนึ่ง ก็ได้รับบาดเจ็บสาหัสจากการยิงโดยหน่วยคอมมานโด[67] นอกจากนี้ ไอดา โบโรโชวิช ซึ่งเป็นตัวประกันคนที่สามที่มีอายุ 56 ปี ชาวยิวรัสเซียผู้อพยพไปยังอิสราเอล ได้ถูกสังหารโดยสลัดอากาศจากการอยู่ท่ามกลางการต่อสู้[68]
ตัวประกันชื่อไอลัน ฮาร์ทัฟ เปิดเผยว่า วินฟรีด เบอเซ เป็นสลัดอากาศเพียงคนเดียวหลังจากเริ่มปฏิบัติการ ที่ได้เข้าห้องโถงตัวประกัน ตอนแรกเขาใช้ไรเฟิลคาลาชนิคอฟส่องไปที่ตัวประกัน แต่ "ทันทีที่มาถึงความประสาทสัมผัสของเขา" ก็ได้สั่งให้พวกเขาหากำบังในห้องน้ำ ก่อนที่จะถูกสังหารโดยหน่วยคอมมานโด ตามที่ฮาร์ทัฟเปิดเผย เบอเซยิงเฉพาะทหารอิสราเอลและไม่ได้ยิงตัวประกัน[8]
มีอยู่ช่วงหนึ่ง หน่วยคอมมานโดอิสราเอลตะโกนเรียกเป็นภาษาฮีบรู "พวกเขาอยู่ที่ไหน ?" ซึ่งหมายถึงพวกสลัดอากาศ[69] กลุ่มตัวประกันชี้ไปที่ประตูเชื่อมต่อของห้องโถงใหญ่ของสนามบิน ซึ่งหน่วยคอมมานโดได้ขว้างระเบิดมือหลายครั้ง จากนั้น พวกเขาเข้าไปในห้องและยิงสลัดอากาศสามคนที่ยังเหลืออยู่จนเสียชีวิต เป็นอันสิ้นสุดการโจมตี[25] ในขณะเดียวกัน เครื่องบินซี-130 เฮอร์คิวลิส อีกสามลำได้จอดอยู่ และนำรถยานเกราะออกมาเพื่อเตรียมการป้องกันในช่วงเวลาที่คาดว่าจะเติมน้ำมัน ฝ่ายอิสราเอลได้ทำลายเครื่องบินรบมิกของยูกันดาเพื่อป้องกันไม่ให้ใช้ในการไล่ล่า และดำเนินการกวาดล้างสนามบินเพื่อรวบรวมข่าวกรอง[25]
การออกเดินทาง
หลังจากการโจมตี ทีมโจมตีอิสราเอลกลับไปที่เครื่องบินของพวกเขาและเริ่มบรรทุกตัวประกัน ทหารยูกันดายิงใส่พวกเขาในช่วงดำเนินการ ส่วนหน่วยคอมมานโดอิสราเอลก็สวนกลับไปโดยใช้เอเค 47 ของพวกเขา[70] ก่อให้เกิดการบาดเจ็บล้มตายในฝ่ายยูกันดา ในระหว่างการสู้รบสั้น ๆ แต่เข้มข้นนี้ ทหารยูกันดาได้ยิงออกมาจากหอควบคุมสนามบิน หน่วยคอมมานโดอย่างน้อยห้ารายได้รับบาดเจ็บ และโยนาทัน เนทันยาฮู ซึ่งเป็นผู้บัญชาการหน่วยของอิสราเอลถูกสังหาร หน่วยคอมมานโดของอิสราเอลยิงปืนกลเบาและอาร์พีจีกลับไปที่หอควบคุมเพื่อยับยั้งการยิงของฝ่ายยูกันดา อ้างอิงจากบุตรชายคนหนึ่งของอีดี อามิน เผยว่า ทหารที่ยิงเนทันยาฮูนั้น เป็นลูกพี่ลูกน้องของครอบครัวอามิน ได้ถูกฆ่าตายในการยิงกลับดังกล่าว[71] ต่อมา ฝ่ายอิสราเอลอพยพตัวประกันเสร็จสิ้น รวมถึงบรรทุกร่างของเนทันยาฮูในเครื่องบินลำหนึ่ง และออกจากท่าอากาศยาน[72] ปฏิบัติการทั้งหมดใช้เวลา 53 นาที – ซึ่งการโจมตีใช้เวลาเพียง 30 นาทีเท่านั้น มีสลัดอากาศทั้งหมด 7 ราย และทหารยูกันดาระหว่าง 33 ถึง 45 รายถูกสังหาร[25] ส่วนเครื่องบินรบมิก-17 และมิก-21 ที่สร้างขึ้นโดยโซเวียตสิบเอ็ดลำ[6] ของกองทัพอากาศยูกันดาถูกทำลายลงบนพื้นที่ท่าอากาศยานเอนเทบเบ[4][73] จากตัวประกัน 106 ราย 3 คนถูกสังหาร, 1 คนถูกทิ้งไว้ในยูกันดา (โดรา บลอค อายุ 74 ปี) และประมาณ 10 คนได้รับบาดเจ็บ ส่วนตัวประกัน 102 คนที่ได้รับการช่วยเหลือได้บินสู่ประเทศอิสราเอลผ่านกรุงไนโรบี ประเทศเคนยา ไม่นานหลังจากการโจมตี[22]
ปฏิกิริยาจากฝ่ายยูกันดา
โดรา บลอค ชาวอิสราเอลวัย 74 ปีซึ่งเป็นพลเมืองของอังกฤษ ได้รับการนำตัวไปที่โรงพยาบาลมูลาโกในกัมปาลา หลังจากที่สำลักกระดูกไก่[74] หลังจากการโจมตีเธอถูกฆาตกรรมโดยเจ้าหน้าที่ของกองทัพยูกันดา เช่นเดียวกับบางส่วนของแพทย์และพยาบาลของเธอ สำหรับการพยายามที่จะเข้าไปแทรกแซงอย่างเด่นชัด[26][nb 3][76] ในเดือนเมษายนปี ค.ศ. 1987 เฮนรี เคิมบา ซึ่งเป็นอัยการสูงสุดและรัฐมนตรีว่าการกระทรวงยุติธรรมของยูกันดาในเวลานั้น ได้บอกคณะกรรมการสิทธิมนุษยชนของยูกันดาว่าบลอคถูกลากออกจากเตียงในโรงพยาบาลและถูกสังหารโดยนายทหารสองคนตามคำสั่งของอามิน[77] บลอคถูกยิงและศพของเธอถูกทิ้งไว้ในกระโปรงหลังรถที่มีแผ่นหมายเลขทะเบียนหน่วยข่าวกรองของยูกันดา ศพของเธอถูกค้นพบใกล้กับสวนน้ำตาล 20 ไมล์ (32 กม.) ทางตะวันออกของกัมปาลาในปี ค.ศ. 1979 [78] หลังสงครามยูกันดา-แทนซาเนีย ที่ยุติการปกครองของอามิน[75] อามินยังสั่งให้ฆ่าชาวเคนยาหลายร้อยคนที่อาศัยอยู่ในยูกันดาเพื่อแก้แค้นที่ฝ่ายเคนยาช่วยเหลืออิสราเอลในการโจมตี มีรายงานว่าเมื่อวันที่ 11 กรกฎาคมมีชาวเคนยา 245 คนเสียชีวิต รวมทั้งเจ้าหน้าที่สนามบินที่เอนเทบเบ และที่หลบหนีการถูกสังหารหมู่ ชาวเคนยาประมาณ 3,000 คนหนีจากประเทศยูกันดาในฐานะผู้ลี้ภัย[21][79][80]
ผลที่ตามมา
ที่ประชุมคณะมนตรีความมั่นคงแห่งสหประชาชาติเมื่อวันที่ 9 กรกฎาคม ค.ศ. 1979 เพื่อพิจารณาคำร้องเรียนจากประธานองค์การเอกภาพแอฟริกาที่กล่าวหาอิสราเอลถึง "การกระทำของการรุกราน"[81] คณะมนตรีได้อนุญาตให้เชม เฮอร์ซอก ซึ่งเป็นเอกอัครราชทูตอิสราเอลประจำสหประชาชาติ และจูมา โอริส อับดัลลา ซึ่งเป็นรัฐมนตรีต่างประเทศยูกันดา เข้าร่วมโดยไม่มีสิทธิออกเสียง[81] ส่วนเคิร์ท วัลไฮม์ ซึ่งเป็นเลขาธิการสหประชาชาติ กล่าวกับคณะมนตรีความมั่นคงว่า "การละเมิดอย่างร้ายแรงต่ออำนาจอธิปไตยของประเทศสมาชิกแห่งสหประชาชาติ" แม้ว่าเขาจะ "ตระหนักดีว่านี่ไม่ใช่องค์ประกอบเพียงอย่างเดียวที่เกี่ยวข้อง ... เมื่อประชาคมโลกจำเป็นต้องจัดการกับปัญหาที่เกิดขึ้นจากการก่อการร้ายระหว่างประเทศ"[81] อับดัลลา ผู้เป็นตัวแทนของประเทศยูกันดา อ้างว่าเรื่องนี้ใกล้จะสงบลงเมื่อไม่มีอิสราเอลเข้าแทรกแซง ขณะที่เฮอร์ซอก ผู้เป็นตัวแทนของประเทศอิสราเอล อ้างว่าฝ่ายยูกันดามีส่วนร่วมโดยตรงในการจี้เครื่องบิน[81] ส่วนสหรัฐและสหราชอาณาจักรสนับสนุนมติที่ประณามการจี้เครื่องบินและการกระทำที่คล้ายคลึงกัน โดยเสียใจกับการสูญเสียชีวิตที่เกิดขึ้นจากสลัดอากาศ (โดยไม่กล่าวโทษฝ่ายอิสราเอลหรือยูกันดา) ซึ่งยืนยันถึงความจำเป็นที่จะต้องเคารพอธิปไตยและบูรณภาพแห่งดินแดนของทุกรัฐ รวมทั้งเรียกร้องให้ประชาคมระหว่างประเทศเพิ่มความปลอดภัยในการบินพลเรือน[82] อย่างไรก็ตาม มติไม่ได้รับจำนวนคะแนนเสียงที่ต้องการเนื่องจากมีผู้ลงคะแนนเสียงสองรายงดออกเสียงและขาดประชุมเจ็ดคน[83] ข้อยุติที่สองได้รับการสนับสนุนจากเบนิน, ลิเบีย และแทนซาเนียที่ประณามอิสราเอล โดยไม่ได้ลงคะแนนเสียง[83][84]
ส่วนประเทศตะวันตกกล่าวสนับสนุนการโจมตีโฉบฉวย โดยเยอรมนีตะวันตกกล่าวถึงการโจมตีว่า "การป้องกันตัวเอง" สวิตเซอร์แลนด์และฝรั่งเศสยกย่องการปฏิบัติการ ตัวแทนจากสหราชอาณาจักรและสหรัฐให้การสรรเสริญอย่างมีนัยสำคัญ โดยเรียกการโจมตีเอนเทบเบว่า "ปฏิบัติการที่เป็นไปไม่ได้" บางคนในสหรัฐตั้งข้อสังเกตว่าตัวประกันได้รับการปลดปล่อยในวันที่ 4 กรกฎาคม ค.ศ. 1976 ซึ่งตรงกับ 200 ปีหลังจากการลงนามประกาศเอกราชของสหรัฐ[85][86][87] ในการสนทนากับดีนิทซ์ ซึ่งเป็นเอกอัครราชทูตอิสราเอล เฮนรี คิสซินเจอร์ ได้ออกเสียงวิจารณ์สำหรับการใช้อุปกรณ์ของสหรัฐระหว่างปฏิบัติการของอิสราเอล แต่คำวิจารณ์ดังกล่าวไม่ได้เปิดเผยต่อสาธารณชนในขณะนั้น[88] นอกจากนี้ ในช่วงกลางเดือนกรกฎาคมปี ค.ศ. 1976 เรือสหรัฐ<i data-parsoid='{"dsr":[51319,51331,2,2]}'>เรนเจอร์ (ซีวี-61) ซึ่งเป็นเรือบรรทุกเครื่องบินขนาดใหญ่และฝ่ายคุ้มกันเรือดังกล่าวได้เข้าสู่มหาสมุทรอินเดียและดำเนินการปิดชายฝั่งเคนยา เพื่อตอบโต้การคุกคามทางทหารโดยกองกำลังจากยูกันดา[89]
กาปิแตนบากูได้รับเครื่องอิสริยาภรณ์เลฌียงดอเนอร์ และลูกเรือคนอื่น ๆ ก็ได้รับเครื่องอิสริยาภรณ์คุณธรรมแห่งประเทศฝรั่งเศส[90][91][92][93]
ส่วนโรงแรมแฟร์มอนต์เดอะนอร์ฟอล์ก ที่เป็นเจ้าของโดยสมาชิกสำคัญของชุมชนชาวยิวในประเทศ ได้ถูกวางระเบิดเมื่อวันที่ 31 ธันวาคม ค.ศ. 1980 ระเบิดทำลายปีกตะวันตกของโรงแรม โดยสังหารผู้คนไป 20 ราย ของหลายเชื้อชาติ และได้รับบาดเจ็บอีก 87 ราย เชื่อกันว่าเป็นการกระทำของการแก้แค้นโดยกลุ่มก่อการร้ายโปรปาเลสไตน์สำหรับบทบาทสนับสนุนของเคนยาในปฏิบัติการเอนเทบเบ[94][95][96]
ในปีต่อ ๆ มา เบตเซอร์และพี่น้องเนทันยาฮู ได้แก่ อิดโดและเบนจามิน รวมทั้งทหารผ่านศึกซาเยเรตแมตคาลทั้งหมด ได้โต้เถียงในที่อภิปรายสาธารณะมากขึ้นเกี่ยวกับผู้ที่จะกล่าวโทษถึงการสู้รบในตอนต้นที่ไม่คาดฝันซึ่งเป็นเหตุให้โยนาทันเสียชีวิต และการสูญเสียบางส่วนจากยุทธวิธีที่น่าแปลกใจ[97][98]
อันเป็นผลมาจากปฏิบัติการ กองทัพสหรัฐได้พัฒนาทีมกู้ภัยที่จำลองแบบตามหน่วยที่ใช้ในการกู้ภัยเอนเทบเบ[99] หนึ่งในความพยายามที่จะเลียนแบบที่มีชื่อเสียงคือปฏิบัติการกรงเล็บอินทรี ซึ่งเป็นการช่วยชีวิตที่ล้มเหลวของเจ้าหน้าที่สถานทูตอเมริกันจำนวน 53 คนที่ถูกจับเป็นตัวประกัน ณ กรุงเตหะรานในช่วงวิกฤตการณ์ตัวประกันอิหร่าน[100][101]
ในจดหมายลงวันที่ 13 กรกฎาคม ค.ศ. 1976 เจ้าหน้าที่ผู้บัญชาการสูงสุดของกองกำลังจักรพรรดิอิหร่านได้ให้ยกย่องหน่วยคอมมานโดอิสราเอลสำหรับภารกิจ และแสดงความเสียใจต่อ "การสูญเสียและการเสียสละ" ของเนทันยาฮู[102]
อนุสรณ์
ในเดือนสิงหาคม ค.ศ. 2012 ทางการยูกันดาและอิสราเอลได้ไว้อาลัยการจู่โจมในพิธีที่ฐานของหอคอย ณ ท่าอากาศยานเอนเทบเบเก่า ที่โยนาทัน เนทันยาฮู ถูกฆ่าตาย ยูกันดาและอิสราเอลกลับมามีความมุ่งมั่นถึง "การต่อสู้กับการก่อการร้ายและการทำงานเพื่อมนุษยชาติ"[103] นอกจากนี้ ได้มีการวางพวงมาลา, จัดช่วงสงบนิ่ง, กล่าวสุนทรพจน์ และท่องบทกวี โดยมีธงของยูกันดาและอิสราเอลโบกอยู่ข้าง ๆ ซึ่งแสดงให้เห็นถึงความสัมพันธ์ทวิภาคีที่แน่นแฟ้นของทั้งสองประเทศ และที่ข้าง ๆ ยังมีแผ่นจารึกแสดงประวัติการโจมตี พิธีนี้มีผู้เข้าร่วมโดยรัฐมนตรีว่าการกระทรวงอุตสาหกรรมสัตว์รัฐยูกันดา ไบรท์ รวามิรามา และรองรัฐมนตรีว่าการกระทรวงการต่างประเทศของอิสราเอล ดาเนียล อายาลอน ผู้วางพวงมาลา ณ สถานที่เกิดเหตุการณ์[103] สี่สิบปีนับจากวันที่ปฏิบัติการช่วยเหลือ เบนจามิน เนทันยาฮู ผู้เป็นนายกรัฐมนตรีอิสราเอล และเป็นน้องชายของโยนาทัน เนทันยาฮู สมาชิกหน่วยคอมมานโดซาเยเรตแมตคาลของอิสราเอลที่ถูกสังหาร ได้เข้าเยี่ยมเอนเทบเบกับคณะผู้แทนของอิสราเอล และวางรากฐานสำหรับความสัมพันธ์ทวิภาคีระหว่างอิสราเอล–แอฟริกาใต้สะฮาราเพิ่มเติม
การแสดงและสารคดี
สารคดี
โอเปอเรชันธันเดอร์โบลต์: เอนเทบเบ เป็นสารคดีเกี่ยวกับการจี้เครื่องบินและภารกิจช่วยชีวิตในเวลาต่อมา[104]
ไรส์แอนด์ฟอลออฟอีดี อามิน (ค.ศ. 1980) เป็นภาพยนตร์ชีวประวัติของเผด็จการยูกันดาซึ่งมีการโจมตี
การช่วยชีวิตที่เอนเทบเบ เป็นตอนที่ 12 จากชุดสารคดี อะเกนสต์ออลออดส์: อิสราเอลเซอไวส์ ปี ค.ศ. 2005 โดยไมเคิล กรีนสแปน
โคเฮนออนเดอะบริดจ์ (ค.ศ. 2010) เป็นสารคดีโดยผู้กำกับ แอนดรูว์ เวินรีบ ผู้ที่ได้รับการเข้าถึงหน่วยคอมมานโดและตัวประกันที่รอดตาย
ไลฟ์ออร์ดายอินเอนเทบเบ (ค.ศ. 2012) โดยผู้กำกับ อียัล โบเออส์ เป็นการติดตามการเดินทางของโยนาทัน คายัต เพื่อเปิดเผยสถานการณ์ของการเสียชีวิตของฌ็อง-ฌัก มีมัวนี ผู้เป็นลุงของเขาในการจู่โจม[105][106]
"แอสซอลท์ออนเอนเทบเบ" เป็นตอนหนึ่งของสารคดีเนชั่นแนลจีโอกราฟิกแชนแนลชุดคริติคอลซิทูเอชัน
โอเปอเรชันธันเดอร์โบลต์ เป็นตอนที่ห้าในชุดสารคดีมิลิทารีแชนแนล ค.ศ. 2012 ซีรีส์<i data-parsoid='{"dsr":[59003,59017,2,2]}'>แบล็คออพส์[107]
การแสดง
วิคตอรีแอทเอนเทบเบ (ค.ศ. 1976): ร่วมกับแอนโทนี ฮ็อปกินส์, เบิร์ต แลนแคสเตอร์, เอลิซาเบธ เทย์เลอร์ และริชาร์ด เดรย์ฟัส ผู้กำกับ: มาร์วิน เจ. ชอมสกี
เรดออนเอนเทบเบ (ค.ศ. 1977): ร่วมกับปีเตอร์ ฟินช์, ฮอสท์ บุชโฮลส์, ชาร์ล บรอนสัน, จอห์น แซกซอน, ยาเฟ็ต ค็อตโต และเจมส์ วูดส์ ผู้กำกับ: เออร์วิน เคอร์ชเนอร์ ผู้อำนวยการสร้าง: เอ็ดการ์ เจ. เชริก
โอเปอเรชันธันเดอร์โบลต์ (ค.ศ. 1977): ร่วมกับเยโฮแรม กอน รับบทเป็นนายพันเนทันยาฮู, ซีบิล ดันนิง และเคลาส์ คินสกี รับบทเป็นสลัดอากาศ ผู้กำกับ: มีนาเฮม โกแลน
เผด็จการแผ่นดินเลือด (ค.ศ. 2006): การจู่โจมที่เกิดขึ้นเป็นฉากหนึ่งในเรื่องราวเกี่ยวกับอีดี อามิน
เที่ยวบินนรกเอนเทบเบ้ (ค.ศ. 2018): ผู้กำกับ: โจเซ ปาดีลญา
ภาพยนตร์ที่ได้รับแรงบันดาลใจจากปฏิบัติการเอนเทบเบ
แฝดไม่ปรานี (ค.ศ. 1986) มีปฏิบัติการช่วยชีวิตตัวประกันโดยได้รับแรงบันดาลใจจากปฏิบัติการเอนเทบเบ[108]
ซามีน (ค.ศ. 2003) เป็นภาพยนตร์แอ็กชันบอลลีวูดที่นำแสดงโดยอชัย เทวคัน และอภิเษก พัจจัน ผู้วาดแผนเพื่อช่วยเหลือตัวประกันของสายการบินอินเดียที่ถูกจี้เครื่องบินโดยกลุ่มก่อการร้ายของปากีสถานที่อิงจากโครงสร้างพื้นฐานของปฏิบัติการเอนเทบเบ
เที่ยวบินนรกเอนเทบเบ้ (ค.ศ. 2018)
สื่ออื่น ๆ
โอเปอเรชันธันเดอร์โบลต์ เป็นเกมตู้ ค.ศ. 1988
"แบล็กธอร์น" (ค.ศ. 2001) ซึ่งเป็นส่วนเสริมของ ทอม แคลนซี เรนโบว์ซิกส์: โรกสเปียร์ ได้รวมถึงด่านที่มีการสร้างขึ้นใหม่ของปฏิบัติการ
ทูเพย์เดอะไพรซ์ เป็นบทละคร ค.ศ. 2009 โดยปีเตอร์-เอเดรียน โคเฮน ที่อิงส่วนหนึ่งจากจดหมายของโยนาทัน เนทันยาฮู[109] เป็นละคร ที่แสดง ณ โรงละครรัฐนอร์ทแคโรไลนา หรือโรงละครบรอดเวย์ขนาดเล็กที่นิวยอร์กในเดือนมิถุนายน ค.ศ. 2009 ช่วงเทศกาลละครและมโนคติชาวยิว[110]
ฟอลโลมี: เดอะโยนี เนทันยาฮู สตอรี (ค.ศ. 2011) เป็นหนังสือเล่าชีวิตของโยนาทัน เนทันยาฮู ผู้บัญชาการการตีโฉบฉวย
ระเบียงภาพ
หอควบคุมเก่าเมื่อมองจากด้านหน้า
ภาพถ่ายระยะใกล้ของหอควบคุม
อาคารผู้โดยสารเก่าที่พบเห็นในปี ค.ศ. 2009
แผ่นจารึกบนกำแพงที่แสดง ณ อาคารผู้โดยสารเก่า
อาคารผู้โดยสารเก่าของท่าอากาศยานนานาชาติเอนเทบเบเมื่อมองทางอากาศ
หมายเหตุ
อ้างอิง
เอกสารอ่านเพิ่ม
แหล่งข้อมูลอื่น
Trailer
on YouTube, video by National Geographic, 4 min.
on YouTube video and digitised re-enactment, 9 min.
on YouTube video documentary – detailed, 9 min. on YouTube 10 min.
on YouTube documentary – detailed, 44 min.
, Daily Telegraph article by Saul David
in Strategy and Tactics, No. 232, January/February 2006.
– The Israeli Special Forces Database
Ynetnews 5 November 2010. transcripts of Israeli Cabinet discussions
Coordinates:
หมวดหมู่:อีดี อามิน
| https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%9B%E0%B8%8F%E0%B8%B4%E0%B8%9A%E0%B8%B1%E0%B8%95%E0%B8%B4%E0%B8%81%E0%B8%B2%E0%B8%A3%E0%B9%80%E0%B8%AD%E0%B8%99%E0%B9%80%E0%B8%97%E0%B8%9A%E0%B9%80%E0%B8%9A |
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Eric Northman is a fictional character in The Southern Vampire Mysteries, a series of thirteen books written by New York Times bestselling author Charlaine Harris. He is a vampire, slightly over one thousand years old, and is first introduced in the first novel, Dead Until Dark and appears in all subsequent novels. Since the book series is told from the first person perspective of Sookie Stackhouse, what readers perceive of his character is influenced by what Sookie comprehends. HBO's television series True Blood is based on this book series and the character of Eric Northman is portrayed somewhat differently. A list of True Blood characters has a detailed description of Eric's character from the TV show.
Human life
In the early books, little was revealed about his past. In the ninth book, Dead and Gone Eric revealed details about his human life as a Viking. He was deemed a man at the age of twelve. At sixteen he married Aude, his brother's widow. The couple had six children, but only three were living at the time of his turning, two boys and a girl. Aude and their sixth child died of a fever shortly after the birth when Eric was in his early twenties. It is revealed in the television series that the vampire king of Mississippi murdered his entire family before stealing his father's Viking crown. In the books, he was ambushed one night by a Roman vampire named Appius Livius Ocella and subsequently turned. In the television series, he was made a vampire by Godric.[1] In the television show, it is also shown that Eric was a Viking prince, in the novels Eric says that his father was a chief. The name "Eric" or "Erik" comes from Old Norse and means "One ruler" or "eternal ruler". The name "Norseman" was the name given to people who could speak the Old Norse Language, especially in Sweden, Norway, Finland and Denmark. The name "Norseman" means "man from the north", hence Eric's last name being "Northman".
Physical description and personality
In the first novel, Dead Until Dark, Sookie Stackhouse thinks Eric Northman is a "hunk." Sookie describes him as “handsome, in fact, radiant; blond and blue-eyed, tall and broad shouldered. He was wearing boots, jeans, and a vest. Period. Kind of like the guys on the cover of romance books".[2] He’s approximately six-foot-four. When Sookie sees him naked for the first time in Dead to the World, she thinks, “if there were an international butt competition, Eric would win, hands down – or cheeks up.”[3]
In the TV series 'True Blood' he is tall with long blonde hair. By the end of the first season, and a little bit into the second, Pam (his progeny) cuts his hair shorter than expected because he gets blood in it. Eric is always shown in dark blue jeans with a black singlet and a black leather jacket. When his hair is cut shorter, he parts it and combs it diagonally backwards. His personality in the series is mostly the same, Eric Northman is ruthless and does not care much for human life. His relationship with his progeny, Pam, is where you see this softer side of him come through. When they face difficult challenges and situations, Eric would put her needs above his own. By the middle of season 2 Eric begins to pursue Sookie Stackhouse because of his interest in her abilities, and by the end of season 2 Eric Northman has cunningly tricked her into drinking his blood. Near the beginning of the third season, it is implied that he is beginning to develop feelings for her, even helping her when it is disadvantageous for him to do so.
Eric is portrayed in the books as being somewhat arrogant, but having a true joie de vivre.[4] He is confident almost to a fault, once reprimanding a thug in the third book, Club Dead, for threatening Sookie and referring to her as his "future lover" although no potentially romantic relationship between Eric and Sookie yet existed.[5] He can be manipulative to suit his needs. He is not above using deceit though it seems to be a last resort when it comes to Sookie. However, he is typically upfront regarding any action he takes and if he is manipulative he is very frank and open regarding his wishes. Due to his frank nature, Sookie comments to herself how she can always know where she stands with Eric.[6] Indeed, Sookie frequently remarks how conversations with Eric are seldom single layered and how he never says something without reason.[7] He is not sentimental in the least but shows a great deal of concern over Sookie and her happiness and well-being, perhaps making the relationship between Eric and Sookie all the more impressive.
Sookie believes that, although Eric has created a modest, but thriving business empire and carved out a position of authority in the delicate vampire hierarchy, at heart he remains a born-Viking warrior, ready to leap into battle at any instant.
Work and position within the vampire hierarchy
The vampires in Charlaine Harris' world are organized according to a feudal system with each state divided into "Areas", each of which are governed by a sheriff who then owes allegiance to the queen or king of that particular state. Some states, like California, are so large and so heavily populated with humans (and therefore vampires who prey on humans) they are divided into multiple kingdoms. For example, what humans see as California, vampires see as California Sacramento, California San Jose, and California Los Angeles.[8] Louisiana is not such a state and is ruled by one monarch. However, it is possible for a monarch to control multiple states. At one point in the series Louisiana is controlled by the same vampire who also controlled Arkansas. Later in the series a different ruler controls Louisiana, Arkansas, and Nevada.
Eric is the most powerful vampire in Area Five of northern Louisiana: a territory that includes the small town of Bon Temps. Eric serves as Sheriff of area 5, or local boss, of that area and owns a vampire bar in Shreveport called "Fangtasia," that also serves as his headquarters. He runs the bar with the help of his vampire progeny Pam and a few of his underlings, or vampires who owe allegiance to Eric as their sheriff. Eric takes his responsibilities and role within the vampire hierarchy very seriously. In the sixth novel, Definitely Dead, Eric mentions that he has paid a significant fine to the arbitrator for killing a former Fangtasia bartender, Long Shadow. This demonstrates that he did not hide his crime, as killing another vampire is a "serious thing.".[9] Precisely what a Vampire Sheriff does, aside from owe allegiance to their monarch, do their monarch's bidding, and rule their Area, is still somewhat unclear. Sookie makes a conscious effort not to pry too hard into vampire affairs and Eric does nothing to encourage her learning much more than she already knows. Eric surprised Sookie in the tenth book, Dead in the Family, when he explained the vampire hierarchy in more detail, simply so she, as his wife according to vampire law, was better informed for her safety.
The state of Louisiana was in disarray after the results of Hurricane Katrina, and after queen of Louisiana, Eric's hierarch, was crippled in an explosion and eventually killed by the vampires of Nevada under Felipe de Castro's order. Eric was spared since he was the most practical of the Sheriffs and had one of the largest money makers, Bill Compton, living in his area and owing fealty to him. As the last surviving sheriff of Louisiana, Eric pledges his allegiance to the new regime in order to protect those under him, a tactical move that highlights his capabilities both as a leader and a political survivor. Had Eric resisted, he and all of the vampires serving under him (possibly with the exception of Bill) would have been killed, including Sookie. After accepting the new King, Felipe de Castro, he is then allowed to maintain control of his area and his followers when the other sheriffs of Louisiana and a number of their minions were all killed. Under the new regime, Eric has spent a significant amount of time acclimating himself to his new overlords. Despite his oath, however, Eric remains ever vigilant for opportunities to either further secure his position or free himself entirely from scrutiny of Felipe's Louisiana representative, Victor.
Relationship with Sookie Stackhouse
The author introduces Sookie to Eric in her first novel, Dead Until Dark. Eric then appears in all the subsequent novels and has either saved or attempted to save Sookie's life in every book. From the second book onward, Eric and Sookie share at least one intimate moment together per book. In the second one there are several: when he asks her to suck out a bullet in his chest that he took for her, and when Sookie invites him to an orgy they have to play the part; in the third, they almost have sex before being interrupted by Bubba and also when he gives her blood after she is staked; the fourth, they experience a sexual relationship when he is cursed with amnesia, which he forgets all about promptly after being un-cursed; the fifth, they kiss; the sixth, during battle Eric sneaks a kiss on Sookie after saving her; the seventh, they exchange blood tying them to each other in a blood bond and Eric kisses her; the eighth, they kiss again after Eric smells fairy blood all over Sookie; and in the ninth, they consummate their relationship after being wed by vampire laws and seem to be moving in the direction of an official relationship. In the later books, she has also saved his life several times before.
After appearing to develop an affection for Sookie in the third book in the series, Club Dead, Eric has a brief romance with her in Dead to the World, the fourth book, though, due to a curse, he lost his memories of that time until From Dead to Worse, the eighth book. In the eighth book, after sitting in Sookie's room, he reveals that he remembers the days he spent with her when the curse was put on him. He asks her to discuss it, and she refuses. He seemingly likes Bill Compton but feels arrogantly competitive in an emotional battle for Sookie's affections.
In the seventh book, All Together Dead, when Sookie is accosted into forming a blood bond with Andre, another powerful vampire, Eric steps in opportunistically as the lesser of two evils and bonds with her himself. A blood bond is formed when a human and vampire exchange blood by drinking it from them. Vampire blood can heal any human wounds within seconds as can human blood do the same for vampires.
In Dead and Gone, Eric sends Sookie a velvet parcel that he instructs her to give to him in front of King Felipe de Castro's representative, Victor Madden. Without looking inside the parcel first, Sookie presents Eric the bag which contains a ceremonial knife that is used in marriage ceremonies. The king's representative reveals that the act of giving and receiving the knife means that Eric and Sookie are pledged to one another. Eric claims that he deceived Sookie because the King of Nevada had the power and desire to take her away from her home. Because they are wed, Eric is the only vampire that can have access to Sookie on pain of final death. He also reveals that the curse that had been placed on him made him unconsciously seek out the presence of his heart's desire (Sookie). In "Dead in the Family" Eric and Sookie are in an actual relationship, and Eric admits that he sees Sookie as his wife in the only way that matters to him, which left her puzzled.
In the 12th Sookie Stackhouse novel, Deadlocked, Sookie and Eric's relationship takes a turn. Eric was promised by his maker, Appius, to marry the Queen of Oklahoma, and he has spent much of his time figuring out how to get out of the promise. Sookie wants Eric to choose her outright and Eric explains that he just can't ignore a command from his maker even though he is dead. They do not see each other too much in the book; Eric does tell Sookie that she has the power to make him stay, which she finds out near the end of the book that he knows about her cluviel dor which will grant her one wish. She ends up using it at the end of the book to save Sam Merlotte's life and Eric just walks away after he sees this. The book ends with them basically in the same spot, not knowing if Eric is going to marry the Queen of Oklahoma or stay with Sookie.
In the 13th Sookie Stackhouse novel, Dead Ever After, Eric and Sookie's relationship has crashed and burned. Eric is set to officially marry Freyda, the Queen of Oklahoma, and he has been banned from ever seeing Sookie again. Also, Sookie has been banned from Fangtasia and Oklahoma. In one of the last conversations Eric and Sookie have, he tells her that he was considering making her a vampire even though she never wanted to become one. By the end of the novel, Eric is in Oklahoma with his new wife and without either of his progeny.
Television portrayal
In True Blood, an HBO series based on the earliest books in the series, the character of Eric Northman is played by Swedish actor Alexander Skarsgård. Some details of the character are portrayed somewhat differently on True Blood than in the books. In the series, Eric is created by Godric, with whom he shares a deep bond of loyalty and devotion. In season 2 Godric commits suicide by exposing himself to sunlight, causing Eric to shed bloody vampire tears, however, in the novels he cries for the first time in book 9. In the series, Bill, rather than Eric, saves Sookie from Long Shadow (in the books Eric kills him). Eric has not demonstrated the outward concern for Sookie that he exhibited in the early novels, but he appears to be developing an uneasy, guarded affection for her and the series seems to portray a reluctance on his part to show people, particularly Sookie, his genuine emotions. Often Eric has presented himself to Sookie as violent, arrogant, mischievous and consciously manipulative. Thus far in the series he has usually acted in a manner with little apparent concern for Sookie's feelings or immediate safety, although ultimately he seems to protect her.
However, his growing feelings for Sookie are showcased in episode 4 of Season 3 when he daydreams about Sookie. After the daydream he spurns Yvetta and Pam looks on at him concerned. In episode 10, Eric kissed Sookie, after proclaiming that if he were to die a true death without having at least kissed her, that would be his greatest regret. He chained her up in his basement a few minutes later as bait for Russell. He again reveals his guarded affection for her when prompted by Russell to drink her blood, he hesitates and strokes her affectionately on the cheek. Finally, in the season three finale, he tells her that he regrets seeing her in such pain, referring to her heartbreak over ending her relationship with Bill- although he was the one who deliberately gave her the information that caused her to banish Bill from her house.
Eric's back story is more deeply explored in Season 3, as his youth and human life as a Viking prince was shown; his family was slaughtered in their castle by a pack of werewolves, under the command of the ancient vampire Russell Edgington. Eric gave his dying father a vow to avenge them all. During World War II, he and Godric were shown tracking Russell's wolfpack across Germany disguised as SS officers, though they never found Russell himself.
In Season 3, when Eric defects to Russell Edginton (now the King of Mississippi) instead of Queen Sophie-Anne in an effort to save Pam from torture by the Magister, he notices a crown in Russell's antique collection that he recognizes as his father's, stolen the night of the attack. Realizing Russell is the target he has sought for over 1,000 years, he continues to play up his loyalty to Russell to keep him from becoming suspicious, even displaying callous indifference to Sookie when she is captured and asks for help. However, later on, when Russell is attacking Bill and Sookie with his wolves, Eric murders his progeny and husband Talbot; Russell, sensing Talbot's death, is driven insane by grief and rage. He hunts down Eric and prepares to kill him until Eric reveals that he can show Russell how to daywalk, Russell's oldest obsession. After consuming much of Sookie's blood against her will (which visibly discomforts Eric) they are indeed able to daywalk, but it wears off very quickly; Eric cuffs Russell to himself with silver, intending for both of them to burn. Sookie brings Eric back inside and, at the request of Eric, retrieves the badly-injured Russell as well. Eric only spared Russell because he thought death would be too merciful for him; after knocking out one of his fangs, he buried the crippled vampire in silver chains and wet concrete, intending to let him starve in agony for 100 years but never die.
In Season 4, we see the relationship of Sookie and Eric develop after he loses his memory to the witch coven; first, Sookie shelters him in her house from Bill (though the house is technically Eric's). Endeared by the new Eric's innocence and his regret over his previous crimes as a vampire, Sookie eventually enters a sexual relationship with him, though in the Season 4 finale, Sookie is choosing between Eric and Bill, and chooses neither. Sources have said of Season 5 that Sookie's "independent streak" will continue (as Alan Ball, executive producer) claimed in an interview concerning the upcoming season. By the end of the season, Eric has regained his memories, though he retains his memory and part of the gentler personality he had when he was with Sookie.
In Season Five, after previously killing Nan Flanagan, Eric and Bill are arrested by the Vampire Authority. However, Nora, Eric's 'sister' (with whom he also has a sexual history) rescues them. Later, all three are caught by the Authority. While Eric steers clear of the Sanguinista movement stirring in the authority and attempts to escape, Bill accepts the Book of Lilith and betrays him. Eric manages to successfully escape with Nora and searches for Sookie to enlist her help; in the process, he manages to kill his archenemy Russell Edgington, fulfilling a vengeance that he began when he was still human. He attempts to save Bill but apparently fails. Later, he returns Sookie's house to her for her protection; while she is grateful to him and considers him a friend, she still banishes him from the house, and Eric tells Nora they will stay away from her now.
In Season 6, Eric finds his latest threat to be the humans, especially Governor Truman Burrell, who declares war on vampires. In an effort to challenge the Governor's stance on vampires, Eric turns Willa Burrell, Truman's more open-minded daughter after noticing her selflessness of willingly dying for a cause similar to Nora. Regardless, the Governor has them both placed in "Vamp Camp", where Eric is later forced to helplessly watch his sister, Nora, receive a lethal injection of "Hep V". Eric uses Willa to escape the camp (promising to get her and Pam out), but she also demands he frees Jessica & Tara as well and takes Nora to the Lilith-enhanced Bill, but they are unable to save her. Devastated by her death, Eric violently slaughters the humans running the concentration camp to seek revenge and free both his progenies, among others. Notably, Eric spares Jason Stackhouse, though he kills the vampire Steve Newlin, stating "Every time I lost someone I loved, you were there." (Blaming him for the deaths of Godric & Nora), After freeing the imprisoned vampires, Eric flies off to grieve his sister Nora's death in solitude. In the finale, Warlow, the fairy-vampire hybrid whose blood made it possible for Eric and the other vampires to walk in the sun, is killed by Jason to save Sookie. When Warlow dies, the effects of his blood wears off in the vampires who drank it and they are no longer able to walk in the sun. Eric is shown in the sun on a mountain top in Åre, Sweden when Warlow's blood wears off, causing Eric to burn.
In Season 7, Pam tracks down Eric, who somehow avoided meeting the true death. However, he has been infected with the Hepatitis V virus.
After learning that Sarah Newlin is still alive, he and Pam decide to go after her. Eric and Pam soon learn that Newlin drank the antidote and it permeated her body, making Sarah a living antidote for Hep V. They are forced to work with Yakuza ninjas from the Yakanomo Corporation (the company which originally made True Blood) in order to find her, but neither party trusts the other. Upon capturing Sarah, Eric drinks her blood and rids himself of the Hep V virus, then the Yakuza suggest they make New Blood, but ensure it doesn’t work too well, so Vampires can buy more and increase the profit, and want Eric to be the face of New Blood. Learning that Bill is dying, Eric secretly reveals the cure (contrary to the Yakuza's wishes) to Sookie and offers to heal Bill, despite their long rivalry; he is stunned when Bill refuses. However, after talking with Bill he understands his motives and tells Sookie to talk with him, making his final peace with both Bill and Sookie. Eric suggests to Pam, they let Sarah free, so the Yakuza members don’t get her, murder them all and collect all the profit, much to her delight, and they proceed to do all of it, and By the end of the series, they are running a multibillion-dollar corporation called New Blood, derived from Sarah Newlin's blood, which is both a new vampire food source and a universal cure for Hep V. Eric and Pam tell the world that Sarah got away from them, but they found a drop of her blood to make New Blood with, and thereby save every infected vampire in the world. In actuality, they are keeping Sarah chained in the basement at Fangtasia, and charging vampires small fortunes to feed on her, as she slowly goes insane. All the while, Eric sits on his throne on the Fangtasia stage, relishing his accomplishments.
Origin
Eric is frequently referred to as a Viking. In episode 4 of season 3 of True Blood, Eric says he played by the North Sea as a child. In episode 10 of season 3, Pam alludes to Eric being Swedish when she says, "I have no interest in inheriting your farm on Öland. That place is a windy shit-hole". Eric also speaks Swedish with Pam and Godric in some episodes.
We have seen a flashback of the time before Pam's turning, which was portrayed differently in True Blood than in the books. In the television series, Pam slits her own wrists after Eric denies her request to be turned, forcing him to do it to save her life. In the books, it is said that Eric offered her immortality.
| https://en.wikipedia.org/wiki/Eric%20Northman |
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గంగానది (హిందీ భాష: गंगा ; ఆంగ్లం: Ganges River) భారతదేశంలోను, బంగ్లాదేశ్లోను ప్రధానమైన నదులలో ఒకటి. భారతదేశం ఆర్థిక వ్యవస్థ, చరిత్ర, సంస్కృతి గంగానదితో అవినాభావంగా ముడివడి ఉన్నాయి. హిందూమతంలో గంగానదికి ఉన్న ప్రాముఖ్యత అత్యున్నతమైనది. "గంగమ్మ తల్లి" అనీ, "పావన గంగ" అనీ, "గంగా భవాని" అనీ ఈ నదిని హిందువులు స్మరిస్తారు. "నీరు" అన్న పదానికి సంస్కృతంలో "గంగ" అన్న పదాన్ని వాడుతారు.
గంగా నది మొత్తం పొడవు సుమారు 2,525 కి.మీ. (1,557 మైళ్ళు). గంగ, దాని ఉపనదియైన యమున కలిసి విశాలమైన మైదానప్రాంతంలో ప్రవహిస్తున్నాయి. సారవంతమైన ఈ "గంగా-యమునా మైదానం" ఉత్తర భారతదేశం, బంగ్లాదేశ్లలో విస్తరించి ఉంది. మొత్తం ప్రపంచ జనాభాలో 8.5 % ప్రజలకు (ప్రతి 12 మందికీ ఒకరికి) ఈ మైదానం నివాసస్థానం. ఈ కారణంగా ఈ ప్రాంతంలో తీవ్రమైన ఆర్థిక, పర్యావరణ, సాంఘిక సమస్యలు ఉత్పన్నమౌతున్నాయి.
భౌగోళికం
ఉత్తరాఖండ్ రాష్ట్రం పరిధిలోని హిమాలయ పర్వతాలలో గంగోత్రి అనే హిమానీనదం (Glacier) లో భాగీరధి నది ఉద్భవిస్తున్నది. ప్రవాహ మార్గంలో దేవ ప్రయాగ వద్ద అలకనందనది దీనితో కలుస్తుంది. అక్కడినుండి దీనిని "గంగ" అంటారు. కొంత దూరం హిమాలయాలలో ప్రహించిన ఈ నది హరిద్వారం వద్ద మైదాన ప్రాంతంలో ప్రవేశిస్తున్నది.
మైదానాలలో ప్రహించే మార్గంలో గంగానదితో కోసి, గోమతి, శోణ వంటి ఉప నదులు కలుస్తాయి. అన్నింటికంటే పెద్దదైన యమునానది అలహాబాదు, (ప్రయాగ) వద్ద గంగానదితో కలుస్తుంది. యమున సాంకేతికంగా గంగకు ఉపనదియైనా గాని, యమున చాలా పెద్ద నది గనుక వేరే నదిగా అన్నివిధాల పరిగణింప వచ్చును. గంగతో పాటు యమునకు కూడా హిందూమతంలో పవిత్ర స్థానం ఉంది. ఈ రెండు నదుల ఒడ్డున ఉత్తరభారతదేశంలో పెద్దవైన నగరాలు, పుణ్యక్షేత్రాలు ఉన్నాయి. ఢిల్లీ, కాన్పూరు, అలహాబాదు, వారాణసి, పాట్నా, కొలకత్తా వంటివి అలాంటి నగరాలలో కొన్ని.
అలహాబాదు తరువాత మరెన్నో నదులతో కలిసి గంగానది మహా ప్రవాహంగా మారుతుంది. పశ్చిమ బెంగాల్లో మాల్దా వద్ద మొదటిసారి చీలుతుంది. అక్కడినుండి హూగ్లీ నది (గంగానది చీలిక) ప్రారంభమౌతుంది. విశాలమైన గంగా-హూగ్లీ డెల్టా ఇక్కడితో మొదలౌతుంది. కొలకత్తా నగరం హూగ్లీ వడ్డున ఉంది. ప్రధానమైన గంగానదిని మాల్దా తరువాత "పద్మ" నది అంటారు. పద్మ నది బంగ్లాదేశ్లో ప్రవేశించిన తరువాత బ్రహ్మపుత్రా నది చీలిక అయిన జమునా నది పద్మతో కలుస్తుంది. ఆతరువాత మేఘనా నది కూడా దీనితో కలుస్తుంది. బంగ్లాదేశ్ మైదానాలలో ఈ మహాప్రవాహం అనేకానేకంగా చీలి అక్కడి సుందర వనాలు డెల్టా గుండా ప్రవహించి, తరువాత బంగాళాఖాతం సముద్రంలో కలుస్తాయి.
సుందర వనాలు (Sundarbans) డెల్టా దట్టమైన mangrove వృక్షాలతో కూడిన అరణ్యం. పర్యావరణ పరంగా విశిష్టమైన చాలా వృక్ష, జంతు సంపదకు ఆలవాలం. ప్రత్యేకించి రాయల్ బెంగాల్ పులి, గంగానది డాల్ఫిన్, ఐరావతి డాల్ఫిన్, మంచినీటి షార్క్ చేప (Glyphis gangeticus) వీటిల్లో ముఖ్యమైనవి.
హిందూమతంలో గంగ
పావన గంగ
హిందూ మతం ఆచారాల ప్రకారం గంగానది చాలా పవిత్రమైనది. పావనం చేసేది. ఒక్కమారు గంగానదిలో స్నానం చేస్తే జన్మ జన్మల పాపాలనుండి విముక్తి లభిస్తుందని, చనిపోయే ముందు గంగా జలం మింగితే స్వర్గప్రాప్తి నిశ్చయమనీ నమ్మకం. చనిపోయిన తమ కుటుంబీకుల అస్తికలను గంగానదిలో నిమజ్జనం చేయడానికి దూరదూరాలనుండి వారాణాసికి, గయకు, ప్రయాగకు, ఇతర గంగానదీ తీర్ధాలకు వస్తారు. గంగా నది జలాన్ని ఒక చిన్న పాత్రలో ఇంటిలో ఉంచుకోవడం శుభప్రథమని భావిస్తారు.
గంగా నది తీరాన కుంభ మేళ, ఛత్పూజ వంటి ఉత్సవాలు జరుగుతాయి. కుంభమేళ ప్రపంచంలోనే అతిపెద్ద జనసమూహం కూడుకొనే ఉత్సవం.
వారాణాసి హిందువులకు పరమ పవిత్ర స్థానం.
వేదాలలో గంగ
పురాతన గ్రంథమైన ఋగ్వేదములోని (10.75) నదీస్తుతిలో తూర్పునుండి పడమరవరకు ఉన్న నదుల పేర్లు చెప్పబడ్డాయి. వాటిలో గంగానది పేరు వచ్చింది. ఋగ్వేదము 3.58.56లో ఇలా చెప్పారు - "వీరులారా! మీ వంశగృహం, మీ పవిత్ర స్నేహం, మీ సంపద అన్నీ జాహ్నవి ఒడ్డున ఉన్నాయి." ఇది గంగ గురించి కావచ్చును.[1]
ఋగ్వేదము 1.116.18-19 లో జాహ్నవి గురించి, గంగానదిలోని డాల్ఫిన్ల గురించి రెండు వరుస శ్లోకాలలో ప్రస్తావించారు.[2][3]
పురాతన ఆర్య యుగంలో సింధు, సరస్వతి నదులకు ఎక్కువ ప్రాధాన్యం ఉండేది అనిపిస్తుంది. వేదాల కాలంనుండి గంగానది ప్రాధాన్యత పెరిగినట్లుంది.
గంగావతరణ గాధ
గంగ గురించి, గంగావతరణం గురించి ఆసక్తికరమైన పురాణ గాథలు ఉన్నాయి. భాగవతంలోను, బృహద్ధర్మ పురాణంలోను, దేవీ భాగవతంలోను గంగను గూర్చి పెక్కు గాథలున్నాయి.
జగజ్జనని (అంతర్ధానాంశయై) నిరాకారయైన గంగ బ్రహ్మదేవుని కమండలువునందుండెను. ఒకమారు శంకరుడు రాగము లాలాపించినపుడు నారాయణుడు ద్రవీభవించెను. ఆ పరబ్రహ్మ ద్రవమునకు బ్రహ్మదేవుడు తన కమండలువును తాకించగా నిరాకార గంగ జలమయమయ్యెను. శ్రీ మహావిష్ణువు వామనావతారమున త్రివిక్రముడై ఎల్లలోకములను కొలిచినపుడు బ్రహ్మ తన కమండలములోని ఆ నీటితోనే విష్ణుపాదమును కడిగెను. (బ్రహ్మ కడిగిన పాదము - అన్నమయ్య కీర్తన). ఆ పాదమునుండి ప్రవహించునదే దివ్యగంగ.
సూర్యవంశపు రాజైన సగరునకు వైదర్భి, శైబ్య అను ఇద్దరు భార్యలు. శైబ్యకు అసమంజసుడను కుమారుడు, వైదర్భికి 60వేల మంది కుమారులు కలిగిరి. సగరుని అశ్వమేధ యాగాన్ని భంగం చేయడానికి ఇంద్రుడు యాగదేనువును పాతాళంలో దాచాడు. ఆ అశ్వాన్ని వెతకడానికి వెళ్ళిన సగరుని 60వేల మంది పుత్రులు కపిల మహాముని శాపమున భస్మమై పోయారు. వారికి ఉత్తమగతులు లభించాలంటే దివిజ గంగను పాతాళానికి తేవలసి ఉంది. సగరుడు, అతని కొడుకు అసమంజసుడూ తపసు చేసినా ప్రయోజనం లేకపోయింది. అసమంజసుని కొడుకు అంశుమంతుడు. ఆంశుమంతుని కొడుకు భగీరధుడు.
భగీరధుడు తన తాతలకు ఉత్తమ గతులు ప్రాప్తించాలని గంగకోసం తపస్సు చేశాడు. గంగ ప్రత్యక్షమై "నేను భూమి మీదికి దిగిరావడానికి సిద్ధంగా ఉన్నాను. కాని నా దూకుడు భరించగల నాధుడెవ్వరు?" అని అడిగింది. భగీరధుడు శివునికోసం తపసు చేశాడు. అనుగ్రహించిన శివుడు దిజ గంగను భువికి రాగానే తన తలపైమోపి, జటాజూటంలో బంధించాడు. భగీరధుని ప్రార్థనతో ఒక పాయను నేలపైకి వదలాడు. భగీరధుని వెంట గంగ పరుగులు తీస్తూ సాగింది. దారిలో జహ్నముని ఆశ్ర్రమాన్ని ముంచెత్తి, "జాహ్నవి" అయ్యింది. ఆపై సాగరంలో ప్రవేశించి, పాతాళానికి చేరి, సగరుని పుత్రులకు ఉత్తమ గతులను కలుగజేసింది. (' (ఈ కథ బాపు దర్శకత్వంలో సీతాకళ్యాణం అనే తెలుగు సినిమాలో కన్నుల పండువుగా చిత్రీకరింపబడింది.)
స్వర్గంలో "మందాకిని"గా, భూలోకంలో "గంగ" లేదా "అలకనంద"గా, పాతాళంలో "భోగవతి"గా మూడు లోకాల్లో ప్రహించినందున గంగను "త్రిపథగ" అంటారు.
వృత్తాంతము
ఒకానొక నది. హిమవంతమునందు పుట్టినందున దీనిని హిమవంతుని కూఁతురు అందురు. ఇది దేవలోకమునందుండి భగీరథుని ప్రయత్నమున భూలోకమునకు వచ్చెను. భగీరథుఁడు, తన ముత్తాతలు అగు సగరపుత్రులు కపిల మహామునియొక్క కోపాగ్నిచేత నీఱుకాఁగా, వారికి సద్గతి కలిగింప తలఁచి గంగను కూర్చి తపస్సు చేసి భూలోకమునకు దిగివచ్చునట్లు ప్రార్థించెను. అప్పుడు ఆమహానది తాను భూలోకమునకు వచ్చునెడ తన ప్రవాహవేగమును ధరింపఁగలవారిని ఒకరిని ఏర్పఱచుకొనిన పక్షమున, తాను వచ్చునట్లు ఒప్పుకొనెను. అంతట భగీరథుఁడు రుద్రునిఁగూర్చి తపము ఆచరించి అతని అనుగ్రహము పడసి, గంగాప్రవాహమును వహింప ప్రార్థించెను. అపుడు గంగ మిక్కిలి అట్టహాసముతో భూమికి దిగి రాసాగెను. అది రుద్రుడు చూచి గంగను తన ప్రక్కకు ఆకర్షించి జటాజూటమునందు నిలిపి పిదప కొంతకాలమునకు భగీరథుని ప్రార్థనచే తన శిరస్సునుండి ఏడుబిందువులను భూమిమీఁద వదలెను. అది కారణముగ రుద్రుడు మందాకినీమౌళి అనఁబడును. ఆబిందువులు పడిన చోటు బిందుసరస్సు అనియు ఆబిందుసరస్సునుండి వెడలి గంగ ప్రవహించును అనియు చెప్పుదురు. అట్లు వెడలి ఆగంగ జహ్నుమహాముని యజ్ఞశాలయందు ప్రవేశింపఁగా అతఁడు కోపించి దానిని పానముచేసి, పిమ్మట భగీరథుఁడు ప్రార్థింపఁగా ప్రసన్నుడై తన చెవినుండి వెడల విడిచెను. ఇందువలన గంగకు జాహ్నవి అను పేరు కలిగెను. మఱియు ఈనది భగీరథుని వెంట పాతాళమునకు పోయెను కనుక దీనిని త్రిజగత్కల్యాణి, త్రిపథగ అని అందురు.
త్రివిక్రమావతారమున విష్ణువు భూమియందు ఒక పాదము ఉంచి రెండవపాదముచే మీఁది లోకమును కప్పునప్పుడు బ్రహ్మాండము పగిలి ఆకాశగంగ ఆయన పాదముగుండ క్రిందికి ప్రవహించినందున దీనికి విష్ణుపది అను పేరు కలిగెను. ఊర్ధ్వలోకములయందు వ్యాపింప చేసిన త్రివిక్రమదేవుని పాదమును బ్రహ్మ తన కమండల జలముచే కడుగఁగా ఆజలముప్రవహించి ఈనది ఏర్పడెను అనియు అది కారణముగ దీనికి విష్ణుపది అను పేరు కలిగెను అనియు కొందఱు చెప్పుదురు. .... [ పురాణనామచంద్రిక (యెనమండ్రం వెంకటరామయ్య) 1879 ]
పురాణము ప్రకారము
ఒకానొక నది. హిమవంతమునందు పుట్టినందున దీనిని హిమవంతుని కూతురు అందురు. ఇది దేవలోకమునందుండి భగీరథుని ప్రయత్నమున భూలోకమునకు వచ్చెను. భగీరథుఁడు, తన ముత్తాతలు అగు సగరపుత్రులు కపిల మహామునియొక్క కోపాగ్నిచేత నీఱుకాఁగా, వారికి సద్గతి కలిగింప తలచి గంగను కూర్చి తపస్సు చేసి భూలోకమునకు దిగివచ్చునట్లు ప్రార్థించెను. అప్పుడు ఆమహానది తాను భూలోకమునకు వచ్చునెడ తన ప్రవాహవేగమును ధరింపఁగలవారిని ఒకరిని ఏర్పఱచుకొనిన పక్షమున, తాను వచ్చునట్లు ఒప్పుకొనెను. అంతట భగీరథుఁడు రుద్రునిఁగూర్చి తపము ఆచరించి అతని అనుగ్రహము పడసి, గంగాప్రవాహమును వహింప ప్రార్థించెను. అపుడు గంగ మిక్కిలి అట్టహాసముతో భూమికి దిగి రాసాగెను. అది రుద్రుడు చూచి గంగను తన ప్రక్కకు ఆకర్షించి జటాజూటమునందు నిలిపి పిదప కొంతకాలమునకు భగీరథుని ప్రార్థనచే తన శిరస్సునుండి ఏడుబిందువులను భూమిమీఁద వదలెను. అది కారణముగ రుద్రుడు మందాకినీమౌళి అనబడును. ఆబిందువులు పడిన చోటు బిందుసరస్సు అనియు ఆబిందుసరస్సునుండి వెడలి గంగ ప్రవహించును అనియు చెప్పుదురు. అట్లు వెడలి ఆగంగ జహ్నుమహాముని యజ్ఞశాలయందు ప్రవేశింపఁగా అతఁడు కోపించి దానిని పానముచేసి, పిమ్మట భగీరథుఁడు ప్రార్థింపఁగా ప్రసన్నుఁడై తన చెవినుండి వెడల విడిచెను. ఇందువలన గంగకు జాహ్నవి అను పేరు కలిగెను. మఱియు ఈనది భగీరథుని వెంట పాతాళమునకు పోయెను కనుక దీనిని త్రిజగత్కల్యాణి, త్రిపథగ అని అందురు.
త్రివిక్రమావతారమున విష్ణువు భూమియందు ఒక పాదము ఉంచి రెండవపాదముచే మీది లోకమును కప్పునప్పుడు బ్రహ్మాండము పగిలి ఆకాశగంగ ఆయన పాదముగుండ క్రిందికి ప్రవహించినందున దీనికి విష్ణుపది అను పేరు కలిగెను. ఊర్ధ్వలోకములయందు వ్యాపింప చేసిన త్రివిక్రమదేవుని పాదమును బ్రహ్మ తన కమండల జలముచే కడుగఁగా ఆజలముప్రవహించి ఈనది ఏర్పడెను అనియు అది కారణముగ దీనికి విష్ణుపది అను పేరు కలిగెను అనియు కొందఱు చెప్పుదురు....................... పురాణనామచంద్రిక (యెనమండ్రం వెంకటరామయ్య) 1879
రోమ్లో గంగ
ఇటలీ రాజధాని రోమ్ నగరంలో "పియజా నవోనా"(Piazza Navona) అనే కూడలిలో "నాలుగు నదుల ఫౌంటెన్" (Fontana dei Quattro Fiumi) అనబడే ఫౌంటెన్ ఉన్నది. గంగ, నైలు, డాన్యూబ్, ప్లాటా అనే నదులకు సంకేతంగా అందులో నాలుగు జలధారలుంటాయి.
కాలుష్యం సమస్య
జనసాంద్రత అధికంగా ఉన్న ప్రదేశాలు గంగానదికి ఇరువైపులా ఉన్నందున, చుట్టుప్రక్కల కాలుష్యాన్ని విడుదలచేసే అనేక పరిశ్రమలు ఉండడం వలన, గంగానదీ జలాలు తీవ్రమైన కాలుష్యానికి గురవుతున్నాయి.
కాన్పూరు వంటి నగరాలలోని రసాయనిక పరిశ్రమలు, తోలు పరిశ్రమలు, ఇందుకు ఒక ముఖ్య కారణం. అందుకు తోడు ప్రజల గృహాలనుండి వెలువడే మురుగునీరు రోజూ 100 కోట్ల లీటర్లు గంగలో కలుస్తున్నాయని అంచనా. ఈ పరిస్థితిని నివారించడానికి అడపా దడపా కొన్ని చర్యలు తీసికొన్నారు గాని ఫలితాలు చాలా కొద్ది స్థాయిలో ఉన్నాయి.
గంగానది కాలువ
19వ శతాబ్దంలో హరిద్వార్ నుండి కాన్పూర్ వరకు త్రవ్వబడ్డ గంగా నది కాలువ, దాని అనేకానేక పిల్ల కాలువలు ఈ సారవంతమైన మైదానంలో వ్యవసాయానికి ముఖ్యమైన నీటివనరు. ఉత్తరప్రదేశ్ మైదానంలో ఆర్ధిక పరిస్థితి అభివృద్ధికి, హరిత విప్లవానికీ ఈ కాలువ ఎంతో దోహదం చేసింది.
గంగా స్నానం మరియు గంగా మహిమలు
భారతంలో బీష్ముడు అంపశయ్య మీద ఉన్నప్పుడు ధర్మరాజు కోరికపై బీష్ముడు గంగానది మహిమలు వర్ణించాడు.అవి ఈ క్రింద వివరించబడినాయి.
గంగా, యమున ,సరస్వతులు కలసిన సంగమంలో స్నానం చేసినందువలన కలుగు పుణ్యం యజ్ఞ యాగాది దానాదులు చేసినదానికంటే అధికం.
గంగాజలం కొంచమైననూ దేహమునకు సోకిన సకల పాపములు నశించును.స్వరం లభించును.
నరుని ఎముక గంగానదియందు ఎన్ని సంవత్సరములు ఉండునో అతడు అన్ని సంవత్సరములు స్వర్గమున నివసించును.
గంగాస్నానమాచరించిన వారు పరిశుద్ధులగుటయేకాక ఏడు తరముల వారు పరిశుద్ధులగుదురు.
గంగా జలం త్రాగిన కలుగు ఫలితం నూరు చంద్రాయణం చేసినదానికంటే అధికం.
శిరస్సు, మ్య్ఖం , దేహంలందు గంగా మృత్తిక(మట్టి)ను రాసుకుని స్నానమాచరించిన గరుత్మంతుని చూచి పాములు పారిపోయినట్లు పాపములు దూరమగును.
ఆధారం లేని జనులకు గంగ ఆధారమగును. దేవతలకు అమృతము వలె మునులకు గంగ ప్రియమైనది.
గంగానది తరంగముల నుండి వచ్చిన గాలి దేహమునకు సోకిన పరమానందము కలిగించుచూ పాపములను దూరం చేయును.
మరణకాలమందు గంగను తలచినవారికి మోక్షం లభించును.
గంగా నది మహిమలు చెప్పుకొను వారికి పాప భయం, రాజ భయం, చోర భయం, భూత భయం మొదలైన భయములు నశించును.
గంగ ఎంతయో పుణ్యరాశి అయినందున ఆకాశము నుండి దిగి వచ్చినప్పుడు ఈశ్వరుడు తలమీద ధరించాడు.
గంగ మూడు లోకములందు ప్రవహించి పునీతం లోకాలను చేస్తుంది.
భగీరధుడు కపిల ముని శాపం వలన భస్మమైన తన పితరులకు మోక్షప్రాప్తి కలిగించడానికి తపమాచరించి బ్రహ్మలోకం నుండి భూలోకానికి తీసుకు వచ్చాడు.
గంగా నది బ్రహ్మలోకం నుండి మేరురూపుడైన విష్ణువు నుండి సూర్యుని నుండి చంద్రుని నుండి శివుని జటాజూటం నుండి హిమవంతం నుండి భూమి మీదకు ప్రవహిస్తుంది.
గంగ తొలుత విష్ణు పాదం నుండి ఉద్భవించింది కనుక గంగను భక్తితో శరణుజొచ్చిన మోక్షం నిశ్చయం.
గంగ మహిమను బ్రహ్మాది దేవతలు స్తుతి చేస్తుంటారు. నరులకు గంగానది మహిమ వర్ణించుట సాధ్యము కాదు.
తన వర్ణాశ్రమ ధర్మములు నిర్వహించుతూ గంగనది మహిమలను మనోవాక్కాయకర్మల స్మరించు వారికి సకల సౌఖ్యములు కలుగును.
గంగాదేవి ఇతిహాసమును వ్రాసినను విన్ననూ చదివిననూ సకల వ్యాధులు నశించి పరమ శుభములు కలుగును.
వ్యాఖ్యలు
మూలాలు
Alley, Kelly D. On the Banks of the Ganga: When Wastewater Meets a Sacred River, University of Michigan press (2002) [ISBN 0-472-06808-3]
Berwick, Dennison , A Walk Along the Ganges. Account of a 3000-km walk from sea to source beside the river. (Hutchinson, London. Rupa Paperbacks, New Delhi)
Darian, Steven G., The Ganges in Myth and History, The University Press of Hawaii, Honolulu (1978) [ISBN 0-8248-0509-7]
Newby, Eric, Slowly down the Ganges, Lonely Planet Publications (1998) [ISBN 0-86442-631-3]
, by Sri Nitin Kumar.
Edmund Hillary, From the Ocean to the Sky: Jet Boating Up the Ganges, Ulverscroft Large Print Books Ltd (November 1980) ISBN 0-7089-0587-0
Stephen Alter, Sacred Waters: A Pilgrimage up the Ganges River to the Source of Hindu Culture. Harcourt; 1 Us ed edition (October 17, 2001). ISBN 0-15-100585-0
పురాణనామచంద్రిక (యెనమండ్రం వెంకటరామయ్య) 1879
బయటి లింకులు
See Ganges and Brahmaputra Rivers. Peace Palace Libray
Quicktime streaming video of worship of the Ganges in Hardwar (15 minutes)
వర్గం:భారతదేశ భౌగోళిక స్వరూపము
వర్గం:భారతదేశ నదులు
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محمد بن علي بن محمد بن عربي الحاتمي الطائي الأندلسي الشهير بـ محيي الدين بن عربي، أحد أشهر المتصوفين لقبه أتباعه وغيرهم من الصوفيين "بالشيخ الأكبر"، ولذا تُنسب إليه الطريقة الأكبرية الصوفية. ولد في مرسية في الأندلس في شهر رمضان عام 558 هـ الموافق 1164م قبل عامين من وفاة الشيخ عبد القادر الجيلاني. وتوفي في دمشق عام 638هـ الموافق 1240م. ودفن في سفح جبل قاسيون.
لقبه أتباعه ومريدوه من الصوفية بألقاب عديدة، منها: الشيخ الأكبر، ورئيس المكاشفين[1]، البحر الزاخر[2]، بحر الحقائق،[2] إمام المحققين، محيي الدين، سلطان العارفين.
نشأته
ولد محيي الدين بن عربي في مدينة مرسية من أب عربي طائي وأم عربية خولانية[3][4] [5][6] ويعرف عند الصوفيين بالشيخ الأكبر والكبريت الأحمر. وهو واحد من كبار المتصوفة والفلاسفة المسلمين على مر العصور. كان أبوه علي بن محمد من أئمة الفقه والحديث، ومن أعلام الزهد والتقوى والتصوف. وكان جده أحد قضاة الأندلس وعلمائها، فنشأ ضمن جو ديني. انتقل والده إلى إشبيلية وكان يحكمها أنذاك السلطان محمد بن سعد، وكانت عاصمة من عواصم الحضارة والعلم في الأندلس. وما كاد لسانه يبين حتى دفع به والده إلى أبي بكر بن خلف عميد الفقهاء، فقرأ عليه القرآن الكريم بالقراءات السبع وقرأ عليه كتاب الكافي، فما أتم العاشرة من عمره حتى كان ملماً بالقراءات والمعاني والإشارات. ثم سلمه والده إلى طائفة من رجال الحديث والفقه تنتقل بين البلاد واستقر أخيراً في دمشق طوال حياته وكان واحداً من أعلامها حتى وفاته عام 1240 م.[7]
ذكر أنه مرض في شبابه مرضاً شديداً وفي أثناء شدة الحمي رأى في المنام أنه محاط بعدد ضخم من قوى الشر، مسلحين يريدون الفتك به. وبغتة رأى شخصاً جميلاً قوياً مشرق الوجه، هجم على هذه الأرواح الشريرة ففرقها ولم يبق منها أي أثر فسأله محيي الدين ابن عربي: "من أنت ؟" فقال له الرجل::أنا سورة يس.
" وعلى أثر هذا استيقظ فرأى والده جالساً إلى وسادته يتلو عند رأسه سورة يس. ثم لم يلبث أن شفي من مرضه، وأتته فكرة أنه معد للحياة الروحية وآمن بوجوب سيره فيها إلى نهايتها.
تزوج بفتاة فارسية تدعى نظام وهي ابنة الشيخ أبي شجاع بن رستم الأصفهاني الذي يعد من كبار شيوخ بلاد فارس في حينها. وكانت تعتبر مثالاً في الكمال الروحي والجمال الظاهري وحسن الخلق، فساهمت معه في تصفية حياته الروحية، بل كانت أحد دوافعه إلى الإمعان فيها. وفي هذه الأثناء كان يتردد على إحدى مدارس الأندلس التي تعلم فيها سراً مذهب الأمبيذوقلية المحدثة المفعمة بالرموز والتأويلات والموروثة عن الفيثاغورية والاورفيوسية والفطرية الهندية. وكان أشهر أساتذة تلك المدرسة في ذلك القرن ابن العريف المتوفى سنة 1141م.
نشأته الروحية
مما لاشك فيه أن استعداده الفطري ونشأته في بيئة دينية وتردده إلى المدارس الرمزية، كل ذلك قد تظافر على إبراز الناحية الروحية عنده في سن مبكرة فلم يكد يتم العقد الثاني من عمره حتى انغمس في أنوار الكشف والإلهام ولم يشارف العشرين حتى أعلن أنه جُعِل يسير في الطريق الروحاني، وأنه بدأ يطلع على أسرار الحياة الصوفية. وأن عدداً من الخفايا الكونية قد تكشفت أمامه وأن حياته سلسلة من البحث المتواصل عما يحقق الكمال لتلك الاستعدادات الفطرية. وبقي عاكفاً حتى ظفر بأكبر قدر ممكن من الأسرار. وأكثر من ذلك أنه حين كان لا يزال في قرطبة قد تكشف له من أقطاب العصور البائدة من حكماء فارس والإغريق كفيثاغورس وأمبيذوقليس وأفلاطون وهذا هو سبب شغفه بالاطلاع على جميع الدرجات التنسكية في كل الأديان والمذاهب عن طريق أرواح رجالها الحقيقين بهئية مباشرة. وألف كتاب الفتوحات المكية الذي يمكن تتبع أقواله فيه.
رحلاته
يحكى ان ابن عربي رأى وهو في حالة اليقظة أنه أمام العرش الإلهي المحمول على أعمدة من لهب متفجر ورأى طائراً بديع الصنع يحلق حول العرش ويصدر إليه الأمر بأن يرتحل إلى الشرق وينبئه بأنه سيكون هو مرشده السماوي وبأن رفيقاً من البشر ينتظره في مدينة فاس 594هـ.
في السنة 595هـ كان في غرناطة مع شيخه أبي محمد عبد الله الشكاز
فيما بين سنتي 597هـ، 620هـ الموافق سنة 1200، 1223 بدأ رحلاته الطويلة المتعددة الي بلاد الشرق فاتجه واستقر في دمشق.
في السنة 1201 م رحل إلى مكة فاستقبله فيها شيخ إيراني وقور جليل عريق المحتد ممتاز في العقل والعلم والخلق والصلاح.[7] والتقى بفتاة تدعي نظام وهي ابنة ذلك الشيخ وقد حباها الله بنصيب موفور من المحاسن الجسمية والميزات الروحية. اتخذ منها محيي الدين ابن عربي رمزا ظاهريا للحكمة الخالدة وأنشأ في تصوير هذا الرمز قصائد سجلها في ديوان ترجمان الأشواق ألفه في ذلك الحين.
وفي ذلك الحين في احدي تأملاته رأي مرشده السماوي مرة أخرى يأمره أيضا بتأليف كتابه الجامع الخالد الفتوحات المكية الذي ضمن فيه أهم أرائه الصوفية والعقلية ومبادئه الروحية.
في سنة 599هـ [8] زار الطائف وفي زيارته إلى بيت عبد الله بن العباس ابن عم رسول الله محمد (ص) استخار الله وكتب رسالة حلية الأبدال لصاحبيه أبي محمد عبد الله بن بدر بن عبد الله الحبشي وأبي عبد الله محمد بن خالد الصدفي التلمساني.
في سنة 601هـ، 1204م ارتحل الي الموصل حيث جذبته تعاليم الصوفي الكبير علي بن عبد الله بن جامع الذي تلقي لبس الخرقة عن الخضر مباشرة، ثم ألبسها لمحيي الدين ابن عربي بدوره. وفي نفس السنة زار قبر رسول الإسلام وكما قال "وقد ظلمت نفسي وجئت إلى قبره صلى الله عليه وسلم فرأيت الأمر على ما ذكرته وقضى الله حاجتي وانصرفت ولم يكن قصدي في ذلك المجيء إلى الرسول إلا هذا الهجير".
في سنه 1206م رحل إلى القاهرة.
في سنة 1207م عاد الي مكة وأقام فيها ثلاثة أعوام تم عاد إلى دمشق وزار قونية بتركيا حيث رحب به أميرها السلجوقي باحتفال بهيج. وتزوج هناك بوالدة صدر الدين القونوي. ثم لم يلبث أن ارتحل الي أرمينيا.
في سنة 1211م رحل الي بغداد والتقى هناك بشهاب الدين عمر السهروردي الصوفي المشهور.
في سنه 1214م زار مكة ووجد عدد من فقهائها الدساسين قد جعلوا يشوهون سمعته لسبب القصائد التي نشرها في ديوانه الرمزي منذ ثلاثة عشر عاما فرحل إلى دمشق عائداً.
بعد ذلك رحل الي حلب واقام فيها مدةً من الزمن معززاً مكرماً من أميرها.
أخيرا أقام في دمشق في الفترة 1223م ـ 1240م حيث كان أميرها أحد تلاميذه ومن المؤمنين بعلمه ونقائه وعاش حياته في دمشق يؤلف ويعلم وكان واحدا من كبار العلماء بين اهل العلم والفقه في دمشق، وألتقى به عدد كبير من العلماء والطلاب من جميع أنحاء المعمورة ومن أبرزهم الشيخ جلال الدين الرومي صاحب المثنوي[9][10][11][12][13]، وفي دمشق دون وكتب مراجعاته ومؤلفاته وكان له مجلس للعلم والتصوف في رحاب مجالس دمشق وبين علماء الفقه والعلم بدمشق ومدارسها.
عقيدة محيي الدين بن عربي ومذهبه الفقهي
" فيا إخوتي وإحبائي رضي الله عنكم، أشهدكم عبد ضعيف مسكين فقير إلي الله في كل لحظة وطرفة، أشهدكم علي نفسه بعد أن أشهد الله وملائكته، ومن حضره من المؤمنين وسمعه أنه يشهد قولا وعقدا، أن الله إله واحد، لا ثاني له وألوهيته منزهة عن الصاحبة والولد، مالك لا شريك له في الملك ولا وزير له، صانع لا مدبر معه، موجود بذاته من غير افتقار إلى موجد يوجده، بل كل موجود سواء مفتقر إليه الله في وجوده فالعالم كله موجود به، وهو وحده متصف بالوجود لنفسه، ليس بجوهر متحيز فيقدر له مكان ولا بعرض فيستحيل اليه البقاء ولا بجسم فتكون له الجهة والتلقاء، مقدس عن الجهات والأقطار، مرئي بالقلوب والأبصار،"
اختلف العلماء في مذهبه الفقهي لكن يبدو أنه كان ظاهريا [14][15] قبل أن يجتهد لنفسه كما يبدو في بعض مطاوي رسائله.
أهم كتبه
كتاب تفسير ابن عربي ويضم تفسيره للقرآن.
كتاب الفتوحات المكية، المكوُن من 37 سفر و560 باب..الذي وُصف بأنه من النصوص الصوفية الموغلة في التعمق وان لغته رمزية وبها اشارات الهية، له نشرة علمية محققة ومعتمدة اكاديمياً في الدراسات الجامعية وهي نشرة الدكتور عثمان يحيى، وتعد طبعة نادرة .
كتاب فصوص الحكم، الذي أثار جدلا ً كبيراً في وقته ولازال مصدرا ً للجدل.
ديوان ترجمان الأشواق، الذي خصصه لمدح نظام بنت الشيخ أبي شجاع بن رستم الأصفهاني التي عرفها في مكة سنة 598 عندما قدم إليها لأول مرة قادما من المغرب.[16]
كتاب شجرة الكون، يتحدث فيه عن الكون مشبها ً اياه بشجرة اصلا كلمة "كٌن"
كتاب الإعلام بإشارات أهل الإلهام،
كتاب اليقين، الذي تناول موضوع اليقين الذي حير عديد من فلاسفة ذلك العصر [17]
مواقع النجوم ومطالع الأهلة الأسرار والعلوم
المختار من رسائل ابن عربي
رسائل ابن عربي
الرسالة الوجودية
الفتوحات المكية
تفسير ابن عربي
ذخائر الاعلاق شرح ترجمان الأشواق
كتب عنه:
أقوال ابن عربي
من قال بالحلول فدينه معلول، وما قال بالاتحاد إلا أهل الإلحاد[18] .
الله تعالى واحد بالإجماع، ومقام الواحد يتعالى أن يحل فيه شيء أو يحل هو في شيء أو يتحد في شيء.
لو صح ان يرقى الإنسان عن انسانيته والملك عن ملكيته ويتحد بخالقه تعالى، لصح انقلاب الحقائق وخرج الإله عن كونه إله، وصار الحق خالقا، والخلق حقا.
الحكم نتيجة الحكمة، والعلم نتيجة المعرفة، فمن لا حكمة له لا حكم له، ومن لا معرفة له لا علم له[19] .
"فإذا سمعت احدا من أهل الله يقول أو ينقل إليك عنه أنه قال الولاية أعلى من النبوة، فليس يريد ذلك القائل الا ما ذكرناه. أو يقول ان الولي فوق النبي والرسول فأنه يعني بذلك في شخص واحد وهو أن الرسول من حيث أنه ولي أتم منه من حيث أنه نبي ورسول لا أن الولي التابع له أعلى منه فإن التابع لا يدرك المتبوع أبدا فيما هو تابع له فيه إذ لو أدركه لم يكن تابعا فافهم"[20]
لا تعترضوا على المجتهدين من علماء الرسوم ولا تجعلوهم محجوبين على الإطلاق فإن لهم القدم الكبيرة في الغيوب وإن كانوا غير عارفين وعلى غير بصيرة بذلك ويحكمون بالظنون.[21]
نظريات ابن عربي
الإنسان الكامل
ختم الولاية
الأعيان الثابتة
المراتب السبعة
التنزلات الستة
وفاته
توفي ابن عربي في 28 ربيع الثاني من سنة 638هـ الموافق 16 نوفمبر من سنة 1240م ودفن في سفح جبل قاسيون في دمشق.
آراء العلماء في ابن عربي
المؤيدون له
ابن حجر الهيتمي الشافعي حيث قال: «الذي أثرناه عن أكابر مشايخنا العلماء الحكماء الذين يُستسقى بهم الغيث، وعليهم المعوّل وإليهم المرجع في تحرير الأحكام وبيان الأحوال والمعارف والمقامات والإشارات، أن الشيخ محي الدين بن عربي من أولياء الله العارفين ومن العلماء العاملين، وقد اتفقوا على أنه كان أعلم أهل زمانه، بحيث أنه كان في كل فن متبوعاً لا تابعاً، وأنه في التحقيق والكشف والكلام على الفرق والجمع بحر لا يجارى، وإمام لا يغالط ولا يمارى، وأنه أورع أهل زمانه وألزمهم للسنّة وأعظمهم مجاهدة» [22].
عبد الوهاب الشعراني، حيث قال عن ابن عربي: «إِن الشيخ من كمّل العارفين بإِجماع أهل الطريق، وكان جليس رسول الله صلى الله عليه وسلم على الدوام» [23].
علاء الدين محمد بن علي الحصكفي، الفقيه الحنفي صاحب الدر المختار حيث قال ناقلاً: «وفي المعروضات المذكورة ما معناه: أن من قال عن فصوص الحكم للشيخ محيي الدين بن العربي إنه خارج عن الشريعة وقد صنفه للإضلال ومن طالعه ملحد ماذا يلزمه؟ أجاب: نعم فيه كلمات تباين الشريعة وتكلف بعض المتصلفين لإرجاعها إلى الشرع لكنّا تيقنا أن بعض اليهود افتراها على الشيخ قدس الله سرّه فيجب الاحتياط بترك مطالعة تلك الكلمات، وقد صدر أمر سلطاني بالنهي فيجب الاجتناب من كل وجه» [24].
الفيروزآبادي، صاحب القاموس، حيث سئل عن الشيخ ابن عربي فقال: «اللهم نطقنا بما فيه رضاك الذي أعتقده وأدين الله به إنه كان شيخ الطريقة حالاً وعلمًا وإمام الحقيقة حقيقةً ورسماً ومحيي رسوم المعارف فعلاً واسماً إذا تغلغل فكر المرء في طرف من علمه غرقت فيه خواطره عباب لا تكدر الدلاء وسحاب تتقاصى عنه الأنواء كانت دعوته تخرق السبع الطباق وتفرق بركاته فتملأ الآفاق وإني أصفه وهو يقينا فوق ما وصفته وناطق بما كتبته وغالب ظني أني ما أنصفته» [24].
يروي السيوطي عن العز بن عبد السلام في رسالته "تنبيه الغبي بتبرئة ابن عربي": «وحكي عن خادم الشيخ عز الدين قدس الله روحه أنه دخل مع الشيخ إلى الجامع بدمشق، فقال الخادم للشيخ عز الدين: أنت وعدتني أنك تريني القطب. فقال له: ذلك القطب، وأشار إلى ابن عربي وهو جالس والخلق حلقة حوله. فقال له: يا سيدي فأنت تقول فيه ما تقول؟ فقال له: هو القطب، فكرر عليه القول وهو يقول له ذلك» [25].
شهاب الدين عمر السهروردي، حيث قال عنه بعد ما جلس معه وسئل: ما تقول في ابن عربي؟ فقال: «بحر الحقائق» [26].
السيوطي، حيث قال: «والقول الفصل عندي في ابن عربي طريقة لا يرضاها فرقة أهل العصر ممن يعتقده ولا ممن ينكر عليه، وهي اعتقاد ولايته، ويحرم النظر في كتبه، فقد نقل عنه أنه قال: "نحن قوم يحرم النظر في كتبنا" وذلك أن الصوفية تواطئوا على ألفاظ اصطلحوا عليها وأرادوا بها معاني غير المعاني المتعارفة منها بين الفقهاء» [27].
أحمد المقري المغربي، حيث قال: «والذي عند كثير من الأخيار في أهل هذه الطريقة التسليم، ففيه السَّلاَمة. وهي أحوط من إرسال العِنَان وقولٍ يعود على صاحبه بالملامة. وما وقع لابن حجر، وأبي حيان في "تفسيره"، من إطلاق اللسان في هذا الصديق وأنظاره، فذلك من غَلَس الشيطان. والذي أعتقده ولا يصح غيره، أنه الإمام ابن عربي ولي صالح، وعالم ناصح، وإنما فَوَّق إليه سهامَ الملامة من لم يفهم كلامه، على أن دُسّت في كتبه مقالات قَدْرُهُ يجلّ عنها. وقد تعرض من المتأخرىن وَلِي الله الرَّباني سيدي عبد الوهاب الشعراني نفعنا الله به لتفسير كلام الشيخ على وجه يليق، وذكر من البراهين على ولايته ما يثلج صدور أهل التحقيق، فليطالع ذلك من أراده، والله ولي التوفيق» [28].
ابن كمال باشا، مفتي الدولة العثمانية، حيث قال: «أيها الناس، اعلموا أن الشيخ الأعظم المقتدى الأكرم قطب العارفين وإمام الموحدين، محمد بن علي بن العربي الطائي الأندلسي، مجتهد كامل ومرشد فاضل، له مناقب عجيبة وخوارق غريبة وتلامذة كثيرة مقبولة عند العلماء والفضلاء، فمن أنكره فقد أخطأ، وإن أصرَّ في إنكاره فقد ضلَّ، يجب على السلطان تأديبه، وعن هذا الاعتقاد تحويله، إذ السلطان مأمور بالأمر بالمعروف والنهي عن المنكر. وله مُصنّفات كثيرة، منها: "فصوص حكمية" و"فتوحات مكيّة". وبعض مسائلها معلوم اللفظ والمعنى، وموافق للأمر الإلهيّ والشرع النبوي، وبعضها خفي عن إِدراك أهل الظّاهر دون أهل الكشف والباطن، فمن لم يطلع على المعنى المرام يجب عليه السكوت في هذا المقام، لقوله تعالى: وَلاَ تَقْفُ مَا لَيْسَ لَكَ بِهِ عِلمٌ إنَّ السَّمْعَ والبَصَرَ والفُؤَادَ كُلُّ أُولئِكَ كان عَنْهُ مَسْئولاً» [29].
ابن عابدين الحنفي، حيث قال في حاشيته على الدر المختار عند قوله "لكن الذي تيقنته": «وذلك بدليل ثبت عنده، أو لسبب عدم اطلاعه على مراد الشيخ فيها، وأنه لا يمكن تأويلها، فتعيَّن عنده أنها مفتراة عليه، كما وقع للشيخ الشعراني أنه افترى عليه بعض الحساد في بعض كتبه أشياء مكفرة، وأشاعها عنه، حتى اجتمع بعلماء عصره، فأخرج لهم مسودة كتابه التي عليها خطوط العلماء فإِذا هي خالية عما افتُرِي عليه». وقال أيضاً عند قوله "فيجب الاحتياط": «لأنه إِن ثبت افتراؤها فالأمر ظاهر، وإِلا فلا يفهم كل أحد مراده فيها، فيُخشى على الناظر فيها من الإِنكار عليه، أو فهم خلاف المراد» [30].
عبد الغني النابلسي، حيث قال مادحاً كتب ابن عربي:
الساكتون عنه
شرف الدين المناوي، حيث سئل عن الشيخ ابن عربي فأجاب: «أن السكوت عنه أسلم، وهذا هو اللائق بكل ورع يخشى على نفسه» [27].
الشوكاني، وقد كان من المنتقدين للشيخ ابن عربي بل والمكفرين له فرجع عن قوله في آخر حياته، فقال رداً على سؤال وجّه له بخصوص الحلاج وابن عربي: «فأجبت عن هذا السؤال برسالة في كراريس سميتها "الصوارم الحداد القاطعة لعلائق مقالات أرباب الاتحاد" وكان تحرير هذا الجواب في عنفوان الشباب وأنا الآن أتوقف في حال هؤلاء وأتبرأ من كل ما كان من أقوالهم وأفعالهم مخالفاً لهذه الشريعة البيضاء الواضحة التي ليلها كنهارها ولم يتعبدني الله بتكفير من صار في ظاهر أمره من أهل الإسلام» [31].
المخالفون له
الحافظ الذهبي، حيث يقول عن ابن عربي: «صنف التصانيف في تصوف الفلاسفة وأهل الوحدة، فقال أشياء منكرة عدّها طائفة من العلماء مروقاً وزندقة، وعدّها طائفة من العلماء من إشارات العارفين ورموز السالكين، وعدّها طائفة من متشابه القول، وأن ظاهرها كفر وضلال وباطنها حق وعرفان، وأنه صحيح في نفسه كبير القدر. وآخرون يقولون: قد قال هذا الباطل والضلال، فمن الذي قال إنه مات عليه، فالظاهر عندهم من حاله أنه رجع وأناب إلى الله، فإنه كان عالماً بالآثار والسنن، قوي المشاركة في العلوم. وقولي أنا فيه: أنه يجوز أن يكون من أولياء الله الذين اجتذبهم الحق إلى جنابه عند الموت وختم له بالحسنى، فأما كلامه فمن فهمه وعرفه على قواعد الاتحادية وعلم محط القوم، وجمع بين أطراف عباراتهم تبين له الحق في خلاف قولهم» [32].
ابن تيمية، حيث قال: «ابن عربي صاحب فصوص الحكم وهي مع كونها كفرا فهو أقربهم إلى الإسلام لما يوجد في كلامه من الكلام الجيد كثيرا ولأنه لا يثبت على الاتحاد ثبات غيره بل هو كثير الاضطراب فيه وانما هو قائم مع خياله الواسع الذي يتخيل فيه الحق تارة والباطل أخرى والله أعلم بما مات عليه» [33].
ابن خلدون، حيث قال: «هؤلاء المتأخرين من المتصوفية المتكلمين في الكشف وفيما وراء الحس توغلوا في ذلك فذهب الكثير منهم إلى الحلول والوحدة كما أشرنا إليه وملأوا الصحف منه؛ مثل الهروي في كتاب المقامات له وغيره وتبعهم ابن العربي وابن سبعين وتلميذها أبن العفيف وابن الفارض» [34].
أبو زرعة العراقي، حيث قال: «لا شك في اشتمال" الفصوص" المشهورة على الكفر الصريح الذي لا شك فيه، وكذلك "فتوحاته المكية"، فإن صحّ صدور ذلك عنه، واستمر عليه إلى وفاته: فهو كافر مخلد في النار بلا شك»[35]
يروي الشوكاني عن العز بن عبد السلام في كتابه الصوارم الحداد القاطعة لعلائق أرباب الاتحاد: [36]
قال تقي الدين السبكي: [37]
قال أبو حيان الأندلسي في تفسيره: [38]
قال عنه ابن حجر العسقلاني: . ثم قال وقد اغتر بالمحيي ابن عربي أهل عصره، وقال أيضا عنه: .[39]
سبب الجدل حول شخصه ومؤلفاته
نٌقل عن ابن عربي انه قال هذا القول فمن فسر الفاظه بالطريقة الصحيحة فهم ما يقصد من مؤلفاته فقد حذر من تداول الكتب بين الجهلاء ومن سلم بظاهر تلك الالفاظ دون علم بمعانيها في المذهب الصوفي رأي فيها كفرا ً.[40]
معاصرو ابن عربي
كتب عنه
في سيرته
هكذا تكلم ابن عربي، نصر حامد أبو زيد.
ابن عربي ومولد لغة جديدة، د. سعاد الحكيم.
محيي الدين ابن عربي - حياته، مذهبه، زهده - جزء - 49، سلسلة أعلام الفلاسفة، فاروق عبد المعطي.
قرة أهل الحظ الأوفر في ترجمة الشيخ الأكبر للشيخ حامد العمادي (دار الكتب مجاميع 3445).
جامع كرامات الأولياء للشيخ يوسف النبهاني 1/ 198، 206.
رسالة صفي الدين بن أبي المنصورفي سير الأولياء الذين لقيهم (ط. المعهد الفرنسي بدمشق).
نفح الطيب للإمام للمقري وهو من أحسنها (2 / 361، 384).
سير أعلام النبلاء للذهبي (23/ 48،49).
البداية والنهاية لابن كثير (13/ 156).
التكملة لوفيات النقلة للمنذري (3/555).
شذرات الذهب لابن عماد الحنبلي (3/190، 203).
العبر في خبر من غبر للذهبي (5/ 158، 159).
عنوان الدراية للغريني (158 / 160).
لسان الميزان لابن حجر العسقلاني (5/310، 313).
ميزان الاعتدال للذهبي (659 / 660).
النجوم الزاهرة لابن تغري بردي (6 / 339).
الوافي بالوفيات للصفدي (4 / 972، 179).
الأعلام للزركلي (6 / 281).
موت صغير لمحمد حسن علوان (دار الساقي 2016)
الموسوعة الصوفية , عبدالمنعم الحفني ص286.
الطبقات الكبرى للشعراني , ج1-ص3329.
في الدفاع عنه
تنبيه الغبي في تبرئة ابن العربي، تأليف: جلال الدين السيوطي المتوفى سنة 911 هـ.
الاغتباط بمعالجة ابن الخياط، تأليف: الفيروزآبادي المتوفي سنة 817 هـ، يرد فيه على ابن الخياط ما اتّهم به الشيخ ابن عربي في عقيدته.
الرد على المعترضين على الشيخ محيي الدين، تأليف: الفيروزآبادي، موجود في معهد المخطوطات العربية 201 تصوف.
الرد المتين على منتقص العارف محيى الدين، تأليف: عبد الغني النابلسي.
تنبيه الأغبياء على قطرة من بحر علوم الأولياء، تأليف: عبد الوهاب الشعراني، وهو مفقود.
الكبريت الأحمر في بيان علوم الشيخ الأكبر، تأليف: عبد الوهاب الشعراني، وهو مطبوع.
القول المبين في الرد عن الشيخ محيي الدين، تأليف: عبد الوهاب الشعراني، وهو مطبوع.
الفتح المبين في رد المعترض على الشيخ محيي الدين، تأليف: عمر حفيد شهاب الدين العطار، وقد طبع قديماً.
مفتاح الوجود الأشهر في توجيه كلام الشيخ الأكبر، تأليف: عبد الله الصلاحي، وهو موجود في دار الكتب 195 تصوف، وذيله 199 تصوف.
الفتح المبين في رد اعتراض المعترضين، تأليف: عمر حفيد الشهاب الشيخ أحمد العطار، أحد علماء الشام.
ميزان الحق في اختيار الأحق، تأليف: كاتب حلبي أحد أكابر العلماء العثمانية.
الجانب الغربي في حل مشكلات ابن العربي، تأليف: مكي، ألفه بأمر السلطان سليم.
قرة أهل الحظ الأوفر في ترجمة الشيخ الأكبر، تأليف: حامد العمادي، وهو موجود في دار الكتب مجاميع 3445.
الانتصار للشيخ محيي الدين، تأليف: علي بن ميمون المغربي، وهو موجود في برلين 2851، ونسخة بدار الكتب.
كشف الغطاء عن أسرار كلام الشيخ محيي الدين، تأليف: سراج الدين المخزومي.
كتب في نقد ابن عربي
تنبيه الغبي إلى تكفير ابن عربي تأليف:برهان الدين البقاعي. وذكر فيه أقوال علماء أهل السنة والجماعة في تكفير ابن عربي ومن هؤلاء العلماء: ولي الدين العراقي، وزين الدين العراقي، والعز بن عبد السلام، وأبو حيان الأندلسي، وابن تيمية، وتقي الدين السبكي، وابن حجر العسقلاني، والذهبي، والسكوتي، ونور الدين البكري، وابن هشام الأنصاري، وابن خلدون، والبلقيني، وعلاء الدين البخاري، وابن الجزري.[41]
طالع أيضًا
الصوفية
طرق الصوفية
جامع الشيخ محي الدين بن عربي
تنبيه الغبي إلى تكفير ابن عربي
ابن إمام الكاملية
المصادر
وصلات خارجية
.
رائع
ابن عربي
.
.
.
باللغة الإنجليزية.
.
تصنيف:أشخاص من مرسية
تصنيف:أعلام التصوف
تصنيف:ابن عربي
تصنيف:شعراء الأندلس
تصنيف:شعراء صوفيون
تصنيف:شعراء عرب
تصنيف:صوفيون
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تصنيف:فلاسفة القرن 13
تصنيف:فلاسفة عرب
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تصنيف:مواليد 1165
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Piispa (kreikaksi episkopos, sananmukaisesti ’päällekatsoja’) tarkoittaa kristillisissä kirkoissa tietyn alueen hengellistä johtajaa.
Suomen luterilaisessa kirkossa
Suomen luterilaisen kirkon piispa johtaa hiippakuntaa tuomiokapitulin kanssa. Piispa vihkii hiippakuntansa papit ja diakonit. Piispa on seurakuntien ja pappien ylin kaitsija.[1]
Arkkipiispa ei ole muiden piispojen esimies, vaan ”ensimmäinen vertaistensa joukossa” (primus inter pares). Hänellä on kuitenkin kirkon keskushallinnossa lukuisia erityistehtäviä.[1]
Piispan liturgisia tuntomerkkejä ovat rintaristi, hiippa ja sauva. Piispa käyttää violettia[2] papinpaitaa.
Luterilaisessa kirkossa on erilaisia näkemyksiä sen suhteen, pidetäänkö piispan virkaa pappisvirasta erillisenä virkana. Luterilainen kirkko yleensä katsoo, että on vain yksi erityinen virka, sanan ja sakramenttien virka, joka tarkoittaa pappisvirkaa. Keski-Euroopan luterilaisista kirkoista piispuus hävisi, koska reformaatio ei 1500-luvulla saanut puolelleen yhtään piispaa. Sen sijaan Pohjoismaissa historiallinen piispuus säilyi. Kuitenkin myös Pohjoismaiden luterilaisissa kirkoissa on ollut tapana ajatella, että piispa on vain erityisillä inhimillisillä oikeuksilla varustettu pappi. Luterilainen kirkko on kuitenkin ekumeenisen työskentelyn myötä ryhtynyt korostamaan jonkin verran enemmän kaitsennan viran (episkope) erillistä merkitystä kirkossa. Tämä näkyy muun muassa Porvoon sopimuksessa.
Suomessa piispat ovat useimmiten olleet teologian tohtoriksi väitelleitä, monesti myös dosentteja.
Piispan valinta
Nykyisin piispanvaalissa ovat äänioikeutettuja hiippakunnan papit ja lehtorit sekä vastaava määrä maallikkovalitsijoita. Maallikkovalitsijoiden lukuun lasketaan ensin tuomiokapitulin lakimiesasessori ja maallikkojäsen, hiippakunnasta valitut maallikkokirkolliskokousedustajat ja hiippakuntavaltuuston maallikkojäsenet. Loput ovat seurakuntien kirkkovaltuustojen tai seurakuntaneuvostojen valitsemia maallikkovalitsijoita. Jokaisesta seurakunnasta valitaan vähintään yksi valitsija, ja loput paikat jaetaan seurakuntien jäsenmäärän mukaisesti.
Arkkipiispan vaalissa ovat Turun arkkihiippakunnan valitsijoiden lisäksi äänioikeutettuja muiden hiippakuntien tuomiokapitulien jäsenet.
Vaali on kaksivaiheinen vaali, jossa valituksi tulee enemmistön äänistä saanut ehdokas. Toisella kierroksella on kaksi eniten ensimmäisellä kierroksella ääniä saanutta ehdokasta. Tuomiokapituli antaa valtakirjan yli puolet ääniä saaneelle papille. Vaalissa on vuodesta 2001 lähtien ollut ehdokasasettelu. Vähintään kymmenen äänioikeutettua voi perustaa valitsijayhdistyksen ja kutsua jonkin papin ehdokkaakseen.[3]
Vuoden 1686 (Ruotsin) kirkkolaissa pappeinkokoukset asettivat piispanvaalissa ehdolle kykeneviä ja toimeliaita pappeja, joista kuningas nimitti yhden piispaksi. Kuningas saattoi myös ohittaa ehdolle asetetut ja nimittää oman ehdokkaansa. Arkkipiispaa valittaessa Uppsalan hiippakunnan pappien lisäksi läsnä olivat muiden tuomiokapitulien jäsenet.
Vuoden 1994 Suomen kirkkolaissa piispanvaalissa olivat äänioikeutettuja hiippakunnan papit ja lehtorit, lakimiesasessori, hiippakunnasta kirkolliskokoukseen valitut maallikot sekä maallikkovalitsijat, joita seurakunta valitsi yhden jäsenmääränsä kutakin alkavaa 5000 jäsentä kohden. Vaalissa äänestäjä saattoi asettaa ehdolle kolme pappia järjestyksessä. Ehdokasasettelua ei ollut vaan äänen saattoi antaa kenelle tahansa papille. Ensimmäiselle sijalle ehdolle asetettiin se, joka oli saanut enimmät äänet ensimmäiselle sijalle. Toiselle sijalle asetettiin hänen jälkeensä se, joka oli saanut enimmät äänet ensimmäiselle ja toiselle sijalle yhteensä. Kolmannelle sijalle asetettiin heidän jälkeensä se, joka oli saanut enimmät äänet ensimmäiselle, toiselle ja kolmannelle sijalle yhteensä. Piispan nimitti kolmesta ehdolle asetetuista tasavallan presidentti. Vuodesta 1996 lähtien saattoi äänestää vain yhtä ehdokasta. Tällöin asetettiin ehdolle kolme eniten ääniä saanutta äänimäärän mukaisessa järjestyksessä. Presidentin nimitysoikeus lakkasi vuonna 2000. Samalla lakkasi erillinen vaaliin perustuva ehdolleasettelu, ja valtakirja ryhdyttiin antamaan suoraan vaalin perusteella. Piispanvaalissa oli lyhyen aikaa pakollinen koevaali 1990-luvun lopulla. Maallikkovalitsijoiden joukkoon lasketaan itseoikeutettuina kirkolliskokousedustajien lisäksi myös hiippakuntavaltuuston jäsenet[3] vuodesta 2006 lähtien.
Katolisessa kirkossa
Katolisessa kirkossa piispa on korkein pappeuden vihkimysaste. Piispaksi tullakseen on ensin saatava vihkimys diakoniksi ja sitten papiksi. Nimitys piispaksi on paavin yksinoikeus (tästä yleismääräyksestä on eräitä poikkeuksia). Valinnan jälkeen pääsääntöisesti kolme piispaa suorittaa paavin myöntymyksestä piispaksi vihkimisen. Poikkeuksen tästä säännöstä muodostaa Rooman piispan eli paavin virka, johon voidaan periaatteessa valita kuka tahansa kastettu mies.
Katolisen käsityksen mukaan piispat jatkavat Kristuksen apostoleilleen antamaa opettamis- ja johtamistehtävää. Apostolinen sukkessio yhdistää näin kaikkia nykypiispoja apostoleihin. Siten piispanvirka kuuluu ns. jumalallisen oikeuden alaan. Piispojen johdossa toimi Pietarin perillisenä Rooman piispa.
Arkkipiispa on arkkihiippakunnan piispa. Tämä asema tuo hänelle samat oikeudet ja velvollisuudet kuin muillakin piispoilla on. Kirkkoprovinssin metropoliittana hänen tehtävänsä on kirkko-oikeuden mukaan huolehtia uskon ja kirkkokurin tarkasta noudattamisesta. Lisäksi hänen on ilmoitettava paaville väärinkäytöksistä toimialueellaan. Kuitenkaan arkkipiispa ei katolisessa kirkossa toimi provinssin muiden piispojen, ns. suffragaanipiispojen esimiehenä.
Piispan arvomerkkeinä toimivat mitra, piispansauva, sormus sekä pektoraali. Arkkipiispan arvonmerkkinä toimii lisäksi pallium. Piispallinen arvo on perinteisesti myös benediktiinisten ja sistersiläisten luostareiden apoteilla. He käyttävät piispan arvomerkkejä ja viettävät jumalanpalvelusta piispallisesti eli pontifikaalisesti. Heillä ei kuitenkaan ole sakramentaalista vihkimisoikeutta, ellei heitä itseään ole vihitty piispaksi.
Voimassa olevan kanonisen oikeuden mukaan (CIC Can. 401 §1) 75 vuotta täyttäneen piispan tulee pyytää paavilta eroa tehtävästä. Eron saanut piispa saa emeritusarvon.
Ortodoksisessa kirkossa
Piispan virka on ortodoksisen kirkon pappeuden korkein aste. Apostolit vihkivät seuraajikseen piispoja. Piispa on pappiensa esimies alueellaan, ja samalla apostolien edustaja. Piispalla on pappien tavoin oikeus toimittaa jumalanpalveluksia ja toimituksia sekä kaikki mysteerejä, mutta papin tehtävistä poiketen oikeus myös vihkiä uusia diakoneja ja pappeja sekä osallistua piispojen vihkimiseen. Myös vain piispa voi vihkiä uuden kirkon käyttöönsä. Piispan virka on yksi, mutta kirkon hierarkia on vaatinut palvelutehtävän mukaan kolmijakoista tointa: piispa, metropoliitta ja arkkipiispa.
Ortodoksinen piispa johtaa hiippakuntaa ja hänellä on kirkollinen arvonimi metropoliitta. Ortodoksinen arkkipiispa johtaa myös omaa hiippakuntaansa, mutta hänestä ei käytetä tällöin nimitystä metropoliitta. Arkkipiispa on autokefalisen tai autonomisen paikalliskirkon, kuten esimerkiksi autonomisen Suomen ortodoksisen kirkon päämies. Useilla paikalliskirkoilla korkein ortodoksinen piispa on arvonimeltään patriarkka, hän johtaa omaa patriarkaattiaan. Suomen ortodoksinen kirkko kuuluu Ekumeenisen patriarkaatin alaisuuteen eli jurisdiktioon.
Katso myös
Arkkipiispa
Ekumeeninen patriarkka
Kenttäpiispa
Lähteet
*
Luokka:Kirkolliset virat
Luokka:Suomen evankelis-luterilaisen kirkon tehtävät ja arvot
Luokka:Seulonnan keskeiset artikkelit
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Monumen Nasional atau yang populer disingkat dengan Monas atau Tugu Monas adalah monumen peringatan setinggi 132 meter (433 kaki) yang didirikan untuk mengenang perlawanan dan perjuangan rakyat Indonesia untuk merebut kemerdekaan dari pemerintahan kolonial Hindia Belanda. Pembangunan monumen ini dimulai pada tanggal 17 Agustus 1961 di bawah perintah presiden Sukarno, dan dibuka untuk umum pada tanggal 12 Juli 1975. Tugu ini dimahkotai lidah api yang dilapisi lembaran emas yang melambangkan semangat perjuangan yang menyala-nyala. Monumen Nasional terletak tepat di tengah Lapangan Medan Merdeka, Jakarta Pusat.
Sejarah
Setelah pusat pemerintahan Republik Indonesia kembali ke Jakarta setelah sebelumnya berkedudukan di Yogyakarta pada tahun 1950 menyusul pengakuan kedaulatan Republik Indonesia oleh pemerintah Belanda pada tahun 1949, Presiden Sukarno mulai merencanakan pembangunan sebuah monumen nasional yang setara dengan Menara Eiffel di lapangan tepat di depan Istana Merdeka. Pembangunan tugu Monas bertujuan mengenang dan melestarikan perjuangan bangsa Indonesia pada masa revolusi kemerdekaan 1945, agar terus membangkitkan inspirasi dan semangat patriotisme generasi penerus bangsa.
Pada tanggal 17 Agustus 1954 sebuah komite nasional dibentuk dan sayembara perancangan monumen nasional digelar pada tahun 1955. Terdapat 51 karya yang masuk, akan tetapi hanya satu karya yang dibuat oleh Frederich Silaban yang memenuhi kriteria yang ditentukan komite, antara lain menggambarkan karakter bangsa Indonesia dan dapat bertahan selama berabad-abad. Sayembara kedua digelar pada tahun 1960 tetapi sekali lagi tak satupun dari 136 peserta yang memenuhi kriteria. Ketua juri kemudian meminta Silaban untuk menunjukkan rancangannya kepada Sukarno. Akan tetapi Sukarno kurang menyukai rancangan itu dan ia menginginkan monumen itu berbentuk lingga dan yoni. Silaban kemudian diminta merancang monumen dengan tema seperti itu, akan tetapi rancangan yang diajukan Silaban terlalu luar biasa sehingga biayanya sangat besar dan tidak mampu ditanggung oleh anggaran negara, terlebih kondisi ekonomi saat itu cukup buruk. Silaban menolak merancang bangunan yang lebih kecil, dan menyarankan pembangunan ditunda hingga ekonomi Indonesia membaik. Sukarno kemudian meminta arsitek R.M. Soedarsono untuk melanjutkan rancangan itu. Soedarsono memasukkan angka 17, 8 dan 45, melambangkan 17 Agustus 1945 memulai Proklamasi Kemerdekaan Indonesia, ke dalam rancangan monumen itu.[1][2][3]
Tugu Peringatan Nasional ini kemudian dibangun di areal seluas 80 hektare. Tugu ini diarsiteki oleh Frederich Silaban dan R. M. Soedarsono, mulai dibangun 17 Agustus 1961.
Pembangunan
jmpl|kiri|Soekarno menginspeksi pembangunan Monas. Foto ini dibuat sekitar tahun 1963-1964.
Pembangunan terdiri atas tiga tahap. Tahap pertama, kurun 1961/1962 - 1964/1965 dimulai dengan dimulainya secara resmi pembangunan pada tanggal 17 Agustus 1961 dengan Sukarno secara seremonial menancapkan pasak beton pertama. Total 284 pasak beton digunakan sebagai fondasi bangunan. Sebanyak 360 pasak bumi ditanamkan untuk fondasi museum sejarah nasional. Keseluruhan pemancangan fondasi rampung pada bulan Maret 1962. Dinding museum di dasar bangunan selesai pada bulan Oktober. Pembangunan obelisk kemudian dimulai dan akhirnya rampung pada bulan Agustus 1963. Pembangunan tahap kedua berlangsung pada kurun 1966 hingga 1968 akibat terjadinya Gerakan 30 September sehingga tahap ini sempat tertunda. Tahap akhir berlangsung pada tahun 1969-1976 dengan menambahkan diorama pada museum sejarah. Meskipun pembangunan telah rampung, masalah masih saja terjadi, antara lain kebocoran air yang menggenangi museum. Monumen secara resmi dibuka untuk umum dan diresmikan pada tanggal 12 Juli 1975 oleh Presiden Republik Indonesia Soeharto.[4][5] Lokasi pembangunan monumen ini dikenal dengan nama Medan Merdeka. Lapangan Monas mengalami lima kali penggantian nama yaitu Lapangan Gambir, Lapangan Ikada, Lapangan Merdeka, Lapangan Monas, dan Taman Monas. Di sekeliling tugu terdapat taman, dua buah kolam dan beberapa lapangan terbuka tempat berolahraga. Pada hari-hari libur Medan Merdeka dipenuhi pengunjung yang berekreasi menikmati pemandangan Tugu Monas dan melakukan berbagai aktivitas dalam taman.
Rancang Bangun Monumen
jmpl|Monumen Nasional dalam tahap pembangunan.
Rancang bangun Tugu Monas berdasarkan pada konsep pasangan universal yang abadi; Lingga dan Yoni. Tugu obelisk yang menjulang tinggi adalah lingga yang melambangkan laki-laki, elemen maskulin yang bersifat aktif dan positif, serta melambangkan siang hari. Sementara pelataran cawan landasan obelisk adalah Yoni yang melambangkan perempuan, elemen feminin yang pasif dan negatif, serta melambangkan malam hari.[6] Lingga dan yoni merupakan lambang kesuburan dan kesatuan harmonis yang saling melengkapi sedari masa prasejarah Indonesia. Selain itu bentuk Tugu Monas juga dapat ditafsirkan sebagai sepasang "alu" dan "Lesung", alat penumbuk padi yang didapati dalam setiap rumah tangga petani tradisional Indonesia. Dengan demikian rancang bangun Monas penuh dimensi khas budaya bangsa Indonesia. Monumen terdiri atas 117,7 meter obelisk di atas landasan persegi setinggi 17 meter, pelataran cawan. Monumen ini dilapisi dengan marmer Italia.
Kolam di Taman Medan Merdeka Utara berukuran 25 x 25 meter dirancang sebagai bagian dari sistem pendingin udara sekaligus mempercantik penampilan Taman Monas. Di dekatnya terdapat kolam air mancur dan patung Pangeran Diponegoro yang sedang menunggang kudanya, terbuat dari perunggu seberat 8 ton. Patung itu dibuat oleh pemahat Italia, Prof. Coberlato[7] sebagai sumbangan oleh Konsul Jenderal Kehormatan, Dr. Mario, di Indonesia. Pintu masuk Monas terdapat di taman Medan Merdeka Utara dekat patung Pangeran Diponegoro. Pintu masuk melalui terowongan yang berada 3 m di bawah taman dan jalan silang Monas inilah, pintu masuk pengunjung menuju tugu Monas. Loket tiket berada di ujung terowongan. Ketika pengunjung naik kembali ke permukaan tanah di sisi utara Monas, pengunjung dapat melanjutkan berkeliling melihat relief sejarah perjuangan Indonesia; masuk ke dalam museum sejarah nasional melalui pintu di sudut timur laut, atau langsung naik ke tengah menuju ruang kemerdekaan atau lift menuju pelataran puncak monumen.
Relief Sejarah Indonesia
jmpl|ka|250px|Relief timbul sejarah Indonesia menampilkan Gajah Mada dan sejarah Majapahit
Pada tiap sudut halaman luar yang mengelilingi monumen terdapat relief yang menggambarkan sejarah Indonesia. Relief ini bermula di sudut timur laut dengan mengabadikan kejayaan Nusantara pada masa lampau; menampilkan sejarah Singhasari dan Majapahit. Relief ini berlanjut secara kronologis searah jarum jam menuju sudut tenggara, barat daya, dan barat laut. Secara kronologis menggambarkan masa penjajahan Belanda, perlawanan rakyat Indonesia dan pahlawan-pahlawan nasional Indonesia, terbentuknya organisasi modern yang memperjuangkan Indonesia Merdeka pada awal abad ke-20, Sumpah Pemuda, Pendudukan Jepang dan Perang Dunia II, proklamasi kemerdekaan Indonesia disusul Revolusi dan Perang kemerdekaan Republik Indonesia, hingga mencapai masa pembangunan Indonesia modern.
Relief dan patung-patung ini dibuat dari semen dengan kerangka pipa atau logam, namun beberapa patung dan arca tampak tak terawat dan rusak akibat hujan serta cuaca tropis.
Museum Sejarah Nasional
jmpl|ka|250px|Pelajar memperhatikan diorama sejarah Indonesia
Di bagian dasar monumen pada kedalaman 3 meter di bawah permukaan tanah, terdapat Museum Sejarah Nasional Indonesia. Ruang besar museum sejarah perjuangan nasional dengan ukuran luas 80 x 80 meter, dapat menampung pengunjung sekitar 500 orang. Ruangan besar berlapis marmer ini terdapat 48 diorama pada keempat sisinya dan 3 diorama di tengah, sehingga menjadi total 51 diorama. Diorama ini menampilkan sejarah Indonesia sejak masa pra sejarah hingga masa Orde Baru. Diorama ini dimula dari sudut timur laut bergerak searah jarum jam menelusuri perjalanan sejarah Indonesia; mulai masa pra sejarah, masa kemaharajaan kuno seperti Sriwijaya dan Majapahit, disusul masa penjajahan bangsa Eropa yang disusul perlawanan para pahlawan nasional pra kemerdekaan melawan VOC dan pemerintah Hindia Belanda. Diorama berlangsung terus hingga masa pergerakan nasional Indonesia awal abad ke-20, pendudukan Jepang, perang kemerdekaan dan masa revolusi, hingga masa Orde Baru pada masa pemerintahan Suharto.
Ruang Kemerdekaan
jmpl|ka|250px|Ruang kemerdekaan
Di bagian dalam cawan monumen terdapat Ruang Kemerdekaan berbentuk amphitheater. Ruangan ini dapat dicapai melalui tangga berputar di dari pintu sisi utara dan selatan. Ruangan ini menyimpan simbol kenegaraan dan kemerdekaan Republik Indonesia. Diantaranya naskah asli Proklamasi Kemerdekaan Indonesia yang disimpan dalam kotak kaca di dalam gerbang berlapis emas, lambang negara Indonesia, peta kepulauan Negara Kesatuan Republik Indonesia berlapis emas, dan bendera merah putih, dan dinding yang bertulis naskah Proklamasi Kemerdekaan Republik Indonesia.[1][8]. Di dalam Ruang Kemerdekaan Monumen Nasional ini digunakan sebagai ruang tenang untuk mengheningkan cipta dan bermeditasi mengenang hakikat kemerdekaan dan perjuangan bangsa Indonesia. Naskah asli proklamasi kemerdekaan Indonesia disimpan dalam kotak kaca dalam pintu gerbang berlapis emas. Pintu mekanis ini terbuat dari perunggu seberat 4 ton berlapis emas dihiasi ukiran bunga Wijaya Kusuma yang melambangkan keabadian, serta bunga Teratai yang melambangkan kesucian. Pintu ini terletak pada dinding sisi barat tepat di tengah ruangan dan berlapis marmer hitam. Pintu ini dikenal dengan nama Gerbang Kemerdekaan yang secara mekanis akan membuka seraya memperdengarkan lagu "Padamu Negeri" diikuti kemudian oleh rekaman suara Sukarno tengah membacakan naskah proklamasi pada 17 Agustus 1945. Pada sisi selatan terdapat patung Garuda Pancasila, lambang negara Indonesia terbuat dari perunggu seberat 3,5 ton dan berlapis emas. Pada sisi timur terdapat tulisan naskah proklamasi berhuruf perunggu, seharusnya sisi ini menampilkan bendera yang paling suci dan dimuliakan Sang Saka Merah Putih, yang aslinya dikibarkan pada tanggal 17 Agustus 1945. Akan tetapi karena kondisinya sudah semakin tua dan rapuh, bendera suci ini tidak dipamerkan. Sisi utara dinding marmer hitam ini menampilkan kepulauan Nusantara berlapis emas, melambangkan lokasi Negara Kesatuan Republik Indonesia.
Pelataran Puncak dan Api Kemerdekaan
jmpl|ka|250px|Pelataran setinggi 115 meter tempat pengunjung dapat menikmati panorama Jakarta dari ketinggian
Sebuah elevator (lift) pada pintu sisi selatan akan membawa pengunjung menuju pelataran puncak berukuran 11 x 11 meter di ketinggian 115 meter dari permukaan tanah. Lift ini berkapasitas 11 orang sekali angkut. Pelataran puncak ini dapat menampung sekitar 50 orang, serta terdapat teropong untuk melihat panorama Jakarta lebih dekat. Pada sekeliling badan elevator terdapat tangga darurat yang terbuat dari besi. Dari pelataran puncak tugu Monas, pengunjung dapat menikmati pemandangan seluruh penjuru kota Jakarta. Bila kondisi cuaca cerah tanpa asap kabut, di arah ke selatan terlihat dari kejauhan Gunung Salak di wilayah kabupaten Bogor, Jawa Barat, arah utara membentang laut lepas dengan pulau-pulau kecil.
Di puncak Monumen Nasional terdapat cawan yang menopang nyala lampu perunggu yang beratnya mencapai 14,5 ton dan dilapisi emas 35 Kilogram. Lidah api atau obor ini berukuran tinggi 14 meter dan berdiameter 6 meter terdiri dari 77 bagian yang disatukan. Lidah api ini sebagai simbol semangat perjuangan rakyat Indonesia yang ingin meraih kemerdekaan. Awalnya nyala api perunggu ini dilapisi lembaran emas seberat 35 kilogram[1], akan tetapi untuk menyambut perayaan setengah abad (50 tahun) kemerdekaan Indonesia pada tahun 1995, lembaran emas ini dilapis ulang sehingga mencapai berat 50 kilogram lembaran emas.[9] Puncak tugu berupa "Api Nan Tak Kunjung Padam" yang bermakna agar Bangsa Indonesia senantiasa memiliki semangat yang menyala-nyala dalam berjuang dan tidak pernah surut atau padam sepanjang masa. Pelataran cawan memberikan pemandangan bagi pengunjung dari ketinggian 17 meter dari permukaan tanah. Pelataran cawan dapat dicapai melalui elevator ketika turun dari pelataran puncak, atau melalui tangga mencapai dasar cawan. Tinggi pelataran cawan dari dasar 17 meter, sedangkan rentang tinggi antara ruang museum sejarah ke dasar cawan adalah 8 m (3 meter di bawah tanah ditambah 5 meter tangga menuju dasar cawan). Luas pelataran yang berbentuk bujur sangkar, berukuran 45 x 45 meter, semuanya merupakan pelestarian angka keramat Proklamasi Kemerdekaan RI (17-8-1945).
Sebanyak 28kg dari 38kg emas pada obor monas tersebut merupakan sumbangan dari Teuku Markam, seorang pengusaha Aceh yang pernah menjadi salah satu orang terkaya di Indonesia.[10]
Galeri
Museum Sejarah Nasional Indonesia di kaki monumen.
Diorama sejarah Indonesia di dalam museum.
Kolam pantul Monas di Taman Medan Merdeka Monas.
Monas di kala malam.
Dewi Pertiwi
Garuda Pancasila di dalam Ruang Kemerdekaan Monas.
Naskah asli Proklamasi Kemerdekaan Indonesia disimpan di Ruang Kemerdekaan Monas.
Peta Nusantara berlapis emas di dalam Ruang Kemerdekaan.
Referensi
Heuken, A, (2008) Medan Merdeka - Jantung Ibukota RI, Yayasan Cipta Loka Caraka, Jakarta, No ISBN
National Monument Office, Jakarta Capital City Administration (1996), National Monument: The Monument of the Indonesian National Struggle ISBN 979-95172-0-6
Catatan kaki
Pranala luar
(in Indonesian)
(in Indonesian)
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Chechens (/ˈtʃɛtʃən/; Chechen: Нохчий Noxçiy; Old Chechen: Нахчой Naxçoy) are a Northeast Caucasian ethnic group of the Nakh peoples originating in the North Caucasus region of Eastern Europe. They refer to themselves as Vainakhs (which means our people in Chechen) or Nokhchiy (pronounced [no̞xtʃʼiː]; singular Nokhchi, Nakhchuo or Nakhtche).[21] Chechen and Ingush peoples are collectively known as the Vainakh. The majority of Chechens today live in the Chechen Republic, a subdivision of the Russian Federation.
The isolated terrain of the Caucasus mountains and the strategic value outsiders have placed on the areas settled by Chechens has contributed much to the Chechen community ethos and helped shape its fiercely independent national character. Chechen society has traditionally been egalitarian and organized around many autonomous local clans, called teips.
Origins of the word Chechen
The term "Chechen" first occurs in Arabic sources from the 8th century. According to popular tradition, the Russian term "Chechen" comes from the name of the village of Chechen-Aul. The word "Chechen", however, occurs in Russian sources as early as 1692 and the Russians probably derived it from the Kabardian "Shashan".[22]
Geography and diaspora
The Chechens are mainly inhabitants of Chechnya. There are also significant Chechen populations in other subdivisions of Russia (especially in Dagestan, Ingushetia and Moscow).
Outside Russia, countries with significant diaspora populations are Kazakhstan, Turkey, Azerbaijan, and Arab states (especially Jordan and Iraq, where they are mainly descendants of people who had to leave Chechnya during the Caucasian War, which led to the annexation of Chechnya by the Russian Empire around 1850) and the 1944 Stalinist deportation in the case of Kazakhstan. Tens of thousands of Chechen refugees settled in the European Union and elsewhere as the result of the recent Chechen Wars, especially in the wave of emigration to the West after 2002.[23]
History
The Chechens are one of the Nakh peoples, who have lived in the highlands of the North Caucasus region since prehistory.[24] There is archeological evidence of historical continuity dating back since 3000 B.C.[25] as well as evidence proving their migration from the Fertile Crescent c.10,000–8,000B.C.[25]
In the Middle Ages, the lowland of Chechnya was dominated by the Khazars and then the Alans. Local culture was also subject to Georgian influence and some Chechens converted to Eastern Orthodox Christianity. Gradually, Islam prevailed, although the Chechens' own pagan religion was still strong until the 19th century. Society was organised along feudal lines. Chechnya was devastated by the Mongol invasions of the 13th century and those of Tamerlane in the 14th.[26][27] The Vainakh bear the distinction of being one of the few peoples to successfully resist the Mongols and defend themselves against their invasions; not once, but twice, though this came at great cost to them, as their state was utterly destroyed. These events were key in the shaping of the Chechen nationhood and their martial-oriented and clan-based society.[28]
In the late Middle Ages, the Little Ice Age forced the Chechens down from the hills into the lowlands, where they came into conflict with the Terek and Greben Cossacks who had also begun to move into the region. The Caucasus was also a major competing area for two neighbouring rival empires: the Ottoman and Persian Empires (Safavids, Afsharids, Qajars). Starting from 1555 and decisely from 1639 through the first half of the 19th century, the Caucasus was divided by these two powers, with the Ottomans prevailing in Western Georgia, while Persia kept the bulk of the Caucasus, namely Eastern Georgia, Dagestan, Azerbaijan, and Armenia.[29] The Chechens, however, never really fell under the rule of either empire. As Russia expanded slowly southwards as early as the 16th century, clashes between Chechens and the Russians became more frequent, and it became three empires competing for the region. As Russia set off to increase its political influence in the Caucasus and the Caspian Sea at the expense of Safavid Persia, Peter I launched the Russo-Persian War (1722-1723), in which Russia succeeded in taking much of the Caucasian territories for several years. Notable in Chechen history, this particular Russo-Persian War marked the first military encounter between Imperial Russia and the Vainakh.[30] Sheikh Mansur led a major Chechen resistance movement in the late 18th century.
In the late 18th and 19th centuries, Russia embarked on full-scale conquest of the North Caucasus in the Caucasian War. Much of the campaign was led by General Yermolov who particularly disliked the Chechens, describing them as "a bold and dangerous people".[31] Angered by Chechen raids, Yermolov resorted to a brutal policy of "scorched earth" and deportations; he also founded the fort of Grozny (now the capital of Chechnya) in 1818. Chechen resistance to Russian rule reached its peak under the leadership of the Dagestani leader Imam Shamil. The Chechens were finally defeated in 1861 after a bloody war that lasted for decades, during which they lost most of their entire population.[32] In the aftermath, large numbers of refugees also emigrated or were forcibly deported to the Ottoman Empire.[33][34][35]
Since then, there have been various Chechen rebellions against Russian/Soviet power (including during the Russian Civil War and World War II), as well as nonviolent resistance to Russification and the Soviet Union's collectivization and anti-religion campaigns. In 1944, all Chechens, together with several other peoples of the Caucasus, were ordered by the Soviet leader Joseph Stalin to be ruthlessly deported en masse to the Kazakh and Kirghiz SSRs; and their republic and nation were abolished. At least one-quarter—and perhaps half—of the entire Chechen population perished in the process, and a severe blow was made to their culture and historical records.[33][36][37] Though "rehabilitated" in 1956 and allowed to return the next year, the survivors lost economic resources and civil rights and, under both Soviet and post-Soviet governments, they have been the objects of both official and unofficial discrimination and discriminatory public discourse.[33][38] Chechen attempts to regain independence in the 1990s after the fall of the Soviet Union have led to the first and the second war with the new Russian state, starting in 1994.
Language
The main language of the Chechen people is Chechen. Chechen belongs to the family of Nakh languages (Northeast Caucasian languages). Literary Chechen is based on the central lowland dialect. Other related languages include Ingush, which has speakers in the neighbouring Ingushetia, and Batsbi, which is the language of the people in the adjoining part of Georgia. At various times in their history, Chechens used Georgian, Arabic and Latin alphabets; as of 2008, the official one is now the Cyrillic script of Russia.
Most Chechens living in their homeland can understand Ingush with ease. The two languages are not truly mutually intelligible, but it is easy for Chechens to learn how to understand the Ingush language and vice-versa over time after hearing it for a while.
In 1989, 73.4% spoke Russian,[39] though this figure has declined due to the wars for a large number of reasons (including the lack of proper education, the refusal to learn the language, and the mass dispersal of the Chechen diaspora due to the war). Chechens in the diaspora often speak the language of the country they live in (English, German, Arabic, Polish, Georgian, etc.).
Origin hypotheses
Chechens are a Nakh people, and discussion of their origins is intertwined with the discussion of the mysterious origins of Nakh peoples as a whole. The only two surviving (and fairly numerous) Nakh peoples are Chechens and Ingush, but they are thought by some scholars to be the remnants of what was once a larger family of peoples.
The Nakh languages are a subgroup of Northeast Caucasian, and as such are related to Nakho-Dagestanian family, including the languages of the Avars, Dargins, Lezghins, Laks, etc.
However, this relationship is not a close one: the Nakho-Dagestani family is of comparable or greater time-depth than Indo-European, meaning Chechens are only as linguistically related to Avars or Dargins as the French are to the Russians or Iranians.
Nakh peoples such as Chechens are thought to either be descended from original settlers of the Caucasus (North and/or South)[40][41] or supposedly Nakh-speaking ethnic minorities in the north-eastern regions of the ancient state of Urartu (whose people also spoke a language that was possibly related to the Nakh languages).[42] The two theories are not mutually incompatible, and there has been much evidence that seems to link both of the two together (either by dual origins or the "return" theory, in which the Nakh peoples originally lived in the Caucasus and then returned). Chechen genetics show a high level of genetic diversity (see section below).
In particular, the Chechens are descended from the Durdzuks, a group well known in the Georgian chronicles (Dourts in the Armenian version). Other groups linked Amjad Jaimoukha traces the name Durdzuk to an ancient city north of Lake Urmia, near Nakhichevan (Nakhichevan is thought to be a Nakh placename by some). Other groups attributed to being the ancestors of the Chechens and Ingush include the Kists (in the Georgian chronicles), Gargareans (from the Nakh root gergara; reported by Strabo to have "returned" from the South Caucasus to the North Caucasus, fleeing the wars in the south) and the Nakhchmateans (Armenian chronicles).
Genetics
The Chechens belong to the Western Eurasian or "Caucasoid" race, specifically the Caucasus type.
Chechens are black-, brown-, red- or fair-haired (with darker hair predominating) and eyes can be brown, blue or green, while skin is usually light. George Anchabadze notes that the physical traits of Chechens, which includes being taller than average, are typical of the "Caucasian type" which many other peoples of the Caucasus exhibit.[43][44]
Genetic tests on Chechens, though sparse and not sufficiently thorough so far, have shown roots mostly in the Caucasus as well as slight connections to and influences from the Middle East as well as Europe. As is the case with many other Caucasian peoples, Chechens are broadly connected with Europe on the Y-DNA (the paternal side) from all European regions, but narrowly closer to Western Europe in terms of mitochondrial DNA (the maternal side).[45]
The most recent study on Chechens, by Balanovsky et al. in 2011[46] sampled a total of 330 Chechens from three sample locations (one in Malgobek, one in Achkhoy-Martan, and one from two sites in Dagestan) and found the following frequencies: A weak majority of Chechens belong to Haplogroup J2 (56.7%[46]), which is associated with Mediterranean, South Caucasian and Fertile Crescent populations, with its peaks at 87.4% in Ingushetia and 72% in Georgia's Kazbegi Municipality. In the North Caucasus, the largest frequencies are those of Nakh peoples (Chechens (56.7%) and Ingush (88.8%)).[46] Other notable values were found among North Caucasian Turkic peoples (Kumyks (25%)[47] and Balkars (24%)[48]). It is notable that J2 suddenly collapses as one enters the territory of non-Nakh Northeast Caucasian peoples, dropping to very low values among Dagestani peoples.[45][46][49][50] The overwhelming bulk of Chechen J2 is of the subclade J2a4b* (J2-M67), of which the highest frequencies by far are found among Nakh peoples: Chechens were 55.2% according to the Balanovsky study, while Ingush were 87.4%. Other notable haplogroups that appeared consistently appeared at high frequencies included J1 (20.9%), L (7.0%), G2 (5.5%), R1a (3.9%), Q-M242 (3%) and R1b-M269 (1.8%, but much higher in Chechnya itself as opposed to Dagestani or Ingushetian Chechens). Overall, tests have shown consistently that Chechens are most closely related to Ingush, Circassians and Georgians, occasionally showing a kinship to other peoples in some tests. Balanovsky's study showed the Ingush to be the Chechens' closest relatives by far.[46][50][51]
A 2004 study of the mtDNA showed Chechens to be extremely diverse in the mitochondrial genome, with 18 different haplogroups out of only 23 samples.[45] Chechens clustered closest to Azeris, Georgians and Kabardins. They clustered closer to European populations than Middle Eastern populations this time, but were closer to Western European populations (Basques and Britons) than to Eastern European populations (Russians and other Slavs, as well as Estonians), despite living in the East. They actually clustered about as close to Basques as they did to Ingush (Chechens also cluster closer to many other populations than Ingush, such as Abazins), but the Chechens were the closer to the Ingush than any other population, the imbalance probably largely being due to the uniqueness of the Ingush on the mitochondrial DNA among those tested.[45]
Culture
Prior to the adoption of Islam, the Chechens practiced a unique blend of religious traditions and beliefs. They partook in numerous rites and rituals, many of them pertaining to farming; these included rain rites, a celebration that occurred on the first day of plowing, as well as the Day of the Thunderer Sela and the Day of the Goddess Tusholi. In addition to sparse written record from the Middle Ages, Chechens traditionally remember history through the illesh, a collection of epic poems and stories.
Chechen society is structured around tukhum (unions of clans) and about 130 teip, or clans. The teips are based more on land and one-side lineage than on blood (as exogamy is prevalent and encouraged), and are bonded together to form the Chechen nation. Teips are further subdivided into gar (branches), and gars into nekye (patronymic families). The Chechen social code is called nokhchallah (where Nokhchuo stands for "Chechen") and may be loosely translated as "Chechen character". The Chechen code of honor implies moral and ethical behaviour, generosity and the will to safeguard the honor of women. The traditional Chechen saying goes that the members of Chechen society, like its teips, are (ideally) "free and equal like wolves".[52][53]
Chechens today have a strong sense of nation, which is enforced by the old clan network and nokhchalla – the obligation to clan, tukhum, etc. This is often combined with old values transmuted into a modern sense. They are mythically descended from the epic hero, Turpalo-Nokhchuo ("Chechen Hero"). There is a strong theme of representing the nation with its national animal, the wolf. Due to their strong dependence on the land, its farms and its forests (and indeed, the national equation with the wolf), Chechens have a strong sense of affection for nature. According to Chechen philosopher Apty Bisultanov, ruining an ant-hill or hunting Caucasian goats during their mating season was considered extremely sinful.[54] It is notable that the glasnost era Chechen independence movement, Bart (unity) in fact originated as a simple environmentalist organization in the republic's capital of Grozny.[55]
Chechen culture puts a strong value on the concept of freedom. This asserts itself in a number of ways. A large majority of the nation's national heroes fought for independence (or otherwise, like the legendary Zelimkhan, robbed from the nation deemed the oppressor in order to feed Chechen children in a Robin Hood-like fashion). A common greeting in the Chechen language, marsha oylla, is literally translated as "enter in freedom". The word for freedom also encompasses notions of peace and prosperity.
Chechens are sometimes referred to as the "French of the Caucasus", for a number of reasons (it is notable that the Circassians are the "English of the Caucasus", and the Georgians are the "Italians of the Caucasus"). This comparison may refer to either political/historical traits, or to personality characteristics. Like the French, who overthrew their age-old monarchy in the French Revolution, the Chechens had a similar revolution a century or two earlier,[56] and like the French, they bore the distinction (for a period) of being the only egalitarian society in an area full of monarchic states. Like the French, the Chechens preferred swift, revolutionary (and often violent) methods to realize the change they wished to see – unlike the Circassians (called the "English of the Caucasus" both for their political and personality characteristics) who preferred more gradualist methods.[57] Chechens were also called "French" by early Russian military officers and the French anthropologist Ernest Chantre who noted their "happy and witty" nature.[58]
Religion
Chechnya is predominantly Muslim.[59] Chechens are overwhelmingly adherents to the Shafi'i Madhhab of Sunni Islam,[60] the republic having converted to Islam between the 16th and the 19th centuries. Most of the population follows either the Shafi'i or the Hanafi,[61] schools of jurisprudence, fiqh. The Shafi'i school of jurisprudence has a long tradition among the Chechens,[62] and thus it remains the most practiced.[63] Some adhere to the mystical Sufi tradition of muridism, while about half of Chechens belong to Sufi brotherhoods, or tariqah. The two Sufi tariqas that spread in the North Caucasus were the Naqshbandiya and the Qadiriya (the Naqshbandiya is particularly strong in Dagestan and eastern Chechnya, whereas the Qadiriya has most of its adherents in the rest of Chechnya and Ingushetia). There are also small Christian and atheist minorities, although their numbers are unknown in Chechnya; in Kazakhstan, they are roughly 3% and 2% of the Chechen population respectively.[64]
A stereotype of an average Chechen being a fundamentalist Muslim is incorrect and misleading.[65][66] By the late 2000s, however, two new trends have emerged in Chechnya. A radicalized remnant of the armed Chechen separatist movement has become dominated by Salafis (popularly known in Russia as Wahhabis and present in Chechnya in small numbers since the 1990s), mostly abandoning nationalism in favor of Pan-Islamism and merging with several other regional Islamic insurgencies to form the Caucasus Emirate. At the same time, Chechnya under Moscow-backed authoritarian rule of Ramzan Kadyrov has undergone its own controversial counter-campaign of Islamization of the republic, with the local government actively promoting and enforcing their own version of a so-called "traditional Islam", including introducing elements of Sharia that replaced Russian official laws.[67][68][69][70]
See also
List of Chechen people
Northeast Caucasian people
Nakh peoples
Ingush people
Vainakhia
Sources
Amjad Jaimoukha, The Chechens: A Handbook (London, New York: Routledge, 2005)
Lechi Ilyasov, (Moscow, 2009)
John B. Dunlop, Russia Confronts Chechnya: Roots of a Separatist Conflict (Cambridge University Press, 1998)
Media related to Chechen people at Wikimedia Commons
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} | هل يمكن نقل الوعي البشري إلى دماغ آلي ؟ | زرع الدماغ | arabic | {
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} | زَرْعِ الدماغ أو الزِراعةِ الكاملة للجسم هي عملية يتم فيه زرع دماغ كائن حي في جسم آخر ، وهي عملية مختلفة عن زرع الرأس التي تشمل نقل الرأس بأكمله إلى جسد جديد بدلا من الدماغ فقط . نظريا , يمكن منح الشخص الذي يعاني من فشل متقدم في أجهزة الجسم جسد جديد مع الحفاظ على شخصيتهم الخاصة , وذكرياتهم ، والوعي من خلال تلك العملية .
لم يتم إجراء أي عملية زرع دماغ في الانسان . ولكن قام جراح الأعصاب روبرت وايت بنقل رأس قرد إلى جسد قرد آخر بلا رأس ، وظهرت قراءات أمواج الدماغ طبيعية في وقت لاحق . كان يعتقد أن الدماغ جهاز متميز مناعيا لأن الجهاز المناعي للمضيف لم يهاجمه في البداية[1] ولكن رد الفعل المناعي تسبب في وفاة القرد بعد تسعة أيام .[2]. ولكن اعتبر زرع المخ و الأفكار و مثيلاتها دربا من دروب الخيال العلمي.
التحديات القائمة
أحد أهم العواقب التي واجهتها هذه العملية هي عدم قدرة الأنسجة العصبية على الشفاء بشكل سليم فحدوث ندب في الأنسجة العصبية ينتج عنه عدم القدرة على نقل الإشارة العصبية بشكل سليم ( ولذلك فإن الإصابة في الحبل الشوكي تكون مدمرة ). ومع ذلك ، فإن البحوث الحديثة في معهد ويستار من جامعة بنسلفانيا على تجديدالأنسجة في الفئران (المعروف باسم الفأر مرل ) قد توفر مؤشرات لمزيد من البحث عن كيفية تجديد الأعصاب دون تندب .
يمكن استخدام حاسوب العقل الوسيط لربط الاشخاص بأجسادهم كحل بديل . فلقد أظهرت دراسة [3] اُستخدم فيها القرد كموضوع للبحث ، أنه يمكن استخدام الأوامر مباشرة من الدماغ متجاوزة الحبل الشوكي وتمكين وظيفة اليد . ومن مزايا هذا الوسيط أنه يمكن تعديله جراحيا فلا يمكن إعادة وصل الأعصاب دون جراحة .
وأيضا يجب أن يكون عمر المتبرع بالجسد مناسبا حتى تكون العملية علمية ، فلا يمكن لدماغ الشخص البالغ أن يلائم جمجمة لم تكتمل نموها .ويكتمل نمو الجمجمة في سن 9-12 سنة .
ومع ذلك في بادئ الأمر كان يعتقد أن الدماغ جهاز متميز مناعيا لذا فإن الرفض لن يكون مشكلة وكانت هذه إحدى مزايا الزرع ، فالخلايا المناعية للجهاز العصبي المركزي تساهم في الحفاظ علي تكوين الخلايا العصبية وقدرات التعلم المكاني وبالتالي فإن الدماغ المزروع لن يكون عائقا ضد عملية الزرع .( إن صعوبة عمليات زرع الأعضاء الأخرى مثل الكبد و الكلية هو الرفض العنيف الذي يتم عند الزرع ). .[4])[5][6]
زرع الدماغ الجزئي
في عام 1982 ، حقق الدكتور دوروثي كريجر، رئيس الغدد الصماء في مركز مونت سيناي الطبي في مدينة نيويورك نجاحا في الزرع الجزئي للدماغ في الفئران .[7]
وفي عام 1998، حاول فريق من الجراحين من مركز جامعة بيتسبرغ الطبي زرع مجموعة من خلايا الدماغ إلى ألما سيراسيني، التي عانت من سكتة دماغية شديدة تسببت في فقدان الحركة في أطرافها اليمنى فضلا عن محدودية الكلام. وكان أمل الفريق هو أن تقوم الخلايا بتصحيح الأضرار المذكورة .[8]
مفاهيم مشابهه
أن زرعة كاملة الجسم هي حدى وسائل لوضع الوعي في جسم جديد و التي تم استكشافها من قبل كل من العلماء والكتاب.
استخدم إدغر رايس بوروس ،العقل المدبر للمريخ ، جراحا الذي يقوم بذلك كعملية رئيسية له، ورجلا من الأرض، الراوي والشخصية الرئيسية يتم تدريبهم على القيام بذلك أيضا.
في قصص نيل جونز (1931)، بروفيسور جيمسون الشخصية الرئيسية للقصة وهو آخر رجال الأرض ، الذي تم حفظ دماغه من قبل بعض سايبربانك الغريبة ويسمى زوروميس من خلال وضعها في جسد إنسان ألي مما جعله خالدا.
رواية الخيال العلمي " لن أخشى اي شر " لروبرت هاينلين في عام 1970 ، والذي تتميز بان الشخصية الرئيسية الذي يدعي يوهان سيباستيان باخ سميث والذي تمت زراعة دماغه كاملا في جسد سكرتيره المتوفي .
توجد عملية مماثلة في الخيال العلمي حيث يتم نقل وعي شخص إلى شخص آخر دون الحاجة إلى نقل الدماغ ، ويوجد هذا في كثير من المصادر وغالبا مايكون عن طريق تبادل جسدين بين ابطال مسلسل تلفزيوني فقد حدث في سلسلة ستار تريك الاصلية مرتان ، وفي درملاند (الملف X ) ، و في مسلسل دكتور هو " ميندوارب " ، وفي مسلسل فريكي فرايداي " الجمعة الضيعة " ، وفارسكيب ، و ستارغيت سغ-1 ، و بافي القاتل مصاص الدماء، و الدمية ،و القزم الأحمر ، و الصورة الرمزية ، ظلال داكنة. وبما أنه لا يوجد نقل للدماغ فانه يختلف عن عملية زراعة الجسد .
في فيلم الرعب "مفتاح الهيكل العظمي"، تكتشف بطلة الرواية، كارولين، أن الزوجين القدماء اللذان تبحث عنهم هما طبيبان ساحران من فقراء فودو اللذان سرقا جثة اثنين من الشباب الاغنياء في رعايتهم باستخدام طقوس خاصة تسمح لهم بمقايضة الروح بالجسد .ولسوء الحظ قام الزوجان الشريران بخداع كارولين ومحاميهم بنفس العملية وعلق كلاهما في نهاية المطاف في الهيئات القديمة غير قادرين على الكلام في حين أن الطبيبين الساحرين يمشون باجسادهم الشابة .
في قصة آن رايس سارق الجسد ، ليستات ، مصاص الدماء الذي اكتشف رجلا يدعا راجلان جيمس الذي تمكن من نقل جسده إلى جسم شخص آخر. ، يطلب ليستات منه ان يستخدم هذا الاجراء عليه ليعود انسان مرة أخرى ، ولكن سرعان ما يكتشف انه ارتكب خطأ كبيرا و اضطر إلى استعادة جيمس في شكل مصاص الدماء حتى يتمكن من استعادة جسده مرة أخرى.
روج مارفين مينسيكي الي نفس الفكرة من تحميل الافكار ، و وجهة نظر ميكانيكية من الذكاء الصناعي ، ونظرة متفائلة بشأن الذكاء الاصطناعي ، وهو أيضا هدف رايليسم ، وهي عبادة صغيرة مقرها في ولاية فلوريدا وفرنسا وكويبك . في حين أن الهدف النهائي من الزرع هو نقل الدماغ الي جسد جديد وتحسينه باستخدام علم الوراثة واجراءات طبية أخرى .
هناك موضوع ادبي مماثل آخر وان كان مختلفا عن الاجراءين السابقين ، وهو زراعة الدماغ البشري الي جسم انسان الي ، على سبيل المثال ، و فولميتال الخيميائي ، و شبح في وعاء ، و روبوكوب ، و دي سي كوميكس ، و السايبربانك من مسلسل دكتور هو ، و سيكس في اسطورة الكثبان الرملية ، وفي حلقة كاملة من مسلسل ستار تريك سُرق دماغ سبوك وتم تثبيته في هيكل يشبه الكمبيوتر الكبير ، وفي " أنا مود " الذي يعرض الخلود في جسد روبوت ، و الرواية الجديدة حصاد النجوم من قبل بول أندرسون حيث يتعرض الكثير من الشخصيات الأساسية لعملية الزرع و يتناول القرارات الصعبة التي يتعرض لها الانسان جراء التفكير في مثل هذه العملية .وفي حرب النجوم والكون الواسع تم انشاء روبورت الظلال من خلال اخذ أدمغة طيارين المقاتلة تي المصابين بإصابات خطيرة ووضعها في شرنقة تحتوي على سوائل مغذية وربطها جراحيا باجهزة إلكترونية ثم منحت أجهزة استشعار خارجية و أجهزة الكمبيوتر التكتيكية و التحكم في الطيران ، التي زادت من ردود الفعل الخاصة بهم وراء الحد البيولوجي على حساب إنسانيتهم . كما شبعهم الامبراطور بالباتين بالجانب المظلم ومنحهم الحاسة السادسة وجعلهم تحت إمرته وإرادته .
انظر أيضاً
حاسوب العقل الوسيط
رائيلية
روبوتية
المراجع
تصنيف:تكنولوجيات ناشئة
تصنيف:جراحة الأعصاب
تصنيف:دماغ
تصنيف:طب زراعة الأعضاء
| https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%B2%D8%B1%D8%B9%20%D8%A7%D9%84%D8%AF%D9%85%D8%A7%D8%BA |
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The Nile Delta (Arabic: دلتا النيل Delta n-Nīl or simply الدلتا ed-Delta) is the delta formed in Northern Egypt (Lower Egypt) where the Nile River spreads out and drains into the Mediterranean Sea. It is one of the world's largest river deltas—from Alexandria in the west to Port Said in the east, it covers 240km (150mi) of Mediterranean coastline and is a rich agricultural region. From north to south the delta is approximately 160km (99mi) in length. The Delta begins slightly down-river from Cairo.
The Nile Delta is an area of the world that lacks detailed ground truth data and monitoring stations. Despite the economic importance of the Nile Delta, it could be considered as one of the most data-poor regions with respect to sea level rise.[1]
Geography
From north to south, the delta is approximately 160km (99mi) in length. From west to east, it covers some 240km (150mi) of coastline. The delta is sometimes divided into sections, with the Nile dividing into two main distributaries, the Damietta and the Rosetta,[2] flowing into the Mediterranean at port cities with the same name. In the past, the delta had several distributaries, but these have been lost due to flood control, silting and changing relief. One such defunct distributary is Wadi Tumilat.
The Suez Canal is east of the delta and enters the coastal Lake Manzala in the north-east of the delta. To the north-west are three other coastal lakes or lagoons: Lake Burullus, Lake Idku and Lake Mariout.
The Nile is considered to be an "arcuate" delta (arc-shaped), as it resembles a triangle or flower when seen from above. Some scholars such as Aristotle have written that the delta was constructed for agricultural purposes due to the drying of the region of Egypt. Although such an engineering feat would be considered equivalent to a wonder of the ancient world, there is insufficient evidence to determine conclusively whether the delta is man-made or was formed naturally.[3]
In modern day, the outer edges of the delta are eroding, and some coastal lagoons have seen increasing salinity levels as their connection to the Mediterranean Sea increases. Since the delta no longer receives an annual supply of nutrients and sediments from upstream due to the construction of the Aswan Dam, the soils of the floodplains have become poorer, and large amounts of fertilizers are now used. Topsoil in the delta can be as much as 21m (70ft) in depth.
History
People have lived in the Delta region for thousands of years, and it has been intensively farmed for at least the last five thousand years. The Delta used to flood annually, but this ended with the construction of the Aswan Dam.
Ancient branches of the Nile
Records from ancient times (such as by Pliny the Elder) show that the delta had seven distributaries or branches, (from east to west):[2]
the Pelusiac,
the Tanitic (or Saitic),
the Mendesian,
the Phatnitic (or Phatmetic),[4]
the Sebennytic,
the Bolbitine, and
the Canopic (also called the Herakleotic[5] and the Agathodaemon[6])
There are now only two main branches, due to flood control, silting and changing relief: the Damietta (corresponding to the Phatnitic) to the east, and the Rosetta (corresponding to the Bolbitine)[7] in the western part of the Delta.
The Rosetta Stone was found in the Nile Delta in 1799 in the port city of Rosetta (anglicized name of Rashid). The delta was a major constituent of Lower Egypt. There are many archaeological sites in and around the Nile Delta.[8]
Population
About 39 million people live in the Delta region. Outside of major cities, population density in the delta averages 1,000/km2 (2,600/sqmi) or more. Alexandria is the largest city in the delta with an estimated population of more than 4.5 million. Other large cities in the delta include Shubra El Kheima, Port Said, El Mahalla El Kubra, Mansura, Tanta, and Zagazig.[9]
Wildlife
During autumn, parts of the Nile River are red with lotus flowers. The Lower Nile (North) and the Upper Nile (South) have plants that grow in abundance. The Upper Nile plant is the Egyptian lotus, and the Lower Nile plant is the Papyrus Sedge (Cyperus papyrus), although it is not nearly as plentiful as it once was, and is becoming quite rare.[10]
Several hundred thousand water birds winter in the delta, including the world’s largest concentrations of little gulls and whiskered terns. Other birds making their homes in the delta include grey herons, Kentish plovers, shovelers, cormorants, egrets and ibises.
Other animals found in the delta include frogs, turtles, tortoises, mongooses, and the Nile monitor. Nile crocodiles and hippopotamus, two animals which were widespread in the delta during antiquity, are no longer found there. Fish found in the delta include the flathead grey mullet and soles.
Climate
The Delta has a hot desert climate (Köppen: BWh) as the rest of Egypt, but its northernmost part, as is the case with the rest of the northern coast of Egypt which is the wettest region in the country, has relatively moderate temperatures, with highs usually not surpassing 31°C (88°F) in the summer. Only 100–200mm (4–8in) of rain falls on the delta area during an average year, and most of this falls in the winter months. The delta experiences its hottest temperatures in July and August, with maximum average of 34°C (93°F). Winter temperatures are normally in the range of 9°C (48°F) at nights to 19°C (66°F) in the daytime. With cooler temperatures and some rain, the Nile Delta region becomes quite humid during the winter months.
Sea level
Furthermore, Egypt’s Mediterranean coastline is being swallowed up by the sea because of global warming and the rise of the sea level, and the lack of sediments being deposited since the construction of the Aswan Dam, in some places as much as 90m (100yd) a year.[11] As the polar ice caps melt, much of the northern delta, including the ancient port city of Alexandria, will disappear under the Mediterranean. Even a 30cm (12in) rise in sea level will affect about 6.6% of the total land cover area in the Nile Delta region; At 1 m SLR, an estimated 887 thousand people will be at risk of flooding and displacement and about 100km2 (40sqmi) of vegetation, 16km2 (10sqmi) wetland, 402km2 (160sqmi) cropland, and 47km2 (20sqmi) of urban area land would be destroyed,[1] flooding approximately 450km2 (170sqmi).[12] The Nile Delta is turning into a salty wasteland by rising sea waters, forcing some farmers off their lands and others to import sand in a desperate bid to turn back the tide. Experts warn that global warming will have a major effect in the delta on agriculture resources, tourism and human migration besides shaking the region's fragile ecosystems. Environmental damage to the Nile Delta is not yet one of Egypt's priorities, but experts say if the situation continues to deteriorate, it will trigger massive food shortages which could turn seven million people into "climate refugees" by the end of the century if climate change remains unmitigated.[13]
In addition to the effect that the dams on the Nile have had on the delta, there has been a tremendous human effect internally with the rise of fisheries, the increased salt production, the building of roads, the heightened agricultural production, and the natural increase in human population in the region.[14]
Governorates and large cities
The Nile Delta forms part of these 10 governorates:
Alexandria
Beheira
Kafr el Sheikh
Gharbiya
Minufiya
Qalyubiya
Dakahlia
Damietta
Sharqiyah
Port Said
Large cities located in the Nile Delta:
Abusir
Alexandria
Avaris
Bilbeis
Bubastis
Canopus
Damanhur
Desouk
Damietta
El Mahalla El Kubra
Kafr El Sheikh
Leontopolis
Mendes
Mit Abu El Kom
Mansoura
Naucratis
Pelusium
Port Said
Rosetta
Sais
Tanis
Tanta
Zagazig
— 1937 article on controlling the flow of the Nile.
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Arsène Wenger, OBE [2] (alizaliwa Strasbourg, Ufaransa, 22 Oktoba 1949) ni meneja ambaye ameweza kuongoza kilabu cha ligi ya Uingereza, yaani Arsenal F.C. tangu mwaka wa 1996 hadi 2018. Yeye ni meneja mwenye mafanikio zaidi katika historia ya Arsenal katika suala la nyara na pia ni meneja aliyedumu sana.
Katika suala la urefu wa Uzimamizi, miaka kumi na tatu ya George Allison kuwa msimamizi wa Arsenal kati ya mwaka wa 1934 na mwaka wa 1947 ni zaidi ya miaka kumi na mbili nukta tano ya usimamizi wa Wenger( Machi 2009), lakini kipindi cha Allison ni pamoja na ukamilifu wa Vita Kuu ya Pili ya Dunia,|miaka kumi na tatu ya George Allison kuwa msimamizi wa Arsenal kati ya mwaka wa 1934 na mwaka wa 1947 ni zaidi ya miaka kumi na mbili nukta tano ya usimamizi wa Wenger( Machi 2009), lakini kipindi cha Allison ni pamoja na ukamilifu wa Vita Kuu ya Pili ya Dunia,]] ambapo hakuna mechi rasmi iliyochezwa na hivyo Wenger amesimamia mechi mingi.
Wenger ni meneja asiye wa Uingereza ambaye amewahi kushinda nyara mbili nchini Uingereza, baada ya kufanya hivyo mwaka 1998 na 2002. Mwaka 2004, alikuwa meneja wa pekee katika historia ya Ligi ya FA kwenda msimu mzima bila kushindwa. Wenger anatambulika sana kama mmoja wa mameneja bora duniani baada ya mafanikio alijipatia katika clabu cha AS Monako na Arsenal.
Wenger ana shahada la Uhandizi katika nyancha ya Electroniki na bwana shahada ya Uchumi [3] kutoka Strasbourg University na anaelewa lugha ya Kifaransa, Kijerumani, Kihispania na Kiingereza; yeye pia anaongea baadhi ya Kiitaliano na Kijapani.[4]
Maisha na ubia
Yeye ni mtoto ya Alphonse na Louise, Arsène Wenger alizaliwa mjini Strasbourg na kukulia katika kijiji cha jirani cha Duttlenheim na dadake na nduguye wakubwa. Wazazi wake walimiliki biashara ya sehemu vipuri ya magari katika Strasbourg, vilevile na duka la Bistro katika Duttlenheim inayoitwa La Croix d'Or. Akizungumzia malezi yake La Croix d'Or, yeye alisema katika hotuba ya Ligi ya mameneja Association: There is no better psychological education than growing up in a pub... I learned about tactics and selection from the people talking about football in the pub - who plays on the left wing and who should be in the team.—Wenger on his childhood.[5]
Wenger ameoa aliyekuwa mchezaji zamani wa mpira wa kikapu Annie Brosterhous, ambaye ana binti mmoja, na sasa anaishi katika Totteridge, London.[6][7] Yeye pia ni balozi wa ulimwengu kwa ajili ya mdhamini wa FIFA World Cup, Castrol, na kama sehemu ya utaratibu wake amepeana mafunzo kadhaa makambini kwa timu ya vijana ya kimataifa duniani kote, na vilevile kupeana ushauri na kutoa maoni na utendekazi wa Castrol, hili ni mfumo rasmi wa FIFA wa kuwapima ufanisi wa timu na wachezaji katika mashindano mbalimbali.[8][9][10] Yeye pia amajapisha kitabu juu ya usimamizi wa soka kwa minajili ya soko laUjapani, Shōsha no Spirit(勝者のエスプリ,Shōsha no Esupuri, lit. The Spirit of Conquest in English and L'esprit conquérant in French) ilichapishwa na kampuni ya uchapishaji wa japan Broadcast (kampuni ndogo yaNHK) katika Septemba 1997, ambapo yeye alidhihirisha falsafa,maadili na ujuzi wake usimamizi na vilevile mawazo yake juu ya soka la Kijapani na mchezo kwa ujumla.[6][11]
Wasifu wa Mapema
Wenger alitumia kiasi kubwa cha ujana wake kucheza mpira na kupanga mechi katika timu za kijiji, FC Duttlenheim, ambako alipata kuchezea timu ya kwanza akiwa na umri wa 16 na hatimaye kuajiriwa na klabu cha daraja la tatu ya AS Mutzig na meneja wa timu Max Hild, ambaye alikuwa mshauri wake baadaye ,na kumshauri kuhusu usimamizi wa soka baadaye katika utaalamu wake,na ambaye timu yake ilijulikana kucheza soka safi ligi ndogo katika Ufaransa.[6] Wasifu wa Wenger kucheza ilikuwa hadimu. Yeye alicheza kama mlinzi katika vilabu ndogo mbalimbali wakati huo akisoma katika EUROPEEN Institut d'Etudes Commerciales Supérieures de Strasbourg wa Robert Schuman lade University, ambapo yeye kumaliza shahada mwaka 1971.
Wenger aligeuza utaaluma katika 1978, na kuchaza mechi yake ya kwanza dhidi ya Monako RC Strasbourg. [12] Yeye alichezea timu yake mara kumi na mbili timu ikiwemo mechi mbili ambapo walishinda Ligi ya ufaranza katika mwaka wa 1978-79, na akacheza mara moja katika Kombe la UEFA katika msimu huo. Mwaka 1981, yeye alipata cheti cha stashahada na akatuliwa kuwa kocha wa timu ya vijana ya klabu.[13] Baada ya wakati wake katika timu ya Strasbourg, Wenger alijiunga na AS Cannes kama meneja msaidizi mwaka 1983.[14][15]
Wasifu wake wa usimamizi
Kazi yake ya kwanza katika usimamisi ilikuwa katika klabu cha Nancy, ambapo alijiunga mwaka wa 1984, lakini alipata mafanikio kidogo hapa: katika wake mwaka wake wa tatu na msimu wake wa mwisho , Nancy ilimaliza katika nafazi ya kumi na tisa na walizushwa daraja hadi ligi ya pili ya ufaranza (sasa Ligue 2). Wasifu wake wa usimamizi ilipanda ipokuwa meneja wa AS Monako mwaka wa 1987. Yeye alishinda ligi mwaka wa 1988 (msimu wake wa kwanza ) na Kombe la Kifaransa mwaka wa 1991, na kuwasajili wachezaji shupafu kama Glenn Hoddle, George Weah na Hermann Klinsmann. Yeye pia alisajili Youri Djorkaeff akiwa na umri ishirini na tatu kutoka klabu cha Strasbourg; ambaye alishinda Kombe la dunia, Youri alikuwa mfugaji wa mabao katika Ligi ya Ufaranza (mabao ishirini), katika mwaka wa mshisho kwa Wenger kuwa menaja katika Ufaransa. Wenger aliorodeshwa kuwa mojawapo wa menaja wa kusimamia saa Bayern Munich, lakini hakuweza kuchukua kazi kutokana na bodi la Monako kukataa kuruhusu Bayern Munich kuzungumza na Wenger, ingawaje walimwachilia Wenger wiki chache baadaye kazi hiyo kuwa imechukuliwa na mtu mwingine.[16]
Alihamia kwenye ligi ya Japani kufunza timu ya Nagoya Grampus nane kwa muda wa miezi kumi na tisa ambapo alipata mafanikio kubwa. Alishinda Kombe la Mfalme kikombe cha kitaifa. Yeye pia aliongoza klabu kutoka chini ya msimamo ya ligi hadi nafasi ya pili [17] Mafanikio yake katika klabu yake ilimwezesha kushinda [[meneja wa ligi wa mwaka {/0 katika wa mwaka 1995, meneja wa kwanza wa kigeni kufanya hivyo. {1/}]] Akiwa Grampus, yeye aliajiriwa meneja wa zamani wa Valenciennes, Boro Primorac, kama msaidizi wake, ambaye walikutana mwaka wa 1993 wakati wa kashfa la upangaji mechi iliyoshirikisha timu ya Olympique de Marseille, Wenger, alikuwa na maoni kwamba timu ya Marseille ilivunja sheria,aliunga mkono kikamilifu kocha huyo wa Yugoslavia alipo jaribu (hatimaye pamoja na mafanikio) kujitoa lawamani. Primorac alibakia kuwa rafiki Wenger kwa miaka ijayo, na bado anashikilia wadhifa huo.[18]
Wakati huohuo Wenger alikuwa ameanza urafiki na aliyekuwa makamu mwenyekiti wa Arsenal David Dein, baada ya wao wawili kukutana wakati Wenger alikuwa amahudhuria mechi kati ya Arsenal na Queens Park Rangers mwaka wa 1988.[19] Baada ya Bruce Rioch kuachishwa kazi mna mwezi nane mwaka 1996, Gérard Houllier,aliyekuwa mkurugenzi wa kiufundi wa Shirikisho la Soka la Kifaransa, ilipendekeza Wenger kwa Daudi Dein katika majira ya joto ya 1996.[20] Arsenal ilithibitisha kuteuliwa kwake rasmi tarehe 28 Septemba 1996, na yeye rasmi kuchukua ushukani tarehe 1 Oktoba. Arsenal Wenger alikuwa meneja wa kwanza kutoka nje ya Uingereza. Ingawa hapo awali alikuwa amesemekana kuwapewa kazi kama mkurugenzi wa kiufundi la shirikisho la kadanda, wakati Wenger alikuwa anajulikana kwa nadrwa katika Uingereza, ambako gazeti la Evening Standard iliandika uteuzi wake na habari kuu 'Arsene nani?'.[21]
Mwezi mmoja kabla ya Wenger kuchukua rasmi hatimu ya timu ya Arsenal, Wenger aliomba klabu iwasajili viungo vya kati wa Kifaransa Patrick Vieira na Rémi Garde. Mechi yake ya kwanza ilikuwa ushindi wa mabao mawili dhidi ya Blackburn Rovers tarehe kumi na mbili Oktoba 1996. Arsenal ilimaliza ya tatu katika msimamo ligi katika msimu wake wa kwanza, na kukosa nafasi ya pili (iliyoshikiliwa na Newcastle United), na hivyo kufuzu kwa Ligi ya Mabingwa, kwa wingi wa mabao.
Katika msimu wake wa pili (1997-98), Arsenal ilishinda mataji mawili ikiwemo Ligi Kuu na Kombe la FA,na kuifanya kuwa mara ya pili katika historia ya klabu kushinda mataji mawili kwa msimu mmoja. Arsenal ilikata uongozi wa poiti kumi na mawili kutoka klabu cha Manchester United na kushinda taji la ligi ilifanikiwa kushinda ligi kama mechi mbili ilikuwa imesalia. Ngumo ya mafanikio hayo ilikuwa kurithi ulinzi wa Tony Adams, Steve Bould, Nigel Winterburn, Lee Dixon na Martin Keown, pamoja na mshambuliaji Dennis Bergkamp na kuelewana wazajili wapya, Emmanuel Petit kama mcheza mke wa Patrick Vieira, na mshabulizi wa kazi Marc Overmars, na vijana mshambuliaji Nicolas Anelka.
Misimu michache zilizofuata zilikuwa tasa, wakikaribia kushinda kikombe. Katika msimu wa 1998-99, wao walipoteza taji la ligi kwa Manchester United na pointi moja siku ya mwisho ya msimu, na Manchester pia ikaondoa Arsenal katika muda wa ziada katika nusu-finali ya kikombe cha FA Cup. Msimu wa 1999-2000, Arsenal ilipoteza fainali ya Kombe la UEFA kwa timu ya Galatasaray kwa penalti na 2001 Finali ya kombe la FA kwa Liverpool 2-1. Wenger alitatua kuleta wachezaji mpya wa kikosi, pamoja usajili wa utata wa mlinzi Tottenham (aliyekuwa amemaliza mmkataba)na nahodha wa zamani Sol Campbell vilevile wachezaji wa timu ya kwanza kama Fredrik Ljungberg, Thierry Henry na Robert Pires.
Wasajili wapya ilisaidia timu ya Wenger kushinda mataji mawili mara moja katika msimu wa 2001-02. Mechi iliyosisimua sana ilikuwa mechi ya pili kutoka mwisho dhidi ya Manchester United. Arsenal ilishinda 1-0 katika mchezo ambao Arsenal ilionekana kizidi Manchester United. Arsenal alienda msimu mzima unbeaten mbali kutoka nyumbani na kila moja alifunga katika mchezo wa Ligi Kuu kwamba msimu, na kumaliza Double kwa kumpiga Chelsea 2-0 katika fainali ya Kombe la FA na malengo kutoka Ray Parlour na Fredrik Ljungberg.
Baada ya kuanza msimu wa 2002-03 kwa nguvu, Arsenal ilionekana kama ingehifadhi taji la ligi kwa mara ya kwanza katika historia yao. Arsenal walikuwa wanaongoza Manchester United (ambao walishinda) kwa point nane wakati mmoja, lakini kucheza kwao ilididimia msimu ikikienda kuisha. Manchester United ilipita Arsenal katika hatua ya mwisho ya msimu na kushinda taji, Arsenal ilitupa ouuongozi wa mabao mwaili dhidi ya Bolton Wanderers na kutoka sare ya mabao mawili na kisha kupoteza wakiwa nyumbani kwa Leeds United.
Arsenal walifanikiwa kushinda kombe la FA mwaka wa 2003, na msimu iliyofuata, waliandika historia kwa kushinda Ligi ya 2003-04 bila ya kupoteza mechi yeyote ,timu ya daraja la kwanza kuandikisha historia tangu 0}timu Preston North End mwaka wa 1888 -89 kufanya hivyo, hili ni historia ambayo timu ya AC Milan na Ajax walikuwa wamewaza kuandikisha katika ligi za kubwa za Ulaya. Mwaka mmoja awali, Wenger alikuwa ameskika akisema kuwa ingeweza Arsenal kucheza msimu mzima bila kushindwa.[22]
Mechi ya Arsenal kutoshindwa kwa mechi arobaini na tisa ilifikia kikomo pale waliposhindwa na Manchester United kwa mabao mawili kwa nunge mnamo Oktoba 2004. Arsenal walikuwa na ushindi mwingine wa muda katika kampen ligi ya, lakini walishinddwa kutetea ligi na Chelsea. Faraja tena ilikuja katika Kombe la FA mwaka wa 2005, ambapo Arsenal ilishinda Manchester United kwa penalti baada ya kutoka sare ya nunge kwenye fainali.
Arsenal walikuwa na misimu miwili katika 2005-06 na 2006-07 ya kutoshinda taji lolote, ambapo walimaliza katika nafasi ya nne katika hafla zote mbili. Arsenal wakiwa katika fomu mzuri walitishia kuchukua Ligi Kuu na dhoruba katika [msimu wa 2007-08, walioongoza ligi kwa muda mrefu katika msimu huo, lakini walishindwa na Chelsea na Manchester United, baada ya mguu wa mshabuliaji wao Eduardo kuvunjwa ikatatanisha kikosi changa cha Arsenal kwa wiki chache.
Kwa jumla, Arsenal imeshinda Ligi mara tatu na vikombe vya FA manne chini ya uongozi wa Wenger, hili linamfanya kuwa meneja mwenye mafanikio kubwa zaidi katika masuala ya nyara. Nyara ya vilabu mabingwa ndilo taji peke yake ambalo Wenger hajashinda,hata hivyo, Arsenal ilikaribia kushinda walikapo fika finali katika msimu wa 2005-06, kwa mara ya kwanza katika historia ya klabu, ambapo walipoteza kwa mabao mawili kwa moja dhidi ya timu ya Barcelona.
Mnamo Oktoba 2004, yeye alitia saini mkataba wa kuongoza kandarasi yake ambayo ingeweka ugani Emireti kupita msimu wa 2007-08 /0} [23] Aliyekuwa makamu mwenyekiti Arsenal wakati huo David Dein alisema kuwa Wenger ana kazi ya arsenal " kwa maisha" , na alipangia kumpatia Wenger jukumu kazi ya mwanabodi wa klabu mara tu atakopo Arsenal retires mara moja yeye kama meneja.[24] Maisha ya baadaye ya Wengerkatika Arsenal ilikuwa na maswahili chungu baada ya Daudi Dein kutoka bodi la Arsenal mnamo tarehekumi na nane mwezi wa Aprili 2007, na uvumi kuvuma kwamba Wenger atawacha kazi yake ili awe meneja wa Real Madrid. Hata hivyo, mnamo tarehe 6 Septemba 2007, Wenger ilikubali kandarasi mpya ya miaka mitatu katika Arsenal.[25]
Mkabala na falsafa
Wenger ameelezewa kama kocha ambaye "imetumia wasifu yake kujenga timu kushinda mataji na wakati huo kkuwa hamu ya kufurahisha na kushambulia",[26] na kama mwandilishi,anashughulika sana wakfu kwa mtu binafsi na ya kiufundi wa umoja ".[27] Gazeti ya Times inabainisha kuwa tangu 2003-04 mkabala na mchezo wa Wenger imekuwa msisitizo ya ushambuliaji.[28] Mtindo wake wa kucheza imekuwa kinyume na mkabala wa wapinzani wake,[29] lakini pia imekosolewa kwa kwa kukosa nguzo wa kuua".[30] Ingawa Wenger kwa miaka kadhaa alichezesha kikosi chake na mfumo wa 4-4-2, tangu mwaka 2005 amekuwa mara nyingi akitegemea mfumo 4-5-1 na mshambuliaji mmoja na kiungo iliyojaa wachezaji,[31] hasa tangu kuhama uwanja pana wa Emirati ,[32] na katika ligi ya mabingwa.[33] Mwanzo kwa msimu wa 2009-10, Wenger ameanza mfumo mpya ya 4-3-3 , ikiwa na washambuliaji watano wanaobadilishana nafasikwa hiari wakati wa mechi.[34]
Wenger ana sifa kubwa ya kutafuta talanta ya vijana wachanga. Wakati wake akiwa Monako alimleta mrai wa Liberia, George Weah, ambaye baadaye akashinda tuzo la shirikisho la kandanda dunianiya mchezaji mzuri wa mwaka wakati huo akichezea AC Milan, Tonnerre Yaoundé kutoka timu y Kamerunna rai wa Nigeria Victor Ikpeba, ambaye baadaye akawa mchezaji bora wa Afrika wa Mwaka kutoka klabu cha RFC de Liege. Wakati akiwa Arsenal, Wenger amesajili vijana, ambao hawakuwa wakijulikani kama vile Patrick Vieira, Francesc Fabregas, Robin Van Persie na Kolo Toure, na kuwasaidia kuwa kuwa wachezaji wa duniani. Imeonekana, utetezi ambao iliweka rekodi mpya baada ya kucheza mechi kumi mfululizo bila kufungwa bao lolote wakiwa njiana kufika fainali yakombe la Uefa dhidi ya Barcelonamsimu wa 2005-06 iligharimau Arsenal chini ya pouni tano za uingereza kukusanyika.
Ingawa Wenger amefanya baadhi ya uzajili ya wachezaji wenye pesa mingi kwa Arsenal, rekodi ya matumizi yake ni nadra zaidi kuliko timu nyingine inayoongoza Ligi. Utafiti wa mwaka wa 2007,ilipata kuwa alikuwa meneja wa pekee kwenye Ligi eamefanya faida kwa uhamisho wa wachezaji,[35] na kati ya mwaka wa 2004 na mwaka wa 2009 Wenger alifanya faida wastani ya pauni dola million nne nukta nne kwamsimu kutokana na uhamisho, mbali zaidi kuliko vilabu vingine vyovyote.[36] Mfano mzuri ni ya ununuzi wa Nicolas Anelka kutoka Paris St Germain kwa pauni elfu mia tano tuna baadaye kuuzwa pauni millioni ishirini na mbili kwa Real Madridbaada ya miaka miwili tu. Hiyo ilimwezesha Wenger kununua wachezaji watatu, wakiwemo Thierry Henry, Robert Pires na Sylvain Wiltord, ambao wote walicheza nafasi muhimu katika kushinda mataji mawili katika msimu wa 2001-02 na kushinda ligi katika msimu wa 2003-04.
Vilevile kwa kukuza vipaji kwa klabu, Wenger pia ameonekana kufufua wasifu ya wachezaji wakongwe akiwa Arsenal. Dennis Bergkamp, ambaye alikuwa amesajiliwa na Arsenal mwaka mmoja kabla Wenger kijiunga na Arsenal, alifikia upeo wake chini ya uonngozi wa Wenger. Wenger pia alisaidia mwanafunzi wake wa awali akiwa Monako, Thierry Henry, kuwa mchezaji wa hadiri ya dunia na kumwona akiwa nahodha na mfungaji bora wa boa kwa historia ya Arsenal.
Wenger pia aligeuza mfumo wa kufanya mazoezi na kukula,kwa kutoa unywaji pombe na ukulaji wa chakula yenye mafuta mingi. Wenger alisimama na nahodha Tony Adams baada ya Adams kukubali kuwa ulevi mwaka wa 1996. Wenger alisaidia Adams wakati wa ukarabati wake, na mchezaji huyo akarejea fomu mzuri na akamwongezea wasifu yake kwa miaka kadhaa. Mafunzo ya Wenger na sheria ya malazi na chakula huenda pia ilichangia kurefusha wasifu wa wanabegi wa Arsenal kwa muda mrefu, wanabegi Nigel Winterburn, Lee Dixon na Martin Keown. Wenger awali alikuwa kupanga kuwasajili wachezaji wengine kuchukua nafasi yao, lakini baadaye alitambua kwamba hakuwa na haja ya kufanya hivyo.
Wenger alikuwa na mchango wa moja kwa moja kwa muundo wa ndani wa uwanja mpya ya Emirates, ambao ulifunguliwa mwaka wa 2006, na uhamisho kwa uwanja mpya ya mafunzo ya London Colney.
Plaudits na tuzo
Wenger anafurahia pendo kubwa kutoka kwa mashabiki wa Arsenal, ambao wameonyesha imani kubwa na meneja wake wa muda mrefu wa maono yake ya muda ijaayo. Display banners wafuasi mara kwa mara wakidai "Arsène anajua" na "Katika sisi Arsène matumaini" katika matches at Emirates Stadium. Wakati Arsenal msururo wa ushindikatika kampeni wakiwa Highbury mwaka wa 2005-06, wafuasi walionyesha kuridhishwa kwao na kuamua kuwa " Siku ya Wenger" katika mojawebo ya sikuza mechi kali. Siku ya Wenger wulifanyika siku yake ya kuzaliwa akiadhimisha miaka hamsini na sita ya kuzaliwa mnamo tarehe ishirini na mbilimwezi wa Oktoba 2005, wakati wa mechi dhidi ya Manchester City. [37]
Aliyekuwa makamu mwenyekiti wa Arsenal, David Dein, alieleza Wenger kama meneja muhimu katika historia ya klabu: "Arsene kama mfanyakazi wa maajabu. Yeye alibadilisha klabu. Aligeuza wachezaji kuwa wa kiwango cha duniani. Tangu awe hapa, tumeona mpira kutoka sayari nyingine".[38] Katika Tarehe 18 mwezi wa Oktoba 2007, kinyago cha shaba, sawa toleo la awali la Herbert Chapman, ilizindua kwake, na bodi ya wakurugenzi wa Arsenal, katika Mkutano Mkuu wa mwaka.[39]
Wenger ilipewa zanaa mzuri ya kifaranza ya Légion d'Honneur mwaka wa 2002. Yeye ilipewa tuzo la OBE kwa huduma yake kwa soka ya Uingereza katika siku ya tuzo za kuzaliwa Malkia ya mwaka wa 2003, pamoja na mfaranza mwenzake ambaye alikuwa meneja wa Liverpool Gérard Houllier. Mwaka wa 2006, Wenger aliingiza ndani ya makwiji wa soka la Uingereza kama utambuzi mafanikio yake kama meneja katika Uiingereza. Yeye alikuwa meneja wa pili wa kigeni kuingishwa kwa orodha ya makwiji haoe, baada ya Mwitalia Dario Gradi wa timu ya Crewe Alexandra.
Mwaka wa 2007, alipata nyota moja KUpewa jina la 33179 Arsène Wenger, [40] na mwanaastronomia Ian P. Griffin, ambaye anasema kilabu cha Arsenal anakipenda sana.[41]
Sakata
Timu za Wenger imeshtumiwa kukoza nidhamu, walipa kadi nyekundu sabini na tatu kati ya mwaka wa 1996 na 2008.[42] Hata hivyo, katika wawili mwaka 2004 na 2005 timu ya Wenger ilishinda zawadi ya timu iliyo na nidhamu na tabia mzuri katika ligi ya Uingereza [43][44] na karibu wajishidie zawadi hilo tena mwaka wa 2006.walimaliza katika nafasi ya pili.[45] Rekodi yao kama mojawebo ya vilabu vya michezo yenye nidhamu iliendelea hadi 2009 baada ya klabu kuwa katika nafasi nne za kwanza kwa kuwania zawadi hilo.[46][47][48]
Mwaka wa 1999, Wenger alipatia klabu ya Sheffield United mechi ya marudiano katika shindano la FA baada ya sintofahamu kuhuzu ushindi wa Arsenal. Bao la ushindi la Arsenal iliyofungwa na Marc Overmars, ilitokana na mshambuliaji Kanu kushindwa kurudisha mpira kwa upinzani baada ya mpira kutolewa nje ili mchezaji wa Sheffield United kupata matibabu kwa ajili ya kuumia. Arsenal alishinda mechi ya marudio kwa mabao mawili kwa moja.
Yeye anajukika vizuri sana kutika na ushindani na menaja wa Manchester United, Sir Alex Ferguson. Ushindani huu ulifikia kilele katika tukio la "Pizzagate" [49][50] huko OLD TRAFFORD katika Oktoba mwaka wa 2004 baada ya mkwaju wa adhabu la utata ulipelekea kushindwa kwa mabao mawili kwa nunge,hivyo kufanya ushindi wa Arsenal wa mechi arobaini na tisa bila kushindwa kufikia kikomo. Baada ya mechi mwanachama wa Arsenal alidaiwa kurushia chakula upinzani katika mwingilio wa chumba cha mapumziko.[51] Wenger alipigwa faini ya dollar elfu kumi na tano kwa ajili ya kumwita mshambulizi wa Manchester Ruud van Nistelrooy kama mdanganyifu katika mahojiano na wandishi wa habari baada ya mechi. Yeye pia alipigwa faini nyingine baadaye kwa wito wake wa kumwita van Nistelrooy mdanganyanyifu, kuonyesha kwamba yeye aliamini yake.[52] Mameneja wote sasa wamekubali kupunguza la toni maneno yao ushindani wao itulie.[53]
Katika mwezi wa Oktoba na Novemba mwaka 2005, Wenger alijiingiza katika cheche la maneno na aliyekuwa meneja wa Chelsea José Mourinho. Mourinho alimstumu Wenger kuwa hana anapenda Chelsea kinyume na maadili ya kazi, akiwita Wenger kama panya na mtu anayependa maswala ya watu wengine [54] Mourinho alinukuliwa akisema, "Yeye's ana wasiwasi kuhusu sisi, yeye daima anazungumza kuhusu sisi - ni Chelsea, Chelsea, Chelsea, Chelsea". Wenger alijitetea kuwa alikuwa anajibu waandishi wa habari kuhusu maswali juu ya Chelsea, na akaelezea mtizamo wa Mourinho kama "isiyo na nidhamu". Mourinho tangu imenukuliwa akisema kuwa yeye anajutia kusema neno hilo "voyeur" , na Wenger amakubali msamaha wake.[55]
Wenger mara nyingi imekuwa akikosolewa na meneja wengine wa wa Ligi kuwa amekosa kuchezesha wachezaji kutoka uingereza , hasa katika Ligi ya Mabingwa. Aliyekuwa meneja wa West Ham United, Alan Pardew alisema kuwa mafanikio ya Arsenal katika Ligi ya mabingwa si lazima kuwa ushindi kwa soka ya Uingereza".[56] Wenger aliona suala la utaifa kama lisilo na msingi wowote na akasema, "Wakati wewe unawakilisha klabu, ni kuhusu maadili na sifa, si kuhusu paspoti", pia inaonyesha kuwa kulikuwa na kile kipengele cha kirangi alivyosema Pardew. Katika kukabiliana, Pardew alisema kuwa, "Meneja ambaye ameowa mswidi na amawazajili wachezaji kutoka duniani kote huwezi kuitwa mpaguzi wa rangi." [57] Wajambuzi wengine, pamoja Trevor Brooking, mkurugenzi wa mpira wa maendeleo katika shirikisho la kandanda, alitetea Wenger. Brooking alibainisha kuwa ukosefu wa wachezaji kutoka Uingereza katika mojawebo ya vilabu yenye mafanikio zaidi katika Uingereza ilikuwa tafakari ya kutokuwepo na talanta nchini Uingereza kuliko Wenger mwenyewe.[58] Wachezaji kadhaa wa Uingereza walianzia wasifu wao Arsenal chini ya usimamizi wa Wenger, wakiwemo David Bentley, Steve Sidwell, Jermaine Pennant, Mathayo Upson na Ashley Cole na vijana wa Uingereza wenye vipaji kama vile Theo Walcott, Kieran Gibbs na Jack Wilshere na sasa wanajenga wasifu wao katika Arsenal.
Baadhi ya wachezaji vijana wa Uingereza hata hivyo waliona kwamba ingekuwa mzuri kuhama mahali pengine kupata fursa zaidi timu ya kwanza. Wachezaji kama Mathayo Upson, Steve Sidwell, na David Bentley walikuwa wataalamu wenyewe, lakini walishindwa kupata nafasi ya kawaida kwa Arsenal. Mnamo Novemba mwaka wa 2007, Sir Alex Ferguson pia alikosoa Wenger kwa kutowachezesha wachezaji wengi wa Kiingereza.[59]
Wenger maneno yenye utata baada ya taarifa juu ya maamuzi ya marefari baada ya maamuzi kuenda kwa wapinzani wake.[60] Kufuatia finali ya Carling mwishoni mwa mwaka wa 2007, yeye alimwita mzaidizi wa refa kama 'mwongo', kupelekea uchunguzi na shirikisho la kandanda,[61] na kupewa faini ya dollar elfu mbili mia tano, na onyo.[62] Wenger kwa mara nyingi amejaribu kutetea wachezaji wake wakati wamehusika katika matukio utata uwanjani kwa kusema kwamba hakuona tukio hilo; hili ni chaguo Wenger anasema anapendelea kwa wakati hakuna " maelezo kamilifu" ili kujitetea, na kwamba yeye ina maslahi ya mchezaji bora katika akili yake. {0
Takwimu
Wachezaji
| --
| 1978-79
| rowspan = "3" | Strasbourg
| rowspan = "3" | Daraja la kwanza
| 2 | | 0 | | | | | | | | | | 1 | | 0 | | | |
| --
| 1979-80
| 1 | | 0 | | | | | | | | || colspan = "2 "|-|| | |
| --
| 1980-81
| 8 | | 0 | | | | | | | | | | colspan = "2 "|-|| | |
11 | | 0 | | | | | | | | | | 1 | | 0 | | | |
11 | | 0 | | | | | | | | | | 1 | | 0 | | | |
|}
[63]
Msimamizi
As of 29 Novemba 2009[64]
* Wakati wa Wenger's umiliki huko, katika Ujapani's J-League katika tukio la scores kuwa ngazi mwishoni wa dakika 90, viberiti itakuwa waliamua kwa muda wa ziada na adhabu.
Tuzo
Player
Strasbourg
Ligi ya Ufaranza: 1978-79
Msimamizi
Monako
Mshindi
Ligi ya Ufaranza (1): 1987-88
kombe la Ufaransa (1): 1990-91
Nafasi ya pili
Taji la kompe la UEFA (1): 1991-92
Ligi ya Ufaranza (3): 1990-91 1991-92 1992-93
Nagoya Grampus
Mshindi
Kombe la Mfalme (1): 1996
Ligi ya Japani (1): 1996
Nafasi ya pili
Ligi ya Japani (1): 1996
Arsenal
Mshindi
Taji ya ligi (3): 1997-98, 2001-02, 2003-04
Kombe la FA (4): 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2004-05
Ngao la jamii (4): 1998, 1999, 2002, 2004
Nafasi ya pili
Kombe la UEFA (1): 2005-06
Taji ya ligi (5): 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2004-05
Kombe la FA (1): 2000-01
Taji ya Carling (1): 2006-07
Ngao ya jamii (2): 2003, 2005
Kombe la UEFA (1): 1999-2000
Binafsi
Meneja wa Mwaka katika Ufaranza: 1988, 2008
Meneja wa Mwaka katika ligi ya Japani: 1995
Afisa wa Ufalme wa Uingereza: 2003
Onze d'Or Kocha wa Mwaka: 2000, 2002, 2003, 2004
Meneja wa Mwaka wa ligi ya Uingereza: 1998, 2002, 2004
Lma Meneja wa Mwaka: 2001-02, 2003-04 [65]
Tuzo la BBC kwa meneja wa Mwaka 2002, 2004
Uhuru wa Islington: 2004 [66]
Tuzo la FWA : 2005 [67]
Makwiji wa soka Uingereza : 2006
Meneja wa Ligi wa Mwezi: mara kumi [68] (Machi 1998, Aprili 1998, Oktoba 2000,[69] Aprili 2002,[70] Septemba 2002,[71] Agosti 2003,[72] Februari 2004,[73] Agosti 2004,[74] Septemba 2007,[75] Desemba 2007 [76]
Marejeo
Viungo vya nje
at Soccerbase
Jamii:Waliozaliwa 1949
Jamii:Watu walio hai
Jamii:Watu kutoka Strasbourg
Jamii:Wachezaji mpira wa FC Mulhouse
Jamii:Wachezaji mpira wa RC Strasbourg
Jamii:Wachezaji mpira wa Ufaransa
Jamii:Mameneja wa mpira
| https://sw.wikipedia.org/wiki/Arsene%20Wenger |
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1931నుండి తెలుగు సినిమాలలో వచ్చిన ప్రగతి "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" అనే ఈ వ్యాసంలో ఇవ్వబడింది.
తెలుగు సినిమా ఆరంభ దశ
1886లో లుమీర్ సోదరులు భారతదేశంలో మొదటి మూగ సినిమాను ప్రదర్శించారు. తరువాత ఆర్.జి.టోర్నీ అనే విదేశీయుడు 1910లో "భక్త పుండరీక", 1911లో "రాజదర్బార్" అనే చిత్రాలు నిర్మించాడు. భారత దేశంలో మొదటి మూగ సినిమా నిర్మించిన భారతీయుడు దాదా సాహెబ్ ఫాల్కే. ఈయన 1913 మే 3న రాజా హరిశ్చంద్ర చిత్రాన్ని విడుదల చేశాడు.
1921లో మచిలీపట్నానికి చెందిన రఘుపతి వెంకయ్య, తనకుమారుడు ఆర్.ఎస్.ప్రకాష్ దర్శకత్వం, నటనలో భీష్మ ప్రతిజ్ఞ అనే మూగ సినిమాను నిర్మించి విడుదల చేశాడు. అర్దేష్ ఇరానీ నిర్మాతగా 1931లో హిందీ (అలం అరా), తెలుగు (భక్త ప్రహ్లాద), తమిళ (కాళిదాస)భాషలలో మూడు టాకీ చిత్రాలు విడుదల అయ్యాయి. వీటిలో తెలుగు, తమిళ చిత్రాల సారథిహెచ్.ఎమ్.రెడ్డి. సురభి నాటక సమాజం వారి జనప్రియమైన నాటకం ఆధారంగా నిర్మించబడిన భక్త ప్రహ్లాద తెలుగులో మొదటి సినిమాగా స్థానం సంపాదించుకొంది.
1931నుండి తెలుగు సినిమా ప్రేక్షకుల ఆదరణను చూరగొంటూ పురోగమిస్తున్నది.
తెలుగు సినిమా 1931-1940
1931-1940 దశకంలో మొత్తం 76 తెలుగు సినిమాలు వచ్చాయి. మొదటి సినిమా భక్త ప్రహ్లాదతో ప్రారంభమై పౌరాణిక చిత్రాల పరంపర కొనసాగింది. ఎక్కువగా రంగస్థల నటీనటులే సినిమాలలో కూడా ఆయా పాత్రలను పోషించేవారు.
ఈ కాలంలో ప్రతిభను కనపరచిన దర్శకులలో కొందరు సి.పుల్లయ్య (లవకుశ), సిహెచ్.నరసింహారావు(సీతా కళ్యాణం), హెచ్.వి.బాబు (కనకథార), పి.పుల్లయ్య(శ్రీవెంకటేశ్వర మహాత్యం), సిహెచ్.నారాయణ (మార్కండేయ).
1936లో కృత్తివెన్ను సోదరులు నిర్మించిన ప్రేమ విజయం తెలుగులో మొదటి సాంఘిక చిత్రం. ఇది అంతగా విజయవంతం కాలేదు. తరువాత హెచ్.ఎమ్.రెడ్డి నిర్మించిన గృహలక్ష్మి సినిమాతో చిత్తూరు నాగయ్య సినీరంగంలో ప్రవేశించాడు.
1939లో బి.ఎన్.రెడ్డి, కె.రామనాధ్, ఎ.కె.శేఖర్లు కలిసి "వాహినీ" చిత్ర నిర్మాణ సంస్థను ప్రారంభించారు. వందేమాతరం వాహిని వారి తొలి సినిమా. తరువాత వరవిక్రయం సినిమాలో భానుమతి సినీ ప్రస్థానం ఆరంభమైంది.
1938-39 సంవత్సరాలలో తెలుగు సినిమా కొత్త రూపు దిద్దుకుంది. సినిమా ప్రయోజనం ఒక్క వినోదం సృష్టించడం మాత్రమే కాదు - విప్లవం కూడా సృష్టించగలదని ఆ రెండు సంవత్సరాలు నాంది పాడాయి. కేవలం పురాణ గాథలే సినిమాలుగా వస్తూ ప్రజానీకాన్ని ఆనందపరుస్తున్న తరుణంలో గూడవల్లి రామబ్రహ్మం "మాలపిల్ల" లాంటి చిత్రం తీసి, విప్లవం సృష్టించాడు. ఆ వరసలో ఆ రెండేళ్ళలోనూ గృహలక్ష్మి(1938, రోహిణి, హెచ్.ఎం.రెడ్డి, నాగయ్య, కన్నాంబ), వందేమాతరం (1939, వాహిని, బి.ఎన్.రెడ్డి, నాగయ్య, కాంచనమాల), మళ్ళీ పెళ్ళి (1939, వై వి.రావు, కాంచనమాల), రైతుబిడ్డ ( 1939, సారథి, గూడవల్లి రామబ్రహ్మం, సూరిబాబు, టంగుటూరి సూర్యకుమారి), వరవిక్రయం (1939, కాళ్ళకూడి నారాయణరావు, భానుమతి) లాంటి సమస్యాత్మక విషయాలపై చిత్రాలు విడుదలై తెలుగు సినిమాని పై స్థాయిలో నిలబెట్టాయి.
సాంఘిక సమస్యలు కథావస్తువుగా అంతకు ముందొచ్చిన "బాల యోగిని" (1937) చిత్రానికి సహకార దర్శకులుగా పని చేయ్యడం, వ్యంగ్యధోరణిలో సమాజాన్నీ రాజకీయాలని దుయ్యబట్టే రీతిలో "ప్రజామిత్ర" పత్రికను నడపడం - "మాలపిల్ల" నిర్మాణానికి ప్రేరణ కావచ్చు. "మాలపిల్ల" చిత్రాన్ని నిషేధించాలని కొన్ని వర్గాలు ప్రయత్నాలు చేసినా అవి సాగలేదు. నిరాటంకంగా నడచి, ఆ చిత్రం ఆర్థికంగా కూడా విజయం సాధించింది. ఆ విజయాన్ని పురస్కరించుకొనే రామబ్రహ్మం "రైతుబిడ్డ" ఆరంభించారు. జమిందారీ విధానాలను ఎదిరించి, రైతు సమస్యలను ప్రజలముందు పెట్టిన చిత్రమిది. ఈ సమస్యలను వస్తువుగా తీసుకుని రామబ్రహ్మంగారే కథ అల్లారు. తాపీ ధర్మారావు, త్రిపురనేని గోపీచంద్ మాటలు వ్రాశారు. గోపీచంద్ దర్శకత్వశాఖలో కూడా పనిచేశారు.
కొసరాజు రాఘవయ్య చౌదరి "ప్రజామిత్ర" పత్రికలో రాజకీయ వ్యంగ్య కవితలు రాసేవారు. ఆ మైత్రితో కొసరాజు చేత పాటలు వ్రాయించారు. అందులో ఆయన ఒక ముఖ్య పాత్ర కూడా వేసారు. "సై సై చిన్నపరెడ్డి", "నిద్ర మేల్కొనరా తమ్ముడా" (సూరిబాబు గానం) మొదలగు పాటలు కొసరాజు గారు, మరికొన్ని సముద్రాల, తాపీ గార్లు వ్రాశారు. రైతు ఉద్యమంలో ప్రముఖంగా పాల్గొన్న ఎన్. వెంకట రామానాయుడు వ్రాసిన పాటలు కూడా చిత్రంలో పాడటం జరిగింది. "మాలపిల్ల"లో బసవరాజు అప్పారావుగారి పాటలు వాడారు. మాటలు: చలం, తాపీ గార్లు. సన్నివేశాన్ని బట్టి ఒక్కో రచయిత ఒక్కో పాటను వ్రాయగలడు అన్న భావని ప్రవేశ పెట్టింది గూడవల్లిగారే కావచ్చు. హాస్య సన్నివేశాలను ప్రత్యేకంగా విశ్వనాథ వారిచే వ్రాయించారు.
చిత్రానికి నృత్య దర్శకుడు వేదాంతం రాఘవయ్య. నట వర్గం: బళ్ళారి రాఘవాచార్య, గిడుగు, పి. సూరిబాబు, నెల్లూరు నాగరాజారావు, టంగుటూరి సూర్యకుమారి, ఎస్.వరలక్ష్మి 1939 లో చిత్రం విడుదల గావటానికి ముందు చాలా అవాంతరాలు కలిగించపడ్డాయి. పేర్కొనదగ్గ విషయమేమంటే "సారధి" సంస్థ యజమాని యార్లగడ్డ శివరామప్రసాద్ (చల్లపల్లి జమిందారు). జమిందారీ విధానం మీద, పెత్తనాల మీదా ఒక జమిందారే చిత్రం నిర్మించడం గొప్ప విషయం.
1939 అక్టోబరులో అంధ్ర కేసరిగా ప్రసిద్ధికెక్కిన టంగుటూరి ప్రకాశం మద్రాసు అసెంబ్లీలో ప్రవేశబెట్టబోయే "ప్రకాశం బిల్లు"కు ప్రచారంగా ఈ చిత్రం తోడ్పడింది. అలాగే జరగబోయే జిల్లాబోర్డు ఎన్నికల్లో జమీందారులకు వ్యతిరేక ప్రచారంలో కూడా ఉపయోగపడింది.
విడుదలకు సిధ్ధంగా వున్న చిత్రాన్ని నిషేధించటానికి వెంకటగిరి, బొబ్బిలి జమీందారులు నోటీసులు ఇచ్చారు. విడుదల రోజునే (27. ఆగస్టు '39) వారి లాయర్లు నెల్లూరు వచ్చి, చిత్రాన్ని చూసి నోట్సు వ్రాసుకొని వెళ్ళారు. అలాగే నిర్మాతలకు రిజిష్టర్డ్ నోటీసులు పంపటం, వారి ఎస్టేటులలో ప్రదర్శిస్తే - సివిల్, క్రిమినల్ చర్యలు తీసుకొంటామని బెదరించటం జరిగింది. చివరకు నెల్లూరు జిల్లా మేజిస్ట్రేట్ ద్వారా వెంకటగిరి పట్టణం లోనే కాదు, తాలూకా లోనే కాదు పూర్తి గూడూరు డివిజన్ లోనే చిత్రాన్ని నిషేధించ గలిగారు.
సెన్సారుబోర్డు సంపూర్ణంగా నిషేధించలేదు కాబట్టి వారిపై కూడా ఒత్తిడి తీసుకొని రావడం జరిగింది. కాని అక్కడ జమీందారుల ఆటలు కొనసాగలేదు. మేజిస్ట్రేట్ చర్య న్యాయ బద్ధం కానప్పటికి మద్రాసు ప్రభుత్వం కూడా చూసి చూడనట్లు ప్రవర్తించటం గమనార్హం. ఇలా జమీందార్ల అక్రమాలకు వంతపాడటం ప్రజలకు ఆగ్రహాన్ని కలిగించింది. విడుదలకు తరువాత నిషేధించాలన్న ప్రయత్నాల్లు మరింత తీవ్రమయ్యాయి. కొన్ని చోట్ల ఫిల్మ్ ఫ్రింట్స్ దగ్ధం చేయాలన్న ప్రయత్నాలు కూడా జరిగాయి. చిత్రంలోని కొన్ని పాత్రలు తమ వ్యక్తిత్వం మీద దెబ్బతీసే పధ్ధతిలో వున్నాయని బొబ్బిలి, వెంకటగిరి రాజాలు చిత్ర నిర్మాతల మీద దావా తెచ్చారు. మొత్తానికి కొంతకాలం కొన్ని జిల్లాలలో నిషేధించబడింది (నిర్మించిన చల్లపల్లి రాజాగారి కృష్ణా జిల్లాలో కూడా).
సినిమాలు ప్రజలమీద ఒత్తిడి తీసుకురాగలవన్న నమ్మకం మాలపిల్ల, రైతుబిడ్డ చిత్రాలతోనే ఆరంభమైంది. ఎంత సంచలనం రేపగలిగినా అనేక అవాంతరాలవల్ల "మాలపిల్ల" లాగా ఆర్థికవిజయం సాధించలేకపోయింది. నిషేధాలు, కోర్టులు, బెదిరింపులు, ఆర్థికనష్టంవంటివన్నీ రావటంతో ఎంత సాంఘిక చైతన్యంగల మనిషయినా రామబ్రహంగారు మరల అలాంటి ప్రయత్నం చెయ్యలేక పోయారు.
వై.వి.రావు నిర్మించిన మళ్ళీపెళ్ళి చిత్రంద్వారా వితంతు వివాహాలను ప్రోత్సహించారు. ఇల్లాలు చిత్రం ద్వారా సంగీత దర్శకుడు సాలూరి రాజేశ్వరరావు, శ్రీకృష్ణ లీలలు చిత్రం ద్వారా గాయని బాల సరస్వతి సినీరంగానికి పరిచయమయ్యారు.
ఈ కాలంలో కళాకారులు తమపాటలను తామే పాడుకొనేవారు. ఈ దశకంలో రంగప్రవేశం చేసిన కళాకారులలో కొందరు - ఈలపాట రఘురామయ్య, సి.ఎస్.ఆర్.ఆంజనేయులు, కె.శివరావు, రేలంగి, గోవిందరాజులు సుబ్బారావు, కొంగర జగ్గయ్య, శాంతకుమారి, కన్నాంబ, కృష్ణవేణి, కాంచనమాల, ఎస్.వరలక్ష్మి, పుష్పవల్లి.
తెలుగు సినిమా 1940-1950
ఈ దశాబ్దంలో 91 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. "వాహినీ స్టూడియోస్" ప్రారంభించబడింది. నేపథ్యగానం ప్రక్రియ స్థిరపడింది. ఈ దశకంలో ఎందరో కళాకారులు, సాంకేతిక నిపుణులు తెలుగు సినీ రంగంలోకి ప్రవేశించారు. తరువాతి కాలంలో చిత్రపరిశ్రమ అభివృద్ధి కావడానికి వారి ప్రతిభ, కృషి ముఖ్యమైన కారణాలు. అలా వచ్చినవారిలో కొందరు-
దర్శకులు - కె.వి.రెడ్డి, ఎల్.వి.ప్రసాద్, భరణి రామకృష్ణారావు, ఘంటసాల బ్రహ్మయ్య, కె.బి.నాగభూషణరావు, కె.ఎస్.ప్రకాశరావు, బి.ఎ.సుబ్బారావు
నటీనటులు -అక్కినేని నాగేశ్వరరావు (సీతారామ జననం), నందమూరి తారక రామారావు (మనదేశం), ఎస్.వి.రంగారావు (వరూధిని), అంజలీదేవి (గొల్లభామ), సావిత్రి (సంసారం), జానకి (షావుకారు), గుమ్మడి వెంకటేశ్వరరావు (అదృష్టదీపుదు), గౌరీనాధ శాస్త్రి (భీష్మ), లింగమూర్తి (భక్తపోతన), ముక్కామల కృష్ణమూర్తి (మాయామశ్చీంద్ర), సూర్యకాంతం (నారద నారది̲).
గాయనీ గాయకులు, సంగీత దర్శకులు - ఘంటసాల వెంకటేశ్వరరావు (స్వర్గసీమ), పెండ్యాల నాగేశ్వరరావు (ద్రోహి), పి.లీల (గుణసుందరి కథ)
రచయితలు - పింగళి నాగేశ్వరరావు (వింధ్యరాణి), ఆత్రేయ (దీక్ష), ఆరుద్ర (బీదలపాట్లు)
ఛాయాగ్రాహకులు - మార్కస్ బార్ట్లీ, ఆలీ.ఎమ్.ఇరానీ, కె.రామనాధ్
ఇంకా బలమైన నిర్మాణ సంస్థలు ఆవిర్భవించి తరువాతి కాలంలో పరిశ్రమ అభివృద్ధికి పునాదులు వేసాయి. పోటీని ప్రవేశపెట్టాయి. అలాంటి వాటిలో కొన్ని - భరణీ పిక్చర్స్ (రత్నమాల), ప్రకాష్ పిక్చర్స్ (మొదటి రాత్రి), ప్రతిభా పిక్చర్స్ (పార్వతీ కళ్యాణం), శోభనాచల పిక్చర్స్ (భక్త పోతన), రోహిణీ పిక్చర్స్ (తెనాలి రామకృష్ణ), విజయా పిక్చర్స్ (షావుకారు), పక్షిరాజా (బీదల పాట్లు), సాధనా పిక్చర్స్ (సంసారం).
కాని ఈ దశకం స్టార్ వాల్యూ పరంగా నాగయ్య యుగమని చెప్పుకోవచ్చును. భక్త పోతన, యోగి వేమన, త్యాగయ్య చిత్రాలు ఆయనను అగ్రశ్రేణి నాయకునిగా చేశాయి. సంసారం, పల్లెటూరి పిల్ల - రెండు సినిమాలు మల్టీస్టారర్స్గా (ఎన్.టి.ఆర్, అక్కినేనిలు జంట నాయకులుగా) వెలువడ్డాయి.
ఈ దశాబ్దంలో ముఖ్యమైన సినిమాలు.
భక్త పోతన
యోగి వేమన
త్యాగయ్య
దేవత
బాలనాగమ్మ
పంతులమ్మ
స్వర్గసీమ
బాలరాజు
పల్నాటి యుద్ధం
ద్రోహి
గుణసుందరి కథ
లైలా మజ్ను
బీదల పాట్లు
లక్ష్మమ్మ
షావుకారు
స్వప్నసుందరి
తెలుగు సినిమా 1950-1960
ఈ దశకంలో 327 సినిమాలు వెలువడినాయి. ఇది తెలుగు సినిమాలకు స్వర్ణయుగమని చెప్పవచ్చును. క్రొత్త నటీనటుల ప్రవేశ పరంపర కొనసాగింది. క్రొత్త చిత్ర నిర్మాణ సంస్థలు చాలా వెలిసాయి. హైదరాబాదులో సారథి స్టూడియోస్ ప్రాంభమైంది. వారి మొదటి చిత్రం మాయింటి మహలక్ష్మి. ఈ కాలంలో కేంద్ర ప్రభుత్వం చలన చిత్రాలకు వివిధ అవార్డులను ప్రవేశ పెట్టింది.
ఈ దశాబ్దంలో ప్రాంభమైన కొన్ని ముఖ్య నిర్మాణ సంస్థలు - అన్నపూర్ణా స్టూడియోస్ (దొంగ రాముడు), అనుపమమ పిక్చర్స్ (ముద్దుబిడ్డ),, రాజ్యం పిక్చర్స్ (దాసి), అంజలి పిక్చర్స్ (అనార్కలి), వినోదా పిక్చర్స్ (స్త్రీ సాహసం), శాలిని పిక్చర్స్ (అమర సందేశం), విక్రమ్ ప్రొడక్షన్స్ (మాగోపి), నేషనల్ ఆర్ట్ థియేటర్స్ (పిచ్చి పుల్లయ్య, రాజశ్రీ పిక్చర్స్ (అనసూయ), అశ్వరాజ్ పిక్చర్స్ (అన్నదాత), విఠల్ ప్రొడక్షన్స్ (కన్యాదానం), నవశక్తి ఫిల్మ్స్ (మా ఇంటి మహలక్ష్మి), జగపతి పిక్చర్స్ (అన్నపూర్ణ).
వెండితెరకు పరిచయమైన నటీనటులు - జగ్గయ్య (ఆదర్శం), కాంతారావు (ప్రతిజ్ఞ), బాలయ్య (ఎత్తుకు పై ఎత్తు), రమణమూర్తి (ఎమ్.ఎల్.ఎ), హరనాధ్ (మా ఇంటి మహలక్ష్మి), జమున (పుట్టిల్లు), కృష్ణకుమారి (నవ్వితే నవరత్నాలు), దేవిక (రేచుక్క), గిరిజ (పరమానందయ్య శిష్యుల కథ), బి.సరోజాదేవి (పాండురంగ మహత్యం), చలం (పల్లె పడుచు), రమణారెడ్డి (మానవతి), రాజబాబు (సమాజం), రాజ సులోచన (కన్నతల్లి).
ప్రజానాట్య మండలి నుండి ఎదిగిన దర్శకుడు డాక్టర్ రాజారావు తన పుట్టిల్లు సినిమా ద్వారా చాలామంది రంగస్థల కళాకారులను సినిమారంగానికి పరిచయం చేశాడు. అలాంటివారిలో అల్లు రామలింగయ్య ఒకడు. ఇదే కాలంలో మిక్కిలినేని, ఆర్.నాగేశ్వరరావు, రాజనాల, ప్రభాకర రెడ్డి, నిర్మల, హేమలత మొదలగు నటీనటులు సినీరంగంలో అడుగుపెట్టారు.
ఇక దర్శకుల విషయానికొస్తే - ఆదుర్తి సుబ్బారావు (అమర సందేశం) సినిమా దర్శకత్వంలో క్రొత్తపోకడలు ప్రవేశపెట్టాడు. వేదాతం రాఘవయ్య (దేవదాసు), తాతినేని ప్రకాశరావు (పల్లెటూరు), తాపీ చాణక్య (రోజులు మారాయి), యోగానంద్ (అమ్మలక్కలు), రజనీకాంత్ (వదినగారి గాజులు), కె.బి.తిలక్ (ముద్దుబిడ్డ), కమలాకర కామేశ్వరరావు (చంద్రహారం), సి.ఎస్.రావు (శ్రీకృష్ణ తులాభారం), వి.మధుసూదనరావు (సతీ తులసి) వంటి ప్రతిభావంతులైన దర్శకులు ఈ దశకంలో వెండితెరను ఒక వెలుగు వెలిగించారు.
కొసరాజు, శ్రీశ్రీ, సముద్రాల రాఘవాచార్య, డి.వి.నరసరాజు, సముద్రాల జూనియర్, పింగళి నాగేశ్వరరావు మొదలైన రచయితలు ఈ సమయంలో ముఖ్యమైన పాటల, మాటల రచయితలు. పి.సుశీల (కన్నతల్లి), ఎస్.జానకి (ఎమ్.ఎల్.ఎ.), ఎ.ఎమ్.రాజా, పి.బి.శ్రీనివాస్, పిఠాపురం నాగేశ్వరరావు, మాధవపెద్ది సత్యం, కె.రాని, ఎ.పి.కమల ఈ సమయంలో ముఖ్య నేపథ్యగాయకులు. ఘంటసాల, పెండ్యాలల సంగీతానికి మంచి డిమాండ్ ఉంది. టి.వి.రాజు, ఆదినారాయణరావు, దక్షిణామూర్తి, అశ్వత్థామ, టి.చలపతిరావు కూడా చాలా చిత్రాలకు సంగీతాన్నందించారు.
డబ్బింగ్ ప్రక్రియ ఈ సమయంలో బాగా అభివృద్ధి చెందింది.
ఈ దశకంలో విడుదలైన ఎవర్గ్రీన్ చిత్రాలు కొన్ని.
మల్లీశ్వరి
పాతాళభైరవి
పెళ్ళిచేసి చూడు
దేవదాసు
పెద్ద మనుషులు
బంగారుపాప
విప్రనారాయణ
రోజులు మారాయి
జయసింహ
దొంగరాముడు
తెనాలి రామకృష్ణ
మిస్సమ్మ
తోడికోడళ్ళు
మాయాబజార్
భూకైలాస్
జయభేరి
పెళ్ళి కానుక
మహాకవి కాళిదాసు
తెలుగు సినిమా 1960-1970
ఈ దశకంలో మొత్తం 552 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. మొదటి పూర్తి రంగుల చిత్రం లవకుశ వెలువడింది. సాంకేతిక విలువలు, ప్రధానంగా ఫిల్మ్ ప్రాసెస్సింగ్ అభివృద్ధి చెందాయి. నంది అవార్డులు ప్రారంభమయ్యాయి.
ఆదుర్తి సుబ్బారావు ఆందరూ కొత్త నటులతో తీసిన తేనెమనసులు సినిమాలో హీరోగా కృష్ణ మరి కొందరు నటులు రంగప్రవేశం చేశారు. ఇంకా ఈ దశకంలోనే శోభన్బాబు, చంద్రమోహన్, కృష్ణంరాజు, రామకృష్ణవంటి హీరోలు, జయలలిత, కె.ఆర్.విజయ, వాసంతి, రాజశ్రీ, వాణిశ్రీ, కాంచన, ఎల్.విజయలక్ష్మి, విజయనిర్మల, శారద వంటి నటీమణులు,, సత్యనారాయణ, ధూళిపాళ, రావుగోపాలరావు వంటి కారెక్టర్ ఆర్టిస్టులు, రావి కొండలరావు, కె.వి.చలం, మాడా, రమాప్రభ వంటి హాస్య నటీనటులు తెలుగు సినీ రంగంలో ప్రవేశించారు.
డి.రామానాయుడు తమ "సురేష్ ప్రొడక్షన్స్" చిత్ర నిర్మాణ సంస్థను ప్రారంభించి తీసిన మొదటి చిత్రం రాముడు భీముడు మంచి విజయం సాధించింది. మంగమ్మ శపధంతో డి.వి.ఎస్.రాజు, కంచుకోటతో వి.విశ్వేశ్వరరావు చిత్ర నిర్మాణంలోకి దిగారు.
సంగీతపరంగా ఘంటసాల, పెండ్యాల, ఎస్.రాజేశ్వరరావులతో బాటు కె.వి.మహదేవన్ పుష్కలంగా బాణీలందించారు. సత్యం, టి.జి.లింగప్ప, ఎస్.పి.కోదండపాణి కూడా చాలా చిత్రాలలో పనిచేశారు. శ్రీ శ్రీ శ్రీ మర్యాద రామన్న కథ చిత్రం ద్వారా గాయకుడుగా ఎస్.పి.బాల సుబ్రహ్మణ్యం తెలుగు సినిమాకు పరిచయమయ్యారు.
ఈ దశకంలోనే ముళ్ళపూడి వెంకటరమణ, గొల్లపూడి మారుతీరావు, భమిడిపాటి రాధాకృష్ణ, రంగనాయకమ్మ, కోడూరి కౌసల్యాదేవి ప్రభృతులు సినిమారంగంలో రచయితలుగా అడుగుపెట్టారు. పాటల రచయితలుగా సి.నారాయణ రెడ్డి, దాశరధిలకు మంచి ఆదరణ కొనసాగింది.
దర్శకులలో బాపు (సాక్షి), కె.ఎస్.ఆర్.దాస్ (లోగుట్టు పెరుమాళ్ళకెరుక), కె.విశ్వనాధ్ (ఆత్మగౌరవం), ప్రత్యగాత్మ (భార్యాభర్తలు), ఎమ్.మల్లికార్జునరావు, (గూఢచారి 116), తాతినేని రామారావు, (నవరాత్రి), పేకేటి శివరాం (చుట్టరికాలు) ఎన్నదగినవారు. నటుడు ఎస్.వి.రంగారావు రెండు సినిమాలకు (చదరంగం, బాంధవ్యాలు) దర్శకత్వం వహించాడు. హీరోయిన్ సావిత్రి కూడా మాతృదేవత చిత్రానికి దర్శకత్వం వహించింది. అయితే ఆదుర్తి సుబ్బారావు దర్శకత్వంలో వెలువడిన మూగ మనసులు ఈ దశాబ్దపు సంచలన విజయం సాధించిన సినిమా. ఆదుర్తి సుబ్బారావు, అక్కినేని నాగేశ్వరరావు కలసి చక్రవర్తి చిత్ర బ్యానర్పై నిర్మించిన సందేశాత్మక చిత్రాలు సుడిగుండాలు, మరో ప్రపంచం ఆర్థికపరంగా విజయవంతం కాలేదు. జగ్గయ్య నిర్మించిన పదండి ముందుకు, రాజ్యం పిక్చర్స్ వారి నర్తనశాల అంతర్జాతీయ చిత్రోత్సవాలలో ప్రదర్శించబడ్డాయి.
ఈ దశాబ్దపు ఎన్నదగిన సినిమాలు
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నమ్మినబంటు
వెలుగునీడలు
ఇద్దరు మిత్రులు
భార్యాభర్తలు
బాటసారి
ఆరాధన
గుండమ్మ కథ
కులగోత్రాలు
మంచిమనసులు
మూగ మనసులు
రక్తసంబంధం
ఆత్మబలం
అంతస్తులు
మనుషులు మమతలు
మరపురాని కథ
నాదీ ఆడజన్మే
రాము
ఆత్మీయులు
బుద్ధిమంతుడు
డాక్టర్ చక్రవర్తి
మనుషులు మారాలి
పునర్జన్మ
రంగులరాట్నం
కథానాయకుడు
మహామంత్రి తిమ్మరుసు
బొబ్బిలియుద్ధం
కథానాయిక మొల్ల
జగదేకవీరునికథ
బందిపోటు
గురువును మించిన శిష్యుడు
కంచుకోట
భీష్మ
నర్తనశాల
పాండవ వనవాసం
శ్రీకృష్ణ తులాభారం
సీతారామ కళ్యాణం
భక్త ప్రహ్లాద
శ్రీకృష్ణావతారం
శ్రీకృష్ణపాండవీయం
లవకుశ
తెలుగు సినిమా 1970-1980
ఈ దశాబ్దంలో మొత్తం 758 సినిమాలు విడుదలయ్యాయి. వీటిలో చాలావరకు ఆంధ్రప్రదేశ్లో నిర్మించబడ్డాయి. ఆంధ్రప్రదేశ్లో చిత్రనిర్మాణానికి అయ్యే అదనపు ఖర్చును భరించడానికి వీలుగా రాష్ట్రప్రభుత్వం రాయితీలు ఇవ్వడంతో రాష్ట్రంలో చిత్రనిర్మాణం పుంజుకుంది.
హీరో కృష్ణ పాశ్చాత్య కౌబోయ్ కథారీతిలో మోసగాళ్ళకు మోసగాడు సినిమా నిర్మించాడు.
దసరా బుల్లోడు చిత్రంతో వి.బి.రాజేంద్ర ప్రసాద్ దర్శకుడయ్యాడు.
దర్శకులలో దాసరి నారాయణరావు, కె.రాఘవేంద్రరావు తమ ప్రతిభను, వైవిధ్యాన్ని ప్రదర్శించారు. కె.బాలచందర్ దర్శకత్వం వహించిన అంతులేని కథ, మరో చరిత్ర మంచి విజయం సాధించాయి.
వి.రామచంద్రరావు దర్శకత్వం వహించిన అల్లూరి సీతారామరాజు తెలుగులో మట్టమొదటి "సినిమా స్కోప్" చిత్రం. దేవతలారా దీవించండి సినిమాను నలుపు-తెలుపు, సినిమా స్కోపులో నిర్మించారు. దర్శకులుగా పి.సి.రెడ్డి, లక్ష్మీదీపక్, సింగీతం శ్రీనివాసరావు, కె.బాపయ్య, రచయితలుగా జంధ్యాల, సత్యానంద్, పరుచూరి బ్రదర్స్ బాగా రాణించారు. చాలా సినిమాలకు చక్రవర్తి సంగీత దర్శకత్వం వహించాడు. పాటల రచయితగా వేటూరి సుందరరామ మూర్తి విజృంభించాడు.
నందమూరి తారక రామారావు స్వయంగా దాన వీర శూర కర్ణ సినిమాకు నిర్మాత, దర్శకుడు. అందులో మూడు పాత్రలను ధరించి మెప్పించాడు. ఇది ప్రధానంగా యాక్షన్, క్రైమ్ చిత్రాల దశకం. విజయ చందర్, మురళీ మోహన్, గిరిబాబు, ప్రసాద బాబు, నారాయణ రావు, మోహన్ బాబు, నరసింహ రాజు, బాలకృష్ణ ,చిరంజీవి, సంగీత, లక్ష్మి, జయచిత్ర, జయసుధ, జయప్రద, సుజాత, లత, సుమలత, విజయశాంతి ఈ కాలంలోనే వెండితెరకు పరిచయమయ్యారు. ఈ దశాబ్దం మొదట్లో బాలనటిగా నటించిన శ్రీదేవి దశాబ్దాంతానికి హీరోయిన్గా ప్రేక్షకులను ఆకర్షించింది.
రావుగోపాలరావు, నూతన్ ప్రసాద, జె.వి.సోమయాజులు క్యారెక్టర్ ఆర్టిస్టులుగా మంచి ఆదరణ సంపాదించారు.
బాపు దర్శకత్వంలో వచ్చిన ముత్యాల ముగ్గు, కె.విశ్వనాధ్ దర్శకత్వంలో వచ్చిన శంకరాభరణం తెలుగు సినీ చరిత్రలో సుస్థిరమైన స్థానాన్ని సంపాదించుకొన్నాయి. ఈ రెండు సినిమాలకూ కె.వి.మహదేవన్ సంగీతాన్నందించాడు. రామకృష్ణ, జి.ఆనంద్, జేసుదాస్, ఎల్.ఆర్.ఈశ్వరి, జముననారాణి, వాణీ జయరాం నేపథ్య గాయనీ గాయకులుగా రాణించారు.
మంచి అభిరుచిగల నిర్మాతగా పేరు పొందిన క్రాంతికుమార్ స్త్రీ పాత్రల ఆధారంగా శారద, జ్యోతి, కల్పన వంటి సినిమాలు నిర్మించాడు. హీరో-విలన్-క్యారెక్టర్ ఆర్టిస్టు కృష్ణంరాజు తన స్వంత బ్యానర్ గోపీకృష్ణ మూవీస్ పై నిర్మించిన కృష్ణ వేణి,అమరదీపం, భక్త కన్నప్ప సినిమాలు విజయవంతాలు కావడమే కాక విమర్శకుల ప్రశంసలు కూడా అందుకొన్నాయి.
తెలుగు సినిమా 1980-1990
ఈ దశాబ్దంలో రికార్డు స్థాయిలో 1665 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. కాని వాటిలో విజయవంతమైనవి 25% లోపే.
నందమూరి తారక రామారావు నటించిన సర్దార్ పాపారాయుడు, బొబ్బిలి పులి, జస్టిస్ చౌదరి, కొండవీటి సింహం, నాదేశం వంటి చిత్రాలు ఆయన రాజకీయాలలో అడుగుపెట్టడానికి అనుకూలమైన సందేశాలు ఇచ్చాయి. ఈ సమయంలో దాసరి నారాయణరావు, కె.రాఘవేంద్రరావు, కోదండరామి రెడ్డి అగ్రస్థానంలో ఉన్న దర్శకులు. కోడి రామకృష్ణ, జంధ్యాల, రేలంగి నరసింహారావు కూడా విజయవంతంగా పలు చిత్రాలకు దర్శకత్వం వహించారు. జంధ్యాల దర్శకత్వంలో ఆనంద భైరవి, అహనా పెళ్ళంట, శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ, నాలుగు స్తంభాలాట వంటి చిత్రాలు విజయవంతమై హాస్య చిత్రాలకు క్రొత్త ఒరవడి సృష్టించాయి.
శివ చిత్రం విజయం ద్వారా రాంగోపాల వర్మ అనే ప్రతిభావంతుడైన యువ దర్శకుడు చిత్ర రంగానికి పరిచయమయ్యాడు.
క్రియేటివ్ కమర్షియల్స్ కె.ఎస్.రామారావు, యువ చిత్ర కె.మురారి, విజయవాహిని ఆర్ట్స్ టి.త్రివిక్రమరావు, గోపీ ఆర్ట్స్ గోపి, లక్ష్మీ ఫిలిమ్స్ అనురాధా దేవి ఈ దశకంలో ప్రముఖ నిర్మాతలు. వేజెళ్ళ సత్యనారాయణ సందేశాత్మక చిత్రాలు స్వీయ దర్శకత్వంలో నిర్మించాడు. రామోజీరావు సినిమా నిర్మాతగా మారి శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ, మయూరి, ప్రతిఘటన వంటి నాణ్యమైన సినిమాలు నిర్మించాడు. పద్మాలయా స్టూడియోస్, రామానాయుడు స్టూడియోస్ ప్రారంభమైనాయి.
రచయితలుగా పరుచూరి బ్రదర్స్, పాటల రచయితగా సిరివెన్నెల సీతారామశాస్త్రి బాగా రాణించారు. నటునిగా చిరంజీవి అగ్ర స్థానంలో ఉన్నాడని చెప్పవచ్చును. ఈ కాలంలోనే బాలకృష్ణ, నాగార్జున, వెంకటేష్లు సీనియర్ సినీ ప్రముఖులకు వారసులుగా రంగంలో మంచి గుర్తింపు పొందారు. మోహన్ బాబు నటుడిగానూ, నిర్మాతగానూ మంచి విజయాలు సాధించాడు. ఆవేశపూరితమైన పాత్రలలో రాజ శేఖర్, హాస్య పాత్రలలో రాజేంద్ర ప్రసాద్ కథానాయకులుగా సుస్థిర స్థానం సంపాదించారు.
నటీమణులలో శ్రీదేవి, జయప్రద, జయసుధ, సుజాత, రాధిక, విజయశాంతి, రాధ అత్యధిక సినిమాలలో నటించారు. కామెడీ పాత్రలలో బ్రహ్మానందం అగ్రస్థానంలో ఉండగా మల్లికార్జునరావు, సుత్తివేలు, వీరభద్రరావు, శ్రీలక్ష్మి వంటి ప్రతిభాశాలురైన హాస్యనటులు తెలుగుతెరపై విజృంభించారు. కోట శ్రీనివాసరావు అన్ని విధాల పాత్రలలోనూ ఆదరణ పొందగలిగాడు.
సంగీత దర్శకులుగా చక్రవర్తి ఎక్కువ సినిమాలకు సంగీతం అందించాడు. ఇళయరాజా, రాజ్-కోటి, రమేష్ నాయుడు కూడా చాలా సినిమాలకు సంగీత దర్శకులు. ఎస్.పి.బాలసుబ్రహ్మణ్యం, చిత్ర, ఎస్.జానకి, పి.సుశీల, వాణీ జయరాం ప్రముఖ నేపథ్య గాయకులు.
హీరో కృష్ణ తెలుగులో మొదటి 70 ఎమ్.ఎమ్. సినిమాగా సింహాసనం నిర్మించాడు. సినిమా అభివృద్ధికోసం ఎ.పి.స్టేట్ ఫిల్మ్ డెవలప్మెంట్ కార్పొరేషన్ స్థాపించబడింది. 1984లో 2 లక్షలు రూపాయలున్న సబ్సిడీ 1989నాటికి 3 లక్షలుకు పెంచారు. పన్నులలో స్లాబ్ సిస్టమ్ ప్రవేశ పెట్టారు. అందువలన మిశ్రమ ఫలితాలు సంభవించాయి.
1981 నుండి రఘుపతి వెంకయ్య అవార్డు ప్రారంభమైనది.
ఈ దశాబ్దంలో ముఖ్యమైన చిత్రాలు:
శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ
అభిలాష
ఖైదీ
మయూరి
ప్రతిఘటన
మేఘ సందేశం
ఛాలెంజ్
సితార
స్వాతి ముత్యం
రుద్రవీణ
పెళ్ళి పుస్తకం
గీతాంజలి
తాండ్ర పాపారాయుడు
అంకుశం
స్వర్ణకమలం
శివ
జగదేకవీరుడు- అతిలోక సుందరి
జస్టిస్ చౌదరి
తెలుగు సినిమా 1990-2000
దాదాపు 950 స్ట్రయిట్ తెలుగు చిత్రాలు ఈ కాలంలో విడుదలయ్యాయి. ఇక ఈ కాలంలో బి.గోపాల్, ఈవీవీ, రాంగోపాల్వర్మ, ఎస్.వి.కృష్ణారెడ్డి, భీమనేని శ్రీనివాసరావు వంటి క్రియేటివ్ దర్శకుల హవా పెరిగింది.
"తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథం
ప్రపంచ సినీ పితామహులు లూమియర్ బ్రదర్స్ 1896 జూలై 7న బొంబాయిలోని వాట్సన్ హోటల్ లో ఏర్పాటు చేసిన తొలి చలన చిత్ర ప్రదర్శన ద్వారా భారత దేశంలోకి చలనచిర రంగం ప్రవేశించింది. అది మొదలు గత 100 సంవత్సరాల భారతీయ చలనచిత్ర చరిత్ర, 1931లో ప్రారంభమైన తెలుగు చలన చిత్ర పరిశ్రమకు సంబంధించిన సమగ్ర చరిత్రపై వెంకటేశ్వర్లు బులెమోని ఏడున్నర సంవత్సరాలపాటు పరిశోధన చేసి వ్రాసిన గ్రంథం "తెలుగు సినిమా చరిత్ర".
ఈ "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథంలో తెలుగు చలనచిత్ర పరిశ్రమకు సంబంధించిన సమగ్ర చరిత్ర, సాంకేతిక అభివృద్ధి, తెలుగు చలనచిత్ర నటీనటులు, టెక్నీషియన్ల వివరాలు, 1931 నుంచి 1997 దాకా వచ్చిన మేటి చలనచిత్రాల సమీక్ష, సంవత్సర వారీగా విడుదలైన సినిమాల పూర్తి వివరాలు ఈ గ్రంథంలో పొందుపరచబడ్డాయి. ఈ గ్రంథాన్ని నెక్స్ట్ స్టెప్ పబ్లికేషన్స్ ప్రచురించగా, విశాలాంధ్ర పబ్లిషింగ్ హౌజ్, నవోదయ బుక్ హౌజ్, ప్రజాశక్తి బుక్ హౌజ్లు సమ్యుక్తంగా ప్రపంచవ్యాప్తంగా విడుదల చేశారు. అప్పటి కేంద్ర మంత్రి యు. కృష్ణం రాజు 25 నవంబర్ 1997 న ఈ గ్రంథాన్ని విడుదల చేశారు.
ఈ "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథానికిగాను ఉత్తమ గ్రంథంగా రాష్ట్ర ప్రభుత్వ "నంది అవార్డు", ఉత్తమ రచయితగా "యువకళావాహిని" అవార్డు రచయితకు లభించాయి.
తెలుగు సినిమా 2000-2010
ఇక 2000-2010 మధ్య కాలంలో సినిమా డిజిటల్ యుగాన్ని అందిపుచ్చుకుని, ఆన్ స్క్రీన్ వండర్స్ ను సృష్టిస్తోంది. ఫలితంగా తెలుగు సినిమా అతి వేగంగా తెరకెక్కుతూ.. హాశ్చర్యపరుస్తోంది. త్రీడీ టెక్నాలజీ.. డిజిటల్ ఇంటర్మీడియట్.. గ్రాఫిక్స్.. రంగాలు వాటి సేవలు శరవేగంగా హైదరాబాదులో విస్తృతమయ్యాయి. మనది సినిమా పిచ్చోళ్ల దేశం అంటారు జావేద్ అక్తర్. సినిమా మనకు తెలుపు నలుపు రంగుల కాలంలో ఎంతగా ఆలరించిందో.. ఆలోచింపజేసిందో.. రంగుల కాలంలోనూ అవే సుగుణాలు పుణికిపుచ్చుకుంది. సమాంతర చిత్రాలు.. సందేశాత్మక చిత్రాలు.. ఇలా పేరేదైనా.. సినిమా సత్యజిత్ రే చూపిస్తే ఒకలా.. చంద్రశేఖర్ఏలేటి చూపిస్తే మరోలా ఆవిష్కృతమైంది. మన జీవనంలో భాగమైంది. మ్యాథ్స్ ఫార్ములాలను.. ఒంటబట్టించుకున్న సుకుమార్ తరం ఇప్పుడు నడుస్తోంది గనుక.. ఈ తరం సినిమా సిగ్మండ్ ఫ్రాయిడ్ ను.. అయన్ రాడ్ ను.. నిషేను.. ప్రతిభావంతంగా వాడుకుంటోంది. ప్రభావ శీలక మాధ్యమంగా ఎదుగుతోంది. నవలలు ఇప్పుడు సినిమాగా తెరకెక్కకపోయినా.. కథలు ఇంకా రొటీన్ బాణీలోనే నడుస్తున్నా.. సినిమా నిర్మాణ 'గతి' నానాటికి పుంజుకుంటోంది. సినిమా స్కోప్.. 70 ఎంఎం.. డిజిటల్ ప్రాసెసింగ్.. ఇలా రూపాంతరం చెందుతోంది. అయితే బాధాకరం ఏంటంటే మన దగ్గరి కథలు అంతర్జాతీయ స్థాయికి చేరుకోవడం లేదు. ఏదేమైనా మళ్లీ ఓ సారి గతంలోకి తొంగిచూస్తే మన సాహసాలు.. మన సానుకూల దృక్పథాలూ సాక్షాత్కారం అవుతాయి. వాటి నుంచి రేపటి గమనానికి కావాల్సిన కొన్ని ఆలోచనలు పుట్టుకువస్తాయి. సో.. మళ్లీ నాటి కాలానికి వెళ్తే.. అంటే కళ.. కళ కోసం కాదు.. సామాజిక ప్రయోజనం కోసం అన్న మాటలు తలుచుకుంటే గతమెంత ఘనం అనిపించకమానదు.
