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} | スプルーアンス級駆逐艦は何トンの船ですか? | 駆逐艦 | japanese | {
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駆逐艦(くちくかん、)は、19世紀末に出現した艦種である。
概要
もともとの名前を<b data-parsoid='{"dsr":[311,323,3,3]}'>水雷艇駆逐艦()と呼び、水雷艇()を駆逐する艦種だった。第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷戦隊と呼ばれていた。出現当初から第二次大戦のころまでは、軽巡洋艦より小型だが砲艦より大型で、航洋性を有しており、軽装甲であるが高速で汎用性が高いといった位置付けだった。
20世紀後半から現代にあっては、戦艦や巡洋艦といった、駆逐艦より大型の艦が過去のものとなった、あるいはなりつつある。その一方でフリゲートやコルベットといったより小型の艦が存在感を増している。駆逐艦自身も大型化し、現代海軍では航空母艦や揚陸艦に次ぐ大型の軍艦となりつつある。
第一次世界大戦での地中海派遣日本海軍第二特務艦隊など「駆逐艦が主役として」編成された重要艦隊も過去には存在した。ワシントン海軍軍縮条約以降は、次第に巡洋艦として航続距離と高速性を兼ね備えた大型艦が建造されるようになった。第二次世界大戦では陸戦中心だった欧州戦線に対して、アジア太平洋地域での交戦時に海戦となる事が多かったため、潜水艦と共に艦隊防空の任を任せられる駆逐艦部隊が再び活躍した。
戦艦や重巡洋艦クラスの排水量を持つ艦艇が、小型で攻撃力を備えたミサイル艇といった専門艦艇による対艦ミサイルに切り替わった冷戦時代には、今日の駆逐艦の主力任務となる対潜戦及び防空ミサイル運用が東西両陣営共に海軍水上艦での常識となり、特に5,000トンクラスから10,000トンクラスに至る船体を持つ艦艇でも概ね<b data-parsoid='{"dsr":[1157,1166,3,3]}'>駆逐艦</b>に分類されるようになった。過去に軽巡洋艦・重巡洋艦とカテゴライズされた艦にも迫る排水量を有することも少なくない今日の駆逐艦は、外洋での行動力と一定の対艦・対空・対潜能力を兼ね備えた艦種として多くの任務を担っており、今日での海軍の主役のひとつといっても過言ではない。
冷戦期には空母戦闘群を構成する艦隊にて艦載機としてのヘリコプター搭載駆逐艦が標準となり、西側諸国が開発したアグスタウェストランド リンクスなどの対潜ヘリコプターは、21世紀の各国海軍での標準装備となった。
名称
English: Destroyer
German: Zerstörer
Dutch: Torpedobootjager
Polish: Niszczyciele
Swedish: Jagare
French: Contre-torpilleur
Italian: Cacciatorpediniere
Romanian: Distrugător
Russian: Эскадренный миноносец
ロシア海軍では他国海軍での駆逐艦に相当する艦艇類別を「艦隊水雷艇」と呼称している。英語のDestroyerに相当するイストレビーテリ:истребительという言葉はロシア語では戦闘機を意味する。
駆逐艦の歴史
駆逐艦第一号
1860年代より、フランスでは強力な武装を有する小型艦による攻撃力を重視した、ジューヌ・エコールと呼ばれる海軍戦略が台頭していた。これを受けて、1881年、フランス共和国議会下院は装甲戦艦の建造を中断するかわりに70隻の水雷艇の建造予算を認可し、1886年にはさらに100隻の水雷艇と14隻の高速巡洋艦が加わった。イギリス海軍にとって、これは、フランス海軍が、外洋での作戦は高速巡洋艦による通商破壊戦に、そして近海での作戦は敏捷な水雷艇を重視するように切り替えたことを意味するように思われた。これに対応して、イギリス海軍は、まず従来採用してきた大口径の前装砲にかえて、より小口径ではあるが発射速度と追随性に優れた後装式の速射砲の採用を決定した。これは、毎分12発という大発射速度と、当時の魚雷の最大有効射程だった600 yards (550m)よりも長い射程により、水雷艇をアウトレンジできる性能を求められており、1881年に要求性能が提示されたのち、1886年には民間からの調達が解禁されたのを受けて、同年にトールステン・ノルデンフェルトによる速射砲の導入が決定され、翌年にはアームストロング社による革新的な速射砲が発表された[1]。
兵装のこれらの進化と並行して、主機関についても技術革新が進められていた。ヤーロウ社のは、1877年より、水を管のなかに流しながら過熱するという画期的な蒸気発生装置(水管ボイラー)の開発に着手しており、1887年にはとして実用化された。そして1892年、イギリス海軍ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督は、ヤーロウ社に対し、速射砲で武装し、主機関に水管ボイラーを採用した新しい種類の艦の建造契約を発注した。これに応じてヤーロウ社はA級駆逐艦(1894年、240t、27ノット)を建造した。これは水雷艇の撃攘を主任務としており、当初は「水雷艇破壊艦(Torpedo Boat Destroyer)」と称され、まもなく単に<b data-parsoid='{"dsr":[3189,3198,3,3]}'>駆逐艦(Destroyer)と称されるようになった[1]。
この後、十分な航洋性を持たないため近海でしか使用できない水雷艇に替わり、駆逐艦は水雷艇の役目(魚雷攻撃)も兼ねた汎用性の高い戦闘艦として進化を始める。
日露戦争
日露戦争では、両国とも300tクラスの駆逐艦を所有していた。駆逐艦の任務は水雷艇の撃破からさらに発展し、大日本帝国の駆逐艦はもっぱら魚雷を使ってロシア艦隊を夜襲する部隊として使われた。まずは、開戦劈頭に旅順港に停泊していたロシア海軍への夜襲(旅順口攻撃)が行われている。その後の旅順港閉塞作戦でも機雷敷設、掃海などに従事した。
また、日本海海戦の5月27日夜、大日本帝国海軍の水雷戦隊が昼間の戦闘で傷ついたロシア戦艦群を攻撃した。丁字戦法による主力艦同士の打撃もさることながら、この駆逐艦による攻撃が多くの戦艦を葬った。これは秋山真之の考えた七段構えの戦法の一部であり、駆逐艦の攻撃によって敵主力を削ぎ落とし主力艦同士の戦いを有利に運ぶための策だった。この戦法は後に発展してこれに潜水艦も加えた漸減邀撃作戦となった。駆逐艦の重要性は増大し、主力艦に肉薄して攻撃を行うことが恒常的に期待されるようになり、日本はこの戦い以降駆逐艦とその主兵器である魚雷の強化に尽力するようになる。日本海軍は来るべき海戦に備えて神風型駆逐艦を建造したが、日本海海戦には間に合わなかった。
対するロシア帝国は、露土戦争で世界最初の水雷艇(水雷カッター)による奇襲作戦を成功させた国家だった。ロシアはその後も水雷艇を重視しその発展に力を入れていて、水雷戦術の大家ステパン・マカロフを生む事となる。日露戦争では太平洋艦隊およびバルチック艦隊所属の艦艇が旅順口攻撃や日本海海戦で奮戦した。
第一次世界大戦
この頃の駆逐艦は高速を武器に敵艦隊に肉薄して魚雷攻撃を行い、また逆に敵の高速艦の攻撃から味方の主力部隊を守る任務を重視されていた。このため高速と航洋性の要望から速力30ノット、排水量1,000t程度に大型化していた。
第一次世界大戦ではドイツ帝国が通商破壊(無制限潜水艦作戦)を行いイギリスの通商路を脅かした。イギリスは対潜水艦戦の主力として駆逐艦を大量に建造し使用した。この時、手薄となった地中海にイギリスの要請で派遣された日本海軍の第二特務艦隊も駆逐艦を中心とした編成で、輸送船の護衛を行った。
対潜作戦の初期は機雷処分に用いるような掃海索の先端に爆薬を設置して、任意に起爆するというものだったが、やがて爆雷が発明されるにつれて駆逐艦にも装備されるようになっていく。このころから駆逐艦の主要な任務に対潜作戦が加えられるようになる。
大戦間の建造
大戦後しばらく各国は第一次大戦型駆逐艦の建造を続けていた。しかし1920年代になると主要国は新しい航洋駆逐艦として1,500t以上で速力も35ノットの艦を建造し始めた。日本の特型駆逐艦(1,850t、38ノット、12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9門)はその代表例である。他にもトライバル級駆逐艦やポーター級駆逐艦があるが、中でもフランス海軍は大型駆逐艦だけで戦隊を組む特異な戦略を選択し、通商破壊艦と共に大洋を駆ける戦力として多く整備した。その後ロンドン海軍軍縮会議などの発効にともなって駆逐艦の建造数と排水量は他の軍艦同様削減されることになる。
この時期に建造された駆逐艦は条約型駆逐艦と呼ばれ、駆逐艦保有数で英米に劣る日本海軍は個々の艦の性能を上げて対抗した。また、600tに満たない艦は条約の制限には関係なかったためにこれ以下の排水量をもつ艦を建造し、水雷艇と称した。これには日本海軍の千鳥型水雷艇やイタリア海軍のスピカ級水雷艇などがあるが、速度や武装からみて、ほとんど駆逐艦の如きものである。
また、駆逐艦にはソナーが設置されるようになり対潜索敵能力が付与されることとなった。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では駆逐艦は対空・対潜が主任務となった。このため駆逐艦は主砲を対空砲または両用(対空・対艦両用)砲とし、多数の爆雷を搭載し、対空レーダーや対潜音響兵器が必需装備となった。大型対空レーダーを装備した駆逐艦をレーダーピケット艦と呼称し、早期警戒任務に当てていた。
大戦中、アメリカ海軍は、4クラス340隻の艦隊型駆逐艦及び500隻を超える護衛駆逐艦を就役させ、ドイツ海軍のUボートから船団を守り、日本の航空機に対抗した。大量生産に適した設計がなされ、簡素な構造で設計された。日本海軍は、日露戦争のような艦隊決戦を想定した艦艇を建造しており、排水量の割りに砲撃力と雷撃力に優れた艦艇ではあったが、建造に手間がかかった。また、重武装のためにトップヘビーとなり復元性が悪い艦も多かった。戦争末期には大量損失を補うために戦時急造型の駆逐艦(松型)を建造した。太平洋戦争では、戦線を拡張しすぎた日本は、アメリカ軍の目を逃れて南方諸島へ物資を送るために高速の駆逐艦を利用した(下記「駆逐艦による輸送」参照)。駆逐艦同士の戦いでは帝国海軍が勝利を収めた例も多いが、駆逐艦での戦術的勝利が戦争の趨勢に関わることはなかった。また航空母艦護衛用に対空能力を重視した(秋月型)も建造されたが、最低限の雷撃能力は残された。大戦末期にはレーダーと航空機の発達のために、日本の駆逐艦の中には既存の砲塔を撤去し、機関砲などを増設する動きもあった。
第二次世界大戦後から現在
大戦後しばらくの間は、戦時中に大量建造された駆逐艦が大量に余剰となっており、新しい艦はほとんど作られなかった。その後に建造された駆逐艦は潜水艦・航空機・ミサイルの進歩に対して、充分な対潜・対空能力を有することが求められ、必然的に大型化していった。特にミサイルの発達によって、小型艦艇でも十分な威力の対艦兵器を装備できるようになり、1隻で対空-対潜-対艦の3役をこなすことが可能になった。こうした環境の変化は、大口径砲熕兵器や耐弾装甲による直接防御を攻防能力の主体とする水上戦闘艦の存在そのものを陳腐化させ、戦艦や大型・重装甲の巡洋艦は消滅へと向かった。
また魚雷発射管の有無による区分も、フリゲートやコルベットが対潜水艦用の短魚雷を装備するようになるとともに、駆逐艦も対水上艦用の重魚雷発射管を搭載しなくなったため、意味をなさなくなった。それに代わってミサイルの装備の有無で駆逐艦とフリゲートを分ける場合もあったが、次第にフリゲートやコルベットもミサイルを装備するようになった。またフリゲートやコルベットが高速化する一方、駆逐艦の速度は30ノット程度で十分とされ、速度による区分も無くなった。結果として現在の海軍では、駆逐艦・フリゲート・コルベットの区分は曖昧なものとなり、ある国の海軍で駆逐艦と称するものが、他国の海軍のフリゲートより小型、といった事例も見られる。フランス海軍のように全ての水上戦闘艦艇をフリゲートと称したり、後述の海上自衛隊のように全てをDestroyer(DD、DDH、DDG、DE)[2]と称する例もある。
今日では、駆逐艦は大排水量の汎用艦である。イージスシステムを搭載するアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の満載排水量は8,422tに達し、過去の日本海軍の古鷹型重巡洋艦並、艦体寸法では条約型重巡並となった。ズムウォルト級ミサイル駆逐艦などは更に大型化しており、近代戦艦の原型とされるロイヤル・サブリン級に匹敵する14,797tである。
なお、海上自衛隊の汎用護衛艦であるむらさめ型やたかなみ型、あきづき型、ミサイル護衛艦であるこんごう型やあたご型などは英語ではDestroyerと呼ばれ、駆逐艦とみなされている。
また、ソビエト連邦などの大型対潜艦などもその装備や艦の規模から駆逐艦とみなされることがある。なお、ソ連では大型対潜艦とは別に駆逐艦という艦種も定めており、ソ連崩壊前に計画された最後の駆逐艦はソヴレメンヌイ級で、艦隊防空を任務とする西側でいうミサイル駆逐艦だった。
2005年以降多発しているソマリア沖の海賊対策のために、2008年6月の国際連合憲章第7章に基づきアメリカ合衆国、イギリス、ロシア連邦、日本などの各国が輸送船護衛や海賊監視のために駆逐艦、フリゲートを派遣、ロケットランチャーや自動小銃で武装した海賊の小型艇に反撃して武力鎮圧するなど成果を上げている。
駆逐艦による輸送
通常、物資の輸送には低速だが大量輸送が可能な輸送船を用いる。ただし、高速輸送が求められる際は、駆逐艦やその改装型による輸送も行なわれている。
第二次世界大戦時のドイツ軍はノルウェー侵攻を実施した際にノルウェー北部ナルヴィクの早期攻略と入り組んだフィヨルドへの対処から攻略部隊第一陣を駆逐艦に同乗させてナルヴィクの戦いを行わせた。
太平洋戦争時の日本海軍では、制空権を持たない戦場(主に南方の島嶼部)へ輸送を行うために駆逐艦を用いた。輸送船を用いて輸送を行うと、輸送量は多いものの、その機動性が悪く、速度も遅いため、輸送途中に敵機に発見・撃沈されてしまうためである。その点、高速な駆逐艦を用いることにより、輸送途中に敵機に発見される可能性は減少した。ただし、駆逐艦は艦体が細長く、大量の物資を運ぶことはできなかった。この輸送法は、ガダルカナル戦とニューギニア戦で多用され、特にガダルカナル戦では、陸軍が撤退するまでかなりの期間続けられた。方法としては、日没後に敵対潜哨戒機索敵圏内に侵入し、あらかじめ示し合わせておいた海岸に接近、駆逐艦から補給物資を詰め込んだドラム缶などを海中に投入、あとは陸上部隊側が大発動艇や手漕ぎの舟艇を用いて回収を行う。そしてできうる限り、帰り際に敵基地や飛行場を砲撃し、夜間に敵哨戒機索敵圏外に脱出していた。夜中に敵の目を盗んでコソコソ輸送することから、これを日本側は鼠輸送と称した(アメリカ軍はTokyo Expressと呼んだ)。しかし敵に遭遇した際には魚雷を発射するために物資を投棄するなど、任務を果たせないこともあった一方、駆逐艦の損害も大きかった。日本海軍は後に駆逐艦をベースにした一等輸送艦を生み出している。
アメリカ海軍も高速輸送のメリットを認めており、太平洋戦争以前より、その検討を行なっていた。建造中の新鋭艦や就役済の旧式艦などを改装した高速輸送艦(APD)[3]多数を完成させ、比島攻略戦などに投入している。
脚注
参考文献
M.J. ホイットレー 『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画、2000年
関連項目
嚮導艦 / 駆逐艦母艦 / 護衛駆逐艦 / ミサイル駆逐艦
水雷艇 / 水雷巡洋艦 / 水雷砲艦
警備艦 / 掃海艇 / 補助艦艇
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6 |
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} | Berapa jumlah dewa dalam peribadatan masyarakat Tiongkok? | Tempat ibadah agama Khonghucu | indonesian | {
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Nama tempat ibadah agama Khonghucu pada umumnya adalah: Miao/Bio/Kelenteng Khonghucu
khusus nya untuk
Kong Miao, 孔廟 (Confucius Temple); Ada satu ciri khas yang membedakan antara Miao atau Kelenteng Khonghucu dengan bangunan Kelenteng Tridharma atau yang lainnya (Buddha atau Tao). Pada umumnya di dalam Kong Miao hanya terdapat Kim sin Nabi Kong Zi sedangkan Altar Dewa-Dewi terpisah dari bangunan utama, didalam Kong Miao terdapat banyak tulisan (Sienci 神柱) papan penghormatan Nabi Kongfuzi 孔夫子 /Khonghucu (nama yang lebih umum 孔子 Kongzi)dan juga para muridnya yang terkenal. Bangunan Kong Miao yang tertua di Indonesia terdapat di kota Surabaya yang dikenal dengan "Boen Bio" sedangkan di Jakarta Kelenteng Kong Miao Terdapat di Taman Mini Indonesia Indah (TMII) dan Khongcu Bio di kota Cirebon. "Bio" adalah lafal Hokkian dari "Miao"
Litang, 禮堂 (Ruang Ibadah); Litang adalah nama tempat ibadah agama Khonghucu yang banyak terdapat di Indonesia. Saat ini sudah ada lebih dari 250 Litang yang tersebar di seluruh Indonesia yang berada di bawah naungan MAKIN (印尼孔教總會, Majelis Agama Khonghucu Indonesia)dan organisasi pusatnya adalah MATAKIN (Majelis Tinggi Agama Khonghucu Indonesia).Ciri tempat ibadah tersebut selain altarnya yang berisi Kim Sin (金神) Nabi Kongzi/Khonghucu, juga biasanya terdapat lambang "Mu Duo" 木鐸 atau Bok Tok (dalam dialek Hokian) yaitu berupa gambar Genta dengan tulisan huruf 'Zhong Shu' atau Tiong Sie (bahasa Hokian) artinya "Satya dan Tepasarira/Tenggang Rasa" yang merupakan inti ajaran agama Khonghucu. Hal ini sesuai dengan Sabda Nabi Kongzi dalam Kitab Lun Yu 論語: "Apa yang diri sendiri tiada inginkan, janganlah diberikan terhadap orang lain".
Umat Khonghucu biasanya melakukan ibadah di Litang setiap tanggal 1 dan 15 penanggalan Imlek. Namun ada pula yang melaksanakannya pada hari Minggu dan hari lain, hal ini disesuaikan dengan kondisi dan keadaan setempat. Upacara-upacara hari keagamaan lain seperti peringatan Hari Lahir Nabi Khonghucu (至聖誕, 27 bulan 8 Iemlik), Hari Wafat Khonghucu (至聖忌辰 18 bulan 2 Iemlik), Hari Tangcik (冬至 Genta Rohani), dan Tahun Baru Iemlik(春節) dsb. biasanya juga dilakukan di Litang.
Kelenteng, 廟 Miao; kelenteng pada umumnya digunakan sebagai sarana tempat bersembahyang/ibadah oleh kebanyakan orang Tionghoa (Buddha, Khonghucu dan Tao) sehingga kadang-kadang kita sulit membedakan apakah mereka itu penganut agama Buddha Mahayana, Khonghucu atau Tao. Namun kalau kita telaah lebih jauh, ada ciri yang membedakan dari ketiga bangunan tempat ibadah masing-masing penganut agama tersebut yaitu dari nama kelenteng tersebut dan juga para Dewa-dewi yang berada dalam bangunan Kelenteng tersebut. Namun secara umum bangunan Kelenteng biasanya bergaya arsitektur khas Tiongkok, misalnya terdapat ukiran Naga atau Liong pada bagian atas atap atau tiang/pilarnya,ada lukisan Qilin (麒麟, Hokkian:Kilien)- binatang yang dianggap suci, bentuknya seperti seekor rusa, kulitnya bersisik berwarna hijau keemasan, bertanduk tunggal. Hewan suci ini pernah muncul pada saat menjelang kelahiran Khonghucu/Kongzi dan terbunuh oleh Pangeran Lu Ai Gong 魯哀公dalam perburuannya yang menandai peristiwa sebelum kewafatan Khonghucu.
Di depan kelenteng terdapat Hiolo tempat menancapkan hio/dupa dan memanjatkan doa kepada Tian (Tuhan YME); Dan di dalam Kelenteng terdapat rupang Nabi; Para Shen Ming/ yang disebut Leluhur Kongco dan Makco yang disembahyangi dan di hormati oleh umat*
.
.
Terdapat tempat untuk membakar kertas sembahyang * Umumnya upacara keagamaan dilakukan secara individu* Biasanya juga sekaligus merupakan tempat perkumpulan / yayasan sosial, seperti kegiatan keagamaan Khonghucu, misal Kebaktian umum Agama Khonghucu, Sekolah Minggu Agama Khonghucu untuk anak - anak, Perkumpulan Kelompok Pemain Barongsai, Perkumpulan Wushu, dll.
.
Adapun kebiasaan membakar kertas sembahyang ini secara umum dilakukan oleh penganut agama tradisional tionghoa, dan menjadi praktek budaya bagi orang tionghoa.
Dengan Atap yg berbentuk kapal & busur Selain Qilin juga didukung dengan Ornamen-ornamen Lainnya seperti: patung singa sepasang depan pintu masuk kelenteng, Naga di tiang dan di atap ataupun didinding kelenteng, burung Hong, kura2, lampion, Pat Kua, patung 12 Shio, dll.
Hari Besar Agama Konghucu (Religious Holiday):
1 bulan I (Zheng Yue) - Tahun Baru Kongzili/Yinli/Xin Zheng
4 bulan I - Menyambut turunya malaikat dapur (Chao Chun).
8/9 bulan I - Jing Tian Gong (Sembahyang Besar kepada Tuhan YME)
15 bulan I - Shang Yuan/Yuan Xiao atau Cap Go Me
18 bulan II (Erl Yue) - Hari Wafat Nabi Kongzi (Zhi Sheng Ji Zhen)
5 April - Hari Sadranan (Qing Ming)
5 bulan V (Wu Yue) - Duan Yang/Duan Wu/Bai Chun [maknanya]
29 bulan VII - Sembahyang Arwah Umum.
15 bulan VII (Ji Yue) - Jing He Ping/Jing Hao Peng
15 bulan VIII (Ba Yue) - Zhong Qiu (Sembahyang Purnama Raya)
27 bulan VIII (Ba Yue) - Zhi Sheng Dan (Hari Lahir Nabi Kongzi)
15 bulan X - Xia Yuan.
22 Desember - Dong Zhi (Hari Genta Rohani)
24 bulan XII (Shi Erl Yue) - Hari Persaudaraan & Naiknya malaikat dapur (Chao Chun).
☀Hari Raya Para Suci (Sien Beng)
yang dimuliakan oleh Umat Khonghucu sbb:
24 Cap Ji Gwee: Coo Kun Naik
04 Cia Gwee: Coo Kun Turun
13 Cia Gwee: Hari Kenaikan Kwan Kong
21 Cia Gwee: Hari Raya Tik Hay Cien Jien
26 Cia Gwee: HUT Chai Sien Yek
02 Ji Gwee: Hari Raya Hok Tik Ci Cing Sin
03 Ji Gwee: Bun Chiang Tee Kun Lahir
19 Ji Gwee: Mak Kwan Im Lahir
22 Ji Gwee: Kong Tik Cun Ong Lahir
03 Sha Gwee: Cee Thiong
03 Sha Gwee: Hari Raya Hian Thian Siang Tee
09 Sha Gwee: Hari Raya Sia Jien Kong
15 Sha Gwee: Hari Raya Tan Kong
16 Sha Gwee: Hari Raya Cing Iet Thian Kun
23 Sha Gwee: Hari Raya Thian Sing Sing Bo
28 Sha Gwee: Chong Kiat Sian su Lahir
14 Si Gwee: Li Co Sian Lahir
18 Si Gwee: Hua Too Lahir
13 Go Gwee: Kwan Ping Thai Cu Lahir
15 Go Gwee: Hari Raya Sien Long Tai Tee
23 Go Gwee: Hari Raya Cing Gwan Ciang Kun
19 Lak Gwee: Kwan Im Mencapai Kesempurnaan
24 Lak Gwee: Kwan Kong Lahir
29 Lak Gwee: Hari Raya Sam Poo Tai Jien
29 Lak Gwee: Gwee Ham Gou Buka Tanggal
07 Chiet Gwee: Hari Raya Khwee Sing
17 Chiet Gwee: Liem Cien Tai Jien Lahir
30 Chiet Gwee: Gwee Ham Gou Tutup Tanggal
03 Pik Gwee: Hari Raya Coo Kun
15 Pik Gwee: Hari Raya Hok Tik Ching Sien
22 Pik Gwee: Hari Raya Kwee Sing Ong / Jian Ting Hut Lahir
09 Kau Gwee: Kenaikan Hian Thian Siang Tee
15 Cap Gwee: Hari Raya Sam Kwan Tai Tee
29 Cap Gwee: HUT Jenderal Ciu Chong
06 Cap It Gwee: Cing Swie Coo Su Kong Lahir
Kelenteng biasanya diberi nama dalam bahasa Mandarin.
Kategori:Konfusianisme
Kategori:Agama di Indonesia | https://id.wikipedia.org/wiki/Tempat%20ibadah%20agama%20Khonghucu |
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في الاستعمال الشائع تدل الهيروغليفية المصرية على نظام الكتابة الذي استعمل في مصر القديمة لتسجيل اللغة المصرية والقيام بعمليات الجمع والطرح والحساب. أقدم ما وصلنا مكتوبا بالهيروغليفية مخطوط رسمي ما بين عامي 3300 قبل الميلاد و3200 ق.م. في ذلك المخطوط استخدمت صور لترمز إلى أصوات أولية للكلمات، وقد استوحى المصري القديم تلك الصور من الموجودات الشائعة في البيئة المصرية في ذلك الوقت، من نبات وحيوان وأعضاءها ومن الإنسان وأعضائه ومن مصنوعاته وغيرها. مثل الفم وينطق (را)، والعين وتنطق (يري) والعرش وينطق (ست) والبيت وينطق (بر) أو الثعبان (فاي) ويؤخذ منها الحرف الأول (ف)، والبومة (م) والحدأة (أ)، كما استعملوا رموزا دخلت فيما بعد إلى الكتابة العربية مثل (هـ) و(و) و(ش).
أخذوا أيضاً أسماء ذات حرفين للتعبير عن حرفين متتاليين: مثل البيت (بر)، والعرش (ست)، والأرنب (ون). كما استعملوا من بعض الكلمات ثلاثة حروف، مثل: عنخ (ومعناها حياة)، وحتب (ومعناها راضي أو قربان)، ونفر (ومعناها جميل).
استعملت الهيرغليفية كنمط كتابة رسمي لتسجيل الأحداث على المعالم والنصوص الدينية على جدران المعابد والمقابر وأسطح التماثيل والألوح الحجرية المنقوشة والألواح الخشبية الملونة، وبسبب طبيعتها كانت تعد منذ القدم نظامًا للكتابة وفنًا زخرفيًا جميلاً في آن واحد، مثلها في ذلك مثل الخط العربي. ومن أهم الكتابات عند المصريين القدماء كتابة أسمائهم، وأسماء الأب والأم والأخوات، لأنهم كانوا يعتقدون أنه للبعث في الحياة الآخرة لا بد من المحافظة على اسم الشخص إلى جانب المحافظة على جثمانه، وضياع الاسم يعتبر الفناء الكامل. وكانوا يكتبون كذلك وظائفهم بحانب أسمائهم، مثل رئيس الكتاب أمنمحعت (أمير-شس امنمحعت)، وإذا توفي رئيس الكتاب أمنمحعت مثلاً، فكانوا يكتبون اسمه ووظيفته كالآتي: "أمير-شس أمنمحعت، ماع خرو" أي رئيس الكتاب أمنمحعت، الصادق في كلامه (أمام الآلهة يوم الحساب) بمعنى المغفور له.
يعد الخط الهيرغلفي الأب الأول لكل نظم الكتابة اللاحقة إذ بنى قوم ساميون على بعض رموزه نظامًا أبجديًا لتسجيل أصوات لغتهم هو الخط السيناوي الأولي الذي استُنبطت منه لاحقا كل نظم الكتابة الأبجدية المعروفة في العالم تقريبًا، البائدة منها والباقية، وعلى رأسها الكتابة اليونانية القديمة والقبطية ثم الرومانية، ومنها كتابة اللغات الأوروبية.
بعد اندثار المعرفة بقراءة الهيرغليفية في العصور المتأخرة انشغل عديدون بمسألة حل رموزها، وتذكر مصادر أن ذا النون المصري وابن وحشية وغيرهم من علماء العرب في علم التعمية كانوا قادرين على قراءتها، ولو جزئيًا.
في العصر الحديث كان لاكتشاف حجر رشيد (الموجود حاليا في المتحف البريطاني) على يد ضابط في الحملة الفرنسية، وما تلاه من عمل شامبليون على فك رموزها الأثر الأبلغ على تقدم علم المصريات.
الإشارة إلى لغة مصر القديمة باسم "اللغة الهيروغليفية" بين العوام ووسائل الإعلام خطأ شائع، لأن الهيروغليفية هي نظام الكتابة.
أصل الكلمة
الهيرُوغليفية من الإغريقية و أو الميدو نتروا بالمصرية القديمة لأن هيروغليفية كلمة أغريقية ولكن المصرية هي ميدوا نتروا العلامات الروحانية أو "النقش المقدس"، والمصطلح كما يستخدمه دارسوا نظام الكتابة يدل على فئة من نظام الكتابة التصويرية تندرج تحتها الكتابة الهيرغليفية المصرية ونظم كتابة أخرى منها المايا والكتابة الصينية في بداياتها.
وكانت كلمة اله عند المصريين القدماء تعني mdw nṯr
اشتقت كلمة "هيروغليفي" من الكلمتين اليونانيتين "هيروس" Hieros و"جلوفوس" Glophos وتعنيان "الكتابة المقدسة" إشارة إلى أنها كانت تكتب على جدران الأماكن المقدسة كالمعابد والمقابر و"الكتابة المنقوشة" لأنها كانت تنفذ بأسلوب النقش البارز أو الغائر على جدران الآثار الثابتة (المباني) وعلى الآثار المنقولة (التماثيل واللوحات...إلخ).
تاريخها وتطورها
كتبت اللغة المصرية القديمة بخطوط أربعة هي: الهيروغليفية، والهيراطيقية، والديموطيقية، والقبطية، وهي خطوط لم تظهر كلها في وقت واحد وإنما جاءت في إطار تتابع زمني يعبر عن الامتداد الزمني الطويل الذي عاشته اللغة المصرية القديمة ويعبر في نفس الوقت عن النضج الفكري للإنسان المصري القديم والذي أدرك أن متطلبات الحياة قد تتطلب بين الحين والآخر أن تكون بينها وبين الأداة المعبرة عن اللغة، وهي الكتابة، تناسق ولأن الخط الهيروغليفي - خط العلامات الكاملة - هو أقدم الخطوط المصرية وأطولها عمراً وأكثرها وضوحًا وجمالاً، فقد لجأ المصري في بعض المراحل الزمنية إلى تبسيطه وتمثل ذلك في الخط الهيراطيقي، ثم لجأ إلى تبسيط آخر في مرحلة تالية، وتمثل ذلك في الخط الديموطيقى، الأمر الذي يعني أن هناك علاقة خطية واضحة بين الخطوط الثلاثة. أما الخط الرابع من خطوط اللغة المصرية القديمة وهو الخط القبطي فقد كتب بالأبجدية اليونانية مضافاً إليها سبع علامات من الكتابة المصرية القديمة في شكلها الديموطيقيي لم يتوفر نطقها في العلامات اليونانية.
تعود أقدم الأمثلة على الكتابة الهيروغليفية المايانية في أمريكا الوسطى، إلى نحو عام 300م. وكانت حروف هذه الكتابة تتألف من رموز تعتبر تمثيلاً حرفياً للأفكار، إلا أن بعض الباحثين يعتقدون أن عدداً من الإشارات تمثل أصواتاً، ولم يتم حتى الآن فك رموز معظم الحروف الهيرغليفية المايانية. وتتناول النصوص التي تمكن الباحثون من فك رموزها أموراً، تتعلق بالدين، والفلك، وتسجيل الوقت. وكانت الحروف الهيرغليفية الأزتكية تتألف من صور تمثل أفكاراً، ولها أيضاً قيمة صوتية. لقد دمجت الأزتكية رموز أشياء متعددة، لتكوين صوت، أو اسم لشيء، أو فكرة مجردة، لم يتم تمثيلها بصورة. وتشبه تلك الرموز الكتابة الحديثة التي تستخدم فيها (الكتابة عن كلمة أو عبارة برسم يذكر المرء بها أو بمقطع منها) واستحدث الحيثيون أيضاً، نظام كتابة هيروغليفياً نحو عام 1500ق.م. وقد مثلت بعض الرموز الحيثية كلمات بينما مثل الرموز الأخرى مقاطع صوتية.[1]
إلى جانب النظام الهيروغليفي وجد نظام كتابة آخر أكثر انسياباً واختزالاً وأيسر في الكتابة اليدوية هو الخط الهيراطيقي الذي استخدم لكتابة الوثائق الدينية والطبية والإدارية والعلمية والأدبية، يعد تطوره مواكباً لتطور الخط الهيروغليفي وليس منحدراً منه ولا مبنياً عليه. بينما استنبط الخط الديموطيقي من الهيراطيقي في عصور لاحقة. وبعد الاستعمار اليوناني لمصر واختلاط الثقافتين المصرية واليونانية استُنبط نظام كتابة آخر لكتابة اللغة القبطية - وهي النمط الذي وصلن إليه اللغة المصرية في تلك الفترة التاريخية - هو الخط القبطي المبني على رموز الأبجدية اليونانية.
ينقسم التاريخ المصري القديم إلى ثلاثين أسرة وهو تقسيم وضعه المؤرخ المصري القديم "مانيثون" الذي كتب تاريخ مصر باليونانية بتكليف من الملك البطلمى "بطلميوس الثاني" حوالي عام 280 ق.م.، ووضع المؤرخون المحدثون هذه الأسرات في إطار عصور تاريخية كعصور الدولة القديمة والوسطى والحديثة، إلخ. وإلى جانب العصور التاريخية، هناك فيما يتعلق باللغة المصرية القديمة عصور لغوية، فقد كان من نتائج هذا الامتداد الزمني الطويل للغة المصرية القديمة حدوث تغييرات في النحو والصرف وقواعد الهجاء، وفي المخصصات وفي القيم الصوتية. ومن خلال الدراسات التي قام بها المتخصصون في اللغة المصرية القديمة أمكن تقسيم اللغة إلى عصور، يتميز كل عصر منها بخصائص لغوية معينة.
فكانت اللغة في العصر القديم، هى مرحلة وضع اللبنات الأولى في بناء اللغة المصرية، وبدأت منذ الأسرة الأولى واستمرت حتى منتصف الأسرة الثامنة: وتقابل هذه المرحلة من الناحية التاريخية العصر العتيق (الأسرتان الأولى والثانية)، وعصر الدولة القديمة، والأسرتين السابعة والثامنة من عصر الانتقال الأول. وتبدو نصوص هذه الفترة اللغوية واضحة في آثار الدولة القديمة وفي نصوص الأهرام.
وفي العصر الوسيط ظهرت خصائص هذه المرحلة اللغوية في الفترة من منتصف الأسرة الثامنة، واستمرت حتى منتصف الأسرة الثامنة عشرة، وتمثل هذه المرحلة مرحلة النضج الكامل بالنسبة للغة المصرية القديمة. وقد غطت تاريخياً بعض الأسرات من عصر الانتقال الأول، وعصر الدولة الوسطى، وعصر الانتقال الثاني، وبداية الدولة الحديثة.
ينما كانت في العصر الحديث تبدو هذه المرحلة اللغوية واضحة في نصوص الأسرات منذ النصف الثاني من الأسرة الثامنة عشرة وحتى الأسرة الخامسة والعشرين، أي تشمل تاريخياً الدولة الحديثة والعصر المتأخر.
ومرحلة الديموطيقي، هى مرحلة بدأت منذ القرن الثامن قبل الميلاد، واستمرت حتى القرن الخامس الميلادي، وهي مرحلة لغوية وإن كتبت بخط مختلف هو الخط الديموطيقي.
وكانت مرحلة القبطية، هى مرحلة لغوية بدأت منذ القرن الثالث الميلادي تقريباً، وانتهت رسمياً وليس فعلياً بدخول الإسلام مصر عام 641 م، حيث بدأت تحل محلها بالتدريج اللغة العربية، وإن استمرتا معاً لفترة طويلة.
نظام الكتابة
كتبت اللغة المصرية القديمة في خطها الهيروغليفي أفقيًّا ورأسيًّا من اليمين إلى اليسار فيما عدا الحالات التي تحتم تغيير اتجاه الكتابة لتتواءم مع اتجاه منظر معين أو نص معين على عنصر معماري ذي طبيعة خاصة، كما أن التنسيق والشكل الجمالي تطلب في بعض الأحيان أن تكتب بعض النصوص من اليسار إلى اليمين. وأما الهيراطيقية والديموطيقية فكانت تكتب دائما من اليمين إلى اليسار. ويمكن تحديد اتجاه النص بالنسبة للكتابة الهيروغليفية حسب اتجاه العلامات ذات الوجه والظهر مثل الإنسان والحيوانات والطيور والزواحف. فإذا كانت أوجه الطيور والإنسان متجهة إلى اليمين فرأناها من اليمين إلى اليسار.
وفي لوحات كثيرة نجد مثلاً فرعون يقدم قرباناً لأحد الآلهة، فنجد ما يقوله فرعون مكتوباً فوق رأسه على ناحيته، بينما ما يقوله الإله لفرعون يكون مكتوباً فوق رأسه أيضاً ولكن على الناحية الأخرى. وأحياناً يكتب دعاء فرعون أمامه من أعلى إلى أسفل (أنظر الصورة).
وأما عن تطور الكتابة في مصر وهو التطور الذي يتضح من خلال ظهور خطوط أربعة للغة المصرية القديمة ذكرت من قبل فإنه يمكن حصر التطور من خط إلى آخر وبالتالي العلاقة بين خطوط هذه اللغة، يمكن حصره في إطار خطوط ثلاثة هي الهيروغليفية والهيراطيقية والديموطيقية. نظراً لوجود علاقة خطية واضحة في معظم الحالات وهي العلاقة التي لا وجود لها بالنسبة للخط الرابع وهو الخط القبطي الذي كتب بحروف يونانية.
ولقد فرضت عدة عوامل حدوث تطور لخطوط اللغة المصرية القديمة من بينها طبيعة مادة الكتابة وأداة الكتابة والموضوع وتعدد الأنشطة البشرية وخصوصاً الاقتصادية والإدارية منها. فالكتابة على الحجر والمنشآت الحجرية بوجه عام تتطلب أن تكتب العلامات بصورتها الكاملة وأن تنقش نقشاً غائراً أو بارزاً. أما عن الكتابة على ورق البردي وشقفات كسرات الفخار والحجارة والآثار الصخرية بوجه عام. فإنها تتطلب خطًّا هيروغليفيًّا مبسطاً تطور فيما بعد إلى خط أكثر تبسيطاً يعرف بالخط الهيراطيقي وقد اضطر المصري إلى تبسيط الخط الهيروغليفي تمشياً مع طبيعة مادة الكتابة (ورق البردي) ومع تزايد الأنشطة اليومية التي تطلبت خطًّا أسرع لا يتطلب مساحة كبيرة ولا جهدًا كبيرًا ولا مقابًلا ماديًّا مرتفعًا. ونظراً لقربه في بداياته الأولى من الخط الهيروغليفي المختصر فقد سمي باسم (الخط الهيراطيقي غير التقليدي) وقد راعى المصري قواعد وضوابط معينة عند التبسيط محاولاً ألا يخل بالعناصر الأساسية المكونة للعلامة ولأن الخط الهيراطيقي هو خط بلا ضوابط كالفارق بين الخطين النسخ والرقعة في اللغة العربية (الأول يكتب بضوابط والثاني يخلو منها) فإننا لا بد أن نضع في الاعتبار الاختلاف الواضح في شكل العلامة الواحدة فعلامة (البومة) كتبت بالخط الهيراطيقي بصور مختلفة. ويجيء هذا الاختلاف ناتجاً عن عوامل كثيرة، منها مادة وأداة الكتابة ومهارة الكاتب من عدمه، وعوامل الزمان والمكان وطبيعة الموضوع أحياناً. وقد نجد صعوبة في بعض الحالات في تتبع التطور أو التبسيط الذي جرى للعلامة من الخط الهيروغليفي إلى الخط الهيراطيقي. ومرجع ذلك للأسباب التي ذكرتها والتي كانت تتغير بلا ضوابط.
ويمكن القول بوجه عام أن معظم العلامات الهيراطيقية يمكن تتبع تطورها من الهيروغليفية وأن أقلها قد نجد صعوبة في ذلك لأسباب مرتبطة فيما نعتقد بمهارة الكاتب وحالته الجسدية والنفسية عند كتابة النص ومدى اهتمامه بقلمه أو فرشاه ومادة الكتابة. وإذا كان أقدم نص هيراطيقي عثر عليه في مصر يرجع لعصر الأسرة الرابعة (2597-2471 ق.م) علاوة على نص من عهد الملك ساحورع حيث عثر في معبده الجنائزي على مجموعة من قطع البردي عليها كتابه هيراطيقية موزعة على متحف القاهرة وبعض المتاحف الأجنبية. إلا أن ذلك لا يعني أن الخط الهيراطيقي لم يلازم الخط الهيروغليفي منذ نشأته، لكننا لم نملك الدليل على ذلك حتى الآن.
ومع نهاية الأسرة الخامسة والعشرين (656ق.م) وبداية الأسرة 26 ظهر خط آخر بدا أكثر تبسيطاً من الخط الهيراطيقي وهو الخط الديموطيقي وظل يستخدم في مصر حتى نهاية العصر الروماني وهو خط في بدايته قريب الشبه بالخط الهيراطيقي ولهذا سمي في مراحله المبكرة بالهيراطيقي غير التقليدي ثم أخذ يتبلور ويتخذ شكله المستقل كخط ديموطيقي مع بداية العصر البطلمي في القرن الرابع قبل الميلاد وطوال هذا العصر والعصر الروماني. والدارس للخط الديموطيقي قد يتصور لأول وهلة أن هذا الخط يمثل مرحلة التطور الثانية بعد الخط الهيراطيقي، وقد يتصور كذلك أنه يمثل مزيداً من التبسيط للخط الهيراطيقي يتناسب مع تنوع الأنشطة الدنيوية والدينية وازديادها قياساً بالعصور السابقة.
لقد قطعت الدراسات الخطية في مجال خطوط اللغة المصرية القديمة شوطا ًطيباً، لكن الأمر لا يزال يتطلب المزيد من الجهد والتحليل للتعرف على الكثير من خصائص رحلة تطور الكتابة في مصر من الهيروغليفية إلى الديموطيقية.
القراءة الصوتية
بعد ما توصل المصري إلى وضع قيمة صوتية لكل علامة كان عليه أن يصنف العلامات إلى علامات تعطي القيمة الصوتية لحرف واحد والتي عرفت تجاوزاً باسم "الأبجدية" وأخرى تعطي القيمة الصوتية لحرفين، وثالثة تعطي القيمة الصوتية لثلاثة حروف وحالات ليست بالكثيرة لأربعة حروف.
ونستطيع أن نتصور مدى الصعاب التي واجهت مجموعة من الرواد المصريين القدماء الذين تصدوا لإنجاز هذا العمل الرائع من حيث التصنيف وتحديد القيمة الصوتية، ومن حيث إمكانية نشر هذا الإنجاز على امتداد الأراضي المصرية كلها لتوحيد وسيلة التفاهم نطقاً وكتابةً، ثم من حيث عدد العلامات التي استغرقت عملية اختيارها وقتاً طويلاً وتطلب جهداً كبيراً حتى يتمكن المصري من تحقيق أفضل صورة ممكنة للتكامل اللغوي والكتابي وليضمن أن ما تم اختياره من علامات سوف يفي بكل متطلباته في حياته الدنيوية وحياته الأخروية. وليس من شك في أن تعدد القيمة الصوتية للعلامات قد أدى إلى أن تكون حصيلة هذه العلامات بالمئات وهو أمر يمثل صعوبة بالغة للراغبين في تعلم اللغة المصرية القديمة إذا ما قورنت بلغات قديمة وحديثة تعتمد في بناء كتابتها على مجموعة محددة من الأحرف التي تعرف بالأبجدية.
ومن العلامات ذات الحرف الواحد على سبيل المثال "طائر العقاب"، الذي يقابل حرف الألف، ومن العلامات ذات القيمة الصوتية لحرفين تلك العلامة التي ترمز إلى البيت(pr)، ومن العلامات ذات الأصوات الثلاثة تلك العلامة التي تصور القلب والقصبة الهوائية (nfr). وقبل أن نتحدث عن اللغة المصرية القديمة من حيث أنواع الخطوط التي كتبت بها والمراحل اللغوية التي مرت بها واتجاهات الكتابة وغيرها نود أن نلقي الضوء على قصة فك رموز اللغة المصرية القديمة.
الأبجدية الهيرغليفية
هيرغليفياتإشارة المرورنسخلفظتعليقAاألف،
ỉيياء
أو yيياء مضاعفˁععين أو wوواوbبباءpپfفmمnنrرhهـحخخ أو sسšشققافkكgگ(ج مصرية)tتتشdدج
تتكون الكتابة الهيرغليفية من مجموعة من النقوش المستمدة من الحياة اليومية فهي كتابة تصويرية بالإضافة لوجود حروف أبجدية وإن كانت أكثر تعقيداً من الأبجدية المعروفة الآن في اللغات المنتشرة فالأبجدية في الهيرغليفية تنقسم لثلاثة مجموعات.
المجموعة الأولى: هي الرموز الأحادية، أي الحروف أحادية الصوت مثل الحروف المعتادة اليوم، مثل (أ) و(ب) و(ت) وغيرها.
المجموعة الثانية: الرموز الثنائية الصوت، وهي رمز أو نقش واحد ولكن ينطق بحرفين معاً، مثل (من) ومعناها "ينشيء" أو "بناء"، و(بر) ومعناها "بيت"، و(ست) ومعناها "سيدة" أو أحيانا "مكان" وغيرها،
المجموعة الثالثة: الرموز ثلاثية الصوت، وهي نقش أو رمز واحد ولكن يعني ثلاثة أصوات، مثل (حتب) ومعناها "راضي " أو "سلام"، و(عنخ) ومعناها "حياة"، و(آخت) ومعناها "أفق "، و(نثر) معناها "إله"، و(نفر) ومعناها "جميل"، وغيرها.
وذلك بالإضافة لمجموعة من العلامات الأخرى والتي لا تنطق، وإنما هي من أجل أغراض نحوية مثل تحديد المثنى والجمع والمذكر والمؤنث وبعض الرموز المؤكدة للمعنى والتي تعرف بالمخصصات، ومن المخصصات (رجل) و(امرأة) و(ملك)، أو عضو من أعضاء الجسم مثل (يد)، (رجل) و(رأس) و(أنف) و(عين)، وغيرها. وهذه المخصصات تضاف أحياناً بعد الكلمة للتأكيد على معناها.
وقد اشتقت كلمة هيروغليفي من الكلمتين اليونانيتين(هيرس) و(جلوفوس) وتعنيان (الكتابة المقدسة).
مكملات لفظية
تعود المحاولات الأولى لفك طلاسم الكتابة الهيرغليفية إلى الاغريق. وقد ساد الاعتقاد لديهم ان الرموز الهيرغليفية هي رموز صورية. من كتابات الاغريق عن هذا الموضوع وصلتنا مخطوطة واحدة هي "الهيرغليفية" لمؤلفها هورابولون Hieroglyphica of Horapollon.
في أوروبا خلال العصور الوسطى لم يكن هنالك اهتمام بالهيرغليفية إلا أنه عام 1422 وصلت مخطوطة هورابولون إلى البندقية مما أثار الاهتمام بها حتى أن بعض فناني عصر النهضة قاموا برسم رموز متخيلة بناء لأوصاف هورابولون واستعملوها في رسومهم كعناصر فنية.
وقد قامت عدة محاولات لكشف طلاسم الهيرغليفيه قبل اكتشاف حجر رشيد في العصر الحديث، منها محاولات الأب كرشر اليسوعى الذي عرف أن القبطية ما هي إلا لهجة أو لغة منحدرة من المصرية القديمة.
وأول جهود بعد اكتشاف حجر رشيد كانت محاولات فيليب دى ساسى 1802 وكان عالماً بالعربية وقد انصبت محاولاته على الخط الديموطيقي لأنه ظن أن له علاقه بخط الرقعة العربي لتشابههما ظاهرياً في الانسياب، إلا أن أبحاثه لم تسفر إلا عن نتيجه واحدة وهي أنه عرف أن أسماء الملوك توضع في خرطوش وهو مما أفاد شامبليون لاحقاً.
بعد اكتشاف حجر رشيد خلال الحملة الفرنسية على مصر قام العالم شامبوليون بنشر اكتشافه حول كيفية فك طلاسم اللغة الهيرغليفية عام 1822. وقد اعتبر شامبوليون أول من اكتشف أن الرموز الهيرغليفية هي رموز صوتية وقام بفك رموزها.
إلا أنه في عام 2004 كشف عالم المصريات عكاشة الدالي أن أول من اكتشف أن الرموز هي عبارة عن رموز صوتية أي حرف هو العالم العربي ابن وحشية الذي عاش في القرن العاشر الميلادي. وكان ذلك في مؤلفه شوق المستهام في معرفة رموز الأقلام الذي درس فيه 89 لغة ونظام كتابة قديمة منها الهيروغليفية، وقام بتحليل العديد من رموزها [2] الذي وضعه سنة 861م، وقد حقق المستشرق النمساوي جوزف همر تلك المخطوطة وترجمها إلى الإنجليزية ونشرها في لندن عام 1806 أي 16 عاما قبل اكتشاف شامبوليون، ونشر خبر ذلك في عدة وسائل اعلام غربية [3]. كما أن الباحث السوريّ يحيى مير علم توصل إلى ذات النتيجة وذهب البعض إلى القول أن شامبوليون كان قد اطلع تلك هذه المخطوطة إلا أنه لا توجد لدينا دلائل تؤكد أو تدحض هذا الادعاء.
نشر الباحث إياد خالد الطباع مخطوطة (شوق المستهام في معرفة رموز الأقلام) لابن وحشية النبطي، في دار الفكر بدمشق سنة 2003م، وبيّن في تقدمته للكتاب أنّ ابن وحشية كان من السبّاقين إلى فك بعض رموز الهيروغليفية.
القراءة الدلالية
الرموز التوضيحية (المخصصات)
الكتابة هي الوسيلة الثابتة للتعبير عن الفكرة، وعندما فكر المصري في أن يسجل أحداثه كانت الطبيعة من حوله مصدر الإلهام بالنسبة له، بما فيها من ظواهر طبيعية وكائنات حية. فهداه تفكيره إلى أن ينقل بعضاً مما في الطبيعة والبيئة المحيطة به ليعبر بالصورة عن المعاني التي يريد التعبير عنها. وجاءت العلامات ذات استخدام تصويري أي معبرة عن صورتها، فإذا رسم إنساناً فإنه يقصد التعبير عن الإنسان، وكذلك الحال بالنسبة لأعضاء جسم الإنسان، أو الحيوان وأعضائه. وكذلك بالنسبة إلى التعبير عن الطيور بأنواعها والزواحف بأنواعها والحشرات وهكذا. ثم هناك تعبيرات عن الأشجار والنباتات والجبال والبحار والأنهار، أمثلة:
rˁشمسprبيتswtاندفاع (t مُكمل صوتي)ḏwجبلnṯrمدخل المعبدbȝعصفور برأس بشرية وامامه مبخرة (المعنى الحرفي لبا (أساطير فرعونية))، ومعناها روحروح، «با (أساطير فرعونية)»dšr«البشروس» -النطق الصوتي لها هو «دشر»، ومعناها "أحمر" وهي تعبر أيضاً عن الصحراء لكون لونه أحمر، فالصحراء ليست أرض خصبة خضراء. ربما جاءت من كلمة "دشر" الفرعونية كلمة "دسرت" desert الإنجليزية.
وتستخدم البومة للتعبير عن البومة نفسها، وموجة المياه للتعبير عن المياه بوجه عام سواء من حيث المصدر أو الاستخدام. واختاروا شكلاً هندسيًّا معيناً للتعبير عن البيت (حجرة ذات باب)، وشكلاً آخراً دائريًّا بشارعين متقاطعين للتعبير عن "المدينة". والعلامة التي تمثل القلب والقصبة الهوائية للتعبير عنهما كأجزاء من جسم الإنسان. وفي كل هذه العلامات التصويرية كان لا بد من استخدام شرطة رأسية أسفل العلامة في معظم الأحيان لتؤكد أن العلامة تعبر عن نفسها وتشير إلى مضمونها، أي تصور نفسها دون أن تكون لها قيمة صوتية. وإما صيغة الجمع فكانوا يكتبون بجانب الرمز ثلاثة شرطات.
ونستطيع أن نشير إلى بعض المناطق في شمال البلاد ووسطها وجنوبها ذات الثقل الفكري على امتداد التاريخ المصري القديم أوفي فترة محددة منه. فهناك مدينة العلم والثقافة والفكر الديني "هليوبوليس" - عين شمس - المطرية والتي كانت تعرف باسم "أون" مركز عبادة الشمس ومنبع نظرية هامة من نظريات تصور المصري القديم عن خلق الكون أسطورة التاسوع المقدس، وهي أسطورة التفتت لها أنظار الفلاسفة ورجال العلم من بلاد اليونان. وهناك مدينة منف العظيمة أقدم العواصم المصرية (حالياً ميت رهينة - مركز البدرشين - محافظة الجيزة) مركز عبادة الإله بتاح، أحد أهم الآلهة المصرية ومصدر إحدى نظريات خلق الكون. ثم هناك في مصر الوسطى في محافظة المنيا وبالتحديد قرية الأشمونين مركز ملوي. الأشمونين كانت مركزاً لعبادة الإله تحوت إله الحكمة والمعرفة، ومنها خرجت أيضاً إحدى نظريات الخلق "نظرية الثامون" ثم هناك في صعيد مصر وفي منطقة أبيدوس (العرابة المدفونة - مركز البلينا - محافظة سوهاج) حيث المركز الرئيسي لعبادة إله الخير ورب العالم الآخر أوزوريس. وفي سوهاج أيضاً منطقة ثني (طيبة) التي يظن أنها قرية البربا (مركز جرجا - محافظة سوهاج) والتي خرج منها الملك نارمر وأسرته لتوحيد قطري مصر. وعلى بعد حوالي 20 كم شمال إدفو نجد في شرق وغرب النيل مدينتي "نخب" و"نخن" عاصمتي الجنوب قبل توحيد قطري مصر، ومركز عبادة الإلهة ذات الشأن الكبير في العقائد المصرية، الإلهة "نخبت". وعودة إلى شمال البلاد إلى قرية بوتو (إبطو - تل الفراعين - مركز دسوق - محافظة كفر الشيخ) عاصمة مصر قبل توحيد القطرين ومركز عبادة إحدى الإلهات البارزات في مصر القديمة وهي الإلهة "واجيت" مصورة في هيئة ثعبان.
ونعود للعلامات التصويرية التي أدرك المصري بمرور الوقت أنها غير كافية للتعبير عن أفكاره ونشاطاته وتصوراته للعالمين العلوي والسفلي (عالم الأحياء وعالم الموتى)، وعليه فقد أخذ المصري يطور من استخدام العلامة ليتقلص دورها التصويري بالتدريج ويبدأ دورها الصوتي لتعطي كل علامة صوتاً واحداً أو صوتين أو ثلاثة وفي حالات قليلة أربعة.
أدوات التعريف
اتجاه القراءة
معظم النصوص المصرية الهيروغليفية مكتوبة من اليمين لليسار مثل اللغة العربية واللغة العبرية. وذلك بنسبة 96% تقريباً. فقط حوالي 4% من هذه النصوص مكتوبة من اليسار لليمين مثل اللغة الإنجليزية. وهذه الحقيقة تتضح بجلاء في نصوص الأهرام. وهي أكثر النصوص المصرية كثافة. ثم نصوص كتاب الموتى. ونصوص حجر باليرمو ونصوص حجر رشيد ونصوص المقابر والمعابد والأكفان والتوابيت والمسلات وغيرها من عشرات النصوص المسجلة على كافة الأوساط المصرية القديمة.
وعلى المعابد والمسلات تكتب الهيروعليفية بلا صعوبة من فوق إلى أسفل. هذا مانجده مثلاً على جانبي باب، نجدهما مكتوبان من اعلى إلى أسفل بنفس النص تقريباً على ناحتي الباب. وفوقهما نجد كتابة من اليمين إلى اليسار.
اعتبر قدماء المصريين أن الإله جحوتي علمهم الكتابة وعلمهم الحساب. لهذا يقدرونه دائماً على مر العصور. وأحبوا الكتابة وكتبوا بأسهاب وكان الكتبة يتعلمون الكتابة والحساب وبعضهم يتعلم الهندسة أو الطب بالغضافة إلى الكتابة. كان كل كبير في مصر يفخر بأن يضيف إلى اسمه وظيفته ككاتب، أو ككاتب ومهندس، أو ككاتب وطبيب أو كاتب ورئيس أطباء القصر.
شكل الكتابة
لكن من الناحية النظرية يمكن أن تكتب الكلمات من اليمين لليسار أو من اليسار لليمين ونعرف اتجاه الكتابة من اتجاه أوجه صور العلامات، فإذا كان وجه علامة النسر مثلاً: ينظر لليمين فإن اتجاه الكتابة يكون من اليمين لليسار.
أما إذا كانت أوجه العلامات تنظر لليسار فإن اتجاه الكتابة يكون من اليسار لليمين كما يمكن كتابة العلامات أو الكلمات أو المصرية من أعلى لأسفل دون الإخلال بالمعنى كما هو واضح في نصوص الأهرام.
والعبارة الواحدة أو الكلمة الواحدة يمكن أن تحتوي على حروف أو علامات مرصوصة أفقياً ورأسياً في آن واحد والذي يحكم ذلك هو توفير مساحة الكتابة لأقصى حد ممكن لأن المصريين القدماء كانوا يكتبون نصوصهم بالحفر على الصخر فكان لا بد من توفير أكبر قدر ممكن من مساحة الكتابة ولنفس هذا السبب يمكن أن تكتب الحروف أو العلامات داخل بعضها البعض مما يوفر مقداراً أكبر من مساحة الكلمات، كما أن الشكل الجمالي للكلمة يلعب أيضاً دوراً مهما في هذا الأمر.
حجر رشيد واللغة المصرية القديمة
الحجر فهو من البازلت الأسود، وأما المكان فهو رشيد إحدى مدن محافظة البحيرة، وأما الزمان فهو196ق.م، 1799م. وأما التاريخ الأول فهو تاريخ تسجيل النص على الحجر في عهد الملك بطليموس الخامس، وأما التاريخ الثاني فهو عام الكشف عن هذا الحجر من قبل جنود الحملة الفرنسية أثناء قيامهم بحفر خندق حول قلعة جوليان (طابية رشيد) بالقرب من مدينة رشيد، وأما الإنسان فهو العالم الفرنسي الشاب شامبليون.
من حسن حظ الحضارة المصرية أن كشف عن حجر رشيد عام 1799م، ذلك الحجر الذي ضم مفاتيح اللغة المصرية القديمة والذي لولاه لظلت الحضارة المصرية غامضة لا ندري من أمرها شيئاً لأننا لا نستطيع أن نقرأ الكتابات التي دونها المصريون القدماء على آثارهم. فقد حصل الشاب الفرنسي شامبليون، كما حصل غيره من الباحثين، على نسخة من الحجر وعكف على دراسته مبدياً اهتماماً شديداً بالخط الهيروغليفي ومعتمداً على خبرته الطويلة في اللغة اليونانية القديمة، وفي اللغات القديمة بوجه عام.
حجر رشيد المحفوظ حالياً في المتحف البريطاني من البازلت الأسود غير منتظم الشكل، ارتفاعه 113سم وعرضه 75سم وسمكه 27.5سم وقد فقدت أجزاء منه في أعلاه وأسفله. ويتضمن الحجر من بين ما يتضمن مرسوماً صدر حوالي عام 196ق.م من قبل الكهنة المجتمعين في مدينة منف (ميت رهينة - مركز البدر شين - محافظة الجيزة) يشكرون فيه الملك بطليموس الخامس لقيامه بوقف الأوقاف على المعابد وإعفاء الكهنة من بعض الالتزامات.
وقد سجل هذا المرسوم بخطوط ثلاثة هي حسب ترتيب كتابتها من أعلى إلى أسفل: الهيروغليفية، والديموطيقية واليونانية، وقد فقد الجزء الأكبر من الخط الهيروغليفي وجزء بسيط من النص اليوناني. لقد أراد الكهنة أن يسجلوا هذا العرفان بالفضل للملك البطلمي بالخط الرسمي وهو الخط الهيروغليفي، وخط الحياة اليومية السائد في هذه الفترة وهو الخط الديموطيقي، ثم بالخط اليوناني وهو الخط الذي تكتب به لغة البطالمة الذين كانوا يحتلون مصر. وكان المكتشفون للحجر قد اقترحوا أن الحجر يتضمن نصًّا واحداً بخطوط ثلاثة مختلفة، واتضح فيما بعد أن اقتراحهم كان صائباً وبعد نقل الحجر إلى القاهرة أمر نابليون بإعداد عدة نسخ منه لتكون في متناول المهتمين في أوروبا بوجه عام وفي فرنسا بوجه خاص بالحضارة المصرية. وكان الحجر قد وصل إلى بريطانيا عام 1802بمقتضى اتفاقية أبرمت بين إنجلترا وفرنسا تسلمت إنجلترا بمقتضاها الحجر وآثارًا أخرى. وبدأ الباحثون بترجمة النص اليوناني، وأبدى الباحثان سلفستر دي ساسي وأكربلاد اهتمامًا خاصًّا بالخط الديموطيقي.
وجاءت أولى الخطوات الهامة في مجال الخط الهيروغليفي على يد العلم الإنجليزي توماس يونج الذي حصل على نسخة من حجر رشيد عام 1814م وافترض أن الخراطيش تحتوي على أسماء ملكية واعتمد على نصوص أخرى مشابهة كالمسلة التي عثر عليها في فيلة عام 1815م والتي تضمنت نصًّا باليونانية وآخر بالهيروغليفية. ورغم كل الجهود السابقة في فك رموز حجر رشيد إلا أن الفضل الأكبر يرجع للعالم الفرنسي "جان فرانسوا شامبليون" (1790-1832).
كان على شامبليون أن تواجهه مجموعة من الافتراضات أولها: هل الخطوط الثلاثة (الهيروغليفية - الديموطيقية - اليونانية) تمثل ثلاثة نصوص مختلفة من حيث المضمون أم أنها تمثل موضوعاً واحداً ولكنه كتب بالخط الرسمي (الهيروغليفي)، وخط الحياة اليومية السائد في هذه الفترة (الديموطيقي) ثم بلغة اليونانيين الذين كانوا يحتلون مصر.
جهود العلماء العرب في فك الرموز الكتابة المصرية القديمة
جرى العرف ونحن نتحدث عن الجهود التي بذلها العلماء لفك رموز الكتابة المصرية القديمة أن نشير إلى جهود "توماس يونج" و"أكر بلاد" و"شامبليون".
ورغم أن هؤلاء الباحثين قد توصلوا إلى فك رموز الكتابة المصرية القديمة، وخصوصاً "جان فرانسوا شامبليون، وكان ذلك في عام 1822م، إلا أن بعض الدراسات على امتداد فترات زمنية متباعدة (وكان آخرها وأهمها دراسة الزميل الدكتور عكاشة الدالى التي نال بها درجة الدكتوراه) أثبتت أن العلماء المسلمين العرب قد بذلوا جهوداً مضنية - وإن لم تنجح نجاحاً كبيراً - للتعرف على القيمة الصوتية والمعاني لبعض المفردات المصرية القديمة.
لقد ثبت مدى اهتمام بعض العلماء المسلمين العرب بالكتابة المصرية القديمة من خلال المخطوطات التي تركوها لنا. والتي تكشف عن طبيعة المحاولات التي قاموا بها، وهى محاولات كشف عنها بعض المستشرقين الأوربيين، مثل المستشرق النمساوى "جوزيف همرفون برجسترال" في عام 1806 بمدينة لندن. حيث قام بنشر النص العربي مع ترجمة بالإنجليزية لكتاب ابن وحشية «شوق المستهام في معرفة رموز الأقلام»، والذي يؤرخ للقرن التاسع الميلادي. وفي عام 1909م نشر "بلوشيه" مجموعة من المقالات حول مذهب العارفين بالله والتي أشار فيها إلى نجاح بعض العلماء العرب في التعرف على بعض العلامات الهيروغليفية.
لقد أبدى بعض العلماء في العصر الإسلامي اهتماماً كبيراً بالخط الهيروغليفي، وخاصة علماء الكيمياء الذين تصوروا أن اللغة المصرية القديمة تحمل الكثير من أسرار الكيمياء، وخصوصاً تحويل المعادن العادية إلى معادن نفيسة. وأبدى نفس الاهتمام بعض علماء الصوفية اعتقاداً منهم في أن غموض العلامات المصرية القديمة يتطلب جهداً للكشف عنه.
لقد كان العلماء العرب على دراية بالصور المختلفة للعلامات المصرية القديمة. فالعلامة "ابن الفاتك" (ق. 10-11م) يشير إلى معرفة "بيثاجورس" بخطوط اللغة المصرية القديمة، خط العامة (الديموطيقي)، وخط الكهنة (الهيراطيقي)، وخط الملوك (الهيروغليفي).
وإذا أردنا أن نلقي الضوء في إيجاز على بعض العلماء العرب الذين حاولوا فك رموز الكتابة المصرية القديمة، فيأتي على رأسهم عالم الكيمياء جابر بن حيان (ق. 7-8م) الذي ضمن كتابيه «حل الرموز ومفاتيح الكنوز» و«الحاصل» محاولات لقراءة بعض رموز الكتابة الهيروغليفية.
ثم هناك العالم المصري أيوب ابن مسلمة الذي صحب الخليفة "العباس المأمون" خلال زيارته لمصر، وورد أنه تمكن من قراءة بعض النقوش المصرية القديمة ويعتقد انه هو مؤلف «اقلام المتقدمين». ومن أبرز العلماء العرب ذو النون المصري (ق.9م) الذي ولد بأخميم (إحدى مدن محافظة سوهاج)، وذكر أنه كان يجيد قراءة النصوص التي سجلت على جدران المعابد. ومن أهم ما ترك من مؤلفات كتابه «حل الرموز وبرأ الأسقام في كشف أصول اللغات والأقلام»، والذي تضمن دراسات للكثير من الخطوط القديمة من بينها الهيروغليفية. وقد ورد في بعض صفحات هذا العمل بعض العلامات الهيروغليفية مصحوبة بالقيمة الصوتية كما تصورها.
وأيضاً ابن الدريهم في كتابه «مفتاح الكنوز في إيضاح المرموز»، وابن إسحاق الكندي في «رسالة الكندي في استخراج المعمي»، وكتاب «شمس الشموس وقمر الاقمار في كشف رموز الهرامسة وما لها من الخفايا والأسرار» لابن وحشية.
الهوامش
مصادر
عبد الحليم نور الدين، اللغة المصرية القديمة، الخليج العربي للطباعة والنشر، الطبعة الثانية، القاهرة 1998.
محمد حماد، تعلم الهيرغليفية:لغة مصر القديمة وأصول الخطوط العالمية.
من موسوعة حضارة العالم أنشأها أحمد محمد عوف،الناشر ويكي الكتب، الجزء الثالث: حضارة عربية.
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Polycyclic aromatic hydrocarbons (PAHs, also polyaromatic hydrocarbons or polynuclear aromatic hydrocarbons[1]) are hydrocarbons—organic compounds containing only carbon and hydrogen—that are composed of multiple aromatic rings (organic rings in which the electrons are delocalized). The simplest such chemicals are naphthalene, having two aromatic rings, and the three-ring compounds anthracene and phenanthrene.
PAHs are uncharged, non-polar molecules found in coal and in tar deposits. They are also produced by the thermal decomposition of organic matter (for example, in engines and incinerators or when biomass burns in forest fires).
PAHs are abundant in the universe, and have recently been found to have formed possibly as early as the first couple of billion years after the Big Bang, in association with formation of new stars and exoplanets. Some studies suggest that PAHs account for a significant percentage of all carbon in the universe.
Polycyclic aromatic hydrocarbons are discussed as possible starting materials for abiotic syntheses of materials required by the earliest forms of life.
Nomenclature, structure, properties
Nomenclature and structure
The tricyclic species phenanthrene and anthracene represent the starting members of the PAHs.[2] Smaller molecules, such as benzene, are not PAHs, and PAHs are not generally considered to contain heteroatoms or carry substituents.[3]
PAHs with five or six-membered rings are most common. Those composed only of six-membered rings are called alternant PAHs, which include benzenoid PAHs.[4] The following are examples of PAHs that vary in the number and arrangement of their rings:
Principal PAH Compounds
Anthracene
Phenanthrene
Tetracene
Chrysene
Triphenylene
Pyrene
Pentacene
Benzo[a]pyrene
Corannulene
Benzo[ghi]perylene
Coronene
Ovalene
Benzo[c]fluorene
Physicochemical properties and bonding
PAHs are nonpolar and lipophilic. Larger PAHs are generally insoluble in water, although some smaller PAHs are soluble and known contaminants in drinking water.[5][6] The larger members are also poorly soluble in organic solvents and in lipids. They are usually colorless.
The aromaticity varies for PAHs. According to Clar's rule,[7] the resonance structure of a PAH that has the largest number of disjoint aromatic pi sextets—i.e. benzene-like moieties—is the most important for the characterization of the properties of that PAH.[8]
Benzene-substructure resonance analysis for Clar's rule
Phenanthrene
Anthracene
Chrysene
For example, in phenanthrene one Clar structure has two sextets—the first and third rings—while the other resonance structure has just one central sextet; therefore in this molecule the outer rings have greater aromatic character whereas the central ring is less aromatic and therefore more reactive. In contrast, in anthracene the resonance structures have one sextet each, which can be at any of the three rings, and the aromaticity spreads out more evenly across the whole molecule. This difference in number of sextets is reflected in the differing ultraviolet–visible spectra of these two isomers, as higher Clar pi-sextets are associated with larger HOMO-LUMO gaps;[9] the highest-wavelength absorbance of phenanthrene is at 293nm, while anthracene is at 374nm.[10] Three Clar structures with two sextets each are present in the four-ring chrysene structure: one having sextets in the first and third rings, one in the second and fourth rings, and one in the first and fourth rings. Superposition of these structures reveals that the aromaticity in the outer rings is greater (each has a sextet in two of the three Clar structures) compared to the inner rings (each has a sextet in only one of the three).
Polycyclic aromatic compounds characteristically reduce to the radical anions. The redox potential correlates with the size of the PAH.
Sources and distribution
Polycyclic aromatic hydrocarbons are primarily found in natural sources such as creosote.[13][14] They can result from the incomplete combustion of organic matter. PAHs can also be produced geologically when organic sediments are chemically transformed into fossil fuels such as oil and coal.[15] PAHs are considered ubiquitous in the environment and can be formed from either natural or manmade combustion sources.[16] The dominant sources of PAHs in the environment are thus from human activity: wood-burning and combustion of other biofuels such as dung or crop residues contribute more than half of annual global PAH emissions, particularly due to biofuel use in India and China.[17] As of 2004, industrial processes and the extraction and use of fossil fuels made up slightly more than one quarter of global PAH emissions, dominating outputs in industrial countries such as the United States.[17] Wildfires are another notable source.[17] Substantially higher outdoor air, soil, and water concentrations of PAHs have been measured in Asia, Africa, and Latin America than in Europe, Australia, the U.S., and Canada.[17]
PAHs are typically found as complex mixtures.[15][18] Lower-temperature combustion, such as tobacco smoking or wood-burning, tends to generate low molecular weight PAHs, whereas high-temperature industrial processes typically generate PAHs with higher molecular weights.[18]
In the aqueous environment
Most PAHs are insoluble in water, which limits their mobility in the environment, although PAHs sorb to fine-grained organic-rich sediments.[19][20][21][22] Aqueous solubility of PAHs decreases approximately logarithmically as molecular mass increases.[23]
Two-ringed PAHs, and to a lesser extent three-ringed PAHs, dissolve in water, making them more available for biological uptake and degradation.[22][23][24] Further, two- to four-ringed PAHs volatilize sufficiently to appear in the atmosphere predominantly in gaseous form, although the physical state of four-ring PAHs can depend on temperature.[25][26] In contrast, compounds with five or more rings have low solubility in water and low volatility; they are therefore predominantly in solid state, bound to particulate air pollution, soils, or sediments.[22] In solid state, these compounds are less accessible for biological uptake or degradation, increasing their persistence in the environment.[23][27]
In galaxies
Spiral galaxy NGC 5529 has been found to have amounts of PAHs.
Human exposure
Human exposure varies across the globe and depends on factors such as smoking rates, fuel types in cooking, and pollution controls on power plants, industrial processes, and vehicles.[15][17][28] Developed countries with stricter air and water pollution controls, cleaner sources of cooking (i.e., gas and electricity vs. coal or biofuels), and prohibitions of public smoking tend to have lower levels of PAH exposure, while developing and undeveloped countries tend to have higher levels.[15][17][28]
Burning solid fuels such as coal and biofuels in the home for cooking and heating is a dominant global source of PAH emissions that in developing countries leads to high levels of exposure to indoor particulate air pollution containing PAHs, particularly for women and children who spend more time in the home or cooking.[17][29]
In industrial countries, people who smoke tobacco products, or who are exposed to second-hand smoke, are among the most highly exposed groups; tobacco smoke contributes to 90% of indoor PAH levels in the homes of smokers.[28] For the general population in developed countries, the diet is otherwise the dominant source of PAH exposure, particularly from smoking or grilling meat or consuming PAHs deposited on plant foods, especially broad-leafed vegetables, during growth.[30] PAHs are typically at low concentrations in drinking water.[28]
Emissions from vehicles such as cars and trucks can be a substantial outdoor source of PAHs in particulate air pollution.[15][17] Geographically, major roadways are thus sources of PAHs, which may distribute in the atmosphere or deposit nearby.[31] Catalytic converters are estimated to reduce PAH emissions from gasoline-fired vehicles by 25-fold.[15]
People can also be occupationally exposed during work that involves fossil fuels or their derivatives, wood burning, carbon electrodes, or exposure to diesel exhaust.[32][33] Industrial activity that can produce and distribute PAHs includes aluminum, iron, and steel manufacturing; coal gasification, tar distillation, shale oil extraction; production of coke, creosote, carbon black, and calcium carbide; road paving and asphalt manufacturing; rubber tire production; manufacturing or use of metal working fluids; and activity of coal or natural gas power stations.[15][32][33]
Environmental distribution and degradation
PAHs typically disperse from urban and suburban non-point sources through road run-off, sewage, and atmospheric circulation and subsequent deposition of particulate air pollution.[34] Soil and river sediment near industrial sites such as creosote manufacturing facilities can be highly contaminated with PAHs.[15] Oil spills, creosote, coal mining dust, and other fossil fuel sources can also distribute PAHs in the environment.[15][35]
Two- and three-ringed PAHs can disperse widely while dissolved in water or as gases in the atmosphere, while PAHs with higher molecular weights can disperse locally or regionally adhered to particulate matter that is suspended in air or water until the particles land or settle out of the water column.[15] PAHs have a strong affinity for organic carbon, and thus highly organic sediments in rivers, lakes, and the ocean can be a substantial sink for PAHs.[31]
Algae and some invertebrates such as protozoans, mollusks, and many polychaetes have limited ability to metabolize PAHs and bioaccumulate disproportionate concentrations of PAHs in their tissues; however, PAH metabolism can vary substantially across invertebrate species.[34][36] Most vertebrates metabolize and excrete PAHs relatively rapidly.[34] Tissue concentrations of PAHs do not increase (biomagnify) from the lowest to highest levels of food chains.[34]
PAHs transform slowly to a wide range of degradation products. Biological degradation by microbes is a dominant form of PAH transformation in the environment.[27][37] Soil-consuming invertebrates such as earthworms speed PAH degradation, either through direct metabolism or by improving the conditions for microbial transformations.[37] Abiotic degradation in the atmosphere and the top layers of surface waters can produce nitrogenated, halogenated, hydroxylated, and oxygenated PAHs; some of these compounds can be more toxic, water-soluble, and mobile than their parent PAHs.[34][38][39]
PAHs in urban soils
The British Geological Survey reported the amount and distribution of PAH compounds including parent and alkylated forms in urban soils at 76 locations in Greater London.[40] The study showed that parent (16 PAH) content ranged from 4 to 67mg/kg (dry soil weight) and an average PAH concentration of 18mg/kg (dry soil weight) whereas the total PAH content (33 PAH) ranged from 6 to 88mg/kg and fluoranthene and pyrene were generally the most abundant PAHs.[40] Benzo[a]pyrene (B<i data-parsoid='{"dsr":[30246,30251,2,2]}'>a</i>P), the most toxic of the parent PAHs, is widely considered a key marker PAH for environmental assessments;[41] the normal background concentration of B<i data-parsoid='{"dsr":[31080,31085,2,2]}'>a</i>P in the London urban sites was 6.9mg/kg (dry soil weight).[40] London soils contained more stable four- to six-ringed PAHs which were indicative of combustion and pyrolytic sources, such as coal and oil burning and traffic-sourced particulates. However, the overall distribution also suggested that the PAHs in London soils had undergone weathering and been modified by a variety of pre-and post-depositional processes such as volatilization and microbial biodegradation.
PAHs in peatlands
Managed burning of moorland vegetation in the UK has been shown to generate PAHs which become incorporated into the peat surface.[42] Burning of moorland vegetation such as heather initially generates high amounts of two- and three-ringed PAHs relative to four- to six-ringed PAHs in surface sediments, however, this pattern is reversed as the lower molecular weight PAHs are attenuated by biotic decay and photodegradation.[42] Evaluation of the PAH distributions using statistical methods such as principal component analyses (PCA) enabled the study to link the source (burnt moorland) to pathway (suspended stream sediment) to the depositional sink (reservoir bed).[42]
PAHs in rivers, estuarine and coastal sediments
Concentrations of PAHs in river and estuarine sediments vary according to a variety of factors including proximity to municipal and industrial discharge points, wind direction and distance from major urban roadways, as well as tidal regime which controls the diluting effect of generally cleaner marine sediments relative to freshwater discharge.[43][44] Consequently, the concentrations of pollutants in estuaries tends to decrease at the river mouth.[45] Understanding of sediment hosted PAHs in estuaries is important for the protection of commercial fisheries (such as mussels) and general environmental habitat conservation because PAHs can impact the health of suspension and sediment feeding organism.[46] River-estuary surface sediments in the UK tend to have a lower PAH content than sediments buried 10–60cm from the surface reflecting lower present day industrial activity combined with improvement in environmental legislation of PAH.[44] Typical PAH concentrations in UK estuaries range from about 19 to 16,163µg/kg (dry sediment weight) in the River Clyde and 626 to 3,766µg/kg in the River Mersey.[44][47] In general estuarine sediments with a higher natural total organic carbon content (TOC) tend to accumulate PAHs due to high sorption capacity of organic matter.[47] A similar correspondence between PAHs and TOC has also been observed in the sediments of tropical mangroves located on the coast of southern China.[48]
Minor sources
Volcanic eruptions may emit PAHs.[15] Certain PAHs such as perylene can also be generated in anaerobic sediments from existing organic material, although it remains undetermined whether abiotic or microbial processes drive their production.[49][50][51]
Human health
Cancer is a primary human health risk of exposure to PAHs.[52] Exposure to PAHs has also been linked with cardiovascular disease and poor fetal development.
Cancer
PAHs have been linked to skin, lung, bladder, liver, and stomach cancers in well-established animal model studies.[52] Specific compounds classified by various agencies as possible or probable human carcinogens are identified in the section "Regulation and Oversight" below.
Historical significance
Historically, PAHs contributed substantially to our understanding of adverse health effects from exposures to environmental contaminants, including chemical carcinogenesis.[53] In 1775, Percivall Pott, a surgeon at St. Bartholomew’s Hospital in London, observed that scrotal cancer was unusually common in chimney sweepers and proposed the cause as occupational exposure to soot.[54] A century later, Richard von Volkmann reported increased skin cancers in workers of the coal tar industry of Germany, and by the early 1900s increased rates of cancer from exposure to soot and coal tar was widely accepted. In 1915, Yamigawa and Ichicawa were the first to experimentally produce cancers, specifically of the skin, by topically applying coal tar to rabbit ears.[54]
In 1922, Ernest Kennaway determined that the carcinogenic component of coal tar mixtures was an organic compound consisting of only carbon and hydrogen. This component was later linked to a characteristic fluorescent pattern that was similar but not identical to benz[a]anthracene, a PAH that was subsequently demonstrated to cause tumors.[54] Cook, Hewett and Hieger then linked the specific spectroscopic fluorescent profile of benzo[a]pyrene to that of the carcinogenic component of coal tar,[54] the first time that a specific compound from an environmental mixture (coal tar) was demonstrated to be carcinogenic.
In the 1930s and later, epidemiologists from Japan, the UK, and the US, including Richard Doll and various others, reported greater rates of death from lung cancer following occupational exposure to PAH-rich environments among workers in coke ovens and coal carbonization and gasification processes.[55]
Mechanisms of carcinogenesis
The structure of a PAH influences whether and how the individual compound is carcinogenic.[52][56] Some carcinogenic PAHs are genotoxic and induce mutations that initiate cancer; others are not genotoxic and instead affect cancer promotion or progression.[56][57]
PAHs that affect cancer initiation are typically first chemically modified by enzymes into metabolites that react with DNA, leading to mutations. When the DNA sequence is altered in genes that regulate cell replication, cancer can result. Mutagenic PAHs, such as benzo[a]pyrene, usually have four or more aromatic rings as well as a "bay region", a structural pocket that increases reactivity of the molecule to the metabolizing enzymes.[58] Mutagenic metabolites of PAHs include diol epoxides, quinones, and radical PAH cations.[58][59][60] These metabolites can bind to DNA at specific sites, forming bulky complexes called DNA adducts that can be stable or unstable.[54][61] Stable adducts may lead to DNA replication errors, while unstable adducts react with the DNA strand, removing a purine base (either adenine or guanine).[61] Such mutations, if they are not repaired, can transform genes encoding for normal cell signaling proteins into cancer-causing oncogenes.[56] Quinones can also repeatedly generate reactive oxygen species that may independently damage DNA.[58]
Enzymes in the cytochrome family (CYP1A1, CYP1A2, CYP1B1) metabolize PAHs to diol epoxides.[62] PAH exposure can increase production of the cytochrome enzymes, allowing the enzymes to convert PAHs into mutagenic diol epoxides at greater rates.[62] In this pathway, PAH molecules bind to the aryl hydrocarbon receptor (AhR) and activate it as a transcription factor that increases production of the cytochrome enzymes. The activity of these enzymes may at times conversely protect against PAH toxicity, which is not yet well understood.[62]
Low molecular weight PAHs, with two to four aromatic hydrocarbon rings, are more potent as co-carcinogens during the promotional stage of cancer. In this stage, an initiated cell (a cell that has retained a carcinogenic mutation in a key gene related to cell replication) is removed from growth-suppressing signals from its neighboring cells and begins to clonally replicate.[63] Low-molecular-weight PAHs that have bay or bay-like regions can dysregulate gap junction channels, interfering with intercellular communication, and also affect mitogen-activated protein kinases that activate transcription factors involved in cell proliferation.[63] Closure of gap junction protein channels is a normal precursor to cell division. Excessive closure of these channels after exposure to PAHs results in removing a cell from the normal growth-regulating signals imposed by its local community of cells, thus allowing initiated cancerous cells to replicate. These PAHs do not need to be enzymatically metabolized first. Low molecular weight PAHs are prevalent in the environment, thus posing a significant risk to human health at the promotional phases of cancer.
Cardiovascular disease
Adult exposure to PAHs has been linked to cardiovascular disease.[64] PAHs are among the complex suite of contaminants in tobacco smoke and particulate air pollution and may contribute to cardiovascular disease resulting from such exposures.[65]
In laboratory experiments, animals exposed to certain PAHs have shown increased development of plaques (atherogenesis) within arteries.[66] Potential mechanisms for the pathogenesis and development of atherosclerotic plaques may be similar to the mechanisms involved in the carcinogenic and mutagenic properties of PAHs.[66] A leading hypothesis is that PAHs may activate the cytochrome enzyme CYP1B1 in vascular smooth muscle cells. This enzyme then metabolically processes the PAHs to quinone metabolites that bind to DNA in reactive adducts that remove purine bases. The resulting mutations may contribute to unregulated growth of vascular smooth muscle cells or to their migration to the inside of the artery, which are steps in plaque formation.[65][66] These quinone metabolites also generate reactive oxygen species that may alter the activity of genes that affect plaque formation.[66]
Oxidative stress following PAH exposure could also result in cardiovascular disease by causing inflammation, which has been recognized as an important factor in the development of atherosclerosis and cardiovascular disease.[67][68] Biomarkers of exposure to PAHs in humans have been associated with inflammatory biomarkers that are recognized as important predictors of cardiovascular disease, suggesting that oxidative stress resulting from exposure to PAHs may be a mechanism of cardiovascular disease in humans.[69]
Developmental impacts
Multiple epidemiological studies of people living in Europe, the United States, and China have linked in utero exposure to PAHs, through air pollution or parental occupational exposure, with poor fetal growth, reduced immune function, and poorer neurological development, including lower IQ.[70][71][72][73]
Regulation and oversight
Some governmental bodies, including the European Union as well as NIOSH and the Environmental Protection Agency (EPA) in the US, regulate concentrations of PAHs in air, water, and soil.[74] The European Commission has restricted concentrations of 8 carcinogenic PAHs in consumer products that contact the skin or mouth.[75]
Priority polycyclic aromatic hydrocarbons identified by the US EPA, the US Agency for Toxic Substances and Disease Registry (ATSDR), and the European Food Safety Authority (EFSA) due to their carcinogenicity or genotoxicity and/or ability to be monitored are the following:[76][77][78]
Considered probable or possible human carcinogens by the US EPA, the European Union, and/or the International Agency for Research on Cancer (IARC).[78][1]
Detection and optical properties
A spectral database exists[79] for tracking polycyclic aromatic hydrocarbons (PAHs) in the universe.[80] Detection of PAHs in materials is often done using gas chromatography-mass spectrometry or liquid chromatography with ultraviolet-visible or fluorescence spectroscopic methods or by using rapid test PAH indicator strips.
PAHs possess very characteristic UV absorbance spectra. These often possess many absorbance bands and are unique for each ring structure. Thus, for a set of isomers, each isomer has a different UV absorbance spectrum than the others. This is particularly useful in the identification of PAHs. Most PAHs are also fluorescent, emitting characteristic wavelengths of light when they are excited (when the molecules absorb light). The extended pi-electron electronic structures of PAHs lead to these spectra, as well as to certain large PAHs also exhibiting semi-conducting and other behaviors.
Origins of life
PAHs may be abundant in the universe.[81][82][83][84] They seem to have been formed as early as a couple of billion years after the Big Bang, and are associated with new stars and exoplanets.[79] More than 20% of the carbon in the universe may be associated with PAHs.[79] PAHs are considered possible starting material for the earliest forms of life.[79][83]
Light emitted by the Red Rectangle nebula and found spectral signatures that suggest the presence of anthracene and pyrene.[85][86] This report was considered a controversial hypothesis that as nebulae of the same type as the Red Rectangle approach the ends of their lives, convection currents cause carbon and hydrogen in the nebulae's cores to get caught in stellar winds, and radiate outward. As they cool, the atoms supposedly bond to each other in various ways and eventually form particles of a million or more atoms. Adolf Witt and his team inferred[85] that PAHs—which may have been vital in the formation of early life on Earth—can only originate in nebulae.[86]
More recently, fullerenes (or "buckyballs"), have been detected in other nebulae.[88] Fullerenes are also implicated in the origin of life; according to astronomer Letizia Stanghellini, "It's possible that buckyballs from outer space provided seeds for life on Earth."[89] In September 2012, NASA scientists reported results of analog studies in vitro that PAHs, subjected to interstellar medium (ISM) conditions, are transformed, through hydrogenation, oxygenation, and hydroxylation, to more complex organics—"a step along the path toward amino acids and nucleotides, the raw materials of proteins and DNA, respectively".[90][91] Further, as a result of these transformations, the PAHs lose their spectroscopic signature which could be one of the reasons "for the lack of PAH detection in interstellar ice grains, particularly the outer regions of cold, dense clouds or the upper molecular layers of protoplanetary disks."[90][91]
NASA's Spitzer Space Telescope includes instruments for obtaining both images and spectra of light emitted by PAHs associated with star formation. These images can trace the surface of star-forming clouds in our own galaxy or identify star forming galaxies in the distant universe.[92]
In June 2013, PAHs were detected in the upper atmosphere of Titan, the largest moon of the planet Saturn.[93]
In October 2018, researchers reported low-temperature chemical pathways from simple organic compounds to complex PAHs. Such chemical pathways may help explain the presence of PAHs in the low-temperature atmosphere of Saturn's moon Titan, and may be significant pathways, in terms of the PAH world hypothesis, in producing presursors to biochemcals related to life as we know it.[94][95]
See also
Chicken wire (chemistry)
F number
Graphene
U.S. Department of Health and Human Services
NASA Spitzer Space Telescope
Aromatic World An interview with Professor Pascale Ehrenfreund on PAH origin of life. Accessed June 2006
focused on new technologies and emerging health risks of Polycyclic Aromatic Hydrocarbons (PAHs)
. U.S. Environmental Protection Agency, Office of Solid Waste, January 2008.
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మిరపకాయ నాహూటల్ చిల్లీ నుంచి ఉద్భవించిన ఈ పదాన్ని చిల్లీ పెప్పర్ మరియు చిల్లి అని కూడాసంభోదిస్తుంటారు. ఇది సొలనేసి కుటుంబం, మిరప కాప్సికమ్ తరగతికి చెందిన మొక్కలకు కాచే కాయ[1].
మిరపకాయలనేవి మొదట అమెరికాలోవెలుగుచూశాయి. అమెరికాలో యూరోపియన్లు కాలిడిన తర్వాత, మిరపకాయలకు సంబంధించిన అనేక రకాలు ప్రపంచవ్యాప్తంగా విస్తరించడంతో పాటు ఆహారం మరియు ఔషధాల తయారీల్లో ఉపయోగించడం ప్రారంభమైంది. భారతదేశంలో గుంటూరు మరియు పరిసరజిల్లాలు మిరపపంటకు ప్రసిద్ధి. ఈ పంట డిసెంబరు నుండి మే వరకు కోతలు వుంటాయి. భారత మసాల మండలి ప్రకారం సంవత్సరానికి 2,80,000 టన్నుల [2] పంట పండుతున్నది. ఇంకా ఇతర రకాలు దేశంలో పలు చోట్ల ప్రసిద్ధికెక్కాయి.
మిరపకాయలు ఘాటుగా వుంటాయి. తెలుగు వారికి మిరపకాయలను కూరలలో వాడటంతోపాటు, వాటితో చేసిన బజ్జీలను తినడం చాలా ఇష్టం. మిరప పండ్లను తాజాగా లేదా ఎండిన రూపంలో ఉపయోగించడం జరుగుతోంది.దీనిని సుదీర్ఘకాలం పాటు నిల్వచేయడానికి వీలుగా వాటిని ఎండబెట్టడం జరుగుతోంది. అలాగే తాజా మిరప పండ్లను ఊరగాయ వేయడం ద్వారా కూడా దీర్ఘకాలం నిల్వచేయడం జరుగుతోంది. మిరపకాయలను వంటలలో, వైద్యపరంగా, రక్షణకు, మనస్సుని దిటవు పరచుకోటానికి, ఆహర పరిరక్షణకు, ఆత్మ రక్షణకు వాడుతారు.
చరిత్ర
అమెరికాలోని ప్రజల ఆహారంలో మిరపకాయలు భాగం కావడమనేది దాదాపు క్రీ.పూ. 7500 నాటినుంచే ప్రారంభమైంది. పురాతత్వశాస్త్ర సాక్ష్యాధారాల ప్రకారం, నైరుతి ఈక్విడార్లో కొలువై ఉన్న ప్రాంతాల్లో 6000 సంవత్సరాలకు పైగా కాలం నుంచి మిరపకాయల పెంపకం అమలులో ఉంటోంది[3][4]. అలాగే మధ్య మరియు దక్షిణ అమెరికాల్లో[5] మొట్టమొదట సాగు చేయబడిన పంటల్లో మిరప కూడా ఒకటిగా ఉండడంతో పాటు ఈ పంట స్వపరాగ సంపర్కం లక్షణం కలిగిఉంటోంది.
మిరపకాయలను మొట్టమొదటగా గుర్తించిన వారిలో క్రిస్టోఫర్ కొలంబస్ కూడా ఒకరు. ఆయన వీటిని (కరీబియన్లో కనుగొన్నారు), కనుగొన్న సమయంలో "పెప్పర్స్" అని సంబోధించారు. ఇతర ఆహారపదార్థాల మాదిరిగా కాకుండా కారంగా ఘాటైన రుచితో యూరోప్లో అప్పటికే సుపరిచితమైన పిపెర్ తరగతికి చెందిన నలుపు మరియు తెలుపు పెప్పర్ (మిరియాలు) వలే ఉండడమే అందుకు కారణం. దీనితర్వాత యూరోప్లో పరిచయమైన మిరపకాయలు స్పానిష్ మరియు పోర్చుగీసు మఠాలకు చెందిన తోటల్లో ఔషధపరమైన మొక్కలుగా పెంచబడేవి. అయితే, సదరు మఠాల్లో ఉండే సన్యాసులు ఈ మిరపకాయలను వంట సంబంధిత అంశాల్లో ప్రయోగించి చూడడంతో పాటు మిరపకాయల్లో ఉండే కారం అనే గుణం నల్ల మిరియాల ఉపయోగానికి ప్రత్యామ్నాయంగా ఉంటుందనే విషయాన్ని గుర్తించారు. ఎందుకంటే, ఆరోజుల్లో ఈ నల్ల మిరియాలనేవి అత్యంత ఖరీదైనవిగా ఉండేవి. ఈ కారణంగా అప్పట్లో కొన్ని దేశాల్లో వీటిని చట్టబద్దమైన ద్రవ్యంగా కూడా వినియోగించేవారు.[6]
మిరపకాయలను కొలంబస్ కనుగొన్న తర్వాత ప్రపంచవ్యాప్తంగా వీటిని సాగుచేయడం ప్రారంభమైంది.[7][8] 1493లో వెస్టిండీస్కి రెండో నౌకాయానం చేసిన కొలంబస్కు ఫిజీషియన్ అయిన డిగో అల్వరేజ్ చన్కా, మొట్టమొదటగా మిరపకాయలను స్పెయిన్కు తీసుకొని పోవడంతో పాటు వాటి వైద్యపరమైన ప్రభావాల గురించి 1494లో అక్షరబద్దం చేశారు.
మరోవైపు అప్పట్లో ఆసియాతో వాణిజ్య సంబంధాలు నెరుపుతున్న స్పానిష్ కాలనీ అయిన మెక్సికో నుండి మిరపకాయలు మొదట ఫిలిప్పైన్స్కు వ్యాపించడంతో పాటు అటుపై భారతదేశం, చైనా, ఇండోనేషియా, కొరియా మరియు జపాన్లకు సైతం వేగంగా విస్తరించాయి. ఇలా పలుదేశాలకు విస్తరించిన మిరపకాయలు నెమ్మదిగా అక్కడి స్థానిక వంటకాల్లో భాగమయ్యాయి.
స్పెయిన్ నుంచి మిరపకాయలను పొందిన పోర్చుగీస్ వీటిని భారతదేశంలో సాగుచేయడం సైతం మిరప అనేది అన్ని దేశాలకు విస్తరించడానికి మరో ముఖ్యమైన కారణంగా నిలిచింది.[9] అప్పట్లో మిరపకాయలనేవి పోర్చుగీస్ కాలనీ ప్రాంతమైన భారతదేశంలోని గోవా ప్రాంతంలోని వంటకాల్లో (ఉదాహరణకు భారతీయత అన్వయింపబడిన పోర్చుగీసు వంటకమైన విందాలూ) ప్రముఖంగా దర్శనమిచ్చేవి. ఈ విధంగా మెళ్లగా విస్తరించడం ప్రారంభించిన మిరపకాయలు భారతదేశం నుండి మధ్య ఆసియా మరియు టర్కీల ద్వారా హంగరీ వరకు వ్యాపించాయి. హంగరీలో ఇవి పాప్రికా రూపంలో జాతీయ సుగంధద్రవ్యంగా మారాయి.
జాతులు మరియు సాగు రకాలు
మిరపకు సంబంధించి కింది పేర్కొన్న ఐదు జాతులు ప్రముఖంగా సాగులో ఉన్నాయి:
కాప్సికం అన్నూం, ఈ జాతిలో బొంత మిరపకాయలు, వ్యాక్య్, కయెన్నే, జెలాపెనోస్, మరియు చిల్టెపిన్ లాంటి అనేక సాధారణ రకాలున్నాయి
కాప్సికమ్ ఫ్రూట్సెన్స్, ఇందులో మలగ్యూటా, టబాస్కో మరియు థాయ్ పెప్పర్స్, పిరి పిరి, ఆఫ్రికన్ బర్డ్సే చిల్లీ, మలవియన్ కంబూజి లాంటి రకాలున్నాయి
కాప్సికమ్ చైనెన్స్, ఇందులో బాగా కారంగా ఉండే రకాలైన నాగా, హబానెరో, డాటిల్ మరియు స్కాట్చ్ బొన్నెట్ లాంటివి ఉన్నాయి
కాప్సికమ్ పుబెసీన్స్, ఇందులో దక్షిణ అమెరికా రొకోటో పెప్పర్స్ రకాలున్నాయి
కాప్సికమ్ బకాటమ్, ఇందులో దక్షిణ అమెరికాకు చెందినఅజి పెప్పర్ లాంటి రకాలున్నాయి
సాధారణంగా ఉపయోగించే జాతులు కేవలం కొన్ని మాత్రమే ఉన్నప్పటికీ, వంటకు ఉపయోగించడంలో భాగంగా వివిధ రకాల పేర్లతో అనేక రకాల సాగు పద్ధతులు మరియు మిరపకాయల తయారీ విధానాలు అమలులో ఉన్నాయి. ఉదాహారణకు పచ్చని మరియు ఎర్రని బొద్దు మిరపకాయలు రెండూ కూడా సి. ఆనమ్ అనే ఒకే రకం జాతి నుంచి సాగు చేయబడుతాయి, అయితే, పక్వానికి రాని దశలో ఈ మిరపకాయలు పచ్చని రంగులో ఉంటాయి. జలపెనో, పోబ్లానో అంటారు. ఎండిన దశలో వీటిని ఆంకోగా పిలుస్తారు, న్యూ మెక్సికో ఇది చిల్, అనాహియమ్, సెరానో, మరియు ఇతర సాగు రకాల వంటివి సైతం ఈ జాతుల్లో ఉన్నాయి.
బొద్దు మిరపకాయలు, తీపి మిరపకాయలు, మరియు ఘాటైన మిరపకాయల రూపంలో మిరపకాయలనేవి సాధారణంగా మూడు బృందాలుగా విభజింపబడుతాయి. చాలావరకు ప్రసిద్ధి చెందిన మిరప రకాలన్నీ పైన పేర్కొన్న విభాగాల్లోనూ లేదా ఆయా రకాల మధ్య చోటు చేసుకున్న సంకర రూపాల్లోనో భాగంగా ఉంటాయి.,
ఘాటుదనం
మిరపకాయలకు సహజ గుణమైన ఘాటుదనాన్ని అందించే అంశాలు వాటిలో లోపల గానీ లేదా పై భాగంలో గానీ ఉండవచ్చు. వీటిలో క్యాప్సైసిన్ (8-మిథైల్-ఎన్ -వనిల్లైల్-6-నోనెనామిడ్) మరియు అనేక సంబంధిత రసాయనాలు భాగం వహిస్తాయి, వీటన్నింటినీ కలిపి క్యాప్సైసినాయిడ్స్ అంటారు.[10][11] విపరీతమైన మంటను కలిగించే ఆయుధంగా ఉపయోగించే పెప్పర్ స్ప్రేలో క్యాప్సైసిన్ అనేది ప్రధాన అంశంగా ఉంటుంది.
వినియోగించే సమయంలో, క్యాప్సైసినాయిడ్స్ అనేవి నోరు మరియు గొంతు భాగాల్లోని నొప్పి గ్రాహకాలుతో బంధాన్ని ఏర్పాటు చేస్తాయి. ఈ కారణంగానే మిరపకాయలను తిన్న సమయంలో ఈ భాగాలు ఘాటుదనాన్ని గుర్తించగలుగుతాయి. మిరపకాయల్లోని క్యాప్సైసినాయిడ్స్ ద్వారా క్రియాశీలకం అయినపుడు నోరు, గొంతులో ఉన్న గ్రాహాకాలు తాము ఘాటైన పదార్థం చేత ప్రభావితమవుతున్నామనే సందేశాన్ని మెదడుకు అందజేస్తాయి. దీంతో హృదయ స్పందన రేటును పెంచడం, చెమట పట్టడాన్ని అధికం చేయడంతో పాటు ఎండార్ఫిన్ను విడుదల చేయడం ద్వారా మంట కలుగుతున్న భావానికి మెదడు ప్రతిస్పందన వ్యక్తం చేస్తుంది. 2008లో విడుదలైన ఒక అధ్యయనం[12] పేర్కొన్న ప్రకారం, ఎ టి పి యొక్క హైడ్రాలసిస్ ద్వారా ఉత్పత్తి అయిన శక్తిని శరీర కణాలు ఏవిధంగా ఉపయోగించుకుంటాయనే అంశాన్ని క్యాప్సైసిన్ మార్చివేస్తుంది. సాధారణ హైడ్రాలసిస్ ప్రక్రియలో సార్కోప్లాస్మిక్ రెటికులమ్లోకి కాల్షియం ఆయాన్లు చలించడం కోసం సెర్కా ప్రొటీన్ అనేది ఈ శక్తిని ఉపయోగించుకుంటుంది. అయితే, ఈ ప్రక్రియ జరిగే సమయంలో క్యాప్సైసిన్ భాగస్వామ్యం వహించినట్టైతే, సెర్కా ఆకారాన్ని అది మార్చివేస్తుంది. ఆవిధంగా అది ఆయాన్ చలనాన్ని తగ్గించివేస్తుంది; తత్ఫలితంగా ఎ టి పి శక్తి (ఆయాన్లను ముందుకు కదించేందుకు ఇది ఉపయోగపడుతుంది) వేడి రూపంలో విడుదలవుతుంది.[13]
మిరపకాయల్లోని "ఘాటు" (వేడి) ని చారిత్రకంగా స్కోవిల్ హీట్ యూనిట్స్ (ఎస్ హెచ్ యు) లో కొలుస్తారు. రుచిని గుర్తించే చెప్పే కొంతమంది వ్యక్తులు గుర్తించలేని స్థాయికి ఒక మిరప రకంలోని ఘాటుదనం తగ్గిపోయేందుకు అది ఏస్థాయి చక్కర ద్రావణంలో కరిగించబడాలనే అంశాన్ని ఆధారం చేసుకుని ఈ రకమైన కొలతను నిర్థారిస్తారు.[14] ఈ రకమైన పరీక్షలో భాగంగా బొంత మిరప సున్నఎస్ హెచ్ యు యూనిట్ల ర్యాంకును పొందితే, న్యూ మెక్సికో పచ్చరంగు మిరపకాయలు 1,500 ఎస్ హెచ్ యుని, జలపెనోస్ 2,500–5,000 ఎస్ హెచ్ యు ని, మరియు హబానెరోస్ 300,000 ఎస్ హెచ్ యు యూనిట్ల ప్రమాణాన్ని నమోదు చేస్తాయి. ఎస్ హెచ్ యు రేటింగ్ యొక్క పరిమాణాత్మక విశ్లేషణకు సంబంధించిన ఆధునికమైన సాధారణ పద్ధతిలో భాగంగా ఒక మిరప రకంలోని క్యాప్సినాయిడ్ పరిమాణాన్ని నేరుగా మదింపు చేయడం కోసం హై పెర్ఫార్మెన్స్ లిక్విడ్ క్రొమటోగ్రఫీని ఉపయోగించడం జరుగుతోంది. స్వచ్ఛమైన క్యాప్సైసిన్ అనేది ఒక హైడ్రోఫోబిక్, రంగు రహితం, వాసనరహితంగా ఉండడంతో పాటు గది ఉష్ణోగ్రత వద్ద స్పటికాకారం మొదలుకొని మైనపు ముద్దల రూపంలో ఉండడంతో పాటు 16,000,000 ఎస్ హెచ్ యు ఘాటుదనాన్ని కలిగిఉంటుంది.
ప్రపంచంలో అతిఘాటైన మిరప
ప్రస్తుతం ఈ రికార్డు కలిగిన రకం
గిన్నిస్ వరల్డ్ రికార్డ్స్ ప్రకారం, 2011 ఫిబ్రవరి 25 నాటికి, ప్రపంచంలోనే అతి ఘాటైన (కారం కలిగిన) మిరప రకంగా నాగా విపెర్ నిలుస్తోంది. 1,382,118 SHU స్కోవిల్ రేటింగ్తో అది ఈ ఘనతను సొంతం చేసుకుంది. అయితే, పైన పేర్కొన్న రికార్డు సైతం కొద్దిరోజుల్లోనే తుడిచిపెట్టుకుపోయే అవకాశముంది. "ట్రినిడాడ్ స్కార్పియోన్ బచ్ T" చిల్లీ పేరుతో 2.5cm (1 అంగుళం) పొడవుతో ఆస్ట్రేలియాలో సాగుచేయబడుతోన్న ఒకరకం మిరప 1,463,700 SHUతో త్వరలోనే సరికొత్త రికార్డు నెలకొల్పే అవకాశముంది.
చరిత్ర
2007లో, ఘోస్ట్ పెప్పర్/చిలీ పెప్పర్గా కూడా సుపరిచితమైన భుట్ జోలోకియా</i>ని టబాస్కో సాస్ కంటే 401.5 రెట్లు ఘాటైనదిగా గుర్తించడం ద్వారా ప్రపచంలోనే అతి ఘాటైన మిరపగా గిన్నిస్ వరల్డ్ రికార్డ్ నమోదుచేసింది.[15]
2010 డిసెంబరు 3న, నాగా విపెర్ పెపెర్ సరికొత్త రికార్డుతో ఘోస్ట్ పెప్పర్/చిలీ పెప్పర్ లేదా ఘోస్ట్ పెప్పర్గా కూడా సుపరిచితమైన భుట్ జోలోకియా సాధించిన గిన్నిస్ రికార్డు మరుగునపడిపోయింది. భుట్ జోలోకియా సాధించిన పాయింట్లతో పోలిస్తే స్కోవిల్ రేటింగ్ విషయంలో 300,000 కంటే ఎక్కువ పాయింట్లు సాధించడం ద్వారా నాగా విపెర్ కొత్త రికార్డును సాధించింది. అయితే, ప్రస్తుతం అత్యంత ఘాటైన మిర్చిగా రికార్డు సాధించిన డోర్సెట్ నాగాతో పోటీపడలేక ఈ నాగా విపెర్ వెనక్కు తగ్గింది.[16]
ఫిబ్రవరి 2011లో, గిన్నిస్ వరల్డ్ రికార్డ్స్ అందించిన "ప్రపంచపు అత్యంత ఘాటైన మిరప" అనే పురస్కారాన్ని గ్రాంతమ్, ఇంగ్లాండ్లో సాగవుతోన్న ఇన్ఫినిటీ మిరప దక్కించుకుంది. స్కోవిల్ స్కేలుపై ఈ మిరప 1,067,286 యూనిట్లను నమోదుచేసింది.[17]
2011 ఫిబ్రవరి 25న, గిన్నిస్ వరల్డ్ రికార్డు ప్రకటించిన ప్రకారం, నాగా విపెర్ తన పాత రికార్డైన 314,832 (SHU) ని 1,382,118 పాయింట్ల కొత్త రికార్డుతో బద్దలు కొట్టింది.[18]
అయితే, ప్రస్తుతం మిరప పండే దేశాల మధ్య స్కోవిల్ రేటింగ్ల విషయంలో విపరీతమైన వివాదం నెలకొనడంతో పాటు "ప్రపంచపు అతి ఘాటైన" అనే నిర్ణయాన్ని వెలువరించడం కోసం అనేక మిరప రకాలపై అత్యంత కఠినమైన శాస్త్రీయ ప్రమాణాలను అమలుచేయడం జరుగుతోంది.
ఉపయోగాలు
వంటకాల్లో ఉపయోగాలు
మిరప పండ్లును తాజాగా లేదా ఎండిన రూపంలో ఉపయోగించడం జరుగుతోంది. మిరపను సుదీర్ఘకాలం పాటు నిల్వచేయడానికి వీలుగా వాటిని ఎండబెట్టడం జరుగుతోంది. అలాగే తాజా మిరప పండ్లను ఊరగాయ వేయడం ద్వారా కూడా దీర్ఘకాలం నిల్వచేయడం జరుగుతోంది.
ఎండు మిరపను మళ్లీ పచ్చిగా ఉండే రూపానికి తెచ్చి చేసే కొన్ని మెక్సికన్ చిల్లీస్ రెల్లెనోస్ వంటకాల్లో వైవిధ్యాలు ఉండడం మరియు ఇతరులు ఎండిన మిరపకాయలను పచ్చడిలా చేయడానికి ముందు వాటిని పచ్చిగా చేయడం జరుగుతున్నప్పటికీ, ఎండిన మిరపకాయలను తరచూ పొడిగా చేయడమే జరుగుతోంది. పొగబెట్టడం ద్వారా కూడా మిరపకాయలను ఎండిన స్థితికి తేవచ్చు. జలపెనో రకానికి చెందిన మిరపను పొగబెట్టడం ద్వారా ఎండిన స్థితిలో ఉండే చిపోట్లే మిరపని తయారుచేస్తారు.
పోబ్లానో లాంటి అనేక తాజా మిరప రకాలు కఠినంగా ఉండే పై పొరను కలిగి ఉండడం వల్ల వండేటప్పడు సైతం అవి ఏమాత్రం చెదరవు. వంటల్లో భాగంగా మిరపకాయలను మొత్తంగా లేదా పెద్ద ముక్కల రూపంలో, వేయించి, లేదా ఇతర విధానాల్లో పైపొరని మాడేలా చేయడం లాంటి విధానాలను అనుసరించడం ద్వారా మిరపకాయల లోపల ఉండే కండ భాగాన్ని పూర్తిగా ఉడికేలా చేయడం జరుగుతుంది. మిరపకాయలు చల్లగా ఉండే సమయంలో వాటిపైన ఉండే చర్మం సాధారణంగా సులభంగా ఊడి వస్తుంది.
మిరప చెట్ల పత్రాలు సైతం కొద్దిగా చేదుగా ఉంటాయే తప్ప కారం విషయంలో మాత్రం అదే చెట్టు నుంచి వచ్చే కాయలంత కారంగా మాత్రం ఉండవు. మరోవైపు మిరప చెట్టు ఆకులను సైతం ఫిలిపినో వంటకంలో ఆకుకూరలు రూపంలో వండుతారు, అక్కడ వారు దీన్ని దహోన్ఎన్గ్ సిలీ (అక్షరబద్దంగా "మిరప పత్రాలు" అంటారు) అని పిలుస్తుంటారు. వారు దీన్ని టినోలా</i>గా పిలిచే చికెన్ సూప్లో ఉపయోగిస్తారు. అలాగే కొరియన్ వంటకాల్లో ఈ మిరప పత్రాలను కించిలో ఉపయోగిస్తుంటారు. ఇక జపనీస్ వంటకంలో, ఆకుకూరల రూపంలో వీటిని వండుతుంటారు, దీంతోపాటు నిల్వచేయడం కోసం సుకుదానీ శైలిలో సైతం దీన్ని వండుతుంటారు.
మరోవైపు భూటాన్లో మిరప అనేది ఒక ముఖ్యమైన ఫలంగా ఉంటోంది. అక్కడి స్థానిక మార్కెట్లలో మిరప లేకపోవడమనేదే జరగదు, మార్కెట్లన్నీ ఎల్లప్పుడూ విభిన్న రకాల రంగులు మరియు పరిమాణాల్లో తాజా మరియు ఎండిన రూపంలోని మిరపకాయలను విక్రయిస్తుంటాయి. భూటానీయులు ఈ పంటని ఎమా (జోంగ్కాఖాలో) అని లేదా సోలో (షార్చోప్) అని పిలుస్తుంటారు. మిరప అనేది భూటాన్లో ఒక ముఖ్యమైన ఫలంగా ఉంటోంది; ఎమా డట్సీ అనే వంటకాన్ని స్థానిక జున్నులో మిరపను కలిపి తయారు చేస్తుంటారు. అలాగే ఈ దేశంలో మిరప అనేది దాదాపు అన్ని రకాల వంటకాలు మరియు ఆహార పదార్థాల్లో ఒక ముఖ్యమైన భాగంగా ఉంటోంది.
మిరపకాయలనేవి అనేక వంటకాల్లో కనిపిస్తుంటాయి. ఈ వ్యాసంలో ఎక్కడో ఒకచోట పేర్కొన్న పేర్కొన్న వంటకాలు మినహా కొన్ని ప్రసిద్ధ వంటకాలు గురించి కింద పేర్కొనడమైనది:
హంగేరికి చెందిన పాప్రికాష్ -- తక్కువ కారం కలిగిన, పొడిరూపంలోని, ఎండిన మిరపకాయలు, అకా పాప్రికాలను చికెన్ వంటకంలో ఉపయోగిస్తారు.
మెక్సికోలోని ప్యూబ్లా ప్రాంతానికి చెందిన చిల్లీస్ ఎన్ నొగడా -- మాంసంతో కూరిన తక్కువ కారం కలిగిన తాజా మిరపకాయలను చిక్కగా ఉండే సాస్తో పూరించడం ద్వారా ఈ వంటకాన్ని తయారుచేస్తారు.
మెక్సికోలోని ప్యూబ్లా నగరానికి చెందిన మోల్ పోబ్లానో -- పౌల్ట్రీ లేదా ఇతర మాంసాల కోసం చిక్కని, మందమైన సాస్ తయారీ కోసం ఎండిన మిర్చికి చెందిన అనేక రకాలతో పాటు గింజలు, మసాలా దినుసులు మరియు ఫలాలను ఉపయోగిస్తారు.
ఇటలీకి చెందిన పుట్టనెస్కా సాస్ -- పాస్టా కోసం ఎండిన రూపంలోని ఘాటైన మిరపకాయలతో పాటుగా టోమోటాలు కూడా కలిపి తయారు చేసే సాస్.
చైనాలోని సిచువాన్కు చెందిన కంగ్ పావో చికెన్ (గాంగ్ బావోగా కూడా పలుకుతారు) -- వేయించే నూనెకు ఘాటు దనాన్ని తేవడం కోసం చిన్నని బాగా కారంగా ఉండే ఎండిన మిరపకాయలను సదరు నూనెలో కొంతసేవు వేయిస్తారు. అటుతర్వాత ఆ నూనెను ఇతర పదార్ధాలను వేయించడం కోసం ఉపయోగిస్తారు.
నైజీరియన్ వంటకాలతో పాటు ఆఫ్రికాలోని అనేక ప్రాంతాల్లో మిరపకాయల ఉపయోగం కనిపిస్తుంది.
ఘాటైన సాస్ల తయారీ కోసం తాజా లేదా ఎండిన మిరపకాయలను ఉపయోగిస్తుంటారు. సీసాల్లో సేకరించి ఉంచే ఈ పరిమళభరిత సాస్ని ఇతర పదార్థాలకి ఘాటుదనాన్ని ఆపాదించడం కోసం వాటిలో కలిపేందుకు ఉపయోగిస్తుంటారు. మధ్యప్రాచ్యానికి చెందిన హరిస్సా, జపాన్కి చెందిన లా యూ (లేదా రాయు) మరియు థాయిలాండ్కు చెందిన శ్రీరాచ లాంటి వంటకాలతో సహా అనేక వంటకాల్లో ఈ రకమైన ఘాటైన సాస్ ఉపయోగం కనిపిస్తుంది.
మనస్తత్వశాస్త్రం
మసస్తత్వ శాస్త్రవేత్త అయిన పాల్ రోజిన్ సూచించిన ప్రకారం, మిరపకాయలనేవి రోలర్ కోస్టర్ మీద స్వారీ చేయడం లాంటి "పరిమిత ప్రమాదం"కు చక్కని ఉదాహరణ. ఎందుకంటే, ఇందులో భాగంగా బాధ మరియు భయం లాంటి తీవ్రమైన అనుభూతులను వ్యక్తులు ఆనందంగా అనుభవిస్తారు. ఈ రకమైన అనుభూతులు నిజంగా బాధాకరమైనవి కావని వ్యక్తులు గ్రహించడమే అందుకు కారణం. శారీరక హాని ఏదీ లేకుండానే ఈ పద్ధతిలో వ్యక్తులు తీవ్రమైన భావాలను అనుభూతి చెందుతారు.[19]
మిరపకాయను తినడాన్ని జపాన్లో ఒక యుద్ధ వీరుని కార్యక్రమంగా చూడబడుతుంది. మిరపకు సంబంధించిన ఘాటుదనం వ్యక్తిగతమైన భయాన్ని మరియు మానసికమైన శూన్యతను కలిగించడమే అందుకు కారణం. మిరపకాయలను తినేందుకు తమనితాము బలవంతపెట్టుకోవడం ద్వారా యుద్ధవీరుల మానసిక స్థితి బలీయంగా మారడంతో పాటు యుద్ధక్షేత్రంలోకి అడుగుపెట్టిన సమయంలో అజేయంగా భావించేందుకు సైతం ఉపకరిస్తుంది. మరోవైపు మిరపకాయలను ఆరగించడమనేది కరాటే ఆటగాళ్ల విషయంలో ఒక ప్రసిద్ధ విషయంగా ఉంటోంది, తమ మనసు మరియు నిర్ణయాన్ని బలీయంగా చేసుకునేందుకు వారు ఈ విధంగా చేస్తారు.
వైద్యపరంగా
ఆర్థరైటీస్ నొప్పి, హెర్పెస్ జోస్టర్ సంబంధిత నొప్పి, డయాబెటిక్ న్యూరోపతి, పోస్ట్మ్యాస్టెక్టోమీ నొప్పి, మరియు తలనొప్పల నుంచి ఉపశమనం పొందే విషయంలో క్యాప్సైసిన్ అనేది ఒక సురక్షితమైన మరియు ప్రభావవంతమైన స్థానిక నొప్పి నివారిణిగా పనిచేస్తుంది.[20]
మంట పుట్టించే ఆయుధం
మిరపకాయల నుంచి తీసే క్యాప్సైసిన్ను ఘాతుక-రహిత ఆయుధం రూపంలో పిచకారీలాగా ఉపయోగిస్తారు.
పంట రక్షణ
ఏనుగుల దాడి నుంచి పంటను రక్షించే విషయంలో మిరప ఉపయోగాన్ని ఆఫ్రికా మరియు దక్షిణాసియాల్లోని రైతులు బహు చక్కగా గుర్తించారు. ఏనుగులను పంటకు దూరంగా ఉంచేందుకు కంచె మీద మరియు ఇతర నిర్మాణాల మీద మిరపకాయలను చల్లుతారు. ఏనుగులు పొడవైన మరియు సున్నితమైన ఘ్రాణ అవయవం మరియు నాసికా వ్యవస్థను కలిగి ఉండడం వల్ల మిరపకాయలను వాసన చూసిన సమయంలో ఏనుగులు అసౌకర్యానికి గురికావడంతో పాటు అవి పంటలను తినకుండా దూరంగా వెళ్లిపోవడం జరుగుతుంది. ఈ కారణంగా ప్రజలకు మరియు ఏనుగులకు మధ్య ప్రమాదకరమైన భౌతిక సంఘర్షణ తలెత్తే అవకాశాలు తగ్గించబడే అవకాశం కూడా ఉంది.
ఆహార రక్షణ
తక్కువ ఘ్రానశక్తి కారణంగా పక్షులు మిరపఘాటుకు తక్కువగానే గురికావడం వల్ల పక్షుల విత్తనాల (పరిణామాత్మక ఉపయోగాలను కింద చూడండి) నుంచి క్షీరద సంబంధిత జంతువును దూరంగా ఉంచేందుకు ఇది ఉపయోగపడగలదు.
పోషక విలువ
ఎర్ర మిరప అధిక మొత్తంలో విటమిన్ సిమరియు కెరోటిన్ (ప్రోవిటమిన్ ఎ) ను కలిగి ఉంటుంది. పసుపు మరియు ప్రత్యేకించి పచ్చని మిరప రకాలు (ఇవి ప్రత్యేకించి పక్వానికి రాని ఫలాలు) మాత్రం పై రెండు అంశాలను గణనీయమైన స్థాయిలో తక్కువగా కలిగిఉంటాయి. మరోవైపు మిరపలో పైన చెప్పిన అంశాలే కాకుండా, అత్యధికభాగం బి విటమిన్లు, మరియు విటమిన్ బి6 లాంటివి సంవృద్ధికరంగా ఉంటాయి. అలాగే పొటాషియం, మెగ్నీషియం, మరియు ఇనుము లాంటివి కూడా అత్యంత పెద్ద మొత్తంలో ఉంటాయి. మిరపలో ఎక్కువగా ఉండే విటమిన్ సి అనేది భోజనంలో భాగమైన బీన్స్ మరియు ధాన్యాల నుంచి హీమ్ రహిత ఇనుముని శరీరం గ్రహించే తీరుని సైతం అధికం చేస్తుంది.
పరిణామాత్మక ఉపయోగాలు
క్యాప్సైసిన్ విషయంలో క్షీరదాలు మాదిరిగానే పక్షులు కూడా అదేరకమైన సూక్ష్మగ్రాహత్యను కలిగిలేవు, ఎందుకంటే క్షీరదాల విషయంలో క్యాప్సైసిన్ అనేది ఒక ప్రత్యేకమైన నొప్పి గ్రాహకాన్ని లక్ష్యంగా చేసుకుంటుంది. మిరపకాయలు పండే ప్రాంతంలో పక్షులు వాటిని ఏమాత్రం భయం లేకుండా తినేస్తుంటాయి. పక్షుల కారణంగా మిరపకాయల్లోని విత్తనాలు ఇతర ప్రాంతాలకు పంపిణీ అవుతుంటాయి. మిరప పండ్లను తిన్న సమయంలో పక్షులు విత్తనాలను వదిలేస్తుంటాయి, అలాగే పక్షి నోటిలోకి ప్రవేశించిన మిరప విత్తనాలు ఏవిధంగానూ రూపం మారకుండానే వాటి జీర్ణవ్యవస్థ మార్గం ద్వారా ప్రయాణించి వెలుపలికి వచ్చేస్తాయి. ఈ రకమైన సంబంధం అనేది రక్షణాత్మక క్యాప్సైసిన్కు సంబంధించిన పరిణామాత్మకతను పెంపొందించి ఉండవచ్చు.[21] కాబట్టే ఉడుతలు మరియు ఇతర క్షీరదజాతికి చెందిన చిన్న జంతువులు మిరపకాయలను తినకుండా నిరుత్సాహపర్చడంతో పాటు పక్షులను సైతం నిరుత్సాహపరిచేందుకు పక్షులు తినే గింజల్లో ఉండే విత్తనాలను శుద్ధి చేయడానికి ఈ పదార్థం ఆధారంగా తయారయ్యే ఉత్పత్తులు అమ్ముడయ్యాయి. వివిధ రకాల కీటకాల ద్వారా బయటి చర్మానికి గాట్లు పెట్టడం ద్వారా శరీరంలోకి ప్రవేశించే మైక్రోబియల్ ఫంగి విషయంలోనూ క్యాప్సైసిన్ అనేది రక్షణాత్మక యంత్రాంగాన్ని కలిగి ఉంటుంది.[22]
అక్షరక్రమం మరియు ఉపయోగం
ఎక్కువభాగం దక్షిణ అమెరికాలో మిరప మొక్క మరియు దాని పండు లాంటివి అజి, లొకోటో, చిల్లీ, లేదా రొకోటో అనే పేరుతో సుపరిచితమైనప్పటికీ, చిల్లీ అనే అక్షరక్రమం విస్తారంగా ఉపయోగించబడుతోంది. అయినప్పటికీ, అమెరికా సంయుక్త రాష్ట్రాల్లోన్ని కొన్ని ప్రాంతాలు ఈ రకమైన ఉచ్ఛారణ ఉపయోగించడాన్ని నిరుత్సాహపరుస్తున్నాయి. ప్రసిద్ధ నైరుతి అమెరికా వంటకం (చిల్లీ కాన్కర్న్గా కూడా సుపరిచితం కావడమే కాకుండా (చిల్లీ మరియు మాంసంతో కలిపిచేస్తారు) టెక్సాస్ యొక్క అధికారిక రాష్ట్ర వంటకంగానూ ఉంటోంది[23]) గురించి చెప్పేందుకు మరియు దాన్ని పరిమళభరితం చేసేందుకు ఉపయోగించే మిరప పొడి మరియు ఇతర దినుసులను సూచించేందుకు సైతం సాధారణంగా ఈ అక్షరక్రమంతో కూడిన పదాన్నే ఉపయోగిస్తుండడమే అందుకు కారణం. మరోవైపు చిలీ అనే అక్షరక్రమాన్ని సిన్సినటి చిల్లీని సూచించే సందర్భంలోనూ ఉపయోగిస్తున్నారు. ఎలాంటి మిరపకాయలనూ కలిగి ఉండని ఆహారపదార్ధాల కోసం దీన్ని ఉపయోగించడం జరుగుతోంది. మిరప పొడి ఎండిన మిరపకాయల ద్వారా చేసిన పొడి అనే విషయాన్నే సూచిస్తాయి.
చిలీ అనే అక్షరక్రమం సైతం చిల్లీ పదానికి ప్రత్యామ్యాయంగా ఉపయోగించబడుతోంది, మెక్సికోలోను[24] అలాగే అమెరికా సంయుక్త రాష్ట్రాలు మరియు కెనడాల్లోని కొన్ని ప్రాంతాల్లోనూ ఈ రకమైన ఉపయోగం సర్వసాధారణం. ఇది ప్రత్యేకించి మిరపచెట్టు మరియు దాన్ని ఫలం గురించి సూచిస్తాయి. అమెరికా నైరుతిలో (ప్రత్యేకించి ఉత్తర న్యూ మెక్సికో) చిలీ అనే మాట చిక్కని, ఘాటుగా, వెనీగర్ లేకుండా ఉండే ఒక సాస్ని సూచిస్తుంది. ఇది ఎర్రని మరియు పచ్చ రంగుల్లో లభించడంతో పాటు తరచుగా ఈ సాస్ని న్యూ మెక్సికన్ ఆహారం మీద వడ్డిస్తారు.
చిలీ అనే అక్షర క్రమం మిరప పండును సూచించడం కోసం నహుటల్ భాష యొక్క అసలైన రోమనీకరణకు సంబంధించింది.[25]
మరోవైపు ఆంగ్లంలో చిల్లీగా పిలవబడే మిరపమొక్కకు చిలీ దేశం పేరుకు మధ్య ఎలాంటి సంబంధం లేదు. క్యూచువా చిన్ ("శీతల"), చిలి ("మంచు"), లేదా చిల్లీ ("భూభాగం అంతమయ్యే చోటు") అనే అర్థం నుంచి ఈ దేశం పేరు ఉద్భవించింది. చిలీ మరియు ప్యూర్టో రికో రెండూ కూడా స్పానిష్ మాట్లాడే దేశాలు. ఈ రెండు దేశాల్లో టైనో మూలానికి చెందిన పదమైన అజి అనే పదాన్ని మిరపకాయలను సూచించడానికి ఉపయోగిస్తుంటారు.
మరోవైపు మిరపకాయలను సూచించేందుకు పెప్పర్ అనే పదం ఉపయోగించడం గురించి కూడా కొంత అనంగీకారం వ్యక్తమమవుతోంది. ఎందుకంటే పెప్పర్ అనేది నిజానికి పైపెర్ తరగతికి చెందినదే తప్ప క్యాప్సికమ్కు చెందినది కాదు; అయినప్పటికీ, ఈ రకమైన పదప్రయోగం ఆక్స్ఫర్డ్ ఇంగ్లీష్ డిక్షనరీ (పెప్పర్ యొక్క అర్థంలో) మరియు మెర్రియమ్-వెబ్స్టర్లతో సహా [26] అంతేకాకుండా పెప్పర్ అనే పదాన్ని సాధారణంగా వృక్షశాస్త్ర మరియు పాకశాస్త్ర రంగాల్లో వివిధ రకాల మిరపకాయలన్ని సూచించేందుకు ఉపయోగించబడుతోంది.
మిరపకాయ (చిల్లీ పెప్పర్) అనేది సొలనేసి కుటుంబం, సొలనేసి లోని మిరప కాప్సికమ్ తరగతికి చెందిన మొక్కలకు కాచే ఒక పండు. మిరపకాయలనేవి మొదట అమెరికాల్లో వెలుగుచూశాయి. కొలంబియన్ ఎక్ఛేంజ్ తర్వాత, మిరపకాయలకు సంబంధించిన అనేక రకాలు ప్రపంచవ్యాప్తంగా విస్తరించడంతో పాటు ఆహారం మరియు ఔషధాల తయారీల్లో ఉపయోగించడం ప్రారంభమైంది.
మిరపకాయను తలచుకోగానే అది ఇచ్చే కారపు రుచి, ఘాటు గుర్తుకు వస్తుంది .. కాని మిరప లేకుండా వంట సాగదు, పచ్చి, పండు, ఎండు మిరప లను మనము వాడుతాం . మిరప భారతీయ మొక్క కాదు . మన వారు కారం కోసం మిరియం వాడేవారు .
వైద్యపరంగా: తగు మోతాదు లో మిరప కాయలను గాని మిరప గుండను గాని వాడితే:
ఆర్థరైటీస్ నొప్పి,
హెర్పెస్ జోస్టర్ సంబంధిత నొప్పి,
డయాబెటిక్ న్యూరోపతి,
పోస్ట్మ్యాస్టెక్టోమీ నొప్పి, మరియు
తలనొప్పల ........ నుంచి ఉపశమనం పొందే విషయంలో క్యాప్సైసిన్ అనేది ఒక సురక్షితమైన మరియు ప్రభావవంతమైన స్థానిక (Local) నొప్పి నివారిణిగా పనిచేస్తుంది.
దీనిలో ఉండే "కాప్సాసిన్(Capsaicin)" కీళ్ళ నొప్పులు, తలనొప్పి, మున్నగు నొప్పులను తగ్గిస్తుంది .
కాన్సర్ కణాలను నాశనం చేస్తుంది .
స్థూల కాయం ఉన్నా వాళ్లుకి బరువు తగ్గెండుకు ఉపయోగపడుతుంది .
పాంక్రియాస్ లోని నరాలు పై పనిచేసి ఆ కణాలు insulin తయారు చేసేందుకు దోహదపడుతుంది .
కొలెస్టిరాల్ ను తగ్గిస్తుంది,
అన్నంతో కనిపి తింటే ఆకలి తగ్గి
మధుమేహ ఉన్నా వారికి, ఉబకాయం గల వారికి మేలుచేస్తుంది .
మిరపకాయలు, పచ్చిమిర్చి- - డా. చిరుమామిళ్ల మురళీమనోహర్
భారతీయత, భారతీయ వంటకాలు వీటి గురించి ప్రస్తావన వచ్చినప్పుడు ఎవరికైనా గుర్తుకు వచ్చేది మిరప, పచ్చిమిర్చి, పండు మిర్చి ఇవి రెండూ భారతీయ వంటకాల్లో కీలక స్థానం పోషిస్తాయి. నాలుగు వందల ఏళ్ల క్రితం భారతీయులకి మిరప తెలియదు. ఆ రోజుల్లో కారం రుచి కోసం మిరియాల మీదనే ఆధారపడేవాళ్లు. పొడవుగా, మెలికలు తిరిగి వాడిగా కనిపించే మిరపను చూసి, తేలులాగా కుడుతుందని భావించేవారు. పోర్చుగీసు వారు భారతదేశానికి మిరపను పరిచయం చేశారు. తరువాతి కాలంలో ఇది భారతీయ సంస్కృతిలో ఇమిడిపోయింది.
మిరపలోని గుణాలను బట్టి ఆయుర్వేదం దీనిని కటువీర, రక్తమిర్చి, పిత్తకారిణి, లంక తదితర పేర్లతో వ్యవహరిస్తుంది. మిరప చెట్టులో అనేక రకాలున్నాయి. ముఖ్యంగా తెల్లపువ్వులు కలిగిన మొక్క మొదటిరకం. దీనిలో తీక్షణత ఎక్కువ. ఆకుపచ్చని పువ్వులు కలిగినది రెండవ రకం. దీనిలో తీక్షణత తక్కువ. మిరప పండ్లు, కాయల్లో చాలా తేడాలున్నాయి. ఆకారాన్నిబట్టి, ఆకృతిని బట్టి, రంగును బట్టి, రుచిలో తీక్షణతను బట్టి మిరపకాయలు, పండ్లు రకరకాలుగా లభిస్తున్నాయి. అవసరాన్నిబట్టి వీటిని వాడుతుంటారు. మిరపలో ‘క్యాప్పైసిన్’ అనే పదార్థం తాలూకు మొత్తాన్నిబట్టి దీని తీక్షణత ఆధారపడి ఉంటుంది. మిరపలోని ఘాటుదనం లాలాజలాన్ని ప్రేరేపిస్తుంది. లాలాజలంలో పిండి పదార్థాలను పచనం చెందిందే సెలైవరీ ఎమైలేజ్ ఉంటుంది. ఈ కారణంగానే భక్ష్యాలను వండేటప్పుడు మిరపను తగలనిస్తే, అవి చక్కగా జీర్ణమవుతాయి. మిరపలో విటమిన్-ఎ, విటమిన్-సి తదితర పదార్థాలుంటాయి. ఇవి ఆరోగ్యానికి హితం చేస్తాయి. మిరప శరీరంలో పేరుకుపోయిన విష తత్వాలను నిర్వీర్యపరుస్తుంది. ముఖ్యంగా పెద్ద పేగులో సంచితమైన హానికర విష రసాయనాలను శుభ్రం చేస్తుంది. అలాగే మిరప రక్తశోధకంగా కూడా పనిచేస్తుంది. మద్రాస్కి చెందిన కేన్సర్ రీసెర్చ ఇన్స్టిట్యూట్ పచ్చిమిర్చిలో కేన్సర్ను నిరోధించే అంశాలు పుష్కలంగా ఉన్నట్లు ధ్రువీకరించింది.
గృహ చికిత్సలు
గొంతు బొంగురు (స్వర భంగం) --ఒక టీ స్పూన్ పంచదారను, ఒకటి రెండు బాదం గింజలను, ఒక పండు మిరపకాయను కలిపి దంచండి. దీనిని చిన్నచిన్న ఉండలుగా తయారుచేసి తీసుకుంటే గాయకులకు, ఉపన్యాసకులకు, టీచర్లకు, లెక్చరర్లకి గొంతు బొంగురు సమస్య తగ్గుతుంది.
కడుపు నొప్పి--100 గ్రాముల బెల్లంలో ఒక గ్రాము ఎర్ర మిరప పొడిని కలిపి చిన్నచిన్న మాత్రలుగా తయారుచేసి నీళ్లతో తీసుకుంటే కడుపునొప్పి తగ్గుతుంది. అర గ్రాము ఎండు మిరప పొడిని 2 గ్రాముల శొంఠి చూర్ణంతో కలిపి తీసుకుంటే అజీర్ణం, కడుపునొప్పి తగ్గుతాయి.
అరుచి--125 గ్రాముల మిరపగింజలను అర కిలో నువ్వుల నూనెలో వేసి చిన్న మంట మీద గింజలు మాడిపోయే వరకూ వేడి చేయండి. తరువాత వడపోసి సీసాలో నిల్వ చేసుకోండి. మిరప గింజల తైలం సిద్ధమవుతుంది. శరీరంలో వేడి పెరిగిపోవటం, పైత్యం పెరగటం వంటి సమస్యల వల్ల ఆహార పదార్థాల రుచి తెలియకపోతుంటే, ఆకలి తగ్గితే, ఈ మిరప గింజల తైలాన్ని 5 నుంచి 30 చుక్కలు ఒక టీస్పూన్ పంచదారతో కలిపి తీసుకోండి. దీంతో ఆకలి పెరుగుతుంది.
కలరా (వాంతులు, విరేచనాలు) --మిరప గింజలను చెరిగి శుభ్రం చేసి, మెత్తగా పొడిచేసి గుడ్డతో వస్తగ్రాళితం చేయండి. దీనిని ఒక చిటికెడు తీసుకొని చిటికెడు కర్పూరం, చిటికెడు పొంగించిన ఇంగువ పొడిని కలిపి, తగినంత తేనె కలిపి తీసుకోండి. లేదా వీటి మిశ్రమాన్ని 125 మిల్లీగ్రాముల మాత్రలుగా చేసి నిల్వ చేసుకొని ప్రతి రెండు గంటలకూ ఒక్కోటి చొప్పున నీళ్లతో వేసుకుంటే కలరా వ్యాధిలో నాడి తగ్గిన సందర్భాల్లో నాడి వేగం పెరుగుతుంది.
నల్ల మందు, పొంగించిన ఇంగువ వీటిని సమంగా కలిపి 125 మి.గ్రా. మాత్రలుగా చేయండి. దీనిని మిరప కషాయంతో తీసుకుంటే కలరా వ్యాధి తగ్గుతుంది. 125 గ్రాముల మిరపకాయలను అర కిలో నువ్వుల నూనెలో వేసి చిన్న మంట మీద గింజలు మాడిపోయే వరకూ వేడి చేయండి. తరువాత దించి వడపోసి నిల్వ చేసుకోండి. మిరప తైలం సిద్ధం. కలరాలో విరేచనాలు, వాంతుల తరువాత ఈ తైలాన్ని పూటకు అర టీస్పూన్ మోతాదుగా రెండు మూడు పూటలు వాడితే మంచి ఫలితం కనిపిస్తుంది. ఎండు మిరపకాయల పొడిని తేనెతో కలిపి రేగు గింజలంత మాత్రలుగా తయారుచేసి పెట్టుకోండి. కలరా వ్యాధిగ్రస్థునికి గంటకో మాత్ర చొప్పున చన్నీళ్లతో ఇస్తే ప్రమాదం నుంచి బయటపడతాడు.
మధుమేహం --మిరియం తైలాన్ని రెండు మూడు చుక్కలు లస్సీతోకలిపి తీసుకుంటే మూత్రంలో మంట, మూత్రంలో సుద్ద పోవటం వంటి సమస్యలు తగ్గుతాయి.
మూత్రంలో మంట--3 గ్రాముల ఈసబ్గోల్ గింజల పొడిని మూడు నాలుగు చుక్కలు మిరప తైలంతో కలపండి. దీనిని నీళ్లకు కలిపి కషాయం తయారుచేసి తీసుకుంటే పైత్యం కారణంగా వచ్చిన మూత్రంలో మంట తగ్గుతుంది.
ఎగ్జిమా, దురద, కీళ్లనొప్పి, కుక్కకాటు, కందిరీగ కాటు వంటి సమస్యల్లో మిరప పండ్ల తైలాన్ని పై పూతగా వాడుకుంటే మంచి ఫలితం కనిపిస్తుంది.
కొన్ని విశేషాలు
చిలి గ్రెనేడ్, మిరపతో తయారుచేయబడిన ఒక రకమైన ఆయుధం
హిస్టరీ అఫ్ చాకోలెట్, మాయాన్స్ దీనిని మిరపకాయల పొడితో కలిపి తీసుకుంటారు
రిస్ట్రా, ఎండు మిరపకాయల యొక్క ఒక అమరిక
సాంప్రదాయకంగా నిషేధించిన ఆహారం మరియు పానీయం, కొన్ని సంస్కృతులలో మిరపకాయలతో మిళితమై ఉంటుంది.
సూచనలు
మూలాలు
బాహ్య లింకులు
వర్గం:మిరపకాయలు
వర్గం:ఔషధ మొక్కలు
వర్గం:అమెరికా నుండి ఆవిర్భవించిన పంటలు
వర్గం:సొలనేసి
వర్గం:శుద్ధి చేసిన యాంత్రిక అనువాద వ్యాసాలు
వర్గం:గూగుల్ అనువాద వ్యాసాలు-మెరుగుపరచిన | https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%AE%E0%B0%BF%E0%B0%B0%E0%B0%AA%E0%B0%95%E0%B0%BE%E0%B0%AF |
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Условные графические обозначения обычных (вверху) и двуханодных (внизу) стабилитронов на принципиальных схемах
Полупроводнико́вый стабилитро́н, или диод Зенера — полупроводниковый диод, работающий при обратном смещении в режиме пробоя[1]. До наступления пробоя через стабилитрон протекают незначительные токи утечки, а его сопротивление весьма высоко[1]. При наступлении пробоя ток через стабилитрон резко возрастает, а его дифференциальное сопротивление падает до величины, составляющей для различных приборов от долей oма до сотен oм[1]. Поэтому в режиме пробоя напряжение на стабилитроне поддерживается с заданной точностью в широком диапазоне обратных токов[2].
Основное назначение стабилитронов — стабилизация напряжения[1][2]. Серийные стабилитроны изготавливаются на напряжения от 1,8 В до 400 В[3]. Интегральные стабилитроны со скрытой структурой на напряжение около 7 В являются самыми точными и стабильными твердотельными источниками опорного напряжения: лучшие их образцы приближаются по совокупности показателей к нормальному элементу Вестона. Особый тип стабилитронов, высоковольтные лавинные диоды («подавители переходных импульсных помех», «супрессоры», «TVS-диоды») применяется для защиты электроаппаратуры от перенапряжений.
Терминология и классификация
В русскоязычной литературе понятие «стабилитрон» без уточняющего «полупроводниковый» применяется именно к полупроводниковым стабилитронам. Уточнение необходимо, если нужно противопоставить стабилитроны полупроводниковые — устаревшим газонаполненным стабилитронам тлеющего и коронного разряда. Катодом стабилитрона обозначается вывод, в который втекает обратный ток (n-область обратно-смещённого p-n-перехода), анодом — вывод, из которого ток пробоя вытекает (p-область p-n-перехода). Двуханодные (двусторонние) стабилитроны состоят из двух стабилитронов, включенных последовательно во встречных направлениях, «катод к катоду» или «анод к аноду», что с точки зрения пользователя равнозначно.
Полупроводниковые стабилитроны вошли в промышленную практику во второй половине 1950-х годов. В прошлом в номенклатуре стабилитронов выделялись функциональные группы[4], впоследствии потерявшие своё значение, а современные полупроводниковые стабилитроны классифицируются по функциональному назначению на:
Дискретные стабилитроны общего назначения — силовые и малой мощности. В СССР стабилитроны классифицировались по рассеиваемой мощности на четыре группы: 0—0,3 Вт, 0,3—5 Вт, 5—10 Вт и свыше 10 Вт[5];
Прецизионные стабилитроны, в том числе термокомпенсированные стабилитроны и стабилитроны со скрытой структурой;
Подавители импульсных помех («ограничительные диоды», «супрессоры», «TVS-диоды»)[6].
Название «зенеровский диод» (калька с английского zener diode, по имени первооткрывателя туннельного пробоя Кларенса Зенера), согласно ГОСТ 15133—77 «Приборы полупроводниковые. Термины и определения», в технической литературе не допустимо[7]. В англоязычной литературе словом stabilitron или stabilotron называют стабилотрон — не получивший широкого распространения тип вакуумной генераторной лампы СВЧ-диапазона[8][9], а понятие zener или zener diode («зенеровский диод») применяется к стабилитронам всех типов независимо от того, какой механизм пробоя (зенеровский или лавинный) преобладает в конкретном приборе[10]. Английское avalanche diode («лавинный диод») применяется к любым диодам лавинного пробоя, тогда как в русскоязычной литературе лавинный диод, или «ограничительный диод» по ГОСТ 15133—77[2] — узко определённый подкласс стабилитрона с лавинным механизмом пробоя, предназначенный для защиты электроаппаратуры от перенапряжений. Ограничительные диоды рассчитаны не на непрерывное пропускание относительно малых токов, а на краткосрочное пропускание импульсов тока силой в десятки и сотни А. Так называемые «низковольтные лавинные диоды» (English: low voltage avalanche, LVA), напротив, предназначены для работы в непрерывном режиме. Это маломощные стабилитроны с необычно низким дифференциальным сопротивлением; в промышленной практике различие между ними и «обычными» стабилитронами стёрлось[10].
Некоторые «прецизионные стабилитроны» несут обозначения, характерные для дискретных приборов, но в действительности являются сложными интегральными схемами. Внутренними источниками опорного напряжения таких микросхем могут служить и стабилитроны, и бандгапы. Например, двухвыводной «прецизионный стабилитрон» 2С120 (аналог AD589) — это бандгап Брокау. На структурной схеме микросхемы TL431 изображён стабилитрон, но в действительности TL431 — это бандгап Видлара[11][12].
Не являются стабилитронами лавинно-пролётные диоды, туннельные диоды и стабисторы. Стабисторы — это маломощные диоды, предназначенные для работы на прямом токе в стабилизаторах напряжения и как датчики температуры. Характеристики стабисторов в обратном включении не нормировались, а подача на стабистор обратного смещения допускалась только «при переходных процессах включения и выключения аппаратуры»[13]. Обращённые диоды в различных источниках определяются и как подкласс стабилитронов[14], и как подкласс туннельных диодов[9]. Концентрация легирующих примесей в этих диодах настолько велика, что туннельный пробой возникает при нулевом обратном напряжении. Из-за особых физических свойств и узкой области применения они обычно рассматриваются отдельно от стабилитронов и обозначаются на схемах особым, отличным от стабилитронов, символом[14][2].
Принцип действия
Полупроводниковый стабилитрон — это диод, предназначенный для работы в режиме пробоя на обратной ветви вольт-амперной характеристики. В диоде, к которому приложено обратное, или запирающее, напряжение, возможны три механизма пробоя: туннельный пробой, лавинный пробой и пробой вследствие тепловой неустойчивости — разрушительного саморазогрева токами утечки. Тепловой пробой наблюдается в выпрямительных диодах, особенно германиевых, а для кремниевых стабилитронов он не критичен. Стабилитроны проектируются и изготавливаются таким образом, что либо туннельный, либо лавинный пробой, либо оба эти явления вместе возникают задолго до того, как в кристалле диода возникнут предпосылки к тепловому пробою[1]. Серийные стабилитроны изготавливаются из кремния, известны также перспективные разработки стабилитронов из карбида кремния и арсенида галлия[16].
Первую модель электрического пробоя предложил в 1933 году Кларенс Зенер, в то время работавший в Бристольском университете[17]. Его «Теория электрического пробоя в твёрдых диэлектриках» была опубликована летом 1934 года[18]. В 1954 году Кеннет Маккей из Bell Labs установил, что предложенный Зенером туннельный механизм действует только при напряжениях пробоя до примерно 5,5 В, а при бо́льших напряжениях преобладает лавинный механизм[17]. Напряжение пробоя стабилитрона определяется концентрациями акцепторов и доноров и профилем легирования области p-n-перехода. Чем выше концентрации примесей и чем больше их градиент в переходе, тем больше напряжённость электрического поля в области пространственного заряда при равном обратном напряжении, и тем меньше обратное напряжение, при котором возникает пробой:
Туннельный, или зенеровский, пробой возникает в полупроводнике только тогда, когда напряжённость электрического поля в p-n-переходе достигает уровня в 106 В/см. Такие уровни напряжённости возможны только в высоколегированных диодах (структурах p+-n+-типа проводимости) с напряжением пробоя не более шестикратной ширины запрещённой зоны (6 EG ≈ 6,7 В), при этом в диапазоне от 4 EG до 6 EG (4,5…6,7 В) туннельный пробой сосуществует с лавинным, а при напряжении пробоя менее 4 EG (≈4,5 В) полностью вытесняет его. С ростом температуры перехода ширина запрещённой зоны, а вместе с ней и напряжение пробоя, уменьшается: низковольтные стабилитроны с преобладанием туннельного пробоя имеют отрицательный температурный коэффициент напряжения (ТКН)[1].
В диодах с меньшими уровнями легирования, или меньшими градиентами легирующих примесей, и, как следствие, бо́льшими напряжениями пробоя наблюдается лавинный механизм пробоя. Он возникает при концентрациях примесей, примерно соответствующих напряжению пробоя в 4 EG (≈4,5 В), а при напряжениях пробоя выше 4 EG (≈7,2 В) полностью вытесняет туннельный механизм. Напряжение, при котором возникает лавинный пробой, с ростом температуры возрастает, а наибольшая величина ТКН пробоя наблюдается в низколегированных, относительно высоковольтных, переходах[1].
Механизм пробоя конкретного образца можно определить грубо — по напряжению стабилизации, и точно — по знаку его температурного коэффициента[1]. В «серой зоне» (см. рисунок), в которой конкурируют оба механизма пробоя, ТКН может быть определён только опытным путём. Источники расходятся в точных оценках ширины этой зоны: С. М. Зи указывает «от 4 EG до 6 EG» (4,5…6,7 В), авторы словаря «Электроника» — «от 5 до 7 В»[9], Линден Харрисон — «от 3 до 8 В»[19], Ирвинг Готтлиб проводит верхнюю границу по уровню 10 В[10]. Низковольтные лавинные диоды (LVA) на напряжения от 4 до 10 В — исключение из правила: в них действует только лавинный механизм[10].
Оптимальная совокупность характеристик стабилитрона достигается в середине «серой зоны», при напряжении стабилизации около 6 В. Дело не столько в том, что благодаря взаимной компенсации ТКН туннельного и лавинного механизмов эти стабилитроны относительно термостабильны, а в том, что они имеют наименьший технологический разброс напряжения стабилизации и наименьшее, при прочих равных условиях, дифференциальное сопротивление[20]. Наихудшая совокупность характеристик — высокий уровень шума, большой разброс напряжений стабилизации, высокое дифференциальное сопротивление — свойственна низковольтным стабилитронам на 3,3—4,7 В[21].
Производство
Силовые стабилитроны изготавливают из монокристаллического кремния по диффузионно-сплавной или планарной технологии, маломощные — по планарной, реже меза-технологии. В планарном диодном процессе используется две или три фотолитографии. Первая фотолитография вскрывает на поверхности защитного оксида широкие окна, в которые затем вводится легирующая примесь. В зависимости от требуемого профиля легирования могут применяться процессы ионной имплантации, химическое парофазное осаждение и диффузия из газовой среды или из поверхностной плёнки. После первичного ввода примеси её загоняют из поверхностного слоя вглубь кристалла при температуре 1100—1250 °C. Затем проводят операцию геттерирования — выталкивания поверхностных дефектов в глубину кристалла и пассивацию его поверхности. Геттерирование и пассивация не только снижают шум стабилитрона, но и радикально повышают его надёжность, устраняя основную причину случайных отказов — поверхностные дефекты. Вторая фотолитография вскрывает окна для нанесения первого, тонкого слоя анодной металлизации. После неё, при необходимости, проводится электронно-лучевое осаждение основного слоя анодной металлизации, третья фотолитография и электронно-лучевое осаждение металла со стороны катода[23].
Пластины перевозят на сборочное производство и там режут на отдельные кристаллы. Сборка стабилитронов в транзисторных (SOT23, TO220 и т. п.) и микросхемных (DIP, SOIC и т. п.) корпусах выполняется по обычным технологиям корпусирования. Массовая сборка диодов, в том числе стабилитронов, в двухвыводных корпусах с гибкими выводами может выполняться двумя способами[22]:
Диоды в пластиковых корпусах (Surmetic) собираются в два этапа. Вначале сборочный автомат припаивает кремниевый кристалл («таблетку») диода встык к уширенным торцам выводов. Выводы изготавливаются из меди, а их сечение сопоставимо с площадью кремниевой таблетки или превышает её. Торцы выводов формуются в форме шляпки гвоздя и обычно предварительно облуживаются. После пайки в сборочном автомате полуфабрикаты упаковываются в герметичные пластиковые цилиндры[22].
Диоды в стеклянных корпусах DO-35 и DO-41 собираются в один этап. Между кремниевой таблеткой и торцами гибкого вывода из биметаллической проволоки вкладываются две полые, облуженные биметаллические обоймы. На собранную заготовку из кристалла, обойм и выводов одевается стеклянная трубочка — будущий корпус. Сборка нагревается в печи до температуры плавления стекла; при остывании вначале отвердевает стекло, формируя герметичный спай с металлом выводов, а затем — припой[22].
В более дорогом варианте этой технологии используются три этапа термообработки: кристалл спаивается с молибденовыми или вольфрамовыми обоймами при температурах не менее 700 °C, капсулируется в стекло, и только затем припаиваются выводы[24]. Во всех случаях выводы дополнительно облуживаются после корпусирования[22]. Медные выводы предпочтительнее, так как отводят тепло лучше, чем биметаллические[25]. Присутствие внутри корпуса, по обе стороны тонкой кремниевой таблетки, значительной массы припоя определяет основной механизм отказа стабилитронов: короткое замыкание расплавом припоя, а в планарных интегральных стабилитронах — короткое замыкание расплавом алюминиевой металлизации[26][21].
Области применения
Основная область применения стабилитрона — стабилизация постоянного напряжения источников питания. В простейшей схеме линейного параметрического стабилизатора стабилитрон выступает одновременно и источником опорного напряжения, и силовым регулирующим элементом. В более сложных схемах стабилитрону отводится только функция источника опорного напряжения, а регулирующим элементом служит внешний силовой транзистор.
Прецизионные термокомпенсированные стабилитроны и стабилитроны со скрытой структурой широко применяются в качестве дискретных и интегральных источников опорного напряжения (ИОН), в том числе в наиболее требовательных к стабильности напряжения схемах измерительных аналого-цифровых преобразователей. C середины 1970-х годов и по сей день (2012 год) стабилитроны со скрытой структурой являются наиболее точными и стабильными твердотельными ИОН[28]. Точностные показатели лабораторных эталонов напряжения на специально отобранных интегральных стабилитронах приближаются к показателям нормального элемента Вестона[29].
Особые импульсные лавинные стабилитроны («подавители переходных импульсных помех», «супрессоры», «TVS-диоды») применяются для защиты электроаппаратуры от перенапряжений, вызываемых разрядами молний и статического электричества, а также от выбросов напряжения на индуктивных нагрузках. Такие приборы номинальной мощностью 1 Вт выдерживают импульсы тока в десятки и сотни ампер намного лучше, чем «обычные» пятидесятиваттные силовые стабилитроны[21]. Для защиты входов электроизмерительных приборов и затворов полевых транзисторов используются обычные маломощные стабилитроны. В современных «умных» МДП-транзисторах защитные стабилитроны выполняются на одном кристалле с силовым транзистором[30].
В прошлом стабилитроны выполняли и иные задачи, которые впоследствии потеряли прежнее значение:
Ограничение, формирование, амплитудная селекция и детектирование импульсов. Ещё в эпоху электронных ламп кремниевые стабилитроны широко применялись для ограничения размаха импульсов и преобразования сигналов произвольной формы в импульсы заданной полярности[4][31]. С развитием интегральных технологий эту функцию взяли на себя устройства на быстродействующих компараторах, а затем цифровые процессоры обработки сигналов.
Стабилизация напряжения переменного тока также сводилась к ограничению размаха синусоидального напряжения двусторонним стабилитроном. При изменении входного напряжении амплитуда выходного напряжения поддерживалась постоянной, а его действующее значение лишь незначительно отставало от действующего значения входного напряжения[4][31].
Задание напряжений срабатывания реле. При необходимости установить нестандартный порог срабатывания реле последовательно с его обмоткой включали стабилитрон, доводивший порог срабатывания до требуемого значения. С развитием полупроводниковых переключательных схем сфера применения реле сузилась, а функцию управления реле взяли на себя транзисторные и интегральные пороговые схемы[4][32].
Задание рабочих точек усилительных каскадов. В ламповых усилителях 1960-х годов стабилитроны использовались как замена RC-цепочек автоматического смещения. На нижних частотах звукового диапазона и на инфразвуковых частотах расчётные ёмкости конденсаторов таких цепей становились неприемлемо велики, поэтому стабилитрон стал экономичной альтернативой дорогому конденсатору[4][33].
Межкаскадный сдвиг уровней. Сдвиг уровней в ламповых усилителях постоянного тока обычно осуществлялся с помощью газонаполненных стабилитронов или обычных неоновых ламп. C изобретением полупроводниковых стабилитронов они стали применяться вместо газонаполненных. Аналогичные решения применялись и в транзисторной аппаратуре[4], но были быстро вытеснены более совершенными схемами сдвига уровней на транзисторах.
Стабилитроны с высоким ТКН использовались как датчики температуры в мостовых измерительных схемах[34]. По мере снижения напряжений питания и потребляемых мощностей эту функцию приняли на себя прямо смещённые диоды, транзисторные PTAT-цепи и интегральные схемы на их основе.
В среде моделирования SPICE модель элементарного стабилитрона используется не только по прямому назначению, но и для описания режима пробоя в моделях «реальных» биполярных транзисторов. Стандартная для SPICE модель транзистора Эберса—Молла режим пробоя не рассматривает[35].
Основные характеристики стабилитрона
Токи и напряжения стабилизации
ГОСТ 25529—82 «Диоды полупроводниковые. Термины, определения и буквенные обозначения параметров» определяет ток стабилизации (Iст) и напряжение стабилизации (Uст) стабилитрона как значения постоянных напряжений и токов в режиме стабилизации[36]. Режим стабилизации возможен в достаточно широкой области токов и напряжений, поэтому в технической документации указываются допустимые минимальные и максимальные значения токов (Iст.мин, Iст.макс) и напряжений (Uст.мин, Uст.макс) стабилизации. Внутри этих диапазонов лежат выбранные производителем номинальные значения Iст и Uст. Минимальный ток стабилизации обычно приравнивается к току на выходе из зоны перелома обратной ВАХ, максимальный ограничен допустимой рассеиваемой мощностью, а номинальный ток обычно устанавливается на уровне от 25 до 35 % от максимального[37]. Минимальные токи низковольтных лавинных диодов измеряются единицами и десятками микроампер[38], минимальные токи «обычных» стабилитронов — единицами миллиампер.
Например, номинальное напряжение советского стабилитрона 2С133В, как следует из его обозначения, равно 3,3 В, а номинальный ток стабилизации — ток, при котором измеряются его паспортные характеристики — равен 5 мА. Минимальный ток стабилизации для всех рабочих температур (—60…+125 °C) установлен на уровне 1 мА, максимальный — зависит от температуры и атмосферного давления. При нормальном атмосферном давлении и температуре, не превышающей +35 °C, ток не должен превышать 37,5 мА, а при температуре +125 °C — 15 мА. При снижении давления до 665 Па (5 мм рт.ст, или 1/150 нормального атмосферного давления) максимальные токи снижаются вдвое из-за худшего теплоотвода в разреженной среде. Паспортный разброс напряжения стабилизации (Uст.мин…Uст.макс) этого прибора нормируется для тока 5 мА и четырёх различных температур от —60 °C до +125 °C. При —60 °C разброс напряжений составляет 3,1…3,8 В, при +125 °C — 2,8…3,5 В[13].
Дифференциальное сопротивление
Дифференциальное, или динамическое сопротивление стабилитрона равно отношению приращения напряжения стабилизации к приращению тока стабилизации в точке с заданным (обычно номинальным) током стабилизации[36]. Оно определяет нестабильность прибора по напряжению питания (по входу) и по току нагрузки (по выходу). Для уменьшения нестабильности по входу стабилитроны запитывают от источников постоянного тока, для уменьшения нестабильности по выходу — включают между стабилитроном и нагрузкой буферный усилитель постоянного тока на эмиттерном повторителе или операционном усилителе, или применяют схему составного стабилитрона[39]. Теоретически, дифференциальное сопротивление стабилитрона уменьшается с ростом тока стабилизации. Это правило, сформулированное для условия постоянной температуры p-n-перехода, на практике действует только в области малых токов стабилизации. При бо́льших токах неизбежный разогрев кристалла приводит к росту дифференциального сопротивления, и как следствие — к увеличению нестабильности стабилизатора[40].
Для маломощного стабилитрона 2С133В дифференциальное сопротивление при минимальном токе стабилизации 1 мА равно 680 Ом, а при номинальном токе в 5 мА и температурах от —60 до +125 °C не превышает 150 Ом [13]. Стабилитроны бо́льшей мощности на то же номинальное напряжение имеют меньшее дифференциальное сопротивление, например, КС433А — 25 Ом при 30 мА. Дифференциальное сопротивление низковольтных лавинных диодов (LVA) примерно на порядок ниже, чем в «обычных» стабилитронах: например, для LVA351 (напряжение 5,1 В, мощность 400 мВт) оно не превышает 10 Ом при токе 10 мА[41]. Внутри каждого семейства стабилитронов (одной и той же максимальной мощности) наименьшие абсолютные значения дифференциального сопротивления при заданном токе имеют стабилитроны на напряжение 6 В[20].
Температурный коэффициент напряжения
ГОСТ определяет температурный коэффициент напряжения как «отношение относительного изменения напряжения стабилизации к абсолютному изменению температуры окружающей среды» при заданном постоянном токе стабилизации[36]. ТКН обычных, не термокомпенсированных диодов, при их номинальных токах составляет для стабилитронов туннельного пробоя (Uст<4 Eg) от −0,05 до −0,1 %/°C, а для стабилитронов лавинного пробоя (Uст<4 Eg) — от 0,05 до 0,1 %/°C. Иными словами, при нагреве стабилитрона от +25 °C до +125 °C сдвиг напряжения стабилизации составит от 5 до 10 % начального значения.
В области малых и средних токов на вольт-амперных характеристиках стабилитронов на напряжение 4,5…6,5 В[42] можно найти точку (значение тока ITK0 и напряжения UTK0), в которой температурный коэффициент близок к нулю. Если стабилизировать ток такого стабилитрона внешним источником тока на уровне, точно равном ITK0, то напряжение на стабилитроне, равное UTK0 практически не зависит от температуры. Такой подход применяется в интегральных стабилитронных источниках опорного напряжения, но не применим к устройствам на дискретных стабилитронах. Точное значение ITK0 можно определить только опытным путём, что в условиях серийного производства неприемлемо[43]. Стабилитроны на напряжение менее 4,5 В также имеют точку нулевого ТКН, но она находится за пределами области безопасной работы[42]. Стабилитроны на напряжение свыше 6,5 В имеют положительный (ненулевой) ТКН во всём диапазоне токов[42].
Дрейф и шум
В справочной документации на обычные, не прецизионные, стабилитроны показатели дрейфа и шума обычно не указываются. Для прецизионных стабилитронов это, напротив, важнейшие показатели наравне с начальным разбросом и ТКН[44]. Высокий уровень шума обычных стабилитронов обусловлен высокой концентрацией посторонних примесей и дефектов кристаллической решётки в области p-n-перехода. Защитная пассивация оксидом или стеклом, при которой эти примеси выталкиваются из приповерхностных слоёв в толщу кристалла, снижает шумы лишь отчасти[45]. Радикальный способ снижения шума — выталкивание вглубь кристалла не примесей, а самого p-n-перехода — применяется в малошумящих стабилитронах со скрытой структурой. Лучшие образцы таких приборов имеют размах низкочастотных (0,1—10 Гц) шумов не более 3 мкВ при длительном дрейфе не более 6 мкВ за первые 1000 часов эксплуатации[46][47].
Наибольший уровень шумов стабилитрона наблюдается в области перелома вольт-амперной характеристики. Инструментально снятые кривые высокого разрешения показывают, что ВАХ перелома имеют не гладкий, а ступенчатый характер; случайные сдвиги этих ступеней и случайные переходы тока со ступени на ступень порождают так называемый шум микроплазмы. Этот шум имеет спектр, близкий белому шуму в полосе частот 0—200 кГц. При переходе из области перелома ВАХ в область токов стабилизации уровень этих шумов резко снижается[48].
Динамические характеристики
Частота переключения стабилитрона общего назначения обычно не превышает 100 кГц[49]. Пробой не происходит мгновенно, а время срабатывания зависит как от преобладающего механизма пробоя, так и от конструкции стабилитрона. Во время этого процесса напряжение на стабилитроне может превышать его номинальное значение стабилизации. Частотный диапазон переключательных схем на стабилитронах можно расширить, включив последовательно со стабилитроном быстрый импульсный диод. При уменьшении напряжения на цепочке стабилитрон-диод диод закрывается первым, препятствуя разрядке ёмкости стабилитрона. Заряд на этой ёмкости достаточно долго поддерживает на стабилитроне напряжение стабилизации, то есть стабилитрон никогда не закрывается[49].
Область безопасной работы
«История показала, что главной причиной выхода диодов из строя является превышение допустимых электрических и тепловых нагрузок.»
Руководство по полупроводниковым приборам НАСА[50]
Область безопасной работы стабилитрона ограничена рядом параметров, важнейшими из которых является максимальные значения постоянного тока, импульсного тока, температуры p-n-перехода (+150 °C для корпуса SOT-23, +175 °C для корпуса DO-35, +200 °C для корпуса DO-41[51]) и рассеиваемой мощности. Все эти ограничения должны выполняться одновременно, а несоблюдение хотя бы одного из них ведёт к разрушению стабилитрона[52].
Ограничения по току и мощности очевидны, а ограничение по температуре требует оценки допустимой мощности, при которой расчётная температура p-n-перехода не превысит максимально допустимой. В технической документации такая оценка обычно приводится в форме графика зависимости допустимой мощности P от температуры окружающей среды Ta. Если такого графика нет, следует оценить допустимую мощность по формуле для температуры перехода Tj:
T
j
=
T
a
+
P
R
j
a
{\displaystyle T_{j}=T_{a}+PR_{ja}}
,
где Rja — тепловое сопротивление между p-n-переходом и окружающей средой (воздухом) для непрерывно рассеиваемой мощности[53]. Типичное значения этого показателя маломощного стабилитрона, например, серии NZX, равно 380 °C/Вт[54]. Мощность, при которой расчётная температура не будет превышать установленного предела в +175 °C[54], ограничена величиной
P
(
T
a
)
=
(
175
o
C
−
T
a
)
R
j
a
{\displaystyle P\left(T_{a}\right)={\frac {\left(175^{o}C-T_{a}\right)}{R_{ja}}}}
Для ожидаемой температуры окружающей среды +50 °C расчётная мощность составляет всего 330 мВт — в полтора раза меньше паспортного максимума мощности в 500 мВт[54].
Характер и причины отказов
Катастрофическое короткое замыкание может быть вызвано не только выходом за пределы области безопасной работы, но и медленной диффузией атомов легирующей примеси в p-n-переходе. В силовых стабилитронах с пружинным креплением одного из выводов к кристаллу наблюдаются механические повреждения кристалла в зоне контакта с пружиной. Если трещина или потёртость кристалла достигает зоны p-n-перехода, то возможно как катастрофическое, так и перемежающееся, «блуждающее» короткое замыкание, а также стабильное уменьшение напряжения стабилизации[17].
Старение стабилитронов может проявляться в виде повышенного дрейфа токов, напряжений и дифференциального сопротивления. Дрейф тока при длительной эксплуатации объясняется накоплением загрязняющих примесей в зоне p-n-перехода, в слое защитного оксида и на его поверхности. Дрейф тока при испытаниях при высокой влажности объясняется негерметичностью корпуса стабилитрона. Дрейф выходного сопротивления, обычно сопровождающийся повышенным уровнем шума, связан с ухудшением электрического контакта между кристаллом и выводами[17].
Прецизионные стабилитроны
Термокомпенсированный стабилитрон
Термокомпенсированный стабилитрон — цепочка из последовательно соединённого стабилитрона на номинальное напряжение около 5,6 В и прямосмещённого диода — вошёл в практику разработчиков в конце 1960-х годов[55]. К 2000-м годам дискретные термокомпенсированные стабилитроны были вытеснены интегральными источникам опорного напряжения, обеспечившими лучшие показатели точности и стабильности при меньших токах и напряжениях питания[56].
В окрестности напряжения 5,6 В лавинный механизм пробоя преобладает над туннельным, но не подавляет его, а его температурный коэффициент имеет стабильное положительное значение около +2 мВ/°C. ТКН диода в прямом включении при нормальных рабочих температурах и токах равен примерно −2 мВ/°C. При последовательном соединении стабилитрона и диода их температурные коэффициенты взаимно компенсируются: абсолютная нестабильность по температуре такой цепочки может составлять всего 5 мВ в диапазоне −55…+100 °C или 2 мВ в диапазоне 0…+75 °C[57]. Нормированный ТКН таких приборов может составлять всего лишь 0,0005 %/°C, или 5 ppm/°C[13]. Диодом термокомпенсированного стабилитрона может служить второй стабилитрон, включенный во встречном направлении. Такие симметричные двуханодные приборы, допускающие работу при любой полярности напряжения, обычно оптимизированы для работы на номинальном токе 10 мА[58], или для тока, типичного для данного семейства стабилитронов (7,5 мА для двуханодного 1N822 из стандартной серии 1N821−1N829[59]). Если же диодом термокомпенсированного стабилитрона служит не стабилитрон, а «простой» диод с ненормированным напряжением пробоя, то эксплуатация прибора на прямой ветви вольт-амперной характеристики, как правило, не допускается[13].