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భక్త ప్రహ్లాద
తెలుగు సినిమా 75 సంవత్సరాల హిట్ జాబితా
మూలాలు
బయటి లింకులు, వనరులు
| https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%A4%E0%B1%86%E0%B0%B2%E0%B1%81%E0%B0%97%E0%B1%81%20%E0%B0%B8%E0%B0%BF%E0%B0%A8%E0%B0%BF%E0%B0%AE%E0%B0%BE%20%E0%B0%9A%E0%B0%B0%E0%B0%BF%E0%B0%A4%E0%B1%8D%E0%B0%B0 |
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} | ミドルネーム (English: middle name) は、名字と個人名の中間に存在する名前。中間名とも[1]。
イニシャルで略記される場合が多い[1]。
例
John Fitzgerald Kennedy(ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ)[注釈 1]
個人名(ファーストネーム)のJohn(ジョン)と、ファミリーネーム(ラストネーム)のKennedy(ケネディ)の間のFitzgerald(フィッツジェラルド)がミドルネームで母方の姓から採られた。
Charlotte Elizabeth Diana(シャーロット・エリザベス・ダイアナ・オブ・ケンブリッジ王女)[注釈 2]
個人名のCharlotte(シャーロット)に続く、Elizabeth(エリザベス、曾祖母であるエリザベス2世のファーストネームから)、Diana(ダイアナ、祖母であるウェールズ公妃ダイアナのファーストネームから)がミドルネームである[2][3]。
スペイン
スペインでは数多くのミドルネームが付けられる。人名#スペイン語圏の名前を参照
日本
日本では、法律で認められていない。ただし、二重国籍を持つ者が日本以外の国に出生の届け出をした場合では、当該国においてミドルネームが認められる場合もあるが、日本における届出では、名の一部として扱われる。名前の文字数に制限はないため、ケンブリッジ飛鳥アントニオや、田中マルクス闘莉王などのように、ミドルネームを名前の一部として組み込んで、役所に出生届の申請することは可能である(出生届#出生届の姓と名)。
イメージ
イギリスのサウサンプトン大学とアイルランドのリムリック大学がおこなった研究によると、ミドルネームをもつ人は、賢いイメージをもたれる傾向があり、ミドルネームが多ければ多いほど賢そうと認識されることが明らかになった[4]。
注釈
出典
関連項目
諱
字
洗礼名
父称
ピカソ#名前
外部リンク
| 欧米姓名の由来
- ねとらぼ
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0 |
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普仏戦争(ふふつせんそう、、)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため<b data-parsoid='{"dsr":[2149,2159,3,3]}'>独仏戦争</b>とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争</b>と呼称する。なお、日本の世界史の教科書では<b data-parsoid='{"dsr":[2206,2224,3,3]}'>プロイセン=フランス戦争</b>と呼称する場合もある[1]。プロイセンは北ドイツ連邦と南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び圧勝した。
もともとスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が最高潮に達していたが、ドイツ首相ビスマルクはエムス電報事件でフランスとの対立を煽り開戦させた。フランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦はプロイセン側に立って参戦した。野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは、ドイツ国境に侵攻したフランス軍を叩きのめした。防戦一方となったフランス軍は9月2日にセダンの戦いで包囲に置かれ、10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世が降伏した。
第二帝政は終焉を迎えて第三共和政に移行した。新たに編成されたフランス軍も帝政時代と同じくプロイセン軍に一蹴され、5ヶ月間の北フランス攻撃を経て、1871年1月28日に首都パリを占領された。1871年5月10日、フランクフルト講和条約が締結され、正式にフランスはプロイセンに降伏した。
ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドが1817年に設立したロチルド・フレール(de Rothschild Frères ロスチャイルド兄弟とも)は、50億フランにのぼる賠償金を支払うためのシンジケートを組成した[2]。フランスはオスマン帝国に対する膨大な債権を回収してロチルドらに返済するつもりであったが、オスマン債務管理局の利権にドイツ帝国が割りこみ東方問題に佳境をもたらした。そして新たにカリブ海問題も生まれた。
背景
普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。こうして新たに強い勢力が生まれることは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1815年)で決められたヨーロッパのパワー・バランスが崩れることを意味していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した[3]。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。
次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。プロイセンが南ドイツ諸国を併合すれば、プロイセンの軍事力は強大化するため、フランスはプロイセンの南ドイツ併合に強く反対した[4]。
プロイセンでは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部諸国においてドイツ民族としてのナショナリズムを呼び覚ます必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠であると分析判断していた。この狙いはドイツ宰相ビスマルクの次の言葉によく表れている:「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」[5]。ビスマルクは、南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、それによってドイツ側の数的優位を確保するためには、フランスが侵略者と見なされねばならないこともよく認識していた。[6]また、多くのドイツ人は、歴史的にフランスがヨーロッパを不安定化させてきたと見なしており、平和を乱さないためにはフランスの力を弱める必要があると考えていた。[7]
これとは別に、戦争の直接的な要因は、1868年に混乱の末に空位となっていたスペインの王位にプロイセン王の親戚(ホーエンツォレルン家)レオポルトが推挙された事にある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。しかし、フランスとの開戦準備を進めていたプロイセン宰相ビスマルクは、この問題を煽ってフランス側から宣戦させることを狙って、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世からのフランスとの交渉報告電報を、“フランス大使の非礼な要求に立腹したプロイセン国王がフランス大使を強く追い返した”ように編集して、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌日7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。外交的な問題に加えて、ナポレオン3世と首相エミール・オリヴィエは国内的な政治問題を解決する必要性からも、宣戦の必要があると考えた[8]。
一方、南ドイツ諸国もフランスと同じように民衆がこの事件にナショナリズムを刺激され、直ちにプロイセン側に立った[6]。
フランスとプロイセンの軍事力
フランス軍は約40万人の常備兵で構成されており、その内の幾らかはクリミア戦争、アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争、メキシコ出兵などを経験した歴戦の古参兵たちであった。歩兵は、当時の世界で量産されていた火器としては最新式といえる後装式のシャスポー銃を装備していた。ガス漏れ防止ゴムリングと小さめの弾丸を採用したことにより、シャスポー銃の最大有効射程は約1500mであり、装填時間も短かった。砲兵は旋条を施した前装式のライット4砲(弾丸重量4kg)を装備していた。それに加えて、フランス軍は機関銃のさきがけともいえるミトラィユーズを装備していた。ミトラィユーズは大量の火力を集中できる強力な兵器であったが、射程が短い事と比較的機動性が低い事が弱点で、このため容易に撃破されがちだった。ミトラィユーズは砲架の上に取り付けられ、野砲と同じように砲兵隊の中に組み入れられた。フランス軍は名目的にはナポレオン3世がフランソワ・アシル・バゼーヌ、パトリス・ド・マクマオン、ルイ・ジュール・トロシュらの元帥とともに率いていた。
プロイセン軍は常備兵ではなく徴兵で構成されていた。兵役は兵役年齢の男子全員の義務とされ、これによりプロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は戦場に約120万人の兵士を動員可能であった。これだけの大兵力を使えることは、敵軍を包囲殲滅する上で有利であった。プロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで名声を得た「針打式」のドライゼ銃をいまだに装備していたが、この時点で既にドライゼ銃は設計から25年も経ったものであった。しかしながら、プロイセン軍の砲兵隊には鋼鉄製で後装式のクルップC-64野砲(弾丸重量3kg)が供給されており、これはドライゼ銃の不利を補って余りあるものがあった。亜鉛玉と爆発物を詰めた接触雷管(contact-detonator)式の弾丸を発射するクルップ砲は、射程距離4500mで、フランスの青銅製の前装砲と比べれば猛烈な発射速度を誇っていた。プロイセン軍はヘルムート・フォン・モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮した。プロイセン陸軍はその当時のヨーロッパで唯一の参謀本部を持つという点で独特であった。参謀本部の任務は、作戦行動を指揮をすること、兵站・通信を組織すること、および戦争全体の戦略を練ることであった。実務面でみても、プロイセン陸軍では他のどの国の陸軍よりも参謀長が重要な役割を担っており、参謀長は直接の上官と意見が異なる場合、その上の司令官へ直接上訴する権限を与えられていた。このため、例えば、プロイセン王太子も、彼の参謀長である少将の助言に反する行動をとることはできなかった。なぜなら、参謀長が(この場合は王太子の上官である)父・国王に直接上訴する事を恐れたからである。
フランスは既に強力な常備軍を備えている一方で、プロイセンと他のドイツ諸国は徴兵による軍隊を動員するために数週間はかかるであろうから、フランスは開戦当初においては兵力と実戦経験の面で優位に立っていた。フランスの戦術はシャスポー銃を使って塹壕戦を防御的に戦う事を重視していたが、ドイツ軍の戦術は包囲の形勢を作ることと、可能な限り常に砲兵を攻撃的に用いることを重視していた。
戦争全体の経過
この戦争を予測していたプロイセンは普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスはプロイセンに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。また北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。その他にも他国が介入しないよう、ロシア、オーストリア、イタリア、イギリスに事前に根回しをしていた。これに対しフランスはメキシコ帝国計画が失敗した際に、ハプスブルク家から迎えた皇帝マクシミリアンを見捨てて撤退したことでオーストリアから大きな恨みを買っており、支援を得られなかった。
周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。
プロイセン首相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていた。しかし、大モルトケと軍と世論のアルザス=ロレーヌ併合を求める強硬な反対にあった。また、フランスはオーストリアのように将来同盟国となる可能性は無く、統一ドイツ帝国が実現すれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。このためビスマルクはしぶしぶパリへの進撃を命じた。
戦争は続き、プロイセン軍は各地の要塞や残存部隊を包囲し各個撃破しつつパリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された。プロイセン軍は背後にあるメス(メッツ)要塞のバゼーヌ元帥指揮の軍団を警戒して一気に攻め込むことはしなかった。10月27日、メス要塞で大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
1871年1月5日、パリに砲撃開始。1月18日、パリ砲撃が続く中、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で新しく樹立されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。
1月28日、休戦協定が署名され、パリ陥落の屈辱とドイツ(プロイセン)に対する反発をフランス人に植えつけた戦争は終わった。
フランス軍の侵攻
攻勢準備
1870年7月28日、ナポレオン3世はメスに向けてパリを出発した。ナポレオン3世は新たに編成したライン軍の総司令官となった。ライン軍は兵力202,448人で、フランス軍の動員が進むにつれて兵力は更に増える予定であった[9]。マクマオン元帥は第1軍(4個歩兵師団)を率いてヴィサンブールへ、カンロベール元帥は第6軍(4個歩兵師団)を率いて北フランスのシャロン=アン=シャンパーニュへ向かった。第6軍は予備兵力の役割を担いつつ、ベルギーからのプロイセン軍の侵入を警戒する役割であった。
フランス側の戦争計画は、戦争前に故アドルフ・ニール元帥が描いたもので、ティオンヴィルからトリーアに向けて強力な攻勢に出て、そこからプロイセンのラインラントへ侵入するという計画であった。この計画は、防御的な作戦を志向するフロサール将軍(Charles Auguste Frossard)やルブラン将軍(Bartélemy Lebrun)らによって破棄された。彼らはライン軍をドイツ国境付近で防御態勢にして、プロイセンの攻勢を撃退する計画を考えていた。オーストリアはバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンとともにプロイセンへの(普墺戦争に対する)報復戦争に加わると見込まれるから、第1軍はプファルツ選帝侯領に侵攻し、そこから南ドイツ諸国を自由に通過させてもらいつつ、オーストリア・ハンガリー軍と協調して進撃し、第6軍は必要に応じていずれかの軍への増援に回すつもりであった。[10]
しかしながら、フロサール将軍の計画には早くもほころびが見え始めた。プロイセン軍の動員はフランス側の予測よりも遥かに急速に進んでいた。また、オーストリア・ハンガリー軍は普墺戦争においてプロイセン相手に敗北した痛手からまだ抜け出せておらず、南ドイツ諸国がフランス側に協力的な立場をとった場合にのみ参戦するという方針で、注意深く事態を見守っていた。結局、南ドイツ諸国がプロイセン側に立ち、フランスに対して軍を動員し始めたため、オーストリア・ハンガリーがフランス側に立って参戦する構想は実施されなかった[11]。
ザールブリュッケン占領
ナポレオン3世はモルトケの全軍の動員・配備が完了する前に攻勢を掛けるよう国内から大きな圧力を受けていた。フロサール将軍による偵察では、ライン軍のすぐ前方にある国境の町ザールブリュッケンを警備するプロイセン第16歩兵師団を確認したのみであり、このため、ライン軍はザールブリュッケンの占領を企図して7月31日ザール川に向けて進軍した[12]。
フロサール将軍の第2軍とバゼーヌ元帥の第3軍は8月2日ドイツとの国境を越え、ザールブリュッケンのプロイセン第16歩兵師団第40連隊に一連の直接攻撃を掛け始めた。ザールブリュッケン周辺での小競り合いでは、フランスのシャスポー銃がプロイセンのドライゼ銃に対して優位に立ち、フランスの小銃手は一様にプロイセンの小銃手の射程圏外から攻撃できた。しかしながら、プロイセン軍は頑強に抵抗し、両軍の損害はプロイセン軍83名に対してフランス軍86名であった。ザールブリュッケンは兵站の面でみても大きな障害であることが分かった。ザールブリュッケンからのびる鉄道だけがドイツの後背地域へと続いているが、ザールブリュッケンは一軍を以て容易に守備でき、かつまたこの地域で唯一の河川は国境に沿って流れている[13]。
この攻撃がラインラント、ひいてはベルリンへ向かう第一歩だ、とフランス本国で声高に叫ばれていたその頃、ルブーフ将軍(Le Bœuf)とナポレオン3世は、外国ニュースメディアからプロイセン軍とバイエルン軍がザールブリュッケンの南東方面に集結しており、さらに北方面や北東方面にも軍が集結しているとする警戒すべき報告を受け取っていた[14]。
実際にモルトケはそれら三つの地域に軍を集結させていた。すなわち、ザールルイに面する場所にカール・フォン・シュタインメッツ将軍率いるプロイセン第1軍5万人、フォルバックからスピシュランまでの線に面する場所にフリードリヒ・カール王子率いるプロイセン第2軍13万4000人、そしてフリードリヒ・ヴィルヘルム王太子率いるプロイセン第3軍12万人はヴィサンブールにて国境を越える用意を整えていた[15]。
プロイセン軍の進撃
ヴィサンブールの戦い
捕虜にしたプロイセン兵や地元警察署長からの聴取により、プロイセン王太子の第3軍がザールブリュッケンから僅か48km南方のヴィサンブール付近にいる事が分かり、ルブーフ将軍とナポレオン3世は防御的な位置まで退却する事を決めた。フロサール将軍はザールブリュッケンに進出していたライン軍の一部を独断でスピシャランとフォルバックまで急遽退却させた[16]。
この時点でヴィサンブールに最も近い位置にいたマクマオン元帥は、隷下の4個師団を約32kmに渡って散開させてプロイセン軍の侵攻を待つ形になった。これは補給の欠如によるもので、各師団と本来それらの師団を支援する筈である軍の補給部隊とが一緒になって基本的な物資を探して廻る有様だった。更に状況を悪化させたのはマクマオン軍の第1師団長デュクロ将軍(Auguste-Alexandre Ducrot)の言動であった。デュクロは8月1日、マクマオン軍の第2師団長アベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)に対して「私が得た情報では敵は前哨付近に大した兵力を置いておらず、攻勢に出る意思はないと思われる」と話した[17]。その2日後、デュクロはマクマオンに「敵の前哨一つすら発見できていない。(中略)ババリア人の脅しは単なるハッタリと思える」と述べた。デュクロはドイツ軍からの攻撃は無いと見ていたが、マクマオンはなおも他の各師団への警告に努めた。しかしその努力は実らなかった[18]。
普仏戦争における最初の戦闘は1870年8月4日に起きた。第1軍団のドゥエー将軍率いる第2師団と随伴する騎兵部隊は、支援のない状態で国境監視の配置についていたが、ドイツ第3軍から圧倒的ながら統制を欠いた攻撃を受けた。その日を通じて1個バイエルン軍団と2個プロイセン軍団からの部隊が戦闘に参加し、プロイセン軍の砲兵支援も加わってヴィサンブールの防御陣地に穴を開け始めた。シャスポー銃の正確な長射程の射撃のおかげで、ドゥエーは当初非常に頑強に陣地を保持したが、そのまま支え切るには部隊が薄く延び過ぎていた。ドゥエーは昼前に師団ミトラィユーズ隊の弾倉が近くで爆発して戦死した。プロイセン兵は市を包囲しつつあり、フランス軍は退路を脅かされた[19]。
ヴィサンブール市内での戦闘は極めて激化し、建物を一軒ずつ争う消耗戦となった。プロイセン歩兵の間断ない攻撃にもかかわらず、フランス第2師団は位置を変えなかった。ヴィサンブールの市民は最終的にドイツに降伏した。降伏しなかったフランス兵は死傷者1,000人と捕虜1,000人を残し、残りの弾薬全てを遺棄して西へ退却した[20]。プロイセン兵による最後の攻撃で更に約1,000人の損害が出た。ドイツ騎兵はその後フランス兵の追撃に失敗し接触を失った。攻撃側は優勢な初期兵力を広く展開して包囲を成功させるかに見えたが、フランス軍はシャスポー銃の威力で歩兵攻撃を撃退し続け、フランス歩兵がプロイセン砲兵の猛射を浴びるまで持ち堪えた[21]。
スピシャランの戦い
8月5日のスピシャランの戦いは、この戦争におけるフランスの3度にわたる決定的な敗北の中でも2番目に大きな敗北となった。モルトケは当初、ザール川のバゼーヌ元帥の軍に対して、第2軍で敵正面から、第1軍で敵左翼から攻撃しつつ、第3軍は敵後方に回り込んで退路を断つ形勢が出来上がるまで、バゼーヌ軍を現在の位置に止まらせておく計画だった。しかしながら、老将カール・フォン・シュタインメッツ将軍は、突出して予定外の行動をとり、守備配置についていたモゼルから第1軍を率いてまっすぐスピシャラン町へ向けて南へ進んだ。その過程で、フリードリヒ・カール王太子軍の本隊と、そこから前方展開している騎兵隊との間に割り込んでしまった。
フランス側では、ヴィサンブールでの損害を受けて作戦の練り直しが不可欠であった。ルブーフ将軍は怒りのあまり顔を紅潮させ、ザール川を越えて攻勢に出て損害を挽回する一念であった。しかしながら、軍監察官 Wolff 将軍がザール川を越えての補給は不可能だろうと言ったため、次の対決に向けた計画は、感情やプライドよりも、ようやく見え始めた現実に立脚したものとなった。従って、フランス軍は防御態勢をとることとなり、それはドイツ側からの攻撃が予想される地点を全て守ることとなったため、フランス軍の布陣は広がり、互いに連携しにくい状態のままであった[22]。
マクマオン元帥のフランス第1軍がドイツ第3軍とヴルトで戦っていたころ、フォン・シュタインメッツ将軍のドイツ第1軍はザールブリュッケンから西へ前進し終えた所であった。フリードリヒ・カール王太子のドイツ第2軍から出された斥候が、付近の「おとり射撃」につられて、遠くのスピシャラン町の南の台地の上にフロサール軍(フランス第2軍)を発見し、これをフロサール軍が退却しようとしていると受け取った。ここで再びモルトケの計画は無視されて、ドイツ第1軍と第2軍は、スピシャランとフォルバックの間にて防備を固めているフランス第2軍に攻撃を掛け始めた[23]。
戦闘の当初、フランス軍はドイツ軍の数的優位に気付いていなかった。なぜなら、ドイツ第2軍はそれまで総攻撃を行っていなかったからである。フロサールは接近して来るドイツ軍の攻撃を単なる小競り合いと考えており、他の部隊へ増援を要請しなかった。どれほどの規模の相手と戦っているのかをフロサールが認識した時には、時既に遅かった。予備戦力たるバゼーヌ軍とフロサール軍の間の通信はかなり断片的かつ遅くなり、予備戦力がスピシャランへの移動命令を受け取った頃には、既にドイツ第1軍と第2軍が台地に向かって突撃を仕掛けていた[24]。予備戦力が到着しなかったため、フロサールは、フォルバックで発見されたフォン・グルーメ(von Glume)将軍の部隊が自軍の側背に回り込みつつあり、自軍は重大な危機に瀕していると誤解した。フロサールは台地の防衛を放棄して、日没後に戦闘が終了するまでに南へ退却した。シャスポー銃の性能によりドイツ軍の損害はフランス軍より大きかったものの、翌朝に再び突撃を仕掛けたドイツ軍はそれまでの損害が無駄ではなかった事を知り驚喜した。フロサールは台地の陣地を放棄していたのである[25]。
ヴルトの戦い (フレッシュウィレルの戦い、レッシュショフェンの戦い)
マクマオン元帥のフランス第1軍と、プロイセン王太子のドイツ第3軍は、ヴィサンブールの戦いから2日後の1870年8月6日に、ヴィサンブールから16km未満の距離になる(Frœschwiller)町のヴルト付近で再び激突した。プロイセン王太子の第3軍は、参謀フォン・ブルーメンタール将軍の迅速な対応により、増援を受けて兵力は14万人に上っていた。フランス軍も増援を受けたが、フランス側の動員は遅く、フランス軍は僅か3万5千人に止まっていた。フランス側は数的に圧倒的に不利であったのだが、フレッシュウィレルのすぐ外側で防御配置に就いていた。午後までに、両軍ともに損害は約1万人を数え、フランス軍は抵抗を続けるのが難しくなった。更にフランス軍にとっては不利なことに、フランス軍防衛線中央の丘の上にあるフレッシュウィレルをドイツ軍が奪取してしまった。勝利の望みを失い、皆殺しに直面し、フランス軍は戦線を離脱し西に向かって撤退し、ヴォージュ山脈の反対側にいるフランス軍部隊に合流することを目指した。ドイツ第3軍は退却中のフランス軍を追撃しなかった。ドイツ第3軍はアルザスに残り、付近のフランス軍警備部隊を攻撃して撃破しつつ、ゆっくりと南へ進んだ。
ヴルトの戦いは普仏戦争で最初の大規模な戦闘であり、両軍合わせて10万人を超える兵力が激突した。また、この戦いは様々なドイツ諸邦(プロイセン、バーデン、バイエルン、ザクセンなど)が共同で戦った戦いの中でも最初の頃のものの一つでもある。これらの事実により、ヴルトの戦場を「ドイツの揺籃」と呼ぶ歴史家もいる。しかしながら、ドイツ側もこの戦いにおいて無傷というわけではなかった。たとえば、プロイセン軍の戦死傷者は10,500人であった。しかし、マクマオンの状況は更に悲惨であった。フランス軍の損害は19,200人が戦死・戦傷・捕虜となったのである[26]。
マルス・ラ・トゥールの戦い
プロイセン軍が猛進する一方で、13万人のフランス軍は前線で数回にわたって敗北を喫した後、メスの要塞に閉じ込められていた。シャロンにある友軍と連携するためにメスを離れようとするフランス軍の動きは、プロイセン軍のオスカー・フォン・ブルーメンタール(Oskar von Blumenthal)少佐指揮下の騎兵斥候により発見された。フランス軍の退却から4日後の8月16日、コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーベン(Konstantin von Alvensleben)将軍のプロイセン第2軍第III軍団3万人は、マルス・ラ・トゥール(Mars-La-Tour)東方のヴィオンヴィル(Vionville)付近でフランス軍を発見したものの、兵力ではかなり劣勢であった。
兵力は4対1であったが、第III軍団は冒険的な攻撃に打って出た。フランス軍は総崩れとなり、第III軍団はヴィオンヴィルを占領し、西へ向う退路を遮断した。メス要塞のフランス軍は退却を阻止され、血路を開くよりほかなくなった。ここに、西欧では最後となる大規模な騎兵戦を見る事となる。戦闘は直ぐに発生し、第III軍団は絶え間ない騎兵突撃を受け、兵の半数以上を失って粉砕されてしまった。一方のフランス軍も同程度の1万6千人の損害を受けたが、依然として圧倒的な数的優位に立っていた。
8月16日の時点ではフランス軍は要所のプロイセン軍の防衛を一掃して脱出できるチャンスがあった。フランス軍前衛を攻撃した2個プロイセン軍団は、これを退却中のムーズ(Meuse)のフランス軍の後衛だと考えていた。このような誤解があったものの、2個プロイセン軍団はフランス全軍を丸1日に亘って足止めした。兵力は5対1であったが、プロイセン軍の並外れた猛進が、フランス軍の優柔不断に打ち勝った。フランス軍は決定的な勝利を掴む機会を失ってしまった。
グラヴロットの戦い
グラヴロット(Gravelotte)の戦い(またはグラヴロット、サン=プリヴァ(Saint-Privat)の戦い)は、西へ退却しようとするフランス軍が阻止されたマルス・ラ・トゥールの戦いの翌日、メスの西方約10kmの所で起こった、普仏戦争で最大の戦闘である。
ヘルムート・フォン・モルトケ元帥が率いるドイツ連合軍は、北ドイツ連邦のプロイセン第1軍と第2軍で、その兵力は210個歩兵大隊、133個騎兵大隊、重砲732門よりなる将兵188,332名であった。フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥が率いるフランスのライン軍は、183個歩兵大隊、104個騎兵大隊、重砲520門よりなる将兵112,800名であり、南側のロゼリユ(Rozerieulles)町付近を左翼とし、北側のサン=プリヴァ(Saint-Privat)を右翼として、高地に沿って塹壕を掘って布陣していた。
8月18日午前8時、モルトケが第1軍、第2軍にフランス軍陣地への前進を命じて戦闘が始まった。12時までに、マンシュタイン(Manstein)将軍が第25師団の砲兵と共同してアマンヴィレー(Amanvillers)村の前で戦端を開いた。フランス軍は前夜から当日早朝にかけて塹壕と射撃壕の構築に時間を費やした一方、砲兵隊とミトラィユーズ隊は伏兵とした。最終的にフランス軍はプロイセン軍の前進に気付き、進軍中のドイツ軍の集団に対して猛烈な射撃を浴びせた。戦闘の初期の経過は、シャスポー銃の有利さを生かしたフランス軍優勢に見えた。しかしながら、全鋼鉄製のクルップ製後装砲を装備したプロイセン砲兵は優れていた。
14時30分までに、第1軍司令官のシュタインメッツ将軍は、マンス(Mance)渓谷を横切る形で第VIII軍団を一方的に前進させたが、フランス軍陣地からのシャスポー銃とミトラィユーズの射撃によって、プロイセン歩兵はすぐに渓谷の中で釘付けになってしまった。15時、攻撃を支援するためにドイツ軍第VII軍団、第VII軍団の大砲が砲撃を開始した。しかし、攻撃は立ち往生して危機に瀕しているため、シュタインメッツは第VII軍団に前進を命じ、更に第1騎兵師団もこれに続いた。
16時50分までに、プロイセン軍による南側での攻撃は頓挫の危機にあったため、プロイセン第2軍の第3近衛歩兵旅団が、カロンベール将軍指揮下のサン-プリヴァのフランス軍陣地に攻撃を開始した。17時15分、プロイセン第4近衛歩兵旅団が加わり、更に17時45分にはプロイセン第1近衛歩兵旅団も加わった。プロイセン近衛旅団の攻撃は全てフランス軍の射撃壕や塹壕からの猛烈な銃火によってその場に釘付けとなった。18時15分、プロイセン第1近衛歩兵師団の最後になる第2近衛歩兵旅団もサン-プリヴァ攻撃に加わることとなった。一方、シュタインメッツは第1軍予備の最後の部隊にマンス渓谷を横切る攻撃を命じた。18時30分までに、第VII軍団と第VIII軍団の相当部分が戦線離脱し、ルゾンヴィル(Rezonville)のプロイセン陣地に向けて退却した。
第1軍の敗退を受けて、フリードリヒ・カール王子は近衛師団の攻撃までも失敗することは避けるためにサン-プリヴァのカロンベールの陣地に対して大量の砲撃を命じた。19時までに第2軍第II軍団の第3師団(師団長 Eduard von Fransecky)は渓谷を横切って進撃する一方、第XII軍団は近在のランクール(Roncourt)町を掃討して、第1近衛歩兵師団の残存兵力と共に廃墟となったサン=プリヴァに勢いのある攻撃をかけた。20時、プロイセン第II軍団の第4歩兵師団が到着し、プロイセン右翼のマンス渓谷の戦線は膠着した。この時までに、プロイセン第1近衛歩兵師団、第XII軍団、第II軍団はサン-プリヴァを占領し、敗れたフランス軍は退却を余儀なくされた。プロイセン軍は戦闘で疲労困憊しており、フランス軍はここで反撃をかけることもできた。しかしながら、Charles Denis Bourbaki将軍はフランス軍古参近衛隊の予備に攻撃を命ずる事を拒んだ。なぜなら、この時までに彼は全般的な状況をみて「敗北した」と考えていたためである。
22時までに、戦場の銃火は夜に向けて静まっていった。翌朝、フランスのライン軍は、戦闘で弱ったプロイセン軍に対して攻撃を掛けて戦闘を再開するのではなく、メスへ退却した。その後、フランス軍はメスで包囲され、2ヶ月後に投降を余儀なくされることになる。
この戦闘での損害は、特に攻撃側のプロイセン軍で甚大であった。8月18日の戦闘で、合計20,163名のドイツ兵が戦死、戦傷、行方不明となった。フランス軍の損害は7,855名戦死傷、4,420名が捕虜となり(内半数は負傷していた)、合計で12,275名であった。大部分のプロイセン兵はフランス軍のシャスポー銃により斃され、大部分のフランス兵はプロイセンのクルップ砲により斃された。損害を細かくみると、フロサールのライン軍第II軍団は損害621名であった一方、シュタインメッツ指揮下のプロイセン第1軍にPointe du Jourの前で4,300名の損害を与えていた。プロイセン近衛歩兵師団の損害はさらに驚くべき数字で、18,000名の内の8,000名を失っている。特別近衛猟兵は700名の内、将校19名、下士官兵431の損害を受けた。第2近衛歩兵旅団は将校39名、下士官兵1076名。第3近衛歩兵旅団は将校36名、下士官兵1,060名。フランス側は、サン=プリヴァを守っていた部隊は同村内で半数以上を失っていた。
メス攻囲戦とセダンの戦い
バゼーヌ元帥のライン軍がグラヴロットで敗北し、メスへの退却を余儀なくされた。プロイセン第1軍および第2軍の15万人はメス要塞を包囲した。
グラヴロットでの敗北後、バゼーヌ元帥がメスに籠城した事を受け、ナポレオン3世はマクマオン元帥とともに新たにシャロン軍を編成し、バゼーヌ救援のためにメスへ進軍した。ナポレオン3世自身が軍を率い、マクマオン元帥が近侍するという体制で、二人でシャロン軍を率いて、まずはプロイセン軍を避けて北東のベルギー国境へ向って進軍し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から回り込み、バゼーヌ軍と共同でプロイセン軍を攻撃する計画であった。
ヘルムート・フォン・モルトケ元帥が指揮するプロイセン軍は、フランス軍のこの動きに付け込み、フランス軍を挟撃する策に出た。モルトケは、プロイセン第1軍と第2軍をメス攻囲戦に残した上で、そこから3個軍団を割いて、ザクセン王太子の下にムーズ軍を編成した。その上で、ムーズ軍とプロイセン第3軍は北へ向い、8月30日にボーモン(Beaumont)でフランス軍を捕捉した。激しい戦いののち、ドイツ軍は兵5,000人と砲40門を失い、フランス軍はセダン(Sedan)に退却した。シャロン軍はセダンの町で態勢を立て直したが、その後間もなく、集まってきたプロイセン軍によって孤立させられてしまった。ナポレオン3世は包囲を直ちに突破するよう軍に命じた。前日にはマクマオンが負傷しており、デュクロ(Auguste Ducrot)将軍が前線の指揮を執ることとなった。
1870年9月1日、シャロン軍(202個歩兵大隊、80個騎兵大隊、砲564門)は、包囲しているプロイセン第3軍およびムーズ軍(222個歩兵大隊、186個騎兵大隊、砲774門)に攻撃を開始し、戦闘が始まった。予備として待機していたフランス軍第V軍団司令官ド・ウィンフェン(Emmanuel Felix de Wimpffen)将軍はプロイセンXI軍団に対して歩兵・騎兵共同攻撃を行いたいと考えた。しかし11時までにはプロイセン砲兵がフランス軍に打撃を与えた一方、戦場には更に多くのプロイセン兵が到着した。Marguerite将軍が率いるフランス軍騎兵は、プロイセンXI軍団が集まっている近在のフロアン(Floing)村に対して3度にわたり決死攻撃を掛けた。Marguerite将軍は最初の突撃のごく初めごろに戦死し、その後2回の突撃は大損害を受けただけで得るところはなかった。
その日の終わりになっても脱出できる望みはなく、ナポレオン3世は攻撃をやめさせた。フランス軍は戦死傷者17,000名を失い、21,000名が捕虜となった。プロイセン軍は2,320名戦死、5,980名戦傷、700名が捕虜または行方不明と報告している。
翌日9月2日までに、ナポレオン3世は降伏し、104,000名の将兵と共に捕虜となった。これはプロイセン側の圧倒的勝利であった。プロイセン軍はシャロン軍全部を捕虜にしたばかりでなく、フランス皇帝までも捕虜にしたのである。スダンでのフランス敗北は、この戦争におけるプロイセン有利を決定づけた。フランス軍はバゼーヌ軍がメス市にて包囲されて動けなくなっており、それ以外にドイツの進撃を阻む軍隊はもはやフランスにはいなくなったのである。
その後、メスのバゼーヌ軍18万人は大した抵抗もできず10月27日に降伏した。これはフランスにとって大きな痛手となった。にもかかわらず、戦争は更に3ヶ月も続いていくこととなる。
国防政府
ナポレオン3世が捕虜になったニュースはパリに衝撃を与え、9月4日にルイ・ジュール・トロシュ(Louis Jules Trochu)将軍、ジュール・ファーヴル(Jules Favre)、レオン・ガンベタ(Leon Gambetta)らが仕掛けた無血クーデターが成功し、フランス第二帝政は打倒された。彼らはボナパルト派の第二帝政を退け、国防政府が率いる共和国を宣言した。これが将来の第三共和国につながっていく。ナポレオン3世はドイツへ連行され、その後解放された。彼はイギリスへ亡命し、1873年に死去した。
セダンでのドイツ勝利の後、ナポレオン3世の軍はドイツに降伏して皇帝自身が捕虜となった。バゼーヌ元帥の軍はメスで包囲されて動けなくなっており、残っているフランス軍部隊の大部分は戦闘に参加していない。この状況を受けて、ドイツ側としては交戦状態を公式に終わらせて休戦し、更に講和につなげる道筋を望んだ。特にプロイセン宰相ビスマルクは、可能な限り早く戦争を終わらせたかった。多くの国と接するプロイセンのような国にとって、戦争が長引くという事は、他の勢力からの干渉を受ける危険性が増す事を意味する。ビスマルクは、その危険を最小限にすると固く決心していた。
当初、和平への道筋は明るいと考えられていた。ドイツ側は、フランス新政府は自分たちの手で倒した前皇帝の始めた戦争を続けることに興味はないだろうと推測していた。和平の道を探るため、フォン・ビスマルクはフランス新政府をフェリエール城(Château de Ferrières)で開かれた交渉に招き、穏当な講和条件のリストを示した。それにはアルザスにおける限定的な領土要求も含まれていた。プファルツ州のライン川沿いの国境争いは1840年からなされていたが(アドルフ・ティエール、ライン危機)、ドイツ人はライン川の両岸を守ると神に誓っていた(ラインの守り)。プロイセンは最近カトリック人口の多い広範囲の地域を獲得したため、更なる拡張は望ましくないとビスマルクは考えていた。
休戦拒否、交戦継続
共和国政府は、賠償金支払いや、アフリカまたは東南アジアの植民地をプロイセンに割譲する案も検討できたのだが、9月6日、ジュール・ファーブルは国防政府を代表して、フランスは「領土1インチたりとも、要塞の一石たりとも、譲り渡しはしない」と宣言した[28]。そして、共和国は改めて宣戦し、全国で兵を徴募し、敵軍をフランスから追い出す事を公約とした。
これらの状況の下で、ドイツ軍は戦争を継続せねばならなくなった。とはいえ、ドイツ軍周辺でこれといった軍事的抵抗は確認されなかった。残っているフランス軍はパリ付近で塹壕を掘って布陣しているため、ドイツ軍の指導部はパリを攻撃して圧力を掛けることを決めた。9月15日までに、ドイツ軍は堅固な要塞と化したパリ市街の郊外に到着した。9月19日、ドイツ軍はパリを包囲し、障害物を構築してパリを封鎖した。これは継続中のメス攻囲戦と同じ戦法である。
普仏戦争の開戦当初は、ヨーロッパの公論はかなりドイツ寄りであった。例えば、多くのイタリア人がフィレンツェのプロイセン大使館に来て志願兵に申し込もうとしたし、プロイセンの外交官はカプレーラ島にジュゼッペ・ガリバルディを訪ねもした。ところが、フランス帝政が倒れて共和国政府が成立し、ビスマルクがアルザス返還を要求すると、イタリア世論は劇的に変化した。その最たる例は、パリ革命直後のガリバルディの反応であろう。彼は1870年9月7日のジェノヴァの「Movimento」において、次のように言った「昨日までは、私は君たちにこう言った:『ボナパルトを倒す戦争だ』と。しかし今日は君たちにこう言おう:『フランス共和国を、あらゆる手段を尽くして救おうではないか』」[29]。その後、ガリバルディはフランスへ赴き、ヴォージュ軍の指揮を執ることになる。
パリ攻囲戦
パリ攻囲戦 (1870–71)(1870年9月19日〜1871年1月28日)は普仏戦争におけるフランス陸軍の最終的敗北を決定づけた戦いである。パリ攻囲戦期間中の1月18日には、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言された。
ドイツ軍によるパリ包囲に直面して、フランス政府はフランス各地で幾つかの軍を編成するよう命じた。新しく編成された軍はパリに向けて進撃して、様々な方向から同時にドイツ軍を攻撃する企図であった。更に武装したフランス市民は、ドイツ軍の補給線を攻撃するために、いわゆる「Francs-tireurs」(「自由射手」)というゲリラ部隊を作った。
こうした状況の進展を受けて、ドイツ国内ではパリ市街への砲撃を求める世論が高まった。しかしながら、パリ攻囲戦を指揮していた少将は道義的な立場から、パリ市街の砲撃には反対であった。この点については、王太子やモルトケなど、軍の最高指導者たちからの賛同も得られていた。
しかしながら、ビスマルクらからの圧力により、最終的にパリ砲撃は実施された。
ロワール方面の戦い
共和国政府の密使としてパリから急派されたレオン・ガンベタは、市内のガス業者の石炭ガスで膨らませた熱気球に乗ってドイツ軍の防御線の上を飛び越し、新しいフランス軍の徴兵を組織した。
ドイツ軍の「皆殺し」計画についての真偽不明のニュースがフランス人を激昂させ、それによってフランス市民は新政府への支援を強め、数週間のうちに総兵力50万人以上の5個軍が新設された。
こうした動きにドイツ側も気付き、新しいフランス軍がパリ攻囲戦やその他の場所で大きな脅威となる前に発見、攻撃、分散させるため、幾らかの部隊をフランス各地へ派遣した。ドイツ軍はフランス全土を占領する用意はできていなかった。もしフランス全土を占領するとなれば、軍の配置が広がりすぎる。そうなれば1864年と1866年に戦って勝利したデンマークやオーストリアに対する備えが手薄になる。
10月10日、オルレアン付近でドイツ軍とフランス共和国軍の間の戦闘が起こった。当初はドイツ軍が勝利したが、フランス軍が援軍を送り込み、11月9日のクルミエの戦いでドイツ軍を破った。しかし、メス攻囲戦においてフランス軍が降伏した後、実戦経験のある10万人以上のドイツ軍精鋭部隊がドイツ軍の「南方軍」に加わった。この結果、フランス軍は12月4日にオルレアンを放棄せざるを得なくなり、最終的にル・マンの戦い(1月10〜12日)においてフランス軍は敗北した。
パリの北方で作戦しているフランス第2軍はアミアンの戦い(1870年11月27日)、バポームの戦い(1871年1月3日)、サン・カンタンの戦い(1月13日)と転戦した。
北部方面の戦い
ロワール軍の敗北を受けて、ガンベタはルイ・フェデルブ(Louis Leon Cesar Faidherbe)将軍の北方軍に救いを求めた。北方軍はアム(Ham)、La Hallue、アミアンなどで小規模な勝利を挙げていた。フェデルブ軍の部隊は北部フランスの要塞帯に拠ってうまく守りを固めていたため、孤立したプロイセン部隊に対して素早く攻撃を掛け、速やかに要塞帯の後方に退く戦法が可能となっていた。
北部軍は、武器工場群があるリールとの連絡は付いていたものの補給にかなり苦しんでおり、兵の士気は上がりにくかった。1871年1月、ガンベタはフェデルブ将軍に命じて、要塞帯を越えて軍を進め、野戦でプロイセン軍と交戦する事を強要した。軍は既に士気も低く、補給の問題、そして極寒の気象、兵の質が低いことにも苦しめられていた一方、フェデルブ将軍も西アフリカ以来数十年にわたる転戦の結果、自身の健康状態が悪化しており有効な陣頭指揮が出来なくなっていた。
サン・カンタンの戦いにおいて、フランス北方軍は大敗を喫して四散し、数万のプロイセン軍が東部方面に向うのを許す結果となった。
東部方面の戦い
ロワール方面のフランス軍壊滅の後、ロワール軍の敗残兵はフランス東部に集結して東方軍を編成し、シャルル・ブルバキ(Charles Denis Bourbaki)将軍がこれを率いた。フランス北東部のドイツ軍補給線を断つ最後の試みにおいて、ブルバキ軍は北へ進軍してベルフォールを包囲しているプロイセン軍を攻撃し、友軍を救出しようとした。
リゼーヌ(Lisaine)の戦いにおいて、ブルバキ軍の部隊はアウグスト・フォン・ヴェーダー(August von Werder)将軍が指揮するドイツ軍防御線の突破に失敗した。更にエドヴィン・フォン・マントイフェル将軍のドイツ「南方軍」も加わって、ブルバキ軍をスイス国境付近の山地まで追い詰めた。全滅の危機に瀕したブルバキ軍は国境を越えてスイスに入り、ポンタルリエ(Pontarlier)付近で中立国スイスの手により武装解除され捕虜となった。
休戦
1871年1月18日、パリに本拠を置く国防政府はプロイセンと休戦交渉を行った。パリの食糧が欠乏し[31]、ガンベタの地方軍は度重なる敗戦で浮足立っている状況を受けて、1月24日フランス外相ジュール・ファーブルはビスマルクと講和条件を議論するためにヴェルサイユに赴いた。また、ナポレオン三世の愛人であったヴィルジニア・オルドイーニ[32]がビスマルクと会見し、プロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得した。
ビスマルクは、国防政府がパリ郊外の幾つかの主要な要塞をプロイセン軍に明け渡すという条件の下で、直ちにパリ包囲を中止し、食糧(ドイツ軍の兵糧数百万食も含む)を搬入することに合意した。これらの要塞がなければ、フランス軍はもはやパリを防衛することはできない。パリの世論はプロイセンに対するいかなる形の開城にも譲歩にも強く反対していたが、国防政府の認識では、譲歩せずに戦争を続けた所でパリ陥落はもはや時間の問題であり、ガンベタの地方軍もドイツ軍を突破してパリを救うことはほぼ不可能であろうという認識であった。1月25日、ジュール・トロシュ首相は辞任して、ジュール・ファーブルがその後任となり、その2日後ファーブル首相はヴェルサイユにて降伏文書に署名し、翌午前0時に休戦が発効した。幾つかの情報源によれば、ファーブルはパリに戻る移動の途中で涙を流し、彼の娘の腕の中に泣き崩れたという。そして真夜中、パリ周辺の銃声は止んだ。
1月30日、ガンベタはトゥールでパリからの通信を受け取り、政府が降伏したと知らされた。彼は怒り狂って降伏を拒否し、直ちにオルレアンのドイツ軍に攻撃を開始した。その攻撃は、予想されていたとおり、失敗した。2月5日、パリの外交部の代理人がガンベタと討議するためにトゥールに到着し、翌日ガンベタは辞任して地方軍の指揮権を国防政府に返し、国防政府は直ちにフランス全土での休戦を命じた。
フランスとプロイセンの海軍の活動
普仏戦争開戦に際して、フランス政府は海軍に北ドイツ沿岸の海上封鎖を命じた。北ドイツ連邦海軍(Norddeutsche Bundesmarine)は比較的小規模で、有効な反撃はできなかった。にもかかわらず、パリの作戦部門の決定的な不手際により、海上封鎖は部分的にしか成功しなかった。戦争勃発に備えて戦闘準備を整えているはずの徴募兵はニューファンドランドの漁業やスコットランドにおいて活用されていたため、兵力が少なかった。このため、470隻のフランス海軍のごく一部だけが1870年7月22日に出港した。間もなく、フランス海軍は石炭不足に苦しむようになった。ヴィルヘルムスハーフェン封鎖の失敗、そしてバルト海へ進出するか否か、またはフランスに戻るかについて命令が混乱したことなどから、フランス海軍の活動は効果が挙がらなかった。[33]
アルザス=ロレーヌ地方に対して想定されるドイツ軍の攻撃の圧力を緩和するため、ナポレオン3世らフランス軍指導部は開戦劈頭にドイツ北部に上陸作戦を行うことを計画した。これにより、ドイツ軍部隊を前線から逸らすばかりでなく、デンマークを刺激することにより、5万人のデンマーク陸軍と実力あるデンマーク海軍の支援を取り付けることも期待していた。しかしながら、少し前にプロイセンが手強い防御施設を北ドイツの主要港の周囲に設置していたことが分かった。それにはクルップ重砲による沿岸砲も含まれており、3700メートルの距離からフランス軍艦を砲撃出来る。フランス海軍はこれらの沿岸防御に対抗するために必要な重砲を備えていなかったことに加えて、プロイセンの海岸(ワッデン海)は上陸作戦の難しい干潟であるため、北ドイツへの上陸作戦は不可能であった。[34]
北ドイツへの侵攻に当たる予定だったフランス海兵隊(Troupes de marine)および海軍陸戦隊は、結局シャロンのフランス陸軍の梃入れに回され、スダンの戦いでナポレオン3世と共に捕虜になった。メス攻囲戦とスダンの戦いにおいて、フランス陸軍の職業軍人の殆どが捕虜になり、陸軍将校がかなり不足したため、海軍士官が船を下りて陸に上がり、慌ただしく召集された「Garde Mobile」やフランス陸軍予備役部隊の将校に任命された[35]。
北海の秋の嵐によって、警備のために残っていたフランス海軍の艦艇も大きな被害を受け、海上封鎖の効果は日に日に薄れていった。1870年9月までに海上封鎖は最終的に放棄され、冬の間は全く行われず、フランス海軍はイギリス海峡沿岸の港まで退却し、戦争終結まで港内に停泊し続けた[35]。
フランス軍艦とドイツ軍艦の交戦は他の海域で散発的に発生した。例えば、日本の長崎でフランス海軍のデュプレクスがドイツ海軍の「ヘルタ(Hertha)」を海上封鎖した[36]。また、1870年11月のハバナの戦いではキューバのハバナ沖でプロイセンの「メテオール(Meteor)」とフランスの「ブーヴェ(Bouvet)」が砲艦同士の戦闘となった[37]。
ドイツの勝因
ドイツがフランスに対して短期間で勝利を収めたことに、他の国々は度肝を抜かれた。多くの国がフランスの勝利を予測しており、殆どの国は少なくとも長期戦になるだろうと予測していた。ドイツ側の有していた戦略的優位性は、戦争が終結するまでその真価がドイツ以外では認識されていなかったのである。
他の国々はドイツがその軍事制度によって優位に立ったことをすぐに認識し、ドイツの革新的な軍事制度、中でも特に参謀幕僚制、国民皆兵、そして高度に精緻化した動員システムなど多くを採用した[38]。
参謀幕僚制
モルトケが作り出したプロイセン参謀本部は、伝統的なフランス式軍制と比べて非常に有効であることが証明された。これは主に、プロイセン参謀本部は以前のプロイセン軍の作戦を研究し、過去の失敗から学ぶために作られたためである。また、広大な範囲に広がった大きな陣形を統御するモルトケの能力によって組織機構は大いに強化された[39]。参謀総長は事実上のプロイセン陸軍総司令官であり、国防大臣から独立し、国王の命令のみに服した[40]。フランスの参謀本部は、他の欧州諸国の軍と同様に、部隊指揮官の補佐役の集団より若干ましという程度のものであった。こうした無秩序な状態は、フランス軍指揮官が自らの部隊を制御する能力を阻害していた[41]。
それに加えて、プロイセンの軍事教育制度はフランス式よりも優れていた。プロイセンの参謀将校は、自ら率先し、独立して考えるよう訓練されていた。それこそが正にモルトケの求める参謀であった[42]。一方、フランス軍では、教育制度と昇進制度において、知性の発達を窒息させるような欠点を持っていた。軍事史家Dallas Irvineによれば、その制度は「陸軍の頭脳能力を参謀や高級将校から排除する上で、ほぼ完璧な有効性を持っていた。フランスの軍事政策における数々の弁解不能な欠陥は、すべてその制度の結果として生じたトップの思考力の欠如に帰する事が出来る。」[40]
国民皆兵
1859年から1873年までプロイセン国防大臣を務めたアルブレヒト・フォン・ローンは、1860年代にプロイセン軍制に一連の改革を実施した。その中でも二つの大きな改革によってドイツの実質的な軍事力が増加した。第一の改革は正規軍と予備役のラントヴェーアを統合する陸軍再編であった[43]。第二の改革は、動員令を発した場合は兵役年齢に達したプロイセン人男性全員を徴兵する備えである[44]。これにより、フランスの人口は参戦した全ドイツ諸邦を合わせた人口よりも多かったのであるが、ドイツ軍はフランス軍よりも多くの兵士を戦闘に動員したのである。
動員制度
普仏戦争勃発時、462,000人のドイツ軍が完璧にフランスの前線に送り込まれた一方、フランス軍は270,000人しか前線に送り込めなかった。フランス軍では、ずさんな計画と管理のために、まだ一発の銃弾も発射されない内から、既に100,000人の兵を活用できない状態になっていた[45]。その理由の一部は平時の軍の編制にある。プロイセン軍の各軍団は「クライス」(Kreis。文字通り訳すと「円」)内の主要都市周辺に基地があり、連隊基地へ行くのに1日以上旅行せねばならない場所に住んでいる予備役兵はほとんどいなかった。対して、フランス軍の平時における最大の集合単位を「連隊」とし駐屯地を二年ごとに移動していた。これは革命が相次ぎ、軍が反乱軍となるのを恐れた帝国政府が軍を民衆をから隔離しようとしたためだった。従って連隊は自らの兵を徴募する地域には駐屯していなかった。このため応召兵はまず数日旅行して所属連隊の補給処に出頭して、それから更に長旅を経て所属連隊の駐屯地へ向わなければならないということがしばしばあった。鉄道駅は多くの応召兵で埋め尽くされ、無為に軍糧と命令を待つばかりであった[46]。
こうした平時の編制の違いが、戦争前の準備の違いによって更に際立たせられた。プロイセン参謀本部は、鉄道網を活用した分刻みの動員計画を用意しており、しかもその鉄道網の一部は参謀本部鉄道課の勧告に従って敷設されたものであった。一方、フランスの鉄道網は、複数の民間鉄道事業者が競争する中で、純粋に商業的な理由により敷設され発展してきたもので、アルザス=ロレーヌの前線に向かう移動は、多くの場合、大幅な迂回や頻繁な乗り換えを必要とした。更に、軍が列車を統制する仕組みが全くなく、将校が適当だと考えた列車を単純に徴用して使っていた。操車場は兵を載せた貨車で埋め尽くされて身動きが取れなくなり、兵を下車させたり、正しい目的地へ出発させたりする事について責任を負う者は誰もいなかった[47]。
フランスの外交的孤立
普墺戦争終結後、プロイセンはドイツ南部諸国と攻守同盟を結んだ。エムス電報事件の結果フランスがプロイセンへ宣戦したため、ドイツ南部諸国は盟約に基づいてプロイセン側に立って参戦する理由が生じた。更に、エムス電報事件はドイツ民族としてのナショナリズムを刺激した。南ドイツ諸国でもプロイセン側に味方すべきとの世論が高まった。結果として、南ドイツ諸国は速やかにプロイセン側に立って参戦した。
オーストリア=ハンガリー帝国やデンマークは、数年前にプロイセン相手に敗戦したことに対して復讐したいと考えてはいたが、フランスを信用できないことや、ドイツ南部諸国が早々にプロイセン側に立って参戦したこともあって、結局両国とも不干渉の立場を取った。
また、ナポレオン3世はロシア帝国やイギリス帝国との同盟を深めることにも失敗した。その一部はプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの外交的努力の成果でもあった。結果的にフランスは単独でドイツ諸邦と戦うこととなった。
武器
フランス軍の後装式小銃であるシャスポー銃の射程は1,500メートルで、ドイツ軍の「針打式」のドライゼ銃の射程550メートルを遥かに上回っていた。また、フランス軍は機関銃式の兵器、ミトラィユーズも保有していた。ミトラィユーズは25本の銃身で射程約1,800メートルで射撃できた。しかしながら、ミトラィユーズは極秘に開発され、それを使用した訓練も全く実施されないほどであったため、フランス軍の銃手たちはミトラィユーズを戦闘で実戦的に使用した経験が全くなかった。そのため、ミトラィユーズは大砲の一種のように扱われたが、大砲の役割で使うにはミトラィユーズは有効ではなかった。フランス軍は青銅製で旋条を施した前装式の大砲を装備していた一方、プロイセン軍は最新式の鋼鉄製で後装式の大砲を使用していた。後装式は前装式よりも遥かに射程が長く、またより速く発射する事ができた。[48]。
影響
普仏戦争の講和条約は、1871年2月に仮条約がヴェルサイユで結ばれ、1871年5月10日のフランクフルト条約で正式に調印された。これによりフランスは東部のドイツ系住民居住地域であるアルザス=ロレーヌ地方3県を失い(1919年までドイツ帝国直轄領エルザス=ロートリンゲン州)、50億フランの賠償金の支払いを義務付けられた。またフランス領内に進駐していたプロイセン軍は1873年9月まで駐留することが決定された。
普仏戦争の後、列強の一つ、統一ドイツ帝国が誕生することになる。戦後の国際外交はビスマルクの思惑通り進み、1873年、ドイツ帝国はロシア、オーストリア両帝国と三帝同盟を結ぶなど、フランスの外交的孤立化が進んだ。また戦争の余波で、ローマ教皇領はフランスからの軍事的保護を失い、普仏戦争中の1870年9月20日、イタリア王国軍によって占領された。
この戦争によりヨーロッパ大陸部におけるフランス優位は崩れ、ドイツはヨーロッパの覇権を目指して邁進することになる。そして、次にヨーロッパを中心に行われた戦争は、世界を一変させることになる1914年に開戦した第一次世界大戦である。
プロイセンの対応と撤退
2月17日にプロイセン軍がパリで簡素な戦勝パレードを行った後、ビスマルクは休戦を履行して食糧の貨物列車をパリに送り、プロイセン軍はパリ市の東へ退いた。プロイセン軍はフランスが50億フランの戦争賠償金の支払いに同意すれば直ちに撤退することになっていた[49]。それと同時に、プロイセン軍はフランスから撤退してアルザス=ロレーヌ地方に集結した。主に中間層の約20万人の市民がパリを離れて地方へ向う大移住が起こった。
敗戦に対するフランスの対応
国防政府の下で実施された国民議会選挙の結果、きわめて保守的な政府が出来上がった。パリの政治風潮が首都を設置するには危険すぎたため、国民議会により選出されたアドルフ・ティエール大統領の下で、政府はヴェルサイユに設置された。この新政府は主に保守的な中流階級の地方政治家で構成されており、パリ市民を激怒させる様々な法律を通過させた。たとえば、異論の多かった「満期法」では、1870年9月以降延期されてきたパリ市内の賃料と、1870年11月以降支払い猶予されてきたフランス全国の全ての公債は、48時間以内に全額利息付きで返済せねばならないと命じた。パリは不相応に巨額の賠償金をプロイセンに支払う重荷を背負っているため、パリ市民は程なくしてヴェルサイユ政府に憤慨するようになった。パリは革命主義的な国民衛兵と、市内の幾らかの正規兵で防衛されている中、左翼のリーダーたちはパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)に拠点を構えてパリ・コミューンを設置した。ヴェルサイユ政府はパリ・コミューンを鎮圧し、2万人の死者が出て、パリ市街の一部が焼失した。
フランスの小説家ギ・ド・モーパッサンは当時20歳で国民遊撃隊員だった。彼は後にこの戦争を題材にした小説『脂肪の塊』を発表する。
フランクフルト講和条約は、ドイツにストラスブール、メス要塞を渡す事に加え、アルザスおよびロレーヌ北部(モゼル県)をドイツ領土とし、両方(特にアルザス)ともにドイツ系住民が多数派の地域で、フランスの鉄鉱山の80%と機械工場群を含んでいた。この地域を失った事は、フランスの怨恨の源泉としてあり続け、第一次世界大戦に際してアルザス=ロレーヌを奪還するかどうかの国民投票を行ったフランスでは国民の支持につながった。こうした「Revanchism」(復讐主義)がドイツとフランスの間の緊張を永続的なものとし、それも第一次世界大戦に寄与した要因の一つとなった。
戦後、地方レベルで戦争記念を行う動きが広がった。戦争で亡くなった人々を偲んで戦争記念碑がフランス各地に建立された。マルス・ラ・トゥール(Mars-la-Tour)、バゼイユ(Bazeilles)、ベルフォール(Belfort)の戦争記念碑が著名である。[50]
1890年代、この戦争の影響から発展してドレフュス事件が起こった。フランスの軍事防諜機関の情報員によって、パリのドイツ大使館のゴミ箱の中からフランスの軍事機密が発見され、アルザス生まれでユダヤ人のフランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがこの事件の犯人に仕立て上げられ、反逆罪により終身禁固刑を宣告された。彼は最終的に無実を晴らして1900年に釈放された。
パリ・コミューン
パリ・コミューンは、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配した政権である。3月28日にパリ・コミューンが宣言されたが、プロイセンの支援を得たヴェルサイユ政府軍により5月28日に鎮圧された。パリ・コミューンはフランス敗戦後のパリにおける決起の結果として成立した。この決起は主に戦災とフランス労働者の間の不満が鬱積した結果であった。産業革命時代で労働者階級が初めて政権を取った事例と認められている。
ドイツ統一
統一ドイツ帝国の成立により、ナポレオン戦争後のウィーン会議で決められた「パワー・バランス」は終わりを告げた。ドイツは世界最強の常備陸軍を備えたヨーロッパ大陸の主要強国として急速に台頭し、脅威とみなされて敵視されるようになった。当時の世界では大英帝国が世界最強の地位を保っていたが、19世紀後半のイギリスはヨーロッパ大陸の問題にはあまり関わらなかったので、ドイツはヨーロッパ大陸において大きな影響力をふるう事が出来た。その影響力がヨーロッパ大陸から海外へと拡大し、イギリスの国益に抵触し始めたことも、第一次世界大戦の一因となった。
なお、当時のイギリスのハノーヴァー朝はもともとドイツ貴族の家系であったが、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家との関係はフリードリヒ大王の時代以降はほぼなく、ヴィクトリア女王の長女ヴィッキーと、プロイセンのフリードリヒ王太子の結婚だけが顕著なものであった。そして両者の子ヴィルヘルム2世は、独英が全面対決する第一次世界大戦とドイツ帝国終焉の当事者となる。
軍事思想への影響
普仏戦争での出来事はその後の40年間の軍事思想に多大な影響を与えた。この戦争から引き出された戦訓としては、参謀幕僚制の必要性、将来の戦争の規模や期間の見通し、砲兵や騎兵の戦術的使用などがあげられる。
国民皆兵制を採ったプロイセンが圧勝したことにより、他国も国民皆兵に追従することとなる。日本やロシアも普仏戦争の結果を見て国民皆兵制を採用した。
プロイセン軍は、遠距離でまずフランス軍砲兵を沈黙させ、その上で近距離でも歩兵攻撃を直接支援するため、砲兵を積極的に使用した。この用兵はフランス軍砲兵が採用していた防御的な用兵に比べて優れていたことが結果的に証明された。
プロイセン軍の戦術は(第一次世界大戦の勃発した)1914年までにはヨーロッパ各国の陸軍で採用された。たとえばフランスのM1897 75mm野砲は前進する歩兵を直接火力支援するために最適化された大砲である。1904〜1905年の日露戦争において、新しい無煙火薬を採用した小銃を装備した歩兵は砲兵に対して有効に戦えるという証拠があったが、多くのヨーロッパ諸国の陸軍はそれを無視していた。小銃の射程距離が伸びたことにより、砲兵はより遠距離から間接射撃を行わざるをえず、隠れた地点から間接射撃を行うのが普通になっていった。[51]
#マルス・ラ・トゥールの戦いにおいて、フォン・ブレドウ(Adalbert von Bredow)将軍が指揮するプロイセン軍第12騎兵旅団は、フランス軍砲列に対して突撃を行った。この攻撃は大損害を出しつつも成功したため、「フォン・ブレドウの決死の騎行」(von Bredow's Death Ride)として知られるようになり、戦場で騎兵突撃がなお優勢であることを示す事例とされた。しかし、第一次大戦の1914年の戦場では、伝統的な騎兵の使用は大損害を受けるだけであることが証明された。これは、小銃・機関銃・大砲の射撃が正確になり、なおかつ射程距離も伸びたためである。[52]
フォン・ブレドウの攻撃は、突撃の直前に非常に有効な味方の砲撃があり、なおかつ、地形のおかげで敵に気付かれずに接近できたために成功しただけであった。[53][52]
脚注
参考文献
Taithe, Bertrand. Citizenship and Wars: France in Turmoil 1870–1871. Routledge, 2001.
フランスとドイツの研究書
Audoin-Rouzeau, Stéphane, 1870: La France dans la guerre (Paris: Armand Colin, 1989).
Baumont, Maurice, Gloires et tragédies de la IIIe République (Hachette, 1956).
Förster, Stig, ed., Moltke: Vom Kabinettskrieg zum Volkskrieg: Eine Werkauswahl (Bonn: Bouvier Verlag, 1992).
Helmert, Heinz and Usczeck, Hansjürgen, Preussischdeutsche Kriege von 1864 bis 1871: Militärischer Verlauf (Berlin: Militärverlag der Deutschen Demokratischen Republik, 1967).
Mehrkens, Heidi, Statuswechsel: Kriegserfahrung und nationale Wahrnehmung im Deutsch-Französischen Krieg 1870/71 (Essen: Klartext, 2008).
関連項目
プロイセン参謀本部
最後の授業
普仏戦争におけるベルギー
外部リンク
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సరోజినీ నాయుడు (ఫిబ్రవరి 13, 1879 - మార్చి 2, 1949) భారత కోకిల (నైటింగేల్ ఆఫ్ ఇండియా) గా ప్రసిద్ధి చెందిన ఈమె స్వాతంత్ర్య సమరయోధురాలు మరియు కవయిత్రి [1]. సరోజినీ దేవి 1925డిసెంబరులో కానుపూరులో జరిగిన అఖిల భారత జాతీయ కాంగ్రెస్ మహాసభలకి తొలి మహిళా అధ్యక్షురాలు మరియు స్వతంత్ర భారతదేశపు తొలి మహిళా గవర్నరు కూడా.
బాల్యము
ఈ దేశం బానిస తనం నుంచీ, నియంతృత్వ సంకెళ్ళ నుంచీ విముక్తి పొంది నాది, నేను అన్న భావంతో అఖిల భారత ప్రజానీకం స్వేచ్ఛా, స్వాత్రంత్ర్యాలతో జీవించాలన్నదే వారి మహత్తర ఆశయం. అటువంటి పూజనీయులైన పురుషులే కాక, భారత మహిళలు ఏ రంగంలోనూ, తీసిపోరని నిరూపించిన వీర మహిళలు మన దేశంలో చాలా మంది పుట్టారు. అటువంటి వారిలో శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు కూడా ఒకరు. సరోజిని నాయుడు మంచి రచయిత్రి. పద్య రచయిత.
ఈమె క్రీ.శ. 1879 వ సంవత్సరం పిబ్రవరి నెల 13 వ తేదీన హైదరాబాద్లో జన్మించారు. వీరిది బెంగాలీ బ్రాహ్మణ కుటుంబం. ఈమె తండ్రి డా. అఘోరనాథ్ చటోపాద్యాయా, తల్లి శ్రీమతి వరద సుందరి[2]. అఘోరనాథ్ చటోపాథ్యాయగారు హైదరాబాదు కాలేజికి, (అనగా నేటి నిజాం కాలేజీ) మొట్టమొదటి ప్రధానోపాధ్యాయుడిగా పనిచేసారు. తల్లి వరదాదేవి చక్కని రచయిత్రి. చిన్నతనం నుంచీ ఆమె బెంగాలీ భాషలో చక్కని కావ్యాలు, కథలు వ్రాయడం జరిగింది.
తండ్రి గారైన అఘోరనాథ్ చటోపాధ్యాయ ఎనిమిది భాషలలో పండితుడు. సంస్కృతం, బెంగాలీ, ఉర్దూ, గ్రీకు, జర్మనీ, హిబ్రూ, ఫ్రెంచ్, ఆంగ్లం మొదలైన భాషలు ఆయనకు అనర్గళంగా వచ్చు. వీరు ఎడింబరో విశ్వవిద్యాలయంలో డాక్టరు పట్టాను పొందటం జరిగింది.
శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు సద్ వంశంలో జన్మించటం వలనా, తల్లి దండ్రులు విద్యాధికులవటం వలన, ఆమెలో చిన్నతనం నుంచే కార్యదీక్షా, పట్టుదలా, విద్యపై తిరుగులేని సదభిప్రాయాలు ఏర్పడటం జరిగింది. ఏది చూసినా ఎవరి మాటలు విన్నా పట్టించు కోకుండా తమ ఆలోచనల్లో తాముంటారు చాలా మంది. కొందరు ఆ విధంగా కాక బాల్యం నుంచి ప్రతి విషయం లోనూ కుతూహలం కనబరచి ఏది, ఏమిటో తెలుసుకొనే వరకూ విశ్రమించరు కొందరు. రెండవ కోవకు చెందిన మేధావి శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు.
చిన్నతనం నుంచీ ఆమెకు ఇంగ్లీషు భాషమీద చాలా మక్కువ ఉండేది. ఇంగ్లీషు మాట్లాడాలని ఆమె ఎంతగానో ప్రయత్నిస్తూండేది. ఆ పట్టుదలా, ధ్యేయాలతోనే ఇంగ్లీషు భాషను ఎంతో శ్రద్ధగా అభ్యసించింది. పదకొండో సంవత్సరం వచ్చేసరికి ఆమె అనర్గళంగా ఇంగ్లీషు మాట్లాడి అందరినీ ఆశ్చర్య చకితుల్ని చేసింది. ఆ వయసులోనే ఇంగ్లీషులో రచనలు ఆరంభించింది కూడా!
ఆమె పన్నెండవ ఏట మదరాసు విశ్వవిద్యాలయం మెట్రిక్యులేషన్ పూర్తి చేయగలిగిందంటే ఆమె చురుకైన తెలివితేటలూ, విద్య యందు ఆమెకు గల భక్తి భావం మనం అర్థం చేసుకోవచ్చు. చాలా మంది విద్యార్థులు నిత్యం పాఠశాలలకు వెళుతూ, విద్య యందు దృష్టి నుంచక, గురువులు చెప్పే పాఠాలు, కాలక్షేపానికి భావిస్తూ, గురువులను సాటి విద్యార్థులనూ ఆవహేళన చేస్తూ కాలం విలువ తెలియక ప్రవర్తించి, జీవితంలో అడుగు పెట్టి సాధక, బాధకాలు ఎదురయ్యాక వృధా చేసిన కాలం గురించి బాధపడుతుంటారు. అటువంటి వారందరికీ శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు నిజంగా ఆదర్శమూర్తి.భారత దేశ మొదటి మహిళా గవర్నరుగా సరోజిని నాయుడు చరిత్రకెక్కారు.
==గోల్డెన్ త్రెషోల్డ్==sarojini naidu
ఇది శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడుగారి హైదరాబాదు నివాస గృహం. హైదరాబాదు నడి బొడ్డున, నాంపల్లి రైల్వే స్టేషనుకు సమీపంలో వున్న ఈ చారిత్రాత్మక బంగళాలో వారి తండ్రి గారైన అఘోరనాథ్ చటోపాధ్యాయ నివాసముండేవారు. దీనిని సరోజినీ నాయుడుగారి తదనంతరం వారి ప్రసిద్ధ కవితా సంకలనమైన గోల్డెన్ త్రెషోల్డ్గా పేరు మార్చి గుర్తించసాగారు.
==ఉన్నత చదువుకు విదేశ యానం==sarojini naidu
సరోజినీ పదమూడవ యేట చాలా పెద్ద రచన రచించింది. దానిపేరు సరోవరరాణి (Lady of Lake). అది పదమూడు వందల పంక్తులతో నిండిన అతి చక్కని రచన. తాను చెప్పదలచుకున్న విషయము ఇతరుల హృదయాలకు హత్తుకుని ఆలోచింపజేసేవిధంగా కమ్మని శైలిలో చిన్న తనం నాడె రచనలు ప్రారంభించిన ఆమెలోని ప్రత్యేకతలు గ్రహించిన నిజాంనవాబు ఆమె యందు గల అభిమానంతో ఆమెను విదేశాలకు పంపాలని నిర్ణయించుకుని, ఆమె వివిధ శాస్త్రాలలో పరిశోధన చేసేందుకు ప్రోత్సాహమిస్తూ ఆమెకు ప్రతి సంవత్సరం నాలుగువేల రెండు వందల రూపాయలు విద్యార్థి వేతనంగా ఇచ్చేందుకు కూడా అంగీకరించాడు.
నిజాంనవాబు ప్రోత్సాహం దొరికేసరికి, ఆమెకు చదువుమీదనున్న ఆసక్తి గ్రహించిన తల్లి దండ్రులు ఆమెను విదేశాలకు పంపారు. సరోజినీ లండన్ కింగ్స్ కాలేజీ లోను కేంబ్రిడ్జ్ విశ్వవిద్యాలయ అధ్వర్యంలోని గిర్టన్ కాలేజిలోనూ విద్యాధ్యయనం చేసింది. ఈవిడ రాసిన కవితలను చదివి, ఇంగ్లాండ్ లోని ఆంగ్ల భాషా విమర్శకులు ‘ఆర్థర్ సైమన్స్’, ఎడ్వర్ గూస్ లు అభినందించారు. పాశ్చాత్య విధ్వాంసులను చాలా మందిని కలసి వారికి గల పాండిత్యాన్ని ఆకళింపు చేసుకుని వారితో స్నేహ సంబంధాలు పెంచుకుని వారి సలహాలపై, ఇంగ్లీషులో అతి చక్కని గ్రంథాలు వ్రాసింది.
ఆమె రచించిన కావ్యాలలో "కాలవిహంగం" (Bird of time), "స్వర్గ ద్వారం" (the Golden Threshold), విరిగిన రెక్కలు (the broken wings) అనేవి చాలా ప్రసిద్ధమైనవి. ఆమె ఇంగ్లాండులో నివసిస్తూ రచనలు సాగించినా వాటిలో భారతీయ జీవితాలు ప్రతిబింబించేటట్లు చేయడం మన జాతి ప్రత్యేకతలు. అందులో చొప్పించి కథా విధానం నడిపించడం విశేషం.
వివాహము-కుటుంబ బాధ్యతలు
1898 వ సంవత్సరం విదేశాలలో విద్య పూర్తి చేసుకుని భారతదేశం తిరిగి వచ్చాక, ఆమె శ్రీ ముత్యాల గోవిందరాజులు నాయుడు గారిని పెండ్లాడటం జరిగింది. ముత్యాల గోవిందరాజులు నాయుడు అప్పటి హైదరాబాద్ ప్రధాన ఔషధారోగ్యాధికారి. కులం మతమూ అనే మూఢవిశ్వాసాలంటే శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడికి చిన్నతనం నుంచే ఏవగింపు. ఈ కుల, మతము లేకమై జాతి జీవనంపై గొడ్డలి పెట్టు పెడుతూ, వర్గ భేదాన్ని సృష్టించి ధనవంతులు, నిరుపేదలు, బలవంతులు, బలహీనులు అంటూ జాతిని వేర్పాటు ధోరణికి బలి చేస్తుందనీ, కుల మతాతీత భావాలతో పెరిగే ప్రజానీకం మాత్రమే సమ సమాజ స్థాపన చెయ్యగలరనీ ఆమె అభిప్రాయం.
ఆమె అదే అభిప్రాయంతో శ్రీ ముత్యాల గోవిందరాజులు నాయుడు తన కులము కాకపోయినా భారతీయ మహిళా లోకానికి ఆదర్శము కావాలన్న అభిప్రాయంతో ఆనాడే వర్ణాంతర వివాహం చేసుకుంది. ప్రముఖ సంఘ సంస్కర్త శ్రీ కందుకూరి వీరేశలింగం పంతులుగారు వీరి వివాహం జరిపించారు. ఆమె చేసిన పనికి ఎన్నో విమర్శలు ఎదుర్కోవలసి వచ్చినా మానవ జీవిత మనుగడకు మనసూ, మానవతా ముఖ్యం కాని, అర్థం లేని గ్రుడ్డి నమ్మకాలను ప్రోత్సహించి జాతిని పతనము చేసే కులము కాదని ఆమె నిరూపించగలిగింది. తనూ, తన భర్త, ఆచార వ్యవహారాలు భిన్నమైన కులాలైనా మనసున్న మనుషులుగా సంస్కార వంతులుగా నియమబద్దమైన జీవితం సాగించసాగారు. స్త్రీ పురుషులు ఒకరినొకరు అర్థం చేసుకుని సంసారము దిద్దుకోగలిగితే కులము గొడవ ఏదీ లేదనై మిగిలిన సమాజానికి నిరూపించారు.
శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు గోవిందరాజులు నాయుడు గార్ల దాంపత్య చిహ్నంగా వారికి ఒక కుమారుడూ, ఇద్దరు కుమార్తెలు కలిగారు. కుమారుడు ముత్యాల జయసూర్య నాయుడు ప్రముఖ హోమియోపతీ వైద్యుడు, స్వాతంత్ర్య సమరయోధుడు మరియు హైదరాబాదుకు చెందిన రాజకీయ నాయకుడు. వీరి కుమార్తెలలో ఒకరైన పద్మజా నాయుడు బెంగాల్ గవర్నర్గా పనిచేశారు కూడా[3].
వివాహమై బిడ్డలు పుట్టినా, ఆమె కేవలం తన సంతోషం తన పిల్ల సుఖమె ఆలోచించలేదు. ఆనాడు భారతదేశము బ్రిటిష్ వారి పాలనలో శాంతి, స్వేచ్ఛ స్వాతంత్య్రాలు లేక, ప్రతిక్షణం బ్రిటిష్ వారి దౌర్దన్యాలకు గురవుతూ బాల్య జీవితాలు గడుపుతున్నారు. ఎందరో నాయకులు దేశము నాలుగు మూలల నుండి ప్రజల్లో స్పాతంత్ర్య భావాలు రేకెత్తించాలని ఉద్యమాలు సాగిస్తున్నారు. భారతీయులలో విప్లవ భావాలు తలెత్తడము సహించలేకపోయింది బ్రిటిష్ ప్రభుత్వం. గంగిరెద్దుల్లా వారు చెప్పిన దానికల్లా తలలూపుతూ మన సంపదనంతా వారికి నచ్చ చెప్పి మనము చెప్పు క్రింద తేళ్ళ మాదిరిగా జీవిస్తూ పర ప్రభుత్వానికి నివాళులివ్వాలని వారి అభిప్రాయం. అఖిల భారత జాతీయ కాంగ్రెస్ సంస్థ ఆ రోజులలో గోపాల కృష్ణగోఖలే నాయకత్వంలో ఉద్యమాలు సాగిస్తోంది.
రాజకీయ రంగ ప్రవేశం
వీరు మహిళాభివృద్దికి ఎంతో కృషిచేసి 1906లో మహిళలకు విద్య అవసరమని దేశమంతా ఎన్నో మహిళా సమావేశాలు ఏర్పరచి మహిళల్లో చైతన్యం తీసుకురావడానికి ఎంతో పాటు పడ్డారు. స్వాతంత్ర్య సాధనలో తనూ పాలుపంచుకోవాలని ఆలోచించిన శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు కాంగ్రెస్ జాతీయ భావాలకు అనుగుణంగా నడుచుకోనారంభించింది. 1915 వ సంవత్సరం బొంబాయిలో జరిగిన కాంగ్రెస్ మహాసభ లకూ, 1916 లో జరిగిన లక్నో కాంగ్రెస్ సభలలో ఆమె పాల్గొనటం జరిగింది[4]. ఆనాటి కాంగ్రెస్ భావాలు చాలా ఆదర్శంగా ఉండేవి. సరోజినీనాయుడు భారతదేశములో గల ముఖ్యమైన, నగర, పట్టణాలు తిరుగుతూ స్వాతంత్ర్యోద్యమ ఉపన్యాసాలిచ్చి, ప్రజలతో భాష విప్లవము వచ్చేందుకు కారకురాలయినది. మృదువుగా మాట్లాడుతూ, ఎంత కఠినమైన విషయాలైనా, శ్రోతల గుండెలను హత్తుకుని మరుగున ఉన్న యదార్థ స్థితిని అర్థమయ్యే విధంగా ఆమె గంభీరమైన ఉపన్యాసం శ్రోతలకు కాలం, శ్రమ తెలియనిచ్చేవి కావు[5].
ప్రభుత్వానికి ఎదురు తిరిగి తూటా దెబ్బలకో, చీకటి కొట్లకో బలయ్యేబదులు ఈ బానిస బ్రతుకే నయమనుకుని సర్దుకుపొయ్యె అమాయక ప్రజానీకములో ఆమె ఉపన్యాసాలు దేశభక్తిని నూరి పోసి చావుకు కూడా భయపడని తెగింపును తేగలిగాయి. "జాతి వేరనీ, దేశం వేరనీ, నువ్వు వేరనీ విడిగా ఉండకు, నీకు జరిగితే దేశానికి జరిగినట్టే, దేశం అనుభవించే బానిసతనం నీవూ అనుభవించవలసినదే" అంటూ దేశమంతా తిరిగి దేశభక్తిని నూరిపోసించా వీరతిలకం.
ఈ విశ్రాంతి లేని ప్రయాణాలతోనూ, ఉపన్యాసాలతోనూ ఆమె ఆరోగ్యం పాడైంది. 1919 సంవత్సరంలో పంజాబ్ లోని జలియన్ వాల బాగ్లో హత్యా కాండ బరిగింది. ఆ సమయానికి సరోజినీనాయుడు లండన్ నగరంలో చికిత్స పొందుతోంది. అప్పటి పంజాబ్ గవర్నరైన డయ్యర్ లక్షలాది ప్రాణాలను తుపాకి గుండ్లకు బలిచేసి దారుణంగా హింసించి, చంపిన విషయం ఆమె లండన్ నగరంలో విన్నది. ఆమె గుండె ఆ వార్తకు నీరయిపోయింది. అప్పటికే ఆమె గుండె జబ్బుతో ఉన్నదని బాగా ముదిరిపోయినదని చెప్పారు వైద్యులు. అయినా చనిపోయే ప్రతి భారతీయుని భయంకరమైన కేకలు ఆమె చెవుల్లో గింగురుమన్నాయి. ఆమె గుండె జబ్బుకాక చనిపోయిన వారి భార్యలు, కుమార్తెలు ముమారుల గుండెలు పగిలే శోకాలు తలుచుకొని ఆ కరుణామూర్తి చలించిపోయింది.
ఆ పరిస్థితిలో తను ఉండి కూడా ఆరోగ్యాన్ని ఏ మాత్రం లెక్క చేయక చిశాచి పంజాబ్ గవర్నర్ డయ్యర్ మీద ఆందోళన లేవదీసింది. గాంధీజీకి పంజాబ్ దారుణము గురించి ఉత్తరము వ్రాస్తూ, యావత్ ప్రపంచ భారతీయులకు డయ్యర్ ద్వారా జరిగిన ఘోరాన్ని వినిపించనిదే నిద్రపోననీ వారి రాక్షస కృత్యాలకు బదులుగా భారతదేశం నుంచి వారిని తరిమి కొట్టి, భారతీయుల స్వేచ్ఛ చూడనిదే, భరతమాత ఆత్మ శాంతించదని తన సందేశము ద్వారా తెలియపరిచింది.
శాసన ధిక్కారం
సరోజిని లండన్ నగరము నుంచి బయలుదేరి సముద్ర మార్గం గుండా ప్రయాణించి, భారతదేశములో ఓడ దిగటం తోటే శాసన ధిక్కారం అమలు పరిచింది. స్వాతంత్ర్యోద్యమ చరిత్రల పుస్తకాలను అమ్మకూడదని, బ్రిటిష్ ప్రభుత్వం ఆజ్ఞలు జారీ చేసింది. ఆ ఆజ్ఞలు ఫలితంగా చాలా పుస్తకాలను అమ్మటం మానేశారు. గాంధీజీ సలహాపైన ఆ పుస్తకాలన్నింటినీ ప్రతివీధిలోనూ అమ్మి ప్రభుత్వ శాసన ధిక్కారం జరిపింది సరోజినీనాయుడు.
భారతదేశం పైనా, భారతీయుల పట్ల ఆమెకున్న ప్రేమ, వాత్సల్యం ఆమె సొంత ఆరోగ్య విషయం కూడా మరచిపొయ్యె విధంగా చేశాయంటే ఆమె దేశభక్తిని, త్యాగనిరతిని మనం అర్థం చేసుకోవచ్చు. ఆ సమయంలోనె ఒక బహిరంగ సభలో ఉపన్యసిస్తూ, బ్రిటిషు పాలకులు భారతదేశాన్ని స్వంతంగా భావించడమే అపరాధం. భారతీయుల హక్కుల గురించి బానిసలుగా చేసి వారి ప్రాణాలు సైతం బలి తీసుకోవటం క్షమించరాని అపరాధం" అంటూ ఆడపులిలా గర్జించింది.
లండన్ కామన్స్ సభలోని భారత దేశ మంత్రి ఆమె చేస్తున్న తిరుగు బాటు ధాటికి చలించిపోయ్యాడు. ఆమె ఉపన్యాసాలు, ఉద్వేగం సక్రమమైనవి కావనీ, ఇకపై అటువంటి ప్రచారం చెయ్య వద్దనీ, బ్రిటిష్ ప్రభుత్వం ఆమెపై తీవ్రమైన ఒత్తిడి తెచ్చింది. తనకే రకమైన శిక్ష విధించినా యధార్థాన్ని ప్రచారం చేయక మాననని నిర్భయంగా సమాధానం చెప్పింది సరోజినీ నాయుడు.
ఒక భారత స్త్రీకి దేశంపై గల ప్రేమనూ, ఆమెకు గల స్వాతంత్ర్య పిపాసనూ అర్థం చేసుకుని అప్పటి నాయకుడైన గాంధీజీ ఆనందానికి అంతులేకుండాపోయింది. ఆయన రాజద్రోహము, నేరము క్రింద ఆరేండ్లు జైలు శిక్ష ననుభవించేందుకు వెళుతూ సరోజినీనాయుడు పై గల విశ్వాసంతో, ఉద్యమనాయకత్వం ఆమెకు అప్పగించి చేతిలో చేయి వేసుకున్నారు.
ఊరూరా, వాడవాడలా తిరుగుతు స్వాతంత్ర్య ప్రభోదం ముమ్మరంగా సాగించింది. అప్పటికే ఆమె ఆరోగ్యం అంతంత మాత్రంగా ఉంది. తన భర్త బిడ్డల యోగక్షేమాలు కూడా మాని సాటి భారతీయులంతా బిడ్డల మాదిరిభావింది పర్యటన సాగించిందా త్యాగమూర్తి. విరామ సమయాలలో దేశ ప్రజల భవిష్యత్ ను గురించి బ్రిటిష్ వారి ఘోర పరిపాలన గురించి రచనలు చేస్తూనె ఉంది. ఎక్కదున్నా, ఏదో ఒక రకంగా దేశ ప్రజలకు స్వాతంత్ర్య ప్రభోదాలు అందజేస్తూనే ఉందావిడ.
పురోగతినీ, స్వచ్ఛమైన స్వేచ్ఛా, స్వాతంత్ర్య జీవితాలను వాంఛించిన పురుష కవి రవీంద్రనాథ్ ఠాగూర్ మాదిరిగా స్త్రీయై ఉండి కూడా జాతి విమోచనానికి శాయశక్తులా అహోరాత్రులు కృషి చేసిన త్యాగ పూరిత కవయిత్రి శ్రీమతి సరోజినీనాయుడనటంలో యే మాత్రము సందేహం లేదు.
విదేశీ పయనం
దక్షిణాఫ్రికాలో భారతీయులు అనుభవిస్తున్న దుర్భర బానిసత్వాన్ని అర్థం చేసుకొని అక్కది వారి హక్కులకోసం పోరాడేందుకు 1926 వ సంవత్సరం శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు దక్షిణాఫ్రికా వెళ్ళి వారికెంతో సేవ చేసింది. ఆమె దేశానికి చేసిన సేవల ఫలితంగా, ఆమెకు దేశంపై గల నిష్కళంక ప్రేమ ఫలితంగా కాన్పూర్ లో 1925 లో జరిగిన జాతీయ కాంగ్రెస్ మహాసభకు అధ్యక్షురాలైంది[6][7]. "పీడిత ప్రజల విమోచనానికి జాతి, మత, కులపమైన భెదాలు ఇనిప సంకెళ్ళన్నీ, భారతీయులంతా ఒక్కటేనని, స్త్రీ పురుష భేదములేకుండ త్యాగం చేస్తె గానీ, జాతి బానిసత్వం నుంచి విమోచన పొందదని, అవసరమైతే ప్రాణత్యాగాల కైనా వెనుకాడవద్దనీ, బానిస భావంతో తరతరాలు మ్రగ్గిపోతూ బ్రతికే కంటే త్యాగంతో ఒక తరం అంతరించి భావితరాలు వారికి స్వేచ్ఛను ప్రసాదించటం జాతీయ సంస్థ లక్ష్యమనీ!" మహోపన్యాసం యిచ్చి లక్షలాది ప్రజలను స్వాతంత్ర్య పిపాసులుగా తయారుచేసింది.
కెనడా, అమెరికా మొదలైన దేశాలకు 1928 లో వెళ్ళి భారతీయుల బానిసత్వాన్ని గురించీ వీరి ఆశయాల గురించీ ప్రచారం చేసింది. 1929 లో తూర్పు ఆఫ్రికా అంతా ప్రచారము చేస్తూ పర్యటించింది. గాంధీజీ అరెస్టయినది మొదలు విశ్రాంతి అనే మాటకు తావివ్వకుండా దేశ, దేశాలు పర్యటిస్తూ పీడిత భారత ప్రజల విముక్తికి ఆమె ప్రయత్నాలు చేస్తూనే ఉంది.
ఒక భారతీయ మహిళ చేస్తున్న ఉద్యమ ప్రచారనికి బ్రిటిష్ ప్రభుత్వం బెంబేలెత్తిపోయింది. ఆమెను స్వేచ్ఛగా తిరగనీయడం తనకూ, తన దగాకోరు పరిపాలనకూ తగదని తలంచి 1930 వ సంవత్సరం మే 23 వతేదీన శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడును అరెస్టు చేసింది. అరెష్టయినందుకు గానీ, జైలు జీవితం అనుభవించేందుకు గానీ ఆమె ఏ మాత్రం భయపడలేదు. అవసరమైతే ప్రాణాలే ధార పోయాలని నిశ్చయించుకున్న దేశభక్తురాలికి ఏడెనిమిది నెలల జైలు జీవితం మొకలెక్కా, సమర్థురాలైన నాయకురాలిని. నిస్వార్థ దేశభక్తురాలిని అరెష్టు చేశారని విని గాంధీజీ ఎంతో బాధపడ్డాడు.
తను జైల్లో ఉన్నా అటువంటి ప్రచారకులు చీకటిలో ఉండటం వలన ప్రచారం ముమ్మరంగా సాగే అవకాశాలు లోపించగలవని ఆయన బాధ.
భారతీయ ప్రతినిధిగా 1931 వ సంవత్సరంలో లండన్ రౌండ్ టేబిల్ కాన్ఫరెన్స్కు వెళ్ళింది సరోజినీ నాయుడు. క్విట్ ఇండియా ఉద్యమంలో 1942 లో బ్రిటిష్ ప్రభుత్వాన్నెదిరించి ఎన్నో రకాలుగా స్వాతంత్ర్య పోరాటం సాగించిందామె. అందుకు ఫలితంగా అరెష్టు చేయబడి, దాదాపు 1945 వరకు దుర్బర కారాగారవాస జీవితం నవ్వుతూ అనుభవించింది. అనారోగ్యంగా ఉన్న కారణంగా ఆమెను విడుదల చెయ్యవలసి వచ్చింది.
యు.పి.గవర్నర్ గా
ఎందరో మహానుభావుల అచంచల దేశభక్తి, ఎడతెగని ఉద్యమ ప్రచారాల మూలంగా, 1947, ఆగస్టు 15 వ తేదీన మనం స్వాతంత్ర్యం సాధించగలిగాము. శ్రీమతి సరోజినీనాయుడు దేశానికి చేసిన సేవలు దృష్టిలో ఉంచుకుని ఆమెకు ఉత్తర ప్రదేశ్కు గవర్నర్ పదవి యిచ్చి సత్కరించడం జరిగినది[8][9]. వృద్దాప్యంలో, అనారోగ్యంతో ఉండి కూడా ఆమె ఉత్తరప్రదేశ్ కు చేసిన సేవ, కార్యదక్షత ఎన్నటికీ మరపురానివి.
అంతిమ సందేశం
తనే దేశం, దేశమే తనుగా భావించి దేశ సేవ చేసిన అభేద భావాల మూర్తి రాజకీయ, సాంఘిక, సాంస్కృతిక, సాహిత్య రంగాలలో రకరకాలుగా సేవలు చేసి మానవ సేవ చేయదలుచుకున్న వారికి మార్గాలనేకం అని నిరూపించిన మహితాన్వితురాలు. జీవితమంతా మానవ సేవకు, దేశసేవకూ అంకితము చేసి తన డబ్బై వ యేట 1949 మార్చి 2 వ తేదీన లక్నోలో ప్రశాంతంగా కన్ను మూసింది.
జీవిత విశేషాలు
సరోజినీ. పన్నెండో ఏట మద్రాస్ యూనివర్సిటీ మెట్రిక్యులేషన్ పరీక్షలో ప్రథమురాలిగా నిలిచి పలువురి ప్రశంసలందుకుంది ఈమె 13సంవత్సరంలోనే ది లేడి ఆఫ్ ద లేక్ పేరున 1300 పంక్తుల కవితను ఆరు రోజల్లో రాసింది.సరోజినీ దేవి చటోపాధ్యాయ హైదరాబాదులో ఒక బెంగాలీ బ్రాహ్మణ కుటుంబములో జన్మించింది. ఈమె తండ్రి అఘోరనాథ్ చటోపాధ్యాయతూర్పు బెంగాల్ కి చెందిన గొప్పవిద్యావేత్త మరియు డా.ఆఫ్ సైన్శ్ డిగ్రీని పొందిన మొదటి భారతీయుడు.నిజాం కాలేజీ స్థాపకుడు, శాస్త్రవేత్త మరియు తత్వవేత్త. తల్లి బరదా సుందరి దేవి ఒక కవయిత్రి.సరోజినీ నాయుడు1930లో ఉప్పు సత్యాగ్రహంలో మహాత్మాగాంధీతో పాటు పాల్గొన్నది.ఆమె మద్రాసులో చదువుకున్నది.చదువు పూర్తయిన తర్వాత 19 సంవత్సరాల వయసులో ఆయనను కులాంతర వివాహము చేసుకున్నది. కులాంతర వివాహములకు సమాజము చాలా వ్యతిరేకముగా ఉన్న ఆ రోజుల్లో సరోజిని గోవిందరాజులు నాయుడును బ్రహ్మో వివాహ చట్టము (1872) ప్రకారము 1898 డిసెంబర్ 2న మద్రాసులో పెళ్ళి చేసుకున్నది. వీరి వివాహాన్ని కందుకూరి వీరేశలింగం పంతులు జరిపించారు. నాయుడు దంపతులకు నలుగురు పిల్లలు కలిగారు: జయసూర్య, పద్మజ, రణధీర మరియు లీలామణి.
ఆమె మొదటి1905లొ కవిత్వం గోల్డెన్ త్రెషోల్డ్</i>ఇంగ్లీషులో కవిత్వం రాసింది.తద్వారా నైటింగేల్ ఆఫ్ ఇండియాగా ప్రపంచపు ప్రఖ్యాత గడించింది.తర్వాత ది బర్ద్ ఆఫ్ టైం, ది బ్రోకెన్ వింగ్, పాలంక్వైన్ బేరర్స్ ఆమె కవితల్లో కొన్ని.
హైదరాబాదు లోని గోల్డెన్ త్రెషోల్డ్ అనేపేరుతో గల ఆమె ఇంటిలో హైదరాబాద్ యూనివర్సిటీని నెలకొల్పారు.
బెంగాలీయుల ఆడపడుచు, తెలుగు వారి కోడలు.. శ్రీమతి సరోజినీ నాయుడు. అఘోరనాథ్ ఛటోపాధ్యాయ, వరద సుందరీ దంపతులకు 1879 ఫిబ్రవరి 13న వారి ప్రథమ సంతానంగా జన్మించారు.
సరోజిని కవితలని చదివి, మెట్రిక్యులేషన్లో మొదటి స్థానాన్ని తెచ్చుకున్న ఆమె ప్రతిభని గుర్తించిన హైద్రాబాద్ నిజామ్ ప్రభువు విదేశాల్లో చదువుకి ఉపకార వేతనం ఇచ్చారు. కానీ అనారోగ్య కారణంగా రెండు సంవత్సరాలు విశ్రాంతి తీసుకోవలసి వచ్చింది. ఆ రెండు సంవత్సరాలు పుస్తక పఠనంలోనే గడిపి అపారమైన జ్ఞ్నానాన్ని సముపార్జించారు.
ఆ కాలంలోనే పదహారేళ్ళ వయసులో సరోజినీ ఛటోపాద్యాయ పై చదువులకు లండన్ ప్రయాణమై వెళ్ళారు.
లండన్లోనే ప్రముఖ కవులైన ఎడ్మండ్ గాస్, ఆర్థర్ సైమన్ల పరిచయం కలిగింది.
సరోజిని వ్రాసిన "ది బర్డ్ ఆఫ్ టైమ్" కవితా సంకలం పరిచయ వాక్యాలలో ఎడ్మండ్ గాస్ వెలిబుచ్చిన భావాలు, ఆయన మాటల్లోనే..
సరోజిని. మొదటి కవితా సంకలనం, "ది గోల్డెన్ త్రెష్ హోల్డ్" ౧౯౦౫ లో ప్రచురించారు. తనకి మార్గదర్శి అయిన ఎడ్మండ్ గాస్కి ఆ సంకలనాన్ని అంకితమిచ్చారు సరోజిని. దానికి పరిచయ వాక్యాలు ఆర్థర్ సైమన్ రాశారు.
కవికోకిల కవితలలో గేయాలు, గీతాలు, పద్యాలు ఉన్నాయి. ఆవిడ ప్రథమ కవితా సంకలనం "గోల్డెన్ త్రెష్ హోల్డ్"లో మూడు ప్రక్రియలూ ఉన్నాయి. ఆ సంకలనం రూపొందడానికి ఆర్థర్ సైమన్ ముఖ్య కారకులు.
1908లో మూసీనదికి వరదలు సంభవించిన సమయంలో చేపట్టిన సేవాకార్యక్రమానికి బ్రిటీష్ ప్రభుత్వం ‘‘కైజార్ ఎ హిందూ’’ స్వర్ణ పతకాన్ని బహుకరించింది.
ఆర్థర్ సైమన్ ప్రోత్సాహంతో మొదటి కవితా సంకలనం వెలువడింది.
జానపద గేయాల్లో అత్యంత ప్రాముఖ్యమైన "పాలంకీన్ బియరర్స్" ఉంది.
19శతాబ్దపు చివర్లో.. సంధ్యా సమయంలో హైద్రాబాద్ నగరం ఏ విధంగా ఉండేది? కవికోకిల కవిత, "నైట్ఫాల్ ఇన్ ది సిటీ ఆఫ్ హైద్రాబాద్" చదివితే చాలు.. కళ్ళ ముందు నిలుస్తుంది.
నగరవంతెన మీదినుండి ఠీవిగా రాణిలా వస్తోంది రాత్రి.."
ఒక్కసారి ఆకాలానికి వెళ్ళి నగర వీధుల్లో సంచారం చేసినట్లు లేదూ!
ఇంక హైద్రాబాద్ బజార్లలో సందడి ఎలా ఉండేది?
"ఇన్ ది బజార్ ఆఫ్ హైద్రాబాద్ చదివామంటే చాలు.. ఆ బజార్లోకి వెళ్ళిపోవలసిందే..
తండ్రి మరణాంతరం రచించిన విషాదకవితలు ఈమెకు కైసర్-ఇ-హిండ్' బంగారు పతాకాన్ని సాధించిపెట్టింది.
దేశానికి స్వాతంత్ర్యం వచ్చిన తరువాత దేశంలో అతిపెద్ద అప్పటి రాష్ట్రం ఉత్తరప్రదేశకి ఈమె గవర్నరుగా నియమించబడింది.
హైదరాబాదులో తాను నివసించిన ఇంటికి తన మొదట కవితాసంకలనం పేరునే స్వర్ణప్రాగణంగా"ఎన్నుకొన్నది.
ఈమె 1949 మార్చి 2న లక్నోలో మరణించినది.
ఈమె జ్ఞాపకార్థం భారత ప్రభుత్వం 1964 ఫిబ్రవరి 13న ఈమె చిత్రంతో ఒక తపాలబిళ్ళను విడుదల చేసింది.
ఈమెపై అభిమానంతో హైదరాబాదులో సికింద్రాబాద్ దగ్గర ఒక వీధికి సరోజినీ దేవి రోడ్డూ' అని నామకరణం చేసారు.
ఈమె పేరున హైదరాబాదులో సరోజినీ కంటి ఆసుపత్రీ'ని కూడా స్థాపించారు.
ఈవిడగారి విలువైన వస్తువులు ఇప్పటికీ సాలార్ జంగ్ మ్యూజియంలోను, జాతీయ పురావస్తు ప్రదర్శనశాలలోనూ భద్రంగా ఉన్నాయి.
చిత్రమాలిక
శిలాఫలకం (మామిడి చెట్టు)
గాంధీజీ నాటిన మామిడి చెట్టు
గాంధీజీ గోపాల్ క్లినిక్ కు శంకుస్థపన చేసిన రాయి
గోపాల్ క్లినిక్
మూలాలు
ఇతర లింకులు
at Project Gutenberg
వర్గం:1879 జననాలు
వర్గం:1949 మరణాలు
వర్గం:మహిళా గవర్నర్లు
వర్గం:తెలుగు రచయిత్రులు
వర్గం:భారత జాతీయ కాంగ్రేసు నాయకులు
వర్గం:మహిళా రాజకీయనాయకులు
వర్గం:తెలుగువారిలో స్వాతంత్ర్య సమర యోధులు
వర్గం:తెలుగు కవయిత్రులు
వర్గం:హైదరాబాదు జిల్లా ప్రముఖులు
వర్గం:తెలుగు సాహితీకారులు
వర్గం:సాహిత్యంలో మహిళలు
వర్గం:సుప్రసిద్ధ ఆంధ్రులు
వర్గం:తెలంగాణ స్వాతంత్ర్య సమరయోధులు
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Adolf Hitler (Braunau, Austria, 20 Aprili 1889; Berlin, Ujerumani, 30 Aprili 1945) alikuwa dikteta wa Ujerumani kuanzia mwaka 1933 hadi kifo chake.
Alihutubia dharau na chuki ya kimbari dhidi ya watu wote wasio Wagermanik na hasa dhidi ya Wayahudi. Alisababisha Vita Kuu ya Pili ya Dunia na mateso ya watu milioni kadhaa. Akitangaza shabaha ya Ujerumani Mkubwa alisababisha kushindwa na kugawiwa kwa taifa lake pamoja na kupotewa na maeneo makubwa, hasa upande wa mashariki.
Maisha
Utoto na familia
Alizaliwa nchini Austria mwaka 1889. Wazazi wake walikuwa mtumishi wa forodha ya Austria Alois Hitler na mama yake Klara aliyekuwa mke wa tatu wa Alois.
Adolf alikuwa na ndugu watano lakini kati yao ni dada yake Paula pekee aliyeishi kufikia umri wa mtu mzima, wengine wote walikufa mapema. Alikuwa pia na ndugu wawili kutoka ndoa ya mke wa pili wa baba na hao waliitwa Alois mdogo na Angela waliokaa katika familia ya Alois mzee baada ya kifo cha mama.
Kutokana na kuhamishwa kwa baba mara kwa mara Adolf alisoma kwenye shule za msingi tofauti kati ya 1895 hadi 1899. Kuanzia mwaka 1900 alisoma kwenye shule ya sekondari mjini Linz lakini hakufaulu, alipaswa kurudia madarasa mawili. Hakupenda somo la dini, lakini alivutiwa na historia na jiografia. Baba alimpiga mara nyingi katika kipindi kile akikasirika juu ya kutofaulu shuleni.
Baada ya kifo cha baba Alois mwaka 1903 mamake alimhamisha kwenda shule nyingine mjini lakini alishindwa hapa pia, akarudi nyumbani kwa mama bila ya kumaliza masomo yake.
Alipokaa Linz Adolf alifahamika na mafundisho ya kiongozi wa chama cha "Alldeutsch" [1] na hapa alianza kusikia habari za chuki dhidi ya Wayahudi na dharau dhidi ya mataifa ya Waslavi ya Ulaya.
Tangu 1906 Hitler alijisikia kuwa msanii alipeleleza nafasi za kusoma uchoraji. Mwaka 1907 aliomba kupokewa katika chuo cha sanaa mjini Vienna, lakini alishindwa. Akarudi nyumbani baada ya kusikia mamake alikuwa mgonjwa wa kansa. Aliangalia nyumba hadi kifo cha mama kwenye Desemba 1907. Mama alitibiwa na daktari Eduard Bloch aliyekuwa Myahudi; Adolf alimshukuru sana kwa juhudi zake na baadaye alimlinda Bloch dhidi ya mateso yaliyoandaliwa kwa Wayahudi katika miaka ya 1930 baada ya Hitler kuwa mtawala wa Ujerumani na tangu 1938 wa Austria pia.
Msanii asiyefaulu Vienna na Munich
Tangu Januari 1908 alitumia urithi wa mama pamoja na pensheni ya mjane kwa kuhamia Vienna alipokaa hadi 1913. Alijaribu tena kupata nafasi kwenye chuo cha sanaa cha Vienna akashindwa tena. Mtu aliyeishi pamoja naye katika chumba kimoja alisema wakati ule Hitler alivutiwa zaidi na opera za Richard Wagner kuliko siasa.
Tangu mwisho wa 1908 alihama mara kwa mara sehemu alipokaa akitafuta kupanga vyumba kwa bei nafuu zaidi; inaonekana matatizo ya pesa yaliongezeka. Miaka 1910-1911 alipaswa kuishi katika bweni la wanaume wasio na nyumba[2].
Tangu 1910 Hitler alikuwa na mapato madogo kwa njia ya kunakili picha alizouza kupitia watu walioishi pamoja naye katika bweni. Wengine waliouza picha kwa niaba yake walikuwa Wayahudi lakini, tofauti na daktari wa mamake, hakuwapa usaidizi wowote baadaye: waliteswa kama Wayahudi wote baada ya kuvamiwa kwa Austria 1938.
Hitler alisoma mengi wakati ule na hasa maandiko yaliyotangaza ubora wa mbari ya Kigermanik na chuki dhidi ya Wayahudi.
Mwaka 1913 alihamia Munich katika jimbo la Bavaria, Ujerumani. Alikuwa amepokea hela kidogo kutoka urithi wa babake pia alitaka kujiondoa katika wajibu wa kufanya huduma ya lazima ya kijeshi katika Austria-Hungaria. Aliendelea kunakili picha na kuziuza kwenye maduka ya sanaa.
Mnamo Februari 1914 alikamatwa na polisi ya Bavaria na kupelekwa Austria lakini huko iliamuliwa hafai kwa huduma ya kijeshi akarudi Munich. Wakati wa kukaa Munich alisoma maandiko ya Houston Stewart Chamberlain kuhusu ubaguzi wa kimbari.
Mwanajeshi 1914 - 1918
Kuhamia kwake Munich kulifuatwa na vita mwaka 1914. Mnamo Agosti 1914, wakati wa mwanzo wa Vita Kuu ya Kwanza ya Dunia alijitolea kwa jeshi la Bavaria ambapo kutokana na bidii na ukakamavu wake alipanda cheo na kuwa praiveti. Mwisho wa vita mwaka 1918 alikuwa na cheo cha koplo. Hakupewa shughuli za kupigania maadui moja kwa moja bali sehemu kubwa ya vita alihudumia kama tarishi aliyebeba habari na barua kati ya maafisa wa ngazi ya juu na hivyo mbali kiasi na eneo la mapigano. Alijeruhiwa mwaka 1916 alipopigwa na kibanzi cha kombora na tena kwenye Oktoba 1918 alipoathiriwa na gesi ya sumu iliyosababisha kipindi cha upofu. Alikuwa hospitalini bado aliposikia habari za mapinduzi katika Ujerumani na azimio la kusimamisha vita tarehe 11 Novemba 1918.
Kuingia siasa
Mwezi Novemba 1918 Hitler alirudi Munich alipoendelea kuwa mwanajeshi hadi mwaka 1920. Munich iliona kipindi cha vuguvugu ya mapinduzi. Kwa muda alishiriki katika kamati zilizochaguliwa na wanajeshi na kuwawakilisha mbele ya serikali na maafisa. Munich iliona kipindi kifupi cha mapinduzi makali ambako viongozi wake walijaribu kuiga mfano wa Urusi. Kipindi hiki kilikwisha baada ya mashambulio ya sehemu za jeshi zilizofuata amri za serikali kuu ya Berlin.
Sasa maafisa wa jeshi walioshika tena amri walipambana na mielekeo ya kikomunisti na kisoshalisti kati ya askari na wafanyakazi wa viwanda. Hapa Hitler aliteuliwa na wakuu wake kwa propaganda dhidi ya wanamapinduzi wasoshalisti. Alipelekwa kwa mafundisho ya kiitikadi akapewa mazoezi ya kuhutubia watu. Inaonekana ya kwamba ilikuwa katika kipindi hiki Hitler alipopokea mafundisho yaliyoimarisha itikadi ya chuki dhidi ya Wayahudi walioshtakiwa na wafuasi wa ufalme kuwa sababu ya kushindwa vitani pamoja na kuchochea mapinduzi.
Hitler alitumwa pia na wakuu wake kama mpelelezi kuhudhuria mikutano ya kisiasa mjini.
Hapa ilitokea ya kwamba kwenye Septemba 1919 alihudhuria mkutano wa chama kidogo na kichanga kilichojiita "Chama cha Wafanyakazi Wajerumani" (Deutsche Arbeiterpartei, DAP). Hitler alishiriki katika majadiliano akakaribishwa kujiunga na chama hicho. Aliomba kibali cha mkuu wake jeshini kwa hatua hii akawa mwanachama wa 55 wa chama hiki.
Aliteuliwa kuwa katibu mwenezi wa DAP na chama kilianza kupokea zawadi kutoka matajiri waliomwona Hiler kama mhubiri mwenye kipaji kikubwa aliyepinga usoshalisti na ukomunisti. Mwezi Februari DAP ilibadilisha jina lake kuwa "Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei" (Chama cha Kizalendo - Kisoshialisti cha Wafanyakazi Wajerumani) kifupi NSDAP.
Kwenye Aprili 1920 Hitler alitoka katika jeshi akipata riziki yake kwa njia ya kuhutubia mikutano alipolipwa. Sifa zake kama mhubiri zilijulikana kote Munich na alianza kuwasiliana pia na wanasiasa waliokuwa na mielekeo ya kufanana huko Berlin.
Mwaka 1921 hatimaye aliweza kushinda viongozi wa awali katika chama na kuwa kiongozi mkuu wa NSDAP ambao hadi wakati ule bado ilikuwa moja ya vyama vingi vidogo vilivyotangaza siasa ya kizalendo dhidi ya ukomunisti na pia dhidi ya demokrasia.
Jaribio la mapinduzi 1923
Hitler alivutiwa sana na mfano wa Benito Mussolini, kiongozi wa kifashisti wa Italia, aliyefaulu mwaka 1922 kupindua serikali ya Italia kwa maandamano makubwa ya wafuasi wake kuelekea Roma.
Mwaka 1923 Hitler alijaribu kumwiga Mussolini kwa kupindua serikali ya jimbo la Bavaria - kama utangulizi wa kupindua serikali ya kitaifa huko Berlin - lakini alikamatwa na kuhukumiwa kwa uasi huo kifungo cha miaka mitano, ingawa alitumikia miezi tisa tu. Chama chake kilipigwa marufuku.
Hitler akiwa kijana aliwahi kusoma vitabu vya Mwingereza Neville Chamberlain aliyedai kwamba kuna mbari mbalimbali za watu zenye tabia na thamani tofauti sana.
Akiwa gerezani aliandika kitabu kilichoitwa "Mein Kampf" ("Mapambano Yangu") alimojaribu kueleza imani na siasa zake. Humo alieleza pia chuki dhidi ya Wayahudi na itikadi yake ya ubaguzi wa kimbari.
Katika itikadi hiyo mbari ya juu ni watu wa Ulaya ya Kaskazini aliowaita "Waaria", na wale ambao ni duni zaidi ni watu weusi. Vikundi vingine vimo katikati. Lakini watu wabaya kabisa katika itikadi hiyo ni Wayahudi ambao ni wajanja wakuu upande mmoja, lakini hawana uwezo wa kuunda kitu kwa upande mwingine. Hivyo wanajaribu kwa ujanja wao kutawala dunia kwa kuiba fikra na mafanikio ya Waaria.
Kujenga chama
Baada ya kutoka gerezani alirudi katika siasa. Aliahidi za kwamba atafuata sheria, hivyo chama cha NSDAP kiliruhusiwa tena. Hitler alisafiri kote Ujerumani akiunda matawi ya chama. Ndani ya chama alianzisha vikosi viwili vilivyovaa sare vikifanya mazoezi kama wanamgambo na kuwa tayari kupigana na maadui wa kisiasa wakati wa maandamano.
Kikundi cha SA ("Sturmabteilung" - "Kikosi cha kushambulia") kilikuwa na watu wengi sana kikavuta hasa wanaume wasio na kazi waliovaa sare ya kahawia. Kikosi cha pili kilikuwa na watu wachache kikaitwa "SS" ("Schutzstaffel" - "Kikosi cha ulinzi") waliovaa sare nyeusi na kuwa na wajibu hasa kumlinda Hitler.
Chama chake hakikufaulu hadi 1929, wakati uchumi wa dunia pamoja na wa Ujerumani ulipoporomoka vibaya katika Mdodoro Mkuu. Mamilioni ya watu waliachishwa kazi na kuona njaa. Katika hali hiyo watu walianza kupigia kura vyama vyenye itikadi kali.
Katika uchaguzi wa mwaka 1930 kura za NSDAP ziliongezeka kutoka 2.6% hadi 18.3%. Serikali za Ujerumani zilikuwa za vyama vingi na dhaifu.
Mwaka 1932 chama cha NSDAP kilipata 33% za kura na kuwa chama chenye kura nyingi zaidi nchini na chama kikubwa katika bunge la Reichstag. Katika hali hiyo viongozi wa Dola la Ujerumani waliamua kumwingiza Hitler katika serikali mwaka 1933.
Chansela na kiongozi wa Ujerumani
Tarehe 30 Januari 1933 Hitler akawa Chansela wa Ujerumani. Mara moja alichukua nafasi kuwakandamiza wapinzani wake na baada ya mwaka mmoja hata wale waliomwingiza madarakani.
Baada ya mwaka mmoja utawala wake ulisimama imara kabisa ilhali wapinzani wengi walikamatwa na kupelekwa katika makambi ya KZ.
Hitler alifuata siasa ya kujenga uchumi na kurudisha watu kazini akibahatika kwamba uchumi wa dunia ukapaa tena.
Hitler alifuta mapatano yote ya Ujerumani yaliyoweka mipaka kwa ukubwa wa jeshi lake kuwa watu 100,000 tu akajenga jeshi kubwa zaidi, akaanzisha utawala wa kidikteta wa "Dola la Tatu" akipiga marufuku vyama vya upinzani. Alitesa wapinzani wote na watu wa mbari alizochukia, hasa Wayahudi.
Siasa dhidi ya Wayahudi
Chuki dhidi ya Wajerumani waliokuwa Wayahudi aliionyesha kwa sheria mbalimbali zilizokuwa kali zaidi na zaidi. Idadi ya Wayahudi katika Ujerumani ilikuwa ndogo, takriban nusu milioni kati ya wakazi milioni 62. Kila Mjerumani akitaka kuajiriwa na serikali au kupata nafasi ya masomo alitakiwa kuorodhesha wazazi na mababu hadi kizazi cha pili. Kwa njia hiyo Hitler alipanga Wajerumani wote katika vikundi vya "Waaria" (ambao hawana Wayahudi katika familia), "Wayahudi" (watu wenye asili ya Kiyahudi, hata kama wameshakuwa Wakristo tangu vizazi kadhaa au hawakufuata dini), "Wayahudi nusu" kama mzazi mmoja alikuwa Myahudi, "Wayahudi robo" kama mmoja kati ya mababu na mabibi wanne alikuwa Myahudi. Wayahudi na Wayahudi nusu walifukuzwa katika ajira ya serikali na walikataliwa kufanya kazi mbalimbali.
Sheria kuhusu "Aibu wa mbari" ilikataza ndoa kati ya "Waaria" na "Wayahudi"; "Wayahudi" waliondolewa uraia kamili.
Tokeo moja la siasa hiyo lilikuwa kuondoka kwa Wayahudi wengi kidogo katika Ujerumani; baada ya mashambulizi makali na mauaji mwaka 1938 mwelekeo huo uliongezeka. Hasa wanasayansi na wasanii wengi walihamia nchi huru.
Siasa yake katika mwaka 1939 ilisababisha Vita Kuu ya Pili ya Dunia.
Vita Kuu ya Pili
Hitler alifuata mwanzoni siasa ya kukusanya Wajerumani wote wa Ulaya katika Dola la Ujerumani.
Mwaka 1938 alifaulu kuteka Austria na maeneo ya Wajerumani katika Ucheki bila upingamizi wa kimataifa.
Lakini aliposhambulia Poland tarehe 1 Septemba 1939 tendo hili lilikuwa mwanzo wa Vita Kuu ya Pili ya Dunia kwa sababu Uingereza na Ufaransa walisimama imara kwa mikataba ya kusaidiana na Poland.
Wakati wa vita Hitler alichukua mwenyewe uongozi mkuu wa jeshi. Mwanzoni alifaulu hata dhidi ya ushauri ya majenerali wake, hasa wakati wa vita dhidi ya Poland na Ufaransa. Lakini maazimio yake ya 1941 ya kushambulia Urusi na kutangaza hali ya vita dhidi ya Marekani yalikuwa mwanzo wa mwisho wake. Nguvu ya kiuchumi wa Ujerumani haikutosha kushindana na dunia yote.
Wakati wa vita aliamuru uuaji wa Wayahudi wote wa Ulaya, na inakadiriwa alifaulu kuwaua takriban milioni sita (2/3 ya Wayahudi wote wa Ulaya) pamoja na watu vya mbari mbalimbali kama Wasinti (kati ya 200,000 na 1,500,000).
Hasa alipoona ya kwamba vita dhidi ya Urusi haikufaulu haraka jinsi alivyotegemea aliamua kumaliza jambo lililosababisha chuki yake hasa. Azimio la "usuluhisho wa mwisho wa suala la Kiyahudi" lilichukuliwa mwisho wa mwaka 1941 na kutangazwa mbele ya viongozi wachache mnamo Januari 1942 katika Mkutano wa Wannsee.
Baadaye siasa ya kuwatenda Wayahudi vibaya na kuwaua katika maeneo fulani ilibadilishwa kulenga Wayahudi wote katika nchi zote zilizokuwa chini ya athira ya Ujerumani au kutekwa na jeshi lake. Hadi mwisho wa vita Wayahudi walikusanywa kutoka kote Ulaya na kupelekwa kwa reli hadi makambi ya mauti.
Mwisho wa vita na kifo
Maafisa wachache wa jeshi ya Ujerumani walipanga mara kadhaa kumwua Hitler. Tarehe 20 Julai 1944 alijeruhiwa na bomu ya Stauffenberg lakini hakufa.
Tangu Januari 1945 Hitler alikaa katika boma imara chini ya ardhi kwenye ikulu yake mjini Berlin. Hakutoka mjini tena.
Tarehe 20 Aprili alishehereka mara ya mwisho sikukuu yake na kupokea wageni wachache. Siku iliyofuata vikosi vya kwanza vya jeshi la Urusi vilivuka mipaka ya Jiji la Berlin.
Tarehe 25 Aprili 1945 Berlin yote ilizungukwa kama kisiwa na jeshi la Wasovyeti na tangu 28 Aprili waliingia katika kitovu cha Berlin. Habari zilifika Berlin ya kwamba makamu wake Hitler kama Himmler na Goering walijaribu kutafuta mapatano na Marekani au Uingereza. Hitler aliwatangaza ni wasaliti akaamuru kuwakamata lakini amri hizi hazikutekelezwa tena maana hawakuwa karibu naye.
Katika hali hii Hitler alielewa ya kwamba hakuna njia ya kushinda na wataalamu hukubaliana ya kwamba hapo aliamua kujiua. Usiku wa 27 Aprili alimwoa mpenzi wake wa miaka mingi Eva Braun. Aliendelea kutunga wosia wake ambamo alimtaja mkuu wa jeshi la maji Karl Doenitz kuchukua madaraka yake kama mkuu wa dola na wa jeshi. Kwenye 29 Aprili jioni alipokea habari ya kwamba Benito Mussolini ameuawa huko Italia.
Tarehe 30 Aprili aligawa sumu kwa wote waliokuwa pamoja naye katika boma chini ya ardhi akawaruhusu kuondoka; aliagiza sumu ijaribishwe kwa mbwa wake mpendwa "Blondi". Mnamo saa 15.30 Eva Brau alijiua kwa kumeza sumu na Hitler alipigia risasi kichwani. Wasaidizi wa mwisho walibeba maiti hadi bustani ya ikulu na kuziweka katika shimo kutokana na mlipuko wa bomu; hapa wakazichoma kwa petroli.
Warusi waliingia saa chache baada ya vifo hivi. Walikuta maiti tarehe 5 Mei bila kutambua ni Hitler na Eva Braun. Tarehe 10 Mei msaidizi wa daktari wa meno wa Hitler aliweza kutambua maiti kutokana na meno. Mabaki yalizikwa baadaye karibu na makao makuu ya jeshi la Kirusi katika Ujerumani ya Mashariki; yalihamishwa mara kadhaa kila wakati makao makuu yalipohamishwa. Mwishoni mabaki ya maiti yalichomwa na Warusi tarehe 5 Aprili 1970, majivu yalisagwa na yote kutupwa katika mto mdogo karibu na mji wa Magdeburg.
Taarifa hizi zilitunzwa kama siri kwa miaka mingi hadi mwisho wa Ukomunisti katika Urusi na hivi kulikuwa na uvumi wa kwamba Hitler hajafa na labda alikimbia hadi Amerika Kusini, jinsi idadi ya wasaidizi wake waliofaulu kutoroka.
Marejeo
Kujisomea zaidi
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Jamii:Waliozaliwa 1889
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Nintendo GameCube on Nintendon neljäs pelikonsoli, joka kuuluu videopelikonsoleiden kuudenteen sukupolveen.
GameCube julkaistiin 14. syyskuuta 2001 Japanissa, 18. marraskuuta 2001 Pohjois-Amerikassa ja 3. toukokuuta 2002 Euroopassa. GameCube kilpaili videopelimarkkinoilla yhdessä Segan Dreamcastin, Sonyn PlayStation 2:n ja Microsoftin Xboxin kanssa.
Yleistä
Nintendo GameCube paljastettiin vuoden 2000 SpaceWorld-messuilla. Konsoli muistuttaa nimensä mukaisesti ulkoasultaan kuutiota ja oli saatavissa useissa eri väreissä, kuten indigo, platina, musta ja helmenvalkoinen. Japanissa konsoli oli saatavissa myös oranssin värisenä, tai rajoitettuina versioina, kuten kristallinvalkoinen, mintunvihreä, kupari ja valkoinen mustilla liituraidoilla koristeltuna.
Nintendo GameCube käyttää tallennusmediana Nintendo GameCube Discia, joka perustuu Matsushitan optiseen levytekniikkaan. Levy on halkaisijaltaan noin 8 cm (huomattavasti pienempi kuin muiden saman sukupolven konsoleiden käyttämä CD ja DVD, vertaa MiniDVD-levyyn), ja sille mahtuu tietoa noin 1,5 gigatavua. Standardissa Nintendo GameCubessa ei ole CD/DVD-tukea, joka kuitenkin löytyy Matshuhitan tuottamasta, vain Japanissa julkaistusta Panasonic Q:sta. Nintendo on perustellut valintaansa muun muassa sillä, että ratkaisu vähentää tekijänoikeuksien rikkomuksia, takaa nopeammat latausajat, tekee laitteen edullisemmaksi (välttämällä DVD-lisensointimaksut) ja että levyt ovat kätevämpiä.
Pienikokoinen kantokahvalla varustettu GameCube suunniteltiin kannettavaksi. Yhdessä Game Boy Playerin kanssa GameCubesta tulee geometrisesti lähes täydellinen kuutio. Sen lisäksi, että GameCube on kooltaan pienempi kuin PlayStation 2 (GameCube julkaistiin yli vuosi myöhemmin, ja sen virtalähde on erillään konsolista), sen grafiikkasuoritin on edistyneempi ja ProLogic-ääni parempi; GameCubesta kuitenkin puuttuu optinen S/PDIF-ulostulo. GameCubessa on myös Menu-järjestelmä, johon pääsee pitämällä A-painiketta painettuna koneen käynnistyessä, tai koneen käynnistyessä ilman pelilevyä. Menussa ovat muistikorttitiedot, ääniasetukset ja kalenteri.
Ominaisuudet
GameCuben yksi ominaisuus on liitettävyys Nintendon Game Boy Advance ja Game Boy Advance SP -käsikonsoleiden kanssa. Konsoli on myös liitettävissä Game Boy Microon, mutta se vaatii erillisen kaapelin, sillä Game Boy Advancea varten tuotettu on liian suuri Microa varten. Liitettävyys mahdollistaa tiedon siirron laitteiden välillä. Esimerkiksi Game Boy Advancea voi käyttää tietyissä GameCuben peleissä erillisenä ohjaimena. Moninpeliä varten GameCubeen voi liittää yhteensä neljä Game Boy Advancea GameCuben ohjainporttien kautta. Liittäminen tapahtuu Nintendo GameCube-Game Boy Advance -kaapelilla. Usea Nintendon peli käyttää tätä ominaisuutta, joista tunnetuin lienee The Legend of Zelda: The Wind Waker; pelissä Game Boy Advancen avulla pelaaja voi löytää muun muassa piilotettuja aarteita ja saada vinkkejä liittyen peliin.
Ohjaimessa on perinteinen ristiohjain, kaksi analogista tattia ja kahdeksan painiketta: A, B, X, Y, Z, L, R ja pause/start. Ohjaimessa ei ole select-painiketta, kuten ei myöskään ollut edeltäjässään Nintendo 64:n ohjaimessa; C-painikkeet on korvattu analogisella C-tatilla. Peukalotateissa ei ole painamisominaisuutta – toisin kuin muissa aikakauden konsoleissa – mutta molemmat olkanäppäimet L ja R ovat analogisia, ja pystyvät havaitsemaan niihin kohdistuvan paineen ennen varsinaista painamista; tämä kaksinkertaistaa painikkeiden mahdollisuudet.
GameCubelle julkaistiin vuonna 2002 internet-adapteri, jota ei kuitenkaan tuettu kuin muutamassa pelissä. Ainoa korkean profiilin peli, joka vaatii adapterin, on Segan Phantasy Star Online Episode I & II. Verkkoliitettävyyttä varten julkaistiin kaksi erillistä adapteria, yksi modeemiyhteyttä ja yksi laajakaistayhteyttä varten.
GameCubessa on joitakin käynnistykseen piilotettuja ominaisuuksia: pitämällä Z-painiketta painettuna laitteen käynnistyessä normaali ksylofoni-teemainen alkumusiikki korvaantuu kitinällä joka huipentuu lapsen nauruun. Jos laitteeseen on kiinnitetty neljä ohjainta ja Z-painiketta pidetään jokaisessa alhaalla painettuna, musiikki korvaantuu japanilaistyylisellä rummutuksella, joka huipentuu perinteiseen japanilaiseen gongiin.
Pelit
Nintendo GameCuben pelikirjastoon kuuluu yli 600 peliä.
Tärkeimmät ensimmäisen osapuolen pelit
Nintendo GameCuben peleihin lukeutuu Nintendon tunnetuimpien pelisarjojen, kuten Super Marion, The Legend of Zeldan ja Metroidin, edustajia.
Suosituimpia ensimmäisen osapuolen pelejä ovat:
Animal Crossing
Donkey Kong Jungle Beat
Donkey Konga
F-Zero GX
Fire Emblem: Path of Radiance
Luigi’s Mansion
Mario Kart: Double Dash!!
Mario Party
Metroid Prime
Metroid Prime 2: Echoes
Paper Mario: The Thousand-Year Door
Pikmin
Pikmin 2
Pokémon Colosseum
Pokémon XD: Gale of Darkness
Super Mario Sunshine
Super Smash Bros. Melee
The Legend of Zelda: Four Swords Adventures
The Legend of Zelda: The Wind Waker
The Legend of Zelda: Twilight Princess
Wave Race: Blue Storm
Edellisistä sukupolvista poiketen Nintendo ei enää ollut kolmatta osapuolta dominoiva osapuoli, vaan etsi avoimesti pelinkehitystukea Nintendo GameCubelle. Joskus Nintendo saattoi pyytää kolmannen osapuolen kehittäjää tuottamaan omaan pelinimikkeeseensä tai Nintendon omiin nimikkeisiin pohjautuvan pelin. Molemmissa tapauksissa Nintendo otti usein aktiivisen roolin yhteistyössä. Tämä politiikka näkyi useissa vain GameCubelle julkaistuissa kolmannen osapuolen peleissä, ja toi monialustaiset pelit laitteelle.
Tärkeimpiä toisen ja kolmannen osapuolen pelejä
EA Sportsin pelit (Electronic Arts)
Eternal Darkness: Sanity's Requiem (Silicon Knights)
F-Zero GX (Segan kehittämä peli Nintendon nimikkeen pohjalta)
Final Fantasy: Crystal Chronicles (Square Enix)
Ikaruga (Treasure, julkaisija Atari)
Metal Gear Solid: The Twin Snakes, Konamin ja silloisen Nintendon toisen osapuolen kehittäjän Silicon Knightsin yhteistuotanto
Resident Evil -pelisarja (Capcom)
Resident Evil Zero
Resident Evil
Resident Evil 4
Killer 7 (Capcom)
Skies of Arcadia Legends (Sega)
Soul Calibur 2 (Namco)
Sonic the Hedgehog -pelisarja (Sega ja Sonic Team)
Sonic Adventure 2: Battle
Sonic Mega Collection
Star Wars: Rogue Squadron -pelisarja (Factor 5)
Star Fox: Assault (Namcon kehittämä peli Nintendon nimikkeen pohjalta)
Super Monkey Ball -pelisarja (Sega)
Tales of Symphonia (Namco)
Baten Kaitos -pelisarja (Namco)
Viewtiful Joe -pelisarja (Capcom)
Wario World (Treasure Co. Ltd:n kehittämä peli Nintendon nimikkeeseen pohjautuen)
Markkinaosuus
Nintendon ponnisteluista huolimatta GameCube ei onnistunut valtaamaan takaisin aikaisempien konsolien osuutta markkinoista.
Nintendo ei myöskään tukenut GameCubella tarpeeksi verkko-ominaisuuksia, toisin kuin Microsoft ja Sony, jotka molemmat mainostivat aktiivisesti verkkopelaamistaan julkaisten ensimmäisen osapuolen pelejä verkkotuella. Monia muilla alustoilla verkkopeliä tukevia nimikkeitä julkaistiin GameCubella ilman verkko-ominaisuuksia. Nintendo lisäsi verkkotuen vuoden 2002 lopussa. Yksi rajoittavista tekijöistä on saattanut myös olla 1,5 gigatavun levyformaatti, sillä Nintendon kilpailijat käyttivät 8,5 gigatavun kaksikerroksista DVD-levyä.
Nintendo oli myynyt 31. maaliskuuta 2007 mennessä maailmanlaajuisesti yhteensä 21,59 miljoonaa Nintendo GameCubea. Näistä 4,02 miljoonaa kappaletta myytiin Japanissa, 12,81 miljoonaa kappaletta Amerikassa, ja 4,76 miljoonaa kappaletta muilla markkina-alueilla [1]. Vastaavasti 31. maaliskuuta 2007 mennessä PlayStation 2:a oli myyty maailmanlaajuisesti 117,89 miljoonaa kappaletta[2], ja Xboxia yli 24 miljoonaa kappaletta [3].
Tekniset tiedot
CPU (Central Processing Unit):
erikoisvalmisteinen 64-bittinen IBM PowerPC "Gekko"
180 nanometrin kuparijohdetekniikka
kellotaajuus 485 MHz
32/64-bittinen arkkitehtuuri
64-bittinen ulkoinen muistiväylä
256 kt L2-tason ulkoista välimuistia
GPU (Graphics Processing Unit):
kustomoitu ATI/Nintendo ”Flipper” (1)
180 nanometrin tekniikka
kellotaajuus 162 MHz
2 Mt:n framepuskurimuisti (6,2 ns)
1 Mt:n tekstuuripuskurimuisti (6,2 ns)
tekstuurien lukunopeus maksimissaan 10,4 Gt/s
piirtonopeus 648 megapikseliä sekunnissa
24-bittinen RGB-värisyvyys
Piirto-ominaisuudet:
sumu
anti-aliasing
8 yhtäaikaista valaistusta
4 pikseliliukuhihnaa
multiteksturointi, bumpmappaus
environment-mappaus
mip-mappaus
bilineaarinen, trilineaarinen ja anisotrooppinen filtteröinti
S3TC-tekstuuripakkaus
Suorituskyky maksimissaan 6–12 miljoonaa polygonia sekunnissa. (Todellinen pelitilanne, jossa monimuotoisia malleja täysin teksturoituina, valaistuina, jne.) Rogue Squadron II -pelin tiedetään saavuttaneen reilusti enemmän kuin 12 miljoonaa.
(1) Flipperin kehitti ArtX, jonka ATI osti osaksi itseään grafiikkapiirin kehityksen loppuvaiheilla.
Ääniprosessori:
erikoisvalmisteinen Macronixin 16-bittinen DSP
kellotaajuus 81 MHz
64 yhtäaikaista kanavaa
ADPCM-koodaus (48 kHz)
Dolby Pro-Logic II -tuki
Muisti:
24 Mt:n 1T-SRAM keskusmuisti
64-bittinen muistiväylä
kellotaajuus 324 MHz (2 x 162 MHz)
nopeus 2,6 Gt/s
hakuaika 10 nanosekuntia
16 Mt:n DRAM-muisti äänelle ja toisarvoiselle datalle
8-bittinen muistiväylä
kellotaajuus 81 MHz
nopeus 81 Mt/s
Levyasema:
CAV (Constant Angular Velocity) System
hakuaika 128 ms
siirtonopeus 16–25 megabittiä sekunnissa
levyformaatti Matsushitan 1,5 gigatavun 8 cm:n optinen levy
Tulot ja lähdöt:
4 ohjainporttia, 2 muistikorttipaikkaa, analoginen AV-ulostulo, digitaalinen AV-ulostulo, 2 huippunopeaa sarjaporttia, 1 huippunopea rinnakkaisportti
Modaaminen
Aivan kuten Microsoft Xboxin kohdalla, myös Nintendo GameCubea on innostuttu modaamaan eli parantamaan laitteen ominaisuuksia. Yksi tunnetuista modausprojekteista GameCubelle on GamecubeLinux, joka on onnistunut tekemään GameCubelle Linux-ympäristön 8 cm:n DVD-levyllä, ilman että pelikonsolin takuu raukeaa ja ilman että Digital Millennium Copyright Act -tekijänoikeuslakia rikotaan [4]. GameCuben Linux-ympäristöä voidaan käyttää muun muassa:
Thin clienttina
Multimediapäätteenä
Täysimittaisena tietokoneena
Katso myös
Luettelo Nintendon julkaisemista videopeleistä
Luettelo Player’s Choice -peleistä
Lähteet
Aiheesta muualla
Nintendo Suomen kotisivuilla.
Nintendon kotisivuilla Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.
Luokka:Nintendo GameCube
Luokka:Seulonnan keskeiset artikkelit
| https://fi.wikipedia.org/wiki/Nintendo%20GameCube |
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우리은하(―銀河, )[1] 는 태양계가 속해 있는 은하이다. 우리가 속해 있는 곳이기 때문에 단순히 "은하" 또는 "은하계"라고도 불린다. 은하수는 지구에서 보이는 우리 은하의 부분으로, 천구를 가로지르는 밝은 띠로 보인다. 이 밝은 띠는 다수의 별들로 이루어져 있다. 은하 중심부가 있는 궁수자리 방향에서 가장 밝게 보인다.[2][3] 천구상에서 은하면은 북쪽으로 카시오페이아자리까지, 남쪽으로 남십자자리까지에 이른다. 황도에 대한 경사로 보아, 이는 은하면에 대한 태양계 대부분의 행성 궤도면(≒황도면)이 기울어져 있다는 것을 뜻한다. 은하가 천구를 거의 똑같이 나누고 있다는 사실은 곧 태양계가 은하면에서 그리 멀리 떨어져 있지 않다는 것을 뜻한다. 우리 은하에는 은하의 중심과 은하의 북극이 존재하는데, 원기 B1950으로 측정한 북극의 적경과 적위는 12h49m, +27.4˚였다.또한 우리은하계에는 4000억 개의 별이 있다고 밝혀졌다.
일반적인 사항
우리은하는 늙고 오래된 별들이 공 모양으로 밀집한 중심핵(Bulge)과 그 주위를 젊고 푸른 별, 가스, 먼지 등으로 이루어진 나선팔이 원판 디스크 형태로 회전하고 있으며, 그 외곽에는 주로 가스, 먼지, 구상성단 등의 일부 별 및 암흑물질로 이루어진 헤일로(Halo)가 타원형 모양으로 은하 주위를 감싸고 있다.
우리 은하의 크기와 헤일로
우리은하의 지름은 약 10만 광년으로 중심핵은 직경이 약 10,000 광년, 두께는 약 15,000광년이며, 나선팔의 두께는 별들의 영역만을 고려할 경우 약 1,000광년이지만 최근의 관측 결과 가스 등을 포함한 전체 디스크의 두께는 약 12,000 광년으로 기존의 추정치인 6,000광년의 두 배에 달할 것으로 예상된다.[4] 우리은하를 둘러싸고 있는 헤일로는 지름이 약 200,000 광년 정도로 추정되었으나, 일부 구상성단이 은하 중심으로부터 400,000광년 거리에서 발견되는 점 [5], 최근 우리의 이웃은하인 안드로메다 은하의 헤일로가 기존보다 휠씬 먼 400,000광년 이상까지 뻗어있다는 것이 확인됨에 따라 우리은하 헤일로의 규모도 당초 예상보다 훨씬 멀리까지 뻗어있을 가능성이 크다.[6][7]
우리 은하의 나이
우리은하의 나이를 정확히 추정하는 것은 불가능하나 간접적으로 우리은하 내의 별 중 가장 늙은 별의 나이를 통해 추정할 수는 있다.[8] 현재까지 밝혀진 우리은하 디스크 내 가장 오래된 별의 나이는 약 132억 년이며, 주위를 공전하는 구상성단에서 약 136억년의 나이로 밝혀진 별이 발견되고 이들 구상성단이 우리은하와 거의 동시에 탄생하였을 걸로 추정하면 우리은하의 나이는 현재 우주의 나이인 137억 년에 거의 근접할 것으로 추정되고 있다. 지구에서 가장 가까운 구상 성단은 NGC 6397이며, 지구에서 7,200광년 떨어져 있다.[9]
우리 은하의 질량
우리은하의 총질량에 대한 계산은 최근 극적인 변화를 겪고 있다. 지금까지는 관측된 우리은하의 회전 속도와 뉴턴의 역학법칙을 이용한 계산 결과, 우리은하의 총질량은 항성,가스 등의 눈에 보이는 물질만을 고려할 경우 약 5.8×1011[10][11][12], 눈에 보이지 않는 암흑물질 등을 모두 고려하여 계산할 경우 약 1.5 ~ 1.9×1012으로 추정되어 왔으며, 약 2000억 ~ 4000억개의 항성들이 존재할 것으로 믿어져 왔다.
최근에는 은하 헤일로가 은하 중심부에서 26만광년까지 떨어져 있는 것으로 여겨지고 암흑물질 등, 은하를 이루고 있는 물질이 예상보다 많은 것으로 여겨지고 있다.
따라서 우리 은하의 질량은 눈에 보이는 물질만 합치면 8.5×1011이 나오며, 암흑물질까지 모두 합쳐 5×1012 (5조 태양질량)까지 늘어날 수 있다.
별의 갯수는 2천억~4천억개이며, 항성들을 모두 합친 질량은 4.6×1010~6.4×1010이며 평균 질량은 태양의 15%이다.
이는 우리 은하의 별의 대부분은 적색 왜성인 것이다.
이는 지금까지 우리은하가 이웃 안드로메다 은하에 비해 크기나 무게가 더 작은 동생뻘 은하라고 믿어온 기존관념을 송두리째 뒤엎는 것으로서 우리은하와 안드로메다 은하는 크기와 무게가 비슷한 대형 쌍둥이 은하일 가능성이 큰 것으로 예상된다.
구조
우리은하는 막대나선은하에 속하며, 허블의 은하 분류에 따르면 Sbc형(중심에 막대가 존재하고 나선팔이 느슨히 감긴 형태)이다. 이전에는 안드로메다 은하와 같은 모양의 정상나선은하로 간주되었으나, 1990년대부터 과학자들에 의해 막대나선은하일 가능성이 제기되었으며 2005년의 스퍼처 적외선 망원경을 이용한 조사 결과, 중심핵으로부터 지름 27,000광년 길이의 막대 구조가 존재한다는 것이 확인되었다. 막대 구조는 대부분 붉고, 오래된 항성들로 구성되어 있으며, 태양과 은하 중심을 연결한 선에서 약 44 ± 10 도 정도 비스듬히 위치하고 있어서 그동안 존재를 확인하기가 어려웠던 것으로 추정된다. 또한, 이 막대구조 주위에 일명 "5-kpc Ring" 이라는 거대 수소 가스로 이루어진 띠가 존재하며, 현재 우리은하 내에서 가장 폭발적으로 별을 생성하고 있는 영역임이 확인되었다. 만약에 이웃하는 안드로메다 은하에서 우리은하를 바라본다면 가장 밝게 빛나는 부분으로 보일 것이다.
우리 은하의 블랙홀
은하를 구성하는 별들은 은하의 중심부를 중심으로 나선팔 모양으로 공전한다. 이는 은하 중심에 초대질량 블랙홀이 있기 때문이라 여겨지며, 궁수자리 A*가 이 거대 블랙홀의 유력한 후보로서 태양 질량의 약 1400억배의 질량인 것으로 추정된다. 또한 이 블랙홀의 근처에 태양의 1300배에 해당하는 중간 질량 블랙홀이 더 존재하며 서로를 공전하고 있는 것(쌍성처럼)이 확인되었다. 이는 과거에 우리은하가 다른 작은 은하를 흡수하였음을 의미하며, 실제로 2002년에 대한민국 연세대 연구팀이 "사이언스" 지에 발표한 논문을 통해 우리은하가 약 10억 년 젊은 다른 은하와 충돌, 합병하여 현재의 크기가 되었음을 입증한 바 있다. 현재 우리은하의 중심부에는 가까운 최근에 격렬한 별 생성이 있었음을 추정하게 하는 증거들이 발견되고 있으며, 은하 중심부에서 불과 3.5광년 내에 수천개의 별들이 빽빽히 모여 있으며 울프레이에별이과 OB항성들과 같은 거대 항성들도 100개나 모여 있다. 이것은 이들 별들의 폭발적인 생성이 불과 수백만 년 전에 있었다는 것을 알 수 있다. 이들 별들이 초신성 폭발을 하면 은하 중심의 블랙홀에도 영향을 줘, 제트를 뿜는 블랙홀 활동이 시작될 것이다. 과거 수백만 년 전에 블랙홀 주변 3.5광년 내의 폭발적인 별 생성시에도 가스 구름이 블랙홀로 유입되어 강력한 블랙홀 활동이 있었다는 것과 블랙홀이 내뿜은 엄청난 양의 물질들의 거품 흔적들이 은하 중심부의 가스 구름의 제트 거품의 흔적을 통해 발견되고 있다. 당시 블랙홀의 제트는 은하 중심부로부터 최대 3천광년 떨어진 구름까지도 흔적을 남겼다. 시뮬레이션 결과 중심핵의 두 개의 블랙홀도 서로 공전하면서 계속 가까워지다가 결국엔 하나로 합쳐지면서 막대한 양의 X선 등의 에너지를 방출할 것으로 예상되고 있다.[13] 또한 은하 중심부로부터 400광년 내에 빽빽한 구름들이 많이 발견되었는데 2억년 내로 엄청난 별 생성을 하게 될 것이다.
우리 은하의 팔
최근까지 우리 은하에는 네 개의 큰 나선 팔이 있다고 여겨졌으나, 2008년에 스피처 적외선 망원경을 이용하여 1억 개 이상의 별의 분포를 분석한 결과, 단지 2개의 나선 팔만이 명확히 구분되었으며 나머지는 존재가 의심스럽거나 2개의 주요 나선 팔에서 갈라져 나온 부수적인 팔인 것으로 확인되었다. 주된 2개의 나선 팔은 각각 방패-남십자자리 팔과 페르세우스자리 팔이며, 과학자들은 우리은하가 나선 팔이 2개로 구성된 전형적인 막대나선은하일 것으로 추정하고 있다. 최근에 페르세우스자리 팔 바깥에서 은하 중심으로부터 거리가 60,000광년, 길이가 77,000광년인 새로운 나선 팔의 존재가 확인되었으나, 대부분 가스와 먼지로 구성되고 별은 드문 것으로 추정되어 아직 공식적인 나선 팔로 인정받지는 못하고 있다. 아래는 최근까지 밝혀진 주요 나선 팔의 위치와 설명이다.[14]
직각자자리 팔 (3kpc 팔)
방패-남십자자리 팔 (켄타우르스자리 팔)
궁수자리-용골자리 팔 (궁수자리 팔)
오리온자리 팔 - 태양계가 이 팔에 속해 있다.
페르세우스자리 팔
백조자리 팔
각 팔마다의 색깔은 다음과 같다.
우리 은하의 변화
우리은하는 측면에서 봤을 때 나선 팔의 일부가 위로 밀려 올라가서 휘어진 모양을 하고 있는데, 이는 위성은하인 대마젤란 은하, 소마젤란 은하가 중력적으로 영향을 미치기 때문으로 추정된다. 우리의 이웃 은하인 안드로메다 은하도 이웃 위성은하에 의해 나선 팔의 일부 구조가 심하게 뒤틀린 모습을 띠고 있다. 이들 두 위성은하는 각각 우리은하와 마젤란 흐름이라는 수소 가스로 이루어진 띠로 연결되어 우리은하 주위를 약 15억년 주기로 공전하면서 중력적으로 속박되어 있는데, 이 마젤란 흐름은 약 2억년 전에 이들 위성은하가 비정상적으로 우리은하에 접근하는 과정에서 조석력에 의해 형성된 것으로 보인다. 현재 이 통로를 통해 이들 마젤란 은하의 별과 가스 등이 우리은하로 끌려가는 현상이 나타나고 있으며, 향후 서서히 우리은하에 별을 빼앗겨 결국에는 우리은하에 흡수될 것으로 예상된다. 현재 대,소 마젤란 은하는 불규칙 은하로 분류되나, 두 은하 모두 중심부에 희미한 막대 구조가 관찰된다. 이를 두고 과거에 정상은하였다가 우리은하의 강한 중력에 의해 구조가 해체되고 남은 잔해라는 설, 반대로 우리은하 중력에 영향을 받아 정상은하로 발전해 가는 단계라는 설 등이 있으나 아직까지 확인된 바는 없다.
우리은하는 과거로부터 끊임없이 주위의 작은 은하를 흡수, 합병하면서 성장하여 현재의 모습에 도달하였다는 것이 대체적인 중론이다. 과학자들은 우리은하 내의 별들의 공간 구조를 조사하다가 특이한 별집단의 운동('성류'라고 불림)을 인식하게 되었고, 이는 우리은하가 다른 은하를 잡아먹고 남은 잔해물이라는 결론에 도달하였다. 우리은하의 중심부에 존재하면서 은하 핵을 수직으로 공전하는 특이한 "Inner Ring" 과 외곽 헤일로에서 최근 존재가 확인된 "Outer Ring(Monoceros Ring)"이 바로 그것이다. 또한, 1999년에는 대한민국 연구팀이 우리은하에서 가장 큰 구상성단인 오메가 센타우리가 원래는 왜소은하의 중심핵이었음을 입증한 바 있으며, 현재 우리은하의 약 200여개 구상성단 중 최소 40%는 우리은하가 아닌 주변 왜소은하의 중심핵이었거나 이들 왜소은하에 딸린 구상성단이었을 것으로 추정된다. 지금 현재에도 최소한 2개 이상의 왜소 위성은하를 합병 중인 것으로 확인되고 있으며, 지구로부터 25,000광년 떨어진 큰개자리 왜소은하와 70,000광년 떨어진 궁수자리 왜소은하가 바로 그 희생양 들이다. 최근 2005년에 발견된 처녀자리 왜소은하의 경우, 지구로부터 약 30,000광년 떨어진 거리에서 우리은하를 밑에서 위로 관통하고 있는 것으로 밝혀졌으나, 궁수자리 왜소은하와 가까운 위치 때문에 새로운 왜소은하인지 아니면 궁수자리 왜소은하의 잔해물인지의 여부가 불확실한 상태이다. 특이한 점은 최근의 컴퓨터 시뮬레이션에서 처녀자리 왜소은하의 경우 운동 궤적을 조사한 결과, 과거에 몇 번이나 우리은하를 수직으로 관통한 적이 있는 것으로 나타나 어떻게 우리은하에 흡수되지 않고 형태를 유지하여 왔는지가 미스테리인데 우리은하의 중력을 이겨낼 정도로 상당한 양의 암흑물질을 보유한 것이 아닌가 추정된다.
한편, 현재 우리은하는 중심핵에 위치한 블랙홀의 활동성이 약한 정상상태 은하인 것으로 보이나, 최근까지도 블랙홀에서 격렬한 활동을 통해 막대한 에너지를 외부로 방출하는 셰이퍼트 은하와 같은 활동성 은하였다는 증거들이 관측되고 있다. 최근 2010년에 우리은하의 중심부에서 나선팔 원반과 수직 방향 위, 아래로 각각 25,000광년(직경 50,000광년) 길이의 감마선을 방출하는 비눗방울 모양 거대 구조가 발견되었는데, 북쪽하늘의 처녀자리에서 남쪽하늘의 두루미 자리까지 전 하늘의 절반 이상을 차지하고 있으며 이 구조의 가장자리 윤곽이 매우 뚜렷한 것으로 보아 약 10만 개 이상의 초신성 폭발과 맞먹는 에너지가 방출된 현상으로 추정된다. 또한, 우리은하 중심핵에서 약 3,000광년 거리의 공간에 중심부에서 방출된 감마선 잔해물 거품 구조가 형성되어 과거에 격렬한 반응이 있었음을 짐작하게 한다.
스미스 구름
한편, 우리은하를 향해 돌진해 오고 있는 특이한 거대 수소가스 구름(일명 "Smith's Cloud")은 아직 미스테리이다. 1963년에 이미 존재가 확인되었다. 현재 우리은하 원반 디스크 면으로부터 8,000광년 거리에서 초속 240km(시속 86만 9천 km)의 속도로 접근 중이며, 총 길이는 9,800광년, 폭은 3,300광년에 달하는 것으로 추정되며 질량은 태양의 100만배를 초과하며 2000만배에서 어쩌면 1억배를 초과할 것이라는 관측도 있다. 향후 2,700만 년 이내에 우리은하의 페르세우스자리 팔에 45도의 각도로 충돌하여 약 100만 개 이상의 별이 폭발적으로 생성될 것으로 예측되고 있다.
참고로 이러한 구름들은 우주 보이지 않는 곳곳에 널려 있다. 또한 몇몇 덩치 큰 구름들은 구름 내부에 자기장을 형성하고 있다. 이러한 자기장은 구름이 흩어지지 않게 하며 별의 생성을 억제한다. 따라서 이러한 구름은 어느 정도 밀도 높은 가스 구름과 서로 충돌하지 않는 이상은 대량으로 별을 생성하지 못한다. 우주에서는 은하와 은하 사이, 은하단과 은하단 사이에는 이러한 구름들이 많이 있으며 넓게 퍼져 있어 질량은 매우 크지만, 밀도는 옅어 별이 잘 생성되지 않는다.
하지만 스미스 구름처럼 어느 정도 밀도가 높은 구름도 우주에 많이 존재하고, 우리 은하단 내에서도 많이 존재한다. 이러한 밀도가 어느 정도 되고 무거운 구름들은 구름 내부에 자기장으로 인해 어지간하면 별을 잘 생성하지는 못하지만, 다른 은하들과의 직접적인 상호 작용으로 인해 왜소 은하나 중형급 은하를 새로이 형성하기도 하고 다른 은하와 충돌하여 스타 버스트 현상을 일으킨다. 우리 은하는 주기적으로 이러한 거대한 구름들을 흡수하여 별을 생성하고 있다.
태양의 위치
태양은 우리은하 내 수천 억개의 별들 중에서 극히 평범한 항성으로 과거 약 46억 년전에 3세대 초신성의 폭발에 따른 가스의 응축력에 의해 산개성단 내에서 많은 형제 별들과 함께 생성된 것으로 추정되고 있다. 태양은 우리은하 나선 팔의 파동운동 영향으로 초기의 탄생 위치에서 멀리 이동했을 것으로 추측되며, 현재 은하 중심에서 태양까지의 거리는 약 26,500 ± 1,400 광년으로 수평 방향으로는 전체 은하 디스크의 중간 위치에 자리하고 있으며, 수직 방향으로는 은하 기준평면(은위 0도)으로부터 약 60~70광년 정도 위에 위치하고 있다.[15][16][17][18]
태양은 페르세우스자리 팔 안 쪽으로 6,500광년 떨어진 오리온자리 팔(페르세우스자리 팔에서 갈라져 나온 부수적인 팔)의 은하 중심 방향으로 가장자리에 위치해 있으며 [19]
, 과거부터 오리온팔과 나선 팔 공간 사이를 주기적으로 왕복하고 있다. 태양은 최근 몇 백만 년 전에 현재의 "Local Bubble"(성간가스의 밀도가 다른 지역에 비해 희박한 지역으로 위로는 나선 팔을 넘어 헤일로까지 뻗어 있는 길다란 굴뚝 모양의 거품 구조 공간)이라는 과거의 쌍둥이자리 초신성 폭발 잔해 영역으로 진입하였으며, 현재 "Local Bubble"의 경계면에서 근처의 전갈-센타우루스 자리 OB성협(산개성단보다 느슨하게 모인 별의 집단)의 젊은 별들이 뿜어내는 강한 항성풍을 뚫고 나선 팔을 따라 공전하고 있다.
태양계의 경우 은하계를 공전하는 데에 2억 2600만년이 걸리며, 태양계의 나이로 봤을 때 지금까지 25번 공전했다. 태양은 은하 내에서 헤라클레스자리 근처의 거문고자리 1등성인 직녀성을 향해 초속 220km, 은하 중심으로부터 60도의 각도로 비스듬히 공전 중이며, 또한 한번 공전할 때마다 평균 2.7회 정도 주기적으로 은하 원반 내에서 상하운동을 하고 있다.
이는 1 AU를 8일만에, 1광년을 1400년 만에 갈 수 있는 속도이다. 별들의 공전속도는 중심과 떨어진 거리와 상관없이 초속 200~250km로 일정하다 . 그렇기 때문에 공전주기는 은하의 중심에서 떨어진 거리에 거의 비례한다.
이웃 은하
우리 은하를 포함해서 약 20 ~ 30여 개의 은하가 가까이 모여 있는데, 이를 국부 은하군이라고 한다. 국부 은하군 중 크기가 비교적 큰 은하로는 우리 은하, 안드로메다 은하, 삼각형자리 은하가 있다. 국부 은하군 중 안드로메다 은하와 우리은하가 질량의 대부분을 차지하여 서로 중력적으로 영향을 미쳐 공전하고 있으며, 삼각형자리 은하(M33)는 지구로부터 약 290만 광년, 안드로메다 은하로부터 70만 광년 거리에 위치한다. 삼각형자리 은하(M33)는 지름 약 6만 광년인 평균 크기의 나선은하로서 이웃하는 안드로메다 은하에 중력적으로 속박되어 아주 긴 궤도를 따라 천천히 공전하고 있으며, 이미 안드로메다 은하 쪽으로 별과 가스의 유출 현상이 나타나고 있어 장차 안드로메다에 흡수, 합병될 가능성이 큰 것으로 보인다.[20]
안드로메다 은하
안드로메다 은하(M31)는 지구로부터 약 250만 광년 거리에 있으며, 최근의 관측 결과 과거에 헤일로로 추정되던 부분이 실제로는 은하 원반임이 판명됨에 따라 이전의 추정지름 12만 ~ 14만의 크기를 훨씬 뛰어넘어 지름이 약 22만 광년(최대 약 25만 광년)에 이르는 거대 나선은하인 것으로 보이며, 포함하는 총 별의 갯수도 1조 개 이상으로 우리은하의 2배에 달한다. 따라서, 우리은하에 비해 밝기도 2배에 달할 것으로 추정되고, 중심부 벌지(Bulge)도 우리은하의 것보다 더 크고 더 밝다. 그러나, 무게 면에서는 우리은하가 약 1.5 ~ 2배 더 무거운 것으로 계산되며, 실제로 안드로메다 은하는 우리은하보다 질량이 작은 것처럼 거동하는 특성을 나타낸다. 이는 우리은하가 암흑물질이나 성간 가스 등을 더 많이 함유하고 보다 더 조밀하게 밀집되어 있는 것 때문으로 추정되나, 한편으로는 여전히 풀리지 않는 의문점이 많다. 안드로메다 은하 중심부의 초거대 블랙홀은 태양 질량의 약 3000만배 이상으로 우리은하보다 훨씬 무겁다고 추정되며, 통상적으로 은하의 무게는 중심부 블랙홀의 무게와 비례한다는 관측결과와 상충되는 모순점이 있는 것 등으로 있다. 이는 은하가 얼마나 혼돈한 활동을 겪었는지 연구 중이지만, 우리 은하는 비교적 적당한 크기의 가스 구름과 은하들을 꾸준히 삼켜서 성장한 반면, 안드로메다 은하는 좀 더 덩치 큰 은하와 구름들과 충돌하여 혼돈을 좀 더 심하게 겪어 은하 중심부에 블랙홀이 많이 커졌다는 연구가 있다.[21]
안드로메다 은하와 우리 은하의 충돌
그러나, 현 시점에서 우리은하는 안드로메다 은하에 비해 2배 이상으로 활발히 별을 생성하고 있으며, 안드로메다 은하가 연간 평균 태양 질량을 기준으로 1~2개의 별을 생성하는 반면, 우리은하는 연간 평균 5~6개의 별을 생성하고 있는 것이 확인되었다. 안드로메다 은하의 중심 핵이 2개로 이루어져 있는 것으로 보아 과거에 안드로메다 은하는 다른 은하와 충돌, 합병하면서 "Starburst 은하"처럼 별이 폭발적으로 생성된 시기가 있었던 것으로 추측되며, 우리은하는 현재 활발히 별을 생성 중인 단계인 것으로 과학자들은 추정하고 있다. 실제로 2010년에 안드로메다 은하가 약 90억년 전에 두 은하 간의 충돌에 의한 합병이 시작되어 약 55억년 전에 최종적으로 현재의 은하로 합체되었음이 여러 증거를 통해 확인된 바 있다.
최근 관측결과에서는 안드로메다 은하도 우리은하처럼 정상나선은하가 아닌 막대나선은하일 가능성이 제기되고 있으며, 또한 두 은하의 헤일로 내 금속 성분 비가 유사한 결과로 보아 우리은하와 안드로메다 은하는 비슷한 시기에 태어나 비슷한 발달 과정을 거쳐온 형제은하일 것으로 추측되고 있다. 현재 두 은하는 서로 간의 중력의 영향으로 점점 가까워지고 있으며, 향후 30~40억년[22][23] 이내에 충돌하여 결국에는 처녀자리 은하단의 M87 은하처럼 하나의 초거대 타원은하로 새로 태어날 것으로 예상되고 있다. 이때의 우리 은하의 이름은 아마도 'Mikomeda Galaxy(미코메다 은하)'일 것이다.
국부 은하군
국부 은하군은 약 10,000여 개 이상의 은하로 이루어진 처녀자리 은하단의 끝 외곽부에 위치하고 있으며, 처녀자리 은하단의 중심부로부터 6500만 광년 떨어져 있다. 이웃하는 은하군으로는 우리은하로부터 대략 1,000만 광년 정도 거리에 조각가자리 은하군, M81 은하군, 마페이 은하군, NGC5128 은하군이 있다. 하지만, 이들 은하군 내의 개별 은하들은 각각의 은하군 내에 고정되어 있지 않고 시간의 흐름에 따라 서로 간에 구성원이 바뀌기도 한다는 것이 컴퓨터 시뮬레이션 결과 밝혀졌다. 일례로 우리은하의 중심핵 방향의 두터운 가스와 먼지 때문에 그동안 존재를 모르고 있다가 최근에야 적외선 관측을 통해서 존재가 확인된 마페이 은하군(MaffeiⅠ, Maffei Ⅱ 은하가 주력인 은하군)의 경우, 과거에는 국부 은하군의 구성원이었다가 지금은 멀어져가고 있다는 것이 확인되었다. 국부 은하군은 주위의 은하군들과 함께 600km/s의 속도로 처녀자리 은하단의 중력에 이끌려 가고 있으며, 그 방향은 바다뱀자리 별자리를 향하고 있다.
왜소 은하
국부 은하군에는 우리 은하 주위를 공전하는 왜소은하가 다수 있다. 그중 가장 큰 것은 지름이 2만 광년인 대마젤란 은하가 있다. 용골자리 왜소은하, 용자리 왜소은하, 사자자리 왜소은하 Ⅱ는 지름이 500광년으로 가장 작은 은하들이다. 다른 왜소은하로 소마젤란 은하, 큰개자리 왜소은하(가장 가까운 은하), 궁수자리 왜소은하, 작은곰자리 왜소은하, 조각가자리 왜소은하, 육분의자리 왜소은하, 화학로자리 왜소은하, 사자자리 은하 등이 있다. 과학자들의 이론적 계산에 의하면 우리은하 주위에 백 여개의 왜소은하가 존재할 것으로 예상되지만 현재 그리 많이 발견되지는 않고 있다. 우리은하가 성장하면서 과거부터 끊임없이 주위의 은하를 합병하였거나, 은하수를 따라 관측 불가능 지역에 다수 분포할 가능성이 있는 것으로 추정하고 있다.
같이 보기
은하수
안드로메다 은하
국부 은하군
국부 초은하단
위성 은하
각주
외부 링크
– Includes spiral arms and Orion spur
– wikisky.org
– wikisky.org
– Images and VRML models (NASA)
.
, University of South Wales
– SEDS Messier website
– Infrared Images
– CMB radiation (Planck; one-year survey)
분류:막대나선은하
분류:국부은하군
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Most jurisdictions recognise driver's licences issued by another jurisdiction, which may result in a young person who obtains a licence in a jurisdiction with a low minimum driving age being permitted to drive in a jurisdiction which normally has a higher driving age.
The minimum age may vary depending on vehicle type. This list refers to the minimum driving age for a motor vehicle with a maximum authorized mass not exceeding 3,500 kg and designed and constructed for the carriage of no more than eight passengers in addition to the driver (not including a trailer).
Africa
Americas
North America
Central America
South America
Caribbean
Asia
Middle East
South Asia
East Asia
Southeast Asia
Europe
European driving licence area
Rest of Europe
Oceania
See also
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Bailey v. Drexel Furniture Co.
Child Labor Deterrence Act
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History of youth rights in the United States
Morse v. Frederick
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Уса́ма бен Мухаммед бен Авад бен Ла́ден (Arabic: أسامة بن محمد بن عوض بن لادن; , Эр-Рияд, Саудовская Аравия — , Абботтабад, Пакистан) — основатель и первый эмир международной исламистской террористической организации «Аль-Каида», взявшей на себя ответственность за теракты 11 сентября 2001 года и взрывы посольств США в Африке в 1998 году, как и за ряд других атак на военные и гражданские цели по всему миру[1][2][3]. Уроженец Саудовской Аравии, происходил из богатой семьи, принадлежащей к йеменскому племени киндитов[4].
Сын миллиардера Мухаммеда ибн Авада бен Ладена. В 1979 году бросил университет на родине и направился в Пакистан, где присоединился к моджахедам, боровшимся против советских войск в Афганистане. Снабжая противников интервенции оружием, финансами и бойцами, Усама приобрёл широкую популярность в арабском мире[5]. В 1988 году он основал «Аль-Каиду»[6]. В 1992 году саудовские власти выдворили Усаму бен Ладена за пределы королевства, и он переехал в Судан, однако под давлением США в 1996 году был вынужден покинуть страну. Перебравшись в Афганистан, он объявил войну Соединённым Штатам и отдал приказ о серии терактов[7]. За причастность к взрывам американских посольств в Кении и Танзании в 1998 году Усама бен Ладен был включён в списки десяти наиболее разыскиваемых беглецов и , опубликованные ФБР[8][9][10].
В 2001—2011 годах являлся главной целью Войны против терроризма, за информацию о его местонахождении ФБР назначило награду в 25 миллионов долларов[8]. 2 мая 2011 года Усама бен Ладен был ликвидирован[11] в ходе операции американских спецподразделений по приказу президента США Барака Обамы в собственном убежище в пакистанском Абботтабаде[12].
Биография
Усама бен Ладен родился 10 марта 1957 года[13] в саудовском Эр-Рияде в семье строительного магната Мухаммеда ибн Авада бен Ладена, имевшего тесные связи с монаршим домом[14], и его наложницы Хамиды аль-Атасс[15]. Через некоторое время после рождения сына Мухаммед развёлся с ней[16]. Мальчик жил вместе с матерью, которая вновь вышла замуж и родила 4 детей[15]. Состояние бен Ладенов оценивалось в 5 млрд долларов, из которых Усама унаследовал 25—30 млн[17].
Усаму бен Ладена растили набожным суннитом[18]. В 1967 году его отец погиб в авиакатастрофе[19][20]. В 1968—1976 годах Усама учился в престижной светской школе ат-Тажер[15][21] и поступил в университет короля Абдель-Азиза в Джидде, где обучался экономике и управлению бизнесом[22]. По одной информации, в 1981 году он получил диплом по государственному управлению[23], по другой — бросил учебное заведение на третьем курсе[24]. Согласно одним источникам, он отличался усердием[25]. Во время учёбы в Джидде Усаму в основном интересовала религия: он увлёкся толкованием Корана и джихада и благотворительностью[26]. Кроме того, он любил сочинять стихи[27], читать труды Бернарда Монтгомери и Шарля Де Голля и играть в футбол на позиции центрального нападающего. Будущий лидер «Аль-Каиды» болел за лондонский «Арсенал». Ему также нравились чёрные жеребцы[28].
Афганская война
В 1979 году Усама бен Ладен бросил учёбу и присоединился к Абдулле Аззаму в Пакистане, после чего начал помогать моджахедам, боровшимся против советских войск в Афганистане, деньгами и техникой, принадлежавшей его строительной компании[29]. Свой порыв он позже объяснил злобой на «несправедливость к людям Афганистана»[30]. В 1979—1989 годах в рамках операции «Циклон», осуществлявшейся ЦРУ, США и Саудовская Аравия потратили 40 млрд долларов на финансирование и вооружение почти 100 000 борцов против оккупации, в числе которых были добровольцы из 40 арабских стран, через пакистанскую разведку[31]. С её главой генерал-лейтенантом Хамидом Гулем будущий основатель «Аль-Каиды» встречался и завязал отношения. Это ведомство, как и пакистанские вооружённые силы, тренировало боевиков[32].
К 1984 году Усама и Аззам создали «Мактаб аль-Хидамат» — организацию, снабжавшую моджахедов деньгами, оружием и бойцами, поступавшими из других арабских стран. Через неё Усама бен Ладен тратил унаследованное состояние[33] на авиабилеты, жильё, оформление документов для пакистанских властей и другую помощь джихадистам. Он организовал тренировочные лагеря в провинции Хайбер-Пахтунхва и обучал добровольцев со всего арабского мира. Иногда он сам принимал участие в сражениях, в ходе одного из которых был ранен в ногу[34]. В этот период он стал культовой для многих арабов фигурой[5].
Создание «Аль-Каиды»
К 1988 году Усама покинул «Мактаб аль-Хидамат», желая играть большую военную роль. Он считал, что арабы в составе афганского сопротивления должны быть отдельной силой, в то время как Аззам был сторонником их слияния с моджахедами[35]. К тому времени «Аль-Каида» имела больше формальный характер. От её членов требовались умение слушать, хорошие манеры, послушание и готовность дать клятву пойти за старшими[36]. Тогда существование группировки держалось в строгом секрете[37]. Датой её создания называется 11 августа 1988 года, когда на встрече между руководством «Египетского исламского джихада», Аззамом и Усамой бен Ладеном было принято решение объединить средства последнего и опыт первого и распространять джихад и далее после вывода советских войск из Афганистана[38]. В конце 1989 года Усама вернулся на родину и был встречен как герой, который со своим Арабским легионом «повалил могучую сверхдержаву»[39]. Он был недоволен кровопролитной войной между афганскими племенами[5].
Вторжение Ирака в Кувейт в августе 1990 года поставило королевство и монарший дом под угрозу. Иракские войска были сконцентрированы на границе с Саудовской Аравией, призывы Саддама Хусейна к арабскому единению подогревали внутренние разногласия. Усама бен Ладен встречался с королём Фахдом и министром обороны принцем Султаном в надежде убедить их отказаться от помощи со стороны немусульманских стран и предложил им военную поддержку своего Арабского легиона, однако получил отказ, и власти государства призвали к размещению американских войск на его территории[40]. Лидер «Аль-Каиды» публично осудил зависимость королевства от вооружённых сил США, заявив, что лишь мусульмане могут защищать две величайшие исламские святыни — Мекку и Медину. Критикуемая им правящая династия пыталась заставить его замолчать. Американская 82-я воздушно-десантная дивизия высадилась в городе Дахран на северо-востоке королевства и была дислоцирована в пустыне в нескольких сотнях километров от Медины[5].
8 ноября того же года агенты ФБР посетили дом, где проживал Эль Сайид Насер, связанный с оперативником «Аль-Каиды» Али Мухаммедом. В ходе обыска были обнаружены весомые доказательства планирования терактов, в том числе подрыва нью-йоркских небоскрёбов, что стало первыми известными планами организации по совершению террористических актов за пределами мусульманских стран[41]. Позже Насер был признан виновным в убийстве раввина Меира Кахане[42], совершённом 5 ноября 1990 года[43], и приговорён к пожизненному заключению за причастность ко взрыву во Всемирном торговом центре в 1993 году[41]. Усама продолжил открыто критиковать монарший дом, за что в 1992 году был выслан из страны и перебрался в Судан[44].
Судан. Возвращение в Афганистан
В Судане глава «Аль-Каиды» создал тренировочную базу для джихадистов в Хартуме, где приобрёл дом в престижном районе, а также купил жильё в городе Соба на Голубом Ниле[45][46]. За время пребывания в этой стране он вложил большие средства в её инфраструктуру и сельское хозяйство и активно занимался бизнесом: в частности, был торговым представителем британской компании Hunting Surveys[47]. Эти предприятия находились под протекцией влиятельного политика-исламиста Хасана ат-Тураби, однако не были успешными[48]. С помощью техники, перевезённой из Афганистана, строились дороги[49]. Многие из сотрудников Усамы были его боевыми товарищами. Он занимался благотворительностью и пользовался популярностью среди местного населения[50][51]. Лидер «Аль-Каиды» продолжал критиковать короля Фахда, за что в 1994 году был лишён гражданства и стипендии размером в 7 млн долларов в год со стороны семьи[52][53].
К тому времени Усаму бен Ладена начали связывать с Египетским исламским джихадом. В 1995 году эта организация неудачно покушалась на президента Египта Хосни Мубарака, и Судан выслал её членов с его территории. Госдепартамент США объявил это государство спонсором международного терроризма и заявил о наличии тренировочных лагерей «Аль-Каиды» в суданской пустыне. Местные власти отрицали обвинения, ссылаясь на то, что ат-Тураби потерял влияние в стране. Суданские официальные лица хотели сотрудничать с Соединёнными Штатами, однако они отказались идти на контакт даже после того, как Усама покинул территорию государства. Лишь в 2000 году сотрудники американской разведки посетили республику[47].
В конце 1995 года власти Судана и Саудовской Аравии начали вести переговоры по высылке лидера «Аль-Каиды» за пределы страны, в чём суданцев поддержал посол США в Судане, однако официальные лица королевства противились возвращению Усамы бен Ладена на родину, так как он был лишён гражданства[54]. Республика попросила Саудовскую Аравию простить его. К тому времени Усама начал думать, что в Судане небезопасно — там он пережил как минимум одно покушение, которое, как он полагал, было организовано Египтом или королевством и профинансировано ЦРУ[55].
В конце концов под давлением Саудовской Аравии, Египта и США правительство страны позволило эмиру «Аль-Каиды» выехать в любую страну, и он выбрал Афганистан, куда и прибыл чартерным рейсом в Джелалабад 18 мая 1996 года. Усама бен Ладен завязал близкие отношения с лидером Талибана муллой Омаром[56][57]. Изгнание значительно ослабило «Аль-Каиду» и её лидера[55]. Согласно некоторым источникам, оно не оставило ему и его последователям иного выбора, кроме как полной радикализации: большинство из 300 её членов стали террористами, в то время как ранее организация находилась под контролем Судана[47]. По разным оценкам, Усама потерял из-за высылки от 20[58] до 300[59] млн долларов — строительная техника была конфискована, ему пришлось ликвидировать фирмы и избавиться от земельных участков и даже от собственных лошадей[60]. Среди вероятных источников его доходов также называлась торговля африканскими полезными ископаемыми[61], наркоторговля и контрабанда[62].
В августе 1996 года Усама бен Ладен издал фетву об объявлении войны Соединённым Штатам[60]. Несмотря на то, что в 1990 году президент Джордж Буш—старший заверил короля Фахда, что американские войска покинут королевство после устранения иракской угрозы, к 1996 году они так и не были выведены. Буш ссылался на необходимость сдерживать режим Саддама Хусейна, который президент США решил не уничтожать. Глава «Аль-Каиды» объявил Саудовскую Аравию их колонией[7]. В Афганистане он получал пожертвования и средства от пакистанской разведки, шедшие на создание новых тренировочных лагерей для моджахедов[63]. Он контролировал авиакомпанию Ariana Afghan Airlines, которую использовал для транспортировки бойцов, оружия, наличных и опия через Объединённые Арабские Эмираты и Пакистан и как прикрытие для членов группировки[64]. За обслуживание самолётов и их загрузку отвечал торговец оружием Виктор Бут[65].
Начало террористической деятельности
Считается, что первый теракт, к которому был причастен Усама, — взрыв 29 декабря 1992 года в аденской гостинице, унёсший жизни двух человек[66]. Именно тогда «Аль-Каида» начала оправдывать убийство невинных людей — согласно фетве одного из основателей этой организации Мамдуха Махмуда Салима, смерть случайных свидетелей вознаградит их[6]. В 1992 или 1993 году её лидер отправил в Алжир эмиссара с 40 000 долларов в помощь исламистам, который убедил их начать «тотальную войну» с правительством, что вылилось в массовое насилие[67]. В ходе боевых действий погибло 150 000—200 000 человек, исламисты потерпели поражение[68]. Усаму бен Ладена обвиняли в финансировании теракта в Луксоре 17 ноября 1997 года[69][70][71], унёсшего жизни 62 человек и вызвавшего сильное неприятие в египетском обществе. Он укрепил свои отношения с Талибаном, послав несколько сотен джихадистов на защиту Мазари-Шарифа от хазарейцев[72].
В феврале 1998 года лидер «Аль-Каиды» вместе с Айманом аз-Завахири подписал фетву о создании «Всемирного фронта джихада против евреев и крестоносцев», провозгласившую убийство американцев и их союзников «личной нуждой каждого мусульманина» на пути к «освобождению мечети Эль-Акса и священной мечети от их власти»[73][74]. На публичном оглашении этого документа Усама заявил, что американцы — лёгкие цели, и сказал присутствующим журналистам: «Результаты этого вы увидите совсем скоро»[75].
7 августа 1998 года у посольств США в столицах Танзании Дар-эс-Саламе и Кении Найроби прогремели взрывы, в результате чего погибли сотни людей[76]. Вскоре была установлена причастность «Аль-Каиды»[77], за которую Усама бен Ладен был включён в список десяти наиболее разыскиваемых ФБР беглецов[8]. В декабре того же года Контртеррористический центр при директоре ЦРУ доложил президенту Биллу Клинтону о подготовке «Аль-Каидой» терактов на территории Соединённых Штатов, в том числе угонов самолётов[78]. В конце 2000 года Ричард Кларк заявил, что на 3 января 2000 года группировка планировала атаки на отель в иорданском Аммане, туристов на горе Нево, место на реке Иордан, где, по преданию, крестился Иисус[79], и цель в США, а также потопление эсминца USS The Sullivans (DDG-68) в Йемене. План был сорван арестами заговорщиков в Иордании и оперативника «Аль-Каиды» Ахмеда Рисама и крушением лодки, перевозившей взрывчатку для уничтожения судна[80].
Поддержка исламистов в 1990-х годах
В октябре 2001 года бывший сотрудник Госдепаратамента США назвал Боснию «безопасной гаванью» для террористов и заявил, что бывшие власти в Сараеве защищали их, а некоторые из экстремистов имели связи с Усамой[81]. После окончания войны на территории Боснии осталось более 1000 исламских добровольцев[82], которым было предоставлено гражданство[83]. По некоторым сведениям, Усама бен Ладен и сам получил его[84][85] и в 1993 году встречался с президентом Алией Изетбеговичем[86]. Через свои компании в Судане Усама бен Ладен финансировал небольшие группы бойцов из арабских стран, прибывавшие в Боснию. В состав одной из них входил Карим Саид Атмани, обвинённый американскими властями в подделке документов для нескольких алжирцев, планировавших взрывы на территории Соединённых Штатов[87]. К 1998 году в Албании было арестовано и выслано в Египет четверо членов ЕИД[88]. В марте 2002 года во время процесса над экс-президентом Югославии Слободаном Милошевичем, проходившего в рамках Международного трибунала по бывшей Югославии, обвиняемый заявил, что «Аль-Каида» помогала мусульманским бойцам в Косове, Боснии и Чечне[89].
Глава «Аль-Каиды» с 1995 года играл активную роль в чеченском конфликте, посылая агентов «Аль-Каиды» на Северный Кавказ и финансируя
чеченское бандподполье[90]. Его представителем в регионе был полевой командир Хаттаб, с которым Усама был знаком с 1987 года. Его финансовая поддержка позволила Хаттабу укрепить собственное влияние в Чечне[91]. Усама бен Ладен поддерживал и узбекских исламистов: в частности, неоднократно встречался с Тахиром Юлдашевым с целью наладить связи между ним и Талибаном[62] и выделял Джуме Намангани до 3 млн долларов ежегодно[62].
Утверждения о связях режима Саддама Хусейна с «Аль-Каидой», послужившие одной из причин вторжения в Ирак[92], так и не нашли подтверждения[93].
Теракты 11 сентября
Видит Бог, что нам и в голову не приходило атаковать башни, но после того, как ситуация стала невыносимой, и мы увидели несправедливость и тиранию американо-израильского союза против нашего народа в Палестине и Ливане, я задумался об этом. А те события, что затронули меня напрямую, произошли в 1982-м и после этого, когда американцы позволили израильтянам вторгнуться в Ливан и им помог Шестой флот. Когда я наблюдал за уничтожением башен в Ливане, мне пришла мысль наказать неправых так же: уничтожить башни в Америке, чтобы они отчасти почувствовали, что чувствуем мы, и прекратили убивать наших детей и женщин.
Первоначально эмир «Аль-Каиды» отрицал свою причастность к событиям 11 сентября[94], однако в 2004 году признал её[95][96][97]. В ходе терактов было угнано четыре пассажирских самолёта — рейсы 11 American Airlines, 175 United Airlines, 77 American Airlines и 93 United Airlines, врезавшиеся соответственно в Северную и Южную башни Всемирного торгового центра в Нью-Йорке и Пентагон в округе Арлингтон, штат Виргиния. Четвёртый самолёт, летевший к вашингтонскому Капитолию[98], упал в поле близ города Шанксвилл, Пенсильвания. Все пассажиры на борту погибли[99]. Трагедия унесла жизни 2997 человек[100]. В ответ правительство США начало войну с терроризмом, чьими целями были свержение режима талибов в Афганистане и захват оперативников «Аль-Каиды». Несколько государств в целях противодействия терроризму ужесточили собственное законодательство. Поиск и пленение либо уничтожение Усамы были поручены Отделу специальных операций ЦРУ[101]. ФБР заявило, что обладает неопровержимыми секретными[102] доказательствами причастности Усамы бен Ладена и «Аль-Каиды» к терактам[103]. Правительство Великобритании пришло к аналогичному выводу о причастности террориста, однако сочло имеющиеся доказательства недостаточными для заведения уголовного дела[104].
16 сентября 2001 года диктор телеканала «Аль-Джазира» зачитал послание главы «Аль-Каиды», в котором тот заявил о своей непричастности к атакам[105]. В ноябре 2001 года американские войска обнаружили в Джелалабаде видеокассету, на которой Усама бен Ладен в ходе обсуждения с соратниками событий 11 сентября признаётся, что заранее знал об их подготовке[106]. 13 декабря плёнка была обнародована. Корректность перевода аудиодорожки на английский язык подвергается сомнению: по мнению арабиста Абделя Эль М. Хусейни, в тех местах, где лидер «Аль-Каиды» признаёт ответственность за теракты, английский текст не совпадает с арабским[107]. В своём видео от 29 октября 2004 года он сообщил о своей причастности к произошедшему, однако не отозвал прошлые заявления[96]. Теракты Усама объяснил тем, что «мы свободный народ», который «хочет вернуть свободу»[108], и обвинил президента Джорджа Буша—младшего в халатности по отношению к угонам самолётов 11 сентября[96].
23 мая 2006 года «Аль-Джазира» передала новое обращение террориста, в котором тот признался, что он «в ответе за девятнадцать братьев» и «был ответственен за поручение девятнадцати братьям … этих рейдов»[109]. 6 сентября того же года в эфир вышли кадры, на которых Усама бен Ладен обсуждал предстоящие атаки с Рамзи ибн аш-Шибхом и их непосредственным исполнителем Ваилем аш-Шехри[110]. В своём «письме Америке», обнародованном в ноябре 2002 года, глава «Аль-Каиды» называл причинами атак поддержку США Израиля, агрессии против мусульман в Чечне, Кашмире и Ливане и непосредственное участие в уничтожении мусульман в Сомали, американское военное присутствие в мусульманских странах и их внешнее управление, а также санкции против Ирака[111].
Уголовное преследование
16 марта 1998 года Ливия объявила Усаму в международный розыск по подозрению в причастности к убийству одного из ведущих немецких арабистов, агента немецкой разведки Сильвана Беккера и его жены Веры 10 марта 1994 года[112][113]. На момент своей гибели эмир «Аль-Каиды» всё ещё разыскивался ливийскими властями[114]. 8 июня 1998 года американское большое жюри признало его вину в сговоре с целью атаковать оборонительные сооружения США, а также то, что он являлся руководителем террористической организации «Аль-Каида» и играл одну из главных ролей в поддержке исламистов по всему миру[115]. 4 ноября того же года большое жюри окружного суда по Южному округу штата Нью-Йорк в рамках расследования причастности Усамы бен Ладена к взрывам американских посольств в Африке в 1998 году вынесло решение о вине террориста в убийстве граждан США за пределами страны, сговоре с целью убийства граждан США за пределами страны и нападении на федеральный объект, приведшее к смерти[116]. В качестве доказательств обвинение привело показания свидетелей и записи разговоров по спутниковому телефону, приобретённому для подсудимого на территории Соединённых Штатов[117][118]. Тем не менее Талибан счёл его невиновным из-за недостатка доказательств и заявил, что несправедливо судить мусульманина немусульманским судом[119].
7 июня 1999 года лидер «Аль-Каиды» за совершение преступлений, карающихся смертной казнью, в рамках терактов 1998 года был включён в список десяти наиболее разыскиваемых ФБР беглецов. Покушения на него и попытки воздействовать на афганские власти с целью добиться его экстрадиции не имели успеха до начала войны[119]. В 1999 году по предложению президента США Билла Клинтона ООН ввела санкции против режима талибов с целью заставить их выдать Усаму[120], но они продолжили препятствовать экстрадиции. После терактов 11 сентября афганские власти предложили начать процесс против Усамы бен Ладена в исламском суде, если будут приведены доказательства его причастности к произошедшему. Лишь на восьмой день после начала американской военной операции в октябре 2001 года они согласились выдать эмира «Аль-Каиды» третьей стране для суда над ним с целью прекращения бомбардировок, однако Буш отверг предложение, заявив, что время для переговоров вышло, а вина Усамы бен Ладена уже доказана[121]. После его убийства 2 мая 2011 года 15 июня правоохранительные органы США сняли с Усамы обвинения[122].
Преследование со стороны США
Президентство Клинтона
Впервые задача по захвату Усамы была поставлена во время правления Билла Клинтона[123]. Вскоре после 11 сентября 2001 года стало известно, что он подписал директиву, предписывающую ЦРУ и его Отделу специальных операций задержать террориста и доставить его в Соединённые Штаты, чтобы тот предстал перед судом по делу об атаках на американские посольства в Кении и Танзании, а если захватить его живым будет невозможно — уничтожить его[124]. 20 августа 1998 года корабли ВМС США в Аравийском и Красном морях выпустили ракеты по тренировочным лагерям «Аль-Каиды» близ афганского Хоста, однако лидер «Аль-Каиды» уехал оттуда за несколько часов до бомбардировки[125], и по фармацевтической фабрике в суданском Северном Хартуме под предлогом производства там химического оружия[126][127] соответственно. Бюро разведки и исследований госдепартамента подвергло критике эту версию ЦРУ за недостатком доказательств[128]. В 1999 году Управление и пакистанская военная разведка тренировали отряд из примерно 60 пакистанских диверсантов, которых планировалось забросить в Афганистан с целью ликвидации Усамы бен Ладена, однако план так и не был воплощён в жизнь из-за военного переворота в том же году[125]. В 2000 году зарубежные оперативники, работавшие на ЦРУ, выстрелили из ручного гранатомёта в афганских горах по машине из конвоя главы «Аль-Каиды», однако он находился в другом автомобиле[124]. Охота на террориста была встречена неоднозначно: Пол Бремер поддержал её, в то время как бывший посол в Пакистане Роберт Окли заявил об «одержимости Усамой» со стороны правительства[80].
Администрация Буша
Сразу после терактов 11 сентября власти США назвали Усаму и «Аль-Каиду» главными подозреваемыми и предложили 25 млн долларов за информацию о его местонахождении[8][129]. 13 июля 2007 года Сенат проголосовал за удвоение вознаграждения, однако этого так и не произошло[130]. Ассоциации пилотов авиакомпаний и воздушного транспорта предложили в награду дополнительные 2 млн долларов[131]. По информации корреспондентов The Washington Post Бартона Гелльмана и Томаса Рикса, во время битвы за Тора-Бора в конце 2001 года Усама бен Ладен находился внутри пещерного комплекса, расположенного в горах и проходящего по восточной границе Афганистана, однако недостаток бойцов, выделенных для охоты на террориста, позволил ему сбежать, что стало самым серьёзным провалом за всю войну с «Аль-Каидой»[132]. Согласно той же газете, в конце 2005 года военизированный отряд ЦРУ, которому была дана задача захватить лидера «Аль-Каиды», был расформирован[133]. В 2002 году Джордж Буш заявил: «Я действительно не так обеспокоен им»[134]. 14—16 августа 2007 года американские и афганские войска, получив информацию о встрече между членами «Аль-Каиды» в Тора-Бора перед началом Рамадана, атаковали комплекс и уничтожили множество талибов и джихадистов, но ни Усамы, ни аз-Завахири среди них не оказалось[135].
Администрация Обамы
7 октября 2008 года на вторых дебатах кандидатов в президенты выдвиженец от Демократической партии Барак Обама заявил: «Мы убьём бен Ладена. Мы сломаем „Аль-Каиду“. Это должно быть главным приоритетом национальной безопасности». По избранию президентом он повторил о намерении «возродить обязательство США найти лидера „Аль-Каиды“ Усаму бен Ладена»[136]. Обама отказался от глобальной войны с терроризмом и сконцентрировался на борьбе с «Аль-Каидой»[137][138]. В декабре 2009 года министр обороны США Роберт Гейтс сообщил, что у американских властей долгие годы не было достоверной информации о местонахождении её главы. Неделю спустя командующий Международными силами содействия безопасности в Афганистане генерал Маккристал заявил, что «Аль-Каида» не будет побеждена до тех пор, пока Усама не будет схвачен или убит, так как, будучи культовой фигурой, помогает её существованию как международной франшизы, но его захват или гибель не будут означать уничтожения группировки[139]. В апреле 2011 года Обама отдал приказ об осуществлении тайной операции по пленению или ликвидации Усамы бен Ладена. 2 мая того же года Белый дом сообщил о его гибели в убежище в городе Абботтабад в Пакистане[140].
Местонахождение и ликвидация
До гибели эмира «Аль-Каиды» неоднократно сообщалось о его пребывании в различных районах Пакистана: в Вазиристане, ссылаясь на письмо лидеру этой террористической группировки в Ираке Абу Мусабу аз-Заркави от другого члена «Аль-Каиды»[141][142], Парачинаре[143], округе Читрал[144], а также в иранском Себзеваре[145][146]. Пакистанский премьер-министр Юсуф Реза Гилани отрицал, что Усама находится на территории страны[147]. В октябре 2010 года анонимный источник в руководстве НАТО сообщил, что он «жив и здоров и с комфортом живёт» в Пакистане под охраной местных спецслужб. Один из пакистанских официальных лиц отверг обвинения и заявил, что этим на государство оказывается давление на переговорах, имеющих целью укрепить связи между ним и США[148].
2 мая 2011 года Усама бен Ладен был уничтожен американским подразделением сил специального назначения в своём доме, располагавшемся в 1,3 км от здания Пакистанской военной академии[149][150][151][152] в Абботтабаде[153][154]. Операция, получившая название «Копьё Нептуна», была осуществлена по приказу президента Обамы и проведена отрядом из переброшенных из Афганистана бойцов DEVGRU[155] под контролем Совместного командования специальных операций и ЦРУ, оперативники которого помогали на месте[156][157]. Тело покойного было перевезено в Афганистан для опознания и в течение суток после его гибели захоронено в море[158].
Усама бен Ладен и пакистанские власти
Силовые структуры Пакистана обвиняли в том, что они, вероятнее всего, знали о проживании эмира «Аль-Каиды» на территории страны[159][160][161][162] или даже охраняли его[163]. Критики этой версии утверждают, что из-за того, что Усама проживал в одном доме с местной семьёй и никогда не пользовался интернетом и телефоном, отследить его было значительно труднее[164]. Президент Пакистана Асиф Али Зардари полностью отрицал защиту главы «Аль-Каиды» властями и назвал слухи об этом «беспочвенными»[165]. Министерство иностранных дел Пакистана в своём коммюнике «категорически опровергало» сведения о том, что об операции по его устранению было известно официальным лицам[166]. Посол Пакистана в США Хусейн Хаккани пообещал расследование деятельности отечественных спецслужб и заявил: Несомненно, у бен Ладена была система поддержки. Вопрос в том, существовала ли эта система поддержки среди властей Пакистана или среди общества Пакистана? Пакистанские официальные лица также утверждали, что при тех ограниченных ресурсах, которыми обладало государство, его приоритетом была борьба с «Техрик-е Талибан Пакистан» и другими представляющими реальную угрозу боевиками[167].
В своём убежище в Абботаббаде Усама бен Ладен прожил предыдущие 5 лет[168][169]. Обширный комплекс с трёхэтажным домом[170] был, по-видимому, специально возведён для террориста[171].
Взгляды и идеология
Одной из краеугольных идей Усамы бен Ладена была убеждённость в том, что граждане вражеских стран, в том числе женщины и дети, — подходящие цели для атак джихадистов[172][173]. Сотрудник ЦРУ Майкл Шоер, отвечавший в Управлении за поиски террориста, считал, что его мотивировала неприязнь к внешней политике США, благодаря вмешательству которых, как он думал, страдают мусульмане на Ближнем Востоке[174]. Основатель «Аль-Каиды» критиковал Соединённые Штаты за секуляризм, призывал американцев переходить в ислам и «отринуть безнравственные акты прелюбодеяния, гомосексуальности, пьянство, азартные игры и ростовщичество»[175]. Его публичное осуждение западных властей и общества и заявления о том, что их контролируют евреи, нашло признание среди различных крайне правых кругов в США и Европе[176]. Усама считал, что исламский мир находится в глубоком кризисе, и лишь полное господство шариата позволит изменить его к лучшему. Помимо секуляризма, он противостоял панарабизму, социализму, коммунизму и демократии[177]. Усама бен Ладен принадлежал к асаритам[178].
Усама полагал, что Афганистан в период правления Талибана во главе с муллой Омаром был «единственной исламской страной» в мусульманском мире[179]. Он был последовательным сторонником жестокого джихада, необходимость которого обосновывал притеснениями, которые якобы терпели мусульмане от США и других немусульманских стран[180]. Идеология Усамы бен Ладена и методы претворения её в жизнь характеризуют его как террориста[181][182][183][184][185]. Его общей стратегией против сверхдержав была продолжительная война на истощение на территории мусульманских стран с использованием большого числа джихадистов, которые, как он полагал, никогда не сдадутся. Этим он надеялся добиться экономического коллапса вражеской стороны[186][187].
Глава «Аль-Каиды» был ярым антисемитом, обвиняя евреев в большинстве негативных событий, происходящих в мире: так, например, приводил операцию «Лиса пустыни» как доказательство того, что правительства США и Великобритании подчиняются евреям, приказывающим убивать как можно больше мусульман[188]. По мнению Усамы, евреи контролируют американские СМИ и политические и экономические институты[175]. Он заявлял, что конечной целью Израиля является завоевание Аравийского полуострова и порабощение местного населения в рамках создания «Великого Израиля». Усама бен Ладен считал, что евреи и мусульмане никогда не поладят друг с другом, а война между ними неизбежна, и порицал Соединённые Штаты за поддержку антиисламских настроений[189]. В «Аль-Каиде» учили, что четыре главных врага ислама — «шииты, еретики, Америка и Израиль»[190].
В своём письме от 2010 года Усама осудил беспочвенные массовые убийства мусульман, которые последователи «Аль-Каиды» оправдывали исламской доктриной «ат-Татаррус», разрешающей непреднамеренные убийства мирных граждан в особых обстоятельствах, и вылившиеся в неприятие мусульманами экстремизма. Поводом для послания стали действия связанной с организацией Усамы бен Ладена афганской группировки «Техрик-е Талибан Пакистан», члены которой напали на вражеское племя. Он заявил, что атака несправедлива, а учение нуждается в переработке в современном контексте, в рамках которой необходимо «провести ясную черту». Глава «Аль-Каиды» поручил одному из соратников составить кодекс поведения джихадиста, призывающий к ограничению насилия в стремлении избежать гибели мирных граждан. Усама бен Ладен призывал своих сторонников в Йемене искать перемирия или хотя бы «продемонстрировать людям, что мы заботимся о том, чтобы сберечь мусульман на мирной основе». Говоря о Сомали, он обращал внимание на страшную бедность, вызванную бесконечной войной, и посоветовал организации «Харакат аш-Шабаб» заняться экономическим развитием страны. Лидер «Аль-Каиды» инструктировал своих последователей по всему миру делать упор на образование и убеждение, а не на конфронтацию с другими исламскими группами[191].
Усама не принимал музыку[192]. Его отношение к технологиям было различным: он интересовался землеройной техникой и генной инженерией растений, однако отказывался от охлаждения воды[193]. Эмир «Аль-Каиды» выступал против изменения климата и призывал американцев найти вместе с президентом Обамой решение, позволившее бы «спасти человечество от вредных газов»[194][195].
Личная жизнь
В 1974 году Усама бен Ладен заключил брак со своей двоюродной сестрой в сирийском городе Латакия[196]. За несколько дней до событий 11 сентября 2001 года они развелись. В 1983, 1985, 1987 и 2000 годах Усама снова женился, однако второй его брак в 1990-х годах закончился разводом. Согласно некоторым источникам, в тот же период он женился ещё раз, однако вскоре брак был аннулирован[197]. У Усамы бен Ладена было, по разным оценкам, от 20 до 26 детей[198][199]. После терактов 11 сентября многие из них переехали в Иран, где были помещены под надзор властей[200].
Согласно ориентировке ФБР, рост Усамы составлял от 193 до 196 сантиметров[8], по другой информации, он был чуть выше 180 см[201]. Эмир «Аль-Каиды» был левшой и ходил с палкой[8]. Он говорил тихо и отличался скромным поведением[202].
Примечания
Литература
на русском языке
на других языках
Ссылки
The Guardian
The New York Times
The Wall Street Journal
, The Observer (24 ноября 2002 года)
, PBS (ноябрь 2002 года)
Life
Архива национальной безопасности
, Фонд по борьбе с терроризмом при Военной академии США
Категория:Члены Аль-Каиды
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ሃግሬ ኤርትራ
Hagärä Ertra
(Bendera ya Eritrea)(Coat of Arms of Eritrea) Kaulimbiu ya Taifa: Nie nieWimbo wa TaifaErtra, Ertra, ErtraLugha za TaifaTigrinya, Kiarabu
na KiingerezaMji MkuuAsmaraRaisIsaias AfwerkiEneo
- Total
- % MajiKadiriwa 101th
117,600 km²
AchaIdadi ya Watu
- Makadirio (2014)
- Jumla (2002)
- Chumo cha Umma kugawa na EneoKadiriwa 107th
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4,298,269
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- Jumla
- Kwa Kila Raia (Per capita)
2005 estimate
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- Kadirifu
- BarabaraKutoka Ethiopia (Uhebeshi)
Mai 29, 1991
Mai 24, 1993FedhaNakfaSaa za EneoUTC +3Intaneti TLD.erKodi ya simu291
Eritrea ni nchi ya Afrika kaskazini-mashariki.
Upande wa Magharibi imepakana na Sudan, upande wa Kusini imepakana na Ethiopia, na Kusini-Mashariki kuna nchi ya Djibouti. Mashariki na Kusini-Mashariki Eritrea ina pwani ndefu ya Bahari ya Shamu. Eneo hili lote hujulikana pia kama Pembe ya Afrika.
Jina
Jina la nchi limetungwa mnamo mwaka 1890 na wakoloni wa Italia kutokana na neno la Kigiriki "erythraîa" linalomaanisha “bahari nyekundu”. Hii ni kwa sababu Bahari ya Shamu iliitwa "Sinus Erythraeus" na mabaharia Wagiriki au “Mare Erythraeum” kwa Kilatini na Waroma wa kale – maana yake ni "bahari nyekundu" – kwa Kiingereza “Red Sea”.
Jiografia
Eritrea iko katika eneo la Pembe la Afrika na ina Bahari ya Shamu upande wa kaskazini mashariki. Kwa mchanga wa pwani uliyo eneo kame pahali pa kutega samaki ni Funguvisiwa vya Dahlak.
Eneo ambalo liko kwa milima kusini si kame vile, lakini hali ya hewa ni poa. Mlima wa juu zaidi ni Soira, ambao uko kati ya Nchi Eritrea, mita 3018 juu ya bahari.
Miji
Mji mkuu wa Eritrea ni Asmara na miji mingine ni kama vile mji wa bandari Assab kusini mashariki, na pia miji kama Massawa na Keren.
Eneo
Eritrea imegawiwa katika maeneo 6:
Kati (Maekel)
Anseba
Kisini ziwa lekundu (Debubawi-Keih-Bahri)
Kaskazini ziwa lekundu (Semienawi-Keih-Bahri)
Kusini (Debub)
Gash-Barka
Historia
Hadi karne ya 19 maeneo ya Eritrea yalikuwa sehemu ya Ethiopia.
Pwani ilikaa karne nyingi chini ya utawala wa Uturuki au baadaye Misri kama nchi zenye nguvu kwenye Bahari ya Shamu.
Historia ya Eritrea kama eneo la pekee jinsi ilivyopata uhuru mwisho wa karne ya 20 ilianza na ukoloni wa Italia.
Mwanzo wa ukoloni wa Italia
Mnamo Novemba 1869 kampuni ya biashara ya Kiitalia ya Rubattino ilinunua bandari ya Assab kutoka kwa sultani wa Afar. Ilikuwa inatafuta kituo kwa meli zake zilizoanza kupita katika bahari ya Shamu baada ya kufunguliwa kwa Mfereji wa Suez mwaka uleule.
Serikali ya Misri ilipinga mapatano hayo kwa sababu ilidai eneo lilikuwa chini ya amri yake. Makubaliano hayakufikiwa hadi 1882, serikali ya Italia ilipochukua moja kwa moja mali ya kampuni kama koloni lake la kwanza katika Afrika.
Tangu kuporomoka kwa utawala wa Misri nchini Sudan, baada ya vita vya Al-Mahdi, Misri ilijiondoa pia katika pwani ya kusini mwa bahari ya Shamu. Italia ilitumia nafasi hiyo na tarehe 5 Februari 1885 ilipeleka wanajeshi mjini Massawa na kuitangaza kuwa koloni lake.
Waitalia waliendelea kuunganisha maeneo yao ya Assab na Massawa. Baadaye walijaribu kupanua utawala wao kutoka tambarare za pwani hadi nyanda za juu zilizokuwa chini ya Dola la Ethiopia.
Negus Yohanne IV hakufurahia kufika kwa Italia kwa sababu aliamini ya kwamba Massawa iliahidiwa kwake baada ya kuwasaidia Wamisri kujiokoa mbele ya jeshi la Al-Mahdi. Hivyo upanuzi wa Italia katika nyanda za juu ulikutana na upinzani.
Tarehe 26 Januari 1887 jeshi la Waitalia 587 walioelekea kaskazini lilishambuliwa karibu na Massawa kwenye kijiji cha Dogali na kushindwa na Ras Alula aliyekuwa mtemi chini ya Negus ya Ethiopia. Waitalia walipaswa kuongeza wanajeshi 13,000 ili kuhakikisha utawala wao.
Mkataba wa Wuchale na mapigano ya Adowa
Baada ya Yohanne IV kufariki katika mapigano na jeshi la Al-Mahdi, Waitalia walichukua nafasi hiyo ya kuziingia nyanda za juu za Tigray na kujenga vituo vyao huko.
Mfalme mpya Menelik II tarehe 2 Mei 1889 aliutia sahihi mkataba wa Wuchale uliokubali utawala wa Italia juu ya kanda ya pwani pamoja na maeneo kadhaa ya nyanda za juu za Tigray.
Waitalia walijaribu kumdanganya Negus katika mkataba huo kwa kuingiza maneno katika nakala ya Kiitalia yaliyosema "Ethiopia itakuwa chini ya ulinzi wa Italia". Menelik baada ya kuelewa haya alikana mkataba.
Italia ilijibu kwa kuvamia Ethiopia kwa jeshi kubwa. Jeshi hilo lilishindwa na Waethiopia katika mapigano ya Adowa tarehe 1 Machi 1896. Italia ilipaswa kukubali uhuru wa Ethiopia katika mkataba wa amani tarehe 26 Oktoba 1896. Ethiopia ilikubali mamlaka ya Italia juu ya koloni lake katika kaskazini.
Koloni la Eritrea
Baada ya kumaliza mashindano na Ethiopia, Italia tarehe 1 Januari 1890 iliunganisha maeneo yake yote katika koloni lililoitwa Eritrea kufuatana na jina la kale "Bahari ya Eritrea".
Katika kipindi hiki cha utawala wa kikoloni Eritrea ilitokea kama jamii na eneo la pekee. Koloni la Eritrea liliunganisha maeneo matatu yenye tabia za pekee:
kanda la pwani lililokuwa na historia ndefu ya biashara na mawasiliano na Uarabuni ng'ambo ya Bahari ya Shamu
kanda la Sahel katika kaskazini-magharibi lililowahi kuwa sehemu ya Sudan
kanda la nyanda za juu liliwahi kuwa sehemu ya utamaduni wa Watigray Wakristo
Italia ilianzisha miradi ya kufanya Eritrea chanzo cha malighafi kwa ajili ya uchumi wa Italia. Kijiji cha Asmara katika nyanda za juu kilikuwa mji mkuu wa koloni na kupanuliwa kuwa mji kwa ajili ya walowezi Waitalia. Asmara ilipambwa na majengo mazuri ya kisasa.
Katika miaka ya 1930 idadi ya motokaa zilizoendeshwa Asmara ilishinda idadi ya magari ya binafsi mjini Roma. Urithi huo wa majengo umekuwa sababu ya kuingiza Asmara katika orodha ya Urithi wa dunia ya UNESCO.
Waitalia walipanga na kujenga miji mingine kama vitovu vya biashara, mabandari, vituo vya kijeshi au vya kiuchumi.
Idadi ya wakazi wote ilikadiriwa kuwa takriban 200,000 mwaka 1890. Idadi hiyo iliongezeka haraka kufikia zaidi ya 600,000 mnamo 1939. Mabadiliko makubwa yalitokea hasa katika nyanda za juu ambako walowezi Waitalia walianzisha mashamba yao na miji mikubwa zaidi ilijengwa.
Idadi ya wasemaji wa Kitigrinya iliongezeka kutoka asilimia 35 mwaka 1905 kuwa asilimia 54 mwaka 1939.
Mwisho wa vita kati ya vikundi mbalimbali na kupatikana kwa huduma za kiafya pamoja na kuongezeka kwa upatikanaji wa chakula, vyote vilichangia katika kuongezeka kwa idadi ya watu.
Kati ya mabadiliko makubwa ulikuwa ujenzi wa barabara na reli kati ya Massawa, Asmara, Keren na Agordat. Viwanda kadhaa vilianzishwa, pia migodi ya kuchimba mawe au madini.
Sehemu za Waeritrea waliingia katika maisha ya ajira ya kibepari. Hivyo maarifa ya wakazi wa Eritrea hasa katika nyanda za juu yalikuwa tofauti na wenzao katika Ethiopia yenyewe walioendelea kuishi chini ya utaratibu wa kikabaila. Waeritrea walisukumwa katika maisha ya kisasa na uchumi wa fedha.
Hadi mwaka 1940 Eritrea ilikuwa tayari na tabaka la wafanyakazi wa viwandani na katika miji pia tabaka la wasomi wenye elimu ya kisasa.
Baada ya Mussolini kushika serikali, siasa ya Italia ilibadilika. Wafashisti walidharau Waafrika na kuanzisha siasa ya ubaguzi wa rangi. Wenyeji walipewa tu shughuli duni kabisa katika utumishi wa serikali.
Italia ya kifashisti ilifanya mipango ya kulipizia kisasi mapigano ya Adowa ikiandaa vita dhidi ya Ethiopia. Vita vilianza mwaka 1935 kutoka ardhi ya Eritrea. Silaha mpya za Italia (zikiwemo za kikemikali) zilishinda jeshi la Negus, hivyo Ethiopia yote ikawa koloni la Italia kwa miaka michache.
Waitalia walishindwa katika Vita Vikuu vya Pili ya Dunia mwaka 1941, ambapo Waingereza waliteka Ethiopia pamoja na Eritrea.
Baada ya vita vikuu vya pili
Waingereza walitawala Eritrea hadi 1952.
Mwaka huo Umoja wa Mataifa ulikabidhi Eritrea kwa Ethiopia kama eneo la pekee lenye serikali na bunge lake katika shirikisho.
Mfalme wa Ethiopia, Haile Selassie hakupendezwa na utaratibu huoː alilenga kuunganisha tena Eritrea na Ethiopia na kwa mbinu mbalimbali alipata kura ya bunge la Eritrea ya kujivunja na kuwa jimbo la Ethiopia (1962).
Vita vya kupigania uhuru
Baada ya tukio hilo vikundi vya wanamgambo walienda porini kupigania kwa silaha uhuru wa Eritrea.
Vita vya Uhuru wa Eritrea vilitambakaa mwaka 1974 baada ya ufalme kupinduliwa na Umakisti kuingia na rundo la Jeshi lililoitwa Derg kuchukuwa mamlaka, na baadaye kuvamia Eritrea. Ukorofi wa serikali ya Mengistu Haile Mariam ilifanya mengi kuongeza waliotumaini uhuru wa Eritrea katika miaka ya 1980.
Ukombozi wa Eritrea ulitegemea rundo la Eritrean Liberation Front (ELF), ambayo pia inaitwa "Jebha", na Eritrean People's Liberation Front (EPLF), ambaye pia inaitwa "Shaabia". ELF ilikuwa na Waislamu wengi wa pwani na wahifadhi wa tedo za wananchi, na EPLF wengi Wakristo kutoka nyanda za juu za Tigrayi waamini Makisti-ULenin. ELF ilisaidiwa na wafadhili Waarabu, na EPLF kutoka nchi za kikomunisti zilizokuwa upande wa Urusi, lakini badaye nchi hizo zikapinduka na kusaidia Derg ya Mengistu Haile Mariam. ELF na EPLF hazikuweza kufanya kazi pamoja na kwa hiyo EPLF ikaimaliza ELF na kuendelea kutafuta uhuru.
Vita vya uhuru viliisha mwaka 1991, Waeritrea na waasi Waethiopia kutoka Tigray walishinda jeshi la Ethiopia na kuteka Addis Ababa; serikali ya Derg ikaanguka miaka miwili baadaye.
Eritrea huru
Baada ya kura ya wakazi wa Eritrea kukubali karibu kwa kauli moja, uhuru wa nchi ulitangazwa tarehe 24 Mei 1993 na kukubaliwa kimataifa.
Tangu hapo nchi inaendeshwa na chama kimoja bila uchaguzi.
Awali uhusiano na serikali mpya ya Ethiopia ulikuwa mzuri, lakini baada ya miaka ya kwanza ulizorota.
Mwaka 1998 kulitokea vita kati ya Eritrea na Ethiopia vilivyokwisha na ushindi wa Ethiopia. Wanajeshi la kulinda amani la UM wanajaribu kutunza hali ya kutopigana.
Kiongozi wa EPLF, Isaias Afewerki, akawa Rais. Eritrea (EPLF or Shaebia), ikawa chama pekee kinachotawala Eritrea kwa sheria na kubadilisha jina People's Front for Democracy and Justice (PFDJ).
Mwaka 1998, vita vya mpaka na Ethiopia vilileta kifo kwa wanajeshi wengi kwa nchi zote mbili, na Eritrea uchumi wake ukafifia na wananchi wakahangaika sana. Umma wa nchi ukanza kuhama na uchumi kukosa maendeleo. Eritrea ni nchi moja ya Afrika ambapo kuna shida ya mabomu ya ardhi. Serikali ya Ethiopia iliwafukuza WaEritrea ambao waiishi Ethiopia ama watu waliokuwa na utamaduni wa Eritrea baada ya vita na Eritrea. Hii iliwaletea Waeritrea shida na uhamaji.
Hata baada ya kuonyesha maendeleo kidogo kwa uchumi na siasa, serikali ya Eritrea inanyanyasa magazeti na waandishi na pia watu kwa siasa. Serikali yenyewe hata haijaweza kuweka Katiba mpya na kuleta kura ya kidemokrasia.
Baadaye, serikali ya Eritrea imeweza kusisitiza desturi ya ukoloni wa Waitalia ambayo inadai Kanisa na Dini kujiandikisha kwa serikali na kupewa ruhusa wa kuhubiri. Dini zilizopewa ruhusa na serikali ni Kanisa la Kiorthodoksi la Eritrea, Kanisa Katholiki, Kanisa la Mekane Yesus (Walutheri) na Uislamu. Nyingine zote, hasa zenye itikadi kali zimebanwa kote nchini.[1]
Vita vya Eritrea na Ethiopia viliisha mwaka 2000 kwa mashauriano yanayojulikana kama Mapatano ya Algiers. Mojawapo ya makubaliano lilikuwa kuanzisha Muungano wa kimataifa wa kuweka amani, ambao unajulikana kama Muungano wa Kimataifa wa misheni ya Eritrea na Ethiopia (UNMEE); Walinda amani 4,000 wa UM wamebaki kutoka mwezi Agosti 2004.
Makubaliano mengine ya Algiers yalikuwa kuanzisha usawazisho wa mwisho wa mpaka uliyobishaniwa kati ya Eritrea na Ethiopia. Komisheni iliyokuwa na madaraka kutoka kwa UM, iliyoitwa Komisheni ya Mpaka wa Ethiopia na Eritrea (EEBC), baada ya mashauriano mrefu, ilikata maamuzi ya mwisho mnamo Aprili 2002, lakini maamuzi yao yakakataliwa na Ethiopia.
Kutoka Oktoba 2005 bishano la mpaka bado limebaki kuwa swali, hata kama umakini na mkomo wa vita unaangaliwa kwa kazo.Wanajeshi wa kulinda amani wa UM wanajaribu kutunza hali ya kutopigana.
Siasa
Bunge la Taifa la viti 150, liliyotekezwa mwaka 1993 baada ya Uhuru, lilimchagua Rais wa sasa, Isaias Afewerki. Kura za nchi huwa zinapangwa na kupanguliwa.
Shina za taarifa madaraka za kutangaza habari kwa siasa za nyumbani Eritrea haziko; na Septemba 2001 serikali ilifunga vyombo vya habari vya binafsi, na watu wanaopinga serikali hufungwa bila kushtakiwa. Hii yote ni kutoka taarifa ya washufu wa ulimwengu, kama Waangalizi wa haki za Kibinadamu (Human Rights Watch) na Wakombozi wa Kimataifa (Amnesty International).
Mambo ya nje yanahusu vita na Ethiopia, Sudan na Jibuti. Baada ya wajumbe wa serikali ya Eritrea wa Idara ya mambo ya kigeni kuenda Sudan, ushirikiano umeanza kuwa wa kawaida. Bishano na Ethiopia bado ni wazo kubwa la chuki ambalo limemfanya Rais kuuambia Umoja wa Mataifa ichukue hatua. Uagizaji huu umeelezwa kwa barua kumi na moja za Rais[2].
Watu
Wakazi wa Eritrea walikadiriwa kuwa 6,380,803 mwaka 2014.
Makabila makubwa ni Watigrinya (55%) na Watigre (30%), ambao wote wawanazungumza lugha za Kiafrika-Kiasia.
Nchi haina lugha rasmi ili kuheshimu sawasawa lugha zote. Hata hivyo Kitigrinya, Kiarabu na Kiingereza vina nafasi za pekee.
Serikali inatambua rasmi Kanisa la Kiorthodoksi la Eritrea, Kanisa Katoliki na Kanisa la Kiinjili la Kilutheri pamoja na Uislamu. Makadirio yanatofautiana: Wakristo kwa jumla ni 50-68%, Waislamu 36-48%.
Mwaka 2004 Idara ya taifa ya Marekani (U.S. State Department) iliamua kwamba Eritrea ni Nchi mahsusi ya kufuatiliwa (Country of Particular Concern, au CPC) kwa kufinya uhuru wa dini.
Tazama pia
Orodha ya nchi kufuatana na wakazi
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na idadi ya watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na msongamano wa watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na pato la taifa
Demografia ya Afrika
Uchumi wa Eritrea
Tanbihi
Jamii:Nchi za Afrika
Jamii:Umoja wa Afrika
Jamii:Bahari ya Shamu | https://sw.wikipedia.org/wiki/Eritrea |
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} | মিসিসিপি বিশ্ববিদ্যালয়ের মেডিকেল স্কুলটি কত সালে স্থাপিত হয়েছিল ? | শিকাগো | bengali | {
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শিকাগো মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের প্রধান শহর গুলোর মধ্যে অন্যতম। এটি ইলিনয় অঙ্গরাজ্যের উত্তরাংশে কুক কাউন্টিতে অবস্থিত। একে বাতাসের শহর বা windy city বলা হয়ে থাকে।
শিকাগো মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের তৃতীয় জনবহুল নগরী। ২০১৭ সালের আদমশুমারি অনুযায়ী, এর জনসংখ্যা ২,৭১৬,৪৫০ জন। এটি ইলিনয় অঙ্গরাষ্ট্রের এবং যুক্তরাষ্ট্রের মধ্যপশ্চিম অঞ্চলের সর্বাধিক জনবহুল নগরী।
আরও দেখুন
শিকাগো মেট্রো
তথ্যসূত্র
বিষয়শ্রেণী:ইলিনয়
বিষয়শ্রেণী:মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের শহর | https://bn.wikipedia.org/wiki/%E0%A6%B6%E0%A6%BF%E0%A6%95%E0%A6%BE%E0%A6%97%E0%A7%8B |
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} | الفصل العنصري في إسرائيل أو عنصرية إسرائيل عبارة عن اتهام موجه ضد السياسة الإسرائيلية، حيث تتهم بكونها سياسة فصل عنصري تقوم بها الحكومة ضد السكان العرب الأصليين للمنطقة. مناصرو هذا الطرح يرون أن سياسات فصل الطرق، والبني التحتية، والدخول إلى الأراضي الملوكة للعرب الفلسطينين، ومن ثم مصادرتها، وما يمنح فعلا من حقوق قانونية للفلسطينيين مقارنة مع المستوطنين اليهود في داخل الأراضي الفلسطينية المحتلة يمثل نظاماً عنصرياً. ويجدون أوجه تشابه ما بين معاملة غير البيض في جنوب أفريقيا خلال حقبة الفصل العنصري ومعاملة إسرائيل للفلسطينيين الذين يعيشون في الضفة الغربية وقطاع غزة. داعموا هذا الاتهام يستعملون مصطلح مواطنون من الدرجة الثانية عند الحديث عن فلسطينيي الداخل.[1]
الذين يرفضون هذا الإتهام، يرونه مجرد مزاعم تقصد التشهير السياسي بإسرائيل. ويدللون على ذلك بأن العرب داخل إسرائيل يتمتعون من ناحية قانونية ببعض المزايا التي يتمتع بها الإسرائيلون، مثل حق التصويت، والقدرة على شغل بعض المناصب العامة، وحرية التعبير التي لم تكن متاحة للسود في جنوب أفريقيا.
نظرة عامة
قامت مجموعات عدة وأفراد بإجراء مقارنات ما بين السياسات الإسرائيلية والنظام العنصري في جنوب أفريقيا مثل: الأسقف دسموند توتو، وغيره من الزعماء الجنوب أفريقيين المعداين للعنصرية، وجيمي كارتر الرئيس السابق للولايات المتحدة الأمريكية [2]، ومستشار الأمن القومي الأمريكي زبكنو برزيزينسكي، وعدد من الصحفيين الإسرائيليين اليساريين، [3][4][5]، والحكومة السورية [6]، والمجموعات الطلابية في المساندة للفلسطينيين والمتواجدة في المملكة المتحدة والولايات المتحدة الأمريكية وكندا.[7]
بالإضافة إلى مؤتمو اتحاد التجاري لشمال أفريقيا[8]
و اتحاد العمال الكندي، ومنظمة حقوق الإنسان الإسرائيلية بتسليم.[9]
قال هندرك فيرورد في سنة 1961 وهو رئيس وزاء جنوب أفريقيا ويعتبر مصمم السياسات العنصرية فيها: "أخذ اليهود إسرائيل من العرب بعد أن عاش العرب هناك لألف سنة. إسرائيل، مثل جنوب أفريقيا، هي دولة عنصرية." [10][11]
اتهامات صوتية تمت في مؤتمرات تمت تحت رعاية الأمم المتحدة
في سنة 2006، وخلال المؤتمر الدولي للمجتمع المدني لدعم الشعب الفلسطيني والذي تم تحت رعاية الأمم المتحدة، صرح رئيس شبكة التنسيق الدولية لفلسطين فيليس بينيس بما يلي: "مرة أخرى، تم ارتكاب جريمة التفرقة العنصرية من قبل دولة عضو في الأمم المتحدة، هذه الدولة هي إسرائيل".[12]
قام داني روبنستن وهو كاتب عمود في صحيفة هآرتس بربط إسرائيل أكثر من مرة بالعنصرية المتواجدة في جنوب أفريقيا خلال مؤتمر الأمم المتحدة في البرلمان الأوروبي في بروكسل بتاريخ 30 أغسطس 2007 حيث صرح قائلاً: "إسرائيل اليوم دولة عنصرية تتضمن أربع مجموعات فلسطينية: الفلسطينيون المتواجدون في غزة، وأولئك في القدس الشرقية، وفي الضفة الغربية، والفلسطينيين الإسرائيليين، حيث أنه لكل منهم حالة خاصة".[13]
الأوضاع في الضفة الغربية وقطاع غزة
صرح جيمي كارتر وهو الرئيس السابق للولايات المتحدة الأمريكية، ومفاوض مقررات كامب ديفيد والفائز بجائزة نوبل ومؤلف كتاب فلسطين سلام وليس تفرقة عنصرية، صرح بأن هناك سياسة تفرقة عنصرية موجهة ضد الفلسطينيين.[14] وبأنه في بعض الحالات فإن هذه التفرقة أقسى من معاملة ضد السود في جنوب أفريقيا.[15] كما صرح بأنه قام بمناقشة كلمة التفرقة العنصرية مع ستة حاخامات والذين يدعوون بأن نظام التفرقة العنصرية في فلسطين ليس مبنياً على العنصرية بل على "رغبة أقلية من الإسرئيليين في أراضي فلسطينية والقمع الناتج للاحتجاج والذي يتضمن العنف... استعمالي لكلمة "التفرقة العنصرية" لا تنطبق على الظروف في إسرائيل.[16][17]
في سنة 2002 كتب دسموند توتو وهو أسقف أنغليكاني وفائز بجائزة نوبل سلسلة من المقالات في صحف رئيسية،[18] حيث قارن الاحتلال الإسرائيلي للضفة الغربية بنظام التفرقة العنصرية في جنوب أفريقيا، وطالب المجتمع الدولي لنزع الدعم عن إسرائيل حتى تنسحب من الأراضي المحتلة.[18]
قام نشطاء آخرون معارضون لسياسة التمييز العنصري في جنوب أفريقيا بمقارنة أفعال إسرائيل مع ما يتم في جنوب أفريقيا حتى ينتقدوا احتلال الضفة الغربية، وخصوصاً جدار الفصل العنصري. من أمثلة هؤلاء النشطاء: فريد إيساك وهو كاتب مسلم،[19] ورونيه كاسريلس، [20] ووينيه ماديكيزيلا-مانديلا، [21]، ودنيس جولدبرج.[22]،
علق زبكنو برزيزينسكي بأنه في ظل غياب قانون خاص بالصراع العربي الإسرائيلي فإن هذا سيؤدي إلى تكوين حالة مشابهة لنظام الفصل العنصري في جنوب أفريقيا.[23]
اتهم يكوف مالك وهو السفير السوفييتي في الأمم المتحدة اتهم إسرائيل بنشر "سياسة فصل عنصري ضد الفلسطينيين" بعد قيام إسرائيل بفرض ضريبة على الضفة الغربية وقطاع غزة وذلك بعد حرب 1967.[24]
قال جمال زحالقة وهو عضو فلسطيني في الكينيست بأن نظام من الفصل العنصري مطبق مسبقاً من حيث فصل الضفة الغربية وقطاع غزة إلى أقاليم وبناءً على هذا يتوجب على الفلسطينيين حمل تصاريح للسفر ما بينهما.[25] كما قال عزمي بشارة وهو عضو فلسطيني آخر في الكينيست بأن الوضع الفلسطيني السيء هو نتيجة لسياسة الفصل العنصري.[26]
لا يمتلك الفلسطينيين الذين يعيشون في الأجزاء غير المضمومة من الضفة الغربية الجنسية الإسرائيلية ولا يحق لهم المشاركة في الانتخابات، إلا أنه يتم تطبيق سياسات الحكومة الإسرائيلية عليهم. وفقاً لمنظمة حقوق الإنسان الداعمة للفلسطينيين بتسليم فإن مثل هذه السياسات تفصل بعض المجتمعات الفلسطينية.[27] يقول مروان بشارة وهو أستاذ في العلاقات الدولية في الجامعة الأمريكية في باريس بأن التقييد على نقل البضائع بين إسرائيل والضفة الغربية يشابه نظام الفصل العنصري في إسرائيل.[28]
بحسب أقوال ليلى فرسخ وهي أستاذ مشارك في قسم العلوم السياسية في جامعة ماساشوستس بوسطن فإنه وبعد سنة 1977 "قامت الحكومة العسكرية في الضفة الغربية وقطاع غزة باستباحة أموال وممتلكات والأراضي الفلسطينية، كما سمحت بانتقال المستوطنين اليهود إلى الأراضي الفلسطينية المحتلة. كما قامت الحكومة بتفعيل عدة قرارات وقوانين عسكرية لتنظيم وحكم الشؤون الاقتصادية والقانونية للمدنيين الفلسطينيين. مما أدى إلى خنق الاقتصاد الفلسطيني وزاد من اعتماده على إسرائيل." كما تضيف قائلة: ينظر العديد من الأشخاص إلى هذه السياسات الإسرائيلية وسياسات الفصل العنصري على أنها مشابهة للتفرقة العنصرية في جنوب أفريقيا، على الرغم من عدم إعطاء هذه الممارسات أي اسم."[29]
كتب الكاتب الصحفي كريس مجريل وهو كاتب صحفي في جريدة الغارديان ما يلي: "هناك مناطق قليلة في العالم حيث تقوم الحكومات ببناء شبكة من القوانين ذات العلاقة بالجنسية والسكن والتي يتم تصميمها لاستخدامها من قبل جزذ من السكان ضد جزء آخر. التفرقة العنصرية في جنوب أفريقيا كانت وحدة من هذه الحكومات. كذلك الأمر في إسرائيل.[10] وفقاً لجون كول: "نهاية لعبة شارون هل في فصل فلسطينيي الضفة الغربية إلى ثلاث بانتوستان (و هي محميات كانت لسكان جنوب أفريقيا وتعتبر من مظاهر التمييز العنصري] والتي يتم إحاطتها بشكل كامل من قبل القوات الإسرائيلية والمستوطنات، والإبقاء على قطاع غزة كحي فقير دائم بشكل يظهر الفلسطينيين على أنهم تعساء وخطيرين... التأثير الرهيب لدولة إسرائيل في كونها تهبط إلى أن تصبح دولة تفريق عنصري دائمة."[30] يقول جون دوغارد أنه تم تقسيم الضفة الغربية إلى مناطق "و التي تشابه البانتوستان في جنوب أفريقيا."[31]
أخبر رئيس الوزراء الإيطالي السابق ماسيمو داليما الصحافة الإسرائيلية في سنة 2003 بأن شارون وفي زيارة له إلى روما قد شرح بالتفصيل إن "نموذج البانتوستان هو الحل الأمثل للنزاع" بين إسرائيل والفلسطينيين.[32]
في مقابلة له مع صحيفة هآرتس صرح هاغي ألون وهو مستشار وزير الدفاع الإسرائيلي بأن الجيش كان يتنفذ سياسة تفريق عنصري، وكما كان يغرغ الخليل من العرب الفلسطينيين، كما يقوم بوضع حواجز على الطريق من غير أن يعرف أحد عددهم أو أين يوضعون، تهويد وادي الأردن والتعاون بشكل مفتوح وسافر مع المستوطنين اليهود.[33]
تدعي مجموعة حقوق الإنسان الإسرائيلية بتسليم أن النظام القانوني حافل بالتفرقة العنصرية.[34] كما كتبت هذه المنظمة في سنة 2004 "يحرم على الفلسطينيين الدخول إلى أميال من شوارع الضفة الغربية، وهذا نظام مشابه لنظام التفرقة العنصرية السابق في جنوب أفريقيا.[35] في أكتوبر 2005 قام جيش الدفاع الإسرائيلي بإيقاف الفلسطينيين من القيادة على الطريق الرئيسي إلى الضفة الغربية: قامت بتسليم بوصف هذا التصرف بأنه الخطوة الأولى نحو "تفرقة عنصرية كاملة على الطرقات.[36]
صرح جيمي كارتر أن منع الفلسطينيين من استعمال هذا الطريق "يجرم حتى أكثر من حالات التفريق أو التفرقة العنصرية التي شهدناها في جنوب أفريقيا"[37]
أعلنت إسرائيل في سنة 2003 عملية الدرع الواقي، وهو عبارة عن مشروع يتكون من شور وحواجز أخرى لمنع الفلسطينيين من العبور إلى إسرائيل. قام محمد ساروار وجون بلغر ومصطفى البرغوثي بوصف حاجر الضفة الغربية بجدار الفصل العنصري.[38][39]
يعتبر محاميي المصلحة العامة في أكسفورد أنه من الممكن أن يقع لجدار الفصل العنصريٍ الذي تم بناءه من قبل إسرائيل تحت الاتفاقية الدولية لمنع وعقاب جريمة التفرقة العنصرية. بمنظورهم، فإنه يتم توجيه الحاجز ومقاييس أخرى على الفلسطينيين على أساس عرقي، وليس على أساس أفراد مشتبه بهم على أنهم إرهابيين.[40].
بلغ عدد القتلى الفلسطينيين في قطاع غزة على أيدي الجنود والآلات الحربية اليهودية أكثر من 66 قتيلاً وبلغ عدد الجرحى أكثر من 200 جريح معظمهم من النساء والأطفال، وذلك منذ يوم الجمعة 29 شباط 2008 إلى 2 مارس 2008.[41]
يصر أيهود ألمرت على استمراره في العدوان على الفلسطينيين في غزة بالرغم من النقد الدولي الموجه له.[41]
وصف الرئيس الفلسطيني محمود عباس ما تقوم به القوات اليهودية في غزة بأكثر من محرقة.[42]
استمرار قتل الأطفال الفلسطينيين في الغارات على غزة وايهود اولمرت يعلن عن استمرار القتال.[43]
حذّر نائب الأمين العام للأمم المتحدة للشؤون الإنسانية جون هولمز من أن الوضع في غزة بات يشكّل ثالث أكبر مشكلة إنسانية في العالم، بعد إقليم دارفور والكونغو الديمقراطية.[44]
الأمين العام للأمم المتحدة بان كي مون يدين ما وصفه باستخدام إسرائيل "المفرط وغير المتكافئ" للقوة في قطاع غزة، بينما وجهت واشنطن نداء لإنهاء أعمال العنف.[45]
الفصل العنصري المطبق في داخل حدود الخط الأخضر
تم منع الأذان في أحياء عكا الجديدة خلال شهر رمضان وهذه هي المرة الثانية التي تقوم بها إسرائيل بمثل هذا المنع. تم هذا المنع على الرغم من استعداد السكان الفلسطينيين المسلمين الذين هم في معظمهم عرب لوضع قيود على رفع الأذان كأن يكون بصوت معتدل ووقت المغرب، وعدا أيام السبت والأعياد اليهودية. إلا أن السلطات استمرت في قرار المنع. يذكر أيضاً أن عصابات مسلحة من الشبان اليهود المتدينين قد جابت شوارع المدينة وهدّدت في رمضان الماضي بإطلاق النار صوب كل من يخرق التعليمات بحظر الأذان واعتدت على مواطنين عرب ودعتهم إلى الرحيل.[46]
مصادر
تصنيف:أبارتيد
تصنيف:القضية الفلسطينية
تصنيف:حقوق الإنسان في إسرائيل
تصنيف:سياسة مقارنة
تصنيف:عنصرية إسرائيل
تصنيف:مستحدثات سياسية
تصنيف:إسرائيل والفصل العنصري
| https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%A5%D8%B3%D8%B1%D8%A7%D8%A6%D9%8A%D9%84%20%D9%88%D8%A7%D9%84%D9%81%D8%B5%D9%84%20%D8%A7%D9%84%D8%B9%D9%86%D8%B5%D8%B1%D9%8A |
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} | 2017 నాటికి మాకివలస గ్రామంలో వ్యవసాయేతర వినియోగంలో ఉన్న భూమి ఎంత? | ముఖలింగం | telugu | {
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} | శ్రీముఖలింగంలో ప్రసిద్ధ దేవాలయం గూర్చి శ్రీ ముఖలింగేశ్వర దేవాలయం ( మధుకేశ్వరాలయం) చూడండి.
శ్రీ ముఖలింగం లేదా ముఖలింగం (ఆంగ్లం: Mukhalingam) శ్రీకాకుళం జిల్లా, జలుమూరు మండలానికి చెందిన గ్రామము.[1] ఇది మండల కేంద్రమైన జలుమూరు నుండి 12 కి. మీ. దూరం లోను, సమీప పట్టణమైన ఆమదాలవలస నుండి 38 కి. మీ. దూరంలోనూ ఉంది. 2011 భారత జనగణన గణాంకాల ప్రకారం ఈ గ్రామం 837 ఇళ్లతో, 3022 జనాభాతో 175 హెక్టార్లలో విస్తరించి ఉంది. గ్రామంలో మగవారి సంఖ్య 1504, ఆడవారి సంఖ్య 1518. షెడ్యూల్డ్ కులాల సంఖ్య 202 కాగా షెడ్యూల్డ్ తెగల సంఖ్య 4. గ్రామం యొక్క జనగణన లొకేషన్ కోడ్ 581094[2].పిన్ కోడ్: 532428. ఇక్కడ చరిత్ర ప్రసిద్ధినందిన ముఖలింగేశ్వరాస్వామి, భీమేశ్వరాస్వామి, సోమేశ్వరస్వామి ఆలయాలున్నాయి. ఇవి చక్కని శిల్పాలతో కనుల పండుగ చేస్తాయి.
గ్రామ జనాభా
2001 జనాభా లెక్కల ప్రకారం వివరాలు [3]
మొత్తం జనాభా: 3,204 in 767 Households
పురుషుల సంఖ్య: 1,625 మరియు స్త్రీల సంఖ్య: 1,579
6 సం. లోపు పిల్లలు: 387 (బాలురు- 180 మరియు బాలికలు - 207)
అక్షరాస్యులు: 1,579
శ్రీ ముఖలింగేశ్వర దేవాలయం
శ్రీ ముఖలింగేశ్వరస్వామి దేవాలయము గల ఈ ఊరు 'పంచపీఠ' స్థలముగా ప్రసిద్ధం. దీనినే ముఖలింగక్షేత్రమని కూడా పిలుస్తారు.
ఇక్కడ లభించిన ఆధారాలను బట్టి ఈ గ్రామం ఒకప్పుడు రాజధానికి ఉన్నత దశననుభవించిందని తెలుస్తుంది. ఆయా కాలాలలో ఇక్కడ బౌద్ధ, జైన, హిందూ మతాలు వర్ధిల్లాయనికూడా తేలింది. చిత్రం ఏమిటంటే ఇక్కడ దొరికిన ఏశాసనంలోనూ ఈ పూరిపేరు శ్రీ ముఖలింగం అని పేర్కొనలేదు. నగరం, కళింగనగరం, కళింగదేశ నగరం, కళింగవాని నగరం, నగరపువాడ, త్రికళింగనగరం మొదలైన పేర్లతో ఉంది.ఇక్కడ త్రవ్వకాలలో వీణాపాణి అయిన సరస్వతి విగ్రహం, జైనమత ప్రవక్త మహావీరుని విగ్రహం లభించాయి. వీటిని ముఖలింగాలయంలో భద్రపరిచారు.
ఇక్కడ అనేక శాసనాలు కూడా దొరికాయి. వాటిని బట్టి ముఖలింగాలయాన్ని క్రీ.శ. 10వ శతాబ్దంలో రెండవ కామార్ణవుడన్న రాజు కట్టించాడని, అతని కుమారుడు అనియంక భీమ వజ్రహస్తుడు భీమేశ్వరాలయాన్ని కట్టించాడని తెలుస్తోంది. వీరిద్దరూ కళింగరాజులు. కామార్ణవుడు తన రాజధానిని దంతనగరం నుండి యిక్కడకు మార్చినట్లు కూడా తెలుస్తోంది.
క్షేత్ర పురాణము
ఇక్కడ ముఖలింగాలయాన్ని మధుకేశ్వరాలయం అని కూడా అంటారు. ఇక్కడ లింగం రాతితో చెక్కింది కాదు. ఇప్పచెట్టు మొదలను నరికి వేయగా అదే ముఖలింగంగా ప్రసిద్ధి చెందింది. ఆ చెట్టు మొదలుపై " ముఖం " కనిపిస్తుంది అని చెబుతారు. ఆ చెట్టు మొదలే క్రమంగా రాపడి లింగంగా మారిందని చెబుతారు. ఇప్పచెట్టును సంస్కృతంలో 'మధుకం' అంటారని అందువల్ల ఈ గుడికి మధుకేశ్వరస్వామి ఆలయంగా పేరొచ్చిందని అంటారు.
ఈ ఆలయంలో గర్బాలయంకాక ఎనిమిది వైపుల ఎనిమిది లింగాలున్నాయి. ఇక్కడి అమ్మవారు వరాహిదేవి, సప్త మాతృకలలో ఆమె ఒకరు . మిగిలివారు బ్రాహ్మి, మహేశ్వరి, కౌమారి, వైష్ణవి, ఇంద్రాణి. వీరు పార్వతీదేవి అవతారాలు. ఇక్కడి శిల్పాలలో వరాహావతారం, వామనావతారం, సూర్య విగ్రహం వుండటం విశేషం.
భీమేశ్వరాలయం శిథిలావస్థలో ఉంది. ఇక్కడ కుమారస్వామి, దక్షిణామూర్తి నాలుగు ముఖాలతో బ్రహ్మ, గణపతి విగ్రహాలున్నాయి.
సోమేశ్వరాలయానికి గర్భగుడి మాత్రమే ఉంది. ముఖమండపం లేదు. ఎత్తయిన శిఖరంపై బ్రహ్మాండమైన రాతితో కప్పు వేశారు. ఇది ఒకేరాయి. ఒకసారి పిడుగుపడి, ఆరాయి పగిలి అందులో ఒక ముక్క క్రింది పడింది. ఆ ముక్కనే దాదాపు 50 మంది కలిసి కదల్చలేకపోయారంటే, మొత్తం రాయి ఎంత బరువో వూహించుకోవచ్చు. అంతటి రాయిని అంత ఎత్తుకు ఆ రోజుల్లో ఎలా ఎత్తారో, ఎలా అమర్చారో తలచుకుంటే ఆనాటి విశ్వబ్రాహ్మణ శిల్పుల గొప్పతనం, ప్రజ్ఞ అర్థం అవుతాయి.
ఇక్కడ ఏడు నాలికల అగ్ని విగ్రహం, వినాయకుడు, కాశీ అన్నపూర్ణ, నటరాజు, కొమారస్వామి, హరిహరదేవుల విగ్రహాలు ఎంత్తో అందంగా ఉన్నాయి. కొన్ని శృంగార శిల్పాల్ని కూడా ఇక్కడ చెక్కారు . ఈ ఆలయం శిథిలావస్థలో ఉంది.
మహా శివరాత్రికి ఇక్కడ గొప్ప ఉత్సవం జరుగుతుంది.
చరిత్ర
ఆంధ్రప్రాంతమును ఏలిన తూర్పు గాంగవంశరాజులకు 6 శతాబ్దములకు పైగా రాజధానియై ఈ ప్రాంతము భాసిల్లినది. తూర్పు గాంగరాజులలో ప్రాముఖ్యుడైన అనంతవర్మ చోడగంగదేవుడు ఉత్కళమును జయించి, తన రాజధానిని క్రీ.శ.1135 లో ఒరిస్సా లోని కటక్ నగరమునకు మార్చిన పిదప ముఖలింగపు ప్రాముఖ్యత క్రమముగా తగ్గిపోయింది. ఆనాటి వైభవుమునకు తాత్కారణముగ ముఖలింగంలో మూడు శైవ దేవాలయములున్నవి.ముఖలింగం లోని పాశుపత శైవమత ప్రాబల్యమునకు నిదర్శనముగ అచ్చటి ఆలయములలో లకుశీలుడు విగ్రహములు పెక్కు ఉన్నాయి.
లకుశీలుడు తను మత స్థాపకుడనియు, అతడు శివుని అవతారమనియు పాశుపత శైవమతస్థులు నమ్ముదురు.శైవమత గ్రంథములలో కూడా లకులీశుడు శివుని అవతారమనియు పేర్కొనబడెను.లింగ పురాణములో లకులీశుడు శివునియొక్క 28వ అవతారముగ చెప్పబడెను.కాని లకులీశుడు మానవుడనియు, అతడు గుజరాత్ రాష్త్రములోని కాయారోహణము (కార్వాన్) పట్టణమున క్రీ.శ. 2 వ శతాబ్దములో జనించెననియు మనకు శాసనముల ఆధారముగ తెలియుచున్నది.
లకులీశుడు ఎల్లప్పుడు లకుటమును ధరించుటచే ఆతనికి ఆపేరు వచ్చెను. అతడు పాశుపత శైవమత సిద్ధాంతములకు ఒక రూపము తెచ్చి, ఆ మతప్రచారము చేసెను. లకులీశుని శిష్యులలో ముఖ్యులు కుశినుడు, మిత్రుడు, గార్గుడు, కౌరుస్యుడు అనువారు. లకులీశుని నిరంతర కృషివలన ఆతని శిష్యులును, పాశుపత శైవ మతస్థుల సంఖ్యయు నానటికి పెరిగెను. మధ్యయుగము నాటికి పాశుపత శైవమతమునకు బహుళ ప్రాచుర్యము లభించి, ఆ మతస్థులలో లకులీశుడు దైవసంభూతుడే అను నమ్మకము గాఢముగ ఏర్పడెను.
మధ్యయుగ కాలములో పాశుపత శైవమతము గుజరాత్, రాజస్థాన్, రాష్త్రములనుండి మధ్య్ర పదేశ్, అస్సాం, బెంగాల్, ఒరిస్సా, ఆంధ్ర, తమిళనాడు, మైసూరు ప్రాంతములకు వ్యాపించి జనాదరణ పొందెను.
ముఖలింగ ప్రాంతమునకు పాశుపత శైవ మతము క్రీ.శ 8 వ శతాబ్దములో ఒరిస్సానుండి వ్యాపించెను.ముఖలింగములోని లకులీశుని విగ్రహములు భువనేశ్వరములోని లకులీశుని బిగ్రహములకు పోలిఉండును.ఇదే ఇక్కడి ముక్య విగ్రహము. గుజరాత్ లోను సోమేశ్వరాలయంలో ఈయని పద్మాసనమున కూర్చొని ఉన్న విగ్రహము ఉంది.ఆతనికి నాలుగు చేతులు ఉన్నాయి.రెండు చేతులు ధర్మచక్ర ప్రవర్తన ముద్రను చూపుచున్నవి. మిగిలిన రెండు చేతులలో అక్షమాల, త్రిశులము ఉన్నాయి.ఆతని ఫాలభాగమున త్రినేత్రము ఉంది.అతడు ఊర్ధ్వ లింగముతో చెక్కబడి ఉన్నాడు.ఆతని రెండు కళ్ళు సగము మూయబడి యోగముద్రలో ఉన్నట్లు ఉంది.అతను ఎల్లప్పుడు ధరించు లకుటము అతని ఎడమ భుజముపై ఆసించబడి, ఎడమ చేతితో చుట్టబడి ఉంది.ఈవిధముగా ముఖలింగములో చెక్కుటవలన శిల్పి ఆతనిని శివుని అవతారముగా భావించానాడని చెప్పవచ్చును.ఈయన విగ్రహమునకు క్రింది భాగమున ఆతని శిష్యులు నల్గురు పద్మపు కాడకు రెండు వైపుల ఆశీనులై ఉన్నారు.ఆగూటి చుట్టును పాశుపత శైవమత గురువులు చిత్రములు చెక్కబడి ఉన్నాయి.
సోమేశ్వరాలయం లకులీశుని విగ్రహము ప్రాముఖ్యత ఏమనగా ఇచట ఈతడు చతుర్భుజుడుగా చెక్కబడియున్నాడు.ఇలా మరియొకచేట కనబడలేదు.
ముఖలింగం లోని దేవాలయములు క్రీ.శ.9 వ శతాబ్దమునుండి 11వ శతాబ్దపు మధ్యకాలములో కట్టబడినవి.వాటిలో చివరిదైన సోమేశ్వరాలయము క్రీ.శ.11 వ శతాబ్దమునాటిది.
విద్యా సౌకర్యాలు
గ్రామంలో ప్రభుత్వ ప్రాథమిక పాఠశాలలు రెండు, ప్రైవేటు ప్రాథమిక పాఠశాల ఒకటి , ప్రభుత్వ ప్రాథమికోన్నత పాఠశాల ఒకటి , ప్రైవేటు ప్రాథమికోన్నత పాఠశాల ఒకటి, ప్రభుత్వ మాధ్యమిక పాఠశాల ఒకటి ఉన్నాయి.
సమీప బాలబడి నరసన్నపేటలో ఉంది.
సమీప జూనియర్ కళాశాల జలుమూరులోను, ప్రభుత్వ ఆర్ట్స్ / సైన్స్ డిగ్రీ కళాశాల శ్రీకాకుళంలోనూ ఉన్నాయి. సమీప వైద్య కళాశాల, మేనేజిమెంటు కళాశాల, పాలీటెక్నిక్ శ్రీకాకుళంలో ఉన్నాయి.
సమీప వృత్తి విద్యా శిక్షణ పాఠశాల నరసన్నపేటలోను, అనియత విద్యా కేంద్రం మర్రివలసలోను, దివ్యాంగుల ప్రత్యేక పాఠశాల శ్రీకాకుళం లోనూ ఉన్నాయి.
వైద్య సౌకర్యం
ప్రభుత్వ వైద్య సౌకర్యం
ముఖలింగంలో ఉన్న ఒక ప్రాథమిక ఆరోగ్య ఉప కేంద్రంలో డాక్టర్లు లేరు. ఇద్దరు పారామెడికల్ సిబ్బంది ఉన్నారు.
సమీప ప్రాథమిక ఆరోగ్య కేంద్రం గ్రామం నుండి 5 కి.మీ. లోపు దూరంలో ఉంది. పశు వైద్యశాల గ్రామం నుండి 5 కి.మీ. లోపు దూరంలో ఉంది. సంచార వైద్య శాల గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. సమీప సామాజిక ఆరోగ్య కేంద్రం, మాతా శిశు సంరక్షణ కేంద్రం, టి. బి వైద్యశాల గ్రామం నుండి 10 కి.మీ. కంటే ఎక్కువ దూరంలో ఉన్నాయి. అలోపతి ఆసుపత్రి, ప్రత్యామ్నాయ ఔషధ ఆసుపత్రి, డిస్పెన్సరీ, కుటుంబ సంక్షేమ కేంద్రం గ్రామం నుండి 10 కి.మీ. కంటే ఎక్కువ దూరంలో ఉన్నాయి.
ప్రైవేటు వైద్య సౌకర్యం
గ్రామంలోఒక ప్రైవేటు వైద్య సౌకర్యం ఉంది. ఎమ్బీబీయెస్ కాకుండా ఇతర డిగ్రీలు చదివిన డాక్టరు ఒకరు ఉన్నారు. ఒక మందుల దుకాణం ఉంది.
తాగు నీరు
గ్రామంలో కుళాయిల ద్వారా రక్షిత మంచినీటి సరఫరా జరుగుతోంది. బావుల నీరు కూడా అందుబాటులో ఉంది. గ్రామంలో ఏడాది పొడుగునా చేతిపంపుల ద్వారా నీరు అందుతుంది. కాలువ/వాగు/నది ద్వారా గ్రామానికి తాగునీరు లభిస్తుంది.
పారిశుధ్యం
గ్రామంలో మురుగునీటి పారుదల వ్యవస్థ లేదు. మురుగునీటిని శుద్ధి ప్లాంట్లోకి పంపిస్తున్నారు. గ్రామంలో సంపూర్ణ పారిశుధ్య పథకం అమలవుతోంది. సామాజిక మరుగుదొడ్డి సౌకర్యం లేదు. ఇంటింటికీ తిరిగి వ్యర్థాలను సేకరించే వ్యవస్థ లేదు. సామాజిక బయోగ్యాస్ ఉత్పాదక వ్యవస్థ లేదు. చెత్తను వీధుల పక్కనే పారబోస్తారు.
సమాచార, రవాణా సౌకర్యాలు
ముఖలింగంలో పోస్టాఫీసు సౌకర్యం ఉంది. సబ్ పోస్టాఫీసు సౌకర్యం గ్రామానికి 5 కి.మీ. లోపు దూరంలో ఉంది. పోస్ట్ అండ్ టెలిగ్రాఫ్ ఆఫీసు గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉంది. లాండ్ లైన్ టెలిఫోన్, పబ్లిక్ ఫోన్ ఆఫీసు, మొబైల్ ఫోన్ మొదలైన సౌకర్యాలు ఉన్నాయి. ఇంటర్నెట్ కెఫె / సామాన్య సేవా కేంద్రం, ప్రైవేటు కొరియర్ గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి.
గ్రామానికి సమీప ప్రాంతాల నుండి ప్రభుత్వ రవాణా సంస్థ బస్సులుప్రైవేటు బస్సులు తిరుగుతున్నాయి. సమీప గ్రామాల నుండి ఆటో సౌకర్యం కూడా ఉంది. వ్యవసాయం కొరకు వాడేందుకు గ్రామంలో ట్రాక్టర్లున్నాయి. రైల్వే స్టేషన్ గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరం ఉంది.
జిల్లా రహదారి గ్రామం గుండా పోతోంది. ప్రధాన జిల్లా రహదారి గ్రామం నుండి 5 నుండి 10 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. జాతీయ రహదారి, రాష్ట్ర రహదారి గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి. గ్రామంలో తారు రోడ్లు, కంకర రోడ్లు, మట్టిరోడ్లూ ఉన్నాయి.
మార్కెటింగు, బ్యాంకింగు
గ్రామంలో వాణిజ్య బ్యాంకు, వ్యవసాయ పరపతి సంఘం ఉన్నాయి. గ్రామంలో స్వయం సహాయక బృందం, పౌర సరఫరాల కేంద్రం ఉన్నాయి.
ఏటీఎమ్, సహకార బ్యాంకు గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి. వారం వారం సంత, వ్యవసాయ మార్కెటింగ్ సొసైటీ గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి.
ఆరోగ్యం, పోషణ, వినోద సౌకర్యాలు
గ్రామంలో సమీకృత బాలల అభివృద్ధి పథకం, అంగన్ వాడీ కేంద్రం, ఇతర పోషకాహార కేంద్రాలు, ఆశా కార్యకర్త ఉన్నాయి. గ్రామంలో ఆటల మైదానం ఉంది. గ్రామంలో వార్తాపత్రిక పంపిణీ జరుగుతుంది. అసెంబ్లీ పోలింగ్ స్టేషన్, జనన మరణాల నమోదు కార్యాలయం ఉన్నాయి. సినిమా హాలు, గ్రంథాలయం, పబ్లిక్ రీడింగ్ రూం గ్రామం నుండి 10 కి.మీ.కి పైబడిన దూరంలో ఉన్నాయి.
విద్యుత్తు
గ్రామంలో గృహావసరాల నిమిత్తం విద్యుత్ సరఫరా వ్యవస్థ ఉంది. రోజుకు 7 గంటల పాటు వ్యవసాయానికి, 14 గంటల పాటు వాణిజ్య అవసరాల కోసం కూడా విద్యుత్ సరఫరా చేస్తున్నారు.
భూమి వినియోగం
ముఖలింగంలో భూ వినియోగం కింది విధంగా ఉంది:
వ్యవసాయేతర వినియోగంలో ఉన్న భూమి: 31 హెక్టార్లు
సాగులో లేని భూముల్లో బీడు భూములు కానివి: 10 హెక్టార్లు
బంజరు భూమి: 4 హెక్టార్లు
నికరంగా విత్తిన భూమి: 127 హెక్టార్లు
నీటి సౌకర్యం లేని భూమి: 67 హెక్టార్లు
వివిధ వనరుల నుండి సాగునీరు లభిస్తున్న భూమి: 75 హెక్టార్లు
నీటిపారుదల సౌకర్యాలు
ముఖలింగంలో వ్యవసాయానికి నీటి సరఫరా కింది వనరుల ద్వారా జరుగుతోంది.
కాలువలు: 75 హెక్టార్లు
ఇవి కూడా చూడండి
ఖారవేలుడు
మూలాలు
వర్గం:శ్రీకాకుళం జిల్లా పుణ్యక్షేత్రాలు
వర్గం:శ్రీకాకుళం జిల్లా పర్యాటక ప్రదేశాలు
| https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%AE%E0%B1%81%E0%B0%96%E0%B0%B2%E0%B0%BF%E0%B0%82%E0%B0%97%E0%B0%82 |
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} | フランソワ・アシル・バゼーヌの出身はどこ | フランソワ・アシル・バゼーヌ | japanese | {
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フランソワ・アシル・バゼーヌ(François Achille Bazaine, 1811年2月13日 - 1888年9月23日)は、フランス第二帝政期の軍人。勇猛且つ沈着な指揮官としてナポレオン3世の信任厚く、二等兵から元帥へと異例の昇進を果たしたが、普仏戦争では約17万の兵と共に不名誉な降伏をなし、共和国政府から戦犯として処断された。
生涯
初期の経歴
彼の父ピエール・ドミニク・バゼーヌ将軍は第一帝政
下でエコール・ポリテクニークの地理工学者でありロシア帝国への連絡機関の担当者であった。フランソワ・アシル・バゼーヌは1811年2月13日にヴェルサイユで生まれている。彼の兄ピエール・ドミニク(父親と同名)もまたエンジニアであった。フランソワ・アシル・バゼーヌはバーダーの学校で学び、ついでサン=ルイ (オー=ラン県)の専門学校に通っている。
フランス外人部隊
1830年にエコール・ポリテクニークの入試に失敗したバゼーヌは、翌年の1831年3月28日に第37戦列歩兵大隊の二等兵として登録された。早くもその年の7月8日には伍長に昇進、続けて分隊の指揮官試験に合格している。翌1832年1月13日には軍曹クラスの指揮官に昇進した。
この年、バゼーヌは外人部隊に転属し11月4日には曹長に昇進、翌1833年11月2日には肩章を許された。1835年にはマクタの戦いで負傷するも、この時の戦功により少尉に昇進しレジオンドヌール勲章シュヴァリエを拝綬している。
彼と彼の所属する外人部隊師団がルイ・フィリップ国王よりスペインのマリア・クリスティーナ・デ・ボルボン王妃へ援助のため師団ごと貸与されると、バゼーヌは直ちにスペイン外人部隊の大尉待遇として扱われ、スペイン軍のコンラッド大佐の幕僚として選抜歩兵の部隊を指揮しカルリスタ戦争を戦った。この部隊において、バゼーヌはポンツ、ラーミナル、フエスカ、バルバストロの各所を転戦。特にバルバストロの戦いにおいては脚部に銃創を負いつつ、戦死したコンラッド将軍の遺体を敵の手から取り戻すなどの働きをしている。こののち、彼はフランス軍スペイン派遣外人部隊の総指揮官であるカリエ・デ・セニル大佐のもとに転属している。
1838年、バゼーヌはフランスに戻り外人部隊第4軽装歩兵師団に中尉として転属した。 1839年10月20日、アルジェリアにおいて再度同師団の大尉に昇進し、 1840年には第8徒歩猟兵連隊へ移動した。この時期彼はミラナ(フランス)に駐留し、主にカビリー(アルジェリア)やモロッコなどへ派遣されるなどした。1844年3月10日、連隊指揮官に昇任し、彼はトレムセンの外人部隊アラブ事務局長として、第58戦列歩兵連隊を指揮した。 1845年11月9日、シディ・カリファでの戦闘の功により、バゼーヌはレジオンドヌール勲章オフィシエを拝綬。翌1846年3月24日、シディ・アフィスでの戦闘に参加。12月には第5歩兵連隊を指揮し続けてアラブ方面で戦い続けた。 1848年4月11日に中佐に昇進し、第19軽歩兵連隊長に任命され、8月30日に第5歩兵連隊に戻り、トレムセンの上級司令官に就任した。 1850年6月4日、第55歩兵連隊の大佐およびオランの外人部隊事務局長に任命された。
1851年2月4日第1外人連隊長に就任し、翌月からシディ・ベル・アベスを占領統治した(1854年まで)。
この間、バゼーヌは1852年6月12日にMaria Juaria Gregorio Tormo de la Soledadと結婚している。
クリミア戦争および第二次イタリア独立戦争
クリミア戦争中の1854年10月28日、旅団長に任じられたバゼーヌは、フランス東方派遣軍において2つの連隊を率いることとなった。1855年9月8日の連合軍のセヴァストポリ要塞への最終攻勢に際しては連合軍の最高司令官に推され少将に昇格、9月22日には連合軍の将のうちから占領したセヴァストポリの軍政司令官に任命されている。こうしてバゼーヌは44歳にしてフランス軍中最年少の将官となった。10月、セヴァストポリ北部に残るロシア軍にとどめの一撃を加えるため、フランスおよびイギリス混成軍を率いてドニエプル河口のキンブルン半島への奇襲上陸を果たしており、この働きは「現在、ドニエプル河口で行動しているフランス軍の一部を指揮するバゼーヌ将軍は、現代における最も華麗な軍事的達成者の一人として栄光に浴することになるだろう」[1]と紙上で評された。この間戦傷により感状をうけ、またキンブルン半島を3日間占領した功によりレジオンドヌール勲章コマンドゥールを拝綬している。1856年1月25日、セヴァストポリ要塞内においてイギリスの初代ゴフ子爵よりクリミア戦争中の功績に対してバス勲章を拝綬した。
フランス凱旋後にはブールジュの第19歩兵師団長に任じられた。1859年の第二次イタリア独立戦争中、バゼーヌはヒラー元帥指揮下の第一軍団所属の第3歩兵師団を率いてオーストリア軍とロンバルディアで戦った。6月8日のメレニャーノの戦いにおいては砲弾の破片により頭部を負傷している。しかしながらその怪我のまま6月24日のソルフェリーノの戦いに参加し、大腿部に銃創および乗馬を射撃され捕虜となった。これらの勇敢な戦いぶりから再度顕彰されている。
メキシコ出兵
勇敢で忍耐強い戦い振りは、マクマオン元帥を通じてナポレオン3世の知る事となり、メキシコ出兵では1863年に遠征軍の総司令官に任命される。同年5月に要衝プエプラを占領、翌6月には同国大統領ベニート・フアレスを駆逐して首都メキシコ市に入城を果たし、バゼーヌはプエプラ占領の功により、同年9月に元帥府に列せられた。翌1864年にフランスの傀儡政権第2次メキシコ帝国が成立し、オーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公が即位したが、アメリカの援助を受けたフアレスの根強い抵抗は続き、バゼーヌは秩序の維持は困難と見て、1866年にナポレオン3世と皇帝マクシミリアンに帰国を提案した。だが、帝位に固執するマクシミリアンは提案を拒否、ナポレオン3世の再三の説得にも応じなかったため、やむなく翌1867年3月、バゼーヌはメキシコからの撤退を開始した。同年6月に皇帝はフアレスの軍に捕えられ処刑された。
普仏戦争
1870年7月に普仏戦争が勃発すると、バゼーヌはロレーヌ軍(五個軍団)司令官に任命される。当初バゼーヌはマクマホン元帥のアルザス軍(三個軍団)と連携してプロイセン軍に対処する計画であったが、プロイセン軍の両軍中央を突破する迅速な行軍により分断され後方連絡線を脅かされる状態に追い込まれた。
このためライン戦線で軍を再編成し、ヴェルダンを確保して同じく再編成されたマクマホン元帥のシャロン軍と再び連携しようとするも、ヴィオンヴィル、マルス・ラ・トゥール、グラヴェレットの各所で連戦連敗。8月19日、メス(メッツ)要塞に後退したライン軍(バゼーヌを含む3人のフランス元帥、18万5千人の兵および砲600門)は16万8千人のプロイセン軍に包囲されることとなった。
メス要塞は当初7万人を3ヵ月半から5ヵ月養う程度の食糧しか備蓄しておらず、籠城軍全体に配分した場合41日分の食糧および25日分のオート麦(シリアル)しかないと見積もられていた。早期に包囲を打開しシャロン軍と合流する必要に迫られたバゼーヌは、8月31日に4万の兵をもって包囲の打開を試みるものの敗北。一方、翌9月1日にはセダンにおいてもシャロン軍12万人が敗北しナポレオン三世ともども降伏する事態となっており(セダンの戦い)、救援の望みはなくなっていた。
バゼーヌのライン軍はこのシャロン軍降伏以降、フランス最後の希望となったものの行動は消極的であった。10月7日および10月18日のそれぞれで包囲の突破を試みたもののいずれも失敗し、合わせて7,000~10,000人程度の損害を被っている。10月20日にはついに食糧庫が払底したため、輜重馬、さらには騎兵馬を合わせた2万頭の軍馬を食肉として毎日1000頭ずつ消費する状況に陥った。飢餓と疾病,これまでの度重なる敗北により要塞内において2万人ほどが野戦病院に詰めかけるような有り様であった(一方のプロイセン軍も4万人ほどが疾病であった)。10月27日、苦渋の末バゼーヌはついに17万3千の兵とともに降伏した(→メス攻囲戦)。降伏に際してプロイセン軍はその名誉のための会戦を提示したがバゼーヌは拒否している。この戦いとナポレオン三世シャロン軍の9月1日のセダンの戦いの敗北によって、正規軍49万人のうち30万人以上を失ったフランスの敗戦は決定的なものとなり、1871年1月にパリは陥落、第二帝政は崩壊した。
バゼーヌの普仏戦争中の一連の不本意な敗北に関しては、彼自身が自軍の兵備に対して大きな不安を抱いており、積極策を取る事を躊躇したことが原因の一つと言われている(彼が開戦直後友人に宛てた手紙の中に、"Nous marchons a un desastre"「我々は敗北に向って進んでいる!」という一節がある)。だが一方で、攻囲軍側の将官にバゼーヌの外人部隊時代の同僚がいたことや、バゼーヌ自身の政治的野心などから、彼がプロシア側と内通を図っていたのではないかという疑惑も根強くあり、またその意見が当時のフランス世論の大勢を占めたことで、結果的にこの行動が彼を窮地に陥らせることになった。
戦後
フランス国民のバゼーヌ元帥への憎悪は激しく、翌1872年に共和国政府によって戦犯として拘留され、翌年のトリアノン軍法会議で絞首刑の判決を受けた。だが、直後に行われた大統領選挙でマクマオンが大統領に選出されると禁固20年に減刑され、サント・マルグリート島に拘禁された。これはマクマオンがバゼーヌを亡命させるための措置と言われ、果たして翌1874年にバゼーヌは島を脱出、ジェノヴァ(イタリア)、ロンドンを経て、1875年にスペインのマドリッドに定住した。
"L'armée du Rhin depuis le 12 août jusqu'au 29 octobre 1870"(1872)、"Episodes de la guerre de 1870"(1883)の著書がある。
余生
1875年の夏頃、バゼーヌとその家族はスペインのアルフォンソ12世の招きによりマドリッドに居住した。かつて外人部隊の一兵士として勇敢にカルリスタ戦争を戦ったバゼーヌの功に報いるため、イザベル2世は彼のための居所をマドリッド市内にあてがっている。その質素な部屋においてバゼーヌは普仏戦争の回想録を執筆した。
フランスに捧げた40年にもおよぶ軍務と数多の戦傷はバゼーヌの健康を蝕んでおり、マドリッドの冬は身に堪えるものであった。バゼーヌは最晩年を孤独のうちに過ごしている。彼の妻と娘はスペインでの生活を好ましく思っておらず、程なくしてメキシコへ渡っている。バゼーヌは息子二人とともにカレ・アトチャの質素な一室にて自給自足の生活を送り、週に1本のタバコを楽しみにするほど困窮のうちに過ごした。1888年9月20日、バゼーヌはその部屋で77年の生涯を終えた。葬式は息子二人とカンポ元帥の参列の元サン・ジュスト墓地において行われ、妻の縁者が司祭として取り仕切った。埋葬に際して剣と肩章は棺にともに安置されている。この訃報に関して、フランス各紙は「遺体は溝に投げ入れるべきだ。敗戦の記憶は永遠にフランス国民の枕に植え付けられているものだから」などどいった内容でバゼーヌを中傷した一方、ドイツ紙では丁重に扱い、バゼーヌがフランス国民に誤解されていることなどを指摘した。
バゼーヌとは対照的に、マクマホン大統領はパリの大通りを数時間にわたり渋滞させるほどの壮大な国葬がとりおこなわれ、バゼーヌと同様に外人部隊を率いていたカンロベール元帥も同じく王公貴族のごとく1895年に葬られた。フランス外人部隊は、このようなフランスの国民感情などに左右されることなく今なおバゼーヌを崇敬の対象としている。外人部隊にはマクマホンやカンロベールの痕跡はほとんどないが、一方バゼーヌについては、ケピ、レゾンヴィッレとグラヴィレットの各戦いで使用された彼の傷んだハーネスの小片、そして敵の手からバゼーヌ自ら奪い返したコンラッド大佐の十字架などが展示されている。フランス外人部隊はバゼーヌの勇敢さに敬意を表し、複数の連隊が彼にちなんで命名されている。
曖昧さ回避
Jean Bazaine ([生]1904.12.21. パリ[没]2001.3.4. パリ近郊クラマール)
フランスの画家。初め彫刻を学んだが,1924年絵画に転じた。 1941年「フランス伝統青年画家」結成の中心メンバーとなり,キュビスムとフォービスムの様式の結合を目指した。 1945年以降,非具象的な作風を示し,アッシの聖堂のステンドグラス,オダンクール聖堂やパリの国際連合教育科学文化機関 UNESCO本部のモザイク壁画を制作した()。
脚注
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} | మహానంది ఆంధ్ర ప్రదేశ్ రాష్ట్రములోని కర్నూలు జిల్లా, మహానంది మండలం లోని గ్రామం, ఈ మండలానికి కేంద్రం.
ఇది ప్రముఖ శైవ క్షేత్రం.ఇది నంద్యాలకు 14 కి.మీ దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ గల స్వామి మహానందీశ్వరుడు, అమ్మవారు కామేశ్వరీ దేవి. ఇక్కడి మహానందీశ్వర దేవాలయం 7వ శతాబ్దినాటిది. ఈ ఆలయ శిల్పశైలిని బట్టి ఇది బాదామి చాళుక్య చక్రవర్తి వినయాదిత్యుని పాలనాకాలం (680-696) నాటిదని అంచనా. ఇచ్చట గల శివలింగము ఎత్తుగా కాక కొంచెము తప్పటగ వుంటుంది. పుట్టలో గల స్వామివారికి ఆవు పాలు ఇస్తుండగా కోపించిన యజమాని ఆవుని కొట్టగా పుట్టలో గల స్వామివారిని ఆవు తొక్కుట వలన లింగము కొంచెము అణిగివుంటుంది. ఆవు గిట్ట గుర్తు లింగముపై వుంటుంది. ఇచ్చట శుద్ధ స్ఫటిక వర్ణంలో కనిపించే జలం జలజలా ప్రవహించే దృశ్యం మహానంది ప్రత్యేకత. ఈ పుష్కరిణిలు విశ్వబ్రాహ్మణ శిల్పుల యొక్క పనితనాన్ని తెలియచేస్తుంది.
ప్రధాన ఆలయానికి ఆలయ ముఖ ద్వారం గోపురానికి మధ్యలో ఉన్న పుష్కరిణి లోనికి స్వచ్ఛమైన నీరు సర్వ వేళలా గోముఖ శిల న్నుండి ధారావాహకంగా వస్తుంటుంది. ప్రధాన ఆలయంలోని లింగం క్రింద భూమిలో ఐదు నీటి ఊటలు ఉన్నాయి. లింగము క్రింద నుండి నీరు ఊరుతూ వుంటుంది. ఆ నీరు పుష్కరిణిలోనే బయటకు కనిపిస్తుంది. అందులోనికి వచ్చిన నీరు గోపురం ముందున్న రెండు గుండాల ద్వారా బయటకు పారుతుంది. ఈ నీరు బయటకు ప్రవహించే మార్గాల అమరిక వలన పుష్కరిణిలో నీరు ఎల్లప్పుడు ఒకే స్థాయిలో (1.7 మీటర్లు) నిర్మలంగా, పరిశుభ్రంగా ఉంటుంది. ఈ నీరు ఎంత స్వచ్ఛంగా వుంటుందంటే నీటిపై కదలిక లేకుంటే నీరున్నట్టే తెలియదు. ఇక్కడి శివలింగం కింది నుంచి ఏడాది పొడవునా ఒకేస్థాయిలో స్వచ్ఛమైన ఔషధ గుణాలున్న నీటి ప్రవాహం కొనసాగుతుంటుంది. వేసవిలో చల్లగా.. శీతాకాలంలో వెచ్చగా, వానాకాలంలోనూ మలినాల్లేకుండా తేటగా.. సూది సైతం స్పష్టంగా కనబడేస్థాయి స్వచ్ఛతతో ఉండటం ఈ నీటి ప్రత్యేక లక్షణం! ఐదున్నర అడుగులు లోతున్నా క్రిందనున్న రూపాయి బిళ్ల చాల స్పష్టంగా కనబడుతుంది. ఆలయ ఆవరణంలో కొన్ని బావులున్నాయి. అన్నింటిలోను ఇలాంటి నీరే ఉంది. ఈ నీటిని తీర్ధంగా భక్తులు తీసుకెళతారు. ఈ మహానంది క్షేత్రంలో ఊరే నీరు సుమారు 3000 ఏకరాలకు సాగు నీరు అందజేస్తుంది.ఇచ్చట బ్రహ్మ, విష్ణు, రుద్ర గుండాలు (పుష్కరుణులు) ఉన్నాయి. మహాశివరాత్రి పుణ్యదినమున లింగోధ్బవసమయమున అభిషేకము, కళ్యాణోత్సవము, రథోత్సవములు జరుగుతాయి. కోదండరామాలయం, కామేశ్వరీదేవి ఆలయం ఇతర దర్శనీయ స్థలాలు. మహానందికి 18 కిలోమీటర్ల పరిధిలో తొమ్మిది నంది ఆలయాలు ఉన్నాయి. వీటన్నిటినీ కలిపి నవ నందులని పేరు.ఈ ఆలయంలో మరో ప్రత్యేకత ఉంది. అదేమంటే, గర్భాలయానికి ప్రక్కన ఒక శిలా మండపం ఉంది. అది నవీన కాలంలో చెక్కిన శిల్పాలు. ఆ శిలా స్థంబాలపై ఆ శిల్పి తల్లి తండ్రుల శిల్పాలు చెక్కి తల్లి దండ్రులపై తనకున్న భక్తిని చాటుకున్నాడు. అదే విధంగా స్థంబాలపై, గాంధీ మహాత్ముని ప్రతిమ, ఇందిరా గాంధి ప్రతిమ, జవహర్ లాల్ నెహ్రూ ప్రతిమలను చెక్కి తనకున్న దేశ భక్తిని చాటుకున్నాడు.ఈ క్షేత్రం 19వ శతాబ్ది తొలిభాగంలో కీకారణ్యంగా ఉండేది. 1830లో ఈ ప్రాంతానికి కాశీయాత్ర లో భాగంగా వచ్చిన యాత్రాచరిత్రకారుడు ఏనుగుల వీరాస్వామయ్య తన కాశీయాత్రాచరిత్రలో భాగంగా ఆ వివరాలు వ్రాశారు. గుడి చుట్టూ సకలఫల వృక్షాలూ ఉండేవనీ, గుడి సమీపంలో ఒక గుడిసె కూడా ఉండేది కాదని ఆయన వ్రాతల వల్ల తెలియవస్తున్నది. అప్పట్లో అన్ని వస్తువులు బసవాపురం నుంచి తెచ్చుకోవాల్సి వచ్చేది. చివరకు నిప్పు దొరకడం కూడా ప్రయాసగానే ఉండేదని ఆయన వ్రాశారు. రాత్రిపూట మనుష్యులు ఉండరనీ తెలిపారు. అర్చకునిగా తమిళుడు ఉండేవారనీ, వచ్చినవారు తామే శివునికి అభిషేకము చేసి పూజించేందుకు అంగీకరించేవారని తెలిపారు. అర్చకుడు ప్రతిదినం ఉదయం తొలి జాముకు వచ్చి ఆలయగర్భగుడి తెరిచేవారు. గోసాయిలు, బైరాగులు రెండు మూడు రోజులు ఆ స్థలంలోనే ఉండి పునశ్చరణ చేసేవారు. మొత్తానికి 1830ల నాటికి ఇది పుణ్యక్షేత్రంగా ప్రసిద్ధమైనా సౌకర్యాలకు తీవ్రమైన ఇబ్బంది ఉండేది[1].నంద్యాల నుండి మహానందికి బస్సు సౌకర్యము ఉంది. గిద్దలూరు-నంద్యాల మార్గంలో ఉన్న గాజులపల్లె, ఇక్కడికి సమీప రైల్వే స్టేషను.
క్షేత్రచరిత్ర/స్థలపురాణం
పూర్వీకులు తెలిపిని కథానుసారం.. ఒక రుషి నల్లమల కొండల్లో చిన్న ఆశ్రమం ఏర్పాటు చేసుకొని కుటుంబంతో జీవించేవాడు. అతడు శిలాభక్షకుడై ఎల్లప్పుడు తపోధ్యానంలో నిమగ్నమై ఉండేవాడు. ఆ మేరకు ఆయన్ను అంతా శిలాదుడని(శిలాద మహర్షి) పిలిచేవారు. భార్య తమకు దైవప్రసాదంగా ఒక కుమారుడు ఉంటే బాగుంటుందని ఆకాంక్షించగా.. ఆమె కోరికను తీర్చేందుకు శిలాదుడు ఆ సర్వేశ్వరుడిని గురించిన అత్యంత నిష్టతో తపస్సు ప్రారంభించాడు. కొన్నాళ్లకు అతని భక్తికి మెచ్చిన మహేశ్వరుడు అతని చుట్టూ పుట్టగా వృద్ధి చెందాడు. ఇంకొన్నాళ్ల ఘోర తపస్సు అనంతరం శివుడు ప్రత్యక్షమై... కావల్సిన వరాలు కోరుకొమ్మన్నాడు. దేవాధిదేవుడ్ని చూసిన పారవశ్యంలో శిలాద మహర్షి భార్య కోరిన కోరిక మరిచిపోయాడు! మహాదేవా.. నీ దర్శన భాగ్యం లభించింది. ఇంతకన్నా నాకు ఇంకేమి కావాలి? నిరంతరం నన్ను అనుగ్రహించు తండ్రీ.. అని వేడుకున్నాడు. అయితే దయాళువైన పరమశివుడు మహర్షి మరిచిన భార్య ఆకాంక్షనూ గుర్తుంచుకుని.. మీ దంపతుల కోరిక సిద్ధించుగాక అని దీవించి వెళ్లిపోయాడు. ఆమేరకు పుట్ట నుంచి ఒక బాలుడు జన్మించాడు. శిలాదుడు వెంటనే భార్యను పిలిచి ఇదిగో నీవు కోరిన ఈశ్వర వరప్రసాది... మహేశ్వరుడు అనుగ్రహించి ప్రసాదించిన మన కుమారుడు.. అంటూ ఆ బాలుడిని అప్పగించాడు. వారు ఆ బిడ్డకు ‘ మహానందుడు’ అనే పేరు పెట్టారు. అనంతరం మహానందుడు ఉపనయనం అయ్యాక గురువుల దగ్గర అన్ని విద్యలు నేర్చాడు. తల్లిదండ్రుల అనుమతితో శివుని గురించి తపస్సు చేశాడు. అతని కఠోర దీక్షకు మెచ్చిన పరమశివుడు పార్వతీదేవితో సహా ప్రత్యక్షమై వత్సా.. వరం కోరుకో.. అనగా.. మహానందుడు... దేవాధిదేవా.. నన్ను నీ వాహనంగా చేసుకో... అని కోరాడు. అలాగే అని వరమిచ్చిన శివుడు ‘మహానందా.. నీవు జన్మించిన ఈ పుట్ట నుంచి వచ్చే నీటి ధార కొలనుగా మారి అహర్నిశలూ ప్రవహిస్తూ, సదా పవిత్ర వాహినిగా నిలుస్తుంది. చుట్టూ 80 కి.మీ.ల దూరం మహానంది మండలంగా ఖ్యాతి చెంది పరమ పవిత్ర క్షేత్రంగా విరాజిల్లుతుంది. అని వరమిచ్చాడు. తాను ఇక్కడి నవనందుల్లో లింగరూపుడిగా ఉంటానని వరం అనుగ్రహించాడు.
నవనందులు
కార్తీక మాసంలో సోమవారం రోజున నంద్యాల చుట్టు కొలువై ఉన్న నవనందుల దర్శనం జన్న జన్మల నుండి వెంటాడుతున్న పాప గ్రహ దోషాలన్ని పటాపంచలు అవుతాయని పెద్దల నానుడి. సూర్యోదయం నుండి సూర్యాస్తమయం లోపల ఈ క్షేత్రాలన్నింటినీ దర్శిస్తే అన్ని దోషాలు తొలగి కుటుంబంలో ఆయురారోగ్యాలతో కోరిన కోర్కెలు ఇట్టే తీరుతాయని భక్తుల ప్రధాన విశ్వాసం. 14వ శతాబ్దం నందన మహారాజుల కాలంలో నవనందుల నిర్మాణ జరిగిందని పురాణాలు చెబుతున్నాయి. వీటిని దర్శించాలంటే నంద్యాల పట్టణంలో శ్యామ్ కాల్వ గట్టున ప్రథమనందీశ్వర ఆలయం, ఆర్టీసి బస్టాండ్ దగ్గర ఉన్న శ్రీ ఆంజనేయస్వామి ఆలయంలో నాగనందీశ్వరుడు, ఆత్మకూరు బస్టాండ్ సమీపంలో సోమనందీశ్వరుడు, బండిఆత్మకూరు మండలం కడమకాల్వ సమీపంలో శివనందీశ్వరుడు, ఇక్కడి నుండి సుమారు 3 కిలో మీటర్ల దూరంలో కృష్ణనంది (విష్ణునంది), నంద్యాల మహానందికి వెళ్ళే దారిలో కుడి వైపుకు తమ్మడపల్లె గ్రామ సమీపంలో సూర్యనందీశ్వర ఆలయం, మహానంది క్షేత్రంలో మహానందీశ్వరుని దర్శనం అనంతరం వినాయక నందీశ్వరుడు, అనంతరం నంది విగ్రహం సమీపంలో గరుడనందీశ్వర ఆలయాలు కొలువై ఉన్నాయి. వీటికి ప్రత్యేకంగా నంద్యాల ఆర్టీసి వారు బస్సులను ఏర్పాటు చేశారు.
మహానంది ఆలయ చిత్రాలు
మహానంది వద్ద అతి పెద్ద నంది విగ్రహం
నల్లమల కొండల దిగువన మహానంది ఆలయ దృశ్యం
మహానంది ఆలయ చిన్న గోపురం
మహానంది ఆలయ పెద్ద గోపురం
మహానంది ఆలయ పుష్కరిణి
మహానంది ఆలయ పుష్కరిణి దగ్గరగా
మూలాలు
వర్గం:ఆంధ్రప్రదేశ్ పర్యాటక ప్రదేశాలు
వర్గం:కర్నూలు జిల్లా పర్యాటక ప్రదేశాలు
వర్గం:రాయలసీమ లోని పుణ్యక్షేత్రాలు
వర్గం:కర్నూలు జిల్లా పుణ్యక్షేత్రాలు
వర్గం:ప్రసిద్ధ శైవక్షేత్రాలు | https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%AE%E0%B0%B9%E0%B0%BE%E0%B0%A8%E0%B0%82%E0%B0%A6%E0%B0%BF |
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} | মারাঠা খাতের গড় গভীরতা কত ? | কলকাতা মেট্রো | bengali | {
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কলকাতা মেট্রো পশ্চিমবঙ্গের রাজধানী কলকাতা ও তার পার্শ্ববর্তী উত্তর ও দক্ষিণ চব্বিশ পরগনা জেলার অংশবিশেষে পরিষেবা প্রদানকারী দ্রুত পরিবহণ ব্যবস্থা। এই নেটওয়ার্কে ২৭.২২ কিলোমিটার পথে ২৪টি মেট্রো স্টেশন বিদ্যমান, যার মধ্যে ১৫টি স্টেশন ভূগর্ভস্থ। কলকাতা মেট্রো নেটওয়ার্কে ৫ ফুট ৬ ইঞ্চি ব্রড গেজ ট্র্যাকে ভূগর্ভস্থ, ভূতলস্থ এবং উড়াল, তিন প্রকার স্টেশনই রয়েছে।
১৯৮৪ সালে চালু হওয়া কলকাতা মেট্রো ভারতের প্রথম মেট্রো রেল পরিষেবা (দ্বিতীয় মেট্রো পরিষেবা দিল্লি মেট্রো চালু হয় ২০০২ সালে)। এটি ভারতীয় রেলের অধীনস্থ এবং ভারতীয় রেলের একটি ক্ষেত্রীয় রেলওয়ের মর্যাদা ভোগ করে।
বর্তমান মেট্রো লাইনটি উত্তরে নোয়াপাড়া থেকে দক্ষিণে কবি সুভাষ (নিউ গড়িয়া) পর্যন্ত প্রসারিত। এই পথটির দৈর্ঘ্য ২৭.২২ কিলোমিটার। মোট স্টেশনের সংখ্যা ২৩। ভূগর্ভস্থ ও উড়াল – উভয় প্রকার ট্র্যাকেই ট্রেন চলাচল করে। বর্তমানে কলকাতা মেট্রোর একাধিক সম্প্রসারণ প্রকল্প ও নতুন লাইন নির্মাণ প্রকল্পের কাজ চলছে। প্যারিস মেট্রোর মতো কলকাতা মেট্রোতেও দেশের বিভিন্ন মণীষী ও বিশিষ্ট ব্যক্তিদের নামে স্টেশনের নামকরণ করা হয়ে থাকে। পার্ক স্ট্রিট অঞ্চলের মেট্রো ভবনে কলকাতা মেট্রোর সদর কার্যালয় অবস্থিত।
ইতিহাস
১৯৪৯ সালে পশ্চিমবঙ্গের তদনীন্তন মুখ্যমন্ত্রী ডা. বিধানচন্দ্র রায় কলকাতার ক্রমবর্ধমান ট্রাফিক সমস্যার সমাধানে শহরে একটি ভূগর্ভস্থ রেলপথ নির্মাণের কথা বিবেচনা করেন। এই মর্মে একটি ফরাসি বিশেষজ্ঞ দলকে দিয়ে সমীক্ষা চালানো হলেও, কোনো সুসংহত সমাধানসূত্র পাওয়া যায়নি।[3] এরপর ১৯৬৯ সালে কলকাতার ট্রাফিক সমস্যা সমাধানে মেট্রোপলিটান ট্রান্সপোর্ট প্রজেক্ট (রেলওয়ে) নামে একটি প্রকল্প গৃহীত হয়। এই প্রকল্পের প্রতিবেদনে কলকাতার ট্রাফিক সমস্যার সমাধানে দ্রুত পরিবহন ব্যবস্থা চালু করা ছাড়া অন্য কোনো বিকল্প পথ নেই বলে জানানো হয়। ১৯৭১ সালে প্রকাশিত প্রকল্পের মাস্টার প্ল্যানে কলকাতার জন্য মোট ৯৭.৫ কিলোমিটার দৈর্ঘ্য্যের পাঁচটি মেট্রো লাইনের প্রস্তাব দেওয়া হয়।[3] এই পাঁচটি পথের মধ্যে সর্বাধিক গুরুত্ব আরোপিত হয় ১৬.৪৫ কিলোমিটার দৈর্ঘ্য্যবিশিষ্ট দমদম-টালিগঞ্জ লাইনটির উপর।[3] ১৯৭২ সালের ১ জুন প্রস্তাব অনুমোদিত হয়। ওই বছর ২৯ ডিসেম্বর ভারতের তৎকালীন প্রধানমন্ত্রী ইন্দিরা গান্ধী এই প্রকল্পের শিলান্যাস করেন। ১৯৭৩-৭৪ সালে নির্মাণকাজ শুরু হয়।[3][4]
প্রকল্পের কাজ শুরু হলেও ১৯৭৭-৭৮ সালে অর্থের জোগান বন্ধ থাকা, ভূগর্ভস্থ পরিষেবাগুলির স্থানান্তরণ, আদালতের নানা স্থগিতাদেশ, কাঁচামালের অনিয়মিত সরবরাহ ইত্যাদি কারণে প্রকল্প রূপায়ণে অযথা দেরি হতে থাকে। অবশেষে তদানীন্তন রেলমন্ত্রী আবু বারকাত আতাউর গণী খান চৌধুরীর বিশেষ উদ্যোগ, কর্মদক্ষতা, ও কূটনৈতিক দূরদৃষ্টির ফলে প্রকল্পের কাজে দ্রুততা আসে, এবং ১৯৮৪ সালের ২৪ অক্টোবর প্রধানমন্ত্রী ইন্দিরা গান্ধী এসপ্ল্যানেড-ভবানীপুর (নেতাজি ভবন) ৩.৪০ কিলোমিটার দৈর্ঘ্য্যবিশিষ্ট রুটে ভারতের প্রথম তথা এশিয়ার পঞ্চম মেট্রো পরিষেবা কলকাতা মেট্রোর উদ্বোধন করেন।[3] ওই বছরই ১২ নভেম্বর চালু হয় দমদম-বেলগাছিয়া ২.১৫ কিলোমিটার দৈর্ঘ্য্যবিশিষ্ট রুটটিও। উল্লেখ্য, এটিই কলকাতা মেট্রোর দীর্ঘতম স্টেশন দূরত্ব।[3] ১৯৮৬ সালের ২৯ এপ্রিল টালিগঞ্জ অবধি মেট্রো সম্পসারিত হলে এসপ্ল্যানেড থেকে টালিগঞ্জ অবধি ১১টি স্টেশন নিয়ে ৯.৭৯ কিলোমিটার পথের কাজ সম্পূর্ণ হয়।[3]
২২ নভেম্বর ১৯৯২ তারিখে দমদম-বেলগাছিয়া অংশটিকে বন্ধ করে দেওয়া হয়। কারণ এই বিচ্ছিন্ন ক্ষুদ্র অংশটি খুব একটা জনপ্রিয়তা পায়নি। টালিগঞ্জ অবধি সম্প্রসারণের দীর্ঘ আট বছর পরে ১৩ অগস্ট ১৯৯৪ তারিখে দমদম-বেলগাছিয়া শাখাটিকে ১.৬২ কিলোমিটার সম্প্রসারিত করে শ্যামবাজার অবধি নিয়ে আসা হয়। সেই বছরের ২ অক্টোবর তারিখে ০.৭১ কিলোমিটার এসপ্ল্যানেড-চাঁদনি চক শাখাটি চালু হয়। শ্যামবাজার-শোভাবাজার-গিরিশ পার্ক (১.৯৩ কিলোমিটার) ও চাঁদনি চক-সেন্ট্রাল (০.৬০ কিলোমিটার) শাখাদুটি চালু হয় ১৫ ফেব্রুয়ারি ১৯৯৫ তারিখে। গিরিশ পার্ক থেকে সেন্ট্রালের মধ্যবর্তী ১.৮০ কিলোমিটার পথ সম্পূর্ণ হয় ২৭ সেপ্টেম্বর ১৯৯৫ তারিখে। এর ফলে বর্তমান মেট্রোলাইনটির কাজ সম্পূর্ণ হয়।
২০০৯ সালে টালিগঞ্জ (বর্তমানে মহানায়ক উত্তমকুমার) স্টেশন থেকে গড়িয়া বাজার (বর্তমানে কবি নজরুল) স্টেশন পর্যন্ত সম্প্রসারিত নতুন মেট্রোপথের সূচনা করা হয়। ২০১৩ সালে দমদম থেকে নোয়াপাড়া পর্যন্ত সম্প্রসারিত নতুন মেট্রোপথের সূচনা করা হয়।
রুট ও স্টেশনসমূহ
উত্তর-দক্ষিণ করিডোর
মূল নিবন্ধ:উত্তর-দক্ষিণ করিডর
কলকাতা মেট্রোর উত্তর-দক্ষিণ করিডোরের স্টেশনসমূহ হল:
কবি সুভাষ নিউ গড়িয়া রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করে।
শহিদ ক্ষুদিরাম - ক্ষুদিরাম বসুর নামে উৎসর্গিত
কবি নজরুল - পূর্বনাম গড়িয়া বাজার স্টেশন, কাজী নজরুল ইসলামের নামে উৎসর্গিত
গীতাঞ্জলি - পূর্বনাম নাকতলা স্টেশন, রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর রচিত গীতাঞ্জলি কাব্যগ্রন্থের নামে উৎসর্গিত
মাস্টারদা সূর্য সেন - পূর্বনাম বাঁশদ্রোণী স্টেশন, বিপ্লবী সূর্য সেনের নামে উৎসর্গিত
নেতাজি - পূর্বনাম কুঁদঘাট স্টেশন, নেতাজী সুভাষচন্দ্র বসুর নামে উৎসর্গিত
মহানায়ক উত্তমকুমার - পূর্বনাম টালিগঞ্জ স্টেশন, বাংলা চলচ্চিত্র অভিনেতা উত্তম কুমারের নামে উৎসর্গিত
রবীন্দ্র সরোবর টালিগঞ্জ রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করে।
কালীঘাট
যতীন দাস পার্ক – পূর্বনাম হাজরা স্টেশন, স্বাধীনতা সংগ্রামী যতীন দাসের নামে উৎসর্গিত
নেতাজী ভবন – পূর্বনাম ভবানীপুর স্টেশন, স্টেশনের নিকটস্থ নেতাজী সুভাষচন্দ্র বসুর বাসভবনের নামে নামাঙ্কিত
রবীন্দ্র সদন
ময়দান – প্রস্তাবিত নাম গোষ্ঠ পাল
পার্ক স্ট্রিট – রাস্তাটির বর্তমান পোষাকি নাম মাদার টেরিজা সরণি হলেও স্টেশনের নাম অপরিবর্তিতই আছে
এসপ্ল্যানেড
চাঁদনি চক
সেন্ট্রাল
মহাত্মা গান্ধী রোড – মহাত্মা গান্ধী রোড ও চিত্তরঞ্জন অ্যাভেনিউ-এর সংযোগস্থলে অবস্থিত
গিরিশ পার্ক – পূর্বনাম জোড়াসাঁকো স্টেশন, নাট্যকার গিরিশচন্দ্র ঘোষের নামে উৎসর্গিত
গিরিশ পার্ক – কলকাতার আদি বসতি সুতানুটি গ্রামের নামে উৎসর্গিত
শ্যামবাজার-
বেলগাছিয়া-
দমদম- দমদম রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করে।
নোয়াপাড়া
পূর্ব-পশ্চিম করিডোর
মূল নিবন্ধ:পূর্ব-পশ্চিম করিডোর
বিধাননগর (সল্টলেক) থেকে হাওড়া পর্যন্ত নির্মীয়মান পূর্ব-পশ্চিম করিডোরের প্রস্তাবিত স্টেশনগুলি হল:
সল্টলেক সেক্টর ফাইভ
করুণাময়ী
সেন্ট্রাল
সল্টলেক সিটি সেন্টার
বেঙ্গল কেমিক্যাল
যুবভারতী ক্রীড়াঙ্গন - যুবভারতী ক্রীড়াঙ্গন এর জন্য।
ফুলবাগান ফুলবাগান এলাকার জন্য।
শিয়ালদহ - শিয়ালদহ রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
বউবাজার
সেন্ট্রাল - এটি লাইন ১ ও লাইন ২ এর সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
মহাকরণ- এটি কলকাতার প্রধান বাণিজ্য অঞ্চল বিনয়-বাদল-দীনেশ বাগ বা ডালহৌসি এলাকার জন্য।
হাওড়া - হাওড়া জংশন রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
জোকা-বিবাদি বাগ মেট্রো বা লাইন ৩
কলকাতা মেট্রো লাইন ৩ বা জোকা-বিবাদি বাগ মেট্রো হল কলকাতা মেট্রো এর একটি নির্নিয়মান লাইন।এটি দক্ষিণ কলকাতার জোকা থেকে মধ্য কলকাতার বিবাদি বাগ পর্যন্ত নির্মাণ করা হবে।এই পথের মোট দৈর্ঘ্য্য হবে ১৬.৭২ কিলোমিটার।এর মধ্যে ৮.২২ কিলোমিটার হল ভূগর্ভোস্থ ও ৮.৩২ কিলোমিটার হল উত্তলিত পথ।[5]।এই মেট্রো পথের জোকা থেকে মোমিনপুর পর্যন্ত উত্তলিত পথে ও মোমিনপুর থেকে বিবাদিবাগ পর্যন্ত ভূগর্ভস্থ পথে নির্মাণ করা হবে।
এই যাত্রাপথে প্রস্তাবিত স্টেশন: [16]
১। জোকা
২। ঠাকুরপুকুর
৩। সখেরবাজার
৪। বেহালা চৌরাস্তা
৫। বেহালা বাজার
৬। তারাতলা
৭। মাঝেরহাট
৮। মোমিনপুর
৯। খিদিরপুর
১০। ভিক্টোরিয়া
১১। পার্ক স্ট্রিট - লাইন ১ ও লাইন ৩ এর সংযোগ
১২। ধর্মতলা (এসপ্ল্যানেড)। এই নির্মাণাধীন মেট্রো স্টেশন টি লাইন ১ এর এসপ্ল্যানেড থেকে আলাদা হবে।
নোয়াপাড়া-বারাসাত মেট্রো বা লাইন ৪
কলকাতা মেট্রো লাইন ৪ বা নোয়াপাড়া-বারাসাত মেট্রো দমদমের নোয়াপাড়া, নেতাজি সুভাষচন্দ্র বসু আন্তর্জাতিক বিমানবন্দর ও বারাসাতকে যুক্ত করবে।[6] এই পথের মোট দৈর্ঘ্য ১৭.১৩ কিলোমিটার এবং এই মোট্রো পথে ৯ টি মেট্রো স্টেশন তৈরি হবে।
এই রুটের স্টেশন গুলি হল[7] -
১.নোয়াপাড়া মেট্রো স্টেশন (০.০কিমি) ,লাইন ১ ও লাইন ৪ এর সংযোগ
২.দমদম ক্যান্টনমেন্ট মেট্রো স্টেশন (২.৮০ কিমি) - দমদম ক্যান্টনমেন্ট রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
৩. যশোর রোড মেট্রো স্টেশন (৫.০৮)
৪.বিমানবন্দর || দমদম বিমানবন্দর - লাইন ১ ও লাইন ৬ এর সংযোগ। এটি নেতাজি সুভাষচন্দ্র বসু আন্তর্জাতিক বিমানবন্দর এর সংলগ্ন এবং বিমানবন্দর থেকে দ্রুত যাত্রীদের গন্তব্যে পৌঁছে দিতে সহায়তা করবে।
৫.বিরাটি (৭.৯০কিমি)
৬.মাইকেল নগর
৭.নিউ ব্যরাকপুর (১০.৪০৫ কিমি)
৮.মধ্যমগ্রাম (১২.৩১০ কিমি)
৯.হৃদয়পুর (১৪.৮০ কিমি)
১০. বারাসাত মেট্রো স্টেশন (১৭.১৩ কিমি)। বারাসাত জংশন রেল ষ্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
লাইন ৫
বরানগর এবং ব্যারাকপুর এর মাঝে নির্মিত হবে বরানগর-ব্যারাকপুর মেট্রো বা কলকাতা মেট্রো লাইন ৫।
এই ১২.৪০ কিমি পথে মোট ১১ টি মেট্রো স্টেশন থাকবে যেগুলি হল
১। বরানগর মেট্রো স্টেশন।বরানগর- বরানগর রোড রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে। এছাড়া এটি লাইন ১/১ ও লাইন ৫ এর সংযোগ।
২। কামারহাটি মেট্রো স্টেশন
৩। আগড়পাড়া মেট্রো স্টেশন
৪। সোদপুর মেট্রো স্টেশন
৫। পানিহাটি মেট্রো স্টেশন
৬। সুভাষনগর মেট্রো স্টেশন
৭। খড়দহ মেট্রো স্টেশন
৮। টাটা গেট মেট্রো স্টেশন
৯। টিটাগড় মেট্রো স্টেশন
১০। তালপুকুর মেট্রো স্টেশন
১১। বারাকপুর মেট্রো স্টেশন
লাইন ১/১
কলকাতা মেট্রো লাইন ১/১ বা নোয়াপাড়া-বরানগর-দক্ষিণেশ্বর মেট্রো নোয়াপাড়া,বরানগর ও দক্ষিণেশ্বর এর সাথে সংযোগ করবে। এই লাইন এর কাজ দ্রুত গতিতে চলছে ও ডিসেম্বর, ২০১৭ এর মধ্যে শেষ হবে বলে আশা করা যায়। এই প্রকল্পের দায়িত্বে রয়েছে ভারত সরকার এর অধীনস্থ সংস্থা রেলওয়ে বিকাশ নিগম লিমিটেড বা আরভিএনএল। এই লাইনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর দমদম-ডানকুনি শাখার সাথে সমান্তরাল ভাবে থাকবে।
এই লাইনের স্টেশন গুলি হল
১। নোয়াপাড়া - লাইন ১ ও লাইন ৪ এর সংযোগ
২। বরানগর মেট্রো স্টেশন।বরানগর- বরানগর রোড রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে। এছাড়া এটি লাইন ১/১ ও লাইন ৫ এর সংযোগ।
৩। দক্ষিণেশ্বর - দক্ষিণেশ্বর রোড রেলওয়ে স্টেশন এর সংলগ্ন এই মেট্রো স্টেশনটি কলকাতা শহরতলি রেল এর সাথে সংযোগবিন্দু হিসেবে কাজ করবে।
লাইন ৬
নিউ গড়িয়া স্টেশন থেকে শুরু হয়ে ইএম বাইপাস বরাবর কালিকাপুর, আনন্দপুর, রুবি, ভিআইপি বাজার, পরমা আইল্যান্ড, চিংড়িঘাটা হয়ে ডানদিকে বেঁকে নিকোপার্ক সেক্টর ফাইভ, টেকনোপলিস, নিউ টাউন হয়ে ভিআইপি রোডের ওপর হলদিরাম ছুঁয়ে মেট্রো পৌঁছবে দমদম বিমানবন্দরে। ৩২ কিলোমিটার রেলপথে মোট ২৬টি স্টেশন তৈরি হবে।[8] পুরো রাস্তায় মেট্রো যাবে মাটির ওপর দিয়ে এলিভেটেড ট্র্যাকে শুধু মাত্র বিমানবন্দর এর কাছে এসে এই মেট্রো লাইন সুড়ঙ্গ পথে প্রবেশ করবে এবং বিমান বন্দরটি মাটির নীচে নির্মাণ করা হবে। বিমানবন্দর স্টেশনটি নিয়ে বিমানবন্দর কর্তৃপক্ষের সঙ্গে মতানৈক্য মিটতেই এ বার এই প্রকল্পের জন্য কাজের বরাত দিয়ে দিল রেল বিকাশ নিগম লিমিটেড. ২২ অক্টোবর তিনটি ঠিকাদার সংস্থাকে প্রায় ৯০০ কোটি টাকার বরাত দিয়ে দেওয়া হয়েছে। এই প্রকল্পের জন্য ২০১১-২০১২ আর্থিক বছরের বাজেটে মোট ১৬০০ কোটি টাকা বরাদ্দ করেছে রেল বোর্ড. আরভিএনএল এবং মেট্রো কর্তাদের আশা, নভেম্বর থেকেই কাজ শুরু করে দেবে ওই তিন ঠিকাদার সংস্থা. কাজ শুরুর তিন বছরের মধ্যে প্রকল্প শেষ হয়ে যাবে বলেও তাঁদের আশা.
সর্বশেষ প্রতিবেদন অনুযায়ী ২০১৮ সালের জুন মাস নাগাদ নিউ গড়িয়া থেকে রুবি পর্যন্ত মেট্রো সম্প্রসারিত হবে। [9]
স্টেশন গুলি হল-
ইতিমধ্যেই নোয়াপাড়া থেকে বিমানবন্দর হয়ে বারাসত মেট্রো প্রকল্পের কাজ শুরু হয়ে গিয়েছে। সেক্টর ফাইভ থেকে হাওড়া ময়দান পূর্ব-পশ্চিম মেট্রোর কাজও চলছে. সবকটি প্রকল্পের কাজ শেষ হয়ে গেলে মেট্রোর যাত্রীরা বেশ কয়েকটি স্টেশন থেকে ট্রেন বদল করে অন্য রুটের মেট্রোয় চড়তে পারবেন। ট্রেন বদলের সুযোগ থাকবে যে স্টেশনগুলিতে, সেগুলি হল
কবি সুভাষ বা নিউ গড়িয়া স্টেশন- উত্তর-দক্ষিণ মেট্রো এবং নিউ গড়িয়া- বিমানবন্দর মেট্রো।
বিমানবন্দর স্টেশন- নোয়াপাড়া-বারাসত মেট্রো এবং নিউ গড়িয়া-বিমানবন্দর মেট্রো
সেক্টর ফাইভ স্টেশন- পূর্ব-পশ্চিম মেট্রো এবং নিউ গড়িয়া- বিমানবন্দর মেট্রো।
পার্ক ষ্ট্রীট স্টেশন- উত্তর-দক্ষিণ মেট্রো এবং জোকা-বিবাদি বাগ মেট্রো ।
সেন্ট্রাল স্টেশন- উত্তর-দক্ষিণ মেট্রো এবং পূর্ব-পশ্চিম মেট্রো ।
নোয়াপাড়া স্টেশন- উত্তর-দক্ষিণ মেট্রো , নোয়াপাড়া-বারাসত মেট্রো , নোয়াপাড়া-দক্ষিণেশ্বর মেট্রো
বরানগর স্টেশন- উত্তর-দক্ষিণ মেট্রো এবং বরানগর-ব্যারাকপুর মেট্রো।
বৈশিষ্ট্যসমূহ
কারিগরি বৈশিষ্ট্যসমূহ ও নির্মাণপদ্ধতি
মেট্রো পরিকাঠামোো বিনির্মাণ একটি অত্যন্ত জটিল কাজ। কারণ, এই কাজে একযোগে প্রয়োগ করতে হয় সিভিল, ইলেকট্রিক্যাল, সিগন্যালিং ও টেলিকমিউনিকেশন ইঞ্জিনিয়ারিং ক্ষেত্রের একাধিক আধুনিক প্রযুক্তি। ভারতীয় ইঞ্জিনিয়ারগণ তাঁদের নিজস্ব অভিজ্ঞতা ও বিদেশ থেকে আহরিত জ্ঞানকে সম্বল করে ভারতে প্রথম কয়েকটি অত্যাধুনিক প্রযুক্তির প্রয়োগ ঘটান কলকাতা মেট্রো সংস্থাপনকালে।
ডায়াফ্রাম দেওয়াল ও শিট পাইলের সাহায্যে কাট অ্যান্ড কভার অর্থাৎ খনন ও ভরাটকরণ পদ্ধতিতে নির্মাণকাজ চালানো হয়।
মাটির নিচে যখন খননকার্য চলছিল, তখন উপরের রাস্তায় ট্র্যাফিক পরিষেবা সচল রাখার জন্য প্রশস্ত ডেকিং-এর ব্যবস্থা করা হয়।
বায়ুচাপ ও এয়ারলক ব্যবহার করে সিল্ড টানেলিং করা হয়।
ইলাস্টিক ফাস্টেনিং, রাবার প্যাড, এপক্সি মর্টার এবং নাইলন ইনসার্টস ব্যবহার করে ব্যাল্যাস্টবিহীন ট্র্যাক নির্মাণ করা হয়।
স্টেশন ও সুড়ঙ্গের পরিবেশ নিয়ণকল্পে শীততাপ-নিয়ন্ত্রণ ও বায়ুচলনের ব্যবস্থা করা হয়।
ট্র্যাকশনের জন্য তৃতীয় রেল কারেন্ট কালেকশনের ব্যবস্থা করা হয়।
শুষ্ক ধরনের ট্রান্সফর্মার ও সিএফ-৬ সার্কিট ব্রেকার্স সহ ভূগর্ভস্থ সাবস্টেশন স্থাপন করা হয়।
টানেল ট্রেন ভিএইচএফ-রেডিও সংযোগ ব্যবস্থা রাখা হয়।
মাইক্রোপ্রসেসর-ভিত্তিক ট্রেন নিয়ন্ত্রণ ও সাবস্টেশনগুলির জন্য তত্ত্বাবধায়কীয় রিমোট কন্ট্রোল ব্যবস্থা চালু করা হয়।
স্বয়ংক্রিয় টিকিট বিক্রয় ও পরীক্ষণ বা চেকিং-এর ব্যবস্থা করা হয়।
সাধারণ বৈশিষ্ট্যসমূহ
রোলিং স্টক
সমগ্র রেকটি ভেস্টিবিউল-বেষ্টিত। রোলিং স্টক সরবরাহ করে চেন্নাইয়ের আইসিএফ এবং বৈদ্যুতিক সরঞ্জাম সরবরাহ করে বেঙ্গালুরুর এনজিইএফ। এই রোলিং স্টকগুলি অদ্বিতীয়, কারণ ডবলিউএজি-৬ সিরিজের কয়েকটি লোকোমোটিভ ছাড়া এগুলি ভারতের একমাত্র এন্ড-মাইন্টেড ক্যাব দরজা-বিশিষ্ট।
কলকাতা মেট্রোর ভূগর্ভস্থ রেল পরিষেবার জন্য আইসিএফ এই কোচগুলি বিশেষ নকশায় নির্মিত করে সরবরাহ করে। এর বৈশিষ্ট্যগুলি হল:
ট্র্যাকশনের বিদ্যুৎসংযোগ তৃতীয় রেল বিদ্যুৎ সংগ্রহ ব্যবস্থায় লব্ধ হয়।
স্বয়ংক্রিয় দরজা খোলা/বন্ধ হওয়ার ব্যবস্থা ও নিরবিচ্ছিন্ন ট্রানজিট পর্যবেক্ষণ করা হয়ে থাকে।
কোনওরকম মানবিক ব্যর্থতার ক্ষেত্রে স্বয়ংক্রিয় ট্রেন রক্ষণব্যবস্থা লব্ধ, এতে স্বয়ংক্রিয়ভাবে ব্রেক প্রযুক্ত হয়ে হয়।
ট্রেনও স্বয়ংক্রিয়ভাবে চলে। ড্রাইভার কেবল তত্ত্বাবধান করে থাকেন।
আসন্ন স্টেশনের নাম ঘোষণা করে গণসম্বোধন ব্যবস্থাও চালু আছে। ট্রেন স্টেশনে উপস্থিত হলে সেই স্টেশনের নামও ঘোষণা হয়ে থাকে। এই ঘোষণা হয় বাংলায় এবং তারপর ঘোষণার হিন্দি ও ইংরেজি অনুবাদও সম্প্রচারিত হয়। ট্রেনের কেন্দ্রীয় নিয়ন্ত্রক ট্রেন ক্রিউ-এর যে কোনও সদস্যের সঙ্গে যোগাযোগ করতে পারেন এবং এই ব্যবস্থায় সরাসরি যাত্রীদের সম্বোধন করে ঘোষণা করতে পারেন।
এই সকল অত্যাধুনিক কলাকৌশলবিশিষ্ট কোচগুলির নকশা ও নির্মাণ অত্যন্ত নির্ভরযোগ্য ও উচ্চমানের। সুরক্ষা ব্যবস্থা একটি গুরুত্বপূর্ণ কাজ বলে বিবেচিত হয়। কোনওরকম কারিগরি সহযোগিতা ছাড়াই যা লব্ধ হয়ে থাকে। সমগ্র ব্যবস্থাটি ২৩৫৬ জন যাত্রী ধারণক্ষমতা সম্পন্ন।
ভাড়া কাঠামো
মেট্রো রেলের ভাড়া নির্দিষ্ট নয়। দুরত্ব অনুসারে এই ভাড়া পরিবর্তিত হয়ে থাকে। একটি ত্রিবার্ষিক বিরতির পর সর্বশেষ ১ অক্টোবর ২০০১ তারিখে মেট্রোর ভাড়া পর্যালোচিত হয়েছিল। বর্তমানের ভাড়া কাঠামোটি নিম্নরূপ:
টিকিট
কলকাতার মেট্রো রেলে নিম্নোক্ত ধরণের টিকিট দেখা যায়:
দৈনিক টিকিট
একক ব্যক্তি একমুখী যাত্রা
একক ব্যক্তি দ্বিমুখী যাত্রা (গমন ও প্রত্যাবর্তন)
বহু ব্যক্তি (২-৭ জন) একমুখী যাত্রা
বহু ব্যক্তি (২-৭ জন) দ্বিমুখী যাত্রা (গমন ও প্রত্যাবর্তন)
মাল্টি রাইড টিকিট
মিনিমাম মাল্টি রাইড (এমএমআর) – ২১ দিনের জন্য কার্যকর। এতে ১১টি রাইডের ভাড়ায় ১২টি রাইড লব্ধ হয়।
লিমিটেড মাল্টি রাইড (এলএমআর) – ৩০ দিনের জন্য কার্যকর। এতে ৩০টি রাইডের ভাড়ায় ৪০টি রাইড লব্ধ হয়।
এক্সটেন্ডেড মাল্টি রাইড (ইএমআর) - ৯০ দিনের জন্য কার্যকর। এতে ৫৫টি রাইডের ভাড়ায় ৮০টি রাইড লব্ধ হয়।
স্বয়ংক্রিয় ভাড়া সংগ্রহ
১৯৯৪ সালের আগস্ট-সেপ্টেম্বর মাসে কলকাতা মেট্রো চৌম্বকীয় কোডযুক্ত টিকিট ও যাত্রী নিয়ন্ত্রণ ব্যবস্থা-সহ স্বয়ংক্রিয় ভাড়া সংগ্রহ বা অটোমেটিক ফেয়ার কালেকশন (এএফসি) ব্যবস্থা চালু করে। পরে এই ব্যবস্থা দমদম থেকে কবি নজরুল অবধি সকল স্টেশনে চালু করা হয়। চৌম্বকীয় টিকিটগুলি টিকিট মেশিন দ্বারা বিতরিত হয়। সে টিকিট একটি স্বয়ংক্রিয় ফেয়ার-কালেকশন গেটে নির্দিষ্ট স্থানে ঢোকালে স্টেশনে প্রবেশ করতে পারা যায়। চৌম্বকীয় টিকিট ছয় প্রকার –
একক রাইড
দুই রাইড (গমন ও প্রত্যাবর্তন)
বারো রাইড (এলএমআর)
৪৮ রাইড (ইএমআর)
বহু ব্যক্তি একমুখী যাত্রা (এমপিএস)
বহু ব্যক্তি দ্বিমুখী যাত্রা (এমপিআর)
বর্তমানে বারো রাইড (এলএমআর) ও ৪৮ রাইড (ইএমআর) পরিবর্তিত হয়ে ১২ রাইড (এমএমআর), ৪০ রাইড (এলএমআর) ও ৮০ রাইড (ইএমআর) করা হয়েছে।
টিকিট অফিস মেশিন (টিওএম) এমন একটি মেশিন যা থেকে বুকিং কাউন্টারগুলি টিকিট ইস্যু করে। এই টিকিটগুলি স্বয়ংক্রিয় ফেয়ার কালেকশন গেটে ঢোকালে স্টেশনে প্রবেশ করা যায়। আবার স্টেশন থেকে বের হবার সময়ও একই পদ্ধতিতে বের হতে হয়। এই সময় গেট টিকিটগুলি ফিরিয়ে দেয় না।
এই ব্যবস্থায় কখনও যদি যান্ত্রিক গোলযোগ দেখা দেয়, তবে সেক্ষেত্রে সাধারণ পদ্ধতিতে টিকিট বিতরণ ও পরীক্ষা করা হয়ে থাকে।
স্মার্ট কার্ড
২০০৫ সাল থেকে মেট্রো রেল স্মার্ট কার্ড ভিত্তিক টিকিট ব্যবস্থা চালু করে। এক্ষেত্রে কোনও ব্যক্তি একটি স্মার্ট (সম্ভবত আরএফআইডি-চিপ ইনস্টল করা) কার্ড ইস্যু করে একটি নির্দিষ্ট পরিমাণ অর্থে রিচার্জ করতে পারেন। স্মার্ট কার্ডের মাধ্যমে স্বয়ংক্রিয়ভাবে দুরত্ব নির্ধারিত হয়ে যায় ও সেই হিসাবে অর্থ রিচার্জ করা অর্থ থেকে কেটে নেওয়া হয়। এই ব্যবস্থা চৌম্বকীয় টিকিটের খরচ কমায়, তাই চৌম্বকীয় টিকিটের তুলনায় তিন টাকা কম মূল্যে মেট্রোয় পরিভ্রমণ করা যায়।
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বিষয়শ্রেণী:টিউব রেল
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«Аполло́н-15» (English: Apollo 15) — девятый пилотируемый космический корабль в рамках программы «Аполлон», четвёртая высадка людей на Луну. Командир экипажа Дэвид Скотт и пилот лунного модуля Джеймс Ирвин провели на Луне почти трое суток (чуть менее 67 часов). Общая продолжительность трёх выходов на лунную поверхность составила 18 ч 30 мин. На Луне экипаж впервые использовал лунный автомобиль, проехав на нём в общей сложности 27,9 км. Было собрано и затем доставлено на Землю 77 килограммов образцов лунного грунта. После полёта специалисты назвали образцы, доставленные этой экспедицией, «богатейшим уловом» всей программы, а миссию «Аполлона-15» — «одной из самых блистательных с научной точки зрения»[1].
Космический корабль был впервые оборудован модулем научных приборов (English: SIM— Scientific Instrument Module) и доставил к Луне небольшой искусственный спутник, который был запущен под занавес миссии. На обратном пути к Земле пилот командного модуля Альфред Уорден впервые совершил выход в открытый космос в межпланетном пространстве, чтобы демонтировать и доставить на Землю отснятые фотокассеты.
Командный модуль корабля «Индевор» (English: Endeavour— «устремление») был назван в честь легендарного парусника «Индевор», на котором британский исследователь и первооткрыватель Джеймс Кук совершил своё первое кругосветное путешествие в 1768—1771 годах.
Лунный модуль получил позывные «Фа́лкон» (English: Falcon— сокол). Сокол — талисман Академии ВВС США. Все члены экипажа «Аполлона-15» были офицерами ВВС США.
Экипаж
Дэвид Скотт — командир (3)
Альфред Уорден — пилот командного модуля (1)
Джеймс Ирвин — пилот лунного модуля (1)
Для Дэвида Скотта это был третий космический полёт. Первый он совершил в качестве пилота вместе с Нилом Армстронгом в марте 1966 года на космическом корабле «Джемини-8». В том полёте впервые в мире была осуществлена стыковка двух космических аппаратов на околоземной орбите в ручном режиме. Полёт был прерван досрочно, поскольку из-за неисправности одного из двигателей системы ориентации возникла реальная угроза для жизни астронавтов[2]. Второй раз Скотт летал в космос в марте 1969 года в качестве пилота командного модуля «Аполлона-9». Это был третий пилотируемый полёт по программе «Аполлон», в ходе которого на околоземной орбите проходили первые пилотируемые испытания лунного модуля (LM-3)[3].
Для Альфреда Уордена и Джеймса Ирвина полёт на «Аполлоне-15» был первым. В 1969 году они вместе со своим командиром входили в дублирующий экипаж «Аполлона-12»[4].
Дублирующий экипаж
Ричард Гордон — командир.
Вэнс Бранд — пилот командного модуля.
Харрисон Шмитт — пилот лунного модуля.
Командир дублирующего экипажа Ричард Гордон имел опыт двух космических полётов. Он летал в сентябре 1966 года на «Джемини-11»[5] и в ноябре 1969 пилотом командного модуля «Аполлона-12»[4]. Гордон — один из 24 человек, летавших к Луне. Вэнс Бранд и Харрисон Шмитт на тот момент в космос ещё не летали.
Команда поддержки
Джозеф Аллен
Роберт Паркер
Карл Хенайз
Члены команды поддержки не готовились к космическому полету, но они имели полномочия принимать участие в планировании миссий и представлять основной и дублирующий экипажи на различных совещаниях, если астронавты были заняты на тренировках. Во время космических полётов они также выполняли функции (English: CapCom— Capsule Communicator). Только операторы связи имели возможность напрямую общаться с астронавтами.
Планирование и подготовка к полёту
26 марта 1970 года был официально объявлен состав основного экипажа «Аполлона-15»: командир — Дэвид Скотт, пилот командного модуля — Альфред Уорден, пилот лунного модуля — Джеймс Ирвин[6]. Но всего через две с половиной недели после этого на пути к Луне потерпел аварию «Аполлон-13». Последующие полёты были отложены, возникла необходимость кардинальной проверки и доработки всех систем космического корабля[6]. Согласно первоначальным планам, «Аполлон-15» должен был стать Эйч-миссией (English: H-mission), как и «Аполлон-12», «Аполлон-13» и «Аполлон-14». Эйч-миссии предусматривали пребывание на Луне до полутора суток и по два выхода астронавтов на лунную поверхность продолжительностью от 4 до 5 часов. Но теперь появилось время, за которое можно было успеть собрать улучшенный лунный модуль и первый луномобиль, а значит, повышались и шансы, что следующий полёт после «Аполлона-14» станет Джей-миссией[6]. В начале сентября 1970 года НАСА объявило об изменении программы «Аполлона-15» и об отмене полёта «Аполлона-19»[7]. Для повышения результативности экспедиции «Аполлона-15» её статус был повышен до Джей-миссии (высадки до трёх суток с основным акцентом на научные исследования), ей предстояло везти на Луну первый [8] (English: Lunar Roving Vehicle).
Когда экипаж «Аполлона-15» начинал готовиться к полёту, в НАСА ещё не существовало официальной программы геологической подготовки астронавтов[9]. И хотя предыдущие экипажи тоже изучали теорию и выезжали на полевые занятия по геологии, этот процесс был не очень продуманным и во многом спонтанным. Для «Аполлона-15» геология впервые стала одним из приоритетов[9]. Скотт и Ирвин занимались с Ли Силвером, геологом из Калифорнийского технологического института, специалистом по докембрию[9]. Кандидатура Силвера была предложена Харрисоном Шмиттом в качестве альтернативы лекторам, которых НАСА использовало ранее[10]. В конце 50-х годов XX века Силвер предложил важные усовершенствования метода определения возраста геологических пород с помощью радиоактивного распада урана и образования свинца.
Силвер вывозил основной и дублирующий экипажи в разные районы США на полевые занятия по геологии[11]. За год, с мая 1970 по май 1971 года, астронавты побывали в 16 геологических экспедициях, посетив штаты Аризона, Невада, Нью-Мексико, Гавайские острова. Только основной экипаж «Аполлона-15» совершил 30 полномасштабных тренировок внекорабельной деятельности, часть из них в пешем порядке, часть — на так называемом «Гровере»[11] (English: Geologic Rover). По мере того, как приближалась дата старта, эти занятия становились всё более приближенными к реальной работе, которая астронавтам предстояла на Луне. Члены экипажей начали носить за плечами полноразмерные муляжи ранцев портативной системы жизнеобеспечения и вести переговоры с помощью портативных радиостанций с оператором связи. Во время геологических тренировок последний обычно сидел на большом удалении, в палатке в компании учёных-геологов, которые не знали, где конкретно находятся астронавты, и должны были полагаться только на их описания, чтобы понять, о какой местности идёт речь[12]. Часто в таких случаях Ли Силвер бежал позади «Гровера», чтобы самому видеть то, что видят и описывают астронавты, и иметь возможность оценить правильность их выводов[11].
Пилот командного модуля Альфред Уорден и его дублёр Вэнс Бранд тоже занимались геологической подготовкой, но другого рода. Вместе с геологом египетского происхождения Фаруком аль-Базом они летали на самолётах и учились c воздуха определять особенности геологического строения того или иного района[11]. При этом скорость и высота выбирались с таким расчётом, чтобы поверхность внизу проплывала примерно с той же скоростью, с которой под Уорденом вскоре будут проплывать лунные пейзажи. Большое внимание уделялось также тренировкам с аппаратурой модуля научных приборов[13]. В общей сложности, научным аспектам миссии была посвящена примерно одна треть всего времени подготовки астронавтов[13].
В сентябре 1970 года, тогда же, когда статус «Аполлона-15» был повышен до Джей-миссии, было принято и решение о том, что посадка состоится в районе Хэдли — Апеннин[7]. Ранее комиссия по выбору мест посадки сузила их число до двух: каньон Хэдли Рилл и окрестности кратера Мариус, возле которого есть множество интересных с геологической точки зрения куполообразных холмов, предположительно, вулканического происхождения. И хотя окончательный выбор обычно зависел не от командиров экипажей, их слово, как правило, имело большой вес. Для Дэвида Скотта было ясно — садиться нужно у Хэдли Рилл. Возражений ни у кого не возникло[7].
Технические новации миссии
Чтобы выполнить задачи, возлагавшиеся на Джей-миссии, «Аполлон-15» должен был доставить к Луне на 1815 кг полезного груза больше, чем «Аполлон-14»[14]. Именно такой была разница между расчётной массой улучшенного лунного модуля «Аполлона-15» (16 330 кг) и массами предыдущих моделей лунного корабля (14 515 кг)[15]. Это количество складывалось из массы первого «Лунного Ровера» (около 209 кг)[16], массы дополнительного научного оборудования и массы расходных материалов (кислорода, воды, питания), необходимых для пребывания астронавтов на Луне в течение трёх суток. Чтобы достичь увеличения полезной нагрузки, необходимо было скорректировать рабочую схему полёта и внести ряд изменений в конструкцию ракеты-носителя (РН) и космического корабля (КК).
Изменения рабочей схемы полёта
Прежде всего, была понижена высота околоземной орбиты ожидания (перед переходом на траекторию полёта к Луне) со 185 км до примерно 170 км[14]. Диапазон азимута при взлёте был изменён с 72—96° до 80—100°[14]. Азимут при взлёте «Аполлона-15» составлял около 90°[17]. Другие операционные изменения заключались в небольшом сокращении резервов топлива и увеличении загрузки топлива для перехода на траекторию полёта к Луне. Дополнительные возможности для увеличения полезной нагрузки давали сезонные факторы, такие как более благоприятное воздействие на запуск июльских температур и ветров, по сравнению с январскими.
Конструкционные модификации РН и КК
Были внесены изменения в конструкцию первой ступени (S-IC) ракеты-носителя Сатурн-V. Вдвое, с восьми до четырёх, было сокращено количество тормозных ракетных двигателей (для отвода первой ступени от второй)[14]. Были модифицированы сопла всех пяти основных кислородно-керосиновых двигателей F-1, что позволило практически полностью использовать жидкий кислород в четырёх периферийных двигателях и обеспечить чуть более продолжительную работу центрального двигателя[14]. На второй ступени (S-II) была улучшена система поддержания топлива под давлением[14]. Три других модификации второй ступени были впервые применены на «Аполлоне-14»: в центральном двигателе, на линии подачи жидкого кислорода был установлен накопитель (аккумулятор) газообразного гелия; добавлено дублирующее устройство для аварийного отключения центрального двигателя и установлены упрощённые клапаны подачи топлива на всех пяти двигателях J-2 второй ступени[14]. Эти изменения позволяли уменьшить вибрации и обеспечивали более эффективную работу двигателей. Но на «Аполлоне-15» была ещё одна оригинальная модификация. В случае сбоев в работе системы аварийного отключения центрального двигателя она могла быть дистанционно заблокирована на стартовой площадке или в полёте во избежание ошибочной команды на отключение[14].
С учётом уроков, извлечённых из аварии «Аполлона-13», были внесены изменения в конструкцию корабля «Аполлон-15», с тем чтобы повысить их надёжность и безопасность. В служебном модуле была установлена дополнительная батарея электропитания, аналогичная пяти батареям посадочной ступени лунного модуля, и убраны перемешивающие вентиляторы из криогенных кислородных баков и термостаты-переключатели из цепей нагревания кислородных баков[18]. В служебном модуле были установлены третий криогенный кислородный бак ёмкостью 145 кг и клапан, который в чрезвычайной ситуации позволял изолировать этот бак от топливных элементов и от двух других кислородных баков, чтобы поддерживать только работу системы жизнеобеспечения командного модуля[18]. Был установлен также третий водородный бак ёмкостью около 12 кг, чтобы вместе с третьим кислородным баком обеспечивать корабль дополнительной электроэнергией. На внешней поверхности служебного модуля были смонтированы поручни и захваты для ног, которые должны были облегчить выход в открытый космос пилота командного модуля на обратном пути к Земле. Модуль научных приборов был изолирован от остальной части служебного модуля термоизоляцией[18].
Модификации были внесены и в конструкцию «Аполлона-15» по сравнению с «Аполлоном-14», хотя внешне корабли практически не отличались.
Повышена ёмкость всех батарей электропитания посадочной ступени с 400 до 415 ампер-часов. Добавлена пятая батарея. Суммарная ёмкость доведена до 2075 ампер-часов[19].
На посадочной ступени смонтирован второй бак с водой ёмкостью около 170 литров.
На посадочной ступени смонтирован второй бак с газообразным кислородом ёмкостью около 39 кг для заправки кислородом ранцевой системы жизнеобеспечения.
Добавлена система, способная хранить по 1200 см³ мочи на одного человека в день и по 100 см³ конденсата из ранцевой системы жизнеобеспечения на одного человека в час.
Смонтирована дополнительная термоизоляция для более продолжительного пребывания на поверхности Луны.
Расширены грузовые отсеки посадочной ступени. 1-й отсек (справа от лестницы, если смотреть на лунный модуль) предназначен для транспортировки «Лунного Ровера». Раньше в нём располагались зонтичная коротковолновая антенна и лазерный отражатель. Грузоподъёмность 4-го отсека (слева от лестницы), предназначенного для транспортировки научного оборудования (English: Modular Equipment Storage Assembly— MESA, «хранилище модульного оборудования»), была увеличена с 91 кг (у «Аполлона-14») до 272 кг.
Примерно на 25 см увеличена длина сопла двигателя посадочной ступени.
Увеличение размеров топливных баков посадочной ступени на 8,5 см увеличило их ёмкость на 521 кг, что дало возможность продлить время зависания лунного модуля перед посадкой до 157 секунд (у «Аполлона-14» было 140 секунд)[19].
Новая схема связи
Принципиальные изменения были внесены в схему связи между астронавтами на Луне и Землёй. Раньше она осуществлялась через антенны, установленные на лунном модуле. Но поскольку экипаж «Аполлона-15» должен был перемещаться по Луне на «Лунном Ровере», нужна была новая система связи, работающая даже тогда, когда лунный автомобиль находился бы вне прямой видимости лунного модуля. Для этого был разработан лунный передатчик информации (English: Lunar Communications Relay Unit— LCRU), размером с небольшой чемоданчик[20]. Он крепился впереди «Лунного Ровера», но был рассчитан и на переноску вручную. Лунный передатчик информации мог работать в нескольких режимах: 1) мобильном, когда «Лунный Ровер» находился в движении; 2) стационарном — во время остановок; 3) переносном — в случае поломки «Лунного Ровера» одному из астронавтов пришлось бы нести его в руках и 4) режиме дистанционного управления — операторы с Земли могли поворачивать телекамеру и менять угол её наклона, когда астронавты удалялись от лунного автомобиля, или во время взлёта лунного модуля[21].
В последнем режиме передатчик работал в паре с ещё одной новинкой — устройством управления телевизионной камерой по командам с Земли (English: Ground Controlled Television Assembly — GCTA)[22]. Лунный передатчик информации имел три антенны: 1) коротковолновую параболическую антенну высокого усиления диаметром около одного метра для передачи цветного телевизионного сигнала (во время остановок астронавтам нужно было вручную направлять её на Землю); 2) коротковолновую спиральную антенну низкого усиления (для радиосвязи астронавтов с Землёй, когда «Лунный Ровер» находится в движении или антенна высокого усиления ещё не развёрнута) и 3) VHF-антенну, передающую голоса астронавтов и телеметрическую информацию с ранцевой системы жизнеобеспечения[21]. Всё вместе это позволяло астронавтам поддерживать надёжную связь с Землёй, как бы далеко от лунного модуля они ни находились, и впервые давало возможность напрямую наблюдать за действиями экипажа по телевидению в любой момент внекорабельной деятельности, когда «Лунный Ровер» был остановлен.
Снаряжение астронавтов
Вдвое, с 4 до 8 часов непрерывной работы на лунной поверхности, увеличен ресурс астронавтов (по сравнению с «Аполлоном-14»)[23]:
Давление в основных ёмкостях с кислородом увеличено с 69 до 97 атмосфер.
Объём воды (для охлаждения скафандров) увеличен с 3,9 л до 5,2 л.
Ёмкость батареи ранцевой системы повышена с 279 ватт-часов до 390 ватт-часов.
Масса сорбента, поглощающего углекислый газ, в кассетах с гидроксидом лития увеличена с 1,36 кг до 1,415 кг[23].
Модернизированные скафандры обеспечили астронавтам бо́льшую подвижность и более комфортные условия для работы:
Добавлены гибкие сочленения на поясе (для облегчения наклонов при размещении оборудования и сборе образцов породы и для удобства посадки на «Ровере»)[24] и на шее[25].
Молния скафандра улучшена, убрана из паховой области и размещена диагонально[25].
Район высадки
Лунный модуль «Аполлона-15» «Фалкон» совершил посадку дальше всех других «Аполлонов» от экватора, в точке с координатами 26°06’04" с. ш. 3°39’10" в. д.[26] или 26,13222° с. ш. 3,63386° в. д.[27] Это место расположено в Болоте Гниения (Latin: Palus Putredinis), на юго-восточной окраине Моря Дождей (Latin: Mare Imbrium), у подножия лунных Апеннин, самой высокой гряды лунных гор, высотой более 4500 метров[28]. Сам район Хэдли — Апеннины и несколько гор и кратеров, расположенных здесь, названы в честь британского учёного-математика Джона Хэдли (1682—1744), который внёс усовершенствования в конструкцию телескопов-рефлекторов и изобрёл секстант[29]. Здесь же находится Борозда Хэдли (English: Hadley Rille), извилистый каньон шириной от одного до полутора километров и глубиной около 400 метров[28]. Посадка в этом районе рассматривалась как очень многообещающая с научной точки зрения, поскольку давала возможность в ходе одной экспедиции получить геологические образцы окраины Моря Дождей, предгорий Апеннин и лунного каньона. Это было возможно даже в случае поломки «Лунного Ровера». Гора Хэдли Дельта высотой около 3350 метров находилась всего в 5 километрах, а каньон — примерно в километре от расчётной точки посадки[30]. Специалисты считали, что в этом месте удастся найти более древние обломки лунной коры, чем в окрестностях кратера Фра Мауро, где высаживались астронавты «Аполлона-14»[31]. Здесь должны были быть породы, выброшенные в результате метеоритного удара, образовавшего кратер Хэдли С. Он расположен к юго-западу от места посадки, на другой стороне каньона Хэдли Рилл, и имеет около 2 километров в диаметре[12]. Кроме того, в непосредственной близости от места посадки расположены две группы вторичных кратеров, Южный Кластер (English: South Cluster) и Северный Комплекс (English: North Complex). Считалось, что они возникли в результате ударов скальных пород, выброшенных во время образования больших кратеров Аристилл и Автолик. Они расположены в 150—300 километрах[12] к северу от места посадки и известны своими светлыми лучами, которые простираются до района Хэдли—Апеннин. Место фактической посадки «Аполлона-15» имело ещё одно практическое преимущество по сравнению с альтернативным. Район у кратера Мариус расположен почти на одной прямой с районами посадок «Аполлона-12» и «Аполлона-14», в то время как Хэдли—Апеннины образует с ними большой треугольник. Такая конфигурация была более предпочтительной с точки зрения интерпретации данных, получаемых от сейсмометров и другой научной аппаратуры, установленной на поверхности Луны[31].
Старт и полёт к Луне
Старт и выход на орбиту Земли
Старт «Аполлона-15» состоялся в 13:34 UTC 26 июля 1971 года, всего на 0,187 секунды позже графика[32]. Через 2 минуты 41 секунду после старта, на высоте примерно 70 км над Землёй произошло разделение первой и второй ступеней РН. В начале 6-й минуты полёта, на высоте 163 км, корабль летел уже практически горизонтально, набирая необходимую орбитальную скорость 7,8 км/с[33]. В начале 10-й минуты были отключены двигатели второй ступени, через 1 секунду после этого третья ступень (S-IVB) отделилась от второй, и ещё через 0,1 секунды сработало зажигание единственного двигателя (J-2) третьей ступени. Через 11 минут 34 секунды после старта по команде бортового компьютера был выключен двигатель третьей ступени, «Аполлон-15» вышел на расчётную (171,3 км на 169,5 км) для последующего перехода на траекторию полёта к Луне[33]. Масса корабля и третьей ступени носителя на орбите составила 140 970 кг[34], что и по сей день является самым большим грузом, выведенным на орбиту Земли с помощью одной ракеты-носителя[35]. Если не считать запуска Скайлэба, при запуске которого, масса станции с ГО и второй ступени, составила 147,4 тонны. Экипаж впервые в ходе миссии оказался в состоянии невесомости, после того как во время взлёта перегрузки достигали 4 G. Астронавты занялись проверкой всех систем корабля перед включением двигателя третьей ступени и переходом на траекторию полёта к Луне[36]. Уже на первом витке они начали выполнять научную программу «Аполлона-15», сделав несколько снимков Земли на камеру с объективом, прозрачным для ультрафиолетовых лучей, через один из иллюминаторов «Индевора», выполненного из кварца. При этом у них было и время полюбоваться видами Земли с орбиты[36].
Старт к Луне и первый день полёта
Через 2 часа 50 минут после старта с Земли, на втором витке, в районе Гавайских островов двигатель третьей ступени «Аполлона-15» был снова включён. Он проработал 5 минут 51 секунду и разогнал корабль до скорости 10,827 км/с[36]. «Аполлон-15» перешёл на траекторию полёта к Луне. Вскоре после этого астронавты начали манёвр перестроения отсеков и стыковки командно-служебного модуля с лунным модулем, который находился в верхней части третьей ступени[37]. Перед началом манёвра «Аполлон-15» находился уже в 6767 км от Земли, а его скорость под действием земной гравитации упала до 7,674 км/с[37]. Альфред Уорден, пилот командного модуля, в ручном режиме с помощью двигателей системы ориентации отвёл «Индевор» от третьей ступени и совершил переворот корабля на 180° со скоростью 2° в секунду. Для сближения он на 4 секунды включил двигатели ориентации. В момент стыковки скорость сближения «Индевора» и «Фалкона» составляла 0,03 м/с[37]. После первого касания захвата не произошло, и тогда Уорден ещё на 1—2 секунды включил двигатели системы ориентации. Командно-служебный и лунный модули состыковались. Астронавты наддули переходной туннель и кабину лунного модуля. Проверка 12 автоматических стыковочных замков показала, что один из них не защёлкнулся. Уорден закрыл его вручную. После срабатывания четырёх пироболтов, с помощью которых лунный модуль крепился к третьей ступени, пружины оттолкнули от неё два состыкованных корабля со скоростью 0,25 м/с. Включение двигателей системы ориентации служебного модуля добавило к этой скорости ещё 0,12 м/с[37].
Когда «Индевор» и «Фалкон» отошли на расстояние примерно 150 м, третья ступень, по команде с Земли, была немного повёрнута и был включён её двигатель, чтобы увести её ещё дальше. Через три дня, примерно через час после того, как «Аполлон-15» выйдет на окололунную орбиту, она на огромной скорости врежется в поверхность Луны. Ещё во время наддува кабины лунного модуля Скотт заметил и доложил на Землю, что на панели управления горит индикатор, показывающий, что открыты топливные клапаны маршевого двигателя служебного модуля и что, соответственно, двигатель работает, хотя было очевидно, что он никак не мог работать — все переключатели были выключены[37]. Можно было предположить, что причина этого кроется в коротком замыкании, но было неясно, где оно произошло, и как с этой проблемой справляться[38]. Десятки инженеров на Земле начали мозговой штурм, чтобы найти выход из положения. Через несколько часов неисправность была обнаружена[38]. Проверка переключателей, открывающих и закрывающих топливные клапаны основного двигателя командно-служебного модуля, выявила короткое замыкание в переключателе, управляющем приводами открытия и закрытия топливных клапанов контура «А» основного двигателя[39]. С контуром «В» всё было нормально[38] (все системы в кораблях серии «Аполлон» в целях безопасности были дублированы, топливные клапаны в контурах «А» и «В» были независимы друг от друга). Решено было отказаться от первой из четырёх запланированных на время полёта к Луне коррекций траектории. Первая коррекция должна была проводиться с помощью двигателей системы ориентации. Отказ от неё давал возможность на следующий день впервые опробовать маршевый двигатель. Оставалось только выработать особую процедуру его включения, при которой обнаруженное короткое замыкание не могло бы приводить к преждевременному включению или выключению двигателя. В конце первого дня полёта астронавты перевели корабль в медленное вращение вокруг продольной оси (так называемый режим пассивного термического контроля — English: Passive Thermal Control, или в обиходе — «режим барбекю») со скоростью 0,375° в секунду для того, чтобы солнечное тепло равномерно распределялось по поверхности. При таком вращении «Аполлон-15» совершал полный оборот вокруг своей оси примерно за 16 минут. В этот момент корабль уже удалился от Земли более, чем на 125 000 км, а его скорость упала до 2,131 км/с[38].
Второй день полёта
Утром Хьюстон разъяснил астронавтам последовательность действий до и во время предстоявшего включения маршевого двигателя. Окончательной выработкой рекомендаций на действующей тренировочной модели командно-служебного модуля на Земле занималась группа инженеров и астронавтов во главе с командиром дублирующего экипажа Ричардом Гордоном. В 28 часов 40 минут и 22,5 секунды полётного времени маршевый двигатель был включён в ручном режиме на 0,7 секунды, что увеличило скорость корабля на 1,62 м/с[40]. Это позволило отказаться от ранее запланированных второй и третьей коррекций траектории. Включение маршевого двигателя командно-служебного модуля стало и его первым испытанием, которое показало, что короткое замыкание в переключателе может привести к зажиганию в двигателе, только если контур «А» находится под напряжением. Из этого был сделан вывод, что для коротких включений двигателя можно использовать только контур «В», а для более продолжительных — оба контура, но контур «А» при этом следовало подключать в ручном режиме через несколько секунд после зажигания и точно так же отключать его вручную за несколько секунд до автоматического выключения двигателя[40]. После полёта в злополучном переключателе был обнаружен маленький кусочек проволоки длиной 1,4 мм, который и вызвал короткое замыкание[39].
На этот же день была запланирована инспекция лунного модуля, в предыдущих экспедициях астронавты впервые осматривали и тестировали системы лунного корабля на сутки позже[41]. За несколько минут до перехода Скотта и Ирвина в лунный модуль в одном из контуров системы энергоснабжения командного модуля произошёл сбой, загорелся предупреждающий индикатор на главной панели управления. Одновременно возник непродолжительный сбой на линии связи. Как выяснилось вскоре, оба события не были связаны друг с другом и просто случайно совпали по времени. На станции дальней космической связи в Голдстоуне, в Калифорнии вышел из строя один из усилителей. А в «Индеворе» погасли таймер полётного времени в нижнем отсеке оборудования, индикаторы выполняемых программ на дисплее компьютера тоже в нижнем отсеке оборудования и подсветка некоторых индикаторов на главной панели управления. Всё это не было опасным, но до конца миссии доставляло астронавтам неудобства. Как выяснилось после полёта, причиной стало короткое замыкание в конденсаторе таймера полётного времени[41].
Первым в лунный модуль перешёл Джеймс Ирвин, за ним Дэвид Скотт, туда же немного просунулся и Альфред Уорден, который держал в руках телекамеру и вёл телетрансляцию. Астронавты сразу обнаружили, что у прибора, измеряющего высоту и скорость снижения во время посадки и расстояние и скорость сближения перед стыковкой, разбито внешнее стекло. Несколько осколков, по словам Скотта, были крупными, размером около 2—2,5 см, но большинство не превышали 1 мм в поперечнике[41]. Они могли попасть в глаза и в дыхательные пути. Астронавты включили систему кондиционирования воздуха. Большую часть осколков притянуло к фильтру вытяжки, где Скотт и Ирвин собрали их клейкой лентой[42]. Позже они тщательно пропылесосили кабину. Астронавты проверили все переключатели на панели управления «Фалкона», убедившись, что они находятся в тех положениях, в которых их установили до старта. Были протестированы системы электроснабжения, обеспечения жизнедеятельности и связи. К концу второго дня полёта «Аполлон-15» находился уже в 263 000 км от Земли, его скорость снизилась до 1,224 км/с[41].
Третий день полёта
На третий день полёта Скотт, Уорден и Ирвин провели эксперимент по наблюдению вспышек (фосфенов). Большинство членов предыдущих экипажей, хотя и не все поголовно, докладывали о ярких вспышках, которые они наблюдали, когда закрывали глаза. Астронавты «Аполлона-15», лёжа в своих креслах, надели на глаза светонепроницаемые повязки. Эксперимент продолжался почти час. Скотт зафиксировал 23 вспышки, Уорден — 25, Ирвин — 12[43]. Учёные пришли к выводу, что вспышки были вызваны космическими лучами высоких энергий, проходившими через глаза астронавтов или через зрительные центры в мозгу[10].
Затем Скотт и Ирвин ещё раз перешли в лунный модуль для окончательной проверки всех систем и повторной уборки[44]. Они нашли ещё довольно много осколков стекла и ещё раз тщательно пропылесосили всю кабину «Фалкона». В конце дня, когда Скотт собирался начать ежевечернюю процедуру хлорирования питьевой воды в баке в нижнем отсеке оборудования, он обнаружил протечку. В невесомости вода собралась рядом с краном в довольно большой шар, который быстро увеличивался. Кран был закрыт, и было непонятно, где утечка, потому что всё вокруг было мокрым. На Земле начался очередной мозговой штурм. Через 15 минут астронавтам рассказали, что и как нужно делать. С помощью двух ключей Скотт быстро подтянул разболтавшееся соединение в системе хлорирования воды, и течь прекратилась. Вылившуюся воду астронавты собрали полотенцами, которые отправили сушиться в переходной туннель. После того, как Скотт, Уорден и Ирвин улеглись спать, «Аполлон-15» пересёк невидимую границу, за которой лунная гравитация стала больше земной. В этот момент он находился на удалении 353 374 км от Земли, скорость корабля упала до 0,893 км/с[44]. Дальше она начала увеличиваться, а все полётные данные в Центре управления полётом в Хьюстоне были переведены в значения относительно Луны, а не Земли, как было до того.
Четвёртый день полёта и выход на орбиту Луны
29 июля экипаж «Аполлона-15» провёл промежуточную коррекцию траектории полёта № 4 (в действительности, это была вторая коррекция из четырёх запланированных по дороге к Луне). Маршевый двигатель командно-служебного модуля был включён с помощью только контура «В» на 0,91 секунды, что добавило к скорости корабля 1,65 м/с[45]. В это время расстояние до Луны составляло около 23 000 км, скорость — 1,211 км/с. После коррекции траектории астронавты сбросили дверь, закрывавшую отсек научных приборов на служебном модуле. В 78 часов 31 минуту 49 секунд полётного времени, после того как корабль впервые скрылся за диском Луны, его основной двигатель был включён с помощью только контура «В». Через 5 секунд в ручном режиме был подключён контур «А». Ровно через 6 минут после зажигания он был отключён, и дальше двигатель работал только на контуре «В». Всего включение двигателя продолжалось 6 минут 38 секунд, скорость корабля уменьшилась на 914,4 м/с[45]. «Аполлон-15» вышел на окололунную орбиту с апоселением 313 км и периселением 109,3 км[46]. Через 33 минуты после потери сигнала связь восстановилась, и Скотт доложил, что «Индевор» с грузом вышел на позицию[46].
Орбита «Аполлона-15» имела большое наклонение. В предыдущих полётах орбиты «Аполлонов» пролегали вблизи плоскости экватора. Поэтому Скотт, Уорден и Ирвин видели то, что с такого близкого расстояния до них не видел никто[46]. В то время, как они описывали Хьюстону ландшафты Моря Ясности, третья ступень их ракеты-носителя (S-IVB) врезалась в поверхность Луны в точке с координатами 1,0° ю. ш. и 11,87° з. д., вне зоны видимости астронавтов.
После четырёх часов пребывания на лунной орбите, в конце второго витка, астронавты совершили манёвр перевода корабля на орбиту снижения (English: descent orbit insertion)[46]. До «Аполлона-12» включительно этот манёвр совершал только лунный модуль, уже отстыкованный от командно-служебного, после чего производились снижение и посадка. Начиная с «Аполлона-14», на орбиту снижения выводилась уже вся связка командно-служебного и лунного модулей, что позволяло экономить топливо в баках посадочной ступени лунного модуля и увеличивать полезную нагрузку. В 82 часа 39 минут 48 секунд полётного времени над обратной стороной Луны, вне зоны радиовидимости, с помощью только контура «В» был включён маршевый двигатель командно-служебного модуля. Он отработал 24 секунды ровно, что замедлило корабль на 65,2 м/с. «Аполлон-15» вышел на эллиптическую орбиту снижения 108,9 км на 17,6 км[46]. Манёвр был совершён в периселении прежней орбиты, теперь это место стало апоселением новой. А периселений орбиты снижения оказался примерно в 460 км восточнее Хэдли, в месте, откуда на следующий день «Фалкон» должен был начать снижение на лунную поверхность.
Когда корабль показался из-за диска Луны и связь восстановилась, Скотт доложил Хьюстону, как прошло включение двигателя, и рассказал, что на всех огромное впечатление произвёл кратер Циолковский на обратной стороне с его внушительной центральной горкой. Скотт поинтересовался у Хьюстона, потребуется ли на следующий день делать коррекцию орбиты снижения. Оператор связи ответил, что, скорее всего, нет. Данные наземной службы слежения показывали, что в тот момент параметры орбиты составляли 107,7 км на 16,8 км, а на следующий день они, согласно расчётам, должны были составить 108,5 км на 16,1 км[46]. Однако в 60-х годах XX века гравитационное поле Луны было ещё недостаточно хорошо изучено. Было известно, что оно неоднородно и что существуют локальные концентрации массы, так называемые масконы, совпадающие, в основном, с большими бассейнами ударного происхождения, вроде Моря Дождей, Моря Кризисов, Моря Ясности и Моря Восточного. Они оказывают воздействие на космические аппараты, меняя параметры их орбиты. Но ни один космический корабль ещё не летал по той орбите, по которой летел «Аполлон-15». Поэтому расчёты баллистиков оказались неточными.
Посадка
К утру 30 июля, 5-го дня полёта, параметры орбиты сильно изменились — 108,8 км на 14,1 км[47]. Специалистов в Центре пилотируемых полётов беспокоило то, что не был точно известен радиус Луны в районе посадки, погрешность высоты орбиты в точке периселения могла составлять ± 2750 метров[47]. В конце 9-го витка, когда корабль находился над обратной стороной Луны, с помощью 20-секундного включения двигателей системы ориентации «Индевора» была проведена коррекция орбиты снижения. После манёвра параметры орбиты составили 109,9 км на 19,1 км[48]. На 10-м витке Скотт впервые осмотрел район предстоящей посадки в бортовой телескоп и доложил, что поверхность выглядит достаточно ровной, больших скал или валунов он почти не видит, их много только на дне и на стенках каньона.
В начале 11-го витка Джеймс Ирвин, а за ним и Дэвид Скотт, перешли в лунный модуль и активировали все его системы. В начале 12-го витка, когда корабль находился за диском Луны, они предприняли попытку расстыковки. Но после восстановления связи с Землёй Скотт доложил, что расстыковка не удалась. Анализ телеметрической информации показал, что к стыковочному механизму не поступает сигнал на отведение защёлок. Причиной этого мог быть плохой контакт в штекере электросистемы. Пилот командного модуля Альфред Уорден наддул переходной туннель, открыл люк и разъединил и снова соединил все штекеры. Телеметрия на Земле показала, что проблема устранена. После повторной попытки корабли расстыковались. Это произошло с опозданием на 25 минут 43 секунды, но такая задержка не повлияла на график посадки на Луну[48].
На 14-м витке (от момента запуска прошло 104 часа 30 минут 12 секунд)[49] был включён двигатель посадочной ступени «Фалкона». Через 95 секунд после этого в компьютер системы наведения и навигации были введены уточнённые данные. Это передвинуло ожидаемую точку посадки на 853 метра на запад, дальше по курсу[50]. Через три минуты компьютер развернул «Фалкон» так, что теперь он летел опорами посадочной ступени вперёд, а иллюминаторы смотрели «вверх», в противоположную от Луны сторону[49]. В таком положении посадочный радар мог «захватить» поверхность. Через 6 минут «Фалкон» летел уже в 9000 метрах от поверхности, а через 7,5 минуты пролетел над лунными Апеннинами на высоте 6700 метров[49]. На высоте чуть более 2400 метров Хьюстон сообщил Скотту, что ожидаемое место посадки, по уточнённым данным, находится в 915 метрах южнее (левее по курсу) изначально запланированной цели. Вскоре после этого, и через 9 минут 22 секунды после включения двигателя посадочной ступени, компьютер перешёл к выполнению программы захода на цель. «Фалкон» на высоте чуть больше 2100 метров развернулся в вертикальное положение[51]. До этого момента пилотирование лунного модуля «Аполлона-15» осуществлялось почти так же, как и во время предыдущих полётов на Луну. Заключительный этап посадки отличался тем, что была выбрана более крутая траектория — 25° вместо 14°[52]. Это давало бо́льшую свободу манёвра на участке торможения, пролегавшем над горным хребтом, обеспечивало лучший обзор после разворота лунного модуля в вертикальное положение и более точный контроль над изменениями в наведении на цель в ручном режиме[53].
Увидев район предстоящей посадки с близкого расстояния и сравнив свою позицию в пространстве с расположением Южного Кластера и тем местом, где каньон делает крутой изгиб у подножия горы Хэдли Дельта, Скотт понял, что корабль, действительно, отклоняется к югу[49]. Командир, как и подсказывал Хьюстон, сделал коррекцию вправо, к северу. Всего на заключительном этапе посадки Скотт вручную сделал 18 коррекций, которые в итоге переместили место посадки на 338 метров ближе по курсу и на 409 метров к северу (вправо по курсу)[50].
Скотт искал четыре кратера, которые располагались на одной прямой линии — кратеры Матфей, Марк, Лука и Индекс (English: Matthew, Mark, Luke and Index)[49]. Место посадки, определённое ещё на Земле, находилось рядом с кратером Индекс[комм. 1]. Но Скотт не видел ни одного из этих кратеров[49]. Ровное место для посадки было выбрано командиром примерно на высоте 610 метров, на высоте около 120 м он перешёл на ручное управление[51]. В этот момент вертикальная скорость лунного модуля составляла 4,3 м/с[49]. Ирвин постоянно сообщал командиру показания высотомера и вертикальную скорость. На высоте чуть больше 60 метров Скотт начал вручную снижать вертикальную скорость. Она понизилась до 3,35 м/с. На высоте 45 метров — до 1,8 м/с. В этот момент корабль начал входить в облако пыли, которая поднялась с поверхности. Скотт доложил: «ОК. У меня — пыль»[49]. На высоте около 18 метров видимость упала практически до нуля, вертикальная скорость понизилась до 0,9 м/с. С высоты 6 метров до 2,4 метра «Фалкон» снижался на скорости 0,3 м/с. В этот момент Ирвин закричал: «Контакт!» Скотт почти моментально выключил двигатель посадочной ступени. Ещё 1,2 секунды корабль находился в свободном падении, вертикальная скорость при этом увеличилась до 2 м/с[49]. (К нижней части трёх из четырёх опор посадочной ступени лунного модуля крепились тонкие щупы длиной 2,4 м. Если хотя бы один из них касался поверхности, на панели управления загорался синий сигнал «Контакт». Когда лунный модуль вставал на грунт, щупы просто ломались).
«Фалкон» ощутимо ударился о поверхность, он был существенно тяжелее всех предыдущих лунных модулей. Из всех шести посадок «Аполлонов» эта была самой жёсткой[10]. Она состоялась в 22:16:29 UTC, от момента включения двигателя посадочной ступени лунного модуля прошло 12 минут 21,7 секунды[54]. Скотт доложил в ЦУП: «ОК, Хьюстон, „Фалкон“ — на равнине у Хэдли»[10]. Лунный модуль встал на грунт с наклоном назад на 6,9° и влево на 8,6°[49], общий наклон составил около 11°[55]. Неиспользованного топлива в баках ступени осталось 478,5 кг, его хватило бы на 103 секунды зависания[56]. Астронавты ещё не знали, что они сели в 548 метрах к северо-западу от запланированного места посадки[57].
Соло Уордена на орбите
Альфред Уорден один работал на окололунной орбите в течение трёх суток (почти 73 часа). В строго определённые полётным планом отрезки времени он проводил эксперименты и делал измерения с помощью аппаратуры, установленной в модуле научных приборов (масс-спектрометра, спектрометра гамма-лучей, рентгенофлуоресцентного спектрометра и спектрометра альфа-частиц). Уорден сделал подавляющее большинство из 1529 снимков лунной поверхности на панорамную камеру и 2240 снимков на картографирующую камеру, снятых в ходе всей миссии[58]. Эти снимки, а также визуальные наблюдения и доклады Уордена специалистам на Земле во многом определили выбор места будущей посадки «Аполлона-17» в долине Таурус—Литтров, на юго-восточной окраине Моря Ясности[59][60][61].
Первый день на Луне
«Стоячий» выход из корабля
Экипажи предыдущих экспедиций «Аполлонов» в первые часы после посадки на Луну обычно готовились к выходу на поверхность. Но к моменту посадки «Аполлона-15» прошло уже больше 11 часов с тех пор, как Скотт и Ирвин проснулись после предыдущего ночного отдыха. И, если бы они попытались осуществить полноценный 8-часовой выход на поверхность, тогда в итоге у них мог получиться 26-часовой рабочий день[12]. Полётный план предусматривал особую внекорабельную деятельность, которая никогда раньше не применялась. Через два часа после прилунения астронавты начали так называемый «стоячий» выход из корабля (English: Stand-up EVA). Скотт открыл верхний люк лунного модуля и убрал стыковочные узлы. Встав на обшивку двигателя взлётной ступени, он высунул голову, руки и плечи из корабля. Так командир смог осмотреть окрестности во все стороны и сделать панорамные снимки с помощью 70-мм камеры с 500-мм объективом. Одновременно он подробно описывал всё, что видит, специалистам-геологам на Земле[12]. Скотт не обнаружил практически ни одного крупного камня или валуна. «Условия для езды вполне приличные»[62], — доложил он Хьюстону. Через 33 минуты после начала выхода Скотт вернулся в кабину[12].
После наддува кабины Скотт и Ирвин сняли скафандры. Они стали первыми среди астронавтов, побывавших на Луне, кому было разрешено забраться в свои гамаки и заснуть без космического снаряжения[63]. Ирвин впоследствии вспоминал:[10]
Гамак Дэйва висел сверху, в направлении от передней части кабины к задней, а мой под ним — перпендикулярно. Мой гамак был немного наклонён, и ноги слегка болтались. В лунном модуле было шумновато: работали всякие насосы и вентиляторы. Ощущения были такими, будто спишь в котельной. Но как же было комфортно! Гамаки походили на матрасы, наполненные водой, а мы были лёгкими, как пёрышки. Из трёх ночей, проведённых на Луне, именно в первую я спал лучше всего.
Первая поездка по Луне
В первую ночь на Луне Скотт и Ирвин спали всего пять с половиной часов[64]. Хьюстон разбудил их раньше запланированного. Телеметрия показывала небольшую утечку из кислородного бака посадочной ступени. Как выяснилось, причиной был неплотно закрытый клапан трубки сброса мочи за борт. Из 43 кг кислорода, находившихся в баке, было потеряно 3,6 кг[64]. Это было не очень страшно, потому что резерв на случай непредвиденных обстоятельств составлял ровно половину бака. Утечка была быстро устранена, и вскоре астронавты начали готовиться к первому выходу на поверхность. Через 4 часа 12 минут после пробуждения Скотт начал разгерметизацию кабины, открыв в выходном люке клапан сброса давления[65]. Из-за тесноты командир долго не мог протиснуться в люк. Только через 10 минут после его открытия Скотт, наконец, выбрался на площадку наверху лестницы[65]. Здесь он дёрнул за шнур и открыл грузовой отсек, тем самым включив телекамеру. Спустившись на грунт, Дэвид Скотт сказал:[66]
Окей, Хьюстон. Стоя здесь, в Хэдли, посреди чудес непознанного, я осознаю, что есть фундаментальная истина нашей натуры. Человек должен исследовать, и это — исследование в величайшем смысле слова.
Осмотрев лунный модуль, Скотт доложил, что «Фалкон» сел на склоне крутизной около 10°, двумя опорами попав в небольшой кратер. Его задняя левая опора стоит примерно на 60 см ниже задней правой, а левая передняя тоже немного ниже правой[66]. Он добавил, что повредил сопло двигателя посадочной ступени. Колокол сопла был довольно сильно смят по всей окружности. Впрочем, по результатам послеполётного анализа специалисты сделали вывод, что касания сопла о грунт всё-таки не было. Скорее всего, деформация произошла вследствие нарастания давления реактивной струи, отражённой от лунной поверхности[55].
Примерно через четыре минуты после того, как Скотт ступил на лунную поверхность, Ирвин, получив одобрение командира, тоже начал протискиваться в люк[66]. Он стал спускаться по лестнице небольшими прыжками. Случайно он промахнулся, не попав ногами на нижнюю ступеньку, и опустился на круглую, как тарелка, нижнюю часть опоры лунного модуля, скользя руками по поручням вниз. Когда астронавт уже хотел сойти с тарелки опоры, она неожиданно повернулась. Из-за наклона «Фалкона» тарелка передней опоры едва касалась поверхности и свободно вращалась вокруг оси. Ирвин чуть не опрокинулся назад в самый ответственный момент прямо перед телекамерой. Затем он обеими ногами спрыгнул на грунт, посмотрел в сторону гор и воскликнул: «Как красиво! Напоминает Сан Вэлли!»[10] (English: Sun Valley — горнолыжный курорт в штате Айдахо, США).
В 20 метрах от лунного модуля Скотт установил телекамеру, а Ирвин, тем временем, собрал аварийный образец лунного грунта (на случай, если по каким-либо причинам пришлось бы срочно прервать пребывание на Луне). Этот образец стал последним подобным образцом в ходе программы Аполлон[66]. Далее астронавты приступили к главному. Во всех предыдущих экспедициях одной из первейших задач экипажей была установка комплекта для научных экспериментов ALSEP (English: Apollo Lunar Surface Experiment Package). Но Скотт и Ирвин первым делом должны были выгрузить «Лунный Ровер»[62] и отправиться в первую 4-километровую геологическую поездку к тому месту, где каньон Хэдли Рилл вплотную подходит к подножию горы Хэдли Дельта. Во время полёта «Лунный Ровер» хранился в сложенном состоянии в грузовом отсеке справа от лестницы, если смотреть на лунный модуль. Выгрузка производилась наполовину вручную, наполовину автоматически. Чтобы выгрузить «Ровер», астронавты должны были осторожно вытягивать его из грузового отсека с помощью двух лентовидных тросов. Луномобиль при этом постепенно раскладывался и опускался на поверхность[66].
В начале процесса выгрузки «Лунного Ровера» Джеймс Ирвин всё-таки упал. Пятясь назад, он одной рукой тянул трос, а другой снимал происходящее на кинокамеру, но споткнулся и завалился на спину. Дэвид Скотт помог коллеге встать на ноги. После выгрузки луномобиль встал на грунт носом к «Фалкону». Скотт и Ирвин вручную, приподняв «Ровер» за боковые ручки, немного его развернули, чтобы не начинать с движения задним ходом. Примерно через 17 минут после начала выгрузки командир впервые запрыгнул на своё сидение[66].
Во время первого тест-драйва Дэвид Скотт обнаружил, что не поворачиваются передние колёса. Безуспешно провозившись с переключателями несколько минут, он, по совету с Земли, решил оставить всё как есть. Конструкция «Лунного Ровера» предусматривала два отдельных рулевых электродвигателя — один для передних колёс, другой — для задних. Если были включены оба двигателя, обе колёсные пары поворачивали в противоположных направлениях, при этом минимальный радиус разворота составлял всего три метра[66]. Но управлять луномобилем можно было и отключив любой из двух двигателей, только радиус разворота при этом увеличивался до 6 метров[67]. Скотт смонтировал на «Ровере» и подключил лунный передатчик информации, устройство дистанционного управления телекамерой, саму телекамеру и обе антенны, а Ирвин, тем временем, установил подставку для геологических инструментов и загрузил контейнеры для образцов лунного грунта[68]. Затем командир включил навигационную систему «Ровера». С помощью одноосного гироскопа и счётчиков оборотов на всех четырёх колёсах она показывала пройденное расстояние, дистанцию до лунного модуля по прямой и направление, в котором он должен находиться. Вскоре на своё сидение сел и Джеймс Ирвин. И тут выяснилось, что ремни безопасности, которыми необходимо было пристегнуться, слишком тесные. А ослабить их было нельзя. На Земле их подогнали индивидуально под каждого астронавта без учёта слабой лунной гравитации. Скотту пришлось спешиться и помочь Ирвину пристегнуться[69]. Потом он с трудом, но всё-таки пристегнулся и сам.
Спустя 2 часа и 6 минут после разгерметизации кабины Скотт и Ирвин двинулись в путь[70]. Их первой целью был кратер Элбоу (English: Elbow Crater), названный так потому, что он расположен в том месте, где Борозда Хэдли делает крутой изгиб, похожий на руку, согнутую в локте. Элбоу располагался недалеко от большого кратера Св. Джордж (English: St. George Crater), служившего отличным ориентиром. Командир доложил Земле, что пыли нет совсем. Скотт сообщил также, что они едут со средней скоростью 8—10 км/ч[70]. Демпфирование колебаний у «Ровера» было гораздо более медленным, чем у его аналога, рассчитанного на земное притяжение, но стабильность почти такой же. Максимальная скорость на ровных прямых участках достигала 13 км/ч[71]. Через тринадцать минут и почти через полтора километра после начала поездки астронавты выехали на край Борозды Хэдли[62]. Ещё через 13 минут они подъехали к восточной кромке кратера Элбоу[70]. За 26 минут астронавты проехали 4,5 км, от места первой остановки до лунного модуля по прямой было 3,2 км[70].
Геологические изыскания
По прибытии на место Скотт сориентировал антенну высокого усиления на Землю. Оператор в Хьюстоне стал показывать всё происходящее на Луне и панорамы окрестностей[70]. Астронавты собирали образцы камней и грунта, одновременно фотографируя и описывая те детали, которые не могла передать телевизионная картинка[72]. У кратера Элбоу работа продолжалась 10 минут. Скотт снова помог Ирвину пристегнуть ремень безопасности, и они поехали дальше.
Вскоре астронавты начали взбираться по склону горы Хэдли Дельта[73]. Им не нужно было подниматься до самого кратера Св. Джордж. Необходимо было просто найти достаточно высокое место, в котором не могли находиться породы, складывающие лунные моря[62]. Поскольку «Ровер» ехал в гору, скорость передвижения снизилась примерно до 7 км/ч. Проехав всего семь минут от кратера Элбоу, астронавты увидели валун около метра в диаметре, лежавший на склоне метров на пятьдесят выше уровня долины, где они совершили посадку[73]. Других валунов поблизости не было, поэтому останавливаться нужно было в этом месте[74]. От лунного модуля Скотт и Ирвин проехали 5,5 км, расстояние до него по прямой равнялось 3,9 км.
Выйдя из «Лунного Ровера», Скотт сообщил Хьюстону, что они с Ирвином находятся высоко на склоне горы и отсюда смотрят вниз, в долину. Астронавты работали специальными граблями, совками на длинных ручках и особыми щипцами, которые были сделаны, как двойные грабли, для того, чтобы удобно было захватывать небольшие образцы породы. Они сделали 16 фотографий валуна, Скотт молотком отколол от него несколько кусков, которые они собрали, и затем астронавты перевернули валун и взяли образцы грунта из-под него, чтобы можно было узнать, как долго он на этом месте пролежал[74]. Лунного модуля отсюда, с места второй остановки (English: Station2), видно не было[75]. По плану, астронавты должны были ещё взять пробу грунта с помощью трубки-пробоотборника. Нижнюю из двух секций трубки (каждая длиной около 35 см) Ирвин легко углубил в грунт руками, дальше её пришлось забивать молотком. К тому моменту, когда работа у кратера Св. Джордж была завершена, Скотт и Ирвин уже находились там 50 минут. Изначально в первой поездке была запланирована ещё одна геологическая остановка, примерно в километре к востоку от этой. Но от неё пришлось отказаться. Астронавты уже отставали от графика на 43 минуты[74].
Возвращаться назад к лунному модулю решено было не той же дорогой, а кратчайшим путём, чтобы до конца испытать навигационную систему «Ровера». Первую часть пути астронавты ехали вниз по склону. Поскольку уклон становился всё меньше, Скотт разогнался быстрее, и, когда попытался объехать очередное препятствие, «Ровер» развернуло на 180°[75]. Он доложил об этом в Хьюстон. Сомнения в безупречной работе навигационной системы «Ровера» были развеяны через семь с небольшим минут после начала обратного пути, когда Ирвин прямо по курсу увидел солнечные блики на поверхности лунного модуля. Астронавты впервые удалялись от корабля настолько, что его не было видно[75]. Вскоре Скотт сделал несанкционированную, самовольную остановку. Он увидел интересный камень, кусок базальта, гораздо более тёмного цвета, чем окружающий грунт, и решил его подобрать без разрешения Хьюстона, потому что был уверен, что ему ответят отказом. Он сообщил, что останавливается, чтобы поправить ремни безопасности. Ирвин без слов понял командира и для прикрытия начал подробно описывать Хьюстону, какие интересные кратеры он видит вокруг. По возвращении астронавтов на Землю камень стал известен, как «Базальт ремней безопасности» (English: The Seatbelt Basalt)[75]. Подъехав к лунному модулю, Скотт поставил «Ровер» у грузового отсека, в котором находился комплект научных приборов ALSEP. Первая поездка продолжалась 2 часа 15 минут, Скотт и Ирвин за это время покрыли расстояние в 10 километров 300 метров. Они собрали 14,5 кг образцов лунного грунта[27].
Установка ALSEP и проблемы с бурением
Астронавты вернулись к лунному модулю через 4 часа 20 минут после начала первого выхода на поверхность и планировали посвятить остаток времени установке (English: Apollo Lunar Surface Experiments Package) и бурению глубоких отверстий в грунте. Оба испытывали сильную жажду и голод. Скотт через трубочку сделал несколько глотков из контейнера с водой, который крепился к внутренней стороне шейного кольца скафандра, и съел половину «фруктовой палочки» (English: fruit stick). Этот питательный шоколадно-фруктовый батончик длиной около 15 см находился в кармашке тоже на шейном кольце, и до него легко можно было дотянуться губами. У Ирвина с водой ничего не получилось, он без проблем доставал до трубочки, но вода не поступала через клапан. Зато с «фруктовой палочкой» всё было в порядке, и он съел её целиком. К моменту возвращения к лунному модулю астронавты отставали от графика примерно на 30 минут[75].
Комплект научных приборов ALSEP, чтобы его не засыпало лунной пылью во время взлёта, нужно было установить не менее, чем в 100 метрах от «Фалкона». Хорошее место нашлось в 125 метрах к западу[76]. Комплект включал в себя семь приборов: 1) пассивный сейсмометр (English: Passive Seismic Experiment); 2) магнитометр (English: Lunar Surface Magnetometer Experiment; 3) спектрометр солнечного ветра (English: Solar Wind Spectrometer Experiment); 4) детектор горячих ионов (English: Suprathermal Ion Detector Experiment); 5) прибор для изучения тепловых потоков в лунном грунте (English: Heat Flow Experiment); 6) холодно-катодный измеритель (English: Cold Cathode Gauge) для измерения сверхмалого атмосферного давления и 7) детектор лунной пыли (English: Lunar Dust Detector Experiment)[77]. Скотт разместил прибор для изучения тепловых потоков, а Ирвин — центральную станцию, радиоизотопный термоэлектрогенератор и остальные приборы. Пока он этим занимался, Скотт приступил к бурению. Он соединял свёрла, каждое длиной по 53 см, по два[78], затем подсоединял очередную пару. Если бы всё шло нормально, он управился бы примерно за полчаса[62]. Но проблемы начались почти сразу. За 10 секунд Скотт легко углубился на глубину одного сверла, примерно на полметра, после чего был вынужден доложить, что грунт становится всё твёрже. Примерно через 4 минуты после начала бурения ему удалось углубиться на 162 сантиметра, но дальше бур не двигался совсем, как будто упёрся в скальные породы[78]. Из необходимых 294 см[79] было пройдено чуть больше половины[78] (для сравнения — в следующей экспедиции пилот лунного модуля «Аполлона-16» Чарльз Дьюк пробурил первое отверстие для эксперимента по изучению тепловых потоков почти на полную глубину в 2,5 метра ровно за минуту, а командир «Аполлона-17» Юджин Сернан сделал то же самое чуть меньше, чем за три минуты[62]. Но всё это стало возможным только с учётом опыта Скотта).
Специалисты в Хьюстоне решили, что глубина более или менее достаточная, и предложили Скотту погрузить зонд в отверстие и переходить к бурению следующего. Но он не смог вытащить бур, его как будто намертво заклинило в грунте. По совету Хьюстона, Скотт извлёк бур с помощью специального ключа, предназначенного для развинчивания секций глубокой пробы грунта. Почти через 21 минуту после начала бурения первый зонд был погружён в отверстие[78], он опустился на глубину 152 см[80]. Со вторым отверстием всё повторилось. Первая секция сверла вошла в грунт на полную глубину за 13 секунд, вторая — за 28 секунд[78]. Но дальше, несмотря на все усилия, прогресса не было. Как выяснилось позже, уже на Земле, виной всему была неудачная конструкция бура[78]. Между тем, прошло уже почти шесть часов после выхода на поверхность, кислорода у Скотта оставалось всего на полчаса[62]. В Хьюстоне решили, что бурение лучше завершить в следующий раз, по окончании второй поездки. А пока Скотта попросили установить лазерный отражатель (English: Laser Ranging Retro-Reflector). Он отнёс его подальше, примерно на 30 метров от «Лунного Ровера», чтобы не испачкать пылью.
Вернувшись к лунному модулю, астронавты загрузили собранные образцы породы и кассеты с отснятой фотоплёнкой в контейнеры и, насколько это было возможно, щёткой почистили друг друга от лунной пыли[81]. Когда Скотт и Ирвин поднялись в кабину «Фалкона», у командира оставалось 10 % кислорода[81]. Первый выход на лунную поверхность продолжался 6 часов 32 минуты 42 секунды[27].
После прогулки
После наддува кабины Ирвин попросил Скотта помочь снять его перчатки, сказав, что очень болят пальцы[81]. То же самое было и у Скотта из-за того, что руки в перчатках во время работы приходилось постоянно сжимать, сопротивляясь внутреннему давлению в скафандрах (Харрисон Шмитт, пилот лунного модуля «Аполлона-17», позже сравнивал это с постоянным сжатием в руках теннисных мячей в течение нескольких часов подряд[10]). Ситуация осложнялась тем, что руки в перчатках потели настолько, что кожа пальцев начала отслаиваться от ногтей. (Ирвин после этого постриг ногти совсем коротко. Скотт не стал этого делать, и синяки у него под ногтями оставались в течение некоторого времени даже после возвращения на Землю[81]). Когда астронавты сняли перчатки, из них полился пот. Ирвин позже предполагал, что, возможно, они выбрали недостаточный режим охлаждения скафандров[81].
Сняв шлемы, Скотт и Ирвин почувствовали резкий запах лунной пыли. По словам Скотта, он был похож на запах пороха, но об этом он сказал только Ирвину, и то шёпотом, чтобы не напугать Хьюстон[82]. Тут же астронавты увидели воду на полу, она вытекала из двух небольших трещинок, образовавшихся в пластиковом соединении, с помощью которого к водяному шлангу крепился пластмассовый антибактериальный фильтр. Скорее всего, они повредили соединение фильтра, когда поворачивались в тесной кабине «Фалкона» в скафандрах. Воды, на вид, было немного, но было непонятно, как долго она уже течёт и сколько её могло вытечь. Астронавты отсоединили фильтр, и течь прекратилась[82]. Несмотря на все усилия по очистке, нижняя часть скафандров, от бедра и ниже, была очень грязной. Ещё до полёта астронавты планировали, что будут обеими ногами сначала залезать в мешки для мусора и только после этого снимать скафандры. Так они и сделали. Большая часть пыли, благодаря этому, оставалась в мешках. Примерно через 1 час 41 минуту после наддува кабины Скотт доложил Хьюстону об утечке воды[82]. Оператор связи (English: CapCom— Capsule Communicator) Джо Аллен ответил, что на Земле вообще нет никаких данных об утечке.
Вскоре Скотт и Ирвин получили возможность поговорить с Альфредом Уорденом, который в одиночку продолжал работу на орбите в командно-служебном модуле. Скотт спросил, не видел ли он их следов. Уорден ответил, что смотрел в телескоп, но следов не разглядел. И буквально через минуту, уже пролетая прямо над местом посадки, Уорден сказал, что, кажется, видит, но не следы «Ровера», а округлое пятно, цвет которого немного отличается от цвета окружающей лунной поверхности[82]. Через 1 час 4 минуты после того, как Аллен попрощался с астронавтами, на связь с ними вышел сменивший его Роберт Паркер. Он сообщил, что запасы воды в баках лунного модуля за последние полчаса уменьшились примерно на 11 литров, но заверил при этом, что ситуация представляется стабильной.
Второй день на Луне
Поездка к горе Хэдли Дельта
На следующий день очередной оператор связи разбудил астронавтов и настойчиво попросил найти разлившуюся воду, подсказав, что искать её, возможно, следует за обшивкой двигателя взлётной ступени, куда она могла затечь из-за сильного наклона «Фалкона»[83]. Когда Скотт доложил, что лужа найдена, Хьюстон ответил, что вычерпать её можно пустыми контейнерами из-под пищи, собрав в контейнер от кассет с гидроксидом лития (кассеты с гидроксидом лития использовались в ранцах для поглощения углекислого газа). Остатки воды следовало собрать полотенцами. Скотт и Ирвин так и сделали, полностью вычерпав и осушив всю лужу. Водой были целиком заполнены два контейнера из-под кассет с гидроксидом лития, ещё примерно с полконтейнера вошло в мешок для хранения гермошлемов. От половины одного из контейнеров Скотту предложили освободиться, слив её в систему сброса мочи за борт. А два полных контейнера следовало закрыть крышками и заклеить их клейкой лентой, но не слишком плотно, а так, чтобы воздух мог постепенно из них выйти во время разгерметизации[83]. Из-за сбора разлившейся воды астронавты уже отставали от графика примерно на 1 час[84].
Через 4 часа 21 минуту после пробуждения Скотт выбрался из кабины лунного модуля на лестницу и выбросил на поверхность контейнеры с водой[85]. Ещё через 10 минут на лунную поверхность спустился и Ирвин. Перед началом второй поездки Хьюстон попросил Скотта сначала несколько раз переключить выключатель переднего рулевого электродвигателя, а затем в обычном порядке включить электропитание «Лунного Ровера»[85]. После этого нужно было выключить переднее рулевое управление и снова включить. Когда всё это было проделано, передний рулевой электродвигатель заработал, как ни в чём ни бывало. Скотт даже пошутил, что ночью на Луну, должно быть, прилетали парни из «Боинга» и Космического центра Маршалла, чтобы починить своё детище[86].
Во второй поездке перед астронавтами стояла задача добраться до Апеннин Фронт, подняться немного в гору и сделать там по возможности три геологические остановки[86]. Сначала Скотт и Ирвин ехали строго на юг к Южному Кластеру. Геологи считали, что там могут обнаружиться образцы обломков древней лунной коры, выброшенные когда-то в результате ударов метеоритов[62]. Наиболее интересными представлялись кратер Спар (English: Spur Crater), относительно свежее образование сорока метров в диаметре, и большой валун, лежавший на склоне чуть выше. Скотт и Ирвин доехали почти до Спара и повернули на восток, вдоль Апеннин Фронт. К Спару и валуну они решили заехать позже, на обратном пути. Вскоре астронавты остановились у небольшого свежего кратера. От «Фалкона» до этой остановки (English: Station 6) они ехали 42 минуты, за это время было покрыто расстояние 6,5 км, по прямой до лунного модуля было 5 км[86].
Выйдя из «Лунного Ровера», астронавты обнаружили, что находятся на склоне крутизной от 8° до 10°[87]. Место, где они остановились, было почти на 100 метров выше равнины, на которой стоял лунный модуль. Сам «Фалкон» был отлично виден внизу вдали[87]. Астронавты сосредоточились на двух небольших кратерах, собрав внутри них и вокруг образцы породы. Один крупный камень, который не влезал в тефлоновый пакет, Скотт расколол ударом молотка на несколько кусков. Для определения свойств грунта Ирвин, по просьбе Хьюстона, на кромке кратера прокопал совком небольшую канавку. Грунт был не очень рассыпчатым, похожим на графитовый порошок, стенки канавки хорошо держались[88]. Чтобы сфотографировать результат, Скотт встал на внутреннюю стену кратера, крутизна которой была вдвое больше крутизны склона горы, и, потеряв равновесие, упал. На этот раз Ирвин протянул руку, чтобы помочь своему командиру встать на ноги. Хьюстон попросил астронавтов набрать совком побольше грунта. Они загрузили в пакет чуть больше 1 кг[88]. В месте этой остановки астронавты работали 1 час 4 минуты, после чего Хьюстон попросил их поехать обратно, на запад, к валуну, который они видели по пути[89].
До валуна они добрались за 3 минуты. Крутизна склона здесь была около 15°. На месте этой остановки (English: Station 6a) навигационные приборы «Лунного Ровера» показывали, что от начала поездки пройдено 6,9 км, до «Фалкона» по прямой было 5 км[90]. «Ровер» стоял очень ненадёжно. Его левое заднее колесо не доставало до грунта почти 15 сантиметров[90]. Без присмотра оставлять его было нельзя. Осмотрев валун по очереди, астронавты обнаружили, что он был светло-зелёным. Пока Ирвин держал «Ровер», Скотт щипцами поскоблил поверхность камня и отколол от него несколько небольших кусков. Анализы, сделанные позже на Земле, показали, что в них много стекла с высоким содержанием окиси магния. Это и придавало всему валуну зелёный оттенок. Поблизости Скотт собрал образцы грунта, который также выглядел зеленоватым. Работа около валуна, который впоследствии получил название The Green Boulder, продолжалась чуть больше шести минут. 230 метров до следующей остановки (English: Station 7) у кратера Спар астронавты покрыли за 2 минуты 48 секунд, средняя скорость «Ровера» на этом отрезке составляла 4,9 км/ч, почти вдвое меньше, чем на равнине[90]. Всего Скотт и Ирвин на этот момент проехали 7,3 км, расстояние до лунного модуля сократилось до 4,7 км[91].
Камень Бытия и кратер Дьюн
Вскоре после остановки у кратера Спар астронавты заметили камень размером примерно 10 сантиметров, который, как на пьедестале, лежал на куске брекчии и ярко сверкал на солнце[91]. Это был кусок кристаллической породы, целиком состоящий из минерала плагиоклаза, и он очень отличался от брекчий и базальтов, которые они собирали до сих пор. «Кажется, мы нашли то, зачем сюда прилетели», — доложил Скотт Хьюстону. «Думаю, мы нашли что-то близкое к анортозиту, — добавил он, — потому что камень кристаллический, и он почти весь состоит из плагиоклаза»[91].
Скотт и Ирвин бережно упаковали образец, который потом стал известен, как Камень Бытия (English: The Genesis Rock). Его возраст был оценён специалистами на Земле примерно в 4,1 миллиарда лет[91]. Значимость этой находки была огромной. Экипажи «Аполлона-11» и «Аполлона-12» привезли на Землю образцы пород, слагающих лунные моря. Геохимики по ним определили возраст лавовых потоков, которые создали эти моря[62]. Экипаж «Аполлона-14» привёз образцы брекчии, которые подтвердили общие предположения о возрасте и составе пород, выброшенных из таких огромных бассейнов, как Море Дождей. Оставалось найти фрагменты древней лунной коры. Это было одной из главных задач экипажа «Аполлона-15»[62], и Скотт и Ирвин с ней справились через два с половиной часа после начала второй поездки[91]. Астронавты подобрали и кусок пьедестала, на котором лежал Камень Бытия, после того как Ирвин разбил брекчию совком. В завершение, Скотт и Ирвин подобрали камень размером с большой грейпфрут весом 4,8 кг, он стал вторым по величине из образцов лунной породы, собранных экипажем «Аполлона-15»[91]. Всего у кратера Спар астронавты за 50 минут работы нашли четыре образца анортозита, но Камень Бытия был первым из них и самым крупным[62].
Отсюда Скотт и Ирвин направились вниз, в направлении лунного модуля, но по пути им ещё предстояло сделать остановку у кратера Дьюн (English: Dune Crater). Первоначально остановку здесь (English: Station 4) предполагалось сделать в начале второй поездки, но по ходу её решено было отложить на конец[92]. Дорога сюда заняла около 13 минут[93], до этого места «Лунный Ровер» покрыл расстояние в 8,9 км, до «Фалкона» оставалось 3,4 км[93]. Астронавты собрали несколько камней и совков грунта и принялись за валун с большими полостями на его поверхности, лежавший на самом краю кратера. Скотт молотком отколол от него несколько кусков. Один из них, весом около 2 кг, стал самым большим из всех, которые откалывали от лунных валунов и скал астронавты «Аполлонов»[93]. Возвратившись к лунному модулю, астронавты выгрузили собранные образцы. Вторая поездка по Луне продолжалась 3 часа 58 минут. Скотт и Ирвин проехали 12,5 км и собрали 34,9 кг образцов лунного грунта[27].
Бурение. Вторая попытка
Скотту нужно было заканчивать с бурением, а Ирвина ожидали эксперименты по изучению механики грунта. В течение почти суток, которые прошли после первой попытки бурения, специалисты NASA думали, как преодолеть возникшие трудности[62]. Скотту посоветовали не давить сильно в начале бурения и, если он заметит, что бур начинает застревать, чуть поднять его, чтобы прочистить желобки[94]. Но, несмотря на то, что Скотт держал бур настолько легко, насколько только мог, его заклинило почти сразу. А чтобы поднять его всего на несколько сантиметров, потребовались немалые усилия. Но после этого бур застрял снова, ещё хуже, чем прежде. Скотт несколько раз запускал дрель, пытаясь одновременно её чуть приподнять. В какой-то момент наблюдателям в Хьюстоне, следившим за происходящим с помощью телекамеры «Ровера», показалось, что дело пошло, бур действительно углубился примерно на 15 см, но затем опять застрял[94]. В Хьюстоне решили, что глубина достаточна. Скотт попробовал углубить в скважину второй зонд эксперимента по изучению тепловых потоков, но он погрузился только на 105 см[80]. Оказалось, что, когда Скотт в очередной раз чуть приподнял бур, нижняя его секция отделилась и осталась внутри[94]. Но, как показала практика, данные, которые передавал прибор, полностью совпадали с теми, что посылал такой же, установленный позже экипажем «Аполлона-17»[62]. Бурение второго отверстия и подключение прибора по изучению тепловых потоков отняли у Скотта в общей сложности 31 минуту[94].
Тем временем, Ирвин приступил к экспериментам по изучению механики грунта. Впоследствии их результаты могли пригодиться при строительстве долговременных лунных баз. За 6 с половиной минут Ирвин выкопал канавку длиной около 1 м и глубиной 35—40 см[95]. Скотт помог ему упаковать образец грунта со дна канавки в герметичный металлический контейнер и после этого приступил к бурению третьего отверстия для забора глубокой пробы грунта. Бур для этих целей оказался гораздо лучше. Скотт углубил все шесть секций пробы на полную глубину 2,4 метра всего за несколько минут[95]. Однако, хотя бур легко поворачивался в скважине, Скотт никак не мог вытащить его из грунта. Было решено, что астронавты попробуют извлечь бур на следующий день.
Вернувшись к лунному модулю, астронавты, по просьбе Хьюстона, установили на месте посадки «Аполлона-15» флаг США[96]. Ирвин доложил Земле: «Мы выбрали место с горой Хэдли Дельта на заднем плане. Я воткнул флагшток в грунт и стукнул по нему молотком пару раз, так что несколько миллионов лет он точно простоит»[96]. После этого астронавты сфотографировали друг друга у флага на камеру Скотта, в которой была чёрно-белая плёнка. Чистой кассеты с цветной плёнкой у них в тот момент под рукой не было, поэтому цветные снимки решено было сделать на следующий день.
После того, как второй выход на лунную поверхность был завершён, Джо Аллен сообщил Скотту и Ирвину, что они установили новый рекорд продолжительности ВКД (внекорабельной деятельности) — 7 часов 12 минут 14 секунд[27]. Но к этому моменту астронавты уже отставали от графика на 1 час 50 минут[97]. Ещё когда они поднялись в лунный модуль, у них оставалось всего 22 часа до старта с Луны[62]. Хьюстон настаивал на взлёте точно по графику и на полноценном 7-часовом ночном отдыхе[97]. Это означало, что третью прогулку придётся неизбежно сокращать[62].
Третий день на Луне
Цена глубокой пробы грунта
В начале третьего выхода на лунную поверхность астронавты сфотографировали друг друга у флага США на цветную фотоплёнку. После этого Скотт поехал на «Ровере» к месту глубокой пробы грунта в одиночку, а Ирвин сказал, что прогуляется туда пешком, чтобы не мучить напарника застёгиванием своих ремней. На самом деле, как выяснилось позже, он просто хотел уединиться, чтобы оставить на Луне несколько личных предметов, которые он специально привёз с Земли[98][комм. 2]. Когда Ирвин догнал Скотта, они решили вытаскивать глубокую пробу вдвоём за рукоятки бура[99]. Надежды, что на этот раз повезёт, не оправдались, бур не трогался с места. Астронавтам нужен был инструмент, вроде домкрата. Но такой появится позже только у «Аполлона-16»[62]. Постепенно, подставляя то локти, то плечи под ручки бура, Скотт и Ирвин напрягали все силы на счёт «раз-два-три», вытаскивая бур на несколько сантиметров за одну попытку. Примерно через девять минут Скотт сообщил, что бур поддаётся. Он ещё раз изо всех сил нажал плечом, и бур, наконец, вышел. Никто тогда не узнал, что Скотт при этом растянул мышцы плеча. Теперь оставалось только разделить все шесть секций пробы. На разделение двух верхних секций ушло более 17 минут, но четыре нижние никак не поддавались. Не помогли даже тиски, установленные на «Лунном Ровере». Оказалось, что они непригодны к работе, потому что смонтированы задом наперёд[99].
На пробу грунта уже было потрачено более 26 минут. Хьюстон дал указание отложить четыре неразделённые секции, чтобы подобрать их в конце прогулки. Чтобы Скотт не думал, что масса времени потрачена впустую, оператор связи Джо Аллен заверил его, что эта проба очень важна, потому что это самая глубокая проба лунного грунта из полученных до тех пор. Позже, на Земле, специалисты насчитают в этой колонке грунта длиной 2,4 метра 58 различных слоёв толщиной от 0,5 см до 21 см[99]. Наибольший интерес представляли глубинные слои, которые в течение миллионов лет не подвергались воздействию космических лучей. Прошло уже больше часа с тех пор, как оба астронавта вышли на лунную поверхность, Хьюстон попросил их начать движение к каньону Хэдли Рилл.
Поездка к каньону Хэдли Рилл
Астронавты ехали к каньону строго на запад, в противоположном от солнца направлении. Детали рельефа там были неразличимы, всё сливалось. Поэтому для Скотта и Ирвина стало полной неожиданностью, когда всего через полторы минуты после начала поездки они увидели, что начали спускаться в большую низину[100]. По оценке Ирвина, самое низкое место этой впадины лежало примерно на 60 метров ниже равнины, на которой стоял лунный модуль, поэтому её решено было объехать. Дальше на пути они встретили ещё несколько таких котловин. Чуть не доехав до каньона, астронавты сделали короткую остановку (English: Station 9) для сбора образцов у небольшого молодого кратера, возможно, самого молодого из всех обследованных на тот момент кратеров на Луне[62]. За 13 минут Скотт и Ирвин проехали 2,2 км, до лунного модуля по прямой было 1,6 км[101]. Кратер, у которого они остановились, был весь усыпан камнями, которые на поверку оказались большими и довольно рыхлыми комками спёкшейся реголитовой брекчии. Некоторые из них рассыпались на более мелкие куски, когда астронавты пытались их собрать. Пока Скотт и Ирвин работали, Джо Аллен проинформировал их, что Альфред Уорден успешно совершил манёвр по изменению плоскости орбиты командно-служебного модуля[101]. Это было необходимо для предстоявшей стыковки[42]. Работа у молодого кратера продолжалась ровно 15 минут[101], после чего Скотт и Ирвин продолжили путь к Борозде Хэдли.
Через несколько сотен метров астронавты остановились. До этой остановки (English: Station 9А) от лунного модуля они ехали 2,5 км, по прямой до него было 1,8 км[102]. Поставив «Ровер» на безопасном расстоянии от края каньона, Скотт и Ирвин занялись фотографированием. Скотт не заметил камень, споткнулся и упал. Ирвин поспешил на помощь, но командир успел подняться сам. Затем астронавты приступили к сбору геологических образцов. Скотт молотком отколол несколько кусков от двух валунов, а Ирвин собрал несколько десятков мелких камешков граблями-ковшом и взял пробу грунта, углубив две секции трубки-пробоотборника[102]. Хьюстон попросил их собрать ещё по одному камню примерно 15 см в поперечнике без документирования и после этого двигаться дальше. Скотту понравился большой камень, который нельзя было поднять щипцами. Он закатил его рукой по правой ноге до бедра и, придерживая, донёс таким образом до «Ровера», поскольку в левой руке держал гномон. Этот камень весом 9,6 кг впоследствии стал известен, как «Великий Скотт» (English: Great Scott). Он стал вторым по величине и массе геологическим образцом из всех, собранных в ходе программы Аполлон[102]. В месте этой остановки Скотт и Ирвин работали почти 54 минуты[103].
Садясь в «Ровер», Ирвин заметил, что Солнце припекает всё сильнее и что ему в скафандре теплее, чем было накануне[102]. Скотт подтвердил, что у него такие же ощущения. Солнце поднялось уже на 39° над горизонтом[102], температура на поверхности грунта составляла 70 °C[10]. Дальше астронавтам нужно было проехать несколько сотен метров на север вдоль края каньона и сделать ещё одну очень короткую остановку только для фотографирования, чтобы у специалистов была стереокартина противоположной стены Борозды Хэдли[102]. Хьюстон хотел, чтобы они вернулись к лунному модулю не позднее, чем через 45 минут, не посещая Северный Комплекс[103]. До старта оставалось всего пять с половиной часов[62]. Скотт и Ирвин проехали около трёхсот метров и остановились (English: Station 10). Пройденное к этому моменту расстояние составило 2,8 км, до «Фалкона» по прямой было 2 км[103]. Ирвин отснял панораму окрестностей, а Скотт сделал 68 снимков камерой с 500-мм объективом[103]. Через 12 минут после остановки Скотт в последний раз помог Ирвину пристегнуться, и они двинулись в обратный путь[103]. До «Фалкона» они добрались всего за четверть часа[104]. Третья и последняя поездка экипажа «Аполлона-15» на «Лунном Ровере» завершилась. Она продолжалась 1 час 57 минут, было покрыто расстояние 5 км 100 м, собрано 27,3 кг образцов породы[27].
Завершение третьей прогулки
Хьюстон сообщил астронавтам, что для доставки на Землю секции бура не обязательно разделять все, достаточно отделить две секции от двух других. Скотт руками попытался их раскрутить, и одна секция, совершенно неожиданно, отвернулась. На Земле решили, что с секциями бура больше возиться не стоит[104]. Пока всё это происходило, телекамера «Ровера» два раза заваливалась объективом то вверх, то вниз. Каждый раз астронавты её поправляли. Эти проблемы начались ещё во время второго выхода. Послеполётный анализ показал, что причиной неполадок была фрикционная передача механизма поворота камеры в вертикальной плоскости, выполненная из эластомера. На Земле эта деталь успешно прошла испытания при температуре 50°С, но во время третьей ВКД, как показал анализ полученной информации, поверхность агрегатов «Ровера» нагрелась до 82°С[104][комм. 3].
В конце третьего выхода на поверхность Скотт погасил на Луне почтовую марку, использовав при этом обычный штемпель и штемпельную подушечку. На марке было написано: «Соединённые Штаты в космосе. Десятилетие достижений», а на штемпеле: «2 августа 1971, первый день выпуска»[105]. Штемпель отпечатался не очень чётко, и Скотт предпринял вторую попытку, но с тем же успехом. Тогда Ирвин посоветовал сделать отпечаток большого пальца перчатки. Скотт сделал несколько «пыльных» отпечатков.
«У меня есть ещё кое-что, — сказал Скотт, — думаю, вам будет интересно. И это займёт не больше минуты»[105]. То, что произошло дальше на глазах у телезрителей на Земле, он сопровождал своими комментариями:[105]
Итак, в левой руке я держу перо, в правой — молоток. И я думаю, тем, что мы сегодня находимся здесь, мы обязаны джентльмену по имени Галилео, который давно сделал весьма значительное открытие о падении тел в гравитационном поле. Мы решили, что лучшего места, чем Луна, для подтверждения его выводов просто не найти. И сейчас мы для вас поставим здесь опыт. Перо — это, как и подобает, соколиное перо, в честь нашего «Фалкона». И я брошу эти два предмета, и, надеюсь, они упадут на поверхность одновременно… Ну, как!!! Это доказывает правоту мистера Галилео!
Перо и молоток падали с одинаковым ускорением и находились в свободном падении 1,3 секунды[10]. Этот «Опыт Галилея» (English: «Galileo Experiment») наглядно продемонстрировал, что в безвоздушном пространстве предметы падают с одинаковой скоростью, независимо от их массы[105].
«Аполлон-15» был первой экспедицией, в которой старт взлётной ступени лунного модуля с Луны планировалось показать в прямом эфире по телевидению. Скотт поставил «Лунный Ровер» в ста с небольшим метрах к востоку от «Фалкона», чтобы Солнце не попадало в объектив. После этого он почти две минуты не отзывался на просьбы Джо Аллена сориентировать антенну высокого усиления на Землю[105]. Как выяснилось на первой пресс-конференции после полёта, в это время Скотт воткнул в лунный грунт небольшую табличку с именами четырнадцати погибших советских космонавтов и американских астронавтов. Перед ней он положил маленькую (8,5 см в высоту) алюминиевую фигурку Павшего Астронавта[105]. Этот символический ритуал все трое членов экипажа «Аполлона-15» задумывали, как глубоко личную церемонию, она не была заранее согласована с руководством НАСА. Фамилии космонавтов и астронавтов были перечислены в порядке букв английского алфавита: Чарлз Басетт, Павел Беляев, Роджер Чаффи, Георгий Добровольский, Теодор Фримэн, Юрий Гагарин, Эдвард Гивенс, Вирджил Гриссом, Владимир Комаров, Виктор Пацаев, Эллиот Си, Владислав Волков, Эдвард Уайт, Си. Си. Уильямс, (имена советских космонавтов Валентина Бондаренко и Григория Нелюбова, гибель которых тогда ещё держалась в тайне, упомянуты не были)[105]. Затем Скотт прислонил к ручке управления «Ровера» маленькую Библию красного цвета. Когда он, наконец, сориентировал антенну, в Хьюстоне увидели правое переднее крыло луномобиля — камера смотрела вниз. Скотт её поправил.
Астронавты загрузили всё, что необходимо было взять с собой на Землю, в кабину лунного модуля. Три неразделённые секции пробы грунта решено было положить на пол, перед обшивкой двигателя. Третий выход на поверхность Луны продолжался 4 часа 49 минут 50 секунд[27]. Общее время, проведённое астронавтами «Аполлона-15» на Луне за пределами корабля, составило 18 часов 34 минуты 46 секунд[27].
Взлёт с Луны и стыковка
После наддува кабины астронавты впервые за три дня пребывания на Луне не сняли скафандры, они сняли только перчатки, шлемы и ранцы портативной системы жизнеобеспечения, подключив к скафандрам кислородные и водяные шланги лунного модуля[106]. За 23 минуты до взлёта в Хьюстоне было сделано объявление для прессы о том, что телекамера «Лунного Ровера» из-за возникших проблем не будет отслеживать подъём «Фалкона», а покажет только статичный план. В момент, когда после старта с Земли прошёл 171 час 37 минут 16 секунд, Дэвид Скотт нажал кнопку разделения ступеней и запустил двигатель, после чего подтвердил бортовому компьютеру, что можно продолжать программу[107]. Через 9 секунд взлётная ступень «Фалкона» оторвалась от посадочной и начала быстро подниматься[107]. И сразу в радиоэфире зазвучала музыка песни ВВС США «Поехали! В голубую высь!» (English: «Off We Go Into The Wild Blue Yonder»)[108]. Скотт позднее рассказывал, что все члены экипажа планировали это заранее, только Уорден должен был запустить плёнку не сразу, а примерно через минуту, когда начальная и наиболее критичная фаза подъёма будет уже позади. Несколько секунд в Хьюстоне никто не мог понять, что происходит. По словам Скотта, после полёта ему здорово попало из-за этого инцидента, но в глазах у всех, кто его отчитывал, он видел улыбку. Как вспоминал Уорден в 1999 году, он думал, что заводит песню только для Хьюстона, и не знал, что кто-то на Земле переключил связь в режим, когда все слышали всех[108].
Когда «Фалкон» поднялся всего на 15 метров, был совершён манёвр переворота[107]. Взлётная ступень лунного модуля повернулась на 54° носом вниз. В отличие от Земли, в безвоздушном пространстве Луны можно было увеличивать горизонтальную скорость корабля практически сразу после старта. В 1999 году Скотт вспоминал: «Мы летели иллюминаторами вниз прямо над каньоном и вдоль него. Виды были потрясающие. Лучшего прощания с Луной трудно было придумать»[107]. По словам Скотта, никакого шума во время старта и взлёта в кабине не было, кроме свистящих звуков «Ш-ш-ш-ш-ш-ш…», как будто ветер дует в окно[108]. Перегрузок практически тоже не было, от 1/6 G они увеличились примерно до 1/2 G[108]. Скотту и Ирвину впервые предстояло осуществить сближение и стыковку кораблей на окололунной орбите по схеме «прямой встречи» (English: direct rendezvous)[107]. Она требовала меньшего количества включений двигателя взлётной ступени, но большей точности наведения и навигации. Весь процесс можно было осуществить в течение одного витка, то есть чуть меньше, чем за два часа.
Через 8 минут после взлёта «Фалкон» вышел на эллиптическую орбиту с апоселением 77,8 км и периселением 16,7 км[107]. Как только в кабине наступило состояние невесомости, она вся заполнилась плавающей лунной пылью и мелкими частицами грунта[10]. Но Скотт и Ирвин были в скафандрах, с закрытыми гермошлемами. Через минуту после выхода на окололунную орбиту Уорден сообщил, что радар «Индевора» засёк лунный модуль на расстоянии 235 км[107]. Ещё через 11 минут расстояние между кораблями сократилось до 174 км, скорость сближения составила 108 м/с. С расстояния 130 км Уорден в секстант разглядел вспыхивавший в темноте сигнальный фонарь «Фалкона». Когда оба корабля находились над обратной стороной Луны, на 3 секунды был включён двигатель взлётной ступени «Фалкона» для совершения манёвра начала завершающей фазы сближения. Затем Скотт тремя манёврами торможения погасил скорость «Фалкона» относительно «Индевора» с 7,6 м/с до 1,5 м/с[107].
Стыковка состоялась через 1 час 59 минут после взлёта «Фалкона» с Луны, скорость сближения в момент стыковки составила 0,03 м/с[107]. Уорден приветствовал Скотта и Ирвина гостеприимным «Добро пожаловать домой!»[107]. Он включил вентиляторы вытяжки в командном модуле, чтобы они притягивали частицы лунной пыли, и начал выравнивать давление между двумя кораблями[109]. После открытия люков Скотт и Ирвин почистили свои скафандры пылесосом, который им передал Уорден. Во время очередного пролёта над обратной стороной Луны Скотт и Ирвин перенесли в командный модуль контейнеры с образцами грунта, камерами, кассетами с плёнкой и секциями глубокой пробы грунта. Три неразделённые секции пробы Уорден, по совету Хьюстона, привязал в нижнем отсеке командного модуля, под креслами астронавтов. Экипаж старался не допустить загрязнения «Индевора», но лунная пыль в него всё-таки проникла. Уорден начал чистить кабину командного модуля пылесосом, а Скотт и Ирвин принялись за подготовку «Фалкона» к сбросу на лунную поверхность. Затем они перешли в командный модуль.
Дальше у астронавтов возникли проблемы с разгерметизацией переходного тоннеля. Его пришлось снова наддувать, открывать люки и проверять уплотнители. Кроме того, четырежды пришлось проверять герметичность скафандров. Наиболее вероятной причиной всего этого было загрязнение частицами лунной пыли. В результате, «Фалкон» был сброшен на 2 часа 10 минут позже первоначально запланированного времени. Скотт отвёл «Индевор» на безопасное расстояние. Пока всё это происходило на окололунной орбите, медики на Земле встревожились из-за того, что у уставших Скотта и Ирвина была зарегистрирована сердечная аритмия — преждевременное сокращение желудочков. У Ирвина к тому же был отмечен спаренный сердечный ритм[109]. То же самое у него наблюдалось и на Луне, во время третьего выхода на поверхность. Тогда ещё никто не знал, что это были первые симптомы болезни сердца, которая оборвёт жизнь астронавта 8 августа 1991 года, на следующий день после 20-летнего юбилея возвращения «Аполлона-15» на Землю. Хьюстон посоветовал Скотту и Ирвину принять по таблетке снотворного (секонала) и поскорее лечь спать. Астронавты, однако, не стали принимать успокоительное. Через 1 час 34 минуты после сброса «Фалкона», по команде с Земли, его двигатель был включён на торможение. Через 25 минут после этого взлётная ступень лунного модуля врезалась в поверхность Луны под углом 3,2° на скорости почти 1,7 км/с[109]. Из-за всех задержек это произошло не в расчётном районе, недалеко от места посадки «Аполлона-15», а в 93 километрах к западу от Хэдли — Апеннин. Сейсмические колебания зарегистрировали все три сейсмометра, оставленные на Луне «Аполлоном-12», «Аполлоном-14» и «Аполлоном-15». Астронавты покончили со всеми делами и начали укладываться спать на 3,5 часа позже, чем было предусмотрено полётным планом. С тех пор, как Скотт и Ирвин проснулись и начали подготовку к последнему выходу на лунную поверхность, прошло уже более 23 часов, а Уорден не спал больше 21 часа. Это был самый напряжённый день в ходе всей миссии[109].
Работа на лунной орбите
3 августа (9-й день полёта) астронавты проводили эксперименты с помощью оборудования, установленного в модуле научных приборов, и фотографировали лунную поверхность. Хьюстон попросил сделать акцент на съёмке областей вблизи терминатора и фотографировать как можно больше, поскольку не было никакого смысла везти на Землю неотснятую плёнку[110]. Был также проведён второй эксперимент по наблюдению вспышек (фосфенов). В качестве испытуемого на этот раз выступил один Ирвин. За 34 минуты он наблюдал 12 вспышек[110].
На следующий день, 4 августа, рано утром, когда астронавты ещё спали, Хьюстон предпринял попытку включить телекамеру «Лунного Ровера»[111]. Камера включилась нормально, показала посадочную ступень «Фалкона» и окрестности при более высоком Солнце. Однако через 12 минут после начала телесеанса связь неожиданно оборвалась, попытки её восстановить оказались безрезультатными[111]. Начав очередной рабочий день, астронавты во время одного из витков, находясь над теневой стороной Луны, перед самым восходом Солнца в течение нескольких минут снимали на кино- и фотоплёнку солнечную корону. Хьюстон также попросил их включить панорамную камеру и не выключать её до полного израсходования плёнки в кассете[111]. Всего на панорамную камеру было отснято более 1500 снимков, каждый из них в длину занимал более 1 метра плёнки[112]. Таким образом, было отснято почти два километра плёнки.
Перед тем, как покинуть окололунную орбиту, астронавты запустили из модуля научных приборов небольшой искусственный спутник Луны, предназначенный для измерения её магнитного и гравитационного полей и плотности и энергии заряженных частиц в окололунном пространстве. Мини-спутник массой 35,6 кг был катапультирован в тот момент, когда корабль пересекал плоскость экватора Луны[112]. На этом программа работы на окололунной орбите была выполнена, оставалось только подготовить корабль к включению маршевого двигателя для возвращения на Землю.
Маршевый двигатель «Индевора» был включён на 74-м витке вокруг Луны, когда корабль находился за её диском. Он проработал 2 минуты 21 секунду, разогнав корабль до скорости 2,6 км/с[112]. «Аполлон-15» перешёл на траекторию полёта к Земле. Через несколько минут после этого корабль был развёрнут на 180°, соплом двигателя в сторону движения, чтобы астронавты могли фотографировать Луну. Глядя в иллюминатор, Скотт доложил Хьюстону: «Результаты включения двигателя заметны невооружённым глазом уже сейчас. Мы поднимаемся прямо вверх над терминатором. Нет никаких сомнений в том, что мы улетаем»[112].
Полёт к Земле
На 11-й день полёта, 5 августа, «Индевор» пересёк границу сферы преимущественного гравитационного влияния Луны. Это произошло, когда корабль находился в 328 220 км от Земли[113]. В тот же день Уорден совершил первый в истории выход в открытый космос в межпланетном пространстве, чтобы достать отснятые кассеты панорамной и картографирующей камер. Держась за поручни, смонтированные на обшивке корабля, он трижды перемещался к модулю научных приборов. Два раза за кассетами и третий — чтобы осмотреть картографирующую камеру, которая за день до этого не убралась в свой отсек. Он внимательно осмотрел её со всех сторон, но не нашёл ничего необычного. Вернувшись назад, Уорден закрыл люк. Этот выход в открытый космос продолжался 39 минут 56 секунд, при этом люк был открыт всего 20 минут[113].
На 12-й день полёта, 6 августа, экипаж провёл третий эксперимент по наблюдению фосфенов. За 1 час наблюдений астронавты зафиксировали 25 вспышек: Скотт — 6, Уорден — 9 и Ирвин — 10[114]. В тот же день экипаж «Аполлона-15» наблюдал и фотографировал полное лунное затмение. Корабль находился почти посередине между Луной и Землёй, Луна из этой точки пространства выглядела почти полной, а Земля представала как очень узкий серп. Пока Луна была в тени Земли, экипаж дал пресс-конференцию, которая транслировалась по телевидению. Когда у астронавтов начался 9-часовой период ночного отдыха, до приводнения в Тихом океане оставалось 17 часов. «Индевор» в это время находился в 160 475 км от Земли, его скорость увеличилась до 1,764 км/с[114]. В Центре управления полётами в Хьюстоне прессе сообщили об изменениях температуры на поверхности Луны во время затмения. На месте прилунения «Аполлона-14» она понизилась с 78,8°С до −101,4°С, а в месте посадки «Аполлона-15» с 60°С до −97,3°С[114]. Температуры замерялись на верхней поверхности солнцезащитных экранов центральных станций комплектов научных приборов ALSEP, оставленных на Луне.
Приводнение
7 августа 1971 года, в последний, тринадцатый день полёта, за три с небольшим часа до посадки была проведена единственная из трёх изначально запланированных на обратный путь коррекций траектории. На 21 секунду были включены два двигателя системы ориентации служебного модуля в направлении, противоположном направлению движения, что уменьшило скорость корабля на 1,7 м/с. Ровно за 3 часа до посадки «Индевор» находился в 43 511 км от Земли, его скорость в этот момент составляла 3,783 км/с[115].
Затем были разделены и разведены на безопасное расстояние командный и служебный модули. За 13 с половиной минут до расчётного времени посадки корабль вошёл в плотные слои атмосферы на скорости 11 км/с. В течение 63 секунд после этого перегрузки возросли до 3 G, а ещё через 16 секунд — до 6,2 G[115]. На высоте 7300 метров, за 5 с небольшим минут до посадки, была сброшена передняя термозащита, закрывавшая верхнюю часть конуса «Индевора», где располагались парашюты. Через 1,5 секунды раскрылись вспомогательные тормозные парашюты, скорость корабля упала с 500 до 280 км/ч. За 4 минуты 18 секунд до приводнения, на высоте 3000 метров, раскрылись и три основных парашюта. В баках системы ориентации «Индевора» в этот момент оставалось ещё довольно много очень высокотоксичных топлива и окислителя — гидразина и тетраоксида диазота, от которых необходимо было избавиться до приводнения путём включения двигателей системы ориентации до полного сжигания ядовитых компонентов. После полёта Уорден вспоминал, что сначала он отчётливо видел все три раскрывшихся основных парашюта. Но после включения двигателей иллюминаторы заволокло красноватым облаком. Когда оно рассеялось, астронавты увидели, что один из основных парашютов как бы сдулся. Причина этого после полёта не была установлена однозначно. Но считается, что, скорее всего, повреждение парашюта было вызвано именно включением двигателей системы ориентации.
«Индевор» приводнился на скорости 35,1 км/ч, вместо штатных 30,7 км/ч[115]. Никаких повреждений не было. Только прибор оптического визирования в нижнем отсеке оборудования командного модуля сорвался со своего крепления и упал[10]. Корабль сел на 32 секунды раньше, чем если бы он снижался на трёх парашютах[116]. Место посадки находилось в Тихом океане в 530 километрах от Пёрл Харбора[115], в точке с координатами [117]. Вертолёт со спасателями-аквалангистами прибыл уже через несколько минут. Как рассказывал Скотт во время послеполётного опроса, операция по подъёму экипажа прошла гладко, как во время тренировок в Мексиканском заливе. Через 40 минут после приводнения Дэвид Скотт, Альфред Уорден и Джеймс Ирвин были доставлены на борт находившегося неподалёку . Ещё через час туда же доставили и «Индевор»[117]. Эпопея «Аполлона-15» благополучно завершилась. Она продолжалась 12 суток 7 часов 11 минут и 53 секунды[115]. В честь возвращения астронавтов был сразу устроен торжественный обед — они стали первыми, кто после пребывания на Луне не подвергся послеполётному карантину[115].
Джеймс Ирвин выступает на обеде на борту вертолётоносца «Окинава» после приводненияДэвид Скотт с микрофоном. Под ногтями отчётливо видны синякиАльфред УорденКомандный модуль «Индевор» на борту вертолётоносца «Окинава»
Итоги и выводы
НАСА назвало полёт «Аполлона-15» самым успешным из всех состоявшихся пилотируемых полётов[118]. Через четыре месяца после его благополучного завершения, в декабре 1971 года, был подготовлен обширный доклад, в котором были сделаны следующие выводы:
Миссия «Аполлона-15» продемонстрировала, что в результате увеличения объёмов расходуемых материалов и установки научных приборов командный и служебный модули стали эффективными средствами сбора научной информации. Данные, передававшиеся в режиме реального времени, позволили учёным вместе с астронавтами участвовать в принятии решений для максимизации научных результатов[119].
Полёт показал, что модифицированные ракета-носитель и космический корабль могут доставлять гораздо больше грузов, чем прежде, а улучшенная система обеспечения жизнедеятельности — безопасно увеличивать время пребывания на Луне.
Мобильная телекамера, управляемая с Земли, позволила учёным и специалистам в режиме реального времени участвовать во внекорабельной деятельности астронавтов на поверхности Луны.
Практическая ценность «Лунного Ровера» была подтверждена путём значительного увеличения перемещаемых грузов и территории исследуемой лунной поверхности.
Лунный передатчик информации предоставил возможность непрерывной связи в пути и во время остановок на большом удалении от лунного модуля.
«Аполлон-15» продемонстрировал, что экипаж может в большей степени выполнять функции научных наблюдателей и исследователей, доверив мониторинг технических параметров миссии персоналу на Земле.
Уникальная способность человека наблюдать и мыслить творчески ещё раз подчеркнула ценность пилотируемых космических полётов. Это выразилось в том, что многие задания были дополнены экипажем с целью получения максимальной научной отдачи[119].
«Аполлон-15», по сути, стал последней миссией в рамках программы «Аполлон», в ходе которой ставились и были успешно решены принципиально новые инженерно-технические задачи[62]. В результате первой высадки на Луну астронавтов «Аполлона-11» Нила Армстронга и Эдвина Олдрина было практически доказано, что посадка возможна и что люди могут находиться на поверхности Луны и выполнять полезную работу. «Аполлон-12» и Чарлз Конрад и Алан Бин показали, что посадку на Луну можно осуществлять с очень большой точностью и что люди могут работать на её поверхности безо всяких проблем по нескольку часов подряд. Экипаж «Аполлона-14» Алан Шепард и Эдгар Митчелл продемонстрировали, что люди на Луне способны пешком преодолевать довольно значительные расстояния и что им вполне под силу самостоятельно вернуться к своему кораблю, в случае поломки будущих лунных транспортных средств. Экипаж «Аполлона-15» успешно испытал само это транспортное средство, «Лунный Ровер», и доказал, что астронавты могут находиться на Луне продолжительное время, до трёх суток, а в перспективе и дольше, и что беспрерывно работать на поверхности можно до 8 часов[62]. Таким образом, была практически подтверждена возможность создания на Луне постоянно действующих обитаемых баз.
В ходе полёта было много незначительных отказов техники. Но они не помешали успешному выполнению полётного задания и были учтены при подготовке последующих миссий. «Аполлон-15» показал, что есть все основания ожидать от остававшихся двух лунных экспедиций ещё более впечатляющих результатов[62].
Скандалы после полёта
Вскоре после полёта Дэвид Скотт, Альфред Уорден и Джеймс Ирвин оказались в центре скандала. Выяснилось, что без разрешения НАСА они взяли с собой в полёт на Луну и привезли обратно 398 конвертов с марками, на которых сразу после полёта на борту вертолётоносца «Окинава» были сделаны специальные гашения, а сами астронавты поставили свои автографы[120]. Это было сделано по договорённости с гражданином США Уолтером Айерманом (English: Walter Eiermann), который выступал посредником немецкого бизнесмена Германа Зигера (German: Hermann Sieger). По условиям сделки, 298 конвертов оставались у астронавтов. Они же получали за услуги по 7000 долларов США каждый. 100 конвертов передавались Зигеру с условием, что они не пойдут в продажу до окончания программы Аполлон. Но последний начал продавать их в Европе уже в сентябре 1971 года по цене 1500 долларов за штуку. Узнав об этом, Скотт потребовал вернуть оставшиеся конверты. Все астронавты отказались от вознаграждения и возвратили полученные суммы. Но скандал набирал обороты, разбирательство инцидента вышло на уровень Конгресса США. В результате, все 298 конвертов были конфискованы, а астронавты подвергнуты дисциплинарной ответственности и отстранены от подготовки к дальнейшим полётам. Вскоре они были вынуждены покинуть НАСА.
В 1983 году после поданного иска к правительству все конверты астронавтам были возвращены[121]. В январе 2008 года конверт за № 214 (это нумерация НАСА при конфискации), принадлежавший Дэвиду Скотту, был продан на аукционе «Novaspace» его дочерью Трейси Скотт за 15 000 долларов США[122].
Похожий скандал чуть позже разгорелся и вокруг копий фигурки Павшего Астронавта, первого и единственного пока произведения искусства, доставленного на Луну. Изначально у экипажа «Аполлона-15» существовала чёткая договорённость с бельгийским скульптором Полом ван Хуйдонком (Dutch: Paul van Hoeydonck), взявшимся изготовить фигурку, о том, что никакого коммерческого её использования быть не должно. На первой послеполётной пресс-конференции астронавты рассказали о проведённой ими на Луне мемориальной церемонии в честь погибших советских и американских покорителей космоса. Однако, в соответствии с договорённостью, они не назвали имени скульптора. В ноябре 1971 года Смитсоновский институт выразил пожелание разместить в своей экспозиции копии фигурки и таблички с именами космонавтов и астронавтов. Члены экипажа «Аполлона-15» согласились, с условием, что экспонаты будут представлены со вкусом и безо всякой рекламы. Дэвид Скотт пообещал достать копии фигурки и таблички и предоставить их музею. В марте 1972 года он послал в Смитсоновский институт несколько копий таблички. А в апреле того же года ван Хуйдонк, по просьбе Скотта, направил туда же и копию фигурки[120]. В настоящее время они находятся в экспозиции Национального музея авиации и космонавтики Смитсоновского института.
В мае 1972 года Скотт узнал, что дополнительные копии статуэтки могут быть выставлены на продажу. В письме ван Хуйдонку он попросил проверить эти слухи. Скульптор подтвердил информацию, подчеркнув, что он не видит для этого никаких препятствий. Астронавты «Аполлона-15» категорически не согласились с такой позицией, заявив, что их первоначальная договорённость с ван Хуйдонком запрещает любую коммерциализацию фигурки Павшего Астронавта. Ещё через два месяца, в июле, в журнале Art in America появилось рекламное объявление, в котором говорилось, что 950 копий фигурки с автографом скульптора скоро будут продаваться в галерее Уодела (English: The Waddell Gallery) в Нью-Йорке по цене 750 долларов за штуку и что готовится дополнительный тираж изделий подешевле (конкретная цена не была указана)[123]. НАСА выступило с негативными комментариями, после которых ван Хуйдонк отозвал своё разрешение на проведение распродажи и ни одна фигурка не была продана[комм. 4][124].
«Аполлон-15» в массовой культуре
Полёту «Аполлона-15» целиком посвящена одна из серий 12-серийного телесериала 1998 года. Автором сценария и одним из продюсеров является Том Хэнкс. Вместе с ним продюсерами сериала стали: Брайан Грейзер, Рон Ховард и Майкл Бостик. Том Хэнкс также во всех сериях, кроме последней (хотя в ней он тоже появляется), играет главную роль рассказчика, который представляет каждую серию. 10-я серия, рассказывающая о полёте «Аполлона-15», называется «Галилео был прав» (English: Galileo was Right)[125].
Примечания
Комментарии
Использованная литература и источники
Литература
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И́дрис Шах (English: Idries Shah, Pashto: ادريس شاه, Hindi: इदरीस शाह; 16 июня 1924 — 23 ноября 1996), также известный как Сейид Идрис эль-Хашими (Arabic: سيد إدريس هاشمي) и по криптониму Аркон Дарол (English: Arkon Daraul) — писатель и учитель в суфийской традиции, написавший более трёх дюжин книг на темы от психологии и духовности до путешествий и исследований культуры.
Рождённый в Индии, потомок афганской знатной семьи, Шах вырос, главным образом, в Англии. Его ранние произведения сосредоточены на магии и колдовстве. В 1960 году он основал издательство Octagon Press, выпускающее переводы суфийских классиков, также как и его собственные работы. Его плодотворной работой стали «Суфии», появившиеся в 1964 году и хорошо принятые на международном уровне. В 1965 году Шах основал Институт культурных исследований, лондонское образовательное благотворительное учреждение, посвящённое изучению человеческого поведения и культуры. Схожая организация, Институт изучения человеческого знания, существует в Соединённых Штатах, под руководством профессора психологии Стэнфордского университета Роберта Орнштейна, которого Шах назначил своим заместителем в США.
В своих трудах Шах представляет суфизм как универсальную форму мудрости, которая предшествует исламу. Подчёркивая, что суфизм не статичен, а всегда приспосабливается к текущему времени, месту и людям, он выражал своё учение в западных психологических терминах. Шах широко применял традиционные обучающие истории и параболы (притчи) — тексты, которые содержат несколько смысловых слоёв и предназначены для запуска глубокого понимания и самонаблюдения читателя. Возможно, больше всего Шах известен своими собраниями юмористических историй про Ходжу Насреддина.
Временами Шах подвергался критике востоковедов, которые выражали сомнение в его полномочиях и подготовке. Роль Шаха в полемике, связанной с новым переводом рубаи Омара Хайяма, опубликованным его другом Робертом Грейвсом и старшим братом Омаром Али-Шахом, получила особенно пристальное внимание. Однако у Шаха было и много известных защитников, главный из которых — писатель Дорис Лессинг. Шах пришёл к признанию его представителем суфизма на Западе и в качестве приглашённого профессора читал лекции в ряде западных университетов. Его работы сыграли значительную роль в представлении суфизма как индивидуалистической формы духовной мудрости, не обязательно связанной с какой-либо определённой религией[1].
Жизнь
Семья и ранние годы
Идрис Шах родился в Шимле, Индия; его отец — афгано-индиец, сердар Икбал Али-шах, писатель и дипломат; мать — шотландка Сайра Элизабет Луиза Шах. Его предки по отцовской линии — сеиды Мусави, чья родовая земля была расположена рядом с кабульскими садами Пагман[2]. Дед Идриса Шаха по отцовской линии, Сеид Амджад Али Шах, был набобом Сардханы в Северо-индийском штате Уттар-Прадеш[3]; наследственный титул семья получила благодаря услугам, которые их предок Ян-Фишан Хан оказал англичанам[4][5].
Идрис Шах в основном рос в окрестностях Лондона[6]. По утверждению Л. Ф. Рашбрук Уильямса, Шах с малых лет начал сопровождать своего отца в путешествиях, и хотя оба они путешествовали далеко и часто, но всегда возвращались в Англию, которую семья сделала своим домом на много лет. Благодаря этим путешествиям, которые часто были частью суфийской работы Икбала Али Шаха, Идрис Шах имел возможность встречаться и проводить время с видными государственными деятелями и выдающимися личностями как Востока, так и Запада. Вильямс пишет:
Такой способ воспитания молодого человека с выраженным интеллектом, такого, как Идрис Шах, вскоре привело к получению им широких возможностей в обретении подлинно международного мировоззрения, широкого видения и знакомства с людьми и местами, которым любой профессиональный дипломат как более зрелого возраста, так и более опытный мог бы позавидовать. Но карьера дипломата не привлекала Идриса Шаха...[7]
Шах описывал свое нетрадиционное воспитание в 1971 году в интервью Пэту Вильямсу на канале BBC. Он описывал, как его отец, вся его обширная семья и друзья старались давать детям множество «разнообразных импульсов», широкий спектр контактов и опыта с намерением создать хорошо сформированную разносторонюю личность.[8]
После того, как его семья переехала из Лондона в Оксфорд в 1940 году в результате эвакуации во время немецкой бомбардировки Блиц, он провел два или три года в Оксфордской высшей школе для мальчиков[5]. В 1945 в качестве секретаря он сопровождал своего отца в Уругвай в его отца, Халяль миссии. Он вернулся в Англию в 1946 году в связи с голословными обвинениями в ненадлежащем ведении бизнеса.[5][6]
Личная жизнь
Шах женился на Парси Синтии (Кашфи) Карбаджи в 1958 году. В 1964 году у них родилась дочь Сайра, в 1966 году двойняшки — сын Тахир и еще одна дочь — Сафия.[9]
Дружба с Джеральдом Гарднером и Робертом Грейвзом и публикация книги «Суфии»
Ближе к концу 1950-х, Идрис Шах установил контакты с лондонскими кругами Викка, и впоследствии какое-то время действовал как секретарь и компаньон Джеральда Гарднера — основателя современного Викка[5][10]. В то время, Шах собирался со всеми теми, кто интересовался суфизмом в ресторане Космо в Свисс Котедж (северный Лондон) каждый вечер четверга[11].
В 1960 году Шах основал своё издательство «Октагон пресс», одним из его первых изданий была биография Гарднера, которая называлась «Геральд Гарднер, колдун». Авторство книги было приписано одному из последователей Гарднера, Джеку Л. Браселину, но по факту её написал Шах.[10][12]
Как утверждал последователь Викка Фредерик Ламонд имя Браселина было использовано потому что Шах « не хотел сбивать с толку своих суфийских учеников, будучи замечен в заинтересованности в другой эзотерической традиции»[11]. Ламонд говорил, что Шах, казалось, начинал понемногу разочаровываться Гарднером, и однажды, во время своего визита, сказал ему:
Беседуя с Джеральдом, я хотел быть репортером News of the World. Какой великолепный материал! И все же у меня есть основания утверждать, что эта группа станет краеугольным камнем религии наступающего века. Но рационально, рационально я не вижу этого…"[11]
В 1961 году, во время своего путешествия на Мальорку с Гарднером, Шах встретил английского поэта Роберта Грейвза[13]. Шах писал Грейвзу со своего пансионата на Пальме, испрашивая его о возможности «приветствовать его за день до очень продолжительного периода»[13]. Он добавил, что сейчас изучает одну экстатическую религию, и что он «посещал… эксперименты, проводимые колдунами Британии, с употреблением грибов и тому подобное» — то, что в течение какого-то времени было предметом интереса Грейвза.[13][14]
Шах также сказал Грейвзу, что « в настоящее время он был поглощен мыслями о продвижении экстатического и интуитивного знания»[14]. Шах и Грейвз вскоре стали близкими друзьями и доверенными лицами[13]. Грейвз начал проявлять поддерживающий интерес к писательской карьере Шаха и воодушевлял его к публикации авторитетного трактования суфизма для западного читателя, среди прочего с практическими средствами его изучения — это должно было стать «Суфиями». Шаху удалось добиться существенного прогресса в продвижении книги, тем самым решая временные финансовые трудности.[13]
В 1964 году «Суфии» вышли в свет[6], опубликованные издательством «Doubleday», с длинным вступительным словом Грейвза[15]. Книга ведет хронику влияния суфизма на становление Западной цивилизации и традиции, начиная с седьмого века нашей эры, посредством работы таких фигур, как Роджер Бейкон, Иоанн Креста, Раймонд Луллий, Чозер и других, которые стали классиками[16]. Как и другие книги этой тематики, в «Суфиях» заметно избегалась терминология, которая могла бы идентифицировать его трактование суфизма с традиционным исламом.[17]
В книге также сознательно использовалась техника «рассеивания», Шах писал Грейвзу, что его цель состояла в том, чтобы « разобусловить людей и предотвратить процесс их возврата в состояние обусловленности», в противном случае, он мог бы использовать более традиционную форму подачи материала. Поначалу, книга продавалась плохо и Шах инвестировал значительную сумму собственных средств для ее рекламирования[18]. Грейвз говорил ему, чтобы он не волновался в связи с этим, несмотря на то, что у него самого были некоторые сомнения касательно написанного, он очень сожалел, что Шах не разрешил ему внести некоторые правки до публикации, он говорил, что он был «очень горд тем, что был причастен к ее публикации» и уверял Шаха, что это была "удивительная книга и что она будет признана таковой в течение очень длительного периода. Оставьте ее с тем, чтобы она нашла своего читателя, того, кто услышит Ваш распространяющийся голос, а не только тех, о которых предполагал «Doubleday».[19]
Джон Г. Беннетт и Гурджиев, связь
В июне 1962 года, за пару лет до публикации «Суфиев», Шах также установил контакт с членами движения, которое сформировалось вокруг мистических учений Гурджиева и Успенского[20][21]. В прессе появилась статья, описывающая визит автора в тайный монастырь в Центральной Азии, где проводилось обучение методами, очевидно схожими с методами Гурджиева[21]. Так или иначе, таинственный монастырь имел своего представителя в Англии.[5]
Один из первых учеников Успенского, Реджи Хоаре, который был частю гурджиевской работы с 1924 года, благодаря этой статье установил контакт с Шахом. Хоаре придал особое значение тому, что Шах говорил об эннеаграмме, и говорил, что относительно этого символа Шах расскрывал секреты, которые уходили далеко от того, чему их учил Успенский[22]. Через Хоаре Шах был представлен другим гурджиевцам, включая Джона Г. Беннетта, заметного ученика Гурджиева, основателя « Института сравнительного изучения истории, философии и наук», расположенного в Кумб Спрингс, семиакровом владении (2,8 га) в Кингстоуне на Темзе, Суррей.[23]
К тому времени Беннетт уже установил суфийское происхождение гурджиевских учений, базируя своё понимание как на многочисленных утверждениях самого Гурджиева, так и на опыте собственных путешествий на Восток, где он встречал разных суфийских шейхов[24]. Он был уверен, что Гурджиев адаптировал многие суфийские идеи и техники, к тому же, для тех, кто слушал лекции на заре 1920-х, « суфийское происхождение его учений безошибочно распознавалось для тех, кто изучал их».[25]
Беннетт написал о своей первой встрече с Шахом в своей автобиографии «Свидетель» (1974):
Во-первых, я был насторожен. Только я принял решение идти дальше самостоятельно, как тут же появился еще один «учитель». Один или два разговора с Реджи убедили меня в том, что я обязан по меньшей мере сам во всем убедиться. Элизабет и я пришли на ужин с четой Хоаре, чтобы встретиться с Шахом, который, как оказалось был молодым человеком, которому едва за 40. Он говорил на безукоризненном английском и благодаря своей бороде и некоторым жестам, он мог бы быть принят за типичного представителя английской государственной школы. Наше первое впечатление было неблагоприятным. Он вел себя беспокойно, постоянно коптил и уж слишком хорошо читалось его намерение произвести хорошее впечатление. К концу первой половины вечера наше отношение к нему полностью переменилось. Мы узнали, что он был не только необычайно одаренным человеком, но в нем различалось что-то такое, что отмечало человека, который серьезно поработал над собой… Зная Рэджи как очень осторожного человека, на протяжении многих лет натренированного оценивать информацию в службе разведки я принял его гарантии и веру в то, что у Шаха была очень важная миссия, и мы обязаны ему помочь в ее осуществлении.[23]
Шах дал Беннетту «Декларацию Людей Традиции»[26] и авторизовал его передать этот документ гурджиевцам[21]. Документ, провозглашавший о возможности передачи «секретной, скрытой, специальной, высшей формы знания» в сочетании с тем впечатлением, которое произвел на Беннетта Шах, убедили Беннетта в том, что Шах был истинным эмиссаром «монастыря Сармунг» в Афганистане — внутреннего круга суфиев, учения которых вдохновили Гурджиева[21][27].
Последущие несколько лет Шах и Беннетт еженедельно имели беседы, длящиеся часами. Позже, Шах также давал лекции студентам Кумб Спрингс. Беннетт говорит, что Шах планировал «достичь людей, занимавших властные и силовые позиции, которые уже полусознательно понимали, что проблемы человечества уже не могут быть решены экономическими, политическими или социальными действиями. Эти люди уже были затронуты, говорил он, новыми силами, которые движутся в мире, чтобы помочь выжить в грядущем кризисе.»[22]
Беннетт соглашался с этими идеями и признавал также, что « люди, привлекаемые открытыми духовными или эзотерическими течениями, редко владеют качествами, необходимыми для достижения и занятия властных позиций», и что « было достаточно оснований верить, что в мире уже были люди, которые занимают важные позиции, способные выйти за рамки национальных и культурных ограничений, которые уже осознали, что единственная надежда человечества связана с вмешательством Высшего Источника».[22]
Беннетт писал: « Я достаточно был знаком с Шахом, чтобы знать, что он не был шарлатаном или праздным хвастуном и что он серьезно относился к заданию, которое ему было дано»[22]. Желая поддержать работу Шаха, в 1965 году Беннетт принял решение, после длительных мук и обсуждений с Советом и членами Института, передать Кумб Спрингс в собственность Шаху, который настаивал на том, что любой такой подарок должен быть сделан без каких-либо условий[5][21]. После того, как имущество было передано Шаху он отказал компаньонам Беннетта в посещении, и самого Беннетта вынуждал чувствовать себя непрошеным.[21]
Беннетт говорит, что получил приглашение на «Праздник Летнего Солнцестояния», на вечеринку, которую Шах устраивал в Кумб Спрингс, которая длилась два дня и две ночи, преимущественно для молодых людей, которых Шах потом привлекал[22]. Энтони Блэйк, который работал с Беннеттом 15 лет, говорит: « С тех пор, как Шах получил в собственность Кумб Спрингс, его основной деятельностью было устраивание вечеринок. Я с ним сталкивался всего несколько раз, но более всего мне нравилось его непочтительное отношение к тому, что обычно принимается всерьез. Беннетт однажды сказал мне: „Существуют разные стили работы. Мой, как и у Гурджиева, связан с приложением усилий с отречением. Но путь Шаха — относиться к работе с юмором“.[29]
Через насколько месяцев Шах продал участок, более чем за 100.000 фунтов стерлингов застройщику, и устроил себя и свою рабочую деятельность в Лэнгтон Хаус в Лэнгтон Грине, вблизи Танбридж Элза, в 50-акровом имении, ранее принадлежащем семье лорда Баден-Павелла, основателя бойскаутов.[5][30]
Вместе с собственностью в Кумб Спрингс, Беннетт передал Шаху заботу о его студентах, которых было около 300 человек[21]. Шах обещал интегрировать всех подходящих, примерно половина их нашли свое место в работе Шаха.[21] Что-то около 20 лет спустя, один из гурджиевцев, автор Джеймс Мур намекал, что Шах одурачил Беннетта. Беннетт писал об этом в своей автобиографии (1974), он говорил, что после акта передачи имущества поведение Шаха было „тяжело вынести“, но там же настаивал на том, что Шах был человеком „ изысканных манер и деликатно-чувствительным“ и пришел в выводу, что Шах мог сознательно вести себя подобным образом, „чтобы убедиться, что все обязательства и договоренности в вопросе Кумб Спингса выполнены и закрыты“[21]. Он добавлял, что Лангтон Грин был куда более подходящим местом для работы Шаха, чем Кумб Спрингс, и что он не сожалел о том, что Кумб Спрингс потерял свою идентичность, о том, что он пришел к этому выводу свидетельствует его заявление, что он „обрел свободу“ благодаря знакомству с Шахом и что он „научился любить людей, которых (он) не мог понять“[31].
По словам Беннетта, позже Шах вел переговоры с главами гурджиевских групп в Нью Йорке. В письме Полу Андерсону от 5-го марта 1968 года, Беннетт писал: „Мадам Зальцман и остальные… осознают свои ограничения и делают не более того, что могут делать. когда я был в Нью Йорке, Элизабет и я посетили Фонд, и там мы виделись с большинством ведущих личностей нью-йоркской группы, как и лично с Жанной де Зальцман. Что-то готовится, но приведет ли это к чему-то благому, я не могу сказать. Я имею ввиду их связь с Идрисом Шахом и его способность ставить все с ног на голову. Бесполезно с такими людьми быть пассивным, бесполезно и избегать этого вопроса. В настоящее время мы можем только надеяться, что из этого выйдет что-то хорошее, продолжая тем временем нашу собственную работу…“[32]
Автор и клинический психолог Кэтлин Спис позже писала:
Будучи свидетелем растущего консерватизма в Фонде (Гурджиева), Джон Беннетт надеялся, что новая кровь и лидерство придут откуда-то еще…Несмотря на заигрывания с Шахом, так ничего из этого не вышло. Превалирующая мысль (среди лидеров Гурджиевской работы) была такова, что ничего не должно меняться, что сокровище, сберегаемое ими любой ценой должно быть сохранено в его первозданном виде, было сильнее любого желания получить новую волну вдохновения.»[32]
Суфийские изучения и институты
В 1965 году Шах основал Общество понимания фундаментальных идей (Society for Understanding Fundamental Ideas (SUFI)), затем переименованное в Институт культурных исследований (The Institute for Cultural Research (ICR)) — образовательное благотворительное учреждение, целью которого является стимулирование «изучения, обсуждения, обучения и исследований всех аспектов человеческого мышления, поведения и культуры»[33][34][35][36]. Он также учредил Сообщество суфийских исследований (Society for Sufi Studies (SSS))[37].
Лангтон Хаус в Лэнгтон Грине стал местом собраний и дискуссий поэтов, философов и государственных деятелей всего мира, и значимой частью литературной сцены того времени.[38] ICR проводил там встречи и лекции, присуждая стипендии международным ученым, включая сэра Джона Глабба, Акилы Берлас Киани, Ричарда Грегори и Роберта Сесила, руководителя европейских исследований в Университете Ридинга, который в начале 1970-х стал президентом Института.[38][39]
Шах был ранним членом и сторонником Римского клуба, и несколько докладов были предоставлены Институту такими учеными, как Александр Кинг.[40][41][42]
Другие посетители, ученики, те, кто претендовал стать учеником, включая поэта Тэда Хьюза, новелистов Дж. Д.Селинджера, Алана Силитоу и Дорис Лессинг, зоолога Десмонда Морриса и психолога Роберта Орнштейна. Интерьер дома был оформлен в ближневосточном стиле, а обеды шведского стола проводились каждое воскресенье в большой столовой, которая когда-то называлась «Слон» (ссылка на восточную историю «Слон в темноте»).[30]
В последующие годы Шах развивал «Октагон Пресс» как средство публикации и распространения переизданий переводов многих суфийских классиков.[43] Кроме того, он собирал, переводил и писал тысячи суфийских историй, делая их доступными для западной аудитории посредством своих книг и лекций.[37] В некоторых книгах Шаха есть такой персонаж — Мулла Насреддин, иногда с иллюстрациями, предоставленными Ричардом Вильямсом. В интерпретации Шаха, истории Муллы Насреддина, ранее считавшиеся фольклорной частью мусульманских культур, были представлены как суфийские притчи.[44]
Насреддин был представлен в документальном фильме Шаха «Мечтатели», который вышел в эфир на канале ВВС в 1970 году. Сегменты включали интервью с Ричардом Вильямсом о его незавершенном мультипликационном фильме о Насреддине, обсуждение ученым Джоном Кермишем использования рассказов Насреддина в аналитическом центре Рэнд Корпорейшн. Там были и другие гости, включая британского психиатра Вильяма Сарганта, обсуждавшего негативное влияние «промывания мозгов» и социального обусловливания на творчество и на решение проблем, комика Марти Фельдмана, который обсуждал с Шахом роль юмора и ритуалов в жизни человека. Программа завершилась утверждением Шаха, что человечество может способствовать собственной эволюции «разрушая психологические ограничения», но «постоянное разрастание пессимизма эффективно препятствует этой форме процесса эволюционирования в ее прогрессе… Человек спит — должен ли он умереть до своего пробуждения?».[45]
Шах также организовал суфийские учебные группы в США. Клаудио Наранхо, чилийский психиатр, который преподавал в Калифорнийском университете в конце 1960-х, говорит, что после того, как он был «разочарован степенью привлечения школой Гурджиева живой линии», он обратился к суфизму и стал «членом группы под руководством Идриса Шаха».[46] Наранхо вместе с Робертом Орнштейном написал книгу «Психология медитации»(1971). Они оба были связаны с Калифорнийским университетом, где Орнштейн был научным психологом и исследователем в психиатрическом институте Лэнгли Портера.[47]
Орнштейн также был основателем и президентом Института Изучения Человеческих Знаний (ISHK), созданного в 1969 году, видя потребность в США книг и коллекций древних и современных способов мышления, в 1972 году он создал в ISHK Книжную Службу как центральный источник современной и традиционной литературы, став единственным американским дистрибьютором работ Идриса Шаха, опубликованных издательством «Октагон Пресс»[48].
Другой соратник Шаха, ученый и профессор Леонард Левин, который в то время преподавал телекоммуникацию в университете Колорадо, создал суфийские учебные группы и другие образования с целью продвижения суфийских идей, такие как Институт Исследования Распространения Знаний Человека (IRDHK), а также редактировал антологию работ Идриса Шаха и о нем под названием "Распространение суфийских идей на Западе. (1972)[49][50]
Поздние годы
В следующие десятилетия Шах написал около двух дюжин книг, многие из которых опирались на классические суфийские источники.[5] Достигнув огромного тиража во всем мире[34], его работы обращались прежде всего к интеллектуально ориентированной западной аудитории.[17] Переводя суфийские учения на современный психологический язык, он представил их в общеупотребительной и, следовательно, в доступной форме.[51] Его народные сказки, иллюстрирующие суфийскую мудрость посредством анекдота и примера, утвердили себя в качестве особенно популярных.[17][34] Шах получал и принимал приглашения читать лекции в качестве приглашенного профессора в различных академических учебных заведениях, включая Калифорнийский университет, Женевский университет, Национальный университет Ла-Платы и различных английских университетов.[52] Помимо его литературной и образовательной работы он находил время для разработки ионизатора воздуха (формирование компании вместе с Коппи Лоуз) и управления рядом текстильных, керамических и электронных компаний.[30] Он также совершил ряд поездок на историческую родину его предков, в Афганистан, и вовлек себя в организацию там усилий по оказанию помощи, этот свой опыт он позже описывал в своей книге «Кара Куш», новелле о Советской войне в Афганистане.
Болезнь
В конце весны 1987 года, примерно через год после его последнего визита в Афганистан, Шах перенес два последовательных и обширных сердечных приступа.[36][53] Ему сказали, что у него в рабочем состоянии осталось только восемь процентов его сердечных функций и он не мог рассчитывать на выживание.[36] Несмотря на периодические приступы болезни, он продолжал работать и в течение последующих девяти лет он публиковал свои дальнейшие книги.[36][53]
Смерть
Идрис Шах умер в Лондоне 23 ноября 1996 года в возрасте 72 лет и был похоронен на Бруквудском кладбище. Согласно некрологу в «The Daily Telegraph» Идрис Шах сотрудничал с моджахедами во время Советской войны в Афганистане, был директором по изучению в Институте Культурных Исследований и Председателем Королевского Гуманитарного Общества, Королевского Госпиталя и Приюта для неизлечимых[36]. Он также был членом клуба Атенеум.[5] На момент его смерти, книги Идриса Шаха были проданы по всему миру более чем 15 миллионов экземпляров на дюжине языков и они были просмотрены в многочисленных газетах и журналах по всему миру.[54][55].
Учения
Книги о магии и оккультизме
Ранние книги Шаха изучали то, что он называл « малыми верованиями». Его первая книга — «Магия Востока» опубликована в 1956 году изначально намеревалась быть названа «Соображения о Восточных и Африканских малых верованиях». Он продолжил в 1957 году книгой «Секретные магические знания: Книга знахаря», называвшейся в оригинале «Некоторые материалы о европейской литературе малых верований». Названия этих книг, согласно контрибьютору Шаха до 1973 года, были изменены перед публикацией в связи с «острой необходимостью практики коммерческой публикации».[56]
Перед смертью, в 1969 году, отец Шаха утверждал, что причина, почему он и его сын опубликовали книги на тему магии и оккультизма, заключалась в том, «чтобы упредить возможное широкораспространенное возрождение или веру среди значительного числа людей в этот вздор. Мой сын в, конечном итоге, выполнил это задание, когда он в течение нескольких лет изучил этот вопрос и опубликовал две важные книги на этот предмет.»[57]
В интервью изданию Psychology Today от 1975 года Шах более широко раскрывает эту тему:
Главной целью моих книг о магии, было сделать этот материал доступным для обычного читателя. Слишком долго люди верили в существование секретных книг, скрытых мест и удивительных вещей. Они держались за эту информацию, как за что-то такое, чем сами себя пугали. Так что первой целью была информация. Это магия Запада и Востока. На этом всё. Здесь нет ничего больше. Вторая цель этих книг — показать, что более, чем кажется, должны быть силы, некоторые из которых либо объясняются этой магией, либо могут быть развиты из неё, которые не входят в обычную физику, или опыт обычных людей. Я думаю это должно быть изучено, нам следует собрать данные и исследовать феномен. Нам нужно отделить химию магии от алхимии, так сказать.[58]
Шах продолжал говорить, что его книги не были написаны для нынешних приверженцев магии и колдовства, и что ему, со временем, пришлось избегать их, так как они были бы разочарованы тем, что он должен был бы им сказать.
За этими книгами последовала публикация записок о путешествии «Место назначения — Мекка» (1957), которые были представлены на телевидении сэром Дэвидом Аттенбро[59]. И «Место назначения — Мекка» и «Магия Востока» содержат секции на тему суфизма[60][61]
Суфизм как форма вневременной мудрости
Шах преподносил суфизм как форму вневременной мудрости, которая предшествовала исламу[62]. Он подчёркивал, что сущность суфизма живая, не статичная, и что он всегда адаптировал свои видимые проявления к новым временам, местам и людям: «Суфийские школы подобны волнам, которые обрушиваются на скалы: [они] из одного и того же моря, в разных формах, с единой целью», — писал Шах, цитируя Ахмада аль-Бадави[37][62].
Шах часто был пренебрежителен к востоковедческим описаниям суфизма, считая, что академическое или субъективное изучение его исторических форм и методов не является достаточным основанием для правильного его понимания[62]; на самом деле, одержимость традиционными суфийскими формами фактически может стать препятствием: «Покажите человеку слишком много верблюжьих костей или показывайте их ему слишком часто, и он будет не в состоянии узнать верблюда, когда встретит его вживую», — так Шах выразил эту идею в одной из своих книг[62][63].
Шах, как и Инайят Хан, представлял суфизм как путь, который превосходит отдельные религии, и адаптировал его к западной аудитории[64]. Однако, в отличие от Хана, он приписывал меньшее значение культовым или религиозным атрибутам и изображал суфизм как психологическую технологию, метод или науку, которая могла быть использована для достижения самореализации[64][65]. При этом его подход, казалось, главным образом был адресован последователям Гурджиева, представителям Движения за развитие человеческого потенциала, и представителям интеллигенции, знакомым с современной психологией[64]. Например, он писал: «Суфизм <…> утверждает, что человек может стать объективным и что эта объективность позволяет индивидууму понять „высшие“ факты. Поэтому человеку предлагается продвинуть свою эволюцию вперёд к тому, что иногда называется в суфизме „реальным умом“»[64]. Шах учил, что человек может приобрести новые органы тонких чувств в ответ на необходимость[37].
Суфии считают, что в некотором смысле человечество развивается, стремясь к определенной цепи. Все мы участвуем в этом развитии. Органы появляются в ответ на потребность в существовании таких особых органов (Руми). В соответствии с такой потребностью человеческий организм вырабатывает новый комплекс органов. В наше время преодоления времени и пространства этот комплекс также занят преодолением времени и пространства. То что обычные люди считают отдельными и случайными проявлениями телепатических или пророческих сил, суфии рассматривают как первые признаки деятельности именно этих органов. Различие между всей эволюцией до сегодняшнего дня и современной потребностью в эволюции заключается в том, что в течение последних 10 000 лет или около того нам предоставляли возможность сознательного развития. Эта высшая форма развития является столь важной, что от нее зависит само наше будущее.—Идрис Шах, «Суфии»[66] (перевод: изд-во «Эннеагон Пресс»)
Шах отверг другие Восточные и Западные проекции суфизма, как «разбавленные, обобщенные или частичные», он сюда включил не только версию Хана, но и откровенно мусульманские формы суфизма, встречавшиеся в большинстве исламских стран. С другой стороны, писания соратников Шаха подразумевали, что он был «Великим Шейхом Суфиев» — позиция авторитета, подрываемая отказом других суфиев признать его существование[43]. Шах чувствовал, что наилучший путь представить суфийскую мудрость Западу, в то же самое время преодолевая проблемы гуру и культов, был прояснить разницу между культом и системой образования и внести свой вклад в знания. В одном из интервью он объяснял: « Вы должны работать в рамках образовательного паттерна, но не в сфере мумбо-юмбо»[67]. Частью этого подхода была его работа директором по изучению в ICR.[67] Он также читал лекции по изучению суфизма на Западе в университете Сассекса в 1966 году. Это впоследствии было опубликовано как монография «Особые проблемы в изучении суфийских идей».[68]
Позднее Шах объяснял, что суфийская деятельность разделялась на различные компоненты и части: «изучение в суфизме», «изучение суфизма» и «изучение для суфизма».[69]
Изучение для суфизма помогает вести людей к суфизму и включает в себя продвижение знания, которое может отсутствовать в культуре, нуждающееся в восстановлении и распространении, такого как понимание социальной обусловленности и промывания мозгов, разницу между рациональной и интуитивной моделью мышления, и другую деятельность, направленную на то, чтобы людские умы стали более свободными и широкомасштабными. Изучение суфизма включало в себя институты и деятельность, такие как лекции и семинары, которые предоставляли информацию о суфизме и действовали как инструмент культурной связи между суфиями и общественностью. И наконец изучение в суфизме относились к пребыванию в суфийской школе, в выполнении тех действий, которые предписал учитель как часть тренинга и это может принимать различные формы, не обязательно вписывающееся в предвзятое понятие «мистическая школа».[69]
Суфийские цели и методологии Шаха в общих чертах были описаны в «Декларации Людей Традиции», представленной в Кумб Спрингс:
В дополнение к сделанному уведомлению, чтобы напитать определенные области мысли определенными идеями и указывая на некоторые факторы, окружающие эту работу, проекции этой декларации имеют практическую задачу. Эта задача состоит в том, чтобы определить местоположение людей, способных получить специальное знание о человеке, которое доступно, сгруппировать их особым, не случайным методом, так, чтобы каждая такая группа образовывала гармоничный организм, сделать это в правильное время в правильном месте, обеспечить внешний и внутренний формат работы, формулировку «идей», подходящих для местных условий, сбалансировать теорию и практику.[23]
В интервью ВВС в 1971 году Шах объяснил свой современный адаптивный подход: « Я заинтересован в том, чтобы на Западе были доступны те аспекты суфизма, которые будут полезны для Запада в настоящее время. Я не хочу превращать добрых европейцев в бедных азиатов. Люди спрашивают меня, почему я не использую традиционные методы обучения, например, в отношении людей которые ищут меня или охотятся за мной и, конечно, мой ответ заключается в том, что причина та же, что привела вас сегодня ко мне на автомобиле, но не на верблюде. Суфизм по факту — это не мистическая система, не религия, но совокупность знаний».[70]
Шах часто характеризовал некоторые свои работы как на самом деле только предварительные для фактического изучения суфизма, таким же как изучение чтения и писания могут быть рассмотрены как предварительные шаги к изучению литературы: «Если психология не правильно ориентирована, нет духовности, хотя может быть одержимость и эмоциональность, часто по ошибке принимаемые за нее»[71][72]. «Каждый, кто пытается применять духовные практики к невозрожденной личности … в результате закончит заблуждением», утверждал он[71]. По этой причине большая часть работы, которую он выполнил, начиная с «Суфиев» и далее, по своей природе была психологической, сфокусированной на атаке на нафс-и-амара, ложное «Я»: «Мне нечего дать вам, кроме способа понять, как искать — но вы думаете, что уже умеете это делать».[71]
Шаха часто критиковали за то, что он не очень часто в своих работах упоминал Бога, он отвечал, что учитывая нынешнее состояние человека, было бы не очень продуктивно говорить о Боге. Он проиллюстрировал проблему в притче в своей книге «Мыслители Востока»: "Обнаружив у себя способность говорить на языке муравьев, я приблизился к одному из них и спросил: « Кто есть Бог? Он похож на муравья?» Он ответил: «Боже! Нет, конечно. У нас только одно жало, но Бог, у Него — два!».[71][73]
Обучающие истории
Дополнительная информация: обучающие истории
В своей работе для усиления эффекта Шах использовал обучающие истории и юмор[62][74]. Шах подчеркивал терапевтическое действие удивляющих анекдотов и свежие перспективы, которые открывают эти истории.[44] Чтение и обсуждение таких историй в настройке группы стало важной частью деятельности, в которой члены учащихся кругов Шаха были задействованы[44]. Преобразовывающий способ, которым эти сбивающие с толку и удивляющие истории могли дестабилизировать нормальную (и не подозревающую) модель осознания изучал профессор психологии Стенфордского университета Роберт Орнштейн, который вместе со своим коллегой психологом Чарльзом Тартом[71] и видными писателями, такими как поэт-лауреат Тэд Хьюз[71] и лауреат Нобелевской премии новелист Дорис Лессинг[37][75] были одними из нескольких заметных мыслителей, на которых оказал глубокое влияние Шах.[44][51]
Шах и Орнштейн познакомились в 1960 году.[51] Понимая, что Орнштейн мог бы быть идеальным партнером в распространении его учений, переводя их в идиомы психотерапии, Шах сделал его своим представителем (халифа) в Соединенных Штатах[44][51]. «Психология сознания» Орнштейна (1972) была с энтузиазмом принята академическим сообществом психологов, так как она совпала с новыми интересами в этой области, такими как изучение биологической обратной связи и других техник, направленных на достижение сдвигов настроения о осознанности. Орнштейн опубликовал еще немало книг в этой области в последующие годы[51].
Научный философ и физик Анри Бортофт использовал обучающие истории из сборника Шаха как аналог привычек ума, которые препятствовали людям ухватить научный метод Иогана Вольфганга фон Гёте. Книга Бортофта «Полнота природы: Научный путь Гёте» включала в себя истории «Сказок Дервишей», «Подвигов несравненного моллы Насреддина» и "Благоухающего скорпиона[76].
В своем историческом и культурном обрамлении, суфийские обучающие истории такого рода, популяризированные Шахом, сперва передавались устно, затем записывались с целью передачи суфийских верований и практик последующим поколениям, были признаны подходящими для людей любого возраста, включая детей, так как содержали много смысловых слоев[37]. Шах уподоблял суфийскую историю персику: «Человек может быть эмоционально сбит с толку внешним видом, как если бы вам предоставили персик. Вы можете съесть персик и испытать дальнейшее удовольствие… Вы можете выкинуть косточку, или можете разбить ее и найти там внутри вкусное ядро. Это — скрытая глубина»[37]. Именно так Шах приглашал свою аудиторию принимать суфийские истории.[37] Терпя неудачу в обнаружении ядра и относясь к истории просто как к развлекающей или поверхностной, человек достигал не более чем обзора персика, пока другие усваивали историю и позволяли себе быть тронутыми ею.[37]
Тахир Шах, в своей книге 2008 года «Арабские ночи» упоминал рассказывание историй его отцом, прежде всего, чтобы показать, как Идрис Шах использовал обучающие истории: « Мой отец никогда не говорил нам, как истории работают. Он никогда не выявлял смыслов, самородков информации, фрагментов истины и фантазии. Ему это было не нужно — потому что подаваемая в правильных условиях, история активировалась, засевая сами себя»[77]. Далее он объяснял, как его отец использовал истории для передачи мудрости: «У моего отца всегда под рукой была история, для того, чтобы отвлечь наше внимание, или чтобы использовать как способ передачи идеи или мысли. Он когда-то говорил, что большие коллекции историй с Востока были подобны энциклопедиям, хранилищам мудрости и знаний, готовые к тому, чтобы быть изученными, быть оцененными и взлелеянными. Для него истории представляли из себя много больше, чем просто развлечение. Он представлял их как комплекс психологических документов, составлявших совокупность знаний, которые собирались и оттачивались со времен зарождения человечества и больше часто, чем нет, передавались из уст в уста».[77]
Далее в своей книге, он продолжил обсуждение историй, как обучающих инструментов, ссылаясь на объяснение, которое дал ему его отец в конце истории:
Эти истории — технический документ, они похожи на карты, или своего рода чертежи. То, что я делаю — это показываю людям, как использовать карты, потому что они забыли. Ты можешь думать, что это странный способ обучения — историями — но когда-то давно это был способ, при помощи которого люди приходили к мудрости. Каждый знал, как изъять мудрость из истории. Они могли видеть сквозь смысловые слои, так же ты видишь рыбу, замороженную в куске льда. Но мир, в котором мы живем потерял это умение, умение, которое они определенно имели. Они слушают историю и она нравится им, потому что история озадачивает и забавляет их, заставляя их ощущать тепло. Но они не могут видеть дальше первого слоя, в лед. Истории подобны восхитительной шахматной доске: мы все знаем как играть в шахматы и мы можем быть вовлечены в такую сложную игру, что наши способности иссякают. Но, представь себе, что игра была утеряна на столетия, и потом хорошая шахматная доска и ее части были найдены. Каждый бы крутился вокруг, чтобы увидеть их и оценить их. Они не смогут представить себе, что такой замечательный объект когда-то имел другое, отличное от развлекательного предназначение. Внутренняя ценность историй была утрачена тем же способом. Когда-то каждый знал, как играть с ними, как дешифровать их. Но сейчас правила были забыты. Это наше дело — показать людям, как играть в эту игру.
Тахир Шах, «Арабские ночи»[77]
Олав Хаммер, в книге «Суфизм в Европе и Северной Америке» (2004) приводит пример такой истории[6]. В ней идет речь о человеке, который искал свой ключ во дворе.[6] Проходящий мимо сосед спросил человека, то ли это место, где он потерял ключ, человек отвечал: « Нет, я потерял его дома, но здесь светлее, чем у меня дома».[6] Версии этой истории были известны в течение многих лет на Западе (см. Эффект уличного освещения). Это пример давно отмеченного феномена похожих историй, существующих во многих культурах, что было центральной идеей Шаха в собрании сказок в «Сказках мира».
Питер Вилсон, в «Новых тенденциях в мире ислама» (1998), ссылается на другую такую историю, представляющую дервиша, которого попросили описать качества его учителя, Алима.[78] Дервиш пояснил, что Алим писал прекрасные поэмы и вдохновил его своим самопожертвованием и теми услугами, которые он оказывал своим соплеменникам.[78] Его вопрошатель, с готовностью одобрил эти качества, но дервиш упрекнул его: « Это были те качества, которые отрекомендовали Алима вам»[78][79]. Затем он начал перечислять те качества, которые на самом деле делали Алима эффективным учителем: «Хазрат Алим Азими заставлял меня раздражаться, что стало причиной того, что я начал изучать своё раздражение, чтобы выявить его источник. Алим Азими вынуждал меня злиться, так что я мог трансформировать свой гнев»[79]. Он объяснил, что Алим Азими следовал пути порицания, намеренно провоцируя злобные атаки на себя, для того, чтобы высветить недостатки как его учеников, так и критиканов, позволяя им увидеть, чем они были на самом деле: «Он показывал нам странное, так что странное стало обычным, и мы смогли понять, что это на самом деле.»[78][79]
Взгляды на культуру и практическую жизнь
Заботой Шаха было выявить сущностные части, лежащие в основе всех культур и скрытые факторы, определяющие поведение личности[34]. Он снизил фокусировку Запада на внешних и поверхностных проявлениях, которые часто отражали просто моду и привычки и привлек внимание на происхождение культуры, бессознательных и смешанных мотиваций людей и групп, сформированных ими. Он отметил как на индивидуальном, так и на групповом уровнях, краткосрочность превращения катастроф в благословение — и наоборот — и все же знание этого мало повлияло на способ, каким люди реагируют на события по мере их появления.[34]
Шах не поддерживал отказ от мирских обязанностей, вместо этого он утверждал, что поиск сокровища претендентом в ученики должен исходить из его усилий в повседневной жизни. Он считал практический труд тем средством, посредством которого искатель мог осуществлять работу-над-собой, в соответствии с традиционным выбором суфиями обычных профессий, благодаря которым они зарабатывали себе средства к существованию и «работали» на себя.[37]
Статус Шаха-учителя остался неопределенным, отказавшись как от идентификации в качестве гуру, так и от желания основать культ или секту, он также отверг академическую шляпу[34]. Майкл Рубинштейн, в «Творцах современной культуры» пришел к выводу, что «его, пожалуй, лучше всего рассматривать как воплощение традиции, в которой созерцательные и интуитивные аспекты ума считаются наиболее продуктивными тогда, когда работают сообща».[34]
Наследие
Идрис Шах считал свои книги своим наследием, сами по себе они выполнили бы ту функцию, которую он выполнял, когда он более не смог бы быть там[80]. Продвижение и распространение публикаций своих учителей было важной частью «работы» для учеников Шаха, как для сбора средств, так и для трансформации общественной осведомленности.[44] ICR приостановило свою деятельность в 2013 году, после формирования нового благотворительного общества — «Фонд Идриса Шаха»,[81] тогда как SSS прекратил свою деятельность еще раньше.
ISHK (Institute for the Study of Human Knowledge), возглавляемый Орнштейном[82] ведет активную деятельность в Соединенных Штатах, после террористического нападения 9/11, например, ISHK отправил брошюру, рекламирующую книги, связанные с Афганистаном, автором которых был Шах и его круг членов Ассоциации Изучений Среднего Востока, таким образом связывая эти публикации с необходимостью улучшения межкультурного взаимопонимания.[44]
Когда Элизабет Холл брала интервью у Шаха для «Психологии сегодня» в 1975 году, она спросила его: « Во имя человеколюбия, что бы Вы хотели увидеть такого, что уже произошло?» Шах ответил: «Что на самом деле я хочу, если кто-нибудь меня слушает, так это чтобы продукты психологических исследований последних 50-ти лет изучались общественностью, всеми, чтобы открытия стали частью их способа мыслить(…) у них есть огромный пласт психологической информации и они отказываются использовать его».[58]
Брат Шаха, Омар Али-Шах (1922—2005), также был писателем и учителем суфизма, братья учили учеников какое-то время вместе в 1960-х, но в 1977 «согласились не соглашаться» и пошли каждый своим путем.[83] После смерти Идриса Шаха в 1996 году, большинство его учеников присоединились к движению Омара Али-Шаха.[84]
Одна из дочерей Шаха, Сайра Шах, стала заметной в 2001 году благодаря отчету о правах женщин в Афганистане в её документальном фильме «Под вуалью»[9]. Его сын, Тахир Шах, известный писатель, журналист и путешественник.
Принятие
Книги Шаха о суфизме достигли предельно значительного одобрения. Он был в центре сюжета документального фильма ВВС («Одна пара глаз»)[85] в 1969 году, и две его работы («Путь суфия» и «Размышления») были признаны «Выдающейся книгой года» в программе «Критики» на канале ВВС[86]. Среди других отличий — Шах занял шесть первых призовых мест в ходе Всемирного года ЮНЕСКО в 1973 году[85] и исламский ученый Джеймс Критцек, комментируя «Сказки дервишей» Шаха, сказал, что это было «великолепно переведено».[86]
В 1973 году был опубликован сборник положительных оценок работ Шаха под названием «Суфийские изучения: Восток и Запад», который включал, среди прочих, контрибуции Л. Ф. Рашбрука Уильямса, Рома Ландау, Моххамада Хидаятуллы, Гьюла Германа, сэра Джона Глабба, сэра Рейзика Фарида, Иштияка Хусейна Куреши, Ахмета Эмина Ялмана, Махмуда Юсефа Шаварби и Насроллы с. Фатеми.[87]
Колин Вилсон заявлял, что "частично благодаря Идрису Шаху, я начал видеть некоторые новые и интересные подтексты [касательно предмета мистицизма][88]. И в своем обзоре «Волшебного монастыря» (1972) отметил, что Шах "не имеет отношение в первую очередь к распространению какой-то тайной доктрины. Он имеет отношение к методу, которым мистическое знание передается…[Суфии] передают знание через прямую интуицию скорее в манере мастеров Дзен, и одним из главных средств сделать это — посредством кратких историй и притч, которые прокладывают себе путь в подсознание и активируют его скрытые силы.[89]
В Афганистане «Кабул таймс» заявила, что «Караван сновидений» (1968) был «крайне рекомендован» и «особо интересен для афганцев», потому что это "в основном антология кратких историй, притч и пословиц, шуток и выдержек из письменной и устной литературы, которые формируют часть многих вечерних разговоров и взаимных обменов — даже в эти современные дни — в Афганистане[90]. «Афганские новости сообщали, что „Суфии“ охватывают важность афганского вклада в мировую философию и науку» и она была первой полностью авторитетной книгой о суфизме и системе человеческого развития дервишей"[91]. Что касается сомнений относительно квалификации и верительных грамот Шаха, то Сардар Хаджи Муххамад Хан Зикерия, афганский ученый, который служил Министром образования Афганистана, а затем послом и Министром иностранных дел Афганистана, издал нотариально заверенную декларацию для ученых всего мира о семье Шаха в 1970 году: «Мусави Сайиды Афганистана и ханы Пагмана признаны потомками Пророка — мир ему. Они признаны самыми благородными по происхождению в исламе и уважаемы как суфийские учителя и как ученые-эрудиты. Сайид Идрис Шах, сын покойного Сайида Икбала Али-Шаха, лично известен мне как уважаемый человек, чье звание, титулы и происхождение проверены и известен своей репутацией.»[92]
В 1980 году профессор Халилулла Халили, бывший поэт-лауреат Афганистана, высоко оценил работу его «соотечественника и друга Арифа (суфийский иллюминат) Сайида Идриса Шаха», сказав: «особенно следует ценить его блестящие и важные заслуги в раскрытии божественных вдохновений и внутренних смыслов великих учителей ислама и суфиев».[93]
«Индостанский стандарт» Индии находил, что «Караван сновидений» был «прекрасной антологией, в которую может окунуться для развлечения, освежения, утешения и вдохновения… остроумный, захватывающий, совершенный и привлекательный человек».[94]
Институт кросс-культурного обмена (ICE), канадская благотворительная организация, основанная в 2004 году, решила использовать детские книги Идриса Шаха, распространить среди тысяч нуждающихся детей в Канаде, Мексике и Афганистане, в рамках их программы «детской грамотности» и продвижения кросс-культурного понимания. Эта серия книг опубликована «Hoopoe Books», некоммерческой инициативой американского психолога Роберта Орнштейна, Институтом Изучения Человеческих Знаний (ISHK)[95][96]. ISHK предоставляет эти книги для нуждающихся детей в рамках своей собственной инициативы по распространению грамотности.[97]
Писания «Школы Шаха»
Враждебным критиком был Джеймс Мур, гурджиевец, который не соглашался с утверждением Шаха, что учения Гурджиева были по существу в своей природе суфийскими и выступил с возражениями к публикации хронологически невозможной, вышедшей под псевдонимом книги на этот предмет («Суфии — учителя Гурджиева» Рафаэля Лефорта), которую относили к авторству Шаха[5]. В статье 1986 года в «Религии сегодня» (сейчас «Журнал современной религии») Мур описывал и анализировал полемику Беннетта и Грейвза и отмечал, что Шах был окружен «нимбом непомерной лести: лестью, которой он сам себя раздул».[5] Он описывал Шаха, как поддерживаемого «кружком услужливых журналистов, редакторов, критиков, аниматоров, радиовещателей и путешествующих писателей, которые хором храбро хвалят Шаха».[5] Мур подвергал сомнению подразумевающееся суфийское наследие и воспитание Шаха и порицал совокупность писаний «Школы Шаха», вышедших под псевдонимами — речь идет о таких авторах как «Омар Майкл Бёрк, доктор философии» и о «Хадрате Б. М. Дервише», который с 1960 года был переполнен несдержанными восхвалениями — якобы от незаинтересованных сторон — в отношении Шаха, ссылаясь на него, как на «Сагиба Идриса Шаха, Великого Шейха Тарика», «Принца Идриса Шаха», «Короля Инока», «Его Присутствие», «Царя Усердия», «Вополщщения Али» и даже Кутба или «Ось» — все в поддержку зарождающихся усилий в сбыте суфизма западной аудитории.[5]
Питер Вилсон таким же образом комментировал «очень низкое качество» большей части того, что было написано в поддержку Шаха, отметив «к сожалению грубый стиль», утверждая, что Шах обладал различными паранормальными способностями, «тоном превосходства, отношением, иногда чопорным, снисходительным, жалостливым, направленным на тех, кто „извне“, и очевидным отсутствием какой-либо мотивации для обоснования претензий, которые могут быть приняты во внимание как достойные, чтобы оправдать такое отношение»[98]. По его мнению, была «заметна разница между собственными писаниями Шаха и качеством этой второсортной литературы.[98] Как Мур так и Вилсон, однако оба отметили схожесть стилей, и рассматривали возможность того, что большинство работ, вышедших под псевдонимом, часто публикуемых издательством „Октагон Пресс“, собственным издательским домом Шаха, могли быть написаны самим Шахом.[98]
Аргументируя альтернативную интерпретацию этой литературы, религиозный ученый Эндрю Роулисон предположил, что скорее всего это не „прозрачно самообслуживающий (…) обман“, а могло быть „маскарадом — чем-то таким, что по определению должно быть видно насквозь“.[99] Заявляя, что „критика укоренившихся позиций сама по себе не может быть фиксированной и доктринальной“, и отмечая, что намерением Шаха всегда было подрывать ложные убеждения, он утверждал, что „миф о Шахе“, созданный этими писаниями, мог быть обучающим инструментом, а не инструментом сокрытия, что-то „заставляющее быть деконструированным“ — то, что, как предполагается, растворится, когда ты прикоснешься к этому».[99] Роулисон пришел к выводу, что Шаха «нельзя принимать за чистую монету. Его собственные аксиомы устраняют саму возможность этого»[99]
Оценка
Дорис Лессинг, одна из величайших защитников Шаха,[5] в интервью в 1981 году заявила: «Я нашла суфизм таким, какому обучал Идрис Шах, таким, который претендует на то, чтобы быть реинтродукцией древнего знания, подходящего для этого времени и места. Это не извращенный хлам с Востока или разбавленный ислам, или что-либо подобное».[37] В 1996 году, комментируя смерть Шаха в The Daily Telegraph, она заявляла, что встретила Шаха благодаря «Суфиям», которая была для неё самой удивительной книгой, которую она когда либо читала, и книгой, которая изменила ее жизнь[100]. Описывая сочинения Шаха, как «феномен, подобия которому нет в наше время», она характеризовала его, как разностороннего человека, остроумнейшего из всех людей, которых она когда-либо ожидала встретить, доброго, щедрого, скромного («Не смотрите на то, как я выгляжу, но возьмите то, что у меня в руке», цитирует она его высказывание), и как её доброго друга и учителя в течение 30 с лишним лет.[100]
Артур Дж. Дейкман, профессор психиатрии и давний исследователь в области медитации и изменении сознания, который начал изучать суфийские обучающие истории на заре семидесятых, выразил мысль, что западные психотерапевты могут извлечь выгоду из перспектив, предоставляемых суфизмом и его всеобъемлющей сущностью, при условии, что подходящие материалы были бы изучены правильным образом в правильной последовательности[65]. Учитывая, что работы Шаха и переводы суфийских обучающих историй были преднамеренно составлены именно таким образом, он рекомендовал их тем, кто заинтересован в оценке для себя этого вопроса, и отмечал, что многие авторитеты приняли позицию Шаха в качестве выразителя современного суфизма[65]. Психолог и исследователь сознания Чарльз Тарт прокомментировал, что писания Шаха « привели его к более глубокому пониманию того, что есть психология, чем что-либо еще когда-либо написанное».[101]
В 1973 году, Беннетт, когда его попросили дать оценку Шаху, сказал, что Шах делал очень важную работу в больших масштабах, «очень эффективно повсеместно активизируя людей, заставляя их думать, показывая им, что способы мышления, кажущиеся свободными, на самом деле в значительной степени обусловлены». Он ссылался на Шаха, как на Кришнамурти суфизма, разбивая фиксированные идеи людей по многим направлениям, в рамках процесса пробуждения, который является «очень важной подготовкой для нового мира.»[102]
Индийский философ и мистик Раджниш, позже известный как Ошо, комментируя работу Шаха, описал «Суфии» как «просто алмаз. Ценность того, что он сделал в „Суфиях“ — неизмерима». Он добавил, что Шах был «человеком, который представил Муллу Насреддина Западу, и он оказал невероятную услугу. Этот долг — неоплатен.[…] Идрис Шах сделал просто маленькие анекдоты о Насреддине еще более прекрасными… (он) не только способен точно перевести притчи, но даже украсить их, сделать их более пикантными, острыми.»[103]
Ричард Смоли и Джейн Кинни, в «Скрытой мудрости: путеводителе по западным внутренним традициям» (2006), объявили «Суфиев» Шаха «чрезвычайно читабельным и обширным введением в суфизм», добавляя, что «Шаха подход очевиден повсюду, и некоторые исторические утверждения спорны (ни одно из них не указано), но нет книги более удачливой, чем эта в провоцировании интереса к суфизму для обычного читателя».[104] Они описывали «Учиться как учиться», сборник интервью, бесед и коротких писаний, как одну из лучших работ Шаха, обеспечивающую прочную ориентацию на его «психологический» подход к суфийской работе, отмечая, что «Шах обеспечивает глубоким пониманием того, что выступает в роли прививки, предохраняющей учеников от большей части вздора на духовном рынке».[104]
Иван Тирелл и социальный психолог Джо Гриффин, в их книге о врожденных эмоциональных нуждах «То, что дано человечеству: новый подход к эмоциональному здоровью и ясному мышлению», писал, что Шах «более, чем кто-либо другой, понимал и ценил реальную важность того, что дано роду человеческому».[105] В другой книге, «Божество: большой взрыв мозга — взрывное происхождение креативности, мистицизма и психических заболеваний», они говорили, что истории Шаха, «рассказываемые как молодым, так и старым […] закладывают в уме чертежи, не только для жизни и преодоления ежедневных трудностей, но и для путешествия по духовному пути. Их импульсы могут не быть распознаны или прочувствованы в течение месяцев или лет с момента первого их прослушивания или прочтения, но со временем структурное содержание, которое они в себе содержат будут использовать шаблоно-сопоставляющую природу мозга, делая возможным для учеников наблюдение функционирования их собственных эмоционально обусловленных реакций на изменение жизненных обстоятельств. Это в дальнейшем облегчает им совершение любых действий, которых от них требует реальность, и соединяет их умы с высшими сферами. Обучающие истории должны быть прочитаны, рассказаны, над ними следует размышлять, но не следует их интеллектуально анализировать, потому как это разрушает то благотворное влияние, которое они могли бы в противном случае оказывать на ваш мозг.» Шах, дополняли они, был «великим собирателем и издателем историй и писаний, которые содержат „долгосрочно-импульсирующую“ особенность. Он понимал, что жизненная важность для человечества аспекта „ментальных чертежей“, а его книги полны питательных примеров.»[106]
Олав Хаммер отмечал, что в последние годы Шаха, когда щедрость его поклонников сделала его по-настоящему богатым, и он стал уважаемой фигурой среди высших эшелонов Британского общества, возникали споры ввиду несоответствий между автобиографическими данными — упоминанием родства с Пророком Мухаммадом, принадлежности к секретному суфийскому тайному ордену в Центральной Азии, или к традиции, в которой обучался Гурджиев — и открываемыми историческими фактами[6]. Хотя, возможно, существовала связь с Пророком Мухаммедом, число людей имеющих такую связь сегодня, спустя 1300 лет, будет по меньшей мере один миллион. Другие элементы автобиографии Шаха, по видимому были чистой фикцией. Даже если так, Хаммер отмечал, что книги Шаха продолжают оставаться общественно востребованными, и что он сыграл «выдающуюся роль в представлении сущности суфизма как неконфессиональной, индивидуалистической и жизнеутверждающей дистилляцией духовной мудрости»[6].