Номинальное напряжение стабилизации типичного термокомпенсированного стабилитрона составляет 6,2 или 6,4 В при разбросе в ±5 % (в особых сериях ±2 % или %±1 %)[57]. В зарубежной номенклатуре наиболее распространены три шестивольтовые серии на номинальные токи 0,5 мА (1N4565−1N4569), 1,0 мА (1N4570−1N4574) и 7,5 мА (1N821−1N829)[60]. Номинальные токи этих серий соответствуют току нулевого ТКН; при меньших токах ТКН отрицательный, при бо́льших — положительный. Дифференциальное сопротивление приборов на 7,5 мА составляет 10 или 15 Ом[59], приборов на 0,5 мА — не более 200 Ом[61]. В технической документации эти особенности внутренней структуры обычно не раскрываются: термокомпенсированные стабилитроны перечисляются в справочниках наравне с обычными или выделяются в отдельный подкласс «прецизионных стабилитронов»[13]. На принципиальных схемах они обозначаются тем же символом, что и обычные стабилитроны[62].
Стабилитрон со скрытой структурой
Ток пробоя обычного планарного стабилитрона сосредоточен в приповерхностном слое кремния — в слое с максимальной концентрацией дефектов кристаллической решётки и посторонних примесей. Именно эти примеси и дефекты и обуславливают нестабильность и шум стабилитрона. Улучшить его показатели можно, если «загнать» ток пробоя вглубь кристалла, в скрытую структуру p-n-перехода с меньшим, чем в приповерхностном слое, напряжением пробоя. В классической эпитаксиальной технологии на месте будущего стабилитрона формируется глубокий островок p+-типа проводимости, а затем проводится обычные диффузии базового (p-) и эмиттерного (n+) слоёв. Эмиттер созданной диодной структуры становится катодом стабилитрона, база — анодом. В приповерхностном слое этот переход имеет профиль проводимости n+-p-, а на дне базовой области — n+-p+. Высоколегированный n+-p+ переход имеет меньшее, чем в приповерхностном n+-p--слое, напряжение пробоя, поэтому весь обратный ток стабилитрона именно на дне базовой области[63].
Первая интегральная схема на стабилитронах со скрытым слоем, LM199, была выпущена в 1976 году, а абсолютный рекорд по совокупности точностных характеристик принадлежит выпущенной в 1987 году LTZ1000[28]. Специально отобранные LTZ1000 используются в наиболее точных твердотельных эталонах напряжения компании Fluke, которая декларирует временну́ю нестабильность в 1 ppm/год и ТКН в 0,1 ppm/°C[29][64]. LM199, LTZ1000 и их аналоги имеют характерную концентрическую топологию. В центре кристалла расположен стабилитрон, непосредственно к нему примыкают транзисторы — датчики температуры, а вокруг них «уложена» спираль подогревателя, также выполненная по планарной технологии. Внешний или встроенный терморегулятор поддерживает стабильно высокую температуру кристалла. Такие ИС имеют рекордно низкие показатели ТКН (LM199 — 0,3 ppm/°C, LTZ1000 — 0,05 ppm/°C[65]), шума (LTZ1000 — 1,2 мкВ пик-пик[65]) и длительного дрейфа (LTZ1000 — 2 мкВ/1000ч[65]). Заявленные показатели достигаются только при тщательном термостатировании и экранировании схемы и жёсткой стабилизации тока стабилитрона.
Схемы включения стабилитрона
Базовая схема параллельного стабилизатора
Простейший параллельный стабилизатор состоит из балластного резистора, включенного последовательно между источником питания и нагрузкой, и стабилитрона, шунтирующего нагрузку на общий провод («на землю»). Его можно рассматривать как делитель напряжения, в котором в качестве нижнего плеча используется стабилитрон. Разница между напряжением питания и напряжением пробоя стабилитрона падает на балластном резисторе, а протекающий через него ток питания разветвляется на ток нагрузки и ток стабилитрона. Стабилизаторы такого рода называются параметрическими: они стабилизируют напряжение за счёт нелинейности вольт-амперной характеристики стабилитрона, и не используют цепи обратной связи[66].
Расчёт параметрического стабилизатора на полупроводниковых стабилитронах аналогичен расчёту стабилизатора на газонаполненных приборах, с одним существенным отличием: газонаполненным стабилитронам свойственен гистерезис порогового напряжения. При емкостной нагрузке газонаполненный стабилитрон самовозбуждается, поэтому конструкции таких стабилизаторов обычно не содержат емкостных фильтров, а конструктору не нужно учитывать переходные процессы в этих фильтрах. В стабилизаторах на полупроводниковых стабилитронах гистерезис отсутствует, фильтрующие конденсаторы подключаются непосредственно к выводам стабилитрона и нагрузки — как следствие, конструктор обязан учитывать броски тока заряда (разряда) этих емкостей при включении (выключении) питания. Наихудшими случаями, при которых вероятен выход из строя элементов стабилизатора или срыв стабилизации, являются:
Подача на вход стабилизатора максимально возможного напряжения питания при коротком замыкании выхода стабилизатора на общий провод — например, на время зарядки разряженного конденсатора, подключенного непосредственно к выходу стабилизатора, или при катастрофическом отказе стабилитрона[67]. Допустимая мощность рассеивания балластного резистора должна быть достаточной, чтобы выдержать подобное замыкание. В противном случае вероятно разрушение балластного резистора.
Подача на вход стабилизатора максимально возможного напряжения питания при отключении нагрузки от выхода стабилизатора. Допустимый ток стабилитрона должен превышать расчётный ток через балластный резистор, определяемый по закону Ома. В противном случае при разогреве кристалла стабилитрона свыше +175 °C стабилитрон разрушается. Соблюдение паспортной области безопасной работы так же важно для стабилитронов, как и для транзисторов[68].
Отбор нагрузкой максимально возможного тока при подаче на вход стабилизатора минимально возможного напряжения питания. Сопротивление балластного резистора должно быть достаточно мало, чтобы и в этих условиях ток через резистор превышал ток нагрузки на величину, равную минимально допустимому току стабилитрона. В противном случае ток стабилитрона прерывается, стабилизация прекращается.
На практике часто оказывается, что соблюсти все три условия невозможно как по соображениям себестоимости компонентов, так и из-за ограниченного диапазона рабочих токов стабилитрона. В первую очередь можно поступиться условием защиты от короткого замыкания, доверив её плавким предохранителям или тиристорным схемам защиты, или положиться на внутреннее сопротивление источника питания, которое не позволит ему выдать и максимальное напряжение, и максимальный ток одновременно[69].
Последовательное и параллельное включение
В документации на стабилитроны иностранного производства возможность их последовательного или параллельного включения обычно не рассматривается. В документации на советские стабилитроны встречаются две формулировки:
для приборов малой и средней мощности «допускается последовательное или параллельное соединение любого числа стабилитронов» [одной серии][13];
для приборов средней и большой мощности «допускается последовательное соединение любого числа стабилитронов [одной серии]. Параллельное соединение допускается при условии, что суммарная рассеиваемая мощность на всех параллельно включенных стабилитронах не превосходит максимально допустимой мощности для одного стабилитрона»[70].
Последовательное соединение стабилитронов разных серий возможно при условии, что рабочие токи последовательной цепочки укладываются в паспортные диапазоны токов стабилизации каждой использованной серии. Шунтировать стабилитроны высокоомными выравнивающими резисторами так, как это делается в выпрямительных столбах, не требуется. «Любое число» последовательно соединённых стабилитронов возможно, но на практике ограничено техническими условиями на электробезопасность высоковольтных устройств. При соблюдении этих условий, при подборе стабилитронов по ТКН и их термостатировании возможно построение прецизионных высоковольтных эталонов напряжения. Например, в 1990-е годы лучшие в мире показатели стабильности имел стабилитронный эталон на 1 миллион В, построенный российской компанией «Мегавольт-Метрология» по заказу канадского энергетического института . Основная погрешность этой установки не превышала 20 ppm, а нестабильность по температуре — не более 2,5 ppm во всём рабочем диапазоне температур[29].
Составной стабилитрон
Если схема требует снимать со стабилитрона бо́льшие токи и мощности, чем это допустимо по техническим условиям, то между стабилитроном и нагрузкой включают буферный усилитель постоянного тока. В схеме «составного стабилитрона» коллекторный переход единственного транзистора, усиливающего ток, включен параллельно стабилитрону, а эмиттерный переход — последовательно со стабилитроном. Сопротивление, задающее смещение транзистора, выбирается таким образом, чтобы транзистор плавно открывался при токе стабилитрона, примерно равном его номинальному току стабилизации. Например, при Iст.ном.=5 мА и Uбэ.мин.=500 мВ сопротивление R=500 мВ/5 мA=100 Ом, а напряжение на «составном стабилитроне» равно сумме Uст.ном. и Uбэ.мин.. При бо́льших токах транзистор открывается и шунтирует стабилитрон, а ток стабилитрона прирастает незначительно — на величину, равную току базы транзистора, поэтому в первом приближении дифференциальное сопротивление схемы уменьшается в β раз (β — коэффициент усиления транзистора по току). ТКН схемы равен алгебраической сумме ТКН стабилитрона при Iст.ном. и ТКН прямо смещённого диода (примерно −2 мВ/°C), а её область безопасной работы на практике ограничена ОБР применяемого транзистора[71][21].
Схема составного стабилитрона не предназначена для работы на «прямом токе», но легко преобразуется в двустороннюю («двуханодный стабилитрон») с помощью диодного моста[21].
Базовая схема последовательного стабилизатора
Простейшая схема последовательного стабилизатора также содержит только стабилитрон, транзистор и балластное сопротивление, но транзистор в ней включен по схеме с общим коллектором (эмиттерным повторителем). Температурный коэффициент такого стабилизатора равен алгебраической разнице Uст.ном. стабилитрона и Uбэ.мин. транзистора; для нейтрализации влияния Uбэ.мин. в практических схемах последовательно со стабилитроном включают прямо включенный диод VD2[73]. Минимальное падение напряжения на регулирующем транзисторе можно снизить, заменив балластный резистор на транзисторный источник тока.
Умножение напряжения стабилизации
Для стабилизации напряжения, превосходящего максимальное напряжение типовых малогабаритных стабилитронов, можно собрать составной «высоковольтный стабилитрон», например, набрать напряжение 200 В из последовательно соединённых стабилитронов на 90, 90 и 20 В. Однако напряжение шумов и нестабильность такой схемы могут оказаться неприемлемо высоки, а фильтрация шума высоковольтной цепочки потребует дорогих, массивных конденсаторов. Существенно лучшие характеристики имеет схема с умножением напряжения единственного малошумящего низковольтного стабилитрона на напряжение 5…7 В. В этой схеме, также как и в обычном термокомпенсированном стабилитроне, опорное напряжение равно сумме напряжения пробоя стабилитрона и напряжения перехода база-эмиттер биполярного транзистора. Коэффициент умножения опорного напряжения определяется делителем R2-R3. Действительный коэффициент умножения несколько больше расчётного из-за ответвления тока в базу транзистора[74].
По соображениям безопасности и простоты монтажа в стабилизаторе положительного напряжения удобнее применять pnp-транзистор, в стабилизаторе отрицательного напряжения — npn-транзистор. В таких конфигурациях коллектор силового транзистора электрически соединён с общим проводом и его можно крепить непосредственно к шасси без изолирующих прокладок. По соображениям доступности и себестоимости в стабилизаторах любой полярности проще и дешевле применять npn-транзисторы. При напряжениях и токах, типичных для ламповых усилителей, ёмкость конденсатора, шунтирующего стабилитрон, должна составлять несколько тысяч мкФ. При этом она не только фильтрует низкочастотный шум стабилитрона, но и обеспечивает плавное нарастание напряжения при запуске схемы. Как следствие, при включении питания возрастает тепловая нагрузка на последовательное сопротивление R1[74].
ИОН на термокомпенсированном стабилитроне
Термокомпенсированные стабилитроны обычно питаются постоянным током от транзисторного или интегрального источника тока. Использование базовой схемы с балластным резистором не имеет смысла, так как даже при питании схемы стабилизированным напряжением нестабильность по току будет неприемлемо велика. Слаботочные стабилитроны на ток 1 мА обычно запитываются от источников тока на биполярных транзисторах, полевых транзисторах с p-n-переходом, стабилитроны на ток 10 мА — от источников тока на МДП-транзисторах со встроенным каналом в режиме обеднения. Интегральные источники тока семейства LM134/LM334 допускают токи до 10 мА, но не рекомендуются к применению в схемах с током более 1 мА из-за высокой нестабильности по температуре (+0,336 %/°C)[76].
Высокоомные нагрузки с постоянным, относительно термостабильным, сопротивлением можно подключать непосредственно к выводам стабилитрона. В иных случах между стабилитроном и нагрузкой включается буферный усилитель на прецизионном операционном усилителе или на дискретных биполярных транзисторах. В грамотно спроектированных схемах такого рода, прошедших длительную электротермотренировку, нестабильность при длительной работе составляет порядка 100 ppm в месяц[77] — существенно выше того же показателя прецизионных интегральных ИОН.
Генератор белого шума на стабилитроне
Собственные шумы стабилитрона лавинного пробоя имеют спектр, близкий к спектру белого шума. В стабилитронах на напряжение 9…12 В уровень шума достаточно высок для того, чтобы его можно было использовать для целенаправленной генерации шума. Частотный диапазон такого генератора определяется полосой пропускания усилителя напряжения и может простираться до сотен МГц. На приведённых иллюстрациях показаны две возможные конструкции усилителей: в первом случае верхняя граничная частота усилителя (1 МГц) задаётся ёмкостью С2[78], во втором она определяется полосой пропускания интегральных усилителей (900 Мгц) и качеством монтажа[79].
Уровень шума конкретного стабилитрона мало предсказуем и может быть определён только опытным путём[79]. Отдельные ранние серии стабилитронов отличались особо высоким уровнем шума, но по мере совершенствования технологии их вытеснили малошумящие приборы. Поэтому в серийных изделиях более оправдано применение не стабилитронов, а высокочастотных биполярных транзисторов в обратном включении, например, разработанного ещё в 1960-е годы транзистора 2N918 — спектр его шума простирается до 1 ГГц[80].
Программируемые перемычки на стабилитронах
Стабилитрон на базе обратно-смещённого эмиттерного перехода интегрального планарного npn-транзистора («поверхностный стабилитрон») отличается от дискретных стабилитронов малым предельным током стабилизации. Максимальный обратный ток, допустимый в типовой эмиттерной структуре с металлизацией алюминием, не превышает 100 мкА. При бо́льших токах в приповерхностном слое происходит видимая глазу вспышка и под слоем оксида возникает алюминиевая перемычка, навсегда превращающая погибший стабилитрон в резистор с сопротивлением около 1 Ом[26][21].
Этот недостаток интегральных стабилитронов широко используется в производстве аналоговых интегральных схем для точной подстройки их параметров. В технологии пережигания стабилитронов (English: zener zapping) параллельно с коммутируемыми сопротивлениями формируются элементарные стабилитронные ячейки. При необходимости скорректировать величину сопротивления цепи или коэффициент делителя напряжения ненужные стабилитронные ячейки пережигаются импульсами тока длительностью 5 мс и силой 0,3—1,8 A, закорачивая соответствующие им резисторы. Тот же приём может применяться и в цифровых ИС с металлизацией алюминием[26][21].
Примечания
Источники
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Категория:Полупроводниковые диоды | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D1%82%D0%B0%D0%B1%D0%B8%D0%BB%D0%B8%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BD |
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クラーク国際空港(クラークこくさいくうこう、English: Clark International Airport)は、フィリピンのルソン島パンパンガ州マバラカット市のクラーク経済特別区 (CSEZ) 内にある国際空港である。旧称は、ディオスダド・マカパガル国際空港 (Diosdado Macapagal International Airport) であった。
概要
2本のメイン滑走路を有している。東側に平行してが所有する小型機用の滑走路(02/20 640m×15m)も存在する。ここでフィリピン航空の初等訓練も行われている。
貨物航空会社 UPS のアジア地域ハブ空港でもあったが、2010年に深圳宝安国際空港に機能を移転した。
歴史
1919年 - アメリカ合衆国によってクラーク飛行場として建設された。
1942年 - 大日本帝国海軍が占領した。
1944年10月 - 最初の神風特別攻撃隊が飛び立つ。
1945年 - アメリカ軍が再占領した。
1947年 - アメリカとフィリピンの協定により、アメリカ空軍クラーク空軍基地となる。
1991年11月 - ピナトゥボ山の噴火の影響を受け、在比米軍は施設をフィリピンに返還した。
1993年 - クラーク国際空港として開港。
2003年 - ディオスダド・マカパガル国際空港へ改称。(当時、フィリピン共和国大統領を務めていたグロリア・アロヨの父親の名称を冠した)
2007年10月 - エアバスA380がデモフライトで飛来した。
2012年2月 - 名称をクラーク国際空港に戻す。
計画
ニノイ・アキノ国際空港が近い将来、処理能力が限界になると予想され、空港拡張もほぼ不可能なため、空港連絡鉄道や高速道路のインフラストラクチャを整備して、マニラ首都圏の次期ハブ空港にする計画がある。
現在、3,200mの二本の滑走路を運用しているが、将来的にはもう一本4,000mの滑走路を整備する計画がある。
シンガポール航空のグループ整備会社であるSIA Engineering CompanyがエアバスA380-800やボーイング747-8クラスの大型旅客機も整備できる拠点を整備予定。
就航航空会社と就航都市
国内線
国際線
交通アクセス
バス
マニラ パサイ方面 (、1日3便)
マニラ ケソン方面 ()
マニラ空港連絡バス(Genesis Transport ())
タクシー
レンタカー
脚注
関連項目
クラーク空軍基地
クラーク経済特別区
スービック経済特別区
スービック・ベイ国際空港
スービック海軍基地
外部リンク
(in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A9%BA%E6%B8%AF |
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ماري سكوودوفسكا كوري (7 نوفمبر 1867 – 4 يوليو 1934) عالمة فيزياء وكيمياء بولندية المولد، اكتسبت الجنسية الفرنسية فيما بعد. عرفت بسبقها وأبحاثها في مجال اضمحلال النشاط الإشعاعي وهي أول امرأة تحصل على جائزة نوبل والوحيدة التي حصلت عليها مرتين وفي مجالين مختلفين [1] (مرة في الفيزياء وأخرى في الكيمياء)، وهي أول امرأة تتبوأ رتبة الأستاذية في جامعة باريس. اكتشفت مع زوجها بيار كوري عنصري البولونيوم والراديوم وليحصلا مشاركةً على جائزة نوبل في الفيزياء، كما حصلت على جائزة نوبل في الكيمياء عام 1911 بمفردها، وقد اقتسمت ابنتها إيرين جوليو-كوري وزوج ابنتها فردريك جوليو-كوري أيضًا جائزة نوبل لعام 1935.
ولدت ماري كوري باسم ماريا سكوودوفسكا في مدينة وارسو (التي كانت آنذاك تابعة لمنطقة فستولا، وهو الاسم الذي كان يطلق على بولندا تحت حكم الإمبراطورية الروسية) وعاشت فيها حتى بلغت الرابعة والعشرين. وفي سنة 1891، لحقت بأختها الكبرى برونسوافا (بالبولندية Bronisława) التي سافرت إلى باريس للدراسة.
من إنجازاتها وضع نظرية للنشاط الإشعاعي (وإليها ينسب مصطلح "نشاط إشعاعي")[2]. كما ابتكرت تقنيات لفصل النظائر المشعة، واكتشفت عنصرين كيميائيين هما البولونيوم والراديوم، وتحت إشرافها أجريت أول دراسات لمعالجة الأورام باستخدام النظائر المشعة. كما أسست معهدي كوري في باريس وفي وراسو.
خلال الحرب العالمية الأولى، أسست أول مراكز إشعاعية عسكرية. ورغم حصولها على الجنسية الفرنسية، لم تفقد ماري سكوودوفسكا كوري إحساسها بهويتها البولندية، فقد علمت بناتها اللغة البولندية، واصطحبتهم في زيارات لبولندا. كما أطلقت على أول عنصر كيميائي اكتشفته اسم البولونيوم، الذي عزلته للمرة الأولى عام 1898، نسبة إلى بلدها الأصل.[3] وخلال الحرب العالمية الأولى أصبحت عضوًا في منظمة بولندا الحرة.[4] كما أسست معهدًا مخصصًا للعلاج بالراديوم في مدينة وارسو سنة 1932 (يسمى حاليًا معهد ماريا سكوودوفسكا كوري للأورام)، والذي ترأسته شقيقتها الطبيبة برونسوافا.
توفيت ماري كوري عام 1934، بمرض فقر الدم اللاتنسجي الذي أصيبت به نتيجة تعرضها للإشعاع لأعوام.
المولد والنشأة
ولدت ماريا سكوودوفسكا في وارسو ببولندا في 7 نوفمبر 1867، وكانت ماريا الابنة الصغرى من بين خمسة أطفال لأبوين من المعلمين المعروفين برونيسلافا وفلاديسلاف سكوودوفسكي.[5] كان جدها لأبيها جوزيف سكوودوفسكي معلمًا في لوبلين، وكان من تلامذته الأديب البولندي بوليسلاف بروس،[6] والدها فلاديسلاف سكوودوفسكي كان معلمًا للرياضيات والفيزياء ومديرًا لصالتي ألعاب رياضية للفتيان في وارسو، أما والدتها برونيسلافا سكوودوفسكي فكانت تدير مدرسة داخلية للفتيات في وارسو وكانت تعاني من الدرن، الذي أودى بحياتها عندما كانت ماريا في الثانية عشرة من عمرها. كان والدها لا دينيًا، بينما كانت والدتها ـ على النقيض ـ كاثوليكية متدينة.[7] وبعد عامين من وفاة والدتها، لحقت شقيقتها الكبرى تسوفيا بوالدتها متأثرة بمرض التيفوس. ووفقًا لروبرت وليم ريد، فقد نبذت ماريا الكاثوليكية تحت صدمة وفاة والدتها وأختها، وتحولت إلى اللاأدرية[8].
التحقت ماريا وهي في العاشرة من عمرها بالمدرسة الداخلية التي كانت تديرها والدتها، ثم التحقت بمدرسة أخرى للبنات تخرجت فيها في 12 يونيو 1883، ثم قضت عامًا في الريف مع أقارب والدها، وبعدها انتقلت إلى وارسو لتعمل بالتدريس الخاص. كانت عائلتا والدها ووالدتها قد فقدتا ممتلكاتهما وثرواتهما نتيجة انخراطهما في العمل الوطني، مما جعل ماريا وإخوتها يعانون ماديًا لمواصلة طريقهم في الحياة.[9]
أبرمت ماريا مع شقيقتها برونيسلافا اتفاقًا بمقتضاه تسافر برونيسلافا لدراسة الطب في باريس على أن تنفق عليها ماريا، ثم تتبادل الأختان المواقع بعد عامين.[10] فعملت ماريا مربية لدى أسرة أحد المحامين في كراكوفيا، ثم لدى أسرة تسورافسكي (وهي عائلة ميسورة تمت بصلة قرابة إلى أبيها) في مدينة تشيخانوف، وهناك وقعت في حب أحد شباب تلك الأسرة وهو كازيمير تسورافسكي (الذي صار فيما بعد من كبار علماء الرياضيات)، غير أن أسرته رفضت زواجه من تلك الفتاة المعدمة. ولم يكن للفتى كازيمير القدرة على الاعتراض، ونتيجة لذلك استغنت الأسرة عن خدمات ماريا،[11] فاتجهت للعمل لدى أسرة فوكس في مدينة سوبوت الواقعة على بحر البلطيق في شمال بولندا، حيث قضت عامًا ولم تتخل طوال تلك الفترة عن إعانة شقيقتها ماديًا.
تصغير|يمين|200بك|المعمل الذي قامت فيه سكوودوفسكي بأولى تجاربها العلمية 1890–1891.
وفي مطلع عام 1890، وبعد شهور قليلة من زواج برونيسلافا من الفيزيائي والناشط السياسي كازيمير ديوسكي، وجهت برونيسلافا الدعوة لأختها ماريا للحاق بهما في باريس، غير أن ماريا أحجمت عن ذلك لعدم قدرتها على توفير نفقات الدراسة بالجامعة، ولرغبتها في الزواج من كازيمير تسورافسكي. فعادت إلى والدها في وارسو، حيث ظلت معه حتى خريف 1891، وبدأت في التدريس الخصوصي والتحقت بالدراسة في جامعة سرية كانت تسمى آنذاك بالجامعة العائمة، وبدأت في التدرب في مختبر متحف الصناعة والزراعة قرب مدينة وارسو القديمة، وهو المعمل الذي كان يديره قريبها جوزيف بوغوسكي، الذي سبق له العمل مساعدًا للكيميائي الروسي ديميتري مندلييف في سانت بطرسبرغ.[12]
وفي أكتوبر 1891، رضخت ماريا لإصرار أختها وقررت السفر إلى فرنسا، وخاصة بعد أن وصلها خطاب من تسورافسكي أنهى كل آمالها في الارتباط به[7]. وفي باريس، أقامت ماريا لفترة قصيرة مع أختها وزوج أختها قبل أن تقوم باستئجار حجرة بسيطة على سطح أحد المنازل[13]، وانهمكت ماريا في دراستها للفيزياء والكيمياء والرياضيات بجامعة السوربون في باريس التي التحقت بها في نهاية عام 1891.[14][15]
في جامعة السوربون
كانت ماريا تواصل دراستها نهارًا وتقوم بإعطاء الدروس لتغطية نفقاتها ـ التي كانت تكفي احتياجاتها بصعوبة ـ مساءً. وفي سنة 1893، حصلت على درجة علمية في الفيزياء، والتحقت بالعمل بأحد المختبرات الصناعية، وواصلت دراستها في السوربون في نفس الوقت حتى حصلت على درجة علمية في الرياضيات سنة 1894، وهو نفس العام الذي دخل فيه بيير كوري حياتها، إذ كان يعمل بالتدريس في مدرسة الفيزياء والكيمياء الصناعية في مدينة باريس ، وكانت ماريا قد بدأت عملها العلمي في باريس بأبحاث حول الخواص المغناطيسية لأنواع الفولاذ المختلفة، وكان الاهتمام المشترك لماريا وبيير بالمغناطيسية هو ما جمعهما سويًا.[16]
زاد سفر ماريا لقضاء الصيف في وارسو من العواطف المتبادلة بينهما. وكانت ماريا تعمل تحت دافع رغبتها في العودة إلى بولندا لتمارس فيها أبحاثها في مجالها العلمي، غير أن جامعة كراكوفيا رفضت إلحاقها بالعمل لديها لمجرد كونها امرأة،[17] بعد أن أقنعتها رسالة من بيير لها بالعودة إلى باريس لمتابعة شهادة الدكتوراه،[15] وبإصرار من ماري، كتب بيير أبحاثه عن المغناطيسية، وحصل على الدكتوراه الخاصة به في مارس 1895؛ وتمت ترقيته أيضًا لدرجة أستاذ في المدرسة.[15] وفي 26 يوليو من ذلك العام، تزوجت هي وبيير زواجًا مدنيًا،[5][15] مما جعلهما مرتبطين ارتباطًا دائمًا بالعمل في نفس المختبر، وقد تشاركا هوايتي ركوب الدراجات لمسافات طويلة والسفر إلى الخارج، وهو ما زاد من تقاربهما.[17][18]
اكتشاف عناصر جديدة
في عام 1895، اكتشف فيلهلم كونراد رونتغن وجود الأشعة السينية، إلا أنه لم يتوصل إلى التقنية التي يمكن بها إنتاج تلك الأشعة.[19] وفي سنة 1896، اكتشف هنري بيكريل أن أملاح اليورانيوم تنبعث منها إشعاعات تشبه الأشعة السينية في قدرتها على اختراق الأجسام،[19] واكتشف أن هذا الإشعاع يختلف عن الإشعاع الفسفوري في أنه ينتج تلقائيًا من اليورانيوم ذاته ولا يستمد طاقته من أي مصدر خارجي.[5]
قررت ماري كوري أن تتخذ من إشعاعات اليورانيوم موضوعًا لرسالتها البحثية،[5] فقامت باستخدام جهاز يسمى الإلكترومتر - كان زوجها وأخوه قد ابتكراه قبل 15 سنة لقياس الشحنة الكهربية[19] - واكتشفت أن إشعاعات اليورانيوم تجعل الهواء المحيط بالعينة قابلاً لتوصيل الكهرباء،[19] وعن طريق هذا الجهاز استنبطت أول نتائج بحثها، وهي أن نشاط مركبات اليورانيوم يعتمد فقط على كمية اليورانيوم الموجودة بها،[19] وقد أثبتت الفرضية القائلة بأن الإشعاع لا ينتج عن تفاعل ما يحدث بين الجزيئات، بل يأتي من الذرة نفسها.[19] كانت تلك الفرضية خطوة هامة في دحض الافتراض القديم بأن الذرات غير قابلة للانقسام.[19][20]
في عام 1897، أنجبت ماري ابنتها إيرين.[21] ولتساعد في نفقات الأسرة، بدأت ماري في التدريس في مدرسة الأساتذة العليا.[21] لم يكن للزوجين كوري مختبر متخصص، وقد قاما بمعظم أبحاثهما في غرفة مسقوفة بجوار مدرسة الفيزياء والكيمياء.[21] كانت تلك الغرفة غرفة تشريح سابقة ملحقة بمدرسة الطب، وكانت سيئة التهوية وتنفذ إليها مياه الأمطار.[22] لم تقدم مدرسة الأساتذة العليا أي تمويل لأبحاثهما، لكنهما حصلا على بعض الدعم من شركات الصناعات المعدنية والتعدينية، وبعض المنظمات والحكومات.[21][22][23]
تركزت أبحاث مدام كوري على اثنين من خامات اليورانيوم هما البتشبلند والتوربرنايت،[22] واكتشفت باستخدام جهاز الإلكتروميتر أن خام البتشبلند أكثر نشاطاً من اليورانيوم ذاته بأربعة أضعاف، كذلك التوربرنايت أنشط بضعفين، وتوصلت من ذلك إلى استنتاج مبني على ملاحظتها السابقة حول اعتماد نشاط مركبات اليورانيوم على كمية اليورانيوم الموجودة بها، أن هذه الخامات قد تكون محتوية على كميات قليلة من مواد مشعة أخرى تفوق اليورانيوم في النشاط الإشعاعي[22][24] وفي عام 1898، أثناء دراستها لمركبات مشعة أخرى بخلاف أملاح اليورانيوم، اكتشفت كوري أن عنصر الثوريوم أيضاً هو عنصر مشع.[19]
مع مرور الوقت، ازداد إعجاب بيير بعمل زوجته، حتى أنه في منتصف عام 1898، ترك أبحاثه حول البلورات وانضم للعمل معها في أبحاثها.[21][22] كانت ماري كوري تدرك أهمية المسارعة بنشر اكتشافاتها لتسجيل سبقها العلمي، فلو لم يكن بيكريل قد سارع بتقديم اكتشافه للنشاط الإشعاعي إلى الأكاديمية الفرنسية للعلوم بمجرد توصله إليه، لربما كان فضل السبق في اكتشاف نشاط النشاط الإشعاعي سيذهب إلى الفيزيائي الإنجليزي سيلفانوس طومسون بدلاً منه. ولذلك اقتدت كوري ببكريل وسجلت اكتشافها ـ في صورة ورقة علمية مختصرة قدمها إلى الأكاديمية بالنيابة عنها أستاذها السابق غبريال ليبمان في 12 أبريل 1898.[25] وكما سبق بيكريل طومسون بإعلانه اكتشاف النشاط الإشعاعي، سبق جيرهارد شميدت ماري كوري بإعلانه في فبراير 1898 في برلين عن اكتشافه للخواص الاشعاعية لعنصر الثوريوم.[26]
في يوليو 1898، نشر الزوجان بيير وماري كوري ورقة بحثية مشتركة، أعلنا فيها عن وجود عنصر أطلقا عليه اسم "البولونيوم"، تكريمًا لبلدها الأصلي بولندا، التي ظلت لعشرين عامًا أخرى مقسمة بين الامبراطوريات الثلاث التي تقاسمتها قبل قرن.[5] وفي 26 ديسمبر 1898، أعلن الزوجان كوري عن وجود عنصر ثانٍ، اسموه "الراديوم" ذو النشاط الإشعاعي الكبير، والاسم كان من صياغتهما.[5][19][21][27]
لإثبات اكتشافاتهم دون أدنى شك، كان على الزوجين فصل البولونيوم والراديوم إلى صورتهما العنصرية النقية.[22] نظرًا لكون البتشبلند خامة معقدة، فقد كان فصل مكوناته الكيميائية مهمة شاقة. كان اكتشاف البولونيوم سهلاً نسبيًا؛ فهو كيميائيًا يشبه عنصر البزموت، كما كان البولونيوم فقط المادة الوحيدة الشبيهة بالبزموت في الخامة. إلا أن الراديوم، كان عنصرًا أكثر مراوغة، فهو يرتبط ارتباطًا كيميائيًا وثيقًا بعنصر الباريوم، وخامة البتشبلند تحتوي على العنصرين. في عام 1898، كان حصول الزوجين كوري على كميات ملموسة من الراديوم غير مختلطة مع الباريوم، أمرًا لا يزال بعيد المنال.[28] أجرى الزوجان كوري المهمة الشاقة المتمثلة في فصل ملح الراديوم من خلال عمليات بلورة متعددة. ومن طن من البتشبلند، فصلا جزء من عشرة أجزاء من الجرام من كلوريد الراديوم عام 1902. في عام 1910، فصلت ماري عنصر الراديوم النقي.[22][29] إلا أنها لم تنجح أبدًا في فصل عنصر البولونيوم، الذي تبلغ فترة عمر نصفه 138 يوم فقط.[22]
في عام 1900، أصبحت ماري أول امرأة عضوة في مدرسة الأساتذة العليا، وانضم بيير لكلية في جامعة السوربون.[30][31] وفي عام 1902، زارت ماري بولندا، لوفاة والدها.[21] وفي يونيو 1903، وتحت إشراف هنري بيكريل، تم منح ماري درجة الدكتوراه من جامعة باريس.[21][32] وفي نفس الشهر، دعيت هي وبيير إلى المعهد الملكي في لندن لإلقاء كلمة عن النشاط الإشعاعي؛ منعت ماري من التحدث في المنتدى، لكونها أنثى، وسمح لبيير وحده بالحديث.[33] في غضون ذلك، بدأت صناعة جديدة في الظهور استنادًا على اكتشاف الزوجين كوري للراديوم.[30] ونظرًا لكون الزوجان كوري لم يسجلا براءة اختراع باكتشافهما، لذا لم يحققا سوى استفادة مادية قليلة من هذا المشروع.[22][30]
الحصول على جائزتي نوبل
في ديسمبر 1903، منحت الأكاديمية الملكية السويدية للعلوم كلاً من بيير وماري كوري وهنري بيكريل جائزة نوبل في الفيزياء "اعترافًا بالفضل الكبير لأبحاثهم المشتركة في دراسة ظاهرة الإشعاع المؤين التي اكتشفها البروفيسور بيكريل".[21] في البداية، كان هناك نية لتكريم بيير وهنري فقط، إلا أن أحد أعضاء اللجنة المدافع عن العلماء من النساء، وهو عالم الرياضيات السويدي ماجنوس جوستا ميتاج-ليفلر نبّه بيير للموقف، وبعد تظلم بيير، أضيف اسم ماري للجائزة،[34] لتصبح ماري أول امرأة تفوز بجائزة نوبل.[21]
ولم تتمكن ماري كوري وزوجها من السفر إلى ستوكهولم لتسلم الجائزة بشكل شخصي لانشغالهما بأعمالهما، ولإحساس بيير الذي لم يكن يحب الاحتفالات العامة بالمرض.[33][34] لكنهما اقتسما ريعها مع من يعرفون من المحتاجين، ومنهم بعض طلبتهم.[17] كما جرت العادة مع الحائزين على جائزة نوبل، قام الزوجان أخيرًا برحلة إلى السويد عام 1905، لإلقاء محاضرة عن الموضوع.[34]
مكنت أموال الجائزة الزوجين كوري من توظيف أول مساعد لهما في معملهما،[34] ومع ارتفاع شهرتهما في الأوساط العلمية بعد الفوز بالجائزة، قدمت جامعة جنيف عرضًا لبيير للعمل بها، كما منحته جامعة السوربون درجة الأستاذية وشغل كرسي الفيزياء بالجامعة. ونظرًا لعدم وجود معمل خاص بالزوجين حتى تلك اللحظة،[21][30][31] تقدم بيير بشكوى للجامعة، التي صرحت له بتأسيس معمل خاص به في الجامعة، لكنه لم يصبح جاهزًا إلا مع حلول عام 1906.[34]
وفي ديسمبر 1904، وضعت ماري مولودتها الثانية إيف.[34] ثم استأجرت مربية بولندية بعد ذلك لتعليم بناتها لغتها الأم، كما كانت ترسلهم أو تصطحبهم في زيارات لبولندا.[35]
في 19 أبريل 1906، قُتل بيير في حادث سير، وهو يعبر شارع دوفين وسط أمطار غزيرة، حيث ضربته عربة تجرها الخيول وسقط تحت عجلاتها، فتكسرت جمجمته.[21][36] انهارت ماري بسبب وفاة زوجها.[37] في 13 مايو 1906، قرر قسم الفيزياء في جامعة السوربون الإبقاء على الكرسي الذي جعل لبيير وعرضه على ماري.[37] قبلت ماري ذلك، على أمل إنشاء مختبر عالمي كتحية لبيير،[37][38] فأصبحت أول امرأة تحصل على الأستاذية في جامعة السوربون.[21]
لم تقبل السوربون طلب ماري بإنشاء معمل جديد. وفي أعوامها الأخيرة، ترأست ماري معهد الراديوم الذي يعرف الآن بمعهد كوري وهو المعمل الإشعاعي الذي أسسه معهد باستير وجامعة باريس من أجلها.[38] جاءت تلك المبادرة في عام 1909 من بيير بول إميل رو مدير معهد باستير، الذي شعر بخيبة أمل لعدم تقديم السوربون المختبر المناسب لماري، واقترح أن تنتقل إلى المعهد.[21][39] عندئذ، بتهديد من ماري بالاستقالة، رضخت جامعة السوربون، وفي النهاية أصبح معهد كوري مبادرة مشتركة بين جامعة السوربون ومعهد باستير.[39]
وفي عام 1910، نجحت ماري في فصل عنصر الراديوم؛ كما وضعت تعريفًا لمعيار دولي لقياس الانبعاثات الإشعاعية، والذي سميّ باسم الزوجين وحدة الكوري.[38] ومع ذلك، في عام 1911 لم تحصل ماري سوى على صوت واحد[21] أو صوتين[40] في انتخابات الأكاديمية الفرنسية للعلوم، وانتخب بدلاً منها إدوارد برانلي، المخترع الذي ساعد غولييلمو ماركوني في تطوير التلغراف اللاسلكي،[41] وهي العضوية التي لم تحصل عليها أية امرأة حتى عام 1962، عندما انضمت مارغريت بيري للأكاديمية وهي التي كانت طالبة دكتوراه تحت إشراف ماري كوري نفسها، لتصبح أول امرأة تنتخب عضوًا في الأكاديمية. على الرغم من شهرة كوري كعالمة تعمل لفرنسا، إلا أن موقف الجمهور كان يميل تجاه كراهية الأجانب - كان الأمر ثائرًا بسبب قضية دريفوس.[21][40] خلال انتخابات الأكاديمية الفرنسية للعلوم، انتقدتها الصحافة اليمينية، لكونها أجنبية وملحدة.[40] وقد علقت ابنتها فيما بعد على النفاق العام قائلةً:
في عام 1911، أشيع أن خلال العام الماضي، كانت ماري على علاقة بالفيزيائي بول لانجفان، التلميذ السابق لزوجها.[42] كان لانجفان متزوجًا ونافرًا من زوجته،[40] مما تسبب في فضيحة صحفية استخدمت ضدها أثناء الترشيحات للأكاديمية. كانت ماري أكبر من لانجفان بخمسة أعوام، وصورتها الصحف في صورة اليهودية الأجنبية هدّامة الزيجات.[43] كانت ماري في بلجيكا لحضور مؤتمر عندما أثيرت تلك الفضيحة، وبعد عودتها، وجدت تجمهرًا غاضبًا أمام منزلها، فلجأت بابنتيها إلى منزل صديق.[40] ومن الطريف أنه حفيدة كوري هيلين لانجفان-جوليو تزوجت من حفيد لانجفان ميشيل لانجفان.[44]
ورغم ذلك، تواصل التقدير الدولي لأعمالها عندما منحتها الأكاديمية الملكية السويدية للعلوم عام 1911، جائزة نوبل أخرى، هذه المرة في الكيمياء.[18] كانت الجائزة "اعترافًا بفضلها في تقدم الكيمياء باكتشافها عنصري الراديوم البولونيوم، وفصلها لمعدن الراديوم، ودراستها لطبيعة ومركبات هذا العنصر الهام."[44] كانت ماري أول من يفوز أو يتشارك في جائزتي نوبل، كما أنها أحد شخصين فقط فازا بالجائزة في مجالين، والشخص الآخر كان لينوس باولنغ (واحدة في الكيمياء والأخرى في السلام). وقد شجعها وفد من رجال العلم البولنديين برئاسة الروائي هنريك سينكيفيتش، على العودة إلى بولندا ومواصلة أبحاثها في بلدها الأصلي.[18] كما مكنت جائزة نوبل الثانية ماري من الحديث مع الحكومة الفرنسية حول دعم معهد الراديوم، الذي بني عام 1914 للأبحاث في مجالات الكيمياء والفيزياء والطب.[39] وبعد شهر من نيلها لجازة نوبل الثانية أدخلت كوري إلى المستشفى مصابة باكتئاب ومرض كلوي.[44] في معظم عام 1912، تجنبت ماري الحياة العامة، وقضت بعض الوقت في إنجلترا مع صديقتها الفيزيائية هرثا أيرتون.[44] ولم تعد إلى مختبرها إلا في ديسمبر بعد توقف دام نحو 14 شهرًا.[44]
في عام 1912، عرضت جمعية وارسو العلمية عليها إدارة مختبر جديد في وارسو، لكنها رفضت للتركيز على استكمال معهد الراديوم، الذي اكتمل في أغسطس 1914، وأطلق على شارع جديد اسم "شارع بيير كوري".[39][44] زارت ماري بولندا عام 1913، وسط ترحيب شعبي في وارسو، وتجاهل من قبل السلطات الروسية.[39] أوقفت الحرب العالمية الأولى الأنشطة في المعهد، حيث التحق معظم الباحثين بالجيش الفرنسي، ثم عاد ليستئنف كامل أنشطته في عام 1919.[39][44][45]
الحرب العالمية الأولى
خلال الحرب العالمية الأولى، رأت ماري أنه هناك حاجة لمراكز إشعاعية ميدانية قرب خطوط المواجهة للمساعدة في الجراحات الميدانية.[45] وبعد دراسة سريعة لعلوم الإشعاع والتشريح وميكانيكا المركبات، اشترت ماري معدات الأشعة السينية ومركبات ومولدات مساعدة وطوّرت وحدات تصوير شعاعي متنقلة، التي عرفت شعبيًا باسم كوري الصغيرة .[45] كما ترأست الخدمات الإشعاعية التابعة للصليب الأحمر وأسست أول مركز أشعة عسكري فرنسي، في نهاية عام 1914.[45] وبمساعدة من طبيب عسكري وابنتها إيرين ذات السبعة عشر عامًا، أدارت تجهيز 20 عربة أشعة و200 وحدة أشعة للمستشفيات الميدانية في أول أعوام الحرب.[39][45] وبعد ذلك، دربت نساء أخريات للمساعدة.[46]
وفي عام 1915، أنتجت ماري إبر جوفاء تحتوي على "فيض الراديوم"، وهو غاز مشع عديم اللون ينبعث من الراديوم، عرف لاحقًا باسم الرادون ليتم استخدامها لتعقيم الأنسجة المصابة.[46] قدمت ماري جرامًا من الراديوم الخاص بها.[46] وتشير التقديرات إلى أنه تم علاج أكثر من مليون جندي جريح بوحداتها ذات الأشعة السينية.[39][47] ولانشغالها بهذا العمل، لم تقدم ماري أي أبحاث علمية خلال تلك الفترة.[39] ورغم كل جهودها، لم تتلق كوري أي اعتراف رسمي من الحكومة الفرنسية بمساهمتها أثناء الحرب.[45]
أيضًا، فور بدء الحرب، حاولت ماري التبرع بميداليات جائزة نوبل الذهبية الخاصة بها للمجهود الحربي، ولكن لم يقبلها البنك الوطني الفرنسي،[46] فاشترت سندات الحرب بأموال جائزة نوبل.[46] كما كانت أيضًا عضوًا نشطًا في لجان البولنديين في فرنسا المكرسة للقضية البولندية.[48] بعد الحرب، لخصت تجربتها في الحرب في كتاب الطب الإشعاعي في الحرب عام 1919.[46]
سنوات ما بعد الحرب
في عام 1920، في الاحتفال بمرور 25 عامًا على اكتشاف الراديوم، خصصت الحكومة الفرنسية راتبًا لها؛ وكان آخر من سبقها إلى ذلك لوي باستير.[39] في عام 1921، تلقت ماري استقبالاً حافلاً، عندما قامت بجولة في الولايات المتحدة لجمع الأموال لأبحاث الراديوم. وبعد مقابلة مع السيدة ويليام براون ميلوني، تأسس صندوق ماري كوري للراديوم الذي يهدف لجمع الأموال لشراء الراديوم.[39][49] وفي عام 1921، استقبلها رئيس الولايات المتحدة وارن هاردن في البيت الأبيض ليقدم لها جرامًا جمع في الولايات المتحدة.[50][51] وقبل الاجتماع، اعترافًا بشهرتها المتزايدة في الخارج، وتحت الشعور بالحرج من حقيقة كونها لم تكرم بتكريم فرنسي رسمي ترتديه في المناسبات العامة، عرضت الحكومة الفرنسية عليها جائزة وسام جوقة الشرف الجائزة، ولكنها رفضت.[51][52] في عام 1922، أصبحت زميلة للأكاديمية الفرنسية الطب.[39] سافرت أيضًا إلى بلدان أخرى لإلقاء محاضرات في بلجيكا والبرازيل وإسبانيا وتشيكوسلوفاكيا.[53]
تحت قيادة ماري، تخرج من معهد كوري أربعة فائزين بجائزة نوبل منهم ابنتها إيرين جوليو-كوري وزوج ابنتها فردريك جوليو-كوري.[54] في نهاية المطاف، أصبح المعهد أحد أربعة مختبرات الأبحاث الرئيسية في النشاط الإشعاعي، الآخرون هم مختبر كافنديش ومعهد أبحاث الراديوم في فيينا ومعهد ماكس بلانك للكيمياء.[54][55]
في أغسطس 1922، أصبحت ماري كوري عضوة في اللجنة الدولية للتعاون الفكري التابعة لعصبة الأمم.[56] في عام 1923، كتبت سيرة ذاتية عن بيير، بعنوان بيير كوري.[57] وفي عام 1925، زارت بولندا للمشاركة في وضعت حجر الأساس لمعهد الراديوم في وارسو.[39] وفي جولتها الأميركية الثانية عام 1929، نجحت إمداد في معهد الراديوم في وارسو بالراديوم؛ وافتتح في عام 1932 وأصبحت شقيقتها برونيسلافا مديرة له.[39][51]
وفاتها
تصغير|تمثال ماري كوري أمام معهد الراديوم في وارسو.
في ربيع سنة 1934 زارت مدام كوري وطنها الأم بولندا للمرة الأخيرة في حياتها؛[18][58] إذ توفيت بعد شهرين من تلك الزيارة (في 4 يوليو 1934) في مصحة سانسيلموز في باسي بإقليم سافوا العليا شرق فرنسا؛ حيث كانت تعالج من فقر الدم اللاتنسجي الناجم عن تعرضها الزائد عن الحد للعناصر المشعة،[39][59] في زمن لم تكن الآثار الضارة للإشعاع المؤين قد عرفت بعد، وبالتالي لم يكن العلماء الذين يتعاملون مع تلك العناصر على دراية باحتياطات السلامة اللازمة، فلطالما حملت مدام كوري أنابيب اختبار تحوي نظائر مشعة في جيبها،[60] ولطالما وضعتها في درج مكتبها دون أن تدرك أخطارها الجسيمة. كما تعرضت للأشعة السينية من الأجهزة غير المعزولة، أثناء خدماتها التي كانت تقدمها أثناء الحرب.[46]
دفنت مدام كوري إلى جوار زوجها بيير[39] في مقبرة في سو ، وفي سنة 1995، نقل رفاتهما إلى البانتيون في باريس تكريمًا لإنجازاتهما العلمية، وكانت ماري كوري أول امرأة يتم تكريمها بهذه الطريقة، بل والوحيدة حتى ذلك التاريخ.[56] وقد حُفظ معملها في متحف سمي بمتحف كوري.
ونظراً لتأثر أوراقها التي ترجع إلى تسعينيات القرن التاسع عشر بالإشعاع، فقد اعتبرت مواد شديدة الخطورة،[61] وحتى كتاب الطهي الخاص بها كان مشعًا بدرجة كبيرة لدرجة أنه محفوظ مع تلك الأوراق في صناديق مبطنة بالرصاص، وتستدعي مطالعة هذه الأوراق ارتداء ملابس خاصة واقية من الإشعاع.[61] وفي عامها الأخير، كتبت كتابًا أسمته النشاط الإشعاعي، نشر عام 1935.[58]
أثرها
ساهمت أعمال ومجهودات ماري كوري المادية والاجتماعية إلى حد كبير في تشكيل صورة العالم في القرنين العشرين والحادي والعشرين.[62] ويقول بيرس ويليامز الأستاذ في جامعة كورنيل:
كما ساهمت أفكار ماري كوري في الفيزياء والكيمياء، كان لها أيضًا تأثيرها العميق في المجال الاجتماعي. لتحقيق إنجازاتها العلمية، كان عليها أن تتغلب على الحواجز التي وضعت في طريقها لا لشيء سوى لكونها امرأة وأجنبية. أبرزت فرانسواز جيرو هذا الجانب من حياتها ومسيرتها في كتابها ماري كوري: قصة حياة، الذي أكد دور ماري كرائدة نسائية.[18]
عرفت ماري كوري بأمانتها ونمط حياتها المعتدل.[21][62] فبعد أن حصلت على منحة صغيرة عام 1893، ردت قيمتها عام 1897 في أقرب فرصة بدأت فيها كسب المال.[5][23] أنفقت ماري معظم قيمة جائزة نوبل الأولى الخاصة بها على أصدقائها وطلابها وأسرتها وزملائها في البحث.[18] في قرار غير عادي، امتنعت ماري عمدًا عن تسجيل براءة اختراع فصلها للراديوم، بحيث يمكن للأوساط العلمية إجراء البحوث دون عوائق.[63] أصرت على وهب القيمة النقدية للهدايا والجوائز إلى المؤسسات العلمية التابعة لها.[62] كما كانت هي وزوجها عادةً ما يرفضون الجوائز والميداليات.[21] وقد وصفها ألبرت أينشتاين بأنها ربما كانت الشخص الوحيد الذي لم تفسده شهرته.[18]
التكريمات والجوائز
تصغير|معدول|قبر بيير وماري كوري في مقبرة العظماء في باريس.
كواحدة من أشهر العلماء من النساء حتى اليوم، أصبحت ماري كوري إحدى أيقونات العلم وحظيت بشهرتها حول العالم وحتى في الثقافة الشعبية.[64] وفي عام 2009، أجرت نيو ساينتست استطلاعًا اختيرت خلاله ماري كوري أنها "المرأة الأكثر إلهامًا في العلم". حصلت كوري على 25,1 % بنحو ضعفي ما حصلت عليه روزاليند فرانكلين (14,2 %) التي احتلت المرتبة الثانية.[65][66]
أعلنت بولندا وفرنسا أن عام 2011، هو عام ماري كوري، كما أعلنته الأمم المتحدة العام الدولي للكيمياء.[67] وفي 7 نوفمبر، احتفلت جوجل بعيد ميلادها مع شعار جوجل خاص بها.[68] وفي 10 ديسمبر، احتفلت أكاديمية نيويورك للعلوم بالذكرى المئوية لجائزة نوبل الثانية لماري كوري.[69]
كانت ماري كوري أول امرأة تفوز بجائزة نوبل، وأول من يحصل عليها مرتين، والمرأة الوحيدة التي حصلت عليها في مجالين، والشخص الوحيد الذي يحصل على جائزة نوبل في مجالين علميين.[70] شملت الجوائز التي حصلت عليها:
جائزة نوبل في الفيزياء (1903)[21]
ميدالية دافي (1903، بالمشاركة مع زوجها بيير)[53][71]
ميدالية ماتيوتشي (1904، بالمشاركة مع بيير)[71]
ميدالية إليوت كريسون (1909)[72]
جائزة نوبل في الكيمياء (1911)[18]
ميدالية بنجامين فرانكلين من الجمعية الأمريكية للفلسفة (1921)[73]
في عام 1995، أصبحت أول امرأة يتم دفنها تكريمًا لها في مقبرة العظماء في باريس.[56] وقد سميت وحدة النشاط الإشعاعي بالكوري (رمزها Ci)، وذلك تكريمًا لها ولبيير (لم تحدد اللجنة التي وافقت على تسمية الوحدة بذلك الاسم، ما إذا كان الاسم نسبة لبيير أم ماري أم كليهما).[74] كما سمي العنصر الذي عدده الذري 96 بالكوريوم.[75] وسميت أيضًا ثلاث معادن مشعة باسم كوري: كوريت وسكوودوفسكيت وكوبروسكوودوفسكيت.[76] وسمي أيضًا برنامج زمالات الاتحاد الأوروبي للعلماء الشباب الراغبين في العمل في بلد أجنبي برنامج إجراءات ماري كوري .[77] وفي بولندا، نالت درجة الدكتوراه الفخرية من معهد لوفوف للتقنيات المتعددة (1912)، وجامعة بوزنان (1922)، وجامعة جاغيلونيان في كراكوف (1924)، ومعهد وارسو للتقنيات المتعددة (1926).[67]
أطلق اسم ماري كوري على العديد من الأماكن حول العالم.[76] ففي عام 2007، أطلق على إحدى محطات مترو باريس اسم محطة بيير وماري كوري تكريمًا لهما.[76] وسمي مفاعل نووي بحثي في بولندا باسم مفاعل ماري نسبة لها.[78] كما سميت كويكب باسم كوري 7000 تكريمًا لها.[76]
أيضًا، حملت العديد من المؤسسات اسمها، بدءًا من معهدي كوري في وارسو وباريس. إضافة إلى جامعة ماريا كوري-سكوودوفسكا في لوبلين التي تأسست عام 1944، وجامعة بيير وماري كوري في باريس، التي أنشئت عام 1971. هناك متحفان خصصا لماري كوري، ففي عام 1967 أسس متحف ماريا سكوودوفسكا-كوري في وارسو.[18] كما أصبح مختبرها في باريس متحف كوري، الذي فتح للجمهور منذ عام 1992.[79]
تصغير|200بك|يمين|لوحة ماري كوري الزجاجية الموجودة في جامعة بافالو في نيويورك.
كانت ماري كوري محورًا للعديد من الأعمال الفنية أبرزها تمثال لها نصب عام 1935 أمام معهد الراديوم في وارسو.[18] خلال عقد من الزمن، وخلال انتفاضة وارسو عام 1944، تعرض التمثال لأضرار نتيجة إطلاق النار. وبعد الحرب، أثناء إصلاحه، تقرر ترك علامات الرصاص على التمثال وقاعدته دون إصلاح.[18] وفي عام 1955، صتع جوزيف مازور لوحة من الزجاج الملون لها، نصبت في الغرفة البولندية في جامعة بافالو.[80]
من الكتب التي خلدت سيرتها "مدام كوري" (1938) الذي كتبته ابنتها إيف.[67] وفي عام 1987، كتبت فرانسواز جيرو سيرة ذاتية بعنوان "ماري كوري: حياة".[67] وفي عام 2005، كتبت باربرا جولدسميث "العبقرية الفريدة: العالم الخاص بماري كوري".[67] في عام 2011، ظهر كتاب آخر عنها للورين ريدنيس بعنوان "النشاط الإشعاعي: ماري وبيير كوري، قصة حب وأحزان".[81]
لعب غرير غارسون ووالتر بيدجون دور البطولة في الفيلم الأمريكي "مدام كوري" الذي رشح لجائزة أوسكار عام 1943، الذي كان يدور حول قصة حياتها.[57] وفي عام 1997، صدر الفيلم الفرنسي "Les Palmes de M. Schutz" عن حياة بيير وماري كوري، المأخوذ عن مسرحية تحمل نفس الاسم، ولعبت فيه إيزابيل أوبير دور ماري كوري.[82]
كرمت كوري أيضًا بوضع صورتها على الطوابع والعملات المعدنية في أنحاء كثيرة.[76] فوضعت صورتها في أواخر الثمانينيات على عملة الزولتي البولندية من فئة 20,000 زلوتي،[83] وكذلك على آخر ورقة نقدية من فئة 500 فرنك فرنسي قبل استبدال الفرنك باليورو.[84]
وفي عام 2011، مع مئوية جائزة نوبل الثانية لماري كوري رسمت جدارية على واجهة محل ميلادها في وارسو، وهو يصور الطفلة ماريا سكوودوفسكا وهي تحمل أنبوب اختبار تخرج منه العناصر الكيميائية التي ستكتشفها عندما تكبر: البولونيوم والراديوم.
انظر أيضًا
عائلة كوري
قائمة السيدات الحاصلات على جائزة نوبل
المراجع
وصلات خارجية
تصنيف:ماري كوري
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تصنيف:أشخاص رفضوا وسام جوقة الشرف
تصنيف:أشخاص من وارسو
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تصنيف:خريجو جامعة السوربون من بولندا
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الدولة الأموية أو الخِلافَةُ الأُمَوِيَّةُ أو دولة بني أمية (41 - 132 هـ / 662 - 750 م) هي ثاني خلافة في تاريخ الإسلام، وأكبر دولة في تاريخ الإسلام، وواحدةٌ من أكبر الدُّوَلِ الحاكِمة في التاريخ. كان بنو أمية أولى الأسر المسلمة الحاكمة، إذ حكموا من سنة 41 هـ (662 م) إلى 132 هـ (750 م)، وكانت عاصمة الدولة في مدينة دمشق. بلغت الدولة الأموية ذروة اتساعها في عهد الخليفة العاشر هشام بن عبد الملك، إذ امتدت حدودها من أطراف الصين شرقاً حتى جنوب فرنسا غرباً، وتمكنت من فتح أفريقية والمغرب والأندلس وجنوب الغال والسند وما وراء النهر.
يرجع الأمويون في نسبهم إلى أميَّة بن عبد شمس من قبيلة قريش. وكان لهم دورٌ هام في عهد الجاهلية وخلال العهد الإسلامي. أسلَم معاوية بن أبي سفيان في عهد الرسول محمد، وتأسست الدولة الأموية على يده، وكان قبلاً واليًا على الشام في عهد الخليفة عمر بن الخطاب، ثم نشب نزاع بينه وبين علي بن أبي طالب بعد فتنة مقتل عثمان، حتى تنازل ابنه الحسن عن الخلافة لمعاوية بعد مقتل أبيه، فتأسست الدولة بذلك. أخذ معاوية عن البيزنطيين بعض مظاهر الحكم والإدارة إذ جعل الخلافة وراثيَّة عندما عهد لابنه يزيد بولاية العهد، واتخذ عرشًا وحراسًا وأحاط نفسه بأبَّهة الملك، وبنى له مقصورة خاصَّة في المسجد، كما أنشأ ديوان الخاتم ونظام البريد. بعد وفاة يزيد اضطربت الأمور، فطالب ابن الزبير بالخلافة، ثم تمكن عبد الملك بن مروان بن الحكم من هزمه وقتله في مكة سنة 73 هـ، فاستقرت الدولة مجدداً.
جرت أكبر الفتوحات الأموية في عهد الوليد بن عبد الملك، فاستكمل فتح المغرب، وفتحت الأندلس بكاملها، وفتحت السند بقيادة محمد بن القاسم الثقفي وبلاد ما وراء النهر بقيادة قتيبة بن مسلم. خلفه سليمان بن عبد الملك الذي توفي مرابطًا في مرج دابق لإدارة حصار القسطنطينية، ثم الخليفة الزاهد عمر بن عبد العزيز، الذي يعد من أفضل الخلفاء الأمويين سيرة. وخلفه بعده ابن عمه يزيد، ثم هشام، الذي فتح في عهده جنوب فرنسا، وكان عهده طويلاً وكثير الاستقرار. وبعد موته دخلت الدولة في حالة من الاضطراب الشديد، حتى سيطر مروان بن محمد على الخلافة، فأخذ يتنقل بين الأقاليم ويقمع الثورات والاضطرابات، ثم التقى مع العباسيين في معركة الزاب فهزم وقتل، وكانت نهاية الدولة الأموية.
شهد عهد الدولة الأموية ثورات وفتناً كثيرة، وكان منفذوا أغلب هذه الثورات إما الخوارج أو الشيعة. من أبرز تلك الثورات ثورة الحسين بن علي على يزيد بن معاوية، عندما طالب بالخلافة، فالتقت معه جيوش الأمويين في معركة كربلاء التي انتهت بمقتله. وقامت بعدها ثورات شيعية كثيرة للثأر له، منها ثورة التوابين وثورة المختار الثقفي، ثم هدأوا بعد قمعهما أكثر من نصف قرن حتى ثورة زيد بن علي. كما ثار الخوارج مراراً وتكراراً، ولم يهدؤوا إلا لقرابة عشرين عاماً بين أواسط عهد عبد الملك وبداية عهد يزيد. وقد كان لأشهر ولاة الأمويين الحجاج بن يوسف الثقفي دور كبير في إخماد هذه الثورات وتهدئتها خلال أواخر القرن الأول الهجري، خصوصاً وأنه كان والي العراق والمشرق، التي كانت - وخصوصاً مدينة الكوفة - ألد أعداء الحكم الأموي، فيما كانت الشام تعد حليفة الأمويين وعاصمتهم. من أشرس الثورات التي قامت على الدولة الأموية أيضاً ثورتا عبد الله بن الزبير وعبد الرحمن بن الأشعث.
سقطت الدولة الأموية على يد القائلين بأحقية آل البيت بِالخلافة، وبعد فشل ثورات القائلين بأحقية سلالة علي بن أبي طالب بالخلافة، تحولت الدعوة إلى القائلين بأحقية سلالة العباس بن عبد المطلب عم النبي محمد بالخلافة. وقد تطور الحزب العباسي تطورًا تدريجيًا والتزم الهدوء طوال عهود القوة الأموية واستغل ضعف الاقتصاد لتفجير ثورته؛ فضلاً عن ذلك يرى الباحث عبد العزيز الدوري أن العباسيين قد استغلوا أيضًا التمييز العنصري والطبقي الذي كان يمارسه الأمويون بين العرب وغير العرب في الوظائف والضرائب والجيش، فكونوا بذلك قاعدة شعبية عريضة لدى غير العرب خصوصًا في أوساط فلاحي الريف وعمال المدن الفقراء. وقد قام أبو مسلم الخراساني بإعلان قيام الدولة العباسية في خراسان وحارب نصر بن سيار الوالي الأموي فيها وانتصر عليه، ثم احتلّ مدينة مرو ومنها انتقل زعيم الحركة أبو العباس إلى الكوفة في أغسطس سنة 742م بشكل سري، وظل مختفيًا حتى 29 أكتوبر 750م، الموافق فيه 12 ربيع الأول سنة 132هـ حين بايعه أهل الكوفة بالخلافة، لتدخل عملية خلق الدولة العباسية مرحلتها الأخيرة، إذ التقى إثر ذلك الجيش الأموي بقيادة مروان بن محمد وجيش العباسيين بقيادة أبي العباس قرب نهر الزاب شمال العراق بين الموصل وأربيل، وكانت الغلبة للعباسيين، الذي أتموا فتح العراق وانتقلوا منها إلى بلاد الشام فمصر حيث طاردوا فلول الجيش الأموي وقتلوا الخليفة مروان بن محمد في معركة بوصير. وبفتحهم مصر دانت لهم سائر الأمصار التي كانت تابعة للأمويين وتأسست الدولة العباسية، ثالث مراحل تاريخ الخلافة.
التاريخ
التأسيس وخلافة معاوية
في أواسط عهد الخليفة عثمان بن عفان اشتعلت الفتنة في الدولة الإسلامية، وأخذت بالانتشار شيئاً فشيئاً،[1] ثمَّ أدت في شهر ذي الحجة من عام 35 هـ (يونيو عام 656 م) إلى مقتله.[2] ولكن الفتنة لم تنته بذلك، فجاءَ عهد علي بن أبي طالب مليئاً بالقلاقل والنزاعات التي فشل في إنهاء مُعظمها.[3] وفي النهاية اتفق في شهر رمضان من عام 40 هـ (ديسمبر عام 660 م)[4][5] ثلاثة من الخوارج - هُم عبد الرحمن بن ملجم والبرك بن عبد الله التميميّ وعمرو بن بكر التميميّ السعديّ - على أن يَقتل الأول منهم علياً بن أبي طالب والثاني معاوية بن أبي سفيان - والي الشام آنذاك - والثالث عمرو بن العاص - والي مصر آنذاك - معاً في نفس الليلة، فنجح الأول في مهمّته، وأما الاثنان الآخران ففشلا وقتلا.[6] كان معاوية والياً على الشام منذ سنة 18 هـ بعد أن عيَّنه كذلك عمر بن الخطاب،[7] وعلى الرُّغم من حصول بعض الخلافات بينه وبين عليّ وخوضه معركة صفين معه، فقد أصرَّ على عدم ترك ولايته، وظلَّ والي الشام حتى مقتل علي.[8]
بعد مقتل علي مُباشرة بايع أهل العراق ابنه الحسن على الخلافة، فيما بايع أهل الشام بدورهم معاوية بن أبي سفيان. وهُنا حشد معاوية جيوشه وسار إلى الحسن،[9][10] غير أن الحسن رفضَ القتال، وراسل معاوية للصُّلح، فسر هذا سروراً كبيراً بالعرض ووافق عليه، وعُقد الصلح في شهر ربيع الثاني سنة 41 هـ (أغسطس سنة 661 م)، وهكذا تنازل الحسن عن الخلافة لمعاوية،[11] وسُمّي ذلك العام بعام الجماعة لأن المسلمين اتفقوا فيه على خليفة لهم بعد خلاف طويل دام سنوات.[10]
كانت حركة الفتوحات الإسلامية قد توقّفت تماماً منذ اشتعال فتنة مقتل عثمان سنة 35 هـ، وظلّت متوقفة طوال عهد علي بن أبي طالب، حيث كانت الدولة منشغلة بنزاعاتها الداخلية. لكن بعد الاجتماع مجدداً على خلافة معاوية عادت الفتوحات من جديد، وقد ركّزت الفتوحات في عهده على الحرب مع البيزنطيين (في شمال أفريقيا والجبهات البحرية) وفتوحات المشرق (في سجستان وخراسان وبلاد ما وراء النهر).[12] توقّفت الفتوحات في أرض الأناضول منذ فترة طويلة قبل حكم معاوية عند سفوح جبال طوروس قربَ مدينة مرسين، وهُناك أقام كل من المسلمين والروم على جانبي الحدود حصوناً وقلاعاً كثيرة، وعلى الرُّغم من الغزوات الكثيرة التي شنّها المسلمون في عهد معاوية (خصوصاً الصوائف والشواتي) فلم تتغير حدود الدولتين كثيراً.[13] لكن من أبرز أحداث عهده تمكّن المسلمين من استعادة أرمينيا (والتي كانوا قد فتحوها سابقاً، لكنهم خسروها في أيام الفتنة)، بالإضافة إلى أن بعض غزوات الصوائف والشواتي التي تمكّنت من التوغل في الأناضول حتى عمورية (وهي قريبة من مدينة أنقرة).[14][15]
كما أرسل معاوية سنة 49 هـ[16] (وقيل أيضاً سنة 50 هـ، أي 669 أو 670 م) حملته الأولى لفتح القسطنطينية، وكانت بقيادة سفيان بن عوف الأزديّ،[17] لكنها فشلت وحل الشتاء وصعبت ظروف القتال،[16] وفي آخر الأمر عادت خاسرة إلى الشام، وقُتل فيها الكثير من المسلمين بينهم الصحابيّ أبو أيوب الأنصاري.[18] ثم أرسل حملته الثانية بقيادة فضالة بن عبيد الأنصاري سنة 53 هـ (673 م)،[18] وتمكّن الأسطول في طريقه من فتح جزيرتي أرواد ورودس الواقعتين على ساحل آسيا الغربيّ،[19][20] وقد أقام جيش المسلمين فيهما سبع سنين وجعلهما قاعدة لحصار القسطنطينية منها، ولذلك فقد سُميت أيضاً بـ«حرب السنين السبعة»،[16][20] وكان المسلمون يُحاصرون المدينة خلال الصيف، ثم يرحلون في الشتاء، غير أن الروم صمدوا، واضطّرَّ معاوية بن أبي سفيان في النهاية إلى سحب الأسطول وإعادته إلى قواعده دون فتح القسطنطينية في سنة 60 هـ (680 م).[16]
وضع معاوية بن أبي سفيان عقبة بن نافع قائداً على جيش المغرب، وكان هو الذي قادَ العديد من الحملات في عهد معاوية في تلك البلاد. بنى عقبة بإذن من معاوية مدينة القيروان بين سنتي 50 و55 هـ لتُصبح مركزاً للمسلمين تنطلق منه قواتهم للغزوات، وذلك بعد أن توسَّعت بلادهم وأصبحت أرض مصر بعيدة، كما عقدَ - هو وأبو المهاجر دينار من بعده - الكثير من الصُّلوح مع أمازيغ المغرب، وأقاما معهم علاقات طيّبة، ونجحا في إدخال الكثير من قبائلهم في الإسلام. وعسكرياً، تتابعت فتوحات المغرب سيرها في عهد معاوية حتى فُتحَ أغلب المغرب الأوسط، ووصلت جيوش المسلمين إلى تلمسان.[21] وأما في جبهة الشرق، فقد فتحَ المسلمون سجستان فقوهستان في سنتي 43 ـ 45 هـ، وغزو بلاد اللان وما وراء النهر والسند وجبال الغور، غير أن أهالي هذه المناطق كانوا يَنكثون العهد مرة بعد أخرى، فعاد المسلمون لفتحها مجدداً مراراً وتكراراً.[22]
كان من أبرز التغيرات على الصَّعيد السياسيّ في عهد معاوية بن أبي سفيان، أنه نقلَ عاصمة الدولة من الكوفة إلى دمشق (بعد أن كان علي قد نقلها من المدينة إلى الكوفة)، وقد أثار هذا سخطَ بعض أهل العراق والحجاز. كما شهدت الدولة في عهده فترة من الاستقرار والرخاء، ومُتابعة الفتوحات بعد توقف طويل.[23] وقد ألغى معاوية في عهده نظام مجلس الشورى، وعلى الرغم من ذلك فقد ظلَّ يَستشير أصحابه ومن حوله دائماً في أغلب أفعاله. وقد أنشأ نظاماً للشرطة لحماية وحراسته يُعيِّنه بنفسه،[24] كما طوَّر ديوان البريد وأنشأ ديواناً جديداً لتنظيمه أكثر هو ديوان الخاتم.[25]
انتقال الحكم إلى المروانيين
قامت - داخلياً - الكثير من القلاقل في بداية عهد معاوية بن أبي سفيان، حيث حاولَ الخوارج أن يثوروا من جديد على الخلافة، ولذلك فقد قاتلهم معاوية، وبحلول عام 45 هـ نجحَ في إخماد ثورتهم وعادَ الاستقرار الداخليُّ إلى الدولة،[26] وظلَّ الوضع كذلك حتى وفاة معاوية في شهر رجب سنة 60 هـ (شهر أبريل سنة 680 م). وكان معاوية قد جعل أهل الشام والمدينة يُبايعون ابنه يزيد منذ سنة 50 هـ، فكان ذلك، وأصبح يزيد وليَّ العهد،[27] وبما أنه كان بعيداً عن دمشق عند وفاة والده فقد أخذ البيعة له الضحاك بن قيس، وعندما عاد بدأت الوفود بالقدوم لتعزيته بوفاة أبية وتهنئته بالخلافة.[28]
أعاد يزيد تعيين عقبة بن نافع قائداً لجيوش المغرب، فقادَ هذا حملته الكبيرة سنة 62 هـ التي عبرَ فيها ساحل شمال أفريقيا بأكمله حتى بلغ مدينة طنجة على سواحل المحيط الأطلسي، وهُناك قال مقولته الشهيرة: «اللهم اشهد أني قد بلغت المجهول، ولولا هذا البحر لمضيتُ في البلاد، أقاتل من كفر بك حتى لا يُعبَد أحدٌ دونك».[29][30] لكن عندما كان عائداً من حملته هذه لم يَكن معه سوى جيش صغير من 300 مقاتل بعد أن سرَّحَ معظم جيشه وتركه يَسير أمامه على مسافة بعيدة، وعلمَ بذلك الرُّوم،[30] فتحالفوا مع الأمير الأمازيغي كسيلة بن كمرم (الذي كان قد أسلم، لكنه ضغن لعقبة لأنه كان قد أهانه قبل ذلك) ونصبوا كميناً لجيش المسلمين،[31] وقُتلَ في الكمين عقبة بن نافع وكل من كانوا معه، كما قتلَ في الكمين قائد المغرب السَّابق أبو المهاجر دينار،[32] وكان ذلك في عام 63 هـ.[33] وإثرَ اندحار جيش المسلمين فقد تمكّن كسيلة على رأس جيوش الأمازيغ من شقّ طريقه بسهولة واستعادة أرض أفريقية ومدينة القيروان، ومضى زمنٌ طويل قبل أن يَستعيد المسلمون هذه المناطق،[32] واضطرُّوا على إثر ذلك إلى الانسحاب حتى إقليم برقة.[33] كما شهدَ عهد يزيد بعض الفتوحات المحدودة في المشرق بخراسان وما وراء النهر.[23]
لكن ظهرت مُشكلة جديدة مع بداية عهد يزيد، فقد كان من ضمن شروط تنازل الحسن عن الخلافة لمعاوية أن يُصبح هو الخليفة بعد وفاة معاوية، غير أنه توفيَّ قبل معاوية بعشر سنوات، وعندما حدثَ ذلك اجتمع أهل الكوفة في بيت سليمان بن صرد الخزاعيّ، واتفقوا على مُراسلة أخيه الحسين بن علي بن أبي طالب بالقدوم إليهم لمُبايعته على الخلافة.[34] وقد ارتاب عبد الله بن عباس من هذه الدعوة، ونصح الحسين بالحذر من أهل الكوفة وعدم الاستجابة له، غير أن عبد الله بن الزبير حثّه على الذهاب وأقنعه بالاستجابة إليهم، فاقتنع الحسين بذلك.[23] وكان الحسين قد رفضَ بيعة يزيد من قبل (وكان معارضاً لها منذ تعيينه ولياً للعهد)،[35] وعندما جاءته رسائل أهل الكوفة أرسل ابن عمّه مسلم بن عقيل بن أبي طالب ليستطلع الأوضاع، فبايعه هناك أكثر من 12,000 من أهل المدينة،[34][36] وعندما علمَ يزيد بذلك عزلَ النعمان بن بشير عن ولايتها وعيَّن مكانه عبيد الله بن زياد،[37] فقبضَ هذا سريعاً على مسلم بعد أن تركه أهل الكوفة وانفضُّوا عنه وقتله.[35] ووصلت هذه الأخبار إلى الحسين وهوَ في طريقه، لكن رجاله - وعددهم 70 - أصرُّوا على مواصلة السير للثأر لمسلم، والتقى هؤلاء قربَ كربلاء بجيش يفوقهم عدداً بـ50 ضعفاً بقيادة عمر بن سعد بن أبي وقاص، وعلى الرغم من عرض الحسين السلام فقد أصرَّ عمر على أن يُسلّم الحسين نفسه كأسير حرب أو أنه سيبدأ القتال، ورفضَ الحسين، فوقعت معركة كربلاء في 10 محرم سنة 61 هـ (12 أكتوبر سنة 680 م)، وقُتلَ الحسين وكل من كان معه،[38] وكانت تلك بادرة لانقسامات كبيرة في الدولة الإسلامية ستدوم قروناً طويلة.[39]
كان عهد يزيد بالإجمال مليئاً بالفتن والقلاقل والانقسامات، ولذلك فقد سُمي بـ«الفتنة الثانية»، وكان من أكبر هذه الفتن في عهده مقتل الحسين، ويَبقى حادث آخر إلى جانبها.[40] فعندما قُتلَ الحسين استغلَّ عبد الله بن الزبير الحدث ليُشهِّر بيزيد ويُحرض أهل الحجاز عليه، وبالفعل بايعه أهل الحجاز ومصر، وحاصروا بني أمية في المدينة بمنزل مروان بن الحكم، فغضب يزيد غضباً جماً[41] وأرسل إلى المدينة جيشاً بقيادة مسلم بن عقبة، وأمره بمحاصرتهم ثلاثة أيام، فإن أبوا إطلاق سراح بني أمية ومُبايعته فليقاتلهم.[42] وعندما بلغَ المدينة دخلها من جهة تُسمَّى الحرة، وهناك التقى أهلها، لكنهم رفضوا مبايعة يزيد، وكانت موقعة الحرة سنة 61 هـ، وهُزمَ أهل المدينة وقتل 300 منهم، ودخل مسلم المدينة عنوة واستباحها وقتل الكثير من أهلها وأجبرهم على مُبايعة يزيد بالقوَّة.[23] وبعد هذه الأحداث سارَ مسلم نحو مكة للقضاء نهائياً على ثورة ابن الزبير،[28] وقد توفيَّ مسلم في الطريق إلى مكة، فأكمل قيادة الجيش «الحصين بن نُمير»، لكن عندَ وصوله وجدَ ابن الزبير ورجاله مُعتصمين في الكعبة أملاً في الحصول على الأمان نظراً إلى حرمتها. غير أن جيش يزيد نصبَ المنجنيقات حول الكعبة وأخذ بضربها، وكان ذلك في صيف عام 64 هـ (683 م)، لكن سُرعان ما وصلت أنباء وفاة الخليفة يزيد، فاضّطرب الجيش وعادَ إلى الشام تاركاً ابن الزبير دون قتله.[43]
كان يُفتَرض أن يَرث معاوية بن يزيد الحُكم بعد أن عيَّنه والده ولياً للعهد قبل وفاته، لكنه تنازل عن الخلافة وقال أنه لا يُمكنه حمل عاتقها، وتوفيَّ بعد ذلك بأسابيع.[44] وهُنا تقدم شيخ بني أمية ووالي المدينة مروان بن الحكم وطالبَ بالخلافة لنفسه وبايعه أهل المدينة واليمن، غير أن ابن الزبير أعلنَ نفسه خليفة في الآن ذاته، وبايعه أهل العراق ومصر بل ومعظم أهل الشام، ومنهم الضحاك بن قيس الفهريّ، فسارَ إليه مروان والتقاه في معركة مرج راهط، وقُتل الضحاك في المعركة وبُويع مروان، وقد استعادَ أيضاً مصر دون قتال كثير، كما أنه قضى سريعاً على ثورة التوابين عندما واجه عبيد الله بن زياد بجيش قوامه 60,000 مقاتل الثائرين الـ3,000، غير أن مروان سُرعان ما توفيَّ في شهر رمضان سنة 65 هـ (685 م) بعد حكم دامَ عشرة شهور. وقد تابع بعده ابنه عبد الملك، لكنه استلمَ الحكم وبلاد المسلمين مقسومة بين خمس دول، فإلى جانب الدولة الأموية في مصر والشام كانت هناك دولة ابن الزبير في الحجاز والعراق، كما نجحَ المختار الثقفي بعد ثورته في السَّيطرة على الكوفة، وسيطر بعض الخوارج بعد ثورتين على إقليمي الأهواز والنجدات. سُرعان ما قضى مصعب بن الزبير بجيشه على المختار الثقفي، والتحمَ عبد الملك بعد ذلك معه في «معركة دير الجاثليق» سنة 71 هـ فاستعاد العراق، وفي آخر الأمر أرسلَ جيشاً بقيادة الحجاج بن يوسف الثقفي إلى مكة سنة 73 هـ فحاصرَ ابن الزبير هُناك في الكعبة، وضربَ الكعبة بالمنجنيقات كما حدثَ من قبل، فأصابت الحجارة ابن الزبير وصرعته. كوفئ الحجاج بأن أصبح والي العراق والمشرق، وهكذا استتبَّ الحكم أخيراً لخليفة واحد في البلاد بعد أن عصفَت الصراعات الداخلية بالدولة الأموية لعقد ونصفٍ تقريباً، وسُميت سنة 73 هـ بـ«عام الجماعة الثاني».[23][45]
عهد عبد الملك وأبنائه
لم تستتبَّ الأمور تماماً في الدولة بسقوط الدولة الزبيرية، إذ ظلّت مشكلة الخوارج، الذين كلّف عبد الملك المهلب بن أبي صفرة الأزدي بقتالهم. وفي سنة 76 هـ هاجمَ صالح بن مسرح وشبيب بن يزيد الخارجي خيلاً لمحمَّد بن مروان (والي الجزيرة) وسرقاها، وكان معهم آنذاك 120 شخصاً بايعا شبيب على الخلافة من أهل البصرة بعد أن نادى بها لنفسه،[46] وبعدها دخلَ في حرب طويلة مع والي العراق والمشرق - الحجاج بن يوسف - الذي سيَّر إليه جيوشاً ضخمة، وقيل أنه خاضَ مع شبيب 83 معركة في 100 يوم، ولم يَربح منها كلها سوى واحدة. وفي آخر الأمر فرَّ شبيب من جيوش الحجاج، ولكنه سقطَ في نهر بينما كان يَعبر جسراً في الأهواز وغرق بسبب ثقل دروعه سنة 73 هـ،[47] وبعدها لم تقم للخوارج قائمة حتى عهد عمر بن عبد العزيز.[48]
تسبَّبت النزاعات الداخلية في الدولة بشلّ حركة الفتوحات لعقد تقريباً، لكن عندما اتّحدت الدولة أخيراً من جديد في عام 73 هـ (عام الجماعة الثاني) عادت الفتوحات من جديد. تولّى زهير بن قيس البلوي قيادة جبهة المغرب بعد موت عقبة بن نافع، وعزمَ على الثأر له، غير أنه لم يَستطع التحرك حتى عام 69 هـ بسبب مشكلات الدولة الداخلية،[49] وحينها قادَ جيشه نحوَ المغرب واستعاد القيروان وقتل قائد الأمازيغ كسيلة في «معركة ممس»،[50] لكنّه قتل بدوره في كمين بيزنطيٍّ خلال عودته سنة 71 هـ.[51] وبعد مقتل ابن الزبير عيَّن عبد الملك حسان بن النعمان مكان زهير وأعطاه جيشاً ضخماً من الشام ومصر قوامه 40,000 مقاتل، وتمكّن من القضاء على الوجود البيزنطيّ في شمال أفريقيا،[49] كما دمّر مدينة قرطاجنة - أكبر مركز بيزنطي في المنطقة - بعد أن اقتتل فيها مع الروم والأمازيغ وأجبرهم على الهرب نحو صقلية والأندلس،[52] لكنه مع ذلك هزم على يد الكاهنة التي كانت تقود الأمازيغ خلفاً لكسيلة، وبعدها عادَ الروم البيزنطيون إلى قرطاجنة وعاثوا فيها فساداً، ولكن عبد الملك لم يَستطع إمداده بجيش لمقاومتهم. وفي النهاية وصلَ المدد أخيراً فتوجَّه إلى قتال الأمازيغ سنة 82 هـ وقتلَ كاهنتهم، ثم فتح فاس وقرطاجنة وجلّ المغرب،[53] وبنى قربَ قرطاجنة مدينة تونس التي لا زالت قائمة إلى اليوم.[49] وأما على جبهة الشام والأناضول فقد اضطرَّ عبد الملك لمصالحة البيزنطيين ودفع مال لهم أثناء صراعه مع ابن الزبير لأنه لم يَكن يستطيع الدفاع ضد هجماتهم،[23] لكن بعد انتهاء الصراع سنة 73 هـ (692 م) كانت لعثمان بن الوليد موقعة كبيرة معهم في أرمينيا، حيث التقى 60,000 منهم بجيش قوامه 4,000، فهزمهم وقتل الكثير منهم،[54][55] وتُعرف هذه الموقعة بـ«معركة سبياستوبولس»، وقد تبعها فتح مُجمَل أرمينيا وضمُّها إلى الدولة الأموية.[56]
كانت هناك غزوات كثيرة في عهد عبد الملك لبلاد ما وراء النهر، لكنها لم تٌفتَح، حيث كان المسلمون يغزونها ويغنمون منها ثمَّ يَنسحبون عائدين إلى معاقلهم، ومن أبرز غزواتهم غزوة بخارى سنة 80 هـ. وقد كان من ملوك هذه الأرض الكبار ملك يُسمَّى «رتبيل» غزاه المسلمون مراراً وتكراراً، فغزاهم سنة 79 هـ وقتل أميرهم «عبيد الله بن أبي بكرة»،[57] فجهَّز الحجاج بن يوسف جيشاً كبيراً سُمي بـ«جيش الطواويس» وأعطاه لعبد الرحمن ابن الأشعث[23] ليغزو به رتبيل (على الرغم من البغض المتبادل الذي كان بين عبد الرحمن والحجاج)، فغزا ابن الأشعث رتبيل وفتح الكثير من أراضيه، لكنه أوقفَ القتال ولم يُكمل الفتوحات بعد ذلك، إنّما حرَّض جيشه على الحجاج وعلى خلعه بل وخلع الخليفة، فوافقوه وبايعوه،[58] وكانت تلك بداية واحدة من أعنف الثورات ضد الحُكم الأموي على الإطلاق، مع أن وازعها لم يَكن دينياً أو مذهبياً إنما شخصياً.[59] دخل ابن الأشعث البصرة وتبعه أهلها، ثم طُردَ منها فذهب إلى الكوفة، وقربها دارت وقعة دير الجماجم سنة 83 هـ وهُزمَ فيها، فهربَ إلى سجستان وانتحرَ هناك.[23] كان والي العراق والمشرق (خراسان وسجستان وغيرها) طوالَ عهد عبد الملك وجزء كبير من عهد ابنه من بعده هو الحجاج بن يوسف الثقفي، وقد كان له دورٌ كبيرٌ في إخماد الخوارج وتهدئة الأوضاع في العراق بعد أن عصفت بها الثورات طوال العقود السابقة،[60] حيث اتَّخذ سياسة ترهيب ضدَّ أهلها، وكان يُلاحق قادة الخوارج وكل من يَدعون لعصيان الخليفة وقتل الكثير منهم، وقد خلَّف هذا سمعة سيّئة للدولة الأموية عند أهلها (على الرغم من أنهم كانوا بالفعل بيغضون الأمويين) كانت سبباً مهماً وبارزاً في سُقوط الدولة لاحقاً، كما فصلت بين أهل الشام كمؤيدين للخلافة وأهل العراق كمعارضين لها. وقد منحَ هذا الأمر الحجاج سُمعة سيئة في العراق، ويَقول البعض عنه أنه قتلَ 100 ألف من أهلها، ولو أن مثل هذا الرَّقم غير مُثبَت.[61]
كان من أبرز الإنجازات في عهد عبد الملك أيضاً بناء مسجد قبة الصخرة في القدس بجوار المسجد الأقصى سنة 691 م،[62] كما أنه عرَّب الكثير من الدواوين وعرب سكَّ النقود للمرة الأولى في تاريخ الدولة.[63] وقد توفيَّ عبد الملك بن مروان بن الحكم في شهر شوال سنة 86 هـ (أكتوبر سنة 705م)، تاركاً الحكم لابنه الوليد،[64] وقد جرت في عهده فتوحات عظيمة، وبلغت فيه الفتوحات الأموية ذروتها، حيث أنها يُمكن أن تعد الذروة الثانية للفتوحات الإسلامية بعدَ أيام عمر بن الخطاب وعثمان بن عفان.[65]
عُزلَ حسان عن المغرب في عهد عبد الملك وعُيِّن مكانه موسى بن نصير سنة 86،[66] وهُنا سارَ على رأس جيش كبير، وأتمَّ فتح المغرب،[67] ونجحَ في إدخال الكثير من قبائل الأمازيغ بها في الإسلام، وفي سنة 90 هـ وصل إلى مدينة طنجة، ففتحها ووضعَ فيها حامية من 12,000 رجل بقيادة طارق بن زياد الليثي.[68] وحسبَ ما رواه الذهبي فقد جهَّزَ موسى بن نصير ابنه عبد الله للفتح منذ عام 86 هـ عندما أمره بفتح جزيرتي ميورقة ومنورقة الواقعتين على ساحل الأندلس،[68] لكن هناك أيضاً رواية أخرى أيضاً - رواها ابن الأثير - تذكر أنَّ أمير مدينة سبتة «يوليان» دعى ابن نصير بنفسه لفتح الأندلس وتخليصه من حكم القوط الغربيين (الذي كانوا حكامها آنذاك)،[69] وأخبره بأن البلاد كانت في حالة من الفوضى والنزاعات الداخلية وأنها لن تشهد مقاومة كبيرة. وقد استأذن ابن نصير الخليفة في الفتح، فأذن له إن تأكد من حسن نوايا يوليان، فأرسل حملة استطلاعية من 500 رجل بقيادة طريف بن مالك، الذي أكد له أقوال يوليان، فأرسل طارق بن زياد مع 7,000 جنديٍّ إلى الأندلس في شهر رجب سنة 92 هـ (مايو سنة 711 م)، وهُنا عادَ ملك البلاد رذريق وسارَ إليه بـ100,000 رجل، فأمده ابن نصير بخمسة آلاف، والتقى الجيشان في معركة وادي لكة التي انتصرَ فيها المسلمون وقُتل رذريق،[70] وفُتحت الأندلس بعدها مدينة تلو الأخرى دون مقاومة تُذكَر.[71] لكن وعلى الرُّغم من رغبة موسى بن نصير في إكمال الفتوحات، بل ونيّته في فتح أوروبا كلها من الأندلس حتى يَبلغ القسطنطينية من الغرب، فقد عارضَ الوليد بن عبد الملك مثل هذا الأمر بشدة لما قد يَعود به من عواقب على جيوش المسلمين في تلك البلاد البعيدة، وأمر ابن نصير وطارق بن زياد بالعودة إلى دمشق، فامتثلا لأمره وبقيا هناك حتى وفاتهما، وتوقّفت فتوحات أوروبا إثر ذلك حتى نهاية عهد الوليد.[72]
وفي بلاد الروم - البيزنطيين - استمرَّ الصوائف والشواتي على الدوام، لكن كانت الحدود الفعلية شبه ثابتة، حيث يَعود المسلمون دائماً إلى حصونهم بعد الغزوات. ومن الغزوات الكبيرة غزوتان لمسلمة بن عبد الملك، واحدة سنة 89 هـ وصلَ فيها حتى مدينتي عمورية وهرقلية، وأخرى في سنة 92 هـ عبرَ فيها كل الأناضول حتى بلغ بحر مرمرة.[73] كما غزا المسلمون في البحر جزيرتي ميورقة وصقلية سنة 89 هـ،[74] وجزيرة سردينيا سنة 92 هـ.[75]
عيَّن الحجاج بن يوسف الثقفيّ قائدين في المشرق كان لهما دورٌ بارز جداً في الفتوحات خلال عهد الوليد بن عبد الملك.[76] تولّى أولهما وهوَ قتيبة بن مسلم الباهلي قيادة جيوش خراسان سنة 87 هـ (706م)،[77] وقد باشرَ قتيبة فتوحاته في بلاد ما وراء النهر في العام نفسه،[78] ففتح بيكند،[79] ثم فتحَ بخارى وبلخ سنة 90 هـ،[78] وسمرقند سنة 93 هـ،[80] وكابل سنة 94 هـ،[78] وأخيراً فتح كاشغر سنة 96 هـ (وهي عاصمة تركستان الشرقية)، وهكذا بلغَ حدود الصين، ولم يَغزُ الصين قط، غير أنه أجبر إمبراطورها على دفع الجزية للأمويين، وكانت تلك أقصى فتوحات المشرق، حيث عزل عن ولايته في العام ذاته،[81] وقد بلغت بذلك مساحة الأراضي التي وُلِّيَ عليها (وهي ولاية خراسان وعاصمتها آنذاك مرو) أكثر من 4,000,000 كيلومتر مربع، وبلغ طول حدودها أكثر من 4,000 كم.[78] وأما محمد بن القاسم الثقفي فقد تولّى في الوقت ذاته فتحَ إقليم السند، حيث سارَ في شهر ربيع الأول سنة 89 هـ (707 م) على رأس جيش قوامه 6,000 رجل وهو ابن سبعة عشر عاماً،[82] وفتح مدينة «الدبيل» الواقعة مكان كراتشي اليوم سنة 93 هـ،[83] وفرَّ منها ملك السند داهر، الذي التقاه المسلمون لاحقاً في معركة على نهر مهران، وانتصروا فيها وقتلوا داهر على الرغم من استعانة الهنود بالفيلة في المعركة.[84] وأخيراً فتحَ مدينة الملتان سنة 94 هـ، وهي من أهم مدن تلك البلاد، وبذلك أتمَّ فتح السند وضُمَّت بدورها إلى الدولة الأموية.[83]
كان من الإنجازات البارزة الأخرى في عهد الوليد بناء الجامع الأموي الكبير أو مسجد بني أمية في مدينة دمشق،[85] إذ كان متقسماً بين المسلمين والمسيحيين لتأدية عباداتهم منذ فتح الشام، لكن مع ازدياد أعداد المسلمين قرَّر الوليد تحويله بأكمله إلى مسجد، وذلك مقابل تعمير أربع كنائس للمسيحيين في المدينة، وكان ذلك في السنة نفسها التي تولى فيها الخلافة.[86] ولكن بناء المسجد لم يَكتمل إلا بعد عشر سنوات، في عام 715 م، حيث أن العمل كان كبيراً واحتاجَ وقتاً طويلاً.[87] كما قام الوليد بتوسعة المسجد النبوي في المدينة.[88] واهتمَّ بتعبيد الطرق في الدولة، خصوصاً الطرق المؤدية إلى مكة لتسهيل الحج إليها من أنحاء العالم الإسلامي.[89] توفيَّ الوليد في شهر جمادى الآخرة سنة 96 هـ (فبراير سنة 715 م)، وتولّى الخلافة من بعده أخوه سليمان بن عبد الملك.[89] وفي عهده فتحَ يزيد بن المهلب - والي خراسان - سنة 98 هـ[90] إقليمي طبرستان وقهستان.[23] وأما الحدث الأبرز في عهده فقد كان حصار القسطنطينية سنة 98 هـ، وهو حصار أداره بنفسه مع أخيه مسلمة بن عبد الملك من أرض دابق،[91] وظلَّ هناك سنة كاملة، حتى توفيَّ وهو لا يزال في دابق في شهر صفر سنة [99 هـ (سبتمبر سنة 717 م)، وقد امتُدحت خلافته وقيل عنه أنه أحسن معاملة الناس بعد أن كان قد شدَّ عليهم الحجاج في أيام عبد الملك والوليد، كما امتُدحَ أيضاً لاختياره ابن عمه عمر بن عبد العزيز خليفة من بعده.[92]
عهد عمر بن عبد العزيز
اشتُهرَ عهد عمر بن عبد العزيز بأنه عهد عمَّ فيه رخاءٌ واستقرارٌ عظيم في أنحاء الدولة الأموية، وسادَ فيه العدل، حتى أنه يُقال أن المتصدقين كانوا يبحثون فيه عن فقراء ليعطوهم المال فلا يَجدون،[93] كما أنه كثيراً ما يُلقب نظراً إلى ذلك بـ«الخليفة الزاهد»[93] أو «خامس الخلفاء الراشدين»، حيث قيل أن أيام الخلافة الراشدة قد عادت في عهده.[94] عندما بُويع عمر على الخلافة قرَّر وقف الفتوحات نظراً لاتساع الدولة الكبير، وتوجَّه بدلاً من ذلك لتوطيد الحكم وإصلاحه والاهتمام بأمور الناس ودعوة أهل المناطق المفتوحة إلى الإسلام بدلاً من فتح المزيد من البلاد.[95]
وقد أخذ عمر بن عبد العزيز أيضاً من أقربائه من بني أمية ما في أيديهم من مال وأعاده إلى بيت مال المسلمين، ووصفه بأنه «مظالم»، وقد أغضبَ ذلك بني أمية وجاؤوا إلى بيته يَشتكون، غير أنه رفضَ رفضاً شديداً، وقال:[96]
كما قال سفيان الثوري: «الخلفاء خمسة، أبو بكر وعمر وعثمان وعلي وعمر بن عبد العزيز، وما كان سواهم فهم منتزون».[97] ومما يُروى أيضاً عن زهده أنه لم يَكن يُنفق على نفسه سوى درهمين اثنين في اليوم،[98] ومرَّة دخلَ عليه ابن عمه مسلمة فوجده بقميص بالٍ ومتسخ، فأمر زوجته فاطمة بإعطائه قميصاً نظيفاً، وعندما عادَ مجدداً وجده على الحال نفسها، فعاتبها، فأخبرته أنه لم يَكن يملك قميصاً غيره.[99] وقد أصلح عمر بن عبد العزيز الأراضي الزراعية وحفر الآبار ومهَّد الطرقات وعمَّر الخانات (الفنادق) لأبناء السبيل، كما بنى المساجد، وحكمَ بعودة الأراضي المغتصبة غير المُسجَّلة إلى بيت مال المسلمين، وساهمت إصلاحاته المختلفة هذه في القضاء على الفقر في أنحاء الدولة.[98]
شهدَ عهد عمر بن عبد العزيز أول تحرك جديدٍ للخوارج منذ أيام عبد الملك، بعد أن استكانوا لزهاء ثلاثة عقود منذ أيام الحجاج. وقد أرسل إليهم عمر جيشاً، غير أنه أمره بعدم الهُجوم، وفي حال سفك الخوارج دماءً أو اعتدوا على الناس فليحول الجيش دون ذلك، وفي الآن ذاته بعث رسولاً إلى قائد الخوارج «بسطام اليشكوريّ» يدعوه إلى التوقف، وبعد عدَّة مراسلة بينهما اقتنع بسطام بالتخلي عن التمرد.[100] وأما الفتوحات والحروب فكانت محدودة في عهده، حيث أمرَ الجيش الذي أرسله سليمان لمحاصرة القسطنطينية بالرُّجوع، وعدى عن ذلك فلم تحدث في خلافته سوى بعض الغزوات في الأناضول وأذربيجان (كما اعتادَ المسلمون مع الروم في معظم أيام الأمويين).[101]
توفيَّ عمر بن عبد العزيز في شهر رجب سنة 101 هـ (يناير سنة 720 م)، بعدَ أن دامت خلافته لسنتين ونصف تقريباً. وقد تولّى الخلافة بعده ابن عمِّه يزيد بن عبد الملك.[93] يَعتبر الكثير من المؤرخين - مثل ابن كثير - أن يزيد تأثر بعمر في بداية خلافته، وأرادَ اتباعه في خلافته وحسن سيرته، غير أن أقران السوء أفسدوه.[102][103] وعلى أي حال فإن يزيد بن عبد الملك لم يَكن ذا خبرة ومقدرات تؤهله للخلافة، إذ كان شاباً لا يزيد عمره عن 29 عاماً قضى أغلب حياته في اللهو والترف، وقد كان يُمكن لعهده أن يَشهد انحطاطاً كبيراً للدولة لولا بعض رجالها الذين حافظوا على قوتها مثل مسلمة بن عبد الملك، وقد كان عهده بالفعل عهد ضعف نسبيٍّ للدولة.[102]
غزا المسلمون إقليم الصغد في ما وراء النهر عدَّة مرات خلال خلافة يزيد بعد أن نقض أهله عهدهم مع المسلمين (في سنتي 102 و104 هـ)، كما استمرُّوا بغزواتهم المعتادة في الصوائف والشواتي ضد البيزنطيين.[104] كما كانت هناك موقعتان كبيرتان في فرنسا، حيث عبرَ السمح بن مالك الخولاني جبال البرانس بجيشه سنة 102 هـ وحاصرَ طولوز، فسار إليه دوق فرنسا والتقيا في معركة تولوز التي انتهت بهَزيمة المُسلمين.[101] كما سار أمير الأندلس - عنبسة بن سحيم الكلبي - بعدها على رأس جيش إلى فرنسا وفتح سبتمانيا وليون وتوغل في منطقة بورغونيا، وغزا في فترة مقاربة محمد بن يزيد جزيرة صقلية.[104] وكان من أكبر الأحداث التي شهدها عهد يزيد ثورة ضخمة للخوارج قادها يزيد بن المهلب، حيثُ ثار على الخليفة ودعا إلى خلعه، وبايعه أهل البصرة، ثم امتدَّ نفوذه إلى الجزيرة الفراتية والبحرين وفارس والأهواز، غير أنه هُزمَ وقُتلَ ضد مسلمة - أخو يزيد - في معركة عفر قرب الكوفة بشهر صفر سنة 102 هـ (أغسطس سنة 720م).[105]
ذروة اتساع الدولة
توفيَّ يزيد بن عبد الملك في أواخر شهر شعبان من سنة 105 هـ (يناير سنة 724 م)، وكان قد وَصَّى بالخلافة من بعده لأخيه هشام، فابنه الوليد.[106] كان هشام بن عبد الملك - على عكس أخيه الذي سبقه - خليفة قوياً ذا خبرة وحنكة سياسية، وأدار الدولة بكفاءة عالية، وقد تمكن من الحفاظ على استقرارها طيلة عهده الطويل.[106] وعلى الرُّغم من عدم حدوث فتوحات كبيرة في عهده بضمِّ أراض جديدة للدولة - كتلك في عهد الوليد - فقد كانت الغزوات واسعة جداً، وكان القتال محتدماً على جبهة الشرق في السند وما وراء النهر والشمال في الأناضول والقوقاز والغرب في الأندلس وجنوب غالة (فرنسا).[23][107] وعلى الرُّغم من ذلك فقد شهدَ عهد هشام بلوغ الدولة الأموية ذروة اتساعها وأقصى حدودها، التي امتدَّت من أطراف الصين شرقاً إلى جنوب فرنسا غرباً.[108]
كان المسلمون قد بسطوا سيطرتهم على إقليم سبتمانيا منذ سنة 101 هـ، وأصبحَ منذ ذلك الوقت مركزاً لهم للإغارة على مدينتي برغاندي وأقيتانية في جنوب فرنسا الحالية، وقد انتصرَ عليهم دوق أقيتانية في معركة طولوز على أيام يزيد[109] وقتل قائدهم عنبسة بن سحيم الكلبي، غير أن المسلمين استأنفوا القتال بعدَ أن عين عبد الرحمن الغافقي والياً جديداً للأندلس، والذي قادهم على رأس جيش من 8,000 جندي[110] سنة 112 هـ (730 م)، فنهبوا بونة وفرضوا الجزية على سان وفتحوا أفينيون.[109] وقد تابع المسلمون تقدمهم، فانطلق عبد الرحمن على رأس جيش سنة 112 هـ وفتح بوردو فأقيتانيا وبرديل وغيرها،[109] وفي النهاية خاض معركة بلاط الشهداء سنة 114 هـ (732 م)، ووصلت بذلك فتوحات الأمويين في المغرب أقصاها في عهد هشام، وظلَّ المسلمون محتفظين بحدودهم هذه بجنوب فرنسا (عندَ سفوح جبال البرانس الشمالية) حتى سنة 181 هـ.[111]
استمرَّت الغزوات والصوائف والشواتي ضد البيزنطيين في عهد هشام بن عبد الملك كما كانت الحال طوال العهد الأموي، غير أن هذه الغزوات - كالعادة أيضاً - لم تغير حدود الدولتين الأموية والبيزنطية. وقد قطعت صائفة سنة 107 هـ البحر إلى جزيرة قبرص، وفتحَ مسلمة بن عبد الملك مدينة قيصرية سنة 108 هـ، ووصلَ سعيد وسليمان بن هشام إليها أيضاً في سنة 111 هـ، وقد نجحَ الثاني في هزم قسطنطين وأسره خلال الغزوة.[112] وفي البحر الأبيض المتوسط غزا أمير أفريقية «حبيب بن أبي عبيدة بن عقبة بن نافع» جزيرة صقلية وفتح بها مدينة سرقوسة سنة 121 هـ، كما غزا عبيد الله بن الحبحاب جزيرة سردينيا سنة 117 هـ وتمكن من السطيرة على قلعتها.[110] غزا المسلمون أيضاً منطقة أرمينيا والقوقاز مراراً وتكراراً في عهد هشام، حيث غزاها الحجاج بن عبد الملك بداية وفرضَ عليها الجزية، غير أن غزوها أعيد بعدَ نقضها العهد مرات كثيرة،[113] فقد حدث ذلك في سنة 110 هـ، ثم 112 هـ، ثم 113 هـ، فقتلَ ابن خاقان الترك في الأخيرة، فتوجَّه لقتال المسلمين انتقاماً لابنه سنة 114 هـ غير أنه هزم، ثم نقض العهد مجدداً سنة 117 هـ فغزاهم المسلمون مجدداً، ثم تكرَّر الأمر ذاته سنة 120 هـ،[113] وأخيراً غزى مروان بن محمد بلاد السرير سنة 121 هـ وفرض عليها الجزية، كما شهدَ ذلك العام وفاة مسلمة بن عبد الملك بعد أن قاتل بشدة لعقود ضد الأتراك والبينزطيين.[113]
تصغير|يسار|200بك|القصر الأموي على جبل القلعة، في عمان. تم بناؤه عام 730 م.
وعلى جبهة الشرق استمرَّت الغزوات طوال الوقت لكن دون تحقيق فتوحات كبيرة، فقد غزى المسلمون فرغانة سنة 106 هـ، ثم بلاد الجبل وجبال هراة وبلاد الختل، غير أن أهل الأخيرة نقضوا العهد فأعيد غزوها سنة 112 هـ،[114] فرد سكانها بالأتراك بأن جاءوا وغزوا سمرقند فاقتتل معهم المسلمون قتالاً شديداً وانتصروا عليهم. وأعيد غزو بلاد الختل سنة 119 هـ وقُتلَ ملكها «بدر طرخان»، كما قتل ملك الترك سنة 120 هـ. وقد غزى المسلمون ما وراء النهر ثلاث مرات سنة 121 هـ وفرغانة مرتين سنة 123 هـ.[114]
لم تتوقف ثورات الخوارج في عهد هشام كما كانت الحال في أغلب فترة حكم الأمويين، وكان من أبرز ثوراتهم عليه ثورة «شبيب بن صحاري» الذي قُتلَ في معركة بالعراق سنة 119 هـ، كما شهدت السنة نفسها ثورة في الجزيرة، وشهدَ عهد هشام أيضاً ثورتين في المغرب وثالثة في الأندلس للخوارج.[23] غير أن أكبر الثورات في عهده على الإطلاق كانت ثورة زيد بن علي بن الحسين. وقد بدأت ثورته بأن أرسلَ إليه أهل الكوفة يقولون له: «إنا لنرجو أن تكون المنصور وأن يَكون هذا الزمان الذي يهلك فيه بنو أمية».[115] فردَّ عليهم: «إني أخاف أن تخذلوني وتسلموني كفعلتكم بأبي وجدي». لكنه استجابَ لهم على الرغم من ذلك وأعلنَ الثورة على هشام سنة 121 هـ وبايعه 15,000 رجل،[116] وكانت تلك أول ثورة للشيعة منذ عهد مروان بن الحكم. وقد أمرَ هشام والي الكوفة «يوسف بن عمر الثقفي» بإخماد الثورة، فتوجَّه إلى زيد بن علي،[115] وهُنا انفضَّ عنه أغلب من بايعه فلم يبقى ممن كان معه سوى 200 رجل، وقد هُزمَ وقُتلَ زيد في المعركة، ومع ذلك فقد حزنَ هشام على موته لكرهه سفك الدماء.[116]
مرحلة السقوط
توفيَّ هشام بن عبد الملك في شهر ربيع الآخر سنة 125 هـ (فبراير سنة 743 م)،[117] وكان آخر من حكمَ من أبناء عبد الملك بن مروان، وبعده آل الحكم إلى جيل الأحفاد، وكانت تلك بادرة انحطاط الدولة.[118] وقد كان حُكم جيل الأحفاد - المرحلة الثانية من عصر المروانيين - عهداً توقَّفت فيه الفتوحات بعد كل ما حقّقته في العقود الماضية، وغرقت الدولة عوضاً عن ذلك في صراعاتها ونزاعاتها الداخلية.[23] وقد كان وليُّ عهد هشام هو الوليد بن يزيد، حيث عينه والده يزيد بن عبد الملك ولي عهد ثانٍ نظراً إلى صغر سنه آنذاك،[119] ولكن حتى عندما توفي هشام بعد عقدين كان لا يَزال شاباً يعيش حياة لهو وترف على شاكلة والده، ولم تكن لديه مؤهلات كافية للخلافة،[120] وقد كان عهد الوليد الثاني هو بداية انحطاط وسقوط الدولة الأموية.[121]
كان هشام يُخطط في عهده لوضع ابنه مسلمة ولياً للعهد بدلاً من الوليد، الذي لم يَرى فيه أهلاً للخلافة (على الرغم من أن مسلمة لم يَكن مختلفاً كثيراً في لهوه وترفه عن الوليد في الواقع)، وقد أيَّده بعض من حوله في ذلك، مما أخاف الوليد من أن يُدبر هشام لقتله، لكن الأجل وافى هشام قبل أن يَحدث ذلك،[119] فاستغلَّ الوليد الفرصة وأخذ الخلافة لنفسه، ثمَّ أخذ بملاحقة من أيَّد تنصيب مسلمة ولياً للعهد مكانه وانتقمَ منهم مستغلاً سلطاته كخليفة.[120] وقد أدَّت انتقامات الوليد هذه إلى ثوران بعض القبائل التي انتمى إليها ضحاياه، والتي طالبت بالثأر، فاجتمع عدد كبيرٌ منها،[122] وأيَّد القدرية الثورة لأنها كانت ضد حكم بني أمية، وقد استمال هؤلاء يزيد بن الوليد، فقادهم وجمعَ 1,000 رجل في دمشق بعدَ أن عرض عليهم الكثير من المال، ثمَّ سار إلى منزل الخليفة[123] فقبضَ على الوليد وقتله إذ أنه لم يَكن يملك حامية كبيرة،[124] وكان ذلك في شهر جمادى الآخرة سنة 126 هـ (أبريل سنة 744 م)، وقد فتحَ مقتله باب فتن كبيرة عصفت بالدولة.[121] حاولَ يزيد الثالث أن يَكون خليفة صالحاً وزاهداً على طريقة عمر بن عبد العزيز، فحاول التقشف،[124] وأعادَ رواتب الجند إلى ما كانت عليه بعد أن رفعها الوليد في عهده، فأغضبَ هذا الجند الذين منحوه لقب «الناقص»،[121] وقد فجعَ كثيرون آخرون بمقتل الخليفة ولم يُبايعوا يزيد، ولذلك فقد أخذت الدولة بالتدهور سريعاً في عهده، وسُرعان ما توفيَّ بعد حكم دام ستة أشهر وفي السنة نفسها التي تولى فيها الخلافة، بعدَ أن نصَّب أخاه إبراهيم بن الوليد ولياً للعهد بناءً على طلب القدرية.[124]
اضطَّربت الأوضاع كثيراً عند وفاة يزيد، حيث رفضَ الكثير من الناس بيعة أخيه إبراهيم واعتبروه هو ويزيد مسؤولين أساسيَّين عن مقتل الوليد والفتن التي فجَّرها،[125] وهُنا تدخل مروان بن محمَّد (ابن عم إبراهيم ويزيد ووالي أرمينيا وأذربيجان) وسارَ إلى دمشق على رأس جيش من 80,000 جنديّ،[126] وكان قد أتاها من قبل في أيام يزيد، لكن ذاك استرضاه ووعده بالإصلاح، ولكنه عزمَ هذه المرة على خلع الخليفة،[125] ودخل المدينة في شهر ربيع الآخر سنة 127 هـ (745 م)، فهربَ منها إبراهيم، وبويع مروان بالخلافة.[126]
كان مروان بن محمد خليفة قوياً ذو حنكة وكفاءة عاليتين في إدارة الدولة، وكان قائداً عسكرياً ذا خبرة عالية خاضَ حروباً طويلة مع البيزنطيين،[127] وميَّزه ذلك عن الخلفاء الثلاثة الذين سبقوه، غير أن الأوان كان قد فاتَ لإصلاح أمور الدولة، وكانت قد سقطت بالفعل في فوضى ونزاعات داخلية عارمة، ولذلك فقد كانت نهايتها في عهده هو.[128] عندما بُويع مروان بالخلافة كان من الأشياء الأولى التي فعلها هي نقل العاصمة من دمشق إلى مدينة حران في الجزيرة،[129] إذ أنه لم يَثق بمن في الشام، وكانت ثقته محصورة بمساعديه وقادته الذين عرفهم وتعامل معهم لسنوات طويلة خلال ولايته على أرمينيا وأذربيجان،[129] غير أن هذا التصرف جاء بعواقب وخيمة. حيثُ ثار عليه أهل الشام، فبدأت الثورة من فلسطين، ثم زحفت إلى دمشق فحمص، وبذلك خسرَ تأييد أهل الشام أنفسهم وهم أنصار الأمويين الأساسيين، مع أنه سُرعان ما سار وقمع الثورة.[130] لكن لم تستكن الأمور، فقامت الثورات واحدة تلو الأخرى، مرة في الجزيرة واليمن سنة 127 هـ، وأخرى في الموصل سنة 129 هـ، ثم في أفريقية في سنتي 131 هـ و132 هـ،[23] فضلاً عن الانقسامات الداخلية بين القبائل العربية المختلفة وداخل البيت الأمويّ نفسه. وقد أنهكت هذه الثورات المتتالية مروان، فأخذ يَتنقل من منطقة إلى منطقة يُحاول السيطرة على الدولة ومنعها من الانهيار،[131] لكنه تفاجأ وهو غارق في صراعاته الداخلية يَقمعها واحداً تلو الآخر بالمدّ العباسي يأتي من المشرق فيكتسح خراسان فالعراق،[132] فسار إليهم ووقعت معركة الزاب الكبير في شهر جمادى الآخرة سنة 132 هـ (750 م)،[133] وقد كانت هذه المعركة هي نهاية الدولة الأموية وسُقوطها،[132] وقُتلَ مروان بعدها ببضعة شهور.[133]
أخذ العباسيون بعدَ قيام دولتهم بمُلاحقة بني أمية وقتلهم، ولذلك فقد فرَّ الكثير منهم بعيداً محاولين النجاة بأنفسهم. وقد كان من بين هؤلاء عبد الرحمن الداخل، الذي فرَّ إلى الأندلس، وأعلنَ استقلاله بها[134] وتأسيس ولاية أموية في قرطبة سنة 138 هـ (755 م).[135] وقد تمكَّن الأمويون من البقاء بهذه الطريقة، فأسسوا الدولة الأموية في الأندلس، وظلُّوا يحكمونوها زهاء ثلاثة قرون، غير أن مصيرها في النهاية كان السُّقوط سنة 422 هـ بعد أن تفككت الأندلس إلى إمارات صغيرة مستقلة.[136][137]
الدولة والحضارة
المجتمع
يُمكن القول أن المجتمع في عهد الدولة الأموية - على الرغم من عدم امتلاكه تدرجاً اجتماعياً دقيقاً أو صارماً - قد تألف من خمس طبقات أساسية، هي: الخلفاء والولاة والعلماء والأثرياء والعامة. فالطبقة الأولى هي الخلفاء وعائلاتهم، وهم أصحاب السلطة والسيادة العليا في الدولة ولهم الصلاحيات المطلقة بها. ثم يليهم كبار الولاة والقادة وكاتبو الديوان. فالعلماء، الذين مع أنهم يأتون في الطبقة الثالثة فقد كان احترام العامة لبعضهم يفوق احترامهم وتقديرهم للولاة والخلفاء أنفسهم. ثم كبار الأثرياء من التجار وشيوخ العشائر. وأخيراً تأتي الطبقة الخامسة وهي عامة الناس، مثل المزارعين والحرفيين وغيرهم.[138]
عاش العرب بشكل عام حياة بسيطة في أيام الإسلام وقبله، فكان طعامهم على سبيل المثال يتألف من بضعة أصناف فحسب، أفخرها على الإطلاق هو اللحم مع الثريد. لكن مع توسع الفتوحات في العصر الأموي وترامي أطراف الدولة وازدهارها اختلفت الحال، إذ اقتبس العرب عادات الكثير من الثقافات التي احتكوا بها نتيجة الفتوحات، فأصبحوا يستخدمون أدوات فخارية وخشبية لتناول الطعام كانت تأتيهم من الصين مثل الشوك والملاعق، وأصبحوا يتناولون طعامهم على موائد وكراس خشبية بدلاً من أن يجلسوا على الأرض ويتناولوه بأيديهم كما في السّابق. وقد ساهم في نقل مثل هذه العادات الحياتية والاجتماعية إلى العرب إحضارهم الكثير من الجواري إلى بلادهم، فنقلن إلى العرب عادات وتقاليد شعوبهن.[139]
تصغير|270بك|يمين|قصر عمرة الصحراوي، شرق الأردن. كان يُستخدم لرحلات الصيد التي يقوم بها خلفاء وأمراء بني أمية.
كانت المناسبات الإسلامية وأبرزها عيدا الفطر والأضحى ذات صدى كبير في أنحاء الدولة الأموية، فكان يَخرج الخليفة في موكب مهيب وسط رجال الدولة الكبار يتقدمهم الجند لأداء صلاة العيد. كما أن الأعراس والأفراح وبعد أن كانت بسيطة جداً في عهود الخلفاء الراشدين وما قبل الإسلام باتت مترفة جداً وتُنفق عليها أموال طائلة، فكانوا يقيمون ولائم عظيمة في الأعراس، ثم يلعب الفتيان بالرامح ويتسابقون بالخيل فيما تجلس النساء يتحدثن إلى بعضهن البعض، وأما العروس فكانت تزين بزينة عظيمة، ويُحيط بها خدمها يُغنون لها حتى تذهب إلى بيت زوجها.[140] وقد كان من وسائل الترفيه والتسلية الشائعة في تلك الحقبة جلب المغنين أو «المضحكين» الذين يلقون النكات ويضحكون الناس. كما كانت ألعاب النرد والشطرنج شائعة أيضاً، اللتين أخذهما العرب من الفرس. كما كانوا يرفهون عن أنفسهم بالصيد والرياضة، وأقامت الدولة في عهد هشام بن عبد الملك سباقات كبيرة للخيل بلغ عدد المشاركين فيها 4,000 حصان في إحداها.[141]
بشكل عام امتاز المجتمع في العصر الأموي بالترف الكثير على النقيض من عهود الإسلام السابقة. ولم ينعكس ذلك على المناسبات والعادات الاجتماعية فحسب، إنما على ملابس العامة أيضاً، فتنافس الناس وخصوصاً الخلفاء وكبار رجال البلاط في شراء الملابس الجديدة والفاخرة والمتميزة، وأصبحَ الجميع يرتدون جباباً وأردية وسراويل وعمائم وقلانس. ثم ومع ازدياد الإسراف أصبح التجار يجلبون معهم إلى البلاد الإسلامية مختلف أنواع الحرير والصوف بين موشّى ومطرّز ومحاك بالذهب والفضة ومرصع بالأحجار الكريمة.[142] وكان خلفاء بني أمية يرتدون ملابس بيضاء على الأغلب ومن أفخر أنواع القماش المطرز.[143] وكان من قطع الملابس التي ارتداها الأمويون: القباء (رداء أو زي خارجي مفتوح عند الرقبة أو يقفل بأزرار وهو ضيق الكمين وفي بعض الأحيان متوسط الاتساع) والدراعة (جبة مشقوفة من الأمام) والطيلسان (الطرح التي تغطي الرأس) والغلالة (ثوب رقيق شفاف يشبه القميص الذي ترتديه المرأة) الملحفة (ملاية) والإزار (لباس لستر العورة) والشاشية (قبعة) والتكة (رباط السروال).[144] كما أن أسلوب إنتاج الأقمشة الخاصة المطرزة في المناسج الملكية ولد في العصر الأموي، ثم تطور لاحقاً وساد في أنحاء الدولة الإسلامية خلال العصور الوسطى، وكان أول خليفة أموي يؤسس مصانع خاصة للنسيج المطرز هشام بن عبد الملك.[145] وقد كان من الظواهر المهمة في العصر الأموي أن أصبحَ غير المسلمين يرتدون ملابس العرب الفاخرة، حتى جاء عهد عمر بن عبد العزيز الذي حَرّم على أهل الذمة ارتداء لباس الرأس العربي ومنه العمامة والعصب والطيلسان والملابس العسكرية العربية والأردية الخاصة مثل القبعة، وكان على هؤلاء أن يرتدوا حزاماً متميزاً يسمى المِنْطَق وأحياناً الزُنّار.[143]
الحركة العلمية
على الرُّغم من أن العصر الذهبي للعلوم والحضارة الإسلاميَّين كان في العهد العباسيّ فقد كان للأمويين دورٌ بارز في التمهيد لهذا الازدهار والتهيأة له، إذ أنهم أرسوا أسس التراث العلميّ الذي بنى عليه العباسيون. ومن أهم هذه التطوُّرات التي هيأت للنهضة العلمية العباسية حركة التعريب في عهد عبد الملك بن مروان،[146] الذي جعل من اللغة العربية لغة رسمية للدولة أصبحت تستخدم في كل أصقاعها من المشرق إلى المغرب، كما ساهمَ الوليد كثيراً أيضاً بإنشائه المدارس والمستشفيات تحت رعاية الدولة التي ساهمت هي الأخرى في النهضة الإسلامية اللاحقة.[147] وقد كان من أهم الإنجازات في تطوير الحركة العلمية في العصر الأمويّ تدوين العلوم وتعريبها للمرَّة الأولى، وهو ما أتاح لعلماء العرب والمسلمين الاطلاع عليها بسُهولة، كمان أن اتساع الدولة ودخول شعوب جديدة في الإسلام أتاح التعرف على حضاراتها والاستفادة من تلك المعارف في تطوير الحضارة الإسلامية.[148]
كان أول من أنشأ مدارس منظمة تعمل برعاية الدولة وتحتَ إشرافها في التاريخ الإسلامي هو الخليفة الأموي الوليد بن عبد الملك، وساعد انتشار المدارس على التهيأة أكثر للنهضة العلمية العباسية، كما كان من إنجازات الوليد الأخرى أنه أول من أنشأ المستشفيات في التاريخ، وأنشأ إلى جانبها البيمارستانات، وهي دور وظيفتها إيواء المعاقين وذوي الأمراض العقلية والعصبية، وقد اعتمدت الكثير من المشافي التي أنشأت لاحقاً في قارة أوروبا على نمط وأسس مشافي الوليد بن عبد الملك، وأصبح الأطباء الجدد يتتلمذون على أيدي أطباء هذه المشافي، وكان ذلك البادرة الأولى لولادة المدارس الطبية في التاريخ.[147]
كانت حركات تدوين تاريخ العصر النبوي والراشدي وحتى الأمويّ نفسه في العصر العباسي في معظمها، غير أنَّ حركة تناقل الأخبار وتسجيلها على نحوٍ محدود بدأت منذ العهد الأموي، وحُفظت بذلك استعداداً لتدوينها في أيام العباسيين. وقد ساهمت في هذه الحركة عدَّة عوامل، منها دخول الكثير من الناس من الأمم الأخرى في الإسلام،[149] وقد نقلَ هؤلاء أخبار تواريخ أممهم إلى العرب ورووها لهم، كما ألَّف بعضهم كتباً خاصة تتحدث عن التاريخ ومغازي الرَّسول منذ تلك الفترة، وهب بن منبه وعروة بن الزبير بن العوام (أوَّل من دون سيرة الرسول) وكذلك أبان بن عثمان بن عفان وشهاب الزهريّ.[149]
فن العمارة
قبل العصر الأمويّ كان فن العمارة العربي بسيطاً جداً ولم يتسم بالكثير من المعالم والمميزات، ولم تبدأ العمارة الإسلامية باكتساب نمط مختلف أكثر تعقيداً حتى العهد الأموي،[150] غير أن العمارة الأموية جاءت متأثرة كثيراً وشديدة الشبه بالعمارة البيزنطية التي كانت سائدة قبلها في بلاد الشام، بل إنها استتسخت تقريباً معالم الفن المعماريّ البيزنطي في الكثير من الأحيان دون تغيير كبير أو إضفاء صبغة مميزة عليه.[151]
ويُمكن ملاحظة هذا التأثير على سبيل المثال في مسجد قبة الصخرة، فنمطه المعماريّ يشبه إلى حد بعيد النمط البيزنطي المسيحي، ولو أنه مع ذلك يتسم ببعض المميزات الإضافية المتسمدَّة من العمارة الإسلامية، فقد أضيفت إليه بعض المعالم الإسلامية مثل القبة والمئذنة فضلاً عن الآيات القرآنية والأحاديث النبويَّة التي أضيفت إلى زخرفاته، وبهذا مزجَ الأمويون الطراز المعماريّ البيزنطي مع العربي فيما أصبحَ الطراز المعماريّ الأمويّ.[150] وقد تميَّز هذا الطراز المعماريّ بالزخارف والفسيفساء. وقد اهتمَّ بالعمارة من الخلفاء الأمويين بشكل خاص هشام بن عبد الملك، الذي كان النشاط العمرانيّ في عهده في ذروته.[152]
نظراً إلى ترامي أطراف الدولة الأموية فبطبيعة الحال تفاوتت كثيراً الأنماط والطرازات المعمارية بين أنحائها المختلفة، التي اعتدات عليها شعوب المناطق المفتوحة حديثاً، وأما «العمارة الأموية» فظهرت في جلها بمنطقة بلاد الشام، مركز الدولة. وقد كانت القصور الأموية التي بنيت في هذه المنطقة فريدة، إذ لا توجد أي دلائل تاريخية أو أثرية على وجود مبانٍ مثلها وبمثل طرازها في الشام قبل الحكم الأموي.[153] وبشكل عام تُعد القصور والمساجد الجامعة الكبيرة أبرز الإنجازات المعمارية في العصر الأموي.[154]
يُعد مسجد قبة الصخرة في مدينة القدس (المبنيّ في عهد عبد الملك بن مروان) وجامع بني أمية الكبير في دمشق (المبنيّ في عهد الوليد بن عبد الملك) اثنين من أشهر وأهم الإنجازات المعمارية الأموية على الإطلاق،[62][86] كما أن من أبرز الإنجازات المعمارية الأموية أيضاً توسعتا المسجد الحرام في مكة والمسجد النبوي في المدينة المنورة، بالإضافة إلى قصري عمرة (قرب عمان) والمشتى (قرب أريحا)، كما أنشؤوا مدناً كثيرة من أبرزها الرصافة في الشام وواسط في العراق وقم في فارس وحلوان في مصر والقيروان في تونس.[155]
الاقتصاد
ازدهر الاقتصاد في عهد الدولة الأموية ازدهاراً كبيراً نتيجة للفتوحات الإسلامية الكبيرة التي أدَّت إلى توسيع رقعة الدولة ووفَّرت لها موارد هائلة أغنتها ووفرت لها كل حاجاتها. يُوجد عدد محدودٌ من المصادر التاريخية التي تتناول موضوع الاقتصاد الأمويّ، غير أن مثل هذه الكتب تركّز على الاقتصاد من الناحية الفقهية، وأما المصادر التي تبحث ميزانية الدولة وأحوالها المالية في العصر الأموي فهي معدومة تماماً، ولذلك فإن الوسيلة الأساسية لمعرفة الأحوال الاقتصادية في عصر الدولة الأموية هي في دراسة المستوى المعيشيّ العامّ للأفراد مما نقلته كتب التاريخ.[156]
وعموماً فقد كان الاقتصاد الأمويّ كبيراً ومزدهراً، حيث غذته كثيراً الفتوحات الإسلامية الواسعة، فأصبحت الدولة الأموية مسيطرة على أغلب الطرق التجارية الأساسية في العالم القديم، وسيطرت من ثمَّ على الحركة التجارية فيها، فضلاً عن أن ربوعها شملت الكثير من المراكز الزراعية والصناعية الهامة التي أغنت وأثرت اقتصادها، كما أن توسعها أتاحَ نمو حركة تجارية ضخمة بين ولاياتها بدون عوائق، جعلت نقل البضائع والمتاجرة بها سهلاً ويسيراً، فازدهرت الحركة التجارية في الدولة.[157] إذ شهدت الدولة الأموية حركة تجارية نشطة عبرَ أنحائها المختلفة الواسعة ومع الدول والإمبراطوريات الأخرى المجاورة على حد سواء. ولم تُقم الدولة أي قيود من أي شكل على كافة أشكال التجارة بين ولايات الدولة نفسها، كما لم تفرض قيوداً أو تقنن بأي شكل التداولات التجارية مع الدول المجاورة، ولم تحتكر أي نوع من البضائع التجارية، وبذلك فإن القوانين التجارية لم تختلف في العهد الأموي كثيراً عما كانت عليه في عهد الخلافة الراشدة.[158]
بشكل عام فقد كانت أغلب المبادلات التجارية في العالم القديم تدور بين أراضي الدولتين الأموية والبيزنطية الكبيرتين المتنازعتين، وقد أدَّت القطيعة بينهما نتيجة الحرب إلى شلل كبير في الحركة الاقتصادية خصوصاً في منطقة حوض المتوسط.[159] بلغ الاقتصاد الأمويّ ذروة ازدهاره في عهد الخليفة عمر بن عبد العزيز، حتى أنه يُحكى عن عهده أن عمال الصدقات كانوا يَبحثون عن فقراء ليعطوهم المال فلا يَجدون. وقد وفّرت الدولة في عهده للأفراد خدمات كثيرة وساعدت على توفير العلاج وإعالة المحتاجين، كما ساعدت الشباب على الزواج وأعانت من يريد تأدية الحج، وغير ذلك من الحاجات.[156]
القضاء
تصغير|300بك|مجسم يصور قصر الحير الغربي عند اكتشافه، وهو يقع في بادية الشام على بعد 80 كم جنوب غرب تدمر. يُعد القصر واحداً من 36 قصراً أموياً أقيم في ضواحي وأرياف وصحاري بلاد الشام، وقد بني في أيام الخليفة الأموي هشام بن عبد الملك. هذا المجسم محفوظ في متحف دمشق الوطني.
يعتقد بعض الباحثين أن الشريعة الإسلامية لم تُطبَّق في الأنظمة القضائية والقانونية في الدولة إلا في عهد الخلافة الراشدة، ثمَّ توقفت مع مطلع العصر الأموي، لكن على الرغم من ذلك فإن بعض الباحثين الآخرين - مثل راغب السرجاني - يَميلون في المقابل إلى أن تطبيق الشريعة الإسلامية في القضاء استمرَّ أكثر من ذلك بكثير، خلال العصر الأموي كله بل وما بعده أيضاً.[160] من أبرز التطوُّرات على الصعيد القضائي والقانوني التي شهدها العهد الأموي أن الخلفاء توقفوا عن التدخل بأنفسهم في القضاء كما كان يَفعل النبي محمد والخلفاء الراشدون من بعده، الذين كثيراً ما كانوا يُصدرون الأحكام القضائية بأنفسهم أو يضعون أسسها، غير أن الخلفاء الأمويين استمرُّوا بتوجيه قضاء الدولة في ثلاثة أمور لأهميتها الكبيرة، وهي: تعيين القضاة مُباشرة في عاصمة الدولة دمشق، وتعيين وعزل قضاة الدولة والإشراف على أعمالهم والأحكام التي يُصدرونها، والتأكد من التزامهم بالأسلوب القضائي القويم. كما مارس الخلفاء الأمويون بالإضافة إلى ذلك قضاء المظالم وقضاء الحسبة.[161]
كان للقضاة دور كبيرٌ في ضمان سير العدل في الدولة الأموية، وقد خالفوا الخلفاء والولاة أنفسهم عندما لزمَ ذلك ووجهوهم إلى اللالتزام بالشريعة الإسلامية، مثل ما حدثَ عندما أراد والي مصر عبد العزيز بن مروان (65 - 85 هـ) أخذ الجزية من المسلمين الجدد، فعارضه قاضي مصر آنذاك «ابن حجيرة» قائلاً: «أعيذك بالله أيها الأمير أن تكون أول من سنَّ ذلك بمصر». وقد تحقَّق عدل شبه كامل في كل الجوانب المالية بالدولة عندما جاء عهد عمر بن عبد العزيز.[162] لكن على الرغم من أن دخول المال إلى بيت مال المسلمين كان يَخضع لرقابة كبيرة من طرف القضاة، فإن خروجها منه لم يَكن بالمثل، إذ أن خلفاء بني أمية لم يَتبعوا الخلفاء الراشدين في هذا الأمر، حيث امتنع أولئك تماماً عن الاقتراب من بيت المال أو لمس ما فيه، وأما الخلفاء الأمويون فلم يعد في عهدهم فرق بين بيت مال الدولة وأموالهم الخاصة، وأصبحوا يأخذون منه ما يشاؤون ويغدقون المال على أغراضهم الخاصة، وأصبحوا أثرياء هم وأبناؤهم وعائلاتهم. ولم يُصلَح هذا الوضع حتى جاء عهد عمر بن عبد العزيز، الذي كبحَ بني أمية ومنعهم من لمس بيت المال، وردَّ الأموال إلى أصحابها، وتحرَّى العدل في مختلف جوانب الدولة. غير أن أواخر الخلفاء الأمويين مع ذلك انحرفوا مجدداً عن هذا الطريق وأسرفوا في أموال الدولة كثيراً.[163]
اتَّبعَ الأمويون نفس أسلوب الخلفاء الراشدين في تعيين القضاة. حيث يَقوم الخلفاء بتعيين قاضٍ على كل إقليم من أقاليم الدولة حسبَ كفاءته وأهليته للعمل. وقد دوَّن بعض هؤلاء القضاة أحاكمهم، مثل قاضي مصر في عهد معاوية بن أبي سفيان «سليم التجيبي» الذي كان أوَّل قاض يدون أحكامه، وقد أصبحت بعض هذه الأحكام فيما بعد قواعد فقهية عندَ تدوين الفقه في العصر العباسي. ومن أبرز القضاة الأمويين: عامر بن شراحيل الشعبي وعبد الله بن عامر بن يزيد اليحصبي وأبو إدريس الخولاني وعبد الرحمن بن حجيرة وأبو بردة بن أبي موسى الأشعري وعبد الرحمن بن أذينة وهشام بن هبيرة، وآخرون غيرهم.[164]
نظام الحكم
جدول الخلفاء والحكام الأمويين
الخلافة
كان الخلفاء الراشدون يعيشون حياةً بعيدة عن الأبّهة، ولم تكن تختلف عن حياة أي مواطن عادي في عهدهم، فلم يكن أبو بكر على سبيل المثال، يتقاضى راتبًا، وكان عمر يستعين على الإنفاق على نفسه أبّان خلافته بما يربحه من التجارة. وعندما أعلن معاوية بن أبي سفيان نفسه خليفةً، إثر مقتل الإمام علي بن أبي طالب، تأثّر بنظم الحكم التي كان البيزنطيون يطبقونها في الشام فعاش حياة الملوك، واتخذ عرشًا للملك، وأقام الشرطة لحراسته، ودفعه مقتل ثلاثة خلفاء من قبله إلى أن يبني مقصورةً خاصةً في المسجد يُصلي بها منفردًا عن الناس. وحين عُهد بولاية العهد إلى ابنه يزيد استحدث للدولة الإسلامية تقليدًا جديدًا، فقد أصبحت الخلافة ملكًا وراثيًا بعد أن كانت باختيار أهل الحل والعقد لأبي بكر والتعيين لعمر والاختيار من أصحاب الشورى الستة لعثمان .[167] وقد عارض أهل الحجاز وخاصة المدينة المنورة، بما فيهم أبناء الصحابة عبد الرحمن بن أبي بكر، وعبد الله بن عمر، وعبد الله بن الزبير، وعبد الله بن عباس، وعبد الله بن جعفر بن أبي طالب، عارضوا جعل الخلافة الإسلامية وراثية، فأعلن عبد الرحمن بن أبي بكر استنكاره لولاية العهد قائلاً: . كما قال عبد الله بن عمر: . وقد عُرف التوريث بالهرقلية أو الكسروية تشبهًا بنظام أباطرة الروم وأكاسرة فارس الوراثي.[168] وكان الخليفة طوال عهد الأسرة الأموية ملكًا لا يتقيد، في حكم البلاد، بدستور. وكانت جميع السلطات تجتمع في شخصه، فهو رئيس الدولة، وجميع الذين ينوبون عنه في إدارة الولايات، مسؤولون تجاهه.[167]
الوالي أو العامل
كانت الدولة الأموية مقسمة إلى عدّة ولايات ذات حدود غير ثابتة، فقد كانت تتغير بين الحين والآخر وفق توسع الدولة. كان النظام الإداري في عهد الأمويين بسيطًا، فكان الأمويون يختارون ولاتهم من العرب الخلّص. واشتهر من عمّال الأمويين: عمرو بن العاص والي مصر، وزياد بن أبيه، وبعده الحجاج بن يوسف على العراقين الشمالي والجنوبي.[169] وقد كانت سلطة كل من هؤلاء مطلقة في ولايته. وكانت مهمة الوالي في العصر الأموي تتمثل في إمامة الصلاة، وقيادة الجيش، وجباية الخراج، وإدارة البريد، وسائر الأعمال الإدارية.[169] وكانت مصاريف الولاية يتم إخراجها من الضرائب المحلية، والفائض منها يُرسل إلى دمشق ليوضع في بيت المال. غير أنه في أواخر العهد الأموي، عندما أخذت سلطة الخليفة في دمشق تضعف، أخذ عدد من الولاة يحتفظون بالفائض لأنفسهم، فكونوا ثروات طائلة.[170] ولم يكن منصب الوزارة معروفًا في العصر الأموي، فقد كان الخلفاء يستيعنون ببعض المساعدين، ولكنهم لم يسموا أحدًا منهم وزيرًا، ما عدا زياد بن أبيه الذي لقبه بعضهم بالوزير في عهد معاوية.[171]
الكاتب
ترجع مهنة الكتابة إلى عهد الرسول محمد، عندما كان يتخذ كتابًا يدونون له آيات القرآن الكريم. ولمّا توسعت الدولة الإسلامية في العهد الأموي، وبلغت مشارف الصين شرقًا وفرنسا غربًا، أخذ كل خليفة يعتمد على كاتبه لإنشاء الرسائل التي يبعث بها إلى الولاة والقادة والملوك الآخرين، وأن يتلقى الرسائل التي ترد إلى الخليفة. ولمّا تشعبت أمور الدولة إزداد اعتماد الخلفاء على كتبتهم، وتساهل سليمان بن عبد الملك فأمر كاتبه مرة أن يوقع عنه رسالة إلى قائد من قادة الجيش. ولم يلبث الكاتب أن أصبح موضع ثقة الخليفة، واكتفى الخليفة بأن يوقع على الرسائل. وقبل أن ينقضي العصر الأموي كانت الكتابة قد أصبحت صناعة ذات قواعد وشروط ذكرها عبد الحميد بن يحيى، كاتب مروان بن محمد في رسالة معروفة في تاريخ النثر العربي. وقد بلغت الثقة الممنوحة للكاتب منذ آخر العصر الأموي، حدًا جعله وكأنه وزير له رأي في أمور الدولة، وكان الكتّاب يمتازون بسعة العلم وصواب الفكر وطول الخبرة. وإلى جانب كاتب الرسائل، كان هناك أصناف أخرى من الكتّاب أقل شأنًا مثل كاتب الخراج وكاتب الجند وكاتب القضاء.[172]
طالع أيضاً
الخلافة الأموية في الأندلس
الدولة العباسية
قائمة الخلفاء
قائمة السلالات الإسلامية السنية
جيش الدولة الأموية
المراجع
الكتب
وصلات خارجية
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الدولة الأموية
تصنيف:انحلالات عقد 750 في آسيا
تصنيف:انحلالات عقد 750 في أفريقيا
تصنيف:دول سابقة في العالم الإسلامي
تصنيف:سلالات حاكمة مسلمة
تصنيف:تأسيسات عقد 660 في أفريقيا
تصنيف:تأسيسات 661 في آسيا
تصنيف:دول وأقاليم تأسست في عقد 660
تصنيف:تأسيسات القرن 7 في أفريقيا
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Хосров I (Middle Persian: husraw, xusrav [hwslwb’] «с доброй славой» от Avestan: *hu-śraųah- «известный», «знаменитый», букв. «имеющий добрую славу»; Persian: خسرو [Xusraw][1]) — известный по иранским источникам под эпитетом Анушираван или упрощенно Ануширван (Persian: انوشيروان от Middle Persian: anōšag-ruwān «с бессмертной душой»; —) — шахиншах из династии Сасанидов, правивший Ираном с 531 до 579 года. Правление Хосрова характеризуется продолжением преобразований Кавада I, направленных на усиление центральной власти, масштабными строительными работами, развитием наук и искусств, а также частыми военными столкновениями с Византией и завоевательной политикой на юге (Йемен) и востоке (государство эфталитов). При Хосрове I государство Сасанидов достигло наибольшего уровня развития и могущества. Время правления Хосрова часто именуют «золотой эпохой» в истории Ирана.
Общая характеристика правления
Наследство Кавада I, полученное Хосровом, было тяжёлым. Вместе с короной, вступив на трон, Хосров получил весь груз проблем и суровых реалий Сасанидского Ирана середины VI века. Истребленная знать, разоренная экономика, угроза со стороны противников как с запада, так и с востока. Хосрову стоило немалых усилий решение всего груза этих проблем. В такой ситуации Хосров, в отличие от своих предшественников, не руководствовался идеями величия времен Ахеменидов, став суровым прагматиком и реалистом. Шаткость положения всего Ирана, оставшегося фактически без войска, разоренная казна превратили Хосрова в весьма осторожного, чуткого и внимательного правителя. История его правления ярко демонстрирует ясное осознание и постижение им всех премудростей политики и государственного управления. Он ясно осознавал и видел грань между личными устремлениями и интересами государства, не нарушая баланса, которым зачастую пренебрегали его предшественники. Это наиболее ярко демонстрирует то, какую страну он оставил своим наследникам. Получив разоренную страну, после почти 50-летнего правления он оставил страну богатую и сильную, фактически позволив Сасанидскому государству просуществовать почти ещё одно столетие в зените своей славы.
До восшествия на трон
Попытка усыновления византийским императором
Первое сообщение о Хосрове содержится у Прокопия Кесарийского. Тот рассказывает, что когда в 518 году в Византии воцарился император Юстин I, он отстранил от власти всех родственников прежнего императора Анастасия, «хотя их было много и они были весьма имениты. И тогда-то Кавада охватило беспокойство, как бы персы, как только он окончит дни своей жизни, не произвели мятежа против его дома, тем более что он собирался передать власть одному из своих сыновей не без их противодействия. Старшего из его сыновей Каоса (Кавуса), уже в силу возраста закон призывал на престол. Это отнюдь не было по душе Каваду, и воля отца шла вразрез с правами природы и существующими законами. Закон не позволял вступить на престол второму его сыну Заму, так как он был лишен одного глаза. Ибо у персов нельзя стать царём одноглазому или страдающему каким-либо другим физическим недостатком. Хосрова же... отец очень любил, но видя, что поистине почти все персы восхищены храбростью Зама (был он превосходный воин) и чтут его за другие достоинства, он боялся, как бы она не восстали против Хосрова и не нанесли бы непоправимой беды его роду и царству».[2]
Если верить византийскому историку (а он был не только современником описываемых событий, но, как личный секретарь Велисария, человеком бесспорно осведомлённым в вопросах политики), Кавад прекратил войну с ромеями и решил договориться о том, чтобы Юстин усыновил Хосрова. Император и его племянник Юстиниан обрадовались, но их предостерёг от такого шага один из юристов: ведь получалось, что у Хосрова возникало право на оба трона — в Ктесифоне и Константинополе. В итоге римляне решили пойти на хитрость — провести обряд усыновления не по своим законам, с совершением соответствующих официальных записей, а «как это принято у варваров» — путём вручения оружия и доспехов. Естественно, персы, чья держава издревле считалась равной римской (начиная с 283 года римский император и персидский шах называли друг друга «братьями», то есть равноправными государями), посчитали это оскорблением, и затея с усыновлением провалилась.
Борьба с маздакитами
Хотя проповедь Маздака и основанное на ней «Маздакитское движение», инициированное с негласного одобрения Кавада I, и позволила Каваду расправиться со своими врагами из числа сасанидской знати, но террор, устроенный сторонниками Маздака, поставил Иран на грань катастрофы. Уничтожение знати привело к резкому ослаблению Ирана, поскольку знать составляла основу военной силы Ирана, тяжелую кавалерию — саваран. Грянувший вслед за уничтожением знати и присвоением её земель передел собственности вызвал экономический и социальный кризис в государстве Сасанидов. Это вынудило Кавада отказаться от услуг Маздака и начать борьбу против него. Главной силой в противостоянии с Маздаком стал Хосров. Он же, вероятно, выступал и главным инициатором этой борьбы.
В 528 году Хосров инициировал расправу над Маздаком, верхушкой движения маздакитов, а также большим числом его рядовых членов. Маздак был казнен вместе со своими приверженцами. Действия Хосрова были направлены в первую очередь против радикальных маздакитов, рядовые участники движения при отказе от поддержки Маздака не подвергались гонениям.
Одним из самых примечательных поступков Хосрова Ануширвана после его вступления на престол был возврат некогда отнятых маздакитами земель и имущества знати. Хосров I возвращал отнятые земли и имущество, возвращал мужьям их прежних жен (разлученных с мужьями по идеологии маздакизма).
«Он убил большое количество тех, кто ходил и отбирал имущество людей, и вернул имущество его собственникам. Он распорядился, что всякий ребенок, относительно происхождения которого существовало сомнение, был приписан к тем лицам, у которых он находился, если не был известен его отец, и получал долю наследства после того лица, к которому он был приписан, если тот его признавал. Относительно женщин, которые были насильно принуждены отдаваться, он распорядился, чтобы с насильника был взыскан в пользу женщины махр (калым), который удовлетворил бы её семью, а затем ей представлялось по собственному выбору либо остаться у него, либо выйти замуж за другого, если только у неё уже не было раньше мужа, а в последнем случае она возвращалась мужу. Далее Хосрой распорядился, чтобы со всякого человека, причинившего ущерб имуществу другого человека или насильно что-либо отнявшего у него, взыскивалось то, что следует, а затем насильник подвергался наказанию в соответствии с совершенным им проступком. Хосрой распорядился также, чтобы дети знатных, потерявшие своего кормильца, записывались за ним, но дочерей он выдавал замуж за ровню, и приданое приобреталось за счёт государственной казны. Юношей он женил на девушках из знатных домов, платил за них (выкуп за невест), обеспечивал их и приказывал им быть при его дворе, чтобы использовать их в своих делах».[3]
Таким образом, усыновляя детей знатных родителей, лишившихся отцов по вине маздакитов, и принимая их на шахскую службу, Хосров I создавал новую прослойку служилой знати, всем обязанную шаху и потому лично преданную ему.
Вступление на престол
Кавад не хотел видеть преемником своего старшего сына, потому что тот был сторонником маздакитов и, умирая, завещал власть именно Хосрову. Прокопий упоминает, что сам Кавус претендовал на престол, однако письменное завещание Кавада, зачитанное после его кончины, сыграло решающую роль: Хосров был избран в соответствии со сложившимся порядком и коронован в Шизе. Известно, что старший брат не смирился ни с назначением Хосрова наследником (во всяком случае, до нас дошли монеты Кавуса), ни с его избранием царём царей, за что и поплатился: вскоре после воцарения Хосрова Кавуса убили.
Византийские хронисты относят к первым годам царствования Хосрова мятеж и второго сводного брата, Зама (Джама). По сообщению Прокопия, Зама к этому побуждали придворные, недовольные беспокойной деятельностью шахиншаха. Так как одноглазый Зам царствовать не мог, заговорщики планировали посадить на трон его маленького сына Кавада. Однако заговор открылся. Хосров приказал убить всех своих братьев со всем мужским потомством, но юного Кавада спрятал знатный сановник. «Некоторое время спустя сам ли Кавад, сын Зама, или кто-то другой, присвоивший себе имя Кавада, прибыл в Византий, лицом он был очень похож на царя Кавада. Хотя василевс Юстиниан не был уверен, что это внук царя Кавада, он принял его весьма благосклонно и держал в большом почёте».[4] Иоанн Малала сообщал, что шах приказал брата (неясно, впрочем, какого) обезглавить[5]. Арабо-персидские источники ничего не говорят об убийстве Хосровом братьев.
На самом деле, удивляться противоречивости информации о Хосрове не приходится. Ни с одним шаханшахом не связано столько сказок, исторических анекдотов, легенд, как с Хосровом по прозвищу Ануширван — «Обладающий бессмертной душой». Он стал одним из самых знаменитых правителей Сасанидского Ирана; своей известностью он во многом обязан завершению реформ, начатых ещё Кавадом.
Внутренняя политика
Налоговая реформа
Хосров вошёл в историю Ирана как крупный реформатор. До V века основные налоги в Иране взимались с земли, точнее, с выращенных на ней продуктов. Ставки составляли от одной шестой до трети урожая и зависели от состояния земледелия в облагаемой местности и, конечно же, от решений сборщиков налога. Это порождало массу злоупотреблений, а кроме того, подати взимались натурой, что для любого развитого государства неудобно. Знать, духовенство и чиновники налогов не платили. Впрочем, первые преподносили царю «дары», но это было традицией, а не строгой обязанностью.
Ещё шах Кавад предпринял значительные шаги в этом направлении. Хосров принялся усиленно продолжать реформы своего отца. Реформа Кавада—Хосрова привела к четким правилам налогообложения. Во-первых, были составлены кадастры облагаемых земель, где описывалась урожайность, условия орошения, произрастающие культуры и так далее. Затем, на основании всех этих условий, твёрдо определённых законами, исчислялась ставка налога (он назывался харадж). Назначалась она на единицу площади, а для некоторых культур (например, финиковые пальмы, плодовые деревья) — на группу растений (одиночные не облагались) и выражалась в деньгах, в серебре. Затем ставки умножались на площадь (количество деревьев) соответствующего вида, и получалась сумма налога с участка. С гариба (около 0,2 га) пшеницы или ячменя, например, хозяин платил одну драхму, с четырёх финиковых пальм или с шести оливковых деревьев — семь драхм, с гариба виноградника — восемь и так далее. В случае неурожая или разорения плательщика харадж не платился вовсе.
Кроме поземельной подати, была введена подушная, гезит, которую платило всё податное (то есть кроме знати, воинов, жрецов и всех находившихся на государственной службе) население Ирана от 20 до 50 лет. Ставка её составляла от 4 до 12 драхм в год, в зависимости от имущественного положения. Подати взимались трижды в году.
Не исключено, что какие-то особые налоги платили иноверцы (что, скорее всего, было и ранее). В руках государства оставались таможенные пошлины, сборы для занятия ремеслом, отправление официальных документов. В целом новая система налогообложения была выгоднее для основного производителя — земледельцев, прежде всего дехкан, нежели старая. Недаром, по свидетельству Фирдоуси, шах говорил: «Богатство моё — правосудие, мне рать — дехкане...»
Система налогообложения, введённая Хосровом, впоследствии послужила моделью для Арабского халифата.[6]
Военная реформа
Улучшившееся финансовое положение позволило Хосрову начать уже давно назревшую военную реформу. До него персидская армия формировалась почти исключительно из ополченцев. При этом все, кто не мог купить коня, сбрую и необходимое вооружение, зачислялись в пехоту, боеспособность которой была очень низкой. По словам Прокопия Кесарийского, она представляла из себя «не что иное, как толпу несчастных крестьян, которые идут за войском только для того, чтобы подкапывать стены, снимать доспехи с убитых и прислуживать воинам в других случаях».[7] Участия в непосредственных боевых действиях пехота фактически не принимала. Все прежние шахи находились, таким образом, в большой зависимости от конных отрядов, которые формировались из знати и в борьбе с внутренними врагами часто оказывались ненадежными. Теперь Хосров стал поставлять оружие и коней из казны, благодаря чему в коннице оказалось большое число средних землевладельцев, составлявших сословие азатов. Получая жалованье от шаха, это новое регулярное войско было лично предано ему и потому служило опорой его власти. Должность иран-испехбеда (командующий Армией Ирана) была упразднена, главнокомандующим отныне выступал сам шах. При Хосрове были сформированы 12 полков тяжелой кавалерии — саваран.
Административно-территориальная реформа
Иран, до того административно состоящий из отдельных родовых наделов знати и вассальных образований, был заново «перекроен». Шах разделил страну на четыре части — кусты ([kwst; букв. «сторона»]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help)) и подчинил гражданских правителей (падоспанов) каждой из частей военачальникам — испехбедам, которых после военной реформы стало также четыре, поскольку должность единого иран-испехбеда упразднили. Административные должности в государстве, до того занимаемые крупной знатью и часто передаваемые по наследству, были взяты под пристальный контроль. На должности назначались только по указанию шаха. Вся судебная власть была передана также назначаемым шахом судьям. Уменьшил он и значимость должности вазург-фраматара (верховного везиря), передав часть его полномочий другим чиновникам. Таким образом, шахиншах существенным образом укрепил свою власть, ограничив правителей областей и высших сановников, возвысил новую, зависящую от него элиту. В рамках административной реформы мобедан-мобед (верховный священнослужитель в зороастризме) стал занимать гораздо более низкое место в придворной иерархии, нежели ранее.[8]
Законодательство
В фольклорной традиции Ближнего и Среднего Востока (включая Сирию и Армению) Хосров I Ануширван стал олицетворением и образцом справедливости. Существует множество восточных поучений (андарзов) и анекдотов, в которых именно этот шах выступает мудрым судьёй, защитником обиженных, спасателем бедняков от произвола сильных мира сего и так далее. Один из списков «Сиасет-наме» передаёт легенду о том, что Хосров повелел отрубить руку собственному сыну, позарившемуся на верблюдов юного араба Умара (будущего халифа), приехавшего по купеческим делам в Ктесифон. Мухаммед, услышав от Умара этот рассказ, воскликнул: «Неверный, а какая правосудность!» «Этот Хозрой, — писал епископ Себеос, — прозванный Ануширван, в дни своего правления утверждал порядок в стране, ибо он был миролюбив и строителен.»[9]
При Хосрове появились сборники канонического права — «Судебники», один из которых дошёл до наших дней.
Шах сам выбирал судей, сборщиков податей и наместников и тем из них, кого назначал на должность, давал самые обстоятельные наказы. Также он занялся изучением жизни Ардашира, его писем и судебных решений и стал руководствоваться ими, побуждая к тому же и народ.[10]
Однако Ат-Табари рассказывает, что когда Хосров вводил податную систему, он созвал совет, на котором некий писец, не вполне ясно поняв шаха, возразил ему, и тот приказал забить спорщика чернильницами. Этот эпизод, почерпнутый из целом благожелательного настроенного к Ануширвану источника, показывает, что при всей той справедливости, за которую прославляли Хосрова потомки, он был гневлив и в ярости не знал меры.
У враждебно настроенных византийских историков есть и другие примеры поступков разрушающих образ справедливого владыки — так, Агафий Миренийский говорит, что с полководца, разбитого ромеями, шахиншах приказал содрать кожу[11]. Прокопий Кесарийский, как и Агафий, отзывается о Хосрове в общем неприязненно. Он неоднократно писал о том, как Хосров в приступах ярости приказывал убивать своих родственников и вельмож, сажать на кол того или иного перса. Также он указывал на «скверный нрав» Хосрова, на неодобряемую византийским историком страсть к новшествам и его коварство: «Изо всех людей он более, чем кто-либо другой, умел говорить то, чего не было, скрывать правду и, совершая преступления, приписывать вину за них тем, кого он обидел. Готовый согласиться на всё и своё согласие подкрепить клятвой, он всегда ещё более был готов забыть о том, о чем недавно договорился и относительно чего клялся. Из-за денег он готов был совершить любое злодеяние, и в то же время он удивительно умел надеть личину богобоязненности и на словах был готов искупить вину за свой поступок».[12] Прокопий приводит рассказ и о том как шахиншах нарушил справедливость после взятия в 541 году византийского города Апамеи: приказал устроить по местному обычаю колесничие бега, но когда его возница начал сбавлять ход, приказал его соперникам сдерживать лошадей. С другой стороны, царь никак не разгневался, а напротив, похвалил за правдивость городского митрополита Фому, когда тот на вопрос шахиншаха честно ответил, что не рад видеть такого «гостя».
Строительная деятельность
При Хосрове велись значительные строительные работы. Ат-Табари отмечает:
«Хосрой велел рыть каналы и водопроводы, велел выдавать ссуды владельцам культурных земель и оказывать им поддержку; равным образом он велел восстановить все разрушенные плотины и сломанные каменные мосты и все разрушенные селения, приведя их в наилучшее состояние, в каком они находились ранее... Он организовал надзор за храмами огня, привёл в порядок общественные дороги и построил на дорогах замки и крепости».[3]
Хосров продолжил начатое при Перозе и Каваде строительство укреплений в Гиркании и на Кавказе. При нём было завершено строительство колоссального комплекса оборонительных сооружений Дарбанта, Кавказской стены и Горганской стены общей протяжённостью 240 км.
«Еще Фируз построил в стране Сул и стране аланов каменное сооружение с целью оградить свою страну от посягательств со стороны этих народов, а сын Фируза, Кобад, построил в этих местах ещё много новых сооружений и, наконец, когда воцарился Хосрой, он велел построить в стране Сул ряд городов, крепостей, валов и много других сооружений из камня, добытого в области Горган; всё это должно было служить защитой и убежищем для населения его страны в случае нападения на них врага».[10]
Покровительство наукам
Шахиншах покровительствовал наукам и искусствам. Хосров знал греческий язык и, возможно, в подлиннике читал творения Платона. Не случайно именно к Хосрову, тогда ещё наследнику, уехали в 529 году, после закрытия Академии в Афинах, философы, гонимые на родине. Правда Агафий Миринейский утверждал, что «варвар» владел философией неглубоко, усвоив почти все свои познания от некоего проходимца бродячего ритора Урания, бывшего по словам историка, «общим посмешищем... не меньшим чем скоморохи и мимы... В науках же и философии он должен быть признаваем таким, каким по справедливости является объявивший себя товарищем и учеником этого Урания».[13] Такая пренебрежительная характеристика философских познаний Хосрова противоречит другим авторам. Да ведь и сам Агафий писал, что афинские философы бежали к Хосрову до, а не после знакомства последнего с Уранием. Вряд ли бы они решились на такое, не будучи уверены в том, что их примут с честью, что, конечно, возможно только при дворе просвещённого владыки. Позже, когда философы возвратились в Византийскую империю из-за неприятия персидских порядков, Хосров всё равно не оставил их своим вниманием и даже включил в мирный договор 533 года требование не преследовать этих людей, бывших, судя по всему, язычниками.
Процветала и переводческая деятельность: на пехлеви переводили греческие и индийские книги. Известно имя персидского ученого врача Барзуя, которому приписываются многие переводы с санскрита, в том числе знаменитого сборника «Панчатантра», который впоследствии был переведён на арабский и вошёл в мировую культуру под названием «Калила и Димна». Известно об увлечении царя медициной — в 551 году шах собрал опытных врачей, задавал им вопросы, и писменные их ответы были по приказу Хосрова занесены в книги. В его правление в Гундешапуре была основана медицинская «академия», которая сохранилась и в исламское время. Но куда более важным для Ирана событием стала последняя кодификация Авесты, которую по его указанию произвёл мобед Вех-Шапур.
Ко времени Хосрова средневековые авторы относили и проникновение из Индии подобия шахмат, игры «шатранг». Также считается, что именно в период правления Хосрова I были придуманы нарды.
Восстание Анушзада
Спустя почти два десятка лет после воцарения Хосрову пришлось подавлять крупный мятеж, во главе которого стоял его сын Анушзад. Ат-Табари и Фирдоуси сходно рассказывают об этом восстании, случившемся в 549 году. Тогда Хосров, будучи в Эмесе, заболел.
«У... Ануширвана был сын по имени Аношзад, мать которого была красивая христианка. Тщетно уговаривал его Хосров, очень её любивший, отречься от христианства и обратиться к вере магов. Сын унаследовал её религию и отвратился от веры отцов: тот разгневался на него за это и приказал заточить его в городе Гунде-Шапуре. Когда же Хосров отправился в Сирию и Аношзад услыхал, что он болен... он (Аношзад) подвигнул на бунт своих товарищей по заточению, отправил гонца к христианам Гунде-Шапура и других областей Ахваза и вышел из темницы. Тогда те христиане собрались к нему; он изгнал из Ахваза всех наместников своего отца, захватил деньги, распространил слух, что отец его умер, и двинулся на Иран. Тогда наместник Ктесифона сообщил царю о действиях его сына. Хосров ответил так: «Пошли против него войска, быстро атакуй его и постарайся захватить в плен. Если судьбе угодно, чтобы он был убит, то придётся нам в конце концов примириться с пролитием его крови... Пусть тебя не страшит их многочисленность, потому что они не способны обороняться. Как могут христиане выдержать оборону, если по их вере, тот, кого ударят в левую щеку, должен подставить правую? Если же Аношзад сдастся вместе со своими товарищами, то тех, которые прежде были в заточении, водвори обратно, нисколько не стесняя их в свободе движения, пище и одежде по сравнению с прежним. Всадникам, которые были с восставшими, без всякой жалости отруби головы; простолюдины пусть бегут, не задерживай их. Впрочем, ты, как ты пишешь, наказал людей, которые открыто поносили Аношзада и вели разговоры о его матери...»[14]
Фирдоуси пишет, что Анушзад затеял переговоры с Юстинианом (неудивительно; и ранее, и позже опальные сасанидские царевичи нередко искали помощи у Рима и Византии). Правитель Ктесифона (Рамборзин у Фирдоуси) по приказу царя выступил из столицы и разбил войско Анушзада, который был смертельно ранен в битве стрелой.
Прокопий Кесарийский также описывает это восстание, приводя иной рассказ о его финале:
«Приблизительно в это же время случилось, что жестокость Хозроя не оставила неприкосновенным даже его потомство. Старший из его сыновей, по имени Анасозад (по-персидски это слово обозначает «Дарующий бессмертие»), поссорился с ним, так как позволил себе совершить ряд нарушений в образе жизни, а главным образом потому, что без всякого колебания делил ложе с женами своего отца. Сначала Хозрой наказал этого сына изгнанием... В это время Хозроя поразила очень тяжелая болезнь, так что уже разнесся слух, будто бы он умер: Хозрой по своей природе был болезненным. И действительно, он часто собирал около себя отовсюду врачей; в числе их был врач Трибун, родом из Палестины... Когда Анасозад узнал, что Хозрой сильно захворал, он, стремясь вступить на престол, решил произвести государственный переворот. Даже когда его отец поправился, он тем не менее, склонив город к отпадению и подняв оружие против отца, в юношеском задоре пошёл на него войной. Услыхав об этом, Хозрой послал против него войско под начальством Фабриза. Победив его в сражении, Фабриз, захватив в свои руки Анасозада, немного спустя отправил его к Хозрою. Отец изуродовал глаза своего сына; он не отнял у него зрения, но снизу и сверху ужасным образом вывернул ему веки. Закрыв глаза сыну и проведя по наружной стороне их раскаленной железной иглою, он таким образом изувечил всю красоту век. Хозрой сделал это единственно с той целью, чтобы у сына пропала всякая надежда на царскую власть: человеку, имеющему какое-либо физическое уродство, закон персов не позволяет делаться царём…»[15]
Внешняя политика
Во внешней политике последовательно поддерживал курс на укрепление государственности и внешней безопасности Ирана. Результатом были несколько военных кампаний против Византии, эфталитов, завоевание Йемена, ликвидация вассальных государств: Кавказской Албании, Армении.
Отношение с Тюркским Каганатом
В 570 году тюркские послы пытались убедить византийского императора Юстина ІІ начать наступление на Иран с запада, но тот медлил (война началась лишь в 572 году). Не имея возможности вести войну в одиночку и учитывая, что иранцы с самого начала не хотели войны, Истеми пошёл на заключение с Хосровом I мира. По условиям договора граница между каганатом и Ираном прошла по Амударье, а Иран обязался выплачивать тюркам ежегодную дань в размере 40 тысяч золотых динаров.
Отношение с Византией
В 532 году, в самом начале правления Хосрова I, Персия заключает с Византией «Вечный мир», позволивший Юстиниану I (527—565) без угрозы войны на два фронта совершить завоевания в Северной Африке и Италии. Согласно Прокопию Кесарийскому, именно успехи империи на западе и заставили Хосрова в 540 году нарушить договор и атаковать Византию.
В 542 сасанидская армия захватила Антиохию и шахиншах Хосров I переселил её жителей в окрестности Ктесифона («Хосроева Антиохия»). Война окончилась перемирием в 545 году, однако уже в 547 возобновилась. Театром военных действий стала Лазика, которую Хосров, захвативший Армению и Иберию, так и не смог отобрать у Византии. В 557 было заключено перемирие, а в 562 — мир сроком на 50 лет, по которому Лазика оставалась за Византией, империя выплачивала Персии дань, Персия же обязалась не подвергать гонениям христиан. По условиям договора, Византия обязывалась финансировать строительство и укрепление цепи оборонительных сооружений вдоль Большого Кавказского прохода, в частности, была заново перестроена и усилена крепость Дербента.
Война с эфталитами
Обезопасив западные границы, Хосров около 560 года начал военную кампанию против государства эфталитов. Для успешного хода кампании был заключен союз с Тюркским каганатом. Сам Хосров женился на дочери тюркского кагана Истеми. Тюрки обязались также атаковать эфталитов. Подчинив эфталитов своей власти, Хосров провёл границу между Персией и каганатом по Амударье.
Подчинение Йемена
Хосров предпринял ряд мер по усилению влияния в регионе. Одной из них стало фактическое подчинение Йемена. Воспользовавшись около 570 года конфликтом между Йеменом и союзной Византии Эфиопией, Хосров инициировал отправку иранского военного контингента и флота для поддержки йеменцев. Конфликт фактически превратился в иранско-эфиопо-византийский. Флот Хосрова атаковал берега Эфиопии, а сухопутные войска в это время разбили эфиопскую армию в Йемене. После окончания конфликта, по причине всё ещё остающейся угрозы, а также слабости Йемена, последнему был навязан сасанидский протекторат, что в итоге превратило Йемен в вассала Сасанидов. С этого времени и до арабского завоевания Йемен был зависим от Персии.
Ликвидация вассальных государств
Кавказская Албания и Армения находились в вассальной зависимости от Сасанидов. Политика преследования христиан и насильное насаждение зороастризма приводила к постоянным восстаниям. Византия как покровительница христианских стран активно вмешивалась в эти конфликты. Для прекращения этого при Хосрове Ануширване происходит переход к политике веротерпимости, что не означало отказа от планов полного подчинения вассальных царств. В результате царская власть в Армении и Кавказской Албании были окончательно ликвидированы, иранскую часть Армении стали называть Перс-Арменией, вместе с Кавказской Албанией и Адурбадаганом они образовали Северный Куст (область) Эраншахра.
В 572 году вспыхнуло очередное восстание в Армении и Иберии, поддержанное Византией. Хосров выступил против империи, война шла с переменным успехом до 576 года, когда иранская армия потерпела жестокое поражение под Мелитеной. Хосров умер в 579 году во время мирных переговоров с Тиберием II.
Хосров Ануширван в исторической и литературной традиции
Хосров Ануширван благодаря проведёнными им реформам, значительно облегчившим жизнь населения Сасанидской державы, и успехам в деле укрепления положения Ирана, вошёл в историю как самый великий правитель из династии Сасанидов. Его покровительство наукам, литературе и веротерпимость сыграло значительную роль в деле его популяризации среди народов Ирана и его соседей. Уже при последних Сасанидах, когда Иран переживал упадок, а затем после завоевания Ирана арабами и последующего почти тысячелетнего господства над Ираном тюркских династий, образ Хосрова Ануширвана стал легендаризироваться.
Начало его литературному образу как образу идеального правителя положил Фирдоуси в своей поэме «Шахнаме». В дальнейшем образ Хосрова стал покрываться всё большими легендами, ему приписывались героические подвиги, поэтический талант, непорочность и идеальная мудрость. Хосров стал героем многих народных сказаний, повествований, музыкального фольклора. Имя Хосров стало одним из популярных среди знати. Но наибольшим показателем популярности образа Хосрова Ануширвана было то, что многие восточные средневековые государи[16], в том числе неиранского происхождения, вели генеалогию своих родов от Хосрова. Многие правители, вступая на престол, брали себе тронное имя Хосров или Кай-Хосров.
В кино
«Зов предков: Великий Туран» (1994)
Интересные факты
При Хосрове Ануширване была создана настольная игра — нарды. Его создание относят к визирю Хосрова Ануширвана — Бузоргмихру, который создал игру по поручению шаха, в ответ на создание в Индии шахмат.
При Хосрове Ануширване была составлена первая рукопись, дающая полное представление об игре в шахматы, его терминологии, правил, описании фигур.
При Хосрове I Иран принял изгнанных из закрытой византийским императором Юстинианом афинской Академии семерых философов (Дамаския, Симпликия и других).
При Хосрове I впервые в истории Ирана был создан прообраз научной школы. В городе Гундешапур в области Хузистан, была построена Академия для изучения философии и медицины.
Хосров Ануширван, для защиты вновь возведённых в области Маскут крепостей[17] и оборонительных стен, переселял персов из внутренних областей Ирана.
По некоторым версиям название области Ширван (современный Азербайджан) связано с именем Хосрова Ануширвана, при правлении которого была развернута активная строительная деятельность Сасанидов в пределах упраздненного ими царства Кавказской Албании.
См. также
Бузоргмихр (известный министр Хосрова)
Академия в Гундешапуре
Примечания
Литература
Zeev Rubin. The Reforms of Khusro Anurshiwan. / Averil Cameron (ed.). The Byzantine and early Islamic Near East. — Vol. 3. — Princeton 1995. — P. 227—298.
Категория:Сасаниды
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Eino Einari Rahja (7. heinäkuuta 1885 Kronstadt – 26. huhtikuuta 1936 Leningrad) oli pietarinsuomalainen bolševikki ja puna-armeijan upseeri, joka 1920–1930-luvuilla tunnettiin Suomen kommunistisen puolueen johdon ankarana kriitikkona ja Otto Wille Kuusisen vastustajana. Vuoden 1917 lokakuun vallankumouksen yhteydessä Rahja toimi V. I. Leninin henkilökohtaisena turvamiehenä ja henkivartijana. Hieman myöhemmin hän hankki punakaartille aseita Neuvosto-Venäjältä ja toimi sisällissodan aikana muun muassa rintamapäällikkönä Lempäälän taisteluissa sekä lyhyesti koko punakaartin ylipäällikkönä. Paettuaan sodan loppuvaiheessa Neuvosto-Venäjälle, Rahja liittyi puna-armeijaan ja toimi syksyllä 1918 perustetun SKP:n johtotehtävissä.[1]
Myös Eino Rahjan veljet Jukka (1887–1920) ja Jaakko (1872–1926) olivat bolševikkeja. Einon lisäksi erityisesti Jukka Rahja oli kiistelty hahmo suomalaisten kommunistien keskuudessa. Veljesten riidanhakuinen käyttäytyminen sekä jyrkkä retoriikka sai monet katkeriksi. Yhtäaikaisesti SKP:hen, Neuvostoliiton kommunistiseen puolueeseen, puna-armeijaan ja Tšekaan kuulunut Eino Rahja ei aina toiminut SKP:n päätösten mukaisesti eikä hän epäröinyt vetää omaa linjaansa esimerkiksi Pietarin punaupseerikoulussa. Hän osallistui muun muassa salakuljetukseen, rahan väärentämiseen ja läskikapinan valmisteluihin. Rahja muodosti nimeään kantaneen opposition SKP:ssa käytännössä koko 1920-luvun ajan. Ennen vuoden 1925 edustajakokousta kärjistyneissä riidoissa hän liittoutui keskuskomiteassa Leo Laukin ja Otto Vilmin kanssa. Vuosikymmenen alkupuolella Rahjalla oli läheiset suhteet myös Grigori Zinovjeviin.[2]
Elämä
Varhaiset vuodet
Eino Rahja syntyi Kronstadtissa pietarinsuomalaisen työläisen perheeseen. Hänen isänsä oli Kalajoelta kotoisin ollut Aapo Mikonpoika Rahja (1848–1902) ja äiti Katarina Matintytär Sjöberg (s. 1848). Perheessä oli yhteensä yhdeksän lasta, joista kaksi vanhinta ehti syntymään Kalajoella, ennen kuin perhe muutti pysyvästi Pietariin vuonna 1876. Aapo Rahja työskenteli Pietarissa ja Kronstadtissa rautatieläisenä, konepajalla sekä kirvesmiehenä, kunnes kuoli työtapaturman johdosta Pietarissa helmikuussa 1902. Tämän jälkeen perheen elatus jäi 16-vuotiaan Einon ja hänen kaksi vuotta nuoremman veljensä Jukan harteille. Perheen neljä vanhinta tytärtä olivat kaikki kuolleet Pietarissa jo ennen kymmenettä ikävuottaan. Kahdesta muusta veljestä Eemil (s. 1883) oli työkyvytön reumatismin vuoksi ja vanhin veli Jaakko puolestaan oli jo perustanut oman perheen.[3]
Venäjän vallankumous ja Suomen sisällissota
Rahja työskenteli Pietarissa sorvarina, rautateillä lämmittäjänä sekä työnjohtajana Lanskajan lentokonetehtaalla. Vuonna 1903 hän liittyi veljensä Jukan tavoin Venäjän sosialidemokraattiseen työväenpuolueeseen (VSdTP), josta Rahja myöhemmin siirtyi 1912 perustettuun bolševikkipuolueeseen. Hän tutustui Leniniin, jota yhdessä Hugo Jalavan kanssa auttoi vuoden 1917 maaliskuun vallankumouksen jälkeen pakenemaan Suomeen. Hieman ennen lokakuun vallanlumouksen alkua hän avusti Leniniä palaamaan Venäjälle.[4] Pietarin kadut tuntenut Rahja saattoi Leniniä esimerkiksi tämän matkalla Smolnaan, jossa 7. marraskuuta tehtiin lokakuun vallankumouksen aloittamista koskevat päätökset.[5] Vallankumouksen jälkeen marraskuussa 1917 Rahja valittiin Pietarin suomalaisen punakaartin esikuntaan ja samalla hänet siirrettiin Suomeen bolševikkihallituksen Suomen komissaarin apulaiseksi.[4]
Vuodenvaihteessa 1917–1918 Eino ja Jukka Rahja hankkivat Suomen punakaarteille aseita. Ali Aaltosen, Eero Haapalaisen ja Onni Kallion saapuessa tammikuun puolivälissä Pietariin ostamaan aseita, Rahja käytti hyväkseen suhteitaan Leniniin ja hankki suomalaisille suuren ase- ja ammuslastin, joka toimitettiin perille ns. suurella asejunalla. Veljekset matkasivat junalla Suomeen 27. tammikuuta, jolloin se joutui Kämärän rautatieasemalla valkoisten väijytykseen. Kämärän taistelu oli Suomen sisällissodan ensimmäinen taistelu. Jukka Rahjan haavoittumisesta huolimatta aselasti saatiin lopulta perille punakaarteille. Sisällissodan aikana Rahja toimi aluksi venäläisen sotaväen ja punaisten välisenä tulkkina, mutta niiden poistumisen jälkeen Lenin määräsi hänet 9. maaliskuuta lähtien Pietariin Suomen aseman komissaariksi. 20. maaliskuuta punakaartin ylipäällikkö Eero Haapalainen erotettiin ja tilalle nimitettiin Rahjan, Evert Elorannan ja Adolf Taimin muodostama kolmikko. Rahja kuitenkin oli tehtävässä vain kolme päivää, kun hän 24. maaliskuuta alkaen toimi Lempäälän rintaman ylipäällikkönä.[4]
Valkoisten saartorenkaan kiristyessä Tampereen ympärillä, poistui Rahja kuitenkin nopeasti rintamalta hankkimaan lisävoimia punaisille. Hänen kerrotaan lähtiessään sanoneen, ettei ole ”Rahja vaan Rähjä”, ellei pysty tuomaan 15 000 miestä punaisten avuksi. Kansanvaltuuskunnan valtuuttamana hän matkusti Pietariin hankkimaan joukkoja ja aseita, mutta venäläisten sijasta onnistui saamaan avuksi vain kaksi komppaniaa pietarinsuomalaisia. Paluumatkallaan Rahja onnistui kuitenkin Etelä-Suomesta mobilisoimaan Lempäälän rintamalle noin 2 000 miestä, kaksi panssarijunaa, tykkejä sekä lentokoneen. Hän teki lentokoneella tiedustelulentoja sekä pudotti jopa pommeja, saamatta kuitenkaan aikaiseksi suurta tuhoa. Rintaman murruttua Rahja pakeni Lahden ja Kouvolan kautta Venäjälle. Pietarissa hän toimi aluksi Suomesta saapuneita punapakolaisia vastaanottaneessa komiteassa, värväten myös punakaartissa taistelleita miehiä puna-armeijaan.[4]
Sisällissodan jälkeen
Ympärysvaltojen Pohjois-Venäjän intervention yhteydessä Rahja kävi brittien kanssa neuvotteluja suomalaisten joukkojen osallistumisesta sotaan, ja lopulta Vienan Karjalassa perustettiin Muurmannin legioona kesäkuussa 1918. Vuodenvaihteessa Rahja kävi Pietarin kansainvälinen punaupseerikoulun ensimmäisen kurssin, toimien sen jälkeen vuoteen 1922 saakka puna-armeijan suomalaisjoukkojen komissaarina ja tarkastajana. Tämän jälkeen hän oli jäsenenä Pietarin vallankumouksellisessa sotaneuvostossa.[4] Rahjan veljesten Einon ja Jukan kerrotaan myös salakuljettaneen elintarvikkeita Suomesta Neuvosto-Venäjälle vuosina 1918–1919.[4]
Neuvosto-Venäjällä Rahja oli alusta asti mukana siellä perustetun SKP:n toiminnassa. Kielitaitonsa ja hyvin suhteidensa ansiosta Rahjan veljesten asema puolueessa oli erittäin vahva. Heitä syytettiin kuitenkin taloudellisista väärinkäytöksistä. Rahjat puolestaan arvostelivat SKP:n johtohahmoja, kuten Otto Wille Kuusista ja Kullervo Mannerta. He olivat poliittisen toiminnan kannalla, kun taas veljekset uskoivat sotilaalliseen toimintaan. Eino Rahjan mielestä puolue oli vain lauma virkamiehiä, kun se olisi pitänyt olla vallankumouksellinen organisaatio. Hänen näkemyksensä mukaan SKP ei onnistuisi Suomessa tekemään vallankumousta, vaan sen käynnistäjäksi tarvittaisiin Suomen ja Neuvostoliiton välinen sota, jonka jälkeen maa vallankumouksen myötä liittyisi Neuvostoliittoon. SKP:sä erityisesti Rahjan ja Kuusisen välit olivat kireät. Kun Jukka Rahja ammuttiin niin sanotuissa Kuusisen klubin murhissa elokuussa 1920, hän epäili veriteon takana olleen juuri Kuusisen. Tämä puolestaan yritti päästä eroon Rahjasta vuotta myöhemmin pidetyssä SKP:n neljännessä puoluekokouksessa. Kuusinen uhkasi lähteä puolueesta, ellei Rahjaa eroteta keskuskomiteasta, mutta lopulta molemmat jatkoivat SKP:ssä Mannerin puolustettua Rahjaa. Miesten väliset erimielisyydet jatkuivat kuitenkin edelleen ja vuonna 1923 tapahtuneen Leninin kuoleman jälkeen kumpikin taisteli NKP:n johtoon nousseen Stalinin suosiosta.[4]
Rahja pudotettiin SKP:n keskuskomiteasta lopulta vuonna 1927, jonka jälkeen hän kuitenkin yleni puna-armeijassa kenraaliluutnantin arvoiseksi armeijankomentajaksi. Myöhemmin 1930-luvulla Rahja keräsi NKVD:lle Kuusista ja Mannerta vastaan suunnattuja tietoja. Alkoholismista kärsinyt Rahja erotettiin armeijasta 1935 ja vangittiin vielä samana vuonna. Hänelle langettiin kuolemantuomio, mutta Rahja kuoli keuhkotuberkuloosiin vuonna 1936 ennen sen täytäntöönpanoa. Tuomiosta huolimatta Rahja haudattiin sankarillisin menoin Aleksanteri Nevskin hautausmaalle.[4]
Rahjan taajama
Eino Rahjan mukaan on nimetty Leningradin alueen Seuloskoin piirissä sijaitseva Rahjan taajama.
Muuta
Kirkkonummelainen diplomi-insinööri Jaakko Rahja (s. 1955) julkaisi vuonna 2014 omakustanteena Rahjan veljeksistä kertovan pienoiselämäkerran. Hän ei kuitenkaan kuulu veljesten kanssa samaan Rahjan sukuun.[6]
Lähteet
Kirjallisuutta
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الصهيونية هي حركة سياسية يهودية، ظهرت في وسط وشرق أوروبا في أواخر القرن التاسع عشر ودعت اليهود للهجرة إلى أرض فلسطين بدعوى أنها أرض الآباء والأجداد (إيريتس يسرائيل) ورفض اندماج اليهود في المجتمعات الأخرى للتحرر من معاداة السامية والاضطهاد الذي وقع عليهم في الشتات، وبعد فترة طالب قادة الحركة بإنشاء دولة منشودة في فلسطين والتي كانت ضمن أراضي الدولة العثمانية [1] [2] وقد ارتبطت الحركة الصهيونية الحديثة بشخصية اليهودي النمساوي هرتزل الذي يعد الداعية الأول للفكر الصهيوني الحديث والذي تقوم على آرائه الحركة الصهيونية في العالم [3] وبعد تأسيس دولة إسرائيل أخذت الصهيونية على عاتقها توفير الدعم المالي والمعنوي لإسرائيل [4][5][6][7][8][9] وقد عقد أول مؤتمر صهيوني في بازل بسويسرا ليتم تطبيق الصهيونية بشكل عملي على فلسطين فعملت على تسهيل الهجرة اليهودية ودعم المشاريع الاقتصادية اليهودية.[10][11]
أصل التسمية
كلمة "صهيوني" مشتقة من الكلمة صهيون وهي أحد ألقاب جبل صهيون في القدس كما هو ورد في سفر إشعياء [12] فيما وردت لفظة صهيون لأول مرة في العهد القديم عندما تعرض للملك داود الذي أسس مملكته 1000–960 ق.م فيما صاغ هذا المصطلح الفيلسوف ناتان بيرنباوم في عام 1890، لوصف حركة أحباء صهيون، وأقر التسمية المؤتمر الصهيوني الأول في عام 1897.[13]
خلفية تاريخية
يرى البعض أن بدايات الفكر الصهيوني كانت في إنجلترا في القرن السابع عشر في بعض الأوساط البروتستانتية المتطرفة التي نادت بالعقيدة الاسترجاعية التي تعني ضرورة عودة اليهود إلى فلسطين شرطا لتحقيق الخلاص وعودة المسيح لكن ما حصل هو أن الأوساط الاستعمارية العلمانية في إنجلترا تبنت هذه الأطروحات وعلمنتها ثم بلورتها بشكل كامل في منتصف القرن التاسع عشر على يد مفكرين غير يهود بل معادين لليهود واليهودية.[14]
ومن المهم أيضاً لفت الانتباه إلى أن الصهيونية نشأت كرد فعل على ما أسماه اليهود "معاداة السامية"، لتصبح مهمة الحركة الصهيونية تغيير واقع اليهود في أوروبا إلى دولة قومية تجمع اليهود من كل أنحاء العالم.[15]
أسباب الظهور
يعود ظهور الصهيونية لأسباب عدة منها فشل المسيحية الغربية في التوصل إلى رؤية واضحة لوضع الأقليات على وجه العموم، ورؤيتها لليهود على وجه الخصوص؛ باعتبارهم قتلة المسيح ثم الشعب الشاهد (في الرؤية الكاثوليكية) وأداة الخلاص (في الرؤية البروتستانتية) كما ساعد انتشار الرؤية الألفية الاسترجاعية والتفسيرات الحرفية للعهد القديم التي تعبِّر عن تزايد معدل العلمانية.
في حين لعب وضع اليهود كجماعة وظيفية داخل المجتمع الغربي (كأقنان بلاط يهود بلاط يهود أرندا صغار تجار ومرابين) وهو وضع كان مستقراً إلى حد ما إلى أن ظهرت البورجوازيات المحلية والدولة القومية العلمانية (المطلقة والمركزية) فاهتز وضعهم وكان عليهم البحث عن وظيفة جديدة بالاضافة لمناقشة قضية إعتاق اليهود في إطار فكرة المنفعة، ومدى نفع اليهود للمجتمعات الغربية (انظر: «نفع اليهود»).
في الوقت ذاته يجادل بعض المفكرين بأن عدة عوامل مجتمعة أدت في النهاية إلى ظهور هذه الحركة، فمنهم من يرى أن رهاب اليهود، والاضطهادات، والمجازر بحق اليهود (مثل الهولوكوست) إضافة إلى مساعدة الاستعمار الأوروبي لها قد أدت مجتمعة إلى ظهور الحركة الصهيونية وزيادة قوتها على الأرض.[16]
المؤتمرات الصهيونية
المؤتمر الصهيوني الأول: بازل، أغسطس 1897. وكان مزمعاً عقده في ميونيخ، بيد أن المعارضة الشديدة من قبَل التجمُّع اليهودي هناك والحاخامية في ميونيخ حالت دون ذلك. وقد عُقد في أغسطس 1897 برئاسة تيودور هرتزل الذي حدد في خطاب الافتتاح أن هدف المؤتمر هو وضع حجر الأساس لوطن قومي لليهود، وأكد أن المسألة اليهودية لا يمكن حلها من خلال التوطن البطيء أو التسلل بدون مفاوضات سياسية أو ضمانات دولية أو اعتراف قانوني بالمشروع الاستيطاني من قبَل الدول الكبرى. وقد حدد المؤتمر ثلاثة أساليب مترابطة لتحقيق الهدف الصهيوني، وهي: تنمية استيطان فلسطين بالعمال الزراعيين، وتقوية وتنمية الوعي القومي اليهودي والثقافة اليهودية، ثم أخيراً اتخاذ إجراءات تمهيدية للحصول على الموافقة الدولية على تنفيذ المشروع الصهيوني. والأساليب الثلاثة تعكس مضمون التيارات الصهيونية الثلاثة: العملية (التسللية)، والثقافية (الإثنية)، والسياسية (الدبلوماسية الاستعمارية). وقد تعرَّض المؤتمر بالدراسة لأوضاع اليهود الذين كانوا قد شرعوا في الهجرة الاستيطانية التسللية إلى فلسطين منذ 1882.
المؤتمر الثاني: بازل، أغسطس 1898. عُقد برئاسة هرتزل الذي ركَّز على ضرورة تنمية النزعة الصهيونية لدى اليهود، وذلك بعد أن أعلن معظم قيادات الجماعات اليهودية في أوروبا الغربية عن معارضتهم للحل الصهيوني للمسألة اليهودية. وكانت أهم أساليب القيادة الصهيونية لمواجهة هذه المعارضة، هو التركيز على ظاهرة معاداة اليهود، والزعم بأنها خصيصة لصيقة بكل أشكال المجتمعات التي يتواجد فيها اليهود كأقلية. وقد ألقى ماكس نوردو تقريراً أمام المؤتمر عن مسألة دريفوس باعتبارها نموذجاً لظاهرة كراهية اليهود وتعرُّضهم الدائم للاضطهاد حتى في أوروبا الغربية وفي ظل النظم الليبرالية بعد انهيار أسوار الجيتو. كما لجأت قيادة المؤتمر إلى تنمية روح التعصب الجماعي والتضامن مع المستوطنين اليهود في فلسطين بالمبالغة في تصوير سوء أحوالهم، وهو ما بدا واضحاً في تقرير موتزكين الذي كان قد أُوفد إلى فلسطين لاستقصاء أحوال مستوطنيها من اليهود، فأشار في تقريره إلى أنهم يواجهون ظروفاً شديدة الصعوبة تستدعي المساعدة من يهود العالم كافة لضمان استمرار الاستيطان اليهودي في فلسطين. ولهذا الغرض، فقد تم انتخاب لجنة خاصة للإشراف على تأسيس مصرف يهودي لتمويل مشاريع الاستيطان الصهيوني في فلسطين.
المؤتمر الثالث: بازل، أغسطس 1899. عُقد برئاسة هرتزل الذي عرض تقريراً عن نتائج اتصالاته مع القيصر الألماني في إسطنبول وفلسطين، وهي الاتصالات التي عرض فيها هرتزل خدمات الحركة الصهيونية الاقتصادية والسياسية على الإمبريالية الألمانية الصاعدة في ذلك الوقت مقابل أن يتبنى الإمبراطور المشروع الصهيوني. وطالب المؤتمر بتأسيس المصرف اليهودي تحت اسم «صندوق الائتمان اليهودي للاستعمار»، وذلك لتمويل الأنشطة الاستيطانية الصهيونية وتوفير الدعم المالي للحركة الصهيونية. كما ناقش المؤتمر قضية النشاط الثقافي اليهودي في العالم، كما تناول المؤتمر مسألة إعادة بناء الجهاز الإداري الدائم للحركة الصهيونية ليحل محلها الجهاز المؤقت.
المؤتمر الرابع في لندن، أغسطس 1900. عُقد برئاسة هرتزل، وجرى اختيار العاصمة البريطانية مقراً لانعقاد المؤتمر نظراً لإدراك قادة الحركة الصهيونية في ذلك الوقت تعاظُم مصالح بريطانيا في المنطقة، ومن ثم فقد استهدفوا الحصول على تأييد بريطانيا لأهداف الصهيونية، وتعريف الرأي العام البريطاني بأهداف حركتهم. وبالفعل، طُرحت مسألة بث الدعاية الصهيونية كإحدى المسائل الأساسية في جدول أعمال المؤتمر. وشهد هذا المؤتمر الذي حضره ما يزيد على 400 مندوب اشتداد حدة النزاع بين التيارات الدينية والتيارات العلمانية، وذلك عندما طُرحت المسائل الثقافية والروحية للمناقشة.
استراتيجيات الصهيونية
الهدف الإستراتيجي الأول للحركة كان دعوة الدولة العثمانية للسماح لليهود بالهجرة إلى فلسطين والإقامة بها، وبعد رفض السلطان عبد الحميد الثاني عرضوا عليه بيع بعض الأراضي الفلسطينية فرفض رفضا تاما فأيقن أن العرب لن يتسامحوا في شبر واحد من أراضيها فنظموا عدة تعاملات مع بريطانيا، وبعد تولى مكتب الإمبراطور الألماني مهمة السماح لليهود بالهجرة لدى الدولة العثمانية لكن بدون تحقيق نتائج تذكر.
فيما بعد، انتهجت المنظمة سبيل الهجرة بأعداد صغيرة وتأسيس "الصندوق القومي اليهودي" في العام 1901 وكذلك تأسيس البنك "الأنغلو-فلسطيني" في العام 1903.
قبيل العام 1917 أخذ الصهاينة أفكارا عديدة محمل الجد وكانت تلك الأفكار ترمي لإقامة الوطن المنشود في أماكن أخرى غير فلسطين، فعلى سبيل المثال، كانت الأرجنتين أحد بقاع العالم المختارة لإقامة دولة إسرائيل، وفي العام 1903 عرض هيرتزل عرضاً مثيراً للجدل بإقامة إسرائيل في أوغندا مما حدا بالمندوب الروسي الانسحاب من المؤتمر، واتفق المؤتمر على تشكيل لجنة لتدارس جميع الأُطروحات بشأن مكان دولة إسرائيل أفضت إلى اختيار أرض فلسطين.
التسلسل التاريخي
يقول المفكرون الصهاينة أن الحاجة لإقامة وطن قومي يهودي قديمة ظهرت خاصة بعد الأسر البابلي على يد نبوخذ نصر وكذلك اعتقاد المتدينين اليهود أن "أرض الميعاد" (التسمية اليهودية لأرض فلسطين) "قد وهبها الله لبني إسرائيل فهذه الهبة أبدية ولا رجعة فيها" إلا أنهم لم يتحمسوا كثيراً للصهيونية باعتبار أن أرض الميعاد ودولة إسرائيل لا يجب أن تُقام من قبل بني البشر كما هو الحال، بل يجب أن تقام على يد المسيح المنتظر.
في منتصف القرن التاسع عشر ظهر حاخامان دعوا اليهود إلى تمهيد الطريق للمسيح المنتظر بإقامة وطن قومي وظهر الفيلسوف الألماني اليهودي موسى هس في كتابه روما والقدس وقال أن المشكلة اليهودية تكمن في عدم وجود وطن قومي لليهود.
تعاقبت الأحداث سراعاً ما بين الأعوام 1890–1945 وكانت بداية الأحداث هي التوجه المعادي للسامية في روسيا ومروراً بمخيمات الأعمال الشاقة التي أقامها النازيون في أوروبا وانتهاءً بعمليات الحرق الجماعي لليهود (الهولوكوست) وغيرهم على يد النازيين الألمان إبّان الحرب العالمية الثانية. تنامت الرغبة لدى اليهود النّاجين من جميع ما ذُكر بإنشاء كيان يحتضن اليهود واقتنع السواد الأعظم من اليهود بإنشاء كيان لهم في فلسطين.
ومما يذكره البروفيسور شلومو ساند حول هذا الموضوع أن مناطق غرب الامبراطورية الروسية الي كانت تستوطنها جماعات كبيرة من اليهود قد واجهت ضغوطاً متزايدة من السكان الروس حوالي العام 1881، الأمر الذي أدى إلى خلق ظروف معيشية صعبة دفعت بالكثيرين منهم (حوالي 2.5 مليون يهودي) إلى الهجرة باتجاه أوروبا. في أوروبا خاف اليهود (سكان أوروبا) من تنامي العداء لليهودية بسبب الهجرة من روسيا فدفعوا بالمهاجرين إلى مواصلة الهجرة إلى الولايات المتحدة. لكن في الوقت نفسه أخذ أثرياء اليهود بالبحث عن حلول أخرى من أجل تخفيف ضغط تدفق اللاجئين. تبرع البارون موريس دي هيرش بإنشاء المستعمرات في الأرجنتين. أما البارون إدوند دي روتشيلد فقام بالشيء نفسه في فلسطين.[17]
قديما
1000–960 ق.م وردت لفظة صهيون لأول مرة في العهد القديم.
586–538 ق.م حركة المكابيين التي أعقبت العودة من السبي البابلي ، وأول أهدافها العودة إلى صهيون وبناء هيكل سليمان.
118–138م حركة باركوخيا وقد أثار هذا اليهودي الحماسة في نفوس اليهود وحثهم على التجمع في فلسطين وتأسيس دولة يهودية فيها.
متوسط
مرحلة الركود في النشاط اليهودي بسبب اضطهاد اليهود وتشتتهم. ومع ذلك فقد ظل الشعور القومي عند اليهود عنيفاً لم يضعف.
1501–1532 حركة دافيد روبين وتلميذه سولومون مولوخ وقد حث اليهود على ضرورة العودة لتأسيس ملك إسرائيل في فلسطين.
1604–1657 حركة منشه بن إسرائيل وهي النواة الأولى التي وجهت خطط الصهيونية وركزتها على أساس استخدام بريطانيا في تحقيق أهداف الصهيونية.
1626–1676 حركة سبتاي زيفي الذي ادعى أنه مسيح اليهود المخلص فأخذ اليهود في ظله يستعدون للعودة إلى فلسطين ولكن مخلصهم مات.
حركة رجال المال التي تزعمها روتشيلد وموسى مونتفيوري وكانت تهدف إلى إنشاء مستعمرات يهودية في فلسطين كخطوة لامتلاك الأرض ثم إقامة دولة اليهود والحركة الفكرية الاستعمارية التي دعت إلى إقامة دولة يهودية في فلسطين في بداية القرن التاسع عشر.
حديثاً
1882 الحركة الصهيونية العنيفة التي قامت إثر مذابح اليهود في روسيا سنة، وفي هذه الفترة ألف هيتلر الجرماني كتاب بعنوان إرجاع اليهود إلى فلسطين حسب أقوال الأنبياء.
1893 ظهور مصطلح الصهيونية لأول مرة على يد الكاتب الألماني ناثان برنباوم.
1882 في عام ظهرت في روسيا لأول مرة حركة عرفت باسم (حب صهيون) وكان أنصارها يتجمعون في حلقات اسمها (أحباء صهيون) وقد تم الاعتراف بهذه الجماعات في عام 1890م تحت اسم " جمعية (*) مساعدة الصناع والمزارعين اليهود في سوريا وفلسطين" وترأسها ليون بنسكر واستهدفت الجماعة تشجيع الهجرة إلى فلسطين وإحياء اللغة العبرية.
الصهيونية الحديثة وهي الحركة المنسوبة إلى تيودور هرتزل وهدفها الأساسي الواضح قيادة اليهود إلى حكم العالم بدءً بإقامة دولة لهم في فلسطين.
1897 وقد أقام هرتزل أول مؤتمر صهيوني عالمي سنة ، مستغلاً محاكمة الضابط اليهودي الفرنسي ألفريد دريفوس الذي اتهم بالخيانة 1894 لنقله أسراراً عسكرية من فرنسا إلى ألمانيا، لكن ثبتت براءته فيما بعد ونجح هرتزل من تصوير المأساة اليهودية في زعمه من خلال هذه الواقعة الفردية وأصدر كتابه الشهير الدولة اليهودية الذي أكسبه أنصاراً لا بأس بعددهم مما شجعه على إقامة أول مؤتمر صهيوني في بال بسويسرا
تأسيس الحركة الصهيونية
في عام 1896 قام الصحفي اليهودي المجري ثيودور هرتزل بنشر كتاب دولة اليهود وفيه طرح أسباب اللاسامية وكيفية علاجها وهو في رأيه إقامة وطن قومي لليهود على أرض فلسطين لما تتمتع به من مكانة دينية واستراتيجية واقتصادية واتّصل بامبراطور ألمانيا فيلهلم الثاني فنجح في الحصول على دعمه، كما اتصل بالسلطان عبد الحميد الثاني ولكن محاولته باءت بالفشل وحتى طلب المال من قبل الأغنياء اليهود باء بالفشل.
في عام 1897 نظم هرتزل أول مؤتمر صهيوني في بازل في سويسرا حضره 200 مفوض، وصاغوا برنامج بازل والذي بقي البرنامج السياسي للحركة الصهيونية، وأقام المؤتمر الصهيوني العالمي اللجنة الدائمة وفوضها بأن تنشئ فروعاً لها في مختلف أنحاء العالم. وعندما فشل هرتزل في ديبلوماسيته مع السلطان العثماني وجه جهوده الديبلوماسية نحو بريطانيا ولكنّها قدّمت دعمها المالي لإقامة مستعمرة في شرق أفريقيا (أوغندا) فانشقّت الحركة الصهيونية بين معارض ومؤيد، فاتّهم الصهاينةُ الروس هرتزل بالخيانة ولكنه استطاع أن يسوي الأمر معهم إلا أنه مات. وعندما عقد المؤتمر السابع عام 1905 رُفِضَت أوغندا، وشكل ارائل لانغول المنظمة الإقليمية اليهودية وكانت ذات صلاحية اختيار موطن مناسب للشعب اليهودي.
استطاعت الحركة الصهيونية أن تحقق أهم انجازين لها وهما وعد بلفور بإقامة وطن قومي لليهود في فلسطين عام 1917، والثاني هو إقامة كيان لليهود سمي دولة إسرائيل عام 1948، وذلك على أرض فلسطين وذلك عن طريق القتل والتهجير والمذابح لإبعاد الفلسطينيين عن أرضهم بالقوة.
الاتجاهات الصهيونية [18]
تقسم المدارس الصهيونية كلها إلى فرقتين أساسيتين:- صهيونية استيطانية، وصهيونية تدعيمية.
والصهيونية الاستيطانية هي التي تهدف إلى تجميع اليهود وتوطينهم في فلسطين؛ أما الصهيونية التدعيمية فهي التي تهدف إلى تجنيد يهود العالم في أوطانهم المختلفة؛ لتحويلهم إلى جماعات ضغط تعمل من أجل الاستيطان والمستوطنين، وهي تهدف أيضاً إلى جمع العون المالي من يهود الشتات.
ولكل فريق صهيوني مؤسساته التي تحاول تحقيق أغراضه؛ فالصهيونية الاستيطانية كانت تعبر عن نفسها في مؤسسات مثل "الهستدروت" والمنظمات الحزبية الاستيطانية وحركة "الكيبوتس" والجماعات العسكرية المختلفة، مثل الهاغاناه وغيرها.
أما الصهيونية التدعيمية؛ فكانت تقوم أساساً بتكوين جمعيات مختلفة مثل "الجباية اليهودية الموحدة"، التي ترمي إلى جمع الأموال للمستوطنين، ولكن الفريقين كليهما يضمهما إطار تنظيمي واحد، هو "المنظمة الصهيونية العالمية/ الوكالة اليهودية".
ولعل هذه التسمية المزدوجة تشير إلى طبيعة الصهيونية المزاوجة، فالقسم الأول من التسمية يشير إلى الصهيونية التدعيمية، في حين يشير الجزء الثاني إلى الصهيونية الاستيطانية.
وتنتمي المدارس الصهيونية كلها، بغض النظر عن ارتباطاتها الأيديولوجية، إلى المنظمة الصهيونية العالمية، وتأخذ منها العون المالي؛ ما يدل على أن الخلافات شكلية، ولا تنصب على الجوهر في أية حال.[19]
على أية حال يمكن الحديث عن اتجاهات مختلفة للصهيونية هي:
الصهيونية الدينية
تقوم الصهيونية على أسس رئيسة، الإيمان بالإله الواحد وأن اليهود هم شعبه المختار والمسيح سوف يرسله الرب لتخليص شعبه والإنسانية بالاضافة إلى الإيمان بعودة اليهود إلى وطنهم الأصلي.
ويبني اليهود المتدينون آمال المستقبل من العبرة بالماضي، فهم يفسرون التوراة بأن الإسرائيليين القدماء أضاعوا الأرض المقدسة بسبب ارتكابهم المعاصي ضد الآخرين، وبسبب تخليهم عن إلههم الواحد من أجل آلهة أخرى فالصهيونية الدينية تختلف عن الصهيونية السياسية التي قرر رجالها في مؤتمر بازل سنة 1897 العودة إلى الأرض المقدسة، ولم ينتظروا المعجزة الإلهية، حيث أن الصهاينة المتدينين لا يرون في أي مؤتمر سياسي طريقاً للعودة.
وظهرت مواقف وأقوال متعددة من قبل اليهود، تشرح وجهة النظر الدينية الأرثوذكسية، كان من أولها عريضة بتسيبرغ الصادرة سنة 1885 التي جاء فيها "نحن لا نعتبر أنفسنا شعب بل جماعة دينية، ولذلك فنحن لا نتوقع عودة إلى فلسطين.
الصهيونية الثقافية
الصهيونية الثقافية، أو الصهيونية الروحية، كما يطلق عليها أيضاً، تنبع فلسفتها في القومية اليهودية من أولوية التراث الثقافي والخلقي، واللغة العبرية، وعلى الرغم من الأهمية التي تعطيها لقضية تجميع اليهود في أرض الأجداد، فإنها ترفض، من أجل الحصول على الأرض، إدعاء الصهيونية السياسية بحجة معاداة السامية واستفحالها، أو بالأوضاع المتردية التي تحيط باليهود اقتصادياً وسياسياً، وعوضاً عن ذلك، فهي ترى أن أعظم تهديد لبقاء اليهود في العقد الأخير من القرن التاسع عشر خاصة، يكمن في الضعف الداخلي للمجتمعات اليهودية، وفي فقدانها أي إحساس بوحدتها، وفي تداعي إمساكها بالقيم التقليدية والمثاليات والآمال.[20]
الصهيونية العملية
اشتهرت الصهيونية العملية كمصطلح في تاريخ الحركة الصهيونية، وكحركة نشيطة ذات برنامج واحد، بعد صعود هيرتزل وصعود برنامجه السياسي معه، فالصهاينة العمليون كانوا يرون في النشاط الدبلوماسي اللاهث وراء وعود وضمانات دولية مضيعة للوقت، لذلك عارضوا هيرتزل، وحصروا جهودهم في تنمية المستعمرات داخل فلسطين، والعمل على زيادة الهجرة إليها، حتى تفرض سياسة الأمر الواقع نفسها. إلا أن هذا لا ينفي وجود بدايات، ولو متعثرة، للصهيونية العملية، تندرج في نشاطات الحركة التي عرفت باسم "أحباء صهيون".[21]
الصهيونية السياسية
اصطلاح يستخدم للتمييز بين البدايات الصهيونية مع جمعية "أحباء صهيون" التي كانت شبه ارتجالية تعتمد على صدقات أغنياء اليهود وبين صهيونية هيرتزل التي حولت المسألة اليهودية إلى مشكلة سياسية، وخلقت حركة منظمة محددة الأهداف والوسائل.
وتعتبر الدعوات الفكرية التي أطلقها رواد الصهيونية، ولاسيما بنسكر، حجر الأساس في قيام الصهيونية السياسية التي أطلقها هيرتزل سنة 1897، وبمعنى آخر، فالصهيونية السياسية كانت قائمة، لكن في عالم النظريات، حتى جاء هيرتزل وحولها إلى حركة سياسية.
وهناك من يكتفي بالإشارة إلى الصهيونية السياسية بالصهيونية فقط، غير أن نعتها بالسياسية قد نجم عن معارضة الصهاينة العمليين والثقافيين لهيرتزل، مما أدى إلى تمييز دعوته ونهجه على أساس كونها "الصهيونية السياسية" أو "الصهيونية الدبلوماسية".
الصهيونية العمالية
يركز الصهاينة العماليون أو الاشتراكيون على الجانب الاقتصادي والاجتماعي في وضع اليهود الناتج عن فقدان القدرة على الاندماج، لا على الجانب الديني من المسألة اليهودية. ولعل أهم تيارات المدرسة الصهيونية العمالية هي مدرسة غوردون التي ركزت على فكرة اقتحام الأرض والعمل كوسيلة من وسائل التخلص من عقد المنفى ووسيلة عملية لغزو الأرض وصهر القومية اليهودية الجديدة.
الصهيونية والعالم
صدر قرار الجمعية العامة للأمم المتحدة رقم 3379، الذي اعتمد في 10 نوفمبر 1975 بتصويت 72 دولة بنعم مقابل 35 بلا (وامتناع 32 عضوًا عن التصويت)، يحدد القرار "أن الصهيونية هي شكل من أشكال العنصرية والتمييز العنصري". وطالب القرار جميع دول العالم بمقاومة الأيديولوجية الصهيونية التي حسب القرار تشكل خطرًا على الأمن والسلم العالميين.[22] وكثيرًا ما يستشهد بهذا القرار في المناقشات المتعلقة بالصهيونية والعنصرية.
لكن ألغي هذا القرار بموجب القرار 46/86 يوم 16 ديسمبر، 1991. إذ اشترطت إسرائيل إلغاء القرار 3379 لقبولها المشاركة في مؤتمر مدريد 1991.
الصهيونية والعرب
أيقن الصهاينة منذ البداية أن سكّان فلسطين الأصليين (العرب) الفلسطينيين سيرفضون التخلي الطوعي عن الأرض وهم لذلك ومنذ بداية وجودهم على الأرض الفلسطينية عملوا بكل طاقتهم للقضاء على مقاومة أهل الأرض ومن المهم التأكيد على التناغم مع الاستعمار البريطاني صاحب المشروع ومركزه وهما قاما لهذا بقمع أي محاولة تعبير عن النفس والمطالبة بالحقوق مما ولد مقاومة شعبية عرفت أشكالاً متعددة من النضال للتخلص من المشروع الاستيطاني الاحتلالي فكانت منها ثورة فلسطين 1936 الشعبية التي قوبلت بوحشية وأصبحت لاحقاً نموذج التعامل العنصري المستمر ضد الشعب العربي الفلسطيني وهو ما مكن الحركة الصهيونية لاحقاً بدعم منقطع النظير من المركز الإمبريالي البريطاني (ولاحقاً الأمريكي) من إرهاب أهل الأرض، وأدى لتراجع مقاومتهم محدودة الدعم ومهد للاغتصاب الكبير في 1948 كما قامت إسرائيل بمشاركة كل من بريطانيا وفرنسا في العدوان الثلاثي علي مصر عام 1956، كما قامت عام 1967 باحتلال باقي الأراضي الفلسطينية وهضبة الجولان في سوريا وسيناء في مصر، وقامت بارتكاب جرائم حرب في كل من فلسطين المحتلة ومصر كمجزرة دير ياسين.
وحتى الآن لم ينته الصراع العربي الإسرائيلي حيث قامت إسرائيل بحرب على لبنان عام 2006 وبحرب على غزة في 2008 وحرب عامود السحاب كما سمتها إسرائيل أو السماء الزرقاء كما سمتها فصائل المقاومة الفلسطينة عام 2012.
الصهيونية وإسرائيل
بعد هزيمة وتفكك الدولة العثمانية في عام 1918 وفرض الانتداب الإنجليزي على فلسطين من قبل عصبة الأمم في عام 1922، سارت الحركة الصهيونية مساراً جديداُ نتيجة تغير أطراف المعادلة وكثفت الجهود في إنشاء كيان صهيوني في فلسطين وتأسيس البنى التحتية للدولة المزمع قيامها، وقامت المنظمات الصهيونية بجمع الأموال اللازمة لهذه مهمة وكذلك بالضغط على الإنجليز كي لايسعوا في منح الفلسطينيين استقلالهم.
لقد شهدت حقبة العشرينيات من القرن الماضي زيادة ملحوظة في أعداد الصهاينة المتواجدين في فلسطين وبداية تكوين بنى تحتية يهودية ولاقت في نفس الجانب مقاومة من الجانب العربي في مسألة المهاجرين الصهاينة.
تزايدت المعارضة اليهودية للمشروع الصهيوني من قبل اليهود البارزين في شتّى أنحاء العالم بحجة أن باستطاعة اليهود التعايش في المجتمعات الغربية بشكل مساوي للمواطنين الأصليين لتلك البلدان وخير مثال لهذه المقولة هو "ألبرت أينيشتاين". ولكن في عام 1933 وبعد صعود أدولف هتلر للحكم في ألمانيا، سرعان ما رجع اليهود في معارضتهم للمشروع الصهيوني وأيدوه وزادت هجرتهم إلى فلسطين لا سيما أن الولايات الأمريكية المتحدة قد أوصدت أبواب الهجرة في وجوه المهاجرين اليهود، ونتيجة لكثرة المهاجرين الصهاينة إلى فلسطين، زاد مقدار الغضب والامتعاض العربي من ظاهرة الهجرة المنظمة. وفي عام 1936، بلغ الامتعاض العربي أوجه وثار عرب فلسطين، فقامت السلطات الإنجليزية في فلسطين بالدعوة إلى إيقاف الهجرة اليهودية.
واجه الصهاينة الثورة العربية بتأسيس ميليشيات صهيونية بهدف القضاء على مقاومة السكان العرب الأصيلين في الأرض (ويجب الإشارة إلى أن المجتمع العرب في فلسطين يتألف من تنوع يعود للكنعانيين وسواهم من سكان البلاد التاريخيين والذين يعود وجودهم لما قبل المرور العابر "غير المثبت تاريخياً" للعبرانيين) ومن أهم المنظمات الهاغاناه والأرغون.
مع بداية أحداث الحرب العالمية الثانية، قرر الطرفان المتنازعان تكثيف الجهود في وجه هتلر النازي عوضاً عن ضرب الإنجليز.
قضى النازيون خلال الحرب العالمية الثانية على ما يقرب من 6 ملايين يهودي[23]، كما خلّفت الحرب مئات الآلاف من اليهود المشردين في أنحاء العالم وليس في نيتهم العودة إلى بلادهم الأصلية التي سلمتهم لقمة سائغة لهتلر ومن جانب آخر سعت المراكز الاستعمارية للاستمرار بمشروعها في بناء معسكر لليهود في قلب الوطن العربي وتحديداً بعد التحول الحاصل لديها واستنتاجها كضرورة للانسحاب من الكثير من مستعمراتها في العالم وتحديداً تحت ضغط تنامي الشعور القومي بالمستعمرات وظهور الاتحاد السوفيتي القوي القادر على دعم نضالاتها الاستقلالية وهو ماغطته بدعوى إعلامية من وزن الشعور بالذنب نتيجة تقاعسها عن دحر القوات النازية حين نشأتها وترك هذه الدول هتلر يعيث في أوروبا الفساد، وهو المشروع الذي ورثته الإمبراطورية الأمريكية الصاعدة عن المركز البريطاني المتهالك بعد الحرب. وكان من أبرز الداعين لهذا الدور الرئيس الأمريكي هاري ترومان الذي بدوره ضغط على هيئة الأمم المتحدة لتعترف بدولة إسرائيل على تراب فلسطين خصوصاً أن بريطانيا كانت في أمس الحاجة للخروج من فلسطين والتخلص من الصهاينة في أوروبا وباقي أنحاء العالم.
أعلنت القوات البريطانية نيتها الانسحاب من فلسطين في عام 1947، وفي 29 نوفمبر من نفس العام أعلنت الجمعية العامة عن تقسيم فلسطين لتصبح فلسطين دولتين، الأولى عربية والثانية يهودية وذللك لتهجير الصهاينة من أوروبا وباقي أنحاء العالم إلى فلسطين. اندلع القتال بين العرب والصهاينة، وفي 14 مايو 1948 أعلن قادة الدولة اليهودية قيام دولة إسرائيل. ولقد شكّل الإعلان نقطة تحول في تاريخ المنظمة الصهيونية حيث إن أحد أهم أهداف المنظمة قد تحقق بقيام دولة إسرائيل وأخذت مجموعات الميليشيات الصهيونية منحى آخر وأعادت ترتيب أوراقها وشكلت من الميليشيات "قوة دفاع إسرائيل". وكان حال السواد الأعظم من العرب الفلسطينيين إمّا الهرب إلى البلدان العربية المجاورة وإمّا الطُرد من قبل قوات الاحتلال الصهيونية، وفي كلتا الحالتين، أصبح السكان اليهود هم الأغلبية مقارنة بالعرب الأصليين وأصبحت الحدود الرسمية لإسرائيل تلك التي اعلن عن وقف إطلاق النار عندها حتى عام 1967.
في عام 1950، أعلن الكنيست الإسرائيلي الحق لكل يهودي غير موجود في إسرائيل أن يستوطن الوطن الجديد، وبهذا الإعلان، تدفق اللاجئين اليهود من أوروبا وبقية البلدان العربية.
الحركة الصهيونية وقضية فلسطين
تهدف الحركة الصهيونية العالمية إلى تجميع يهود العالم وإقامة دولة يهودية في فلسطين .. تكون في خدمة الأستعمار العالمي .. ومن أجل فصل المشرق العربي عن مغربه .
ومن مراحل الأستيطان اليهودي في فلسطين:
1: الأستيطان غير المنظم: كانت عبارة عن جهود فردية بالإضافة إلى جهود بعض الجمعيات اليهودية مثل: الاتحاد الإسرائيلي العالمي ومقرة باريس / والاتحاد الإنجليزي ومقرة لندن . وتم في هذه المرحلة تأسيس مستعمرات مثل: مستعمرة مكفا إسرائيل / ومستعمرة بتاح تكفا وتعني باب الأمل .
2: الاستيطان المنضم: عملت الحركة الصهيونية على إيجاد الأجهزة والأدوات اللازمة لتحقيق ذالك مثل: الصندوق القومي اليهودي الذي يهدف إلى شراء الأراضي في فلسطين وكذالك الوكالة اليهودية التي تعنى بإسكان المهاجرين اليهود وتوطينهم المستعمرات وكذالك الصندوق التأسيسي اليهودي الذي يقدم الخدمات العامة للمستوطنين .
البدايات الأولى للقضية الفلسطينية
عندما ظهرت الأفكار القومية في أوروبا بادر اليهود إلى اعتناق هذه الأفكار وتأسيس حركة قومية على أساس ديني ثقافي عرفت باسم الحركة الصهيونية وقد تحولت الحركة الصهيونية من شكلها الديني إلى الشكل السياسي ، ومن أبرز أهدافها حشد اليهود في جميع أنحاء العالم بشتى السبل لتوطينهم في فلسطين.
إدعاءات اليهود في فلسطين
يقول اليهود بأن لهم حقا تاريخيا في إقامة موطن لهم في فلسطين إذ ينسب أنفسهم إلى سكان مملكتي إسرائيل ويهوذا التين كانتا موجودتين في فلسطين منذ القرن التاسع قبل الميلاد ولمدة 250 عاما تقريبا، ثم بقيت مملكة يهوذا وحدها حتى القرن الأول للميلاد. وتعتبر فلسطين، أو باسمها بالعبرية "أيرتس إسرائيل" أرض الميعاد في التراث اليهودي.
أول مؤتمر صهيوني
عقد أول مؤتمر صهيوني لتثبيت حق اليهود بإقامة موطن لهم في مدينة بازل بسويسرا عام 1897 م وكان من أبرز قرارتها
إقامة وطن قومي لليهود في فلسطين والحصول على ضمانات دولية لذلك
تشجيع الهجرة اليهودية إلى فلسطين
تنظيم اليهود وربطهم بالحركة الصهيونية من خلال مؤسسات مثل الاتحاد الصهيوني العالمي.
تأسيس صندوق قومي لجمع المال[24]
وعد بلفور
في 1917 احتلت بريطانيا فلسطين من الدولة العثمانية ، في 1917 احتلت القوات البريطانية المتجهة من مصر جنوبي بلاد الشام من الدولة العثمانية، وفرضت عليها حكما عسكريا. في 9 ديسمبر 1917 دخل قائد القوات البريطانية الجنرال أدموند أللنبي مدينة القدس، مما أثار مشاعر الابتهاج في أوروبا إذ وقعت القدس تحت السيطرة المسيحية لأول مرة منذ أكتوبر 1187. كانت بريطانيا وفرنسا قد اتفقت على تقسيم بلاد الشام بينهما في اتفاقية سرية في 16 مايو 1916. في هذه الاتفاقية وعد الجانبين جعل منطقة فلسطين (من بئر السبع جنوبا إلى عكا شمالا تقريبا) منطقة دولية، ولكن بعد انتهاء الحرب ندمت بريطانيا على هذا المبدأ من الاتفاقية إذ أرادت إنشاء معبر متواصل بين الخليج العربي وميناء حيفا.
في أبريل 1920 اجتمع مندوبي "دول الاتفاق" المنتصرة في الحرب العالمية الأولى في مدينة سان ريمو الإيطالية، بما يسمى مؤتمر سان ريمو، ليقرروا الشكل النهائي لتقسيم الأراضي المحتلة من الدولة العثمانية. في هذا المؤتمر اتفقت الجوانب على منح منطقة فلسطين لبريطانيا رغم المتفق عليه سابقا.
كان التعامل التجاري في هذا المنطقة يتم بالجنيه المصري في بداية الانتداب، لكنه سرعان ما تم تشكيل مجلس يعمل عمل البنك المركزي في إصدار العمل المحلية سمي بمجلس فلسطين للنقد، والذي بدوره قام بإصدار أول عملة فلسطينية عام 1927 وهي الجنيه الفلسطيني. والذي اعتمد في جميع أرجاء فلسطين حتى مطلع الخمسينات، بما في ذلك شرق الأردن التي كانت اراضيها جزءا لا يتجزأ من الأراضي الفلسطينية وتعرف بصحراء فلسطين والتي سرعان ما نالت استقلالها عن بريطانيا وخروجها من دائرة الانتداب في عام 1946 حيث تم إعلان المملكة الأردنية الهاشمية وعاصمتها عمّان، وكان هذا قبل عامين فقط من خروج آخر جندي بريطاني من القدس وإعلان اليهود قيام دولة إسرائيل على أرض فلسطين - أو ما يصطلح عليه بالنكبة.
دعم الصهيونية من غير اليهود
لاقت الصهيونية دعما واضحا من جهات كثيرة ابرزها الملكة فكتوريا، نابليون [25] الملك ادوارد السابع والرئيس الأمريكي جون آدامز والجنوب أفريقي جون سموتس والفيلسوف الإيطالي بينيدتو كروتشه وجان هنري دونانت الذي كان له الدور في تاسيس الصليب الأحمر وفريتيوف نانسين[26] ووفقا لتشارلز ميركلي من جامعة كارلتون، فان الصهيونية المسيحية تعاظمت بشكل كبير بعد حرب الأيام الستة في عام 1967.
معاداة الصهيونية
تعد معظم الدول الإسلامية والعربية وحركة حماس وحركة الجهاد الإسلامي في فلسطين والجبهة الشعبية لتحرير فلسطين والجبهة الديمقراطية لتحرير فلسطين في فلسطين من أبرز المعادين للصهيونية وتختلف معاداة الصهيونية عن معاداة اليهود أو السامية فالمعاداة للحركة الصهيونية هي معاداة قيام وطن قومي يهودي على أرض فلسطين، وبعد أن قامت دولة إسرائيل سنة 1948 شنت دول عربية عدة حروب عليها وفشلت في تحقيق ذلك. وفي الوقت الحاضر ترفض عدد من الدول في العالم الصهيونية وأشكال الاعتراف بها من التطبيع والعلاقات الاقتصادية.
مؤسسات صهيونية
هستدروت تأسس في ديسمبر عام 1920 أي في عهد الانتداب. وقد عقد الهستدروت مؤتمره التأسيسي في مدينة حيفا في ديسمبر 1920 وأعلن رسميا عن تشكيله. وقد أكدت القرارات والكلمات التي ألقيت في المؤتمر الدور الصهيوني للهستدروت، وجاء في مقدمة هذه القرارات أن هدف الاتحاد الموحد لجميع العمال والفلاحين الذين يعيشون بعرق جبينهم دون استغلال جهود الآخرين أن يسير قدما في عملية استيطان الأرض، وأن يقحم نفسه في كل المسائل الاقتصادية والثقافية التي تمس العمل في فلسطين، وأن يبني مجتمعا يهوديا هناك [27]
الوكالة اليهودية ، وهو عبارة عن الجهاز التنفيذي للحركة الصهيونية التي من مهامها جمع الإعانات، بعد قيام دولة إسرائيل عام 1948 انحصر نشاطها في تشجيع العودة، وحل مشاكل الاستيطان، والدعاية، وجمع الأموال، وتثقيف اليهود خارج إسرائيل بالأهداف الصهيونية.
الصندوق القومي اليهودي تأسست في عام 1901 كوسيلة لجمع الأموال من اليهود لشراء الأراضي في فلسطين، وإقامة المشاريع اليهودية.
المنظمة الصهيونية العالمية أسست سنة 1897 بهدف تشجيع الهجرة الصهيونية نحو فلسطين وهي كحركة دينية تهدف إلي تمكين العنصر اليهودي من تملك الأراضي.
شخصيات صهيونية
-
- دافيد روبين وتلميذه سولومون مولوخ وقد حث اليهود على ضرورة العودة لتأسيس إسرائيل جديدة.
1501-1532م
- روتشيلد وموسى مونتفيوري مؤسسى حركة رجال المال وكانت تهدف إلى شراء الأراضي من العرب ومنحها لليهود ثم إقامة دولة عبرية.
- هيكلر الجرماني مؤلف كتاب إرجاع اليهود إلى فلسطين حسب أقوال الأنبياء 1882.
- الكاتب الألماني ناثان برنباوم أول من استخدم مصطلح الصهيونية عام 1893.
- تيودور هرتزل مؤسس الصهيونية الحديثة وهدفها الأساسي الواضح قيادة اليهود إلى حكم العالم بدءا من إقامة دولة لهم في فلسطين وقد أقام هرتزل أول مؤتمر صهيوني عالمي سنة 1897، ونجح هرتزل من تصوير المأساة اليهودية وأصدر كتابه الشهير الدولة اليهودية الذي أكسبه أنصاراً مما شجعه على إقامة أول مؤتمر صهيوني في بازل بسويسرا.
- بلفور صاحب الوعد الشهير الذى وعد بإعادة إقامة دولة يهودية على أرض فلسطين عام 1917.
- دافيد بن غوريون أول رئيس لإسرائيل.
انظر أيضًا
الكيان الصهيوني
يهود الدونمة
صهيون
النكبة
إسرائيل
ناطوري كارتا
صهيونية مسيحية
الصهيونية المسيحية في المملكة المتحدة
نفتالي هيرتس إيمبر
الوجه الآخر: العلاقات السرية بين النازية والصهيونية
مراجع
*
تصنيف:أرض إسرائيل
تصنيف:الدين والسياسة
تصنيف:القومية حسب البلد أو المنطقة
تصنيف:الوضع السياسي اليهودي
تصنيف:الوكالة اليهودية
تصنيف:تاريخ إسرائيل
تصنيف:حركات تحرر وطني
تصنيف:حركات سياسية
تصنيف:حركات يهودية
تصنيف:خلافات متعلقة باليهودية
تصنيف:قومية دينية
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కొన్ని సంగతులు
మద్రాసు రాష్ట్రం నుంచి విడిపోయి ఆంధ్ర రాష్ట్రం అవతరించింది - అక్టోబరు 1, 1953
ఆంధ్రరాష్ట్రం తెలంగాణాతో కలిసి ఉమ్మడి ఆంధ్ర ప్రదేశ్ గా అవతరించింది - నవంబరు 1, 1956
జూన్ 2 2014 న ఉమ్మడి ఆంధ్రప్రదేశ్ విభజన నవ్యాంధ్ర , తెలంగాణ రాష్ట్రాలు ఏర్పాటు
తెలుగు రాష్ర్టాల పుట్టినరోజు ఎప్పుడు?
తెలుగు రాష్ట్రాలు అనే పేరు ఈ మధ్యన అటు పత్రికలలోను, ఇటు దృశ్యమాధ్యమంలోను బాగా వినిపిస్తూ ఉంది. ఈ తెలుగు రాష్ట్రాలు ఎప్పుడు వాటి అవతరణ దినోత్సవాలను జరుపుకోవాలి? మొదటిగా నేడు ఆంధప్రదేశ్ అని పిలుచుకుంటున్న ఈ రాష్ట్రం కొత్తగా ఏర్పడిన పార్లమెంటు చట్టం ప్రకారం, కేంద్ర ప్రభుత్వం ఏర్పాటు చేసిన అప్పాయింటెడ్ డేట్ ప్రకారం జూన్ రెండున ఏర్పడింది. కాని దీనికి తొలి ముఖ్యమంత్రిగా నారా చంద్రబాబు నాయుడు జూన్ 8న ప్రమాణ స్వీకారం చేశారు. కాగా ఆంధ్రప్రదేశ్ అనే పేరున్న రాష్ట్రం నవంబరు 1న ఏర్పడింది. కాబట్టి జూన్ 2, జూన్ 8, నవంబరు 1 ఇందులో ఏ తేదీన ఇప్పుడున్న 13 జిల్లాల ఆంధ్రప్రదేశ్ అవతరణ దినోత్సవాన్ని జరుపుకోవాలనే సమస్య ముందుకు వచ్చింది. మద్రాసు ప్రెసిడెన్సీలో ఉన్న 13 తెలుగు జిల్లాలు, పోయిన బళ్ళారి, గంజాం జిల్లాలు రెండు కలిగి 15 జిల్లాలు విడిపోయి తెలుగు రాష్ట్రంగా ఏర్పడాలి అనే కోరికతో ఉద్యమం సాగింది. ఉద్యమంలో తారస్థాయిగా పొట్టి శ్రీరాములు 1952 అక్టోబర్ 29న ఆమరణ నిరాహారదీక్షకు కూర్చొన్నారు. డిసెంబరు 19న అంటే పొట్టి శ్రీరాములు అమరుడైన నాలుగో రోజున పార్లమెంటులో నాటి ప్రధాని తెలుగు వారికి ప్రత్యేక రాష్ట్రం ఏర్పాటు చేస్తున్నట్లు ప్రకటించారు. చివరికి 13 జిల్లాల తెలుగు రాష్ట్రం మద్రాసు ప్రెసిడెన్సీ నుంచి విడిపోయి ఏర్పడింది. అది ‘ఆంధ్రరాష్ట్రం’ అని అధికారికంగా పిలవబడింది. చాలా తర్జభర్జనల తర్వాత కర్నూలు పట్టణాన్ని దీనికి రాజధానిని చేశారు. అప్పటికే అటు హైదరాబాదు సంస్థానం నిజాం కబంధ హస్తాల నుంచి విముక్తమై 1948 సెప్టెంబరు 17 నుంచి హైదరాబాదు రాష్ట్రంగా ఏర్పడింది. 1952లో సార్వత్రక ఎన్నికల అనంతరం బూర్గుల రామకృష్ణరావు ముఖ్యమంత్రిగా హైదరాబాదులో ప్రప్రథమంగా ప్రజా ప్రభుత్వం ఏర్పడింది. అంటే మనకు 1953 నుంచి 1956 వరకు రెండు తెలుగు రాష్ట్రాలు ఉన్నాయి. అదే స్థితి నేడు అంటే 2014లో తిరిగి వచ్చి చరిత్ర పునరావృతమయింది.
ముందుగా 13 జిల్లాల ఆంధ్రరాష్ట్రం గురించి ఆలోచిస్తే 1956 నవంబరు 1 నుంచి ఉన్న ఆంధ్రప్రదేశ్ నుంచి పది జిల్లాలను 29 వ రాష్ట్రం తెలంగాణగా విడదీస్తున్నట్లుగా కేంద్ర ప్రభుత్వం అప్పాయింటెండ్ డేట్ని ప్రకటించింది. మిగిలిన 13 జిల్లాలని అవశేష ఆంధ్రప్రదేశ్గా చట్టంలో కేంద్రప్రభుత్వమే ప్రకటించింది. అంటే ఆంధ్రప్రదేశ్ అనే పేరు 13 జిల్లాలకు అలాగే మిగిలిపోయింది. పది జిల్లాలకు అధికారికంగా కొత్తపేరు వచ్చింది. కాని 13 జిల్లాలకు రాలేదు. దీనికి కారణం ఉంది. విడదీసిన ప్రాంతానికే కొత్త పేరుకావాలి కాని మిగిలిఉన్న రాష్ట్రానికి అదే పేరు ఉంటుంది. ఉత్తరప్రదేశ్, బీహార్, మధ్యప్రదేశ్ రాష్ట్రాలను విడదీసినప్పుడు కొత్త ప్రాంతానికి కొత్త పేరువచ్చింది. కాగా మిగిలిన రాష్ట్రాలకు అవే పేర్లు మిగిలాయి. 13 జిల్లాలకు అదే ప్రాతిపదికన ఆంధ్రప్రదేశ్ అనే పేరు వచ్చింది. కేంద్ర ప్రభుత్వం ప్రకారం అప్పాయింటెండ్ డేట్ జూన్ 2 కాబట్టి ఇప్పుడున్న ఆంధ్రప్రదేశ్ లేదా నవ్యాంధ్రప్రదేశ్ (అలా కూడా వ్యక్తులు, మీడియా ప్రేమతో పిలుస్తున్నారు) జూన్ 2న దాని అవతరణ దినోత్సవాన్ని జరుపుకోవాలని కొందరు ప్రజలు భావిస్తున్నారు. కాని తెలంగాణ రాష్ట్ర ముఖ్యమంత్రి జూన్ 2నే పదవీప్రమాణ స్వీకారం చేశారు. అప్పటిదాకా అటు తెలంగాణ ఇటు అంధ్రప్రాంతాలు రాష్ట్రపతి పాలనలో అంటే గవర్నర్ అధీనంలో ఉన్నాయి. ఆనాటి నుంచే కొత్త తెలంగాణ రాష్ట్రం ఏర్పడింది. కాని జూన్ 8 దాకా నారా చంద్రబాబునాయుడు ముఖ్యమంత్రిగా ప్రమాణం చేయలేదు. జూన్ 8న కొత్త ప్రభుత్వం ఏర్పడడంతో ఆంధ్రరాష్ట్రం తిరిగి ఈ రోజే అధికారంలోనికి వచ్చింది. కాబట్టి నేటి ఆంధ్రప్రదేశ్ దాని అవతరణ దినోత్సవాన్ని జూన్ 8న జరుపుకోవాలని కొందరు భావిస్తున్నారు. కాని మరికొందరు ప్రజాప్రభుత్వం లేకున్నా రాష్ట్రం విడిపోయి ఏర్పడిన రోజు జూన్ 2 కాబట్టి ఆ రోజు జరుపుకోవాలి అని భావిస్తున్నారు.
కాగా ఇక్కడ ఒక చారిత్రక విషయాన్ని గమనించాలి. 1956 దాకా రెండు తెలుగు రాష్ట్రాలు ఉనికిలో ఉన్నాయి. అప్పటిదాకా 13 జిల్లాల ఆంధ్రరాష్ట్రం పనిచేసింది. అదే రాష్ట్రం 1956లో తెలంగాణతో కలిసింది. తాత్కాలికంగా ఉనికిని కోల్పోయి తిరిగి 2014 లో విడిపోయింది. కాబట్టి ఇది ఒక కొత్త రాష్ట్రం కాదు. కాగా అక్టోబరు 1నే ఆంధ్ర రాష్ట్రం అనేది కొత్తగా మద్రాసు నుంచి విడిపోయి అధికారికంగా ముఖ్యమంత్రి ప్రమాణస్వీకారంతో ఏర్పడింది. వేరే చోట కలిసి, విడిపోయిందికాగా తిరగి విడిగా నిలబడింది. ఇలా చరిత్ర పునరావృతం అయింది. కాబట్టి ఆంధ్ర రాష్ట్రానికి అవతరణ అనేది అక్టోబరు 1నే జరిగింది కాబట్టి ఇప్పుడు కూడా ఆంద్రప్రదేశ్ రాష్ట్రంగా తిరిగి ఏర్పడిన ఈ 13 జిల్లాల రాష్ట్రం తిరిగి అక్టోబరు 1నాడే అధికారికంగా అవతరణ దినోత్సవాన్ని జరుపుకోవల్సివుంటుంది. జూన్ రెండును, జూన్ 8ని అలాగే నెహ్రూగారు రాషా్ట్రన్ని ప్రకటించిన డిసెంబరు 19ని ముఖ్యమైన చారిత్రక దినాలుగా ఆంధ్రప్రదేశ్ గుర్తు పెట్టుకోవచ్చు. కాని అసలు ఆంధ్రరాష్ట్రం ఏర్పడింది అక్టోబరు 1నే కాబట్టి అదే రాష్ట్రం ఈ రోజున ఇక పైన అలా ఉంటుంది కాబట్టి ఆంధ్రప్రదేశ్ అవతరణ దినోత్సవాన్ని అక్టోబరు 1న చేసుకోవాలి. చారిత్రకంగా తర్క సహితంగా కూడా ఆదే సరైనది అవుతుంది.
ఇక తెలంగాణ విషయానికొస్తే సెప్టెంబర్ 17న అది స్వాతంత్ర్యాన్ని పొందినా దాదాపు రెండు సంవత్సరాలు జనరల్ జయంతినాథ్ చౌదరి అధిపతిగా సైనిక పాలనలో ఉండింది. అప్పటి తెలంగాణలో తెలుగు జిల్లాలే కాక కర్ణాటకలోని కొన్ని జిల్లాలు మహారాష్ట్రలోని కొన్ని జిల్లాలు ఖమ్మంతో కలిపి 16 జిల్లాలుండేవి. అప్పటికి ఖమ్మం జిల్లా వరంగల్ జిల్లాలో భాగంగా ఉండేది. అలా అప్పటి తెలంగాణలో 15 జిల్లాలుండేవి. కాగా తెలంగాణ, ఆంధ్రరాష్ట్రంతో కలిసినప్పుడు తొమ్మిది జిల్లాలతోనే కలిసింది. కారణం 1956 నాటికి భాషా ప్రయుక్త రాష్ట్రాలు ఏర్పడిన కారణంగా తెలంగాణలోని కన్నడ భాషా జిల్లాలు అటు కర్ణాటకలో కలిసాయి. అందుకు వీటిని తొమ్మిది జిల్లాలతోనే (అప్పటికి రంగారెడ్డి జిల్లాలేదు. అది హైదరాబాద్ జిల్లాలోనే భాగం) ఆంధ్రప్రదేశ్లో కలిసింది. అందుకే 1956 నవంబర్ 1 నాటికి ఉన్న తెలంగాణ కావాలని తెలంగాణ ఉద్యమంలో ఉన్న టిఆర్ఎస్ కోరింది. కాగా ఇప్పుడు తెలంగాణ రాష్ట్ర అవతరణ దినోత్సవాన్ని ఎప్పుడు జరుపుకోవాలి అని అంటే రెండు మూడు ఆలోచనలు మనస్సులో మెదులుతాయి. ఆంధ్రప్రదేశ్ రాష్ట్రాన్ని విడదీస్తూ పార్లమెంటు చట్టం చేసిన రోజు లేదా ఆ చట్టాన్ని అమలు చేసిన అప్పాయింట్డ్ డే జూన్ 2న అనేది ఒక తర్కం . ఇక్కడ విషయం స్పష్టం. రాష్ట్రపతి ఆమోదించిన చట్టం చేసినది ఏవరే రోజు అయినా దాన్ని అమలు చేసిన జూన్ 2నే అవతరణ జరిగినట్లు లెక్క. దీని ప్రకారం తెలంగాణ రాష్ట్రం ఏర్పడింది జూన్ 2నే. కాగా అసలు తెలంగాణ విడిపోయి విమోచనం చెందిన రోజు సెప్టెంబర్ 17. సెస్టెంబర్ 17న విమోచనం జరిగింది హైదరాబాదు సంస్థానానికి, తెలంగాణకు కాదు. తెలంగాణ తిరిగి ప్రత్యేక రాష్ట్రంగా ఏర్పడింది జూన్ 2నే. అప్పటిదాకా పది జిల్లాల తెలంగాణ అనేది ఉనికిలో లేదు కాబట్టి తెలంగాణకు అవతరణదినోత్సవం జూన్ 2నే జరపడం తర్క సహం సరైనది. కాగా ఆంధ్రప్రదేశ్ అనేది 1953 అక్టోబర్ 1నే తొలిసారి ఉనికిలోనికి వచ్చింది. అదే 13 జిల్లాల్లో అదే విధంగా తిరిగి బయటకు వచ్చిందికాబట్టి అక్టోబర్ 1నే నేటి ఆంధ్రప్రదేశ్ అవతరణ దినోత్సవం జరుపుకోవడం సరైనది అవుతుంది. చరిత్ర తెలిసిన పెద్దల అభిప్రాయం కూడా ఇదే కనిపిస్తూ ఉంది.
- పులికొండ సుబ్బాచారి
ద్రావిడ విశ్వవిద్యాలయం
మూలాలు
ఈనాడు దినపత్రిక - 31-10-2014 - (జూన్ 2న ఆంధ్ర ప్రదేశ్ అవతరణ దినోత్సవం)
సాక్షి దినపత్రిక - 31-10-2014 - (రాష్ట్ర అవతరణ దినోత్సవం జూన్ 2 - సీఎం అధ్యక్షతన మంత్రివర్గ భేటీలో నిర్ణయం)
వర్గం:దినోత్సవాలు
వర్గం:ఆంధ్ర ప్రదేశ్ | https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%86%E0%B0%82%E0%B0%A7%E0%B1%8D%E0%B0%B0%E0%B0%AA%E0%B1%8D%E0%B0%B0%E0%B0%A6%E0%B1%87%E0%B0%B6%E0%B1%8D%20%E0%B0%85%E0%B0%B5%E0%B0%A4%E0%B0%B0%E0%B0%A3%20%E0%B0%A6%E0%B0%BF%E0%B0%A8%E0%B1%8B%E0%B0%A4%E0%B1%8D%E0%B0%B8%E0%B0%B5%E0%B0%82 |
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미국 남북 전쟁()은 미국에서 일어난 내전이다. 1861년 4월, 노예제를 지지하던 남부주들이 모여 남부연합을 형성하며 미합중국으로부터의 분리를 선언한 뒤, 아메리카 남부 연합군(이하 '남군')이 사우스캐롤라이나주 찰스턴 항의 섬터 요새를 포격하는 것으로 시작되어 1865년까지 4년 동안 벌어진 전쟁이다. 전쟁 결과 남부연합군이 패했고, 미국 전역에서 노예제가 폐지되는 중요한 계기가 되었다.
연방 분리의 원인
노예제 논쟁
미국의 노예폐지 운동은 18세기부터 시작되었다. 1775년 첫 반-노예제 모임이 필라델피아에서 만들어졌고, 펜실베이니아주 의회는 처음으로 《노예해방법》을 1780년에 통과시켰다. 이 후 4개의 다른 북부 주들도 이런 움직임에 동참했으며, 1787년 북서부 영토(지금의 오하이오 주 및 그 주변)에서도 〈북서부 조례〉를 통해 노예제도를 폐지했다. 이로 인해 노예제를 폐지한 북부와 노예제를 여전히 법으로 인정하는 남부의 두 지역으로 나뉘게 되었다. 물론 북부에서 노예제에 반대한 이유는 북부 사람들이 인도주의자들이어서가 아니라 농업을 중시하는 남부에 있는 노예들을 분산시켜 그 세력의 힘을 약화시킴과 동시에 북부 공업에 그 노동력으로 사용하고자 한 것이다.
남부의 자유주 확대에 대한 우려
노예 소유를 허용하는 남부와 금지하는 북부가 공존하는 상황에서 갈등은 피할 수 없었다. 링컨은 당시 노예제를 시행하는 주들에서 노예제를 철폐하는 법안을 제안하지는 않았지만, 1858년 "분열된 집에 대한 연설"에서 "노예제의 확산을 막고, 국민의 마음 속에 노예제의 궁극적 폐지가 불가피하다는 믿음을 심고" 싶다는 의지를 표현했다. 1850년대의 정치적 갈등은 새로 생긴 준주로 노예제를 확대할 지 여부에 대한 것들이 주를 이뤘다. 정부가 수립된 모든 준주(organized territories)는 자유주가 될 가능성이 높았기에 남부는 연방에서 분리되고자 노력했다. 북부와 남부 모두 노예제가 다른 지역으로 확장되지 않는다면 그 범위가 축소되거나 결국 폐지될 것이라고 믿고 있었다.
노예제를 반대하는 세력에 연방 정부의 통제권이 넘어갈 것에 대한 남부의 우려와 노예제 지지자들이 정부에 휘두르는 영향에 대한 북부의 혐오는 결국 1850년 말의 위기 상황을 일으켰다. 노예제의 도덕성, 민주주의의 범위, 자유 노동과 노예제 간의 경제적 이득에 대한 논쟁들은 휘그당과 "노우 낫씽"(Know-Nothing)이 무너지는 계기가 되었고, 새로운 정당(1848년의 자유지역당, 1854년의 공화당, 1860년의 헌법 연합)들이 생겨나게 만들었다. 1860년에 최후로 남은 전국 정당은 민주당이었지만, 민주당 역시 분파들로 나뉘게 되었다.
노예폐지주의자 윌리암 로이드 게리슨이나 중도 공화당 지도자 링컨 등의 북부 정치인들은 토머스 제퍼슨의 모든 인간이 평등하다는 선언문 구문을 강조했다. 링컨은 《게티스버그 연설》에서 이 점을 언급하기도 했다.
1787년 헌법제정의회에서 있었던 헌법 35조와 아프리카 노예 수입을 20년간 연장하는 데 대한 논쟁을 비롯해 이 시기 거의 모든 지역간 분쟁에는 노예제가 관련돼 있었다. 1793년 엘리 휘트니가 발명한 조면기(cotton gin)로 인해 하루에 가공될 수 있는 솜의 양은 50배로 늘어났고, 이런 생산 방식의 변화로 인해 남부에서는 노예 수요가 폭발적으로 증가했다. 노예주인 미주리주를 연방에 편입시킬 것인가에 대한 논쟁 끝에 1820년 미주리 타협이 이뤄지기도 했다.
하원의 함구율(gag rule)은 1835년부터 1844년 간 노예제를 폐지하는데 대한 청원을 하원에서 논의하는 것을 금지했고, "명백한 운명"론은 노예제를 확장시킬 수 있는 새로운 영토를 연방에 포함시키는데 대한 근거가 되었다. 1845년에 텍사스를 다른 영토와 함께 노예주로 합병한 것은 멕시코 전쟁(1846-1848)을 촉발시켰고, 새 영토에서의 노예제 시행에 대한 갈등은 1850년 타협으로 잠시나마 진정시킬 수 있었다. 1850년 타협의 〈윌모트 조항〉은 북부 정치가들이 멕시코로 부터 정복한 영토에서 노예제를 철폐하기 위한 노력에 따른 것이었다. 헤리엇 비처 스토가 쓴 소설 《톰 아저씨의 오두막》(1852)이 인기를 끌면서 북부에서는 1850년 타협의 결과물인 도망노예법을 반대하는 목소리가 높아져갔다.
오스텐드 성명(Ostend manifesto, 1854)을 통해 남부는 쿠바를 노예주로 합병하려 했으나 결국 실패했다. 캔자스-네브래스카 법(1854)에서는 미주리 타협이 노예제를 금지한 지역에 대한 노예제 폐지 여부를 국민주권에 따라 투표로 결정하도록 했고, 이 법이 통과된 뒤 제2기 정당 구조는 무너졌다. 또, ‘피의 캔자스’ 논란 중 캔자스주에서의 노예제를 둘러싸고 미주리주의 노예제 지지자들인 보더 러피안(Border Ruffians)에 의해 자행된 대규모 부정 선거가 이뤄지기도 했다. 이 부정 선거는 친-남부 대통령이었던 프랭클린 피어스(미국 14대 대통령)와 제임스 뷰캐넌(미국 15대 대통령)이 캔자스를 노예주로 인정하려는 시도를 하게 했다. 뷰케넌은 노예제 시행에 대한 구문을 포함한 캔자스주 헌법안인 르컴튼 헌법을 지지했다.
캔자스에서 노예제를 둘러싼 갈등은 와카루사 전쟁, 로렌스 약탈 사건, 공화당 상원의원 찰스 섬너에 대한 하원 의원 프레스톤 브룩스의 상원 의회 구타 사건, 포타와토미 학살(Pottawatomie Massacre), 블랙잭 전투, 오사와토미 전투(Battle of Osawatomie) 그리고 마래 데 시뉴 대학살(Marais des Cygnes massacre) 등의 폭력적 형태로 나타났다. 그 후 1857년 대법원의 ‘드레드 스콧 판결(Dred Scott decision)’은 캔자스를 포함하여 다수가 노예제를 반대하는 지역에서조차 노예제를 허용할 수 있도록 했다.
1858년의 링컨-더글라스 논쟁 중 북부 민주당의 지도자였던 스티븐 더글라스는 드레드 스콧 판결이나 국민주권의 개념에 구애받지 않고도 노예제를 폐지할 수 있다는 "프리포트 주의"를 주장해 더글라스가 르컴프턴 헌법을 입안하는 데 실패한 것과 더불어 민주당을 남부와 북부로 분열시키는 계기가 되었다. 북부 노예폐지주의자인 존 브라운은 1859년에 하퍼 페리 무기고를 습격해 노예 반란을 시도하기도 했다. 1860년에 남부 민주당은 새로 합병되는 준주에 노예제를 법으로 인정하자고 요구함으로써 남부와 북부로 나뉘는 지역 간 갈등 구조를 완성시켰다.
노예제도
연방 탈퇴를 지지하는 세력은 지역마다 존재하는 수 많은 플랜테이션 농장의 수와 밀접한 관련이 있었다. 디프사우스(Deep South)에는 플랜테이션 농장이 가장 밀집해있었기 때문에 이 지역의 주들이 가장 먼저 연방 탈퇴를 선언했다. 그보다 약간 더 북쪽에 있는 노예주(州)인 버지니아주와 노스캐롤라이나주, 아칸소주, 테네시주에는 더 적은 수의 플랜테이션 농장이 존재했고, 이 주들은 섬터 요새 전투 이후 탈퇴를 결정하기 전까지 연방 탈퇴를 계속 거부했다. 경계에 위치한 주들은 더 적은 수의 플랜테이션 농장을 가지고 있었고 끝까지 연방 탈퇴를 하지 않았다.
1860년경 남부에 노예를 소유한 백인가족들의 비율은 남부 중에서 남쪽 지역이 43%, 남부 중 북쪽지역이 36%, 그리고 남부와 북부의 경계 지역에서는 22%였다. 노예 소유주의 절반은 한 명 내지 네 명의 노예를 가지고 있었다. 1850년에 8,000여명의 농장주들은 50명 이상의 노예를, 그 중 1,800명은 100명 이상을 소유하고 있었다. 100명 이상을 소유한 1,800명의 노예 소유주들 중, 85%는 최남단 주에 살았고, 1% 정도만이 경계 지역에 살고 있었다.
95%의 흑인이 남부에 살았고, 남부 전체 인구의 1/3을 차지했지만, 북부에서는 흑인 인구가 1% 정도에 지나지 않았으며 대부분은 뉴욕과 필라델피아 같은 대도시에 살고 있었다. 따라서 노예들의 완전한 해방에 대한 걱정은 북쪽보다는 남쪽에서 훨씬 클 수 밖에 없었다.
1857년 드레드 스콧 대 샌포드 사건에 대해 미 대법원이 내린 판결은 논란을 더욱 가속화했다. 연방 대법원장인 로저 토니가 집필한 판결문에서 대법원은 다음과 같은 판결을 내렸다.
이 판결에서 대법원은 북위 36˚ 30' 위에 위치한 북부의 영토 내에서 노예제도를 금지한 미주리 타협도 역시 위헌이라고 판결했다. 판결문에서 로저 토니는 "북위 36˚ 30' 위의 북부 영토에 거주하는 시민들의 노예 소유를 금지하는 의회의 결정은 헌법에 근거하지 않은 사항이기에 이를 무효로 한다"고 판시했다. 이러한 태니의 판결에 대해 민주당원은 열렬한 지지를 보냈지만 공화당원들은 이 결정에 '자의적인 헌법의 왜곡'이라고 반발했다. 공화당원들은 드레드 스콧이 법적으로 소송을 제기 하지 못한다면 대법원은 미주리 타협의 합헌성에 대해 논할 권리가 없다고 주장했다. 이에 대해 링컨은 "또 다른 드레드 스콧 판결"이 북부의 주들을 노예제도로써 위협할 수 있다고 경고했다.
에이브러햄 링컨은 "노예제와 관련된 문제는 그 무엇보다 중요한 일이고, 이제는 이 사안이 너무 중요해졌기에 다른 어떤 국가적 문제도 지금은 심리 대상이 될 수 없다"고 말했다. 노예제 문제는 준주의 지배권 획득을 위한 민주당 내 파벌 경쟁과 관련이 있었고, 이 준주에서 노예 소유 규정을 명시하는 데 대한 남부 노예 소유주들의 요구는 민주당을 둘로 나누기위해 남부의 정치인들이 사용했던 쟁점이었다. 하지만 둘로 나뉜 민주당은 링컨의 당선과 연방 분리라는 결과를 낳았을 뿐이었다. 연방 분리가 화두로 떠올랐을 때, 사우스캐롤라이나의 대농장 지주이자 상원의원인 존 타운샌드는 다음과 같이 주장했다.
위와 비슷한 의견들은 논평과 정치적 연설 그리고 연방 탈퇴에 대한 이유를 밝히는 선언문을 통해 남부 곳곳에서 표출되었다. 비록 링컨은 노예제가 이미 존재하는 주에서 이를 비합법화 하려는 계획이 전혀 없었지만, 남부 전역에 걸쳐 백인들은 노예제도의 미래에 대한 우려를 표했다.
남부군이 걱정 했던 것들은 노동력을 잃음으로써 겪게 되는 경제적인 손실뿐만 아니라 인종 평등의 두려움까지 포함되어 있었다. 텍사스주는 연방탈퇴의 이유로 아프리카 민족이 백인의 하위 민족으로 정당하게 여기어지고 있어서 반노예를 추구하는 주들이 백인의 평등의 가치를 떨어뜨리는 일을 하고 있다고 말하였다. 앨라배마주의 분리론자 에드먼드 다르간은 백인들과 자유를 얻은 흑인들이 절대로 같이 살수 없다고 경고했다. 그리고 만약에 흑인들이 자유의 몸이 되어 남부지방에서 살아갈 경우, 결과를 다음과 같이 주장하였다.
1830년대 초반부터 미국 우정 공사 총재는 남쪽으로 보내지는 노예제도 폐지의 관한 모든 우편물을 전송하기 거부하였다. 남부지방에 사는 북부지방 출신의 선생들은 노예제도 폐지를 지지하는 기미가 조금이라도 보이면 쫓겨났고 또 노예제도 폐지론에 관한 책들은 모두 금지되었다. 그리고 남부지방의 백인들은 공화당이 노예제도 폐지를 지지하지 않는다는 주장을 믿지 않았다. 이러한 상황 속에서 북부 주들도 위협을 느꼈다. 에릭 포너 에 의하면 북부지방 사람들이 노예제도를 정의에 반대되는 것이라고 보았고, 또한 그들의 근본적인 가치관과 관심사를 위협하는 것으로 보았다고 한다. 이러한 마찰들과 의심들과 근심들은 전쟁이 터지는 데에 아주 큰 기여를 하였다.
링컨은 현재 노예제가 존재하는 주에서의 노예제 시행을 보호하는 내용을 담은 《코윈 헌법 수정안》에 찬성했지만, 분리주의자들은 그마저도 무의미하다고 주장했다. 분리주의자들은 자유의 땅을 주창하던 북부주에게 캔자스주를 빼앗기자, 캔자스에 인접한 주에서 노예가 부족해져 노예 해방을 이끌고, 결론적으로 다른 남부주들에서도 연쇄적으로 노예 해방이 일어나게 되는 것을 두려워하고 있었다. 분리론자들은 공화당원들이 힐튼 로완 헬퍼 같은 노예제에 반대하는 남부 백인들과 남부의 노예들을 선동하기위해 유화정책을 사용하는 것도 겁내고 있었다.
남북 지역차
지역차(Sectionalism)는 남부와 북부에서 서로 다르게 나타난 경제와 사회 구조, 관습, 정치적 차이를 말한다. 1800년부터 1860년의 기간 동안 북부 지역이 산업화, 도시화되고 생산성 높은 농장을 통해 노예제의 필요가 점점 없어졌던 반면, 가장 남쪽 주들에서는 여전히 노예 노동에 기반한 플랜테이션 농업과 가난한 백인들의 자급자족 농업이 여전히 주를 이루고 있었기 때문에 이런 지역주의 경향은 점진적으로 증가했다. 이 기간 중 남부 농장주들은 남서부의 새로운 땅(앨라배마주에서 텍사스주까지)으로 세력을 확장시켰다. 하지만 경계 주에서 노예제는 점점 줄어들고 있었고, 도시나 공업 지역에서는 노예를 찾아보기 어려웠기에(볼티모어, 루이빌, 세인트 루이스와 같은 도시에서는 노예가 점점 사라지고 있었다), 노예제에 의존하고 있는 곳은 남부 지역 중에서도 대개 시골이나 비공업지역이었다. 한편으로 면화에 대한 수요가 늘면서 노예의 가격도 급격히 상승했다.
북부 공업지역과 남부 농업지역간의 경제적 차이가 전쟁을 일으켰는지에 대해서는 역사가들 간에 논란이 있다. 대부분의 역사가들은 1920년대에 역사가 찰스 비어드가 주장했던 경제적 결정론에는 반대하며 북부와 남부의 경제가 상호보완적이었다고 강조한다.
하지만 역사가들은 두 지역간에 사회, 문화적 환경이 매우 달랐다는 것에는 동의한다. 남부에서 부자들이 모든 옥토를 소유하고 있었고, 가난한 백인 농부들은 생산성이 적은 자투리 땅을 가지고 있을 수 밖에 없었다. 노예 반란에 대한 두려움과 노예 해방 주의자들의 선전물은 남부의 군대를 노예 해방주의를 비롯한 모든 "주의"에 대해 적대적으로 만들었다.
남부인들은 자신들은 ‘미국 건국의 아버지’들이 주장한 ‘공화적 가치’(republican value)에 충실한 반면, 북부가 변화하고 있고, 새로운 "주의" 따위에 너무 쉽게 변한다고 불평했다. (워싱턴, 제퍼슨, 메디슨 등 많은 건국의 아버지들은 노예를 소유하고 있었다.) 링컨은 공화당원들이 노예제의 확장을 막음으로써 헌법 입안자들의 전통을 따르고 있다고 말했다. 노예제를 받아들일 것이냐에 대한 문제는 감리교, 침례교, 장로교와 같은 큰 개신교 종파들을 북부와 남부 종파로 가르게 되었다. 산업화로 인해 8명의 유럽 이민자 중 7명은 북부에 정착했다. 이 시기 북부에서 남부로 이사하는 백인들보다 남부에서 북부로 가는 백인들이 두 배가량 많았기 때문에, 이런 인구의 이동 문제 역시 남부인들이 방어적이면서도 호전적인 정치적 모습을 보이는데 일조했다.
각 주의 권한
각 주가 특정한 권한들을 가졌다는 데에 대해서는 이견이 없다. 하지만 주의 주민이 그 주를 떠났을 때도 이 권한이 지속되어야 하는지에 대해서는 논란이 있었다. 남부는 모든 주의 시민들이 자신의 재산을 소유할 수 있는 권리를 가졌고, 주를 벗어난다고 그 재산을 빼앗길 수는 없다고 생각했다. 특히 노예주들이 노예를 데리고 미국 내 어디든 돌아다닐 수 있으며 그 노예는 자유주에서도 노예로 남아있어야 한다고 주장했다. 북부 사람들은 이 권리를 부정하며, 이는 자유주들이 각 주에서 노예제를 금지할 권한에 위배된다고 반발했다. 노예제를 확장시키는데 반대했던 공화당 당원들은 특히 노예를 데리고 자유주와 준주들을 다닐 수 있는 권리에 반대했다.[1]
남부인들은 각 주가 미연방에서 탈퇴할 권한이 있다며, 미국 헌법은 단지 주들간의 협약의 축약판에 불과하다고 주장했다. 뷰캐넌 대통령을 비롯한 북부인들은 이를 두고 "영구 연합"을 위해 노력했던 미국 조상들의 정신에 위배된다며 각 주들이 연방에서 탈퇴할 권한이 있다는 의견에 반대했다.[1]
링컨의 대통령 당선
1860년에 있었던 링컨의 당선은 남부의 연방 탈퇴의 시발점이 되었다. 코윈 수정안과 크리텐던 타협안을 통한 노력에도 불구하고 타협은 실패했고, 남부 지도자들은 링컨이 노예제 확장을 중단하고 폐지시킬까 걱정을 하였다. 노예제가 존재하던 주들은 하원에서 이미 소수파로 전락하였고 세력이 늘어나는 북쪽과는 대조적으로 의회와 대통령 선거인단에서 앞으로도 계속 소수파로 남게 될 위기를 맞게 되었다.
연방 탈퇴
사우스캐롤라이나의 탈퇴
사우스캐롤라이나는 다른 어떤 연방 주보다 무효화와 탈퇴에 적극적이었다. 사우스캐롤라이나는 1860년 12월 《연방 탈퇴의 원인과 정당성에 대한 즉각적인 원인의 선언》을 채택했다. 그것에는 ‘남부에서의 노예주에 대한 권리’를 담고 있었지만, 도망노예법을 지정한 북부의 권리에 대한 비난을 담고 있었다. 그들은 북부의 주가 헌법 하의 연방의 의무를 이행하지 않는다고 주장하였다. 남부 주의 권리에 대한 모든 침해는 노예제도와 관련되어 있었다.
탈퇴무렵
링컨이 대통령으로 취임하기 전, 일곱 개의 주들은 북부 연방으로부터의 분리 독립을 선언했다. 그 일곱 주들은 1861년 2월 4일에 남부 정부인 ‘아메리카 연합국’(Confederate)을 설립하였다. 1861년 3월 4일부로 재임 기간이 끝남으로서 대통령 자리에서 물러나는 제임스 뷰캐넌이 작게 반발했음에도, 일곱 개의 주들은 자신의 주 경계내의 연방 정부 요새와 그 외 모든 재산 통제권을 장악하였다. 뷰캐넌이 말하길, 드레드 스콧의 결정은 남부가 분리 독립할 이유가 없었다는 것의 증거이고, 북부 연방이 “영속적이 되도록 의도”되었지만 “무력으로 주가 북부 연방에 남도록 하는 것은 의회에 허락된 권력이 아니라고 하였다.” 텍사스에 있는 전체 주둔지에 있는 미군의 1/4은 사령관 데이빗 E. 트윅스의 주 세력에 항복하였고, 데이빗 E. 트윅스는 이후, 남부 연방에 합류하였다. 남부사람들이 상원과 하원의 자리에서 사임하면서 분리 독립은 이후, 공산당원들이, 전쟁 전 남부 상원들이 반대하였던 프로젝트를 위한 법안을 통과시키는 것을 가능케 하였는데 이 법안에는 《모릴 관세》, 《토지부여대학》(모릴법), 《홈스테드법》, 《대륙횡단철도》(태평양 철도법), 《국립은행법》, 그리고 1862년 《법정통화법》의 허가가 포함된다. 1861년의 수입법은 전쟁의 자금을 대기 위하여 소득세를 도입시켰다.
아메리카 연합국
7개의 딥 사우스 코튼 주들은 사우스캐롤라이나, 미시시피, 플로리다, 앨라배마, 조지아, 루이지애나 그리고 텍사스의 순으로 1861년 2월까지 분리 독립하였다. 그래서 남부는 우선 7주가 독립하면서 1861~1863년까지 남부국기가 별이 7개가 있는 국기와 함께 아메리카 연합국이라는 새로운 남부 국가명이 탄생하였다. 그리고 이 일곱 개의 주들은 제퍼슨 데이비스를 대통령으로 하는 아메리카 연합국과 미국 헌법을 모델로 한 정부의 구조를 형성하였다. 섬터 요새에의 공격 이후, 링컨 대통령은 각각의 주로부터 의용군을 요청하는데, 그 후 2개월이 되지 않아 네 개의 노예주인 버지니아, 아칸소, 노스캐롤라이나와 테네시가 분리 독립을 선언했고 남부군에 합류했다. 1863년 6월 20일, 버지니아주 북서부 지방은 버지니아로부터 분리 독립하여 새로운 주인 웨스트버지니아로 북부 군에 합류했다. 그래서 남부 국기도 주가 더 늘었다는 이유로 완전히 다른 국기로 변경되었는데 바로 남부맹방을 상징하는 국기가 새로 탄생하였다. 1861년 말 미주리주와 켄터키주는 남부군 정부를 추방하고 북부군의 실효적 지배하에 있게 되었다.
아메리카 합중국
23개 주(캘리포니아, 코네티컷, 델라웨어, 일리노이, 인디애나, 아이오와, 캔자스, 켄터키, 메인, 메릴랜드, 매사추세츠, 미시간, 미네소타, 미주리, 뉴 햄프셔, 뉴저지, 뉴욕, 오하이오, 오리건, 펜실베이니아, 로드아일랜드, 버몬트, 위스콘신)는 북부군의 지배 하에 남아 있었다. 전쟁 중에 네바다와 웨스트버지니아는 북부 군의 새 주로 합류했다. 테네시와 루이지애나는 전쟁 초기에 북부 군의 군사적 지배 하로 반환되었다. 콜로라도, 다코타, 네브래스카, 네바다, 뉴멕시코, 유타와 워싱턴 지역은 북부 군쪽에 서서 싸웠다. 몇몇 노예 소유의 미국 원주민 부족은 남부 군을 지원했고, 소규모의 살벌한 전쟁이 있었던 현재 오클라호마라고 불리는 indian의 영토를 주었다. 그리고 당시에 1861년부터 1863년까지 은 34개 주 정도였다. 은 1863년 1월 1일에는 링컨 대통령이 흑인 노예 해방을 선언하였다.
경계지역의 주(州)들
남부 주 가운데 연방 탈퇴 보다는 북부의 자유주와 타협했던 주들은 버지니아에서 분리되어 독립적인 하나의 주가 된 웨스트버지니아와 최북단에 위치하고 있으며, 노예상태에 있던 메릴랜드주, 델라웨어주, 미주리주 그리고 켄터키주였다.
메릴랜드는 남부맹방이었다. 그들은 다리를 불태우고 볼티모어에서 일어났던 반 북군 폭동을 견뎌냈었다. 그 때 링컨은 계엄령을 선포했고 군대를 불렀다. 북쪽을 뚫어 버렸던 민병대는 워싱턴DC와 볼티모어를 향해서 돌진했다. 남부맹방은 어떤 일이 일어났는지 몰랐고, 링컨 대통령은 메릴랜드 정부 요원들을 체포했다. 체포당한 사람들은 재판의 절차 없이 잡아두었고, 그렇게 링컨 대통령은 메릴랜드와 콜럼비아 지역을 확실히 통제할 수 있었다.
미주리에서 회의가 열렸는데, 이곳은 북부진영에 남아있기로 결정했다. 남부맹방을 이끌었던 클레이본 F. 잭슨은 밀리티아 주로 갔었다. 이 때 연방 군대의 나대니엘 리옹 장군은 그곳을 공격했다. 그리고 캠프 잭슨 사건 이후에 나대니엘 리옹 장군은 그자를 쫓았다. 그리고 나머지 주는 남서부의 주의 경계 쪽을 방어했다. 이후 북군을 지지하는 회의는 다시 열렸고 미주리는 일시적으로 북부진영으로서 세력을 얻었다.
켄터키는 일단 중립이라 선언했고 분리독립을 하지 않았다. 남부맹방 세력이 그곳을 1861년 9월에 처들어 갔을 때 그들은 중립임을 포기하면서도 노예 제도를 유지하려고 했다. 그리고 남부맹방을 지지하는 사람들은 남부맹방 연합을 조직했고 주지사를 취임시킨 뒤 연방 정부로부터 인정을 받았다. 그렇지만 그 반정부 세력은 곧 탈퇴를 하였고, 켄터키를 다시는 통제하지 않았다.
버지니아가 독립을 한 이후에 휠링(Wheeling)에 있는 북군 정부는 48개의 도시에 1861년 10월 24일에 새로운 정부를 구성하기 위한 법령에 투표할 것을 요청했다. 투표자의 34%가 주의 청원서에 찬성하였다(96%의 찬성) 그 결과, 많은 도시가 새로운 주의 건립에 찬성을 했다. 처음에는 새로운 정부를 카나와(kanawha)로 부르자고 했지만 1863년 6월 20일에서 조합에서 웨스트버지니아로 명명하기로 결정했다. 그 해 말에는 제퍼슨과 버켈리 주도 새로운 주로 합병되었다. 버지니아의 서쪽 국가들은 분리에 대해 겨의 2:1의 비율로 투표하였다, 비록 50국 중 24개국이 분리 쪽으로 투표하였지만. 웨스트버지니아의 군사들의 숫자는 남부맹방과 북부연방 사이에 균등하게 나뉘었다.
테네시주에서 이와 비슷한 북부 연방주의자의 독립 시도가 있었으나 남부 연방주의자에 의해 저지 되었다. 제퍼슨 데이비스는 북부연방에 고위 관료로 추정되는 사람을 3000명 넘게 검거하고 재판도 없이 그들을 감금했다.
남북 전쟁
전쟁 중 10,000건이 넘는 교전이 발생했었고 그 중 40%가 버지니아주와 테네시주에서 일어났다. 모든 주요전투와 많은 부차적인 전투들을 보도하던 기사들이 분열된 이후로 신문 기사는 큰 윤곽만을 보여 주게 되었다. 남북 전쟁 중 더 많은 전투 기록과 전쟁 중 군사지도력을 보여준다.
전쟁의 시작: 1861년
1860년에 링컨이 대통령 선거에서 승리하자 사우스캐롤라이나는 서둘러 미합중국(유니언) 탈퇴를 선언을 했고, 1861년 2월엔 남부의 여섯 개 주가 미합중국 탈퇴를 선언 했다. 같은 해 2월 7일에 일곱 개 주가 남부 연합의 임시헌법을 채택했고, 또한 그 일곱 주의 주도로 앨라배마주에 있는 몽고메리를 임시수도로 삼았다. 1861년 2월 워싱턴에서 열린 전쟁 전 평화회담은 위기상황을 극복하지 못한 채 결렬됐다. 남노옞있를 찬성하는의 노예제를 찬성하는 을 거절했다. 남부 연합의 군사력은 남부 경계선 안에 있는 대부분의 요새를 장악했다. 이에 맞서 뷰캐넌 대통령은 보급선 《스타오브 더 웨스트 호》를 섬터 요새에 보내 저항을 시도 했다. 그러나 요에 도착하기도 전에 남부 캐롤라이나군에 의해 보급선이 불타버려 어떠한 군사적 성과도 거두지 못하고 작전에 실패했다. 그러나 매사추세츠, 뉴욕, 펜실베이니아의 주지사들은 아무도 모르게 훈련된 의용군과 무기들을 사들였다.
1861년 3월 4일, 에이브러햄 링컨은 대통령에 당선되었다. 취임 연설에서, 링컨 대통령은 헌법은 이전 연방의 법령보다 더 완벽한 연합이며, 의무를 부과하는 계약이라는 점에서 영구적인 연합이기도 하며, 모든 부분은 "법적으로 자유롭다."라고 하였다. 그는 남부를 공격할 의도도 없으며, 존재하는 노예제를 끝낼 의도 역시 없지만, 연방정부 재산의 소유를 지키기 위해 힘을 쓸 것이라 진술하였다. 그의 연설은 연합의 결속 재회복을 위한 탄언과 함께 끝맺었다. 남부는 대통령에게 대표를 보내었고 연방 자산을 지불하고 미국과 평화조약을 시작하였다. 링컨 대통령은 연합 의원과의 협상은 무조건 거절하였는데, 이는 남부연합 정부는 합법적인 정부가 아니며 이들과 조약을 체결하는 것은 이들을 완전히 독립된 정부로 인정하는 것과 같았기 때문이었다. 그러나, 주의 국무장관 윌리엄 슈워드는 비공식적이고 간접적인 협상을 유도하였으나 실패하였다. 사우스캐롤라이나 찰스턴의 섬터 요새, 피켄스 요새, 그리고 테일러 요새는 연방에 남아있는 요새였고, 링컨 대통령은 섬터 요새를 사수하기로 결정하였다.
4월 12일 새벽 4시 30분 남부연합의 대통령 제퍼슨 데이비스의 지휘 하에, 연합 정부 보우리가드 장군이 이끄는 부대가 대포로 섬터 요새를 포격하여, 요새의 항복을 강요하였다. 북부인들은 링컨 대통령의 지시 하에 모든 주들이 요새를 탈환하고 유니언을 수호하고자 저항하였다. 대응군의 규모가 너무 적어서, 링컨 대통령은 90일간 75,000명의 지원을 요청하였다. 그 전 몇달간, 북부 의원들은 은밀하게 주 방위군을 준비하였고, 다음 날 병력을 움직이기 시작하였다. 리버티의 리버티 아스날과 미주리는 섬터 요새가 함락된 8일 이후 포위되었다. 계속해서 남부연합과의 협상을 반대한 남부 상단의 네 주(테네시, 아칸소,노스캐롤라이나, 그리고 버지니아)는 이제 이웃에 군사를 보내는 것을 거절하였고, 계승을 주장하였으며, 남부연합에 참여하였다. 버지니아에 보답하기 위하여, 남부연합의 중심은 리치먼드로 옮겨졌다. 그 도시는 남부연합의 상징이었다. 리치먼드는 복잡한 남부연합 보급선의 끝에 위치한 매우 공격받기 쉬운 곳에 자리 잡고 있었다. 리치먼드는 중무장 상태였지만, 셔먼의 애틀란타 포위에 의해 리치먼드의 보급로는 줄어들었고, 그랜트 장군이 남부 자본의 공급주였던 피터스버그와 철로를 포위할 때 거의 중단되었다.
텍사스 점령: 1861년
미군 사령관, 윈필드 스콧 장군은 가능한 한 적은 희생으로 전쟁에 이기기 위해 아나콘다 작전을 제안했다. 그는 북부군의 남부 주요 항구 봉쇄가 남부 경제를 약하게 할 것이고 그리고 난 뒤 미시시피 강을 포획하면 남부는 쪼개어질 것이라고 생각했다. 링컨은 그 작전을 받아들였다. 하지만 그는 리치먼드에 대한 즉각적인 공격을 반대했던 스콧의 경고는 기각시켰다.
1861년 5월, 링컨은 남부 모든 항구에 북부군의 봉쇄작전을 실행했다. 그리고 그 작전으로 인해 남부군으로 운송되던 정기적인 국제 운송물은 더 이상 운반되지 못했다. 침입자들의 배와 화물들이 잡히자 그것들은 팔렸고 항해는 북부군에게 주어진다. 그러나 영국인 선원들은 풀려났다. 1861년 말까지 그 봉쇄는 대부분의 항구 운항을 정지시켰으며 또한 King Cotton을 닫아내림으로써 남부의 경제를 파괴시켰다. 영국 투자자들은 작고 빠른 “blockade runners(봉쇄 잠입자들)"를 만들어 무기와 버뮤다, 쿠바 그리고 바하마스에서 들여온 보물들을 고가의 면, 담배와 맞바꾸었다.이 일로 텍사스 주는 북부 연맹한테 점령되었다.텍사스는 북부 연맹에 되돌아왔다.
1862년 3월 8일, 북해군은 철갑의 《버지니아호》가 봉쇄로를 공격했을 때 남해군에 대항하여 전투를 계속했다. 나무로 만든 배에 대항해 버지니아호는 막을 수 없을 것처럼 보였다. 그러나 다음날, 버지니아호는 북부군의 새로운 군함인 《모니터호》와 철갑선끼리의 전투를 치러야했다. 그 전투는 무승부로 끝났지만, 봉쇄가 견고했다는 점에서 북부군에게 전략적 승리나 다름없었다. 남부군은 북부군의 포획을 막기 위해 고의로 《버지니아호》에 구멍을 내 가라앉게 만듦으로써 그 배를 잃게되고, 북부군은 《모니터호》의 많은 복제선들을 만들어낸다. 효율적인 군함을 만들어 내는 기술이 부족했던 남부군은 영국으로부터 군함들을 획득하기위한 시도를 하기도 했다. 1865년 1월 북부군이 《제2차 피셔 요새 전투》에서 승리하고, 이 승리가 마지막으로 유용한 남부 항구를 닫게 하자 사실상 봉쇄의 운영은 끝이 났다.
동부 전선: 1861년–1863년
1861년 마나사스와 버지니아에서, 몇 개의 최초 남부 연방 군대의 격렬한 저항 때문에, 장교 어빈 맥도웰의 지령하의 북부 연방 군대는 불런(Bull Run)에서의 첫 전투, 다른 말로 제1차 불런 전투에서 마나사스에 멈추었고, 맥도웰의 군대는 조셉 E. 존슨, 그리고 피에르 보우리가드 장군의 지령 하의 남부 연방군에 의해 워싱턴 DC까지 후퇴하여야 했다. 남부군 장교 토마스 잭슨이 북부군에 대항하여 서있는 돌로된 벽 같다고하여 붙여진 "스톤월(Stonewall)"이라는 별명도 이 전쟁에서 붙게 되었다.
전쟁으로 인한 큰 손실에 놀라, 노예 유출의 심각성을 느꼈으며, 노예주의 북부 연방 탈퇴를 막기 위해, 미국 의회는 그 해 7월 25일, 그 전쟁의 목적이 노예제도의 종식이 아닌 주연합의 보존임을 정의하는 《크리텐든-존슨 결의안》(Crittenden-Johnson Resolution)을 가결시켰다.
북부 연합 포토맥군 사령관 장교 조지 매클렐런은 7월 26일에 지령을 받았고 그 전쟁은 1862년 본격적으로 시작되었다. 공격적인 전략을 시작하라는 링컨 대통령의 강력한 요구에 따라 맥클렐런은 1862년 요크 강과 제임스 강 사이의 반도 즉 리치먼드의 남동부를 거쳐서 버지니아를 공격했다. 맥클렐런의 군대가 반도 전역의 리치먼드의 문에 도달했지만, 존스턴은 세븐 파인스 전투에서 맥클렐런군의 행진을 저지시켰다. 그 때 장교 로버트 리 그리고 그의 최고의 부하인 제임스 롱스트리트와 '스톤월' 잭슨은 7일 간의 전투에서 맥클라렌을 패배시키고 후퇴시켰다. 제2차 불런 전투를 포함하는 북버지니아 작전에서는 남부군의 잇따른 승리로 막을 내렸다. 맥클라렌은 버지니아의 존 포프의 군대에게 지원군을 보내라는 총사령관의 명령을 거부했다. 그리고 이 결정은 리의 연합군이 수적으로 두 배나 많은 적을 무찌르기 수월하게 만들었다.
제2차 불런 전투로 자신감을 얻은 남부군은 최초로 북쪽을 침입했다. 9월 5일, 리 장군은 자신의 북버지니아 군 45,000명을 이끌고 포토맥 강을 건너 메릴랜드주로 이동했다. 링컨은 포프의 병력을 맥클렐런에게 돌려주었고 리와 맥클렐런은 1862년 9월 17일 샾스버그 근처에서 미국 역사상 가장 많은 하루 사상자를 낳았던 안티에탐 전투를 치른다. 리의 군대는 여기서 마침내 저지되었고 맥클렐런이 쫓아오기 전에 버지니아로 돌아간다. 안티에탐 전투가 북군의 승리로 여겨지는 이유는 리의 침입을 저지했으며 링컨이 노예해방을 선언할 기회를 제공했기 때문이다.
조심스런 맥클렐런이 안티에탐 전투 뒤의 후속 조치를 제대로 취하지 못하자, 암브로스 번사이드 소장이 그를 교체하게 된다. 번사이드는 1862년 12월 13일 《프레더릭스버그 전투》에서 패배한다. 이 전투에서 북군은 마리의 고지(Marye's Heights)에 비효율적인 정면 반복 공격을 감행하여 12,000명이 넘는 사상자를 기록했다. 전투 후 번사이드는 죠셉 후커 소장으로 교체되었으나 후커 장군 또한 리의 군대를 이길 수 없었다. 1863년 5월의 《챈슬러스빌 전투》에서 남군보다 두 배가 넘는 병력을 보유했음에도 불구하고 후커 장군은 이 전투에서 망신을 당한다. 그해 6월 리가 두 번 째로 북쪽을 침략하자 후커는 조지 미드 소장으로 교체된다. 남북 전쟁에서 가장 많은 사상자를 낳은 《게티스버그 전투》(1863년 7월 1일~3일)에서 미드 장군은 리 장군에게 승리를 하는데 이를 두고 종종 남북 전쟁의 전환점으로 평가한다. 7월 3일에 감행된 《피켓 사단의 돌격》은 종종 남군의 절정이라고도 불리는 데 이 돌격으로 북쪽에서 워싱턴을 압박하려 했던 리 장군의 계획이 수포로 돌아갔으며, 그 다음날 미시시피 강에 대한 지배권에 핵심적인 미시시피주 빅스버그가 북군에게 함락되었기 때문이다. 리 장군의 군대는 28,000명의 사상자를 입었으며, 그에 비해 미드 군의 사상자는 23,000명이었다. 그러나 링컨은 미드 장군이 리의 퇴각을 차단하지 못한 것에 불만스러웠고, 미드의 가을 군사 작전이 결정적인 성과를 내지 못하자 다시 새로운 지휘자를 찾아 서부전역으로 눈을 돌렸다.
서부 전선: 1861년–1863년
남부연합군은 동부전역에서 수없이 많은 승리를 거두었으나 서부에서는 여러 차례 패배했다. 남부연합군은 《피 리지 전투》(Pea Ridge) 이후 전쟁초반에 미주리주로 쫓겨났다. 레오니다스 폴크의 켄터키주 콜럼버스 침략은 켄터키의 중립정책을 폐지하고 켄터키주가 남군에게서 등을 돌리게 했다. 내슈빌과 중앙 테네시는 1862년 초 북군에 함락되었다. 그리고 이는 지역식량공급과 가축의 소모를 야기했고 사회조직의 와해를 초래했다.
북군이 10번섬, 뉴 마드리드, 미주리주, 테네시주를 장악하면서 북군은 미시시피 강에 대한 통제권을 확보했다. 1862년 5월, 북군 해군은 큰 전투를 벌이지 않고 뉴올리언즈를 장악했고 이로 인해 북군은 미시시피 강을 상륙했다. 북군은 미시시피 강 전체의 통제권을 확보했으나 미시시피주의 요새 도시 빅스버그만은 예외였다.
브랙스튼 브레그 장군은 남부 연맹의 지원이 부족하여 켄터키 침공을 중단하고 철수할 수밖에 없었다. 그가 이끈 남부 연맹의 2번째 켄터키 침공 역시, 《페리빌 전투》에서 뷰엘 장군에게 이기나마나한 승리를 따냈을 뿐이었다. 그는 테네시주의 스톤스 강에서 벌어진 전투에서, 윌리엄 로즈크랜스 부대에게 아쉽게 패배했다. 서부에서 남부 연맹이 거둔 확실한 승리는 《채터누가 전투》다. 브레그 장군은 동부의 로버트 리 장군이 보낸 롱스트리트 부대의 지원을 받아, 소령 조지 토마스의 용맹한 방어 전선을 무너뜨리고 로즈크랜스를 패배시켰다. 로즈크랜스는 당시 브래그가 포위하고 있던 채터누가까지 후퇴했다.
미시시피강 주변의 전선: 1861년–1865년
미주리 지역은 게릴라 활동이 왕성한 전쟁터로 변했다. 미주리는 남북기간 중 세 번째 치열한 전쟁터였다.[2] 서부의 다른 주들은 동쪽으로 전쟁터에서 지리적으로 격리되어 있었고, 많은 소규모의 작전이 있었다. 이 지역의 전투는 북군의 미주리와 인디언 준주, 그리고 뉴멕시코 준주를 지키는 역할을 했다. 뉴멕시코 준주에 대한 남군의 습격은 1862년 격퇴되었고, 인디언 준주를 지키기 위한 북군의 작전은 1863년 성공을 거두었다. 전쟁 말기, 북군의 《레드 강 작전》은 실패로 끝났다. 텍사스는 전쟁 내내 남군의 지배 하에 남아있었지만, 1863년 빅스버그 함락 후에 이곳은 남군에서 떨어져 나갔다. 그리하여 북군이 미시시피 강 유역의 통제권을 얻게 되었다.
버지니아 점령과 종전: 1864년–1865년
1864년 초에 링컨은 그랜트 장군을 모든 북부연방군 사령관으로 임명했다. 그랜트 장군은 포토맥 군대를 본대로 정하고 윌리엄 테쿰세 셔먼 소장에게 대부분의 서부 군대의 지휘권을 주었다. 그랜트 장군은 링컨과 셔먼과 함께 총공세의 의미를 이해하고 있었다. 그것은 남부 동맹의 군사력과 경제적 바탕의 총체적인 패배만이 전쟁을 끝낼 수 있다는 것이다. 이 총공세는 민간인 살상을 의미하는 것이 아니라 집, 농장, 철도의 파괴를 뜻한다. 그랜트 장군은 남부 동맹 전체를 여러 방향에서 동시에 일사불란하게 공격할 전략을 고안했다. 조지 미드 장군과 벤자민 버틀러 장군은 리치먼드 근처에서 리 장군을 공격하도록 명령받았고 프란츠 시겔 장군(그리고 차후에는 필립 셰리던 장군)이 셰넌도아 계곡을, 그리고 셔먼 장군은 애틀랜타를 점령 후 바다(대서양)로 진군하도록 되어있었으며 조지 크룩 장군과 윌리엄 W. 어베럴 장군은 웨스트버지니아의 철도 보급선을 공격하고 마지막으로 나대니엘 P. 뱅크스 소장은 앨라배마주의 모빌을 점령하게 되었다.
동부 전선의 북군은 리 장군을 지나가는 책략을 시도 했으며 동부 작전의 이 단계(그랜트의 대평원 전투)에서 여러 전투를 치렀다. 윌더니스, 스폿실베니아, 그리고 콜드 하버에서의 그랜트 장군이 치룬 소모전은 북군에 큰 손실을 안겨주었지만 리 장군으로 하여금 반복적으로 퇴각하게 만들었다. 버틀러 장군 지휘 하에 리 장군을 남쪽으로부터 측면 공격을 하려던 시도는 버틀러 장군이 버뮤다 헌드레드 곡강에서 포위되어 실패하였다. 그랜트 장군은 집요하였고 어마어마한 손실(7개 주에 65,000명의 사상자)에도 불구하고 리 장군의 북버지니아 군을 리치먼드에 잡아두는데 성공하였다. 그랜트 장군은 9개월에 걸쳐 두 군대가 참호전을 펼친 “피터스버그 포위전”에서 남군을 꼼짝 못하게했다.
그랜트는 마침내 1864년 《벨리 작전》에서 이기기에 충분히 공격적인 필립 셰리던 장군을 찾아냈다. 셰리던은 《시더 크리크 전투》에서의 마지막 결정적인 승리를 포함하여 초기의 여러 전투들에서 주발 소령을 이겼다. 그리고 셰리던은 셰난도 벨리의 농업 기반을 계속 파괴했다. 이것은 조지아주에서 이후 고용된 셔먼의 전술과 비슷한 전략이었다.
그 동안에 셔먼은 존스턴과 존 벨 후드와 함께 남부맹방의 조셉 장군을 이기면서 채터누가부터 애틀랜타까지 행진하였다. 1864년 11월 2일 애틀랜타의 가을은 링컨 대통령의 재선의 매우 중요한 원인이 되었다. 후드는 셔먼의 보급로를 위협하고 테네시주의 《프랭클린-내슈빌 작전》에 침입하기 위해 애틀랜타 지역을 떠났다. 하지만 연방의 존 스코필드 소장은 후드와 싸운 《프랭클린 전투》에서 이겼으며 조지 토마스 또한 효과적으로 후드의 군대를 파괴시킴으로써 후드를 상대로 대승을 거두었다.
애틀랜타와 공급품 기지를 떠난 셔먼의 군대는 목적지를 알리지 않은 채 행군하여, 조지아 주 농장의 약 20%를 초토화시켰는데, 이것이 바로 ‘바다로의 행군(March to the Sea)’이다. 1864년 12월, 셔먼은 조지아 주의 대서양과 인접한 사바나에 도착했다. 셔먼의 군대는 수천의 해방된 노예들이 뒤를 쫓고 있었으나 큰 전투는 없었다. 셔먼은 사우스캐롤라이나와 노스캐롤라이나를 경유해 북으로 진군했고, 남쪽에서부터 버지니아 연맹에 접근하며 리의 군대에 점차 압박을 가하여 왔다.
그러나 리의 군대는 탈영과 사상자로 인해 그 수가 줄어든 상태였고, 그랜트의 군대보다도 훨씬 더 적은 수였다. 공화당은 4월 1일 《파이브 포크스 전투》에서 리의 군대를 피츠버그와 리치먼드에서 내몰며 확정적 승리를 거두었다. 연방 수도는 흑인 군대로 구성된 유니언25 부대의 손아귀로 떨어졌다. 남아있는 연방 조직들은 서쪽으로 달아났고 새일러 만 전투에서의 패배 이후로는 로버트 E. 리가 공화당에 대항해 싸우는 것 자체가 전술상, 병력상 모두 불가능하다는 것이 분명해졌다.
남부맹방의 항복
북버지니아의 군대를 이끄는 리 장군은 1865년 4월 9일 애퍼매턱스 코트 하우스 마을의 맥린 하우스에서 항복을 했다.[3] 5일 후인 1865년 4월 14일 링컨 대통령은 남부 동정론자인 존 윌크스 부스에게 저격을 당했다. 링컨은 다음 날 아침 일찍 사망했으며, 앤드류 존슨이 대통령직을 맡았다. 그동안 남부 전역의 남부군이 리의 항복 소식을 듣고 항복을 했다.[4]
진행
남부의 분리선언
1860년 대통령 선거에서 공화당은 에이브러햄 링컨을 후보로 내세워 현재 노예제를 시행하는 주들의 범위 이상으로 노예제를 확대하는 데 반대하는 선거 운동을 펼쳤다. 공화당이 선거에서 승리하자, 링컨이 1861년 3월 4일에 취임하기도 전에 7개의 남부 주들은 미합중국으로 부터의 분리를 선언했다. 전임 대통령이었던 제임스 뷰캐넌과 당선인이었던 링컨의 행정부는 이 분리가 적법하지 않다고 판단하고, 이런 시도를 반란이라 간주했다.
섬터요새 공격
1861년 4월 12일, 남군은 사우스캐롤라이나주 섬터 요새의 군사기지를 공격하면서 전쟁을 일으켰다. 링컨은 각 주에서 자원군을 모집하도록 요청했는데, 이 요청이 있자 4개의 남부 노예주가 추가로 분리 독립을 선언했다. 북군이 초반에 경계 주들에서 승기를 잡고 해상 봉쇄에 들어가자 양 군 모두 병력을 모집했다. 1862년 9월, 링컨의 노예해방선언을 통해 남부 주들에서 노예제를 폐지하는 것을 전쟁의 목표로 하는 것을 명백히 했고, 영국이 간섭하지 않도록 설득했다.
게티스버그 전투
남부연합군 사령관인 로버트 리 장군은 동부 지역의 전투에서 승리를 거뒀지만, 1863년 북부로 진격하자 게티스버그 전투에서 많은 사상자를 낸 뒤 후퇴했다. 서부지역에서 북군은 미시시피주의 빅스버그 를 점령함으로써 한강 유역을 장악했고, 남부 연합을 지리적으로 두 개로 나눠버렸다. 1864년 율리시스 그랜트 장군이 로버트 리 장군에 맞서 지구전을 치르는 한편, 북군의 윌리엄 셔먼 장군은 조지아주의 애틀랜타를 함락시켰고 바다를 향해 진군함으로써 북부의 병력과 물질적 자원에 우세를 점하게 됐다. 반면 남군은 리 장군이 1865년 4월 9일 애포매톡스 코트 하우스 에서 항복한 후 붕괴했다.
의미
남북 전쟁은 인류 역사상 가장 이른 진정한 의미의 산업 전쟁 중 하나라고 할 수 있다. 철도, 증기선, 대량 생산된 무기를 비롯한 다양한 군사 장비들이 광범위하게 사용되었다. 조지아주에서는 셔먼 장군이 총력전을 벌였으며, 피츠버그 주변에서 일어난 참호전은 제1차 세계대전의 전조가 되었다. 남북 전쟁은 미국 역사상 가장 참혹한 전쟁으로 남아있다. 군인 62만 명이 죽었고, 무수한 민간인 사상자들이 생겼다. 20~45세 연령의 북부 남성 중 약 10%가, 18~40세 연령의 남부 백인 남성 중 약 30%가 사망했다. 전쟁에서 북부가 승리하면서 남부 연맹과 노예제는 끝을 맞이했고, 미국 연방정부의 역할은 더 강력해졌다. 1877년까지 이어진 재건시대 동안, 미국 사회는 전쟁에서 생긴 사회, 정치, 경제, 인종적 문제들을 처리하는 데 특히 많은 노력을 기울였다.
남부와 북부 비교
남부군의 가장 큰 희망은 영국과 프랑스가 북부군에 대항하여 전쟁에 무력 간섭 하는 것이었다. 링컨과 국무장관 윌리엄 H. 세워드가 주도하던 북부군은 영국과 프랑스의 간섭을 막기 위해 노력했고, 만약 공식적으로 남부 연방 정부의 존재를 승인하는 국가가 있었다면 전쟁으로 위협했다(아무도 인정하진 않았다). 1861년에, 남부 사람들은 유럽에서 경제 침체가 시작되어 영국이 면화를 얻기 위해 남북 전쟁에 참여 하기를 바랐고, 따라서 자발적으로 남부의 면화 통상을 금지했다. 그러나 이러한 면화 외교는 유럽 대륙이 잉여 면직물을 가지고 있었기 때문에 실패하고 말았다. 반면에 1860년에서 1862년까지의 유럽의 곡물 수확 실패는 북쪽 곡물의 수출을 긴급히 중요하게 만들었다. “옥수수 왕(King Corn)의 힘이 면화 왕(King Cotton)의 힘보다 강하다”라는 말이 있을 정도였고 이 때문에 미국 곡물은 영국의 무역 수입량의 1/4를 차지했었던 것이 이 시기에 절반을 차지 할 정도까지 늘어났다 .
영국이 일시적으로 면화 부족에 허덕일 때, 이집트와 인도에서의 증가된 면화 경작으로 부족함을 대체했다. 동시에, 전쟁은 무기 제조상과 제철 직공, 무기를 실어 나르는 영국 선박의 고용 증진을 만들어 냈다.
북부의 승리
마지막으로 싸웠던 콜럼버스, 조지아, 웨스트 포인트에서의 전투로 인해 결국 리 장군은 항복을 할 수 밖에 없었고 도시들 또한 윌슨의 급습으로 인해 항복했다.
4월 21일 존 모스비의 43부대의 급습으로 버지니아의 기병들은 전멸되었고, 4월 26일 조셉 존스톤의 부대는 노스캐롤라이나의 더럼에 있는 베넷플레이스에서 셔먼 장군에게 패하였다. 앨라배마, 미시시피 연방정부, 동부 루이지애나 연합, 그리고 걸프 지역은 5월 4일, 5일에 항복하였다.
남부연합 대통령은 5월 10일 체포되었고 같은 날 남부 조지아, 플로리다 정부가 항복하였다. 연방 육군 장군인 제프의 부대는 그 다음 날 항복하였고, 그를 잇달아 북부 조지아 연합도 항복하였다.
6월 23일 오클라호마의 촉토족 영역인 포트 토슨에서 스탠드 와티는 북연합 대표와 휴전 조약을 체결함으로써 남부연합 장군으로서의 역할을 끝냈다. 마지막으로 항복한 남부연합 조직 CSS의 본부는 8월 2일까지 전쟁이 끝났다는 것을 알지 못했다. 북부연방 정부에 항복하는 것을 반대했던 조직의 사령관은 나라를 위해 음모를 꾀했으나 결국 1865년 11월 6일 영국의 리버풀에서 항복을 하였고 이 항복은 남북 전쟁의 결과로 기록되었다.
전쟁 당시 노예 실태
전쟁 초기에는 몇몇 북부군 사령관들은 도망친 노예들을 그들의 주인에게 돌려보내야 한다고 생각했다. 1862년, 전쟁이 장기화 될 것이 명백해지자 노예제도를 어떻게 해야 하는가에 관한 문제의식은 더 일반화되었다. 남부의 경제활동과 군사 활동은 노예 노동력에 의존하고 있었다. 따라서 남부의 상업 활동이 봉쇄되고 생산 활동이 파괴되는 와중에 노예제도를 지키는 것이 비합리적인 행위로 인식되기 시작했다. 어느 한 의원이 '노예들은 절대로 중립적으로 될 수 없으며, 병사가 아닌 노동자로서 그들은 반역을 꾀하거나 북부군에 동조할것이다.' 라고 하자, 그와 같은 의원들과 급진적 공화당원들은 조속히 노예를 해방할 것에 대해 링컨을 압박했다. 이에 비해 온건 공화당원들은 점진적이고 보상체계를 갖춘 노예해방을 받아들이자고 주장했다. 평화파 민주당원, 경계주들 그리고 주전파 민주당원들은 노예해방에 반대했다. 하지만 결국 경계주들과 주전파 민주당원들은 노예해방을 북부군을 구하기 위해 필요한 전쟁의 일부로 받아들였다.
1861년 링컨은 노예해방에 대한 성급한 시도는 경계주의 상실을 의미하며, 켄터키주를 잃는 것은 전체 전투에서 지는 것과 마찬가지라고 우려를 표명했다. 처음에 링컨은 경계주와 주전파 민주당원들의 충성심을 지키기 위해 당시 전쟁장관이었던 사이먼 카메론과 미주리주의 장군 존 프리먼트, 사우스캐롤라이나, 조지아, 플로리다의 장군인 데이비드 헌터 의 의견에 따라 노예해방의 시도를 모두 번복시키려고 했다.
1850년대에는 노예들이 거래, 해방, 도망 등으로 북쪽으로 주경계 지대를 탈출하였다. 이 지방에는 해방된 미국 흑인과 유럽에서 온 이민자들이 하부 남부지방보다 많았는데 이 때문에 남부지방은 노예제도가 급격히 사라질까봐 걱정하였다. 이런 두려움 때문에 남부지방은 캔자스를 노예주로 만들려고 더더욱 노력을 하였다. 1860년에는 국경지방에서 노예를 소유하고 있는 세대의 수는 전체의 16% 밖에 되지 않았다. 노예의 몸값이 치솟아 오르자 하부 남부지방으로 팔려간 노예들은 돈이 많은 소수의 백인들만이 소유 할 수 있었다.
링컨은 보상형 해방과 자발적인 식민지화에 의존한 그의 단계적인 계획이 거절될 시에 더 혁명적인 해방정책을 사용하겠다고 주 경계 지대의 주들에게 경고하였다. 컬럼비아 특별구만이 링컨의 계획을 받아들였고 그는 1862년 7월 21일 그의 내각의원들에게 노예 해방령에 대해 언급하였다. 윌리엄 수어드 장관은 링컨대통령에게 전쟁에서 승리할 때 까지는 노예 해방령을 발표하지 말라고 하였는데 이는 너무 허술하면 실패로 돌아갈 위험이 있었기 때문이다. 그리고 드디어 1862년 9월에 앤티텀 전투에서 이 기회가 만들어졌고 뒤이은 참모회의에서 링컨의 해방령에 대한 지지율이 더 높아졌다. 링컨은 이 전에 이미 특히 주경지방에게 연방을 구하려면 해방령을 인정해야한다고 촉진하는 편지를 출판했다. 링컨은 나중에 노예제도가 어쩌다보니 전쟁의 원인이 되어 버렸다고 말했다. 링컨은 예비적인 노예 해방령을 1862년 9월 22일에 발표했고 최종적인 해방령을 1863년 1월 1일에 발표했다. 링컨은 하지스에게 보내는 편지에서 그의 신념에 대해 말했다.
아프리카 계 노예들은 링컨의 조치를 기다리지 않고, 자유를 찾아서 북부군으로 탈출을 감행했다. 전쟁의 초기부터, 수십만의 노예들은 북부군 지역, 특히 1862년 내쉬빌, 노포크과 그리고 햄프턴 로드 지역으로 탈출했고, 그해 셔먼의 진군이 이어지는 테네시로의 탈출이 이어졌다. 그래서 많은 북부군 지휘관들은 성인과 아동들이 읽고 쓰기를 배울 수 있는 숙소와 학교를 만들었다. 미국 선교사 협회도 남쪽으로 교사를 보내 전쟁에 기여하였다. 그들은 노포크에 학교를 설립하고 인근에 농장을 만들었다. 뿐만 아니라, 거의 18만명 이상의 아프리카계 흑인들이 북부군과 함께 군인과 선원으로 복무를 하였다. 이들의 대부분은 탈출을 했던 노예들이었다. 이러한 탈출 노예 병사 중 가장 뛰어난 부대는 제54 매사추세츠 자원 보병대였다.
남부군은 포로로 잡은 흑인 병사를 노예로 만들었으며, 필로우 요새 학살 [5] 과 같이 흑인이 항복을 하려하면 총살을 시켰다. 이것은 포로 교환 프로그램의 붕괴로 이어졌고, 조지아에 있었던 앤더슨빌 포로수용소 [6] 와 같이 포로들의 증가로 이어졌다. 약 13,000명의 남부군 포로들이 굶주림과 질병으로 죽어갔다.[7]
남부의 병력 부족에도 불구하고 대부분의 남부 지도자들은 1865년까지 노예들을 징집하는 것을 반대하였다. 그들은 전쟁을 지원하기 위한 노역자로 노예를 사용하였다.
남부 연방의 장군들인 패트릭 클레븐과 로버트 리는 나중에 전쟁에서 흑인들을 무장시키는 것에의 찬성을 주장하였고 제프슨 데이비스는 결국, 군사의 패배를 피하기 위해 노예들을 무장시키기는 계획을 지지하는 데에 설득되었다. 남부 연방은 이러한 노예 무장 계획이 실행되기 전에 애퍼매턱스에서 패배하였다.
노예 해방령은 영국 또는 프랑스의 원조를 얻는 것에 대한 남부 연방의 희망을 크게 줄였다. 링컨의 온건한 접근은 국경에 인접한 주들과 북부 연방과 같은 편에서 싸우는 전쟁 민주주의자들과 해방 노예들을 얻는 데에 성공하였다. 북부 연방이 지배하는 국경에 인접한 주들(켄터키, 미주리, 메릴랜드, 델라웨어, 그리고 서부 버지니아)은 노예 해방령에 해당되지 않았다. 켄터키 주와 델라웨어 주를 제외한 모든 주들은 단독적으로 노예 제도를 폐지하였다. 북부연방군이 남부로 이동하면서 400만명의 노예들이 노예해방령으로 자유가 되었다. 1865년 12월 6일 날 승인된 미국 연방 《제13차 수정헌법》은 마침내 노예제도가 미국의 모든 곳에서 불법이 되도록 만들었고, 이에 따라 남아있는 노예들도 해방됐다. 1865년을 기준으로 켄터키에 65,000명[8], 델라웨어에 1,800명, 그리고 뉴저지에 18명[9](1860년)이 해방되었다.
역사학자인 스테픈 오츠는 많은 신화들이 링컨을 둘러싸고 있다고 말했다. 그는 “서민들에게 인기 있는 정치인”, “진정한 기독교도”, “대악당”, 그리고 인종차별주의자 등으로 불렸다. 링컨이 인종차별주의자였다는 믿음은 불완전한 링컨의 모습에 의한 것이었다. 링컨이 국경에 인접한 주들과 북부 민주당원들의 지지를 얻기 위해 했던 말들을 선택적으로 인용한다던가, 링컨의 노예제도 반대에 대한 많은 언급을 무시한다던가, 말할 당시의 정치적 혹은 군사적 맥락을 무시한다면 링컨은 인종차별주의자로 보일 수도 있다. 오츠는 링컨이 호레이스 그릴리에게 보냈던 편지가 이러한 이유들로 계속 잘못 해석되고 있다고 말했다.[10]
타국의 중재 저지
영국인들은 찰스 프란시스 애덤스를 미국을 위한 성직자로 생각했다. 그리고 영국인은 봉쇄라는 자칫 위험 할 수도 있는 변화를 꺼렸다. 남부맹방 세력은 영국의 배 제조업자들로부터 군함을 구입했다. 유명한 《앨라배마 호》는 상당한 피해를 입히게 했고, 제2차 세계대전 후의 논쟁들을 이끌었다. 그러나 노예 제도에 반대하는 대중의 의견은 유럽 정치인들, 특히 영국인들에게 정치적인 책임을 물었다. 1861년 후반에는 영국과 미국 사이에서 트렌드 사건 때문에 전쟁의 기운이 감돌았다. 영국의 해군이 남부맹방 세력의 두 명의 외교관들을 잡아가기 위해서 증기선을 보냈다. 그러나 링컨이 그 두 외교관을 풀어준 후에는 문제가 잘 해결되었다.
1862년에 영국은 전쟁의 위협이 있는 미국과의 중재를 고려했다. 소문에는 귀족 팔메르스션이 중재를 하느냐 마느냐를 결정할 때 소설 《엉클 탐스 캐빈》을 세 번 읽었다고 한다. 북군은 안티에탐과의 전쟁에서 승리했고, 그것은 영국의 중재를 미루도록 했다. 노예 해방론자들의 주장은 남부맹방을 지지하는 사람들의 정치적 책임을 강화시켰다. 그리고 남부 연합이 동조함에도 불구하고, 프랑스가 멕시코를 점령한 것은 궁극적으로 북군과의 전쟁을 막았다. 전쟁 후에 남부연합에서는, 그들을 외교적으로 인정을 한다면 노예 제도를 폐지하자고 제안했다. 그러나 런던과 파리에선 그것을 고려하지 않았다.
승리 그리고 전쟁이 남긴 상처
역사가들은 사이에서 남부군의 전쟁 승리 가능성에 대한 토론이 있었다. 대부분의 학자들은 산업화로부터 얻은 힘과 인구수가 남부군이 뛰어 넘을 수 없는 북부군 만의 강점 이였다고 강조했다. 학자들은 연방에 가입하여 행동하는 것은 단지 패배를 늦춰줬을 뿐이라고 주장했다. 남부의 역사학자 쉘비 푸트(Shelby Foote)는 이러한 관점을 다음과 같이 간단 명료하게 표현했다.
남부 연맹은 독립에 성공하는 것을 영원히 지속 될 것만 같던 링컨의 임기기간에서 찾았다. 그러나 링컨이 1864년 대통령 선거에서 맥클렐런에게 승리하자 남부 연맹이 가지고 있었던 정치적 승리에 대한 바람은 모두 사라졌다. 이 시점에 링컨은 경계선 상에 위치한 주들과 전쟁주의자 민주당의원, 해방된 노예 그리고 영국과 프랑스로부터 지지를 얻어냈다. 링컨은 민주당의원과 맥클렐런으로부터 승리를 거두면서 남부에 지지를 보냈던 북부사람과 그들의 평화의 연단을 처단했다. 링컨은 또한 전쟁에서 남부군에 대항하여 북부 군에게 수많은 이득을 안겨줬던 그랜트와 셔먼 같은 장군을 발굴해 냈다. 피비린내 나는 전투에서 물러섬이 없었던 장군들은 승리를 거뒀다. 그러나 남부 군에는 이러한 장군이 없었다. 이러한 까닭에 1864년 말 이후로는 남부군에게선 승리의 희망을 찾아 볼 수 없었다.
반면에, 제임스 맥퍼슨 장군은 북부의 인구와 자원의 이점이 북부의 승리를 가능하게 했지만, 이는 필연적인 현상은 아니었다. 연방은 이기기 위하여 적의 영역을 침범하고 차지할 필요가 없었고, 이기는데의 비용이 너무 높다고 북부를 설득하기 위하여 방어전만 벌이면 되었다. 북부는 적의 광대한 영토를 정복하고 차지하여야 하였으며 연방을 물리쳐야 했다. 또다른 중요한 요소 중 하나는 국제적 목적을 합리화하기 위한 링컨 대통령의 말솜씨와 국경주들을 북부의 관할로 지켜내가 위한 그의 기술이었다. 비록 해방을 향한 링컨 대통령의 접근은 느렸지만, 노예 해방령은 대통령의 전쟁에 대한 압력의 효과적인 반영이었다.
남부 연합 정부는 군사적인 전쟁에 관련되어 유럽, 특히 영국과 프랑스를 얻기 위한 시도에 실패했다. 남부 지도자들은 북부 연합군이 만든 남부 항구들과 도시들을 둘러싼 봉쇄로를 깨기 위해 유럽의 힘을 얻어야만 했다. 링컨이 해군이 만든 그 봉쇄는 상품 무역을 멈추는 데 95%이 효과가 있었고 결과적으로 남부의 수입품들과 수출품들은 급격하게 감소했다. 유럽인들에겐 풍족한 면화와 노예제에 적대심을 가진 영국, 여기에 덧붙여 링컨의 대서양 해군봉쇄와 걸프의 멕시코 해군봉쇄까지. 이 모든 것들이 영국이나 프랑스 어느 한 국가라도 전쟁에 참여할 기회를 극심하게 떨어뜨렸다.
더욱 산업화된 북부에서는 교통, 재정적 지원과 더불어 무기, 군용품, 군수 물자와 같은 생산품을 지원하였다. 위의 표는 전쟁 초기의 미국 남부 연합과 비교한 북부의 상대적 수익을 나타낸다. 전쟁 기간 동안 경제의 성장으로 북부의 수익은 급속히 확대된 반면, 남부 연합의 영역은 수축되었고 경기 또한 약화되었다. 1861년, 북부 연합의 인구 수는 2200만, 남부 연합은 900만이었다. 남부의 인구는 350만 명 이상의 노예와 약 550만 명의 백인으로 이루어져 있었다. 즉 북부의 백인 인구는 남부의 백인 인구보다 4배 이상 많았다. 북부가 증가하는 남부 영역을 수비대를 주둔시켜 통제하면서, 그리고 남부의 미시시피 강 저편의 일부분을 차단하면서 이러한 백인 인구의 격차는 더욱 벌어졌다.
초기에 북부는 조선소, 기선, 강 배, 그리고 함대의 80% 이상을 통제하였다. 북부는 대규모의 조선업 계획으로 이러한 통제를 증대시켰다. 이것은 북부로 하여금 하천계를 통제할 수 있게 하였고, 남부 해안선 지역 전체를 차단할 수 있게 하였다. 북부 도시 사이의 훌륭한 철도로는 군대와 군용품들을 빠르고 값싸게 이동시킬 수 있게 하였다. 북부의 철도에 비해 훨씬 더 작은 철도 체계를 늘리거나, 손상을 수리하거나, 심지어 일과 관리를 수행할 수 없었던 남부의 교통은 더욱 더 침체되었다. 데이비스는 긍정적이며 생산적인 주지사[11] 와의 관계 유지에 실패하며 지역 자원을 끌어내는데 실패했다. 남부의 세계 경제에 대한 “King Cotton”[12] 이라는 잘못된 생각은 남부를 봉쇄가 시작되기 전에 목화를 수송하기 거절하는 등의 서투른 외교술로 이끌었다.
노예 해방령에 따라 해방된 흑인들과 탈출한 노예 흑인들 모두 북부 군에 입대할 수 있게 되었다. 약 190,000명의 지원으로 북부 군은 근본적으로 노예제도의 정당성의 약화를 두려워하며 북부의 인력 자원을 따라가지 못하는 남부보다 수적의 이득을 더욱 크게 볼 수 있었다. 해방된 노예들은 대부분 수비대 일을 했고, 1864-1865년 사이의 많은 전쟁에 참전했다. 177,000명의 독일 출신과 144,000명의 아일랜드 공화국 출신을 포함해 많은 유럽 이민자들은 북부 군에 입대했다.
재건
북군 지도자는 전쟁의 완료보다도 승리가 더 필요하다는 것에 동의했다. 이것은 연방탈퇴가 없어져야 하고, 모든 방면에서 노예가 사라져야 한다는 두가지 전쟁의 목표를 포함해야만 했다. 그들은 이러한 목표를 위하여 규범을 무시했고, 그들은 또한 남부에 가해질 북부연방 정부에 의한 제재의 정도에 반대했고, 남부가 북부연합에 재통합되는 과정에도 반대했다.
전쟁의 초기에 시작되어 1877년에 끝난 재편입은 복합적이었고, 북부연합과 국가 정책에 변화를 일으켰다. 오랜 기간에 걸쳐서 이것은 헌법에 3가지 편입 개정안을 만드는 결과를 낳았다. 이러한 13번 째 개정안은 노예제 폐지에 관련된 것이었고, 14번 째 개정안은 북부 연방의 보호를 인종에 관계없이 모든 사람에게 늘리는 것이고, 15번 째 개정안은 투표권 행사에 있어서 인종적 제한을 폐지하는 것이었다. 이러한 재편입은 다른 시간에 다른 주들에서 이루어지게 되었고, 1877년의 절충안에 의해 마지막 세 개도 끝났다.
결과
1865년 봄, 남부군이 항복하면서 미국의 노예 제도는 사실상 끝이 났다. 링컨 대통령은 《노예 해방 선언》에서 남부군 소속 지역의 노예들을 해방시킬 것을 선포했고, 이로 인해 남부의 모든 노예들은 자유의 몸이 되었다. 멕시코 접경지대와 남부 지역의 북부군 관할 구역 노예들은 나 1865년 12월 6일 비준된 로 하여금 해방되었다. 약 400만 명의 흑인 노예가 1861년부터 1865년 사이에 해방되었다.
북부의 완전한 복구 작업은 라고 알려진, 전후 상당히 혼란한 시기에 이루어졌다. 전쟁으로 인해 103만 명의 사상자(당시 인구의 3%)가 발생했고, 사상자 중 62만 명은 군인이었으며 그 가운데 2/3는 질병으로 인한 사망이었다. 남북 전쟁은 미국이 지금껏 참여한 모든 전쟁에서의 사망자 수와 맞먹는 수많은 미국인들의 죽음을 초래했다. 전쟁을 유발한 원인과 그 타당성 여부는 물론이고, 남북 전쟁이라는 그 명칭 자체도 오늘날까지 끊임없이 이야기되는 소재이다. 1860년대의 인구조사에 따르면, 13~43세 백인 남자 전체의 8%가 전쟁으로 인해 사망했고, 이 수치는 북부 인구의 6%, 남부의 18%나 된다. 약 56,000명의 군인이 남북 전쟁 중 감옥에서 죽었다.
전쟁으로 인한 사망자가 이렇게 많은 이유 중 하나로 돌격 등과 같은 나폴레옹 식 전술의 사용을 들 수 있다. 그리고 더욱 정밀한 강선의 개발과 미니에 탄환, 그리고 전쟁이 거의 끝날 무렵 북군에 의해 사용된 ‘스펜서 연발총’이나 시험적으로 사용되기 시작한 ‘개틀링 기관총’에 의해, 개활지에 포진해 있던 수많은 병사들은 전투가 시작되자마자 무참히 살해당했다. 이로 인해 제1차 세계대전 당시 주요한 전략으로 쓰인 전쟁 참호가 탄생했다.
작품
소설
바람과 함께 사라지다 (1936년 마거릿 미첼)
붉은 무공훈장 (1895년, 스테판 크레인)
영화
게티즈버그
신과 장군들(Gods and Generals)
영광의 깃발
바람과 함께 사라지다 (1939년, 감독: 빅터 플레밍)
드라마
존 휴스톤의 전사의 용기(The Red Badge of Courage, 1951)
미니시리즈 남과 북(North and South, 1985,1986)
같이 보기
내전
게티즈버그 전투
제1차 불런 전투
제2차 불런 전투
빅스버그 전투
셔먼 장군의 대행진
노예주와 자유주
경계주
각주
참고 문헌
《남북 전쟁: 새로운 자유의 탄생》, 박정기 저, 삶과꿈(L&D), 2002년 04월, ISBN89-7594-561-8
외부 링크
at Curlie
- 미국 국가 기록원
분류:미국의 전쟁
분류:북아메리카의 내전
분류:미국의 역사 (1849-1865)
| https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%AF%B8%EA%B5%AD%20%EB%82%A8%EB%B6%81%20%EC%A0%84%EC%9F%81 |
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حزب البعث العربي الاشتراكي كان حزب سياسي تأسس في سوريا على يد ميشيل عفلق وصلاح البيطار وزكي الأرسوزي. تبنى الحزب مفهوم البعثية (وتعني "النهضة" أو "الصحوة")، وهي خليط ايدلوجي من القومية عربية والوحدة عربية والاشتراكية عربية واللاإمبريالية. تدعو البعثية إلى توحيد الوطن العربي في دولة واحدة. شعاره "وحدة، حرية، اشتراكية"، يرمز إلى الوحدة العربية والتحرر من السيطرة والتدخل غير العربي.
تأسس الحزب بدمج حركة البعث العربي، بقيادة عفلق والبيطار، والبعث العربي بقيادة الأرسوزي، بتاريخ 7 أبريل 1947 تحت مسمى حزب البعث العربي. سرعان ما أنشأ الحزب فروعًا في الدول العربية الأخرى، لكنه لم يصل إلى السلطة سوى في العراق و سوريا. اندمج حزب البعث العربي مع الحزب العربي الاشتراكي الذي يقوده أكرم الحوراني في عام 1952 ليشكل حزب البعث العربي الاشتراكي. حقق الحزب الجديد نجاحاً نسبي، وأصبحت ثاني أكبر حزب في البرلمان السوري في الانتخابات التشريعية في سوريا 1954. هذا، وإلى جانب القوة المتزايدة للحزب الشيوعي السوري، أدى إلى إنشاء الجمهورية العربية المتحدة، وهو اتحاد بين مصر وسوريا. أثبت الاتحاد فشلة وتم حله بانقلاب سوري في عام 1961.
بعد تفكك الجمهورية العربية المتحدة، أعيد تشكيل حزب البعث. لكن خلال حكم الجمهورية العربية، أسس نشطاء عسكريون لجنة عسكرية للسيطرة على حزب البعث من أيدي المدنيين. وفي هذه الأثناء، أستولى الفرع العراقي من حزب البعث على السلطة في العراق من خلال تدبير وقيادة ثورة رمضان، لكنها فقدوا السلطة بعد بضعة أشهر، قبل أن يستعديوها مرة أخرى في انقلاب 17 تموز 1968. وقامت اللجنة العسكرية بموافقة عفلق، بالسيطرة على الحكم في سوريا في انقلاب 8 آذار 1963.
سرعان ما نشأ صراع على السلطة بين الفصيل المدني بقيادة عفلق والبيطار ومنيف الرزاز واللجنة العسكرية بقيادة صلاح جديد وحافظ الأسد. مع تدهور العلاقات بين الفصيلين، نظمت اللجنة العسكرية انقلاب عام 1966، الذي أطاح بالقيادة الوطنية بقيادة الرزاز وعفلق وأنصارهم. قسم انقلاب عام 1966 حزب البعث بين حركة البعث التي يهيمن عليها العراقيين وحركة البعث التي يهيمن عليها السوريين.
تاريخ
تأسس الحزب في 7 أبريل 1947 تحت مسمى حزب البعث العربي على يد ميشيل عفلق (مسيحي أنطاكي) وصلاح البيطار (مسلم سني)، وأتباع زكي الأرسوزي (ملحد) في دمشق بسوريا، مؤسساً بذلك الفرع القُطري السوري. وتأسست فروع أخرى في أنحاء العالم العربي في نهاية الأربعينات وبداية الخمسينات، كان من بينها فروع في العراق واليمن والأردن. خلال وجوده، أولت القيادة الوطنية (الهيئة المسؤولة عن الشؤون العربية) اهتماما كبيرا بالشؤون السورية. وعقد المؤتمر الوطني الثاني في يونيو 1954، وانتخب قيادة وطنية من سبعة رجال: عفلق وبيطار وأكرم الحوراني تم انتخابهم لتمثيل فرع القُطر السوري، بينما عبد الله الريماوي وعبدالله نواس تم انتخابهم لتمثيل فرع الأردن. المؤتمر معروف أيضاً بموافقته على إندماج حركة الاشتراكيين العرب مع حزب البعث، والذي حدث في عام 1952.
بدء فرع القطر السوري بالبروز في أربعينيات وخمسينيات القرن العشرين؛ في انتخابات عام 1954 البرلمانية، فاز الفرع السوري بـ 22 مقعدًا في البرلمان، وأصبح ثاني أكبر حزب في سوريا. 90 في المئة من أعضاء حزب البعث الذين ترشحوا في الانتخابات تم انتخابهم للبرلمان. أدى فشل الأحزاب التقليدية الممثلة بحزب الشعب والحزب الوطني إلى تعزيز مصداقية حزب البعث. ومن خلال هذا الموقف، تمكن الحزب من الحصول على اثنين من المناصب الحكومة لأعضائه؛ عُين بيطار وزيراً للخارجية وأصبح خليل كالاس وزيراً للاقتصاد. ثم تم استغلال موقفه الجديد القوي لتعزيز نجاح اندماج سورية مع مصر جمال عبد الناصر، مما أدى إلى إنشاء الجمهورية العربية المتحدة (UAR) في عام 1958.
في 24 يونيو 1954، قام فؤاد الركابي، الأمين القطري للفرع العراقي، باتهام القيادة الوطنية بخيانة المبادئ القومية العربية بالتآمر ضد الجمهورية العربية المتحدة. في ضوء هذه الانتقادات، عقد حزب البعث المؤتمر الوطني الثالث (عقد في 27 أغسطس - 1 سبتمبر 1959)، والذي حضره مندوبون من "العراق ولبنان والأردن وجنوب الجزيرة العربية والخليج والجنوب العربي والمغرب العربي وفلسطين ومنظمات طلاب حزبية في الجامعات العربية وغيرها من خارج الوطن [العربي]". المؤتمر معروف بتأييده حل الفرع الإقليمي السوري بقرار من عفلق وبيطار دون استشارة داخلية في عام 1958، وطرد الريماوي، الأمين القُطري للفرع الأردني. رد ريماوي على طرده من خلال تشكيل حزبه الخاص، حزب البعث العربي الاشتراكي الثوري، الذي بدوره أنشئ قيادة وطنية منافسة للقيادة الأصلية. ردت القيادة الوطنية على المشاكل في العراق بتعيين قيادة قطرية مؤقتة في 2 فبراير/شباط 1960، عين فيها طالب الشبيب كأمين قطري، وفي 15 يونيو/تموز 1961 طردت القيادة الوطنية الركابي من الحزب.
في العراق، دعم الفرع القطري العراقي استيلاء عبد الكريم قاسم على السلطة وإلغائه للنظام الملكي العراقي. دعم البعثيون العراقيون عبد الكريم قاسم على أساس أنهم اعتقداهم أنه سيدخل العراق في الجمهورية العربية المتحدة، موسعاً بذلك الجمهورية. لكن ثبت أن هذا الأمر مجرد حيلة، بعد أن انتهج قاسم سياسة العراق أولاً. رداً على ذلك، حاول حزب البعث اغتيال قاسم في فبراير/شباط 1959، لكن العملية (التي قادها الشاب صدام حسين) فشلت. تم إسقاط قاسم في ثورة رمضان بقيادة الضابط البعثي الشاب أحمد حسن البكر، ويشاع أن تكون مدعومة من قبل وكالة المخابرات المركزية الأمريكية (CIA). وتشير الوثائق التي رفعت عنها السرية وشهادة ضباط سابقين في وكالة المخابرات المركزية إلى أنه لم يكن هناك تدخل أمريكي مباشر، على الرغم من أن وكالة المخابرات المركزية قد أُخطرت سابقاً بمؤامرة انقلابية بعثية سابقة في يوليو/تموز 1962 على يد مخبر رفيع المستوى داخل الحزب. مسؤول وكالة المخابرات المركزية الذي كان يعمل مع أرشيبالد روزفلت الأبن على خطة منفصلة للتحريض على انقلاب عسكري ضد قاسم، والذي أصبح فيما بعد رئيس عمليات السي آي إيه في العراق وسوريا من أواخر عام 1968 إلى يونيو عام 1970 "نفى أي تورط في تصرفات حزب البعث". عندما استولى الفرع القطري العراقي على السلطة، كان ممزقًا بالخلافات الحزبية مما حذى بحلفائه لتدبير انقلاب مضاد أجبر البعثيين على الخروج من السلطة في نوفمبر 1963.
عقد المؤتمر الوطني الرابع في أغسطس 1961 وانتقد أعضائه قيادة عفلق وبيطار، ودعا إلى إعادة تأسيس الفرع القطري السوري، وقلل من التزام الحزب بالقومية العربية بينما شدد في الوقت ذاته على الطابع الاشتراكي للحزب. وبعد عام، وصلت الجمهورية العربية المتحدة إلى أسوء وضع لها في سوريا، ثم أطلق العقيد أركان حرب عبد الكريم النحلاوي انقلاب في 28 سبتمبر/آيلول 1961، أدى إلى إعادة تأسيس الجمهورية العربية السورية.
الحكم في سوريا والصراعات الداخلية وانقلاب 1966 والانقسام: 1963-1966
أدت تحديات بناء دولة بعثية إلى مناقشات أيديولوجي كبيرة وصراع داخلي داخل الحزب. سيطر الماركسي علي صالح السعدي على الفرع القطري العراقي بشكل متزايد. وتم دعمه في إعادة توجيهه الأيديولوجي من قبل حمود الشوفي، الأمين القطري للفرع السوري، إضافة إلى ياسين الحافظ، أحد المنظرين الإيديولوجيين القلائل في الحزب، وبعض أعضاء اللجنة العسكرية السرية. حصل الجناح الماركسي على أرضية جديدة في المؤتمر الوطني السادس (الذي عقد في أكتوبر 1963)، حيث دعا الفرعين القطريين العراقي والسوري إلى إنشاء "تخطيط اشتراكي" و"زراعة جماعية" يديرها الفلاحون و"السيطرة الديمقراطية للعمال على وسائل الإنتاج"، ومطالب أخرى تعكس محاكاة معينة للاشتراكية على النمط السوفييتي. احتفظ عفلق، الغاضب من هذا التحول الفكري في حزبه، بدور القيادة الاسمي ، لكن القيادة الوطنية ككل أصبحت تحت سيطرة المتطرفين. استولى حزب البعث على السلطة في عام 1963، ومنذ ذلك الحين كان حزب البعث هو الحزب السياسي السوري الوحيد المعترف به رسمياً، لكن الحزبية والانشقاق داخل الحزب أدى إلى تعاقب الحكومات والدساتير الجديدة. في 23 شباط/فبراير 1966، أطاح انقلاب قاده صلاح جديد، الرئيس الغير الرسمي للجنة العسكرية، بعفلق وحكومة بيطار. كان الانقلاب نتيجة التنافس داخل الحزب بين معسكر صلاح جديد "القطريين"، الذي روجوا إلى إنشاء سوريا الكبرى، والمعسكر القومي العربي التقليدي المعتدل "القوميين"، الذين كانوا في السلطة. يعتبر أنصار جديد أكثر يسارًا من عفلق وأقرانه. تمكن العديد من معارضي جديد من الهروب وفروا إلى بيروت. نقل جديد الحزب في اتجاه أكثر راديكالية. على الرغم من أنه ومؤيديه لم يكونوا مؤيدين لخط اليسار المتطرف المنتصر في مؤتمر الحزب السادس، إلا أنهم انتقلوا الآن إلى تبني مواقفه. وتم تطهير حزب البعث من معسكر المعتدلين الذين كان يقوده سابقاً عفلق وبيطار.
رغم أنه استغرق بضع سنوات، أدى انقلاب عام 1966 إلى إنشاء قيادتين وطنيتين متنافستين، واحدة يهيمن عليها السوريين وآخرى يهيمن عليها العراقيين. لكن في كل من العراق وسوريا، أصبحت القيادة القطرية هي المركز الحقيقي للسلطة الحزبية، وأصبحت عضوية القيادة الوطنية موقعًا فخريًا إلى حد كبير، وغالبًا ما تكون وجهة الشخصيات التي يتم إخراجها من السلطة. ونتيجة الانقسام أخذ زكي الأرسوزي مكان عفلق كالأب الرسمي للفكر البعثي في حركة البعث المؤيدة لسوريا، في حين أن حركة البعث المؤيدة للعراق لاتزال تعتبر عفلق الأب القانوني للفكر البعثي.
التنظيم
تم إنشاء الهيكل التنظيمي لحزب البعث في المؤتمر الوطني الثاني من خلال تعديل النظام الداخلي للحزب، والذي تمت الموافقة عليه في المؤتمر القومي الأول للحزب في عام 1947. وتم تشغيل الهيكل التنظيمي من أعلى إلى أسفل، وتم منع الأعضاء من إجراء اتصالات بين المجموعات على نفس المستوى من المؤسسة - يجب أن تمر جميع الاتصالات عبر مستوى أعلى في القيادة.
تنظيم قومي
كانت القيادة القومية هي الهيئة الحاكمة للحزب بين دورات المؤتمر القومي، وكان يرأسها أمين عام. وبين دورات المؤتمر القومي، كانت القيادة القومية مسؤولة أمام المجلس الاستشاري القومي. كان المجلس الاستشاري القومي عبارة عن منتدى يتكون من ممثلين من الفروع القطرية للحزب. لكن عدد أعضاء المجلس الاستشاري الوطني تم تحديده حسب حجم الفرع القطري. انتخب المؤتمر القومي القيادة القومية والمحكمة القومية والهيئة التأديبية للحزب والأمين العام، الذي هو زعيم الحزب. وقرر مندوبو المؤتمر سياسات الحزب وإجراءاته.
قبل عام 1954، حكمت اللجنة التنفيذية الحزب، ولكن تم استبدال هذا الجهاز إضافة إلى آخرين، في المؤتمر الوطني الثاني. في اللغة البعثية
"القوم" أو "الأمة" تعني الأمة العربية، وبسبب ذلك، شكلت القيادة القومية لتكون أعلى مجلس في صنع السياسات والتنسيق لحركة البعث في جميع أنحاء العالم العربي. كان لدى القيادة القومية عدة مكاتب، مماثلة لتلك الموجودة في القيادة القطرية. عقدت دورات القيادة القومية شهرياً. وكان مكتب الاتصال القومي مسؤولًا عن الحفاظ على الاتصال بالفروع الإقليمية التابعة للحزب.
تنظيم قُطري
يعكس مصطلح "القُطر" رفض الحزب الاعتراف بالدول العربية كدول قومية منفصلة. القطر في المصطلح البعثي يعني دولة عربية مثل العراق أو سوريا أو لبنان. كان المؤتمر القطري، الذي ضم جميع الفروع القطرية، هو أعلى سلطة في القطر. وكان مسؤول عن انتخاب قيادة قطرية وقيادة الحزب في منطقة محددة والمحكمة القطرية، والهيئة المسؤولة عن فحص الانضباط، والأمين القطري، الذي هو زعيم الحزب القطري. تكون المؤتمر القطري من مندوبين من الفروع المنتشرة في محافظات القطر. وحضر أعضاء آخرين، ولكن كمراقبين. كان المؤتمر القطري مسؤولاً عن تقييم أداء الحزب منذ المؤتمر القطري الأخير، بينما وضع في الوقت نفسه سياسات جديدة للفترة المقبلة، والتي استمرت حتى انعقاد المؤتمر القطري التالي. مدة هذه الفترة كانت تقررها القيادة القطرية. تعمل القيادة القطرية، على غرار قيادة الفرع، من خلال مكاتب وتجتمع لجلسات أسبوعية.
وتحت سلم القيادة القطرية كان هناك فروع. كانت الفروع أعلى من الشعب، ومكونة على الأقل من اثنين إلى خمسة شعب، وعملت على مستوى المحافظة. عقد الفرع مؤتمراً دورياً انتخبت فيه القيادة والأمين. عملت القيادة من خلال مكاتب، مثل مكتب العمال ومكتب الأمانة على سبيل المثال. تحت الفرع كانت الشعبة، الني تتكون من ثلاثة إلى خمسة قطاعات، "وكان ذلك أدنى مستوى للحزب يعقد مؤتمر دوري". كانت بعض الشعب مستقلة عن السلطة المركزية، وانتخبت قيادة وأمناء خاصين بها، في حين تم دمج الشعب الأخرى في فروع أعلى. في هذه الحالات يتم تعيين أمين الشعبة بواسطة الفرع.
القطاع الذي يتألف من قسمين إلى خمسة فرق، يعمل على مستوى حي مدينة كبير أو بلدة أو منطقة ريفية. وانتخبت قيادتها الخاصة ومؤلفة من خمسة أعضاء، ولكن الشعبة هي التي تعين أمين القيادة. أسفل من ذلك يتواجد الفرقة، التي تتألف من اثنين إلى سبعة خلايا، يديرها قائد الفرقة. مثل هذه المجموعات البعثية حدثت في جميع أنحاء البيروقراطية والجيش. وكانوا بمثابة مراقب الحزب وكانوا شكلاً فعالاً من أشكال المراقبة السرية داخل الإدارة العامة. أدنى مستوى كان الخلية. وتتألف من ثلاثة إلى سبعة أعضاء، وكانت الوحدة التنظيمية الأساسية.
كانت المؤسسة العسكرية مكونة من فروع مماثلة لتلك الموجودة في القطاع المدني لحزب البعث. ومع ذلك، وخلافا للقطاع المدني، كانت المنظمة العسكرية تحت سيطرة مكتب عسكري منفصل، وعقدت مؤتمرات عسكرية دورية. تتلاقى المؤسسة العسكرية مع المدنية في المؤتمر القطري.
عضوية
هناك ثلاثة أنواع من فئات العضوية في حزب البعث: عضو نشط، وعضو متدرب، وداعم. يجب على العضو النشط حضور جميع الاجتماعات الرسمية لوحدة حزبه، وله الحق في التصويت في الانتخابات الحزبية ويمكن أن يترشح لمكتب الحزب. في الفرع القطري السوري، كان على العضو قضاء 18 شهرًا كداعم ليتم ترقيته إلى حالة متدرب، ثم الانتظار لمدة 18 شهرًا أخرى للترقية إلى عضو نشط.
الإيديولوجية والسياسة
البعث الكلاسيكي: 1947-1960
الأمة العربية
منذ البداية، كان الحزب تعبيرا عن الفكر القومي العربي، حيث يشير إلى نفسه باسم "حزب الوحدة العربية". كما استبعدت إيديولوجية الحزب وأخضعت الأقليات الإقليمية مثل الأكراد والتركمان والآشوريين وغيرهم. تم تعزيز النزعات القومية العربية لسلفه، حركة البعث العربي خلال أعوام 1945 إلى 1947 عبر تجنيد أعضاء من حزب البعث العربي لزكي الأرسوزي. نصت المادة الأولى من دستور الحزب على أن "العرب يشكلون أمة واحدة. هذه الأمة لها الحق الطبيعي في العيش في دولة واحدة. [على هذا النحو]، يشكل الوطن العربي وحدة سياسية واقتصادية لا تتجزأ ولا يمكن لأي قطر عربي أن يستكمل شروط حياته منعزلاً عن الآخر."
للتعبير عن إيمانه العميق بالقومية العربية، صاغ عفلق مصطلح "أمة عربية واحدة ذات رسالة خالدة". فالإيديولوجية الحزبية والبعثية بشكل عام، لم تكن مبنية على مفاهيم مثل طهارة العرق العربي أو الشوفينية العرقية، بل على الأفكار المثالية المستعارة من عصر التنوير. ووفقاً لخبيرة الشرق الأوسط تابيثا بتران ، فإن الفكرة الأساسية لإيديولوجية الحزب كانت:
أن الأمة العربية هي كيان دائم في التاريخ. تعتبر الأمة العربية، من الناحية الفلسفية، ليس كتكوين اجتماعي واقتصادي، بل كحقيقة مبشرة تُلهم أشكالاً مختلفة، وأحد أرقى مساهماتها هي أتخاذها شكل الإسلام. لم يكن الإسلام هو الذي صاغ شعوب الجزيرة العربية والهلال الخصيب وشمال أفريقيا، مزوداً إياهم بالقيم الإسلامية، وخاصة اللغة العربية والثقافة العربية، بل الأمة العربية هي التي كونت الإسلام. إن هذا المفهوم للأمة العربية يبرز ضمنا المساهمة العربية في التاريخ. من ناحية أخرى، يمكن التغلب على الانحطاط العربي من خلال عمل تطوعي وروحي، ليس دينياً ولكن أخلاقيًا.
الفلاحين والعمال
في أيامه المبكرة أولى البعث اهتماماً قليل للمشاكل التي تواجه الفلاحين والعمال. ويقول حنا بطاطو حول ذلك: "كانت وجهة نظر عفلق حضرية. لم يكن الفلاحون أبدًا موضوعًا لاهتمامه الخاص. في كتاباته بالكاد هناك تعبير عن الاهتمام المركز في فلاحي البلاد." في حين أن الفلاحين والقضايا التي تواجههم مذكورة في بعض أعمال عفلق، لم يكاد يوجد أي عمق لهم أو للقضايا التي تواجههم. مثال على ذلك، في حالة واحدة يقول عفلق "[النضال الوطني] ... لا يمكن إلا أن يستند إلى عمومية العرب وهم لن يشاركوا فيه إذا تم استغلالهم". ثانياً، لم يكن لعفلق أي عداوة رسمية تجاه الإقطاعيين التقليديين. قضايا مثل هذه ستكتسب أهمية فقط عندما يصبح أكرم الحوراني شخصية بارزة في الحزب، وعندما استولى "البعثيون الانتقاليون" على السلطة. من بين الأعضاء الأربعة في اللجنة التنفيذية الأولى، كان وهيب الغانم هو الوحيد الذي أولى اهتماما كبيرا لمشاكل الفلاحين والعمال، لأن الأعضاء الآخرين (عفلق ، صلاح الدين البيطار وجليل السيد) كانوا ينتمون إلى الطبقة الوسطى ومتربين على قيمها.
لم يجذب البعث في البداية أتباعاً في المناطق الريفية. بل في الواقع، أثناء انعقاد المؤتمر التأسيسي للحزب، كان هناك فلاح واحد وعامل واحد فقط بين المندوبين الـ 217. معظم المندوبين كانوا إما مدرسين أو طلاب يدرسون في الجامعات. عندما اندمج الحزب العربي الاشتراكي لأكرم الحوراني مع حزب البعث، لم ينضم أغلبية أعضاء الحزب العربي الاشتراكي ذوي الأصول الريفية إلى حزب البعث، بل أصبحوا أتباع شخصيين لحوراني. ومع ذلك ، فإن غالبية أعضاء البعث كانت نشئتهم في المناطق الريفية. "البعث الانتقالي"، الذي انبثق من حلّ الفرع القطري السوري عام 1958 وحلّ اللجنة العسكرية، كان أكثر رجعية (ريفية) في النظرة والسياسة والأيديولوجيا.
"وحدة، حرية، اشتراكية"
شعار "وحدة، حرية، اشتراكية" هو المبدأ الأساسي في الفكر البعثي. وحدة تعني إنشاء دولة عربية موحدة قوية. حرية لا تعني ديمقراطية ليبرالية، بل بالأحرى التحرر من القمع الاستعماري وحرية التعبير وحرية الفكر. اعتقد عفلق أن حزب البعث، من الناحية النظرية على الأقل، سيحكم ويرشد الناس، في فترة انتقالية من الزمن دون استشارة الشعب، ومع ذلك فقد دعم ديمقراطية داخل الحزب. المبدأ الأخير، "الاشتراكية"، لم تكن تعني الاشتراكية كما هي محددة في الغرب، بل هي شكل فريد من الاشتراكية العربية. وفقاً للفكر البعثي، نشأت الاشتراكية تحت حكم النبي محمد. التفسير الأصلي للاشتراكية العربية لم يجب على أسئلة مثل: إلى أي درجة كانت سيطرة الدولة (اشتراكية الدولة) ضرورية أو المساواة الاقتصادية، بل ركزوا بدلاً من ذلك على تحرير الأمة العربية وشعبها من الاستعمار والظلم بشكل عام.
البعث الانتقالي: 1960-1964
القُطريون ضد القوميين
بعد فشل الجمهورية العربية المتحدة، تم تقسيم حزب البعث إلى فصيلين رئيسيين، القطريين والقوميين. عندما انهار الاتحاد مع مصر، وضع حزب البعث في موقف صعب، فهو ما زال الحزب يسعى إلى الوحدة العربية، لكنه لم يعارض حل الاتحاد، ولم يرغب في السعي إلى اتحاد آخر مع مصر تحت حكم جمال عبد الناصر. لكن لكونه الحزب الوحدوي الذي كان، لم يتمكن قادة الحزب من الإعلان عن موقفهم من هذه القضية. وكانت النتيجة النهائية أن القوميين المؤيدين للوحدة العربية داخل حزب البعث أصبحوا ناصريين ملتزمين. بينما القوميون الأكثر اعتدالاً من العرب أسسوا حزب الوحدويين الاشتراكيي المؤيد للناصريين. أما المجموعة الثالثة، التي قادها أشخاص محبطون من عبد الناصر ومن فترة الجمهورية المتحدة، فقد بقيت في حزب البعث، وتوقفت عن الاعتقاد في جاذبية العروبة. في 21 فبراير 1962، أصدرت القيادة الوطنية سياسة جديدة فيما يتعلق بالمشروع القومي العربي من خلال الإشارة أولاً إلى نجاحات وإخفاقات الجمهورية العربية المتحدة، لكن انهت البيان بالدعوة إلى إعادة تأسيس الجمهورية العربية المتحدة كاتحاد فيدرالي لامركزي مع مصر عبد الناصر. عارض العديد من قادة وأعضاء الحزب هذا التغير في السياسية، حيث كان العديد منهم محبطين من القومية العربية وحكم عفلق المستمر للحزب.