Питер Вилсон писал, что если Шах был мошенником, то он был «чрезвычайно одарённым мошенником», потому что, в отличие от просто коммерческих писателей, он выделял время для того, чтобы создать тщательно разработанную и внутренне согласованную систему, которая привлекла «полный диапазон более или менее именитых людей» и «провоцировал и стимулировал процесс мышления в разных кругах».[101] Мур признавал, что Шах сделал свой вклад в популяризацию гуманистического суфизма, и «привнес энергию и ресурс в его самоувеличение», но закончил осуждающим выводом, что Шах был « „суфизмом“ без самопожертвования, без самотрансцендентности, без стремления к гнозису, без традиции, без Пророка, без Корана, без Ислама и без Бога. Просто так».[5][62]
Гор Видал высказывал мнение, что Шаха «книги гораздо труднее читать, чем писать».[107]
«Суфии», полемика
Принятие Шаха было также отмечено полемикой[37]. Некоторые востоковеды были враждебны, частично потому, что Шах представлял классические суфийские писания как инструменты для саморазвития, которые должны использоваться современными людьми, а не как объекты исторического изучения.[15]
Введение Грейвза в «Суфии», написанное с помощью Шаха, описывало Шаха как «по мужской линии последнего по происхождению от Пророка Мухаммада» и как унаследовавшего «секретные тайны Халифов, его предков. Он, по факту, Великий Шейх Суфийского Тарика…»[108] Приватно, однако, в письмах другу, Грейвз признавался, что это было «введением в заблуждение: он один из нас, не мусульманский персонаж».[19] Введение не включалось в переиздания книги издательством «Октагон Пресс» после 1983 года, но всегда включалось в издания Anchor/Doubleday[109][110]
И самый неистовый критик Шаха, эдинбургский ученый Л. П. Элвелл-Саттон, в статье 1975 года, критиковал то, что он называл «псевдо-суфиями», как Гурджиев и Шах, и высказал мнение, что Грейвз пытался «модернизировать» Шаха «довольно неразличимую родословную» и что ссылка на родство с Мухаммадом по отцовской линии была «довольно неудачной оплошностью», так как сыновья Мохаммада все умерли в младенчестве. Хотя Элуэлл_Саттон согласился с тем, что семья была Сайидами, произошедшими от седьмого имама Муса Аль-Казима, великим прапрадедом которого был Хусейн Ибн Али, который был младшим сыном брака Фатимы (дочери Пророка) и Али Ибн Талиба, считал это «неразличимой родословной» без особой святости, потому что «Сайиды распространяются по всему исламскому миру, во всех обществах и по обе стороны каждого политического и религиозного разграничения»[20].[111] Он описывал книги Шаха как «тривиальные», переполненные ошибками в фактах, неряшливыми и неточными переводами и даже неправильно написанными Восточными именами и словами — «путаница банальностей, вещей не относящихся к делу и просто мумбо-юмбо», добавляя, что у Шаха было «выдающееся мнение о его собственной важности»[112]. Он бросил туманный взор на сборник статей Рашбрука Вильямса (сборник, написанный в честь Шаха) о Шахе, сказав, что он считает многие из притязаний, обозначенных в книге от имени Шаха и его отца, касательно их представления суфийской традиции, самообслуживающими публичность и огласку, отмеченную «обезоруживающим пренебрежением фактами».[113] Выражая удивление и изумление «льстивыми манерами» собеседников в радиоинтервью ВВС, Элвэл-Саттон пришел к выводу, что некоторые западные интеллектуалы были «так доведены до отчаяния в поиске ответов на вопросы, которые ставят их в тупик, что они вступают в конфронтацию с мудростью с „таинственного и непостижимого Востока“, они отказываются от своих критических способностей и покоряются грубейшей форме промывания мозгов».[86] Для Элвэлла-Саттона, суфизм Шаха находился в сфере «псевдосуфизма», «сосредоточенному не на Боге, но на человеке».[37][114]
Омар Хайям, полемика
В конце 1960-х, начале 1970-х годов, Шах подвергся нападению в связи с полемикой, окружавшей в 1967 году публикацию нового перевода Рубайятов Омара Хайяма, выполненного Робертом Грейвзом и старшим братом Шаха, Омаром Али-Шахом.[15][86] Перевод, который представлял рубайаты как суфийскую поэму, базировался на снабженной примечаниями «шпаргалке», предположительно полученной из рукописи, находящейся в распоряжении семьи Шаха на протяжении 800 лет.[115] Л. П. Элвелл-Саттон, востоковед Эдинбургского университета, и другие, кто просмотрели книгу, выразили их убежденность в том, что история с древней рукописью была ложной.[86][115]
Грейвз ожидал от отца Шаха, Сирдара Икбала Али Шаха, что тот предоставит оригинальный манускрипт, чтобы закрыть этот вопрос, но он погиб в Танжере в авиакатастрофе в ноябре 1969 года.[116] Спустя год Грейвз просил Шаха предоставить манускрипт. Шах ответил в письме, что манускрипт не находится в его распоряжении, но даже если бы находился, предоставление его ничего бы не доказало, потому что он не может быть точно датирован с помощью современных методов и его аутентичность все равно бы оспаривалась.[116] Пришло время, писал Шах, «чтобы мы поняли, что гиены, производящие столько шума намерены быть только в оппозиции, в деструктивности и они намерены проводить кампанию, когда, посмотрим правде в глаза, никто не слушает». Он добавил, что его отец был так взбешен теми, кто распространяет эту клевету, что он отказался быть вовлеченным ими, и он чувствовал, что ответ его отца был правильным. Грейвз, отмечая, что он стал теперь широко воспринимаем как жертва грубого обмана братьев Шах, и что это повлияло на доходы от продаж других его исторических книг, настаивал на том, что предоставление манускрипта стало «вопросом семейной чести».[116] Он снова давил на Шаха, напоминая ему о его предыдущих обещаниях предоставить манускрипт, если возникнет такая необходимость.[116]
Ни один из братьев так никогда и не предоставил манускрипт, наводя племянника Грейвза и его биографа на раздумья о том, во что трудно было поверить — помня, что братья Шах многим обязаны Грейвзу — что они могли бы утаивать манускрипт, если он когда-то существовал, прежде всего.[116] Согласно писаниям его вдовы много лет спустя, Грейвз был «полностью уверован» в аутентичности манускрипта, из-за его дружбы с Шахом, даже не смотря на то, что у него никогда не было шанса лично просмотреть текст.[117] Ученые сегодня пришли к консенсусу, что манускрипт «Джана Фишан Хана» был фальсификацией, и что перевод Грейвза/Али-Шаха по факту базировался на анализе Викторианского непрофессионального исследователя источников, используемом предыдущим переводчиком рубаятов Эдвардом Фитцджеральдом[5][86][118][119]
Работы
Магия
Магия Востока ISBN 0-86304-017-9 (1956)
Тайные магические знания ISBN 0-8065-0004-2 (1957)
Суфизм
Суфии ISBN 0-385-07966-4 (1964)
Сказки дервишей ISBN 0-900860-47-2 (1967)
Караван сновидений ISBN 0-86304-043-8 (1968)
Размышления ISBN 0-900860-07-3 (1968)
Путь суфия ISBN 0-900860-80-4 (1968)
Книга книг ISBN 0-900860-12-X (1969)
Мудрость идиотов ISBN 0-86304-046-2 (1969)
Проба с поверхности (издание на русском языке: Наблюдения за покровом) ISBN 0-86304-045-4 (1970)
Мыслители Востока ISBN 0-900860-46-4 (1971)
Волшебный монастырь ISBN 0-86304-058-6 (1972)
Слон в темноте: христианство, ислам и суфии ISBN 0-900860-36-7 (1974)
Сокрытая газель — видение, как видеть (издание на русском языке: Невидимая газель) ISBN 0-900860-58-8 (1977)
Забытые аспекты суфийского изучения ISBN 0-900860-56-1 (1977)
Особое озарение: использование суфиями юмора ISBN 0-900860-57-X (1977)
Благоухающий скорпион ISBN 0-900860-62-6 (1978)
Учиться, как учиться: психология и духовность на суфийском пути ISBN 0-900860-59-6 (1978)
Сто рассказов мудрости ISBN 0-86304-049-7 (1978)
Вечера с Идрисом Шахом ISBN 0-86304-008-X (1981)
Письма и лекции Идриса Шаха ISBN 08-6304-010-1 (1981)
Наблюдения ISBN 0-86304-013-6 (1982)
Искатель истины ISBN 0-900860-91-X (1982)
Суфии — мысль и действие ISBN 0-86304-051-9 (1990)
Командующее Я ISBN 0-86304-066-7 (1994)
Знать, как знать ISBN 0-86304-072-1 (1998)
Собрания историй о Ходже Насреддине
Подвиги несравненного Ходжи Насреддина ISBN 0-86304-022-5 (1966)
Выходки невероятного Ходжи Насреддина ISBN 0-86304-023-3 (1968)
Проделки неподражаемого Ходжи Насреддина ISBN 0-86304-021-7 (1973)
Мир Насреддина ISBN 0-86304-086-1 (2003)
Исследования об англичанах
Darkest England ISBN 0-86304-039-X (1987)
The Natives are Restless ISBN 0-86304-044-6 (1988)
The Englishman’s Handbook ISBN 0-86304-077-2 (2000)
Путешествия
en:Destination Mecca ISBN 0-900860-03-0 (1957)
Художественная литература
Кара Куш, Лондон: William Collins Sons and Co., Ltd.. ISBN 0-685-55787-1 (1986)
Сборники фольклора
Сказки мира ISBN 0-86304-036-5 (1979)
Детская литература
Neem the Half-Boy ISBN 1-883536-10-3 (1998)
The Farmer’s Wife ISBN 1-883536-07-3 (1998)
The Lion Who Saw Himself in the Water ISBN 1-883536-25-1 (1998)
The Boy Without A Name ISBN 1-883536-20-0 (2000)
The Clever Boy and the Terrible Dangerous Animal ISBN 1-883536-51-0 (2000)
The Magic Horse ISBN 1-883536-26-X (2001)
The Man With Bad Manners ISBN 1-883536-30-8 (2003)
The Old Woman and The Eagle ISBN 1-883536-27-8 (2005)
The Silly Chicken ISBN 1-883536-50-2 (2005)
Fatima the Spinner and the Tent ISBN 1-883536-42-1 (2006)
The Man and the Fox ISBN 1-883536-43-X (2006)
Написанное под криптонимом «Аркон Дарол»
История тайных обществ ISBN 0-8065-0857-4 (1961)
Ведьмы и колдуны ISBN 0-8065-0267-3 (1962)
Аудиоинтервью, семинары и лекции
Shah, Idries, and Pat Williams. A Framework for New Knowledge. Лондон: Seminar Cassettes, 1973. Звукозапись.
Shah, Idries. Questions and Answers. Лондон: Seminar Cassettes, 1973. Звукозапись.
King, Alexander, Idries Shah, and Aurelio Peccei. The World-and Men. Seminar Cassettes, 1972. Звукозапись.
King, Alexander, et al. Technology: The Two-Edged Sword. Лондон: Seminar Cassettes, 1972. Звукозапись.
Learning From Stories (лекция 1976 г.) ISBN 1-883536-03-0 (1997)
On the Nature of Sufi Knowledge (лекция 1976 г.) ISBN 1-883536-04-9 (1997)
An Advanced Psychology of the East (лекция 1977 г.) ISBN 1-883536-02-2 (1997)
Overcoming Assumptions that Inhibit Spiritual Development; ранее озаглавленная A Psychology of the East (лекция 1976 г.) ISBN 1883536-23-5 (2000)
См. также
Фонд Идриса Шаха
Примечания
Литература
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Boorstein, Seymour (ed.) (1996). Transpersonal Psychotherapy. Albany, NY: State University of New York Press. ISBN 0-7914-2835-4.
Galin, Müge (1997). Between East and West: Sufism in the Novels of Doris Lessing. Albany, NY: State University of New York Press. ISBN 0-7914-3383-8.
Ghali, Halima (1979). Shah, International Press Review Collection 9. London, UK: BM Sufi Studies.
Graves, Richard Perceval (1995). Robert Graves and The White Goddess: 1940—1985. London, UK: Weidenfeld & Nicolson. ISBN 0-297-81534-2.
Lewin, Leonard; Shah, Idries (1972). The Diffusion of Sufi Ideas in the West. Boulder, CO: Keysign Press.
Malik, Jamal; Hinnells, John R. (eds.) (2006). Sufism in the West. London, UK/New York, NY: Routledge Taylor & Francis Group. ISBN 0-415-27407-9.
Moore, James (1986). «Neo-Sufism: The Case of Idries Shah». Religion Today 3 (3).
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Rawlinson, Andrew (1997). The Book of Enlightened Masters: Western Teachers in Eastern Traditions. Chicago and La Salle, IL: Open Court. ISBN 0-8126-9310-8.
Smith, Jane I. (1999). Islam in America (Columbia Contemporary American Religion Series). New York, NY/Chichester, UK: Columbia University Press. ISBN 0-231-10966-0.
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Wintle, Justin (ed.) (2001). Makers of Modern Culture, Vol. 1. London, UK/New York, NY: Routledge. ISBN 0-415-26583-5.
Ссылки
(телевизионный документальный фильм на YouTube)
Категория:Писатели Англии
Категория:Писатели Афганистана
Категория:Накшбанди
Категория:Эзотерики
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国教(こっきょう)とは、国家が保護し活動を支援する宗教のこと。国家宗教</b>ともいう。
概説
国家はその教義を統治の根本原則とし、国家行事として儀礼を執行する。後期ローマ帝国におけるキリスト教、イスラム国家におけるイスラム教などが代表的な例である。
国教に指定される理由としては、国家元首による信仰や国内における信徒の多さなどが挙げられる。現在の国教には一神教が多い。
近代国家では、憲法において政治と宗教また教会と国家を分離(政教分離)し、信教の自由を保障している国がある。アメリカ合衆国[1]、オーストラリア[2]、日本[3]など。なお、イギリスと一部の北欧諸国は信教の自由を認めながらも、それぞれ英国国教会とルーテル教会を国教に定めている(これらの教団に対してのみ政府は保護・支援を行なう)。イタリアは1985年までカトリックが国教であったが、コンコルダート(政教条約)方式となった。
各国における国家と宗教の関係については、コンコルダート(政教条約)方式(イタリア,ドイツ)、優勢な宗教を尊重する寛容令方式(スイス、ベルギー、フランス、ブラジル)、政教分離方式(アメリカ、日本)があるが現実には重複する[4]。
同盟型・融合型・分離型という類型については政教分離を参照。
各国の国教
以下の各国の国教一覧には、特定の宗教の優位の公的承認を含む[4]。
キリスト教
ローマ・カトリック - バチカン、アルゼンチン、コスタリカ[5]、マルタ[6]、スペイン[4]、モナコ[7]、フィリピン(国教ではないが民族宗教とされる)
正教会 - ギリシャ(ギリシャ正教会)、フィンランド(フィンランド正教会)、キプロス(キプロス正教会)[8][9]
イングランド国教会 - イングランド[4]
聖公会 - アメリカ合衆国 (アメリカ合衆国憲法上は政教分離が定められているが、ロバート・ニーリー・ベラーは多数派による「市民宗教」が、森孝一はキリスト教と啓蒙思想が結合した「見えざる国教」が優勢であるとする[10]。)
ルター派 - アイスランド、デンマーク[11]、フィンランド(スウェーデンは2000年まで[12]、ノルウェーは2012年まで)
長老派 - スコットランド
イスラム教
イスラム国家で宗派指定なし - ジブチ、イラク、チュニジア(以上アラブ連盟加盟国)、バングラデシュ、パキスタン
スンニ派 - アルジェリア、コモロ、エジプト、ヨルダン、リビア、モーリタニア、モロッコ、カタール、ソマリア、アラブ首長国連邦(以上アラブ連盟加盟国)、アフガニスタン、ブルネイ、モルディブ、マレーシア
ワッハーブ派 - サウジアラビア(アラブ連盟加盟国)
シーア派 - イラン
イバード派 - オマーン(アラブ連盟加盟国)
スンニ派およびシーア派 - クウェート、イエメン、バーレーン(以上アラブ連盟加盟国)
仏教
スリランカ - 1978年の憲法で指定。シンハラ語の公用語化と共にスリランカ内戦の原因の一つとなった。
大乗仏教 - ブータン
上座部仏教 - カンボジア
タイ王国 - 国教ではないが、民族宗教とされている。
ユダヤ教
イスラエル - 国教制度を採っていないがユダヤ教が民族宗教とされている。
ヒンドゥー教
インド - 国教制度を採っていないがヒンドゥー教が民族宗教とされている。
その他
平凡社の世界大百科事典や小学館の日本大百科全書は、『国家神道』の項目の中で第二次世界大戦前の日本における近代天皇制下の神道を『一種の国教制度』『事実上の国家宗教』として紹介している[13][14]。
脚注
関連項目
国教会
教会税
キリスト教国
バチカン - 国家が国教を樹立するのではなく、カトリック教会という宗教団体が国家としての資格を得た事例。
政教一致 - 祭政一致
政教分離
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도널드 존 트럼프(, , 1946년 6월 14일 ~ )는 미국의 기업인 출신 제45대 대통령이다.
부동산 개발 등 다양한 사업을 하는 트럼프 기업의 대표이사 회장을 맡았으며, 트럼프 엔터테인먼트 리조트를 설립해 전 세계에 호텔과 고급 콘도미니엄 사업을 진행했다. 대한민국 내에서는 대우 트럼프 월드마크가 트럼프 기업의 투자를 받아 진행한 것으로 유명하다. 리얼리티 TV쇼 어프렌티스를 진행한 경력이 있으며, WWE 명예의 전당에도 입성하였다, 현재 추정 재산으로 약 37억 달러(5조 원) 정도의 개인 재산을 가지고 있다.
2015년 7월 2016년 미국 대통령 선거 공화당 후보 경선에 출마한 후, 2016년 7월 공화당 전당대회에서 역대 가장 많은 득표로 공화당 대선 주자가 되었다. 이후 2016년 11월 8일 실시된 대통령 선거에서 민주당의 힐러리 클린턴 후보를 꺾고 대통령에 당선되었다. 그는 선거에서 62,979,879표를 얻었는데, 이는 공화당 대통령 후보 역사상 가장 많은 득표로 당선된 것이다.
이민 문제, 인종 문제, 종교 문제 등에서 극우파에 가까운 입장을 취하고 있지만, 최근 9년 동안 민주당에서 활동하며 자금을 기부하기도 했고, 성소수자(LGBT) 권리를 지지하였으며, 공화당의 주류 이념에 반대되는 주장도 해왔다. 즉, 그의 성향은 극우적인 면모가 있지만, 진보나 보수라기 보다는 포퓰리즘에 가깝다는게 중론이다. 그간 민주당원이었던 트럼프가 공화당을 접수하고 이념도 정통 보수와는 괴리가 있자, 기존 공화당 정치인들은 이에 반발했다. 이렇게 그는 민주당, 공화당, 언론 모두에게 지지를 받지 못한 아웃사이더로 불렸다. 2016년 '타임'은 그를 "양당(민주당, 공화당)을 모두 공격하며 규칙을 부쉈고, 미래의 정치 문화를 제시했다"고 평가하며 '올해의 인물'에 선정하였다.[1]
생애 초기
도널드 트럼프는 1946년 6월 14일 뉴욕주 뉴욕 시 퀸스에서 태어났다.[2] 트럼프 집안은 독일 서남부 칼슈타트 출신인 할아버지 프레더릭 트럼프(프리드리히 트룸프)가 16세 때인 1885년 미국에 이민 오면서 트럼프 일가를 이뤘다.[3] 아버지는 프레드 트럼프이고 어머니는 메리 앤 매클라우드 트럼프였는데, 이들 부부는 1936년에 결혼했다. 도널드는 프레드와 메리의 3남 2녀 중 차남이었고, 그의 형이었던 프레드 주니어는 1981년 43세의 나이에 알코올 중독으로 사망했다.[4]
트럼프는 13살 때 학교에서 교사를 폭행하는 문제 행동을 일으켜, 그의 부모는 트럼프를 규율이 엄격한 뉴욕군사학교(New York Military Academy)로 보냈다.[5][6] 그는 이 학교가 싫어 부모에게 용서를 구했으나, 후에는 잘 적응하여 수석으로 졸업하였다.
트럼프는 뉴욕군사학교를 졸업한 뒤, 뉴욕의 포덤 대학교를 2년 재학 후, 펜실베이니아 대학교 와튼 스쿨로 편입, 경제학 학사 학위를 받았다.[7]
베트남 전쟁 당시에는 1964년부터 5차례 학업과 질병으로 징병을 유예받았고 최종적으로 징집되지 않았다.[8]
사업 경력
도널드 트럼프는 본업인 부동산 사업을 포함해, 브랜딩 및 라이센스, 스포츠 사업이나 미인 대회 사업 등 다양한 비즈니스 분야에서 성공적으로 사업 활동을 해왔다. 또한 자산 사업을 통해서 의료, 종교 및 스포츠 단체에 많은 금액을 기부 하였다. 이런 상황에서 미국의 보수적인 정치인들에게 정치적으로 공격을 받는 일도 있었다.
부동산 사업
트럼프는 부동산 사업을 하던 아버지 프레드 트럼프를 따라 부동산 사업을 시작하였다. 1971년에 경영권을 획득하면서, 트럼프는 사명을 트럼프 기업(The Trump Organization)으로 변경한 후 자신의 이름을 딴 호텔과 골프장을 설립·인수하기 시작하였다.[2][7]
1978년, 트럼프는 아버지로부터 대출한 100만달러로 맨해튼 중심가에 호화로운 고층 빌딩들을 짓기 시작했다. 트럼프는 맨해튼에 버려져 있던 코모도르 호텔(Commodore Hotel)을 사들여 이를 그랜드 하얏트 호텔로 재건축했다.[9] 1983년 뉴욕 맨해튼에 58층짜리 ‘트럼프 타워’를 지어 이름을 알렸다.[10][11] 트럼프는 1997년 9월 대우건설과 손잡고 한국에서도 아파트 '트럼프월드'를 지어 분양했다.[12]
그는 미국 내 주요 부동산 개발업자로 인정받기 시작했으며, 2004년부터 NBC 유니버설을 NBC와 공동 소유하여 자신이 진행하는 TV쇼 어프렌티스를 진행했고, 전국적으로 인지도를 높이게 되었다.[13] 이듬해에는 슬로베니아 출신의 멜라니아 크나우스와 결혼하면서 세간의 화제를 모았다.[7]
브랜딩 및 라이센스
시카고의 트럼프 인터내셔널 호텔 앤 타워를 비롯하여 트럼프 주식회사 (Trump Organization)은 다른 사람들과 회사가 소유하고 운영하는 다수의 건물 프로젝트에 트럼프 이름을 라이센스함으로써 브랜딩 및 관리 업무를 확장 했다. 2000년대 후반과 2010년 초반에 트럼프 주식회사 (Trump Organization) 은 전세계의 다양한 개발자 호텔 타워의 브랜딩 및 관리로 뉴욕을 넘어 풋(foot) 프린트를 확장했다. 시카고, 라스베가스, 워싱턴 D.C., 파나마 시티, 토론토 및 밴쿠버의 프로젝트가 포함되었다. 두바이, 호놀룰루, 이스탄불, 마닐라, 뭄바이 및 인도네시아에서도 트럼프 브랜드 건물이 있다.
트럼프 이름은 식료품, 의류, 성인 학습 과정 및 가정용 가구를 포함한 다양한 소비재 제품 및 서비스에 대한 라이센스도 취득했다. 이 벤처 기업은 프로젝트에서 트럼프, 파트너 및 투자자가 서로 엇갈린 성공을 거두었다. 2011년 포브스의 금융 전문가들은 '트럼프' 브랜드의 가치를 2 억 달러로 추정했다. 트럼프는 그의 상표가 약 30 억 달러의 가치가 있다고 말하면서이 평가에 이의를 제기했다. 특히 워싱턴 포스트 (Washington Post)의 분석에 따르면, 트럼프의 이름과 관련된 50 개가 넘는 라이센스 또는 관리 거래가 있으며, 회사의 연간 매출액이 최소 5,900 만 달러가되었다 [14] [15]
스포츠
1983년 9월, 트럼프는 미국 풋볼 리그 (USFL)에서 뛰었던 미식 축구 팀 인 뉴저지 장군 (New Jersey Generals)을 인수했다. 1985년 시즌이 끝나고 트 럼프는 경기를 관중석에서 NFL과 경쟁 한 가을 일정으로 옮기고 조직에 대한 독점 금지법 소송을 제기하여 NFL과 합병을 시도했다.
트럼프는 또한 여러 국가에서 골프 코스를 운영했다. 그는 마이클 스핑크스에 대한 마이크 타이슨의 1988년 헤비급 챔피언 싸움을 포함하여 애틀랜틱 시티의 트럼프 플라자에서 여러 복싱 경기를 개최했다. 그는 또한 마이크 타이슨 (Mike Tyson)의 재정 고문으로도 활동했다. 1989년과 1990년에 트럼프는 유럽의 사이클링 대회 (Tour de Trump) 사이클링 무대 레이스에 트럼프라는 이름을 올렸다. 이 대회는 유럽의 주요 사이클 튜어인 투르 드 프랑스 (Tour de France) 나 지로 디 이탈리아 (Giro d' Italia)와 같은 유럽계 미국인과 동등한 미국인의 지위를 향상하기 위한 시도였다.[16][17] [18]
트럼프 대학교
트럼프 대학교(Trump University)는 Trump와 그의 동료 인 마이클 섹턴 (Michael Sexton)과 Jonathan Spitalny가 설립 한 영리 목적의 교육 기관으로 설립되었다. 회사는 부동산 교육 프로그램을 운영하고 코스 당 $ 1,500 ~ $ 35,000의 비용을 부과했다. 2005년 뉴욕 주 당국은 "대학"이라는 단어의 사용이 오도 된 것이며 주법을 위반했다는 사실을 운영 기관에 통보했다. 2010년에 두 번째로 통고를받은 후 회사의 이름이 "Trump Entrepreneurial Institute"로 변경되었다. 트럼프는 사업 운영을위한 영업 허가를받지 못해 개인적으로 책임이 있다고 판명되었습니다. 트럼프 대학 (Trump University)의 세일즈 매니저 인 Ronald Schneckenberg는 증언을 통해 감당할 수없는 한 부부에게 35,000 달러의 부동산을 판매하는 것을 열심히 시도하지 않은 것에 대해 견책을 받았다고 증언했다..
2013년에 뉴욕주는 트럼프 대학에 4 천만 달러의 민사 소송을 제기했습니다. 또한, 트럼프 대학 (Trump University)에 관한 두 개의 집단 소송 민사 소송이 연방 법원에 제기되었습니다. 트럼프를 개인적으로나 그의 회사에 지명했다. 대통령 선거 운동 동안, 트럼프는 그의 멕시코 유산 때문에 그의 판결에 편견을 주장하면서, 대통령 판사 곤잘로 피엘을 비판했다. 트럼프가 대통령 당선 직후, 양 당사자는 3 건의 사건을 해결하기로 합의했다. 트럼프는 총 2 천 5 백만 달러를 지불하고 어떤 부정 행위도 부인했다.[19] [20] [21] [22][23]
미인 대회
도널드 트럼프는 1996년 미스 유니버스 조직회를 인수해, 해마다 미스 유니버스, 미스 USA, 미스 틴 USA를 2015년까지 열었다. 미스 유니버스는 세계에서 가장 유명한 미인 대회로 1952년 캘리포니아 주에 위치한 퍼시픽 밀스라는 회사가 처음으로 열었다. 그는 방송 주요 스케쥴배정에서 미인대회를 제외한것에 대한 불만으로 기존에 미국의 방송사인 CBS에서 열리던 미스 유니버스, 미스 USA, 미스 틴 USA를 2002년에 NBC로 옮겼다.[24] 그러나 트럼프가 2015년 6월 멕시코 이민자들에 대해 불만이 있는 말을 하여 파문을 일으켰으며, 공동 주최한 NBC 방송과 유니버설은 트럼프와 함께 사업하지 않겠다 선언했다.[7] 트럼프는 방송사 유니비전이 미인 대회 중계를 약속하였지만 실제 방송을 거부한것에 대해서 계약을 위반했다며 5억 달러의 손해배상 청구소송을 제기했다.[25] 9월, 그는 미스유니버스 운영권을 WME-IMG에 매각했다.[26]
트럼프 재단
도널드 J. 트럼프 재단 (Donald J. Trump Foundation)은 1988년 트럼프: 거래의 미학 (Trump: The Art of the Deal)라는 책에서 얻은 수익금을 기부하기 위해 1988년에 설립 된 미국 기반 사설 재단 이다. 재단 기금은 대부분 2008년 이후 자선 단체에 개인적으로 도날드 트럼프 (Trump)의 기부금 이외에도 외부의 기부자로부터 기금을 조달했다.
트럼프 재단의 세무 보고서는 보수 단체뿐만 아니라 의료 및 스포츠 관련 다양한 자선 단체에 기부 한 것으로 나타났다. 예를 들어, 2009년에는 재단이 아놀드 파머 메디컬 센터 재단 ($ 100,000), 뉴욕 장로교 병원 ($ 125,000), 경찰 운동 리그 ($ 156,000), 그리고 뉴욕 주립 병원에 기부금을 기탁하여 약 406 그룹에 926,750 달러를 기부했습니다. 클린턴 재단 ($ 100,000). 2004년부터 2014년까지 재단의 최고 기부자는 WWE 의 빈스 (Vince)와 린다 맥마흔 (Linda McMahon)이었으며, 그는 2007년 WrestleMania에서 트럼프가 등장한 후 재단에 5 백만 달러를 기부했습니다. 트럼프는 나중에 Linda McMahon이라는 이름으로 작은 비니니스의 관리자 (Small Business Administration) 로 지명되었습니다.
2016년 The Washington Post는 자선 단체가 자진 신고 및 탈세 가능성을 포함하여 잠재적 인 합법적 및 윤리적 위반을 저질렀다고 보도했습니다. 또한 뉴욕 주 검찰 총장실은 2016년에 재단이 자선 단체에 관한 뉴욕 법률을 위반하고 뉴욕에서 기금 모금 활동을 즉시 중단하라는 명령을 트럼프 재단에 통보했습니다. [ 트럼프 대변인은 검찰 총장의 수사에 "정치공격: 당파 적 영향"을 요구했다. 트럼프 팀은 2016년 12월 말 트럼프 재단 (Trump Foundation)이 미국의 기존 "대통령과의 정치적 분쟁에 연관된 모습을 없애기 위해" 해산 될 것이라고 발표했다. IRS에 따르면 2017년 11월에 제출 된 자료에 따르면, 트럼프 재단은 자산을 종료하고 다른 자선 단체</b>에 트럼프 재단의 자산인 9 백 7 십만 달러를 배포하려고했습니다. 그러나, 정치적 공격을 하려고는 뉴욕 법무 장관 사무실은 트럼프 재단이 합법적으로 폐쇄되기 전에 진행중인 조사를 완료 하려고 했었다. 즉 2018년 6월에 280 만 달러의 배상금과 추가 벌금에 대한 민사 소송을 트럼프 재단에 제기했다. 대상자는 트럼프 자신과 가족인 도널드 주니어 (Donald Jr.), 에릭 (Eric), 이반카 (Ivanka) 등이 관련이 되어 있었습니다.
[27] [27] [28] [29]
방송 연예 활동
어프렌티스 진행자
도널드 트럼프는 2004년부터 2015년까지 미국 NBC의 리얼리티 방송 어프렌티스(Apprentice)를 진행하였다.[13] 어프렌티스는 말 그대로 견습생이란 뜻으로, 견습생 참가자들이 트럼프의 회사 중 하나를 연봉 25만 달러에 1년 계약으로 경영하는 조건을 두고 경쟁을 벌이는 프로그램이다. 매회 트럼프가 1명씩 해고를 하며, 최후에 살아남은 1인이 계약을 따내는 승자가 된다. 이 방송에서 트럼프의 "넌 해고야(You're fired)"라는 말이 유행어가 되기도 하였다.[10]
트럼프 모델 매니지먼트
섬네일|오른쪽|헐리우드 명예의 거리에 있는 도널드 트럼프의 스타
도널드 트럼프는 1999년 뉴욕 맨해튼 소호에 트럼프 모델 매니지먼트(Trump Model Management)라는 패션 모델 회사를 설립하였다.[30] 트럼프 모델 매니지먼트는 다른 트럼프 계열사인 트럼프 매니지먼트 그룹(Trump Management Group LLC)과 함께 2000년부터 250여명의 외국 패션 모델들을 데려와 미국의 패션 산업에 진출시켰다.[31]
WWE에서의 활동
도널드 트럼프는 빈스 맥맨과 손을 잡아 1988년 레슬매니아 IV와 1989년 레슬매니아 V를 공식 후원하여 트럼프 플라자에서 개최하였다. 1991년 레슬매니아 VII에도 나왔으며, 2004년 레슬매니아 XX에서는 제시 벤츄라에 의해 인터뷰를 한 적이 있었다.
2007년에서는 회장 빈스 맥맨이 그를 언급하면서 WWE와 관계가 깊어졌는데, 그 발단으로 레슬매니아 23에서 빈스 맥맨과 도널드 트럼프의 대결이 성립되었다. 당시 이 경기에서는 지는 쪽이 삭발을 당해야 하는 '헤어vs.헤어'매치 방식으로 치르는데 동시에 빈스 맥맨의 고용선수인 당시 인터콘티넨탈 챔피언 우마가와 도널드 트럼프의 고용 선수인 당시 ECW 월드 챔피언 바비 레쉴리가 경기를 펼치게 되는 대결이었다. 그리고 특별 심판으로써 스티브 오스틴을 영입하였다. 레슬매니아 23에서 빈스 맥맨쪽이 우세했지만 도널드 트럼프쪽이 이겼다. 결국 빈스 맥맨은 도널드 트럼프, 바비 레쉴리, 스티브 오스틴에 의해 삭발 당하게 되었다. 그 보답으로 도널드 트럼프는 스티브 오스틴의 스터너로 얻어맞았다.[32]
2009년 6월 15일에서 WWE RAW를 구입하고 RAW의 오너가 되었으나 다음주 6월 22일에 다시 RAW를 반으로 팔아주고 빈스 맥맨에게 해고되었다. 2013년 2월 그는 WWE 명예의 전당에 헌액받았다.[33]
정치
정치적 성향
트럼프는 지지정당을 여러 번 바꾸었다.[11] 2011년 미국의 정치자금 감시단체인 CRP(Center for Responsive Politics)의 보고서에 따르면 도널드 트럼프는 약 20년간 공화당 후보 뿐만 아니라 민주당 후보에게도 선거자금을 기부한 것으로 나타났다.[34] 2012년 2월에는 공화당 대통령 후보이던 밋 롬니를 공개적으로 지지했다. 트럼프는 미국의 전 대통령인 로널드 레이건의 지지자이기도 했다. 그리고 오바마와 2012년 경선 때 핫 이슈로 떠오르기도 했다.
2016년 미국 대통령 선거
트럼프는 2015년 6월 17일, 공식적으로 2016년 미국 대통령 선거 출마를 선언하였다.[35][36] 그는 대선 출마 후 "미국을 다시 위대하게"(Make America Great Again)라는 대선캠프 표어를 내걸었다. 이는 로널드 레이건 당시 내놓은 슬로건에서 Let`s를 제외하면 똑같은 구호로, 공화당 지지자들의 옛 향수를 불러 일으킨다는 평가를 받았다.
2016년 3월 30일, MSNBC 주최로 열린 타운홀 미팅 인터뷰에서 그는 낙태 여성이 처벌을 받아야 하느냐는 질문에 처음에는 머뭇거리다가 "낙태에 대해 어떤 형식으로든 처벌이 있어야 한다"고 답했다. 이 발언이 전해지자 민주당 대선 주자인 힐러리 클린턴은 트위터를 통해 트럼프의 생각에 유감을 표하면서 비판했다.[37] 과거에는 낙태에 관해 법적으로 처벌해서는 안된다고 했으나, 보수층의 표를 위해 주장을 번복하고 있다는 비판이 있었다.
공화당 주류에서는 그의 후보 지명에 난색을 표했지만, 일부에서는 트럼프 대세론을 인정하고 지지 의사를 표명하였다. 세라 페일린 전 알래스카 주지사, 잰 브루어 전 애리조나 주지사 등이 지지의사를 밝혔다.[38] 도널드 트럼프는 2016년 미국 대통령 선거 공화당 후보 경선에서 1,400만에 가까운 표를 얻음으로써 공화당 역사적으로도 최대 득표를 기록하여, 압도적인 지지를 받고 2016년 공화당 대통령 후보로 선출되었다.[39]
이후 2016년 미국 대통령 선거에서 총 득표수는 밀렸으나 306: 232라는 선거인단 격차를 내며 제45대 대통령에 당선되었다. 로널드 레이건보다도 1년 늦은 만 70세 239일에 취임하여, 미국 역대 대통령 중 최고령 대통령이기도 하다.
대통령 재임시
2017년 1월 20일 도널드 트럼프는 미국의 제45대 대통령에 취임하였다. 트럼프는 대통령 취임사에서 앞으로 모든 대내외 정책에서 미국의 이익을 최우선하는 미국 우선주의를 천명하여, 보호무역주의와 해외 주둔 미군에 대한 동맹국과의 방위비 재협상을 예고하였다.[40]
정치적 입장
경제와 무역
트럼프의 캠페인 세금 계획은 법인 세금률을 15%의 같은 높이로 하는 데 요구하여 다양한 비지니스의 허점과 삭감을 배제하고, 개인적 소득세를 위한 층들의 수를 줄였다 - 최고 세금률이 39.6 %에서 25%로 줄여지고 큰 영점의 층이 창조되어 선택적 최저 세금과 부동산 세금이 둘다 배제될 것이다. 최저 임금에 관한 그의 논평들은 일치하지 않을 것이다
트럼프는 "자유 무역인"으로서 증명하나 무역은 합리적으로 공명하여야 한다고 말한다. 북미자유무역협정과 환태평양 경제 동반자 협정에 자신의 비판들과 의미있게 미국으로 중화인민공화국과 멕시코의 수출품들에 관세를 높이는 데 자신의 제안의 이유로 가끔 "보호주의자"로 불리었다. 그는 또한 세계 무역 기구의 비판적으로 지내와 자신이 제안한 관세들이 받아지지 아닌 한 떠나도록 위협을 받았다.
에너지와 기후
트럼프의 에너지 정책은 중동의 석유에 의지를 억제하기 위하여 화석과 재생 가능 자원 둘다를 위하여 국내적 산업 후원을 주창하였다. 그의 임명한 조언자들은 적게 규제한 에너지 시장에 호의를 가지고 기후가 위협을 변화시킨다고 그들이 숙고한 이유로 즉시의 활동이 필요하지 않았다.
트럼프는 기후의 변화에 과학적 일치를 받아들이지 않았다. 2012년 그는 세계적 경고는 중국인들에 의하여 발명된 속임 장난이라고 말하였으나 후에 자신이 농담을 한 것이라고 말하였다. 그는 미국 환경보호국을 망신이라고 불렀고 그 예산을 깎으라고 위협하였다. 트럼프는 전력 정화 계획을 배제하는 데 서약하고 170개 이상의 나라들에서 탄소 방출에서 축소를 요구한 파리 기후 동의서에서 빠져나갔다. 대통령 선거에서 이긴 후, 그는 인간의 활동과 기후의 변화성 사이에 어떤 연결성을 인정하고 파리 동의서에 자신이 편견이 없다고 말하였다.
외교 정책
트럼프는 비간섭주의자와 국가주의자로 묘사되어 왔다. 그는 자신이 후원한 "미국이 먼저"의 외교 정책을 되풀이적으로 진술하였다. 그는 늘어나는 미국의 군사 지출을 성원하였으나 나토와 태평양 지역에 미국의 지출을 줄이는 데 호의를 가졌다. 그는 미국이 안으로 보고 국가 건설을 멈추고 국내에서 필요함에 그 수단들을 재교육해야한다고 말하였다. 그는 자신이 대통령으로서 나토의 회원국들에게 자동적으로 안정 보증들을 넓히고 동맹국에게 변화가 생기지 않는 한 자신이 나토를 떠날 것 같다고 제안하였다. 트럼프는 일본에게 거기 주둔한 미군들의 비용을 위해 내야한다고 요구하였고, 자신들을 조선민주주의인민공화국으로부터 보호하는 데 순서에서 핵무기를 개발해야 한다고 하였다.
이슬람 국가 단체에 맞서는 명령에 트럼프는 2015년 이슬람 국가 단체 점령 지역들에서 석유를 점유하고 미국의 공군력과 지상 부대를 이용하는 데 요구하였다. 2016년 트럼프는 자신이 반응한 지방에 2만명에서 3만명의 미군들을 보내는 데 주창하였다. 또한 그해에 자신이 이슬람 국가 단체가 이용하는 인간 보호물을 어떻게 다루냐고 의문이 생겼을 때 트럼프는 "당신들은 그들의 가족들을 밖으로 데려가야 합니다"라고 대답하였다. 이스라엘-팔레스타인 투쟁을 여기며 그는 가능한 협상이 있는 동안에 중립을 지키는 중요성을 진술하였다. 그는 요르단 강 서안 지구에 이스라엘의 정착 건설을 성원하고 있다.
2016년 미국 대통령 선거가 열리는 동안에 트럼프는 되풀이적으로 이라크 전쟁을 반대하였다고 말하였다. 2002년 자신이 이라크를 침공하는 데 성원하였다는 의문이 생기자 그는 "네, 그랬을거여요"라고 답하며 걸프 전쟁(1990 ~ 91)에 참조에서 "난 그 일이 정확하게 해내는 데 처음이길 바란다"라고 추가하였다. 트럼프는 공동적으로 전쟁이 시작된지 1주 안에 전쟁을 혼란으로 참조하였고 2004년으로 봐서 그는 전쟁에 반대하였다. 그 이래 그는 되풀이적으로 전쟁을 비판하였다.
트럼프는 자신의 대통령 선거 운동이 있는 동안에 아프가니스탄 전쟁은 실수였다고 진술하고, 다른 때에는 그것이 필요했다고 진술하였다. 그는 아프가니스탄에서 미국의 군사 수를 계속 제한시키는 성원을 하고 있다. 트럼프는 2011년 리비아에서 일어난 군사 중재의 성원자였다. 그 이래 그는 자신의 입장을 전환시켜 2016년 2월 무암마르 알 카다피가 당장 재판에 섰으면 우리가 더 나았을 것이다"라고 말하였다.
최종적으로는 중국을 견제하려는 움직임을 보이고 있으며, 북한에 대해 비판적인 태도를 취하면서 한국의 안보 강화를 거듭 강조하고 있다.
북한에 대한 외교 정책
도널드 트럼프는 김정은과 2018년 5월이전에 북미 정상회담을 하겠다. 라고 북한의 김정은 위원장의 북한 평양 으로의 정상회담 초대를 응하였다. 이후 6월 12일 정상회담을 하였다. 북한에 대해서는 미국 대통령 트럼프는 북미 정상회담이후 북한의 비핵화의 외교적 큰 걸음을 달성하였다고 하였다. 공동 선언에서 양국은 "한반도에서 지속적이고 안정적인 평화 체제를 수립하려는 노력에 동참 할 것"이라고 선언했다. [41]
[42][43]
이민
트럼프의 이민 정책들은 선거 운동이 있는 동안에 격렬하게 논의되었다. 그의 어떤 제안들은 그의 계획의 유효성과 입수 가능성을 의문한 이민에 몇몇의 전문가들에 의한 정밀한 조사 아래에 왔다. 트럼프는 멕시코가 돈을 내는 데 약속한 장벽, 즉 미국과 멕시코 국경에 불법 이민자들을 못 들어오게 하는 더많은 견고한 장벽들을 세우는 데 맹세하였다.
2015년 11월 파리 테러에 이어 트럼프는 똑바른 여과성이 이행될 수 있을 때까지 미국에 입국으로부터 이슬람들을 완료적으로 금지시키는 데 논쟁적 제안을 만들었다. 그는 후에 이 제안들이 이슬람 비시민들에게만 신청될 것이라고 뚜렷하게 하였다.
2016년 8월 트럼프는 전부의 밀입국자들의 추방을 요구하는 자신의 입장들을 온화하게 했으리라고 암시하였다. 그달 31일 그는 멕시코의 엔리케 페냐 니에토 대통령을 방문하여 멕시코와 관계들을 짓고 싶다고 말하였다. 하지만 그날 밤에 있던 주요 연설에서 트럼프는 멕시코에 의하여 돈을 내게 되는 멕시코 국경을 따라 장벽을 건설하고, 불법적으로 미국으로 입국하는 자들을 가능성있게 추방하고, 미국을 떠나 재입국을 신청하지 않는 한 그런 자들에게 법적인 신분들을 거부하고, 추방 업무 군사를 창조하는 것을 포함한 자신의 강경 노선 지위들을 다시 확인하는 10점의 계획을 펼쳤다.
사회
트럼프는 자신을 프로적 인생이라고 표현하고, 정통적으로 강간, 상피와 모친의 건강에 위험을 주는 상황들 같은 어떤 예외들과 함께한 유산을 반대하는 편이다. 그는 정치적으로 기독교적 가치를 추구하며, "전통적 결혼"을 성원하나 국가적으로 동성의 결혼의 법적을 가라앉힌 논쟁으로 숙고하고 있다.
트럼프는 오래 전부터 성소수자 즉, LGBT에 대한 권리 보장을 지지하는 편이였다.[44] 그러나 동성의 결혼에 대해서는 반대한다. 그는 버락 후세인 오바마의 압력 아래 2015년 미국 연방대법원에서 5:4로 결정한 동성결혼 판결에 찬성하지 않으며 판결이 다시 번복되기를 바라는 입장.[45] 또한 트럼프 행정부가 들어서고 오바마 정부가 만든 성소수자 (LGBT) 지원 부서가 백악관에서 없어지기도 했다.
트럼프는 제2차 수정 조항의 번역을 늘이는 성원을 하며 정통적으로 총의 통제를 반대한다고 말하였다. 그는 법률상 정당하다고 인정된 소량의 마리화나를 반대하나 의료적 마리화나를 성원하는 편이다. 그는 악랄한 범죄자에 한해 고문의 형성인 워터보딩의 이용은 물론 사형에 호의를 가지고 있었으나, 제임스 매티스 장군의 조언에 따라 해당 주장을 철회하였다.
보건
트럼프는 되풀이적으로 환자보호 및 부담적정보험법을 폐지하고 대체하는 데 맹세하였다. 그의 2000년 저서 《우리 미국은 가치가 있다》는 캐나다 모델에 기초를 둔 일체 재생 보건 제도를 위하여 강한 논의를 하였다. 2016년 3월 트럼프의 선거 운동은 주를 가로지르며 팔아야 하는 보건 보험을 허락하는 설비, 보건 보험 할증금을 공제, 보건 저축 통장들을 확장시키는 것을 포함하는 다양한 자유시장 개혁들을 포함한 연설 요약을 공개하였다.
트럼프는 미국 보훈부를 합리화 하고, 예비 저장품과 대기자 명단을 없애고, 관련된 시설들을 개량하는 데 목표를 삼고 있다.
교육
트럼프는 학교의 선택과 초등, 중등 학교들을 위한 지방적 통제를 위한 자신의 성원을 진술하였다. 그는 초등, 중등 학교들을 위한 필수 과목 공립 표준 발의권을 반대하고 필수 과목을 끝내야 하는 재해로 불렀다. 그는 교육부의 전부 혹은 일부를 폐지하리라고 진술하였다.
종교
트럼프는 천주교, 개신교 등의 기독교적 가치를 존중하고, 특히 이슬람에 대해서 비판적인 입장을 취해왔다. 그는 지속적으로 "나는 성경을 사랑한다", "성경은 내가 가장 좋아하는 책이다"라는 발언으로 기독교에 우호적인 모습을 띄었고, 민주당의 반 기독교적 이념에 실망한 보수 기독교인들의 지지를 받고 있다.
언론
트럼프는 청년 시절부터 언론에 대해 비판적인 입장이였고, 언론 또한 트럼프에게 비판적이였다. 2016년에는 미국 대통령 후보 역사상 가장 많은 언론사를 적으로 두고도 대선을 승리하여 주목 받았다. 45대 대통령 선거기간 당시 주류 언론에서 힐러리 클린턴이 당선될 확률은 약 90%라고 주장 했으나, 트럼프는 언론이 자신에게 불리한 자료만 취사 선택하여 보도한다고 말하며 대선 승리를 확신했다.
2017년 2월 14일 폭스 뉴스 채널에서 실시한 여론 조사에 의하면 미국인 45%는 트럼프를, 42%는 언론을 신뢰한다 답변하여 양분 되었고, 미국인 68%는 언론이 트럼프를 지나치게 대한다고 말했다. 이처럼 신뢰도에 타격을 받은 미국 주류 언론은 트럼프가 가짜 뉴스로 사람들을 선동한다며 비판했고, 도널드 트럼프는 언론의 왜곡 보도를 피하기 위해 SNS 등을 통한 직접 소통 방식을 이용하겠다고 발언했다.
가족
트럼프는 세 번의 결혼에서 다섯 자녀를 두었다.
체코인 이바나 트럼프와 결혼했다가 도널드 트럼프 주니어, 이방카 트럼프, 에릭 트럼프를 얻은 뒤 이혼하고, 말라 메이플스와 결혼했다가 딸 티파니 트럼프를 얻은 뒤 이혼하였다.
2005년 슬로베니아인 모델 멜라니아 트럼프와 결혼해 아들 하나를 두었다.[11] 트럼프의 당선으로 멜라니아는 미국의 두 번째 이민자 출신이자 첫 공산권 국가 출신 퍼스트 레이디가 됐다.[7] [46]
[47]
2020 대선 캠페인
트럼프는 대통령직을 맡은 이후 향후 미국 대통령으로써 두 번째 임기를 시작할 의사가 있음을 알렸다.[48] [49] [50]
같이 보기
2016년 미국 대통령 선거
힐러리 클린턴
미스 유니버스
젭 부시
대안 우파
포퓰리즘
아웃사이더
광인 이론(광인 전략)
각주
외부 링크
- 백악관 공식 웹사이트
- 개인 공식 웹사이트
- 대통령 선거 공식 웹사이트
- 공식 트위터
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로마 가톨릭교회(, ), 천주교(天主敎) 또는 가톨릭교회(, )는 전 세계적으로 약 13억 명의 신자를 가진 세계 최대 규모의 기독교 교파이다.[1] 세계에서 가장 오래된 기독교로서 특히 역사적으로 서양 문화에서 거대한 비중을 차지하고 있다.[2]
개요
교계
교계제도는 피라미드식 성직자 제도를 고수하고 있다. 가톨릭교회에서는 예수 그리스도가 오직 하나의 교회만을 세웠으며,[3][4] 그 교회는 바로 사도들의 으뜸인 성 베드로만이 유일한 계승자라 주장하는 교황을 단장으로 하는 그리스도의 사도들의 계승자라 역시 주장하는 주교들이 있는 집단, 즉 가톨릭교회라고 가르치고 있다.[5][note 1][6][note 2][note 3] 더불어 가톨릭교회는 교황이 완벽하지 않은 인간으로 태어났지만 신앙과 도덕에 관한 교리를 확정하는데 있어 결코 오류를 범할 수 없다는 무류성의 특권을 누린다고 가르친다.[7][8][9][10][11][note 4] 다음은 그들이 만든 무류성이다. ① 전체 교회의 최고 목자로서 공식으로 선언한다. 따라서 교황도 개인 자격으로나 로마 교구의 교구장 자격으로 선언한 것은 무류하다고 보장할 수 없다. ② 어떤 진리를 최종적으로 결정할 의사를 밝혀야 한다. 따라서 교황의 통상적인 설교, 지도, 권유, 해설, 반박, 경고 등이 다 무류하지는 않다. ③ 신앙이나 도덕의 문제에 국한된다. 따라서 교황이 아무리 강력하게 주장할지라도 과학, 예술, 인문, 정치, 경제, 사회 등에 관한 주장이라면 무류할 수 없는 것이다.[12] 현재 무류권에 의해 확정된 교리는 그리스도의 인성과 신성, 성모의 무염시태와 승천 뿐이다.
교리
가톨릭교회의 4대 교리는 천주존재(天主存在), 삼위일체(三位一體), 상선벌악(賞善罰惡), 강생구속(降生救贖)이다. 천주존재는 우주를 창조하고 다스리는 창조주, 즉 하느님(천주)이 존재함을 믿는 것이며, 삼위일체는 성부, 성자, 성령의 삼위(三位)가 한 하느님이라는 뜻으로, 세 위격(位格)이 서로 구별됨과 동시에 하나의 신성(神性)을 이룬다는 교리로 제1차 니케아 공의회에서 확정되었다. 상선벌악은 하느님은 선한 사람에게는 상을 주지만, 악한 사람에게는 벌을 내린다고 믿는 것이며, 강생구속은 인간이 죄를 지어 하느님의 영광에 참여하지 못하게 되었으나 하느님의 아들 예수 그리스도가 사람이 됨(강생,성육신)으로써 인간의 죄를 대신 보속했으므로 누구든지 그리스도를 믿고 세례를 받으면 구원을 얻는다는 교리이다. 가톨릭교회의 경신례는 미사 또는 성찬예배라고 불리며, 이 경신례 안에서 빵과 포도주가 그리스도의 몸과 피로 성변화하는 성체성사를 거행한다. 가톨릭교회는 예절과 규율, 교리와 신학의 주안점 등의 다앙성을 반영하여 라틴 교회와 자치 조직인 동방 가톨릭교회 그리고 탁발수도회와 봉쇄수도회 등의 여러 조직으로 구성되어 있다.[13][14]
성모 존중
가톨릭교회는 예수의 어머니 마리아를 공경하는 특징이 두드러지는데, 신약성서의 가르침대로 성령(하느님)의 힘으로 그녀가 처녀의 몸으로 예수를 잉태하였다고 가르친다. 그녀와 관련된 가톨릭교회의 주요 교리는 다음과 같이 정리할 수 있다. 그녀를 간택한 하느님의 특은으로 그녀가 잉태되는 순간부터 원죄가 감면되었으며(원죄 없는 잉태), 삼위일체에 따라 참 하느님이신 예수님의 어머니이며(하느님의 어머니), 평생을 처녀로 살았고(마리아의 평생 동정), 사망한 다음에는 하느님에 의해 들어올림을 받았다는 것(성모 승천)이다.
사회선교
가톨릭교회의 사회 교리는 병들고 가난하며 고통받는 사람들에 대한 지원을 강조하는 자선 및 구호활동으로 요약할 수 있다. 오늘날 가톨릭교회는 세계에서 교육 및 의료 서비스 분야에서 가장 규모가 큰 비정부단체(NGO)이다.[15]
명칭
‘가톨릭’이라는 용어는 그리스어로 ‘공번(共繙)되다’[16]또는 ‘보편(普遍)되다’라는 뜻의 ‘카톨리코스’(καθολικός)에서 유래한 것으로서, 2세기 초에 교회에 대해 설명할 때 처음으로 사용된 말이다.[17] 카톨리코스라는 용어는 ‘모든 이를 아우르는’을 의미하는 καθ' ὅλου (kath' holou)의 축약형인 καθόλου (katholou)와 동일 개념이다.[18] ‘가톨릭교회’(he katholike ekklesia)라는 용어는 서기 110년경 안티오키아의 이냐시오가 스미르나 교회 신자들에게 보낸 서신에서 처음으로 등장한다.[note 5] 예루살렘의 키릴로스가 쓴 교리문답에서도 교회가 당시 유대교에서 분리된 다른 여러 종교 집단으로부터 구분하기 위해 스스로 가톨릭교회라고 자처한 것으로 나온다.[19][20]
1054년 동서 교회의 분열 이후, 동방 교회는 스스로 ‘정교회’(Orthodox)라고 부른 반면에, 교황과 친교를 이룬 서방 교회는 ‘가톨릭교회’(Catholic)라고 자처하였다. 그리고 16세기에 가톨릭교회 내부에서 루터 등에 의해 종교개혁이 일어나면서 교황청과의 친교를 중단한 이들은 ‘프로테스탄트’(개신교)라고 불리게 되었다.
‘가톨릭교회’라는 명칭은 《가톨릭교회 교리서》 등 교회의 공식 문서들에서 가장 일반적으로 사용되는 표현이다. 이 명칭은 교황 바오로 6세가 제2차 바티칸 공의회의 문헌들에 서명할 때에도 사용되었다.[21] 그러나 교황청 문서 뿐만 아니라 지역 주교회의에서도 가끔씩 ‘로마 가톨릭교회’라는 용어가 등장하기도 한다. 1908년에 출판된 《성 비오 10세 교황의 교리문답》에서는 가톨릭교회와 교황과의 친교가 끊어진 다른 그리스도교 공동체들의 구별을 위해 가톨릭교회 앞에 ‘로마’라는 글자를 삽입하였다.[22]
동아시아에서는 가톨릭교회를 가리켜 ‘천주교’라고도 부른다. 천주교라는 명칭의 유래는 아시아 선교를 목표로 했던 예수회 사제 마테오 리치가 중국인의 사상을 연구한 후, 중국에서 온 우주를 창조하고 주재하는 조물주의 개념으로 천주(天主), 즉 하늘의 주인이라는 용어가 널리 사용되고 있음을 알고 천주라는 신적 개념을 활용한 결과 천주교라는 명칭이 만들어진 것이다. 한국에서는 가톨릭교회가 전래된 이후에 서학(西學), 천주학(天主學), 천주교(天主敎), 가톨릭교 등으로 혼용되어 오다가 주교회의에서 ‘천주교 또는 가톨릭교’를 선택 공인하여 《가톨릭 지도서》(Directorium, 1932년)에 규정함으로써 ‘천주교’도 교회의 공식 명칭이 되었다.
조직 및 통계
가톨릭교회의 지도는 성품성사를 받은 성직자들이 맡고 있다. 성직자들의 품계는 총 세 가지 품으로 분류하는데, 가장 으뜸은 주교품으로서 일반적으로 교구라고 불리는 자신의 지역을 사목하는 이들을 가리킨다. 주교들 중에는 대주교라는 지위로 올라가는 일도 있지만, 이것들은 서품에 따른 위계가 아니라 교구의 규모에 따라 정해진 교회 행정상의 직무를 나타낸다. 즉 사제가 주교로 서품되는 일은 있어도, 주교가 대주교로 서품되는 일은 없다. 물론, 대주교 중에서도 명의 주교직을 갖는 대주교가 있다. 그 다음은 사제품으로서 보통 주교로부터 지역 본당을 부여받아 사목하는 이들을 가리킨다. 마지막으로는 부제품으로서 주교와 사제를 각종 전례에서 보조하는 역할을 수행한다. 궁극적으로 가톨릭교회 전체를 지도하는 것은 로마의 주교, 즉 교황이다. 여러 수도회 및 단체는 해당 지역 교구의 소속으로서 지역 교구장 주교의 재치권을 받기는 하지만, 실질적으로는 자치적으로 활동한다. 이들 단체 가운데 오직 교황의 재치권만을 받는 곳도 더러 있다. 대부분의 수도회 및 단체의 회원은 성별로 서로 구별되어 있지만, 남성과 여성 모두를 회원으로 받아들이는 곳도 있다. 추가적으로 평신도 회원들은 각종 전례 집전에 보조 자격으로 참여한다.
중앙집권제도
무엇보다도 여타의 종교들보다 중앙집권체제가 잘되어 있으며 전세계 모든 로마 가톨릭교회의 성당을 교황청에서 일괄 통제 및 관리한다. 그렇기 때문에 로마 가톨릭교회에서 운영하는 전세계의 모든 성당의 방침 및 미사 집전은 모두 동일하다.
또한 본당신부는 일정기간 간격으로 다른 성당으로 이동 보임되며 심지어는 민간성당에서 군종신부로 보임받아 군에 입대해서 대위로 임관하기도 한다. 게다가 해당 신부의 연고지에 있는 성당에는 보임하지 않는다.
로마 가톨릭의 보고체계 역시 매우 잘 발달되어 있어서 본당신부가 알아낸 일이나 시골 성당에서 발생한 사건 및 사고 등이 소속 교구장주교에게 보고되며 중대한 문제의 경우는 소속교구에서 교황에게까지 보고가 된다.
종합적으로 보자면 가톨릭은 전세계 모든 종교들 중에 조직운영 및 조직관리를 가장 잘하는 종교이다.
교황과 교황청
가톨릭 교계제도에서 가장 으뜸은 로마교구의 교구장 주교인 교황이다. 교황은 로마 주교좌와 온전한 친교를 이루는 라틴 교회와 동방 가톨릭교회를 아우르는 가톨릭교회 전체의 영적 지도자이다. 현재 교황은 2013년 3월 13일에 선출된 프란치스코이다.
중앙집권이 매우 잘되어 있는 로마 가톨릭교회의 중심이며 로마 가톨릭교회의 모든 방침은 교황과 교황을 보좌하는 교황청에서 시작된다. 따라서 마리아의 구원방주와 같이 교황과 교황청이 가는 노선과는 다른 방향으로 가는 성당은 로마 가톨릭교회의 일원이라 할 수 없으며 이단 및 사이비종교라고 봐야 한다.
교황의 직위는 ‘교황직’(敎皇職)이라고 불린다. 교회에서는 그리스도가 성 베드로 사도에게 천국의 열쇠를 부여함으로써 교황직을 세웠다고 설명하고 있다. 교회의 법률적·사목적 최고 권위의 주체로서 교황을 가리킬 때는 성좌(聖座, Sancta Sedes) 또는 (성 베드로 위에 세워진) 사도좌(使徒座, Sedes Apostolica)라고 부른다.[23][24] 교황청은 교황을 위하여 최측근에서 일하며 매일 가톨릭교회의 모든 업무를 관리 담당하는 중앙 기구이다. 교황은 또한 로마 시 안에 있는 작은 독립국가인 바티칸 시국의 국가원수이기도 하다.[25] 참고로 바티칸 시국과 성좌, 교황청은 서로 별개의 존재이다. 교황이 세계 각국의 대사들에게 임명장을 수여하고, 외교 사절들을 세계 각국에 파견할 때는 바티칸 시국의 국가원수로서가 아니라 성좌의 수장으로서 하는 것이다.[26]
추기경은 교황청에서 교황을 최측근에서 보좌하는 고위 성직자들로서, 주로 주요 도시를 주교좌로 두고 있는 주교들이나 저명한 신학자들 중에서 교황이 직접 서임한다. 80세 이상의 성직자로 교회에 큰 공헌을 한 성직자 역시 명예직으로 추기경에 임명하는 때도 있는데, 그런 추기경들 중에는 종종 중국이나 베트남 등 독재 정권이나 공산주의 정부에 의해서 장기간 걸쳐 투옥된 성직자도 포함되어 있다. 교황에게 여러 가지 사안에 대해 조언을 하거나 지원을 하기 위해 추기경들로 구성된 단체를 추기경단이라고 부른다.[27]
교황이 선종하거나 사임할 경우, 추기경단 가운데 80세 이하의 추기경들이 후임 교황을 선출하기 위한 비밀 선거인 콘클라베에 참석한다.[28] 교회법으로는 남자 가톨릭 신자라면 누구라도 교황으로 선출될 수 있지만, 1389년 이후로는 오직 추기경들 가운데 한 사람을 선출하고 있다.[29]
교회법
가톨릭교회의 교회법(CIC)은 교회의 고유한 조직과 운영, 그리고 신자들이 교회의 목적을 좇아 이루도록 합법적인 교회의 권위로 제정한 법을 말한다. 가톨릭교회는 영신적이면서도 가시적인 형태로 존재하며, 신적인 것과 인간적인 것이 함께 존재한다. 그러므로 교회법도 자연히 신약성경과 성전 안에 나오는 신법과, 교회와 인간이 제정한 실정법으로 이루어진다. 이러한 법의 제정 및 공표는 교황만이 할 수 있다. 교황은 보편 교회의 최고 목자로서 자기 임무에 의하여 교회에서 최고의 완전하고 직접적이며 보편적인 직권을 가지며 이를 언제나 자유로이 행사할 수 있다.[30]
따라서 교회법이란 교회의 존재 목적을 이루기 위해 교회의 고유한 조직과 운영 및 신자 생활의 규율을 정한 모든 법들을 지칭하는 것으로서, 여기에는 가톨릭교회의 성문법과 불문법이 포함된다. 성문법으로는 성경과 성전에 계시된 하느님의 실정법(jus divinum positivum)과 교회가 제정한 법률이 있고, 불문법으로는 자연법(jus naturale)이 있다.[31] 현행 교회법(1983년 교회법)은 교황 요한 바오로 2세가 1983년 1월 25일에 선포하여 1983년 대림 제1주일(11월 27일)에 발효되었는데, 전체가 1725 조항으로 되어있고, 전7권이며 내용은 총칙, 하느님 백성, 교도권, 성화권, 교회 재산 문제, 교회 형법, 교회 재판법의 순서로 되어 있다. 동방 가톨릭교회의 경우, 1990년 제정된 동방 교회법(CCEO)의 적용을 받는다.
자치 개별 교회
가톨릭교회 안에는 교리 문제에 있어서 교황의 최고 권위를 수용하는 23개의 자치 총대주교좌 교회들이 존재하고 있다.[14][32] 이들 교회들을 아울러 ‘자치 교회’(sui iuris)라고 부른다. 이 교회들은 라틴 교회와 다른 역사적·문화적 배경을 갖고 있으며, 이들의 전례 양식이 이를 반영하고 있다. 통상 각 동방 자치 교회들은 총대주교 또는 대주교를 주축으로[33] 고유한 교회 조직 구성이나 전례 양식, 전례력, 기타 영성을 갖고 있다.
현재 가장 규모가 큰 개별 교회는 라틴 교회이며, 신자 수가 대략 12억 명 이상으로 보고되고 있다. 본래 라틴 교회는 남유럽과 북아프리카에 걸쳐 분포되어 있었다. 그러다가 세월이 흘러 서유럽과 중유럽, 북유럽까지 교세가 확장되어 오늘날에는 세계의 대부분에 널리 퍼져 있다. 라틴 교회는 스스로 서방 그리스도교에서 가장 역사가 오래되고 교세가 큰 교회로 자부하고 있으며,[34] 여러 유럽 국가의 사상 및 문화에 지대한 영향을 끼쳤다. 소위 종교개혁 이후 발생한 여러 개신교 교파들도 이러한 라틴 교회의 많은 유산을 함께 공유하고 있다.[34]
라틴 교회에 비해 상대적으로 교세는 적지만, 가톨릭교회의 전체적인 구조 안에서 중요한 교회가 바로 2010년 현재 약 1,730만 명의 신자와 22개의 자치 교회로 이루어진 동방 가톨릭교회이다.[35] 동방 가톨릭교회들은 동방 그리스도교의 전통과 영성을 따르되 교황과 항상 일치하였던 동방 그리스도교인들과 동서 교회의 분열 및 그 이전의 분열이 있은 지 수세기가 지나서 다시 교황과 일치하는 길을 선택한 동방 그리스도교인들로 구성되어 있다. 일부 동방 가톨릭교회들은 자치적으로 주교 시노드를 통해 선출된 총대주교가 다스리고 있으며,[36] 또 다른 일부에서는 상급대주교[37]나 관구장 주교[38], 주교[39] 등이 다스리고 있다. 교황청은 이들과의 긴밀한 관계를 지속하기 위해 동방교회성이라는 부서를 두고 있다.
교구와 본당, 수도회
각 국가 및 지역 또는 주요 도시는 교구 또는 대교구로 알려진 개별 교회가 관리하고 있다. 각 교구는 교황으로부터 교구 관할권을 받은 주교가 교구장이 되어 다스린다. 교구는 흔히 대교구와 단순한 교구로 구분되는데, 즉 교구는 가톨릭교회를 지역적으로 구분하는 하나의 기본 단위로서 교회 행정상의 한 구역을 말한다. 이러한 몇 교구가 모여 관구를 이룬다. 관구의 중심교구를 대교구라 부르며 대교구의 교구장은 대주교이다 2008년 통계에 따르면 가톨릭교회에는 2,795개의 교구가 존재하고 있다.[40] 각 교구의 교구장 주교들은 해당 국가 또는 지역 주교회의의 일원이기도 하다.[41]
각 교구는 다시 좀더 작은 신자 공동체인 본당구로 나뉘어, 주교들의 대리자인 사제들이 직접 신자들을 보살피게 한다. 각 본당구는 한 명 이상의 사제와 부제 또는 평신도 사도직을 두고 있다.[42] 주교로부터 권한을 위임받은 주교의 협조자인 사제는 항상 본당에 상주하면서 주교에 의해 정해진 관할 구역의 공동체를 위해서 사목해야 하며 성사를 집전해야 할 의무가 있다.
미사를 비롯한 전례 집전은 오직 사제 또는 부제로 서품받은 남성 가톨릭 신자만이 할 수 있다. 전통적으로 복사, 독서자, 성체 분배자는 남성만이 맡는 분야였지만, 최근 들어 여성도 서서히 참여하기 시작했다.
일반적으로 봉헌 생활회에 입회하려면 정신적ㆍ육체적으로 건강한 미혼 남녀여야 하며, 평신도 뿐만이 아니라 사제로 서품받은 남성 신자들도 수도자로서 복음적 권고인 청빈과 정결, 순명을 지키겠다는 서원을 함으로써 자신의 욕망을 억제하고 그리스도와 일체가 되는 완덕에 도달하기 위해 수도 생활을 시작해야 한다.[43] 대표적인 봉헌 생활회로는 베네딕도회와 가르멜회, 도미니코회, 프란치스코회, 사랑의 선교 수녀회, 그리스도의 레지오 수도회 등이 있다.
신자 수 통계
2015년 12월 통계조사에 따르면 전 세계 가톨릭 신자 수는 약 1,284,810,000명으로 세계 인구의 17.7%를 차지하고 있다.[1] 아프리카와 아시아의 증가율은 2.3%, 아메리카와 유럽의 증가율은 0.3%이며, 전체적으로 1.5% 증가하고 있다. 아메리카의 48.8%(5억 9,882만 명), 유럽의 23.5%(2억 8,687만 명), 아프리카의 16.0%(1억 9,859만 명), 아시아의 10.9%(1억 3,464만 명), 오세아니아의 0.8%(970만 명)가 가톨릭 신자이다.[1] 전체 기독교 신자 수에서 가톨릭 신자 수가 절반 이상을 차지하고 있다.[45]
유럽에서 신자의 비율이 가장 높은 나라를 보자면, 라틴 유럽에서는 프랑스, 이탈리아, 스페인, 포르투갈이 있고, 비(非)라틴계 유럽에서는 오스트리아, 벨기에, 크로아티아, 체코, 헝가리, 아일랜드, 리투아니아, 몰타, 폴란드, 슬로바키아, 슬로베니아 등이 있다. 독일과 네덜란드, 스위스, 영국의 북아일랜드 지방에서는 가톨릭교회와 개신교의 교세가 비슷하다.
아메리카에서도 가톨릭 신자가 폭넓게 분포하고 있는데, 일반적으로 앵글로아메리카보다 라틴 아메리카가 다수를 점유하는 것으로 조사되고 있다. 특히 멕시코, 브라질, 아르헨티나, 콜롬비아에서 교세가 강하며, 브라질은 세계에서 가톨릭 신자의 절대 수효가 가장 많은 나라로 알려져 있다. 앵글로아메리카에서 미국은 2012년 말 기준으로 약 7,118만 명의 가톨릭 신자가 거주하는 나라로 전체 국민의 4분의 1 가량이 가톨릭 신자이다. 캐나다 역시 상당 수의 신자가 분포하여 현재 캐나다에서 최대 신자 수를 가진 종교로 꼽힌다.
아프리카에서는 사하라 사막 이남의 여러 나라에 폭넓게 분포되어 있다. 신자는 콩고 민주 공화국, 나이지리아, 우간다 등에 많은 편이며, 국민 중 가톨릭 신자가 차지하는 비중이 높은 나라로는 세이셸, 우간다, 부룬디 등이 있다.
아시아에서는 전체 인구 중 그 비중은 낮으나, 필리핀과 동티모르는 국민의 대다수가 가톨릭 신자이며, 대한민국은 2015년 12월말 현재 559만 2,000명으로서 전체 인구의 10.4%가 가톨릭 신자이다. 오세아니아에서는 오스트레일리아에 가톨릭 신자가 가장 많으며(2011년 현재 544만), 이외의 중소 국가들에도 폭넓게 분포되어 있다.
2015년을 기준으로 가톨릭 성직자 수는 466,095명이다. 주요 성장 지역은 아시아와 아프리카로 2000년도 이래 각각 39%와 32%가 증가하였다. 반면, 아메리카에서는 성장률이 그대로였고 유럽에서는 9% 하락하였다.[1] 2006년을 기준으로 가톨릭교회의 수도자 수는 724,559명이다. 이 가운데 여성 수도자인 수녀의 수는 670,330명이다.[46]
전례
섬네일|upright|예수 그리스도의 봉헌을 기념하고 재현하는 장소이자 경신례의 중심인 제대.
《한국 가톨릭 전례사전》은 전례에 대해 ‘그리스도의 신비체이며 하느님 백성인 교회가 거행하는 공적 경배로서 행위로 드러내는 기도이며 그리스도와 그분 교회의 기도이다.’라고 정의하고 있다. 교황 비오 12세는 회칙 《하느님의 중개자》(Mediator Dei)에서 “전례는 우리 구세주께서 교회의 머리로서 아버지께 드리는 공적 경배인 동시에 신도들의 공동체가 공동체의 창설자께 바치는 공적 경배이며 그분을 통해 아버지께 바치는 공적 경배이다. 간단히 말해 전례는 머리와 지체가 하나 되어 그리스도의 신비체에 의해 봉헌되는 경배이다.”(20항)라고 설명하였다.
가장 많이 알려진 대표적인 전례 양식은 로마 전례의 일반 양식이지만, 동방 가톨릭교회들은 물론 라틴 교회 안에서도 다양한 전례 양식이 전해져오고 있다. 가톨릭교회를 구성하는 23개의 개별 교회(sui iuris)마다 여러 가지 전례 양식이 존재하는데, 이는 신앙의 차이라기보다는 역사적·문화적 다양성을 반영하는 것이라고 볼 수 있다. 동방 교회 교회법에서는 “전례 예식은 전례적·신학적·정신적·규율적 유산으로서, 다양한 민족의 역사와 문화를 반영하여 각 개별 교회마다 저마다의 방식에 따라 고유의 형태로 나타난다.”[47]고 정의하고 있지만, 주로 전례적 유산에 한정되어 있다.
성찬의 전례 거행
가톨릭교회의 모든 전례를 통틀어 가장 중심이 되는 것은 성체성사를 포함하는 미사(성찬예배 (동방 교회))이다. 가톨릭교회에서는 오직 유효하게 수품된 사제만이 미사를 집전하여 제병과 포도주를 그리스도의 몸과 피로 성변화시킬 수 있다고 가르치고 있다.[48] 가톨릭교회에서는 미사 중에 사제가 제병과 포도주를 축성하면 참으로 그리스도의 몸과 피, 즉 성체와 성혈로 바뀐다고 가르친다. 즉 축성된 뒤에 제병과 포도주 자체가 남아 있지 않고 그리스도의 몸과 피로 변하되 다만 제병과 포도주의 형상만 남아 있는 것이다. 가톨릭교회에서는 성체성사 안에 그리스도가 참으로 실재적으로 그리고 실체적으로 존재한다고 가르친다.[49] 가톨릭 신자라 하더라도 죄중에 있는 사람은 사전에 고해성사를 보고 죄를 용서받은 후에야 비로소 성체를 영할 수 있다.[50] 일반적으로 가톨릭 신자들은 성체를 영하기 전 1시간 동안 공복재를 지켜야 한다. 공복재란 성체에 대한 존경과 영성체를 준비하는 마음에서 어떠한 음식이나 음료의 섭취를 삼가하는 것이다.[50] 하지만 물과 약은 언제든지 먹을 수 있으며, 노인이나 병약자, 병자를 간호하는 사람들은 공복재 규정을 지키지 않고서도 성체를 영할 수 있다. 가톨릭 신자가 아닌 사람들은 성체를 영할 수가 없다.
가톨릭 신자들은 모든 주일 (그리스도교)과 더불어 의무 대축일에 해당하는 천주의 성모 마리아 대축일(1월 1일), 주님 부활 대축일, 성모 승천 대축일(8월 15일), 주님 성탄 대축일(12월 25일)에 미사에 참례해야 하는 것이 기본적인 의무이다.
서방 전례 양식
로마 전례는 가톨릭교회의 가장 대표적이면서 일반적인 전례 양식이다. 이 전례 양식은 유럽의 선교사들의 활발한 선교 활동을 통해 전세계로 널리 퍼졌다.[51] 현재 로마 전례의 일반 양식은 1969년판 로마 전례로서, 교회의 공식 언어인 라틴어보다는 나라별로 자국어로 봉헌하는 경우가 많은 것이 특징이다.
2007년 교황 베네딕토 16세는 ‘더 오랜 관행’(usus antiquior)이라고 일컬어지는 로마 전례의 특별 양식을 담고 있는 1962년판 로마 미사 경본을 지속적으로 사용하는 것을 승인하였다.[52] 제2차 바티칸 공의회가 소집되기 몇달 전에 출판된 이 미사 경본은 1570년 트리엔트 공의회의 요청에 따라 교황 비오 5세가 표준화하여 반포한 트리엔트 미사의 마지막 개정판이다. 교황 비오 5세의 로마 미사 경본은 1604년 교황 클레멘스 8세, 1634년 교황 우르바노 8세, 1911년 교황 비오 10세, 1955년 교황 비오 12세 그리고 1962년 교황 요한 23세에 의해 조금씩 개정되어왔다. 1969년 교황 바오로 6세가 새로운 로마 미사 경본을 공표하면서, 1962년판 로마 미사 경본에 따라 미사를 거행하려면 교구장 주교의 승인을 사전에 받아야만 했다. 2007년 교황 베네딕토 16세는 자의교서 《교황들》(Summorum Pontificum)을 발표하여 신자들 없이 사제 혼자 임의로 또는 신자들이 요청하면 교구장 주교의 승인 없이도 사제가 자유롭게 트리엔트 미사를 거행할 수 있도록 허락하였다. 베네딕토 16세는 또한 독서 봉독은 자국어로 읽는 것을 허용하였지만, 복음서를 봉독할 때는 오직 교회의 공식 언어인 라틴어로 낭송하도록 하였다.
2009년 교황 베네딕토 16세는 사도적 서한 《성공회 신자 단체》(Anglicanorum Coetibus)를 반포하여 성공회를 떠나 가톨릭교회와 완전한 친교를 이루는 전(前) 성공회 신자들로 구성된 성직 자치단이 성공회의 전통에 따른 전례와 영성과 사목 전통을 그대로 유지할 수 있게 하였다.[53]
암브로시오 전례와 모자라빅 전례는 로마 전례와 뚜렷한 차이점을 보이는 서방 전례의 일종으로서 일부 라틴 교회에서 거행되고 있다.
동방 전례 양식
동방 가톨릭교회에 속한 지역 교회들의 전례 양식들은 종류가 매우 다양하며, 개중에는 동방 정교회나 기타 동방 기독교 종파들의 전례와 비슷하거나 완전히 동일한 것도 있다. 다만 다른 점이 있다면 동방 가톨릭교회들은 동방 기독교로서 자신들의 정체성은 그대로 유지하면서도 교황과 온전히 일치하여 친교를 이루고 있으며, 이를 절대로 깨트리려 하지 않는다는 점이다.
동방 가톨릭교회의 전례들은 그리스와 안티오키아, 여러 슬라브 국가들에서 전해 내려오는 비잔티움 전례를 포함해서 알렉산드리아 전례, 서시리아 전례, 아르메니아 전례, 안티오키아 전례, 동시리아 전례 등이 있다. 이들은 초기 기독교 시대부터 전승된 것으로 여겨지는 고유의 전통과 전례를 가지고 있으며 교황청은 이들의 전통과 관습을 인정하고 있다. 따라서 교황청 내에 이 교회들을 관할하는 부서인 동방교회성을 설립하였고(1917), 이들을 위한 고유의 동방교회법을 제정하였으며(1990), 현재까지도 이들의 신학과 전례, 영성 연구를 위하여 교황청 동방 대학을 설립하여 운영하고 있다. 다만 과거에 동방 가톨릭교회들에서 사용해왔던 몇몇 전례에 대해서는 어느 정도는 전례의 라틴화를 시행할 것을 전제조건으로 하여 거행하도록 하였다. 그러나 제2차 바티칸 공의회에서 동방 교회에 관한 교령인 《동방 교회들》(Orientalium Ecclesiarum)을 발표하면서, 동방 가톨릭교회들은 자신들의 전통적인 전례 예법과 규율을 다시 회복했으며, 각 교회들은 자신들만의 고유한 전례력을 따르고 있다.
교리
가톨릭교회의 교리는 초기 기독교의 가르침을 직접적으로 계승하여 세계 공의회와 교황 교서의 판결에 따른 정통 신앙과 이단의 구분, 여러 신학자에 의한 신학적 토론을 두루 반영하여 수세기에 걸쳐 발전해왔다. 가톨릭교회는 스스로 예수 그리스도로부터 복음을 전하고 가르치도록 위임을 받았기 때문에 성령의 특별한 도움으로 어떤 종류의 교리적 오류나 잘못을 저지를 수 없다고 믿고 있다(교회의 무류성).[54][55]
가톨릭교회의 가르침은 성경과 성전을 이루어진 공적 계시를 근거로 삼고 있으며, 그 내용을 올바로 해석하는 직무는 예수 그리스도의 이름으로 권한을 행사하는 교회의 교도권에만 맡겨져 있다고 보고 있다. 따라서 모든 가톨릭 신자는 이 교도권에 따른 성경과 성전 해석에 따라야 한다.[56] 가톨릭교회의 성경 권수는 구약성경 46권과 신약성경 27권을 합쳐 총 73권이다. 신약성경의 목록에 대해서는 동서방 교회 모두 이견 없이 받아들였지만, 몇몇 개신교도들은 이견을 제시하기도 하였다.[note 6] 구약성경의 경우, 제2경전이 일부 포함되어 있다. 개신교에서는 제2경전의 권위를 받아들이고 있지 않지만, 동방 정교회에서는 로마 가톨릭교회와 마찬가지로 성경의 일부로 인정하고 포함시켰다.[57] 성전은 전승 또는 전통이라고도 부르며, 사도 시대 때부터 전해 내려온 교회의 기도와 가르침, 전례 예식, 권위 있는 저술 등을 가리킨다. 가톨릭교회에서는 성경과 성전을 모두 통틀어 ‘신앙의 유산’(depositum fidei)이라고 부르고 있다. 그러나 성경과 성전이 다양하게 해석되어 큰 혼란이 일어날 여지가 있기 때문에 이를 올바르게 해석하는 것이 바로 교황과 교황과 온전히 일치하여 친교를 이루는 주교단으로 구성된 교회의 가르침이다(교도권).[58]
가톨릭 교리를 권위 있게 정돈하여 요약한 것이 성좌에서 출판한 《가톨릭교회 교리서》이다.[59][60] 《가톨릭교회 교리서》의 교리 부문은 사도신경의 각 조목을 체계화한 것이다. 가톨릭교회는 니케아 콘스탄티노폴리스 신경과 아타나시오 신경 또한 신앙 고백으로 받아들이고 있다.
삼위일체
가톨릭교회는 하느님(또는 천주)은 한 분이지만 세 가지 위격을 지녔다고 믿는다. 삼위일체는, 유일신이자 창조주인 하느님이 서로 구분되면서 완전히 동등한 삼위이며 친밀한 사랑으로 일치를 이루고 있음을 말한다. 삼위는 성부와 성자와 성령이다. 가톨릭교회가 고백하는 삼위일체 신앙은 다음과 같다. “하느님께서는 세 분이 아니라 세 위격이신 한 분 하느님이시다. 하느님의 세 위격은 서로 실제적으로 구분되지만 오직 하나의 본성, 하나의 실체이시다. 성부의 위격이 다르고 성자의 위격이 다르고 성령의 위격이 다르다. 그러나 성부와 성자와 성령의 신성은 하나이고, 그 영광은 동일하고, 그 위엄은 다 같이 영원하다.” 가톨릭 신자들은 기도를 바칠 때에 성령 안에서, 성자를 통하여, 성부에게 바친다.[61]
가톨릭교회는 예수 그리스도가 삼위일체의 제2위격인 성자라고 믿고 있다. 그리고 성자는 인류 구원을 위하여 성령으로 인하여 동정녀 마리아의 태중에 잉태되어 신성을 잃지 않으면서 인성을 취하였는데, 이 사건을 강생이라고 부른다. 이 강생으로써 성자는 신성(神性)과 인성(人性)을 모두 지닌, 참 하느님이면서 참 사람이 되었다고 한다. 451년 칼케돈 공의회는 예수 그리스도의 위격 안에 신성과 인성이 분리되거나 뒤섞이지 않고 결합되어 있다고 가르쳤다. 네 복음서에 기록된 바에 의하면, 그리스도가 이 땅에 강생한 이유는 하느님의 복음을 세상 사람들에게 전파하여 그들이 믿고 충실히 따름으로써 구원을 받게 하려는 것이다. 그리스도는 자신의 말씀과 행적으로 하느님이 사랑과 자비가 넘치는 존재임을 구체적으로 보여 주었다. 한 예로, 그는 사람들에게 자녀가 자기 아버지를 부르듯 친밀한 애정과 온전한 신뢰를 가지고 하느님을 ‘아버지’라고 부르라고 가르쳤다.[62]
가톨릭교회는 복음서가 전하는 바와 같이, 그리스도가 성부의 뜻에 철저히 순종하여 인류에 대한 사랑으로 그들의 모든 죄를 대신 짊어지고 수난을 받고 십자가에 못박혀 자신의 목숨을 바침으로써(예수의 십자가형) 모든 사람이 하느님과 다시 화해할 수 있는 길을 열어 주고 죄로부터 자유로워져 구원받을 자격을 되돌려 주었다고 가르치고 있다(속죄). 그리고 그리스도가 죽음을 이기고 부활함으로써 모든 사람이 원죄 때문에 불가능했던 하느님의 생명에 참여할 길이 다시 열리게 되었다고 가르치고 있다. 가톨릭교회의 가르침에 따르면, 예수 그리스도를 믿는 사람들은 죽어서 육체가 땅에 묻히고 썩어 없어지더라도 마지막 날에 예수처럼 영광스러운 몸으로 부활할 것이라고 한다. 사도신경 중에 “육신의 부활을 믿으며….”라는 고백은 바로 이런 뜻이다. 이와 같이 예수의 부활은 가톨릭 신앙의 근거이며 핵심이다.[63] 가톨릭교회에서는 예수의 부활을 믿지 않으면 기독교 신자라고 할 수 없다고 보고 있다.[64] 가톨릭교회의 가르침에 따르면, 그리스도는 부활한 다음 천국으로 승천하였다고 한다. 그리스도의 승천은 그가 이 땅에 와서 사명을 완수했다는 것, 하느님의 사랑받는 아들로서 하느님의 완전한 영광 안으로 들어갔다는 것, 그리고 세상 만물을 다르시고 인류를 구원하는 모든 주권이 성부와 함께 그리스도에게도 주어졌다는 것을 의미한다. 또한, 그리스도는 승천하면서 교회에 성령을 보내 주고, 성령과 함께 세상 끝날까지 교회와 함께 하겠다고 약속하였다고 한다. 그래서 모든 가톨릭 신자는 예수 그리스도가 그리스도이며 하느님의 아들임을 믿고, 그의 이름으로 영원한 생명을 얻는다고 믿는다.[65]
가톨릭교회는 성령의 발출(processio)이 성부와 성자에게서 나온다고 가르친다. 그리하여 381년 니케아 콘스탄티노폴리스 신경의 라틴어판에 ‘필리오케’(Filioque; 성자에게서)라는 단어를 집어넣어 “성령께서는 성부와 성자에게서 발하시고….”가 되었다. 이는 단지 신앙 고백의 또 다른 형태이거나, 라틴어판에만 해당되는 것이 아니라, 동방 가톨릭교회를 비롯한 교황과 친교를 이루는 동방 기독교에서도 동일하게 받아들이고 있다.[note 7]
사도 전승
《가톨릭교회 교리서》에 의하면, 가톨릭교회는 ‘그리스도의 유일한 교회’로서, 니케아 콘스탄티노폴리스 신경에서 고백하는 ‘하나이고 거룩하고 보편되며 사도로부터 이어 오는 교회’이다.[note 8] 그리고 가톨릭교회의 설립자는 예수 그리스도이며, 그는 열두 사도를 임명하여 자신의 사명을 계승하도록 하였다고 가르친다. 사도들은 바로 교회의 초기 주교들에 해당한다.[66] 가톨릭교회는 그리스도가 승천하면서 사도들에게 “보라, 내가 세상 끝 날까지 언제나 너희와 함께 있겠다.”(마태 28,20)라고 약속했기 때문에, 사도들의 권한은 단절되지 않고 그들에게 서품받은 후계자들인 주교들이 계승하고, 또 주교들을 후임 주교들이 계승하는 방식으로 오늘날에도 여전히 행사하고 있다고 가르치고 있다.[67] 특히 로마의 주교인 교황은 사도들의 으뜸인 베드로의 후계자인데, 교황은 그의 수위권을 이어받아 교회에서 행사하고 있다.[note 9] 가톨릭교회는 또한 교황 비오 12세의 회칙 《그리스도의 신비체에 관하여》(Mystici Corporis Christi)에서 교회가 (그리스도를 머리로 한) 그리스도의 신비체로 자처하고 있다.[68]
따라서 오늘날 가톨릭교회를 제외한 다른 많은 기독교 교파가 저마다 그리스도의 유일한 교회라고 하는 주장을 받아들이지 않는다. 왜냐하면 이런 주장은 유일한 교회와 보편된 교회에 반대되는 주장이기 때문이다. 이와는 반대로, 가톨릭교회까지 포함해 세상에 있는 모든 교회는 아류고 참된 교회가 아니므로 참된 교회는 교회 일치 운동을 통하여 세상 종말에 비로소 실현된다는 주장도 받아들이지 않는다. 그러나 가톨릭교회는 비록 갈라져 나간 기독교 교파들이 부족한 점은 있어도 구원의 신비에서 전혀 가치가 없는 것은 아니라고 보고 있다. 성령은 다른 교파들 안에서도 활동하고 다른 교파들도 구원의 도구로 사용하기 때문이다. 그러나 다른 교파에 좋은 점이 있다고 하더라도 구원에 필요한 모든 요소가 다 있는 것은 아니다. 가톨릭교회를 통해서만 구원의 방법을 충분히 가질 수 있기 때문이다. 가톨릭교회 외에는 완전한 구원 기관이 없다는 것이 가톨릭교회의 원칙이다.[69] 아울러 기독교를 제외한 다른 종교에 대해서는 폐쇄적인 태도를 버리고 대화하고 협력하며 존중하는 태도를 가지되 그것이 종교 다원주의나 종교 상대주의로 빠지는 것으로 되어서는 안 된다고 보고 있다.[note 10]
성사
트리엔트 공의회에서는 그리스도가 성사를 제정하고 이를 집전한 권한을 교회에 맡겼다고 정의하였다. 성사의 종류는 총 일곱 가지로, 세례성사와 견진성사, 성체성사, 고해성사, 병자성사(또는 종부성사), 성품성사, 혼인성사이다. 성사는 하느님의 현존과 은총을 직접 체험할 수 있도록 그리스도가 교회에 맡긴 은총의 효과적인 표징들로서, 성사를 받는 사람 역시 올바른 자세와 지향, 마음가짐과 열정에 따라 은총을 더욱 풍성하게 받을 수가 있기 때문에 진실한 믿음과 성실한 참여가 요구된다. 아울러 성사는 그리스도가 제정하고 실질적으로 주관하기 때문에, 교회가 정한 합당한 예절과 자격이 있는 도구적 집전자(사제)가 집전한다면 성사의 효력이 생긴다. 즉 집전자의 개인적인 성덕과 관계없이 성사행위 자체(예절)를 올바르게 집전했다면 성사의 은총이 자동적으로 베풀어진다. 그래서 성사는 인효적(ex opere operantis)이 아니라 사효적(ex opere operato)이라 한다.[70] 《가톨릭교회 교리서》는 칠성사를 크게 ‘그리스도교 입문 성사’, ‘치유의 성사’, ‘친교에 봉사하는 성사’로 구분하였다. 세례성사와 견진성사, 성체성사는 완전한 신자가 되는 과정의 절차이고, 나머지 성사들은 특수한 경우에 특별한 목적으로 받는 성사들이다. 그리고 칠성사 중 세례성사와 견진성사, 성품성사는 일생 동안 한 번만 받을 수 있고, 다른 네 가지 성사는 필요할 때마다 계속해서 받을 수가 있다.
사후 심판
가톨릭교회에서는 사람은 누구나 죽은 후에 곧바로 하느님으로부터 개별적으로 심판(사심판)을 받게 된다고 가르친다.[71] 교회는 또한 언젠가 그리스도가 산 이와 죽은 이를 막론하고 모든 인류에 대한 보편적 심판을 거행할 날이 도래할 것이라고 가르치고 있다. 가톨릭교회의 가르침에 의하면, 세상 종말에 이르러 우주적 이변이 발생하는 가운데 그리스도가 천상 세계로부터 이 땅에 재림하여 공심판(최후의 심판)을 거행함으로써 인류 역사는 종식되고 하느님의 정의로운 통치를 받는, 새 하늘과 새 땅이 도래할 것이라고 한다. 그 때에 죽었던 사람들은 부활하여 분리되었던 영혼과 육신이 재결합하고, 아직 죽지 않고 살아있는 사람들과 함께 심판자 그리스도로부터 심판을 받는데, 의인들은 천국에서 영원한 복을 누리고 악인들은 지옥에서 영원한 벌을 받을 것이라고 한다.[72] 각자의 심판 기준은 마태오 복음서에서 말하는 바와 같이, 그리스도가 세상에 알려 준 사랑의 법을 어떻게 실천했는가에 따른다.[73] 특히 그리스도는 “나에게 ‘주님, 주님!’ 한다고 모두 하늘나라에 들어가는 것이 아니다. 하늘에 계신 내 아버지의 뜻을 실행하는 이라야 들어간다.”고 강조하였다.[74] 공심판이 언제 일어날 지에 대해서는 성부 외에는 아무도 모른다고 한다.[75]
《가톨릭교회 교리서》에 의하면, ‘최후의 심판 때에 각 사람이 지상 생활 동안 선을 행하였거나 이를 소홀히 한 일의 궁극적 결과까지도 드러날 것’이라고 한다.[76] 죽은 후부터는 범죄하거나 공로를 쌓을 수가 없으며, 육체를 떠난 영혼은 심판의 결과에 따라 다음 세 곳 가운데 한 곳으로 가게 된다고 한다.
천국은 하느님과 완전히 일치하여 매개체 없이 하느님을 있는 그대로 선명하고 명백하게 바라보며 그와 함께 영원히 누리는 행복, 즉 지복직관(至福直觀)을 누릴 수 있는 상태를 말한다.[77]
연옥은 하느님의 은총과 사랑 안에서 죽었기 때문에 영원한 구원을 보장받았으나, 아직 완전히 정화되지 않은 사람들이 천국의 기쁨으로 들어가기 위해 필요한 거룩함을 얻기 위해 거쳐야 하는 정화를 가리킨다.[78] 비록 용서를 받고 하느님과 화해했더라도 죄에 따르는 벌이 남아 있고 또 죄 때문에 파괴된 질서가 아직 회복되지 않았기 때문에 정화가 반드시 필요하다. 그러므로 소죄나 잠벌이 있으면 후세에 가서 연옥 벌을 통하여 이를 치루어야 한다는 것이 교회의 가르침이다.[79] 연옥의 영혼들은 세상에 있는 열심한 신자들의 기도로 연옥에서의 고통이 경감되거나 정화 기간이 단축되는 등 큰 도움을 받을 수 있기 때문에 교회는 연옥 영혼들을 위한 미사를 봉헌하고 위령 기도를 바칠 것을 적극 권장하고 있다. 연옥은 천국이나 지옥과는 달리 공심판 후까지 연장되지 않는다. 공심판으로써 모든 사람의 정화 과정이 끝나면 더는 필요 없기 때문이다.
지옥은 하느님이 베푸는 사랑과 은총을 거부하고 대죄를 의식적으로 범한 상태에서 회개하지 않고 죽을 때까지 그 생활을 청산하지 않은 사람들이 스스로 하느님과 영원히 단절되어 벌을 받는 상태를 일컫는다. 하느님은 아무도 지옥에 가도록 예정하지 않으며, 순전히 자유의사로 하느님에게 반항하고 끝까지 그것을 고집함으로써 지옥에 가게 되는 것이다. 전통적인 신학은 지옥 영벌의 본질이 실고(失苦)라고 가르친다. 실고는 지복직관을 상실한 것을 말한다. 이에 덧붙여 각고(覺苦)라는 것도 있다. 각고는 모든 피조물과의 관계도 끊어지며 느끼는 고통을 말한다. 하느님과 관계가 끊어지므로 피조물과의 관계도 끊어지는 것이다. 또한, 천상복락이 영원하듯이 지옥 벌도 끝이 없다. 대죄를 지닌 채 세상을 떠난 영혼은 악질로 고정되어 회개할 수 없으므로 그 죄악도 영원히 남아 그에 따르는 벌 역시 영원히 존속하기 때문이다.[80]
성모 마리아
15세기 이전에 생긴 대부분의 그리스도교 종파가 그러하듯이, 가톨릭교회 역시도 예수 그리스도의 모친 마리아를 ‘성모’(聖母) 또는 ‘복되신 동정녀’라고 부르며 특별히 공경하고 있는데, 이는 마리아를 신적 존재로 숭배하는 것이 아니다. 가톨릭교회는 마리아에 대한 공경과 하느님에 대한 흠숭을 구별하고 있다. 하느님에게는 흠숭지례를, 천사들과 성인들에게는 공경지례를 드리는데, 성인들 가운데 특별히 마리아에게는 더 높은 공경인 상경지례를 드린다고 가르친다. 가톨릭 신자들은 하느님에게 기도할 때 무언가를 들어 달라고 직접적으로 청한다. 그러나 성모 마리아를 비롯한 성인들과 천사들에게는 우리를 위해 기도해 달라고 청한다. 즉, 성모 마리아를 포함한 성인들과 천사들에게 기도하는 것이 아니라 그들과 함께 하느님에게 기도하는 것이다. 그리고 성모 마리아와 성인들, 천사들은 지상의 신자들을 위해 전구해주는 것이다. 가톨릭교회는 마리아가 영원한 동정녀이자 하느님의 어머니(천주의 성모)로서 원죄에 조금도 물들지 않고 태어났으며(원죄 없는 잉태), 지상 생애를 마친 후에는 육신과 영혼이 모두 그리스도에 의해 천국에 들어올림을 받았다고 믿는데(성모 승천), 이 두 믿음은 각각 1854년 교황 비오 9세와 1950년 교황 비오 12세에 의해 교황 무류성에 따라 마땅히 믿어야 할 교의로 선포되었다.
마리아론은 마리아의 생애 뿐만 아니라 그녀에 대한 신심과 기도, 미술, 음악, 건축 등 모든 분야를 다루고 있다. 가톨릭교회의 전례력에는 마리아를 기념하는 축일들이 많이 있다. 또한 5월은 성모 성월, 10월은 묵주기도 성월로서 1년 중 두 달이 마리아와 관련된 성월이다. 이와 관련해서 교황 바오로 6세는 사도적 권고 《마리아 공경》(Marialis cultus)에서 “그리스도 다음으로 가장 높고 우리에게 가장 가까운 자리를 차지하시는 마리아의 위치를 분명하게 드러내야 하는 원칙을 따르고 있다”(28항)고 밝혔다. 마리아에게 전구를 청하는 대표적인 가톨릭 기도문으로는 성모송과 묵주기도, 살베 레지나 등이 있다.[81]
가톨릭교회에서 공식적으로 인정한 성모 발현은 루르드의 성모, 파티마의 성모, 과달루페의 성모 등이 있다.[82] 성모 발현이 일어난 장소들은 가톨릭 신자들이 많이 찾는 순례지이기도 하다.[83]
역사
가톨릭 전승과 교리에 의하면, 가톨릭교회는 1세기경 로마 제국 치하의 유데아 속주에서 예수 그리스도가 설립한 유일한 참 교회이다.[84] 신약성경에는 예수 그리스도의 활동과 가르침 그리고 열두 사도에 대한 그리스도의 약속과 그들에게 지시한 과업 등이 기록되어 있다.[85][86]
가톨릭교회는 성령 강림 대축일에 성령이 내려와 사도들에게 임한 사건(사도 2,1)이 가톨릭교회의 공적인 사목 활동이 시작되었음을 알리는 신호탄이라고 가르치고 있다.[87] 가톨릭 교리에 따르면, 오늘날 가톨릭교회는 이러한 초대 기독교 공동체의 연속선상에 있다. 가톨릭교회는 또한 마태오 복음서에 나오는 베드로의 신앙 고백(마태 16,13-20)에 의해 그리스도가 사도 베드로와 그의 후계자들을 자신의 지상 교회의 머리로 삼았다고 한다. 그리고 사도 베드로와 그의 후계자들이 바로 로마의 주교, 즉 교황이다. 이러한 가톨릭교회의 교리를 사도 전승이라고 부른다.
로마 제국 시대
서기 30년경, 예루살렘에서 생긴 교회가 활동을 시작할 당시, 로마 제국의 전반적인 상황은 새로운 사상의 전파가 가능한 조건을 갖고 있었다. 제국 전역에 세워진 수많은 도로망과 수로는 빠르고 편리한 이동을 가능하게 하였으며, 팍스 로마나(Pax Romana, 로마 제국에 의한 평화) 덕분에 안전하게 이동할 수 있었다. 로마 제국의 문화는 생각과 사고방식을 쉽게 표현하며, 이를 다른 사람이 쉽게 이해하도록 설명하는 그리스 문화에 뿌리를 두고 있었다. 로마 제국은 이러한 문화를 널리 보급하는데 힘을 기울였다.[88] 그러나 기독교는 유대교와 더불어 로마 제국 내의 다른 종교들과는 달리 황제 숭배를 포함하여 다른 신들을 우상숭배로 판단하여 숭배하려고 하지 않았다. 그리스도인들은 비기독교적 종교 의식에 참여하는 것을 거부했기 때문에 공적 생활에 참여할 수가 없었다. 그리스도인들의 이러한 행위에 대해 제국 당국과 비그리스도인들은 곱지 않은 시선을 보냈다. 그들은 그리스도인들이 신들의 분노를 불러 올 것이며, 결국 제국의 평화와 번영을 위협할 것이라고 우려하였다. 실제로 전염병, 기근, 홍수, 야만족 침입 등의 재난이 발생하자 기독교 반대 세력은 기독교 때문에 신들이 벌을 내린 것이라면서 군중을 선동하기도 했다. 또한, 로마 황제들은 로마 제국의 정치·사회적 혼란기를 맞으면서 종교적 기반을 토대로 제국의 쇄신과 내적 강화를 꾀했는데 황제 숭배 같은 국가종교 예배가 국가에 대한 충성의 시금석으로 강조될수록 이를 거부하는 그리스도인들은 국가의 적으로 비춰질 수밖에 없었다. 그 결과 로마 제국은 기독교에 대한 대대적인 박해 정책을 펼쳤으며, 이는 4세기에 기독교가 합법화되기까지 지속되었다.[88] 특히 64년 7월 19일 로마 대화재가 일어난 후 그리스도인들이 화재를 일으켰다는 소문이 퍼지면서, 당시 로마에 거주한 많은 그리스도인이 방화범으로 몰려 4년 간 처형되었다. 이 시기에 베드로와 바오로도 순교했다고 전해진다.
312년 콘스탄티누스 1세 황제는 로마 제국의 패권을 놓고 막센티우스와 다투게 되었다. 군사적으로 열세에 있던 콘스탄티누스 1세는 테베레 강 밀비오 다리에서 결정적인 전투를 치르게 되는데 전투가 시작되기 전 그가 그리스도인들의 신에게 기도하면서 도움을 청했을 때, 공중에서 빛나는 십자가와 ‘이것을 가지고 승리하라’는 문구를 보았다. 이에 자신감을 얻은 콘스탄티누스는 그리스어로 그리스도를 의미하는 키(Χ)와 로(Ρ)로된 군기를 만들어 가지고 싸워 승리했다고 한다. 이 밀비오 전투의 승리로 콘스탄티누스는 로마 제국의 주인이 됐고 그리스도를 수호신으로 숭배하게 되었다.[89] 313년 콘스탄티누스 1세는 밀라노 칙령을 내려 기독교를 법적으로 공인하여 신앙의 자유를 허용하였으며, 380년 테오도시우스 1세 황제가 테살로니카 칙령을 내려 기독교를 로마의 국교로 선포하였다. 이로써 300년 간의 혹독한 박해를 이겨낸 기독교는 로마 제국의 국가교회가 됐다. 로마 제국의 기독교화는 광범위한 복음전파와 함께 대중의 대량 입교로 인해 양적으로 성장했다. 초기 7대 세계 공의회 시기에 부각된 로마, 콘스탄티노폴리스, 안티오키아, 예루살렘, 알렉산드리아 등 다섯 주교좌는 6세기 중엽 유스티니아누스 1세 황제에 의해 펜타르키아가 성립되면서 공식적으로 정리되었다.[90][91] 특히 로마는 기독교 공동체 박해의 주무대였으며, 베드로와 바오로 두 사도의 순교지라는 특수한 의미와 배경 때문에 초대 교회 때부터 일치의 기준이었고 가시적인 정점으로서 다른 주교좌들에 비해 확고한 위치를 차지하였다. 로마는 종종 스승처럼 다른 지역 교회와 공동체의 문제에 가르침을 내렸다. 한 예로, 클레멘스 1세가 코린토스 교회의 내부 분쟁에 직접 개입했다는 사실은 로마 주교가 중요한 역할을 담당했음을 알려준다. 당시 지역 공동체 지도자들은 로마를 방문해 로마 공동체와의 일치를 확인하고 보장받곤 했다.[92] 330년 5월 11일 콘스탄티누스 1세가 제국의 수도를 로마에서 오늘날의 이스탄불인 콘스탄티노폴리스로 이전하였다. 그리고 451년 칼케돈 공의회에서 콘스탄티노폴리스 주교좌를 로마 주교좌에 이어 교회 내 서열 2위의 위치로 격상하는 교회법을 제정하여 이에 대한 법적 유효성 논쟁이 벌어졌다.[93] 한편, 350년경부터 500년경에 거쳐 더는 제국의 수도가 아닌 로마의 주교인 교황들이 끊임없이 영향력을 확대해가면서 새로운 국면을 맞이하게 되었다.[94]
수세기 동안 로마 제국을 침입한 게르만족의 대부분은 가톨릭교회에서 이단으로 단죄한 아리우스주의를 추종하였다. 게르만 군주들과 가톨릭교회 사이에 발생한 종교적 불화는 497년 프랑크족 군주 클로비스 1세가 정통 가톨릭 기독교 신앙으로 회심하고 교황 및 수도원들과 동맹 관계를 맺음으로써 평화롭게 일단락되었다. 뒤이어 589년에는 스페인의 동고트족이 가톨릭 신앙으로 회심하였으며,[95] 7세기에는 이탈리아의 랑고바르드족도 회심하였다.
서방 기독교에서는 특히 수도원들을 통해 미술(채색 필사본을 참조하라)과 읽고 쓰는 능력을 배양하여 고전 고대 문명을 보존하였다.[96][97] 누르시아의 베네딕토(480년경 - 543년)는 성경에 근거를 둔 수도원 규율을 저술하여, 모든 서방 수도자의 영적인 삶의 지침서로 삼게 하였다. 그리고 고대 문화의 보존 및 전달과 함께 베네딕도회의 전통을 널리 전파하여 유럽 문화에 지대한 영향을 끼쳤다. 한편으로는 골룸바노와 골룸바와 같은 아일랜드 선교사들이 유럽 대륙으로 건너가 사람들을 교육하고 수도원들을 세우는 일에 집중하였다.
7세기 중엽에 이슬람교가 출현하여 군사적 정복 활동을 통해 교세를 확장해가면서 지중해 연안 전체에서 기독교와 이슬람교 사이에 오랜 싸움이 시작되었다. 동로마 제국이라고 불리는 비잔티움 제국은 이슬람교 세력으로부터 총대주교구의 소재지인 예루살렘, 알렉산드리아, 안티오키아를 빼앗기면서, 제국의 수도인 콘스탄티노폴리스 하나 밖에 남지 않았다. 로마 역시 846년에 숱한 약탈에 시달리기는 했지만, 툴루즈와 푸아티에에서의 전투로 이슬람교 세력의 서방 진출이 가로막혀 안전할 수 있었다.
중세와 르네상스 시대
가톨릭교회는 고대 말엽부터 근대 초기에 이르기까지 서구 문명에 있어서 지대한 영향을 끼쳤다.[2] 가톨릭교회는 로마네스크 양식과 고딕 양식, 매너리즘 양식, 바로크 양식 등 미술과 건축, 음악 등의 예술 분야에 있어서 주요 후원자였다.[98] 특히 르네상스 시대의 대표적인 예술가들인 레오나르도 다빈치, 미켈란젤로, 라파엘로, 보티첼리, 프라 안젤리코, 티치아노, 베르니니, 카라바조 등은 모두 교회로부터 후원을 받고 작품을 만들었다.[99]
8세기에 교황 알렉산데르 2세 때부터 소바나의 일데브란도를 주축으로 하여, 추기경단이 생기게 되었다. 알렉산데르 2세가 선종한 후에 일데브란도가 새 교황으로 선출되었는데, 그가 바로 교황 그레고리오 7세이다. 그레고리오 7세는 추기경단 체제에 대한 기본적인 지침을 세웠는데, 이는 오늘날까지 계속 유지되고 있다. 그레고리오 7세는 세속 권력으로부터 교회 성직자들을 독립하는 것과 관련해서 훗날 그레고리오 개혁이라 불리게 된 일대 개혁을 단행하였다. 그로 인하여 주교를 서임하는 권한을 놓고 교황과 신성 로마 제국의 황제 사이에 서임권 투쟁이 일어났다.
1095년 이슬람교 국가인 셀주크 튀르크의 계속된 침략에 시달리던 동로마 황제 알렉시오스 1세가 교황 우르바노 2세에게 도움을 요청하였다. 때마침 637년부터 성지라고도 불리는 팔레스티나 지역은 이슬람 세력권 아래 들어가 있어서 그 지역 기독교 주민들의 생활이나 성지 순례에 큰 어려움이 없었으나, 셀주크 튀르크가 점령한 이후부터는 성지 순례가 어려워졌고 심한 박해를 받게 되었다. 그리하여 우르바노 2세는 위기에 처한 동로마 제국을 군사적으로 원조하고, 기독교 성지를 회복한다는 대의명문 아래 서방의 기독교 군주들이 십자군 원정을 떠날 것을 호소하였다.[100] 이리하여 11세기 말부터 13세기까지 근 200여 년 동안 8차례에 걸쳐 십자군 원정이 실행되었다. 1099년 제1차 십자군이 예루살렘을 탈환하고 예루살렘 왕국을 세우기도 했으나 대부분 실패로 끝났다. 한편 11세기에는 교황의 권위 허용 범위를 놓고 서방 교회와 동방 교회 간에 갈등이 빚어졌는데, 제4차 십자군이 콘스탄티노폴리스를 침공하여 라틴 제국을 세우면서 동서 교회의 분열은 더욱 심화되어 회복할 수 없는 지경에 이르렀다.
13세기 초에는 아시시의 프란치스코와 도미니코에 의해 탁발 수도회가 등장하였다. 탁발 수도회들이 세운 학교들은 훗날 유럽의 유명한 대학들의 모태가 되는 교회 학교 및 왕립 학교들이 되었으며, 교회는 이들 학교를 통해 교육계를 후원하였다.[101] 토마스 아퀴나스를 비롯한 수많은 스콜라 신학자 및 철학자들이 이들 탁발 수도회들이 세운 학교에서 공부하였으며, 또한 교수가 되어 학생들을 가르쳤다. 토마스 아퀴나스의 《신학 대전》은 플라톤이나 아리스토텔레스와 같은 고대 그리스 철학자들의 주장 원리를 기독교 교리와 종합한 지적 산물이었다.[102]
14세기에 들어서면서 교회와 세속 국가 간의 갈등이 커져가기 시작했다. 1309년 교황 클레멘스 5세는 당시 치안이 불안정한 로마를 떠나 프랑스 남부에 있는 아비뇽으로 거처를 옮겼다. 이후로도 6명의 교황이 계속 아비뇽에서 지냈는데, 이 시기를 아비뇽 유수라고 부른다.[103] 아비뇽 유수는 1375년 교황이 로마로 돌아오면서 종식되었지만,[104] 뒤이어 1378년 로마와 아비뇽에서 각자 교황을 내세우고 1409년에는 피사에서도 독자적인 교황을 내세우면서 서방 교회의 분열이 38년 간 지속되었다.[104] 이 문제는 1317년 콘스탄츠 공의회에서 추기경들이 당시 난립한 세 교황을 모두 사임시키고, 새로운 교황 마르티노 5세를 선출함으로써 매듭 지어졌다.[105]
1438년 로마 가톨릭교회와 동방 정교회의 재일치를 위해 피렌체 공의회가 소집되었다. 동방 교회와 서방 교회 사이에 주요 교리 논쟁을 둘러싸고 치열한 공방전이 벌어졌다.[106] 최종적으로는 동방 교회 측이 서방 교회 측의 입장을 대부분 접수하였으나, 1453년 콘스탄티노폴리스가 오스만 제국에 함락됨으로써 그 효력을 잃어버렸다. 하지만 이후 몇몇 동방 교회들이 로마 가톨릭교회에 귀일하였는데, 이들을 동방 가톨릭교회라고 부른다.
개신교의 출현
1517년 독일에서 마르틴 루터가 몇몇 주교들에게 95개조 반박문을 작성, 동봉하여 보냈다.[107] 반박문에서 루터는 대사의 특전 등 가톨릭교회의 교리들을 공격하였다.[107][108] 스위스에서는 울리히 츠빙글리와 장 칼뱅 등이 등장하여 가톨릭교회의 가르침을 비판하였다. 이러한 독자적인 신학 노선이 유럽 안에 퍼져갔는데, 이러한 운동을 소위 종교 개혁이라고 부르게 되었다.[109] 잉글랜드 종교 개혁은 헨리 8세 치세에 정치적 분쟁으로 촉발되었다. 헨리 8세는 교황에게 당시 왕비였던 아라곤의 캐서린 사이에 맺어진 혼인을 무효화해달라는 요구를 했으나 거절당하자, 수장령을 선포하여 자신이 잉글랜드 교회의 수장임을 선언하였다.[110]
독일에서 발생한 종교 개혁은 개신교 슈말칼덴 동맹과 가톨릭 측의 대표인 카를 5세 황제 사이에 전쟁을 불러왔다. 양측의 첫 번째 충돌은 9년 전쟁으로서 1555년에 종전했지만, 긴장 상태는 계속 이어져 결국 1618년에는 더 큰 충돌인 30년 전쟁이 발발하였다. 30년 전쟁은 베스트팔렌 조약으로 가톨릭교회와 개신교 모두 동등한 권리를 갖는 데 합의함으로써 종식되었으며, 신성 로마 제국 황제의 권위는 크게 실추되었다.[111] 프랑스에서는 1562년부터 1598년까지 위그노 교도와 프랑스 가톨릭 동맹 간에 위그노 전쟁이라고 불리는 전쟁이 일어났다. 이 시기에 재임한 교황들은 가톨릭 동맹 편에 서서 그들을 재정적으로 지원하였다. 프랑스 내 가톨릭 동맹과 위그노 세력의 분쟁은 1598년 앙리 4세가 종교적 관용 정신에 따라 개신교도들을 국가의 시민으로 인정하고 그들의 예배 자유를 인정하는 내용을 담은 낭트 칙령이 반포되고 교황 클레멘스 8세가 이를 받아들임으로써 끝을 맺게 되었다.[112]
기존의 가톨릭교회로부터 개신교가 분열되면서 이 분열을 치유하려는 운동이 본격적으로 전개됐는데, 이러한 교회 쇄신 운동을 19세기 초 역사가들은 가톨릭 종교 개혁 또는 대응 종교 개혁이라고 불렀다. 가톨릭 개혁은 개신교 종교 개혁 이후 일어난 반가톨릭 운동의 확산을 저지하고 교회의 가르침을 명확히 하려고 했다. 트리엔트 공의회(1545–1563)는 바로 이러한 가톨릭 개혁을 이끌어낸 원동력이 되었다. 트리엔트 공의회는 교리적으로는 성변화와 구원을 받기 위해서는 믿음과 소망, 사랑이 필수 조건이라는 가르침과 같이 가톨릭교회의 핵심 교리들을 재차 확인하였다.[113] 또한, 로욜라의 이냐시오가 설립한 예수회는 당시로서는 가히 혁명적이라고 할 만한 영성 생활 지도와 유럽중심주의로부터 벗어나 다른 나라의 전통을 존중하는 선교 활동, 자선 활동, 청소년 교육과 신학 연구 등을 통해 가톨릭 개혁과 신앙 복구의 원동력이 됨으로써 가톨릭 쇄신 운동의 중추가 되었다.
근세
대항해 시대가 열리면서 서유럽의 정치적·문화적 영향력이 세계 전역으로 뻗어 나갔다. 특히 스페인과 포르투갈 등 가톨릭 국가들은 서구의 식민지 정책에 있어 큰 역할을 하였다. 이들 나라들의 활발한 탐험과 정복 활동을 통해 식민지들의 사회적·정치적 일대 변화가 일어나면서 동시에 가톨릭 신앙이 아메리카와 아시아, 오세아니아로 널리 전파될 수 있었다. 교황 알렉산데르 6세는 스페인과 포르투갈에 새로이 발견된 땅을 식민지로 삼을 수 있는 권한을 부여했으며,[114] 뒤이어 이들 나라에 국왕 교회 보호권을 부여하여 식민지의 새 성직자 임명권을 바티칸이 아니라 세속 국가 정부가 갖는 것을 허용하였다.[115] 1521년 포르투갈의 탐험가 페르디난드 마젤란은 필리핀을 처음으로 가톨릭으로 개종시켰다.[116] 다른 한편, 스페인의 예수회원 프란치스코 하비에르의 주도 아래 포르투갈의 선교사들이 인도와 중국, 일본에 복음을 전하였다.[117]
17세기 중반부터 계몽주의가 서구 사회를 휩쓸면서 가톨릭교회의 권위와 질서에 대한 의구심과 반발심이 생겨났으며,[118] 18세기에는 볼테르와 같은 문학가들과 백과전서 편집자들이 교회를 강력하게 비평하는 글들을 썼다. 그들이 비난한 것 중의 하나는 1685년 프랑스 국왕 루이 14세가 100여년간에 걸친 개신교 위그노교도들에 대한 종교적 관용의 상징이었던 낭트 칙령을 철회하고, 퐁텐블로 칙령을 새로이 반포한 것이었다. 1789년 프랑스 혁명이 발발하면서 권력의 중추가 교회에서 혁명 정부로 이동하였으며, 프랑스 전역에서 수많은 성당이 파괴되고 이성 숭배가 들어섰다.[119] 1798년에는 나폴레옹 보나파르트의 장군 루이 알렉상드르 베르티에가 이탈리아를 침공하여 교황 비오 6세를 사로잡아 감금하였다. 비오 6세는 결국 끝끝내 프랑스군으로부터 풀려나지 못하고 선종하였다. 나폴레옹은 나중에 1801년 정교협약을 체결함으로써 프랑스에 가톨릭교회가 재건되었다.[120] 나폴레옹 전쟁이 종식되면서 프랑스의 가톨릭교회는 재부흥하였으며, 교황령도 회복되었다.[121]
교황 비오 9세는 1851년부터 1853년까지 주교들의 자문을 구한 후, 1854년 대다수 주교들의 압도적인 지지를 받아 마리아의 원죄 없는 잉태를 교의로 공식 선언하였다.[122] 1870년 제1차 바티칸 공의회는 교황 무류성의 교리적 정의를 내렸다.[123][124] 교황 무류성과 기타 문제들에 있어서 제1차 바티칸 공의회의 결정에 반발하여 독립한 무리는 스스로 구 가톨릭교회라고 자처하고 있다.[125]
1860년대 교황령을 포함한 이탈리아 통일 운동이 일어난 결과, 교황 비오 9세 치세에 이탈리아 왕국이 로마를 점령하면서 교황령은 사라지게 되었고, 천년 간 이어져오던 교황의 세속 권력이 종지부를 찍게 되었다. 이탈리아 정부는 교황 보장법을 제정하여 교황에게 연금을 제공하고, 일신상 불가침권과 영적 기능의 자유로운 행사를 보장하겠다고 교황에게 제의하였으나 교황은 이 제의를 일축하였고, 바티칸에 들어앉아 스스로 ‘바티칸의 포로’로 자처하였다.[126] 이후 영토 분쟁으로 인한 교황청과 이탈리아 정부 간의 교착 상태가 한동안 이어지다가 1929년 파시스트 무솔리니정부와 라테라노 조약을 체결해 해결되었다. 이 조약에서 교황청은 과거 교황령이었던 지역에 대한 이탈리아의 통치권을 인정하였으며, 이탈리아는 그 대가로 바티칸을 독립국가로 따로 분류하여 그곳에 대한 교황의 통치권을 인정하였다. 이리하여 바티칸 시국이 세워지게 되었다.
20세기
20세기는 정치적으로 근본주의적이고 반성직자주의적 성향의 정부들이 증가한 시대였다고 볼 수 있다. 1926년 멕시코에서 정교 분리를 내세운 칼레스법이 통과되어, 3천 명 이상의 사제들이 추방당하거나 살해당했으며,[127] 성당들은 세속적인 용도로 사용되었고, 전례는 조롱의 대상이 되었으며, 수녀들은 강간당하고 수감당한 사제들은 총살당하는 일이 비일비재하게 일어나[128] 결국 크리스테로 전쟁이 일어나는 원인이 되었다.[128] 러시아에서는 1917년 볼셰비키 혁명 이후 수립된 소비에트 연방 정부의 주도로 1930년대까지 현지에 있는 가톨릭교회가 박해당하였다.[129] 수많은 성직자와 수도자들, 평신도들이 처형이나 유배형에 처해졌으며, 교회 재산은 압류당했으며, 모든 성당이 사실상 문을 닫게 되었다.[130] 1936년부터 1939년까지 전개된 스페인 내전 기간 동안 가톨릭교회는 사회주의를 표방한 인민 전선 정부의 교회에 대한 적색 테러[131]에 대항하기 위해 프란시스코 프랑코의 파시스트들과 동맹을 맺었다.[132] 교황 비오 11세는 이들 세 나라를 ‘끔찍한 삼위일체’로 언급하면서 결국 몰락할 것이며, 미국과 유럽 국가들이 이들에 대해 침묵을 지키며 방관하는 것은 사실상 묵인한 것이나 다름없다면서 크게 질타하였다.
1933년 바티칸 시국과 나치 독일 간에 교회의 보호와 권리를 보장하는 제국종교협약이 체결된 이후,[133] 교황 비오 11세는 공개적으로 교회에 대한 나치스의 억압과 더불어 그들의 인종우월주의 사상과 신이교주의를 비판하는 회칙 《극도의 슬픔으로》(Mit brennender Sorge)를 1937년에 반포하였다.[134] 1939년 9월 제2차 세계 대전이 발발한 후, 교회는 나치 독일의 폴란드 침공과 뒤이은 1940년의 계속된 침공들을 단죄하였다.[135] 그러자 나치 독일은 자신들이 점령한 지역 도처에서 수천만 명의 가톨릭 사제들과 수도자들을 수감하고 살해하는 방식으로 맞대응하였다. 이 때 순교한 성인들로는 막시밀리아노 콜베와 에디트 슈타인이 있다.[136] 홀로코스트가 벌어지는 동안 교황 비오 12세는 가톨릭 관련 기관들에게 나치스로부터 비밀리에 유대인들을 보호할 것을 지시하였다.[137]
전후 수립된 동유럽의 공산주의 정부들은 종교적 자유를 심하게 제한하였다.[138] 비록 일부 사제들이 굴복하여 공산주의 체제에 협력하기는 했지만,[139] 대다수 사제들은 투옥되거나 추방당했으며 심지어는 처형당하기도 하였다. 이들의 희생을 바탕으로 가톨릭교회는 동유럽 공산주의권의 몰락을 이끌어낼 수 있었다.[140] 1949년 국공 내전에서 중국 공산당원들은 모든 외국인 선교사를 추방하였다.[141] 그리고 새로 수립된 중국 공산 정부는 1957년 7월 중국천주교애국회를 만들어 성좌의 승인 없이 일방적으로 주교들을 직접 서품함으로써 로마와 결별을 고했다.[142] 1960년대 일어난 문화 대혁명은 모든 종교 시설의 폐쇄를 초래하였다. 이후 중국의 성당들은 중국천주교애국회의 통제 아래 놓이게 되면서 다시 문을 열게 되었다. 이때부터 중국 정부와 중국천주교애국회의 방침을 거부하고 베드로좌와 일치하려는 성직자들과 신자들은 박해를 피해 지하로 숨어들게 되었다.[143]
제2차 바티칸 공의회
트리엔트 공의회가 폐막한 지 4세기 만인 1963년에 소집된 제2차 바티칸 공의회는 가톨릭교회에 일대 변혁을 가져왔다. 교황 요한 23세의 요청으로 소집된 제2차 바티칸 공의회는 미사를 라틴어 뿐만 아니라 각 나라의 언어로 봉헌하는 것을 허용하고, 평신도들도 적극적으로, 의식적으로 그리고 능동적으로 참여할 수 있도록 현대화하였다.[144] 제2차 바티칸 공의회는 교회와 현대 세계와의 대화(아조르나멘토)를 목표로 한 획기적인 공의회로서, 이를 두고 어떤 이들은 ‘창문이 활짝 열렸다’고 표현하였다.[145] 제2차 바티칸 공의회 이후 가톨릭교회는 전례의 개정 뿐만 아니라 다른 기독교 교파들과의 교회 일치 운동에 착수하였으며,[146] 다른 종교들, 특히 유대교와의 관계 개선에 나서게 되었다.[147]
그러나 제2차 바티칸 공의회는 교회의 쇄신을 시행하면서 커다란 논란을 불러 일으키기도 하였다. 한스 큉과 같은 진보주의자 내지는 해방 신학자들은 제2차 바티칸 공의회가 교회를 근본적으로 변화시키는데 충분하지 못했다고 주장하였다.[148] 이와는 반대로 마르셀 르페브르와 같은 일부 전통주의자들은 제2차 바티칸 공의회를 강하게 비판하였으며, 특히 전례 개혁이 미사와 성사들의 거룩함을 파괴하도록 이끌었다고 성토하였다.[149]
1978년 당시 공산주의 국가였던 폴란드의 크라쿠프 대교구장이었던 카롤 보이티와가 교황 요한 바오로 2세로 선출되었다. 이로써 455년 만에 처음으로 비이탈리아인 교황이 선출되었다. 그의 재위기간은 27년으로 오래 재위한 교황들 가운데 한 사람으로 기록되었다.[150] 이 폴란드인 교황은 소비에트 연방의 미하일 고르바초프 서기장과 더불어 유럽 공산주의의 몰락을 재촉한 인물로 회자되고 있다.[151]
교황 요한 바오로 2세는 급속도로 세속화되어가는 세계를 복음화하기 위해 노력하였다. 이를 위한 일환으로 그는 현재 2년 내지는 3년마다 열리는 세계 청년 대회를 만들어, 교황이 전세계 가톨릭 젊은이들과 직접 만나 소통하도록 하였다.[152] 요한 바오로 2세는 또한 생전에 129개국을 방문함으로써 그 어떤 교황들보다 사목 방문을 많이 했으며,[153] 텔레비전과 라디오 등 현대 매체를 적극 활용하여 교회의 가르침을 널리 퍼트리고자 노력하였다. 그리고 1992년 요한 바오로 2세는 《가톨릭교회 교리서》를 공표하는 등 신자들에게 분명하고 확실한 교의를 설명하기 위해 많은 문헌을 발표했다.
같이 보기
가톨릭교회 교리서
한국의 로마 가톨릭교회
참고 자료
각주
외부 링크
| https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%A1%9C%EB%A7%88%20%EA%B0%80%ED%86%A8%EB%A6%AD%EA%B5%90%ED%9A%8C |
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『アフタヌーンショー』は、1965年4月5日から1985年10月18日まで20年半の間放送された、テレビ朝日[1]製作の昼のワイドショー番組。本番組の放送開始前年の1964年に放送開始された朝のワイドショー番組『モーニングショー』の昼版的存在の番組でもあった。
概要
正午・午後に放送の初のワイドショー番組であり、当初は、『ただいま正午・アフタヌーンショー』としてスタートし、スタートから2年目を迎える前の1966年1月から、『桂小金治アフタヌーンショー』に改題され、1973年8月から1985年10月18日の番組終了までは、タイトルも『アフタヌーンショー』だけ(その後司会を川崎敬三に変更される)となる。
放送時間は12時00分 - 12時55分(JST)。
また、『モーニングショー』同様に正月三が日の放送も行っていた他、『モーニングショー』とセットで放送する他系列局も多かった。
本番組に出演していた梨元勝の話によると、本番組の企画として『NHK紅白歌合戦』の突撃取材を行ったところ、これを機に民放各局の情報(ワイドショー)・報道番組が紅白を大きく取り上げるようになったという[2]。
番組の歴史など
放送開始直後の司会形態の転換
1964年4月スタートの『木島則夫モーニングショー』の成功を受けて、当時の日本教育テレビはモーニングショー以前の平日午前枠がそうであったように、未だ不毛の時間枠となっていた平日正午の開拓に乗り出す。そこでスタートしたのがこの番組であり、1965年4月5日の初回放送はNET、毎日放送、九州朝日放送の同時ネット3局と、時差ネット局の名古屋テレビ(1969年4月から1973年3月までは中京テレビへ一時移行[3])の4局でスタートした。開始当初は榎本猛アナをメインに起用し、計8名の司会グループで番組進行を行うという異例の司会スタイルを採用した。しかし3ヶ月後より、人気女優の草笛光子と『お天気ママさん』(TBS)などで主婦層を中心に人気を集めていた大沢嘉子をアシスタントとして起用し、榎本・草笛・大沢のトリオ司会で軌道修正を行った。そして、スタートから10ヵ月が経過した1966年1月末より、2代目メイン司会者として、テレビ創成期より『地上最大のクイズ』(フジテレビ)などの司会者を務めていた落語家・桂小金治を新たに起用することとなった。
怒りの小金治
小金治が司会を務めていた時代は、あらゆるニュースに小金治が関心を持ち、"怒りの小金治"の異名が付くほどの人気番組だった。テーマ音楽は小川寛興作曲で、『桂小金治アフタヌーンショー』のテーマとして、後にアルバム『SHOW WA! ギャグ・ジャンボリー』にも収録された。この小金治時代には指圧治療の権威でもある浪越徳治郎がレギュラー出演しての指圧コーナーが一世風靡。小金治と負けず劣らずの強烈なキャラクターの持ち主である浪越もまた、人気を集めるようになった。また、田村魚菜の料理コーナーも人気だった。
小金治の「怒りのコーナー」はまず、対象者をスタジオに呼び、その対象者が意見を交わし合って、小金治はその意見を静かに聞いている。そして、フロアディレクターが小金治に小声で「怒れ!」の指示を出すと、突然のように小金治が「すねっかじりのくせに、甘えたこと言うんじゃない!」や「親を何だと思ってるんだ!」と言う風に本気で罵声を発していた。「政治家が出たときは高視聴率を出していた」と小金治は当時を回顧している。ちなみに最高視聴率は20%という当時の平日のお昼の番組としては驚異的なものとなり、第1期黄金時代となり、アナログUHF新局開局と相まって、クロスネット局や他系列局でのネットも増加していった。
しかし、小金治が呼びつけて怒鳴りつけた相手の多くが若者であったため、後述の勇退直前頃には、流行りだしていたラジオ深夜番組に「恨み」の手紙が届き、これを汲み取ったDJを介して非難されるようになった事から司会としての進め方に疑問が示されるに至る。さらに、視聴者の主婦からも批判の声が多かった。「悪人を罵倒するような小金治さんの司会は不愉快です」や「もっと冷静に司会して下さい」や「まじめなのはいいけど、怒ってばっかりなのはいやです」「もう少し今の若者の気持ちを理解して欲しい」などの批判を受け、とある生放送中に小金治が突然涙したことがあった。これが小金治が勇退するきっかけになり、7年半に渡った番組の司会を降板した。この話題は女性週刊誌でも取り上げられた。降板後フジテレビ『3時のあなた』に出演し、「もう怒りません」と語っている。その後暫くして日本テレビ『それは秘密です!!』で復帰を果たす。ちなみに『それは秘密です!!』では「泣きの小金治」と呼ばれた。
小金治は番組に起用されると「私の頭の中は20分の緊張が限度(落語の一席はほぼ20分程度)。一時間の番組が務まるのか不安だった」と語っている。
度重なる司会者交代と主なコーナーなど
1973年8月の小金治降板後は俳優の山田吾一がメイン司会者に就くが、同年10月末、自身が常連客として通いつめていた飲食店のオーナーが売春斡旋の容疑にかけられた事件が起き、同事件との関わりに対して、山田にもマスコミから疑惑が向けられたことを重大視したNETは、わずか就任3ヶ月で山田の司会更迭を即決定。その後、臨時司会者として同局の看板アナだった馬場雅夫が起用された後、1974年3月より当時『モーニングショー』の後の時間枠で放送されていた15分枠の平日帯番組『お料理ジョッキー』の司会を務めていた川崎敬三が司会に就き、芸能リポーター・梨元勝や俳優の山本耕一らの個性の強いレギュラー陣が加わり、スピード感のある事件・芸能ニュースを報じる番組に変化。第2期黄金時代を迎えた。また、ばばこういちもレギュラー陣に加わりばばが庶民が「納得いかない!!」と感じている問題を当事者に迫り追及する「なっとくいかないコーナー」も人気に拍車をかけた。梨元勝はこの番組で一躍有名になり、リポートの突撃ぶりが受ける。梨元自身が芸能人に言う「恐縮です!!」や、山城新伍が広めたとされる「梨元に言いつけるぞ!!」は当時流行語となった。
ネット局に関しても、1975年3月31日からは腸捻転解消に伴い近畿地方のネット局が毎日放送から朝日放送(現:朝日放送テレビ)に変更された[4]。1979年9月には同時ネットを行っていたテレビ岩手(当時は日本テレビ系列・テレビ朝日系列とのクロスネット局)がネットを打ち切ったのに伴い、1979年10月から1985年10月の打ち切りまでの本番組は一部地域での放映権移行はあったものの、29局ネットでなおかつ岩手・山梨・徳島の3県を除く44都道府県での放送となった。
やらせリンチ事件発覚・突然の番組終了
夏休みになるとカッパのミイラを鑑定するなど他愛ない企画が放送されたが、事件・芸能ニュースの過熱ぶりが夏休み企画にも波及。1985年8月3日の夜、東京都福生市内の多摩川河川敷で不良中学生の少女数十人がバーベキューパーティをしていたところ、暴走族の男が少女5人にリンチを加えて怪我をさせたという映像の一部始終を同年8月20日に「激写!中学女番長!!セックスリンチ全告白」というテーマで放送したが[5]、同年10月8日、逮捕された少女の供述から、このリンチは番組ディレクターが暴走族への指示で行った演出(やらせ)だったことが判明した。更に10月15日には被害者の少女の母親が自殺したことが発覚、10月16日にはやらせを指示したディレクターが暴行教唆で逮捕され(のちに罰金10万円の有罪判決)、懲戒解雇されるという前代未聞の不祥事となってしまった。ディレクターは暴走族リーダーの男の仲間である無職の少女2人に対し、「女同士の暴力シーンをさせてほしい」と話を持ちかけ、女子中学生の生徒数十人に暴行を加えさせた。暴力シーンの撮影後、ディレクターは少女らに取材協力費として10万円を支払った。放送日が夏休み期間中であったため、さらなる視聴率の低下を危惧してこの「やらせ」を企画したとされる。「やらせ」の業界用語が皮肉にも一般に浸透した出来事であった。
放送界前代未聞の事件となった「やらせリンチ事件」は日本の放送メディアに大きな波紋を呼び、各メディアからテレビ朝日に対する非難の声が高まり、テレビ朝日の会社自体や関係者はもちろんの事[6]、本番組をネットしていた28局にも大きな打撃を与えた。やらせリンチ事件発覚後の本番組における打ち切りまでの経過は次の通りである。
1985年10月8日(やらせ発覚当日) - 前日の同年10月7日にスタートした『ニュースステーション』においてトップニュースで久米宏が事件を報道して謝罪。事件が発覚した同日以降、各新聞の記事にも連日のように「やらせリンチ事件」の記事が掲載され、各テレビ・ラジオのニュースでも連日「やらせリンチ事件」が大きく報道されるようになった。本番組を取り巻く環境も、視聴率が急激に低下していくと同時に、発覚2日後の10月10日には体育の日もあったことから、日を追って悪化していく。
1985年10月14日 - やらせ発覚7日目にして、なおかつ発覚直後初の月曜日の放送で、当時社長であった田代喜久雄が番組に生出演して謝罪。ノンスポンサーで放送された。これにより番組スポンサーは事実上番組打ち切りの1週間前である同年10月11日までに全社が降板することとなり、最終回までノンスポンサーでの放送となった。
1985年10月16日 - 前日10月15日に被害者の少女の母親が自殺したことを受け、司会の川崎は涙を流しながら、責任を取って引責降板を表明。同時に馬場などのレギュラー陣も降板を表明した。
1985年10月17日 - やらせを指示したディレクターが前日の放送直後に逮捕されたことを受け、テレビ朝日は緊急協議を開き、本番組を翌10月18日をもって打ち切ることを決定。各新聞の夕刊のトップの記事に掲載された。
1985年10月18日 - やらせ発覚11日目にして本番組が終了し、20年半の歴史に幕を閉じた。最終回は20年間を振り返るスペシャルであり[7]、司会の川崎・今村がお詫びと感謝の言葉をのべ、最後には出演者全員が涙した。
その後、田代社長らテレビ朝日幹部は減給処分となり、当時の郵政省は、11月1日付でテレビ朝日に対して厳重注意の行政指導を行った[8]。さらに、テレビ朝日は無線局免許状の更新を拒絶されるのではという危機に瀕することとなったが、「条件付き」ということで免許剥奪は免れた。
この事件の発覚が引き金になり、テレビ朝日は視聴率がキー局4位に転落したことから、「振り向けばテレビ東京」と揶揄された。この影響は後番組はおろかテレビ朝日系列全体においても、視聴率低下や番組編成での相次ぐ失敗により、長期にわたり低迷する時代を招く事につながり、同時にテレビ朝日系列、本番組をネットしていたネット局28局(系列局・系列外局問わず[9][10])、『モーニングショー』などのテレビ朝日系ワイドショー全体の信頼も失墜し、本番組を打ち切り時点でネットしていたテレビ朝日系列13局(ANNフルネット12局と1993年3月まで日本テレビ系列とのクロスネットだった山形放送)は後の朝日放送『素敵にドキュメント』のやらせ発覚で再び打撃を受けることになった他、山形放送を除くテレビ朝日系12局は椿事件で三たび打撃を受けることになる[11]。
ザ・ぼんちからの謝辞
番組リポーターの山本耕一の事件リポートぶりや司会・川崎とのやり取りが、当時大人気の漫才コンビザ・ぼんちのネタに取り上げられた。「そ〜なんですよ川崎さん」「A地点からB地点まで」は流行語になり、ついには「恋のぼんちシート」という曲まで誕生した[12]。最終回にはふたりの川崎・山本への謝辞のコメントVTRが流された。
番組打ち切り後
後番組は、つなぎ番組として『この秋一番!』という番組(司会・みのもんた。新宿末廣亭からの寄席中継など)が放送され、1985年11月から1987年3月まで『なうNOWスタジオ』を放送後、同年4月からは、川崎と女優・古手川伸子(同じく女優・古手川祐子の実妹)を司会に迎えて『新・アフタヌーンショー』としても放送したが、わずか半年で打ち切りとなった(川崎はこれを機に事実上芸能活動を休業した[13])。この後も日本海テレビと北日本放送(いずれも日本テレビ系列)の2局が本枠の時差ネットを途中打ち切り[14]とした他、『人間探検!もっと知りたい!!』終了と同時にテレビ朝日系列外局での時差ネットが廃止されるなどしていった。
本番組で「やらせリンチ事件」の謝罪会見を行った当時の社長の田代も、本枠の系列外局時差ネット廃止の1カ月後である1993年5月14日に逝去した。また、本番組の3代目司会者だった山田吾一が2012年10月13日に逝去。2代目司会者だった桂小金治は、番組終了から29年後の2014年11月3日に88歳で逝去[15]。本番組最後のメイン司会者を務めた川崎敬三も、2015年7月21日に82歳で逝去した[16]。なお、川崎死去をもって、歴代のメイン司会者5名全員が鬼籍に入ったこととなる。
出演者
メイン司会者・アシスタント(サポート司会)
●は当時NETアナウンサー。
レギュラー
浪越徳治郎(指圧コーナー)
田村魚菜(料理コーナー)
山本耕一(リポーター)
ばばこういち(リポーター)
村上不二夫(リポーター)
加東康一(芸能リポーター)
須藤甚一郎(芸能リポーター)
梨元勝(芸能リポーター)
福富太郎
ミッキー安川
宮尾すすむ
伊丹十三(1977年から1978年まで、木曜日のコーナー「未解決事件シリーズ」のリポーター)
古舘伊知郎(当時テレビ朝日アナウンサー、事件リポーター)
佐々木正洋(当時テレビ朝日アナウンサー、リポーター)
ネット局
※系列は放送終了当時(打ち切り時はネット打ち切り時)のもの。太字は1985年10月18日の本番組打ち切り時点でのネット局。
ネット局に関する備考
放送形態について
1960年代以降はANN系列フルネット局並びに他系列とのクロスネット局が次々と開局していき、クロスネット局における正午枠のネットはフジテレビ系番組のネットを選択した局もあったが、青森テレビ、テレビ岩手、ミヤギテレビ、福島中央テレビ、新潟総合テレビ、テレビ信州、中京テレビ、岡山放送、テレビ山口、テレビ大分の10局は本番組の同時ネットを選択した。
開始当時の14時台・15時台は、『3時のあなた』(フジテレビ)をネットしていたフジテレビ系列を除く他系列がローカル枠だったため、『お昼のワイドショー』や『ベルトクイズQ&Q』(TBS)・『ポーラテレビ小説』(TBS)をネットしたり、正午枠のネットをフジテレビ系番組を放送していたクロスネット局が所在する日本テレビ系列局やTBS系列局が14時台・15時台に遅れネットで開始した局も多かった。
同時ネット局
正午から同時ネットで放送していたのは、ANNフルネット局と前述のクロスネット局10局であった。ミヤギテレビ・福島中央テレビ・新潟総合テレビ・中京テレビ・岡山放送はテレビ朝日系新局開局やネットチェンジ、電波相互乗り入れでANNフルネット局へ移行しなおかつ同時ネットは維持され、テレビ信州・テレビ大分は終了まで放送されたものの、青森テレビ・テレビ山口[32]は青森放送・山口放送への放映権移行と同時に14:00からの遅れネットへ変更され、テレビ岩手は1979年9月28日を以ってネット打ち切りとなっている。
テレビ岩手のネット打ち切り
テレビ岩手は1969年12月に開局したと同時に、岩手放送(現:IBC岩手放送、TBS系列)から移行を受ける形で本番組の同時ネットを開始。しかし、テレビ岩手は1979年秋の改編からサブ系列であるテレビ朝日系番組からメイン系列である日本テレビ系番組への変更やテレビ朝日系番組の打ち切り、一部番組を除くテレビ朝日系番組の岩手放送への放映権移行を1クールごとに順次行うことになり、その一環として同年9月28日を以って本番組を打ち切った。同時ネット局におけるテレビ朝日系新局開局を伴わずに、平日正午枠の途中打ち切りにしたケースはテレビ岩手が唯一の例である。
これにより、1979年9月29日以降にテレビ岩手で放送されるテレビ朝日系ワイドショーは『モーニングショー』(1979年12月打ち切り)と『おはようワイド・土曜の朝に』(朝日放送制作、1980年3月打ち切り)の2番組となり、同年10月1日以降の本番組から『女38歳気になるテレビ』までの平日正午枠は岩手・山梨・徳島の3県を除く44都道府県での放送となった。なおテレビ岩手は本番組打ち切り半年後の1980年4月にANNを脱退しNNSマストバイ局に変更した。
時差ネット局
時差ネット局は、正午枠はキー局同時ネットだったため、14時もしくは15時から放送されていた。時差ネット局へも、テレビ朝日がそれぞれ14時・15時に送出していた。ネット局ではCMのみ自社送出に差し替えて放送した(スタジオ生CMを除く)。これは、本番組終了後も、『人間探検!もっと知りたい!!』終了と同時に時差ネットが廃止されるまで続いた。
時差ネット局は、特別番組等の編成により放送時間が前後する場合があったほか、番組編成の都合で放送されない場合もあった。極端な場合、17時から放送された場合もあった(高校サッカー中継等による)。
時差ネット局ではほとんどの局で『モーニングショー』とセットで放送されていた。これも、『人間探検!もっと知りたい!!』終了と同時に時差ネットが廃止されるまで続いた。
本番組をネットしていた局の内、放映権移行や途中打ち切りとなった12局で切り替えられた番組は以下の通り。(後番組がローカル枠の番組は除く。打ち切り後の系列 ◎=日本テレビ系列、○=TBS系列、△=フジテレビ系列、●=日本テレビ系列・テレビ朝日系列、▲=TBS系列・フジテレビ系列)
脚注
関連項目
テレビ朝日系列平日昼の情報番組枠
後の1993年9月30日でもってANNフルネット局以外での本枠のネット(ANNニュースのみのネットを除く)は終了した。
玉井義臣 - 交通遺児育英会
やらせ
テレビ朝日番組一覧
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC |
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} | هل يحتوي الغلاف الجوي على غاز الهيدروجين؟ | غلاف الأرض الجوي | arabic | {
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غلاف الأرض الجوي هو طبقة من خليط من غازات تحيط بالكرة الأرضية مجذوبة إليها بفعل الجاذبية الأرضية.[1][2][3] ويحتوي على 78.09% من غاز النيتروجين و20.95% أكسجين [4] و0.93% آرغون و 0.04% ثاني أكسيد الكربون وبخار الماء، وهيدروجين، وهيليوم، ونيون، وزينون. ويحمي الغلاف الجوي الأرض من امتصاص الأشعة فوق البنفسجية ويعمل على اعتدال درجات الحرارة على سطح الكوكب.
يعتبر الغلاف الجوي مستودعاً كبيراً للمياه يستخدم لنقل الماء حول الأرض، إذ يصل حجم الماء الموجود في الغلاف الجوي إلى حوالي 12.900 كيلومتر مكعب يتساقط معظمها على شكل أمطار في المحيطات والبحار حيث أنه إذا حدث وسقطت كل المياه الموجودة في الغلاف الجوي في آن واحد كأمطار فإنها ستغطي الكرة الأرضية بعمق يصل إلى 2.5 سم. ويقدر ثقل السحب التي يحتويها بآلاف المليارات من الأطنان.
تكون الهواء
يحتوي الهواء على خليط من الغازات، تمتد من سطح الأرض إلى الفضاء الخارجي. وتعمل الجاذبية الأرضية على تثبيت الغلاف الجوي حول الأرض. وتتحرك الغازات بحرية فيما بينها. ويعبر ضوء الشمس، الذي يتكون من خليط من جميع الألوان (الأبيض)، الغلاف الجوي فتعمل جزيئات الهواء على تشتيته في كل الاتجاهات.
يقوم الغلاف الجوي بتشتيت اللونين الأزرق والبنفسجي، فتبدو الشمس باللون الأصفر بينما تبدو السماء زرقاء اللون لأن الضوء الأزرق أكثر تشتتًا من غيره من الألوان. ولا يمكن للإنسان رؤية اللون البنفسجي بسبب أن عينه لا تحتوي على مستقبلات للضوء البنفسجي.
غازات الهواء
النيتروجين والأكسجين من الغازات الرئيسية في الهواء. ويحتوي الهواء على غيرهما من الغازات مثل بخار الماء وثاني أكسيد الكربون والنيون والأرجون والهيليوم والكريبتون والهيدروجين والزينون والأوزون. أما بخار الماء في الهواء فهو ماء على شكل غاز غير مرئي. ويشكل النيتروجين 78% من الهواء الجاف (خالٍ من بخار الماء)، ويشكل الأكسجين 21% من الهواء الجاف. ويحتوي الباقي (1%) بشكل رئيسي، على الأرجون وغيرها من الغازات الأخرى. وبعض الغازات في الغلاف الجوي مهمة جدًا. فعندما نتنفس، نأخذ الأكسجين من الهواء ونُخرج ثاني أكسيد الكربون. وتأخذ النباتات الخضراء ثاني أكسيد الكربون وتطلق الأكسجين في عملية صناعة الغذاء أو ما يسمى بعملية التركيب الضوئي. ويؤدي الأكسجين في الجو دورًا في بعض العمليات الكيميائية كصدأ الحديد وتصنيع الخل من عصير التفاح. وتحتاج معظم أنواع الوقود الأكسجين لكي تحترق. وتقوم بعض أنواع البكتيريا في التربة بتحويل النيتروجين في الجو إلى أسمدة كيميائية للنبات. ويساعد ثاني أكسيد الكربون وبخار الماء على بقاء الأرض دافئة، حيث يمنعان جزءًا من حرارة سطح الأرض التي تكتسبها من أشعة الشمس من التسرب إلى الفضاء الخارجي. ويُعرف هذا السلوك من قبل الغازات بتأثير البيت المحمي، (عمليّة الاحتباس الحراري). ويلزم وجود بخار الماء في الجو لتشكيل الأمطار والثلوج. والأوزون شكل من أشكال الأكسجين، يمتص جزءًا كبيرًا من الأشعة الشمسية فوق البنفسجية غير المرئية والضارة. ويحتوي الغلاف الجوي على الرطوبة الجوية التي هي على شكل ذرات من بخار الماء. ويدخل البخار إلى الغلاف الجوي عندما يتبخر الماء من المحيطات والبحيرات والأنهار، ومن التربة الرطبة ومن النباتات. ومع ارتفاع كمية بخار الماء في الهواء تزيد الرطوبة التي تعتمد على درجة الحرارة وعلى موقع المكان. فالهواء الملامس للمسطحات المائية ترتفع فيه الرطوبة، بينما تنخفض في الصحراء ويكون الهواء جافًا. والهواء الدافئ يمكن أن يحمل كمية من البخار أكثر من الهواء البارد. لذلك، تتباين الرطوبة مع اختلاف الطقس، فيكون الهواء أقل رطوبة في الأيام الصافية منه في الأيام الغائمة. وعندما يبرد الهواء لدرجة كافية، يتحول البخار إلى قطرات من الماء أو إلى بلورات ثلجية. وتسمى هذه العملية بالتكاثف. وتسمى درجة الحرارة التي يبدأ بخار الماء عندها بالتكاثف نقطة الندى. وعندما تظهر حبيبات الماء على سطح كأس الماء البارد، يكون الهواء الملامس للكأس قد برد إلى درجة أقل من نقطة الندى. وعند نقطة الندى، تكون الرطوبة النسبية 100%. والرطوبة النسبية هي كمية بخار الماء الحقيقية الموجودة في الهواء عند درجة حرارة معينة، منسوبة إلى كمية بخار الماء التي يمكن أن يحملها ذلك الهواء عند درجة التشبع في نفس درجة الحـرارة. وعندما تصل الرطوبة النسبية إلى 100%، يكون الهواء قد وصل إلى الحد الأقصى لتحمله لبخار الماء. وفي بعض الحالات قد تهطل الأمطار دون أن تصل الرطوبة النسبية إلى 100% قرب سطح الأرض، ولكنها قد تزيد عن ذلك في السحب. وكلما ارتفع الهواء قلت درجة حرارته. ولذا، فإن السحب تتكون عندما تبرد كتلة ضخمة من الهواء الرطب بسبب ارتفاعها إلى أعلى، فتنخفض درجة الحرارة إلى ما دون نقطة الندى. وتحتوي السحب على هواء مملوء بكميات هائلة من قطرات الماء أو بلورات الثلج. وتسقط الأمطار أو الجليد عندما تصبح قطرات الماء أو بلورات الثلج من الثقل بحيث تسقط خارج السحب. والضباب سحب قريبة من سطح الأرض. الجسيمات في الهواء: يحتوي الهواء على العديد من الجسيمات الصلبة المتناهية الصغر والمسماة الهباء الجوي. ويصل قطر معظمها إلى 0.1 ميكروميتر. لذلك فهي غير مرئية، إلا عندما تتجمع بكميات ضخمة. ويأتي العديد من جسيمات الهباء الجوي إلى الهواء من البراكين النشطة، ومن عوادم السيارات والغابات والحرائق ودخان المصانع. كما تثير الرياح جسيمات الرمل والغبار من سطح الأرض إلى الهواء. وأيضًا تضم جسيمات الهباء الجوي العالقة في الهواء حبوب لقاح الأشجار وأملاح البحار والجسيمات النيزكية وكائنات حية متناهية الصغر تسمى الميكروبات. ومع مرور الوقت تستمر إضافة جسيمات الهباء الجوي إلى الغلاف الجوي، إلا أنها لا تبقى عالقة في الهواء إلى الأبد. إذ تتولى الأمطار والجليد إزالتها من الهواء، حيث يصبح الهواء منعشًا بعد تساقط الأمطار والثلوج. أما الجزء الآخر من الهباء الجوي فيسقط تدريجيًا على سطح الأرض. تتفاوت كمية جسيمات الهباء الجوي في الهواء قرب الأرض من مكان إلى آخر، حيث يحتوي المتر المكعب من الهواء فوق المحيطات على مليار جسيم، بينما يضم المتر المكعب من الهواء فوق المدن الكبرى حوالي 100 مليار جسيم. ونظرًا لقلة الهباء الجوي في طبقات الجو العليا فإن الهواء عادة ما يكون أكثر نقاء.
طبقات الجو
يتكون الغلاف الجوي من ست طبقات رئيسية تتداخل في بعضها مما يجعل الفصل بينها غير ممكن تقريبا وهذه الطبقات هي:
المتكور الدوار - التروبوسفير
المتكور الدوار (التروبوسفير) وهي الطبقة التي تبدأ من سطح الأرض وتمتد إلى ارتفاع حوالي 10كم وتحدث فيها معظم التغيرات الجوية التي نلمسها يوميا. وهي الطبقة التي تحتوي على معظم بخار الماء والأكسجين (O2) وثاني أكسيد الكربون (CO2) وتتركز فيها أنشطة الإنسان. أغلب السحب تكون في المتكور الدوّار (التروبوسفير)، لأن حوالي 99% من الماء المتواجد في الغلاف الجوي يكون في هذه الطبقة. تقل فيها درجات الحرارة مع زيادة الارتفاع.
المتكور الطبقي - الستراتوسفير
المتكور الطبقي (الستراتوسفير) وهو الطبقة التي تعلو المتكور الدوّار (التروبوسفير)، وسُمكها حوالي 50 كيلو متراً تقريبا فوق طبقة التروبوسفير (التي سُمكها حوالي 10كم كما تقدّم)، أي تصل إلى حوالي 60 كم فوق سطح البحر. وتتميز هذه الطبقة بخلوها من التقلبات المختلفة أو العواصف. ويوجد بها حزام يُعرف بطبقة الاوزون التي تمتص الأشعة فوق البنفسجية ذات الطاقة العالية وتحولها إلى حرارة، فتحمي سطح الأرض من مخاطر الأشعة فوق البنفسجية. ولهذا تزداد درجة الحرارة كلما ارتفعنا في طبقة المتكور الطبقي (الستراتوسفير). على الرغم من ارتفاع هذه الطبقة عن سطح البحر إلا أنها تتميز بدرجة حرارة مرتفعة بسبب وجود طبقة الاوزون (O3) والتي يبلغ سمكها حوالي 30 كلم والتي تقوم بحجب الأشعة فوق البنفسجية التي تصدر من الإشعاع الشمسى.
المتكور الأوسط - الميزوسفير
المتكور الأوسط (الميزوسفير) . هي ثالث طبقات الجو بعد الستراتوسفير (المتكور الدوار) والاستراتوسفير ويتراوح ارتفاعها مابين 80 إلى 85 كلم عن سطح البحر، أي أن سُمكها حوالي 20كم فوق الستراتوسفير. والميزوسفير هي أبرد طبقة في الغلاف الجوي حيث يُمكن أن تصل درجة الحرارة إلى -100°م (تحت الصفر) في هذه الطبقة. تتميز هذه الطبقة بارتفاع درجة حرارة الهواء في قسمها السفلي ثم تنخفض بالتدريج مع الارتفاع إلى أعلى النهايات العليا للطبقة. تحترق معظم الشهب والنيازك الساقطة والمتجهة إلى سطح الكرة الأرضية في هذه الطبقة. يساعد الامتداد العظيم للغلاف الجوى في الفضاء إلى احتراق الملايين من الشهب وحماية الحياة على الأرض.
المتكور الحراري - الثرموسفير
المتكور الحراري (الثرموسفير) يشكل المتكور الحراري الطبقة الرابعة من الغلاف الجوي. يرتفع المتكور الحراري فوق سطح البحر إلى ارتفاع يتراوح بين 500 كم عندما تكون الشمس نشيطة، وبين 1000 كم عندما تكون الشمس هادئة. وبذلك يتراوح سمكها فوق حد ميزوبوز بين 420- 670 كم على التوالي. ولا يوجد بينها وبين الطبقة الجوية التي تليها حد حراري، ولذلك تحدد قمتها بحد ثرموبوز على أساس تركيبها الغازي. تثبت درجة حرارتها عند درجة الحرارة -93 ْ مئوية لعدة كيلومترات في أسفلها ثم تتزايد تدريجياً مع الارتفاع خلالها، إذ تبلغ نحو 700 ْ مئوية عند ارتفاع 300 كم، لكنها قد تناهز 2000 ْ مئوية عندما تكون الشمس نشيطة وتظل درجة الحرارة على وضعها حتى نهاية المتكور الحراري وخلال الطبقة الجوية التي تليها. ويبدو واضحاً أن اسمها قد أشتق من كلمة (Thermo) الإغريقية والتي تعني حارا للدلالة على شدة الحرارة فيها.
يكون الهواء رقيقا في هذه الطبقة، وتحدث ظاهرة الشفق القطبي (الأورورا) أي الأنوار التي تظهر في القطب الشمالي والقطب الجنوبي في المتكور الحراري (الثرموسفير).
تقع محطة الفضاء الدولية في هذه الطبقة، أي في المتكور الحراري (الثرموسفير).
المتكور المتأين - الأيونوسفير
المتكور المتأين (الغلاف الأيوني) وهي الطبقة التي تعلو الاستراتوسفير من ارتفاع 80 كيلومتر تقريبا وحتى 360 كيلومتر أو أكثر وتتميز تلك الطبقة بخفة غازاتها ويسود فيها غاز الهيدروجين والهيليوم.
المتكور الخارجي - الإكسوسفير
المتكور الخارجي (الطبقة الأخيرة الخارجية) من الغلاف الجوي (الإكسوسفير) تشكل طبقة إكسوسفير الطبقة الأخيرة الخارجية من الغلاف الجوي، وقد أشتق اسمها من كلمة “Exo” التي تعني خارج. تمتد طبقة إكسوسفير مرتفعة فوق طبقة ثيرموسفير وحتى نهاية الغلاف الجوي عند ارتفاع يناهز 64400 كم. وتصبح جزيئات الهواء نادرة الوجود في طبقة إكسوسفير إلى حد إنها تعد غير موجودة، فمثلاً، عند أسفلها من الممكن أن تنطلق ذرة غازية نحو 10 كم قبل أن تصطدم بذرة غازية أخرى. وعادة يعرف العلماء المسافة التي تقطعها الذرات الغازية قبل أن تصطدم مع ذرة أخرى بالممر الحر.
الرطوبة الجوية
وهي على شكل ذرات من بخار الماء، ويدخل البخار إلى الغلاف الجوي عندما يتبخر الماء من المحيطات والبحيرات والأنهار، ومن التربة الرطبة ومن النباتات. ومع ارتفاع كمية بخار الماء في الهواء تزيد الرطوبة التي تعتمد على درجة الحرارة وعلى موقع المكان. فالهواء الملامس للمسطحات المائية ترتفع فيه الرطوبة، بينما تنخفض في الصحراء ويكون الهواء جافًا. والهواء الدافئ يمكن أن يحمل كمية من البخار أكثر من الهواء البارد. لذلك، تتباين الرطوبة مع اختلاف الطقس، فيكون الهواء أقل رطوبة في الأيام الصافية منه في الأيام الغائمة. وعندما يبرد الهواء لدرجة كافية، يتحول البخار إلى قطرات من الماء أو إلى بلورات ثلجية. وتسمى هذه العملية بالتكاثف. وتسمى درجة الحرارة التي يبدأ بخار الماء عندها بالتكاثف نقطة الندى. وعندما تظهر حبيبات الماء على سطح كأس الماء البارد، يكون الهواء الملامس للكأس قد برد إلى درجة أقل من نقطة الندى. وعند نقطة الندى، تكون الرطوبة النسبية 100%. والرطوبة النسبية هي كمية بخار الماء الحقيقية الموجودة في الهواء عند درجة حرارة معينة، منسوبة إلى كمية بخار الماء التي يمكن أن يحملها ذلك الهواء عند درجة التشبع في نفس درجة الحـرارة. وعندما تصل الرطوبة النسبية إلى 100%، يكون الهواء قد وصل إلى الحد الأقصى لتحمله لبخار الماء. وفي بعض الحالات قد تهطل الأمطار دون أن تصل الرطوبة النسبية إلى 100% قرب سطح الأرض، ولكنها قد تزيد عن ذلك في السحب. وكلما ارتفع الهواء قلت درجة حرارته. ولذا، فإن السحب تتكون عندما تبرد كتلة ضخمة من الهواء الرطب بسبب ارتفاعها إلى أعلى، فتنخفض درجة الحرارة إلى ما دون نقطة الندى. وتحتوي السحب على هواء مملوء بكميات هائلة من قطرات الماء أو بلورات الثلج. وتسقط الأمطار أو الجليد عندما تصبح قطرات الماء أو بلورات الثلج من الثقل بحيث تسقط خارج السحب. والضباب سحب قريبة من سطح الأرض.
الجسيمات في الهواء
يحتوي الهواء على العديد من الجسيمات الصلبة المتناهية الصغر والمسماة الهباء الجوي. ويصل قطر معظمها إلى 0،1 ميكروميتر. لذلك فهي غير مرئية، إلا عندما تتجمع بكميات ضخمة. ويأتي العديد من جسيمات الهباء الجوي إلى الهواء من البراكين النشطة، ومن عوادم السيارات والغابات والحرائق ودخان المصانع. كما تثير الرياح جسيمات الرمل والغبار من سطح الأرض إلى الهواء. وأيضًا تضم جسيمات الهباء الجوي العالقة في الهواء حبوب لقاح الأشجار وأملاح البحار والجسيمات النيزكية وكائنات حية متناهية الصغر تسمى الميكروبات. ومع مرور الوقت تستمر إضافة جسيمات الهباء الجوي إلى الغلاف الجوي، إلا أنها لا تبقى عالقة في الهواء إلى الأبد. إذ تتولى الأمطار والجليد إزالتها من الهواء، حيث يصبح الهواء منعشًا بعد تساقط الأمطار والثلوج. أما الجزء الآخر من الهباء الجوي فيسقط تدريجيًا على سطح الأرض. تتفاوت كمية جسيمات الهباء الجوي في الهواء قرب الأرض من مكان إلى آخر، حيث يحتوي المتر المكعب من الهواء فوق المحيطات على مليار جسيم، بينما يضم المتر المكعب من الهواء فوق المدن الكبرى حوالي 100 مليار جسيم. ونظرًا لقلة الهباء الجوي في طبقات الجو العليا فإن الهواء عادة ما يكون أكثر نقاء.
كيف يتصرف الهواء
الوزن والضغط
لا نستطيع في العادة الشعور بوزن الهواء، لأن الهواء أقل من وزن الأجسام الصلبة والسائلة بكثير. ولكن يمكن التأكد بأن للهواء وزنًا من خلال تجربة بسيطة. أولاً، نفرِّغ الهواء من زجاجة بوساطة مضخة شفط. ثم نغلق الزجاجة ونزنها. ثانيًا، نزيل الغطاء، فيدخل الهواء إلى الزجاجة. وعندما نزن الزجاجة مرة أخرى فإن وزنها يكون أكبر، فيكون الوزن الإضافي هو وزن الهواء. يتكون الهواء بصورة رئيسية من النيتروجين والأكسجين. إذ يشكلان 99% من الهواء الذي أزيلت منه الرطوبة. ويمثل الأرجون وبقية الغازات الأخرى 1% فقط. يزن المتر المكعب من الهواء عند سطح البحر حوالي 1170جم، بينما يصل وزن الغلاف الجوي المحيط بالكرة الأرضية حوالي 5،200،000،000،000،000 طن متري. ويمثل وزن الهواء من أعلى الغلاف الجوي خلال طبقات الجو إلى سطح الأرض ضغط الهواء أو ما هو متعارف عليه بالضغط الجوي. ويبلغ الضغط الجوي في متوسطه عند سطح البحر حوالي 1،033كجم/سم² (101،3 كيلو باسكال). فالهواء يضغط على كاهلنا بوزن يصل إلى 0،9 طن متري. ولا نشعر بهذا الضغط لأن هناك ضغطًا يساويه من داخل أجسامنا وفي جميع الاتجاهات. يقـاس الضغـط الجـوي بجهـاز يسمى البارومتر. ويعبّر البارومتر الزئبقي عن الضغط الجوي بالمليمتر زئبق أو وحدة قياس تُدعى بار أو مليبار. والبار هو وحدة الضغط الجوي في النظام المتري. والمليبـار يعـادل 0،001 من البار. ويبلغ متوسط الضغط الجوي عند سطح البحر 760ملم زئبق أو 1،013 مليبار. وعادة ما يكون الضغط الجوي أقل في الأيام العاصفة والأيام الرطبة منه في الأيام الصافية والأيام الجافة. لذلك يدل انخفاض الضغط الجوي على اقتراب عاصفة. وفي طبقات الجو العليا يكون الضغط الجوّي أقل من ضغط الهواء قرب سطح الأرض، وذلك بسبب تناقص ضغط الهواء من أسفل إلى أعلى. فعندما تصعد إلى بناية شاهقة بوساطة مصعد سريع، يمكنك الشعور بتغير الضغط الجوي، حيث يقل الضغط الجوي داخل المصعد مع الارتفاع، بينما يبقى ضغط الهواء داخل الأذن كما هو. وهذا الاختلاف في الضغط يجعل طبلة الأذن تندفع نحو الخارج بهدوء حتى يجد بعض الهواء مخرجًا من الأذن. ونستعمل الضغط الجوي كقوة في عدة وجوه. فعندما نشفط مشروبًا خلال ماصَّة، على سبيل المثال، فإننا في الحقيقة لا نسحب السائل إلى أعلى خلال الماصة، وإنما نقوم بشفط الهواء منها، فيصبح الضغط داخلها أقل من الضغط على السائل خارج الماصَّة، فيعمل الضغط فوق السائل على دفع السائل من الكأس إلى أعلى خلال الماصَّة إلى الفم. وبنفس الطريقة تعمل المضخات الماصَّة والمكانس الكهربائية.
حركة الهواء
يتحرك الهواء على سطح الأرض في شكل رياح. وتسبب حرارة الشمس حركة الرياح نظرًا لعدم تسخينها لسطح الأرض بشكل متساوٍ. فالهواء الواقع فوق المناطق الدافئة يتمدد ويصبح أخف وزنًا. وهنا يرتفع الهواء منشئًا منطقة ذات ضغط منخفض قرب سطح الأرض. وتنشأ الرياح عندما ينتقل الهواء الأبرد والأثقل نحو المناطق ذات الضغط المنخفض ليحل مكان الهواء الصاعد إلى أعلى. وغالبًا ما تنشأ الرياح عل طول أحد شواطئ المحيط خلال النهار، لأن اليابسة تسخن بصورة أسرع من الماء. فالهواء الموجود فوق الشاطئ يصبح أدفأ من الهواء فوق الماء، فيرتفع الهواء الدافئ إلى أعلى ويحل محله هواء أبرد قادم من داخل المحيط، مشكِّلاً ما يُعرف بنسيم البحر. وفي الليل يصبح الهواء فوق الشاطئ أبرد من الهواء الملامس لمياه المحيط. وهنا ينعكس اتجاه الرياح، فيهب النسيم خارج اليابسة نحو البحر ويشكل نسيم البر. يرتفع الهواء الدافئ فوق خط الاستواء باستمرار. فتهب الرياح الباردة من الشمال والجنوب بصورة دائمة لتحل محل الهواء الصاعد. وينتج عن حركة الهواء هذه نطاقان من الرياح تسمى الرياح التجارية. ولا تهب هذه الرياح نحو خط الاستواء بخطوط مستقيمة بسبب دوران الأرض حول نفسها، حيث تميل الرياح التجارية شمال خط الاستواء إلى يمين اتجاهها الأصلي، أي أنها تتجه صوب الجنوب الغربي. أما الرياح التجارية جنوب خط الاستواء فإنها تنحرف إلى يسار اتجاهها الأصلي، وتتجه نحو الشمال الغربي. ويسمى تأثير دوران الأرض على اتجاه الرياح بالقوة الكريوليسية أو التأثير الكريوليسي (المفعول الكريوليسي). كما تؤثر القوة الكريوليسية على مسارات الرياح في أربعة نطاقات حول الكرة الأرضية. وهذه النطاقات هي: الرياح الغربية السائدة والرياح الشرقية القطبية شمال وجنوب الكرة الأرضية. تظهر تيارات من الرياح في الجزء العلوي من الطبقة السفلى للغلاف الجوي، على ارتفاع 10-15كم فوق سطح الأرض. وتدعى هذه الرياح التيارات النفاثة، حيث تزيد سرعة الرياح في وسط التيار النفاث عن 320كم/ساعة. وتسُمى أنظمة الرياح الدوارة الأعاصير الحلزونية والأعاصير الحلزونية المضادة. وتدور رياح الأعاصير إلى الداخل نحو مركز الضغط المنخفض، بينما تدور الرياح في الأعاصير الحلزونية المضادة إلى الخارج حول مركز الضغط المرتفع.
مقاومة الهواء
يقاوم الهواء حركة الأجسام التي تتحرك خلاله. وتنشأ هذه المقاومة عن حركة الأجسام واحتكاكها بذرات وجزيئات الغازات المكونة للهواء. فقطعة الورق في الهواء تهبط ببطء نحو الأرض بسبب مقاومة الهواء لها، كما أن مقاومة الهواء تُخفِّض سرعة القافزين بالمظلات. وفي الأيام الأولى من استخدام الطيران، كانت سرعة الطائرات منخفضة نسبيّا بسبب اصطدام الهواء بمرابط الأجنحة وبالعجلات المطاطية للطائرة. فقام مهندسو الطيران بالتقليل من مقاومة الهواء بجعل شكل هذه الأجزاء أكثر انسيابًا. وألغوا دعائم الأجنحة وأخفوا عجلات الهبوط في جسم الطائرة. كما وجدوا أن انسيابية مقدمة الطائرة تقلل من مقاومة الهواء. وكلما زادت سرعة الأجسام في الهواء زادت مقاومة الهواء لها. فعلى سبيل المثال، تزداد مقاومة الهواء لك وأنت راكب دراجة هوائية كلما زادت سرعتك. وتولد مقاومة الهواء الحرارة، فالجسيمات النيزكية تتحرك في الهواء بسرعة عالية مما يزيد من مقاومة الهواء لها فتصبح بذلك ساخنة جدًا. ولهذا السبب، فإن معظم الجسيمات النيزكية تتوهج وتلمع، ومن ثم تحترق قبل أن ترتطم بسطح الأرض. فالمركبات الفضائية تصنع من مواد تصمد أمام الحرارة الشديدة الناتجة عن مقاومة الهواء.
انضغاط الهواء
يمكن ضغط الهواء في داخل أسطوانات أو خزانات فولاذية حتى يصل الضغط بها مئات أضعاف الضغط الجوي العادي. ويسمى الهواء في هذه الحالة الهواء المضغوط. وعندما يتعرض الهواء للضغط، فإن سرعة ذراته وجزيئاته تصبح أعلى، وبسبب هذه السرعة فإن الهواء يصبح أسخن. يستخدم الناس الهواء المضغوط لنفخ العجلات والمفارش الهوائية، وبعض الغواصين يتنفسون الهواء من أسطوانات مملوءة بالهواء المضغوط مثبتة على ظهورهم، حيث يحمل الغواصون أسطوانات مملوءة بالهواء المضغوط يصل حجمه 1/200 من حجمه الأصلي. وهناك غواصات تشبه المقصورات تسمى خزانات الصابورة تنساب مع الماء. وتصعد إلى سطح الماء بفعل تدفق المياه منها بقوة الهواء المضغوط. كما يستخدم الهواء المضغوط في الكوابح وعلب المبيدات الحشرية ورش الأصباغ والحفارات وغيرها من العدد الهوائية.
الغازات
ويمثل النيتروجين نسبة 78% من مجموع أحجام هذه الغازات، ويكون الأكسجين 21% من حجم هذا الغلاف، أما الجزء الباقي من الغلاف الهوائي فإن معظمه يتألف من بخار الماء وثاني أكسيد الكربون.
ونظراً لزيادة كثافة كل من بخار الماء وثاني أكسيد الكربون عن كثافة غيرهما من الغازات الأخرى فإننا نجدهما في طبقات الجو القريبة من الأرض، ومن المعروف أن حوالي 90% من بخار الماء العالق في الهواء ويوجد في طبقة من الجو يصل ارتفاعها إلى 6 كيلومترات فوق مستوى سطح البحر، وتوجد في الغلاف الهوائي كميات كبيرة من الأجسام الصلبة العالقة، وهذه الأجسام الصلبة عبارة عن ذرات دقيقة من الغبار والأتربة والأملاح والدخان المتصاعد من المصانع والسيارات والقاطرات والبواخر، وتسبب المواد العالقة التلوث لا للغلاف الهوائي فحسب، بل للغلاف المائي كذلك. وعلى الرغم من سلبيات هذه الأجسام الصلبة فإن لها فوائد لا بأس بها، مثل تكاثف بخار الماء حولها ونزوله على هيئة قطرات من الماء أو الثلج أو البرد. ومن الملاحظ أن كثيراً من الأمطار التي تصيب المناطق الداخلية في منطقة السعودية تسبقها العواصف الرملية.
تلوث الغلاف الهوائي
يتلوث الغلاف الجوي عندما توجد فيه مواد غريبة أو عندما يحدث تغيير مهم في النسب المكونة له، وتوجد هذه المواد الغريبة معلقة في الجو بصورة صلبة أو سائلة أو غازية، وتعد المصانع ونواتج الأحتراق والمركبات ذات المحركات أهم مصادر التلوث الجوي في الوقت الحالي.
فضلاً عن التجارب النووية والمبيدات الحشرية، وقد أحصى العلماء أكثر من مئة مادة ملوثة للجو ولها آثار مدمرة على البيئة وعلى التوازن الحيوي. وأصبح التلوث يهدد طبقة الأوزون التي تحمي الأرض من أخطار الأشعة الضارة. وتعد السيطرة على انتشار التلوث من أهم أسباب مكافحته، وخاصة مخلفات المصانع والسيارات، وتعد المحافظة على الغطاء النباتي من أبرز عوامل تنقية الجو من التلوث.
أهمية الغلاف الجوي
يزود المخلوقات الحية بالهواء للتنفس.
يسمح بنفاذ الأشعة المرئية والاشعة تحت الحمراء وغيرها من الاشعات الحرارية والضوئية القادمة من الشمس والتي تمتصها الأرض مما يوفر الدفء والحماية.
يقي سطح الأرض من الإشعاعات فوق البنفسجية الضارة التي تسبب امراض عديدة مثل سرطان الجلد وامراض جلدية وبصرية كثيرة.
يساهم في تنظيم وتوزيع درجات الحرارة السائدة على سطح الكرة الأرضية حيث ينظم وصول أشعة الشمس ويمنع نفاذ كل الإشعاع الأرضي إلى الفضاء الخارجي، ولو لم يكن هناك غلافا جويا للأرض لتجاوز المدى اليومي 200 درجة حرارية.
يقوم بتوزيع بخار الماء على مناطق العالم المختلفة.
حماية الكائنات الحية على سطح الأرض من الإشعاعات الكونية الضارة، وخاصة الأشعة فوق البنفسجية.
يشكل درعاً واقياً يحمي سطح الأرض من النيازك والشهب حيث يتفتت معظمها قبل وصوله إلى سطح الأرض، نتيجة أحتكاكه بالهواء وأحتراقه.
يعد واسطة اتصال تستخدمه الطائرات، وتنتقل فيه الأصوات ولولا وجود الهواء في الغلاف الجوي لساد سكون وهدوء مخيف على سطح الأرض.
ينظم انتشار الضوء بشكل مناسب.
تركيب الغلاف الجوي
يقسم العلماء الغلاف الجوي إلى أربع طبقات بناء على اختلاف درجـة الحـرارة. وهـذه الطبقات مرتبة مــن الأدنـى إلى الأعلى هي:
1- طبقة التروبوسفير
2- الستراتـوسـفير (الطبقة الجوية العليا)
3- الميزوسفير (الغلاف الأوسط)
4- الثيرموسفير (الغلاف الحراري).
يقل سُمك الغلاف الجوي كلما ارتفعنا عن سطح الأرض. وتتلاشى الطبقة الخارجية للغلاف الجوي بالتدريج في الفضاء الخارجي حيث تقابل الرياح الشمسية. والرياح الشمسية دفق مستمر من الجسيمات المشحونة من الشمس.
المتكور الدوار - طبقة التروبوسفير
طبقة التروبوسفيرهي طبقة الغلاف الجوي الملاصقة لسطح الأرض، وهي الطبقة التي نعيش فيها. وتضم هذه الطبقة 75% من مجمل الغلاف الجوي. وتتم معظم التغييرات الجوية والأمطار والثلوج في هذه الطبقة تقريبًا. ويتنبأ العلماء بالطقس بدراستهم لطبقة التروبوسفير. كما تضم هذه الطبقة معظم بخار الماء والهواء الجوي في الجو. ويهب التيار النفاث في الجزء العلوي من هذه الطبقة. تتناقص درجة الحرارة في طبقة التروبوسفير حوالي 6،5°م كلما ارتفعنا إلى أعلى 1000م. ويتوقف تناقص درجة الحرارة عند بداية التروبوبوز (الفاصل السفلي) والتي تمثل الجزء الأعلى لطبقة التروبوسفير. ويقع حد التروبوبوز على ارتفاع 10كم تقريبًا فوق القطبين الشمالي والجنوبي، وعلى ارتفاع 15كم فوق خط الاستواء تقريبًا. وعند حد التروبوبوز يصبح الهواء رقيقًا جدًا بحيث لا يكفي للحياة. وعادة ما يكون الغلاف الجوي القريب من سطح الأرض أدفأ لأن أشعة الشمس التي تمر خلال الغلاف الجوي تسخن الأرض وبخار الماء. وبدورها تقوم الأرض بتسخين الهواء الملامس لها مباشرة. وفي بعض الأحيان، وبخاصة خلال الليل أثناء فصل الشتاء، يكون الهواء الملامس للسطح أبرد من الهواء الذي يعلوه. وهنا، تزداد درجة الحرارة في طبقة رقيقة من طبقة التروبوسفير كلما ارتفعنا إلى أعلى. وهذه الحالة الشاذة تسمى الانقلاب الحراري. وتظهر أسوأ حالات التلوث الجوي أثناء حدوث هذه الظاهرة، لأن الهواء البارد القريب من سطح الأرض يحتجز الملوثات ويمنعها من الانتشار أو الصعود إلى أعلى. وتدوم حالة الانقلاب الحراري حتى تقضي الأمطار أو الرياح على هذه الطبقة الهوائية الدافئة. ويكون الهواء باردًا في التروبوبوز، حيث تتكون السحب من بلورات الثلج. وأبرد جزء في طبقة التربوسفير هو التربوبوز الواقع فوق خط الاستواء، حيث يبلغ تصاعد الهواء أعلى حد له، فتهبط درجة حرارة الهواء إلى مادون -80°م. أما درجة حرارة التروبوبوز فوق القطبين فإنها تزيد عنها فوق خط الاستواء بـ 30°م.
المتكور الطبقي - طبقة الستراتوسفير
طبقة الستراتوسفير تمتد من التروبوبوز إلى 50كم فوق سطح الأرض تقريبًا. وكمية الرطوبة التي تصل هذه الطبقة من الغلاف الجوي قليلة جدًا، لذلك فإن السحب نادرة أيضًا. ويفضل طيارو الخطوط الجوية الطيران خلال هذه الطبقة تجنبًا لتقلبات الطقس التي يواجهونها في التروبوسفير. أما طبقة الستراتوسفير فتتميز بثبات درجة الحرارة تقريبًا، ولكن درجة حرارة الطبقة العليا منها تزداد مع ازدياد الارتفاع، حيث تصل درجة الحرارة في الطبقة السفلى -55°م بينما تصل درجة الحرارة في الجزء العلوي منها إلى -2°م فقط، وهذا الجزء من الستراتوسفير يُدعى الإستراتوبوز (الفاصل الطبقي). ويحتوي هذا الجزء على معظم غاز الأوزون الموجود في الغلاف الجوي، إذ يعمل الأوزون على تسخين الهواء هناك بسبب امتصاصه الأشعة فوق البنفسجية.
الغلاف الأوسط - طبقة الميزوسفير
يمتد الغلاف الأوسط (طبقة الميزوسفير) من حد الإستراتوبوز إلى 80كم فوق سطح الأرض. وتتناقص درجة الحرارة في هذه الطبقة مع الارتفاع حيث تصل درجة الحرارة في الأجزاء العليا منها إلى أدنى درجة ممكنة في الغلاف الجوي المحيط بالأرض. وهذا الجزء العلوي، من طبقة الميزوسفير يُدعى الميزوبوز (حد الغلاف الأوسط). وتهبط درجة الحرارة في هذا الجزء فوق القطبين إلى ما دون -109°م خلال فصل الصيف. ويمكن مشاهدة ذيل من الغازات الحارة تنساب في هذه الطبقة بفعل الشهب. كما يمكن ملاحظة هبوب رياح في غاية العنف ضمن طبقة الميزوسفير. وتهب هذه الرياح من الغرب إلى الشرق في فصل الشتاء. ومن الشرق إلى الغرب في فصل الصيف.
الغلاف الحراري - طبقة الثيرموسفير
و الغلاف الحراري (طبقة الثيرموسفير) هي أعلى طبقة في الغلاف الجوي. وتبدأ من نهاية حد الميزوبوز وتستمر إلى الفضاء الخارجي. ويتميز الهواء في هذه الطبقة بأنه خفيف جدًا، إذ إن 99،99% من الغلاف الجوي يقع أسفل منه. ويختلف التركيب الكيميائي للهواء في هذه الطبقة عن التركيب الكيميائي لبقية الطبقات المكونة للغلاف الجوي. ففي الأجزاء الدنيا من طبقة الثيرموسفير، تتحطم معظم جزيئات الأكسجين إلى ذرات الأكسجين. وتحتوي الأجزاء العليا منها بشكل رئيسي على الهيدروجين والهيليوم. تواجه طبقة الثيرموسفير أشعة الشمس بصورة مباشرة، فتعمل على تسخين الهواء الخفيف إلى درجة عالية جدًا. وتقفز درجة الحرارة بسرعة من الميزوبوز إلى 600°م عند ارتفاع 200كم فوق سطح الأرض. ولكن في أثناء الرياح الشمسية تصل كمية إضافية من الإشعاع والجسيمات إلى طبقة الثيرموسفير. انظر:الشمس. وهنا يصبح الهواء أكثر سخونة، حيث تصل درجة الحراة إلى ما يزيد عن 2000°م على ارتفاع 400كم فوق سطح الأرض. وعندما ترتطم أشعة الشمس وغيرها من الإشعاعات القادمة من مصادر كونية أخرى بطبقة الثيرموسفير، فإن بعض الجزيئات والذرات تشحن بالكهرباء أي تتأين. وتُسمى هذه الذرات المشحونة بالكهرباء أيونات. وتوجد معظم هذه الأيونات في الأجزاء السفلى من الثيروموسفير، لذلك تُسمى هذه الأجزاء من الطبقة الغلاف الأيوني (الأيونوسفير). حيث تؤدي هذه الطبقة دورًا كبيرًا في الاتصالات الراديوية بعيدة المدى. وتقوم هذه الطبقة بعكس الموجات الكهرومغنطيسية إلى الأرض عوضًا عن انتشارها في الفضاء. وتظهر يوميًا في طبقة الثيرموسفير حالات مدٍ غازي هائلة، وتغير حالات المد هذه اتجاهها كل ست ساعات. كما يظهر ضوء طبيعي في هذه الطبقة يسمى الشفق. ويحدث الفلق عندما تجذب الأرض تلك الذرات المتأينة في طبقة الثيرموسفير إليها، إذ تتحطم الجزيئات في طبقة الثيرموسفير مكوِّنة حلقة حول الأقطاب المغنطيسية للأرض، وينتج عن ذلك طاقة على شكل ضوء. ويسمى الشفق الذي يبدو في شمال الكرة الأرضية الشفق الشمالي. أما الشفق الذي يظهر في النصف الجنوبي من الكرة الأرضية فيسمى الشفق الجنوبي. يسمى الجزء العلوي من طبقة الثيرموسفير الإكسوسفير (الغلاف الخارجي)، وترتفع إلى حوالي 480كم عن سطح الأرض إلى أن تنتهي في الرياح الشمسية. ولا يوجد في الأكسوسفير إلا القليل من الهواء. ولا تجد السفن الفضائية والأقمار الصناعية التي تدور حول الأرض في هذه المنطقة مقاومة تذكر. وتتحرك بعض الذرات والجزيئات في الأكسوسفير بسرعة هائلة جدًا، حيث تتغلب على قوة جاذبية الأرض وتنطلق إلى الفضاء الخارجي، وهكذا فإن الأرض تفقد غلافها الجوي بالتدريج. ولكن هذه العملية تحتاج إلى بلايين السنين حتى تأتي على مجمل الغلاف الجوي المحيط بالكرة الأرضية.
أصل الغلاف الجوي
ليس هنالك تاريخ محدد يمكن أن يعوَّل عليه في تكوين فكرة صحيحة عن تاريخ تكوين الغلاف الجوي، على أن بعض الباحثين في تاريخ نشأة الأرض يرجحون أنها قد تشكلت منذ 4،5 مليار سنة، وغالبًا لم تكن تحتوي على غلاف جوي. وبالتدريج بدأت الغازات المنطلقة من الأرض تتجمع حولها. فعلى سبيل المثال، أطلقت أعداد هائلة من البراكين على الأرض الناشئة العديد من الغازات مثل النشادر وثاني أكسيد الكربون وأول أكسيد الكربون والهيدروجين والميثان والنيتروجين وثاني أكسيد الكبريت وبخار الماء. وبذلك شكَّلت هذه الغازات المنبعثة من البراكين الجزء الأكبر من الغلاف الجوي القديم لسطح الأرض. وتكاثف جزء كبير من بخار الماء المنبعث من البراكين ليشكل الأنهار والبحيرات والمحيطات. أما بقية الغازات المكونة للغلاف الجوي القديم فقد ذابت في المحيطات أو كونت صخور القشرة الأرضية. ولكن معظم النيتروجين بقي في الغلاف الجوي، وأضيف إليه لاحقًا غاز الأرجون والزينون بفعل تحلل بعض العناصر المشعة على سطح الأرض. ويبدو أن الغلاف الجوي في الأزمنة القديمة لم يكن يحتوي على نسبة كبيرة من الأكسجين، ولكن بعد ظهور الطحالب وغيرها من الكائنات النباتية الخضراء في المحيطات قبل 3،5 مليار سنة، بدأت كمية الأكسجين بالازدياد نتيجة لعملية التركيب الضوئي. وبانتشار النباتات على سطح الأرض يضاف مزيد من الأكسجين إلى الغلاف الجوي. وقبل 400 مليون سنة كان الغلاف الجوي يحتوي غالبًا على نفس كمية الأكسجين التي يحتوي عليها الآن.ومع مرور الأيام أحدثت الأنشطة البشرية تغييرات مهمة في تركيب الغلاف الجوي. فمثلاً، يضاف ثاني أكسيد الكربون إلى الغلاف الجوي بفعل احتراق فحم أو زيت أو وقود يحتوي على الكربون. فمنذ عام 1900م، تسبب استخدام مثل هذه الأنواع من الوقود في إحداث زيادة في ثاني أكسيد الكربون قدرها 15% من حجم ثاني أكسيد الكربون الموجود في الغلاف الجوي. وعمومًا، بقيت نسبة الغازات في الغلاف الجوي كما هي تقريبًا عبر ملايين السنين.
دراسة الهواء
منذ قديم الزمان، عرف الإنسان أن الهواء ضروري للحياة. فخلال القرن الخامس قبل الميلاد، اقترح الفيلسوف الإغريقي أمبيدوقليز أن أربعة عناصر هي الهواء والأرض والنار والماء تتحد بنسب مختلفة لتكون الخليقة. وقد وافقه على هذه الفكرة العديد من العلماء الإغريق. وفي القرن الرابع قبل الميلاد كتب الفيلسوف الإغريقي أرسطو كتاب الميترولوجيا (أي علم الأرصاد الجوية) الذي يضم ما جمعه من ملاحظات عن طبيعة الهواء وأشكال الطقس المختلفة. لم يستطع الفلاسفة والعلماء في السابق أن يختبروا نظرياتهم حول الهواء لعدم وجود الأجهزة الخاصة بقياس خواص الهواء. فقد بدأت ملاحظة العلماء للهواء منذ عام 1593م، عندما اخترع العالم الإيطالي جاليليو مقياسًا للحرارة. وفي عام 1643م اخترع العالم الإيطالي إيفانجليستا توريشلي جهاز البارومتر لقياس الضغط الجوي. وقد أثبت هذا الجهاز أن للهواء وزنًا. وفي منتصف القرن السابع عشر الميلادي استخدم الكيميائي الأيرلندي روبرت بويل البارومتر لإيجاد صيغة تربط بين كمية الهواء وضغطه. وخلال القرن الثامن عشر الميلادي بدأ العلماء دراسة الغازات المكونة للهواء. فقد اكتُشف الأكسجين من قِبَل الكيميائي السويدي كارل شيل في بداية السبعينيات من القرن الثامن عشر الميلادي، وتبعه الكيميائي الإنجليزي جوزيف بريستلي عام 1774م. وفي عام 1777م، أدرك الكيميائي الفرنسي أنطوان لافوازيه أن الأكسجين يساعد على الاشتعال. وفي عام 1772م، اكتشف الطبيب الأسكتلندي دانيال رذرفورد غاز النيتروجين. وفي عام 1894م، عزل اثنان من العلماء هما الكيميائي الأسكتلندي السير وليم رامزي والفيزيائي الإنجليزي البارون رايلي غاز الأرجون. وفي نهاية القرن التاسع عشر توصل العلماء إلى أن تركيب الهواء متشابه في جميع أنحاء الكرة الأرضية. وخلال العقد الأول من القرن العشرين اكتشف فريق نرويجي برئاسة الفيزيائي فلهلم بياركنز تحرك الكتل الهوائية. ونتيجة لالتقاء كتلة هوائية دافئة بكتلة هوائية باردة ينشأ ما يسمى الجبهة، يختلف فيها الطقس بصورة فجائية. وقد ساعدت هذه النماذج لأنظمة الطقس على التقدم الواسع في مجال التنبؤ الدقيق لحالات الطقس. ومع منتصف القرن العشرين حصل تقدم هائل في المعدات الخاصة بدراسة الغلاف الجوي. فاليوم تُستخدم كل من أجهزة الرادار والصواريخ والأقمار الصناعية والمناطيد (البالونات) لدراسة الأحوال الجوية. وقد مكنت هذه التسهيلات العلماء من مراقبة الغلاف الجوي باستمرار، كقياس مستويات التلوث الجوي وقياس التغيرات التي تطرأ على تركيب الهواء. وغالبًا ما يحمل المنطاد جهاز المسبار الراديوي (اللاسلكي)، الذي يقيس درجة الحرارة والضغط الجوي والرطوبة في الجو على مختلف الارتفاعات. حيث تبث أجهزة الإرسال في جهاز المسبار الراديوي المعلومات الخاصة بالطقس إلى المحطات المناخية على سطح الأرض. كما تساعد الحواسيب علماء الأرصاد الجوية في تحليل الكم الهائل من البيانات المناخية من مختلف المصادر وإعداد خرائط خاصة بالطقس.
حساب ضغط الهواء
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T:درجة الحرارة بالكلفن(273+0) التحيل من الدرجة المئوية إلى الكلفن الوحدة k
مواضيع ذات صلة
تدرج كثافة
التوسع الكوني.
غلاف جوي خارجي.
وصلات خارجية
التقطها انديفور في 29 يوليو.
مراجع
تصنيف:غلاف الأرض الجوي
أرض
تصنيف:بيئات
تصنيف:تخفيف الضغط
تصنيف:ديناميكا حرارية جوية
تصنيف:طبقات الجو
تصنيف:علم المناخ
تصنيف:غازات التنفس
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} | রূপান্তরিত লিঙ্গ-এর ব্যক্তিবর্গ (English: Transgender, ট্রান্সজেন্ডার) হল সেসব ব্যক্তি যাদের এমন একটি নিজস্ব যৌন পরিচয় বা যৌন অভিব্যক্তি রয়েছে, যা তাদের জন্মগত যৌনতা হতে ভিন্ন।[1][2][3] রূপান্তরিত লিঙ্গের ব্যক্তিবর্গ যদি তাদের যৌনতা পরিবর্তন করতে ডাক্তারি সাহায্য কামনা করে তবে তাদেরকে অনেকসময় রূপান্তরকামী নামে ডাকা হয়। 'এছাড়াও রূপান্তরিত লিঙ্গ একটি শ্রেণিগত পরিভাষা: যাতে এমন ব্যক্তিদেরও জগ করা হয় যাদের যৌন পরিচয় তাদের জন্মগত যৌনতার বিপরীত (রূপান্তরকামী পুরুষ বা রূপান্তরকামী নারী), এছাড়াও এতে এমন শ্রেণীও অন্তর্ভুক্ত হয় যারা স্পষ্টভাবে নারীসুলভ বা পুরুষসুলভ নয় (জেন্ডারক্যুয়্যার বা বিচিত্রলিঙ্গ, যেমন দ্বৈতলিঙ্গ, সর্বলিঙ্গ, লিঙ্গতরল, বা অলিঙ্গ)।[2][4][5] রূপান্তরিত লিঙ্গের অন্যান্য সংজ্ঞার মধ্যে তৃতীয় লিঙ্গের ব্যক্তিবর্গও অন্তর্ভুক্ত থাকে অথবা রূপান্তরিত লিঙ্গকে তৃতীয় লিঙ্গ হিসেবে সংজ্ঞায়িত করা হয়।[6][7] তবে মাঝে মাঝে, বিস্তৃত পরিভাষায় রূপান্তরিত লিঙ্গ বোঝাতে ক্রস-ড্রেসার বা বিপরীত লিঙ্গের পোশাক পরিধানকারীদেরকেও বোঝানো হয়,[8], তাদের যৌন পরিচয় যাই হোক না কেন।
চিকিৎসার পরিভাষায়, রূপান্তরিত লিঙ্গ ধারণ করা একটি স্বাধীন যৌন অভিমুখিতা:[9] রূপান্তরিত লিঙ্গের ব্যক্তিবর্গ বিপরীতকামী, সমকামী, উভকামী বা নিষ্কামী ইত্যাদি হিসেবে চিহ্নিত হতে পারেন., অথবা প্রচলিত যৌন অভিমুখিতার তকমাকে বেঠিক বা অপ্রযোজ্যও মনে করতে পারেন। পাশাপাশি, রূপান্তরিত লিঙ্গ পরিভাষাটি আন্তঃলিঙ্গ হতে সম্পূর্ণ আলাদা, যার দ্বারা এমন ব্যক্তিবর্গকে বোঝানো হয় যারা জন্মগতভাবে এমন বৈশিষ্ট্যের অধিকারী যা পুরুষ বা নারীর দৈহিক যৌন বৈশিষ্ট্য হতে আলাদা।[10]
আরও দেখুন
হিজড়া (দক্ষিণ এশিয়া) - দক্ষিণ এশিয়ায়, বিশেষ করে, ভারতের রূপান্তরকামী বা রূপান্তরিত লিঙ্গের নারীদের (পুরুষ-হতে-নারীতে রূপান্তরিত লিঙ্গ) বোঝাতে ব্যবহৃত একটি পরিভাষা।
টীকা
তথ্যসূত্র
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} | モンゴルの歴史(モンゴルのれきし)では、モンゴル高原を中心に興亡した国家、民族に関する通史を扱う。当該地域には2016年現在、モンゴル国および中華人民共和国内の内モンゴル自治区が存在する。
概史
土方、鬼方、馬方
紀元前1300年代後半と推定される殷王武丁の時代の卜辞(甲骨文字)に、「土方」と呼ばれる異民族が殷の辺境を侵略したことが記されており、周代の『周礼』『易経』には土方・鬼方・馬方と呼ばれる民族が記されている[1]。しかし、これらがモンゴル高原の遊牧民であるかは不明。
山戎、獫狁、葷粥
中国の歴史書『史記』によると、「唐(帝堯)や虞(帝舜)より以前には、山戎(さんじゅう)・獫狁(けんいん)・葷粥(くんいく)が北方の草原地帯に住み、遊牧生活を営んでいた。」[2]とあり、中国の伝説的時代(三皇五帝)に山戎・獫狁・葷粥といった遊牧民がいたとされる。しかし、これらの民族名は伝説時代にとどまらず、西周時代末(紀元前800年頃)の虢季子白盤という青銅器の銘文に「玁狁」の名が見え、周代の詩篇である『詩経』采微にも「玁狁」の名が見えること、『春秋左氏伝』荘公三十年・『史記』世家に、紀元前663年の出来事として斉の桓公が山戎を征伐した事件が共通して記されていることなどから、周代には実在した遊牧民であることがわかる。[3]
戎、狄、胡
中国の春秋戦国時代、北方の草原地帯のみならず、中国本土にも戎や狄(あるいは翟)といった異民族が入りこんで点在していた。後代、専ら北の異民族を狄(北狄)、西の異民族を戎(西戎)と呼んだが、この時代においては両族とも北西問わず入り乱れて生活しており、多くの部族に分かれていた。戎は北戎・西戎に大別され、北戎では上記の山戎が有名であり、西戎では西周を滅ぼした犬戎が有名である。狄は周の王室と結びつき、その王位継承問題に介入した。紀元前635年に晋によって討伐されると赤狄・白狄に分かれた。胡は後の匈奴の代名詞となり、イラン系のソグド人をも指す用語となるが、春秋時代のオルドス地方には林胡という部族がおり、燕の北には東胡という部族がいた。いずれの種族もその多くは戦国時代の秦や趙といった強国に併合され、中国人と同化していった。[4]
匈奴、月氏、東胡
秦の始皇帝によって中国が統一されると、北の草原地帯では匈奴・月氏・東胡の3族が盛んとなり、たびたび中国に侵入したが、秦の将軍蒙恬によって阻まれていた。しかし、紀元前210年に蒙恬と始皇帝が亡くなると、中国では内乱が頻発したため、国の防衛ができなくなり、その隙をついて匈奴は河南の地(オルドス地方)に侵入し、その地を手に入れた。匈奴の君主(単于)は頭曼単于といい、冒頓という太子がいたが、冒頓より末の子を寵愛したため、頭曼は冒頓を廃すために西の強国である月氏に人質として送りつけた。しばらくして、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏に攻撃をしかけた。これにより冒頓は月氏に命を狙われたが、命からがら逃げかえり、自分に忠実な者を集めて父の頭曼を殺した。こうして新たに単于となった冒頓は東の強国である東胡に侵攻して併合し、西の月氏を撃退し、一大強国を築き上げた。[5]
匈奴単于国
冒頓単于のもとで史上初めてモンゴル高原が統一されると、その周辺国も次々と匈奴の支配下に入っていった。モンゴル高原の北、バイカル湖の南の地域(ザバイカリエ)には渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁といった諸族がおり、冒頓単于はこれらを征服、続いて南の新興国である漢帝国に侵攻し、高祖劉邦を撃退。西の月氏を河西地域から追い出し、その支配下にあった[6]楼蘭・烏孫・呼掲および西域26国を匈奴の支配下に入れた。こうして冒頓単于は一代にしてモンゴル高原から西のジュンガル盆地・タリム盆地までをその支配下に置き、大帝国を築いた。漢の高祖を撃退して以降、匈奴は毎年漢に貢納品を要求するようになり、しばらくは中国より優位な立場にあった。しかし、漢で武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると、漢は今までの弱腰外交をやめて攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって将軍の衛青に命じて河南の地を奪取させ、元狩2年(前121年)には驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまう。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては逆に漢から人質が要求されるようになった。こうした中、匈奴に服属していた近隣諸族は衰退をみせる匈奴に対して反乱を起こす。かつて東胡の一部であった烏桓族は歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の報復をし、イリ地方の烏孫族は漢と同盟を組んで匈奴を攻撃、北の丁零族もそれに乗じて攻撃を仕掛けた。これによって匈奴は大いに弱体化して内乱が頻発し、一時は5人の単于が乱立する事態となった。この事態を収束したのが呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)であり、彼は内乱を鎮めて匈奴を統一すると、漢に称臣して漢と好を結んだ。以降、呼韓邪単于とその息子たちによって両国の平和が保たれた。[7]
匈奴の南北分裂
呼韓邪単于以降、匈奴と漢の関係は良好であったが、中国で新都侯の王莽が政権を掌握し、漢を倒して新を成立させると、中国内外に暴政を布いたため、近隣諸国から反感を買った。これに対して烏珠留若鞮単于(在位:前8年 - 13年)は呼韓邪単于以来続いてきた和平を決裂させ、たびたび中国に侵入略奪を繰り返すようになる。地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡する。25年には光武帝のもとで後漢が成立する。この間にも匈奴の侵入略奪は続いており、呼都而尸道皋若鞮単于(在位:18年 - 46年)は後漢に対し、新を倒せたのは匈奴のおかげだと主張、中国に対して優位な立場に立とうとした。しかし、彼の子の蒲奴単于(在位:46年 - ?年)の時代になり、匈奴国内で旱(ひでり)と蝗(いなご)の被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。これに乗じて烏珠留若鞮単于の子である右薁鞬日逐王の比は匈奴に対して独立を宣言し、南匈奴を建国(これに対し、もとの匈奴を北匈奴と呼ぶ)。自身を呼韓邪単于になぞらえ、後漢と同盟を組んだ。南匈奴は北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させた。これにより単于蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った。[8]
鮮卑大人国
北匈奴はしばしば中国の辺境を荒らしては後漢と南匈奴に討たれたので、次第に衰退していった。章和元年(87年)、東胡の生き残りである鮮卑族が北匈奴の左地(東部)に入って北匈奴を大破させ、優留単于を斬り殺した。これに乗じた後漢・南匈奴連合軍は一気に攻撃を仕掛け、北匈奴をはるか西方の康居の地へと追いやった。空白となったモンゴル高原は鮮卑が奪い取り、それまでの匈奴国民はすべて鮮卑国民と化した。桓帝(在位:146年 - 167年)の時代、檀石槐が大人(たいじん)の位に就くと、弾汗山・啜仇水のほとりに本拠を置き、東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。その兵馬は勢い盛んで、南は後漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令の南下を阻み、東では夫余を撃退させ、西では烏孫に攻撃をかけた。かつての匈奴の版図を手中に収め、東西は1万2000余里、南北は7000余里にわたって、広大な領域を有した。後漢の朝廷はこれを患え、使匈奴中郎将の張奐を送って討伐させたが、勝つことができなかった。そこで今度は使者を送り印綬を授けて、檀石槐を王の位に封じ、和親を通じようとしたが、檀石槐は拒絶して受け取らず、侵入略奪はますます激しくなった。後漢は何度も遠征をかけて檀石槐を討とうとしたが、彼の存命中は敗北を重ねるだけであった。檀石槐が45歳で死ぬと、鮮卑内で後継争いが相次ぎ、檀石槐の帝国は一代にして瓦解した。一時は軻比能が勢力を増したが、檀石槐ほどではなく、青龍3年(235年)に魏の王雄が放った刺客によって軻比能は殺され、他の鮮卑部族は魏の支配下に入ることとなった。[9]
五胡十六国時代
西晋の時代、モンゴル高原では統一政権のない時代が続いており、北部では丁零族が各部に分かれて勢力を広げ、南部では鮮卑族の拓跋部・慕容部・宇文部・段部・禿髪部・乞伏部が分立していた。八王の乱(291年 - 305年)以降、これらを含む中国の周辺異民族は傭兵として雇われ、徐々に中国内部での勢力を増していった。南匈奴の劉淵が起こした永嘉の乱によって西晋が倒されると、華北は異民族の国家が興亡する五胡十六国時代へと突入する。その間のモンゴル高原南部は鮮卑拓跋部の代国が勢力を張り、北部では高車(丁零)が勢力を張ることとなる。[10]
柔然可汗国
5世紀に入ると、柔然が勢力を伸ばし、中国北部の北魏(もとの代国)と対立するようになる。402年、その酋長である社崙は周辺諸族を支配下に治め、自ら丘豆伐可汗(在位:402年 – 410年)と号して柔然可汗国を建国した。以後、モンゴル高原に興亡する遊牧帝国は君主号として可汗(カガン)を採用し、可汗を推戴する可汗国を建国していくこととなる。柔然は北魏の太武帝の親征以降、敗戦を重ね、次第に衰弱していったため、北魏や南朝の宋に朝貢し、独自の元号を使用したり、城郭を築いたりして中国の文化を取り入れ、国力の改善を図った。しかし一方で北魏に対する侵入略奪も続けていたため、それに反対的であった高車副伏羅部の阿伏至羅兄弟が柔然から離反し(487年)、柔然と対立する。その後、柔然は阿那瓌(在位:520年 – 552年)の時代に一時的に勢力を盛り返すも、新たに台頭してきた突厥によって衰退させられ、555年に最後の可汗が処刑されて滅亡する。[11]
突厥可汗国
突厥はもともと柔然に従属する鍛鉄奴隷であったが、その酋長である土門が伊利可汗(イリグ・カガン、在位:552年 – 553年)と号して柔然から独立し、突厥可汗国を建てる。木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 – 572年)の代には柔然とエフタルを滅ぼして最大版図となり、他鉢可汗(タトパル・カガン、在位:572年 – 581年)の代にはソグド文字で石碑を建て、仏教を導入して伽藍を建てるなど、軍事面・文化面ともに強盛となった。しかし582年、内紛によって突厥が東西に分裂し、東突厥・西突厥が成立する。7世紀に入ると、モンゴル高原を中心とする東突厥は中国の隋に侵入して唐の隋打倒に協力した。隋が滅亡して唐が建国されても東突厥は中国への侵入・略奪をやめなかったが、630年、太宗によって行われた大規模な東突厥征討により、頡利可汗(イリグ・カガン、在位:620年 – 630年)が捕えられ、東突厥は唐の羈縻支配を受ける。この間のモンゴル高原は薛延陀や回紇といった鉄勒諸部が勢力を伸ばした。682年、阿史那骨咄禄(アシナ・クテュルク)がイルティリシュ・カガン(在位:682年 – 690年頃)と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那默啜(カプガン・カガン、在位:690年頃 – 716年)の代には最盛期を迎え、毘伽可汗(ビルゲ・カガン、在位:716年 – 734年)の代には固有の文字である突厥文字をつくり、自らの文字で自らの言語を記し、数々の突厥碑文を残した。毘伽可汗の死後、東突厥で内紛が相次いだため、この衰えに乗じた回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・拔悉蜜(バシュミル)の3部族によって最後の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。[12]
回鶻可汗国
回鶻(かいこつ、ウイグル)は初め「回紇」と表記され、突厥の最大構成民族「鉄勒」(てつろく、テュルク)の有力部族であった。7世紀 - 8世紀、鉄勒の中でもモンゴル高原の有力な部族は「トクズ・オグズ(九姓鉄勒)」と呼ばれ、回紇はその中でも最有力部族であり、東突厥可汗国の衰退に乗じ、742年に周辺の葛邏禄(カルルク)部、拔悉蜜(バシュミル)部とともに東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を殺害した。744年、回紇部の骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン、在位:744年 - 747年)と号し、745年には最後の東突厥可汗を殺して東突厥を滅ぼし、モンゴル高原の覇者となった。755年、唐で安史の乱が起こると、皇帝の粛宗は回紇の葛勒可汗(在位:747年 - 759年)に援軍を要請し、757年11月までに唐・回紇連合軍で反乱軍を撃退した。つづく牟羽可汗(在位:759年 - 779年)の代でも反乱軍の残党を駆逐し、回紇の協力があって8年に及ぶ安史の乱を終息させることができた。779年、ソグド人官僚に促されて唐に攻め込もうとした牟羽可汗を宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が殺害し、回紇可汗国内のソグド人官僚、マニ教が弾圧されるという政変が起こった。これによって頓莫賀達干は合骨咄禄毘伽可汗(アルプ・クテュルク・ビルゲ・カガン、在位:779年 - 789年)と号し、唐との関係を強固なものにすると同時に、国号を「回紇」から「回鶻」に改称した。その後もしばらく唐とは良好な関係を保ち、790年代における吐蕃との戦争も両国が連合して対処したが、保義可汗(在位:808年 - 821年)の代において関係がこじれ、一時的に緊張状態となった。その後すぐに唐との関係が修復したものの、回鶻可汗国内で後継争いが相次ぎ、加えて異常気象によって多くの家畜が死んだため国力が衰退し、北の黠戛斯(キルギス)の侵入を招いて回鶻可汗国は崩壊した。
[13]
九姓タタル国
回鶻可汗国の崩壊後、モンゴル高原を支配したのは黠戛斯(キルギス)であったが、その支配は長続きせず、860年代には東方のタタル族によって高原を追い出されてしまう[14]。このタタル族は漢籍では「阻卜」・「達旦」と記され、ウイグル碑文・イェニセイ碑文では「トクズ・タタル(九姓タタル)」・「トクズ・タタル・イル(九姓タタル国)」と記される集団であり、回鶻可汗国の崩壊後から11世紀に至るモンゴリアの空白時期を埋める漠北政権である[15]。やがて九姓タタルは契丹(遼)の侵攻により、その属民となる。
遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代
4世紀以来、大興安嶺山脈の東側には契丹(キタイ)という遊牧民族が居住しており、長い間、時の強国の支配を受けてきたが、10世紀になって強大化し、部族長の耶律阿保機の代に内モンゴルを中心に大帝国を築いた。契丹は漠北のモンゴル高原に進出し、928年にケンテイ山脈以東に住むタタル「烏古」を征服して契丹の軍を駐屯させ、1000年までにはケンテイ山脈以西に住むタタル「阻卜」を征服した。1004年、契丹帝国(遼)はウイグル故城の一つ、オルホン川とトーラ川の間のカトンバリクの地に、モンゴル高原を統治する拠点「鎮州建安軍」を置いた。[16]
1115年、黒龍江(アムール川)下流域の狩猟民族「女真(ジュシェン)」の部族長のひとり、完顔阿骨打(ワンヤン・アグダ)が遼から独立して自ら皇帝となり、「金」を建国した。1125年、金軍はモンゴル高原で最後の遼皇帝を捕えて遼を滅ぼし、遼が支配していた領土をそのまま受け継いだが、狩猟民族であった女真族は漠北の草原地帯まで支配が及ばなかった[17]。そのため、モンゴル高原はモンゴル、ケレイト、メルキト、ナイマンといった諸部族が割拠する時代に入り、モンゴル帝国が現れるまで統一政権が生まれなくなる。
モンゴルの登場
モンゴルは初め中国史書において、「室韋」という部族集団に属す「蒙兀室韋」という部族名で初登場する。室韋は大興安嶺山脈の北、アルグン川渓谷(現在のフルンボイル市)に居住していたが、9世紀になってモンゴル高原に進出し始め、10世紀、11世紀には「九姓タタル国」を建国するなど、次第にモンゴル高原における占有率を高めていった。室韋族はテュルク系民族から「オトゥズ・タタル(三十姓タタル)」「トクズ・タタル(九姓タタル)」などと呼ばれていたが、モンゴル部はそのうちの「オトゥズ・タタル(三十姓タタル)」に属しており[18]、バイカル湖畔に居住していた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』に「萌古国」という名前で記された[19]。モンゴル部族はその後、数氏族に分かれ、周辺のタタル系部族と抗争を繰り返した。
チンギス・カンのモンゴル統一
チンギス・カンは初め、テムジンといい、モンゴル部の中心氏族ボルジギン氏に属するキヤト氏の傍系に生まれた。1195年、テムジンは兵を集めて金軍によって追われたタタル部(タタル系の一部族)を攻め、その部族長を殺した功により、金朝皇帝から「ジャウト・フリ」の官職を授かる。1196年、ケレイト部族長オン・カンと同盟し、周辺のメルキト部、ナイマン部、タタル部とチンギス・カンの同族であるタイチウト氏などと抗争を繰り返した。1203年、同盟者であるオン・カンの襲撃に遭ったが、反撃してケレイト部を滅ぼし、自軍に組み入れ、1204年にはナイマン部、メルキト部、タタル部を壊滅させ、モンゴル高原を統一した。1206年、テムジンは支配部族・氏族の代表者を召集して、オノン川の水源地にて大会議(クリルタイ)を開催し、全遊牧民族の支持を得て「チンギス・カン」の称号を授かった。[20]
モンゴル帝国
チンギス・カンの建てたモンゴル帝国は中世モンゴル語でイェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)という。「ウルス」とは「領民」という意味で、「領土」という概念のなかった遊牧民族にとっては、「領民」こそが「国家」であった。
チンギス・カンは1208年、モンゴル高原西北のオイラト、ケム・ケムジュート、キルギスといった部族を支配下に入れ、1209年には、タングート族の西夏を降し、カラ・キタイ(西遼)属国であった天山ウイグル王国を自領に加え、1210年からは金朝攻略を開始した。1218年、カラ・キタイを征服し、1219年からは中央アジア遠征を開始して、1222年までにイスラム王朝であるホラズム・シャー朝を壊滅させた。一方、別動隊はキリスト教国グルジアを攻撃した後、カフカス山脈を越え、テュルク系遊牧民族キプチャクの草原地帯に入り、キエフ・ルーシの諸侯と一戦を交えた。1225年、モンゴル高原に帰還したチンギス・カンは反抗する西夏の攻略にとりかかり、1227年にその国を滅ぼしたが、同じ年に陣中で病死してしまう。
チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位:1229年 - 1241年)は征服戦争を引き継ぐと同時に、征服地の施政と法の整備、駅伝制(ジャムチ)の採用、中央政府である中書省の設置、首都であるカラコルムの建設など、国家体制を強化していった。1234年、オゴデイ・カアンは遂に金朝を滅ぼし、華北の地を手に入れる。翌1235年、首都のカラコルムをオルホン河畔に建設した。1236年からはヨーロッパ遠征が開始され、まずヴォルガ川流域のヴォルガ・ブルガール、1237年にはキプチャク族、1240年にはキエフ・ルーシ諸侯国を征服した。1241年、ポーランド王国に侵攻したモンゴル軍はワールシュタットの戦いでシレジア公を戦死させ、バトゥ率いる部隊はハンガリー王国に侵攻してハンガリー軍を潰走させたが、翌1242年になってオゴデイ・カアンが死去したため、モンゴル征西軍は帰還を余儀なくされた。
オゴデイ・カアンの死後、しばらく新カアンが決まらず、1246年になってようやくグユク・カン(在位:1246年 - 1248年)が即位した。しかし、病弱であったグユク・カンは2年で他界し、再び皇位不在の状態が続いた。1250年、ジョチ家のバトゥはトルイ家とともにクリルタイを招集し、チャガタイ家・オゴデイ家が反対する中、トルイの子モンケをカアンに推戴した。モンケ・カアン(在位:1209年 - 1259年)は反対派であるチャガタイ家・オゴデイ家を弾圧し、その領地と軍隊を没収した。1253年、モンケ・カアンは弟のクビライに雲南征服を命じ、大理国を滅ぼした。また、弟のフレグにペルシア遠征を命じ、1257年までにイラン高原を征服し、1258年にはバグダードを占領してアッバース朝を滅ぼした。同じ年、モンケ・カアンは自ら南宋遠征に乗り出したが、1259年の合州包囲中に疫病にかかり、陣中で病死した。
1260年、クビライは内モンゴルのドローン・ノールに建設した開平府においてクリルタイを召集し、カアンに選出された。しかし、同じ年に弟のアリク・ブガも首都カラコルムの大オルドでカアンに選出されたため、モンゴル帝国は2つに分裂してしまう。しばらく両者の間で戦闘が起きたが、物資の乏しかったアリク・ブガは1264年に降伏し、クビライ・カアン(在位:1260年 - 1294年)が単独でモンゴル帝国のカアンになることができた。この間にモンゴル帝国の地方政権チャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルス、フレグ・ウルスが誕生し、緩やかな連合体を形成した。
[21]
大元帝国
1271年、クビライは国号を漢式の「大元(ダイオン)」と改め、翌年から金の中都であった燕京城の東北郊外に新たな首都「大都」を建設し、1283年に完成させる。1276年、元朝は南宋の首都臨安(杭州)に迫り、無血開城させると、1279年までに南宋の残党を滅ぼし、150年ぶりに中国統一を果たす。1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)には日本へ侵攻するが、失敗に終わり、1285年と1288年にはベトナムの陳朝大越国に侵攻するが、これも失敗に終わった。晩年のクビライは各地の反乱鎮圧に追われ、1294年に病没する。後を継いだのは孫のテムル(オルジェイトゥ・カアン、欽明広孝皇帝、成宗、在位:1294年 - 1307年)であり、彼は1301年に侵攻してきた中央アジアのカイドゥの軍を破り、長年続いていたモンゴル帝国の内紛を終結させ、「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」と呼ばれる帝国の安定期をもたらした。しかし、その平和は長く続かず、1307年にテムルが没してからは後継争いが相次ぎ、朝廷ではキプチャク・メルキト軍閥の将軍たちが実権を握って国庫を破綻させた。1348年には塩商人方国珍の反乱が起き、1351年には白蓮教徒による紅巾の乱が起きた。この反乱の中から台頭した朱元璋は1368年に南京で大明皇帝の位に就き、元朝の大都を攻撃して皇帝トゴン・テムル(ウカアト・カアン、宣仁普孝皇帝、順帝、恵宗、在位:1333年 - 1368年)を内モンゴルの応昌府まで敗走させた。明軍に占領された大都は灰燼に帰し、中国史における元朝はここに滅びた。[22][23]
北元(韃靼)
中国史における元朝は1368年に滅ぶが、中央ユーラシア史における元朝は滅んではおらず、モンゴル高原へ退却した後も約20年間はクビライの王統は続いており、さらに約100年間は「大元」の国号を使い続けていた。一方、明朝の中国人は北元政権を「蒙古」と呼ばずに「韃靼」と呼んで元朝の後裔であることを否認した。1388年に最後のクビライ裔であるトグス・テムル(ウスハル・ハーン、寧孝皇帝、天元帝、平宗、在位:1378年 - 1388年)がアリク・ブケ裔のイェスデルに殺害されると、北元政権はさまざまな部族の権力者によってチンギス裔のハーンが擁立されるようになる。
その中で頭角を現したのがオイラト部族である。オイラト部族は代々アリク・ブケ家に協力し、イェスデルがハーンに即位した際もその支持をしていた。しかし、エルベク・ハーンの時にモンゴルとオイラトの対立が始まり、北元はクビライ家を支持する「四十(ドチン)モンゴル」とクビライ家を支持しない「四(ドルベン)オイラト」の二つに分かれて争うようになる。この争いはオイラトのトゴン・タイシがクビライ裔のトクトア・ブハ(タイスン・ハーン、在位:1433年 - 1452年)を擁立することで一旦終息する。
1439年にトゴン・タイシが没すると、後を継いだ子のエセン・タイシは東では大興安嶺山脈を越えて女直人を服従させ、1449年には明との交易問題が原因で戦闘になり、正統帝(英宗)を捕虜にする土木の変を引き起こし、西ではチャガタイ・ウルスの東半分であるモグーリスタンを制圧し、ウズベクのアブル=ハイル・ハンを撃破した。1452年、タイスン・ハーンはエセン・タイシの選んだ皇太子を拒んだために、エセン・タイシと戦って殺された。エセン・タイシはチンギス家の皇族を皆殺しにした後、自らハーン位(在位:1453年 - 1454年)に就き、「大元天聖ハーン」と称したが、翌年に反乱を起こした部下によって殺害される。
その後しばらく政治的空白が続いたが、チンギス裔で唯一生き残ったバト・モンケがダヤン・ハーン(在位:1487年 - 1524年)となり、モンゴルの再統一を果たすと、モンゴル高原を6つの大部族(トゥメン)に分け、左翼(チャハル、ハルハ、ウリヤンハン)と右翼(オルドス、トメト、ヨンシエブ)に配置した。ダヤン・ハーンの直轄領が左翼のチャハル部であったので、代々チャハル部のハーンがモンゴルの宗家であったが、右翼のトメト部長アルタンが次第に勢力を増していったため、「トシェート・セチェン・ハーン」の称号を得て、モンゴル2番目のハーン(アルタン・ハーン)となり、オイラト征伐や中国難民の保護、チベット仏教の再導入など、さまざまな改革をおこなった。また、明朝からは「順義王」の称号を得る。[24][25]
アルタン・ハーン死後のトメト部は急速に勢力を失い、六代の後にチャハル部長リンダン・ハーンの侵攻に遭い、滅亡する(1628年)。モンゴル宗家であるリンダン・ハーンはモンゴル諸部の再統一をもくろみ、ハラチン・ハーン家とトメト・ハーン家を滅ぼし、オルドス晋王家を服従させたが、チベット遠征途中で病死した(1634年)。時に、ヌルハチ、ホンタイジ父子による女直(ジュシェン)族の勢力拡大により、各部族が女直側につくようになる。チャハル部もまたリンダン・ハーンの死により勢力を失ったため、その子エジェイが女直軍に降伏して元朝ハーンの玉璽をホンタイジに差し出した。これにより女直族のホンタイジはチンギス・ハーンの受けた天命が自分にも移ったとして、1535年に民族名を「女直(ジュシェン)」から「満洲(マンジュ)」に改め、後の清朝となっていく。[26]
ハルハ部の台頭
ハルハ部はダヤン・ハーンの末子ゲレセンジェの領する部族で、初めは高原の東側に遊牧する部族であったが、トメト部長アルタン・ハーンのオイラト征伐を引き継ぐとその領地を西へと広げ、いわゆる「外モンゴル」の原形となった。トメト部長アルタン・ハーンの死後、モンゴルでは各部でハーンが誕生したが、ハルハ部においても同様で、ハルハ部で最初にハーン位に就いたのがアバダイ・ハーンである。彼は1585年に仏教寺院エルデニ・ジョーをカラコルムの地に建立し、1586年には巡錫中のダライ・ラマ3世に謁見し、「ノムン・イェケ・オチル・ハーン(法の大金剛王)」の称号を賜った。彼の子孫が後にハルハ左翼のトシェート・ハーン家となる。アバダイ・ハーンの死後にオイラト征伐を引き継いだのはライフル・ハーンであり、彼の子孫が後にハルハ右翼のジャサクト・ハーン家となる。また、この当時ロシア帝国がシベリアに進出しており、モンゴルで初めてロシアと接触したのが、ウバシ・ホンタイジであった。彼はアルタン・ハーンと名乗り、しきりにロシア使節と連絡を取り合い、ジャサクト・ハーンの副王(ホンタイジ)の立場にあったにもかかわらず、大きな勢力を持った。彼は1623年に四(ドルベン)オイラトの連合軍に殺されるが、彼の子孫はしばらくアルタン・ハーンの称号を使い続けた。モンゴルとオイラトは元朝が北方へ退却してから仇敵同士であったが、チャハル部を始めとした「内モンゴル」諸部が清朝の支配下に入ったため、1640年にジャサクト・ハーンの提唱により、モンゴル・オイラト会議が開催された。しかし一方で、ハルハの領主たちは清朝とも友好関係を築き、北方から迫るロシア帝国の要塞セレンギンスクやウジンスクを攻撃した。1662年、アルタン・ハーンであるエリンチンがジャサクト・ハーンであるワンシュクを殺害したことで、ハルハ部の内紛が始まり、オイラトのジューンガル部も巻き込んだために、ジューンガル部長ガルダン・ハーンの侵入を招いた。ガルダン・ハーンがモンゴル高原を席捲したため、数十万のハルハ部の人々は内モンゴルに逃れて清朝の康熙帝に臣従を誓い、康熙帝の親征によってガルダン・ハーンを高原から追い出すことに成功した。これにより、ハルハ部の領する高原北部は清朝の版図となり、「外藩蒙古」となる。[27]
清朝統治時代
275年間に及ぶ清朝のモンゴル統治では、モンゴル族を同盟者として扱い、その忠誠を確保するためにさまざまな保護がなされていた。まず、行政組織としては満洲族の八旗制度に準じて「旗(ホシューン)」を基本単位とし、旗ごとに牧地を指定して世襲制の「旗長(ジャサク、扎薩克)」を置いた。清朝は漠南のモンゴル諸部を四十九旗に再編し、その上に六つの「盟(チュールガン)」を置いた。四十九旗の各旗長(ジャサク)には、位に応じて和碩親王(ホショイ・チンワン)、多羅郡王(ドロイ・ギュンワン)、多羅貝勒(ドロイ・ベイレ)、固山貝子(グサイ・ベイセ)、鎮国公(トシェグン)、輔国公(トサラフグン)など、清朝皇族と同じ爵位が与えられた。これらの下に一等から四等までの台吉(タイジ)または塔布嚢(タブナン)の称号がある。清朝においてモンゴル統治を担当する中央機関は初め、蒙古衙門といったが、1638年からは理藩院と改められた。清朝統治下にあるモンゴル諸部は「外藩蒙古」、「八旗蒙古」、「内属蒙古」の3つに分類できる。「外藩蒙古」とは、1636年から1771年にかけて清朝に帰順したモンゴル諸部のことをいい、「八旗蒙古」とは1636年の清朝建国以前に個別に編入されたモンゴル人集団をいい、「内属蒙古」とは、モンゴル宗主であるチャハル部とアルタン・ハーンの子孫であるトゥメト部を指すが、この両部は北元時代にモンゴルの中心となり、ハーンを出した部族であるため、モンゴルの再統一を怖れた清朝がジャサクを置かず、清朝皇帝直属としたものをいう。清朝は各藩部に対しては種族自治を原則としており、種族ごとにそれぞれ異なった法律を制定した。モンゴル人に対しては初め『蒙古例』が制定され、乾隆帝時代には『蒙古律例』、やがて『理藩院則例』が制定された。このように清朝は各藩部に自治を与えていたため、モンゴル人にとって清朝皇帝はハーンと同じ存在であり、同君連合国家の体をなしていた。
19世紀になり、アヘン戦争、清仏戦争、日清戦争と、清朝の体制が揺らぎ始めると、清朝は対蒙新政策として、行政改革、新式軍隊の配備、学校・保健衛生施設の設置など、近代的な多方面にわたる政策を実施した。20世紀に入ると、それまでの蒙地保護政策を一変して漢人の入植を奨励し、内モンゴルの牧地減少を促した。また、仏教僧侶に対する優遇政策もなくなったため、モンゴル人と仏教界による反発が大きくなっていった。中にはモンゴル王公が現金収入を得るために開墾を奨める所もあり、牧地を失ったモンゴル遊牧民は次第に農民に変化していった。
[28]
ボグド・ハーン政権
1911年10月10日夜、清朝南部で発生した武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が起こると、その12月29日、外蒙古であるハルハ部の王公たちはジェブツンダンバ8世を元首に推戴して、清朝からの独立を宣言した。ジェブツンダンバ8世はボグド・ゲゲーン(お聖人様)とも呼ばれていたため、後にボグド・ハーンと呼ばれることとなる。このボグド・ハーン政権の樹立によって、ハルハ以外のモンゴル人に大きな共鳴を与え、内蒙古四十九旗のうち三十五旗が合流を希望し、ハルハに続いて独立を宣言したホロンブイル地方のバルグ族もハイラルを占領してボグド政府に忠誠を誓うなど、内モンゴル各地から多くのモンゴル人が合流してきた。しかし、内モンゴルでは張作霖や、袁世凱などの中国軍閥によって弾圧され、モンゴル軍は劣勢となった。ボグド政府は独立以前からロシアと交渉してきたが、なかなか支援を受けることが出来ず、遂に1912年11月の露蒙協定で、ロシアに独立宣言を自治宣言に格下げさせられた。1913年11月の露中宣言においては、ロシアは外モンゴルにおける中華民国の宗主権を認め、中国は内政・通商・産業にわたる外モンゴルの自治を認め、露中両国は軍隊を派遣せず、植民を停止することが取り決められた。その後、1914年9月から1915年6月まで行われたキャフタ会議において、モンゴルはその抵抗も空しく、露中が定めた中国の宗主権と外蒙古自治を認めざるを得なくなった。ただし、内モンゴルは自治すら認められず、中国領に留め置かれた。
1917年、ロシア革命により帝政ロシアが崩壊すると、中華民国は外蒙古の自治撤廃をもくろみ、1914年以降から設置している庫倫都護使に着任した陳毅によって、『外蒙古自治撤回の六十四箇条』がモンゴル支配層に用意されていたが、これより先に安福派の段祺瑞の部下である徐樹錚がフレー(庫倫、ウルガ)に入り、ボグド・ハーンの宮殿を武装兵士で包囲し、自治返上を迫った。これらに伴い1919年11月、中華民国大総統令によって外蒙古自治撤廃が公表され、翌年(1920年)1月2日にモンゴル人の目の前で自治撤廃の式典が執り行われた。これにより、外モンゴルのボグド・ハーン政権は一旦消滅する。
1920年、“気ちがい男爵”と恐れられた白軍のウンゲルン男爵がモンゴル領内に入り、フレー(庫倫)の中国軍を追い出し、1921年2月にボグド・ハーンを復位させた。モンゴル人は初め彼を解放者として歓迎したが、中国人と革命派を弾圧しただけでなく、ロシア系ユダヤ人を皆殺しにし、暴虐の限りをつくすウンゲルンの姿に人々は恐れをなし、ボグド・ハーンまでも密かに北京政府に救援を乞うにいたった。北京政府は張作霖にその討伐を命じたが、彼は動かなかった。一方、1921年3月にスフバートルとチョイバルサンによってモンゴル臨時人民政府がキャフタで樹立されると、400人のモンゴル義勇兵がキャフタの中国軍を追い払い、北上してきたウンゲルン男爵軍を破った。さらに700人の義勇兵とソヴィエト赤軍、極東共和国軍が合わさって1万の勢力となった臨時政府軍はフレーに入り、ボグド・ハーンを元首とする連合政府となった。1924年、ボグド・ハーンが死去すると、臨時人民政府は君主制を廃止し、11月にモンゴル人民共和国を成立させた。
[29]
モンゴル人民共和国
1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立してから2年後の1924年、ボグド・ハーンの死去にともない、世界で2番目の社会主義国家であるモンゴル人民共和国が成立した。同時に首都のフレーはウラーンバートルと改名された。時にコミンテルンは「極左路線」を推し進めており、モンゴル人民共和国でも1928年のモンゴル人民革命党第七回党大会において右派を追放し、1930年には旧王公・仏教僧侶・裕福な牧民の家畜没収、遊牧民の強制的集団化、反宗教運動、下級僧侶の強制的還俗、個人商業の禁止などをおこなった。この結果モンゴルの家畜数は1930年の2300万頭から1932年の1600万頭に減少した。1932年、そんな共産化に対しての不満が一挙に爆発し、親ソ政策を取る革命党政府に対する反乱が起こった。また1939年、満洲国の関東軍とモンゴル人民共和国との間で国境線を巡るトラブルが起き、日本軍とソ連の赤軍が軍事介入して日本側が大敗北を喫したノモンハン事件が起きる。第二次世界大戦においては1945年8月8日のソ連に続く8月10日に対日宣戦布告を行い、ソ連軍と連携したモンゴル人民軍(ザバイカル戦線)が日本軍(関東軍、駐蒙軍)と元寇以来の戦火を交え、モンゴルは内モンゴル東部から西部までほぼ占領して戦勝国となる。満州国のモンゴル族代表だったボヤンマンダフやジョンジュルジャブ・カンジュルジャブ兄弟は関東軍に従わずソ蒙連合軍に投降し、蒙古聯合自治政府のデムチュクドンロブ(徳王)と李守信は中国の北京で駐蒙軍と離れ後にモンゴル人民共和国に逃れることとなった。8月15日に日本が降伏した後、ソ連が捕獲した日本兵捕虜はモンゴルにも分配され、約1万2000人の捕虜が強制労働に従事させられた。
モンゴル人民共和国の独立が国際的に認められたのは、モンゴル人民共和国が内モンゴルの領有権の主張を取り下げた1945年2月のヤルタ協定においてである。1961年には国際連合に加入し、日本とも1972年に外交関係を樹立した。モンゴル人民共和国は長らくソ連の衛星国として共産圏の中にあったが、1989年のペレストロイカの影響で民主化が始まり、1990年3月には複数政党制を採用し、1991年12月にソ連が崩壊すると、1992年1月に新憲法を採択して社会主義を放棄し、2月には国名をモンゴル国に改めた。
[30]
脚注
参考資料
沢田勲『匈奴-古代遊牧国家の興亡』(東方書店〈東方選書〉、1996年、ISBN 4497965066)
『史記』匈奴列伝
『漢書』匈奴伝
『後漢書』南匈奴列伝
『三国志』鮮卑伝
『晋書』四夷伝
『魏書』列伝第九十一
『北史』列伝第八十六
『周書』列伝第四十二
『隋書』列伝第四十九
『旧唐書』列伝第一百四十四上、列伝第一百四十五
『新唐書』列伝一百四十上、列伝一百四十下、列伝第一百四十二上、列伝第一百四十二下
『遼史』本紀第二十四
宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水書房、2002年、ISBN 4887082444)
小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
関連項目
中国の歴史
朝鮮の歴史
日本の歴史
東アジア史
ベトナムの歴史
モンゴル
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 |
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Repubblica Italiana
Jamhuri ya ItaliaLugha rasmiKiitalia; kijimbo pia Kijerumani, Kifaransa, Kiladino, Kislovenia, KisardiniaMji MkuuRomaRaisSergio MattarellaWaziri MkuuGiuseppe ConteEneo301.338 km²Wakazi60,579,000 (31-7-2017) (23º duniani)Wakazi kwa km²201.7JPT31,022 US-$ (2008)PesaEuroWakatiUTC+1Wimbo wa TaifaFratelli d'Italia (Ndugu wa Italia)Sikukuu ya Jamhuri2 JuniSikukuu ya Taifa25 ApriliSimu ya kimataifa+39
Jamhuri ya Italia (kwa Kiitalia: Repubblica Italiana) ni nchi ya Ulaya Kusini inayoenea katika sehemu kubwa ya Rasi ya Italia na baadhi ya visiwa vya jirani kwenye Bahari ya Kati.
Eneo lake ni km² 301.338 ambalo lina wakazi 60,579,000 (1-1-2017): ni nchi ya 23 duniani kwa wingi wa watu, lakini ya 8 kwa uchumi.
Imepakana na Ufaransa, Uswisi, Austria na Slovenia.
Nchi huru mbili ndogo zinazozungukwa na eneo la Italia pande zote ni San Marino na Vatikano.
Makao makuu ni jiji la Roma, lenye umuhimu mkubwa katika historia ya dunia nzima.
Jiografia
Umbo la jamhuri, kama lile la rasi yake, linafanana na mguu linalozungukwa na maji ya Mediteraneo pande tatu.
Milima ya Appennini inaunda uti wa mgongo wake na ile ya Alpi, ambayo ni mirefu zaidi inaunda kwa kiasi kikubwa mpaka kati ya Italia na nchi nyingine za Ulaya.
Mlima mrefu zaidi, ukiwa na mita 4,810 juu ya usawa wa bahari, unaitwa Monte Bianco (Mlima Mweupe) na uko mpakani kwa Ufaransa.
Visiwa viwili vikubwa vya Sicilia na Sardinia ni sehemu za Italia pamoja na visiwa vingi vidogovidogo.
Italia ina volkeno 14, ambazo 4 kati yake ziko hai: ile ndefu zaidi kuliko zote za Ulaya (mita 3,329) inaitwa Etna na iko mashariki mwa Sicilia.
Mto mrefu zaidi unaitwa Po na una urefu wa kilomita 652. Mito mingine ni Tiber, Arno n.k.
Maziwa makubwa zaidi ni: Garda (km2 367.94), Ziwa Maggiore (212.51, likiingia Uswisi), Ziwa la Como (145.9), Trasimeno (124.29) na Ziwa la Bolsena (113.55).
Kutokana na urefu mkubwa wa Italia toka kaskazini hadi kusini, hali ya hewa ni tofauti sana, kuanzia baridi kali sana hadi joto kali sana.
Mikoa
Historia
Akiolojia imethibitisha uwepo wa Homo neanderthaliensis miaka 200,000 hivi iliyopita. Homo sapiens sapiens alifika miaka 40,000 hivi iliyopita.
Kufikia milenia ya 1 KK wakazi wengi walikuwa wa jamii ya Kizungu na kutumia lugha za Kihindi-Kiulaya.
Peninsula ya Italia iliunganishwa mara ya kwanza na Jamhuri ya Roma (509-27 KK), lakini hiyo ilipoenea Ulaya kusini na magharibi, Afrika ya Kaskazini na Asia ya Magharibi ikawa na sura ya kimataifa kama Dola la Roma.
Umoja ulipotea kuanzia uvamizi wa jiji la Roma uliofanywa na Wagermanik (476 BK) na hasa baada ya ufalme wa Karolo Mkuu aliyetawala sehemu ya kaskazini tu.
Juhudi za kuurudisha umoja zilifanywa hasa katika karne ya 19, ambapo Ufalme wa Sardinia uliteka sehemu kubwa ya Italia (hasa miaka 1860, 1866 na 1870) na kubadilika kuwa Ufalme wa Italia wenye makao makuu Roma.
Baada ya vita vikuu vya pili iligeuka Jamhuri yenye katiba inayotia mamlaka kuu mikononi mwa bunge.
Ni kati ya nchi sita zilizoanzisha Umoja wa Ulaya mwaka 1957 ikaendelea kuunga mkono ustawi wake hadi uanzishaji wa pesa ya pamoja (Euro).
Maendeleo
Italia ni kati ya nchi zilizoendelea, ikiwa na nafasi ya nane kwa nguvu ya uchumi duniani, hivyo ni mwanachama wa G7, G8 na G20.
Sanaa na utalii
Italia ndiyo nchi inayongoza duniani kwa kuwa na mahali pengi (51) pa kimaumbile na pa kihistoria palipoingizwa katika orodha ya UNESCO ya "Urithi wa Dunia".
Kwa sababu hiyo pia inashika nafasi ya 5 kati ya nchi zote zilizo lengo la utalii.
Watu
Wananchi wana sifa za pekee kati ya Wazungu wote, hata upande wa DNA, kutokana na jiografia na historia ya rasi.
Ni kati ya nchi ambamo watu wanatarajiwa kuishi miaka mingi zaidi, lakini pia ni kati ya nchi ambapo uzazi ni mdogo zaidi: wanaokufa ni wengi kuliko wanaozaliwa.
Kutokana na umati wa Waitalia waliohama nchi hiyo karne za nyuma, sasa zaidi ya watu milioni 60 nje ya Italia wana asili ya nchi hiyo, mbali na raia zaidi ya milioni 4 wanaoishi nje.
Lugha rasmi ni Kiitalia, inayotegemea zaidi lahaja za Italia ya Kati, lakini siku hizi inatumiwa na wananchi walio wengi hata katika mikoa mingine, ambayo kwa jumla ni 20.
Upande wa dini, wengi wao (81.2%) ni Wakristo wa Kanisa Katoliki, wakifuatwa na Waorthodoksi (2.8%, wengi wao wakiwa wahamiaji, hasa kutoka Romania) na Waprotestanti (1.1%, wengi wao wakiwa Wapentekoste). Uhamiaji mwingi wa miaka ya mwisho wa karne ya 20 umeleta pia Uislamu (3.7%) na dini nyingine.
Dini zote zinaachiwa uhuru na, tofauti na nchi nyingi za Ulaya, waumini wake wanajitahidi kiasi kufuata ibada (29% kila wiki).
Watu maarufu
Fransisko wa Asizi
Marko Polo
Dante Alighieri
Katerina wa Siena
Bernardino wa Siena
Kristofa Columbus
Amerigo Vespucci
Yohane wa Verrazzano
Nikola Machiavelli
Leonardo wa Vinci
Michelangelo
Raffaello Sanzio
Karolo Borromeo
Papa Pius V
Galileo Galilei
Amedeo Avogadro
Alessandro Volta
Giuseppe Verdi
Giuseppe Garibaldi
Yohane Bosco
Antonio Meucci
Papa Pius X
Maria Montessori
Guglielmo Marconi
Benito Mussolini
Enrico Fermi
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أوكرانيا (وتلفظ غالبا أُكرايينا[1]؛ Україна بالأوكرانية و) هي ثاني أكبر دول أوروبا الشرقية. يحدها الاتحاد الروسي من الشرق، بيلاروسيا من الشمال، بولندا وسلوفاكيا والمجر من الغرب، رومانيا ومولدوفا إلى الجنوب الغربي، والبحر الأسود وبحر آزوف إلى الجنوب. أوكرانيا عضو في رابطة الدول المستقلة. بين عامي 1923-1991 وقعت أغلب البلاد ضمن اتحاد الجمهوريات الاشتراكية السوفياتية. مدينة كييف هي العاصمة وأكبر مدينة في أوكرانيا.
بدأ تاريخ أوكرانيا الحديث مع السلاف الشرقيين. على الأقل، ومنذ القرن التاسع، أصبحت أوكرانيا مركز القرون الوسطى للسلاف الشرقيين. امتلكت هذه الدولة، المعروفة باسم روس كييف، القوة والأرض، لكنها تفككت في القرن الثاني عشر. بعد حرب الشمال العظمى، قسمت أوكرانيا بين عدد من القوى الإقليمية، وبحلول القرن التاسع عشر، خضع الجزء الأكبر من أوكرانيا للامبراطورية الروسية، بينما ما تبقى كان تحت السيطرة النمساوية الهنغارية.
بعد فترة من الفوضى والحروب المتواصلة ومحاولات عدة للاستقلال (1917-1921) بعد الحرب العالمية الأولى والحرب الأهلية الروسية، برزت أوكرانيا في 30 كانون الأول 1922 كأحد مؤسسي الاتحاد السوفياتي. تم توسيع جمهورية أوكرانيا السوفيتية الاشتراكية غربا قبل فترة وجيزة، وبعد الحرب العالمية الثانية، وجنوباً في عام 1954 عبر تهجير شبه جزيرة القرم. في عام 1945، أصبحت جمهورية أوكرانيا الاشتراكية السوفياتية من الأعضاء المشاركين في تأسيس الأمم المتحدة.[2]
حصلت أوكرانيا على الاستقلال مرة أخرى بعد تفكك الاتحاد السوفياتي في عام 1991. بدأت هذه الفترة بالانتقال إلى اقتصاد السوق، حيث ضرب الركود الاقتصاد الأوكراني لثماني سنوات.[3] لكن منذ ذلك الحين، فإن الاقتصاد شهد زيادة كبيرة في نمو الناتج المحلي الإجمالي. أثرت الأزمة الاقتصادية العالمية في 2008 على أوكرانيا واضطرب الاقتصاد. وانخفض الناتج المحلي الإجمالي بنسبة 20 ٪ من ربيع 2008 إلى ربيع 2009، ثم تعادل من جديد حيث قارن المحللون حجم التراجع بأسوأ سنوات الكساد الاقتصادي خلال بدايات التسعينيات.[4]
أوكرانيا هي دولة موحدة تتألف من 24 أوبلاست (محافظات)، وتتمتع اثنتان من المدن بمركز خاص: كييف، العاصمة، وسيفاستوبول، التي تضم أسطول البحر الأسود الروسي وفقا لاتفاق تأجير. أوكرانيا هي جمهورية ذات نظام نصف رئاسي مع فصل السلطات التشريعية والتنفيذية والقضائية. منذ انهيار الاتحاد السوفياتي، تمتلك أوكرانيا ثاني أكبر جيش في أوروبا، بعد روسيا. يعيش في البلاد 42,7 مليون نسمة-بعد أن شهدت البلاد نزعة انفصالية بمنطقتي دونيتسك ولوهانسك واختار سكان شبه جزيرة القرم الانضمام إلى روسيا الاتحادية تقلص عدد السكان بشكل كبير-، 77.8% من أصل أوكراني، مع أقليات كبيرة من الروس والبيلاروس والرومانيين. اللغة الأوكرانية هي اللغة الرسمية الوحيدة في أوكرانيا، بينما تستخدم الروسية على نطاق واسع. الدين السائد في البلاد المسيحية الأرثوذكسية الشرقية، والتي أثرت بشكل كبير في العمارة والأدب والموسيقى الأوكرانية.
التاريخ
التاريخ المبكر
يعود تاريخ المستوطنات البشرية في أراضي أوكرانيا إلى 4500 ق. م على الأقل، عندما ازدهرت حضارة كوكوتيني تريبيليا في العصر الحجري الحديث وانتشرت في منطقة واسعة تضم أجزاء من أوكرانيا الحديثة بما في ذلك تريبيليا ومنطقة دنيبر دنيستر بأكملها. خلال العصر الحديدي، سكن المنطقة السيميريون والسكيثيون والسارماتيون [5]. بين عامي 700-200 ق.م كانت المنطقة جزءا من مملكة سكيثيا.
في وقت لاحق، نشأت مستعمرات من اليونان القديمة وروما القديمة والإمبراطورية البيزنطية مثل تيراس وأولبيا وهيرموناسا، في بداية القرن السادس قبل الميلاد، على الساحل الشمالي الشرقي للبحر الأسود، وازدهرت في القرن السادس الميلادي. بقي القوط في المنطقة ولكنهم خضعوا لسيطرة الهون في سبعينيات القرن الرابع الميلادي. في القرن السابع الميلادي، كان إقليم شرق أوكرانيا مركز مملكة بلغاريا القديمة. في نهاية القرن، هاجرت غالبية قبائل البلغار في اتجاهات مختلفة وسقطت الأرض في أيدي الخزر.
العصر الذهبي لكييف
في القرن التاسع، سكن أوكرانيا الحالية القبائل السلافية. تأسس ما يعرف بروس كييف من قبل الفارنجيين من شعب الروس، والذين أول ما استوطنوا حول لادوغا ونوفغورود، ثم انتقلوا تدريجياً نحو الجنوب ليصلوا في النهاية إلى كييف حوالي 880 م. شملت هذه المملكة الشطر الغربي من أوكرانيا الحالية، بيلاروسيا، وقسم كبير منها على أراضي روسيا الحالية.
خلال القرنين العاشر والحادي عشر، أصبحت الدولة الأكبر والأقوى في أوروبا[6]. في القرون التالية، وضعت الأساس للهوية الوطنية للأوكرانيين والروس[7]. أصبحت كييف، عاصمة أوكرانيا الحديثة، المدينة الأكثر أهمية في البلاد. وفقاً للروايات الأولية، فإن نخبة الروس تتألف من الفارنجيين والإسكندنافيين.
أصبح الفارنجيون جزءاً من سلالة الروس الحاكمة الأولى، سلالة روريك [7]، وتأقلموا مع السكان السلاف المحليين. تألفت روس كييف من عدة إمارات يحكمها أمراء روريكيون مرتبطون. مجلس كييف، أهمها وصاحب التأثير في جميع الإمارات، أصبح موضعاً للتنافس الشديد بين الروريكيين.
بدأ العصر الذهبي لروس كييف مع عهد فلاديمير الكبير (980-1015)، الذي حول الروس تجاه المسيحية البيزنطية. في عهد ابنه، ياروسلاف الحكيم (1019-1054)، وصلت روس كييف ذروة تطورها الثقافي وقوتها العسكرية [7]. أعقب ذلك تفكك الدولة بسبب صعود القوى الإقليمية من جديد. نهضت البلاد من جديد في ظل حكم فلاديمير مونوماخ [8] (1113-1125) وابنه مستيسلاف (1125-1132)، لكنها تفككت في نهاية المطاف إلى إمارات مستقلة في أعقاب وفاة مستيسلاف.
في القرنين الحادي والثاني عشر، تسببت الغارات المستمرة من جانب القبائل التركية الرحل، مثل البيتشنغ والكيبشاك، بهجرة جماعية للسكان السلاف إلى مناطق أكثر أمناً في الغابات الكثيفة الشمالية[9]. كما دمر الغزو المغولي البلاد في القرن الثالث عشر. دمرت كييف تماماً عام 1240[10]. عقب روس كييف على الأراضي الأوكرانية إمارتي غاليش وفولوديمير فولنسكي، اللتين اندمجتا معاً في مملكة غاليسيا فولينيا.
الهيمنة الخارجية
في منتصف القرن الرابع عشر خضعت غاليسيا فولينيا لكاسيمير الثالث البولندي، بينما سقطت كييف بيد غيديميناس من دوقية ليتوانيا الكبرى بعد معركة على نهر إربن. وبعد اتحاد كريفو عام 1386، اتحاد سلالتي بولندا وليتوانيا الحاكمتين، أصبح أغلب ما يعرف اليوم بشمال أوكرانيا تحت إدارة النبلاء الليتوانيين كجزء من دوقية ليتوانيا.
شكل اتحاد لوبلين عام 1569، الكومنويلث البولندي اللتواني، حيث انتقلت أجزاء كبيرة من الأراضي الأوكرانية من حكم ليتوانيا إلى الإدارة البولندية، ونقلت إلى التاج البولندي. تحت الضغط الثقافي والسياسي لتحويل الطبقة العليا إلى الثقافة البولندية، تحول العديدون من الطبقة العليا من روثينيا البولندية (اسم آخر لبلاد الروس) إلى الكاثوليكية بحيث لا يمكن تمييزهم عن النبلاء البولنديين.[11]
وهكذا، فإن عامة الناس، المحرومون من حماة وطنهم من بين طبقة النبلاء الروس، تحولوا للقوزاق الذين حافظوا على مذهبهم الأرثوذكسي بشدة في جميع الأوقات، ويميلون إلى اللجوء إلى العنف ضد أولئك الذين يعتبرونهم أعداء، ولا سيما الدولة البولندية وممثليها.[12]
في منتصف القرن السابع عشر، أسس قوزاق دنيبر دولة شبه عسكرية، زابوريزهيان سيخ، بمشاركة من الفلاحين الروثينيين الفارين من العبودية البولندية [13]. لم تمتلك بولندا سيطرة تذكر على هذه الأرض، لكنها وجدت في القوزاق قوة قتالية مفيدة ضد الأتراك والتتار [14]، حيث تعاونوا معهم أحياناً في الحملات العسكرية [15]. ومع ذلك فإن استمرار استعباد الفلاحين من قبل النبلاء البولنديين معززاً باستغلال الكومنولث الشديد للقوة العاملة، والأهم من ذلك، قمع الكنيسة الأرثوذكسية، أسهم ذلك كله في دفع ولاء القوزاق بعيدا عن بولندا [14].
كان طموحهم أن يكون لهم تمثيل في المجلس البولندي، والاعتراف بالتقاليد الأرثوذكسية، والتوسع التدريجي في تسجيل القوزاق. رفضت الطبقة الحاكمة البولندية بشدة كلاً من هذه المطالب، فتحول القوزاق في نهاية المطاف لحماية روسيا الأرثوذكسية، وهو قرار دفع بعد ذلك باتجاه سقوط الدولة البولندية الليتوانية [13] والحفاظ على الكنيسة الأرثوذكسية في أوكرانيا.[16]
في عام 1648، قاد بوهدان خملنتسكي أكبر انتفاضات القوزاق ضد الكومنولث والملك البولندي يان الثاني كازيمير [17]. في نهاية المطاف، ألحقت الضفة اليسرى من أوكرانيا بروسيا الموسكوفية باسم هتمانات القوزاق، بعد معاهدة بيرياسلاف 1654 وأعقب ذلك الحرب الروسية البولندية. بعد تقسيم بولندا في نهاية القرن الثامن عشر من قبل بروسيا ونمسا هابسبورغ وروسيا، خضعت غاليسيا الأوكرانية الغربية للنمسا، بينما ضم ما تبقى من أوكرانيا تدريجيا إلى الإمبراطورية الروسية.
منذ بداية القرن السادس عشر حتى نهاية القرن السابع عشر، أغارت عصابات من مقاتلي تتار القرم بشكل سنوي تقريباً على الأراضي الزراعية السلافية بحثاً عن الاسرى لبيعهم كعبيد.[18] على سبيل المثال، سجلت 86 غارة تترية بين عامي 1450-1586، و 70 بين 1600-1647.[19]
الخراب
جاء "الخراب" في 1657-1686، حرب مدمرة دامت ثلاثين عاما بين روسيا وبولندا وتركيا والقوزاق من أجل السيطرة على أوكرانيا. سيطرت جيوش خملنتسكي لثلاث سنوات على غربي ووسط أوكرانيا الحالية، ولكن حلفاءه التتار تخلوا عنه، ليتعرض لهزيمة ساحقة في بيريستيشكو، مما دفعه لطلب العون من القيصر الروسي.
في 1654، وقع خملنتسكي معاهدة بيرياسلاف، وتم تشكيل تحالف عسكري وسياسي مع روسيا التي أعلنت الولاء للقيصر. تصاعدت وتيرة الحروب بمقتل مئات الآلاف. جاءت الهزيمة في 1686 ونجم عن "السلام الدائم" بين روسيا وبولندا ضم أراضي كييف والقوزاق شرق دنيبر إلى الحكم الروسي والأراضي الأوكرانية غربي دنيبر لبولندا.
في 1709، اصطف قوزاق الهيتماني إيفان مازيبا (1687-1709) في صف السويد ضد روسيا في الحرب الشمالية العظمى (1700-1721). حصل مازيبا، وهو من النبلاء القوزاق، على تعليم ممتاز في الخارج، وأثبت أنه زعيم حذق سياسياً وعسكرياً ويتمتع بعلاقات جيدة مع سلالة رومانوف. بعدما أصبح بطرس الأكبر قيصراً، قدم مازيبا بوصفه هيتمانياً (زعيم هيتمانية القوزاق) أكثر من عشرين عاماً من الخدمة الوفية العسكرية والدبلوماسية وكوفئ جيداً.
في النهاية توصل بطرس إلى حتمية التخلص من تطلعات القوزاق والأوكرانيين للحكم الذاتي من أجل تعزيز وتحديث قوة روسيا السياسية والاقتصادية. قبل مازيبا الدعوات البولندية للانضمام إلى البولنديين والسويديين ضد روسيا. جاءت هذه الخطوة كارثية على الحكم الذاتي الأوكراني، الهتمانات ومازيبا نفسه. توفي في المنفى بعد فراره من معركة بولتافا (1709)، حيث مني السويديون وحلفاؤهم القوزاق بهزيمة مدوية على أيدي قوات بطرس الروسية.
ألغيت الهتمانات في 1764، كذلك زابوريزسكا سيخ في 1775، حيث استبدلتا بالحكم الروسي المركزي. مع تقسيم بولندا في 1772، 1793، و1795، قسمت الأراضي الأوكرانية غرب دنيبر بين روسيا والنمسا. ومن 1737-1834 أصبح حجر الزاوية في السياسة الخارجية الروسية التوسع إلى شمال البحر الأسود وشرق وادي الدانوب.
امتلك الليتوانيون والبولنديون عقارات واسعة في أوكرانيا، وفرضوا القانون بأنفسهم. كما استهزأوا بالأحكام القضائية القادمة من كراكوف. ربط الفلاحون المثقلون بالضرائب بالأرض كعبيد عملياً، كما تقاتل ملاك الأراضي من حين لآخر باستخدام جيوش الفلاحين الأوكرانيين. كانت بولندا وليتوانيا من الروم الكاثوليك، وحاولوا مع نجاحات محدودة تحويل طبقة النبلاء الأرثوذكس الأقل. في 1596، أقام هؤلاء النبلاء الكنيسة "اليونانية الكاثوليكية" أو الكنيسة البابوية، تحت سلطة البابا ولكن باستخدام الطقوس الشرقية، لا تزال هذه الكنيسة مهيمة على غرب أوكرانيا حتى يومنا هذا. لم تحل النزاعات بين البابويين والأرثوذكس أبداَ، أدت التفرقة الدينية إلى ترك الفلاحين الأوكرانيين الأرثوذكس بلا قيادة، حيث ترددوا في اتباع النبلاء الأوكرانيين.[20]
اندلعت في عام 1768 انتفاضة أوكرانية قادها القوزاق دعيت كولييفششينا في المنطقة الحدودية الأوكرانية التابعة للكومنويلث البولندي الليتواني، حيث كانت العوامل العرقية سبباً رئيسياً لأعمال العنف التي راح ضحيتها عشرات الآلاف من البولنديين واليهود. كما اندلعت الحرب الدينية بين المجموعات الأوكرانية. تصاعد النزاع بين البابويين والأرثوذكس بالإضافة إلى تعزيز الحدود الروسية البولندية على نهر دنيبر في عهد كاثرين الثانية، كل ذلك هيأ الساحة للانفجار. أصبحت ممارسات البابويين أقرب إلى الكنيسة الكاثوليكية بينما اقتربت الأرثوذكسية في هذه المنطقة إلى حد الاعتماد على الكنيسة الأرثوذكسية الروسية. كما انعكس التوتر الطائفي أيضا على الولاءات السياسية البولندية والروسية.[21]
بعد ضم خانية القرم في عام 1783، استقرت المنطقة عن طريق المهاجرين من أجزاء أخرى من أوكرانيا.[22] وعلى الرغم من الوعود بالاستقلال الذاتي للأوكرانيين التي قدمتها معاهدة بيرياسلاف، لم تحصل النخبة الأوكرانية أو القوزاق أبدا على الحريات والحكم الذاتي الذي كانوا يتوقعونه من الإمبراطورية الروسية. بأي حال، وصل الأوكرانيون في حدود الإمبراطورية إلى أعلى المناصب في الدولة الروسية، والكنيسة الروسية الأرثوذكسية. في فترة لاحقة، اتبع النظام الروسي سياسة روسنة الأرض الأوكرانية، حيث منع استخدام اللغة الأوكرانية في الطباعة، وأمام الملأ.[23]
القرن التاسع عشر
كانت الأراضي الأوكرانية في القرن التاسع عشر ريفية ومتجاهلة إلى حد كبير من قبل روسيا والنمسا. مع تزايد التحضر والتحديث، والاتجاه نحو القومية الثقافية المستوحاة من الرومانسية، التزم الفكر الأوكراني بالنهضة الوطنية والعدالة الاجتماعية. قاد الشاعر تاراس شيفتشينكو (1814-1861) والمنظر السياسي ميخائيلو دراهومانوف (1841-1895) الحركة القومية المتنامية.
تطورت الأحزاب القومية والاشتراكية في أواخر القرن التاسع عشر. أصبحت غاليسيا النمساوية، والتي تمتعت بحرية سياسية كبيرة في ظل حكم متساهل نسبيا من هابسبورغ، مركزاً للحركة القومية. ردت الحكومة الروسية على القومية الأوكرانية بوضع قيود صارمة على اللغة الأوكرانية.
الحرب العالمية الأولى والثورة
دخلت أوكرانيا الحرب العالمية الأولى إلى جانب كل من الدول المركزية في الشطر الخاضع للنمسا، والوفاق الثلاثي في الشطر الخاضع لروسيا. قاتل 3.5 مليوناً من الأوكرانيين مع الجيش الإمبراطوري الروسي، بينما شارك 250 ألفاً في الجيش النمساوي المجري [24]. خلال الحرب، أسست السلطات النمساوية الهنغارية الفيلق الأوكراني للقتال ضد الإمبراطورية الروسية. كان هذا الفيلق أساس الجيش الجاليسي الأوكراني الذي حارب البلاشفة والبولنديين في فترة ما بعد الحرب العالمية الأولى (1919-1923). عومل من يشتبه بتعاطفه مع روسيا في النمسا بقسوة. اعتقل نحو 5000 من أنصار الإمبراطورية الروسية في غاليسيا ووضعوا في معسكرات اعتقال نمساوية في تاليرهوف، ستيريا، وحصن في تيريزين (الآن في جمهورية التشيك).[25]
مع انهيار الإمبراطوريتين الروسية والنمساوية بعد الحرب العالمية الأولى والثورة الروسية عام 1917، برزت الحركة الوطنية الأوكرانية من أجل تقرير المصير من جديد. خلال الفترة بين عامي1917-1920، برزت عدة دويلات أوكرانية منفصلة لفترة وجيزة: جمهورية أوكرانيا الشعبية، الهتمانات، الإدارة، وجمهورية أوكرانيا السوفيتية الاشتراكية المناصرة للبلاشفة (أو أوكرانيا السوفيتية) التي أنشئت تباعا على أراضي الإمبراطورية الروسية السابقة، بينما ظهرت كل من جمهورية غرب أوكرانيا الشعبية وجمهورية هوتسول لفترة وجيزة في المناطق الخاضعة سابقاً للنمسا وهنغاريا. في خضم الحرب الأهلية، ظهرت حركة فوضوية تدعى الجيش الأسود بقيادة نيستور ماخنو في جنوب أوكرانيا.[26]
لكن مع هزيمة أوكرانيا الغربية في الحرب البولندية الأوكرانية، وما تلاها من فشل الهجوم البولندي التالي الذي صده البلاشفة. وفقا لاتفاقية السلام في ريغا المبرمة بين السوفيات وبولندا، تدمج أوكرانيا الغربية رسمياً في بولندا والتي تعترف بدورها بجمهورية أوكرانيا الاشتراكية السوفياتية في آذار 1919، والتي أصبحت لاحقا عضوا مؤسسا لاتحاد الجمهوريات الاشتراكية السوفياتية أو الاتحاد السوفيتي في كانون الأول / ديسمبر 1922.[27]
أوكرانيا البولندية ما بين الحربين
استمرت الحرب في أوكرانيا لعامين آخرين. بحلول عام 1921، خضع أغلب أوكرانيا للاتحاد السوفياتي، بينما دمجت غاليسيا وفولينيا في بولندا المستقلة.
نشأت حركة قومية أوكرانية قوية تحت الأرض في بولندا في العشرينيات والثلاثينات، تقودها المنظمة العسكرية الأوكرانية، ومنظمة القوميين الأوكران. اجتذبت حركة المقاومة مجندين من بين الطلاب وقامت بمضايقة السلطات البولندية. ازدهرت أيضاً الأحزاب الأوكرانية القانونية، والكنيسة الكاثوليكية الأوكرانية، والصحافة، وقطاع الأعمال في بولندا. تحسنت الأوضاع الاقتصادية في العشرينيات، لكن المنطقة عانت من الكساد العظيم في الثلاثينيات.
أوكرانيا السوفياتية بين الحربين
دمرت الثورة التي جلبت الحكومة السوفياتية إلى السلطة البلاد. خلفت أكثر من 1.5 مليون قتيل ومئات الآلاف بلا مأوى. اضطرت أوكرانيا السوفياتية لمواجهة المجاعة عام 1921..[28]
شجعت موسكو النهضة الوطنية في الأدب والفنون، تحت رعاية سياسة الأكرنة التي انتهجتها القيادة الشيوعية الوطنية ممثلة بميكولا سكريبنيك (1872-1933). حافظت الحكومة السوفييتية على بعض المرونة خلال العشرينات بسبب الدمار الذي حل بالمجتمع [29]. وهكذا تمتعت الثقافة واللغة الأوكرانيتان بالانتعاش، حيث أصبحت سياسة الأكرنة جزءاً محلياً من السياسة السوفييتية الأشمل (الأصلنة) [27]. تعهد البلاشفة أيضاً بتقديم نظام رعاية صحية شامل والضمان الاجتماعي والتعليم، فضلا عن الحق في العمل والسكن [30]. تحسنت أوضاع حقوق المرأة بشكل كبير عبر القوانين الجديدة التي تهدف للقضاء على التفاوتات منذ قرون [31]. انعكست معظم هذه السياسات بشكل حاد في بدايات الثلاثينات بعد استلام جوزيف ستالين للسلطة ليصبح بحكم الأمر الواقع زعيم الحزب الشيوعي وديكتاتور الاتحاد السوفياتي.
قدم الشيوعيون مكانة متميزة للعمل اليدوي، أكبر فئة في المدن، حيث سيطر الروس. تعلق العامل النموذجي بهويته الفئوية أكثر من العرقية. رغم وجود بعض حوادث الاحتكاك العرقي بين العمال (بالإضافة إلى الأوكرانيين والروس هناك البولنديون والألمان واليهود وغيرهم في القوى العاملة الأوكرانية)، تبنى العمال الصناعيون اللغة والثقافة الروسية إلى حد كبير. لم ينجذب العمال من العرقية الأوكرانية لحملات الأكرنة أو إلغاء روسنة البلاد بأعداد هامة، لكنهم بقوا موالين للطبقة العاملة السوفياتية. لم يكن ثمة عداء كبير بين العمال الذين يعتبرون أنفسهم أوكراناً أو روساً، إلا أن العداء لليهود كان على نطاق واسع.
ابتداء من أواخر العشرينات، شاركت أوكرانيا في التصنيع السوفياتي، حيث تضاعف إنتاج الجمهورية الصناعي أربع مرات في الثلاثينات.[27]
المجاعة
كان التصنيع عبئاً ثقيلاً على الفلاحين، الذين يشكلون العمود الفقري من تعداد سكان الأمة الأوكرانية. تلبية لحاجة الدولة في زيادة الإمدادات الغذائية وتمويل التصنيع، وضع ستالين برنامج التجميع الزراعي حيث جمعت الدولة أراضي وحيوانات الفلاحين في مزارع جماعية، وفرضت سياساتها عن طريق القوات النظامية والشرطة السرية [27]. الذين قاوموا اعتقلوا ورحلوا قسرا وفرضت حصص الإنتاج المتزايد على الفلاحين. كان لسياسة التجميع آثار كارثية على الإنتاج الزراعي. حيث لم يسمح للعاملين في المزارع الجماعية بالحصول على أي حبوب حتى يتم تحصيل الحصص التي كانت مستحيلة البلوغ، وحلت المجاعة في الاتحاد السوفياتي على نطاق واسع. بين 1932-1933، مات الملايين جوعاً في مجاعة صنعها الإنسان تعرف باسم هولودومور . ينقسم الباحثون في تسمية هذه المجاعة بالابادة الجماعية، لكن البرلمان الأوكراني، وأكثر من اثني عشر بلدا آخر يسمونها بذلك.
حصدت المجاعة ما يصل إلى 10 ملايين أوكراني حيث صودر مخزون الفلاحين من الغذاء قسرا من قبل الحكومة السوفياتية من خلال NKVD (سلف كي جي بي) والشرطة السرية. كان ستالين على معرفة كاملة بالقوة المدمرة للمجاعة. كانت حربه على الفلاحين والتي بدأت مع التجميع في محاولة للقضاء على ثقافة الفلاحين في مجملها. عرف ستالين جيدا أنه لا يمكن لأي شخص عاقل التخلي طوعا عن جميع ممتلكاته التي حصل عليها بشق الأنفس فقط لصالح فكرة "مستقبل شيوعي مشرق". لذلك، كان الغرض من المجاعة كسر روح المزارعين الأوكرانيين - أصحاب الأرض - من خلال حرمانهم من ممتلكاتهم الخاصة ووسائل العيش. يفسر إلمان أسباب الوفيات الزائدة في المناطق الريفية في أوكرانيا وكازاخستان خلال 1931-1934 بتقسيم الأسباب إلى ثلاث مجموعات: عوامل حيادية غير ذات صلة بسياسة التجميع، مثل جفاف عام 1931 وسوء الأحوال الجوية في عام 1932، نتيجة للسياسات غير المقصودة، مثل التصنيع السريع، والتنشئة الاجتماعية للماشية، وإهمال أنماط تناوب المحاصيل، وحالات الوفاة الناجمة عمداً عن سياسة التجويع. لم تأخذ القيادة الشيوعية المجاعة على أنها كارثة إنسانية وإنما كحالة من حالات الصراع الطبقي واستخدمت التجويع كأداة لإجبار الفلاحين إلى المزارع الجماعية.[32]
إلى حد كبير كانت المجموعات ذاتها مسؤولة عن عمليات القتل الجماعي خلال الحرب الأهلية، التجميع، والرعب العظيم. ترتبط هذه المجموعات مع إفيم جورجفيتش إيفدوكيموف (1891-1939) ونشطت في أوكرانيا خلال الحرب الأهلية، في شمال القوقاز في العشرينات، وفي شعبة العمليات السرية ضمن الإدارة السياسية العامة للدولة في 1929-1931. نقل إيفدوكيموف إلى إدارة الحزب الشيوعي في عام 1934، عندما أصبح سكرتير الحزب عن منطقة شمال القوقاز كراي. لكن يبدو أنه استمر في تقديم المشورة لجوزيف ستالين ونيكولاي يزوف بشأن المسائل الأمنية، واعتمد الأخير على زملاء إيفدوكيموف السابقين لتنفيذ عمليات القتل الجماعي التي تعرف باسم الرعب العظيم في 1937-1938.[33]
الهجوم على المثقفين والفنانين
مع قدوم ستالين بالطبع في أواخر العشرينات، وصل تسامح موسكو مع الهوية الوطنية الأوكرانية إلى نهايته. ذهب إرهاب الدولة المنظم في الثلاثينيات بذخيرة أوكرانيا من الكتاب، والفنانين، والمفكرين، حيث تخلص الحزب الشيوعي الأوكراني من نزعته الوطنية. أدت موجتان من القمع السياسي والاضطهاد الستاليني في الاتحاد السوفياتي (1929-1934 و 1936-1938) إلى مقتل 681,692 شخصاً، والتي شملت أربعة أخماس النخبة الأوكرانية المثقفة وثلاثة أرباع مجموع الضباط من الرتب العالية من الجيش الأحمر.[27]
الحرب العالمية الثانية
بعد غزو بولندا في أيلول / سبتمبر 1939، تقاسمت القوات الألمانية والسوفيتية أراضي بولندا. وهكذا، تم لم شمل الشعب الأوكراني بعد ضم غاليسيا الشرقية وفولينيا إلى بقية أوكرانيا. حيث تحقق توحيد أوكرانيا للمرة الأولى في تاريخها وكان حدثاً حاسماً في تاريخ الأمة.[34][35]
بعد استسلام فرنسا إلى ألمانيا، تنازلت رومانيا عن كل من بيسارابيا وبوكوفينا الشمالية للمطالب السوفياتية. حصلت جمهورية أوكرانيا الاشتراكية السوفياتية على مناطق شمالية وجنوبية من بيسارابيا وكامل بوكوفينا الشمالية، ومنطقة هيرتسا الخاضعة للاحتلال السوفييتي. إلا أنها تنازلت عن الجزء الغربي من جمهورية مولدوفا الاشتراكية السوفياتية ذاتية الحكم إلى الدولة حديثة النشأة جمهورية مولدوفا الاشتراكية السوفياتية. تم الاعتراف بجميع هذه المكاسب الإقليمية دولياً بموجب معاهدات باريس للسلام لعام 1947.
غزت الجيوش الألمانية الاتحاد السوفياتي في 22 يونيو 1941. مفتتحة بذلك أربع سنوات متتالية من الحرب الشاملة المتواصلة. تقدمت دول المحور في البداية على الجهود اليائسة ولكن غير الناجحة للجيش الأحمر. في حصار كييف، دعيت المدينة "مدينة الأبطال"، للمقاومة الشرسة التي أبداها الجيش الأحمر والسكان المحليون. قتل وأسر أكثر من 600,000 جندي سوفياتي (أو ربع الجبهة الغربية) هناك.[36][37]
على الرغم من أن أغلبية واسعة من الأوكرانيين قاتلوا إلى جانب المقاومة والجيش الأحمر السوفياتي [38]، إلا أن بعض العناصر القومية الأوكرانية شكلت جبهة قومية معادية للسوفييت في غاليسيا، جيش التمرد الأوكراني (1942) الذي حارب القوات النازية في بعض الأحيان وواصل محاربة الاتحاد السوفياتي في السنوات التي تلت الحرب. باستخدام تكتيكات حرب العصابات، استهدف المتمردون بالاغتيال والإرهاب أولئك الذين اعتبروهم ممثلين أو متعاونين على أي مستوى مع الدولة السوفييتية.[39][40]
في الوقت نفسه خاضت حركة قومية أخرى الحرب جنبا إلى جنب مع النازيين. في المجموع، يقدر عدد الأوكرانيين الذين حاربوا في صفوف الجيش السوفياتي 4.5 [38] -7 [41] بمليون نسمة. قدرت أعداد المتمردين المؤيدين للسوفييت في أوكرانيا في 47,800 منذ بداية الاحتلال إلى 500,000 في ذروتها في عام 1944، حيث شكل الأوكرانيون 50% منهم [42]. بشكل عام، لا يوجد مصدر موثوق لأعداد جيش المتمردين الأوكراني حيث تتراوح بين 15,000 إلى 100,000 مقاتل.[43][44]
في البداية، استقبل الألمان كمحررين من قبل بعض الأوكرانيين الغربيين، الذين انضموا للاتحاد السوفياتي في عام 1939. مع ذلك، دفعت الإدارة الألمانية الوحشية للأراضي المحتلة مؤيديها إلى معارضين.[45] حافظ المسؤولون النازيون على السياسات السوفياتي السياسية والاقتصادية والتي أثارت استياء السكان، مثل التجميع الزراعي، السياسات المناهضة لليهود، وإبعاد آخرين للعمل في ألمانيا، والتهجير المنهجي لسكان أوكرانيا وتجهيزها للاستيطان الألماني[45]، التي شملت الحصار الغذائي على كييف.[46]
حصل أغلب القتال في الحرب العالمية الثانية على الجبهة الشرقية، [47] وعانت ألمانيا النازية من 93% من مجموع الخسائر البشرية هناك [48]. قدر عدد القتلى من المواطنين الأوكرانيين ما بين 5-8 مليون خلال الحرب [49][50]. من بين مجموع قتلى الجيش الأحمر البالغ عددهم 8.7 مليون [51][52][53]، 1.4 مليون من العرقية الأوكرانية [51][53]. وهكذا حتى يومنا هذا، يحتفل بيوم النصر كواحد من عشرة عطل وطنية في أوكرانيا.[54]
ما بعد الحرب العالمية الثانية
لحقت أضرار بالغة بالجمهورية من جراء الحرب، وتطلبت جهودا كبيرة للتعافي. دمرت أكثر من 700 مدينة وبلدة و28,000 قرية، [55] تدهورت الأوضاع بسبب المجاعة في 1946-1947 بسبب الجفاف وانهيار البنية التحتية التي ذهبت بعشرات الآلاف من الأرواح.[56]
كانت أوكرانيا في عام 1945 أحد الأعضاء المؤسسين لمنظمة الأمم المتحدة. بني أول كمبيوتر سوفياتي MESM في معهد كييف للتكنولوجيا الإلكترونية وبدأ العمل به في عام 1950.
وفقا للإحصاءات، اعتبارا من 1 كانون الثاني 1953، حلت أوكرانيا في المرتبة الثانية بعد روسيا من بين المرحلين "الكبار خاصة"، التي تضم 20 ٪ من المجموع الكلي. بصرف النظر عن الأوكرانيين، تم ترحيل أكثر من 450,000 من العرقية الألمانية وأكثر من 200,000 من تتار القرم خارج أوكرانيا..[57]
بعد وفاة ستالين في عام 1953، أصبح نيكيتا خروشوف الزعيم الجديد للاتحاد السوفياتي. لكونه الأمين الأول للحزب الشيوعي في جمهورية أوكرانيا الاشتراكية السوفياتية في 1938-1949، كان خروتشوف على اطلاع تام على أحوالها وبعد توليه السلطة على مستوى الاتحاد، بدأ بالتأكيد على الصداقة بين الشعبين الأوكراني والروسي. وفي عام 1954، في الذكرى 300 لمعاهدة بيرياسلاف عمت الااحتفالات على نطاق واسع، وعلى وجه الخصوص تم نقل القرم من الجمهورية الروسية إلى الجمهورية الأوكرانية.[58]
بحلول عام 1950، تجاوزت الجمهورية تماما مستويات ما قبل الحرب في الصناعة والإنتاج [59]. خلال الخطة الخمسية 1946-1950، استثمر ما يقرب من 20 في المئة من ميزانية الاتحاد السوفيتي في أوكرانيا السوفياتية، أي بزيادة خمسة في المئة من خطط ما قبل الحرب. نتيجة لذلك ارتفعت قوة العمل 33.2% بين 1940-1955 في حين نما الناتج الصناعي 2.2 مرة في الفترة نفسها [60]. سرعان ماأصبحت أوكرانيا السوفياتية من بين الدول الأوروبية ذات الصدارة في الإنتاج الصناعي. أصبحت أيضا مركزاً مهماً لصناعة الأسلحة السوفياتية والبحوث ذات التكنولوجيا العالية. لعب هذا الأمر دورا هاما في التأثير على النخبة المحلية.
جاء العديدون من أعضاء القيادة السوفيتية من أوكرانيا، بالأخص ليونيد بريجنيف، الذين طرد في وقت لاحق خروشوف وأصبح الزعيم السوفياتي 1964-1982، فضلا عن العديد من الرياضيين البارزين السوفييت والعلماء والفنانين. في 26 نيسان / أبريل 1986، انفجر مفاعل محطة تشيرنوبل للطاقة النووية، مما أسفر عن كارثة تشيرنوبيل، أسوأ حادث مفاعل نووي في التاريخ.[61] في وقت وقوع الحادث، كان سبعة ملايين شخص يعيشون في المناطق الملوثة، بما في ذلك 2.2 مليون في أوكرانيا.[62] بعد وقوع الحادث، بنيت مدينة جديدة، سلافونيتش، خارج منطقة الحظر لإيواء ودعم العاملين في المصنع الذي تم سحبه من الخدمة في عام 2000. عزا التقرير الذي أعدته الوكالة الدولية للطاقة الذرية ومنظمة الصحة العالمية 56 حالة وفاة مباشرة للحادث، وتشير التقديرات إلى إمكانية وجود 4000 حالة وفاة إضافية بالسرطان.[63]
الاستقلال
في 16 يوليو 1990، اعتمد البرلمان الجديد إعلان سيادة دولة أوكرانيا.[64] أسس الإعلان مبدأ تقرير المصير للأمة الأوكرانية، والديمقراطية والاستقلال السياسي والاقتصادي، وأولوية القانون الأوكراني على القانون السوفياتي على الأراضي الأوكرانية. قبل شهر، اعتمد إعلان مماثل من قبل البرلمان في روسيا الشيوعية. بدأت في هذه الفترة مواجهات بين المركزيين السوفييت، والسلطات الجمهورية الجديدة. في آب / أغسطس 1991، حاول فصيل من المحافظين بين القادة الشيوعيين في الاتحاد السوفياتي الانقلاب لإزالة ميخائيل غورباتشوف، واستعادة سلطة الحزب الشيوعي. بعد المحاولة الفاشلة في 24 آب 1991 اعتمد البرلمان الأوكراني قانون الاستقلال والذي أعلن فيه البرلمان أوكرانيا دولة ديمقراطية مستقلة.[65]
جرى الاستفتاء والانتخابات الرئاسية الأولى يوم 1 كانون الأول 1991. في ذلك اليوم، أيد أكثر من 90% من الشعب الأوكراني قانون الاستقلال، وانتخبوا رئيس البرلمان، ليونيد كرافتشوك ليكون أول رئيس للبلاد. في الاجتماع الذي عقد في بريست، بيلاروسيا، في 8 كانون الأول، والاجتماع التالي في ألماتي في 21 من نفس الشهر، اجتمع قادة بيلاروسيا، روسيا، وأوكرانيا، وحلوا الاتحاد السوفياتي رسمياً وتشكل اتحاد الدول المستقلة.[66]
على الرغم من أن فكرة أمة أوكرانية مستقلة لم تبرز في القرن العشرين في أذهان واضعي السياسات الدولية،[67] اعتبرت أوكرانيا بداية كجمهورية بظروف اقتصادية مواتية بالمقارنة مع مناطق أخرى من الاتحاد السوفياتي.[68] ومع ذلك شهدت البلاد تباطؤاً اقتصادياً أكثر عمقا من بعض الجمهوريات السوفياتية السابقة الأخرى. خلال فترة الركود، خسرت أوكرانيا 60 في المئة من ناتجها المحلي الإجمالي 1991-1999 [69][70]، وعانت من معدلات تضخم من خمسة أرقام[71]. تظاهر الأوكرانيون وتم تنظيم الإضرابات بسبب عدم الرضى عن الظروف الاقتصادية، فضلا عن الجريمة والفساد.[72]
استقر الاقتصاد الأوكراني قبل نهاية التسعينات. تم استحداث العملة الجديدة، هريفنا أوكرانية، في عام 1996. منذ عام 2000، تمتعت البلاد بنمو اقتصادي حقيقي مطرد بوسطي سبعة في المئة سنويا.[3][73] اعتمد دستور جديد لأوكرانيا خلال حكم الرئيس الثاني ليونيد كوتشما في عام 1996، حول هذا الدستور جمهورية أوكرانيا إلى نظام نصف رئاسي، وأنشأ نظاماً سياسياً مستقراً. انتقد كوتشما من قبل المعارضين بسبب الفساد وتزوير الانتخابات، وعدم تشجيع حرية التعبير وتركيز الكثير من السلطة في مكتبه.[74] كما أنه نقل الممتلكات العامة مرارا وتكرارا إلى أيدي القلة ذات النفوذ.
الثورة البرتقالية
في عام 2004، أعلن فيكتور يانكوفيتش، رئيس الوزراء آنذاك فائزاً في الانتخابات الرئاسية، والتي كانت مزورة إلى حد كبير، وفقاً لحكم المحكمة العليا في أوكرانيا في وقت لاحق.[75] تسببت النتائج في موجة من الغضب العام دعما لمرشح المعارضة، فيكتور يوشتشينكو، الذي طعن في نتائج الانتخابات. أدى ذلك إلى الثورة البرتقالية السلمية، والتي وصلت بكل من فيكتور يوشتشينكو ويوليا تيموشينكو إلى السلطة، في حين دفعت فيكتور يانوكوفيتش إلى المعارضة.[76] عاد يانوكوفيتش إلى منصب في السلطة في عام 2006، عندما أصبح رئيس الوزراء في تحالف الوحدة الوطنية،[77] حتى أجريت انتخابات مبكرة في أيلول 2007 أعادت تيموشينكو رئيساً للوزراء مرة أخرى.[78] انتخب يانوكوفيتش رئيساً في عام 2010.[79]
أوقف النزاع مع روسيا بشأن سعر الغاز الطبيعي لفترة وجيزة جميع إمدادات الغاز إلى أوكرانيا في عام 2006، ومرة أخرى في عام 2009، مما أدى إلى نقص في الغاز في عدة بلدان أوروبية أخرى.[80][81]
الميدان الأوروبي والثورة الأوكرانية 2014
الميدان الأوروبي هو اسم يشير إلى الاحتجاجات والاضطراب الأهلي الذي بدأ في ليلة 21 نوفمبر 2013 في أوكرنيا، عندما بدأ مواطنون احتجاجات مدفوعة بالمعارضة الموالية للولايات المتحدة الأمريكية والاتحاد الأوروبي في العاصمة كييف بعد أن علقت الحكومة التحضيرات لتوقيع اتفاقية الشراكة واتفاقية التجارة الحرة مع الاتحاد الأوروبي. نتيجة لذلك، طالب المتظاهرون باستقالة الحكومة الحالية، وعزل الرئيس فيكتور يانوكوفيتش، كما طالبوا بانتخابات مبكرة.
تجري المظاهرات وسط حضور شرطي كثيف، وانضمام عدد متزايد من طلبة الجامعات إلى التظاهرات. العنف المتصاعد من جانب قوات الشرطة أدى إلى زيادة أعداد المتظاهرين، حيث تظاهر ما بين 400,000 و800,0000 متظاهر في كييف في 1 ديسمبر حيث كان التظاهر في أوجه. أثناء المظاهرات دمر محتجون نصبًا لفلاديمير لينين قرب ساحة بيسارابسكايا في كييف.[82]
قدم الرئيس الأوكراني شروطًا لانضمام بلاده إلى اتفاقية الشراكة الانتسابية مع الاتحاد الأوروبي، كانت الشروط هي استئناف تعاون أوكرانيا مع البنك الدولي وإعادة الاتحاد الأوروبي النظر في القيود المفروضة على بعض قطاعات الاقتصاد الأوكراني وإزالة التناقضات التي تعوق تعاون أوكرانيا التجاري مع دول الاتحاد الجمركي (روسيا وكازاخستان وبلاروسيا).[83] تحدث رئيس الوزراء أيضًا عن حاجة البلاد إلى 20 مليار دولارا من المساعدات الأوروبية لتوقيع اتفاقية الشراكة.[84] وفي 15 ديسمبر، علق الاتحاد الأوروبي العمل المتعلق باتفاقية التجارة مع أوكرانيا. علل مفوض شؤون توسيع الاتحاد هذا الإجراء بعدم استجابة الطرف الأوكراني لشروط الاتحاد التي تخص مباحثات اتفاق التجارة.[85]
وقد اقترح الرئيس الأوكراني عقد طاولة مستديرة تضم قادة البلاد السياسيين والدينيين لحل الأزمة، ورفضت رئيسة الوزراء السابقة يوليا تيموشينكو المسجونة بسبب تهم فساد هذا الاقتراح، وطالبت بفرض عقوبات اقتصادية من "المجتمع الديمقراطي العالمي" على أوكرنيا ومنع سفر القيادات الحالية.[86] في 16 ديسمبر، اقترح نواب حزب الأقاليم الذي يحكم البلاد على رئيس الوزراء ميكولا أزاروف تغييرًا وزاريًا يشمل 90% من الحكومة، لكنهم لم يطلبوا استقالة رئيس الوزراء نفسه.[87]
في 17 ديسمبر، بعد توجه الرئيس فيكتور يانوكوفيتش إلى روسيا، أعلن الرئيس الروسي فلاديمير بوتين أن بلاده ستستثمر 15 مليار دولارا في السندات الحكومية الأوكرانية وأنها ستخفض سعر الغاز المورد إلى أوكرانيا بمقدار الثلث، وقال بوتن "نقول دائمًا أنه شعب شقيق وبلد شقيق، لذلك علينا التحرك مثل أهل ودعم الشعب الأوكراني الذي يواجه وضعًا صعبًا".[88][89] أحد زعماء المعارضة الأوكرانية وهو فيتالي كليتشكو علق أمام آلاف المحتجين بالقول أن رئيس البلاد فرط في المصالح الوطنية بالموافقة على حزمة الإنقاذ الروسية.[90]
في 19 ديسمبر، أيد البرلمان الأوكراني قانونًا يشرع إعفاء المحتجين الملقى القبض عليهم من الملاحقة القضائية وإطلاق سراحهم واعتبارهم أبرياء من غير أصحاب السوابق. وصف رئيس حزب سفوبودا المعارض القانون بأنه "الخطوة الأولى لتلبية مطالب المعارضة".[91]
في 22 يناير 2014، قامت القوات الخاصة (بيركوت) بإزالة متاريس أقامها المعتصمون في شارع غروفيشكي وقتل شخصان.[92] أمر الرئيس بتحقيق حول ملابسات قتل الشخصين. لكن عدد القتلى جراء اشتباكات 22 يناير ارتفع إلى 5 قتلى.[93] في 23 يناير اجتمع الرئيس يانوكوفيتش مع فيتالي كليتشكو رئيس حزب أودار وأرسيني ياتسينيوك رئيس كتلة "الوطن" البرلمانية ورئيس حزب سوفوبدا أوليغ تياغنيبوك، قدم الرئيس اقتراحًا مفاده الإفراج عن المعتقلين وإيقاف أعمال العنف من قبل القوات الأمنية مقابل إيقاف الأعمال العدائية التي يقوم بها المتظاهرون. أثار المقترح ردود فعل متباينة، لكن مآله كان الرفض وتوسعت رقعة الاعتصام لتشمل شارع غروشيفسكي.[94]
في 25 يناير، عرض الرئيس فيكتور يانوكوفيتش منصب رئيس الوزراء على أرسيني ياتسينيوك ومنصب نائب رئيس الوزراء على فيتالي كليتشكو. ياتسينيوك قال إن المعارضة لا تستبعد ولا تقبل اقتراح الرئيس، ونقل عنه موقع حزبه قوله أن "البلاد على حافة الإفلاس وخزانة الدولة فارغة. لذلك هم يريدون تفادي المسؤولية وينتظرون منا ردا بشأن ما إذا كنا سنقبل المسؤولية أم لا".[95]
في 27 يناير، قدم ميكولا أزاروف استقالته لرئيس البلاد، قال أزاروف أنه طلب من الرئيس قبول استقالته "لتوفير شروط إيجابية لحل سياسي وتسوية سلمية للأزمة".[96]
المتظاهرون احتلوا منشآت حكومية في أكثر من مدينة، وقد وقع مبنى وزارة العدل لاحتلال المتظاهرين المسلحين الذين دعاهم فيتالي كليتشكو إلى إنهاء احتلالهم.[97] وقامت الحكومة بتشديد الحراسات على المنشآت النووية.[98]
في 31 يناير صدر بيان عن وزارة الدفاع الأوكرانية يقول إن "العسكريين والموظفين الآخرين في الوزراة يدعون الرئيس إلى اتخاذ تدابير عاجلة في إطار القانون الحالي لإرساء الاستقرار في البلاد".[99]
الصراع الموالية لروسيا في جنوب شرق
في أعقاب انهيار حكومة يانوكوفيتش وما نتج عنه من ثورة 2014 الأوكرانية في فبراير شباط عام 2014، بدأت أزمة الانفصال في شبه جزيرة القرم الأوكرانية التي لديها عدد كبير من الناس Russophone. بدأت تحمل علامات، الجنود الروس المسلحة التي انتقلت إلى شبه جزيرة القرم في 28 شباط عام 2014.[100] في 1 مارس عام 2014، طلب الرئيس الأوكراني فيكتور يانوكوفيتش المنفيين أن روسيا استخدام القوات العسكرية "لاقامة شرعية والسلام والقانون والنظام والاستقرار والدفاع عن الشعب أوكرانيا ".[101] وفي نفس اليوم، طلب بوتين وحصل على إذن من البرلمان الروسي لنشر القوات الروسية إلى أوكرانيا وسيطرت على شبه جزيرة القرم في اليوم التالي.[102][103][104][105] بالإضافة إلى ذلك، كان ينظر حلف شمال الأطلسي من قبل معظم الروس كما التعدي على حدود روسيا. هذا وزنه بشكل كبير على قرار موسكو على اتخاذ تدابير لتأمين منفذ لها على البحر الأسود في شبه جزيرة القرم.[106]
يوم 6 مارس عام 2014، صوت البرلمان القرم إلى "الدخول في الاتحاد الروسي مع حقوق موضوعا للاتحاد الروسي" والذي عقد في وقت لاحق استفتاء يسأل أهل هذه المناطق ما إذا كانوا يريدون الانضمام روسيا كموضوع الفيدرالية، أو إذا أرادوا أن يعيد العمل بالدستور القرم عام 1992، والوضع شبه جزيرة القرم باعتبارها جزءا من أوكرانيا.[107] على الرغم من أن مرت بأغلبية ساحقة، لم تتم مراقبة التصويت من قبل أطراف خارجية ويتم الطعن في نتائج دوليا.[108][109][110] شبه جزيرة القرم وسيفاستوبول وأعلن الاستقلال رسميا باسم جمهورية القرم وطلبت أن يتم قبولها بوصفها مكونات الاتحاد الروسي.[111] وفي 18 مارس 2014، وقعت روسيا والقرم معاهدة انضمام جمهورية القرم وسيفاستوبول في الاتحاد الروسي، على الرغم صوتت الجمعية العامة للأمم المتحدة لصالح بيان غير ملزم يعارض ضم الروسي من شبه الجزيرة.[112]
وفي الوقت نفسه، بدأت الاضطرابات في المناطق الشرقية والجنوبية من أوكرانيا. في العديد من المدن في دونيتسك ووغانسك المناطق مسلحون، معلنا أنفسهم بأنهم ميليشيا محلية، ضبطت المباني الحكومية ومراكز الشرطة والشرطة الخاصة في عدة مدن من المناطق. محادثات في جنيف بين الاتحاد الأوروبي وروسيا وأوكرانيا والولايات المتحدة الأمريكية أسفرت عن بيان الدبلوماسية المشتركة ويشار إلى أن ميثاق جنيف 2014 الذي طلب الطرفان أن جميع الميليشيات غير القانونية القاء السلاح وإخلاء المباني الحكومية المضبوطة، وكذلك إنشاء الحوار السياسي الذي يمكن أن يؤدي إلى مزيد من الحكم الذاتي للمناطق أوكرانيا. عندما أصبح واضحا أن بوروشينكو قد فاز في الانتخابات الرئاسية، في ذلك المساء انتخاب 25 مايو 2014، أعلن بوروشنكو "سيكون لي أول زيارة رئاسية يكون لدونباس"، حيث أعلنت المتمردين الموالين لروسيا المسلحة استقلال الجمهوريات الانفصالية دونيتسك الشعبية الجمهورية وجمهورية لوغانسك الشعبية، وسيطرت على جزء كبير من المنطقة. تعهد بوروشنكو أيضا على مواصلة العمليات العسكرية من جانب القوات الحكومية الأوكرانية لانهاء التمرد المسلحة التي تدعي "عملية مكافحة الإرهاب لا يمكن و لا ينبغي أن تستمر شهرين أو ثلاثة أشهر، ويجب وسوف تستمر ساعات ". بوروشنكو مقارنة المتمردين المسلحة الموالية لروسيا للقراصنة الصوماليين. وتسمى أيضا للمفاوضات مع روسيا في وجود الوسطاء الدوليين بوروشنكو. روسيا ردت بالقول انها لا تحتاج إلى وسيط في علاقاتها الثنائية مع أوكرانيا. كما وعدت بوروشنكو لمتابعة عودة شبه جزيرة القرم الأوكرانية لسيادة الرئيس المنتخب.
الحكومة والسياسة
أوكرانيا جمهورية ذات نظام مختلط نصف برلماني ونصف رئاسي مع فصل السلطات التشريعية والتنفيذية والقضائية. يتم انتخاب الرئيس بالاقتراع الشعبي لمدة خمس سنوات وهو رأس الهرم الرسمي في الدولة.[113]
تشمل السلطة التشريعية في أوكرانيا برلماناً مكوناً من 450 مقعداً ومن غرفة واحدة، تعرف باسم فيرخوفنا رادا.[114] البرلمان مسؤول في المقام الأول عن تشكيل السلطة التنفيذية ومجلس الوزراء، الذي يرأسه رئيس الوزراء.
يمكن الاعتراض على القوانين والأحكام الصادرة عن كل من مجلس النواب ومجلس الوزراء والمراسيم الرئاسية، وبرلمان القرم من قبل المحكمة الدستورية، إذا وجد أنها تشكل انتهاكا للدستور الأوكراني. القوانين المعيارية الأخرى تخضع لمراجعة قضائية. المحكمة العليا هي الهيئة الرئيسية في نظام المحاكم ذات الاختصاص العام، حيث يضمن لها ذاتية القرار. ينتخب الشعب المجالس المحلية ورؤساء بلديات المدن الذين يمارسون الرقابة على الميزانيات المحلية. بينما يعين الرئيس إداريي الأقاليم والمقاطعات.
تمتلك أوكرانيا عدداً كبيراً من الأحزاب السياسية، كثير منها ذو عضوية صغيرة وغير معروف لعامة الناس. تنضم الأحزاب الصغيرة غالباً في تحالفات متعددة الأطراف (الكتل الانتخابية) لغرض المشاركة في الانتخابات البرلمانية.
القوات المسلحة
بعد انهيار الاتحاد السوفياتي، ورثت أوكرانيا قوة قوامها 780,000 عسكري على أراضيها، مزودة بثالث أكبر ترسانة أسلحة نووية في العالم.[115][116] في أيار / مايو 1992، وقعت أوكرانيا على معاهدة تخفيض الأسلحة الإستراتيجية (ستارت) والتي وافقت فيها البلاد على التخلي عن جميع الأسلحة النووية لصالح روسيا لتفكيكها والانضمام إلى معاهدة الحد من انتشار الأسلحة النووية كدولة غير حائزة على الأسلحة النووية. صدقت أوكرانيا على المعاهدة في عام 1994، وبحلول عام 1996 أصبح البلد خال من الأسلحة النووية.[115] حالياً يمثل الجيش الأوكراني ثاني أكبر قوة عسكرية في أوروبا، بعد روسيا.[117]
أخذت أوكرانيا خطوات متسقة لتقليص الأسلحة التقليدية. وقعت على معاهدة القوات المسلحة التقليدية في أوروبا، والتي دعت لتخفيض من أعداد الدبابات والمدفعية والعربات المدرعة (تم تخفيض قوات الجيش إلى 300,000). تخطط البلاد لتحويل القوة العسكرية الحالية القائمة على التجنيد إلى قوة مختصة تطوعية في موعد لا يتجاوز عام 2011.[118]
تلعب أوكرانيا دوراً متنامياً في عمليات حفظ السلام. تنتشر القوات الأوكرانية في كوسوفو كجزء من الكتيبة الأوكرانية البولندية.[119] تم نشر وحدة أوكرانية في لبنان، كجزء من قوة الامم المتحدة المؤقتة لتطبيق اتفاق وقف اطلاق النار. كما امتلكت وحدة صيانة وتدريب في سيراليون. انتشرت وحدة أخرى بين عامي 2003-2005 في العراق، كجزء من القوة المتعددة الجنسيات في العراق تحت قيادة بولندية. يبلغ مجموع الانتشار العسكري الأوكراني في جميع أنحاء العالم 562 جندياً.[120]
تشارك وحدات عسكرية من دول أخرى القوات الأوكرانية في مناورات عسكرية متعددة الجنسيات في أوكرانيا بشكل منتظم، بما في ذلك القوات العسكرية الأمريكية.[121]
بعد الاستقلال، أعلنت أوكرانيا نفسها دولة محايدة.[122] امتلكت البلاد شراكة عسكرية محدودة مع روسيا، وغيرها من بلدان رابطة الدول المستقلة وشراكة مع حلف شمال الأطلسي منذ عام 1994. في بداية القرن الحالي، مالت الحكومة إلى منظمة حلف شمال الأطلسي، وإلى تعميق التعاون مع قوات التحالف والتي حددتها خطة العمل بين حلف الناتو وأوكرانيا الموقعة عام 2002. كما تم الاتفاق في وقت لاحق على إجراء استفتاء وطني في مرحلة لاحقة حول الانضمام إلى حلف شمال الأطلسي.[118] يعتبر الرئيس الحالي فيكتور يانكوفيتش مستوى التعاون الحالي بين أوكرانيا وحلف شمال الأطلسي كافياً، [123] حيث أن يانوكوفيتش ضد انضمام أوكرانيا إلى الحلف.[124] أعلنت منظمة حلف شمال الأطلسي في قمة بوخارست 2008 أن أوكرانيا ستصبح عضواً في منظمة حلف شمال الأطلسي متى تريد ومتى تتوافق مع معايير الانضمام.[123]
التقسيمات الإدارية
يعكس نظام التقسيمات الفرعية الأوكراني صورة البلاد كدولة موحدة (كما جاء في دستور البلاد) مع توحيد النظم القانونية والإدارية لكل وحدة.
تقسم إلى أوكرانيا 24 أوبلاست (إقليم)، وجمهورية ذاتية الاستقلال في شبه جزيرة القرم. بالإضافة إلى ذلك لكل من مدينتي كييف العاصمة وسيفاستوبول وضع قانوني خاص. تنقسم الأقاليم 24 والقرم إلى 490 رايون (مقاطعة)، أو وحدة إدارية من المستوى الثاني. وسط مساحة رايون الأوكرانية هو 1200 كيلومتر مربع (460 ميل مربع)، ومتوسط عدد السكان فيها 52,000 شخص.[125]
المناطق الحضرية (المدن) إما أن تخضع للدولة (كما في حالة كييف وسيفاستوبول)، أو الأوبلاست أو الرايون، وفقاً لتعدادها السكاني وأهميتها الاقتصادية والاجتماعية. تشمل الوحدات الإدارية الأدنى مستوطنات حضرية النوع، والتي تشبه المجتمعات الريفية، لكنها أكثر تحضرا، حيث تشمل المؤسسات الصناعية والمرافق التعليمية والنقل والاتصالات، والقرى.
في المجموع، يوجد في أوكرانيا 457 مدينة منها 176 بدرجة أوبلاست، و 279 بدرجة رايون، واثنتان من المدن بوضع قانوني خاص. كما يوجد 886 من المستوطنات الحضرية و 28,552 قرية.[125]
أوبلاست
1 تشيركاسي
2 تشيرينيهيف
3 تشيرنيفتسي
4 جمهورية القرم
5 دنيبروبتروفسك
6 دونيتسك
7 ايفانو
فرانكيفسك
8 خاركيف
9 خيرسون
10 خملنيتسكي
11 كيروفوهراد
12 كييف
13 لوهانسك
14 لفيف
15 ميكولايف
16 أوديسا
17 بولتافا
18 ريفنا
19 سومي
20 تيرنوبيل
21 زاكارباتيا
22 فولين
23 فينيتسا
24 زابوريزهيا
25 زيتوميرجمهورية ذاتية الحكمإدارات خاصة
القرم
كييف
سيفاستوبول
الجغرافيا
تبلغ مساحة أوكرانيا الكلية 603,700 كم2 (233,100 ميل مربع) وبشريط ساحلي يبلغ طوله 2782 كم (1729 ميل) مما يضعها في المرتبة 44 عالمياً من حيث المساحة (بعد جمهورية أفريقيا الوسطى، وقبل مدغشقر). كما أنها أكبر دولة تقع بأكملها في أوروبا وثاني أكبر بلد في أوروبا (بعد الجزء الأوروبي من روسيا وفرنسا المتروبوليتانية).[6]
يتكون المشهد الجغرافي الأوكراني في معظمه من سهول خصبة (أو السهوب) والهضاب، تعبرها أنهار مثل دنيبر (دنيبرو)، سيفيرسكي دونيتس، دنيستر وبوغ الجنوبي حيث تتدفق جنوبا إلى البحر الأسود وبحر آزوف. تشكل دلتا الدانوب إلى الجنوب الغربي الحدود مع رومانيا. جبال البلاد الوحيدة هي جبال الكاربات في الغرب، أعلاها هو هورا هوفرلا عند 2,061 متر (6,762 قدم)، وتلك التي في شبه جزيرة القرم، في أقصى الجنوب على طول الساحل.[126]
التنوع البيولوجي
أوكرانيا هي موطن لمجموعة واسعة جدا من الحيوانات والفطريات والكائنات الدقيقة والنباتات.
الحيوانات
وتنقسم إلى منطقتين أوكرانيا الحيوانية الرئيسية. واحد من هذه المجالات، في غرب البلاد، وتتكون من المناطق الحدودية في أوروبا، حيث توجد أنواع نموذجية من الغابات المختلطة، ويقع الآخر في شرق أوكرانيا، حيث السهوب الأنواع التي تعيش في الازدهار. في مناطق الغابات في البلاد ليس من غير المألوف أن تجد الوشوق والذئاب والخنازير البرية ومارتنز، فضلا عن العديد من الأنواع الأخرى المماثلة، وهذا ينطبق بشكل خاص على جبال الكاربات، حيث يوجد عدد كبير من الثدييات المفترسة جعل وطنهم، فضلا عن كتيبة من الدببة البنية. حول البحيرات والأنهار في أوكرانيا القنادس، وثعالب المنك جعل وطنهم، بينما الداخل، الكارب، الدنيس والقرموط هي أكثر الأنواع الشائعة من الأسماك. في الأجزاء الوسطى والشرقية من البلاد، تم العثور على القوارض مثل الفئران البيضاء والغوفر بأعداد كبيرة.
الفطر
وقد تم تسجيل أكثر من 6600 نوع من الفطريات (بما في ذلك تشكيل حزاز الأنواع) من أوكرانيا.,[127][128] ولكن هذا الرقم بعيدة عن الاكتمال. العدد الحقيقي لمجموع الأنواع الفطرية التي تحدث في أوكرانيا، بما في ذلك الأنواع التي لم تسجل بعد، ومن المرجح أن يكون أعلى من ذلك بكثير، نظرا للتقدير المقبول عموما أن نحو 7 ٪ فقط من جميع أنحاء العالم الفطريات وحتى الآن تم اكتشاف.[129] على الرغم من أن المبلغ المعلومات المتوافرة لا تزال صغيرة جدا، تم إجراء أول جهد لتقدير عدد من الأنواع الفطرية المستوطنة في أوكرانيا، ولقد تم تحديد هذه الأنواع 2217 مبدئيا.[130]
المناخ
مناخها غالباً قاري معتدل، على الرغم من وجود مناخ البحر الأبيض المتوسط على ساحل القرم. توزيع هطول الأمطار غير متناسب حيث يبلغ أعلاه في الغرب والشمال وأدناه في شرق وجنوب شرق البلاد. يستقبل غرب أوكرانيا حوالي 1,200 مم (47.2 بوصة) سنوياً، في حين تتلقى القرم نحو 400 مم (15.7 بوصة) فقط من الأمطار. يتراوح الشتاء من بارد على طول ساحل البحر الأسود إلى بارد جداً داخل البلاد. متوسط درجات الحرارة السنوية يتراوح ما بين 5.5 درجة مئوية (41.9 درجة فهرنهايت) -7 درجة مئوية (44.6 درجة فهرنهايت) في الشمال، وبين 11 درجة مئوية (51.8 درجة فهرنهايت) -13 درجة مئوية (55.4 درجة فهرنهايت) في الجنوب.[131]
الإقليمية
لا توجد الفروق الإقليمية فقط في مسائل الهوية ولكن الانقسامات التاريخية لا تزال واضحة على مستوى تحديد الهوية الاجتماعية الفردية. تختلف المواقف تجاه القضايا السياسية الأهم، والعلاقات مع روسيا، بشدة بين لفيف، مع القومية الأوكرانية، والكنيسة الأوكرانية اليونانية الكاثوليكية، ودونيتسك مع الاتجاه الروسي وتفضل الحقبة السوفياتية، في حين أن في وسط وجنوب أوكرانيا، بما كذلك كييف، هذه الانقسامات أقل أهمية، كما يوجد عدم اهتمام تجاه سكان المناطق أخرى (استطلاع للرأي من قبل فريق البحث والماركات التجارية عقد في مارس 2010 اظهر ان موقف المواطنين من دونيتسك كان 79٪ إيجابياً تجاه المواطنين من لفيف بينما كانت النسبة 88 ٪ في الاتجاه المعاكس [132]). ومع ذلك، توحد الجميع في إطار الهوية الأوكرانية الشاملة التي تقوم على تقاسم الصعوبات الاقتصادية، مظهرة أن الاختلافات ثقافية وسياسية قبل كونها الديموغرافية.[132][133]
الاقتصاد
كان الاقتصاد الأوكراني في المرتبة الثانية ضمن الاتحاد السوفيتي، لكونه عنصراً صناعياً وزراعياً هاماً في اقتصاد البلاد المخطط.[6] مع انهيار النظام السوفياتي، انتقلت البلاد من الاقتصاد المخطط إلى اقتصاد السوق. كانت عملية الانتقال ثقيلة بالنسبة لغالبية السكان الذين سقطوا في براثن الفقر.[134] انهار اقتصاد أوكرانيا بشدة في السنوات التالية لانهيار الاتحاد السوفيتي. وأصبحت الحياة اليومية للمواطن الأوكراني صراعاً للبقاء. نجح البعض في المناطق الريفية في التخفيف من وطأ الأزمة من خلال زراعة الأغذية الخاصة بهم، والعمل في كثير من الأحيان في وظيفتين أو أكثر كما نجم اقتصاد المقايضة لشراء الضروريات الأساسية.[135]
في عام 1991، حررت الحكومة معظم الأسعار لمكافحة النقص الواسع في المنتجات، وكان ناجحا في التغلب على المشكلة. وفي الوقت نفسه، واصلت الحكومة دعم الزراعة والصناعات المملوكة للدولة عن طريق الانبعاث النقدي غير المكشوف. دفعت السياسات النقدية في بداية التسعينيات التضخم إلى مستويات التضخم الجامح. في عام 1993، حملت أوكرانيا الرقم القياسي العالمي للتضخم في السنة التقويمية.[136] أكثر من عانى أولئك الذين يعيشون على دخل ثابت.[27]
لم تستقر الأسعار إلا بعد طرح العملة الجديدة، هريفنيا، في عام 1996. كما كانت البلاد بطيئة في تنفيذ الإصلاحات الهيكلية. بعد الاستقلال، شكلت الحكومة إطاراً قانونياً للخصخصة. مع ذلك، ظهرت مقاومة واسعة النطاق للإصلاحات من داخل الحكومة ومن جزء كبير من السكان مما عرقل هذه الجهود. استثنيت أعداد كبيرة من الشركات المملوكة للدولة من عملية الخصخصة.
في غضون ذلك، وبحلول عام 1999، انخفض الناتج المحلي الإجمالي إلى أقل من 40 في المائة من مستوى عام 1991، [137] لكنه تعافى قليلا فوق مستوى 100 في المئة بحلول نهاية عام 2006.[69] في أوائل القرن الحالي، أظهر الاقتصاد نمواً قوياً في الصادرات بنسبة 5-10% ونمواً صناعياً بأكثر من 10 في المئة سنويا.[138] ضربت الأزمة الاقتصادية عام 2008 أوكرانيا وفي تشرين الثاني / نوفمبر 2008، حرر بنك النقد الدولي قرضاً قيمته 16.5 مليار دولار لهذا البلد.[139]
يصنف الناتج المحلي الإجمالي (تعادل القوة الشرائية) لأوكرانيا لعام 2007 وفقا لوكالة الاستخبارات المركزية، في المرتبة 29 في العالم ويقدر 359.9 مليار دولار أمريكي.[6] اجمالي الناتج المحلي للفرد في عام 2008 وفقا للوكالة كان 7800 $ (من حيث تعادل القوة الشرائية)، في المرتبة 83 عالمياً [6]. إجمالي الناتج المحلي الاسمي (بالدولار الأمريكي محسوباً بسعر صرف السوق) 198 مليار دولار، في المرتبة 41 عالمياً [6]. بحلول تموز / يوليو 2008 وصل وسطي الراتب الاسمي في أوكرانيا 1930 هريفنيا في الشهر.[140] وعلى الرغم من كونه أقل من بقية البلدان المجاورة في أوروبا الوسطى، وصل معدل نمو الدخل في عام 2008 لنسبة 36.8 في المئة.[141] وفقاً لبرنامج الأمم المتحدة الإنمائي في عام 2003 يعيش ما يقرب من 4.9 في المئة من السكان الأوكران تحت مستوى 2 دولار أمريكي في اليوم [142] و 19.5 في المئة من السكان يعيشون تحت خط الفقر الوطني من العام ذاته.[143]
تنتج أوكرانيا تقريباً جميع أنواع سيارات النقل والمركبات الفضائية. يتم تصدير طائرات أنتونوف وشاحنات كراز لكثير من البلدان. تسوق معظم الصادرات الأوكرانية إلى الاتحاد الأوروبي واتحاد الدول المستقلة.[144] منذ الاستقلال تحافظ أوكرانيا على وكالة الفضاء الخاصة بها، وكالة الفضاء الوطنية الأوكرانية. كما تشارك أوكرانيا بنشاط في استكشاف الفضاء والبعثات العلمية وبعثات الاستشعار عن بعد. بين عامي 1991 و 2007، أطلقت أوكرانيا ستة أقمار صناعية و 101 مركبة إطلاق محلية الصنع، وتستمر في تصميم المركبات الفضائية.[145] وهكذا حتى يومنا هذا، من المسلم به أن أوكرانيا دولة رائدة في العالم في إنتاج الصواريخ والتكنولوجيا ذات الصلة.[146][147]
معظم واردات البلاد من إمدادات الطاقة وخاصة النفط والغاز الطبيعي، وتعتمد إلى حد كبير على روسيا كمورد للطاقة. في حين أن 25 في المئة من الغاز الطبيعي في أوكرانيا يأتي من مصادر داخلية، يأتي نحو 35 في المئة من روسيا والباقي 40 في المئة من آسيا الوسطى من خلال الطرق التي تسيطر عليها روسيا. وفي الوقت ذاته، يمر 85 في المئة من الغاز الروسي إلى غرب أوروبا عبر أوكرانيا.[148]
يصنف البنك الدولي أوكرانيا كدولة ذات دخل متوسط.[149] تشمل القضايا الهامة البنية التحتية ونظام النقل المتخلف، والفساد والبيروقراطية. في عام 2007 سجلت سوق الأسهم الأوكرانية ثاني أعلى نمو في العالم من 130 في المئة.[150] ووفقاً لوكالة الاستخبارات المركزية، في عام 2006 بلغت القيمة السوقية لسوق الأوراق المالية الأوكرانية 111.8 مليار $.[6] تشمل القطاعات النامية من الاقتصاد الأوكراني سوق تقنية المعلومات والتي تفوقت على جميع دول وسط وشرق أوروبا في عام 2007، حيث نمت بنحو 40 في المئة.[151]
السياحة
تحتل أوكرانيا المركز الثامن عالمياً من حيث عدد السياح، وفقا لتصنيف المنظمة العالمية للسياحة.[152]
عجائب أوكرانيا السبعة هي المعالم التاريخية والثقافية السبعة في أوكرانيا.
الثقافة
تتأثر التقاليد الأوكرانية بشكل كبير بالمسيحية، والتي هي الدين السائد في البلاد.[153] كما أن دور الجنس يميل أيضا لأن يكون أكثر تقليدياً، كما أن الأجداد يلعبون دوراً أكبر في تربية الأطفال مما هو الحال في الغرب.[154] تأثرت الثقافة في أوكرانيا أيضا بجيرانها الشرقيين والغربيين، الأمر الذي ينعكس في هندستها المعمارية، والموسيقى والفن.
كان للحقبة الشيوعية تأثير قوي على الفن والكتابة في أوكرانيا.[155] في عام 1932، قدم ستالين سياسة الدولة الاشتراكية الواقعية في الاتحاد السوفياتي عندما صدر المرسوم "اعادة هيكلة المنظمات الأدبية والفنية". الأمر الذي خنق الإبداع لحد كبير. برز الجلاسنوست (الانفتاح) في الثمانينات الأمر الذي سمح للكتاب والفنانين السوفييت بحرية التعبير عن أنفسهم كما يريدون.[156]
تقليد بيضة عيد الفصح، والمعروفة باسم بيسانكي، ذو جذور عميقة في أوكرانيا. يرسم على البيض بالشمع لخلق نمط؛ ومن ثم يطبق الصباغ ليعطي البيضة ألواناً حسنة. لا يؤثر الصباغ على الأجزاء المغطاة بالشمع. بعد أن تصبغ كامل البيضة يزال الشمع وتبقى حينها الأنماط الملونة. هذا التقليد ضارب في القدم، وسبق وصول المسيحية إلى أوكرانيا.[157] أسست مدينة كولوميا على سفوح جبال الكاربات في عام 2000 متحف بيسانكا الذي حصل على ترشيح نصب أوكرانيا الحديثة في عام 2007، كجزء من مشروع عجائب أوكرانيا السبع.
تشمل الصفرة التقليدية الأوكرانية الدجاج ولحم الخنزير ولحم البقر والسمك والفطر. يفضل الأوكرانيون أيضا البطاطا والحبوب والخضراوات الطازجة المخللة. من الأطباق التقليدية فارينيكي (زلابية مغلية مع الفطر والبطاطا ومخلل الملفوف والجبن أو الكرز)، بورشت (حساء مصنوع من البنجر والملفوف والفطر أو اللحوم) وهلولبتسي (لفائف ملفوف محشوة بالأرز والجزر واللحم). كما تشمل التخصصات الأوكرانية دجاج كييف (تشيكن ألاكييف) وكعكة كييف. من المشروبات الأوكرانية الفاكهة المطهية، العصائر والحليب واللبن (يصنع منه الجبنة أيضاً)، والمياه المعدنية والشاي والقهوة والبيرة والنبيذ وهوريلكا.[158]
اللغة
وفقا للدستور، لغة الدولة في أوكرانيا هي الأوكرانية. بينما يتحدث بالروسية، التي كانت اللغة الرسمية في الواقع في الاتحاد السوفياتي، على نطاق واسع، لا سيما في شرق وجنوب أوكرانيا. وفقا لتعداد عام 2001، 67.5 في المئة من السكان صرحوا بأن الأوكرانية هي لغتهم الأصلية بينما كانت الروسية لدى 29.6 في المئة.[159] معظم المتكلمين بالأوكرانية كلغة أم يتكلمون الروسية كلغة ثانية.
تؤدي هذه التفاصيل إلى اختلاف كبير في نتائج المسح المختلفة، حتى أن إعادة صياغة السؤال نفسه قد تغير من نسب النتائج بشكل واضح. يتحدث بالأوكرانية بشكل رئيسي في غرب ووسط أوكرانيا. في غرب أوكرانيا الأوكرانية هي اللغة السائدة في المدن (مثل لفيف). بينما في وسط أوكرانيا، يستخدم كل من الأوكرانية والروسية على حد سواء في المدن، مع كون الروسية أكثر شيوعا في كييف، بينما الأوكرانية هي اللغة السائدة في المجتمعات الريفية. في شرق وجنوب أوكرانيا، تستخدم الروسية أساسا في المدن، بينما الأوكرانية في المناطق الريفية.
تراجع عدد الناطقين بالأوكرانية في الحقبة السوفياتية من جيل إلى جيل. وبحلول منتصف الثمانينات، تراجع استخدام اللغة الأوكرانية في الحياة العامة بشكل ملحوظ.[160] بعد الاستقلال، بدأت حكومة أوكرانيا محاولات لاستعادة هيمنة اللغة الأوكرانية من خلال سياسة الأكرنة.[161]. اليوم، تترجم أو تدبلج جميع الأفلام الأجنبية وبرامج التلفزيون، بما في ذلك الروسية، إلى الأوكرانية.
وفقا لدستور جمهورية القرم المتمتعة بالحكم الذاتي، الأوكرانية هي لغة الدولة الوحيدة في الجمهورية. مع ذلك، يسلم الدستور بالروسية كلغة يستخدمها غالبية السكان، ويضمن حرية استخدامها في كافة مجالات الحياة العامة. وبالمثل، فإن لغة تتار القرم (لغة 12 في المئة من سكان القرم [162]) تخضع لحماية الدولة الاستثنائية، فضلا عن لغات القوميات الأخرى. يشكل الناطقون بالروسية الأغلبية الساحقة من سكان القرم (77 ٪)، بينما يتكلم الأوكرانية 10.1 في المئة فقط، والمتكلمين بلغة تتار القرم 11.4 في المئة.[163] ولكن في الحياة اليومية لغالبية تتار القرم والأوكرانيين في القرم تستخدم اللغة الروسية.[163]
الأدب
يعود تاريخ الأدب الأوكراني إلى القرن الحادي عشر، بعد تحول روس كييف للمسيحية.[164] كانت الكتابات حينها حول الطقوس الدينية أساسا وكانت مكتوبة بلغة الكنيسة السلافية القديمة. أشهر الروايات التاريخية من ذلك العصر والتي تؤرخ له تدعى الوقائع الابتدائية.[165] تراجع النشاط الأدبي بشكل مفاجئ أثناء الغزو المغولي.[164]
تطور الأدب الأوكراني مرة أخرى في القرن الرابع عشر، وأحرز تقدما ملموسا في القرن السادس عشر مع إدخال الطباعة وبداية عصر القوزاق، في إطار الهيمنة الروسية والبولندية.[164] أنشأ القوزاق مجتمعاً مستقلاً ونشروا نوعاً جديداً من القصائد الملحمية، التي اعتبرت نقطة عالية من الأدب الشفوي الأوكراني.[165] تراجعت هذه التطورات في القرن السابع عشر وبداية الثامن عشر، عندما حظر النشر باللغة الأوكرانية. ومع ذلك، في أواخر القرن الثامن عشر برز الأدب الأوكراني الحديث في نهاية المطاف.[164]
بدأت في القرن 19 فترة العامية في أوكرانيا، من خلال عمل ايفان كوتلياريفسكي اينييدا، أول منشور بالكتابة الأوكرانية الحديثة. تطورت الرومانسية الأوكرانية في أواخر ثلاثينات القرن التاسع عشر وظهر على الساحة أشهر الرومانسيين في تاريخ الأمة الأوكرانية الشاعر والرسام تاراس شيفتشينكو. حيث يعتبر ايفان كوتلياريفسكي أب الأدب باللغة العامية الأوكرانية؛ وشيفتشينكو والد النهضة الوطنية.[166]
بعد ذلك، في عام 1863، حظر استخدام اللغة الأوكرانية في الطباعة من قبل الإمبراطورية الروسية.[23] هذا الأمر قمع بشدة النشاط الأدبي في المنطقة، وحيث أجبر الكتاب الأوكرانيون على نشر أعمالهم إما باللغة الروسية أو نشرها في غاليسيا الخاضعة للسلطة النمساوية. لم يرفع الحظر رسمياً أبداً، لكنه ألغي عملياً بعد ثورة البلاشفة ووصولهم إلى السلطة.[165]
واصل الأدب الأوكراني الازدهار في السنوات السوفياتية المبكرة، عندما تمت الموافقة على أغلب الاتجاهات الأدبية. واجهت هذه السياسات انخفاضاً حاداً في الثلاثينيات، عندما نفذ ستالين سياسته الواقعية الاشتراكية. حيث صرح بأن الهدف ليس بالضرورة قمع اللغة الأوكرانية، لكن الكتاب بحاجة اتباع نمط معين في أعمالهم. واصلت الأنشطة الأدبية نشاطاً محدوداً نوعا ما في ظل الحزب الشيوعي، ولم يكن حتى نالت أوكرانيا استقلالها في عام 1991 حين تم إطلاق حرية الكتاب للتعبير عن أنفسهم كما يشاءون.[164]
الموسيقى والرقص
الموسيقى هي جزء كبير من الثقافة الأوكرانية، ولها تاريخ طويل والعديد من التأثيرات. من الموسيقى الشعبية التقليدية للموسيقى الكلاسيكية إلى موسيقى الروك الحديثة، أنتجت أوكرانيا قائمة طويلة من المواهب الموسيقية المعترف بها دوليا بما في ذلك تشايكوفسكي وأوكين الزي. تسللت عناصر من الموسيقى الشعبية التقليدية الأوكرانية إلى الموسيقى الغربية، وحتى في الجاز الحديثة. في عالم الرقص، يتضح التأثير الأوكراني من رقصة البولكا حتى رقصة كسارة البندق.
الرياضة
استفادت أوكرانيا كثيرا من التركيز السوفياتي على التربية البدنية. تركت هذه السياسات في أوكرانيا مئات الملاعب وأحواض السباحة وقاعات الألعاب الرياضية، والعديد من المرافق الرياضية الأخرى.[167] الرياضة الأكثر شعبية هي كرة القدم. دوري المحترفين الأول هو فيشا ليغا، المعروف أيضا باسم الدوري الممتاز الأوكراني. الفريقين الأكثر نجاحاً هما المتنافسان أبداً نادي دينامو كييف وغريمه نادي شاختار دونيتسك. على الرغم من أن شاختار هو البطل السائد حالياً في فيشا ليغا، فإن دينامو كييف كان أكثر نجاحا من الناحية التاريخية، حيث فاز بكأس الاتحاد الأوروبي مرتين، وكأس السوبر الأوروبي مرة وحيدة، ورقم قياسي بلغ 13 بطولة في الاتحاد السوفياتي و 12 بطولة أوكرانية، بينما فاز شاختار بأربعة أوكرانية فقط ومرة وحيدة في بكأس الاتحاد الأوروبي.[168]
لعب العديد من الأوكرانيين في فريق كرة القدم الوطني السوفياتي، وعلى الأخص ايغور بيلانوف وأوليغ بلوخين، الفائزين بجائزة الكرة الذهبية المرموقة لأفضل لاعب كرة القدم في العام. قدمت هذه الجائزة فقط لأوكراني وحيد بعد انهيار الاتحاد السوفياتي، أندري شيفتشينكو، والقائد الحالي للمنتخب الوطني الأوكراني لكرة القدم. وصل المنتخب الوطني لاول مرة لكأس العالم 2006 لكرة القدم وبلغ الدور ربع النهائي قبل أن يخسر امام البطل في نهاية المطاف، إيطاليا. الأوكرانيون جيدون أيضا في الملاكمة، حيث يحمل الاخوة فيتالي كليتشكو وفلاديمير كليتشكو بطولة العالم للوزن الثقيل.
أدلت أوكرانيا بدلوها في الألعاب الأولمبية الشتوية عام 1994. حتى الآن، تعد أوكرانيا أكثر نجاحا في الألعاب الأولمبية الصيفية (96 ميدالية في اربع بطولات) مما هي عليه في الألعاب الأولمبية الشتوية (خمس ميداليات في اربع بطولات). أوكرانيا حاليا في المرتبة 35 من حيث عدد الميداليات الذهبية التي فازت بها في جميع الألعاب الأولمبية أبداً، حيث أن كافة البلدان فوقها في الترتيب تمتلك مشاركات أكثر في هذه البطولات عدا روسيا.
الديموغرافيا
وفقاً لتعداد عام 2001 يشكل العرق الأوكراني 77.8 ٪ من السكان. المجموعات العرقية الأخرى الهامة هي الروس (17.3 ٪)، البيلاروس (0.6 ٪)، المولداف (0.5 ٪)، تتار القرم (0.5 ٪)، البلغار(0.4٪)، المجر (0.3 ٪) والرومانيون (0.3 ٪) والبولنديين (0.3 ٪)، اليهود (0.2 ٪) والأرمن (0.2 ٪)، اليونان (0.2 ٪) والتتار (0.2 ٪).[169] المناطق الصناعية في شرق وجنوب شرق البلاد أشد ازدحاما بالسكان، كما أن نحو 67.2 في المئة من السكان يعيشون في المناطق الحضرية.[170]
الدين
الدين السائد في أوكرانيا هو المسيحية الأرثوذكسية الشرقية، والتي تنقسم حاليا بين هيئات كنسية ثلاث: الكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية - بطريركية كييف، والكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية كهيئة كنسية مستقلة تحت بطريرك موسكو، الكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية المستقلة.[153]
وفقًا لدراسة قام بها مركز رازومكوف عام 2018، حوالي 87.4% من سكان أوكرانيا مسيحيين. وتأتي الكنيسة الأرثوذكسية الشرقية في مقدمة الطوائف المسيحية مع حوالي 67.3% من مجمل السكان (28.7% ينضون تحت الكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية - بطريركية كييف، 23.4% فقط أرثوذكس، 12.8% يتبعون الكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية - بطريركية موسكو، و0.3% يتبعون الكنيسة الأرثوذكسية الأوكرانية المستقلة)؛ وحوالي 7.7% من الأوكرانيين هم مسيحيين بلا طائفة. ويشكل أتباع الكنيسة الأوكرانية الكاثوليكية حوالي 9.4%، يليهم كل من البروتستانت مع حوالي 2.2% والرومان الكاثوليك مع حوالي 0.8%.[175]
يحل في المركز الثاني بفارق كبير في عدد الأتباع هي الكنيسة الأوكرانية اليونانية الكاثوليكية الطقوس الشرقية، التي تمارس تقاليد مماثلة دينية وروحانية للأرثوذكسية الشرقية، لكنها على تواصل مع الكرسي الرسولي للكنيسة الكاثوليكية الرومانية وتعترف بسيادة البابا كرئيس للكنيسة.[176]
بالإضافة إلى ذلك، هناك 863 من الطوائف الكاثوليكية الرومانية، و 474 من رجال الدين يخدمون نحو مليون من الروم الكاثوليك في أوكرانيا.[153] يشكل مجموع الروم الكاثوليك 2.19% من السكان، وتتكون بشكل رئيسي من العرقيتين البولندية والمجرية، اللتان تعيشان في المناطق الغربية من البلاد.[153]
يشكل المسيحيون البروتستانت أيضا حول شكل 2.19 في المئة من السكان. تزايدت أعداد البروتستانت بشكل كبير منذ استقلال أوكرانيا. اتحاد المعمدانية الإنجيلية في أوكرانيا هي أكبر مجموعة، يبلغ أفرادها 150,000 ورجال الدين حوالي 3000. ثاني أكبر الكنائس البروتستانتية هي كنيسة الإيمان الإنجيلية (خمسينية) الأوكرانية مع 110,000 عضو وأكثر من 1500 من الكنائس المحلية وأكثر من 2000 من رجال الدين، لكن توجد أيضا مجموعات أخرى من الخمسينية حيث يبلغ مجموع أتباعها بالمجمل أكثر من 300,000، مع أكثر من 3000 من الكنائس المحلية. هناك أيضاً العديد من مدارس الخمسينية للتعليم العالي مثل معهد لفيف اللاهوتي ومعهد كييف للكتاب المقدس. من بين المجموعات الأخرى الكالفينيين، وشهود يهوه واللوثريون والميثوديون والسبتيين. كنيسة يسوع المسيح لقديسي الأيام الأخيرة (كنيسة المورمون) موجودة أيضاً.
يبلغ عدد المسلمين في أوكرانيا نصف مليون، حوالي نصفهم من تتار القرم.[177] هناك 487 مجمتع مسلم مسجل، منها 368 في شبه جزيرة القرم. بالإضافة إلى ذلك، حوالي 50,000 مسلم يعيشون في كييف، معظمهم من المولودين في الخارج.[178]
الجالية اليهودية جزء صغير مما كانت عليه قبل الحرب العالمية الثانية. المدن التي ضمت أكبر عدد من اليهود في عام 1926 أوديسا بـ 154,000 أو 36.5 ٪ من مجموع السكان، وكييف بـ 140,500 أو 27.3 ٪.[179] يشير تعداد عام 2001 إلى وجود 103,600 يهودي في أوكرانيا، على الرغم من زعم قادة المجتمع المحلي بأن أعدادهم قد تصل 300,000. لا توجد إحصاءات عن نسبة اليهود الأوكرانيين المتدينين، لكن اليهودية الأرثوذكسية ذات وجود قوي في أوكرانيا. مجتمع الإصلاح والمحافظين اليهود (ماسورتي) موجودان كذلك.[153]
الأزمة الديموغرافية
وقعت أوكرانيا في أزمة ديموغرافية منذ الثمانينات بسبب معدل الوفيات المرتفع ومعدل المواليد المنخفض. يتقلص عدد السكان بمقدار 150,000 نسمة سنويا بسبب أدنى معدل للولادات في أوروبا إلى جانب أحد أعلى معدلات الوفيات في أوروبا.
في عام 2007، كان معدل سرعة انخفاض تعداد السكان الرابع عالمياً.[180]
متوسط العمر المتوقع آخذ في الانخفاض. تعاني الأمة من ارتفاع معدل الوفيات الناجم عن التلوث البيئي، والتغذية السيئة والتدخين على نطاق واسع، وإدمان الكحول المنتشر، وتدهور الرعاية الطبية.[183][184]
في عام 2008، ولد ما يقارب 500,000 طفلا في أوكرانيا، بزيادة 20% مما كان عليه في عام 2004. انخفضت معدلات وفيات الرضع من 10.4 حالة وفاة إلى 8.9 من بين كل 1000 طفل بعمر أقل من عام واحد. رغم ذلك لا يزال المعدل مرتفعاً مقارنة بالعديد من الدول الأخرى.[185]
وفقاً للأمم المتحدة، الفقر وسوء الرعاية الصحية أكبر المشاكل التي تواجه الأطفال الأوكرانيين. تعيش أكثر من 26% من الأسر التي لديها طفل واحد، و 42% من الأسر التي لديها طفلين و 77% من الأسر التي لديها أربعة أطفال أو أكثر تحت خط الفقر، وفقا لليونسيف.[185] في تشرين الثاني 2009 ذكرت نينا كارابشيفا ناشطة حقوق الإنسان الأوكرانية أن حياة الكثيرين من الأطفال البالغ تعدادهم 8,200,000 في أوكرانيا لا تزال صعبة.[185]
الخصوبة
معدل المواليد الحالي في أوكرانيا هو 9.55 ولادة/1,000 شخص، ومعدل الوفيات هو 15.93 وفاة / 1,000 شخص.
تبرز ظاهرة الخصوبة المنخفضة في أوروبا بمعدل خصوبة دون 1.3. يعزوها الكثيرون إلى تأجيل الحمل لدى العديدين. تمتلك أوكرانيا أحد أدنى معدلات الخصوبة في العالم (منخفضة جدا 1.1 في عام 2001)، حيث يبدو أنه ثمة عدة طرق مؤدية لمستوى خصوبة منخفض. على الرغم من أن أوكرانيا شهدت تحولات هائلة سياسية واقتصادية خلال 1991-2004، تمسكت بسن الولادة الأولى المبكر. تظهر تحاليل الإحصاءات الوطنية الرسمية والإحصاءات الأوكرانية للصحة الإنجابية أن معدلات الخصوبة انخفضت إلى مستويات متدنية جدا من دون الانتقال إلى نمط آخر في الحمل. توحي النتائج المستخلصة من المقابلات المركزة في جماعات بتفسيرات لنمط الخصوبة المبكر. تشمل هذه النتائج استمرار المعايير التقليدية لإنجاب الأطفال ودور كل من الرجال والنساء، والمخاوف من المضاعفات الطبية والعقم في سن متأخرة، والعلاقة بين الخصوبة المبكرة والزواج المبكر.[186]
سياسات الإنجاب
للمساعدة في التخفيف من انخفاض عدد السكان، تواصل الحكومة زيادة المساعدات المالية للأطفال. حيث تدفع دفعة وحيدة بمقدار 12,250 هريفنا للطفل الأول، 25,000 هريفنيا للطفل الثاني و 50,000 للثالث والرابع، بالإضافة إلى دفعات شهرية تبلغ 154 هريفنا للطفل الواحد.[141][187] تظهر المؤشرات السكانية علامات تحسن، حيث ينمو معدل المواليد باطراد منذ عام 2001.[188] سجل نمو سكاني صاف خلال الأشهر التسعة الأولى من عام 2007 في خمس محافظات من البلاد (من أصل 24)، وأظهر معدل تقلص عدد السكان علامات استقرار على الصعيد الوطني. في عام 2007 كانت أعلى معدلات المواليد في المناطق الغربية.[189]
المجاعات
شكلت المجاعات التي عرفتها أوكرانيا في الثلاثينات، وما تلاها من دمار في الحرب العالمية الثانية، كوارث ديموغرافية. انخفض متوسط العمر المتوقع عند الولادة إلى مستويات منخفضة تصل إلى عشر سنوات بالنسبة للإناث، وسبعة للذكور في عام 1933 واستقر حوالي 25 سنة للإناث و 15 للذكور في الفترة 1941-1944.[190]
الهجرة
برزت هجرة واسعة في السنوات الأولى من استقلال أوكرانيا. أكثر من مليون شخص انتقلوا إلى أوكرانيا في 1991- 1992، معظمهم من الجمهوريات السوفياتية السابقة الأخرى. وفي المجموع، بين عامي 1991 و 2004، 2.2 مليون هاجروا إلى أوكرانيا (من بينهم، 2 مليون من دول الاتحاد السوفياتي السابق)، هاجر 2.5 مليون من أوكرانيا (من بينهم، 1.9 مليون انتقلوا إلى جمهوريات الاتحاد السوفياتي السابق).[191] في الوقت الراهن، يشكل المهاجرون ما يقدر بـ 14.7 ٪ من مجموع السكان، أو 6.9 مليون شخص، مشكلاً رابع أكبر نسبة في العالم.[192] في عام 2006، كان هناك ما يقدر بنحو 1.2 مليون كندي من أصل أوكراني،[193] مما يجعل من كندا ثالث بلد يقطنها الأوكرانيون بعد أوكرانيا نفسها وروسيا.
التعليم
المدارس
وفقاً للدستور الأوكراني، تمنح فرص الحصول على التعليم المجاني لجميع المواطنين. إكمال التعليم الثانوي العام إلزامي في المدارس الحكومية التي تشكل الأغلبية الساحقة. يتوفر التعليم العالي المجاني في والمؤسسات التعليمية المجتمعية والتابعة للدولة على أساس تنافسي.[194] هناك أيضا عدد قليل من المعاهد الثانوية ومعاهد التعليم العالي المعتمدة.
بسبب تركيز الاتحاد السوفياتي على وصول التعليم للجميع، السياسة المتبعة حالياً أيضاً في أوكرانيا، فإن معدل تعلم القراءة والكتابة يقدر بـ 99.4 ٪.[6] منذ عام 2005، تم استبدال البرنامج المدرسي على 11 عاما إلى 12 موزعة كالتالي: التعليم الابتدائي يستغرق أربع سنوات (ابتداء من سن السادسة)، التعليم المتوسط (الثانوي) يستغرق خمس سنوات؛ الثانوي العالي لمدة ثلاث سنوات.[195] في الصف الثاني عشر، يجري الطلاب امتحانات حكومية، والتي يشار إليها أيضاً كامتحانات مغادرة المدرسة.
الجامعات
يتم القبول في الجامعات الحكومية بعد ذلك بناء على نتائج هذه الامتحانات.
يشمل نظام التعليم العالي الأوكراني مؤسسات التعليم العالي، والمرافق العلمية والمنهجية في إطار القانون الاتحادي، والبلدي وهيئات الحكم الذاتي المسؤولة عن التعليم.[196] تنظيم التعليم العالي في أوكرانيا مبني وفقاً لهيكل التعليم في بلدان العالم المتقدمة، كما تم تعريفه من قبل منظمة اليونسكو والأمم المتحدة.[197]
البنية التحتية
لا تزال معظم شبكة الطرق الأوكرانية على حالها منذ الحقبة السوفياتية، والتي عفا عليها الزمن الآن. تعهدت الحكومة الأوكرانية ببناء 4,500 كيلومتر (2800 ميل) من الطرق السريعة بحلول عام 2012.[198] في المجموع، تمتد الطرق المعبدة الأوكرانية بطول 164,732 كم (102,360 ميل).[6] تلعب السكك الحديدية في أوكرانيا دوراً في ربط جميع المناطق الحضرية الكبرى، ومرافق الموانئ والمراكز الصناعية في البلدان المجاورة.
يقع أكثر تركيز مسار خط السكك الحديدية في منطقة دونباس. على الرغم من أن كمية البضائع المنقولة بواسطة السكك الحديدية انخفضت بنسبة 7.4% في عام 1995 بالمقارنة مع عام 1994، إلا أن أوكرانيا لا تزال واحدة من أكثر المستخدمين في العالم لخطوط السكك الحديدية.[199] يصل الطول الإجمالي لمسار خط سكة الحديد في أوكرانيا 22,473 كم (13964 ميل)، منها 9,250 كيلومتر (5750 ميل) يعمل على الكهرباء.[6]
أوكرانيا هي واحدة من أكبر مستهلكي الطاقة في أوروبا، حيث تستهلك ما يقرب من ضعف الطاقة في ألمانيا، لكل وحدة من الناتج المحلي الإجمالي.[200] تتوفر حصة كبيرة من الطاقة في أوكرانيا من الطاقة النووية، حيث تحصل على الوقود النووي من روسيا. كما يتم استيراد النفط والغاز، من الاتحاد السوفياتي السابق. تعتمد أوكرانيا اعتمادا كبيرا على طاقتها النووية. تقع أكبر محطة للطاقة النووية في أوروبا، محطة زابوريجيا النووية لتوليد الطاقة، في أوكرانيا.
في عام 2006، خططت الحكومة لبناء 11 مفاعلاً جديداً بحلول عام 2030، مما سيضاعف في الواقع من الكمية الحالية من قدرة الطاقة النووية.[201] قطاع الطاقة في أوكرانيا يحتل المرتبة الثانية عشر في العالم من حيث السعة المثبتة، بمقدار 54 غيغاواط.[200] لا يزال دور الطاقة المتجددة متواضعا للغاية في إنتاج الكهرباء. في عام 2007، بلغت حصة الفحم والغاز في توليد الطاقة 47.4 ٪ (غاز حوالي 20 ٪)، 47.5 ٪ من الطاقة النووية (92.5 تيراواط ساعة)، و 5 ٪ من الطاقة المائية.[201]
التصنيفات الدولية
المراجع
ملاحظات
a. Among the Ukrainians that rose to the highest offices in الإمبراطورية الروسية were Aleksey Razumovsky, Alexander Bezborodko, Ivan Paskevich. Among the Ukrainians who greatly influenced the الكنيسة الروسية الأرثوذكسية in this period were Stephen Yavorsky, فيوفان بروكوبوفيتشس, Dimitry of Rostov.
b. See the التطهير الأعظم article for details.
c. Estimates on the number of deaths vary. Official Soviet data is not available because the Soviet government denied the existence of the famine. See the هولودومور article for details. Sources differ on interpreting various statements from different branches of different governments as to whether they amount to the official recognition of the Famine as Genocide by the country. For example, after the statement issued by the Latvian Sejm on March 13, 2008, the total number of countries is given as 19 (according to Ukrainian بي بي سي: ), 16 (according to Korrespondent, Russian edition: ), "more than 10" (according to Korrespondent, Ukrainian edition: ) Retrieved on 2008-01-27.
d. These figures are likely to be much higher, as they do not include Ukrainians from nations or Ukrainian Jews, but instead only عرقية Ukrainians, from the Ukrainian SSR.
e. This figure excludes أسير حرب deaths.
f. According to the official data (; ) about 75percent of Kiev's population responded 'Ukrainian' to the native language (ridna mova) census question, and roughly 25percent responded 'Russian'. On the other hand, when the question 'What language do you use in everyday life?' was asked in the 2003 sociological survey, the Kievans' answers were distributed as follows: 'mostly Russian': 52percent, 'both Russian and Ukrainian in equal measure': 32percent, 'mostly Ukrainian': 14percent, 'exclusively Ukrainian': 4.3percent.
g. Such writings were also the base for Russian and Belarusian literature.
h. Without the city of Inhulets.
وصلات خارجية
*
تصنيف:أوروبا الشرقية
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เม่นทะเล หรือ หอยเม่น (English: Sea urchin) เป็นสัตว์ในชั้น เอไคนอยเดีย (Echinoidea) ในไฟลัมเอไคโนดอร์มาทา และอยู่ในกลุ่มเอคไคนอยด์ที่มีสมมาตร อาศัยอยู่ตามพื้นแข็ง มีสีต่างกัน ด้านที่เกาะกับพื้นเป็นปาก ทวารหนักอยู่กลางลำตัว ด้านบนสุด เม่นทะเลจะมีหนามสองขนาด หนามขนาดยาวใช้ในการผลักดันพื้นแข็ง ขุดคุ้ยสิ่งต่างๆหรือช่วยในการฝังตัว หนามเล็กสั้นใช้ยึดเกาะเวลาปีนป่าย เม่นทะเลที่มีพิษจะมีหนามที่กลวงและมีพิษอยู่ภายใน หนามนี้จะแทงทะลุผิวหนังได้ง่าย เมื่อหักจะปล่อยสารพิษออกมา อาหารของเม่นทะเลคือสาหร่าย สัตว์ที่ตายแล้ว และสัตว์ไม่มีกระดูกสันหลังที่เกาะอยู่กับที่ มีตาด้วย
อ้างอิง
บพิธ จารุพันธุ์ และ นันทพร จารุพันธุ์. 2540. สัตววิทยา. กทม. สำนักหิมพ์มหาวิทยาลัยเกษตรศาสตร์
หมวดหมู่:เอไคโนดอร์มาทา
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『Billy』(月刊ビリー)は、白夜書房が1981年から1985年まで発行していたポルノ雑誌。キャッチコピーは「スーパー変態マガジン」。
スカトロから死体・獣姦・SM・児童買春・切腹マニア・幼児プレイ・ロリコン・ドラッグ・シーメール・アナルマニア・フリークス・ボンデージ・フィストファックまで豪華なラインナップで綴る悪趣味の限りを尽くした日本を代表する伝説的変態総合雑誌であり、鬼畜系と呼ばれるエロ本の草分けとして名実ともにエログロ雑誌の一時代を築き上げた[1][2]。
本項では同誌の後継誌『Billyボーイ』についても扱う。
概要
1981年6月創刊。元々本誌は白夜書房の高橋という新入社員が「芸能雑誌を作りたい」という一言から始まった雑誌で、当初はその後の路線からは想像が付かない位に至って普通の真面目な芸能インタビュー雑誌だった[3]。
しかし、返本率が7~8割を超えるなど売れ行き不振から半年で大幅に路線変更となり[1]、責任を感じた高橋は雑誌から降板[3]。それに伴い本誌の下請けになった編集プロダクション「VIC出版」の小林小太郎が実質的な編集権を主導し[1]、1982年2月号より変態路線に誌面刷新、同年3月号からは「スーパー変態マガジン」をキャッチフレーズに国内のサブカル史に名前を残す伝説の変態雑誌に変貌を遂げた[4]。この路線変更の経緯は白夜書房より同時期に刊行されていた変態ロリコン雑誌『Hey!Buddy』とよく似ている。
スーパー変態マガジンになってからは返本率が2割にまで下がり[3]、その先鋭的な編集方針は当時のサブカル・アングラ界隈にも少なからぬ認知度と知名度、足跡を残した。石野卓球、大槻ケンヂ、ピエール瀧、山田花子らサブカル系の著名人も学生時代に本誌から絶大な影響を受けたことを後に語っている[5][6][7][8]。
ちなみに当時の一般的なエロ本は撮り下ろしのヌード写真が主体であったが、本誌ではライターによる読み物などサブカルチャー系の記事・情報が非常に充実しており、この編集スタイルについて発行人の中沢慎一によれば「売れない雑誌を引き継いだわけだから、いかに安く作るかを考えて、ライターに原稿料を払った方が面白いものが出来ると思った」とのことで、コストが掛かる撮り下ろしのヌードを出来るだけ減らし、代わりに低予算で済む読み物の記事を充実させたのだという[9]。結果的に本誌は「活字の多いエロ本」の草分けとなり、1980年代以降のエロ本界に変革をもたらすことに繋がった[9]。
ちなみに編集発行人の名義は中沢慎一だが、実質的な編集は前述の経緯から小林小太郎とされ、同誌で編集や執筆を行った永山薫は「(小林が)実質的に変態版『ビリー』の初代編集長」と語っている[10]。一方で小林はインタビューで「死体とかグロなもんについては素人ですよ。『Billy』以前は死体写真に対する興味はゼロだった。平口広美さんのところで死体写真集を見たときに、これはいけるってピンときたけど、その後も特別な愛着はない。でも載せるとかえって周りが盛り上がっちゃってね。読者の方が絶対詳しいですよ。でもどうせやるのなら人間の中にあるヘンなものを全部暴き出すところまでやりたかった」と回想しており、別段自身に変態的な特性は無かったとしている[11]。また小林によれば読者アンケート人気を一切無視した編集方針をとっていたようで「読者に主導権は渡さない、向こう主導になると終わりだと思ってやってた」とも後に語っている[11]。
廃刊
当時の白夜書房では本誌以外にも末井昭編集の写真雑誌『写真時代』や高桑常寿編集のロリコン雑誌『Hey!Buddy』などアングラ寄りでサブカルチャー色の強い過激なエロ本が人気を博していた。
しかし「スーパー変態マガジン」を自称する本誌はその名の通り人の殺し方、美味しいうんこの食べ方、切腹マニアによる腹の切り方、変態写真投稿コーナーなど殆ど変態総合雑誌の様相を呈しており、エロ本とはいえ商業誌としては当時でも余りに斬新な異端ネタが満載であった。当然3誌とも都条例の不健全図書指定に幾度となく引っかかっており、その中でも同誌は最もエログロかつアングラなスーパー変態マガジンとして当局の警告を度々受けていた。
結局『Billy』は1984年11月号が都条例の不健全図書に指定されたのを契機に休刊に追い込まれるが[4]、同年12月号より『Billyボーイ』として新創刊する[3]。
『Billyボーイ』は『Billy』を青年向けにライトにシフトした体裁だったが全く内容が変わっておらず、条例違反により1985年8月号をもって再度廃刊となった[1]。同誌編集者の吉武政宏は廃刊に寄せて「売れなくて廃刊になるなら納得もできるが、都条例第8条に連続2回ひっかかるという最悪の事態。不健全図書として今後の発売の見通しが悪く、あえなく廃刊することに決定しました。長い間ビリーを愛読してくれた皆さん、ありがとう」と編集後記で語っている[4]。
また時期を同じくして変態ロリコン雑誌『Hey!Buddy』の増刊号『ロリコンランド8』(白夜書房/1985年9月)が猥褻図画頒布の容疑で摘発され発禁処分となり、少女のワレメが出せなくなった『Hey!Buddy』本誌も1985年11月号をもって廃刊となった。
なお荒木経惟、森山大道、渡辺和博、糸井重里、上野昂志、南伸坊、高杉弾、岡崎京子、赤瀬川原平らが作品を発表していた末井昭の『写真時代』は『Billy』『Hey!Buddy』廃刊後も唯一生き残り、刊行が継続されたが、荒木らの過激な表現で警視庁から数々の呼び出し注意を受けた末、数年後の1988年に「被写体の女性のパンティの食い込みが激しすぎて女性器が見えそうだった」ため回収を命ぜられ、ついに廃刊に追い込まれた(末井編集長時代の『写真時代』については2018年に映画化された末井の自伝小説『素敵なダイナマイトスキャンダル』に詳しい)[12]。
『Billy』『Hey!Buddy』の両誌に寄稿していた青山正明は2誌廃刊の最たる理由として「失敗したのはA4のグラフ誌であんなことやっちゃったっていう。やっぱり目立ちますからね。目立つところに置かれちゃうし、それで当局に目をつけられて、過激なことができなくなった」と指摘している[10]。その後、エログロナンセンス文化の受け皿であったエロ本は80年代後半以降、ロリコン・美少女路線に押され、鬼畜系は不毛の時代が続いたという[10]。
後に小林小太郎は90年代版『Billy』を標榜したポルノ雑誌『TOO NEGATIVE』(吐夢書房)を1994年に創刊。同誌ではトレヴァー・ブラウンを起用し、死体写真家の釣崎清隆を輩出するなど大きな功績を残した。一方で青山正明は1995年より鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス)を創刊し、同誌は世紀末の日本に鬼畜ブーム・悪趣味ブームを巻き起こす起爆剤の役割を果たすことになる。
白夜書房出身の風俗ライター・ラッシャーみよしは本誌について「ウンコだSMだフィストファックだ死体だ奇形だ。言ってみれば『クイックジャパン』と『危ない1号』と『GON!』を全部ぶっこんだような雑誌」「もっとも『危ない1号』の青山正明編集長はこの頃の白夜書房のメイン・ライターだけど。それはともかく『ビリー』の衝撃というのは他に似た雑誌がなかっただけにものすごいもので、毎月、毎月、うひゃあとか、こんなんありィみたいな感動にうちふるえていたわけさ」と後年回想している[13]。
関連項目
鬼畜系
スカム
ヘンタイ
ビニ本
自販機本
白夜書房
コアマガジン
サブカルチャー
関連雑誌
Jam
HEAVEN
写真時代
Hey!Buddy
ビデオ・ザ・ワールド
ウィークエンドスーパー
TOO NEGATIVE
危ない1号
関連人物
中沢慎一 - 編集発行人
小林小太郎 - 編集長
青山正明 - 編集者
石野卓球 - 読者
大槻ケンヂ - 読者
釣崎清隆 - 死体写真家
友成純一 - 官能小説家
永山薫 - 編集者
山崎春美 - 編集者
東良美季 - 編集者
中野D児 - 編集者
ハニー白熊 - AVライター
ラッシャーみよし - 風俗ライター
THE CRAZY SKB - 殺害塩化ビニール社長
参考文献
白夜書房『Billyボーイ』1985年8月号
『ゴーゴー!! Windows』 - 1996年創刊のコアマガジン発行・ソフトマジック編集によるパソコン雑誌。創刊号と2号に『Billy』『Hey!Buddy』の1年分の誌面データが付録CD-ROMに再録され、3号以降は『写真時代』も再録された。
別冊宝島編集部『別冊宝島345 雑誌狂時代!』(宝島社 1997年11月)
小平絞+鈴原成『世紀末インターネット大全 鬼畜ネット』(二見書房 1997年5月)
大越功編『ワニの穴3 エロ本のほん』(ワニマガジン社 1997年12月)
本橋信宏+東良美季『エロ本黄金時代』(河出書房新社 2015年12月)
脚注
外部リンク
BLACK BOX PANDORA
WEBスナイパー 2008年12月14日
リテラ 2015年12月17日
扶桑社『SPA!』1996年12月11日号特集「」/青山正明×村崎百郎「」
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కొయ్యలగూడెం (ఆంగ్లం: Koyyalagudem), ఆంధ్ర ప్రదేశ్ రాష్ట్రములోని పశ్చిమ గోదావరి జిల్లాకు చెందిన ఒక మండలము. పిన్ కోడ్: 534312.
మండల గణాంకాలు
మండల కేంద్రము కొయ్యలగూడెం====గ్రామాలు 18
జనాభా (2001) - మొత్తం 71,249 - పురుషులు 35,918 - స్త్రీలు 35,331
అక్షరాస్యత (2001) - మొత్తం 65.74% - పురుషులు 69.05% - స్త్రీలు 62.39%
గ్రామాలు
అచ్యుతాపురం
బయ్యనగూడెం
చొప్పరామన్నగూడెం
దిప్పకాయలపాడు
ఏడువాడలపాలెం
గవరవరం
కనకాద్రిపురం
కన్నాపురం
కన్నయగూడెం
కుంటలగూడెం
మహాదేవపురం
మంగపతిదేవిపేట
పరింపూడి
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సరిపల్లె
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Latitudo (kwa Kilatini: latitudo) ni mahala pa mchoro wa dunia au ramani huonyesha kwa mistari iliolazwa ni njia ya kuonyesha mahali duniani kwa kutaja umbali wake kutoka ikweta kwa kipimo cha digrii (°).
Mahali penye ikweta kamili (kwa mfano Nanyuki katika Kenya) ina latitudo ya "0". Mahali pa mbali ni ncha ya kaskazini au ya kusini zinazotajwa kwa 90°. Pamoja na kipimo cha longitudo inataja mahali kamili duniani.
Latitudo za kaskazini na kusini ya ikweta zinatofautishwa ama kwa kuongeza herufi "N" (=north) na "S" (south) au kwa alama za "+" (kaskazini) na "-" (kusini).
Digrii za latitudo hugawiwa katika umbali wa 60 dakika au minuti; dakika ya latitudo ni mita 1852 au maili moja ya kibahari. Dakika hugawiwa katika nukta au sekondi. Mfano: 13°19.717′ N.
Latitudo muhimu ni:
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2. Tropiki ya kansa (23½°Kas)
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5. Duara la antaktika (66½°Kus)
Pamoja na namba ya longitudo inaonyesha mahali kamili kwenye uso wa dunia.
Jamii:Jiografia
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Мустафа́ Кема́ль Ататю́рк; Гази Мустафа Кемаль-паша[1] (Turkish: Mustafa Kemal Atatürk; 1881[2] — 10 ноября 1938) — османский и турецкий реформатор, политик, государственный деятель и военачальник; основатель и первый лидер Республиканской народной партии Турции; первый президент Турецкой Республики, основатель современного турецкого государства.
Возглавив после поражения (октябрь 1918) Османской империи в Первой мировой войне национально-революционное движение и войну за независимость в Анатолии, добился ликвидации великого правительства султана и оккупационного режима, создал новое, основанное на национализме («суверенитете нации»[3]), республиканское государство, провёл ряд серьёзных политических, социальных и культурных реформ, таких как: ликвидация султаната (1 ноября 1922), провозглашение республики (29 октября 1923), упразднение халифата (3 марта 1924), введение светского обучения, закрытие дервишских орденов, реформа одежды (1925), принятие нового уголовного и гражданского кодексов по европейскому образцу (1926), латинизация алфавита, очищение турецкого языка от арабских и персидских заимствований, отделение религии от государства (1928), предоставление избирательных прав женщинам, отмена титулов и феодальных форм обращения, введение фамилий (1934), создание национальных банков и национальной промышленности. Как председатель Великого национального собрания (1920—1923) и затем (с 29 октября 1923) как президент республики, переизбиравшийся на этот пост каждое четырёхлетие, а также как несменяемый председатель им созданной Народно-республиканской партии, приобрёл в Турции непререкаемый авторитет и диктаторские[4] полномочия.
Происхождение, детство и образование
Родился в 1880 или 1881 году (достоверных сведений о дате рождения нет[5]; впоследствии Кемаль выбрал датой своего рождения 19 мая — день начала борьбы за независимость Турции) в квартале Ходжакасым оттоманского города Салоники (ныне Греция) в семье мелкого лесоторговца, бывшего таможенного служащего Али Рыза-эфенди и его жены Зюбейде-ханым. Доподлинно неизвестно происхождение его отца, некоторые источники утверждают, что его предки были турками-переселенцами из Сёке[6][7], другие настаивают на балканских (албанских или болгарских) корнях Ататюрка[8][9], в семье говорили по-турецки и исповедовали ислам, хотя среди противников-исламистов Кемаля в Османской империи было распространено мнение, что его отец принадлежал к иудейской секте дёнме[10], одним из центров которой был город Салоники. Он и его младшая сестра Макбуле Атадан были единственными детьми в семье, дожившими до взрослого возраста, остальные умерли в раннем детстве.
Мустафа был активным ребёнком и обладал вспыльчивым и чрезвычайно независимым характером. Общению со сверстниками или сестрой мальчик предпочитал одиночество и независимость. Он нетерпимо относился к мнению окружающих, не любил идти на компромиссы и всегда стремился следовать выбранному для себя пути. Привычка прямо высказывать всё, что он думает, принесла Мустафе в дальнейшей жизни немало хлопот, и с ней он нажил многочисленных врагов.
Мать Мустафы, ревностная мусульманка, хотела, чтобы её сын изучил Коран, но её муж, Али Рыза, склонялся к тому, чтобы дать Мустафе более современное образование. Супруги никак не могли прийти к компромиссу, и поэтому, когда Мустафа достиг школьного возраста, его сначала определили в школу Хафыза Мехмет-эфенди, располагавшуюся в квартале, где жила семья.
Его отец умер в 1888 году, когда Мустафе было 8 лет. 13 марта 1893 года он, согласно своему устремлению, будучи 12-и лет, поступил в подготовительную военную школу в Салониках Selânik Askerî Rüştiyesi, где учитель математики дал ему второе имя Кемаль («совершенство»).
В 1896 году был зачислен в военную школу (Manastır Askerî İdadisi) в городе Манастир (ныне Битола в современной Македонии).
13 марта 1899 года поступил в Оттоманский военный колледж (Mekteb-i Harbiye-i Şahane) в Стамбуле, столице Османской империи. В отличие от прежних мест учёбы, где господствовали революционные и реформаторские настроения, колледж был под жёстким контролем султана Абдул-Хамида II.
10 февраля 1902 года поступил в Оттоманскую академию генштаба (Erkân-ı Harbiye Mektebi) в Стамбуле, которую окончил 11 января 1905 года. Тотчас по окончании академии, был арестован по обвинению в противозаконной критике абдулхамидовского режима и после нескольких месяцев под стражей был сослан в Дамаск, где в 1905 году создал революционную организацию Ватан («Родина»)[11].
Начало службы. Младотурки
В 1905—1907 годах вместе с Лютфи Мюфит-беем (Оздешем) служил в 5-й армии, дислоцированной в Дамаске. В 1907 году Мустафа Кемаль был повышен в звании и получил направление в 3-ю армию в город Манастир.
Уже во время учёбы в Салониках Кемаль участвовал в революционных обществах; по окончании Академии примкнул к младотуркам, участвовал в подготовке и проведении Младотурецкой революции 1908 года; впоследствии, ввиду разногласий с лидерами младотурецкого движения, временно отошёл от политической деятельности.
В 1910 году Мустафа Кемаль был направлен во Францию, где присутствовал на пикардийских военных манёврах. В 1911 году начал служить в Стамбуле, в Генштабе вооружённых сил. В ходе итало-турецкой войны, начавшейся в 1911 году со штурма Триполи итальянцами, Мустафа Кемаль вместе с группой своих товарищей сражался в районе Тобрука и Дерне. 22 декабря 1911 года Мустафа Кемаль одержал победу над итальянцами в сражении под Тобруком, а 6 марта 1912 года был назначен на пост командующего османскими войсками в Дерне. В октябре 1912 года началась Первая Балканская война, в которой Мустафа Кемаль принял участие вместе с военными подразделениями из Галлиполи и Болайыра. Он сыграл большую роль в деле отвоевания Дидимотихона (Диметоки) и Эдирне у болгар.
В 1913 году Мустафа Кемаль был назначен на пост военного атташе в Софии, где в 1914 году он получил звание подполковника. Там Мустафа Кемаль прослужил до 1915 года, когда был направлен в Текирдаг для формирования 19-й дивизии.
Кемаль в Первой мировой войне
В начале Первой мировой войны Мустафа Кемаль успешно командовал турецкими войсками в битве за Чанаккале (см. Дарданелльская операция).
18 марта 1915 года англо-французская эскадра попыталась пройти пролив Дарданеллы, однако понесла тяжёлые потери. После этого командование Антанты приняло решение высадить десант на полуострове Галлиполи. 25 апреля 1915 года англо-французы, высадившиеся на мысе Арыбурну (см. Высадка в бухте Анзак), были остановлены 19-й дивизией под командованием Мустафы Кемаля. После этой победы Мустафа Кемаль был произведён в полковники.
Во время высадки войск Австралийского и Новозеландского корпуса и иных британских частей на Галлипольском полуострове в ходе Дарданелльской операции, в наиболее отчаянный момент сражений, утром 25 апреля 1915 года, в приказе дня для 57-го полка своей дивизии Кемаль написал: «Я не приказываю вам наступать, я приказываю вам умереть. Пока мы будем умирать, другие войска и командиры смогут прийти и стать на наши места»[12]. Почти весь личный состав 57-го полка погиб к концу сражения[13].
6—7 августа 1915 года английские войска вновь перешли в наступление с полуострова Арыбурну.
6—15 августа 1915 года группа войск под командованием германского офицера Отто Сандерса и Кемаля сумела воспрепятствовать успеху британских сил при высадке в заливе Сувла. Затем последовали победа при Киречтепе (17 августа) и вторая победа при Анафарталар (21 августа).
После битв за Дарданеллы Кемаль командовал войсками в Эдирне и Диярбакыре. 1 апреля 1916 года он был произведён в дивизионные генералы (генерал-лейтенант) и назначен командующим 2-й армии. Под его командованием 2-я армия в начале августа 1916 года сумела ненадолго занять Муш и Битлис, но вскоре была выбита оттуда русскими (см. Эрзинджанское сражение, Битлисское сражение и Огнотская операция)[14][15].
После краткосрочной службы в Дамаске и Халебе вернулся в Стамбул. Отсюда вместе с наследным принцем Вахидеттином эфенди отправился в Германию на линию фронта для проведения инспекции. По возвращении из этой поездки серьёзно заболел и был отправлен на лечение в Вену и Баден-Баден.
15 августа 1918 года вернулся в Халеб в должности командующего 7-й армией. Под его командованием армия успешно оборонялась от атак английских войск.
После подписания Мудросского перемирия (капитуляции Османской империи) (30 октября 1918 года) был назначен на пост командующего группой армий «Йылдырым». После роспуска этого соединения Мустафа Кемаль 13 ноября 1918 года вернулся в Стамбул, где начал работать в Министерстве обороны.
Организация Ангорского правительства
Подписание полной капитуляции заставило приступить к планомерному разоружению и расформированию Османской армии. 19 мая 1919 года Мустафа Кемаль в качестве инспектора 9-й армии прибыл в Самсун.
22 июня 1919 года в Амасье он обнародовал циркуляр (Amasya Genelgesi), который гласил, что независимость страны находится под угрозой, а также объявлял созыв депутатов на Сивасский конгресс.
8 июля 1919 года Кемаль уволился из османской армии. 23 июля — 7 августа 1919 года в Эрзуруме состоялся съезд (Erzurum Kongresi) шести восточных вилайетов империи, за которым последовал Сивасский конгресс, проведённый с 4 по 11 сентября 1919 года. Мустафа Кемаль, обеспечивший созыв и работу этих конгрессов, таким образом определил пути «спасения отчизны». Султанское правительство пыталось этому противодействовать, и 3 сентября 1919 года был издан указ об аресте Мустафы Кемаля, однако у того уже хватало сторонников, чтобы противодействовать выполнению этого указа.[16] 27 декабря 1919 года Мустафу Кемаля с ликованием встретили жители Ангоры (Анкара).
После оккупации Константинополя (ноябрь 1918 года) войсками Антанты и роспуска османского парламента (16 марта 1920 года) Кемаль созвал в Ангоре собственный парламент — Великое Национальное Собрание Турции (ВНСТ), первое заседание которого открылось 23 апреля 1920 года. Сам Кемаль был избран председателем парламента и главой правительства Великого Национального Собрания, которое тогда не признавалось ни одной из держав. 29 апреля Великое Национальное Собрание приняло закон, приговаривающий к смертной казни любого, кто усомнится в его легитимности. В ответ на это султанское правительство в Стамбуле 1 мая издало указ, приговаривающий к смерти Мустафу Кемаля и его сторонников.[17]
Основной непосредственной задачей кемалистов была борьба с армянами на северо-востоке, с греками — на западе, а также — с оккупацией Антантой турецких земель и сохранявшимся де-факто[18] режимом капитуляций[19].
7 июня 1920 года ангорское правительство объявило недействительными все прежние договоры Османской империи; кроме того, правительство ВНСТ отвергло и в конечном итоге, путём военных действий, сорвало ратификацию подписанного 10 августа 1920 года между султанским правительством и странами Антанты Севрского договора, который они считали несправедливым в отношении турецкого населения империи. Воспользовавшись ситуацией, когда предусмотренный договором международный судебный механизм не был создан, кемалисты захватили заложников из числа британских военнослужащих и стали обменивать их на членов младотурецкого правительства и других лиц, интернированных на Мальте по обвинению в преднамеренном уничтожении армян. Подобным механизмом стал Нюрнбергский процесс спустя годы.[20]
Турецко-армянская война. Отношения с РСФСР
Основные этапы турецко-армянской войны: взятие Сарыкамыша (20 сентября 1920 года), Карса (30 октября 1920 года) и Гюмри (7 ноября 1920 года).
Решающее значение в военных успехах кемалистов против армян, а также впоследствии греков, имела значительная финансовая и военная помощь, оказанная правительством РСФСР начиная с осени 1920 года вплоть до 1922 года[21]. Уже в 1920 году, в ответ на письмо Кемаля Ленину от 26 апреля 1920 года, содержавшее просьбу о помощи[22], правительство РСФСР направило кемалистам 6 тысяч винтовок, свыше 5 млн винтовочных патронов, 17 600 снарядов и 200,6 кг золота в слитках[23].
Письмо Кемаля Ленину от 26 апреля 1920 года, среди прочего, гласило: «Первое. Мы принимаем на себя обязательство соединить всю нашу работу и все наши военные операции с российскими большевиками, имеющими целью борьбу с империалистическими правительствами и освобождение всех угнетенных из-под их власти <…>»[24] Во второй половине 1920 года Кемаль планировал создать подконтрольную ему турецкую коммунистическую партию для получения финансирования от Коминтерна[25]; но 28 января 1921 года руководство турецких коммунистов было ликвидировано с его санкции[26].
При заключении 16 марта 1921 года в Москве договора о «дружбе и братстве» (по которому к Турции отошёл ряд территорий бывшей Российской Империи: Карсская область и Сурмалинский уезд) было также достигнуто соглашение об оказании анкарскому правительству безвозмездной финансовой помощи, а также помощи оружием, в соответствии с которым советское правительство в течение 1921 года направило в распоряжение кемалистов 10 млн руб. золотом, более 33 тысяч винтовок, около 58 млн патронов, 327 пулеметов, 54 артиллерийских орудия, более 129 тысяч снарядов, полторы тысячи сабель, 20 тысяч противогазов, 2 морских истребителя и «большое количество другого военного снаряжения»[23]. Правительство РСФСР выступило в 1922 году с предложением[27] пригласить представителей правительства Кемаля на Генуэзскую конференцию, что означало для ВНСТ фактическое международное признание.
Греко-турецкая война
Согласно турецкой историографии считается, что «Национально-освободительная война турецкого народа» началась 15 мая 1919 года с первых выстрелов, данных в Смирне по высадившимся в городе грекам. Оккупация Смирны войсками Греции осуществлялась в соответствии со статьей 7-й Мудросского перемирия.
Основные этапы войны:
Оборона региона Чукуровы, Газиантепа, Кахраманмараша и Шанлыурфы (1919—1920 годы);
Первая победа Инёню (6—10 января 1921 года);
Вторая победа Инёню (23 марта — 1 апреля 1921 года);
Поражение при Эскишехире (Сражение при Афьонкарахисаре-Эскишехире), отступление к Сакарье (17 июля 1921 года);
Победа в битве при Сакарье (23 августа—13 сентября 1921);
Генеральное наступление и победа над греками при Домлупынаре (ныне ил Кютахья, Турция; 26 августа—9 сентября 1922 года).
После победы при Сакарье ВНСТ пожаловало Мустафе Кемалю титул «гази» и звание маршала (21.9.1921).
18 августа 1922 года Кемаль начал решающее наступление, 26 августа позиции греков были прорваны, и греческая армия фактически потеряла боеспособность. 30 августа был взят Афьон-Карахисар, 5 сентября — Бурса. Остатки греческой армии стеклись в Смирну, однако флота для эвакуации не хватало. Эвакуироваться сумели не более трети греков. Турки захватили 40 тысяч человек, 284 орудия, 2 тысячи пулемётов и 15 самолётов.
В ходе греческого отступления обе стороны творили взаимные жестокости: греки убивали и грабили турок, турки — греков. Около миллиона человек с обеих сторон осталось без крова[28].
9 сентября Кемаль, находясь во главе турецкой армии, вступил в Смирну; греческие и армянские части города были полностью уничтожены пожаром; всё греческое население бежало либо было уничтожено. Сам Кемаль обвинял в сожжении города греков и армян, а также лично митрополита Смирнского Хризостома, в первый же день вступления кемалистов погибшего мученической смертью (командующий Нуреддин-паша выдал его турецкой толпе, которая умертвила его после жестоких истязаний. Ныне причислен к лику святых[29][30]).
17 сентября 1922 года Кемаль направил телеграмму министру иностранных дел, которая предлагала следующую версию: город был подожжён греками и армянами, которых к тому побуждал митрополит Хризостом, утверждавший, что сожжение города — религиозный долг христиан; турки же делали все для его спасения[31]. То же Кемаль говорил французскому адмиралу Дюменилю: «Мы знаем, что существовал заговор. Мы даже обнаружили у женщин-армянок всё необходимое для поджога… Перед нашим прибытием в город в храмах призывали к священному долгу — поджечь город». Французская журналистка Берта Жорж-Голи, освещавшая войну в турецком лагере и прибывшая в Измир уже после событий[32], писала: «Кажется достоверным, что, когда турецкие солдаты убедились в собственной беспомощности и видели, как пламя поглощает один дом за другим, их охватила безумная ярость и они разгромили армянский квартал, откуда, по их словам, появились первые поджигатели»[33].
Кемалю приписываются слова, якобы сказанные им после резни в Измире: «Перед нами знак того, что Турция очистилась от предателей-христиан и от иноземцев. Отныне Турция принадлежит туркам»[34].
Под давлением британских и французских представителей Кемаль в конце концов разрешил эвакуацию христиан, но не мужчин от 15 до 50 лет: они были депортированы во внутренние области на принудительные работы и в большинстве погибли[35].
11 октября 1922 года державы Антанты подписали с кемалистским правительством перемирие, к которому спустя 3 дня присоединилась Греция; последняя была вынуждена оставить Восточную Фракию, эвакуировав оттуда православное (греческое) население.
24 июля 1923 года в Лозанне был подписан Лозаннский мирный договор (1923), положивший конец войне и определивший современные границы Турции на западе. Лозаннский договор, среди прочего, предусматривал обмен населением между Турцией и Грецией, что означало окончание многовековой истории греков в Анатолии (Малоазийская катастрофа).
6 октября того же года кемалисты вступили в эвакуированный Антантой Константинополь.
Упразднение султаната. Создание республики
23 апреля 1920 года открытие Великого национального собрания Турции (ВНСТ), бывшего тогда чрезвычайным органом власти, сочетавшим законодательную, исполнительную и судебную власть[36], стало провозвестником создания Турецкой республики. Первым председателем ВНСТ стал Кемаль.
2 ноября 1922 года халифат и султанат были отделены друг от друга; султанат упразднялся. В речи, которую Кемаль произнёс в ходе заседания ВНСТ 1 ноября 1920 года, он, сделав экскурс в историю халифата и оттоманской династии, в частности, сказал:
<…> В конце концов в правление Вахидеддина, 36-го и последнего падишаха Оттоманской династии, турецкая нация оказалась поверженной в бездну рабства. Эту нацию, которая в течение тысячелетий являлась благородным символом независимости, хотели ударом ноги сбросить в пропасть. Так же, как ищут какую-нибудь бессердечную тварь, лишённую всяких человеческих чувств, для того, чтобы поручить ей затянуть верёвку на шее осужденного, так же для того, чтобы нанести этот удар, нужно было найти предателя, человека без совести, недостойного и вероломного. Те, которые выносят смертный приговор, нуждаются в помощи со стороны такой подлой твари. Кто мог бы быть этим подлым палачом? Кто мог бы положить конец независимости Турции, покуситься на жизнь, честь и достоинство турецкой нации? Кто мог бы иметь бесславную смелость принять, выпрямляясь во весь рост, смертный приговор, провозглашённый в отношении Турции? (Крики: «Вахидеддин, Вахидеддин!», шум.)
(Паша, продолжая:) Да, Вахидеддин, которого к несчастью эта нация имела в качестве главы и которого она назначила сувереном, падишахом, халифом… (Крики: «Да проклянет его Аллах!») <…>
19 ноября 1922 года Кемаль телеграммой извещал Абдульмеджида о его избрании Великим национальным собранием на престол халифата: «18 ноября 1922 г. в своём 140-м пленарном заседании Великое национальное собрание Турции единогласно постановило в соответствии с фетвами, изданными министерством культа, низложить Вахидеддина, который принял оскорбительные и пагубные для ислама предложения неприятеля посеять несогласие между мусульманами и даже вызвать среди них кровавую бойню. <…>»[37]
29 октября 1923 года была провозглашена республика с Кемалем в качестве её президента. 20 апреля 1924 года была принята 2-я конституция Турецкой республики, действовавшая до 1961 года.
Реформы
По мнению российского тюрколога В. Г. Киреева, военная победа над интервентами позволила кемалистам, которых он считает «национальными, патриотическими силами молодой республики», обеспечить стране право на дальнейшее преобразование и модернизацию турецкого общества и государства. Чем больше кемалисты упрочивали свои позиции, тем чаще они заявляли о необходимости европеизации и секуляризации[38].
Первым условием модернизации было создание светского государства. 29 февраля 1924 года состоялась последняя традиционная церемония пятничного посещения последним халифом Турции мечети в Стамбуле. На следующий день, открывая очередное заседание ВНСТ, Мустафа Кемаль произнёс обвинительную речь по поводу векового использования исламской религии в качестве политического инструмента, потребовал вернуть её «истинному предназначению», срочно и самым решительным образом спасти «священные религиозные ценности» от разного рода «тёмных целей и вожделений». 3 марта на заседании ВНСТ под председательством М. Кемаля были приняты, среди других, законы об отмене в Турции шариатского судопроизводства, передача вакуфного имущества в распоряжение создаваемого генерального управлениями вакуфами[39].
Также предусматривалась передача всех научных и учебных заведений в распоряжение министерства просвещения, создание единой светской системы национального образования. Данные распоряжения распространялись и на иностранные учебные заведения, и на школы национальных меньшинств.
В 1926 году был принят новый Гражданский кодекс, где устанавливались либеральные светские принципы гражданского права, определялись понятия собственности, владения недвижимого имущества — частного, совместного и т. д. Кодекс был переписан с текста швейцарского гражданского кодекса, тогда — самого передового в Европе. Таким образом ушёл в прошлое Меджелле — свод османских законов, а также Земельный кодекс 1858 года.
Одним из основных преобразований Кемаля на начальном этапе становления нового государства стала экономическая политика, которая определялась неразвитостью его социально-экономической структуры. Из 14 млн населения около 77 % проживало в деревнях, 81,6 % было занято в сельском хозяйстве, 5,6 % — в промышленности, 4,8 % — в торговле и 7 % — в сфере услуг. Доля сельского хозяйства в национальном доходе составляла 67 %, промышленности — 10 %. Большая часть железных дорог оставалась в руках иностранцев. В банковском деле, страховых компаниях, муниципальных предприятиях, в горнодобывающих предприятиях также господствовал иностранный капитал. Функции Центрального Банка выполнял Оттоманский банк, контролируемый английским и французским капиталом. Местная промышленность за отдельным исключением была представлена ремеслом и мелкими кустарными промыслами[40].
В 1924 году при поддержке Кемаля и ряда депутатов Меджлиса был учреждён Деловой банк. Уже в первые годы деятельности он стал владельцем 40 % акции компании «Тюрк тельсиз телефон ТАШ», построил крупнейший тогда в Анкаре отель «Анкара-палас», купил и реорганизовал фабрику шерстяных тканей, предоставил кредиты нескольким анкарским торговцам, поставлявшим на экспорт тифтик и шерсть.
Важнейшее значение имел Закон о поощрении промышленности, вступивший в силу с 1 июля 1927 года. Отныне промышленник, намеревавшийся строить предприятие, мог получить безвозмездно земельный участок до 10 га. Он освобождался от налогов на крытые помещения, на земельный участок, на прибыль и т. п. На материалы, импортируемые для строительства и производственной деятельности предприятия, не налагались таможенные сборы и налоги. В первый год производственной деятельности каждого предприятия на стоимость выпускаемой им продукции устанавливалась премия в 10 % стоимости[41].
К концу 1920-х годов в стране возникла обстановка чуть ли не бума. За 1920—1930-е годы была создана 201 акционерная компания с суммарным капиталом 112,3 млн лир, в том числе 66 компаний с иностранным капиталом (42,9 млн лир)[42].
В аграрной политике государство распределяло среди безземельных и малоземельных крестьян национализированную вакуфную собственность, государственную и земли покинувших или умерших христиан. После курдского восстания шейха Саида были приняты законы об отмене натурального налога ашар и ликвидации иностранной табачной фирмы «Режи» (1925). Государство поощряло создание сельскохозяйственных кооперативов.
Для поддержания курса турецкой лиры и торговли валютой в марте 1930 года был учреждён временный консорциум, в который вошли все крупнейшие национальные и иностранные банки, действовавшие в Стамбуле, а также министерство финансов Турции. Спустя шесть месяцев после создания консорциуму было предоставлено право эмиссии. Дальнейшим шагом в упорядочении денежной системы и регулировании курса турецкой лиры стало учреждение в июле 1930 года Центрального банка, начавшего свою деятельность в октябре следующего года. С началом деятельности нового банка консорциум был ликвидирован, а право эмиссии перешло к Центральному банку[43]. Таким образом, Оттоманский банк перестал играть доминирующую роль в турецкой финансовой системе.
1. Политические преобразования:
Упразднение султаната (1 ноября 1922 года).
Создание Народной партии и установление однопартийной политической системы (9 сентября 1923 года).
Провозглашение Республики (29 октября 1923 года).
Упразднение халифата (3 марта 1924 года).
2. Преобразования в общественной жизни:
Реформа головных уборов и одежды (25 ноября 1925 года).
Запрет на деятельность религиозных обителей и орденов (30 ноября 1925 года).
Введение международной системы времени, календаря и мер измерения (1925—1931 годы).
Предоставление женщинам равных с мужчинами прав (1926—1934 годы).
Закон о фамилиях (21 июня 1934 года).
Отмена приставок к именам в виде прозвищ и званий (26 ноября 1934 года).
3. Преобразования в правовой сфере:
Отмена меджелле (свода законов, основывающихся на шариате) (1924—1937 годы).
Принятие нового Гражданского кодекса и других законов, в результате чего стал возможным переход на светскую систему государственного правления.
4. Преобразования в сфере образования:
Объединение всех органов образования под единым руководством (3 марта 1924 года).
Принятие нового турецкого алфавита (1 ноября 1928 года).
Учреждение Турецкого лингвистического и Турецкого исторического обществ.
Упорядочение университетского образования (31 мая 1933 года).
Нововведения в сфере изящных искусств.
5. Преобразования в сфере экономики:
Отмена системы ашара (устаревшего налогообложения сельского хозяйства).
Поощрение частного предпринимательства в сельском хозяйстве.
Создание образцовых сельскохозяйственных предприятий.
Издание Закона о промышленности и создание промышленных предприятий.
Принятие 1-го и 2-го планов индустриального развития (1933—1937 годы), строительство дорог на территории всей страны.
В соответствии с Законом о фамилиях, 24 ноября 1934 года ВНСТ присвоило Мустафе Кемалю фамилию Ататюрк.
Ататюрк дважды, 24 апреля 1920 года и 13 августа 1923 года, избирался на пост спикера ВНСТ. Этот пост совмещал в себе посты глав государства и правительства. 29 октября 1923 года была провозглашена республика Турция, и Ататюрк был избран первым её президентом. В соответствии с конституцией, выборы президента страны проводились раз в четыре года, и Великое Национальное Собрание Турции избирало Ататюрка на этот пост в 1927, 1931 и 1935 годах. 24 ноября 1934 года турецкий парламент присвоил ему фамилию «Ататюрк» («отец турок» или «великий турок», турки предпочитают второй вариант перевода).
Кемализм
Идеология, выдвинутая Кемалем и получившая наименование кемализма, доныне считается официальной идеологией Турецкой республики. Она включала в себя 6 пунктов, впоследствии закреплённых в конституции 1937 года:
народность;
республиканизм;
национализм;
светскость;
этатизм (государственный контроль в экономике);
реформизм[44][45][46].
Национализму отводилось почётное место, он рассматривался как база режима[47]. С национализмом был связан принцип «народности», провозглашавший единство турецкого общества и межклассовую солидарность внутри его, а также суверенитет (верховную власть) народа и ВНСТ как его представителя[44][46][48].
Национализм и политика тюркизации меньшинств
Согласно Ататюрку, элементами, которые укрепляют турецкий национализм и единство нации, являются[44]:
Пакт о национальном согласии.
Национальное воспитание.
Национальная культура.
Единство языка, истории и культуры.
Турецкое самосознание.
Духовные ценности.
В рамках этих концепций гражданство было законодательно отождествлено с этничностью, и все жители страны, включая курдов, составлявших более 20 процентов населения, были объявлены турками. Все языки, кроме турецкого, были запрещены. Вся система просвещения базировалась на воспитании духа турецкого национального единства[46][49]. Эти постулаты были провозглашены в конституции 1924 года, особенно в её статьях 68, 69, 70, 80[50][51]. Таким образом, национализм Ататюрка противопоставлял себя не соседям, а национальным меньшинствам Турции, пытавшимся сохранить свою культуру и традиции: Ататюрк последовательно строил моноэтническое государство, силой насаждая турецкую идентичность и подвергая дискриминации тех, кто пытался отстаивать свою самобытность[49].
Лозунгом турецкого национализма стала фраза Ататюрка: Как счастлив говорящий «я турок!» (Turkish: Ne mutlu Türküm diyene!)[52], символизирующая смену самоидентификации нации, ранее называвшей себя османами. Это высказывание поныне написано на стенах, памятниках, рекламных щитах и даже на горах[53].
Сложнее обстояло дело с религиозными меньшинствами (армянами, греками и евреями), которым Лозаннский договор гарантировал возможность создавать собственные организации и учебные заведения, а также пользоваться национальным языком. Однако Ататюрк не был намерен добросовестно выполнять эти пункты. Была начата кампания по насаждению турецкого языка в быту национальных меньшинств под лозунгом: «гражданин, говори по-турецки!». От евреев, например, настойчиво требовали, чтобы они отказались от родного языка джудесмо (ладино) и перешли на турецкий, что рассматривалось как свидетельство лояльности государству[54]. Одновременно печать призывала религиозные меньшинства «стать настоящими турками» и в подтверждение этого добровольно отказаться от прав, гарантированных им в Лозанне[54]. В отношении евреев это было достигнуто тем, что в феврале 1926 года газеты опубликовали соответствующую телеграмму, якобы посланную 300 турецкими евреями в Испанию (при этом ни авторы, ни адресаты телеграммы так никогда и не были названы). Хотя телеграмма была откровенно фальшивой, евреи не посмели её опровергнуть. В результате была ликвидирована автономия еврейской общины в Турции; её еврейским организациям и учреждениям пришлось прекратить или в значительной мере свернуть свою деятельность. Им также строго запрещалось поддерживать связи с еврейскими общинами в других странах или участвовать в работе международных еврейских объединений. Было фактически ликвидировано еврейское национально-религиозное образование: отменены уроки еврейской традиции и истории, а изучение иврита сведено к минимуму, необходимому для чтения молитв[54]. Евреев не принимали на службу в государственные учреждения, а тех, кто работал в них ранее, при Ататюрке уволили; в армии не принимали в офицеры и даже не доверяли им оружия — военную повинность они отбывали в трудовых батальонах[54].
Репрессии против курдов
После истребления и изгнания христианского населения Анатолии (см. Геноцид армян, греков, ассирийцев) курды оставались единственным крупным нетурецким этносом на территории Турецкой республики. В ходе Войны за независимость Ататюрк давал курдам обещания национальных прав и автономии, чем и приобрёл их поддержку. Однако немедленно после победы эти обещания были забыты. Образовавшиеся в начале 1920-х годов курдские общественные организации (такие, как в частности общество курдских офицеров «Азади», Курдская радикальная партия, «Курдская партия») были разгромлены и объявлены вне закона[55].
В феврале 1925 года началось массовое национальное восстание курдов, возглавленное шейхом суфийского ордена накшбанди Саидом Пирани. В середине апреля повстанцам было нанесено решительное поражение в Генчской долине, руководители восстания во главе с шейхом Саидом попали в плен и были повешены в Диярбакыре.
Ататюрк ответил на восстание террором. 4 марта были учреждены военно-полевые суды («суды независимости»), во главе которых поставлен Исмет Инёню. Суды карали за малейшее проявление сочувствия к курдам: полковник Али-Рухи получил семь лет лишения свободы за высказанные им в кафе симпатии к курдам, журналист Уджузу был приговорён к многолетнему заключению за сочувствие Али-Рухи[56]. Подавление восстания сопровождалось массовыми убийствами и депортациями мирных жителей; было уничтожено порядка 206 курдских деревень с 8758 домами, и убито более 15 тысяч жителей[57]. Осадное положение на курдских территориях продлевалось много лет подряд. Было запрещено использование курдского языка в общественных местах, ношение национальной одежды. Книги на курдском языке конфисковывались и сжигались. Слова «курд» и «Курдистан» были изъяты из учебников, а сами курды объявлены «горными турками», по неизвестной науке причине забывшими свою турецкую идентичность. В 1934 году был принят «Закон о переселении» (№ 2510), по которому министр внутренних дел получил право изменять местожительство различных народностей страны в зависимости от того, насколько они «адаптировались к турецкой культуре». В результате тысячи курдов были переселены на запад Турции; на их место заселялись боснийцы, албанцы и прочие[58][59].
Открывая заседание меджлиса в 1936 года, Ататюрк заявил, что из всех проблем, стоящих перед страной, едва ли не самой важной является курдская, и призвал «покончить с ней раз и навсегда»[58].
Однако репрессии не остановили повстанческого движения: последовали Араратское восстание 1927—1930 годов во главе с полковником Ихсаном Нури-пашой, провозгласившим в Араратских горах Араратскую курдскую республику. Новое восстание началось в 1936 году в районе Дерсим, населённом курдами-заза (алавитами), и пользовавшемся до того времени значительной самостоятельностью. По предложению Ататюрка, вопрос об «умиротворении» Дерсима был включён в повестку дня ВНСТ, итогом чего стало решение о его преобразовании в вилайет с особым режимом и переименовании в Тунджели. Главой особой зоны был назначен генерал Альпдоган. Вождь дерсимских курдов Сеид Реза направил ему письмо с требованием отмены нового закона; в ответ против дерсимцев были направлены жандармерия, войска и 10 самолётов, начавших бомбардировки района (смотрите: Дерсимская резня). Всего, по данным антрополога Мартина Ван Брюйниссена, погибло до 10 % населения Дерсима. Однако дерсимцы продолжали восстание на протяжении двух лет. В сентябре 1937 года Сеид Реза был выманен в Эрзинджан якобы для переговоров, схвачен и повешен; но только год спустя сопротивление дерсимцев было окончательно сломлено[60][61].
Личная жизнь
29 января 1923 года Ататюрк женился на Латифе Ушаклыгиль (Латифе Ушакизаде). Брак Ататюрка и Латифе-ханым, которая вместе с основателем Турецкой республики отправлялась во многие поездки по стране, закончился 5 августа 1925 года. Причиной развода, по неофициальной версии, явилось постоянное вмешательство жены в дела Ататюрка. Родных детей у него не было, зато он взял 8 приёмных дочерей (Афет, Сабиху, , , , , и Афифе) и 2 сыновей (, )[62]. Всем приёмным детям Ататюрк обеспечил хорошее будущее. Одна из приёмных дочерей Ататюрка стала историком, другая — первой турецкой женщиной-лётчиком. Карьера дочерей Ататюрка служила широко пропагандируемым примером для эмансипации турецкой женщины.
Хобби Ататюрка
Ататюрк любил чтение, музыку, танцы, верховую езду и плавание, питал чрезвычайный интерес к танцам зейбек, борьбе и народным песням Румелии, получал большое удовольствие от игры в нарды и бильярд. Он был очень привязан к своим питомцам — коню Сакарья и псу по кличке Фокс.
Ататюрк владел французским и немецким языками, он собрал богатую библиотеку.
Проблемы родной страны он обсуждал в простой располагающей к беседе обстановке, часто приглашая к себе на ужин учёных, представителей искусства, государственных деятелей. Он любил природу, часто посещал лесное хозяйство, названное его именем, и лично принимал участие в проводимых там работах.
Конец жизни
В 1937 году Ататюрк подарил принадлежащие ему земли Казначейству, а часть своей недвижимости — мэриям Анкары и Бурсы. Часть наследства он отдал своей сестре, приёмным детям, турецким обществам лингвистики и истории. В 1937 году появились первые признаки ухудшения здоровья, в мае 1938 года врачи определили цирроз печени, вызванный хроническим алкоголизмом[63][64]. Несмотря на это, Ататюрк до конца июля продолжал исполнять свои обязанности, пока ему не стало совсем плохо. Ататюрк умер в 9 часов 5 минут 10 ноября 1938 года, в возрасте 57 лет, во дворце Долмабахче, бывшей резиденции турецких султанов в Стамбуле.
Ататюрк был похоронен 21 ноября 1938 года на территории музея этнографии в Анкаре. 10 ноября 1953 года останки были перезахоронены в выстроенном для Ататюрка мавзолее «Аныткабир».
При преемниках Ататюрка сложился его посмертный культ личности, напоминающий отношение к Ленину в СССР и основателям многих независимых государств XX века. В каждом городе имеется памятник Ататюрку, его портреты присутствуют во всех государственных учреждениях, на банкнотах и монетах всех достоинств и т. п. Обычным стало указание лет жизни на плакатах 1881—1938. После потери власти его партией в 1950 году почитание Кемаля сохранилось. Был принят закон, согласно которому особого рода преступлением признано осквернение изображений Ататюрка, критика его деятельности и очернение фактов его биографии. Кроме того, запрещено ношение фамилии Ататюрк. До сих пор запрещена публикация переписки Кемаля с женой как придающая образу отца нации слишком «простой» и «человеческий» облик.
В мае 2010 года памятник Ататюрку открылся в столице Азербайджана Баку. На церемонии открытия присутствовали президент Азербайджана Ильхам Алиев и его супруга Мехрибан Алиева, премьер-министр Турции Реджеп Тайип Эрдоган и его супруга Эмине Эрдоган[65].
Мнения и оценки
В современной Турции Ататюрк почитается как военачальник, сохранивший независимость страны, и как реформатор[66].
Кемаль отпраздновал свой триумф, превратив Смирну в пепел и убив там все коренное христианское население.
Примечательна оценка, данная Ататюрку Гитлером, который считал его «яркой звездой» в «тёмные дни 20-х годов», когда Гитлер пытался создать свою национал-социалистическую партию. В 1938 году Гитлер писал: «Ататюрк был первым, кто показал возможность мобилизации и восстановления ресурсов, потерянных страной. В этом отношении он был учителем. Муссолини был первым, а я его вторым учеником»[67].
После смерти Ататюрка Гитлер выразил соболезнование, прислав его на имя председателя Великого национального собрания Турции, : «Ваше превосходительство председатель, всему турецкому народу лично от меня и от имени немецкого народа выражаю глубокое соболезнование в связи кончиной Ататюрка. Вместе с ним мы потеряли великого воина, прекрасного государственного деятеля и историческую личность. В создании нового турецкого государства он внёс огромный вклад. Он будет жить во всех поколениях Турции.»[68]
Большая советская энциклопедия второго издания (1953)[69] давала политической деятельности Кемаля Ататюрка следующую оценку: «Как президент и лидер буржуазно-помещичьей партии держался антинародного курса во внутренней политике. По его распоряжению были запрещены Коммунистическая партия Турции и другие организации рабочего класса. Заявляя о своём стремлении поддерживать дружественные отношения с СССР, Кемаль Ататюрк на деле проводил политику, направленную на сближение с империалистическими державами. <…>»
Награды
Османская империя:
Орден Меджидие 5-й степени (25 декабря 1906)
Серебряная медаль «За отличие» («Имтияз») (30 апреля 1915)
Серебряная медаль «За заслуги» («Лиакат») (1 сентября 1915)
Орден Османие 2-й степени (1 февраля 1916)
Орден Меджидие 2-й степени (12 декабря 1916)
Золотая медаль «За отличие» («Имтияз») (23 сентября 1917)
Орден Меджидие 1-й степени (16 декабря 1917)
Военная медаль (11 мая 1918)
Турецкая республика:
(21 ноября 1923)
Болгарское царство:
Орден «Святой Александр», командорский крест (1915)
Австро-Венгрия:
(1916)
Крест «За военные заслуги» 3-й степени (27 июля 1916)
Крест «За военные заслуги» 2-й степени
Германская империя (Королевство Пруссия):
Железный крест 2-го класса (9 сентября 1917)
Железный крест 1-го класса (1917)
Орден Короны 1-го класса (1918)
Королевство Афганистан:
Орден Али-Лалы
Франция:
Орден Почётного легиона, кавалер
См. также
Президенты Турции
Средняя школа имени Ататюрка (Анкара)
Примечания
Литература
на русском языке
Ушаков А. Г. Феномен Ататюрка. Турецкий правитель, творец и диктатор. М.: Центрполиграф, 2002.
на других языках
// Encyclopædia Britannica
Ссылки
Салтан А. Н. // 1.08.16
// Лента. Ру, май 2018
*
Категория:Президенты Турции
Категория:Премьер-министры Турции
Категория:Военачальники Турции
Категория:Политики, известные под псевдонимами
Категория:Военачальники Первой мировой войны
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«Двена́дцать сту́льев» — роман Ильи Ильфа и Евгения Петрова, написанный в 1927 году и являющийся первой совместной работой соавторов. В 1928 году опубликован в художественно-литературном журнале «Тридцать дней» (№ 1—7); в том же году издан отдельной книгой. В основе сюжета — поиски бриллиантов, спрятанных в одном из двенадцати стульев мадам Петуховой, однако история, изложенная в произведении, не ограничена рамками приключенческого жанра: в ней, по мнению исследователей, дан «глобальный образ эпохи».
Литературное сообщество 1920-х годов встретило появление романа весьма сдержанно. К числу тех, кто поддержал соавторов, относились писатель Юрий Олеша, политический деятель Николай Бухарин, критик Анатолий Тарасенков и некоторые другие современники Ильфа и Петрова. В 1949—1956 годах «Двенадцать стульев» — наряду с написанным позже «Золотым телёнком» — были после появления проекта постановления секретариата ЦК ВКП(б) «О грубой политической ошибке издательства „Советский писатель“ от 14 декабря 1948 года» запрещены к печати. Произведение было неоднократно экранизировано.
История создания
Об истории создания романа рассказывали как сами соавторы, так и брат Евгения Петрова — Валентин Катаев. Их воспоминания были растиражированы и настолько обросли подробностями, что, по словам литературоведов Давида Фельдмана и Михаила Одесского, на определённом этапе стало сложно отделять легенду от действительно происходивших событий[1].
Согласно воспоминаниям Евгения Петрова, тему для произведения подсказал Валентин Катаев, который, появившись в августе 1927 года в комнате «четвёртой полосы» газеты «Гудок», заявил, что хочет стать «советским Дюма-отцом». Выбрав будущих соавторов на роль литературных негров, он порекомендовал им сочинить авантюрный роман о деньгах, спрятанных в стульях, пообещав впоследствии пройтись по черновикам дебютантов «рукой мастера»[2]. Ильф и Петров отнеслись к идее серьёзно, решив (по предложению Ильи Арнольдовича) писать вместе:
Сколько должно быть стульев? Очевидно, полный комплект — двенадцать штук. Название нам понравилось. «Двенадцать стульев». Мы стали импровизировать. Мы быстро сошлись на том, что сюжет со стульями не должен быть основой романа, а только причиной, поводом к тому, чтобы показать жизнь[2].
Основная работа над романом велась в сентябре — декабре 1927 года[3]. Написав за месяц первую часть, соавторы отнесли рукопись Катаеву. Тот, ознакомившись с черновиком, сообщил, что в наставничестве они не нуждаются, потому что в произведении виден почерк «совершенно сложившихся писателей»[2]. В то же время «Дюма-отец» поставил Ильфу и Петрову два условия: роман должен быть посвящён Валентину Петровичу как инициатору проекта; после получения первого гонорара соавторы преподнесут ему подарок в виде золотого портсигара[2][4]. По замечанию Фельдмана и Одесского, в подобной трактовке событий присутствует пародийная отсылка к «игре в литературного отца». Поэтому и в книге Катаева «Алмазный мой венец», и в мемуарных записях Петрова неоднократно воспроизводится гудковский псевдоним Валентина Петровича — «Старик Саббакин»: в нём зашифровано шуточное напоминание о давней литературной традиции, зафиксированной в строчках из восьмой главы «Евгения Онегина»: «Старик Державин нас заметил / И, в гроб сходя, благословил». Подобным же образом Старик Саббакин «благословил» Ильфа и Петрова, считают литературоведы[1].
Вопрос о том, как Ильф и Петров работали вдвоём, интересовал многих их современников и даже стал поводом для шуток в литературной среде. Так, пародист Александр Архангельский сочинил на эту тему эпиграмму: «Задача Бендеру Остапу: / Имея сразу двух отцов, / Установить в конце концов — / Кого из них считать за папу?»[2] Ему же принадлежит двустишие: «Провозгласил остряк один: / Ильф — Салтыков, Петров — Щедрин»[2]. Между тем система их работы была отрегулирована весьма строго: как утверждал писатель Виктор Ардов, ни одна фраза не появлялась в рукописи без согласия обоих авторов; каждый из них обладал «правом вето» на то, чтобы опротестовать решение своего коллеги. При этом Ильф считал, что, если слово или предложение возникло у них в сознании одновременно, — от него лучше отказаться: «Значит, оно слишком близко лежало»[2].
Публикация
В январе 1928 года, поставив в рукописи последнюю точку, соавторы сложили пачку листков в специальную папку и повезли её на санках из редакции «Гудка» домой[2]. Вскоре роман был подписан в печать редактором журнала «Тридцать дней», и уже в 1-м номере началась публикация, продолжавшаяся вплоть до июля. Выход каждой части курировал заведующий редакцией Василий Регинин, работавший ранее в одесских газетах; иллюстрации готовил график Михаил Черемных[2].
По мнению Фельдмана и Одесского, подобная стремительность — с учётом скорости обсуждения членами редколлегии нового произведения, набора и вёрстки, корректорских и редакторских правок, получения обязательного цензурного одобрения — была невозможна без предварительной подготовки, осуществлённой, вероятно, Валентином Катаевым. В истории с публикацией романа Катаев выступал в качестве «гаранта»; свою роль сыграли и личные связи: Валентин Петрович был хорошо знако́м и с Регининым, и с ответственным редактором «Тридцати дней» Владимиром Нарбутом, возглавлявшим в 1920 году одесское отделение РОСТА[1] и оказавшим поддержку братьям Катаевым, когда тех арестовали местные чекисты[5]. Кроме того, быстрота, с которой была проведена вся допечатная работа, могла объясняться ещё и тем, что первые части «Двенадцати стульев» авторы принесли в журнал в середине осени; далее они сдавали рукописи по мере готовности[5].
Если принять во внимание такой фактор, как поддержка авторитетного Регинина и влиятельнейшего Нарбута, то совместный дебют Ильфа и Петрова более не напоминает удачный экспромт, нечто похожее на сказку о Золушке… Соавторы торопились… потому, что вопрос о публикации был решён, сроки представления глав в январский и все последующие номера журнала — жёстко определены[1].
Подтверждением того, что роман заранее получил весомый «кредит доверия», служит и хранящийся в Российском государственном архиве литературы и искусства договор от 21 декабря 1927 года, согласно которому директор издательства «Земля и фабрика» («ЗиФ») Владимир Нарбут должен был опубликовать «Двенадцать стульев» при условии предоставления рукописи не позднее 5 января 1928 года[2]. Роман вышел в «ЗиФе» отдельной книгой уже в июле, через год он был переиздан, однако, по утверждению исследователей, между первой и последующими публикациями существовала большая разница: вплоть до 1938 года в текст вносились авторские правки, изменения и сокращения[1].
Сюжет
Роман состоит из трёх частей. В первой, озаглавленной «Старгородский лев», служащий загса уездного города N Ипполит Матвеевич Воробьянинов узнаёт от умирающей тёщи о бриллиантах, спрятанных в одном из стульев гамбсовского гостиного гарнитура. Поиски сокровищ приводят героя в Старгород, где Воробьянинов знакомится с «великим комбинатором» Остапом Бендером, охотно соглашающимся принять участие в «концессии». Туда же направляется их конкурент — священник церкви Фрола и Лавра отец Фёдор Востриков, получивший информацию о драгоценностях во время исповеди мадам Петуховой[8].
Во второй части, названной «В Москве», искатели приключений перемещаются в советскую столицу. Во время аукциона, состоявшегося в музее мебели, выясняется, что накануне Ипполит Матвеевич потратил деньги, предназначенные на приобретение десяти предметов орехового гарнитура[8]. Теперь внимание компаньонов сосредоточено на новых владельцах стульев — инженере Щукине, остроумце Изнуренкове, сотрудниках газеты «Станок», служащих театра Колумба[8].
В третьей части («Сокровище мадам Петуховой») Бендер и Воробьянинов отправляются с театром Колумба на тиражном пароходе в рейс по Волге. Погоня за сокровищами сопряжена с трудностями: героев выгоняют с парохода «Скрябин»; они навлекают на себя гнев шахматистов из города Васюки; Ипполит Матвеевич просит милостыню в Пятигорске. Тем временем отец Фёдор движется другим маршрутом; точкой пересечения конкурентов становится Дарьяльское ущелье[8].
Осенью Бендер и Воробьянинов возвращаются в Москву, чтобы продолжить поиски последнего стула, исчезнувшего в товарном дворе Октябрьского вокзала. Остапу в результате сложных комбинаций удаётся выяснить, что заветный предмет мебели находится в новом клубе железнодорожников. Визит в это учреждение назначен на утро, однако Бендеру не суждено увидеть бриллианты: ночью Ипполит Матвеевич наносит спящему компаньону удар по горлу бритвой. Придя в клуб, Воробьянинов узнаёт, что драгоценности его тёщи несколько месяцев назад были обнаружены сторожем; сокровища мадам Петуховой превратились в досуговый центр с театром, буфетом, гимнастическим залом, шахматным кабинетом и бильярдной[8].
Искатели сокровищ. Возможные прототипы
По словам литературоведа Игоря Сухих, галерея персонажей, представленных в «Двенадцати стульях», настолько живописна и многообразна, что одно лишь перечисление типажей претендует на «энциклопедичность охвата мира». Среди них не только Остап Бендер и Киса Воробьянинов, но и лица, мелькнувшие в небольшом эпизоде или одной главе, — их портреты, созданные с помощью фельетонного преувеличения, нарисованные порой несколькими неуловимыми штрихами, вышли за романные рамки и превратились в узнаваемые «типы и формулы»[9].
Остап Бендер
Афоризмы
Мой папа был турецко-подданный.
Низкий сорт, нечистая работа.
Вам некуда торопиться. ГПУ к вам само придёт.
Конгениально!
Ближе к телу, как говорил Мопассан.
Почём опиум для народа?[10]
Отношение к Остапу Бендеру менялось с течением времени и у соавторов, и у критиков. Бендеру, согласно предварительному замыслу, в «Двенадцати стульях» была уготована малозаметная роль — этот персонаж должен был произнести единственную реплику, которую Ильф и Петров «позаимствовали» из лексикона знакомого бильярдиста: «Может быть, тебе дать ещё ключ от квартиры, где деньги лежат?»[11] (речь идёт о журналисте Михаиле Глушкове, увлекавшемся бильярдом[8]). Однако, как писал в воспоминаниях Евгений Петров, постепенно Остап стал увеличивать своё присутствие в романе, и вскоре писатели обнаружили, что воспринимают героя как живого человека; они даже «сердились на него за нахальство, с которым он пролезал почти в каждую главу»[2]. Подобные взаимоотношения авторов и их персонажей, по словам Игоря Сухих, были отмечены в литературе и ранее: так, Александр Пушкин испытал определённое недоумение, когда героиня «Евгения Онегина» Татьяна Ларина вышла замуж за «важного генерала»; столь же удивлён был и Лев Толстой, для которого несостоявшееся самоубийство Вронского в «Анне Карениной» стало откровением[9].
Схожие метаморфозы Бендер претерпел и в восприятии критиков. Если первая реакция коллег Ильфа и Петрова на этот образ была резко негативной (к примеру, Александр Фадеев в письме от 1932 года указывал соавторам, что «он же — сукин сын»), то полвека спустя Яков Лурье называл Остапа «весёлым и умным человеком». Ещё более лестные характеристики герой получил в XXI столетии — так, прозаик Юлия Вознесенская в своей книге отметила, что Бендер внутренним благородством и интеллигентностью близок пастернаковскому Юрию Живаго[9].
Знакомство читателей с Бендером происходит в главе «Великий комбинатор», когда авторы почти торжественно сообщают о появлении в Старгороде молодого человека лет двадцати восьми. Подобный зачин, с указанием места и времени действия, весьма распространён в литературе, — по мнению Юрия Щеглова, таким же образом в города входили персонажи «Каменного гостя», «Мёртвых душ», «Идиота» и некоторых других произведений[8]. Герой движется навстречу приключениям «лёгкой поступью»[11]; он быстро приспосабливается к новым обстоятельствам, живо реагирует на вызовы судьбы, импровизирует ради того, чтобы исключить из жизни однообразие: «Это актёр-трансформатор, способный в случае нужды мгновенно сменить костюм»[11]. К числу его «литературных родственников», столь же свободных от догм и условностей, относятся лермонтовский Григорий Печорин, булгаковский Воланд, Хулио Хуренито из романа Ильи Эренбурга[8].
Исследователи предполагают, что у Бендера существовало несколько возможных прототипов. Наиболее вероятным из них, согласно воспоминаниям Валентина Катаева, был одесский авантюрист Осип Шор, служивший в уголовном розыске и имевший репутацию местного денди[8]. Кроме того, в круг потенциальных «претендентов» современники Ильфа и Петрова включили брата Ильи Арнольдовича Сандро Фазини, называемого в их семье «одесским апашем»[3], а также Митю Ширмахера — «окололитературного молодого человека, о котором ходили слухи, что он внебрачный сын турецкого подданного»[8].
На конструкцию образа Бендера с его сочетанием низкого и высокого уровней, плутовства и демонизма, могли в какой-то мере повлиять — не без посредства бабелевского Бени Крика — фигуры блатных «королей» старой Одессы и вся галерея романтичных босяков, контрабандистов и налётчиков «одесской школы»[8].
Судьба Бендера в финале романа была решена с помощью жребия: соавторы положили в сахарницу две бумажки, на одной из которых изобразили череп с куриными костями. По признанию Евгения Петрова, впоследствии писатели «очень досадовали на это легкомыслие, которое можно было объяснить лишь молодостью и слишком большим запасом веселья»[2]. Существует версия, что сам эпизод с убийством Остапа близок к одной из сцен детективной новеллы Конан Дойла «Шесть Наполеонов», в которой есть персонаж с перерезанным горлом[8]. Как отмечал литературовед Анатолий Старков, подобная концовка в «Двенадцати стульях» не выглядела естественной — в ней присутствовала «известная заданность». Осознание этого заставило соавторов «воскресить» своего героя в «Золотом телёнке»[11].
Киса Воробьянинов
Бывший уездный предводитель дворянства Ипполит Матвеевич Воробьянинов, в отличие от Бендера, изначально присутствовал в авторских планах в качестве главного искателя сокровищ. Писатели даже посвятили Кисе две отдельные главы, повествующие о его дореволюционном прошлом, однако изъяли их из романа незадолго до сдачи рукописи в печать[11]. Как вспоминал Евгений Петров, в образе Воробьянинова запечатлены черты его полтавского дяди Евгения Петровича Ганько[8] — общественного деятеля, гурмана, эпикурейца, жуира, носившего золотое пенсне и «сенаторские бакенбарды». К этому портрету соавторы добавили некоторые штрихи, в которых отражались представления о «мужской респектабельности» первых десятилетий XX века, — в частности, упомянули, что внешне Ипполит Матвеевич похож на политического деятеля Павла Милюкова[8].
Воробьянинов работает скромным регистратором в загсе города N, что вполне соответствует духу времени: в 1920-х годах многие из «бывших людей» занимали в конторах незаметные делопроизводственные должности. К примеру, писатель Григорий Рыклин рассказывал в фельетоне, опубликованном в журнале «Чудак» (1929), о канцелярии Академии наук, где нашли пристанище деятели с «сомнительным прошлым», стремившиеся затеряться среди советских служащих, — среди них были дореволюционные вице-губернаторы, руководители министерских подразделений, начальница института благородных девиц и другие[8].
Ипполит Матвеевич ни на службе в загсе, ни во время поиска бриллиантов не демонстрирует ярких способностей: он не практичен, не находчив, не энергичен. Как отмечал Анатолий Старков, за время общения с Бендером Киса не научился ничему, кроме «умения надувать щёки»: «Он всего лишь жалкая тень Остапа, марионетка при нём»[11]. Стремление Воробьянинова выглядеть неотразимым в глазах Лизы Калачовой оборачивается поражением и ставит под угрозу срыва всю «концессию»[11]. Сама тема ухаживаний за советскими девушками в мебельных интерьерах была весьма популярна в первые послереволюционные годы. К примеру, в планах комедии Владимира Маяковского «Любовь Шкафолюбова» (1927) был намечен похожий сюжет: героиня Зина, появившись после размолвки с возлюбленным в здании с вывеской «Музей-усадьба XVIII века», производит большое впечатление на пожилого хранителя Шкафолюбова. Аналогичная история происходит в рассказе Льва Никулина «Листопад» (1926), когда бывший князь пытается растопить сердце комсомолки Лизы в стенах музея, где некогда располагалась его усадьба[8].
В главе «От Севильи до Гренады», повествующей о посещении Кисой и Лизой образцовой столовой МОСПО «Прага» (по утверждению Юрия Щеглова, в 1927 году даже самые представительные рестораны Москвы назывались столовыми[8]), соавторы вышли на сюжетную линию, связанную с растратами. Это был ещё один распространённый мотив в литературе и журналистике того времени: о присвоении или потере казённых денег писали Валентин Катаев (сатирическая повесть «Растратчики»), Михаил Булгаков (цикл фельетонов), Владимир Лидин («Идут корабли») и другие авторы[8]. В истории с амурными похождениями Воробьянинова не только заявлена актуальная тема, но и сделан акцент на «бестолковом спутнике», который нередко сопровождает героя в приключенческих романах[8].
В финале «Двенадцати стульев» бывший предводитель дворянства меняется: в нём появляется жёсткость, граничащая с отчаянием. В сцене ночной прогулки, предшествующей эпизоду с бритвой, Воробьянинов, по мнению исследователей, напоминает персонажа «Преступления и наказания» Свидригайлова, готовящегося к самоубийству. Отсылкой к другому герою Достоевского — Раскольникову, наносящему удар старухе-процентщице, — является описание убийства Бендера: литературоведы видят определённую перекличку в предложениях «Ипполиту Матвеевичу удалось не запачкаться в крови» и «[Раскольников] полез ей в карман, стараясь не замараться текущею кровию»[8].
В заключительной главе, когда Киса вскрывает последний стул, сюжет, по мнению исследователей, закольцовывается. Однако если для Юрия Щеглова замкнутость построения связана с отсутствием Бендера (то же самое происходило в момент нахождения Ипполитом Матвеевичем первого стула)[8], то Фельдман и Одесский видят в кольцевой композиции романа социальную подоплёку:
Осенью 1927 года Воробьянинов убедился, что попытка вернуть прошлое не удастся. И осенью 1927 года был построен новый железнодорожный клуб — на воробьяниновские средства. Круг замкнулся. И в итоге авторы (иронически обыгрывая сюжет пушкинской «Пиковой дамы») доказали, что любые попытки вернуться в прошлое — безумны, гибельны[1].
Отец Фёдор
Образ отца Фёдора претерпел много изменений: если в журнальной публикации «Двенадцати стульев» священник церкви Фрола и Лавра напоминал, по мнению критиков, «водевильного персонажа», переместившегося в роман из юмористических миниатюр соавторов[12], то в более поздних редакциях он обрёл черты трагического героя[13]. Знакомство с отцом Фёдором происходит в первой главе, когда Воробьянинов, вернувшись домой, видит выходящего из комнаты мадам Петуховой священника, — тот устремляется к выходу, не реагируя на появление Ипполита Матвеевича. Столкновение потенциальных наследников с людьми, посвящёнными в семейные и имущественные тайны, — один из популярных литературных приёмов: исследователи видят в этом эпизоде тематическое пересечение с сюжетными линиями «Кентерберийских рассказов» Джефри Чосера (в частности, с рассказом пристава церковного суда), «Пиквикского клуба» Чарльза Диккенса, «Войны и мира» Льва Толстого (близость мотивов усматривается, по мнению Юрия Щеглова, в предложении «Навстречу Пьеру вышли на цыпочках, не обращая на них внимания, слуга и причетник с кадилом»)[8].
Движение навстречу приключениям отец Фёдор начинает с подстригания бороды, что в литературной и фольклорной традиции означает начало нового жизненного этапа, — таким же образом поступали толстовский отец Сергий, монах из гофмановского «Эликсира сатаны» и многие другие персонажи, ищущие перемен или пытающиеся расстаться с прошлым[8]. Филолог Владимир Пропп в книге «Исторические корни волшебной сказки» отмечал, что «мотив лишения волос связан с обрядом инициации»[15].
В посланиях, отправляемых Востриковым из разных городов жене Катерине Александровне, обнаруживается, с одной стороны, влияние ироничной повести Шолом-Алейхема «Менахем-Мендл» (1909), созданной в виде серии писем героя своей «благочестивой и благоразумной супруге Шейне-Шейндл»[8]; с другой — присутствует пародийное обыгрывание содержания писем Достоевского, адресованных Анне Григорьевне, — они были опубликованы Центрархивом за год до начала работы соавторов над «Двенадцатью стульями». Подтверждением того, что Ильф и Петров были хорошо знакомы с корреспонденцией Фёдора Михайловича, являются, по мнению литературоведа Бенедикта Сарнова, и общая тематика (жалобы на дороговизну, просьбы выслать деньги), и сходные подписи: «Твой вечный муж Достоевский» — «Твой вечный муж Федя»[16]. Стремление соавторов «пародировать всё, что попадало в их поле зрения», стало поводом для полемики между Сарновым, видевшим в этом проявление «весёлого озорства» молодых писателей[17], и литературным критиком Людмилой Сараскиной, считавшей, что с помощью сознательной имитации «новые растиньяки» Ильф и Петров «ударили „по вершинным точкам“ Достоевского»[13].
По мнению Юрия Щеглова, письма отца Фёдора относятся к числу безусловных удач романа: благодаря им не только раскрываются характер и темперамент персонажа, но и создаётся необходимый социальный фон. Востриков подробно рассказывает жене о жизни в Харькове, Баку и других городах, включает в повествование реальные приметы времени (базары, товары, гостиницы, цены, услуги). Интонационно путевые заметки священника близки древнерусским «хождениям» — их роднит и многократное повторение слова «город», и скрупулёзность, с которой персонаж рассказывает об увиденном[8]. Конечной точкой его маршрута становится Дарьяльское ущелье — оттуда снятого со скалы искателя бриллиантов увозят в психиатрическую клинику:
Судьба отца Фёдора, прожектёра, хватающегося то за одну, то за другую идею обогащения, священника, бросившего родной город для поисков фантастического сокровища мадам Петуховой, не только комична, но и трагична. При всей своей суетливости отец Фёдор, в сущности, наивен и добродушен[13].
Другие персонажи
Члены «Союза меча и орала»
Главы, повествующие о созданном Остапом «Союзе меча и орала», не связаны непосредственно с поисками сокровищ, однако их включение в роман выглядит, по мнению Лидии Яновской, вполне оправданным: «Здесь цементирующим выступает единство сатирико-юмористического взгляда писателей на очерченные ими явления»[3]. Само название вымышленного старгородского сообщества имеет отсылку к библейской фразе «…и перекуют мечи свои на орала, и копья свои — на серпы»[1].
Многие реплики персонажей, причастных к «Союзу…», представляют собой иронично обыгранные вариации на тему произведений Достоевского и Гоголя. Так, совет Бендера Воробьянинову молчать и для подтверждения собственной значимости «надувать щёки» в присутствии членов новой организации литературовед Юрий Щеглов сравнивает с рекомендацией, которую герой романа «Бесы» Степан Верховенский даёт Николаю Ставрогину: «Сочините-ка вашу физиономию… побольше мрачности, и только, больше ничего не надо»[8]. Смысловое пересечение наблюдается также между предупреждением Остапа «У нас длинные руки» и напоминанием Верховенского «Не уйдёте и от другого меча»[8].
Остап, основав «Союз…», больше не появляется на его заседаниях, но деятельность организации продолжается и в отсутствие великого комбинатора[3]. В момент распределения будущих «портфелей» молодые люди Никеша и Владя предлагают выдвинуть Ипполита Матвеевича в предводители дворянства; ответ бывшего гласного городской думы Чарушникова «Он не меньше чем министром будет» сопоставим с репликой помещика Бобчинского из «Ревизора», уверяющего, что Хлестакову генерал «и в подмётки не станет»[8]. Гоголевские мотивы обнаруживаются не только во время выборов на управленческие посты (дискуссия о весомости сановных должностей сравнима с диалогом Чичикова и Манилова, расхваливающих высших чиновников города)[8], но и в заключительной сцене главы «Баллотировка по-европейски» — в ней «губернатор» Дядьев, грозящий Чарушникову тюрьмой, ведёт себя почти как городничий Сквозник-Дмухановский, обещающий после отъезда Хлестакова отправить почтмейстера Шпекина в Сибирь[8].
История «Союза меча и орала» завершается после заполнивших Старгород слухов о некой тайной организации; они вынуждают владельца бубличной артели «Московские баранки» Кислярского отправиться в губернскую прокуратуру со специальной допровской корзиной (допром в 1920-х годах называли дом принудительных работ[1]). По мнению исследователей, универсальная корзинка, превращаемая в кровать, стол и шкаф, означала постоянную готовность нэпманов к аресту или отъезду. Этот «символ ежеминутной неуверенности» по своим функциям близок чемодану с миллионами рублей, которую герой «Золотого телёнка» Александр Корейко хранит на вокзале — «типичной пограничной и переходной зоне»[8].
Мадам Грицацуева
Образ мадам Грицацуевой, на которой Остап женился ради обретения очередного стула, иронично перекликается с персонажами не только литературных, но и музыкальных произведений. Впервые вдова-нэпманша, пребывающая в поисках нового мужа, появляется в главе «Слесарь, попугай и гадалка»; и внешне, и своим стремлением обрести семейное счастье с помощью ворожбы и хиромантии она напоминает Софью Ивановну — героиню рассказа Алексея Толстого «Сожитель». В то же время выражения, используемые соавторами при описании процесса гадания («…а на сердце у неё лежал трефовый король, с которым дружила бубновая дама»), близки репликам, произносимым Агафьей Тихоновной в гоголевской «Женитьбе»: «Интересуется какой-то бубновый король, слёзы, любовное письмо»[8].
Бендер легко покоряет сердце «провинциальной Маргариты на выданье»[3]. Характеристика, которую он даёт своей будущей жене сразу после знакомства («Знойная женщина — мечта поэта»), имеет отсылку к романсу Александра Алябьева «Нищая», содержащему строки «Она была мечтой поэта, / И слава ей венок плела»[8]. Пылкое признание Грицацуевой «Ох! Истомилась душенька!», произнесённое после исчезновения великого комбинатора, соотносится с другим музыкальным произведением — арией Лизы из оперы Чайковского «Пиковая дама»: «Ах, истомилась я горем»[8]. При этом, несмотря на поэтические сравнения, мадам Грицацуева далека от лирической героини — это карикатурный персонаж, напоминающий, по мнению Лидии Яновской, нелепую Коробочку из сатирической повести Михаила Булгакова «Похождения Чичикова»[18].
Через тридцать лет после опубликования «Двенадцати стульев» некое подобие мадам Грицацуевой возникло в жизни Осипа Шора. Как вспоминала его внучатая племянница Наталья Камышникова-Первухина, в конце 1950-х годов человек, считающийся вероятным прототипом Бендера, женился на тридцатипятилетней Тамаре, сходство которой с временной женой романного Остапа «казалось мистическим, невероятным»:
В жаркий летний вечер в нашу коммунальную квартиру в Кисловском переулке вошла томная, в кружевных перчатках и чёрном панбархатном платье с кружевцем, украшенная ювелирными изделиями и густой косметикой, чрезвычайно пухлая особа… Наверное, тогда она ещё не читала знаменитого романа, и ласкательные имена, с которыми обращалась к Остапу [Шору] («Остапчик, мой ангел, мой пупсик») изобретала сама[19].
Архивариус Коробейников
Варфоломей Коробейников, служивший некогда в архиве Стакомхоза и сохранивший сведения об имуществе, реквизированном после революции, входит (наряду с Альхеном и Кислярским) в галерею «мелких комбинаторов» романа[12]. В первой редакции «Двенадцати стульев» рассказывалось о том, как Коробейников застраховал на тысячу рублей жизнь своей бабушки, надеясь после её смерти получить солидную сумму. Попытка быстро обогатиться не удалась: старушка, перешагнувшая столетний рубеж, демонстрировала волю к жизни, тогда как архивариус, ежегодно выплачивавший страховые взносы, терпел убытки[1]. Впоследствии соавторы исключили из текста фрагменты, связанные со страховыми махинациями, однако их отголоски в романе остались: в письме отца Фёдора, сообщающего жене о посещении Коробейникова, упоминается, что «Варфоломеич… живёт себе со старухой бабушкой, тяжёлым трудом хлеб добывает». По мнению Юрия Щеглова, Ильф и Петров сознательно сохранили эту реплику, потому что в ней прочитывается характер Вострикова[8].
Диалог Коробейникова с Бендером, пришедшим к архивариусу за ордерами на мебель Ипполита Матвеевича, напоминает разговор Собакевича с Чичиковым: если в гоголевском романе продавец, набивая цену «мёртвым душам», наделяет особыми достоинствами своих скончавшихся мастеровых — каретника Михеева и кирпичника Милушкина, то у Ильфа и Петрова архивариус расхваливает стулья, диван, китайские вазы, ореховый гарнитур и гобелен «Пастушка», попутно предлагая гамбсовский гарнитур генеральши Поповой: «Продавцы и покупатели забывают о призрачности торгуемой мебели, о том, что она, собственно говоря, существует только на бумаге, что речь идёт о „тенях“»[8].
Отец Фёдор, появляющийся у архивариуса после ухода Остапа, представляется родным братом Воробьянинова; сцена, описывающая его визит, предвосхищает эпизод с последовательным появлением «детей лейтенанта Шмидта» в арбатовском исполкоме («Золотой телёнок»). Сама сюжетная линия, повествующая о поисках информации через книги учёта и распределения, близка к фабуле рассказа Конан Дойла «Голубой карбункул», в котором Шерлок Холмс получает необходимые ему сведения из записей торговца, зафиксировавшего в канцелярских тетрадях маршруты передвижения поставляемых и продаваемых гусей[8].
Людоедка Эллочка
Имя героини, в лексиконе которой всего тридцать слов, Ильф и Петров могли встретить в публикациях журнала «Огонёк» за 1927 год, где упоминались Элита Струк и Элеонора Стиннес — эффектные дамы, приходившиеся близкими родственницами миллионерам. В то же время у жены инженера Щукина был, вероятно, реальный прообраз — так, Виктор Ардов в письме литературоведу Абраму Вулису (1960) сообщал, что портрет, манеры, особенности поведения Эллочки во многом совпадают с чертами Тамары — «младшей сестры первой жены В. П. Катаева». Литературной предшественницей Эллочки исследователи называют героиню рассказа Евгения Петрова «Даровитая девушка» Кусичку Крант, которая во время общения со студентом Хведоровым изъясняется лаконично и однообразно: «Ого!», «Ничего себе», «То-то»[8].
Существуют разные версии того, как создавался словарь Эллочки. По воспоминаниям писателя Льва Славина, изначально он представлял собой «один из импровизированных застольных скетчей» Юрия Олеши, с которым соавторов связывали тёплые отношения. Кроме того, часть заготовок присутствовала в записных книжках Ильфа в виде набросков — «Хамите, медведюля», «Словарь Шекспира, негры и девицы»[8]. Драматург Илья Кремлёв утверждал, что слово «мрак» писатели часто слышали от художника сатирических изданий Алексея Радакова, который с его помощью «выражал своё неудовольствие недостаточно холодным пивом или переваренными сосисками»[20]. Выражение «толстый и красивый», употребляемое Эллочкой по отношению к людям и предметам, было, вероятно, взято из лексикона близкой знакомой Ильфа — поэтессы Аделины Адалис[8]. Шутка «У вас вся спина белая» восходит, по данным исследователей, к повести Валентина Катаева «Растратчики», где она произносится дважды[8].
Рассказывая о повседневной жизни Эллочки Щукиной, соавторы сообщают о «грандиозной борьбе», которую героиня ведёт с опасной заокеанской соперницей — дочерью миллиардера Вандербильда. Подобные настроения жён советских специалистов в годы НЭПа были распространённым явлением, — к примеру, драматург Николай Погодин в фельетоне, опубликованном в «Огоньке», создал их обобщённый образ: «Им нужно иметь всегда модные боты и модную шляпу, хорошие духи, настоящий кармин, модную шаль, им нужно посещать институт красоты, блёклые ресницы превращать в жгуче-чёрные, массировать лицо, завиваться у парикмахеров»[8]. Столь же типичным для 1920-х годов было выражение «как в лучших домах», с помощью которого Остап Бендер легко меняет Эллочкин стул на чайное ситечко мадам Грицацуевой[8].
Авессалом Изнуренков
Остроумец Изнуренков впервые появляется в романе во время продажи стульев на аукционе; размахивая руками, он забрасывает Остапа множеством эмоциональных вопросов по поводу торгов. Прототипом персонажа, которого соавторы назвали «неизвестным гением», сравнимым в своей сфере с Шаляпиным, Горьким и Капабланкой, был журналист, сотрудник газеты «Гудок» Михаил Глушков. Современники вспоминали о нём как о человеке, жизненные интересы которого были сосредоточены вокруг придумывания тем для карикатур и азартных игр: «За карточным столом он оставлял всё, что зарабатывал»[8].
Легенды о его саркастичности и молниеносно рождающихся репликах передавались от одного поколения журналистов другому. Так, на вопрос коллег о том, со щитом вернулся Глушков с бегов или на щите, он отвечал: «В нищете». В историю вошёл принадлежавший Михаилу Александровичу афоризм, характеризующий бюрократа: «Вам говорят русским языком, приходите завтра, а вы всегда приходите сегодня»[21]. По свидетельству писателя Семёна Гехта, Глушков не только узнал себя в Изнуренкове, но и был признателен Ильфу и Петрову за создание этого образа[8]. Через девять лет после выхода «Двенадцати стульев» Михаил Александрович был арестован и репрессирован[2].
Организации, учреждения
2-й дом Старсобеса
Поиски стульев начинаются во 2-м доме Старсобеса, который размещается в здании, до революции принадлежавшем Ипполиту Матвеевичу. Порядки в государственной богадельне устанавливает завхоз Альхен (Александр Яковлевич) — «голубой воришка», отличающийся отменной вежливостью и испытывающий конфуз от непрерывно совершаемых краж[12]. По воспоминаниям фельетониста Михаила Штиха (М. Львова), работавшего вместе с соавторами в «Гудке», идея сюжетной линии, связанной со старгородским благотворительным учреждением, могла возникнуть у Ильфа во время их совместной прогулки по Армянскому переулку. Показав на стоящее за тяжёлой оградой строение, Штих рассказал о располагавшейся там некогда богадельне, где ему в годы учёбы в Московской консерватории довелось давать концерт. Илья Арнольдович живо интересовался деталями; некоторые из них (например, описание тяжёлых дверей и мышиного цвета платьев, в которые были облачены обитательницы заведения) впоследствии были включены в роман[8].
Помимо реального прототипа, у старгородского дома собеса существуют и литературные прообразы. Среди них — отличающаяся крайне жёсткими порядками частная школа Сквирса (воспитательный роман Чарльза Диккенса «Николас Никльби») и «странноприимный дом для безродных старух» (рассказ Антона Чехова «Княгиня»). Исследователи отмечают, что атмосфера в приюте, патронируемом княгиней, и в вотчине Альхена совпадает даже в мелочах: так, в момент прихода гостей постоялицы обоих заведений хором поют песню; и в той, и в другой богадельне имеются одеяла, относящиеся к числу особо ценных казённых принадлежностей[8]. По данным литературоведа Лидии Яновской, о слове «Ноги», вытканном на одеялах, Ильф упоминал ещё в 1924 году в одном из адресованных жене писем — он видел подобные образцы фабричного дизайна в нижегородской командировке[3].
Особое внимание в доме Старсобеса уделяют дверным пружинам и цилиндрам, обладающим большой силой и заставляющим жильцов «с печальным писком» спасаться от ударов. Судя по сообщениям прессы, в конце 1920-х годов оснащение дверей утяжеляющими устройствами было повсеместным явлением. К примеру, в очерке журнала «Крокодил» рассказывалось о «свирепой технике», мешающей посетителям пермских учреждений входить в помещения: «На почте — гиря в 10 килограммов, в редакции газеты „Звезда“ — пивная бутылка с песком, в других местах — просто куски железа»[8][22].
Столовую собеса украшают лозунги, сочинённые Альхеном. Плакаты и транспаранты были ещё одной приметой времени: Теодор Драйзер, путешествовавший по Советскому Союзу в 1927 году, писал в своей книге «Драйзер смотрит на Россию» о том, что инструктаж, осуществляемый с помощью уличных афиш, касался всех сфер жизни — от борьбы с кровососущими насекомыми до устройства силосных хранилищ[23]. Михаил Кольцов, Ильф и Петров, другие журналисты в своих изданиях достаточно едко отзывались о преследовавших человека лозунгах с назойливыми рекомендациями «Сей махорку — это выгодно», «Хочешь хорошо жить — разводи землянику», «Ешь медленно, тщательно пережёвывая»[8].
В доме Старсобеса, помимо полутора десятков старушек, находятся ещё и родственники Альхена и его супруги. Исследователи предполагают, что имя одного из нахлебников имеет отношение к семейной жизни Достоевского: сочетание «Паша Эмильевич» могло быть образовано соединением имён Паша (так звали пасынка Фёдора Михайловича, жившего в его доме после смерти матери) и Эмилия (речь идёт о невестке писателя, опекавшей молодого человека). Если в романе Паша Эмильевич мог «слопать в один присест два килограмма тюльки», то пасынок Достоевского, по свидетельству его второй жены, в неурочные часы нередко наведывался в столовую и съедал весь приготовленный обед, оставляя семью без сливок и рябчика[8].
Редакция газеты «Станок»
Редакция ежедневной газеты «Станок», быт и нравы которой напоминают обстановку в газете «Гудок», попадает в сферу внимания Бендера после того, как завхоз этого издания приобретает на аукционе один из стульев Воробьянинова. Коллектив газеты размещается на втором этаже Дома народов; прообразом этого здания, по воспоминаниям коллег Ильфа и Петрова, был Дворец труда ВЦСПС, находившийся на Москворецкой набережной[8]. Константин Паустовский писал, что до революции там базировался Воспитательный дом; позже в многочисленных комнатах расположились «десятки профессиональных газет и журналов, сейчас уже почти забытых»[24].
Мадам Грицацуева, пришедшая в Дом народов в поисках Остапа, попадает в лабиринт и не может выбраться из одинаковых коридоров, поворотов и переходов. Комментируя этот эпизод, писатель Илья Кремлёв отмечал, что «описать Дворец труда точнее невозможно»[25]. В названии «Станок», по данным Семёна Липкина, присутствует отсылка к одноимённому литературному обществу, созданному в 1920-х годах на базе газеты «Одесские известия»[26].
Диалоги, происходящие в «Станке» перед сдачей очередного номера в печать, когда каждый из корреспондентов требует выделить его материалу дополнительное место на полосе, не только воспроизводят атмосферу, царившую в «Гудке», но и «передают насыщенные инсайдерским жаргоном споры сотрудников»[8]. Приметой времени исследователи считают находящуюся в кабинете редактора огромную красную ручку с пером № 86, достигающим потолка. Эта канцелярская принадлежность, наряду со столь же гигантскими телефонными аппаратами, карандашами, моделями паровозов, относилась к числу «избитых гипербол», которые в 1920-х годах были распространены в советском обществе; подобные предметы преподносились предприятиям и организациям в качестве подарков; они являлись обязательными атрибутами праздничных демонстраций[8].
Другое веяние эпохи отражено в заключительном эпизоде главы «Клуб автомобилистов», когда комсомолец Авдотьев рекомендует секретарю редакции записаться в «друзья детей». Михаил Булгаков, перечисляя в фельетоне «Кулак бухгалтера» (1925) признаки благонадёжного сотрудника, писал: «В глазах — сильное сочувствие компартии, на левой стороне груди два портрета, на правой значки Доброхима и Доброфлота, а в кармане [членская] книжка „Друг детей“»[8].
Среди постоянных посетителей Дома народов выделяется Никифор Ляпис-Трубецкой, предлагающий стихи и поэмы про похождения Гаврилы многочисленным ведомственным изданиям, за исключением «Станка»: в этой газете к его творениям относятся иронично. Среди возможных прототипов Ляписа был, по данным Бориса Галанова, весьма известный поэт, опубликовавший своё произведение одновременно в «Печатнике», «Медицинском работнике», «Пролетариях связи» и «Голосе кожевника»[12]. Михаил Штих считал, что в образе Никифора воплощены качества некоего «жизнерадостного халтурщика», который после выхода романа узнал себя в авторе «Гаврилиады»[27]. Писатель Виктор Ардов полагал, что под Ляписом-Трубецким Ильф и Петров подразумевали поэта Осипа Колычева: он был похож на романного персонажа и внешне, и манерами[28]. С версией Ардова, несмотря на её поддержку другими мемуаристами, не согласен Юрий Щеглов:
Думается, что в качестве прототипа Гаврилы он должен быть реабилитирован… Продукция молодого О. Колычева ни в коей мере не напоминает эпос о Гавриле. Те стихи, что нам встречались одних с «Двенадцатью стульями» лет, хотя и достаточно поверхностны, но отнюдь не нагло-халтурны, как писания Ляписа[8].
Театр Колумба
В театр Колумба Бендера и Воробьянинова приводят поиски стульев, проданных в ходе аукциона. Спектакль «Женитьба», на премьеру которого попадают концессионеры, удивляет Ипполита Матвеевича необычностью трактовки: во время представления Агафья Тихоновна передвигается по проволоке, Иван Кузьмич Подколесин едет на слуге Степане, декорация выполнена из фанерных прямоугольников. По мнению исследователей, глава, рассказывающая о гоголевской пьесе, является пародией на авангардные постановки 1920-х годов, однако единого мнения о конкретном прототипе нет; вероятно, в образе театра соединились черты разных трупп и представлений[8].
Описание «Женитьбы» в отдельных деталях совпадает с работой Сергея Эйзенштейна «На всякого мудреца довольно простоты», поставленной в московском театре Пролеткульта. В обоих спектаклях наблюдается добавление в канонические тексты актуальных политических реплик: если в колумбовской интерпретации Подколесин задаёт слуге вопрос «Что же ты молчишь, как Лига Наций?», то у Эйзенштейна Егор Глумов отзывается о богатом барине как о человеке, имеющем «тридцать племянников: савинковцев, врангелевцев, кутеповцев, романовцев, мартовцев». Как вспоминал театровед Александр Февральский, представление Сергея Михайловича по пьесе Александра Островского было насыщено акробатическими номерами и цирковыми трюками, включая полёты над залом и хождение по проволоке[29][8].
Свидетельством того, что на создание образа театра Колумба могли повлиять сценические эксперименты Всеволода Мейерхольда, является заготовка, обнаруженная в записных книжках Ильфа: «Один стул находится в театре Мейерхольда»[8]. За год до начала работы соавторов над «Двенадцатью стульями» Всеволод Эмильевич представил публике «Ревизора». Спектакль вызвал неоднозначную реакцию критиков, многие из которых вменяли в вину режиссёру «злонамеренное искажение классики». В «Двенадцати стульях», по замечанию Одесского и Фельдмана, воспроизведены элементы мейерхольдовских новаций: к примеру, термины, использовавшиеся на его афишах, присутствуют в тексте романа: «Автор спектакля — Ник. Сестрин, вещественное оформление — Симбиевич-Синдиевич»[1]. В то же время Юрий Щеглов считает, что не только «Ревизор» послужил прообразом колумбовской «Женитьбы»:
Гораздо ближе стоит эта пародия к более раннему, но в 1927 году с большим успехом шедшему «Лесу» Мейерхольда (по А. Островскому), с его цветными париками… с галифе и хлыстом Гурмыжской, с теннисным костюмом Буланова, с клоунадой Счастливцева — Несчастливцева, с любовным диалогом на гигантских шагах[8].
Отдельные детали главы «В театре Колумба» появились, по свидетельству коллег Ильфа и Петрова, отнюдь не под влиянием театральной среды. Так, необычная фамилия автора стихов М. Шершеляфамова, указанная в афише, была, как вспоминал журналист Арон Эрлих, результатом коллективного творчества сотрудников «Гудка», придумавших её «за кружкой пива, в весёлую минуту»[30]. Сравнение ног Агафьи Тихоновны с кеглями возникло в тот момент, когда Ильф, глядя из окна на проходившую по переулку Чернышевского девушку, произнёс: «У неё ноги в шёлковых чулках, твёрдые и блестящие, как кегли»[8].
Маршрут Бендера и Воробьянинова
Путешествие Воробьянинова начинается в уездном городе N, откуда Ипполит Матвеевич направляется в Старгород; туда же, «со стороны деревни Чмаровки», движется Бендер. Дальнейший маршрут героев включает тысячи километров пути: Старгород → Москва → Нижний Новгород → Бармино → Васюки → Чебоксары → Сталинград → Тихорецкая → Минеральные Воды → Пятигорск → Владикавказ → Дарьяльское ущелье → Тифлис → Батум → Ялта → Москва[31].
Город N
По воспоминаниям Евгения Петрова, первую фразу романа, начинающегося словами «В уездном городе N…», предложил Ильф. Исследователи отмечают, что в этом «подчёркнуто традиционном» зачине была не только задана интонация «Двенадцати стульев», но и заложен ироничный посыл, связанный с обыгрыванием тем и мотивов других литературных произведений[8]. Соавторы уже на первых страницах делают заявку на цитатность: так, упомянутое среди городских достопримечательностей похоронное бюро «Милости просим» совпадает по названию с погребальной конторой из пьесы драматурга Бориса Ромашова «Конец Кривокорыльска». Дословное цитирование рекламы маникюра из рассказа Веры Инбер «Лампочка припаяна» обнаруживается при упоминании «цирюльных дел мастера Пьера и Константина», обещающего клиентам «холю ногтей»[8].
Образ провинциального населённого пункта создаётся с помощью деталей, растиражированных советской литературой 1920-х годов, — к их числу относятся безлюдные пространства в городской черте, а также животные, находящиеся вблизи плакатов и афиш («На большом пустыре стоял палевый телёнок и нежно лизал проржавевшую вывеску»)[8]. В перечень примечательных объектов периферийного городка входит также единственный в уезде автомобиль «с крохотным радиатором и громоздким кузовом», двигающийся по бездорожью в клубах дыма[8].
Старгород
Дочь Ильфа — Александра Ильинична — писала, что в образе Старгорода (именовавшегося в рукописи Барановском или Барановом[1]) просматриваются «кое-какие одесские реалии»[32]. Название места, в котором пересекаются Бендер, Воробьянинов и отец Фёдор, встречалось в русской литературе и ранее: к примеру, действие романа-хроники Лескова «Соборяне» (1872) начинается в Старгороде; в повести Льва Гумилевского «Собачий переулок» (1926—1927) одна из глав называется «Старгородская мануфактура»[8].
Ипполита Матвеевича встреча с родным городом приводит в замешательство: за годы разлуки в Старгороде изменились и люди, и вывески, и цвета. Подобные метаморфозы отмечались и в других населённых пунктах — так, журналист Михаил Кольцов, рассказывая о новом значении старых объектов, писал: «Раньше эта улица называлась Московской, а теперь… Советской. Там, где жил губернатор, теперь партийный комитет; там, где мужская гимназия, — исполком»[8].
Особый интерес у Воробьянинова вызывают трамвайные рельсы, которых он никогда прежде не видел. К пуску первого трамвая в Старгороде начали готовиться ещё в 1912 году, однако строительство и монтаж станции затягивались. Замена конных экипажей рельсовым общественным транспортом в первое послереволюционное десятилетие воспринималось в отдалённых от столицы городах как весьма значимое событие. По мнению Юрия Щеглова, подробное описание подготовки к «открытию старгородского трамвая» носит у соавторов ностальгический характер. В воспоминаниях Евгения Петрова об одесском детстве, наряду с цирком, выставкой самоваров и первым аэропланом, фигурирует и первый трамвай[8].
Движение по рельсам выступает на видном месте в обоих романах: старгородский трамвай в начале дилогии может рассматриваться как набросок и предвестие «литерного поезда» в её конце… Эту коннотацию «начала новой эры» соавторы теперь переносят на романтизируемую ими начинающуюся советскую эпоху[8].
Москва
Знакомство с советской столицей начинается с небольшого лирического очерка о девяти вокзалах, через которые в Москву ежедневно входят тридцать тысяч приезжих. Исследователи отмечают, что повествование Ильфа и Петрова о «воротах города» не во всём совпадает с публикациями других авторов, писавших о Москве времён НЭПа: к примеру, журналист Л. Кириллов в июльском номере журнала «Огонёк» (1927) сообщал о миллионе пассажиров, прибывающих в столицу на короткое время или «на постоянное жительство»: «Поближе к вокзалам, в узких, кривых уличках и переулках, гнездятся подслеповатые гостиницы, номера и глухие, зловонные и зловещие норы. По Рязанке маленькими артельками приезжает много крестьян на работу»[33][8].
С Рязанского вокзала путешественники направляются к общежитию имени Бертольда Шварца. В машинописную рукопись романа была включена фраза: «Когда проезжали Лубянскую площадь, Ипполит Матвеевич забеспокоился», — в журнальной версии и последующих редакциях «Двенадцати стульев» она отсутствовала[1]. Охотный Ряд описывается соавторами как место, где царит суматоха; пресса тех лет, в том числе зарубежная, постоянно обращала внимание на беспорядочную уличную торговлю и борьбу милиции с «беспатентными» продавцами[34]. Скелет, находящийся в коридоре общежития, был, как замечает Остап, куплен студентом Иванопуло на Сухаревке — большом стихийном рынке, где «люди с раньшего времени» продавали фамильные ценности; там же, судя по рассказу Валентина Катаева «Вещи», молодые семьи приобретали подержанную мебель[8].
Интерес публики к экспонатам музея мебельного мастерства, куда компаньоны приходят в поисках стульев, был одной из социальных примет 1920-х годов: в этот период многие бывшие дворянские усадьбы преобразовались в постоянно действующие выставки. Первый мебельный музей, коллекция которого была представлена в том числе и работами Гамбса, размещался в Александрийском дворце[8]. При описании обстановки в «Праге», где Ипполит Матвеевич пытается «ослепить широтой размаха» Лизу Калачову, соавторы воспроизводят фрагменты традиционной для московских «кабаков» того времени концертной программы — с частушками, куплетами и «развязным конферансье». Их зарисовка близка по содержанию опубликованному в 1927 году очерку журналиста и писателя Николая Равича «Мещанин веселится», в котором упоминается про несущиеся с «пивной эстрады» песни «двусмысленного содержания и сальные анекдоты»[35].
Васюки
Путешествие на тиражном теплоходе «Скрябин» завершается для концессионеров изгнанием. Из путеводителя по Волге герои узнают, что на правом берегу находятся Васюки. По данным Одесского и Фельдмана, описание вымышленного населённого пункта («…отсюда отправляются лесные материалы, смола, лыко, рогожи») совпадает со справочной информацией о городе Ветлуге, включённой в книгу «Поволжье, природа, быт, хозяйство» (Ленинград, 1926)[1]. При этом, как отмечает Юрий Щеглов, Ветлуга находится в стороне от основного маршрута Бендера и Воробьянинова[8]. По сообщению дочери Ильфа, в 1925 году, во время поездки на тиражном пароходе «Герцен», Илья Арнольдович вёл путевые записи, позволяющие предположить, что в облике Васюков запечатлены черты города Козьмодемьянска[36]. Сама глава «Междупланетный шахматный конгресс» отражает атмосферу шахматного бума, начавшегося в СССР в 1920-х годах: незадолго до выхода романа в стране прошёл Всесоюзный шахматный съезд, в клубах и дворцах культуры открывались кружки любителей настольных игр, в газетах и журналах создавались соответствующие разделы[1].
Сцена с расклейкой афиш, извещающих о проведении сеанса одновременной игры в клубе «Картонажник», близка к эпизоду из романа Марка Твена «Приключения Гекльберри Финна», в котором герои-жулики, появившись в маленьком городке, развешивают театральные плакаты «Возрождение Шекспира! Изумительное зрелище! Только один спектакль!»[8] Идея организации междупланетного турнира с созданием соответствующей инфраструктуры и переименованием города в Нью-Москву, которой Бендер делится с участниками местной шахматной секции, является ироничным откликом на популярные в те годы «футурологические фантазии» — эта тема развивалась и в литературных произведениях, и журналистских материалах. Так, прогноз писателя Ефима Зозули, опубликованный в журнале «Тридцать дней» (1927, № 11), был связан с 2022 годом, когда «каждого туриста в Москве будет возить отдельно реющий аэропланчик»[8].
Лекция о плодотворной дебютной идее, с которой Бендер выступает в клубном зале, во многом совпадает с докладом героя из фельетона Валентина Катаева «Лекция Ниагарова» (1926): плут, появившись на сцене Политехнического музея, рассказывает публике о проблемах междупланетного сообщения, перемежая своё повествование анекдотами; подобно Остапу, он после разоблачения покидает аудиторию, успев напомнить сообщнику о необходимости получить в кассе пятьдесят червонцев[8].
Пятигорск
В июне 1927 года соавторы путешествовали по Кавказу и Крыму. На курорте, где «всё было чисто и умыто», Ильф сделал запись: «На празднике жизни в Пятигорске мы чувствовали себя совершенно чужими», — в романе эту фразу в несколько изменённом виде произносит Бендер. Глава «Вид на малахитовую лужу» даёт представление о летней мужской моде, основные атрибуты которой (белые брюки, недорогие рубашки «апаш», лёгкие сандалии) часто воспроизводились в газетно-журнальных публикациях, популяризирующих «советскую романтику туристических маршрутов» того времени[8]. К примеру, поэт Александр Жаров после одной из поездок подготовил очерк для журнала «Тридцать дней», в котором рассказал, что на юге отдыхающие носят «одинаковые белые санаторные брюки и толстовки, белые колпаки, сандалии с одной подмёткой, именуемые „христосиками“»[38].
В Пятигорске финансовые проблемы вынуждают Остапа прибегнуть к очередной махинации: приобретя на последние деньги квитанционную книжку, великий комбинатор отправляется к Провалу. Рассуждения великого комбинатора о том, что бесплатный вход в местную достопримечательность — это «позорное пятно на репутации города», являются имитацией шаблонных текстов, присущих высмеиваемым в прессе лозунгам — таким, как «Смыть с себя позорное пятно, догнать и перегнать выполнение плана» («Огонёк», 1930, 20 ноября). Элемент пародии замечен и в стремлении героя разделить туристов на группы: предлагая скидку студентам и увеличивая стоимость билетов для тех, кто не состоит в профсоюзе, Бендер демонстрирует механизм развития советской системы «иерархий и привилегий» [8].
По мнению исследователей, упоминаемая в романе «тень Лермонтова», витающая даже в буфете, — это отголосок актуальной для конца 1920-х годов темы искусственно создаваемых исторических объектов, к которой нередко обращались фельетонисты. Так, в огоньковском очерке Д. Маллори (Бориса Флита) рассказывалось, что по дороге в Кисловодск пассажирам показали «не меньше шести „могил“ Лермонтова»[39]; на страницах журнала «Бузотёр» сообщалось о курортном администраторе, обещавшем «открыть шесть заново отремонтированных гротов Пушкина»[40][8].
Ялта
В Ялту Бендер и Воробьянинов отправляются после чтения газетной заметки, сообщающей об осенних гастролях театра Колумба в Крыму. В главе, повествующей о заключительном этапе их странствий, обыгрывание литературных мотивов соединено с описанием реальных происшествий. Так, сцена прибытия парохода «Пестель», встречаемого выстроившимися на набережной экипажами и праздной публикой, перекликается с эпизодом из чеховской «Дамы с собачкой», когда Гуров и Анна Сергеевна сливаются с толпой, наблюдающей за пришедшим судном. В то же время рассказ о том, как найденный в театре стул внезапно проваливается сквозь пол, является откликом на достоверные события — речь идёт о «первом ударе большого крымского землетрясения 1927 года»[8]. Исследователи обращают внимание на фактическую неточность, допущенную соавторами: компаньоны перемещаются в Ялту в сентябре, тогда как первый шестибалльный толчок был зафиксирован 26 июня[1]. Утром концессионеры вскрывают стул, обнаруженный у входной двери неповреждённым, после чего раздаётся «третий удар»; предмет гамбсовского гарнитура исчезает в глубинах земли. Подобная развязка, по мнению Юрия Щеглова, связана с тем, что в историю с поиском сокровищ «подключаются мировые силы»[8].
Пародийно трактованная экзистенциальная тематика довольно основательно вплетена в сюжет «Двенадцати стульев»… Эта вечная тема служит для иронического возвышения тривиального. Вмешательство землетрясения в дела героев комментируется в духе оппозиции природы и цивилизации: «…пощажённый первым толчком землетрясения и развороченный людьми гамбсовский стул…»[8]
Маршрут отца Фёдора
Отец Фёдор, как и Ипполит Матвеевич, отправляется в дорогу из города N. В Старгороде их пути ненадолго пересекаются; затем Востриков, получив от архивариуса Коробейникова ордер на гарнитур генеральши Поповой, начинает поиски инженера Брунса — с этого момента конкуренты идут параллельными маршрутами. Исследователи отмечают, что если направление Бендера и Воробьянинова строится по схеме, заявленной в «Шести Наполеонах» Конан Дойла, то движение священника, пытающегося догнать Брунса в Ростове, Харькове, Баку, организовано по сценарию маршаковской «Почты»: героя этого стихотворения, непрерывно перемещающегося поэта Бориса Житкова, ищут ленинградский, берлинский, лондонский, бразильский почтальоны[8].
Востриков находит Брунса на Зелёном Мысу в тот момент, когда инженер, сидя на дачной веранде, обращается к жене со словами «Мусик! Готов гусик?». Валентин Катаев в книге «Алмазный мой венец» писал, что в образе инженера представлен он сам[41]. Фамилия, которую соавторы дали персонажу, была, вероятно, знакома им со времён юности — по утверждению поэта-сатирика Дон-Аминадо, в одесской пивной Брунса, являвшейся в дореволюционные годы местом встреч творческой молодёжи, «подавали единственные в мире сосиски и настоящее мюнхенское пиво»[8][42].
Сцена, во время которой отец Фёдор падает перед инженером на колени, умоляя продать все двенадцать стульев, восходит к эпизоду из романа Достоевского «Идиот»: по словам Юрия Щеглова, подобным же образом миллионер Афанасий Иванович Тоцкий пытался приобрести у старого купца Трепалова красные камелии для провинциальной дамы Анфисы Алексеевны: «Я бух ему в ноги! Так-таки и растянулся!» Связь с Достоевским обнаруживается и во время погружения купленного за 200 рублей гарнитура в фургон — исследователи отмечают, что топор, вложенный Раскольниковым в петлю под пальто, сопоставим с топориком Вострикова, спрятанным за шнурком под полою[8]. Разрубив на батумском берегу все стулья, отец Фёдор оказывается вдали от родных мест без сокровищ и денег на обратную дорогу; теперь он уже «машинально продолжает странствие»[43].
Встреча конкурентов происходит в Дарьяльском ущелье, где Бендер предлагает Воробьянинову увековечить их пребывание у «Ворот Кавказа» наскальной надписью «Киса и Ося здесь были». По версии Одесского и Фельдмана, в придуманном Остапом варианте граффити, с одной стороны, присутствует отсылка к стихотворению Владимира Маяковского «Канцелярские привычки» («Здесь были Соня и Ваня Хайлов. / Семейство ело и отдыхало»), с другой — происходит обыгрывание некоторых фактов из биографии поэта: «Кисой Маяковский публично называл Л. Ю. Брик, а Осей — её мужа, О. М. Брика, причём в июле 1927 года „Киса и Ося“ действительно были на Кавказе»[1].
Появление отца Фёдора застаёт Ипполита Матвеевича врасплох; исследователи полагают, что наступление священника, сопровождаемое вопросом «Куда девал сокровища убиенной тобой тёщи?», сродни действиям доктора Ватсона в рассказе «Исчезновение леди Фрэнсис Карфэкс»: «Ильф и Петров нередко заимствовали из шерлокхолмсовского цикла не только отдельные детали, но и целые сюжеты»[8].
Советский мир 1920-х годов
Общежитие имени Бертольда Шварца
В 1923 году, устроившись на работу в газету «Гудок», Ильф поселился в примыкающей к типографии комнате, вся обстановка которой состояла из матраца и стула; вместо стен, как писал впоследствии Евгений Петров, стояли три фанерные ширмы[44]. Это помещение стало прототипом «пенала», в котором размещаются Коля и Лиза — обитатели общежития имени Бертольда Шварца[8]. Дом, изначально предназначавшийся для проживания студентов-химиков, практически исчез с карты Москвы; столичное управление недвижимым имуществом исключило его из своих планов[8]. Исследователи считают, что в описании загадочного здания присутствует мотив «затерянного мира», не тронутого социальными катаклизмами и не зависящего от чужой воли. Своим стремлением к автономному существованию общежитие напоминает жилище профессора Преображенского в калабуховском доме («Собачье сердце») и занятую Воландом «нехорошую квартиру» на Большой Садовой, 302-бис («Мастер и Маргарита»)[8].
В одну из глав, повествующих об общежитии, включён лирический этюд о значении матраца в жизни людей; писатели называют его «альфой и омегой меблировки», «любовной базой», «отцом примуса». По мнению литературоведов, соавторы воспроизвели типичную особенность московского быта 1920-х годов, когда горожане воспринимали мягкое ложе как «основу своего счастья»[8]. Как писали иностранные журналисты, в число повседневных картин советской столицы входили извозчики, доставляющие матрацы по адресам: «Русский человек готов спать на сколь угодно жёсткой постели, но когда он позволяет себе немного роскоши, то первым покупаемым предметом почти неизменно бывает пружинный матрац»[45].
Современники соавторов оставили воспоминания о том, как перечень «счастливцев», сумевших приобрести матрац на Сухаревском рынке, пополнил Ильф. Согласно версии Семёна Гехта, в момент покупки Илья Арнольдович выглядел довольным и «даже гордым»[46]. Иную трактовку событий представил сосед Ильфа по комнате — писатель Юрий Олеша: по его словам, негативное отношение гудковцев к перинам и диванам как символам мещанского уюта отражено в образах вдовы Ани Прокопович (роман «Зависть») и Васисуалия Лоханкина («Золотой телёнок»); единственным достойным элементом спальни они считали будильник[8].
Радио. Уличные громкоговорители
Во время обеда во 2-м доме Старсобеса разговор старушек прерывается внезапно включившимся громкоговорителем, пытающимся сквозь шум и помехи донести до слушателей сведения об изобретении световой сигнализации на снегоочистителях. Вводя в повествование эпизод с радиотрансляцией, соавторы обозначают ещё одну из примет времени — речь идёт об активном внедрении в советский быт нового средства массовой информации. Радиотема, как отмечают исследователи, начала обретать актуальность со второй половины 1920-х годов; установка репродукторов на предприятиях, в учреждениях и на улицах носила фактически директивный характер. В программу радиопередач входили информационные сводки, агитационные материалы, переклички передовиков производства; культурная часть вещания включала лекции, выступления хоровых коллективов, концерты баянистов[8].
В рукописи «Двенадцати стульев» содержался эпизод об уличной трансляции оперы «Евгений Онегин»: сначала находящийся рядом с трамвайной остановкой громкоговоритель оповестил слушателей о том, что «молодой помещик и поэт Ленский влюблён в дочь помещика Ольгу Ларину», затем послышалась настройка инструментов, зазвучало вступление. «Уже взвился занавес, и старуха Ларина, покорно глядя на палочку дирижера и напевая: „Привычка свыше нам дана“, колдовала над вареньем, а трамвай ещё никак не мог оторваться от штурмующей толпы». Как отмечал Юрий Щеглов, сцена в усадьбе Лариных «контрапунктировала» с попытками пассажиров занять места в переполненном вагоне[1]. Из журнальной и последующих публикаций упоминания о передаче из Большого театра были исключены; в итоговой редакции (глава «В театре Колумба») сохранилась одна фраза: «У трамвайной остановки горячился громкоговоритель»[8].
Атрибуты быта. Услуги
Одним из примеров того, как в советском мире 1920-х годов осуществлялись «экономические искания», является предпринимательская деятельность отца Фёдора. В число его проектов входили собаководство (эпизод, повествующий о неудачной попытке Вострикова получить избранный приплод от купленной на Миусском рынке собаки Нерки, не вошёл в окончательный вариант романа[1]), изготовление мраморного стирочного мыла, разведение кроликов и организация домашних обедов. Современники Ильфа и Петрова вспоминали, что объявления о частных столовых и кухнях были в нэповские времена распространённым явлением; по словам сотрудника журнала «Огонёк» Эмилия Миндлина, такого рода услуги нередко предоставляли интеллигентные семьи, оказавшиеся в сложной финансовой ситуации: «Мы обыкновенно обедали в „средних“ домах, где за большим круглым столом прислуживала сама хозяйка и её молодые дочери»[47]. Кроме того, многие «старорежимные люди» сдавали комнаты или, подобно бывшей возлюбленной Воробьянинова Елене Станиславовне Боур, устраивали платные сеансы гадания[8].
В момент встречи конкурентов в коридоре старгородской гостиницы «Сорбонна» Бендер обращается к отцу Фёдору со словами: «Старые вещи покупаем, новые крадём!». По свидетельству Леонида Утёсова, первая часть фразы, произнесённой великим комбинатором, была известна всем одесситам, а в послереволюционную пору и москвичам — так обозначали своё появление во дворах торговцы подержанными вещами, называемые старьёвщиками[48]. Из их лексикона Остап «позаимствовал» и другую реплику, адресованную священнику: «Мне угодно продать вам старые брюки»[8].
При заселении в «Сорбонну», меблированный номер в которой стоит один рубль восемьдесят копеек, Бендер интересуется у служащего наличием «доисторических животных». Клопы, как отмечают исследователи, были в 1920-х годах неразрешимой проблемой многих заштатных отелей[8]. Так, журнал «Смехач» (1928, № 30) опубликовал специальный справочник для путешественников, в котором слово «гостиница» определялось как «место, которое кусается (из-за цен и клопов)»[8].
В конце 1920-х годов в городах, несмотря на появление трамваев и автомобилей, ещё оставалось немало извозчиков. Одному из них после посещения «Праги» Ипполит Матвеевич рассказывает про сокровища мадам Петуховой (подобный мотив присутствует и в повести Льва Толстого «Юность», герой которой делится с кучером наёмного экипажа своими переживаниями[8]); с другим на Театральной площади сталкивается Остап. «Ватная спина» хозяина повозки, принявшая на себя удар великого комбинатора, является, как объясняют исследователи, «общим местом извозчичьей топики» — на неё обращали внимание многие литераторы, включая поэта Николая Заболоцкого, написавшего: «Сидит извозчик, как на троне, / из ваты сделана броня»[8].
Питание
В главу «Муза дальних странствий», рассказывающую о последовательном перемещении в Старгород сначала отца Фёдора, а затем — Воробьянинова, включена панорамная зарисовка о поведении путешественников в дороге. Фраза «Пассажир очень много ест» совпадает с наблюдениями современников Ильфа и Петрова — тема продуктового изобилия в поездах периодически попадала в сферу внимания журналистов: «Все пьют, обложившись продовольствием — огромными хлебами, огромным количеством ветчины, огромными колбасами, огромными сырами»[49]. Постоянным героем путевых заметок 1920-х годов был пассажир, устремлявшийся во время стоянок к котлам с горячей водой: так, рассказывая о странствиях Вострикова, соавторы замечают, что «видели его на станции Попасная, Донецких дорог. Бежал он по перрону с чайником кипятку»[8].
Ироничное отношение к вагонным яствам соседствовало в прессе с критикой в адрес тех, кто отличался «жадностью к мясу». Лозунг «Мясо — вредно», сочинённый Альхеном во 2-м доме Старсобеса, соответствовал идеологическим установкам того времени[8]. К примеру, журнал «Московский пролетарий» писал в 1928 году: «Надо изжить вкоренившийся ложный взгляд на значение и роль мясных продуктов»[50]. Подобную фразу («Какая-нибудь свиная котлета отнимает у человека неделю жизни!») произносит в разговоре с Лизой и Коля Калачов; упоминаемые в диалоге мужа и жены монастырский борщ, фальшивый заяц и морковное жаркое входили, вероятно, в меню недорогих студенческих столовых[8]. Название вегетарианского заведения «Не укради», в котором питаются супруги, — вымышленное[1], однако оно соотносится с колоритными вывесками тех лет — так, в Москве существовали трактир «Дай взойду» и диетические столовые «Я никого не ем», «Примирись» и «Гигиена»[8]. Название старгородского предприятия «Одесская бубличная артель „Московские баранки“» литературоведы Одесский и Фельдман объясняли так:
В 1920-е годы парадоксы подобного рода — вполне заурядное явление: на вывеске указывались место официальной регистрации фирмы и её название, иногда совпадавшее — полностью или частично — с наименованием основной продукции. К примеру, в Поволжье была широко известна «Саратовская артель „Одесская халва“», а в Одессе — «Московская вегетарианская столовая», где подавались «московские горячие блины»[1].
Отзывы и рецензии
В книге воспоминаний о соавторах, изданной в 1963 году, было опубликовано письмо Евгения Петрова, адресованное писателю Владимиру Беляеву. В нём, в частности, упоминалось о «молчании критики», сопровождавшем авторов «Двенадцати стульев» «в течение всей десятилетней работы (первые пять лет — ни строчки)»[51]. Реплики на ту же тему исследователи нашли и в черновиках Евгения Петровича: «Первая рецензия в „Вечерке“. Потом рецензий вообще не было». Комментируя эти записи, Одесский и Фельдман предположили, что проскальзывающая в них досада была, возможно, связана с тем, что ни один из влиятельных литературно-художественных журналов конца 1920-х годов не отреагировал на выход романа Ильфа и Петрова. Тем не менее говорить о его полном игнорировании не следует, считают литературоведы[5].
Первая рецензия появилась в газете «Вечерняя Москва» в начале сентября 1928 года. Автор публикации, некто Л. К., с одной стороны, признал, что «Двенадцать стульев» — произведение живое и динамичное, с другой — сообщил, что к ближе к финалу история с поисками сокровищ начинает утомлять: «Читателя преследует ощущение какой-то пустоты. Авторы прошли мимо действительной жизни — она в их наблюдениях не отобразилась, в художественный объектив попали только уходящие с жизненной сцены типы». В том же месяце в журнале «Книга и профсоюзы» вышла статья Г. Блока, давшего весьма жёсткую оценку «Двенадцати стульям»: он назвал сочинение двух небесталанных рассказчиков «милой игрушкой», насыщенной «юмористикой бульварного толка и литературщины, потрафляющей желудку обывателя», и пришёл к выводу, что в художественном отношении роман особой ценности не представляет[2][5].
После паузы, которую соавторы действительно могли принять за «негласный бойкот», газета «Правда» (1928, 2 декабря) напечатала тезисы из речи Бухарина на совещании рабочих и сельских корреспондентов. Николай Иванович тепло отозвался о произведении Ильфа и Петрова и назвал примерами подлинной сатиры главу о Никифоре Ляписе-Трубецком, один из лозунгов во 2-м доме Старсобеса, а также плакат, вывешенный в шахматной секции Васюков: «Дело помощи утопающим — дело рук самих утопающих»[2]. Затем достаточно резко — не в адрес соавторов, а по отношению к литературным критикам — выступил на страницах «Вечернего Киева» Осип Мандельштам:
Приведу совсем уж позорный и комический пример «незамечания» замечательной книги. Широчайшие слои сейчас буквально захлёбываются книгой молодых авторов Ильфа и Петрова… Единственным отзывом на этот брызжущий весельем памфлет были несколько слов, сказанные Бухариным… Бухарину книга Ильфа и Петрова для чего-то понадобилась, а рецензентам пока не нужна[52].
Последним из резко отрицательных откликов конца 1920-х годов стала статья в журнале «Книга и революция» — его обозреватель назвал роман «серенькой посредственностью», в которой отсутствует «заряд глубокой ненависти к классовому врагу»[5]. Затем «Вечерняя Москва» провела опрос среди советских писателей о лучшем произведении 1928 года, и Юрий Олеша, выделив из общего списка «Двенадцать стульев», написал: «Я считаю, что такого романа… вообще у нас не было»[2]. Официальное признание к соавторам пришло в июне 1929 года, после выхода в «Литературной газете» большой рецензии критика Анатолия Тарасенкова, отметившего, что в произведении отражены злободневные проблемы, а Ильф и Петров очень тонко чувствуют грань между иронией и сарказмом[53]. Выход статьи Тарасенкова, озаглавленной «Книга, о которой не пишут», исследователи сравнили с выдачей роману «справки о благонадёжности» — после публикации в «Литературной газете», которая в ту пору считалась «проводником политики партии», «Двенадцать стульев» начали осторожно хвалить даже рапповские издания[5].
Ильф и Петров ответили на ситуацию вокруг романа юмористической миниатюрой в журнале «Чудак» (1930, № 4) — они изобразили в ней неких безмолвных рецензентов Аллегро, Столпнера-Столпника, Гав. Цепного, не знающих, как реагировать на выход книги незнакомых авторов и боящихся признать её значимость без руководящей отмашки: «И только через два года критики узнают, что книга, о которой они не решились писать, вышла уже пятым тиражом и рекомендована главполитпросветом для сельских библиотек»[54].
Различия между вариантами романа
Текстоведы, сравнивая машинописную версию «Двенадцати стульев» и канонический вариант романа, включённый в собрание сочинений Ильфа и Петрова («Советский писатель», 1938), обнаружили много разночтений[1]. По словам Лидии Яновской, правки и сокращения, внесённые соавторами после журнальной публикации, были связаны с желанием устранить многословие, тематические пересечения и смысловые повторы[3]; утрата логики при разработке отдельных сюжетных ходов, происходящая при изъятии некоторых эпизодов[3], их не беспокоила — подобное отношение к «перекраиванию» текста литературовед объяснила молодостью писателей, которым «творческие возможности казались беспредельными»[3].
Так, изначально в главу «Муза дальних странствий», повествующую о появлении на старгородском вокзале отца Фёдора, была включена сцена с агентом ГПУ, наводившим порядок в зале ожидания: он успокаивал пассажиров и пытался поймать игравших в ложки беспризорников[1]. В исключённой из романа главе «Продолжение предыдущей» воспроизводилась история знакомства молодого Воробьянинова с женой окружного прокурора Еленой Станиславовной Боур — их первая встреча произошла на благотворительном базаре, где Ипполит Матвеевич угостил даму шампанским; спустя некоторое время они вместе отправились в Париж[1]. Эпизод, рассказывающий о постройке первого старгородского трамвая, содержал актуальные куплеты, сочиняемые местными жителями: «Елестрический мой конь / Лучше, чем кобылка. / На трамвае я поеду, / А со мною милка»[1]. Не вошло в итоговую редакцию и детальное описание творческой деятельности одного из завсегдатаев Дома народов — модного писателя Агафона Шахова, разрабатывавшего в своих произведениях темы любви, брака и ревности[1]. По словам Одесского и Фельдмана, в портрете Шахова угадывались черты Валентина Катаева и Пантелеймона Романова[1].
Сюжетная линия, связанная с Никифором Ляписом-Трубецким, была в рукописном варианте гораздо шире: в отдельной главе сообщалось о том, как автор «Гаврилиады», узнав о вскрытии предметов мебели в редакции «Станка» и театра Колумба, предложил своему соседу по комнате — писателю Хунтову — сочинить историю про спрятанное в стульях изобретение советского учёного; после долгих споров герои решили написать детективную оперу «Луч смерти»[1]. Из финала «Двенадцати стульев» была изъята фраза, лишавшая писателей возможности впоследствии «воскресить» Бендера: «Великий комбинатор умер на пороге счастья, которое он себе вообразил»[1].
Их [соавторов] не смутило, что теперь сюжетно слабо мотивировано появление Никифора Ляписа на страницах романа: в конце главы он просит пять рублей на починку стула, попорченного хулиганами, и не всякий читатель, закрыв книгу, вспомнит, какое имеет отношение Ляпис к поискам бриллиантов… В приключенческом романе это было бы невозможно. Логика сатирического повествования делает это вполне естественным[3].