عندما أعيد تأسيس الفرع القطري السوري، كانت غالبية أعضائه في المحافظات ذوي أصول عامية- دروز وعلويين وإسماعيلين. لم يتم إخبار أعضاء الحزب في المحافظات السورية بقرار حل الفرع القطري، والذي في الواقع كسر خط الاتصال مع فروع المحافظات والقيادة الوطنية. صحيح أنه في عام 1962، دعم فصيل القطريين الشعار الذي اعتمد في المؤتمر الوطني الخامس، "تجديد الاتحاد مع مصر والاعتبار من أخطاء الماضي"، لكنهم اعتبروا مثل هذا الشعار كشعار دعائي، وليس كهدف قابل للتنفيذ.
"الطريق العربي للاشتراكية"
خيبة الأمل التي شعر بها أعضاء الحزب تجاه المشروع القومي العربي، أدت إلى تطرف تفسير الحزب للأشتراكية. كان ياسين الحافظ، العضو السابق في الحزب الشيوعي السوري، من أوائل المتصدرين لتطرف الحزب. رغم عدم معارضته لمشروع القومية العربية، لكنه أراد تحويل مفهوم الاشتراكية العربية إلى عقيدة اشتراكية علمية وثورية قامت بتكييف الماركسية مع الظروف المحلية. جمال الأتاسي، الذي كان اشتراكيا معتدلا في معظم حياته، دعا إلى التخلي عن الاشتراكية العربية في عام 1963 واعتماد "مفهوم الاشتراكية بحد أقصى" من خلال الادعاء بأن الصراع الطبقي كان القوة المتحركة في المجتمع.
أصبح حمود الشوفي زعيم الفصيل الماركسي في الحزب خلال فترة عمله القصيرة كأمين عام الفرع القطري السوري. تمكن شوفي، بسبب منصبه كرئيس لمكتب تنظيم القيادة القطرية، من تجنيد عدد من الأعضاء الماركسيين أو ذوي التوجه الماركسي إلى قمة التسلسل الهرمي للفرع القطري السوري. سيطر الاشتراكيون الراديكاليون بقيادة علي صالح السعدي على الفرع القطري العراقي في عام 1963، مما أدى إلى التطرف الرسمي في أيديولوجية الحزب.
نتخب المندوبون في المؤتمر القومي السادس لجنة أيديولوجية كانت مسؤولة عن كتابة ميثاق حول إيديولوجية الحزب. كانت النتيجة النهائية وثيقة نقاط المغادرة. الوثيقة التي وافق عليها المؤتمر الوطني السادس، هبطت بالوحدة العربية إلى دور ثانوي وأعطت الاشتراكية مكانة بارزة. استخدمت المفاهيم الماركسية بشكل متبادل جنبا إلى جنب مع المفاهيم البعثية، ومع ذلك كانت الوثيقة مترددة في الاعتراف صراحة بأن بعض الأفكار كانت من أصول ماركسية. في حين أن نقاط المغادرة لم تكن انفصال عن الإيديولوجية التقليدية للحزب، فقد انتقدت الاعضاء القدماء للحزب لإعطاء الوحدة العربية الأولية على الاشتراكية وفشلهم في تحويل البعث إلى نظرية شاملة. في حين أن وثائق الحزب تقول إن الوحدة العربية مشروع تقدمي، فإن سبب أهميتها قد تغير، حيث أعلنت وثيقة نقاط المغادرة: "الوحدة العربية أساس لا غنى عنه لبناء اقتصاد اشتراكي." كما اعتقد عفلق أيضاً أن الوحدة العربية كانت مجرد هدف وسيط، لكنها كانت تقف في مركز البعثية الكلاسيكية. بدى في نقاط المغادرة، على الرغم من عدم ذكره بقوة، أن هدف الرئيسي والمباشر للحزب الآن هو إنشاء مجتمع اشتراكي.
تم استبدال مفهوم الاشتراكية العربية، الذي اتهم بأنه ضيق الأفق وقومي، بمفهوم "الطريق العربي إلى الاشتراكية". وانتقدت نقاط المغادرة وجهة النظر البعثية الكلاسيكية فيما يتعلق بالملكية الخاصة. دعم البعثيون التقليديون الملكية الخاصة كطريقة لتجنيد العديد من العناصر البرجوازية الصغيرة. دعت الوثيقة إلى تأميم رؤوس الاقتصاد، والدمج البطيء للبرجوازية الصغيرة في الاقتصاد الاشتراكي والقضاء على البرجوازية الوطنية وطبقاتها الحليفة. لحماية الحزب من التطور إلى حزب داعم لرأسمالية دولة، سيخضع الاقتصاد الاشتراكي لسيطرة حزب طليعي مع مشاركة شعبية من الجماهير الكادحة.
البعث الجديد: 1964-1966
البعث الجديد مصطلح يستخدم لوصف التغيرات الدراماتيكية التي ظهرت في الفكر البعثي من 1960 إلى 1964، واستيلاء اللجنة العسكرية على الفرع القطري السوري والقيادة القومية في الفترة من 1964 إلى 1966. أظهر المؤتمر القومي السادس الاستيلاء على الحزب من قبل اليسار المناهض للعسكرة، والذي عارض كلا من القادة التقليديين في القيادة القومية والبراغماتيين في اللجنة العسكرية. عندما دعا اليسار المناهض للعسكرة إلى ديمقراطية شعبية، دون تدخل الجيش في السياسة الوطنية والنضال الشعبي، أصبحت اللجنة العسكرية قلقة. وبحلول عام 1965، بدأ اليساريون المناهضون للعسكرة في "نشر الشائعات حول الطابع اليميني للطاولة العسكرية (اللجنة العسكرية) داخل الحزب وجهودهم التخريبية لإغراقها. لم يكن هناك ضابط واحد في الحزب لم يكن متهما بالتآمر والميول الرجعية." بالتعاون مع القيادة القومية، نجحت اللجنة العسكرية في طرد اليسار المناهض للعسكرة من الحزب في المؤتمر القومي السابع. استولت اللجنة العسكرية، التي تسيطر الآن على الفرع القطري السوري، على حزب البعث في انقلاب عام 1966. ووفقًا لخبير الشرق الأوسط أفراهام بن تزور، فإن "البعث [الجديد] في أحدث أشكاله هو جهاز بيروقراطي يرأسه الجيش، تتشكل حياته اليومية وروتينه من القمع العسكري الصارم على الجبهة الداخلية، و[المساعدات السوفيتية من بين أمور أخرى] المساعدات العسكرية".
الفروع القُطرية
العراق
أسس فؤاد الركابي الفرع القُطري العراقي عام 1951 أو 1952. وهناك من يتتبعون تأسيس الفرع إلى عبد الرحمن الدامون وعبد الخالق الخضيري في عام 1947، بعد عودتهما من المؤتمر القومي الأول الذي عقد في سوريا. وهناك رواية أخرى تقول أن الفرع تأسس في عام 1948 من قبل الركابي وسعدون حمادي (مسلم شيعي). ومع ذلك، يؤكد إفرايم كارش وإناري راتسي أن الفرع القطري قد تم تأسيسه في الأربعينيات من القرن العشرين، ولكنه حصل على اعتراف رسمي باعتباره الفرع القطري لحزب البعث في عام 1952 من قبل القيادة القومية. ما هو مؤكد هو أن ركابي قد انتخب أول أمين قطري للفرع القطري في عام 1952.
تألف الحزب في البداية من أغلبية من المسلمين الشيعة، حيث جند الركابي أنصاره بشكل رئيسي من أصدقائه وعائلته، ولكن سرعان ما أصبح يهيمن عليه السنة. واجه الفرع القُطري وأحزاب أخرى ذات ميل قومي عربي صعوبات في تجنيد أعضاء شيعة. معظم الشيعة اعتبروا الأيديولوجية القومية العربية كمشروع سني، لأن غالبية العرب هم من السنة.
في وقت انقلاب 14 تموز سنة 1958، والتي أطاحت بالمملكة الهاشمية، كان لدى الفرع الإقليمي 300 عضو. أيد الفرع القُطري العراقي حكم عبد الكريم قاسم على أساس أنه سيسعى إلى ضم العراق إلى الجمهورية العربية المتحدة. من بين 16 عضواً في حكومة قاسم، كان 12 منهم أعضاء في حزب البعث. بعد توليه السلطة، قام قاسم بتغيير موقفه من الجمهورية العربية المتحدة، ليعود إلى "سياسة العراق أولاً" القديمة. هذا التحول أغضب الفرع القُطري والجماعات القومية العربية الأخرى. بسبب انعاكس سياسته، جمع الفرع القُطري مجموعة يقودها صدام حسين، حاولت لكنها فشلت في اغتيال قاسم.
استولى الفرع القُطري على السلطة في انقلاب 8 شباط عام 1963. قاد الانقلاب عضو بازر في الفرع القطري هو أحمد حسن البكر. وعين مخططوا الانقلاب عبد السلام عارف، وهو من الناصريين، إلى رئاسة الجمهورية في حين تم تعيين البكر رئيساً لوزراء البلاد. ومع ذلك كانت السلطة الحقيقية في يد علي صالح السعدي، الأمين القطري للحزب. بعد توليه السلطة، بدأ الفرع القُطري من خلال ميليشياه، الحرس القومي، ما أشار إليه الخبير بالشأن العراقي كون كوفلين بـ"عربدة من العنف" ضد العناصر الشيوعية واليسارية. أدت هذه الإجراءات القمعية إلى جانب الانقسامات داخل الفرع القٌطري إلى انقلاب 18 تشرين الثاني 1963 من قبل الرئيس عارف ومؤيديه الناصريين. يعتقد الخبير بالشأن العراقي مالك المفتي أن عفلق ربما أيد انقلاب عارف لأنه أضعف موقف السعدي داخل الحزب وعزز مكانته. أجبر الانقلاب الفرع القُطري على الاختباء. وتم سجن العديد من البعثيين البارزين، مثل البكر وصدام لفترة. على الرغم من ذلك، انتخب الفرع القطري البكر أمينا له في عام 1964. ثم قاد البكر انقلاب في 17 تموز 1968 أطاح بحكم عارف ووصل به وبحزب البعث إلى سدة الحكم.
سوريا
أخذت السياسة السورية منعطفاً دراماتيكياً في عام 1954 عندما أطيح بحكومة أديب الشيشكلي العسكرية وتم إعادة النظام الديمقراطي. حزب البعث، الذي أصبح الآن منظمة كبيرة وشعبية، حصل على 15 مقعدًا من أصل 142 مقعدًا في الانتخابات السورية في ذلك العام، ليصبح ثاني أكبر حزب في البرلمان. إضافة إلى الحزب الشيوعي السوري، كان حزب البعث هو الحزب الوحيد القادر على تنظيم احتجاجات جماهيرية بين العمال. كان الحزب مدعومًا من قبل المفكرين بسبب موقفهم المؤيد للمصريين والمعادي للإمبريالية إلى جانب الدعوة للإصلاح الاجتماعي.
واجه حزب البعث منافسة كبيرة من المنافسين الأيديولوجيين، ولا سيما الحزب السوري القومي الاجتماعي، الذي دعم إنشاء سوريا الكبرى. كان الخصم الرئيسي لحزب البعث هو حزب الشيوعي السوري، الذي كان دعمه للنضال الطبقي والوطنية لعنة على حزب البعث. بالإضافة إلى المنافسة على مستوى البرلمان، تنافست جميع هذه الأحزاب (وكذلك الإسلاميين) على مستوى الشارع في تجنيد الدعم من الجيش.
وبحلول نهاية عام 1957، تمكن الحزب الشيوعي السوري من إضعاف حزب البعث إلى حد أن حزب البعث صاغ مشروع قانون في ديسمبر دعا إلى الاتحاد مع مصر، وهي خطوة ثبتت شعبيتها. قامت قيادة حزب البعث بحل الحزب في عام 1958، مراهنين على أن حَظر بعض الأحزاب سيضر الحزب الشيوعي أكثر مما يضر حزب البعث.
أدى انقلاب عسكري في دمشق عام 1961 إلى وضع نهاية للجمهورية العربية المتحدة. وقع 16 سياسيا بارزا بيانا يدعم الانقلاب، من بينهم الحوراني وصلاح الدين البيطار (تراجع عن توقيعه لاحقاً). في أعقاب حل الجمهورية العربية المتحدة، أعيد تأسيس حزب البعث في المؤتمر القومي الخامس عام 1962. في ذلك المؤتمر لم تظهر اللجنة العسكرية نفسها للجناح المدني من الحزب. أثناء المؤتمر، أجرى عفلق واللجنة العسكرية، من خلال محمد عمران، اتصال للمرة الأولى؛ طلبت اللجنة الإذن لبدء انقلاب؛ عفلق أيد المؤامرة.
بعد نجاح انقلاب 8 شباط 1963 التي قادها الفرع القُطري العراقي لحزب البعث، دعت اللجنة العسكرية على عجل إلى الانقلاب ضد رئاسة ناظم القدسي. أثبت انقلاب 8 آذار نجاحه، وتم تأسيس حكومة بعثية في سوريا. أول أوامر مخططو الانقلاب كان إنشاء المجلس الوطني لقيادة الثورة، المكون بالكامل من البعثيين والناصريين، وسيطر عليه الأفراد العسكريون وليس المدنيين منذ البداية. بينما وصل حزب البعث إلى السلطة، كانت هناك مشكلة: الصراعات داخله. أجبرت اللجنة العسكرية، التي كانت في حد ذاتها أقلية ضئيلة من عضوية حزب البعث الصغيرة أصلا، على الحكم بالقوة. كان لحزب البعث 2500 عضو فقط بحلول منتصف عام 1963، حيث كان يفتقر إلى قاعدة شعبية. حتى لو توسعت عضوية الحزب، فإن الطريقة الاستبدادية للحكم التي استقدمها الحزب عند وصوله إلى السلطة سوف تسوء، ولن تتحسن.
مشكلة أخرى هي أن الجناح المدني كان ممزقًا بسبب الاقتتال الداخلي بين الفصيل الاشتراكي المتطرف والآخر المعتدل، بينما كان الجيش موحداً أكثر. وبكل الاحوال، جمعت القيادة القطرية السورية سلطاتها ببطء من خلال إضعاف القيادة القومية. كل هذا وصل إلى ذروته في الانقلاب السوري عام 1966.
الأردن
بعد تأسيس الحزب في سوريا، انتشرت الأفكار البعثية في جميع أنحاء العالم العربي. في الأردن، انتشر الفكر البعثي لأول مرة في الضفة الشرقية في أواخر أربعينيات القرن العشرين، وعلى الأخص في الجامعات. في حين أن الفرع القُطري لم يتم تشكيله حتى عام 1951، عقدت عدة اجتماعات في الجامعات حيث كان الطلاب والأساتذة على حد سواء يناقشون الفكر البعثي. على الرغم من أن الأيديولوجية تحظى بشعبية كبيرة، فقد استغرق الأمر وقتًا قبل إنشاء الفرع القُطري. قامت مجموعة من المعلمين بتأسيس الفرع القُطري في مدينة الكرك. في البداية، تم استخدام العيادة التي يملكها عبد الرحمن شقير كمكان للاجتماع الفرع. أصبح بهجت أبو غربية أول عضو في الفرع الإقليمي في الضفة الغربية، وبالتالي تحمل مسؤولية بناء تنظيم الحزب في تلك المنطقة. في الضفة الغربية، كان الفرع الأكثر نشاطًا في مدينتي القدس ورام الله.
عقد المؤتمر الإقليمي الأول في عام 1951 في منزل عبد الله الريماوي. حدد المؤتمر "المسار المستقبلي للحزب". وعُقد المؤتمر الإقليمي الثاني في العام التالي، هذه المرة في منزل عبد الله نواس. انتخبت قيادة قطرية وعيّنت الريماوي كأمين قطري للفرع. ووافق الشقير وغربية ونواس على الخدمة في اللجنة المركزية للفرع القطري. بعد فترة قصيرة من انعقاد المؤتمر الإقليمي الثاني، أطلق الفرع حملة تجنيد ناجحة في الأحياء والمدن الأردنية والفلسطينية. في 28 أغسطس 1956 أصبح الفرع قانونياً بقرار من قبل المحكمة العليا. تم انتخاب كل من الريماوي ونواس انتخبوا للبرلمان في انتخابات 1950 و 1951 كنواب مستقلين (لم يكن الفرع قانونيًا في ذلك الوقت). في انتخابات 1951، تمكن الفرع من انتخاب ثلاثة أعضاء للبرلمان. تمكن الريماوي من الاحتفاظ بمقعده في البرلمان حتى انتخابات 1956. لا يمكن اعتبار أي من هذه الانتخابات ديمقراطية. تم سجن شقير خلال انتخابات 1951 من قبل السلطات لأن وجهات نظره اعتبرت راديكالية. قبل أقل من شهر من يوم الانتخابات، قدرت السفارة البريطانية في عمان أن شقير سوف يحصل على نصر سهل. ومع ذلك، وبسبب الطبيعة غير الديمقراطية للانتخابات، لم يتم انتخاب شقير. كان الناخبون الذين صوتوا لصالح مرشحين بعثيين يعيشون في إربد وعمان على الضفة الشرقية، والقدس ونابلس في الضفة الغربية.
نفت الحكومة الأردنية شقير إلى جنوب البلاد، وهناك استخدم وقت فراغه في قراءة الأدب الماركسي واللينيني. ورغم أنه لم يصبح شيوعيا، لكن بدأ شقير يدعم مفاهيم شيوعية. بعد عودته من المنفى حاول إقناع الفرع القُطري بالانضمام إلى جبهة انتخابية مع الحزب الشيوعي الأردني. لكن عارض قادة الفرع القُطري الريماوي ونواس والغربية ومنيف الرزاز مثل هذه الفكرة، وبسبب ذلك غادر شقير حزب البعث.
تم انتخاب الريماوي ونواس للقيادة القومية في المؤتمر القومي الثاني (الذي عقد في عام 1952). في المؤتمر القومي السادس والسابع، انتخب الفرع القطري الرزاز إلى القيادة القومية.
لبنان
تم تأسيس الفرع الإقليمي اللبناني في 1949-1950. وخلال فترة وجود الجمهورية العربية المتحدة، تم تقسيم الفرع الإقليمي إلى فصيلين، أولئك الذين يدعمون ناصر والذين يعارضونه. الفرع الإقليمي كان الأقوى في مدينة طرابلس. في انتخابات عام 1960، كان عبد المجيد الرفاعي على بعد أصوات قليلة من الفوز بالانتخابات البرلمانية. واجه الرفاعي مشكلة مستمرة أثناء حملته الانتخابية وهي النقد الموجه له وللفرع القطري من قبل الحزب الشيوعي اللبناني. في طرابلس دعم الشيوعيون ترشيح رشيد كرامي، لضمان انتصار على الفرع القطري. في 17 يوليو 1961، قامت مجموعة من البعثيين المناصرين بقيادة عبد الله الريماوي بإطلاق النار على العديد من أعضاء الفرع القطري.
خلال سنوات حكم الجمهورية المتحدة، عبرت نفسإلى الفرع اللبناني. في المؤتمر القومي الرابع (الذي عقد في لبنان)، والذي حضره الانقسامات الحزبية من الفرع السوري بشكل رئيسي مندوبون يمثلون لبنان، تمت الموافقة على عدة قرارات بلهجة واضحة مناهضة لناصر. وفي الوقت نفسه، كان انتقاد الموجه إلى عفلق وبيطار قاسياً، حيث تم انتقاد سجل قيادتهما وأيديولوجيتهما. تمت الموافقة على قرار، ينص على أن قادة الحزب [عفلق والبيطار من بين آخرين تعجلوا بالدخول في اتحاد مع مصر، وقاموا بشكل غير صحيح بحل الفرع الإقليمي السوري في عام 1958، معطين القومية العربية الأولوية بينما كانت الاشتراكية هي الأهم، والحاجة إلى استخدام الأدوات الماركسية، وليس البعثية، لتحليل الوضع الحالي والحاجة إلى أن يعزز الحزب من مواقفه بين الطبقات الشعبية - العمال والفلاحين والحرفيين وأصحاب المتاجر. بسبب موقف الفرع القطري اللبناني، دعا عفلق في المؤتمر الوطني الخامس عدداً كافياً من مندوبي الفرع القطري العراقي لتحييد المندوبين اللبنانيين. وفي الوقت نفسه، عارض الفرع القطري اللبناني حوراني وفصيله. في المؤتمر القومي السادس، انتخب الفرع القطري اللبناني جبران مجدلاني وخالد العلي للقيادة القومية.
في المؤتمر القومي السابع، قامت القيادة القومية بالتعاون مع اللجنة العسكرية إما بطرد أو إبعاد اليساريين، وفي الحالات الأكثر قسوة، طردتهم من الحزب. نجح الفرع القطري اللبناني في انتخاب ثلاثة أعضاء للقيادة القومية في المؤتمر القومي السابع: مجدلاني والعلي وعبد المجيد رافي.
ليبيا
تأسس الفرع الإقليمي في الخمسينات على يد عمر طاهر دغايس. كانت البعثية قوة سياسية رئيسية في ليبيا بعد تأسيس الجمهورية العربية المتحدة. تم استقطاب العديد من المفكرين إلى الأيديولوجية البعثية خلال السنوات الأخيرة من المملكة الليبية. ومع ذلك، وبمساعدة من الدعاية الناصرية، قام العديد من البعثيين بتغيير الانتماء وأصبحوا ناصرين بدلاً من ذلك. كان نمو هذه الأيديولوجيات القومية العربية يقلق الحكومة ، مما أدى إلى سجن عدد من الضباط العسكريين الناصريين والبعثيين في أوائل الستينات. اتهم البعثي بالعمل على قلب النظام السياسي والاقتصادي والاجتماعي في المملكة. تراوحت الأحكام بالسجن من ثمانية أشهر إلى سنتين. وبحلول عام 1964، لم يتمكن الفرع الإقليمي الليبي إلا من إنشاء مستوى واحد أقل من القيادة القطري، وهو مستوى الفرع. وقدر الأخصائي بالشأن السوري جون ديفلين أن الفرع الإقليمي الليبي كان يضم من 50 إلى 150 عضوا في عام 1964.
أقطار أخرى
بعد تأسيس حزب البعث، تم تأسيس فروع قطرية في الكويت والمملكة العربية السعودية. ثن فروع في شمال اليمن وجنوب اليمن. في تونس، تأسس فرع قطري في الخمسينيات من القرن العشرين، لكنه أُجبر على العمل بالسر طوال فترة وجوده. انتخب الفرع القطري السعودية علي الغنّام لتمثيلهم في القيادة القومية السابعة. في حين أنه غير معروف حاليا أي جانب التحق به البعث السعودي بعد انقسام عام 1966، لكنها نشرت صحيفة "صوت الطلائع" من 1973 إلى 1980. كان الفرع منتقدًا قويًا للعائلة المالكة السعودية والإمبريالية الأمريكية. كان أغلب أعضائه شيعة. في أواخر عام 1963، تم إنشاء خلايا البعث في السودان، وكانت هناك شائعات حول تأسيس خلية بعثية في مصر.
المراجع
مواضيع ذات صلة
بعثية
حزب البعث العربي الاشتراكي (سوريا)
حزب البعث العراقي
حزب البعث العربي الاشتراكي الأردني
حزب طليعة لبنان العربي الاشتراكي
حزب البعث العربي الاشتراكي الكويتي
احتجاجات حماه 1964.
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انتهاكات مسندة إلى بشار الأسد
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القوات المسلحة العراقية
الحرب الأهلية السورية
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Nuclear physics
Nucleus· Nucleons(p, n)· Nuclear matter· Nuclear force· Nuclear structure· Nuclear reaction
Models of the nucleusLiquid drop· Nuclear shell model· Interacting boson model· Ab initio
Nuclides' classificationIsotopes – equal Z
Isobars – equal A
Isotones – equal N
Isodiaphers – equal N − Z
Isomers – equal all the above
Mirror nuclei – Z ↔ N
Stable· Magic· Even/odd· Halo
Nuclear stabilityBinding energy· p–n ratio· Drip line· Island of stability· Valley of stability
Radioactive decayAlpha α· Beta β (2β, β+)· K/Lcapture· Isomeric (Gamma γ· Internal conversion)· Spontaneous fission· Cluster decay· Neutron emission· Proton emissionDecay energy· Decay chain· Decay product· Radiogenic nuclide
Nuclear fissionSpontaneous· Products (pair breaking)· Photofission
Capturing processeselectron (2×)· neutron (s· r)· proton (p· rp)
High-energy processesSpallation (by cosmic ray)· Photodisintegration
Nucleosynthesis and
nuclear astrophysicsNuclear fusion
Processes: Stellar· Big Bang· Supernova
Nuclides: Primordial· Cosmogenic· Artificial
High-energy nuclear physicsQuark–gluon plasma· RHIC· LHC
ScientistsAlvarez· Becquerel· Bethe· A.Bohr· N.Bohr· Chadwick· Cockcroft· Ir.Curie· Fr.Curie· Pi.Curie· Skłodowska-Curie· Davisson· Fermi· Hahn· Jensen· Lawrence· Mayer· Meitner· Oliphant· Oppenheimer· Proca· Purcell· Rabi· Rutherford· Soddy· Strassmann· Świątecki· Szilárd· Teller· Thomson· Walton· Wignervt
Nuclear physics is the field of physics that studies atomic nuclei and their constituents and interactions. Other forms of nuclear matter are also studied.[1]
Nuclear physics should not be confused with atomic physics, which studies the atom as a whole, including its electrons.
Discoveries in nuclear physics have led to applications in many fields. This includes nuclear power, nuclear weapons, nuclear medicine and magnetic resonance imaging, industrial and agricultural isotopes, ion implantation in materials engineering, and radiocarbon dating in geology and archaeology. Such applications are studied in the field of nuclear engineering.
Particle physics evolved out of nuclear physics and the two fields are typically taught in close association. Nuclear astrophysics, the application of nuclear physics to astrophysics, is crucial in explaining the inner workings of stars and the origin of the chemical elements.
History
The history of nuclear physics as a discipline distinct from atomic physics starts with the discovery of radioactivity by Henri Becquerel in 1896,[2] while investigating phosphorescence in uranium salts.[3] The discovery of the electron by J. J. Thomson[4] a year later was an indication that the atom had internal structure. At the beginning of the 20th century the accepted model of the atom was J. J. Thomson's "plum pudding" model in which the atom was a positively charged ball with smaller negatively charged electrons embedded inside it.
In the years that followed, radioactivity was extensively investigated, notably by Marie and Pierre Curie as well as by Ernest Rutherford and his collaborators. By the turn of the century physicists had also discovered three types of radiation emanating from atoms, which they named alpha, beta, and gamma radiation. Experiments by Otto Hahn in 1911 and by James Chadwick in 1914 discovered that the beta decay spectrum was continuous rather than discrete. That is, electrons were ejected from the atom with a continuous range of energies, rather than the discrete amounts of energy that were observed in gamma and alpha decays. This was a problem for nuclear physics at the time, because it seemed to indicate that energy was not conserved in these decays.
The 1903 Nobel Prize in Physics was awarded jointly to Becquerel for his discovery and to Marie and Pierre Curie for their subsequent research into radioactivity. Rutherford was awarded the Nobel Prize in Chemistry in 1908 for his "investigations into the disintegration of the elements and the chemistry of radioactive substances".
In 1905 Albert Einstein formulated the idea of mass–energy equivalence. While the work on radioactivity by Becquerel and Marie Curie predates this, an explanation of the source of the energy of radioactivity would have to wait for the discovery that the nucleus itself was composed of smaller constituents, the nucleons.
Rutherford's team discovers the nucleus
In 1906 Ernest Rutherford published "Retardation of the α Particle from Radium in passing through matter."[5] Hans Geiger expanded on this work in a communication to the Royal Society[6] with experiments he and Rutherford had done, passing alpha particles through air, aluminum foil and gold leaf. More work was published in 1909 by Geiger and Ernest Marsden,[7] and further greatly expanded work was published in 1910 by Geiger.[8] In 1911–1912 Rutherford went before the Royal Society to explain the experiments and propound the new theory of the atomic nucleus as we now understand it.
The key experiment behind this announcement was performed in 1910 at the University of Manchester: Ernest Rutherford's team performed a remarkable experiment in which Geiger and Marsden under Rutherford's supervision fired alpha particles (helium nuclei) at a thin film of gold foil. The plum pudding model had predicted that the alpha particles should come out of the foil with their trajectories being at most slightly bent. But Rutherford instructed his team to look for something that shocked him to observe: a few particles were scattered through large angles, even completely backwards in some cases. He likened it to firing a bullet at tissue paper and having it bounce off. The discovery, with Rutherford's analysis of the data in 1911, led to the Rutherford model of the atom, in which the atom had a very small, very dense nucleus containing most of its mass, and consisting of heavy positively charged particles with embedded electrons in order to balance out the charge (since the neutron was unknown). As an example, in this model (which is not the modern one) nitrogen-14 consisted of a nucleus with 14 protons and 7 electrons (21 total particles) and the nucleus was surrounded by 7 more orbiting electrons.
Around 1920, Arthur Eddington anticipated the discovery and mechanism of nuclear fusion processes in stars, in his paper The Internal Constitution of the Stars.[9][10] At that time, the source of stellar energy was a complete mystery; Eddington correctly speculated that the source was fusion of hydrogen into helium, liberating enormous energy according to Einstein's equation E = mc2. This was a particularly remarkable development since at that time fusion and thermonuclear energy, and even that stars are largely composed of hydrogen (see metallicity), had not yet been discovered.
The Rutherford model worked quite well until studies of nuclear spin were carried out by Franco Rasetti at the California Institute of Technology in 1929. By 1925 it was known that protons and electrons each had a spin of +/-1⁄2. In the Rutherford model of nitrogen-14, 20 of the total 21 nuclear particles should have paired up to cancel each other's spin, and the final odd particle should have left the nucleus with a net spin of 1⁄2. Rasetti discovered, however, that nitrogen-14 had a spin of 1.
James Chadwick discovers the neutron
In 1932 Chadwick realized that radiation that had been observed by Walther Bothe, Herbert Becker, Irène and Frédéric Joliot-Curie was actually due to a neutral particle of about the same mass as the proton, that he called the neutron (following a suggestion from Rutherford about the need for such a particle).[11] In the same year Dmitri Ivanenko suggested that there were no electrons in the nucleus — only protons and neutrons — and that neutrons were spin 1⁄2 particles which explained the mass not due to protons. The neutron spin immediately solved the problem of the spin of nitrogen-14, as the one unpaired proton and one unpaired neutron in this model each contributed a spin of 1⁄2 in the same direction, giving a final total spin of 1.
With the discovery of the neutron, scientists could at last calculate what fraction of binding energy each nucleus had, by comparing the nuclear mass with that of the protons and neutrons which composed it. Differences between nuclear masses were calculated in this way. When nuclear reactions were measured, these were found to agree with Einstein's calculation of the equivalence of mass and energy to within 1% as of 1934.
Proca's equations of the massive vector boson field
Alexandru Proca was the first to develop and report the massive vector boson field equations and a theory of the mesonic field of nuclear forces. Proca's equations were known to Wolfgang Pauli[12] who mentioned the equations in his Nobel address, and they were also known to Yukawa, Wentzel, Taketani, Sakata, Kemmer, Heitler, and Fröhlich who appreciated the content of Proca's equations for developing a theory of the atomic nuclei in Nuclear Physics.[13][14][15][16][17]
Yukawa's meson postulated to bind nuclei
In 1935 Hideki Yukawa[18] proposed the first significant theory of the strong force to explain how the nucleus holds together. In the Yukawa interaction a virtual particle, later called a meson, mediated a force between all nucleons, including protons and neutrons. This force explained why nuclei did not disintegrate under the influence of proton repulsion, and it also gave an explanation of why the attractive strong force had a more limited range than the electromagnetic repulsion between protons. Later, the discovery of the pi meson showed it to have the properties of Yukawa's particle.
With Yukawa's papers, the modern model of the atom was complete. The center of the atom contains a tight ball of neutrons and protons, which is held together by the strong nuclear force, unless it is too large. Unstable nuclei may undergo alpha decay, in which they emit an energetic helium nucleus, or beta decay, in which they eject an electron (or positron). After one of these decays the resultant nucleus may be left in an excited state, and in this case it decays to its ground state by emitting high energy photons (gamma decay).
The study of the strong and weak nuclear forces (the latter explained by Enrico Fermi via Fermi's interaction in 1934) led physicists to collide nuclei and electrons at ever higher energies. This research became the science of particle physics, the crown jewel of which is the standard model of particle physics which describes the strong, weak, and electromagnetic forces.
Modern nuclear physics
A heavy nucleus can contain hundreds of nucleons. This means that with some approximation it can be treated as a classical system, rather than a quantum-mechanical one. In the resulting liquid-drop model,[19] the nucleus has an energy which arises partly from surface tension and partly from electrical repulsion of the protons. The liquid-drop model is able to reproduce many features of nuclei, including the general trend of binding energy with respect to mass number, as well as the phenomenon of nuclear fission.
Superimposed on this classical picture, however, are quantum-mechanical effects, which can be described using the nuclear shell model, developed in large part by Maria Goeppert Mayer[20] and J. Hans D. Jensen.[21] Nuclei with certain numbers of neutrons and protons (the magic numbers 2, 8, 20, 28, 50, 82, 126, ...) are particularly stable, because their shells are filled.
Other more complicated models for the nucleus have also been proposed, such as the interacting boson model, in which pairs of neutrons and protons interact as bosons, analogously to Cooper pairs of electrons.
Ab initio methods try to solve the nuclear many-body problem from the ground up, starting from the nucleons and their interactions.[22]
Much of current research in nuclear physics relates to the study of nuclei under extreme conditions such as high spin and excitation energy. Nuclei may also have extreme shapes (similar to that of Rugby balls or even pears) or extreme neutron-to-proton ratios. Experimenters can create such nuclei using artificially induced fusion or nucleon transfer reactions, employing ion beams from an accelerator. Beams with even higher energies can be used to create nuclei at very high temperatures, and there are signs that these experiments have produced a phase transition from normal nuclear matter to a new state, the quark–gluon plasma, in which the quarks mingle with one another, rather than being segregated in triplets as they are in neutrons and protons.
Nuclear decay
Eighty elements have at least one stable isotope which is never observed to decay, amounting to a total of about 254 stable isotopes. However, thousands of isotopes have been characterized as unstable. These "radioisotopes" decay over time scales ranging from fractions of a second to trillions of years. Plotted on a chart as a function of atomic and neutron numbers, the binding energy of the nuclides forms what is known as the valley of stability. Stable nuclides lie along the bottom of this energy valley, while increasingly unstable nuclides lie up the valley walls, that is, have weaker binding energy.
The most stable nuclei fall within certain ranges or balances of composition of neutrons and protons: too few or too many neutrons (in relation to the number of protons) will cause it to decay. For example, in beta decay a nitrogen-16 atom (7 protons, 9 neutrons) is converted to an oxygen-16 atom (8 protons, 8 neutrons)[23] within a few seconds of being created. In this decay a neutron in the nitrogen nucleus is converted by the weak interaction into a proton, an electron and an antineutrino. The element is transmuted to another element, with a different number of protons.
In alpha decay (which typically occurs in the heaviest nuclei) the radioactive element decays by emitting a helium nucleus (2 protons and 2 neutrons), giving another element, plus helium-4. In many cases this process continues through several steps of this kind, including other types of decays (usually beta decay) until a stable element is formed.
In gamma decay, a nucleus decays from an excited state into a lower energy state, by emitting a gamma ray. The element is not changed to another element in the process (no nuclear transmutation is involved).
Other more exotic decays are possible (see the first main article). For example, in internal conversion decay, the energy from an excited nucleus may eject one of the inner orbital electrons from the atom, in a process which produces high speed electrons, but is not beta decay, and (unlike beta decay) does not transmute one element to another.
Nuclear fusion
In nuclear fusion, two low mass nuclei come into very close contact with each other, so that the strong force fuses them. It requires a large amount of energy for the strong or nuclear forces to overcome the electrical repulsion between the nuclei in order to fuse them; therefore nuclear fusion can only take place at very high temperatures or high pressures. When nuclei fuse, a very large amount of energy is released and the combined nucleus assumes a lower energy level. The binding energy per nucleon increases with mass number up to nickel-62. Stars like the Sun are powered by the fusion of four protons into a helium nucleus, two positrons, and two neutrinos. The uncontrolled fusion of hydrogen into helium is known as thermonuclear runaway. A frontier in current research at various institutions, for example the Joint European Torus (JET) and ITER, is the development of an economically viable method of using energy from a controlled fusion reaction.
Nuclear fusion is the origin of the energy (including in the form of light and other electromagnetic radiation) produced by the core of all stars including our own Sun.
Nuclear fission
Nuclear fission is the reverse process to fusion. For nuclei heavier than nickel-62 the binding energy per nucleon decreases with the mass number. It is therefore possible for energy to be released if a heavy nucleus breaks apart into two lighter ones.
The process of alpha decay is in essence a special type of spontaneous nuclear fission. It is a highly asymmetrical fission because the four particles which make up the alpha particle are especially tightly bound to each other, making production of this nucleus in fission particularly likely.
From certain of the heaviest nuclei whose fission produces free neutrons, and which also easily absorb neutrons to initiate fission, a self-igniting type of neutron-initiated fission can be obtained, in a chain reaction. Chain reactions were known in chemistry before physics, and in fact many familiar processes like fires and chemical explosions are chemical chain reactions. The fission or "nuclear" chain-reaction, using fission-produced neutrons, is the source of energy for nuclear power plants and fission type nuclear bombs, such as those detonated in Hiroshima and Nagasaki, Japan, at the end of World War II. Heavy nuclei such as uranium and thorium may also undergo spontaneous fission, but they are much more likely to undergo decay by alpha decay.
For a neutron-initiated chain reaction to occur, there must be a critical mass of the relevant isotope present in a certain space under certain conditions. The conditions for the smallest critical mass require the conservation of the emitted neutrons and also their slowing or moderation so that there is a greater cross-section or probability of them initiating another fission. In two regions of Oklo, Gabon, Africa, natural nuclear fission reactors were active over 1.5 billion years ago.[24] Measurements of natural neutrino emission have demonstrated that around half of the heat emanating from the Earth's core results from radioactive decay. However, it is not known if any of this results from fission chain reactions.
Production of "heavy" elements
According to the theory, as the Universe cooled after the Big Bang it eventually became possible for common subatomic particles as we know them (neutrons, protons and electrons) to exist. The most common particles created in the Big Bang which are still easily observable to us today were protons and electrons (in equal numbers). The protons would eventually form hydrogen atoms. Almost all the neutrons created in the Big Bang were absorbed into helium-4 in the first three minutes after the Big Bang, and this helium accounts for most of the helium in the universe today (see Big Bang nucleosynthesis).
Some relatively small quantities of elements beyond helium (lithium, beryllium, and perhaps some boron) were created in the Big Bang, as the protons and neutrons collided with each other, but all of the "heavier elements" (carbon, element number 6, and elements of greater atomic number) that we see today, were created inside stars during a series of fusion stages, such as the proton-proton chain, the CNO cycle and the triple-alpha process. Progressively heavier elements are created during the evolution of a star.
Since the binding energy per nucleon peaks around iron (56 nucleons), energy is only released in fusion processes involving smaller atoms than that. Since the creation of heavier nuclei by fusion requires energy, nature resorts to the process of neutron capture. Neutrons (due to their lack of charge) are readily absorbed by a nucleus. The heavy elements are created by either a slow neutron capture process (the so-called s-process) or the rapid, or r-process. The s process occurs in thermally pulsing stars (called AGB, or asymptotic giant branch stars) and takes hundreds to thousands of years to reach the heaviest elements of lead and bismuth. The r-process is thought to occur in supernova explosions which provide the necessary conditions of high temperature, high neutron flux and ejected matter. These stellar conditions make the successive neutron captures very fast, involving very neutron-rich species which then beta-decay to heavier elements, especially at the so-called waiting points that correspond to more stable nuclides with closed neutron shells (magic numbers).
See also
Isomeric shift
Neutron-degenerate matter
Nuclear matter
Nuclear model
QCD matter
Bibliography
General Chemistry by Linus Pauling (Dover 1970) ISBN0-486-65622-5
Introductory Nuclear Physics by Kenneth S. Krane (3rd edition, 1987) ISBN978-0471805533 [Undergraduate textbook]
Theoretical Nuclear And Subnuclear Physics by John D. Walecka (2nd edition, 2004) ISBN9812388982 [Graduate textbook]
, BBC Radio 4 discussion with Jim Al-Khalili, John Gribbin and Catherine Sutton (In Our Time, Jan. 10, 2002)
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Kerajaan Israel (Samaria) () adalah salah satu negara penerus Kerajaan Israel serikat. Kerajaan ini berdiri dari tahun 930-an SM sampai sekitar 720-an SM, ketika kerajaan dikuasai oleh Kekaisaran Asyur. Kota-kota besar kerajaan itu Sikhem, Tirza, dan Samaria.
Sejarawan sering merujuk Kerajaan Israel ini sebagai Kerajaan Utara untuk membedakannya dari Kerajaan Yehuda di Israel Selatan.
Nama
Di dalam Alkitab Ibrani, Kerajaan Israel disebut sebagai " Rumah Yusuf ",[1][2] atau sebagai "Kerajaan Israel di Samaria".[3] Dalam prasasti-prasasti di luar Israel, disebut sebagai "rumah Omri" (Bit-Umri) misalnya di Mesha Stele dan prasasti raja Sargon II.
Wilayah
Kerajaan Israel terdiri dari teritori suku-suku Zebulun, Isakhar, Asyer, Naftali, Dan, Manasye, Efraim, Ruben dan Gad.
Ibukotanya adalah Samaria.
Sejarah
Kerajaan serikat merupakan kesatuan dari dua belas suku Israel yang hidup di wilayah yang saat ini merupakan Israel dan Palestina modern. Kerajaan ini berdiri dari sekitar 1030-930 SM.
Setelah wafatnya Salomo (Sulayman) pada 931 SM, sepuluh suku di utara menolak menerima Rehabeam (anak Salomo) sebagai raja mereka, dan sebagai gantinya pada sekitar tahun 930 SM memilih Yerobeam, yang bukan dari garis Daud, sebagai raja mereka. Kerajaan utara kemudian dikenal dengan Kerajaan Israel atau Efraim (mengacu pada suku terbesar). Pemberontakan terjadi di Sikhem.
Selama enam puluh tahun pertama, raja-raja Yehuda berusaha mengembalikan otoritas mereka terhadap kerajaan utara, dan terjadi perang yang terus berkecamuk di antara mereka. Selama delapan puluh tahun berikutnya, sudah tidak terjadi lagi perang terbuka di antara mereka, dan kemudian menjadi saling bersekutu, bekerja sama melawan musuh mereka, khususnya Damaskus.
Israel berdiri sebagai sebuah negara merdeka selama kira-kira 200 tahun, hingga sekitar tahun 720 SM, saat ditaklukkan oleh Kekaisaran Asyur. Alkitab mengisahkan bahwa seluruh orang Israel dibuang, yang kemudian dikenal dengan "Sepuluh suku yang hilang". Namun, ada yang memperkirakan hanya seperlima populasi (sekitar 40.000) yang benar-benar dipindahkan dari wilayah mereka selama dua periode pengasingan di bawah Tiglath-Pileser III dan Sargon II.[4] Banyak orang Israel melarikan diri ke selatan ke Yerusalem, yang menjadi lima kali lipat lebih luas selama periode ini, sehingga didirikan sebuah tembok baru dan sebuah mata air (Siloam) yang disediakan oleh Raja Hizkia.
Setelah kehancuran Israel, Yehuda masih bertahan hingga sekitar satu setengah abad hingga ditaklukkan oleh bangsa Babilonia.
Raja-raja Israel
Dari tabel di atas, jika dihitung langsung dari jumlah tahun-tahun pemerintahan sejak raja Saul sampai Hosea (25 nama raja), maka Kerajaan Israel Utara berada di tangan bangsa Israel selama 328 tahun. Jika dihitung dari raja Yerobeam bin Nebat sampai Hosea (20 nama raja), maka lamanya Kerajaan Israel Utara berdiri adalah sekitar 208 tahun.
Salmaneser V menyerang Samaria, namun Sargon II menulis dalam prasastinya bahwa ialah yang merebut Samaria. Alkitab tidak menyebutkan nama raja Asyur yang merebut Samaria. Lalu orang Israel diangkutnya sebagai tawanan ke Asyur. Sebagian dari mereka ditempatkannya di kota Halah, sebagian di dekat Sungai Habor di wilayah Gozan, dan sebagian lagi di kota-kota di negeri Madai.[5]
Lihat pula
Kerajaan Israel (kerajaan bersatu)
Kerajaan Yehuda
Referensi
Pustaka tambahan
(in Indonesian) Bob Phillips, "Find It in the Bible - Lists, Lists, and more List", Immanuel, Jakarta 2007
Kerajaan Israel
Kerajaan Israel
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মেসোপটেমিয়া (প্রাচীন গ্রীকঃ Μεσοποταμία অর্থ-দুটি নদীর মধ্যবর্তী ভূমি, আরবিঃ بلاد الرافدين ) বর্তমান ইরাকের টাইগ্রিস বা দজলা ও ইউফ্রেটিস বা ফোরাত নদী দুটির মধ্যবর্তী অঞ্চলে গড়ে উঠেছিল। অধুনা ইরাক, সিরিয়ার উত্তরাংশ, তুরষ্কের উত্তরাংশ এবং ইরানের খুযেস্তান প্রদেশের অঞ্চল গুলোই প্রাচীন কালে মেসোপটেমিয়ার অন্তর্গত ছিল বলে মনে করা হয় । মেসোপটেমিয় সভ্যতা পৃথিবীর প্রাচীনতম সভ্যতার অন্যতম। খ্রিস্টপূর্ব ৩৫০০ হতে খ্রিস্টপূর্ব ৩০০০ অব্দের মধ্যে মেসোপটেমিয়ায় অতি উন্নত এক সভ্যতার উম্মেষ ঘটেছিল। সভ্যতার আঁতুড়ঘর হিসেবে পরিচিত এই অঞ্চল মিশরীয় সভ্যতার থেকে অনেকটাই ভিন্ন ছিল এবং বহিঃশত্রুদের থেকে খুব একটা সুরক্ষিত ছিলনা বলে বারবার এর উপর আক্রমণ চলতে থাকে এবং পরবর্তীতে এখান থেকেই ব্রোঞ্জ যুগে আক্কাদীয়, ব্যবিলনীয়, আসিরীয় ও লৌহ যুগে নব্য-আসিরীয় এবং নব্য-ব্যাবিলনীয় সভ্যতা গড়ে উঠে।[1]
খ্রিষ্টপূর্ব ১৫০ সালের দিকে মেসোপটেমিয়া পার্সিয়ানদের নিয়ন্ত্রণেই ছিল কিন্তু পরে এই ভূখন্ডের আধিপত্ত নিয়ে রোমানদের সাথে যুদ্ধ হয় এবং রোমানরা এই অঞ্চল ২৫০ বছরের বেশি শাসন করতে পারে নি। । দ্বিতীয় শতকের শুরুর দিকে পার্সিয়ানরা এই অঞ্চলের নিয়ন্ত্রণ নিয়ে নেয় এবং সপ্তম শতাব্দী পর্যন্ত এই অঞ্চল তাদের শাসনেই থাকে, এরপর মুসলিম শাসনামল শুরু হয় । মুসলিম খিলাফত শাসনে এই অঞ্চল পরবর্তীতে ইরাক নামে পরিচিতি লাভ করে ।
ভৌগোলিক পটভূমি
আধুনিক ইরাকের টাইগ্রিস ও ইউফ্রেটিস নদীদ্বয়ের মধ্যবর্তী অঞ্চলে যে সভ্যতার আবির্ভাব ঘটেছিল সেটাই মূলত মেসোমটেমিয়া সভ্যতা নামে পরিচিত। তুরষ্কের আনাতোলিয়া (আর্মেনিয়া)) পর্বতমালা হতে টাইগ্রিস ও ইউফ্রেটিস দক্ষিণ পূর্বদিকে প্রবাহিত হয়ে পারস্য উপসাগরে পরেছে। প্রকৃতপক্ষে পলিসমৃদ্ধ নদীদুটির এই অঞ্চলে এরূপ সভ্যতার বিকাশ ঘটাতে সহযোগিতা করেছিল। মূলত এই উর্বরা অঞ্চলটি (টাইগ্রিস ও ইউফ্রেটিস) উত্তরে প্রলম্বিত হয়ে পশ্চিমে বাঁক নিয়ে আবার দক্ষিণ-পশ্চিম দিকে নেমে গিয়ে প্রায় ভূমধ্যসাগরে গিয়ে শেষ হয়। বাঁক বিশিষ্ট এই অঞ্চলটিকে "উর্বরা অর্ধচন্দ্রাকৃতিক" হিসেবে আখ্যা দেওয়া হয়। ইতিহাস বিখ্যাত এই অঞ্চলটি উত্তর আর্মেনিয়ার পার্বত্য অঞ্চল, দক্ষিণ ও পশ্চিমে আরব মরুভূম ও পূর্বে জাগরাস পার্বত্য অঞ্চল দ্বারা পরিবেষ্টিত। অবস্থানগত এই বৈশিষ্ট ও আরবদের আদিম যাযাবর সংস্কৃতির মিথস্ক্রিয়ার মধ্য দিয়ে মেসোপটেমিয়া একটি মিশ্র সভ্যতার ধারা নিয়ে গড়ে উঠেছিল। মেসোপটেমিয়া সভ্যতা ৫০০০ খৃষ্টপূর্বে সূচনা হয়ে পরিপূর্নতা লাভ করে প্রায় খৃষ্টপূর্ব ৩০০০ অব্দে। ৩৩৩ খৃষ্টাব্দে এসে বিভিন্ন জনগোষ্ঠির আন্তঃকলহের মধ্য দিয়ে পরষ্পরের ধ্বংস ডেকে আনে এবং ক্ষয়িষ্ণু চরিত্র স্থায়িত্ব লাভ করে।
শব্দগত উৎপত্তি
মেসোপটেমিয়া নামটি গ্রীকদের দেওয়া, এর প্রকৃত অর্থ হল দুটি নদীর মধ্যবর্তী অঞ্চল। এই অঞ্চলটি প্রধানত জলাভূমি ছিল। নলখাগড়ার জঙ্গল আর খেজুর গাছই ছিল এ প্রধান বনস্পতি। কালক্রমে টাইগ্রিস ও ইউফ্রেটিস নদীর পলিমাটি জমে নিম্নভূমি ভরাট হয়ে এক উর্বর অঞ্চলের সৃষ্টি হয়। এই উর্বর এলাকায় প্রায় ৬০০০ খৃষ্টপুর্ব থেকেই বিভিন্ন এলাকার মানুষ এসে সমাবেত হতে থাকে। কালক্রমে এরাই মেসোপটেমিয়া সভ্যতার বীজ বপন করে। নদীবিধৌত এবং প্রাকৃতিক কোন সুরক্ষা ব্যাবস্থা না থাকায় এটি কালক্রমে বহিঃশত্রুদের লক্ষ্যবস্তুতে পরিনত হয় এবং বিভিন্ন আক্রমণে বিপর্যস্ত হয়। এর ফলে এই সভ্যতায় কয়েকটি সম্রাজ্যের উন্মেষ ঘটে। উত্তরাংশের নাম ছিল এশেরীয়া এবং দক্ষিণাংশের নাম ছিল ব্যাবিলনিয়া। ব্যাবিলোনিয়ার উত্তরে আক্কাদ ও দক্ষিণে সুমের নামে দুটি অংশে বিভক্ত ছিল। প্রকৃতপক্ষে এই দুটিজনগোষ্ঠির সৃজনশীলতার ফসলই হল মেসোপটেমিয়া সভ্যতা।
ধর্ম ও দর্শন
মেসোপটেমিয়ানদের বিশ্বাস ছিল যে পৃথিবী একটি বিশাল ফাঁকবিশিষ্ট স্থানে অবস্থিত একটি গোলাকার চাকতি। তারা আরও বিশ্বাস করত যে আকাশে স্বর্গ এবং মাটির নিচে রয়েছে নরক। জল সম্পর্কে তাদের ধারণা ছিল যে পৃথিবী জল দিয়েই তৈরী এবং এর চারপাশজুড়ে জলই আছে। প্রাচীন মেসোপটেমিয়ানরা বহুইশ্বরবাদে বিশ্বাসি ছিলো তবে সময়ের ধারার সাথে কিছু কিছু গোষ্ঠির ধর্মমত পরিবর্তীত হতে শুরু করে। প্রাচীন মেসোপটেমিয়ানদের মধ্যে বিভিন্ন দেবদেবির মূর্তিপূজার প্রমান পাওয়া যায়।
ধর্ম পালনের দিক দিয়ে মেসোপটেমিয়া সভ্যতার মানুষেরা অনেক অগ্রগামী ছিলো। প্রতিটি জিগুরাট ও মন্দিরেই বিভিন্ন শ্রেণীর মানুষ যেমন ধনি, দরিদ্র, ব্যবসায়ী, কামার, মজুর, কৃষক ইত্যাদি শ্রেণীর লোকেদের বসার ব্যাবস্থা ছিল। এসব লোকজন যার যার নিজস্ব জায়গায় গিয়ে নগরদেবতাদের প্রনামভক্তি ও বিভিন্ন জিনিস উৎসর্গ করত। এতে এই সভ্যতার সার্বজনীন ধর্মব্যাবস্থার পরিচয় পাওয়া যায়।
বিজ্ঞান ও প্রযুক্তি
সময়কাল বিচারে মেসোপটেমিয়ার অধিবাসীরা অতি উন্নত চিন্তার কৃষিবিদ ছিলো। উদ্বৃত্ত ফসল মন্দিরে জমা দেওয়ার রেওয়াজ ছিলো। কৃষকদের মধ্যে কে কতটা ফসল মন্দিরে জমা দিল এই হিসাব রাখতে পুরোহিতরা পাহাড়ের গায়ে দাগ কেটে মনে রাখার চেষ্টা করত। ক্রমেই হিসাব রাখার গুরুত্বটাই প্রাধান্য পেতে শুরু করে। এক পর্যায়ে মেসোপটেমিয়ানরা গনিত শাস্ত্রের উদ্ভাবন ও উন্নতিসাধন করতে সক্ষম হয়। মেসোপটেমীয়দের সংখ্যাগুলি ষষ্ঠিক বা ষাট কেন্দ্রিক ছিলো। সেখান থেকেই এক ঘন্টায় ষাট মিনিট ও এক মিনিটে ষাট সেকেন্ডের হিসাব আসে। এছাড়া তারাই প্রথম বছরকে ১২ মাসে এবং এক মাসকে ৩০ দিনে ভাগ করে হিসাব করা শুরু করে।[2]
যদিও প্রথমদিকে তাদের ধারণা ছিল পৃথিবীটা চ্যাপ্টা চাকতির মত কিন্তু পরবর্তীতে তাদের মধ্যে গোল পৃথিবীর ধারণা জন্মায় এবং তারাই প্রথম পৃথিবীকে ৩৬০ ডিগ্রিতে ভাগ করার পরিকল্পনা করে। ধারনা করা হয় যে তারাই প্রথম ১২ টি রাশিচক্র এবং জলঘড়ি আবিষ্কার করে।
ধাতুর ব্যবহারেরে ক্ষেত্রে মেসোপটেমীয়রা বেশ উন্নতী সাধন করেছিল। তারা খৃষ্টপূর্ব ২৫০০ অব্দে তামা ও ব্রোঞ্জের ব্যবহার শুরু করে। মেসোপটেমিয়ার বিভিন্ন মন্দির এবং জিগুরাট থেকে প্রাপ্ত বিভিন্ন বাসন কোসন পর্যবেক্ষন করলে ধারনা করা যায় যে তারাই তামা ও টিনের সংমিশ্রনে তৈরী একটি চমৎকার ধাতু ব্রোঞ্জের আবিষ্কারক। এছাড়া মেসোপটেমিয়ায় কাচের ব্যবহার খৃষ্টপূর্বাব্দ ১৬০০ থেকে শুরু হয় বলে ধারনা করা হয়।[3]
ভাষা ও সাহিত্য
মেসোপটেমীয়রা যে বা ভাষায় কথা বলত তাকে সেমিটিক ভাষা হিসেবে ইতিহাসবিদরা চিহ্নিত করেছেন। তাদের এই ভাষায় দৈনন্দিন ভাবের আদান প্রদান সহ বিজ্ঞানচর্চা, প্রশাষনিক কাজে এবং ধর্মকর্ম পরিচালনা করত। মেসোপোটেমীয়দের প্রধান কৃতিত্ব হল প্রয়োজনীয় ভাব বা বার্তা বোঝানোর জন্য আদিম লেখন পদ্ধতির উদ্ভাবন। প্রথম দিকে এই ভাষা কিছু অর্থোবোধক ছবির মাধ্যমে প্রকাশ করা হত। চিত্রধর্মী এই পদ্ধতিকে বিজ্ঞানীরা পীকটোগ্রাফি বলে থাকেন। মেসোপটেমীয়রা প্রধানত কাদামাটির উপর নলখাগড়ার সূচালো মাথা দিয়ে লিখে শুকিয়ে নিত কিন্তু পরবর্তীতে তা আরো পরিশীল হয়ে বর্নমালায় রূপ নেয়। আনুমানিক ৩৪০০ খৃষ্টপূর্ব অব্দের এই বর্নমালার মাধ্যমে লিখিত দলিল পাওয়া যায়। সেই সময়ের লেখালেখি শুধুমাত্র হিসাব নিকাশ সংরক্ষনের কাজে ব্যবহার হত। আধুনিক যে দফতরীয় দলিল দেখতে পাওয়া যায় তা সুমেরীয়দের মধ্যেই প্রথম দেখা যায়।
সাহিত্যের জন্য মেসোপটেমীয়রা যে ভাষা ব্যবহার করত তাকে বিজ্ঞানীরা হেমেটিক ভাষা বলে চিহ্নিত করেছেন। প্রখ্যাত লেখক হোমার তার ইলিয়াড এবং ওডেসি লেখার ও প্রায় এক হাজার বছর পূর্বে সুমেরীয়রা তাদের নিজস্ব ভাষায় সাহিত্য রচনা করেছিল। এর নাম ছিল গিলগামেশ। এই সাহিত্য থেকে যানা যায় যে এখানকার লোকজন অত্যন্ত কল্পনাপ্রবণ ছিলো। ব্যাবিলোনীয় শাসন আমলে তাদের লেখালেখিতে পলৌকিক চিন্তার প্রভাব লক্ষ্যণীয়। বস্তুত এইগুলো ছিল ধর্মাশ্রয়ী সাহিত্যচিন্তা।
তথ্যসূত্র
বিষয়শ্রেণী:মেসোপটেমিয় সভ্যতা
বিষয়শ্রেণী:প্রাচীন ইতিহাস
বিষয়শ্রেণী:প্রাচীন সভ্যতা
বিষয়শ্রেণী:সভ্যতা | https://bn.wikipedia.org/wiki/%E0%A6%AE%E0%A7%87%E0%A6%B8%E0%A7%8B%E0%A6%AA%E0%A6%9F%E0%A7%87%E0%A6%AE%E0%A6%BF%E0%A6%AF%E0%A6%BC%E0%A6%BE |
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1931నుండి తెలుగు సినిమాలలో వచ్చిన ప్రగతి "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" అనే ఈ వ్యాసంలో ఇవ్వబడింది.
తెలుగు సినిమా ఆరంభ దశ
1886లో లుమీర్ సోదరులు భారతదేశంలో మొదటి మూగ సినిమాను ప్రదర్శించారు. తరువాత ఆర్.జి.టోర్నీ అనే విదేశీయుడు 1910లో "భక్త పుండరీక", 1911లో "రాజదర్బార్" అనే చిత్రాలు నిర్మించాడు. భారత దేశంలో మొదటి మూగ సినిమా నిర్మించిన భారతీయుడు దాదా సాహెబ్ ఫాల్కే. ఈయన 1913 మే 3న రాజా హరిశ్చంద్ర చిత్రాన్ని విడుదల చేశాడు.
1921లో మచిలీపట్నానికి చెందిన రఘుపతి వెంకయ్య, తనకుమారుడు ఆర్.ఎస్.ప్రకాష్ దర్శకత్వం, నటనలో భీష్మ ప్రతిజ్ఞ అనే మూగ సినిమాను నిర్మించి విడుదల చేశాడు. అర్దేష్ ఇరానీ నిర్మాతగా 1931లో హిందీ (అలం అరా), తెలుగు (భక్త ప్రహ్లాద), తమిళ (కాళిదాస)భాషలలో మూడు టాకీ చిత్రాలు విడుదల అయ్యాయి. వీటిలో తెలుగు, తమిళ చిత్రాల సారథిహెచ్.ఎమ్.రెడ్డి. సురభి నాటక సమాజం వారి జనప్రియమైన నాటకం ఆధారంగా నిర్మించబడిన భక్త ప్రహ్లాద తెలుగులో మొదటి సినిమాగా స్థానం సంపాదించుకొంది.
1931నుండి తెలుగు సినిమా ప్రేక్షకుల ఆదరణను చూరగొంటూ పురోగమిస్తున్నది.
తెలుగు సినిమా 1931-1940
1931-1940 దశకంలో మొత్తం 76 తెలుగు సినిమాలు వచ్చాయి. మొదటి సినిమా భక్త ప్రహ్లాదతో ప్రారంభమై పౌరాణిక చిత్రాల పరంపర కొనసాగింది. ఎక్కువగా రంగస్థల నటీనటులే సినిమాలలో కూడా ఆయా పాత్రలను పోషించేవారు.
ఈ కాలంలో ప్రతిభను కనపరచిన దర్శకులలో కొందరు సి.పుల్లయ్య (లవకుశ), సిహెచ్.నరసింహారావు(సీతా కళ్యాణం), హెచ్.వి.బాబు (కనకథార), పి.పుల్లయ్య(శ్రీవెంకటేశ్వర మహాత్యం), సిహెచ్.నారాయణ (మార్కండేయ).
1936లో కృత్తివెన్ను సోదరులు నిర్మించిన ప్రేమ విజయం తెలుగులో మొదటి సాంఘిక చిత్రం. ఇది అంతగా విజయవంతం కాలేదు. తరువాత హెచ్.ఎమ్.రెడ్డి నిర్మించిన గృహలక్ష్మి సినిమాతో చిత్తూరు నాగయ్య సినీరంగంలో ప్రవేశించాడు.
1939లో బి.ఎన్.రెడ్డి, కె.రామనాధ్, ఎ.కె.శేఖర్లు కలిసి "వాహినీ" చిత్ర నిర్మాణ సంస్థను ప్రారంభించారు. వందేమాతరం వాహిని వారి తొలి సినిమా. తరువాత వరవిక్రయం సినిమాలో భానుమతి సినీ ప్రస్థానం ఆరంభమైంది.
1938-39 సంవత్సరాలలో తెలుగు సినిమా కొత్త రూపు దిద్దుకుంది. సినిమా ప్రయోజనం ఒక్క వినోదం సృష్టించడం మాత్రమే కాదు - విప్లవం కూడా సృష్టించగలదని ఆ రెండు సంవత్సరాలు నాంది పాడాయి. కేవలం పురాణ గాథలే సినిమాలుగా వస్తూ ప్రజానీకాన్ని ఆనందపరుస్తున్న తరుణంలో గూడవల్లి రామబ్రహ్మం "మాలపిల్ల" లాంటి చిత్రం తీసి, విప్లవం సృష్టించాడు. ఆ వరసలో ఆ రెండేళ్ళలోనూ గృహలక్ష్మి(1938, రోహిణి, హెచ్.ఎం.రెడ్డి, నాగయ్య, కన్నాంబ), వందేమాతరం (1939, వాహిని, బి.ఎన్.రెడ్డి, నాగయ్య, కాంచనమాల), మళ్ళీ పెళ్ళి (1939, వై వి.రావు, కాంచనమాల), రైతుబిడ్డ ( 1939, సారథి, గూడవల్లి రామబ్రహ్మం, సూరిబాబు, టంగుటూరి సూర్యకుమారి), వరవిక్రయం (1939, కాళ్ళకూడి నారాయణరావు, భానుమతి) లాంటి సమస్యాత్మక విషయాలపై చిత్రాలు విడుదలై తెలుగు సినిమాని పై స్థాయిలో నిలబెట్టాయి.
సాంఘిక సమస్యలు కథావస్తువుగా అంతకు ముందొచ్చిన "బాల యోగిని" (1937) చిత్రానికి సహకార దర్శకులుగా పని చేయ్యడం, వ్యంగ్యధోరణిలో సమాజాన్నీ రాజకీయాలని దుయ్యబట్టే రీతిలో "ప్రజామిత్ర" పత్రికను నడపడం - "మాలపిల్ల" నిర్మాణానికి ప్రేరణ కావచ్చు. "మాలపిల్ల" చిత్రాన్ని నిషేధించాలని కొన్ని వర్గాలు ప్రయత్నాలు చేసినా అవి సాగలేదు. నిరాటంకంగా నడచి, ఆ చిత్రం ఆర్థికంగా కూడా విజయం సాధించింది. ఆ విజయాన్ని పురస్కరించుకొనే రామబ్రహ్మం "రైతుబిడ్డ" ఆరంభించారు. జమిందారీ విధానాలను ఎదిరించి, రైతు సమస్యలను ప్రజలముందు పెట్టిన చిత్రమిది. ఈ సమస్యలను వస్తువుగా తీసుకుని రామబ్రహ్మంగారే కథ అల్లారు. తాపీ ధర్మారావు, త్రిపురనేని గోపీచంద్ మాటలు వ్రాశారు. గోపీచంద్ దర్శకత్వశాఖలో కూడా పనిచేశారు.
కొసరాజు రాఘవయ్య చౌదరి "ప్రజామిత్ర" పత్రికలో రాజకీయ వ్యంగ్య కవితలు రాసేవారు. ఆ మైత్రితో కొసరాజు చేత పాటలు వ్రాయించారు. అందులో ఆయన ఒక ముఖ్య పాత్ర కూడా వేసారు. "సై సై చిన్నపరెడ్డి", "నిద్ర మేల్కొనరా తమ్ముడా" (సూరిబాబు గానం) మొదలగు పాటలు కొసరాజు గారు, మరికొన్ని సముద్రాల, తాపీ గార్లు వ్రాశారు. రైతు ఉద్యమంలో ప్రముఖంగా పాల్గొన్న ఎన్. వెంకట రామానాయుడు వ్రాసిన పాటలు కూడా చిత్రంలో పాడటం జరిగింది. "మాలపిల్ల"లో బసవరాజు అప్పారావుగారి పాటలు వాడారు. మాటలు: చలం, తాపీ గార్లు. సన్నివేశాన్ని బట్టి ఒక్కో రచయిత ఒక్కో పాటను వ్రాయగలడు అన్న భావని ప్రవేశ పెట్టింది గూడవల్లిగారే కావచ్చు. హాస్య సన్నివేశాలను ప్రత్యేకంగా విశ్వనాథ వారిచే వ్రాయించారు.
చిత్రానికి నృత్య దర్శకుడు వేదాంతం రాఘవయ్య. నట వర్గం: బళ్ళారి రాఘవాచార్య, గిడుగు, పి. సూరిబాబు, నెల్లూరు నాగరాజారావు, టంగుటూరి సూర్యకుమారి, ఎస్.వరలక్ష్మి 1939 లో చిత్రం విడుదల గావటానికి ముందు చాలా అవాంతరాలు కలిగించపడ్డాయి. పేర్కొనదగ్గ విషయమేమంటే "సారధి" సంస్థ యజమాని యార్లగడ్డ శివరామప్రసాద్ (చల్లపల్లి జమిందారు). జమిందారీ విధానం మీద, పెత్తనాల మీదా ఒక జమిందారే చిత్రం నిర్మించడం గొప్ప విషయం.
1939 అక్టోబరులో అంధ్ర కేసరిగా ప్రసిద్ధికెక్కిన టంగుటూరి ప్రకాశం మద్రాసు అసెంబ్లీలో ప్రవేశబెట్టబోయే "ప్రకాశం బిల్లు"కు ప్రచారంగా ఈ చిత్రం తోడ్పడింది. అలాగే జరగబోయే జిల్లాబోర్డు ఎన్నికల్లో జమీందారులకు వ్యతిరేక ప్రచారంలో కూడా ఉపయోగపడింది.
విడుదలకు సిధ్ధంగా వున్న చిత్రాన్ని నిషేధించటానికి వెంకటగిరి, బొబ్బిలి జమీందారులు నోటీసులు ఇచ్చారు. విడుదల రోజునే (27. ఆగస్టు '39) వారి లాయర్లు నెల్లూరు వచ్చి, చిత్రాన్ని చూసి నోట్సు వ్రాసుకొని వెళ్ళారు. అలాగే నిర్మాతలకు రిజిష్టర్డ్ నోటీసులు పంపటం, వారి ఎస్టేటులలో ప్రదర్శిస్తే - సివిల్, క్రిమినల్ చర్యలు తీసుకొంటామని బెదరించటం జరిగింది. చివరకు నెల్లూరు జిల్లా మేజిస్ట్రేట్ ద్వారా వెంకటగిరి పట్టణం లోనే కాదు, తాలూకా లోనే కాదు పూర్తి గూడూరు డివిజన్ లోనే చిత్రాన్ని నిషేధించ గలిగారు.
సెన్సారుబోర్డు సంపూర్ణంగా నిషేధించలేదు కాబట్టి వారిపై కూడా ఒత్తిడి తీసుకొని రావడం జరిగింది. కాని అక్కడ జమీందారుల ఆటలు కొనసాగలేదు. మేజిస్ట్రేట్ చర్య న్యాయ బద్ధం కానప్పటికి మద్రాసు ప్రభుత్వం కూడా చూసి చూడనట్లు ప్రవర్తించటం గమనార్హం. ఇలా జమీందార్ల అక్రమాలకు వంతపాడటం ప్రజలకు ఆగ్రహాన్ని కలిగించింది. విడుదలకు తరువాత నిషేధించాలన్న ప్రయత్నాల్లు మరింత తీవ్రమయ్యాయి. కొన్ని చోట్ల ఫిల్మ్ ఫ్రింట్స్ దగ్ధం చేయాలన్న ప్రయత్నాలు కూడా జరిగాయి. చిత్రంలోని కొన్ని పాత్రలు తమ వ్యక్తిత్వం మీద దెబ్బతీసే పధ్ధతిలో వున్నాయని బొబ్బిలి, వెంకటగిరి రాజాలు చిత్ర నిర్మాతల మీద దావా తెచ్చారు. మొత్తానికి కొంతకాలం కొన్ని జిల్లాలలో నిషేధించబడింది (నిర్మించిన చల్లపల్లి రాజాగారి కృష్ణా జిల్లాలో కూడా).
సినిమాలు ప్రజలమీద ఒత్తిడి తీసుకురాగలవన్న నమ్మకం మాలపిల్ల, రైతుబిడ్డ చిత్రాలతోనే ఆరంభమైంది. ఎంత సంచలనం రేపగలిగినా అనేక అవాంతరాలవల్ల "మాలపిల్ల" లాగా ఆర్థికవిజయం సాధించలేకపోయింది. నిషేధాలు, కోర్టులు, బెదిరింపులు, ఆర్థికనష్టంవంటివన్నీ రావటంతో ఎంత సాంఘిక చైతన్యంగల మనిషయినా రామబ్రహంగారు మరల అలాంటి ప్రయత్నం చెయ్యలేక పోయారు.
వై.వి.రావు నిర్మించిన మళ్ళీపెళ్ళి చిత్రంద్వారా వితంతు వివాహాలను ప్రోత్సహించారు. ఇల్లాలు చిత్రం ద్వారా సంగీత దర్శకుడు సాలూరి రాజేశ్వరరావు, శ్రీకృష్ణ లీలలు చిత్రం ద్వారా గాయని బాల సరస్వతి సినీరంగానికి పరిచయమయ్యారు.
ఈ కాలంలో కళాకారులు తమపాటలను తామే పాడుకొనేవారు. ఈ దశకంలో రంగప్రవేశం చేసిన కళాకారులలో కొందరు - ఈలపాట రఘురామయ్య, సి.ఎస్.ఆర్.ఆంజనేయులు, కె.శివరావు, రేలంగి, గోవిందరాజులు సుబ్బారావు, కొంగర జగ్గయ్య, శాంతకుమారి, కన్నాంబ, కృష్ణవేణి, కాంచనమాల, ఎస్.వరలక్ష్మి, పుష్పవల్లి.
తెలుగు సినిమా 1940-1950
ఈ దశాబ్దంలో 91 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. "వాహినీ స్టూడియోస్" ప్రారంభించబడింది. నేపథ్యగానం ప్రక్రియ స్థిరపడింది. ఈ దశకంలో ఎందరో కళాకారులు, సాంకేతిక నిపుణులు తెలుగు సినీ రంగంలోకి ప్రవేశించారు. తరువాతి కాలంలో చిత్రపరిశ్రమ అభివృద్ధి కావడానికి వారి ప్రతిభ, కృషి ముఖ్యమైన కారణాలు. అలా వచ్చినవారిలో కొందరు-
దర్శకులు - కె.వి.రెడ్డి, ఎల్.వి.ప్రసాద్, భరణి రామకృష్ణారావు, ఘంటసాల బ్రహ్మయ్య, కె.బి.నాగభూషణరావు, కె.ఎస్.ప్రకాశరావు, బి.ఎ.సుబ్బారావు
నటీనటులు -అక్కినేని నాగేశ్వరరావు (సీతారామ జననం), నందమూరి తారక రామారావు (మనదేశం), ఎస్.వి.రంగారావు (వరూధిని), అంజలీదేవి (గొల్లభామ), సావిత్రి (సంసారం), జానకి (షావుకారు), గుమ్మడి వెంకటేశ్వరరావు (అదృష్టదీపుదు), గౌరీనాధ శాస్త్రి (భీష్మ), లింగమూర్తి (భక్తపోతన), ముక్కామల కృష్ణమూర్తి (మాయామశ్చీంద్ర), సూర్యకాంతం (నారద నారది̲).
గాయనీ గాయకులు, సంగీత దర్శకులు - ఘంటసాల వెంకటేశ్వరరావు (స్వర్గసీమ), పెండ్యాల నాగేశ్వరరావు (ద్రోహి), పి.లీల (గుణసుందరి కథ)
రచయితలు - పింగళి నాగేశ్వరరావు (వింధ్యరాణి), ఆత్రేయ (దీక్ష), ఆరుద్ర (బీదలపాట్లు)
ఛాయాగ్రాహకులు - మార్కస్ బార్ట్లీ, ఆలీ.ఎమ్.ఇరానీ, కె.రామనాధ్
ఇంకా బలమైన నిర్మాణ సంస్థలు ఆవిర్భవించి తరువాతి కాలంలో పరిశ్రమ అభివృద్ధికి పునాదులు వేసాయి. పోటీని ప్రవేశపెట్టాయి. అలాంటి వాటిలో కొన్ని - భరణీ పిక్చర్స్ (రత్నమాల), ప్రకాష్ పిక్చర్స్ (మొదటి రాత్రి), ప్రతిభా పిక్చర్స్ (పార్వతీ కళ్యాణం), శోభనాచల పిక్చర్స్ (భక్త పోతన), రోహిణీ పిక్చర్స్ (తెనాలి రామకృష్ణ), విజయా పిక్చర్స్ (షావుకారు), పక్షిరాజా (బీదల పాట్లు), సాధనా పిక్చర్స్ (సంసారం).
కాని ఈ దశకం స్టార్ వాల్యూ పరంగా నాగయ్య యుగమని చెప్పుకోవచ్చును. భక్త పోతన, యోగి వేమన, త్యాగయ్య చిత్రాలు ఆయనను అగ్రశ్రేణి నాయకునిగా చేశాయి. సంసారం, పల్లెటూరి పిల్ల - రెండు సినిమాలు మల్టీస్టారర్స్గా (ఎన్.టి.ఆర్, అక్కినేనిలు జంట నాయకులుగా) వెలువడ్డాయి.
ఈ దశాబ్దంలో ముఖ్యమైన సినిమాలు.
భక్త పోతన
యోగి వేమన
త్యాగయ్య
దేవత
బాలనాగమ్మ
పంతులమ్మ
స్వర్గసీమ
బాలరాజు
పల్నాటి యుద్ధం
ద్రోహి
గుణసుందరి కథ
లైలా మజ్ను
బీదల పాట్లు
లక్ష్మమ్మ
షావుకారు
స్వప్నసుందరి
తెలుగు సినిమా 1950-1960
ఈ దశకంలో 327 సినిమాలు వెలువడినాయి. ఇది తెలుగు సినిమాలకు స్వర్ణయుగమని చెప్పవచ్చును. క్రొత్త నటీనటుల ప్రవేశ పరంపర కొనసాగింది. క్రొత్త చిత్ర నిర్మాణ సంస్థలు చాలా వెలిసాయి. హైదరాబాదులో సారథి స్టూడియోస్ ప్రాంభమైంది. వారి మొదటి చిత్రం మాయింటి మహలక్ష్మి. ఈ కాలంలో కేంద్ర ప్రభుత్వం చలన చిత్రాలకు వివిధ అవార్డులను ప్రవేశ పెట్టింది.
ఈ దశాబ్దంలో ప్రాంభమైన కొన్ని ముఖ్య నిర్మాణ సంస్థలు - అన్నపూర్ణా స్టూడియోస్ (దొంగ రాముడు), అనుపమమ పిక్చర్స్ (ముద్దుబిడ్డ),, రాజ్యం పిక్చర్స్ (దాసి), అంజలి పిక్చర్స్ (అనార్కలి), వినోదా పిక్చర్స్ (స్త్రీ సాహసం), శాలిని పిక్చర్స్ (అమర సందేశం), విక్రమ్ ప్రొడక్షన్స్ (మాగోపి), నేషనల్ ఆర్ట్ థియేటర్స్ (పిచ్చి పుల్లయ్య, రాజశ్రీ పిక్చర్స్ (అనసూయ), అశ్వరాజ్ పిక్చర్స్ (అన్నదాత), విఠల్ ప్రొడక్షన్స్ (కన్యాదానం), నవశక్తి ఫిల్మ్స్ (మా ఇంటి మహలక్ష్మి), జగపతి పిక్చర్స్ (అన్నపూర్ణ).
వెండితెరకు పరిచయమైన నటీనటులు - జగ్గయ్య (ఆదర్శం), కాంతారావు (ప్రతిజ్ఞ), బాలయ్య (ఎత్తుకు పై ఎత్తు), రమణమూర్తి (ఎమ్.ఎల్.ఎ), హరనాధ్ (మా ఇంటి మహలక్ష్మి), జమున (పుట్టిల్లు), కృష్ణకుమారి (నవ్వితే నవరత్నాలు), దేవిక (రేచుక్క), గిరిజ (పరమానందయ్య శిష్యుల కథ), బి.సరోజాదేవి (పాండురంగ మహత్యం), చలం (పల్లె పడుచు), రమణారెడ్డి (మానవతి), రాజబాబు (సమాజం), రాజ సులోచన (కన్నతల్లి).
ప్రజానాట్య మండలి నుండి ఎదిగిన దర్శకుడు డాక్టర్ రాజారావు తన పుట్టిల్లు సినిమా ద్వారా చాలామంది రంగస్థల కళాకారులను సినిమారంగానికి పరిచయం చేశాడు. అలాంటివారిలో అల్లు రామలింగయ్య ఒకడు. ఇదే కాలంలో మిక్కిలినేని, ఆర్.నాగేశ్వరరావు, రాజనాల, ప్రభాకర రెడ్డి, నిర్మల, హేమలత మొదలగు నటీనటులు సినీరంగంలో అడుగుపెట్టారు.
ఇక దర్శకుల విషయానికొస్తే - ఆదుర్తి సుబ్బారావు (అమర సందేశం) సినిమా దర్శకత్వంలో క్రొత్తపోకడలు ప్రవేశపెట్టాడు. వేదాతం రాఘవయ్య (దేవదాసు), తాతినేని ప్రకాశరావు (పల్లెటూరు), తాపీ చాణక్య (రోజులు మారాయి), యోగానంద్ (అమ్మలక్కలు), రజనీకాంత్ (వదినగారి గాజులు), కె.బి.తిలక్ (ముద్దుబిడ్డ), కమలాకర కామేశ్వరరావు (చంద్రహారం), సి.ఎస్.రావు (శ్రీకృష్ణ తులాభారం), వి.మధుసూదనరావు (సతీ తులసి) వంటి ప్రతిభావంతులైన దర్శకులు ఈ దశకంలో వెండితెరను ఒక వెలుగు వెలిగించారు.
కొసరాజు, శ్రీశ్రీ, సముద్రాల రాఘవాచార్య, డి.వి.నరసరాజు, సముద్రాల జూనియర్, పింగళి నాగేశ్వరరావు మొదలైన రచయితలు ఈ సమయంలో ముఖ్యమైన పాటల, మాటల రచయితలు. పి.సుశీల (కన్నతల్లి), ఎస్.జానకి (ఎమ్.ఎల్.ఎ.), ఎ.ఎమ్.రాజా, పి.బి.శ్రీనివాస్, పిఠాపురం నాగేశ్వరరావు, మాధవపెద్ది సత్యం, కె.రాని, ఎ.పి.కమల ఈ సమయంలో ముఖ్య నేపథ్యగాయకులు. ఘంటసాల, పెండ్యాలల సంగీతానికి మంచి డిమాండ్ ఉంది. టి.వి.రాజు, ఆదినారాయణరావు, దక్షిణామూర్తి, అశ్వత్థామ, టి.చలపతిరావు కూడా చాలా చిత్రాలకు సంగీతాన్నందించారు.
డబ్బింగ్ ప్రక్రియ ఈ సమయంలో బాగా అభివృద్ధి చెందింది.
ఈ దశకంలో విడుదలైన ఎవర్గ్రీన్ చిత్రాలు కొన్ని.
మల్లీశ్వరి
పాతాళభైరవి
పెళ్ళిచేసి చూడు
దేవదాసు
పెద్ద మనుషులు
బంగారుపాప
విప్రనారాయణ
రోజులు మారాయి
జయసింహ
దొంగరాముడు
తెనాలి రామకృష్ణ
మిస్సమ్మ
తోడికోడళ్ళు
మాయాబజార్
భూకైలాస్
జయభేరి
పెళ్ళి కానుక
మహాకవి కాళిదాసు
తెలుగు సినిమా 1960-1970
ఈ దశకంలో మొత్తం 552 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. మొదటి పూర్తి రంగుల చిత్రం లవకుశ వెలువడింది. సాంకేతిక విలువలు, ప్రధానంగా ఫిల్మ్ ప్రాసెస్సింగ్ అభివృద్ధి చెందాయి. నంది అవార్డులు ప్రారంభమయ్యాయి.
ఆదుర్తి సుబ్బారావు ఆందరూ కొత్త నటులతో తీసిన తేనెమనసులు సినిమాలో హీరోగా కృష్ణ మరి కొందరు నటులు రంగప్రవేశం చేశారు. ఇంకా ఈ దశకంలోనే శోభన్బాబు, చంద్రమోహన్, కృష్ణంరాజు, రామకృష్ణవంటి హీరోలు, జయలలిత, కె.ఆర్.విజయ, వాసంతి, రాజశ్రీ, వాణిశ్రీ, కాంచన, ఎల్.విజయలక్ష్మి, విజయనిర్మల, శారద వంటి నటీమణులు,, సత్యనారాయణ, ధూళిపాళ, రావుగోపాలరావు వంటి కారెక్టర్ ఆర్టిస్టులు, రావి కొండలరావు, కె.వి.చలం, మాడా, రమాప్రభ వంటి హాస్య నటీనటులు తెలుగు సినీ రంగంలో ప్రవేశించారు.
డి.రామానాయుడు తమ "సురేష్ ప్రొడక్షన్స్" చిత్ర నిర్మాణ సంస్థను ప్రారంభించి తీసిన మొదటి చిత్రం రాముడు భీముడు మంచి విజయం సాధించింది. మంగమ్మ శపధంతో డి.వి.ఎస్.రాజు, కంచుకోటతో వి.విశ్వేశ్వరరావు చిత్ర నిర్మాణంలోకి దిగారు.
సంగీతపరంగా ఘంటసాల, పెండ్యాల, ఎస్.రాజేశ్వరరావులతో బాటు కె.వి.మహదేవన్ పుష్కలంగా బాణీలందించారు. సత్యం, టి.జి.లింగప్ప, ఎస్.పి.కోదండపాణి కూడా చాలా చిత్రాలలో పనిచేశారు. శ్రీ శ్రీ శ్రీ మర్యాద రామన్న కథ చిత్రం ద్వారా గాయకుడుగా ఎస్.పి.బాల సుబ్రహ్మణ్యం తెలుగు సినిమాకు పరిచయమయ్యారు.
ఈ దశకంలోనే ముళ్ళపూడి వెంకటరమణ, గొల్లపూడి మారుతీరావు, భమిడిపాటి రాధాకృష్ణ, రంగనాయకమ్మ, కోడూరి కౌసల్యాదేవి ప్రభృతులు సినిమారంగంలో రచయితలుగా అడుగుపెట్టారు. పాటల రచయితలుగా సి.నారాయణ రెడ్డి, దాశరధిలకు మంచి ఆదరణ కొనసాగింది.
దర్శకులలో బాపు (సాక్షి), కె.ఎస్.ఆర్.దాస్ (లోగుట్టు పెరుమాళ్ళకెరుక), కె.విశ్వనాధ్ (ఆత్మగౌరవం), ప్రత్యగాత్మ (భార్యాభర్తలు), ఎమ్.మల్లికార్జునరావు, (గూఢచారి 116), తాతినేని రామారావు, (నవరాత్రి), పేకేటి శివరాం (చుట్టరికాలు) ఎన్నదగినవారు. నటుడు ఎస్.వి.రంగారావు రెండు సినిమాలకు (చదరంగం, బాంధవ్యాలు) దర్శకత్వం వహించాడు. హీరోయిన్ సావిత్రి కూడా మాతృదేవత చిత్రానికి దర్శకత్వం వహించింది. అయితే ఆదుర్తి సుబ్బారావు దర్శకత్వంలో వెలువడిన మూగ మనసులు ఈ దశాబ్దపు సంచలన విజయం సాధించిన సినిమా. ఆదుర్తి సుబ్బారావు, అక్కినేని నాగేశ్వరరావు కలసి చక్రవర్తి చిత్ర బ్యానర్పై నిర్మించిన సందేశాత్మక చిత్రాలు సుడిగుండాలు, మరో ప్రపంచం ఆర్థికపరంగా విజయవంతం కాలేదు. జగ్గయ్య నిర్మించిన పదండి ముందుకు, రాజ్యం పిక్చర్స్ వారి నర్తనశాల అంతర్జాతీయ చిత్రోత్సవాలలో ప్రదర్శించబడ్డాయి.
ఈ దశాబ్దపు ఎన్నదగిన సినిమాలు
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నమ్మినబంటు
వెలుగునీడలు
ఇద్దరు మిత్రులు
భార్యాభర్తలు
బాటసారి
ఆరాధన
గుండమ్మ కథ
కులగోత్రాలు
మంచిమనసులు
మూగ మనసులు
రక్తసంబంధం
ఆత్మబలం
అంతస్తులు
మనుషులు మమతలు
మరపురాని కథ
నాదీ ఆడజన్మే
రాము
ఆత్మీయులు
బుద్ధిమంతుడు
డాక్టర్ చక్రవర్తి
మనుషులు మారాలి
పునర్జన్మ
రంగులరాట్నం
కథానాయకుడు
మహామంత్రి తిమ్మరుసు
బొబ్బిలియుద్ధం
కథానాయిక మొల్ల
జగదేకవీరునికథ
బందిపోటు
గురువును మించిన శిష్యుడు
కంచుకోట
భీష్మ
నర్తనశాల
పాండవ వనవాసం
శ్రీకృష్ణ తులాభారం
సీతారామ కళ్యాణం
భక్త ప్రహ్లాద
శ్రీకృష్ణావతారం
శ్రీకృష్ణపాండవీయం
లవకుశ
తెలుగు సినిమా 1970-1980
ఈ దశాబ్దంలో మొత్తం 758 సినిమాలు విడుదలయ్యాయి. వీటిలో చాలావరకు ఆంధ్రప్రదేశ్లో నిర్మించబడ్డాయి. ఆంధ్రప్రదేశ్లో చిత్రనిర్మాణానికి అయ్యే అదనపు ఖర్చును భరించడానికి వీలుగా రాష్ట్రప్రభుత్వం రాయితీలు ఇవ్వడంతో రాష్ట్రంలో చిత్రనిర్మాణం పుంజుకుంది.
హీరో కృష్ణ పాశ్చాత్య కౌబోయ్ కథారీతిలో మోసగాళ్ళకు మోసగాడు సినిమా నిర్మించాడు.
దసరా బుల్లోడు చిత్రంతో వి.బి.రాజేంద్ర ప్రసాద్ దర్శకుడయ్యాడు.
దర్శకులలో దాసరి నారాయణరావు, కె.రాఘవేంద్రరావు తమ ప్రతిభను, వైవిధ్యాన్ని ప్రదర్శించారు. కె.బాలచందర్ దర్శకత్వం వహించిన అంతులేని కథ, మరో చరిత్ర మంచి విజయం సాధించాయి.
వి.రామచంద్రరావు దర్శకత్వం వహించిన అల్లూరి సీతారామరాజు తెలుగులో మట్టమొదటి "సినిమా స్కోప్" చిత్రం. దేవతలారా దీవించండి సినిమాను నలుపు-తెలుపు, సినిమా స్కోపులో నిర్మించారు. దర్శకులుగా పి.సి.రెడ్డి, లక్ష్మీదీపక్, సింగీతం శ్రీనివాసరావు, కె.బాపయ్య, రచయితలుగా జంధ్యాల, సత్యానంద్, పరుచూరి బ్రదర్స్ బాగా రాణించారు. చాలా సినిమాలకు చక్రవర్తి సంగీత దర్శకత్వం వహించాడు. పాటల రచయితగా వేటూరి సుందరరామ మూర్తి విజృంభించాడు.
నందమూరి తారక రామారావు స్వయంగా దాన వీర శూర కర్ణ సినిమాకు నిర్మాత, దర్శకుడు. అందులో మూడు పాత్రలను ధరించి మెప్పించాడు. ఇది ప్రధానంగా యాక్షన్, క్రైమ్ చిత్రాల దశకం. విజయ చందర్, మురళీ మోహన్, గిరిబాబు, ప్రసాద బాబు, నారాయణ రావు, మోహన్ బాబు, నరసింహ రాజు, బాలకృష్ణ ,చిరంజీవి, సంగీత, లక్ష్మి, జయచిత్ర, జయసుధ, జయప్రద, సుజాత, లత, సుమలత, విజయశాంతి ఈ కాలంలోనే వెండితెరకు పరిచయమయ్యారు. ఈ దశాబ్దం మొదట్లో బాలనటిగా నటించిన శ్రీదేవి దశాబ్దాంతానికి హీరోయిన్గా ప్రేక్షకులను ఆకర్షించింది.
రావుగోపాలరావు, నూతన్ ప్రసాద, జె.వి.సోమయాజులు క్యారెక్టర్ ఆర్టిస్టులుగా మంచి ఆదరణ సంపాదించారు.
బాపు దర్శకత్వంలో వచ్చిన ముత్యాల ముగ్గు, కె.విశ్వనాధ్ దర్శకత్వంలో వచ్చిన శంకరాభరణం తెలుగు సినీ చరిత్రలో సుస్థిరమైన స్థానాన్ని సంపాదించుకొన్నాయి. ఈ రెండు సినిమాలకూ కె.వి.మహదేవన్ సంగీతాన్నందించాడు. రామకృష్ణ, జి.ఆనంద్, జేసుదాస్, ఎల్.ఆర్.ఈశ్వరి, జముననారాణి, వాణీ జయరాం నేపథ్య గాయనీ గాయకులుగా రాణించారు.
మంచి అభిరుచిగల నిర్మాతగా పేరు పొందిన క్రాంతికుమార్ స్త్రీ పాత్రల ఆధారంగా శారద, జ్యోతి, కల్పన వంటి సినిమాలు నిర్మించాడు. హీరో-విలన్-క్యారెక్టర్ ఆర్టిస్టు కృష్ణంరాజు తన స్వంత బ్యానర్ గోపీకృష్ణ మూవీస్ పై నిర్మించిన కృష్ణ వేణి,అమరదీపం, భక్త కన్నప్ప సినిమాలు విజయవంతాలు కావడమే కాక విమర్శకుల ప్రశంసలు కూడా అందుకొన్నాయి.
తెలుగు సినిమా 1980-1990
ఈ దశాబ్దంలో రికార్డు స్థాయిలో 1665 సినిమాలు నిర్మించబడ్డాయి. కాని వాటిలో విజయవంతమైనవి 25% లోపే.
నందమూరి తారక రామారావు నటించిన సర్దార్ పాపారాయుడు, బొబ్బిలి పులి, జస్టిస్ చౌదరి, కొండవీటి సింహం, నాదేశం వంటి చిత్రాలు ఆయన రాజకీయాలలో అడుగుపెట్టడానికి అనుకూలమైన సందేశాలు ఇచ్చాయి. ఈ సమయంలో దాసరి నారాయణరావు, కె.రాఘవేంద్రరావు, కోదండరామి రెడ్డి అగ్రస్థానంలో ఉన్న దర్శకులు. కోడి రామకృష్ణ, జంధ్యాల, రేలంగి నరసింహారావు కూడా విజయవంతంగా పలు చిత్రాలకు దర్శకత్వం వహించారు. జంధ్యాల దర్శకత్వంలో ఆనంద భైరవి, అహనా పెళ్ళంట, శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ, నాలుగు స్తంభాలాట వంటి చిత్రాలు విజయవంతమై హాస్య చిత్రాలకు క్రొత్త ఒరవడి సృష్టించాయి.
శివ చిత్రం విజయం ద్వారా రాంగోపాల వర్మ అనే ప్రతిభావంతుడైన యువ దర్శకుడు చిత్ర రంగానికి పరిచయమయ్యాడు.
క్రియేటివ్ కమర్షియల్స్ కె.ఎస్.రామారావు, యువ చిత్ర కె.మురారి, విజయవాహిని ఆర్ట్స్ టి.త్రివిక్రమరావు, గోపీ ఆర్ట్స్ గోపి, లక్ష్మీ ఫిలిమ్స్ అనురాధా దేవి ఈ దశకంలో ప్రముఖ నిర్మాతలు. వేజెళ్ళ సత్యనారాయణ సందేశాత్మక చిత్రాలు స్వీయ దర్శకత్వంలో నిర్మించాడు. రామోజీరావు సినిమా నిర్మాతగా మారి శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ, మయూరి, ప్రతిఘటన వంటి నాణ్యమైన సినిమాలు నిర్మించాడు. పద్మాలయా స్టూడియోస్, రామానాయుడు స్టూడియోస్ ప్రారంభమైనాయి.
రచయితలుగా పరుచూరి బ్రదర్స్, పాటల రచయితగా సిరివెన్నెల సీతారామశాస్త్రి బాగా రాణించారు. నటునిగా చిరంజీవి అగ్ర స్థానంలో ఉన్నాడని చెప్పవచ్చును. ఈ కాలంలోనే బాలకృష్ణ, నాగార్జున, వెంకటేష్లు సీనియర్ సినీ ప్రముఖులకు వారసులుగా రంగంలో మంచి గుర్తింపు పొందారు. మోహన్ బాబు నటుడిగానూ, నిర్మాతగానూ మంచి విజయాలు సాధించాడు. ఆవేశపూరితమైన పాత్రలలో రాజ శేఖర్, హాస్య పాత్రలలో రాజేంద్ర ప్రసాద్ కథానాయకులుగా సుస్థిర స్థానం సంపాదించారు.
నటీమణులలో శ్రీదేవి, జయప్రద, జయసుధ, సుజాత, రాధిక, విజయశాంతి, రాధ అత్యధిక సినిమాలలో నటించారు. కామెడీ పాత్రలలో బ్రహ్మానందం అగ్రస్థానంలో ఉండగా మల్లికార్జునరావు, సుత్తివేలు, వీరభద్రరావు, శ్రీలక్ష్మి వంటి ప్రతిభాశాలురైన హాస్యనటులు తెలుగుతెరపై విజృంభించారు. కోట శ్రీనివాసరావు అన్ని విధాల పాత్రలలోనూ ఆదరణ పొందగలిగాడు.
సంగీత దర్శకులుగా చక్రవర్తి ఎక్కువ సినిమాలకు సంగీతం అందించాడు. ఇళయరాజా, రాజ్-కోటి, రమేష్ నాయుడు కూడా చాలా సినిమాలకు సంగీత దర్శకులు. ఎస్.పి.బాలసుబ్రహ్మణ్యం, చిత్ర, ఎస్.జానకి, పి.సుశీల, వాణీ జయరాం ప్రముఖ నేపథ్య గాయకులు.
హీరో కృష్ణ తెలుగులో మొదటి 70 ఎమ్.ఎమ్. సినిమాగా సింహాసనం నిర్మించాడు. సినిమా అభివృద్ధికోసం ఎ.పి.స్టేట్ ఫిల్మ్ డెవలప్మెంట్ కార్పొరేషన్ స్థాపించబడింది. 1984లో 2 లక్షలు రూపాయలున్న సబ్సిడీ 1989నాటికి 3 లక్షలుకు పెంచారు. పన్నులలో స్లాబ్ సిస్టమ్ ప్రవేశ పెట్టారు. అందువలన మిశ్రమ ఫలితాలు సంభవించాయి.
1981 నుండి రఘుపతి వెంకయ్య అవార్డు ప్రారంభమైనది.
ఈ దశాబ్దంలో ముఖ్యమైన చిత్రాలు:
శ్రీవారికి ప్రేమలేఖ
అభిలాష
ఖైదీ
మయూరి
ప్రతిఘటన
మేఘ సందేశం
ఛాలెంజ్
సితార
స్వాతి ముత్యం
రుద్రవీణ
పెళ్ళి పుస్తకం
గీతాంజలి
తాండ్ర పాపారాయుడు
అంకుశం
స్వర్ణకమలం
శివ
జగదేకవీరుడు- అతిలోక సుందరి
జస్టిస్ చౌదరి
తెలుగు సినిమా 1990-2000
దాదాపు 950 స్ట్రయిట్ తెలుగు చిత్రాలు ఈ కాలంలో విడుదలయ్యాయి. ఇక ఈ కాలంలో బి.గోపాల్, ఈవీవీ, రాంగోపాల్వర్మ, ఎస్.వి.కృష్ణారెడ్డి, భీమనేని శ్రీనివాసరావు వంటి క్రియేటివ్ దర్శకుల హవా పెరిగింది.
"తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథం
ప్రపంచ సినీ పితామహులు లూమియర్ బ్రదర్స్ 1896 జూలై 7న బొంబాయిలోని వాట్సన్ హోటల్ లో ఏర్పాటు చేసిన తొలి చలన చిత్ర ప్రదర్శన ద్వారా భారత దేశంలోకి చలనచిర రంగం ప్రవేశించింది. అది మొదలు గత 100 సంవత్సరాల భారతీయ చలనచిత్ర చరిత్ర, 1931లో ప్రారంభమైన తెలుగు చలన చిత్ర పరిశ్రమకు సంబంధించిన సమగ్ర చరిత్రపై వెంకటేశ్వర్లు బులెమోని ఏడున్నర సంవత్సరాలపాటు పరిశోధన చేసి వ్రాసిన గ్రంథం "తెలుగు సినిమా చరిత్ర".
ఈ "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథంలో తెలుగు చలనచిత్ర పరిశ్రమకు సంబంధించిన సమగ్ర చరిత్ర, సాంకేతిక అభివృద్ధి, తెలుగు చలనచిత్ర నటీనటులు, టెక్నీషియన్ల వివరాలు, 1931 నుంచి 1997 దాకా వచ్చిన మేటి చలనచిత్రాల సమీక్ష, సంవత్సర వారీగా విడుదలైన సినిమాల పూర్తి వివరాలు ఈ గ్రంథంలో పొందుపరచబడ్డాయి. ఈ గ్రంథాన్ని నెక్స్ట్ స్టెప్ పబ్లికేషన్స్ ప్రచురించగా, విశాలాంధ్ర పబ్లిషింగ్ హౌజ్, నవోదయ బుక్ హౌజ్, ప్రజాశక్తి బుక్ హౌజ్లు సమ్యుక్తంగా ప్రపంచవ్యాప్తంగా విడుదల చేశారు. అప్పటి కేంద్ర మంత్రి యు. కృష్ణం రాజు 25 నవంబర్ 1997 న ఈ గ్రంథాన్ని విడుదల చేశారు.
ఈ "తెలుగు సినిమా చరిత్ర" గ్రంథానికిగాను ఉత్తమ గ్రంథంగా రాష్ట్ర ప్రభుత్వ "నంది అవార్డు", ఉత్తమ రచయితగా "యువకళావాహిని" అవార్డు రచయితకు లభించాయి.
తెలుగు సినిమా 2000-2010
ఇక 2000-2010 మధ్య కాలంలో సినిమా డిజిటల్ యుగాన్ని అందిపుచ్చుకుని, ఆన్ స్క్రీన్ వండర్స్ ను సృష్టిస్తోంది. ఫలితంగా తెలుగు సినిమా అతి వేగంగా తెరకెక్కుతూ.. హాశ్చర్యపరుస్తోంది. త్రీడీ టెక్నాలజీ.. డిజిటల్ ఇంటర్మీడియట్.. గ్రాఫిక్స్.. రంగాలు వాటి సేవలు శరవేగంగా హైదరాబాదులో విస్తృతమయ్యాయి. మనది సినిమా పిచ్చోళ్ల దేశం అంటారు జావేద్ అక్తర్. సినిమా మనకు తెలుపు నలుపు రంగుల కాలంలో ఎంతగా ఆలరించిందో.. ఆలోచింపజేసిందో.. రంగుల కాలంలోనూ అవే సుగుణాలు పుణికిపుచ్చుకుంది. సమాంతర చిత్రాలు.. సందేశాత్మక చిత్రాలు.. ఇలా పేరేదైనా.. సినిమా సత్యజిత్ రే చూపిస్తే ఒకలా.. చంద్రశేఖర్ఏలేటి చూపిస్తే మరోలా ఆవిష్కృతమైంది. మన జీవనంలో భాగమైంది. మ్యాథ్స్ ఫార్ములాలను.. ఒంటబట్టించుకున్న సుకుమార్ తరం ఇప్పుడు నడుస్తోంది గనుక.. ఈ తరం సినిమా సిగ్మండ్ ఫ్రాయిడ్ ను.. అయన్ రాడ్ ను.. నిషేను.. ప్రతిభావంతంగా వాడుకుంటోంది. ప్రభావ శీలక మాధ్యమంగా ఎదుగుతోంది. నవలలు ఇప్పుడు సినిమాగా తెరకెక్కకపోయినా.. కథలు ఇంకా రొటీన్ బాణీలోనే నడుస్తున్నా.. సినిమా నిర్మాణ 'గతి' నానాటికి పుంజుకుంటోంది. సినిమా స్కోప్.. 70 ఎంఎం.. డిజిటల్ ప్రాసెసింగ్.. ఇలా రూపాంతరం చెందుతోంది. అయితే బాధాకరం ఏంటంటే మన దగ్గరి కథలు అంతర్జాతీయ స్థాయికి చేరుకోవడం లేదు. ఏదేమైనా మళ్లీ ఓ సారి గతంలోకి తొంగిచూస్తే మన సాహసాలు.. మన సానుకూల దృక్పథాలూ సాక్షాత్కారం అవుతాయి. వాటి నుంచి రేపటి గమనానికి కావాల్సిన కొన్ని ఆలోచనలు పుట్టుకువస్తాయి. సో.. మళ్లీ నాటి కాలానికి వెళ్తే.. అంటే కళ.. కళ కోసం కాదు.. సామాజిక ప్రయోజనం కోసం అన్న మాటలు తలుచుకుంటే గతమెంత ఘనం అనిపించకమానదు.
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బయటి లింకులు, వనరులు
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Creative Assembly Sofia[lower-alpha 3] (formerly Black Sea Studios Ltd.[lower-alpha 1] and Crytek Black Sea Ltd.[lower-alpha 2]) is a Bulgarian video game developer based in Sofia.[1]
History
2001–2007: Black Sea Studios
The company was established by Vesselin Handjiev as Black Sea Studios in 2001. It was based in Bulgaria and initially began developing "two real-time strategy games and one arcade-style action game" for major gaming consoles.[2] The company became known for its 2004 title Knights of Honor, a historical real-time strategy game released for Microsoft Windows, and for the 2008 science fiction real-time strategy title WorldShift.[3][4]
2008–2016: Crytek Black Sea
In July 2008, German developer and publisher Crytek announced their acquisition of the studio, and renamed it Crytek Black Sea. At the time, Black Sea Studios was based in Sofia, Bulgaria, with Vesselin Handijev was managing director.[3]
In May 2014, Crytek announced the development of their own multiplayer online battle arena game using the CryEngine, titled Arena of Fate and under development at the Sofia studio. The game was shown at E3 2014.[5] In November 2016, the founder and director of the studio Vesselin Handjiev left and a month later announced the formation of a new game company, Black Sea Games.[6]
2016–2018: Purchase by Creative Assembly
In December 2016, Crytek announced that it would shut down five of its international studios, due to financial troubles, of which Crytek Black Sea was put up for sale.[7][8] In March 2017, it was announced that the studio was acquired by British developer Creative Assembly (itself owned by Sega), and was renamed Creative Assembly Sofia.[9] At the time, Crytek Black Sea had 60 people.[9][10][11]
Games developed
Notes
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Jamhuri ya Kidemokrasia ya Kongo (au Kongo-Kinshasa) ni nchi iliyoko Afrika ya Kati; kwa ukubwa wa eneo ni ya pili barani Afrika. Ni tofauti na nchi jirani ya Jamhuri ya Kongo.
Jiografia
Nchi imepakana na Jamhuri ya Kongo, Jamhuri ya Afrika ya Kati, Sudan Kusini, Uganda, Rwanda, Burundi, Tanzania, Zambia na Angola.
Ina sehemu ndogo ya pwani kwenye Bahari ya Atlantiki. Sehemu hiyo inatenganisha eneo la Cabinda kutoka maeneo mengine ya Jamhuri ya Angola.
Historia
Historia ya kale
Wakazi wa kwanza huaminiwa kuwa wawindaji wa jamii ya Wasani na ya Wabilikimo.
Katika karne za BK walifika wahamiaji Wabantu wenye ujuzi wa kilimo na uhunzi.
Jina la Kongo lahusiana na mto Kongo unaopitia nchi yote.
Mnamo karne ya 15, wakati wapelelezi wa kwanza Wareno walipofika kwenye pwani za Afrika, milki kubwa katika nchi ya Kongo ya magharibi pamoja na Angola ya kaskazini ilikuwa Ufalme wa Kongo. Wakati wa uenezaji mkuu ufalme huu ulianza kwenye mwambao wa Atlantiki na kuendelea hadi mto Kwango kwenye mashariki, halafu maeneo kutoka Pointe-Noire (leo: Jamhuri ya Kongo, upande wa kaskazini ya Cabinda) upande wa kaskazini hadi mto Loje (leo: mji wa Ambriz) katika kusini.
Mtawala alikuwa na cheo cha Manikongo na ufalme uligawiwa kwa majimbo sita. Baada ya kufika kwa Wareno wafalme na matabaka ya juu walikuwa Wakristo. Ufalme uliporomoka kutokana na vita vilivyosababishwa na biashara ya watumwa na kuingilia kwa wafanyabiashara ya watumwa katika siasa ya ndani. Hata hivyo, nasaba za watawala waliotumia cheo cha "Awenekongo" waliendelea kukaa katika mji mkuu wa kale M'banza-Kongo (iliyobadilishwa jina kuitwa San Salvador) hadi mwaka 1914 ambako Wareno walifuta mabaki ya uhuru na kufanya eneo lililobaki sehemu kamili ya koloni lao la Angola.
Upande wa kusini, kuanzia karne ya 17, kulikuwa na ufalme ulioitwa Dola la Kazembe.
Koloni binafsi la mfalme kuwa koloni la Ubelgiji
Nchi jinsi ilivyo ilianzishwa kama Dola huru la Kongo likiwa mali binafsi ya mfalme Leopold II wa Ubelgiji. Historia yake ni ya aibu na ya ukatili kupindukia.
Utawala wa mfalme ulionekana kuwa wa kinyama na upinzani dhidi yake ulikua katika nchi nyingi za dunia.
Hatimaye alipaswa kukabidhi koloni lake binafsi mikononi mwa serikali ya Ubelgiji iliyomlipa fidia kwa mali aliyoacha.
Kati ya mwaka 1908 hadi 1960 ilikuwa koloni la Ubelgiji kwa jina la Kongo ya Kibelgiji baada ya kuhamishiwa mikononi mwa serikali ya Ubelgiji.
Katika miaka 1925 hadi 1946 maeneo ya Rwanda na Burundi yalitawaliwa kama sehemu za Kongo ya Kibelgiji.
Siasa ya wakoloni
Wabelgiji walijitahidi kuboresha hali ya maisha ya wenyeji baada ya miaka mibaya ya Leopold II. Nia ilichelewa kuonekana hali halisi kwa sababu utaratibu wa kulazimisha Waafrika kufanyia kazi kampuni na shirika kubwa iliendelea hata bila idhini ya serikali mpya ukadai vifo vingi.
Kwenye uwanja wa elimu, matibabu na mawasiliano jitihada za siasa mpya zilionekana zaidi. Kongo ilikuwa kati ya nchi chache ambako lugha za kienyeji zilifundishwa shuleni kwa sababu shule nyingi ziliendshwa na wamisionari.
Kwa upande mwingine ubaguzi wa rangi uliwaruhusu Waafrika wachache sana kufikia ngazi za juu za elimu.
Makampuni makubwa ya migodi kama vile "Société Générale" na "Union Minière du Haut Katanga" yalichimba madini hasa katika jimbo la Katanga. Makampuni haya yalikuwa na athira kubwa.
Katanga ilikuwa maarufu kwa shaba iliyochimbwa huko. halafu pia kwa uranium iliyotumiwa kwa mabomu ya kwanza ya kinyuklia ya Marekani mwaka 1945.
Upinzani
Baada ya unyama wa miaka ya Leopold II upinzani dhidi ya utawala wa kikoloni ulikuwa hafifu. Kuanzia miaka ya 1920 Wakongo wengi walionyesha upinzani huo katika mahudhurio katika madhehebu mapya ya wafuasi wa Simon Kimbangu yaliyopigwa marufuku na Wabelgiji kuanzia mwaka 1926.
Tangu mwaka 1950 upinzani uliongezeka na kuonyesha pia uso wa kisiasa.
Wabelgiji ambao hawakujiandaa kwa madai hayo yalipaswa kukubali uchaguzi wa halmashauri za vijiji na miji mwaka 1957.
Mwaka 1958 vyama vya kisiasa vilikubaliwa. Harakati mbili muhimu kati ya hivi zilikuwa Abako (Alliance de Bakongo) chini ya Joseph Kasavubu na MNC (Mouvement National Congolais) chini ya Patrice Lumumba.
Mwaka 1959 mkutano wa wanasiasa Wakongo ulidai uhuru wa nchi.
Mwisho wa koloni na uhuru
Wabelgiji walijaribu kuchelewesha harakati hizo lakini baada ya kutambua matatizo serikali ya Ubelgiji ilitangaza mnamo Januari 1960 kuwa uchaguzi utaendeshwa haraka na baada ya miezi sita Wabelgiji watakabidhi nchi kwa wenyeji.
Chama cha Patrice Lumumba kilishinda kwa kura nyingi naye akawa kiongozi wa kwanza wa nchi huru kama waziri mkuu.
Koloni la Kongo ya Kibelgiji lilipata uhuru tarehe 30 Juni 1960.
Kati ya 27 Oktoba 1971 na 17 Mei 1997, chini ya utawala wa dikteta Mobutu, nchi ilijulikana kwa jina la "Zaire".
Leo hii ni Jamhuri ya Kidemokrasia ya Kongo.
Mikoa
Nchi imegawiwa katika mikoa 26 kadiri ya Katiba mpya (2006) na utekelezaji wake wa mwaka 2015.
Watu
Wakazi asilia ni Wabilikimo, ambao kwa sasa ni 600,000. Kumbe walio wengi ni Wabantu.
Lugha
Kifaransa ni lugha rasmi ya Jamhuri ya Kidemokrasia ya Kongo. Ilikuwa lugha ya utawala ya koloni ikaendelea kutumiwa kama lugha isiyoelekea upande wowote kati ya makabila, lugha na tamaduni za nchi hii.
Lugha ya Kiholanzi iliyotumiwa na Wabelgiji pamoja na Kifaransa katika utawala haiko tena.
Kwa jumla kuna takriban lugha 242, hasa lugha za Kibantu, zinazozungumzwa nchini (angalia orodha ya lugha). Kati yake, lugha 4 zinatambuliwa kama lugha za kitaifa, nazo ni: Kikongo (Kituba), Kingala (Kongo), Kiluba (Tshiluba) na Kiswahili. Wakati wa ukoloni lugha hizo nne za kitaifa ziliwahi kutumiwa kieneo katika shule za msingi.
Kingala kilikuwa lugha rasmi ya jeshi la kikoloni liloitwa "Force Publique" chini ya utawala wa Ubelgiji likaendelea kuwa lugha ya jeshi la jamhuri baada ya uhuru.
Tangu mapinduzi ya 1997 sehemu za jeshi, hasa mashariki, hutumia pia Kiswahili.
Takriban watu 33,000,000 wanatumia Kifaransa kama lugha ya kwanza au lugha ya pili.
Dini
Wananchi wengi (zaidi ya 80%) wanajihesabu Wakristo wa madhehebu mbalimbali; kati yao asilimia 36.8 ni Wakatoliki. Waislamu ni asilimia 10-12. Wafuasi wa dini asilia za Kiafrika ni 3%.
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Orodha ya nchi za Afrika kulingana na pato la taifa
Demografia ya Afrika
Marejeo
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Jamii:Nchi za Afrika
Jamii:Umoja wa Afrika
Jamii:Nchi zinazotumia lugha ya Kifaransa | https://sw.wikipedia.org/wiki/Jamhuri%20ya%20Kidemokrasia%20ya%20Kongo |
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Wild wolves are sometimes kept as exotic pets, and in some rarer occasions, as working animals. Although closely related to domesticated dogs, wolves do not show the same tractability as dogs in living alongside humans, and generally, much more work is required in order to obtain the same amount of reliability. Wolves also need much more space than dogs, about 25 to 40 square kilometres (10 to 15 sq mi) so they can exercise.[1]
Rearing
Captive wolf puppies are usually taken from their mother at the age of 14 days, preferably no later than 21 days.[2] Wolf pups require more socialisation than dog pups, and will typically stop responding to socialisation at the age of 19 days, as opposed to dogs which can still be socialised at the age of 16 weeks. For the first four months of their lives, wolf pups need to be kept isolated from adult canines, except for a few brief visits per week, in order for them to properly imprint on humans.[2] Pups will typically develop behavioural abnormalities if raised without another member of their own kind.[2] Because wolf milk contains more arginine than can be found in puppy milk substitutes, an arginine supplement is needed when feeding pups below the weaning age. Failure to do so can result in the pups developing cataracts.[3]
Temperament
Some wildlife centers housing captive wolves prohibit handlers from entering wolf enclosures if they happen to have a cold or other vulnerability which the wolves can detect.[4] Captive wolves are generally shy and avoid eye contact with humans other than their owner, as well as not listening to any commands made by any other humans. They usually vacate rooms or hide when a new person enters the establishment.[5] Even seemingly friendly wolves need to be treated with caution, as captive wolves tend to view and treat people as other wolves, and will thus bite or dominate people in the same situation in which they would other wolves.[6] Ordinary pet food is inadequate, as an adult wolf needs 1–2.5kg (2–5lbs) of meat daily along with bones, skin and fur to meet its nutritional requirements. Wolves may defend their food against people, and react violently to people trying to remove it.[2] The exercise needs of a wolf exceed the average dog's demand. Because of this, captive wolves typically do not cope well in urban areas.[2] Due to their talent at observational learning, adult captive wolves can quickly work out how to escape confinement,[7] and require constant reinforcement by caretakers or owners, which makes raising wolves difficult for people who raise their pets in an even, rather than subordinate, environment.
Some pet wolves are euthanised or might be released into the wild where they are likely to starve or be killed by resident wolf packs in regions where they are still present. Abandoned or escaped captive wolves can be more destructive and pose a greater danger to humans and livestock than wild wolves, seeing as their habituation to humans causes them to lose their natural shyness.[8] The Wolf of Gysinge is thought to have been one such animal. Keeping these animals at home can be a bad idea, as they are very destructive.
Trainability
Though wolves are trainable, they lack the same degree of tractability seen in dogs. They are generally not as responsive as dogs to coercive techniques involving fear, aversion to stimuli, and force. Generally, far more work is required to obtain the same degree of reliability seen in most dogs. Even then, once a certain behavior has been repeated several times, wolves may get bored and ignore subsequent commands. Wolves are most responsive toward positive conditioning and rewards,[9] though simple praise is not sufficient as in most dogs.[10] Unlike dogs, wolves tend to respond more to hand signals than voice.[10] Although they are more difficult to control than dogs, they can be easier to teach if the motivation exists.[9]
Wolves are less suitable than dogs for working. Swedish wolf biologist Erik Zimen once tried to form a dog sled team composed entirely of wolves. The experiment failed as the wolves ignored most commands and were far more prone to fighting than sled dogs.[7] North American wolves and wolf hybrids were used as experimental attack dogs by the South African Defence Force in Apartheid South Africa in an attempt to breed animals capable of tracking guerrillas. Because the wolves would not follow even basic commands, the experiment was abandoned.[11][12] However, their sense of smell can rival that of established scent hounds. According to reports published in 2006, ongoing research at the Perm Institute of Internal Troops in Russia demonstrated that wolf/dog cross-breeds took 15–20 seconds to track down a target in training sessions, whereas ordinary police dogs took 3–4 minutes.[13] Their success has led to plans to use them as police dogs for the Russian police.[13]
American biologist, Stanley P. Young, described tame wolves as thus:
Generally speaking, on the basis of their experience, tame wolves are strictly "one-man dogs". They may be confiding and playful with the man who raised them, or even with his whole family, if fed and cared for by them, but they are suspicious and timid in the presence of strangers. They invariably retain certain reactions of wolf nature, as for instance, an incorrigible desire to kill chickens or other small livestock whenever opportunity arises.[14]
Several hunters of the USFWS kept wolf pups as pets, with the best results occurring when they were caught just after their eyes began opening. In contrast, pups taken at 3–4 weeks of age proved unmanageable, with only one in 11 of such pups becoming tame, despite one month of eight hours per day of socialization with people.[14] However, John James Audubon recorded an instance of a wolf being trained to hunt deer in Kentucky,[15] and Henry Wharton Shoemaker published a similar account of settlers in western and central Pennsylvania using wolves as hunting dogs.[16] Buffon wrote in his Natural History of tamed wolves in Persia being trained to perform dances and tricks.[17]
See also
Coydog
Domestication of the dog
Wolf-dog hybrid
Bibliography
Cite journal requires |journal= (help)
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সাইমন ড্রিং (জন্মঃ ১১ জানুয়ারি, ১৯৪৫) একজন আন্তর্জাতিক পুরস্কার বিজয়ী বৈদেশিক সংবাদদাতা, টেলিভিশন উপস্থাপক এবং প্রতিবেদন নির্মাতা। তিনি বিশ্বখ্যাত সংবাদ সংস্থা রয়টার্সের বৈদেশিক প্রতিনিধি হিসেবে বিশ্বের অনেক জায়গা ভ্রমণ করে তরতাজা ও গুরুত্বপূর্ণ খবর পরিবেশনের মাধ্যমে বিশ্ববাসীর দৃষ্টি আকর্ষণে সক্ষম হন। এছাড়াও তিনি লন্ডনভিত্তিক দ্য ডেইলী টেলিগ্রাফ, বিবিসি টেলিভিশন এবং রেডিও সংবাদ ও চলতি ঘটনা তুলে ধরার লক্ষ্যে অনবরত কাজ করছেন। বাংলাদেশের মহান মুক্তিযুদ্ধে তিনি জীবনের ঝুঁকি নিয়ে পাকিস্তান হানাদার বাহিনীর জঘন্য ও নৃশংসতার বিবরণ দৈনিকে তুলে ধরে বিশ্ববাসীর দৃষ্টি আকর্ষণ করেন।
শিক্ষা লাভ
ইংল্যান্ডের নরফোকের ফাকেনহাম নামক এক ছোট্ট শহরে ১১ জানুয়ারি, ১৯৪৫ সালে জন্মগ্রহণ করেন সাইমন ড্রিং। শৈশবকালে আওজ নদীতে উলঙ্গ অবস্থায় সাঁতার কাটার অভিযোগে তাঁকে বোর্ডিং স্কুল থেকে বহিষ্কার করা হয়েছিল। এরপর তিনি কিংস্ লিন টেকনিক্যাল কলেজে অধ্যয়ন করেন। ১৬ বৎসর বয়সে তিনি গৃহত্যাগ করেন। ১৯৬২ সালে বহিঃবিশ্ব ভ্রমণের অংশ হিসেবে ভারত ভ্রমণ করেন।
সাংবাদিকতা
১৭ বছর বয়সে তিনি প্রথম চাকুরীতে যোগদান করেন। ১৯৬৩ সালে থাইল্যান্ডের ব্যাংকক ওয়ার্ল্ড সংবাদপত্রে 'প্রুফ রিডার' (সম্পাদনা সহকারী) হিসেবে কাজ করেন। তারপর ১৯৬৪ সালে নিউইয়র্ক থেকে প্রকাশিত নিউইয়র্ক টাইমসের স্ট্রিংগার হিসেবে কাজ করেন লাওস থেকে।[1] একই বছর ভিয়েতনাম ভ্রমণ করেন। সেখানে তিনি বার্তা সংস্থা রয়টার্সের যুদ্ধবিষয়ক সংবাদ প্রতিনিধি হিসেবে নিযুক্ত ছিলেন। এর মাধ্যমেই তিনি রয়টার্সের সর্বকনিষ্ঠ বৈদেশিক সংবাদদাতা হিসেবে নিজেকে ইতিহাসের পর্দায় ঠাঁই করে নেন।
১৯৭০ এবং ১৯৮০-এর পুরো দশক জুড়ে তিনি ডেইলী টেলিগ্রাফ সংবাদপত্র এবং বিবিসি টেলিভিশন নিউজের বৈদেশিক সংবাদদাতা হিসেবে সারা পৃথিবীতে কর্মরত ছিলেন। ঐ সময়ে তিনি দক্ষিণ-পূর্ব এশিয়ার দেশগুলো থেকে প্রতিবেদন পাঠাতেন। ভারত, পাকিস্তান এবং বাংলাদেশ, আফ্রিকা, মধ্যপ্রাচ্য, ল্যাটিন আমেরিকা এবং ইউরোপের অস্থিতিশীল ঘটনাপ্রবাহ নিয়মিত তুলে ধরতেন সংবাদ মাধ্যমগুলোয়। পেশাগত জীবনে ২২টি যুদ্ধ ও অভ্যুত্থান কাভার করেছেন। বিবিসি টেলিভিশন ও রেডিও'র সংবাদ এবং সাম্প্রতিক ঘটনাবলী নিয়ে কাজ করেছেন প্রায় ২০ বছর। এছাড়া চলচ্চিত্র, আন্তর্জাতিক ঘটনা এবং সঙ্গীত বিষয়ে তাঁর রয়েছে ব্যাপক ও বিচিত্র অভিজ্ঞতা।[1] ইরানের শাহবিরোধী গণ-অভ্যুত্থান নিয়ে প্রতিবেদন তৈরী করে সায়মন ড্রিং নন্দিত হয়েছিলেন এবং অর্জন করেছিলেন অনেক পুরস্কার।
সংবাদ সংগ্রহ করতে গিয়ে যুদ্ধক্ষেত্রে তিনি দু'বার আহতও হয়েছিলেন। প্রথমবার ভিয়েতনামে এবং দ্বিতীয়বার সাইপ্রাসে তুর্কিদের আগ্রাসনে। বিবিসি রেডিও এবং টেলিভিশনে কাজ করার পাশাপাশি পৃথিবীর বিভিন্ন দেশের সংবাদপত্র ও সাময়িকীতে লিখেছেন তিনি।
বাংলাদেশের মুক্তিযুদ্ধে ভূমিকা
ভিয়েতনাম যুদ্ধ এবং বাংলাদেশের গণহত্যার ওপর প্রস্তুতকৃত প্রতিবেদন তাঁকে বিশ্বজোড়া খ্যাতি ও সুনাম এনে দেয়। সায়মন ড্রিং বাংলাদেশের গণহত্যার প্রত্যক্ষদর্শী প্রথম বিদেশী সাংবাদিক যিনি নিজের জীবন বিপন্ন করে সরেজমিন প্রতিবেদন তৈরী করে সারা বিশ্বকে জানিয়ে দেন পাকিস্তানী বাহিনীর লোমহর্ষক নির্যাতন ও গণহত্যার কথা।
উদ্বেগ-উৎকণ্ঠায় ভরা ১৯৭১ সালের ২৫শে মার্চের কালোরাতে সাইমন ড্রিং হোটেল ইন্টারকন্টিনেন্টালে (পরবর্তীতে - হোটেল শেরাটন, বর্তমানে -হোটেল ইন্টারকন্টিনেন্টাল ) লুকিয়ে ছিলেন। তৎকালীন পাকিস্তানে সামরিক আইনের তোয়াক্কা না করে ২৭ মার্চ তিনি মুক্তিযুদ্ধের সংবাদ সংগ্রহ করে ডেইলি টেলিগ্রাফ পত্রিকায় প্রতিবেদন আকারে প্রেরণ করেন যা ট্যাংকস ক্র্যাশ রিভোল্ট ইন পাকিস্তান শিরোনামে ৩০ মার্চ প্রকাশিত হয়। বাংলাদেশের মহান মুক্তিযুদ্ধের স্বপক্ষে আন্তর্জাতিক অঙ্গনে জনমত সৃষ্টিতে তাঁর এ প্রতিবেদনটি বিশ্বব্যাপী ব্যাপকভাবে সাড়া জাগিয়েছিল। উক্ত প্রতিবেদনে তিনি উল্লেখ করেছিলেন যে,[2]
“আল্লাহর নামে আর অখণ্ড পাকিস্তান রক্ষার অজুহাতে ঢাকা আজ ধ্বংসপ্রাপ্ত ও সন্ত্রস্ত এক নগর। পাকিস্তানি সৈন্যদের ঠান্ডা মাথায় টানা ২৪ ঘণ্টা গোলাবর্ষণের পর এ নগরের...।”
১৯৭১ সালে তৎকালীন পাকিস্তান সরকার তাঁকে জোরপূর্বক দেশ থেকে বের করে দেয়া হয়েছিল।
ইংল্যান্ডে ফিরে গিয়ে পুণরায় নভেম্বর, ১৯৭১ সালে কলকাতায় আসেন তিনি। সেখান থেকে তিনি বাংলাদেশের মুক্তিযুদ্ধের যাবতীয় খবরাখবর নিরপেক্ষভাবে ঐ দৈনিকে প্রেরণ করতেন। ১৬ই ডিসেম্বর তারিখে বিজয়ের দিনে যৌথবাহিনীর সাথে তিনিও ঢাকায় এসেছিলেন।
দাতব্য তহবিল সৃষ্টি
১৯৮৬ সালে লন্ডনে ফিরে তিনি স্পোর্ট এইড নামীয় দাতব্য তহবিলের ধারণা তুলে ধরেন। তহবিল সৃষ্টিতে তাঁকে সর্বোতভাবে সহযোগিতা করেন বব গেল্ডোফ। অর্থ তহবিল সৃষ্টির বিষয়টি ছিল ইতিহাসে সবচেয়ে বৃহৎ ঘটনা যাতে অধিক জনগণের স্বতঃস্ফূর্ত অংশগ্রহণ লক্ষ্য করা যায়। বিশ্বব্যাপী ১২০টি দেশের প্রায় ২০ মিলিয়ন মানুষ এ অনুষ্ঠানে অংশগ্রহণ করে। ৩৭ মিলিয়ন ডলার এই তহবিলে জমা হয়। মূলতঃ আফ্রিকা মহাদেশের দুর্ভিক্ষপীড়িত অঞ্চলের জনগণকে সহায়তার জন্য তহবিলটি গড়ে তোলা হয়েছিল।
একই সালে দ্য রেস এসেইন্ট টাইম শিরোনামে অন্য আরেকটি দাতব্য তহবিল গড়েন সাইমন ড্রিং। এতে ১৬০টি দেশের প্রায় ৫৫ মিলিয়ন মানুষ অংশগ্রহণ করেছিল।
প্রামাণ্যচিত্র নির্মাণ
বিবিসিতে কর্মরত অবস্থায় তিনি অনেকগুলো প্রামাণ্যচিত্র প্রযোজনা ও উপস্থাপনা করেন। আশির দশকের শুরুর দিকে তিনি বিবিসি ছেড়ে মার্কিন যুক্তরাষ্ট্রের লস অ্যাঞ্জেলেসে ফিল্ম কোম্পানী খোলেন। সেখান থেকে বিবিসি ও পাবলিক ব্রডকাস্ট সার্ভিসের জন্য নির্মাণ করেন বিভিন্ন প্রামাণ্যচিত্র। তাছাড়া - সোভিয়েত ইউনিয়ন, চীন ও লাতিন আমেরিকার ওপর নির্মাণ করেন বিভিন্ন অনুষ্ঠান। এসব প্রামাণ্যচিত্র বা অনুষ্ঠানের উপস্থাপক, পরিচালক ও প্রযোজন ছিলেন তিনি নিজেই।
সাইমন ড্রিং তাঁর ১৯৬২ সালের বৈদেশিক ভ্রমণকে কেন্দ্র করে বিবিসি রেডিও ফোরের জন্য 'অন দ্য রোড এগেইন' নামে একটি প্রামাণ্য চিত্র তৈরী করেন ১৯৯২ সালে। পরবর্তীকালে ১৯৯৪ সালে ঐ ভ্রমণ নিয়েই একই নামে আরেকটি আট পর্বের প্রামাণ্যচিত্র নির্মাণ করেন। প্রামাণ্য চিত্রটি বিবিসি টেলিভিশন এবং ডিসকভারী চ্যানেলে প্রচার করা হয়েছিল। এছাড়াও, ১৯৯৫ সালে অন দ্য রোড এগেইন: থার্টি ইয়ার্স অন দ্য ট্র্যাভেলার্স ট্রেইল টু ইন্ডিয়া নামে একটি ভ্রমণ কাহিনীবিষয়ক বই পাঠকদেরকে উপহার দেন। বিবিসি রেডিও ফোরের জন্য নির্মাণ করেন ৪০ মিনিটের রিটার্ন দ্য রোলিং থান্ডার, যা ছিল তাঁর ২০ বছর পর ভিয়েতনামে ফিরে যাওয়ার স্মৃতি নিয়ে অনুষ্ঠান।
হাইতিতে আমেরিকার আগ্রাসন নিয়ে ভুডু ডানিসং</i>সহ আরও অনেক টেলিভিশন অনুষ্ঠান তৈরী করেন। তাছাড়া, সাক্ষাৎকার নিয়েছেন পৃথিবীর বিভিন্ন দেশের রাষ্ট্রপ্রধান ও সরকারপ্রধানদের।
একুশে টেলিভিশন
সাইমন ড্রিং বাংলাদেশের ১ম বেসরকারী পর্যায়ের টেরেস্ট্রিয়াল টেলিভিশন চ্যানেল একুশে টেলিভিশনের সাথে যুক্ত ছিলেন। ১৯৯৭ সালে বিবিসি ছেড়ে তিনি একুশে'র ব্যবস্থাপনা পরিচালক হিসেবে গুরুদায়িত্ব পালন করেন। তিনি বাংলাদেশের বেসরকারী টেলিভিশনের আধুনিকতার অন্যতম রূপকার।[1] ২০০২ সালে একুশে টেলিভিশন কর্তৃপক্ষ সম্প্রচার আইন লঙ্ঘনজনিত কারণে তাদের সম্প্রচার কার্যক্রম বন্ধ করতে বাধ্য হয় এবং বাংলাদেশ সরকার কর্তৃক তিনি ও তাঁর সহযোগী তিনজন নির্বাহী পরিচালক প্রতারণা ও জালিয়াতির অভিযোগে অভিযুক্ত হন।[3] অতঃপর, ২০০২ সালের অক্টোবর মাসে সরকার সায়মন ড্রিংয়ের ভিসা এবং ওয়ার্ক পারমিট বাতিল করে তাঁকে অবিলম্বে বাংলাদেশ ত্যাগের আদেশ দেন। এরফলে তিনি ১ অক্টোবর, ২০০২ সালে বাংলাদেশ ছেড়ে চলে যেতে বাধ্য হন।
পুরস্কার অর্জন
১৯৭১ সালের ২৫ মার্চ বাংলাদেশে পাকিস্তানী সেনাদের নির্যাতনের ওপর প্রতিবেদন তৈরী করে অর্জন করেন ইন্টারন্যাশনাল রিপোর্টার অব দ্য ইয়ার; ইরিত্রিয়া যুদ্ধের ওপর ভ্যালিয়ান্ট ফর ট্রুথ; কুর্দিদের বিরুদ্ধে তুরস্কের যুদ্ধের প্রতিবেদনের জন্য সনি এবং হাইতিতে আমেরিকান আগ্রাসনের ওপর প্রতিবেদন তৈরী করে অর্জন করেন নিউইয়র্ক ফেস্টিভ্যাল গ্রান্ড প্রাইজ। তিনি একজন সেরা প্রুফ রিডারও ছিলেন।[1]
ব্যক্তিগত জীবন
বর্তমানে তিনি অস্ট্রেলিয়ার ব্রিসবেনে অবস্থান করছেন। সেখানে তিনি তার পত্নী ফাইওনা ম্যাকফেরসন সাথে বসবাস করছেন। তাঁর স্ত্রী আইনজীবী এবং রোমানিয়াভিত্তিক ব্রিটিশ চিলড্রেনস্ চ্যারিটি'র নির্বাহী পরিচালক। তাদের সংসারে ২৩ ডিসেম্বর, ২০১০ তারিখে যমজ কন্যা - আভা রোজ এবং ইন্ডিয়া রোজ জন্মগ্রহণ করে। ড্রিংয়ের পূর্বেকার সংসারে তানিয়া নাম্নী আরেকটি কন্যা রয়েছে। সে নিকোলাস এবং জেমস নামের দু'টি পুত্র সন্তান নিয়ে স্পেনে বসবাস করছে।
আরও দেখুন
বাংলাদেশের স্বাধীনতা যুদ্ধ
একুশে টেলিভিশন
রয়টার্স
সংবাদ সংস্থা
অ্যান্থনি মাসকারেনহাস
ডব্লিউ এ এস ওডারল্যান্ড
তথ্যসূত্র
বহিঃসংযোগ
বিষয়শ্রেণী:১৯৪৫-এ জন্ম
বিষয়শ্রেণী:জীবিত ব্যক্তি
বিষয়শ্রেণী:সাংবাদিক
বিষয়শ্রেণী:সাংবাদিকতা
বিষয়শ্রেণী:বিবিসি সংবাদদাতা
বিষয়শ্রেণী:টেলিভিশন পরিচালক
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تاريخ الطب النفسي
المس عند البدائيين
ليس هناك كبير شك في أن الإنسان البدائي قد خبر العناء والقلق والألم النفسي. لكن صفة البداية التي صبغت تطوره العقلي قد تكون السبب في أن قدرته على التمييز بين الحقيقي وغير الحقيقي، وبين الجسمي والنفسي وبين الشعور والتفكير كانت منعدمة أو على الأقل ضعيفة. والدراسات التي انصبت على القبائل البدائية في عصرنا الحديث وكذلك النتائج الأنتروبولوجية توحي بأن المرض العقلي كان قائماً موجوداً بالفعل عند الإنسان في عصر ما قبل التاريخ. ولعل المرض العقلي قد اتخذ عندئذ صورة تتوقف على المرتبة التي توصل إليها ذلك الإنسان من حيث تطوره العقلي، وعلى أنواع العناء والضغوط المرتبطة بصراعه من أجل البقاء، وعلى ما سمحت بوجوده الأنظمة الاجتماعية أو الحضارية البداية من موارد آنذاك.
كذلك تشير الجماجم المتبقية إلى احتمال وجود صور بدائية من الجراحة كانت تقوم على العلاج بالطقوس. وفي هذه الجراحات كانت الجماجم تثقب ثقوباً دائرية باستخدام ما تيسر من أدوات القطع الغليظة. وأغلب الظن أن القصد من وراء ذلك كان إخراج ما قد يكون هنالك من «أرواح شريرة» داخل المريض من خلال تلك الفجوة في الجمجمة.
ثم تقدم التطور المادي للإنسان، فأخذت تفسيراته للمرض تتجه بشكل واضح نحو الوجهة الشيطانية أو وجهة الجن والأرواح الشريرة، أي الاعتقاد بأن هناك أسباباً من خارج الجسم هي المسؤولة عن الظواهر. وكما أن القدامى من أهل الصين والمصريين والعبرانيين قد اتجهوا إلى الإيمان بالأرواح أو الآلهة ليفسروا عالمهم المادي من حولهم، نراهم قد لجأوا إلى الأرواح الشريرة والشياطين والمس من الجن لتفسير المرض.
فما دام المرض يعود في أساسه إلى روح ما وإن كانت شريرة، فلا بد منطقياً من أن يتأتي العلاج من قبل شخص له اتصال خاص بالأرواح أو الآلهة، وذلك هو الكاهن. وكثيراً ما كانت المحاولات الفجة لطرد الروح الشريرة تزيد من شقاء المريض لا من شقاء ذلك الشيطان أو المارد الذي سكن جسمه.
الطب اليوناني الروماني (تفسيرات مبكرة)
انشغلت اليونان فيما قبل أبوقراط بفكرة المرض العقلي والأساطير: كان الجنون ينب إلى قوة الآلهة وتأثيرها.
وبفضل أبوقراط (460 – 357 ق.م تقريباً) حدث تغير ملحوظ في التفكير الطبي. كان رجلاً يؤمن بقيمة الملاحظة الحادة المنهجية، ولذلك فلا عجب أن قام بتسجيل الوصف الانطباعي الأول للمالنخوليا . أضف إلى ذلك أنه زودنا بأوصاف مكتوبة للجنون الذي يطرأ بعد الوضع، وللمخاوف المرضية أو الغريبة، ولحالات الهذيان المرتبطة ببعض أنوع السموم أو التلوث، ولبعض الحالات النفسية المرتبطة بأصل عضوي. وقد تمكن، خلال عمله الإكلينيكي من التعرف عل الهستيريا والهوس والصرع والتدهور العقلي. بل إن أبوقراط نفسه آمن بأن الإنسان يعكس العناصر الأربعة الأساسية في الكون (التراب والماء والنار والهواء). كان يقال إن السوائل في جسم الإنسان كمثل هذه العناصر: فالمرارة الصفراء مشتقة من التراب، والمرارة السوداء من الماء، والدم من النار، والبلغم من الهواء. والمرض العقلي نتيجة لاختلال التوازن بين سوائل الجسم.
أما علم النفس عند أفلاطون فقد عاد إلى أهمية القدسية، فالنفس العاقلة قدسية والنفس غير العاقلة حيوانية فانية وهي مصدر كل النزاعات والمشاعر وسبب الجنون أو عدم المعقولية.
أما أرسطو فقد رأى في سلوك الإنسان وتصرفاته مرتبة محددة في سلم يربط بينه وبين غيره من الكائنات الحية.
وإذا كان أبوقراط يمثل قمة الطب الإغريقي فإن جالينوس (130 – 200) كان ذروة العلم الروماني. وقد فصلت سبعة قرون بين هذين الرجلين الذين تشابهت أمزجتهما: فقد كان كل منهما شديداً في هجماته وقوي التعبير عن معتقداته وكان جالينوس توفيقياً أي شخصاً لا يدعو إلى نظرية واحدة ولا يرفض نظرية مفردة، وإنما يتخير ويجمع وينسق بين أحسن ما تراكم من المعرفة. كما يؤثر عن جالينوس انه رأى أن العضو أو الجزء المتأثر بالمرض قد لا يكون بالضرورة ذلك الجزء الذي يستقر فيه المرض.
العصور المظلمة (عودة الاتجاه الروحي)
ولما مات جالينوس في سنة 200 ق.م، توقفت مسيرة التقدم في الطب، وعاد عمر الظلمة أو الجهالة الطبية والتفكير الخرافي القائم على التطير ليسود العالم المتمدن. فقد حرمت التعاليم اليونانية الرومانية بوصفها نوعاً من الوثنية، وعاد المرض العقلي ينظر إليه على أنه نوع من المس، ووضعت القوانين التي تنص على ضرورة إدانة ومحاكمة كل من تعرض للمس، وكل من يحاول علاجه.
وفي القرن الثالث عشر أدى الصراع بين التفسيرات الدينية والدنيوية للإنسان والمرض إلى تناقضات درامية. وانعكست هذه التناقضات بصفة خاصة في سلوك فريد ريك الثاني الذي وضع تعاليم التعليم الطبي التي لا تزال قائمة إلى اليوم.
فلما كان القرن الخامس عشر الميلادي، بلغت سيطرة الانفعالات الدينية على تفكير الأطباء والمشرعين حد الذروة. وأصبحت «الحقائق» تقوم، لا على الملاحظة الدقيقة والتحليل الموضوعي، ولكن على الوثائق الدينية من قبيل مطرقة الساحرات وهو كتاب تمخضت عنه حماسة الباحثين عن شياطين الجن ويمثل نهاية المكاسب السابقة التي تم إحرازها في مجال الطب السيكاتري (النفسي). كانت العبارة البسطة «هذا مناف للإيمان الصحيح » تقضي بصفة نهائية على كل شك في وجود الشياطين أو الجن وفي أنها المسئولة عن الأعراض غير الإنسانية التي تظهر على المريض !
ولم تتوقف سيطرة الانفعالات الدينية المشوبة بالاعتقادات الماورائية، خلال تلك الحقبة، على تفكير الأطباء والمشرّعين فحسب، ولم تتوقف كذلك عند حدود حماسة الباحثين عن الشياطين أو مطاردي الساحرات، بل تجاوزتها لتشكّل مصادر إلهام أساسية للأدباء والفنانين، الذين اشتهر من بينهم الفنان الألماني البارز آلبرخت دورر، الذي أبدع رائعته الأشهر «ميلينكوليا 1» التي استلهم فيها هواجس الكآبة السوداوية، مازجاً إياها برموز المعرفة الباطنية والعلوم. وهو عمل استلهمه حديثاً الفنان المصري ياسر منجي، في معرضه الذي أقيم بالقاهرة عام 2009 تحت عنوان .
الطب النفسي في العصر الإسلامي
إذا بحثنا في توجه الإسلام للتعامل مع المرض العقلى، لوصلنا إلى مصدرين أساسيين يشكلان هذا التوجه، هما:
لم تستخدم كلمة «مجنون» في القرآن للإشارة إلى الشخص الذي فقد عقله أوالشخص الذهاني، بل جاء ذكرها خمس مرات في القرآن تفسيراً لكيفية إدراك الناس للرسل والأنبياء. ذكرت كلمة الجنون في القرآن في وصف ما يلاحظه الناس على كل الأنبياء من شذوذ عن المعتاد وبعد عن المألوف، حين يبدأون دعوتهم التنويرية، وقد اقترنت الكلمة أحياناً بالسحرة أو الشعراء أو العلميين، وبشكل ما نجد أن هناك مضموناً إيجابياً للجنون، يزعزع النظرية المضادة للطب النفسي في تفسيرها للجنون، والتي ازدهرت في منتصف الستينيات.
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ويرجع أصل كلمة «مجنون» إلى كلمة «جن»، وكلمة «جن» في العربية لها مصدر واحد مع عدد من الكلمات الأخرى ذات المعاني المختلفة، ويمكن استخدامها للإشارة إلى الشيء المستتر أو الخفي، كالستار، والدرع. فالجن أحد مخلوقات الله الخفية المستترة، والجنين مستتر داخل الرحم، والجنة خفية لايمكن إدراكها، والمجنون ستار على عقله.
ولا يجوز أن نخلط بين الاعتقاد الخاطئ الحالي بأن المجنون هو من مسه الجن، ومفهوم العصور الوسطى عن الجنون، فالجن في الإسلام ليس بالضرورة شيطاناً، أي ليس بالضرورة مرادفاً للروح الشريرة، دائماً بل هو روح خارج دائرة قوانين الطبيعة المحسوسة أقل منزلة من الملائكة، فبعض الجن مؤمن ويستمع إلى القرآن ويساعد في اتجاه العدالة الإنسانية. وحيث إن الإسلام ليس موجهاً للبشر فقط ولكن إلى العالم الروحاني بأكمله. مما أثر على مفهوم المرضى العقليين والتعامل معهم، فحتى إن تملكهم الجن مجازاً فإن هذا الامتلاك قد يكون من قبل الأرواح الخيرة أو الشريرة، ومن ثم فلا مجال هنا لتعميم العقاب أو صب اللعنات أو تعذيب المرضى.
والى جانب النظرة إلى الجنون باعتباره مساً من الجن، نجد نظرة أخرى إيجابية حيث ينظر الناس إلى فاقد العقل باعتباره شخصاً مبدعاً خلاقاً جريئاً في محاولته لإيجاد بدائل لنمط الحياة الساكن. وبهذا المعنى فقط، وجهت تهمة الجنون إلى النبي محمد والأنبياء الآخرين. ونجد الفكرة ذاتها في المواقف
المختلفة من عدد من الغيبيات المعينة مثل الصوفية، حيث دفعت خبرات التمدد في الذات والوعي إلى نعتهم بالجنون، كذلك فإن مذكرات بعض الصوفية تعكس حدوث بعض الأعراض الذهانية، وكثير من المعاناة العقلية في طريقهم إلى خلاص النفس.
أما المفهوم الثالث للمرض العقلي، فهو نتيجة لعدم الانسجام أو ضيق الوعي الذي يتعرض له المؤمنون، ويرتبط بتزييف طبعية تكويننا الأساسي (الفطرة) وكسر انسجام وجودنا بواسطة الأنانية أو الاغتراب، الممثل جزئياً في افتقاد الاستبصار المتكامل، ويمكننا أن نفهم هذا المستوى أكثر إذا كان على معرفة بروح الإسلام، كأسلوب وجودي للحياة والتصرف والارتباط بالطبيعة والاعتقاد الدفين فيما وراء الحياة، والذي لا يجب بالضرورة أن يكون ما فوق الطبيعة.
ويعتمد المفهوم السائد عن المرض العقلى في مرحلة معينة على ما إذا كان الفكر الإسلامي المهيمن في تلك المرحلة يتميز بالتطور أو التأخر؛ فعلى سبيل
المثال نجد أن المفهوم السائد في مراحل التأخر هو ذلك المفهوم السلبي الذي يعتبر المربض العقلى ممسوساً بأرواح شريرة، في حين أن مراحل التنوير والإبداع
ترتبط بهيمنة مفهوم اختلال الانسجام مع المجتمع.
ولكي نفهم هذه الأبعاد الثلاثة لمفهوم المرض العقلى في الإسلام، وهى:
المس.
التجديد والتمدد في الذات.
اختلال الانسجام أو ضيق الوعي.
يجب أن نلم بالمزايا التي تتمتع بها الفلسفة الإسلامية، وهى:
العلاقة المباشرة مع الإله دون الحاجة إلى وسيط ؛ مما يجعل علاقة المسلم بالله علاقة مباشرة ملهمة، واثقة.
نظرة واقعية عملية لاحتياجات الجسد والروح، ذلك أن الانعزال والنكوص والزهد والتطير المثالي ليس من دعائم الإسلام.
تناسق الفروض والشعائر مع الإيقاع البيولوجي الدوري، مثل:الصلاة ,الصيام، الوضوء, والهرولة بين الصفا والمروة.. الخ.
الاعتقاد في البعث والآخرة، وهو ما يفتح الباب لبحث لانهائي في معرفة وخلق الزمن والذات.
حرية إبداعية غير محدودة، تعيد تشكيل مستويات جديدة من الوعي.
لقد ذكرت النفس 185 مرة في القرآن كمصطلح عام للوجود الإنساني، كجسد وسلوك ووجدان وتصرف، أي كوحدة نفسية-جسمية كاملة. ولقد وجدنا توازناً مثيراً بين مراحل التطور البشرى السبع كما ذكرت في الصوفية والتطور النفسجنسى طبقاً لفرويد، وكذلك النفس اجتماعي طبقاً لأريكسون، كلاهما (الأخيران) ينتهيان دون ما وصلت إليه الصوفية. لقد ارتبط ظهور الإسلام بتغييرات جذرية في سلوك العرب، ولقد شاع أن تعرف مرحلة ما قبل الإسلام بعصر الجاهلية؛ ذلك أن تلاشي الحضارة العربية القديمة والتي استمرت ما يتجاوز ألفي عام، وامتدت إلى عصور الآشوريين والبابليين، جعل الناس ينظرون إلى المرض العقلى تحديداً باعتباره نتيجة للأرواح الشريرة والجن.
لقد دفع القرآن باعتباره قانوناً دينياً جديداً، بالمسلمين إلى أسلوب جديد في الحياة استبدل بشكل جذري النمط الحضاري للفترة السابقة عليه، ولسنا هنا في حاجة للتأكيد أن القرآن ليس بمرجع طبي، ولا يجوز قياسه بالقياسات الأكاديمية الحديثة، ولكن من وجهة نظر الطب النفسي نجد دلالة تاريخية مهمة في ذلك
الجزء من القرآن، الذي يتناول تفسير يوسف لحلم فرعون عن السبع بقرات السمان والسبع بقرات العجاف، وكذلك نجد القرآن دقيقاً حازماً بشأن بعض المشكلات الطبنفسية مثل الانتحار؛ إذ يقرّ بوضوح:
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وقد وجد أن لهذا النهي أهمية كبيرة أى الوقاية من الانتحار. كذلك نجد أن نسبة إدمان الكحول منخفضة في البلدان العربية، ولا يخلو ذلك من دلالة أن منع النبيذ جاء في القرآن على مراحل تدريجية، إذ ينص بداية على أن
،
ثم يليه ما يفيد أن الخمر هي رجس من عمل الشيطان:
ثم أخيراً النهي عن الخمر تماماً
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وتركزت فلسفة النهى في أن احتساء الخمر والمقامرة كليهما يؤديان إلى العداوة والكراهية بين الناس، ويلهيهم عن الصلاة، وقد امتد تحرم الخمر فيما بعد بالقياس ليتناول المسممات والمخدرات الأخرى.
وقد كان لتركيز الرسول على العلاقة بين العوامل النفسية والأمراض الجسمية أهمية خاصة، وقد اتضح ذلك جلياً في قوله ما يفيد بأن الكروب المتراكمة تؤثر على وظائف الجسد. وقد كان لتعاليم المعالج الكبير الرازي أعمق الأثر على الطب العربي والأوروبي، ومن أهم كتاباته «المنصوري» وكتاب «الحاوي». ويتكون الكتاب الأول من عشرة فصول. تتضمن وصفاً لأنواع الأمزجة المختلفة، ويعتبر دليلاً متكاملاً في مجال الخلقة تدل على الخلق، أما كتاب «الحاوي» فيعتبر أكبر موسوعة طبية أصدرها طبيب عربي، وقد تُرجمت إلى اللاتينية عام 1279 م، ونشرت في عام 1486 م، وتعتبر أول كتاب إكلينيكي يعرض الشكاوى والعلامات والتشخيص المفارق والعلاج المؤثر للمريض. ويعدها بنحو مائة عام، ظهر كتاب «القانون» لابن سينا، والذي يعتبر كتاباً تعليمياً يتميز بالتصنيف الأفضل والترتيب الذهني والتوجه المنطقي، وقد قدر له أن يمثل أساس التعليم الطبي في أوروبا لعدة قرون. وقد جاء بعد «القانون» عملٌ آخر لا يقل روعة، ألا وهو كتاب «الملكي» لعلي عباس الذي يعتبر مثل «الحاوي» للرازي عملاً خالداً في مجال التنظير والممارسة في الطب.[1]
الثورة السيكياترية: غلبة التفكير العقلي على البحث عن الشياطين
بدأت أقلام عدد من العلماء غير الأطباء تظهر أول الاهتمام بالدراسة العلمية الحقة للسلوك. وقد ظهرت كلمة «علم النفس» للمرة الأولى في مخطوطات رودوف غوكل سنة 1590 (في كتابه «Psychologia»)، ومخطوطات أوتو كاسمان (في كتابه «Psychologia Anthropologica») تدعو إلى العودة إلى وجهات النظر الإنسانية إلى البشرية. كذلك ساعد فرانسيس بيكون (1561-1626) في وضع اتجاه جديد يقوم على الفصل بين العقل والروح. وذهب إلى أن للعقل خصائص ووظائف مرتبطة بالجسم لا بالروح، وان عقل الإنسان يمكن دراسته من خلال المناهج الامبيريقية لا الميتافيزيقية، وأصبح العقل الآن حراً له كيانه المستقلّ بحيث يدرس لذاته، لا لنبين الطبيعة المقدسة للإنسان.
القرن السابع عشر – عوده الفرض العضوي
بقي كثير من الأوروبيين يؤمنون بحقيقة المس من الجن وبوجود التحالف الخفي بين الإنسان والشيطان. ففي مدينة لودن حاولت راهبة ضئيلة الحجم في «دير أرسولين» تدعى «الأخت جين» أن تكسب عطف قسيس جديد جذاب يدعى «الأب أوربين غرانديه» كانت قد سبقته إليها شهرته في العشق فاستولت عليها وتملكتها. فلما صدها القس عنه أخذت الأخت جين تحدث غيرها من الراهبات بأنها ترى في منامها الأب جرانديه يراودها عن نفسها. الأمر الذي ترتب عليه أن أخذت الراهبات الأخرىات يرين لمنامهن نفس الرؤيا. ثم سرعان ما تفشت حالة من التشنج والتقلصات بين الراهبات، وكانت الأخت جين نفسها تتقلب على الأرض تصرخ وتصك أسنانها بينما الشيطان يجدف ويفحش في القول من فمها. واتهم الأب جرانديه وأدين على أنه المسئول عن هذا المس الذي أصاب الراهبات، وأُحرِق حياً. ثم استُدْعِيَ عدد كبير من الرجال المقدسين للتخلص من الشياطين ولكن في غير طائل. وكان من هؤلاء رجل يقال له «الأب جان جوزيف سورا» حاول جاهداً ولكنه خر صريعاً هو كذلك في آخر الأمر.
القرن الثامن عشر: التصنيفات وحركات الإصلاح تتزايد
سادت في القرن الثامن عشر الرغبة في التنظيم والتصنيف إلى مقولات منظمة تصنيفات الأمراض. وقد كان جورج ستال (1660-1773) - ذلك الرجل الذي اتصف بشدة التشبث بآراثه وبالعناد - أول من قسم المرض العقلي إلى نوع له أصل عضوي، وأنواع لها أصول وظيفية أو نفسية. ثم قدم غيره من الناس تصنيفاتهم حتى كثرت التصنيفات التشخيصية بما يتضمنه ذلك من التمييزات الدقيقة.
كذلك نجد من بين الأطباء المتحمسين من يكتب مؤلفاً من ثلاثة أجزاء يتضمن ثلاثمائة وستا وعشرين صفحة مخصصة لتحديد الصور المختلفة للمرض العقلي.
أضف إلى ذلك أن فورة الحماس هذه تمثل مع ذلك نشأة الطب العقلي بوصفه فرعاً متخصصاً من دراسة الطب.
وبعد الثورة الأمريكية بسنتين، ظهر نوع فريد جديد من العلاج كان السبب في شفاء بعض الحالات بصورة درامية في كل من فيينا وباريس، ذلك أن آنتون مسمر (1734-1815) كان يجلب الشفاء بأن يدفع بالناس إلى «أزمات» تتمثل في التقلصات المفاجئة، ونوبات البكاء وشفافية الرؤية.
مع انه في ذلك الوقت كلفة لجنة لتقصي حقيقة الطريقة المسمرية التي كانت تسمى التنويم المغناطيسي، وقد أظهرت اللجنة كذب إدعاءات ميسمر فقد كان رجلا جشعاً يبحث عن الثراء، مع ذلك ظلت المسمرية تسحر أوروبا اربعين سنة بسبب جاذبيتها الدرامية، وما يبدو من قدرتها على الشفاء المعجز، وبسبب مسمر نفسه. فقد كان مسمر شخصية جماهيرية لها خطرها. حيث ابتكر طريقة التنويم المغناطيسي.
القرن التاسع عشر
مدرسة نانسي:
أحد الأطباء الفرنسيين اسمه ليبو، الذي يرجع كثير من الناس الفضل له مع بريد في إنشاء العلاج النفسي وقد ساعدا على الكشف عن معظم اسرار الهستيريا.
مدرسة سالبتريير:
كان شاركوت (1825 – 1893) مديرا لمدرسة سالبتريير التي عرف عنها تأكيدها للتفسيرات العضوية للهستيريا والتنويم المغناطيسي. وتعد هذه المدرسة أول مركز للدراسات الجامعية العليا في بحال تعليم الطب العقلي بصفة رسمية كما تمكن شاركوت من القضاء التام آخر الأمر على التفكير الخرافي القائم على التطير الذي تميز به الاتجاه الشيطاني وذلك حين قدم تفسيرا سيكولوجيا لظاهرة المس. ذهب شاركوت إلى أن الأمارات التي تفسر خطأ على أنها دليل عل الإصابة بالمس من الجن هي في حقيقتها أعراض للهستيريا. كما أكد من ناحية أخرى إيمانه بأن الهستريا تعود إلى اضطرابات عضوية، وأن ظواهر التنويم المغناطيسي هي نفسها أعراض لإختلالات عضوية.
القرن العشرون: كشوف ثورية
من الصعب تحديد أو تصنيف ما أسهم به القرن العشرون بدقة، أما من حيث التشخيص فيمكن ذكر التطورات التالية:
«النظريات السيكودينامية» عند سيغموند فرويد.
التسليم بتعدد العوامل المحددة للمرض (البيولوجية والاجتماعية) التي دعا إليها ماير (Meyer)
التحليل للعلاقات بين الأشخاص الذي تقدم به سوليفان (Sullivan) والذي يناقض به مفهوم «وحدة كيان المرض» (disease entity concept) ثم الأدلة الطبية التي تؤيد وجهة النظر التي تقول بأن العوامل العضوية هي التي تسبب المرض العقلي من قبيل الكشف عن بكتيريا حلزونية تسبب الزهري وجنون الشلل العام، ثم تواتر الأدلة على احتمال وجود عوامل وراثية عن طريق دراسات التوائم التي قام بها كالمان (Kallman) واكتشاف اختلالات في الصبغيات في حالات التأخر العقلى فقد قدم سيغموند فرويد نظريته عن التحليل النفسي (الهو والانا والأنا الأعلى).
وكان إيفان بافلوف العالم الروسي هو من وضع نظرية الاستجابة الشرطية. ويعد هذا القرن العشرين الذي يحوي العديد من العلماء عصر نهضة الطب النفسي بحق.[2]
محطات هامة في تاريخ الطب النفسي
مصادر
تصنيف:تاريخ الطب النفسي
تصنيف:معاهد طب نفسي
تصنيف:تاريخ الصحة النفسية في المملكة المتحدة
تصنيف:تاريخ الصحة النفسية
| https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE%20%D8%A7%D9%84%D8%B7%D8%A8%20%D8%A7%D9%84%D9%86%D9%81%D8%B3%D9%8A |
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مارثا هيلين ستيوارت (المولودة في مدينة كوستيرا Kostyra ؛ في الثالث من شهر أغسطس لعام 1941) تعتبر أهم سيدات الأعمال الأميركيات، كما تعمل مقدمة برامج تلفزيونية، وكاتبة بالإضافة إلى المجلة التي تنشرها. ونظرا لما قامت به من إنتاج ضخم في مجال الإعلام فإن مارثا ستيوارت قد نالت نجاحا هائلا من خلال مجموعة متنوعة من المشاريع التجارية، وتشمل النشر، والإذاعة، والتجارة. ويتم بث برنامجها الحوارى، مارثا في جميع أنحاء العالم، كما قامت بكتابة العديد من الكتب الأكثر مبيعا، بالإضافة إلى كونها ناشر مجلة مارثا ستيوارت ليفينج Martha Stewart Living.
وفي عام 2001، صنفت ستيوارت ثالث امرأة ذات نفوذ قوى في أميركا من قبل لاديز هوم جورنال Ladies Home Journal. وفي عام 2004، نظرا لتضليل المحققين حول عملية بيع الأسهم، تم الحكم عليها بالحبس خمسة أشهر في السجن. ثم بدأت ستيوارت من جديد بحملة قوية في عام 2005، [1] من خلال شركتها الرائجة في عام 2006.[2]
السيرة الذاتية
ولدت مارثا ستيوارت في مدينة جيرسي بولاية نيو جيرسي لأبوين من الطبقة المتوسطة البولندية الأميركية ادوارد "إدي" كوستيرا Edward "Eddie" Kostyra (سى) 1912—1979) ومارثا راسكاويسكى كوستيرا Martha Ruszkowski Kostyra (بى) بافالو، نيويورك، 16 أيلول /سبتمبر، 1914—دى. نورووك، كونيتيكت، 16 نوفمبر 2007، [3] عاشت في مدينة جيرسي حتى سن 3 سنوات ،وذلك عندما انتقلت عائلتها إلى نوتلي، نيو جيرسي [4][5] حيث تربت في نتلي مع والديها وخمسة أشقاء [6] كما تخرجت ستيوارت من المدرسة الثانوية في نتلي مسقط رأسها [7]
وغرست عائلتها في شخصيتها عاطفة قوية نحو الأنشطة المنزلية. حيث علمتها والدتها كيفية الطبخ والخياطة. وفي وقت لاحق، تعلمت طرق التعليب والحفظ عندما زارت منزل أجدادها في بافالو، نيويورك. كما كان والدها شغوفا بالبستنة، حيث نقل الكثير من المعرفة والخبرة لابنته.
ولقد نشطت ستيوارت أيضا في العديد من الأنشطة اللامنهجية، مثل صحيفة المدرسة ونادي الفن. خلال هذا الوقت ،بدأت ستيوارت مهنة عرض الأزياء. حيث استؤجرت وظهرت في مختلف الإعلانات التلفزيونية والمجلات، بما في ذلك اعلانات السجائر المشهورة تيريتنز ' " قاوم بدلا من التغيير ". ونظرا لاستقامتها، حصلت مارثا على منحة دراسية جزئية لكلية بارنارد في مدينة نيويورك.
كانت في البداية تعتزم دراسة تخصص في مجال الكيمياء، لكنها عدلت مسارها إلى الفن والتاريخ الأوروبي، وتاريخ الهندسة المعمارية في وقت لاحق. وفي ذلك الوقت التقت ب أندرو "اندي" ستيوارت، الذي تزوجته فيما بعد، في 1 يوليو، 1961. وتركت مارثا بارنارد حيث واصلت نجاحها البسيط في مهنة عرض الأزياء، في حين أنهى زوجها دراسته في القانون بمدرسة ييل للقانون. ثم عادت إلى بارنارد بعد عام واحد مرة أخرى، لتتخرج في تخصص مزدوج في التاريخ وتاريخ الهندسة المعمارية. كما أنجبت طفلتها الوحيدة، الكسيس ستيوارت في عام 1965.
و في هذا الوقت، بدأت ستيوارت في صقل وتطوير مهاراتها التجارية. حيث دخلت في سوق الأوراق المالية في عام 1967 ولقد لاقت نجاحا مبهرا، لكنها تركت هذه المهنة في عام 1973 في سبيل قضاء مزيد من الوقت مع ابنتها واستعادة موطنها الجديد في ولاية كونيتيكت. ولقد ذكر أن تورطها في فضيحة اثاث ليفتز ربما ساهمت في قرار مغادرتها شركة مونيس، هورستمان، ويليامز وسيدل [8] حيث زعم العديد من المدراء في الشركة أنهم قد تلقوا عمولات ورشاوى من ليفتز لبيع أسهم الشركة المتعثرة ماليا وقررت ستيوارت وزوجها الانتقال إلى ويستبورت، كونيتيكت. حيث اشتروا وشرعوا في اجراء ترميمات واسعة النطاق لمزرعة 1805 على طريق تركيا هيل رود والذي أصبح في وقت لاحق نموذجا لبرنامج مارثا ستيوارت ليفينج التلفزيوني. حيث تبنى كلا من ستيوارت وزوجها فكرة المشروع بأكمله من تلقاء انفسهم. وأثناء تنفيذ المشروع، تجسدت لدى ستيوارت مهارة التزيين والانتعاش مرة أخرى.
وفي عام 1976 بدأت ستيوارت أعمال توريد الأطعمة في الطابق تحت الأرضي مع صديقتها نورما كولير من فترة عرض الأزياء. وسرعان ما لاقت تجربة المشروع نجاحا واسعا، لكن ساءت الأمور عندما زعمت كولير أنه بات من الصعب العمل مع مارثا، وكانت أيضا تحتكر وظائف توريد الأطعمة. ومن ثم اشترت مارثا نصيبها في المشروع. كما تم التعاقد مع مارثا أيضا كمدير لمستودع تخزين المواد الغذائية، سلة الشراء في السوق المحلى The Market Basket at the Common Market، والتي حولته إلى شعلة من النجاح المزدهر.
وبمرور الوقت تولى زوج مارثا رئاسة شركة مدينة نيويورك هاري ان. ابرامز، للنشر New York City publisher Harry N. Abrams, Inc في عام 1977 ،حيث كان مسؤولا عن إطلاق طبعة من سلسلة كتاب الأمثال السري The Secret Book of Gnomes باللغة الإنجليزية، للمؤلفين الهولنديين ويل هوايجين ورين بورتفيت الذي سرعان ما لاقى نجاحا رائجا وأصبح الكتاب الأكثر مبيعا في نيويورك تايمز. كما تعاقد مع شركة ستيوارت من أجل الاشراف على حفلة اصدار أول طبعة من الكتاب، حيث تعرفت حينئذ على آلان ميركن، Alan Mirken رئيس مجموعة كراون للنشر Crown Publishing Group. حيث أعجب ميركن بما لدى ستيوارت من مواهب ومن ثم وقع معها عقدا في وقت لاحق لتأليف كتاب طهى يتضمن وصفات وصور من الحفلات التي استضافت ستيوارت. وكانت النتيجة انتيرتاينينج Entertaining، بقلم اليزابيث هاويس.
ومنذ ذلك الوقت، تطورت مهاراتها التجارية بشكل سريع.
ولقد أصبح انتيرتاينينج Entertaining أفضل الكتب مبيعا لصحيفة نيويورك تايمز، وأفضل الكتب مبيعا منذ ظهور كتاب جوليا تشايلد وسيمون بيك
اتقان فن الطبخ الفرنسي Mastering the Art of French Cooking ,الذي صدر منذ عقدين سابقين من الزمان.
بدء الشهرة والحياة المهنية
و بعد النجاح الذي لاقاه كتاب انترتاينينج Entertaining أصدرت ستيوارت العديد من الكتب برعاية كلاركسون بوتر للنشرClarkson Potter publishing imprint، بما في ذلك وجبات مارثا ستيوارت السريعة1983 Martha Stewart's Quick Cook، ومشهيات مارثا ستيوارت (1984)Martha Stewart's Hors D'oeuvres، وفطائر وتورتات مارثا ستيوارت Martha Stewart's Pies & Tarts (1985)، وحفلات الزفاف (1987)، وتجهيزات حفل الزفاف (1988)، وفهرس وجبات مارثا ستيوارت السريعة (1988)، وأكلات مارثا ستيوارت الخاصة بعيد الميلاد Martha Stewart's Christmas (1989)، وغير ذلك الكثير.وخلال هذا الوقت ألفت العشرات من أعمدة الصحف ومقالات المجلات وغيرها من الفقرات الخاصة بالتدبير المنزلي، وظهرت في برامج تلفزيونية عديدة مثل أوبرا وينفري شوThe Oprah Winfrey Show ولاري كينغ لايف Larry King Live. ولقد انفصلت عن زوجها في عام 1989.
وفي عام 1990 وقعت عقدا مع تايم فينتشرز للنشر Time Publishing Ventures وذلك لتطوير مجلة جديدة بعنوان، مارثا ستيوارت ليفينج Martha Stewart Living، حيث شغلت ستيوارت منصب رئيس التحرير. وصدر العدد الأول في أواخر عام 1990 حوالى 250،000 كنتيجة أولية. وزاد الرقم ليصل إلى ذروته في عام 2002 إلى أكثر من 2 مليون نسخة عن كل عدد. وفي عام 1993، بدأت برنامج أسبوعي مدته نصف الساعة تحت اشراف مجلتها، والذي سرعان ما قدم لمدة ساعة كاملة، ثم بشكل يومي لاحقا، مع حلقتين لمدة نصف ساعة في عطلات نهاية الأسبوع. هذا وشاركت ستيوارت في العرض المبكر لشبكة سي بي اس CBS's The Early Show، وتألقت في العديد من البرامج المقدمة في العطلات الرسمية على شبكة سي بي اس.
ومنها برامج حوارية كثير
وقد وصفتها صحيفة مجلة نيويورك على غلافها عن شهر مايو 1995، بأنها "المرأة الأميركية بلا منازع في عصرنا ".