Литературная перекличка
Источники для сюжета
По замечанию Лидии Яновской, история с поисками сокровищ, скрываемых в одинаковых предметах, в литературе не нова, а потому дискуссии о возможном источнике сюжета для «Двенадцати стульев» начались почти сразу после выхода романа[3]. К примеру, журналист «Гудка» Арон Эрлих вспоминал о том, как в доме Катаева он читал писателю и его гостям свою первую пьесу о богатом господине, спрятавшем перед отъездом из России клад в собственной усадьбе. Через несколько лет, вернувшись на родину, герой попытался найти фамильные драгоценности и после череды рискованных операций выяснил, что его тайник, обнаруженный новыми владельцами дома, давно передан государству. По словам Эрлиха, пьеса не произвела особого впечатления на слушателей, однако у Валентина Петровича родилась идея, впоследствии реализованная Ильфом и Петровым: «Клад надо бы спрятать в одно из кресел мягкого гарнитура»[8].
О другом произведении со схожим сюжетом рассказывал в книге «Алмазный мой венец» и Катаев — речь идёт об «уморительно смешной» приключенческой повести Льва Лунца, которую тот читал коллегам в 1922—1923 годах. Её герои — представители состоятельной семьи — перед отъездом из России поместили сокровища в платяную щётку: «Лев Лунц, приведённый Кавериным в Мыльников переулок, с такой серьезностью читал свою повесть, что мы буквально катались по полу от смеха»[8]. Виктор Шкловский в одной из статей более подробно воспроизвёл её сюжет: «Через границу везут с собой деньги в платяной щётке. Щётку крадут. Тогда начинается бешеная скупка всех щёток на границе»[55]. Если Лидия Яновская писала, что повесть Лунца была озаглавлена «Двенадцать щёток»[3], то литературоведы Мария Котова и Олег Лекманов выдвинули предположение о другом варианте названия — «Через границу»[55].
Современники Ильфа и Петрова вспоминали также о реальных событиях, которые могли повлиять на фабулу романа. Так, в вышедшей в Париже книге «На переломе. Три поколения одной московской семьи» мемуарист рассказал о вагонном знакомстве с пожилыми дамами, закопавшими в 1918 году свои бриллианты под колонной собственного особняка; по словам бывших помещиц, их сокровища были достаточно быстро обнаружены новой властью. О нескольких сотнях золотых и серебряных предметов, найденных в Саратовской губернии, сообщил в 1928 году журнал «Огонёк»[56].
Несмотря на то, что сама идея сюжета в 1920-х годах «носилась в воздухе», наиболее вероятными литературными предшественниками «Двенадцати стульев» являются, по мнению Юрия Щеглова, два произведения, написанные в конце XIX века, — это рассказы Конан Дойла «Шесть Наполеонов» и «Голубой карбункул»[56][57]. В одном из них мошенник, спасаясь от преследования полиции, прячет чёрную жемчужину Боржиа в гипсовый бюст Наполеона, сохнущий в мастерской; в другом похититель алмаза использует в качестве «временного хранилища» гуся[56]. В «Шести Наполеонах» интрига строится вокруг выпадения одинаковых бюстов из сферы внимания заинтересованного лица, после чего происходит раздробление всей серии скульптур на части; в романе Ильфа и Петрова воробьяниновские стулья подобным же образом уходят из-под контроля владельца, а во время аукциона обретают новых хозяев[8].
Напрасно спорили рецензенты о том, удался или не удался Ильфу и Петрову авантюрный сюжет и кому они больше подражали в его развитии — плутовскому роману XVIII века, детективным рассказам Конан Дойла или приключенческой повести Лунца… Схема авантюрного романа в «Двенадцати стульях»… использована пародийно: пародия помогала иронически осветить изображаемое[3].
Влияния. Цитатность
Исследователи, анализируя роман Ильфа и Петрова, пришли к выводу, что в нём почти нет предложений, в котором не содержалось бы реминисценций, пародий, обыгрывания стилистических приёмов других авторов. По словам Юрия Щеглова, «каждая фраза „Двенадцати стульев“ есть цитата»[8]. Общая атмосфера романа восходит к южнорусской литературной школе, поэтому в нём угадываются интонации Валентина Катаева, Исаака Бабеля, Юрия Олеши, Льва Славина[3]. Тематическое и стилистическое родство с Булгаковым в первой части дилогии обозначено лишь пунктирно; в «Золотом телёнке» оно проявляется больше. По словам Лидии Яновской, творческое тяготение соавторов и Михаила Афанасьевича было взаимным[3]: так, сочетание «огнедышащий суп», о котором мечтает Ипполит Матвеевич по окончании рабочего дня, нашло продолжение в «Мастере и Маргарите» («огнедышащий борщ», кость из «огнедышащего озера»)[8].
В первой половине 1920-х годов некоторые представители сообщества «Серапионовы братья» предложили активнее использовать творческие традиции Запада — в частности, учиться у Диккенса и Конан Дойла умению работать в остросюжетном жанре. Ильф и Петров не входили в состав объединения, однако именно они оказались в авангарде этой программы. Исследователи отмечают, что при создании образов Альхена и Кислярского соавторами использовались диккенсовские художественные приёмы — речь идёт о стремлении акцентировать внимание на одной характерной детали, присущей персонажу[8]. Влияние Конан Дойла обнаруживается не только в фабуле «Двенадцати стульев», но и в отдельных эпизодах. К примеру, после неудачи на аукционе Бендер обращается за спасением к беспризорным; те легко справляются с поручением и приносят Остапу «агентурные сведения», позволяющие продолжить «концессию». Подобное умение находить общий язык с уличными детьми отличает и Шерлока Холмса, который прибегает к их помощи в таких произведениях, как «Этюд в багровых тонах» и «Знак четырёх»[8].
В романе Ильфа и Петрова улавливаются чеховские, толстовские, гоголевские мотивы[8]. «Присутствие» Николая Васильевича литературоведы выделяют отдельно, полагая, что и структура «Двенадцати стульев» сопоставима с композицией «Мёртвых душ», и включённые в основной текст внесюжетные зарисовки и этюды сравнимы с авторскими отступлениями из поэмы о похождениях Чичикова[3]. Свидетельством высокой плотности гоголевских заимствований является диалог Воробьянинова и священника в гостинице «Сорбонна»: «Я вам морду набью, отец Фёдор! — Руки коротки». В первой реплике, по мнению Юрия Щеглова, содержится отсылка к «Повести о том, как поссорились Иван Иванович с Иваном Никифоровичем»; вторая выводит на пьесу «Ревизор»[8].
«Двенадцать стульев» насыщены явными и неявными музыкально-поэтическими цитатами. Так, в названии главы «Муза дальних странствий» содержится строчка Николая Гумилёва «Ведь ты во всём её убранстве / Увидел Музу Дальних Странствий»[1]. Название другой главы — «От Севильи до Гренады» — воспроизводит фрагмент серенады Дон Жуана из драматической поэмы Алексея Константиновича Толстого (музыка Петра Ильича Чайковского)[1]. Слова, признесённые Бендером во время разговора со старгородским дворником («Белой акации, цветы эмиграции»), представляют собой видоизменённую цитату из романса «Белой акации гроздья душистые», авторство которой приписывают А. А. Пугачёву (версия Одесского и Фельдмана)[1] и Волину-Вольскому (предположение Щеглова)[8]. Песенка, напеваемая Остапом в гостинице — «А теперь уже танцует шимми целый мир», — является отрывком из оперетты Имре Кальмана «Баядера»[8].
Художественные приёмы
Афоризмы
Мосье, же не манж па сис жур.
При наличии отсутствия.
Пишите письма!
Мы чужие на этом празднике жизни.
Теперь я уже должен жениться, как честный человек.
Наших в городе много?
Утром — деньги, вечером — стулья.
Остапа несло.
У меня все ходы записаны.[10]
Интерес к парадоксу как к художественному приёму, стирающему привычное восприятие картин жизни, обнаружился у Ильфа в середине 1920-х годов, когда молодой сотрудник «Гудка» начал собирать в специальную тетрадь газетные вырезки с нелепыми заголовками, объявлениями, фамилиями. Позже часть этих заготовок вошла в «Двенадцать стульев»[3]. Как отмечала Лидия Яновская, соавторы любили разрушать традиционные, «истёршиеся» от частого употребления обороты. Так, из устоявшегося выражения «Он пел не лишённым приятности голосом» писатели исключили частицу «не» — благодаря ломке стереотипов в сцене с пением отца Фёдора появился оттенок драмы[3]. В эпизоде с участием инженера Щукина произошло внезапное наделение водопроводного устройства человеческими качествами — в результате ситуация окрасилась мягкой иронией: «Кран захлебнулся и стал медленно говорить что-то неразборчивое»[3].
Иные художественные средства использованы при создании образа Эллочки Щукиной: её «людоедский» словарь сформирован за счёт соединения гиперболы, сарказма и имитации «мещанской речи»[3]. Элементы пародии органично включены в текст всего романа: они присутствуют в портретах персонажей, репликах, лозунгах, фамилиях, вставных новеллах о московских вокзалах, письмах отца Фёдора жене[3][8]. К примеру, название одной из поэм Ляписа-Трубецкого — «О хлебе, качестве продукции и о любимой» — иронично обыгрывает заголовки таких агитационных стихотворений Маяковского, как «О „фиаско“, „апогеях“ и других неведомых вещах»[1]. Плакат в васюковской шахматной секции («Дело помощи утопающим…») является комической «перелицовкой» тезиса классиков марксизма-ленинизма о том, что «освобождение рабочих должно быть делом самих рабочих»[1].
По словам Юрия Щеглова, соавторы использовали пародию даже при разработке «вечных тем»: так, в 1-й главе романа упоминание о многочисленных похоронных конторах, находящихся в городе N, соседствует с описанием похожего на «старую надгробную плиту» стола Ипполита Матвеевича (ведающего в загсе вопросами любви и смерти) и сценой внезапного появления гробовщика Безенчука, несущего в себе мотив «раздатчика парадоксов жизни и смерти». Эта череда повторов-символов, предваряющая повествование о кончине мадам Петуховой, необходима Ильфу и Петрову «для ироничного возвышения тривиального»[8].
Язык Ильфа и Петрова богат внезапными столкновениями: эффект неожиданности, именно потому, что он — эффект неожиданности, требует толчков, стилистических столкновений, тех непредвиденных ударов, при помощи которых высекаются искры смеха[3].
Запрет романа (1949—1956)
Критик Анатолий Тарасенков, написавший в 1929 году в «Литературной газете», что роман соавторов «должен быть всячески рекомендован читателю»[5], через девятнадцать лет, работая в издательстве «Советский писатель», получил строгий выговор «за выход в свет книги Ильфа и Петрова без её предварительного прочтения»[2]. Дисциплинарное взыскание было вынесено на основании постановления секретариата Союза советских писателей от 15 ноября 1948 года. В документе, осудившем выход «Двенадцати стульев» и «Золотого телёнка», говорилось, что выпуск дилогии тиражом 75 000 экземпляров является «грубой политической ошибкой»: «Редактор отдела советской литературы тов. Тарасенков даже не прочёл этой книги, целиком доверившись редактору книги т. Ковальчик»[2]. В перечне причин, по которым книга Ильфа и Петрова объявлялась «вредной», указывалось, что авторы романа о поисках сокровищ, не сразу поняв направлений общественного развития в СССР, «преувеличили место и значение нэпманских элементов»[2]. Директивная часть постановления поручала критику Владимиру Ермилову подготовить для «Литературной газеты» публикацию, «вскрывающую клеветнический характер книги Ильфа и Петрова»[2].
Месяц спустя на имя секретаря отдела пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) Георгия Маленкова поступила докладная записка, авторы которой — Дмитрий Шепилов, Ф. Головченко и Н. Маслин — сообщили, что в романе «Двенадцать стульев» содержатся «пошлые, антисоветские остроты»; особое внимание обращалось на реплики, произносимые Бендером во 2-м доме Старсобеса. Первомайская демонстрация, по словам подписавших документ партийных деятелей, изображена в романе карикатурно; история с пуском первого старгородского трамвая выглядит как «затея головотяпов»; редакции советских газет представлены как сообщество «придурковатых работников»[2].
В записке напоминалось, что годом ранее отдел пропаганды и агитации отказался дать согласие на переиздание дилогии Ильфа и Петрова, однако «издательство не посчиталось с этим указанием и выпустило романы»[2]. На основании этого документа был подготовлен проект постановления секретариата ЦК ВКП(б) «О грубой политической ошибке издательства „Советский писатель“ от 14 декабря 1948 года», после которого директор издательства Г. А. Ярцев был освобождён от занимаемой должности[2].
Все перипетии «разоблачения» Ильфа и Петрова в ту пору огласки не получили: цитируемые выше документы осели в архиве под грифом «секретно»… Писательское руководство ответственности избежало, директора же издательства действительно заменили, как того и требовал Агитпроп. Обещание поместить в «Литературной газете» статью, «вскрывающую клеветнический характер» дилогии, секретариат ССП не выполнил[58].
Запрет произведений Ильфа и Петрова продолжался с 1949 по 1956 год[59]. Однако и в годы ранней хрущёвской оттепели, позволившей «реабилитировать» дилогию об Остапе Бендере, выход романов сопровождался комментариями, которые свидетельствовали о продолжении литературоведческих дискуссий вокруг идеологических взглядов соавторов. Так, писатель Константин Симонов, участвовавший в выпуске первого после семилетней паузы издания «Двенадцати стульев» и «Золотого телёнка» («Художественная литература», 1956), отметил в предисловии, что Ильф и Петров были «людьми, глубоко верившими в победу светлого и разумного мира социализма над уродливым и дряхлым миром капитализма»[60].
Экранизации
ГодСтранаНазваниеОригинальное названиеРежиссёрОстап БендерКиса ВоробьяниновОтец Фёдор1933Чехословакия, ПольшаДвенадцать стульев[61]Czech: «Dvanáct křesel»,
Polish: «Dwanaście krzeseł»Мартин Фрич и Михал ВашинскийАдольф ДымшаВласта Буриан1936ВеликобританияПожалуйста, сидите![62]Keep your seats, please!Монти Бэнкс1938Германия13 стульев[63]13 StühleЙозеф ЭмерихХанс МозерХайнц Рюман1939ИталияВ бегах за наследством[64]L’Eredita in CorsaОресте БьянколиАнтонио ГрандузиоЭнрико Виарисио1945СШАДело в мешках[65]It’s in the Bag!Ричард Уоллес1945Швеция13 стульев[66]13 stolarБордже Ларссон1954ШвецияСемь чёрных бюстгальтеров[67]Sju svarta be-håГёста Бернхард1957Бразилия13 стульев[68]Treze cadeirasОскаритоЗэ ТриндадиЗэзэ Маседу1957ФРГСчастье лежит на улице[69]Das Glück liegt auf der StraßeФранц Антель1962КубаДвенадцать стульевLas Doce sillasАлеа Томас ГутьерресРейнальдо МиравальесЭнрике СантистебейнРене Санчес1966СССР12 стульевАлександр БелинскийИгорь ГорбачёвНиколай БоярскийРэм Лебедев1969Италия, ФранцияОдин из тринадцати[70]12+1Николас ГесснерШэрон ТейтВитторио Гассман1970СШАДвенадцать стульев[71]The Twelve ChairsМел БруксФрэнк ЛанджеллаРон МудиДом Делуиз1971СССР12 стульев[72]Леонид ГайдайАрчил ГомиашвилиСергей ФилипповМихаил Пуговкин1972ФРГРабе, Пилц и 13 стульев[73]Rabe, Pilz und dreizehn StuhleФранц Маришка1976СССР12 стульев[74]Марк ЗахаровАндрей МироновАнатолий ПапановРолан Быков1997АвстрияМой дедушка и 13 стульев[75]Mein Opa und die 13 stühleХельмут ЛонерТобиас МореттиОтто Шенк2004ГерманияДвенадцать стульев[76]Zwölf StühleУльрике ОттингерГеоргий ДелиевГеннадий СкаргаБорис Раев2005Россия, УкраинаДвенадцать стульевМаксим ПаперникНиколай ФоменкоИлья ОлейниковЮрий Гальцев2013ИталияНе в стульях счастье[77]La sedia della felicitàКарло Маццакурати
Первая экранизация романа была осуществлена в 1933 году, когда вышел в свет польско-чешский фильм «Двенадцать стульев», действие которого происходит в Варшаве и других городах. Роль Остапа, именуемого в картине Камилом Клепкой, исполнил актёр Адольф Дымша[3]. Через три года на экраны вышла английская комедия «Пожалуйста, сидите», режиссёр которой, взяв за основу сюжет романа Ильфа и Петрова, перенёс историю с поисками сокровищ в Манчестер[3].
К нереализованным кинопроектам относится совместная работа соавторов и режиссёра Льюиса Майлстоуна: в середине 1930-х годов Ильф и Петров, путешествуя по Соединённым Штатам, получили от него предложение поучаствовать в создании американской версии «Двенадцати стульев». Сохранилось письмо Ильфа жене, в котором Илья Арнольдович сообщал, что он вместе с Петровым пишет либретто для голливудского фильма: «Действие происходит в Америке, в за́мке, который богатый американец купил во Франции и перевёз к себе в родной штат». Идея осталась невоплощённой, судьба сценария (двадцати двух машинописных страниц) неизвестна[3].
Советские кинематографисты достаточно долго — вплоть до 1960-х годов — не обращались к творчеству Ильфа и Петрова. Наиболее заметными фильмами, поставленными по роману «Двенадцать стульев», считаются работы Леонида Гайдая (1971) и Марка Захарова (1976). Гайдай, приступая к двухсерийной картине, провёл пробы с двадцатью двумя актёрами — претендентами на роль Бендера; среди них были Евгений Евстигнеев, Спартак Мишулин, Владимир Высоцкий, Алексей Баталов, Владимир Басов, Михаил Козаков и многие другие; в качестве возможного кандидата съёмочная группа рассматривала также певца Муслима Магомаева. Существует легенда, что Арчил Гомиашвили, придя на кинопробы, сказал режиссёру: «Я и есть Бендер». Его попадание в образ великого комбинатора показалось Гайдаю самым убедительным. По словам Рогинского, «из всех исполнителей роли Остапа Гомиашвили самый цельный. Он вне системы, не потому что интеллигент, а потому что сверхчеловек»[59].
Лента Гайдая вызвала много откликов, в том числе и весьма резких. Так, киновед Евгений Марголит сообщил в «Новейшей истории отечественного кино», что Григорий Козинцев отреагировал на гайдаевскую экранизацию «Двенадцати стульев» дневниковой записью: «Хам, прочитавший сочинение двух интеллигентных писателей»[78]. Спустя годы Борис Рогинский отметил, что картину Гайдая отличают не только точность ритма и очень тщательный отбор актёров второго плана, но и умение почувствовать пародийность романа Ильфа и Петрова. Подтверждением этого является обстановка в доме отца Фёдора, напоминающая помещения в доме-музее Достоевского[59].
Вышедший пять лет спустя четырёхсерийный фильм Марка Захарова был воспринят критиками как «игра в „Двенадцать стульев“». Остап Бендер в исполнении Андрея Миронова напоминал в этой ленте персонажа «самого раннего, мелодраматического кинематографа», окружённого реальными людьми — отцом Фёдором (Ролан Быков) и Ипполитом Матвеевичем (Анатолий Папанов):
Киса буквально с каждым кадром вызывает всё больше симпатии и сострадания, получается, что чуть ли не он главный герой. Мало того, когда перед сеансом коллективной игры в Васюках он предостерегает Остапа: «Не надо. Побьют», зритель видит, что идиот Киса прав, в нём говорит здравый смысл, а Бендер… Бендер движется будто не по своей воле — к катастрофе[59].
Примечания
Литература
Категория:Книги по алфавиту
Категория:Романы Ильфа и Петрова
Категория:Сатирические романы
Категория:Романы 1928 года | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%B2%D0%B5%D0%BD%D0%B0%D0%B4%D1%86%D0%B0%D1%82%D1%8C%20%D1%81%D1%82%D1%83%D0%BB%D1%8C%D0%B5%D0%B2 |
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Fiji (Kifiji: Matanitu ko Viti; Kihindustani: फ़िजी, فِجی) ni nchi ya visiwani ndogo ya Melanesia katika Pasifiki yenye visiwa 322 na wakazi 844,330.
Fiji iko mashariki kwa Vanuatu, magharibi kwa Tonga na kusini kwa Tuvalu.
Kati ya visiwa vingi kuna 106 vyenye wakazi. Visiwa vikuu ni Vanua Levu na Viti Levu wanapokaa asilimia 87 za wakazi wote.
Mji mkuu ni Suva.
Lugha rasmi visiwani ni Kifiji, Kiingereza na Kihindustani kinachofanana na Kihindi na Kiurdu. Pia kuna lugha nyingine saba za asili (angalia orodha ya lugha za Fiji).
Jiografia
Fiji ni funguvisiwa iliyoko mbali na visiwa vigine vya Pasifiki. Iko takriban 2.100 km kaskazini kwa Auckland (New Zealand). Visiwa vyake 330 vina eneo la ardhi kavu la 18.270 km².
Fiji ina ukubwa wa kilomita za mraba 194,000, ambapo asilimia kumi tu ya eneo lote hilo ni ardhi, lingine likiwa maji ya bahari ya pasifiki.
Fiji inapatikana katika latitudo 176’ 53” kusini na 178’12” magharibi, lakini pia mstari wa kimataifa wa tarehe unaipa Fiji masaa sawa katika visiwa vyake vyote.
Pia Fiji inajumuisha visiwa vikubwa 322, ambavyo 106 kati ya hivyo vimevamiwa na wakazi ambao si wazaliwa wa eneo hilo, na pia kuna visiwa vingine vidogovidogo zaidi ya mia tano ambavyo pia hujumuishwa katika eneo la Fiji. Lakini kati ya visiwa hivyo ni visiwa viwili ambavyo vimeonekana kuchukua idadi kubwa ya watu ambavyo ni Viti Levu na Vanua levu.ambapo katika visiwa hivi hadi robo tatu ya wakazi wote wa Fiji hupatikana, na ndipo mji mkuun wa Fiji, Suva upo.
Maeneo mengine katika Fiji ni Nandi ambapo kuna uwanja wa ndege wa kimataifa, na Lautoka ambako kuna viwanda na shughuli nyingi za uzalishaji hufanyika hapo. Visiwa hivi vimesheheni milima, kiasi cha kufikia hadi mita 1300 kwa urefu, milima ambayo imetandwa na misitu.
Historia
Fiji ilijipatia uhuru wake kutoka katika utawala wa kikoloni wa Uingereza tarehe 10 Oktoba 1970.
Fiji hutawaliwa na Raisi akifutiwa na waziri mkuu, na baada ya hapo hufuatia Mwenyekitit wa Halmashauri ya Machifu.
Wakazi katika visiwa vya Fiji huzungumza lugha za Kiingereza na lugha ya Hindustani, lugha ambayo hufanana na Kihindi na Kiurdu.
Historia ya Fiji, inaonesha kuwa shughuli za ufinyanzi zimekuwepo katika visiwa hivyo kwa muda mrefu, hali inayoashiria kuwepo na ushahidi kuwa Fiji imekuwa ikikaliwa na watu tangu miaka 3500 hadi 1000 kabla ya Kristo.
Japokuwa jamii ya kabila la Lapita ndio wanaoaminika kuwa wa kwanza kuishi katika visiwa vya Fiji, lakini hali hii inatiliwa shaka kutokana na jamii ya kabila la Wamelanesia kuwepo kwa wingi sana katika visiwa hivyo, hali inayoashiria kuwa pengine kabila hilo pia limekuwepo tangu kale,
Uchumi
Wakazi wa visiwa vya Fiji, wanaaminika kuwa walitokana na Wavivu wa masafa marefu ambao walifika katika visiwa hivyo zaidi ya miaka 3500 iliyopita.
Shughuli za ufinyanzi katika jamii ya watu wa kabila la Lapita zimeonekana kutawala maeneo mengi sana katika visiwa vya Fiji.
Utamaduni katika visiwa vya Fiji umekuwa ukifanana sana na ule wa jamii ya Wamelanesia ambao hupatikana magharibi mwa bahari ya Pasifiki, lakini utamaduni huu umekuwa ukifananishwa sana na ule wa jamii za Samoa na Tonga.
Shughuli za biashara katika mataifa haya matatu yalianza muda mrefu kabla ya kuja kwa watawala wa Ulaya ambao kwa kiasi kikubwa wanaaminika kufika katika visiwa hivyo kwa usafiri wa boti ndogo ndogo maarufu kama kanuu ambazo zinaaminika kuwa zilitengenezwa na wakazi wa visiwa hivyo.
Zana mbalimbali za kufinyangwa zimekuwa zikipatikana katika visiwa vya Samoa na hata katika visiwa vya Marquesas zaidi ya kilometa elfu moja kutoka katika makao makuu ya Fiji.
Fiji inajulikana kama visiwa vya lugha nyingi, kwani lugha tofautitofauti zimekuwa zikipatikana katika visiwa hivyo, hali kadhalika historia ya visiwa hivyo inaonesha kuwepo kwa makabila ambayo yamekuwa yakihamahama kutoka kisiwa kimoja kwenda kingine.
Kwa muda wa karne moja hivi iliyopita, katika visiwa vya Fiji kumekuwa kukiibuka tamaduni tofautitofauti, hali iliyooashiria ubaguzi wa kikabila kuwepo, lakini imekuwa tofauti hii leo, ambapo, wakazi wa Fiji wamekuwa wakiishi kwa amani na wamekuwa wakikielezea kipindi hicho kama kipindi cha “na gauna ni tevoro” yaani "wakati wa shetani".
Mpelelezi wa kutoka Uholanzi aliyejulikana kama Abel Tasman, aliitembelea Fiji katika miaka ya 1643, akiwa anatafuta bara la Afrika kusini lililojulikana kama “the great Southern continent”.
Baada ya uhuru wa Fiji (1970) kutoka kwa Waingereza, yalifuata mapinduzi ya kijeshi yaliyotokea mwaka 1987, hali iliyosababishwa na wakazi wa Fiji kulaumu serikali yao kutawaliwa na watu wa kabila la Indofijian au Wahindi.
Mwaka 1990, katiba mpya katika utawala wa Fiji iliundwa ambayo ilichukua nafasi ya ile ya awali ambayo ilikuwa ikiegamia upande wa makabila kwa kiasi kikubwa.
Siasa
Siasa ya Fiji hufanyika kwa mtindo wa kuchagua wawakilishi bungeni, ambapo waziri mkuu ndiye mkuu wa serikali husika, na rais ndiye mkuu wa visiwa vyote vya Fiji.
Halikadhalika uchaguzi katika Fiji huhusisha vyama vingi ambapo serikali ya Fiji hutawala maamuzi yote ya nchini humo, lakini chini ya demokrasia na utawala wa sheria.
Tangu uhuru katika visiwa vya Fiji kumekuwepo na mapinduzi ya kijeshi mara nne: mara mbili mwaka 1987, mara moja mwaka 2000, na mara moja mwaka 2006, lakini kwa ujumla, jeshi nchini humo limekuwa likishikilia madaraka ya moja kwa moja au kupitia kwa serikali iliyopo madarakani tangu mwaka 1987.
Tarehe 10 Aprili 2009, Rais Iloilo, aliifuta katiba ya nchi hiyo na kufutilia mbali mamlaka ya mahakama akajitangaza kuwa rais wa visiwa hivyo, lakini baadaye alianzisha tena utawala wa kikatiba hali iliyopelekea mwenyewe kutolewa madarakani kwa kubainika alikuwa madarakani kinyume cha katiba.
Tarehe 13 Julai 2009, Fiji ilitolewa katika mkutano wa visiwa vinavopatikana katika bahari ya Pasifiki kutokana na kushindwa kwake kuendesha uchaguzi kwa njia ya kidemokrasia.
Hatimaye tarehe 17 Septemba 2014 uchaguzi huru ulifanyika na kukipa ushindi chama cha FijiFirst (59.2%).
Wakazi
Idadi kubwa ya wakazi wa Fiji inajumuisha wazaliwa halisi wa Fiji ambapo watu wa kabila la Melanesia huchukua asilimia 54.3 ya wakazi wote wa Fiji, wakati wale wanaojulikana kama Indo-Fijiana huweza kufikia asilimia 38.1, na wengine ni wahamiaji kutoka katika mataifa ya Ulaya waliohamia nchini humo kwa wingi hususani katika karne ya 19.
Lakini kwa ujumla kiasi cha watu wa Kihindi kimekuwa kikipungua siku hadi hadi siku kutokana na wengi kuhama katika visiwa hivyo kwa sababu tofautitofauti, lakini vilevile kumekuwa na kiasi kidogo cha watu kutoka katika visiwa vya Solomoni ambao wengi wao walikuja visiwani hapo kama wafanyakazi.
Imani za dini
Dini ni moja ya mambo ambayo hutofautisha jamii mbalimbali katika visiwa vya Fiji, hususani baina ya makabila ya Wafiji wenyewe na Wahindi waishio Fiji, ambapo asilimia kubwa ya wenyeji ni Wakristo, wakati watu kutoka India ni Wahindu (70%) na halikadhalika Waislamu (17.9%).
Kwa ujumla dini katika visiwa vya Fiji imetawaliwa na Wakristo ambao ndio wamechukua asilimia kubwa ya idadi ya watu (64,5%), japokuwa Wakristo hawa wanajumuisha madhehebu tofautitofauti kama vile Wamethodisti, Wakatoliki, Wapentekoste, Wasabato na Waanglikana.
Wakazi wa visiwa vya Fiji hujishughulisha na shughuli mbalimbali kama vile uchimbaji wa madini, uvuvi, uvunaji wa mafuta, na biashara.
Utamaduni
Utamaduni katika visiwa hivi hujumuisha tamaduni kutoka makabila tofautitofauti yakiwemo ya Wafiji wenyewe, Wahindi, Wachina na Wazungu ambao kwa ujumla huwa na tamaduni tofatitofauti.
Chakula wanachokula wakazi wa visiwa hivi hujumuisha chakula kitokanacho na mazao ya bahari maarufu kama sea foods, vile vile kuna shughuli tofautitofauti za kitamaduni kama sanaa, uchongaji, muziki na michezo mbalimbali.
Kwa hakika utamaduni wa asili unapewa kipaumbele kama sehemu ya maisha ya kila siku kati wa wakazi wengi, lakini hivi karibuni kumekuwako na mwingiliano wa tamaduni kutoka nchi mbalimbali.
Kwa upande wa sikukuu Fiji husherehekea sikukuu mbalimbali kama vile Mwaka mpya, Maulid, Ijumaa kuu, Pasaka, Siku ya Fiji, Krismasi n.k.
Katika visiwa hivi mchezo mkuu ni Rugby ambapo wachezaji kutoka Fiji wameshiriki mashindano mbalimbali kimataifa.
Kwa ujumla visiwa vya Fiji vimekuwa vivutio kwa watu kutoka maeneo mbalimbali duniani kwenda kwa ajili ya mengi, lakini zaidi mapumziko, hii ni kutokana na hali tulivu iliyopo visiwani hapo, maji maangavu na pia ukarimu wa wakazi wa Fiji.
Tazama pia
Orodha ya nchi kufuatana na wakazi
Viungo vya nje
Serikali
Taarifa za jumla
at UCB Libraries GovPubs
at Curlie
from the BBC News
Wikimedia Atlas of Fiji
from International Futures
Safari
Official Fiji Visitors Bureau website
News, Sport and Weather from Fiji's leading newspaper
at Seacology
Jamii:Nchi za visiwa
Jamii:Nchi za Australia na Pasifiki
Jamii:Visiwa vya Pasifiki
Jamii:Fiji
Jamii:Jumuiya ya Madola | https://sw.wikipedia.org/wiki/Fiji |
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アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 – 1992年4月6日)は、アメリカの作家、生化学者(ボストン大学教授)である。その著作は500冊以上を数える[1]。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが[2][注 1]、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。
日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの片仮名表記があり、前者での表記が一般的であるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い/ˈaɪzək ˈæzɪmɒv/である[注 2]。
ジュブナイル作品では<b data-parsoid='{"dsr":[2221,2235,3,3]}'>ポール・フレンチ</b>という筆名を用いた[3][4]。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた[5][6]。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた[7]。
生涯
生い立ち
アシモフは1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて[8]、父ユダ・アジモフ (Judah Azimov、Judah Ozimov) と母アンナ・レイチェル (Anna Rachel Azimov、Anna Rachel Ozimov) の間に[9]ユダヤ系ロシア人<b data-parsoid='{"dsr":[3542,3565,3,3]}'>イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ (Исаак Юдович Озимов) として[10]生まれた[注 3]。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない[11][注 4]。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った[9]。10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる[12]。本人によれば、父親の経営するにはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという[13]。
家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した[14][15]。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった[16]。1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした[17]。
大学と就職
1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した[18]。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた[19]。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した[15]。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った[14]。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した[20]。
1946年に大学院に復学し[21]、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった[15]。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった[22]。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており[21]、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった[23]。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった[24]。
1955年に准教授となり終身の在職権を得たが[25]、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた[26]。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた[25]。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった[27]。1979年7月、ボストン大学教授に昇任する[28]。
1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが[29]、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ[30]。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した[31]。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。
執筆活動
アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり[32]、科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man's Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ[33]、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するを受賞した[34][35]。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した[36]。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した[37]。その際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。[38]
1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した[39]。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門[40]とネビュラ賞 長編小説部門[41]を受賞した[42]。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆した[43][44]ファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり[45]、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。
病気と死
アシモフは1992年4月6日に没した[35]。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である[46]。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life (我が良き生涯)で明らかにされた[47]。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した[1]。
人物
アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2つの言語が使えると述べている[48]が、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。
作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している[49]。飛行機嫌いで[50]、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである[51]。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ[52]。普段[53]と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ[54]。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の逆)でもあり[55]、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。
アシモフは人道主義者で、の会長を務めた[56]。かつ合理主義者だった[57]。純粋な信仰心に反対することはなかったが[58]、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた[59]。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、サイコップの創立者の一人である[60]。
ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった[61]。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した[62]。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 In Joy Still Felt の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であったアビー・ホフマンとの会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった[63]。アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派についた[64]。また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、ポール・アンダースンは共産主義の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった[65][66]。
このほか、によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた[67]。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth (怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている[68]。
メンサの会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった[69]。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが[70]、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した[37]。アシモフは同じく会員であったマービン・ミンスキーとカール・セーガンの2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている[71]。
彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星[72]、アシモフという火星のクレーター[73]、SFのアイザック・アシモフ賞[74]がある。また出身の高校も現在(2013年)はアイザック・アシモフ高校という名前になっている[75]。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーと同じ「Rダニール」と名付けられた[76]。世界初のロボットスーツHALを開発した山海嘉之はアシモフの影響を受けている[77]。本田技研工業の人型ロボットASIMOは名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の "V" がない)、開発者はまったく関係はないとしている[78][注 5]。アシモフはロボット工学を造語したが[80][81]、「ロボット工学の父」[82][83]と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフに影響を受けていた[84][85]。
SF
アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる[86][87](日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野でヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回、ローカス賞を4回受賞している。
初期
10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた[88]。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけていき、クリフォード・シマックやロバート・ハインラインらとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた[89]。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた[90]。
キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall, 1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている[91]。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている[92][35]。彼は短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で次のように述べている。
『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる"古典"を書いたことがはっきりした。—アイザック・アシモフ, 『夜来たる』 [93]
短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性」(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline, 1948年)という科学論文のパロディーを書いた[94]。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した[95]。
ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした[96]。
その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していったことから二人は疎遠となり[97]、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌の編集長、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』 (F&SF) 誌のアンソニー・バウチャー、両編集長との関係を深めた。前者は長編『鋼鉄都市』[98]、後者は F&SF 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった[99]。
ファウンデーション
アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である[100]。
1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた[101][102]。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した[103][104]。
1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは[43][44]、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に[105]、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した[106]。以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた[107]。
アシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した[108]。
ロボット
ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I, Robot, 1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された[109]。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた[109]。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている[110]。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門[111]と1977年のネビュラ賞 中編小説部門[112]、ローカス賞 長篇部門[113]を受賞し[114]、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。
一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている[115][116][117]。
ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた[118]。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。
専業作家以降
1958年にボストン大学を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。
アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた[119]。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。
アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた[120][121]。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞[122]した後もひきつづいて「編者」を務めた[123]。さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門[40]とネビュラ賞 長編小説部門[41]を受賞した。1992年の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した[124]。
1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov's Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov's Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた[125]。
マーティン・H・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた[126]。
他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。
推理小説
アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており[39]、推理小説作家としても評価を受けている[127][128]。
純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている[39]。ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる[129]。
『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた[130]。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers (2003年)にまとめられた。
アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して[131]、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である[128]。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている[132]。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。
『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)[133]『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。
ノンフィクション
アシモフは科学解説者としてもよく知られている。ファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる[134]。記事はエスクァイア、、サタデー・イブニング・ポストなどにも寄稿した[135]。
1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (The Chemicals of Life) 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した[136]。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった[137]。
科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(The Intelligent Man's Guide to Science, 1960年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた[138]。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた[139]。また『宇宙を作る元素』(Building Blocks of the Universe, 1957年)はエジソン財団賞を[140]、血液についての著作『生きている川』(The Living River, 1960年)はアメリカ心臓協会のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた[141]。さらに、1967年にはアメリカ科学振興協会から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている[142]。
アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (Asimov's Guide to the Bible) を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた[143]。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている[144][145]。
そのほか、科学以外の分野では歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説[146]、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作も残した[147]。
彼はまた、3冊の自伝、すなわち In Memory Yet Green (1979年、『アシモフ自伝I』)、In Joy Still Felt (1980年、『アシモフ自伝II』)、I, Asimov: A Memoir (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。
3番目の自伝、I, Asimov: A Memoir は1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した[148]。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。
他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(Thinking About Thinking, 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(Science: Knock Plastic, 1967年)など。
また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、Opus 100 (1969), Opus 200 (1979), Opus 300 (1984) を刊行しており、Opus 200 は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている[注 6]。
代表的著作
SF
長編
1950年 - Pebble In The Sky (『宇宙の小石』)
1951年 - The Stars, Like Dust (『暗黒星雲のかなたに』)
1951年 - Foundation (『ファウンデーション』)
1952年 - Foundation and Empire (『ファウンデーション対帝国』)
1952年 - The Currents of Space (『宇宙気流』)
1953年 - Second Foundation (『第二ファウンデーション』)
1954年 - The Caves of Steel (『鋼鉄都市』)
1955年 - The End of Eternity (『永遠の終り』)
1957年 - The Naked Sun (『はだかの太陽』)
1966年 - Fantastic Voyage (『ミクロの決死圏』)
1972年 - The Gods Themselves (『神々自身』)
1982年 - Foundation's Edge (『ファウンデーションの彼方へ』)
1983年 - The Robots of Dawn (『夜明けのロボット』)
1985年 - Robots and Empire (『ロボットと帝国』)
1986年 - Foundation and Earth (『ファウンデーションと地球』)
1987年 - Fantastic Voyage II: Destination Brain (『ミクロの決死圏 2 - 目的地は脳』)
1988年 - Prelude to Foundation (『ファウンデーションへの序曲』)
1989年 - Nemesis (『ネメシス』)
1993年 - Forward the Foundation (『ファウンデーションの誕生』)
短編集
1950年 - I, Robot (『われはロボット』)
1955年 - The Martian Way and Other Stories (『火星人の方法』)
1957年 - Earth Is Room Enough (『地球は空き地でいっぱい』)
1959年 - Nine Tomorrows (『停滞空間』)
1964年 - The Rest of the Robots (『ロボットの時代』)
1968年 - Asimov's Mysteries (『アシモフのミステリ世界』)
1969年 - Nightfall and Other Stories (『夜来たる』『サリーはわが恋人』)
1972年 - The Early Asimov (アシモフ初期作品集『カリストの脅威』『ガニメデのクリスマス』『母なる地球』)
1975年 - Buy Jupiter and Other Stories (『木星買います』)
1976年 - The Bicentennial Man and Other Stories (『聖者の行進』)
1982年 - The Complete Robot (『コンプリート・ロボット』)
1983年 - The Winds of Change and Other Stories (『変化の風』)
1988年 - Azazel (『小悪魔アザゼル18の物語』)
1995年 - Gold (『ゴールド-黄金』)
1996年 - Magic
ロバート・シルヴァーバーグによる長編化作品
1990年 - Nightfall (『夜来たる (長編版)』)
1991年 - The Ugly Little Boy (『停滞空間』の長編化)
1992年 - The Positronic Man (『アンドリューNDR114』)
ジュヴナイル
ポール・フレンチ名義
1952年 - David Starr, Space Ranger (『天狼星 (シリウス)の侵略』)
1953年 - Lucky Starr and the Pirates of Asteroids (『小惑星 (アステロイド)の海賊』)
1954年 - Lucky Starr and the Oceans of Venus
1956年 - Lucky Starr and the Big Sun of Mercury (『水星基地のなぞ』)
1957年 - Lucky Starr and the the Moons of Jupiter (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種)
1958年 - Lucky Starr and the Rings of Saturn (『太陽系の侵入者』)
ジャネット・アシモフとの共著
1983年 - Norby, the Mixed-up Robot
1984年 - Norby's Other Secret
1985年 - Norby and the Lost Princess
1985年 - Norby and the Invaders
1986年 - Norby and the Queen's Necklace
1987年 - Norby Finds a Villain
1988年 - Norby Down to Earth
1989年 - Norby and Yobo's Great Adventure
1990年 - Norby and the Oldest Dragon
1991年 - Norby and the Court Jester
推理小説
長編
1958年 - The Death Dealers (後に A Whiff of Death に改題、『象牙の塔の殺人』)
1976年 - Murder at the ABA (『ABAの殺人』)
短編集
1974年 - Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会1』)
1976年 - More Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会2』)
1980年 - Casebook of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会3』)
1983年 - The Union Club Mysteries (『ユニオン・クラブ綺談』)
1984年 - Banquets of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会4』)
1986年 - The Best Mysteries of Isaac Asimov
1990年 - Puzzles of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会5』)
2003年 - The Return of Black Widowers
ノンフィクション
1954年 - The Chemicals of Life (『生命の化合物』)
1956年 - Inside the Atom (『原子の内幕 - 百万人の核物理学入門』)
1957年 - Only a Trillion (『たった一兆』)
1958年 - The World of Nitrogen (『窒素の世界』)
1960年 - The Intelligent Man's Guide to Science
1960年 - The Living River
1962年 - Life and Energy
1963年 - View from a Height (『空想自然科学入門』)
1963年 - From Earth to Heaven (『地球から宇宙へ』)
1964年 - The Human Brain (『脳 - 生命の神秘をさぐる』)
1964年 - Adding a Dimension (『次元がいっぱい』)
1964年 - Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology, Doubleday (1982年改訂、『科学技術人名事典』 皆川 義雄 (訳) 共立出版、1971年)
1965年 - Of Time and Space and other things (『時間と宇宙について』)
1965年 - A Short History of Chemistry (『化学の歴史』)
1966年 - The Neutrino (『ニュートリノ』)
1967年 - Is Anyone There? (『生命と非生命のあいだ』)
1968年 - Science, Numbers and I
1969年 - Opus 100
1969年 - Twenty Century Discovery (『発見、また発見!』)
1971年 - The Stars in their Courses (『わが惑星、そは汝のもの』)
1974年 - Of Matters Great and Small (『アジモフ博士の極大の世界・極小の世界』)
1974年 - Our World in Space
1976年 - The Planet that Wasn't (『存在しなかった惑星』)
1978年 - Quasar, Quasar, Burning Bright (『輝けクエーサー』)
1979年 - Isaac Asimov's Book of Facts (『アシモフの雑学コレクション』 星新一(編訳))
1979年 - The Road to Infinity (『アジモフ博士の地球・惑星・宇宙』)
1979年 - Opus 200 (『アシモフ博士の世界』)
1981年 - Change! (『変わる!』)
1981年 - Views of the Universe
1982年 - The Sun Shine Bright (『アジモフ博士の輝け太陽』)
1983年 - Counting the Eons (『アジモフ博士の地球の誕生』『アジモフ博士の宇宙の誕生』)
1984年 - X Stands for Unknown (『未知のX』)
1984年 - Opus 300
1985年 - Asimov's Guide To Halley's Comet (『アジモフ博士のハレー彗星ガイド』)
1985年 - The Subatomic Monster (『素粒子のモンスター』)
1986年 - The Dangers of Intelligence and other science essays (『真空の海に帆をあげて』)
1987年 - Far as Human Eye Could See (『見果てぬ時空』)
1988年 - The relativity of Wrong (『誤りの相対性』)
1989年 - Asimov's Chronology of Science and Discovery, Harper & Row (『アイザック・アシモフの科学と発見の年表』 小山慶太・輪湖博(訳) 丸善、1992年)
1990年 - Out of the Everywhere (『人間への長い道のり』)
1991年 - The Secret of the Universe (『宇宙の秘密』)
1991年 - Asimov's Chronology of the World, HarperCollins (『アイザック・アシモフの世界の年表』 川成洋(訳) 丸善、1992年)
1995年 - Breakthroughs in Science (『アシモフの科学者伝』〈地球人ライブラリー〉 木村繁(訳) 小学館、1995年)
脚注
注釈
出典
参考文献
Text "和書" ignored (help)ISBN 4-15-203239-1 (上巻)、ISBN 4-15-203240-5(下巻)。
Text "和書" ignored (help)ISBN 4-15-203285-5 (上巻)、ISBN 4-15-203286-3 (下巻)。
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関連項目
アーサー・C・クラーク
ロバート・A・ハインライン
ハーラン・エリスン
外部リンク
(in English)
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(アシモフ作品の日本語訳の出版最大手) (in Japanese)
(詳細な翻訳作品リスト)(in Japanese)
at the Internet Speculative Fiction Database
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%95 |
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Mahabharata (Sanskerta: महाभारत) adalah sebuah karya sastra kuno yang berasal dari India. Secara tradisional, penulis Mahabharata adalah Begawan Byasa atau Vyasa. Buku ini terdiri dari delapan belas kitab, maka dinamakan Astadasaparwa (asta = 8, dasa = 10, parwa = kitab). Namun, ada pula yang meyakini bahwa kisah ini sesungguhnya merupakan kumpulan dari banyak cerita yang semula terpencar-pencar, yang dikumpulkan semenjak abad ke-4 sebelum Masehi.
Secara singkat, Mahabharata menceritakan kisah konflik para Pandawa lima dengan saudara sepupu mereka sang seratus Korawa, mengenai sengketa hak pemerintahan tanah negara Astina. Puncaknya adalah perang Bharatayuddha di medan Kurusetra dan pertempuran berlangsung selama delapan belas hari.
Pengaruh dalam budaya
Selain berisi cerita kepahlawanan (wiracarita), Mahabharata juga mengandung nilai-nilai Hindu, mitologi dan berbagai petunjuk lainnya. Oleh sebab itu kisah Mahabharata ini dianggap suci, teristimewa oleh pemeluk agama Hindu. Kisah yang semula ditulis dalam bahasa Sanskerta ini kemudian disalin dalam berbagai bahasa, terutama mengikuti perkembangan peradaban Hindu pada masa lampau di Asia, termasuk di Asia Tenggara.
Di Indonesia, salinan berbagai bagian dari Mahabharata, seperti Adiparwa, Wirataparwa, Bhismaparwa dan mungkin juga beberapa parwa yang lain, diketahui telah digubah dalam bentuk prosa bahasa Kawi (Jawa Kuno) semenjak akhir abad ke-10 Masehi. Yakni pada masa pemerintahan raja Dharmawangsa Teguh (991-1016 M) dari Kadiri. Karena sifatnya itu, bentuk prosa ini dikenal juga sebagai sastra parwa.
Yang terlebih populer dalam masa-masa kemudian adalah penggubahan cerita itu dalam bentuk kakawin, yakni puisi lawas dengan metrum India berbahasa Jawa Kuno. Salah satu yang terkenal ialah kakawin Arjunawiwaha (Arjunawiwāha, perkawinan Arjuna) gubahan mpu Kanwa. Karya yang diduga ditulis antara 1028-1035 M ini (Zoetmulder, 1984) dipersembahkan untuk raja Airlangga dari kerajaan Medang Kamulan, menantu raja Dharmawangsa.
Karya sastra lain yang juga terkenal adalah Kakawin Bharatayuddha, yang digubah oleh mpu Sedah dan belakangan diselesaikan oleh mpu Panuluh (Panaluh). Kakawin ini dipersembahkan bagi Prabu Jayabhaya (1135-1157 M), ditulis pada sekitar akhir masa pemerintahan raja Daha (Kediri) tersebut. Di luar itu, mpu Panuluh juga menulis kakawin Hariwangśa pada masa Jayabaya, dan diperkirakan pula menggubah Gaţotkacāśraya pada masa raja Kertajaya (1194-1222 M) dari Kediri.
Beberapa kakawin lain turunan Mahabharata yang juga penting untuk disebut, di antaranya adalah Kŗşņāyana (karya mpu Triguna) dan Bhomāntaka (pengarang tak dikenal) keduanya dari zaman kerajaan Kediri, dan Pārthayajña (mpu Tanakung) di akhir zaman Majapahit. Salinan naskah-naskah kuno yang tertulis dalam lembar-lembar daun lontar tersebut juga diketahui tersimpan di Bali.
Di samping itu, mahakarya sastra tersebut juga berkembang dan memberikan inspirasi bagi berbagai bentuk budaya dan seni pengungkapan, terutama di Jawa dan Bali, mulai dari seni patung dan seni ukir (relief) pada candi-candi, seni tari, seni lukis hingga seni pertunjukan seperti wayang kulit dan wayang orang. Di dalam masa yang lebih belakangan, kitab Bharatayuddha telah disalin pula oleh pujangga kraton Surakarta Yasadipura ke dalam bahasa Jawa modern pada sekitar abad ke-18.
Dalam dunia sastra populer Indonesia, cerita Mahabharata juga disajikan melalui bentuk komik yang membuat cerita ini dikenal luas di kalangan awam. Salah satu yang terkenal adalah karya dari R.A. Kosasih. Pada era budaya populer khususnya di bidang pertelevisian, kisah Mahabharata ditayangkan oleh STAR Plus dan antv dengan judul Mahabharat.
Versi-versi Mahabharata
Di India ditemukan dua versi utama Mahabharata dalam bahasa Sanskerta yang agak berbeda satu sama lain. Kedua versi ini disebut dengan istilah "Versi Utara" dan "Versi Selatan". Biasanya versi utara dianggap lebih dekat dengan versi yang tertua.
Daftar kitab
Mahābhārata merupakan kisah epik yang terbagi menjadi delapan belas kitab atau sering disebut Astadasaparwa. Rangkaian kitab menceritakan kronologi peristiwa dalam kisah Mahābhārata, yakni semenjak kisah para leluhur Pandawa dan Korawa (Yayati, Yadu, Puru, Kuru, Duswanta, Sakuntala, Bharata) sampai kisah diterimanya Pandawa di surga.
Suntingan teks
Antara tahun 1919 dan 1966, para pakar di Bhandarkar Oriental Research Institute, Pune, membandingkan banyak naskah dari wiracarita ini yang asalnya dari India dan luar India untuk menerbitkan suntingan teks kritis dari Mahabharata. Suntingan teks ini terdiri dari 13.000 halaman yang dibagi menjadi 19 jilid. Lalu suntingan ini diikuti dengan Harivaṃsa dalam 2 jilid dan 6 jilid indeks. Suntingan teks inilah yang biasa dirujuk untuk telaah mengenai Mahabharata.[1]
Ringkasan cerita
Latar belakang
Mahabharata merupakan kisah kilas balik yang dituturkan oleh Resi Wesampayana untuk Maharaja Janamejaya yang gagal mengadakan upacara korban ular. Sesuai dengan permohonan Janamejaya, kisah tersebut merupakan kisah raja-raja besar yang berada di garis keturunan Maharaja Yayati, Bharata, dan Kuru, yang tak lain merupakan kakek moyang Maharaja Janamejaya. Kemudian Kuru menurunkan raja-raja Hastinapura yang menjadi tokoh utama Mahabharata. Mereka adalah Santanu, Chitrāngada, Wicitrawirya, Dretarastra, Pandu, Yudistira, Parikesit dan Janamejaya.
Para Raja India Kuno
Mahabharata banyak memunculkan nama raja-raja besar pada zaman India Kuno seperti Bharata, Kuru, Parikesit (Parikshita), dan Janamejaya. Mahabharata merupakan kisah besar keturunan Bharata, dan Bharata adalah salah satu raja yang menurunkan tokoh-tokoh utama dalam Mahabharata.
Kisah Sang Bharata diawali dengan pertemuan Raja Duswanta dengan Sakuntala. Raja Duswanta adalah seorang raja besar dari Chandrawangsa keturunan Yayati, menikahi Sakuntala dari pertapaan Bagawan Kanwa, kemudian menurunkan Sang Bharata, raja legendaris. Sang Bharata lalu menaklukkan daratan India Kuno. Setelah ditaklukkan, wilayah kekuasaanya disebut Bharatawarsha yang berarti wilayah kekuasaan Maharaja Bharata (konon meliputi Asia Selatan)[2].
Sang Bharata menurunkan Sang Hasti, yang kemudian mendirikan sebuah pusat pemerintahan bernama Hastinapura. Sang Hasti menurunkan Para Raja Hastinapura. Dari keluarga tersebut, lahirlah Sang Kuru, yang menguasai dan menyucikan sebuah daerah luas yang disebut Kurukshetra (terletak di negara bagian Haryana, India Utara). Sang Kuru menurunkan Dinasti Kuru atau Wangsa Kaurawa. Dalam Dinasti tersebut, lahirlah Pratipa, yang menjadi ayah Prabu Santanu, leluhur Pandawa dan Korawa.
Kerabat Wangsa Kaurawa (Dinasti Kuru) adalah Wangsa Yadawa, karena kedua Wangsa tersebut berasal dari leluhur yang sama, yakni Maharaja Yayati, seorang kesatria dari Wangsa Chandra atau Dinasti Soma, keturunan Sang Pururawa. Dalam silsilah Wangsa Yadawa, lahirlah Prabu Basudewa, Raja di Kerajaan Surasena, yang kemudian berputera Sang Kresna, yang mendirikan Kerajaan Dwaraka. Sang Kresna dari Wangsa Yadawa bersaudara sepupu dengan Pandawa dan Korawa dari Wangsa Kaurawa.
Prabu Santanu dan keturunannya
Prabu Santanu adalah seorang raja mahsyur dari garis keturunan Sang Kuru, berasal dari Hastinapura. Ia menikah dengan Dewi Gangga yang dikutuk agar turun ke dunia, namun Dewi Gangga meninggalkannya karena Sang Prabu melanggar janji pernikahan. Hubungan Sang Prabu dengan Dewi Gangga sempat membuahkan anak yang diberi nama Dewabrata atau Bisma. Setelah ditinggal Dewi Gangga, akhirnya Prabu Santanu menjadi duda.
Beberapa tahun kemudian, Prabu Santanu melanjutkan kehidupan berumah tangga dengan menikahi Dewi Satyawati, puteri nelayan. Dari hubungannya, Sang Prabu berputera Sang Citrānggada dan Wicitrawirya. Citrānggada wafat di usia muda dalam suatu pertempuran, kemudian ia digantikan oleh adiknya yaitu Wicitrawirya. Wicitrawirya juga wafat di usia muda dan belum sempat memiliki keturunan. Atas bantuan Resi Byasa, kedua istri Wicitrawirya, yaitu Ambika dan Ambalika, melahirkan masing-masing seorang putera, nama mereka Pandu (dari Ambalika) dan Dretarastra (dari Ambika).
Dretarastra terlahir buta, maka tahta Hastinapura diserahkan kepada Pandu, adiknya. Pandu menikahi Kunti kemudian Pandu menikah untuk yang kedua kalinya dengan Madrim, namun akibat kesalahan Pandu pada saat memanah seekor kijang yang sedang kasmaran, maka kijang tersebut mengeluarkan (Supata=Kutukan) bahwa Pandu tidak akan merasakan lagi hubungan suami istri, dan bila dilakukannya, maka Pandu akan mengalami ajal. Kijang tersebut kemudian mati dengan berubah menjadi wujud aslinya yaitu seorang pendeta.
Kemudian karena mengalami kejadian buruk seperti itu, Pandu lalu mengajak kedua istrinya untuk bermohon kepada Hyang Maha Kuasa agar dapat diberikan anak. Lalu Batara guru mengirimkan Batara Dharma untuk membuahi Dewi Kunti sehingga lahir anak yang pertama yaitu Yudistira Kemudian Batara Guru mengutus Batara Indra untuk membuahi Dewi Kunti shingga lahirlah Harjuna, lalu Batara Bayu dikirim juga untuk membuahi Dewi Kunti sehingga lahirlah Bima, dan yang terakhir, Batara Aswin dikirimkan untuk membuahi Dewi Madrim, dan lahirlah Nakula dan Sadewa.
Kelima putera Pandu tersebut dikenal sebagai Pandawa. Dretarastra yang buta menikahi Gandari, dan memiliki seratus orang putera dan seorang puteri yang dikenal dengan istilah Korawa. Pandu dan Dretarastra memiliki saudara bungsu bernama Widura.
Keluarga Dretarastra, Pandu, dan Widura membangun jalan cerita Mahabharata.
Pandawa dan Korawa
Pandawa dan Korawa merupakan dua kelompok dengan sifat yang berbeda namun berasal dari leluhur yang sama, yakni Kuru dan Bharata. Korawa (khususnya Duryodana) bersifat licik dan selalu iri hati dengan kelebihan Pandawa, sedangkan Pandawa bersifat tenang dan selalu bersabar ketika ditindas oleh sepupu mereka. Ayah para Korawa, yaitu Dretarastra, sangat menyayangi putera-puteranya. Hal itu membuat ia sering dihasut oleh iparnya yaitu Sangkuni, beserta putera kesayangannya yaitu Duryodana, agar mau mengizinkannya melakukan rencana jahat menyingkirkan para Pandawa.
Pada suatu ketika, Duryodana mengundang Kunti dan para Pandawa untuk liburan. Di sana mereka menginap di sebuah rumah yang sudah disediakan oleh Duryodana. Pada malam hari, rumah itu dibakar. Namun para Pandawa diselamatkan oleh Bima sehingga mereka tidak terbakar hidup-hidup dalam rumah tersebut. Usai menyelamatkan diri, Pandawa dan Kunti masuk hutan. Di hutan tersebut Bima bertemu dengan rakshasa Hidimba dan membunuhnya, lalu menikahi adiknya, yaitu rakshasi Hidimbi. Dari pernikahan tersebut, lahirlah Gatotkaca.
Setelah melewati hutan rimba, Pandawa melewati Kerajaan Panchala. Di sana tersiar kabar bahwa Raja Drupada menyelenggarakan sayembara memperebutkan Dewi Dropadi. Karna mengikuti sayembara tersebut, tetapi ditolak oleh Dropadi. Pandawa pun turut serta menghadiri sayembara itu, namun mereka berpakaian seperti kaum brahmana.
Pandawa ikut sayembara untuk memenangkan lima macam sayembara, Yudistira untuk memenangkan sayembara filsafat dan tatanegara, Arjuna untuk memenangkan sayembara senjata Panah, Bima memenangkan sayembara Gada dan Nakula - Sadewa untuk memenangkan sayembara senjata Pedang. Pandawa berhasil melakukannya dengan baik untuk memenangkan sayembara.
Dropadi harus menerima Pandawa sebagai suami-suaminya karena sesuai janjinya siapa yang dapat memenangkan sayembara yang dibuatnya itu akan jadi suaminya walau menyimpang dari keinginannya yaitu sebenarnya yang diinginkan hanya seorang Satriya.
Setelah itu perkelahian terjadi karena para hadirin menggerutu sebab kaum brahmana tidak selayaknya mengikuti sayembara. Pandawa berkelahi kemudian meloloskan diri. sesampainya di rumah, mereka berkata kepada ibunya bahwa mereka datang membawa hasil meminta-minta. Ibu mereka pun menyuruh agar hasil tersebut dibagi rata untuk seluruh saudaranya. Namun, betapa terkejutnya ia saat melihat bahwa anak-anaknya tidak hanya membawa hasil meminta-minta, namun juga seorang wanita. Tak pelak lagi, Dropadi menikahi kelima Pandawa.
Permainan dadu
Agar tidak terjadi pertempuran sengit, Kerajaan Kuru dibagi dua untuk dibagi kepada Pandawa dan Korawa. Korawa memerintah Kerajaan Kuru induk (pusat) dengan ibukota Hastinapura, sementara Pandawa memerintah Kerajaan Kurujanggala dengan ibukota Indraprastha. Baik Hastinapura maupun Indraprastha memiliki istana megah, dan di sanalah Duryodana tercebur ke dalam kolam yang ia kira sebagai lantai, sehingga dirinya menjadi bahan ejekan bagi Dropadi. Hal tersebut membuatnya bertambah marah kepada para Pandawa.
Untuk merebut kekayaan dan kerajaan Yudistira, Duryodana mengundang Yudistira untuk main dadu ini atas ide Sangkuni, hal ini dilakukan sebenarnya untuk menipu Pandawa mengundang Yudistira untuk main dadu dengan taruhan. Yudistira yang gemar main dadu tidak menolak undangan tersebut dan bersedia datang ke Hastinapura.
Pada saat permainan dadu, Duryodana diwakili oleh Sangkuni sebagai bandar dadu yang memiliki kesaktian untuk berbuat curang. Permulaan permainan taruhan senjata perang, taruhan pemainan terus meningkat menjadi taruhan harta kerajaan, selanjutnya prajurit dipertaruhkan, dan sampai pada puncak permainan Kerajaan menjadi taruhan, Pandawa kalah habislah semua harta dan kerajaan Pandawa termasuk saudara juga dipertaruhkan dan yang terakhir istrinya Dropadi dijadikan taruhan.
Dalam peristiwa tersebut, karena Dropadi sudah menjadi milik Duryodana, pakaian Dropadi ditarik oleh Dursasana karena sudah menjadi harta Duryodana sejak Yudistira kalah main dadu, namun usaha tersebut tidak berhasil membuka pakaian Dropadi, karena setiap pakaian dibuka dibawah pakaian ada pakaian lagi begitu terus tak habisnya berkat pertolongan gaib dari Sri Kresna.
Karena istrinya dihina, Bima bersumpah akan membunuh Dursasana dan meminum darahnya kelak. Setelah mengucapkan sumpah tersebut, Dretarastra merasa bahwa malapetaka akan menimpa keturunannya, maka ia mengembalikan segala harta Yudistira yang dijadikan taruhan.
Duryodana yang merasa kecewa karena Dretarastra telah mengembalikan semua harta yang sebenarnya akan menjadi miliknya, menyelenggarakan permainan dadu untuk yang kedua kalinya. Kali ini, siapa yang kalah harus mengasingkan diri ke hutan selama 12 tahun, setelah itu hidup dalam masa penyamaran selama setahun, dan setelah itu berhak kembali lagi ke kerajaannya. Untuk yang kedua kalinya, Yudistira mengikuti permainan tersebut dan sekali lagi ia kalah. Karena kekalahan tersebut, Pandawa terpaksa meninggalkan kerajaan mereka selama 12 tahun dan hidup dalam masa penyamaran selama setahun.
Setelah masa pengasingan habis dan sesuai dengan perjanjian yang sah, Pandawa berhak untuk mengambil alih kembali kerajaan yang dipimpin Duryodana. Namun Duryodana bersifat jahat. Ia tidak mau menyerahkan kerajaan kepada Pandawa, walau seluas ujung jarum pun. Hal itu membuat kesabaran Pandawa habis. Misi damai dilakukan oleh Sri Kresna, namun berkali-kali gagal. Akhirnya, pertempuran tidak dapat dielakkan lagi.
Pertempuran di Kurukshetra
Pandawa berusaha mencari sekutu dan ia mendapat bantuan pasukan dari Kerajaan Kekaya, Kerajaan Matsya, Kerajaan Pandya, Kerajaan Chola, Kerajaan Kerala, Kerajaan Magadha, Wangsa Yadawa, Kerajaan Dwaraka, dan masih banyak lagi. Selain itu para ksatria besar di Bharatawarsha seperti misalnya Drupada, Satyaki, Drestadyumna, Srikandi, Wirata, dan lain-lain ikut memihak Pandawa. Sementara itu Duryodana meminta Bisma untuk memimpin pasukan Korawa sekaligus mengangkatnya sebagai panglima tertinggi pasukan Korawa. Korawa dibantu oleh Resi Drona dan putranya Aswatama, kakak ipar para Korawa yaitu Jayadrata, serta guru Krepa, Kretawarma, Salya, Sudaksina, Burisrawas, Bahlika, Sangkuni, Karna, dan masih banyak lagi.
Pertempuran berlangsung selama 18 hari penuh. Dalam pertempuran itu, banyak ksatria yang gugur, seperti misalnya Abimanyu, Drona, Karna, Bisma, Gatotkaca, Irawan, Raja Wirata dan puteranya, Bhagadatta, Susharma, Sangkuni, dan masih banyak lagi. Selama 18 hari tersebut dipenuhi oleh pertumpahan darah dan pembantaian yang mengenaskan. Pada akhir hari kedelapan belas, hanya sepuluh ksatria yang bertahan hidup dari pertempuran, mereka adalah: Lima Pandawa, Yuyutsu, Satyaki, Aswatama, Krepa dan Kretawarma.
Penerus Wangsa Kuru
Setelah perang berakhir, Yudistira dinobatkan sebagai Raja Hastinapura. Setelah memerintah selama beberapa lama, ia menyerahkan tahta kepada cucu Arjuna, yaitu Parikesit. Kemudian, Yudistira bersama Pandawa dan Dropadi mendaki gunung Himalaya sebagai tujuan akhir perjalanan mereka. Di sana mereka meninggal dan mencapai surga. Parikesit memerintah Kerajaan Kuru dengan adil dan bijaksana. Ia menikahi Madrawati dan memiliki putera bernama Janamejaya. Janamejaya menikahi Wapushtama (Bhamustiman) dan memiliki putera bernama Satanika. Satanika berputera Aswamedhadatta. Aswamedhadatta dan keturunannya kemudian memimpin Kerajaan Wangsa Kuru di Hastinapura.
Silsilah
Silsilah keturunan Maharaja Yayati
Silsilah keluarga Bharata
Catatan kaki
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Manchester United ni kilabu cha kandanda cha Uingereza, ambacho ni kimojawapo kati ya vilabu maarufu sana ulimwenguni, na kina makao katika Old Trafford eneo la Greater Manchester. Kilabu hiki kilikuwa mwanachama mwanzilishi wa Ligi ya Premier mwaka 1992, na kimeshiriki katika divisheni ya juu ya kandanda ya Uingereza tangu mwaka wa 1938, isipokuwa msimu wa 1974-1975. Mahudhurio ya wastani kwenye kilabu yamekuwa ya juu kuliko timu nyingine yoyote katika kandanda ya Uingereza kwa misimu yote isipokuwa sita tangu 1964-65.[3]
Manchester United ndiyo bingwa wa sasa wa Uingereza na washikilizi wa Kombe la Dunia la Vilabu, baada ya kushinda Ligi ya Primia 2008-09 na Kombe la Dunia la FIFA. Kilabu hicho ni miongoni mwa vilabu vyenye ufanisi mkubwa katika historia ya kandanda ya Uingereza na kimeshinda mataji makubwa 22 tangu Alex Ferguson alipochukua wadhifa wa meneja wake mnamo Novemba 1986. Mwaka wa 1968, kilikuwa kilabu cha kwanza kushinda Kombe la Uropa kwa kucharaza Benfica 4-1. Walishinda kombe la pili la Ulaya kama sehemu ya ushindi wa mataji matatu mwaka 1999, na la tatu mwaka wa 2008, kabla ya kumaliza katika nafasi ya pili mwaka wa cha 2009. Kilabu hicho kinashikilia rekodi mbili ya kushinda mataji mengi ya Ligi ya Uingereza mara 18 na pia kushikilia rekodi kwa wingi wa kutwaa kombe la FA ikiwa imeshinda mara 11.[4]
Tangu mwisho wa mwaka ya 1990, kilabu hicho kimekuwa mojawapo ya vilabu tajiri duniani kilicho na mapato ya juu kuliko kilabu chochote,[5] na sasa kinatajwa kama kilabu chenye thamani zaidi katika mchezo wowote, na makisio ya thamana ya takriban bilioni £ 1.136 (bilioni € 1.319 ) Aprili 2009.[6] Manchester United ilikuwa mwanachama mwanzilishi wa kundi la vilabu la G-14 la Vilabu kuu vya kandanda Uingereza, ambalo halipo tena, na European Club Association, muungano uliochukua nafasi yake.[7]
Alex Ferguson amekuwa meneja wa kilabu hicho tangu 6 Novemba 1986 alipojiunga na kilabu hicho kutoka Aberdeen baada ya kung'atuka kwa Ron Atkinson.[8] Nahodha wa kilabu wa sasa ni Garry Neville, aliyechukua nafasi ya Roy Keane Novemba 2005.[9]
Historia
Miaka ya mwanzo (1878–1945)
Kilabu kilianzishwa kikijulikana kama Newton Heath L & YR F.C. mwaka wa 1878 kama timu ya kazi ya bohari la Reli la Lancashire na Yorkshire huko Newton Heath. Mashati ya kilabu hiyo yalikuwa ya kijani na nusu dhahabu. Walicheza kwenye uwanja mdogo, uliochakaa huko North Road kwa miaka kumi na mitano, kabla ya kuhamia Bank Street katika mji wa karibu wa Clayton mwaka wa 1893. Kilabu kilikuwa kimeingia ligi ya kandanda ya Football Leagu mwaka uliotangulia na kuanza kukatiza uhusiano wake na bohari la reli, na ikawa kampuni ya kujitegemea, ikimteua katibu wa kilabu na kudondoasha herufi “L&YR” kutoka jina lao na kujiita Newton Heath F.C. Muda mrefu haukupita, mwaka 1902, kilabu kilikaribia kufilisika, kikawa na madeni ya zaidi ya £2,500. Wakati mmoja, uwanja wao wa Bank Street ulifungwa na wadai wao.[10]
Kabla ya kufungwa kabisa, kilabu kilipokea uwekezaji mkubwa kutoka kwa J. H. Davies, mkurugenzi mtendaji wa Manchester Breweries.[11] Kuna tetesi kuwa Harry Stafford, nahodha wa kilabu alikuwa akijivunia mbwa wake wa thamani wa aina ya St. Bernard katika mkutano wa kuchangishia kilabu fedha, wakati Davies alipomwendea ili kumnunua mbwa huyo. Stafford alikataa, lakini aliweza kumshawishi Davies kuwekeza katika kilabu na kuwa mwenyekiti wake.[12] Iliamuliwa katika kikao cha bodi ya mapema kuwa kilabu kilihitaji kubadilishwa jina ili kuashiria mwanzo huo mpya. Manchester Central na Manchester Celtic ni miongoni mwa majina yaliopendekezwa kabla ya Louis Rocca, mhamiaji mchanga kutoka Italy aliposema "Ndugu zangu, mbona tusijiite Manchester united?"[13] Jina hilo lilibakia hivyo, na Manchester United likawa jina rasmi tarehe 26 Aprili 1902. Davies pia aliamua itakuwa vyema kubadili rangi za kilabu, walitupilia mbalirangi za kijani na nusu dhahabu za Newton Health na kuchagua nyekundu na nyeupe kuwa rangi za Manchester United.
Ernest Mangnall aliteuliwa kama katibu wa kilabu baada ya James West ambaye alikuwa amejiizulu kama meneja tarehe 28 Septemba 1902. Mangnall alitwikwa jukumu la kujitahidi kukifika kilabu kwenye Divisheni ya kwanza, na kushindwa kidogo tu katika jaribio la kwanza kusudio hilo kwa jaribuio la, walipomaliza katika nafasi ya tano katika Divisheni ya pili. Mangnall aliamua kwamba ilikuwa muhimu kuleta machipukizi katika klabu, na kuwasajili wachezaji kama vile Harry Moger katika lango, Dick Duckworth, beki wa nyuma na Jack Picken mbele lakini ilikuwa na beki wa nyuma mwingine kwa jina la Charlie Roberts aliyeleta mabadiliko makubwa. Alinunuliwa kwa £750 kutoka Grimsby Town Aprili 1904, na kuisaidi klabu kumaliza msimu wa 1903-04 kikiwa kimekosa alama moja tu kipandishwe ngazi iliyofuata.
Hata hivyo, haikuchukua muda mrefu, kilabu kilipandishwa cheo hadi Divisheni ya Kwanza kwa mara ya kwanza chini ya jina mpya na kumaliza katika nafasi ya pili katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1905-06. Msimu wa kujiiimarisha ulifuatia, huku kilabu ikimaliza katika nafasi ya nane, kabla ya kutwaa taji lao la kwanza la ligi mwaka wa 1908. Katika siku za karibuni,Manchester City ilikuwa ikichunguzwa kwa kuwalipa baadhi ya wachezaji wao mshahara uliozidi kiwango kilichopendekezwa na masharti ya FA. Walipigwa faini ya £250 na wachezaji wao kumi na wanane wakapigwa marufuku kuwachezea tena. United hawakusita kukabiliana na hali hiyo na kuwatwaa Billy Meredith (almaarufu Welsh Wizard) na Sandy Turnbull, miongoni mwa wengine. Vijana hao wageni kutoka mji jirani hawakuruhusiwa kucheza hadi tarehe mosi mwaka wa 1907, kwa sababu ya marufuku yao, kwa hivyo hatua hiyo iliahirishwa hadi msimu wa 1907-08 ili waweze kuendeleza jitihada za united kutwaa taji. Na hilo walifanya, walianza kampeni yao kwa kishindo kwa kuishinda Sheffield United 2-1 na kuanzisha msururu wa ushindi mfululilizo mara kumi. Licha ya msimu kuonekana wenye tatizo mwishoni, United ilifaulu kushikilia na kumaliza msimu kwa pointi tisa mbele ya wapinzani wao wa karibu Aston Villa.
Msimu uliofuatia ulianza kwa United kujitwalia fedha nyingine, Charity Shield,[14] ambayo ilikuwa ya kwanza kuwahi kutolewa na kumalizia kwa taji jingine, taji la kwanza kwa kilabu cha FA, ambalo lilipanda mbegu njema ya kile kimekuwa rekodi ya mataji ya FA. Jinsi walivyokuwa katika kampeni ya taji la kwanza la klabu, Turnbull na Meredith walikuwa na umuhimu katika msimu huu, Turnbull akifunga bao la ushindi katika Finali ya kombe la FA. Ilibidi Klabu kusubiri miaka mingine miwili kabla ya kushinda makombe mengine zaidi, kilishinda Divisheni ya Kwanza kwa mara ya pili katika msimu wa 1910-11. Wakati huo huo, United ilihamia uga wao mpy wa Old Trafford. Walichezea mmchuano wao wa kwanza huko tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool, lakini wakapoteza 4-3 baada ya kupoteza ushindi wao wa 3-0. Kisha wakasalia bila kombe tena katika msimu wa 1911-12, ambao haukuwa tu wa mwisho kwa Mangnall kuhusikia (alihamia Manchester City baada ya miaka kumi na United), lakini pia wakati wa mwisho kwa klabu kushinda Divisheni ya Kwanza baada ya miaka 41, muda mrefu zaidi ambao klabu imekaa bila kushinda ligi katika historia yake.
Kwa miaka kumi iliyofuata, klabu kilishuhudia hali ya kudidimia polepole kabla ya kushushwa ngazi ya chini, Division ya pili katika 1922. Walipandishwa ngazi tena mwaka 1925, wakang'ang'ana kufika nusu ya msimamo wa ligi, na wakashushwa ngazi tena mwaka wa 1931. Katika miaka minane iliyotangulia Vita vya Pili vya Dunia, klabu kilididimia na kuwa klabu yo-yo, kikafikia kiwango chao cha chini zaidi cha nafasi ya 20 katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1934. Walipandishwa tena katika msimu wa mwisho kabla ya Vita vya Pili vya Dunia. Walijihakikishia nafasi yao katika kiwango cha juu baada ya vita kwa kumaliza katika nafasi ya 14 katika msimu wa 1938-39.
Kipindi cha Busby (1945-1969)
1945 ilishuhudia kuteuliwa kwa Matt Busby kuwa msimamizi katika Old Trafford. Alitumia mtindo usio wa kawaida kufanya kazi yake, akisisitiza kuwa aruhusiwe kuchagua timu yake mwenyewe, kuchagua wachezaji atakaowaajiri na kuwafunza mwenyewe. Mwenyewe alikuwa tayari amepoteza kazi ya usimamizi kwenye kilabu chake cha awali, Liverpool, kwa sababu klabu kiliona kazi hizo kama za wakurugenzi lakini United ikaamua kujaribu mawazo bunifu ya Busby. Wa kwanza kusajiliwa na Busby hakuwa mchezaji, bali meneja msaidizi mpya kwa jina la Jimmy Murphy. Hatua hatari ambayo klabu ilichukulia kumteua Bushy ilileta mazao ya mara moja, klabu kilipomaliza katika nafasi ya pili katika ligi ya 1947, 1483 na 1949 na kushinda kombe la FA 1948, kutokana na juhudi za wazao wa hapo watatu, Stan Pearson, Jack Rowley na Charlie Mitten (Rowley na Pearson walifunga katika fainali ya kombe la 1948), na pia kiungo wa kati kutoka Kazini Mashariki, Allenby Chilton.
Charlie Mitten alikuwa amekimbilia Kolombia kutafuta mshahara bora,lakini wachezaji waliobaki waliweza kushinda taji la Divisheni ya Kwanza baadaye mwaka 1952. Hata hivyo, Busby alijua kwamba timu za kandanda zilihitaji zaidi ya tajriba, kwa hivyo alitumia sera ya kuleta wachezaji kutoka katika timu ya vijana pale ilipowezekana. Mara ya kwanza, wachezaji wachanga kama vile Roger Byrne, Bill Foulkes, Mark Jones na Dennis Viollet, walichukua muda kuzoea timu kuu, na kuteremka hadi nafasi ya nane mwaka 1956, lakini timu hiyo ilishinda ligi tena katika mwaka wa 1956 kwa umri wa wastani miaka 22 tu, na kufunga mabao 103 wakati huo. Sera ya kuteua vijana iliyowekwa na Busby sasa imekuwa fadhila mahususi kwa vipindi vilivyofanikiwa zaidi katika historia ya klabu (katikati ya 1950, kati na mwisho wa miaka ya 1960 na miak 1990). Kundi asilia la vijana wachezaji lilijulikana kama Busby Babes, ambapo aliyevuma sana alikuwa kiungo wa pembeni Duncan Edwards. Kijana huyo kutoka Dudley, West Midlands aliichezea United kwa mara ya kwanza kabisa akiwa na umri wa miaka 16 tu mwaka 1953. Ilisemekana kuwa Edwards angeweza kucheza katika nafasi yoyote uwanjani, na wengi waliomwona akicheza walisema kuwa yeye ndiye alikuwa mchezaji maarufu kabisa katika historia ya mchezo huo. Msimu uliofuata, 1956-57, walishinda ligi tena na kufikia fainali ya Kombe la FA, na kupoteza kwa Aston Villa. Pia ilikuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushindana katika kombe la Uropa, kwa amri ya FA, ambayo ilikuwa imeiinyima Chelsea fursa sawa na hiyo msimu uliotangulia, na kufika nusu fainali kabla ya kung'olewa na Real Madrid. Ikielekea nusu fainali hizo, United pia iliacha rekodi kwa ushindi ambayo bado ipo kama washindi wakuu katika mashindano yote, kwa kuwachapa mabingwa wa Ubelgiji Anderlecht mabao 10-0 ugani Maine Road.
Janga liliikumba msimu uliofuata, wakati ndege iliyokuwa imewabeba wachezaji kurejea nyumbani kutoka mchuano wa European Cup ilipoanguka pindi ilipoanza kupaa baada ya kutua kujaza mafuta huko Munich, Ujerumani. Ajali hiyo ya ndege Munich ya 6 Februari 1958 ilisababisha vifo vya wachezaji - Geoff Bent, Roger Byrne, Eddie Colman, Duncan Edwards, Marko Jones, Daudi Pegg, Tommy Taylor na Liam "Billy" Whelan - na abiria wengine kumi na watano, pamoja na wafanyikazi wa United Walter Crickmer, Bert Whalley na Tom Curry.[15] Tayari kulikuwa na majaribio mawili ya kupaa kabla hilo la tatu lililoishia maafa, lilisababishwa na kujazana kwa tope mwishoni mwa barabara ya ndege na hivyo kupunguza kasi ya ndege hadi kiwango kisichotosha kupaa. Ndege iliteleza nje ya mwishoni mwa barabara ya kupaa, kupitia uani na kuingia katika nyumba ambazo hazikuwa na watu watu. Mlindalango wa United Harry Gregg alifanikiwa kutozirai baada ya ajali, na kwa kuhofia kulipuka kwa ndege wakati wowote, aliwakamata Bobby Charlton-ambaye alikuwa ameichezea United mechi yake ya kwanza kabisa miezi 18 tu iliyopita – na Denni Viollet viunoni na kuwavuta mahali salama. Wachezaji 7 wa United walikufa katika eneo la tukio, huku Duncan Edwards akifa majuma mawili baadaye hospitalini. Wing'a wa kulia Johnny Berry pia alinusurika ajali hiyo, lakini majeraha aliyopata kwenye ajali yalisitisha ghafla uchezaji wa kandanda. Matt Busby hakutumainiwa kuishi zaidi na madaktari wa Munich na wakati mmoja alifanyiwa Maombi ya Mwisho, lakini alipata afueni kimiujiza na hatimaye aliruhusiwa kutoka hospitalini baada ya kulazwa kwa zaidi ya miezi miwili.
Kulikuwa na uvumi kuwa klabu ingefilisika na kujiondoa kutoka mashindano yote, lakini Jimmy Murphy aliposhikilia usukani kama meneja huku Busby akiendelea kupona majeraha, klabu kiliendelea kucheza kwa timu hafifu. Licha ya ajali hiyo, walifika fainali ya kombe la FA tena, ambapo walipoteza dhidi ya Bolton Wanderers. Mwishoni mwa msimu, UEFA iliipa FA nafasi ya kuwasilisha United na mabingwa wa msimu Wolverhampton Wanderers, kushiriki kombe la Uropa mwaka 1958-59 kama heshima kwa waathiriwa lakini FA ilikataa. United ilimudu kuikaba Wolves koo msimu uliofuata, huku ikimaliza katika nafasi ya kuridhisha ya pili; haikuwa mbaya kwa timu iliyokuwa imepoteza wachezaji tisa katika ajali ya ndege ya Munich.
Busby aliijenga upya tena timu hiyo mapema miaka ya 1960, akisajili wachezaji kama vile Denis Law na Pat Crerand, wakati huo huo akilea kizazi chake kipya cha vijana chipukizi. Huenda maarufu zaidi katika kundi hili jipya alikuwa kijana kutoka Belfast aliyeitwa George Best. Best alikuwa na uanariadha wa kipekee , lakini kipawa chake cha thamani zaidi kilikuwa kudhibiti mpira. Miguu yake ya kasi ilimruhusu kupenya kwenye mwanya wowote katika ngome ya wapinzani, hata uwe mdogo kiasi gani. Timu hiyo ilitwaa Kombe la FA mwaka wa 1963, ingawa ilimaliza katika nafasi ya 19 katika Daraja la Kwanza. Shangwe za ushindi wa Kombe la FA zilionekana kuwaimarisha wachezaji, waliosaidia klabu kufikia nafasi ya pili 1964, na kuimarika zaidi kwa kushinda ligi katika mwaka wa 1965 na 1967. United ilishinda kombe la Uropa 1968 kwa kuinyuka Eusébio's Benfica 4-1 kwenye fainali na kuwa kilabu cha kwanza Uingereza kushinda shindano hilo. Timu hii ya United ilikuwa maarufu kwa kuwa na wanakandanda watatu bora wa Mwaka barani Uropa: Bobby Charlton, Denis Law na George Best. Matt Busby alijiuzulu kama meneja 1969 na nafasi yake kuchukuliwa na kocha wa akiba na pia aliyekuwa mchezaji wa United, Wilf McGuinness.
1969-1986
United ilijitahidi kujaza nafasi ya Busby, na timu ilitatizika chini ya Wilf McGunness katika msimu wa 1969-70, ilipomaliza katika nafasi ya kukatisha tamaa ya nane, na kufuatiwa na kuanza vibaya katika msimu wa 1970-1971, McGunnies alishushwa madaraka na kuwa kocha wa timu ya akiba. Busby alishawishwa kurudi klabuni, japo kwa miezi sita pekee. Matokeo yalikuwa bora chini ya uongozi wa Busby, lakini hatimaye aliondoka klabuni kwa mara ya mwisho katika majira ya joto ya 1971. Hayo yakijiri, United ilikuwa imewapoteza wachezaji wa hali ya juu kama Nobby Stiles na Pat Crerand.
Licha ya kumwomba maneja aliyeiongoza Celtic kushinda kombe la Uropa Jock Stein, kuwa meneja wake, Stein alikubali kwa mkataba wa mazungumzo kujiunga na United, lakini akaghairi msimamo dakika za mwisho- Frank O’Farrell aliteuliwa kumrithi Busby. Hata hivyo, kama Mc Guinness, O’Farrell alidumu chini ya miezi 18, tofauti kati ya wawili hao ni kuwa O’Farrell aliitikia matokea ya timu yasiyo ya kuridhisha kwa kuleta vipaji vipya, wakutajika hasa ni Martini Buchaman kutoka Aberdeen kwa malipo ya £125,000. Tommy Docherty akawa meneja mwishoni mwa 1972. Docherty, au "Doc", aliiokoa United kutoshushwa ngazi msimu huo lakini walishushwa mwaka 1974, wakati ambapo nyota watatu , Best, Law na Charlton walikuwa wamekihama klabu. Denis Law alikuwa amehamia Manchester City katika majira ya joto ya 1973, na kuishia kufunga bao ambalo watu wengi husema liliishusha ngazi ya United, kwa adabu alikataa kusherehekea pamoja na wanatimu wenzake. Wachezaji kama vile Lou Macari, Stewart Houston na Brian Greenhoff waliletwa kuchukua nafasi za Best, Law na Charlton lakini hakuna aliyefikia kimo cha watatu hao waliotangulia.
Timu iliweza kupandishwa ngazi katika jaribio la kwanza, huku kijana Steve Coppell akishiriki mchuano wake wa kwanza kuelekea mwisho wa msimu baada ya kujiunga na klabu kutoka Tranmere Rovers na kufika fainali za Kombe la FA mwaka 1976, lakini walishindwa na Southampton. Walifika fainali tena mwaka 1977, walipoishinda Liverpool 2-1. Pamoja na mafanikio na umaarufu wake miongoni mwa mashabiki, Docherty alipigwa kalamu mara baada ya fainali ilipopatikana kuwa alikuwa na uhusiano wa kimapenzi na mke wa mtaalamu wa tibamaungo (physiotherapist).
Dave Sexton alichukua nafasi ya Docherty kama meneja katika majira ya joto ya 1977 na kuifanya timu kucheza mtindo wa kujihami zaidi. Mtindo huu haukupendwa na mashabiki ambao walikuwa wamezoea mtindo wa kandanda ya kushambulia iliyopendelewa na Docherty na Busby. Usajili mkuu wa wachezaji uliofanyika chini ya Sexton ulihusisha Joe Jordan, Gordon McQueen, Gary Baileyna na Ray Wilkins lakini kwa sababu ya mtindo wa kujihamu wa Sexton, United ilishindwa kutoka katika safu ya kati isipokuwa mara moja tu, ilipomaliza katika nafasi ya timu mbili bora na ikaweza kufikia finali ya kombe la F.A mara moja, ilipoteza kwa timu ya Arsenal. Kwa sababu ya ukosefu huu wa vikombe, Sexton alifutwa mwaka wa 1981, ingawa alikuwa ameshinda michuano yake yote saba ya mwisho.
Nafasi yake ilichukuliwa na mshaufu Ron Atkinson ambaye fikra zake za ucheshi zilidhihirika katika vilabu alivyosimamia. Mara moja alivunja rekodi ya Uingereza ya ada ya uhamisho kwa kumsajili Bryan Robson kutoka klabu yake ya zamani, West Bromwich Albion. Robson aliibuka kuwa kile wengi walifikiria kuwa mchezaji bora kiungo cha kati wa United tangu Duncan Edwards. Timu ya Atkinson iliweza kushuhudia usajili mpya wa wachezaji kama vile Jesper Olsen, Paul McGrath na Gordon Strachan ambao walicheza na wliokuwa wachezaji wa timu ya vijana wakiwemo Norman Whiteside na Mark Hughes. United ilishinda Kombe la FA mara mbili katika miaka mitatu, katika mwaka wa 1983 na 1985, walipigiwa upatu kushinda Ligi katika msimu wa 1985-86 kabla ya kushinda mechi zao kumi za kwanza ligini jambo lililopelekea kuwepo na tofauti ya pointi kumi kati yao na wapinzani wao mwanzoni mwa mwezi wa Oktoba. Hata hivyo, muundo wa timu uliporomoka na United ikamaliza msimu huo katika nafasi ya nne. Uhafifu wa timu uliendelea katika msimu uliofuata, na United ilikuwa ikichungulia kushushwa ngazi kuanzia mwanzo wa Novemba 1986, Atkinson alifutwa.
Enzi ya Alex Ferguson, kabla ya Treble [1986-1998]
Alex Ferguson aliwasili kutoka Aberdeen kuchukua nafasi ya Atkinson siku hiyo hiyo aliyofutwa Atkinson, alikuja pamoja na meneja msaidizi wake, Archie Knox. Ingawa mechi yake ya kwanza uongozini, dhidi ya Oxford United tarehe 8 Novemba 1986 alishindwa 2-0, Ferguson aliiongoza klabu kumalizia nafasi ya 11 katika ligi. Kumaliza katika nafasi ya pili 1987-88, pamoja na Brian McClair kuwa mchezaji wa kwanza wa United tangu George Best na kufunga mabao ishirini katika msimu wa ligi, huenda kuliwafanya mashabiki kuwa na matumaini kidogo kwa siku za usoni lakini walirejelea haraka uhafifu kwa kumalizia nafasi ya 11 mwaka 1989.
Wachezaji wengi waliosajiliwa na Ferguson hawakufikia matarajio ya mashabiki, na meneja iliripotiwa nusura aachishwe kazi mwanzoni mwa 1990, wengi waliamini kwamba kushindwa kwao na Nottingham Forest katika duru ya tatu ya Kombe la FA kungetia muhuri hatma yake. Bao la Marko Robins kunako dakika 56 liliiwezesha United kushinda mchuano huo na kuwaweka katika king'ang'anyiro kilichowapeleka hadi fainali iliyofanyika Wembley, ambapo waliitinga Crystal Palace 1-0 katika mchuano wa marudio baada ya sare ya 3-3 katika mechi ya awali. Mwaka uliofuata, United ilifika fainali ya League Cup na kupoteza kwa bao 1-0 kwa timu ya aliyekuwa meneja wao Ron Atkinson Sheffield Wednesday. Hata hivyo, msimu ulimalizika kwa ushindi wa kwanza wa Kombe la Washindi wa Vilabu (Cup Winners 'Cup), walipoiadhibu Barcelona 2-1 katika fainali ugani Rotterdam. Ushindi wa taji la Cup Winners uliiruhusu timu kucheza katika UEFA Super Cup mwaka 1991 ambapo waaliwashinda waliokuwa washindi wa Kombe la Ulaya Red Star Belgrade 1-0 uwanjani Old Trafford. Mechi hiyo ilipaswa kuchezwa kwa michuano miwili lakini kutokana na ukosefu wa utulivu wa kisiasa nchini Yugoslavia wakati huo, UEFA iliamua kwamba mchuano wa Old Trafford tu ndio utakaochezwa. Kushiriki kwa mara ya pili mfululizo katika fainali ya kombe la Ligi kulitokea mwaka 1992, United wakati huo iliifunga Nottingham Forest 1-0 ugani Wembley.
Wakati huo huo, matukio yalikuwa yakiendelea nje ya uwanja mwishoni mwa mwongo, huku mwenyekiti Martin Edwards akijaribu kuiuza klabu kwa mkwasi Michael Knighton mwaka 1989. Uuzaji huo wa milioni £20 ulikuwa karibu kuthibitishwa huku Knighton akiingia Old Trafford akiwa na sare ya Manchester United na akifanya mbwembwe kadha kabla ya kuvurumisha mpira kuelekea langoni upande wa Stretford ugani humo. Knighton aliweza kuona rekodi za kifedha za klabu, lakini, kabla ya mkataba wa uuzaji kukamilishwa washauri wake wa kifedha walikataa na mpango huo ukafutiliwa. Hata hivyo, kwa kuwa Knighton alikuwa na ufahamu wa jinsi mambo yalivyokuwa yakiendeshwa klabuni, alipewa wadhifa katika bodi ya klabu kama njia ya kumfanya kubaki kimya kuhusu jambo hilo. Mwaka 1991, ikihitaji msaada zaidi wa kifedha kufuatia Ripoti ya Taylor klabu ilianza uuzaji katika Soko la Hisa la London kwa thamana iliyokisiwa kuwa paundi milioni 47, na kuleta katika macho ya umma hali yake ya kifedha. Martin Edwards alihifadhi wadhifa wake kama mwenyekiti, lakini sasa klabu ilikuwa ikimilikiwa na umma.
Majira ya joto ya mwaka 1991 pia yalishuhudia kuwasili kwa mlindalango raiya wa Denmak Peter Schmeichel, ambaye kutofungwa kwake katika michuano 17 kuliipa United rekodi bora ya kujihami katika Divisheni ya kwanza msimu wa 1991-92na kuwasaidia kumaliza katika nafasi ya pili nyuma ya Leeds United, ndani ya safu hizo kulikuwa na sogora fulani Mfaransa aliyeitwa Eric Cantona. Alex Ferguson alitambua haja ya United ya kuwa na mshambulizi kama njia ya kumzuia Mark Hughes na Brian McClair na alijaribu - na kushindwa - mara kadhaa kumsajili mshambuliaji wa Sheffield Wednesday David Hirst, lakini wakati meneja wa Leeds Howard Wilkinson alipompigia Martin Edwards mwezi Novemba 1992 kuuliza kuhusu uwezekano wa kupatikana kwa Denis Irwin, mazungumzo hayo yaligeuka haraka na kumhusu Cantona. Kwa mshangao wa Edward na Ferguson, vilabu hivyo viwili viliweza kukubaliana kwa ada ya pauni milioni 1.2 ili kumpata Mfaransa huyo thabiti. Kuwasili kwa Cantona kuliipa United mwamko muhimu sana na kuisaidia timu hiyo kuweza kujishindia taji la kwanza la Ligi tangu mwaka wa 1967. Baada ya kusajiliwa kwa Roy Keane kutoka Nottngham Forest mnamo mwaka wa Julai 1993, United iliweza kushinda taji la pili mtawalia kwa mara ya kwanza tangu mwaka wa 1957 kwenye mwaka uliofuata, kabla ya kushinda kombe la FA ili kukamilisha "Ushindi pacha" wa kwanza katika historia ya Kilabu hiyo. Mwaka huo, hata hivyo, klabu kiliomboleza kufuatia kifo cha aliyekuwa meneja na mkurugenzi wa klabu Matt Busby, aliyekufa tarehe 20 Januari 1994.
Msimu wa 1994-95 ulikuwa wa kwanza kwa klabu kumaliza bila kombe tangu 1988-89, ingawa walicheza vizuri hadi katika wiki ya mwisho wa msimu na kufikiwa fainali ya FA Cup, ambapo walipoteza kwa Everton. Andy Cole alisajiliwa kutoka Newcastle United kwa gharama iliyoweka rekodi Uingereza ya paundi milioni £6 pamoja na Keith Gillespie. Hata hivyo, baada mchuanio wa kwanza wa Cole akiwa United, Eric Cantona alipokea marufuku ya miezi nane kwa kuruka ndani ya eneo umati na kumuumiza Mathayo Simmons shabiki wa Crystal Palace, ambaye alikuwa amemdhihaki Cantona kutokana na rangi ya ngozi yake akiondoka uwanjani wakati wa mchuano wa United ugani Selhurst Park. Kusimamishwa kwa Cantona kulitolewa na baadhi kama sababu ya United kushindwa kukamilisha kwa mataji matatu "hat-trick" msimu huo. Kutofanikiwa kama ilivyotarajiwa msimu huo kulimsababisha Ferguson kufanya marekebisho makuu katika timu aliwauza Paul Ince, Andrei Kanchelskis na Mark Hughes na kujaza nafasi zaoo kwa wachezaji kutoka katika timu ya vijana wa klabu hiyo, akiwemo David Beckham, Gary Neville, Phil Neville na Paul Scholes. Baada ya kushindwa 3-1 na Aston Villa katika siku ya ufunguzi wa msimu 1995-96, mwanahabari wa televisheni maarufu Alan Hansen alitoa kauli maarufu kwa kusema "kamwe hamtashinda chochote mkiwa na watoto."[16] Wachezaji kadhaa wapya, ambao baadhi yao kwa haraka walijumuishwa katika michuano ya kimataifa ya mara kwa mara na timu ya Uingereza, waliitikia vizuri na kutokana na motisha ya kurejea kwa Cantona Oktoba 1995, United ikawa klabu ya kwanza ya Uingereza kuwahi kushinda mataji mawili mara mbili, ufanisi uliokuja kujulikana kama "Double Double".[17]
Nahodha Steve Bruce aliondoka kuelekea Birmingham City mwezi Julai 1996, na Alex Ferguson akamtaja Eric Cantona kama nahodha mpya wa klabu. Aliiongoza timu kutwaa taji la nne la ligi kati ya miaka mitano katika 1996-97 kabla ya kustaafu kutoka kandanda akiwa na umri wa 30 ilipofika mwisho wa msimu huo. Teddy Sheringham aliletwa kuchukua nafasi yake, na shati yake tambulika nambari 7 ikakabidhiwa David Beckham. Walianza msimu wa 1997-98 vizuri, lakini wakapoteza michuano mitano baada ya Krismasi na kumaliza katika nafasi ya pili, pointi moja nyuma ya washindi mara mbili Arsenal. Baada ya kipindi bila mshindani wa kila mara kuwania taji ligi, hii ilikuwa dhibitisho ya kuwasili kwa Arsenal kama mshindani halisi ambao wangegombea katika miaka michache iliyofuata.
Ushindi mara tatu, Treble (1998–99)
Msimu wa 1998-99 kwa Manchester United ulikuwa na mafanikio sana katika historia ya vilabu vya kandanda nchini Uingereza kwani walikuwa timu ya pekee ya Uingereza iliyowahi kushinda mataji matatu - Ligi Kuu (Premier), kombe la FA na taji la mabingwa UEFA Champions Leaguae katika msimu huo.[18] Baada ya msimu wa wasiwasi wa Ligi ya Premier, Manchester United ilitwaa taji hilo kwenye siku ya mwisho ya fainali kwa kuwashinda Tottenham Hotspur mabao 2-1, huku Arsenal ikiishinda Aston Villa bao 1-0.[19] Kutwaa taji la Ligi ya Premier kulikuwa sehemu ya kwanza ya ushindi mara tatu (treble), sehemu moja ambayo meneja Alex Ferguson aliieleza kuwa ngumu zaidi.[19] Katika Fainali ya kombe la FA United ilikabiliana na Newcastle United na kushinda 2-0 kwa mabao kutoka kwa Teddy Sheringham na Paul Scholes.[20] Katika mechi ya mwisho ya msimu wa 1999 walicheza UEFA Chapions League Final na kuishinda timu ya Bayern Munich katika kile kinafikiriwa kuwa mwamko mkuu sana kuwahi kushuhudiwa, mchuano ulikuwa umeingia muda wa ziada wakiwa wameshindwa kwa bao moja kabla ya kutoka nyuma na kufunga mara mbili na hivyo kushinda 2-1.[18] Ferguson baadaye alipongezwa kwa huduma zake katika kandanda na kutunukiwa heshima ya taifa inayompa ruhusa kuitwa "sir".[21] Kuhitimisha mwaka huo wa kuvunja rekodi, Manchester United ilishinda kombe la Intercontinental baada ya kuinyuka Palmeiras bao 1-0 mjini Tokyo.[22]
Baada ya kipindi cha ushindi Mara Tatu (1999-hadi sasa)
United ilishinda ligi mwaka 2000 na 2001, lakini vyombo vya habari vikaona kana kwamba klabu kimeshindwa msimu huo kwa sababu kilishindwa kutwaa tena taji la Ulaya. Mwaka 2000, Manchester United ilikuwa mojawapo ya timu 14 waanzilishi wa G-14, kundi la vilabu vya soka mashuhuri Ulaya.[23] Klabu hicho pia kilikataa kushiriki kombe la FA 1999-2000 na badala yake kushiriki katika mashindano ya uzinduzi wa taji la FIFA la Klabu Bingwa Duniani Brazil, kilitaja shinikizo kutoka kwa FA, UEFA na kamati ya Uingereza iliyokuwa ikishughulikia kombe la dunia la 2006. Ferguson aliweka mikakati ya kujihami ili kufanya iwe vigumu kwa United kushindwa Ulaya, lakini mikakati hiyo haikuwa na mafanikio kwani United ilikamilisha msimu wa Ligi Kuu ya 2001-02 katika nafasi ya tatu. Walitwaa tena ligi msimu uliofuata (2002-03) na kuanza msimu uliofuata vizuri, lakini hali yao ilishuka kwa kiasi kikubwa baada ya Rio Ferdinand kupokezwa marufuku tata ya miezi minane kwa kutohudhuria upimaji wa madawa ya kulevya. Walishinda kombe la FA 2004, hata hivyo, waliibandua nje Arsenal (hatimaye Arsenal ilishinda taji la Ligi Kuu msimu huo) wakiwa njiani kuelekea fainali ambako waliishinda Millwall.
Msimu wa 2004-2005 ulijawa na hali ya kutofunga mabao, hasa kutokana na jeraha la mshambulizi Ruud van Nistelrooy na United ikamaliza msimu huo bila taji lolote na katika nafasi ya tatu. Wakati huu, hata kombe la FA liliwaponyoka kwani Arsenal iliishinda United kwa mikwaju ya penalti baada ya kutoka sare baada ya kucheza kwa dakika 120. Nje ya uwanja, hadithi kuu ilikuwa uwezekano wa klabu kuchukuliwa, tarehe 12 Mei 2005 na mfanyibiashara wa Kimarekani Malcom Glazer ambaye aliweza kupata udhibiti wa klabu hiyo kupitia uwekezaji kutumia kampuni yake ya Red Football Ltd. katika ununuzi uliothaminiwa kufikia kima cha takribani milioni £800 (wakati huo ikikisiwa kuwa sawa na dola bilioni 1.5).[24][25] Tarehe 16 Mei, aliziongeza hisa zake hadi 75% zinazohitajika kukiondoa klabu hicho kutoka Soko la Hisa na kukifanya kuwa binafsi tena, alitangaza nia yake kufanya hivyo katuka muda wa siku 20.[25] Tarehe 8 Juni, aliwateua wanawe katika bodi ya Manchester United kama wakurugenzi wasio watendaji.[26]
United ilianza vibaya msimu wa 2005-06, huku kiungo wa kati Roy Keane akiondoka kujiunga na Celtic baada ya kuwakosoa hadharani wachezaji wenzake kadhaa. Klabu pia ilikuwa imeshindwa kuhitimu kufuzu kwa awamu ya mwondoaano wa UEFA Champions League kwa zaidi ya mwongo mmoja, baada ya kupoteza kwa Benfica. Msimu huu pia walikumbwa na mikosi kadhaa ya majeraha kwa wachezaji wakuu kama vile Gabriel Heinze, Alan Smith, Ryan Giggs na Paul Scholes. Hata hivyo, walizuiliwa kuachwa mikono mitupu katika misimu mifululizo- masikitiko ambayo yalikuwa hayajashuhudiwa kwa miaka 17 iliyopita-kwa kushinda kombe la Ligi ya 2006, baada ya kuwalaza majirani zao waliopandishwa cheo Wigan Athletic katika fainali kwa mabao 4-0. United pia ilijihakikishia nafasi ya pili na kufuzu moja kwa moja kushiriki michuano ya Ligi ya Mabingwa (Champions League) siku ya mwisho ya msimu kwa kuishinda Charlton Athletic 4-0. Mwishoni mwa msimu wa 2005-06, mmoja wa washambuliaji wa United, Ruud van Nistelrooy, alikihama klabu na kujiunga na Real Madrid, kutokana na ugomvi baina yake na Alex Ferguson.[27]
Mnamo Julai 2006, klabu kilitangaza mpango wa ufadhili mpya. Kiasi cha jumla kitakuwa £ milioni 660, ambayo italipiwa riba ya £ milioni 62 kwa mwaka.[28] Matokeo ya mpango huu mpya wa ufadhili utakuwa punguzo la asilimia 30 ya malipo ya kila mwaka.[29] Uwanjani, msimu wa 2006-07 ulishuhudia United ikirejea na mtindo wao wa kandanda ya kushambulia ambao ndio ulikuwa msingi wa miaka yao ya ufanisi mwishoni mwa miaka ya 1990, wakifunga takriban mabao 20 zaidi ya Chelsea waliokuwa katika nafasi ya pili baada ya michuano 32. Januari 2007, United ilimsajili Henrik Larsson kwa mkopo wa miezi miwili kutoka Helsingborg ya Uswidi, mshambuliaji alitekeleza jukumu muhimu sana katika kuisaidia United kuingia nusu fainali ya Ligi ya Mabingwa,[30] huku ikiwa na matumaini ya kushinda mataji matatu kwa mara ya pili, hata hivyo, baada ya kufikia nusu fainali, United iliaibishwa na Milan kwa jumla ya mabao 3-5.[31] Miaka minne baada taji lao la mwisho, United ilishinda taji la Premier League tarehe 6 Mei 2007 baada ya Chelsea kutoka sare na Arsenal jambo lililoiacha The Blues pointi saba nyuma ikiwa imesaza michuano miwili ili kumaliza, kufuatia ushindi wa United wa 1-0 katika mchuano wa timu kutoka mji wa Manchester "Derby" siku iliyopita na kuifanya kombe lao la 9 la Ligi ya Premier katika misimu 15 ya uwepo wa ligi hiyo. Hata hivyo, ushindi pacha "Double" wa mara ya nne ambao haukutarajiwa haukutokea baada ya Chelsea kuifunga United 1-0 katika muda wa ziada katika kombe la kwanza la FA kufanyika katika uwanja mpya wa Wembley; wa kwanza kufanyika nchini Uingereza tangu uwanja wa zamani kubomolewe miaka saba iliyopita.
Kipindi cha kati ya 2007-08 kilishuhudia United ikimaliza kwa kushinda mataji mawili ya Ulaya licha ya kuanza vibaya msimu huo walipojipata katika nafasi 17 katika Ligi Kuu baada ya kushiriki katika mechi tatu. Hata hivyo, tarehe 11 Mei 2008, United ilihifadhi taji la Ligi ya Premier kufuatia ushindi dhidi ya Wigan Athletic. Huku washindani wao katika taji hilo Chelsea wakiweza tu kutoka sare na Bolton Wanderers, United iliweza kumaliza msimu kwa alama mbili mbele. Klabu pia ilifika fainali ya Kombe la Ulaya kwa mara ya tatu katika historia yake, baada ya kuvishinda vilabu kama Barcelona na Roma ili kufuzu kwa fainali. Waliifunga Chelsea katika mikwaju ya penalti 6-5 katika fainali ugani Luzhniki Moscow baada ya kutoka sare ya 1-1 katika muda wa kawaida tarehe 21 Mei 2008. Kupitia ushindi huu , walijipatia taji lao la tatu la Ulaya na kuweka rekodi yao kutowahi kupoteza fainali kubwa ya Ulaya. Kisadfa, msimu huu ulikuwa wa miaka 100 tangu Manchester United iliposhinda taji lao la kwanza la Ligi, ilikuwa miaka 50 baada ya ajali ya ndege ya Munich na miaka 40 baada ya Manchester United kuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushinda taji la Ulaya. Fainali ya Kombe la Ulaya ilishuhudia pia Ryan Giggs akiichezea klabu hiyo kwa mara ya 759, na kumpita Bobby Charlton aliyekuwa akishikilia rekodi ya kuichezea mara nyingi zaidi klabu hicho.
Kabla ya kuanza kwa msimu wa 2008-09, United walishiriki na kushinda tuzo ya ngao yaFA Community Shield ya 2008. United walifunga Portsmouth katika mikwaju ya penalti 3-1, washindi wa Kikombe cha FA cha 2007-08, baada ya mechi kukamilika kwa sare tasa ya 0-0 ndani ya dakika 90. Mnamo tarehe 21 Desemba 2008, United waliongezea nishani zaidi kwenye hazina yao ya tuzo kwa kushinda katika fainali ya Kombe la Ulimwengu la Vilabu vya FIFA kwa kuishinda LDU Quito kutoka Ecuador kwa bao 1-0 kule Japan, Wayne Rooney ndiye aliyefunga bao la ushindi. Miezi miwili baadaye, waliliongezea kombe la Ligi ya 2009 katika hazina yao ya tuzo kwa kuishinda Tottenham Hotspur mabao 4-1 kwenye mikwaju ya penalti.[32] Mnamo tarehe 16 Mei, United waliweza kuwahi taji la 11 katika Ligi ya Primia - na taji la ujumla la 18 katika Ligi – baada ya kuenda sare tasa ya 0-0 nyumbani kwao wakicheza na Arsenal huku wakishinda mataji matatu mtawalia ya Ligi ya Premier kwa mara ya pili.[33] Mnamo tarehe 27 Mei 2009, Barcelona waliweza kuishinda Manchester United mabao 2-0 katika fainali ya Ligi Mabingwa kule Rome, yaliyofungwa na Samuel Eto'o na Lionel Messi.[34] Fainali ya Ligi ya Mabingwa ilitokea kuwa mechi ya mwisho kwa Carlos Tévez – ambaye mkataba wake ulikamilika mnamo tarehe 30 Juni – na Christiano Ronaldo – aliyeuzwa kwa Real Madrid kwa gharama ya milioni £80, kuvunja rekodi ya dunia ya kuhamisha na kusajiliwa kwa Kaka na Real Madrid kutoka Milan kwa gharama ya milioni £56. Hata hivyo, United waliitikia hasara hizo kwa kumhamisha na kumsajili Michael Owen bila gharama yoyote, Antonio Valencia kwa milioni £17 na Gabriel Obertan kwa gharama ya milioni £3.
Msimu wa 2009-10 ulianza vizuri kwa timu ya Manchester United, licha ya kushindwa 1-0 na timu ya Burnley kule Turf Moor iliyokuwa pigo kubwa kwao. Wingi wa ushindi ukafuata hatimaye, pamoja na ushindi wa kusisimua dhidi ya Manchester City kwa mabao 4-3, uliopatikana mnamo dakika ya 96 kutokana na bao lake Michael Owen. Hata hivyo, mchezo isioridhisha uliwafanya kushindwa mabao 2-0 na Liverpool uwanjani Antfield. Kufikia 1 Novemba, Manchester United ni ya pili katika ligi, alama 2 nyuma ya Chelsea. Katika Ligi ya Mabingwa, United kwa sasa ndio washindi wa kwanza kwenye kundi lao, pamoja na ushindi dhidi ya Beşiktaş na CSKA Moscow na ushindi dhidi ya Wolfsburg huko nyumbani kwao. Mnamo tarehe 3 Novemba, Manchester United waliweza kuhifadhi na kuhitimu kutoka katika kikundi kwa kupata mabao sare 3-3 dhidi ya CKSA Moscow.
Nembo na rangi za klabu
Katika enzi zake kama Newton Heath, klabu kilitumia mavazi ya rangi tofauti, inayotambuliwa zaidi ni shati la rangi ya manjano na kijani lililovaliwa kuanzia 1878 hadi 1892, na tena 1894-1896; vazi hili la milia lilitumika tena katika michuano ya ugenini mapema miaka ya 1990. Mavazi mengine yaliyovaliwa na Newton Heath ni pamoja na shati jekundu lililokuwa na weupe robo yake (1892-1894) na shati jeupe lisilo kuwa na milia (1896-1902), zote hizi zilivaliwa na kaptura ya rangi ya samawati.[35] Katika mwaka wa 1902, pamoja na klabu kubadili jina na kuwa Manchester United, klabu pia kilibadili rangi zake kuwa jezi nyekundu, kaptura nyeupe na soksi nyeusi, ambayo imesalia kuwa sare wastani ya Man Utd katika michuano ya nyumbani tangu wakati huo. Kilicho tofauti na haya ni jezi ambazo timu ilivaa ikicheza fainali ya kombe la FA 1909 na Briston City ambayo ilikuwa nyeupe na mshipi mwekundu wa muundo wa “V”.[36] Mtindo huu ulifufuliwa katika miaka ya 1920 kabla United kurudia mashati yenye rangi nyekundu pekee, pia ilitumika kwa ajili ya michuano ya nyumbani na ugenini katika msimu wa 2009-10 kama njia ya kusherehekea miaka 100 katika Old Trafford.[37][38]
Jezi za kuchezea ugenini kawaida huwa nyeupe na kaptura nyeusi na soksi nyeupe, lakini rangi nyingine zimetumika, ikiwa ni pamoja na shati iliyokuwa na milia ya samawati na nyeupe iliyotumika kati ya 1903-1916, sare nyeusi kila kitu kilichotumika mwaka 1994, 2003 na 2007 na shati la blue iliyokuwa na mistari myembamba mwaka 2000. Mojawapo ya sare iliyokuwa maarufu kwa wengi, japo haikudumu, ni sare ya United iliyokuwa ya michuano ya ugenini ya rangi ya kijivu pekee iliyotumika kati ya 1995-96, iliacha kutumiwa baada ya timu kushindwa mchezo mmoja wakati walikuwa wameivaa. Katika muda wa mapumziko wakicheza dhidi ya Southampton, wakati united ilikuwa imetingwa 3-0, walibadilisha mavazi na kuvaa sare ya samawati na nyeupe lakini bado wakashindwa 3-1. Kulingana na wachezaji, mavazi ya kijivu hayakuwa yakionekana vyema jambo lililosababisha matokeo duni.[39] Sare nyingine maarufu ya kucheza ugenini ya Man Utd ilikuwa uweza wa kuvalika pande zote, ilikuwa na milia ya nyeupe na mikono mieusi na mstari wa kidhahabu upande mmoja na milia ya kidhahabu na mstari mweusi upande mwingine. Shati hii ilitolewa kama sare ya mwisho iliyoshonwa na Umbro kwa klabu kabla ya kuanza kuhudumiwa na Nike, na iliadhimisha miaka 100 tangu klabu kilipobadili jina lake kutoka Newton Heath kuwa Manchester United.
Sare ya tatu ambayo huvaliwa katika michuano ya nyumbani ni samawati tangu shati hadi sokisi kwa heshima ya sare iliyovaliwa 1968 timu iliposhinda Kombe la Ulaya, ukumbusho wa moja kwa moja ulifanywa na klabu 2008-09 kukumbuka miaka 40 ya jezi la tatu la 1968. Kinyume na desturi hii ni kuwa ni pamoja na sare ya rangi ya manjano iliyovaliwa katika miaka ya 1970, sare iliyotajwa hapo awali ya mistari ya samawati na nyeupe kuanzia 1996, ambayo ilionekana kuwapendeza sana mashabiki, na shati jeupe iliyokuwa na mikato ya mlazo wa rangi nyeusi na nyekundu kuanzia 2004. United pia imetumia shati zilizo wahi kutumika kama ya mazoezi kuwa sare zao za tatu, iliwahi kutumia sare nyeusi toka juu hadi chini katika msimu 1998-99 na shati samawati iliyokuwa na rangi ya damu ya mzee ubavuni mwaka 2001 kwa michuano dhidi ya Southampton na PSV Eindhoven.
Hivi sasa, jezi ya nyumbani ya Manchester United ni nyekundu na iliyo na tepe nyeusi isiyokolea kifuani. Nembo ya klabu huwa juu ya ngao nyeusi yenye ukubwa sawa upande wa kushoto wa V, ilihali alama ya Nike ni nyeupe na huwa upande wa kulia; nembo ya AIG pia ni nyeupe. Katika kukumbuka miaka 100 tangu kufunguliwa kwa uwanja wa klabu hicho cha Old Trafford kuna kitambulisho kinachosoma “Uwanja wa ndoto tangu 1910” (The Theatre of Dreams Since 1910) kilichoshikishwa upande wa mshono. Shati la nyumbani huvaliwa na kaptura nyeupe iliyo na mistari myekundu inayoteremka pande zote mbili za miguu, na soksi nyeusi iliyo na mkato mwekundu.[37] Hivi karibuni sare ya kucheza ugenini imekaribiana katika muundo na sare ya nyumbani, lakini shati ni jeusi lililo na utepe wa samawati kifuani na nembo ya klabu huwa juu ya ngao ya samawati. Sawa na sare ya nyumbani, nembo ya wadhamini iko katikati na kwa rangi nyeupe. Kaptura pia ni nyeusi na milia ya samawati ikielekea chini, huku soksi nazo zikiwa nyeusi na tepe ya samawati.[38] Sare ya ugenini ya klabu ya msimu wa 2008-09, inayojumuisha shati jeupe lililo na mstari wa samawati kwenda chini ubavuni na ukosi wa samawati ilio na mkato mwekundu, unaotumiwa kama sare ya tatu ya msimu wa 2009-10. Ikivaliwa pamoja na kaptura za samawati na soksi nyeupe, jezi la tatu lina nembo za wafadhili kwa rangi ya samawati pamoja na herufi "MUFC" nyuma ya ukosi.Beji ya klabu inakalia nguo nyeupe kushoto mwa kifua.[40][41]
Nembo ya Manchester United imebadilishwa mara chache, lakini umbo la kimsingi limebakia sawa. Beji hiyo imechukuliwa kutoka kwa nembo ya jiji la Manchester. Picha ya Shetani kwenye beji ya klabu ilitokana na lakabu ya klabu “Red Devils” (Shetani Wekundu); lililoanza kutumika mapema miaka ya 1960 baada ya Matt Busby kusikia likirejelea timu ya raga ya Salford kutokana na jezi zao nyekundu.[42] Kufikia mwisho wa miaka ya 1960 nembo hiyo ya shetani ilianza kujumuishwa katika utaratibu na shali za klabu kabla ya kujumuishwa kwenye beji ya klabu mnamo 1970 ikishikilia mkuki wenye ncha tatu. Katika mwaka wa 1998, beji iliundwa upya tena, wakati huu maneno "Footbal Club" yakiondolewa.[43]
Wachezaji
Kikosi cha timu ya kwanza
Kama ilivyokuwa 29 Oktoba 2009,kulingana na vyanzo mseto katika tovuti rasmi.[44][45]
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer1GKEdwin van der Sar2DFGary Neville (captain)3DFPatrice Evra4MFOwen Hargreaves5DFRio Ferdinand6DFWes Brown7FWMichael Owen8MFAnderson9FWDimitar Berbatov10FWWayne Rooney11MFRyan Giggs (vice-captain)12GKBen Foster13MFPark Ji-Sung14MFZoran Tošić15DFNemanja Vidić16MFMichael Carrick17MFNani18MFPaul Scholes
No.PositionPlayer19FWDanny Welbeck20DFFábio21DFRafael22DFJohn O'Shea23DFJonny Evans24MFDarren Fletcher25MFAntonio Valencia26FWGabriel Obertan27FWFederico Macheda28MFDarron Gibson29GKTomasz Kuszczak30DFRitchie De Laet31MFCorry Evans38GKRon-Robert Zieler41FWJoshua King42MFMagnus Wolff Eikrem43MFMatthew James
Wa mkopo
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer35MFTom Cleverley (at Watford until 3 Januari 2010)[46]36MFDavid Gray (at Plymouth Argyle until 18 Desemba 2009)[47]37DFCraig Cathcart (at Watford until 4 Januari 2010)[48]
No.PositionPlayer40GKBen Amos (at Peterborough United until 29 Novemba 2009)[49]—FWMame Biram Diouf (at Molde until 31 Desemba 2009)[50]
Wa ziada na walio chuoni
Kwa kikosi cha wachezaji wa ziada na walio chuoni, tazama Manchester United F.C. Reserves and Academy.
Waliokuwa wachezaji hapo awali
Kwa maelezo juu ya wachezaji wa zamani, tazama Orodha ya wachezaji wa klabu ya Soka ya Manchester United na Category:Manchester United F.C. players
Manahodha wa klabu
Rekodi za wachezaji
Kwa mujibu wa mechi iliyochezwa tarehe 8 Novemba 2009 na kulingana na takwimu ya tovuti rasmi.[52] Wachezaji walioandikwa kwa maandishi kolezo ndiyo bado wanaichezea timu ya Manchester United.
Walioshiriki michuano mingi
Waliofunga zaidi
Washindi wa matuzo
Ballon d'Or
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa Ballon d'Or wakati wakiichezea Manchester United:
Denis Law - 1964
Bobby Charlton - 1966
George Best - 1968
Cristiano Ronaldo - 2008
European Golden Shoe ( taji la kiatu cha dhahabu cha Ulaya)
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa European Golden Shoe wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo (mabao 31 ) - 2008
Tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka wakati wakiichezea Manchester United:
David Beckham - 1999
Cristiano Ronaldo - 2008
Mchezaji wa mwaka wa FIFA
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo laMchezaji wa mwaka wa FIFA wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo - 2008
Timu ya akina dada
Timu ya soka ya akina dada ya Manchester United yaani Manchester United Ladies FC ilianzishwa mwaka 1977 kama klabu ya mashabiki akina dada yaani Manchester United Supporters Club Ladies. Walijiunga na ligi ya Three Counties League mwaka 1979, na wakawa wanachama waanzilishi wa ligi ya wanawake wa eneo la kaskazini (North West Women's Regional Footbal League) mwaka 1989, walipogeuza jina lao rasmi na kuwa Manchester United Ladies FC. Ingawa walishushwa kutoka katika ligi msimu wao wa kwanza, walipandishwa ngazi tena baada ya msimu huo na kushinda taji ya ligi ya 1995-96. Msimu wa 1998-99, timu hiyo ilijiunga na Northern Combination, hatua mbili chini ya Ligi Kuu ya wanawake ya FA. Waliletwa rasmi chini ya mwavuli wa Manchester United FC mwanzo wa msimu wa 2001-02, lakini walivunjiliwa mbali kiutata mwanzo wa msimu wa 2004-05 kwa sababu za kifedha. Uamuzi huo ulikumbwa na upinzani ikizingatiwa faida inayopatikana na Manchester United na pia kutokana na ukweli kuwa timu ziliondolewa ligi zao zote kabla hata wachezaji kuarifiwa kuhusu uamuzi huo. Hata hivyo, klabu bado kilishiriki katika kandanda ya wasichana kwa kutoa mafundisho kwa wasichana chini ya umri wa miaka 16.[53]
Maafisa wa klabu
Mmiliki: Malcolm Glazer
Rais wa heshima: Martin Edwards
Manchester United Limited
Wenyekiti wenz: Joel Glazer & Avram Glazer
Afisa mkuu mtendaji: David Gill
Afisa mkuu wa utekelezaji: Michael Bolingbroke
Mkurugenzi wa Kibiashara: Richard Arnold
Mkurugenzi mtendaji: Ed Woodward
Wakurugenzi wasio watendaji: Bryan Glazer, Kevin Glazer, Edward Glazer & Darcie Glazer
Manchester United Football Club
Wakurugenzi: David Gill, Michael Edelson, Sir Bobby Charlton, Maurice Watkins
Katibu wa Klabu: Ken Ramsden
Naibu katibu wa klabu: Ken Merrett
Balozi wa kimataifa: Bryan Robson
Maafisa wa ukufunzi na wa kimatibabu
Meneja: Sir Alex Ferguson
Naibu meneja: Mike Phelan
Mkufunzi wa timu ya kwanza: René Meulensteen
Mkufunzi wa walindalango: Eric Steele
Mkufunzi wa mazoezi: Tony Strudwick
Mkufunzi wa nguvu & uzoefu: Mick Clegg
Mkuu wa utendaji wa binadamu: Dr. Richard Hawkins [54]
Meneja wa timu ya ziada: Ole Gunnar Solskjær
Mkufunzi wa timu ya ziada: Warren Joyce
Skauti mkuu: Jim Lawlor
Skauti mkuu wa Ulaya: Martin Ferguson
Mkurugenzi wa chuo cha vijana: Brian McClair
Mkurugenzi wa kandanda ya vijana: Jimmy Ryan
Daktari wa klabu: Dr. Steve McNally
Naibu daktari wa klabu: Dr. Tony Gill
Mwanatibamaungo wa timu ya kwanza: Rob Swire
Historia ya usimamizi
Ufuasi
Kabla ya Vita ya Pili vya Dunia, mashabiki wachache wa kandanda wa Uingereza walisafiri mbali kutazama michezo kwa sababu ya muda, gharama, na vikwazo vya kivifaa kama vile uhaba wa magari miongoni mwa wakaazi. Jinsi City na United walivyocheza michuano ya nyumbani kwa kubadilishana siku za Jumamosi, Wanamanchester wengi wangetazama United juma moja na juma lifuatalo City, lakini baada ya vita, ushindani mkali ukaibuka na ikawa kawaida zaidi kwa shabiki kuchagua kufuata timu moja pekee.
United iliposhinda ligi mwaka 1956, walikuwa na ufuasi wastani wa juu zaidi wa mahudhurio ya ligi nyumbani, rekodi iliyokuwa inashikiliwa na Newcastle United kwa miaka michache iliyotangulia. Kufuatia ajali yao ya ndege Munich mwaka wa 1958, watu zaidi walianza kushabikia United na wengi wakaanza kuhudhuria michuano. Hii illisababisha ushabiki kwa United kupanuka sababu moja inayofanya United kuwa mahudhurio ya juu katika ligi ya kandanda ya Uingereza kwa takribani kila msimu tangu wakati huo, hata wakati waliposhushwa ngazi na kuwa katika Divisheni ya Pili 1974-75.[3] Kwa kweli, kwa misimu miwili ambayo United haikuwa na mahudhurio ya ligi, Old Trafford ilikuwa ikifanyiwa kazi kubwa ya ujenzi (1971-72 na 1992-93).
Ripoti ya mwaka 2002, kwa anwani Do You come From Manchester?, Ilionyesha kuwa asilimia kubwa ya wanunuzi wa tiketi za msimu za Manchester City huishi katika wilaya za posta za Manchester, wakati United ilikuwa na idadi kamili juu ya wanunuzu wa tiketi za msimu wanaoishi katika eneo moja.[55]
Katika miaka ya 1990 na mapema miaka ya 2000, chanzo cha wasiwasi kwa mashabiki wengi wa United kilikuwa uwezekano wa klabu kununuliwa. Kundi la wafuasi IMUSA (Independent Manchester United Supporters' Association) lilijihusisha sana katika kupinga ununuzi uliotarajiwa wa Rupert Murdoch mwaka 1998. Kundi lingine lililotoa shinikizo klabu kisiuzwe, Shareholders United against Murdoch (ambalo baadaye lilikuwa Shareholders United na sasa ni Manchester United Supporters' Trust) liliundwa wakati huu kuhamasisha wafuasi kununua hisa za klabu, ili kwa kiasi kuwawezesha wafuasi kuwa na usemi zaidi katika masuala yaliyowatia wasiwasi kama vile bei na mgao wa tiketi, na kwa kiasi kupunguza hatari ya watu wasiohitajika kununua hisa za kutosha kumiliki klabu. Hata hivyo, mpango huu ulishindwa kumzuia Malcolm Glazer kuwa mmiliki mwenye hisa nyingi. Wafuasi wengi walikasirishwa, na baadhi walibuni klabu asi kwa jina F.C. United of Manchester. Licha ya hasira ya baadhi ya wafuasi kwa wamiliki wapya, mahudhurio yameendelea kuongezeka.
Hisia zilizotolewa na mashabiki hao, wakati mwingine umeshutumiwa. Mwaka 2000, maoni yaliyotolewa kuhusu baadhi ya mashabiki katika Old Trafford na nahodha wa wakati huo Roy Keane, kwamba baadhi ya mashabiki hawawezi hata " kuendeleza neno kandanda, acha kuielewa" yalipelekea wao kutajwa kama "mashabiki wanaohudhuria mchuano kufurahia ukarimu wa klabu na wala si kuishabikia".[56] Alex Ferguson pia ametoa maoni kadhaa kuhusu mashabiki kiasi kwamba alidai kuwa hali iliyoshuhudiwa tarehe 1 Januari 2008 ilikuwa kama "matanga".[57] Baadaye aliongeza, "Nadhani kumekuwa na siku kama hizi hapo nyuma. Ilitokea miaka michache iliyopita, wakati tulipotawala".[57] Baada ya ushindi maarufu wa 1-0 dhidi ya Barcelona ugani Old Trafford, ambao uliiwezesha United kushiriki katika fainali ya Ligi ya Mabingwa ( Champions League) Moscow, Ferguson alisema kwamba mashabiki wa United "walikuwa wapevu sana" na kwamba wao "walituwezesha kufanikiwa".[58][59]
Uwanja
Klabu kilipoanzishwa mara ya kwanza, Newton Heath alicheza michuano yao ya nyumbani kwenye uwanja mdogo ulio North Road, Newton Heath. Hata hivyo, timu geni zilizokuja kucheza uwanjani humo zililalamikia hali yake, ambayo ilikuwa "bwawa upande mmoja na uliojaa miamba kama ya timbo upande mwingine".[10] vyumba vya kubadilishia nguo pia havikuwa vya kujivunia, vilikuwa umbali wa kutembea dakika kumi katika baa ya Three Crowns iliyokuwa Oldham Road. Baadaye walihamishiwa Shears Hotel, mkahawa mwingine uliokuwa Oldham Road, hata hivyo mabadiliko yalihitajika kama klabu ilitaka kuendelea katika Ligi ya Kandanda.
Heath walibaki katika uwanja wao wa North Road kwa miaka kumi na mitano 1878-1893, mwaka mmoja baada ya kuingia Football League na baadaye kuhamia makao mapya Bank Street hapo Clayton. Uwanja mpya haukuwa mzuri sana, vipande vichache vya nyasi vilijipenyeza usoni mwa changarawe na mawingu ya moshi yalifuka kutoka katika kiwanda kilichokuwa karibu. Wakati mmoja, Walsall Town Swifts ilikataa kucheza kutokana na hali mbaya ya uwanja. Changarawe ilimwagwa uwanjani na walinda uga, hatimaye wageni wakawashawishi kucheza na kupoteza 14-0. walipinga matokeo hayo, wakitaja hali mbaya ya uwanja kama sababu ya wao kushindwa, mchuano ukarudiwa. Hali haikuwa nzuri sana wakati wa marudiano, timu ya Walsall ilishindwa tena, ingawa wakati huu walibugia 9-0 tu.[10]
Mwaka wa 1902, klabu karibu kifilisike na uwanja wa Bank Street ulifungwa na mdai kutokana na klabu kushindwa kulipa deni lake. Klabu kiliokolewa katika dakika za mwisho na nahodha Harry Stafford ambaye aliweza kuchangisha fedha za kutosha kulipia mchuano wa ugenini Bristol City na kupata uwanja wa muda karibu na Harpurhey kwa kuchezea duru nyingine dhidi ya Blackpool.[60]
Kufuatia uwekezaji kuimarisha klabu tena, jina lilibadilishwa na kuwa Manchester United, ingawa kulikuwa na hamu ya kupata uwanja uliokubalika. Wiki sita kabla ya mchuano wa kwanza wa United kuwania Kombe la FA Aprili 1909, Old Trafford ilitajwa kuwa nyumbani kwa Manchester United kufuatia ununuzi wa ardhi muhimu kwa takribani £ 60,000. Msanifumijengo Archibald Leitch aliajiriwa na mwenyekiti wa United John Henry Davies na kupewa bajeti ya £ 30.000 kwa ajili ya ujenzi. Mipango asilia ilionyesha kuwa uwanja ungefaa kujengwa kuhimili watu 100.000, ingawa idadi hiyo ilipunguzwa hadi 77,000. Licha ya hilo, rekodi ya mahudhurio ya 76,962 ilirekodiwa, ambayo hata sasa ni zaidi ya idadi rasmi inayokubalika katika uwanja huo. Ujenzi ulifanywa na Messrs Brameld na Smith wa Manchester. Katika ufunguzi wa uwanja, tiketi za kusimama ziligharimu peni sita, wakati viti ghali zaidi katika jukwaa kuu zililipiwa shilingi tano. Mchezo wa ufunguzi ulikuwa tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool FC, na wageni wakashinda kwa 4-3. Kama ilivyotokea, mabadiliko ya uwanja yalitokea wakati mwafaka zaidi - siku chache tu baada ya klabu kucheza mchuano wao wa mwisho ugani Bank Street, mojawapo ya jukwaa liliangushwa chini na dhoruba.[61]
Kupigwa kwa bomu wakati wa Vita vya Pili vya Dunia, tarehe 11 Machi 1941, kuliharibu sehemu kubwa ya uwanja, hasa jukwaa kuu. Handaki la kati katika South Stand ndilo la pekee lililobakia katika robo hiyo ya uwanja. Baada ya vita, United iliwasilisha ripoti kwa Tume ya Madhara ya Vita na kupokea fidia ya £ 22.278 kwa ajili ya ukarabati wa uwanja huo. Ingawa uwanja ulijengwa upya tena 1949, hakuna mchuano uliosakatwa Old Trafford kwa takribani miaka 10 michuano ya "nyumbani" katika kipindi hicho ilichezwa katika uwanja wa Manchester City, Maine Road. Manchester City iliilipisha United £ 5,000 kwa mwaka kwa matumizi ya uwanja wao, pamoja na asilimia fulani ya ada ya kiingilio.[62]
Marekebisho mengine yalitokea baadaye, yakianza na kuwekwa paa upande wa Stretford End kisha ikawekwa pande za North Stand na East Stand. Hata hivyo, mtindo wa zamani wa paa uliwazuia mashabiki wengi kutazama na hivyo, kupelekea kuboreshwa kwa paa hizo kuwa zilizoinuka na ambazo bado zipo katika uwanja huo leo. Stretford End lilikuwa jukwaa la mwisho kufanyiwa ukarabati wa kuinuliwa paa, kazi iliyokamilika kwa muda ufaao kuruhusu michuano ya msimu wa 1993-94.[63]
Taa za uwanjani ziliwekwa kwa mara ya kwanza uwanjani katikati ya miaka ya 1950. Viunzi180-foot (55m) vinne vikuu vilijengwa, kila kimoja kikiwa na taa 54. Mfumo mzima wa taa uliigharima klabu £ 40,000, na kutumika mara ya kwanza katika mechi ya tarehe 25 Machi 1957. Hata hivyo, taa mtindo zamani zilibomolewa mwaka wa 1987, na kubadilishwa na taa za kisasa zilizowekwa katika paa la kila jukwaa, zinadumu hadi leo.
Mwaka 1990, kufuatia janga la Hillsborough Disaster, ripoti ilitolewa iliyotaka viwanja vyote kukarabatiwa ili kuruhusu mashabiki wanaoketi pekee, hilo lilipelekea ukarabati ulioshusha idadi ya mashabiki wanaoruhusiwa hadi takribani 44,000. Hata hivyo, umaarufu wa klabu ulimaanisha kuwa maendeleo zaidi yangetokea. Mwaka 1995, North Stand ilijengwa kuwa na daraka tatu na kuongeza idadi inayoruhusiwa hadi takribani 55,000. Hii ilifuatiwa na upanuzi kwanza wa jukwaa la East na kisha West kufikisha jumla ya idadi ya 68,000. Upanuzi wa hivi karibuni zaidi ulikamilika mwaka 2006, ambapo robo iliyopo North-East na North West ilifunguliwa, na kufikisha rekodi ya idadi ya sasa ya 76,098, 104 tu chini ya upeo wa idadi inayoruhusiwa.[63]
Imekadiriwa kwamba kwa maendeleo zaidi kufanyiwa uwanja, hasa Southern Stand ambayo ndio hadi sasa ina daraka moja tu, gharama ya uboreshaji inaweza kukaribia £ million 114 ambazo tayari zimetumika kuboresha uwanja huo katika miaka kumi na minne iliyopita. Hii ni kutokana na ukweli kwamba ingebidi takriban nyumba hamsini kununuliwa na klabu, hilo huenda likaongeza usumbufu kwa wakazi wa mtaa huo,na upanuzi wowote ungelazimika kujengwa juu ya laini ya reli inayopita karibu na uwanja huo. Kwa kweli , upanuzi huo utajumuisha kuifanya South Stand kuwa na angalau daraka mbili na kujaza jukwaa za South-West na South-East kuhifadhi umbo la "bakuli" la uwanja huo. Makadirio ya sasa yanaashiria kuwa uwanja huo ukijengwa hivyo utakuwa na uwezo wa kuhimili takriban mashabiki 96,000, zaidi wa uwanja mpya wa Wembley.[63]
Udhamini
AIG ndio wadhamini wakuu wa Manchester United, na kama sehemu ya mpango huo wa udhamini nembo yao imebandikwa mbele ya mashati ya klabu na bidhaa nyingi nyinginezo za klabu. Udhamini wa AIG ulitangazwa na afisa mtendaji wa Manchester United David Gill tarehe 6 Aprili 2006, ina thamani ya £ milioni 56.5 rekodi ya aina yake nchini Uingereza na ya kulipwa kwa takribani miaka minne (£ milioni 14.1 kila mwaka).[64] Udhamini huo ulikuwa wenye thamani zaidi dunia mwezi Septemba 2006 baada ya kubatilishwa kwa udhamini wa £ milioni 15 kila mwaka kati ya Juventus na kampuni ya mafuta ya Tamoil.[65] Tarehe 21 Januari 2009, ilitangaza kuwa AIG haitafanya upya udhamini wao wa klabu ifikapo mwisho wa udhamini wa sasa Mei 2010. Hata hivyo, si wazi ikiwa mkataba wa AIG kusimamia MU Finance utaendelea.[66] Kampuni ya bima ya marekani Aon ilitajwa kama mdhamini mkuu wa klabu tarehe 3 Juni 2009, huku udhamini wao kwa klabu ukianza kutekelezwa mwanzo wa msimu wa 2010-11.[67] Masharti ya mpango huo hawakufichuliwa, lakini imeripotiwa kuwa una thamani ya takriban £ million 80 kwa takriban miaka minne, ambayo itaifanya kuwa mdhamini mkuu zaidi katika historia ya kandanda.[68]
Klabu kimekuwa na wadhamini wakuu watatu tu wa shati. Wa kwanza na waliohudumu kwa muda mrefu zaidi walikuwa Sharp Electronics, ambao walifadhili klabu kuanzia 1982 hadi 2000, ilikuwa moja ya udhamini wa faida kubwa na wa muda mrefu katika Soka ya Uingereza.[69][70] Nembo ya Sharp ilikuwa mbele ya shati za United katika miaka hiyo 17, wakati ambao timu ilishinda mataji saba ya Ligi Kuu, tano za Kombe la FA, moja la Football League, moja la Washindi wa makombe ya Ulaya na moja la Kombe la Ulaya. Vodafone ilichukua udhamini kwa mkataba wa awali wa miaka minne wa £ million 30 tarehe 11 Februari 2000, udhamini ulianza mwanzo wa msimu wa 2000-01.[69][70] Mnamo Desemba 2003, udhamini ulirefushwa kwa miaka minne na Vodafone ikakubaliana kulipa £ million 36 zaidi kwa miaka minne ya 2004-2008.[71] Hata hivyo, tarehe 23 Novemba 2005, Vodafone ilitangaza kuwa itakomesha udhamini wake Mei 2006 ili kuangazia zaidi udhamini wao wa UEFA Champions League.[72]
Vivyo hivyo, klabu imekuwa na washonaji huru nne tu wa sare yake, wa kwanza walikuwa kampuni ya Uingereza UMBRO. Admiral ilichukua usukani mwaka 1975, na kuwa kampuni ya kwanza ya kuweka nembo yao kwenye shati la Manchester United mwaka wa 1976.[73] Adidas ilifuatiwa mwaka 1980,[74] kabla Umbro kuanzaa kipindi chao cha pili kama watengenezaji wa sare za klabu hiyo mwaka wa 1992.[75] Udhamini wa Umbro ulidumu kwa miaka kumi zaidi kabla ya klabu kupata udhamini wa kuvunja rekodi - £ million 302.9 kutoka kwa Nike. Makubaliano na Nike yatadumu kwa miaka 13 ya awali, na kuendelea hadi angalau mwaka wa 2015.[76]
Washindani
Kihistoria, washindani wa karibu wa Manchester United wamekuwa Liverpool, Manchester City na Leeds United.[77][78] Hivi sasa, mashabiki wengi huona Liverpool kama washindani wao wakubwa kutokana na mafanikio ya klabu zote mbili,[79] ingawa bado wengine huiorodhesha Manchester City kama wapinzani wao wakuu.
Ushindani na Liverpool ulianza katika miaka ya 1960 wakati klabu hizo mbili zilikuwa kati ya klabu imara zaidi Uingereza, na zimekuwa zikishindana kwa karibu sana kila msimu tangu zamani. Ushindani wa Manchester City ulianza wakati wa enzi ya Newton Heath ya miaka ya 1890 na imebakia kali kutokana na klabu hizi mbili kuwa katika divisheni sawa kwa muda mrefu wa historia yao. Huku ushindani ukiwa na msingi wa ukinzani wa jadi kati yaYorkshire-Lancashire, ushindani kati yao na Leeds United ulianza mwishoni mwa miaka ya 1960 wakati Leeds ilitawazwa mshindi, na kuendelea katika miaka ya 1970 na 1980 kabla kufikia kilele wakati Leeds ilipoiadhibu United katika taji la ligi 1992.
Tuzo
Nchini Uingereza
Ligi
Ligi Kuu: [80] 11
1992-93, 1993-94, 1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08, 2008-09
Divisheni ya kwanza: [80] 7
1907-08, 1910-11, 1951-52, 1955-56, 1956-57, 1964-65, 1966-67
Divisheni ya pili: [80] 2
1935-36, 1974-75
Vikombe
Kombe la FA: 11
1909, 1948, 1963, 1977, 1983, 1985, 1990, 1994, 1996, 1999, 2004
Kombe ya Ligi: 3
1992, 2006, 2009
FA Charity / Community Shield: 17 (washindi waziwazi mara 13, mara 4 imegawanywa)
1908, 1911, 1952, 1956, 1957, 1965 *, 1967 *, 1977 *, 1983, 1990 *, 1993, 1994, 1996, 1997, 2003, 2007, 2008 (* washindi wa pamoja)
Ya Ulaya
Kombe la Ulaya / UEFA Champions League: 3
1968, 1999, 2008
UEFA Cup Winners' Cup: 1
1991
UEFA Super Cup: 1
1991
Duniani
Kombe la Mabara: 1
1999
Kombe la FIFA la Klabu za Dunia: 1
2008
Ushindi wa mataji mawili au matatu
Mataji mawili:
Ligi na Kombe la FA: 3
1994, 1996, 1999 (kama sehemu ya Utatu)
Ligi na Kombe ya Ligi: 1
2009
Mataji mawili ya Ulaya (Ligi na Kombe la Ulaya): 2
1999 (kama sehemu ya ya Utatu), 2008
"Utatu" (League, Kombe la FA na Kombe la Ulaya): 1
1999
Hasa mashindano mafupi kama vile Charity / Community Shield, Kombe la mabara, Kombe la FIFA la klabu za Dunia au Super Cup hazifikiriwi kwa jumla kuchangia Ushindi mara mbili au tatu.
Taji kuu la peke ambalo Manchester United haijashinda kamwe ni Kombe la UEFA,[81] ingawa walifika robo-fainali mwaka 1984-85 na nusu fainali ya mashindano tangulizi ya michuano hiyo Inter-Cities Fairs Cup, mwaka wa 1964-65.[82][83]
Tazama pia
Vilabu tajiri vya kandanda
Miungano ya mashabiki
IMUSA
Manchester United Supporters 'Trust
Vijarida
Red Issue
United we Stand (kijarida)
Red News
Marejeo
Viungo vya nje
Main Page on BBC Sport: –
katika skysports.com
katika premierleague.com
Jamii:Manchester United FC
Jamii:Vilabu Mpira vya Uingereza
Jamii:Klabu za Ligi Kuu
Jamii:Klabu za Ligi ya Kandanda | https://sw.wikipedia.org/wiki/Manchester%20United%20F.C. |
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ভারত () দক্ষিণ এশিয়ার একটি রাষ্ট্র। দেশটির সরকারি নাম ভারতীয় প্রজাতন্ত্র। ভৌগোলিক আয়তনের বিচারে এটি দক্ষিণ এশিয়ার বৃহত্তম এবং বিশ্বের সপ্তম বৃহত্তম রাষ্ট্র। অন্যদিকে জনসংখ্যার বিচারে এই দেশ বিশ্বের দ্বিতীয় সর্বাধিক জনবহুল তথা বৃহত্তম গণতান্ত্রিক রাষ্ট্র। ভারতের পশ্চিম সীমান্তে পাকিস্তান[17] উত্তর-পূর্বে চীন, নেপাল, ও ভূটান এবং পূর্বে বাংলাদেশ, মায়ানমার ও মালয়েশিয়া অবস্থিত। এছাড়া ভারত মহাসাগরে অবস্থিত শ্রীলঙ্কা, মালদ্বীপ ও ইন্দোনেশিয়া ভারতের নিকটবর্তী কয়েকটি দ্বীপরাষ্ট্র। দক্ষিণে ভারত মহাসাগর, পশ্চিমে আরব সাগর ও পূর্বে বঙ্গোপসাগর দ্বারা বেষ্টিত ভারতের উপকূলরেখার সম্মিলিত দৈর্ঘ্য ৭,৫১৭ কিলোমিটার (৪,৬৭১ মাইল)।[18]
সুপ্রাচীন কাল থেকেই ভারতীয় উপমহাদেশ অর্থনৈতিক সমৃদ্ধি ও সাংস্কৃতিক ঐতিহ্যের জন্য সুপরিচিত। ঐতিহাসিক সিন্ধু সভ্যতা এই অঞ্চলেই গড়ে উঠেছিল। ইতিহাসের বিভিন্ন পর্বে এখানেই স্থাপিত হয়েছিল বিশালাকার একাধিক সাম্রাজ্য। নানা ইতিহাস-প্রসিদ্ধ বাণিজ্যপথ এই অঞ্চলের সঙ্গে বিশ্বের অন্যান্য সভ্যতার বাণিজ্যিক ও সাংস্কৃতিক সম্পর্ক রক্ষা করত। হিন্দু, বৌদ্ধ, জৈন ও শিখ—বিশ্বের এই চার ধর্মের উৎসভূমি ভারত। খ্রিষ্টীয় প্রথম সহস্রাব্দে জরথুষ্ট্রীয় ধর্ম (পারসি ধর্ম), ইহুদি ধর্ম, খ্রিষ্টধর্ম ও ইসলাম এদেশে প্রবেশ করে, ও ভারতীয় সংস্কৃতিতে বিশেষ প্রভাব বিস্তার করে। অষ্টাদশ শতাব্দীর প্রথমার্ধ থেকে ব্রিটিশ ইস্ট ইন্ডিয়া কোম্পানি ধীরে ধীরে ভারতীয় ভূখণ্ডের অধিকাংশ অঞ্চল নিজেদের শাসনাধীনে আনতে সক্ষম হয়। ঊনবিংশ শতাব্দীর মধ্যভাগে এই দেশ পুরোদস্তুর একটি ব্রিটিশ উপনিবেশে পরিণত হয়। অতঃপর এক সুদীর্ঘ স্বাধীনতা সংগ্রামের মাধ্যমে ১৯৪৭ সালে ভারত একটি স্বতন্ত্র রাষ্ট্ররূপে আত্মপ্রকাশ করে। ১৯৫০ সালে সংবিধান প্রণয়নের মাধ্যমে ভারত একটি সার্বভৌম গণতান্ত্রিক প্রজাতন্ত্রে পরিণত হয়।
বর্তমানে ভারত ২৯টি রাজ্য ও সাতটি কেন্দ্রশাসিত অঞ্চল বিশিষ্ট একটি সংসদীয় সাধারণতন্ত্র। ভারতীয় অর্থব্যবস্থা বাজারি বিনিময় হারের বিচারে বিশ্বে দ্বাদশ ও ক্রয়ক্ষমতা সমতার বিচারে বিশ্বে চতুর্থ বৃহত্তম। ১৯৯১ সালে ভারত সরকার গৃহীত আর্থিক সংস্কার নীতির ফলশ্রুতিতে আজ আর্থিক বৃদ্ধিহারের বিচারে ভারত বিশ্বের সবচেয়ে দ্রুত বর্ধনশীল অর্থনৈতিক ব্যবস্থাগুলির মধ্যে দ্বিতীয়।[19] তবে অতিমাত্রায় দারিদ্র্য[20], নিরক্ষরতা ও অপুষ্টি এখনও ভারতের অন্যতম প্রধান সমস্যা। সাংস্কৃতিক দৃষ্টিভঙ্গিতে ভারত একটি বহুধর্মীয়, বহুভাষিক, ও বহুজাতিক রাষ্ট্র। আবার বন্যপ্রাণী ও উদ্ভিদ জগতের নানা বৈচিত্র্যও এদেশে পরিলক্ষিত হয়।
উৎপত্তি
আরও দেখুন: ভারতের নামসমূহ
ভারত নামটির উৎপত্তি চন্দ্রবংশীয় পৌরাণিক রাজা ভরতের নামানুসারে। কথিত আছে এই বর্ষ বা অঞ্চলটি রাজা ভরতকে দান করা হয়েছিল বলে এর নাম ভারতবর্ষ। ইংরেজি ইন্ডিয়া (India) শব্দটি এসেছে সিন্ধু নদের আদি ফার্সি নাম হিন্দু থেকে।[21] এছাড়াও প্রাচীন গ্রিকরা ভারতীয়দের ইন্দোই (Ινδοί; অর্থাৎ, ইন্দাস (সিন্ধু) নদী অববাহিকার অধিবাসী) নামে অভিহিত করতেন।[22] স্বাধীনতার পর ভারতের সংবিধানে ও লোকমুখে ভারত নামটিই প্রচলিত হয়।[23] এছাড়া মধ্যযুগে উত্তর ভারত অর্থে ফার্সি হিন্দুস্তান (বা হিন্দুস্থান; সিন্ধুনদের দেশ) শব্দটিও ব্যবহৃত হত। কোনো কোনো ক্ষেত্রে এই শব্দটি সমগ্র ভারত অর্থেও ব্যবহৃত হয়ে থাকে।[24]
ইতিহাস
প্রাচীন ভারত
মধ্যপ্রদেশ রাজ্যের ভীমবেটকা প্রস্তর ক্ষেত্র ভারতে মানববসতির প্রাচীনতম নিদর্শন। এক লক্ষ বছর আগেও এখানে মানুষের বসবাস ছিল।[25][26] প্রায় ৯০০০ বছর আগে এদেশে স্থায়ী মানববসতি গড়ে উঠে; যা কালক্রমে পশ্চিম ভারতের ইতিহাস-প্রসিদ্ধ সিন্ধু সভ্যতার রূপ ধারণ করে।[27] এই সভ্যতার আনুমানিক সময়কাল ৩৩০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ। এরপর ভারতে বৈদিক যুগের সূত্রপাত হয়। এই যুগেই হিন্দুধর্ম তথা প্রাচীন ভারতীয় সমাজের অন্যান্য সাংস্কৃতিক বৈশিষ্ট্যগুলির আবির্ভাব ঘটে। বৈদিক যুগের সমাপ্তিকাল আনুমানিক ৫০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ। আনুমানিক ৫৫০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ নাগাদ ভারতে প্রতিষ্ঠিত হয় মহাজনপদ নামে অনেকগুলি স্বাধীন রাজতান্ত্রিক ও গণতান্ত্রিক রাজ্য।[28]
খ্রিষ্টপূর্ব তৃতীয় শতকে চন্দ্রগুপ্ত মৌর্য প্রতিষ্ঠিত ও মহামতি অশোকের শাসিত মৌর্য সাম্রাজ্যের অধীনে দক্ষিণ এশিয়ার সিংহভাগ অঞ্চল একত্রিত হয়।[29]
মধ্যযুগীয় ভারত
খ্রিষ্টীয় তৃতীয় শতকে গুপ্ত সম্রাটদের শাসনকাল প্রাচীন ভারতের সুবর্ণ যুগ নামে আখ্যাত হয়।[30] এছাড়া পূর্ব ভারতে পাল এবং দাক্ষিণাত্যে চালুক্য, চোল ও বিজয়নগর প্রভৃতি সাম্রাজ্য গড়ে ওঠে। এই সকল রাজাদের পৃষ্ঠপোষকতায় বিজ্ঞান, প্রযুক্তি, শিল্পকলা, সাহিত্য, জ্যোতির্বিদ্যা ও দর্শন সমৃদ্ধি লাভ করে।
খ্রিষ্টীয় দশম থেকে দ্বাদশ শতাব্দীর মধ্যবর্তী সময়ে মধ্য এশিয়া থেকে ভারতে ইসলামের অনুপ্রবেশ ঘটে। এর ফলে সমগ্র উত্তর ভারত প্রথমে সুলতানি ও পরে মুঘল সাম্রাজ্যের অন্তর্ভুক্ত হয়। মহামতি আকবরের রাজত্বকালে দেশে একাধারে যেমন সাংস্কৃতিক ও অর্থনৈতিক অগ্রগতির সূচনা হয়, তেমনই প্রতিষ্ঠিত হয় হিন্দু-মুসলমানের ধর্মীয় সম্প্রীতি।[31][32] ক্রমে ক্রমে মুঘল সম্রাটগণ উপমহাদেশের এক বৃহৎ অংশে নিজেদের কর্তৃত্ব স্থাপনে সক্ষম হন। যদিও উত্তর-পূর্বাঞ্চলে প্রাধান্যকারী অসমের অহোম রাজশক্তি এবং আরও কয়েকটি রাজ্য মুঘল আগ্রাসন সফলভাবে প্রতিহত করতে সক্ষম হয়েছিল।
প্রারম্ভিক আধুনিক ভারত
ষোড়শ শতক থেকে পর্তুগাল, নেদারল্যান্ডস, ফ্রান্স ও ব্রিটিশ যুক্তরাজ্যের মতো ইউরোপীয় শক্তিগুলি ভারতে বাণিজ্যকুঠি স্থাপন করতে শুরু করে। পরবর্তীকালে দেশের অভ্যন্তরীণ রাজনৈতিক গোলযোগের সুযোগ নিয়ে তারা ভারতে উপনিবেশ স্থাপন করতেও সক্ষম হয়।
আধুনিক ভারত
১৮৫৬ সালের মধ্যেই ভারতের অধিকাংশ অঞ্চল ব্রিটিশ ইস্ট ইন্ডিয়া কোম্পানির হস্তগত হয়েছিল।[33] এর এক বছর পরেই ঘটে ভারতীয় সিপাহি ও দেশীয় রাজ্যগুলির সম্মিলিত এক জাতীয় গণ-অভ্যুত্থান। ভারতের ইতিহাসে এই ঘটনা ভারতের প্রথম স্বাধীনতা যুদ্ধ বা সিপাহি বিদ্রোহ নামে পরিচিত। এই বিদ্রোহ ব্যর্থ হলেও তা দেশে কোম্পানির শাসনের দুর্বলতার দিকগুলি উন্মোচিত করে দেয়। তাই ভারতকে আনা হয় ব্রিটিশ রাজতন্ত্রের প্রত্যক্ষ শাসনাধীনে।
বিংশ শতকে ভারতীয় জাতীয় কংগ্রেস ও অন্যান্য রাজনৈতিক সংগঠনগুলি দেশজুড়ে স্বাধীনতা আন্দোলনের সূত্রপাত ঘটায়। ভারতীয় নেতা মহাত্মা গান্ধী লক্ষাধিক মানুষকে সঙ্গে নিয়ে অহিংস গণ-আইন অমান্য জাতীয় আন্দোলন শুরু করেন।[34] স্বাধীনতা আন্দোলনের শেষলগ্নে নেতাজি সুভাষচন্দ্র বসু ও তাঁর আজাদ হিন্দ ফৌজের সংগ্রাম ভারতের ইতিহাসে এক গৌরবোজ্জ্বল অধ্যায়। ১৯৪৭ খ্রিস্টাব্দের ১৫ আগস্ট ভারত ব্রিটিশ শাসনজাল থেকে মুক্তিলাভ করে। একই সঙ্গে দেশের পূর্ব ও পশ্চিম প্রান্তের মুসলমান-অধ্যুষিত অঞ্চলগুলি বিভক্ত হয়ে গঠন করে পাকিস্তান রাষ্ট্র।[35] ১৯৫০ সালের ২৬ জানুয়ারি নতুন সংবিধান প্রবর্তনের মধ্য দিয়ে ভারতে গণতান্ত্রিক প্রজাতন্ত্র স্থাপিত হয়।[36]
স্বাধীনতার পরে ধর্মীয় অসহিষ্ণুতা, জাতপাত, নকশালবাদ, সন্ত্রাসবাদ এবং জম্মু ও কাশ্মীর, পাঞ্জাব ও উত্তর-পূর্বাঞ্চলের আঞ্চলিক বিচ্ছিন্নতাবাদীদের অভুত্থান দেশে মাথা চাড়া দিয়ে ওঠে। ১৯৯০-এর দশক থেকে ভারতের শহরাঞ্চলগুলি এই হানাহানির শিকার হতে থাকে। ১৯৬২ সালের ভারত-চীন যুদ্ধের ফলে চীনের সঙ্গে এবং ১৯৪৭, ১৯৬৫, ১৯৭১ ও ১৯৯৯ সালে পাক-ভারত যুদ্ধের ফলে পাকিস্তানের সঙ্গে ভারতের সীমান্ত নিয়ে বিরোধ তীব্র হয়। ভারত রাষ্ট্রসংঘ (ব্রিটিশ ভারত হিসাবে) ও জোট নিরপেক্ষ আন্দোলনের অন্যতম প্রতিষ্ঠাতা সদস্য। ১৯৭৪ সালে একটি ভূগর্ভস্থ পারমাণবিক পরীক্ষণ[37] ও ১৯৯৮ সালে আরও পাঁচটি পরমাণু পরীক্ষা চালিয়ে ভারত নিজেদের একটি পরমাণু শক্তিধর রাষ্ট্র হিসেবে প্রকাশ করে।[37] ১৯৯১ সালে শুরু হওয়া অর্থনৈতিক সংস্কারের ফলে[38] বর্তমানে পৃথিবীর অতিদ্রুত-বর্ধনশীল এক অর্থব্যবস্থা হিসাবে ভারত সারা বিশ্বে ব্যাপক প্রভাব বিস্তার করতেও সক্ষম হয়েছে।[19]
ভূগোল
ভারতীয় উপমহাদেশের সিংহভাগ নিয়ে গঠিত ভারতীয় ভূখণ্ডটি ভারতীয় টেকটোনিক পাত ও ইন্দো-অস্ট্রেলীয় পাতের মধ্যস্থিত একটি গৌণ পাতের উপর অবস্থিত।[39] এই ভূখণ্ড গঠনের প্রধান ভূতাত্ত্বিক প্রক্রিয়াটি শুরু হয় আজ থেকে ৭৫ কোটি বছর পূর্বে, যখন দক্ষিণের অতিমহাদেশ গন্ডোয়ানার অংশ হিসাবে ভারতীয় উপমহাদেশ উত্তর-পূর্ব দিকে সরতে শুরু করে। তৎকালীন অসংগঠিত ভারত মহাসাগরব্যাপী এই সরণ স্থায়ী হয় ৫০ কোটি বছর।[39] এর পরে উপমহাদেশটির সঙ্গে ইউরেশীয় পাতের সংঘর্ষ ঘটে এবং উপমহাদেশের পাতটি ইউরেশীয় পাতের তলায় অবনমিত হয়ে পৃথিবীর উচ্চতম পর্বতমালা হিমালয়ের উত্থান ঘটায়। এই পর্বতমালা বর্তমানে ভারতের উত্তর ও উত্তর-পূর্ব দিক বেষ্টন করে আছে।[39] উত্থানশীল হিমালয়ের দক্ষিণ পাদদেশে অবস্থিত সমুদ্রে পাতসঞ্চরণের ফলে একটি বৃহৎ খাত সৃষ্টি হয়, এবং কালক্রমে নদীর পলি জমে[40] এই খাতটি গাঙ্গেয় সমভূমি অঞ্চলে পরিণত হয়।[41] এই সমভূমির পশ্চিমে আরাবল্লী পর্বতশ্রেণী কর্তৃক বিচ্ছিন্ন হয়ে অবস্থান করছে থর মরুভূমি।[42] মূল ভারতীয় পাতটি আজ ভারতীয় উপদ্বীপ রূপে অবস্থান করছে। এটিই ভারতের প্রাচীনতম ও ভৌগোলিকভাবে সর্বাপেক্ষা দৃঢ় অংশ। উত্তরদিকে মধ্য ভারতে অবস্থিত সাতপুরা ও বিন্ধ্য পর্বতমালা পর্যন্ত এই উপদ্বীপ বিস্তৃত। এই সমান্তরাল পর্বতমালাদুটি পশ্চিমে গুজরাটের আরব সাগর উপকূল থেকে পূর্বে ঝাড়খণ্ডের কয়লা-সমৃদ্ধ ছোটনাগপুর মালভূমি পর্যন্ত ব্যাপ্ত।[43] দক্ষিণে উপদ্বীপীয় ভূখণ্ডে দাক্ষিণাত্য মালভূমি বামে ও ডানে যথাক্রমে পশ্চিমঘাট ও পূর্বঘাট পর্বতমালাদ্বয় দ্বারা উপকূলীয় সমভূমি থেকে বিচ্ছিন্ন।[44] এই মালভূমিতেই ভারতের প্রাচীনতম প্রস্তরগঠনটি পরিলক্ষিত হয়; যার কিয়দংশের বয়স ১০০ কোটি বছরেরও বেশি। এইভাবে ভারত বিষুবরেখার উত্তরে ৬°৪৪' ও ৩৫°৩০' উত্তর অক্ষাংশ[45] ও ৬৮°৭' ও ৯৭°২৫' পূর্ব দ্রাঘিমাংশে অবস্থিত।[46]
ভারতীয় উপকূলরেখার দৈর্ঘ্য ৭,৫১৭ কিলোমিটার (৪,৬৭১ মাইল)। এর মধ্যে ৫,৪২৩ কিলোমিটার (৩,৩৭০ মাইল) ভারতীয় উপদ্বীপের এবং ২,০৯৪ কিলোমিটার (১,৩০১ মাইল) আন্দামান, নিকোবর ও লাক্ষাদ্বীপের অন্তর্গত।[18] ভারতীয় নৌবাহিনীর হাইড্রোগ্রাফিক চার্ট অনুসারে মূল অঞ্চলের উপকূলভূমি ৪৩% বালুকাময় সৈকত, ১১% পাথুরে উপকূল ও ভৃগু (উঁচু খাড়া পাড় বা ক্লিফ), ৪৬% জলাজমিপূর্ণ উপকূল দ্বারা গঠিত।[18]
হিমালয় থেকে উৎপন্ন নদনদীগুলির মধ্যে প্রধান গঙ্গা ও ব্রহ্মপুত্র। উভয়েই বঙ্গোপসাগরে পতিত হয়েছে।[47] গঙ্গার প্রধান উপনদীগুলি হল যমুনা ও কোশী নদী। কোশী নদীতে নাব্যতা অত্যন্ত কম থাকায় প্রতি বছর ভয়াল বন্যা দেখা দেয়। উপদ্বীপের প্রধান নদীগুলি হল গোদাবরী, মহানদী, কৃষ্ণা, ও কাবেরী। এই নদীগুলির খাত অত্যন্ত নাব্য হওয়ায় বন্যা কম হয়ে থাকে। এই নদীগুলিও বঙ্গোপসাগরে পতিত হয়েছে।[48] অন্যদিকে নর্মদা ও তাপ্তি পতিত হয়েছে আরব সাগরে।[49] ভারতীয় উপকূলভূমির অন্যতম একটি বৈশিষ্ট্য হল পশ্চিম ভারতে কচ্ছের রাণ ও পূর্বভারতে সুন্দরবনের পলিগঠিত বদ্বীপ অঞ্চল, যা ভারত ও বাংলাদেশে বিস্তৃত।[50] ভারতে দুটি দ্বীপপুঞ্জ দেখা যায়: ভারতের দক্ষিণ-পশ্চিম উপকূলভাগের নিকটে প্রবালদ্বীপ লাক্ষাদ্বীপ এবং আন্দামান সাগরের আগ্নেয় দ্বীপমালা আন্দামান ও নিকোবর দ্বীপপুঞ্জ।[51]
জলবায়ু
ভারতের বৈচিত্র্যময় ভৌগোলিক ও ভূতাত্ত্বিক উপাদানগুলি দেশের জলবায়ুকে অনেকাংশেই প্রভাবিত করে। কর্কটক্রান্তি রেখা ভারতের মাঝবরাবর প্রসারিত। কিন্তু দেশের উত্তর সীমান্ত বরাবর অবস্থিত হিমালয় পর্বতমালা মধ্য এশিয়া থেকে আগত ক্যাটাবেটিক বায়ুপ্রবাহকে প্রতিরোধ করে দেশে ক্রান্তীয় জলবায়ু বজায় রাখতে সহায়তা করে।[52][53]
হিমালয় পর্বতমালা ও থর মরুভূমি দেশে মৌসুমি বায়ুপ্রবাহকেও নিয়ন্ত্রণ করে।[54] থর মরুভূমি গ্রীষ্মকালীন আর্দ্র দক্ষিণ-পূর্ব মৌসুমি বায়ুকে আকর্ষণ করার ক্ষেত্রে গুরুত্বপূর্ণ ভূমিকা গ্রহণ করে। জুন থেকে অক্টোবর মাসের মধ্যবর্তী সময়ে আগত এই বায়ুপ্রবাহই ভারতে বর্ষার মূল কারণ।[54] ভারতে চারটি প্রধান ঋতু দেখা যায়: শীত (জানুয়ারি ও ফেব্রুয়ারি), গ্রীষ্ম (মার্চ থেকে মে), বর্ষা (জুন থেকে সেপ্টেম্বর), এবং শরৎ ও হেমন্ত (অক্টোবর থেকে ডিসেম্বর)।
ক্রান্তীয় জলবায়ুর বৈশিষ্ট্য অনুসারে বর্ষা ও অন্যান্য আবহাওয়াগত পরিস্থিতি দেশে খরা, বন্যা, সাইক্লোন ও অন্যান্য প্রাকৃতিক বিপর্যয়ের জন্য দায়ী। এর ফলে প্রতি বছর দেশটি লক্ষ লক্ষ মানুষের মৃত্যু ও সম্পত্তিহানির কারণ হয়। বর্তমানে বিশ্ব উষ্ণায়ণের ফলে ভারতের জলবায়ুতে নানাপ্রকার অস্থিরতা দেখা দিচ্ছে।
জীববৈচিত্র্য
ইন্দোমালয় পরিবেশক্ষেত্রে অবস্থিত ভারত জীববৈচিত্র্যের একটি গুরুত্বপূর্ণ নিদর্শন। ১৮টি মহাবৈচিত্র্যপূর্ণ রাষ্ট্রের একটি এই দেশ পৃথিবীর ৭.৬% স্তন্যপায়ী, ১২.৬% পাখি, ৬.২% সরীসৃপ, ৪.৪% উভচর, ১১.৭% মাছ ও ৬.০% সপুষ্পক উদ্ভিদের বাসস্থান।[55] পশ্চিমঘাট পর্বতমালার শোলা বর্ষণারণ্যের মতো ভারতের অনেক অঞ্চলেই স্বাভাবিক উদ্ভিদের প্রাচুর্য দেখা যায়। ৩৩% ভারতীয় বৃক্ষপ্রজাতি স্বাভাবিক উদ্ভিদশ্রেণীর অন্তর্গত।[56][57] ভারতের প্রধান অরণ্যক্ষেত্রগুলি আন্দামান দ্বীপপুঞ্জ, পশ্চিমঘাট পর্বতমালা ও উত্তর-পূর্ব ভারতের বিষুবীয় বর্ষণারণ্য থেকে হিমালয়ের চিরহরিৎ অরণ্যক্ষেত্র পর্যন্ত বিস্তৃত। এছাড়া পূর্ব ভারতের শাল-অধ্যুষিত, মধ্য ও দক্ষিণ ভারতের টিক-অধ্যুষিত ও মধ্য দাক্ষিণাত্য ও গাঙ্গেয় সমভূমির বাবুল অধ্যুষিত বনাঞ্চলও উল্লেখযোগ্য।[58] গ্রামীণ ভারতে নিম গাছ ওষধি রূপে ব্যবহৃত হয়। পিপল গাছ মহেঞ্জোদাড়োর প্রতীকচিহ্নে দেখা গাছে। এই গাছের তলাতেই গৌতম বুদ্ধ সিদ্ধিলাভ করেছিলেন।
বহু ভারতীয় প্রজাতি গন্ডোয়ানায় জাত টেক্সা থেকে উদ্ভূত। উপদ্বীপীয় ভারতের ক্রমসরণ ও ইউরেশীয় ভূমিভাগের সঙ্গে সংঘর্ষের ফলে প্রজাতিগুলির মধ্যে ব্যাপক পরিবর্তন দেখা দেয়। যদিও অগ্ন্যুৎপাত ও অন্যান্য জলবায়ুগত পরিবর্তনের কারণে বিগত ২ কোটি বছরে বহু দেশজ প্রজাতিই অবলুপ্ত হয়ে যায়।[59] এর ঠিক পরেই দুটি প্রাণীভৌগোলিক পথে উত্থানশীল হিমালয়ের দুই পাশ দিয়ে ভারতে স্তন্যপায়ী প্রাণীরা প্রবেশ করে।[58] প্রসঙ্গত উল্লেখ্য, ভারতের মোট স্তন্যপায়ী ও পাখিদের যথাক্রমে মাত্র ১২.৬% ও ৪.৫% দেশজ; যেখানে দেশের সরীসৃপ ও উভচরদের ক্ষেত্রে এই সংখ্যা যথাক্রমে ৪৫.৮% ও ৫৫.৮%।[55] উল্লেখযোগ্য দেশীয় প্রাণী হল নীলগিরি লেঙ্গুর, পশ্চিমঘাট পর্বতমালার বাদামি ও গাঢ় লাল রঙের বেডোমি ব্যাং। ভারত ১৭২টি (২.৯%) আন্তর্জাতিক প্রকৃতি ও প্রাকৃতিক সম্পদ সংরক্ষণ সংঘ-গণিত লুপ্তপ্রায় প্রাণীর আবাসস্থল।[60] এর মধ্যে রয়েছে এশীয় সিংহ, বাংলা বাঘ, ভারতীয় শ্বেতপৃষ্ঠ শকুন (বর্তমানে প্রায় অবলুপ্ত)।
বিগত দশকগুলিতে মানুষের অরণ্য আগ্রাসন বন্যপ্রাণী অবলুপ্তির অন্যতম প্রধান কারণ হয়ে দাঁড়ায়। ফলে ১৯৩৫ সালে চালু হওয়া জাতীয় উদ্যান ও সংরক্ষিত স্থানের ব্যবস্থাটিকে ব্যাপ্ত করা হয়। ১৯৭২ সালে বন্যপ্রাণী সংরক্ষণ আইন[61] ও বাঘ সংরক্ষণের জন্য ব্যাঘ্র প্রকল্প চালু হয়। এর সঙ্গে ১৯৮০ সালে প্রবর্তিত হয় অরণ্য সংরক্ষণ আইন[62] ভারতে অভয়ারণ্যের সংখ্যা পাঁচশোর অধিক। সঙ্গে দেশে ১৩টি জৈবক্ষেত্র সংরক্ষণও করা হয়।[63] এর মধ্যে চারটি বিশ্ব জৈবক্ষেত্র সংরক্ষণ নেটওয়ার্কের অন্তর্গত। রামসর কনভেনশন অনুসারে ভারতে পঁচিশটি জলাভূমি আছে; যার একটি কলকাতা মহানগরীর পূর্বভাগে অবস্থিত।[64]
রাজনীতি ও সরকার
রাজনীতি
{{main|ভারতের রাজনীতি|
ভারতীয় প্রজাতন্ত্র বিশ্বের বৃহত্তম গণতান্ত্রিক রাষ্ট্র।[65][66] স্বাধীনোত্তর কালে অধিকাংশ সময় জুড়েই এদেশের শাসনকর্তৃত্ব ভারতীয় জাতীয় কংগ্রেসের আওতাধীন।[67] অন্যদিকে ভারতের রাজ্য-রাজনীতিতে প্রাধান্য বিস্তার করেছে ভারতীয় জাতীয় কংগ্রেস, ভারতীয় জনতা পার্টি (বিজেপি), ভারতের কমিউনিস্ট পার্টি (মার্কসবাদী) (সিপিআই(এম)) প্রভৃতি জাতীয় দল ও একাধিক আঞ্চলিক পার্টি। দুটি সংক্ষিপ্ত পর্যায় বাদে ১৯৫০ সাল থেকে ১৯৯০ সাল অবধি জাতীয় কংগ্রেস সংসদে সংখ্যাগরিষ্ঠ দলের মর্যাদা ভোগ করেছে। প্রধানমন্ত্রী ইন্দিরা গান্ধী ঘোষিত জরুরি অবস্থা-জনিত গণঅসন্তোষকে কাজে লাগিয়ে ১৯৭৭ থেকে ১৯৮০ সালের মধ্যবর্তী সময়ে কংগ্রেসকে ক্ষমতাচ্যুত করে জনতা পার্টি সরকার গঠন করে। ১৯৮৯ সালে জনতা দলের নেতৃত্বে জাতীয় ফ্রন্ট বামফ্রন্টের সহযোগিতায় নির্বাচনে জয়লাভ করে দু-বছর ক্ষমতায় অধিষ্ঠিত থাকে।[68] ১৯৯১ সালে কোনও পার্টি সংখ্যাগরিষ্ঠতা লাভ না করতে পারায় কংগ্রেস পি ভি নরসিমা রাওয়ের প্রধানমন্ত্রিত্বে একটি সংখ্যালঘু সরকার গঠন করে। এই সরকার অবশ্য পূর্ণ মেয়াদে ক্ষমতায় টিকে থাকতে সক্ষম হয়। [69]
১৯৯৬-১৯৯৮ সালটি কেন্দ্রীয় সরকারের অস্থিরতার যুগ। এই সময় একাধিক স্বল্পকালীন জোট কেন্দ্রে সরকার গঠন করে। ১৯৯৬ সালে সংক্ষিপ্ত সময়কালের জন্য বিজেপি সরকার গঠন করে। তারপর কংগ্রেস ও বিজেপি-বিরোধী যুক্তফ্রন্ট ক্ষমতায় অধিষ্ঠিত হয়। ১৯৯৮ সালে বিজেপির নেতৃত্বে জাতীয় গণতান্ত্রিক জোট (এনডিএ) ক্ষমতা দখল করে। এই সরকারই ভারতের প্রথম পূর্ণ সময়কালের অকংগ্রেসি সরকার।[70] ২০০৪ সালের সাধারণ নির্বাচনে কংগ্রেস নেতৃত্বাধীন সংযুক্ত প্রগতিশীল জোট (ইউপিএ) লোকসভায় বিপুল সংখ্যক আসনে জয়লাভ করে এবং বিজেপি-বিরোধী বাম সাংসদদের সহায়তায় সরকার গঠন করে। ইউপিএ ২০০৯ সালের সাধারণ নির্বাচনে পুনরায় ক্ষমতায় আসে। তবে বামদলগুলি আর এই জোটের সমর্থক নয়।[71]
সরকার
১৯৫০ খ্রিস্টাব্দের ২৬ জানুয়ারি প্রবর্তিত ভারতীয় সংবিধান বিশ্বের বৃহত্তম ও সর্বাধিক বিস্তারিত ব্যাখ্যাসমৃদ্ধ সংবিধান।[72] সংবিধানের প্রস্তাবনা অংশে ভারতীয় প্রজাতন্ত্রকে একটি সার্বভৌম, সমাজতান্ত্রিক, ধর্মনিরপেক্ষ, গণতান্ত্রিক সাধারণতন্ত্র রূপে বর্ণিত হয়েছে।[73] ভারতে প্রচলিত দ্বিকক্ষবিশিষ্ট সংসদ ওয়েস্টমিনিস্টার-ধাঁচের একটি সংসদ ব্যবস্থা। এদেশের সরকার প্রথাগতভাবে ‘আধা-যুক্তরাষ্ট্রীয়’ সরকার ব্যবস্থা হিসাবে বর্ণিত হয়; যার বৈশিষ্ট্য হল একটি শক্তিশালী কেন্দ্রীয় সরকার ও অপেক্ষাকৃত দুর্বল একাধিক রাজ্য সরকারের সহাবস্থান।[74] যদিও ১৯৯০-এর দশকের শেষভাগ থেকে রাজনৈতিক ও আর্থ-সামাজিক সংস্কার ও পরিবর্তনের ফলে রাজ্য সরকারগুলির ক্ষমতার ক্রমান্বয়ে বৃদ্ধি দেশকে চালিত করছে একটি যুক্তরাষ্ট্রীয় ব্যবস্থার দিকে।[75]
ভারতের রাষ্ট্রপ্রধান হলেন রাষ্ট্রপতি।[76] তিনি পরোক্ষভাবে একটি নির্বাচক মণ্ডলী কর্তৃক পাঁচ বছরের সময়কালের ব্যবধানে[77][78] নির্বাচিত হন।[79] অন্যদিকে ভারতের সরকার প্রধান হলেন প্রধানমন্ত্রী। অধিকাংশ শাসনক্ষমতা ন্যস্ত থাকে তাঁর হাতেই।[76] রাষ্ট্রপতি কর্তৃক নিযুক্ত[80] প্রধানমন্ত্রীকে প্রথাগতভাবে সংসদের নিম্নকক্ষে সংখ্যাগরিষ্ট আসনপ্রাপ্ত রাজনৈতিক দল বা জোটের সমর্থন লাভ করতে হয়[76]। রাষ্ট্রপতি, উপরাষ্ট্রপতি ও প্রধানমন্ত্রীর নেতৃত্বে মন্ত্রী পরিষদ (যার কার্যনির্বাহী সমিতি হল ক্যাবিনেট)—এই নিয়ে গঠিত ভারতের শাসনবিভাগ। দপ্তরযুক্ত মন্ত্রীদের সকলকেই সংসদের কোনও না কোনও কক্ষের সদস্য হতে হয়। ভারতীয় সংসদীয় ব্যবস্থায় শাসনবিভাগ আইনবিভাগের অধস্তন। সেই কারণে প্রধানমন্ত্রী ও তাঁর মন্ত্রী পরিষদকে সংসদের নিম্নকক্ষের কাছে দায়বদ্ধ থাকতে হয়।[81]
ভারতের আইনবিভাগ হল দ্বিকক্ষবিশিষ্ট সংসদ। এটি গঠিত হয়েছে রাজ্যসভা নামক একটি উচ্চকক্ষ ও লোকসভা নামক একটি নিম্নকক্ষ নিয়ে।[82] রাজ্যসভার সদস্যসংখ্যা ২৪৫; এঁদের দপ্তরকাল ছয় বছর।[83] এঁদের অধিকাংশই রাজ্য ও কেন্দ্রশাসিত অঞ্চলগুলির বিধানসভা থেকে রাজ্যের জনসংখ্যার ভিত্তিতে পরোক্ষভাবে নির্বাচিত হয়ে আসেন।[83] অন্যদিকে লোকসভার ৫৪৫ জন সদস্যের মধ্যে ৫৪৩ জন পাঁচ বছরের মেয়াদে নিজ নিজ নির্বাচন কেন্দ্র থেকে প্রত্যক্ষ ভোটের মাধ্যমে নির্বাচিত হন।[83] এছাড়া রাষ্ট্রপতি যদি মনে করেন যে সংসদে অ্যাংলো-ইন্ডিয়ান সম্প্রদায়ের যথেষ্ট সংখ্যক প্রতিনিধি নেই, তবে তিনি দুই জন সদস্যকে উক্ত সম্প্রদায় থেকে সাংসদ মনোনীত করতে পারেন।[83]
ভারতে এককেন্দ্রিক ত্রি-স্তর বিচারব্যবস্থা প্রচলিত। এই বিচারব্যবস্থা প্রধান বিচারপতির নেতৃত্বে সুপ্রিম কোর্ট, ২১টি হাইকোর্ট ও অসংখ্য বিচারবিভাগীয় আদালতের সমন্বয়ে গঠিত।[84] মৌলিক অধিকার, কেন্দ্র ও রাজ্যগুলির মধ্যে বিবাদ ও হাইকোর্টের আপিল বিচার এলাকা সংক্রান্ত মামলাগুলির ক্ষেত্রে সুপ্রিম কোর্টের মূল বিচার এলাকার অন্তর্গত।[85] এই বিচারব্যবস্থা স্বতন্ত্র[84] এবং আইন ঘোষণা এবং সংবিধান-বিরোধী কেন্দ্রীয় বা রাজ্য আইন প্রতিহত করার ক্ষমতাযুক্ত।[86] সংবিধানের অভিভাবকত্ব ও ব্যাখ্যাদান সুপ্রিম কোর্টের অন্যতম গুরুত্বপূর্ণ ভূমিকার অন্তর্গত।[87]
রাজনৈতিক বিভাগ
ভারত ২৯টি রাজ্য ও সাতটি কেন্দ্রশাসিত অঞ্চলবিশিষ্ট একটি যুক্তরাষ্ট্রীয় সাধারণতন্ত্র। ভারতে প্রত্যেক রাজ্যে নির্বাচিত রাজ্য সরকার অধিষ্ঠিত রয়েছে; নির্বাচিত সরকার রয়েছে কেন্দ্রশাসিত অঞ্চল পুদুচেরি ও দিল্লিতেও। অপর পাঁচটি কেন্দ্রশাসিত অঞ্চল রাষ্ট্রপতির প্রত্যক্ষ শাসনাধীন; এই অঞ্চলগুলিতে কেন্দ্রীয় সরকার প্রশাসক নিয়োগ করে থাকেন। ১৯৫৬ সালে রাজ্য পুনর্গঠন আইন বলে ভাষার ভিত্তিতে রাজ্যগুলি স্থাপিত হয়।[88] তারপর থেকে এই কাঠামোটি মোটামুটি অপরিবর্তিত রয়েছে। তৃণমূল স্তরে শাসন ও প্রশাসন পরিচালনার লক্ষ্যে রাজ্য ও কেন্দ্রশাসিত অঞ্চলগুলি মোট ৬১০টি জেলায় বিভক্ত।[89] জেলাগুলি আবার মহকুমা বা তহসিলে এবং গ্রামে বিভক্ত।
বৈদেশিক সম্পর্ক ও সামরিক বাহিনী
১৯৪৭ সালে স্বাধীনতার পর থেকেই বিশ্বের অধিকাংশ রাষ্ট্রের সঙ্গে ভারতের সম্পর্ক আন্তরিক। ১৯৫০-এর দশকে ভারত আফ্রিকা ও এশিয়ার ইউরোপীয় উপনিবেশগুলির স্বাধীনতার স্বপক্ষে সওয়াল করে।[90] শ্রীলঙ্কায় ভারতীয় শান্তিরক্ষী বাহিনী প্রেরণ ও মালদ্বীপে অপারেশন ক্যাকটাস—এই দুই ক্ষেত্রে ভারত তার প্রতিবেশী রাষ্ট্রে সামরিক মধ্যস্থতায় অংশ নেয়।
কমনওয়েলথের এক সদস্য ভারত, জোট নিরপেক্ষ আন্দোলনেরও প্রতিষ্ঠাতা সদস্য।[91] ভারত-চীন যুদ্ধ ও ১৯৬৫ সালের পাক-ভারত যুদ্ধের পর সোভিয়েত ইউনিয়নের সঙ্গে ভারতের সম্পর্ক আন্তরিক হয়ে ওঠে। ফলে যুক্তরাষ্ট্রের সঙ্গে ভারতের সম্পর্কের অবনতি হয়। ঠান্ডা যুদ্ধের সমাপ্তি পর্যন্ত সেই সম্পর্ক একই রকম থাকে। কাশ্মীরকে কেন্দ্র করে ভারতের সঙ্গে পাকিস্তানের তিনটি যুদ্ধ হয়। ১৯৭১ সালে বাংলাদেশের স্বাধীনতা যুদ্ধে ভারতীয় মিত্র বাহিনী বাংলাদেশকে সহায়তা করে।[92] এছাড়াও ১৯৮৪ সালে সিয়াচেন হিমবাহ ও ১৯৯৯ সালে কার্গিলকে কেন্দ্র করে দুই দেশের মধ্যে সংঘর্ষ বাধে।
বর্তমানকালে, ভারত যে সকল প্রতিষ্ঠানে নিজ প্রভাব বিস্তারে সক্ষম হয়েছে সেগুলি হল অ্যাসোসিয়েশন অব সাউথ-ইস্ট এশিয়ান নেশনস (আসিয়ান) [93], সাউথ এশিয়ান অ্যাসোসিয়েশন ফর রিজিওন্যাল কো-অপারেশন (সার্ক) ও বিশ্ব বাণিজ্য সংস্থা (ডব্লিউটিও)।[94] ভারত চারটি মহাদেশে রাষ্ট্রসংঘের ৩৫টি শান্তিরক্ষা অভিযানে প্রায় ৫৫,০০০ সেনা ও পুলিশ প্রেরণ করেছে।[16] ব্যাপক সমালোচনা ও সামরিক অনুমোদন সত্ত্বেও পরমাণু কর্মসূচির উপর সার্বভৌমত্ব রক্ষার খাতিরে ভারত কম্প্রিহেনসিভ নিউক্লিয়ার-টেস্ট-ব্যান ট্রিটি (সিটিবিটি) ও নিউক্লিয়ার নন-প্রলিফারেশন ট্রিটি (এনপিটি)-তে সই করতে উপর্যুপরি অস্বীকার করছে। ভারত সরকারের সাম্প্রতিক প্রচেষ্টার ফলে যুক্তরাষ্ট্র, পাকিস্তান ও চীনের সঙ্গে ভারতের সম্পর্কের উন্নতি হয়েছে। অন্যদিকে অর্থনৈতিক ক্ষেত্রে দক্ষিণ আমেরিকা, এশিয়া ও আফ্রিকার উন্নয়নশীল দেশগুলির সঙ্গেও ভারত সুসম্পর্ক বজায় রেখেছে।
স্থলসেনা, বায়ুসেনা ও নৌসেনা নিয়ে গঠিত ভারতের সামরিক বাহিনী বিশ্বে তৃতীয় বৃহত্তম সামরিক বাহিনী।[36] এই সামরিক বাহিনীর সমান্তরালে কাজ করে থাকে একাধিক সহকারী বাহিনী; যথা: আধাসামরিক বাহিনী, উপকূলরক্ষী বাহিনী ও স্ট্রাটেজিক ফোর্সেস কম্যান্ড। রাষ্ট্রপতি ভারতীয় সেনাবাহিনীর সর্বাধিনায়ক। রাশিয়া, ফ্রান্স ও ইসরায়েল ভারতের প্রধান অস্ত্রসরবরাহকারী রাষ্ট্র ও প্রতিরক্ষা সহকারী দেশ। প্রতিরক্ষা গবেষণা ও উন্নয়ন সংগঠন (ডিফেন্স রিসার্চ অ্যান্ড ডেভেলপমেন্ট অর্গ্যানাইজেশন বা ডিআরডিও) ব্যালিস্টিক মিসাইল, যুদ্ধবিমান, যুদ্ধট্যাঙ্ক সহ দেশজ অত্যাধুনিক অস্ত্র ও সামরিক সরঞ্জাম উৎপাদনের কাজ তত্ত্ববধান করে, যাতে সামরিক সরঞ্জামের ক্ষেত্রে ভারতকে অধিক মাত্রায় বিদেশি আমদানির উপর নির্ভর করতে না হয়। ১৯৭৪ সালে স্মাইলিং বুদ্ধ ও ১৯৯৮ সালে পোখরান-২ নামে মোট ছয়টি প্রাথমিক পরমাণু পরীক্ষণের মাধ্যমে ভারত পরমাণু শক্তিধর রাষ্ট্রে পরিণত হয়। যদিও ভারতের ঘোষিত পরমাণু নীতি হল “প্রথম প্রয়োগ নয়”।[96] ১০ অক্টোবর, ২০০৮ তারিখে ভারত-মার্কিন বেসামরিক পরমাণু চুক্তি সাক্ষরিত হয়। তার পূর্বেই আন্তর্জাতিক পরমাণু শক্তি সংস্থা ও নিউক্লিয়ার সাপ্লায়ারস গ্রুপ ভারতের উপর থেকে পরমাণু প্রযুক্তি ক্রয়বিক্রয়ের নিষেধাজ্ঞা তুলে নেয়। ফলে ভারত কার্যত পরিণত হয় বিশ্বের ষষ্ঠ পরমাণু শক্তিধর রাষ্ট্রে।[97]
অর্থনীতি
১৯৫০-এর দশক থেকে ১৯৮০-এর দশক পর্যন্ত ভারত সমাজতান্ত্রিক-ধাঁচের অর্থনৈতিক নীতি অনুসরণ করে চলে।
স্বাধীনতা-উত্তর যুগের অধিকাংশ সময় জুড়ে ভারতে যে আধা-যুক্তরাষ্ট্রীয় ব্যবস্থা প্রচলিত ছিল, তাতে বেসরকারি উদ্যোগ, বৈদেশিক বাণিজ্য ও প্রত্যক্ষ বিদেশি বিনিয়োগের ওপর কঠোর সরকারি বিধিনিষেধ আরোপিত থাকত। ১৯৯১ সালে অর্থনৈতিক সংস্কারের মাধ্যমে ক্রমান্বয়ে ভারত তার বাজার উন্মুক্ত করে দেয়। বিদেশি বাণিজ্য ও বিনিয়োগের উপর সরকারি কর্তৃত্ব শিথিল করা হয়।[38] এর ধনাত্মক প্রভাবে মার্চ ১৯৯১ সালে ৫.৮ বিলিয়ন মার্কিন ডলার থেকে বৈদেশিক মুদ্রা সঞ্চয় ৪ জুলাই, ২০০৮ তারিখে বেড়ে দাঁড়ায় ৩০৮ বিলিয়ন মার্কিন ডলারে।[98] ঘাটতি কমে আসে কেন্দ্রীয় ও রাজ্য বাজেটগুলিতে।[99] যদিও সরকারি মালিকানাধীন সংস্থাগুলির বেসরকারিকরণ এবং কোনও কোনও সরকারি খাত বেসরকারি ও বৈদেশিক অংশীদারদের নিকট মুক্ত করে দেওয়ায় রাজনৈতিক বিতর্ক সৃষ্টি হয়।[100][101]
ভারতের মোট স্থুল আভ্যন্তরীক উৎপাদন বা জিডিপি ১.২৪৩ ট্রিলিয়ন মার্কিন ডলার[14] যা ক্রয়ক্ষমতা সমতার (পিপিপি) পরিমাপে ৪.৭২৬ ট্রিলিয়ন মার্কিন ডলারের সমতূল্য। জিডিপি'র মানদণ্ডে ভারত বিশ্বের চতুর্থ বৃহত্তম অর্থনীতি। চলতি মূল্যে ভারতের মাথাপিছু আয় ৯৭৭ মার্কিন ডলার (বিশ্বে ১২৮তম) যা ক্রয়ক্ষমতা সমতা (পিপিপি) ভিত্তিক পরিমাপে ২,৭০০ মার্কিন ডলারের সমতূল্য (বিশ্বে ১১৮তম)। বিংশ শতাব্দীর প্রথমভাগে কৃষি প্রধান দেশ হিসাবে পরিচিত ভারতের বর্তমান জিডিপিতে পরিষেবা খাতের অবদান ৫৪ শতাংশ ; ইতিমধ্যে কৃষিখাতের অবদান হ্রাস পেয়ে ২৮ শতাংশে দাঁড়িয়েছে এবং শিল্পখাতের অবদান মাত্র ১৮ শতাংশ। বিগত দুই দশকে বিশ্বের অন্যতম দ্রুত বর্ধনশীল অর্থনীতি ভারতের গড় বার্ষিক জিডিপি বৃদ্ধির হার ছিল ৫.৭ শতাংশ।[102]
৫১৬.৩ মিলিয়ন জনসংখ্যা অধ্যুষিত ভারত পৃথিবীর দ্বিতীয় বৃহত্তম শ্রমশক্তির দেশ। এই শক্তির ৬০ শতাংশ নিয়োজিত কৃষিখাতে ও কৃষিসংক্রান্ত শিল্পগুলিতে, ২৮ শতাংশ পরিষেবা ও পরিষেবা-সংক্রান্ত শিল্পে এবং ১২ শতাংশ নিযুক্ত শিল্পখাতে।[36] প্রধান কৃষিজ ফসলগুলি হল ধান, গম, তৈলবীজ, তুলা, পাট, চা, আখ ও আলু। প্রধান শিল্পগুলি হল অটোমোবাইল, সিমেন্ট, রাসায়নিক, বৈদ্যুতিন ভোগ্যপণ্য, খাদ্য প্রক্রিয়াকরণ, যন্ত্রশিল্প, খনি, পেট্রোলিয়াম, ভেষজ, ইস্পাত, পরিবহণ উপকরণ ও বস্ত্রশিল্প। ভারতের প্রাকৃতিক সম্পদগুলি হল আবাদি জমি, বক্সাইট, ক্রোমাইট, কয়লা, হিরে, আকরিক লৌহ, চুনাপাথর, ম্যাঙ্গানিজ, অভ্র, প্রাকৃতিক গ্যাস, পেট্রোলিয়াম ও আকরিক টাইটানিয়াম।[67] ভারতের দ্রুত অর্থনৈতিক প্রবৃদ্ধির সঙ্গে সঙ্গে শক্তির চাহিদাও দিন দিন বৃদ্ধি পাচ্ছে। এনার্জি ইনফরমেশন অ্যাডমিনিস্ট্রেশনের মতে, ভারত পেট্রোলিয়ামজাত পণ্যের ষষ্ঠ বৃহত্তম ও কয়লার তৃতীয় বৃহত্তম ভোক্তা।[103]
বিগত দুই দশকের উল্লেখযোগ্য অর্থনৈতিক প্রবৃদ্ধি সত্ত্বেও ভারত বিশ্বের সর্বাপেক্ষা দারিদ্র্যপীড়িত রাষ্ট্র। শিশু-অপুষ্টির হারও বিশ্বের অন্যান্য দেশগুলির তুলনায় ভারতে সর্বাধিক: ২০০৭ সালের হিসেব অনুযায়ী ৪৬ শতাংশ)।[104][105] তবে বিশ্বব্যাঙ্ক নির্ধারিত দৈনিক ১.২৫ মার্কিন ডলারের আন্তর্জাতিক দারিদ্র্যরেখার (২০০৪ সালের হিসেব অনুযায়ী, ক্রয়ক্ষমতা সমতা নামমাত্র হিসেবে নগরাঞ্চলে দৈনিক ২১.৬ টাকা ও গ্রামাঞ্চলে দৈনিক ১৪.৩ টাকা) নিচে বসবাসকারী মানুষের সংখ্যা ১৯৮১ সালে ৬০ শতাংশ থেকে ২০০৫ সালে ৪২ শতাংশে নেমে এসেছে। [106] সাম্প্রতিক দশকগুলিতে ভারত মন্বন্তর প্রতিরোধ করতে পারলেও, দেশের অর্ধেক শিশু ওজন ঘাটতিতে ভুগছে। এই হার সারা বিশ্বের নিরিখে কেবল উচ্চই নয়, এমনকী সাব-সাহারান আফ্রিকার হারের প্রায় দ্বিগুণ।[107]
সাম্প্রতিককালে, ভারতের বহুসংখ্যক শিক্ষিত ইংরেজি-পটু প্রশিক্ষিত পেশাদারগণ বিভিন্ন বহুজাতিক সংস্থা, মেডিক্যাল ট্যুরিজমে ও আউটসোর্সিং-এর কাজে নিযুক্ত হয়েছেন।[108] বর্তমানে ভারত সফটওয়্যার ও অর্থসংক্রান্ত, গবেষণাসংক্রান্ত ও প্রকৌশলগত পরিষেবার এক বৃহৎ রপ্তানিকারক।
২০০৭ সালে রপ্তানি ও আমদানির পরিমাণ ছিল যথাক্রমে ১৪৫ বিলিয়ন মার্কিন ডলার ও ২১৭ বিলিয়ন মার্কিন ডলার।[109] বস্ত্র, রত্ন, ইঞ্জিনিয়ারিং দ্রব্যাদি ও সফটওয়্যার ভারতের প্রধান রপ্তানি পণ্য। প্রধান প্রধান আমদানি পণ্যের মধ্যে রয়েছে অপরিশোধিত তেল, যন্ত্রপাতি, সার ও রাসায়নিক দ্রব্য। ভারতের প্রধানতম বাণিজ্য সহযোগী হল মার্কিন যুক্তরাষ্ট্র, ইউরোপীয় ইউনিয়ন ও চীন। ভারতের কেন্দ্রীয় ব্যাংক ভারতীয় রিজার্ভ ব্যাংকের সদর দপ্তর দেশের বাণিজ্যিক রাজধানী নামে খ্যাত মুম্বই মহানগরীতে অবস্থিত।
জনপরিসংখ্যান
ভারত বিশ্বের দ্বিতীয় সর্বাধিক জনবহুল রাষ্ট্র। ২০১৮ সালে দেশটির আনুমানিক জনসংখ্যা প্রায় ১৩৫ কোটি। ভারতের জনসংখ্যা পৃথিবীর মোট জন সংখ্যার প্রায় ১৭.৭৪ শতাংশ। সাম্প্রতিক কালে বার্ষিক জনসংখ্যা বৃদ্ধির হার প্রতি হাজার জনে ১১.১০ জন বা ১.১১ শতাংশ। গড়ে প্রতি দুই সেকেণ্ডে জনসংখ্যা একজন করে বাড়ে। যদিও সাম্প্রতিক দশকগুলিতে গ্রাম থেকে শহরে অভিবাসনের হার বৃদ্ধি পাওয়ায় ভারতে শহরাঞ্চলীয় জনসংখ্যা বহুল পরিমাণে বৃদ্ধি পেয়েছে, তথাপি প্রায় ৬৬.৮০ শতাংশ ভারতবাসী গ্রামাঞ্চলে বাস করেন। জনসংখ্যার ৩৩.২০ শতাংশ শহরে বসবাস করে। এ দেশে প্রতি বর্গকিলোমিটারে জনবসতি ৪৫৫ জন।[110] ভারতের বৃহত্তম মহানগরগুলির মধ্যে উল্লেখযোগ্য হল মুম্বই (পূর্বনাম বম্বে বা বোম্বাই), নতুন দিল্লি, বেঙ্গালুরু (পূর্বনাম ব্যাঙ্গালোর), কলকাতা, হায়দ্রাবাদ ও আহমদাবাদ।[67]
২০১৩-১৫ কালপর্বে জাতীয় পর্যায়ে লিঙ্গানুপাত প্রতি হাজার পুরুষের বিপরীতে ৯০০ জন নারী।[111] ২০১১-এর জনমিতি অনুযায়ী ভারতে সাক্ষরতার হার ৭৪.০৪ শতাংশ, যা পুরুষদের মধ্যে ৮২.১৪ শতাংশ এবং নারীদের মধ্যে ৬৫.৪৬ শতাংশ। সাক্ষরতার সর্বনিম্ন হার বিহার রাজ্যে: ৬৩.৮২ শতাংশ।[112] শহর-গ্রাম স্বাক্ষরতার পার্থক্য ২০০১ সালে ছিল ২১.২ শতাংশ, যা ২০১১ সালে নেমে আসে ১৬.১ শতাংশে। গ্রামীন অঞ্চলগুলোতে স্বাক্ষরতা বৃদ্ধির হার শহর এলাকার তুলনায় দ্বিগুণ।[113] সাক্ষরতার হার সর্বাধিক কেরল রাজ্যে (৯১%)।[114]
ভাষা
ভারতের দুটি প্রধান ভাষাগোষ্ঠী হল ইন্দো-আর্য (মোট জনসংখ্যার ৭৪%) ও দ্রাবিড় (মোট জনসংখ্যার ২৪%)। অপরাপর ভাষাগোষ্ঠীগুলি হল অস্ট্রো-এশিয়াটিক ও তিব্বতি-বর্মী ভাষাগোষ্ঠী। ভারতের বৃহত্তম জনগোষ্ঠীয় ভাষা হিন্দি[115] যা কি-না কেন্দ্রীয় সরকারের দাপ্তরিক ভাষা হিসেবে নির্ধারিত।[116] “সহকারী দাপ্তরিক ভাষা” ইংরেজি প্রশাসন ও বাণিজ্যিক ক্ষেত্রে বহুল ব্যবহৃত।[117] উচ্চশিক্ষার ক্ষেত্রেও ইংরেজির প্রাধান্য প্রশ্নাতীত। ভারতের সংবিধান বাংলা-সহ ২২টি ভাষাকে সরকারি ভাষার মর্যাদা দিয়েছে। এগুলি হয় প্রচলিত, নয় ধ্রুপদি ভাষা। প্রাচীনকাল থেকেই ভারতে ধ্রুপদি ভাষার মর্যাদা পেয়ে আসা তামিল ও সংস্কৃত[118] এবং কন্নড় ও তেলুগু ভাষাকে ভারত সরকার নিজস্ব একটি যোগ্যতাসূচকবলে ধ্রুপদি ভাষার মর্যাদা দান করেছে।[119] ভারতে উপ-ভাষার সংখ্যা ১,৬৫২টি।[120]
ধর্ম
৮০ কোটিরও বেশি (৮০.৫%) ভারতবাসী হিন্দু। অন্যান্য ধর্মসম্প্রদায়গুলির মধ্যে রয়েছে মুসলমান (১৩.৪%), খ্রিস্টান (২.৩%), শিখ (১.৯%), বৌদ্ধ (০.৮%), জৈন (০.৪%), ইহুদি, পারসি ও বাহাই ধর্মাবলম্বী মানুষ।[121] উল্লেখ্য, ভারতে বিশ্বের বৃহত্তম হিন্দু, শিখ, জৈন, জরাথ্রুষ্টবাদী ও বাহাই ধর্মাবলম্বী জনসংখ্যা রয়েছে এবং ভারতে মুসলিম জনসংখ্যা সমগ্র বিশ্বের নিরিখে তৃতীয়-বৃহত্তম এবং অ-মুসলমান প্রধান দেশগুলির মধ্যে বৃহত্তম। দেশে আদিবাসী জনসংখ্যা ৮.১%।[122][123][124]
সংস্কৃতি
আফ্রিকা মহাদেশের পরেই ভারত সংস্কৃতি, ভাষা ও জাতিগতভাবে বিশ্বে সর্বাধিক বৈচিত্র্যপূর্ণ ভৌগোলিক অঞ্চল।[67] "সাংস্কৃতিক বৈচিত্র্যের[126] মধ্যে ঐক্য"[127] ভারতীয় সংস্কৃতির প্রধান বৈশিষ্ট্য। এই সংস্কৃতি স্বকীয় ঐতিহ্য রক্ষার পাশাপাশি বৈদেশিক আক্রমণকারী ও বহিরাগত জাতিগুলির থেকে গ্রহণ করা রীতিনীতি, ঐতিহ্য ও ধারণা অঙ্গীভূত করে এশিয়ার অন্যান্য অঞ্চলের সংস্কৃতির ওপর নিজ প্রভাব বিস্তার করতে সক্ষম হয়েছে।
স্থাপত্য
ভারতীয় স্থাপত্য এমন একটি বিষয় যার মধ্যে ভারতীয় সংস্কৃতির এই বৈচিত্র্যময় রূপটি ধরা পড়ে। তাজমহল ও অন্যান্য মুঘল স্থাপত্য নিদর্শন তথা দ্রাবিড় স্থাপত্য নিদর্শনগুলির মধ্যে ভারত ও বহির্ভারতের বিভিন্ন অঞ্চলের প্রাচীন ও স্থানীয় ঐতিহ্যের সম্মিলন লক্ষিত হয়। ভারতের স্থানীয় স্থাপত্যশৈলীগুলিও দেশের এক গুরুত্বপূর্ণ আঞ্চলিক স্থাপত্য-বৈচিত্র্যের সাক্ষী।
পরিবেশন শিল্পকলা
ভারতীয় সঙ্গীতের জগৎটি গঠিত হয়েছে ধ্রুপদি ও আঞ্চলিক সংগীত ধারার সংমিশ্রণে। ভারতীয় শাস্ত্রীয় সঙ্গীত দুটি ধারায় বিভক্ত – উত্তর ভারতের হিন্দুস্তানি শাস্ত্রীয় সঙ্গীত এবং দক্ষিণ ভারতের কর্ণাটিক সংগীত। এই দুই প্রধান সংগীত ধারা থেকে আবার উৎসারিত হয়েছে অনেক উপধারা। আঞ্চলিক জনপ্রিয় সঙ্গীতের মধ্যে উল্লেখযোগ্য রবীন্দ্র সংগীত, হিন্দি ফিল্মি গান ও ইন্ডি-পপ এবং বাউল ও অন্যান্য বিভিন্ন প্রকার লোকসংগীত।
ভারতীয় নৃত্যকলাও “লোক” ও “ধ্রুপদী”—এই দুই প্রধান ভাগে বিভক্ত। ভারতের বিখ্যাত লোকনৃত্যগুলি হল পাঞ্জাবের ভাংড়া, অসমের বিহু নৃত্য, পশ্চিমবঙ্গের ছৌ নাচ এবং রাজস্থানের ঘুমার। ভারতের সঙ্গীত নাটক অকাদেমি দেশের আটটি নৃত্যকলাকে ধ্রুপদি ভারতীয় নৃত্য আখ্যা দিয়েছে। এগুলি হল তামিলনাড়ুর ভরতনট্যম, উত্তর প্রদেশের কত্থক, কেরলের কথাকলি ও মোহিনীআট্টম, অন্ধ্রপ্রদেশের কুচিপুডি, মণিপুরের মণিপুরি, ওডিশার ওডিশি এবং অসমের সত্রিয় নাচ।[128] এই নৃত্যশৈলীগুলি বর্ণনাত্মক ও পৌরাণিক ঘটনাকেন্দ্রিক।
সাহিত্য
ভারতীয় নাটকের বৈশিষ্ট্য হল সংগীত, নৃত্য ও তাৎক্ষণিক বা লিখিত সংলাপের যুগলবন্দি।[132] এর বিষয়বস্তু কখনও পুরাণ থেকে, কখনো মধ্যযুগীয় প্রেমকাহিনিগুলি থেকে, কখনো আবার একালের সামাজিক ও রাজনৈতিক ঘটনাবলি থেকে গৃহীত। ভারতের লোকনাট্যের মধ্যে গুজরাটের ভাবাই, পশ্চিমবঙ্গের যাত্রা, উত্তর ভারতের নৌটঙ্কি ও রামলীলা, মহারাষ্ট্রের তামাশা, অন্ধ্রপ্রদেশের বুরাকথা, তামিলনাড়ুর তেরুককুত্তু ও কর্ণাটকের যক্ষগণ উল্লেখযোগ্য।[133]
ভারতের প্রাচীনতম সাহিত্য প্রথমে মৌখিকভাবে ও পরে লিখিত আকারে প্রচলিত হয়।[134] এই রচনাগুলির মধ্যে উল্লেখযোগ্য বেদ, ভারতীয় মহাকাব্য রামায়ণ ও মহাভারত, নাটক অভিজ্ঞানশকুন্তলম্ ইত্যাদি সংস্কৃত সাহিত্যের ধ্রুপদী কীর্তিসমূহ[135] এবং তামিলে রচিত সঙ্গম সাহিত্য।[136] আধুনিক কালের ভারতীয় সাহিত্যিকদের মধ্যে সর্বাগ্রগণ্য হলেন ১৯১৩ সালে দেশের প্রথম সাহিত্যে নোবেল পুরস্কার বিজয়ী কবি রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর। এছাড়াও ইংরেজি ভাষায় সাহিত্যরচনার জন্য ভারতীয় অথবা ভারতীয় বংশোদ্ভুত যেসকল লেখকগণ সারা বিশ্বে খ্যাতি অর্জন করেছেন তাঁরা হলেন অমিতাভ ঘোষ, মার্কিন-প্রবাসী বাঙালি সাহিত্যিক ঝুম্পা লাহিড়ী, নোবেলজয়ী ব্রিটিশ-ভারতীয় সাহিত্যিক ভি এস নাইপল প্রমুখ।
চলচ্চিত্র
ভারতীয় চলচ্চিত্র শিল্প সমগ্র বিশ্বের বৃহত্তম চলচ্চিত্র শিল্প।[137] বাণিজ্যিক হিন্দি সিনেমা প্রস্তুতকারক বলিউড বিশ্বের সর্বাপেক্ষা সৃষ্টিশীল ফিল্ম ইন্ডাস্ট্রি।[138] এছাড়াও বাংলা, কন্নড়, মালয়ালম, মারাঠি, তামিল ও তেলুগু ভাষায় ঐতিহ্যবাহী চলচ্চিত্র শিল্পের আছে।[139]
রন্ধনশৈলী
ভারতীয় রন্ধনশৈলীর বিশেষত্ব হল বিভিন্ন বৈচিত্র্যপূর্ণ আঞ্চলিক রন্ধনপ্রণালী এবং ভেষজ ও মশলার অভিজাত প্রয়োগ। দেশের প্রধান খাদ্য ভাত (পূর্ব ও দক্ষিণ ভারতে) ও রুটি (মূলত উত্তর ভারতে)।[140]
পোশাক
ভারতে পোষাকের ঐতিহ্য রং, ধরন ও জলবায়ুর মতো বিভিন্ন কারণে অঞ্চলভেদে ভিন্ন ভিন্ন। থানকাপড়ের পোশাক হিসাবে মহিলাদের ক্ষেত্রে শাড়ি ও পুরুষদের ক্ষেত্রে ধুতি বা লুঙ্গি বিশেষ জনপ্রিয়। এছাড়া সেলাই-করা পোষাকের মধ্যে মহিলাদের সালোয়ার-কামিজ ও পুরুষদের কুর্তা-পাজামা বা ইউরোপীয়-ধাঁচে ট্রাউজার্স ও শার্ট বিশেষভাবে প্রচলিত।
উৎসব
ভারতে উৎসব প্রকৃতিগতভাবে ধর্মীয়। যদিও অনেক ধর্ম ও জাতি নিরপেক্ষ উৎসবও পালিত হয়ে থাকে। দীপাবলি, গণেশ চতুর্থী, উগাদি, পোঙ্গল, দোলযাত্রা, ওনাম, দশেরা, দুর্গাপূজা, ঈদুল ফিত্র, ঈদুল আজহা, বড়োদিন, বুদ্ধজয়ন্তী, বৈশাখী প্রভৃতি কয়েকটি জনপ্রিয় উৎসব।[141] ভারতে তিনটি জাতীয় উৎসব পালিত হয়; এগুলি হল স্বাধীনতা দিবস, সাধারণতন্ত্র দিবস ও গান্ধী জয়ন্তী। এছাড়াও বিভিন্ন রাজ্যে বিভিন্ন আঞ্চলিক উৎসবও যথেষ্ট উৎসাহ-উদ্দীপনার মধ্য দিয়ে পালিত হয়। ধর্মাচরণও দৈনন্দিন ও গণজীবনের একটি অবিচ্ছেদ্য অঙ্গ হিসেবে গণ্য হয়।
সমাজ-ব্যবস্থা
ভারতে সনাতন পারিবারিক মূল্য বিশেষ সম্মানের অধিকারী। একাধিক প্রজন্মের মিলনক্ষেত্র পিতৃতান্ত্রিক যৌথ পরিবারগুলিই ভারতীয় পরিবারতন্ত্রের আদর্শ বলে বিবেচিত হয়। যদিও আজকাল নগরাঞ্চলগুলিতে ছোটো ছোটো নিউক্লিয়ার পরিবারের উদ্ভব ঘটতে দেখা যায়।[142] ভারতে বিবাহ আয়োজিত হয় পাত্র ও পাত্রীর পিতামাতা ও অন্যান্য গুরুজনস্থানীয় আত্মীয়বর্গের সম্মতিক্রমে। আয়োজিত বিবাহ ভারতে এক অতিমাত্রায় লক্ষিত বিবাহরীতি।[143] বিবাহবন্ধন সারাজীবনের বন্ধন বলে বিবেচিত হয়।[143] তাই এদেশে বিবাহবিচ্ছেদের হারও অত্যন্ত কম।[144] ভারতে বাল্যবিবাহ প্রথা আজও প্রচলিত যদিও বাল্যবিবাহের হার ক্রমহাসমান। ইউনিসেফের স্যাম্পেল সার্ভে এবং ভারতের জনগণনা অনুযায়ী ২০০৬-এ যেখানে ৪৭% নারীর বিবাহ হত ১৮ বছর বয়সের আগে, ২০১৬ সালে সেই স্ংখ্যা ২৭%।[145][146]
বিজ্ঞান ও প্রযুক্তি
বিজ্ঞান ও প্রযুক্তিক্ষেত্রে অতি প্রাচীন কাল থেকেই ভারত তার নিজস্ব স্বাক্ষর রেখে এসেছে। খ্রিষ্টীয় তৃতীয় শতকে ভারতীয় ধাতুবিদগণ দিল্লির লৌহস্তম্ভটি নির্মাণ করেন। বেদাঙ্গ জ্যোতিষ গ্রন্থে সেযুগের মহাকাশ পর্যবেক্ষণের বিস্তারিত বিবরণ পাওয়া যায়। কোপারনিকাসের সূর্যকেন্দ্রিকতাবাদ প্রস্তাবনার ১০০০ বছর আগেই ভারতীয় গণিতবিদ তথা জ্যোতির্বিদ আর্যভট্ট প্রাচীন বিশ্বধারণার ভ্রান্ততা প্রমাণ করেছিলেন। প্রাচীন বিশ্বে একমাত্র ভারতেই গড়ে উঠেছিল হীরের খনি। ভারতীয় গণিতজ্ঞ শ্রীনিবাস রামানুজন সর্বকালের সর্বশ্রেষ্ঠ গণিতবিদদের অন্যতম বলে বিবেচিত হন। ১৯২৮ সালে পদার্থবিদ্যায় নোবেল পুরস্কারে ভূষিত হন ভারতীয় পদার্থবিদ চন্দ্রশেখর ভেঙ্কট রমন।
স্বাধীনোত্তর ভারতকে একটি দরিদ্র রাষ্ট্র বলে বিবেচনা করা হলেও, স্বাধীনতা অর্জনের পাঁচ দশকের মধ্যেই এই দেশ প্রযুক্তিগতভাবে দক্ষিণ এশিয়ার এক মহাশক্তিধর রাষ্ট্রে পরিণত হয়। সাক্ষরতার হার ও কৃষি উৎপাদন বৃদ্ধি এবং নগরকেন্দ্রের উদ্ভব ভারতের এই প্রযুক্তিগত উত্থানের কারণ। ১৯৭৫ সালে প্রথম কৃত্রিম উপগ্রহ আর্যভট্টের উৎক্ষেপণ, তার পূর্ববর্তী বছরে স্মাইলিং বুদ্ধ নামে এক ভূগর্ভস্থ পারমাণবিক পরীক্ষণ, দূরসংযোগ ব্যবস্থার উন্নয়ন, পারমানবিক চুল্লি ও হোমি জাহাঙ্গির ভাবা পরিচালিত বিএআরসি-এর মতো গবেষণা কেন্দ্রের বিকাশ ভারতের উল্লেখযোগ্য বৈজ্ঞানিক সাফল্য বলে বিবেচিত হয়।[147] লো-আর্থ, মেরু ও জিওস্টেশনারি কক্ষপথে উপগ্রহ উৎক্ষেপণের এক দেশীয় প্রযুক্তি উদ্ভাবন করে ভারত। এএসএলভি, পিএসএলভি, জিএসএলভি ও সর্বোপরি ইনস্যাট কৃত্রিম উপগ্রহ সিরিজগুলি ভারতের সফল মহাকাশ-কর্মসূচির স্বাক্ষর। ২০০৮ সালে চাঁদের মাটিতে অবতীর্ণ হয় প্রথম ভারতীয় মহাকাশযান চন্দ্রযান-১। চন্দ্রযানের পাঠানো তথ্য থেকে নাসার তত্ত্বাবধানে ব্রাউন ইউনিভার্সিটিতে মুন মিনারেলজি ম্যাপার যন্ত্রে বিস্ময়করভাবে প্রভূত পরিমাণ হাইড্রক্সিল আয়ন এবং বরফের অস্তিত্ব ধরা পড়েছে।[148] দেশীয় বিমানশক্তির ক্ষেত্রে বৈকল্পিক শক্তি হিসেবে অ্যাডভান্সড লাইট হেলিকপ্টার ও এলসিএ তেজস-এর নাম করা যায়। লারসেন অ্যান্ড টাব্রো, ডিএফএল-এর মতো কোম্পানিগুলির সাহায্যে আবাসন ও পরিকাঠামো শিল্পেও ভারত আজ উল্লেখযোগ্যভাবে অগ্রসর।
২০০৩ সালে সেন্টার ফর ডেভেলপমেন্ট অফ অ্যাডভান্সড কম্পিউটিং তৈরি করে ভারতের প্রথম সুপারকম্পিউটার পরম পদ্ম। এটি পৃথিবীর দ্রুততম সুপারকম্পিউটারগুলির অন্যতম।[149] ১৯৯০-এর দশকে অর্থনৈতিক উদারীকরণ এবং তথ্য প্রযুক্তি বিপ্লব তথ্যপ্রযুক্তির দুনিয়ায় এক অগ্রণী রাষ্ট্র হিসেবে ভারতকে বিশ্বের মঞ্চে উপস্থাপিত করে। বর্তমানে আই বি এম, মাইক্রোসফট, সিসকো সিস্টেমস, ইনফোসিস, টাটা কনসালটেন্সি সার্ভিস, উইপ্রো ও অন্যান্য নেতৃস্থানীয় ভারতীয় ও আন্তর্জাতিক কোম্পানিগুলি ভারতের বেঙ্গালুরু, হায়দ্রাবাদ, চেন্নাই প্রভৃতি শহরে তাদের প্রধান কার্যালয় স্থাপন করেছে।
খেলাধূলা
ভারতের জাতীয় খেলা কবাডি। কবাডি বিশ্বকাপে ভারত জয়ের হ্যাটট্রিকও করেছে। ইন্ডিয়ান হকি ফেডারেশনের উপর এদেশের হকি পরিচালনার দায়িত্ব ন্যস্ত। ভারতীয় হকি দল ১৯৭৫ সালের পুরুষদের হকি বিশ্বকাপ এবং পুরুষদের অলিম্পিক গেমসে পাঁচবার স্বর্ণপদক বিজয়ী। ফুটবল খেলা ভারতে জনপ্রিয়। ২০১৮-তে কলকাতার বিবেকানন্দ যুবভারতী ক্রীড়াঙ্গনে প্রথম অনূর্ধ্ব ১৭ যুব বিশ্বকাপ ফুটবলের ফাইনাল খেলায় ইংল্যান্ড বিজয়ী হয়। আয়োজক দেশ হিসেবে ভারত খেলতে পেয়েও উল্লেখযোগ্য ফল পায়নি। ভারতের ফুটবল প্রতিযোগিতাগুলো হল: জাতীয় ফুটবল সন্তোষ ট্রফি, আইএফএ শিল্ড, ফেডারেশন কাপ, নেহরু কাপ, ডুরান্ড কাপ এবং ইন্ডিয়ান সুপার লিগ। ভারতে ফুটবল খেলা পরিচালনা করে অল ইন্ডিয়া ফুটবল ফেডারেশন (এআইএফএফ)। যদিও ভারতে সর্বাধিক জনপ্রিয় খেলা হল ক্রিকেট। ভারতীয় জাতীয় ক্রিকেট দল ১৯৮৩ সালের ক্রিকেট বিশ্বকাপ, ২০০৭ সালের আইসিসি বিশ্ব টোয়েন্টি-২০ এবং ২০১১ সালের ক্রিকেট বিশ্বকাপ বিজয়ী। এছাড়াও ২০০৩ সালে ক্রিকেট বিশ্বকাপ ও ২০১৪ সালে আইসিসি বিশ্ব টোয়েন্টি-২০ তে ফাইনালে পরাজিত হয়। ভারতে ক্রিকেট পরিচালিত হয় বোর্ড অফ কন্ট্রোল ফর ক্রিকেট ইন ইন্ডিয়া (বিসিসিআই) কর্তৃক। ভারতের ঘরোয়া ক্রিকেট প্রতিযোগিতাগুলোর মধ্যে উল্লেখযোগ্য রঞ্জি ট্রফি, দলীপ ট্রফি, দেওধর ট্রফি, ইরানি ট্রফি ও চ্যালেঞ্জার সিরিজ। ভারতের জাতীয় দলের ক্রিকেটাররা দেশে প্রভূত জনপ্রিয়তা ও নানাবিধ বিশ্বরেকর্ডের অধিকারী।
ভারতীয় দলের ডেভিস কাপ বিজয়ের পর থেকে ভারতে টেনিসের জনপ্রিয়তা বৃদ্ধি পায়। অন্যদিকে ফুটবল পশ্চিমবঙ্গ, উত্তর-পূর্ব ভারত, গোয়া ও কেরলে বেশ জনপ্রিয়।[150] ভারত জাতীয় ফুটবল দল বহুবার সাউথ এশিয়ান ফুটবল ফেডারেশন কাপ জিতেছে। ভারত ১৯৫১ ও ১৯৮২ সালে এশিয়ান গেমস আয়োজন করেছিল। এছাড়াও ভারত ছিল ১৯৮৭ ও ১৯৯৬ সালের ক্রিকেট বিশ্বকাপের সহ-আয়োজক দেশ ছিল; ভারত ২০১১ সালের ক্রিকেট বিশ্বকাপের সহ-আয়োজক দেশ। দাবা খেলার উদ্ভবও হয়েছিল ভারতে। দেশে গ্রান্ডমাস্টার দাবাড়ুর সংখ্যা বৃদ্ধি পাওয়ায় আজ দাবা ভারতের অন্যতম জনপ্রিয় একটি খেলা।[151] এছাড়াও দেশের অন্যান্য ঐতিহ্যবাহী জনপ্রিয় খেলা হল কাবাডি, খো খো, ও গুলি ডান্ডা ইত্যাদি। ভারতে প্রাচীন যোগব্যায়াম এবং বিভিন্ন ভারতীয় মার্শাল আর্ট, কালারিপ্পায়াত্তু, বার্মা কলাই ইত্যাদি আজও জনপ্রিয়। ভারতের সর্বোচ্চ অসামরিক ক্রীড়া পুরস্কার হল রাজীব গান্ধী খেলরত্ন ও অর্জুন পুরস্কার (খেলোয়াড়দের জন্য) এব দ্রোণাচার্য পুরস্কার (কোচিং-এর জন্য)।
আরও দেখুন
ভারতের রূপরেখা
ভারত-সম্পর্কিত নিবন্ধের সূচি
গ্রন্থপঞ্জি
ইতিহাস
রাজনীতি ও সমাজ
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সংস্কৃতি
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পাদটীকা
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రోహిత్ శర్మ ప్రముఖ భారతీయ క్రికెట్ ఆటగాడు. ఇతను భారత T20, వన్డే జట్టుకి ప్రాతినిధ్యం వహించాడు. ఇండియన్ ప్రీమియర్ లీగ్లో ముంబై ఇండియన్స్ జట్టుకు ప్రాతినిధ్యం వహిస్తున్నాడు.
బాల్యము
రోహిత శర్మ బంసొద్, నాగ్పూర్, మహారాష్ట్రలో ఏప్రిల్ 1987 30 న జన్మించాడు. అమ్మ పూర్ణిమా శర్మది విశాఖపట్టణం . అతని తండ్రి గురునాథ్ శర్మ ఒక రవాణా సంస్థ స్టోర్ హౌస్ లో కేర్ టేకర్ గా పనిచేసేవాడు. రోహిత్ శర్మ తండ్రి ఆదాయం తక్కువ కావడం వల్ల బోరివలిలో తన తాత మరియు పినతండ్రులు పెంచారు.[1]. అతను డోమ్బివిలిలో ఒకే గది ఇంట్లో నివసించే అతని తల్లిదండ్రులని వారాంతాలలో మాత్రమే సందర్శించేవాడు. రోహిత్ శర్మ తమ్ముడి పేరు విశాల్ శర్మ.[2]
అతని మేనమామ డబ్బుతో 1999 లో ఒక క్రికెట్ క్యాంపులో చేరాడు. శిబిరం వద్ద అతని శిక్షకుడు కోచ్ లాడ్ మంచి క్రికెట్ సౌకర్యాలు కలిగి ఉన్న స్వామి వివేకానంద్ ఇంటర్నేషనల్ స్కూల్, తన పాఠశాల మార్చడానికి కోరాడు. అతను ఆ స్కూల్ లో చదవడానికి డబ్బులు లేవని చెప్పాడు. అప్పుడు కోచ్ లాడ్ ఒక ఉపకారవేతనం ఇచ్చాడు కాబట్టి నాలుగు సంవత్సరాలు తను ఉచితంగా చదివాడు, మరియు తను క్రికెట్లో బాగా మెరుగయ్యాడు.[3] రోహిత్ శర్మ ఒక ఆఫ్ స్పిన్నరుగా కెరీర్ ఆరంభించాడు. లాడ్ రోహిత్ శర్మ బ్యాటింగ్ సామర్ధ్యాలు గమనించి ఇన్నింగ్స్ను ప్రారంభించమని సంఖ్య ఎనిమిది నుండి అతన్ని ఓపెనరుగా పంపాడు. అతను ఓపెనరుగా అరంగేట్రంలోనే సెంచరీ సాధించాడు. హారిస్ మరియు గిల్స్ షీల్డ్ పాఠశాల క్రికెట్ టోర్నమెంట్లను రాణించారు.[4]
విద్యాభ్యాసము
ప్రాథమిక విద్యాభ్యాసం ముంబై లోని అవర్ లేడీ ఆఫ్ ఫాతిమా పాఠశాలలో పూర్తిచేసాడు. తరువాత ఉపకార వేతనం మీద స్వామి వివేకానంద అంతర్జాతీయ పాఠశాల</i>లో చేరాడు, అక్కడ క్రికెట్లో రోహిత్ లోని ప్రతిభని స్థానిక వ్యాయామ ఉపాధ్యాయుడు గుర్తించి సానబెట్టాడు.
క్రీడాజీవితం
దేశీయం
రోహిత్ శర్మ గ్వాలియర్ వద్ద మార్చి 2005 లో దేవధర్ ట్రోఫీ సెంట్రల్ జోన్ కు వ్యతిరేకంగా వెస్ట్ జోన్ తరుపున లిస్ట్ A రంగప్రవేశం చేసాడు . అదే టోర్నమెంట్లో ఉదయపూర్ వద్ద ఉత్తర జోన్ కు వ్యతిరేకంగా 123 లో 142 బంతుల్లో తన అజేయంగా ఇన్నింగ్స్ అతన్ని వెలుగులోకి తెచ్చింది . అబూ ధాబీ మరియు ఆస్ట్రేలియాలో భారతదేశం లిస్ట్ A మ్యాచుల ప్రదర్శన, ఛాంపియన్స్ ట్రోఫీకి 30 మంది సభ్యుల ప్రాబబుల్స్ను జాబితాలో చోటు దకెళ్ళ చేసింది . కాని అతను ఫైనల్ జట్టులో లేదు. ఇది అంత తన రంజీ ట్రోఫీలో రంగప్రవేశం చేసె ముందు జరిగింది. అతన్నిNKP సాల్వే చాలెంజర్ ట్రోఫీ కోసం ఎంపిక చేశారు.
రోహిత్ శర్మ తన ఫస్ట్-క్లాస్ ఆరంగేట్రం న్యూజిల్యాండ్ A వ్యతిరేకంగా భారతదేశం తరుపున, డార్విన్ జూలై 2006 లో ఆడాడు. అతను 2006/2007 సీజన్లో అతని ఫస్ట్-క్లాస్ సారథ్యంలో ముంబై తన రంజీ ట్రోఫీ గెలిచింది. అతను ప్రారంభ మ్యాచ్ల్లో సరిగ్గ ఆడలేదు . కాని 205 గుజరాత్ జరిగిన మ్యాచ్ లో 267 బంతుల్లోనే చేసాడు. రోహిత్ శర్మ బెంగాల్ తొ జరిగిన ఫైనల్ లో అర్ధ సెంచరీ చేశాడు, ముంబై టోర్నమెంట్ను గెలుచుకుంది.
అక్టోబరు 2013 లో, అజిత్ అగార్కర్ విరమణ మరియు అతను IPL, ఛాంపియన్స్ లీగ్ టి 20 గెలిచాడు. బీసీసీఐ 2013-14 సీజన్ కోసం ముంబై రంజీ జట్ కెప్టెన్గా నియమించింది
అంతర్జాతీయ
రోహిత్ శర్మ 2007 లో ఐర్లాండ్ భారతదేశం యొక్క పర్యటన పరిమిత ఓవర్ల మ్యాచ్లకి ఎంపికయ్యాడు. తొలి మ్యాచ్ లో బ్యాటింగ్ చేయనప్పటికీ, అతను బెల్ఫాస్ట్ వద్ద ఐర్లాండ్ వ్యతిరేకంగా తన తొలి వన్ డే ఇంటర్నేషనల్ అడాడు. .
రోహిత్ శర్మ చివరికి తన మార్క్ అంతర్జాతీయ వేదికపై 2007 సెప్టెంబరు 20 దక్షిణాఫ్రికాతో జరిగిన మ్యాచ్ లో 50 పరుగులు చేసి భారతదేశం విజయానికి దొహదపడింది. ఒక దశలో భారతదేశం వద్ద 61-4 ఉన్నారు, కానీ కెప్టెన్ మహేంద్రసింగ్ ధోనీతో 85 పరుగులు భాగస్వాయంతొ మొత్తం 153/5 పరుగులు చెయ్యగలిగింది. ఈ విజయం భారతదేశం రిజర్వు టోర్నమెంట్లో సెమీఫైనల్కు నడిపించారు. అతను చివరికి మాన్ అఫ్ ది మ్యాచ్ గా ప్రకటించారు. రోహిత్ శర్మ ఆపై పాకిస్థాన్తో ఫైనల్ లో 16 బంతులలో 30 పరుగులు చేసాడు .
రోహిత్ శర్మ తన తొలి వన్డే అర్ధ సెంచరీ పాకిస్తాన్ కు వ్యతిరేకంగా జైపూర్లో 2007 నవంబరు 18 చేశాడు . ఆస్ట్రేలియా సిబి సిరీస్ కోసం భారతదేశం యొక్క 16-మంది బృందంలో భాగంగా ఎంపికయ్యాడు . ఇక్కడ, 33.57 సగటున 2 యాభైలలో 235 పరుగులు చేశాడు . అందులో సిడ్నీ వద్ద 1st ఫైనల్లో 66 పరుగులుతో సచిన్ టెండూల్కర్ భాగస్వామ్యంతో భారతదేశం యొక్క చాలా విజయవంతమైన రన్ చేజ్ చేసారు .
అయితే, అతని ODI లో మంచి ప్రదర్శనలు చెయ్యకపొవడం వల్ల అతని మిడిలార్డర్ స్థానం సురేష్ రైనా మరియు విరాట్ కొహ్లి ఆక్రమించారు. చివరికి విరాట్ కొహ్లి రిజర్వ్ బ్యాట్సమెన్ గా స్థిర పడిపోయాడు. .
డిసెంబరు 2009 లో, అతను రంజీ ట్రోఫీ ట్రిపుల్ సెంచరీ చేశాడు. ముక్కోణపు వన్ డె టోర్నీ బంగ్లాదేశ్ లో జరిగింది. ఆ టోర్నీలో సచిన్ విశ్రాంతికి మొగ్గుచూపడంతో రోహిత్ శర్మ వన్డే జట్టులోకి వచ్చాడు అయితే, విరాట్ కోహ్లీ, సురేష్ రైనా సరిగ్గా ఆడుతున్నరు కాబట్టి అతనికి అవకాశం రాలేదు మరియు అతను భారతదేశం యొక్క ఐదు మ్యాచ్ లో ఏ ఒక్క మ్యాచు ఆడలేదు.
ఫిబ్రవరి 2010 లో భారత టెస్ట్ జట్టు లోని వి వి ఎస్ లక్ష్మణ్ గాయం కావడంతో రిజర్వ్ బ్యాట్సమెన్ గా రోహిత్ శర్మ జట్టు లోకి వచ్చాడు . రోహిత్ శర్మ తొలి చేయడానికి సెట్, కానీ తాను మ్యాచ్లో తొలి ఉదయం సన్నాహక ఫుట్ బాల్ ఆడుతూ గాయపడ్డాడు. కాబట్టి రిజర్వ్ వికెట్ కీపర్ వృద్ధిమాన్ సాహా స్పెషలిస్ట్ బ్యాట్స్మన్గా ఎంపికయ్యడు. అప్పటి నుండి సురేష్ రైనా, చెతేశ్వర్ పుజారా, విరాట్ కోహ్లీ అతన్ని దాటేసి మిడిలార్డర్లో వారి టెస్ట్ ఆరంభాలు చేసారు.
ఆయన మే 2010 28 న జింబాబ్వేతో జరిగిన మ్యాచ్లో తొలి వన్డే సెంచరీ చేశాడు.తదుపరి మ్యాచ్లొ అతను 2010 మే 30 న శ్రీలంక వ్యతిరేకంగా ముక్కోణపు సిరీస్లో మళ్ళీ సెంచరీ చేసాడు. .
అతను 2011 వరల్డ్ కప్కు భారత జట్టుకు ఎంపిక అవ్వలేదు.
అతను 2011 IPL తర్వాత జట్టులో సచిన్ టెండూల్కర్, వీరేంద్ర సెహ్వాగ్, కెప్టెన్ ధోనీ వంటి సీనియర్ బ్యాట్స్మెన్ విశ్రాంతి తీసుకొవడంతో 2011 వెస్టిండీస్ పర్యటనకు ఎంపికయ్యాడు. యువరాజ్ సింగ్, గౌతమ్ గంభీర్ గాయాల వల్ల నిష్రమించారు.. సురేష్ రైనా కెప్టెన్గా మరియు హర్బజన్ సింగ్ వైస్ కెప్టెన్గా ఎంపికయ్యారు . అతను క్వీన్స్ పార్క్ ఓవల్ వద్ద T20I రెండు సిక్సర్లతో 23 బంతుల్లో 26 పరుగులు చేసాడు. సుబ్రమణ్యం బద్రీనాథ్తో 71-పరుగుల భాగస్వామ్యాన్ని నెలకొలిపి భారత విజయానికి దోహదపడ్డాడు .
తరువాత ఆ వన్డే సిరీస్లో అతను తన ఫామ్ను కొనసాగించారు. తొలి వన్డే కూడా క్వీన్స్ పార్క్ ఓవల్లో జరిగింది. రోహిత్ మూడు ఫోర్లు, ఒక సిక్సర్తో 68 పరుగులతొ అజేయంగా నిలిచిన మ్యాన్ ఆఫ్ ది మ్యాచ్ ఎంపికయ్యారు సర్ వివియన్ రిచర్డ్స్ స్టేడియం, ఆంటిగ్వా మూడో వన్డే జరిగింది. ఆ మ్యాచ్ లో శర్మ 91 బంతుల్లో 86 పరుగులు చేశాడు. హర్భజన్ సింగ్తో కలిసి రోహిత్ మ్యాచ్ ను గెలిపించాడు. అతను విస్తృతంగా తన ప్రశాంతతతొ ప్రశంసలు అందుకున్నాడు. రోహిత్ శర్మ వన్డే సిరీస్ అంతటా అద్భుతమైన బ్యాటింగ్ ప్రదర్శన చేసి తన మొదటి మ్యాన్ అఫ్ ది సిరీస్ అవార్డు గెలుచుకున్నాడు. అతను మళ్ళీ భారత గడ్డపై వెస్టిండీస్తో సిరీస్లో మరొక మ్యాన్ అఫ్ ది సిరీస్ అవార్డు గెలుచుకున్నాడు . అతను జట్టులోకి ఆస్ట్రేలియన్ సిరీస్ ఆడేందుకు ఎంపికయ్యడు.
2013 లో, అతను ఛాంపియన్స్ ట్రోఫీకి శిఖర్ ధావన్ పాటు ఓపెనింగ్ బ్యాట్స్మన్ గ ప్రయోగం చేశాడు. ఈ ఓపెనింగ్ పైర్ భారతదేశం వెస్ట్ ఇండీస్ చాంపియన్స్ ట్రోఫి మరియు ముక్కోణపు దేశం సిరీస్ సాధించిపెట్టింది. స్వదేశంలో ఆస్ట్రేలియాకు వ్యతిరేకంగా జరిగిన సిరీస్లో తన ఫామ్నుకొనసాగించాడు. అతను జైపూర్ 141 పరుగులతో అజేయంగా మరియు బెంగుళూర్లో 209 పరుగులు 158 బంతులలో చేశాడు. 16 సిక్సర్లతో ఆయన ఒక ODI ఇన్నింగ్స్ లో అత్యంత సిక్సర్లు బాది ప్రపంచ రికార్డు నెలకొల్పాడు.
నవంబరు 2013 లో, సచిన్ టెండూల్కర్ యొక్క వీడుకోలు టెస్ట్ సిరీస్ సందర్భంగా శర్మ తన తొలి టెస్ట్ ఈడెన్ గార్డెన్స్లో వెస్టిండీస్తో కోలకత్తాలో అడాడు. అతను శిఖర్ ధావన్ తరువాత భారతీయుడు అరంగ్రేటంలో సాధించిన రెండవ ఉత్తమ స్కోరు ఇది. శర్మ 177 పరుగులు చేశాడు దానిని అనుసరించి ముంబై వాంఖడే స్టేడియం వద్ద తన సొంత మైదానంలో 111 పరుగులతొ నాటౌట్ గా నిలిచాడు. . శర్మ తన మొదటి రెండు టెస్టులోను సెంచరీలు చేసి భారత కలిగిన కొన్ని క్రీడాకారులులో ఒకటిగా మారాడు. ఈ ఘనతను ముందు ఇంగ్లాండ్ లో 1996 లో సౌరవ్ గంగూలీ మరియు 1984 లో మొహమ్మద్ అజారుద్దీన్ తన తొలి మూడు టెస్టుల్లో సెంచరీలు నమోదు చేసారు.
2014 లో, అతను వన్డే అంతర్జాతీయ క్రికెట్లో 250 కంటే ఎక్కువ పరుగులు చేసిన తొలి వ్యక్తి అయ్యాడు. అతను ఈడెన్ గార్డెన్స్లో శ్రీలంకకు వ్యతిరేకంగా 264 చేశాడు. ఈ ఇన్నింగ్స్ తొ అతను వన్డేల్లో రెండు డబుల్ సెంచరీ చేసిన తొలి ఆటగాడు అయ్యాడు. 219 పరుగులు వీరేంద్ర సెహ్వాగ్ స్కోరును 264 పరుగులతొ అధిగమించాడు. ODI లో ఇదే అత్యధిక స్కోరు. .
2015 అక్టోబరు 2 న, భారతదేశం పర్యటనలో దక్షిణాఫ్రికాతో జరిగిన సిరీస్ లో శర్మ ధర్మశాల లోని హెచ్పిసిఎ స్టేడియంలో తన మొదటి T20 శతకం చేశాడు. ఈ శతకంతో అతను ఆట యొక్క అన్ని ఫార్మాట్లలో సెంచరీలు కలిగి రెండో భారత బ్యాట్స్మన్గా నిలిచాడు. 11 అక్టోబరు న, క మొదటి ODI లో, అతను 150 పరుగులు 133 బంతులలో సాధించాడు. తరువాత ఆస్ట్రేలియా వన్డే సిరీస్లో తిరిగి 2 శతకలు బాదాడు. చివరి మ్యాచ్ లో 99 పరుగులు కుడా చేసాడు.
ఇండియన్ ప్రీమియర్ లీగ్
2009 సీజన్ ఐ.పి.ఎల్.లో వైస్ కెప్టెన్ గా ఎన్నుకోబడ్డాడు.అంతేకాకుండా ఆడం గిల్ క్రిస్ట్ సారథ్యంలో డెక్కన్ చార్జర్స్ 2009 ఇండియన్ ప్రీమియర్ లీగ్ గెలుచుకోవడంలో కీలక పాత్ర పొషించాడు.
ఇండియన్ ప్రీమియర్ లీగ్ లొ రోహిత్ శర్మ
బయటి లింకులు
వర్గం:1987 జననాలు
వర్గం:భారత క్రీడాకారులు
వర్గం:భారత క్రికెట్ క్రీడాకారులు
వర్గం:భారత వన్డే క్రికెట్ క్రీడాకారులు
వర్గం:ముంబాయి క్రికెట్ క్రీడాకారులు
వర్గం:ప్రపంచ కప్ క్రికెటర్లు
వర్గం:ముంబాయి ప్రముఖులు
వర్గం:జీవిస్తున్న ప్రజలు
వర్గం:ట్వంటీ-20 క్రికెటర్లు
వర్గం:మహారాష్ట్ర క్రీడాకారులు
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ఈ వారం వ్యాసం ఈ-మైయిల్ ద్వారా
స్వాగతం మూసలో ఈ వాక్యం వుంది.
ఈ వారం వ్యాసం ఈ-మైయిల్ ద్వారా తెప్పించుకొదలిస్తే [email protected] అనే ఈ ఎడ్రస్సుకు ఒక మైయిల్ పంపండి.
నవంబర్ 2009 తరువాత మెయిల్స్ పంపబడుటలేదు . --అర్జున 00:22, 6 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
RfC: Indic Sysop Proposal
Kindly take a moment to read the Indic Sysop proposal in meta and express your opinion. Thanks --Jyothis 19:53, 15 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
2010 Fundraising Is Almost Here
Hello Wikipedians, I am Theo and I am working for the Wikimedia Foundation during the 2010 Fundraiser. My job is to be the liaison between your community and the Foundation. This year's fundraiser is intended to be a collaborative and global effort; we recognize that banner messages which may perform well in the United States don't necessarily translate well, or appeal to international audiences.
I'm contacting you as I am currently looking for translators who are willing to contribute to this project by helping translate and localize messages into different languages and suggesting messages that would appeal to your readers on the Fundraising Meta Page. We've started the setup on for both , , and .
Use the talk pages on meta, talk to your local communities, talk to others, talk to us, and add your feedback to the proposed messages as well! I look forward to working with you during this year's fundraiser. If someone could translate this message I would really appreciate it so that everyone is able to understand our goals and contribute to this year's campaign.
Theo (WMF) 20:49, 20 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
అనువాదాల సహాయానికి నా పేరు నమోదు చేశాను.-- అర్జున 01:23, 21 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
Hi Arjun, I can't read Telugu script, would you mind replying in English. Thank you.Theo (WMF) 22:23, 22 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
Sorry. The translation is "I have signed up for translation help ".--అర్జున 23:41, 22 అక్టోబర్ 2010 (UTC)
I have made minor updates to Veeven's translation. Telugu version is ready for publishing. --అర్జున 04:36, 14 నవంబర్ 2010 (UTC)
Thank you. Theo (WMF) 18:46, 19 నవంబర్ 2010 (UTC)
గూగుల్ చిత్రాలు
గూగుల్ చిత్రాలను వికీలలో వాడవచ్చునో లేదో తెలిసిన వారు తెలియజేయ గలరు.
గూగుల్ లో కనబడే చిత్రాల కాపీ హక్కుల గురించి చూడండి. కాపీహక్కులు CC-by-sa, GFDL లేక పూర్తిగా పబ్లిక్ డొమైన్ అయితే కామన్స్ లో ప్రవేశపెట్టి (కాపీహక్కుల ధృవీకరణ వివరాలు ఇవ్వాలి) తరువాత వాడండి.
వికీపీడీయాలోని ప్రత్యేక పుటల గురించి విపులముగా వివరించగలరు. అందులో, వాడుకరులు యేమైనా మార్పులు చేయ దగినవి వుంటే వాటి వివరములు కూడా అందించగలరు.
వికీ క్రియాశీల స్థితి తెలుసుకోటానికి ప్రత్యేక పుటల ఉపయోగపడతాయి. అవి సామాన్యంగా స్వయంచాలకంగా కంప్యూటర్ తో తాజాకరించబడుతుంటాయి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 12:08, 20 నవంబర్ 2010 (UTC)
పై సమాధానాలు చేర్చినది. --అర్జున 03:52, 23 నవంబర్ 2010 (UTC)
Wikipedia Statistics
అక్టోబరు నెల వివరములు ఇప్పటి వరకు చేర్చబడలేదు. కారణములు తెలిసిన వారు తెలియజేయగలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 11:27, 30 నవంబర్ 2010 (UTC)
మీరు అడుగుతున్నది అయితే ఇప్పడు లభ్యమవుతున్నాయి. --అర్జున 04:12, 1 డిసెంబర్ 2010 (UTC)
Contribute Campaign-Fundraiser 2010
Hi everyone, I wanted to inform everyone about the ongoing Contribute campaign for this year's fundraiser. As part of the campaign, we want to drive up participation on the Indian language Wikipedias, We have created a page on Meta where we can discuss and brainstorm Ideas on what we can do to improve Indian Language Wikipedias. I would like to invite anyone who is interested in contributing to join in, and share their thoughts. Thank you.
Theo (WMF) 17:50, 30 నవంబర్ 2010 (UTC)
వికీపీడియా దశాబ్ది వేడుకలు
పైన తెలిపిన విధంగా తెవికి సదస్సు నిర్వహించబడుతుంది.
ఆ విషయమై చర్చ ఇక్కడ జరపవచ్చు.
గుజరాత్
భారతదేశంలోని గుజరాత్ రాష్టం యొక్క పేజీని తొలగించి పాకిస్థాన్ లోని గుజరాత్ పట్టణం గురించిన సమాచారాన్ని చేర్చారు. దయచేసి గుజరాత్ రాష్ట్రపు పేజీని పునఃస్థాపించండి.Rajasekhar1961 06:45, 1 ఫిబ్రవరి 2011 (UTC)
రాజశేఖర్ గారు, మీరు రచ్చబండ దృష్టికి తెచ్చినందులకు ధన్యవాదాలు. గూగుల్ యాంత్రిక అనువాదకునిచే దిద్దబడింది. ఇలా ఇంతకు ముందు జరగటం నేను గూగుల్ వారితో ఫిర్యాదు చేయటం, వారు జాగ్రత్త వహిస్తామనటం జరిగాయి. మరల అదే సమస్య ఎదురవటం భాధాకరం. నేను తిరిగి స్థాపించి, కొత్త వ్యాసం గుజరాత్(పాకిస్తాన్) లో యాంత్రికఅనువాద కూర్పుని చేర్చాను. గూగుల్ వారికి మరొక్కసారి ఈ విషయం తెలియపరుచుతాను. మన తెలుగు వికీపీడియన్లు గూగుల్ చొరవపైన ప్రాజెక్టు పేజీల్లో (లింకులకు వార్తల పేజీ చూడండి) స్పందిస్తే గూగుల్తో సంప్రదింపులకు బాగుంటుంది.--అర్జున 17:08, 1 ఫిబ్రవరి 2011 (UTC)
భమిడిపాటి ఫణిబాబు గారి సూచన
ఈ మధ్యన తెలుగు వికీ లో తెలుగు మహనీయులగురించి చదువుతున్నప్పుడు ఒక విషయం గమనించాను. దానిలో కొందరి గురించి వ్రాస్తూ, వారిని ఏకవచనం ( డు) తో సంబోధించడం, ఏమిటో బాధ వేసింది.ఉదాహరణకి- శ్రీ చిలకమర్తి లక్ష్మినరసింహం గారి గురించి. అలాటి వారి గురించి 'డు' అని సంబోధించే తాహతు మనకి ఉందంటావా? ఒకసారి ఆలోచించి, నీ అభిప్రాయం వ్రాయి.
ఆయన చెప్పింది గమనించి ఇక మీదట మనం పెద్దవారి గురించి రాసేప్పుడు బహువచనం ఉపయోగిద్దాం.
తెలుగు వికీలో ఏకవచనం వాడాలా, బహువచనం వాడాలా? అన్న విషయంలో చాలా చర్చలు జరిగి చివరకు ఏకవచనం వాడటమే ఉత్తమమని నిర్ణయం తీసుకొన్నాం. ఒక వ్యక్తిని ఏకవచనంలో సంబోధించిన మాత్రాన ఆ వ్యక్తిపైన గౌరవం లేదని కాదు. అలాగని ఏ వ్యాసంలోనైనా ఏకవచనం కించపరిచే విధంగా ఉన్నట్లైతే తెలియబరిస్తే దానిని ప్రమాణాల ప్రకారం సరిదిద్దవచ్చు. --రవిచంద్ర (చర్చ) 12:48, 4 మార్చి 2011 (UTC)
వికీపీడియా:ఏకవచన_ప్రయోగం చూడండి.అర్జున 06:30, 4 ఏప్రిల్ 2011 (UTC)
ఉగాది వ్యాసంలోని చిత్రం
ప్రస్తుతం ఉగాది వ్యాసంలో గల చిత్రం cc లైసెన్స్ కు అనుగుణంగా లేవు
పైన లంకెలో చూడగలరు.
కావున ఎవరి వద్దనైనా లైసెన్స్ ను అనుసరింఛి ఉన్న ఫుటోలు ఉంటే
అవి చేర్చ గలరు
రహ్మానుద్దీన్ 13:04, 2 ఏప్రిల్ 2011 (UTC)
ఈ వ్యాఖ్య ఆ పేజీ యొక్క చర్చాపేజీలో రాయటం మరింత వుపయోగకరం. --అర్జున 06:33, 4 ఏప్రిల్ 2011 (UTC)
మూసలు చెదిరినాయి
ఈ క్రింద సూచించిన సమయములో ఒక వాడుకరి "మూస:Tnavbar" లో మార్పులు, చేర్పులు చేపట్టినట్లుగా ఉన్నారు.
సమయము: (తేడాలు • చరితం) . . మూస:Tnavbar; 07:25 . . (+179) . . 218.248.5.222 (చర్చ)
దాని కారణమున చాలా మూసలు పని చేయటము లేదు.
చదువరులు గ్రహించి, తెలిసిన వారు సరి చేయగలరని మనవి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 05:32, 21 జూన్ 2011 (UTC)
Call for image filter referendum
The Wikimedia Foundation, at the direction of the Board of Trustees, will be holding a vote to determine whether members of the community support the creation and usage of an opt-in personal image filter, which would allow readers to voluntarily screen particular types of images strictly for their own account.
Further details and educational materials will be available shortly. The referendum is scheduled for 12-27 August, 2011, and will be conducted on servers hosted by a neutral third party. Referendum details, officials, voting requirements, and supporting materials will be posted at Meta:Image filter referendum shortly.
Sorry for delivering you a message in English. Please help translate the pages on the referendum on Meta and join the translators mailing list.
For the coordinating committee,
Philippe (WMF)
Cbrown1023
Risker
Mardetanha
PeterSymonds
Robert Harris
మేధాపాట్కర్ పేజీ యొక్క నకలు పేజీ తీసివేత
మేధాపాట్ అని మేధాపాట్కర్ పేజీ యొక్క నకలు పేజీ ఉంది. దానిని తీసివేయగలరు.
రాజశేఖర్ గారు తొలగించారు.--అర్జున 05:05, 5 జూలై 2011 (UTC)
ధర్మసందేహం
ఒక వ్యాసానికి దానికి చెందిన ఒక వర్గంలో చోటు కల్పించాలి. ఆ వర్గంలో 4-5 వ్యాసాలు ఉండక పోవచ్చును. అప్పుడు ఎలా ?
ఒక వ్యాసానికి అనేక వర్గాలకి సంబందం ఉంటుంది. ఒకటికి మించిన వర్గాలలో వ్యాసాలు ఊండవు. మరి వాటిని తొలగిస్తారా ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 16:39, 4 జూలై 2011 (UTC)
ఒక వర్గంలో (ప్రస్తుతం) ఒక వ్యాసమున్నా పర్లేదు. భవిష్యత్తులో కొత్త వ్యాసాలు చేరవచ్చు కదా.
ఒక వ్యాసం ఎన్ని వర్గాల్లో ఇయినా ఉండొచ్చండీ.
— వీవెన్ 05:12, 5 జూలై 2011 (UTC)
అదే నేను కూడా భావించేది. చంద్రకాంత రావు గారు కొత్త వర్గాలు ఇవ్వ వద్దని సూచన చేస్తున్నారు.
అది సమంజసము కాదని నా అభిప్రాయము.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 05:32, 5 జూలై 2011 (UTC)
ఈ రోజు ఒక వ్యాసానికి షుమారు 5 వర్గాలు ఉన్నయెడల ఒక వర్గములోనే ఉంచడము ఎంతవరకు సమంజసము ?
5 సం. క్రితం వ్రాసిన, 5 వర్గాలు ఉన్న (ఒకే వర్గం కేటాయించిన)) వ్యాసానికి ఈ రోజు 5 వర్గాల్లో ఇప్పుడు వుంచాలా లేదా తెలియజేయ గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 17:42, 4 జూలై 2011 (UTC)
చూశారా? కూడా చూడండి. దాని ప్రకారం, వర్గాల నిర్వహణ చేయాలి. ఈ వర్గాలన్నీ యధాలాపంగా తయారైనవనుకుంటాను. మంచి విజ్ఞాన సర్వస్వానికి వర్గాల నిర్వహణ చాలా అవసరం. వర్గాల ఉపవర్గాలు నిర్వహణలో మార్పులు చేస్తే సంబంధించిన వ్యాసాల మార్పులు చేయాలి. దీనికి బాట్ లు వాడటం మంచిది. వ్యాసాన్ని అత్యంత దగ్గరగావున్న వర్గంలో వుంచి, ఇతర సంబంధిత వ్యాసాలలో ఇవీచూడండి ద్వారా దీనిని ఉల్లేఖించవచ్చు. కంప్యూటర్ అన్వేషణ శక్తి వలన చాలా మంది అన్వేషణ ద్వారా వారికి కావాల్సిన వ్యాసాల ఎంచుకుంటారు. వికీపుస్తకాలు చేయవలసివచ్చినపుడు. వర్గాలు చాలా ఉపయోగపడతాయి.-అర్జున 05:03, 5 జూలై 2011 (UTC)
వర్గీకరణ అన్నది వ్యాసం యొక్క విషయాన్ని బట్టి ఉండాలి. ఉదాహరణకి నందమూరి తారక రామారావు వ్యాసాన్ని వర్గం:ఆంధ్రప్రదేశ్ ముఖ్యమంత్రులు వర్గం లోనూ వర్గం:తెలుగు సినిమా నటులు అన్న వర్గంలోనూ చేర్చవచ్చు. ఆ వ్యాసం చేరిన మిగతా వర్గాలు సముచితమైనవే. ఒక వ్యాసం ఇన్ని వర్గాల్లో మాత్రమే ఉండాలి అన్న నియమమేమీ లేదు. మీరేదైనా ఒక ప్రత్యేక వ్యాసం గురించి సందేహాన్ని అడిగివుంటే, ఆ వ్యాసమేమిటో తెలియజేయండి.
అవసరాన్ని బట్టి వ్యాసాన్ని కొత్త వర్గాల్లో చేర్చాల్సి రావచ్చు. కాలక్రమేణా ఆ అవసరాలు మారతాయి. వాటికి తగ్గట్టే వర్గీకరణ కూడా మారాలి. ఉదాహరణకి గోదావరి (సినిమా) వ్యాసాన్ని మొదట్లో “సినిమాలు” అన్న వర్గంలో చేర్చివుండవచ్చు. కానీ సినిమాల వర్గంలో వ్యాసాలు ఎక్కువైపోవడం వల్ల భాష వారీగా ఉపవర్గీకరణ చేయాల్సిరావచ్చు. అప్పుడు దీన్ని “తెలుగు సినిమాలు” అన్న వర్గంలో చేరుస్తాం. ఈ వర్గంలోనూ సినిమాలు ఎక్కువైతే సంవత్సరాల వారీగా మళ్ళీ ఉపవర్గీకరించాల్సిరావచ్చు. అప్పుడు దీన్ని “2006 తెలుగు సినిమాలు” అన్న వర్గంలో చేరుస్తాం.
ఈ వివరణ అర్థమయిందనే అనుకుంటున్నాను. ఇంకా సందేహాలుంటే వివరంగా ఆయా వ్యాసాలని సూచిస్తూ అడగండి. — వీవెన్ 05:12, 5 జూలై 2011 (UTC)
నేను [] లో వున్న వ్యాసాలు, వర్గాలు తీసుకుంటున్నాను. వాటిలో ఒక వ్యాసానికి అనేక వర్గాలు ఉంటున్నాయి. వ్యాసముతో మరి వాటిని సృష్టించాలి కదా ! ఇంతకు ముందు అవి లేవు. పోనీ మొత్తము వర్గాలు జాబితా ప్రతి ఒక్కరికి కనిపించినట్లయితే, ఏ వర్గం ఇంతకు ముందు వున్నది అనేది తెలుస్తుంది మరియు అనవసర కొత్త వర్గాల సృష్టి తగ్గుతుంది. అనాధ పుటలు, లింకు లేని వ్యాసాలు, పొట్టి పుటలు, దారి మార్పులు, ఇలాంటివి చెప్పుకుంటే చాలా అనవసర శ్రమ కాల ఖర్చు తగ్గుతుంది. ఈ వర్గాలు, మూసలు గురించి పూర్తి సమాచారము ప్రతి ఒక్కరికి అందుబాటులో వుండాలని అశిస్తున్నాను. ఈ సమస్యల వల్ల పెద్ద పెద్ద సమాచారము వున్న వర్గాలు సంపూర్ణము చేయలేక పోవడము జరుగుతోందని నా భావన. ఎవరో ఏదో ఒక వ్యాసము వ్రాసి, ఏదో ఒక వర్గంలో వేయడము, ఇది ఏమంతగా నాకు నచ్చ లేదు. తిరిగి ఆ వ్యాసాన్ని క్రమబద్దీకరించటము అదో పని పెట్టుకోవడము ఎంత వరకు సబబు ? వీటి గురించి చాలా చర్చ చేయాలి అందరూ, అని నా మనవి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 05:44, 5 జూలై 2011 (UTC)
కొత్త వర్గాలు సృష్టించవద్దని నేను ఎవరికీ సూచనలు ఇవ్వలేను. నేను ఎక్కడ చెప్పానో ఆధారం చూపితే బాగుంటుంది. ఎలాంటి ఉపవర్గాలు, వ్యాసాలు లేకుండా అధికసంఖ్యలో సృష్టించిన వర్గాలకే అభ్యంతరం చెప్పాను. కొన్ని వర్గాలకు తలా, తోక ఏమీ లేవు. అందులో వ్యాసాలు కూడా లేవు. ఒక్క ఉదా: చూడండి. తలకాయ లేకుండా [[వర్గం:పారామితి ద్వారా కేటగేరీలు]] దాన్నుంచి [[వర్గం:రూపావళి ద్వారా కేటగేరీలు]] అక్కడినుంచి [[వర్గం:మతం ద్వారా ప్రజలు]] అటు నుంచి [[వర్గం:మతం మరియు వృత్తి ద్వారా ప్రజలు]] అక్కడి నుంచి [[వర్గం:మతం ద్వారా మిషనరీలు]] ఆ తర్వాత [[వర్గం:హిందూమతం మిషనరీలు]] అటు నుంచి [[వర్గం:జాతీయత ద్వారా హిందూమతం మిషనరీలు]] ఆ తర్వాత వర్గం:భారత హిందూ మతం మిషనరీలు ఇంతవరకు ఇన్ని వర్గాలు దాటుకుంటూ వచ్చిననూ చివరకు ఒక్క వ్యాసం కూడా లేదు. నేను చెప్పేది ఇలాంటి వ్యాసాలు లేని అనవసర వర్గాల గురించి. కాబట్టి ముందు వ్యాసాలపై కృషిచేయమని చెప్పాను. వ్యాసాలు ఉంటే వర్గాలు సృష్టించడానికి అభ్యంతరం ఎవరికీ ఉండదు. మరో ఉదా: వర్గం:తమిళ సమాజం ఉంది. ఈ వర్గానికి అదే పేరుతో ఉపవర్గం మరియు అదే పేరుతో మాతృవర్గం ఉంది. ఒకవ్యక్తి, అతని తండ్రి, అతని కుమారుడు ముగ్గురు ఒక్కరే కాదుకదా! ఏది నొక్కిననూ మళ్ళి అదే వర్గం వస్తోంది. ఇలాంటి వర్గవృక్షాలు కొత్తవారికి గందరగోళానికి గురిచేస్తాయి. మరికొన్ని వర్గాలు ఇప్పటికే ఉన్నాయి. కొద్ది పేరుమార్పుతో మళ్ళీ కొత్తగా సృష్టించబడ్డాయి. ఆంగ్లవికీలో ఉన్నట్లుగా తెవికీలో వర్గాలు సృష్టించడం తగదు. ఎందుకంటే ఆంగ్లవికీలో ఉన్నట్లుగా తెవికీలో వ్యాసాలు లేవు. ఇదివరకే చెప్పినట్లు వ్యాసాల సంఖ్య వృద్ధిచెందితే వర్గాలు సృష్టించడానికి అవకాశం ఉంటుంది. వ్యాసాల సంఖ్య తక్కువగా ఉన్నప్పుడు వర్గాలను మరీ లోతుగా కాకుండా ప్రధాన వర్గాలలో చేరిస్తే సరిపోతుంది. ఉదా:కు ఆంధ్రప్రదేశ్కు సంబంధించిన రైల్వేస్టేషన్ ఉన్న గ్రామవ్యాసాలలో జిల్లా రైల్వేస్టేషన్ వర్గాలు ఇచ్చాము. అదే ఇతర రాష్ట్రాలకు సంబంధించి ఇలా ఇవ్వలేము, కారణం వ్యాసాల సంఖ్య దానికి అనుగుణంగా లేకపోవడమే. ఏదో అరబ్ దేశానికి సంబంధించి ఒక చిన్న గ్రామవ్యాసం వ్రాసి ఫలానా దేశంలోని రైల్వేస్టేషన్లు, ఫలానా రాష్ట్రంలోని రైల్వేస్టేషన్లు, ఫలానా జిల్లా రైల్వేస్టేషన్లు ..... ఇలా ఇచ్చే అవసరం మనకైతే ప్రస్తుతానికి లేదు, ఆంగ్లవికీలో ఉన్నాసరే! వర్గాలు, మూసలు, అంతర్వికీ లింకులు ఇవన్నీ వ్యాసాలను చేరుకోవడానికి సహాయకరులే కాని ఇవే మన అసలు లక్ష్యం కారాదు. వ్యాసాల ఆధారంగా మాత్రమే వీటిని వృద్ధిచేయాలి. ఒక వ్యాసంలో ఎన్నయినా వర్గాలు చేర్చవచ్చు. వర్గాల సంఖ్య ఎంత పెరిగితే వ్యాసం చేరుకోవడానికి అంత అవకాశం ఉంటుంది. కాని అంతకంటే ముఖ్యం వర్గాలలో వ్యాసాలు ఉండాలి. ఒక వ్యాసానికి వర్గంలో చోటుకల్పించాలి, ఆ వర్గంలో 4-5 వ్యాసాలు ఉండకపోవచ్చుననే సందేహం ఉంటే ప్రధాన వర్గంలో చేరిస్తే సరిపోతుంది. ఉదా:కు క్రీడాకారుల వ్యాసాలు అధికసంఖ్యలో లేనప్పుడు [[వర్గం:క్రీడాకారులు]] మాత్రమే సృష్టించబడింది. వ్యాసాల సంఖ్య పెరిగే కొద్దీ క్రీడలవారీగా, రాష్ట్రాల వారీగా వర్గాలు అంటే [[వర్గం:క్రికెట్ క్రీడాకారులు]], [[వర్గం:టెన్నిస్ క్రీడాకారులు]], [[వర్గం:ఆంధ్రప్రదేశ్ క్రీడాకారులు ఇలా సృష్టించబడ్డాయి. క్రీడాకారుల వ్యాసాలు ఇంకనూ అధికమైతే ఇంకా లోతు వర్గాలు సృష్టించవచ్చు. వ్యాసాలను వదిలి కేవలం వర్గాలకొరకే ఆంగ్లవికీని ఆదర్శంగా తీసుకుంటే తెవికీలో వ్యాసాలకంటే వర్గాలే అధికమౌతాయి -- సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 16:28, 5 జూలై 2011 (UTC)
==* రావు గారు,
మీరు సూచించిన కొత్త వర్గాలు సృష్టించి ఎంత కాలము అయింది అంటారు ? చెప్పండి.
నేను వర్గాలు సృష్టించి వ్యాసాలు వ్రాద్దామనుకున్నాను.
వర్గాలు సృష్టించి వ్యాసాలు వ్రాయ కూడదా ?
వర్గాలు సృష్టించిన రోజే తీసివేస్తానని అన్నారు కదా మీరు ! (నా చర్చా పుట చూడండి.)
అయినా నాకు కొత్త. నాకు తోచిన రీతిలో నచ్చిన విధంగా, నా పద్దతిలో ఏ విషయములోనూ వికీపీడియా కు ఇబ్బంది కలుగకుండా నా వంతు సహకారము చేయాలనుకున్నాను.
మీరు వ్యక్తిగతముగా అంతగా అవేశపడ నవసరము లేదు అని అనుకుంటున్నాను.
తెలుగు వికీపీడియాను మీ తరము వరకు పరిమితము చేస్తున్నట్లుగా మీకు అనిపించటము లేదా ?
en.wikipedia.org లో ఉన్న విధముగా వర్గీకరణ ఉంటే నాకు తప్పులేదనిపిస్తుంది. మీకు అలా ఉండక పోవచ్చును. అందువల్లనే ఇంత సుదీర్గ విశ్లేషణాత్మకమైన ఈ చర్చ అని అనిపిస్తోంది.
ప్రతి మనిషి యొక్క అలోచనలు మరొకరితో చాలా సందర్భాలలో సాధ్యమయినంత వరకు కలవక పోవచ్చును.
ఎవరు అధికారములో ఉంటే వారి వారి పద్దతి ఏమైనా ఉంటుందా ? అని సందేహం ఉంది.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 17:01, 5 జూలై 2011 (UTC)
వ్యాసాలు లేని వర్గాలు మాత్రమే తొలిగిస్తానని చెప్పాను. సరిగా అర్థం చేసుకోకుండా తప్పుగా వ్రాసినందుకే నేను అంతగా వ్రాయవలసి వచ్చింది. తొలిగిస్తానని చెప్పినా వారం రోజులు సమయం ఉంటుంది. అసలే ఉండకూడదనే 2 వర్గాలు మాత్రం తొలిగించాను. ఇక్కడ చేప్పేది నాకొరకు కాదు కాని ప్రతి వారు తమ ఇష్టమున్నట్లు తెవికీలో పనిచేస్తే ఎలాగో ఆలోచించండి. ఎవరికైనా ప్రారంభంలోనే చెప్పాల్సిఉంటుంది (మరి 6 నెలలకు చెప్పాలా?) ముందే ఎందుకు చెప్పలేరని ఎదురు తిరగవచ్చు కూడా. వర్గాలు ఇప్పుడే సృష్టించాలు కాబట్టి చర్చ ఇప్పుడే ప్రారంభమైంది. సృష్టించిన కొత్త వర్గాలను వ్యాసాలతో నింపండి చాలు. ఆవేశపడనవసరంలేదు, మీ తరము వరకు పరిమితము, పద్దతి వ్రాయడానికి ఉద్దేశ్యం ఏమిటీ? సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 17:06, 5 జూలై 2011 (UTC)
==నేను వికి మొదలు అయినప్పుడు, ఒకసారి చేరాను. కాని అప్పుడు ఇంతలా అభివృద్ధి చెందుతుంది అని అనుకోలేదు.
ఇంకా మీకు ఆవేశం అంత ఎందుకు ? మీరు చెప్పే పద్దతి ఎలా ఉందో వేరే వాళ్ళతో చర్చించండి, పొరపాటు, తప్పు ఏమిటో తెలుస్తుంది. en.wikipedia వర్గాలు తెలుగులో పాటిస్తే తప్పు ఏమిటొ నాకు అర్ధం కావడము లేదు. అందుకే అన్నాను, మీ తరము వరకే పరిమితమా అని. అదే ఉద్దేశ్యము.
ఇలా చర్చలు చేస్తూ ఉంటే కొంత కాలానికి నన్నే తొలగిస్తారు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 17:28, 5 జూలై 2011 (UTC)
ఆవేశం ఎవరు పడుతున్నారు? వ్యాసాలు లేకుండా అధికసంఖ్యలో సృష్టించబడుతున్న వర్గాలు తొలిగించబడుతుంది అని తెలియజేస్తే ఇంతవరకు తీసుకువచ్చింది ఎవరు? ఎవరైనా కొత్త సభ్యులకు చెప్పేది ఇలాంటి సలాహాలు, సూచనలే కదా. అర్థం చేసుకూకుండా నాపై నిందలు వేస్తున్నారు. వర్గాల సృష్టికి ఎన్వికీని ఆదర్శంగా ఎందుకు తీసుకోవడం? వద్దని చెప్పడం నాపద్దతి, నా అభిప్రాయం, నేను సృష్టించిన పాలసీ కాదు. వ్యాసాలు లేని వర్గాలకు సంబంధించి వ్యాస్దాలు సృష్టిస్తానని చెప్పింది ఇప్పుడే. ఇదే విషయం ముందు తెలియజేయలేదు. తెవికీని ఇదివరకు ఎందరో సభ్యుల మూలంగా ఈ దశకు తీసుకువచ్చారు, దాన్ని కాపాడుకుంటున్నాము. అలాంటిదాన్ని మీరు కొత్తదారిలో తీసుకువెళ్లడానికి ఎందుకు ప్రయత్నిస్తున్నారు? సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 17:37, 5 జూలై 2011 (UTC)
==మీరే అవేశ పడుతున్నారు. నేను కొత్త సభ్యుడు అని ఎలా ఆంటారు ? నాకు పని కొత్త అని అంటాను. ఎవరో ఏదో చేశారని అందరిని అదే గాట కట్టడము, చూడటము మంచిదంటారా ? మీరే (కాపాడుతున్నాము) కాపాడుతున్నారనే భావన వస్తోంది. ఒకసారి పరికించండి. మీకు అధికారము ఉంది కనుక అలా మీరు భావించ వచ్చును. వికీపీడియా అందరిది అని నా భావన.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 17:52, 5 జూలై 2011 (UTC)
కాపాడుతున్నాము అనే మాట నా ఒక్కరి తరఫున చెప్పినది కాదు. తెవికీ పాలసీలు, నియమాలు, సంప్రదాయాలు కాపాడే అందరి తరఫున ఆ మాట అన్నాను. తెవికీలో నాకు అనుభవం ఉంది కాని ఎలాంటి అధికారము లేదు. వికీపీడియా అందరిదీ అనే మాటకు ఖచ్చితంగా ఒప్పుకుంటాను. కాబట్టే ఒక్కొక్కరు ఒక్కో విధంగా కాకుండా తెవికీ పద్దతి (ఎన్వికీ కాదు) ప్రకారం పోవాలని చెప్పవలసి వస్తోంది. ఇకపై ఈ చర్చలో నేను స్పందించను. నేని చెప్పేదానికి అర్థం చేసుకుంటే చాలు. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 18:52, 5 జూలై 2011 (UTC)
ప్రసాద్ గారూ, ఇలా చేయండి: ముందు వ్యాసాలను వ్రాసి వాటిని తగిన వర్గాలలో చేర్చండి. — వీవెన్ 13:39, 6 జూలై 2011 (UTC)
కొత్త వర్గాల షృష్టి.
కొత్త వర్గాల షృష్టి గురించి వివరణాత్మకంగా, విపులంగా చర్చించాలనుకుంటున్నాను.
వీటి గురించి తెలిసినవారు కొంత సమయము కేటాయించి నా సందేహాలను నివృత్తి చేయగలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 01:34, 5 జూలై 2011 (UTC)
మీ సందేహం ఉదాహరణలతో ఇచ్చినచో స్పందించటానికి వీలుగా వుంటుంది. -అర్జున 05:04, 5 జూలై 2011 (UTC)
చంద్రకాంత రావు గారు, నా చర్చా పుటలో దీనిని ప్రస్తావించారు. గమనించగలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 05:29, 5 జూలై 2011 (UTC)
ఈ వారపు వ్యాసం, ఆ వారపు చిత్రం అన్న మొదటి పేజీలోని భాగాలను ఎలా కలపాలి?
మొదటి పేజీలో కనబడే ఈ వారపు వ్యాసము, ఈ వారపు బొమ్మ అన్నవి వారం వారానికి అప్డేట్ కావటం లేదు.
నేను ఆ పనిని చేపట్టగలను కానీ, నేను మార్పు చేసిన వెనువెంటనే అవి కనిపించటంలేదు. కేష్ క్లియర్ చెయ్యాలంటే ఎలా?
రహ్మానుద్దీన్ 02:44, 5 జూలై 2011 (UTC)
వాడుకరి:కాసుబాబు నిర్వహించుతున్నారు గదా. వారితో చర్చించితే ఉపయోగంవుండవచ్చు. కేష్ గురించి ఈ చూడండి.-అర్జున 04:49, 5 జూలై 2011 (UTC)
వాడుకరి:కాసుబాబు గారు లేరు గనుక నేను ఈ పేజీని నిర్వహిస్తాను ఇక. రహ్మానుద్దీన్ 09:58, 5 జూలై 2011 (UTC)
ఎవరూ స్పందించలేదు! అప్పుడే ఇంకో వారం వచ్చేసింది. త్వరగా ఈ వారపు బొమ్మ + వ్యాసం కి సలహాలివ్వండి. రహ్మానుద్దీన్ 16:17, 11 జూలై 2011 (UTC)
ముందుగా, ఈ వారపు వ్యాసం:
వికీపీడియా:ఈ వారపు వ్యాసం జాబితా పుటకి వెళ్ళండి.
28 వ వారం అన్న లంకెపై నొక్కి పుటని సృష్టించడమే.
ఆ పుటలో ఏ వ్యాసాన్ని విశేషవ్యాసంగా ఎన్నుకుంటే, ఆ వ్యాసపు సంగ్రహాన్ని ఉంచాలి అంతే.
పై జాబితా పుటలో వ్యాసపు ప్రతిపాదనలు కూడా ఉన్నాయి. వాటిలో నుండి వ్యాసాన్ని ఎన్నుకోవచ్చు.
అదే పుటలో, (మూసలు మార్చడం వంటి) సూచనలు కూడా ఉన్నాయి.
ఈ వారపు బొమ్మ కూడా అంతే. చూడండి: వికీపీడియా:ఈ వారపు బొమ్మల జాబితా
పాత వారాల పుటలు చూస్తే, ఎలా చేయాలో అర్థమవుతుంది. — వీవెన్ 17:30, 11 జూలై 2011 (UTC)
రహ్మాన్ గారూ! నేను కొంతకాలం ఇతర వ్యాపకాలలో ఉండడంవలన తెలుగు వికీలో పని చేయలేదు. కనుక పై చెర్చను ఇప్పుడే చూశాను. మొదటి పేజీలో ఈ వారం వ్యాసం, ఈ వారం బొమ్మ శీర్షికలు నిర్వహించడానికి మీరు ఆసక్తి చూపడం చాలా సంతోషం. ఈ శిర్షికలో ఎంతమంది పాల్గొంటే అంత మెరుగుగా నిర్వహింపవచ్చును. 52వ వారం వరకు ఈ వారంలో నైనా మీరు బొమ్మ, వ్యాసాలను ఇప్పుడే చేర్చవచ్చును. ఆ వారం వరకు ఆగవలసిన పని లేదు. ఏవైనా సందేహాలుంటే నా చర్చాపేజీలో వ్రాయగలరు. --కాసుబాబు 14:37, 5 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
కాసుబాబు గారు, తెవికీ కి మొదటిపేజీ కీలకం కావున,ముందు ముందు దీని గురించి పనిచేసే వారిని పెంచటం, నిర్వహించే వారు వారు కొంత కాలం పనిచేయలేకపోతే, ఇతర సహాయకులకు ముందు సూచన ఇవ్వడం పరిశీలించగలరు.-- అర్జున 00:52, 6 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
తెవికీ అధికారులు
తెవికీ అధికారులకు వారి అధికారము శాశ్వతమా?
* వీరి రోజు వారీ నియమములు పాటించు పనుల దాఖలాలు ఎక్కడ దొరుకుతాయో తెలుప గలరు.
ఇప్పట్లో అధికార వికేంద్రీకరణ యేమైనా ఉందా ? అనగా కొత్త అధికారులను నియమించుట.
ప్రపంచము మొత్తములో ఉన్న మిగతా అధికారులకు తెలుగు వారికి (తెవికీ పద్దతి వేరుగా ఉంటుందని తెలుగు అధికారి అనుట జరిగింది) యేమైనా తేడా ఉందా ?
దయచేసి తెలిసిన వారు తెలుప గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 13:46, 6 జూలై 2011 (UTC)
ఆసక్తి కలవారు అధికార హోదాకి అభ్యర్థన ఎప్పుడైనా చేయవచ్చు. చూడండి వికీపీడియా:నిర్వాహక_హోదా_కొరకు_విజ్ఞప్తి. నాదృష్టిలో వికీపీడియా నిర్వహణ లో సహకరించటమే, అభివృద్ధికి కృషి చేయటం ముఖ్యమైన విధి. మరిన్నివివరాలకు వికీపీడియా:నిర్వాహకులు చదవవలసిన జాబితా. --అర్జున 05:42, 11 జూలై 2011 (UTC)
రావు గారు
మీ వాక్యం (సృష్టించిన కొత్త వర్గాలను వ్యాసాలతో నింపండి చాలు. ఆవేశపడనవసరంలేదు,)
మీ కింద పనిచేసే వాడిని కాదు.
అందుకే మీ భాష సరిగా లేదని నేను మొదటి నుంచి చెబుతున్నాను.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 13:51, 6 జూలై 2011 (UTC)
==
మీకు ఇష్టమైన పద్దతుల్లో నడతలోని భాగంగా మీ సంతకం లోని రంగులు (కళ్ళకి) ఇబ్బంది, అని అనేక మందికి తెలుసు అని మీకు తెలుసా అని నేను అడుగుతున్నాను. నాకు కూడా అధికారము ఉంటే నేను కూడా అన్నింట్లో ఉన్న బూజులు దులప గలను.
మీరు వాడే భాష ద్వారా మీ స్థితి, పరిస్థితి, లాంటివి తేలికగా తెలుకోవచ్చు. మీ భాష మార్చు కోలేరు, అందుకని సభ్యులకు, మరీ కొత్త వారికి మాత్రము ఉచిత సలహాలు ఇవ్వడము తగ్గించుకొని, మీకు బాగా పరిచయము అయిన తరువాత లేదా అంతకు ముందు తెలిసిన వారితో చర్చలు చేసుకోవడము ఉత్తమం.
ఏ విషయములో నయినా ఎదుటి వారిని ముద్దాయి లేదా దోషి గా సృష్టించి, ఆ తదుపరి నేరస్థుడు ని చేసేందుకు కావల్సిన సమాచారం సమకూర్చ గల మీ మనస్థత్వం, ప్రపంచ మంతా సేవ మాత్రమే భాగంగా పనిచేసే వికీపీడియా లాంటి వాటికి ఏ మాత్రం పనికిరాదు అని తెలుసుకో గలరు.
కొత్త వర్గాలను తొలగించుటమే అధికార కార్యక్రమం పెట్టుకున్న మీకు వాటి వల్ల వచ్చే నష్టం వివరించండి.
ఇక్కడ మీరు చేసే ప్రస్తుత సేవలు తెలుసుకోవలని ఉంది. (పూర్వము గురించి అప్రస్తుతము, చాలా మంది ఎన్నో గొప్ప గొప్ప సేవలు చేసిన వారి జాబితాలోని 'జమానా<i data-parsoid='{"autoInsertedEnd":true,"dsr":[24837,24862,2,0]}'>లో మీరు ఉంటే ఉండ వచ్చు)
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 02:01, 7 జూలై 2011 (UTC)
జవాబు
1) ఎలాంటి వ్యాసాలు లేని వర్గాలు సృష్టించబడవద్దని సూచన చేస్తే రచ్చబండకు లాగి నేను చెప్పని దానికి తప్పుగా చెప్పి చర్చను ఇంతవరకు తీసుకువచ్చారు. నేను కొత్తవర్గాలు సృష్టించవద్దని చెప్పలేనిదే ఏకంగా నా గురించి రచ్చబండలో అబద్దం చెప్పి దానికి ఆధారం తెలుపమని చెప్పితే ఇంతవరకు ఉలుకూ పలుకూ లేదు. అలా చెప్పడం తప్పని ఇప్పటికన్నా ఒప్పుకుంటారా?
నా చర్చా పేజీలో ఏం రాశారో చదువుకోండి.
వ్యాసాలు లేని వర్గాలు
మీరు చాలా అధిక సంఖ్యలో వర్గాలు సృష్టిస్తున్నారు. కనీసం నాలుగైదు వ్యాసాలు లేనిదే వర్గాలు సృష్టించడం బాగుండదు. ఒక్క వ్యాసం కూడా లేకుండా అధిక సంఖ్యలో సృష్టించిన వర్గాలు నిర్వహణలో భాగంగా తొలిగించబడుతుంది. వర్గాల కంటె వ్యాసాలపై కృషి చేస్తే బాగుంటుంది. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 15:46, 4 జూలై 2011 (UTC)
వ్యాసాలు లేని వర్గాలను తొలగించు సమయము ఎప్పటి వరకు ఉంచుతారో తెలియ జేయగలరు. ఈ లోపు కొన్నింటికి అయినా వ్యాసాలు సమకూర్చ వచ్చును. ప్రస్తుతము మీ సూచన పాటించగలను.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 15:59, 4 జూలై 2011 (UTC)
అనవసరముగా నాతో అతిగా చర్చ చేయాలని చూడకండి, మీ జీవితములో చాలా సమయము పోగొట్టుకోవాల్సి వస్తుంది. అబద్దం ఏమిటి ? ఉలుకూ పలుకూ ఏమిటి ? ఇంత కంటే ఎక్కువే వ్రాయ గలను.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
2) ఎలాంటి వ్యాసాలు లేకుండా అధిక సంఖ్యలో వర్గాలు సృష్టించబడుతుంటే వద్దని సూచన చేయడం తప్పు అని ఎందుకనుకుంటున్నారు? ఒకటీ రెండు కాదు, ఐదూ పదీ కాదూ, ఏకంగా వందలండీ వందలు ()
నాకు పని కొత్త అన్నాను. అర్ధం కావడము లేదా ఇంకా ? ఇప్పుడు మీకు వచ్చిన బాధ, నెప్పి ఏమిటి ? మీలాంటి మనస్థత్వం వాళ్ళు నాకు అనవసర సలహాలు ఇవ్వకండి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
3) "వ్యాసాలు లేనిదే వర్గాలు సృష్టించరాదా, ముందు వర్గాలు సృష్టించి వ్యాసాలు రాద్దామనుకుంటున్నాను" అని చెప్పారు. నేను ఒకటో పదో వర్గాలు చూసి కాదు, వందల వర్గాలు చూసి సూచనచేశాను. డిసెంబరు 2010 మాసములో అనువాద వ్యాసాలలో ఎర్రలింకున్న వాటిని నొక్కి వర్గాలు సృష్టించారు. వర్గాలపేరులో చాలా వాటికి ఆంగ్లపదాలున్నాయి. సృష్టించిన వర్గాలు చాలా వరకు లోతైనవి. ఆంగ్లవికీలో ఉన్నట్లుగా ఇక్కడ లక్షల వ్యాసాలు లేవు. అలాంటప్పుడు అక్కడున్నట్లుగా ఇక్కడ వర్గాలు సృష్టించడం తగదు. జూన్ 2011 మూడవ వారంలో రైల్వేల వర్గాలు సృష్టించారు. అందులోనూ లోతువర్గాలున్నాయి. ఆ తర్వాత బ్రాహ్మణ వర్గాలు సృష్టించారు. ఇందులోనూ ఎలాంటి వ్యాసాలు లేవు. ఇవన్నీ చూసే తెవికీ ప్రయోజనాల దృష్ట్యా చేసిన సూచనపై ఆవేశపడి నాపై నిందలు మోపుతున్నారు.
మీ నెప్పి అంతా వర్గాలు గురించే ఉంది. మీకు కొత్త వారికి సలహాలు ఇవ్వడము ఎలాగో ఇంకా తెలుసుకోండి. అంతవరకు మానుకోండి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
4) మళ్ళీ మళ్ళీ నాకు ఆవేశం ఎందుకంటున్నారు. ఆవేశం నాది కాదు, మీదే. నాది తెవికీ ఆవేదన, మీది అనవసర ఆవేశన. నాపై ఎగిరెగిరి పడడమెందుకు. కేవలం సూచనలకే అంతగా అవేశమెందుకు?
ఎవరు ఎగిరి పడుతున్నారు ? ఎవరిది ఆవేశం ? నాకు ఇంక ముందు ఎటువంటి సూచనలు చేయ వద్దు. వేరే వాళ్ళు నాకు ఇస్తారు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
5) నాకు గారు అని పిలిచే పనిలేదు. పైన గౌరవంగా చెప్పినట్లు నటిస్తూ ఇతర సభ్యుల మనసు దోచుకోవాలని ప్రవర్తిస్తున్నారు. గౌరవం చూపదలిస్తే తెవికీ సూచనలపై చూపండి. తెవికీలో సభ్యులు ముఖ్యం కాదు, సభ్యుల దిద్దుబాట్లే ముఖ్యం. తేనెపూసిన కత్తిలాంటి మాటలు నాకు నచ్చవు.
నేను ఎవరితో నయినా మర్యాదగ ముందు మాట్లాడతాను. నన్ను మాట అంటే ఊరుకోను. మాయ మాటలు అవసరం లేదు. నన్ను ఏమనుకుని నాకు ఉచిత సలహాల ఉద్దేశ్యమేమిటి ? ఎదుటి వాళ్ళని బట్టే మర్యాద అనేది ఉంటుంది.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
6) కృష్ణా జిల్లా, కర్నూలు జిల్లా రైల్వేస్టేషన్లకు సంబంధించిన వర్గాలు ఇదివరకే ఉన్నాయని రెండువారాల క్రితం చెప్పినప్పుడు అప్పుడు ధన్య "వాదాలు" చెప్పి ఇప్పుడు "వాదాల"కు దిగుతున్నారు. రెండువారాలలో ఇంతగా మార్పురావడానికి కారణమేమిటి? పేరుమార్పులతో ఉన్న వర్గాలను తొలిగించడానికి అప్పుడే అవకాశం ఉన్ననూ రెండు వారాలు ఆగి, చివరకు తొలిగించేటప్పుడు సారాంశంలో కూడా దానికి కారణం రాశాను. అవేవీ పరిశీలించకుండా మళ్ళీ ఆ విషయం రచ్చబండలోకి పెద్దది చేయడమెందుకు?
అవును, ఇప్పుడు అదే అంటాను. కాని, ఆ తరువాత మీ భాష మీ కింద పనిచేసే వారికి చెబుతున్నట్లుగా ఉంది. అందుకే నాకు మనసుకు చాలా బాధ కలిగింది. ఈ వర్గాల గోల యేమిటి ? పని కొత్త అంటే అర్ధం కావటము లేదా ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
7) నాపై అనవసర నిందలు మోపడం తప్ప మీ వాదనలో ఏ మాత్రం బలంగాని ఆధారంగాని లేదని ఇప్పటికైనా ఒప్పుకుంటారా? ఆధారాలు లేకుండా ఆవేశంతో ఏదో రాసి తర్వాత దానికి ఆధారం కూడా చెప్పలేని పరిస్థితులో ఉన్నారనే సంగతిని ఒప్పుకుంటారా? వర్గాలు వద్దని ఎక్కడ చెప్పానో దానికి సమాధానం ఎలాగూ లేదు, తెవికీని నా తరం వరకు పరిమితం చేస్తున్నదానికి సమాధానం అడిగితే ఎన్వికీ వర్గాలు తెవికీలో వాడడం తప్పేమిటీ అని చెప్పారు. ఇది పొంతన లేని సమాధానమే.
ఇంక ముందు ముందు ప్రశ్నకు సమాధానాలు తీసుకోండి. ఏం చెప్పాలి ? పైన చెప్పాను, చూసుకోండి. అనవసరముగా సమర్ధించుకోవాలని చూసుకోకండి.
8) కొత్తవర్గాలను వ్యాసాలతో నింపండి చాలు అనే వాక్యానికి పెడార్థం తీసి మీ కిందపనిచేసేవాడికి కాదు అన్నారు. దీన్ని బట్టి మీరెంతగా అర్థంచేసుకుంటున్నారో అర్థమౌతోంది. తెవికీలో పైనా కింద ఎవరూ ఉండరు, అందరూ సమానమే అని ఇప్పటికే ఎన్నోసార్లు చర్చాపేజీలలో నమోదైనది. ప్రక్కవాడికి సూచన చెప్పడం చేయడం కూడా అధికారత్వం అనుకుంటే ఎలాగా? ఒక గుమాస్తా తన యజమానివద్దకు వెళ్ళి ఫైలుపై సంతకం చేయమని అడిగిననూ అది ఆదేశం అవుతుందా? నువ్వు చెప్పినట్లు నేను వినాలా? అని యజమాని అంటే ఆ మాటలో మూర్ఖత్వమే తప్ప అర్థం ఉందా?
ఇప్పుడు ఏంటి ? చెప్పే విధానము నాకు నచ్చ లేదు. నాకు అలాగే అర్ధం అవుతోంది.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
9) తెవికీలో ఎవరూ పరిపూర్ణులు కారు, దానికి నేను కూడా భిన్నుడిని కాను. ఎప్పటికప్పుడు కొత్త విషయాలు తోటి సభ్యుల నుంచే నేర్చుకోవాల్సిందే. అందులో భాగంగా నాకు తెలియకుండా నేను చేసే పొరపాట్లు చూసి సూచనలు చేస్తే సంతోషిస్తా (నా సంతోషం కోసం పనిచేయడం లేదని వ్రాస్తారేమో!) అంతేకాని నా సంతకం పట్టుకొని కళ్ళకు ఇబ్బంది అంటే ఎలాగా? మీరు అప్లోడ్ చేసే బొమ్మలు రంగులలో కాకుండా తెలుపు-నలుపులోనే చేసి నాకు ఈ సూచనచేస్తే బాగుండేది. సంతకం గురించి తెవికీలో పాలసి ఉంది. రంగులలో సంతకం చేయరాదనే నిబంధన ఏదీ లేదు (ఇక్కడ వర్ణాంధత్వం ఉన్నవారు ఎవరూ లేరు) సంతకాలలో యానిమేషన్, బొమ్మలు, ప్రకటన లింకులు లేకుంటే సరి. తెవికీ సాంకేతిక నిపుణుడు దేవాగారికి ఆదర్శంగా తీసుకొనే నేను సంతకం మార్చుకున్నాను. కళ్ళకు రంగులు ఇబ్బంది అనుకుంటే మనమంతా మళ్ళీ అరశతాబ్దం వెనక్కు వెళ్ళాల్సి ఉంటుంది. ఇదివరకు ఒక సభ్యుడు నా సభ్యపేజీలో స్వాగతం బొమ్మ తొలిగించడానికి ఏకంగా ఆంగ్లవికీని సంప్రదించి భంగపడ్డాడు.
ఏమిటీ అర్ధం లేని జవాబు ? సంతకంలో ఉన్న ఆ రంగులు ఇబ్బంది కళ్ళకి, అంతే. మిగతా అర్ధం లేని వాక్యాలు దేనికి ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
10) పాలసి తెలుకోకుండా నా సంతకంపై విరుచుకుపడ్డారు మరి మీ సభ్యపేజీ సంగతేంటీ? సభ్యపేజీలో తెవికీకి సంబంధంలేని మీ వ్యక్తిగత వివరాలు బోలెడు చేర్చి మీ స్వంతడైరీలాగా మార్చుకోవడం దేనికి? దీనిపైన పాలసి చదవండి. తెవికీలో సభ్యుల గురించి సంక్షిప్త సమాచారం, తెవికీలో చేసిన, చేయబోయే పనుల గురించి ఇలా వ్రాసుకోవచ్చు. మితిమీరిన వ్యక్తిగత సమాచారం అనగా మీ చదువు సంధ్యల గురించి, మీ పిల్లలగురించి, మీ సినిమా రికార్డుల గురించీ వ్రాయడం ఏమిటీ? ఇది మీ స్వంతబ్లాగు కాదు అని గుర్తించుకోండి.
కొత్తగా చేరే వారికి ఎవరికి నియమాలు చదువుకుని చేరాలని ఉండదు.. ముందే చెబితే తీసి వేయడము జరిగేది. ఇప్పుడు ఎందుకు కెలకటము ? సరి. తీసి వేస్తాను, ఇప్పుడు, మీ నెప్పి ఏమిటి ఇంకా ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
11) ఆంగ్లవికీ పాలసీలు, నిబంధనలు, పద్దతులు తెవికీకి సంబంధం లేదని ఇదివరకే చాలా సార్లు చర్చలు జరిగాయి. ఒక భాషా వికీకి, మరో భాషా వికీకి పాలసీలలో సంబంధంలేదు. అవసరమైతే, నచ్చితే కొన్ని పాలసీలు తీసుకోవచ్చు కాని అక్కడి పద్దతులు ఇక్కడ లేవనెత్తడం బాగుండదు. అక్కడ అధికసంఖ్యలో వర్గాలున్నాయని తెవికీలో కూడా వ్యాసాలు లేకున్ననూ అలాంటి వర్గాలు ఉండాలని పట్టుపట్టడం పద్దతికాదు. మన తెవికీలో అధికవర్గాలు లేవనీ ఆంగ్లవికీలో కూడా తగ్గించాలని అక్కడివాళ్లకు చెబితే (ఇలా చెప్పడానికే ఆశ్చర్యంగా ఉంది) వారు ఏమంటారో ఊహించుకోగలరా? ఇదివరకు ఒక సభ్యుడు తెలుగు సంఖ్యలపై ఇతర బాషా వికీలతో పోల్చుతూ, ఇక్కడ కూడా తెలుగు సంఖ్యలే వాడాలని వాదించిన సంగతి అందరికీ తెలుసు.
నేను అనుమానముగా ఆడిగితే, ఇంత కథ ఎందుకు ? మీ వాదనలు నాకు ఎలా తెలుస్తుంది ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
12) నాకే అధికారం ఉంటే నేను కూడా అన్నింట్లో బూజుదులపగలను అన్నారు. ఏ ఉద్దేశ్యంతో అన్నారో కాని ఇలా చెప్పడం వ్యతిరేక అర్థాలకు దారితీస్తుంది. ఒకవేళ తెవికీ లోటుపాట్లు సరిదిద్దాలనుకున్నాను అధికారం అక్కరలేదు. అధికారులకైననూ తమ ఇష్టమున్నట్లు చేయడానికి వీలులేదు. ఏది చేసిననూ తెవికీ పాలసీలు, పద్దతులు, సంప్రదాయాలు, నియమాలు, అధిక సభ్యుల అంగీకారం ప్రకారమే చేయాల్సిఉంటుంది. చేసిన చర్యలకు ఇతర సభ్యులకు జవాబుదారీగా ఉండి, సమాధానం ఇచ్చుకోవాల్సిన పరిస్థితి ఉంటుంది.
ఆ మాత్రము తెలియంది కాదు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
13) కొన్ని వర్గాలను తొలిగించగానే నేను ఏదో పెద్ద తప్పుచేసినట్లు రచ్చబండలో వివరించాను. తెవికీ పద్దతులకు వ్యతిరేకంగా చేయాల్సిన అవసరం నాకు లేదు. ఇన్నేళ్ళుగా తెవికీ అభివృద్ధికి సమయం దొరికినప్పుడల్లా నా వంతు సహకారం అందిస్తున్నాను. వికీలో ఎవరు ఏమి చేసిననూ మిగితా సభ్యులు తప్పకుండా గమనిస్తారు. నేను ఒకవేళ నిజంగా తప్పు చేసినా మిగితా సభ్యులు తప్పకుండా నన్ను వారిస్తారు. దిద్దుబాటు చేయకుండా కూడా తెవికీని పరిశీలించేవాళ్ళు ఉన్నారన్నా ఆశ్చర్యం పడాల్సిన విషయం కాదు. అలాంటప్పుడు సభ్యులు తప్పుచేస్తున్నారని అనుమానం పడాల్సిన విషయం అక్కరలేదు.
ఇంత వివరణ నాకు ఎందుకు? నాతో మాట్లాడము మీకు చేత కాదు. వదిలేయండి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
14) నా భాష గురించి ఎక్కడ చూశారో తెలియదు కాని నేను చర్చించింది మీ చర్చాపేజీలో మరియు ఈ రచ్చబండలో. మొదట ఎవరు ఆవేశపడి ఏమి రాశారో మరోసారి పరిశీలిస్తే బాగుంటుంది. ఇదివరకు కొందరు సభ్యులు ఇలాగే నాపై అనవసరంగా విరుచుకుపడితే, వారికిచ్చిన సమాధానాలు మాత్రమే చూసి. దానికి వెనుకచరిత్ర, ఏ పరిస్థితుల్లో అలా చెప్పవలసి వచ్చిందో చూడకుండా ఆ వాక్యాలను మళ్ళీ ఇక్కడ చెప్పాల్సిన పనిలేదు.
ఇది వరకు సంగతి నాకు తెలియదు కదా ! మీ మాటలు ఎదుటివారితో ఎక్కువ అవసరము లేదు ఇలా ఈవిధముగానే అందరితో చర్చలు చేసుకోవడానికి.. మీరు మారరు, ఎవరి కోసమో మారాల్సిన అవసరము లేదు. నేనూ అంతే. మీ మనస్థత్వం నాతో సరి పడదు. అంతే.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
15) నాకు ఉచిత సలహాలు తగ్గించుకోమని "ఉచిత సలహా" ఇస్తున్నారు. నేను సూచించేవి తెవికీ సలహాలు, సూచనలే తప్ప ఉచిత సలహాలు కావు. తెవికీ అభివృద్ధిని దృష్టిలో ఉంచుకొని ఇచ్చే సూచనలను ఉచిత సలహాలుగా కొట్టిపారేయడం ఎంతవరకు న్యాయమో ఆలోచించండి.
నాకు చెప్పటము మానేయండి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
16) నాకు ఎవరినీ ముద్దాయిగా, దోషిగా సృష్టించే అవసరం లేదు. నేను ఇచ్చిన తెవికీ సూచనలకే ఆవేశం చెంది, నాపై అనవసర నిందలు మోపి చర్చను పెద్దగా చేసినప్పుడు అది ఎవరి తప్పు. నేనూ మానవమాత్రుడినే, శిలను కాను.
దీన్ని ఏమంటారు ?
17) కొత్తవర్గాలను తొలిగించుటే అధికార కార్యక్రమం పెట్టుకున్నానని రాశారు. తెవికీకి నష్టం కలిగించే పనిని నేనెప్పుడూ చేయలేదు. నేను తొలిగించిన వర్గాలు ఏమిటో మరోసారి చూడండి. ఇదివరకే కొద్ది పేరుమార్పుతో ఉన్న వర్గాలు, ఆంగ్ల అక్షరాలున్న వర్గాలు ఇలాంటివే తొలిగించాను. కేవలం ఒక సభ్యుడిని దృష్టిలో ఉంచుకొని తెవికీకి ప్రయోజనకరమైన వర్గాలు తొలిగిస్తే ఇతర సభ్యులు నన్ను నివారించరా? దీనికి నా మనసు ఒప్పుకుంటుందా? తెవికీకి ప్రయోజనకరమైన వర్గాలు తొలిగించనప్పుడు తెవికీకి ఎలాంటి నష్టం కలిగే అవకాశమే లేదు. దీనికై ఎవరూ బాధపడాల్సిన అవసరం కూడా లేదు. మీరు సృష్టించిన వర్గాలు తొలిగించబడుతున్నాయనే బాధ ఉంటే ముందే వర్గాల గురించి తెలుసుకొని కొత్తవి సృష్టించండి.
మీకు ఇంకా తెలియదా ? నేను వర్గాలు సృష్టించటము లేదు. మరి రైల్వే స్టేషన్లు వర్గాలు తొలగించి, తిరిగి ప్రవేశ పెట్టారుగా ! ఈ వర్గాలు గోల తప్ప, ఇంక ఇతర విషయము ఏముంది ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
18) నేను కొత్తవారికి మాత్రమే సలహాలు ఇవ్వడం లేదు. పొరపాటు జరిగినప్పుడు అందరికీ తెలియజేస్తున్నాను. నాకు కూడా ఇతర సభ్యులు ఇప్పటికీ సూచనలు చేస్తున్నారు. ఇది తెవికీకి అత్యంత ఉపయోగకారి. ఒకరి సలహాలు, సూచనలు లేనిదే ఏ రంగమైననూ ప్రగతిపథంలోకి వెళ్ళదు. తెవికీకి కూడా ఇదే ప్రగతిమార్గం కావాలి. కాని సూచనలను సరైన దృష్టితో ఆలోచించి, ఆచరణలలోకి తీసుకున్నప్పుడే ఇది సాధ్యమౌతుంది. సాధారణంగా కొత్తవారికి పాలసీలపై అంతగా అవగాహాన ఉండదు కాబట్టి వారికే అధికంగా సూచనలు చేయాల్సి రావడం జరిగుతోంది. నేను ఇప్పటికే వందలాది సభ్యులకు సలహాలు, సూచనలు ఇచ్చాను. అందరూ సంతోషంతో సూచనలు స్వీకరించి అమలుచేశారు. కొందరు మరీ నా చర్చాపేజీలో అడిగి సలహాలు స్వీకరించారు. నా సూచనలను ధిక్కరించి, నాపై బురదజల్లిన సభ్యులు అరచేతిపై లెక్కించవచ్చు. అది అందరికీ తెలుసు.
నేను ఈ స్థితి, పరిస్థితులలో మీ మాట నేను వినను. మీ సలహాలు నాకు ఇప్పుడు ఇవ్వవద్దు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
19) చివరగా, ఇకపై నేను చర్చలో పాల్గొనని రాసిననూ ఆ తర్వాత వరుసగా రెండు రోజులు నాపై వివాదాస్పద వ్యాఖ్యలు రాసి నాకు రెచ్చగొట్టినది ఎవరు? అసలు ఈ చర్చే రచ్చబండలో కావాలని తీసినది కాదా? చర్చాపేజీలో ఎప్పటికప్పుడు సమాధానాలు ఇస్తున్ననూ మళ్ళీ ఇక్కడ లాగి నేను చెప్పని దానికి అబద్దం చెప్పి నాకు రెచ్చగొట్టడం చూస్తే ఇది ఉద్దేశ్యపూర్వకంగా చేసినట్లుగా అనుమానం ఎవరికైనా వస్తుంది. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 17:12, 9 జూలై 2011 (UTC)
ఒకసారి మీ జవాబులు అన్నీ వేరే వాళ్ళతో చదివించండి. మీవి అనవసర వ్యాఖ్యానాలే ఎక్కువగా ఉన్నాయి. అనుమానం వస్తే మనస్థత్వాలు అర్ధము అవుతాయి.
(1) నుండి (19) వాటికి జవాబులు
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 18:36, 9 జూలై 2011 (UTC)
పైన జరిగిన చర్చ గమనించి నా అభిప్రాయము చెప్తున్నాను. వీకీపీడియా అన్నది సమష్టి కృషి ఫలితంగా అభివృద్ధి చెండుతున్న విజ్ఞానఖని. దీనిలో పని చేస్తున్న సభ్యులు ఒకరికి ఒకరు సూచనలు అందించడము అలవాటే. సభ్యుల చర్చా పేజీలను చూస్తే అది అర్ధము ఔతుంది. న్యాయమైన సూచనలను అనుమతిస్తూ వాటిని అనుసరించి పాటించినప్పుడే మెరుగైన సేవలను అందించడానికి వీలు పడుతుంది. వీకీపీడియాలో నిర్వాహకులే కాని ఎవరూ ఒకరి మీద ఒకరు అధికారులు కాదు. అది అందరికీ తెలిసిన విషయమే. కనుక ఇక్కడ సంయమనము పాటిస్తూ పని చేయడము అవసరము.--t.sujatha 18:59, 11 జూలై 2011 (UTC)
==
ముందు అధికారులు సంయమనము పాటించాలి. అందరూ సభ్యులు మాత్రమే అనుకుంటే ఒకరు మరొకరుకు (అందరికీ) నచ్చిన విధముగా అందరూ ఎలా చెప్పగలరు ? అలా అయితే మనదేశమే ఈ స్థితిలో ఉండేది కాదు. ఆలోచించండి. అందరూ ఒకేలా సూచనలు దీనిలో పని చేస్తున్న సభ్యులకు అందించడము ఎంత వరకు ఇవ్వగలరు అంటారు ? ఎదుటివారి మనసును అర్ధం చేసుకొని, ఆలోచించి సూచన చేయాలి. సూచనలు ఎదుటివారి మనసును నొప్పించక, చెప్పే విధానముగా చెప్పాలి. వీకీపీడియా నియమ నిబందనలు పాటించము అన్నవారికి ఇక్కడ స్థానము ఊండదు కదా! మరి యెందుకు రచ్చ ఆవేశ చర్చలు. ఎవరికి ఎవరమో, ఎంతకాలమో,ఇక్కడ. అంత మాత్రము దానికి ఇంత జ్ఞానాన్ని అధికారములో ఉన్నవారు సభ్యులకు ఇవ్వనవసరము లేదు. అందుకనేమో కొత్తవారు రావడానికి భయపడుతున్నారు. ఆ పంథా నా దృష్టిలో మంచిది కాదు. సూచనలు చేసే ఒకరు నాకు నచ్చరు, వేరొకరు చెబుతారు, అంత మాత్రము చేత, అధికారి మాత్రము వికీ సేవకుడు, సభ్యుడు మాత్రము ద్రోహి అని ఎలా నిర్ణయించ గలము. నా మనస్థత్వం, నా పదాలు అందరికీ ఎలా నచ్చుతుంది? తప్పకుండా నచ్చక పోవచ్చు. అంత మాత్రము చేత నేను బాధ పడనవసరము లేదు. నా విషయానికి వస్తే, నాకు ప్రతి విషయములో కొత్త, కొత్తలో సలహాలు ఇచ్చేవారు మనిషి, మనసుకి నచ్చిన విధముగా ఉంటే ముందుకు కలసి వెళ్ళతాము, లేదా మనస్థత్వాలు అర్ధం అయ్యాక అలోచిస్తాము, అంతే. అంతే కాని పాఠాలు ఇప్పుడు, ఇక్కడ ఈ వయసులో ( పదవీ విరమణ చేసిన కేంద్ర ప్రభుత్వ ఉద్యోగిగా) ఎంతో కొంత సేవా భావము తో మాలాంటి వారికి ఉన్న కొద్ది పాటి జ్ఞానముతో వ్రాయడానికి వచ్చాము కాని వికీ కి ఎందుకు పనికిరాని అనవసర విషయాలు చెప్పించుకోవడానికి, కాల వ్యయము చేసుకోవడానికి కాదు అని గ్రహించ గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 02:14, 12 జూలై 2011 (UTC)
సూచన: సుజాత గారు,
మీరు మాత్రము ప్రస్తుత రావు గారి మనస్థత్వం' తో నాకు విక్షనరీ లో మాత్రము అటువంటి పాఠాలు దయచేసి చెప్పకండి. విక్షనరీ నియమ నిబందనలు ఎవరైనా అతిక్రమిస్తే, లింకులు ఇవ్వండి, చదువుకుంటారు. మీరు నాకు అందించే వ్యక్తి గత సూచనలు, మీతో నాకు ఇబ్బంది లేదు. అర్ధం చేసుకోవడము చాలా వరకు ఎటువంటి ఇబ్బంది లేదు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 02:21, 12 జూలై 2011 (UTC)
సంఖ్యానుగుణ వ్యాసములు
సంఖ్యానుగుణ వ్యాసములు మూసలో వివరములు 20 వాటి వరకు ఉన్నాయి. అందులోనే ఇంకా సంఖ్యలను (అనగా 21 నుండి )పెంచ వచ్చునా ?
షోడశకన్యలు అని మనకు లేవని ఇది వరకు తెలియ జేశాను. మరి సంఖ్యానుగుణ వ్యాసములులో ఉన్న ఆ షోడశకన్యలు పదము తీసివేయ వచ్చునా ?
తెలుప గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 14:26, 6 జూలై 2011 (UTC)
మీరు 21, 22, 23..... గురిన్ఛి కూడా వ్యాసాలు భెషుగ్గా మొదలుపెట్టవచ్చు.
షోడశకన్యల గురిన్ఛి మీరు ఆ వ్యాస పుఠలోనే ఛర్ఛంఛగలరు. Chavakiran 06:45, 7 జూలై 2011 (UTC)
రైల్వే స్టేషన్లు
రావు గారు,
కృష్ణా జిల్లాలోని రైల్వే స్టేషన్లు అనే వర్గం, కర్నూలు జిల్లాలోని రైల్వే స్టేషన్లు అనే వర్గం, తొలగించారు. ఉదా:కు రామవరప్పాడు అనే రైల్వే స్టేషన్ కృష్ణా జిల్లాలోని రైల్వే స్టేషన్లు జాబితాలోనే చేర్చాలి. మరి మీ తెవికీ' సలహా చెప్పండి.
రామవరప్పాడు రైల్వే స్టేషన్ అనే పేరుతో పుటను తయారు చేయాలా ? (అంతకు ముందు కృష్ణా జిల్లాలోని గ్రామాలు జాబితాలో రామవరప్పాడు ఉంది)
కృష్ణా జిల్లాలోని రైల్వే స్టేషన్లు జాబితా అవసరము లేదా ?
ఈ విషయములో తెవికీ నియమ నిబందనలు తెలుసుకోవాలని ఉంది.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 03:07, 7 జూలై 2011 (UTC)
ఇదివరకే ఉన్న వర్గాలకు కొద్ది పేరుమార్పులతో మీరు మళ్ళీ సృష్టించారు. అలాంటి వర్గాలను మాత్రమే నేను తొలిగించాను. వర్గం:కృష్ణా జిల్లా రైల్వేస్టేషన్లు, వర్గం:కర్నూలు జిల్లా రైల్వేస్టేషన్లు నాలుగేళ్ళ క్రితం సృష్టించబడి ఇదివరకే ఉన్నాయి. కాబట్టి వ్యాసాలలో కూడా మళ్ళీ కొత్తపేరుతో సృష్టించిన వర్గాలు కాకుండా ఉన్న వర్గాలు ఇచ్చేస్తే సరిపోతుంది. రామవరప్పాడు గ్రామవ్యాసంలో వర్గం చేర్చాను చూడండి. ఇదే విషయం రెండు వారాల క్రితం మీ చర్చాపేజీలో కూడా తెలియజేశాను. ఆ లింకులో మొత్తం 23 జిల్లాలకు సంబంధించిన రైల్వేస్టేషన్ వర్గాలున్నాయి. అలాగే నిర్వహణలో భాగంగా వర్గం పేరులో ఆంగ్ల అక్షరాలున్నవి కూడా తొలిగించాను. గ్రామ వ్యాసం పరిపూర్ణంగా ఉండి, ఆ గ్రామ రైల్వేస్టేషన్ గురించి తగినంత సమాచారం లభిస్తే ప్రత్యేకంగా ప్రత్యేకంగా రైల్వేస్టేషన్పై వ్యాసం వ్రాయవచ్చు. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 19:24, 7 జూలై 2011 (UTC)
షోడశకన్యలు
షోడశకన్యలు అని మనకు లేవని ఇది వరకు చాలా కాలము క్రితం తెలియ జేశాను. మరి సంఖ్యానుగుణ వ్యాసములులో ఉన్న ఆ షోడశకన్యలు పదము తీసివేయ వచ్చునా ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 07:20, 7 జూలై 2011 (UTC)
సముదాయపందిరి లో తొలగించాను. మిగతా చోట తొలగించండి. -- అర్జున 16:42, 9 జూలై 2011 (UTC)
మూసలో కూడా అదే రోజు షోడశకన్యలు తీసివేశాను, అవసరము వస్తే తిరిగి పెడదాము.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 10:38, 11 జూలై 2011 (UTC)
అనవసర పుటలు
మాకుగా మేము సృష్టించిన అనవసర పుటలు, మాకుగా మేమే (అంటే ఎవరికి వారే), (ఎవరు సృష్టించినది వారే) తొలగించుకునే విధము ఉంటే, విధానము తెలియజేయ గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 10:38, 11 జూలై 2011 (UTC)
లేదండీ. పుటలను నిర్వాహకులు మాత్రమే తొలగించగలరు. ఆ విషయాన్ని తెలియజేయడానికి పుటలలో {{తొలగించు}} అన్న మూసను ఉపయోగించవచ్చు. — వీవెన్ 17:20, 11 జూలై 2011 (UTC)
వ్యాస భాగాలు
వ్యాసాలలోని కొన్ని వాక్యములు, భాగములు చర్చ, కారణము తెలియకుండా, ఎందుకు తొలగిస్తున్నారో తెలుపకుండా, ఏ విధమైన సమాచారము పొందు పరచ కుండా తొలగిస్తున్నారు. ఇది ఎంత వరకు సమంజసము ? తొలగించినవారు కాని మరి యెవరైనా తెలిసిన వారు కాని చర్చించ గలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 13:00, 13 జూలై 2011 (UTC)
మీరు ఉదాహరణ ఇచ్చినట్లయితే మెరుగైన సమాధానం ఇవ్వటం వీలవుతుంది. చిన్నమార్పులు కానట్లయితే సాధారణంగా సవరణకు కారణం సారాంశంలో క్లుప్తంగా రాయటం మామూలు పద్ధతి. పొరపాటున అప్పుడప్పుడు ఎవరైనా మర్చిపోతే వారి దృష్టికి తీసుకువెళితే వారు ముందు ముందు జాగ్రత్త గా పనిచేయటానికి వీలవుతుంది.--అర్జున 16:19, 13 జూలై 2011 (UTC)
ఇది చూడండి. ఇలాంటివి కొన్ని ఇస్తాను. చరిత్రలో ఉన్న విషయాలను, ఎవరికీ మనసుకి బాధ కలగని రీతిలో భాషను ఉపయోగించి, తప్పకుండా, పొందు పరచాలి. ఇలాంటివి మీకు లింకులు ఇస్తాను. జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 04:43, 14 జూలై 2011 (UTC)
తొలగించిన వాక్యాలకు ఏ విధమైన సారాంశం ఉందని నేను అనుకోను. వాక్య నిర్మాణమే అసంబద్ధంగా ఉంది. తొలగించే ముందు పలుమార్లు నేను ఆ వాక్యములను చదవటం జరిగింది. ఒక్కసారి కూడా వాటినుంచి ఏమి తెలియబడుతుందో అర్థం కాలేదు. చూస్తే అవి యంత్రముచే అనువదించబడినట్లుగా ఉన్నాయి. అలాంటి వాటిని తొలగించటానికి చర్చ అవసరం లేదని నా భావన. పైగా వాటిని తొలగిస్తే ఎవరి మనసు బాధ పడుతుందో కూడా నాకు అర్థం కాలేదు. తొలగించబడిన వాక్యాల అర్థం మీకు తెలిస్తే చెప్పండి నేను వాటిని మల్లీ చేర్చగలను. - శ్రీహరి (శ్రీహరి)
నేను గమనించిందేమంటే అర్థవంతంకాకపోవట, మూలాలు పొందు పరచకపోవటం వలన తొలగించబడినవనుకున్నాను. రచ్చబండ కన్నా వ్యాసం చర్చా పేజీలలో చర్చించటం మంచిది. -- అర్జున 09:23, 14 జూలై 2011 (UTC)
తొలగింపు సమాచారాన్ని వ్యాసం చర్చా పేజీలో పొందుపరచడం జరిగింది. ఇక ఈ చర్చను ఇంతటితో ముగించవచ్చని అనుకుంటున్నాను - శ్రీహరి
=తొలగించిన భాగాలు
శ్రీహరి గారు,
తొలగించిన భాగాలు
భారతదేశం యొక్క ఒక ఫౌండేషన్ ద్వారా ముఖ్య ఉపనిషత్తులలోని తత్వశాస్త్రం (వేదాంత), కోసం తరువాత అనేక పాఠశాలలు రావడము, వాటిలో, రెండు ప్రభావవంతమైన హిందూమతం లోని ఏకత్వం యొక్క పాఠశాలలు.
"ఈ ఉపనిషత్తు ఆలోచనలు అద్వైత ఏకత్వం అభివృద్ధి ఉన్నాయి. వ్యక్తిగత ఆ పాత్రలు బ్రాహ్మణ యొక్క ఏకత్వాన్నిఅర్ధం తీసుకోవాలి వస్తుంది.
==కొత్త ఉపనిషత్తులు==
కొత్త ఉపనిషత్తులు ముఖ్య ఉపనిషత్తుల్లోని అనుకరణలకు అయి ఉండాలి అని (ఆంటారు) పిలుస్తారు. మొదటిగా వ్రాసిన ఉపనిషత్తు ఆంగ్ల అనువాదం హెన్రీ థామస్ కొలెబ్రూక్ నుండి 1805 లో వచ్చింది.
అర్థము
ఈ భాగాలు తొలగించిన వాటిలో వున్నాయి. విషయాన్ని సూటిగా, స్పష్టంగా చెప్పకుండా తెలియజేసినది. సాధారణంగా ఉపనిషత్తులు గురించి జ్ఞాన సంబంధము ఉన్నవారికి తేలికగా అర్ధము అవుతుంది.
దాని అర్ధము:- తదుపరి భారత దేశములో ఒక హిందూ మత సంస్థ, ఉపనిషత్తులలోని తత్వశాస్త్రం నకు సంబంధించి, అనేక పాఠశాలలు నెలకొల్పడము జరిగింది. వాటిలో రెండు ప్రభావవంతమైన పాఠశాలలు, హిందూమతం లోని ఏకత్వం భావనకు సంబందించినవి.
ఈ ఉపనిషత్తు లోని అలోచనలు(విషయాలు) అద్వైతం, ఏకత్వం, అభివృద్ధి, ఉన్నాయి. అందులోని వ్యక్తి గత పాత్రలు బ్రాహ్మణ యొక్క ఏకత్వాన్ని మాత్రమే అర్ధంగా తీసుకోవలసి ఉంటుంది.
==కొత్త ఉపనిషత్తులు==
కొత్త (ప్రస్తుత ఉపనిషత్తులు) ముఖ్య ఉపనిషత్తుల్లోని అనుకరణలు అయి ఉండాలి అని వాదన ఉంది.
మొదటిగా వ్రాసిన కొత్త (ప్రస్తుత ఉపనిషత్తు) ఉపనిషత్తు యొక్క ఆంగ్ల అనువాదం హెన్రీ థామస్ కొలెబ్రూక్ నుండి 1805 లో రచించడము జరిగింది.
ఇది అర్ధము-------------
మీకు అర్ధము కాకపోతే చర్చలో వ్రాస్తే ఎవరైనా తిరిగి సరి చేస్తారుగా! మీరు వేద పండితులు అయితే చర్చ అనవసరమే నాకు. ఇక్కడ మనసులు బాధ పడేది ఏముంది ? అంటే నా ఉద్దేశ్యములో మనము భారతీయులము కదా ! ఎవరూ ఎవరి మాట అంత తేలికగా వినరు. అ సందర్భ ప్రస్తావనలా ఉంది. అని మీకు అనిపించినా చివరికి తేలేది అదే. ఇక్కడ చరిత్ర తెలియజేస్తున్నప్పుడు తటస్థంగా ఉండాలనేది నా భావన, అంటే ప్రజలకు మనసుకు నొప్పి కలగకుండా తెలియజేయాలి అని ఉద్దేశ్యం. విషయాన్ని పక్క దారిలోకి తీసుకుని వెళ్ళకండి. ఈ విధముగా ఎవరికి వారే అనవసరము అనుకొని తొలగిస్తే అనేక వ్యాసాలలో చాలా వాటిని తొలగించాల్సి ఉంటుంది. అలా చేయటము బావుంటుందా ? మనకు ఏమనిపించినా చర్చలో వ్రాస్తే సరిపోతుందిగా! విషయాన్ని సూటిగా చర్చ చేయండి.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 13:03, 14 జూలై 2011 (UTC)
వాక్యాలను సరళంగా వివరించినందుకు ధన్యవాదములు. వాటిని అలానే వ్యాసంలో చేరుస్తాను. చివరగా ఒక సూచన. "ప్రజలకు మనసుకు నొప్పి కలగకుండా తెలియజేయాలి" అన్న మీ సున్నితత్వం, మరియు "మీరు వేద పండితులు అయితే చర్చ అనవసరమే నాకు", "మనము భారతీయులము కదా..ఎవరి మాటా వినం" మొదలైన వాక్యాల్లోని మీ వెటకార ధోరణి పరస్పర విరుద్ధంగా ఉన్నాయని గమనించగలరు - శ్రీహరి
==
మీరు చాలా తప్పుగా అర్ధం చేసుకున్నారు.
మీకు వేద విజ్ఞానములో ప్రవేశము ఉంటే, నేను చాలా చిన్న వాడిని, మన్నించగలరు అని అర్ధము.
ప్రతి చరిత్ర తెలియ చెప్పే విషయములలో అనవసర అందోళనలు, అపోహలు, ఇలాంటివి వచ్చే అవకాశము ఎంతో ఉన్నది అని నా భావన.
మనము ప్రజాస్వామ్యము లో ఉన్నాము అని అర్ధము. అందరి అలోచనలు, లాంటివి తప్పకుండా తీసుకుంటాము. అంటే రాచరికము, నియంతృత్వము, ఇత్యాది కావు అని అర్ధము వచ్చే విధముగా గ్రహించ గలరు.
నా జ్ఞానము కూడా ఒక జ్ఞానమేనా ? నేను చాలా చిన్నవాడిని, నేర్చుకోవాలసినది ఎంతో ఉన్నది. పూర్వము ఈ మన దేశములో ప్రస్తుతమున్న జ్ఞాన సంపద ప్రతి ఒక్కరూగా అనగా ఒక్కరే ఔపోసన పట్టేవారు. అంతటి మేధా శక్తి, ప్రాణ శక్తి, మనకు లేవు. వెటకార ధోరణిగా, అవివేకిగా మాట్లాడుట అది ఎంత మాత్రము ఎవరికీ తగదు. నా మటుకు, చేతనయితే సలహా, సూచన, సహకారము, మొదలగునవి చేస్తాను. అంతేకాని వ్యక్తిగత దూషణలు ఎవరమూ చేయకూడదు. ముందు ముందు ఇటువంటివి రాకుండా జాగ్రత్త పడదాము.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 15:00, 14 జూలై 2011 (UTC)
వాడుకరి:Interwicket అంటే ఎవరు ?
Sir,
Namasthe,
Kindly arrange to clarify whether your profile is preferred for bot or ordinary member as I have seen in తెలుగువిక్షనరీ monthly grades list that you are in No.1 place for the month of June,2011 and it is very surprising as previously your name was listed in bots list.. I am not criticizing or disheartening/discouraging the great services rendered by our beloved member. If it is wrong please excuse me for my ignorance,uneducatedness, illiteracy and poor knowledge.
నాకు లభించిన సమాచారము:
Owner/runner: User:Robert Ullmann
Robert Ullmann passed away on March 19, 2011 in Massachusetts General Hospital in Boston at an age of 50 years.
ఈ విషయము నిజము కాకూడదు అని భావిస్తున్నాను. ఎందుకో ఏదో మూలన ఉన్న తెలిసీ తెలియని ఒక బాధతో వివరములు పొందుపరచాను. నాకు అంతర్జాలము గురించి అంతగా అవగాహన లేదు.
వాడుకరి:Interwicket మరియు User:Robert Ullmann అనే వాడుకరులు గురించి తెలిసిన వారు తెలియజేయగలరు.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 05:57, 31 జూలై 2011 (UTC)
ప్రసాద్ గారు.. ఏమిటి మీ బాధ...???
ఎమి లేదనే అనుకున్టా
ఎవరు ఈ పై రెండు వాక్యములు వ్రాశినది ?
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 15:20, 9 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
paricayam
భావ దారిద్ర్యానికి పరాకాష్ఠ
అయ్యా, ఇటీవల కొన్ని వ్యాసాలు చదివాను... అన్నీ కూడా ఆ పుస్తకం.. ఈ పుస్తకంలో నుంచి తీసుకొని ఏకంగా టైప్ చేసి పారేసిన కథనాలు. ఈ పెద్ద మనుషులకు కాపీరైట్ యాక్టు ఒకటి ఉందన్న విషయం తెలుసా? వ్యక్తులు పేర్లు ప్రస్తావించను( ఈ విధంగా చేస్తున్న వ్యక్తులు మనకు బాగానే తెలుసు) ఇలా కథనాల సంఖ్యను పెంచుకోవాలన్న ఒక పిచ్చి తాపత్రయంతో ఈ విధంగా చేయడం ఎంత వరకు సబబు? ఒక్కవిషయం గుర్తుంచుకోండి. గ్రంధ చౌర్యం అనేది మనప్రాణాలను అమ్ముకున్న నీచమైనదన్న విషయాన్ని గుర్తుంచుకోండి. వీకీ నిర్వాహకులనిపించుకునే కొంత మంది ప్రముఖులున్నారు. మరి వీరు ఏమి చేస్తుంటారో..? తెలుగు వీకీపీడియా నిజమైన వికాసానికి వీరు చేసినది ఏమిటి? మీరు ఏ అర్హతతో వీకీ నిర్వాహకులయ్యారు? ఒక్క సారి ఆత్మవిమర్శ చేసుకుంటారా?
మీ పేరు ప్రస్తావించ లేదు. తెలియ జేయండి.
కాపీరైట్ యాక్టు కింద ఉన్న వాటి వ్యాసాలు టైప్ చేసి పారేసిన కథనాలు మీకు తెలిసిన, పరిశీలించిన వాటి పేర్లు ఖచ్చితంగా పొందు పరచండి.
మీ బాధను మాలాంటి వారము ఎందరో ఉన్నాము కాబట్టి మీతో పంచుకునే అవకాశాము కల్పించండి.
మీకు తెలిసిన గ్రంధ చౌర్యం చేసిన వారి పేర్లు, వారు ఏ గ్రంధాలు, ఏ వ్యాసాలలో పాల్గొన్నారో వివరాలు తెలియజేయండి, లేకపోతే మీ వాదనకు అర్థం (అర్ధం) ఉండదు.
వెంటనే ప్రతిస్పందించుతూ, ప్రతిఘాతము చేస్తారో, మరేదయినా మరికొంత వివరాలు ఇస్తారో వేచి చూద్దామా !
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 07:35, 4 ఆగష్టు 2011 (UTC)
గ్రంధచౌర్యం జరిగిన వ్యాసాల్ని వాటి మూలాల్ని తెలియజేస్తే, నిర్ధారణ చేసి, నిరూపణ ఐతే వారిపై చర్య తీసుకోవడానికి వీలు కలుగుతుంది.Rajasekhar1961 09:20, 4 ఆగష్టు 2011 (UTC)
వికీపీడియా వ్యాసాలనేవి స్వంతకథనాలు కావు. ఇక్కడుండే ప్రతి ముఖ్యవిషయం ఏదో ఒక గ్రంథంలో ఉండినదే. అలా ముఖ్యమైన విషయాలు తీసుకుంటూ, దానికి రెఫరెన్సులు పెడుతూ వ్యాసాన్ని కొనసాగిస్తారు. అలాగని పేరాలకు పేరాలు లేదా మొత్తం వ్యాసం ఏదో ఒక గ్రంథం నుంచి తీసుకోవడం అస్సలు చేయరు. అలాచేసినట్లు ఎవరైనా తెవికీ దృష్టికి తీసుకొని వస్తే ఖచ్చితంగా ఆ వ్యాసాలు లేదా ఆ వ్యాసభాగాలు వెంటనే తొలిగించబడతాయి. వికీపీడియా కాపీరైట్ హక్కులకు ప్రథమ ప్రాధాన్యత ఇస్తుంది. ఎవరెవరు సభ్యులు తెవికీలో సమాచారాన్ని ఎక్కడెక్కడి నుంచి సేకరిస్తున్నారో తెలుసుకోవడం ఎవరికైనా అసాధ్యమే, కాబట్టి మీరు తెవికీలో కాపీహక్కుల ఉల్లంఘన జరిగిన వ్యాసాలు, ఆ సమాచారం ఎక్కడి నుంచి తీసుకోబడినదనే విషయం ఆధారంతో సహా తెలియజేస్తే బాగుంటుంది. ఒకవేళ ఆ గ్రంథాలకు కాపీహక్కుల కాలం ముగిసిపోయినా లేదా రచయిత అనుమతి ఉన్నా అలాంటివాటికి ఏమీ చేయజాలము. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 19:16, 4 ఆగష్టు 2011 (UTC)
King123 గారూ, వికీ లో వ్యాసాల్లో తప్ప ఎక్కడైనా రాసేటప్పుడు సంతకం చేయడం సాంప్రదాయం. మీరలా చేయకపోతే ఎవరు మాట్లాడుతున్నదీ మాకు ఎలా తెలుస్తుంది?. మీ మనసులో ఏదో పెట్టుకుని ఆ వ్యక్తుల పేర్లు ఇక్కడ ప్రస్తావించను అంటే కుదరదు. మాకు ఆ రచయితలు ఎవరో, ఏ పుస్తకాలు యధాతథంగా కాపీ చేస్తున్నారో తెలిస్తే దానికి తగ్గ చర్యలు తీసుకునే వీలుంటుంది. ఒక్క విషయం గుర్తు పెట్టుకోండి. ఇక్కడ వికీలో సభ్యులైనా, నిర్వాహకులైనా ఖాళీ సమయాల్లో ఇక్కడ పని చేసే వారే. మామూలు సమయంలో వారి వారి వృత్తులు వారికున్నాయి. వారిని పనిచేయమని బలవంతం చేయలేం. ఇది స్వచ్ఛందంగా జరుగుతున్న కార్యక్రమం. రవిచంద్ర (చర్చ) 16:16, 14 ఆగష్టు 2011 (UTC)
తెవికీలోని వ్యాసాలు పత్రికలు మరియు బ్లాగులు చాలా వరకు కాపీచేశాయి. అది చదివినవారు ఇక్కడి వ్యాసాలు చదివి మనమే ఆ వ్యాసాలను కాపీ చేశామనే అనుకోవచ్చు. తెవికీ నుంచి ఈ వ్యాసం తీసుకున్నామని రాయడానికి తెలుగు పత్రికలకు అలవాటులేదు. నేను ఇదే విషయం చాలా సార్లు చర్చాపేజీలలో రాశాను. King123 ఆవేదనకు కారణం ఇలా అయ్యిఉండవచ్చు కూడా. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 17:47, 14 ఆగష్టు 2011 (UTC)
I am lost!!!
Hi everybody! I am Sasidhar. I used to be an active contributor in creating pages on telugu wikipedia. I also got the badge of the top 10 contributors in the year 2010. Due to my work, I could not write on telugu wiki recently. And now I got some time. I logged in to telugu wiki and have seen there are some changes. Earlier I used to just check on a box to start writing in telugu. Now I don't find any check box available, instead many other features are available. Can somebody help me how to start type in telugu, so that I can continue my writings? శశి 10:57, 14 ఆగష్టు 2011 (UTC)
శశి గారికి స్వాగతము. ఉభయకుశలోపరి. నేను మీకు తెలియదు, మీరు నాకు తెలియదు. అయినా మనము వికీ స్నేహితులము. మీరు ప్రయోగశాల</i>లో తెలుగులో వ్రాయ వచ్చును. ఆ తదుపరి మీకు తెలిసినదే.
జె.వి.ఆర్.కె.ప్రసాద్ 14:27, 14 ఆగష్టు 2011 (UTC)
వీర శశిధర్ గారు, మీ సమస్య చాలా తేలిక. కీబోర్డు Esc బటన్ నొక్కండి చాలు. మీరు ఫైర్ఫాక్స్ వాడుతున్నట్లయితే అది సరిపోతుంది. IE వాడుతున్నట్లయితే Esc తో పాటు Ctrl+Z కూడా నొక్కండి. ఒకవేళ ఇలా చేసిననూ రాకుంటే ఇతర భాషా వికీలలో కూడా ప్రయత్నించి చూడండి. అక్కాడా ఇదే సమస్య ఎదురైతే మళ్ళీ అడగండి. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 17:37, 14 ఆగష్టు 2011 (UTC)
URL shortener ల వాడుక.
మన తమిళ వికీపీడియన్లు ప్రత్యేక వికీ పేజీకి ఒక యూఆరెల్ షార్టనర్ ను అనుబంధంగా ప్రతి పేజీలో ఉంచారు. ఇలాంటిది తెలుగు లో కూడా చెయ్యవచ్చా?
ఉదాహరణకు తెలుఁగు అన్న వ్యాసానికి బదులుగా అదే పేజీలో అన్న యూఅరెల్ ఇచ్చారు. మీ మీ సూచనలు అందించండి. రహ్మానుద్దీన్ 03:43, 25 ఆగష్టు 2011 (UTC)
పాట లిరిక్స్ మొత్తం వికీలో వ్రాయుట - కాపీ హక్కులు
వికీలో పాటలు మొత్తం వ్రాస్తున్నాం మనం. ఇది కాపీ హక్కుల ఉల్లంఘన క్రిందికి రాదా ? Chavakiran 10:33, 14 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
తెవికీలో వ్రాసినది ఎవరైనా స్వేచ్ఛగా ఉపయోగించుకోవచ్చు కాబట్టి అనుమతి లేకుండా కాపీహక్కుల కాలపరిమితి గడుపు ముగియక ముందే యధాతథంగా తెవికీలో చేర్చకపోవడం మంచిది. అదేవిధంగా భాస్కరనాయుడు గారు వివిధ మేగజైన్ల నుంచి వ్యాసాలు కొద్దిమార్పుతో తెవికీలో చేరుస్తూ చివరన మూలం అని వ్రాస్తున్ననూ ఉల్లంఘన కిందికే వస్తుంది. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 19:23, 14 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
తెలుగు పాటలను వికీలో చేర్చడాన్ని నేను సమర్ధిస్తున్నాను. పాట ఒక్కటే కాకుండా దాని రచయిత, గాయకుడు/గాయకులు, దర్శకులు, నటులు మొదలైన వివరాలతో సహా పాట యొక్క సాహిత్యపరమైన వివరణ తో విపులమైన వ్యాసంగా తయారుచేయాలని నా అభిలాష. కాపీ హక్కులను అతిక్రమించడం క్రిందకి వస్తే మొత్తం పాటలో కొంత భాగాన్ని ఉంచి మిగిలిన భాగాన్ని నిర్వహకులు తొలగించవచ్చునని నా అభిప్రాయం. తెలుగు సినిమాలలో ఎన్నో మంచి సాహిత్య విలువలున్న పాటలు ఉన్నాయి. వీటి మంచి వ్యాసాలుగా తీర్చిదిద్దాలని నాకుంది. ముక్తేశ్వర్ గారు కొన్ని ఇలాంటి మంచి వ్యాసాలు చేస్తే నేను కొన్నింటిని రచించాను. ఈ విషయంలో ఇతర వికీ సభ్యులు, నిర్వహకులు వారి అభిప్రాయాల్ని తెలియజేయగలరు. వీటన్నింటిని తొలగించడం వికీ అభివృద్ధికి మంచిది కాదని నాకు తోస్తుంది.Rajasekhar1961 06:29, 15 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
పూర్తి పాట చేర్చుట ఉల్లంఘనే. విపులమైన వ్యాసం రాయటానికి సృజనాత్మకమైన వ్యాసం కాకుండా ఇతర ప్రచురణలను పేర్కొనాలి అప్పుడే అది అతిక్రమణ క్రిందకు రాదు. నేను మొన్నటిదాక సమాచార ప్రసార శాఖ వారి బొమ్మలు వికీపీడియాలో వాడటం కాపీహక్కులు ఉల్లంఘన కాదనుకునేవాడిని. ఇటీవలే కొంత మంది నిపుణులతో మాట్లాడినపుడు, అది వుల్లంఘనే అనే తెలిసింది. అలా నేను కామన్స్ లో చేర్చిన బొమ్మలన్నీ తొలగించబడతాయనే హెచ్చరికలు నాకు చేరాయి.--అర్జున 10:00, 15 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
వీటి కాపీహక్కులు ఎవరికి చెందుతాయి. రచయితకా లేక సినిమా నిర్మాతకా. ఇతర ప్రచురణలు అంటే ఆయా కవుల పాటల సంకలనాల పుస్తకాలు చేరిస్తే సరిపోతుందా. దయచేసి స్పష్టంగా తెలియజేయండి. నా వద్ద తెలుగు పాటల పుస్తకాలు ఉన్నాయి. వాటి ప్రచురణ వివరాలు వ్యాసాలలో చేరుస్తాను. అది సమ్మతమేనా.Rajasekhar1961 10:17, 15 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
లోని వివరాల ప్రకారం, పాటను ప్రతిఫలంకొరకు రాస్తే, ఆ ప్రతిఫలం ఇచ్చిన వ్యక్తి (నిర్మాత)కి హక్కు చెందుతుందట లేక పోతే పాట రచయిత కు హక్కు వుంటుంది.ఐతే, ఇటీవల హక్కులు రచయితకు కూడావుండవచ్చు. అందుకని మూలాలకోసం మీరు పాటల పుస్తకాలు వాడవచ్చు అంతేతప్ప పాట పూర్తిగా చేర్చటం వుల్లంఘన అవుతుంది. పూర్తి పాట చేర్చటానికి హక్కు దారునుండి అనుమతికోరాలి లేక పాటరచయిత మరణించి 60 సంవత్సరాలు అయినతరువాత ఆరచయిత పాటలను ఎటువంటి అనుమతి లేకుండా వాడుకోవచ్చు. అర్జున 05:11, 16 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
పాటల లిరిక్స్ - కాపీరైట్ లోబడే ఉంటాయి, కాబట్టి వాటిని ఈరోజు కాకుంటే తరువాత ఎప్పుడైనా అయినా తొలగించాలి. కాని తొలగించాల్సింది వ్యాసాలను కాదు. కేవలం పాటను మాత్రమే. అంటే పల్లవి వరకు వ్యాసంలో ఫెయిర్ యూజ్ క్రింద ఉంచి చరణాలు తొలగించి పాట గురించి సాధ్యమైనంత సమాచారం చేరిస్తే బాగుంటుంది. పాట గురించిన సమాచారం పెద్దగా లేకపోతే, సినిమా పేజీలోనే ఆ సినిమాలోని పాటలను వివరిస్తూ ఒక విభాగం ఉంచితే బాగుంటుంది అని నా ఉద్ధేశ్యం. సభ్యులు పరిశీలించగలరు. Chavakiran 08:22, 19 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
చర్చలో పాల్గొన్నవారందరికీ ధన్యవాదాలు. నేను చేయాలనుకుంటున్న మార్పులు. పాట వ్యాసంలో పుస్తకం యొక్క వివరాల్ని మూలాల్లో చేరుస్తాను. మొత్తం పాట లేకుండా పల్లవి మరియు చరణాలలో కొంత ముఖ్యమైన భాగాన్ని మాత్రమే చేరుస్తాను. సాహిత్యపరంగా విలువైన సమాచారాన్ని చేరుస్తాను. వీడియో లింకు ఇవ్వడం తప్పు కాదు కదా. ఈ సవరణలను తొందరగానే పుర్తిచేస్తాను.Rajasekhar1961 08:47, 19 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
ఉదాహరణగా ఈ పాట పేజీ చూడండి. ఆకులో ఆకునై పూవులో పూవునై (పాట)Rajasekhar1961 13:34, 19 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
మార్పులు చేసినందులకు ధన్యవాదాలు. పాట పూర్తి నిడివి ఎన్ని చరణాలోతెలియలేదు. ఉదా: 5 చరణాలైతే, మీరు ఒక చరణం కన్నా ఎక్కువ వుదహరిస్తే, అది హక్కుల వుల్లంఘనగా పరిగణించవచ్చు నాదృష్టిలో. పల్లవి రాస్తే మరియు ఒకచరణంలోని రెండు వాక్యాలు రాస్తేసరిపోతుంది. మీ వివరణ సృజనాత్మకంగా వున్నట్లుంది. అటువంటివాటికి మీరు వికీబుక్స్ లో రాయటం మంచిదేమో పరిశీలించండి. అర్జున 10:12, 25 సెప్టెంబర్ 2011 (UTC)
తెవికీ వ్యాసాలు - పత్రికల కాపీ
తెవికీ వ్యాసాలు ఆయా పత్రికల నుంచి కాపీ చేస్తున్నారనేది ఇటీవలి కాలంలో కొందరు కొత్త సభ్యుల మనకు ఫిర్యాదులు వస్తున్నాయి. కాపీ చేసిన వ్యాసాలను మనం సాధ్యమైనంత వరకు వికీకరించడం కాని, తెవికీ పాలసీలకనుగుణంగా మార్చడం కాని చేస్తున్నాము. కాని తెవికీ వ్యాసాలనే మక్కికి మక్కి చేసిన పత్రికలు, మేగజైన్లు, బ్లాగుల సంగతిని కూడా మనం విస్మరించరాదు. అంతర్జాలంలో అన్ని పత్రికల పరిశీలనలో భాగంగా నేను ఇప్పుడే చూసిన సూర్య పత్రికకు అనుబంధంగా వెలువడుతున్న సూర్యచిత్ర సినిమా వారపత్రిక (తేది 30-09-11) పేజీ 4లో అల్లురామలింగయ్య వ్యాసాన్ని పూర్తిగా తెవికీ వ్యాసాన్నే మక్కికి మక్కిగా కాపీ చేశారు (). కొత్త సభ్యులకు మనమే అచ్చటి నుంచి కాపీ చేశారనే అనుమానం తప్పకుండా వస్తుంది. ఇదే విషయాన్ని నేను ఇదివరకు చాలా సార్లు తెలియజేశాను. తెలుగు పత్రికలు, మేగజైన్లకు "తెవికీ సౌజన్యం" అని ఇవ్వడానికి మనసు ఒప్పనట్లుంది లేదా చిన్నచూపునో. ఇక నా అభిప్రాయమేమంటే ఇలా పత్రికలు తెవికీ నుంచి కాపీ చేసిన విషయాన్ని ఆయా వ్యాసాల (చర్చాపేజీలలో కాదు) పైభాగంలో లేదా దిగువ భాగంలో "ఈ వ్యాసాన్ని ఫలానా పత్రిక వారిచే ఫలానా తేది నాడు కాపీ చేయబడినది" లేదా ఇంకనూ మెరుగైన వాక్యాన్ని చేర్చితే బాగుంటుందని అనుకుంటున్నాను. ఈ విషయంలో ఇతర సభ్యుల అభిప్రాయాలు తెలుసుకోదలచుకున్నాను. సి. చంద్ర కాంత రావు- చర్చ 19:48, 2 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
నేను సూర్య పత్రిక వ్యాసం పూర్తి పాఠం చదవటం వీలుకాలేదు (నా లినక్స్ కంప్యూటర్ వారి వెబ్సైట్ అనుసంధానంలో సమస్య). అయితే మన వ్యాసం లో సరియైన వనరులు ఇవ్వలేదు. అటువంటప్పుడు మన వ్యాసాన్ని నాణ్యతని శంకించాల్సివస్తుంది. వికీపీడియా సమాచారాన్ని గుర్తింపు ఇవ్వకుండా వాడే వారిపై చర్య తీసుకునేముందు, మన వ్యాసాల నాణ్యతని పెంచటం మంచిది.-- అర్జున 22:55, 3 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
నేను ఇండియాలో ఉండడంలేదు. కాని యాదృచ్చికంగా చూస్తేకూడా కొన్ని పత్రికలలో వ్యాసాలు, ఫొటోలు కూడా (నేను స్వయంగా తీసినవి) తెలుగు వికీనుండి మక్కికి మక్కి కాపీ కొట్టినవే. మన జర్నలిజమ్ విలువలు చాలా తక్కువగా ఉన్నాయి గనుక మనం పెద్దగా చేయగలిగిందేమీ లేదు. చంద్రకాంతరావుగారు చెప్పినట్లుగా ఎవరైనా ఇలాంటి విషయాన్ని గమనిస్తే (1) ఆ వ్యాసం చర్చా పేజీలో "ఈ వ్యాసం ఫలాని తేదీనాడు ఫలాని పత్రికవారు కాపీ కొట్టారు" అని మొహమాటం లేకుండా వ్రాయవచ్చును (2) వీలయితే ఆ పత్రికవారికి ఒక ఉత్తరం లేదా మెయిల్ ద్వారా "తెవికీ సౌజన్యంతో" అని వ్రాయమని కోరాలి. --కాసుబాబు 14:29, 5 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
మీ సలహా బాగుంది.--అర్జున 00:41, 6 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
కాసుబాబుగారి సలహా బాగుంది. వికీపీడియా సమాచారము ఎవరైనా ఉచితంగా వాడతగిన సమాచారము కనుక వాడుకున్న వరకు పరవాలేదు. కాని జర్నలిస్టులు స్వంతంగా సమాచారము సేకరించి ప్రచురించడమే సరి అయిన పద్దతి. కాని మన జర్నలిజం ఆస్థితికి ఇంకా ఎదగ లేదు. ఏది ఏమైనా "తెవికీ" సౌజన్యంతో వ్రాయమని సూచించడం మంచిపని.--t.sujatha 13:26, 15 నవంబర్ 2011 (UTC)
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హలొ,
వికీపీడియా ఫౌండేషన్ వికీపీడియా వాడకాన్ని గురించిన విధివిదానాలను గురించి చర్చలు నిర్వహిస్తుంది. చర్చలను మీరు ఇక్కడ చర్చ:వాడకం విధివిధానాలు. చూడండి. ఈ చర్చలలో పాల్గొనడానికి అందరూ ఆహ్వానితులే. కొత్త విధివిధానాల వ్యాసం ఉపయోగ విధివిధానాలుఇంకా రూపుదాల్చలేదు కనుక వాటి అనువాదాలను మేము అందించలేక పోతున్నాము. స్వయంసేవకులను ఈ అనువాదాలకొరకు ఆహ్వానిస్తున్నాము. జర్మన్ స్వయంసేవకులు దీనిని పూర్తి చేసారు :m: ఉపయోగవిధివిధానాలు/De. అయినా మేము మిమ్మల్ని పైన ఉన్న అనధికార అనువాద సూచనను గమనించవలసినదిగా కోరుతున్నాము. అది కాలము చెల్లినది ఆంగ్లములో దీనిలో మార్పులు జరిగాయి. అనువాద విజ్ఞప్తిని ఇక్కడ m:అనువాద విజ్ఞప్తులు -- అనువాద విజ్ఞప్తి 01:19, 27 అక్టోబర్ 2011 (UTC)
Tamil Wiki Media Contest
Greetings from the Tamil Wiki Community,
We are orgainising a Media Contest for images/videos/audios related to Tamil, Tamils and Tamil Nadu. Since we share a common heritage we believe our Telugu comrades will have a lot of files that is relevant to the contest criteria.
Prize Money: Total prize money for the contest is 850 US$. First prize is 200 US $ and there a total of 9 prizes including three continuous contribution prizes. Certificates will be awarded to prize winners
Uplaoad: Files have to be uploaded to Wikimedia commons through the Contest portal site using a special version of the commons upload wizard. Or if you choose to upload directly to commons, the category "TamilWiki Media Contest" has to be added to the files.
Dates: Nov 15, 2011 - Feb 29, 2012
Contest portal: Portal
Themes: Anything related to Tamil and Tamils (more detailed rules)
All files should be own work. Copyright expired and PD/CC images of others are not eligible.
We invite you all to participate in the contest. Please spread the word among your friends and share our Facebook page:
--Sodabottle 18:36, 21 నవంబర్ 2011 (UTC)
తెలుగు వికీపీడియా తోడ్పాటుదార్ల వారపు చర్చావేదిక
నమస్కారం
ప్రతి శనివారం సాయంత్రం 8 నుండి 9 వరకూ ఐఆర్సీ లో వికీపీడియన్ల యాంత్రిక సమావేశం ప్రతిపాదిస్తున్నాను. సమయంలో మార్పులకు ఏమయినా సలహాలు/సూచనలు ఉంటే తెలుపగలరు. రహ్మానుద్దీన్ 13:27, 11 డిసెంబర్ 2011 (UTC)
వేరే ప్రతిపాదనలు రాలేదు కాబట్టి ఇది ఖరారు చేసి మెయిలింగ్ లిస్టుకి వివరాలతో జాబు మరియు వికీపీడియాలో సమావేశాలకు సంబంధించిన పేజీలో వార్త రాయండి. -- అర్జున 06:31, 15 డిసెంబర్ 2011 (UTC)
సమావేశం వివరాలకు తదుపరి సమావేశ కార్యప్రణాళికకు వికీపీడియా:సమావేశం/వెబ్ ఛాట్ చూడండి. -- అర్జున 09:08, 18 డిసెంబర్ 2011 (UTC)
Open Call for 2012 Wikimedia Fellowship Applicants
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Do you want to help attract new contributors to Wikimedia projects?
Do you want to improve retention of our existing editors?
Do you want to strengthen our community by diversifying its base and increasing the overall number of excellent participants around the world?
The Wikimedia Foundation is seeking Community Fellows and project ideas for the Community Fellowship Program. A Fellowship is a temporary position at the Wikimedia Foundation in order to work on a specific project or set of projects. Submissions for 2012 are encouraged to focus on the theme of improving editor retention and increasing participation in Wikimedia projects. If interested, please submit a project idea or apply to be a fellow by January 15, 2012. Please visit for more information.
Thanks!
--Siko Bouterse, Head of Community Fellowships,
Wikimedia Foundation 03:07, 22 డిసెంబర్ 2011 (UTC)
Distributed via Global message delivery. (Wrong page? Fix here.)
| https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%B5%E0%B0%BF%E0%B0%95%E0%B1%80%E0%B0%AA%E0%B1%80%E0%B0%A1%E0%B0%BF%E0%B0%AF%E0%B0%BE%3A%E0%B0%B0%E0%B0%9A%E0%B1%8D%E0%B0%9A%E0%B0%AC%E0%B0%82%E0%B0%A1/%E0%B0%AA%E0%B0%BE%E0%B0%A4%20%E0%B0%9A%E0%B0%B0%E0%B1%8D%E0%B0%9A%2012 |
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كانت معركة حلب بمثابة مواجهة عسكرية كبرى في حلب، أكبر مدينة في سوريا، بين المعارضة السورية (بما في ذلك الجيش السوري الحر وجماعات سنية أخرى إلى حد كبير مثل الجبهة الشامية وجبهة النصرة التابعة لتنظيم القاعدة)،[49] ضد حكومة الرئيس بشار الأسد، بدعم من حزب الله والميليشيات الشيعية وروسيا،[50][51] وضد وحدات حماية الشعب الكردية. بدأت المعركة في 19 يوليو 2012، وكانت جزءا من الحرب الأهلية السورية الحالية.[52] وانتهت حالة الجمود التي ظلت قائمة منذ أربع سنوات في يوليو 2016، عندما أغلقت قوات الحكومة السورية آخر خط إمداد للمتمردين في حلب بدعم من الضربات الجوية الروسية. وردا على ذلك، شنت القوات المتمردة هجمات مضادة غير ناجحة في سبتمبر وأكتوبر وفشلت في كسر الحصار؛ وفي نوفمبر، شرعت القوات الحكومية في حملة حاسمة أسفرت عن استعادة السيطرة على جميع مناطق حلب بحلول ديسمبر 2016.[53] وينظر إلى انتصار الحكومة السورية على نطاق واسع على أنه نقطة تحول محتملة في الحرب الأهلية في سوريا.[54][55]
الدمار الواسع النطاق للمعركة وأهميتها قاد المقاتلين إلى تسميتها "أم المعارك"[56] أو "ستالينغراد سوريا".[57] واتسمت المعركة بانتشار العنف ضد المدنيين،[58] ومزاعم استهداف متكرر للمستشفيات والمدارس (معظمها من قبل القوات الجوية الموالية للحكومة[59][60] وبدرجة أقل من قبل المتمردين)،[61][62][63] والقصف الجوي العشوائي والقصف الجوي على المناطق المدنية.[51][64][65][66] واتسمت أيضا بعجز المجتمع الدولي عن حل النزاع سلميا. واقترح المبعوث الخاص للأمم المتحدة إلى سوريا إنهاء المعركة من خلال منح الاستقلال الذاتي لشرق حلب، لكن الحكومة السورية رفضت الفكرة.[67] وشردت مئات الآلاف من السكان بسبب القتال، وتعطلت الجهود الرامية إلى تقديم المساعدات إلى المدنيين أو تسهيل الإجلاء بشكل روتيني بسبب استمرار القتال وانعدام الثقة بين الجانبين المتخاصمين.[68][69]
ظهرت مزاعم مختلفة بارتكاب جرائم حرب خلال المعركة، بما في ذلك استخدام الأسلحة الكيميائية من جانب قوات الحكومة السورية والقوات المتمردة،[70][71] واستخدام القوات الجوية السورية البراميل المتفجرة،[72][73][74][75] وإسقاط القوات الروسية والسورية ذخائر عنقودية في المناطق المأهولة بالسكان،[76][77] وتنفيذ ضربات جوية "مزدوجة" تستهدف عمال الإنقاذ الذين يستجيبون للضربات الجوية السابقة،[78] وعمليات إعدام بإجراءات موجزة للمدنيين والجنود الأسرى من جانب الجماعات المتمردة،[79] والقصف العشوائي، واستخدام المدفعية اليدوية الصنع غير الدقيقة بدرجة عالية من قبل قوات المتمردين.[80][81] وخلال الهجوم الذي شنته الحكومة السورية عام 2016 ، حذرت المفوضة السامية لحقوق الإنسان التابعة للأمم المتحدة من أن "جرائم ذات أبعاد تاريخية" ترتكب في حلب.[82]
وتسبب القتال أيضا في دمار شديد لمدينة حلب القديمة، وهي موقع للتراث العالمي لليونسكو.[83] ويقدر أن هناك 500 33 مبنى لحقت بها أضرار أو دمرت.[84] بعد أربع سنوات من القتال، تمثل المعركة واحدة من أطول الحصارات في الحرب الحديثة وواحدة من أكثر المعارك دموية في الحرب الأهلية السورية، حيث أسفرت عن مقتل ما يقدر بنحو 31 ألف شخص، أي ما يقرب من عشر ضحايا الحرب الإجمالية المقدرة.[85]
معلومات أساسية
في عام 2011، كانت حلب أكبر مدينة في سوريا، حيث بلغ عدد سكانها 2.5 مليون نسمة. موقع للتراث العالمي لليونسكو وتوصف بأنها العاصمة التجارية لسوريا.[86] وكتبت الكاتبة ديانا دارك أن "المدينة كانت متعددة الثقافات، وخليط معقد من الأكراد والإيرانيين والتركمان والأرمن والشركس التي كانت تطل على قاعدة عربية لا تزال فيها الكنائس والمساجد المتعددة الطوائف تتقاسم الفضاء".[87]
بدأت الاحتجاجات في أنحاء البلاد ضد الرئيس بشار الأسد في 15 مارس 2011، كجزء من الربيع العربي. وفي حلب نفسها، بدأت الاحتجاجات الكبيرة بعد أكثر من عام في مايو 2012.[88] وخلال هذه الفترة، نظمت أيضا تجمعات جماهيرية نظمتها الحكومة دعما لنفسها.[89] وظلت حلب هادئة ومؤيدة إلى حد كبير للنظام[90][91] بسبب النزاع الذي استمر لمدة 16 شهرا حتى 22 يوليو 2012، عندما تلاقى مقاتلو المعارضة من القرى المجاورة وتوغلوا فيها،[92] وردت الحكومة عليها بقصف كثيف وعشوائي للمدينة.[90] وفي 16 فبراير 2012، أصدرت الجمعية العامة للأمم المتحدة قرارا بأغلبية 137 صوتا مؤيدا مقابل 12 صوتا وامتناع 17 عن التصويت، ودعت سوريا إلى "وضع حد فوري لجميع انتهاكات حقوق الإنسان والهجمات ضد المدنيين".[93]
المتحاربون
في بداية معركة حلب، أفيد أن المتمردين كان لديهم ما بين 6،000[94] و7،000[95] مقاتل في 18 كتيبة.[96] وأكبر جماعة متمردة هي لواء التوحيد، وكان أبرزها الجيش السوري الحر، ويتألف معظمه من منشقين من الجيش. وجاء معظم المتمردين من ريف حلب ومن مدن من بينها باب ومارع وأعزاز وتل رفعت ومنبج.[97] وأفادت التقارير بأن أحد سكان مدينة حلب اتهم المتمردين باستخدام منازل المدنيين لتوفير المأوى.[98] وفي 19 نوفمبر 2012، رفض مقاتلو المعارضة—ولا سيما لواء التوحيد وجبهة النصرة—الائتلاف الوطني السوري الذي شكل حديثا في البداية.[99] ومع ذلك، في اليوم التالي المتمردين سحبوا رفضهم.[100]
بحلول ديسمبر، كان مقاتلو المتمردين ينهبون الإمدادات بشكل عام؛ وحولوا ولائهم إلى الجماعات التي لديها المزيد من أجل المشاركة فيه. وأدى هذا النهج الجديد إلى مقتل أحد قادة المتمردين على الأقل في أعقاب نزاع؛ فالمقاتلون المنسحبون مع نهبهم تسببوا في فقدان موقع الخط الأمامي وفشل هجوم على حي كردي. عملية النهب كلفت المقاتلين المتمردين تأييدا شعبيا بكثير.[101]
انضم المتطرفون الاسلاميون والمقاتلون الأجانب، والكثير منهم من ذوى الخبرة وجاءوا من التمرد الحالي في العراق المجاورة، إلى المعركة.[27] الأنباء أفادت ان الجهاديين أتوا من جميع أنحاء العالم الإسلامي.[33] وأبلغ جاك بيريه، وهو جراح فرنسي عالج مقاتلين جرحى، عن عدد كبير من المقاتلين الأجانب، معظمهم لديهم أهداف إسلامية ولم يكونوا مهتمين بشكل مباشر ببشار الأسد. وكان من بينهم ليبيون، وشيشانيون، وفرنسيون. وقارن جاك الوضع في حلب مع الوضع في إدلب وحمص حيث لم تكن القوات الأجنبية شائعة.[102] وتعاونت بعض كتائب الجيش السوري الحر مع مقاتلي المجاهدين.[27] انضم أربعمائة من التركمان إلى المعركة بقيادة السلطان عبد الحميد خان.[103] واعتبارا من عام 2016، ضمت فصائل المتمردين الجماعات الإرهابية المعترف بها دوليا مثل جبهة النصرة. إلا أنها لم تبلغ سوى نحو 1،000 مقاتل بحلول أكتوبر 2016.[46]
حزب الله، الذي انضم في عام 2013 إلى الحرب الأهلية السورية لدعم الرئيس الأسد، اعتبرته منظمات مختلفة أيضا جماعة إرهابية. واحتفظت الحكومة ببعض الدعم في حلب؛ وفي عام 2012 قال قائد للمتمردين: "إن نحو 70% من مدينة حلب مع النظام". خلال المعركة، فقد الأسد الدعم من الطبقة الثرية في حلب. وفي عام 2012، ذكرت شبكة سي بي إس نيوز أن 48 من رجال النخبة من رجال الأعمال الذين كانوا الممولين الرئيسيين للحكومة قد غيروا الجانب. وللمرة الأولى، شارك الجيش العربي السوري في حرب المدن. وقد قسموا قواتهم إلى مجموعات تضم كل منها 40 جنديا. وكان معظمهم مسلحون ببنادق آلية وصواريخ مضادة للدبابات واستخدمت المدفعية والدبابات والطائرات العمودية لأغراض الدعم فقط. وفي أغسطس 2012، نشر الجيش وحداته النخبوية، وفي نهاية المطاف، بعد أن أعدم المتمردون زينو بري، زعيم عشائري لقبيلة بري، انضمت القبيلة إلى المعركة ضد المتمردين. في البداية، حاول المجتمع المسيحي تجنب أن يأخذ طرفا في النزاع. كما دعم العديد من المسيحيين الأرمن الجيش السوري. بعض من الأرمن في حلب قالوا إن تركيا دعمت الجيش السوري الحر للهجوم على الأرمن والمسيحيين العرب. وفي عام 2012، كان لدى إحدى الميليشيات الأرمنية نحو 150 مقاتلا.
في بداية المعركة، شكل الأكراد في حلب جماعات مسلحة، وأبرزها لواء صلاح الدين الكردي، الذي عمل مع المعارضة. وكان حزب الاتحاد الديمقراطي الكردستاني له علاقات سيئة مع كل من الجانبين. وظلت وحدات حماية الشعب التابعة لحزب الاتحاد الديمقراطي خارج المناطق العربية وأصرت على بقاء الجيش السوري الحر خارج المنطقة الكردية. ولم تقاتل في بادئ الأمر الجيش السوري إلا إذا هوجمت.[104] المناطق الكردية في حلب وقعت أساسا تحت سيطرة حزب الاتحاد الديمقراطي.[105] في مراحل مختلفة من الصراع، انضم الأكراد إلى المعارضة ضد القوات الموالية للحكومة.[48] ومع ذلك، فإن حي الشيخ مقصود الخاضع لسيطرة و.ح.ش، تعرض لحصار من القوات الحكومية السورية والمتمردين على حد سواء. في سبتمبر 2015، اتهم المتمردون و.ح.ش بالتوصل إلى اتفاق مع الحكومة، في حين اتهم و.ح.ش المتمردين بقصف الحي.[106] وبين نوفمبر وديسمبر 2015، تصاعد النزاع بين المتمردين وقوات سوريا الديمقراطية التي تدعمها الولايات المتحدة في بقية محافظة حلب.[107][108] وفشلت محاولات الهدنة إلى حد كبير في وقف القتال.[109][110] وتصاعد الموقف في فبراير 2016 عندما قامت قسد بمتابعة التقدم الذي قامت به القوات المسلحة السورية مدعومة بضربات جوية روسية وهم أنفسهم أخذوا أراض إلى الشمال من مدينة حلب من المتمردين.[111][112]
وابتداء من أواخر سبتمبر 2015، نفذت الطائرات الحربية الروسية أولى هجماتها في سوريا.[113] وشملت حملة القصف الروسية غارات على قوات المعارضة في حلب.[114]
مسار المعركة
2012: هجوم أولي للمتمردين والاستيلاء على شرق حلب
اندلع إطلاق نار بين المتمردين وقوات الأمن داخل وحول صلاح الدين، وهي منطقة تقع في جنوب غرب المدينة، ليلة 19 يوليو 2012.[115]
في أواخر يوليو وأوائل أغسطس 2012، واصل الجيش السوري الحر هجومه في حلب، وعانى كلا الجانبين من مستوى عال من الخسائر البشرية. وقال قادة المتمردين إن هدفهم الرئيسي هو السيطرة على وسط المدينة.[116] وفي 30 يوليو، استولى المتمردون على نقطة تفتيش استراتيجية في بلدة عندان بشمال حلب، لكسب طريق مباشر بين المدينة والحدود التركية—وهي قاعدة هامة لإمدادات المتمردين.[117] وسيطرتوا أيضا على الباب، وهي قاعدة عسكرية شمال شرقي المدينة.[118] وفي وقت لاحق، هاجم المتمردون القاعدة الجوية في منغ، على بعد 30 كم (19 ميل) شمال غرب حلب، بأسلحة ودبابات قبض عليها في نقطة تفتيش عندان.[119] واستمرت قوات المعارضة في كسب أراض في المدينة حيث سيطرت على معظم شرق وجنوب غرب حلب، بما في ذلك صلاح الدين وأجزاء من الحمدانية.[120] واستمروا في استهداف مراكز أمنية ومراكز للشرطة في وقت اندلعت فيه اشتباكات بالقرب من مقر مخابرات القوات الجوية في منطقة الزهراء بشمال غرب حلب.[121] استولى المتمردون على عدة مراكز للشرطة ومواقع في مناطق باب النيرب والميسر والصالحين الوسطى والجنوبية، واستولوا على كمية كبيرة من الأسلحة والذخائر.[120]
متمردو الجيش السوري الحر يعقدون جلسة تخطيط
مركبات قصفت في حلب
2013: التقدم والتقدم المضاد
في ديسمبر 2012، أعلنت جبهة النصرة من جانب واحد منطقة حظر الطيران وهددت بإسقاط الطائرات التجارية، زاعمة أن الحكومة كانت تستخدمهم لنقل القوات الموالية والإمدادات العسكرية.[122] وبعد عدة هجمات على مطار حلب الدولي، علقت جميع الرحلات الجوية في 1 يناير 2013.[123] وفي الشهر التالي، استولى المتمردون على مسجد الأموي، وخلال المعركة، اشتعلت النيران في متحف المسجد وانهار سقفه.[124]
في 9 يونيو، أعلن الجيش السوري بدء "عملية عاصفة الشمال"، وهي محاولة لاستعادة الأراضي داخل المدينة وحولها.[125] وفي الفترة من 7 إلى 14 يونيو، شنت قوات الجيش وأفراد الميليشيات الحكومية ومقاتلي حزب الله العملية. وخلال فترة أسبوع، تقدمت القوات الحكومية في المدينة والريف، وأجبرت المتمردين على التراجع. وعلى الرغم من ذلك ، ووفقا لما ذكره أحد نشطاء المعارضة، ففي 14 يونيو، بدأت الحالة في عكس مسارها بعد أن أوقف المتمردون رتلا لتعزيزات مدرعة من حلب، كان متجها إلى قريتين شيعيتين شمال غرب المدينة.[126]
في 8 نوفمبر، بدأ الجيش السوري هجوما على القاعدة 80 التي يسيطر عليها المتمردون، وأطلق "أثقل وابل في أكثر من عام".[127] وكتبت قناة الجزيرة ان انتصارا حكوميا سيقطع طريق المتمردين بين المدينة والباب.[128] وبعد ذلك بيومين، ذكرت رويترز أن المتمردين كانوا قد أعيد تجميع صفوفهم لقتال الجيش السوري.[129] وقد قتل 15 متمردا واستعاد الجيش القاعدة.[130] وفي الشهر التالي، حاصر الجيش المدينة جزئيا في عملية نجم سهيل.[131] وخلال الهجوم شنت طائرات هليكوبتر تابعة للجيش هجوما بالبراميل المتفجرة، مما أسفر عن مقتل أكثر من ألف شخص، وفقا لما ذكره أبو فراس الحلبي التابع للجيش السوري الحر.[132]
2014: تطويق الحكومة السورية للمتمردين
واصلت القوات الحكومية، بعد أن رفعت الحصار عن حلب في أكتوبر 2013، هجومها في عام 2014. وتوج ذلك بالاستيلاء على حي الشيخ نجار الصناعي في منطقة شمال حلب، ورفع الحصار عن سجن حلب المركزي في 22 مايو 2014، الذي احتوى على حامية من جنود الحكومة قاومت القوات المتمردة منذ عام 2012.[133] وقدم مبعوث الأمم المتحدة اقتراحا بوقف إطلاق النار في نوفمبر؛ وبموجب المقترح سيتم إيصال المساعدات الإنسانية إلى حلب في أعقاب وقف الأعمال العدائية. وقال الرئيس السوري بشار الأسد إن خطة وقف إطلاق النار "تستحق الدراسة"[134] وإنه وفقا لمبعوث الأمم المتحدة فإن الحكومة السورية "تدرس بجدية" هذا الاقتراح.[135] ورفض الجيش السوري الخطة؛ وقال قائدها العسكري زاهر الساكت إنهم "تعلموا عدم الثقة في نظام [بشار] الأسد لأنهم مخادعون ويريدون فقط كسب الوقت".[136]
2015: حرب استنزاف
في أوائل يناير، استعاد المتمردون منطقة مجبل "المناشر" البريج واستولوا على المدخل الجنوبي لمقالع الأحجار المعروفة باسم المياسات، مما اضطر القوات الحكومية إلى التقهقر إلى الشمال.[137] واستولى المتمردون أيضا على منطقة مناشر البريج. وقد حاولوا التقدم والسيطرة على تلة البريج، التي يمكنهم من خلالها الاستيلاء على طريق الإمداد العسكري بين سجن حلب المركزي ومنطقتي حندرات والملاح.[138] وفي نهاية يناير، سيطر المتمردون على بعض المواقع في تل البريج.[139][140]
في منتصف فبراير، شن الجيش العربي السوري وحلفاؤه هجوما كبيرا في ريف حلب الشمالي بهدف قطع آخر طرق الإمداد للمتمردين إلى داخل المدينة، والتخفيف من حصار المتمردين لبلدتي الزهراء ونبل ذات الغالبية الشيعية في شمال غرب حلب.[141] وسرعان ما سيطروا على عدد من القرى،[142] ولكن الأحوال الجوية السيئة وعدم القدرة على استدعاء التعزيزات أوقف هجوم الحكومة.[143] وبعد ذلك ببضعة أيام، شن المتمردون هجوما مضادا، وأخذوا من جديد اثنين من أربعة مواقع فقدوها إلى قوات الحكومة السورية.[144]
في 9 مارس، شنت قوات المعارضة هجوما على حندرات، شمال حلب، بعد ما أبلغ عن حدوث ارتباك في صفوف قوات الحكومة السورية بعد القتال الذي دار في فبراير.[145] وقالت مصادر المعارضة إن المتمردين كانوا يسيطرون على 40–50% من القرية أو ربما 75% في الوقت الذي ظل فيه الجيش يسيطر على الجزء الشمالي من حندرات.[145][146] وعلى النقيض من ذلك، ذكر مصدر بالجيش السوري أنهم لا يزالون يسيطرون على 80 في المائة من حندرات.[147] وفي 18 مارس، بعد ما يقرب من 10 أيام من القتال،[148] طرد الجيش السوري المتمردين بالكامل من حندرات،[149] وأعاد السيطرة على القرية.[150]
يسار|تصغير|قوات المعارضة تستخدم قنابل الأنفاق تحت ساحة الحطب استعدادا للهجوم على القوات الحكومية في أبريل 2015
في 13 أبريل، جددت قوات المعارضة الإسلامية وجبهة النصرة هجومهما على مبنى مخابرات القوات الجوية، باستخدام قنبلة نفق أعقبها هجوم.[151] وتفيد التقارير بأن جزءا كبيرا من مبنى المخابرات التابع للقوات الجوية قد تعرض لأضرار نتيجة لانفجار النفق.[152] وفي الفترة ما بين 27 و29 أبريل، قام الجيش السوري الحر وأحرار الشام بشن عملية في مدينة حلب القديمة وساحة الحطب في حي الجديدة، شملت قنابل أنفاق[153] وقصف المباني التي كان يتمركز فيها الجنود. وقد ادعى المتمردون انهم قتلوا 76 جنديا في هذه العمليات.[154]
استعدادا لشن هجوم جديد، قصف المتمردون بكثافة أجزاء تسيطر عليها الحكومة من حلب، مما أسفر عن مقتل 43 مدنيا وإصابة 190 آخرين في 15 يونيو.[155] وفي 17 يونيو، استولت قوات المعارضة على حي الراشدين الغربي من قوات الحكومة السورية.[156][157] وطوال 19 و20 يونيو، أسفرت جولة جديدة من قصف المتمردين عن مقتل 19 مدنيا آخرين.[158]
في أوائل يوليو، شن اثنان من ائتلافات المتمردين هجوما على النصف الغربي للمدينة الذي تسيطر عليه الحكومة.[159] وخلال خمسة أيام من القتال، استولى المتمردون على مركز البحوث العلمية على المشارف الغربية لحلب، والذي كان يستخدم كثكنات عسكرية. وتم صد هجومين للمتمردين على منطقة جمعية الزهراء. القوات الحكومية شنت هجوما مضادا غير ناجح على مركز البحوث العلمية.[160][161]
في منتصف أكتوبر، استولى داعش على أربعة قرى يسيطر عليها المتمردون في شمال شرق حلب، في حين استولى الجيش على منطقة التجارة الحرة بين سوريا وتركيا، وسجن الأحداث، ومصنع أسمنت.[162] وفي الوقت نفسه، شن الجيش السوري وحزب الله هجوما جنوب حلب، واستولوا على من الأراضي في شهر واحد.[163] وبحلول أواخر ديسمبر، كانوا يسيطرون على 3/4 من ريف حلب الجنوبي.[164]
بحلول نهاية عام 2015، لم يترك سوى 80 طبيبا في الجزء الشرقي، الجزء الذي يسيطر عليه المتمردون في حلب، أو واحد فقط لـ7،000 من السكان، في حين لم يتبقى سوى مخبز واحد ليخدم 120 ألف شخص.[165]
2016: قطع خطوط الإمداد، والإستسلام، والإجلاء
بحلول عام 2016، كانت التقديرات تشير إلى أن عدد سكان شرق حلب الذي تسيطر عليه المعارضة انخفض إلى 300 ألف نسمة،[87] في حين كان 1.5 مليون نسمة يعيشون في مناطق غرب حلب التي تسيطر عليها الحكومة.[166]
في أوائل فبراير 2016، كسرت قوات الحكومة السورية وحلفاؤها حصارا من ثلاث سنوات للمتمردين في بلدتي نبل والزهراء، مما أدى إلى قطع طريق رئيسي للمتمردين إلى تركيا المجاورة.[167] وفي 4 فبراير، استعادت القوات الحكومية السيطرة على بلدتي ماير وكفرنايا.[168] في 5 فبراير، استولت الحكومة على قرية رتيان، إلى الشمال الغربي من حلب.[169]
في 25 يونيو، بدأ الجيش السوري والقوات المتحالفة معه هجوم حلب الشمالي الغربي الذي طال انتظاره.[170] وكان الهدف النهائي للهجوم قطع طريق كاستيلو السريع، الذي سيقطع آخر طريق إمداد للمتمردين داخل المدينة، وبالتالي يطوق كامل قوات المعارضة المتبقية.[87]
بحلول أواخر يوليو، تمكنت قوات الحكومة السورية من قطع آخر خط إمداد للمتمردين من الشمال، وقد طوقت حلب بالكامل.[171] ولكن في غضون أيام، شن المتمردون هجوما مضادا واسع النطاق في جنوب حلب، في محاولة لفتح خط إمداد جديد في الأجزاء التي يسيطر عليها المتمردون في المدينة، وعزل الجانب الذي تسيطر عليه الحكومة. وقد اعتبر الجانبان الحملة بأكملها، بما في ذلك هجوم الجيش وما تلاه من هجوم مضاد للمتمردين، بأنها قد تقرر مصير الحرب بأكملها.[172][173][174][175][176]
بعد أسبوع من القتال العنيف، دخل المتمردون داخل وخارج حلب إلى حي الراموسة، وتم وصله والسيطرة عليه، بينما استولوا أيضا على أكاديمية الراموسة العسكرية. وفي ظل هذه التقدم نجح المتمردون في قطع خط إمدادات الحكومة إلى الجزء الذي تسيطر عليه الحكومة من غرب حلب[177][178][179] وأعلنوا أن حصار الجيش لشرق حلب الذي يسيطر عليه مقاتلو المعارضة قد كسر.[180] ومع ذلك، كان خط الإمداد الجديد للمتمردين لا يزال تحت نيران مدفعية الجيش ويتعرض لضربات جوية،[177] مما يجعل كلا الجانبين تحت الحصار أساسا.[181] ومنذ بدء هجوم المتمردين، قتل ما لا يقل عن 130 مدنيا، معظمهم بسبب قصف المتمردين للمناطق التي تسيطر عليها الحكومة. وقد قتل 500 مقاتل على كلا الجانبين، معظمهم من المتمردين.[182] غير أنه في 4 سبتمبر، استعادت القوات المسلحة السورية الكلية التقنية، وكلية التسلح، وكلية المدفعية، وبذلك فرضت الحصار على حلب مرة أخرى. وفي وقت لاحق من ذلك الأسبوع، استعادت السيطرة على منطقة الراموسة، وعكست تقريبا جميع المكاسب التي حققها المتمردين منذ 30 يوليو. ثم شنت قوات الحكومة السورية هجوما للاستيلاء على شرق حلب في 22 سبتمبر، حيث سيطرت على 15–20 في المائة من الجزء الذي يسيطر عليه المتمردون في حلب.
بدأ المتمردون الهجوم على غرب حلب في أواخر أكتوبر، والذي فشل، مع قيام القوات الحكومية بإعادة الاستيلاء على مناطق في الجنوب الغربي فقدتها لهجوم المتمردين في أواخر يوليو. وبعد ذلك شن الجيش السوري هجوما، يهدف إلى إنهاء سيطرة المتمردين على حلب مرة واحدة، وإلى الأبد، قاموا خلاله بالاستيلاء على منطقة هنانو، منطقة الصاخور، منطقة جبل بدرو، منطقة بستان الباشا، منطقة الهلك، منطقة الشيخ خضر، منطقة الشيخ فارس، منطقة الحيدرية، منطقة عين التل الصناعية، وحسب ما أفادت التقارير، مساكن البحوث جنوب جبل بدرو. كما استولى على منطقة الأرض الحمرا مقطتعا أراض يسيطر عليها المتمردون في حلب بنسبة 40-45%.[183]
بحلول 13 ديسمبر 2016، بقي 5 في المائة فقط من الأراضي الأصلية للمدينة في أيدي المتمردين.[184] أعلن وقف إطلاق النار وتوقف القتال من أجل السماح بإجلاء المدنيين والمتمردين. وقد تم إعداد الحافلات للإخلاء. لكن الاتفاق إنهار في اليوم التالي عندما استأنفت الحكومة السورية قصفها الكثيف لشرق حلب، وألقى كلا الجانبين باللوم على الطرف الآخر في القتال المستأنف.[185]
أعيد إحياء الاتفاق في 15 ديسمبر بمغادرة أول قافلة للأشخاص الذين تم إجلاؤهم.[186] ولكن تم تعليق عملية الإخلاء في اليوم التالي.[187] وتم التوصل إلى اتفاق آخر في 18 ديسمبر، واستؤنف الإجلاء في وقت لاحق من اليوم.[188] وتوقفت عملية الإجلاء مرة أخرى في 20 ديسمبر، ولكنها استؤنفت في اليوم التالي.[189][190] وفي 22 ديسمبر، تم الانتهاء من عملية الإجلاء في حين أعلن الجيش السوري سيطرته الكاملة على المدينة.[191] وأكد الصليب الأحمر في وقت لاحق أن إجلاء جميع المدنيين والمتمردين قد اكتمل.[192]
في الأيام الأخيرة من معركة المدينة، ذكرت صحيفة تايمز أوف إسرائيل أن "شهادات من المدينة منذ يوم الاثنين أوردت تفاصيل الفظائع الوحشية التي ترتكبها القوات السورية المؤيدة للحكومة".[193]
تداعيات
التحليل الاستراتيجي
انظر أيضا
حصار حمص
حملة محافظة ريف دمشق
هجوم تدمر (2017)
حصار كوباني
حصار نبل والزهراء
معركة الباب
التدخل العسكري التركي في سوريا
حملة الرقة (2016–2017)
ملاحظات
المراجع
Coordinates:
تصنيف:جرائم الحرب الأهلية السورية
تصنيف:حلب في الحرب الأهلية السورية
تصنيف:عمليات عسكرية في الحرب الأهلية السورية تشمل أحرار الشام
تصنيف:عمليات عسكرية في الحرب الأهلية السورية تشمل أسلحة كيميائية
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تصنيف:عمليات عسكرية في الحرب الأهلية السورية تشمل جبهة النصرة
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تصنيف:عمليات عسكرية في الحرب الأهلية السورية تشمل وحدات حماية الشعب
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تصنيف:عمليات عسكرية في الحرب الأهلية السورية في 2014
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تصنيف:معارك الحرب الأهلية السورية
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اندرياس فريدريك فيلهلم فون هانو (15 ديسمبر 1826 – 12 ديسمبر 1882) كان مهندس ألماني المولد، ونحات ورسام أيضا، واشتهر بأعماله في النرويج.
سيرته الذاتية
ولد فيلهلم فون هانو (Wilhelm von Hanno) في همبورغ بألمانيا وتلقى تعليمه هناك بين عامي 1840 و 1843. وقدم إلى كريستيانا التي أصبحت اليوم أوسلو عام 1850.
في عام 1853 دخل فون هانو في شراكة مع هينريش ارنست شيرمر (Heinrich Ernst Schirmer) وصمما عدد من الأبنية الهامة في النرويج، بما في ذلك عدد من المباني العسكرية والمساكن الخاصة. من بين أعمالهم مستشفى جستاد (Gaustad)، كنيسة تانجن (Tangen) في (1854)، كنيسة فستر آكر (Vestre Aker) بين عامي (1853-1855) وكنيسة أوستر آكر (Østre Aker Church) بين عامي (1857-1860). صمم شيرمر وهانو جميع المحطات على أول خط للسكة الحديدية في النرويج، خط هوفد (Hoved) بين كريستيانيا وإيدزويل (Eidsvoll) والذي تم الانتهاء في عام 1854. صمم فون هانو كنيسة الثالوث (Trefoldighetskirken) عام (1858)، والجزء الأول من محطة كريستيانيا والتي تعرف اليوم باسم محطة أوسلو المركزية، بالتعاون مع هينريش ارنست شيرمر. كما أنهم صمموا الخطط الأولية لمبنى البرلمان النرويجي ، ولكن تم تجاهل هذا التصميم في وقت لاحق.[1]
حياته الشخصية
تزوج فيلهلم فون هانو في عام 1859 من ماريا تيريزيا بالينبيرج (1827-1898). وهم أجداد الفنان النرويجي كارل فون هانو (Carl von Hanno).
المصادر
تصنيف:أشخاص من هامبورغ
تصنيف:رسامون ورسامات ألمان
تصنيف:معماريون ألمان
تصنيف:معماريون ألمان في القرن 19
تصنيف:معماريون نرويجيون
تصنيف:مهندسو إنشاءات
تصنيف:مهندسون ألمان
تصنيف:مواليد 1826
تصنيف:مواليد في هامبورغ
تصنيف:نحاتون نرويجيون
تصنيف:نحاتون ونحاتات ألمان
تصنيف:وفيات 1882
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Oscar's Oasis (Perancis Oscar & Co) adalah sebuah kartun animasi non-verbal yang diproduksi oleh TeamTO dan Tuba Entertainment dalam asosiasi dengan Cake Entertainment yang berdasarkan pada acara aslinya yang disiarkan di Disney Channel Asia.[1] Serial tersebut dimulai sebagai sebuah serial yang setiap episodenya berjalan selama 1-2 menit dengan judul Ooohhh Asis. Oscar's Oasis dapat ditonton di Nintendo 3DS di 3D. Di Amerika Serikat, semua episodenya dapat dilihat di Netflix Streaming.[2] Di Amerika Latin dan Brasil, pengalihan bahasa Spanyol dan Portugisnya disiarkan di Cartoon Network Amerika Latin.
Sinopsisnya
Seekor kadal yang bernama Oscar selalu mendapatkan masalah dari temannya,tinggal di gurun pasir yang terdapat di beberapa adegan ia kehausan dan mencari minum. Dia juga memiliki pacar sejenis kadal yang cantik
Karakter
Karakter utama
Empat karakter utamanya adalah:[1]
Oscar - Karakter utama dari acara tersebut. Ia adalah seekor kadal yang selalu mendapatkan masalah dari sebuah trio – Popy, Buck, dan Harchi – dan juga para ayam.
Popy - seekor rubah, pemimpin dari sebuah trio, salah satu yang memberikan perintah.
Buck - seekor hering
Harchi - seekor hyena
Karakter minor
Manolo - seorang supir truk yang membawakan berbagai barang dalam serial tersebut, Ia selalu tertidur di kursi ketika anjingnya, Roco, mengemudi.
Roco
Pacarnya Oscar - seekor kadal betina yang dicintai Oscar
Para Ayam
Para Buaya - para hewan yang paling buas di gurun dan predator teratas.
The Skunk
Meerkat
The Dung Beetles
Junior - Putra angkat Oscar yang hanya membuat satu penampilan dalam acara tersebut.
Episode
Setiap episode berjalan selama 7 menit dan terdapat 78 episode secara keseluruhan.[3]
"Bad Trip"
"Egg Race"
"Finding Water" (Penampilan pertama Manolo dan Roco)
"Baby Doll"
"Falling in Love" (Penampilan pertama Pacarnya Ocsar)
"The Fly"
"Hot Dog Way of Life"
"Walking on the Moon" (Penampilan pertama Meerkats)
"Chicken Charmer"
"Oasis Cup"
"Home Sweet Home"
"Road Runners"
"Top Gun"
"Beach Dream"
"Blueberry"
"Meerkat Blues"
"Parasol, Parabole and Satellite Dish"
"Barbecue Party"
"Pronto Express"
"Junior"
"Strike!"
"Cuckoo Horn"
"Fly Force One"
"The Great Escape"
"Rock a Bye Booboo"
"Fluff the Magic Lizard"
"Lost"
"Forbidden Zone" (Penampilan pertama Skunk)
"Chicken Ace"
"Lizard: wanted"
"Yummi Oscar"
"Mom in Spit of Himself"
"Corn to be Wild"
"Amazing Chicken"
"Power of Love"
"Seventh Heaven"
"Pineapple Chase"
"Sweet Smell Of Success"
"Food Chain"
"Barrel Story"
"Egg Over Easy"
"Forbidden Paradise"
"Scam Sandwich"
"Get Out of It"
"Winning Ticket"
"Collector Mania"
"Lucked Out"
"Firefly Flash"
"Godlizard Returns"
"My Bodyguard"
"Touching Bottom"
"Sound Bites"
"Black Run"
"One For All"
"Frost Bitten"
"Day of the Chicken"
"The Unexpected Hero"
"Busy Day"
"Lizard in the Sky"
"Hiccup and Away"
"Bad Seed"
"Smells Like Trouble"
"Leader of the Pack"
"Momma Croc"
"Toothbrush Tussel"
"Radio Active"
"Sweet Heart" (Klip-klip fitur dari episode-episode sebelumnya, utamanya salah satunya dengan Pacarnya Oscar)
"Golf Club"
"A Manolo's Best Friend"
"Revenge of the Small Fry"
"He's got Rhythm"
"Roco's Treasure"
"Follyball"
"Down In The Dumps"
"Witness The Fitness"
"Hunt for Red Hot Chilli Pepper"
"For a Fistful of Corn"
"Picture Perfect"
Referensi
Pranala luar
on IMDb
Kategori:Acara televisi anak-anak
Kategori:Hyena fiksi
Kategori:Rubah fiksi
Kategori:Kadal fiksi
Kategori:Hyena dalam budaya populer | https://id.wikipedia.org/wiki/Oscar%27s%20Oasis |
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الغزل[1] أو اللف المغزلي أو التدويم[2] أو كمية التحرك الزاوي لجسيم[3] هي خاصية تعبر عن دوران الجسيم الأولي حول نفسه. يعتبر اللف المغزلي خاصية جوهرية في كافة الجسيمات الأولية وتمثل ظاهرة ميكانيكية كمومية أصيلة. يمكن تقريب اللف المغزلي للإلكترون للأذهان عن طريق تشبيهها بدوران الأرض حول نفسها إضافة لدورانها حول الشمس، فكذلك يلف الإلكترون حول نفسه ويدور في نفس الوقت في مدار حول النواة. ويقترن اللف المغزلي للإلكترون بعزم مغناطيسي له، هو الأصل في ظاهرة مغناطيسية المواد.
الاكتشاف
في الميكانيك الكلاسيكي: ينشأ العزم الدوراني من دوران مكونات وكتل داخلية أصغر في جسم ما ، لكن في ميكانيك الكم يكون الدوران المغزلي خاصة جوهرية للجسيم لا تنشأ عن دوران مكونات داخلية.
اكتشف العزم المغناطيسي للإلكترون في عام 1925 ، وعن طريقه أمكن تفسير بعض الظواهر التي لم تكن مفهومة أنذاك الخاصة بانشقاق خطوط طيف الهيدروجين ؛ فهي تنشق في هيئة خطين متوازيين بدلا من خط طيفي واحد في وجود مجال مغناطيسي خارجي ، هذا بسبب العزم المغزلي للإلكترون الذي يمكن أن يكون موازيا وفي اتجاهه لخطوط المجال المغناطيسي الخارجي أو يكون معكوسا بالنسبة له. وقد اتضح بعد ذلك أن جميع الجسيمات الأولية لها لف مغزلي ، كما أن بعض الذرات لها محصلة للعزوم المغزلية فيها. تلك المحصلة للعزوم المغزلية تكون بحسب نوع العنصر ، فقد يكون المحصلة للعزوم المغزلية للإلكترونات في الذرة (إذا كانت محصلة العزوم المغزلية للنواة مساوية للصفر) ؛ وقد تكون محصلة مجموع العزوم المغزلية للإلكترونات مع ارتباطها بمجموع العزوم المغزلية لمكونات النواة.
باستثناء بوزون هيغز الافتراضي فإن الجسيمات الأولية مثل الفرميونات (كالإلكترونات و الميونات) والهادرونات (كالبروتون و النيوترون)، و البوزونات والفوتونات لا يمكن أن تكون بدون غزل بالرغم من كونها جسيمات نقطية غير مؤلفة من مكونات أصغر منها.
اللف المغزلي وأطياف العناصر
منذ أوائل القرن العشرين تكاثفت أبحاث العلماء لاكتشاف تركيب الذرة، وتعجبوا لعدم سقوط الإلكترون ، وهو سالب الشحنة داخل نواة الذرة وهي موجبة الشحنة، وذلك طبقاً للكهرومغناطيسية الكلاسيكية لا بد من أن يفقد الإلكترون طاقة حركته شيئا فشيئا نتيجة إشعاعه الكهرومغناطيسي المستمر وهو يدور حول النواة حتى ينهار داخل النواة. ولكن الواقع لا يؤيد ذلك ، فالإلكترونات لا تلتهما النواة ، وتبقي الإلكترونات في مداراتها ، بل ومن الممكن أن تتشابك الذرات مع بعضها البعض بواسطة الإلكترونات مكونة جزيئات. لذلك ظهر مجموعة من علماء الفيزياء وضعوا أسس فيزيائية ثورية مبنية على ظاهرة الكم التي اكتشفها ماكس بلانك عام 1900 ، وسميت ميكانيكا الكم.
في عام 1913 اقترح نيلز بور نموذج بور لذرة الهيدروجين ، وقد نجح هذا النمودج استطاع العلماء في تفسير خطوط طيف الهيدروجين، التي لم يكن الفيزيائيين لديهم تفسير لظهور تلك الخطوط الضوئية ذات ترددات معينة في طيف الهيدروجين، فقد أوضح بور أن سبب ظهور هذه الأطياف المحددة يرجع إلى إنتقالات محددة للإلكترون حول النواة وقد اطلق عليها قفزة الكم، واكتشف العلماء أن الخصائص الذرية للذرات تكمن في سلوك إلكتروناتها التي تدور في أغلفتها . وتبينوا باستخدام ميكانيكا الكم إلى أن سلوك الإلكترون في الذرة يمكن وصفه بأربعة إحداثيات أو أعداد كمومية، وهي:
عدد كم رئيسي،
عدد كم مداري،
عدد كم مغناطيسي
عدد كم مغزلي.
اكتشف عدد الكم المغزلي للإلكترون في عام 1925 ومقداره +1/2 أو -1/2 .
هذا العدد المغزلي هو رابع أعداد الكم و من خصائصه ترتيب الإلكترونات في نواة الذرة وهو المسؤول عن انشقاق خطوط الطيف فيما يسمى انشقاق بنية فائقة الدقة. كما يلعب دورا هاما في نشأة النجوم النيوترونية.
يستخدم قياس العزم المغزلي للبوزيترونات في الطب للتصوير والتشخيص.
اللف المغزلي للإلكترون
اللف المغزلي للإلكتروني يولد مجالا مغناطيسيا الأمر الذي يجعل الإلكترون كالمغناطيس. وفي الحقيقة ترجع خاصية المغناطيسية في المواد بصفة أساسية إلى اللف المغزلي للإلكترون وما يرافقه من عزم مغناطيسي ( كذلك تولد الحركة المدارية للإلكترون في الذرات مجالا مغناطيسيا ، ولكنه يكون أقل بكثير من العزم المغناطيسي المغزلي للإلكترون). يغزل الإلكترون في اتجاهين فقط:
مع عقارب الساعة
عكس عقارب الساعة
لذا فهو يأخذ قيمتين فقط +1/2 أو -1/2 ويرمز لهما أحيانا بالتعبيرين "فوق" و "أسفل".
ينشأ عن دوران الإلكترون حول النواة عزم زاوي (شبيه بالزخم الزاوي للأرض في دورانها في فلك حول الشمس) ، بالإضافة إلى ذلك ينشأ عن غزله عزم زاوي داخلي (مثل دوران الأرض حول محورها ] , مما يعني:
العزم الزاوي الكلي = العزم الزاوي المداري + العزم الزاوي المغزلي
حيث العزم الزاوي الداخلي يحدد برابع أعداد الكم وهو عدد الكم المغزلي s ,
بينما يحدد العزم الزاوي المداري بثاني أعداد الكم وهو عدد الكم المداري l
(يقترن الكم المداري (الحركي) بكم مغناطيسي ، وهو يحدد ثالث الأعداد الكمومية الازمة لوصف حالة الإلكترون في الذرة وصفا كاملا ، وهو عدد الكم المغناطيسي l m .
اللف المغزلي للجسيمات الأولية
اللف المغزلي Spin لأي جسيم أولي يكون ثابتا لا يتغير . وحتى باعتبار ان الجسيم نقطيا (أي ليست له مقاييس) وكانت طاقة حركته صفرا ، فهو له عزمه المغزلي . توجد حتى الآن جسيمات ذات عزم مغزلي
0
ℏ
{\displaystyle 0\hbar }
و
1
2
ℏ
{\displaystyle {\tfrac {1}{2}}\hbar }
و
1
ℏ
{\displaystyle 1\hbar }
، ونجد فيها
ℏ
{\displaystyle \hbar }
ثابت بلانك المخفض الذي يمثل "كم الشغل" ؛ أي أصغر وحدة للقدرة توجد في الطبيعة وعدد كمومي
s
=
0
,
1
2
,
1
,
…
{\displaystyle s=0,{\tfrac {1}{2}}\!\!,\ 1,\ldots }
وهو ما يسمى عدد كم مغزلي .
اكتشف أن للإلكترون عزما مغزليا لأول مرة في عام 1925 وهو يساوي
1
2
ℏ
{\displaystyle {\tfrac {1}{2}}\hbar }
وكان ذلك لتفسير بعض الظواهر أطياف العناصر.[4] (اكتشاف العزم المغزلي للإلكترون (اقرأ عزم مغزلي ).
كما أعطي للبروتون العزم المغزلي
1
2
ℏ
{\displaystyle {\tfrac {1}{2}}\hbar }
لتفسير بعض الشذوذ في الحرارة النوعية لغاز الهيدروجين، وكان ذلك في عام 1928 .[5]
اكتشف بعد ذلك أن جميع الجسيمات الأولية تتصف بأن لها كم مغزلي ، بحسب أصنافها:
حيث:
ℏ
{\displaystyle \hbar }
ثابت بلانك المخفض.
وقدره
ℏ
{\displaystyle \hbar }
= 1.054571800×10−34 جول·ثانية
جسيمان لكل منهما Spin 1/2
محصلة العزم المغزلي لجسيمين مة ذوي العدد المغزلي 1/2 في نظام (مثل إلكترونين في الذرة) يمكن للمحصلتهما أن تتخذ المقدارين تكون
S
=
1
{\displaystyle \,S{\mathord {=}}1}
و
S
=
0
{\displaystyle \,S{\mathord {=}}0}
.
فإذا رمزنا لكل جسيم منهما بالرمز
|
↑
⟩
,
|
↓
⟩
{\displaystyle \left|\uparrow \right\rangle \ ,\left|\downarrow \right\rangle }
لحالة استقرارهما (حالة أرضية) فإنهما يكوّنان حالنين لهما الأعداد الكمومية
S
{\displaystyle S}
و
M
S
{\displaystyle M_{S}}
؛
حيث
M
S
{\displaystyle M_{S}}
يمثل العزم المغناطيسي الناشيء عن العزم المغزلي للإلكترونين في إتجاه معين .
{
|
⇈
⟩
,
1
2
(
|
↑↓
⟩
+
|
↓↑
⟩
)
,
|
⇊
⟩
}
−
{\displaystyle \{\ \left|\upuparrows \right\rangle \ ,\ {\tfrac {1}{\sqrt {2}}}(\left|\uparrow \downarrow \right\rangle +\left|\downarrow \uparrow \right\rangle )\ ,\ \left|\downdownarrows \right\rangle \ \}\quad -}
في حــــالة
S
=
1
,
M
S
=
+
1
,
0
,
−
1
{\displaystyle \,S{\mathord {=}}1\;,\ M_{S}=+1,\,0,\,-1}
أي أنها تشكل (حالة ثلاثية Triplett)؛ لأن
M
S
{\displaystyle M_{S}}
يمككن أت تتخذ ثلاثة قيم أو ثلاثة اتجاهات.
1
2
(
|
↑↓
⟩
−
|
↓↑
⟩
)
−
{\displaystyle {\tfrac {1}{\sqrt {2}}}(\left|\uparrow \downarrow \right\rangle -\left|\downarrow \uparrow \right\rangle )\quad -}
في حـــالة
S
=
0
,
M
S
=
0
{\displaystyle \,S{\mathord {=}}0,\;M_{S}{\mathord {=}}0}
أي أنها تشكل (حالة منفردةSingulett)؛ لأن
M
S
{\displaystyle M_{S}}
يمكن ان تتخذ قيمة أو اتجاه واحد.
في الحالتين عندما تكون
M
S
=
0
{\displaystyle M_{S}{\mathord {=}}0}
(أي عندما تكون مركبة مجموع العزمين المغزليين في الاتجاه z مساوية للصفر) فإنهما تشكلات أبسط حالة للتشابك . فهنا تعطي كل من محصلتي جمع العزمين المغزليين
|
↑↓
⟩
{\displaystyle \left|\uparrow \downarrow \right\rangle }
und
|
↓↑
⟩
{\displaystyle \left|\downarrow \uparrow \right\rangle }
وتكون مركبتهما في الاتجاه z مساوية 0 .
ولكن هذا لا ينطبق في حالة أن يكون للجسيمان عزمين مغزليين ليس متساويين ؛ مثل أختلاف العزم المغناطيسي لإلكترون و بروتون في ذرة الهيدروجين حيث يختلفا بنسبة 1:700 . فإذا رمزنا للإلكترون بعزمه الكبير للتوضيح بالرمز
|
⇑
⟩
{\displaystyle |\!\!\Uparrow \rangle }
وبالتالي
|
⇓
⟩
{\displaystyle |\!\!\Downarrow \rangle }
, فإن الحالتين لــ
(
M
S
=
0
)
{\displaystyle (M_{S}{\mathord {=}}0)}
تصبحان
1
2
(
|
⇑↓
⟩
±
|
⇓↑
⟩
)
{\displaystyle {\tfrac {1}{\sqrt {2}}}(\left|\Uparrow \downarrow \right\rangle \pm \left|\Downarrow \uparrow \right\rangle )}
. كل للعضوين المجموعين هنا له عزم مغناطيسي كبير يعادل العزم المغناطيس للإلكترون ويكون متحا إما في الاتجاه (+z) أو في الاتجاه(-z) , وتكون قيمة العزم المغناطيسي للذرة في حالة التشابك الكمي هذه في الاتجاه z مساوية للصفر . ويمكن رؤية أن الشرط أن يكون المجموعان
|
⇑↓
⟩
{\displaystyle \left|\Uparrow \downarrow \right\rangle }
و
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⇓↑
⟩
{\displaystyle \left|\Downarrow \uparrow \right\rangle }
في في حالة تشابك بالفعل حتى يتحقق ذلك.
انظر أيضا
ذرة
إحصاء فيرمي-ديراك
مبدأ استبعاد باولي
عزم مغناطيسي
مراجع
تصنيف:تناظر دوراني
تصنيف:كميات فيزيائية
تصنيف:نظرية الحقل الكمومي
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Richard Georg Strauss (11. kesäkuuta 1864, München, Baijeri – 8. syyskuuta 1949 Garmisch-Partenkirchen, Länsi-Saksa) oli saksalainen klassisen musiikin säveltäjä. Hänet muistetaan parhaiten sävelrunojen ja oopperoiden säveltäjänä. Strauss oli myös huomattava kapellimestari. Hän johti myös muun muassa Jean Sibeliuksen viulukonserton lopullisen version kantaesityksen Berliinissä 19. lokakuuta 1905 (Berliinin filharmonikot, solistina Karl Halír). Strauss ei ollut sukua wieniläiselle Johann Strauss vanhemmalle tai hänen pojilleen.
Elämä ja tuotanto
Varhainen kehitys
Richard Straussin lapsuudenkotia hallitsi musiikki, sillä hänen isänsä Franz Strauss soitti ammatikseen käyrätorvea Münchenin kuninkaallisessa oopperassa. Niinpä Richard aloitti säveltämisen jo kuusivuotiaana. Myöhemmin hän sai opetusta muun muassa kapellimestari Friedrich Meyeriltä ja sävelsi 15-vuotiaana ensimmäisen suurimuotoisen teoksensa, sinfonian d-molli. Hänen isänsä kunnioitti suuresti ”pyhää kolminaisuutta” Mozart–Haydn–Beethoven, joten nämä säveltäjät vaikuttivat suuresti myös Richardin varhaiseen musiikilliseen kehitykseen. Toisaalta hänen isänsä vihasi Richard Wagnerin musiikkia ja halusi suojella poikaansa tämän ”järkyttäviltä riitasoinnuilta”.
Strauss aloitti vuonna 1882 filosofian ja taidehistorian opinnot Münchenin yliopistossa, mutta hän keskeytti opintonsa melko pian ja ryhtyi keräämään kokemusta orkesterinjohtamisesta. Hänen merkittävin tuttavuutensa oli kuuluisa kapellimestari Hans von Bülow, joka johti Meiningenin hoviorkesteria. Kun Bülow lopetti työnsä Meiningenissa vuonna 1885, Strauss nimitettiin hänen seuraajakseen. Noina aikoina hän alkoi syventyä Franz Lisztin ja Richard Wagnerin musiikkiin. Isältä peritty Wagner-vastaisuus vaihtui vähitellen innokkaaksi wagnerismiksi.
Sävelrunot
Lisztin ja Wagnerin antama esimerkki innoitti Straussia säveltämään omia ohjelmallisia sävelteoksia. Teoksissa Aus Italien (1886) ja Macbeth (1887) hän osoitti hallitsevansa sävellystekniikan ja orkestroinnin, mutta etsi vielä omaa tyyliään. Vuonna 1895 valmistunut sävelruno Till Eulenspiegels on säilynyt suosittuna pienenä teoksena, jota esitetään yhä usein.
Vuonna 1888 sävellettyä Don Juania voidaan pitää Straussin ensimmäisenä kypsänä mestariteoksena. Se on sekä rakenteeltaan että orkestroinniltaan erittäin omaperäinen. Samalla se aloittaa Straussin suurten sävelrunojen kauden, joka jatkui koko 1890-luvun ajan ja tuotti viisi sävelrunoa lisää. Kuuluisin niistä on vaiheissaan Nietzschen samannimisen kirjan lukuja noudatteleva Also sprach Zarathustra (1896). Sen alussa on pitkä ja vaikuttava fanfaari, jota on myöhemmin käytetty monissa eri yhteyksissä, esimerkiksi Avaruusseikkailu 2001 -elokuvan alkumusiikkina. Teoksen myöhemmät vaiheet ovat sävyltään ja tunnelmiltaan jyrkän vaihtelevia. Esimerkiksi tiedettä käsittelevä osio alkaa akateemisen maailman kuivuutta kuvaavalla osiolla, jossa tapahtuu tuskin mitään. Kuivuus katkeaa kuitenkin pari minuuttia alkamisensa jälkeen äkilliseen puhaltimien ylipirteään osioon. Teoksen yksi huipentumista on maaninen ”tanssilaulu”.
Straussin musiikki on energistä, joskus suorastaan fyysisen päällekäyvää. Se rakentuu usein lyhyiden, iskevien motiivien varaan. Mutta Strauss kykenee tarvittaessa myös tunteisiin vetoavaan melodisuuteen. Ja vaikka hänen tyylinsä on toisinaan mahtipontinen, hän keventää kokonaisvaikutelmaa huumorilla, joka suuntautuu usein säveltäjään itseensä. Mahlerin teosten ohella Straussin sävelrunot ovat tunnetuimpia esimerkkejä myöhäisromantiikan ajan kehittyneimmästä soitinnuksesta. Strauss viljeli teoksissaan erilaisia soitinten yhdistelmistä muodostuvia ”efektejä”.
Straussin aikalainen, ranskalainen kirjailija Romain Rolland on kuvaillut tätä seuraavasti: ”Hän on barbaarien Shakespeare. Hänen taiteensa on kuin vuolas virta, joka vyöryttää päällemme kultaa, hiekkaa, kiviä ja roskaa. Hänellä ei ole juuri laisinkaan tyylitajua, vaan ainoastaan hulluutta lähentelevää väkivaltaisuutta.” Rolland oli kuitenkin Straussin innokas tukija. Ehkäpä edellä siteerattu lausunto kuvastaa sitä järkytystä, jonka Straussin perinteitä rikkova musiikki aiheutti monille 1800-luvun lopulla. Myöhemmin järkytys muuttui usein ihailuksi, aivan kuten oli käynyt aiemmin Richard Wagnerille.
Oopperat
Straussin ura jakautuu selvästi kahteen vaiheeseen. Aluksi hän keskittyi konserttimusiikkiin, kunnes vuoden 1905 paikkeilla siirsi mielenkiintonsa lähes täysin oopperaan.
Straussin ensimmäinen ooppera oli Guntram (1894). Kuten melkein kaikki oopperasäveltäjät tuohon aikaan, myös Strauss oli vahvasti Richard Wagnerin vaikutuksen alainen. Hän jopa kirjoitti itse libreton, aivan kuten Wagner oli aina tehnyt. Guntram sai kuitenkin yleisöltä ja kriitikoilta tyrmäävän vastaanoton.
Seuraava yritys oopperan parissa oli Feuersnot (1901), joka menestyi kohtalaisesti. Sen sijaan Straussin seuraavassa oopperassa, Oscar Wilden näytelmään perustuvassa Salomessa, ei ollut mitään kohtalaista. Salome oli yksi 1900-luvun suurimmista kulttuuriskandaaleista. Sen uudenlainen sävelkieli ja rohkean eroottis-uskonnollinen aihepiiri herättivät sekä vihaa että ihailua. Jopa Saksan keisari Vilhelm II osallistui kiihkeään keskusteluun siitä, oliko Salome rappion vai edistyksen oire saksalaisessa musiikissa.
Salome toi Straussin oopperat kansainväliseen tietoisuuteen, ja vuonna 1909 ensiesitetty Elektra vakiinnutti hänen asemansa aikansa suurimpien oopperasäveltäjien joukossa. Elektra oli monessa suhteessa Straussin modernein ooppera, ja sen jälkeen Straussilla olisi ollut vain lyhyt askel atonaalisen musiikin puolelle. Hän kuitenkin pysytteli perinteisessä tonaalisessa sävelkielessä, ja hänen seuraava oopperansa Ruusuritari (1910) viittasi enemmän Mozartin klassismiin kuin schönbergiläiseen atonaalisuuteen. Ruusuritari oli suurmenestys ja kuuluu yhä maailman eniten esitettyihin oopperoihin.
Erityisen tärkeäksi muodostui Straussin yhteistyö runoilija Hugo von Hofmannsthalin kanssa, joka kirjoitti libretot Elektraan, Ruusuritariin ja moniin muihin Straussin myöhempiin oopperoihin. Vain harvoin on säveltäjän ja libretistin yhteistyö toiminut niin hyvin kuin Straussilla ja Hofmannsthalilla.
Straussin oopperat muuttuivat Ruusuritarin jälkeen tyylillisesti hillitymmiksi. Hänen viimeinen oopperansa Capriccio (1942) on suorastaan vastakohta Salomelle. Se on hyvin hienovarainen ja pienimuotoinen tutkielma siitä, mikä on musiikin ja sanojen suhde oopperataiteessa. Tuohon aikaan tosin monet pitivät Straussia jonkinlaisena muinaismuistona. Klassinen musiikki oli lähtenyt uusille moderneille poluille, mutta Strauss viittasi myöhäistuotannossaan kauas taaksepäin musiikin historiaan.
Erityisen läheinen aihepiiri Straussille oli antiikin Kreikka ja sen mytologia: oopperat Die ägyptische Helena, Daphne ja Die Liebe der Danae perustuvat kreikkalaisiin taruihin. Strauss kutsuikin itseään ”kreikkalaiseksi germaaniksi”. Hän piti hyvin tärkeänä sitä, että säveltäjällä on musiikillisen osaamisen lisäksi vankka kirjallinen sivistys.
Straussin musiikissa vallitsee mielenkiintoinen sukupuoliin perustuva ”työnjako”. Lähes kaikissa Straussin oopperoissa päärooleja laulavat naiset; toisaalta hänen sävelrunojensa päähenkilöt ovat aina miehiä.
Muita teoksia
Sävelrunojen ohella Strauss sävelsi kaksi ohjelmallista sinfoniaa: Sinfonia Domestican (suom. 'kotisinfonia', 1904) ja Alppisinfonian (1915). Molemmat on sävelletty valtavan suurelle orkesterikokoonpanolle ja ne ovat muodoltaan ennemminkin sinfonian pituisia sävelrunoja kuin varsinaisia sinfonioita. Straussin sinfoniat ovat hyväntuulisia kuvauksia niistä asioista, joita hän elämässään eniten arvosti, eli kuvauksia onnellisesta perhe-elämästä ja kauniista alppimaisemista. Strauss liitti lisäksi Alppisinfoniaan jo Zarathustrassa esillä olleita teemoja uskonnon hylkäämisestä ja kutsui teostaan anti-kristilliseksi. Teoksen orkesterissa on yli 120 soittajaa, ja mukana on erillisiä koneita ukkosen ja tuulen äänien aikaansaamiseksi. Teos tunnetaan esimerkkinä erittäin mahtipontisesta orkestraatiosta. Myöhemmin siitä tuli ensimmäinen koskaan CD-levyllä julkaistu sävelteos. Deutsche Gramophon julkaisi sen Herbert von Karajanin levytyksenä.
Strauss palasi konserttimusiikin pariin uudelleen 1940-luvulla, kun hänellä oli ikää jo yli 80 vuotta. Vuonna 1945 jousiorkesterille sävelletty Metamorfooseja on hänen viimeisiä mestariteoksiaan. Sen tunnelma on hyvin surullinen, sillä se on omistettu sodassa tuhoutuneelle Saksalle. Teos perustuu vahvasti Beethovenin kolmannen sinfonian toisen osan hautajaismarssin teemaan, jota Metamorfooseja muuntelee ja varioi. Aivan teoksen lopussa marssin avaustahdit toistuvat nuotti nuotilta bassossa.
Lauluja Strauss sävelsi kahdessa vaiheessa: ensin uransa alkupuolella, ja sitten aivan sen lopussa. Straussin viimeinen suuri sävellys oli neljän laulun sarja Vier letzte Lieder, jonka hän sävelsi 84-vuotiaana. Laulut perustuivat Hermann Hessen ja Joseph von Eichendorffin runoihin, ja ne todistivat sen, että Strauss pystyi vanhanakin luomaan ajattoman kaunista musiikkia.
Yhteiskunnallinen toiminta
Strauss pyrki koko elämänsä ajan nostamaan ammattikuntansa arvostusta. Hänen mielestään säveltäjälle kuului maksaa yhtä hyvä palkkio kuin kenelle tahansa vaativan työn tekijälle. Hän myös pyrki vahvistamaan säveltäjien tekijänoikeuksia ja oli mukana perustamassa säveltäjien etuja ajavaa tekijänoikeusjärjestöä GEMA:ta.
Straussin oma toimeentulo oli suhteellisen hyvin turvattu, sillä hänen äitinsä Josephine oli varakkaasta suvusta. Lisäksi hän kuului Saksan parhaiten ansaitseviin säveltäjiin. Niinpä Straussin vaatimukset säveltäjien palkkioiden nostamisesta tulkittiin usein pahantahtoisesti ahneudeksi.
Tulkintoihin tarjosi ainesta myös Straussin käytös kansallissosialistien valtakaudella 1933–1945. Joseph Goebbels nimitti Straussin vuonna 1933 Kansanvalistus- ja propagandaministeriön musiikkiosaston Reichsmusikkammerin johtoon. Strauss ei ollut tuollaista tehtävää mitenkään erityisesti tavoitellut, mutta ei toisaalta torjunutkaan sitä. Tätä on myöhemmin haluttu tulkita yhteistyöksi kansallissosialistien kanssa. Lisäksi tiedetään, että Straussin ystäväpiiriin kuului monia aktiivisia kansallissosialisteja. Mutta toisaalta tiedetään myös, että Strauss oli jokseenkin epäpoliittinen ihminen, joka päiväkirjoissaan ja kirjeissään osoitti halveksuntansa kansallissosialismia kohtaan. Natsien kulttuuripoliitikasta hän kirjoitti: "Uskoisitko, että minua ikinä toimissani ohjaisi ajatus siitä, että olen "saksalainen"? Luuletko, että Mozart tiedosti "arjalaisuutensa" säveltäessään? Minulle on olemassa vain kahdenlaisia ihmisiä: lahjakkaita ja lahjattomia."
Straussilla ei ollut antisemitistisiä asenteita. Hänen miniänsä Alice oli juutalaista sukua, joten kansallissosialistinen rotuoppi määritteli Straussin lapsenlapset juutalaisiksi. Toinen todiste Straussin puolesta on, että hän ei suostunut poistamaan oopperansa Die Schweigsame Frau esitteistä ja mainosjulisteista juutalaisen libretistin Stefan Zweigin nimeä, vaikka viranomaiset niin vaativat. Tämä tulkittiin juutalaismyönteiseksi provokaatioksi, ja niinpä Strauss erotettiin Reichsmusikkammerin johtajan tehtävästä. Straussille ei ollut enää käyttöä kansallissosialistisessa kulttuuripolitiikassa ja propagandassa. Hän johti Reichsmusikkammeria vuoteen 1935, jolloin puolueen pääideologi Alfred Rosenberg vaikutti siihen, että hän joutui eroamaan,[1] ja hänen seuraajansa oli Peter Raabe vuodesta 1935. Erottamisen syyn taustalla oli myös Alfred Rosenbergin ja Joseph Goebbelsin valtataistalu.[2]
Richard Straussin elämäntavat
Strauss oli sikäli poikkeuksellinen säveltäjä, että hän ei kokenut työssään mitään suurta luomisen tuskaa. Hän sävelsi nopeasti ja vaivattomasti. Häntä harmitti se, että toisinaan oopperoiden librettojen valmistuminen kesti pitkään ja hän joutui odottamaan musiikillisten ideoidensa toteuttamista.
Straussin mieluisinta ajanvietettä oli kortinpeluu ja vuoristossa vaeltelu. Kaiken kaikkiaan hänen elämänsä oli varakkaan baijerilaisen porvarin elämää, turvallista ja tasapainoista. Poikkeuksen muodostaa tosin toisen maailmansodan aika, jolloin hän joutui olemaan huolissaan perheensä ja ystäviensä turvallisuudesta.
Strauss avioitui vuonna 1894 laulajatar Pauline de Ahnan (1863–1950) kanssa. Ahna oli tunnettu kiivaasta luonteestaan, ja hän piti miehelleen kovaa kuria. Avioliitto oli kuitenkin onnellinen, ja se kesti aina Richardin kuolemaan asti. Ahnan luonne toimi jopa tärkeänä inspiraation lähteenä Richardille, varsinkin teoksissa Ein Heldenleben ja Sinfonia Domestica. Avioliitosta syntyi vuonna 1897 poika Franz.
Strauss asui vuodesta 1908 Garmisch-Partenkirchenissä, jonne hän oli rakennuttanut suurehkon talon oopperasta Salome saamillaan tuloilla. Kapellimestarin työ vei häntä kuitenkin matkoille ympäri Eurooppaa ja Amerikkaa. Erityisen tärkeitä kaupunkeja Straussin uralla olivat Berliini, Dresden ja Wien. Synnyinkaupungissaan Münchenissä hän sen sijaan ei viihtynyt.
Strauss kuoli 8. syyskuuta 1949 Garmisch-Partenkirchenissä 85 vuoden ikäisenä. Hänen teoksensa kuuluvat yhä orkesterien ja oopperatalojen vakio-ohjelmistoon ympäri maailmaa.
Teoksia
Oopperat
Sävelrunot
Macbeth (1888/90)
Don Juan (1889)
Tod und Verklärung ("Kuolema ja kirkastus") (1891)
Till Eulenspiegels lustige Streiche ("Till Eulenspiegelin lystikkäät kujeet") (1895)
Also sprach Zarathustra ("Näin puhui Zarathustra") (1896)
Don Quixote (1898)
Ein Heldenleben ("Sankarin elämä") (1899)
Muita sävellyksiä orkesterille
1. käyrätorvikonsertto (1883)
Sinfonia f-molli (1884)
Sinfonia domestica (1904)
Eine Alpensinfonie ("Alppisinfonia") (1915)
Olympiahymni (1936)
2. käyrätorvikonsertto (1942)
Metamorphosen ("Metamorfooseja") jousiorkesterille (1945)
Oboekonsertto (1946)
Kaksoiskonsertto klarinetille, fagotille ja orkesterille (1947)
Balettimusiikkia
Josephslegende (1914)
Schlagobers (1924)
Muuta
Vier letzte Lieder (1948)
170 yksinlaulua (osa orkesterisäestyksellä, osa pianosäestyksellä)
Palkinnot ja tunnustukset
Adlerschild des Deutschen Reiches, 1934
Lähteet
Boyden, Matthew (1999): Opera – The Rough Guide. 2nd edition. ISBN 1-85828-456-2
Herzfeld, Friedrich (1970): Magie der Oper. Verlag Ullstein.
Viitteet
Aiheesta muualla
Poroila, Heikki: (koko sävellystuotanto listattuna)
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Luokka:Seulonnan keskeiset artikkelit
| https://fi.wikipedia.org/wiki/Richard%20Strauss |
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} | 거대 예수상이 있는 도시는 어디인가? | 세계 7대 불가사의 | korean | {
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세계 7대 불가사의(世界七大不可思議)는 사람의 손으로 이루어낸 가장 기적적인 건축물 일곱 가지를 일컫는다. 고대로부터 지금에 이르기까지 수많은 목록들이 작성되어 왔다. 가장 유명한 목록은 고대 그리스인이 생각해 낸 세계의 불가사의이다. 다만 중국의 만리장성, 인도의 타지마할이 언급되지 않고 있는 것을 미루어 보면, "세계"라는 말은 당시 그리스인들이 알고 있던 헬레니즘 문명권을 뜻하는 의미로 해석해야 할 것으로 보인다. 이 명칭은 기원전 약 3세기를 전후로 하여 쓰이기 시작하였으며, 당시의 그리스인들이 보고 들어서 알던, 주변의 발달된 문명 국가들이 이룩한 웅대한 건축 및 예술 작품을 일컫는다.
그리스의 시인 안티파트로스가 지은 시에 '고대의 세계 7대 불가사의'가 언급된다. 그런데 일곱 개의 이른바 "기적물"은 시대에 혹은 작가에 따라 약간의 차이가 있다. 퀴로스의 궁전, 바빌론의 바벨탑이 경우에 따라서 7대 기적물에 손꼽히기도 한다. 원래 파로스의 등대 대신 바빌론 성벽(이슈타르의 문)이 들어갔지만, 6세기에 교체되었다. 다음 목록은 전형적으로 꼽히는 고대 세계 7대 불가사의 목록이다.
대피라미드 (→ 이집트 문명)
바빌론의 공중 정원 (→ 바빌론)
알렉산드리아의 등대 (→ 알렉산드리아 → 파로스등대) 이를 복원하려는 시도가 있다.
에페소스의 아르테미스 신전 (→ 에페소스)
마우솔로스의 영묘 (→ 할리카르나소스)
올림피아의 제우스 상 (→ 올림피아, → 제우스)
로도스의 거상 (→ 로도스)
이들 중 대피라미드가 가장 오래 된 건조물인데, 유일하게 지금까지 건재하다.
중세의 세계 7대 불가사의
19세기와 20세기에 걸쳐, 일부 작가들은 중세에 지어진 불가사의들의 목록을 작성하기 시작했다. 아래 목록의 건축물들 중 상당수는 중세에 지어진 것이 아니지만, 중세의 불가사의로 잘 알려진 것들이다.[1][2]
전형적인 중세의 세계 7대 불가사의의 목록은 다음과 같다:[3][1][4][5]
스톤헨지
콜로세움
콤 엘 쇼카파의 카타콤베 (Catacombs of Kom el Shoqafa)
만리장성
영곡탑(靈谷塔)
하기야 소피아
피사의 사탑
이것들 외에 아래와 같은 것이 들어간다.
타지마할[6]
카이로 요새[7]
엘리 성당[8]
클루니 수도원[9]
현대의 세계 7대 불가사의
미국토목학회
미국토목학회는 현대의 불가사의 목록들을 작성했다.[10]
뉴세븐원더스 재단
2007년 7월 7일 스위스의 영화제작자이자 탐험가인 베르나르드 베버의 '뉴 세븐 원더스(New 7 Wonders)’ 재단이 포르투갈 리스본의 경기장에서 ‘신(新) 세계 7대 기적’을 발표했다.[11] 1999년부터 200여 개의 유적지를 접수받아 21개의 후보지를 선정한 뒤 인터넷과 휴대전화 메시지를 이용하여 여론조사를 통한 선정하는 방식이었다.[12] 그러나 전화로는 복수 응답이 가능하기 때문에[13] 그 여론조사는 과학적이지 않은 것으로 간주된다. ("확실히 비과학적").[14]
의 잉카 유적지 마추픽추
의 리우데자네이루 예수상
치첸이트사의 마야 유적지
만리장성
타지마할
의 고대도시 페트라
로마 콜로세움
출처 및 참고
외부 링크
분류:명수 7
분류:고대 기술사 | https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%84%B8%EA%B3%84%207%EB%8C%80%20%EB%B6%88%EA%B0%80%EC%82%AC%EC%9D%98 |
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الأمهره هم مجموعة عرقية تعيش في وسط مرتفعات إثيوبيا. تعدادهم حوال 23 مليون نسمة. يتكلمون اللغة الأمهرية لغة الحبشة الرسمية.
ديانتهم
يتبع معظم الأمهريون الديانة المسيحية الأرثوذكسية التي تؤمن بالطبيعة الواحدة. تحولوا إلى المسيحية في القرن الرابع الميلادي وبقيت معتقداتهم دون تغيير منذ ذاك الحين. ويستعملوا لغة "القيز" في طقوسهم وهي لغة قديمة لم تعد تستخدم الا في الكنيسة.
والكنيسة الأمهرية هي مختلفة عن المسيحية المعهودة إذ انها تمزج بين تعاليم التوراة، الإنجيل والمعتقدات الوثنية الشعبية. يمكن اعتبارها انها خليط من أربع معتقدات
الديانة المسيحية الأرثوذكسية التي تؤمن بالطبيعة الواحدة والتي تعترف بالله تعالى، الشيطان، القديسين والملائكة.
"الزار" و"الأدبار" وهم أرواح مسؤولين عن الحماية والقصاص.
"البودا" وهم بشر يملكون قدرة الاصابة بالشر.
"الغول" و"العفاريت" والذين يؤذون الاشخاص الذين يعترضونهم.
أعيادهم الرئيسية
لكل امهري قديس يحميه، لذا يقوم الافراد بالاحتفال بعيد شفيعه مع المعارف بشكل خاص.
وهناك اعياد عامة يحتفل بها كل الشعب مثل يوم القديسة مريم، وأعياد الملاكيين ميخائيل وغبريال والقديس جرجس. ويشمل الاحتفال تقديم الطعام معتمدين على الذبائح. كما هناك أكثر من 200 يوم في السنة مستحب فيهم الصوم.
ومن الاعياد الوطنية يوم معركة ادوا بذكرى الانتصار على الإيطاليين و"يوم الحرية" بذكرى انتهاء الحكم الشيوعي.
مراجع
Abebe, Daniel. Ethiopia in Pictures. Minneapolis Lerner Publications Co., 1988.
[http //www.africanet.com/africanet/country/ethiopia إثيوبيا]
تصنيف:شعوب أفروآسيوية
تصنيف:عرقيات مسيحية
تصنيف:قبائل الصومال
تصنيف:مجموعات عرقية في السودان
تصنيف:مجموعات عرقية في إثيوبيا
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Masinde muliro (alizaliwa mnamo 1922 na aliaga dunia mnamo 14 Agosti 1992) alikuwa mwanasiasa wa Kenya, mmoja wa viongozi wakuu katika kuchagiza siasa nchini Kenya. Alikuwa mpigania uhuru aliyejulikana na alifanya kampeni kwa ajili ya marejesho ya demokrasia ya vyama vingi nchini Kenya katika miaka yake ya mwisho.
Alikuwa muhawiliki asiye na mzaha wala huruma na mtu wa amani aliyejihusisha sana kwa siasa. Mmoja wa wanasiasa safi zaidi katika historia ya Kenya , rekodi ambayo inaweza pinzaniwa tu na Musikari Kombo na Ronald Ngala.
Alikuwa anajulikana kama mmoja wa viongozi bora ambao kamwe hawakuwahi kuwa rais, na kama hangeupa dunia mkono wa buriani, nafasi zilikuwa kwamba angemshinda Daniel Arap Moi kwa urais katika uchaguzi mkuu wa mwaka wa 1992.
Maisha Yake ya Awali
Henry Pius Masinde Muliro alizaliwa katika eneo la Kimilili nchini Kenya, mwana wa Muliro Kisingilie na mkewe Makinia. Wazazi wake walikufa wakati alipokuwa mchanga na alilelewa na kaka wa kambo, Aibu Naburuku.
Baada ya masomo ya shule ya msingi na ya upili nchini Kenya na Uganda, alijiunga na Chuo Kikuu cha Cape Town nchini Afrika Kusini mwaka wa 1949. Alijiunga na kozi ya Shahada ya Sanaa katika Kiingereza, Historia na Falsafaya Siasa, na alihitimu mwaka wa 1953 akiwa na shahada za na Sanaa na Elimu. Mwaka wa 1954 alirejea nyumbani na mke wa asili ya Afrika Kusini, na alifundisha kwa muda katika shule ya serikali. Mwaka wa 1957, alipiga moyo konde kuiacha kazi hiyo ya ualimu na kujiunga na siasa.
Siasa
Mwaka wa 1948, Muliro alijiunga na chama cha Kenya African Union (KAU), chama kilichoanzishwa kutetea maslahi ya Waafrika nchini Kenya ambayo wakati huo ilikuwa chini ya ukoloni.
Alipoacha kufunza mwaka wa 1957, aligombea kiti cha ubunge cha eneo bunge la Nyanza Kaskazini ambacho wakati huo kilikuwa kinashikiliwa na W.W.W. Awori (kakake mkongwe wa makamu wa rais wa zamani wa Kenya, Moody Awori). Muliro alishinda uchaguzi.
Miongoni mwa wabunge wenzake walikuwa Daniel Arap Moi ambaye aliyekuwa anawakilisha Bonde la Ufa, Tom Mboya ambaye aliyekuwa anawakilisha eneo la Nairobi, Bernard Mate ambaye aliyekuwa anawakilisha Mkoa wa Kati, Ronald Ngala ambaye aliyekuwa anawakilisha Mkoa wa Pwani, James Nzau Muimi ambaye aliyekuwa anawakilisha Mkoa wa Mashariki, Lawrence Oguda ambaye aliyekuwa anawakilisha Nyanza Kusini na Oginga Odinga ambaye aliyekuwa anawakilisha Nyanza ya Kati. Mwaka wa 1958 Muliro alianzisha chama cha Kenya National Party huku akiungwa mkono na wanachama 9 wa Legco(Legislative Council). Kisha alikibomia chama hicho na kujiunga na chama cha Kenya African Democratic Union (KADU). Hatimaye aliteuliwa kama Waziri wa Biashara kabla tu ya Kenya kupata uhuru mwaka wa 1963.
Muliro alihudumu katika nyadhifa mbalimbali katika serikali za baadaye, lakini mara kwa mara alikuwa katika upande mbaya wa Rais Jomo Kenyatta. Baada ya kifo chake Kenyatta, Muliro alirejea Bungeni baada ya kushinda ombi mahakamani. Alihudumu kama mbunge wa eneo bunge la Kitale Mashariki hadi mwaka wa 1988, wakati eneo bunge hili liligawanywa. Alishinda kiti kipya cha ubunge cha eneo bunge la Cherangany mwaka wa 1988, lakini alishikilia nyadhifa hiyo kwa muda wa miaka miwili tu. Katika uchaguzi wa wabunge wa mwaka wa 1990, kiti hicho cha Cherangany kilishindwa na Kipruto Arap Kirwa.
Kampeni ya Vyama vingi
Mwaka wa 1989, Muliro aliungana na Kenneth Matiba, Charles Rubia, Martin Shikuku, Phillip Gachoka na Oginga Odinga kuunda FORD (Forum for Restoration of Democracy), ni kundi shinikizo lililotaka kurejeshwa kwa siasa ya vyama vingi. Baada ya mapigano ya vurugu kati ya wafuasi wa FORD polisi na wafuasi wa serikali na polisi, serikali ya KANU lilikubali siasa ya vyama vingi mwaka wa 1991. FORD ikawa chama huku Muliro akiwa Makamu wa Mwenyekiti.
Kutoelewana kuliepuka kati ya wapinzani wakuu wawili, Oginga Odinga na Kenneth Matiba, kila mmoja wao akigombea urais na kutotaka kuwasikiliza wanachama wenzao. Ilikuwa muda mfupi baadaye wakati Muliro aliondoka na kuelekea London ili kuchangisha fedha kwa ajili ya chama kipya cha kisiasa cha Ford. Ilikuwa safari ya bahati mbaya: kwani alipokuwa anarejea, alipowasili katika uwanja wa ndege wa Nairobi asubuhi ya tarehe 14 Agosti 1992 akizimia na kufa. Utata wa kifo chake uliimarishwa kwa kutokuwepo kwa uchunguzi rasmi wa mwili yake. Muliro alizikwa katika shamba yake katika eneo la Kitale nchini Kenya.
Chama cha FORD kiligawanyika katika makundi mawili baada ya kifo cha Muliro kutokana na kutokubaliana kuhusu na nani ambaye angegombea kiti cha urais dhidi ya Rais Moi. Kenneth Matiba na Martin Shikuku wakidai kuwa wao ndio wamiliki halisi wa FORD na walijiondia na kuunda chama cha Ford Asili huku Odinga na wengine wakijitenga na kuunda Ford Kenya. . Iwapo Masinde Muliro hangeaga dunia, FORD ya awali ingebakia kwa umoja na pengine chama hiki kingemwondoa rais Moi na chama tawala cha KANU utawalani katika uchaguzi mkuu wa mwaka wa 1992.
Marejeo
Simiyu Wandiiba. Masinde muliro: A Biography (Nairobi: EAEP, 1996)
Jamii:Waliozaliwa 1922
Jamii:Waliofariki 1992
Jamii:Wanasiasa wa Kenya | https://sw.wikipedia.org/wiki/Masinde%20Muliro |
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ตำนานบุตรแห่งฮูริน (English: The Children of Húrin) เป็นนวนิยายแฟนตาซีระดับสูงแบบมหากาพย์ที่บรรยายในลักษณะร้อยแก้ว ประพันธ์โดยเจ. อาร์. อาร์. โทลคีน ซึ่งได้เริ่มโครงเรื่องไว้ตั้งแต่ต้นคริสต์ทศวรรษ 1910 และได้ปรับแก้เนื้อหาหลายต่อหลายครั้ง จนกระทั่งโทลคีนเสียชีวิตในปี ค.ศ. 1973 เรื่องนี้ก็ยังไม่เสร็จเรียบร้อยพอจะตีพิมพ์ได้ คริสโตเฟอร์ โทลคีน บุตรชายของเขา ได้นำต้นฉบับทั้งหมดมาเรียบเรียงขึ้นใหม่และใส่บทบรรยายเพิ่มเติมจนสำเร็จ ได้ตีพิมพ์เป็นครั้งแรกในปี ค.ศ. 2007 ออกวางจำหน่ายพร้อมกันทั้งในอังกฤษและสหรัฐอเมริกา สำหรับประเทศไทยมีการแปลและพิมพ์จำหน่ายในปี ค.ศ. 2008 โดยสำนักพิมพ์แพรวเยาวชน
ตำนานบุตรแห่งฮูริน เล่าถึงเรื่องราวชะตากรรมของบรรดาบุตรของฮูริน ทายาทตระกูลฮาดอร์ ชาวมนุษย์ในปกรณัมชุดมิดเดิลเอิร์ธ ซึ่งมีชีวิตอยู่ในยุคที่หนึ่งของอาร์ดา ได้แก่ ทูริน ทูรัมบาร์ และ นิเอนอร์ นีนิเอล พวกเขาทั้งหมดต้องคำสาปจากจอมมารมอร์กอธให้ประสบแต่ความหายนะในชีวิต เนื่องจากฮูรินไม่ยินยอมอยู่ใต้บังคับของมอร์กอธ
ภูมิหลังของเรื่อง
ประวัติความเป็นมาของบรรพชนของตัวละครเอกของเรื่อง ได้เล่าสรุปไว้ในช่วงต้นของหนังสือ ซึ่งเป็นเรื่องที่มีอยู่ใน ซิลมาริลลิออน แล้ว กล่าวคือ เมื่อ 500 ปีก่อนที่เหตุการณ์ในหนังสือเล่มนี้จะเกิดขึ้น มอร์ก็อธเทพอสูรได้ขโมยดวงมณีซิลมาริลและหลบหนีออกจากแผ่นดินอันศักดิ์สิทธิ์วาลินอร์กลับมายังมิดเดิลเอิร์ธทางด้านตะวันตกเฉียงเหนือ เขาจัดตั้งป้อมปราการใต้ดินขึ้นทางตอนเหนือของโลก ชื่อว่า อังก์บันด์ เป็นแหล่งชุมนุมเหล่าบริวารเพื่อครอบครองมิดเดิลเอิร์ธทั้งหมด มอร์ก็อธทำสงครามกับพวกเอลฟ์ซึ่งอาศัยอยู่ในแผ่นดินเบเลริอันด์ในทางใต้เรื่อยมา
พวกเอลฟ์สามารถสยบการรุกรานของมอร์ก็อธได้ชั่วระยะเวลาหนึ่ง อาณาจักรทั้งหลายจึงได้สงบสุข ในจำนวนนี้ อาณาจักรที่มีอำนาจมากที่สุดคือ โดริอัธ ภายใต้การปกครองของกษัตริย์ธิงโกล เสื้อคลุมเทา เจ้าแห่งเอลฟ์ชาวซินดาร์ ส่วนพวกโนลดอร์ที่ไล่ติดตามมอร์ก็อธมาจากวาลินอร์ได้ครองดินแดนต่างๆ กัน และร่วมมือกับชาวซินดาร์บางส่วนช่วยกันต่อต้านมอร์ก็อธ อาณาจักรสำคัญของชาวโนลดอร์ ประกอบด้วย ดอร์-โลมินและฮิธลุม ของกษัตริย์ฟิงกอน นาร์โกธรอนด์ของฟินร็อด และ กอนโดลินของทัวร์กอน
เมื่อเวลาผ่านไปได้ 300 ปี มนุษย์กลุ่มแรกก็เดินทางมาถึงแผ่นดินเบเลริอันด์ มนุษย์เหล่านี้เรียกว่า ชาวเอไดน์ เป็นกลุ่มคนที่ไม่ยอมรับการปกครองของมอร์ก็อธ และอพยพหนีมาทางตะวันตกเพื่อค้นหาแสงสว่าง พวกเอลฟ์ต้อนรับเหล่ามนุษย์อย่างดี และพวกเขาก็ได้ตั้งถิ่นฐานทั่วไปในแผ่นดินเบเลริอันด์ ชาวเอไดน์ประกอบด้วยสามตระกูลใหญ่ ตระกูลเบออร์ได้รับครองดินแดนลาดรอส ตระกูลฮาเล็ธอาศัยอยู่ในป่าเบรธิล ส่วนตระกูลฮาดอร์ได้ครองแผ่นดินดอร์-โลมิน หลังจากชาวเอไดน์แล้วยังมีมนุษย์เดินทางติดตามเข้ามาภายหลังอีก พวกนี้เรียกว่า ชาวอีสเตอร์ลิง ส่วนมากคนกลุ่มนี้จะตกอยู่ใต้อำนาจของมอร์ก็อธ
เวลาต่อมา มอร์ก็อธสามารถทำลายการปิดล้อมอังก์บันด์ของพวกเอลฟ์ลงได้ในสงครามแห่งเพลิงฉับพลัน ตระกูลเบออร์ถูกทำลายจนเกือบหมด พวกเอลฟ์และมนุษย์ได้รับความเสียหายอย่างหนัก แต่ก็ยังมีอีกหลายอาณาจักรที่รอดมาได้ ในจำนวนนี้รวมถึงดอร์-โลมิน ซึ่งเวลานั้น ฮูริน ธาลิออน ได้ขึ้นเป็นเจ้าแคว้น
โครงเรื่อง
ฮูริน เป็นมนุษย์ชาวเอไดน์แห่งตระกูลฮาดอร์ ซึ่งเป็นหนึ่งในสามตระกูลใหญ่ ซึ่งครองแว่นแคว้นดอร์-โลมิน มีน้องชายชื่อ ฮูออร์ ฮูรินแต่งงานกับมอร์เวน และมีบุตรชายคนโตคือ ทูริน บุตรสาวคนเล็กคือ อัวร์เวน แว่นแคว้นดอร์-โลมินเป็นแผ่นดินศักดินาที่ฟิงโกลฟินกษัตริย์เอลฟ์มอบให้แก่ตระกูลฮาดอร์ ตั้งอยู่ทางตอนเหนือใกล้กับอาณาจักรของมอร์ก็อธ จึงได้รับผลกระทบจาก "ลมหายใจปีศาจ" อัวร์เวนกับเด็กๆ ชาวมนุษย์จำนวนมากต้องเสียชีวิต ต่อมาชาวฮาดอร์ยกทัพเข้าร่วมรบในสงครามเนียนายธ์อาร์นอยดิอัด กับทัพเอลฟ์ แต่แตกพ่ายยับเยิน ฮูรินถูกมอร์ก็อธจับตัวไปได้ เพื่อเค้นถามความลับที่ซ่อนตัวของอาณาจักรกอนโดลิน ที่ฮูรินกับฮูออร์เคยไปเยือนเมื่อสมัยยังเด็ก แต่ฮูรินไม่ยอมจึงถูกมอร์ก็อธสาปแช่งทั้งตระกูล
แคว้นดอร์-โลมินตกเป็นเชลยสงครามให้กับพวกอีสเตอร์ลิงที่เป็นสมุนของมอร์ก็อธ มอร์เวนจึงลอบส่งตัวทูรินให้หนีไปยังอาณาจักรโดริอัธของกษัตริย์ธิงโกล ทูรินเติบโตขึ้นในดินแดนของพวกเอลฟ์ แต่ก็คิดถึงแม่และแผ่นดินเกิดอยู่ตลอด วันหนึ่งทูรินเกิดเหตุวิวาทกับเอลฟ์ที่ปรึกษาคนหนึ่งของธิงโกลที่เกลียดชังชาวมนุษย์ ชื่อซายรอส แล้วเกิดอุบัติเหตุทำให้ซายรอสเสียชีวิต ทูรินจึงหนีออกจากอาณาจักรโดริอัธเพราะความกดดันที่ต้องอยู่เป็นผู้ลี้ภัย และไม่ต้องการรับการอภัยโทษ เขาไปอยู่กับพวกโจรในป่า เที่ยวปล้นชิงบ้านเรือนผู้คน เมื่อธิงโกลทราบเรื่องก็ส่งคนออกตามหา แต่ไม่มีใครหาทูรินพบเลย
ทูรินได้ขึ้นเป็นหัวหน้าโจร แล้วพาพวกโจรออกตระเวนไปในป่า พยายามไม่เข้าไปปล้นชิงชาวบ้านอีก ระหว่างนี้เอง เบเล็ก จอมธนู นายทัพเอลฟ์ซึ่งเป็นสหายสนิทของทูริน และได้ออกติดตามหาทูรินด้วยอย่างไม่ลดละ ได้ติดตามมาจนทัน เขาพยายามเกลี้ยกล่อมให้ทูรินกลับไปโดริอัธด้วยกัน และช่วยป้องกันชาวบ้านจากการรุกรานของพวกออร์ค แต่ทูรินไม่ยินยอม เบเล็กจึงกลับไปยังชายแดนด้านเหนือเพื่อเข้าร่วมกับกองทัพเอลฟ์ปราบพวกออร์ค ส่วนทูรินก็พาคณะโจรเร่ร่อนต่อไป
วันหนึ่งคณะโจรจับตัวคนแคระค่อมชื่อ มีม ได้ และบังคับให้มอบที่อยู่เป็นการไถ่ตัว มีมจึงพาพวกโจรไปอยู่ด้วยกันบนเขาอะมอนรูธ พวกเขาอยู่ด้วยกันอย่างมีความสุขชั่วเวลาหนึ่ง จนกระทั่งฤดูหนาวอันโหดร้ายมาถึง เบเล็กก็ปรากฏตัวขึ้นอีกครั้งพร้อมกับเสบียง และได้ช่วยรักษาพยาบาลคนเจ็บป่วย เบเล็กนำเอาหมวกเกราะมังกรแห่งฮาดอร์มามอบให้ทูรินด้วย หลังจากนั้นทั้งสองได้ร่วมกันสร้างกองทัพต่อต้านมอร์ก็อธ บรรดาคนเร่ร่อนหรือทหารหนีทัพในแถบนั้นก็พากันมาเข้าร่วมจนกลายเป็นกองทัพใหญ่
แต่คนแคระมีมไม่ชอบเอลฟ์ เขาจึงทรยศโดยการยอมตกลงกับพวกออร์ค พาทัพออร์คลอบมาโจมตีอะมอนรูธ ทัพโจรของทูรินแตกพ่ายตายหมด ทูรินถูกพวกออร์คจับตัวไป ส่วนเบเล็กถูกทิ้งเอาไว้ ทว่าสหายโจรคนหนึ่งช่วยเบเล็กไว้ได้ก่อนที่ตัวเองจะสิ้นชีพ ส่วนมีมหนีไปด้วยความกลัว
เบเล็กออกเดินทางติดตามค้นหาทูริน ระหว่างทางได้พบกับเอลฟ์แห่งนาร์โกธรอนด์ ชื่อ กวินดอร์ ซึ่งถูกจับตัวไปเป็นทาสในอังก์บันด์แต่หนีออกมาได้ ทั้งสองตามไปช่วยทูรินออกมาจากค่ายออร์ค แต่ทูรินที่ถูกทรมานมาอย่างหนักจนแทบสิ้นสติ เข้าใจผิดไปว่าผู้มาช่วยจะเข้ามาทำร้ายตัว จึงพลั้งมือสังหารเบเล็กไปด้วยความเข้าใจผิด โดยใช้ดาบอังกลาเฅลของเบเล็กนั่นเอง
กวินดอร์พาทูรินผู้หัวใจแหลกสลายกลับไปยังนาร์โกธรอนด์ด้วยกัน เขาได้รับการต้อนรับอย่างดี ทั้งด้วยชาติตระกูลและฝีมือรบอันแข็งแกร่ง ไม่นานทูรินก็กลายเป็นที่โปรดปรานของกษัตริย์โอโรเดร็ธ เจ้าผู้ครองนาร์โกธรอนด์ ทั้งยังกุมหัวใจของฟินดุยลัสพระราชธิดาไว้ด้วย ดาบอังกลาเฅลได้ถูกตีขึ้นใหม่เป็นดาบสีดำสนิท ทูรินเรียกชื่อมันว่า กัวร์ธัง และผู้คนก็พากันเรียกทูรินว่า จอมดาบดำ เขานำทัพออกสู้กับพวกออร์คหลายครั้ง ชื่อเสียงของจอมดาบดำก็ลือเลื่องไปทั่ว จนดินแดนทั่วไปกลับสงบสุขอีกครั้งหนึ่ง
แต่ทูรินเป็นคนหุนหันใจร้อน เขาเสนอให้ทัพนาร์โกธรอนด์ต่อสู้กับมอร์ก็อธอย่างเปิดเผย แทนที่จะมัวซุ่มโจมตีอยู่ และให้สร้างสะพานใหญ่ทอดข้ามแม่น้ำนาร็อกไปถึงประตูแห่งเฟลากุนด์ กวินดอร์พยายามคัดค้านแต่ไม่มีใครเชื่อฟังเขาเลย
ในที่สุดทัพนาร์โกธรอนด์ก็ถูกมอร์ก็อธบดขยี้จนสิ้น โอโรเดร็ธและกวินดอร์ตายในที่รบ ส่วนฟินดุยลัสถูกจับตัวไปพร้อมเชลยจำนวนมาก โดยที่ทูรินไม่สามารถช่วยไว้ได้ทัน เพราะเขาถูกมังกรเกลารุงเพ่งมนตร์สะกดเอาไว้ และล่อหลอกให้เขาพะวงถึงมารดากับน้องสาวที่ดอร์-โลมิน จึงรีบหวนกลับไปบ้านเกิดแทนที่จะตามไปช่วยฟินดุยลัส ทว่ามอร์เวนกับนิเอนอร์ น้องสาวของเขา ได้เดินทางมาถึงโดริอัธเสียนานแล้ว ทูรินจึงไปพบแต่เพียงบ้านร้าง และอาละวาดสังหารพวกอีสเตอร์ลิงไปจำนวนหนึ่ง ก่อนจะหนีกลับออกมาและเดินทางไล่ติดตามหาฟินดุยลัสอย่างสิ้นหวัง
ทูรินเดินทางมาจนถึงเขตป่าเบรธิล ดินแดนในปกครองของบรันเดียร์แห่งตระกูลฮาเล็ธ และได้ทราบว่า ฟินดุยลัสถูกพวกออร์คสังหารสิ้นชีวิตเสียแล้ว เขาจึงละทิ้งชื่อและชะตาของตน เปลี่ยนชื่อใหม่เป็น ทูรัมบาร์ ซึ่งหมายถึง ผู้ชำนะโชคชะตา แล้วอยู่กับชาวเบรธิลสืบต่อมา
ด้านอาณาจักรโดริอัธ เมื่อนาร์โกธรอนด์แตก ก็พากันกระวนกระวายใจ ธิงโกลห้ามมอร์เวนกับนิเอนอร์มิให้ด่วนเดินทางออกไป แต่ทั้งสองไม่เชื่อฟัง ธิงโกลจึงส่งกองทหารเอลฟ์ติดตามไปอารักขาและสืบข่าว ทั้งหมดไปถึงนาร์โกธรอนด์ แต่พบมังกรเกลารุงนอนเฝ้าสมบัติอยู่ มันพ่นพิษฟุ้งจนกองทหารทั้งเอลฟ์ทั้งม้าแตกไปคนละทิศละทาง มอร์เวนสูญหายไป ส่วนนิเอนอร์ตกอยู่ในมนตร์สะกดของมังกร กลายเป็นใบ้ ไม่ได้ยิน และไม่ตอบสนองอย่างใดเลย มาบลุงนายทัพเอลฟ์ผู้นำกองกำลังอารักขาเสียใจมาก เขาพยายามพานิเอนอร์กลับคืนยังโดริอัธ แต่ระหว่างทางถูกพวกออร์คซุ่มโจมตี นิเอนอร์ตกใจเตลิดหนีหายไป พวกเอลฟ์เมื่อสังหารออร์คแล้วก็ติดตามหาไม่พบ
ฝ่ายนิเอนอร์เตลิดหนีไปจนถึงเขตป่าเบรธิล และล้มลงสิ้นสติบนเนินพระศพของฟินดุยลัส ทูรินกับพวกพรานป่ามาพบเข้า จึงพานางกลับไปรักษาที่ค่ายเพนียดของตน นิเอนอร์ค่อยๆ ฟื้นกำลัง และหัดพูดถ้อยคำ แต่นางจำความเป็นมาของตัวเองไม่ได้เลย
บรันเดียร์หลงรักนิเอนอร์ แต่นิเอนอร์กลับรักทูริน และทูรินก็รักนาง ทั้งสองจึงแต่งงานกัน ทว่าทูรินยังคงออกรบกับพวกออร์คตามชายแดนอยู่เสมอ ชื่อเสียงของจอมดาบดำทำให้เกลารุงหันความสนใจมายังเบรธิล และเดินทางมุ่งหน้ามายังป่าแห่งนี้ ทูรินกับอาสาสมัครชาวบ้านป่าสองคนออกไปดักสู้กับเกลารุง โดยอาศัยหลบซ่อนอยู่ใต้หน้าผา และลอบแทงมังกรจากใต้ท้องซึ่งเป็นจุดอ่อนที่ไม่มีเกราะแข็งคุ้มกัน มังกรถูกแทงเสียชีวิต แต่ก่อนตายมันคลายมนตร์สะกดให้นิเอนอร์จำความเป็นมาของตัวได้ ทูรินสลบไป เมื่อนิเอนอร์รำลึกถึงความเป็นมาทั้งหมดก็สยดสยองใจที่สุดเมื่อรู้ว่าที่แท้ ทูรัมบาร์คนรักของตน คือทูริน พี่ชายแท้ๆ ของตัวเอง นิเอนอร์กระโดดหน้าผาตาย ส่วนทูรินเมื่อฟื้นมาทราบว่านิเอนอร์ตายแล้วและที่แท้นางเป็นน้องสาวของตัวเอง ก็ฆ่าตัวตาย
ประวัติการประพันธ์และการตีพิมพ์
ตำนานบุตรแห่งฮูริน แต่เดิมเป็นงานเขียนร้อยแก้วของโทลคีน ในหนังสือ ประมวลตำนานอันสาบสูญ (The Book of Lost Tales) เป็นวรรณกรรมหนึ่งในสามเรื่องเอกของโทลคีนนับตั้งแต่ยุคแรกเริ่มก่อนการประพันธ์ ลอร์ดออฟเดอะริงส์ มีชื่อเรื่องเมื่อประพันธ์ครั้งแรกใน ค.ศ. 1919 ว่า เรื่องของทูรินกับโฟอาโลเค[1] ต่อมาโทลคีนนำบทประพันธ์นี้ไปแต่งขึ้นใหม่เป็นกวีนิพนธ์ ใช้ชื่อว่า ทูริน บุตรแห่งฮูริน กับกลอรุนด์เจ้ามังกร โดยใช้เวลาประพันธ์อยู่หลายปี เป็นบทกวีนิพนธ์ขนาดยาวหลายพันบรรทัด[1] แต่ยังแต่งไม่จบ ระหว่างนั้นโทลคีนก็ประพันธ์งานชิ้นอื่นๆ ไปด้วย โดยมีงานชิ้นใหญ่ที่สุดที่ขัดขวางการประพันธ์ผลงานอื่นของเขาไปเป็นเวลานานหลายปี คือการประพันธ์เรื่อง ลอร์ดออฟเดอะริงส์ ในราวปลายคริสต์ทศวรรษ 1940
หลังจาก ลอร์ดออฟเดอะริงส์ ได้ตีพิมพ์เผยแพร่ โทลคีนจึงหันมาเอาใจใส่กับงานเขียนในยุคแรกๆ ของเขาอีกครั้ง เขาได้ปรับปรุงแก้ไขเนื้อหาของ ตำนานบุตรแห่งฮูริน ไปอีกมาก แต่ยังไม่ได้เรียบเรียงให้สมบูรณ์พอสำหรับการตีพิมพ์ เมื่อโทลคีนเสียชีวิตในปี ค.ศ. 1973 งานเขียนชุดนี้รวมทั้งงานอื่นๆ ของเขาอีกจำนวนมากจึงยังไม่ได้รับการตีพิมพ์
คริสโตเฟอร์ โทลคีน ได้รวบรวมงานเขียนที่กระจัดกระจายของโทลคีน เรียบเรียงออกมาเป็นผลงานหลายเล่ม เช่น ซิลมาริลลิออน Unfinished Tales รวมถึงหนังสือชุดประวัติศาสตร์มิดเดิลเอิร์ธ ซึ่งทยอยออกสู่บรรณพิภพมาเป็นลำดับ ล่าสุดเขาได้เรียบเรียงงานเขียนเรื่อง ตำนานบุตรแห่งฮูริน ออกสู่บรรณพิภพได้สำเร็จในปี ค.ศ. 2007 โดยออกวางจำหน่ายครั้งแรกเมื่อวันที่ 17 เมษายน 2007 พร้อมกันทั้งในประเทศอังกฤษและสหรัฐอเมริกา
แม้หนังสือเล่มนี้จะตีพิมพ์หลังจากการเสียชีวิตของโทลคีนไปแล้วกว่า 30 ปี ผลตอบรับจากแฟนหนังสือยังคงเป็นไปในทางที่ดีอย่างยิ่ง โดยได้ขึ้นเป็นหนังสือขายดีอันดับหนึ่งของนิวยอร์กไทมส์ ภายในเวลา 3 สัปดาห์หลังจากเปิดตัว[2]
ดูเพิ่ม
ยุคสมัย
ยุคแห่งวาลาร์
ยุคแห่งชวาลา
ยุคแห่งพฤกษา
ยุคแห่งตะวัน
นิยายที่เกี่ยวข้อง
เดอะลอร์ดออฟเดอะริงส์
เดอะฮอบบิท
ตำนานแห่งซิลมาริล
Unfinished Tales
ประวัติศาสตร์มิดเดิลเอิร์ธ
อ้างอิง
แหล่งข้อมูลอื่น
จาก Tolkien Estate (in English)
จาก Tolkien Library (in English)
เป็นเว็บไทย ที่มีเรื่องเกี่ยวกับ ซิลมาริลลิออน ลอร์ดออฟเดอะริงส์ และเรื่องอื่นๆ ของคุณโทลคีน
หมวดหมู่:ปกรณัมชุดมิดเดิลเอิร์ธ
หมวดหมู่:วรรณกรรมภาษาอังกฤษ
หมวดหมู่:วรรณกรรมแปล
| https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%95%E0%B8%B3%E0%B8%99%E0%B8%B2%E0%B8%99%E0%B8%9A%E0%B8%B8%E0%B8%95%E0%B8%A3%E0%B9%81%E0%B8%AB%E0%B9%88%E0%B8%87%E0%B8%AE%E0%B8%B9%E0%B8%A3%E0%B8%B4%E0%B8%99 |
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Kerajaan Thai (nama resmi Thai: ราชอาณาจักรไทย Ratcha Anachak Thai; atau Prathēt Thai), yang lebih sering disebut Thailand dalam bahasa Inggris, atau dalam bahasa aslinya Mueang Thai (dibaca: "meng-thai", sama dengan versi Inggrisnya, berarti "Negeri Thai"), adalah sebuah negara di Asia Tenggara yang berbatasan dengan Laos dan Kamboja di timur, Malaysia dan Teluk Siam di selatan, dan Myanmar dan Laut Andaman di barat. Kerajaan Thai dahulu dikenal sebagai Siam sampai tanggal 11 Mei 1949. Kata "Thai" (ไทย) berarti "kebebasan" dalam bahasa Thai, namun juga dapat merujuk kepada suku Thai, sehingga menyebabkan nama Siam masih digunakan di kalangan warga negara Thai terutama kaum minoritas Tionghoa dan Amerika.
Sejarah
Asal mula Kerajaan Thai secara tradisional dikaitkan dengan sebuah kerajaan yang berumur pendek, Kerajaan Sukhothai yang didirikan pada tahun 1238. Kerajaan ini kemudian diteruskan Kerajaan Ayutthaya yang didirikan pada pertengahan abad ke-14 dan berukuran lebih besar dibandingkan Sukhothai. Kebudayaan Kerajaan Thai dipengaruhi dengan kuat oleh Tiongkok dan India. Hubungan dengan beberapa negara besar Eropa dimulai pada abad ke-16 namun meskipun mengalami tekanan yang kuat, Kerajaan Thai tetap bertahan sebagai satu-satunya negara di Asia Tenggara yang tidak pernah dijajah oleh negara Eropa[1], (namun pernah diduduki oleh tentara Jepang sebagai Teritori Imperial. Oleh karena mendapat pengaruh dan tekanan bangsa Barat yang mengakibatkan berbagai perubahan pada abad ke-19 maka diberikan banyak kelonggaran bagi pedagang-pedagang Britania di Thailand.
Sebuah revolusi tak berdarah pada tahun 1932 menyebabkan dimulainya monarki konstitusional. Sebelumnya dikenal dengan nama Siam, negara ini mengganti nama internasionalnya menjadi "Thailand" pada tahun 1939 dan untuk seterusnya, setelah pernah sekali mengganti kembali ke nama lamanya pasca-Perang Dunia II. Pada perang tersebut, Kerajaan Thai bersekutu dengan Jepang; tetapi saat Perang Dunia II berakhir, Kerajaan Thai menjadi sekutu Amerika Serikat. Beberapa kudeta terjadi dalam tahun-tahun setelah berakhirnya perang, namun Kerajaan Thai mulai bergerak ke arah demokrasi sejak tahun 1980-an.
Kalender Kerajaan Thai didasarkan pada Tahun Buddha, yang lebih cepat 543 tahun dibandingkan kalender Barat. Tahun 2000 Masehi sama dengan tahun 2543 dalam kalender Kerajaan Thai.
Pada tanggal 26 Desember 2004, pesisir barat Kerajaan Thai diterjang tsunami setinggi 10 meter setelah terjadinya gempa bumi Samudra Hindia 2004, menewaskan 5.000 orang di Kerajaan Thai, dan setengahnya merupakan wisatawan.
Pada awal 2005 terjadi sebuah tragedi di Kerajaan Thai Selatan yang mempunyai populasi dengan mayoritas Muslim. Sekitar 70 orang terbunuh akibat kekerasan yang dilakukan oleh rezim Shinawatra. Banyak negara yang mengecam keras tragedi ini. Namun dalam pemilihan kepala pemerintahan, Thaksin Shinawatra kembali memerintah negara ini untuk empat tahun berikutnya.
Ekonomi
Setelah menikmati rata-rata pertumbuhan tertinggi di dunia dari tahun 1985 hingga 1995 - rata-rata 9% per tahun - tekanan spekulatif yang meningkat terhadap mata uang Kerajaan Thai, Baht, pada tahun 1997 menyebabkan terjadinya krisis yang membuka kelemahan sektor keuangan dan memaksa pemerintah untuk mengambangkan Baht. Setelah sekian lama dipatok pada nilai 25 Baht untuk satu dolar AS, Baht mencapai titik terendahnya pada kisaran 56 Baht pada Januari 1998 dan ekonominya melemah sebesar 10,2% pada tahun yang sama. Krisis ini kemudian meluas ke krisis finansial Asia.
Kerajaan Thai memasuki babak pemulihan pada tahun 1999; ekonominya menguat 4,2% dan tumbuh 4,4% pada tahun 2000, kebanyakan merupakan hasil dari ekspor yang kuat - yang meningkat sekitar 20% pada tahun 2000. Pertumbuhan sempat diperlambat ekonomi dunia yang melunak pada tahun 2001, namun kembali menguat pada tahun-tahun berikut berkat pertumbuhan yang kuat di Tiongkok dan beberapa program stimulan dalam negeri serta Kebijakan Dua Jalur yang ditempuh pemerintah Thaksin Shinawatra. Pertumbuhan pada tahun 2003 diperkirakan mencapai 6,3%, dan diperkirakan pada 8% dan 10% pada tahun 2004 dan 2005.
Sektor pariwisata menyumbang banyak kepada ekonomi Kerajaan Thai, dan industri ini memperoleh keuntungan tambahan dari melemahnya Baht dan stabilitas Kerajaan Thai. Kedatangan wisatawan pada tahun 2002 (10,9 juta) mencerminkan kenaikan sebesar 7,3% dari tahun sebelumnya (10,1 juta).
Pertanian
Thailand saat ini merupakan negara pengekspor terbesar produk pertanian dunia. Ekonomi Thailand bergantung pada ekspor, dengan nilai ekspor sekitar 60% PDB, dan dari sekitar 60 % dari seluruh angkatan kerja Thailand dipekerjakan di bidang pertanian. Komoditi pertanian yang dihasilkan adalah beras dengan kualitas super, tapioka, karet, biji-bijian, gula, ikan dan produk perikanan lainnya. Thailand adalah produsen sekaligus eksportir terbesar dunia untuk beras, gula, karet, bunga potong, bibit tanaman, minyak kelapa sawit, tapioka, buah-buahan dan lain-lain produk pertanian, termasuk makanan jadi. Hal ini terwujud berkat tingginya perhatian dan usaha yang diberikan oleh pemerintah Thailand dalam meningkatkan pendapatan petani, dan tentunya, hal ini juga didukung oleh model atau sistem pertanian yang baik sehingga dihasilkan kualitas pangan yang sangat baik. Itu sebabnya, negara mengelola sektor ini secara sangat serius, bahkan didukung riset dan rekayasa teknologi yang melibatkan para ahli dan pakar dunia. Melalui hasil riset dan rekayasa teknologi ini Pemerintah Thailand mengambil kebijakan untuk mengembangkan satu produk pada satu wilayah yang dikenal dengan kebijakan satu desa satu komoditas (one village one commodity) dengan memperhatikan aspek keterkaitannya dengan sektor-sektor lain (backward and forward linkages), skala ekonomi dan hubungannya dengan outlet (pelabuhan). Hal ini mendorong tumbuhnya kelompok-kelompok bisnis, sehingga masing-masing wilayah memiliki kekhasan sendiri sesuai dengan potensi wilayahnya.
Pemerintah Thailand juga memproteksi produk pertanian dengan memberikan insentif dan subsidi kepada petani. Kebijakan ini telah mendorong masyarakat memanfaatkan lahan kosong dan tak produktif untuk ditanami dengan tanaman yang berprospek ekspor. Sistem contract farming yang dipakai di Thailand berbeda dari yang biasa kita kenal di Indonesia. Perusahaan melakukan kontrak dengan petani tanpa mengharuskan petani menyerahkan jaminan. Di Indonesia, umumnya tanah petani menjadi agunan, sehingga kalau petani gagal, tanah mereka akan disita. Kegagalan petani akan ditanggung oleh negara. Statuta utama dalam kontrak tersebut adalah perusahaan menjamin harga minimal dari produk yang dimintanya untuk ditaman oleh petani. Jika harga pasar diatas harga kontrak, petani bebas untuk menjualnya ke pihak lain. Selain itu di Thailand juga menggunakan model pertanian Hidroponik untuk meminimalisir penggunaan tanah. Karena, disana kualitas dan kuantitas tanah kurang memadai.
Pembagian administratif
Artikel utama: Daftar provinsi Thailand
Kerajaan Thai dibagi kepada 76 provinsi (changwat), yang dikelompokkan ke dalam 5 kelompok provinsi. Nama tiap provinsi berasal dari nama ibu kota provinsinya.
Utara
Chiang Mai
Chiang Rai
Kamphaeng Phet
Lampang
Lamphun
Mae Hong Son
Nakhon Sawan
Nan
Phayao
Phetchabun
Phichit
Phitsanulok
Phrae
Sukhothai
Tak
Uthai Thani
Uttaradit
Timur
Chachoengsao
Chanthaburi
Chonburi
Rayong
Prachinburi
Sa Kaeo
Trat
Selatan
Chumphon
Krabi
Nakhon Si Thammarat
Narathiwat
Pattani
Phang Nga
Phattalung
Phuket
Ranong
Satun
Songkhla
Surat Thani
Trang
Yala
Timur Laut
Amnat Charoen
Bueng Kan
Buriram
Chaiyaphum
Kalasin
Khon Kaen
Loei
Maha Sarakham
Mukdahan
Nakhon Phanom
Nakhon Ratchasima
Nongbua Lamphu
Nong Khai
Roi Et
Sakon Nakhon
Sisaket
Surin
Ubon Ratchathani
Udon Thani
Yasothon
Tengah
Ang Thong
Ayutthaya
Bangkok
Chainat
Kanchanaburi
Lopburi
Nakhon Nayok
Nakhon Pathom
Nonthaburi
Pathumthani
Phetchaburi
Prachuap Khiri Khan
Ratchaburi
Samut Prakan
Samut Sakhon
Samut Songkhram
Saraburi
Sing Buri
Suphanburi
Provinsi-provinsi tersebut kemudian dibagi lagi menjadi 795 distrik (Amphoe), 81 sub-distrik (King Amphoe) dan 50 distrik Bangkok (khet) (jumlah hingga tahun 2000), dan dibagi-bagi lagi menjadi 7.236 komunitas (Tambon), 55.746 desa (Muban), 123 kotamadya (Tesaban), dan 729 distrik sanitasi (Sukhaphiban) (jumlah hingga tahun 1984).
Geografi
Kerajaan Thai merupakan tempat terletaknya beberapa wilayah geografis yang berbeda. Di sebelah utara, keadaannya bergunung-gunung, dan titik tertingginya berada di Doi Inthanon (2.576 m). Sebelah timur laut terdiri dari Hamparan Khorat, yang dibatasi di timur oleh sungai Mekong. Wilayah tengah negara didominasi lembah sungai Chao Phraya yang hampir seluruhnya datar, dan mengalir ke Teluk Thailand. Di sebelah selatan terdapat Tanah Genting Kra yang melebar ke Semenanjung Melayu.
Cuaca setempat adalah tropis dan bercirikan monsun. Ada monsun hujan, hangat dan berawan dari sebelah barat daya antara pertengahan Mei dan September, serta monsun yang kering dan sejuk dari sebelah timur laut dari November hingga pertengahan Maret. Tanah genting di sebelah selatan selalu panas dan lembap. Kota-kota besar selain ibu kota Bangkok termasuk Nakhon Ratchasima, Nakhon Sawan, Chiang Mai, dan Songkhla.
Kerajaan Thai berbatasan dengan Laos dan Myanmar di sebelah utara, dengan Malaysia dan Teluk Siam di selatan, dengan Myanmar dan Laut Timur di barat dan dengan Laos dan Kamboja di timur. Koordinat geografisnya adalah 5°-21° LU dan 97°-106° BT
Lihat juga: Pulau-pulau Thailand.
Politik
Raja Thailand mempunyai sedikit kekuasaan langsung di bawah konstitusi sekaligus merupakan pelindung Buddhisme Kerajaan Thai dan lambang jati diri dan persatuan bangsa. Raja yang memerintah saat ini sangat dihormati oleh rakyatnya dan dianggap sebagai pemimpin dari segi moral, suatu hal yang telah dimanfaatkan pada beberapa kesempatan untuk menyelesaikan krisis politik. kepala pemerintahan adalah Perdana Menteri, yang dilantik oleh raja dari anggota-anggota parlemen dan biasanya adalah pemimpin partai mayoritas.
Parlemen Kerajaan Thai yang menggunakan sistem dua kamar, yaitu Majelis Nasional atau Rathasapha - รัฐสภา, yang terdiri dari Dewan Perwakilan (Sapha Phuthaen Ratsadon - สภาผู้แทนราษฎร) yang beranggotakan 480 orang dan Senat (Wuthisapha - วุฒิสภา) yang beranggotakan 150 orang. Anggota Dewan Perwakilan menjalani masa bakti selama empat tahun, sementara para senator menjalani masa bakti selama enam tahun. Badan kehakiman tertinggi adalah Mahkamah Agung (Sandika - ศาลฎีกา), yang jaksanya dilantik oleh raja. Kerajaan Thai juga adalah anggota aktif ASEAN.
Demografi
Agama Menurut Wilayah atau Regional di Thailand (2015)[2] dari 67,328,562 jiwa, dengan spesifik sebagai berikut:
Populasi Kerajaan Thai didominasi etnis Thai dan etnis Lao, yang berjumlah 3/4 dari seluruh penduduk. Selain itu juga terdapat komunitas besar etnis Tionghoa yang secara sejarah memegang peranan yang besar dalam bidang ekonomi. Etnis lainnya termasuk etnis Melayu di selatan, Mon, Khmer dan berbagai suku orang bukit.
Sekitar 94.63% penduduk Kerajaan Thai adalah pemeluk agama Buddha aliran Theravada, namun ada minoritas kecil pemeluk agama Islam, Kristen dan Hindu. Bahasa Thai merupakan bahasa nasional Kerajaan Thai, yang ditulis menggunakan aksaranya sendiri, tetapi ada banyak juga bahasa daerah lainnya. Bahasa Inggris juga diajarkan secara luas di sekolah.
Budaya
Muay Thai, sejenis seni bela diri kickboxing ala Kerajaan Thai, adalah olahraga nasional di Kerajaan Thai dan merupakan seni beladiri setempat. Popularitasnya memuncak di seluruh dunia pada tahun 1990-an. Ada pula seni beladiri yang mirip dengan muay Thai di negara-negara lain di Asia Tenggara.
Ucapan penyambutan yang umum di Kerajaan Thai adalah isyarat bernama wai, yang gerakannya mirip dengan gerakan sembahyang. Hal-hal yang tabu dilakukan di antaranya menyentuh kepala seseorang dan menunjuk dengan kaki, karena kepala dan kaki masing-masing merupakan bagian tubuh yang paling atas dan bawah.
Masakan Kerajaan Thai mencampurkan empat macam rasa yang dasar: manis, pedas, asam dan asin.
Olahraga
Ajang olahraga bergengsi di Asia tenggara Southeast Asian Games 2007 diadakan di Nakhon Ratchasima, Kerajaan Thai dari 6 Desember sampai 15 Desember 2007. Ini merupakan keenam kalinya, Kerajaan Thai menjadi tuan rumah Southeast Asian Games.
Dan pada Southeast Asian Games 2009 Kerajaan Thai memimpin klasemen di posisi pertama[4].
Lihat pula
Daftar tokoh Thailand
Daftar negara-negara di dunia
Pranala luar
Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. - Situs resmi pemerintah
(in Indonesian) - Situs resmi pariwisata
Referensi
Kategori:Negara di Asia Tenggara
Kategori:Kerajaan di Asia Tenggara
Kategori:Artikel pilihan bertopik geografi
Kategori:Negara anggota ASEAN | https://id.wikipedia.org/wiki/Thailand |
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情報の視覚的表示、図・表・グラフ等のこと(語源はCardと同じくパピルス紙を意味するラテン語のChartaから)。
罫線表。株価の推移を示す図。
フローチャート。プログラミング等で用いられる流れ図。
多様体#局所座標。多様体の上に定義される局所座標系。
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Mawili yamegongana, idadi kamili.
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Wengi hawakula ugali, idadi ya jumla.