شركة مارثا ستيوارت ليفينج أومنيميديا
و في أيلول / سبتمبر 1997، أصبحت ستيوارت، بمساعدة شريكتها التجارية شارون باتريك، قادرة على تأمين تمويل شراء وتسويق المشاريع التلفزيونية المختلفة، والطباعة، وتسويق المشاريع المتصلة بفريق مارثا ستيوارت، ودمجها في شركة جديدة، مارثا ستيوارت ليفينج أومنيميديا. حيث تولت ستيوارت منصب الرئيس و، والرئيس التنفيذي للشركة الجديدة وصارت باتريك المدير التنفيذي للعمليات. وبتنظيم جميع أعمال الفريق تحت سقف واحد، شعرت ستيوارت بأنها يمكن أن تعزز من فعالية المشروع، وتكون لها سيطرة أكبر للفريق نحو مزيد من الأعمال والأنشطة. وفي ذلك الشهر نفسه، أعلنت ستيوارت في برنامجها مارثا ستيوارت ليفينج إنشاء موقع مصاحب على شبكة الإنترنت، ، بالإضافة إلى كتالوج الأعمال التجارية، وامكانية مراسلة مارثا عبر البريد الإلكترونى. كما يوجد بالشركة أيضا فرع توصيل الأزهار إلى المستهلك مباشرة عن طريق،
و في 19 تشرين الأول، 1999، ساهمت شركة مارثا ستيوارت ليفينج في بورصة نيويورك تحت اسم ام اس أو (شركة مارثل ستيوارت ليفينج). وكان الاكتتاب الأولي العام على تعيين 18 دولارا للسهم الواحد، وارتفع ليصل إلى 38 دولارا بحلول نهاية التداول، مما يجعل ستيوارت الملياردير على الورق. وتراجع سعر السهم ببطء ليصل إلى 16 دولارا للسهم الواحد بحلول شباط / فبراير 2002. وكانت ستيوارت آنذاك لا تزال تملك غالبية الأسهم، بحصولها على نسبة 96 ٪ من قوة التصويت في الشركة.
تداول الأسهم وقضية الإدانة
وفقا لجنة الاوراق المالية والبورصات بالولايات المتحدة، تجنبت ستيوارت فقدان 45،673 $ عن طريق بيع جميع أرباح أسهم امكلون والتي تقدر بحوالى ImClone 3،928 وذلك في أواخر عام 2001. وفي اليوم التالي للبيع الخاص بها، انخفضت قيمة الأسهم بنسبة 18 ٪.[9]
و في الأشهر التي تلت ذلك، شنت ستيوارت حملة اعلامية ثقيلة في وسائل الاعلام، بما في ذلك تغطية مجلة نيوزويك، تحت عنوان "فوضى مارثا" "Martha's Mess.". ولا سيما ،القاء الساخن الذي اجراه جين كلايسون من شبكة سي بي اس مع ستيوارت على الهواء في يونيو / حزيران 25، 2002 عن شركة امكلون ImClone وذلك خلال فقرة العرض المبكر The Early Show.. ولقد استمرت ستيوارت في تقطيع الملفوف، على حد تعليقها الكوميدى الشهير "أريد فقط أن أركز على طبق السلطة." [10]
وفى 3 أكتوبر 2002، استقالت مارثا ستيوارت من منصبها، الذي عقد لمدة أربعة أشهر، في مجلس الإدارة لبورصة نيويورك، بعد أن قدمت النيابة العامة تحقيقا مع دوغلاس فانويل Douglas Faneuil، مساعد وسيط لميريل لينش بروكر بيتر باكنوفيك Merrill Lynch broker Peter Bacanovic. [11]
وفى يوم 4 يونيو 2003، تم توجيه الاتهام إلى ستيوارت من جانب الحكومة في تسع تهم من بينها تهمة الغش في الأوراق المالية وعرقلة سير العدالة. ومن ثم تنحت ستيوارت طواعية عن منصب الرئيس التنفيذي ورئيسة شركة مارثا ستيوارت ليفينج أومنيميديا MSLO ولكنها بقيت في منصب رئيس قسم الإبداع. وذهبت للمحاكمة في يناير 2004. اظهر المدعى العام ان باكنوفيك أمر مساعديه ان يخبروا ستيوارت ان صأمويل دى واكسل بصفته الرئيس التنفيذي لشركة امكلون ImClone،، قد قام ببيع جميع أسهمه مقدما من هيئة الغذاء والدواء. ومن ثم كان من المتوقع أن يتسبب ذلك القرار في انخقاض أسهم شركة امكلون ImClone.[12]
بعد محاكمة حظيت بدعاية كبيرة دامت خمسة اسابيع من مراقبة هيئة المحلفين ,تمت ادانة ستيوارت في آذار / مارس 2004 بتهمة التآمر وعرقلة سير اجراءات العدالة، والكذب على المحققين الفيدراليين وحكم عليها بالسجن في يوليو تموز 2004 مدة خمسة أشهر في إصلاحية فيدرالية وفترة سنتين مع الإفراج المشروط (لتوضع لفترة خمسة أشهر تحت المراقبة الإلكترونية).[13]
ومكثت ستيوارت في أيلول / سبتمبر 2004 خمسة أشهر بالسجن في حين لا يزال طعنها معلقا. وفي أكتوبر 2004، رفعت مذكرة لمعسكر سجن ألدرسون الاتحادي في فرجينيا الغربية. حيث أطلق سراحها يوم 4 مارس 2005، وبعد ذلك وضعت تحت المراقبة الإلكترونية لمدة 5 أشهر إضافية.
وأدين كلا من باكنوفيك Bacanovic وواكسل Waksal بتهم فيدرالية وحكم عليهما بالسجن.[14][15] كما دفعت ستيوارت غرامة قدرها 30،000 دولار.[16]
و في آب / أغسطس 2006، أعلنت لجنة الاوراق المالية والبورصات أنها قد وافقت على تسوية القضية المتعلقة ضد ستيوارت. وفي إطار التسوية ،وافقت ستيوارت على التنحى لمدة خمس سنوات عن منصب المدير العام، أو منصب الرئيس التنفيذي ،أو المدير المالي (أو أي منصب آخر في الأدوار التي وعدت بأنها ستكون مسؤولة عن إعداده أو مراجعة الحسابات، أو الكشف عن النتائج المالية)، في أي شركة مساهمة عامة.[17] وفي يونيو / حزيران 2008، رفضت وكالة الحدود البريطانية منحها تأشيرة لدخول المملكة المتحدة بسبب ما نسب إليها من تهمة الإدانة الجنائية لعرقلة سير العدالة. حيث كانت تخطط لتلقى خطابا في الأكاديمية الملكية للأزياء وصناعة الترفيه.[18]
المشاريع الحالية
وفى أعقاب إطلاق سراحها من السجن في آذار / مارس 2005، شنت ستيوارت حملة العودة والتي حظيت بدعاية كبيرة، وشاركت مرة أخرى في برنامج مارثا ستيوارت ليفينج. وزاد الطلب على عروض شركة مارثا ستيوارت اليومية في كمارت Kmart ليشمل خطا يختص بمجموعة جديدة من المفروشات المنزلية الجاهزة، بالإضافة إلى خط يختص بالطلاء الداخلى، أصبح متوفرا في متاجر سيرز Sears الكبيرة [[.]] ومع ذلك، يعتبر التلفزيون الجانب الأكثر إثارة والذي شجعها على العودة بشدة مرة أخرى بتلك الحماسة [[.]] عادت ستيوارت إلى التلفزيون خلال عرض مارثا ستيوارت وظهرت في نسخة معدلة من المبتدئThe Apprentice (تسمى [26] ظهر كلا من العرضين لأول مرة في أيلول / سبتمبر 2005، من إنتاج مارك بيرنيت Mark Burnett. ويعد برنامج عرض مارثا ستيوارت حاليا في موسمه الرابع.
وتلقى عرضها الجزئي لبرنامج المبتدئ Apprentice معدلات منخفضة ،حيث تميز باللهجة الانتهازية لحملة الشبكة الترويجية والتي لم تلق ترحيبا من الأغلبية العظمى لعامة الجمهور وإلى تخصيص شبكة ان بي سي فترات زمنية محددة لتظهر ضد الدراما الضائعة [[.]] وبذلك لم يتم تجديد برنامج المبتدئ: مارثا ستيوارت لموسم ثان.
وفي أكتوبر 2005، أصدرت ستيوارت كتابا جديدا بعنوان قواعد مارثا الخاصة ببدء وإدارة الاعمال التجارية الجديدة، وبعد ذلك بشهر أصدرت شركتها كتيبا خاصا بطريقة مارثا ستيوارت في المخبوزات Martha Stewart Baking Handbook. وفي أكتوبر 2006، نشرت مارثا ستيوارت كتيبا خاصا بالاعتناء بمنزلك Martha Stewart's Homekeeping Handbook، ويعتبر كتابا مرجعيا للاعتناء بمنزلك، نشر من خلال كلاركسون بوتر. حيث لديها أيضا ومهارة الطبخ، والبستنة، وقطاعات الحرف التي تظهر بالعرض اليومى لشبكة ان بى سى . ولقد تم ترشيح برنامج ستيوارت الحواري اليومي في ست فئات لجوائز ايمى السنوية الثالث والثلاثين لعام 2006 33rd Annual Daytime Emmy Awards، بما في ذلك أفضل مضيف وأفضل عرض.
ولقد أطلقت MSLO خط من البيوت التي تحمل اسمها ليتم تشييدها بواسطة كى بى هوم KB Home الرئيسية في البداية في كاري Cary بولاية نورث كارولينا، ومختلف المواقع في سائر أنحاء البلاد. ولقد تم الانتهاء من بناء المنازل الأولى، والتي كانت مستوحاة من منزل ستيوارت الكائن في نيويورك وجزيرة صحراء الجبل Mount Desert Island في ولاية ماين Maine، في أوائل عام 2006. وفي نهاية المطاف، تم تخطيط 650 منزلا بأسعار تبدأ من أقل 200،000 دولار حتى 400،000 دولار. كما يوجد أيضا خط يختص بالصناعات الورقية اليدوية أي كا سكسيس EK Success قيد التنفيذ. وفي أيلول / سبتمبر 2007، أطلقت خط الأدوات المنزلية من أجل ميسي Macy's,، الذي يعد أكبر علامة تجارية في تاريخ ميسي. وفي الإعلانات التجارية للخط، أشارت ستيوارت أنها قد صممت أكثر من 2،000 بندا حصريا من أجل ميسي. ويشمل الخط ما يلزم الفراش، والحمامات، وتجهيزات المطابخ وأواني الطعام. بالإضافة إلى الاعلانات التلفزيونية والدعاية المصاحبة ،أطلقت شركة MSLO قناة اذاعية مصاحبة لقناة سيريوس Sirius على مدار 24 ساعة عبر الأقمار الصناعية في نوفمبر تشرين الثاني 2005، حيث استضافت ستيوارت ضيوفها اسبوعيا من خلال المكالمات الاذاعية.
كما ظهرت ستيوارت أيضا في دور خاص بالمسلسل الكوميدي والدرامى بيتي القبيحة Ugly Betty في حلقة 16 نوفمبر 2006 "اربعة هدايا وجنازة" "Four Thanksgivings and a Funeral",، والتي أعطت صديقتها ويليمينا سلاتر Wilhelmina Slater (الذي لعبته فانيسا ويليامزVanessa Williams) بعض النصائح حول كيفية إعداد وجبة الديك الرومى. كما يعتبر جوستين سواريز Justin Suarez (الذي لعبه مارك إندليكاتوMark Indelicato) من مشجعي ستيوارت.
وفي تموز / يوليو 2006 ،أعلن برنامج مارثا ستيوارت ليفينج أومنيميديا Martha Stewart Living Omnimedia اتفاقا مع شركة فلور FLOR, Inc لعدة سنوات، الشركة المصنعة لأغطية الأرضيات وذلك لتصنيع وتسويق خط جديد لشركة مارثا ستيوارت للسجاد والبلاط. ولقد سطع نجم تصميمات شركة مارثا ستيوارت بالاشتراك مع شركة فلور [19] لأول مرة في عام 2007 مع التصميم المميز ولوح الألوان المرتبطة بعلامة مارثا ستيوارت التجارية. ويعد هذا الاتفاق مع شركة فلور جزءا من برنامج مارثا ستيوارت المتقدم للمفروشات المنزلية، التي تشمل مجموعة واسعة من المنتجات مثل الأثاث مع بيرنهارت Bernhardt، لون الجدار من تصميم لوي Lowe's، وفرش الأرضية من تصميم شركة فلور.
وفي 14 سبتمبر 2007، أعلن برنامج مارثا ستيوارت ليفينج أومنيميديا Martha Stewart Living Omnimedia أنه تم توقيع عقد شراكة مع اى وجى جالو وينرى E & J Gallo Winery لإنتاج النبيذ مع العلامة التجارية "خمر مارثا ستيوارت " "Martha Stewart Vintage" (للبيع في 6 مدن، كانون الثاني / يناير بثمن 15 دولارا). 15،000 الحالات ليتم بيعها وتشمل: مقاطعة سونوما كاردونى Sonoma County Chardonnay، مقاطعة سونوما كابرينيت سوفيجنون Sonoma County Cabernet Sauvignon ومقاطعة سونوما ميرلوت 2006 Sonoma County Merlot (اتلانتا، بوسطن، شارلوت (نورث كارولاينا، دنفر، فينيكس، بورتلاند (أوريغون). هذا وقد وقعت مارثا ستيوارت عقدا مع شركة كوستكو بالجملة Costco Wholesale Corp لتقديم المواد الغذائية الطازجة والمجمدة (المسماة - توقيع كيركلاند label - Kirkland Signature). [20]
وفي تموز / يوليو 2008 ،تم عرض منتجات الصناعة اليدوية تحت اسم "احتفالات مارثا ستيوارت ""Martha Stewart Celebrate" و"صناعة مارثا ستيوارت " "Martha Stewart Create", في بوصفهما فرعين تابعين لمارثا ستيوارت ليفينج اومنيميديا Martha Stewart Living Omnimedia,، لاول مرة في محلات وول مارت. وجاء الاتفاق ليغلق أكثر من 600 من متاجر كا مارت K-Mart في الولايات المتحدة.
حياتها الشخصية
عندما بلغت سن العشرين، تزوجت أندرو "اندي" ستيوارت، في 1 يوليو، 1961. ولقد تركت الدراسة بكلية بارنارد لمدة عام بعد أن تزوجت ولكنها عادت في وقت لاحق. كما أنجبت ابنتها أليكسيس ستيوارت Alexis Stewart في عام 1965.
وفي عام 1989 انفصل كلا من مارثا وأندرو.
لم تتزوج مارثا مرة ثانية، ولكنها واعدت تشارلز سيموني Charles Simonyi لمدة 15 عاما حتى فبراير 2008 [21] وبعد تلك العلاقة، تزوج تشارلز سيمونى من ليزا بيرسدوتر Lisa Persdotter ،في يوم 22 نوفمبر 2008 [22]
وتعتبر ستيوارت مولعة بحب الحيوانات. وتعتبر كلاب التشو تشو ,البلدوج الفرنسي، و قطط جبال الهيمالايا، وحصان الفريزيان من الحيوانات الأليفة المفضلة لديها [23] ولقد صورت فيديو [24] نيابة عن الحيوانات ذوات الفراء بعد أن اقتربت منهم كثيرا في الفترة التي قضتها في السجن. وذكرت ستيوارت، "اعتدت على ارتداء الفراء الطبيعى، ولكنى، مثل كثيرين آخرين، اشعر بتغير شديد في نفسى عندما أعلم ما يحدث بالفعل لتلك الحيوانات " [25] وفي 12 نيسان 2008، تم اعلان خبر وفاة قوبلاي خان باو باو تشاو تشو تشاو [26] Kublai Khan Paw Paw Chow Chow Chow عبر مدونة ستيوارت الرسمية، واحدة من كلاب ستيوارت، عن عمر يناهز 12 عام [26]
كما توفت مارثا كوستيرا Martha Kostyra, والدة مارثا ستيوارت، عن عمر يناهز ال 93 عاما في يوم 16 نوفمبر 2007 [27] ولقد ظهرت كوستيرا في إحدى حلقات مارثا ستيوارت ليفينج مرات عديدة.
ستيوارت يقيم حاليا في Katonah، نيويورك، وهي قرية من بيدفورد، نيويورك. كما أنها تحافظ على وحدة سكنية في جبل صحراء الجزيرة في ولاية ماين [28]
انظر أيضا
إيما ريه
المراجع
المصادر
الباعة، باتريسيا (نوفمبر 14، 2005). "إعادة عرض مارثا". فورتشن ، ص. 49-62.
الروابط الخارجية
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Before photosynthesis evolved, Earth's atmosphere had no free oxygen (O2).[2] Photosynthetic prokaryotic organisms that produced O2 as a waste product lived long before the first build-up of free oxygen in the atmosphere,[3] perhaps as early as 3.5 billion years ago. The oxygen they produced would have been rapidly removed from the atmosphere by weathering of reducing minerals, most notably iron. This "mass rusting" led to the deposition of iron oxide on the ocean floor, forming banded iron formations. Oxygen only began to persist in the atmosphere in small quantities about 50 million years before the start of the Great Oxygenation Event.[4] This mass oxygenation of the atmosphere resulted in rapid buildup of free oxygen. At current rates of primary production, today's concentration of oxygen could be produced by photosynthetic organisms in 2,000 years.[5] In the absence of plants, the rate of oxygen production by photosynthesis was slower in the Precambrian, and the concentrations of O2 attained were less than 10% of today's and probably fluctuated greatly; oxygen may even have disappeared from the atmosphere again around 1.9 billion years ago.[6] These fluctuations in oxygen concentration had little direct effect on life, with mass extinctions not observed until the appearance of complex life around the start of the Cambrian period, million years ago.[7] The presence of O
2 provided life with new opportunities. Aerobic metabolism is more efficient than anaerobic pathways, and the presence of oxygen undoubtedly created new possibilities for life to explore.[8]:214, 586[9] Since the start of the Cambrian period, atmospheric oxygen concentrations have fluctuated between 15% and 35% of atmospheric volume.[10] The maximum of 35% was reached towards the end of the Carboniferous period (about 300million years ago), a peak which may have contributed to the large size of insects and amphibians at that time.[9] Whilst human activities, such as the burning of fossil fuels, affect relative carbon dioxide concentrations, their effect on the much larger concentration of oxygen is less significant.[11]
Effects on life
Life timelineThis box: viewtalk-4500—–-4000—–-3500—–-3000—–-2500—–-2000—–-1500—–-1000—–-500—–0—waterSingle-celled
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The concentration of oxygen in the atmosphere is often cited as a possible contributor to large-scale evolutionary phenomena, such as the origin of the multicellular Ediacara biota, the Cambrian explosion, trends in animal body size, and other extinction and diversification events.[9]
The large size of insects and amphibians in the Carboniferous period, when the oxygen concentration in the atmosphere reached 35%, has been attributed to the limiting role of diffusion in these organisms' metabolism. But Haldane's essay[12] points out that it would only apply to insects. However, the biological basis for this correlation is not firm, and many lines of evidence show that oxygen concentration is not size-limiting in modern insects.[9] There is no significant correlation between atmospheric oxygen and maximum body size elsewhere in the geological record.[9] Ecological constraints can better explain the diminutive size of post-Carboniferous dragonflies - for instance, the appearance of flying competitors such as pterosaurs, birds and bats.[9]
Rising oxygen concentrations have been cited as one of several drivers for evolutionary diversification, although the physiological arguments behind such arguments are questionable, and a consistent pattern between oxygen concentrations and the rate of evolution is not clearly evident.[9] The most celebrated link between oxygen and evolution occurs at the end of the last of the Snowball glaciations, where complex multicellular life is first found in the fossil record. Under low oxygen concentrations and before the evolution of nitrogen fixation, biologically-available nitrogen compounds were in limited supply [13] and periodic "nitrogen crises" could render the ocean inhospitable to life.[9] Significant concentrations of oxygen were just one of the prerequisites for the evolution of complex life.[9] Models based on uniformitarian principles (i.e. extrapolating present-day ocean dynamics into deep time) suggest that such a concentration was only reached immediately before metazoa first appeared in the fossil record.[9] Further, anoxic or otherwise chemically "nasty" oceanic conditions that resemble those supposed to inhibit macroscopic life re-occur at intervals through the early Cambrian, and also in the late Cretaceous – with no apparent effect on lifeforms at these times.[9] This might suggest that the geochemical signatures found in ocean sediments reflect the atmosphere in a different way before the Cambrian - perhaps as a result of the fundamentally different mode of nutrient cycling in the absence of planktivory.[7][9]
Oxygen in the atmosphere can cause phosphorus and iron to be freed from rock, and these elements can then be used for building new species which require these elements.[2]
(subscription required) New Scientist, #2746, 5 February 2010 by Nick Lane.
New York Times, 3 October 2013 by Carl Zimmer.
Joseph Henry Press, ISBN0-309-10061-5 2006 by Peter D. Ward.
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เอเชียส์เน็กซต์ท็อปโมเดล ฤดูกาลที่ 6 เป็นฤดูกาลที่ 6 ของ เอเชียส์เน็กซต์ท็อปโมเดล ที่ต้องการค้นหาสุดยอดนางแบบ เพื่อทำงานในวงการนางแบบในระดับมืออาชีพ โดยสาวๆ ที่เข้าแข่งขัน จะต้องมีเชื้อสายของเอเชียเท่านั้น โดยส่วนมากจะมาจากเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ ซึ่งในฤดูกาลนี้จะเป็นฤดูกาลแรกที่จะถ่ายทำรายการ ใน ประเทศไทย เริ่มออกอากาศ 22 สิงหาคม 2561 โดยในฤดูกาลนี้จะยังคงตัดสินโดยการให้คะแนนจากการแข่งขันประจำสัปดาห์และคะแนนจากคณะกรรมการในห้องตัดสินเช่นเดียวกันกับ ฤดูกาลที่ผ่านมา และในฤดูกาลนี้จะมีโมเดลเมนเทอร์คอยดูแลและให้คำแนะนำแก่ผู้เข้าแข่งขัน ซึ่งมี โมนิกา ซานตา มาเรีย อดีตผู้เข้าแข่งขันจาก ฤดูกาลที่ 3 ชิคิน โกเมซ และ มิญ ตู้ เหงียน อดีตผู้เข้าแข่งขันจาก ฤดูกาลที่ 5 มาทำหน้าที่ในครั้งนี้ โดยธีมของฤดูกาลนี้ คือ "เหนือขีดจำกัด" (Beyond Limits)
ซึ่งผู้ชนะในฤดูกาลนี้ คือ เดนา สโลซาร์ ตัวแทนจาก ประเทศไทย ซึ่งเธอจะได้รับรถยนต์ ซูบารุ เอ็กซ์วี หนึ่งคัน, ถ่ายภาพแฟชั่นเซ็ทและขึ้นหน้าปกให้กับ นิตยสาร ฮาร์เปอร์ บาซาร์ ไทยแลนด์, ได้เป็นตัวละครส่วนหนึ่งของเกมส์ในโทรศัพท์มือถือ อเมริกาส์เน็กซ์ท็อปโมเดล และเซ็นสัญญานางแบบกับเอเจนซี่ สตอร์ม โมเดล แมเนจเมนท์ ที่ ลอนดอน ประเทศอังกฤษ
ข้อมูลการออกอากาศ
ตอนที่ 1: The Girl Who Can't Scream
ออกอากาศ 22 สิงหาคม 2561
เริ่มต้นฤดูกาลนี้ สาวๆทั้งสิบสี่คน ได้เดินทางมาพบกับ โมนิกา ซานตา มาเรีย, ชิคิน โกเมซ และ มิญ ตู้ เหงียน อดีตผู้เข้าแข่งขันจากฤดูกาลที่ผ่านมา ซึ่งทั้งสามคนได้แจ้งให้ทราบว่า พวกเธอจะได้มาเป็นเมนเทอร์ให้กับสาวๆในฤดูกาลนี้ ซึ่งจะเป็นครั้งแรกของประวัติศาสตร์รายการ หลังจากนั้น พวกเธอจึงได้เดินทางมาพบกับ ซินดี บิชอป ที่ได้กล่าวต้อนรับพวกเธออย่างเป็นทางการ บนดาดฟ้าของโรงแรม แบงค็อก แมริออท เดอะ สุรวงศ์ ต่อมา พวกเธอทั้งหมดจึงได้เดินทางอีกครั้งมายัง สวนจตุจักร เพื่อพบกับ ยู ไซ ซึ่งพวกเธอจะได้แข่งขันกันเดินแบบแฟชั่นโชว์ในธีม แคทวอล์คเซลฟี่ โดยพวกเธอจะต้องเดินแบบด้วยอารมณ์ที่ดูสนุกสนานท่ามกลางผู้คนที่เดินซื้อของเป็นจำนวนมาก และเมื่อสุดทางรันเวย์ พวกเธอจะต้องถ่ายภาพเซลฟี่ของตัวเอง ด้วยโทรศัพท์ หัวเหว่ย พี20 โปร และเป็นที่น่าตกใจเมื่อ ยู ไซ กล่าวว่าหลังจากเสร็จสิ้นการเดินแบบแล้ว จะต้องมีผู้ที่ถูกคัดออกถึงสองคน
ในการเดินแบบนั้น สาวๆส่วนใหญ่ทำออกมาได้ดี ในขณะที่ ฮาน ถูกวิจารณ์ว่าดูไม่รู้สึกสนุกสนานเท่าที่ควร และชาร์นี ที่รู้สึกตื่นเต้นมากจนเกินไป จนทำให้เดินสะดุด หลังจากเสร็จการเดินแบบ ซินดี้ ได้เข้าพบกับพวกเธอทั้งหมดอีกครั้ง เพื่อประกาศรายชื่อผู้ที่เข้ารอบสิบสองคนสุดท้าย ซึ่งปรากฏว่า ไม่มีชื่อของ ลีนาและโฮดี ทำให้เธอทั้งคู่ต้องถูกส่งกลับบ้านทันที
ผู้ที่ถูกคัดออกนอกห้องตัดสิน: ลีนา แซ่เตียว และ โฮดี ยิม
สาวๆทั้งหมดได้เดินทางมาที่บ้านพักของนางแบบในฤดูกาลนี้ หลังจากสำรวจบ้านพักและจับจองที่นอนกันเสร็จแล้ว โมนิกา, มิญ ตู้ และชิคิน ได้เข้ามาพบกับพวกเธออีกครั้ง เพื่อแจ้งว่า ทั้งสามได้ถูกซินดีแบ่งให้ดูแลพวกเธอออกเป็นสามทีมดังนี้
หลังจากที่พวกเธอทุกทีมได้พูดคุยกันเสร็จแล้ว จึงปรากฏข้อความวิดีโอจากซินดี ซึ่งได้แจ้งให้สาวๆทราบถึงคะแนนการแข่งขันเดินแบบที่ผ่านมา ปรากฏว่า บิวติ ได้รับคะแนนสูงที่สุด และชาร์นี ได้รับคะแนนต่ำที่สุด การถ่ายภาพครั้งแรกนั้น พวกเธอจะต้องถ่ายภาพแฟชั่นเครื่องประดับแบบโคลสอัพในธีม สัตว์ป่า ซึ่งพวกเธอจะได้ถ่ายคู่กับสัตว์ดังนี้
ในการถ่ายภาพนั้น บิวติ, วี, มีอา, จากิน, เดนา, อิโค และฮาน ทำออกมาได้ดี ในขณะที่ รูบินี ถูกตำหนิว่าไม่ฟังคำแนะนำของช่างภาพ ชาร์นี ทำให้ ยู ไซ ไม่พอใจเป็นอย่างมาก เมื่อไม่ยอมตะโกนเพื่อแสดงอารมณ์ออกมา พิม ทำให้ ยู ไซ หงุดหงิดกับทัศนคติของเธอ เจสลีนและอเดลา ต้องพยายามอย่างหนัก เมื่ออิกัวนา ไม่อยู่นิ่งและเคลื่อนไหวอยู่ตลอดเวลา
ในห้องตัดสิน ฮาน , จากิน, รูบินี, มีอา และวี ทำให้กรรมการประทับใจกับภาพถ่ายที่ออกมาสวยงาม อเดลา, เดนา และอิโค ได้รับคำวิจารณ์ทั้งในแง่บวกและลบ บิวติ ถ่ายภาพออกมาได้อย่างงดงามและแข็งแกร่ง รวมถึงยังสามารถขายเครื่องประดับที่สวมใส่ได้ด้วย เธอจึงถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกจากการที่ได้คะแนนรวมสูงที่สุดในสัปดาห์นี้ ในขณะที่ พิม ถูกวิจารณ์อย่างหนักในเรื่องของทัศนคติ และภาพที่ออกมาไม่เห็นถึงความงามในแบบของเธอเอง ซึ่งดูน่าผิดหวัง ทิ้งให้ เจสลีน ต้องตกเป็นสองคนสุดท้าย เนื่องจากถูกวิจารณ์ในภาพว่า เธอดูเหมือนมือสมัครเล่น และไม่รู้จักวิธีใช้มุมหน้าที่ดีในการถ่ายภาพ ร่วมกับ ชาร์นี ที่ถูกวิจารณ์ว่าในภาพของเธอนั้นดูเศร้า นิ่ง และดูกลัว อีกทั้งกรรมการรู้สึกว่า เธอยังไม่หลุดออกจากกรอบของตัวเอง เมื่อผลรวมคะแนนออกมา ปรากฏว่า ชาร์นี ต้องถูกคัดออกจากการแข่งขันเป็นคนที่สาม
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: บิวติ เธ็ต ธินห์
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: ชาร์นี เฟนน์ และ เจสลีน ลิม
ผู้ที่ถูกคัดออก: ชาร์นี เฟนน์
ช่างถ่ายภาพ: พันธ์สิริ สิริเวชชะพันธ์
แขกรับเชิญพิเศษ: เซลีนา เจด
ตอนที่ 2: The Girl Who Had Two Chances
ออกอากาศ 29 สิงหาคม 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก สาวๆต่างแสดงความยินดีกับ บิวติ ที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในครั้งก่อน ในขณะที่ วี และ อเดล่า ต่างรู้สึกเศร้าที่ ชาร์นี ต้องถูกคัดออกจากการแข่งขัน ในขณะที่ เดนา ได้รู้สึกว่า มีอา นั้นมีบุคลิกที่ดูเป็นคนเสแสร้งและไม่จริงใจ วันต่อมา ชิคิน, มิญ ตู้ และโมนิกา ได้เข้ามาพบและพูดคุยกับสาวๆเพื่อให้คำแนะนำในทีมของแต่ละคน อีกทั้ง ยังแจ้งให้พวกเธอทราบอีกด้วยว่า ทุกคนจะได้รับการแปลงโฉมในสัปดาห์นี้ พวกเธอจึงได้เดินทางมาที่ร้านทำผม เกตุวดี แกนดินี เพื่อทำการแปลงโฉม โดยจะไม่มีใครรู้เลยว่า จะถูกแปลงโฉมออกมาแบบไหน ซึ่งส่วนใหญ่แล้วต่างพอใจกับผมทรงใหม่ มีเพียง อเดลา ที่รู้สึกวิตกกังวลว่าผมทรงใหม่ของดูเหมือนเด็กจนเกินไป อาจจะทำให้เธอทำงานยาก และ วี ที่รู้สึกไม่พอใจที่การแปลงโฉมครั้งแรกของเธอนั้น ซ้ำกับ บิวติ และ เจสลีน เธอจึงได้รับการตัดผมทรงใหม่อีกครั้ง เมื่อกลับถึงบ้านพัก ได้เกิดความตึงเครียดขึ้น เมื่อ พิม ไปแอบอ่านบันทึกของ มีอา ทำให้ เจสลีน ไม่พอใจเป็นอย่างมาก เมื่อเธอรู้ว่า มีอา คิดกับพวกเธอที่อยู่ในห้องนอนเดียวกันนี้ในแง่ลบ
การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะต้องถ่ายภาพแฟชั่นชั้นสูงแนวแฟนตาซี โดยได้แรงบันดาลใจจาก บัลเลต์ สวอนเลก โดยพวกเธอจะต้องถ่ายแบบคู่กันและแปลงโฉมเป็นหงส์สีขาว และสีดำ เพื่อถ่ายทอดความสง่างามในแบบของหงส์ ซึ่ง ยู ไซ ได้จับคู่ให้พวกเธอ ดังนี้
ในการถ่ายภาพนั้น เดนา, อเดลา และจากิน ทำออกมาได้เป็นอย่างดี ในขณะที่ ฮาน, อิโค, มีอา, เจสลีน, บิวติ, พิม, รูบินี และวี ต้องพยายามกันอย่างหนัก
ในห้องตัดสิน กรรมการชอบภาพถ่ายที่ดูสง่างาม และแข็งแกร่งของ อเดล่า, วี และพิม เป็นอย่างมาก ในขณะที่ เดนา, ฮาน, และมีอา ได้รับคำวิจารณ์ทั้งในแง่ลบและบวก ภาพของ จากิน ออกมาดูน่าเหลือเชื่อ และดูโดดเด่นมากที่สุด เธอจึงได้รับคะแนนรวมสูงที่สุดในสัปดาห์นี้ ในขณะเดียวกัน บิวติ กลับถูกวิจารณ์อย่างหนักว่าในภาพที่เธอถ่ายร่วมกับ จากิน ดูน่าผิดหวังและไม่สื่ออารมณ์ใดๆเลย แต่ได้รับคำชมในภาพที่ถ่ายคู่กับ รูบินี ว่าดูทรงพลัง แต่ก็ถูกติงเล็กน้อยว่า ท่าโพสเหมือนกับภาพสัปดาห์ที่แล้วจนเกินไป รูบินี ถูกวิจารณ์อย่างหนักว่า ขาดพลังงานในภาพถ่ายและเธอดูยอมแพ้ เจสลีน ต้องตกเป็นสองคนสุดท้ายอีกครั้ง เนื่องจากท่าโพสในภาพดูแปลก และกรรมการรู้สึกว่าเธอโพสท่ามากจนเกินไป ร่วมกับ อิโค ที่ถูกตำหนิว่า เธอแสดงสีหน้าอารมณ์เดียวตลอดการถ่ายภาพ เมื่อผลรวมคะแนนออกมา ปรากฏว่า เจสลีน ได้ไปต่อในการแข่งขัน และ อิโค ต้องถูกส่งกลับบ้าน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: จากิน แมเนเร
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: อิโค บุสโตมี และ เจสลีน ลิม
ผู้ที่ถูกคัดออก: อิโค บุสโตมี
ช่างถ่ายภาพ: ยู ไซ
แขกรับเชิญพิเศษ: สายสุดา เชื้อวิวัฒน์, แมเรียน คานเทอร์
ตอนที่ 3: The Girl Who Found Her Perfect Companion
ออกอากาศ 5 กันยายน 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก จากิน รู้สึกดีใจเป็นอย่างมาก ที่ถ่ายภาพได้ดีที่สุดในสัปดาห์ก่อน ในขณะที่ เจสลีน รู้สึกเสียใจที่ อิโค ถูกส่งกลับบ้าน แทนที่จะเป็นตัวเธอเอง วันต่อมา ที่ปรึกษานางแบบทั้งสามคนได้เข้ามาพูดคุยกับพวกเธอที่บ้านพัก และได้พา มอรีน ว็อบเบลวิทซ์ มาพบกับพวกเธออีกด้วย ซึ่ง มอรีน ได้แจ้งให้สาวๆทราบว่า พวกเธอจะได้นั่งรถ ซูบารุเอ็กซ์วี เพื่อแข่งขันกันถ่ายภาพบอกเล่าเรื่องราวลงใน อินสตาแกรม โดยพวกเธอจะต้องเดินทางไปยังสถานที่ที่เป็นเอกลักษณ์ของ กรุงเทพมหานคร คือ ตลาดคลองเตย, สถานีรถไฟหัวลำโพง และ สะพานพระราม 9 ซึ่งพวกเธอได้ถูกแบ่งกลุ่มกันดังนี้
ในการแข่งขันนั้น ทุกๆกลุ่มต้องพยายามกันอย่างหนัก จากการที่ต้องทำงานร่วมกันเป็นทีม และการจราจรที่ติดขัด ซึ่งสุดท้ายแล้ว กลุ่มของพิม จากิน และวี ได้ชนะการแข่งขันในครั้งนี้ เนื่องจากภาพถ่ายของพวกเธอนั้นได้แสดงบุคลิกภาพได้ออกมาอย่างชัดเจน และถ่ายทอดเรื่องราวออกมาได้เป็นอย่างดี ซึ่งพวกเธอจะได้รับประทานอาหารมื้อค่ำสุดหรูที่ ร้านอาหารสไตล์ออลเดย์ไดน์นิ่ง พระยา คิทเช่น โรงแรม แบงค็อกแมริออท เดอะ สุรวงศ์ เป็นของรางวัล หลังจากการแข่งขัน วี ได้เกิดอาการเป็นลมหมดสติ เนื่องจากอากาศที่ร้อนจัด ทำให้เธอต้องถูกนำตัวส่งโรงพยาบาลทันที เมื่อกลับถึงบ้านพัก หลังจากที่พวกเธอได้ทราบถึงคะแนนจากการแข่งขันแล้ว ได้เกิดความตึงเครียดขึ้นอีกครั้ง เมื่อ เจสลีน ได้กล่าวตำหนิถึงทัศนคติของมีอา ที่กล่าวถึงภาพของทีมที่ชนะว่าออกมาไม่ดี ทำให้พวกเธอเกิดการโต้เถียงกัน
การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะได้ถ่ายภาพเป็นผู้หญิงสมัยใหม่ที่เต็มเปี่ยมไปด้วยประสบการณ์ ร่วมกับ สุนัข เพื่อนำเสนอจุดเด่นให้กับ รถยนต์ ซูบารุเอ็กซ์วี ซึ่งในการถ่ายภาพนั้น สาวๆส่วนใหญ่ต่างประสบปัญหาในการควบคุมสุนัขให้อยู่ในจังหวะที่ตรงกับความต้องการ
ในห้องตัดสิน กรรมการชอบภาพถ่ายของรูบินี, พิม และวี เป็นอย่างมาก อเดลา, บิวติ และฮาน ได้รับคำวิจารณ์ทั้งในแง่บวกและลบ มีอา ถ่ายภาพออกมาได้อย่างน่าเหลือเชื่อ และสื่อสารอารมณ์ได้ออกมาดูเหมือนกับอยู่ในความฝัน ทำให้เธอได้รับคะแนนรวมสูงที่สุดในสัปดาห์นี้ ในขณะที่ จากิน ถูกวิจารณ์อย่างหนักว่า ในภาพเธอดูแก่กว่าความเป็นจริง และโดยรวมออกมาดูเชย ทิ้งให้ เจสลีน ต้องตกเป็นสองคนสุดท้ายอีกครั้ง เนื่องจาก ภาพของเธอออกมาดูน่าอึดอัด และกรรมการรู้สึกว่า เธอจะไม่สามารถพัฒนาไปได้มากกว่านี้อีกแล้ว ร่วมกับ เดนา ที่ภาพถ่ายของเธอในครั้งนี้ออกมาน่าผิดหวัง เนื่องจากเธอหันหลังให้กับกล้อง ทำให้ดูไม่เหมาะกับการถ่ายภาพโฆษณา สุดท้ายแล้ว เมื่อผลรวมคะแนนปรากฏออกมา เจสลีน ต้องเป็นผู้ที่ถูกส่งกลับบ้าน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: มีอา ซาบาติ
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: เดนา สโลซาร์ และ เจสลีน ลิม
ผู้ที่ถูกคัดออก: เจสลีน ลิม
ช่างถ่ายภาพ: ชาวอน หว่อง
แขกรับเชิญพิเศษ: มอรีน ว็อบเบลวิทซ์, เกล็น ตัน, วทานิกา ปัทมสิงห์ ณ อยุธยา
ตอนที่ 4: The Girl Who's Got The Kicks
ออกอากาศ 12 กันยายน 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก มีอา รู้สึกประหลาดใจเป็นอย่างมากที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์ก่อน ในขณะที่ เดนา ยังคงรู้สึกเศร้า ที่เจสลีน ต้องถูกส่งกลับบ้าน วันต่อมา ที่ปรึกษานางแบบทั้งสามคนได้เข้ามาพูดคุยกับพวกเธอ ก่อนที่จะเดินทางไปยัง แอบโซลูท ยู ซึ่งเป็นสถานที่ออกกำลังกายใน กรุงเทพมหานคร โดยพวกเธอจะต้องแข่งขันกันปั่นจักรยานออกกำลังกายแบบเข้าจังหวะ โดยจะได้รับการฝึกสอนท่าเต้นขั้นพื้นฐานจากครูฝึกสอนก่อน จากนั้นพวกเธอจะได้รับการแบ่งกลุ่ม เพื่อแข่งขันกัน ซึ่งพวกเธอจะต้องคิดท่าตอนจบกันเองด้วย พวกเธอได้ถูกแบ่งกลุ่มกันดังนี้
ในการแข่งขันนั้น กลุ่มของอเดลา, มีอา และจากิน ทำออกมาได้อย่างน่าสนุกสนานและดูพร้อมเพรียงกัน ในขณะที่กลุ่มของ พิม, รูบินี และฮาน ก็ทำออกมาได้อย่างสนุกสนานเช่นเดียวกัน แต่ กลุ่มของเดนา, บิวติ และ วี ทำออกมาได้ไม่ค่อยดีนัก เนื่องจาก วี แสดงท่าทางบางท่าออกมาไม่เหมือนกับอีกสองคน สุดท้ายแล้ว กลุ่มของ อเดลา, มีอา และจากิน เป็นกลุ่มที่ชนะในการแข่งขันครั้งนี้ โดยพวกเธอจะได้ไปนวดผ่อนคลาย ที่ ควอน สปา โรงแรมแบงค็อก แมริออท เดอะ สุรวงศ์ เมื่อกลับถึงบ้านพัก พวกเธอจึงได้รับคะแนนจากการแข่งขันชิงรางวัล ซึ่งกลุ่มของ เดนา, บิวติ และ วี ได้รับคะแนนต่ำที่สุด ทำให้ เดนา และ วี รู้สึกกังวลใจเป็นอย่างมาก
การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะได้ถ่ายภาพแฟชั่น มวยปล้ำ ยุค 80's ในธีม สาวงามในสังเวียน ซึ่งพวกเธอจะต้องถ่ายทอดการต่อสู้ และความแข็งแกร่งให้ออกมาทางภาพถ่ายได้ โดยพวกเธอได้ถูกจับคู่กันดังนี้
อย่างไรก็ตาม มีอา ที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในครั้งก่อน จะได้มีสิทธิ์ที่จะเลือกคู่ถ่ายภาพกับใครก็ได้ ซึ่งเธอได้เลือก เดนา ซึ่งทำให้ เดนา ต้องถูกตัดสินจากภาพถ่ายที่ต้องถ่ายกับคู่กับ มีอา เท่านั้น ในการถ่ายภาพนั้น จากิน ถูกวิจารณ์ว่าโพสแต่ท่าซ้ำๆเดิมๆ ซึ่งปิดบังใบหน้าของเธอจนเกือบหมด พิม ถูกวิจารณ์ในการแสดงสีหน้าที่ดูมากจนเกินไป ฮานและรูบินี ล้มเหลวในการถ่ายภาพร่วมกันให้ออกมาตรงกับจังหวะที่ต้องการ ทำให้พวกเธอต้องพยายามกันอย่างหนัก คู่ของ อเดลา วี และ บิวติ เดนา ทำออกมาได้อย่างน่าประทับใจ เช่นเดียวกันกับ มีอา ก็ทำให้ ยู ไซ และซินดี้ ทึ่งกับการถ่ายภาพที่ออกมาแข็งแกร่งและทรงพลัง
ในห้องตัดสิน วี ได้รับคำชมในเรื่องของพลังงาน และเธอดูสูงมากในภาพ บิวติ ได้รับคำชมว่าเหมือนกับ ซูเปอร์ฮีโร จากิน ได้รับคำชมในภาพถ่ายที่ดูโดดเด่นเหมือนกับนักกีฬา มีอา, พิม และเดนา ได้รับคำวิจารณ์ทั้งในด้านบวกและลบ ในขณะที่ อเดลา ได้รับคำชมในเรื่องของดวงตาและท่าโพสที่ดูมีพลังที่แข็งแกร่ง เธอจึงได้รับคะแนนรวมสูงที่สุดในสัปดาห์นี้ และถึงแม้ว่า ฮาน กับ รูบินี จะได้รับคำวิจารณ์ในด้านบวกจากคณะกรรมการ แต่พวกเธอกลับต้องตกเป็นสองคนสุดท้าย เนื่องจาก กรรมการรู้สึกว่า ฮาน ยังคงไม่มั่นใจในศักยภาพที่ตัวเองมี และ รูบินี ปล่อยให้ความเครียด และความกดดันครอบคลุมตัวเธอเอง จนทำให้ประสิทธิภาพในการทำงานลดลง สุดท้ายแล้ว เมื่อผลรวมคะแนนออกมา ปรากฏว่า รูบินี ต้องถูกคัดออกจากการแข่งขัน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: อเดลา-เม มาร์แชล
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: รูบินี ซัมบานตาน และ อี ฮาน ซี
ผู้ที่ถูกคัดออก: รูบินี ซัมบานตาน
ช่างถ่ายภาพ: ปรัชญ์ ศิริธร
แขกรับเชิญพิเศษ: เพิร์ล กีรติ, มารีญา พูลเลิศลาภ
ตอนที่ 5: The Girl Who Spoke The Truth
ออกอากาศ 19 กันยายน 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก อเดลา รู้สึกดีใจเป็นอย่างมากที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์ก่อน ในขณะที่ ฮาน ยังคงรู้สึกประหลาดใจที่ยังได้อยู่ต่อในการแข่งขันแทนที่ของ รูบินี วันต่อมา ที่ปรึกษานางแบบของพวกเธอ ได้เข้ามาพบกับพวกเธอ ก่อนที่จะแจ้งให้ทราบว่า พิม จะได้ย้ายไปอยู่ในทีมของโมนิก้าแทน หลังจากนั้น พวกเธอจึงได้พบกับ คาร่า จี ที่ปรึกษานางแบบจากฤดูกาลที่แล้ว ซึ่งการแข่งขันในครั้งนี้ พวกเธอจะได้ถ่ายโฆษณาเพื่อคัดตัวกับ ผลิตภัณฑ์บำรุงผิว เอสแล็บ ของเอสเตติกา พวกเธอจะต้องท่องจำบท และสื่อสารออกมาหน้ากล้องในแบบฉบับที่เป็นตัวของตัวเอง สาวๆได้เดินทางมาที่ ปราชญ์เปรียวสตูดิโอ เพื่อทำความคุ้นเคยกับผลิตภัณฑ์ต่างๆ และทำความรู้จักกับ เจสสิกา ลิว ตัวแทนสินค้าของเอสเตติกา ที่จะมาเป็นกรรมการตัดสินการแข่งขันในครั้งนี้ด้วย ในการทำโฆษณานั้น อเดลา, จากิน, มีอา, เดนา และฮาน ทำออกมาได้อย่างน่าประทับใจ ในขณะที่ วี ต้องพยายามอย่างหนัก เมื่อเป็นการยากที่เธอจะต้องท่องจำบทเป็นภาษาอังกฤษ พิม หลับในเวลาที่ต้องทำการจำบท ทำให้เธอจำบทไม่ได้ในระหว่างถ่ายทำ บิวติ รู้สึกตื่นเต้นจนทำให้จำบทไม่ได้เลยแม้แต่น้อย ซึ่งสุดท้ายแล้ว อเดลา เป็นผู้ชนะในการแข่งขันครั้งนี้ เธอจะได้รับผลิตภัณฑ์จาก เอสแล็บ มูลค่า หนึ่งพันดอลล่าร์เป็นของรางวัล เมื่อกลับถึงบ้านพัก พวกเธอจึงได้รับแจ้งคะแนนจากการแข่งขัน ซึ่งอเดลา ได้รับคะแนนสูงที่สุด และพิมได้รับคะแนนต่ำที่สุด ต่อมา พวกเธอได้พบว่ามีอาหารจำนวนมาก พร้อมไวน์บนโต๊ะอาหาร ซึ่งพวกเธอได้รับจดหมายข้อความจาก ซินดี ว่าเป็นของรางวัลสำหรับการแข่งขันที่ผ่านมาครึ่งทางแล้ว ได้เกิดความตึงเครียดขึ้นอีกครั้ง เมื่อ มีอา ได้ตัดสินใจที่จะพูดความรู้สึกตรงๆกับ ฮาน ทำให้ฮาน รู้สึกไม่พอใจเป็นอย่างมาก เมื่อ มีอา บิดเบือนคำพูดของเธอ หลังจากนั้น พวกเธอจึงลงเล่นน้ำในสระว่ายน้ำ พร้อมถ่ายภาพเพื่อผ่อนคลายกันอย่างสนุกสนาน
การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอได้เดินทางมายัง เขตพระนคร โดยได้มุ่งหน้าไปที่รีสอร์ท เดอะ ระวีกัลยา แบงค็อก เพื่อถ่ายภาพเพื่อโชว์ความงามอย่างเป็นธรรมชาติในธีม เอสเตติกา แคปเจอร์ โมเมนท์ ในการถ่ายภาพนั้น อเดลา รู้สึกกดดันที่ต้องถ่ายคนแรก แต่เธอก็พยายามจนทำออกมาได้ดี ถึงแม้จะถูกติงเล็กน้อยในช่วงแรกว่าดูน่าเบื่อ วี ถูกวิจารณ์ว่า ดูโพสท่ามากจนเกินไปจนดูไม่เป็นธรรมชาติ แต่หลังจากนั้นเธอก็ทำได้ดีขึ้น จากิน พิม และเดนา ทำออกมาได้อย่างเป็นธรรมชาติมาก ฮาน ถูกวิจารณ์ว่าดูขาดพลังงาน และดูไม่ผ่อนคลาย มีอา ถูกวิจารณ์ว่าดูขาดความมั่นใจที่จะต้องโชว์รอยยิ้ม บิวติ ถูกตำหนิว่าเคลื่อนไหวเหมือนกับหุ่นยนต์
ในห้องตัดสิน บิวติ ได้รับคำชมว่าเธอดูผ่อนคลายและดูมีความสุขมากในภาพ แต่ถูกตำหนิว่าเธอดูงงๆและดูเหม่อลอย จากิน ได้รับคำชมว่าผิวของเธอดูเปล่งประกาย และเธอดูสวยมาก แต่ก็ถูกตำหนิว่าอารมณ์ที่สื่อสารยังดูไม่ชัดเจนนัก พิม ได้รับคำชมว่าโครงหน้าดูสวยมาก แต่ถูกตำหนิว่าดูเบื่อๆ และดูไม่เข้ากับเนื้องาน วี ทำให้กรรมการชอบในภาพถ่าย แต่ถูกติงว่าเปลี่ยนท่าโพสบ่อยจนเกินไป อเดลา ได้รับการตอบรับที่ดีในภาพ แต่ถูกตำหนิว่า ท่าโพสดูแปลกๆ และถ่ายมุมหน้าแบบเดียวตลอดการถ่ายภาพ ถึงแม้ว่า เดนา จะได้รับคำวิจารณ์ในภาพว่า ดูเหมือนโฆษณาผมมากกว่าผิว และเธอน่าจะทำได้ดีกว่านี้ แต่เธอก็ได้ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์นี้ จากคะแนนรวมที่สูงที่สุด และภาพที่ได้รับชมด้านบวกว่าเธอดูสวยมากในภาพ และดูมีความเป็นตัวของตัวเอง รวมถึง เธอจะได้เป็นตัวแทนสินค้าคนใหม่ให้กับ เอสแล็บ อีกด้วย มีอา ต้องตกเป็นสองคนสุดท้าย จากภาพที่ออกมาดูไม่ใช่การโฆษณาผิว และเธอดูขาดความมั่นใจในตัวเองเป็นอย่างมาก ร่วมกับ ฮาน ที่ถูกวิจารณ์อย่างหนักว่า เธอดูน่าอึดอัดและดูน่าเบื่อ รวมถึงภาพของเธอไม่เป็นที่ชื่นชอบของคณะกรรมการเลยแม้แต่น้อย สุดท้ายแล้ว เมื่อผลรวมคะแนนออกมา ปรากฏว่า มีอา ได้ไปต่อ และ ฮาน ต้องถูกส่งกลับบ้าน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: เดนา สโลซาร์
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: มีอา ซาบาตี และ อี ฮาน ซี
ผู้ที่ถูกคัดออก: อี ฮาน ซี
ช่างถ่ายภาพ: ปรัชญ์ ศิริธร
แขกรับเชิญพิเศษ: เจสสิกา ลิว, คารา จี.แมคอิลรอย
ตอนที่ 6: The Girl Who Can Barely Stay Up
ออกอากาศ 26 กันยายน 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก สาวๆต่างแสดงความยินดีกับเดนา ที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์ก่อน ในขณะที่ บิวติ ยังคงรู้สึกเศร้าใจที่ ฮาน ต้องถูกส่งกลับบ้าน เนื่องจากพวกเธอนั้นสนิทกันมาก วันต่อมา ที่ปรึกษานางแบบทั้งสามคน ได้เข้ามาพบพวกเธอที่บ้านพัก เพื่อพูดคุยเกี่ยวกับการแข่งขันในสัปดาห์ก่อน ต่อมา พวกเธอได้เดินทางมาที่ โรลเลอร์ โดม ที่ ดิ เอมโพเรียม เพื่อฝึกการเล่นโรลเลอร์ เดอร์บี้ ซึ่งเป็นกีฬาชนิดหนึ่งที่จะต้องใส่รองเท้าสเก็ตในการเล่น และเล่นกันแบบเป็นทีม โดยพวกเธอจะถูกแบ่งออกเป็นสองทีมเพื่อแข่งขันกัน โดยจะได้สาวๆจาก แบงค็อก โรลเลอร์ เดอร์บี้ ทีม คอยช่วยเหลือในการแข่งขัน ซึ่งสาวๆต้องพยายามกันอย่างหนัก เนื่องจากพวกเธอส่วนใหญ่ไม่มีประสบการณ์ในการเล่นมาก่อน ยกเว้น เดนาและพิม ที่เล่นได้อย่างคล่องแคล่ว โดยจุดมุ่งหมายของการแข่งขันนี้ เพื่อให้พวกเธอรู้จักกับคำว่า เมื่อไรที่ล้ม จะต้องลุกขึ้นมาได้อีกครั้งเสมอ ซึ่งสุดท้ายแล้ว ทีมของเดนา บิวติ อเดลา และจากิน เป็นทีมที่ชนะในการแข่งครั้งนี้ โดยพวกเธอจะได้ไปนวดผ่อนคลายที่ ดิ อิมพีเรียล สปา ระวีกัลยารีสอร์ท และเป็นที่น่าประหลาดใจ เมื่อพวกเธอได้ทราบว่า จะไม่มีการให้คะแแนนสำหรับการแข่งขันในครั้งนี้
การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะได้ถ่ายภาพแนวป็อป แบบแฟชั่นชั้นสูง ที่สามารถเห็นได้อย่างโดดเด่นทั่วไปตามหน้านิตยสาร ในธีม "ชี อิน แฟชั่น" ซึ่งพวกเธอจะได้ถ่ายภาพร่วมกับ ที่ปรึกษานางแบบของพวกเธอแต่ละคน ซึ่งในการถ่ายภาพนั้น เดนา, อเดลา และบิวติ ทำออกมาได้เป็นอย่างดี ในขณะที่ พิมและมีอา ต้องพยายามกันอย่างหนัก วี ถูกวิจารณ์ว่าขาดปฏิสัมพันธ์กับชิคิน และจากิน ถูกวิจารณ์ว่าดูน่าเบื่อและดูขี้เกียจ
ในห้องตัดสิน พิม ได้รับคำชมว่า มีพัฒนาการที่ดี แต่ถูกตำหนิว่าภาพของเธอนั้น อ้าปากเยอะเกินไป เดนา ได้รับคำชมในภาพถ่ายที่ดูโดดเด่น และดูไม่ขายของมากจนเกินไป มีอา ได้รับการตอบรับที่ดี แต่ถูกตำหนิว่าถ่ายภาพออกมามีมิติเดียว และโพสท่าเยอะเกินไป อเดลา ได้รับคำชมในการแสดงอารมณ์ทางสีหน้า และขายชุดที่เธอใส่ ภาพของบิวติ ออกมาโดดเด่น และเป็นแฟชั่นชั้นสูงมาก เธอจึงได้รับคะแนนสูงที่สุดในสัปดาห์นี้ วี ต้องตกเป็นสองคนสุดท้าย จากภาพที่ออกมาดูแก่กว่าความเป็นจริง และกรรมการไม่ชอบการแสดงออกทางสีหน้าของเธอในภาพ ร่วมกับ จากิน ที่การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้เธอดูขาดความมั่นใจ และแววตาในภาพนั้นดูว่างเปล่า รวมถึงกรรมการรู้สึกเธอมีข้อแก้ตัวที่ทำออกมาได้ไม่ดี เมื่อรวมคะแนนออกมาแล้ว ปรากฏว่า วี ได้ไปต่อในการแข่งขัน และจากิน ต้องถูกส่งกลับบ้าน ท่ามกลางความตกกตะลึงของสาวๆที่เหลืออยู่
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: บิวติ เธ็ต ธินห์
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: จากิน แมเนเร และ ถาน วี เหงียน
ผู้ที่ถูกคัดออก: จากิน แมเนเร
ช่างถ่ายภาพ: พันธ์สิริ สิริเวชชะพันธ์
แขกรับเชิญพิเศษ: ลาร่า ไอออนส์, เจสสิกา อิสกันดาร์
ตอนที่ 7: The Girl Who’s Out Of Time
ออกอากาศ 3 ตุลาคม 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก บิวติ รู้สึกดีใจที่เธอเป็นคนแรก ที่สามารถถ่ายภาพได้ดีที่สุดถึงสองครั้งแล้ว ในขณะที่ วี ยังคงรู้สึกเศร้าใจ เนื่องจากเธอคิดว่า จากิน เหมาะสมที่จะได้อยู่ในการแข่งขันต่อมากกว่าตัวเธอ วันต่อมา เมนเทอร์ของพวกเธอ ได้เข้ามาพบกับพวกเธอเพื่อพูดคุย และแจ้งให้ทราบว่า นับจากตอนนี้ไป เมนเทอร์จะไม่สามารถเข้ามาช่วยเหลือพวกเธอในการแข่งขันได้อีกต่อไปแล้ว ต่อมา ยู ไซ ได้เข้ามาพบกับพวกเธอที่บ้านพัก พร้อมพา พริสซิลล่า ไอแอนสัน แฟชันสไตลิสต์ของรายการมาด้วย เนื่องจากการแข่งขันในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะต้องถ่ายภาพเพื่อบอกเล่าเรื่องราว ผ่านสไตล์การแต่งตัวทั้งสามแบบ โดยใช้กล้องจากโทรศัพท์มือถือ หัวเหว่ย พี 20 โปร ซึ่งพวกเธอจะได้จับกลุ่มกันสามคนเพื่อถ่ายภาพกันในแต่ละแนว ซึ่งในการแข่งขันนั้น สาวๆต่างช่วยเหลือซึ่งกันและกัน จนทำกันออกมาได้เป็นอย่างดี และกลุ่มของ บิวติ เดนา และอเดลา ทำออกมาได้ถูกใจ พริสซิลล่า มากที่สุด พวกเธอจึงเป็นทีมที่ชนะ และได้รับเวลาห้านาทีพิเศษเพิ่มในการถ่ายภาพประจำสัปดาห์
การถ่ายภาพในครั้งนี้ พวกเธอจะได้ถ่ายภาพแบบแฟชั่นชั้นสูง ให้กับ นิตยสาร ฮาร์เปอร์ บาซาร์ ไทยแลนด์ โดยสไตล์แฟชั่นจะเป็นแนวพินอัพ ยุค 30’s ฉากในการถ่ายจะเป็นเมืองจำลองขนาดเล็ก ในธีม ลาร์จเจอร์ แดน ไลฟ์ ในการถ่ายภาพนั้น เดนา ทำออกมาได้ดี พิม ถูกวิจารณ์ว่าไม่สามารถควบคุมใบหน้าตัวเองได้ อเดลา ต้องพยายามอย่างหนัก เนื่องจากเธอทำออกมาไม่ตรงกับความต้องการของซินดี บิวติ ถูกวิจารณ์ในช่วงแรกว่าดูน่าเบื่อ แต่หลังจากนั้นก็ทำได้ดีขึ้น ในขณะที่ วี ถูกวิจารณ์ว่าโพสท่าห่อไหล่มากเกินไป จนทำให้ตัวเธอดูเล็กกว่าเดิม และ มีอา ถูกวิจารณ์ว่าสีหน้าดูขาดความมั่นใจ
ในห้องตัดสิน บิวติ ได้รับคำชมว่าเคลื่อนไหวในภาพได้ดี รวมถึงใบหน้าเธอมีเอกลักษณ์เป็นอย่างมาก อเดลา ถูกตำหนิว่า ภาพของเธอนั้นดูเก้ๆกังๆ และท่าโพสดูเป็นพื้นฐานจนเกินไป พิม กรรมการชอบอารมณ์ในภาพที่ดูขัดแย้งกัน แต่ถูกติงว่า แสงไฟไม่เข้าในดวงตาเธอ ภาพของเดนา ออกมาดูทันสมัย และกรรมการชอบการโพสท่านั่งของเธอเป็นอย่างมาก เธอจึงถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์นี้ ทิ้งให้ วี ต้องตกเป็นสองคนสุดท้าย จากภาพที่เป็นภาพเดียวจากการถ่ายทั้งหมดที่เธอทำได้ดีที่สุด รวมถึงกรรมการยังรู้สึกว่าเธอปล่อยให้อารมณ์วิตกกังวลครอบงำเธอ และเธอดูสูญเสียความตั้งใจไปหมดแล้ว ร่วมกับ มีอา ที่ถ่ายภาพในครั้งนี้ออกมาดูน่าอึดอัด และดูไม่เป็นธรรมชาติ เมื่อผลรวมคะแนนออกมา ปรากฏว่า วี ต้องถูกส่งกลับบ้าน และ มีอา ได้อยู่ต่อในการแข่งขัน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: เดนา สโลซาร์
ผู้ที่ตกเป็นสองคนสุดท้าย: มีอา ซาบาตี และ ถาน วี เหงียน
ผู้ที่ถูกคัดออก: ถาน วี เหงียน
ช่างถ่ายภาพ: วรุณ เกียรติศิลป์
แขกรับเชิญพิเศษ: พริสซิลล่า ไอแอนสัน, ดวง โปษยานนท์
ตอนที่ 8: The Girl Who Is Left Hanging
ออกอากาศ 10 ตุลาคม 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก สาวๆต่างแสดงความยินดีกับ เดนา ที่ถูกเรียกชื่อเป็นคนแรกในสัปดาห์ก่อน ทำให้ อเดลา รู้สึกว่า เดนา เป็นผู้เข้าแข่งขันที่แข็งแกร่งมาก วันต่อมา เมนเทอร์ทั้งสามคนได้เข้ามาพบกับพวกเธอเป็นครั้งสุดท้าย เพื่อให้กำลังใจแก่พวกเธอ สาวๆได้เดินทางมาพบกับ การแสดงโชว์ขับรถสุดผาดโผน ซึ่งได้ปรากฏ ซินดี ได้นั่งอยู่ในรถคันดังกล่าวด้วย ซึ่ง เธอได้แนะนำให้สาวๆรู้จักกับ รัส สวิฟฟ์ ผู้ที่เป็นนักแสดงการขับรถแบบผาดโผนมืออาชีพ เพื่อทดสอบให้เห็นถึงความแข็งแกร่งและความปลอดภัยของรถยนต์ ซูบารุ เอ็กซ์วี การถ่ายภาพในสัปดาห์นี้ พวกเธอจะต้องถูกห้อยตัวกับสลิง และโพสท่าอยู่บนรถยนต์ ซูบารุ ที่เอียงนอนตะแคงข้าง เพื่อถ่ายทอดความมั่นใจในความสมดุล และความแข็งแกร่งในแบบของซูเปอร์ฮีโร่สาว ในการถ่ายภาพนั้น สาวๆต้องพยายามอย่างมาก เนื่องจากเป็นการยากที่จะต้องควบคุมร่างกายให้โพสท่าได้ในแบบที่ต้องการ แต่หลังจากได้รับคำแนะนำของซินดี พวกเธอก็ทำกันออกมาได้ดีขึ้น
วันต่อมา สาวๆได้เดินทางมาพบกับ ยู ไซ และ นักแสดงนักร้องชื่อดัง ชาวเวียดนาม โห่ หง็อก ห่า เพื่อถ่ายภาพยนตร์แฟชั่นให้กับ รถยนต์ ซูบารุ พวกเธอจะต้องถ่ายทำกันในซีนที่แตกต่างกันไป ซึ่งการตัดต่อนั้น จะนำเสนอถึงเส้นทางในการแข่งขันของพวกเธอตั้งแต่เริ่มต้นจนถึงปัจจุบัน ก่อนที่สัปดาห์หน้านั้น จะเป็นการตัดสินในรอบชิงชนะเลิศ ในการถ่ายทำนั้น พวกเธอต่างทำออกมาได้อย่างน่าประทับใจ
ในห้องตัดสิน เดนา ได้รับคำชมว่า ภาพของเธอนั้นเข้าถึงอารมณ์และดูสมดุลที่สุด แต่ถูกติงเล็กน้อยว่าแสดงสีหน้านิ่งเกินไป ภาพของมีอา ทำให้กรรมการประทับใจกับการแสดงออกของพลังที่ดูเข้มแข็ง และดูกล้าหาญเป็นอย่างมาก เธอจึกถูกเรียกชื่อเป็นคนแรก และผ่านเข้าสู่รอบชิงชนะเลิศเป็นคนแรก ในขณะเดียวกัน ซินดี ทำให้สาวๆต้องรู้สึกตกใจ เมื่อเธอกล่าวว่า จะต้องมีผู้ที่ถูกคัดออกถึงสองคน ทำให้ อเดลา พิม และบิวติ ต้องตกเป็นสามคนสุดท้าย เนื่องจาก กรรมการรู้สึกว่า อเดลา ยังไม่สามารถแสดงบุคลิกออกมาได้ชัดเจนมากพอ ถึงแม้เธอจะถ่ายภาพออกมาได้อย่างแข็งแกร่งก็ตาม พิม ถ่ายภาพออกมาในครั้งนี้ดูนิ่ง ขาดความมั่นใจ และดูไม่เป็นนางแบบ อีกทั้ง ในการแข่งขันที่ผ่านมา เธอยังไม่สามารถทำผลงานออกมาได้ดีที่สุดเลยสักครั้ง บิวติ ถ่ายภาพออกมาดูกลัวที่จะล้ม รวมถึง กรรมการยังรู้สึกกังวลว่าเธอจะต้องถูกผลักดันอย่างมาก ถึงจะสามารถทำออกมาได้ดี เมื่อผลคะแนนปรากฏออกมา อเดลา ได้ผ่านเข้าสู่รองชิงชนะเลิศเป็นคนสุดท้าย ทำให้ พิม และบิวติ ต้องถูกส่งกลับบ้าน
ผู้ที่ถูกเรียกชื่อคนแรก: มีอา ซาบาตี
ผู้ที่ตกเป็นสามคนสุดท้าย: พิม บูแบร์, อเดลา-เม มาร์แชล และ บิวติ เธ็ต ธินห์
ผู้ที่ถูกคัดออก: พิม บูแบร์ และ บิวติ เธ็ต ธินห์
ช่างถ่ายภาพ: โจเอล ลิม
แขกรับเชิญพิเศษ: โห่ หง็อก ห่า, เกล็น ตัน
ตอนที่ 9: The Girl Who Climbed Her Way To The Top
ออกอากาศ 17 ตุลาคม 2561
เป็นตอนที่ประมวลภาพการแข่งขันที่ผ่านมาตั้งแต่เริ่มต้นของผู้เข้าแข่งขันสามคนสุดท้าย และภาพที่ไม่เคยเห็นมาก่อน อาทิ เช่น จากิน ใช้จดหมายจาก เจสลีน เป็นสื่อแทนตัวว่ายังอยู่ที่นี่กับพวกเธอ เป็นต้น
ตอนที่ 10:
ออกอากาศ 24 ตุลาคม 2561
เมื่อกลับถึงบ้านพัก มีอา รู้สึกดีใจเป็นอย่างมาก ที่ถ่ายภาพได้ดีที่สุดในสัปดาห์ก่อน ทำให้เธอมีความมั่นใจเพิ่มมากขึ้น ในขณะที่ อเดลา และเดนา ยังคงรู้สึกเหลือเชื่อที่ได้ผ่านเข้าสู่รอบสามคนสุดท้ายของการแข่งขัน วันต่อมา สาวๆได้เดินทางมาที่ ดิ อะพอธธิคารี เวนิว ซึ่งเป็นสถานที่จัดงานแต่งงานสไตล์ยุโรป และได้พบกับ ซินดี และ ยู ไซ ซึ่งพวกเธอจะได้ถ่ายภาพกันครั้งสุดท้าย ในธีม เดอะ เซเลเบรชัน เพื่อเก็บช่วงเวลาที่น่าจดจำในการแข่งขัน มาเฉลิมฉลอง โดยซินดี ได้สร้างความประหลาดใจให้กับพวกเธอ ด้วยการเผยว่า ครอบครัวและคนที่พวกเธอรัก จะได้มีส่วนร่วมในการถ่ายภาพครั้งนี้ด้วย ในการถ่ายภาพนั้น มีอา ได้รับคำวิจารณ์ว่า เคลื่อนไหวร่างกายมากจนเกินไป ทำให้ดูไม่เป็นนางแบบ ซึ่งหลังจากได้รับคำวิจารณ์ เธอก็ทำออกมาได้ดีขึ้น เดนา ทำให้ ซินดี และ ยู ไซ ประทับใจกับการเต้นรำในการถ่ายภาพที่ดูมีความเซ็กซี่และมีความสุข ในขณะที่ อเดลา ก็สามารถโชว์พลังงานที่ดูมีความสุขออกมาได้ดีเช่นเดียวกัน ต่อมา สาวๆทั้งสามคนได้เดินทางมายัง บ้านสุริยาศัย ซึ่งเป็นร้านอาหารไทยตำรับชาววัง และพวกเธอก็ต้องประหลาดใจเป็นอย่างมาก เมื่อพบว่า ผู้เข้าแข่งขันที่ถูกคัดออกไปแล้ว ได้มาร่วมรับประทานอาหารกับพวกเธอด้วย ทำให้พวกเธอดีใจเป็นอย่างมากที่ได้พบกันอีกครั้ง
วันต่อมา พวกเธอได้เดินทางมาที่ โรงแรมแบงค็อก แมริออท เดอะ สุรวงศ์ เพื่อเดินแบบครั้งสุดท้าย โดยในห้องจัดเลี้ยงจะถูกเซ็ตขึ้นมาในแบบบรรยากาศของสวรรค์เขตร้อน ในธีมที่มีชื่อว่า พาราดิโซ โดยสวมเสื้อผ้าพร้อมใส่คอลเล็คชั่น จาก ทูบ แกลลอรี่ และเสื้อผ้าแนวอวองค์-การ์ด จาก ฮุคส์ บาย ประภากาศ ซึ่งผู้เข้าแข่งขันที่ถูกคัดออกไปแล้ว และเหล่าเมนเทอร์ของพวกเธอ จะได้มีส่วนร่วมในการเดินแบบครั้งนี้ด้วย ซึ่งในการเดินแบบนั้น พวกเธอทั้งสามคนก็สามารถทำออกมาได้อย่างน่าประทับใจ
การตัดสินในรอบชิงชนะเลิศนั้น มีอา ได้รับคำวิจารณ์ว่าในเรื่องของท่าโพสในภาพนั้น ดูมีชีวิตชีวา และมีความจริงใจ แต่ถูกติว่า ลืมควบคุมการแสดงออกทางสีหน้า ในส่วนของการเดินแบบนั้น ทำออกมาได้ดี แต่บางครั้งก็ดูแข็งทื่อ และแสดงความกังวลออกมาทางสีหน้า เดนา ได้รับคำชมว่า ในภาพนั้น เธอดูโดดเด่น ดูมีความสุข และมีความอ่อนหวานในขณะเดียวกัน ส่วนในการเดินแบบนั้น แข็งแกร่งและเป็นที่น่าจดจำมาก อเดลา ได้รับคำชมว่าในภาพนั้นดูเป็นแฟชั่นชั้นสูง และดูธรรมชาติเป็นอย่างมาก แต่ในการเดินแบบนั้น ถูกวิจารณ์ว่าลืมในเรื่องของจังหวะ และเดินเร็วจนเกินไป หลังจากที่กรรมการได้ปรึกษาหารือเสร็จสิ้น ซินดี จึงได้ประกาศว่า เอเชีย เน็กซต์ ทอป โมเดล คนที่หก คือ เดนา สโลซาร์
ผู้ชิงตำแหน่งสามคนสุดท้าย: มีอา ซาบาตี, อเดลา-เม มาร์แชล และเดนา สโลซาร์
เอเชีย เน็กซ์ ทอป โมเดล: เดนา สโลซาร์
ช่างถ่ายภาพ: ยู ไซ
แขกรับเชิญพิเศษ: เพีย วูร์ทซบาค, เกล็น ตัน, ชู หลาน, เกรซ, ซาบรีนา, ดาว, จอย, จอห์นนี, รูบี แอดเลอร์, ดวง โปษยานนท์
ผู้เข้าแข่งขัน
คะแนนและผลการตัดสิน
ลำดับการเรียกชื่อ
ผู้ชนะเลิศการแข่งขัน
ผู้ที่ถูกคัดออกจากการแข่งขัน
ผู้เข้าแข่งขันที่ถูกคัดออกนอกห้องตัดสิน
ผู้ที่ชนะการแข่งขันประจำสัปดาห์ และถูกคัดออกจากการแข่งขัน
ผู้เข้าแข่งขันที่ชนะการแข่งขันประจำสัปดาห์
ตอนที่ 1 โฮดี และลีนา ถูกคัดออกนอกห้องตัดสินจากการทำผลงานในการแข่งขันประจำสัปดาห์ได้แย่ที่สุด
ตอนที่ 9 เป็นตอนที่ประมวลภาพการแข่งขัน
ตารางคะแนน
ผู้ที่ได้คะแนนมากที่สุดในสัปดาห์
ผู้ชนะเลิศการแข่งขัน
ผู้ที่ถูกคัดออกจากการแข่งขัน
ตอนที่ 1 โฮดี และลีนา ไม่มีรายชื่อในใบประกาศผลการแข่งขันประจำสัปดาห์ที่ ซินดี้ นำมาให้สาวๆ ทุกคนได้ดู ทั้งสองคนจึงไม่มีคะแนนสะสม
ตอนที่ 5 พิม ถูกเปลี่ยนทีมจาก ทีม มิญ ตู้ เป็น ทีม โมนิกา
สรุปข้อมูล
การแข่งขัน
สัปดาห์ที่ 1 : ถ่ายภาพแบบโคลสอัพ ธีม "สัตว์ป่า" ร่วมกับสัตว์เลื้อยคลาน; งู, ลูกจระเข้, อิกัวนา
สัปดาห์ที่ 2 : ถ่ายภาพสวมบทบาทเป็น หงส์ คู่แนวแฟนตาซี โดยได้แรงบันดาลใจจาก บัลเล่ต์ สวอนเลก
สัปดาห์ที่ 3 : ถ่ายภาพเป็นผู้หญิงสมัยใหม่ร่วมกับ สุนัข เพื่อนำเสนอจุดเด่นให้กับ รถยนต์ ซูบารุ เอ็กซ์วี
สัปดาห์ที่ 4 : ถ่ายภาพแฟชั่น มวยปล้ำ ยุค 80's ในธีม "สาวงามในสังเวียน"
สัปดาห์ที่ 5 : ถ่ายภาพแฟชั่นเผยความงามแบบเป็นธรรมชาติในธีม "เอสเตติกา แคปเจอร์ โมเมนท์"
สัปดาห์ที่ 6 : ถ่ายภาพแฟชั่นชั้นสูงในหน้านิตยสารแนวป็อป ในธีม "ชี อิน แฟชั่น" ร่วมกับที่ปรึกษานางแบบ
สัปดาห์ที่ 7 : ถ่ายภาพแฟชั่นชั้นสูงแนวพินอัพ ยุค 30’s ร่วมกับตึกจำลอง ในธีม “ลาร์จเจอร์ แดน ไลฟ์” ให้กับ นิตยสาร “ฮาร์เปอร์ บาซาร์ ไทยแลนด์”
สัปดาห์ที่ 8 : ถ่ายภาพแฟชั่นถ่ายทอดจิตวิญญาณในธีม “กล้าให้สุด” ให้กับ รถยนต์ “ซูบารุ เอ็กซ์ วี”
รอบ 3 คนสุดท้าย : ถ่ายภาพร่วมกับครอบครัว ในธีม "เดอะ เซเลเบรชัน", เดินแบบระดับมืออาชีพ ในบรรยากาศของสวรรค์เขตร้อน ในธีม "พาราดิโซ" โดยสวมเสื้อผ้าคอลเล็คชั่น ของ ทูบ แกลอรี่ และ ฮุคส์ บาย ประภากาศ
การแปลงโฉม
อเดลา: ซอยผมสั้นระดับไหล่ และตัดเพิ่มหน้าม้า
บิวติ: ซอยผมให้เสมอกัน และย้อมสีน้ำเงิน
เดนา: ย้อมผมสีดำ
ฮาน: ดัดผมเป็นลอน และตัดหน้าม้า
อิโค: ตัดผมสั้นระดับต้นคอ
จากิน: ทำไฮไลท์ และซอยสั้นระดับบ่า
เจสลีน: ซอยผมให้เสมอกัน
มีอา: ย้อมผมสีน้ำตาลมะฮอกกานีและเพิ่มไฮไลท์สีชมพู
พิม: ซอยสไลด์ผม
รูบินี: ตัดสไลด์ไล่ระดับผม
วี: ซอยสั้นระดับต้นคอ
บุคคลที่เกี่ยวข้องกับรายการ
ซินดี้ บิชอพ - กรรมการหลัก
ยู ไซ - ช่างถ่ายภาพ และ กรรมการ
เมอร์เลนา "โมนิกา" ซานตา มาเรีย - โมเดลเมนเทอร์ และ กรรมการ
นูร์ฟาชิคิน "ชิคิน" โกเมซ - โมเดลเมนเทอร์ และ กรรมการ
มิญ ตู้ เหงียน - โมเดลเมนเทอร์ และ กรรมการ
อ้างอิง
แหล่งข้อมูลอื่น
หมวดหมู่:เอเชียส์เน็กซต์ท็อปโมเดล
หมวดหมู่:การแข่งขัน
หมวดหมู่:การประกวดนางแบบ
หมวดหมู่:เรียลลิตีโชว์ | https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B9%80%E0%B8%AD%E0%B9%80%E0%B8%8A%E0%B8%B5%E0%B8%A2%E0%B8%AA%E0%B9%8C%E0%B9%80%E0%B8%99%E0%B9%87%E0%B8%81%E0%B8%8B%E0%B8%95%E0%B9%8C%E0%B8%97%E0%B9%87%E0%B8%AD%E0%B8%9B%E0%B9%82%E0%B8%A1%E0%B9%80%E0%B8%94%E0%B8%A5%20%E0%B8%A4%E0%B8%94%E0%B8%B9%E0%B8%81%E0%B8%B2%E0%B8%A5%E0%B8%97%E0%B8%B5%E0%B9%88%206 |
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శ్రీకాకుళం జిల్లా భారత దేశములోని ఆంధ్ర ప్రదేశ్ రాష్ట్రంలో ఈశాన్య సరిహద్దులో ఉంది. జిల్లా ముఖ్యపట్టణమైన శ్రీకాకుళం (అక్షా:
18
o
{\displaystyle 18^{\mathrm {o} }}
18' ఉ, రేఖా:
83
o
{\displaystyle 83^{\mathrm {o} }}
54' తూ) నాగావళి నది ఒడ్డున ఉంది. విశాఖపట్నం జిల్లా నుంచి 1950 ఆగష్టు 15 న శ్రీకాకుళం జిల్లా ఏర్పడింది. విశాఖపట్నం జిల్లా లోని కొంత భాగం, శ్రీకాకుళం జిల్లా నుంచి మరి కొంతభాగం కలిపి 1979 జూన్ 1 న విజయనగరం జిల్లా ఏర్పడింది
జిల్లా పేరు వెనుక చరిత్ర
బ్రిటిషు వారు శ్రీకాకుళం పేరును పలకలేక "చికాకోల్" అనేవారు. చికాకోల్ కు సంబంధించిన మరో కథనం ఇలాఉంది: ఈ ప్రాంతం నైజాము ఆధిపత్యంలో ఉండే సమయంలో ఈ ఊళ్లోనే ప్రతి సంవత్సరం జమాబందీ నిర్వహిస్తూ రైతుల వద్ద నుండి పన్నులు వసూలు చేసేవారు. రైతులు తాము కట్ట వలసిన పన్ను సొమ్మును విచ్చు రూపాయల రూపంలో చిన్నచిన్న గుడ్డసంచులలో పోసి, మూటకట్టి, ఆమూటను తీసికొనివచ్చి ఖుద్దున సమర్పించేవారు. ఆ మూట లోని సొమ్ము సరిగా ఉందో లేదో చూసుకోవడానికి మూటను విప్పాలి. ఆ మూటలు చాలా ఉంటున్నందువలన, ఆ మూటల మూతికట్టు విప్పమని రైతులతో చెప్పడానికి "శిఖా ఖోల్" అనేవారు. అంటే "మూతికట్టువిప్పు" అని అర్థం. ఈమాట క్రమంగా "చికా కోల్" అయి, శ్రీకాకుళంగా స్థిరపడిందిట.
ఆంధ్రప్రదేశ్ పూర్వపు ముఖ్యమంత్రి ఎన్ టి రామారావు జిల్లాలోని టెక్కలి నియోజకవర్గం నుండి ఆంధ్రప్రదేశ్ శాసనసభకు ప్రాతినిధ్యం వహించారు.
జిల్లా చరిత్ర
ఒకప్పుడు ఇది బౌద్ధమతానికి ముఖ్యస్థానంగా వర్ధిల్లింది. శాలిహుండం, దంతపురి, జగతిమెట్ వంటి బౌద్ధారామం|బౌద్ధారామాలు ఇక్కడ కనుగొనబడ్డాయి. తరువాత ఇది కళింగ సామ్రాజ్యంలో భాగంగా ఉండేది. గాంగేయులు ఈ ప్రాంతాన్ని 6 నుండి 14వ శతాబ్దం వరకు, 800 సంవత్సరాలు పాలించారు. వజ్రహస్తుడు|వజ్రహస్తుని కాలంలో ప్రసిద్ధి చెందిన శ్రీ ముఖలింగం ఆలయాన్ని నిర్మించారు. మహమ్మదీయుల పాలన కాలంలో షేర్ మహమ్మద్ ఖాన్ శ్రీకాకుళంలో జామియా మసీదు నిర్మించాడు.
విశాఖపట్నం జిల్లాలో భాగంగా ఉండే ఈ జిల్లా 1950 ఆగష్టు 15న ప్రత్యేక జిల్లాగా అవతరించింది. 1969లో ఈ జిల్లానుండి సాలూరు తాలూకాలోని 63 గ్రామాలు, బొబ్బిలి తాలూకాలోని 44 గ్రామాలను విశాఖపట్నం జిల్లాలో కొత్తగా ఏర్పరచిన గజపతి నగరం తాలూకాకు బదలాయించారు. మళ్ళీ మే 1979లో కొత్తగా విజయనగరం జిల్లాను ఏర్పరచినపుడు సాలూరు, బొబ్బిలి, పార్వతీపురం, చీపురుపల్లి తాలూకాలను కొత్తజిల్లాలో విభాగాలుగా చేశారు.
ఆంధ్ర ప్రదేశ్ లో నక్సలైటు (మావోయిస్టు పార్టీ) ఉద్యమం ప్రారంభమయింది శ్రీకాకుళం జిల్లాలోనే.
నైసర్గిక స్వరూపం
శ్రీకాకుళం జిల్లా
మొత్తం జిల్లా వైశాల్యం 5837 చ.కి.మీ. జిల్లాకు 193 కి.మీ. సముద్ర తీరం ఉంది. తూర్పు కనుమలు ఈశాన్యం నుండి కొంతభాగం విస్తరించి ఉన్నాయి.
నదులు
నాగావళి, వంశధార, మహేంద్ర తనయ, చంపావతి, బహుదా, కుంభికోటగెడ్ ఇవి జిల్లాలలో ముఖ్యమైన నదులు. ఇవి తూర్పు కనుమలలో పుట్టి బంగాళాఖాతంలో కలుస్తున్నాయి.
వాతావరణం
సంవత్సరంలో ఎక్కువకాలం వాతావరణం తేమగా ఉంటుంది. నైఋతి ఋతుపవనాలు జూన్ నుండి సెప్టెంబరు వరకు, ఈశాన్య ఋతుపవనాలు అక్టోబరు - నవంబరు మాసాలలోను వర్షాలు కురిపిస్తాయి. డిసెంబరు నుండి ఫిబ్రవరి వరకు పొడిగాను, చల్లగాను ఉంటుంది. సంవత్సరం సగటు వర్షపాతం 1162 మి.మీ. (2004-2005 సంవత్సరంలో వర్షపాతం 937.6 మి.మీ.)
వన్య సంపద
జిల్లాలోని అడవుల సాంద్రత, వృక్ష జాతులు ప్రాంతాన్ని బట్టి వైవిధ్యం కలిగి ఉన్నాయి. ప్రధానంగా ఇక్కడి అడవులను రెండు రకాలుగా చెప్పవచ్చును.
దక్షిణ భారత Moist deciduous అడవులు - మిశ్రమ అడవులు, మద్ది అడవులు మరియు పర్వత సవాన్నా భూములు.
దక్షిణ భారత సతత హరిత అడవులు (dry ever-green miscellaneous forests)
జంతు సంపద
శ్రీకాకుళం జిల్లాలో అటవీ మృగాలు అల్పంగా ఉన్నాయి. జనావాసాల విస్తరణ, అడవుల నాశనం ఇందుకు కారణాలు కావచ్చును. మాంసాహార మృగాలలో పులి దాదాపు అంతరించింది. చిరుత పులి, హైనా (దుమ్ములగొండి), తోడేలు వంటి జంతువులు అరుదుగా అడవుల్లో కనిపిస్తుంటాయి. గుంటనక్క, అడవిపిల్లులు మరియు కుక్కలు జిల్లాలో కనిపించే ఇతర మాంసాహార జంతువులు. శాకాహార జంతువులలో - somber మరియు మచ్చల దుప్పి (చితాల్), అడవి గొర్రెలు, ఎలుగుబంట్లు సాధారణంగా కనిపిస్తాయి. ఈ ప్రాంతంలో కృష్ణజింక, నీలగాయ్ మరియు బైసన్లు అసలు కనిపించకపోవడం గమనార్హం. పక్షి జాతులలో - నెమళ్ళు, కౌజులు, పావురాలు, చిలకలు, మైనా partridges,
బాతులు doves వంటివి అధికంగా ఉన్నాయి..
భౌగోళిక స్వరూపం
సరిహద్దులు
ఉత్తరాన ఒడిషా రాష్ట్రము, దక్షిణ-పశ్చిమాల్లో విజయనగరము జిల్లా, ఒడిషా గజపతి జిల్లా, తూర్పున బంగాళాఖాతము ఉన్నాయి. జిల్లాకు కొంత భాగం హద్దులుగా కందివలస గెడ్], వంశధార, బహుదా నదులు ప్రవహిస్తున్నాయి.
మొత్తం జిల్లా వైశాల్యం 5837 చ.కి.మీ.
ఆర్ధిక స్థితి గతులు
వ్యవసాయం
జిల్లాలో ముఖ్య పంటలు- వరి, రాగులు, పెసలు, మినుములు, ఉలవలు, చెరకు, జనుము, వేరుశనగ, నువ్వులు, మిరప, పసుపు, నీరుల్లి.
నీటివనరులు
శ్రీకాకుళం జిల్లాలో బాహుద, ఉత్తర మహేంద్ర, తనయ, బెంజిగడ్డ, వరహాలు గడ్డ, వంశధార, నాగావళి, పెద్దగడ్డ, కందివలస అనే 9 నదులు ఉన్నాయి. వీటిలో నాగావళి, వంశధార, మహేంద్ర తనయ ముఖ్యమైన నదులు.
[1] జిల్లాలో ఈశాన్య ఋతుపవనాల ద్వారా 26.47%, నైఋతి ఋతుపవనాల ద్వారా 62.61% వర్షాలు లభిస్తాయి. మూడు ముఖ్య నదుల ద్వారా జరుగుతున్న నీటి వినియోగం: నాగావళి 371 మి.క్యూ.మీ. (మిలియన్ క్యూబిక్ మీటర్లు) (36%), వంశధార 121 మి.క్యూ.మీ. (12%), మహేంద్ర తనయ 81 మి.క్యూ.మీ. (8%), చిన్న చెరువులు 140 మి.క్యూ.మీ. (14%), భూగర్భ జలాలు 300 మి.క్యూ.మీ. (30%). మొత్తం 1,013 మి.క్యూ.మీ. రాష్ట్రంలో రెండు ప్రధాన జలాశయాలు సుమారు 140 మి.క్యూ.మీ. నీటిని వ్యవసాయ నిమిత్తం సమకూరుస్తున్నాయి. అవకాశం ఉన్న నీటిలో 91% (5,763 మి.క్యూ.మీ.) బంగాళాఖాతంలోకి వృధాగా పోతున్నదని అంచనా. 9% నీరు మాత్రమే భూగర్భంలోకి ఇంకుతున్నది.
జిల్లాలో 3.3 లక్షల (0.33 మిలియన్) హెక్టేరులు భూమి సాగులో ఉంది. అందులో 1.9 లక్షల హెక్టేరులకు సాగునీటి వసతి ఉంది. కాలువల ద్వారా 91,946 హెక్టేరులు, చెరువుల ద్వారా 80,123 హెక్టేరులు, బోరు బావుల ద్వారా 6,923 హెక్టేరులు, ఇతర బావుల ద్వారా 8,866 హెక్టేరులు, ఇతర వనరుల ద్వారా 5,316 హెక్టేరులు భూమికి సాగునీరు లభిస్తున్నది.
అనిశ్చితమైన వర్షపాతం జిల్లాలో ప్రధాన సమస్య. చాలా సంవత్సరాలు అనావృష్టి సంవత్సరాలుగా పరిగణింపబడుతున్నాయి. అలాగే త్రాగు నీటి సమస్య కూడా తీవ్రంగానే ఉంది. ఫ్లోరోసిస్ సమస్య కూడా కొన్నిచోట్ల ఉంది. నీటి వనరులను పరిరక్షించే విధానాలు లేకపోవడం, ఏజెన్సీ ప్రాంతంలోని "పోడు" వ్యవసాయం ఇందుకు ముఖ్యమైన కారణాలు. జిల్లాలో ఎక్కువ భాగం నేల ఉపరితలం గట్టిగా ఉన్నందున నీరు ఇంకే అవకాశం తక్కువ. అందుకు తోడు అధిక భూభాగం వాలుగా ఉన్నది గనుక నీరు నిలవదు. వరి, చెరకు పంటలకు ఎక్కువ నీటిని వాడుతారు.
జిల్లాలో ముఖ్యమైన ప్రాజెక్టులు: నారాయణపురం డామ్ (మద్దివలస రిజర్వాయిర్, నాగావళి), గొట్టా బారేజి (వంశధార), కళింగాంధ్ర ప్రాజెక్టు (మహేంద్ర తనయ)
మచిలేశం, కళింగపట్నం, నువ్వలరేవు, భావనపాడు, బారువలు ముఖ్యమైన మత్స్య పరిశ్రమ కేంద్రాలు.
పరిశ్రమలు
జిల్లాలో మాంగనీసు, గ్రాఫైటు, సున్నపు రాయి, మైకా, గ్రానైట్, జిల్లా తీరప్రాంతంలోని ఇసుకలో మోనజైట్ మరియు ఇతర ఖనిజాలు సమృద్ధిగా దొరుకుతాయి.
జిల్లాలో ముఖ్యపరిశ్రమలు: చక్కెర, నూనె, జీడిపప్పు, జనపనార, పేపర మిల్లు కర్మాగారములు కలవు
పైడిభీమవరం, రాజాం, మడపాం, ఆమదాలవలస, సంకిలి పట్టణాలలో పరిశ్రమలు విస్తరిస్తున్నాయి.
డివిజన్లు లేదా మండలాలు, నియోజక వర్గాలు
రెవెన్యూ డివిజన్లు, మండలాలు
జిల్లా మూడు రెవిన్యూ డివిజన్లుగా విభజింపబడింది: శ్రీకాకుళం, టెక్కలి, పాలకొండ
మొత్తం 38 రెవిన్యూ మండలాలు ఉన్నాయి.[2]
1 వీరఘట్టం మండలం14 భామిని మండలం27 టెక్కలి మండలం2 వంగర మండలం15 కొత్తూరు మండలం28 కోటబొమ్మాళి మండలం3 రేగిడి ఆమదాలవలస మండలం16 హీరమండలం మండలం29 సంతబొమ్మాళి మండలం4 రాజాం మండలం17 సరుబుజ్జిలి మండలం30 నందిగం మండలం5 గంగువారి సింగడాం మండలం18 ఆమదాలవలస మండలం31 వజ్రపుకొత్తూరు మండలం6 లావేరు మండలం19 శ్రీకాకుళం మండలం మండలం32 పలాస మండలం7 రణస్థలం మండలం20 గార మండలం33 మందస మండలం8 ఎచ్చెర్ల మండలం21 పోలాకి మండలం34 సోంపేట మండలం9 పొందూరు మండలం22 నరసన్నపేట మండలం35 కంచిలి మండలం10 సంతకవిటి మండలం23 జలుమూరు మండలం36 కవిటి మండలం11 బూర్జ మండలం24 సారవకోట మండలం37 ఇచ్ఛాపురం మండలం12 పాలకొండ మండలం25 పాతపట్నం మండలం38 లక్ష్మీనరసుపేట మండలం13 సీతంపేట మండలం26 మెళియాపుట్టి మండలం
రవాణా వ్వవస్థ
రోడ్డు మార్గాల ద్వారా వివిధ ప్రాంతాలకు చక్కగా కలపబడి ఉంది. విశాఖపట్నం, దగ్గరలోని విమానాశ్రయము.ఇది రెవెన్యూ డివిజన్ కేంద్రస్థానమైనా రైలుస్టేషను లేదు.10 కి.మీ.లోని శ్రీకాకుళం రోడ్ స్టేషనుకు వెళ్ళాలి.APSRTC ప్రభుత్వ సంస్ధ ద్వారా జిల్లా కేంద్రం నుండి ఇతర మండల.జిల్లా.రాష్ట్రాలకు వివిధ సర్వీస్ లు నడపబడుచున్నాయ్.
జనాభా లెక్కలు
2011 జన గణన ప్రకారం ప్రధాన వివరాలిలా ఉన్నాయి
2001-2011 దశకంలో జనాభా వృద్ధి రేటు: 6.52% (మొత్తం రాష్ట్రం వృద్ధి రేటు 14.44%)
జనసాంద్రత: చ.కి.మీ.కు 463 మంది (రాష్ట్రం జనసాంద్రత 308)
అక్షరాస్యులు మగవారిలో 8,57,824 (71.61%), ఆడువారిలో 6,37,557 (52.08%)
పట్టణ ప్రాంతాల జనాభా 4,36,703 లేదా 16.16% (రాష్ట్రం మొత్తంలో పట్టణ జనాభా 27.35%)
శ్రామికులు: 48.6% (ఇందులో 78% వ్యవసాయం, 15% సేవల రంగం).
(2011 జనాభా లెక్కల సాయంతో)
శ్రీకాకుళం జిల్లా జనాభా [3]
సంస్కృతి
ప్రధాన భాష తెలుగు. అయితే, ఒడిషా రాష్ట్రానికి సరిహద్దు కావడంచేత ఒరియా భాషను కొంతమంది అర్థం చేసుకోగలరు, మాట్లాడగలరు కూడా. శ్రీకాకుళం జిల్లా ప్రధానంగా వ్యవసాయాధారిత ప్రాంతం. ఇటీవలి కాలంలో జరుగుతున్న పారిశ్రామిక, విద్యా రంగాల్లో అభివృద్ధి కారణంగా శ్రీకాకుళం పట్టణం వేగంగా అభివృద్ధి చెందుతున్నది. కానీ మౌలిక సదుపాయాల విషయంలో ఆటంకాలను ఎదుర్కొంటోంది. ఈ ఊరిని పేదవాని స్వర్గం (poor man's paradise) అని చమత్కరిస్తారు (వేసవికాలంలో చల్లగాఉండే ప్రదేశం కావడం వలన).
పశుపక్ష్యాదులు
Cows, Oxus,
విద్యాసంస్థలు
అంబేద్కర్ విశ్వవిద్యాలయం - ఎచ్చెర్ల
Rajivgandhi Institute of Medical Science s ( RIMS) - శ్రీకాకుళం
IIIT ఎచ్చెర్ల వద్ద ఉంది. జి.యు.ఆర్ ఇంజనీరింగ్ కాలేజ్ ప్రైవేట్ (రాజాం)
RGUKT Srikakulam
GEMS Medical college, Ragolu village
పర్యాటకం
శ్రీకాకుళం పట్నం మరియు జిల్లాలోని పలు ప్రాంతాలు పచ్చికబయల్లు, అడవులు,సశ్యస్యామలమైన పంట పొలాలతో ఎప్పుడూ చల్లగా ఉంటుంది.వేసవి కాలములో ఊటీని పోలి ఉంటుంది. ఈ జిల్లాలో వర్షపాతము ఎక్కువగా ఉంటుంది. కాస్టాఫ్ లివింగ్ చాలా తక్కువ. అందుకే దీనిని పేదవాని స్వర్గమని పిలుస్తారు. జిల్లాలోని పర్యాటక ప్రదేశాలన్నీ కలిపి 2017లో రెండు కోట్లమంది పైచిలుకు, 2016లో కోటీ అరవైలక్షల పైచిలుకు పర్యాటకులు సందర్శించారని ప్రభుత్వ అంచనా.[4] పర్యాటకుల సంఖ్య విషయంలో 2017లో శ్రీకాకుళం జిల్లా రాష్ట్రంలో చిత్తూరు జిల్లా తర్వాత రెండవ స్థానం పొందింది.
వాతావరణం
సంవత్సరంలో ఎక్కువకాలం వాతావరణం తేమగా ఉంటుంది. నైఋతి ఋతుపవనాలు జూన్ నుండి సెప్టెంబరు వరకు, ఈశాన్య ఋతుపవనాలు అక్టోబరు - నవంబరు మాసాలలోను వర్షాలు కురిపిస్తాయి. డిసెంబరు నుండి ఫిబ్రవరి వరకు పొడిగాను, చల్లగాను ఉంటుంది. సంవత్సరం సగటు వర్షపాతం 1162 మి.మీ. (2004-2005 సంవత్సరంలో వర్షపాతం 937.6 మి.మీ.)
జిల్లాలోని అడవుల సాంద్రత, వృక్ష జాతులు ప్రాంతాన్ని బట్టి వైవిధ్యం కలిగి ఉన్నాయి. ప్రధానంగా ఇక్కడి అడవులను రెండు రకాలుగా చెప్పవచ్చును.
సస్య సంపద
దక్షిణ భారత Moist deciduous అడవులు - మిశ్రమ అడవులు, మద్ది అడవులు మరియు పర్వత సవాన్నా భూములు.
దక్షిణ భారత సతత హరిత అడవులు (dry ever-green miscellaneous forests) అందుకే దీనిని పేదవాని స్వర్గం అని పిలుస్తారు.[5]
శ్రీకాకుళం పట్టణానికి చేరువలో అనేక ధార్మిక, విహార యాత్రా స్థలాలు ఉన్నాయి. వీటిలో కొన్ని ఇక్కడ ఇవ్వబడ్డాయు.
శ్రీకాకుళం
జిల్లా కేంద్రమైన ఈ పట్టణం నాగావళి నది ఒడ్డున ఉంది. 13 కిలోమీటర్ల దూరంలో ఆమదాలవలస రైల్వేస్టేషను ఉంది. కోటేశ్వరస్వామి ఆలయము (గుడివీధి), సంతోషిమాత ఆలయం (పాతశ్రీకాకుళం), వెంకటేశ్వరఆలయం (గుజరాతీపేట), కోదండ రామస్వామి ఆలయం, జమియా మసీదు ముఖ్యమైన ప్రార్థనా స్థలాలు.
అరసవిల్లి
సూర్య దేవాలయానికి ప్రసిద్ధి చెందిన అరసవిల్లి శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 2 కి.మీ.లోనే ఉంది. దేశంలో ఉన్న కొద్ది సూర్య మందిరాలలో ఇది ఒకటి. ఇక్కడ ఆదిత్య, అంబిక, విష్ణు, గణేష, మహేశ్వర మూర్తులు ఉన్నాయి.
శ్రీకూర్మం
శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 15 కి.మీ. దూరంలో ఉన్న శ్రీకూర్మం దేశంలో బహుశా ఒకే ఒక కూర్మావతార మందిరం. విశిష్టమైన శిల్పకళ కలిగిన ఈ మందిరంలో లభించిన శాసనాలు చారిత్రికంగా కూడా ఎంతో ముఖ్యమైనవి. ఇక్కడ డోలోత్సవం ప్రధాన ఉత్సవం.
శాలిహుండం
ఇది శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 18 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ పురావస్తుశాఖ త్రవ్వకాలలో పురాతన బౌద్ధారామాల శిథిలాలు బయటపడ్డాయి.
శ్రీముఖలింగం
కళింగపట్నం
జిల్లా కేంద్రానికి 25 కి.మీ. దూరంలో ఉన్న ఓడరేవు. చారిత్రకంగా సముద్ర వాణిజ్య కేంద్రం. వంశధార నది ఇక్కడ బంగాళాఖాతంలో కలుస్తుంది. ఇక్కడ దర్గా షరీఫ్, షేక్ మదీనా అక్విలిన్ ఉన్నాయి. 23 కిలోమీటర్లవరకు కనుపించే ఒక దీప స్తంభం ఉఉంది.
కవిటి
సోంపేట, ఇచ్ఛాపురాల మధ్య ఉన్న కవిటిని 'ఉద్దానం' (ఉద్యానవనం) అని కూడా అంటారు. కొబ్బరి, జీడిమామిడి, పనస వంటి తోటలతో ఇది రమణీయంగా ఉండే ప్రదేశం. శ్రీకాకుళానికి 130 కి.మీ. దూరం. ఇక్కడ చింతామణి అమ్మవారి, శ్రీ సీతారామ స్వామి ఆలయం ఉన్నాయి.
బారువ
ఇది శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 109 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ మహేంద్ర తనయ నది సముద్రంలో కలుస్తుంది, ఇక్కడ కోటిలింగేశ్వర స్వామి ఆలయం, జనార్దన స్వామి ఆలయం ఉన్నాయి. ఒకప్పుడు ఇది ముఖ్యమైన ఓడరేవు. ఇది కొబ్బరి తోటలకు, కొబ్బరి పీచు పరిశ్రమకు కేంద్రం.
తేలినీలాపురం
ఇది శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 60 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ ఒక సంరక్షిత పక్షి ఆవాస కేంద్రం. సైబీరియా నుండి శీతకాలంలో పెలికన్ పక్షులు ఇక్కడికి వలస వస్తాయి.
దంతపురి
ఇది శ్రీకాకుళం పట్టణానికి 22 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. దీనిని బౌద్ధ జ్ఞానదంతపురి అని కూడా అంటారు. క్రీ.పూ.261లో అశోకుని కళింగ యుద్ధం తరువాత ఇది కళింగరాజులకు ప్రాంతీయ రాజధానిగా ఉంది. ఇక్కడ పురావస్తు శాఖవారి త్రవ్వకాలలో అనేక పురాతన వస్తువులు లభించాయి.
సంగం
శ్రీకాకుళానికి 56 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ నాగావళి, వంశధార, సువర్ణముఖి నదులు కలుస్తున్నాయి. ఇక్కడ సంగమేశ్వర మందిరం ఐదు లింగక్షేత్రాలలో ఒకటిగా ప్రసిద్ధం. మహాశివరాత్రికి ఇక్కడ పెద్ద ఉత్సవం జరుగుతుంది.
పొందూరు
ప్రఖ్యాతి గాంచిన పొందూరు ఖద్దరు తయారయ్యేది జిల్లాలోని పొందూరు లోనే. ఇది జిల్లా కేంద్రానికి 21 కి.మీ. దూరంలో ఉంది.
కొరసవాడ
ప్రఖ్యాతి గాంచిన మంచు తాతాయ్య చెనెత వస్త్రములు తయారయ్యేది జిల్లాలోని కొరసవాడ లోనే. ఇది శ్రీకాకుళానికి 55 కి.మీ. దూరంలో ఉంది.
రాజాం
శ్రీకాకుళానికి 40 కి.మీ. దూరంలో ఉన్న రాజాం బొబ్బిలి సర్దార్ తాండ్ర పాపారాయుడు కథ ద్వారా చారిత్రికమైనది.
మందస
సోంపేటకు 26 కి.మీ. దూరంలో ఉంది. మహేంద్రగిరి కొండ దుగువున ఉన్న ఈ వూరిలో 700 సంవత్సరాల పురాతన వాసుదేవ ఆలయం ఉంది. ఇక్కడి కోట దక్షిణ భారతదేశంలోనే ఎత్తైనదిగా చెప్పబడుతున్నది.
మరి కొన్ని ముఖ్యమైన ఆలయాలు
రావివలస - ఎండలమల్లన్న,
పాతపట్నం - నీలమణి అమ్మవారు,
పాలకొండ - కోటదుర్గ,
కవిటి, తేలినీలాపురం,తేలుకుంచి, పొందూరు, దంతవరపుకోట, రాజాం, మందస,
నందిగాం, పొలాకి మండలం దుర్గమ్మగుడి
క్రీడలు
ఈ జిల్లాకు చెందిన ఎందరో మహానుభావులు ఆంధ్ర దేశం, తెలుగు భాష వికాసానికి అసమానమైన సేవ చేశారు. జిల్లాకు చెందిన కొందరు ప్రముఖులు
సాహితీవేత్తలు
కళాప్రపూర్ణ గిడుగు రామమూర్తి పంతులు - వ్యావహారిక భాష వాడకాన్ని ఉద్యమ స్ఫూర్తితో అమలుపరచిన వైతాళికుడు
గరిమెళ్ళ సత్యనారాయణ - కవి, స్వాతంత్ర్య సమర యోధుడు
కాళీపట్నం రామారావు - కథా రచయిత
రాచకొండ విశ్వనాథశాస్త్రి (రావిశాస్త్రి)-రవయిత,సాహితీ వేత్త
గెడ్డాపు సత్యం - ప్రముఖ పద్యకవి, సాహితీ వేత్త, ఆధ్యాత్మిక వేత్త.
పింగళి నాగేంద్రరావు (రచయిత)
వడ్రంగి రామారావు (భావశ్రీ)- రచయిత, సాహితీవేత్త
బి.వి.ఎ.రామారావు నాయుడు - రచయిత, సాహితీ పరిశోధకుడు
అట్టాడ అప్పలనాయుడు - రచయిత
బలివాడ కాంతారావు నవలా రచయిత
ఛాయరాజ్ - రచయిత, సాహితీ పరిశోధకుడు
తెప్పల కృష్ణమూర్తి-రచయిత,సాహితీవేత్త
మావుడూరు వెంకట సత్య శ్రీరామమూర్తి రచనలు రచయిత,సాహితీవేత్త
దూసి ధర్మారావు - రచయిత, సాహితీకారుడు.
కళాకారులు
చట్టి పూర్ణయ్య పంతులు - నాటక రంగానికి ఎనలేని సేవ చేశాడు
అమరపు సత్యనారాయణ - రంగస్థల కళాకారుడు
యడ్ల గోపాలం - రంగస్థల కళాకారుడు
దూసి బెనర్జీ భాగవతార్ - హరికథకుడు
లోకనాథం నందికేశ్వరరావు - మిమిక్రీ కళాకారుడు
పి.ధనుంజయరావు - బుర్రకథకుడు
బండారు చిట్టిబాబు - సంగీతకారుడు
దివిలి అప్పారావు - శిల్పి
శ్రీపాద పినాకపాణి - సంగీతకారుడు
వడ్డాది పాపయ్య - చిత్రకారుడు
జి.ఆనంద్- (గాయకుడు)
జె.వి.సోమయాజులు (తెలుగు చలనచిత్ర నటుడు)
కాళీపట్నం రామారావు (సరళ భాషా రచయిత, కథకుడు, విమర్శకుడు)
గజల్ శ్రీనివాస్
మిమిక్రీ శ్రీనివాస్
శరత్ బాబు [చలనచిత్ర నటులు]
సీపాన శ్రీధర్ (సినీ రచయిత, దర్శకుడు )
వట్టి కుమార్ ( దర్శకుడు )
షకలక శంకర్ జబర్దస్త్ ఫేమ్
క్రీడాకారులు
కోడి రామమూర్తి - పహిల్వాన్
కరణం మల్లీశ్వరి - ఒలింపిక్ విజేత
పూజారి శైలజ - క్రీడాకారిణి
నీలంశెట్టి లక్ష్మి - క్రీడాకారిణి
పూర్ణ చందన.కె - కరాటే క్రీడాకారిణి
నాయకులు
సర్దార్ గౌతు లచ్చన్న - స్వాతంత్ర్య సమర యోధుడు, రాజకీయ నాయకుడు
మరి కొందరి సినీ ప్రముఖులు - రావి కొండలరావు, శరత్ బాబు, జి.ఆనంద్, జె.వి.సోమయాజులుఉర్లం సంస్థానం సంస్కృత భాష ఆధ్యయనానికి ఎంతో సేవ చేసింది.
పాలనా విభాగాలు
పట్టణ ప్రాంతాలు
జిల్లాలో ఆరు పట్టణ ప్రాంతాలు -నాలుగు మునిసిపాలిటీలు, రెండు నోటిఫైడ్ పంచాయితీ టౌనులు - ఉన్నాయి.
శ్రీకాకుళం మున్సిపాలిటీ (టౌను) - 1,17,320
ఆముదాలవలస - 37,931
ఇచ్చాపురం - 32,662
పలాస (పలాస-కాశిబుగ్గ) - 49,899
సోంపేట - 17,423 (నోటిఫైడ్ పంచాయితీ టౌను)
రాజం -23,424 (నోటిఫైడ్ పంచాయితీ టౌను) #పాలకోండ-75,000 నగరపంచాయతీ
లోక్ సభ స్థానాలు
శ్రీకాకుళం జిల్లాపరిధిలో 3 లోక్సభ స్థానాలున్నవి.
లోక్సభ స్థానం (1): శ్రీకాకుళం లోక్సభ, పాక్షికముగా 2.పార్వతీపురం, 3.విజయనగరం లలో కలిసి ఉంది.
శాసనసభస్థానాలు
ఆంధ్ర ప్రదేశ్ శాసనసభ శాసనసభస్థానాలు
తేది 2009 మే 29 నాటికి శ్రీకాకుళం జిల్లాలో మొత్తము 10 శాసనసభ స్థానాలు ఉన్నాయి: ఇచ్ఛాపురం, టెక్కలి, నరసన్నపేట, శ్రీకాకుళం శాసనసభ, ఎచ్చెర్ల, ఆముదాలవలస,,పాలకొండ, పాతపట్నం, పలాస,రాజాం
పునర్విభజన ప్రకారము 31-మే-2007 న వెలువడిన నోటిఫికేషన్ ప్రకారము వాటిని 10 స్థానాలకు కుదించడము జరిగింది. వాటి వివరాలు ఈ క్రింది విదముగా ఉన్నాయి.[6]
ఇవి కూడా చూడండి
శ్రీకాకుళం (అయోమయ నివృత్తి)
శ్రీకాకుళం (పట్టణం)
శ్రీకాకుళం శాసనసభ నియోజకవర్గం
శ్రీకాకుళం లోక్సభ
మూలాలు
5. Om Art Print - vijayawada,వారి శ్రీకాకుళం జిల్లా సమాచారము
బయటి లింకులు
మూసలు, వర్గాలు
వర్గం:ఆంధ్ర ప్రదేశ్ జిల్లాలు
వర్గం:కోస్తా | https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%B6%E0%B1%8D%E0%B0%B0%E0%B1%80%E0%B0%95%E0%B0%BE%E0%B0%95%E0%B1%81%E0%B0%B3%E0%B0%82%20%E0%B0%9C%E0%B0%BF%E0%B0%B2%E0%B1%8D%E0%B0%B2%E0%B0%BE |
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} | Adat adalah gagasan kebudayaan yang terdiri dari nilai-nilai kebudayaan, norma, kebiasaan, kelembagaan, dan hukum adat yang lazim dilakukan di suatu daerah.
Apabila adat ini tidak dilaksanakan akan terjadi kerancuan yang menimbulkan sanksi tak tertulis oleh masyarakat setempat terhadap pelaku yang dianggap menyimpang.
Asal kata
Menurut Jalaluddin Tunsam (seorang yang berkebangsaan Arab yang tinggal di Aceh dalam tulisannya pada tahun 1660). "Adat" berasal dari bahasa Arab عادات, bentuk jamak dari عادَة (adah), yang berarti "cara", "kebiasaan".
Di Indonesia, kata "adat" baru digunakan pada sekitar akhir abad 19. Sebelumnya kata ini hanya dikenal pada masyarakat Melayu setelah pertemuan budayanya dengan agama Islam pada sekitar abad 16-an. Kata ini antara lain dapat dibaca pada Undang-undang Negeri Melayu.
Lihat pula
Hukum adat
Masyarakat adat
Mistisisme
Politik adat
Ritual
Sakral
Tanah ulayat
Kategori:Kata dan frasa Arab | https://id.wikipedia.org/wiki/Adat |
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아래 목록은 유엔(UN)의 분류를 따른다.
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(소말리아 영토)
중앙아프리카
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Röntgensäteily on sähkömagneettisen säteilyn laji. Sen aallonpituus on noin 0,01–10 nanometriä; se on paljon lyhytaaltoisempaa kuin näkyvä valo. Röntgensäteilylle on ominaista sen suuri läpäisykyky: se kulkee monien sellaistenkin kiinteiden aineiden läpi, jotka näkyvälle valolle ovat täysin läpinäkymättömiä. Röntgensäteilyksi luetaan lyhytaaltoinen säteily, joka syntyy atomiytimen ympärillä olevalla elektronikuorella viritystilojen purkautumisesta tai elektronien jarrutussäteilynä. Ytimessä syntyvää lyhytaaltoista säteilyä kutsutaan puolestaan gammasäteilyksi.[3]
Historia
Wilhelm C. Röntgen löytää röntgensäteilyn
Saksalainen Wilhelm Röntgen teki vuonna 1895 tutkimuksia katodisädeputkella selvittääkseen, mitä katodista lähtevä putken läpi virtaava säteily oikein on. Yhtäkkiä hän huomasi, että jotkut koelaitteiston läheisyydessä olevat mineraalinäytteet alkoivat hohtaa aavemaista valoa. Röntgen luuli ”paholaisen päässeen irti”, mutta pian kuitenkin huomasi valon syntyvän vain koelaitteiston ollessa päällä. Siitä hän päätteli, että koelaitteisto tuotti entuudestaan tuntematonta säteilylajia. Röntgen antoi tälle uudelle säteilylajille nimen X-säteily, jota yhä käytetään joissain kielissä. Suomessa ja monissa muissa kielissä siitä käytetään tavallisimmin keksijänsä mukaan nimitystä röntgensäteily. Lisäkokeet paljastivat, että tämä X-säteily tunkeutui paperin, puun, käden ja ohuen metallikalvon läpi. Säteily myös jätti jälkiä valokuvausfilmiin.
Röntgen ymmärsi keksintönsä lääketieteellisen merkityksen ja tie tutkimuksesta käytännön sovellutuksiin oli nopea. Suomeen, Helsingin Kirurgiseen sairaalaan, hankittiin ensimmäinen röntgenlaite jo vuonna 1897 eli kaksi vuotta ensimmäisten kokeiden jälkeen. Röntgen sai puolestaan ensimmäisen fysiikan Nobelin palkinnon vuonna 1901.
Röntgendiffraktio keksitään
Koska röntgensäteilyn aallonpituus on samaa luokkaa kuin atomien läpimitta, kiinteiden aineiden kiderakenne aiheuttaa röntgensäteilyn siihen osuessa Braggin lain mukaisia diffraktioilmiöitä. Max von Laue esitti idean röntgendiffraktion mahdollisesta toimivuudesta hiihtoretkellä muutamalle kollegalleen, jotka päättivät epäilyksistään huolimatta kokeilla sen toimivuutta. Onnistuneen yrityksen jälkeen Laue johti ilmiölle matemaattisen esitystavan. Hän sai Nobelin fysiikanpalkinnon tästä merkittävästä keksinnöstä vuonna 1914, vain kaksi vuotta tutkimuksen julkaisemisen jälkeen.[4] Von Lauen löydöstä lähtien röntgensäteilyllä on ollut keskeinen osa kiinteiden aineiden kiderakenteen tutkimuksessa.
Comptonin ilmiö johtaa kvanttimekaniikan nousuun
Röntgensäteilyllä oli myös merkittävä rooli 1900-luvun alussa, kun klassinen fysiikka osoittautui riittämättömäksi joidenkin ilmiöiden selittäjänä. Arthur H. Comptonin röntgensäteillä vuonna 1922 havaitsemassa ilmiössä sironneiden säteiden energia muuttuu. Tämä ilmiö on selitettävissä vain valon hiukkaskuvassa ja on näin kiistaton todiste sähkömagneettisen säteilyn dualistisesta aalto-hiukkasluonteesta. Comptonin sironnalla saadaan myös tietoa elektronien nopeusjakaumasta aineessa. Vuosisadan alkupuolen kokeet osoittivat, etteivät muun muassa metallien johde-elektronit noudata klassisen fysiikan mukaista Maxwellin–Boltzmannin jakaumaa vaan kvanttimekaanista Fermin–Diracin jakaumaa.[5]
Kuvantaminen säilyy tärkeimpänä sovellutuksena
Nykyään röntgensäteilyä käytetään muun muassa lääketieteessä, läpivalaisussa turvatarkastuksissa lentoasemilla ja raja-asemilla, erilaisten rakenteiden mikrohalkeamien etsinnässä ja aineen atomitason rakenteen tutkimuksessa. Nykyään säteilyherkkä staattisen kuvan säilövä kuvafilmi on korvattu elektronisella ilmaisimella ja kuva tallennetaan ja käsitellään digitaalisesti. Digitaaliset ilmaisimet ovat herkempiä kuin filmit, joten tutkimuksissa käytettyjä säteilyannoksia on voitu vähentää huomattavasti. Filmien jäädessä pois ei myöskään tarvita kehitys- ja kiinnitekemikaaleja, jotka ovat ympäristölle haitallisia. Digitaalisten kuvien käyttöön saaminen on nopeampaa ja lisäksi niitä voidaan lähettää ja tallentaa helpommin kuin filmejä.
Läpäisykyky
Röntgensäteilyn suuri läpäisykyky johtuu sen pienestä aallonpituudesta ja sitä vastaavasta kvantin suuresta energiasta. Koska sen energia on niin suuri, varsinkaan kevyimpien alkuaineiden atomit eivät yleensä pysty niitä absorboimaan. Raskaammissa aineissa absorptio sen sijaan tulee voimakkaammaksi.[6]
Röntgensäteilyn lähteitä
Röntgensäteilyä syntyy muun muassa nopeiden elektronien törmätessä metalliin. Jos niiden liike-energia on tarpeeksi suuri, ne voivat irrottaa elektroneja metalliatomista joltakin lähellä ydintä olevalta orbitaalilta, jolloin syntyneeseen aukkoon siirtyy elektroni joltakin korkeammalta orbitaalilta. Tällöin syntyy säteilyä, jonka taajuus saadaan jakamalla orbitaalien energiaerotus Planckin vakiolla. Jos tämä energiaero ja sitä vastaava taajuus on tarpeeksi suuri, syntyvä säteily on röntgensäteilyä. Tällä tavalla syntynyttä säteilyä sanotaan ominaissäteilyksi, sillä siinä esiintyy vain tiettyjä, kullekin alkuaineelle ominaisia taajuuksia ja aallonpituuksia.[6] Sen lisäksi samalla syntyy jarrutussäteilyä, sillä ydin jarruttaa sen lähelle saapuneen elektronin liikettä, jolloin sähködynamiikan yhtälöiden mukaan kiihtyvässä liikkeessä oleva sähköisesti varattu hiukkanen lähettää sähkömagneettista säteilyä. Toisin kuin ominaissäteilyn, jarrutussäteilyn spektri on jatkuva, mutta sen aallonpituudella on alaraja, joka vastaa elektronien koko liike-energiaa.[6]
Röntgenputki
Röntgenputki on historiallisesti ensimmäinen tunnettu tapa synnyttää röntgensäteilyä. Putkessa olevasta hehkulangasta irtoaa elektroneja, jotka kiihdytetään putkessa olevassa sähkökentässä. Niiden törmätessä putken keskellä olevaan metallilevyyn syntyy edellä kuvatulla tavalla sekä ominais- että jarrutussäteilyä.
Synkrotronilähteet
Synkrotronilähteet ovat nykyaikainen tapa tuottaa röntgensäteilyä muun muassa materiaalifysiikan tutkimuksen tarpeisiin. Synkrotroni on varta vasten säteilyn tuottamiseen tarkoitettu hiukkaskiihdytin, jossa säteily syntyy, kun lähes valonnopeudella liikkuvan varatun hiukkassuihkun rataa kaareutetaan magneettikenttien avulla. Näin syntynyt, niin kutsuttu synkrotronisäteily soveltuu fysikaalisilta ominaisuuksiltaan monin verroin perinteistä röntgenputkesta saatavaa säteilyä paremmin tutkimuskäyttöön. Synkrotronisäteilyn suuri intensiteetti, valittavissa oleva polarisaatio ja säteilyn intensiteetin pulssittunut aikarakenne mahdollistavat joukon uusia kokeita.
Vapaaelektronilaserit
Vapaaelektronilaser on toimintaperiaatteeltaan läheistä sukua synkrotronille ja edistyksellisintä röntgensäteilyä tuottavaa teknologiaa. Lineaarikiihdyttimellä kiihdytetty elektronipulssi kulkee vapaaelektronilaserissa pitkän (~100 m) jaksollisen magneettirakenteen läpi, jolloin tuloksena on erittäin voimakkaita röntgenpulsseja. Vapaaelektronilaser tuottaa sekunnissa suunnilleen yhtä paljon fotoneja kuin synkrotroni, mutta pulssien lyhyen keston vuoksi hetkellinen fotonivuo voi olla useita kertaluokkia suurempi kuin synkrotronin vastaava. Analogisesti optisten lasereiden kanssa, vapaaelektronilaserit mahdollistavat monifotoni-ilmiöiden tutkimuksen ja sovelluksen röntgenalueella. Mittakaavaltaan vapaaelektronilaser on massiivinen, usein kilometrien mittainen laite. Vuonna 2015 maailmassa on toiminnassa muutama röntgensäteilyä tuottava vapaaelektronilaser, mutta uusia on rakenteilla.
Lääketieteellinen kuvaaminen
Röntgenkuvaus lääketieteessä lienee menetelmän tunnetuin käyttömuoto. Vaikka alkuaikoina luiden kuvaaminen oli yleisintä, menetelmien kehittymisen myötä myös pehmeiden kudosten kuvaus alkoi yleistyä. Röntgenkuvauksen eräs merkittävä kohde oli tuberkuloosin vastustaminen kuvausten avulla. Lääketieteessä käytetään eri kokoisia filmejä, jotka on suljettu valotiiviiseen kasettiin. Vaikka röntgensäteetkin valottavat filmiä, erityisten vahvistuslevyjen käyttö paransi kuvien laatua ja säteilyannosta voitiin vähentää. Vahvistuslevyjen fluoresoivat pinnat ovat filmiä herkempiä ja ne aiheuttavat kasetin sisällä näkyvää valoa, joka sitten valottaa filmin. Kuva on latentti ja se saadaan säilyväksi kehittämällä ja kiinnittämällä. Menetelmä muistuttaa perinteisten kamerafilmien kehitystä. Uutta tekniikkaa ovat digitaaliset röntgenkuvaukset, joissa toistaiseksi kasettimaiselle muistilevylle tallentuu latentti kuva, joka sitten skannataan tietokoneelle. Menetelmä muistuttaa valokuvan skannaamista tietokoneelle. Uusinta tekniikkaa käytettäessä kuva syntyy suoraan digitaaliseen muotoon. Digitalisointi nopeuttaa kuvaamista, pienentää säteilymääriä ja lisäksi pimiötä ja hankalia kemikaaleja ei enää tarvita ollenkaan. Lisäksi digitaalinen kuva voidaan liittää helposti potilaskortistoihin sekä tarvittaessa lähettää muualle. Erilaisilla kuvankäsittelyn menetelmillä voidaan myös säätää kuvan kirkkautta ja kontrastia.
Ihmisen eri kudokset läpäisevät röntgensäteilyä eri suurissa määrin. Tämän vuoksi esimerkiksi rintakehästä otetuissa röntgenkuvissa näkyvät lähinnä luut sekä keuhkot mahdollisine varjostumineen, sydän ja pallea. Pehmeät kudokset saadaan näkyviin käyttämällä sopivia varjoaineita, jollaisena esimerkiksi ruoansulatuselimistöä kuvattaessa käytetään bariumsulfaattia.[6]
Eläinlääketieteessä röntgenkuvausta käytetään diagnoosinteon lisäksi kartoitettaessa joitakin perinnöllisiä vikoja. Tunnetuimpia näistä ovat useiden koirarotujen lonkka-, kyynärpää- ja selkävaivat.
Röntgentähtitiede
Röntgentähtitiede () sai alkunsa korkealla lentävien pallojen ja rakettien mittalaitteiden mittauksista. 1950-luvun lopun satelliitit mittasivat Auringon röntgensäteilyä. Sittemmin on rakennettu erityisiä röntgenobservatoriosatelliitteja, esimerkiksi ESAn vuonna 1999 laukaisema XMM-Newton. Vuonna 2002 italialais-amerikkalainen fyysikko Riccardo Giacconi sai Nobelin fysiikanpalkinnon suurelta osin röntgenastronomiaa koskevan työnsä ansiosta.
Avaruudessa röntgensäteilyn lähteitä ovat muun muassa pulsarit eli nopeasti pyörivät neutronitähdet sekä röntgenpurkautujat eli bursterit.[7] Röntgensäteilyä syntyy myös aineen joutuessa mustaan aukkoon juuri ennen kuin se saavuttaa tapahtumahorisontin.[8]
Ilmakehän otsonikerros absorboi lähes kaiken säteilyn, jonka aallonpituus on alle 300 nanometriä,[9], myös röntgensäteilyn. Tämän vuoksi avaruudesta tulevaa röntgensäteilyä voidaan tutkia vain avaruusluotainten avulla, ja sitä on tutkittu systemaattisesti vasta 1970-luvulta lähtien.[10]
Katso myös
röntgensironta
röntgendiffraktio
röntgenkristallografia
synkrotronisäteily
röntgenkuvaus
Lähteet
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StG 44 (German: St</b>urm<b>g</b>ewehr 44 — штурмовая винтовка 1944 года) — немецкий автомат, разработанный во время Второй мировой войны. Было выпущено около 450 тысяч единиц. Среди автоматов современного типа стал первой разработкой, производившейся массово.
От пистолетов-пулемётов (ППШ и др.) Второй мировой войны, отличается значительно большей дальностью прицельной стрельбы, в первую очередь за счёт использования так называемого промежуточного патрона, более мощного, и с лучшей баллистикой, чем пистолетные патроны, используемые в пистолетах-пулеметах.
История создания
История нового автомата началась с разработки фирмой Polte (Магдебург) промежуточного патрона 7,92×33 мм для стрельбы на дистанции до 1000 м, в соответствии с требованиями, выдвинутыми HWaA (Heereswaffenamt — Управление вооружений вермахта). В 1935—1937 годах были проведены многочисленные исследования, в результате которых первоначальные тактико-технические требования HWaA к конструкции оружия под новый патрон были переработаны, что привело к созданию в 1938 году концепции легкого автоматического стрелкового оружия, способного одновременно заменить в войсках пистолеты-пулемёты, магазинные винтовки и ручные пулемёты[1].
Контракты на винтовки, стреляющие патронами 7,92 × 33 мм, были отправлены как Вальтеру, так и Хэнелю (чья проектная группа возглавлялась Хьюго Шмайсером), которым было предложено представить прототип оружия под названием Maschinenkarabiner 1942 (MKb 42, буквально «машинный карабин»)
18 апреля 1938 года HWaA заключило с Хуго Шмайссером, совладельцем фирмы C.G. Haenel (г. Зуль, Тюрингия), контракт на создание нового оружия. Прототип штурмовой винтовки именовался schwere Maschinenpistole — тяжёлый пистолет-пулемёт, вскоре он получил официально обозначение MKb (German: M</b>aschinen<b>k</b>ara<b>b</b>iner — автоматический карабин). Шмайссер, возглавлявший конструкторскую группу, передал первый опытный образец автомата в распоряжение HWaA в начале 1940 года. В конце этого же года контракт на проведение исследований по программе MKb получила фирма Walther под руководством Эриха Вальтера. Карабин этой фирмы был представлен офицерам отдела артиллерийско-технического снабжения HWaA в начале 1941 года. По результатам стрельб на полигоне в Куммерсдорфе автомат Вальтера показал удовлетворительные результаты, однако доводка его конструкции продолжалась в течение всего 1941 года[1].
В январе 1942 года HWaA потребовало от фирм C.G. Haenel и Walther предоставить по 200 карабинов, получивших обозначения MKb.42(Н) и MKb.42(W) соответственно. 14 апреля 1942 г. два образца представлены Гитлеру. К этому моменту фирма «Хенель» уже завершила изготовление опытной партии из полусотни автоматических карабинов. Фирма «Вальтер» же представила один-единственный экземпляр. В апреле 1942 г. 25 винтовок Хенеля передали для испытаний в пехотное училище, дислоцированное в Дёбритце. В июле состоялась официальная демонстрация опытных образцов обеих фирм. По её результатам HWaA и руководство Министерства вооружений остались в уверенности, что доработки автоматов закончатся в самое ближайшее время и уже в конце лета начнётся производство. Планировалось изготовить 500 карабинов к ноябрю, а к марту 1943 года довести ежемесячное производство до 15 000, однако после августовских испытаний HWaA внесло новые требования в тактико-техническое задание, что ненадолго задержало начало производства. По новым требованиям на автоматах должен был быть смонтирован прилив для штыка, а также должна была быть предусмотрена возможность крепления ружейного гранатомёта. В дополнение к этому у фирмы C.G. Haenel возникли проблемы с субподрядчиком, а у Walther — с налаживанием производственного оборудования. В результате, к октябрю не был готов ни один экземпляр MKb.42[1][2].
В ноябре 1942 г. офицерам генерального штаба продемонстрирован MKb42(H) aufschießend с изменённым затвором. Винтовка имела приклад нового типа, прицел опущен и снабжён металлическим ограждением. В декабре 1942 г. пехотное училище в Дёбритце приступило к сравнительным испытаниям MKb42(H) aufschießend и MKb42(W) с Kar.98k. Образец Вальтера офицеры пехотного училища оценили как чрезмерно сложный и чувствительный к фронтовым загрязнениям. Образец Хенеля отличался простой и прочной конструкцией, лёгкой сборкой и разборкой, длинной линией прицеливания, который впоследствии и стал прообразом/предшественником MP 43/44 (StG-44)
Производство автоматов росло медленно: в ноябре 1942 г. Walther изготовил 25 карабинов, а в декабре — 91 (при планировавшемся ежемесячном производстве 500 штук). Но благодаря поддержке Министерства вооружений фирме Haenel удалось решить основные производственные проблемы, и уже в феврале план производства был превышен (1217 автоматов вместо тысячи).
Общее количество MKb42 (H), произведенных в период с ноября 1942 года по сентябрь 1943 года, составляло 11 833 MKb42(H) s винтовок. А образцов MKb42(W) изготовлено (до снятия Walther с конкурса в начале 42г.), всего около 200 и большинство из них осталось на фабрике Вальтера до конца войны.
Некоторое количество MKb.42 приказом министра вооружений Альберта Шпеера отправилось на Восточный фронт для прохождения войсковых испытаний. В ходе испытаний было выявлено, что более тяжёлый MKb.42(Н) хуже сбалансирован, но надёжнее и проще конкурента, поэтому HWaA отдало своё предпочтение именно конструкции Шмайссера, однако потребовало произвести в ней некоторые изменения[1][2]:
заменить УСМ на курковую систему Вальтера, надёжную и обеспечивающую бо́льшую кучность боя одиночными выстрелами[1]
изменить конструкцию шептала[1]
установить флажковый предохранитель вместо предохранения путём ввода рукоятки перезаряжания в поперечный паз ствольной коробки, привычного по пистолет-пулемётам MP 38/40[1]
укоротить трубку газовой камеры[1]
заменить окна большого сечения для выхода остаточных пороховых газов из трубки газовой камеры на 7-мм отверстия, для повышения надёжности оружия при эксплуатации в сложных условиях[1]
ввести технологические изменения в затворе и затворной раме с газовым поршнем[1]
изъять направляющую втулку возвратно-боевой пружины[1]
упразднить прилив для штыка вследствие пересмотра тактики использования автомата и принятия на вооружение гранатомёта Gw.Gr.Ger.42 с иным способом крепления на стволе[1]
упростить конструкцию приклада[1]
Помимо Вальтера, у карабина Хенеля были и другие конкуренты. В 1942 г. Люфтваффе заказало разработку винтовки по собственным требованиям под штатный винтовочный патрон. Поскольку армия была заинтересована в унификации боеприпасов к стрелковому оружию, были назначены сравнительные испытания систем MKb42(H) и Fallschirmjägergewehr. Однако из-за производственных проблем, связанных с изготовлением FG42, испытания не состоялись. Также в январе 1943 г. завершена разработка полуавтоматической винтовки Gewehr 43.
В начале 1943 г. наименование оружия MKb42(H) aufschießend поменяли на Maschinenpistole — MP 43A. К тому времени конструкция Вальтера была снята с конкурса, а конструкция Хенеля претерпела существенные изменения в части затвора. В апреле 1943 г. был разработан MP 43B. Летом 1943 г. обозначение вновь сменили на MP 43/1 и MP 43/2 соответственно. Серийное производство автоматов MP 43/1 началось в июне 1943 г. и продолжалось до декабря 1943 г., когда приоритет отдали выпуску улучшенного MP 43. Всего изготовили около 14 тыс. экземпляров MP 43/1.
К осени 1943 г. конструкция MP 43/1 была несколько изменена так, чтобы его можно было комплектовать стандартным винтовочным гранатомётом, разработанным для карабина Kar.98k. MP 43/1 легко отличим по «прямому» стволу и квадратному основанию мушки. В ходе модификации в передней части ствола сделали уступ, изменили форму основания мушки. Версия со «ступенчатым» стволом стала именоваться MP 43. В дальнейшем конструкция оружия почти не менялась вплоть до окончания Второй мировой войны.
Благодаря Шпееру модернизированный автомат принимается на вооружение осенью 1943 года под обозначением МР 43 (German: M</b>aschinen<b>p</b>istole 43 — пистолет-пулемет 43 года). Подобное обозначение служило своеобразной маскировкой, поскольку Гитлер не желал производить оружие нового класса, опасаясь, что на военных складах окажутся миллионы устаревших патронов для винтовок и ручных пулемётов[1].
В сентябре на Восточном фронте 5-я танковая дивизия СС «Викинг» провела первые полномасштабные войсковые испытания МР 43. Было установлено, что новый карабин является эффективной заменой пистолетам-пулемётам и магазинным винтовкам, увеличившей огневую мощь пехотных подразделений и снизившей необходимость использования ручных пулемётов[1].
Гитлер получил множество лестных отзывов о новом оружии от генералов СС, HWaA и лично Шпеера, в результате чего в конце сентября 1943 года появилось распоряжение о начале массового производства МР 43 и его принятии на вооружение. В декабре 1943 г. Управление вооружений и фирма «Хенель» обсуждали окончательную конструкцию MP 43. По результатам дискуссий в конструкцию изделия внесли ряд изменений, в частности усилили газовую камеру и снабдили её цилиндрическим колпачком с шайбой Гровера, что упростило разборку/сборку оружия. Тогда же отказались от направляющих для крепления оптического прицела ZF41. К концу февраля 1944 г. удалось собрать всего 22900 пистолетов-пулемётов MP 43/1 и MP 43.
6 апреля 1944 года верховный главнокомандующий издал приказ, где название МР 43 заменено на МР 44, а в октябре 1944 года оружие получило четвёртое и окончательное название — «штурмовая винтовка» sturmgewehr — StG 44. Считается, что это слово изобрёл сам Гитлер в качестве звучного имени для нового образца, которое можно было бы использовать с целью пропаганды[3]. При этом в конструкцию самого автомата изменений не внесено[1].
Сборочные предприятия в первую очередь использовали для производства штурмовых винтовок детали из заделов, поэтому на оружии выпуска 1945 г. встречается маркировка MP 44, хотя обозначение уже было изменено на StG 44. В общем количестве произвели 420000-440000 MP 43, MP 44 и StG 44. Помимо C.G. Haenel в производстве StG 44 также участвовали предприятия Steyr-Daimler-Puch A.G., и Sauer & Sohn. StG 44 поступал на вооружение отборных частей вермахта и Ваффен-СС, а после войны стояли на вооружении казарменной полиции ГДР (1948—1956 годы) и ВДВ армии Югославии (1945—1950 годы). Производство копий данного автомата было налажено в Аргентине компанией FMAP-DM под обозначением CAM 1[4], кроме того, предприятием CITEFA на базе StG44 было разработано несколько прототипов автомата. Также в 1950—1965 годах StG 44, поставленные Чехословакией, состояли на вооружении сирийской армии. В 2012 году по меньшей мере несколько тысяч автоматов, в своё время снятых с вооружения регулярных войск, оказалось в руках сирийской оппозиции, которая весьма активно их применяет[5][6].
Из-за проблем с монтажом гранатомётов и оптических прицелов штурмовая винтовка не могла полностью заменить Kar.98k. К тому же дефицит укороченных патронов ощущался на протяжении всей войны. Так в рапорте высшего командования сухопутных войск от 16 июня 1944 г. говорилось, что MP 44 станет стандартным оружием пехоты только в случае решения проблемы с боеприпасами. Вплоть до лета 1944 г. штурмовые винтовки встречались на фронтах в весьма небольших количествах (в основном в Ваффен СС), массово подобное оружие применяли на заключительном этапе войны. Поэтому эти автоматы хоть и осуществили значительный вклад в военное и конструкторское дело, но переломной роли в сдерживании натиска союзнических армий не оказали.
Послевоенная разработка
Всего до конца войны было изготовлено порядка 420 000 экземпляров StG 44. В послевоенное время использовалась Народной полицией ГДР, армией и полицией ФРГ, Франции, Швейцарии, скандинавских стран, вооружёнными силами Чехословакии и воздушно-десантными войсками Югославии. Стоит заметить, что StG 44 и автомат Калашникова (см. Гипотезы о создании автомата Калашникова) отличаются друг от друга конструктивно, в том числе и в принципе работы основных узлов, хотя сама концепция использования промежуточного патрона и послужила отправной точкой для разработки оружия под промежуточный патрон в СССР.
В августе 1945 года из имеющихся в сборочных цехах деталей были собраны 50 экземпляров StG 44 и вместе с 10785 листами технической документации переданы Красной армии для налаживания производства в СССР. В октябре 1945 года Хуго Шмайссер был привлечён к работе в так называемой «технической комиссии» Красной армии. Задачей комиссии был сбор информации о состоянии разработок новейшего немецкого оружия, чтобы использовать эти наработки в производстве советского оружия.
В 2016 году американская оружейная компания Hill & Mac Gunworks из города Альфаретта, Графства Фултон, штат Джорджия, США, на выставке NRA 2016 продемонстрировала публике прототипы самозарядных карабинов, сходных с внешним обликом StG 44 и повторяющие систему автоматики этого оружия. По планам Hill & Mac Gunworks, покупателями их карабинов станут любители оружия, желающие приобрести реплику StG 44 по доступной цене[7].
Описание конструкции
Автоматика StG 44 — газоотводного типа с отводом пороховых газов через отверстие в стенке ствола. Запирание канала ствола осуществляется путём перекоса затвора в вертикальной плоскости. Перекос происходит путём взаимодействия наклонных плоскостей на затворе и затворной раме. Газовая камора — без возможности регулирования. Заглушка газовой каморы с вспомогательным штоком откручивается специальной выколоткой только при чистке автомата. Для метания ружейных гранат необходимо было использовать специальные патроны с 1.5 г (для осколочных) или 1.9 г (для бронебойно-кумулятивных гранат) пороховым зарядом. Стандартный вес пороха в патроне 7.92х33 Kurz — 1.57 г. Газовый поршень со штоком объединен со стеблем затвора.
Ударно-спусковой механизм — куркового типа. Спусковой механизм позволяет вести одиночный и автоматический огонь. Переводчик огня расположен в спусковой коробке, а концы его выходят наружу с левой и правой сторон в виде кнопки с рифленой поверхностью. Для ведения автоматического огня переводчик нужно переместить слева направо на букву «D», а для одиночного огня — справа налево на букву «Е». Автомат снабжен предохранителем от случайных выстрелов. Этот предохранитель флажкового типа находится ниже переводчика огня и в положении у буквы «F» блокирует спусковой рычаг.[8] Возвратная пружина располагается внутри приклада, исключая тем самым возможность простого создания варианта со складным прикладом.
Питание автомата патронами осуществляется из отъёмного секторного двухрядного магазина емкостью 30 патронов. Обычно магазины на 30 патронов снаряжали 25 патронами из-за слабости пружин, не всегда обеспечивающих нормальную подачу патронов при полной загрузке магазина. В марте 1945 г. в перечень принадлежностей к MP 44 был включён магазин ёмкостью 25 патронов, но вряд ли такие магазины были изготовлены в массовом количестве. В том же марте 1945 г. в пехотном училище в Дёбритце был разработан стопор для 30-патронного магазина, ограничивающий его наполнение 25 патронами.
Секторный прицел винтовки позволяет вести прицельный огонь на дальности до 800 м. Деления прицела нанесены на прицельной планке. Каждое деление прицела соответствует изменению дальности на 50 м. Прорезь и мушка треугольной формы. На винтовке могли быть установлены также оптический и инфракрасный прицелы. Благодаря использованию менее мощных патронов сила отдачи при выстреле была вдвое ниже, чем у винтовки Mauser 98k. Одним из главных недостатков StG 44 была его относительно большая масса — 5,2 кг для автомата с боекомплектом, что на килограмм больше массы Mauser 98k с патронами и штыком. Также нелестных отзывов заслужил неудобный прицел и демаскирующее стрелка́ пламя, вырывающееся из ствола при стрельбе.[1]
Встречались образцы MKb42(H) как с креплением для штыка, так и без него. Все MKb42 и большая часть MP 43/1 снабжались направляющими, предназначенными для крепления оптического прицела. Начиная с MP 43/1 от креплений для штыка отказались. MP 43/1 отличался от MKb42(H) главным образом конструкцией затвора, укороченным каналом отвода газов, изменённой мушкой, пистолетной рукояткой с предохранителем на левой стороне выше селектора переключателя режима ведения огня. Два последних отличия характерны также для MKb42(H) aufschießend.
В процессе серийного производства отказались от пламегасителя, однако узел его крепления сохранили на случай монтажа глушителя. В 1944 г. упростили прицел. Некоторые образцы, изготовленные в 1945 г., не имели рёбер жёсткости на корпусе выше магазина.
Дополнительные приспособления
'Принадлежности и боеприпасы'
Комплект принадлежностей к Stg 44 (МР 44) состоял из шести магазинов, машинки для набивки магазинов патронами, ремня, трех чехлов для ствола, инструмента для отворачивания газовой камеры и снятия ограждения спускового крючка, запасных частей, таких как экстрактор, пружины экстрактора и т. д., пенала с ёршиком на шнурке для чистки ствола, руководства по технической эксплуатации.
Гранатомёты
От оружия требовалась возможность стрельбы гранатами. Первые модели винтовок имели резьбу на конце ствола, защищённую гайкой, как на пистолетах-пулемётах MP 38 и MP 40. Резьба предназначалась для крепления пламегасителя. Известны фотографии резьбового крепления гранатомётов на стволах MKb42(W), но ненадёжность и бесперспективность конструкции быстро выяснилась.
Адаптация гранатомёта для Kar.98k Gewehrgranatgerät42 оказалась невозможной из-за толщины ствола MP 43/1. Были сконструированы редкие образцы MP 43/1 с уступом на передней части ствола и переделанным пьедесталом мушки, после чего стало возможным крепление на стволе стандартного гранатомёта. Модернизированный вариант винтовки получил обозначение MP 43.
Ассортимент боеприпасов к гранатомёту был, однако шире, чем под гранатомёт винтовки Kar.98k, поэтому пришлось разработать особый вышибной патрон. Так как в автоматическом оружии часть пороховых газов расходовалась на подачу патронов, возникла необходимость в создании специального устройства, создающего необходимое давление на винтовочные гранаты.
В июне 1944 г. появились два типа патронов: один с зарядом массой 1,5 грамма под Gewehrsprenggranate (осколочные) и один с зарядом массой 1,9 грамма под Gewehrpanzergranate (бронебойно-кумулятивные)[5]. В январе 1945 г. решили проблему с автоматикой, в марте и апреле 1945 г. MP 44 с Gewehrgranatgerät успешно проходил испытания. Для стрельбы из гранатомёта, однако, требовался специальный прицел, проблему которого разрешить не удалось.
Приспособления для стрельбы из-за укрытия
С автоматом можно было использовать специальные кривоствольные устройства Krummlauf Vorsatz J (пехотное с углом искривления 30 градусов) или Vorsatz Pz (танковое с углом искривления 90 градусов) для стрельбы из-за окопа и танка соответственно, рассчитанные на 250 выстрелов и ощутимо снижавшие точность стрельбы[5].
Танки и самоходки обладали значительной «мёртвой зоной», в которой противник не поражался штатным стрелково-пушечным вооружением. Без прикрытия своей пехоты пехота противника легко выводила технику из строя магнитными минами и ручными гранатами, находясь в этих мёртвых зонах.
Решение этой проблемы нашёл полковник Ганс-Йоахим Шаде, глава производственного отдела министерства Шпеера. В конце 1943 г. Шаде предложил снабдить ствол пулемёта MG34 кривой насадкой. Как выяснилось, штатный винтовочный патрон 7,92×57 мм обладал слишком большой для искривлённого ствола мощностью. Изготовленные кривые насадки для пулемётов MG34 выходили из строя через сотню-другую выстрелов. Внимание сосредоточили на штурмовой винтовке, в которой использовался патрон 7,92×33 мм.
В июле 1944 г. появился первый вариант насадки для штурмовой винтовки. Он представлял собой нарезной ствол с несколькими отверстиями, предназначенными для отвода газов из канала, искривление ствола составляло 90 градусов. Ресурс — 2000 выстрелов. Очевидно, что угол искривления в 90 градусов устраивал экипаж бронетехники, но не пехоту.
27 октября 1944 г. были продемонстрированы несколько вариантов насадок. Наиболее пригодным для пехоты устройством посчитали насадку с искривлением 30 градусов. В ноябре-декабре 1944 г. различные варианты насадок проходили испытания в пехотном училище в Дёбритце. 24 декабря решили продолжить испытания только 30-градусных насадок, так как 45-градусные очень быстро выходили из строя.
Также была возможность стрельбы винтовочными гранатами с помощью искривлённой насадки. Для стрельбы гранатой вентиляционные отверстия в кривом стволе закрывались особым чехлом, чтобы вышибной патрон обеспечивал требуемое давление газов в кривом канале. Дальность стрельбы оставалась прежней — 250 м, но точность оставляла желать лучшего. Было изготовлено примерно 100—150 насадок Vorsatz J и около 550 насадок Vorsatz Pz.
Deckungszielgerat45 — устройство предназначенное для стрельбы из штурмовой винтовки из полноценных укрытий. Оно состояло из рамы, на которой двумя защёлками крепился автомат, в нижней части рамы крепился дополнительный металлический приклад с деревянной пистолетной рукояткой. Спусковой механизм рукоятки был связан со спусковым механизмом автомата. Для прицеливания применялись два зеркала, установленные под углом 45 градусов. Подобные устройства были созданы и для Kar.98k, Gewehr 41, Gewehr 43, MG 34.
Телескопические прицелы
На ранних этапах проектирования MKb никак не могли определить роль нового вида стрелкового оружия на поле боя. С правой стороны всех MKb42 были сделаны направляющие, предназначенные для крепления оптического прицела ZF41. Реально оптические прицелы использовались на данном виде оружия только в ходе специальных испытаний, давших отрицательный результат.
В октябре 1943 г. в пехотном училище в Дёбритце прошли сравнительные испытания на точность стрельбы MP 43/1 и снайперского варианта G 43. Обе модели были снабжены прицелами ZF4 кратностью 4Х, данный прицел был разработан в начале 1943 г. Для установки нового прицела у винтовки MP 43/1 изменили крепление, так как крепление для прицела ZF41 не подходило. Уже после 30 выстрелов, произведённых в автоматическом режиме, юстировка прицела относительно оружия полностью сбивалась. 5 одиночными выстрелами цель поразить не удалось.
Испытания выявили недостаточное качество изготовления прицелов ZF4, а MP 43/1 совершенно не годился для снайперской стрельбы. Однако на все MP 43/1 по-прежнему ставили направляющие для крепления оптического прицела ZF4, хотя сами прицелы в боевой обстановке не использовались никогда. Последние сведения об использовании MP 44 со снайперским прицелом ZF4 относятся к сентябрю 1944 г. Как и прежде, крепления находились с правой стороны оружия. Далее рейхсминистр Шпеер приказал сконцентрировать усилия на улучшении K 43 в качестве снайперского оружия.
StG 44 мог оснащаться ночным инфракрасным прицелом ZG.1229 «Вампир»[9].
Оценка образца
По результатам изучения в послевоенные годы немецкой «штурмовой винтовки» StG 44 американские военные эксперты посчитали её «оружием, далёким от удовлетворительного» — неудобным, излишне массивным и тяжёлым, с низкой надёжностью, обусловленной легко деформирующейся штампованной из тонкого стального листа ствольной коробкой. Отмечалось, что конструкция оружия создана скорее в расчёте под нужды массового производства, чем из соображения получения образца с высокими тактико-техническими и эксплуатационными свойствами, что, по их мнению, объяснялось тяжёлой для Германии ситуацией на фронтах. Эффективность автоматического огня из StG 44 была признана ими неудовлетворительной, а сам этот режим — излишним для данного оружия ввиду невозможности эффективной стрельбы длинными очередями. При этом отмечались отличная для данного класса точность стрельбы одиночным огнём и простота в обращении с оружием. В качестве образца для сравнения назывался американский карабин М1, причём утверждалось, что он намного совершеннее «штурмгевера»[3].
Тем не менее, следует иметь в виду, что на возникновение такой в целом негативной оценки нового вида оружия в большой степени повлияла тогдашняя американская военная доктрина, признававшая оптимальным пехотным оружием дальнобойную самозарядную винтовку под мощный патрон, дополненную несколькими моделями более лёгких самозарядных карабинов, а также пистолетов-пулемётов в качестве вспомогательного средства для ближнего боя. С этой точки зрения, «штурмовая винтовка» виделась как своего рода неудачный гибрид пистолета-пулемёта и автоматической винтовки, не обладавший ни способностью первого создавать высокую плотность огня на короткой дистанции, ни дальнобойностью последней. Отметив в качестве существенного недостатка «штурмгевера» невозможность ведения эффективного огня длинными очередями, эксперты продемонстрировали недооценку и недостаток понимания роли автоматического оружия такого типа в бою, огонь короткими очередями из которого призван компенсировать неизбежную для стрелка, находящегося в стрессовой ситуации боя, ошибку прицеливания, «накрыв» очередью отдельную цель и тем самым повысив вероятность её поражения хотя бы одной из выпущенных пуль, чего, даже несмотря на сравнительно высокую практическую скорострельность, не позволяло пусть даже идеально точное самозарядное оружие, эффективность которого американскими военными тех лет сильно преувеличивалась. Карабин М1 же, с которым американские эксперты сравнивали «штурмгевер», вообще был сугубо вспомогательным оружием для водителей, артиллеристов, офицеров и так далее, а не основным огневым средством пехоты.
В итоге, можно констатировать факт, что американские специалисты проглядели появление принципиально нового вида пехотного оружия — автомата, мощного огневого средства боя на ближней и средней дистанции, с некоторыми оговорками потенциально способного заменить практически все имевшиеся на тот момент образцы лёгкого стрелкового оружия от пистолета-пулемёта до лёгкого ручного пулемёта, и впоследствии громко заявившего о себе в ходе войны во Вьетнаме.
На вооружении
: применялся вермахтом и СС.
: трофейные Stg44 использовались РККА во время Великой Отечественной войны, позднее экспортировался в страны прокоммунистических режимов (Вьетнам, соцстраны Восточной Европы и др).
: выпускался небольшими партиями[10] на экспорт (главным образом в Бразилию).
:
: закупали автомат и комплектующие у Аргентины. Используется полицией и поныне.
: закупали автомат и комплектующие у Аргентины. Использовался Армией Колумбии и полицией. Применяется и поныне во внутренних конфликтах, как-то многочисленные «нарковойны» и др.
: использовался в конце Второй мировой обеими сторонами и в послевоенные годы[11]
+ Корея:
: некоторое количество образцов состояло на вооружении НФОЮВ[12].
: некоторое количество было передано из СССР, также выпускались упрощенные копии.
Камбоджа: использовался сторонниками Пол Пота, автомат и принадлежности поставлялись, предположительно, Вьетнамом и Советским Союзом.
: стоял на вооружении Национальной народной армии и Народной полиции примерно до 1970-75 гг. Производились патроны и комплектующие.
: стоял на вооружении казарменной полиции примерно до 1970 г. Производились патроны и комплектующие.
: склады в городе Алеппо, на которых находилось около 5 тыс. экземпляров StG 44 были захвачены бойцами антиправительственной оппозиции[13]. Активно использовался как правительственными войсками, так и повстанцами в ходе гражданской войны[14].
: в основном копии турецкого или югославского производства, использовались войсками Саддама Хусейна в Ирано-иракской войне, Кувейтской и во время Иракской войны, несколько партий оружия конфискованы военными США после окончания войны.
: Ирано-иракская война.
: некоторое количество использовалось «лесными братьями».
: использовался партизанами (несколько единиц было захвачено), после войны состоял на вооружении ВДВ Югославской народной армии, выпускался небольшими партиями.[15] Поставлялся на экспорт (в основном на Ближний Восток). Использовался в вооружённых столкновениях в ходе арабо-израильского конфликта.
: выпускался небольшими партиями, состоял на вооружении, также поставлялся на экспорт.
: трофейные Stg44 использовались бойцами сопротивления во время Второй мировой войны. Использовался в ВС Франции до 1965-70 гг. Также применялся Французским Иностранным легионом до середины 1970-х-начала 1980-х гг. (заменён на автомат FAMAS)
: захвачены несколько экземпляров участниками чешского сопротивления[16], позднее состоял на вооружении ВДВ Чехословацкой народной армии[17]. Также производился для нужд армии и полиции до 1960—1965 гг. Поставлялся на экспорт.
Иррегулярные вооружённые формирования по всему миру: различные образцы Stg44 встречаются до сих пор.
StG 44 в кинематографе
Фильм-гротеск «Сказка о Мальчише-Кибальчише» (реж. Е. Шерстобитов, 1964 г.), где автомат был использован в достаточно продолжительном эпизоде атаки «армии буржуинов» (фактически — пародия на вермахт), показанный с примкнутым штыком, но без магазина, и не вызывавший у аудитории никаких ассоциаций.
Кинофильм «Освобождение» (реж. Юрий Озеров, СССР — ГДР — Польша — Италия — Югославия, 1968—1971 гг.) в эпизодах, показывающих взятие Берлина.
Также Stg 44 показан в х/ф «Похищение Савойи», СССР, 1979 г. и «Карпатское золото», Украина, 1991 г.
В художественной кинокартине «Мне было девятнадцать» (Ich war neunzehn), снятом кинематографистами ГДР, с участием известных советских актёров (реж. Конрад Вульф, 1968 г.), автомат StG 44 был впервые показан без купюр, однако сам фильм в советском прокате почти не шёл.
В картине «Бункер» (реж. Оливер Хиршбигель, 2004 г.) StG 44 используется почти всеми солдатами СС. Эпизоды обороны Берлина (с этим автоматом в частности) снимались в Санкт-Петербурге.
В фильмах «Пираты XX века», «Случай в квадрате 36-80», «Похищение Савойи», «Одиночное плавание», «Мираж»[18] Stg 44 «исполняла роль» винтовки M16, для чего StG 44 была несколько переделана, — к ствольной коробке прикреплена характерная ручка для переноски.
В фильме «Четыре танкиста и собака». В последних сериях, во время боёв в Германии, в руках у одного из четырёх танкистов StG-44 (Янек стреляет).
В последней серии фильма «Щит и меч». В сцене освобождения концлагеря фигурирует как StG 44, так и в большом количестве автоматы Калашникова, которые скорее всего имитируют на общих планах StG 44.
В последних сериях фильма «Ставка больше, чем жизнь». В сцене захвата гестапо фигурирует как StG 44, так и в большом количестве автоматы Калашникова, которые скорее всего имитируют на общих планах StG 44.
В фильме «Приключения Вернера Хольта» (Die Abenteuer des Werner Holt), производство ГДР, 1965 г., снятого по одноименному роману Дитера Нолля. Штурмгевер StG 44 фигурирует во многих сценах («суд» Гильберта Вольцова над лейтенантом Венертом и др.).
В фильме «Мост» (Die Brücke), Германия, 2008 г., в конце фильма мальчишки из Гитлерюгенда, оборонявшие мост, угрожают с помощью StG 44 солдатам вермахта, позорно отступающим под натиском американских войск. Также в ходе фильма автомат эпизодически появляется у отступающих солдат вермахта.
В сериале Разведчики. Последний бой основным оружием немцев был именно StG 44.
В фильме «На пути в Берлин» в руках немецкого офицера прототип семейства Mkb.42h с явно переделанным под стрельбу патронами 7,62х39-мм стволом ввиду наличия магазина от автомата Калашникова.
В фильме «Танковая бригада» (ЧССР, 1955 г.) при обороне моста в Праге немецкий солдат ведет огонь из этого автомата.
В болгарском фильме «Восьмой» 1969 года главный герой вооружен StG 44.
В фильме Павла Лунгина «Остров» в сцене пленения Тихона и Анатолия, моряки Кригсмарине почему-то вооружены StG 44, хотя исторически это абсолютно неверно.
В фильме «Батальоны просят огня» (3-я серия) некоторые немецкие солдаты вооружены StG 44.
В фильме «Иди и смотри» (1985) автоматом StG 44 вооружен один из немцев-карателей, уничтожающих белорусскую деревню.
В фильме «Ярость» герой Брэда Питта в качестве личного оружия использует StG 44.
В фильме «Канарис: мастер шпионажа» (1954 г.), на 1:27:27 ч. один из охранников в бункере генерал-фельдмаршала Кейтеля вооружён StG 44.
StG 44 в компьютерных играх
В игре Medal of Honor: Allied Assault главный герой принимает участие в захвате секретных чертежей и образца StG 44, после чего до конца игры может использовать данное оружие.
В игре Medal of Honor: Airborne состоит на вооружение немецких солдат, а также игроку дается возможность прокачки автомата поставив на него сдвоенный магазин и прицел.
В игре Medal of Honor во время прохождения миссии «BASE» можно подобрать StG 44.
В игре Medal of Honor: Underground используется немецкими солдатами, можно подобрать с убитых врагов.
В игре The Saboteur это оружие используется солдатами Вермахта. Также его можно купить на черном рынке.
В игре Day of Defeat: Source целый класс вермахта вооружен StG 44
В играх Call of Duty, Call of Duty: United Offensive, Call of Duty 2 и Call of Duty 3 присутствует это оружие под названием MP 44
В игре Call of Duty 4: Modern Warfare присутствует это оружие под названием MP 44, несмотря на то, что действие игры происходит в XXI веке. В одиночной игре недоступно, есть только в мультиплеере.
В игре Call of Duty: World at War присутствует это оружие под названием StG 44.
В игре Call of Duty: Black Ops присутствует это оружие под названием StG 44. Его можно получить в миссии «Проект „Нова“».
В игре Call of Duty: Black Ops II присутствует это оружие под названием StG 44. Его можно получить в зомби-карте Origins.
В игре Battlefield 1942, StG 44 вооружён один из классов немецкой и японской стороны, несмотря на то, что действие игры происходит, начиная с 1942 года.
В моде Forgotten Hope 2 к игре Battlefield 2, StG 44 находится на вооружении немецких солдат[19].
В игре Wolfenstein присутствует это оружие под названием MP 43, состоит на вооружение СС. Также его можно улучшить на черном рынке.
В игре Silent Storm во всех частях у немецкой стороны присутствует данное оружие, появляется лишь под конец игры, в первой части ошибочно названо STG 43
В игре Enemy Front StG 44 в миссии с фау-2
В игре Brothers in Arms (во всех частях) есть эта винтовка, под названием StG 44 или StG. Её можно найти у солдат вермахта.
В игре Hidden & Dangerous 2 (во всех частях) у немецкой стороны, под названием MP 44
В игре Vietcong 2 у вьетнамской стороны, в первый раз встречается в подвале одной из жилых улиц.
В игре Company of Heroes StG 44 доступна для улучшения штурмовых подразделений Вермахта и мотопехоты Танковой Гвардии.
В игре Commandos: Strike Force в миссии «Танки!» в качестве секрета на немецком складе, больше нигде не встречается.
В игре Red Orchestra 2: Heroes of Stalingrad у элитного штурмовика встречается прототип StG 44 — Mkb.42h, при прокачке оружия можно установить штык и оптический прицел.
В игре Company of Heroes 2 StG 44 используют немецкие панцергренадеры и штурмовые сапёры. Так же, автоматами можно экипировать фольксгренадеров и оберсолдат (последние используют инфракрасную оптику).
В игре Counter-Strike Online. StG 44 присутствует в четырёх модификациях[20].
В серии игр В тылу врага присутствует StG 44.
В игре Killing Floor присутствует под названием Mkb-42
В игре Sniper Elite 3 данный автомат присутствует под названием StG 44.
В игре Heroes&Generals StG 44 доступен немецкой стороне. Можно модифицировать и ставить снайперский прицел.
В оружейном симуляторе-игре «World of Guns:Gun Disassembly» можно ознакомиться с реальным функционированием 3D модели StG 44.
В дополнении к игре Смерть Шпионам — «Момент Истины» присутствует StG 44.
Примечания
Литература
С. В. Иванов. Солдат на фронте № 49. Автомат MP 43/44. Оружие германской пехоты. г. Белорецк, 2005 г. — 64 с.
А. Б. Жук. Стрелковое оружие. Револьверы, пистолеты, винтовки, пистолеты-пулемёты, автоматы. М: Военное издательство, 1992 г. — 707 с.
Попенкер М. Р., Милчев М. Н. Вторая мировая: Война оружейников. М.: Яуза, Эксмо, 2008. — 768 с.
Категория:Автоматы Германии
Категория:Стрелковое оружие Германии периода Второй мировой войны
Категория:Винтовки Второй мировой войны
Категория:Военная продукция Steyr
Категория:Стрелковое оружие Sauer | https://ru.wikipedia.org/wiki/StG%2044 |
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The United Republic of Tanzania (Kiing.)
Jamhuri ya Muungano wa
Tanzania (Kiswahili)
Bendera ya TanzaniaNembo ya Tanzania
Kaulimbiu: Uhuru na UmojaWimbo wa TaifaMungu ibariki AfrikaLugha rasmiKiswahili (kwa dhati)Mji MkuuDodomaMakao ya SerikaliDodomaSerikaliJamhuriRaisJohn Pombe Joseph MagufuliMakamu wa RaisSamia SuluhuWaziri MkuuMajaliwa K. MajaliwaEneokm² 947.303Wakazi51,820,000 [2] (28th) (2014)Wakazi kwa km²47.5UhuruTanganyika kutoka Uingereza 9 Desemba 1961; mapinduzi Zanzibar 12 Januari 1964; muungano Tanganyika na Zanzibar 26 Aprili 1964PesaShilingi ya TanzaniaWakatiUTC+3Dini za wakaziDini asilia za Kiafrika (34.3%), Ukristo (33.5%), Uislamu (31.4%), wengineo (0.8%){{Sensa ya 27 Agosti 1967[1]}}
Tanzania ni nchi iliyoko Afrika ya Mashariki.
Imepakana na Uganda na Kenya upande wa kaskazini, Bahari Hindi upande wa mashariki, Msumbiji, Malawi na Zambia upande wa kusini, Kongo, Burundi na Rwanda upande wa magharibi.
Eneo lina kilometa za mraba 947,303 (nchi ya 31 duniani); maji ya ndani yanachukua asilimia 6.2.
Idadi ya watu kwa mujibu wa sensa ya mwaka 2012 ilikuwa 44,928,923 (nchi ya 30 duniani) kutoka 34,443,603 waliohesabiwa katika sensa ya mwaka 2002.
Msongamano ni wa watu 47.5 kwa km2 (nchi ya 124 duniani).
Tanzania ni nchi kubwa zaidi kati ya wanachama wa Jumuiya ya Afrika ya Mashariki.
Mji mkuu ni Dodoma (wenye wakazi 410,956), lakini rais bado yupo Dar es Salaam, jiji kubwa zaidi, lenye watu zaidi ya milioni 4,364,541.
Miji mingine ni kama vile Mwanza (706,543), Arusha (416,442), Mbeya (385,279), Morogoro (315,866), Tanga (273,332), Kahama (242,208), Tabora (226,999) na Zanzibar (223,033).
Jiografia
Nchi iko katika eneo la Maziwa makubwa ya Afrika, hivyo maziwa yanafunika km2 61,500, yaani 6% za eneo lote la nchi.
Pia ina mito mingi ambayo inaelekeza maji yake katika Bahari ya Hindi mashariki mwa nchi, lakini mingine inachangia Mto Zambezi kupitia Ziwa Nyasa, michache Bahari ya Kati kupitia Ziwa Victoria na mto Naili, mingine tena Bahari Atlantiki kupitia Ziwa Tanganyika na mingine inaishia katika mabonde kama ya Ziwa Rukwa.
Tabia ya nchi ya Tanzania hubadilika kwa nyakati tofautitofauti katika mwaka.
Tanzania hupata majira ya joto katika miezi ya Desemba, Januari na Februari. Hata hivyo kiasi cha joto ni cha juu katika ukanda wa Pwani kuliko katika sehemu za nyanda za juu na milimani. Katika miezi hii jua la utosini huwa kwenye kizio cha kusini, hivyo Tanzania hupata joto zaidi.
Katika miezi ya Juni, Julai na Agosti, kuna hali ya baridi kwa sababu wakati huu jua la utosini huwa katika kizio cha kaskazini.
Mvua za vuli hunyesha katika miezi ya Oktoba, Novemba na Desemba na mvua za masika hunyesha katika miezi ya Machi, Aprili na Mei ingawa zipo tofauti ndogo kati ya sehemu mbalimbali.
Hivyo kiasi cha mvua na halijoto husababisha tofauti za aina ya uoto wa asili, udongo na aina ya mazao yanayolimwa.
Karibu thuluthi moja ya nchi inalindwa kwa namna moja au nyingine: kuna Hifadhi za Taifa 16, mbali ya Hifadhi Teule, Hifadhi za Mawindo, Mapori ya Akiba n.k.
Historia
(Kuhusu historia ya maeneo ya Tanzania kabla ya 1964 angalia makala za Tanganyika, Zanzibar na Afrika ya Mashariki ya Kijerumani)
Jina "Tanzania" limeundwa kutokana na majina ya TANganyika na ZANzibar (pamoja na athira ya jina la kale la "AzanIA").
Nchi hizo mbili zilikuwa zote chini ya utawala wa Uingereza hadi kupata uhuru lakini hazikuwa makoloni ya kawaida.
Zanzibar ilikuwa na hali ya nchi lindwa kutokana na mikataba kati ya masultani wa Zanzibar na Ufalme wa Muungano (Uingereza).
Tanganyika iliwahi kuwa sehemu ya Afrika ya Mashariki ya Kijerumani hadi Vita Kuu ya Kwanza ya Dunia halafu ikawa chini ya Uingereza kama eneo la kudhaminiwa kutokana na azimio la Shirikisho la Mataifa lililoweka Tanganyika katika ngazi "B" ya maeneo ya kudhaminiwa.
Tanganyika na Zanzibar zilikuwa nchi mbili tofauti hadi 1964, zilipoungana na kuwa Jamhuri ya Muungano wa Tanzania. Hapo kiongozi wa Tanganyika Mwalimu Julius Kambarage Nyerere alipata kuwa Rais wa kwanza na kiongozi wa mapinduzi ya Zanzibar Abedi Amani Karume akawa Makamu wa Kwanza wa Rais.
Tanzania, chini ya Rais wa awamu ya pili Ali Hassan Mwinyi (1985-1995) iliruhusu mfumo wa vyama vingi vya siasa Tanzania na kuanza mpango wa kurekebisha uchumi kuendana na masharti ya Benki ya Dunia na Shirika la Fedha Duniani.
Rais wa awamu ya tatu, Benjamin Mkapa (1995-2005) aliendeleza mfumo wa uchumi wa soko huria ambapo mashirika ya umma yanabinafsishwa.
Tarehe 21 Desemba 2005 Jakaya Kikwete aliapishwa kuwa Rais wa nne wa taifa (2005-2015), naye aliendeleza sera za watangulizi wake akitokea chama hichohicho cha CCM.
Tarehe 5 Novemba 2015 aliapishwa rais wa awamu ya tano, John Magufuli (wa CCM vilevile).
Miundo ya muungano
Tangu muungano wa Tanganyika na Zanzibar kufanyika mwaka 1964 Tanzania imekuwa na miundo ifuatayo:
Nchi inatawaliwa na serikali ya muungano ikitekeleza sheria zinazotolewa na bunge la Tanzania.