Watano wamekimbia, idadi kamili.
Viwakilishi vya idadi/kiasi ni aina ya neno au maneno yanayojulisha idadi ya watu au vitu ambavyo havikutajwa majina. Idadi hiyo inaweza kuwa ya jumla au idadi hali/kamili.
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The dot-com bubble (also known as the dot-com boom,[1] the tech bubble,[2] and the Internet bubble) was a historic economic bubble and period of excessive speculation mainly in the United States that occurred roughly from 1995 to 2000, a period of extreme growth in the usage and adoption of the Internet.[3]
The Nasdaq Composite stock market index, which included many Internet-based companies, peaked in value on March 10, 2000, before crashing. The burst of the bubble, known as the dot-com crash, lasted from March 11, 2000, to October 9, 2002.[3][4] During the crash, many online shopping companies, such as Pets.com, Webvan, and Boo.com, as well as communication companies, such as Worldcom, NorthPoint Communications and Global Crossing failed and shut down.[5][6] Others, such as Cisco, whose stock declined by 86%,[6] and Qualcomm, lost a large portion of their market capitalization but survived, and some companies, such as eBay and Amazon.com, declined in value but recovered quickly.
Prelude to the bubble
In 1993, the release of the Mosaic web browser made access to the World Wide Web possible (prior Internet services like Usenet, Gopher, FTP, etc existed but HTTP was the new invention which triggered this growth).[7] Internet usage increased as a result of the reduction of the "digital divide" and advances in connectivity, uses of the Internet, and computer education. Between 1990 and 1997, the percentage of households in the United States owning computers increased from 15% to 35% as computer ownership progressed from a luxury to a necessity.[8] This marked the shift to the Information Age, an economy based on information technology, and many new companies were founded.
At the same time, relatively lower interest rates increased the availability of capital compared to the 1970s and 1980s, where bouts of extreme inflation led to historically high interest rates to contain/reduce high inflation.[9] The Taxpayer Relief Act of 1997, which lowered the top marginal capital gains tax in the United States, also made people more willing to make more speculative investments.[10] Alan Greenspan, the former Chair of the Federal Reserve, allegedly fueled investments in the stock market by putting a positive spin on stock valuations.[11] The Telecommunications Act of 1996 was expected to result in many new technologies from which many people wanted to profit.[12]
Netscape Communications Corporation made an initial public offering (IPO) on Nasdaq on August 9, 1995, and was extremely successful - the stock closed at $58.25, giving the company a value of $2.9 billion.[13] Several months later in 1996, Yahoo! made one of Nasdaq's most successful ever IPOs. That same month, internet companies Lycos and Excite also went public.[14] All this generated high interest in investing in internet companies.
The bubble
As a result of these factors, many investors were eager to invest, at any valuation, in any dot-com company, especially if it had one of the Internet-related prefixes or a ".com" suffix in its name.[15] Venture capital was easy to raise. Investment banks, which profited significantly from initial public offerings (IPO), fueled speculation and encouraged investment in technology.[16] A combination of rapidly increasing stock prices in the quaternary sector of the economy and confidence that the companies would turn future profits created an environment in which many investors were willing to overlook traditional metrics, such as the price–earnings ratio, and base confidence on technological advancements, leading to a stock market bubble.[11] Between 1995 and 2000, the Nasdaq Composite stock market index rose 400%.[15] It reached a price–earnings ratio of 200, dwarfing the peak price–earnings ratio of 80 for the Japanese Nikkei 225 during the Japanese asset price bubble of 1991.[11] In 1999, shares of Qualcomm rose in value by 2,619%, 12 other large-cap stocks each rose over 1,000% value, and 7 additional large-cap stocks each rose over 900% in value. Even though the Nasdaq Composite rose 85.6% and the S&P 500 Index rose 19.5% in 1999, more stocks fell in value than rose in value as investors sold stocks in slower growing companies to invest in Internet stocks.[17]
An unprecedented amount of personal investing occurred during the boom and stories of people quitting their jobs to engage in full-time day trading were common.[18] The news media took advantage of the public's desire to invest in the stock market; an article in The Wall Street Journal suggested that investors "re-think" the "quaint idea" of profits, and CNBC reported on the stock market with the same level of suspense as many networks provided to the broadcasting of sports events.[11][19]
At the height of the boom, it was possible for a promising dot-com company to become a public company via an IPO and raise a substantial amount of money even if it had never made a profit—or, in some cases, realized any material revenue. People who received employee stock options became instant paper millionaires when their companies executed IPOs; however, most employees were barred from selling shares immediately due to lock-up periods.[16] The most successful entrepreneurs, such as Mark Cuban, sold their shares or entered into hedges to protect their gains.
Spending tendencies of dot-com companies
Most dot-com companies incurred net operating losses as they spent heavily on advertising and promotions to harness network effects to build market share or mind share as fast as possible, using the mottos "get big fast" and "get large or get lost". These companies offered their services or products for free or at a discount with the expectation that they could build enough brand awareness to charge profitable rates for their services in the future.[20][21][22] In January 2000, there were 16 dot-com commercials during Super Bowl XXXIV, each costing $2 million for a 30-second spot.
The "growth over profits" mentality and the aura of "new economy" invincibility led some companies to engage in lavish spending on elaborate business facilities and luxury vacations for employees. Upon the launch of a new product or website, a company would organize an expensive event called a dot com party.[23][24]
Bubble in telecom
Telecommunications equipment providers, convinced that the future economy would require ubiquitous broadband access, went deeply into debt to improve their networks with high-speed equipment and fiber optic cables. In many areas, such as the Dulles Technology Corridor in Virginia, governments funded technology infrastructure and created favorable business and tax law to encourage companies to expand.[25] In Europe, mobile phone companies overspent on 3G licences, which led them deep into debt. The investments in infrastructure were far out of proportion to cash flow. These were major factors that led to the telecoms crash.[12]
Bursting of the bubble
Around the turn of the millennium, spending on technology was volatile as companies prepared for the Year 2000 problem, which, when the clocks changed to the year 2000, actually had minimal impact.
On January 10, 2000, America Online, led by Steve Case and Ted Leonsis, announced a merger with Time Warner, led by Gerald M. Levin. The merger was the largest to date and was questioned by many analysts.[26]
In February 2000, with the Year 2000 problem no longer a worry, Alan Greenspan announced plans to aggressively raise interest rates, which led to significant stock market volatility as analysts disagreed as to whether or not technology companies would be affected by higher borrowing costs.
On March 10, 2000, the NASDAQ Composite stock market index peaked at 5,048.62.[27]
On March 13, 2000, news that Japan had once again entered a recession triggered a global sell off that disproportionately affected technology stocks.[28]
On March 15, 2000, Yahoo! and eBay ended merger talks and the Nasdaq fell 2.6% but the S&P 500 Index rose 2.4% as investors shifted from strong performing technology stocks to poor performing established stocks.[29]
On March 20, 2000, Barron's featured a cover article titled "Burning Up; Warning: Internet companies are running out of cash -- fast", which predicted the imminent bankruptcy of many internet companies.[30] This led many people to rethink their investments. That same day, Microstrategy announced a revenue restatement due to aggressive accounting practices. Its stock price, which had risen from $7 per share to as high as $333 per share in a year, fell $140 per share, or 62%, in a day.[31] The next day, the Federal Reserve raised interest rates, leading to an inverted yield curve, although stocks rallied temporarily.[32]
On April 3, 2000, judge Thomas Penfield Jackson issued his conclusions of law in the case of United States v. Microsoft Corp. (2001) and ruled that Microsoft was guilty of monopolization and tying in violation of the Sherman Antitrust Act. This led to a one-day 15% decline in the value of shares in Microsoft and a 350-point, or 8%, drop in the value of the Nasdaq. Many people saw the legal actions as bad for technology in general.[33] That same day, Bloomberg published a widely read article that stated: "It's time, at last, to pay attention to the numbers".[34]
On Friday, April 14, 2000, the Nasdaq Composite index fell 9%, ending a week in which it fell 25%. Investors were forced to sell stocks ahead of Tax Day, the due date to pay taxes on gains realized in the previous year.[35]
By June 2000, dot-com companies were forced to rethink their advertising campaigns.[36]
On November 9, 2000, Pets.com, a much-hyped company that had backing from Amazon.com, went out of business only nine months after completing its IPO.[37][38] By that time, most internet stocks had declined in value by 75% from their highs, wiping out $1.755 trillion in value.[39]
In January 2001, just three dot-com companies bought advertising spots during Super Bowl XXXV: E-Trade, Monster.com, and Yahoo! HotJobs.[40] The September 11 attacks accelerated the stock-market drop later that year.[41]
Investor confidence was further eroded by several accounting scandals and the resulting bankruptcies, including the Enron scandal in October 2001, the Worldcom scandal in June 2002,[42] and the Adelphia Communications Corporation scandal in July 2002.
By the end of the stock market downturn of 2002, stocks had lost $5 trillion in market capitalization since the peak.[43] At its trough on October 9, 2002, the NASDAQ-100 had dropped to 1,114, down 78% from its peak.[44][45]
Aftermath
After venture capital was no longer available, the operational mentality of executives and investors completely changed. A dot-com company's lifespan was measured by its burn rate, the rate at which it spent its existing capital. Many dot-com companies ran out of capital and went through liquidation. Supporting industries, such as advertising and shipping, scaled back their operations as demand for services fell. However, many companies were able to endure the crash; 48% of dot-com companies survived through 2004, albeit at lower valuations.[21]
Several companies and their executives were accused or convicted of fraud for misusing shareholders' money, and the U.S. Securities and Exchange Commission levied large fines against investment firms including Citigroup and Merrill Lynch for misleading investors.
After suffering losses, retail investors transitioned their investment portfolios to more cautious positions.[46] Popular Internet forums that focused on high tech stocks, such as Silicon Investor, RagingBull.com, Yahoo! Finance, and The Motley Fool declined in use significantly.[47]
Job market and office equipment glut
Layoffs of programmers resulted in a general glut in the job market. University enrollment for computer-related degrees dropped noticeably.[48][49] Anecdotes of unemployed programmers going back to school to become accountants or lawyers were common.
Failed startups liquidated all of their computer equipment and office equipment such as Herman Miller Aeron chairs.[50]
Legacy
As growth in the information technology sector stabilized, companies consolidated, some, such as Amazon.com, eBay, and Google gained market share and came to dominate their respective fields. The information technology industry came to more closely resemble other sectors of the economy, albeit with still a faster growth rate and higher valuations than other sectors. There are now many information technology companies ranked at the top of the Fortune 500.
In a 2015 book, venture capitalist Fred Wilson, who funded dot-com companies and lost 90% of his net worth when the bubble burst, said about the dot-com bubble: "A friend of mine has a great line. He says 'Nothing important has ever been built without irrational exuberance'. Meaning that you need some of this mania to cause investors to open up their pocketbooks and finance the building of the railroads or the automobile or aerospace industry or whatever. And in this case, much of the capital invested was lost, but also much of it was invested in a very high throughput backbone for the Internet, and lots of software that works, and databases and server structure. All that stuff has allowed what we have today, which has changed all our lives... that's what all this speculative mania built".[51]
Notable companies
3Com – Shares soared after announcing the corporate spin-off of Palm Inc.
360networks – A fiber optic company that had a market capitalization of over $13 billion but filed bankruptcy a few months later.
AboveNet – Its stock rose 32% on the day it announced a stock split.
Actua Corporation (formerly Internet Capital Group) – A company that invested in B2B e-commerce companies, it reached a market capitalization of almost $60 billion at the height of the bubble, making Ken Fox, Walter Buckley, and Pete Musser billionaires on paper.
Airspan Networks – A wireless firm; in July 2000, its stock price doubled on its first day of trading as investors focused on telecommunications companies instead of dot-com companies.[52]
Akamai Technologies – Its stock price rose over 400% on its first day of trading in October 1999.
Alteon WebSystems – Its shares soared 294% on its first day of trading.
Blucora (formerly InfoSpace) – Founded by Naveen Jain, in March 2000, its stock reached a price $1,305 per share, but by 2002 the price had declined to $2 a share.[53]
Blue Coat Systems (formerly CacheFlow) – Its stock price rose over 400% on its first day of trading in November 1999.
Boo.com – An online clothing retailer, it spent $188 million in just six months. It filed bankruptcy in May 2000.[54]
Books-a-Million – A book retailer whose stock price soared from around $3 per share on November 25, 1998 to $38.94 on November 27, 1998 and an intra-day high of $47.00 on November 30, 1998 after it announced an updated website. Two weeks later, the share price was back down to $10. By 2000, the share price had returned to $3.[55]
Broadband Sports – A network of sports-content websites that raised over $60 million before going bust in February 2001.[56]
Broadcast.com – A streaming media website that was acquired by Yahoo! for $5.9 billion in stock, making Mark Cuban and Todd Wagner multi-billionaires. The site is now defunct.[57]
CDNow – Founded by Jason Olim and his brother, it was an online retailer of compact discs and music-related products that reached a valuation of over $1 billion in April 1998. In 2000, it was acquired by Bertelsmann Music Group for $117 million and was later shut down.
Chemdex.com – A company founded by David Perry that operated an online marketplace for businesses, it reached a market capitalization of over $7 billion despite minimal revenues.
Cobalt Networks – Its stock price rose over 400% on its first day of trading; acquired by Sun Microsystems for $2 billion in December 2000.
Commerce One – A business-to-business software company that reached a valuation of $21 billion despite minimal revenue.[58]
Covad – Shares rose fivefold within months of its IPO.
Cyberian Outpost – One of the first successful online shopping websites, it reached a peak market capitalization of $1 billion. It used controversial marketing campaigns including a Super Bowl ad in which fake gerbils were shot out of a cannon. It was acquired by Fry's Electronics in 2001 for $21 million, including the assumption of $13 million in debt.[59]
CyberRebate – Promised customers a 100% rebate after purchasing products priced at as much as 10 times the retail cost. It went bankrupt in 2001 and stopped paying rebates.[60]
Digital Insight – Its shares soared 114% on its first day of trading.
Divine – Founded by Andrew Filipowski, it was modeled after CMGI. It went public as the bubble burst and filed bankruptcy after executives were accused of looting a subsidiary.
DoubleClick – An online advertising company that soared after its IPO, it was acquired by Google in 2007.
eGain – Its stock price doubled shortly after its 1999 IPO.
eToys.com – An online toy retailer whose stock price hit a high of $84.35 per share in October 1999. In February 2001, it filed bankruptcy with $247 million in debt. It was acquired by KB Toys, which later also filed bankruptcy.[61]
Excite – A web portal founded by Joe Kraus and others that merged with internet service provider @Home Network in 1999 to become Excite@Home, promising to be the "AOL of broadband". After trying unsuccessfully to sell the Excite portal during a sharp downturn in online advertising, the company filed bankruptcy in September 2001.[62] It was acquired by Ask.com in March 2004.[63]
Flooz.com – A digital currency founded by Robert Levitan; it folded in 2001 due to lack of consumer acceptance. It was famous for having Whoopi Goldberg as its spokesperson.[64]
Freei – Filed bankruptcy in October 2000, soon after canceling its IPO. At the time, it was the 5th largest internet service provider in the United States, with 3.2 million users.[65] Famous for its mascot, Baby Bob, the company lost $19 million in 1999 on revenues of less than $1 million.[66]
Gadzoox – A storage area network company, its shares tripled on its first day of trading giving it a market capitalization of $1.97 billion; the company was sold 4 years later for $5.3 million.
Geeknet (formerly VA Linux) – A provider of built-to-order Intel personal computer systems based on Linux and other open source projects, it set the record for largest first-day price gain upon its IPO on December 9, 1999; after the stock priced at $30/share, it ended the first day of trading at $239.25/share, a 698% gain, making founder Larry Augustin a billionaire on paper.[67]
GeoCities – Founded by David Bohnett, it was acquired by Yahoo! for $3.57 billion in January 1999[68] and was shut down in 2009.[69]
Global Crossing – A telecommunications company founded in 1997; it reached a market capitalization of $47 billion in February 2000 before filing bankruptcy in January 2002.[70]
theGlobe.com – A social networking service that launched in April 1995 and made headlines when its November 1998 IPO resulted in the largest first day gain of any IPO to date. CEO Stephan Paternot became a visible symbol of the excesses of dot-com millionaires and is famous for saying "Got the girl. Got the money. Now I'm ready to live a disgusting, frivolous life".[71]
govWorks – Founded by fraudster Kaleil Isaza Tuzman; it was featured in the documentary film Startup.com.[72]
Handspring – A PDA maker that was defunct by 2003, when it was purchased by Palm Inc.
Healtheon – Founded by James H. Clark, it was acquired by WebMD in 1999 for $7.2 billion in stock but eventually shut down.
HomeGrocer – A public online grocer that merged with Webvan.
Infoseek – Founded by Steve Kirsch, it was acquired by Disney in 1999; it was valued at $7 billion but eventually shut down.
inktomi – Founded by Eric Brewer, it reached a valuation of $25 billion in March 2000; acquired by Yahoo! in 2003 for $241 million.[73]
Interactive Intelligence – A telecommunications software company whose stock doubled on its first day of trading.
Internet America – Its stock price doubled in a day in December 1999 despite no specific news about the company.
iVillage – On its first day of trading in March 1999, its stock rose 255% to $84 per share.[74] It was acquired by NBC for $8.50 per share in 2006 and shut down.
iWon – Backed by CBS, it gave away $1 million to a lucky contestant each month and $10 million in April 2000 on a half-hour special program that was broadcast on CBS.[75]
Kozmo.com – Founded by Joseph Park, it offered one-hour local delivery of several items with no delivery fees from March 1998 until it went bust in April 2001.[76]
Lastminute.com – Founded by Brent Hoberman, its IPO in the United Kingdom on March 14, 2000, coincided with the bursting of the bubble.[77]
The Learning Company – Owned by Kevin O'Leary, it was acquired by Mattel in 1999 for $3.5 billion and sold a year later for $27.3 million.[78]
Liquid Audio – Despite its stock doubling in value on its first day of trading in July 1999, its technology was obsolete by 2002.
Looksmart – Founded by Evan Thornley, its value rose from $23 million to $5 billion within months, but it lost 99% of its value as the bubble burst.
Lycos – Founded by Michael Loren Mauldin, under the leadership of Bob Davis, it was acquired by Terra Networks for $12.5 billion in May 2000.[79] It was sold in 2004 to Seoul, South Korea-based Daum Communications Corporation for $95.4 million.[80]
MarchFirst – A web development company formed on March 1, 2000, by the merger of USWeb and CKS Group, it filed bankruptcy and liquidation just over a year after it was formed.
MicroStrategy – After rising from $7 to as high as $333 in a year, its shares lost $140, or 62%, on March 20, 2000, following the announcement of a financial restatement for the previous two years by founder Michael J. Saylor.[31]
Net2Phone – A VoIP provider founded by Howard Jonas whose stock price soared after its 1999 IPO.[81]
NetBank – A direct bank, its stock price per share fluctuated between $3.50 and $83 in 1999.[82]
Netscape – After a popular IPO, it was acquired by AOL in 1999 for $4.2 billion in stock.
Network Solutions – A domain name registrar led by Jim Rutt, it was acquired by Verisign for $21 billion in March 2000, at the peak of the bubble.
NorthPoint Communications – Agreed to a significant investment by Verizon and a merger of DSL businesses in September 2000; however, Verizon backed out 2 months later after NorthPoint was forced to restate its financial statements, including a 20% reduction in revenue, after its customers failed to pay as the bubble burst. NorthPoint then filed bankruptcy. After lawsuits from both parties, Verizon and NorthPoint settled out of court.[83]
Palm Inc. – Spun off from 3Com at the peak of the bubble, its shares plunged as the bubble burst.
Pets.com – Led by Julie Wainwright, it sold pet supplies to retail customers before filing for bankruptcy in 2000.[37]
PFSweb – A B2B company whose stock price doubled after its IPO.
Pixelon – Streaming video company that hosted a $16 million dot com party in October 1999 in Las Vegas with celebrities including Chely Wright, LeAnn Rimes, Faith Hill, Dixie Chicks, Sugar Ray, Natalie Cole, KISS, Tony Bennett, The Brian Setzer Orchestra, and a reunion of The Who. The company failed less than a year later when it became apparent that its technologies were fraudulent or misrepresented. Its founder had been a convicted felon who changed his name.
PLX Technology – Shares rose fivefold within months of its IPO.
Prodigy – An ISP whose stock price doubled on its first day of trading.
Pseudo.com – One of the first live streaming video websites, it produced its own content in a studio in SoHo, Manhattan and streamed up to 7 hours of live programming a day on its website.[84]
Radvision – An online conferencing company, its stock price rose 150% on its first day of trading.
Razorfish – An internet advertising consultancy, its stock doubled on its first day of trading in April 1999.[85]
Redback Networks – A telecommunications equipment company, its stock soared 266% in its first day of trading, giving it a market capitalization of $1.77 billion.[86]
Register.com – A domain name registrar, its stock soared after its IPO in March 2000, at the peak of the bubble.
Ritmoteca.com – One of the first online music stores selling music on a pay-per-download basis and an early predecessor to the iTunes business model. It pioneered digital distribution deals as one of the first companies to sign agreements with major music publishers.[87]
Startups.com – "Ultimate dot-com startup" that went out of business in 2002.[88]
Steel Connect (formerly CMGI Inc.) – a company that invested in many internet startups; between 1995 and 1999, its stock appreciated 4,921%, but declined 99% when the bubble burst.[89]
Savvis – A fiber optic company.
Think Tools – One of the most extreme symptoms of the bubble in Europe, this company reached a market valuation of CHF 2.5 billion in March 2000 despite no prospects of having a product.[88]
TIBCO Software – Its stock price rose tenfold shortly after its 1999 IPO.
Tradex Technologies – A B2B e-commerce company, it was sold for $5.6 billion at the height of the bubble, making Daniel Aegerter a billionaire on paper.
Transmeta – A semiconductor designer that attempted to challenge Intel, its IPO in November 2000 was the last successful technology IPO until the IPO of Google in 2004. The company shut down in 2009 after failing to execute.
uBid – An online auction site founded in 1997 as a subsidiary of PCM, Inc. that went public in December 1998 at $15 per share before its stock price soared to $186 per share, a market value of $1.5 billion.
United Online – An ISP formed by the merger of NetZero and Juno Online Services as the bubble burst.
Usinternetworking Inc – Its stock price rose 174% on its first day of trading.
UUNet – One of the largest internet service providers, its stock price soared after its 1995 IPO; it was acquired in 1996.
VerticalNet – A host of 43 business-to-business (B2B) procurement portals that was valued at $1.6 billion after its IPO, despite having only $3.6 million in quarterly revenue.[90]
Vignette Corporation – Its stock rose 1,500% within months after its IPO.
Webvan – An online grocer that promised delivery within 30 minutes; it went bankrupt in 2001 after $396 million of venture capital funding and an IPO that raised $375 million and was folded into Amazon.com.[91]
Yahoo! – A company that, under the leadership of Timothy Koogle, Jerry Yang, and David Filo acquired several companies for billions of dollars in stock, only to shut them down a few years later.
Further reading
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– Burn Rate
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Астроло́гия (Ancient Greek: ἀστρολογία[1] от «звезда» и «мысль, причина») — группа описательных и предсказательных практик, традиций и верований, постулирующих воздействие небесных тел на земной мир и человека (на его темперамент, характер, поступки и судьбу) и, в частности, возможность предсказания будущего по движению и расположению небесных тел на небесной сфере и относительно друг друга.
Несмотря на большое количество предпринимаемых в паранауке попыток дать физическое обоснование астрологии, ни одна из них не увенчалась успехом, и современная наука полностью отрицает действенность астрологических методик, квалифицируя астрологию как псевдонауку[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12] и предрассудок[13][14]. Национальный научный фонд США использует астрологию в качестве «эталонной» лженауки в оценочной системе «Science and Engineering Indicators»[15].
Энциклопедия Британника относит астрологию к магическим[16] гадательным практикам, основанным на концепциях, несовместимых с научными данными.[17]
Некоторые современные астрологи называют астрологию метафорическим «символическим языком», в котором одно и то же высказывание допускает множество различных интерпретаций[18][19][20].
Европейская и индийская астрология ведут своё происхождение от шумеро-вавилонских астральных мифов, в которых небесные тела (Солнце, Луна, планеты) и созвездия были ассоциированы с богами и мифологическими персонажами, влияние богов на земную жизнь в рамках этой мифологии трансформировалось во влияние на жизнь небесных тел — символов божеств. Вавилонская астрология была заимствована греками и, затем, в ходе контактов с эллинистическим миром, проникла в Индию[21].
Проблема определения
В связи с паранаучным характером астрологии, не существует строгого общепринятого определения этой практики – этот вопрос по-разному решается в рамках множества астрологических школ и традиций. Широкие определения рассматривают астрологию как учение о связи Человека и Космоса и затрагивают различные понятия из астрономии, магии, эзотерики, психологии, оккультных, религиозных и философских концепций. Узкие определения сосредотачиваются на астрономической форме и магическом содержании астрологии и рассматривают её как, например, «математизированную технику составления гороскопов для предсказания по ним будущих событий». Астрологическая практика строится на двух тесно связанных моментах:
Наблюдение за небом (регистрация астрономических событий и их представление в специфической форме).
Интерпретация полученных данных (предположение о соответствии этих событий событиям в человеческой жизни или истории).[22]
История астрологии
Вопрос о времени и месте возникновения астрологии сложен, поскольку наука обладает лишь ограниченным кругом достоверных сведений о древнейших этапах развития человеческой культуры, а соответственно и ранней истории мифологии и наблюдательной астрономии.
Некоторые исследователи относят возникновение астрологии к периоду мустьерской эпохи (около 40—100 тысяч лет назад), когда происходили фиксации простейших наблюдений за движением Солнца, а также развивались первоначальные навыки счета и геометрия в разных районах Евразии[23].
Точно можно сказать лишь, что не позднее последних веков III тысячелетия до н. э. в Древней Месопотамии уже была известна астрология предзнаменований: в это время велись систематические астрономические наблюдения, а отдельным явлениям, таким как появление комет, солнечные и лунные затмения и т. п., придавалось астрологическое, предсказательное значение. Об этом свидетельствует найденный в 1847 году в Ниневийской дворцовой библиотеке ассирийского царя Ашшурбанапала клинописный текст «Энума Ану Энлиль». Однако почти до начала новой эры астрология оставалась мунданной и занималась предсказанием событий лишь государственного масштаба; идея индивидуального гороскопа не была знакома вавилоно-ассирийским астрологам.
Появление первых индивидуальных гороскопов датируют приблизительно V—IV веками до н. э. Именно к этому периоду относятся наиболее древние из дошедших до наших дней личные гороскопы. Вероятно, появление концепции индивидуального гороскопа было обусловлено слиянием введённого к IV веку до н. э. в употребление 12-знакового зодиака и развивающейся традиции гемерологий, напоминающих календари-месяцесловы списков благоприятных и неблагоприятных дней[24]. Примером такого календаря может служить папирус из Древнего Египта, относящийся к периоду XIX или XX династии (около 1200 года до н. э.)[25][26].
Окончательно традиция гороскопической астрологии сложилась под влиянием греческой культуры около I века н. э. В работе Птолемея «Тетрабиблос», относящейся к тому времени, излагаются принципы классической астрологии, которые сохранились практически неизменными вплоть до Новейшего времени. Астрологический трактат приписывается магу Астрампсиху.
После укрепления связей между Индией и греко-римским миром в III—V веках н. э. греческие тексты, содержащие сведения о гороскопической астрологии, попали на Восток и были переведены на санскрит, положив начало индийской астрологической традиции (хотя элементы догреческой астрологии попадали в Индию гораздо раньше). Не позднее середины I тысячелетия до н. э., после захвата Ахеменидами северной Индии, на Восток проникли знания вавилонской астрономии и астрологии в той разновидности, которая содержится в текстах «Мул Апин» (MUL.APIN).
Постепенно пути греческой и индийской астрологии расходятся. Индийские астрологи разработали концепции, незнакомые эллинам, такие как концепция лунных домов (накшатр) и астрологии вопросов (хорарная астрология). На Западе продолжал совершенствоваться математический аппарат астрологии: вычисления становились строже, вершины домов гороскопа были привязаны к астрономическим параметрам небесной сферы, была выдержана строгость определения аспектов между планетами (в Индии эта концепция существует в упрощённой форме).
Таким образом, к Новейшему времени сложились две родственные, но различающиеся деталями, традиции гороскопической астрологии:
Западная система астрологии;
Система индийской (ведической) астрологии.
Впоследствии к корпусу астрологии из-за внешнего сходства были отнесены некоторые календарные системы и традиции, строго говоря, не являющиеся астрологией, поскольку в них отсутствует момент определения реальных положений небесных тел в момент времени. К подобным календарным системам относятся:
Китайский календарь (китайская астрология);
Календарь майя (астрология майя);
Календарь ацтеков (астрология ацтеков)[27];
Астрология друидов.
Знаки зодиака западной астрологической традиции
Зодиак с 12-ю знаками и 36-ю деканами, древнеегипетская фреска из Дендера
Мозаичный пол в синагоге transl.:en:Beth Alpha– transl.Беит Альфа, VI век
Иллюстрация из европейской книги 1618 года
Русь, конец XVII — начало XVIII веков
Гороскоп
Основным методом астрологической деятельности является построение и интерпретация астрологических карт – схематических изображений расположения небесных тел в некоторый момент времени.
Гороскоп — схематическая карта неба, видимого в определённый момент времени в некоторой географической точке земного шара. Астрологическая карта, отражающая схематическое расположение планет на небе, но не их расположение относительно горизонта, называется космограммой – то есть космограмма отражает относительное расположение тел Солнечной системы в определённый момент времени, но не их видимость с конкретной точки Земной поверхности.
Используется для предсказания событий, связанных с этой точкой пространства и моментом времени; является основой многих традиций астрологии.
В гороскопе учитывается взаимное расположения небесных тел (см. аспект), и их положение относительно 12 знаков зодиака и 12 домов гороскопа. В западной астрологии новейшего времени для построения гороскопа, в зависимости от конкретной школы, к которой относит себя тот или иной астролог, кроме планет септенера (Солнца, Луны, Меркурия, Венеры, Марса, Юпитера, Сатурна), известных в древности, учитывается положение Урана, Нептуна, Плутона, некоторых крупных астероидов и фиктивных точек.
Разделы астрологии
Астрология имеет широкий спектр разделов, отличающихся решаемыми задачами и методологией:
Натальная астрология, дословно астрология рождения — раздел астрологии, занимающийся предсказанием основных тенденций в судьбе человека, выявляет его склонности и особенности характера; иногда раздел астрологии, предсказывающий влияние взаимодействия светил на характер и психологические особенности человека, называют астропсихологией.
Предсказательная астрология — раздел астрологии, посвящённый предсказанию событий в жизни человека;
Синастрическая астрология — раздел астрологии, предсказывающий характер взаимоотношений;
Медицинская астрология — направление астрологии, посвящённое вопросам здоровья человека;
Хорарная астрология — раздел астрологии, занимающийся поиском ответа на заданный вопрос;
Элективная астрология — раздел астрологии, занимающийся поиском благоприятного момента для начала какого-либо дела с целью добиться в нём успеха;
Мунданная астрология — раздел астрологии, предсказывающий развитие и взаимодействие государств, наций и прочих больших социальных групп;
Бизнес астрология — раздел астрологии, описывающий и прогнозирующий процессы в деловом мире и экономике;
Эзотерическая астрология — раздел астрологии, фокусирующийся на духовном развитии человека;
Астрометеорология — раздел астрологии, предсказывающий изменения погоды.
Астрология и искусство
Астрология оставила существенный след не только в истории астрономии, естественных науках, религии и магии, но также в культуре.
Структура произведения искусства и астрологические воззрения
Разрабатывая теорию музыки, учёные-пифагорейцы стремились выразить через игру на лире гармонию сфер (музыку сфер) — музыкальное звучание планет, солнца, луны и их сфер, составляющее музыкально-математическую архитектонику космоса, врачующее душу и порождающее состояние катарсиса. Через музыку пифагорейцы стремились постичь соразмерность гармонии души и космоса. Образ гармонии сфер оказал влияние на творчество неопифагорейцев и неоплатоников и доминировал в течение длительного времени не только в астрономии (Кеплер), но так же в эстетике и искусстве Европы средневековья и Нового времени (Гёте, немецкие романтики, Шекспир и др.).[28]
По мнению астрологов, некоторые Архитектурные сооружения древности были возведены в соответствии с астрологическими представлениями. Например, зиккураты Древней Месопотамии состояли из трёх (по числу трёх миров) или семи (по числу планет) этажей, каждый из которых имел четырёхугольную форму, символизировавшую четыре стороны света и четыре времени года.
Примером литературного произведения, построенного по астрологическому канону, может служить 12-строфное стихотворение «Двенадцать звучаний» («Zwölf Stimmungen») антропософа Рудольфа Штейнера. Строфы в этом произведения соотносятся с зодиакальными знаками, каждая строфа содержит по 7 строк, посвящённых 7 видимым планетам: 1-я строка — Солнцу, 2-я и 3-я посвящены внутренним планетам, Венере и Меркурию, средняя строка связана с Марсом, за ней следуют строки Юпитера и Сатурна. Последняя строка посвящена Луне, отражающей солнечный свет, выраженный первой строкой.
Астрологические мотивы в искусстве
Как в литературе, так и в живописи, книжной миниатюре, музыке и скульптуре неоднократно создавались циклы, связанные со знаками Зодиака и астрологическим значением планет.
Творения Данте, Гриммельсгаузена, Шекспира, Кальдерона, Стендаля, Скотта и других писателей в художественной форме зачастую отображают астрологические концепции, господствовавшие в эпоху их написания.
Мало известным остаётся особый литературный стихотворный жанр, генетлиаконик, существовавший в европейской литературе. Эти стихотворения посвящались астрологическому восхвалению новорожденных и их родителей, основываясь на гороскопе новорожденного. Характерным примером генетлиаконика является сохранившееся стихотворение Симеона Полоцкого, посвящённое рождению будущего российского царя Петра I.
Астрологические произведения как произведения искусства
Многие астрологические трактаты Древней Греции, Рима, эллинистического Египта и Индии создавались в стихотворной форме и в виде художественных произведений. Например, наиболее древний астрологический трактат греко-римской астрологии, дошедший до наших дней, — «Астрономикон» Маркуса Манилиуса — написан в форме поэмы. В Русском государстве конца XVII века было распространено переводное сочинение «Знаки царств, и государств, и мест, и украин, которые под которым знамением небесным двунадесяти зодий лежат», в котором страны мира уподоблялись знакам зодиака.
Астрология и религии
Астрология и иудаизм
Пророк Исайя подвергал астрологов особому осмеянию. Они говорили царю, что Израильское царство не падет, в то время как Исайя утверждал обратное. В этом классическом противоречии между гороскопами и божественным откровением пророк заявляет:
И придет на тебя бедствие; ты не узнаешь, откуда оно поднимется, и нападет на тебя беда, которой ты не в силах будешь отвратить, и внезапно придет на тебя пагуба, о которой ты и не Думаешь. Оставайся же с твоими волшебствами и с множеством чародейств твоих, которыми ты занималась от юности твоей; может быть, пособишь себе; может быть, устоишь. Ты утомлена множеством советов твоих; пусть же выступят наблюдатели небес и звездочеты (ἀστρολόγοι) и предвещатели по новолуниям и спасут тебя от того, что должно приключиться тебе. Вот они, как солома; огонь сожег их; не избавили души своей от пламени; не осталось угля, чтобы погреться, ни огня, чтобы посидеть перед ним ().
В Талмуде сказано: «Нет звезды или планеты, которая определяла бы судьбу евреев» (Недарим 32а, Шабат 156а).
Знаменитый апологет иудейства Филон Александрийский трактуя слова книги Бытия про знамения грядущего под συμβία μελλόντων подразумевал указания на погоду, а не астрологические предзнаменования, к которым относится критически[29].
Многие еврейские мудрецы средневековья, например, Авраам Ибн-Эзра, были теоретиками и практиками натальной астрологии. С другой стороны, величайший авторитет средневекового еврейства Рамбам категорически отрицал научность и обоснованность астрологии.
Согласно каббалисту М. С. Лайтман нет никакой связи между каббалой и астрологией. Ущерб от гаданий и астрологических предсказаний двойной — неправильные прогнозы и отвлечение от исправления. Следовательно, и реакция свыше, коррекция — двойные страдания[30]
Астрология и христианство
Общее отношение
В Дидахе, церковном руководстве конца I — начала II веков, давалось предупреждение: «Не будь ни птицегадателем, поелику (птицегадание) ведет к идолослужению, ни заклинателем, ни астрологом, ни чародеем, не желай смотреть на это, ибо от всего этого рождается идолослужение»[31].
На Лаодикийском соборе (середина IV века) в правиле 36 астрология была запрещена, а астрологи отлучены от церкви: «Не подобает освящённым или причётникам быть волшебниками или обаятелями, или числогадателями, или астрологами»[32].
В католицизме астрология, как и все формы гаданий и предсказаний, осуждается и отвергается, поскольку основана на желании власти над временем, историей и другими людьми и отрицает славу, почитание и благоговение, которые должны относиться лишь к Богу[33].
В определении Архиерейского Собора Русской православной церкви 1994 года «О псевдохристианских сектах, неоязычестве и оккультизме» астрология перечислена в ряду лжеучений наряду с язычеством, теософией и спиритизмом[34].
Историческая полемика
Григорий Богослов считал, что астрология оскорбляет Божественный промысел: «Для многих, родившихся под разными звездами, равная участь и на море, и на войне. Кого связывали звезды, тех не связал между собою одинаковый конец. А других, хотя разделили звезды, одинаковая соединила кончина»[35].
Иоанн Златоуст, толкуя Книгу пророка Исаии, в которой говорится об астрологах, пишет:
Чтобы кто-либо не сказал, что астрологи могут предсказывать будущее, пророк говорит: они не возвестили тебе ничего иного, кроме тоски, которой подвержены они сами, постоянно наблюдая звезды и будучи бессильны знать что-либо. «Вот они, как солома: огонь сожег их, — не избавили души своей от пламени» (). Они не только будут бесполезны тебе, но даже и сами погибнут[36][37]
Блаженный Августин так отвечал тем, кто полагает, что хотя бы иногда гороскопы соответствуют действительности:
Так как это служит к уловлению людей, то оно бывает действием совратившихся духов, которым попускается знать кое-что истинное из области временных предметов отчасти потому, что они обладают более тонким чувством, или более тонкими телами, или более богатым, благодаря своей продолжительной жизни, опытом. Поэтому истинный христианин должен остерегаться как астрологов, так и всяких прорицателей, особенно тех, которые говорят правду, чтобы, уловив при содействии демонов его душу, они не запутали его в своё сообщество[38].
Иоанн Дамаскин считал, что астрология отрицает человеческую свободу и Божественное достоинство:
Мы, созданные Творцом свободными, являемся господами наших дел. А если мы всё делаем в силу течения звёзд, то то, что мы делаем, мы делаем по необходимости. То же, что происходит по необходимости, не есть ни добродетель, ни порок. А если мы не имеем ни добродетели, ни порока, то мы недостойны ни наград, ни наказаний, равно как и Бог окажется несправедливым, подавая одним блага, другим скорби. Даже более того: раз всё ведётся и влечётся необходимостью, то не будет ни управления Божия в мире, ни промышления Божия о творениях[39].
По мнению многих астрологов, Книга Бытия содержит указание на то, что небесные тела создавались в том числе для опознания по их положению неких «знамений», под чем можно подразумевать астрологию:
И сказал Бог: да будут светила на тверди небесной [для освещения земли и] для отделения дня от ночи, и для знамений, и времен, и дней, и годов; и да будут они светильниками на тверди небесной, чтобы светить на землю. И стало так. ()
Однако в христианстве под знамениями понимаются не астрономические явления, а чудесные явления и знаки[40]. Поскольку чудо по своему смыслу противоречит закономерности, систематически использовать знамения невозможно, а значит невозможно их и понимать как основу для каких-либо астрологических прогнозов. Что же касается намеренного поиска знамений, то таковое в православном христианстве крайне порицается: «род лукав и прелюбодейный знамения ищет» (Мф. 16, 4; 12, 38—42). По словам свт. Игнатия (Брянчанинова) «Прошение „знамения с небесе“ было не столько прошением чуда, сколько насмешкою над чудесами Богочеловека и выражением невежественного, превратного понятия о чудесах»[40]; «в… состоянии самообольщения и разгорячения находятся и те, которые хотят видеть знамения»[41].
Другая традиционная отсылка астрологов к Вифлеемской звезде с древности встречала критику христианских богословов. Григорий Богослов писал:
Не упоминай мне о великой славе Христовой — звезде-благовестнице, которая с востока путеводила волхвов в тот город, где воссиял Христос — безлетный Сын смертного рода! Она не из числа тех, истолкователями которых астрологи, но необыкновенная и не являвшаяся прежде сего, а замеченная в еврейских книгах. Из них предузнав о звезде, посвятившие жизнь звездословию халдеи, когда с удивлением отличили её от множества наблюдаемых ими звезд и приметили, что с новым сиянием несется она с востока по воздуху в еврейскую землю, заключили о рождении Царя. И в то именно время, как вместе с небожителями поклонились Царю астрологи, отпало у них попечение о своем искусстве[35].
Астрология и ислам
Одним из самых тяжких грехов и неверием (куфр) в исламе является колдовство[42], а астрология считается разновидностью колдовства. Абдулла ибн Аббас сообщил, что Мухаммед сказал:
Тот, кто обучился отрасли астрологии, тот обучился отрасли колдовства, а кто обучился большему, тот выучил столько же колдовства.
По словам шейха Саида Мутауалли Ад-Дарша, в прошлом председателя Шариатского совета Британии:
В исламе нет места никаким предсказаниям будущего. Если человек читает гороскопы, думая, что звезды точно предскажут его жизнь, то его молитвы не будут приниматься Аллахом в соответствии с хадисом Пророка (мир и благословения ему): «Молитва того, кто явится к предсказателю, спросит его о чём-либо и поверит ему, не приниматься в течение сорока дней».[43]
Астрология и индуизм
В индуизме и в тибетском буддизме астрология — это часть религии, философии (Учения) и медицины. В аюрведе и тибетской медицине астрология используется на равных с другими методами диагностики больного. В каждом индуистском храме присутствует вспомогательный алтарь девяти планет (Наваграха), так как они рассматриваются как основные слуги верховной личности Бога (только в индуизме), непосредственно исполняющие его волю. Этот алтарь располагается обычно ближе всего к входу, и перед посещением основного алтаря индуист, посещающий храм, обходит этот алтарь вокруг несколько раз, держа в руках светильник с огнём, что символизирует очищение от кармы в ходе различных кругов перевоплощений. Часто вокруг этого алтаря можно видеть орнамент со знаками зодиака, что намекает на путешествия души по зодиакальному кругу (сансаре). Буддизм и индуизм опираются на концепцию кармы — закона, который можно кратко определить двумя максимами: 1) невозможно избежать плодов содеянного, 2) невозможно встретиться с плодами несодеянного. При этом считается, что предопределенность судьбы человека вполне поддается коррекции, чему и служит астрология, так как гороскоп якобы отражает именно некоторую сумму прошлой кармы, с которой человек пришёл в этот мир.
Астрология и наука
С точки зрения современной науки астрология является типичным лженаучным учением[44][45] и разновидностью гадательной магии[46]. При этом наука признаёт, что на определённом этапе своего развития астрология объективно стимулировала развитие наблюдательной астрономии, математики, метеорологии и других областей знания.
Отношение современной науки к астрологии
Критика
Поскольку за астрологией исторически закрепилось название, включающее в свой состав корень греческого слова «логос», и применяемый для образования названий различных наук («биология», «археология» и т.д.), современным учёным приходится постоянно разъяснять, что астрология носит такое название только как дань традиции[12].
По мере развития науки в научной среде укрепилось убеждение о ложности астрологии[44]. Убеждение в том, что астрология — псевдонаука, основывается на том, что методология астрологии несовместима с современной научной методологией. Астрологию относят к суевериям, лженаучным учениям и к разновидности гадательной магии. Нередко астрологи пользуются профессиональной терминологией, развитой в психологии. Также имеет место спекуляция астрологов на не полностью исследованных наукой проблемах, как и собственное толкование научных открытий[12].
В 1975 году 186 ведущих мировых учёных, в том числе 18 нобелевских лауреатов, выступили с заявлением «Возражения против астрологии»[8][47], в котором выражали беспокойство по поводу того, что средства массовой информации охотно предоставляют свои страницы астрологии и прочим подобным псевдонаукам[3]. Национальный научный фонд (США) относит веру в астрологию к одному из наиболее распространённых среди американцев псевдонаучных заблуждений[7]. В России публичной критикой астрологии как лженауки занимается Комиссия по борьбе с лженаукой и фальсификацией научных исследований при Президиуме Российской академии наук.
21 октября 2013 года президент РАН академик В. Е. Фортов отметил, что наука и религия имеют общую цель в борьбе с хиромантией и гороскопами.[48]
Поддержка
Ряд сторонников и создателей псевдонаучных теорий высказались в поддержку астрологии[49] и полагают, что она имеет примеры успешного применения в мировой практике[50][51][52][53].
Астролог, один из учредителей «Союза профессиональных астрологов»[54], член различных общественных академий Ф. К. Величко считает, что астрология занимает промежуточное положение между религией и науками (естественными и гуманитарными)[55], и высказывает мнение, что все астрологические умозаключения должны быть надёжно подтверждены фактическим материалом[56].
В 2000 году Комиссия по Университетским грантам и Министерство развития человеческих ресурсов Индии решили ввести курс «Ведической Астрологии» (jyotir vijñāna) в индийских университетах, разослав письма с предложением грантов в размере 1,5 млн рупий в случае открытия отделений с преподаванием «ведической астрологии». На предложение откликнулись 35 университетов. Это вызвало резкую реакцию научного сообщества Индии, выразившего протест против попыток придания научного статуса псевдонауке[57][58][59]. В настоящее время в ряде университетов Индии существуют отделения и присваиваются учёные степени по джьотише (астрологии индуизма)[60][61][62][63]. Ряд исследований в Индии показал неэффективность предсказаний индийских астрологов[59][64].
Попытки верификации
Общие результаты
Ни один эксперимент, который мог доказать истинность утверждений астрологии, не увенчался успехом[65]. Все усилия, направленные на то, чтобы установить достоверные статистические корреляции между расположением небесных светил в момент рождения человека и какими-либо особенностями его личности или событиями в жизни, пока не дали положительного результата[65]. Астрологи в своих предсказаниях не показали результатов, существенно отличных от любого случайного предсказания[66][67][68]. Те из них, кто заявляет об обладании сверхъестественными способностями, не способны действовать лучше, чем те, кто о таких способностях не заявляет[66].
Эффект Марса
Существует ряд статистических исследований достоверности астрологии, давших кажущийся положительным результат. Наиболее известными в этой области являются работы Мишеля Гоклена, сопоставившего моменты рождения большого количества людей с их профессиями. Результаты этих работ оказались неоднозначными. Исследования Гоклена опровергли многие базовые положения астрологии[59][69], в частности, работоспособность гороскопов. В то же время в ряде других его исследований были обнаружены некоторые статистические закономерности, предполагавшие наличие связи момента рождения человека с его судьбой (см. эффект Марса). Эти исследования повторялись несколько раз под надзором различных экспертов и давали сходные результаты, однако научное сообщество отказалось признать их, мотивируя тем, что полученные результаты не имели статистической значимости[70] и что при анализе Гоклен допускал систематическую ошибку, отбирая тех из людей, чьи данные о моменте рождения подтверждали его гипотезу[71].
Эксперимент Форера
Критику достоверности сообщаемых астрологами сведений современная наука часто подкрепляет ссылкой на эксперимент Форера (см. Эффект Барнума). В 1948 году американский психолог провёл психологический эксперимент: раздал своим студентам тест личности, чтобы по результатам тестирования предоставить им анализ их личности. Однако вместо настоящего анализа, он давал всем один и тот же расплывчатый текст, взятый из гороскопа. Затем он попросил каждого студента оценить по пятибалльной шкале: насколько описание их личности соответствует действительности. Средняя оценка оказалась равной 4,26. На оценку точности описания студентов повлиял в том числе и авторитет преподавателя.
Впоследствии эксперимент был повторён множество раз с тем же результатом[72]. Оказалось, что люди зачастую крайне высоко оценивают точность таких описаний их личности, которые, как они предполагают, созданы индивидуально для них, но которые, на самом деле, неопределённы и достаточно обобщены, чтобы их можно было с таким же успехом применить и ко многим другим людям. Этим эффектом учёные объясняют феномен широкой популярности астрологических гороскопов, хиромантии и различных псевдонаук.
Астрологические близнецы
Одним из наиболее убедительных доказательств[4] ложности астрологии считается эксперимент, начатый в 1958 году английскими учёными и продолжающийся по настоящее время. Учёные изучали более 2000 человек[73], родившихся с интервалом в среднем около 4,8 минуты[59][66] (так называемых «временны́х близнецов»), и проследили их дальнейшую судьбу. Согласно астрологии, такие люди должны быть близки по профессии, по уму, по привычкам и т. д. Наблюдения велись за состоянием здоровья, родом занятий, семейным положением, уровнем интеллекта, способностью к музыке, искусству, спорту, математике, языкам и т. д. Всего учитывалось свыше сотни параметров. Никакого сходства между «временны́ми близнецами» не было обнаружено. Они оказались столь же отличны друг от друга, как и люди, родившиеся в разное время под любыми другими знаками Зодиака[66][59].
См. также
Западная астрология
Индийская астрология
Знаки Зодиака
Дома гороскопа
Нумерология
Мистика
Эзотерика
Предсказание
История астрологии
Ятроматематики
Звездочтец
Проблема верифицируемости
Псевдонаука
Комиссия по борьбе с лженаукой
Центральные понятия
Астрологические близнецы
Астрологическая эра
Компьютерные программы
Веста (астрологическая программа)
Сталкер (семейство астрологических программ)
Примечания
Литература
Берзин А.
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Вронский С. А.
Де Либера А. // Де Либера А. Средневековое мышление. — М.: Праксис, 2004, с. 207—263
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Мень А. В.
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Видео
on YouTube — , ведущий А. Друзь, гости А. Пензенский и Р. Броль (Д. Куталёв)
on YouTube — Кирилл Масленников, к. ф.-м. н., научный сотрудник Пулковской обсерватории.
Сайты сторонников астрологии
— сайт доктора химических наук Ф. К. Величко v
‹See Tfd›(in English) v
‹See Tfd›(in English) v
‹See Tfd›(in Russian) v
Сайты критиков
(Сайт Тихоокеанского Астрономического Общества)
«В защиту науки», Комиссия по борьбе с лженаукой и фальсификацией научных исследований при Президиуме Российской Академии Наук
— Сайт американских скептиков
— Фонд Рэнди.
Категория:Оккультизм
Категория:Герметизм
* | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%90%D1%81%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B3%D0%B8%D1%8F |
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Paperi T (oikealta nimeltään Henri Pulkkinen,[1]) on porvoolainen, nykyään Helsingissä asuva rap-artisti, DJ ja runoilija.[2] Hän on myös Radio Helsingin musiikkipäällikkö.[3]
Ura
Ruger Hauer
Paperi T oli osa Ruger Hauer -nimistä rap-yhtyettä, johon kuuluivat hänen lisäkseen MC:t Pyhimys ja Tommishock. Yhtyeen ensimmäinen Se syvenee syksyllä -albumi julkaistiin 24. marraskuuta 2010 Monsp Recordsin kautta.
Ruger Hauerin toinen pitkäsoitto Erectus julkaistiin 26. lokakuuta 2012 myös Monsp Recordsin kautta. Se nousi Suomen virallisen albumilistan 16. sijalle.[4]
Yhtyeen kolmas pitkäsoitto Ukraina julkaistiin Monsp Recordsin kautta 25. lokakuuta 2013. Albumi nousi 15. sijalle Suomen virallisella albumilistalla.[5] Sen kappaleesta "Jenkem" on julkaistu musiikkivideo.
Ruger Hauerin neljäs pitkäsoitto Mature julkaistiin 2016 Universal Musicin alaisen Johanna Kustannuksen kautta.
Sooloura
Paperi T:n ensimmäinen sooloalbumi Malarian pelko julkaistiin 17. huhtikuuta 2015 Universal Musicin alaisen Johanna Kustannuksen kautta.[6] Albumi nousi julkaisuviikollaan Suomen virallisen albumilistan kärkeen.[7] Malarian pelko palkittiin huhtikuussa 2016 Teosto-palkinnolla.[8]
Albumin ensimmäinen single ”Sä jätät jäljen” julkaistiin 14. marraskuuta 2014 videona YouTubessa. Albumin toinen musiikkivideo ”Resnais, Beefheart & Aalto” julkaistiin 6. helmikuuta 2015 ja kolmas ”Elokuva” 10. huhtikuuta 2015.
Artistin toinen studioalbumi ”Kaikki on hyvin” julkaistiin 15. kesäkuuta 2018. Levyn nimikkokappale ”Kaikki on hyvin” julkaistiin singlenä 4. huhtikuuta sekä ”Paniikki” musiikkivideon kera 24. toukokuuta 2018.[9][10]
Muut projektit
Paperi T ja Khid julkaisivat Ex ovis pullus non natis serò fit ullus -nimisen EP:n 6. kesäkuuta 2013. EP:n julkaisi Monsp Records, ja se julkaistiin rajoitettuna vinyylipainoksena sekä digitaalisena julkaisuna.
18. lokakuuta 2013 Paperi T julkaisi yhdessä Paavoharju-yhtyeen kanssa albumin Joko sinä tulet tänne alas tai minä nousen sinne Svart Recordsin kautta.[11]. Se nousi Suomen virallisen albumilistan sijalle 11.[12]
Paperi T on myös vieraillut muun muassa porvoolaisten rap-artistien kappaleilla. Hän myös juontaa ohjelmia Radio Helsingillä.[13]
Paperi T:ltä ilmestyi 29. syyskuuta 2016 Kosmoksen kustantamana post-alfa-runoteos[14], jonka 2 500 kappaleen ensipainos myytiin loppuun kahdessa päivässä.[15] Kirjasta on tehty jo neljä painosta.[16]
Tammikuussa 2017 Paperi T valittiin Radio Helsingin musiikkipäälliköksi.[3]
Yksityiselämä
Koulutukseltaan Paperi T on medianomi.[17]
Diskografia
Albumit
Ruger Hauer – Se syvenee syksyllä (2010)
Ruger Hauer – Erectus (2012)
Paavoharju – Joko sinä tulet tänne alas tai minä nousen sinne (2013)
Ruger Hauer – Ukraina (2013)
Paperi T – Malarian pelko (2015)
Ruger Hauer – Mature (2016)
Paperi T - Kaikki On Hyvin (2018)
EP.t
Paperi T & Khid – Ex ovis pullus non natis serò fit ullus (2013)
Singlet
Sä jätät jäljen (2014)
Resnais, Beefheart & Aalto (2015)
Elokuva (2015)
Kaikki on hyvin (2018)
Paniikki (2018)
Musiikkivideot
Täällä (Ruger Hauer, 2011)
Jokaiselle jotakin (Ruger Hauer, 2011)
Nimi muutettu (Perhosveitsi-Heikki & Lika-Aki mukana Paperi-THC, 2012)
Iso paha susi (Ruger Hauer, 2013)
Ei kompromisseja (DJ Polarsoul mukana Asa, Paperi T & Jodarok, 2013)
Patsaatkin kuolevat (Paavoharju, 2013)
Jenkem (Ruger Hauer, 2013)
Rataraato (Heikki Kuula mukana Pää Kii & Paperi T, 2014)
Mist sä tuut? (JVG mukana Gracias, Paperi T, Juno, Stepa, Särre, Gasellit & Kube, 2014)
Viereen (Reino Nordin mukana Paperi T, 2014)
Jetset Hilife (DJ Ibusal + Lobo mukana Paperi THC & Tuuttimörkö, 2014)
Sä jätät jäljen (2014)
Resnais, Beefheart & Aalto (2015)
Rushdie RMX (Haamu mukana Monsteri-Makke, Paperi T & Kalifornia-Keke, 2015)
Elokuva (mukana P-K Keränen, 2015)
Surumielisen näköiset naiset (2015)
Typerykset jotka polttavat pilveä avoautoissa (Ruger Hauer,2016)
Sekasin (Ruger Hauer, 2016)
Oo se kun oot (Sanni mukana Paperi T, 2016)
Paniikki (feat. Chisu, 2018)
Vierailijana
Kokoelmilla
Papru & Ezra: ”Gorilla mysteeri pt. II” Miksi Teip Sen? -mixtapella (Löyly-Viihde, 2006)
Näkökulma, Don P & JaM & Papru: ”P-Town massiivi” (Syvällä Pelissä exclusive, 2007)
Pyhimys, Paperi T & Tommishock: ”Ihmisraunio” Adihasla-soundtrackilla (Yellowmic, 2007)
JaM, Papru & Ola: ”Räkistango” (Syvällä Pelissä exclusive, 2008)
Pyhimys & Paperi T: ”Et ole yksin (Et ole yksin)” Nyt kolisee -kokoelmalla (2014)
Lähteet
Aiheesta muualla
Rumba
Luokka:Suomalaiset hip hop -artistit
Luokka:Suomalaiset DJ:t
Luokka:Emma-palkinnon saajat
Luokka:Vuonna 1986 syntyneet
Luokka:Elävät henkilöt
| https://fi.wikipedia.org/wiki/Paperi%20T |
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} | 2019년 노르웨이의 지도지는 누구인가? | 2019년 FIFA U-20 월드컵 | korean | {
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2019년 FIFA U-20 월드컵</b>은 2019년 5월 23일부터 6월 15일까지 폴란드에서 개최될 예정인 22번째 FIFA U-20 월드컵이다.
개최를 희망했던 국가
FIFA는 2018년 3월 16일 콜롬비아 보고타에서 열린 총회에서 폴란드를 해당 대회의 개최국으로 선정했다.
본선 진출 팀
개최 도시 및 경기장
시드 배정
본선 조 추첨식은 2019년 2월 24일에 그디니아에서 열릴 예정이다. 같은 대륙의 국가들끼리는 서로 다른 조에 편성된다.
조별 리그
A조
B조
C조
D조
E조
F조
각 조 3위 팀끼리의 순위 결정 (와일드카드)
16강 대진 결정 방식
16강 대진은 FIFA의 토너먼트 규정집 18절에 게재된 대진표에 따른다.
16강전 대진 조합표
결선 토너먼트
16강전
8강전
준결승전
3,4위전
결승전
우승
수상
최종 순위
분류:FIFA U-20 월드컵
분류:폴란드에서 개최된 축구 대회
분류:2019년 축구
분류:2019년 폴란드 | https://ko.wikipedia.org/wiki/2019%EB%85%84%20FIFA%20U-20%20%EC%9B%94%EB%93%9C%EC%BB%B5 |
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Всеми́рная организа́ция здравоохране́ния (ВОЗ, English: World Health Organization, WHO) — специальное учреждение Организации Объединённых Наций, состоящее из 194 государств-членов, основная функция которого лежит в решении международных проблем здравоохранения населения Земли. Она была основана в 1948 году со штаб-квартирой в Женеве в Швейцарии.
В специализированную группу ООН, кроме ВОЗ, входят ЮНЕСКО (Организация Объединённых Наций по вопросам образования, науки и культуры), Международная организация труда (МОТ), ЮНИСЕФ (Фонд помощи детям).
Страна-член ООН становится членом ВОЗ, приняв Устав. Страна не член ООН принимается в члены ВОЗ простым большинством голосов Генеральной ассамблеи здравоохранения. Территории, не правомочные выступать субъектами международных отношений, могут быть приняты в ВОЗ в качестве ассоциативных членов на основании заявлений, сделанных от их имени членом ВОЗ или другим полномочным органом, ответственным за международные отношения этих территорий.
Предыстория создания ВОЗ
Первым органом, занимавшимся межнациональным сотрудничеством в этом вопросе, был Константинопольский высший совет здравоохранения, образованный в 1839 году. Его основными задачами были контроль за иностранными судами в портах Османской империи и противоэпидемические мероприятия по предупреждению распространения чумы и холеры. Позднее подобные советы были созданы в Марокко (1840 год) и Египте (1846 год). В 1851 году в Париже прошла I Международная санитарная конференция, в которой участвовали 12 государств, в том числе и Российская империя. Итогом работы этого форума предполагалось принятие Международной санитарной конвенции, которая определила порядок морского карантина в Средиземном море. Однако достигнуть этого результата удалось только в 1892 году в отношении холеры, а в 1897 — в отношении чумы.
В начале XX века были основаны ещё две межправительственные организации здравоохранения: в 1902 году Панамериканское санитарное бюро (Вашингтон, США), в 1907 году — Общественное бюро гигиены в Европе (Париж, Франция). Главными их функциями были распространение информации об общих вопросах медицины (особенно об инфекционных заболеваниях). После Первой мировой войны в 1923 году стала функционировать Международная организация здравоохранения Лиги Наций (Женева, Швейцария), а по окончании Второй мировой войны в июле 1946 года в Нью-Йорке в соответствии с решением Международной конференции по здравоохранению было решено создать ВОЗ. Устав ВОЗ был ратифицирован 7 апреля 1948 года, с тех пор этот день 7 апреля отмечается как «Всемирный день здоровья».
История ВОЗ
Приводится согласно официальному сайту[1]:
1948 год: ВОЗ взяла на себя ответственность за Международную классификацию болезней (МКБ).
1952—1964 год: ВОЗ осуществляла Глобальную программу ликвидации тропической гранулёмы.
1974 год: ВОЗ в течение 30 лет вела Программу ликвидации онхоцеркоза.
1974 год: Всемирная ассамблея здравоохранения принимает резолюцию о разработке Расширенной программы иммунизации для обеспечения доступа к основным вакцинам для детей.
1975 год: Всемирная ассамблея здравоохранения приняла концепции «основные лекарственные средства» и «национальная политика в области лекарственных средств». Через два года начали появляться Перечни основных лекарственных средств.
1967—1979 год: 12 лет ВОЗ полностью координировало кампанию по искоренению оспы. Полное искоренение оспы во всём мире — самое серьёзное достижение ВОЗ.
1978 год: Международная конференция по первичной медико-санитарной помощи определяет историческую цель «Здоровье для всех».
1988 год: Начало реализации Глобальной инициативы по ликвидации полиомиелита.
2003 год: Принимается — Рамочная конвенция ВОЗ по борьбе против табака.
2004 год: Принимается Глобальная стратегия в области рациона и режима питания, физической активности и здоровья.
2005 год: Всемирная ассамблея здравоохранения пересматривает Международные медико-санитарные правила.
Структура ВОЗ
Всемирная ассамблея здравоохранения
Исполнительный комитет
Секретариат
Штаб-квартира ВОЗ
Штаб-квартира ВОЗ находится в Женеве, Швейцария.
Структура штаб-квартиры[2]:
Генеральный директор
Заместитель Генерального директора
Канцелярия Генерального директора (ODG)
Департаменты
Здоровье семьи, женщин и детей (FWC)
Системы здравоохранения и инновации (HIS)
Общее руководство (GMG)
Безопасность в области здравоохранения и окружающая среда (HSE)
ВИЧ/СПИД, туберкулез, малярия и забытые тропические болезни (HTM)
Неинфекционные заболевания и психическое здоровье (NMH)
Полиомиелит, чрезвычайные ситуации и сотрудничество со странами (РЕС)
Руководство ВОЗ
Генеральный директор ВОЗ
В соответствии с Уставом ВОЗ Генеральный директор назначается на сессии Всемирной ассамблеи здравоохранения по представлению Исполнительного комитета. Государства-члены ВОЗ направляют свои предложения с кандидатами по установленной форме в Исполнительный комитет. Исполнительный комитет осуществляет первоначальное рассмотрение предложений по кандидатурам, составляет краткий список кандидатов, проводит с ними собеседование, осуществляет оценку физического состояния кандидата[3]. Создана рабочая группа государств-членов по процессу и методам выборов Генерального директора Всемирной организации здравоохранения[4].
Генеральные директора ВОЗ
с 2017 Доктор Тедрос Адханом Гебрейесус[5] (Эфиопия)
2007—2017 Доктор Маргарет Чен (КНР)
2006—2007 Доктор (Швеция) (исполняющий обязанности)
2003—2006 Доктор Ли Чон Ук (Республика Корея)
1998—2003 Доктор Гру Харлем Брунтланн (Норвегия)
1988—1998 Доктор Хироси Накадзима (Япония)
1973—1988 Доктор (Дания)
1953—1973 Доктор (Бразилия)
1948—1953 Доктор (Канада)
Задачи ВОЗ
предоставление международных рекомендаций в области здравоохранения
установление стандартов здравоохранения
сотрудничество с правительствами стран в области усиления национальных программ здравоохранения
разработка и передача соответствующих технологий, информации и стандартов здравоохранения.
Сферы деятельности ВОЗ
Укрепление и совершенствование национальных служб здравоохранения;
Предупреждение неинфекционных и инфекционных заболеваний и борьба с ними;
Охрана и оздоровление окружающей среды;
Охрана здоровья матери и ребёнка;
Подготовка медицинских кадров;
Развитие медико-биологических исследований;
Санитарная статистика.
Региональные бюро ВОЗ
В соответствии со статьёй 44 Устава ВОЗ в период с 1949 по 1952 год открыты региональные бюро ВОЗ:
Европейское региональное бюро — в Копенгагене (Дания),
Региональное бюро для стран Америки — в Вашингтоне (США),
Региональное бюро для стран Восточного Средиземноморья — в Каире (Египет),
Региональное бюро для стран Юго-Восточной Азии — в Дели (Индия),
Региональное бюро для стран Западной части Тихого океана — в Маниле (Филиппины),
Региональное бюро для стран Африки — в Браззавиле (Конго).
Это позволило Всемирной ассамблее здравоохранения (ВАЗ) реализовать принцип: «Одно бюро — один регион». Большинство решений принимается на региональном уровне, в том числе, обсуждение бюджета ВОЗ и принятие решений членами собрания конкретного регионального бюро[6].
В каждом бюро есть региональный комитет, который собирается один раз в год, обычно осенью. В работе заседания регионального бюро ВОЗ принимают участие представители от каждой страны члена или ассоциированного члена, в том числе и представители тех государств, которые признаются не в полной мере. Например, представитель Палестины участвует в заседаниях регионального бюро Восточного Средиземноморья. Каждый регион представлен региональным бюро[6]. Региональное бюро возглавляет региональный директор, который избирается региональным комитетом. В обязанности бюро входит утверждение решений, хотя с 2004 года, не было случаев отмены решений регионального комитета. Процесс избрания региональных директоров был предметом дискуссий, не приносящих практической пользы[6]. С 1999 года региональные директора избираются на пятилетний срок[7].
Региональный директор является главой ВОЗ для своего региона. Региональный директор управляет и/или контролирует работников здравоохранения и других специалистов в региональных отделениях и в специализированных центрах. Наряду с Генеральным директором ВОЗ и руководителями региональных бюро ВОЗ, известных как представители ВОЗ в регионе, региональный директор также обладает функциями прямого надзорного органа в регионе.
Другие бюро ВОЗ
Международное агентство по исследованию рака — в Лионе (Франция).
Центр ВОЗ по развитию здравоохранения — в Кобе (Япония).
Бюро ВОЗ в Лионе — в Лионе (Франция).
Средиземноморский центр ВОЗ по снижению рисков для здоровья — в Тунисе (Тунис).
Бюро ВОЗ в Европейском союзе — в Брюсселе (Бельгия).
Бюро ВОЗ в СНГ — в Москве (Россия).
Бюро ВОЗ при ООН — в Нью-Йорке (США).
Бюро ВОЗ при Всемирном банке и Международном валютном фонде — в Вашингтоне (США).
Работа ВОЗ
Работа ВОЗ организована в виде Всемирных Ассамблей здравоохранения, на которых ежегодно представители государств-членов обсуждают важнейшие вопросы охраны здоровья. Между Ассамблеями основную функциональную роль несёт Исполнительный комитет, включающий представителей 30 государств (среди них — 5 постоянных членов: США, Россия, Великобритания, Франция и Китай). Для обсуждения и консультаций ВОЗ привлекает многочисленных известных специалистов, которые готовят технические, научные и информационные материалы, организуют заседания экспертных советов. Широко представлена издательская деятельность ВОЗ, включающая отчёты Генерального директора о деятельности, статистические материалы, документы комитетов и совещаний, в том числе отчёты Ассамблеи, исполнительных комитетов, сборники резолюций и решений и т. д. Кроме того, выпускаются журналы ВОЗ: «Бюллетень ВОЗ», «Хроника ВОЗ», «Международный форум здравоохранения», «Здоровье мира», «Ежегодник мировой санитарной статистики», серия монографий и технических докладов. Официальными языками являются английский и французский, рабочими (кроме указанных) — русский, испанский, арабский, китайский, немецкий.
Деятельность ВОЗ осуществляется в соответствии с общими программами на 5—7 лет, планирование ведётся на 2 года. В настоящее время приоритетными направлениями являются:
Развитие систем здравоохранения в странах в соответствии с резолюцией об основных принципах национального здравоохранения (1970), в которой чётко обозначены ответственность государства, средства профилактики, участие населения, использование достижений науки и т. д.;
Подготовка и усовершенствование кадров здравоохранения;
Развитие первичной медико-санитарной помощи в соответствии с Алма-Атинской декларацией
ВОЗ-ЮНИСЕФ (1978);
Охрана и укрепление здоровья различных групп населения;
Охрана окружающей среды;
Борьба с инфекционными и паразитарными болезнями, иммунизация и вакцинация против основных эпидемических заболеваний;
Охрана и укрепление психического здоровья;
Обеспечение здоровья матери и ребёнка;
Информирование по проблемам охраны здоровья;
Расширенная программа научных медицинских исследований;
Актуальные направления консультативной и технической помощи странам-членам.
ВОЗ удаётся решать многие важные вопросы. По инициативе ВОЗ и при активной поддержке национальных систем здравоохранения (в том числе и СССР) была проведена кампания по ликвидации оспы в мире (последний случай зарегистрирован в 1981 г.); ощутимой является кампания по борьбе с малярией, распространённость которой сократилась почти в 2 раза, программа иммунизации против 6 инфекционных заболеваний, организация выявления и борьба с ВИЧ, создание справочно-информационных центров во многих государствах, формирование служб первичной медико-санитарной помощи, медицинских школ, учебных курсов и т. д. Основная роль ВОЗ в достижении поставленных целей — консультативная, экспертная и техническая помощь странам, а также предоставление необходимой информации, чтобы научить страны помогать самим себе в решении ключевых проблем охраны здоровья. На сегодня ВОЗ определила наиболее важные направления деятельности национальных систем здравоохранения как: ВИЧ/СПИД, туберкулёз, малярия, содействие безопасной беременности — здоровье матери и ребёнка, здоровье подростков, психическое здоровье, хронические заболевания.
Финансирование ВОЗ
Согласно официальному сайту[1] в 2006—2007 годах общая сумма бюджета ВОЗ составляла около 3,3 миллиарда долларов США. Из них 28 % — регулярные взносы государств-членов ВОЗ, а 72 % — добровольные взносы государств-членов ВОЗ, взносы ООН, межправительственных и неправительственных организаций, фондов, местных органов управления, частного сектора и доход от процентов.
Начиная с 2008 года в основу управления ВОЗ, ориентированного на результаты, положен шестилетний среднесрочный стратегический план (на 2008—2013 годы), включающий три двухлетних бюджетных периода[8].
Всемирные дни ВОЗ, входящие в систему международных дней ООН
4 февраля — Всемирный день борьбы против рака
24 марта — Всемирный день борьбы против туберкулёза
7 апреля — Всемирный день здоровья
25 апреля — Всемирный день борьбы против малярии
31 мая — Всемирный день без табака
14 июня — Всемирный день донора крови
28 июля — Всемирный день борьбы с гепатитом
10 сентября — Всемирный день предотвращения самоубийств
28 сентября — Всемирный день борьбы против бешенства
10 октября — Всемирный день психического здоровья
14 ноября — Всемирный день борьбы с диабетом
15 ноября — Всемирный день памяти жертв дорожно-транспортных происшествий указан день в 2015 году; третье воскресенье ноября.
Всемирные дни, поддерживаемые ВОЗ
Эти всемирные дни не входят в систему международных дней ООН
27 сентября — Всемирный день сердца указан день в 2015 году; последнее воскресенье сентября.
8 октября — Всемирный день зрения указан день в 2015 году; второй четверг октября.
24 октября — Всемирный день борьбы с полиомиелитом[9]
17 ноября — Всемирный день борьбы против хронической обструктивной болезни лёгких
Послы доброй воли
Послы доброй воли — это известные люди из мира искусства, литературы, эстрады, спорта и других областей общественной жизни, которые в тесном сотрудничестве с ВОЗ вносят вклад в усилия ВОЗ в сфере здравоохранения посредством привлечения внимания. Назначаются Генеральным директором на двухлетний срок.[10]
Реформа ВОЗ
Приводится согласно официальному сайту[11]:
январь 2010 год: Генеральный директор ВОЗ, д-р Маргарет Чен, созвала неофициальную консультацию по вопросам будущего финансирования ВОЗ. Однако, участники подняли более фундаментальные вопросы о роли и характере деятельности ВОЗ.
январь 2011 год: 128-я сессия Исполнительного комитета предложила Секретариату разработать общую концепцию проведения реформы и представить более подробную программу Всемирной ассамблее здравоохранения в мае. Определены три структурных элемента — приоритеты, стратегическое руководства и управление — которые остаются организующей основой данного процесса до настоящего времени.
май 2011 года: 64-я сессия Всемирной ассамблеи здравоохранения (WHA64) Генеральный директор представила сводный доклад «Будущее финансирования ВОЗ», в котором были указаны элементы общего направления программы реформы. Государства-члены приняли резолюцию, одобряющую общее направление реформы.
1-3 ноября 2011 года: Специальная сессия Исполнительного комитета около 100 государств-членов приняла решения по каждому из трех основных направлений деятельности: реформы в области приоритетов, стратегического руководства и управления.
16-23 январь 2012 года: 130-я сессия Исполнительного комитета возобновила консультации с государствами-членами по программе реформы.
26 февраля 2012 года: Информационное заседание с Секретариатом по программам и установлению приоритетов ВОЗ.
27-28 февраля 2012 года: Совещание государств-членов по программам и установлению приоритетов, на котором достигнут.
май 2012 года: 65-я сессия Всемирной ассамблеи здравоохранения (WHA65) одобрила итоги совещания государств-членов по программам и установлению приоритетов в феврале. Одобрила целый ряд реформ в области стратегического руководства и управления программами, и Секретариату было предложено осуществлять дальнейшие действия, включая их реализацию.
Примечания
Ссылки
между Министерством здравоохранения и социального развития РФ и Европейским региональным бюро ВОЗ на 2008/2009 гг.
‹See Tfd›(in English)
Категория:Организации, основанные в 1948 году
Категория:Организации здравоохранения | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D1%81%D0%B5%D0%BC%D0%B8%D1%80%D0%BD%D0%B0%D1%8F%20%D0%BE%D1%80%D0%B3%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B7%D0%B0%D1%86%D0%B8%D1%8F%20%D0%B7%D0%B4%D1%80%D0%B0%D0%B2%D0%BE%D0%BE%D1%85%D1%80%D0%B0%D0%BD%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D1%8F |
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} | When was the Argentine Basketball Federation formed? | History of the Argentina national basketball team | english | {
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} | The Argentina national basketball team represents Argentina in basketball international competitions, and is controlled by the Argentine Basketball Federation. (Spanish: Confederación Argentina de Basquetbol). The national team was formed in 1921, playing its first game v. Uruguay that same year.
Argentina is the only national team in the FIBA Americas zone that has won the quintuplet crown: FIBA World Cup (they won the first edition, in 1950), Olympic Gold Medal (2004) (the higher honor and most important title in the history of the national team), FIBA Diamond Ball (2008), FIBA AmeriCup (2001 and 2011) and Pan American Gold Medal (1995). They have also won 13 South American Basketball Championships, as well as many youth championships.
The Argentine representative was also the first to defeat a United States national team with a full squad of NBA players. They did so by 87–80 in the 2002 FIBA World Championship held in Indianapolis.
Beginning: the 1910 and 1920s
The practice of basketball in Argentina was started by Asociación Cristiana de Jóvenes (Young Men's Christian Association – YCMA) in 1912.[1] Canadian Professor Paul Phillip was in charge to teach basketball at the YMCA headquarters in Paseo Colón Avenue, Buenos Aires.
The first basketball clubs in Argentina were YMCA, Hindú and Independiente. By 1912 the first basketball games were held by YMCA headquarters in Buenos Aires. In 1913 the first games between Argentine and Uruguayan YCMA are played. One year later, the YCMA organised the first internal championship. In 1919 the Uruguay national team played a game v. local team Nacional, in Buenos Aires.[2]
In 1921 the "Argentine Basketball Federation" (original name: "Federación Argentina de Basket-Ball" – FABB) was established to organise competitions not only in Buenos Aires but in several cities around Argentina, such as Bahía Blanca and Córdoba where basketball would develop significantly in successive years.[3] Argentina played its first international game (representing the FABB) against Uruguay in 1921. The players chosen to play that match were: S.G. Romero, J.C. Rodríguez Quiroga (captain), A. Birba, M. Hernandorena, J. Barbier.[2]
In successive years, other clubs such as Ñaró, Estudiantes (LP), River Plate, Gimnasia y Esgrima, Universitario and Racing) registered their teams to the Federation. On August 30, 1929, the Argentine Basketball Federation (current "Confederación Argentina") was established,[2] with founder members from Buenos Aires, Córdoba, Santa Fe, La Rioja, North Federation and Bahía Blanca. The Federación Argentina focused on the spread of basketball in Buenos Aires as in the rest of the provinces of Argentina.
First titles: the 1930s and 1940s
By the 1930s the practise of basketball had been widely spread around Buenos Aires, with the media (more remarkably El Gráfico magazine) not only covering the sport but even organising competitions.
In 1930 the first South American Championship ("Campeonato Sudamericano" in Spanish) was organised, being Argentina runner-up. The national side would win its first official title at the 3rd edition of the tournament, in 1934 in Buenos Aires. The national team finished winning all the games (6 in total) achieving the gold medal. Argentina won its second consecutive title at the 1935 Championship held in Rio de Janeiro with 3 wins and 1 loss.
After several competitions with no wins, Argentina achieved a new title in 1941, winning all the games (5). During the successive editions, Argentina would achieve its first treble after winning the 1942 and 1943 championships. Nevertheless, Argentina would not win a new South American title until 1966.
1950s: World Champions' Generation
After the 1948 Olympic Tournament, FIBA decided to create a World Championship, and named Argentina as the host country for the inaugural 1950 edition. The team's coaching staff was formed by Jorge Canavesi as head coach, Casimiro González Trilla as his assistant and Jorge Boreau as the physical trainer.[4] The squad, formed entirely by amateur players, trained in preparation for the tournament in River Plate's facilities every day in double shifts, something uncommon for the times.[4] The Argentine government negotiated with the players' employers and studying centers to secure their times.
The team played around Oscar Furlong, a center with good mobility and passing skills.[4] Other important players were Ricardo González (captain), Leopoldo Contarbio, Juan Carlos Uder, Raúl Pérez Varela and Roberto Viau (who was 18 years old at the time of the tournament). In the tournament itself, Argentina defeated France (56–40) in the preliminary round, followed by Brazil (40–35), Chile (62–41), France again (66–41) and EuroBasket champions Egypt (68–33) in the final round; before defeating the United States in the decisive match (64–50).
After the World Championship title, Argentina won the silver medal at the 1951 Pan American Games held in Buenos Aires and finished fourth at the 1952 Summer Olympics held in Helsinki. However, for political reasons, the country did not participate in the 1953 South American Basketball Championship, nor did they defend the World Championship title in the 1954 edition of the tournament.[4] The last participation of the 1950s generation was in the 1955 Pan American Games held in Mexico City, where they won another silver medal.
The world championship won clean and brilliantly, but, on January 8, 1957, the military dictatorship of Pedro Aramburu, who had taken power in Argentina via a coup d'état which called itself Revolución Libertadora, provisionally suspended the 1950 World Championship winners; a measure that was later made permanent on March 27 of that year.[4]
According to the polemic amateur article a professional sportsman can not receive money, but the Argentinean players -not USA- received economic compensation for play. The suspension was for allegedly violating the Amateur Sportsman Statute, as, according to the administrators who had been installed in the Argentine Basketball Federation, the players had been paid to play by the overthrown government of Juan Perón.[4] With a young and inexperienced team, Argentina finished fourth in the 1958 South American Basketball Championship and 10th (over 13 teams) in the 1959 FIBA World Championship.
The 1960s
Subsequently, the team had further disappointing third and fourth-place finishes at the 1961 and 1963 South American Championships respectively, and did not participate in the 1963 Pan American Games.
In preparation for the 1963 World Championship, Alberto Andrizzi was appointed as head coach.[5] For different reasons, point guards Ricardo Crespi and Hugo Olariaga, shooting guards Marcelo Farías and Norberto Batillana, centers Miguel Ballicora and Guillermo Riofrío, as well as Ricardo Alix, decided not to be part of the World Championship squad.[5] It should be noted that most of the players were amateurs, who alternated the practice of the sport with their jobs and studies.[5]
Coach Andrizzi formed a squad that averaged 22.8 years of age, the lowest in the team's history at the competition, and with only one player from the previous World Championship (Antonio Tozzi).[5] This was also the first time Argentina took a player above the 2 metres (6.6ft) of stature to a World Championship, Zoilo Domínguez (who was 2.04m (6ft 8in)).[5] The squad trained 8 days in Villa Allende, Córdoba Province, and played some preparation games against teams from Córdoba and Santa Fe. The delegation that traveled to Brazil (where the competition took place) had no assistant coach, nor a physician.[5]
To play for the national team we had to get permission from our jobs and the missed days were discounted from our salaries. Many times you went without knowing if you would still have a job when you came back. The most you could ask for was that the Argentine Basketball Federation paid you the missed days. The team was not always formed by the best players, rather by the ones that could go
Samuel Oliva[5]
In the tournament itself, Argentina faced a tough group with Italy, the United States and Mexico. The team lost by a large margin their two initial games: 73–91 against Italy (that, contrary to Argentina, had a full team of professional players) and 51–81 against the United States (that had a team of university players, among them Willis Reed and Don Kojis). In the game against Mexico (that had Manuel Raga and Carlos Quintanar in their team), the 35 points scored by Alberto Desimone were not enough to avoid an 82–84 defeat. Desimone's feat of 35 points in one game were an Argentine record in the competition until Luis Scola scored 37 against Brazil in the 2010 World Championship.[6] The team was eliminated in the preliminary round, but finished first in the "consolation round", played by the 6 teams eliminated in the first group stage.
After the tournament, both of the teams centers received offers to continue their playing careers abroad. Desimone joined Pallacanestro Cantù in the Serie A of Italy and Zoilo Domínguez the St. Joseph College in the NCAA Division II of the United States. None of them ever played again for their national team.[5]
After the 1963 World Championship, the Argentine national team disbanded for 2 years and 8 months.[5] In 1966, under Gimnasia y Esgrima La Plata's coach Miguel Ángel Ripullone's guidance, Argentina finished second (behind the USA) in the Torneo de la Confraternidad Americana held in Cosquín. Subsequently, in that same year, the team finished last (among 13) in the Extra World Championship held in Chile.[5] These two tournaments were the first international experiences for Ernesto Gehrmann and Alberto Cabrera, who went on to play many years for Argentina.
For the 1966 South American Basketball Championship to be held in Mendoza, and contrary to recent experiences, Argentina did a serious pre-tournament training.[5] Alberto López (coach of River Plate and one of the 1950 World Champions) was selected as head coach, and joined by a coaching staff of two physical trainers, a physician and a kinesiologist. The squad for the tournament had a striking average height for the time, with Gehrmann (2.06m (6ft 9in)), brothers Miguel (2.05m (6ft 9in)) and Tomás (2.03m (6ft 8in)) Sandor, Miguel Ballicora (1.98m (6ft 6in)), Dante Massolini] (1.95m (6ft 5in)) and Samuel Oliva (1.94m (6ft 4in)).[5] Moreover, Ricardo Alix also took part of the team, after having declined for previous tournaments. With a good team and a good preparation, Argentina won the tournament back-to-back, defeating World Champions Brazil in the process, and breaking a 23-years run without winning a southamerican championship. That Argentine national team came to be nicknamed "Los Cóndores" (in English: "the Condors").[5]
For the 1967 World Championship held in Uruguay, Miguel Ángel Ripullone returned as head coach, replacing Alberto López. The squad had five players from the previous South American Championship (Gehrmann, Tomás Sandor, Samuel Oliva, Carlos Mariani and Masolini) and three with World Championship experience (the aforementioned Oliva, Atilio Fruet and Héctor Barreneche). However, the players from the European leagues did not take part of the team. These included Carlos Ferello of Victoria Libertas Pesaro and Guillermo Riofrío, Alberto Desimone and Carlos D'Aquila of Pallacanestro Cantù (the latter two would go on to win the Serie A with the team in the 1967–68 season).[5]
In the group stage, Argentina defeated Japan and Peru (who had beaten them in the last two South American Championships), and lost heavily against the Soviet Union by 39 points. In the final round, Argentina defeated only Uruguay, losing the other 5 games (United States, Soviet Union, Yugoslavia, Brazil and Poland). Ernesto Gehrmann's 18 points against the USA earned him an offer by CB Estudiantes, though he rejected it to sign for Palmeiras in Brazil.[5] Argentina finished the competition 6th, the best position for the team until the 2002 Championship.
After the tournament, the debate in Argentine basketball became about the importance of having tall players.
In the Argentine league I was a tall player with my 1.98m (6ft 6in), but when we got to the hotel in Montevideo I was surprised by seeing the Soviets and Yugoslavs who were many centimeters taller and physically stronger than me. And they also played well...
Ángel Casarín[5]
Two months after the 1967 World Championship, Argentina, lead again by coach Casimiro González Trilla who had replaced Alberto López, took a team with 5 centers and only two guards to the Pan American Games held in Winnipeg (the team finished 6th of 10). In times were the lack of high stature players was a big problem for the national team, 3 players that could have solved the problem either declined to play for the national team, or abandoned basketball altogether:[5] Alberto Desimone never returned to the national team despite his success in Italy, Zoilo Domínguez ended his basketball career, and Tomás Sandor after training more than a month with the NBA's Washington Bullets took a job as an engineer in San Francisco, ending his basketball career. Moreover, Guillermo Riofrío often declined citations.
In 1968, Argentina finished 5th in the South American Championship (equaling its worst position in the history of the tournament). Moreover, the team did not qualify for the 1970 World Championship, after a third-place finish in the 1969 South American Championship. This was the first time the Argentine national team did not take part of the competition since its inception in 1950.[7] In 1973, Argentina played the final of the South American Championship after seven years without doing so, losing to Brazil (but qualifying for the World Championship). Between the 1967 World Championship and the 1973 South American Championship, the team had 4 coaches: Casimiro González Trilla, Jorge Canavesi, Jorge Martínez and Miguel Ángel Ripullone.[7] The latter was confirmed as head coach for the 1974 FIBA World Championship to be held in Puerto Rico.
The 1970s
To compensate for the lack of international experience of most of the players, the national team made the longest tour in its history, playing 20 games in 46 days throughout Europe.[7] Argentina faced some of the strongest teams in the world, like the Soviet Union, Yugoslavia and Italy; returning with 6 victories (West Germany (2), Switzerland (2), Greece and Italy). After the tour, José de Lizaso and Carlos Pellandini were cut from the squad, due to an argument with the coach the former and due to injury the latter.
The team for the 1974 World Championship was built around four experienced players: Alberto Cabrera, Ernesto Gehrmann, Carlos González and Alfredo Monachesi (who averaged 28 years of age) the intermediate generation of Adolfo Perazzo, Jorge Becerra and Raúl Guitart (averaging 23), and the youngsters Eduardo Cadillac and Carlos Raffaeli (who had won the South American Youth Championships of 1972 and 1973). Though some of the players had other jobs or studied, all of them were professional, exception being Cabrera who did not get paid in Estudiantes de Bahía Blanca for a matter of personal principle.[7]
In the tournament itself, Argentina was faced in a tough group with the United States, Spain (1973 EuroBasket runners-up) and the Philippines. The key match for Argentina to advance was the debut against Spain. With Cabrera defending the Spaniard's key player Wayne Brabender, the team finished the first half 47–44 above, with Barbender only scoring two points. However, by the fifth minute of the second half Cabrera reached his fourth personal foul, and Barbender had more freedom to reach a total 22 points.[7] The 23 turnovers and weak defense were key for Argentina's final 89–96 defeat. In the second game against the Philippines, Gehrmann's 31 points and 12 rebounds lead to a 110–90 victory, though the turnovers (20) and defense were an unsolved problem.[7] The national team then lost to the US 86–109 to finally be eliminated. In the consolation round, Argentina finished third. The 121–70 victory over the Central African Republic (the team's highest scoring record in the history of the competition)[7] was the only victory, as they suffered defeats against Australia, Mexico (a game in which Cabrera reached his fifth foul by the 12th minute of the first half) and Czechoslovakia (who had 45 points scored by Kamil Brabenec). The national team finished the World Championship in the 11th place.
After the 1974 Championship, the team won two South American Championships: 1976 (at home in Bahía Blanca) and 1979. However, they failed to qualify for the World Cups of 1978 and 1982, due to finishing third in the qualifying tournaments of 1977 (without Perazzo, Raffaelli and Prato in the squad) and 1981 (same situation, but this time also without Cadillac, injured).
1980s: the LNB breakthrough
In 1980, coached by Ripullone and with the assistance of Yugoslavian Ranko Zeravica, the team finished third in the Tournament of the Americas, earning their first qualification for the Olympics since 1952. This was arguably the biggest achievement for Argentine basketball since the 1950 World Championship title.[7] However, due to the country's adherence to the U.S.-led boycott of the Moscow Olympics, the team did not compete in the tournament. The decade continued with a second place in the 1983 South American Basketball Championship (with Alberto Finguer as coach) and a disappointing 7th place (among nine teams) in the 1984 Tournament of the Americas held in Brazil.
Despite the poor international performance, 1984 came to be one of the most important years in the history of Argentine basketball, as it was the debut season of the Liga Nacional de Básquet (LNB), the first professional nationwide basketball league of the country.
For the 1985 South American Championship, León Najnudel, the mastermind behind the LNB's inception, was selected as the national coach. With him came a renovation in the national squad, with the youngsters Héctor Campana (20 years old), Hernán Montenegro (18), Sergio Aispurúa (20) and the two tallest Argentine players in history: Jorge González (19 and 2.30m (7ft 61⁄2in)) and Fernando Borcel (17 and 2.18m (7ft 2in)). Argentina finished the tournament third, enough to qualify for the 1986 FIBA World Championship to be held in Spain. However, Najnudel did not coach the team during the World Cup, having left the position due to a fight with CABB's president Amadeo Cejas.
Puerto Rican Flor Meléndez, by the time coach of Unión de Santa Fe in Argentina, was selected to manage the national team. The coach made up a squad with experienced players like Miguel Cortijo, Esteban Camisassa, Carlos Romano, Luis González, Luis Oroño and Gabriel Milovich, and youngsters like Campana, Sebastián Uranga, Diego Maggi, Marcelo Milanesio, Montenegro and Aispurúa. To get the necessary international experience, the team played a total 19 preparation matches in one month, though during the first games Meléndez' assistant Juan Carlos Alonso took up coaching duties while the former coached his team in the Puerto Rican league's playoff matches. During the preparation, González suffered an injury and had to be replaced by Borcel for the World Championship squad.
For the first round of the 1986 World Championship, Argentina was part of Group D with Yugoslavia, Canada, the Netherlands, Malaysia and New Zealand. The key match for obtaining qualification was the debut against the Netherlands, in which the youngster Rik Smits (19 years of age and 2.21m (7ft 3in)) scored 25 points. However, Argentina won in extra time 82–75, with good contributions from the substitutes Campana (13 points) and Uranga (16). There were no surprises in the other 4 games: Argentina lost to Canada (82–96) and Yugoslavia (68–87) and defeated both Malaysia (93–73) and New Zealand (89–64), effectively qualifying for the second round of the tournament.
The national team faced a tough second round debut against the United States, that had a team made up by university players, 11 of whom went on to play in the NBA. However, Argentina achieved a surprising 74–70 victory, arguably the most important in the team's history until the Golden Generation era (starting roughly in 2002). After a 97–80 victory over China, the team had serious possibilities of qualifying to the semifinals, but Yugoslavia's defeat by the US crushed that chance. Subsequently, a 70–78 defeat by Italy forced Argentina to play for the 9th to 12th place. Further defeats against Greece (88–102, suffering 40 points by Nicos Gallis) and Cuba (85–81) derived in a 12th-place finish.
After the 1986 World Championship, Flor Meléndez took the team to win the gold medal in the 1987 South American Championship held in Asunción (Paraguay). It was the first title for Argentina since 1979. After that victory and a poor participation in the 1987 Panamerican Games, Meléndez left his coaching position and was replaced by Alberto Finguer. With the new coach, Argentina finished 8th (among 10 teams) in the 1989 FIBA Americas Championship. Nonetheless, the team qualified directly for the 1990 FIBA World Championship as the host nation.
The 1990s
River Plate's coach Carlos Boismené was selected to replace Finguer in 1990, with Guillermo Vecchio as his assistant. However, coach and assistant had a fight, leading to Vecchio's departure. Boismené rejected the possibility of having a replacement, even when Serbian Ranko Zeravica was offered. The coach also faced problems when forming the squad, due to Germán Filloy and Esteban Camisassa's injuries, and center Carlos Cerutti's death earlier that year. Hernán Montenegro was also cut alleging his problematic attitude. Moreover, in a pre-tournament friendly against Greece, Héctor Campana, the team's key offensive player, suffered an injury.
In the debut, with Campana playing injured, Argentina lost by 20 to the Soviet Union. The second game, decisive for qualification to the second round, was against Canada. With 4 minutes to go, Argentina was down 72–85. However, a 24–3 run gave the hosts the victory, which meant qualification to the second round after the third match-day victory over Egypt. In the second round, the team debuted against the United States in the Luna Park stadium. 33 points by Campana and a solid teamwork were not enough to avoid defeat, the same result suffered in the next four games: Puerto Rico, Greece and Australia (twice). Argentina finished the tournament 8th.
After the 1990 tournament, the head coaching job was held by Guillermo Vecchio for the four-years process prior to the 1994 World Championship. With a bronze medal at the 1993 FIBA Americas Championship, Argentina qualified to the competition to be held in Canada.
The squad for tournament was formed by the best players from the local league (exception being Montenegro, who rejected the call up) plus Marcelo Nicola, who was playing for Tau Cerámica in Spain. With a taller team (including Rubén Wolkowyski, Diego Osella, Osvaldo Tourn, Esteban Pérez and the aforementioned Nicola) and two high scoring shooting guards (Héctor Campana and Juan Espil).
Coached by Guillermo Vecchio, Argentina won first ever gold medal in senior men's panamerican basketball, at the 1995 Pan American Games, after defeating the United States in the final, in Mar del Plata, Argentina. The team was composed by players as Marcelo Milanesio, Diego Osella, Ruben Wolkowisky, Estaban De la Fuente, Juan Espil, and a young Fabricio Oberto among others.
2000–2014: the Golden Generation
After obtaining back-to-back the gold medal in the 2001 Tournament of the Americas, Argentina took the first step on a path that would solidify their place in basketball elite. Next came the 2002 FIBA World Championship celebrated in Indianapolis, where they made history by being the first team to defeat a United States roster composed entirely of NBA players.[8] Argentina would reach the finals for the first time since the first World Championship in 1950,[9] but would lose to Yugoslavia.[10] The following year, after obtaining a sixth place in the 2003 Pan American Games with an alternate roster, Argentina sent their best players to San Juan, Puerto Rico for the 2003 Tournament of the Americas that would grant three spots in the 2004 Summer Olympics. After a starting the tournament with a defeat against Mexico, Argentina would reach the finals and lose against the United States, securing a spot in the Olympics anyway.[11]
On July 2004 Argentina began preparations for the Olympic Games in Athens, starting with the 2004 South American Championship held in Brazil, the Argentine team defeated the hosts in the final. Next came a series of exhibitions on home soil against Venezuela, Spain's alternate team and Brazil, on which Argentina came away with no victories.[12] With the final roster decided, Argentina traveled to Europe for a last series of matches. From July 31 to August 3, the second edition of the FIBA Diamond Ball was held in Belgrade, a tournament that reunited the champions from the five FIBA zones, plus the reigning World Champion. Argentina participated as the Americas representative, since the United States did not participate [13] and finished in third place. Argentina then concluded its series of exhibitions in Madrid with a victory against Lithuania[14] and a defeat against the locals Spain.[15]
Argentina made their debut on the group phase of the Olympic Tournament with an 83–82 victory against world champions Serbia and Montenegro, thanks to a last-second basket by Manu Ginóbili.[16] After losses against Spain[17] and Italy, Argentina still managed to advance to the next stage. In the quarterfinals, the Argentine team beat hosts Greece and advanced to the semifinals where they achieved yet another historic victory against the United States, denying the American men's team a gold medal for the first time since 1988.[18] On August 28, 2004, Argentina obtained its first gold medal in basketball by defeating Italy 84–69 in the final.[19] The impact the series of results obtained between the Indianapolis and Athens tournaments led the Argentine press to dub this group of players The Golden Generation ("La Generación Dorada", in Spanish). The Olympics title in 2004 is the higher honor and important title of Argentine basketball.
After those triumphs, Argentina won the gold medal in 2008 FIBA Diamond Ball, and the bronze medal at The 2008 Beijing Summer Olympics Basketball Tournament. At the end of the 2008 Olympic Games Argentina reached the first position in the FIBA Men's Ranking.[20]
In 2010, after the World Cup, Julio Lamas returned as coach of the national team. In 2011, under his guidance, the team won the FIBA Americas gold medal for the second time at the 2011 FIBA Americas Championship, played in the city of Mar del Plata, Argentina. The team qualifyied directly for the London´s Olympic games, where they finished 4th.
In the 2014 World Cup, Argentina finished 11<small data-parsoid='{"stx":"html","dsr":[40026,40043,7,8]}'>th after being defeated to Brazil on the round of 16. After that match the media stated it was the end of the Golden Generation[21] with some of Argentina's key players (Pablo Prigioni, Leonardo Gutiérrez and Andrés Nocioni) retiring from the national team.[22]
A new era: 2015-present
In January 2015, Sergio Hernández was appointed coach of Argentina. With Hernández on the bench, the squad qualified to play the 2016 Summer Olympics held in Rio de Janeiro after winning the silver medal in the 2015 FIBA Americas Championship. With Scola (named MVP of the tournament) and Nocioni as the remaining key players from the Golden Generation and the addition of young players such as Facundo Campazzo, Nicolás Laprovittola, Nicolás Richotti, Patricio Garino, Nicolás Brussino, Gabriel Deck, Marcos Delía and Tayavek Gallizi, the team reached the final, losing to Venezuela by 76–71.
Manu Ginóbili and Carlos Delfino returned to the team for the Olympics after their injuries. Argentina finished 4th at Group B with three wins (against Nigeria, Croatia and Brazil and two losses (to Lithuania and Spain). In quarter finals, Argentina was defeated by United States (105–78), being therefore eliminated from the competition. After that match, Ginóbili[23] y and Nocioni[24] announced their retirement from the national team.
After the game, USA's coach, Mike Krzyzewski, praised the Argentine players defining them as "not only a team but a culture, because of the magnificence they have been showing to the world during the last two decades".[25][26]
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An apprenticeship is a system of training a new generation of practitioners of a trade or profession with on-the-job training and often some accompanying study (classroom work and reading). Apprenticeship also enables practitioners to gain a license to practice in a regulated profession. Most of their training is done while working for an employer who helps the apprentices learn their trade or profession, in exchange for their continued labor for an agreed period after they have achieved measurable competencies. Apprenticeships typically last 3 to 7 years. People who successfully complete an apprenticeship reach the "journeyman" or professional certification level of competence.
Although the formal boundaries and terminology of the apprentice/journeyman/master system often do not extend outside guilds and trade unions, the concept of on-the-job training leading to competence over a period of years is found in any field of skilled labor.
In early modern usage, the clipped form prentice was common.
Development
The system of apprenticeship first developed in the later Middle Ages and came to be supervised by craft guilds and town governments. A master craftsman was entitled to employ young people as an inexpensive form of labour in exchange for providing food, lodging and formal training in the craft. Most apprentices were males, but female apprentices were found in crafts such as seamstress,[1] tailor, cordwainer, baker and stationer.[2] Apprentices usually began at ten to fifteen years of age, and would live in the master craftsman's household. Most apprentices aspired to becoming master craftsmen themselves on completion of their contract (usually a term of seven years), but some would spend time as a journeyman and a significant proportion would never acquire their own workshop.
In Coventry those completing seven-year apprenticeships with stuff merchants were entitled to become freemen of the city.[3]
Subsequently, governmental regulation and the licensing of technical colleges and vocational education formalized and bureaucratized the details of apprenticeship.
Apprenticeship systems worldwide
Australia
Australian Apprenticeships encompass all apprenticeships and traineeships. They cover all industry sectors in Australia and are used to achieve both 'entry-level' and career 'upskilling' objectives. There were 475,000 Australian Apprentices in-training as at 31 March 2012, an increase of 2.4% from the previous year. Australian Government employer and employee incentives may be applicable, while State and Territory Governments may provide public funding support for the training element of the initiative. Australian Apprenticeships combine time at work with formal training and can be full-time, part-time or school-based.[4]
Australian Apprentice and Traineeship services are dedicated to promoting retention, therefore much effort is made to match applicants with the right apprenticeship or traineeship. This is done with the aid of aptitude tests, tips, and information on 'how to retain an apprentice or apprenticeship'.[5]
Information and resources on potential apprenticeship and traineeship occupations are available in over sixty industries.[6]
The distinction between the terms apprentices and trainees lies mainly around traditional trades and the time it takes to gain a qualification. The Australian government uses Australian Apprenticeships Centres to administer and facilitate Australian Apprenticeships so that funding can be disseminated to eligible businesses and apprentices and trainees and to support the whole process as it underpins the future skills of Australian industry. Australia also has a fairly unusual safety net in place for businesses and Australian Apprentices with its Group Training scheme. This is where businesses that are not able to employ the Australian Apprentice for the full period until they qualify, are able to lease or hire the Australian Apprentice from a Group Training Organisation. It is a safety net, because the Group Training Organisation is the employer and provides continuity of employment and training for the Australian Apprentice.[7][8]
In addition to a safety net, Group Training Organisations (GTO) have other benefits such as additional support for both the Host employer and the trainee/apprentice through an industry consultant who visits regularly to make sure that the trainee/apprentice are fulfilling their work and training obligations with their Host employer. There is the additional benefit of the trainee/apprentice being employed by the GTO reducing the Payroll/Superannuation and other legislative requirements on the Host employer who pays as invoiced per agreement.
Austria
Apprenticeship training in Austria is organized in a dual education system: company-based training of apprentices is complemented by compulsory attendance of a part-time vocational school for apprentices (Berufsschule).[9] It lasts two to four years – the duration varies among the 250 legally recognized apprenticeship trades.
About 40 percent of all Austrian teenagers enter apprenticeship training upon completion of compulsory education (at age 15). This number has been stable since the 1950s.[10]
The five most popular trades are: Retail Salesperson (5,000 people complete this apprenticeship per year), Clerk (3,500 / year), Car Mechanic (2,000 / year), Hairdresser (1,700 / year), Cook (1,600 / year).[11] There are many smaller trades with small numbers of apprentices, like "EDV-Systemtechniker" (Sysadmin) which is completed by fewer than 100 people a year.[12]
The Apprenticeship Leave Certificate provides the apprentice with access to two different vocational careers. On the one hand, it is a prerequisite for the admission to the Master Craftsman Exam and for qualification tests, and on the other hand it gives access to higher education via the TVE-Exam or the Higher Education Entrance Exam which are prerequisites for taking up studies at colleges, universities, "Fachhochschulen", post-secondary courses and post-secondary colleges.[9]
The person responsible for overseeing the training inside the company is called "Lehrherr" or "Ausbilder". An Ausbilder must prove that he has the professional qualifications needed to educate another person, has no criminal record and is an otherwise-respectable person. The law states that "the person wanting to educate a young apprentice must prove that he has an ethical way of living and the civic qualities of a good citizen".[13]
Czech Republic
In the Czech Republic, the term "vocational school" (učiliště) can refer to the two, three or four years of secondary practical education. Apprenticeship Training is implemented under Education Act (školský zákon). Apprentices spend about 30–60% of their time in companies (sociální partneři školy) and the rest in formal education. Depending on the profession, they may work for two to three days a week in the company and then spend two or three days at a vocational school.
Switzerland
In Switzerland, after the end of compulsory schooling, two thirds of young people follow a vocational training[14]. Ninety percent of them are in the dual education system[14].
Switzerland has an apprenticeship similarly to Germany and Austria. The educational system is ternar, which is basically dual education system with mandatory practical courses. The length of an apprenticeship can be 2, 3 or 4 years.
Length
Apprenticeships with a length of 2 years are for persons with weaker school results. The certificate awarded after successfully completing a 2-year apprenticeship is called "Eidgenössisches Berufsattest" (EBA) in German and "Certificato federale di formazione pratica" (CFP) in Italian.
Apprenticeship with a length of 3 or 4 years are the most common ones. The certificate awarded after successfully completing a 3 or 4-year apprenticeship is called "Certificat Fédérale de Capacité" (CFC), "Eidgenössisches Fähigkeitszeugnis" (EFZ) or "Attestato federale di capacità" (AFC).
Some crafts, such as electrician, are educated in lengths of 3 and 4 years. In this case, an Electrician with 4 years apprenticeship gets more theoretical background than one with 3 years apprenticeship. Also, but that is easily lost in translation, the profession has a different name.
Each of the over 300 nationwide defined vocational profiles has defined framework – conditions as length of education, theoretical and practical learning goals and certification conditions.
Age of the apprentices
Typically an apprenticeship is started at age of 15 and 18 after finishing general education. Some apprenticeships have a recommend or required age of 18, which obviously leads to a higher average age. There is formally no maximum age, however, for persons above 21 it is hard to find a company due to companies preferring younger ages due to the lower cost of labour.
Canada
In Canada, each province has its own apprenticeship program, which may be the only route into jobs within compulsory trades. In Canada, apprenticeships tend to be formalized for craft trades and technician level qualifications. At the completion of the provincial exam, they may write the Provincial Standard exam. British Columbia is one province that uses these exams as the provincial exam. This means a qualification for the province will satisfy the whole country. The inter-provincial exam questions are agreed upon by all provinces of the time. At the time there were only four (4) provinces, Nova Scotia, New Brunswick, Canada East ( now Ontario ), and Canada West ( now Quebec).
France
In France, apprenticeships also developed between the ninth and thirteenth centuries, with guilds structured around apprentices, journeymen and master craftsmen, continuing in this way until 1791, when the guilds were suppressed.
The first laws regarding apprenticeships were passed in 1851. From 1919, young people had to take 150 hours of theory and general lessons in their subject a year. This minimum training time rose to 360 hours a year in 1961, then 400 in 1986.
The first training centres for apprentices (centres de formation d'apprentis, CFAs) appeared in 1961, and in 1971 apprenticeships were legally made part of professional training. In 1986 the age limit for beginning an apprenticeship was raised from 20 to 25. From 1987 the range of qualifications achieveable through an apprenticeship was widened to include the brevet professionnel (certificate of vocational aptitude), the bac professionnel (vocational baccalaureate diploma), the brevet de technicien supérieur (advanced technician's certificate), engineering diplomas, master's degree and more.
On January 18, 2005, President Jacques Chirac announced the introduction of a law on a programme for social cohesion comprising the three pillars of employment, housing and equal opportunities. The French government pledged to further develop apprenticeship as a path to success at school and to employment, based on its success: in 2005, 80% of young French people who had completed an apprenticeship entered employment. In France, the term apprenticeship often denotes manual labor but it also includes other jobs like secretary, manager, engineer, shop assistant... The plan aimed to raise the number of apprentices from 365,000 in 2005 to 500,000 in 2009. To achieve this aim, the government is, for example, granting tax relief for companies when they take on apprentices. (Since 1925 a tax has been levied to pay for apprenticeships.) The minister in charge of the campaign, Jean-Louis Borloo, also hoped to improve the image of apprenticeships with an information campaign, as they are often connected with academic failure at school and an ability to grasp only practical skills and not theory. After the civil unrest end of 2005, the government, led by prime minister Dominique de Villepin, announced a new law. Dubbed "law on equality of chances", it created the First Employment Contract as well as manual apprenticeship from as early as 14 years of age. From this age, students are allowed to quit the compulsory school system in order to quickly learn a vocation. This measure has long been a policy of conservative French political parties, and was met by tough opposition from trade unions and students.
Germany
Apprenticeships are part of Germany's dual education system, and as such form an integral part of many people's working life. Finding employment without having completed an apprenticeship is almost impossible. For some particular technical university professions, such as food technology, a completed apprenticeship is often recommended; for some, such as marine engineering it may even be mandatory.
In Germany, there are 342 recognized trades (Ausbildungsberufe) where an apprenticeship can be completed. They include for example doctor's assistant, banker, dispensing optician, plumber or oven builder.[15] The dual system means that apprentices spend about 50–70% of their time in companies and the rest in formal education. Depending on the profession, they may work for three to four days a week in the company and then spend one or two days at a vocational school (Berufsschule). This is usually the case for trade and craftspeople. For other professions, usually which require more theoretical learning, the working and school times take place blockwise e.g., in a 12–18 weeks interval. These Berufsschulen have been part of the education system since the 19th century.
In 2001, two-thirds of young people aged under 22 began an apprenticeship, and 78% of them completed it, meaning that approximately 51% of all young people under 22 have completed an apprenticeship. One in three companies offered apprenticeships in 2003, in 2004 the government signed a pledge with industrial unions that all companies except very small ones must take on apprentices.
The latent decrease of the German population due to low birth rates is now causing a lack of young people available to start an apprenticeship.
Apprenticeship after general education
After graduation from school at the age of fifteen to nineteen (depending on type of school), students start an apprenticeship in their chosen professions. Realschule and Gymnasium graduates usually have better chances for being accepted as an apprentice for sophisticated craft professions or apprenticeships in white-collar jobs in finance or administration. An apprenticeship takes between 2.5 and 3.5 years. Originally, at the beginning of the 20th century, less than 1% of German students attended the Gymnasium (the 8–9 year university-preparatory school) to obtain the Abitur graduation which was the only way to university back then. In the 1950s still only 5% of German youngsters entered university and in 1960 only 6% did. Due to the risen social wealth and the increased demand for academic professionals in Germany, about 24% of the youngsters entered college/university in 2000.[16] Of those, who did not enter university many started an apprenticeship. The apprenticeships usually end a person's education by age 18–20, but also older apprentices are accepted by the employers under certain conditions. This is frequently the case for immigrants from countries without a compatible professional training system.
History
In 1969, a law (the Berufsbildungsgesetz) was passed which regulated and unified the vocational training system and codified the shared responsibility of the state, the unions, associations and the chambers of trade and industry. The dual system was successful in both parts of the divided Germany. In the GDR, three-quarters of the working population had completed apprenticeships.
Business and administrative professions
The precise skills and theory taught on German apprenticeships are strictly regulated. The employer is responsible for the entire education programme coordinated by the German chamber of commerce. Apprentices obtain a special apprenticeship contract until the end of the education programme. During the programme it is not allowed to assign the apprentice to regular employment and he is well protected from abrupt dismissal until the programme ends. The defined content and skill set of the apprentice profession must be fully provided and taught by the employer. The time taken is also regulated. Each profession takes a different time, usually between 24 and 36 months.
Thus, everyone who had completed an apprenticeship e.g., as an industrial manager (Industriekaufmann) has learned the same skills and has attended the same courses in procurement and stocking up, controlling, staffing, accounting procedures, production planning, terms of trade and transport logistics and various other subjects.
Someone who has not taken this apprenticeship or did not pass the final examinations at the chamber of industry and commerce is not allowed to call himself an Industriekaufmann. Most job titles are legally standardized and restricted. An employment in such function in any company would require this completed degree.
Trade and craft professions
The rules and laws for the trade and craftwork apprentices such as mechanics, bakers, joiners, etc. are as strict as and even broader than for the business professions. The involved procedures, titles and traditions still strongly reflect the medieval origin of the system. Here, the average duration is about 36 months, some specialized crafts even take up to 42 months.
After completion of the dual education, e.g., a baker is allowed to call himself a bakery journeyman (Bäckergeselle). After the apprenticeship the journeyman can enter the master's school (Meisterschule) and continue his education at evening courses for 3–4 years or full-time for about one year. The graduation from the master's school leads to the title of a master craftsman (Meister) of his profession, so e.g., a bakery master is entitled as Bäckermeister. A master is officially entered in the local trade register, the craftspeople's roll (Handwerksrolle). A master craftsman is allowed to employ and to train new apprentices. In some mostly safety-related professions, e.g., that of electricians only a master is allowed to found his own company.
License for educating apprentices
To employ and to educate apprentices requires a specific license. The AdA – Ausbildung der Ausbilder – "Education of the Educators" license needs to be acquired by a training at the chamber of industry and commerce.
The masters complete this license course within their own master's coursework. The training and examination of new masters is only possible for masters who have been working several years in their profession and who have been accepted by the chambers as a trainer and examiner.
Academic professionals, e.g., engineers, seeking this license need to complete the AdA during or after their university studies, usually by a one-year evening course.
The holder of the license is only allowed to train apprentices within his own field of expertise. For example, a mechanical engineer would be able to educate industrial mechanics, but not e.g., laboratory assistants or civil builders.
After the apprenticeship of trade and craft professions
When the apprenticeship is ended, the former apprentice now is considered a journeyman. He may choose to go on his journeyman years-travels.
India
In India, the Apprentices Act was enacted in 1961.[17] It regulates the programme of training of apprentices in the industry so as to conform to the syllabi, period of training etc. as laid down by the Central Apprenticeship Council and to utilise fully the facilities available in industry for imparting practical training with a view to meeting the requirements of skilled manpower for industry.
The Apprentices Act enacted in 1961 and was implemented effectively in 1962. Initially, the Act envisaged training of trade apprentices. The Act was amended in 1973 to include training of graduate and diploma engineers as "Graduate" & "Technician" Apprentices. The Act was further amended in 1986 to bring within its purview the training of the 10+2 vocational stream as "Technician (Vocational)" Apprentices.
Responsibility of implementing Apprentices Act
Overall responsibility is with the Directorate General of Employment & Training (DGE&T) in the Union Ministry of Skill Development and Entrepreneurship.[18]
For Trades Apprentices (ITI-Passed/Fresher): DGE&T is also responsible for implementation of the Act in respect of Trade Apprentices in the Central Govt. Undertakings & Departments. This is done through six Regional Directorates of Apprenticeship Training located at Kolkata, Mumbai, Chennai, Hyderabad, Kanpur & Faridabad.While State Apprenticeship Advisers are responsible for implementation of the Act in respect of Trade Apprentices in State Government Undertakings/ Departments and Private Establishments.
For Graduate, Technician (Polytechnic Diploma holder) & Technician (H.S Vocational-Passed) Apprentices: Department of Education in the Ministry of Human Resource Development is responsible for implementation of the through four Boards of Apprenticeship Training located at Chennai, Kanpur, Kolkata, & Mumbai.[19]
Pakistan
In Pakistan, the Apprenticeship Training is implemented under a National Apprenticeship Ordinance 1962 and Apprenticeship Rules 1966. It regulates apprenticeship programs in industry and a TVET institute for theoretical instructions. It is obligatory for industry having fifty or more workers in an apprenticeable trade to operate apprenticeship training in the industry. Entire cost of training is borne by industry including wages to apprentices. The provincial governments through Technical Education & Vocational Training Authorities (Punjab TEVTA, Sindh TEVTA, KP TEVTA, Balochistan TEVTA and AJK TEVTA) enforce implementation of apprenticeship.
The training period varies for different trades ranging from 1–4 years. As of 2015, more than 30,000 apprentices are being trained in 2,751 industries in 276 trades across Pakistan. This figure constitutes less than 10% of institution based Vocational Training i.e. more than 350 thousand annually.
Recently, Government of Pakistan through National Vocational & Technical Training Commission () has initiated to reform existing system of apprenticeship. Highlights of the modern apprenticeship system are:
- Inclusion of services, agriculture and mining sector
- Cost sharing by Industry and Government
- Regulating and formalizing Informal Apprenticeships
- Mainstream Apprenticeship Qualifications with National Vocational Qualifications Framework (Pakistan NVQF)
- Increased participation of Female
- Training Cost reimbursement (for those industries training more number of apprentices than the required)
- Assessment and Certification of apprentices jointly by Industry – Chamber of Commerce & Industry – Government
- Apprenticeship Management Committee (having representation of 40% employers, 20% workers and 40% Government officials)
Turkey
In Turkey, apprenticeship has been part of the small business culture for centuries since the time of Seljuk Turks who claimed Anatolia as their homeland in the 11th century.
There are three levels of apprenticeship. The first level is the apprentice, i.e., the "çırak" in Turkish. The second level is pre-master which is called, "kalfa" in Turkish. The mastery level is called as "usta" and is the highest level of achievement. An 'usta' is eligible to take in and accept new 'ciraks' to train and bring them up. The training process usually starts when the small boy is of age 10–11 and becomes a full-grown master at the age of 20–25. Many years of hard work and disciplining under the authority of the master is the key to the young apprentice's education and learning process.
In Turkey today there are many vocational schools that train children to gain skills to learn a new profession. The student after graduation looks for a job at the nearest local marketplace usually under the authority of a master.
United Kingdom
Early history
Apprenticeships have a long tradition in the United Kingdom, dating back to around the 12th century and flourishing by the 14th century. The parents or guardians of a minor would agree with a master craftsman or tradesman the conditions for an apprenticeship. This contract would then bind the youth for 5–9 years (e.g., from age 14 to 21). Apprentice's families would sometimes pay a "premium" or fee to the craftsman and the contract would usually be recorded in a written indenture.[20] Modern apprenticeships range from craft to high status in professional practice in engineering, law, accounting, architecture, management consulting, and others.
In towns and cities with guilds, apprenticeship would often be subject to guild regulation, setting minimum terms of service, or limiting the number of apprentices that a master could train at any one time.[21] Guilds also often kept records of who became an apprentice, and this would often provide a qualification for later becoming a freeman of a guild or a citizen of a city.[22] Many youths would train in villages or communities that lacked guilds, however, so avoiding the impact of these regulations.
In the 16th century, the payment of a "premium" to the master was not at all common, but such fees became relatively common by the end of the 17th century, though they varied greatly from trade to trade. The payment of a one-off fee could be very difficult for some parents, limiting who was able to undertake apprenticeships. In the 18th-century, apprenticeship premiums were taxed, and the registers of the Stamp Duty that recorded tax payments mostly survive, showing that roughly one in ten teenage males served an apprenticeship for which they paid fees, and that the majority paid five to ten pounds to their master.[23]
In theory no wage had to be paid to an apprentice since the technical training was provided in return for the labour given, and wages were illegal in some cities, such as London. However, it was usual to pay small sums to apprentices, sometimes with which to buy, or instead of, new clothes. By the 18th century regular payments, at least in the last two or three years of the apprentice's term, became usual and those who lived apart from their masters were frequently paid a regular wage. This was sometimes called the "half-pay" system or "colting", payments being made weekly or monthly to the apprentice or to his parents. In these cases, the apprentice often went home from Saturday night to Monday morning. This was the norm in the 19th century but this system had existed in some trades since the 16th century.[24]
In 1563, the Statute of Artificers and Apprentices was passed to regulate and protect the apprenticeship system, forbidding anyone from practising a trade or craft without first serving a 7-year period as an apprentice to a master[25] (though in practice Freemen's sons could negotiate shorter terms).[26]
From 1601, 'parish' apprenticeships under the Elizabethan Poor Law came to be used as a way of providing for poor, illegitimate and orphaned children of both sexes alongside the regular system of skilled apprenticeships, which tended to provide for boys from slightly more affluent backgrounds. These parish apprenticeships, which could be created with the assent of two Justices of the Peace, supplied apprentices for occupations of lower status such as farm labouring, brickmaking and menial household service.[20]
In the early years of the Industrial Revolution entrepreneurs began to resist the restrictions of the apprenticeship system,[27] and a legal ruling established that the Statute of Apprentices did not apply to trades that were not in existence when it was passed in 1563, thus excluding many new 18th century industries.[24][25] In 1814 the requirement that a worker in a skilled trade needed to have served an apprenticeship was abolished.
System introduced in 1964
The mainstay of training in industry has been the apprenticeship system (combining academic and practice), and the main concern has been to avoid skill shortages in traditionally skilled occupations and higher technician and engineering professionals, e.g., through the UK Industry Training Boards (ITBs) set up under the 1964 Act. The aims were to ensure an adequate supply of training at all levels; to improve the quality and quantity of training; and to share the costs of training among employers. The ITBs were empowered to publish training recommendations, which contained full details of the tasks to be learned, the syllabus to be followed, the standards to be reached and vocational courses to be followed. These were often accompanied by training manuals, which were in effect practitioners' guides to apprentice training, and some ITBs provide training in their own centres. The ITBs did much to formalise what could have been a haphazard training experience and greatly improved its quality. The years from the mid-1960s to the mid-1970s saw the highest levels of apprentice recruitment, yet even so, out of a school leaving cohort of about 750,000, only about 110,000 (mostly boys) became apprentices. The apprenticeship system aimed at highly developed craft and higher technician skills for an elite minority of the workforce, the majority of whom were trained in industries that declined rapidly from 1973 onwards, and by the 1980s it was clear that in manufacturing this decline was permanent.[28]
Since the 1950s, the UK high technology industry (Aerospace, Nuclear, Oil & Gas, Automotive, Telecommunications, Power Generation and Distribution etc.) trained its higher technicians and professional engineers via the traditional indentured apprenticeship system of learning – usually a 4–6 year process from age 16–21. There were 4 types of traditional apprenticeship: craft, technician, higher technician, and graduate. Craft, technician and higher technician apprenticeships usually took 4 to 5 years while a graduate apprenticeship was a short 2-year experience usually while at university or post graduate experience. Non-graduate technician apprenticeships were often referred to as "technical apprenticeships". The traditional apprenticeship framework in the 1950s, 1960s and 1970s was designed to allow young people (from 16 years old) an alternative path to A Levels to achieve both an academic qualification (equivalent to today's level 4 or 5 NVQs) and competency-based skills for knowledge work. Often referred to as the "Golden Age" of work and employment for bright young people, the traditional technical apprenticeship framework was open to young people who had a minimum of 4 O Levels to enroll in an Ordinary National Certificate or Diploma (ONC, OND) or a City & Guilds engineering technician course. Apprentices could progress to the Higher National Certificate, Higher National Diploma (HNC, HND) or advanced City and Guilds course such as Full Technological Certification. Apprenticeship positions at elite companies often had hundreds of applications for a placement. Academic learning during an apprenticeship was achieved either via block release or day release at a local technical institute. An OND or HND was usually obtained via the block release approach whereby an apprentice would be released for periods of up to 3 months to study academic courses full-time and then return to the employer for applied work experience. For entrance into the higher technical engineering apprenticeships, O Levels had to include Mathematics, Physics, and English language. The academic level of subjects such as mathematics, physics, chemistry on ONC/OND, and some City & Guilds advanced technician courses, was equivalent to A level mathematics, physics and chemistry. The academic science subjects were based on applied science in subjects such as thermodynamics, fluid mechanics, mechanics of machines, dynamics and statics, electrical science and electronics. These are often referred to as the engineering sciences. HNC and HND were broadly equivalent to subjects in the first year of a bachelor's degree in engineering but not studied to the same intensity or mathematical depth. HNC was accepted as entrance into the first year of an engineering degree and high performance on an HND course could allow a student direct entry into the second year of a degree. Few apprentices followed this path since it would have meant 10–12 years in further and higher education. For the few that did follow this path they accomplished a solid foundation of competency-based work training via apprenticeship and attained a higher academic qualification at a university or Polytechnic combining both forms of education; vocational plus academic. During the 1970s, City and Guilds assumed responsibility for the administration of HNC and HND courses.
The City and Guilds of London Institute the forerunner of Imperial College engineering school has been offering vocational education through apprenticeships since the 1870s from basic craft skills (mechanic, hairdresser, chef, plumbing, carpentry, bricklaying, etc.) all the way up to qualifications equivalent to university master's degrees and doctorates. The City and Guilds diploma of fellowship is awarded to individuals who are nationally recognised through peer review as having achieved the very highest level in competency-based achievement. The first award of FCGI was approved by Council in December 1892 and awarded in 1893 to Mr H A Humphrey, Engineering Manager of the Refined Bicarbonate and Crystal Plant Departments of Brunner, Mond & Co. His award was for material improvements in the manufacture of bicarbonate of soda. The system of nomination was administered within Imperial College, with recommendations being passed to the Council of the Institute for approval. About 500–600 people have been awarded Fellowship.
Traditional framework
The traditional apprenticeship framework's purpose was to provide a supply of young people seeking to enter work-based learning via apprenticeships by offering structured high-value learning and transferable skills and knowledge. Apprenticeship training was enabled by linking industry with local technical colleges and professional engineering institutions. The apprenticeship framework offered a clear pathway and competency outcomes that addressed the issues facing the industry sector and specific companies. This system was in place since the 1950s. The system provided young people with an alternative to staying in full-time education post- 16/18 to gain purely academic qualifications without work-based learning. The apprenticeship system of the 1950s, 1960s and 1970s provided the necessary preparation for young people to qualify as a Craft trade (Machinist, Toolmaker, Fitter, Plumber, Welder, Mechanic, Millwright etc.), or Technician (quality inspector, draughtsman, designer, planner, work study, programmer), or Technician Engineer (tool design, product design, methods, stress and structural analysis, machine design etc.) and enabled a path to a fully qualified Chartered Engineer in a specific discipline (Mechanical, Electrical, Civil, Aeronautical, Chemical, Building, Structural, Manufacturing etc.). The Chartered Engineer qualification was usually achieved aged 28 and above. Apprentices undertook a variety of job roles in numerous shop floor and office technical functions to assist the work of master craftsmen, technicians, engineers, and managers in the design, development, manufacture and maintenance of products and production systems.
It was possible for apprentices to progress from national certificates and diplomas to engineering degrees if they had the aptitude.[29] The system allowed young people to find their level and still achieve milestones along the path from apprenticeship into higher education via a polytechnic or university. Though rare, it was possible for an apprentice to advance from vocational studies, to undergraduate degree, to graduate study and earn a master's degree or a PhD. The system was effective; industry was assured of a supply of practically educated and work-skilled staff, local technical colleges offered industry relevant courses that had a high measure of academic content and an apprentice was prepared for professional life or higher education by the age of 21. With the exception of advanced technology companies particularly in aerospace (BAE systems, Rolls-Royce, Bombardier) this system declined with the decline of general manufacturing industry in the UK.
Traditional apprenticeships reached their lowest point in the 1980s: by that time, training programmes declined. The exception to this was in the high technology engineering areas of aerospace, chemicals, nuclear, automotive, power and energy systems where apprentices continued to served the structured four- to five-year programmes of both practical and academic study to qualify as engineering technician or Incorporate Engineer (engineering technologist) and go on to earn a master of engineering degree and qualify as a Chartered Engineer (UK); the UK gold standard engineering qualification. Engineering technicians and technologists undertook combined theory and practice typically for example at a technical college for one day and two evenings per week on a City & Guilds programme or Ordinary National Certificate / Higher National Certificate course. Becoming a chartered engineer via the apprenticeship route normally involved 10 – 12 years of academic and vocational training at a combination of an employer, college of further education and/or university. In 1986 National Vocational Qualifications (NVQs) commenced to stem a great fall in vocational training. By 1990, apprenticeship had reached an approximate low, at 2⁄3 of 1% of total employment.
Revitalisation from 1990s onward
In 1994, the UK Government introduced Modern Apprenticeships (renamed Apprenticeships in England, Wales and Northern Ireland), based on frameworks today of the Sector Skills Councils. In 2009, the National Apprenticeship Service was founded to coordinate apprenticeships in England. Apprenticeship frameworks contain a number of separately certified elements:
a knowledge-based element, typically certified through a qualification known as a ‘Technical Certificate’ (not mandatory in the Scottish Modern Apprenticeship);
a competence-based element, typically certified through an NVQ (in Scotland this can be through an SVQ or an alternative competence-based qualification);
Functional Skills which are in all cases minimum levels of Mathematics and English attainment and in some cases additionally IT (in Scotland, Core Skills); and
Employment Rights and Responsibilities (ERR) to show that the Apprentice has had a full induction to the company or training programme, and is aware of those rights and responsibilities that are essential in the workplace; this usually requires the creation of a personal portfolio of activities, reading and instruction sessions, but is not examined.
A path with parity involving university-only education.
In Scotland, Modern Apprenticeship Frameworks are approved by the Modern Apprenticeship Group (MAG) and it, with the support of the Scottish Government, has determined that from January 2010, all Frameworks submitted to it for approval, must have the mandatory elements credit rated for the Scottish Credit and Qualifications Framework (SCQF).
As of 2009, there are over 180 apprenticeship frameworks.[30] The current scheme extends beyond manufacturing and high technology industry to parts of the service sector with no apprenticeship tradition. In 2008, Creative & Cultural Skills, the Sector Skills Council, introduced a set of Creative Apprenticeships awarded by EDI.[31] A freelance apprenticeship framework was also approved and uses freelance professionals to mentor freelance apprentices. The Freelance Apprenticeship was first written and proposed by Karen Akroyd (Access To Music) in 2008. In 2011, Freelance Music Apprenticeships are available in music colleges in Birmingham, Manchester and London. The Department of Education under its 2007–2010 name stated their intention to make apprenticeships a "mainstream part of England's education system".[32]
Employers who offer apprenticeship places have an employment contract with their apprentices, but off-the-job training and assessment is wholly funded by the state for apprentices aged between 16-18 years. In England, Government only contributes 50% of the cost of training for apprentices aged 19-24 years. Apprenticeships at Level 3 or above for those aged 24 or over no longer receive state funding, although there is a state loan facility in place by which individuals or companies can cover the cost of study and assessment and repay the state by installments over an extended period at preferential rates of interest.
Government funding agencies (in England, the Skills Funding Agency) contract with "learning providers" to deliver apprenticeships, and may accredit them as a National Skills Academy. These organisations provide off-the-job tuition and manage the bureaucratic workload associated with the apprenticeships. Providers are usually private training companies but might also be further education colleges, voluntary sector organisations, Chambers of Commerce or employers themselves.
Structure of apprenticeships in 2000s
The UK government has implemented a rigorous apprenticeship structure which in many ways resembles the traditional architecture of the 1950s, 1960s and 1970s. There are three levels of apprenticeship available spanning 2–6 years of progression. It is possible for ambitious apprentices to progress from level 2 (intermediate) to level 7 ( master's degree) over many years of training and education. Learners start at a level which reflects their current qualifications and the opportunities available in the sector of interest:
Intermediate Apprenticeship (Level 2; equivalent to five good GCSE passes): provides learners with the skills and qualifications for their chosen career and allow entry (if desired) to an Advanced Apprenticeship. To be accepted learners need to be enthusiastic, keen to learn and have a reasonable standard of education; most employers require applicants to have two or more GCSEs (A*-C), including English and Maths.[33]
Advanced Apprenticeship (Level 3; equivalent to two A-level passes): to start this programme, learners should have five GCSEs (grade A*-C) or have completed an Intermediate Apprenticeship. This will provide them with the skills and qualifications needed for their career and allow entry (if desired) to a Higher Apprenticeship or degree level qualification. Advanced apprenticeships can last between two and four years.[34]
Higher Apprenticeship (Level 4/5; equivalent to a Foundation Degree): to start this programme, learners should have a Level 3 qualification (A-Levels, Advanced Diploma or International Baccalaureate) or have completed an Advanced Apprenticeship. Higher apprenticeships are designed for students who are aged 18 or over.[35]
Degree Apprenticeship (Level 5/6; achieve bachelor's degree) and (Level 7 Masters): to start this programme, learners should have a level 3/4 qualification (A-Levels, Advanced Diploma or International Baccalaureate) relevant to occupation or have completed an Advanced Apprenticeship also relevant to occupation. It differs from a 'Higher Apprenticeship' due to graduating with a bachelor's degree at an accredited university. Degree apprenticeships can last between two and four years.[36]
Under the current UK system, commencing from 2013, groups of employers ('trailblazers') develop new apprenticeships, working together to design apprenticeship standards and assessment approaches.[37] As at July 2015, there were 140 Trailblazer employer groups which had so far collectively delivered or were in the process of delivering over 350 apprenticeship standards.[38] [39]
From April 2017 an Apprenticeship Levy has been in place to fund apprenticeships. Many UK public bodies are subject to a statutory target to employ an average of at least 2.3% of their staff as new start apprentices over the period from 1 April 2017 to 31 March 2021, and to "have regard" to this target when planning their recruitment and career development activities.[40]
United States
Apprenticeship programs in the United States are regulated by the Smith–Hughes Act (1917), The National Industrial Recovery Act (1933), and National Apprenticeship Act, also known as the "Fitzgerald Act."[41]
The number of American apprentices has increased from 375,000 in 2014 to 500,000 in 2016, while the federal government intends to see 750,000 by 2019, particularly by expanding the apprenticeship model to include white-collar occupations such as information technology.[42][43]
Educational regime
See also standards based education reform which eliminates different standards for vocational or academic tracks
In the United States, education officials and nonprofit organizations who seek to emulate the apprenticeship system in other nations have created school to work education reforms. They seek to link academic education to careers. Some programs include job shadowing, watching a real worker for a short period of time, or actually spending significant time at a job at no or reduced pay that would otherwise be spent in academic classes or working at a local business. Some legislators raised the issue of child labor laws for unpaid labor or jobs with hazards.
In the United States, school to work programs usually occur only in high school. American high schools were introduced in the early 20th century to educate students of all ability and interests in one learning community rather than prepare a small number for college. Traditionally, American students are tracked within a wide choice of courses based on ability, with vocational courses (such as auto repair and carpentry) tending to be at the lower end of academic ability and trigonometry and pre-calculus at the upper end.
American education reformers have sought to end such tracking, which is seen as a barrier to opportunity. By contrast, the system studied by the NCEE (National Center on Education and the Economy) actually relies much more heavily on tracking. Education officials in the U.S., based largely on school redesign proposals by NCEE and other organizations, have chosen to use criterion-referenced tests that define one high standard that must be achieved by all students to receive a uniform diploma. American education policy under the "No Child Left Behind Act" has as an official goal the elimination of the achievement gap between populations. This has often led to the need for remedial classes in college.[44]
Many U.S. states now require passing a high school graduation examination to ensure that students across all ethnic, gender and income groups possess the same skills. In states such as Washington, critics have questioned whether this ensures success for all or just creates massive failure (as only half of all 10th graders have demonstrated they can meet the standards).[45]
The construction industry is perhaps the heaviest user of apprenticeship programs in the United States, with the US Department of Labor reporting 74,164 new apprentices accepted in 2007 at the height of the construction boom. Most of these apprentices participated in what are called "joint" apprenticeship programs, administered jointly by construction employers and construction labor unions.[46] For example, the International Union of Painters and Allied Trades (IUPAT) has opened the Finishing Trades Institute (FTI). The FTI is working towards national accreditation so that it may offer associate and bachelor's degrees that integrate academics with a more traditional apprentice programs. The IUPAT has joined forces with the Professional Decorative Painters Association (PDPA) to build educational standards using a model of apprenticeship created by the PDPA.
Examples of programs
Persons interested in learning to become electricians can join one of several apprenticeship programs offered jointly by the International Brotherhood of Electrical Workers and the National Electrical Contractors Association. No background in electrical work is required. A minimum age of 18 is required. There is no maximum age. Men and women are equally invited to participate. The organization in charge of the program is called the National Joint Apprenticeship and Training Committee .
Apprentice electricians work 32 to 40+ hours per week at the trade under the supervision of a journeyman wireman and receive pay and benefits. They spend an additional 8 hours every other week in classroom training. At the conclusion of training (five years for inside wireman and outside lineman, less for telecommunications), apprentices reach the level of journeyman wireman. All of this is offered at no charge, except for the cost of books (which is approximately $200–600 per year), depending on grades. Persons completing this program are considered highly skilled by employers and command high pay and benefits. Other unions such as the United Brotherhood of Carpenters and Joiners of America, United Association of Plumbers, Fitters, Welders and HVAC Service Techs, Operating Engineers, Ironworkers, Sheet Metal Workers, Plasterers, Bricklayers and others offer similar programs.
Trade associations such as the Independent Electrical Contractors and Associated Builders and Contractors also offer a variety of apprentice training programs. Eight registered programs also are offered by the
to fill a shortage of aerospace and advanced manufacturing workers in Washington State, including occupations such as machinist, tool and die maker, industrial maintenance technician and registered .
For FDA-regulated industries such as food, pharmaceuticals, medical devices, nutraceuticals and cosemecuticals, companies may offer apprenticeships in Quality Assurance, Quality Control, Medical Affairs (MSLs), Clinical Trials, or Regulatory Affairs. Apprentices may be placed at a host company and must continue to work toward an industry certification such as those offered by ASQ or RAPS while they remain in the apprenticeship. The costs of training and mentorship can be covered by the program and apprentices receive full pay and benefits.
Example of a professional apprenticeship
A modified form of apprenticeship is required for before an engineer is licensed as a Professional Engineer in any of the states of the United States. In the United States, regulation of professional engineering licenses is the right and responsibility of the federated state. That is, each of the 50 states sets its own licensing requirements and issues (and, if needed, revokes) licenses to practice engineering in that state.
Although the requirements can vary slightly from state to state, in general to obtain a Professional Engineering License in a given state, one must graduate with Bachelor of Science in Engineering from an accredited college or university, pass the Fundamentals of Engineering (FE) Exam, which designates the title of Engineer in Training (EIT), work in that discipline for at least four years under a licensed Professional Engineer (PE), and then pass the Principles and Practice of Engineering Exam. One and two years of experience credit is given for those with qualifying master’s and doctoral degrees, respectively.[47]
In most cases the states have reciprocity agreements so that once an individual becomes licensed in one state can also become licensed in other states with relative ease.
Youth Apprenticeship
Youth Apprenticeship is promising new strategy to engage youth in career connected learning, encourage high school completion, lower the youth unemployment rate, lower the skills gap and to provide a pipeline for youth into higher education or into industry as qualified workers to fill open positions.
These programs provide high school sophomores, juniors, and seniors with a career and educational pathway into industry. They develop real-world skills, earn competitive wages, and gain high school credits towards graduation and receive tuition free college credits. Upon completion of the program, the youth apprentices will obtain a journey level certification from the State Department of Labor and Industries, a nationally recognized credential.
Youth apprenticeship has been successfully piloted in a number of states including, Washington, Wisconsin, Colorado, Oregon, North Carolina and South Carolina. In these states, thousands of high school students engage in both classroom technical training and paid structured on-the-job training across a number of high-growth, high-demand industries. In Charlotte, NC several companies, many rooted in Europe, have started joint programs (Apprenticeship Charlotte and Apprenticeship 2000) to jointly further the idea of apprenticeships and close the gap in technical workforce availability. In Washington State, the has partnered with nearly 50 aerospace manufacturing companies to offer registered Youth Apprenticeships in partnership with the Washington State Department of Labor & Industries.
Re-entry Apprenticeship
Apprenticeship programs for individuals who have been previously incarcerated aim to decrease recidivism and increase re-entry employment.[48] The Post-Release Employment Project cross analyzed data of inmates who utilized re-entry apprenticeship programs amongst those who did not. It has been found that post-prison programs increase an ex-inmate's likelihood to retain employment. Participation in work and job skill programs decreased an inmates likelihood of being recommitted by 8 to 12 years.[49] The three main types of re-entry apprenticeship programs are: "jobs in the prison setting, short term vocation training in prison, and short term assistance in the job search process upon release."[50] Research done by Uggan in 2000, concluded that these programs have the greatest effects on individuals older than 26 years old.[50] Andrews et al., highlights the importance of catering prison programs to the needs of a specific offender. Not everyone will benefit equally from these programs and this form of training has found to only be beneficial to for those who are ready to exit crime.[50] An example of a re-entry apprenticeship program is Job Corps. Job Corps is a residential program centered around work, providing a structured community for at-risk teens. In 2000, an experiment done by Schochet et al., found that those who were not enrolled in the program were had an arrest rate 15.9% higher than those who were enrolled in the program.[50]
Africa
In Liberia, tailor apprenticeships engage with more skilled tailors to learn the craft and the skills that may be taught in more traditional school settings. They learn from master tailors, which gives the apprentices a promised job once their training is completed.
Apprentices must have a grasp on patterns, measurement, and other math skills. They demonstrate full concept mastery before moving on to the next piece of clothing. Instead of formal testing for evaluation, articles of clothing must meet the quality standards before they can be sold and before the apprentice can begin a new design.[51]
Analogues at universities and professional development
The modern concept of an internship is similar to an apprenticeship but not as rigorous. Universities still use apprenticeship schemes in their production of scholars: bachelors are promoted to masters and then produce a thesis under the oversight of a supervisor before the corporate body of the university recognises the achievement of the standard of a doctorate. Another view of this system is of graduate students in the role of apprentices, post-doctoral fellows as journeymen, and professors as masters . In the "Wealth of Nations" Adam Smith states that Seven years seem anciently to have been, all over Europe, the usual term established for the duration of apprenticeships in the greater part of incorporated trades. All such incorporations were anciently called universities, which indeed is the proper Latin name for any incorporation whatever. The university of smiths, the university of tailors, etc., are expressions which we commonly meet with in the old charters of ancient towns [...] As to have wrought seven years under a master properly qualified was necessary in order to entitle any person to become a master, and to have himself apprenticed in a common trade; so to have studied seven years under a master properly qualified was necessary to entitle him to become a master, teacher, or doctor (words anciently synonymous) in the liberal arts, and to have scholars or apprentices (words likewise originally synonymous) to study under him.[52]
Also similar to apprenticeships are the professional development arrangements for new graduates in the professions of accountancy, engineering, management consulting, and the law. A British example was training contracts known as 'articles of clerkship'. The learning curve in modern professional service firms, such as law firms, consultancies or accountancies, generally resembles the traditional master-apprentice model: the newcomer to the firm is assigned to one or several more experienced colleagues (ideally partners in the firm) and learns his skills on the job.
See also
Apprenticeship levy
Apprentices mobility
Apprenticeship in freemasonry
Education
Educational theory of apprenticeship
German model
Guild
Guru-disciple tradition
Internship
Indentured servant
Journeyman
Mentorship
Nonuniversal theory
Tradesman
Vocational education
Further reading
Modern Apprenticeships: the way to work, The Report of the Modern Apprenticeship Advisory Committee, 2001
Apprenticeship in the British "Training Market", Paul Ryan and Lorna Unwin, University of Cambridge and University of Leicester, 2001
Creating a ‘Modern Apprenticeship’: a critique of the UK’s multi-sector, social inclusion approach Alison Fuller and Lorna Unwin, 2003
Apprenticeship systems in England and Germany: decline and survival. Thomas Deissinger in: Towards a history of vocational education and training (VET) in Europe in a comparative perspective, 2002
European vocational training systems: the theoretical context of historical development. Wolf-Dietrich Greinert, 2002 in Towards a history of vocational education and training (VET) in Europe in a comparative perspective.
Apprenticeships in the UK- their design, development and implementation, Miranda E Pye, Keith C Pye, Dr Emma Wisby, Sector Skills Development Agency, 2004
L’apprentissage a changé, c’est le moment d’y penser !, Ministère de l’emploi, du travail et de la cohésion sociale, 2005
Learning on the Shop Floor: Historical Perspectives on Apprenticeship, Bert De Munck, Steven L. Kaplan, Hugo Soly. Berghahn Books, 2007.
"The social production of technical work: the case of British engineers" Peter Whalley, SUNY Press 1986.
"Apprenticeship in the ‘golden age’: were youth transitions really smooth and unproblematic back then?", Sarah A.Vickerstaff, University of Kent, UK, 2003
"The Higher Apprenticeship (HA) in Engineering Technology"; The Sector Skills Council for Science, Engineering and Manufacturing technologies, UK, 2008
| https://en.wikipedia.org/wiki/Apprenticeship |
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Musa aliishi miaka 1250 hivi K.K. akawa kiongozi wa Wanaisraeli walipoondoka nchini Misri kukimbilia nchi ya Kanaani (iliyoitwa "Israeli" na "Palestina" baadaye).
Hasa Torati na vitabu vingine vya Biblia vinasimulia habari zake. Pia Qurani inamtaja katika aya 502.
Waisraeli waliishi Misri kama wageni tu zaidi ya miaka mia nne (Mdo 7:6-16) wakiongezeka kiasi cha kuwatisha wenyeji wao ambao walianza kuwafanya watumwa mwaka 1300 hivi K.K. Kwa mujibu wa Biblia, katika kuwakomboa utumwani, Mungu alijionyesha mtetezi wa haki za maskini. Pamoja na kushurutishwa kufanya kazi wasizozipenda, ilitolewa amri ya kuua watoto wao wote wa kiume, ingawa mpango huo haukutekelezwa sawasawa (Kut 1:7-22).
Utoto wa Musa
Mmoja kati ya watoto waliookolewa katika mpango wa kuua watoto wa kiume ni Musa wa kabila la Lawi (Kut 2:1-10; Eb 11:23; Mdo 7:17-22). Mama wa Musa alimficha mtoto halafu akamweka ndani ya kikapu mtoni. Hatimaye mtoto akaokotwa na binti Farao na kulelewa kama mtoto wa kifalme, lakini alijua asili yake.
Alipomuua afisa wa Kimisri alipaswa kukimbilia jangwani kwa kabila la Wamidiani akaolea huko (Kut 2:11-22; Eb 11:24-27; Mdo 7:23-29): alipokuwa anachunga mifugo ya mkwewe kwenye mlima Sinai akaitwa na Mungu kutoka ndani ya kichaka kinachowaka moto bila kuteketea. Mungu alimchagua kurudi Misri na kuokoa watu wake katika utumwa wa Farao. Mungu akasisitiza aende mwenyewe, naye atatumia uwezo wake wa Kimungu kumlazimisha Farao. Kadiri Musa alivyoomba, Mungu alimfunulia jina lake takatifu YHWH ambalo linaeleweka kiasi tu, kama vile fumbo la Mungu mwenyewe (Kut 2:23-3:20; Mdo 7:30-35).
Mapigo ya Wamisri
Mungu alipomtuma Musa kwa Farao alijua tayari huyo atakataa kuwaruhusu Waisraeli waende zao, mpaka aone mapigo yake kwa Wamisri. Kwa kuwa ulihitajika muda kuleta ukombozi, iliwabidi Waisraeli wawe na imani na subira hadi ahadi za Mungu zitimie. Waisraeli walianza kunung’unika (Kut 5:1-6:1). Hata hivyo Mungu akaendelea na mpango wake.
Maajabu aliyoyatenda huwa yanatokea Misri lakini si yote kwa wakati mmoja wala si kwa kiasi kile alichosababisha Musa kwa fimbo yake (Kut 6:28-7:7). Tuna orodha mbalimbali za mapigo hayo, lakini kwa kawaida yanahesabiwa kumi: maji ya mto Naili kuwa mekundu kama damu, vyura kujaa nchi, chawa, nzi, tauni, majipu, mvua ya mawe, nzige, giza na hatimaye kifo cha wazaliwa wa kwanza wa kiume wa watu na wa wanyama. Adhabu hizo ziliwapata Wamisri, lakini si Waisraeli: hivyo ilikuwa wazi kuwa Mungu anabagua watu wake na watu waovu.
Katika pigo la kumi Waisraeli waliopolewa kwa kuipaka milango yao damu ya mwanakondoo (Kut 11:1-10; Mdo 7:36-37; Eb 11:28). Hivyo Mungu aliwaandaa watu kupokea imani kwa Yesu Kristo, Mwanakondoo wa kweli na Mkombozi wa waliokuwa watumwa wa dhambi, shetani na kifo (Yoh 19:36; 1Kor 5:7; 1Pet 1:18-20). Hiyo ni wazi katika ibada iliyoagizwa ifanyike kila mwaka (Kut 12:1-14), yaani Waisraeli wale nyama ya mwanakondoo dume asiye na hila, pamoja na mkate usiotiwa chachu na mboga ya majani machungu. Yesu akaifanya ibada hiyo iwe ibada kuu ya agano jipya la milele, akiagiza tuifanye kwa ukumbusho wake, si tena kwa ukumbusho wa kutoka Misri (1Kor 11:23-26).
Safari ya kuendea nchi ya ahadi
Kut 12:29-42 inasimulia Waisraeli wote walivyokimbia Misri pamoja na mifugo yao waliposikia mayowe kutoka nyumba za majirani wao wote. Katika safari yao wakaongozwa na Mungu kwa sura ya wingu mchana na ya moto usiku (Kut 13:17-22; Yoh 8:12): hivyo Mungu alionyesha wazi kuwa hawaachi hata kidogo bali anawashughulikia kwa namna tofauti kadiri ya mahitaji.
Kut 14:5-31 inasimulia jinsi Wamisri, kisha kuwalilia wafu wao, walivyoanza kuwatafuta Waisraeli kwa farasi na magari wakawakuta karibu na bahari ya Shamu. Lakini Waisraeli walivuka bahari kama kwamba ni nchi kavu, kwa kuwa maji yamegawanyika. Kumbe Wamisri wakazama kwa kuwa maji yamerudi mahali pake (Eb 11:29). Asubuhi Waisraeli wakaona maiti za Wamisri wote zikielea wakamshangilia Mungu aliyewaokoa (Kut 15:1-21 inatuletea wimbo ambao maneno yake ni kati ya yale ya kale zaidi katika Biblia). Hivyo Mungu aliwaokoa tena watu wake katika maji, na huu pia ni mfano wa ubatizo ambao unaadhimishwa hasa usiku wa Pasaka. Hata katika hatari ya kukandamizwa Mungu alidai Waisraeli watulie kwa imani ya kuwa ushindi ni wake tu. Tena walitakiwa wasiyasahau kamwe mang’amuzi hayo, kwa kuwa ndiyo msingi wa imani ya dini yao. Sisi vilevile tunatakiwa kukumbuka daima ubatizo wetu ambapo Mungu ametuokoa.
Baada ya ushindi wa Pasaka safari ikaendelea mpaka kufikia nchi aliyoahidi Mungu, ila Waisraeli wakaja kusahau uweza wake na kumlalamikia kipumbavu hata kumchosha. 1Kor 10:1-11 inatuonya tusifanye vile. Kama kawaida malalamiko ya kwanza yalihusu kula na kunywa (Kut 15:22-17:7). Mungu aliwakubalia kwa kuwateremshia kwale halafu mana: hasa chakula hicho kiliwashangaza Waisraeli wakazidi kukikumbuka hata wakamdai Yesu awapatie tena kama kweli ndiye Musa mpya. Yesu akawajibu kuwa mwenyewe ndiye chakula cha uzima kutoka mbinguni kinachotulisha safarini hapa (Yoh 6:22-59). Vilevile kuhusu maji, Mungu aliyatokeza katika mwamba huko Masa au Meriba, lakini alichukizwa sana na matendo yao (Eb 3:15-19).
Shida nyingine ya kawaida kwa makabila ya wahamaji ni kupigana vita. Waisraeli walilazimika kufanya hivyo na Waamaleki, wakapata ushindi si kwa nguvu zao, ila kutokana na sala ya Musa, mwombezi wao (Kut 17:8-16). Sisi taifa la Mungu tunatakiwa tutegemee sala kuliko uhodari wetu, na daima tuwe na watu wenye kumuinulia Mungu mikono yao kama Musa jangwani.
Agano la mlima Sinai
Walipofikia mlima huo wa kutisha, Mungu alimuita Musa aupande ili aseme naye, huku wengine wakibaki chini. Hapo akampa Musa masharti ya agano lake na Waisraeli (Kut 19). Akiwa Muumba na hasa Mkombozi wao alidai waishi kitakatifu kwa kushika amri kumi, ambazo tatu zinahusu heshima kwake na saba uhusiano na watu wengine (Kut 20:2-17). Ndiyo mawe mawili ambayo Musa alipewa halafu Yesu akayakamilisha katika amri kuu ya upendo kwa Mungu na kwa jirani (Mk 12:28-34). Amri hizo zinaweza kujulikana na kukubaliwa na mtu yeyote mwenye mapenzi mema, lakini Mungu alipenda kutusaidia tujue kwa urahisi na hakika zaidi tufanye nini ili kumpendeza, tuwe watu wake naye awe Mungu wetu kwelikweli. Agano hilo upande wa Mungu ni imara kwa kuwa yeye ni mwaminifu kabisa, shida iko upande wetu tulio geugeu, tukiahidi tusitekeleze. Ndiyo sababu likahitajika agano lingine lililofungishwa na Yesu Kristo (2Tim 2:11-13).
Ndama ya dhahabu
Kut 32 inasimulia uasi wa Waisraeli ulivyofikia kilele chake walipojitengenezea mungu wa dhahabu mwenye sura ya fahali (Biblia kwa dharau inasema “ndama” na “mla nyasi”). Hata Haruni alikubali kufuata matakwa yao huku mdogo wake akichelewa mlimani (Mdo 7:38-42). Israeli kuabudu ndama ilikuwa chukizo mbele za Mungu, kwa kuwa Mungu hana mbadala wa yeye kufanyiwa ibada. Musa akambembeleza Mungu asiwaangamize watu wake, hivyo akawa mfano bora wa mwombezi, kwa kuwa hakujali ahadi ya Mungu ya kumfanya chanzo cha taifa lingine kubwa. Kazi hiyo ni hasa ya Bwana Yesu ambaye aliwatetea watu wake kwa kumwaga damu yake, na anazidi kuwaombea kwa Baba yake (Eb 7:25-27).
Mungu kujifunua tena kwa Musa
Kut 33:18-34:9 inasimulia jinsi Mungu alivyokubali kiasi ombi la Musa la kumuonyesha utukufu wake; badala ya kumuonyesha uso wake (Yoh 1:18) alijifunua kwake kwa kulitangaza na kulifafanua jina lake: YHWH ni mwingi wa rehema na uaminifu, anawaonea wivu watu wake, yaani hawezi kukubali waabudu miungu mingine kwa hasara yao. Ndiyo sababu alipoagana nao kwa kuandika tena amri zake kumi katika mawe, pamoja na kuahidi kuwafukuza wenyeji wa nchi takatifu ili kuwapatia nafasi Waisraeli, aliwaagiza wasichanganyikane nao wasije wakavutwa katika Upagani. Hasa alikataza ndoa za mseto ili kulinda usafi wa imani. Kwa namna ya pekee Kristo analipenda na kulionea wivu Kanisa lake analolitaka bikira safi katika imani na maadili (2Kor 11:2; Ef 5:25-27): hivyo tunaposhirikiana na watu wengine tuwe macho tusifuate mawazo, maneno na matendo yao, bali tushuhudie imani na upendo kwa maisha yetu tofauti na ya kwao (Yoh 17:15-17).
Mwendelezo wa habari katika Kitabu cha Hesabu
Kitabu cha nne cha Biblia kinaitwa hivyo kwa sababu kinaleta hesabu mbalimbali, hasa ya idadi ya Waisraeli: wanaume wa kuweza kwenda vitani walikuwa 603,500 (mbali na Walawi waliohesabiwa peke yao: wanaume 22,000 wakiwa pamoja na watoto wa kiume); ukiongeza wanawake na watoto mpaka umri wa miaka ishirini, basi jumla yao iliweza kufikia watu milioni tatu, ingawa si lazima kuamini idadi hiyo ni sahihi (pengine namba hizo hazilingani katika makala kwa kuwa ilikuwa rahisi kukosea wakati wa kunakili).
Uzito wa kazi ya kuwaongoza watu wengi hivyo wanaonung’unika kila mara ulimchosha Musa hata akamuomba Mungu tena ampunguzie mzigo au amuue kabisa (Hes 11:1-30). Musa alieleza shida yake kama rafiki kwa mwenzake, kwa unyofu uleule wa watu wengine wa Mungu katika Biblia. Mungu akamkubalia akawashirikisha watu sabini roho yake kwa ajili ya uongozi katika ngazi mbalimbali. Huo pia ni mfano wa Agano Jipya, ambapo askofu hawezi kuchunga waamini peke yake, bali anahitaji msaada wa viongozi wa daraja za chini, yaani mapadri na mashemasi (Mdo 6:1-6). Katika nafasi hiyo Musa alimueleza Yoshua kwamba hawaonei kijicho kwa kupewa karama, tena angependa kama Waisraeli wote wangekuwa manabii. Hamu hiyo ikatimia siku ya Pentekoste: katika Kanisa wote wanapewa Roho Mtakatifu na kuwa manabii, hata wanawake na watoto (Mdo 2:16-18).
Kinyume chake Hes 12 inasimulia kijicho kilivyowafanya dada na kaka wa Musa wamseme wakijidai nao pia ni manabii. Lakini Mungu akawaeleza kuna namna mbalimbali za unabii, na Musa ni wa pekee. Kisha akatoa adhabu ambayo ikaondolewa kwa maombezi ya Musa tu: ndiyo sababu anasifiwa kwa upole wake. Kijicho kitasumbua daima taifa la Mungu, hata katika Agano Jipya (1Kor 12:1-31; 14:37-38).
Waisraeli walipofikia mipakani mwa nchi takatifu walituma wapelelezi ili waivamie, nao waliporudi walisimulia uzuri wake, lakini pia walitisha kwa kuzidisha habari za wananchi na miji yao (Hes 13). Hapo Waisraeli wakaanza kunung’unika usiku kucha (Hes 14) wakapanga kuwaua kwa mawe Kalebu na Yoshua waliotaka kuivamia nchi bila ya hofu kwa jina la Bwana. Lakini Mungu akaonyesha utukufu wake na kutisha ataleta tauni ili kuwaangamiza wote kwa ukaidi wao. Kwa maombezi ya Musa, akakubali kuwahurumia lakini akaamua warudi jangwani na kuzungukazunguka huko mpaka wafe wote; ila watoto wao pamoja na Kalebu na Yoshua ndio watakaoingia nchi takatifu kuimiliki. Maana ya kiroho ni kwamba hatutakiwi kuzitia shaka ahadi za Mungu; hata zikionekana ngumu kupatikana, ni lazima tuwe na moyo mkuu na imani hata tukabili vipingamizi vyovyote.
Kinyume chake, Waisraeli walipoamua kuivamia nchi kwa kusikitikia adhabu waliyopewa wakashindwa kabisa, maana ni lazima tumtii Mungu kwa wakati wake. Pia kughairi kutokana na matatizo kunaweza kukatusukuma tutende namna ambayo haimpendezi tena; ni lazima tuchukue majukumu ya matendo yetu na kukubali adhabu au matatizo tuliyojitakia:majuto hayo yanafaa kwa kuonyesha utiifu kwa Mungu (Zab 119:71).
Manung’uniko ya Waisraeli katika safari yao jangwani yakawaletea adhabu nyingine, mojawapo ile ya kugongwa na nyoka wengi wenye sumu kali. Lakini walipoomba msamaha, Mungu akamuagiza Musa atengeneze nyoka wa shaba na kumuinua juu ya mti ili mtu aliyeumwa akimtazama tu apate kupona (Hes 21:4-9). Ufafanuzi wa tukio hilo ulitolewa na Yesu mwenyewe: ndiye aliyeinuliwa juu ya mti wa msalaba ili watakaomtazama kwa imani wapate kuishi (Yoh 3:14-15).
Musa katika kitabu cha Kumbukumbu la Sheria
Kitabu hicho cha mwisho cha Torati kiliandikwa kama miaka 600 baada ya Musa, ingawa kina namna ya hotuba tano alizoweza kuwatolea Waisraeli kabla hajafa. Kinasisitiza sana uaminifu kwa sheria za Agano la Kale na pia tuzo na adhabu zitakazotolewa kufuatana na matendo ya Waisraeli.
Katika maneno yake yote ya kukumbukwa ni hasa yale ya 6:4-9 ambayo Mwisraeli yeyote anayakariri kila siku katika sala na kuyashika neno kwa neno.
Maneno mengine muhimu sana yapo 26:5-10: ni kama kanuni ya imani ambayo Mwisraeli alikuwa anaiungama mbele ya Mungu wakati wa kumtolea malimbuko ya ardhi. Hivyo alikuwa akikiri amepewa yote na Bwana, halafu akaweza kuyafurahia mavuno.
Baada ya hotuba hizo, Kumb 31:1-8 inasimulia jinsi Musa alivyomuachia Yoshua uongozi wa Waisraeli wote kwa kumwekea mikono (Hes 27:12-23). Musa alifikia mpakani mwa nchi takatifu asikubaliwe kuiingia kama adhabu ya makosa yake, ila alionyeshwa yote kutoka mlimani (Kumb 32:48-52) halafu akafariki (Kumb 34) na kuzikwa ng'ambo ya mto Yordani. Kazi aliyopangiwa iliishia huko, mwingine akampokea na kuendeleza ukombozi wa Kimungu. Binadamu wote ni vyombo tu vinavyotumika kwa muda fulani, halafu vinaweza kuachwa. Kumbe Mungu ndiye mtendaji mwenyewe ambaye hasinzii wala halali, bali anazidi kuwashughulikia watu wake. Kwa imani hiyo tuwe daima tayari kuwaachia wengine nafasi yetu.
Anakumbukwa kama kiongozi na mwanzilishaji wa dini ya Uyahudi.
Sala yake (Kut 33:18)
"Nakusihi unionyeshe utukufu wako".
Tazama pia
Watakatifu wa Agano la Kale
Orodha ya Watakatifu Wakristo
Orodha ya Watakatifu Wafransisko
Marejeo
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Viungo vya nje
Kitabu cha Kutoka katika tafsiri ya Kiswahili (Union Version)
Kitabu cha Mambo ya Walawi katika tafsiri ya Kiswahili (Union Version)
Kitabu cha Hesabu katika tafsiri ya Kiswahili (Union Version)
Kitabu cha Kumbukumbu la Torati katika tafsiri ya Kiswahili (Union Version)
Jamii:Musa
Jamii:Uyahudi
Jamii:Watu wa Biblia
Jamii:Watu wa Kurani
Jamii:Watakatifu wa Israeli
Jamii:Manabii katika Uislamu | https://sw.wikipedia.org/wiki/Musa |
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Laut Karibia adalah sebuah laut tropis bersebelahan dengan Samudra Atlantik dan tenggara Teluk Meksiko. Dia mencakup seluruh lempengan Karibia dan di selatan dibatasi oleh Venezuela, Kolombia, dan Panama, di barat dibatasi oleh Kosta Rika, Nikaragua, Honduras, Guatemala, Belize, dan semenanjung Yucatan Meksiko, di utara oleh kepulauan Antilles Besar, Kuba, Hispaniola, Jamaika, dan Puerto Riko, dan di timur oleh Antilles Kecil.
Laut Karibia merupakan salah satu laut terbesar dan memiliki luas wilayah sekitar 2.754.000km² (1.063.000 mil persegi). Titik terdalam laut ini adalah Palung Cayman, antara Kuba dan Jamaika, dengan kedalaman 7.500m (250.000 kaki) di bawah permukaan laut.
Seluruh wilayah Laut Karibia, terutama pulau-pulaunya, dikenal sebagai kepulauan Karibia.
Lihat pula
Daftar pulau-pulau di Karibia
Antilles
Amerika Selatan Karibia
Kategori:Karibia
Karibia | https://id.wikipedia.org/wiki/Laut%20Karibia |
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মহাভারত (সংস্কৃত: महाभारतम्) সংস্কৃত ভাষায় রচিত প্রাচীন ভারতের দুটি প্রধান মহাকাব্যের অন্যতম (অপরটি হল রামায়ণ)। এই মহাকাব্যটি হিন্দুশাস্ত্রের ইতিহাস অংশের অন্তর্গত।
মহাভারত-এর মূল উপজীব্য বিষয় হল কৌরব ও পাণ্ডবদের গৃহবিবাদ এবং কুরুক্ষেত্র যুদ্ধের পূর্বাপর ঘটনাবলি। তবে এই আখ্যানভাগের বাইরেও দর্শন ও ভক্তির অধিকাংশ উপাদানই এই মহাকাব্যে সংযোজিত হয়েছে। উদাহরণস্বরূপ বলা যায়, ধর্ম, অর্থ, কাম ও মোক্ষ – এই চার পুরুষার্থ-সংক্রান্ত একটি আলোচনা (১২।১৬১) সংযোজিত হয়েছে এই গ্রন্থে। মহাভারত-এর অন্তর্গত অন্যান্য গুরুত্বপূর্ণ রচনা ও উপাখ্যানগুলি হল ভগবদ্গীতা, দময়ন্তীর উপাখ্যান, রামায়ণ-এর একটি সংক্ষিপ্ত পাঠান্তর ইত্যাদি; তবে এগুলিকে মহাভারত-রচয়িতার নিজস্ব সৃষ্টি বলে মনে করা হয়।
প্রচলিত বিশ্বাস অনুযায়ী, মহাভারত-এর রচয়িতা ব্যাসদেব। অনেক গবেষক এই মহাকাব্যের ঐতিহাসিক বিকাশ ও রচনাকালীন স্তরগুলি নিয়ে গবেষণা করেছেন। অধুনা প্রাপ্ত পাঠটির প্রাচীনতম অংশটি মোটামুটি ৪০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ নাগাদ রচিত হয়।[1] মহাভারতের মূলপাঠটি তার বর্তমান রূপটি পরিগ্রহ করে গুপ্তযুগের প্রথমাংশে (খ্রিষ্টীয় চতুর্থ শতাব্দী)।[2] মহাভারত কথাটির অর্থ হল ভরত বংশের মহান উপাখ্যান। গ্রন্থেই উল্লিখিত হয়েছে যে ভারত নামে ২৪,০০০ শ্লোকবিশিষ্ট একটি ক্ষুদ্রতর আখ্যান থেকে মহাভারত মহাকাব্যের কাহিনিটি বিস্তার লাভ করে।[3]
মহাভারত-এ এক লক্ষ শ্লোক ও দীর্ঘ গদ্যাংশ রয়েছে। এই মহাকাব্যের শব্দসংখ্যা প্রায় আঠারো লক্ষ। মহাভারত মহাকাব্যটির আয়তন ইলিয়াড ও ওডিসি কাব্যদ্বয়ের সম্মিলিত আয়তনের দশগুণ এবং রামায়ণ-এর চারগুণ।[4][5]
গঠন ও প্রসঙ্গ
গ্রন্থ রচনা
মহাভারতে বর্ণিত হয়েছে, মহর্ষি বেদব্যাস হিমালয়ের এক পবিত্র গুহায় তপস্যা করবার পর মহাভারতের সম্পূর্ণ ঘটনাটি স্মরণ করেন এবং মনে মনেই এর রচনা করেন।[6] ব্যাসদেব চাইলেন এই মহান কাহিনি সিদ্ধিদাতা গণেশের দ্বারা লিপিবদ্ধ হোক। গণেশ লিখতে সম্মত হলেন, কিন্তু তিনি শর্ত করলেন যে, তিনি একবার লেখা শুরু করলে তার শেষ না হওয়া পর্যন্ত ব্যাসদেবের আবৃত্তি একটিবারও থামতে পারবে না। তখন ব্যাসদেব বুদ্ধিমতো পাল্টা একটি শর্ত উপস্থাপনা করলেন – "গণেশ যে শ্লোকটি লিখবেন, তার মর্মার্থ না বুঝে লিখতে পারবেন না"। ভগবান গণেশ এই প্রস্তাব স্বীকার করলেন। এইভাবে ব্যাসদেব মাঝে মাঝে কিছু কঠিন শ্লোক রচনা করে ফেলতেন, যার ফলে গণেশকে শ্লোকটির অর্থ বুঝতে সময় লাগত এবং সেই অবসরে ব্যাসদেব তাঁর পরবর্তী নতুন শ্লোকগুলি ভেবে নিতে পারতেন। এইরূপে সম্পূর্ণ মহাভারত রচনা করতে প্রায় ৩ বৎসর লেগে যায়।[7] ব্যাসদেব প্রথমে অধর্মের বিরুদ্ধে ধর্মের জয় সূচক উপাখ্যান যুক্ত ১০০০০০ শ্লোক সমন্বিত আদ্য জয় গ্রন্থ রচনা করেন। সর্বশেষে তিনি ষাট লক্ষ শ্লোক সমন্বিত অপর একটি গ্রন্থ রচনা করেন, যে গ্রন্থের ৩০ লক্ষ শ্লোক দেবলোকে, ১৫ লক্ষ শ্লোক পিতৃলোকে, ১৪ লক্ষ রক্ষোযক্ষ লোকে স্থান পেয়েছে এবং অবশিষ্ট মাত্র ১ লক্ষ শ্লোক এই মনুষ্যলোকে ‘মহাভারত’ নামে সমাদৃত হয়েছে। এই সম্বন্ধে মহাভারতেই বর্ণিত হয়েছে: ত্রিংশচ্ছতসহস্রঞ্চ দেবলোকে প্রতিষ্ঠিতম্॥পিত্রে পঞ্চদশ প্রোক্তং রক্ষোযক্ষে চতুর্দ্দশ।একং শতসহস্রন্তু মানুষেষু প্রতিষ্ঠিতম্॥
গ্রন্থ প্রচার
মহাভারত রচনা সম্পূর্ণ হলে ব্যাসদেব এই কাব্য তাঁর পুত্র শুকদেবকে দিয়ে অধ্যয়ন করান, পরে শিষ্য পরম্পরায় গ্রন্থটি বৈশম্পায়ন, পৈল, জৈমিনি, অসিত-দেবল প্রভৃতি ঋষি দ্বারা পঠিত হয়। শুকদেব এই গ্রন্থটির কাহিনি গন্ধর্ব, যক্ষ ও রাক্ষসদের মধ্যে, দেবর্ষি নারদ দেবতাদের মধ্যে ও অসিত-দেবল পিতৃদের মধ্যে প্রচারিত করেন।[8] বৈশম্পায়ন এই কাহিনিটি প্রথম মনুষ্যদের মধ্যে 'ভারত' নামে প্রচার করেন। অর্জুনের প্রপৌত্র মহারাজ জন্মেজয়ের মহাযজ্ঞে ঋষি বৈশম্পায়ন ওই কাহিনি জন্মেজয় সহ সৌতি এবং উপস্থিত মুনি-ঋষিদের শোনান।[8]
একদা সম্রাট পরীক্ষিৎ তক্ষক নাগের দংশনে মারা গেলে ক্রোধের বশে পরীক্ষিৎপুত্র জনমেজয় বিশ্বের সমস্ত সাপেদের ধ্বংস করবার পণ নিয়ে সর্পযজ্ঞের আয়োজন করেন। কিন্তু তক্ষকের অনুরোধে আস্তিক মুনি এই যজ্ঞ পণ্ড করে দেন। জনমেজয়ের অনুতাপ হয় ও পাপ খণ্ডন করতে অশ্বমেধ যজ্ঞের আয়োজন করেন। কিন্তু, কলিযুগে অশ্বমেধ যজ্ঞ করা অনর্থের কারণ মনে করে দেবরাজ ইন্দ্র ছল করে এই যজ্ঞও নষ্ট করেন ও জনমেজয়ের ওপর ব্রহ্মহত্যার পাপ পড়ে। এই মহাপাপের প্রায়শ্চিত্ত করতে তিনি ব্যাসদেবের পরামর্শ মতো ঋষি বৈশম্পায়নের কাছ থেকে পবিত্র মহাভারতের কাহিনি শ্রবণ করে পাপমুক্ত হন। পরে ঐ যজ্ঞে উপস্থিত গল্পকথক উগ্রশ্রবা সৌতি কাহিনিটি শুনে তা নৈমিষারণ্যে যজ্ঞরত শৌনক ও অন্যান্য মুনিদের শোনান। এইরূপে মনুষ্যসমাজে মহাভারতের কাহিনি প্রচারিত হয়।[9]
বিশালতা
মহাভারতের বিশালতা তথা দার্শনিক গূঢ়তা কেবল ভারতের পৌরাণিক আখ্যানই নয়, বরং এটিকে সমগ্র হিন্দু ধর্ম এবং বৈদিক দর্শন ও সাহিত্যের সারসংক্ষেপ বলা যেতে পারে। 'মহাভারত' নামটির উৎপত্তি প্রসঙ্গে একটি আখ্যান প্রচলিত যে, দেবতারা তুলাযন্ত্রের একদিকে চারটি বেদ রাখেন ও অন্যদিকে বৈশম্পায়ন প্রচারিত ভারত গ্রন্থটি রাখলে দেখা যায় ভারত গ্রন্থটির ভার চারটি বেদের চেয়েও অনেক বেশি। সেই কারণে ভারত গ্রন্থের বিশালতা দেখে দেবগণ ও ঋষিগণ এর নামকরণ করলেন 'মহাভারত'। আবার একে 'পঞ্চম বেদ'ও বলা হয়। জগতের তাবৎ শ্রেষ্ঠ বস্তুর সঙ্গে একে তুলনা করে বলা হয়েছে: "মহত্ত্বাদ্ ভারতবত্ত্বাচ্চ মহাভারতমুচ্যতে।"[10]
বাংলাতেও মহাভারতের বিশালতা সম্পর্কিত একটি সুপ্রচলিত প্রবাদ রয়েছে: যা নেই ভারতে, তা নেই মহাভারতে।
অর্থাৎ যে বস্তুটি মহাভারতের গল্পে পাওয়া যায় না, তা ভারতবর্ষ তথা পুরো সংসারে কোথাও পাওয়া যাবে না।
অধ্যায় সমূহ
মহাভারত কাব্যগ্রন্থটিতে মোট ১৮টি অধ্যায় তথা ‘পর্ব’ ও ১০০টি ‘উপপর্ব’ রয়েছে।
রচনাকাল
মহর্ষি বেদব্যাস কথিত মহাভারতের কাহিনি রচনা করতে সম্ভবত ৩ বৎসর কাল অতিবাহিত হয়েছিল, এর দ্বারা অনুমান করা যেতে পারে, ঐ সময় লিখন পদ্ধতি তেমন আধুনিক ছিল না, সে কালে প্রচলিত নানা বৈদিক সাহিত্যগুলোকে মুনিঋষিরা গুরু-শিষ্য পরম্পরা অনুসারে নিজেরা মৌখিক রূপে স্মরণ করে রাখতেন। সে সময় আর্য ভাষা সংস্কৃত ঋষিদের মান্য ভাষার মর্যাদা পেয়েছিল।[11] এই রূপে সমগ্র বৈদিক সাহিত্য তথাকথিত গুরু-শিষ্য পরম্পরায় মৌখিক রূপে সংরক্ষিত থাকত। এরপর সময়ের সাথে সাথে বৈদিক যুগের পতন হয় এবং সেই প্রাচীন গুরু-শিষ্য পরম্পরায় স্মরণ করার রীতি লুপ্ত হয়, তখন সেই সমস্ত সাহিত্যগুলিকে লিখিত রূপে সংরক্ষণের রীতি প্রচলিত হয়। এই সময় ব্রাহ্মী লিপির মাধ্যমে লেখার প্রচলন ঘটে। বর্তমান পণ্ডিতগণের ধারণা যে, মহাভারত প্রাচীন অবস্থা থেকে বর্তমান অবস্থায় পৌঁছানো কয়েকটি ধাপের মধ্য দিয়ে সম্পন্ন হয়। গবেষকদের মতে, মহাভারতের রচনাকাল ৩টি প্রারম্ভিক স্তরে বিভক্ত।[12] এই ৩ স্তরের সময়কাল নিম্নরূপ:
৩১০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ[13]
ক. সর্বপ্রথমে ব্যাসদেব ১০০ পর্ব ও এক লাখ শ্লোক সমন্বিত 'জয়' গ্রন্থ রচনা করেন, যা পরবর্তী কালে মহাভারত নামে প্রসিদ্ধ হয়।
খ. পরে ব্যাস প্রচারিত ঐ কাহিনিটিকে তাঁর শিষ্য বৈশম্পায়ন জনমেজয়ের মহা যজ্ঞে জনমেজয় সহ সৌতি অন্যান্য মুনিদের শোনান। এই সময় গ্রন্থটির নাম হয় 'ভারত'।
২০০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ[13]
তৃতীয় বার বৈশম্পায়ন কথিত ভারত কাহিনিটিকে সৌতি ১৮টি খণ্ডে বিভক্ত করেন ও নৈমিষারণ্যে স্থিত শৌনক ও অন্যান্য মুনিদের গল্পের আকারে শোনান। সৌতির এই গল্পটিই 'মহাভারত' নামে সমগ্র বিশ্বে প্রচারিত হয়।[14]
১২০০-৬০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ[13]
পরে লিখন পদ্ধতির উন্নতি হলে সৌতি প্রচারিত এই প্রসিদ্ধ মহাভারতের কাহিনি পাণ্ডুলিপি বা পুঁথিতে ব্রাহ্মী কিংবা সংস্কৃতে লিখিত হয়। এর পরও নানা মুনি ও পণ্ডিতরা নিজস্ব শৈলীতে মহাভারতের মূল কাহিনির সাথে আরও অনেক সমসাময়িক কাহিনির সংযোজন করেন।
ঐতিহাসিক প্রমাণ
১০০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ
মহাভারতে গুপ্ত কিংবা মৌর্য সাম্রাজ্য (১০০০-৭০০ খ্রি.পূ.) অথবা জৈন বা বৌদ্ধ ধর্মের (৭০০-২০০ খ্রি.পূ.) কোনো উল্লেখ নেই। তাছাড়া শতপথ ব্রাহ্মণ[15] (১১০০ খ্রি.পূ.) ও ছান্দোগ্য উপনিষদে (১০০০ খ্রি.পূ.) মহাভারতের কিছু প্রসঙ্গ পাওয়া যায়। অর্থাৎ মহাভারত ১০০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দের অনেক আগেই লেখা হয়েছিল।[16]
৬০০-৪০০খ্রিষ্টপূর্বাব্দ
পাণিনি রচিত অষ্টাধ্যায়ীতে (৬০০-৪০০ খ্রি.পূ.) মহাভারতের কাহিনি ও কৃষ্ণার্জুনের কিছু প্রসঙ্গ রয়েছে। অতএব মহাভারত যে পাণিনির যুগের অনেক আগে থেকেই প্রচলিত ছিল, তা নিশ্চিতভাবে বলা যায়।[12][16]
১ম শতাব্দী
প্রথম শতাব্দীতে ইউনানের রাজদূত ডিও ক্রাইজ়োস্টমের (Dio Chrysostom) বর্ণনায় জানা যায়, তৎকালীন দক্ষিণ এশীয় লোকেদের কাছে এক লক্ষ শ্লোক যুক্ত একটি মহাগ্রন্থ ছিল, অর্থাৎ সেই সময়ও মহাভারতে এক লক্ষ শ্লোকই ছিল।[14]
সংস্কৃতের সর্বাপেক্ষা প্রাচীন একটি পাণ্ডুলিপিতে (১ম শতাব্দী) মহাভারতের ১৮টি পর্বের একটি অনুক্রমণিকা পাওয়া গিয়েছে, অর্থাৎ সেই কালে ১৮ পর্ব যুক্ত মহাভারতের কাহিনিই প্রচলিত ছিল, যদিও ব্যাসদেব ১০০টি পর্ব যুক্ত আদি মহাভারত রচনা করেন, যা পরে ১৮টি পর্বে বিবর্তিত হয়।
পুরাতাত্ত্বিক প্রমাণ
সরস্বতী নদী
মহাভারতে বৈদিক যুগের পশ্চিমবাহিনী সরস্বতী নদীর বর্ণনা বহু জায়গায় করা হয়েছে, যথা – সরস্বতী নদীর তীর বরাবর প্লক্ষ বৃক্ষ (প্লক্ষ প্রস্রবণ, যমুনোত্রীর নিকট) থেকে প্রভাস তীর্থ (কচ্ছের রণ অঞ্চল, গুজরাত) পর্যন্ত বলরামের তীর্থযাত্রার কথাও মহাভারতে রয়েছে।[17]
কিছু ভূবিজ্ঞানীরা মনে করেন যে, বর্তমানের শুষ্ক ঘগ্গর-হাকরা নদীই বাস্তবে বৈদিক যুগের সরস্বতী নদী, যেটি ৫০০০-৩০০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দে পশ্চিম ভারতে বইত এবং আনুমানিক ১৯০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দে ভূ-আলোড়ন জনিত কারণে শুকিয়ে যায়। বৈদিক যুগে লিখিত ঋগ্বেদে সরস্বতী নদীকে ‘নদীতমা’ উপাধিতে ভূষিত করা হয়েছে। অর্থাৎ ঋগ্বৈদিক সভ্যতায় সরস্বতী নদীই ছিল সর্বপ্রধান নদী, গঙ্গা নয়।
ভূ-আলোড়নে সরস্বতী নদীর মূল প্রবাহ যমুনার সাথে মিশে যায়, যেমন ‘ত্রিবেণী সংগম’কে গঙ্গা, যমুনা ও সরস্বতীর সঙ্গমস্থল বলা হয়।[18] পরবর্তী বৈদিক সাহিত্যে ও পুরাণে এও বলা হয়েছে, পরীক্ষিতের ২৮ প্রজন্মের রাজত্বের সময় গঙ্গার বিধ্বংসী বন্যায় হস্তিনাপুর নগরী ধ্বংসপ্রাপ্ত হয় এবং পরবর্তী রাজারা কৌশাম্বী নগরে রাজধানী স্থানান্তরিত করেন।
মহাভারতে বর্ণিত হয়েছে, সরস্বতী নদী বিনাশ্ন নামক তীর্থে শুকিয়ে যায়। এর কারণ হিসেবে বলা হয়েছে, ম্লেচ্ছদের সাথে বিদ্বেষের কারণে সরস্বতী নদী ম্লেচ্ছ প্রদেশে যাত্রা বন্ধ করে দেন।
দ্বারকা
ভারতীয় পুরাতত্ত্ব সর্বেক্ষণ বিভাগ গুজরাতের পশ্চিম উপকূলে সমুদ্রের গভীরে প্রায় ৩৫০০-৪০০০ বছর পুরাতন একটি ধ্বংসপ্রাপ্ত নগরী আবিষ্কার করেছে। এই নগরীকে মহাভারতে বর্ণিত যাদবদের দ্বারকা নগরী বলে অনুমান করা হয়েছে। প্রোফেসর এস. আর. রাও একে দ্বারকা বলেই চিহ্নিত করেছেন। যদিও এই ধারণার বিরুদ্ধে ইন্ধন জুগিয়েছে ঐ অঞ্চলের নিকটে প্রাপ্ত ৩৫০০ বছর পুরোনো অন্য একটি ডুবন্ত নগরী।
এই সমস্ত তথ্য ও মহাভারতের জ্যোতিষীয় তিথি, ভাষা বিশ্লেষণ ও বিদেশী সূত্রের প্রমাণ নিরীখে এই সিদ্ধান্তে উপনীত হওয়া যায় যে, মূল মহাভারতে রচনা ৩০০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দ অথবা ১৯০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দের মধ্যে হয়েছিল। যদিও আধুনিক সংস্করণ গুলি ৬০০-২০০ খ্রিষ্টপূর্বাব্দের মধ্যে তৈরি হয়েছিল।
ঐতিহাসিক প্রেক্ষাপট
মহাভারতের মূল বৃত্তান্ত হল চন্দ্রবংশীয় দুই পরিবার পাণ্ডব ও কৌরব তথা ধর্ম ও অধর্ম পক্ষের মধ্যে মহাসংঘর্ষ। পঞ্চপাণ্ডব ও শতকৌরবের মধ্যে ভূমির অধিকার সম্পর্কিত যে যুদ্ধ হয়, তা কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধ নামে পরিচিত। এই মহাযুদ্ধের সময়কাল সম্পর্কে বিভিন্ন ভারতীয় ও পশ্চিমী গবেষকদের মত বিভিন্ন। যথা –
বিশ্বখ্যাত ভারতীয় গণিতজ্ঞ ও মহাকাশবিদ বরাহমিহিরের সিদ্ধান্ত অনুযায়ী মহাভারতের যুদ্ধ ২৪৪৯ খ্রিস্টপূর্বাব্দে সংঘটিত হয়।[19]
বিশ্ববিখ্যাত ভারতীয় গণিতজ্ঞ আর্যভট্টের অনুসারে এই যুদ্ধের তিথি হল ১৮ই ফেব্রুয়ারী, ৩১০২ খ্রিস্টপূর্বাব্দ।[20]
চালুক্য রাজবংশের শ্রেষ্ঠ সম্রাট ২য় পুলকেশীর আইহোল প্রশস্তিতে উল্লিখিত হয়েছে, এই যুদ্ধের পর ৩৬৩৫ বর্ষ কেটে গেছে, সেই সাপেক্ষে এই যুদ্ধ ৩১০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দে সংঘটিত হয়।
পুরাণের বিভিন্ন রাজবংশের সাথে চন্দ্রগুপ্ত মৌর্যের তুলনা করলে সময়কালটি দাঁড়ায় ১৯০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দ, যদিও কিছু বিজ্ঞানীদের মতে যুদ্ধ হয়েছিল ৩১০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দে, কারণ ইউনানের রাজদূত মেগাস্থিনিসের লেখা ‘ইন্ডিকা’য় উল্লিখিত রাজা ‘চন্দ্রগুপ্ত’ গুপ্ত বংশের সম্রাট চন্দ্রগুপ্তও হতে পারে।
পাশ্চাত্যের বিজ্ঞানী মাইকেল ভিট্জাল বলেছেন কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধ ১২০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দে হতে পারে, কারণ তিনি এই যুদ্ধ ভারতের লৌহ যুগে (১২০০-৮০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দ) হওয়া যুদ্ধ বলে মনে করেন।
অধিকাংশ ভারতীয় বিজ্ঞানী যেমন বি. এন. আচার, এন. এস. রাজারাম, কে. সদানন্দ প্রমুখরা গ্রহ-নক্ষত্রের অবস্থান গণনার মাধ্যমে জানিয়েছেন, এই যুদ্ধ হয় ৩০৬৭ খ্রিস্টপূর্বাব্দে; আবার কিছু ইওরোপীয় বিজ্ঞানী বলেছেন, কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধ ১৩ই নভেম্বর, ৩১৪৩ খ্রিস্টপূর্বাব্দে হওয়ার সম্ভাবনা বেশি।
ভারতীয় বিজ্ঞানী পি. ভি. বারটক পূর্বের পরীক্ষার সাপেক্ষেই সিদ্ধান্ত নিয়েছেন, যুদ্ধ ১৬ই অক্টোবর, ৫৫৬১ খ্রিস্টপূর্বাব্দে শুরু হয়েছিল। তাঁর বক্তব্য, মেগাস্থিনিস তাঁর ইন্ডিকা গ্রন্থে ভারত ভ্রমণের সময় জামুনা (যমুনা) নদীর ধারে মেথোরা (মথুরা) নগরের শূরসেনীয়দের কাছ থেকে উপহারের কথা লিখেছেন, মেগাস্থিনিস আরও বলেন,শূরসেনীয়রা ‘হেরাকল্স’ নামে এক দেবতার আরাধনা করত, যেই দেবতা অতি মহান ও চন্দ্রগুপ্তের ১৩৮ প্রজন্ম আগে বাস করতেন। হেরাকল্সের পুত্ররা পরস্পরের সাথে বিবাদে মারা যায়। স্পষ্টতই, এই হেরাকল্স হলেন শ্রীকৃষ্ণ, যাকে 'হরিকৃষ্ণ' (অর্থাৎ হেরাকল্স) নামেও অভিহিত করা হয়। আর যে সময়কালের উল্লেখ করা হয়েছে, সেই সাপেক্ষে হিসেব করলে কৃষ্ণের জন্মসময় পাওয়া যায়; এই অনুসারে কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধ ৫৬০০-৩১০০ খ্রিস্টপূর্বাব্দে সংঘটিত হয়েছিল।
চরিত্রসমূহ
অভিমন্যু: অর্জুন ও সুভদ্রার বীর পুত্র, মহাযুদ্ধে চক্রব্যূহে নিহত হন। অভিমন্যু ও উত্তরার পুত্র হল পরীক্ষিৎ।
অর্জুন: দেবরাজ ইন্দ্রের বরজাত পাণ্ডু ও কুন্তীর তৃতীয় পুত্র, যিনি বিশ্বের শ্রেষ্ঠ ধনুর্ধর হিসেবে গণ্য হন।
অশ্বত্থামা: গুরু দ্রোণাচার্য ও কৃপীর অমর পুত্র ও দুর্যোধনের মিত্র।
কর্ণ: সূর্যদেবের বরজাত অবিবাহিতা কুন্তীর ধার্মিক দানবীর পুত্র, যিনি কবচ-কুণ্ডল নিয়ে জন্মেছিলেন।
কুন্তী: কুন্তীভোজের পালিতা কন্যা ও পাণ্ডুর স্ত্রী, এঁর তিন পুত্র – যুধিষ্ঠির, ভীম, অর্জুন।
গান্ধারী: গান্ধাররাজ সুবলের কন্যা ও ধৃতরাষ্ট্রের ধর্মপরায়ণ পত্নী।
দুঃশাসন: শতকৌরবের ২য় কৌরব, দ্যুতসভায় দৌপদীর বস্ত্রহরণ করেন।
দুর্যোধন: ধৃতরাষ্ট্র ও গান্ধারীর জ্যেষ্ঠ কৌরব পুত্র, গদাযুদ্ধে পারদর্শী ও অন্যতম খলচরিত্র।
দ্রোণাচার্য: কুরু রাজকুমারদের অস্ত্রশিক্ষক ব্রাহ্মণ গুরু, অশ্বত্থামার পিতা।
দ্রৌপদী: পাঞ্চালরাজ দ্রুপদের কন্যা ও পঞ্চপাণ্ডবের পত্নী, এঁর সম্মানরক্ষাহেতু মহাযুদ্ধ সংঘটিত হয়।
ধৃতরাষ্ট্র: বিচিত্রবীর্য ও অম্বিকার অন্ধ পুত্র, যার শতপুত্র কৌরব নামে পরিচিত।
নকুল: অশ্বিনীকুমারের বরজাত মাদ্রীর পুত্র ৪র্থ পাণ্ডব, অসিচালনায় পারদর্শী।
পাণ্ডু: বিচিত্রবীর্য ও অম্বালিকার পুত্র, যার পাঁচ পুত্র পাণ্ডব নামে পরিচিত।
বিদুর: অম্বিকার দাসীর ধর্মজ্ঞানী পুত্র, পাণ্ডব ও কৌরবদের সম্পর্কে কাকা হন।
ব্যাসদেব: মহাভারতের রচয়িতা মহান ঋষি, যদিও কাহিনিতেও এঁর ভূমিকা গুরুত্বপূর্ণ, ধৃতরাষ্ট্র ও পাণ্ডু এঁরই ঔরসজাত।
ভীম: পবনদেবের বরজাত দ্বিতীয় পাণ্ডব, মহাশক্তিধর গদাধারী, মহাযুদ্ধে দুর্যোধনকে হত্যা করেন।
ভীষ্ম: মহারাজ শান্তনু ও গঙ্গাদেবীর বীর পুত্র, পিতৃসত্য পালনের জন্য ব্রহ্মচর্য গ্রহণ করেন।
যুধিষ্ঠির: ধর্মের বরজাত জ্যেষ্ঠ পাণ্ডব, ধার্মিকতা ও সত্যবাদিতার জন্য খ্যাত।
শকুনি: গান্ধাররাজ সুবলের পু্ত্র কপট দ্যুতক্রীড়ায় পারদর্শী অন্যতম খলচরিত্র, কৌরবদের পরামর্শদানকারী মামা।
শল্য: পাণ্ডুর স্ত্রী মাদ্রীর ভ্রাতা ও পাণ্ডবদের মামা, দুর্যোধনের ছলনায় যুদ্ধে কৌরবপক্ষ গ্রহণে বাধ্য হন।
শ্রীকৃষ্ণ: বসুদেব ও দেবকীর অষ্টম পুত্র, ভগবান বিষ্ণুর অষ্টম অবতার, জগতে ধর্মরক্ষাহেতু আবির্ভূত হন।
সত্যবতী: শান্তনুর ২য় পত্নী, মৎস্যগন্ধা নামে পরিচিত, পুত্রের নাম – চিত্রাঙ্গদ ও বিচিত্রবীর্য।
সহদেব: অশ্বিনীকুমারের বরজাত মাদ্রীর পুত্র শেষ পাণ্ডব, জ্যোতিষবিদ্যায় পারদর্শী।
এছাড়াও মহাভারতে কৃপাচার্য, ঘটোৎকচ, দ্রুপদ, বলরাম, বিরাট, শান্তনু এবং অসংখ্য প্রধান-অপ্রধান চরিত্র রয়েছে।
কুরু পরিবারের বংশতালিকা
কুরু রাজবংশগঙ্গাশান্তনুসত্যবতীপরাশরভীষ্মচিত্রাঙ্গদঅম্বিকাবিচিত্রবীর্যঅম্বালিকাবেদব্যাসধৃতরাষ্ট্রগান্ধারীশকুনিকুন্তীপাণ্ডুমাদ্রীকর্ণযুধিষ্ঠিরভীমঅর্জুনসুভদ্রানকুলসহদেবদুর্যোধনদুঃশলাদুঃশাসন(৯৮ জন পুত্র)অভিমন্যুউত্তরাপরীক্ষিৎজন্মেজয়
প্রতীক নির্দেশিকা
পুরুষ: নীল সীমানা
মহিলা: লাল সীমানা
পাণ্ডব: সবুজ বাক্স
কৌরব: হলুদ বাক্স
সংক্ষিপ্ত কাহিনি
মহাভারতের কাহিনি এতটাই বৃহৎ, ঘটনাবহুল ও প্রাসঙ্গিক কাহিনিসমূহ দ্বারা পূর্ণ যে, সম্পূর্ণ ঘটনাটিকে সংক্ষেপে বিবৃত করা অত্যন্ত জটিল। নীচে মহাভারতের একটি প্রাথমিক রূপরেখা দেওয়া হল।
পূর্বকথা
কুরুবংশীয় রাজা জনমেজয়ের পূর্বপুরুষ কুরুরাজ্যের রাজধানী হস্তিনাপুরের মহারাজ শান্তনুর সময় থেকে মহাভারতের মূল কাহিনী শুরু হয়। শান্তনু গঙ্গাদেবীকে বিবাহ করেন ও পরপর সাত সন্তানের মৃত্যুর পর তাঁদের অষ্টম সন্তান দেবব্রত জন্মালে গঙ্গা অন্তর্হিত হন। দেবব্রত বিদ্যা ও বলে নিপুণ ছিলেন, অতঃপর শান্তনু এঁকে যুবরাজ পদে নিয়োগ করেন। একদা, শান্তনু মৃগয়াহেতু বনে গেলে নদীর ধারে সত্যবতী (মৎস্যগন্ধা) নামে এক পরমা সুন্দরী ধীবর কন্যার সন্ধান পান। শান্তনু তাঁর কাছে বিবাহের প্রস্তাব রাখেন। কিন্তু সত্যবতীর পিতা জানান, রাজার সাথে সত্যবতীর বিবাহ হলে সত্যবতীর পুত্রেরাই রাজ্যশাসন করবে, দেবব্রত নয়। শান্তনুর এই বিপাকের সমাধান করতে বিশ্বস্ত পুত্র দেবব্রত প্রতিজ্ঞা করেন যে, তিনি কদাপি সিংহাসনে বসবেন না। আবার তাঁর পুত্র হলে তারা সিংহাসন নিয়ে দ্বন্দ্ব করবে, এই আশঙ্কায় তিনি বিবাহ না করবারও সিদ্ধান্ত নেন। দেবব্রতর এই ভীষণ প্রতিজ্ঞার জন্য তিনি ‘ভীষ্ম’ নামে খ্যাত হন ও ইচ্ছামৃত্যুর বর লাভ করেন।
সত্যবতীর দুটি সন্তান জন্মায় – চিত্রাঙ্গদ ও বিচিত্রবীর্য। শান্তনুর মৃত্যুর পর চিত্রাঙ্গদ রাজপদে বসলেও অহংকার তাঁর শীঘ্রপতন ডেকে আনে। দুর্বল বালক বিচিত্রবীর্যকে সিংহাসনে বসানো হয়। এই সময় কাশীরাজ তাঁর তিন কন্যা – অম্বা, অম্বিকা ও অম্বালিকার স্বয়ম্বরের আয়োজন করলে, ভীষ্ম ঐ তিন কন্যাকে হরণ করেন এবং অম্বিকা ও অম্বালিকার সাথে বিচিত্রবীর্যের বিবাহ হয়।
কিন্তু, অম্বা জানায় যে সে রাজা শাল্বকে বিবাহ করতে চায়। ভীষ্ম তাকে শাল্বের কাছে ফিরিয়ে দিতে গেলে শাল্ব এক অপহৃতা নারীকে বিবাহ করতে অস্বীকার করে। তখন অম্বা ভীষ্মের পাণিগ্রহণ করতে চাইলে ভীষ্ম জানান, তিনিও অপারগ। এ শুনে অম্বা রাগে, হতাশায় ও অপমানে ভীষ্মকে তার পরম শত্রু বলে গণ্য করে ও প্রতিজ্ঞা করে যে পরজন্মে সে ভীষ্মের ওপর এই অপমানের চরম প্রতিশোধ নেবে। এই হেতু সে পরজন্মে পাঞ্চালরাজ দ্রুপদের কন্যা শিখণ্ডী রূপে জন্ম নেয় ও কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধে পরোক্ষভাবে ভীষ্মের পতনের কারণ হয়ে দাঁড়ায়।
পাণ্ডব ও কৌরবদের জন্ম
বিচিত্রবীর্য অপুত্রক অবস্থাতেই যক্ষ্মা রোগে আক্রান্ত হয়ে মারা যান। রাজ্যের ভবিষ্যৎ নিয়ে চিন্তিত সত্যবতী ব্যাসদেবকে অনুরোধ করেন দুই বিধবা রানিকে পুত্রলাভের বর দেওয়ার জন্য। কিন্তু ব্যাসদেব একে একে দুই রানির সামনে উপস্থিত হলে ব্যাসের ভয়ংকর রূপ দেখে অম্বিকা নিজের চোখ বন্ধ করে ফেলে ও অম্বালিকার শরীর পাণ্ডুবর্ণ ধারণ করে। রানিদের এই অক্ষমতার জন্য অম্বিকার পুত্র ধৃতরাষ্ট্র জন্মান্ধ হয় ও অম্বালিকার পুত্র পাণ্ডুর দেহ ধূসরবর্ণের হয়। বংশধরদের এই শারীরিক অক্ষমতা দেখে সত্যবতী ব্যাসদেবকে আবার ডেকে পাঠান বরদানের জন্য। কিন্তু এবার রানিরা নিজে না গিয়ে তাদের এক দাসীকে পাঠায় ও সেই দাসীর পুত্র বিদুর অতি ধার্মিক চরিত্র নিয়ে জন্মান, পরে এঁকেই কুরুরাজ্যের মহামন্ত্রী পদে অধিষ্ঠিত করা হয়।
তিন পুত্র প্রাপ্তবয়স্ক হলে ভীষ্ম জ্যেষ্ঠ পুত্র ধৃতরাষ্ট্রকে রাজা করতে চান, কিন্তু বিদুর উপদেশ দেন যে অন্ধ পুত্রকে রাজা বানানো মূর্খামি হবে। তাই, রাজমুকুট পাণ্ডুর মস্তকে স্থান পায়। এরপর ধৃতরাষ্ট্রের বিবাহ হয় গান্ধারী এবং পাণ্ডুর বিবাহ হয় কুন্তী ও মাদ্রীর সঙ্গে। স্বামীর অন্ধত্বের জন্য মহীয়সী নারী গান্ধারী নিজের চোখ দুটিকেও আমরণ ঢেকে রেখেছিলেন। কিন্তু গান্ধারীর এই দশা দেখে তাঁর ভ্রাতা শকুনি ক্রুদ্ধ হন ও কুরুরাজবংশের ওপর প্রতিশোধ নেবার পণ করেন। রাজা হবার পর পাণ্ডু স্ত্রীদের সাথে অরণ্য ভ্রমণে যান ও দুটি হরিণ দেখে তাদের তীরবিদ্ধ করেন। দুর্ভাগ্যবশত, ঐ দুই হরিণ বাস্তবে ছিল এক ঋষি ও তাঁর স্ত্রী। ক্রুদ্ধ ঋষি মৃত্যুর পূর্বে পাণ্ডুকে অভিশাপ দেন, কোনো স্ত্রীর সাথে বৈবাহিক সম্পর্কে লিপ্ত হলে পাণ্ডুর মৃত্যু হবে। অনুতপ্ত পাণ্ডু রাজ্য ত্যাগ করে স্ত্রীসহিত বনবাসী হন। ধৃতরাষ্ট্রকে রাজপদে অধিষ্ঠিত করা হয়।
কুন্তী বাল্যকালে ঋষি দুর্বাসার কাছ থেকে এক মন্ত্র লাভ করেন, যার মাধ্যমে যে কোনো ভগবানকে আহ্বান করা যায় ও বর চাওয়া যায়। কুন্তী কৌতূহলবশত সূর্যদেবকে আহ্বান করেন, সূর্যদেব তাঁকে এক পুত্রের বর দেন। কিন্তু লোকলজ্জার ভয়ে সবার অজান্তে কুন্তী ঐ শিশুপুত্রকে নদীতে ভাসিয়ে দেন, যে পরে অধিরথ সারথির কাছে পালিত হয় ও তার নাম হয় কর্ণ। ঐ মন্ত্রের দ্বারা কুন্তী ধর্মদেবের বরে যুধিষ্ঠির, পবনের বরে ভীম, ইন্দ্রের বরে অর্জুন নামে তিন গুণবান পুত্রের জন্ম দেন। মাদ্রী এই মন্ত্রের পাঠ করে অশ্বিনীকুমারদ্বয়ের বরে নকুল ও সহদেব নামে দুই পুত্র লাভ করেন। এই পাঁচ পুত্রই অত্যন্ত গুণবান ও সৎ ছিলেন, পরবর্তীতে এরা ‘পাণ্ডব’ নামে পরিচিত হন। কিন্তু একদিন কামোদ্যত পাণ্ডু মাদ্রীকে আলিঙ্গন করতে গিয়ে মারা যান। দুঃখে মাদ্রী পাণ্ডুর চিতায় সহমরণ গ্রহণ করেন। শিশুপুত্রদের ভার পড়ে কুন্তীর ওপর।
এদিকে যুধিষ্ঠির ও ভীমের জন্মের পর একশোটি ঘৃতপূর্ণ কলশ থেকে ধৃতরাষ্ট্র ও গান্ধারীর ১০০ সন্তান জন্মায়। এদের মধ্যে জ্যেষ্ঠ হল দুর্যোধন ও এরপর দুঃশাসন, বিকর্ণ প্রভৃতি, এছাড়া ধৃতরাষ্ট্রর দুঃশলা নামে এক কন্যাও হয়। ধৃতরাষ্ট্রের পুত্ররা ‘কৌরব’ নামে পরিচিত হয়, বিকর্ণ ব্যতীত এই কৌরবরা তেমন সচ্চরিত্রবান ও ধার্মিক ছিল না।
জতুগৃহদাহ
পাণ্ডু ও মাদ্রীর মৃত্যুর পর কুন্তী তাঁর পাঁচ সন্তানকে নিয়ে হস্তিনাপুরে ফিরে আসেন। পাণ্ডব ও কৌরবরা দ্রোণাচার্যের কাছে তাদের বাল্যশিক্ষা সম্পন্ন করে। গুরু দ্রোণ শিষ্যদের কাছে দক্ষিণা হিসেবে তাঁর প্রতারক বন্ধু পাঞ্চালরাজ দ্রুপদকে পরাজিত করতে বলেন। রাজকুমারদের সাথে যুদ্ধে দ্রুপদ পরাজিত হলে দ্রোণকে শায়েস্তা করার পরিকল্পনা করতে থাকেন। এসময় কর্ণ কৌরবদের পরম মিত্রে পরিণত হয়। এদিকে সর্বজ্যেষ্ঠ যুধিষ্ঠির যুবরাজ পদে অভিষিক্ত হলে কৌরবরা ঈর্ষান্বিত হয়, এমনকি ‘পুত্রস্নেহে অন্ধ’ ধৃতরাষ্ট্রও দুর্যোধনকে রাজা হিসেবে দেখতে চান।
অতঃপর কৌরবরা ও তাদের মাতুল শকুনি পাণ্ডবদের গোপনে হত্যা করার ষড়যন্ত্র করে। শকুনির নির্দেশে স্থপতি পুরোচন বারণাবত নামক স্থানে বিভিন্ন দাহ্য পদার্থ দিয়ে ‘জতুগৃহ’ নামে এক সুশোভন প্রাসাদ নির্মাণ করে ও সেখানে পাণ্ডব ও কুন্তীকে ছুটি কাটাবার পরামর্শ দেয়। বিদুর শকুনির ষড়যন্ত্র বুঝতে পেরে পাণ্ডবদের সাবধান করে ও জতুগৃহে আগুন লাগলে তাঁরা এক সুড়ঙ্গপথে পালিয়ে আসেন ও সকলে মনে করে তাঁদের মৃত্যু হয়েছে।
দ্রৌপদীর বিবাহ
এই সময় দ্রুপদ যজ্ঞ করে ধৃষ্টদ্যুম্ন ও দ্রৌপদী নামে দুই পুত্র-কন্যা লাভ করেন। পাণ্ডবরা ব্রাহ্মণের ছদ্মবেশে ঘুরে বেড়াবার সময় দ্রৌপদীর স্বয়ংবর সভা আয়োজিত হয়। ঘোষিত হয়, উঁচুতে ঝুলন্ত মাছের চোখটির প্রতিবিম্ব নিচে জলে দেখে ঘূর্ণায়মান চক্রের মধ্য দিয়ে যে রাজকুমার চোখটিকে শরবিদ্ধ করতে পারবে, সে দ্রৌপদীকে পত্নী হিসেবে লাভ করবে। অধিকাংশরাই এতে অসমর্থ হয় ও কর্ণ সাফল্যের সীমায় এলেও সূতপুত্র হিসেবে পরিচিত হওয়ায় দ্রৌপদী তাঁকে গ্রহণ করেন না। ব্রাহ্মণবেশী অর্জুন এই পরীক্ষায় সমর্থ হয় ও দ্রৌপদীকে লাভ করেন। কিন্তু দ্রৌপদীকে নিয়ে পাণ্ডবরা কুন্তীর কাছে ফিরে এলে পাণ্ডবরা জানায় অর্জুন ভিক্ষায় এক দারুণ জিনিস পেয়েছেন। কুন্তী না দেখেই মন্তব্য করেন, “যা পেয়েছ, পাঁচ ভাই মিলে ভাগ করে নাও।” ধর্মসংকটে পড়েন পাণ্ডবেরা। অতঃপর দ্রৌপদীকে পঞ্চপাণ্ডবেরই স্ত্রী হিসেবে পরিচিত হতে হয়।
ইন্দ্রপ্রস্থ নির্মাণ
এরপর পাণ্ডবরা হস্তিনাপুরে ফিরে আসেন। পাণ্ডবদের সাথে কলহ করা উচিত হবে না ভেবে ধৃতরাষ্ট্র কুরুরাজ্যের এক অংশ তাঁদেরকে দিয়ে দেন, যেখানে পাণ্ডবরা ‘খাণ্ডবপ্রস্থ’ নামের তাঁদের নিজস্ব রাজ্য স্থাপন করেন। ময়দানব সেখানে ‘ইন্দ্রপ্রস্থ’ নামে এক অতি সুন্দর রাজধানী নগর তৈরী করে দেয়। যুধিষ্ঠির রাজপদে অধিষ্ঠিত হন,যদিও এর মাধ্যমে পাণ্ডব বা কৌরব কেউই সুখী হতে পারেনি।
এই সময় অর্জুন দ্বারকাধিপতি শ্রীকৃষ্ণের ভগিনী সুভদ্রাকে বিবাহ করেন। নিজের রাজ্যের উন্নতিসাধন করতে যুধিষ্ঠির কৃষ্ণের উপদেশ চান। কৃষ্ণ তাঁকে রাজসূয় যজ্ঞ করে আর্যাবর্তের চক্রবর্তী সম্রাট পদে আরোহণ করার পরামর্শ দেন। যুধিষ্ঠিরের এই পদোন্নতিসাধনের জন্য চার ভাই মিলে দিগ্বিজয়ে পাড়ি দেন ও আর্যাবর্তের সকল রাজাকে হারিয়ে কর আদায় করেন।
রাজসূয় যজ্ঞকালে আমন্ত্রিত চেদীরাজ শিশুপাল ভয়ানকভাবে কৃষ্ণকে অপমান করেন ও কৃষ্ণ পাপী শিশুপালের মস্তকচ্ছেদ করেন। ইন্দ্রপ্রস্থের অপরূপ শোভা দেখে দুর্যোধন ঈর্ষান্বিত হন। মায়াবী রাজপুরীর স্বচ্ছ স্ফটিককে তিনি জল ভেবে ভুল করেন ও পাশ কাটিয়ে যান। আবার সরোবরের জলকে স্ফটিক মনে করে তার ওপর দিয়ে হাঁটতে গিয়ে জলে ভিজে যান। দুর্যোধনের এই হাস্যকর অবস্থা দেখে দ্রৌপদী মন্তব্য করেন, “অন্ধের (ধৃতরাষ্ট্র) পুত্র কি অন্ধই হয়?”। এতে দুর্যোধন অত্যন্ত অপমানিত বোধ করেন ও দ্রৌপদীর ওপর প্রতিশোধ নেবেন ঠিক করেন।
দ্যূতক্রীড়া ও বস্ত্রহরণ
পাণ্ডবদের ওপর প্রতিশোধ নেবার জন্য এবার শকুনি যুধিষ্ঠিরের সঙ্গে কপট পাশা খেলার আয়োজন করেন। শকুনির ছলনায় যুধিষ্ঠির তাঁর রাজ্য, সম্পত্তি সমস্ত হারান। শেষে নিঃস্ব হয়ে ভাইদেরকে, এমনকি নিজেকেও বাজি রাখেন এবং সবাই দাসে পরিণত হন। এবার খেলার নেশায় ধর্মজ্ঞান হারিয়ে তিনি স্ত্রী দ্রৌপদীকে বাজি রাখেন ও হেরে তিনিও দাসী হন। দুর্যোধনের নির্দেশে দুঃশাসন অন্তঃপুর থেকে দ্রৌপদীকে কেশাকর্ষণ করে সভায় টেনে আনেন, অথচ সভায় উপস্থিত ধার্মিক ভীষ্ম, দ্রোণ, অঙ্গরাজ কর্ণ, বিদুর,পাণ্ডবরা ধর্মসংকটে পড়ে অবিচারের বিরুদ্ধে কোনো প্রতিবাদ করতে পারেন না। বিকর্ণ এর প্রতিবাদ করেন। এবার দুঃশাসন দ্রৌপদীকে সর্বসমক্ষে বস্ত্রহীন করতে গেলে অসহায় দ্রৌপদী ভগবান কৃষ্ণকে স্মরণ করেন। কৃষ্ণ মায়ার প্রভাবে দ্রৌপদীর গায়ে কাপড় জড়িয়ে তাঁর সম্মানরক্ষা করেন।
তখন ধৃতরাষ্ট্র ভয়ভীত হয়ে পাণ্ডবদের সকল সম্পত্তি ফিরিয়ে দেন। স্বাভাবিকভাবেই, দুর্যোধন অসন্তুষ্ট হয় ও পুনর্বার পাশা আয়োজিত হয়। এবার পাণ্ডবরা হেরে গেলে তাঁদের জন্য ১২ বছরের বনবাস ও ১ বছরের অজ্ঞাতবাস নির্ধারিত হয়। স্থির হয়, এই সময়কালে কৌরবরা পাণ্ডবদের সমস্ত সম্পত্তি ভোগ করবে। অজ্ঞাতবাসের সময় পাণ্ডবদের নিজেদের পরিচয় গোপন রাখতে হবে, কিন্তু কৌরবদের দ্বারা সেই পরিচয় আবিষ্কৃত হলে পাণ্ডবদের আবার ১২ বছর বনবাস ভোগ করতে হবে।
বনবাস ও অজ্ঞাতবাস
এরপর পাণ্ডবরা ১২ বছর বিভিন্ন বনে ভ্রমণ করতে থাকেন। এই সময় তাঁদের নানা বিপদের সম্মুখীন হতে হয়, তবে সমস্ত বিপদকে জয় করে পাণ্ডবরা তাঁদের বনবাসকাল সম্পূর্ণ করেন।
অজ্ঞাতবাসের সময় পাণ্ডবেরা ছদ্মবেশে মৎস্যদেশে বিরাট রাজার রাজ্যে আশ্রয় গ্রহণ করেন। যুধিষ্ঠির কঙ্ক (রাজার সভাসদ), ভীম বল্লভ (রন্ধনশালার পাচক), অর্জুন বৃহন্নলা (রাজকুমারীদের সঙ্গীত শিক্ষক), নকুল গ্রন্থিক (অশ্বশালা রক্ষক), সহদেব তন্ত্রিপাল (গাভীশালা রক্ষক) ও দ্রৌপদী সৈরিন্ধ্রী (রানির দাসী) নাম গ্রহণ করে ছদ্মবেশে বসবাস করতে থাকেন। এই সময় বিরাটের শ্যালক কীচক দ্রৌপদীকে অপমান করেন ও ভীম তাঁকে হত্যা করেন। কৌরবরা পাণ্ডবদের অবস্থান আঁচ করতে পেরে মৎস্যরাজ্যে আসেন ও যুদ্ধ ঘোষণা করেন। কিন্তু তাঁরা পাণ্ডবদের ঠিক সেই সময় শনাক্ত করেন, যখন অজ্ঞাতবাসের সময় পূর্ণ হয়ে গিয়েছে। এরপর বিরাট তাঁর কন্যা উত্তরার সাথে অর্জুন-সুভদ্রার পুত্র অভিমন্যুর বিবাহ দেন।
এবার পাণ্ডবেরা তাঁদের হারানো অধিকার ফিরে পেতে চাইলে কৌরবরা তা প্রত্যার্পণ করতে সম্পূর্ণ অস্বীকার করেন। ফলে পাণ্ডব ও কৌরবের মধ্যে সংঘর্ষ অনিবার্য হয়ে ওঠে।
কুরুক্ষেত্রের যুদ্ধ
কুরুরাষ্ট্রে সামন্তপঞ্চকে কুরুক্ষেত্র নামে এক পুণ্যক্ষেত্রে মহাযুদ্ধের প্রস্তুতি পর্ব শুরু হয়। পাণ্ডব ও কৌরবদের উদ্যোগে সমস্ত আর্যাবর্তের রাজ্যসমূহ দু’ভাগে বিভক্ত হয়ে যুদ্ধে অংশগ্রহণ করে। কৃষ্ণ তথা দ্বারকার সাহায্য প্রার্থনায় অর্জুন ও দুর্যোধন উভয়েই একই সময়ে দ্বারকায় যান। কিন্তু কৃষ্ণের ভ্রাতা বলরাম যুদ্ধে অংশ না নিয়ে তীর্থযাত্রার সিদ্ধান্ত নেন। আর কৃষ্ণ উভয় দলের আবেদন রক্ষাহেতু অস্ত্রধারণ না করার প্রতিজ্ঞা করে পাণ্ডবদের পরামর্শদাতা রূপে নিজে পাণ্ডবপক্ষে যোগ দেন এবং কৌরবপক্ষে দ্বারকার দুর্জয় নারায়ণী সেনা দান করেন। আপাতদৃষ্টিতে এতে কৌরবপক্ষই লাভবান হলেও স্বয়ং ধর্মরক্ষক ভগবান বিষ্ণুর অবতার কৃষ্ণ নিজে পাণ্ডবপক্ষে থাকায় তারাই লাভবান হয়।
এদিকে কৃষ্ণ যুদ্ধ না করলেও যুদ্ধে অর্জুনের রথের সারথির ভূমিকা গ্রহণ করেন। তিনি পাণ্ডবদের শান্তিদূত রূপে কৌরবদের কাছে পাণ্ডবদের জন্য পাঁচটি গ্রাম ভিক্ষা করেন। কিন্তু দুর্যোধন কঠোরভাবে ঐ প্রস্তাব অস্বীকার করে বলেন, “বিনা যুদ্ধে নাহি দেব সূচ্যগ্র মেদিনী”।
অতঃপর যুদ্ধ শুরু হয়। কিন্তু যুদ্ধের প্রাক্কালে নিজের আত্মীয়-স্বজনদের সাথেই সংঘর্ষে লিপ্ত হতে হবে দেখে মহাবীর অর্জুন জাগতিক মোহের বশে পড়ে যুদ্ধ হতে বিরত হবার সিদ্ধান্ত নিয়ে অস্ত্রত্যাগ করেন। এমতাবস্থায় পরমেশ্বর শ্রীকৃষ্ণ তাঁর প্রিয়সখা অর্জুনকে পুনরুজ্জীবিত করবার জন্য কিছু মহান উপদেশ প্রদান করেন ও অর্জুন পুনরায় অস্ত্রধারণ করেন। ভগবান শ্রীকৃষ্ণের এই উপদেশগুলিই হিন্দুদের প্রধান ধর্মগ্রন্থ ‘ভগবদ্গীতা’ হিসেবে গণ্য হয়। শ্রীকৃষ্ণ জানান, মহাযুদ্ধে অধর্মের বিনাশহেতু ভগবান নিজেই রয়েছেন, অর্জুন তার উপলক্ষ মাত্র। এরপর তিনি অর্জুনকে তাঁর দিব্য ‘বিশ্বরূপ’ প্রদর্শন করান।
প্রথমে যুদ্ধ পাণ্ডব ও কৌরবপক্ষে যথাক্রমে ধৃষ্টদ্যুম্ন ও ভীষ্মকে সেনাপতি পদে বরণ করা হয়। উভয়পক্ষই এইসময় যুদ্ধে জয়লাভ করার জন্য নীতিভঙ্গ করতে থাকে –
ভীষ্ম প্রবল পরাক্রান্ত হয়ে উঠলে স্বয়ং কৃষ্ণ তাকে প্রতিরোধ করতে গিয়ে 'যুদ্ধে যোগদান না করার' প্রতিজ্ঞা ভঙ্গ করেন। যুদ্ধের ১০ম দিনে অর্জুন শিখণ্ডীকে (পূর্বজন্মে অম্বা) সাথে রেখে নিরস্ত্র ভীষ্মের ওপর ক্রমাগত বাণবর্ষণ করতে থাকেন ও এই বাণ দ্বারা ভীষ্ম শরশয্যায় শায়িত হয় ও তার পতন ঘটে। কৌরব পক্ষের সেনাপতি হন অস্ত্রগুরু দ্রোন। অর্জুনের পুত্র অভিমন্যু কৌরবদের চক্রব্যুহে প্রবেশ করলেও বের হবার উপায় না জানায় একা ‘সপ্তরথী’র সাথে যুদ্ধ করে নিহত হয়। এরপর কৃষ্ণের মন্ত্রণায় ভীম অশ্বত্থামা নামে একটি হাতিকে মারে ও সত্যবাদী যুধিষ্ঠির দ্রোণকে তাঁর পুত্রের মৃত্যুর মিথ্যা সংবাদ জানায় (“অশ্বত্থামা হত, ইতি গজ।”)। শোকে দ্রোণ অস্ত্রত্যাগ করলে দ্রৌপদীর ভ্রাতা ধৃষ্টদ্যুম্ন তাঁকে বধ করেন। ভীম দুঃশাসনের বুক চিরে রক্তপান করেন। সেনাপতি কর্ণ সারথি হিসেবে পান মহাবীর শল্যকে। কর্ণ ও অর্জুনের প্রবল দ্বৈরথ হয়। কর্ণ-অর্জুনের যুদ্ধে কর্ণের রথের চাকা মাটিতে বসে যায় ও কর্ণ চাকা তুলতে গেলেঅর্জুন তাঁকে বধ করেন। যুধিষ্ঠির শল্যকে ও সহদেব শকুনিকে বধ করেন। একে একে সবার মৃত্যু হয়। শেষে ভীম কৃষ্ণের ইঙ্গিতে অন্যায়ভাবে গদা দ্বারা দুর্যোধনের ঊরুভঙ্গ করে তাঁকে বধ করেন। কিন্তু গভীর রাতে অশ্বত্থামা পাণ্ডব শিবিরে প্রবেশ করে দ্রৌপদীর পঞ্চপুত্র, ধৃষ্টদ্যুম্ন প্রভৃতিদের হত্যা করেন। ক্রুদ্ধ পাণ্ডবেরা অশ্বত্থামার মস্তকের মণি হরণ করেন ও জরাগ্রস্ত অমর অশ্বত্থামা নিরুদ্দিষ্ট হন।
এই রূপে ১৮ দিনের মহাযুদ্ধে পাণ্ডবেরা জয়ী ঘোষিত হন।
যদুবংশ ধ্বংস ও মহাপ্রস্থান
এরপর যুদ্ধে মৃতদের সৎকারের সময় আসে। শতপুত্র হারানোর শোকে গান্ধারী কৃষ্ণকে এই মহাধ্বংসের জন্য দায়ী করেন ও কৃষ্ণকে অভিশাপ দেন যে, কুরুবংশের মতই কৃষ্ণের যদুবংশও ধ্বংসপ্রাপ্ত হবে। অবশেষে যুধিষ্ঠিরকে রাজপদে অভিষিক্ত করা হয়। শরশয্যায় শায়িত ভীষ্মও এরপর স্বর্গে গমন করেন। যুধিষ্ঠির যুদ্ধজনিত পাপখণ্ডন করার জন্য অশ্বমেধ যজ্ঞের আয়োজন করেন। তাঁর রাজত্বে সুখ, শান্তি, শক্তি, সমৃদ্ধি সবই ছিল। এরপর ধৃতরাষ্ট্র, গান্ধারী, কুন্তী ও বিদুর বানপ্রস্থ গ্রহণ করে অরণ্যচারী হন ও পরে তাঁদের মৃত্যু ঘটে।
কিন্তু ৩৬ বছর পর গান্ধারীর অভিশাপের ফলস্বরূপ কৃষ্ণের যদুবংশের সদস্যরা প্রভাস তীর্থে মদ্যপ অবস্থায় পরস্পরের সাথে অন্তর্দ্বন্দ্বে লিপ্ত হয়ে মুষল যুদ্ধে প্রাণ হারান। বলরাম শেষনাগ রূপে দেহত্যাগ করেন এবং সামান্য এক ব্যাধের নিক্ষিপ্ত শরে কৃষ্ণ নির্বাণপ্রাপ্ত হন। এমনকি দ্বারকা নগরীও সমুদ্রে নিমজ্জিত হয়।
এসমস্ত অশুভ লক্ষণ প্রত্যক্ষ করে পাণ্ডবেরা রাজ্যত্যাগের সিদ্ধান্ত নেন ও অভিমন্যুর পুত্র পরীক্ষিৎকে সিংহাসনে বসিয়ে পঞ্চপাণ্ডব ও দ্রৌপদী হিমালয়ের পথে গমন করেন। কুকুররূপী ধর্ম তাদের পেছনে এই যাত্রায় সংগী হন। এটি ‘মহাপ্রস্থান’ নামে পরিচিত। কিন্তু নিজেদের জীবনের কিছু ত্রুটি থাকার দরুন যুধিষ্ঠির বাদে কেউই স্বশরীরে স্বর্গে যেতে পারেন না, পথেই তাঁদের মৃত্যু হয়। তবে দ্রোণকে মিথ্যা বলবার জন্য যুধিষ্ঠিরকেও একবার নরক দর্শন করতে হয়। এইভাবে তাঁরা সুখে-শান্তিতে স্বর্গসুখ ভোগ করতে থাকেন।
বিভিন্ন সংস্করণ ও অনুবাদ
সটীক সংস্করণ
সময়ের সাথে সাথে মহাভারতের কাহিনী বিভিন্নভাবে পরিবর্তিত হয়। ফলে মূল কাহিনীটিকে উপলব্ধি করা দুরূহ হয়ে পড়ে। এই সমস্যার সমাধান করতে পুণেতে অবস্থিত ভাণ্ডারেকর প্রাচ্য গবেষণা সংস্থা (১৯১৯-১৯৬৬ সালে) সমগ্র দক্ষিণ এশিয়ায় প্রাপ্ত মহাভারতের প্রায় সমস্ত পাণ্ডুলিপির (প্রায় ১০,০০০) অনুসন্ধান ও সংগ্রহ করে সেই লিপিতে পাওয়া একই প্রকার ৩৫,০০০ শ্লোক নিয়ে মহাভারত গ্রন্থের একটি সটীক ও সমীক্ষাত্মক সংস্করণ প্রকাশ করলেন, ১৮ খণ্ড যুক্ত ১৩০০০ পৃষ্ঠার এই পুস্তকটি সমগ্র পৃথিবীর মানুষের কাছে সমাদৃত হল।
অনুবাদ
বঙ্গানুবাদ
বাংলা ভাষায় মহাভারত সর্বপ্রথম কে অনুবাদ করেন, তা বলা জটিল। তবে, বাংলাতে সর্বাধিক জনপ্রিয় ও সুপ্রচলিত যে অনুবাদটি রয়েছে, তা সপ্তদশ শতকে ‘কাশীরাম দাস’ নামক এক কবি ‘পয়ার কাব্য ছন্দে’ রচনা করেছিলেন বলে জানা যায়।
১৬শ শতকের শেষার্ধে কাশীরাম দাস বর্তমান বর্ধমান জেলার কাটোয়া মহকুমার অধীনে ইন্দ্রাণী পরগনার অন্তর্গত সিঙ্গী গ্রামে জন্মগ্রহণ করেন।[21] তাঁর পিতার নাম ছিল কমলাকান্ত। কাব্য রচনায় তাঁর পরিবারের সুনাম ছিল। তাঁর জ্যেষ্ঠভ্রাতা কৃষ্ণদাস ‘শ্রীকৃষ্ণবিলাস’ কাব্য রচনা করেন ও কনিষ্ঠ ভ্রাতা গদাধর ‘জগন্নাথমঙ্গল’ কাব্য রচনা করেন। কাশীরাম ছিলেন দেব-উপাধিধারী কায়স্থ। সম্ভবত তিনি সপ্তদশ শতকের প্রথমার্ধে বাংলা মহাভারত রচনা শুরু করেন। তবে বিশেষজ্ঞদের ধারণা, কাহিনির বিরাট পর্ব অবধি লিখবার পর তাঁর মৃত্যু হয়। এরপর তাঁর ভ্রাতুষ্পুত্র নন্দরাম সম্ভবত কাব্যের বাকি অংশ সম্পূর্ণ করেন। কাশীরাম মেদিনীপুর জেলার আওয়াসগড়ের রাজার শাসনাধীন স্থানে এক পাঠশালায় শিক্ষকতা করতেন। কাশীরাম সংস্কৃত ও কাব্যশাস্ত্রে সুপণ্ডিত ছিলেন, কিন্তু তিনি মূল সংস্কৃত মহাভারতের যথাযথ অনুবাদ না করে নিজস্ব দৃষ্টিভঙ্গির দ্বারা মূল কাহিনিকে কিছুটা বদলে রচনা করেছেন। চৈতন্য-পরবর্তী যুগে রচিত এই গ্রন্থে বৈষ্ণব কাশীরামের ভক্তিবাদের প্রাধান্য স্থানে স্থানে পরিলক্ষিত হয়েছে। সম্পূর্ণ গ্রন্থটি পয়ার চতুর্দশপদী ও ত্রিপদী ছন্দে লিখিত হয়েছে।[22] গ্রন্থটিতে কাশীরামের একটি জনপ্রিয় ভণিতা (পদের শেষে কবির নামযুক্ত পঙ্ক্তি) পাওয়া যায়: মহাভারতের কথা অমৃত-সমান।কাশীরাম দাস কহে, শুনে পুণ্যবান্॥
কাশীরাম রচিত এই মহাভারকটি ভারত-পাঁচালী বা ‘কাশীদাসী মহাভারত’ নামে বাংলায় সমাদৃত। এছাড়াও কালীপ্রসন্ন সিংহ, কবীন্দ্র পরমেশ্বর ও শ্রীকর নন্দীর লেখা মহাভারতও বাংলায় প্রসিদ্ধি লাভ করেছে।
অন্যান্য অনুবাদ
ইংরেজি ভাষায় মহাভারত প্রথম অনুবাদ করেন কিশোরীমোহন গঙ্গোপাধ্যায়, মুনশিরাম মনোহরলাল প্রকাশনীতে ১৮৮৩ থেকে ১৮৯৬ সালের মধ্যে। গীতা প্রেসের পক্ষ থেকে পণ্ডিত রামনারায়ণদত্ত শাস্ত্রী পাণ্ডে রাম হিন্দি ভাষায় মহাভারতের অনুবাদ করেছেন। অষ্টাদশ শতাব্দীতে সম্রাট আকবরের পৃষ্ঠপোষকতায় ফয়জ়ি ও অাবদুল কাদির বদাউনি ফারসি ভাষায় মহাভারত অনুবাদ করেন, যার নামকরণ করা হয় ‘রজ়্ম্নামেহ্’। তামিল ভাষায় মহাভারতের অনুবাদ করেছেন মানালুর রঙ্গচরিয়ার।
আঞ্চলিক সংস্করণ
সময়ের সাথে সাথে মহাভারতের বিভিন্ন আঞ্চলিক সংস্করণ প্রকাশিত হয়, যাদের অধিকাংশের মধ্যেই মূল কাহিনীর সামান্য অদলবদল অথবা সমসাময়িক প্রচলিত কাহিনির সংযোজন করা হয়েছে। ভারতে মহাভারতের তিনটি পৃথক সংস্করণ পাওয়া যায় – উত্তর ভারতীয়, দক্ষিণ ভারতীয় ও মালাবারী। মালাবারী মহাভারত আনুমানিক খ্রিস্টপূর্ব ২য় শতকে পরিপূর্ণতা লাভ করে। বাকি দু’টি সম্ভবত আরও কিছুকাল পরে পরিপূর্ণ হয়ে আধুনিক রূপ লাভ করেছে।
মহাভারতের তামিল সংস্করণটি তেরুক্কুট্টু বা কাত্তৈক্কুট্টু নামে মঞ্চে অভিনীত হয়, এতে প্রধানত দ্রৌপদীর চরিত্রের ওপর অধিক গুরুত্ব আরোপ করা হয়েছে। ভারতীয় উপমহাদেশের বাইরে, ইন্দোনেশিয়ায় একাদশ শতকে জাভার রাজা ধর্মবংশের পৃষ্ঠপোষকতায় ককবিন ভারতযুদ্ধ নামে মহাভারতের একটি সংস্করণ বিকশিত হয়, যেটি পরে বর্তমান হিন্দু প্রধান বালী দ্বীপে প্রসিদ্ধি লাভ করে। এর থেকে উদ্ভূত নৃত্যনাটক ওয়ায়াঙ্গ ওয়ঙ জাভা সংস্কৃতি ও সাহিত্যকে পুষ্ট করেছে। এই সংস্করণটি ভারতীয় সংস্করণ থেকে অতি স্বল্প পৃথক। উদাহরণ হিসেবে এতে দ্রৌপদীর পঞ্চস্বামী ছিলেন না, তাঁর বিবাহ শুধু যুধিষ্ঠিরের সাথেই হয়; শিখণ্ডীকে অর্জুনের স্ত্রী হিসেবে বর্ণিত হয়েছে, যিনি যুদ্ধে পুরুষদেহ না ধারণ করেই এক স্ত্রীযোদ্ধা হিসেবে অংশগ্রহণ করেন; আবার এতে গান্ধারীকে মহীয়সী নারী হিসেবে না দেখিয়ে এক খলচরিত্র হিসেবে দেখানো হয়েছে। এতে সেমর, পেত্রুক, গরেঙ্গ্ নামে কিছু চরিত্র সংযোজিত হয়েছে, যা মূল মহাভারতে নেই। মহাভারতের একটি অসম্পূর্ণ কাওয়ী সংস্করণ ইন্দোনেশিয়ার বালি দ্বীপে প্রাপ্ত হয়েছে।
চলচ্চিত্র ও দূরদর্শন
ভারতে ১৯২০ সালের আগেও মহাভারত নিয়ে প্রচুর চলচ্চিত্র নির্মিত হয়েছে। ১৯৭৭ সালে দানবীর সূর কর্ণ নামে এক তেলুগু ছবি তৈরি করেন এন. টি. রাম রাও। ১৯৮০ সালে শ্যাম বেনেগাল পরিচালিত কলিযুগ ছবিটিও মহাভারতের কাহিনির ভিত্তিতে নির্মিত হয়। ২০১০ সালে প্রকাশ ঝাঁ মহাভারতের কাহিনির উপর আংশিক ভিত্তিতে তৈরি করেন রাজনীতি ছবিটি। ২০১৩ সালের অ্যানিমেটেড ফিল্ম ‘মহাভারত’ ভারতের সর্বাপেক্ষা ব্যয়বহুল অ্যানিমেটেড ছবি হিসেবে উৎকর্ষ লাভ করেছে।
১৯৮০ সালে রবি চোপড়ার পরিচালনায় মহাভারত ধারাবাহিক ভারতের দূরদর্শনে সম্প্রচারিত হয়।
বিনোদন জগতে মহাভারতের কিছু অসম্পূর্ণ প্রকল্প রয়ে গেছে রাজকুমার সন্তোষীর ছবিতে ও সত্যজিৎ রায়ের পরিকল্পনায়।
সামাজিক প্রভাব
ভগবদ্গীতায় শ্রীকৃষ্ণ অর্জুনকে এক ক্ষত্রিয় ও যোদ্ধার পালনীয় কর্তব্যগুলি ব্যাখ্যা করেছেন, বেদান্ত দর্শন, কর্ম-জ্ঞান-ভক্তি ইত্যাদি নানা যোগের স্বরূপ উদাহরণ সহ বিবৃত করেছেন। এই কারণেই গীতাকে হিন্দু দর্শনের সংক্ষিপ্তসার ও জীবনে চলার এক স্বয়ংসম্পূর্ণ নির্দেশিকা হিসেবে সমাদৃত করা হয়। আধুনিক কালে মহাত্মা গাঁধী, স্বামী বিবেকানন্দ, বাল গঙ্গাধর তিলক ইত্যাদি মহান ব্যক্তিরা ভারতের স্বাধীনতা সংগ্রামে জনগণকে জাগরিত করতে বহুবার গীতার শ্লোকগুলিকে উদ্ধৃত করে মানব আদর্শ হিসেবে তুলে ধরেছেন।
পাদটীকা
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বহিঃসংযোগ
Original text online (in Sanskrit)
, entered by Muneo Tokunaga
(Muneo Tokunaga)
(parallel in Devanāgarī and transliterated) at
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Abridged Versions
textual resources
J. F. Fitzgerald, University of Tennessee
Resources on Mahabharata
Kisari Mohan Ganguli translation (in English)
Articles on the Mahabharata
- discusses the Indonesian versions
Movies
A Throw of Dice (Prapancha Pash) is a 1929 silent film by Franz Osten.
1989 movie directed by Peter Brook
1980 movie directed by Shyam Benegal. The movie is loosely based on the story of the Mahabharata and reinterprets the struggle for the kingdom in an industrial age, with two family factions fighting for the control of an industrial conglomerate.
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বিষয়শ্রেণী:মহাভারত
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