Tanganyika au Tanzania bara haina serikali wala bunge la pekee.
Zanzibar (visiwa vya Unguja na Pemba) ina serikali na bunge lake vinavyoratibu mambo yasiyo ya muungano.
Mambo yafuatayo yamekubalika kuwa shughuli za muungano:
Mambo ya nje
Jeshi
Polisi
Mamlaka ya dharura
Uraia
Uhamiaji
Biashara ya nje
Utumishi wa umma
Kodi ya mapato, forodha
Bandari, Usafiri wa anga, Posta na Simu
Utawala
Muundo wa uongozi na utawala katika kipindi cha ukoloni ulizingatia mgawanyo wa madaraka baina ya mihimili mitatu ya dola yaani serikali, bunge na mahakama.
Tangu uhuru, mgawanyo wa madaraka na uhusiano miongoni mwa mihimili hiyo uliimarishwa kwa kuzingatia wakati, mahitaji ya demokrasia na misingi ya utawala bora na umeainishwa pia katika katiba ya Jamhuri ya Muungano wa Tanzania Ibara ya 4(1). .
Kuwepo kwa mfumo wa vyama vingi pia kulikuwa hatua ya kuendelea kuimarisha utawala wa ushiriki wa wananchi kadiri mahitaji ya upanuzi wa maono na falsafa duniani.
Ugatuzi, yaani mgawanyo wa kiutawala, unafuata Katiba ya nchi I 2.2. Tanzania imegawiwa kwa mikoa 31. Kila mkoa huwa na wilaya ndani yake. Jumla ya wilaya ni 169, ambazo kati yake 34 ni miji.
Ndani ya wilaya kuna ngazi za tarafa (division) na kata (ward).
Chini ya kata kuna vijiji na wakati mwingine ngazi ya chini tena ambayo ni vitongoji.
Watu
Watu wa Tanzania hawaenei sawasawa. Katika maeneo makavu sana, kwa wastani kuna mtu mmoja tu kwa kilomita ya mraba (1/km²), lakini sehemu zenye rutuba za bara, kuna watu 51 kwa kila kilomita ya mraba. Hatimaye huku Unguja kuna watu 134 kwa kilomita ya mraba na katika Mkoa wa Dar es Salaam ni 3,133 kwa kilomita ya mraba.
Asilimia 70 hivi huishi vijijini.
Makabila
Jamii nyingi za watu zimeishi na kushirikiana katika eneo la Tanzania bara kwa milenia nyingi.
Kati ya jamii hizo, nyingi zilikuja kutoka maeneo mengine ya Afrika.
Nyingi katika jamii zilizohamia sehemu hii ziliingia katika makundi madogomadogo kwa amani, ingawa ziko zilizoingia kwa njia ya uvamizi na vita. Baadhi ya jamii zilizovamiwa zilijihami na kuwazuia wahamiaji wasiendelee kuteka maeneo mengine.
Kufikia mwaka 1884, wakati Wajerumani walipoanza harakati za kufanya sehemu hii ya Afrika kuwa koloni lao, kulikuwa na makabila zaidi ya 120 katika eneo la Tanzania bara.
Kuna makabila 125 hivi. Makabila yenye watu zaidi ya milioni moja ni Wasukuma, Wanyamwezi, Wachaga, Waha, Wagogo, Wahaya, Wajaluo na Wamakonde.
Jambo la pekee kuhusu jamii zilizoishi na zinazoendelea kuishi Tanzania ni kwamba wakazi asili wanawakilisha makundi yote makuu manne ya lugha barani Afrika[2].
1. Idadi kubwa sana ya Watanzania ni wa jamii ya Wabantu (k.m. Wazaramo, Wagogo, Wasukuma, Wahaya, Wachaga, Wapare na Wapogoro).
2. Nje ya hao, kuna Waniloti, kwa mfano Wamasai na Wajaluo ambao wengi wao zaidi wanaishi Kenya.
3. Kundi lingine ni makabila ya Wakushi wanaoishi kaskazini mwa Tanzania; hao ni makabila ya Wairaqw, Wafiome na Wasi.
4. Kuna vikundi viwili vya Wakhoisan wanaofanana na makabila ya Botswana na Namibia; majina yao ni Wasandawe na Waburunge.
Hatimaye kuna Wahadzabe wachache ambao utafiti wa DNA umeonyesha hivi karibuni wana uhusiano wa asili na Watwa wa nchi za Afrika ya Kati.
Pia kuna asilimia ndogo ya watu wenye asili ya nje ya bara la Afrika, kwa mfano Wahindi, Waarabu, Waindochina, Wafarsi, Wachina na Waingereza. Hii ilisababishwa na karne za mchanganyiko wa mahitaji ya biashara yaliyofanywa na mabara ya Ulaya na Asia hapo Afrika.
Lugha
Nchini Tanzania kuna lugha za kikabila zaidi ya mia moja na ishirini, kwa kuwa kila kabila lina lugha yake.
Kiswahili ndiyo lugha ya taifa na inazidi kuwa lugha mama kwa watoto wengi, hasa mijini[3]. Walau asilimia 90 za wakazi wanakitumia walau kama lugha ya pili. Kiswahili ni mojawapo kati ya lugha za Kibantu: hii imesaidia sana kukubaliwa kwa Kiswahili nchini, kwa sababu idadi kubwa ya Watanzania ni wasemaji wa lugha za Kibantu. Kiswahili kinatumika kama lugha baina ya watu wa makabila mbalimbali na kwa mambo rasmi; kwa hiyo ni lugha rasmi ya dhati.
Baada ya uhuru, Kiingereza (iliyokuwa lugha ya kikoloni kabla ya uhuru) iliendelea kutumika kwa mambo kadhaa rasmi na kwa elimu kuanzia sekondari ingawa sera mpya inataka Kiswahili kishike nafasi yake hadi chuo kikuu[4]; kwa hiyo ilichukuliwa kama lugha rasmi ya dhati pamoja na Kiswahili. Lakini utumizi rasmi wa Kiingereza umepungua katika milongo iliyopita, na sasa utumizi huu karibu umekwisha. Kwa hiyo siku hizi ni kawaida zaidi kuchukulia Kiswahili kama lugha rasmi ya dhati pekee.
Sera mpya ya elimu inakusudia kufanya Kiswahili kuwa lugha ya kufundishia katika ngazi zote kufikia mwaka 2024.
Dini
Nchi haina dini rasmi na katiba ya Tanzania inatangaza uhuru wa dini kwa wote. Mara nyingi idadi ya wafuasi wa dini hutajwa kuwa theluthi moja Waislamu, theluthi moja Wakristo na theluthi moja wafuasi wa dini za jadi. Lakini tangu uhuru swali la dini ya wananchi halijaulizwa tena katika sensa, kwa hiyo kadirio la theluthi-theluthi inawezekana ni zaidi azimio la kisiasa.
Kwenye visiwa vya Zanzibar idadi ya Waislamu huaminiwa kuwa takriban 97%.
Usafiri
Usafiri nchini Tanzania ni hasa kwa njia ya barabara. Nyingine ni reli na ndege. Kwenye maziwa makubwa na pwani ya Bahari Hindi kuna pia usafiri wa meli.
Hadi sasa idadi ya barabara za lami si kubwa. Kuna hasa njia nzuri kati ya Dar es Salaam, Mbeya katika kusini-magharibi, Dodoma katika kitovu cha nchi, Arusha / Tanga katika kaskazini-mashariki. Kusini-Mashariki na Magharibi ya nchi kwa jumla haina barabara nzuri na mawasiliano ni magumu.
Mashirika mawili ya reli yanayohudumia Tanzania: ni TRC (Shirika ya Reli Tanzania - Tanzania Railways Corporation) na TAZARA (Tanzania-Zambia Railways Corporation). TRC imetawala reli ya kati kuanzia Dar es Salaam hadi Kigoma halafu reli ya Tanga kati ya Tanga na Arusha. Tazara imeunganisha Dar es Salaam na kusini ya nchi hadi Zambia. Zote hazikutunzwa vizuri na usafiri unakumbwa na huduma mbaya pamoja na ajali.
Huduma kwa ndege zinatumia hasa viwanja vya ndege 11 vyenye barabara ya lami kwa ajili ya ndege, hasa Julius Nyerere/Dar es Salaam, Kilimanjaro /Arusha-Moshi na Zanzibar-Kisauni. Pia kuna viwanja vingine vya ndege kama vile uwanja wa ndege wa Mwanza, Bukoba na Kigoma.
Usafiri wa majini pia unafanyika hasa katika bahari ya Hindi, ingawa hakuna meli ya serikali hapo na mashirika binafsi hutoa huduma. Usafiri wa majini hufanyika pia katika maziwa ya Viktoria, Tanganyika na Nyasa. Miongoni mwa meli ni MV Bukoba iliyozama tarehe 21 Mei 1996 pamoja na abiria karibu 1,000 na MV Nyerere iliyozama tarehe 20 Septemba 2018 pamoja na abiria zaidi ya 200.
Katika ziwa Tanganyika ipo meli ya Mv Liemba ambayo ilianza kutumika tangia kipindi cha ukoloni wa Wajerumani: inatoa huduma kati ya miji ya mwambao wa ziwa Tanganyika na nchi jirani.
Mwaka 2017 ulianza ujenzi wa awamu ya kwanza ya njia ya geji sanifu nchini Tanzania inayolenga kuunganisha Dar es Salaam na Morogoro[5]. Njia hii inatarajiwa kuendelea hadi Mwanza na hatimaye hadi Burundi.
Utamaduni na sanaa
Kati ya wasanii wa Tanzania ni hasa wajume wa ubao na wachoraji waliojulikana kimataifa.
Uchongaji wa mabombwe ya Kimakonde yamesifiwa tangu mwanzo wa karne ya 20. Wamakonde wengi wamehamia Daressalaam au Arusha wanapohudumia soko la watalii na soko la nje.
Tangu miaka ya 1970 uchoraji wa "tingatinga" umejulikana: ulipata jina hilo kutoka kwa Edward Tingatinga naye mtu wa Umakonde.
Utamaduni wa Watanzania ni pamoja na utaraab. Muziki ana nyimbo za kitaraab ndizo muhimu sana kwa nchi nzima, hasa visiwani na pwani. Pia kuna miziki ya Kinyarwanda, dansi kama intore n.k.
Urithi wa Dunia
Mahali pafuatapo katika Tanzania pamepokewa katika orodha ya UNESCO ya "Urithi wa Dunia".
(mwaka wa kukubaliwa - jina la mahali)
1979 – Hifadhi ya Taifa Ngorongoro
1981 – Hifadhi ya Serengeti
1981 – Magofu ya Kilwa Kisiwani na Songo Mnara
1982 – Hifadhi ya Taifa Selous
1987 – Hifadhi ya Taifa Kilimanjaro
2000 – Mji Mkongwe wa Jiji la Zanzibar / Unguja
2006 – Michoro ya Kondoa
Tazama pia
Orodha ya Mawaziri Wakuu wa Tanzania
Orodha ya Mawaziri Wakuu wa Zanzibar
Orodha ya Magavana Wakuu wa Tanganyika
Orodha ya Masultan wa Zanzibar
Mikoa ya Tanzania
Utawala wa Kijiji - Tanzania
Orodha ya nchi kufuatana na wakazi
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na idadi ya watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na msongamano wa watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na pato la taifa
Demografia ya Afrika
Tanbihi
Viungo vya nje
Wikimedia Atlas of Tanzania
at Curlie
from the Business Ani-Corruption Portal
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Jamii:Nchi za Afrika
Jamii:Umoja wa Afrika
Jamii:Jumuiya ya Madola
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Japanin historiaan on vaikuttanut erityisesti maan maantieteellinen sijainti. Saarivaltiona Japani on historiansa aikana onnistunut sulauttamaan ulkopuoliset kulttuurivaikutteet rauhassa osaksi kulttuuriaan. Meri on estänyt mantereelta tulevien valloittajien pääsyn saarille. Japanin sijainti on toisaalta mahdollistanut eristäytymisen ulkomaailmasta: maan historialle luonteenomaisia ovat pitkät eristyneet ajanjaksot ja voimakkaat ulkomaisten vaikutteiden kaudet. Japanin edullinen ilmasto on luonut otolliset olosuhteet suurenkin väestön ylläpitämiselle.
Japanin historia jaetaan yleensä aikakausiin, joiden kesto ja määrä voivat vaihdella ja joilla ei varsinkaan varhaishistoriassa ole välttämättä selkeitä alkamis- ja päättymispäivämääriä. Kaudet voivat myös olla päällekkäisiä, ja niillä on usein lyhyempiä alakausia. Kauden vaihtuminen ei myöskään välttämättä merkitse minkäänlaista äkillistä olosuhteiden muuttumista. Japanissa aikaa on laskettu perinteisesti kiinalaistyyppisin aikakausimerkinnöin (nengō), joiden käyttö alkoi 600-luvulla. Aikaisemmin nengōt vaihtuivat usein, ja niitä onkin useita kymmeniä. Meiji-kaudelta vuodesta 1868 lähtien ne ovat vastanneet keisarien hallituskausia.
Esihistoriallinen Japani
Paleoliittinen kausi
Japanin väestön alkuperä on edelleen jokseenkin epäselvä. Todennäköisimmin Japanin nykyinen väestö on muodostunut osittain Manner-Aasian eri osista ja osittain etelästä mereltä käsin tulleiden muuttoaaltojen seurauksena.[1] Japanin saaret olivat yhteydessä mantereeseen noin 18 000–12 000 vuotta ennen ajanlaskun alkua, jolloin Hokkaidō oli yhteydessä Siperiaan ja Honshū Koreaan. Nykyinen Japaninmeri muodosti näin ollen suuren sisäjärven.[1][2]
Toisen maailmansodan jälkeen Japanista on löydetty tuhansia paleoliittisia kohteita. Tutkimusten perusteella näyttää ilmeiseltä, että Japanissa on ollut asutusta vähintään 30 000 - 50 000 vuotta sitten.[2] Kauden väestö eli keräilemällä ja metsästämällä, ja he käyttivät kivityökaluja. Tältä ajanjaksolta on löytynyt ihmisfossiileja kaikilta Japanin pääsaarilta.[3]
Jōmon-kausi
Mesoliittinen Jōmon-kausi tunnetaan erityisesti keramiikastaan, josta se on saanut nimensä. Kauden keramiikka on mahdollisesti maailman vanhinta, ja keraamisia esineitä alettiin valmistaa noin 12500 vuotta sitten. Astiat koristeltiin nauhamaisilla kuvioilla.[2][4] Koristeaiheet vaihtelivat ja monimutkaistuivat ajan myötä.[2] Astioiden lisäksi kaudella valmistettiin myös mahdollisesti hedelmällisyyttä symboloivia veistoksia, erityisesti naisfiguriineja.[5]
Ravinnoksi käytettiin villieläinten lihaa, sekä meren antimia ja hedelmiä.[2] Jōmon-kulttuuri perustui keräilyyn ja metsästykseen, mutta kauden loppuvaiheilla riisinviljely alkoi levitä mantereelta Kyūshūlle.[6] Aikakauden ihmiset koristautuivat luusta tai simpukankuorista valmistetuilla koruilla.[2] Jōmon-kaudella sai luultavasti alkunsa myös japanin kieli. Japanilaisten esi-isät jakoivat maan ainujen kanssa, jotka joutuivat vähitellen vetäytymään pohjoiseen japanilaisten elinpiirin levittäytyessä.[2] Japanin väkiluvun on arvioitu olleen vuoden 2400 eaa. tienoilla noin 265000, joten maa on jo varhain ollut maailman tiheimmin asutettuja alueita.[4]
Yayoi-kausi
Kulttuurin suurta edistystä merkinnyt Yayoi-kausi ajoitetaan 300-luvusta eaa. noin vuoteen 250 jaa.[3][7] Yayoi-kulttuuri on Jōmonin tavoin tunnettu keramiikastaan, joka oli aiempaa vähemmän koristeltua ja valmistettiin kehittyneemmällä tekniikalla. Kulttuuri syntyi Kyūshūlla, ja levisi sieltä muualle Japaniin.[3] Kiinan kulttuuripiirin laajetessa korealaiset muuttajat toivat kauden aikana Japaniin useita uusia teknologioita, kuten kankaan valmistuksen, riisin märkäviljelyn, pronssin ja myöhemmin raudan käsittelyn ja uudenlaisen keramiikan. Niiden vaikutuksesta Japani alkoi siirtyä metsästäjä-keräilijäyhteiskunnasta maanviljelykulttuuriin.[6][8][7] Ulkopuolinen vaikutus oli kuitenkin Yayoi-kaudella lähinnä materiaalista eikä henkistä.[8]
Yayoi-kaudella Japanin väkiluvun on arveltu olleen noin 600000.[8] Väestön kasvaessa alkoi myös muotoutua yhteiskuntaluokkia. Asukkaat asuivat maatalouskylissä, joiden asumukset oli tehty puusta ja kivestä. Myös viljaa varastoitiin rakennuksiin.[3]
Yayoi-kauden Japanista on saatu tietoa ajan kiinalaisista kronikoista. Han-dynastian kronikassa Hòu hànshūssa Japani mainitaan ensimmäisen kerran nimellä Wa.[9][3] Kronikka kertoo Wan lähettäneen edustuston Kiinaan vuonna 57.[9] Wei-kuningaskunnan aikaiset tekstit Kolmen kuningaskunnan kronikassa kertovat Japanissa 100-luvun lopulla käydystä sisällissodasta, jonka kuningatar Himiko rauhoitti. Hänen kerrotaan hallinneen uskonnollisella auktoriteetillaan yli 30 valtion yhteenliittymää.[9] Kronikka kertoo yksityiskohtaisen reitin Kiinasta Wa-kuningattaren hoviin Yamataissa, joka oli todennäköisesti paikallinen voimakeskus Kyūshūn pohjoisosassa.[9] Yamatain sijainnista ei ole päästy yksimielisyyteen tutkijoiden keskuudessa.[2] Wei-kuningaskunnan kronikan mukaan Japanissa oli suhteellisen kehittynyt luokkayhteiskunta, jossa kansalaiset maksoivat veroja. Osa väestöstä osasi myös luultavimmin lukea ja kirjoittaa, sillä kirjeitä vaihdettiin Wa-valtion ja Kiinan välillä.[9]
Klassinen Japani
Yamato-kausi
Kofun- ja Asuka-kausia nimitetään joskus yhteisesti Yamato-kaudeksi.[10] Kausi on saanut nimensä Japanin keskiosan Yamato-valtiosta, joka sai valtaansa alueen pienemmät hallitsijat mahdollisesti 300-luvun puolivälissä. Korealainen vuonna 414 pystytetty muistomerkki mainitsee Wa-valtiosta vuonna 391 lähetetyn suuren armeijan. Voimannäytteen on oletettu edellyttäneen pitkälle yhdistyneen valtion olemassaoloa.[9] Jotkut ovat liittäneet Yamatoon aiemman Yamatai-valtion, jonka on arveltu tällöin sijainneen Kyūshūn sijaan Keski-Japanissa. Asiasta ei ole kuitenkaan saatu lopullista selvyyttä.[11] Yamaton on esitetty syntyneen joko todennäköisemmin Yayoi-kulttuurin uudesta kehitysvaiheesta tai ulkopuolisen hyökkäyksen seurauksena. Jälkimmäisessä tapauksessa sen hallitsijasuku olisi voinut olla korealaista alkuperää.[11]
Kofun-kausi
Vuosien 300–552 Kofun-kausi on saanut nimensä suurista kofun-hautakummuista, joiden rakentaminen oli aloitettu jo 200-luvulla.[11][12] Kumpujen viereen asetettiin haniwa-veistoksia. Veistokset saattoivat esittää eläimiä, ihmisiä tai erilaisia rakennuksia. Ihmisveistosten vaatetuksesta, haarniskoista ja aseistuksesta on saatu tietoja ajan elinoloista.[13] Suurten hautojen rakentaminen vaati runsaasti työvoimaa, ja niistä suurimman, keisari Nintokun hautakummun rakentaminen on vaaditun työvoiman puolesta verrattavissa Egyptin pyramidien rakentamiseen.[2] Yamato-hallitsijat hallitsivat merkittäviä työvoimaresursseja, minkä hallintaa auttoi maanviljelytekniikoiden kehittyminen. Niiden avulla Yamato-hovi pystyi laajentamaan valtaansa aikaisempaa suuremmalle alueelle.[14]
Yamato-valtion aikana syntyi pohja maan poliittiselle ja yhteiskunnalliselle järjestelmälle.[15] 300-luvun loppuun mennessä Yamato oli vakiintunut kuningaskunta, joka oli yhteydessä Kiinaan ja Koreaan, erityisesti Baekjeen. Korean niemimaan kautta Kiinan korkeakulttuurin tuotteet saapuivat Japaniin. Ulkomaiset oppineet ja maahanmuuttajat toivat maahan teknologiaa, kiinan kirjoitusjärjestelmän ja kungfutselaisuuden.[14] Valtataistelussa Korean niemimaasta Yamato liittoutuikin 300-luvulla eteläkorealaisen Baekjen kanssa. Kiinnostus Korean aluetta kohtaan syntyi ilmeisesti teknologian ja raaka-aineiden, erityisesti raudan tarpeesta.[14]
Yamaton yhteiskunta jakautui kolmeen pääryhmään. Ujit olivat yläluokkaa, jonka on ajateltu syntyneen alkuperäisistä maatalousyhteisöistä. 400-lukuun mennessä uji-ryhmät sitoutuivat Yamaton hallitsijaan taloudellisesti ja uskonnollisesti, ja hallitsija nimitti päälliköt niistä voimakkaimmille. Bet olivat vuorostaan klaanityyppisiä ammattiyhteisöjä, jotka valmistivat esimerkiksi keramiikkaa, kalastivat tai viljelivät riisiä. Alimpana oli yatsuko-ryhmä, palvelijoina toimineet orjat, jotka käsittivät mahdollisesti noin viisi prosenttia japanilaisista.[15]
500-luvulla Yamaton keskusvaltio alkoi taantua, ja valta siirtyi paikallisille klaaneille, joista erityisesti Soga sai vaikutusvaltaa. Samaan aikaan buddhalaisuus levisi Japaniin Baekjesta. Se merkitsi äärettömän merkittävää vaikutusta Japanin korkeakulttuurin syntymiselle ja uutta kautta maan historiassa.[14][16][12]
Asuka-kausi
Buddhalaisuuden saapuminen Japaniin on ajoitettu perinteisesti vuosille 538 tai 552, mutta se oli levinnyt japanilaisten keskuudessa todennäköisesti jo aikaisemmin.[14][17] Alkanutta aikakautta vuoteen 710 saakka kutsutaan usein Asuka-kaudeksi. Se on saanut nimensä Asukan alueesta nykyisen Naran eteläpuolella, josta Yamato-hovi hallitsi.[14]
Kysymys buddhalaisuudesta aiheutti valtataistelun hovin sisälle. Voitolle pääsi uutta uskontoa kannattanut Soga-klaani, joka näki kiinalaistyyppisen hallinnon ja buddhalaisuuden keinoina vahvistaa omaa valtaansa. Klaani hallitsikin käytännössä Japania vuosina 587–645.[18][19] Uutta hallintoa ryhdyttiin toteuttamaan 600-luvun vaihteessa valtionhoitaja Shōtoku Taishin johdolla. Ensimmäiset merkittävät uudistukset olivat vuonna 603 käyttöön otettu hovin arvoasteikko ja vuoden 604 seitsemäntoistakohtainen ”perustuslaki”, joka asetti ensimmäistä kertaa ideaalit valtionhallinnolle ja ihmisten välisille suhteille. Ulkopolitiikassa Shōtoku avasi suhteet Kiinan Sui-dynastiaan. Seuraavan kahden vuosisadan aikana Kiinaan lähetettiin lukuisia edustustoja, jotka saattoivat koostua useasta sadasta hengestä ja joilla oli suuri vaikutus kiinalaisen korkeakulttuurin tuomisessa Japaniin.[18][19][17] Kiinalaisen kulttuurin omaksuminen ja hallinnon uudistaminen nähtiin myöhemmin myös keinona suojautua vahvistuneelta Tang-dynastialta.[20]
Shōtokun kuoleman jälkeen vuonna 622 hovi joutui jälleen valtataistelun kouriin. Vuoden 645 vallankaappauksessa uudistusmieliset prinssi Naka no Ōe ja Nakatomi no Kamatari hävittivät Soga-klaanin. Heidän aloittamissaan Taika-uudistuksissa ryhdyttiin luomaan keskusvaltiota, jota keisari johti absoluuttisena monarkkina, ja otettiin käyttöön kiinalaistyyppinen aikakausimerkintä. Yksityinen maanomistus lakkautettiin, ja maa jaettiin kaikkien tietyn iän saavuttaneiden kesken vastineeksi keskushallinnolle maksetuista veroista.[20][21] Käytännössä maauudistus oli kuitenkin lähinnä kosmeettinen, sillä Japani ei ollut valmis vuosisatojen kuluessa kehittyneeseen kiinalaiseen maanjakojärjestelmään. Uudistukset toteutettiin vähitellen vuosisadan loppupuolen aikana.[22] Ne koottiin säädöskokoelmiksi, jotka toimivat perustana ritsuryō-hallintojärjestelmälle. Se oli Kiinasta omaksuttu järjestelmä, joka määritteli selkeän hallintokoneiston ja verotuskäytännön, ja jakoi kansan kahteen pääryhmään, vapaaseen väestöön ja orjiin, joista jälkimmäiset muodostivat kuitenkin alle kymmenesosan väestöstä.[23][20]
Nara-kausi
Muinaisen uskon mukaan pääkaupunki siirrettiin aina keisarin kuoltua uuteen paikkaan, sillä uskottiin että keisarin kuolema oli saastuttanut paikan. Vuonna 710 pääkaupunki siirrettiin Heijō-kyōhon, nykyiseen Naraan, mistä aikajakso on saanut nimensä.[17][25] Vuoteen 794 kestänyt Nara-kausi merkitsi erityisesti buddhalaisuuden ja taiteiden kukoistusta. Buddhalaisuuden airuena toimi keisari Shōmu, joka määräsi perustettavaksi temppelin jokaiseen provinssiin ja jolla oli keskeinen rooli valtavan Tōdai-jin temppelialueen rakentamisessa pääkaupunkiin. Politiikan ja buddhalaisuuden liitto merkitsi kuitenkin papiston kasvavaa vaikutusvaltaa ja sekaantumista valtion asioihin. Vastaliikkeen johtoon nousi vaikutusvaltaa saanut Fujiwara-suku, joka asetti valtaistuimelle buddhalaisuuteen edeltäjiään penseämmin suhtautuvan keisari Kōninin. Hänen poikansa Kammu siirsi maan pääkaupungin ensin Nagaokaan ja myöhemmin Heianiin, katkaisten hovin siteet entisen pääkaupungin temppeleihin.[20][26][27]
Nara-kausi oli suhteellisen rauhallista aikaa.[28] Kaudella Japanissa oli noin kuusi miljoonaa asukasta, pääkaupungissa asukkaita oli arviolta 100000–200000.[29][30] Taloudellisista vaikeuksista ja maanjakojärjestelmän romahtamisesta huolimatta vauraus kasvoi. Rahan käyttö maksuvälineenä lisääntyi 700-luvun kuluessa, ja ensimmäiset kultakolikot lyötiin vuonna 760.[31] Korealaisten maahanmuutto Japaniin 600-luvun lopulla nopeutti huomattavasti kiinalaisen kulttuurin omaksumista. Muutenkin ulkosuhteet olivat vilkkaat.[32]
700-luvun alussa laadittiin ensimmäiset nykyaikaan säilyneet historiankirjat. Vuonna 712 valmistunut, 600-luvun alkuun saakka ulottuva Kojiki ei ollut hoville mieluinen, mutta vuonna 720 valmistunut Nihonshoki sai osakseen tyytyväisen vastaanoton. Kronikat loivat Japanille ja Japanin hoville myyttisen, vuoteen 660 eaa. ulottuvan historian. Niiden tarkoituksena oli kohottaa keisari-instituution asemaa ja luoda valtiolle kiinalaisen perinteen kaltainen menneisyys.[33]
Vaikka buddhalaisuuden vaikutusvalta lisääntyi, se pysyi Nara-kaudella vielä pääosin eliitin uskontona, eikä sen periaatteita yleisesti ymmärretty.[31] Temppeleissä harjoitettava kirjallinen perinne oli kansanomaista buddhalaisuutta lähempänä uskonnon alkuperäistä muotoa.[34]Toisaalta buddhalainen ajattelu alkoi kuitenkin hivuttautua osaksi japanilaista elämää. Erityisesti buddhalaisuuden ja Japanin perinteisen uskonnon synkretismi alkoi kehittyä. Japanissa buddhalaisuus sai erityisen eklektisen muodon, jossa šintolaiset kamit nähtiin usein Buddhan ilmentyminä. Synkretismi johti siihen, että šintolaisia pyhäkköjä alettiin perustaa buddhalaisiin temppeleihin ja toisin päin.[35]
Heian-kausi
Keisari Kammu siirsi maan pääkaupungin Heian-kyōhon, nykyiseen Kiotoon, vuonna 794. Heian-kaudella Japanin kansallinen kulttuuri kehittyi huomattavasti ja kasvoi itsenäiseksi kiinalaisista esikuvistaan. Viralliset suhteet rappeutuvaan Tang-dynastian Kiinaan lakkautettiin 800-luvun lopussa. Uusi kulttuuri sai jalansijaa kuitenkin varsinaisesti vasta 900-luvulta alkaen.[20][36] Pääkaupungin huippuunsa kehittynyt hovikulttuuri oli huomattavan erillään sitä ympäröivästä maatalousväestöstä ja provinssien todellisuudesta.[37]
Heian-kausi merkitsi myös keisarin vallan vähittäistä heikkenemistä. Keisari Kammu yritti elvyttää ritsuryō-hallintojärjestelmää, jota hän muokkasi ajan vaatimusten mukaisesti ja joka pysyikin muodollisesti voimassa useiden vuosisatojen ajan.[20][38] Maan todellinen tilanne kuitenkin erkani vähitellen ritsuryō-hallinnon ihanteista. Maanjakojärjestelmän toteuttaminen käytännössä osoittautui vaikeaksi. Yksityinen maanomistus lisääntyi, ja Heian-kauden puolivälistä lähtien yksityiset suurtilat eli shōenit onnistuivat pääosin saamaan vapautuksen veroista. Tämä johti keskushallinnon verotulojen heikkenemiseen.[20] Valta alkoi siirtyä paikallisille päälliköille, kun valtion ote provinsseista höltyi eikä se enää kyennyt ylläpitämään lakia ja järjestystä. Vähitellen shōenit kehittyivät läänityksiksi, ja maahan syntyi myöhemmin feodaalinen järjestelmä.[36][37]
Hovissa vaikutusvaltaiseksi nousi Fujiwara-suku, joka onnistui kontrolloimaan sitä huolellisesti suunniteltujen avioliittojen kautta. Käytännössä suku naittoi tyttärensä keisarille, ja suvun jäsenet saivat haltuunsa sesshōn ja kanpakun virat. Sijaishallitsijan eli sesshōn viran otti käyttöön Fujiwara no Yoshifusa 800-luvun puolivälissä, kun valtaistuimelle nousi hänen pojanpoikansa, vain yhdeksänvuotias keisari Seiwa. Neuvonantajan eli kanpakun viran loi Fujiwara no Mototsune vuonna 887 – käytännössä kanpaku toimi jonkinlaisena diktaattorina. Monet keisarit olivat Fujiwarojen huippukautena alaikäisiä, tai heidät pakotettiin eroamaan ennen täysi-ikäisyyttään.[20][38][39][27] Fujiwarojen valta alkoi taantua 1000-luvulla, jolloin keisarit saivatkin valtaansa takaisin insei-luostarikeisarijärjestelmän kautta. Järjestelmässä eronnut keisari hallitsi valtakunnan asioita luostarista käsin. Järjestelmä perustui siihen, että alaikäinen keisari saattoi toimia julkisissa seremoniallisissa tehtävissä, kun todellista valtaa käytti nimellisesti luostariin vetäytynyt aiempi hallitsija.[40][27]
Nara-kauden buddhalaisuus oli perustunut suoraan kiinalaiseen buddhalaisuuteen, mutta Heian-kaudella kehittyi kaksi japanilaisten munkkien perustamaa suuntausta, Tendai ja Shingon.[40][17][41] Lisäksi kauden lopussa 1100-luvulla puhtaan maan buddhalaisuus, Jōdo-shū, muodostui omaksi koulukunnakseen.[17][42] Kulttuurin japanilaistuminen oli nähtävissä erityisesti kirjallisuudessa. Aiemmin japania oli kirjoitettu kiinalaisin merkein, mutta 900-luvulla niistä kehitettiin japanin kielelle sopivammat kana-tavuaakkoset, hiragana ja katakana. Miesten odotettiin yhä käyttävän kirjoittaessaan kiinaa, joten suurin osa Heian-kauden proosakirjallisuudesta on naisten kirjoittamaa. Ajan merkittävimpien teosten joukkoon nousevatkin Murasaki Shikibun Genjin tarina ja Sei Shōnagonin Tyynykirja, jotka kuvaavat elämää Heian-kauden hovissa.[20][43][27][44] Heian-kauden runoutta kerättiin useaan keisarilliseen runoantologiaan, joista ensimmäinen oli Kokin-wakashū vuodelta 905. Aiemmista tyyleistä syntynyt waka-runous kehittyi erottamattomaksi osaksi hovielämää.[40]
Keskushallinnon vallan heikkeneminen johti uuden sotilasluokan, samuraiden, syntymiseen provinsseissa. Samurait toimivat paitsi suurien aatelissukujen myös valtion suojana levottomuuksia vastaan. Vähitellen he saivat valtaa hovissa. Kaksi suurinta samuraisukua olivat Taira- ja Minamoto-klaanit. Fujiwarojen ja hovin sisäiset riidat johtivat vuoden 1156 Hōgen-kapinaan, jossa valta siirtyi ratkaisevasti sotilasluokalle. Heiji-kapinassa kolme vuotta myöhemmin suvut taistelivat toisiaan vastaan, ja voitokkaaksi nousi Taira-klaani. Muutaman vuosikymmenen kuluttua Genpei-sodassa vuonna 1180 Japani joutui ennennäkemättömien taistelujen keskelle. Kamppailu merkitsi myös käännekohtaa Japanin historiassa, kun sen voittaja, Minamoto no Yoritomo, perusti shōgunaatin eli bakufu-sotilashallituksen Kamakuraan. Bakufu oli vallassa eri muodoissa aina vuoteen 1868 saakka.[40][45][46][27]
Feodaalinen Japani
Kamakura-kausi
Genpei-sodan jälkeen Yoritomon ja hänen veljensä Minamoto no Yoshitsunen välinen taistelu jatkui vielä vuoteen 1189 saakka, jolloin Yoritomo tuhosi veljeään suojelleen pohjoisen Fujiwara-suvun. Kolme vuotta myöhemmin Yoritomo sai keisarilta shōgunin arvonimen, korkeimman sotilaalle myönnettävän arvon, josta tuli myöhemmin bakufu-sotilashallituksen johtajan nimitys. Aivan täydellistä sotilashallintoa Kamakura-kaudella ei kuitenkaan saavutettu, vaan nimellisesti maata hallitsivat yhdessä Kioton siviiliaristokratia ja Kamakuran sotilashallitus. Vanhat Heian-kauden instituutiot säilyivät Kamakura-kaudella, ja vasta myöhemmin ne korvattiin uusilla feodaalirakenteilla.[47][48] Yoritomon kuoleman jälkeen vuonna 1199 todellinen valta siirtyi Hōjō-klaanille, jonka jäsenet toimivat shōgunien sijaishallitsijoina vuoteen 1333 asti.[47][49]
Kamakuran sotilashallitus ja keisarillinen hovi ajautuivat pian valtataisteluun. Vuonna 1221 keisari Go-Toba yritti kaataa sotilashallituksen Jōkyū-kapinassa, mutta hänet karkotettiin Kiotosta. Vaikka bakufu toi joukkonsa Kiotoon, sillä oli suuria vaikeuksia järjestyksen ylläpitämisessä. Tuhansia Go-Tobaa tukeneiden aristokraattien ja sotilaiden tiloja annettiin hallituksen vasalleille, ja bakufun valta ulottui nyt koko maahan.[20][50]
Bakufu toimi suhteellisen puolueettomasti ja tehokkaasti pitäessään yllä järjestystä; ensimmäisen kerran uusi feodaalioikeus koottiin yksiin kansiin Jōei shikimoku -kokoelmaan vuonna 1232. Sosiaalisista kriiseistä ja mullistuksista huolimatta bakufun luomalla vakaudella oli merkittävä vaikutus maan talouteen. Tavaroiden vaihto alueiden välillä lisääntyi, ja rahan käyttö yleistyi jälleen. Eri alojen käsityöläiset ja kauppiaat alkoivat muodostaa kiltoja (), ja provinsseihin syntyi nyt ensimmäistä kertaa esimerkiksi paperin tai metallin valmistukseen erikoistuneita keskuksia. Maanviljelyn käytössä oleva maa-alue kasvoi nopeasti. Feodaalinen talous alkoi muodostua Kamakura-kaudella, mutta Japani oli edelleen kaukana täydellisestä feodaaliyhteiskunnasta. Aristokratialla ja temppeleillä oli valtavia julkisia shōeneita hallussaan, kun taas sotilasmaanomistajat elivät kylissä ja saattoivat itsekin viljellä maata.[51][47]
Ajan katastrofit, nälänhädät, luonnononnettomuudet ja sota yhdessä buddhalaisuuden lopun aikojen (mappō) odotuksen kanssa tekivät puhtaan maan buddhalaisuuden suosituksi. Toisin kuin aiemmat tavalliselle japanilaiselle vaikeasti ymmärrettävät buddhalaiset suuntaukset, se tarjosi valaistumista yksinkertaisella uskolla Amida-buddhaan. Toinen uusi koulukunta oli munkki Nichirenin perustama Nichiren-buddhalaisuus, joka oli ristiriidassa Japanin uskonnollisen perinteen kanssa suhtautumalla jyrkästi muihin suuntauksiin. Merkittävin Kamakura-kaudella yleistynyt buddhalaisuuden muoto oli kuitenkin zen, jolla on ollut erityisen syvä vaikutus japanilaiseen taiteeseen, ajatteluun ja estetiikkaan. Se vetosi erityisesti samuraihin.[51][52][47]
1200-luvun alussa mongolit olivat ulottaneet valtakuntansa Kiinaan ja Koreaan. Kublai-kaani halusi nyt saada myös Japanin hallintaansa. Marraskuussa 1274 mahdollisesti muutaman kymmenen tuhannen mongolin ja korealaisen sotilaan muodostama armeija rantautui Kyūshūlle Hakatanlahdelta ja miehitti osan Hizenin provinssia. Yllättävä taifuuni kuitenkin upotti kaksisataa hyökkääjien laivaa, ja myrskystä selviytyneet joutuivat vetäytymään takaisin Koreaan. Bakufu aloitti nyt valmistautumisen seuraavaan hyökkäykseen vahvistamalla rannikon puolustusjärjestelyitä. Seuraava hyökkäys vuonna 1281 oli aikaisempaa huomattavasti suurempi. Se koostui 4400 laivasta ja noin 140000 sotilaasta, jotka muodostivat kaksi armeijaa. Ensimmäinen, Koreasta saapunut laivasto rantautui jälleen Hakatanlahdelta, mutta japanilaiset onnistuivat estämään sen etenemisen useiden viikkojen ajaksi. Toisen laivaston saapuessa taifuuni nousi jälleen ja tuhosi lähes koko hyökkäävän laivaston. Myrskyjä alettiin myöhemmin kutsua nimellä kamikaze ().[53][47][27][54][55]
Hyökkäyksen uhka ei kuitenkaan väistynyt. Jatkuva valmistautuminen sotaan söi pahasti hallituksen taloudellisia resursseja ja heikensi sen vakautta. Maataloustuotanto laski erityisesti Kyūshūlla, ja hallitus oli kyvytön korvaamaan vasalliensa kokemia menetyksiä.[53][47] Hallitsemattomien talousmuutosten sekä Hōjō-klaanin ja kilpailevien sotilaskuvernöörien välisten kiistojen vuoksi bakufu alkoi huojua. Sen heikkous antoi Kioton hoville uuden tilaisuuden tavoitella menettämäänsä valtaa takaisin, mutta hovi oli kuitenkin jakautunut kahteen toistensa kanssa kilpailevaan linjaan. Vuonna 1318 nuoremmasta haarasta keisariksi nousi Go-Daigo.[56][54]
Muromachi-kausi
Vuonna 1331 bakufu karkotti keisari Go-Daigon Okisaarille Japaninmerelle. Kioton alueen paikalliset johtajat kokosivat kuitenkin munkkien tukemina armeijan vastustamaan bakufua, ja Go-Daigo palasi vuonna 1333 aloittamaan uutta vallankaappausta. Sotilashallitus kaatui Hōjō-klaanin tyytymättömien vasallien, Ashikaga Takaujin ja Nitta Yoshisadan tuella, ja Go-Daigo otti nyt tehtäväkseen keisarillisen vallan palauttamisen niin kutsutussa Kemmu-restauraatiossa. Monet keisarin entiset liittolaiset eivät kuitenkaan olleet tyytyväisiä hänen toimiinsa. Vuonna 1336 Takauji kääntyi Go-Daigoa vastaan ja kruunasi keisarin kilpailevasta vanhemmasta sukuhaarasta, jolloin Go-Daigo joutui pakenemaan seuraajineen etelään Naran lähelle, jonne hän pystytti kilpailevan hovin. Seuraavaa 60 vuotta on kutsuttu Nanboku-chō-kaudeksi, eteläisen ja pohjoisen hovin kaudeksi. Se päättyi vasta vuonna 1392 vallanperimyksen jäädessä pohjoiselle hoville.[56][57][58][59][60]
Muromachi-kausi on saanut nimensä Kioton Muromachin kaupunginosasta, jonne Ashikaga Takaujin perustama uusi shōgunaatti siirrettiin vuonna 1378.[56][58] Uusi bakufu peri edeltäjänsä rakenteen lähes sellaisenaan. Keskeisin ero oli shugojen eli ”konstaapelien” rooli Ashikagojen hallinnossa: monet shugot saivat huomattavan paljon valtaa hallitsemissaan provinsseissa, ja bakufu rakentuikin käytännössä Ashikaga-shōgunien ja suurimpien shugo-sukujen herkän tasapainon varaan. Uusi hallinto oli kuitenkin huomattavasti edeltäjäänsä heikompi, ja se alkoi menettää vähäistäkin valtaansa shugojen voimistumisen sekä lukuisten samuraiden ja maanviljelijöiden aloittamien kapinoiden myötä. Muromachi-kauden poliittiseen sekasortoon vaikutti myös keisarillisen hovin rappiotila: 1400-luvulla hovi oli köyhtynyt niin, että keisari Go-Tsuchimikadoa ei voitu haudata hautajaisvarojen puutteen vuoksi. Bakufu oli maan ainoa koossa pitävä voima.[56][61]
Muromachi-kausi merkitsi lähes jatkuvaa sisällissotaa. Suurin osa kahakoista oli kuitenkin pienimuotoisia ja paikallisia, ja kauppa ja kulttuuri kehittyivät huomattavasti poliittisesta epätasapainosta huolimatta. Maataloustuotanto kasvoi, ja Heian-kauden maaorjat pääosin vapautuivat ja ryhtyivät pienviljelijöiksi. Viralliset kauppayhteydet Kiinaan solmittiin uudelleen, vaikka japanilaiset merirosvot (wakō) häiritsivätkin kiinalaisten kauppaa. Suhteet ulkomaihin olivat huomattavan vilkkaat, ja japanilaiset kauppiaat levittäytyivät aina Kaakkois-Aasiaan saakka, jonne syntyi japanilaisia kaupunkiyhteisöjä (nihonmachi). Sisäkaupan kehittymiselle ratkaisevaa oli liikennereittien paraneminen, ja uusia kaupunkeja syntyi satamiin ja muihin solmukohtiin.[62][56][63][64]
Kauden uusi sotilaskulttuuri kehittyi erityisesti yhteydessä zen-buddhalaisuuteen. Kulttuurin kukoistukseen vaikutti keskeisesti shōgunien, esimerkiksi Ashikaga Yoshimitsun ja Yoshimasan, aktiivinen tuki. Kaudella kehittyi useita nykyäänkin arvostettuja japanilaisia kulttuuri-instituutioita, kuten ikebana, teeseremonia, zen-puutarhataide ja kukoistanut nō-teatteri sekä sen välissä esitettävät humoristiset kyōgen-näytelmät. Tee oli ollut suosittu juoma jo Kamakura-kaudella, mutta zenin kautta se sai uudenlaisen henkisen merkityksen teeseremonian kautta. Kaupunkien kauppiaiden ja käsityöläisten vaurastuessa uudet taidemuodot levisivät myös tavallisen kansan keskuuteen. Kirjallisuudessa suosituksi tuli renga-ketjurunous, mutta myös esimerkiksi rakkaudesta ja seksistä kertovat kouta-laulut yleistyivät. Sadut saivat suosiota niin yläluokan kuin tavallisenkin kansan lasten keskuudessa. Maalaustaide sai myös vaikutteita zenistä: yksivärinen suiboku-mustemaalaus tuotiin Kiinasta Japaniin. Yksi merkittävimmistä japanilaisista maalaustaiteen koulukunnista, Kanō-koulukunta, sai alkunsa Muromachi-kaudella.[56][65][58][64]
Sengoku-kausi ja yhteys eurooppalaisiin
Pääartikkelit: Sengoku-kausi ja Nanban-kaupan kausi
Vuonna 1467 syttyi Ōnin-sota, valtaannousukiistasta ja taloudellisista vaikeuksista alkanut sisällissota. Aluksi taistelut rajoittuivat Kiotoon ja sen ympäristöön, jossa tuhot olivat vakavia. Itse sota päättyi vuonna 1477 ilman minkäänlaista ratkaisua, mutta taistelut jatkuivat yhä pääkaupungissa ja levisivät nyt myös muualle Japaniin. Ōnin-sodasta alkanutta sadan vuoden sotaista kautta on kutsuttu Sengoku-kaudeksi, sotivien valtioiden kaudeksi. Paikallisten johtajien valta kasvoi huomattavasti. Taistelujen aiheuttamien maaseutukapinoiden yhteydessä monet niiden samuraijohtajista nousivat lääninherroiksi haastaen paikalliset shugot. Aiemmat shugot hävisivätkin lähes kokonaan uusien lääninherrojen, daimioiden, otettua heidän paikkansa. Bakufun poliittinen valta supistui olemattomiin ja siirtyi käytännössä Hosokawa-klaanille. 1500-luvun ensimmäisellä puoliskolla daimioiden hallitsemat provinssit olivatkin käytännössä täysin irti shōgunin hallinnasta.[56][66]
Ensimmäiset eurooppalaiset, Kyūshūn eteläpuolen Tanegashimalle haaksirikkoutuneet portugalilaiset, saapuivat sisällissotaa käyvään Japaniin vuonna 1543. Heidät otettiin hyvin vastaan, ja heidän tuomansa musketit, joista valmistettiin kopioita, mullistivat nopeasti sodankäynnin Japanissa. Vähitellen säännöllinen kauppa Japanista Portugaliin alkoi kehittyä. Portugalilaisilta karakeilta, joita japanilaiset kutsuivat ”mustiksi laivoiksi” (kurofune), kesti kaksi tai kolme vuotta päästä Portugalista Japaniin.[67]
Ensimmäinen jesuiittalähetyssaarnaaja, Francisco Xavier, saapui Kagoshimaan vuonna 1549. Xavier viipyi maassa vain kahden vuoden ajan, mutta hänen jälkeensä jesuiittoja saapui maahan jatkuvasti. Jesuiitat kohtasivat useita vaikeuksia: buddhalaisuuden tuomitseminen idolatriaksi raivostutti buddhalaiset munkit, šintolaisten kamien hyljeksintä oli ristiriidassa buddhalaisen suvaitsevaisen suhtautumisen kanssa ja samurait, joilla oli sekä hetero- että homoseksuaalisia suhteita, suuttuivat jesuiittojen hyökkäyksistä homoseksuaalisuutta vastaan. Lähetyssaarnaajat käyttivät kauppaa apunaan kristinuskon levittämisessä: ulkomaankaupasta ja uudesta aseteknologiasta hyötyvät daimiot suhtautuivatkin uskontoon myönteisesti, ja jotkut heistä myös kääntyivät kristityiksi. Kristinusko houkutti myös maalaisväestöä, osittain jesuiittojen harjoittaman sosiaalisen työn vuoksi. Vuonna 1582 Alessandro Valignano raportoikin Japanissa olevan jo noin 150000 kristittyä ja 200 kirkkoa.[66][68][69][70]
Azuchi-Momoyama-kausi
1500-luvun lopulla kolmen daimion, Oda Nobunagan, Toyotomi Hideyoshin ja Tokugawa Ieyasun toimet johtivat Japanin asteittaiseen jälleenyhdistymiseen. Erään vertauskuvan mukaan Nobunaga louhi uuden Japanin kivet, Hideyoshi hioi ne ja Ieyasu asetti ne paikalleen. Pääosin Nobunagan ja Hideyoshin valtakautta vuosina 1573–1600 tai 1603 kutsutaan Azuchi-Momoyama-kaudeksi daimioiden hallintolinnojen, Azuchin linnan ja Momoyaman linnan mukaan.[71][72][69]
Sengoku-kauden daimioiden välisissä taisteluissa vaikutusvaltaiseksi nousi vähitellen Oda Nobunaga. Hän oli rohkea, joskin huomattavan julma opportunisti ja ensimmäinen menestyksekkäästi eurooppalaisten tuomia tuliaseita taisteluissa käyttänyt daimio.[73] Vuonna 1573 hän syöksi vallasta shōgunin ja auttoi valtaan viimeisen Ashikaga-hallitsijan Yoshiakin. Tämä yritti kuitenkin olla muutakin kuin pelkkä nukkehallitsija, jolloin Nobunaga syöksi hänet vallasta ja Ashikaga-shōgunaatin aika päättyi. Osoitus Nobunagan armottomuudesta on häntä vastustaneen kolmen tuhannen Hieivuoren munkin joukkomurha vuonna 1571. Nobunagan kohtaloksi koituivat hänet oma kapinoiva kenraalinsa Akechi Mitsuhide vuonna 1582. Kun Nobunaga oli matkalla maan länsiosaan kukistamaan puhjenneita levottomuuksia, hän pysähtyi Kiotossa Honnō-jin temppeliin, missä hän joutui Mitsuhiden joukkojen saartamaksi. Kamppailun jälkeen Nobunaga päätti päivänsä tekemällä itsemurhan viiltämällä vatsansa auki. Nobunaga ei ehtinyt saavuttaa tavoitettaan yhtenäisestä Japanista.[74][69]
Nobunagan tehtävää jatkoi yksi hänen voimakkaimmista komentajistaan, Toyotomi Hideyoshi. Hän voitti nopeasti useita kilpailijoitaan. Vuonna 1587 hän keräsi valtavan 200000 hengen armeijan kapinoivaa Satsuman aluetta vastaan Kyūshūlla ja palasi voitokkaana Kiotoon, jossa muut feodaaliherrat vannoivat uskollisuuttaan Hideyoshille ja keisarille. Kolme vuotta myöhemmin hän oli saanut koko Japanin hallintaansa. Hideyoshin politiikan keskiössä oli kansan sitominen yhteiskuntaluokkiinsa, missä tärkeintä oli sotilaiden ja maanviljelijöiden tiukka erottaminen toisistaan. Tehtävässä auttoivat laaja maaselvitys, väestönlaskenta ja talonpoikien riisuminen aseista niin sanotussa ”miekkajahdissa” vuonna 1588. Aikaisemmat Sengoku-kauden tasa-arvoiset liittoumat daimioiden välillä korvautuivat selkeämmällä feodaalisella hallitsija-vasalli-suhteella.[75][73][76][69][72]
Hideyoshin feodaalihallinnolla ei kuitenkaan ollut riittävästi maata hallussaan Japanin lopulliseksi yhdistämiseksi. Hallinnon sisäiset ongelmat ja Hideyoshin suuruudenhulluus ajoivat hänet tavoittelemaan Kiinan valtausta, jonka hän aloitti hyökkäämällä Koreaan vuonna 1592. Valtaus sujui aluksi hyvin, ja japanilaiset etenivät Pjongjangiin asti vallattuaan Soulin jo samana vuonna, mutta korealaisten vastarinta pakotti joukot asteittain vetäytymään. Vuonna 1597 Hideyoshi aloitti 100000 miehen voimin uuden hyökkäyksen. Hän kuitenkin kuoli seuraavana vuonna, joten uusikin hyökkäys epäonnistui. Vallan sai käsiinsä maan voimakkaimmaksi daimioksi noussut Tokugawa Ieyasu. Hideyoshin invaasiot olivat Japanin laajentumisen kannalta hyödyttömiä ja aiheuttivat maiden välille pysyvän vihamielisyyden. Paradoksaalisesti ne toivat Japaniin lukuisia korealaisia käsityöläisiä, joilla oli huomattava vaikutus erityisesti japanilaiseen keramiikkaan.[77][73][69][72]
Azuchi-Momoyama-kausi muistetaan erityisesti linnojen aikakautena. Nobunaga ja Hideyoshi korostivat saavutuksiaan mahtavilla hallintopalatseillaan, jotka tunnetaan erityisesti loisteliaista fusuma-ovista ja Kanō-koulukunnan suurista ja rikasvärisistä seinämaalauksista. Ne muodostavat vastakohdan Muromachi-kauden maalaustaiteen yksivärisyydelle. Myös teeseremonia eli kultakauttaan mestari Sen no Rikyūn johdolla.[73][69]
Nanban-kauppa länsimaihin ja kristinuskon leviäminen jatkuivat Azuchi-Momoyama-kaudella. Runsaimmillaan 1600-luvun alussa Japanin noin 20–25 miljoonan hengen suuruisesta väestöstä yli puoli miljoonaa oli kristittyjä, suhteessa enemmän kuin nykyään. Nobunaga suosi kristinuskoa taistellessaan buddhalaisia munkkeja vastaan, ja myös Hideyoshi suhtautui aluksi kristittyihin myönteisesti. Hän kuitenkin muutti linjaansa ja antoi ensimmäiset kristinuskoa vastustavat säädökset vuonna 1587. Kymmenen vuotta myöhemmin hän teloitutti 26 fransiskaania ja kristittyä japanilaista, mutta varsinaiset sortotoimet alkoivat kuitenkin vasta myöhemmin 1600-luvulla. Kun katolilaisiin nyrpeästi suhtautuneet hollantilaiset ja britit aloittivat kaupan Japaniin 1600-luvun alussa, japanilaisten ei enää tarvinnut pelätä kaupan katkeamista uskonnollisista syistä.[78][79]
Edo-kausi
Uusi bakufu ja sulkeutuminen
Hideyoshin kuoleman jälkeen Ieyasu ja häntä vastustavat daimiot ottivat yhteen Sekigaharan taistelussa vuonna 1600. Ehkä Japanin merkittävimmän sisäisen taistelun voittajaksi nousi Ieyasu, joka perusti vuonna 1603 uuden bakufun Edoon, nykyiseen Tokioon. Otettuaan shōgunin arvonimen hän syöksi vallasta tai siirsi uusille alueille lukuisia häntä vastustaneita daimioita, joiden maat takavarikoitiin Tokugawa-suvulle. Lopullisesti Tokugawa-shōgunaatin vastustajat kukistuivat vuonna 1615, kun Ieyasu voitti Osakan linnan piirityksessä Hideyoshin pojan Hideyorin. Shōgunin asemasta hän luopui poikansa hyväksi jo vuonna 1605, mutta piti kuitenkin vallan käsissään kuolemaansa saakka vuonna 1616.[80][81][82][69]
Ieyasun seuraajien aikana uusi hallintojärjestelmä sai lopullisen muotonsa. Tärkeimmät kaupungit ja kaivokset otettiin bakufun suoraan hallintaan. Daimioiden uskollisuus varmistettiin paitsi tehokkaalla tiedustelutoiminnalla myös niin kutsutulla sankin kōtai -järjestelmällä, jossa daimiot velvoitettiin asumaan kausittain Edossa heidän vaimojensa ja lapsiensa jäädessä kaupunkiin pysyvästi panttivangeiksi. Daimioiden täytyi myös avustaa julkisissa rakennushankkeissa. Matkat Edoon, runsaat lahjat shōgunille ja rakennustyö varmistivat, että daimiot eivät rikastuisi liikaa. Myös maatalousväestön hallintaa tehostettiin. Talonpoikia kiellettiin vaihtamasta ammattiaan tai myymästä maataan, ja kylien asukkaita vaadittiin muodostamaan yhteisvastuullisia gonin-gumi-ryhmiä ().[80][83]
Ieyasu suhtautui aluksi kristittyihin myöntyväisesti, ja rohkaisi kauppaa eurooppalaisten kanssa voittojen toivossa. Japanilaiset ymmärsivät nyt kuitenkin voivansa jatkaa ulkomaankauppaa ilman portugalilaisten monopoliakin. Alankomaalaiset ja britit ruokkivat japanilaisten epäilyjä katolilaisten valloituspyrkimyksistä – Ieyasu pelkäsi myös kristittyjen tukevan Toyotomi Hideyoria ennen tämän kukistumista Osakassa. Ensimmäiset kristinuskon kieltävät lait annettiin vuosina 1612 ja 1614, ja seuraavan kahden vuosikymmenen aikana vainot kristittyjä kohtaan asteittain lisääntyivät. Vuonna 1630 kiellettiin kaikki kristinuskoon viittaava kirjallisuus. Tokugawa Iemitsun aikana japanilaisia kiellettiin matkustamasta ulkomaille kuolemanrangaistuksen uhalla, ja kaikkien kansalaisten vaadittiin rekisteröityvän buddhalaisiin temppeleihin. Lopulta vuonna 1637 veroja ja sortotoimia vastustavat talonpojat ja kristityt nousivat paikallista daimiotaan vastaan Shimabaran kapinassa. Viiden kuukauden vastarinnan jälkeen bakufu murskasi kapinan julmasti pommituksiin liittyneen alankomaalaisen laivan avustuksella. Japanin ulkomaailmasta eristäneet sakoku-lait valmistuivat vuonna 1639, kun portugalilaisten laivojen pääsy maahan kiellettiin.[84][80][69][85]
Muutamassa vuosikymmenessä Sengoku-kauden halu laajentua ulkomaille oli vaihtunut lähes täydelliseen eristäytymiseen. Vuoden 1639 jälkeen ulkomaankauppa sallittiin vain kiinalaisille ja alankomaisille, joiden toiminta rajoitettiin keinotekoiselle Dejiman saarelle Nagasakissa. Toisaalta eristäytyminen mahdollisti omaperäisen kulttuurin kehittymisen ja 250 vuotta kestäneen rauhan kauden, toisaalta se taas loi sisäänpäin kääntyneen ja jäykän, vanhanaikaisen feodaalihallinnon. Eristäytyminenkin oli kuitenkin suhteellista: ulkomaiset vaikutteet siivilöityivät Japaniin hollantilaisten kautta, lähikauppa korealaisten ja ryūkyūlaisten kanssa jatkui ja esimerkiksi 1600-luvulla Japani oli maailman suurin hopean viejä. Myös kristinuskon harjoittaminen jatkui piilossa pienissä yhteisöissä yli 200 vuoden ajan, kunnes ne tulivat julkisuuteen 1860-luvulla.[80][86][87]
Yhteiskunta, talous ja koulutus
1600-luvun loppupuoleen mennessä Edo-kauden bakuhan-järjestelmä (yhdyssana bakufusta ja daimion hallitsemasta alueesta, hanista) oli vakiintunut. Japanilainen yhteiskunta jaettiin tiukasti neljään luokkaan, samuraihin, maanviljelijöihin, käsityöläisiin ja kauppiaisiin. Luokkien ulkopuolelle jäivät lisäksi etat, jotka suorittivat ”epäpuhtaina” pidettyjä töitä, hininit eli ”ei-ihmiset”, jotka olivat pakkotöitä tekeviä kerjäläisiä mutta myös esimerkiksi näyttelijöitä, ja joitakin pieniä ryhmiä, kuten lääkärit ja hoviväki. Liike luokkien välillä oli vähäistä. Jyrkin ero oli samuraiden, jotka muodostivat noin seitsemän prosenttia väestöstä, ja muiden luokkien välillä. Pitkällä rauhankaudella samurailla ei ollut todellista tehtävää: luokka alkoi kiinnittää yhä enemmän huomiota itseensä ja menneisyyteensä, ja kehittyi myyttinen käyttäytymisihanne, bushidō. Samuraiden keskuudessa naisten asema oli kaikista huonoin, ja patriarkaalisen yhteiskunnan vahvistuessa se yleisestikin huononi Edo-kaudella. Isännättömät ja työttömät samurait, rōninit, muodostivat sosiaalisen ongelman koko Edo-kauden ajan.[83][80][88]
Virallisen ideologiansa bakufu sai kiinalaisesta Zhū Xīn kehittämästä uuskungfutselaisuudesta. Järjestystä ja uskollisuutta painottanut, konservatiivinen ideologia sopi täydellisesti feodaalihallinnon tarpeisiin – toisin kuin esimerkiksi pikemminkin tuonpuoleisesta huolehtinut buddhalaisuus. Tästä huolimatta ideologia sai myös kritiikkiä osakseen, ja maahan syntyi erilaisia tulkintoja kungfutselaisista opeista. Edo-kauden lopulla painotettiin aiempaa enemmän kungfutselaisuuden ja šintolaisuuden synteesiä, mikä johti shōgunien näkemiseen keisarillisen vallan anastajina. Synteesi sai myös aikaan kiinnostuksen klassiseen japanilaiseen kulttuuriin, jonka tutkimusta alettiin nimittää kokugakuksi, kansalliseksi opiksi. Koulutus perustui Edo-kaudella erityisesti kungfutselaisuuteen, jonka opit iskostuivat kaikkien yhteiskuntaluokkien ajatteluun. Tietoisuus itsestä ja ympäröivästä todellisuudesta lisääntyi kauden aikana huomattavasti: kauden lopussa noin 15 prosenttia naisista ja 40–50 prosenttia miehistä osasi lukea. Koulutuksen leviämistä tavallisen kansan keskuuteen auttoivat temppelikoulut (terakoya).[89][80][90]
Bakufun luoma rauhantila sai 1600-luvulla aikaan talouskasvua, jonka keskeisin tekijä oli maan yhdistyminen yhdeksi talousalueeksi. Kauppa lisääntyi ja johti laajamittaiseen kaupungistumiseen. Kaupan ja talouden kasvua auttoi myös liikenneyhteyksien paraneminen, jota siivittivät daimioiden yritykset ja sankin kōtai -järjestelmän lisäämä liikkuvuus. Myös maatalousväestön elintaso vähitellen nousi. Kauppiasluokka, joka oli määritelty yhteiskunnan alimmaksi luokaksi, vaurastui nyt huomattavasti. 1700-luvun alussa Edossa oli sotilaat mukaan luettuna yli miljoona asukasta, joten se kuului maailman suurimpiin kaupunkeihin. Seuraavaksi suurimmat kaupungit olivat uskonto- ja kulttuurikeskus Kioto noin 400000 asukkaallaan ja hieman pienempi kauppakaupunki Osaka.[91][80][92]
1700-luvulla bakuhan-järjestelmä alkoi osoittaa heikkenemisen merkkejä. Japanin talouden ytimen muodosti edelleen maatalous, josta valtio sai pääosan verotuloistaan. Kaupungistumisen vuoksi sen tuottavuutta piti jatkuvasti kasvattaa. Japani oli täysin riippuvainen maassa kasvatetusta riisistä, jonka hinta saattoi vaihdella huomattavasti. Joskus sadon epäonnistuessa hinta kohosi niin korkeaksi, että seurauksena oli nälänhätä. Kiinteillä tuloilla elävä sotilasluokka köyhtyi. Rahatalouden levitessä maaseudulle tuloerot kasvoivat, ja ennen pitkää maaseudun epäkohdat johtivat jatkuviin levottomuuksiin. Edo-kauden jälkipuoliskolla järjestelmää yritettiinkin uudistaa useita kertoja: ensimmäiseksi Kyōhō-uudistuksissa 1700-luvun alkupuoliskolla, Kansei-uudistuksissa 1700-luvun lopulla ja viimeiseksi Tenpō-uudistuksissa 1830-luvulla. Osa uudistuksista helpotti maan taloustilannetta väliaikaisesti, mutta 1800-luvulle tultaessa kävi selväksi, ettei jäykällä feodaalihallinnolla ollut enää kykyä vastata Japanin monimutkaistuviin yhteiskunnallisiin ja taloudellisiin ongelmiin. 1700-luvun lopulta lähtien myös ulkomaiden aiheuttama uhka maan eristäytymiselle alkoi muodostaa bakufulle ongelman.[93][80][94]
Kulttuuri ja tiede
Sulkeutunut Edo-kausi ei merkinnyt taantumusta kulttuurissa, vaan pikemminkin ennennäkemätöntä kukoistusta. Kaupunkiväestö (chōnin) muodosti ensimmäistä kertaa suuren, erillisen väestöryhmän, jolla oli talouskasvun ja rauhan myötä enemmän aikaa nauttia taiteista ja kirjallisuudesta. He nousivat maan kulttuurin suojelijoiksi ja olivat Japanin avautumisen jälkeisen talouden ydinryhmän edeltäjiä. Edo-kaudella monet hovin ja sotilasluokan tavat vakiintuivat ja levisivät tavallisenkin kansan keskuuteen. Ruoka-, puku- ja asumiskulttuuri standardisoituivat. Nyt Japani kykeni myös ensimmäistä kertaa omaksumaan kokonaisuudessaan kiinalaisen oppineisuuden, johon voitiin jo suhtautua kriittisesti ja innovatiivisesti.[94][91][95]
Kasvavan kaupunkiväestön tarpeisiin kehittyi Edo-kaudella kaksi uutta populaaria teatterimuotoa: kabuki-teatteri ja jōruri-balladeista syntynyt bunraku-nukketeatteri. Niiden menestys oli pitkälti näytelmäkirjailijoiden nerokkuuden ansiota. Heistä tunnetuimpiin kuului Chikamatsu Monzaemon, joka vaikutti Kiotossa ja Osakassa 1600- ja 1700-luvuilla.[96]
1600-luvulla kirjat yleistyivät painotekniikan kehittyessä, ja pääosin kana-tavumerkkejä käyttäviä teoksia alettiin julkaista runsaasti. Ajan tunnetuimpiin romaanikirjailijoihin lukeutuu Ihara Saikaku, joka kirjoitti kauppiaselämästä, erotiikasta ja samuraista. Hänen teoksensa saavuttivat valtaisan suosion. 1700-luvulta muistetaan erityisesti Ueda Akinarin vuonna 1776 julkaistu teos Ugetsu monogatari, joka käsittelee pääosin yliluonnollisia ilmiöitä. Myöhemmin fiktio jakautui useisiin eri lajityyppeihin, joita nimitetään yhteisesti termillä gesaku (). Runoudessa renga-ketjurunoista kehittyivät vinjettimäinen, vuodenaikoja kuvaileva haiku ja sen humoristinen vastine senryū. Haikun mestari ja kehittäjä oli 1600-luvulla elänyt Matsuo Bashō, johon vaikutti erityisesti zen-buddhalaisuus.[97][98]
Taiteen kannalta Edo-kausi oli kaikkien aikojen tuotteliain. Sotilasaristokratia tuki taiteen kehittymistä, ja kaupunkilaisten vaikutus synnytti uusia taidemuotoja. Niistä huomattavin oli puupiirros, ukiyo-e, joka etenkin monille länsimaalaisille on synonyymi Japanin taiteen kanssa ja jolla oli huomattava vaikutus impressionisteihin. Myöhäisen Edo-kauden huomattavimpiin puupiirrostaiteilijoihin kuuluivat Katsushika Hokusai ja Utagawa Hiroshige. Kuvataiteen lisäksi Edo-kausi merkitsi myös muun muassa keramiikan, lakkatyön, metallinkäsittelyn, silkin tuotannon, teeseremonian ja bonsaitaiteen huomattavaa kehittymistä ja kypsymistä.[99]
Eristäytymisestä huolimatta tieto länsimaista ja niiden kulttuurista ei hävinnyt, ja jotkut japanilaiset olivat jo varhain kiinnostuneita länsimaisesta tieteestä. Kirjojen maahantuontia höllennettiin ensimmäisen kerran vuonna 1720, mikä johti vähitellen hollantilaisen opin eli rangakun syntymiseen 1700-luvun loppupuolella. Ensimmäinen hollannista käännetty teos Kaitai shinsho eli ”uusi kirja anatomiasta” ilmestyi vuonna 1774. Rangaku-liike keskittyikin erityisesti lääketieteeseen, mutta myöhemmin myös esimerkiksi tähtitieteeseen, kemiaan ja fysiikkaan. Länsimaisen tieteen opettamiseksi perustettiin yksityisiä akatemioita, joissa saattoi olla satoja opiskelijoita kerrallaan. Vuonna 1811 bakufu perustikin oman toimiston länsimaisten kirjojen kääntämiseksi ja tutkimiseksi. Kun yhteiskunnallinen tila muuttui epävakaammaksi 1800-luvulla, monet rangaku-oppineet alkoivat kuitenkin kritisoida maan eristäytymispolitiikkaa ja joutuivat vainotuiksi. Vaikka he muodostivat vain pienen osan Japanin älymystöstä, heillä oli merkittävä rooli maan pitämisessä ajan tasalla ulkomaailman tapahtumista.[100][101][102]
Bakumatsu ja avautuminen
Bakufun viimeisiä vuosia 1853–1868 kutsutaan nimellä Bakumatsu.
Venäjän painostus Japania kohtaan oli lisääntynyt pohjoisessa jo 1800-luvun alussa, ja seuraavina vuosikymmeninä bakufu oli kyvytön soveltamaan johdonmukaista politiikkaa sakoku-eristäytymistä rikkoviin länsimaisiin aluksiin. Kriisintunnetta lisäsi brittien kiinalaisia vastaan 1840-luvun alussa käymä oopiumisota. Monet nuoret ja kunnianhimoiset samurait ymmärsivät muutoksen tarpeen ja vaativat bakufun kaatamista ja keisarinvallan palauttamista. Filosofiansa he saivat uuskungfutselaisuudesta ja Japanin ainutlaatuisuutta korostavilta šintolais-nationalistisilta kokugaku-oppineilta, etenkin Miton koulukunnalta. Heidän tunnuslauseekseen muodostui sonnō jōi, ”kunnioittakaa keisaria ja karkottakaa barbaarit”. Ideologian merkittävimpiä edistäjiä oli Chōshūn hanin samurai Yoshida Shōin, joka teloitettiin bakufun vastaisesta toiminnasta vuonna 1859.[103][104][102][105][106]
1840-luvulla länsivaltojen painostus lisääntyi. Yhdysvaltojen kiinnostus Tyynenmeren kauppaan oli maan länsirannikon asuttamisen myötä kasvanut, ja teollistuneet eurooppalaiset suurvallat etsivät uusia kohteita tuotteilleen. Länsivallat eivät enää hyväksyneet Japanin kieltäytymistä kansainvälisestä kaupasta. Vuonna 1853 Yhdysvaltain laivaston kommodori Matthew Perry saapui Uraganlahdelle vaatimaan kauppasuhteiden avaamista. Seuraavana vuonna hän palasi kahdeksan laivan voimin allekirjoittamaan Kanagawan sopimuksen, jossa Shimodan ja Hakodaten satamat avattiin kaupalle. Sitä seurasivat samantyyppiset sopimukset Yhdistyneen kuningaskunnan, Venäjän ja Alankomaiden kanssa. Ne eivät kuitenkaan tyydyttäneet Itä-Aasiassa toimivia kauppiaita, joten uusi Harrisin sopimus Japanin ja Yhdysvaltain välillä solmittiin vuonna 1858 ja sopimukset muiden länsivaltojen kanssa vielä samana vuonna. Näissä ”epätasa-arvoisissa sopimuksissa” ulkomaalaiset vapautettiin Japanin lainsäädännöstä ja uusia satamia avattiin liikenteelle. Voimankäytön uhka Japania kohtaan oli jatkuvasti läsnä.[103][104]
Bakufun neuvonantaja (tairō) Ii Naosuke halusi restauroida sotilashallintoa avaamalla ja vahvistamalla maata asteittain. Hänet kuitenkin surmattiin keväällä 1860, ja hänen kuolemaansa seurasivat aktivistisamuraiden ulkomaalaisia kohtaan tekemät väkivaltaisuudet. Bakufun vastustajien keskeiseksi välineeksi nousi nyt keisarillinen hovi, ja sotilashallintoa painostettiin toimintaan ulkomaalaisia vastaan. Opposition johtajina toimivat Chōshūn ja Satsuman hanit. Chōshūn alueen joukot pommittivat ulkomaalaisia laivoja Shimonosekin salmessa vuonna 1863, mutta seuraavana vuonna länsivaltojen yhteishyökkäys pakotti Chōshūn daimion avaamaan salmen uudelleen. Bakufu yritti saada Chōshūn hallintaansa, mutta Chōshūn ja Satsuman liiton myötä vuonna 1866 sen joukot kukistettiin. Samana vuonna valtaan noussut viimeinen shōgun Tokugawa Yoshinobu erosi vuonna 1867 välttääkseen avoimen yhteenoton daimioiden kanssa. Aktivistisamurait vastustivat kuitenkin Yoshinobun jatkamista valtion hallinnossa ja halusivat riistää Tokugawoilta heidän läänityksensä. Vuoden 1868 Boshin-sodassa Satsuman, Chōshūn ja Tosan joukot, jotka olivat nyt ryhmittyneet juuri valtaan nousseen nuoren keisari Meijin keisarilliseksi armeijaksi, voittivat shōgunin tukijat. Samana vuonna keisari ja pääkaupunki siirrettiin Edoon, joka nimettiin Tokioksi, itäiseksi pääkaupungiksi. Ulkovallat tunnustivat nopeasti uuden hallinnon.[107][105]
Moderni Japani
Meiji-kauden alku
Keisarinvallan palauttamista vuonna 1868 kutsutaan yleisesti Meiji-restauraatioksi. Se aloitti usean vuosikymmenen kestäneen voimakkaan länsimaistumisen kauden, jonka aikana länsimaista kulttuuria ja teknologiaa omaksuttiin tietoisesti, jotta Japani kykenisi vastaamaan länsimaiden sille asettamaan haasteeseen. 1890-luvulle mennessä maa oli käynyt läpi valtavan sosiaalisen ja poliittisen vallankumouksen ja noussut suurelta osin tasa-arvoiseksi länsimaiden kanssa.[108][105][109]
Boshin-sodan jälkeen uudistusten tarpeesta oltiin yksimielisiä, mutta niiden tahti ja laajuus jakoivat konservatiiveja ja reformisteja. Uuden hallinnon johtoon nousivat erityisesti Satsuman ja Chōshūn samurait. Heidän tärkeimpinä tavoitteinaan oli uudistaa Japanille häpeälliset epätasa-arvoiset sopimukset ja muodostaa vahva, yhtenäinen valtio, joka voisi haastaa länsivallat sotilaallisesti ja teknologisesti. Koska välitöntä ”barbaarien karkottamista” ei kyetty saavuttamaan, uudeksi tunnuslauseeksi omaksuttiin fukoku kyōhei, "rikas valtio ja vahva armeija". Keisari Meiji toimi käytännössä keulakuvana, kansan symbolisena johtajana, joka tyytyi pitkälti symboliseen asemaansa. Hänen yhteistyönsä oli kuitenkin välttämätöntä uuden hallinnon onnistumiselle. Ulkomailla vierailleet japanilaislähetystöt vahvistivat käsitystä modernisoitumisen tarpeesta.[105][110]
Sosiaaliset uudistukset aloitettiin feodalismin hajottamisella. Vuonna 1871 daimiot kutsuttiin kuulemaan Tokioon läänitystensä virallisesta lakkauttamisesta, ja kaikki maa otettiin keisarin haltuun. Entisten läänitysten ja provinssien tilalle perustettiin prefektuurijärjestelmä. Suurimpiin häviäjiin kuuluivat samurait, joiden elintaso heikkeni rajusti. Vuonna 1873 aloitettu yleinen asevelvollisuus heikensi edelleen samuraiden asemaa, ja monet heistä siirtyivät muihin töihin, esimerkiksi poliiseiksi, virkamiehiksi tai liike-elämän palvelukseen. Toisena keskeisenä uudistustoimena nähtiin maan teollistuminen. Koska yksityistä pääomaa ei juuri ollut, teollisuuden kehittäminen oli pääosin valtion käsissä. Taloudessa Meiji-kauden alkupuolta hallitsikin valtiokapitalismi. Vuodesta 1880 lähtien teollisuutta yksityistettiin edullisesti, ja teollisuuslaitokset ajautuivat Mitsuin ja Mitsubishin kaltaisten ryhmien käsiin, jotka myöhemmin kehittyivät zaibatsu-konglomeraateiksi. Politiikan ja talouden entisestikin läheinen suhde vahvistui.[111][112][105]
Länsimaisen teknologian omaksuminen vaati koulutettua työvoimaa, mutta koulutusta tarvittiin myös kansallisen yhtenäisyyden ja identiteetin luomiseen. Yleinen, keskitetty koulutusjärjestelmä otettiin käyttöön vuonna 1872. Aluksi koulutus noudatti länsimaisia liberalistisia piirteitä, mutta 1880-luvulla ylenmääräisen länsimaistumisen vastustamiseksi koulutuksen merkittäviksi piirteiksi muodostuivat nationalistinen moraalikasvatus ja keisari-instituution kunnioituksen lisääminen. Yhtenäisyyttä oli aluksi haluttu luoda kohottamalla šintolaisuus valtionuskonnoksi, mutta länsimaiden ja buddhalaisten kielteisen suhtautumisen vuoksi koulutus alettiin nähdä parempana keinona yhtenäisyyden saavuttamiseksi.[113][114] Uusien johtajien mieltymys šintolaisuuteen merkitsi negatiivista suhtautumista buddhalaiseen perinteeseen. Šintolaisuudesta luotiin kansallinen kultti, joka tuki keisarin jumalallista valtaa ja Japanin ainutlaatuista luonnetta (kokutai). Toisaalta yhteiskunnan muuttuessa materialistisemmaksi uskonnon merkitys yleisesti laski. Kristinuskon vaino jatkui Meiji-kauden alkuvuosina, kunnes se vastahakoisesti laillistettiin vuonna 1873. Uskonnonvapaus annettiin vuonna 1889.[105][115]
Länsimaisten ideoiden levitessä maahan Meiji-oligarkia ymmärsi, ettei Japania voitaisi enää hallita pelkästään perinteisin autoritaarisin keinoin. Vuonna 1868 luotu ensimmäinen daimioiden ja samuraiden neuvosto ei toiminut. Demokraattisempaa, osallistuvaa järjestelmää vaativat toisaalta kyläpäälliköt ja toisaalta entiset, valtaansa takaisin haluavat samurait. Hallinto lupasi maahan perustuslain, jota laativaa komissiota johti Otto von Bismarckiin viehättynyt Itō Hirobumi. Hän näki Preussin keisarinvallan ja perustuslaillisten instituutioiden välisen tasapainon Japaniin sopivana, ja vuoden 1889 perustuslaki laadittiinkin pitkälti saksalaisen esimerkin mukaan. Tulevaa ylähuonetta varten luotiin eurooppalaistyylinen aatelisto. Samaan aikaan muodostettiin länsimaalaismuotoinen hallitus ministeriöineen vanhan dajōkanin tilalle. Uusi perustuslaki osoitettiin selkeästi keisarin lahjaksi kansalleen, ja hänelle varattiin laajat valtaoikeudet. Hallitus oli vastuussa keisarille, ei parlamentille. Epädemokraattisista piirteistään huolimatta uusi perustuslaki kuitenkin takasi paremman mahdollisuuden eriäville mielipiteille kuin aikaisemmin, ja kansalaisoikeudet ja -vapaudet olivat laajemmat kuin ennen. Perustuslain myötä Meiji-kauden vallankumouksellisin osa tuli päätökseensä.[105][116]
Imperialistinen Japani
Laajentuminen Aasiassa
Ulkomaalaisten ekstraterritoriaalisuusoikeudet kumottiin vuonna 1894 ensin brittien ja myöhemmin muiden länsivaltojen kanssa tehdyillä sopimuksilla.[117] Maahan oli rakennettu suhteellisen hyvin varustettu armeija. Kiinnostus muuta Aasiaa kohtaan oli herännyt jo aiemmin: Ryūkyūsaaret liitettiin Japaniin vuonna 1879. Mitään selkeää suunnitelmaa lisäalueiden valloittamiselle Aasiassa ei ollut, mutta armeijan vaikutusvallan kasvaessa imperialistiset tavoitteet lisääntyivät. Äärinationalismia ruokkivat useat tekijät: Japanin johtajien halu päästä osalliseksi eurooppalaisen kolonialismin tuotoista, länsimaalaisten kuviteltu tai havaittu rasismi japanilaisia kohtaan, monien sotilasluokan jäsenten köyhän maanviljelijäalkuperän mukanaan tuoma ksenofobia ja suuryritysten riippuvaisuus sotamenestyksestä. Kansan tuki johtajien toimille saatiin koulutuksen ja median hallinnalla. 1930-luvulla syntynyt fasistinen järjestelmä poikkesi Saksan ja Italian järjestelmistä; Masao Maruyaman mukaan ”prosessissa oli pikemminkin kyse valtion sisäisen fasistisen rakenteen asteittaisesta kypsymisestä, minkä saivat aikaan olemassa olevat poliittiset puolueet, armeija ja byrokratia”.[118][119]
Kiina piti Koreaa vasallivaltionaan ja oli huolestunut japanilaisten vaikutusvallasta alueella. Japanilaisten Taiwanille vuonna 1874 lähettämä retkikunta oli huonontanut suhteita Kiinaan. Sota maiden välille syttyi useiden 1880-luvulla Koreassa tapahtuneiden välikohtausten jälkeen lopulta vuonna 1894. Ensimmäisessä Kiinan–Japanin sodassa japanilaiset olivat ylivoimaisia sekä maalla että merellä, ja seuraavana vuonna solmitussa Shimonosekin rauhansopimuksessa Kiina joutui luovuttamaan Japanille Taiwanin, Pescadoressaaret sekä Liaodongin niemimaan ja tekemään useita taloudellisia myönnytyksiä. Ranska, Saksa ja Venäjä eivät hyväksyneet Japanin imperialistisia pyrkimyksiä, eivätkä ne halunneet vaikutusvaltaansa Kiinassa uhattavan ja pakottivat Japanin luovuttamaan Liaodongin niemen takaisin Kiinalle niin sanotussa kolmoisinterventiossa. Japanin täytyi nyt suhtautua varovaisemmin länsivaltojen pyrkimyksiä kohtaan. Sodan myötä armeijan vaikutus maan hallinnossa kasvoi huomattavasti.[120][119][109]
Japani auttoi länsivaltoja Kiinan boksarikapinan kukistamisessa vuonna 1900, ja Yhdistynyt kuningaskunta ja Japani solmivat liittosopimuksen kaksi vuotta myöhemmin. Sopimuksen tarkoitus oli suojella Japanin ja brittien etuja kolmatta imperialistista suurvaltaa, Venäjää vastaan. Vielä laajempi, japanilaisten intressit Koreassa tunnustanut sopimus solmittiin vuonna 1905. Japani toivoi ensimmäisen liittosopimuksen auttavan Venäjän ja Japanin tavoitteiden sovittelussa Koillis-Aasiassa. Helmikuussa 1904 Japanin laivasto kuitenkin yllättäen hyökkäsi Venäjän aluksia vastaan Port Arthurissa Kiinan rannikolla – Venäjän–Japanin sodassa Japani sai ratkaisevan voiton Venäjän Itämeren-laivastosta Tōgō Heihachirōn johdolla Tsushiman meritaistelussa. Rauhansopimuksessa Venäjä tunnusti Japanin ylivallan Koreassa, sen taloudelliset intressit Etelä-Mantšuriassa ja luovutti Japanille Sahalinin eteläosan. Sota oli kuitenkin aiheuttanut Japanille suuret inhimilliset ja taloudelliset menetykset, ja chauvinistinen yleinen mielipide oli vahvasti sopimusta vastaan. Japani oli silti saavuttanut merkittävän voiton ja osoittanut ensimmäisen kerran aasialaisen valtion voivan kukistaa sodassa eurooppalaisen suurvallan.[121][119][122][109]
Sodan jälkeen Japani sai vapaat kädet Korean valtaukseen. Korea liitettiin Japaniin virallisesti vuonna 1910, länsivaltojen hiljaisessa hyväksynnässä. Maahan sovellettiin siirtomaapolitiikkaa, jossa japanilaiset ottivat täydellisesti haltuunsa Korean taloudellisen ja poliittisen elämän. Useita tuhansia korealaisia kuoli miehitysjoukkojen käsiin jo ennen liitosta. Mantšuriassa Japani laajensi vaikutusvaltaansa erityisesti Etelä-Mantšurian rautatieyhtiön kautta, jota tukivat merkittäviin keskuksiin sijoitetut japanilaiset varuskunnat. Keisari Meijin kuollessa vuonna 1912 Japanista olikin tullut Aasian merkittävin suurvalta. Ensimmäiseen maailmansotaan Japani lähti laajentaakseen vaikutusvaltaansa Kiinassa. Se julisti sodan Saksalle elokuussa 1914 ja miehitti saksalaiset alueet Kiinassa ja pohjoisella Tyynellämerellä. Seuraavana vuonna se esitti Kiinalle niin kutsutut 21 vaatimusta, jotka olisivat käytännössä toteutuessaan tehneet Kiinasta Japanin vasallivaltion. Maailmansodan jälkeen Japanin Siperiaan jääneet, Venäjän sisällissodassa liittoutuneita tukeneet joukot herättivät lisähuolia Japanin laajentumisesta. Vuosina 1921–1922 pidetty Washingtonin konferenssi ja sen aikana solmitut sopimukset kuitenkin lievensivät jännitteitä Itä-Aasiassa tilapäisesti, ja Japani vetäytyi Siperiasta, Pohjois-Sahalinilta ja Kiinan Qīngdǎosta.[119][123][124]
Taloudellinen ja yhteiskunnallinen kehitys
Vaikka Japanin parlamentti toimi näennäisesti eurooppalaisen parlamentin tavoin, maan poliittista elämää hallitsivat 1900-luvun vaihteessa pikemminkin puolueiden sisäiset ryhmittymät ja henkilökohtaiset lojaliteetit. Kiinan–Japanin sodan syttyminen yhtenäisti riitaista politiikkaa, eikä hallituksella enää ollut vaikeuksia lisätä esimerkiksi armeijan rahoitusta. Parlamentti ja kansa suhtautuivat ulkopolitiikkaan hallitusta chauvinistisemmin.[125]
Japanin väkiluku kasvoi nopeasti, ja vuonna 1920 se oli noussut lähes 57 miljoonaan. Kasvuun vaikuttivat parantunut hygienia ja pienempi lapsikuolleisuus, mutta elintaso pysyi kaikesta huolimatta alhaisena erityisesti maaseudulla, jossa 72 prosenttia japanilaisista edelleen asui vuonna 1913. Riisin tuotanto yli kaksinkertaistui 1880-luvulta 1930-luvulle kasvavan väestön ruokkimiseksi. Teollisuuden merkitys kasvoi vähitellen: ensimmäiseen maailmansotaan mennessä tekstiiliteollisuus oli noussut maan merkittävimmäksi teollisuudenalaksi. Teollisuuden kasvua auttoivat halvan työvoiman saanti maaseudulta ja raskaassa teollisuudessa valtion omistamat pankit, joilta saatiin tarvittavaa pääomaa. Maailmansota merkitsi huomattavaa kasvua maan taloudelle, sillä japanilaisten tuotteiden kysyntä muualla Aasiassa lisääntyi. Talouskasvu aiheutti kuitenkin inflaatiota, joka johti työkiistoihin, vuoden 1918 riisimellakoihin ja lopulta lamaan vuonna 1920. Vaikeuksia pahensi Tokioon vuonna 1923 iskenyt suuri Kantōn maanjäristys, joka surmasi yli 100000 henkeä.[126][119][127]
1920-luku merkitsi silti uutta, kansainvälistä suuntautumista ja modernin massakulttuurin syntyä. Siihen vaikuttivat uudet viestimet, radio, äänilevyt ja elokuva, joiden kautta esimerkiksi länsimainen, erityisesti yhdysvaltalainen, musiikki ja muoti kasvattivat suosiotaan ja länsimaiset urheilulajit yleistyivät. Modernisoituminen tapahtui erityisesti suurissa kaupungeissa, kun taas maaseutu oli edelleen köyhää ja kehittymätöntä. Tokion uudelleenrakentaminen maanjäristyksen jälkeen moderniksi suurkaupungiksi oli uuden kaupunkiyhteiskunnan symboli. Politiikassa 1920-luvulla oli lyhyt puoluepolitiikan aikakausi, jota on kutsuttu ”Taishō-demokratiaksi”. Vuonna 1925 äänestysoikeutta laajennettiin yli 25-vuotiaille miehille, ja Katō Takaakin hallitus leikkasi byrokratiaa ja armeijan rahoitusta. Yhteiskunnalliset kysymykset, kuten työväenliike ja naisliike olivat esillä aiempaa enemmän. Valtio suhtautui sosialismiin äärimmäisen negatiivisesti, ja 1920-luvulla perustettu kommunistinen puolue joutui poliisin murskaamaksi.[119][128]
Propagandassa kasvanut, aiempaa suurempi äänestäjäkunta kannatti kuitenkin innokkaasti militaristista laajentumispolitiikkaa, ja äärinationalistit kasvattivat vaikutusvaltaansa erityisesti 1920-luvun lopun maailmantalouden laman jälkeen.[129] Parlamentin epäjärjestys ja heikkous vähensivät luottamusta edustukselliseen järjestelmään. Parlamentti ja Meiji-perustuslaki pysyivät toiminnassa koko militaristisen kauden ajan, mutta toisaalta perustuslaki oli niin epäselvä toimeenpanovallan suhteen, että puoluepolitiikan ajan pääministerit eivät juuri voineet muuta kuin ryhtyä yhteistyöhön demokratialle vihamielisten voimien kanssa.[119] Uuden keskiluokan menestys oli riippunut kansainvälisen kaupan kasvusta, ja laman myötä syytökset epäonnistuneena ja korruptoituneena pidettyä, zaibatsujen hallitsemaa puoluepolitiikkaa kohtaan lisääntyivät.[119] Jalansijaa sai käsitys uusista aluevalloituksista ratkaisuna Japanin taloudellisiin ongelmiin ja raaka-ainepulaan. Maan sotilasjohto oli tietoinen Japanin heikommasta asemasta verrattuna Itä-Aasiasta ja Tyynenmeren alueesta kiinnostuneisiin länsimaihin. Japani jäi kansainvälisesti yhä enemmän eristyksiin länsimaiden asetettua tuontitulleja edullisemmille japanilaisille tuotteille. Japanissa alettiin kokea Yhdysvallat ja Iso-Britannia vihamielisinä valtioina, mikä oli lopulta osasyynä japanilaisten hyökkäykseen Kaakkois-Aasiaan.[127][130]
Fasismi ja tie sotaan
18. syyskuuta 1931 Mukdenin välikohtaus aloitti Japanin aggression Itä-Aasiassa. Japanin Guandong-armeija hyökkäsi äkillisesti Mukdenin kiinalaisvaruskuntaa vastaan ja miehitti pian Etelä-Mantšurian. Japanin hallitus oli kyvytön estämään itsenäisesti toiminutta armeijaa, joka perusti alueelle Mantšukuo-nukkevaltion. Joulukuussa 1931 pääministeriksi noussut, keisarillista interventiota yrittänyt Inukai Tsuyoshi surmattiin seuraavana vuonna, ja armeija ilmoitti, ettei se hyväksyisi enää puoluehallitusta. Kun Kansainliitto tuomitsi Japanin toimet, maa erosi liitosta vuonna 1933. Väkivaltaisuudet eivät kuitenkaan rajoittuneet Mantšuriaan: tammikuussa 1932 välikohtaus Shanghaissa johti raskaisiin taisteluihin ja pommituksiin. Vuonna 1934 japanilaiset asettivat Mantšukuon nukkehallitsijaksi Qing-dynastian viimeisen keisarin Pǔ Yín – todellisuudessa koko Mantšurian hallinto oli Guandong-armeijan käsissä.[131][132]
Menestys Mantšuriassa rohkaisi äärinationalisteja. Maassa vaikutti useita äärioikeistolaisia järjestöjä, jotka vastustivat länsimaista vaikutusta sekä puoluepolitiikkaa ja kannattivat aggressiivisempaa laajentumista. Järjestöt onnistuivat terrorisoimaan vastustajiaan ja surmaamaan 1930-luvun alussa useita huomattavia liike-elämän ja politiikan vaikuttajia. Merkittävimmän vastarinnan puoluepolitiikalle muodostivat nuoret upseerit, joista useilla oli kansallissosialistisluonteisia tavoitteita. Vakavin tapaus oli helmikuun 26. päivän välikohtaus, jossa 1400 sotilaan joukko otti nuorten upseerien johtamana haltuunsa Tokion keskustan ja murhasi useita henkilöitä. Keisari raivostui, maahan julistettiin sotatila ja joukot, jotka olivat luulleet toimivansa keisarin nimissä, antautuivat. 19 henkeä teloitettiin salaisen oikeudenkäynnin jälkeen. Välikohtauksen jälkeen valtaan noussut konservatiivisempi upseeristo jakoi suureksi osaksi nuorten fanaatikkojen tavoitteet ulkopolitiikassa, ja armeija käytti tapausta valtansa kasvattamiseen. Japanilainen fasismi oli nyt saanut otteen maan sotilasjohdosta.[119][133]
Täysi sota Kiinan ja Japanin välille syttyi 7. heinäkuuta 1937 Pekingin ulkopuolella Marco Polon sillan välikohtauksessa. Japanin armeija miehitti nopeasti Pekingin ja Tianjinin ja eteni vähitellen Jangtselle ja 13. joulukuuta mennessä Tšiang Kai-šekin Guomindang-hallituksen pääkaupunkiin Nanjingiin. Nanjingin verilöylyssä, yhdessä pahimmista japanilaisten joukkojen suorittamista sotarikoksista, japanilaiset surmasivat Tokion sotarikosoikeudenkäynneissä esitettyjen todisteiden mukaan 42000 siviiliä sekä 100000 sotavankia ja raiskasivat 20000 naista. Sodassa pahimpiin julmuuksiin syyllistyi usein sotilaspoliisi kenpeitai, joka oli kenraali Hideki Tōjōn lempiväline. Japanilaiset ottivat nyt haltuunsa Kiinan tärkeimmät satamat, mutta eivät koskaan onnistuneet kunnolla valloittamaan sisämaata. Nanjingiin japanilaiset perustivat maaliskuussa 1940 Wāng Jīngwèin johtaman nukkehallituksen. Britit ja yhdysvaltalaiset eivät sympatioistaan huolimatta kyenneet estämään Japanin armeijan toimia Kiinassa.[134][135]
Vuonna 1936 Japani solmi ensin Saksan ja myöhemmin Italian kanssa antikomintern-sopimuksen, ja vuonna 1940 kolmisopimuksen, joka oli suunnattu erityisesti Yhdysvaltoja vastaan. Saksan ja Japanin suhteet eivät olleet kuitenkaan koskaan erityisen lämpimät: osapuolia loitonsivat molempien väitteet rodullisesta ylemmyydestä, välimatka ja epäluottamus. Japanilaiset eivät tienneet natsien tavoitteesta hyökätä Neuvostoliittoon. Japanin poliittinen ja yhteiskunnallinen rakenne ei myöskään milloinkaan saavuttanut Saksan äärimmäistä totalitarismia. Suhteet Neuvostoliittoon olivat huonommat, ja vuosina 1938 ja 1939 Japanin armeija joutui rajataisteluihin puna-armeijan kanssa Ulko-Mongoliassa ja Mantšuriassa. Neutraalisuussopimus suurvaltojen välille solmittiin huhtikuussa 1941. Euroopan vaikea sotatilanne ja Ranskan kukistuminen sallivat Japanin armeijan edetä Ranskan Indokiinaan, joka vallattiin heinäkuussa 1941.[132][136][135][127]
Japani toisessa maailmansodassa
Esteeksi Japanin etenemiselle etelään nousi Yhdysvallat, joka aloitti maata vastaan sarjan talouspakotteita, koska Yhdysvallat oli huolestunut Japanin valloituksista Tyynellä valtamerellä. Teräksen ja raudan vienti Japaniin estettiin. Indokiinan miehitykseen Yhdysvallat reagoi öljysaarrolla ja jäädyttämällä japanilaisten kaiken omaisuuden Yhdysvalloissa. Kun neuvottelut amerikkalaisten kanssa epäonnistuivat, japanilaiset päättivät sotatoimien aloittamisesta Yhdysvaltoja vastaan joulukuuhun 1941 mennessä, sillä kauppasaarto uhkasi lamauttaa koko Japanin sotakoneiston. Koska pääministeri Fumimaro Konoen hallituksen siviilijäsenet eivät hyväksyneet armeijan suunnitelmia, pääministeri erosi lokakuussa 1941. Hänen seuraajakseen nousi entinen sotaministeri Hideki Tōjō. Amerikkalaiset kieltäytyivät edelleen minkäänlaisista myönnytyksistä, ja 7. joulukuuta 1941 japanilaiset iskivät varoittamatta Pearl Harborin laivastotukikohtaan Havaijilla, mikä oli alkusysäys Tyynenmeren sodalle.[132][136][127]
Japanilaiset olivat odottaneet, että heidän haltuunsa saamiensa alueiden takaisinvaltaus kävisi ”pehmeille” demokratioille liian kalliiksi ja vaikeaksi. Yllätyshyökkäys toi kuitenkin uutta päättäväisyyttä Yhdysvalloille, joka julisti sodan Japanille ja maan laivasto rakennettiin Pearl Harborin tuhojen jäljiltä uudelleen ennätysajassa. Aluksi japanilaiset saavuttivat useita voittoja: Manila vallattiin tammikuussa 1942, Singapore helmikuussa ja Rangoon briteiltä maaliskuussa. Japanilaisilla ei ollut suuria vaikeuksia Alankomaiden Itä-Intian valtauksessa, ja Tyynellämerellä japanilaiset joukot etenivät Salomonsaarille saakka. Japanilaiset uhkasivat nyt jo Australiaa ja Intiaa, jossa he tunkeutuivat Assamiin vuonna 1944. Maan armeijan resurssit oli kuitenkin venytetty äärimmilleen. Japanin eteneminen onnistuttiin kuitenkin pysäyttämään Korallimeren taistelussa. Yhdysvaltojen laivastoa ei kyetty ajamaan eteläiseltä Tyyneltämereltä, jossa japanilaiset menettivät useita aluksia Midwayn taistelussa kesäkuussa 1942. Tappio Midwayn taistelussa oli käännekohta Japanin menestykselle ja Salomonsaarilta japanilaiset joutuivat vetäytymään keväällä 1943.[137][138]
Yhdysvaltojen saavuttamien voittojen jälkeen monet japanilaiset johtajat ymmärsivät, että sota tulisi päättymään Japanin tappioon. Armeijan fanaattisuus esti kuitenkin vakavasti otettavat rauhantavoittelut. Itsepäinen taistelu yhdysvaltalaisia vastaan jatkui ja japanilaiset olivat linnoittautuneet hyvin sekä taistelivat viimeiseen mieheen. Japanilaiset hävisivät Leytenlahden taistelu 20. lokakuuta 1944. Saipan vallattiin Japanilta heinäkuussa 1944 ja Filippiinit asteittain maaliskuuhun 1945 mennessä. 7. huhtikuuta 1945 Yhdysvallat upotti Japanin laivaston suurimman sotalaivan Yamaton. Helmikuussa 1945 yhdysvaltalaiset joukot saapuivat Japanin alueelle voitokkaassa Iwo Jiman taistelussa. Huhtikuussa 1945 Okinawalla kuoli raskaissa ja katkerissa taisteluissa yli 150000 siviiliä. Maaliskuussa yhdysvaltalaiset olivat aloittaneet Japanin kotisaarten massiiviset pommitukset, joissa lähes kaikki japanilaiset kaupungit Kiotoa ja Naraa lukuun ottamatta tuhoutuivat maan tasalle. Toukokuuhun mennessä arviolta 13 miljoonaa japanilaista oli joutunut kodittomaksi ja maan talous oli ajautunut kaaokseen. Kun Kuniaki Koison hallitus kaatui Okinawan jouduttua yhdysvaltalaisten haltuun, valtaan nousi amiraali Kantarō Suzuki. Vaarallisen pitkä tie rauhaan alkoi.[137][139]
Rauhanneuvottelijaa toivottiin ensin Neuvostoliitosta, joka oli kuitenkin päättänyt liittyä sotaan liittoutuneiden puolelle ja joka osallistui länsivaltojen kanssa Potsdamin konferenssiin. Potsdamin julistuksessa heinäkuussa 1945 Yhdysvaltojen, Kiinan ja Yhdistyneen kuningaskunnan johtajat vaativat Japanin sodankäymiskyvyn estämistä ja maan muuttamista demokraattiseksi valtioksi. Julistuksessa luvattiin, että ”Japania ei tuhottaisi kansakuntana”. Kun Japani kuitenkin jätti julistuksen huomiotta ja liittoutuneiden joukot lähestyivät maan pääsaaria, presidentti Truman päätti käyttää uutta asetta, atomipommia, Japania vastaan. Ensimmäinen pommi pudotettiin Hiroshimaan 6. elokuuta ja toinen pommi Nagasakiin 9. elokuuta. Nyt myös Neuvostoliitto julisti Japanille sodan ja hyökkäsi Mantšuriaan. Keisari Hirohito vaati antautumista, josta hän ilmoitti kansalle radiopuheessa 15. elokuuta. Vielä edellisenä yönä äärimilitaristit olivat yrittäneet tuhota puheen sisältäneen levyn. Antautumissopimus allekirjoitettiin virallisesti 2. syyskuuta 1945 USS Missourilla Tokionlahdella.[137][140]
Miehitetty Japani
Sodan jälkeen liittoutuneet miehittivät Japanin. Teoriassa miehitystä hallinnoivat monikansallinen Itä-Aasian neuvosto Washingtonissa ja liittoutuneiden neuvosto Tokiossa, mutta käytännössä miehittäjinä toimivat yhdysvaltalaiset joukot kenraali Douglas MacArthurin johdolla. Toisin kuin esimerkiksi Saksassa, japanilaiset viranomaiset olivat edelleen toiminnassa ja miehityshallinto toimi niiden kautta. Miehitys merkitsi laajoja ja nopeita sosiaalisia ja poliittisia muutoksia: sen tarkoituksena oli perustaa Japaniin demokraattinen ja rauhanomainen hallinto. Sodan tuhojen jälkeen japanilaiset olivat alttiita muutokselle ja suhtautuivat siihen pragmaattisesti. Kauhukuvat miehittäjästä eivät myöskään osoittautuneet tosiksi, eikä miehityshallintoa juuri vastustettu. Miehityksen onnistumiseen vaikuttivat myös voimaan jäänyt keisari-instituutio, vaikka keisari hylkäsikin muodollisesti jumalallisuutensa, ja MacArthurin persoona.[141][142][143][144]
Ensimmäiseksi miehityshallinto aloitti Japanin demilitarisoinnin. Japanilaiset ulkomailla olevat joukot, noin 3,5 miljoonaa henkeä, kutsuttiin kotiin ja maan armeija lakkautettiin. Aseteollisuus hajotettiin ja kaikki yksityisissä käsissä olevat aseet takavarikoitiin. Nationalistiset järjestöt lakkautettiin. Tärkeä tavoite oli jollain tavalla sotaan syyllisten henkilöiden erottaminen viroistaan ja julkisesta elämästä: toukokuuhun 1946 mennessä yhteensä 210288 japanilaista oli ”puhdistettu”. Vaikka nopeaan puhdistukseen liittyi väistämättä epäoikeudenmukaisuuksia, se auttoi uusien henkilöiden nousua vaikutusvaltaisiin asemiin ja muiden demokraattisten uudistusten onnistumista. Miehityksen loppupuolella monet puhdistetut palautettiin jälleen yhteiskunnan jäseniksi. Liittoutuneiden oikeuksissa tuomittiin sotarikoksista kuolemaan 920 japanilaista ja vuosien 1946–1948 Kaukoidän kansainvälisessä sotarikostuomioistuimessa syytettiin sota- ja muista rikoksista 28 poliittista ja sotilaallista johtajaa, joista seitsemän teloitettiin.[142][145]
Militarismin kitkemiseksi tarvittiin uudistuksia koulutusjärjestelmässä, joka muotoiltiin yhdysvaltalaisen mallin mukaiseksi. ”Moraalikasvatus” lopetettiin ja korkeakoulutusta laajennettiin. Šintolaisuus ja valtio erotettiin toisistaan. Talousuudistuksiin kuuluivat zaibatsu-ryhmien hajottaminen, sillä ne olivat olleet tiiviissä yhteistyössä militaristien kanssa. Zaibatsuja vastaan kohdistetut, rajallisiksi jääneet toimet onnistuivat löyhentämään liike-elämän ryhmittymiä, mutta ne eivät estäneet uudenlaisten keiretsu-ryhmien syntymistä myöhemmin. Työpolitiikassa merkittävää oli ammattiliittojen ja lakkojen salliminen. Ammattiliitot kehittyivät nopeasti, ja vuonna 1949 niihin kuului jo kuusi ja puoli miljoonaa henkeä. Kylmän sodan syttyminen ja yleislakon uhka vuonna 1947 johtivat kuitenkin uusiin rajoituksiin ja puhdistuksiin vasemmistossa. Suurin osa Japanin armeijasta oli muodostunut köyhistä maaseudun asukkaista: heidän tilannettaan ryhdyttiin parantamaan laajalla maauudistuksella, jossa suuri osa vuokraviljelijöistä sai omistusoikeuden maihinsa.[146][147][142]
Miehityshallinnon merkittävin yksittäinen uudistustoimi oli kuitenkin uusi perustuslaki, joka astui voimaan vuonna 1947. Se toteutti ensimmäistä kertaa yleisen ja yhtäläisen äänioikeuden kaikille japanilaisille. Perustuslain ensimmäisessä kappaleessa keisari julistettiin ”valtion ja kansan yhtenäisyyden symboliksi, joka saa valtansa kansan tahdosta” ja täysin alisteiseksi hallitukselle. Perustuslain kolmas artikla käsitteli yksilönoikeuksia ja takasi tasa-arvon lain edessä. Vanha aatelisto lakkautettiin. Perustuslaki kutsui koolle vaaleilla valittavan kaksikamarisen parlamentin, jonka vaikutusvaltaisemmaksi osaksi tehtiin alahuone. Erityisen merkittävä oli yhdeksäs, toisen kappaleen ainoa artikla, jossa ”sota kansankunnan suvereenina oikeutena ja voimankäyttö tai sen uhka kansainvälisten kiistojen ratkaisun keinona hylätään ikuisiksi ajoiksi” ja jossa armeijan ylläpito kiellettiin. Perustuslaista tuli erittäin suosittu. Mikään poliittinen ryhmä ei ole saanut taakseen tarvittavaa kahden kolmasosan tukea perustuslain muuttamiseksi sen käyttöönoton jälkeen. Yhdeksännen artiklan tulkinta kuitenkin muuttui ja maahan perustettiin itsepuolustusvoimat eli käytännössä asevoimat vuonna 1954.[148][142][149][150]
Japanin talous oli sodan jälkeen raunioina, ja maa oli lähellä nälänhätää. Teollisuustuotanto oli vain 30 prosenttia sotaa edeltäneestä tasosta. Taloustilanteen jatkuessa vaikeana miehityshallinto nimitti vuonna 1948 yhdysvaltalaisen pankkiirin Joseph Dodgen suosittelemaan ratkaisukeinoja. Niin kutsuttu Dodgen linja merkitsi rankkuudestaan huolimatta käännekohtaa maan talouskehityksessä. Myöhemmin kesäkuussa 1950 syttynyt Korean sota veti maan talouden uuteen nousuun, sillä Yhdysvaltain armeijan sotilaat tarvitsivat muonaa ja tarvikkeita. Tuotanto ylitti sotaa edeltäneen tason ensimmäistä kertaa vuonna 1951. Sota lisäsi yhdysvaltalaisten vihamielisyyttä kommunistista Kiinaa kohtaan ja alleviivasi Japanin roolia aluetta vakauttavana tekijänä ja Yhdysvaltojen uutena liittolaisena. Rauhansopimus tarvittiin nyt nopeasti, ja miehityspolitiikan painopiste siirtyi yhteiskunnasta taloudellisen ja poliittisen vakauden saavuttamiseen. San Franciscon sopimus Japanin ja liittoutuneiden välillä solmittiin Japanin kannalta suhteellisen helpoin ehdoin 8. syyskuuta 1951, ja samaan aikaan allekirjoitettiin turvallisuussopimus Yhdysvaltojen kanssa. Siinä Yhdysvaltojen joukkojen sallittiin jäädä Japaniin ja Japania pyydettiin ottamaan enemmän vastuuta omasta puolustuksestaan. Miehitys loppui ja Japani sai muodollisen itsenäisyytensä takaisin seuraavana vuonna. Maan tärkeimmäksi tavoitteeksi nousi nyt taloudellinen toipuminen.[151][150]
1950-luvulta kuplatalouteen ja lamaan
Talousihme
Valtavaa talouskasvua 1950- ja 1960-luvuilla on kutsuttu Japanin talousihmeeksi. Vuosina 1955–1970 talous kasvoi keskimäärin noin 10 prosenttia vuodessa.[152] Kasvua auttoivat useat tekijät: sodan jälkeen maan teollisuus oli lähes tuhoutunut, joten Japaniin rakennetut uudet tehtaat olivat nykyaikaisia ja tehokkaampia kuin ulkomailla, maassa oli runsaasti nuorta ja hyvin koulutettua työvoimaa ja valtio tuki talouskasvua aktiivisesti. Lisäksi japanilaisiin vaikuttivat huomattavasti William Edwards Demingin ajatukset laadunvalvonnasta. 1940-luvun lopulla aloitettu väestösuunnittelu onnistui hillitsemään ja tasaamaan väestön lisääntymistä niin, ettei se syönyt talouskasvua, joka aiheutti suuren rakennemuutoksen kaikille yhteiskunnan osa-alueille. Japani saavutti nyt täystyöllisyyden, ja maassa esiintyi jopa puutetta työvoimasta. Kaksi tärkeää talouskasvuun liittyvää kehitystä olivat kulutusyhteiskunnan syntyminen, johon vaikutti pääministeri Hayato Ikedan ”tulojen kaksinkertaistamissuunnitelma” vuonna 1960, ja teollisuustuotannon keskittyminen korkeateknologisiin tuotteisiin. Japanista tuli maailman johtava autojen, laivojen ja elektroniikan valmistaja: 1960-luvulla maan vienti kasvoi yli 15 prosenttia vuodessa. Suuri talouskasvu jatkui aina 1970-luvun alun öljykriisiin saakka. Ikedan kaudella japanilaisten kansallistunnetta kasvattivat Tokiossa vuonna 1964 järjestetyt kesäolympialaiset.[142][153]
Laskevan syntyvyyden lisäksi Japanin yhteiskuntaa muuttivat nopea kaupungistuminen ja elintason nousu, jotka hillitsivät väestönkasvua yhteiskunnan toimien lisäksi. Entistä koulutetumman väestön ja kaupunkiasumisen aiheuttamien rajoitusten myötä perinteiset perhesuhteet muuttuivat. Naisten asema parani. Työvoimapulan vuoksi maaseudulta tarvittiin työntekijöitä kaupunkien suurteollisuuteen. Vuoteen 1970 mennessä enää vain 20 prosenttia japanilaisista asui maaseudulla. Myös maaseudun ilme muuttui: maatalous koneellistui ja tehostui, ja perinteistä maalaismaisemaa alkoivat korvata betoni ja tehtaat. Televisio sitoi maaseudunkin asukkaat kansainvälistyvään maailmaan ja länsimaiseen populaarikulttuuriin. Kaupungeista puoleensa veti erityisesti Tokio, japanilaisen urbanisaation huipentuma, jossa asui vuonna 1972 joka yhdeksäs japanilainen. Houkuttelevuudestaan huolimatta kaupunkielämä ei ollut ongelmatonta. Huomattavampiin epäkohtiin kaupungeissa kuului asuminen, johon monilla japanilaisilla oli vähemmän tilaa kuin länsimaalaisilla. Vuoteen 1972 mennessä maan hinta monissa suurissa kaupungeissa oli 25-kertaistunut vuodesta 1955.[153]
Kaupungistuminen merkitsi tiiviyden aiheuttamista ongelmista kuten ruuhkaisuudesta huolimatta elintason kasvua ja uutta viihdeyhteiskuntaa, tavarataloja, elokuvateattereita ja ravintoloita. Nuoriin kaupunkilaisiin vaikutti erityisesti yhdysvaltalainen populaarikulttuuri, jonka he omaksuivat antaumuksella. Yleisesti ottaen siirtyminen kaupunkeihin sujui Japanissa kitkattomammin kuin monissa länsimaissa, eikä esimerkiksi rikollisuus kasvanut erityisesti. Väliinputoajiin vetosivat niin sanotut ”uususkonnot”, kuten Sōka Gakkai, jotka kukoistivat 1950- ja 1960-luvuilla. Uuden kaupunkikulttuurin esiinmarssi aiheutti kuilun vapaamman nuoren sukupolven ja perinteisemmän vanhan sukupolven välille, mikä sai aikaan konflikteja esimerkiksi yliopistoissa. Vaikka kaupungeissa ei enää eletty yhtä konformistisesti kuin maaseudulla, maaseutuyhteiskunnan hierarkkiset rakenteet näkyivät nyt esimerkiksi yrityksissä.[153] Merkittävät, todelliset sosiaaliset muutokset sodan jälkeen ovat usein johtuneet kuitenkin ennemminkin fyysisistä muutoksista elintavoissa kuin ulkopuolisista kulttuurivaikutteista.[154]
Öljykriisin jälkeen
1970-luvulle tultaessa voimakkain talouskasvu lakkasi: halpaa työvoimaa ei ollut enää saatavilla, teknologia oli kehittynyt huomattavasti ja kilpailu raskaassa teollisuudessa vähentynyt. Myös ympäristöongelmat herättivät nyt aiempaa enemmän huolta. Öljykriisi ja sen aiheuttama lama toivat esiin Japanin talouden heikkoudet, riippuvuuden Lähi-idän öljystä ja ulkomaisista elintarvikkeista sekä ylituetun maatalouden. 1970- ja 1980-luvuilla Japani alkoikin monipuolistaa talouspohjaansa ja liittää sitä vahvemmin maailmantalouteen. Maan runsaasti energiaa kuluttava raskas teollisuus on saanut tehdä tilaa tietotekniikka-, mekatroniikka-, ja bioteknologia-alan yrityksille.[155][156][153] Öljykriisin jälkeen Ydinvoiman käyttöä lisättiin ratkaisuna energiaongelmaan ja energian säästöä kasvatettiin yrityksissä huomattavasti. 1980-luvulla Japani nousi yhdeksi maailman suurimmista talouksista, jonka bruttokansantuote henkeä kohden oli suurempi kuin Yhdysvalloissa. Japani oli nyt maailman suurin kehitysavun antaja. Talouden menestyksen takana oli valtava vienti, jonka kasvattaminen nähtiin tärkeänä 1970-luvun kriisien jälkeen ja joka kompensoi vähäistä kasvua kotimaassa. Vienti ja öljyn hinnan lasku kuitenkin toivat maalle valtavan suuren positiivisen kauppataseen, joka aiheutti kiistoja Yhdysvaltojen ja Euroopan valtioiden kanssa. Ne syyttivät Japania oman markkinansa sulkemisesta, ja Japani alkoikin onnistuneesti avata talouttaan laskemalla tariffeja ja poistamalla sääntelyä ja rajoituksia.[156][153]
1980-luvun lopulla Japaniin syntyi kuitenkin niin kutsuttu kuplatalous, joka nosti maan kiinteistö- ja pääomahinnat pilviin. Kupla puhkesi 1990-luvun alussa, jolloin Japani ajautui syvään ja pitkäkestoiseen lamaan. Aikaa on kutsuttu ”menetetyksi vuosikymmeneksi”. Lama viivästytti uudistuksia ja pahensi kauppajännitteitä, mutta positiivinen kauppatase jatkoi edelleen kasvuaan. Talousvaikeudet jatkuivat aina 2000-luvulle saakka – työttömyys nousi ensimmäistä kertaa sodan jälkeen yli viiden prosentin vuonna 2000. Pääministeri Ryūtarō Hashimoton 1990-luvun puolivälissä ehdottamat laajat uudistukset, joita kutsuttiin lempinimellä ”Big Bang”, aiheuttivat runsaasti vastustusta. Japanin talouden ongelmiksi ovat jääneet nopeasti ikääntyvä väestö ja tuloerojen kasvu.[153]
Viime vuosikymmeninä kaupungistuminen ja väestönkasvun hidastuminen on jatkunut, ja myös elintaso on noussut huomattavasti. 1980-luvun puoliväliin mennessä syntyvyys ei enää ollut tarpeeksi suuri väestön uudistumiseksi, ja vuoteen 2000 mennessä yli 65-vuotiaiden osuus väestöstä oli ylittänyt alle 15-vuotiaiden osuuden. Ikääntyneen väestön huoltaminen ja työikäisen väestön osuuden pieneneminen tuo suuria haasteita Japanin taloudelle ja yhteiskunnalle. Toisena ongelmana on ollut puute asuintilasta, mikä on nostanut asuntojen hintoja ja tehnyt monille oman asunnon ostamisen mahdottomaksi. Japanin kaupungistuessa ja kansainvälistyessä myös japanilaisten arvot ovat muuttuneet: yhteiskunnan hierarkkisuus on jonkin verran vähentynyt, individualismi lisääntynyt ja naisten asema edelleen parantunut. Japanilaiset ovat 1900-luvun loppupuolella matkustaneet aiempaa enemmän ulkomailla, ja myös maassa asuvien ulkomaalaisten osuus on kasvanut huomattavasti noin 1,3 miljoonaan 1900-luvun lopussa.[157]
Ulkosuhteet
Koska Neuvostoliitto ei allekirjoittanut San Franciscon rauhansopimusta, maiden välille jäi kiista neljästä Kuriilista Hokkaidōn pohjoispuolella. Diplomaattisuhteet Neuvostoliittoon solmittiin kuitenkin vuonna 1956. Tällöin Japani hyväksyttiin Yhdistyneiden kansakuntien jäseneksi, kun Neuvostoliitto ei enää estänyt maan liittymistä järjestöön.[158] San Franciscon rauhansopimus jätti auki myös sotakorvaukset Japanin miehittämille alueille, joiden kanssa korvauksista oli tarkoitus sopia tapauskohtaisesti. Sopimukset tehtiin Burman kanssa vuonna 1954, Filippiinien kanssa vuonna 1956 ja Indonesian kanssa vuonna 1958. Yhdysvaltojen vaikutuksesta Japani solmi suhteet Kiinan tasavaltaan, jonka kanssa kehittyi vilkas kauppa. Manner-Kiinan kanssa kauppa kehittyi hitaasti, sillä diplomaattisuhteita maiden välillä ei ollut. Vähitellen Japanista tuli kuitenkin Kiinan kansantasavallan merkittävin kauppakumppani. Kun presidentti Nixon teki yllätysvierailun Kiinaan, Japani joutui harkitsemaan suhtautumistaan uudelleen. Vuonna 1972 Japani solmi Kiinan kansantasavallan kanssa sopimuksen suhteiden normalisoinnista ja katkaisi viralliset siteensä Kiinan tasavaltaan. Rauhansopimus kommunistisen Kiinan kanssa solmittiin vuonna 1978. Kylmän sodan päättyminen salli Japanin omaksua itsenäisemmät suhteet Kiinaan, ja 1990-luvun alkuun mennessä Kiina oli jo kohonnut maan toiseksi suurimmaksi kauppakumppaniksi Yhdysvaltojen jälkeen. Maiden suhteita ovat rasittaneet 2000-luvulle saakka Japanin Kiinassa tekemät sotarikokset.[157]
Kaikkein merkittävin ulkosuhde Japanille oli ja on kuitenkin suhde Yhdysvaltoihin, erityisesti maiden välisen yhteistyösopimuksen mutta myös kauppasuhteiden kautta. Sopimuksen uusiminen vuonna 1960 aiheutti suurmielenosoituksia ja jännitteitä LDP:n ja vasemmiston välille, sillä monet pelkäsivät sen suututtavan kommunistiset suurvallat ja sitovan Japanin uhkaavaan ydinsotaan. 1960-luvun lopulta alkaen Yhdysvaltojen yhä miehittämiä alueita luovutettiin takaisin Japanille: Ogasawarasaaret pääministeri Eisaku Satōn kaudella vuonna 1967 ja Ryūkyūsaaret vuonna 1972. Neuvostoliiton hajoamisen jälkeen yhteistyösuhteen luonne ei kuitenkaan juuri ole muuttunut. Kitkaa maiden välille on syntynyt usein talouskysymyksissä, kun Japani on noussut vähitellen Yhdysvaltojen taloudelliseksi kilpakumppaniksi.[158][153][157]
Sodan jälkeen Japanin poliittiset johtajat pitivät usein matalaa profiilia kansainvälisessä politiikassa. 1980-luvulla Japania kuvattiin usein talousjättiläiseksi ja poliittiseksi kääpiöksi.[159] Japanin rooli maailmanpolitiikassa ja taloudessa on kuitenkin muuttunut huomattavasti 1900-luvun loppupuolella. Japani on muuttunut johtavaksi teollisuusmaaksi ja tärkeäksi luotonantajaksi: japanilaiset investoinnit ja omistukset ulkomailla ovat sitoneet sen aiempaa tiiviimmin kansainväliseen talouteen ja politiikkaan. Japani on osallistunutkin aktiivisesti esimerkiksi Maailman kauppajärjestön ja muiden talousjärjestöjen sekä Yhdistyneiden kansakuntien toimintaan. Vuonna 2003 Japani lähetti pääministeri Jun'ichirō Koizumin johdolla joukkoja tukemaan Yhdysvaltojen miehitystä Irakissa. Operaatiossa japanilaiset joukot olivat ensimmäistä kertaa toiminnassa sota-alueella sitten toisen maailmansodan. Operaatio jakoi mielipiteitä Japanissa, jossa monet uskoivat sen rikkovan maan perustuslain 9. artiklaa.[153][157]
Politiikka
Japanin politiikka oli miehityskaudella ollut epävakaista ja hallitukset lyhytaikaisia. Merkittäväksi muodostui vuosi 1955, jolloin vasemmisto yhdistyi Japanin sosialistiseksi puolueeksi (JSP) ja liberaalit ja demokraatit uudeksi liberaalidemokraattiseksi puolueeksi (LDP). Japaniin muodostui käytännössä kaksipuoluejärjestelmä. Puolueista vahvempi, konservatiivinen LDP pysyi vallassa yhtäjaksoisesti aina 1990-luvulle saakka. LDP sai äänestäjäkuntansa erityisesti maaseudulta, ja sen ideologiaan kuuluivat talouskasvun edistäminen ja Japanin maailmanlaajuisen roolin kasvattaminen. Japanin politiikalle ja erityisesti konservatiivisille puolueille ovat kuitenkin pikemminkin olleet luonteenomaisia puolueiden sisäiset rymittymät, side byrokratiaan ja henkilökohtaiset lojaliteetit ideologioiden sijaan. LDP muodosti läheiset siteet talouselämään. Oppositiossa ollut JSP vastusti yhdysvaltalaisia tukikohtia, ydinaseita ja mahdollisia muutoksia perustuslakiin ja keskittyi kaupunkien ongelmiin. Se vetosi erityisesti työväenluokkaan ja kaupunkien älymystöön. Vuonna 1959 puolue kuitenkin hajosi, kun osa sen jäsenistä muodosti uuden demokraattisen sosialistisen puolueen (DSP). 1960-ja 1970-luvuilla LDP:n valta näytti vähitellen heikentyvän: Vietnamin sota, opiskelijalevottomuudet, ympäristöongelmat sekä työ- ja talouskysymykset heikensivät puolueen suosiota. Niin kutsutun ”Nixon-šokin” eli Yhdysvaltain presidentin Kiinaan tekemän yllätysvierailun poliittiset ja taloudelliset vaikutukset sekä öljykriisi uhkasivat LDP:tä ja Japanin taloutta.[157][160]
Japanin talouden nousu 1970-luvulta ja onnistunut siirtyminen savupiipputeollisuudesta korkeateknologian tuotteisiin auttoivat LDP:tä pysymään vallassa 1970- ja 1980-luvuilla. Puolueen kannatusosuus kuitenkin laski jatkuvasti, vaikka sen valta näennäisesti kasvoi. Vuonna 1969 LDP sai kolme viidesosaa äänistä, vuonna 1989 enää alle kolmasosan. Talousvaikeuksien ja kuplatalouden myötä endeemiseksi kasvaneen poliittisen korruption myötä luottamus puolueeseen, jota hajotti sarja poliittisia skandaaleja, laski 1990-luvun vaihteessa. Keisari Hirohiton kuolema ja uuden Heisei-kauden alku toi puolueelle väliaikaisen helpotuksen 1980-luvun lopussa, mutta pian pääministeri Noboru Takeshita joutui eroamaan Recruit-talousskandaalin vuoksi. Häntä seurasi seksiskandaaliin joutunut Sōsuke Uno. Vihdoin vuoden 1993 vaaleissa LDP menetti enemmistönsä parlamentissa oppositiopuolueiden koalitiolle. Morihiro Hosokawan ja Tsutomu Hatan lyhytaikaisten hallitusten jälkeen Tomiichi Murayamasta tuli Japanin ensimmäinen sosialistipääministeri sitten vuoden 1948. Hänen kaudellaan Kōbeen iski yli 5000 henkeä surmannut suuri maanjäristys ja Tokion metro joutui Korkein totuus -lahkon sariinikaasuiskun kohteeksi. Murayama ja Japanin edustajainhuone pyysivät anteeksi Japanin sotatoimia Aasiassa.[161][157]
Vuonna 1996 LDP nousi takaisin valtaan sosiaalidemokraattisen puolueen vaalitappioiden jälkeen. Puolue kärsi kuitenkin huonosta menestyksestä vaaleissa ja joutui muodostamaan vähemmistöhallituksen vuonna 1996 ja koalitiohallituksen vuonna 2000. Vuonna 2001 pääministeriksi nousi huomattavaa kansansuosiota nauttinut Jun'ichirō Koizumi, jonka vaatimukset talousuudistuksista kohtasivat vastustusta puolueen konservatiivisissa ryhmittymissä. Hänen käyntinsä kiistellyssä Yasukuni-pyhäkössä sekä hänen ja hänen seuraajansa Shinzō Aben ajama perustuslain muutos Japanin armeijan vahvistamiseksi herättivät ärtymystä Japanissa ja erityisesti Japanin sotarikoksista kärsineissä naapurimaissa, Kiinassa ja Etelä-Koreassa.[157]
2000-luku
Vuoden 2008 maailmanlaajuinen talouskriisi iski myös Japaniin. Erityisesti Japanin vienti heikkeni nopeasti vuosina 2008–2009, kun japanilaisten tuotteiden kysyntä väheni laman myötä ja jenin arvo samalla vahvistui.[162] Pian Kiina nousi Japanin ohi maailman toiseksi suurimmaksi taloudeksi.[163] Ensimmäisissä talouskriisin jälkeisissä vaaleissa oppositiopuolue Japanin demokraattinen puolue (DPJ) otti murskavoiton liberaalidemokraateista ja päätti LDP:n yli puoli vuosisataa lähes yhtäjaksoisena jatkuneen valtakauden. Pääministeriksi nousi DPJ:n Yukio Hatoyama.[164]
Japanin väestönkehitys muuttui negatiiviseksi vuonna 2005, jolloin syntyvyys laski alimmalle historialliselle tasolle. Japanin väestön vähenee noin puoli prosenttia vuodessa. Suurimmillaan Japanin väestö oli 127,76 miljoonaa.[165]
11. maaliskuuta 2011 Tōhokun alueelle Sendain kaupungin itäpuolelle iski voimakas 9.0 richterin maanjäristys, joka sai aikaan tsunamin. Tsunamiaallot tuhosivat lukuisia Tōhokun rannikkokaupunkeja ja kuljettivat Tyynellemerelle valtavan määrän jätettä. Katastrofissa arvioidaan kuolleen tai kadonneen lähes 20000 henkeä, joista valtaosa hukkui. Vaikka tsunami aiheutti suurimman tuhon, myös maanjäristys vahingoitti infrastruktuuria ja sai aikaan tulipaloja. Tsunami iski myös Fukushiman prefektuurin rannikolla sijaitsevaan Fukushima I -ydinvoimalaitokseen ja vahingoitti sen varavoimageneraattoreita. Ydinreaktorien jäähdytysjärjestelmien petettyä kolme reaktoria ylikuumeni ja niiden ytimet sulivat. Vetykaasun aiheuttamat räjähdykset levittivät säteilyä voimalan ympäristöön, etenkin sen luoteispuolelle, ja noin 100000 asukasta jouduttiin evakuoimaan. Säteilyä levisi myös jäähdytysveden mukana Tyyneenmereen. Vaikka voimalan tila vakaantui vuoden loppuun mennessä, sen purkamisen arvioidaan kestävän vuosikymmeniä.[166][167]
Vuoden 2012 vaaleissa valtaan palasi vain kolmen vuoden jälkeen LDP entisen pääministerin Shinzō Aben johdolla. Abe aloitti laajat ”Abenomics”-lempinimellä tunnetut talousuudistukset, joiden tavoitteena on nostaa Japani kaksi vuosikymmentä kestäneestä taantumasta.[163]
Lähteet
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Viitteet
Aiheesta muualla
Internetissä
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Kirjallisuutta
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Luokka:93 Aasian historia
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Kaiser Permanente (/ˈkaɪzər pɜːrməˈnɛnteɪ/; KP) is an American integrated managed care consortium, based in Oakland, California, United States, founded in 1945 by industrialist Henry J. Kaiser and physician Sidney Garfield. Kaiser Permanente is made up of three distinct but interdependent groups of entities: the Kaiser Foundation Health Plan, Inc. (KFHP) and its regional operating subsidiaries; Kaiser Foundation Hospitals; and the regional Permanente Medical Groups. As of 2017, Kaiser Permanente operates in eight states (Hawaii, Washington, Oregon, California, Colorado, Maryland, Virginia, Georgia) and the District of Columbia, and is the largest managed care organization in the United States.
As of October 2017, Kaiser Permanente had 11.7 million health plan members, 208,975 employees, 21,275 physicians, 54,072 nurses, 39 medical centers, and 720 medical facilities.[2] As of December 31, 2017, the non-profit Kaiser Foundation Health Plan and Kaiser Foundation Hospitals entities reported a combined $3.8 billion in net income on $72.7 billion in operating revenues.[1] Each Permanente Medical Group operates as a separate for-profit partnership or professional corporation in its individual territory, and while none publicly reports its financial results, each is primarily funded by reimbursements from its respective regional Kaiser Foundation Health Plan entity. KFHP is one of the largest not-for-profit organizations in the United States.
KP's quality of care has been highly rated and attributed to a strong emphasis on preventive care, its doctors being salaried rather than paid on a fee-for-service basis, and an attempt to minimize the time patients spend in high-cost hospitals by carefully planning their stay. However, Kaiser has had disputes with its employees' unions, repeatedly faced civil and criminal charges for falsification of records and patient dumping, faced action by regulators over the quality of care it provided, especially to patients with mental health issues, and has faced criticism from activists and action from regulators over the size of its cash reserves.
Structure and governance
Kaiser Permanente provides care throughout eight regions in the United States. Two or three (four, in the case of California) distinct but interdependent legal entities form the Kaiser system within each region. This structure was adopted by Kaiser Permanente physicians and leaders in 1955.
Governance
Each entity of Kaiser Permanente has its own management and governance structure, although all of the structures are interdependent and cooperative to a great extent. There are multiple affiliated non-profits registered with the U.S. Internal Revenue Service. According to Form 990 governance questions, Kaiser Foundation Hospitals and Kaiser Foundation Health Plan do not have members with the power to appoint or elect board members, meaning that the board itself nominates and appoints new members.[3]
Chairman and CEO George Halvorson retired in December 2013, after serving since 2002.[4]
On November 5, 2012, the board of directors announced that Bernard J. Tyson, Kaiser's president and chief operating officer for the last two years, would replace Halvorson[5] — the first time an African American was appointed to that position.[6]
National structure
The two types of organizations which make up each regional entity are:
Kaiser Foundation Health Plans (KFHP) work with employers, employees, and individual members to offer prepaid health plans and insurance. The health plans are not-for-profit and provide infrastructure for and invest in Kaiser Foundation Hospitals and provide a tax-exempt shelter for the for-profit medical groups.
Permanente Medical Groups are physician-owned organizations, which provide and arrange for medical care for Kaiser Foundation Health Plan members in each respective region. The medical groups are for-profit partnerships or professional corporations and receive nearly all of their funding from Kaiser Foundation Health Plans. The first medical group, The Permanente Medical Group (TPMG), formed in 1948 in Northern California. Permanente physicians become stockholders in TPMG after three years at the company.[7]
In addition, Kaiser Foundation Hospitals operates medical centers in California, Oregon, Washington and Hawaii, and outpatient facilities in the remaining Kaiser Permanente regions. The hospital foundations are not-for-profit and rely on the Kaiser Foundation Health Plans for funding. They also provide infrastructure and facilities that benefit the for-profit medical groups.
Regional entities
Kaiser Permanente is administered through eight regions, including one parent and six subordinate health plan entities, one hospital entity, and nine separate, affiliated medical groups:
Various legal entities serve the areas of the US where Kaiser operates: California (the largest two), Colorado, Georgia, Hawaii, mid-Atlantic, Pacific Northwest, and Washington.
Northern California, 3,351,449 members[8]
Kaiser Foundation Health Plan, Inc. (KFHP)
Kaiser Foundation Hospitals (KFH)
The Permanente Medical Group, Inc. (TPMG)
Southern California, 3,499,035 members
Kaiser Foundation Health Plan, Inc. (KFHP)
Kaiser Foundation Hospitals (KFH)
Southern California Permanente Medical Group (SCPMG)
Colorado, 531,908 members
Kaiser Foundation Health Plan of Colorado (KFHPCO)
Colorado Permanente Medical Group, P.C. (CPMG)
Georgia, 222,074 members
Kaiser Foundation Health Plan of Georgia, Inc. (KFHPGA)
The Southeast Permanente Medical Group, Inc. (TSPMG)
Hawaii, 226,900 members
Kaiser Foundation Health Plan, Inc. (KFHP)
Kaiser Foundation Hospitals (KFH)
Hawaii Permanente Medical Group, Inc. (HPMG)
Mid-Atlantic (vicinity of Washington, D.C., including Maryland and Virginia), 581,000 members
Kaiser Foundation Health Plan of the Mid-Atlantic States Inc. (KFHPMA)
Mid-Atlantic Permanente Medical Group, P.C. (MAPMG)
Northwest (Northwest Oregon and Southwest Washington), 480,386 members
Kaiser Foundation Health Plan of the Northwest (KFHPNW)
Kaiser Foundation Hospitals (KFH)
Northwest Permanente, P.C. Physicians and Surgeons (NWP)
Washington (except Southwest Washington), 681,386 members
Kaiser Foundation Health Plan of Washington
Washington Permanente Medical Group
In addition to the regional entities, in 1996, the then-twelve Permanente Medical Groups created The Permanente Federation, a separate entity, which focuses on standardizing patient care and performance under one name and system of policies. Around the same time, The Permanente Company was also chartered as a vehicle to provide investment opportunities for the for-profit Permanente Medical Groups.[9] One of the ventures of the Permanente Company is Kaiser Permanente Ventures, a venture capital firm that invests in emerging medical technologies.[10]
History
Early years
The history of Kaiser Permanente dates to 1933 and a tiny hospital in the town of Desert Center, California. At that time, Henry J. Kaiser and several other large construction contractors had formed an insurance consortium called Industrial Indemnity to meet their workers' compensation obligations. Dr. Sidney Garfield had just finished his residency at Los Angeles County-USC Medical Center at a time when jobs were scarce; he was able to secure a contract with Industrial Indemnity to care for 5,000 construction workers building the Colorado River Aqueduct in the Mojave Desert. Soon enough, Garfield's new hospital was in a precarious financial state (with mounting debt and the staff of three going unpaid), due in part to Garfield's desire to treat all patients regardless of ability to pay, as well as his insistence on equipping the hospital adequately so that critically injured patients could be stabilized for the long journey to full-service hospitals in Los Angeles.[11]:19–26
However, Garfield won over two Industrial Indemnity executives, Harold Hatch and Alonzo B. Ordway. It was Hatch who proposed to Garfield the specific solution that would lead to the creation of Kaiser Permanente: Industrial Indemnity would prepay 17.5% of premiums, or $1.50 per worker per month, to cover work-related injuries, while the workers would each contribute five cents per day to cover non-work-related injuries. Later, Garfield also credited Ordway with coming up with the general idea of prepayment for industrial healthcare, and explained that he did not know much at the time about other similar health plans except for the Ross-Loos Medical Group.[12]
Hatch's solution enabled Garfield to bring his budget back into the positive, and to experiment with providing a broader range of services to the workers besides pure emergency care. By the time work on the aqueduct concluded and the project was wrapped up, Garfield had paid off all his debts, was supervising ten physicians at three hospitals, and controlled a financial reserve of $150,000.[13]
Garfield returned to Los Angeles for further study at County-USC with the intent of entering private practice. However, in March 1938, Consolidated Industries (a consortium led by the Kaiser Company) initiated work on a contract for the upper half of the Grand Coulee Dam in Washington state, and took over responsibility for the thousands of workers who had worked for a different construction consortium on the first half of the dam. Edgar Kaiser, Henry's son, was in charge of the project. To smooth over relations with the workers (who had been treated poorly by their earlier employer), Hatch and Ordway persuaded Edgar to meet with Garfield, and in turn Edgar persuaded Garfield to tour the Grand Coulee site. Garfield subsequently agreed to reproduce at Grand Coulee Dam what he had done on the Colorado River Aqueduct project. He immediately spent $100,000 on renovating the decrepit Mason City Hospital and hired seven physicians.[14]
Unlike the workers on Garfield's first project, many workers at Grand Coulee Dam had brought dependents with them. The unions soon forced the Kaiser Company to expand its plan to cover dependents, which resulted in a dramatic shift from industrial medicine into family practice and enabled Garfield to formulate some of the basic principles of Kaiser Permanente. It was also during this time that Henry Kaiser personally became acquainted with Garfield and forged a friendship which lasted until Kaiser's death.[15]
World War II
In 1939, the Kaiser Company began work on several huge shipbuilding contracts in Oakland, and by the end of 1941 would control four major shipyards on the West Coast. During 1940, the expansion of the American defense-industrial complex in preparation for entrance into World War II resulted in a massive increase in the number of employees at the Richmond shipyard.[16] In January 1941, Henry Kaiser asked Garfield to set up an insurance plan for the Richmond workers (this was merely contract negotiation with insurance companies), and a year later Kaiser asked Garfield to duplicate at Richmond what he had done at Desert Center and Mason City.[17] Unlike the two other projects, the resulting entity lived on after the construction project that gave birth to it, and it is the direct ancestor of today's Kaiser Permanente.[18]
On March 1, 1942, Sidney R. Garfield & Associates opened its offices in Oakland to provide care to 20,000 workers, followed by the opening of the Permanente Health Plan on June 1.[19] From the beginning, Kaiser Permanente strongly supported preventive medicine and attempted to educate its members about maintaining their own health.[20]
In July, the Permanente Foundation formed to operate Northern California hospitals that would be linked to the outpatient health plans, followed shortly thereafter by the creation of Northern Permanente Foundation for Oregon and Washington and Southern Permanente Foundation for California. The name Permanente came from Permanente Creek, which flowed past Henry Kaiser's Kaiser Permanente Cement Plant on Black Mountain in Cupertino, California. Kaiser's first wife, Bess Fosburgh, liked the name. An abandoned Oakland facility was modernized as the 170-bed Permanente Hospital opened on August 1, 1942. Three weeks later, the 71-bed Richmond Field Hospital opened. Six first aid stations were set up in the shipyards to treat industrial accidents and minor illness. Each first aid station had an ambulance ready to rush patients to the surgical field hospital if required. Stabilized patients could be moved to the larger hospital for recuperative care.[21] The Northern Permanente Hospital opened two weeks later to serve workers at the Kaiser shipyard in Vancouver, Washington.[22] Shipyard workers paid seven cents per day for comprehensive health care coverage; and within a year the shipyard health plan employed sixty physicians with salaries between $450 and $1,000 per month. These physicians established California Physicians Service to offer similar health coverage to the families of shipyard workers.[21] In 1944, Kaiser decided to continue the program after the war and to open it up to the general public.[18]
Meanwhile, during the war years, the American Medical Association (AMA) (which opposed managed care organizations from their very beginning) tried to defuse demand for managed care by promoting the rapid expansion of the Blue Cross and Blue Shield preferred provider organization networks.[23]
Courage to Heal, a novel by KP Historical Society President, Paul Bernstein, MD, is based on the story of Garfield's life, his struggles with the AMA, and the origins of Kaiser Permanente.
Postwar growth
In 1948, Kaiser established the Henry J. Kaiser Family Foundation, (also known as Kaiser Family Foundation), a U.S.-based, non-profit, private operating foundation focusing on the major health care issues facing the nation.[24] The Foundation, not associated with Kaiser Permanente or Kaiser Industries, is an independent voice and source of facts and analysis for policymakers, the media, the health care community, and the general public.[24]
The end of World War II brought about a huge plunge in Kaiser Permanente membership; for example, 50,000 workers had left the Northern California yards by July 1945. Membership bottomed out at 17,000 for the entire system but then surged back to 26,000 within six months as Garfield aggressively marketed his plan to the public.[25] Sidney Garfield & Associates had been a sole proprietorship, but in 1948, it was reorganized into a partnership, Permanente Medical Group.[26]
During this period, a substantial amount of growth came from union members; the unions saw Kaiser Permanente care as more affordable and comprehensive than what was available at the time from private physicians under the fee-for-service system. For example, Fortune magazine had reported in 1944 that 90% of the U.S. population could not afford fee-for-service healthcare. Kaiser Permanente membership soared to 154,000 in 1950, 283,000 in 1952, 470,000 in 1954, 556,000 in 1956, and 618,000 in 1958.[27]
From 1944 onward, both Kaiser Permanente and Garfield fought numerous attacks from the AMA and various state and local medical societies. Henry Kaiser came to the defense of both Garfield and the health plans he had created.[28]
In 1951, the organization acquired its current name when Henry Kaiser unilaterally directed the trustees of the health plans, hospital foundations, and medical groups to add his name before Permanente.[29] However, the physicians in the Permanente Medical Group deeply resented the implication that they were directly controlled by Kaiser, and successfully forced him to back off with respect to their part of the organization. That same year, Kaiser Permanente also began experiments with large-scale multiphasic screening to identify unknown conditions and to facilitate treatment of known ones.[30] Simultaneously, although no one questioned his medical competence, Garfield's deficiencies as an executive were becoming apparent as the organization expanded far beyond his ability to manage it properly.[31]
Henry Kaiser became fascinated with the healthcare system created for him by Garfield and began to directly manage Kaiser Permanente and Garfield. This resulted in a financial disaster when Kaiser splurged on the new Walnut Creek hospital; his constant intermeddling led to significant friction at every level of the organization. The situation was not helped by Kaiser's marriage to Garfield's head administrative nurse (who had helped care for Kaiser's first wife on her deathbed), convincing Garfield to marry the sister of that nurse, and then having Garfield move in next door to him. Clifford Keene (who would eventually serve as president of Kaiser Permanente) later recalled that this arrangement resulted in a rather dysfunctional and combative family in charge of Kaiser Permanente.[32]
Keene was an experienced Permanente physician whom Garfield had personally hired in 1946. During 1953 he had been trying to get a job at U.S. Steel, but on the morning of December 5, 1953, with internal tensions worsening day by day, Garfield met with Keene at the Mark Hopkins Hotel in San Francisco and asked him to turn around the organization. It took Keene 15 years to realize that Kaiser had forced Garfield to ask Keene to become his replacement. Due to the chaos on the board, Keene at first took control with the vague title of Executive Associate, but it soon became clear to everyone that he was actually in charge and Garfield was to become a lobbyist and "ambassador" for the HMO concept.[33]
However, even with Garfield relieved of day-to-day management duties, the underlying problem of Henry Kaiser's authoritarian management style continued to persist. After several tense confrontations between Kaiser and Permanente Medical Group physicians, the doctors met with Kaiser's top adviser, Eugene Trefethen, at Kaiser's personal estate near Lake Tahoe on July 12, 1955. Trefethen came up with the idea of a contract between the medical groups and the health plans and hospital foundations which would set out roles, responsibilities, and financial distribution.[34] Trefethen, already a successful attorney, went on to a successful career with Kaiser Permanente and in retirement became a famous vintner.
While Keene and Trefethen struggled to fix the damage from Kaiser's micromanagement and Garfield's ineffectual management, Henry Kaiser moved to Oahu in 1956 and insisted on expanding Kaiser Permanente into Hawaii in 1958. He quickly ruined what should have been a simple project, and only a last-minute intervention by Keene and Trefethen in August 1960 prevented the total disintegration of the Hawaii organization.[35] By that year, Kaiser membership had grown to 808,000.[36]
Managed care era
Having overseen Kaiser Permanente's successful transformation from Henry Kaiser's healthcare experiment into a large-scale self-sustaining enterprise, Keene retired in 1975.[37] By 1976, membership reached three million. In 1977, all six of Kaiser Permanente's regions had become federally qualified health maintenance organizations. Historians [who?] now believe then-President Richard Nixon specifically had Kaiser Permanente in mind when he signed the Health Maintenance Organization Act of 1973, as the organization was mentioned in an Oval Office discussion of the Act, where John Ehrlichman characterized Kaiser's philosophy thus: "All the incentives are toward less medical care, because the less care they give them, the more money they make."[38] In 1980, Kaiser acquired a non-profit group practice to create its Mid-Atlantic region, encompassing the District of Columbia, Maryland, and Virginia. In 1985, Kaiser Permanente expanded to Georgia.
Regional evolution
By 1990, Kaiser Permanente provided coverage for about a third of the population of the cities of San Francisco and Oakland; total Northern California membership was over 2.4 million.[39]
Elsewhere, Kaiser Permanente did not do as well, and its geographic footprint changed significantly in the 1990s. The organization spun off or closed outposts in Texas, North Carolina, and the Northeast. In 1998, Kaiser Permanente sold its Texas operations, where reported problems had become so severe that the organization directed its lawyers to attempt to block the release of a Texas Department of Insurance report. This prompted the state attorney general to threaten to revoke the organization's license.[40] Kaiser Permanente closed health plans in Charlotte and Raleigh-Durham[41] in North Carolina four years later. The organization also sold its unprofitable Northeast division in 2000. The Ohio division was sold to Catholic Health Partners in 2013.[42]
In 1995, Kaiser Permanente celebrated its fiftieth anniversary as a public health plan. Two years later, national membership reached nine million. In 1997, the organization established an agreement with the AFL-CIO to explore a new approach to the relationship between management and labor, known as the Labor Management Partnership. Going into the new millennium, competition in the managed care market increased dramatically, raising new concerns. The Southern California Permanente Medical Group saw declining rates of new members as other managed care groups, notably DaVita HealthCare Partners, flourished.
KP HealthConnect
In 2002, Kaiser Permanente abandoned its attempt to build its own clinical information system with IBM, writing-off some $452 million in software assets. This information technology failure led to major changes in the organization's approach to digital records. Under George Halvorson's direction, Kaiser looked closely at two medical software vendors, Cerner and Epic Systems, ultimately selecting Epic as the primary vendor for a new system, branded KP HealthConnect. Although Kaiser's approach shifted to "buy, not build," the project was unprecedented for a civilian system in size and scope. Deployed across all eight regions over six years and at a cost of more than $6 billion,[43] by 2010, it was the largest civilian electronic medical record system, serving more than 8.6 million Kaiser Permanente members, implemented at a cost exceeding a half million dollars per physician.[44]
International reputation
Early in the 21st century the NHS and UK Department of Health became impressed with some aspects of the Kaiser operation, and initiated a series of studies involving several healthcare organizations in England.[45][46] Visits occurred and suggestions of adopting some KP policies are currently active. The management of hospital bed-occupancy by KP, by means of integrated management in and out of hospital and monitoring progress against care pathways has given rise to trials of similar techniques in eight areas of the UK.
In 2002, a controversial study by California-based academics published in the British Medical Journal compared Kaiser to the British National Health Service, finding Kaiser to be superior in several respects.[45] Subsequently, a group of health policy academics who were experts on the NHS published a competing analysis claiming that Kaiser's costs were actually substantially higher than the NHS and for a younger and healthier population.[47]
Quality of care
In the California Healthcare Quality Report Card 2013 Edition, Kaiser Permanente's Northern California and Southern California regions, Kaiser received four out of four possible stars in Meeting National Standards of Care. Kaiser North and South also received three out of four stars in Members Rate Their HMO.[48] KP's performance has been attributed to three practices: First, KP places a strong emphasis on preventive care, reducing costs later on. Second, its doctors are salaried rather than paid per service, which removes the main incentive for doctors to perform unnecessary procedures. Thirdly, KP attempts to minimize the time patients spend in high-cost hospitals by carefully planning their stay and by shifting care to outpatient clinics. This practice results in lower costs per member, cost savings for KP and greater doctor attention to patients. A comparison to the UK's National Health Service found that patients spend 2–5 times as much time in NHS hospitals as compared to KP hospitals.[49][50]
In June 2013, the California Department of Managed Health Care (DMHC) levied a $4 million fine, the second largest in the agency's history, against Kaiser for not providing adequate mental health care to its patients. Alleged violations of California's timely access laws included failures to accurately track wait times and track doctor availability amid evidence of inconsistent electronic and paper records. It was also found by the DMHC that patients received written materials circulated by Kaiser dissuading them from seeking care, a violation of state and federal laws. DMHC also issued a cease and desist order for Kaiser to end the practices.[51][52] DMHC conducted a follow up investigation which published in April 2015. The report found Kaiser had put systems in place to better track how patients were being cared for, but still had not addressed problems with actually providing mental health care that complied with state and federal laws.[52] Kaiser's challenges on this front were exacerbated by a long, unresolved labor dispute with the union representing therapists.[52]
Kaiser appealed the findings, the order, and the fine, and sought to keep the proceedings closed, but in September 2014, in the face of the administrative judge's order to keep the proceedings open, and facing the beginning of public testimony, Kaiser withdrew the appeal and paid the $4 million. It also issued a statement which denied much of the wrongdoing. Kaiser faces ongoing inspections by DMHC and three class-action lawsuits related to the issues identified by the DMHC.[53]
Historical issues
In 2006 Kaiser settled five cases for alleged patient dumping—the delivery of homeless hospitalized patients to other agencies or organizations in order to avoid expensive medical care—between 2002 and 2005. Los Angeles city officials had filed civil and criminal legal action against Kaiser Permanente for patient dumping, which was the first action of its kind that the city had taken.[54] The city's decision to charge Kaiser Permanente reportedly was influenced by security camera footage, allegedly showing a 63-year-old patient, dressed in hospital gown and slippers, wandering toward a mission on Skid Row (this footage was prominently featured in the Michael Moore 2007 documentary Sicko). At the time that the complaint was filed, city officials said that 10 other hospitals were under investigation for similar issues.[54] Kaiser settled the case, paying $5,000 in civil penalties and agreeing to spend $500,000 on services for the homeless.[55] During that same period, the Department of Health and Human Services' Office of the Inspector General settled 102 cases against U.S. hospitals which resulted in a monetary payment to the agency.[56][57]
In 2004, Northern California Kaiser Permanente initiated an in-house program for kidney transplantation. Prior to opening the transplant center, Northern California Kaiser patients would generally receive transplants at medical centers associated with the University of California (UC San Francisco and UC Davis). Upon opening the transplant center, Kaiser required that members who are transplant candidates in Northern California obtain services exclusively through its internal KP-owned transplant center.
While it was in operation, the Kaiser program had a 100% survival rate, which is better than other transplant centers. However, patients who needed a kidney were less likely to be offered one.[58] Northern California Kaiser performed 56 transplants in 2005, and twice that many patients died while waiting for a kidney. At other California transplant centers, more than twice as many people received kidneys than died during the same period. Unlike other centers, the Kaiser program did not perform riskier transplants or use donated organs from elderly or other higher-risk people, which have worse outcomes. Northern California Kaiser closed the kidney transplant program in May 2006. As before, Northern California Kaiser now pays for pre-transplant care and transplants at other hospitals. This change affected approximately 2,000 patients.[59][60]
Research and publishing
Kaiser operates a Division of Research, which annually conducts between 200 and 300 studies, and the Center for Health Research which in 2009 had more than 300 active studies. Kaiser's bias toward prevention is reflected in the areas of interest—vaccine and genetic studies are prominent. The work is funded primarily by federal, state, and other outside (non-Kaiser) institutions.[61]
Kaiser has created and operates a voluntary biobank of donated blood samples from members along with their medical record and the responses to a lifestyle and health survey.[62] As of November 2018, the Kaiser Permanente Research Bank had over 300,000 samples, with a goal of 500,000. De-identified data is shared with both Kaiser researchers and researchers from other institutions.[63][64]
Controversies
Mandatory arbitration
In order to contain costs, Kaiser requires an agreement by planholders to submit patient malpractice claims to arbitration rather than litigating through the court system. This has triggered some opposition.[65]
Wilfredo Engalla is a notable case. In 1991, Engalla died of lung cancer nearly five months after submitting a written demand for arbitration. The California Supreme Court found[66] that Kaiser had a financial incentive to wait until after Engalla died; his spouse could recover $500,000 from Kaiser if the case was arbitrated while he was alive, but only $250,000 after he died. The Foundation for Taxpayer and Consumer Rights contends that Kaiser continues to oppose HMO arbitration reform.[67]
Watchdogs have accused Kaiser of abusing the power imbalance inherent in the arbitration system. Kaiser engages in many cases whereas a customer will usually engage in just one and Kaiser can reject any arbitrator unilaterally, thus they can select company-friendly arbitrators over those that rule in favor of customers. As a large organization, Kaiser can also afford to spend much more on lawyers and orators than the customer, giving them more advantages. In response to criticisms, Kaiser established an Office of Independent Administrators (OIA) in 1999 to oversee the arbitration process. The degree to which this office is actually independent has been questioned.[68]
Patients and consumer interest groups sporadically attempt to bring lawsuits against Kaiser Permanente. Recent lawsuits include Gary Rushford's 1999 attempt to use proof of a physician lie to overturn an arbitration decision.[69]
In one case, Kaiser attempted to significantly expand the scope of its arbitration agreements by arguing it should be able to force nonsignatories to its member contracts into arbitration, merely because those third parties had allegedly caused an injury to a Kaiser member which Kaiser had then allegedly exacerbated through its medical malpractice. The California Court of Appeal for the First District did not accept that argument: "Absent a written agreement—or a preexisting relationship or authority to contract for another that might substitute for an arbitration agreement—courts sitting in equity may not compel third party nonsignatories to arbitrate their disputes."[70]
Labor unions
While Doctors of Medicine (M.D.) and Doctors of Osteopathic Medicine (D.O.) are partners within the for-profit physician groups, many employees are members of various unions and guilds, depending on their role and service area.
KP's California operations were the target of four labor strikes in 2011 and 2012 — two (September 2011, January 2012) involved more than 20,000 nurses, mental health providers, and other professionals.[71] The National Union of Healthcare Workers (NUHW) has accused Kaiser of deliberately stalling negotiations while profiting $2.1 billion in 2011 and paying its CEO George Halvorson $9 million annually. The workers were dissatisfied with proposed changes to pensions and other benefits.[72]
On November 11, 2014, up to 18,000 nurses went on strike at KP hospitals in Northern California over Ebola safeguards and patient-care standards during union contract talks. 21 hospitals and 35 clinics in the San Francisco Bay Area were affected.[73]
In the fall of 2018, Kaiser Permanente and the reached a Tentative Agreement on a national, 3-year collective bargaining agreement that covers nearly 48,000 unionized Kaiser Permanente health care workers in 22 union locals. The negotiations, which began in May, were among the largest private-sector contract talks in the United States this year. The deputy director and commissioners of the Federal Mediation and Conciliation Service attended the sessions. This agreement went far beyond the traditional contract issues of wages and benefits to include provisions to strengthen the groundbreaking between Kaiser Permanente and the Alliance, at the senior leadership level as well as the front-line level. This includes 3,600 unit-based teams — jointly led by pairs of managers and union-represented employees — that are delivering significant improvements in the areas of quality, affordability, service and work environment on behalf of Kaiser Permanente members and patients.
Cash reserves
Jamie Court, president of the Foundation for Taxpayer and Consumer Rights has said that Kaiser's retained profits are evidence that Kaiser policies are overpriced and that health insurance regulation is needed.[74]
State insurance regulations require that insurers maintain certain minimum amounts of cash reserves to ensure that they are able to meet their obligations; the amount varies by insurer, based on its risk factors, such as its investments, how many people it insures, and other factors; a few states also have caps on how large the reserves can be.[75]
Kaiser has been criticized by activists and state regulators for the size of its cash reserves. As of 2015, it had $21.7 billion in cash reserves, which was about 1,600% the amount required by California state regulations.[76] Its reserves had been a target of advertising by Consumer Watchdog supporting Proposition 45 in California's 2014 elections.[76] At the end of 2010 Kaiser held $666 million in reserves, which was about 1,300% of the minimum required under Colorado state law.[75] Those funds were in Kaiser's risk-based capital account, held to pay for disasters or major projects.[75] In 2008, the Colorado regulator required Kaiser to spend down its reserves; after negotiations Kaiser agreed to spend $155 million of its reserves giving credits to its clients and building clinics in underserved parts of the state.[75]
See also
Heather O'Rourke (1975–1988) – child actress who became ill in 1987 and was misdiagnosed by doctors of Kaiser Permanente Hospital. She died on February 1, 1988 and a lawsuit followed shortly.
, which represents the Permanente Medical Groups
A project by OSHPD
Report on successful Kaiser Permanente initiatives including declaration by Louise Liang falsely attributing Vioxx discovery to KP HealthConnect even though it was not yet in production use in Northern California
Home page of a group scrutinizing managed care and its failures, contains links to several pages about issues involving Kaiser Permanente
| https://en.wikipedia.org/wiki/Kaiser%20Permanente |
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jmpl|Umat Islam Indonesia tengah membaca Al Quran setelah menunaikan salat di Masjid Istiqlal, Jakarta. Indonesia memiliki jumlah umat Islam terbesar di dunia
Islam di Indonesia merupakan mayoritas terbesar umat Muslim di dunia. Data Sensus Penduduk 2010 menunjukkan ada sekitar 87,18% atau 207 juta jiwa dari total 238 juta jiwa penduduk beragama Islam. Walau Islam menjadi mayoritas, namun Indonesia bukanlah negara yang berasaskan Islam.
Sejarah masuknya Islam
Penyebaran Islam menurut sejumlah catatan
Berbagai teori perihal masuknya Islam ke Indonesia terus muncul sampai saat ini. Fokus diskusi mengenai kedatangan Islam di Indonesia sejauh ini berkisar pada tiga tema utama, yakni tempat asal kedatangannya, para pembawanya, dan waktu kedatangannya. Seperti banyak diketahui jika daerah penghasil batu kapur yaitu Kota Barus (Sibolga-Sumatera Utara) sudah digunakan oleh para firaun di mesir untuk proses pemakaman mumi firaun. Berdasarkan hal tersebut membuktikan jika jauh sebelum islam datang, masyarakat Nusantara sudah berhubungan dengan dunia luar. Ada kemungkinan Islam sudah masuk di Nusantara terjadi pada masa Kenabian atau masa hidupnya Nabi Muhammad. Mengenai tempat asal kedatangan Islam yang menyentuh Indonesia, di kalangan para sejarawan terdapat beberapa pendapat. Ahmad Mansur Suryanegara mengikhtisarkannya menjadi tiga teori besar. Pertama, teori Gujarat, India. Islam dipercayai datang dari wilayah Gujarat – India melalui peran para pedagang India muslim pada sekitar abad ke-13 M. Kedua, teori Makkah. Islam dipercaya tiba di Indonesia langsung dari Timur Tengah melalui jasa para pedagang Arab muslim sekitar abad ke-7 M. Ketiga, teori Persia. Islam tiba di Indonesia melalui peran para pedagang asal Persia yang dalam perjalanannya singgah ke Gujarat sebelum ke nusantara sekitar abad ke-13 M. Mereka berargumen akan fakta bahwa banyaknya ungkapan dan kata-kata Persia dalam hikayat-hikayat Melayu, Aceh, dan bahkan juga Jawa.[1] Melalui Kesultanan Tidore yang juga menguasai Tanah Papua, sejak abad ke-17, jangkauan terjauh penyebaran Islam sudah mencapai Semenanjung Onin di Kabupaten Fakfak, Papua Barat.
Kalau Ahli Sejarah Barat beranggapan bahwa Islam masuk di Indonesia mulai abad 13 adalah tidak benar, Abdul Malik Karim Amrullah berpendapat bahwa pada tahun 625 M sebuah naskah Tiongkok mengkabarkan bahwa menemukan kelompok bangsa Arab yang telah bermukim di pantai Barat Sumatera (Barus).[2] Pada saat nanti wilayah Barus ini akan masuk ke wilayah kerajaan Sriwijaya.
Pada tahun 30 Hijriyah atau 651 M semasa pemerintahan Khilafah Islam Utsman bin Affan (644-656 M), memerintahkan mengirimkan utusannya (Muawiyah bin Abu Sufyan) ke tanah Jawa yaitu ke Jepara (pada saat itu namanya Kalingga). Hasil kunjungan duta Islam ini adalah raja Jay Sima, putra Ratu Sima dari Kalingga, masuk Islam.[3] Namun menurut Hamka sendiri, itu terjadi tahun 42 Hijriah atau 672 Masehi.[4]
Pada tahun 718 M raja Srivijaya Sri Indravarman setelah pada masa khalifah Umar bin Abdul Aziz (717 - 720 M) (Dinasti Umayyah) pernah berkirim surat dengan Umar bin Abdul Aziz sekaligus berikut menyebut gelarnya dengan 1000 ekor gajah, berdayang inang pengasuh di istana 1000 putri, dan anak-anak raja yang bernaung di bawah payung panji. Baginda berucap terima kasih akan kiriman hadiah daripada Khalifah Bani Umayyah tersebut.[5] Dalam hal ini, Hamka mengutip pendapat SQ Fatimi yang membandingkan dengan The Forgotten Kingdom Schniger bahwa memang yang dimaksud adalah Sriwijaya tentang Muara Takus, yang dekat dengan daerah yang banyak gajahnya, yaitu Gunung Suliki. Apalagi dalam rangka bekas candi di sana, dibuat patung gajah yang agaknya bernilai di aana. Tahun surat itu disebutkan Fatemi bahwa ia bertarikh 718 Masehi atau 75 Hijriah. Dari situ, Hamka menepatkan bahwa Islam telah datang ke Indonesia sejak abad pertama Hijriah.[6]
Selain itu, fakta yang juga tak bisa diabaikan adalah bahwa adanya kitab Izh-harul Haqq fi Silsilah Raja Ferlak yang ditulis Abu Ishaq al-Makrani al-Fasi yang berasal dari daerah Makran, Balochistan menyebut bahwa Kerajaan Perlak didirikan pada 225 H/847 M diperintah berturut-turut oleh delapan sultan.[7]
Sanggahan Teori Islam Masuk Indonesia abad 13 melalui Pedagang Gujarat
Teori Islam Masuk Indonesia abad 13 melalui pedagang Gujarat, menurut pendapat sebagian besar orang, adalah tidaklah benar. Apabila benar maka tentunya Islam yang akan berkembang kebanyakan di Indonesia adalah aliran Syi'ah karena Gujarat pada masa itu beraliran Syiah, akan tetapi kenyataan Islam di Indonesia didominasi Mazhab Syafi'i.
Sanggahan lain adalah bukti telah munculnya Islam pada masa awal dengan bukti Tarikh Nisan Fatimah binti Maimun (1082M) di Gresik.[8]
Masa kolonial
Pada abad ke-17 masehi atau tahun 1601 kerajaan Hindia Belanda datang ke Nusantara untuk berdagang, namun pada perkembangan selanjutnya mereka menjajah daerah ini. Belanda datang ke Indonesia dengan kamar dagangnya, VOC, sejak itu hampir seluruh wilayah Nusantara dikuasainya kecuali Aceh. Saat itu antara kerajaan-kerajaan Islam di Nusantara belum sempat membentuk aliansi atau kerja sama. Hal ini yang menyebabkan proses penyebaran dakwah terpotong.
Dengan sumuliayatul (kesempurnaan) Islam yang tidak ada pemisahan antara aspek-aspek kehidupan tertentu dengan yang lainnya, ini telah diterapkan oleh para ulama saat itu. Ketika penjajahan datang, para ulama mengubah pesantren menjadi markas perjuangan, para santri (peserta didik pesantren) menjadi jundullah (pasukan Allah) yang siap melawan penjajah, sedangkan ulamanya menjadi panglima perang. Potensi-potensi tumbuh dan berkembang pada abad ke-13 menjadi kekuatan perlawanan terhadap penjajah. Ini dapat dibuktikan dengan adanya hikayat-hikayat pada masa kerajaan Islam yang syair-syairnya berisi seruan perjuangan. Para ulama menggelorakan jihad melawan penjajah Belanda.
Di akhir abad ke-19, muncul ideologi pembaruan Islam yang diserukan oleh Jamal-al-Din Afghani dan Muhammad Abduh. Ulama-ulama Minangkabau yang belajar di Kairo, Mesir banyak berperan dalam menyebarkan ide-ide tersebut, di antara mereka ialah Muhammad Djamil Djambek dan Abdul Karim Amrullah. Pembaruan Islam yang tumbuh begitu pesat didukung dengan berdirinya sekolah-sekolah pembaruan seperti Adabiah (1909), Diniyah Putri (1911), dan Sumatera Thawalib (1915). Pada tahun 1906, Tahir bin Jalaluddin menerbitkan koran pembaruan al-Iman di Singapura dan lima tahun kemudian, di Padang terbit koran dwi-mingguan al-Munir.[9]
Demografi
Sebagian besar ummat Islam di Indonesia berada di wilayah Indonesia bagian Barat, seperti di pulau Sumatera, Jawa, Madura dan Kalimantan. Sedangkan untuk wilayah Timur, penduduk Muslim banyak yang menetap di wilayah Sulawesi, Nusa Tenggara Barat, dan Maluku Utara dan enklave tertentu di Indonesia Timur seperti Kabupaten Alor, Fakfak, Haruku, Banda, Tual dan lain-lain.
Pengadaan transmigrasi dari Jawa dan Madura yang secara besar-besaran dilakukan oleh pemerintahan Suharto selama tiga dekade ke wilayah Timur Indonesia telah menyebabkan bertambahnya jumlah penduduk Muslim disana.
Arsitektur
Islam sangat banyak berpengaruh terhadap arsitektur bangunan di Indonesia. Rumah Betawi salah satunya, adalah bentuk arsitektur bangunan yang banyak dipengaruhi oleh corak Islam. Pada salah satu forum tanya jawab di situs Era Muslim[10], disebutkan bahwa Rumah Betawi yang memiliki teras lebar, dan ada bale-bale untuk tempat berkumpul, adalah salah satu ciri arsitektur peradaban Islam di Indonesia.
Masjid
jmpl|250px|Masjid Raya Medan al Ma'shun, adalah salah satu ciri bangunan berarsitektur Islam yang ada di Indonesia
Masjid adalah tempat ibadah Muslim yang dapat dijumpai diberbagai tempat di Indonesia. Menurut data Lembaga Ta'mir Masjid Indonesia, saat ini terdapat 125 ribu masjid yang dikelola oleh lembaga tersebut, sedangkan jumlah secara keseluruhan berdasarkan data Departemen Agama tahun 2004, jumlah masjid di Indonesia sebanyak 643.834 buah, jumlah ini meningkat dari data tahun 1977 yang sebanyak 392.044 buah. Diperkirakan, jumlah masjid dan mushala di Indonesia saat ini antara 600-800 ribu buah.[11] Adapun menurut penuturan Komjen Pol Syafruddin Wakil Ketum Dewan Masjid Indonesia menyebut sesuai data tahun 2017, bahwa Indonesia memiliki sekitar 800 ribu masjid. Dalam pada itu, pengelolaan masjid di Indonesia berbeda dengan masjid di negara lain. Pemerintah tak secara langsung membangun dan mengelola masjid, tetapi lewat swadaya masyarakat, begitu juga dalam hal pengelolaannya.[12]
Pendidikan
Pesantren adalah salah satu sistem pendidikan Islam yang ada di Indonesia dengan ciri yang khas dan unik, juga dianggap sebagai sistem pendidikan paling tua di Indonesia.[13] Di Indonesia, Kementerian Agama merupakan pemangku tanggung jawab pendidikan agama dan pendidikan keagamaan menyiapkan rencana strategis yang ditetapkan melalui Keputusan Menteri Agama Nomor 39 tahun 2015. Hal-hal yang ada di sana kemudian dituangkan dalam rumusan tugas dan fungsi Direktorat Pendidikan Diniyah dan Pondok Pesantren Kemenag sesuai Peraturan Menteri Agama Nomor 42 tahun 2016. Lingkup layanan Direktorat Pendidikan Diniyah dan Pondok Pesantren meliputi jalur pendidikan formal, yang mencakup pendidikan diniyah formal, satuan pendidikan muadalah, dan ma'had 'ali. Pendidikan diniyah non formal mencakup madrasah diniyah takmiliyah, pendidikan al-Quran, dan program pendidikan kesetaraan serta pondok pesantren sebagai penyelenggara maupun satuan pendidikan.[14] Selain itu, dalam pendidikan Islam di Indonesia juga dikenal adanya Madrasah Ibtidaiyah (dasar), Madrasah Tsanawiyah (lanjutan), dan Madrasah Aliyah (menengah). Untuk tingkat universitas Islam di Indonesia juga kian maju seiring dengan perkembangan zaman, hal ini dapat dilihat dari terus beragamnya universitas Islam. Hampir disetiap provinsi di Indonesia dapat dijumpai Institut Agama Islam Negeri serta beberapa universitas Islam lainnya seperti Universitas Islam Negeri (UIN) dengan nama yang berbeda-beda berdasarkan nama tokoh penyiaran islam masa lampau semisal di Makassar dengan nama Universitas Islam Negeri Sultan Alauddin disingkat (UINAM).
Berdasar pada data dari Direktorat Jenderal Pendidikan Islam pada awal 2018, dari 326.327 lembaga pendidikan Islam yang dinaungi, 76,1% atau 248.290 lembaga merupakan pendidikan diniyah dan pondok pesantren. Terbagi lagi menjadi 28.194 pondok pesantren, 84.966 madrasah diniyah takmiliyah, serta pendidikan al-Quran sebanyak 135.130. Selebihnya 23,9% lembaga pendidikan Islam lainnya terbagi jadi raudhatul athfal (27.999), madrasah ibtidaiyah (24.560), madrasah tsanawiyah (16.934), madrasah aliyah (7.843) dan perguruan tinggi agama (756). Itu belumlah mencakup sejumlah lembaga pendidikan yang berupa program pendidikan kesetaraan pada pondok pesantren (1.508), pendidikan diniyah formal (59), pendidikan muadalah (80), dan ma'had 'aliy (29).[14]
Kemudian berbicara mengenai statistik lainnya, dari total 2.378.566 tenaga pendidik, 63% atau 1.4999.859 mengajar di pendidikan diniyah dan pondok pesantren. Para pengajar ini bertanggung jawab pada 18.196.034 siswa atau 64,2% dari semua peserta didik pendidikan Islam (28.324.088 orang).[14]
Politik
Dengan mayoritas berpenduduk Muslim, politik di Indonesia tidak terlepas dari pengaruh dan peranan umat Islam. Kebangunan akan kesedaran berpolitik ini diawali kalangan kaum haji yang membawa kabar-kabar akan serangan Perancis terhadap Maroko, umat Islam Libya diserang, dan gerakan nasionalis Mesir melawan imperialis Inggris. Ini juga membentuk perasaan setia kawan sesama kaum Muslimin, dan membangkitkan ketidaksukan terhadap kolonialisme dan imperialisme Eropa.[15] Walau demikian, Indonesia bukanlah negara yang berasaskan Islam, namun ada beberapa daerah yang diberikan keistimewaan untuk menerapkan syariat Islam, seperti Aceh.
Seiring dengan reformasi 1998, di Indonesia jumlah partai politik Islam kian bertambah. Pada Pemilu 1999, 17 partai Islam—yaitu 12 partai Islam dan 5 partai lain berazaskan Islam dan Pancasila—ikut berlaga dalam pemilihan tersebut. Kesiapan mereka dalam hal administrasi—terkecuali PPP yang memang sudah tua—mengagumkan mengingat mereka dapat mengikuti segala syarat pemilu yang cukup ketat, serupa bahwa setiap partai harus punya cabang sekurangnya di 14 provinsi. Namun demikian, seluruh partai Islam itu kalah jauh dari PDI yang meraup sekitar 34% suara.[16] Dalam Pemilu tersebut, PPP meraih 11.329.905 suara (10,7 persen) dan bercokol pada peringkat ketiga,[17] karena itu Partai Persatuan Pembangunan meraih 5 besar. Partai Bulan Bintang mampu membentuk fraksi sendiri walau cuma 13 anggota, dan Partai Keadilan hanya memperoleh 7 kursi DPR saja.[16] Bila sebelumnya hanya ada satu partai politik Islam, yakni Partai Persatuan Pembangunan-akibat adanya kebijakan pemerintah yang membatasi jumlah partai politik, pada pemilu 2004 terdapat enam partai politik yang berasaskan Islam, yaitu Partai Persatuan Pembangunan, Partai Keadilan Sejahtera, Partai Bintang Reformasi, Partai Amanat Nasional, Partai Kebangkitan Bangsa dan Partai Bulan Bintang.
Catatan kaki
Daftar pustaka
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Pranala luar
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Куртя́ево — урочище в Приморском районе Архангельской области, в 35 километрах от Северодвинска на реке Верховка. Урочище Куртяево является памятником природы регионального значения. Площадь урочища — 150 га[1]. Примечательно минеральными источниками и церковью Святого Алексия. Находится на месте потухшего вулкана[2].
История урочища
Самое раннее упоминание урочища Куртяево встречается в сотной грамоте Николо-Корельского монастыря, относящейся к 1587—1588 годам, среди владений которого указывается «поженка[3] на Куртяеве Михаиловская Кологривоя…».
Через некоторое время земля урочища отходит к Кирилло-Белозерскому монастырю, однако точное время передачи неизвестно. Причина перехода земли на Беломорье к монастырю, расположенному на Вологодчине, проста — в посаде Нёнокса, через который исторически проходила дорога на Куртяево, находились дворы и усолья пяти крупных северных монастырей: Антониево-Сийского, Соловецкого, Кирилло-Белозерского, Николо-Корельского и Михаило-Архангельского.
До момента постройки часовни и церкви в Куртяеве никаких постоянных строений, кроме сенокосных и промысловых изб, не было. Также не сохранилось исторических данных о возможном использовании до 1721 г. куртяевских источников.
История храма
В документах начала XIX века упоминается «церковь преподобнаго Алексия, человека Божия, антиминс за подписанием Варнавы архиепископа 1721 года марта 2 дня».
В документе 1722 г. существует запись:
В «Памятной книге Ненокского прихода» от 1822 года уточняется, что данная церковь построена из часовни, к которой в 1721 году пристроили алтарь. Этот факт перестройки часовни в церковь подтверждается также данными архитектурно-археологических обмеров, согласно которым стены первичной часовни сохранились примерно на уровне оконных проемов. После появления церкви, перед её алтарем, на месте явления образа, была поставлена новая часовня. В результате этого возникла непривычно редкая ситуация одновременного сосуществование однопрестольной церкви Алексия, человека Божия, и часовни во имя его же, что случается нечасто.
В 1842 году, в «Ведомости о зданиях церковных», упоминается
К данной церкви принадлежали ещё «два дома одноетажные, деревянные, из которых один — 1829 г., другой, старой,— неизвестно».
В подробной описи имущества церквей Ненокского прихода Архангельского уезда указана информация о часовне, стоявшей напротив алтаря церкви и соединявшейся с ней в единый комплекс. В отличие от церкви, которая после 1721 г. только достраивалось, но не перестраивалась, часовня всё-таки периодически разбиралась и строилась заново, о чём свидетельствуют материалы разборки сруба перед реставрацией.
Часовня
В документах XIX века, описывающих Алексиевскую церковь в Куртяеве указывается, что
По свидетельству современников Алексиевская часовня в Куртяеве пользовалась особым почитанием, поскольку, по преданию, была построена над тем самым пнём, над которым и возник чудотворный образ св. Алексия:
По этой причине в данной часовне никогда не настилался пол.
Судя по данным, указанным в исторических документах, часовня в едином комплексе с церковью строится не сразу, а по мере увеличения паломничества к святому месту, а также постепенной застройки куртяевской поляны, площадь которой в настоящее составляет 2 гектара, ограничиваясь рекой Верховкой с одной стороны и лесом с другой. По мере застройки часовня оказалась за оградой церкви. Последний вариант её расположения за оградой, со стороны алтаря церкви, сохранился до 1917 г.
Легенды о происхождении храма
Кандидат философских наук А. И. Климов, в Вестнике церковной истории[4] указывает, что общался с первыми, после долгого перерыва, паломниками к церкви св. Алексия, которые рассказывали ему легенду о происхождении храма и святого места:
Тот же А. И. Климов приводит записи Ксении Петровны Гемп, выполненные ею на собраниях краеведов Севера. До революции Ксения Петровна, вместе с семьёй, частенько совершала летние поездки из Архангельска в деревню Сюзьму, посещала старообрядческие скиты вокруг деревни Кудьмы, посады Нёноксы и Куртяева. В 1987 году Гемп передала Климову следующие легенды:
Источник минеральной воды
Отличительной особенностью урочища Куртяево является наличие на его территории около 80 ключей слабоминерализованных вод, непосредственно связанных с вулканическим телом — трубкой взрыва «Куртяево». В двух местах группы этих источников образуют ручьи, впадающие в реку Верховку. Один из этих ручьёв имеет собственное название — Талец.
В Куртяево находится природный источник лечебно-столовой сульфатно-гидрокарбонатно-хлоридной натриевой воды с нейтральной-слабощелочной реакцией среды.
Российский научный центр медицины и курортологии разработал подробную «Методику лечебного использования минеральной воды „Куртяевская“» со скважины № К-1 и рекомендовал её употребление в качестве столового напитка[5]. Также выпускается вода питьевая минеральная лечебно-столовая газированная «Куртяевская скважина К-2».
Содержание в воде минералов и воздействие на организм человека:
Гидрокарбонаты — снижают кислотность желудочного сока. Применяются при лечении мочекаменной болезни
Хлориды — стимулируют обменные процессы в организме, улучшают секрецию желудка, поджелудочной железы, тонкого кишечника
Сульфаты — применяются при заболеваниях желчных путей, хроническом гепатите, сахарном диабете. Благоприятно влияют на восстановление функции печени и желчного пузыря.
Кальций — составляет основу костной ткани, балансирует процессы, происходящие в нервно-мышечной и сердечно-сосудистой системах, стимулирует выделение желчи, восстанавливает моторную деятельность желудка.
Йод — оказывает физиологическое воздействие для профилактики йододефицитных заболеваний.
Магний — способствует уменьшению спазмов желчного пузыря, снижает уровень холестерина в крови и желчи, благотворно влияет на нервную систему.
Калий и натрий — поддерживают необходимое давление в тканевых и межтканевых жидкостях организма,
Также минеральная вода из урочища Куртяево позволяет использовать её не только в лечебных целях, но и в качестве питьевой воды, поскольку обладает невысокой степенью минерализации — от 2 до 4 г/дм3.
Минеральная вода скважины № К-1 из Куртяево, показана для питьевого лечения болезней:
Рефлюкс-эзофагит.
Хронический гастрит (с нормальной секреторной функцией желудка, с повышенно-секреторной функцией желудка, с пониженной секреторной функцией желудка
Язвенная болезнь желудка и 12-перстной кишки.
Болезни кишечника (синдром раздраженного кишечника с диареей, синдром раздраженного кишечника с запором.
Болезни печени: хронический вирусный гепатит; токсическое и медикаментозное поражение печени; жировая дистрофия печени.
Болезни желчного пузыря, желчевыводящих путей, поджелудочной железы: хронический холецистит, холангит, холестероз желчного пузыря; желчнокаменная болезнь; хронический панкреатит.
Нарушения органов пищеварения после операционных вмешательств: синдром оперированного желудка после операции по поводу язвенной болезни; постхолецистэктомические синдромы.
Болезни эндокринной системы, расстройства питания и нарушения обмена веществ: сахарный диабет (инсулинозависимый и инсулинонезависимый), нарушения толерантности к глюкозе; ожирение (алиментарное); нарушение обмена липопротеидов; нарушение солевого обмена.
Болезни мочеполовой системы: тубулоинтерстициальные болезни (хронический пиелонефрит), мочекаменная болезнь, другие болезни (хронический цистит, уретрит, тригонит)[6].
Примечания
Ссылки
. «Православная энциклопедия». //Сайт Седьмица.ру
Карты
Категория:Достопримечательности Архангельской области | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D1%83%D1%80%D1%82%D1%8F%D0%B5%D0%B2%D0%BE |
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จังหวัดพิษณุโลก เป็นจังหวัดหนึ่งในภาคกลางตอนบนของประเทศไทย มีประชากรในปี พ.ศ. 2558 จำนวน 863,404 คน[1] มีพื้นที่ 10,815.854 ตารางกิโลเมตร แบ่งการปกครองส่วนภูมิภาคออกเป็น 9 อำเภอ มีเทศบาลนครพิษณุโลกเป็นเขตเมืองศูนย์กลางของจังหวัดและเป็นที่ตั้งศาลากลางจังหวัด มีอาณาเขตติดต่อกับแขวงไชยบุรี ประเทศลาวทางทิศตะวันออกเฉียงเหนือของจังหวัด
ศัพท์มูลวิทยา
ชื่อของจังหวัดมาจากคำว่า พิษณุ หมายถึง "พระวิษณุ" เทพตามความเชื่อของชาวฮินดู รวมกับคำว่า โลก ทำให้มีความหมายเป็น "โลกแห่งพระวิษณุ" ในสมัยที่ยังปกครองด้วยระบบมณฑลเทศาภิบาล ชื่อของจังหวัดนั้นสะกดว่า พิศณุโลก[2]
ประวัติศาสตร์
สมัยสุโขทัย
thumbnail|left|วัดพระศรีรัตนมหาธาตุวรมหาวิหาร
เดิมเมืองพิษณุโลกเป็นเมืองเก่าที่มีประวัติศาสตร์ยาวนานมาตั้งแต่สมัยขอม โดยมีชื่อเรียกต่าง ๆ กันในศิลาจารึก ตำนาน นิทาน และพงศาวดาร เช่น สองแคว สองแควทวิสาขะ และไทยวนที เมืองอยู่ห่างจากที่ตั้งเมืองปัจจุบันลงไปทางทิศใต้ประมาณ 5 กิโลเมตร เรียกว่า "เมืองสองแคว" ที่เรียกเช่นนี้ เพราะตั้งอยู่ระหว่างแม่น้ำสองสาย คือ แม่น้ำน่าน กับแม่น้ำแควน้อย แต่ปัจจุบันแม่น้ำแควน้อยเปลี่ยนทางเดินออกห่างจากตัวเมืองไปประมาณ 10 กิโลเมตร
เมืองสองแควอยู่ในอำนาจของราชวงศ์ผาเมือง จนกระทั่งในรัชกาลพ่อขุนรามคำแหงมหาราชจึงได้ยึดเมืองสองแคว ที่ตั้งตัวเมืองเก่าในปัจจุบันคือ บริเวณวัดจุฬามณี ซึ่งเป็นวัดเก่าแก่ของพิษณุโลก แต่เมื่อประมาณพุทธศักราช 1900 พระมหาธรรมราชาที่ 1 (ลิไท) ได้โปรด ให้ย้ายเมืองสองแคว มาตั้งอยู่ ณ บริเวณตัวเมืองในปัจจุบัน และยังคงเรียกกันติดปากว่า เมืองสองแคว เรื่อยมา
ครั้นสมัยพระมหาธรรมราชาที่ 1 (ลิไท) ได้เสด็จมาประทับที่เมืองสองแคว พระองค์ได้เอาพระทัยใส่ทำนุบำรุงนำความเจริญเป็นอย่างยิ่ง เช่น การสร้างเหมืองฝาย สนับสนุนให้มีการขยายพื้นที่เพาะปลูก สร้างทางคมนาคมจากเมืองพิษณุโลกไปเมืองสุโขทัย โดยเฉพาะอย่างยิ่งได้มีการสร้างพระพุทธชินราช พระพุทธชินสีห์ และพระศรีศาสดา เพื่อประดิษฐานไว้ใน พระวิหารวัดพระศรีรัตนมหาธาตุ (วัดใหญ่)
สมัยอยุธยา
เมื่อสมเด็จพระบรมไตรโลกนาถแห่งกรุงศรีอยุธยาเสด็จกรีธาทัพมาหมายจะชิงสุโขทัยซึ่งพระยายุทธิษฐิระ (พระอนุชาของพระองค์) ได้ไปสวามิภักดิ์ต่อพระเจ้าติโลกราชแห่งล้านนา พระองค์จึงทรงสร้างเมืองใหม่บริเวณเมืองสองแควและเมืองชัยนาท ขนานนามว่า เมืองพระพิษณุโลกสองแคว สำหรับการที่เรียกว่าพระพิษณุโลกสองแควนั้น คาดว่าสมเด็จพระบรมไตรโลกนาถ ทรงแปลงคำจาก สรลวงสองแคว, สรลวง มีความหมายว่า สรวง คือ พระวิษณุ (พระนารายณ์) [3] โดยทรงหมายมั่นให้เป็นราชธานีฝ่ายเหนือคู่กับกรุงเทพทวารวดีศรีอยุธยา
พิษณุโลกสมัยอยุธยามีความสำคัญยิ่งทางด้านการเมืองการปกครอง ยุทธศาสตร์ เศรษฐกิจ ศาสนา และศิลปวัฒนธรรม พิษณุโลกเป็นราชธานีในรัชสมัยสมเด็จพระบรมไตรโลกนาถ ตั้งแต่ พ.ศ. 2006-พ.ศ. 2031 รวม 25 ปี นับว่าระยะนี้เป็นยุคทองของพิษณุโลก
ในสมัยของสมเด็จพระนเรศวรมหาราช ครั้งดำรงตำแหน่งพระมหาอุปราช ณ เมืองพิษณุโลก ระหว่าง พ.ศ. 2112-พ.ศ. 2133 ได้ทรงปลุกสำนึกให้ชาวพิษณุโลกเป็นนักกอบกู้เอกราชเพื่อชาติไทย ทรงสถาปนาพิษณุโลกเป็นเมืองเอก เป็นการประสานต่อความเจริญรุ่งเรืองจากอดีตมาจนถึงปัจจุบัน
ด้านเศรษฐกิจ
เนื่องจากพิษณุโลกตั้งอยู่บนเส้นทางระหว่างรัฐ คือ อาณาจักรล้านนาทางเหนือกับกรุงศรีอยุธยาในทางใต้ ความสัมพันธ์ระหว่างรัฐทั้งสองบางครั้งเป็นไมตรีกันบางครั้งขัดแย้งกัน ทำสงครามต่อกัน มีผลให้เมืองพิษณุโลกได้รับอิทธิพลทางวัฒนธรรมประเพณีทั้ง 2 รัฐ โดยเฉพาะด้านเศรษฐกิจพิษณุโลกเป็นเส้นทางสินค้าของป่า และผลิตผลทางการเกษตร รวมทั้งเครื่องถ้วย โดยอาศัยการคมนาคมผ่านลำน้ำน่านสู่กรุงศรีอยุธยา ซึ่งขณะนั้นเป็นศูนย์กลางของการค้านานาชาติแห่งหนึ่งในภูมิภาคเอเชียตะวันออกเฉียงใต้
ในปัจจุบันที่พิษณุโลก มีหลักฐานชัดเจนว่าเป็นแหล่งผลิตเครื่องถ้วยคุณภาพดี ซึ่งมีอยู่ทั่วไปบริเวณฝั่งแม่น้ำน่านและแม่น้ำแควน้อย โดยเฉพาะที่วัดตาปะขาวหาย พบเตาเผาเครื่องถ้วยเป็นจำนวนมาก พร้อมเครื่องถ้วยจำพวกโอ่ง อ่าง ไห ฯลฯ เครื่องถ้วยเหล่านี้ นอกจากจะใช้ในท้องถิ่นแล้ว ยังเป็นสินค้าส่งออกไปขายต่างประเทศด้วย วินิจฉัยว่าน่าจะเป็นแหล่งอุตสาหกรรมขนาดใหญ่ ในสมัยสมเด็จพระบรมไตรโลกนาถ นับว่าเมืองพิษณุโลกมีความสำคัญยิ่งทางเศรษฐกิจ คือเป็นแหล่งทรัพยากรของกรุงศรีอยุธยา
ด้านศาสนา
แม้ว่าเมืองพิษณุโลกจะเป็นจุดยุทธศาสตร์สำคัญในสงครามระหว่างอยุธยากับล้านนาและอยุธยากับพม่ามาตลอด แต่การศาสนาก็มิได้ถูกละเลย ดังปรากฏหลักฐานทางโบราณวัตถุและโบราณสถานชี้ให้เห็นชัดเจนว่า พระพุทธรูปและวัดปรากฏในปัจจุบันเช่น พระพุทธชินราช พระพุทธชินศรี พระศรีศาสดา วัดพระศรีรัตนมหาธาตุวรมหาวิหาร (วัดใหญ่) วัดจุฬามณี วัดอรัญญิก วัดนางพญา วัดราชบูรณะ วัดสระแก้วปทุมทอง วัดเจดีย์ยอดทอง วัดสุดสวาสดิ์ และวัดวังหิน ล้วนเป็นศิลปวัฒนธรรมสมัยกรุงศรีอยุธยา หรือมิฉะนั้นก็ได้มีการบูรณปฏิสังขรณ์ของเดิมที่มีมาครั้งกรุงสุโขทัย แสดงว่าด้านพระศาสนาได้มีการบำรุงมาโดยตลอด
ในปัจจุบัน ทั้งพระพุทธชินศรีและพระศรีศาสดาได้ถูกอัญเชิญมาประดิษฐานที่กรุงเทพมหานคร มีเรื่องเล่ากันว่า จากเดิมจะอัญเชิญพระพุทธชินราชมาด้วย แต่เมื่อเอาลงแพ เตรียมที่จะล่องลำน้ำน่านนั้น แพก็ไม่ยอมเคลื่อนที่ แม้จะตรวจเท่าไร ก็ไม่พบว่าแพติดอะไร แต่แพที่ใช้ในการย้ายก็ไม่ยอมไหลตามน้ำ จึงทำการบวงสรวงขอขมา แล้วนำขึ้นมาประดิษฐานไว้ตามเดิมจนถึงปัจจุบัน ว่ากันว่า ท่านเป็นห่วงเมืองของท่าน จะอยู่ปกป้อง
ในรัชสมัยสมเด็จพระบรมไตรโลกนาถ ได้โปรดเกล้าฯ ให้สร้างอาคารวัดจุฬามณีขึ้นในปี พ.ศ. 2007 และพระองค์ได้ทรงสละราชสมบัติออกผนวช ณ วัดจุฬามณี อำเภอเมืองพิษณุโลก จังหวัดพิษณุโลก เมื่อปี พ.ศ. 2008 เป็นเวลา 8 เดือน 15 วัน มีข้าราชบริพารตามเสด็จออกบวชถึง 2,348 คน และในปี พ.ศ. 2025 มีพระบรมราชโองการให้บูรณะวัดพระศรีรัตนมหาธาตุและให้มีการสมโภชถึง 15 วัน พร้อมกันนั้นได้โปรดให้นักปราชญ์ราชบัณฑิตแต่งมหาชาติคำหลวง จบ 13 กัณฑ์บริบูรณ์ด้วย ต่อมาในสมัยรัชกาลสมเด็จพระนารายณ์มหาราชได้ทรงสร้างรอยพระพุทธบาทจำลองเมื่อ พ.ศ. 2222 และโปรดเกล้าฯ ให้ประดิษฐานไว้ ณ วัดจุฬามณี พร้อมทั้งจารึกเหตุการณ์สำคัญทางศาสนาในสมัยพระบรมไตรโลกนาถไว้บนแผ่นศิลาด้วย
ในส่วนของวัดสุดสวาทดิ์นั้น ว่ากันว่าเป็นวัดที่เก่าแก่สร้างในสมัยเดียวกับวัดนางพญา โดยวัดสุดสวาทดิ์นั้นเป็นวัดที่กษัตริย์ผู้ปกครองเมืองพิษณุโลกสร้างให้กับมเหสีที่รักมากที่สุด จึงตั้งชื่อให้ว่า "สุดสวาท" และมีการสร้างพระนางสุดสวาสดิ์ขึ้นมาด้วย พุทธคุณเท่ากับพระนางพญา วัดนางพญา
ในส่วนของวัดวังหินนั้น ถือว่าเป็นวัดที่มีความสำคัญทางด้านการทหารในสมัยสมเด็จพระนเรศวรมหาราชอย่างมาก เนื่องจากเป็นวัดที่ใช้ในการจัดทัพและปลุกขวัญกำลังใจให้กับทหาร กำลังพลก่อนที่จะทำการออกศึก โดยวัดนี้ ก็มีการจัดสร้างพระเครื่องที่เชื่อกันว่าถูกสร้างโดยพระนเรศวรด้วย คือ ลีลาวังหิน โดดเด่นทางด้าน คงกระพันชาตรี
สมัยกรุงธนบุรี
สมเด็จพระเจ้ากรุงธนบุรีทรงเห็นว่าพิษณุโลกเป็นเมืองยุทธศาสตร์ที่สำคัญ ควรมีผู้ที่เข้มแข็งที่มีความสามารถเป็นเจ้าเมือง จึงทรงแต่งตั้งเจ้าพระยายมราช (กรมพระราชวังบวรมหาสุรสิงหนาท) เป็นเจ้าพระยาสุรสีห์พิษณุวาธิราชสำเร็จราชการเมืองพิษณุโลกโดยขึ้นต่อกรุงธนบุรี เมื่อได้ทรงแต่งตั้งผู้ปกครองหัวเมืองฝ่ายเหนือจนครบถ้วนแล้ว จึงเสด็จกลับไปยังกรุงธนบุรี
พ.ศ. 2318 อะแซหวุ่นกี้ แม่ทัพพม่าผู้ชำนาญการรบ ได้วางแผนยกทัพมาตีหัวเมืองฝ่ายเหนือของไทย ตีได้เมืองตาก เมืองสวรรคโลก บ้านกงธานี และมาพักกองทัพอยู่ที่กรุงสุโขทัย ขณะนั้นเจ้าพระยาจักรีและเจ้าพระยาสุรสีห์กำลังยกกองทัพขึ้นไปตีเชียงแสน เมื่อทราบข่าวข้าศึก จึงรีบยกทัพกลับมารับทัพพม่าที่เมืองพิษณุโลก ก่อนที่อะแซหวุ่นกี้ยกทัพมาตั้งค่ายล้อมเมืองพิษณุโลก
กองทัพพม่าพยายามเข้าตีค่ายไทยหลายครั้ง แต่เจ้าพระยาจักรีและเจ้าพระยาสุรสีห์ได้ช่วยป้องกันเมืองเป็นสามารถ ทั้งที่ทหารน้อยกว่าแต่ไม่สามารถชนะกันได้ อะแซหวุ่นกี้ถึงกับกล่าวยกย่องแม่ทัพฝ่ายไทย เมื่อสมเด็จพระเจ้ากรุงธนบุรีทรงทราบข่าวอะแซหวุ่นกี้ยกกองทัพใหญ่มาตีหัวเมืองฝ่ายเหนือของไทย จึงทรงยกทัพใหญ่ขึ้นไปช่วยทันที ฝ่ายอะแซหวุ่นกี้ทราบข่าวว่ากองทัพไทยมาตั้งค่ายเพื่อช่วยเหลือเมืองพิษณุโลก จึงแบ่งกำลังพลไปตั้งมั่นที่วัดจุฬามณีฝั่งตะวันตก อะแซหวุ่นกี้เห็นว่าถ้าชักช้าไม่ทันการณ์จึงสั่งให้ทัพพม่าที่กรุงสุโขทัยไปตีเมืองกำแพงเพชร ส่วนกองทัพเมืองกำแพงเพชรไปตีเมืองนครสวรรค์ และสั่งให้กองทัพพม่าอีกกองทัพหนึ่งยกไปตีกรุงธนบุรี การวางแผนของอะแซหวุ่นกี้เช่นนี้ เป็นการตัดกำลังฝ่ายไทยไม่ให้ช่วยเมืองพิษณุโลกและต้องการให้กองทัพไทยระส่ำระสาย
ในที่สุดสมเด็จพระเจ้ากรุงธนบุรีมีพระราชดำริเห็นว่า ไทยเสียเปรียบเพราะมีกำลังทหารน้อยกว่า จึงควรถอยทัพกลับไปตั้งมั่นรับทัพพม่าที่กรุงธนบุรี เจ้าพระยาจักรีเห็นว่าไทยขาดเสบียงอาหารและใกล้จะหมดทางสู้ จึงตัดสินใจพาไพร่พลและประชาชนชายหญิงทั้งหมด ตีหักค่ายพม่าออกจากเมืองพิษณุโลกไปทางทิศตะวันออกได้สำเร็จ พาทัพผ่าน บ้านมุง บ้านดงชมพู ข้ามเขาบรรทัด ไปตั้งรวมรี้พลอยู่ที่เมืองเพชรบูรณ์
พม่าล้อมเมืองพิษณุโลกนานถึง 4 เดือน เมื่อเข้าเมืองได้ ก็พบแต่เมืองร้าง อะแซหวุ่นกี้จึงสั่งเผาผลาญทำลายบ้านเมืองพิษณุโลกพินาศจนหมดสิ้น คงเหลือเฉพาะวัดพระศรีรัตนมหาธาตุเท่านั้น
สมัยรัตนโกสินทร์
เมืองพิษณุโลกมีฐานะเป็นเมืองเอกที่มีขนาดใหญ่ที่สุดในหัวเมืองฝ่ายเหนือของไทย มีประชากรประมาณ 55,000 คน เป็นชาวจีนประมาณ 1,112 คน และมีเมืองต่าง ๆ อยู่ในอำนาจการปกครองดูแลหลายหัวเมืองด้วยกัน เช่น เมืองนครไทย ไทยบุรี ศรีภิรมย์ พรหมพิราม ชุมสรสำแดง ชุมแสงสงครามพิพัฒน์ นครชุมทศการ นครพามาก เมืองการ เมืองคำ ประชาชนส่วนใหญ่ ประกอบอาชีพสำคัญ คือ ทำนา ทำไร่ หาของป่า และทำไม้
พ.ศ. 2409 พระบาทสมเด็จพระจอมเกล้าเจ้าอยู่หัวทรงพระอุตสาหะเสด็จประพาสเมืองเหนืออีกครั้งหนึ่ง โดยเสด็จทางเรือพระที่นั่งอรรคราชวรเดช และพระบาทสมเด็จพระจุลจอมเกล้าเจ้าอยู่หัวขณะนั้นกำลังผนวชเป็นสามเณรก็ได้ตามเสด็จมาด้วย เมื่อเสด็จถึง ก็ได้ทรงประทับและทรงสมโภชพระพุทธชินราชอยู่ 2 วันจึงเสด็จกลับ ต่อมา พระบาทสมเด็จพระจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว พระบาทสมเด็จพระจุลจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว และพระบาทสมเด็จพระมงกุฎเกล้าเจ้าอยู่หัว (เมื่อครั้งยังดำรงพระยศเป็น สมเด็จพระบรมโอรสาธิราช) ได้เสด็จประพาสเมืองพิษณุโลกทุกพระองค์ ได้ทรงพระราชนิพนธ์เรื่องต่าง ๆ ที่พระองค์ได้เสด็จไปทอดพระเนตรในระหว่างเสด็จประพาส เช่น เรื่องเที่ยวเมืองพระร่วง พระราชปรารภเรื่องพระพุทธชินราชและเรื่องลิลิตพายัพ เป็นต้น เอกสารดังกล่าวเหล่านี้ปัจจุบันมีคุณค่าอย่างยิ่งทางด้านประวัติศาสตร์ ส่วนรัชกาลที่ 5 นั้น พระองค์ทรงประทับพระทัยในความศักดิ์สิทธิ์และความสวยงามขององค์พระพุทธชินราช ถึงกับโปรดเกล้าฯ ให้จำลองพระพุทธรูปพระพุทธชินราชไปเป็นพระประธานในพระอุโบสถวัดเบญจมบพิตร ซึ่งพระองค์ทรงสร้างขึ้นในสมัยนั้น
ครั้งเมื่อสงครามโลกครั้งที่สอง สะพานข้ามแม่น้ำน่านหน้าวัดใหญ่ก็ถูกทิ้งระเบิด แต่ทิ้งเท่าไหร่ก็ไม่ถูกเป้าหมาย ทั้ง ๆ ที่ในอดีต เป็นสะพานไม้ที่ใหญ่ที่สุดของจังหวัดพิษณุโลก
สมัยปัจจุบัน
มี 5 ตำบลที่แยกเป็นกิ่งอำเภอ
กิ่งอำเภอทรัพย์ไพรวัลย์ แยกตำบลแก่งโสภา และตำบลบ้านกลาง โดยขึ้นกับอำเภอวังทอง
กิ่งอำเภอวงฆ้อง แยกตำบลดงประคำ ตำบลตลุกเทียม ตำบลมะต้อง ตำบลวงฆ้อง และตำบลศรีภิรมย์ โดยขึ้นกับอำเภอพรหมพิราม
กิ่งอำเภอนิคมหนองกุลา แยกตำบลหนองกุลา ตำบลตำบลนิคมพัฒนา ตำบลบึงกอก ตำบลปลักแรด และตำบลพันเสา โดยขึ้นกับอำเภอบางระกำ
กิ่งอำเภอวังน้ำคู้ แยกตำบลงิ้วงาม ตำบลวังน้ำคู้ และตำบลวัดพริก โดยขึ้นกับอำเภอเมืองพิษณุโลก
กิ่งอำเภอนครบางยาง แยกตำบลบ้านแยง ตำบลหนองกะท้าว และตำบลห้วยเฮี้ย โดยขึ้นกับอำเภอนครไทย
ภูมิศาสตร์
ที่ตั้งและอาณาเขต
จังหวัดพิษณุโลกมีที่ตั้งทางอุตุนิยมวิทยาในภาคเหนือตอนล่าง สำหรับเกณฑ์การแบ่งภาคอย่างเป็นทางการของราชบัณฑิตยสภาอยู่ในเขตภาคกลาง โดยอยู่ทางตอนบนของภาค ห่างจากกรุงเทพมหานคร 368 กิโลเมตร มีเนื้อที่ทั้งหมดประมาณ 10,815 ตารางกิโลเมตร หรือ 6,759,909 ไร่ มีอาณาเขตติดต่อกับจังหวัดใกล้เคียงดังนี้
ทิศเหนือ ติดต่อกับอำเภอพิชัย อำเภอทองแสนขัน และอำเภอน้ำปาด จังหวัดอุตรดิตถ์, แขวงไชยบุรี ประเทศลาว
ทิศตะวันออก ติดต่อกับอำเภอหล่มสัก อำเภอเขาค้อ อำเภอวังโป่ง จังหวัดเพชรบูรณ์, อำเภอด่านซ้าย และอำเภอนาแห้ว จังหวัดเลย
ทิศใต้ ติดต่อกับอำเภอเมืองพิจิตร อำเภอวชิรบารมี อำเภอสามง่าม และอำเภอสากเหล็ก จังหวัดพิจิตร
ทิศตะวันตก ติดต่อกับอำเภอกงไกรลาศ อำเภอศรีสำโรง จังหวัดสุโขทัย, อำเภอลานกระบือ จังหวัดกำแพงเพชร
ภูมิประเทศและภูมิอากาศ
ทางตอนเหนือและตอนกลางเป็นเขตเทือกเขาสูงและที่ราบสูง โดยมีเขตภูเขาสูงด้านตะวันออกเฉียงเหนือซึ่งอยู่ในเขตอำเภอวังทอง อำเภอวัดโบสถ์ อำเภอเนินมะปราง อำเภอนครไทย และอำเภอชาติตระการ พื้นที่ตอนกลางมาทางใต้เป็นที่ราบ และตอนใต้เป็นที่ราบลุ่ม โดยเฉพาะบริเวณลุ่มแม่น้ำน่านและแม่น้ำยม ซึ่งเป็นแหล่งการเกษตรที่สำคัญที่สุดของจังหวัดพิษณุโลก อยู่ในเขตอำเภอบางระกำ อำเภอเมืองพิษณุโลก อำเภอพรหมพิราม อำเภอเนินมะปราง และบางส่วนของอำเภอวังทอง
จังหวัดพิษณุโลกมีลมมรสุมพัดผ่านจากทะเลจีนใต้และมหาสมุทรอินเดีย และแบ่งฤดูกาลออกได้เป็น 3 ฤดู
ฤดูร้อน ประมาณเดือนกุมภาพันธ์-เมษายน อุณหภูมิเฉลี่ยประมาณ 32 องศาเซลเซียส
ฤดูฝน จะเริ่มประมาณเดือนพฤษภาคม-ตุลาคม ปริมาณน้ำฝน เฉลี่ยประมาณปีละ 1,375 มิลลิเมตร
ฤดูหนาว ตั้งแต่เดือนพฤศจิกายน-มกราคม อุณหภูมิเฉลี่ยประมาณ 19 องศาเซลเซียส
สัญลักษณ์ประจำจังหวัด
ตราประจำจังหวัด: พระพุทธชินราช
ธงประจำจังหวัด: ธงพื้นสีม่วง กลางธงเป็นตราประจำจังหวัดคือรูปพระพุทธชินราชในวงกลม
คำขวัญประจำจังหวัด: พระพุทธชินราชงามเลิศ ถิ่นกำเนิดพระนเรศวร สองฝั่งน่านล้วนเรือนแพ หวานฉ่ำแท้กล้วยตาก ถ้ำและน้ำตกหลากตระการตา
ต้นไม้ประจำจังหวัด: ปีบ (Millingtonia hortensis)
ดอกไม้ประจำจังหวัด: ดอกนนทรี (Peltophorum pterocarpum)
ธงประจำจังหวัดพิษณุโลก
ตราประจำจังหวัดพิษณุโลก
ต้นปีบ ต้นไม้ประจำจังหวัดพิษณุโลก
ดอกนนทรี ดอกไม้ประจำจังหวัดพิษณุโลก
ตราผ้าผูกคอลูกเสือประจำจังหวัดพิษณุโลก
การเมืองการปกครอง
หน่วยการปกครอง
การปกครองส่วนภูมิภาค
จังหวัดพิษณุโลกแบ่งการปกครองออกเป็น 9 อำเภอ 93 ตำบล 1,032 หมู่บ้าน ซึ่งอำเภอทั้ง 9 อำเภอมีดังนี้
อำเภอเมืองพิษณุโลก
อำเภอนครไทย
อำเภอชาติตระการ
อำเภอบางระกำ
อำเภอบางกระทุ่ม
อำเภอพรหมพิราม
อำเภอวัดโบสถ์
อำเภอวังทอง
อำเภอเนินมะปราง
การปกครองส่วนท้องถิ่น
thumbnail|220px|ตัวเมืองพิษณุโลก
จังหวัดพิษณุโลกมีองค์กรปกครองส่วนท้องถิ่นรวม 103 แห่ง ประกอบด้วย องค์การบริหารส่วนจังหวัด 1 แห่ง, เทศบาลนคร 1 แห่ง คือ เทศบาลนครพิษณุโลก, เทศบาลเมือง 1 แห่ง คือ เทศบาลเมืองอรัญญิก, เทศบาลตำบล 24 แห่ง และองค์การบริหารส่วนตำบล 76 แห่ง[5] โดยเทศบาลสามารถจำแนกได้ตามอำเภอต่าง ๆ ในจังหวัดพิษณุโลก ดังนี้
อำเภอเมืองพิษณุโลก
เทศบาลนครพิษณุโลก
เทศบาลเมืองอรัญญิก
เทศบาลตำบลบ้านใหม่
เทศบาลตำบลพลายชุมพล
เทศบาลตำบลหัวรอ
เทศบาลตำบลท่าทอง
เทศบาลตำบลบ้านคลอง
อำเภอนครไทย
เทศบาลตำบลนครไทย
เทศบาลตำบลบ้านแยง
อำเภอชาติตระการ
เทศบาลตำบลป่าแดง
อำเภอบางระกำ
เทศบาลตำบลบางระกำ
เทศบาลตำบลปลักแรด
เทศบาลตำบลพันเสา
เทศบาลตำบลบึงระมาณ
เทศบาลตำบลบางระกำเมืองใหม่
อำเภอบางกระทุ่ม
เทศบาลตำบลเนินกุ่ม
เทศบาลตำบลบางกระทุ่ม
เทศบาลตำบลห้วยแก้ว
เทศบาลตำบลสนามคลี
อำเภอพรหมพิราม
เทศบาลตำบลพรหมพิราม
เทศบาลตำบลวงฆ้อง
อำเภอวัดโบสถ์
เทศบาลตำบลวัดโบสถ์
อำเภอวังทอง
เทศบาลตำบลวังทอง
อำเภอเนินมะปราง
เทศบาลตำบลเนินมะปราง
เทศบาลตำบลไทรย้อย
เทศบาลตำบลบ้านมุง
รายชื่อเจ้าเมืองและผู้ว่าราชการจังหวัด
ลำดับชื่อระยะเวลาดำรงตำแหน่ง1พระบริรักษ์โยธี (ทองอยู่ สุวรรณบาตร์)ไม่ทราบข้อมูล2พระไชยศิรินทรภักดี2456–24573พระพิษณุโลกบุรี (สวัสดิ์ มหากายี)2457–24584พระเกษตรสงคราม2458–24595พระสวรรคโลกบุรี2459–24616พระยากัลยาวัฒนาวิศิษฐ์ (เชียร กัลยาณมิตร)2461–24707พระยาสุนทรพิพิธ (เชย มัฆวิบูลย์)2470–24768พระยาศิรีชัยบุรินทร์12 มีนาคม 2456 – 1 กรกฎาคม 24769พระสาครบุรานุรักษ์ (เปลื้อง สุวรรณนานนท์)20 มีนาคม 2478 – 18 พฤษภาคม 248110พระยาสุราษฎร์ธานีศรีเกษตรนิคม10 มิถุนายน 2481 – 18 มิถุนายน 248211พระหลวงยุทธสารประสิทธิ์ (เมี้ยน โรหิตเสรนี)24 มิถุนายน 2482 – 7กรกฎาคม 248312พ.อ.พระศรีราชสงคราม (ศรี ศุขะวาที)7 กันยายน 2483 – 7 พฤษภาคม 248413พ.ต.หลวงยุทธสารประสิทธิ์ (เมี้ยน โรหิตเสรนี)16 มิถุนายน 2484 – 27 กรกฎาคม 248514หลวงวิเศษ ภักดี (ชื่น วิเศษภักดี)28 เมษายน 2485 – 3 มกราคม 248715หลวงศรีนราศัย (ผิว จันทิมาคม)11 พฤษภาคม 2487 – 7 กรกฎาคม 248816นายพรหม สูตรสุคนธ์7 กรกฎาคม 2488 – 7 ตุลาคม 248917ขุนคำนวณวิจิตร (เชย บุนนาค)18 พฤศจิกายน 2489 – 6 ธันวาคม 249018ขุนจรรยาวิเศษ (เที่ยง บุณยนิต)6 ธันวาคม 2490 – 31 ธันวาคม 249319นายพ่วง สุวรรณรัฐ1 มกราคม 2494 – 10 พฤศจิกายน 249420พต.ขุนทะยานราญรอน (วัชระ วัชรบูล)12 กุมภาพันธ์ 2494 – 1 พฤศจิกายน21พระบรรณศาสตร์สาทร1 กุมภาพันธ์ 2497 – 1 สิงหาคม 249722นายปรง พระหูชนม์1 สิงหาคม 2497 – 22 กุมภาพันธ์ 250123นายพ่วง สุวรรณรัฐ (รักษาการในตำแหน่ง ผ.ว.ก.จว.)14 กุมภาพันธ์ 2501 – 3 มีนาคม 250124นายเยียน โพธิสุวรรณ27 มีนาคม 2501 – 3 เมษายน 250725นายเจริญ ภมรบุตร9 เมษายน 2507 – 4 กุมภาพันธ์ 250926นายนิรุต ไชยกูล11 กุมภาพันธ์ 2509 – 21 ตุลาคม 2510
ลำดับชื่อระยะเวลาดำรงตำแหน่ง27นายพล จุฑางกูล21 พฤศจิกายน 2510 – 2 ตุลาคม 251328นายพัฒน์ บุณยรัตพันธุ์2 ตุลาคม 2513 – 21 กันยายน 251429นายจำรูญ ปิยัมปุตระ1 ตุลาคม 2514 – 1 ตุลาคม 251530พล.ต.ต.สามารถ วายวานนท์1 ตุลาคม 2515 – 30 กันยายน 251731นายสิทธิเดช นรัตถรักษา1 ตุลาคม 2517 – 30 กันยายน 251932นายชาญ กาญจนาคพันธุ์1 ตุลาคม 2519 – 30 กันยายน 252333นายยง ภักดี1 ตุลาคม 2523 – 30 กันยายน 252534นายสืบ รอดประเสริฐ1 ตุลาคม 2525 – 31 ตุลาคม 252835นายนพรัตน์ เวชชศาสตร์1 พฤศจิกายน 2528 – 30 กันยายน 253236นายไพฑูรย์ สุนทรวิภาต1 ตุลาคม 2532 – 30 กันยายน 253437นายอภัย จันทนจุลกะ1 ตุลาคม 2534 – 30 กันยายน 253638นายสวัสดิ์ ส่งสัมพันธ์1 ตุลาคม 2536 – 30 กันยายน 253939นายนิธิศักดิ ราชพิตร1 ตุลาคม 2539 – 30 กันยายน 254240นายวิจารณ์ ไชยนันท์1 ตุลาคม 2542 – 30 กันยายน 254541นายพิพัฒน์ วงศาโรจน์1 ตุลาคม 2545 – 30 กันยายน 255042นายสมบูรณ์ ศรีพัฒนาวัฒน์1 ตุลาคม 2550–15 มีนาคม 255243นายปรีชา เรืองจันทร์16 มีนาคม 2552–27 เมษายน 255544นายชัยโรจน์ มีแดง27 เมษายน 2555 – 7 ตุลาคม 255545นายปรีชา เรืองจันทร์8 ตุลาคม 2555 – 30 กันยายน 255646นายระพี ผ่องบุพกิจ1 ตุลาคม 2556 – 30 กันยายน 255747นายจักริน เปลี่ยนวงษ์1 ตุลาคม 2557 – 30 กันยายน 255848นายชูชาติ กีฬาแปง1 ตุลาคม 2558 – 30 กันยายน 255949นายศุภชัย เอี่ยมสุวรรณ1 ตุลาคม 2559 – 30 กันยายน 256050นายภัคพงศ์ ทวิพัฒน์1 ตุลาคม 2560 – 30 กันยายน 256151นายพิพัฒน์ เอกภาพันธ์1 ตุลาคม 2561 – ปัจจุบัน
ประชากรศาสตร์
หมายถึงจำนวนประชากรได้<b>เพิ่มขึ้น</b>เมื่อเทียบกับปีก่อน
หมายถึงจำนวนประชากรได้<b>ลดลง</b>เมื่อเทียบกับปีก่อน
โครงสร้างพื้นฐาน
การศึกษา
จังหวัดพิษณุโลกเป็นศูนย์กลางการศึกษาของภูมิภาคภาคเหนือตอนล่าง มีสถานศึกษามากมายทุกระดับตั้งแต่อนุบาลจนถึงระดับมหาวิทยาลัยทั้งรัฐบาล และเอกชนดังนี้
อุดมศึกษา
มหาวิทยาลัยนเรศวร
มหาวิทยาลัยราชภัฏพิบูลสงคราม
มหาวิทยาลัยเทคโนโลยีราชมงคลล้านนา วิทยาเขตพิษณุโลก
วิทยาลัยสงฆ์พุทธชินราช มหาวิทยาลัยมหาจุฬาลงกรณราชวิทยาลัย
มหาวิทยาลัยพิษณุโลก
วิทยาลัยทองสุข ศูนย์การศึกษาพิษณุโลก
วิทยาลัยพยาบาลบรมราชชนนีพุทธชินราช
วิทยาลัยการสาธารณสุขสิรินธร
วิทยาลัยแคมบริดจ์ ประเทศไทย
สถาบันบัณฑิตพัฒนบริหารศาสตร์ ศูนย์จังหวัดพิษณุโลก
อาชีวศึกษา
วิทยาลัยอาชีวศึกษา จังหวัดพิษณุโลก
วิทยาลัยเทคนิคพิษณุโลก
วิทยาลัยเทคนิคสองแคว
วิทยาลัยพณิชยการบึงพระพิษณุโลก
วิทยาลัยสารพัดช่างพิษณุโลก
วิทยาลัยการอาชีพนครไทย
วิทยาลัยบริหารธุรกิจและเทคโนโลยีพิษณุโลก
วิทยาลัยอาชีวศึกษาพณิชยการพิษณุโลก
ประถมศึกษาและมัธยมศึกษา
สาธารณสุข
จังหวัดพิษณุโลกมีสถานบริการที่หลากหลาย ตั้งแต่สถานีอนามัย ศูนย์สุขภาพชุมชน คลินิก โรงพยาบาลรัฐ โรงพยาบาลทหาร โรงพยาบาลเอกชน และโรงพยาบาลระดับมหาวิทยาลัย โดยมีโรงพยาบาลศูนย์สังกัดกระทรวงสาธารณสุขประจำจังหวัดและประจำภูมิภาคภาคเหนือตอนล่างคือ โรงพยาบาลพุทธชินราช พิษณุโลก และมีโรงพยาบาลมหาวิทยาลัยในสังกัดกระทรวงศึกษาธิการ ซึ่งเป็นโรงพยาบาลระดับตติยภูมิขั้นสูงของภูมิภาคภาคเหนือตอนล่างก็คือ โรงพยาบาลมหาวิทยาลัยนเรศวร นอกจากนี้ยังมีโรงพยาบาลในสังกัดกระทรวงกลาโหม คือ โรงพยาบาลค่ายสมเด็จพระนเรศวรมหาราช และโรงพยาบาลกองบิน 46
การขนส่ง
thumbnail|สถานีรถไฟพิษณุโลก
จากลักษณะทางภูมิศาสตร์ทำให้จังหวัดพิษณุโลกเป็นจุดศูนย์กลางในด้านคมนาคมของภูมิภาคอินโดจีน โดยเป็นจุดเชื่อมต่อระหว่างภาคกลางกับภาคเหนือ รวมทั้งภาคเหนือกับภาคตะวันออกเฉียงเหนือด้วย จังหวัดพิษณุโลกจึงได้รับการขนานนามว่าเป็น "เมืองบริการสี่แยกอินโดจีน" โดยสามารถเดินทางได้โดยทางหลวงแผ่นดินหมายเลข 12 (แม่สอด-มุกดาหาร) ทางหลวงแผ่นดินหมายเลข 11 (อินทร์บุรี-เชียงใหม่) และทางหลวงแผ่นดินหมายเลข 117 (พิษณุโลก-นครสวรรค์) โดยทางหลวงทั้ง 3 สายเชื่อมโยงกันด้วยโครงข่ายทางหลวงแผ่นดินหมายเลข 126 (ถนนวงแหวนรอบเมืองพิษณุโลก)
โดยทั้งนี้จังหวัดพิษณุโลกมีสถานีขนส่งผู้โดยสาร 2 แห่งด้วยกัน
สถานีขนส่งผู้โดยสารแห่งที่ 1 ตั้งอยู่ภายในตัวเมือง สำหรับรถโดยสารที่วิ่งบริเวณจังหวัดที่ใกล้เคียง
สถานีขนส่งผู้โดยสารแห่งที่ 2 ตั้งอยู่บริเวณสี่แยกอินโดจีน เป็นสถานีขนส่งผู้โดยสารที่มีขนาดใหญ่ที่สุดในภาคเหนือ ก่อสร้างบนเนื้อที่ 10 ไร 12 ตารางวา รองรับรถโดยสารที่มีเส้นทางผ่านจังหวัดพิษณุโลก รวม 20 เส้นทาง มีชานชาลาสำหรับจอดรถโดยสารทั้งหมด 40 ช่อง แบ่งเป็นอาคารสถานีฯหลังใหญ่ จำนวน 20 ช่อง อาคารสถานีฯหลังเล็ก จำนวน 20 ช่อง มีช่องจำหน่ายตั๋ว 27 ช่อง มีสถานที่จอดรถสำหรับประชาชนจำนวน 100 ช่อง มีการจัดสถานที่นั่งรอรถ สำหรับพระภิกษุและประชาชนอย่างเพียงพอ
นอกจากการคมนาคมทางรถยนต์แล้ว การเดินทางมาจังหวัดพิษณุโลกยังสามารถมาด้วยรถไฟ หรือเครื่องบิน
โดยที่ท่าอากาศยานพิษณุโลก มีเครื่องบินมีสายการบินนกแอร์ ไทยแอร์เอเชีย ไทยไลอ้อนแอร์ และ กานต์แอร์ มีเที่ยวบินมาลงท่าอากาศยานพิษณุโลกทุกวัน
ส่วนการเดินทางภายในตัวจังหวัดนั้น จะมีรถโดยสารสองแถวสีม่วง กับรถโดยสารประจำทางมินิบัสสีม่วง วิ่งให้บริการหลายสาย
สถานที่ท่องเที่ยว
อำเภอเมืองพิษณุโลก
วัดพระศรีรัตนมหาธาตุวรมหาวิหาร
พระราชวังจันทน์ (ศาลสมเด็จพระนเรศวรมหาราช)
มหาวิหารสมเด็จองค์ปฐม (วัดจันทร์ตะวันตก)
พิพิธภัณฑ์พื้นบ้านจ่าทวี (จ่าสิบเอกทวี-พิมพ์ บูรณเขตต์)
โรงหล่อพระบูรณะไทย
สวนนกไทยศึกษา
เซ็นทรัลพลาซ่าพิษณุโลก
วัดนางพญา
สวนเฉลิมพระเกียรติ 80 พรรษา บริเวณแยกเรือนแพ (สถานที่พักผ่อนหย่อนใจ)
พิษณุโลก เซ็นทรัลปาร์ค บริเวณสถานีตำรวจภูธรเมืองพิษณุโลก (สถานที่พักผ่อนหย่อนใจ ซึ่งเป็นโครงการก่อสร้าง)
อำเภอบางระกำ
สวนน้ำสแปลชฟันปาร์ค (สถานที่พักผ่อนหย่อนใจ)
อำเภอวังทอง
สวนสาธารณะบึงราชนก (ส่องนกชมดาว)
สวนรุกขชาติสกุโณทยาน (น้ำตกวังนกแอ่น)
น้ำตกปอย
น้ำตกแก่งซอง
น้ำตกแก่งโสภา
อุทยานแห่งชาติทุ่งแสลงหลวง
วนอุทยานเขาพนมทอง ตำบลพันชาลี
วัดราชคีรีหิรัญยาราม
อุทยานแห่งชาติภูแดงร้อน
วัดพระพุทธบาทเขาสมอแคลง
โรงเจไซทีฮุกตึ้ง
พระมหาธาตุเจดีย์ศรีบวรชินรัตน์
วัดวังทองวราราม
สถูปพระยาสาลีรัฐวิภาค
อำเภอนครไทย
อุทยานแห่งชาติทุ่งแสลงหลวง
อุทยานแห่งชาติภูหินร่องกล้า
อนุสาวรีย์พ่อขุนบางกลางท่าว (หาว)
อำเภอวัดโบสถ์
เขื่อนแควน้อยบำรุงแดน
อุทยานแห่งชาติแก่งเจ็ดแคว
เขตห้ามล่าสัตว์ป่าเขาน้อย-เขาประดู่
อำเภอชาติตระการ
อุทยานแห่งชาติน้ำตกชาติตระการ
น้ำตกนาจาน
อุทยานแห่งชาติภูสอยดาว
น้ำตกตาดปลากั้ง[13]
อำเภอเนินมะปราง
เขตห้ามล่าสัตว์ป่าถ้ำผาท่าพล
ถ้ำเดือน ถ้ำดาว
อำเภอพรหมพิราม
สวนนํ้าพรหมพิรามรีสอร์ท
วัดวังมะสระ
วัดกระบังมังคลาราม
เขื่อนนเรศวร
บุคคลที่มีชื่อเสียง
เกจิคณาจารย์ชื่อดังของจังหวัดพิษณุโลก
พระวรญาณมุนี (หลวงตาละมัย (แจ่ม สุธัมโม) วัดอรัญญิก อำเภอเมืองพิษณุโลก
พระมงคลสุธี (หลวงพ่อแขก) วัดสุนทรประดิษฐ์ อำเภอบางระกำ
พระครูศีลสารสัมบัน (สำรวย สมฺปนฺโน) วัดสระแก้วปทุมทอง อำเภอเมืองพิษณุโลก
หลวงพ่อทรัพย์ วัดปลักแรด อำเภอบางระกำ
พระครูประพันธ์ศีลคุณ (หลวงพ่อพันธ์) อดีตเจ้าอาวาสวัดบางสะพานและเจ้าคณะอำเภอวังทองชั้นเอก
พระครูสุวรรณธรรมาภรณ์ (หลวงพ่อวาว) อดีตเจ้าอาวาสวัดบางสะพานและเจ้าคณะตำบลวังทองชั้นเอกกิตติมศักดิ์
พระครูศีลสารสัมบัน (หลวงปู่อ่อน พุทธสโก) วัดเนินมะเกลือวนาราม อำเภอวังทอง
พระครูไพโรจน์คุณาธาร (หลวงปู่หล้า คุณาธโร) วัดหนองบัว อำเภอวังทอง
พระครูขันติธรรมาภินันท์ (หลวงพ่อเชื่อม) วัดหนองทอง อำเภอวังทอง
นักการเมือง
ดิเรก ชัยนาม
ทินกร พันธุ์กระวี
โกศล ไกรฤกษ์
ยิ่งพันธ์ มนะสิการ
นิยม ช่างพินิจ
สุชน ชามพูนท
จุติ ไกรฤกษ์
นพพล เหลืองทองนารา
ประจิน จั่นตอง
นักเขียน/ศิลปิน
สุวรรณี สุคนธา
สื่อมวลชน/ดารา/นักแสดง
ภรภัทร นีลพัธน์
รุ่ง สุริยา
สีหนุ่ม เชิญยิ้ม
สุพจน์ จันทร์เจริญ
กรภพ จันทร์เจริญ
ภูผา รัตนรุ่งเรืองชัย
โย่ง เชิญยิ้ม
ตุ้ม จ่านกร้อง
นักกีฬา
ไทรโยค พุ่มพันธ์ม่วง
เดชา ก่อเกียรติยิม
นางงาม/นางแบบ
กีรติกา จารุรัตน์จามร มิสอินเตอร์เนชันแนลไทยแลนด์ 2018
ของดีจังหวัดพิษณุโลก
พระพุทธชินราชใบเสมา กรุวัดพระศรีรัตนมหาธาตุ (วัดใหญ่) หนึ่งในเบญจภาคีพระเครื่อง
พระพิมพ์นางพญา กรุวัดนางพญา หนึ่งในเบญจภาคีพระเครื่อง
หมี่ซั่ว
สุนัขพันธุ์บางแก้ว
ไก่ชนพันธุ์ไทยพันธุ์เหลืองหางขาว
แหนมและหมูยอ
น้ำปลาบางระกำ
ผลิตภัณฑ์กล้วยตาก อำเภอบางกระทุ่ม
ไม้กวาดบ้านนาจาน อำเภอชาติตระการ
ผลิตภัณฑ์สมุนไพรทอดกรอบ (หนึ่งตำบลหนึ่งผลิตภัณฑ์ 5 ดาว)
ผ้าไหมทอมือ อำเภอเนินมะปราง
มะม่วงกวนหรือส้มแผ่น อำเภอวังทอง
อ้างอิง
จิตร ภูมิศักดิ์. ศัพท์สันนิษฐานและอักษรวินิจฉัย (โครงการสรรพนิพนธ์ จิตร ภูมิศักดิ์). กรุงเทพมหานคร: ฟ้าเดียวกัน , 2548.
ดูเพิ่ม
มหาวิทยาลัยนเรศวร
มหาวิทยาลัยราชภัฏพิบูลสงคราม
สโมสรฟุตบอลพิษณุโลก
เทศบาลนครพิษณุโลก
รายชื่อวัดในจังหวัดพิษณุโลก
รายชื่อโรงเรียนในจังหวัดพิษณุโลก
สถานีรถไฟพิษณุโลก
รายชื่อสาขาของธนาคารในจังหวัดพิษณุโลก
รายชื่อห้างสรรพสินค้าในจังหวัดพิษณุโลก
แหล่งข้อมูลอื่น
| https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%88%E0%B8%B1%E0%B8%87%E0%B8%AB%E0%B8%A7%E0%B8%B1%E0%B8%94%E0%B8%9E%E0%B8%B4%E0%B8%A9%E0%B8%93%E0%B8%B8%E0%B9%82%E0%B8%A5%E0%B8%81 |
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노예제(奴隷制, )란 선사시대 이후 인간이 다른 인간을 재산, 가축처럼 취급하는 것을 말하며, 그렇게 재산, 가축처럼 취급되는 인간을 노예(奴隷, slave)라 한다. 노예는 사람임에도 불구하고 자유와 권리를 빼앗기고 타인의 소유의 객체가 되는 자, 을 의미한다. 풍토, 관습, 전통의 상위(相違)에 따라 지역차는 있으나 유사 이래 사람이 사람을 소유하는 노예제는 세계 어디에서도 볼 수 있었던 일반적인 현상이었다. 근대 유럽에서는 천부인권 사상에 따라 유럽 각국의 국민들에 대하여는 노예제가 폐지되었으나, 타인종에 대한 노예무역은 한동안 광범하게 행하여졌다.
현대사회에서 사람을 대상으로 한 소유와 매매는 국제조약과 법률에 의하여 금지되어 있으나, 지금도 세계 각처에서는 성과 노동력을 착취하는 인신매매가 근절되지 않고 있으며, 이는 현대의 비합법적인 노예로 볼 수 있다.[1]
역사
노예 제도가 처음 시작된 연대는 확인이 되지 않고 있으나 신석기시대와 청동기시대에 타 부족, 타 씨족을 정복하면서 정복된 부족 또는 부락을 하층민으로 부린 것에서 출발한다. 노예 제도는 사회 계급 제도에 근거를 두고 있으므로, 수렵채집사회에서는 드문 현상이다. 또 노예제가 발생하려면 잉여 생산물과 더불어 충분히 인구 밀도가 높아야 한다. 이러한 요소들 때문에 기원전 11,000여 년 전 신석기 혁명 당시 농경이 발명된 이후에 노예 제도가 등장하기 시작하였다.[2] 이후 금속의 사용이 보편화된 청동기 시대와 철기 시대에 가서는 노예가 급속히 증가하였다.
노예제에 관한 기록으로 남긴 최초의 문헌 기록은 함무라비 법전(기원전 1760년경)에서 찾아 볼 수 있으며, 성서에서도 노예제가 확립된 제도로 언급되고 있다.[3] 한국에서는 기원전 1000년경의 고조선의 법조문에 노예에 대한 규정이 존재한다. 노예제는 수메르 문명을 비롯하여 고대 이집트, 바빌로니아, 아시리아, 고대 그리스, 고대 로마, 이슬람 아랍 제국 등 거의 모든 고대 문명에서 등장하였다. 이들의 노예 제도는 채무 노예, 범죄자 출신, 전쟁 포로 출신, 아동 유기, 노예가 낳은 자식 등 여러 종류가 뒤섞여 있었다.[4] 고대 그리스에서 노예에 관한 기록은 뮈케나이 문명 시대까지 거슬러 올라간다. 고전기 시대 아테나의 인구 가운데 2/5가 노예였다.[5] 아리스토텔레스 같은 그리스 철학자들도 선천적 노예 제도를 인정하였는데, 이는 즉 태어날 때부터 노예인 사람도 있다는 생각이었다.[6][7]
공화정 시대의 로마가 외부로 팽창하면서 온갖 민족이 노예화되어 유럽과 지중해 세계 전역에서 노예가 대량으로 공급되었다. 그리스인, 일리리아인, 베르베르인, 게르마니아인, 브리톤인, 트라키아인, 갈리아인, 유대인, 아랍인 등 다양한 민족 출신의 노예가 노동 뿐 아니라 오락(가령 검투사나 성 노예 등)을 목적으로 쓰였다. 소수 상류층의 이러한 억압으로 말미암아 노예 반란이 일어나기도 하였는데, 스파르타쿠스가 일으킨 로마의 세 번째 노예 반란이 가장 격렬하였으며, 가장 유명하기도 하다. 로마 공화정 말기에 노예제는 로마 경제의 중요한 기반이 되었으며, 로마 사회의 큰 부분을 이루었다.[8] 고대 로마의 인구 중 25% 이상이 노예로 추산된다.[9] 어떤 학자들은 로마의 노예 비중이 이탈리아 인구의 35% 이상을 점하였다고 주장하기도 한다.[10] 로마 제정 시대의 로마 시만 해도 400,000여명의 노예가 있었다.[11] 로마가 건국되어 쇠퇴하기까지 천 년 동안 지중해와 그 배후지 전역에서 노예로 잡히거나 팔린 사람이 최소 1억 명은 되었다.[12]
중세 초기의 노예 무역은 유럽의 남쪽과 동쪽 지역에 주로 국한되었는데, 비잔티움 제국과 무슬림 세계가 종착지로, 이교도 지역인 중부 유럽과 동유럽, 캅카스와 타타르 지방은 중요한 노예 공급처였다. 바이킹, 아랍, 그리스, 유대인 상인은 중세 초기의 노예 무역에 모두 관여하였다.[13][14][15]
중세 시대의 에스파냐와 포르투갈에서는 무슬림과 기독교간에 끊임없이 전쟁이 벌어졌다. 알 안달루스에서는 이베리아인 기독교 왕국에 주기적으로 습격 작전을 벌여 전리품을 얻고 노예를 끌고 갔다. 가령 무와히드 왕조의 할리파 야쿱 알 만수르는 1189년에 포르투갈의 리스본을 습격하여 여자와 아이 3,000명을 포로로 잡아갔으며, 그의 코르도바 지사는 1191년에 실브스를 공격하여 기독교도 3,000명을 노예로 삼았다.[16] 11세기에서 19세기에 이르기까지 북아프리카의 바르바리 해적은 '라지아'라 하여 유럽의 해안 취락을 습격하여 사로잡은 기독교도들을 노예로 삼아 알제리나 모로코의 노예 시장에 팔았다.[17][18]
1086년에 영국에서 편찬된 둠스데이 북에서 잉글랜드 인구의 약 10%가 노예라고 나와 있다.[19] 로마 가톨릭 교회에서는 노예제를 금지하였으며 또는 922년의 코블렌츠 공의회나 런던 공의회 (1102년), 아마 공의회 (1171년) 등 최소한 기독교도 노예를 비기독교 지역으로 수출하는 행위를 금지하기도 하였으나, 중세 초기 유럽의 노예 제도는 무척 흔한 일이었다.[20] 15세기에 가톨릭 교회는 해외 영토에서 비기독교를 노예화하는 행위를 합법화하였다.[21] 1452년, 교황 니콜라스 5세는 교황 칙서 '둠 디베르사스'(Dum Diversas)를 포고하여 포르투갈의 알폰수 5세에게 "사라센인, 이교도, 그 밖의 신앙 없는 자들"을 세습 노예로 삼을 수 있는 권리를 부여하여 노예 무역 (최소한 전쟁 포로 노예)을 합법화하였다.[22] 니콜라스 5세는 이러한 조건으로 노예제를 승인한 것을 1455년의 로마누스 폰티펙스(Romanus Pontifex) 칙서로 재확인하고 더욱 확대하였다. 그러나 산토 도밍고의 에스파냐인 정착촌에 도착한 도미니크회 수도사들은 지역 인디언 원주민의 노예화를 강하게 비판하였다. 다른 사제들과 함께 이들은 에스파냐 임금과 이후 왕의 대리인 앞에서 그들의 제도가 부당하고 불법적이라며 반대하였다.[23]
한편 비잔티움-오스만 전쟁과 오스만의 유럽 전쟁으로 수많은 기독교도 노예들이 이슬람 세계로 유입되었다.[24] 레판토 해전 이후 약 12,000명의 기독교도 갤리선 노예들이 오스만 튀르크의 손아귀에서 벗어나 해방되기도 하였다.[25] 동유럽에서는 일련의 타타르의 침입에 시달렸는데, 타타르인의 침입 목적은 이곳 주민들을 약탈하고 노예로 삼는 것이었다. 1474년~1569년 사이에 크림 반도의 타타르인들이 폴란드-리투아니아 연방에 침입한 기록은 75차례에 이르렀다.[26] 1551년에 카잔 한국(汗國) 에서만 해도 러시아인 포로의 수가 100,000 명이 넘었다.[27]
대서양 노예 무역
아프리카 일부 지역에서는 대서양 노예 무역이 시작되기 오래전부터 노예제가 흔한 일이었다.[28] 포르투갈의 항구 도시 라구스는 포르투갈에서 처음으로 1444년에 아프리카 노예를 수입하여 판매하는 노예 시장(Mercado de Escravos)이 생겼다.[29][30] 1441년에 모리타니 북부에서 포르투갈로 첫 노예가 들어왔다.[30] 1552년 당시 리스본의 인구 중 10%는 아프리카 흑인이었다.[31][32] 16세기 후반, 왕실은 노예 독점 무역을 포기하고, 또 아프리카 노예를 유럽에서 거래하는 대신 노예를 아메리카 열대 식민지에 직접 운송하는 방식으로 정책을 바꾸었는데, 포르투갈의 경우 특히 브라질로 노예를 많이 보내었다.[30] 15세기에 노예 1/3은 아프리카 시장에서 금과 교환하여 되팔렸다.[33]
에스파냐는 신세계에서 포르투갈이 겪은 것보다 더욱 강력하고 단련된 문명들과 싸웠다. 그러나 아메리카 원주민들은 천연두와 같은 질병에 면역성이 없어 이런 질병들이 확산된 탓에 에스파냐는 더욱 쉽게 아메리카 원주민을 정복할 수 있었다.[34] (반면 매독같은 질병이 원주민에서 유럽인에게 옮아 퍼지기도 하였다.) 원주민들은 강제 노동자로 쓰였는데(에스파냐인들은 미타( Mit'a)라는 콜럼버스 이전 시대 제도를 이용하였다),[35] 질병 때문에 노동력이 부족해지면서 에스파냐 식민자들은 점차 대서양 노예 무역에 뛰어들게 되었다. 신세계에서 처음으로 아프리카 노예를 부린 사람은 쿠바나 히스파니올라같은 섬에서 일하는 에스파냐인들로, 이들 섬에서는 원주민 인구가 심각하게 줄어 최초로 원주민을 보호하는 법(부르고스 법, 1512~1513)이 생길 정도였다. 1501년, 아프리카 노예들이 처음으로 히스파니올라에 도착하였다.[36] 영국은 대서양 노예 무역에서 중요한 역할을 하였다. "삼각 무역"은 프랜시스 드레이크와 그 일당들이 개척한 무역로였다. 1750년에 노예제는 13개 아메리카 식민지 전체에서 합법적인 제도였으며,[37][38] 노예 무역과 서인도 대농장의 이익은 산업 혁명 당시 영국 경제의 5%를 차지하였다.[39]
대서양 노예 무역은 18세기 말에 정점에 이르렀는데, 노예 대부분은 서아프리카 내륙에서 벌어진 약탈 원정에서 사로잡힌 사람들이었다. 약탈 원정은 보통 오요 제국(요루바), 아샨티 제국, 다호메이 왕국,[40] 아로 연합[41] 등 아프리카 왕국들이 실시하였다. 아프리카 내륙으로 간 유럽인은 거의 없었는데, 질병에다 아프리카인들의 격렬한 저항을 두려워했기 때문이었다. 노예는 해안 식민 기지로 끌려와서 재화와 거래되었다. 16세기에서 19세기까지 아메리카로 실려간 아프리카인은 1,200만 명으로 추산된다.[42] 이들 가운데 645,000명은 오늘날의 미국 땅으로 끌려갔다. 버지니아의 백인 시민들은 처음으로 온 이들 아프리카인들을 계약 노동자로 대우하기로 하였다.[43] 17세기와 18세기에 아메리카 식민지에 온 유럽 이주민 전체 중 절반 이상이 계약 노동자로 왔던 시대였다.[44] 1655년, 흑인 존 캐저는 오늘날의 미국에서 최초로 법적으로 노예로 인정되었다.[45] 1860년 미국 인구 조사에 따르면, 393,975명의 사람들이 노예 3,950,528명을 소유하였다.[46] 이들 노예 중 브라질에서 실려온 사람들이 가장 비중이 컸다.[47]
아랍의 노예 무역
역사가들은 아랍의 노예 무역이 천년 이상의 역사를 지니고 있다고 한다.[48] 아랍 세계의 노예는 사하라 이남 아프리카(주로 잔지바르), 캅카스(주로 체르케스인),[49] 중앙 아시아(주로 타타르), 중부 유럽 및 동유럽(주로 사깔리바)[50] 등 여러 지역 출신들이었다.
이븐 밧투타는 자신이 노예를 받거나 샀다는 이야기를 수 차례 전하고 있다.[51] 노예는 이슬람 세계의 변경 지역에서 구입하거나 사로잡혀서 중심지의 노예 시장에 수출되어 여러 지역으로 팔려나갔다.[52][53][54] 9세기와 10세기에 흑인 노예들은 이라크 저지대의 총 인구 중 최소한 절반은 차지하였던 것으로 보인다.[55] 같은 시대에 이 지역 수만 명의 노예가 중앙 아시아와 캅카스에서도 수입되었다.[56]
잔지바르는 동아프리카의 주요 노예 무역항으로, 19세기에 오만 아랍인의 지배하에 해마다 이 도시를 통하여 5만 명의 노예들이 판매되었다.[57][58] 어떤 역사가들은 서기 650년에서 1900년까지 1,100~1,800만 명의 흑인 노예들이 홍해, 인도양, 사하라 사막을 지났던 것으로 추산하고 있다.[59][60] 이에 비해 아메리카 대륙으로 끌려간 아프리카인들의 수는 940~1,200만 명이었다.[59]
중부와 동부 유럽의 노예들은 보통 사깔리바('슬라브인'이라는 뜻이다)로 불렸다.[61] 또 무어인들은 8세기부터 지중해와 대서양 주변 해안 지방을 습격하여 바르바리 해적으로 알려지게 된다. 16세기에서 19세기에 이들이 서유럽과 북아메리카에서 사로잡은 백인 노예의 수는 125만 명으로 추산된다.[62][63]
유럽의 노예 무역
서유럽의 노예 제도는 중세 시대 말기에 거의 사라졌다.[64] 잉글랜드의 노예 무역은 1102년에 불법화되었다.[65]
스칸디나비아의 노예 제도 스랄(Thrall)은 14세기 중엽에야 폐지된다.[66] 동유럽에서는 노예제가 더욱 오래 지속되었다. 폴란드의 노예제는 15세기에 금지되었으며, 리투아니아에서는 1588년에 노예제가 공식적으로 폐지되었는데 두 나라의 노예제는 2차 농노제로 대체되었다. 키이우 루시와 모스크바 대공국에서 노예들은 보통 홀로피로 분류되었다. 러시아에서 노예제는 1723년에 표트르 대제가 가정 노예를 농노로 전환할 때까지 주요 제도로 존속하였다. 러시아의 농경 노예는 그 이전인 1679년에 공식적으로 농노로 전환되었다.[67] 러시아의 농노는 1861년 알렉산드르 2세의 칙령으로 지주로부터 해방되었다.[68]
로버트 데이비스에 따르면, 16~19세기에 바르바리 해적이 사로잡아 북아프리카와 오스만 제국에 판 유럽인 노예의 수가 100만~125만 명 사이라고 한다.[69][70] 흑해에서는 1783년에 러시아 제국이 크림 한국(汗國)을 멸망시킬 때까지 수백 년간 기독교도 노예를 광범위하게 교역하였다.[27] 1570년대에 크림 반도의 카파 항에서는 해마다 20,000명에 가까운 노예들이 판매되었다.[71] 이 노예들은 러시아 남부, 폴란드-리투아니아, 몰다비아(몰도바), 왈라키아, 체르케스에서 타타르 기병들에게 사로잡혔는데, 이 무역은 "초원의 수확"으로 알려졌다. 일부 연구자들은 크림 한국 시대에 사로잡혀 노예가 된 사람의 수가 총 3백만 명이 넘는 것으로 추산한다.[72][73] 크림 인구의 75% 이상이 노예나 해방 노예였던 것으로 보인다.[28]
아프리카
가나(750~1076), 말리 (1235~1645), 바마나(1712~1861), 송가이(1275~1591) 등 서부 수단의 초기 이슬람 국가에서는 인구의 약 1/3이 노예였다. 세네감비아에서는 1300년에서 1900년 사이에 인구의 거의 1/3이 노예화되었다. 19세기 시에라 리온의 인구 중 거의 절반이 노예였다. 19세기에 카메룬 두알라인 과 콩고 니제르 강 하부의 이보족과 다른 민족, 및 앙골라의 쇼크웨 왕국 및 칸사제의 왕국 인구에서 최소 절반이 노예였다. 아샨티와 요루바 인구의 1/3도 노예였다. 카넴 (1600~1800) 인구의 1/3도 노예였다. 보르누 (1580~1890)의 경우는 노예 비중이 40%였을 것이다. 1750년에서 1900년 사이에 풀라니 성전 국가의 전체 인구 중 1/3이나 2/3가 노예였다. 하우사인이 나이지리아 북부와 카메룬에 세운 소코토 제국의 경우 19세기에 인구 절반이 노예였다. 아랍인과 스와힐리인으로 이루어진 잔지바르의 인구 가운데 65~90%가 노예였다. 마다가스카르도 인구의 대략 절반이 노예였다.[74][75] 20세기 초에 처음으로 영국이 소코토 제국과 북부 나이지리아 주변 지방을 지배할 당시 200만~250만 명의 이곳 사람들이 노예였다.[76] 노예제 반대 협회에서는 1930년대 초 에티오피아의 추산 인구 800~1,600만 명 중 200만 명이 노예였던 것으로 추산하였다.[77]
동아프리카 해안의 유명한 노예 상인으로 티푸 티브을 들 수 있는데, 그 자신 역시 아프리카인 노예의 손자였다. 포르투갈인과 아프리카인의 후손이었던 프라제로스 노예상들은 잠베지 강을 따라 교역을 벌였다. 잠베지 강 북쪽의 와야오인과 마쿠아인들도 이들처럼 직업적인 노예 사냥꾼이자 상인이었다. 니암웨지족의 노예 무역상은 음시리와 미람보의 지도하에 더욱 북쪽까지 가서 노예 사냥을 벌였다.[78]
아시아
오스만 제국에서는 1908년에도 여성 노예가 판매되고 있었다.[79] 러시아인과 페르시아인 포로 노예가 팔린 노예 시장은 중앙 아시아의 히바 칸국에 집중되었다.[80] 헨리 바틀 프레어 경(부왕회의 관리)에 따르면, 1841년에 인도에는 800~900만 명의 노예가 있었다고 한다. 말라바르에서는 인구 중 약 15%가 노예였다. 1843년에 제5 인도 노예법에 의거하여 인도의 힌두교 및 이슬람 지역에서 모두 노예제가 폐지되었다.[59][81]
동아시아의 경우, 청나라 정부는 1906년에 노예제를 공식적으로 폐지하였으며, 1910년에 이 법이 발효되었다.[82] 티베트 역사에서 낭잔은 세습 집안 노예였다.[83] 한국에도 노예가 있었으나, 1894년 갑오 개혁으로 노비 제도가 공식적으로 폐지되었다. 일본에서도 계약 노동 형태의 노예는 당시 형법의 강제 노동과 더불어 존속하였다. 피지배계층 대다수를 차지하는 농노들은 거주이전, 직업 선택의 자유가 없고, 토지 매매, 분할이 금지되고 농작물 경작과 의식주에서도 매우 강한 제한을 받았다.
동남 아시아의 경우 태국과 버마의 일부 지역 인구의 1/4 또는 1/3이 노예였다.[59] 인도차이나의 구릉 부족 사람들은 "시암(태국) 사람, 안남(베트남) 사람, 캄보디아 사람들에게 끊임없이 잡혀가 노예가 되었다"고 한다.[84] 시암의 군사 원정은 대규모 노예 사냥으로 변질되었다.[85]
미국
미국 남부의 노예제도
미국 혁명 직후에 대서양 노예 무역이 종식되었으나, 노예제는 공업이 발전한 북부와는 달리 농업이 중심산업이었던 미국 남부 주에서 핵심적인 경제 제도로 존속하였다. 1780년에서 1804년 사이에 북부 주는 모두 노예 해방 법령을 통과시켰는데, 대부분의 경우 해방 법령을 점진적으로 적용하였다.[86] 그러나 남부 주에서는 인구가 서부로 이동하면서 노예제도 확대되었다. 1860년이 되면, 500,000명이던 노예 수가 4백만 명으로 성장하게 된다. 노예제가 확대되면서 계속 이윤을 창출하고 견고하게 제도가 유지되어 사라질 기미를 보이지 않게 된다. 그러나 노예제 반대 세력들은 노예제가 더욱 확대되지 못하도록 막아 이 제도를 없애버리자고 주장하였다. 노예제가 이윤을 내지 못하게 된다면 노예를 구입하여 관리하는 데 많은 돈을 쓸 사람도 없어질 것이고, 노예 제도 자체도 세계 다른 나라들처럼 조용히 사라지게 될 것이었다.
1770년에 아메리카 13개 식민지의 노예 인구와 비중은 다음과 같다. 뉴햄프셔 654명(1%), 매사추세츠 4,754명 (2%), 코네티컷 5,698명 (3%), 로드아일랜드 3,761명 (6%), 뉴욕 19,062명 (12%), 뉴저지 8,220명 (7%), 펜실베이니아 5,561명 (2%), 델라웨어 1,836명 (5%), 메릴랜드 63,818명 (32%), 버지니아 187,600명 (42%), 노스캐롤라이나 69,600명 (35%), 사우스캐롤라이나 75,168명 (61%), 조지아주 15,000명 (45%)
버지니아, 노스캐롤라이나, 캔터키의 담배 재배와 더불어 사우스캐롤라이나의 쌀농사에 기반을 둔 대농장 체제(플랜테이션)는 조지아, 앨라배마, 미시시피의 새 면화 농경지로 확대되어 노예도 더 많이 필요해졌으나,1808년에 노예 수입은 불법화되었다. 완전한 통계 자료는 없으나 1790년에서 1860년 사이에 옛 남부에서 서쪽으로 이동한 노예의 수는 1,000,000명으로 추산된다. 이 가운데 상당수는 메릴랜드주, 버지니아주, 캐롤라이나스에서 온 사람들이었다. 마이클 태드먼은 1989년 "판매자와 노예: 옛 남부의 주인, 교역상, 노예"이라는 책에서 지역간 이주의 60~70%는 노예 판매 때문이었다고 썼다.
노예제를 둘러싼 갈등
미국의 노예 해방
스토우 부인의 톰 아저씨의 오두막집을 탐독하던 미국 대통령 아브라함 링컨은 1850년부터 노예 해방을 선언하고 이를 위해 민주당 상,하원 의원들을 설득한다. 그러나 남부 지역에서는 이에 반대하였고 결국 독립을 선언한다. 이는 남북전쟁으로 확산되었다.
노예주와 자유주
1850년 합의로 새 영토를 노예주 (그 당시 조지아주, 사우스캐롤라이나주, 노스캐롤라이나주, 버지니아주, 메릴랜드주, 델라웨어주, 켄터키주, 테네시주, 루이지애나주, 미시시피주, 앨라배마주, 미주리주, 아칸소주, 플로리다주, 텍사스주)와 자유주 (그 당시 펜실베이니아주, 뉴욕주, 뉴저지주, 코네티컷주, 로드아일랜드주, 매사추세츠주, 뉴햄프셔주, 버몬트주, 오하이오주, 인디애나주, 일리노이주, 메인주, 미시간주, 아이오와주, 위스콘신주, 캘리포니아주, 미네소타주, 오리건주, 캔자스주, 웨스트버지니아주, 네바다주)로 분할하게끔 정해지면서 노예제를 둘러싼 미국의 정치적 대립이 잠시나마 해결되었다. 그러나 캔자스의 위상은 해결되지 못하였으며 급기야 노예제 찬성파와 반대파 주민간에 유혈 충돌(피의 캔자스)이 벌어졌다.[87] 1860년에 노예제 제한 계획을 내놓은 에이브러햄 링컨이 미국 대통령에 당선되면서 남부 주가 연방에서 탈퇴하여 남북 전쟁이 일어났다. 당초 링컨은 노예제를 방해할 어떤 의도도 없다고 부인하였으나, 전쟁이 진행되면서 반란 중인 남부 주의 노예들을 해방시키는 노예 해방 선언을 발표하였으며, 1865년 12월에는 결국 미국 수정 헌법 13조로 미국의 노예 제도가 폐지되었다. 하지만 흑인들을 노예로 부리던 인종차별 의식까지 없어진 것은 아니어서, 미국의 흑인들은 인종차별이 법적으로 없어지기전까지의 남아프리카 공화국의 흑인 및 유색인종처럼 백인들로부터 교육, 공공시설, 식당, 교통시설, 의료, 직업선택에서 차별을 받았다.
미국 개신교에서의 논쟁
노예제도는 개신교에서도 논쟁의 대상이 되었다. 노예제도라는 현재의 질서를 문자적인 성서해석으로 지지함으로써 기득권을 유지하려는 남부의 기독교 근본주의성향의 개신교와 기독교 인도주의에 따라 노예제도에 반대하는 개신교 신자들(퀘이커, 메노나이트) 모두가 성서를 인용하였다. 남부의 개신교에서는 노예들은 주인에게 복종하라는 에베소서의 문장을[88], 노예제도에 반대하는 개신교 신자들은 대접받고자 하는 대로 대접하라는 마태복음서의 황금률[89] 을 인용함으로써 자신들의 주장을 신학적으로 정당화하였다.[90] 이들은 남북전쟁에서 패한 뒤에도 오랜기간 노예를 부리고 있었고, 미국 남부에서는 흑인들에 대해서 노예의 후손이라 하여 멸시, 천대하는 습성이 1920년대까지도 일부 잔존하였다.
한국
한국의 노비 해방
조선시대 노비가 양인으로 면천하는 방법 중에는 국가의 기득권을 위협할 만한 전쟁이나 자연재해 같은 특수한 상황에서 활약하는 방법이 있었다. 또한 '속오군'에 지원하는 방법이 있었다. 임진왜란을 계기로 신설된 '속오군'은 병농일치제에 따라 평상시에는 농사와 무예훈련을 하다가, 유사시에는 소집되어 국가 방어에 동원되는 체제로서 부자 2대에 걸쳐 '평생동안' 군대에 복무해야 양인으로 해방될 수 있었다. 그리고 노비의 아버지가 조선 정부의 관리일 경우, 노비는 장예원에 심사를 거쳐 양인이 될 수 있었다. 대신에 노비는 '보충대'라는 곳에 입속하여 일정기간을 거쳐야 양인이 될 수 있었다.
개화운동가들의 노비해방주장
한국에서의 최초의 노비 해방자는 개화파 정치인 윤치호였다. 1895년 2월 13일 그는 귀국 즉시 자신의 노비들을 석방시켰다. 그 때 윤치호의 가족들은 그의 전도를 받고 즉시 대대로 내려온 신주단지를 불태우고 종문서를 불태웠다.[91] 이로서 한국에서 종문서를 제일 먼저 불태운 가문이 되었다. [92]
1895년 2월 미국 유학을 마치고 귀국한 윤치호는 자기 집의 노비문서를 불에 소각하고, 노비들에게 재산을 주어 독립시켰다. 1895년 12월 서재필 귀국 이후 윤치호와 서재필은 노비를 해방시킬 방안을 계획하였다. 이들은 적당한 시기가 오면 이를 공론화시키기로 작정하고 1897년 이를 독립협회와 만민공동회에 상정한다.
처음 개신교회의 노비해방
개화기에 개신교 신자들이 노비해방을 하는 일이 있었다. 여운형은 클라크 선교사의 권유로 그리스도인이 된 후에 노비문서를 불태워버림으로써 집에서 부리던 노비들을 해방하였다.[93] 감리교신문인 《조선 그리스도인 회보》에 양반 부인이 노비를 부리는 것이 하나님께 죄가 된다는 신념으로써 여성노비를 해방하였으며, 자신의 수양딸로 입양하였다는 이야기가 실렸다.[94]
독립협회의 노비 해방 결의
윤치호와 서재필은 1895년 12월 서재필의 귀국 직후부터 노비 해방문제를 상의하였고, 1897년 10월 독립협회와 만민공동회에 노비 해방 문제를 상정시키기로 계획한다. 윤치호와 서재필은 노비들을 해방시킬 것을 결의하고 노비제도가 필요한 것인가에 대한 여론을 공론화시켰다.
1897년 11월 1일에 독립협회가 개최 한 제 8회 토론회에서 서재필은 독립협회의 회장에게 노비 해방에 대한 것을 주제로 삼자고 건의하였고, 독립협회 회의의 주제로 채택된다. 해당 토론회에서는 약 500 명의 회중이 참석 한 가운데 그 부당함에 대한 열띤 논의를 개진케 하였다. 토론회의 광경을 보면, 약 500 명이 참석 한 가운데 먼저 회원의 호명이 있었고 다음 지난회의 토론회 기록의 확인이 있었으며, 내빈 소개와 신입 회원 소개가 있었다.[95] 이 때 노비제에 대한 핵심 논제가 "동포 형제 간에 남녀를 팔고 사고 하는 것이 의리상에 대단히 불가하다는 문제" 였다.[96] 이 토론회 에서는 모임에 모인 사람들이 토론에 자유로이 참가하여 각자의 의견을 개진하였다. 이 중 한 발언자가 용역은 하나 의 필요한 제도 이며 노비 제도는 그러한 용역 의 하나라고 발언하자, 참가자중 하나가 일어서서 토론자가 명제를 정확히 말하고 있지 않다고 의사 규칙 위반을 들어 항의 했으며 많은 회원들이 주제의 찬성편 에 서서 발언하였다. 윤치호는 노비제도의 폐해와 비 인간성을 구체적 사례를 들면서 설명하는 연설 을 하고, 서재필은 미국에서의 아프리카 흑인 노예 들의 참상 을 들어 설명하였다.[97] 다음으로 주제에 대한 참가자의 의견 을 투표에 붙인 결과 만장일치로 주제에 대한 찬성이 의결 되었으며, 주제에 찬성한 사람은 자기가 실제로 소유한 노비를 모두 해방시키도록 하자는 동의가 가결됨으로써 토론회 를 끝내었다.[97] 독립협회의 결의에 따라 한성부의 양반 가에서는 노비문서를 불태우고 노비들을 석방시키는 이들이 나타나기 시작하였다. 당시 참관자에 의하면 토론이 매우 진지 하였으며 토른 회의 결과 100 명 이상의 노비들이 자발적으로 해방되었다고 단언할 수 있다고 한다.[96]
윤치호와 서재필은 각각 인간은 물건이 아니며 재산이 되어서는 안 된다, 인간의 생명은 하늘이 부여한 것이라고 역설하고 다녔다. 하지만 아직 많은 이들이 이들의 사상을 위험한 사상이며 반상의 질서를 무너뜨리는 해괴한 요설, 궤변으로 취급하였다. 그러나 1897년 11월 1일의 노비해방에 대한 기습 토론 이후 노비 해방 풍조가 점차적으로 확산되었다.
노예의 발생 원인
선천적인 노예의 발생원인
출생에 의한 노예로 부모의 쌍방 혹은 일방이 노예이면 자녀도 노예가 되었다.
아버지와 어머니와 모두 노예에서 자녀도 노예가 된 경우이다.
어머니가 자유인인데 아버지는 노예여서 자녀도 노예가 되던 경우이다.
아버지가 자유인인데 어머니는 노예여서 자녀도 노예가 되던 경우이다.
주인이 여자 노예와의 사이에서 성관계를 갖고 태어난 경우이다. 보통 노예로 취급하지만 주인이 자신의 서출 자식이라 하여 석방시키거나 반쪽 귀족(또는 양반)으로 취급하는 사례도 드물게 존재했다.
후천적인 노예의 발생원인
반역노예:자유인이 정부 혹은 정권에 저항하다가 반역자가 되어 노예가 되는 경우이다. 중국과 한국, 일본에서 흔히 볼 수 있는 노예이다.
포로노예:자유인이 전쟁에서 포로가 되어 노예가 되던 경우이다. 노예획득을 목적으로 한 전쟁에서 포로가 되어 노예가 되던 경우와 다른 목적의 전쟁에서 포로가 되어 노예로 팔려오던 경우가 있었다. 전쟁포로 노예는 유럽에서 노예매매 목적의 포로노예는 아프리카에서 발생하였다.
납치노예:자유인이 노예상인이나 인신매매조직 또는 해적에게 납치되어 노예가 되던 경우이다.
형벌노예:자유인이 범죄를 행하여 형벌로서 노예가 되던 경우이다.
채무노예:자유인이 빚을 진 후 일정한 기간내에 빚을 갚지 못하면 노예가 되던 경우이다. 본인 아닌 자녀 등 가족이 대신 채무노예가 되기도 하였다.
매각노예: 자유인이 부모, 양부모, 추장 등 보호자의 매각에 의하여 노예가 되던 경우이다. 주로 빈곤에 의한 일이 많았다.
노예들이 해방되는 경우
주인에 의한 해방: 주인은 노예들이 자신을 위해서 일을 많이 해주거나, 자신의 생명을 구해 주거나, 집안의 몰락을 막아주는 등의 큰 공을 세우면, 그렇게 해준 노예게게 자유를 주기도 했다. 이는 노예들의 충성심 고양을 위해서이기도 했는데, 주인으로서는 나이 든 노예들을 자유롭게 해줘도 자신에게 손해가 없으며, 노예들은 자유인이 되면 자신도 속박에서 벗어나는 것뿐만이 아니라 자녀들까지 자유인이 되기 때문에, 이것을 바라보면서 주인에게 충성하는 일이 많았다.
매매: 노예들도 자신의 개인재산을 소유할 권리가 있으며 국가가 그 능력을 인정하기도 하였다. 이에 노예들은 주인의 허락 하에 자신의 자유를 돈을 주고 사는 일도 많았다. 그러나 이는 노예가 주인과 동업자로 일하는 상인계급인 경우에나 통하는 방법으로서, 일반적인 노예는 금액을 모으는 것이 한정되어 있었기 때문에 광범위하게 쓰이던 방법은 아니었다.
도주: 성공하면 타지역에서 자유민으로 위장하여 살 수 있지만 실패한다면 본보기로 고문을 당하거나 살해당하는 일이 있었다.
주인 사망: 주인이 사망하면서 상속권자가 없을 경우 해당 노예의 소유권이 소멸되어 자유인이 되기도 했다. 일부 노예들은 이것을 노리고 주인을 살해하는 일도 있었다.
노예들이 활동하지 못하던 분야 (직업)
관직: 중앙의 관직과 지방의 주요 관직에는 원칙상 노예들은 등용될 수가 없었으며, 일부에게 관직이 주어진다 해도 미관말직에 국한되었다.
종교지도자: 불교, 유교를 주로 숭상하던 중국 중심의 동양에서도 기독교가 보편적 종교, 사상이었던 서양에서도 종교적인 선악관에 따라 신분 차별을 두었던데다, 종교 고위지도자는 대부분 귀족들과 부르주아였다. 노예는 아무리 종교신념이 투철하고 지식이 높더라도 신분적인 이유 등을 빌미로 심부름꾼 내지 평수도사의 지위만 부여하였다.
군사분야: 노예도 군인이 될 수는 있었으나 오로지 병사만 가능하며 노예가 장교가 되기는 거의 불가능했다. 피지배계층의 신분으로서 다른 사람을 지배할 수 없기 때문이다.
정치 분야: 노예는 왕이나 대신은 물론 정치와 관련된 어떤 직종에도 종사할 수 없다.
폐지 운동
고금을 통틀어 노예 제도는 여러 형태로 존속하였으며, 노예를 해방하려는 운동도 있었다. 토라의 출애굽기에 따르면, 모세는 이스라엘인 노예들을 데리고 이집트를 떠났다고 하는데, 아마도 이것이 최초의 노예 해방 운동에 관한 기록일 것이다. 후대 유대 법(할라하)에서는 이스라엘 땅에서 노예 판매를 금하였으며, 본인이 원한다면 노예가 이스라엘로 이주할 수 있도록 허용하였다.
아프리카인의 노예화에 반대한 초기 사례로는 1688년 펜실베이니아의 독일인과 네덜란드인 퀘이커를 들 수 있다. 전 세계적으로 노예제 폐지 운동에 중요한 이정표가 된 사건은 1772년 잉글랜드에서 일어났는데, 영국의 법관 맨스필드 백작은 서머셋 백작에서 잉글랜드내 노예제가 불법이라는 의견을 내놓아 널리 인정을 받았다. 이 판결에서는 다른 사법권(가령 아메리카 식민지 등)에서 계약한 노예제가 잉글랜드에서 집행되지 않는다는 원칙도 규정하였다.[98] 1777년, 버몬트는 오늘날의 미국 땅 가운데 최초로 노예제를 폐지한 나라가 되었다. (당시 버몬트는 이제 막 독립한 신생 국가였다) 1794년, 프랑스에서는 자코뱅파에 의해 노예제가 폐지되었다.[99] 영국의 노예제 반대 협회의 노력으로 영국에서 노예 무역이 폐지된 지 200돌을 맞아 2007년에 축하 행사가 열리기도 하였다. 토머스 클라크슨의 반노예제 글이 노예제 폐지에 밑거름이 되긴 하였으나, 윌리엄 윌버포스가 노예제 폐지에 상당한 공을 세운 것으로 인정받았다. 또 윌버포스는 자신의 절친한 소 윌리엄 피트 총리의 주장으로 스스로 이 법안을 발의하였으며, 개혁파 복음주의자 존 뉴튼의 지지도 얻었다. 1807법 3월 25일에 영국 의회에서 노예 무역법이 통과되어 대영 제국내에서 노예 무역이 불법화되었으며, 윌버포스는 대영 제국내 노예제 폐지를 위해 노력하여 훗날 1833년 노예 제도 폐지법의 통과를 지켜볼 수 있었다. 1807년의 노예 무역 폐지법이 통과되자 노예제 폐지론 노력은 프랑스와 영국 식민지 등 다른 나라의 관련 소송을 장려하는 쪽으로 방향이 바뀌었다.
1808년에서 1860년 사이에 영국 서아프리카 함대는 노예선 1,600여 척을 나포하여 노예선에 잡혀 있던 아프리카인 150,000명을 풀어주었다.[100] 노예 거래를 불법화하기로 영국과 조약을 체결하는 데 거부한 아프리카 통치자들에게도 조치가 취해져서, 가령 "라구스의 찬탈자 왕"은 1851년에 폐위되었다. 50명이 넘는 아프리카 통치자들이 노예제에 반대하는 조약을 체결하였다.[101]
미국에서는 노예제 폐지론자들의 압력으로 노예 해방을 향하여 작은 성과들이 연이어 일어났다. 1808년 1월 1일 이후, 미국으로 노예를 수입하는 행위가 금지되었으나,[102] 국내 노예 거래나 외국의 국제 노예 무역 종사는 해당되지 않았다. 법적으로 노예제는 계속 이어졌으며, 미국내 노예가 법적으로 해방되기 까지는 60년이 더 걸려야 하였다. 여러 미국의 노예제 폐지론자들은 지하 철도라는 비밀 결사 조직의 지원으로 노예제 반대에 활약하였다. 곧 폭력 사태가 벌어져 존 브라운이 이끄는 반노예제 세력과 더불어 노예제 찬성파 및 반대파 주민들간에 일어난 피의 캔자스 사건은 노예제를 둘러싼 전국적인 충돌의 상징이 되었다. 1861년에 일어난 남북 전쟁이 북부의 승리로 끝남에 따라 미국에서 드디어 노예 제도가 종식되었다.
1863년 링컨은 노예 해방 선언으로 남부 연합내 노예들을 해방하였으며, 1865년 미국 수정 헌법 제13조에서 전국의 노예 제도를 금지하였다.
1860년대에 데이비드 리빙스턴이 아프리카내 아랍의 노예 무역에서 벌어지는 잔학상에 관하여 보고서를 내놓으면서 영국의 여론이 움직여 당시 주춤하던 노예제 폐지 운동의 불씨를 되살렸다. 1870년대에 영국 해군은 특히 잔지바르에서 "이 구역질나는 동방의 무역"을 금지하기 위하여 노력하였다.
1948년 12월 20일 국제 연합 총회에서는 세계 인권 선언을 채택하여 노예제에서 해방되는 것은 국제적으로 인정받은 인권이라고 선포하였다. 세계 인권 선언 제4조는 다음과 같다.
1980년 7월 5일, 지구상의 마지막 노예제 국가였던 모리타니가 노예제를 불법화를 선언함으로써 공식적으로는 지구상에서 노예제가 사라졌다. 그러나 이는 법률상의 규정일 뿐, 합법적으로 노예가 존재했던 최후의 국가인 모리타니를 포함한 북아프리카에서는 아직도 불법적으로 노예가 존재하고 있다.
같이 보기
노예제 폐지운동
인신매매
농노제
맘루크
고대의 노예제(en:Slavery in antiquity)
아랍의 노예무역(en:Arab slave trade)
스페인 식민지의 노예제(en:Slavery in the Spanish New World colonies)
노비
일본군 위안부
소년병
징병제
한방울 규칙(ODR)
기독교와 노예제(en:Christian views on slavery)
유대교와 노예제(en:Jewish views on slavery)
각주
참고 문헌
외부 링크
분류:신분 제도
분류:학대
분류:노동
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Ronald Ernest ”Ron” Paul (s. 20. elokuuta 1935 Pittsburgh, Pennsylvania) on teksasilainen libertaaripuolueen poliitikko ja entinen kongressiedustaja. Paul on ollut edustajainhuoneen jäsen vuosina 1976–1977, 1979–1985 ja 1997–2013. Hän pyrki Yhdysvaltain presidentiksi vuoden 1988 presidentinvaaleissa Libertaaripuolueen ehdokkaana ja tuli kolmanneksi saatuaan äänistä 0,47prosenttia. Paul pyrki republikaanipuolueen ehdokkaaksi vuoden 2008 ja vuoden 2012 presidentinvaaleihin, mutta häntä ei valittu.[1]
Paul on pientä ja rajattua perustuslaillista hallintoa sekä laajoja yksilönvapauksia puoltava konservatiivi ja libertaristi. Hän ei ole koskaan äänestänyt verojen korotuksen puolesta. Paul kannattaa liittovaltion veroviraston ja tuloverotuksen lakkauttamista. Paul on kultakannan kaltaiseen vakaaseen rahaan palaamisen puolestapuhuja ja tahtoo lakkauttaa Yhdysvaltain keskuspankkijärjestelmän. Hän ajaa kaiken verottamalla rahoitetun julkisen sosiaaliturvan ja kehitysavun alasajoa, joskaan hän ei tavoittele näiden valtion ohjelmien lopettamista välittömästi.
Paul kannattaa puolueetonta ulkopolitiikkaa ja ulkomaita koskevien kauppasaartojen ja pakotteiden lopettamista. Hän vastusti Irakin sotaa alusta alkaen, mutta puolsi vuonna 2001 alkanutta Afganistanin sotaa. Paul vaatii Yhdysvaltain irrottautumista Natosta ja YK:sta. Hän on vastustanut jyrkästi Patriot Actia, liittovaltion huumeidenvastaista sotaa ja aseenkanto-oikeuksien supistamista. Paul vastustaa myös aborttia ja tahtoo mitätöidä Roe vastaan Wade -päätöslauselman sekä siirtää vastuun päätöksenteosta abortin suhteen osavaltioille.
Elämäkerta
Ron Paul syntyi Pennsylvaniassa Pittsburghin laitamilla Green Treessä. Hänen vanhempansa olivat Margaret (o.s. Dumont) ja Howard Caspar Paul. Howard Paul omisti lypsykarjatilan yhdessä kahden veljensä kanssa. Veljesten isä oli muuttanut Yhdysvaltoihin Saksasta. Paulin perhe oli luterilainen.[2] Ron Paul oli kolmas perheeseen syntyneistä viidestä pojasta. Hän aloitti työt karjatilalla viisivuotiaana ja jakoi myöhemmin sanomalehtiä, oli töissä apteekissa ja saatuaan ajokortin vähän aikaa maitomiehenä.
Yleisurheilussa loistavasti pärjännyt Paul valmistui Dormontin high schoolista vuonna 1953. Hän voitti osavaltion mestaruuden 220 jaardin pikajuoksussa.[3] Hänen paras aikansa 100 jaardin juoksussa on 9,7 sekuntia.[4] Hän oli myös painijoukkueessa, pelasi amerikkalaista jalkapalloa ja baseballia sekä toimi oppilaskunnan puheenjohtajana. Jouduttuaan leikkaukseen polvivamman takia Paul luopui yleisurheilusta ja aloitti uinnin kuntoutuakseen. Eräs huippuyliopisto tarjosi hänelle kaiken kattanutta stipendiä uskoen, että hän toipuisi pian huippukuntoon. Paul kuitenkin kieltäytyi stipendistä, koska ei tahtonut ottaa riskiä polvensa suhteen.[5]
Paul maksoi itse ensimmäisen opintovuotensa Gettysburgin yliopistossa ja sai myöhemmin pienen stipendin. Gettysburgissa hän jakoi postia ja pyykkiä, hoiti yliopiston kahvilaa ja liittyi uintijoukkueeseen. Hän suoritti kandidaatintutkintonsa vuonna 1957 erikoistuen biologiaan. Paul väitteli lääketieteen tohtoriksi Duke Universitystä 1961. Kuuban ohjuskriisin aikaan hän aloitti palveluksen Yhdysvaltain ilmavoimissa. Hän palveli ilmavoimien lääkärinä vuoteen 1965.
Poliittinen ura
Paul kiinnostui politiikasta 1960-luvulla tutustuttuaan itävaltalaiseen taloustieteeseen, ja varsinkin Friedrich von Hayekin teos Tie orjuuteen vaikutti hänen ajatteluunsa. Paul tutustui myös Ayn Randin, Ludwig von Misesin, Hans F. Senholzin ja Murray Rothbardin näkemyksiin. Richard Nixon irrotti Yhdysvallat 1971 kultakannasta, mikä sai Paulin vankasti uskomaan, että itävaltalainen koulukunta oli oikeassa.[6]
Paul pyrki ensi kerran kongressiedustajaksi 1974, mutta tuli valituksi vasta vuoden 1976 erikoisäänestyksessä, kun Robert R. Caseyn paikka vapautui. Ensimmäinen jäsenyys päättyi 1977. Vuoden 1979 uudelleenvalinnan jälkeen Paul istui vuoteen 1985 saakka. Paul oli ensimmäinen kongressiedustaja, joka ehdotti edustajainhuoneen jäsenten toimikausien rajoittamista. Vuonna 1984 hän oli ehdolla Yhdysvaltain senaattiin, mutta hävisi ja menetti myös edustajanpaikkansa. Vuoden 1988 presidentinvaaleissa hän oli Libertaaripuolueen ehdokas ja sai äänistä 0,47 prosenttia. Vuonna 1996 Paul valittiin uudelleen kongressiedustajaksi. Lokakuussa 2002 Paul jätti kongressin käsiteltäväksi sodanjulistuksen Irakia vastaan ja ilmoitti samalla, ettei itse aio äänestää sodan puolesta. Hän totesi, että jos kongressi haluaa aloittaa sodan, sen tulee noudattaa Yhdysvaltain perustuslakia ja antaa virallinen sodanjulistus.
Vuoden 2008 presidentinvaalikampanja
Paul ilmoitti pyrkivänsä republikaanipuolueen presidenttiehdokkaaksi vuoden 2008 vaaleissa. Joulukuun 16. päivänä 2007 Paulin tukijat tekivät Yhdysvaltain poliittisen historian kaikkien aikojen varainkeruuennätyksen lahjoittamalla presidentinvaalikampanjalle yhdessä päivässä 6,6 miljoonaa dollaria. Toisen samanlaisen varainkeruupäivän Kannattajat toteuttivat 5. marraskuuta, jolloin tulos oli 4,2 miljoonaa dollaria. Kampanjan yksittäisiltä henkilöiltä saamat lahjoitukset ovat keskimäärin olleet pieniä, sadan dollarin luokkaa.[7] Paul sai Yhdysvaltain puolustusvoimien jäseniltä enemmän lahjoituksia kuin yksikään toinen presidenttiehdokas.[8] Paulin kampanjan rahoituksesta 99 prosenttia tuli yksityisiltä ihmisiltä.[9] Paul ei kuitenkaan tullut valituksi, vaan ehdokkaaksi valittiin John McCain, ja Paul vetäytyi ehdokkuuden hakemisesta virallisesti 12. kesäkuuta 2008.
Vuoden 2008 kampanjan jälkeen
Vuoden 2008 presidentinvaalikampanjasta jäljelle jääneillä rahoilla Paul aloitti Campaign for Liberty -hankkeen (suom. Kampanja vapauden puolesta, kokonaisuudessaan ”Ron Paul's Campaign for Liberty”), jonka tarkoituksena on tukea vapautta ja rajoitettua hallintoa kannattavaa poliittista toimintaa hallinnon kaikilla tasoilla. Paul perusti myös Liberty PAC -lobbausorganisaation, jonka tarkoitus on tukea vapaata taloutta, vapautta ja perustuslaillisuutta kannattavia ehdokkaita osavaltioiden ja liittovaltion tasolla.
Presidentinvaalikampanjan jälkeen Paul kannattajineen piti ”Rally for the Republic” -varjokokoontumisen samaan aikaan (31. elokuuta – 2. syyskuuta 2008), kun republikaanisen puolueen puoluekokous nimesi McCainin virallisesti presidenttiehdokkaakseen. Rally for the Republic -kokoontumiseen osallistui noin 12000 henkeä.
10. syyskuuta 2008 Paul ilmoitti yhteisessä lehdistötilaisuudessa tukevansa kaikkia neljää ei-pääpuolueen ehdokasta. Nämä olivat Chuck Baldwin, Bob Barr, Cynthia McKinney ja Ralph Nader.[10] Samalla hän ilmoitti kieltäytyvänsä tukemasta McCainia.[11] Myöhemmin Paul esiintyi CNN-kanavalla The Situation Room with Wolf Blitzer -ohjelmassa yhdessä Ralph Naderin kanssa. He esittivät neljä pääkohtaa, joista Paul ja neljä ehdokasta ovat yhtä mieltä. Nämä asiat ovat imperialismin, myös Irakin sodan, lopettaminen, yksityisyyden kunnioittaminen (muun muassa Patriot Actin kumoaminen), valtion budjetin tasapainottaminen ja keskuspankin ottaminen poliittiseen ohjaukseen.[12]
Vuoden 2012 presidentinvaalikampanja
Ron Paul oli ehdolla republikaanien presidenttiehdokkaaksi vuoden 2012 vaaleissa.[13] Republikaanien ehdokkuutta tavoittelevista hän ehti kerätä kampanjarahaa toiseksi eniten, 31 miljoonaa dollaria tammikuun 2012 lopussa.[14] Paul sai näkyvyyttä tiedotusvälineissä vähemmän kuin muut ehdokkuutta tavoittelevat.[15][16] Toukokuussa Paul ilmoitti lopettavansa kampanjoinnin.[1] Hän sai taakseen lopulta 190 ääntä Romneyn 2061 ääntä vastaan.[17]
Vuoden 2016 presidentinvaalit
Paul sai vuoden 2016 vaaleissa yhden valitsijamiesäänen texasilaiselta valitsijamieheltä, joka äänesti häntä protestina osavaltiossa äänienemmistön saaneen Donald Trumpin sijaan.[18]
Perhe ja yksityiselämä
Ron Paul on siviiliammatiltaan lääkäri.
Paul ja Carol Wells avioituivat 1. helmikuuta 1957 Dormontin presbyteerikirkossa. Heillä on viisi lasta (Ronnie, Lori, Rand, Robert ja Joy), jotka kastettiin episkopaaleiksi.[2] Heillä on myös 18 lastenlasta ja yksi lastenlastenlapsi. Kolme lapsista on lääkäreitä: Robert on yleislääkäri, Joy on synnytyslääkäri ja gynekologi ja Rand silmälääkäri. Ron Paul tuki lapsiaan rahallisesti heidän opintojensa aikana ja kielsi heitä ottamasta verovaroin tuettua opintolainaa.[19] Rand Paul, joka on ilmoittanut kuuluvansa Teekutsuliikkeeseen,[20] on perustanut Kentuckyn veronmaksajien liiton. Hänet valittiin Kentuckysta loppuvuodesta 2010 senaattiin, jossa hän aloitti tammikuussa 2011.
Lähteet
Aiheesta muualla
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คู่กรรม เป็นนวนิยายแนวโศกนาฏกรรมและวีรคติ ประพันธ์โดย ทมยันตี ดำเนินเรื่องที่มีฉากหลังในประเทศไทยสมัยสงครามโลกครั้งที่ 2 โดยผู้ประพันธ์ได้รับแรงบันดาลใจเมื่อราวปี พ.ศ. 2508 จากการเดินทางไปจังหวัดกาญจนบุรี และเข้าเยือนสุสานทหารสัมพันธมิตรดอนรักที่ทอดร่างของเหล่าทหารสัมพันธมิตร โดยสะดุดใจเมื่อเห็นคำจารึกถึงบนหลุมศพทหารสัญชาติเนเธอร์แลนด์คนหนึ่ง เมื่อสอบถามดู ได้ความว่าเป็นลูกชายเพียงคนเดียวของครอบครัวที่มาเสียชีวิตลงที่ประเทศไทย โดยที่ผู้เป็นพ่อแม่มิอาจมาร่วมฝังศพของลูกชายได้[1]
คู่กรรม เขียนขึ้นในปี พ.ศ. 2508 ตีพิมพ์เป็นตอนในนิตยสารศรีสยาม (ในเครือนิตยสารขวัญเรือน)[2] และรวมเล่มเป็นครั้งแรกในปี พ.ศ. 2512 แล้วตีพิมพ์มาหลายครั้งจนถึงปัจจุบัน มีภาคต่อคือ คู่กรรม 2 ถือว่าเป็นบทประพันธ์ที่ชื่อเสียงมากที่สุดเรื่องหนึ่งของทมยันตีเลยทีเดียว
คู่กรรม ได้รับการนำไปสร้างเป็นละครโทรทัศน์และภาพยนตร์แล้วหลายครั้ง เริ่มจาก ช่อง 4 บางขุนพรหม เป็นละครถึง 2 ครั้ง ในปี พ.ศ. 2513, พ.ศ. 2515 และต่อมาทางช่อง 9 อ.ส.ม.ท. ในปี พ.ศ. 2521
ครั้งสำคัญเป็นละครทางช่อง 7 สี ในปี พ.ศ. 2533 เป็นละครที่สร้างประวัติศาสตร์เรตติ้งสูงสุดอันดับ 1 ของเมืองไทยตลอดกาล เรตติ้ง 40 [3][4] เรื่องนี้ได้รับรางวัลทั้งเมขลาและโทรทัศน์ทองคำในปีเดียวกัน หลังจากนั้นได้นำมาสร้างใหม่เป็นละครทางช่อง 3 ในปี พ.ศ. 2547 (มีภาคต่อคือ คู่กรรม 2) ล่าสุดเป็นละครทางช่อง 5 ในปี พ.ศ. 2556
คู่กรรม นำไปสร้างเป็นภาพยนตร์ 4 ครั้ง ในปี พ.ศ. 2516, พ.ศ. 2531, พ.ศ. 2538 และ พ.ศ. 2556 ซึ่งทั้ง 2 ครั้ง (ปี 2531 และ 2538) ได้รับรางวัลภาพยนตร์ยอดเยี่ยมรางวัลตุ๊กตาทองไปทั้งคู่ และเคยดัดแปลงเป็นละครเวที โดยค่ายดรีมบอกซ์ กลางปี พ.ศ. 2547 แสดงที่โรงละครกรุงเทพ และกลางปี พ.ศ. 2550 แสดงที่ โรงละครกรุงเทพเมโทรโพลิส
นอกจากนี้แล้ว คู่กรรม ยังเป็นที่รู้จักกันดีถึงประเทศญี่ปุ่นด้วย จนถึงกับมีการแต่งเป็นนวนิยายเนื้อหาคล้ายคลึงกันของนักประพันธ์ชาวญี่ปุ่น โดยในฉบับของญี่ปุ่นนี้ ตัวละครเอกได้เปลี่ยนชื่อเป็น โอโมริ กับ กันยา[5]
ละครโทรทัศน์
คู่กรรม ได้รับการนำไปสร้างเป็นละครโทรทัศน์ จนถึงปัจจุบัน (พ.ศ. 2556) รวม 6 ครั้ง ได้แก่
ในปี พ.ศ. 2513 สร้างครั้งแรกออกอากาศทาง ช่อง 4 บางขุนพรหม สร้างโดย เทิ่ง สติเฟื่อง ในนามของ คณะศรีไทยการละคร
ต่อมาออกอากาศทางช่อง 4 บางขุนพรหม ครั้งที่ 2 ในปี พ.ศ. 2515]] ต่อมาออกอากาศทาง สถานีโทรทัศน์ไทยทีวีสีช่อง 9 ในปี พ.ศ. 2521]]
ในปี พ.ศ. 2533 ได้รับการนำไปสร้างเป็นละครโทรทัศน์ออกอากาศทาง สถานีโทรทัศน์กองทัพบกช่อง 7 สร้างโดย สุรางค์ เปรมปรีดิ์ ผู้ถือลิขสิทธิ์นวนิยาย หยิบเรื่องนี้จัดทำเป็นละครโทรทัศน์ ภายใต้นโยบายทำตามบทประพันธ์ ร่วมกับ ดาราวิดีโอ กำกับการแสดงโดย ไพรัช สังวริบุตร ออกอากาศวันศุกร์-เสาร์-อาทิตย์ เพลงประกอบชื่อ คู่กรรม คำร้องและทำนองโดย สุทธิพงษ์ วัฒนจัง สร้างประวัติศาสตร์ละครที่เรตติ้งสูงสุดของประเทศไทย [7] เรื่องนี้ส่งผลให้ได้ได้รับรางวัลทั้งเมขลาและโทรทัศน์ทองคำหลายสาขา ออกอากาศตั้งแต่วันที่ 23 มีนาคม 2533 - วันที่ 9 มิถุนายน 2533
ในปี พ.ศ. 2547 ได้รับการนำไปสร้างเป็นละครโทรทัศน์ออกอากาศทาง สถานีโทรทัศน์ไทยทีวีสีช่อง 3 สร้างโดย เรด ดราม่า กำกับการแสดงโดย นพดล มงคลพันธ์ ออกอากาศวันจันทร์-อังคาร เวลา 20.20 น.[8] มีภาคต่อคือ คู่กรรม 2
ครั้งล่าสุด ปี พ.ศ. 2556 ได้รับการนำไปสร้างเป็นละครโทรทัศน์ออกอากาศทาง สถานีวิทยุโทรทัศน์กองทัพบกช่อง 5 สร้างโดย เอ็กแซ็กท์ และ ซีเนริโอ กำกับการแสดงโดย สันต์ ศรีแก้วหล่อ ออกอากาศวันจันทร์-อังคาร เวลา 20.10 - 21.40 น.[9][10] ระหว่างวันที่ 28 มกราคม ถึง 16 เมษายน พ.ศ. 2556 รวม 24 ตอน
ภาพยนตร์
คู่กรรม ได้รับการนำไปสร้างเป็นภาพยนตร์ 4 ครั้ง ในปี พ.ศ. 2516, พ.ศ. 2531, พ.ศ. 2538 และ พ.ศ. 2556 ได้แก่
ภาพยนตร์ คู่กรรม (2516)
ในปี พ.ศ. 2516 สร้างเป็นภาพยนตร์ครั้งแรก สร้างโดย จิรบันเทิงฟิล์ม ของ จิรวรรณ กัมปนาทแสนยากร ผู้อำนวยการสร้าง ซึ่งมีชื่อเสียงทางด้านละครวิทยุ กำกับโดย สมวงศ์ ทิมบุยธรรม, พร ไพโรจน์ ประดับ และ มิสเตอร์ ติง ออกฉายเมื่อวันที่ 31 สิงหาคม พ.ศ. 2516]] ที่โรงหนังโคลีเชี่ยม [11] มีนักแสดงนำดังนี้
นาท ภูวนัย รับบท โกโบริ
ดวงนภา อรรถพรพิศาล / มร. หลิงลีจู รับบท อังศุมาลิน
สายัณห์ จันทรวิบูลย์ รับบท วนัส
ร่วมด้วย พันคำ, เชาว์ แคล่วคล่อง, สมจิตต์ ทรัพย์สำรวย, ล้อต๊อก, ชูศรี มีสมมนต์, จำรูญ หนวดจิ๋ม, สุคนธ์ คิ้วเหลี่ยม, ราชันย์ กาญจนมาศ, มร. แอสจี้
ภาพยนตร์คู่กรรมฉบับแรกนี้มีผู้รับบทอังศุมาลิน ถึง 2 คน ถ่ายทำพร้อมกัน 2 ฉบับ คือแบบนักแสดงไทยและนักแสดงฮ่องกง
ภาพยนตร์ คู่กรรม (2531)
ในปี พ.ศ. 2531 สร้างโดย ไฟว์สตาร์โปรดักชั่น กำกับการแสดงโดย รุจน์ รณภพ เพลงประกอบภาพยนตร์ขับร้องโดย อังศนา ช้างเศวต [12][13] ออกฉายเมื่อวันที่ 12 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2531]] ได้รับการตอบรับอย่างดี มีนักแสดงนำดังนี้
วรุฒ วรธรรม รับบท โกโบริ
จินตหรา สุขพัฒน์ รับบท อังศุมาลิน
นัย สุขสกุล รับบท วนัส
ร่วมด้วย เกรียงไกร อุณหะนันทน์, พิราวรรณ ประสพศาสตร์, ไกรลาศ เกรียงไกร, สมศักดิ์ ชัยสงคราม, อดุลย์ ดุลยรัตน์, บัณฑิต ฤทธิ์ถกล, อุดม โรจน์อนันต์เลี่ยว, บรรเจิดศรี ยมาภัย
เดิมได้วางตัวอธิป ทองจินดาในบทโกโบริ แต่เมื่ออธิปเสียชีวิตด้วยอุบัติเหตุทางรถยนต์ก่อนถ่ายทำจึงต้องเปลี่ยนตัวมาเป็น วรุฒ วรธรรม แทน
ภาพยนตร์คู่กรรมฉบับนี้ ได้รับการตอบรับอย่างดี ส่งผลให้ จินตหรา สุขพัฒน์ ได้รับรางวัลตุ๊กตาทองพระสุรัสดีครั้งแรก สาขานักแสดงนำหญิง โดย จินตหรา สุขพัฒน์ เข้าชิงสาขาดารานำหญิงยอดเยี่ยมจากเรื่อง ตลาดพรหมจารี อีกด้วย
ภาพยนตร์ คู่กรรม (2538)
ในปี พ.ศ. 2538 มีชื่ออังกฤษชื่อว่า Sunset at Chaophraya สร้างโดย แกรมมี่ภาพยนตร์ (แกรมมี่ฟิล์ม) ในเครือจีเอ็มเอ็ม แกรมมี่ กำกับการแสดงโดย ยุทธนา มุกดาสนิท ร่วมด้วย พันธุ์ธัมม์ ทองสังข์ และ นิพนธ์ ผิวเณร ซึ่งทั้ง 2 ครั้งได้รับรางวัลภาพยนตร์ยอดเยี่ยมรางวัลตุ๊กตาทองไปทั้งคู่ ออกฉายเมื่อวันที่ 11 พฤศจิกายน พ.ศ. 2538 มีนักแสดงนำดังนี้
ธงไชย แมคอินไตย์ รับบท โกโบริ
อาภาศิริ นิติพน รับบท อังศุมาลิน
ธีรภัทร์ สัจจกุล รับบท วนัส
ร่วมด้วย คาซูยูกิ นากาจิมา, มาซากิ นิชิกายา, จิตรกร สุนทรปักษิน, วิไลวรรณ วัฒนพานิช, สุทิศา พัฒนุช, เด๋อ ดอกสะเดา, ดี๋ ดอกมะดัน
โดยกระแสความแรงได้สร้างสถิติภาพยนตร์ที่มีผู้เข้าชมสูงสุดใน 3 วันแรกของการเปิดตัว โดยภาพยตร์เรื่องนี้ส่งผลให้เบิร์ดได้รับรางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี (รางวัลตุ๊กตาทอง) ปี 2538 นักแสดงนำชายยอดเยี่ยม
ภาพยนตร์ คู่กรรม (2556)
ในปี พ.ศ. 2556 สร้างโดย เอ็ม เทอร์ตี้ไนน์ กำกับการแสดงโดย กิตติกร เลียวศิริกุล บทภาพยนตร์โดย กิตติกร เลียวศิริกุล และ ดำเกิง ฐิตะปิยะศักดิ์ ออกฉายเมื่อวันที่ 4 เมษายน พ.ศ. 2556 มีนักแสดงนำดังนี้
ณเดชน์ คูกิมิยะ รับบท โกโบริ
อรเณศ ดีคาบาเลส รับบท อังศุมาลิน
นิธิศ วารายานนท์ รับบท วนัส
ร่วมด้วย กุลพงศ์ บุนนาค, เมรีนา มุ่งศิริ, สุรชัย จันทิมาธร, มงคล อุทก, แปะร้อน ยาซึ, จำเนียร เจริญทรัพย์, ทัตสึโนบุ ทานิกาว่า, โนริโอะ ซึซึกิ, โตชิยูกิ โกโต, ดาเรน ฟ๊อกส์, อัวริช คลูก, อัวริช ก็อดลีบ, นิพนธ์ จิตเกิด
เพลงประกอบภาพยนตร์ มีดังนี้
เพลง "เทกามิ" - เวอร์ชันเปียโน
เพลง "ฮิเดโกะ" เพลงภาษาญี่ปุ่น - เนื้อร้องและขับร้องญี่ปุ่นโดย ยุสุเกะ นะมิกาว่า
เพลง "อังศุมาลิน" เพลงภาษาไทย - ขับร้องภาษาไทยโดย ณเดชน์ คูกิมิยะ (แต่งโดย สุชาดา - วิชญ วัฒนศัพท์ เป็นทำนองเดียวกัน)
เพลง "ผมจะรอ" - เนื้อร้องและขับร้องโดย อภิวัชร์ เอื้อถาวรสุข
เพลง "โกโบริ" - ขับร้องโดย อชิ (แต่งโดย ยุสุเกะ นะมิกาว่า)
ละครเวที
ดูบทความหลักที่ คู่กรรม เดอะมิวสิคัล
คู่กรรมได้รับการดัดแปลงสร้างเป็นละครเวที ในรูปแบบ ละครเพลง (sung-through musical) กลางปี พ.ศ. 2547]] โดยค่ายดรีมบอกซ์ กำกับการแสดงโดย สุวรรณดี จักราวรวุธ แสดงที่โรงละครกรุงเทพ
เซกิ โอเซกิ รับบท โกโบริ
ธีรนัยน์ ณ หนองคาย รับบท อังศุมาลิน
วรฤทธิ์ เฟื่องอารมย์ รับบท วนัส
จากนั้นได้กลับมาแสดงอีกครั้ง กลางปี พ.ศ. 2550 โดยทีมงานชุดเดิมทั้งหมด แสดงที่ โรงละครกรุงเทพเมโทรโพลิส
รายชื่อนักแสดงและการสร้าง
รางวัลที่ได้รับ
ภาพยนตร์ พ.ศ. 2516
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง รางวัลบทประพันธ์ยอดเยี่ยม (ทมยันตี) ปี 2517 [14][15]
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ออกแบบและสร้างฉากยอดเยี่ยม ปี 2517
ภาพยนตร์ พ.ศ. 2531
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ภาพยนตร์ยอดเยี่ยม ปี 2531 [16]
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ผู้แสดงนำฝ่ายหญิงยอดเยี่ยม (จินตหรา สุขพัฒน์) ปี 2531
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง รางวัลออกแบบและสร้างฉากยอดเยี่ยม (วีรพงษ์ ธาราศิลป์) ปี 2531
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง รางวัลออกแบบเครื่องแต่งกายยอดเยี่ยม (มะลิวัลย์ ด่านอุดม) ปี 2531
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง พากย์ชายยอดเยี่ยม (รอง เค้ามูลคดี) ปี 2531
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง รางวัลพิเศษ “ตุ๊กตาเงิน” ดาวรุ่งฝ่ายชาย (วรุฒ วรธรรม) ปี 2531
ละครโทรทัศน์ พ.ศ. 2533
รางวัลเมขลา ละครชีวิตดีเด่น ปี 2533
รางวัลเมขลา ผู้แสดงนำชายดีเด่น (ธงไชย แมคอินไตย์) ปี 2533
รางวัลเมขลา ผู้แสดงนำหญิงดีเด่น (กมลชนก โกมลฐิติ) ปี 2533
รางวัลเมขลา ผู้แสดงประกอบหญิงดีเด่น (ดวงดาว จารุจินดา) ปี 2533
รางวัลเมขลา ผู้กำกับรายการดีเด่น (ไพรัช สังวริบุตร) ปี 2533
รางวัลเมขลา ผู้กำกับการแสดงดีเด่น (ไพรัช สังวริบุตร) ปี 2533
รางวัลเมขลา บทละครดีเด่น (ศัลยา) ปี 2533
รางวัลเมขลา รางวัลออกแบบฉากดีเด่น (ธีระศักดิ์, เสนาะ, มนัส, วารินทร์) ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ ละครชีวิตดีเด่น ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ ดารานำชายดีเด่น (ธงไชย แมคอินไตย์) ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ ดาราสนับสนุนหญิงดีเด่น (ดวงดาว จารุจินดา) ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ ผู้กำกับการแสดงดีเด่น (ไพรัช สังวริบุตร) ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ บทละครดีเด่น (ศัลยา) ปี 2533
รางวัลโทรทัศน์ทองคำ ฉากละครดีเด่น (ธีระศักดิ์, เสนาะ, มนัส, วารินทร์) ปี 2533
ภาพยนตร์ พ.ศ. 2538
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ภาพยนตร์ยอดเยี่ยม ปี 2538 [17]
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ผู้แสดงนำชายยอดเยี่ยม (ธงไชย แมคอินไตย์) ปี 2538
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ผู้กำกับการแสดงยอดเยี่ยม (ยุทธนา มุกดาสนิท, พันธ์ธัมม์ ทองสังข์, นิพนธ์ ผิวเณร) ปี 2538
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง ออกแบบเครื่องแต่งกายยอดเยี่ยม (รัตนพล ธรรมชาติ) ปี 2538
รางวัลพระราชทานพระสุรัสวดี ตุ๊กตาทอง เพลงนำภาพยนตร์ยอดเยี่ยม (สีฟ้า และอนุวัฒน์ สืบสุวรรณ ในเพลง เธอคนเดียว) ปี 2538
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ ผู้แสดงสมทบหญิงยอดเยี่ยม (วิไลวรรณ วัฒนพานิช) ปี 2538 [18]
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ บันทึกเสียงยอดเยี่ยม (นิวัฒน์ สำเนียงเสนาะ) ปี 2538
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ กำกับศิลป์ยอดเยี่ยม (ประสรรค์ เพชรพงษ์, สายชล ทัศนจร) ปี 2538
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ ออกแบบเครื่องแต่งกายยอดเยี่ยม (รัตนพล ธรรมชาติ) ปี 2538
รางวัล Vote Award 1995 นักแสดงชายยอดนิยม (ธงไชย แมคอินไตย์) ปี 2538
ละครโทรทัศน์ พ.ศ. 2556
รางวัลสยามดารา สตาร์ส อวอร์ดส์ 2013 ผู้กำกับละครยอดเยี่ยม (สันต์ ศรีแก้วหล่อ) ปี 2556
ภาพยนตร์ พ.ศ. 2556
รางวัลสตาร์พิกส์ ไทยฟิล์ม อวอร์ด นักแสดงนำชายยอดเยี่ยม (ณเดชน์ คูกิมิยะ) ปี 2556 [19]
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ นักแสดงนำชายยอดเยี่ยม (ณเดชน์ คูกิมิยะ) ปี 2556 [20]
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ นักแสดงนำชายยอดนิยม (ณเดชน์ คูกิมิยะ) ปี 2556
รางวัลภาพยนตร์แห่งชาติ สุพรรณหงส์ ออกแบบเครื่องแต่งกายยอดเยี่ยม (วรธน กฤษณะกลิน) ปี 2556
รางวัลภาพยนตร์ไทย ชมรมวิจารณ์บันเทิง ผู้แสดงนำชายยอดเยี่ยม (ณเดชน์ คูกิมิยะ) ปี 2556
รางวัล MThai Top Talk-about 2014 ภาพยนตร์ที่ถูกกล่าวถึงมากที่สุด ปี 2557
รางวัลคมชัดลึก อวอร์ด ภาพยนตร์ไทยยอดนิยม ปี 2557 [21]
รางวัลคมชัดลึก อวอร์ด นักแสดงนำชายยอดเยี่ยม (ณเดชน์ คูกิมิยะ) ปี 2557
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కురుక్షేత్రం (హిందీ: कुरुक्षेत्र) అనే ప్రదేశం ముందు పంజాబు రాష్ట్రంలో ఉంటూ వచ్చింది. ప్రస్తుతం హర్యానా రాష్ట్రంలో కురుక్షేత్ర జిల్లాలోని పట్టణము. కురుక్షేత్ర అనగా కురు వంశీయుల భూమి. పురాణాలలో ఇది పవిత్ర భూమిగానూ ధర్మక్షేత్రంగా పిలువబడుతూ వచ్చింది. కౌరవసామ్రాజ్య పూర్వపు చక్రవర్తి అయిన కురుమహారాజు యాగం చేసినభూమి కనుక ఇది కురిక్షేత్రం అయింది. ఇక్కడ 18 అక్షౌహినుల సైన్యం మరణించిన మహాభారత యుద్ధం జరిగిందని పురాణ కథనాలు వివరిద్తున్నాయి. శ్రీకృష్ణుడు అర్జునుడికి భగవద్గీత బోధించిన అర్జునుడిని అయోమయ స్థితి నుండి వెలుపలకు తీసుకువచ్చిన ప్రదేశం ఇదని భారతకథ వివరిస్తున్నది.
మహాభారతంలో కురుక్షేత్ర యుద్ధం జరిగినట్టుగా పేర్కొనబడిన ఈ ప్రదేశం హిందువులకు ఇది చాలా ప్రాముఖ్యమున్నది పవిత్రమైనది. ఎందుకనగా ఇక్కడే భగవద్గీత శ్రీకృష్ణునిచే బోధించబడింది.[1]. ప్రాంతీయుల కథనం ప్రకారం కురుక్షేత్రం జరిగినది ప్రస్తుత పట్టణానికి దగ్గరలోని చిన్న గ్రామంలోనని చెబుతారు. ఇక్కడకు దగ్గరలోని అమిన్ అనే గ్రామంలోని కోట శిథిలాలను అభిమన్యుని కోటగా పేర్కొంటారు.
చారిత్రక ప్రసిద్ధి చెందిన ధానేశ్వర్ లేక స్థానేశ్వర్ ప్రస్తుత కురుక్షేత్రం అని పిలువబడుతున్న నగరానికి ఆనుకుని ఉంది. ఇక్కడ ఉన్న స్థానేశ్వర్ ఆలయం కారణంగా ఈ ప్రదేశానికి ఈ పేరు వచ్చింది. స్థానేశ్వర్ ఆలయంలో మూలదైవం మహాశివుడు. ఈ ప్రాంతంలోని అతి పురాతన ఆలయం ఇదే. ఇక్కడకు కొన్ని కిలోమీటర్ల దూరంలో ఉన్న అమిన్ గ్రామంలో ఉన్న శిథిలావస్థలో ఉన్న కోట అభిఅన్యుడిదని విశ్వసిస్తున్నారు. కొన్ని హిందూ పురాణకతనాలను అనుసరించి కురుక్షేత్రం దాదాపు ప్రస్తుత హర్యానా ప్రాంతమని భావిస్తున్నారు. తైత్తరీయ అరణ్యక కథాన్ని అనుసరించి కురుక్షేత్రం టుర్గన ( పంజాబుకు చెందిన సిర్హింద్ లోని శృఘ్న/సుఘ్) కు దక్షిణంగా, ఖాండవ (డిల్లీమరియు మేవత్ ప్రదేశం) కు ఉత్తరంగా, మరు (ఎడారి) కు తూర్పున, పారిన్ కు పడమర ఉందని వర్ణించబడింది. 2013 జూలై ఆరంభంలో హర్యానాపురాతత్వ పరిశోఫ్హనాశాఖ మరియు పురాతన వస్తు పరిశోధనాశాలలు తమ మొదటి పరిశోధనలలో కురుక్షేత్రంలో లభించిన బౌద్ధస్థూప అవశేషాలు ప్రజల సందర్శనకు సిద్ధంగా ఉన్నాయని ప్రకటించారు.
పేరువెనుక చరిత్ర
పూర్వము సంవరణుడను రాజు సూర్యుని కుమార్తె యైన తపతిని వరించాడు. సంవరణుడి గురువైన వసిష్టుడు సంవతణుని కోరిక గ్రహించి సూర్యుని ఒప్పించి వారిరువురకు పెళ్ళి చేసాడు. వారికి కురువు అను కుమారుడు జన్మించి మాహామేదావియై పదునారేండ్లకే సర్వవిద్యా సంపన్నుడయ్యాడు. సంవరణుడతనికి రాజ్యాభిషేకము చేసాడు. అతనికి సామాన్య రాజులవలె రాజ్యపాలనముచేసి మృతి చెందుట ఇష్టము లేదు. శాశ్వతమైన కీర్తిని సంపాదించిన అమరత్వము పొందాలని కోరుకుని, ఎక్కడ తాను కృషి చేసిన తన కోరిక నేరవేరగలదో యని అన్ని ప్రదేశములను పరిశీలిస్తూ తిరుగి శ్యమంత పంచక మున్న ప్రదేశమును జూచి యిది తన కృషికి సరియైన ప్రదేశమని అనుకుని అచ్చట బంగారు నాగలికి ఒక వైపున రుద్రుని వ్రుషభమును, రెండవ వైపున యముని మహిశామును గట్టి స్వయముగా దున్న నారంభించెను. ఇంద్రుడు వచ్చి యేమి చేయుచున్నావని యడుగగా, కురువు, "నేను ఈ క్షేత్రమున శాశ్వత కీర్తినిగోరి, సత్యము, తపము, క్షమ, దయ, శౌచము (పవిత్రత), దానము, యోగము, బ్రహ్మచారిత్వము అను అష్టాంగములను పటించవలెనని దున్నుచున్నానని చెప్పెను. తరువాత శ్రీహరి వచ్చి, "రాజా! నీవు చెప్పిన అష్టాంగములకు బీజము లెక్కడ నున్నవి? నాయందే కదా! " అనెను. ఆ బీజముల నిమ్మని కురువు తన ఎడమ చేయి చాచెను. విష్ణువు దానిని నరికెను. పాదములతో యాచించగా వానిని గూడ నరికెను. అంతట ఆ రాజు "నా శిరము నరికినను ఇష్టమే కాని ఆ బీజములు మాత్రము ఇచ్చట చల్లి వెళ్ళు " అని ప్రార్థించెను. అపుడాతని ధర్మ బుద్ధికి మెచ్చి శ్రీహరి, అతనికి దివ్య శరీరమును నను గ్రహించి, "రాజా! నీ పేరుతొ ఈ క్షేత్రము "కురుక్షేత్రమని" ప్రసిద్ధి కెక్కును. ఇది ధర్మక్షేత్రము. ఇక్కడ నున్న ఈశమంతపంచకములోను, వీని మధ్యనుండి ప్రవహించుచున్న " పృథూదక" మను ఈ నదిలో స్నానము చేసిన వారికి అనంత పుణ్యఫలములు కలుగును. ఇచ్చట దానములు చేసినచో ఇతర క్షేత్రములందు చేసినదానికన్నా కోటి గుణితమైన ఫలము కలుగును". అని వరమిచ్చి విష్ణువు అంతర్ధానం అయ్యాడు.
మరొక కథనం
పూర్వం పరశురాముడు క్షత్రియ వధ చేసి, ఒకచోట ఐదు రక్త తటాకాలను నిర్మించాడు. ఆ తరువాత కురువు అనే రాజర్షి ఈ హింసా ప్రక్రియకు పరితాపపడి ఆ ప్రదేశాన్ని నాగళ్లతో దున్నించి ఆ స్థానంలోనే తపస్సు చేశాడు. దానికి ఫలితంగా దేవేంద్రుడు ప్రత్యక్షమై ఈ ప్రదేశంలో యుద్ధాది కారణాలవల్ల మరణించినవారికి స్వర్గం లభిస్తుందని వరమిచ్చాడు. అందువ్ల ఆ ప్రదేశానికి అప్పటినుంచీ కురుక్షేత్రమనే పేరు వచ్చింది. కౌరవ పాండవ యుద్ధం వచ్చినప్పుడు తమ యుద్ధంలో ఏ పక్షము వారు మరణించినా వారికి స్వర్గ ప్రాప్తి కలగాలనే తలంపుతోనే వాళ్లు కురుక్షేత్రాన్ని తమ యుద్ధ క్షేత్రంగా నిర్ణయించుకున్నారు.
చరిత్ర
ఈ వివిధ కాలాలలో ప్రాంతాన్ని బ్రహ్మవేది, ఉత్తరవేది, ధర్మక్షేత్ర మరియు కురుక్షేత్ర అని పిలువబడుతుంది. కురుమహారాజు ఇక్కడకు వచ్చే సమయంలో ఇది ఉత్తరవేది అని పిలువబడింది.
ఈ భూమిని పలురాజులు పరిపాలించారు. తరువాత భరతచక్రవర్తి ఇక్కడకు వచ్చి స్థిరపడ్డాడు. తరువాత మహాభారత యుద్ధం జరిగింది. యుద్ధం ఆరంభించే ముందు శ్రీకృష్ణుడు అర్జునుడికి గీతోపదేశం చేసాడు. చరవర్తి హర్షవర్ధనుడి కాలంలో ఈ ప్రాంతం ఉన్నత స్థితికి చేరుకున్నది. చైనా యాత్రీకుడు హ్యూయన్ త్సాంగ్ ఇక్కడ ఉన్న స్థానేశ్వరుని సందర్శినచాడని చారిత్రక ఆధారాలద్వారా తెలియవస్తుంది. అశోకచక్రవర్తి కాలంలో కురుక్షేత్రం ప్రఖ్యాత విద్యాకేంద్రంగా రూపుదిద్దుకున్నది.
విష్ణుసహస్రనామ మందిరం
ప్రధాన మందిరంలో భీష్ముడు అంపశయ్య మీద వాలిన దృశ్యం ఆలయంలో పాలరాతి శిల్పంగా మలచబడి ఉంది. అంపశయ్య మీద ఉన్న భీష్ముడు, పక్కన శ్రీకృష్ణుడు, పంచపాండవులు, మునులు మొదలైన వారి పాలరాతి విగ్రహాలు మలచబడి ఉన్నాయి. ఈ ఆలయానికి ఒకవైపు పంచముఖాంజనేయుడు మరొకవైపు సరస్వతి ఉపాలయాలు ఉన్నాయి. మరొక ఉపాలయంలో గంగాదేవి, శ్రీరమచంద్రుని ఉపాలయాలు ఉన్నాయి. ఇక్కడకు వచ్చే భక్తులు కొందరు ఇక్కడ విష్ణుసహస్రనామం పఠిస్తారని చెప్తారు.
బ్రహ్మసరోవరం
పవిత్రమైన బ్రహ్మసరోవరం జాలాలలో పవిత్ర స్నానం ఆచరించడానికి ప్రతిసంవత్సరం సోమావతి అమావాస్య మరియు గ్రహణ సమయాలలో యాత్రికులు తండోపతండాలుగా వస్తుంటారు. ఈ సందర్భాలలో ఈ సరోవర స్నానం సకల పాపాలను హరించి మోక్షం ప్రసాదిస్తునదని విశ్వసిస్తున్నారు. బ్రహ్మసరోవరం వద్ద స్నానం ఆచరిస్తే అశ్వమేధయాగం చేసిన పుణ్యం లభిస్తుందని ప్రతీతి. బ్రహ్మసరోవరం వద్ద అనేక మంది యాగాలు నిర్వహించారు. ప్రచీన బ్రహ్మసరోవరం సువిశాలమైనది. ప్రస్తుతం కురుక్షేత్రం అభివృద్ధి బోర్డ్ అనేక వ్యయప్రయాసలకోర్చి పురాతన సరసులో మూడవ భాగం సరసును తిరిగి నిర్మించారు. దేశంలోని హిందూపుణ్య క్షేత్రాలలోని విశాలమైన సరసులలో ఇది ఒకటని భావించబడుతుంది. ఈ సరోవరం పొడవు 3, 600 అడుగులు వెడల్పు 12, 00 అలాగే లోతు 15 అడుగులు ఉంటుంది. చక్కని స్నానఘట్టాలు, యాత్రికుల భద్రత కొరకు రైలింగ్ అలాగే స్త్రీలకు ప్రత్యేక స్నానఘట్టాలు ఉన్నాయి. సరసు మధ్యలో సర్వేశ్వర్ శివమందిరం ఉంది. దీనిని 17వ శతాబ్దంలో మహంత్ శ్రవణనాధ్ నిర్మించారని విశ్వసించ్బడుతుంది. ఈ సరసులో గ్రహణసమయాలలో సుమారుగా ఒకేసారి 5 లక్షలమంది స్నానం చేయడానికి వీలౌతుంది. ఈ కాలువకు అవసరమైన జలాలు భజ్రానంగల్ కాలువ నుండి సరఫరా చేయబడతాయి. గతదశాబ్ధకాలంగా నిర్మానుష్యంగా ఉన్న ఈ క్షేత్రానికి ఇప్పుడు భక్తులరాక అభివృద్ధి అయింది. మిగిలిన భాగం కూడా త్రవ్వి రైలింగ్ స్నానఘట్టాలు, మరియు ప్రదక్షిణ మార్గం ఏర్పాటు చేసే ప్రణాళికలు పూర్తి అయ్యాయంటే పూర్తిగా స్నానఘట్టాలు కలిగిన సరసులలో ప్రపంచంలోనే ఇది మొదటి స్థానంలో ఉంటుంది.
ముఖ్యమైన మందిరాలు
సన్నిహిత సరోవర తీరంలో పలు మందిరాలు ఉన్నాయి. వాటిలో శ్రీలక్ష్మీనారాయణ మందిరం ఒకటి. సరోవరానికి పశ్చిమాన ఉన్న ఈ మందిరంలో లక్ష్మీనారాయణుల సుందర ప్రతిమ ఉంటుంది. యాత్రీకులు విశ్రమించడానికి సౌకర్యాలు ఉన్నాయి. ఈ మందిరాన్ని సిద్ధ శివగిరిబాబా నిర్మించినట్లు విశ్వసిస్తున్నారు.
సన్నిహిత సరోవరానికి సమీపంలో బబాకాలీ కమలీ క్షేత్రం ఉంది. ఇక్కడ కృష్ణ, అర్జున, శివుని సుందరశిల్పాలు ఉన్నాయి. ఇక్కడ యాత్రీకులు విశ్రమించడానికి అవసరమైన సదుపాయాలు ఉన్నాయి.
హరేకృష్ణ తత్వానికి చెందిన గౌడియా మందిరంలో ఇక్కడ రాధాకృష్ణుల సుందర విగ్రహాలు ఉన్నాయి. గోరంగ్ మాహాప్రభువని పిలువబడే చైతన్య మహాప్రభువు కొరకు నిర్మించబడిన ఈ మందిరం గౌడియా మందిరమని పిలువబడుతూ ఉంది. బెంగాలులో జన్మించిన చైతన్య మహాప్రభువును విష్ణు అవతారంగా భావిస్తారు. ఈ మఠంలో బెంగాలీ సాధువులు నివసిస్తారు.
కురుక్షేత్ర సరోవరం ఉత్తరంలో ఉన్న గీతాభవనానికి సమీపంలో 17వ బాబా శ్రవణ్ నాధ్ నిర్మించిన బాబా శ్రవణ్ నాధ్ హవేలీలో యాత్రికులకు వసతి సదుపాయాలు కలిగిస్తుంది. ఈ మందిరానికి
తూర్పున పంచపాండవులు, మధ్యభాగంలో శ్రీకృష్ణ, ఆంజనేయులు ఉంటారు. దక్షిణ భాగంలో దుర్గామాత, శ్రీలక్ష్మీనారాయణ మరియు బాబా శ్రవణ్ నాధ్ల విగ్రహాలు ఉంటాయి.
సర్వేశ్వర మహాదేవ మందిరం. కురుక్షేత్ర సరోవరం మధ్యభాగంలో ఉన్న సర్వేశ్వర మహాదేవ మందిరం చేరుకోవడానికి చిన్నపాటి వంతెన నిర్మితమై ఉంది. బాబా శ్రవణ్ నాధ్ నిర్మించిన ఈ మందిరంలో ఐదు శిఖరాలతో కూడిన ఐదు మందిరాలు ఉన్నాయి. ప్రధానాలయంలో శివలింగం, శివ, పార్వతి, గణపతి, నంది విగ్రహాలు ఉంటాయి. మరొక భాగంలో నారాయణుడు, గరుత్మంతుడు ఉండగా ఇతర భాగాలలో హనుమాన్, మాహామాయ, రాఫ్హాకృష్ణుల విగ్రహాలు ఉంటాయి. కుంతీదేవి ఈ మందిరంలో శివుని స్వర్ణకమలాలతో పూజించిందని పురాణ కథనాలు వర్ణిస్తున్నాయి.
గోరక్షనాధ్ మందిరం. బ్రహ్మసరోవరం ఎదుట గోరక్షనాధుని మందిరం ఉంది. నాథ సంప్రదాయం అనుసరించి మందొరంలో గురుగోరక్షనాధుడి విగ్రహం ఉంది. ఇక్కడ యాత్రికులు విశ్రమించడానికి అవసరమైన సదుపాయాలు ఉన్నాయి. గ్రహణ సమయాలలో స్నానం ఆచరించడానికి వచ్చే సాధువులు అనేకమంది ఇక్కడ విశ్రమిస్తుంటారు.
జయరాం విద్యా మందిరం. ఇది బ్రహసరోవర తీరలో ఉన్న గీతాభవనం, గుడియా మఠం మద్యన ఉంది. సుందరమైన ఈ భవనాన్ని దేవేంద్రస్వరూప్ భ్రహ్మచారి నిర్మించాడు.
ఇక్కడ దశావతారాల పాలరాతి విగ్రహాలు ఉన్నాయి. ఇక్కడ భజనలు, కీర్తనలు, ఇక్కడ హ్మకుండంలో హోమాలు జరుగుతుంటాయి. మందిరప్రవేశద్వారానికి ఇరువైపులా విష్ణుమూర్తి, భీష్మపితామహుల ప్రయిమలు ఉంటాయి. ఈ మందిరంలో ఒకప్పుడు వేదపఠనం జరిగేది. ఇక్కడ సంస్కృత పాఠశాల కూడా ఉంది.
చంద్రకూపం:- కురుక్షేత్ర సరోవర మధ్యభాగంలో ఉన్న పురుషోత్తమ పురంలో ఉన్న అతి ప్రాచీన ప్రదేశం చంద్రకూపం (బావి) . ఈ కూపాన్ని పవిత్రమైనదిగా భావిస్తారు. ఈ కూపానికి సమీపంలో ఉన్న మందిరంలో కురుక్షేత్ర యుద్ధం తరువాత ధర్మరాజు ఒక స్ర్హంభం పాతాడని అది కాలగర్భంలో కలీపోయింది కనుక ప్రస్తుతం లేదని కథనాలు వివరిస్తున్నాయి. యాత్రీకులు ఇక్కడ గుప్తదానాలు చేస్తూ ఉంటారు.
గితా భవనం:- రాజభనం మాదిరిగా ఉన్న ఈ గీతభవనాన్ని రేవారాజు 1921లో నిర్మించాడని కథనాలు వివరిస్తున్నాయి.
బిర్లా మందిరం:- కురుక్షేత్ర సమీపంలో పహావారోడ్డుకు సమీపంలో ఉన్న బిర్లామందిరాన్ని 1952లో శ్రీజుగల్ కిశోర్ బిర్లా నిర్మించాడు. భగవత్దీగీతా మందిరమని పిలువబడే ఈ మందిరంలో శ్రీకృష్ణుడు అర్జునుడికి గీతోపదేశం చేస్తున్న సుందరమైన వుగ్రహాలు ఇక్కడ ఉన్నాయి. మందిరం గోడలమీద భగవద్గీత శ్లోకాలు చెక్కబడి ఉన్నాయి. మందిరానికి ఉత్తరభాగాన నాలుగు గుర్రాలతో ఒక రాతిరథం నిర్మించబడి ఉంది. రథం మద్యలో కృషార్జనుల విగ్రహాలు ప్రతిష్తిచే పని మిగిలి ఉంది.. రథానికి నాలుగు వైపులా బగవద్గీతలోని ముఖ్యమైన నాలుగు శ్లోకాలు చెక్కబడి ఉన్నాయి.
స్థానేశ్వర మందిరం:- థానిసర్ పట్టణానికి సుమారు రెండు ఫర్లాంగుల దూరంలో ఉన్న ఈ మందిరానికి సమీపంలో ఉన్న సరోవరంలో మహిళల కొరకు ప్రత్యేక స్నానఘట్టం ఉంది. ఈ సరోవర స్నాం సకల కోరికలు తీర్చగలదని,, ఘోర పాపాలను హరింస్తుందని, స్థాణు లింగ దర్శనం స్పర్శ ముక్తిని ఇస్తుందని, తెలియక చేసిన పాపాలు స్థాణు లింగ దర్శనంతో పటాపంచలౌతాయని, వేన మహారాజు ఈ సరోవర జలస్పర్శతో సకలపాపాల నుండి విముక్తిడయ్యాడని, మహాభారత యుద్ధానికి ముండే శ్రీకృష్ణుడు స్థానేశ్వరుని దర్శించాడని కథనాలు వివరిస్తున్నాయి. స్థానేశ్వర దర్శనం చెయ్యకపోతే కురుక్షేత్ర యాత్ర నిష్ఫలమని కథనాలు వివరిస్తున్నాయి.
కాళేశ్వర మందిరం: - స్థానేశ్వర మందిరానికి వెళ్ళే మార్గంలో ఉన్న పురాతన శివాలయమిది. ఇక్కడ ఉన్న తీర్థంలో మాఘమాసంలో స్నానం ఆచరిస్తే విశేషఫలం లభిస్తుందని విశ్వసిస్తున్నారు.
స్థాణుతీర్ధానికి దక్షిణాన ఉన్న ఈ లింగం సర్వపాపహరమని, ఈ లింగ దర్శనం అగ్నిషోమ హోమఫలం ఇస్తుందని విశ్వసించబడుతుంది. ఇక్కడ రావణుడు రుద్రుని స్థాపించాడని చెప్తారు. ఇక్కడి లింగాన్ని కంకారూపి మహారుద్రుడు స్థాపించాడు.
భద్రకాళీ మందిరం:- 52 శక్తి పీఠాలలో ఇది ఒకటి ఒక ఆలయం. హిందూ మతం పురాణ కథ ప్రకారం, దక్షాయగ్నంలో తనపతి అయిన శివుని దూషణ విని సహించని సతీదేవి తనకుతాను దహించుకుని దేహత్యాగం చేసినతరువాత శివుడు సతీదేవి కొరకు దుఃఖిస్తూ ఆమె దేహం మొస్తూ తిరుగుతున్న సమయంలో శివుని నిజస్థితికి తీసుకు రావడానికి విష్ణుమూర్తి తన చక్రాయుధంతూ సతిదేవి దేహాన్ని ముక్కలు చేసాడు. సతీదేవి దేహభాగం పదిన ప్రదేశాలలో ఆలయాలు నిర్మించబడ్డాయి. సతీదేసి చీలమండలం పడిన ప్రదేశం కురుక్షేత్రం విశ్వసించబడుతుంది. కనుక ఇక్కడి గర్భగృహంలో విష్ణుమూర్తి సుదర్శచన చక్రంతో ముక్కలు చేయబడిన సతీదేవి పాదం పూజలు అందుకుంటున్నది. స్థానేశ్వర మందిరానికి సమీపంలో ఘంసా రోడ్డు పక్కన ఉన్న ఈ మహాకాళీ మందిరం అష్టాదశ శక్తి పీఠాలలో ఒకటి.
నాభికమల్ మందిరం:- విష్ణునాభి నుండి జన్మించిన కమలం నుండి జన్మించిన బ్రహ్మదేవుడి ఆలయంలో సుందరమైన విషువిగ్రహం ఉంది. సృష్టి ఇక్కడే ఉత్పత్తి అయిందని విశ్వసించబడుతుంది. చైత్రమాశ కృష్ణ నాడు ఇక్కడి నుండి ఏడుక్రోశుల కురుక్షేత్ర యాత్ర ప్రారంభం ఔతుంది.
బాణగంగా:- కురుక్షేత్రంలో బాణగంగ పేరుతో రెండు తీర్ధాలున్నాయి. నరకాతారి అంపశయ్య వద్ద ఉన్న బాణగంగ వద్ద అంపశయ్య మీద ఉన్న భీష్ముడి దాహాన్ని తీర్చడానికి
అర్జునుడు బాణప్రయోగంతో ఏర్పాటు చేసింది. దయాల్ పూర్ వద్ద ఉన్న రెండవది యుద్ధభూమిలో ఆస్వాల దాహం తీర్చడానికి బాణప్రయోగంతో ఏర్పాటు చేసింది. వైశాఖమాసం, దసరా సమయాలలో ఇక్కడ మేళా ఏర్పాటు చేస్తారు.
కర్ణుడి ఖేడా:- ఇది బ్రహ్మసరోవరానికి ఒక మైలు దూరంలో ఉంది. యుద్ధసమయంలో కర్ణుడు ఇక్కడ బ్రాహ్మణులకు దానాలు ఇచ్చాడని కథనాలు వివరిస్తున్నాయి.
ఆప్గా తీర్థం:- కర్ణుడి ఖేడా సమీపంలో ఉన్న అతి పవిత్రమైన సరోవరమే ఆప్గాతీర్థం సరోవరం. కురుక్షేత్రంలో ప్రవహించిన నదులలో ఒకటైన ఆప్గానది యొక్క వరద ప్రవాహం నుండి ఏర్పడిన సరసు కనుక ఈ సరసుకీ పేరు వచ్చింది. మానస నదికి క్రోశుదూరంలో ఉన్న ఆప్గా నదిని బ్రాహ్మణులు సేవించే వారని వామనపురాణంలో ఉంది. ఆప్గానదిలో తర్పణం విడిచిన వారి కోరికలు నెరవేరగలవని విశ్వసించేవారు. బాధ్రపదకృష్ణ చతుర్ధశి మద్యాహ్నం ఇక్కడ తర్పణం విడిచిన వారికి ముక్తి లభిస్తుందని విశ్వసించబడుతుంది.
జ్యోతిసర్:- కురుక్షేత్రంలో శ్రీకృష్ణుడు అర్జునుడికి గీతోపదేశం చేసిన ప్రదేశం. ఇక్కడ శ్రీకృష్ణుడు గీతోపదేశం చేసిన పాలరాతిశిల్పం ఉంది. అలాగే శ్రీకృష్ణుడి పాదాలు ఉన్నాయి. అర్జునుడి రథం ఉన్న ప్రదేశం చుట్టూ ఐదు వృక్షాలు ఉన్నాయి. ఈ ఐదు వృక్షాలు శ్రీకృష్ణుడి గితోపదేశం నేరుగా విన్నాయని విశ్వసిస్తూ ఐదు వృక్షాలను అతి పవిత్రంగా భావిస్తున్నారు. ఈ వృక్షాల ఆకులు కూడా నేలరాలకూడదు అని ఈ వృక్షాలకు పెద్ద వలలుకట్టి ఉన్నాయి. సమీపంలోనే బాణగంగ మరియు విష్ణుసహస్రనామము ఆరంభమైన ఆలయం ఉన్నాయి. ఇక్కడ ఒకప్పుడు జ్యోతిసర్ మహాదేవుడు ఉండేవాడని అందువలనే ఈ ప్రదేశానికీ పేరు వచ్చింది. ఇక్కడ ఒక ప్రాచీన సరోవరం ఉంది. సరోవరతీరంలో ఉన్న వృక్షం అతిప్రాచీనమైనదని భావించబడుతుంది. దీనిని అక్షయ వటవృక్షమని అంటారు. గితోపదేశం విన్న ఐదు వృక్షాలలో ఇది ఒకటి. థానేశ్వర్ విధ్వంసం జరిగినప్పుడు శిథిలమైన శివాలయం వద్ద అరో వట వృక్షం ఉంది. 1960లో ఇక్కడ శ్రీ కృష్ణ మందిరం నిర్మించబడింది.
సర్వదమన్:- ఇది జనమేజయుడు సర్పయాగం చేసిన ప్రదేశం. ఇక్కడ పెన్నే సూర్యకుండ్ అనే తీర్థం ఉంది.
భూరి సుర్:- కౌరవపక్షాన యుద్ధం చేసిన భూరిశ్రవుడు మరణించిన ప్రదేశమే భూరిసుర్ లేక భౌర్ అనిపిలువబడుతుంది. ఇది జ్యూతిసర్కు 8 కిలోమీటర్ల దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ సూర్యకుండ్ అనే పవిత్ర సరోవరం శివాలయం ఉన్నాయి. యాత్రికులు ఇక్కడ స్నానం ఆచరించి సూర్యోపాసన చేస్తారు. యాత్రికుల వినోదార్ధం ఇక్కడ ఒక మొసళ్ళ అరణాలయం ఏర్పాటు చేయబడి ఉంది.
వృధోదక తీర్థం ( పెహ్వా ):- కురుక్షేత్రానికి పశ్చిమాన 25 కిలోమీటర్ల దూరంలో సరస్వతీ తీరంలో ఉన్న పట్టణం పెహ్వా. ఇక్కడి నుండి థానేశ్వర్, అంబాలా, కైథల్ కు రహదారి మార్గాలు ఉన్నాయి. పుణ్యక్షేత్రాలు, తీర్ధాలు ఉన్న ప్రదేశంగా భావించే పెహ్లా వద్ద పృథుచక్రవర్తి తనతండ్రికి అంత్యక్రియలు నిర్వహించాడని అందుకే దీనికీ పేరు వచ్చిందని, విశ్వామిత్రుడు బ్రహ్మఙానం పొందిన ప్రదేశం ఇదని విశ్వసించబడుతుంది. ఇక్కడ ఘోరక్ నాథుని శిష్యుడైన గరీబ్ నాథుని మందిరం ఉంది. ఇక్కడ అతి ప్రాచీనమైన విగ్రహాలు, నాణాలు లభించాయి.
కామ్య తీర్థం ;- కురుక్షేత్రానికి 6 కిలోమీటర్ల దూరంలో పెహవాకు వెళ్ళే మార్గంలో కామోథా గ్రామం ఉంది. మహాభరతంలో వర్ణించబడిన కామ్యకవనమే కామోథాగా పిలువబడుతుందని విశ్వసిస్తున్నారు. ఇక్కడ పవమాన కామ్యకతీర్థం, శివమందిరం ఉన్నాయి. ఇక్కడ ప్రతి చైత్రశుక్ల సపమిలో మేళా నిర్వహించబడుతుంది. పాండవులు తమవనవాస సమయంలో ఇక్కడ నివసించారని పురాణ కథనాలలో వర్ణించబడి ఉంది.
కుబేర తీర్థం:- భద్రకాళీ మందిరం సమీపంలో సరస్వతీ నదీతీరంలో ఉన్న ఈ తీర్థంలో కుబేరుడు యఙం చేసాడని విశ్వసించబడుతుంది.
దధీచి తీర్థం:-ఇక్కడ దధీచి మహర్షి నివసించేవాడని వృత్తాసుర సంహారార్ధం ఇంద్రుడు దధీచి మహర్షి అస్థికలను స్వీకరించి వజ్రాయుధం తయారుచేసుకున్నాడని పురాణ కథనాలు వివరిస్తున్నాయి.
చక్రవ్యూహం ( అమీన్):- అమీన్ పర్వతం థానేసర్కు దాదాపు 8 కిలోమీటర్ల దూరంలో ఉంది. ఇక్కడ అథిది వనం ఉందని, ద్రోణాచార్యుడు పద్మవ్యూహం రచించిన ప్రదేశం ఇదని ఇక్కడ ప్రవేశిచిన అభిమన్యుడు వెలుపలికి పోలేక యుద్ధంలో హతుడయ్యాడని పురాణకథనాలు వివరిస్తున్నాయి. అభిమన్యుడి పేరుమీద ఉన్న ఈ ప్రదేశం కాలభ్రమణంలో అమీన్ అయిందని భావిస్తున్నారు.
మార్కండేయ తీర్థం:- మార్కండేయుడు ఇక్కడ ఆశ్రమవాసం చేసాడని విశ్వసించబడుతుంది. యాత్రీకులు ఇక్కడ స్నానం చేసి పూజలు నిర్వహిస్తారు.
రత్నయక్ష తీర్థం:- 48 క్రోసుల కురుక్షేత్ర యాత్రను ఇక్కడి నుండి కూడా ఆరాంభిస్తారు. ఇది కురుక్షేత్ర స్టేషనుకు ఒక కిలోమీటర్ దూరంలో పిపలీ మార్గంలో ఉంది. ఇక్కడ ఒక పవిత్ర సరసు, కార్తిక మందిరం, రత్నయక్ష మందిరం ఉన్నాయి.
పిండారా:- ఇక్కడ ఉన్న సోమతీర్థంలో చంద్రుడు శివు గురించి తపసు చేసి వ్యాధి నుండి విముక్తిడయ్యాడు. చంద్రుడు ఆరాధించిన క్ ఆరణంగా ఇక్కడ శివుడు సోమేశ్వరుడు అయ్యాడు. ఇక్కడ స్నానం ఆచరించి సోమేశ్వర దర్శనం చేసుకునే వారు రోగవిముక్తులు ఔతారని భక్తులు విశ్వసిస్తున్నారు.
సఫీడోం:- సాలవనానికి 10 మైళ్ళదూరంలో ఉన్న ససదోం వద్ద ఉన్న నాగతీర్థంలో స్నానం ఆచరించి నాగేశ్వరుడికి పెరుగు, నెయ్యి దానం చేస్తే సర్పభయం ఉండదని భక్తులు విశ్వసిస్తుంటారు.
కైథల్:- పురాణాలలో కపిస్థలంగా వర్ణించబడిన ఈ ప్రదేశం మహావానరుడు హనుమంతుని భూమిగా విశ్వసిస్తున్నారు. యుధిష్ఠతుడు దాయాదులతో శాంతిని కోరుతూ అడిగిన ఐదూళ్ళలో కపిస్థలం ఒకటి. కపిస్థల్ కాలక్రమంలో కైథల్ అయింది. సరోవరం అనే ప్రాచీనమందిరం, ప్రాచీన దుర్గం ఉన్నాయి. ఇక్కడ శ్రావణ మాసంలో బ్రహ్మాండమైన మేళా నిర్వహించబడుతుంది.
ద్వైశంపాయన హృదయ తీర్థం:-
వరాహ తీర్థం:- జీంద్ స్టేషను సమీపంలో ఉన్న చిరహీకలా గ్రామంలో వరాహతీర్థం ఉంది. విష్ణు భగవానుడు వరాహావతారం ఎత్తి భూమిని రక్షించిన ప్రదేశం ఇదని భక్తుల విశ్వాసం. ఇక్కడ భక్తులు స్నానం ఆచరించి విష్ణుమూర్తిని ఆరాధిస్తారు.
దుఃఖభంజనేశ్వర మహాదేవ్ మందిరం:- సన్నిహిత సరోవరానికి సమీపంలో ఉన్న సుందర మందిరమిది. శిథిలమైన ఈ మందిరాన్ని దాతల సాయంతో పునరుద్ధరించి సుందరంగా తీర్చిదిద్దారు.
ఇక్కడ ఉన్న శివాలయంలో శివినికి ఉదయకాలం మరియు సాయంకాలవేళలలో హారతులు ఇస్తారు. శ్రావణ, కార్తిక మాసాలలో శివినికి అభిషేకాలు చేసి వ్రతమాచరిస్తారు. ఇక్కడ శివునికి పూజలు చేస్తే శివుడు భౌతిక దుఃఖాలు హరిస్తాడని భక్తులు విశ్వసిస్తారు.
కృష్ణధామ్:- కురుక్షేత్రం రైల్వే రోడ్డు పక్కన ఉన్న కృష్ణ మందిరాన్ని గణిశానంద్ మహరాజ్ నిర్మించాడు. ఇందులో హనుమంతుడు, దుర్గామాత, శ్రీకృష్ణ ప్రతిమలు ఉన్నాయి. ఇక్కడ బాలబాలికలకు సంస్కృత విద్యను అందిస్తున్నారు. ఇక్కడ ధర్మశాలలో యాత్రికులు విశ్రమించడానికి అవసరమైన సదుపాయాలు చేసారు.
గీతాధాం:- కృష్ణ ధాం పక్కన ఉన్న గీతాధాంలో బాలబాలికలకు ఉచితంగా గీతను భోధిస్తారు.
ప్రత్యేక ప్రదేశాలు
శాంతి సరోవర్: ఈ సరోవర్ ఏడు పవిత్ర సరస్వతులు కలిసే చోటుగా భావిస్తున్నారు. పవిత్రజలాలను కలిగిన ఈ సరోవరంలో అమావాస్య రోజులలో స్నానమాచరించిన అశ్వమేధయాగం చేసిన ఫలం లభిస్తుందని విశ్వసిస్తున్నారు.
శ్రీకృష్ణ మ్యూజియం మహాభారతం యుద్ధం చిత్రీకరిస్తున్న కొన్ని చారిత్రక కళాఖండాల మరియు చిత్రాలు ఉన్నాయి.
సమగ్ర కురుక్షేత్రం మరియు శాస్త్రీయ పరిశోధనా కేంద్రం: ప్రపంచ స్థాయి యుద్ధంగా పరిణమించిన మహాభారత యుద్ధనికి వెనుక ఉన్న శాస్త్రీయ వివరణ సందర్శకులకు ఉత్సుకత కలిగిస్తూ ఉంది.
కల్పనా చావ్లా నక్షత్ర
కాసెల్ మాల్: ఆహార, షాపింగ్ మరియు వినోదం కోసం ఒక దుకాణాల సమూహం సహితమైన పలు దుకాణాల సమూహం.
కాంతి మరియు ధ్వని ప్రదర్శన: కాంతి మరియు శబ్దం బాలే ద్వారా గీతా సార్ లోని కొన్ని అంశాలను కేంద్రీకరించి కొత్తగా నిర్మించిన పర్యాటక ఆకర్షణ.
ధారోహర్: హర్యానా సంస్కృతి మరియు సంప్రదాయాల గురించి సందర్శచి తెలుసుకొన వలసిన వస్తు ప్రదర్శన. ఇది కురుక్షేత్రం విశ్వవిద్యాలయంలో ఉంది.
నరక్తారి వద్ద భీష్మ కుండ్: యుద్ధభూమిలో కూలిన భీష్మపితామహుని దాహం తీర్చడానికి అవసరమైన పవిత్ర జలాల కొరకు అర్జునుడు భూమి వైపుగా బాణం ప్రయోగించిన ప్రదేశం.
సరస్వతి అభయారణ్యం: ఇది కురుక్షేత్ర జిల్లాలో గొప్ప వృక్షజాలం మరియు జంతుజాలం ఒక పెద్ద అభయారణ్య ప్రాతం.
షేక్ చెహ్లీ కా మక్బరా (సమాధి): ఈ భారతదేశ స్మారక చిహ్నం పురాతత్వ సర్వే ద్వారా నిర్వహించబడుతుంది. ఇది సుఫీ సన్యాసి షేక్ చెహ్లీ ఙాపక చిహ్నంగా మొఘల్ కాలంలో నిర్మించబడిని., షేక్ చెహ్లీ మొఘల్ రాజకుమారుడు ధారా షిఖాహ్ ఆధ్యాత్మిక గురువు భావిస్తున్నారు. అయినప్పటికీ ఇది పొరబాటని రాజకుమారుడు ధారా షిఖాహ్ నిజమైన ముర్షిద్ లేక షేక్ (ఆధ్యాత్మిక గురువు ) షేక్ మియా లాహోరుకు చెందిన మీర్ సాహిబ్ అని భావిస్తున్నారు. అయినప్పటికీ సన్యాసి షేక్ చెహ్లీ రాజకుమారుడు ధారా షిఖాహ్ కు అదనంగా చిన్న ఆధ్యాత్మిక గురువుగా భావిస్తున్నారు. హజ్రత్ మియా మీర్ సాహిబ్ తన పర్యటన సమయంలో మక్బరా (సమాధి) వద్ద ప్రాధనలు నిర్వహించాడని చరిత్రకాఫ్హారాలు తెలియజేస్తున్నాయి. తరువాత సంరక్షకుడు హజారత్ శిష్యుడి దేహం ఇక్కడ ఖననం చేయబడడం వలన పవిత్రమైనదని విశ్వసిస్తున్నారు.
వాల్మీకి ఆశ్రమం
భారత ఉపఖండం యొక్క పురాతన నగరాలలో ఒక పటంలో కురుక్షేత్ర
గురుద్వారా రాజ్ ఘాట్
గురుద్వారా తీసరీ పత్షాహీ
గురుద్వారా చెవిన్ పత్షాహీ
గురుద్వారా సిద్ధ్ బాతీ పత్షాహీ పహిలి
చిత్రమాలిక
కురుక్షేత్రంలోని కృష్ణా మ్యూజియం
కురుక్షేత్రంలోని బ్రహ్మకుండ్
కురుక్షేత్రం మ్యాప్
కురుక్షేత్రంలోని విష్ణుసహస్రనమాలయం
అర్జునుని బాణప్రయోగం వలన ఏర్పడిన జలకుండము
కురుక్షేత్రంలోని కృష్ణుడు అర్జునునికి గీతోపదేశం చేసిన ప్రదేశం
కురుక్షేత్రంలో భీష్ముడు యుద్ధభూమిలో అంపశయ్య మీద పడిపోయిన ప్రదేశం
కురుక్షేత్రంలోని శ్రీకౄష్ణుడి గీతోపదేశం విన్న ఐదు వృక్షాలలో ఒకటి
విద్యాసంస్థలు
టెక్నాలజీ, కురుక్షేత్ర నేషనల్ ఇన్స్టిట్యూట్
నేషనల్ ఇంస్టిట్యూట్ ఆఫ్ కురుక్షేత్ర.
కురుక్షేత్ర విశ్వవిద్యాలయం.1956 లో స్థాపించబడిన ఈ విశ్వవిద్యాలయం భారతదేశంలో ఉన్న ముఖ్య విశ్వవిద్యాలయాలలో ఒకటి.
యూనివర్శిటీ ఇంస్టిట్యూట్ ఆఫ్ కురుక్షేత్రా య్జూనివర్సిటీ.
వైద్యశాలలు
లోక్ నాయక్ జై ప్రకాష్ సివిల్ ఆస్పత్రి, కురుక్షేత్ర.
స్వామి అనంత్ ఛారిటబుల్ కంటి ఆస్పత్రి
సాహ్ని నర్సింగ్ హోమ్: ఔషధ మరియు మద్యం బానిసలు కోసం డి-వ్యసనం సెంటర్ /. ఇది ప్రధాన రహదారి (Pipli రహదారి) కురుక్షేత్ర ఉంది.
కులువాంతి కంటి ఆసుపత్రి
ఆశీర్వాద్ నర్సింగ్ హోమ్
సత్య నర్సింగ్ హోమ్
కురుక్షేత్ర నర్సింగ్ హోమ్
మహంత్ ప్రభాత్ పూరీ ఛారిటబుల్ హాస్పిటల్
భరద్వాజ్ పిల్లల ఆసుపత్రి, సెక్టార్ 13 కురుక్షేత్ర
నగరాలు, ఊర్లు మరియు గ్రామాలు
కురుక్షేత్ర జిల్లాలో ఉన్న నగరాలలో ఒకటి షాహ్బాద్ మార్కండా.
కురుక్షేత్రానికి సమీపంలో ఉన్న ఊర్లు పిపిలి మరియు లాడ్వా .
10, 000 మంది ప్రజలు మాధనా గ్రామం కురుక్షేత్ర సమీపగ్రాలలో ఒకటి. ఈ గ్రమప్రజలలో అధికశాతం రోడ్ మాధనా జాతికి చెందినవారు.
ఇతరగ్రామాలు కిర్మచ్, కౌలాపూర్, ఉంరి, అమిన్, దయాల్పూర్ (బాణ్ గంగా), మిర్జాపూర్, ఆలంపూర్, సంహెరి ఖల్స, ఇషక్పుర్, రత్గల్, దేవీదాస్ పురా, సుందర్పుర్, అహమ్మద్పుర్, బీబీపూర్, బారౌత్, జైన్పుర్, బుహావి, ఖైరి, తాట్కి, చనర్తల్, ధంతోరీ, కనిప్ల, కసెర్ల, కరింద్వం, డీగ్, మసన, ఖాంపుర్, ట్యోడా, షరీఫ్, గార్, బాబియన్, మెహ్రబకలి.
భారతీయ రైల్వే మార్గంలో ఉన్న రైల్వే స్టేషన్లు ధోడాఖేరి, ధిర్పుర్, ధోలా మజ్ర షహ్బాద్ మర్కండ & మొహ్రి.
ప్రజలు
కురుక్షేత్రంలో అత్యధికులు సైనీ, రాజపుత్ర, రార్ మార్తా, ఖత్రి ప్రజలు. కురుక్షేత్రం లోని ప్రాంతీయ ప్రజలు హర్యంవి, స్వచ్ఛమైన హిందీ, పంజాబీ భాషలను మాట్లాడుతుంటారు.
ప్రత్యేకతలు
వాతావరణం:- కురుక్షేత్రంలో వేసవి ఉష్ణోగ్రత అధికంగా ఉంటుంది (47°సెనాటిగ్రేడుకు చేరుకుంటుంది) చలికాలంలో అత్యధిక చలిగా ఉంటుంది (1° సెంటీ గ్రేడుకు చేరుకుంటుంది) .జూలై మరియు ఆగస్టు మాసాలలో వర్షపాతం ఉంటుంది.
మార్గం:- కురుక్షేత్రం ఎన్.హెచ్1 జాతీయరహదారితో అనుసంధానమై ఉంది. అలాగే రోడ్డు, రైలు మరియు వాయు మార్గాలతో చక్కగా అనుసంధానితమై ఉంది. ప్రయాణ మార్గాలు తగిన వసతులు కలిగి సౌకర్యవంతంగా ఉన్నాయి.
రహదారి:- హర్యానా రోడ్వేస్ మరియు ఇతర రాష్ట్ర కార్పొరేషనుకు చెందిన బసులు చంఢీగడ్ మరియు డిల్లీలను కలుపుతూ కురుక్షేత్రం మీదుగా ప్రయాణిస్తుంటాయి.
వాయు మార్గం:- డిల్లి మరియు చంఢీఘడ్ విమానాశ్రయాలు కురుక్షేత్రానికి సమీపంలో ఉన్నాయి.
రైలు మార్గం:- కురుక్షేత్రంలోని రైలు జంక్షన్ దేశంలోని ముఖ్యమైన నగరాలతో కురుక్షేత్రాన్ని అనుసంధానిస్తుంది.
శాకాహార హోదా
2012లో కురుక్షేత్రం మునిసిపల్ పరిమితిలో కురుక్షేత్రం యొక్క మత ప్రాముఖ్యతను దృష్టిలో పెట్టుకుని మాంసాహార వినియోగం మరియు విక్రయం నిషేధించబడింది.
మూలాలజాబితా
వెలుపలి లింకులు
మూలాలు
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PlayerUnknown's Battlegrounds adalah sebuah permainan dengan genre battle royale, permainan dimana pemain bisa bermain dengan 100 orang sekaligus secara daring. Di dalam permainan ini pemain bisa bermain solo, tim 2 orang dan tim 4 orang, serta bisa mengundang teman untuk bergabung ke dalam permainan sebagai tim.
Penerimaan
ReceptionPlayerUnknown's Battleground diluncurkan di Steam pada bulan Maret 2017. Walaupun belum genap satu tahun, tapi permainan ini telah membuat rekor baru, ada sekitar 877.844 pemain yang daring secara bersamaan pada tanggal 26 Agustus 2017 di platform Steam. Angka ini mengalahkan rekor jumlah pemain Dota 2 dalam waktu bersamaan yang hanya mencapai 842.919.[9][10]
PUBG Mobile
Di Playstore, permainan ini telah dimainkan sebanyak lebih dari 50 juta pengguna Android seluruh dunia. Spesifikasi ponsel pintar untuk memainkan PUBG adalah 2Gb/16Gb (versi lite) tetapi disarankan 4Gb/64Gb dan 6Gb/128Gb (versi asli).
Catatan
Referensi
Pranala luar
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Kategori:Permainan battle royale
Kategori:Permainan video tahun 2017 | https://id.wikipedia.org/wiki/PlayerUnknown%27s%20Battlegrounds |
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Afrika Kusini ni nchi kubwa ya Afrika ya Kusini yenye wakazi takriban milioni 54.
Imepakana na Namibia, Botswana, Zimbabwe, Msumbiji na Uswazi. Nchi nzima ya Lesotho iko ndani ya eneo la Afrika Kusini.
Mji mkubwa ni Johannesburg. Majukumu ya mji mkuu yamegawiwa kati ya miji mitatu: Cape Town ni makao ya Bunge, Pretoria ni makao ya Serikali na Bloemfontein ni makao ya Mahakama Kuu.
Jina
Nchi ina majina rasmi 11 kutokana na lugha rasmi 11, nazo ni: Kiafrikaans, Kiingereza, Kizulu, Kixhosa, Kiswati, Kindebele, Kisotho cha Kusini, Kisotho cha Kaskazini, Kitsonga, Kitswana na Kivenda.
Historia
Zamadamu waliishi katika eneo la Afrika Kusini tangu miaka milioni 3 iliyopita, inavyoshuhudiwa na akiolojia.
Binadamu wameishi huko kwa miaka 170,000 mfululizo. Wakazi wa muda mrefu zaidi ni Wakhoikhoi na Wasani, ambao wazagumzumza lugha ya jamii ya Khoi-San.
Katika karne ya 4 au ya 5 walifika Wabantu ambao waliwazidi nguvu hao wa kwanza.
Koloni la Waholanzi kwenye Rasi
Chanzo cha Afrika Kusini kama nchi ni Koloni la Rasi iliyoundwa na Waholanzi katika eneo la Cape Town. Huko kabila jipya la Makaburu lilijitokeza kati ya walowezi Wazungu kutoka Uholanzi, Ufaransa na Ujerumani. Lugha yao ilikuwa Kiholanzi iliyoanza kuchukua maneno ya Kifaransa, Kiafrika na Kiingereza na kuendelea kuwa lugha ya pekee Kiafrikaans.
Karne za kwanza za koloni la Kiholanzi ziliona pia kufika kwa watumwa kutoka Indonesia walioletwa kama wafanyakazi wa Waholanzi na Makaburu. Hao Waindonesia walikuwa chanzo cha jumuiya ya Uislamu kwenye rasi.
Pia machotara walitokea kutokana na kuzaliana kati ya Makaburu na wanawake Waafrika na Waindonesia. Sehemu ya machotara hao wameingia katika jumuiya ya Makaburu na wengi wao wanapimwa kuwa na mababu Waafrika.
Katika miaka ya baadaye ubaguzi wa rangi uliongezeka na watoto machotara wa Wazungu na Waafrika mara nyingi hawakukubalika; walianza kuishi kama kundi la pekee kati ya Waafrika na Wazungu, nao ni chanzo cha hao walioitwa baadaye "Cape Coloreds".
Milki za Waafrika na Mfecane
Sehemu kubwa ya eneo kaskazini kwa rasi ilikaliwa na makabila ya Waafrika.
Mnamo mwaka 1800 falme na milki zilianza kutokea hapa. Mwanzo wa karne ya 19 ni hasa Wazulu chini ya Shaka Zulu walioanza kuenea na kuwashambulia majirani katika vita vya Mfecane. Vita hivyo vilileta uharibifu mkubwa lakini vilisababisha pia kutokea kwa milki za Wasotho na Watswana na wengine walioiga mitindo ya Wazulu na kujenga madola yenye uwezo wa kijeshi.
Kuingia kwa Uingereza na jamhuri za Makaburu
Mwaka 1814 Koloni la Rasi lilitwaliwa na Waingereza na kuwa sehemu ya Milki ya Uingereza.
Utawala wa Waingereza ulisababisha uhamisho wa nje wa sehemu ya Makaburu waliotokana na Wazungu kutoka Uholanzi, Ufaransa na Ujerumani; Makaburu hao walihama kwenda kaskazini wakaanzisha jamhuri ndogo kati ya maeneo ya Waafrika ama kwa njia ya mapatano au kwa njia ya vita.
Kati ya miaka 1840 na 1850 Waingereza waliwafuata Makaburu kwa kueneza maeneo yao hadi mto Oranje; waliteka jamhuri ya Kikaburu ya Natalia na kuanzisha koloni jipya la Natal.
Jamhuri mbili za Makaburu ziliweza kustawi kwa miaka kadhaa ambazo zilikuwa jamhuri ya Dola Huru la Oranje upande wa kaskazini wa mto Oranje na jamhuri ya Transvaal (ilijiita pia Jamhuri ya Kiafrika ya Kusini) upande wa kaskazini wa mto Vaal.
Waafrika, Waingereza na Makaburu waligongana
Milki za Kiafrika zilitafuta njia zao kati ya himaya hizi za Wazungu ambao walikuwa na nguvu kutokana na silaha za kisasa. Wengine walitafuta uhusiano mzuri na Makaburu na kushikamana nao; wengine waliona Makaburu kama hatari wakatafuta uhusiano wa ulinzi na Waingereza.
Mikataba kati ya Waingereza na milki za Kiafrika iliunda nchi lindwa zinazoendelea hadi leo kama nchi huru kama vile Botswana (Bechuanaland), Lesotho (Basutoland) na Uswazi (Swaziland).
Katika miaka ya 1880 almasi na dhahabu zilipatikana kwa wingi katika jamhuri hizi na kusababisha kufika kwa wachimbamadini wengi, hasa Waingereza, waliotaka kutajirika; Makaburu walisita kuwapa haki za kiraia kwa sababu waliogopa wageni wengi. Tatizo hilo lilisababisha vita vya Makaburu dhidi ya Uingereza na jamhuri za Makaburu zilitwaliwa na jeshi la Kiingereza hadi mwaka 1902 zikawa makoloni.
Karne ya 20: Muungano wa Afrika Kusini
Jitihada za kupatanisha Wazungu wa Afrika Kusini (yaani Waingereza na Makaburu) zilisababisha kuundwa kwa Muungano wa Afrika Kusini kama nchi ya kujitawala ndani ya Milki ya Uingereza. Waafrika kwa jumla hawakuwa na haki za kiraia katika nchi hiyo isipokuwa katika Jimbo la Rasi kama walikuwa na elimu na mapato ya kulipa kodi za kutosha.
Siasa ya Apartheid tangu 1948
Baada ya vita kuu ya pili ya dunia Chama cha National kilichofuata itikadi kali ilipata kura nyingi na kuchukua serikali ya Afrika Kusini. Hapo ilianzisha mfumo wa ubaguzi wa rangi kwa jina la apartheid.
Haki za wasio Wazungu zilipunguzwa zaidi. Maeneo ya Kiafrika yalitangazwa kuwa nchi za pekee chini ya usimamizi wa serikali ya Kizungu ya Afrika Kusini; kwa hiyo wananchi kutoka maeneo hayo hawakuwa tena na haki za kukata rufaa mbele ya mahakama; walipewa vibali vya muda tu kukaa kwenye miji. Waafrika walipaswa kutembea muda wote na pasipoti na vibali; ndoa na mapenzi kati ya watu wa rangi tofauti zilipigwa marufuku. Shule na makazi zilitenganishwa.
Siasa hiyo ilisababisha farakano kati ya nchi nyingi za dunia na Afrika Kusini. Upinzani kutoka Uingereza na Jumuiya ya Madola ulisababisha kuondoka kwa Afrika Kusini katika jumuiya hiyo na kutangazwa kwa Jamhuri ya Afrika Kusini.
Afrika Kusini mpya
Mwaka 1990 Apartheid ilikwisha na serikali ya National Party ilipaswa kuendesha uchaguzi huru kwa wananchi wote na kukabidhi madaraka kwa serikali ya ANC chini ya Nelson Mandela.
Utawala na muundo wa shirikisho
Afrika Kusini ni shirikisho. Katiba mpya ya mwaka 1997 iliendeleza muundo huu uliundwa kama "Umoja wa Afrika Kusini" baada ya vita ya makaburu dhidi Uingereza.
Afrika Kusini ya kale ilikuwa na majimbo manne: Rasi, Natal, Dola Huru la Mto Orange na Transvaal. Maeneno makubwa yaliyokaliwa na Waafrika yalibaki nje katika katiba ya Apartheid yakiitwa bantustans (au: homeland). Katiba mpya ilichora mipaka upya.
Majimbo ya Afrika Kusini
Mji mkuu wa jimbo watajwa katika mabano.
Rasi ya Magharibi (Western Cape)¹ (Cape Town) kifupi: WC
Rasi ya Kaskazini (Northern Cape) (Kimberley) kifupi: NC
Rasi ya Mashariki (Eastern Cape) (Bhisho) kifupi: EC
KwaZulu-Natal (Pietermaritzburg²) kifupi: KZ, KZN or KN
Dola Huru (Free State) (Bloemfontein) kifupi: FS
Kaskazini-Magharibi (Mafikeng) kifupi: NW
Gauteng (Johannesburg) kifupi: GT or GP
Mpumalanga (Nelspruit) kifupi: MP
Limpopo (Polokwane) kifupi: LP
Miji Mikubwa
Hii ifuatayo ni miji/manispaa/majiji kumi yenye wakazi wengi zaidi nchini.
Na.Manispaa au JijiWakazi (2001)Wakazi (1996)Asilimia ya badiliko
1996-20011.Johannesburg, Gauteng3,225,8122,639,11022.2%2.Durban, KwaZulu-Natal3,090,1172,751,19312.3%3.Cape Town, Rasi ya Magharibi2,893,2512,563,61212.9%4.East Rand, Gauteng2,480,2822,026,80722.4%5.Pretoria, Gauteng1,985,9841,682,70118.0%6.Port Elizabeth, Rasi ya Mashariki1,005,776969,7713.7%7.East London, Rasi ya Mashariki701,881682,2872.9%8.Vereeniging, Gauteng658,422597,94810.1%9.Bloemfontein, Dola Huru645,441603,7046.9%10.Thohoyandou, Limpopo584,469537,4548.7%
Watu
Afrika Kusini ina mchanganyiko mkubwa wa watu. Waafrika asili ni asilimia 80.2, Machotara ni 8.8%, Wazungu ni 8.4%, Waasia ni 2.5%.
Wengi (79.8%) ni Wakristo wa madhehebu mengi sana, hasa ya Uprotestanti; Wakatoliki ni 7.1%. Dini nyingine ni: Uislamu (1.5%), Uhindu (1.2%), Dini za jadi (0.3%) na Uyahudi (0.2%). Asilimia 15.1 ya watu hawana dini yoyote.
Afrika Kusini inaongoza duniani kwa wingi wa watu wenye VVU/UKIMWI: mwaka 2015 walikuwa milioni 7. Mayatima kutokana na ugonjwa huo ni 1,200,000.
Uchumi
Kiuchumi Afrika Kusini ni nchi yenye pande mbili kabisa.
Sehemu ya uchumi ina hali ya kimaendeleo kabisa ikiwa na viwanda na huduma zinazolingana na hali ya juu kabisa duniani; hali ya maisha ya wananchi waliomo katika sekta hii inalingana na nchi kama Australia au Ulaya magharibi.
Kwa upande mwingine hali ya maisha ya sehemu kubwa ya wananchi ni umaskini kama katika sehemu nyingine za Afrika au Uhindi wa mashambani. Lakini kwa ujumla hali ya maisha iko juu kuliko nchi nyingi za Afrika.
Sekta muhimu za uchumi ni migodi ya kuchimba dhahabu au almasi, viwanda na huduma kama benki au bima.
Jeshi
Jeshi la Afrika Kusini ina silaha za kisasa kushinda nchi zote za majirani. Uchumi unawezesha nchi kutumia kiasi kikubwa kwa ajili ya jeshi kuliko nchi zote za Afrika kusini kwa Sahara.
Afrika Kusini iliwahi kuwa na silaha za nyuklia lakini ilizibomoa baada ya mwaka 1993.
Watu maarufu
Kati ya watu mashuhuri sana wa Afrika Kusini ni:
Nelson Mandela aliyekuwa rais kati ya mwaka 1994 na mwaka 1999.
Shaka Zulu aliyekuwa kiongozi wa kijeshi kabla ya ukoloni
Christiaan Barnard, daktari wa kwanza duniani aliyehamisha moyo wa mtu kwa mtu mwingine.
Tazama pia
Orodha ya nchi kufuatana na wakazi
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na idadi ya watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na msongamano wa watu
Orodha ya nchi za Afrika kulingana na pato la taifa
Demografia ya Afrika
Orodha ya lugha za Afrika Kusini
Marejeo
A History of South Africa, Third Edition. Leonard Thompson. Yale University Press. 1 March 2001. 384 pages. ISBN 0-300-08776-4.
Economic Analysis and Policy Formulation for Post-Apartheid South Africa: Mission Report, Aug. 1991. International Development Research Centre. IDRC Canada, 1991. vi, 46 p. Without ISBN
Emerging Johannesburg: Perspectives on the Postapartheid City. Richard Tomlinson, et al. 1 January 2003. 336 pages. ISBN 0-415-93559-8.
Making of Modern South Africa: Conquest, Segregation and Apartheid. Nigel Worden. 1 July 2000. 194 pages. ISBN 0-631-21661-8.
South Africa: A Narrative History. Frank Welsh. Kodansha America. 1 February 1999. 606 pages. ISBN 1-56836-258-7.
South Africa in Contemporary Times. Godfrey Mwakikagile. New Africa Press. February 2008. 260 pages. ISBN 978-0-9802587-3-8.
The Atlas of Changing South Africa. A. J. Christopher. 1 October 2000. 216 pages. ISBN 0-415-21178-6.
The Politics of the New South Africa. Heather Deegan. 28 December 2000. 256 pages. ISBN 0-582-38227-0.
Twentieth-Century South Africa. William Beinart. Oxford University Press 2001, 414 pages, ISBN 0-19-289318-1
Viungo vya nje
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Jamii:Afrika Kusini
Jamii:Nchi za Afrika
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} | Justin Morgan (''Home and Away'')
Justin Morgan is a fictional character from the Australian television soap opera Home and Away, played by James Stewart. The actor was contacted by his agent and the head of drama at Seven Network about the role. After hearing their pitch, Stewart auditioned and won the part. He began filming in December 2015, and made his first appearance during the episode broadcast on 7 June 2016. Justin was introduced to the show along with his three siblings; Tori Morgan (Penny McNamee), Brody Morgan (Jackson Heywood) and Mason Morgan (Orpheus Pledger). The family received immediate comparisons to the show's popular Braxton brothers.
Justin is portrayed as an impulsive, aggressive, "all-round typical Aussie bloke". He takes his role as head of the family seriously and is very protective of his siblings. The character's early storylines saw him clash with Martin Ashford (George Mason) and help save the life of Summer Bay stalwart Alf Stewart (Ray Meagher). The Morgans are soon revealed to be in witness protection, following the murders of their parents by a drugs syndicate, who start targeting the siblings. The storyline saw the family held hostage, threatened, and involved in a plane crash. Justin is later shot at and stabbed by corrupt police officer Ranae Turner (Sacha Horler).
During the witness protection storyline, Justin is reunited with his daughter Ava Gilbert (Grace Thomas), and he develops a relationship with Phoebe Nicholson (Isabella Giovinazzo), to whom he later becomes engaged. Following Giovinazzo's decision to leave the show, the couple break up when Phoebe leaves to pursue her music career in the United States. The character is then involved in an on/off relationship with Scarlett Snow (Tania Nolan). Later storylines have seen Justin begin a relationship with Willow Harris (Sarah Roberts), endure Ava's kidnapping, and targeted in a revenge campaign by Ebony Harding (Cariba Heine). For his portrayal of Justin, Stewart received a nomination for Best Daytime Star at the Inside Soap Awards. The character was branded "the Morgan trouble magnet" by a critic for Soaplife.
Casting
On 5 December 2015, Jonathon Moran from The Daily Telegraph reported that James Stewart had joined the cast of Home and Away as Justin Morgan, alongside actors Jackson Heywood and Orpheus Pledger who play his brothers Brody and Mason Morgan respectively.[1] All three began filming their first scenes during the following week, ahead of their on-screen debut in 2016.[1] Stewart was contacted by his agent and Julie McGauran, the head of drama at Seven Network, about a role in the show. After hearing the pitch, Stewart accepted the audition.[2] Home and Away marks Stewart's second television appearance since he took time away from acting to be a stay-at-home dad.[2] He commented, "I got to the end of three years of raising my daughter and just thought, 'Oh, I need to work. I've got to get her through school.'"[2] New Zealand actor Benedict Wall also auditioned for the role of Justin, before he was later cast as Duncan Stewart.[3] Stewart made his first appearance as Justin on 7 June 2016, alongside Heywood and Pledger.[4]
Development
Characterisation
Ahead of his screen debut, Stewart said his character's biggest strengths are "his love for his family and the lengths he'll go to, to protect them from their past."[4] He also described Justin as being "impulsive and aggressive", and having an "alpha mentality".[4] Justin is a mechanic and an "all-round typical Aussie bloke" who enjoys sports and "a good laugh."[5] Stewart insisted that Justin was not a "bad boy" character, as had been suggested by various articles about the Morgans.[6] He also joked that Justin likes to think he is good with women.[7]
Justin takes his role as the head of the family "very seriously".[8] Along with Tori, he helped raise their younger brothers Brody and Mason. As a result he is "fiercely protective of them."[6] Stewart explained that Justin makes all the decisions on behalf of the family, but he often discusses them with Tori.[7] Justin does not want to get too settled in the Bay, and he worries what the town's residents will think of his family.[7] Stewart liked being part of a family and compared it to his role on Packed to the Rafters, where he was "an outsider brought in." He also found that as the older brother and not the father, there were different dynamics at play.[6] Stewart told Vanessa Williams of The West Australian that he fell in love with the Morgans from the moment they were pitched to him.[6]
The Morgan brothers drew immediate comparisons to the show's Braxton brothers, who were introduced in 2011. Stewart commented, "Creating this family is probably more our priority than taking over the Brax boys. How do you take on Steve Peacocke (Brax)? I hope Australia is ready for it, it is the way it is."[1] Heywood thought the Morgans had "a very different dynamic" to the Braxtons.[1] Stewart agreed, saying that the families were "from completely different worlds".[6]
Introduction
Justin is driving his brothers to Summer Bay to meet up with their sister Tori, when they are almost involved in a car crash with Martin "Ash" Ashford (George Mason), who swerves across the road.[9] Neither Justin or Ash are willing to back down when they come face to face. Mason admitted that Ash knows he is in the wrong, but he thinks Justin is "a hothead".[9] Brody and Mason stop Justin and Ash from getting into a physical fight, and the brothers continue their journey to the Bay, where they later come across Tori talking with Ash and Alf Stewart (Ray Meagher) on the beach. Before another fight between Justin and Ash breaks out, Tori defuses the situation by revealing that Justin, Brody and Mason are her brothers.[9] Justin is glad that his family made it to the Bay safely. Stewart told Stephen Downie of TV Week, "It's not so much that Justin is angry at Ash because he was an idiot. It's that he almost killed the one thing he's been trying to look after."[9] Tori warns Justin about his run in with Ash and they wonder if they will be able to stay in their new home this time.[9]
Tori secures Justin a job as a deck hand with Alf. Justin is initially annoyed that his sister interfered in his life, but when he gets out on Alf's boat, The Blaxland, he eventually sees that the job is a good opportunity for him.[10] Stewart commented, "Justin is reluctant to go on the boat with Alf in the first place. But once he's there, he does start to enjoy it."[10] Justin bonds with Alf over their shared love of the water and the fact they each have "bossy" sisters.[10] While they are out on the water, the boat breaks down and Justin struggles to fix it. Alf then starts having chest pains and he collapses when he suffers a heart attack.[10] When he realises there is no phone signal, Justin jumps in the water and swims to the shore to fetch help. Stewart called his character "an accidental hero".[10]
Witness protection secret
Upon their introduction, an Inside Soap columnist stated that the Morgans appeared to live a normal life, but they had "a dangerous past" and no one was allowed to know who they really were.[8] The family initially keep to themselves, and Justin warns Tori against befriending local doctor Nate Cooper (Kyle Pryor). He is worried when she admits to telling Nate that their parents are dead, as he does not want Nate looking into it.[11] Stewart explained, "There are a set of rules the Morgans have to live by, which relate to their secret. If Justin has to live by them, then so does the rest of the house."[11] When Mason's former girlfriend Lara Adams (Elle Harris) visits him, Justin asks her to leave. But when she returns, Mason tells her that his family are in witness protection.[11] Brody later reveals that he is being followed, and when Mason says that he spoke to Lara, Justin feels that the family need to leave the Bay.[11]
Guest character Spike Lowe (Jason Montgomery) was soon introduced to the storyline. He drugs Nate, before going to the Morgan's house and threatening Tori. Justin arrives home soon after and Tori worries that he might put them in more danger, as she knows he is "a hothead."[12] McNamee commented, "she's trying to keep Justin calm and make sure he doesn't do anything irrational to escalate the situation."[12] The family are soon moved to a safe house by their police liaison officer Atticus Decker (John Adam). They agree that they are tired of running from the drugs syndicate who killed their parents.[13] While Brody, Justin and Tori are arguing, Mason leaves the house to meet Lara, who has been working for Spike and Blaine Varden (Ashley Lyons), the man who killed the siblings' parents. Spike and Blaine trick Mason into telling them the location of the safe house and they hold the family hostage at gunpoint.[13] As Blaine threatens to kill them, he reveals that Justin played a part in their parents' deaths.[13]
Spike later returns to the Bay to confront Justin about his father's book. He threatens both Justin and Phoebe Nicholson (Isabella Giovinazzo), warning them that the Morgans will die.[14] Stewart explained to Ali Cromarty of TV Week that Justin was "heavily involved" with his father's activities, but he has no idea what book Spike is talking about.[14] Spike forces Justin and Phoebe to search through several boxes of the Morgan's belongings, and Justin worries about Phoebe's safety. Stewart stated, Justin knows he needs to get the precious cargo, Phoebe, out of the way. But, they both don't want to detach. She desperately wants to help Justin and Justin doesn't want to lose her."[14] Spike eventually leaves, but not before warning Justin that if he goes to the police, his family will be in danger. Justin and Phoebe continue looking through the boxes and they find a clue that helps them locate the book.[14]
The scriptwriters later devised a large stunt storyline involving a plane crash. Justin receives a warning from Spike that he has sabotaged the private plane Duncan Stewart (Benedict Wall) has chartered for Tori's birthday trip.[15] Justin gets to the airport just as the flight takes off, and he attempts to chase it down the runway. Stewart spent most of the day filming the chase sequence, and it took nine times to get the scene right. Stewart said he had plenty of rest in between, as it took a long time to turn the plane back around.[15] Justin breaks into the radio room and tries to contact Duncan. However, the passengers are passing out from carbon dioxide leaking into the cabin, and he struggles to get the coordinates. After receiving an incoherent response from Duncan, Justin contacts the police for backup.[15] Stewart told Ellis (Inside Soap) that Justin initially thinks he can do it all by himself, but he soon realises he needs help.[15] The actor also said, "Until he has an answer, there is always a moment of hope. But he's also prepared for the worst happening, too."[15] Duncan manages to crash land the plane in the bush, and everyone survives.[15]
Decker gives Justin an address for his nieces Hope (Jessica Falkholt) and Raffy Morrison (Olivia Deeble), who are unsure why their uncle sent Justin to their house.[16] They are then set upon by Spike and his associates, who attempt to kidnap Hope and Raffy. Constable Kat Chapman (Pia Miller) and Ash, who have followed Justin, manage to rescue Raffy, but Spike drives off with Hope. Kat allows Raffy to stay with her, as she has no one else.[16] The Morgans later learn Raffy is Decker's daughter and their half-sister.[17] Decker is later shot to death and Superintendent Ranae Turner (Sacha Horler) is assigned to their case. Both Justin and Kat are suspicious of her and they later learn that she is working for the drugs syndicate.[18] Justin tells his family that they have to leave town quickly. When Kat comes to collect him, they are both shot at by Ranae, who then follows them through the town. Justin is captured when he returns home to collect a USB stick containing evidence against the syndicate.[18] Ranae ties Justin up and she tells him that she ordered the hit on his father. Justin is "devastated" by the revelation and screams at Ranae to shoot him, but Kat soon arrives with back up.[19]
Ranae and the rest of the drugs syndicate go on trial for their various crimes. Justin gives evidence in court and the members are sentenced to jail.[20] The Morgans "breathe a huge sigh of relief" as they realise that they are finally free of witness protection. They also decide to keep their assigned identities instead of returning to their old names.[20] Daniel Kilkelly of Digital Spy pointed out "sudden name changes might confuse fans..."[20] Seven months after their arrival, the Morgan's witness protection secret is revealed to the rest of the Bay in the Coastal News.[20]
Stabbing
The show's 2016 season finale concludes with Ranae stabbing Justin. Ranae manages to escape house arrest using her police contacts and plans to end the Morgans.[21] She has Tori kidnapped and brought to her location. Ranae then makes a "sinister" call to Justin and he rushes off to save Tori. Both siblings are scared as Ranae threatens to kill them both, before going after Brody and Mason.[21] McNamee stated, "This is high stakes for Tori and Justin – the syndicate murdered their parents, and they're prepared to kill again."[21] Justin and Tori manages to free themselves and escape, but just when they think they are in the clear, Ranae emerges and stabs Justin in the stomach. Justin slumps to the ground, as Tori attempts to save him.[21]
When the show resumed in January 2017, Tori was seen calling an ambulance for Justin, as Ranae and her associates drive off.[22] Justin is rushed to the hospital in a serious condition, as he has lost a lot of blood. Tori knows that he needs to go into surgery, but Nate is busy with another patient, so she realises that she will have to operate on her own brother.[22] Producers then introduced new surgeon and Tori's former boyfriend, Riley Hawkins (Ryan O'Kane), to the storyline, as he steps in to perform the operation.[22] As Justin recovers at home, Brody encourages Justin to show Phoebe how much he loves her, as their relationship is suffering. Justin prepares a meal for them and sets up a table in the garden, onto which he places a jewellery box. However, before Phoebe comes over, Justin starts to feel unwell and he collapses in the garden. Tori finds an unconscious Justin and calls him an ambulance.[23]
Relationships
Phoebe Nicholson
The character was given an immediate love interest in the form of established regular Phoebe Nicholson. While Justin is out walking the family dog Buddy, he meets and "sweet-talks" Phoebe. They then have a one-night stand.[24] Stewart said that Justin falls for Phoebe, as she is "cool, fun and she's also super-attractive."[25] The pair's relationship is tested when Phoebe becomes involved in the Morgan's witness protection secret, and Justin's brother, Brody, becomes attracted to Phoebe.[25] But Justin is sure that Phoebe feels that same way about him as he does about her. Stewart commented, "Phoebe keeps doing things that make him know she digs him."[25] Phoebe and Justin continue to spend time together. When Phoebe is feeling down after being carjacked, Justin helps to cheer her up by singing to her at Salt. Phoebe then joins Justin on stage to continue the song together.[26] Of her character's attraction to Justin, Giovinazzo said, "Phoebe can't deny that she has strong and deep feelings for Justin. They're just drawn to each other."[26] The couple later share a kiss, and an Inside Soap columnist pointed out that they were "totally loved up."[26] However, as Justin and his family are being targeted by criminals, Giovinazzo said Phoebe had to be smart about the situation, which meant possibly putting their relationship on hold.[26]
Phoebe later admits to Justin that she is in love with him, but he finds that he cannot commit to her because of the threat against his family.[27] Producers tested the relationship again by introducing Justin's estranged daughter Ava Gilbert (Grace Thomas), who he had to give up when he went into witness protection. After Justin is reunited with Ava, he comes to Phoebe and "breaks down" after Ava's mother Nina Gilbert (Zoe Naylor) bans him from seeing her.[28] Justin makes a "spontaneous" proposal of marriage to Phoebe, who reacts badly and questions whether they want different things in life.[29] Phoebe also admits that she has been hurt by the break down of her parents' marriage. Justin makes it clear that he wants to be with her for the rest of his life.[29] Stewart explained that Justin had not been in a relationship with one person for as long as he had been with Phoebe, and he likes that she gets along with his family. He also said that Justin has "never felt like this about a girl".[30] Justin attempts to tell Phoebe how he feels and he makes a speech "from the heart", which causes her to change her mind and accept his proposal.[30]
When Giovinazzo decided to leave Home and Away, producers devised a break up for Phoebe and Justin.[31] Phoebe's friend Donna Fields (Melissa Bonne) invites her to join a tour in the United States, and Justin plans to go with her. However, when he learns Brody is at the police station due to another incident involving his drug addiction, Justin realises he cannot leave the Bay. He and Phoebe say "a heartfelt goodbye" before she leaves.[32] On her return, Phoebe tells Justin that she has been asked to take part in a year-long tour and Justin is determined to go with her this time. Shortly after, he is reunited with his daughter Ava and he finds the thought of leaving her again hard to deal with.[33] Stewart told Sarah Ellis of Inside Soap that having Ava back in his life "means everything" to Justin, and when she calls him "dad" for the first time, it really affects him.[34] During a farewell party for the couple, Justin sings a ballad for Ava, which makes Phoebe realise that she cannot separate them.[34] Phoebe believes she and Justin can have a long-distance relationship, but Justin breaks up with her instead. Of the moment, Stewart commented "By the time Phoebe says she's going without him, Justin has come to terms with it in his heart. He doesn't want to anchor her – so he sets her free."[34]
Scarlett Snow
"I do think they'd make a good couple – they're like Beauty and the Beast! The viewers are really warming to Justin and Scarlett, but we'll just have to wait and see if they can make it as a couple."[35]
—Stewart on Justin and Scarlett's relationship.
In May 2017, producers introduced guest character Scarlett Snow (Tania Nolan) into Brody's drug addiction storyline. Scarlett also becomes a new love interest for Justin. After Scarlett is carjacked by Brody, she attempts to help him, along with the Morgans. When Scarlett becomes suspicious that Brody is still using, she searches his car and finds his stash of drugs. She and Justin confront Brody, who launches himself at Scarlett and Justin has to hold him back. Brody later steals money and jewellery from Scarlett.[36] Various obstacles stop Scarlett and Justin from dating. Her estranged husband Caleb Snow (Josh McConville) sends a private investigator to find her, prompting Justin to get her out of the Bay for a while.[37]
Upon her return, Scarlett gets drunk as she struggles to deal with the anniversary of her son's death, leading Justin to walk her home. She "drunkenly flirts" with him and wakes up in his bed the following morning.[38] Scarlett fears that she and Justin had a one-night stand, but Justin "embarrassingly" has to assure her that he just brought her back to his house to sleep off the alcohol.[38] Justin grows closer to Scarlett, as she continues to help out with Brody. When she convinces him to sell his restaurant to fund a private rehab, Justin is "delighted" and makes his gratitude known. Scarlett then goes to kiss him, but Justin pulls away and asks her to leave.[39] After spending the day together, the pair almost have sex. But Justin calls out Phoebe's name and then passes out on Scarlett's bed from too much alcohol. Scarlett later tells him that they should just be friends.[40]
Scarlett eventually agrees to go on a proper date with Justin, who organises a picnic on a remote beach in the Bay.[35] Stewart explained that Justin is nervous, but he was also ready to go on the date. He continued, "After all their trials and tribulations, he's keen to start off on the right foot."[35] The date starts off well, and the couple spend time swimming in the water, however, Justin dives in for a last swim and fails to resurface.[35] Stewart described the situation as "life-threatening". Scarlett pulls Justin from the water and starts to give him CPR, but it brings up memories of her attempt to revive her son.[35] As Nolan's guest stint came to an end, producers implemented a break up for the couple. Scarlett spends time with her husband, leading Justin to realise that she is still in love with Caleb. Justin knows that their relationship cannot work and he refuses to be "the other man". Scarlett leave the Bay with Caleb to work on their marriage, leaving Justin "heartbroken".[41]
Willow Harris
In late 2017, a new love interest for the character was introduced in the form of Willow Harris (Sarah Roberts). The pair do not get off to a good start, as Willow attacks Justin. When she pulls up to the garage on a motorbike, Justin attempts to "charm her", but Willow hits him with her helmet and then ties him to a workbench.[42] Willow demands Justin tells her where her money is, but he explains that he gave it to the police. Willow leaves him in the garage overnight, and returns in the morning to taunt him and explain that the money does not actually belong to her. She leaves when Ash and Ziggy Astoni (Sophie Dillman) turn up for work.[42] Johnathon Hughes of the Radio Times observed that Willow seemed to "have made an impression" on Justin, as he does not want to report her to the police.[43] Willow then kidnaps Buddy. When Justin tracks her down, he stops her from getting beaten by Boyd Easton (Steve Le Marquand). Willow accuses him of making the situation worse.[43] Hughes thought their meeting would lead to romance, saying "an attraction develops between them".[43]
After learning that Boyd has put Willow's father in the hospital, Justin decides to meet with him and his gang. Stewart told Ellis (Inside Soap) that Justin "is becoming quite protective of Willow."[44] Justin traps Boyd by recording their meeting and endures a beating in a bid to get evidence against him. Justin then reports Boyd to the police. Willow makes it clear that she is not grateful for his interference.[44] Willow then moves to the Bay. Stewart commented that Justin is "thrilled" by the development, but he does not want Willow knowing that.[44] Justin helps Willow gain employment at the local gym and as she is thanking him, they kiss.[45] Willow and Justin have sex, but when he attempts to ask where their relationship is going, she throws him out of her caravan. Willow admits that she only wants a casual relationship, but she knows Justin wants more and they end up having sex again.[45] As the storyline between their characters played out on-screen, Stewart and Roberts developed a relationship off-screen.[46]
Producers soon tested the relationship with the introduction of Willow's former boyfriend Dean Thompson (Patrick O'Connor). Dean is a member of the show's fictional criminal gang The River Boys, with which Willow also has connections. After a romantic meal at Salt, Willow and Justin return to her caravan to find a naked Dean in Willow's bed. After throwing him out, Willow explains that she and Dean are old friends and she did not know that he would be there, but Justin has his doubts about her explanation.[47] The scriptwriters created further problems for the couple by reintroducing Justin's daughter, Ava. Willow is unaware Justin is a father, until Ava and her mother Nina arrive in the Bay. As Willow deals with the revelation, Nina "drops another bombshell" as she wants Justin to look after Ava for a month.[48] Willow bonds with Ava, and Justin feels comfortable enough to leave them alone together. However, when he returns home he finds his daughter boiling water and using knives as she helps with dinner. Willow leaves due to Justin's "ferocious reaction" and tells Dean that she think Justin overreacted.[49] Dean takes advantage of the rift between the couple, telling Willow that Justin does not respect her. When Justin apologises, Willow is "defensive" due to Dean's words.[49]
Writers devised a break up for the couple following Ava's kidnapping. Willow ends the relationship, so Nina will continue to let Justin have access to Ava.[50] Roberts said her character is "devastated" about the break up. But instead of telling Justin why she ended things between them, Willow kisses Dean, so Justin will move on. Justin "is gutted" by the stunt and accepts the relationship is over.[50] Roberts believed Willow was more suited to Justin, saying "She came to Summer Bay to straighten her life out, and Justin was a perfect match for that reason!"[50] Weeks later, Dean informs Justin that Willow has a gambling problem and needs his help. Justin starts by booking Willow into a motel and staying with her. Willow goes into "full meltdown mode" when Justin prevents her from placing a bet on a winning horse. Willow then informs Justin that she started gambling because of him, so he asks Tori to speak with her.[51]
Daughter's kidnapping
After Justin is forced to testify in court instead of taking Ava surfing, he wakes the following morning to find that she has gone missing. Justin is "panicked" by his daughter's disappearance and believes it is his fault.[52] Stewart explained, "When Justin realises Ava is not in the house, he goes straight into panic mode. As any normal parent would, but the panic slowly increases, hour by hour."[52] As Justin goes to the police, Willow tries to reassure Justin that Ava has gone off on her own before, but he starts to "freak out".[52] Justin soon receives a ransom demand of $25,000 for Ava's safe return. The family discuss paying the ransom without the involvement of the police, but Raffy worries about Justin's safety and goes to the police herself.[53]
As Justin meets with an older woman called Hazel (Genevieve Lemon), the police turn up and scare her off. Justin is "fuming" with Raffy. Willow soon realises that Hazel is Boyd Easton's mother and that Ava's kidnapping is her fault.[53] The ransom exchange is reorganised and Willow accompanies Justin, along with Dean and Constable Colby Thorne (Tim Franklin). Willow gives Boyd the money and Ava is returned to Justin. However, Dean fights with Boyd, who then drives his car at Dean. Colby shoots Boyd and he dies in the hospital. Hazel and her daughter Ebony Harding (Cariba Heine) vow revenge on everyone who played a part in Boyd's death.[53] When Nina returns to the Bay, she demands to know why Ava was kidnapped. Justin attempts to explain, but a "furious" Nina decides to take Ava home and tells Justin that he is an unfit father. The incident eventually leads to Justin and Willow's break up, as Nina tells her that if they are together, then Justin cannot see Ava.[54]
Meanwhile, Ebony focuses the first stage of her revenge campaign on Justin.[55] Ebony brings her car to Summer Bay Auto to be fixed, and notices that Dean and Ziggy are the only two employees present. Upon her return, she forces Ziggy into handing over the car before Justin has signed off on the work. Ebony then stages an accident by crashing her car into a tree and cutting the brakes.[55] As she is taken to hospital, Ebony makes it known to the police that she blames the garage for being "careless". An inspector from fair trading closes the garage as an investigation into their work practices takes place.[55] Ebony blackmails Justin into paying her $30,000 to keep the case out of court. She also accepts a job as a waitress at his brother's restaurant.[56]
Reception
For his portrayal of Justin, Stewart was longlisted for Best Daytime Star at the 2017 Inside Soap Awards.[57] The following year, Justin and Willow received a nomination for Best Soap Couple at the Digital Spy Reader Awards; she came in last place with 1% of the total votes.[58]
Ali Cromarty and Stephen Downie of TV Week were impressed by the new brothers, commenting, "Move over Braxtons, there's a new family of hot brothers in Summer Bay."[7] They also branded them "loyal, caring and hard-working".[7] Daniel Kilkelly of Digital Spy dubbed the Morgans "Summer Bay's unluckiest family".[59] He later included their witness protection storyline in his list of "soap storylines past their sell-by dates". Kilkelly reiterated that the Morgans were "the unluckiest family in Summer Bay history".[60] He bemoaned the constant stream of villains that arrived in the Bay and the dangerous situations the family found themselves in.[60] Kilkelly added, "Seriously, Summer Bay bosses, make it stop! Either kill the lot of them off, or let them go at least a week without being kidnapped or shot at..."[60]
When Justin survived being stabbed, Kilkelly commented that he proved "his resilience yet again".[61] A South Wales Echo reporter criticised Justin's actions before his collapse, stating "If you're on the mend and planning a romantic dinner, don't rush things or you could jeopardise your recuperation. That's a lesson Justin could do with learning as he romances Phoebe this week. The poor bloke's only gone and got a post-operative infection".[62] Claire Crick from Soaplife branded the character "the Morgan trouble magnet".[63] Crick later dubbed Justin "something of a knight in shining armour."[45]
Justin's romantic relationships have attracted commentary from critics. A writer for TV Week noted, "They're on. They're off. It's hard to keep up with Justin and Phoebe's relationship."[64] Ali Cromarty of the same publication observed "ever since they first locked eyes, the chemistry between Justin and Phoebe has been palpable."[25] Of Phoebe's temporary departure, a New Idea columnist commented "It may be just for a week, but things have a tendency of falling apart for these two lovebirds faster than you can say 'flamin' galah'!"[32]
Johnathon Hughes of the Radio Times thought "the chemistry is evident" between Justin and Scarlett, and added "surely it can't be long before they end up in bed for real?"[38] When the couple went on their first date, Inside Soap's Sarah Ellis said "it's about time! The pair have been dancing around their feelings for each other for weeks, leaving us shouting at our screens in frustration."[35] A writer for TVNZ listed seven reasons why the characters should be together, stating "They could be Home and Away's new golden couple, if they'd both just get over themselves and admit it."[65] The reasons included their attraction to one another, their shared interests, and their initial dislike of each other, which the writer said was a "classic giveaway".[65] They added that Justin and Scarlett would "make a beautiful couple."[65]
at the Official Home and Away website
at TVNZ
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వంగపండు ప్రసాదరావు (ఆంగ్లం: Vangapandu Prasada Rao) ప్రఖ్యాత జానపద వాగ్గేయకారుడు, గాయకుడు, జననాట్యమండలి అధ్యక్షుడు. హేతువాది, ఉత్తరాంధ్ర గద్దర్గా పేరుతెచ్చుకున్నాడు. 2017లో ఆంధ్రప్రదేశ్ ప్రభుత్వం చే కళారత్న పురస్కారం అందుకున్నారు.[1]
జీవిత విశేషాలు
ఈయన పార్వతీపురం దగ్గర పెదబొండపల్లిలో 1943 జూన్ లో జన్మించారు. తండ్రి జగన్నాధం తల్లి చినతల్లి.2008, నవంబరు 23 న తెనాలిలో ఈయనకు బొల్లిముంత శివరామకృష్ణ సాహితీ అవార్డును బి.నరసింగరావు చేతులమీదుగా ప్రధానం చేశారు.[2] ప్రజలకోసం బ్రతికిన నాజర్ లాంటి కళాకారుడని వంగపండును పోలుస్తారు. వంగపండు ప్రసాదరావు, గద్దర్తో కలిసి 1972లో పీపుల్స్ వార్ యొక్క సాంస్కృతిక విభాగమైన జన నాట్యమండలిని స్థాపించాడు. వంగపండు మూడు దశాబ్దాలలో 300కు పైగా పాటలు వ్రాశాడు. అందులో 12 పాటలు అన్ని గిరిజన మాండలికాలతో పాటు తమిళం, బెంగాళీ, కన్నడ మరియు హిందీ వంటి పది భారతీయ భాషలలోకి కూడా అనువదించబడినవి. "యంత్రమెట్టా నడుస్తు ఉందంటే..." అనే పాట ఒక ఆచార్యునిచే ఆంగ్లంలో కూడా అనువదించబడి అమెరికా, ఇంగ్లాండులో అభిమానం చూరగొన్నది.[3] విప్లవ కవిత్వంలో పాట ప్రముఖ పాత్ర వహించింది. సుబ్బారావు పాణిగ్రాహి, వంగపండు ప్రసాదరావు, గద్దర్ మొదలైనవారు విప్లవ భావాలను ప్రజల దగ్గరకు తీసుకెళ్ళారు.
వంగపండు భావాలు,అనుభవాలు
పూజల పేరిట వృథాగా డబ్బు ఖర్చుపెట్టను. నా చిన్నతనంలో పంట నూర్పిళ్లప్పుడు రాత్రిపూట మా తాత వాళ్లు పొలం దగ్గరకి వెళితే నేనూ వాళ్లతో పోయేవాడిని. అప్పుడు మా తాత, నాయిన, పెదనాయిన దేవుళ్ల కథలు చెప్పేవారు. శివుడు, రాముడు, కృష్ణుడు గురించి చెబుతూ వాళ్లను తలుచుకుంటూ పడుకోమనేవారు.ఇన్నేళ్లయ్యాక కూడా ఇప్పుడు పడుకున్నాసరే నాటి సంఘటనలు, దేవుళ్ల కథలు అన్నీ గుర్తుకువస్తాయి,
మాది విజయనగరం జిల్లా పెదగొండపల్లి. పెరిగింది గ్రామీణ వాతావరణం. సామాన్య రైతు కుటుంబం. ముగ్గురు అక్కాచెల్లెళ్లు.. ముగ్గురు అన్నదమ్ములం. నేనే పెద్దవాడిని. చదువు పెద్దగా అబ్బలేదు. ఎస్ఎస్ఎల్సీ ఫెయిల్ కావడంతో బొబ్బిలిలో ఐటీఐ చేశాను. అప్పట్లో చైనా యుద్ధంలో పాల్గొనాలనే పిలుపు వస్తే, ఆ ట్రైనింగ్ తీసుకున్నా. ఆ యుద్ధం ఆగిపోవడంతో ఊరుబాట పట్టా. అప్పటికే మా నాన్న ఊళ్లో భూమి అమ్మేసి, రాయగఢ్లో కొన్నాడు. అక్కడ ఆయనకు వ్యవసాయంలో కొన్నాళ్లు తోడుగా ఉన్నా. ఆ భూమి అడవికి దగ్గరగా ఉండేది. దీంతో అక్కడి గిరిజనులతో పరిచయాలు.. వారి పదాలు నా పాటల్లో బాగా దొర్లాయి. ఈ పనుల్లో పడి తెలిసిన పల్లె పదాలతో తోచిన బాణీలు కట్టుకుని పాడుతుంటే ఊళ్లో అంతా ‘ఓరేయ్ కవీ’ అని పిలిచేవారు. అప్పట్లో అర్థంకాని పదాలు రాస్తేనే కవిత్వం అనుకునేవాడిని. నేనేదో లల్లాయ పదాలతో పాటలు అల్లుకుపోయేవాడిని. నాచేత పాటలు పాడించుకుని, సరదా పడేవారు. అంతవరకు సరదా సరదాగా గడిచిపోయింది. పెళ్లైన రెండేళ్లకు మొదలైన నక్సల్స్బరి ఉద్యమం నాలో పెద్ద మార్పు తీసుకొచ్చింది. ఎక్కడ ఉన్నా సరే ఉద్యమమే. అదే జీవితమైంది. ఆ ఉద్యమంలో ఎంతోమందిని కలిశా, ఎందరి కష్టాలనో చూశాను. జనాన్ని జాగృతం చేయడానికి వాటన్నిటినీ పాటగా రూపుకట్టా. ఆ ఊపులో 400కు పైగా జాన పద పాటలు రాసాను. వాటిలో 200కు పైగా గీతాలు మంచి పేరు ప్రఖ్యాతలు తెచ్చాయి.ఉద్యమంలోకి వెళ్లిన ఏడాదికే విశాఖ షిప్ యార్డులో ఫిట్టర్మన్గా ఉద్యోగం వచ్చింది. కానీ ఉద్యోగం కంటే ఉద్యమమే నాకు ఆత్మసంతృప్తినిచ్చేది. షిప్యార్డులో పని చేస్తూ ఉన్నా మనసంతా ఉద్యమం వైపే ఉండేది. దీంతో పదిరోజులు పనికెళ్లడం, ఇరవై రోజులు పాటలు పాడుకుంటూ ఊళ్లమ్మట పడి తిరగడం చేశా. అలా కేరళ, తమిళనాడు, పశ్చిమబెంగాల్, ఒడిశా, ఛత్తీస్గఢ్ , కర్ణాటక రాష్ట్రాలన్నీ తిరిగా. ఇలా తిరుగుతూ ఉంటే ఏమౌతుంది.. ఇంట్లో పూట గడవని స్థితి. ఒక పూట తింటే మరో పూట పస్తే! అయినా సరే నమ్మిన సిద్ధాంతాన్ని వీడలేదు. ఆరేళ్ల సర్వీసులో ఉన్నా తర్వాత స్వచ్ఛంద పదవీ విరమణ చేసి, పూర్తిస్థాయి ఉద్యమంలోనే ఉన్నాను.
మధ్యతరగతి కుటుంబాలకు ఉద్యమాలు కరెక్ట్ కాదని అనుకున్నా. ఉద్యోగం వదులుకున్నప్పుడైతే పడిన మానసిక క్షోభ మాటల్లో చెప్పలేను. ఇంట్లో నలుగురు పిల్లలు, భార్య. వారికి కనీసం కడుపు నిండా తిండి కూడా పెట్టలేనప్పుడు ఈ ఉద్యమాలెందుకన్న ఆలోచన. బాగా మధనపడేవాడిని. మళ్లీ కొన్నాళ్లు సొంతూళ్లో వ్యవసాయం చేశాను. కలిసిరాలేదు. అన్నీ నష్టాలు. అప్పులు. ఆకలి బాధ కోసం ఆత్మాభిమానం చంపుకోకూడద నిపించింది. దీంతో మళ్లీ ఉద్యమం బాటే పట్టాను.
దర్శకులు టి.కృష్ణ, ఆర్. నారాయణమూర్తిలతో పాటు మరికొందరు మా సినిమాలకు పాటలు రాయమని కోరారు. అలా 30 సినిమాల వరకు రాశాను. అలాగే ఆరేడు సినిమాల్లోనూ నటించాను. కొన్ని సినిమాలకు పాటలు రాసే అవకాశాలొచ్చినా జననాట్యమండలి నిబంధనలకు కట్టుబడ్డాను. వాటిని వదులు కున్నా. సినిమాలకు ప్రాధాన్యం ఇచ్చి ఉంటే నా జీవితం మరోలా ఉండేది.
అదృష్టం, దురదృష్టం వంటి పదాలను ఎప్పుడూ పట్టించుకున్నది లేదు. వాటి మీద నమ్మకమూ లేదు. ఇప్పటికైతే ఆస్తులూ లేవు, అప్పులూ లేవు. ఇది కావాలని కోరుకుంటూ ఎన్నడూ గుళ్లకు వెళ్లింది లేదు. కనపడని దైవాన్ని నిందించడం, కోపం తెచ్చుకోవడం అంటూ ఏముంటాయి. అప్పుడు మనలోని శక్తిని మనమే తిట్టుకున్నట్టు అవుతుంది కదా! దైవం, దైవత్వం అంటే ఆపదలో ఉన్నవాడికి సాటిమనిషిగా సాయపడటం అని నమ్ముతాను.ఆదిభట్ల కైలాసం అని నాకు మంచి మిత్రుడు. ఉద్యమకారుడు. నమ్మిన సిద్ధాంతం కోసం సెంటు భూమికూడా ఉంచుకోకుండా తనకున్న 150 ఎకరాలను నిరుపేదలకు రాసిచ్చేశాడు. ఆ భూములు పొందిన వారు ఇళ్లలో ఆయన్ని ఓ దేవుడిగా కొలుస్తారు. మూర్తీభవించిన మానవత్వానికి ఇంతకంటే ఉదాహరణ ఉంటుందా? ఇలాంటి వారు మన కళ్లెదుటే చాలా మంది ఉంటారు. మనం గమనించం. ఎదుటివాడికి సాయపడమనే భగవద్గీత, ఖురాన్, బైబిల్ బోధిస్తున్నాయి. మనమేం చేస్తున్నాం వాటిని మతగ్రంథాలుగానే చూస్తున్నాం.
నాకు చిన్నప్పటి నుంచి శివుడంటే ఇష్టం. ఆయన చాలా సింపుల్గా ఉంటాడు. జంతు చర్మం కట్టుకుంటాడు. శ్మశానంలో తిరుగుతాడు. పిలవగానే పలుకుతాడని పేరు. ఆయన ది సామాన్యుల జీవితం. అందుకే చాలామంది శివుడ్నే కొలుస్తారు. అమ్మవారి మీదా, శివుడి మీదా .. ‘ఓమ్ ఉమాశంకరా .. వందిత పురంధరా.. హిమాచలాద్రి మందిరా.. ’ అంటూ చాలా పాటలు పాడాను. శివయ్య బుర్ర కథలకూ బాణీలు కట్టా. అలాగని, ఏనాడూ శివాలయానికి వెళ్లిందీ లేదు. ఇప్పుడు కూడా శ్రీకాకుళంలోని ఓ పల్లెటూరులో ‘శివకోలలు’ అని పండుగ జరుగుతుంది. దీనికి నన్ను అతిథిగా పిలిచారు. ఇక్కడ వేదిక మీద జానపద పాటలు పాడాలి. అన్నింటితో పాటు శివుడికి సంబంధించిన పాటలూ ఉంటాయి. దైవం అంటే భక్తి ఉండాలా, భయం ఉండాలా.. అంటే భక్తే ఉండాలంటాను. ఎందుకంటే మనం నమ్మి భక్తిగా ఏ పని చేసినా విజయం సిద్ధిస్తుంది. భయంతో ఏ పని చేసినా ఫలితం దక్కదు.
వంగపండు గీతాలు నృత్యరూపకాలు
భూమిబాగోతం
ఏంపిల్లో ఎల్దమొస్తవ
తరమెల్లిపోతున్నది ఆనాటి స్వరమాగిపోతున్నది
జజ్జనకరి జనారే -ఝనకు ఝనా ఝనారే
జజ్జనకరి జజ్జనకరి జజ్జనకరి జనారే
జజ్జనకరి జజ్జనకరి జజ్జనకరి జనారే
గేటులు కాసిన సిన్నోడా/ మూటలు వోసిన కుర్రోడా/ ఎన్నాళ్లయి తిన్నావో/ ఎండుతొక్కలాగున్నావో/ అన్నాననకు రారన్నా/ నిన్నుదిన్న తుసపోతునుతన్న
ి|జజ్జనకరి ఎ
కొండలు ఎక్కిన కోదోడా/ కట్టెలుగొట్టిన పేదోడా/ మంచులోన తొంగున్నావు/ మన్నుబెడ్డ కప్పుకున్నావు/ ఆ ఉన్నోడు తెగ తిన్నోడు/ నీ ఉసురుతగిలి మరి సవ్వకపోడు
దజజ్జనకరిైత
భూమిని దున్నిన రైతన్నా/ ఏమీలేని కూలన్నా/ కాకిలాగ నువ్వున్నావు/ కావుకావు మంటున్నావు/ కాయితాలలో దాసిన భూములు/ కాల్చర నువ్వు కాగడాలతో
ోడజజ్జనకరిుల
ఇనుపకొండ మీదున్నోడా/ ఇంజినులు కడుతున్నోడా/ ఎప్పుడు ఇంటికి వస్తావో/ ఎక్కడ పడి నువు సస్తావో/ ఆ దిక్కులేని సావు సచ్చేకన్నా/ వీరుడివై నువ్వు సావరా అన్నా
టుజజ్జనకరి క
మట్టిని వోసిన మాలన్నా/ గట్టులు పోసిన కూలన్నా/ గునపామెత్తి పొడలేక/ గుండెలు పీకుతు ఉన్నాయా/ ఆ గుండెబలం మరి కావాలంటే/ రండిర అన్నా దండుగ ఎళ్దాం
రిజజ్జనకరితీ
ఎండిన గొంతుకుతీసి/ ఇంజను సైరనుచేసి
ఆరిన పేగులుతీసి/ ఆయిలు గొట్టాలుచేసి
నరం నరం తీగజేసి కరెంటెలుగు తెచ్చినోడా/ దివ్వలోన చమురులేక దిగులు వెుకం పెట్టకురా
బజజ్జనకరిి
నువ్వు మేడిపట్టి దున్నకున్న/ బువ్వ బుక్కలేడు ఎవడు/నువ్వు బురద మట్టి కుమ్మకుండ/ మేడ కట్టలేడు ఎవడు/ సుక్కసుక్క చెమటజేసి వెుక్కవెుక్క నువు పెంచితే/ ఆ పంటలన్ని పట్టుకెళ్లి బటాచోర్లు బతుకుతుండ్రు/ బాకుతియ్... బదులు చెయ్
]
జజ్జనకరిాల
వివాదాలు
వంగపండు ప్రసాదరావు రాసిన "ఏం పిల్లడో ఎల్దమొస్తవా" పాట తనకు తెలియకుండా, తన అనుమతి పొందకుండా ప్రజా గేయాన్ని మగధీర చిత్రంలోని అశ్లీల సన్నివేశంలో వాడుకోవడం పై అభ్యంతరం తెలిపి దాన్ని తొలగించాలని డిమాండ్ చేస్తున్నారు. ఆ పాట శ్రీకాకుళం జిల్లాలోని గ్రామీణ వాసులదని కొందరు చెబుతున్నారు.
ఇవీ చూడండి
మూలాలు
యితర లింకులు
వర్గం:విజయనగరం జిల్లా ప్రముఖులు
వర్గం:1943 జననాలు
వర్గం:తెలుగు జానపద కళాకారులు
వర్గం:జీవిస్తున్న ప్రజలు
వర్గం:విప్లవ రచయితలు
వర్గం:కళారత్న పురస్కార గ్రహీతలు
| https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%B5%E0%B0%82%E0%B0%97%E0%B0%AA%E0%B0%82%E0%B0%A1%E0%B1%81%20%E0%B0%AA%E0%B1%8D%E0%B0%B0%E0%B0%B8%E0%B0%BE%E0%B0%A6%E0%B0%B0%E0%B0%BE%E0%B0%B5%E0%B1%81 |
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} | Psykoosi on usein oire vakavasta mielenterveyden häiriöstä kuten skitsofreniasta. Psykoosissa henkilön todellisuudentaju hämärtyy ja vääristyy eli henkilöllä on huomattavia vaikeuksia erottaa tosi epätodesta. Psykoosi voi laueta myös vaikean järkytyksen eli traumaattisen tapahtuman kuten omaisen kuoleman seurauksena tai elimellisestä syystä kuten aivosairauksien, endokriinisten häiriöiden, systeemisten sairauksien, infektioiden ja nestetasapainon häiriöiden sekä lääkkeiden ja päihteiden käytön yhteydessä[1].
Myös pitkäaikainen unettomuus tai lääkkeistä vieroittautuminen voi joskus johtaa psykoosiin. Suomessa käytetään ICD-10-tautiluokitusta,[2] jossa on määritelty diagnostiset kriteerit eri syistä johtuvalle psykoottiselle oireilulle. Kolmella prosentilla suomalaisista esiintyy elämänsä aikana vähintään yksi psykoosijakso, joista 0,9 prosenttiyksikköä liittyy skitsofreniaan, 0,4 prosenttiyksikköä alkoholin liialliseen käyttöön, 0,35 prosenttiyksikköä vakavaan masennukseen ja 0,32 prosenttiyksikköä skitsoaffektiiviseen häiriöön. [3]
Psykoottisia oireita ja kokemuksia ilmenee monissa psykiatrisissa sairauksissa ja ongelmissa. Pitkäaikaisista psykoottisista sairauksista tavallisin on skitsofrenia. Mielialapsykooseissa mania tai masennus hallitsee sairaudenkuvaa, ja psykoottiset oireet ovat lyhytkestoisempia ja usein ohimeneviä. Lapsuuden ja nuoruusiän psykoosit saatetaan sekoittaa autismin tai Aspergerin oireisiin.[4] Lyhyet psykoosit voivat olla myös osana dissosiatiivisia häiriöitä ja psykoosien sekä varsinkin skitsofrenian erotusdiagnostiikassa onkin otettava huomioon erilaiset dissosiatiiviset häiriöt erityisesti dissosiatiivinen identiteettihäiriö, joissa on merkittäviä päällekkäisiä oireita psykoosisairauksien kanssa, mutta kuitenkin selkeästi poikkeava kokonaistaudinkuva.[5]
Aistiharhat, oudot tunnekokemukset ja niiden selityksiksi muodostuvat harhaluulot vääristävät todellisuutta ja aiheuttavat usein ongelmia ihmissuhteissa. Oudot ja usein pelottavat kokemukset voivat johtaa siihen, että henkilön kyky ilmaista tunteitaan heikkenee, hän vetäytyy ihmissuhteista tai eristäytyy omaan sisäiseen maailmaansa. Joskus, mutta harvoin, psykoottiset oireet aiheuttavat aggressiivista tai impulsiivista käyttäytymistä. Psykoosia sairastavilla on myös muita oireita, kuten pelkoja, ahdistusta, masennusta ja unettomuutta. Psykoottinen häiriö ei välttämättä vaikuta kaikkeen psyykkiseen toimintaan, joten joillakin elämän alueilla henkilö voi suoriutua normaalilla tavalla. Psykoosin hoito koostuu erilaisista psykoterapeuttisista hoidoista, sosiaalisesta kuntoutuksesta ja lääkehoidosta.
Psykoosien ryhmittely
Toiminnalliset psykoosit
Skitsofrenia
Mielialapsykoosit
Psykoottinen mania
Psykoottinen masennus
Skitsoaffektiivinen psykoosi
Harhaluuloisuushäiriö
Lyhytkestoinen psykoottinen tila
Monimuotoinen psykoottinen tila
Muut tarkemmin määrittelemättömät psykoosit
Kemialliset psykoosit
alkoholipsykoosit, kuten delirium tremens, alkoholiaistiharhaisuus ja alkoholiparanoia
huumausainepsykoosi
sedatiivien aiheuttama lääkepsykoosi (ICD-10: F13.03, F13.04, F13.4–F13.7)
muiden lääkeaineiden aiheuttamat psykoosit (esim. varenikliinipsykoosi)
Elimellisperäiset eli orgaaniset psykoosit
Orgaanisilla eli elimellisistä syistä johtuvilla psykooseilla tarkoitetaan psykooseja, joiden syyksi voidaan selvästi osoittaa aivosairaus, aivovamma tai muu aivojen toimintahäiriöön johtava tekijä. Esimerkiksi aivokasvain saattaa aiheuttaa psykoosioireita. Tämä on yleisesti ottaen suhteellisen harvinaista, mutta ikääntyneillä yleisempää.[6]
Oireet
Psykoosin oireita ovat:
Aistiharhat: Ihmisellä on aistimuksellisia, todeksi tulkittuja, kokemuksia, kuten ääniä tai näkyjä, joita muut eivät kuule tai näe. Aistiharhat ovat luonteeltaan psykoottisia vain, mikäli henkilöllä on vaikeuksia erottaa, mikä on totta ja mikä ei. Esimerkiksi stressitilanteessa tai nukahtamisvaiheessa voi ilmetä erilaisia aistikokemusten vääristymiä (illuusioita) tai harha-aistimuksia ilman, että ne ovat luonteeltaan psykoottisia, koska tällöin ihminen ymmärtää aistimuksensa vääristyneen luonteen. Psykoosissa olevalle ihmiselle aistiharhat ja harhaluulot ovat täyttä totta. Psykoottinen ihminen on tämän vuoksi usein sairaudentunnoton eli ei pidä itseään sairaana. Rajankäynti psykoottisina pidettyjen ja normaaleina pidettyjen jäykkien ja perusteettomien uskomusten välillä ei myöskään ole aina helppoa.
Harhaluulot: Ihmisellä on perusteettomia, epärealistisia uskomuksia, jotka saattavat perustua havainnon tai kokemuksen väärään tulkintaan. Harhaluulot voivat olla vainoamisharhoja, suhteuttamisharhoja, suuruusharhaluuloja, mustasukkaisuusharhoja, eroottisia harhaluuloja tai somaattisia harhaluuloja. Ihminen saattaa vaikkapa uskoa olevansa poikkeuksellisen tärkeä henkilö, saattaa uskoa muiden voivan lukea hänen ajatuksiaan tai kokee aiheettomasti itseään vainottavan tai henkeään uhattavan. Ihminen saattaa tulkita virheellisesti toisten eleet tai kokee esimerkiksi lehtikirjoitusten täysin perusteetta viittaavan nimenomaisesti häneen itseensä.
Eriskummallinen puhe tai käytös: Psykoosidiagnoosin saamiseksi ei vaadita todellisuudentajun hämärtymistä, vaan henkilön käytös voidaan määritellä psykoottiseksi myös silloin, kun hänen puheensa tai käytöksensä vaikuttaa hyvin oudolta tai eriskummalliselta. Psykoottinen puhe on siinä määrin epäloogista, hajanaista tai seikkaperäistä ja yksityiskohtiin takertuvaa, että sen ymmärtäminen on kuulijalle erittäin vaikeaa tai mahdotonta[7].
Ennakko-oireet
Jotkut psykooseista puhkeavat äkillisesti, kun taas toisten puhkeamista voi edeltää jopa vuosia kestävä ennakoiva vaihe ennen varsinaisten psykoottisten oireiden ilmaantumista. Ennakoivat oireet ovat hyvin yksilöllisiä, mutta tavallisimpia ovat:
ahdistuneisuus
ärtyneisyys
masennus
levottomuus
pakkoajatukset tai huolet
unettomuus
eristäytyminen
Ennakko-oireiden tunnistamisesta on hyötyä etenkin uusiutuvissa psykooseissa, jolloin henkilö voi oppia tunnistamaan ne oireet, jotka ennakoivat psykoottisia oireita. Näin henkilö voi hakea oloonsa apua ennen kuin sairauden vaihe pahenee psykoosiin. Psykoosia sairastamattomien ei ole syytä kiinnittää tällaisin ennakko-oireisiin liiaksi huomiota, koska oireet ovat ajoittain hyvin tavallisia jokaiselle.
Esimerkkejä psykoottistasoisesta häiriöistä[8]
F20 Skitsofrenia
Skitsofreenisille häiriöille ovat tyypillisiä syvät ajattelun ja havaintokyvyn vääristymät sekä tunnetilojen asiaankuulumattomuus tai latistuminen. Tajunnan selkeys ja älylliset kyvyt tavallisesti säilyvät, tosin vajauksia tiedon käsittelyssä saattaa ajan kuluessa kehittyä. Häiriö vaikuttaa syvästi henkilön kokemukseen itsestään, yksilöllisyydestään ja itsenäisyydestään. Henkilö tuntee usein, että muut tietävät tai jakavat hänen intiimeimmät ajatuksensa, tunteensa ja toimintonsa. Hänelle saattaa kehittyä tilannetta selittäviä harhaluuloja, usein erikoisella tavalla vaikuttavien luonnollisten tai yliluonnollisten voimien olemassaolosta ja vaikutuksista hänen ajatuksiinsa ja toimintoihinsa. Henkilö voi ajatella ja kokea olevansa kaikkien tapahtumien keskipiste. Aistiharhat, erityisesti kuuloharhat, ovat tavallisia ja ne voivat kommentoida henkilön käytöstä tai ajatuksia. Aistihavainnot ovat yleensä vääristyneet myös muilla tavoin: värit tai äänet saattavat tuntua epätavallisen voimakkailta tai muuten muuttuneilta ja merkityksettömät tavallisiin asioihin liittyvät seikat tuntua erityisen tärkeiltä.
Hämmentyneisyys on skitsofreenisen häiriön alusta saakka tavallista. Se liittyy usein uskomukseen, että jokapäiväiset tapahtumat sisältävät erityisiä, usein pahaenteisiä, juuri potilaalle tarkoitettuja merkityksiä. Tyypillisessä skitsofreenisessä ajattelun häiriössä kokonaisuuden kannalta merkityksettömät seikat, jotka tavallisesti torjutaan, hallitsevat mieltä tilanteen kannalta merkityksellisten ja asianmukaisten seikkojen sijasta. Näin potilaan ajattelusta tulee epämääräistä, outoa ja epäselvää ja hänen puheestaan joskus muille käsittämätöntä. Potilaan ajatuksenkulussa on yleisesti taukoja, ylimääräisiä seikkoja voi tunkeutua ajatusten väliin ja hän voi kokea, että jokin ulkopuolinen tekijä ottaa ajatuksia pois mielestä. Tunteet saattavat puuttua, ne voivat ailahdella tai olla tilanteeseen sopimattomia. Ailahtelevuus voi ilmetä vitkasteluna, outona kielteisyytenä tai täydellisenä pysähtymisenä. Myös katatonian esiintyminen on mahdollista.
Häiriö voi alkaa äkillisesti voimakkain oirein tai vaivihkaa lisääntyvinä outoina ajatuskulkuina ja käytöksen muuttumisena. Häiriön kulku vaihtelee eikä se suinkaan välttämättä ole krooninen ja rappeuttava (viidettä merkkiä käytetään sairauden kulun määrittelyssä). Osa potilaista paranee täysin tai lähes täysin. Sosiaaliset tekijät ja kulttuuri voivat vaikuttaa ennusteeseen. Häiriötä esiintyy suunnilleen yhtä paljon naisilla ja miehillä, mutta naiset sairastuvat keskimäärin myöhemmin ja heidän ennusteensa on hiukan parempi.
Skitsofreniadiagnoosia ei pitäisi tehdä, jos henkilöllä on runsaasti masennuksen tai manian oireita, jollei ole selvää, että skitsofreeniset oireet ovat esiintyneet ennen mielialahäiriötä. Skitsofreniaa ei pitäisi diagnosoida myöskään ilmeisen aivosairauden eikä myrkytys- tai vieroitusoireiden aikana.
G1. Vähintään yksi oireyhtymistä tai oireista, jotka on alla lueteltu kohdissa 1.a–d {tai} vähintään kaksi oireista, jotka on alla lueteltu kohdissa 2.a–d, ilmenee suurimman osan aikaa (tai jonkin aikaa useimpien päivien aikana) vähintään yhden kuukauden
kestäneen psykoottisen sairausjakson aikana.
(1) Esiintyy vähintään yksi seuraavista:
(a) Ajatusten kaikuminen, ajatusten siirto tai riisto tai ajatusten lähettäminen
(b) Kontrolloimiseen, vaikuttamiseen tai ohjatuksi tulemiseen liittyvät harhaluulot, jotka potilas selvästi liittää vartalon tai raajojen liikkeisiin tai erityisiin ajatuksiin, toimintoihin tai tuntemuksiin; harhaluuloiset havainnot.
(c) Kuuloharhat, joissa äänet kommentoivat potilaan käyttäytymistä tai keskustelevat potilaasta keskenään tai toisentyyppisiä ääniä, jotka kuuluvat jostakin ruumiinosasta.
(d) Muut itsepintaiset harhaluulot, jotka ovat kulttuuriin sopimattomia ja täysin mahdottomia (esim. kyky kontrolloida säätä, tai olla yhteydessä toisesta maailmasta olevien muukalaisten kanssa).
(2) {tai} vähintään kaksi seuraavista:
(a) Pitkäkestoiset minkä tahansa aistin aistiharhat, jotka esiintyvät päivittäin vähintään yhden kuukauden ajan ja joihin liittyy harhaluuloja (jotka voivat olla joko ohimeneviä tai osittaisia) ilman selvää mielialaan liittyvää sisältöä tai joihin liittyy itsepintaisia yliarvostettuja ajatuksia.
(b) Neologismit (potilaan keksimät omat sanat) katkot tai irralliset väliintulevat tavallisen ajatuksen kulun katkaisevat ajatukset. Seurauksena on puheen hajanaisuus tai merkityksen menetys.
(c) Katatoninen käytös, kuten kiihtymys, pysähtyminen outoihin asentoihin tai vahamainen taipuisuus, negativismi, mutismi (puhumattomuus) ja täydellinen pysähtyneisyys.
(d) "Negatiiviset" oireet, kuten huomattava apaattisuus, puheen vähäisyys ja tunteiden latistuminen tai epäsuhtaisuus. On varmistettava, etteivät oireet johdu masentuneisuudesta tai neuroleptilääkityksestä.
Poikkeavia kokemuksia ja käyttäytymistä diagnostisesti arvioitaessa on tärkeää muistaa kulttuurin tai erityisen alakulttuurin tai mahdollisen heikkolahjaisuuden vaikutus ja välttää väärän positiivisen arvion tekemistä.
F22 Harhaluuloisuushäiriö
Harhaluuloisuushäiriöt ovat ryhmä häiriöitä, joille on ominaista joko yhden ainoan harhaluulon tai toisiinsa liittyvien, tavallisesti jatkuvien ja joskus elinikäisten harhaluulojen kehittyminen. Harhaluulon tai harhaluulojen sisältö on hyvin vaihteleva. Usein ne ovat vainoavia, luultuun ruumiilliseen sairauteen liittyviä tai suuruusharhoja. Muuta psykopatologiaa ei yleensä esiinny; ajoittaiset masennusoireet ovat mahdollisia, ja haju- tai tuntoharhoja voi joissakin tapauksissa kehittyä.
Diagnostiset kriteerit:
A. Esiintyy harhaluulo tai joukko toisiinsa liittyviä harhaluuloja, jotka ovat muita kuin tyypillisesti skitsofreenisiksi F20.0–20.3:n yleisissä kriteereissä G1.1, G1.b tai G1.d määritellyt (harhaluulot siis eivät ole täysin mahdottomia tai kulttuuriin
sopimattomia). Tyypillisesti ne ovat vainoamis-, suuruus-, mustasukkaisuus- ja seksuaalisuusharhaluuloja tai luultuun ruumiilliseen sairauteen liittyviä harhaluuloja.
B. Kriteerin A mukainen harhaluulo (harhaluulot) on esiintynyt vähintään kolmen kuukauden ajan.
C. Skitsofrenian (F20.0–20.3) yleiset kriteerit eivät täyty.
D. Ei esiinny pitkäkestoisia aistiharhoja minkään aistin alueelta (saattaa kuitenkin esiintyä ohimeneviä tai ajoittaisia kuuloharhoja, jotka eivät ole kolmannessa persoonassa tai kommentoi jatkuvasti henkilöä).
E. Masennusoireita (tai jopa masennustila, F32) voi ajoittain esiintyä, edellyttäen, että harhaluuloja ilmenee myös silloin, kun mielialahäiriötä ei esiinny.
F. Ei ole näyttöä F00–F09:ssä luetellusta ensisijaisesta tai toissijaisesta elimellisestä mielenterveyshäiriöstä tai psykoaktiivisten aineiden käytöstä aiheutuvasta psykoottisesta häiriöstä (F1x.5).
Tätä diagnoosia ei voi asettaa, jos potilaalla on selviä ja jatkuvia kuuloharhoja. Sama koskee skitsofreenisiä oireita, kuten vaikutuselämyksiä ja huomattavaa tunteiden köyhtymistä, sekä selviä todisteita aivosairaudesta. Satunnaiset tai hetkelliset kuuloharhat eivät kuitenkaan sulje pois tätä diagnoosia, jos ne eivät ole tyypillisesti skitsofreenisiä ja muodostavat vain pienen osan kliinisestä kokonaiskuvasta ja etenkin, jos ne esiintyvät vanhahkoilla potilailla. Sairaus alkaa yleensä keski-iässä, mutta joskus, erityisesti kun on kyse uskomuksesta kehon epämuodostuneisuudesta, varhaisessa aikuisiässä. Harhaluulojen sisältö ja niiden puhkeaminen ovat usein yhteydessä henkilön elämäntilanteeseen, esimerkiksi vainoamisharhat vähemmistöjen jäsenillä. Suoraan harhaluulojärjestelmiin liittyviä toimia ja asenteita lukuun ottamatta, potilaan tunteet, puhe ja käyttäytyminen ovat normaaleja.
Haluttaessa voidaan määritellä seuraavat tyypit: vainoharhainen, oikeutta hakeva, itseen kohdistava, suuruusharhainen, luulotautinen (ruumiillinen), mustasukkainen, erotomaaninen.
Syyt
Nykytietämyksen perusteella toiminnallisten psykoosien ajatellaan syntyvän biologisesti syntyneen alttiuden ja stressin yhteisvaikutuksesta (stressi-haavoittuvuusmalli). Psykoosin puhkeamiseen liittyy usein altistavia häiriötekijöitä ja haitallisia elämäntilanteen muutoksia.
Aiemmin orgaanisia ja toiminnallisia psykooseja on pidetty syntytavoiltaan täysin erilaisina, mutta uuden tiedon karttuessa erot eivät näytä olevan niin selviä. Toiminnallisia psykooseja sairastavien aivotoiminnassa näyttää olevan selvää poikkeavuutta verrattuna terveisiin ihmisiin. Nykytietämyksen valossa myös uskotaan, että esimerkiksi skitsofreniaan liittyy varhainen keskushermoston kehityksen häiriö, joka altistaa sairauden puhkeamiselle. Käytössä oleva ICD-10-tautiluokitus erottelee vielä selkeästi orgaaniset ja toiminnalliset psykoosit, mutta tulevaisuudessa tällainen jako saattaa poistua tarpeettomana.
Hoito
Psykoottisen ihmisen hoidon tarve vaihtelee oireiden vaikeusasteen ja haitallisuuden mukaan. Psykoosin hoito riippuu paitsi psykoosin vaiheesta ja oireiden vakavuudesta myös hoitojärjestelmästä ja -mallista. Vaikka useimmiten pyritään hoitamaan psykoosit avohoidossa, niin melko usein alkuvaiheessa tai pahenemisvaiheessa tarvitaan sairaalahoitoa. Joskus, tarkkaan lainsäädännössä määriteltyjen kriteerien täyttyessä, psykoottinen ihminen voidaan määrätä tahdosta riippumattomaan hoitoon eli niin sanottuun pakkohoitoon.
Psykooseja hoidetaan Suomessa tavallisimmin pysyvällä antipsykoottisella lääkityksellä, vaikka psykoosilääkkeet eivät vähennä psykoosin uusimisriskiä pitkällä aikavälillä[9]. Torniossa psykoosien hoidossa käytetään niin sanottua avoimen dialogin hoitomallia, jossa hoito perustuu lääkkeiden sijaan tasa-arvoiseen keskusteluun, johon osallistuvat potilaan, lääkärin ja muun hoitohenkilökunnan lisäksi myös potilaan läheiset. Tämä malli on osoittautunut lääkehoitoa selvästi tehokkaammaksi pysyvän työkyvyttömyyden ja psykoosin uusimisen ennaltaehkäisemisessä[10].
Myös muunlaista kuntoutusta kuten psykoedukaatiota voidaan käyttää, sillä psykoosioireet ja antipsykoottien aiheuttamat neurologiset oireet vaikuttavat usein hyvin haitallisesti ihmisen elämään, sosiaalisiin suhteisiin ja työkykyyn. Psykoosiin sairastuneelle on omaisten ja läheisten tuki tärkeää. Usein hoitavalla taholla on moniammatillinen työryhmä, johon kuuluu lääkäri, psykologi, psykiatrinen hoitaja, sosiaalityöntekijä ja toimintaterapeutti. Psykoosin kestoa ja ennustetta on vaikea arvioida.
J. D. Hegarty työtovereineen julkaisi vuonna 1994 meta-analyysin skitsofrenian hoidon tuloksellisuudesta ensimmäisten sadan vuoden ajalta [11]. Potilaita meta-analyysissa oli mukana 51800 ja keskimääräinen seuranta-aika oli 5,6vuotta.
Meta-analyysissa skitsofrenian hoitokeinot jaettiin kolmeen ryhmään: epäspesifit, konvulsiiviset ja farmakologiset hoidot. Epäspesifisiä hoitoja olivat esimerkiksi kylvetykset ja psykoterapia, konvulsiivisia esimerkiksi aivosähköhoito ja insuliinisokit ja farmakologisia erilaiset rauhoittavat lääkitykset ja perinteiset neuroleptit. Hoitotuloksen arviointimenetelmälle ei voitu asettaa kovin suuria vaatimuksia. Sen tuli olla niin määritelty, että lukija sen ymmärtää ja lisäksi olla siirrettävissä kvantitatiivisena muuttujana meta-analyysiin.
Päätulos pelkistettynä oli, että 1990-luvulle asti käytettävissä olleiden hoitojen tulokset olivat pääosin enintään välttäviä ja että niiden väliset erot olivat olleet vähäisiä. Meta-analyysi osoitti, että 1950-luvun puolivälissä hoitotulokset kuitenkin kohenivat aiempaan verrattuna. Vuoden 1955 jälkeen julkaistuissa tutkimuksissa kliininen tila koheni liki puolella tutkituista (48,5%) verrattuna aiempien vuosien kolmannekseen (35,4%). Tämä on saattanut johtua neuroleptien kliinisen käytön aloittamisesta tuolloin sekä käytössä olleista väljistä diagnostisista kriteereistä. Neuroleptien käyttö on syynä kuitenkin epätodennäköinen, koska 1990-luvulla kohenemisprosentti oli pudonnut neuroleptejä edeltävään aikaan (36,4%).
M. Harrown 2007 julkaistussa tutkimuksessa[12] ja Lex Wunderinkin 2013 julkaistuissa tutkimuksessa[13] vertailtiin psykoosin hoitojen tuloksia lääkehoidon ja lääkkeen vähennyksen tai kokonaan lääkkeettä olemisen kesken. Tuloksien mukaan ilman lääkkeitä hoidetuilla potilailla on ensimmäisen kahden vuoden ajan paljon enemmän psykoosin oireita, mutta pitkällä aikavälillä 4-15 vuotta he voivat paremmin ja toipuvat sairaudesta useammin.
Psykoosin taustalla oletetaan yleensä olevan aivojen epätasapaino dopamiinin, serotoniinin tai glutamiinin määrissä ja antipsykoottiset neuroleptilääkkeet vaikuttavat pääasiassa näiden aineiden reseptoreihin aivoissa. Lääkkeet kuitenkin hoitavat vain välitöntä psykoosioiretta eivätkä ne korjaa tai poista psykoosin aiheuttanutta tekijää.
Katso myös
Ahdistuneisuushäiriöt
DSM-IV-luokitus
Mielenterveys
Neurologinen poikkeavuus
Lähteet
Viitteet
Aiheesta muualla
Duodecim 2012;128:1116–8.
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จตุพร พรหมพันธุ์ () เป็นประธานแนวร่วมประชาธิปไตยต่อต้านเผด็จการแห่งชาติ (นปช.) อดีตสมาชิกสภาผู้แทนราษฎร แบบบัญชีรายชื่อ พรรคเพื่อไทย
ประวัติ
จตุพร เกิดเมื่อวันที่ 5 ตุลาคม พ.ศ. 2508 ที่ อำเภอบ้านนาสาร จังหวัดสุราษฎร์ธานี เป็นบุตรคนสุดท้องของนายชวน พรหมพันธุ์ กับนางน่วม บัวแก้ว เป็นน้องชายต่างมารดากับ พระเทพดิลก (ระแบบ ฐิตญาโณ) ผู้ช่วยเจ้าอาวาสวัดบวรนิเวศวิหาร จบการศึกษาจากโรงเรียนวัดบวรนิเวศ และจบการศึกษาระดับปริญญาตรีจากคณะรัฐศาสตร์ มหาวิทยาลัยรามคำแหง
งานการเมือง
จตุพร เป็นอดีตโฆษกพรรคไทยรักไทย และอดีต ส.ส. ระบบบัญชีรายชื่อของพรรค แจ้งเกิดทางการเมืองจากการเป็นผู้นำนักศึกษาช่วงเหตุการณ์พฤษภาทมิฬ พ.ศ. 2535 เมื่อเกิดการปราบปรามผู้ชุมนุมที่ ถนนราชดำเนิน และผู้ชุมนุมย้ายไปปักหลักที่รามคำแหง โดยมีจตุพรขึ้นเวทีปราศรัยด้วย โดยร่วมกับเพื่อนๆ นักศึกษาอีกหลายคน เช่น อุสมาน ลูกหยี วัชระ เพชรทอง[1] นายจตุพร ทำงานการเมืองโดยมีกลุ่มนักศึกษารามคำแหง พรรคศรัทธาธรรมที่ตัวเองเป็นผู้ก่อตั้ง จึงมีชื่อที่รู้จักกันดีในสมัยเรียนว่า ตู่ ศรัทธาธรรม เป็นฐานกำลังคอยเคลื่อนไหว เช่น การให้กำลังใจ พ.ต.ท.ทักษิณ ชินวัตร[2]การมอบดอกไม้ กกต. การเดินขบวนไปหน้าสำนักงานหนังสือพิมพ์ผู้จัดการ ในสมัยที่พันธมิตรประชาชนเพื่อประชาธิปไตย เคลื่อนไหวขับไล่ พ.ต.ท.ทักษิณ ชินวัตร ออกจากตำแหน่งนายกรัฐมนตรี
เข้าสู่วงการเมืองครั้งแรกด้วยการสังกัดพรรคพลังธรรมในช่วงที่มีไชยวัฒน์ สินสุวงศ์ เป็นหัวหน้าพรรค ต่อมาเริ่มมีความใกล้ชิดกับภูมิธรรม เวชยชัย รองประธานมูลนิธิอาสาสมัครเพื่อสังคม (มอส.) ในขณะนั้น ซึ่งต่อมาทำให้ได้มีส่วนร่วมในการก่อตั้งพรรคไทยรักไทย
จตุพรเคยดำรงตำแหน่งเป็นเลขานุการของประพัฒน์ ปัญญาชาติรักษ์ รัฐมนตรีว่าการกระทรวงทรัพยากรธรรมชาติและสิ่งแวดล้อม สมัยรัฐบาลทักษิณ 1 ต่อมาเข้าร่วมเป็น 1 ใน 8 แกนนำแนวร่วมประชาธิปไตยขับไล่เผด็จการ (นปก.) ที่เคลื่อนไหวต่อต้าน คณะมนตรีความมั่นคงแห่งชาติ ต่อมาได้เข้าสังกัดกับพรรคพลังประชาชนพร้อมกับลงรับสมัคร ส.ส. ในระบบสัดส่วนลำดับที่ 4 ของกลุ่ม 6 ที่ประกอบด้วยพื้นที่กรุงเทพมหานคร นนทบุรี และสมุทรปราการ และได้รับเลือกตั้งเป็น ส.ส.ในสมัยแรก
ในปี พ.ศ. 2551 จตุพรเป็นหนึ่งในพิธีกรรายการ ความจริงวันนี้ ทางเอ็นบีที โดยร่วมกับวีระ มุสิกพงศ์ และณัฐวุฒิ ใสยเกื้อ เพื่อตอบโต้และวิพากษ์วิจารณ์การเคลื่อนไหวของพันธมิตรฯ
หลังการยุบพรรคพลังประชาชน และการจัดตั้งรัฐบาล โดยการนำของพรรคประชาธิปัตย์ จตุพรทำหน้าที่สมาชิกฝ่ายค้านในสภาผู้แทนราษฎร และยังคงร่วมงานกับกลุ่ม นปช. อย่างต่อเนื่อง โดยร่วมขึ้นปราศรัยในฐานะแกนนำ ภายหลังเหตุการณ์ก่อความไม่สงบของกลุ่ม นปช. เมษายน พ.ศ. 2552 จตุพรถูกออกหมายจับพร้อมกับแกนนำคนอื่นๆ ในวันที่ 14 เมษายน พ.ศ. 2552
ในการชุมนุมของแนวร่วมประชาธิปไตยต่อต้านเผด็จการแห่งชาติ แดงทั้งแผ่นดิน พ.ศ. 2553 จตุพรเข้าร่วมชุมนุมในครั้งนี้ด้วย และถูกออกหมายจับเมื่อการชุมนุมสิ้นสุดลง โดยใช้ตำแหน่งสมาชิกสภาผู้แทนราษฎรประกันตัวไป[3]
ต่อมามีการเปิดเผยว่า ในปี พ.ศ. 2553 จตุพรเป็นหนึ่งในบรรดา ส.ส.ที่ไม่เคยมาร่วมลงคะแนนผ่านร่างกฎหมายในสภาผู้แทนราษฎรเลย เช่นเดียวกันกับเสนาะ เทียนทอง หัวหน้าพรรคประชาราช[4]
การชุมนุมที่อนุเสาวรีย์ประชาธิปไตยวันที่ 10 เมษายน พ.ศ. 2554 จตุพรปราศรัยว่า คุณเอาหน่วยไหนมาฆ่าพวกผม ยังไม่เจ็บปวด ยกเว้นสองหน่วยอย่าเอามาฆ่าผมได้ไหม คือ หนึ่ง ทหารรักษาพระองค์ และสอง ทหารเสือพระราชินี เพราะพวกเรามีความเจ็บปวดว่าเป็นกระสุนพระราชทานใช่ไหม[5]มีประเทศไหนบ้างในโลกนี้ฆ่าลูกเพื่อปกป้องพ่อ ฆ่าลูกเพื่อพ่อ ฆ่าลูกเพื่อแม่ มีไอ้ประเทศบ้าประเทศนี้ประเทศเดียว ซึ่งต่อมา พล.อ.ประยุทธ์ จันทร์โอชา[6] ผู้บัญชาการทหารบก มอบอำนาจให้นายทหารพระธรรมนญฟ้องร้อง เนื่องจากเป็นการกล่าวในที่สาธารณะ แต่นาย ธาริต เพ็งดิษฐ์ อธิบดีกรมสอบสวนคดีพิเศษ สั่งไม่ฟ้อง
ในการเลือกตั้ง พ.ศ. 2554 จตุพรได้รับเลือกตั้งเป็นสมาชิกสภาผู้แทนราษฎร แบบบัญชีรายชื่อ สังกัดพรรคเพื่อไทย ต่อมาในช่วงเดือนเมษายน พ.ศ. 2554 พลเอก ประยุทธ์ จันทร์โอชา ผู้บัญชาการทหารบก มอบอำนาจให้นายทหารพระธรรมนูญ เป็นผู้ดำเนินการฟ้องร้องจตุพร ในข้อหากล่าวหมิ่นประมาทต่อองค์พระมหากษัตริย์ โดยทางกรมสอบสวนคดีพิเศษออกหมายเรียก โดยอาศัยอำนาจตามมาตรา 18 ตามพระราชบัญญัติความมั่นคงภายในราชอาณาจักร พ.ศ. 2551 เรียกรับทราบข้อกล่าวหา พร้อมกลุ่มแนวร่วมประชาธิปไตยต่อต้านเผด็จการแห่งชาติอีกจำนวนหนึ่ง อันเนื่องมาจากการปราศรัยที่อนุสาวรีย์ประชาธิปไตย เมื่อวันที่ 10 เมษายน พ.ศ. 2554[7] ต่อมาศาลได้มีคำวินิจฉัยให้ถอนประกัน ส่งผลให้จตุพรถูกส่งตัวเข้าเรือนจำ ในวันที่ 12 พฤษภาคม พ.ศ. 2554[8][9]
ในช่วงปลายปี พ.ศ. 2554 สื่อมวลชนรัฐสภาได้ตั้งฉายาให้จตุพร กับอรรถพร พลบุตร ว่าเป็น "คู่กัดแห่งปี"[10] ซื่งนับเป็นปีที่ 2 ของฉายาดังกล่าว โดยก่อนหน้านี้ในปี พ.ศ. 2553 ได้รับฉายานี้คู่กับวัชระ เพชรทอง
ต่อมาในเดือนพฤษภาคม พ.ศ. 2555 มีคำวินิจฉัยเสียงข้างมาก 7 ต่อ 1 ให้สมาชิกภาพสมาชิกสภาผุ้แทนราษฎรของนายจตุพร สิ้นสุดลงตามรัฐธรรมนูญมาตรา 106(4) ประกอบกับมาตรา 101(3)[11]รวมถึงสิ้นสุดความเป็นสมาชิกพรรคการเมือง
ในการเลือกตั้งสมาชิกสภาผู้แทนราษฎรไทยเป็นการทั่วไป พ.ศ. 2557 เขาได้สมัครรับเลือกตั้งในระบบบัญชีรายชื่อ สังกัดพรรคเพื่อไทย ลำดับที่ 20[12]
จตุพร พรหมพันธุ์ เข้ารับตำแหน่งหน้าที่ประธาน นปช. ต่อจากนางธิดา ถาวรเศรษฐ ในเดือนกรกฎาคม พ.ศ. 2556[13]
วันที่ 29 พฤศจิกายน พ.ศ. 2558 ทหารจับจตุพร พรหมพันธุ์[14]ก่อนปล่อยในวันที่ 30 พฤศจิกายน พ.ศ. 2558
ในวันที่ 2 กุมภาพันธ์ 2559 ทหารได้เชิญนายจตุพรเดินทางมายังกองทัพภาคที่ 1[15] และ 18 กุมภาพันธ์ 2559 ทหารได้เชิญนายจตุพรไปพูดคุยที่มณฑลทหารบกที่ 11[16]วันที่ 27 กรกฎาคม 2559 พระสุวิทย์ ธีรธมฺโม แจ้งความข้อหาหมิ่นประมาท[17] โดยตำรวจรับแจ้งความ
ต่อมา วันที่ 11 ตุลาคม 2559 เขาถูกศาลอาญาสั่งถอนประกัน ส่งผลให้เขาต้องเข้าเรือนจำพิเศษกรุงเทพมหานคร ทันที
คดีความ
จตุพรตกเป็นจำเลย ในคดีความต่าง ๆ หลายคดี ดังต่อไปนี้[18]
คดีความที่ยังไม่สิ้นสุด
คดีก่อการร้าย และฝ่าฝืนข้อกำหนดที่ระบุไว้ ในประกาศสถานการณ์ฉุกเฉิน ลงวันที่ 19 พฤษภาคม พ.ศ. 2553 ตามพระราชกำหนดการบริหารราชการในสถานการณ์ฉุกเฉิน พ.ศ. 2548 หมายเลขดำที่ อ.2542/2553 ที่พนักงานอัยการฝ่ายคดีพิเศษ 1 เป็นโจทก์
คดีดักฟังโทรศัพท์ หมายเลขดำที่ อ.177/2551 กรณีที่จำเลยทั้งสามคือจตุพร, จักรภพ เพ็ญแข และณัฐวุฒิ ใสยเกื้อ ร่วมกันนำข้อความการสนทนาทางโทรศัพท์ ระหว่าง พลตำรวจตรี พีรพันธุ์ เปรมภูติ ปลัดสำนักนายกรัฐมนตรี (สปน.; ยศและตำแหน่งขณะนั้น) กับวิรัช ชินวินิจกุล อดีตเลขานุการศาลฎีกา และไพโรจน์ นวานุช ผู้พิพากษาศาลอุทธรณ์ประจำสำนักประธานศาลฎีกาขณะนั้น ไปเปิดบนเวทีปราศรัยของแนวร่วมประชาธิปไตยขับไล่เผด็จการ
ศาลพิพากษาเมื่อวันที่ 22 ก.ค. 2557 จำคุก 2 ปี ปรับ 4หมื่น รอลงอาญา 2 ปี[19]อยู่ระหว่างฎีกา
คดีหมายเลขดำที่ อ.4176/2552 ที่อภิสิทธิ์เป็นโจทก์ ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 326, 328 และ 332 กรณีเมื่อวันที่ 11 และ 17 ตุลาคม พ.ศ. 2552 จตุพรกล่าวปราศรัย ในการชุมนุมของ นปช.และเสื้อแดง ที่อนุสาวรีย์ประชาธิปไตยและทำเนียบรัฐบาล กล่าวหาว่าโจทก์ยึดพระราชอำนาจ ด้วยการเพิกเฉยไม่ดำเนินการใดๆ ต่อฎีกาพระราชทานอภัยโทษแก่ พ.ต.ท.ทักษิณ ชินวัตร อดีตนายกรัฐมนตรี ซึ่งทาง นปช.รวบรวมรายชื่อคนเสื้อแดงขึ้นทูลเกล้าฯ และกล่าวหาโจทก์เป็นฆาตกร อาชญากร สั่งการให้เจ้าหน้าที่ทหาร ใช้อาวุธปืนสงครามสังหารประชาชน และสร้างสถานการณ์จลาจล ที่บริเวณสามเหลี่ยมดินแดง ย่านนางเลิ้ง และถนนเพชรบุรีซอย 5 และซอย 7 ช่วงเดือนเมษายน พ.ศ. 2552 รวมถึงเหตุการณ์จลาจล ระหว่างการประชุมสุดยอดอาเซียนที่เมืองพัทยา
ศาลอาญาพิพากษาเมื่อวันที่ 28 ม.ค. 2558 ให้ลงโทษจำคุกจำเลยเป็นเวลา 2 ปีโดยไม่รอการลงโทษ[20]
ศาลอุทธรณ์พิพากษาเมื่อวันที่ 10 มิ.ย. 2559 พิพากษายืนตามศาลชั้นต้น[21]
คดีหมายเลขดำ อ.855/2553 ที่สุเทพ เทือกสุบรรณ เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นด้วยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 326 และ 328 กรณีเมื่อวันที่ 4 ธันวาคม พ.ศ. 2552 จตุพรแถลงข่าวพาดพิงโจทก์ว่า สั่งการให้เจ้าหน้าที่ตำรวจ เกณฑ์คนต่างด้าวให้ได้ 5,000 คนมาสวมเสื้อสีแดง แฝงตัวร่วมชุมนุมกับกลุ่มคนเสื้อแดง เมื่อวันที่ 10 ธันวาคม พ.ศ. 2552 โดยวางแผนให้คนกลุ่มดังกล่าว ก่อความปั่นป่วนเพื่อป้ายสีคนเสื้อแดง
ศาลอุทธรณ์พิพากษาเมื่อวันที่ 13 ส.ค. 2556 ยืนตามศาลชั้นต้นให้ยกฟ้อง
คดีหมายเลขดำ อ.771/2554 ที่ พลตรี จำลอง ศรีเมือง กับพวกรวม 4 คน เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพร และสื่อมวลชนรวม 4 คนเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 326 และ 328 และพระราชบัญญัติว่าด้วยการกระทำความผิดเกี่ยวกับคอมพิวเตอร์ พ.ศ. 2550
ศาลอุทธรณ์พิพาษาเมื่อวันที่ 14 ส.ค. 2556 ยืนตามศาลชั้นต้นให้ยกฟ้อง[22]
คดีหมายเลขดำ ด.2635/2551 (ศาลอาญากรุงเทพใต้) นางทีปสุรางค์ ภรรยาของจรัญ ภักดีธนากุล เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพรกับพวก และสื่อมวลชนรวม 4 คน ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 326 และ 328 กรณีเมื่อวันที่ 4 สิงหาคม พ.ศ. 2551 เวลาประมาณ 22:00-23:00 น. จำเลยที่ 1 ถึง 3 ซึ่งดำเนินรายการความจริงวันนี้ ทางสถานีวิทยุโทรทัศน์แห่งประเทศไทย แสดงความคิดเห็นโดยนำคำพิพากษา ที่ศาลอุทธรณ์พิพากษากลับ คำพิพากษาศาลจังหวัดสงขลา ในคดีเกี่ยวกับที่ดิน มาอ่านออกอากาศ แล้วอ้างว่าเป็นประเด็นเปรียบเทียบ กับเรื่องการแก้ไขรัฐธรรมนูญ ซึ่งโจทก์เห็นว่าเจตนาบิดเบือนข้อเท็จจริง
คดีหมายเลขดำ อ.4977/2555 ที่วัชระ เพชรทอง เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพร, วีระกานต์ หรือวีระ มุสิกพงศ์ และณัฐวุฒิ เป็นจำเลยที่ 1 ถึง 3 ในความผิดฐานหมิ่นประมาทด้วยการโฆษณา และความผิดว่าด้วยพระราชบัญญัติการกระทำความผิดเกี่ยวกับคอมพิวเตอร์ พ.ศ. 2550 พร้อมทั้งเรียกค่าเสียหายเป็นเงิน 10 ล้านบาท[23]
ศาลอาญาพิพากษาเมื่อวันที่ 2 ก.ย. 2558 ให้จำคุกจำเลยทั้ง 3 คนละ 1 ปี ปรับ คนละ 5หมื่นบาท รอลงอาญาไว้ 2 ปี และชดใช้เงินจำนวน 6 แสนบาท[24]
คดีหมายเลขดำ อ.2799/2557 ที่พนักงานอัยการฝ่ายคดีอาญา 10 เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพร และศราวุธ หลงเส็ง ผู้ร่วมชุมนุม เป็นจำเลยที่ 1 และ 2 ในความผิดฐานมั่วสุมกันตั้งแต่ 10 คนขึ้นไป ใช้กำลังประทุษร้ายหรือกระทำการอย่างหนึ่งอย่างใด ให้เกิดความวุ่นวายในบ้านเมือง โดยมีอาวุธและต่อสู้ขัดขวางเจ้าพนักงาน ในการปฏิบัติตามหน้าที่โดยใช้กำลังประทุษร้าย ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 138 วรรค 2, 215, 216 ซึ่งยื่นฟ้องเมื่อวันที่ 29 สิงหาคม พ.ศ. 2557
คดีความที่สิ้นสุดแล้ว
คดีหมายเลขดำ อ.3982/2553 ที่รสนา โตสิตระกูล เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 326 และ 328 กรณีเมื่อวันที่ 29 สิงหาคม พ.ศ. 2553 จตุพรให้สัมภาษณ์ทำนองว่า โจทก์เป็นตัวตั้งตัวตีพยายามโยกคดี ของกลุ่มพันธมิตรประชาชนเพื่อประชาธิปไตย (พธม.) ซึ่งบุกยึดท่าอากาศยานสุวรรณภูมิและดอนเมือง ให้ไปอยู่ในความรับผิดชอบ ของกรมสอบสวนคดีพิเศษ (ดีเอสไอ)[25]คดีนี้สิ้นสุดแล้ว เนื่องจากรสนามิได้ฎีกาคำสั่งศาล คดีจึงจบที่ศาลอุทธรณ์ พิพากษายกฟ้อง
คดีซึ่งเจ้าหน้าที่ฝ่ายกฎหมาย ของสำนักงานกรมพระธรรมนูญ กองทัพบก ให้เดินทางไปแจ้งความดำเนินคดี ที่สถานีตำรวจนครบาลสำราญราษฎร์ เมื่อวันที่ 12 เมษายน พ.ศ. 2554 ในข้อหาหมิ่นประมาทพระมหากษัตริย์ พระราชินี หรือรัชทายาท ตามประมวลกฎหมายอาญามาตรา 112[26] ทว่าต่อมา กรมสอบสวนคดีพิเศษสั่งให้ถอนฟ้อง[27]
คดีที่เมธี อมรวุฒิกุล ฟ้องความผิดฐานหมิ่นประมาท[28]คดีจบที่ศาลฎีกาพิพากษายกฟ้อง
คดีหมายเลขดำ อ.1008/2553 ที่อภิสิทธิ์เป็นโจทก์ ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทโดยการโฆษณา ตามประมวลกฎหมายอาญา มาตรา 328, 326 และ 332 กรณีเมื่อวันที่ 29 มกราคม ถึงวันที่ 15 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2553 จตุพรกล่าวปราศรัยต่อกลุ่มคนเสื้อแดง และประชาชนที่รับชมผ่านโทรทัศน์ช่องพีเพิลแชนเนล ใส่ความโจทก์ทำนองว่าสั่งฆ่าประชาชน และหลบเลี่ยงการเกณฑ์ทหารศาลฎีกาสั่งจำคุก 6 เดือน โทษจำคุกรอลงอาญา 2 ปี[29]
คดีหมายเลขดำ อ.404/2552 ที่อภิสิทธิ์ เวชชาชีวะ เป็นโจทก์ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา กรณีเมื่อวันที่ 13 มกราคม พ.ศ. 2552 จตุพรแถลงข่าวที่พรรคเพื่อไทย กล่าวหาโจทก์กระทำการมิบังควร ตีตนเสมอพระเจ้าแผ่นดิน โดยนั่งเก้าอี้เทียบเสมอพระเจ้าแผ่นดิน ในการถวายรายงานราชการ
ศาลชั้นต้นมีคำพิพากษาเมื่อวันที่ 10 ก.ค. 57 ให้จำคุก นายจตุพร 6 เดือน ปรับ 5 หมื่นบาท ให้รอการลงโทษไว้มีกำหนด 2 ปี ต่อมา นายจตุพร ได้ยื่นอุทธรณ์ขอให้ศาลอุทธรณ์ยกฟ้อง
ศาลฎีกาพิพากษาเมื่อวันที่ 2 มิ.ย. 2559 ให้ลงโทษจำเลยตามคำพิพากษา ศาลชั้นต้น[30]
คดีหมายเลขดำที่ อ.1962/2552 ที่อภิสิทธิ์เป็นโจทก์ ยื่นฟ้องจตุพรเป็นจำเลย ในความผิดฐานหมิ่นประมาทผู้อื่นโดยการโฆษณา กรณีเมื่อวันที่ 10 พฤษภาคม พ.ศ. 2552 จตุพรขึ้นปราศรัย บนเวที นปช.ที่วัดไผ่เขียวทำนองว่า โจทก์ไม่ได้นั่งอยู่ในรถประจำตำแหน่ง ในช่วงเหตุการณ์ที่กลุ่มคนเสื้อแดงปิดล้อมกระทรวงมหาดไทย และเข้ากลุ้มรุมต่อรถดังกล่าว และยังกล่าวหาว่าโจทก์ เป็นฆาตกรมือเปื้อนเลือด สั่งการให้เจ้าหน้าที่ทหาร ใช้อาวุธปืนสงครามยิงประชาชนคนเสื้อแดง ในเหตุการณ์ชุมนุมช่วงเดือน เมษายน พ.ศ. 2552 ศาลฎีกามีคำสั่งจำคุก 1 ปี สำนวนตั้งแต่วันที่ 20 กรกฎาคม พ.ศ. 2560 [31]
เครื่องราชอิสริยาภรณ์
พ.ศ. 2551 - เครื่องราชอิสริยาภรณ์อันเป็นที่เชิดชูยิ่งช้างเผือก ชั้นทวีติยาภรณ์ช้างเผือก (ท.ช.)[32]
พ.ศ. 2552 - เครื่องราชอิสริยาภรณ์อันมีเกียรติยศยิ่งมงกุฎไทย ชั้นประถมาภรณ์มงกุฏไทย (ป.ม.)[33]
พ.ศ. 2554 - เครื่องราชอิสริยาภรณ์อันเป็นที่เชิดชูยิ่งช้างเผือก ชั้นประถมาภรณ์ช้างเผือก (ป.ช.)[34]
ผลงานเพลง
อัลบั้ม
ชุดที่ 3 ชีวิตและอิสรภาพ มีเพลงอย่าง เมืองถูกเผาเราถูกฆ่า (มีดนตรีและทำนองคล้ายคลึงกับเพลง วณิพก ของวงคาราบาว),ธารน้ำใจ,เสียงจากหัวใจแม่ ฯลฯ
ชุดที่ 4 ธรรมชาติไพร่ มีเพลงอย่าง เพลงไม้ไผ่,ลมหายใจ,เพลงชีวิต,ทางสายกลาง ฯลฯ
ชุดที่ 5 วิบากกรรม มีเพลงอย่าง ปล่อยวาง,รักเพื่อรัก,ฟ้าคู่ดิน,วินาศกาเล วิปริตพุทธิ ฯลฯ
ชุดที่ 6 นิรโทษกรรม มีเพลงอย่าง นิรโทษกรรม,อรชุน,แพ้และชนะ,ดอกไม้แห่งความรัก ฯลฯ
ซิงเกิล
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イタリア海軍(Italian: Marina Militare Italiana)は、イタリアが保有する海軍。
歴史
前史
ローマ帝国の時代、地中海を手中に収める西洋最大の海軍国であったが、その崩壊以降、イタリア地域には様々な国家が勃興した。中世時代にはヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国などいくつかの有力な海軍を保有する国家が名を馳せた。しかし正式に<b data-parsoid='{"dsr":[699,711,3,3]}'>イタリア海軍</b>と呼ぶべき組織が発足するのは、イタリア統一を果たしたサルデーニャ王国が、イタリア王国の発足に次ぐ形で1861年3月17日に複数の海軍組織を統合して以降であろう。
黎明期
統一による強大化と混乱、そして普墺戦争
イタリアの統一は19世紀後半、サルデーニャ王国によって成った。イタリア王国と名を改めたサルデーニャ王国は1861年3月17日、統一以前に存在した旧国家群の様々な組織を統合する作業を進め、その一環としてイタリア各地にあった旧国家(サルデーニャ王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国及び教皇領)の海軍部隊を統合し、イタリア王立海軍(レージャ・マリーナ、Italian: Regia Marina)を組織した。統一以前の諸国家が持っていた海軍装備は中々のもので、それら全てを遺産として相続した王立海軍は英仏の列強海軍を除けば戦列艦1隻、フリゲート9隻、コルベット4隻、帆走船7隻を数える強大な海軍力を有する一大勢力であった。
しかし海軍の合同によって齎された物は良い事ばかりではなく、幾つかの解決すべき難点も存在した。まず一つ目に挙げられるのは装備の不均一性で、当然のことながら統一前の諸海軍は独自のドクトリンに基づいた艦艇の設計や運用を行っており、それらを一堂に集めた王立海軍は運用面で極めて不安定な部分を残す事になった。更に人材面でも同様の事が言え、それぞれが背景を持って栄達してきた各海軍の将官らは、自らがイタリア海軍の指導的な立場を得るべく激しい政治闘争を繰り広げた。取り分け統一元である旧サルデーニャ海軍派と、それと同等の海軍力を保有していた旧ナポリ海軍派の将官らの対立は激しく、海軍結成から20年後の1881年にリヴォルノに統合されるまで、海軍士官学校がナポリとジェノヴァの二か所に存在したという逸話がその激しさを物語っている。
また根本的な問題として当時のイタリアは近代戦争の要である重工業の力に乏しく[注 1]、零落著しいスペインと共に、フランス・イギリス・ドイツ・オーストリアなどの他の欧州主要国と大きく差を開けられていた。しかし海軍大臣カルロ・ペルサーノはこの問題に対して、国家百年の計としての計画を立てる事などせず、外国からの購入という短期的な手段に終始するのみであった。
こうした問題の内、少なくとも組織統一時の混乱は(士官学校の例の様に)時間によって解決される手合いの物であったが、完全なる統一を急ぐイタリア王国政府は国家統一から僅か4年後の1866年に早くも老大国たるオーストリア・ハンガリー二重帝国との戦争を始めてしまった。普墺戦争と呼ばれるこの戦争で、前述のカルロ・ペルサーノ率いるイタリア海軍は、ペルサーノの指揮の拙さも手伝って苦い敗北を喫してしまう(リッサ海戦)。戦争自体はプロイセン王国の大勝によって勝利に帰したが、対オーストリアでの苦戦は多くの教訓を海軍に残した。
普墺戦争後の増強
普墺戦争後、イタリア海軍は海軍組織の統合や艦艇の強化を推進し、欧州主要国として恥じぬ戦力を揃えていった。
イタリア海軍は教師役をイギリス海軍にとり、次いで未熟なイタリアの国内産業を活性化すべくイギリスから軍事企業の誘致を次々に行った。その中でもその最たるものがアームストロング社で、技術革新の時代にイギリス最大級の軍事企業の協力が得られた事は大きく、国内企業カステラマーレ造船所で建造し1880年代に相次いで2隻を就役させた装甲艦「ドゥイリオ級」2隻は、前級である「プリンチペ・アメデオ級」の常備排水量5,854トンの約二倍の排水量11,138トンを誇り、主砲は当時世界最大級の艦砲である45cm(20.4口径)前装式砲を連装砲架で2基4門装備、更に当時の主力艦最速の15ノットを誇るという「地中海最強艦」であった[注 2]。
これは、フランス海軍が新たに建造していた新型装甲艦「クールベ級」が、イギリス装甲艦を上回る大口径の34cm単装砲を4門搭載し速力15ノットを発揮するという事が様々な情報により判明していたため、これに対抗するにはイギリス装甲艦の模倣では適わないとして、時の海相の英断とイタリアの名造船士官の設計により建造されたのである。 これに対しフランス海軍は、42cm(22口径)単装砲2基を搭載し自艦の主砲に耐える舷側防御力を持ちながら速力15ノットを発揮する海防戦艦「テリブル級」4隻の建造で応えたが、イタリア海軍は更なる差をつけるために、口径はカイオ・ドゥイリオ級よりやや劣る43.1cm前装填式単装砲4門を持ち、舷側装甲を撤去した代償に当時の巡洋艦並みの18ノットの速力を発揮する装甲艦「イタリア級」2隻を建造し、次いでその改良型として舷側装甲を復帰させながら速力17ノットを発揮する「ルッジェーロ・ディ・ローリア級」3隻を持って、巨砲装甲艦7隻体制で地中海最強艦を有する海軍国家として名を挙げたのである。この時ライバル国家であったオーストリア・ハンガリー二重帝国も、ドイツより技術導入を図っていたが、技術導入先のレベル差や建造するドックの能力の低さの為に低火力で小型の軍艦しか造れず、次第に建造艦の質はイタリア優勢となって行った。
この急速な技術革新にはイタリア海軍による貪欲なイギリス技術の導入意欲と、イギリス企業によるテストケースとしての新技術の提供という、伊英双方の利害・目的が一致して多大な成果が発現された物であった。技術提供を行ったイギリス海軍は、フランスの巨砲装甲艦たちに対抗すべく413mm砲2門を持つ装甲艦「ベンボウ」や「ヴィクトリア級」2隻を相次いで建造したが、それができたのもイタリア海軍での技術テストがあってこそである。
増強なった海軍の活躍
こうした新技術の導入により強力な軍艦を多く得たイタリア海軍は、イタリア政府の進めた植民地戦争に於いても活発に活動し、伊土戦争ではチュニジアからトリポリまでの前海岸の封鎖を実行し、トリポリ・トブルク・デルナ・ベンガジなどの主要都市を艦砲射撃後に続々と海兵隊を上陸させ次々と占領した。1912年2月には装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ級「ジュゼッペ・ガリバルディ」「フランチェスコ・フェルッキオ」の2隻が、占領したトブルクを出撃しベイルートのオスマン帝国艦隊を強襲した。ここには装甲艦アヴニッラー級「アヴニッラー」(1870年建造、1907年近代化改装、2,310トン、15cm単装砲4基、76mm単装速射砲6基、12ノット)と水雷艇「アンカラ」があったがイタリア巡洋艦隊はこれを一蹴して湾内にあったオスマン帝国海軍の軍艦全てを撃沈してしまった。更にイタリア海軍は艦隊による艦砲射撃でダーダネルス海峡のオスマン軍砲台を無力化し、海峡の入り口を機雷で封鎖してしまった。これによりオスマン帝国の植民地に対する権威を失墜させた。次いで海軍はロドス島を占領した。陸軍がオスマン陸軍のゲリラ戦術に苦しむ中、海軍は行く先々でオスマン帝国海軍を一蹴して制海権を確保し、バルカン半島方面に軍事的圧力を掛けてバルカン戦争の端緒を作る事により伊土戦争の早期勝利を導いた。イタリア海軍の活躍によりトリポリとキレナイカ及びドデカネス諸島がイタリアに割譲され、海軍の監視施設が各地に設置された[注 3]。
第一次世界大戦
イタリア王立海軍は第一次世界大戦に連合国側に立って参戦する。この大戦では再びオーストリア・ハンガリー二重帝国と争い、陸軍が多数の死者を出しながら果敢に高山の陣地に挑んでは、少しずつ戦線を前に進めていくのとは対照的に、海軍は大きな海戦は行わなかった。これは伊墺両軍が主力(弩級戦艦)を出し惜しんだ所に起因する部分が大きいが、イタリア海軍は主力艦同士が互いを牽制して睨み合っている状況を巧みに活用し、アドリア海の出入り口たるオトラント海峡に堰を築くことでオーストリア海軍の潜水艦部隊を無力化した。これは連合国軍が地中海の補給線を維持する上で大きな効果を生じさせ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍は幾度にも亘ってオトラント海峡突破を作図したが、その殆どがイタリア海軍に撃退された。唯一突破に成功したのは1917年5月にホルティ提督率いる巡洋艦隊が、伊海軍と来援していた仏英海軍の連帯失敗に乗じて堰の破壊に成功した時であり、翌年に堰が修復されるまでに多数の連合国商船が破壊され、オトラント海峡防衛の重要性が改めて認識された。
大戦後半に入ると、東西両面での陸戦における不利で脱落の危機に瀕したオーストリア陸軍を救うべく、ドイツ軍は主戦場から戦力を引き抜いてイタリア戦線へ配置し、彼らは発案されたばかりの新戦術(浸透戦術)によってイタリア陸軍に致命的な損害を与えた。イタリア陸軍は後方で戦線を建て直し、ドイツ軍が引き上げた後に行われたオーストリア軍の単独攻勢を破り、逆に2万5000名の捕虜を取る勝利を得る(ピアーヴェ川の戦い)。この戦いに並行する形で、オーストリア=ハンガリー帝国海軍はオトラント海峡の再度の突破を目指して、前述の突破成功により一躍国民的英雄となっていたホルティ提督を指揮官とし、それまで温存していた主力艦隊を出撃させた。だがこの出撃は、待ち伏せしていたイタリア海軍の提督率いる水雷部隊の強襲にあい、弩級戦艦セント・イシュトバーンが撃沈されるという惨敗に終わった。陸海両面で勝利を得たイタリアは終戦までオーストリアを押さえ込み、戦勝国の仲間入りを果たした。戦後賠償でオーストリア=ハンガリー帝国海軍から弩級戦艦「テゲトフ」と準弩級戦艦「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」、巡洋艦3隻、駆逐艦7隻を取得したが、戦艦は解体処分、巡洋艦のうち「サイダ」は「ヴェネツィア」へ、「ヘルゴランド」は「ブリンディジ」と改名し、駆逐艦7隻も改名されて戦間期のみ使用された。ここに、リッサ沖海戦での復讐は成し遂げられた。
戦間期
装備の更新と建艦競争
第一次世界大戦後の経済不安・税収減により海軍装備の更新がままならず旧式化が進む中、イタリア国内で共産主義勢力を下し政権を取ったファシストのリーダー、ベニート・ムッソリーニは、不況により沈滞していた国民感情を高揚させるため、地中海のイタリア化と古のローマ帝国の復興を宣言し、海軍には旧式化した艦艇の整備を命じた。膨張政策により国内企業は活気付き海軍予算も増えた事により、まず駆逐艦の新造が始まり、さらにワシントン海軍軍縮会議により巡洋艦の基本建造プレゼンスが定まった事により、旧態化した装甲巡洋艦や戦利巡洋艦の代艦として重巡洋艦・軽巡洋艦の新造が始まった。この行為は地中海の西部に位置するフランスの世論を悪化させ、世論の後押しを受けたフランス海軍が続々と大型駆逐艦や巡洋艦を整備した事により、伊仏独三国間で建艦競争が勃発した。やがて、ドイツ海軍が「ドイッチュラント級装甲艦」を発表し、それに対抗してフランス海軍が1931年に新戦艦「ダンケルク級」の建造を発表した事により建艦競争はピークに達した。
この頃のイタリア海軍の戦艦戦力は、前大戦時に建造した「コンテ・ディ・カブール級」2隻(3番艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は1916年8月2日に事故で喪失)と「カイオ・ドゥイリオ級」2隻で、どちらも速力20ノット台の低速戦艦でしかなく、イタリア海軍としてはフランス海軍が保有している弩級戦艦「クールベ級」3隻と超弩級戦艦「プロヴァンス級」3隻への抑止力程度の価値でしかなく、海軍としては経済が復興した暁には代艦を建造する予定であった。しかし、ダンケルク級の建造により戦力バランスはフランス優勢に傾いた。ダンケルク級に対抗すべく海軍は幾つかの小型・中型戦艦の設計案を検討したが、一から作ったのではフランスの新戦艦が先に竣工してしまうのは明らかだった。
そのため、急遽イタリア海軍は旧式戦艦4隻のうち最も古い「コンテ・ディ・カブール級」2隻に対して最新技術を用いた近代化改装を行なう事を決定した。1932年のダンケルク級の起工に遅れる事1年後の1933年にカブール級2隻がドック入りし、そして1937年4月の「ダンケルク」竣工に遅れる事2ヶ月後の6月に「コンテ・ディ・カブール」の、更に4ヶ月後の10月に「ジュリオ・チェザーレ」の近代化改装を終える事により辛くも間に合わせたのだった。しかし、1934年にはダンケルク級2番艦「ストラスブール」が起工しており、これに対抗すべくイタリア海軍は、主砲に38.1cm砲9門を持つ排水量35,000トンの大戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト級」の第一グループ2隻建造を同年に発表。しかし、当然ながらヴェネト級の完成よりも先に「ストラスブール」が完成する事は明白であり、ヴェネト級の完成までの穴埋めとしてカブール級に続いてカイオ・ドゥイリオ級2隻の近代化改装を1937年4月に開始した。しかし、この行為はフランス海軍には6隻の戦艦があるのにイタリア海軍に実働可能な戦艦がカブール級の2隻しかないという事を意味していた。結局、カイオ・ドゥイリオ級2隻の改装完了とヴィットリオ・ヴェネト級の第一グループ2隻の就役は第二次世界大戦には間に合わなかった。しかし、フランス海軍は基準排水量35,000トンで38cm砲8門を持つ新戦艦「リシュリュー級」2隻の建造を1935年に発表したため、イタリア海軍は間に合わないのを承知でヴェネト級を更に2隻追加建造することを決意し、1938年に相次いで起工した。
戦間期のイタリア艦艇の設計思想とドクトリン
イタリア海軍は新たな仮想敵国となったイギリス海軍とフランス海軍双方の強大な海軍力に対し、高速艦艇により攻撃する計画を立案した。この路線から後の第二次世界大戦時のイタリア海軍の主力艦艇の船体形状は、高速性能を得るために縦横比率の高い細身の形状をした独特の設計が採用されており、高速性を発揮しやすいのが特徴で、同時代のイギリス海軍の大型艦も同様の船体形状を特徴としている。また、イタリア海軍が主に行動する海域は地中海であるために、外洋での凌波性や航続性能は他国に比べ低いものでも良いとされた。そしてその分のリソースを防御性能や居住性に充てたため、他国の同排水量の艦に比べ、後の時代になるほど攻防能力が高くなっている。しかし、元々性能の高くないイギリスの機関を参考にして大出力機関を開発したために、第一次大戦後のイギリス新戦艦と同じく信頼性を犠牲にしている感があり、また、致命的な事に、そうした努力を持ってしても、根本的に工業力で上回っているイギリス海軍の<b data-parsoid='{"dsr":[8233,8240,3,3]}'>量</b>やフランス海軍の持つ<b data-parsoid='{"dsr":[8250,8257,3,3]}'>質</b>への不利は否めなかった。その為、次第にイタリア海軍の戦術ドクトリンは第一次世界大戦のように主力艦艇を敵主力艦の牽制に用いつつ、潜水艦や水雷艇・駆逐艦などの小型艦艇の運用により敵海軍力を削ぐ戦術を志向していった。
スペイン内戦
第二次世界大戦の前哨戦となったスペイン内戦では、本格的な参戦の前からイタリア海軍の潜水艦部隊が反乱軍側で暗躍し、スペイン海軍の軽巡洋艦を撃沈したのを皮切りに多数の商船を沈めている。また本格参戦後もスペイン海軍の艦隊を強襲して制海権を奪いバルセロナを砲撃したり、ジブラルタルの英海軍基地に特殊部隊が上陸し、停泊していた補給艦を破壊するなど盛んな活躍を見せた。
第二次世界大戦
参戦時の状況
イタリア王国が1940年6月10日に二度目の世界大戦に参戦した時、イタリア海軍は世界で4番目の規模を持つ海軍であった。しかしムッソリーニの無策で国際的に孤立していたイタリアは、枢軸国側に付く以外に選択肢が無く、結果として主力艦以外ならば同等の規模を持つフランス海軍と、数の上でも質でも欧州最強を誇るイギリス海軍を同時に相手にせねば成らない状況下に置かれていた。またイギリスやアメリカなどからの石油輸入に頼るイタリアは外交的な孤立によって慢性的な燃料不足状態に追い込まれ、大型艦艇の訓練や作戦行動も著しく制限されていたのも不安要素であった。
頼みの綱である改装戦艦4隻からなる大戦力も、内実からすれば第一次世界大戦時に用いられた弩級戦艦であり、新技術を用いて徹底的に改修したものであるとは言え、イギリス海軍は勿論、フランス地中海艦隊を相手にするにも一枚落ちる戦力でしかなかった。おまけにその内の2隻はドックで改修を施している最中で、開戦時には改装戦艦がたった2隻に過ぎなかった。ただこれには事情があり、そもそもの経済不安や工業力不足を押して対外戦争を続けたことで、イタリア王国軍は陸海空いずれも疲弊した状況にあった。その為、軍需大臣を初めとする閣僚陣や軍上層部は1943年以降の参戦をムッソリーニに求めており、海軍もそれに合わせた計画を進めていた。具体的には1942年頃までに4隻の新戦艦(ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦)を建造し、並行して先に述べた旧式戦艦4隻の近代化改修も済ませることで8隻の戦艦を戦列に並べ、フランス海軍に(或いはイギリス海軍へも局地的に)対抗するという計画であった。しかしムッソリーニが予想だにしない早期の参戦を強引に決定した為、海軍はまだドックに6隻の戦艦が眠る状態で戦いの渦中へ放り込まれてしまったのである。
イタリア海軍にとって不幸中の幸いだったのは当面の敵と考えられたフランスが極めて早い段階で降伏した事であり、結果として対仏戦はジェノヴァ沖で仏艦船と伊軍砲台が砲戦を交わしたのみに終わった。しかし、イギリス海軍が主敵となった後も、戦力面や燃料面での不利からイタリア海軍はイギリスとの艦隊決戦に消極的であった。イタリア海軍は、仮にイギリス海軍に打撃を与えたとしても、工業力に勝る英軍は直ぐに戦力を再建できるが、工業力に乏しい自軍にそれはできない[注 4]とも考えていた。この方針により、イタリア海軍は、本土沿岸部防衛とアルバニアやリビアへの海上輸送の警備に腐心し、主力艦隊はイギリス海軍を牽制する存在として温存された[注 5]。その代わりに奮戦したのはやはり前大戦同様に潜水艦や水雷艇などの小型艦艇であり、参戦から一週間で潜水艦部隊が英海軍の巡洋艦2隻と潜水艦3隻を沈めている。
対英戦での苦戦
対英戦は参戦2日後にクレタ島海域でイタリア潜水艦がイギリスの巡洋艦を沈めた事で始まり、フランス降伏によって地中海は英伊両軍の戦場となった(地中海の戦い)。
大規模な海戦が最初に発生したのは、1940年6月10日、リビアから帰還する途上にあったイタリア海軍の護衛艦隊(戦艦2隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦8隻)と、護送の最中だったイギリス海軍の護衛艦隊(戦艦3隻・空母1隻・駆逐艦16隻)とが、カラブリア半島の沖で偶発的に遭遇して起きた戦闘である(カラブリア沖海戦)。この戦いは英空母艦載機の空襲を伊巡洋艦の対空砲火が退けたところから始まり、戦艦同士の砲戦でイタリア戦艦一隻が損傷する一方、イタリア艦隊は英艦隊にほとんど損害を与えることができないまま撤退した。この戦いの際にイタリア空軍と海軍との連携ミスが明らかになってしまい、これを知ったイギリス海軍は、以降大胆な航空作戦を仕掛けて来るようになった。一方のイタリア海軍は、日を追うごとに深刻さを増す燃料事情も相まってますます艦隊行動を制限するようになり、スパダ岬沖海戦など幾つかの小規模な海戦を除けば殆ど海戦を避けるようになった。
イタリア海軍はイタリア半島南端のターラント海軍基地に主力艦艇を集結させ、イギリス海軍を牽制する策(現存艦隊主義)に出たが、これは完全な裏目となった。イギリス海軍は、先の海戦で知った「イタリア海軍は空軍と上手く連携出来ていない」という弱点を突き、小規模な航空隊にターラントを奇襲させたのである(タラント空襲)。この攻撃では、イギリス側の予想通り、イタリア空軍は海軍の要請に直ぐに応えることが出来ず、旧式戦艦1隻が撃沈、旧式戦艦と新たに竣工していた新型戦艦1隻がそれぞれ大破してしまうという結果に終わった。この戦いは、海戦の主力が、大型砲戦艦艇から航空機と空母へと移り変わった事を示したが、それが分かったとしてもイタリアの工業力では航空艦隊の新造など到底叶わぬ事であり、本拠地をナポリに移した海軍は、より一層消極的になっていった。
1941年4月、前年にアルバニアからギリシャに侵攻(ギリシャ・イタリア戦争)したものの苦戦していたイタリアを支援するため、ドイツはギリシャに侵攻した(ギリシャの戦い)。それに対してイギリスは、ギリシャを支援するための援軍を派遣したが、この派遣軍は海を隔てたエジプトから補給を受けていた。このためドイツは、その補給路を断つことをイタリア海軍に対して強く要請し、要請を断り切れなかったイタリア海軍は渋々に大規模な出撃を行うが、従前を上回る規模の空母と艦載機、そして最新式のレーダーを装備したイギリス海軍の前に、その双方を持たないイタリア海軍は全く歯が立たず、重巡洋艦3隻を失う大敗北に終わった(マタパン岬沖海戦)。これにより一度は地中海の制海権をイギリス側に完全に奪われてしまうが、イタリア海軍は、温存されていた戦艦隊を用いた強行突破で北アフリカ戦線の為の補給船団を届けたり、更に海軍の特殊部隊による破壊活動でアレクサンドリア沖に停泊していたイギリス戦艦2隻を大破させる(アレクサンドリア港攻撃)など、様々な努力で北アフリカとの補給線の維持に努めた。だがイギリス軍はマルタ島を拠点とする作戦活動で次第にこれを押さえ込み、戦いの中心はマルタ島への独伊空軍の空襲へと変化していった。
潜水艦部隊・特殊部隊の奮戦
マルタ島とその近辺での通商破壊戦が激化する一方で、イタリア海軍はいよいよ大型艦艇が運用できない程にまで燃料不足が深刻化していた。1942年の時点で艦艇用の燃料はほぼ底を突き、停泊していた新造戦艦3隻も最早、鉄の置物と化していた。そんな状況でも小型艦艇は奮戦を続け、海軍の特殊部隊が中立船に偽装した輸送艦「オルテラ」を拠点に多数のイギリス軍の輸送艦を撃沈している。同様に潜水艦部隊もドイツ海軍の要請で1940年8月にフランスのボルドーにBETASOMと呼ばれる基地を設け、9月から潜水艦29隻を大西洋側に回航し、休戦までに86,483トン撃沈の「タッツォーリ」、90,600トン撃沈の「アルキメーデ」など戦果を挙げた多くの潜水艦を輩出している[1]。
終戦
燃料の枯渇したイタリア海軍は1942年8月以降、一切の大型艦の出動が行えず、1943年に入ってからは遂に潜水艦も動かせなくなった。僅かに水雷艇のみが活動を続け、イギリス海軍の駆逐艦を撃沈するなどの戦果を挙げていたが、戦線はイタリア本土に迫りつつあった。連合軍がイタリア本土への上陸(ハスキー作戦)を開始すると、イタリア海軍の提督は残存していた戦艦3隻を基幹とする主力艦隊を編成し、方々から掻き集めた燃料を積み込んで出撃に漕ぎ着けた。
ベルガミーニ提督は、勝算がなかったにもかかわらず、海軍の死に場所を用意するために出撃を決意し、上陸を進めていた連合国軍の輸送艦隊に決戦を挑もうとしていた。しかしその頃イタリア王国政府では政変が起こりムッソリーニが失脚、新たにバドリオが首相となり連合軍との休戦を模索していた。そんな最中に連合軍に切り込めば休戦交渉が決裂するのは明らかであり、バドリオは海軍参謀長と共に、戦後の国益を優先するようベルガミーニを説得、これに折れたベルガミーニは突撃を断念して連合国軍に合流する事に同意した。だがこれを知ったドイツ空軍は連合軍への合流を阻止するために、皮肉にもイタリアで実験が行われていた新兵器フリッツXによる攻撃を敢行し、同兵器の直撃を受けた旗艦ローマは撃沈され、ベルガミーニ提督も戦死した。これは戦史上、初めての対艦ミサイルでの攻撃であり、航空機の発達により劣勢に追いやられていた戦艦が決定的に過去の遺物となった事を意味していた。
冷戦から現代
終戦後、イタリア王国は政体を変え、イタリア共和国となった。これにあわせて海軍も改名し、イタリア軍事海軍(マリーナ・ミリターレ・イタリアーナ)となった。第二次世界大戦以降はイタリアは大きな戦争に参加していないが、冷戦期は西側と東側の境界にあるということから、北大西洋条約機構 (NATO) の一員として重要な役割を担った。現在のイタリア海軍は軽空母を有する、世界でも有数の海軍であるといえる。ラ・スペツィア、ヴェネツィア及びターラントに海軍工廠がある。
組織
海軍は、海軍参謀本部の下で5つの主要司令部に組織されている。
1999年10月1日に再編制され以下の通りとなっている
外洋部隊司令部(COMFORAL)
哨戒部隊・沿岸警備監督司令部(COMFORPAT)
水陸両用戦部隊司令部(COMFORSBARC)
潜水艦部隊司令部(COMFORSUB)
掃海部隊司令部(COMFORDRAG)
外洋部隊司令部(Comando Forze d'Altura)
本部:ターラント海軍基地
司令官階級:上級少将
「カヴール」と「ジュゼッペ・ガリバルディ」を艦隊旗艦とし、アンドレア・ドリア級駆逐艦の2隻、デ・ラ・ペンネ級駆逐艦の2隻、サン・ジョルジョ級強襲揚陸艦の3隻がブリンディジ海軍基地に、補給艦 エトナをターラント海軍基地に、エレットラをラ・スペツィア海軍基地に配備してそれぞれを直轄指揮下に治め、第1フリゲート戦隊司令部(COMSQUAFR1)をターラントに、第2フリゲート戦隊司令部(COMSQUAFR2)をラ・スペツィアに配置し、それぞれ拠点としている。
第1フリゲート戦隊司令部(Comando 1ª Squadriglia Fregate)
拠点:ターラント海軍基地
司令官階級:大佐
マエストラーレ級フリゲートのアリセオ、エウロ、エスペロ、ゼッフィーロを、ソルダティ級フリゲートからはアルティリエーレ、アヴィエーレ、ベルサリエーレ、グラナティエーレがあり、補給艦はストロンボリが配備されている。
第2フリゲート戦隊司令部(Comando 2ª Squadriglia Fregate)
拠点:ラ・スペツィア海軍基地
司令官階級:大佐
マエストラーレ級フリゲートのマエストラーレ、グレカーレ、リベッチオ、シロッコがあり、補給艦 ヴェスヴィオが配備されている。
哨戒部隊・沿岸警備監督司令部(Comando delle Forze da Pattugliamento per la Sorveglianza e la Difesa Costiera)
拠点アウグスタ海軍基地
司令官階級:少将
下部組織に哨戒戦隊司令部(COMSQUACORV)、第1哨戒戦隊司令部(COMSQUAPAT1)、第2哨戒戦隊司令部(COMSQUAPAT2)の3つが存在している。COMSQUACORVにはミネルヴァ級コルベットが4隻、COMSQUAPAT1にはコマンダンテ級哨戒艦とカシオペア級哨戒艦が2隻ずつ配備され、COMSQUAPAT2にはカシオペア級哨戒艦第1シリーズが2隻配備されている。
水陸両用戦部隊司令部(Comando delle Forze Anfibie)
サン・マルコ海兵旅団を指揮下に治め、必要に応じサン・ジョルジョ級強襲揚陸艦の3隻の派出を受ける。
潜水艦部隊司令部(Comando Forze Subacquee)
拠点:ターラント海軍基地
司令官階級:少将
潜水艦群司令部(Comando Gruppo Sommergibili、COMGRUPSOM)の下で212A型潜水艦とサウロ級潜水艦の合わせて6隻を運用している。
掃海部隊司令部(Comando Forze Contromisure Mine)
ラ・スペツィア海軍基地
司令官階級:少将
第53掃海戦隊司令部(COMSQUADRAG53)と第54掃海戦隊司令部(COMSQUADRAG54)を指揮下に治めている。第53掃海戦隊司令部には2隻およびレリーチ級第2シリーズ4隻が配備され、第54掃海戦隊司令部にはレリーチ級第2シリーズ6隻が配備されている。
以前の艦隊組織
改編前には4つの海軍管区と潜水艦司令部が存在していた。
第1海軍管区(I Divisione Navale)
本部:ラ・スペツィア
第7フリゲート戦隊にアウダーチェ級駆逐艦 (2代)が配備されていた。現在は第2フリゲート戦隊司令部となっている。
第2海軍管区(II Divisione Navale)
本部:ターラント
アンドレア・ドリア級ヘリコプター巡洋艦やヴィットリオ・ヴェネトが配備され、第2遠洋群にはインパヴィド級駆逐艦やデ・ラ・ペンネ級駆逐艦が、第5フリゲート戦隊にはルポ級フリゲートが配備されていた。
第3海軍管区(III Divisione Navale)
本部:ブリンディジ
揚陸艦やスパルヴィエロ級ミサイル艇が配備されていた。
第4海軍管区(IV Divisione Navale)
本部:アウグスタ
第1コルベット戦隊にアルバトロス級コルベットやカルロ・ベルガミーニ級フリゲートが配備されていた。
潜水艦司令部(Comando Sommergibili)
本部:ターラント
第1潜水群と第2潜水群を擁し、潜水艦を運用していた。
掃海艇や支援艦艇は各管区の部に配備されていた。
階級
将官
OF-10 特級大将 ammiraglio(提督)
OF-9 大将 ammiraglio di squadra con incarichi speciali (特別職たる艦隊提督)
OF-8 中将 ammiraglio di squadra (艦隊提督[2])
OF-7 上級少将 ammiraglio di divisione (戦隊提督[3])
OF-6 少将 contrammiraglio (後衛提督[4])
佐官
OF-5 大佐 capitano di vascello (戦列艦艦長)
OF-4 中佐 capitano di fregata (フリゲート艦長)
OF-3 少佐 capitano corvetta (コルベット艦長)
尉官
OF-2 上級大尉 primo tenente di vascello (一等戦列艦海尉)
OF-2 大尉 tenente di vascello (戦列艦海尉)
OF-1 中尉 sottotenente di vascello (戦列艦下級海尉)
OF-1 少尉 guardimarina (海上警備官)
OF-D 士官候補生 aspirante guardimarina (海上警備官候補生)
下士官
OR-9 一等兵曹長 primo maresciallo luguotenente
OR-9 二等兵曹長 primo maresciallo
OR-9 三等兵曹長 copo di prima classe
OR-8 四等兵曹長 capo di seconda clase
OR-8 五等兵曹長 capo di terza classe
OR-7 上等兵曹 secondo capo scelto
OR-6 一等兵曹 secondo capo
OR-5 二等兵曹 sergente
兵
OR-4 最先任上級水兵長 sotto capo di prima classe scelto
OR-4 先任上級水兵長 sotto capo di prima classe
OR-4 上級水兵長 sotto capo di seconda classe
OR-4 水兵長 sotto capo di terza classe
OR-3 上等水兵 sotto capo
OR-2 一等水兵 comune di prima classe
OR-1 二等水兵 comune
主要基地・施設
ラ・スペツィア海軍基地、リグーリア州ラ・スペツィア県
ターラント海軍基地、プッリャ州ターラント県
ブリンディジ海軍基地、プッリャ州ブリンディジ県
アンコーナ海軍基地、マルケ州アンコーナ県(地方基地)
ナポリ海軍基地、カンパニア州ナポリ県(北大西洋条約機構のナポリ統合軍司令部、ナポリ海上部隊司令部が所在している)
アウグスタ海軍基地、シチリア州シラクーザ県(地方基地)
メッシーナ海軍基地、シチリア州メッシーナ県(地方基地)
カターニア航空基地、シチリア州カターニア(哨戒機基地)
ラ・マッダレーナ海軍基地、サルデーニャ州オルビア=テンピオ県(地方基地)
カリャリ航空基地、サルデーニャ州カリャリ県(哨戒機基地)
ガエータ基地、ラツィオ州ラティーナ県(アメリカ合衆国海軍第6艦隊の母港)
装備
艦艇
2011年6月現在。『Jane's Fighting Ships 2011-2012』より。
歴代艦艇については「イタリア海軍艦艇一覧」を参照。
通常動力型潜水艦
212A型 × 4隻
サルヴァトーレ・トーダロ(S526 Salvatore Todaro) - 2006年
シレ(S527 Scire) - 2007年
ピエトロ・ヴェヌーティ(S528 Pietro Venuti) - 2016年
ロメオ・ロメイ(S529 Romeo Romei) - 2017年
改サウロ級 × 4隻
サルヴァトーレ・ペロースィ(S522 Salvatore Pelosi) - 1988年
ジュリアーノ・プリーニ(S523 Giuliano Prini) - 1989年
プリモ・ロンゴバルド(S524 Primo Longobardo) - 1993年
ジャンフランコ・ガッザーナ=プリアロッジア(S525 Gianfranco Gazzana Priaroggia) - 1995年
航空母艦
カヴール(C550 Cavour) - 2009年
駆逐艦
アンドレア・ドリア級 × 2隻
アンドレア・ドーリア(D553 Andrea Doria) - 2008年
カイオ・ドゥイリオ(D554 Caio Duilio) - 2009年
デ・ラ・ペンネ級 × 2隻
ルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ(D560 Luigi Durand de la Penne) - 1993年
フランチェスコ・ミンベッリ(D561 Francesco Mimbelli) - 1993年
フリゲート
ベルガミーニ級 × 6隻(3隻建造中、1隻計画中)
カルロ・ベルガミーニ(F590 Carlo Bergamini) - 2013年
ヴィルジニオ・ファサン(F591 Virginio Fasan) - 2013年
カルロ・マルゴッティーニ(F592 Carlo Margottini) - 2014年
カラビニエーレ(F593 Carabiniere) - 2015年
アルピーノ(F594 Alpino) - 2016年
ルイージ・リッツォ(F595 Luigi Rizzo) - 2017年
フェデリコ・マルティネンゴ(F596 Federico Martinengo) - 2018年就役予定
アントニオ・マルセグリア(F597 Antonio Marceglia) - 2019年就役予定
スパルタコ・スケルガト(F598 Spartaco Schergat) - 2020年就役予定
エミリオ・ビアンキ(F599 Emilio Bianchi) - 2021年就役予定
ルポ級 × 4隻
アルティリエーレ(F582 Artigliere) - 1994年
アヴィエーレ(F583 Aviere) - 1995年
ベルサリエーレ(F584 Bersagliere) - 1995年
グラナティエーレ(F585 Granatiere) - 1996年
マエストラーレ級 × 7隻
グレカーレ(F571 Grecale) - 1983年
リベッチオ(F572 Libeccio) - 1983年
シロッコ(F573 Scirocco) - 1983年
アリセオ(F574 Aliseo) - 1983年
エウロ(F575 Euro) - 1984年
エスペロ(F576 Espero) - 1984年
ゼッフィーロ(F577 Zeffiro) - 1985年
コルベット
ミネルヴァ級 × 4隻
スフィンジェ(F554 Sfinge) - 1988年
ドリアーデ(F555 Driade) - 1990年
キメラ(F556 Chimera) - 1991年
フィニーチェ(F557 Fenice) - 1990年
哨戒艦
コマンダンテ級×6
コマンダンテ・シガーラ・フルゴーシ(P490 Comandante Cigala Fulgosi) - 2001年
コマンダンテ・ボルシーニ(P491 Comandante Borsini) - 2001年
コマンダンテ・ベティッカ(P492 Comandante Bettica) - 2002年
コマンダンテ・フォスカリ(P493 Comandante Foscari) - 2002年
シリオ(P494 Sirio) - 2003年
オリオーネ(P495 Orione) - 2003年
カシオペア級×4
カシオペア(P401 Cassiopea) - 1989年
リブラ(P402 Libra) - 1989年
スピカ(P403 Spica) - 1990年
ヴェガ(P404 Vega) - 1990年
哨戒艇
エクスプローラ級×4
エスプロラトーレ(P405 Esploratore) - 1997年
センティネッラ(P406 Sentinella) - 1998年
ヴェデッタ(P407 Vedetta) - 1999年
スタッフェッタ(P408 Staffetta) - 2005年
強襲揚陸艦
(LPH)
ジュゼッペ・ガリバルディ(C551 Giuseppe Garibaldi)[5]
新型×0(3隻計画中)
ドック型輸送揚陸艦(LPD)
サン・ジョルジョ級×3
サン・ジョルジョ(L9892 San Giorgio) - 1987年
サン・マルコ(L9893 San Marco) - 1988年
サン・ジュスト(L9894 San Giusto) - 1994年
中型揚陸艇(LCM)
MTM217型×9
MEN217-222、227-228、551
改MTM217型×4
MEN562-565
車両兵員揚陸艇(LCVP)
MTP96型×17
MDN94-104、108-109、114-117
掃海艇
レリチ級×12
レリチ(M5550 Lerici) - 1985年
サプリ(M5551 Sapri) - 1985年
ミラッツォ(M5552 Milazzo) - 1985年
ビエステ(M5553 Vieste) - 1985年
ガエタ(M5554 Gaeta) - 1992年
テルモリ(M5555 Termoli) - 1992年
アルゲーロ(M5556 Alghero) - 1993年
ヌマーナ(M5557 Numana) - 1993年
クロトネ(M5558 Crotone) - 1994年
ビアレッジョ(M5559 Viareggio) - 1994年
キオッジャ(M5560 Chioggia) - 1996年
リミニ(M5561 Rimini) - 1996年
測量艦
エレットラ(A5340 Elettra) - 2003年
(A5303 Ammiraglio Magnaghi) - 1975年
測量艇
アレトゥサ級×2
アレトゥサ(A5304 Aretusa) - 2002年
ガラテア(A5308 Galatea) - 2002年
情報収集艦
ラファエロ・ロゼッティ(A5315 Raffaele Rossetti) - 1986年
ヴィンチェンツォ・マルテロッタ(A5320 Vincenzo Martellotta) - 1990年
レオナルド(A5390 Leonardo) - 2002年
練習艇
アラゴスタ級×3
アスティチェ(A5379 Astice)
ミーティロ(A5380 Mitilo)
ポルポラ(A5382 Porpora)
練習帆船
アメリゴ・ヴェスプッチ(A5312 Amerigo Vespucci) - 1931年
パリヌロ(A5311 Palinuro) - 1934年
イタリア(Italia) - 2008年
練習ヨット
(A5302 Caroly) - 1948年
(A5313 Stella Polare) - 1965年
(A5316 Corsaro 2) - 1961年
(A5322 Capricia) - 1963年
(A5323 Orsa Maggiore) - 1994年
救命潜水艇
SRV300
給油艦
エトナ(A5326 Etna) - 1998年
ストロンボリ級×2
ストロンボリ(A5327 Strombori) - 1975年
ヴェスヴィオ(A5328 Vesuvio) - 1978年
輸送艦
MTC1011型×6
(A5347 Gorgona) - 1986年
(A5348 Tremiti) - 1987年
(A5349 Caprera) - 1987年
(A5350 Pantelleria) - 1987年
(A5351 Lipari) - 1987年
(A5352 Capri) - 1987年
輸送艇
MEN215級×2
MEN215-216
給水艦
(A5359 Bormida)
MCC1101型×4
(A5370 Panarea)、(A5371 Lisona)、(A5372 Favignana)。(A5373 Salina)
Simeto級×2
(A5376 Ticino) - 1994年
(A5377 Tirso) - 1994年
Depoli級×7
GGS1012-1014、GRS/G1010-1012、GRS/J1013
サルベージ船
(A5309 Anteo) - 1980年
灯台見回り船
Ponza級×5
(A5364 Ponza) - 1988年
(A5366 Levanzo) - 1989年
(A5367 Tavolara) - 1989年
(A5368 Palmaria) - 1989年
(A5383 Procida) - 1990年
浮ドック
GO1(1,000t) - 1942年
GO5(100t) - 1893年
GO8(3,800t) - 1904年
GO10(2,000t) - 1900年
GO11(2,700t) - 1920年
GO17(500t) - 1917年
GO18A(800t) - 1920年
GO18B(600t) - 1920年
GO20(1,600t) - 1935年
GO22-23(1,000t) - 1935年
GO51(2,000t) - 1971年
GO52-54(6,000t) - 1988-1993年
GO55-57(850t) - 1995-1996年
GO58(2,000t) - 1995年
魚雷揚収船
MEN212級×1
特殊任務支援艇
Pedretti級×2
(Y499 Alcide Pedretti) - 1984年
(Y498 Mario Marino) - 1984年
人員輸送艇
Aragosta級×1
(A5305 Murena)
航洋曳船
各型×7
(A5318 Prometeo)、(A5319 Ciclope)、(A5324 Titano)、(A5325 Polifemo)、(A5328 Gigante)、(A5330 Saturno)、(A5365 Tenace)
曳船
各型×9
(Y413 Porto Fossone)、(Y416 Porto Torres)、(Y417 Porto Corsini)、(Y421 Porto Empedocle)、(Y422 Porto Pisano)、(Y423 Porto Conte)、(Y425 Porto Ferraio)、(Y426 Porto Venere)、(Y428 Porto Salvo)
港内曳船
各型×32
RP101(Y403W)、102(Y404)、103(Y406)、104(Y407)、105(Y408)、106(Y410)、108(Y452)、109(Y456)、110(Y458)、111(Y460)、112(Y462)、113(Y463)、114(Y464)、115(Y465)、116(Y466)、118(Y468)、119(Y470)、120(Y471)、121(Y472)、122(Y473)、123(Y467)、124(Y477)、125(Y478)、126(Y479)、127(Y480)、128(Y481)、129(Y482)、130(Y483)、131(Y484)、132(Y485)、133(Y486)、134(Y487)
航空機
2011年6月現在。『Jane's Fighting Ships 2011-2012』より。
固定翼機
マグダネル・ダグラス AV-8B/TAV-8B ハリアー2+×14/2
ブレゲー アトランティック1×7
パナビア トーネード IDS×15
ボーイング 737AEW×3(計画中)
ボーイング P-8A ポセイドン×8(計画中)
ピアッジョ P.180 アヴァンティ×3
EADS ATR-72-600×4
回転翼機
アグスタ/ウェストランド EH-101 マーリン×22
NHインダストリー NH90 NFH×4
アグスタ-ベル 212×25
アグスタ-シコルスキー SH-3D/H シーキング×6
アグスタ A109×1
UAV
RQ-1B プレデター×5
×10(2011年導入予定)
旗
軍艦旗の中央に使用される紋章は、中世、地中海の覇権を争い、「海洋共和国」(レプブリケ・マリナーレ)と呼ばれた都市国家の紋章を組み合わせたもので、左上がヴェネツィア共和国(聖マルコの獅子)、右上がジェノヴァ共和国(白地に赤十字)、左下がアマルフィ公国(青地にマルタ十字)、右下がピサ共和国(赤字に、使徒を示す12の珠の付いた白十字)[6]。この紋章入りの旗は、商船においても軍艦旗の王冠を除いた形で用いられる。
軍艦旗
軍艦用国籍旗
軍艦用国籍旗裏面
海軍航空隊国籍マーク(ラウンデル)
初期のイタリア国籍旗
脚注
出典
参考文献
レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著 『潜水艦戦争: 1939−1945. 上』 長塚隆二訳、早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050215-3
Jane's Fighting Ships 2011-2012
関連項目
北大西洋条約機構
地中海
アドリア海
ティレニア海
ナポリ
タラント
イタリア沿岸警備隊
外部リンク
(イタリア語)
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Aceh adalah sebuah provinsi di Indonesia yang beribukota Banda Aceh.Aceh merupakan salah satu provinsi di Indonesia yang diberi status sebagai daerah istimewa dan juga diberi kewenangan otonomi khusus. Aceh terletak di ujung utara pulau Sumatera dan merupakan provinsi paling barat di Indonesia. Jumlah penduduk provinsi ini sekitar 4.500.000 jiwa. Letaknya dekat dengan Kepulauan Andaman dan Nikobar di India dan terpisahkan oleh Laut Andaman. Aceh berbatasan dengan Teluk Benggala di sebelah utara, Samudra Hindia di sebelah barat, Selat Malaka di sebelah timur, dan Sumatera Utara di sebelah tenggara dan selatan.
Aceh dianggap sebagai tempat dimulainya penyebaran Islam di Indonesia dan memainkan peran penting dalam penyebaran Islam di Asia Tenggara. Pada awal abad ke-17, Kesultanan Aceh adalah negara terkaya, terkuat, dan termakmur di kawasan Selat Malaka. Sejarah Aceh diwarnai oleh kebebasan politik dan penolakan keras terhadap kendali orang asing, termasuk bekas penjajah Belanda dan pemerintah Indonesia. Jika dibandingkan dengan dengan provinsi lainnya, Aceh adalah wilayah yang sangat konservatif (menjunjung tinggi nilai agama).[1] Persentase penduduk Muslimnya adalah yang tertinggi di Indonesia dan mereka hidup sesuai syariah Islam.[2] Berbeda dengan kebanyakan provinsi lain di Indonesia, Aceh memiliki otonomi yang diatur tersendiri karena alasan sejarah.[3]
Aceh memiliki sumber daya alam yang melimpah, termasuk minyak bumi dan gas alam. Sejumlah analis memperkirakan cadangan gas alam Aceh adalah yang terbesar di dunia.[1] Aceh juga terkenal dengan hutannya yang terletak di sepanjang jajaran Bukit Barisan dari Kutacane di Aceh Tenggara sampai Ulu Masen di Aceh Jaya. Sebuah taman nasional bernama Taman Nasional Gunung Leuser (TNGL) didirikan di Aceh Tenggara.
Aceh adalah daratan yang paling dekat dengan episentrum gempa bumi Samudra Hindia 2004. Setelah gempa, gelombang tsunami menerjang sebagian besar pesisir barat provinsi ini. Sekitar 170.000 orang tewas atau hilang akibat bencana tersebut.[4] Bencana ini juga mendorong terciptanya perjanjian damai antara pemerintah Republik Indonesia dan Gerakan Aceh Merdeka (GAM).
Sejarah
Asal nama
Aceh pertama dikenal dengan nama Aceh Darussalam (1511–1959), kemudian Daerah Istimewa Aceh (1959–2001), Nanggroë Aceh Darussalam (2001–2009), dan terakhir Aceh (2009–sekarang).[5] Sebelumnya, nama Aceh biasa ditulis Acheh, Atjeh, dan Achin.
Jaman prasejarah
jmpl|Bukit kerang dari masa prasejarah di Aceh Tamiang
Aceh telah dihuni manusia sejak zaman Mesolitikum, hal ini dibuktikan dengan keberadaan situs Bukit Kerang yang diklaim sebagai peninggalan zaman tersebut di kabupaten Aceh Tamiang. Selain itu pada situs lain yang dinamakan dengan Situs Desa Pangkalan juga telah dilakukan ekskavasi serta berhasil ditemukan artefak peninggalan dari zaman Mesolitikum berupa kapak Sumatralith, fragmen gigi manusia, tulang badak, dan beberapa peralatan sederhana lainnya. Selain di kabupaten Aceh Tamiang, peninggalan kehidupan prasejarah di Aceh juga ditemukan di dataran tinggi Gayo tepatnya di Ceruk Mendale dan Ceruk Ujung Karang yang terdapat disekitar Danau Laut Tawar. Penemuan situs prasejarah ini mengungkapkan bukti adanya hunian manusia prasejarah yang telah berlangsung disini pada sekitar 7.400 hingga 5.000 tahun yang lalu.
Jaman kerajaan
Jaman kerajaan Hindu-Buddha
jmpl|150px|Arca Awalokiteswara bergaya Sriwijaya yang ditemukan di Aceh diperkirakan dari abad ke-9. Sekarang tersimpan di Museum Nasional Indonesia.
Sebagaimana daerah lain di kepulauan Nusantara, Aceh juga pernah mengalami masa berkembangnya agama Hindu dan Buddha yang datang dari daratan benua Asia Selatan (India). Pada masa itu di Aceh telah diwarnai dengan adanya beberapa kerajaan-kerajaan yang berdasarkan agama tersebut misalnya Kerajaan Indrapuri, Kerajaan Indrapatra dan Kerajaan Indrapurwa semuanya di Aceh Besar yang menganut kepercayaan Hindu dan dipengaruhi oleh India. Selain itu, Aceh juga dulu termasuk bagian dari kerajaan-kerajaan Hindu-Buddha yang pernah berjaya di Nusantara ribuan tahun lalu seperti Sriwijaya.
Masuknya Islam
Masih terjadi silang pendapat terkait persoalan dari sejak kapan Islam pertama sekali disebarkan ke Aceh. Sebagian berpandangan sudah dimulai dari sejak masa kekhalifahan Utsman bin Affan[6] sebagai khalifah ketiga setelah kerasulan Muhammad SAW.
Terkait Islam yang datang ke Aceh, Snouck Hurgronje dengan teori Gujaratnya menyebut Islam yang datang ke sana bukanlah Islam yang dibawa Muhammad, tetapi Islam yang sudah berkembang matang. Bukan Islam dari al Quran dan Hadits, melainkan Islam dengan kitab-kitab Fiqh dan dogmanya dari 3 abad kemudian.[7]
Sebagian lagi, ada yang berpandangan bahwa Islam yang datang ke Aceh justru sudah dimulai dari sejak tahun pertama Hijriyah (618 M). Satu pandangan yang menurut penulis buku Tasawuf Aceh merupakan pandangan tidak masuk akal. Alasan yang dikemukakannya adalah pada masa tersebut; ada kevakuman antara wahyu pertama (610 M) dengan wahyu kedua kepada Muhammad selama 2,5 tahun. Ditambah dengan masa berdakwah secara sembunyi-sembunyi yang dilakukan Muhammad selama 3 tahun. Dengan demikian baru pada tahun ke-7 masa kenabiannya baru dimulai dakwah secara terang-terangan.[8]
Tetapi sedikitnya persoalan demikian bisa ditelusuri dari keberadaan kerajaan pertama bercorak Islam di Aceh, Kerajaan Perlak yang didirikan pada 1 Muharram 225 Hijriyyah.[9]
Kesultanan Aceh
Kesultanan Aceh merupakan kelanjutan dari Kesultanan Samudra Pasai yang hancur pada abad ke-14. Kesultanan Aceh terletak di utara pulau Sumatera dengan ibu kota Kutaraja (Banda Aceh). Dalam sejarahnya yang panjang itu (1496 - 1903), Aceh telah mengukir masa lampaunya dengan begitu megah dan menakjubkan, terutama karena kemampuannya dalam mengembangkan pola dan sistem pendidikan militer, komitmennya dalam menentang imperialisme bangsa Eropa, sistem pemerintahan yang teratur dan sistematik, mewujudkan pusat-pusat pengkajian ilmu pengetahuan, hingga kemampuannya dalam menjalin hubungan diplomatik dengan negara lain.
Aceh Darussalam pada zaman kekuasaan zaman Sultan Iskandar Muda Meukuta Perkasa Alam (Sultan Aceh ke 19), merupakan negeri yang amat kaya dan makmur. Menurut seorang penjelajah asal Perancis yang tiba pada masa kejayaan Aceh pada zaman tersebut, kekuasaan Aceh mencapai pesisir barat Minangkabau hingga Perak. Kesultanan Aceh telah menjalin hubungan dengan kerajaan-kerajaan di dunia Barat pada abad ke-16, termasuk Inggris, Ottoman, dan Belanda.
Kesultanan Aceh terlibat perebutan kekuasaan yang berkepanjangan sejak awal abad ke-16, pertama dengan Portugal, lalu sejak abad ke-18 dengan Britania Raya (Inggris) dan Belanda. Pada akhir abad ke-18, Aceh terpaksa menyerahkan wilayahnya di Kedah dan Pulau Pinang di Semenanjung Melayu kepada Britania Raya.
Pada tahun 1824, Persetujuan Britania-Belanda ditandatangani, di mana Britania menyerahkan wilayahnya di Sumatra kepada Belanda. Pihak Britania mengklaim bahwa Aceh adalah koloni mereka, meskipun hal ini tidak benar. Pada tahun 1871, Britania membiarkan Belanda untuk menjajah Aceh, kemungkinan untuk mencegah Perancis dari mendapatkan kekuasaan di kawasan tersebut.
Perang Aceh
Perang Aceh dimulai sejak Belanda menyatakan perang terhadap Aceh pada 26 Maret 1873, dimulai dari kedatangan Jenderal J.H.R Kohler dengan jumlah pasukan sebanyak 3.198, termasuk 168 perwira KNIL[10].
Setelah melakukan beberapa ancaman diplomatik, namun tidak berhasil merebut wilayah yang besar. Perang kembali berkobar pada tahun 1883, namun lagi-lagi gagal, dan pada 1892 dan 1893, pihak Belanda menganggap bahwa mereka telah gagal merebut Aceh. Bahkan, pada hari pertama perang berlangsung, 1 unit kapal perang Belanda, Citadel van Antwerpen harus mengalami 12 tembakan meriam dari pasukan Aceh[11].
Dr. Christiaan Snouck Hurgronje, seorang ahli yang berpura-pura masuk Islam dari Universitas Leiden yang telah berhasil mendapatkan kepercayaan dari banyak pemimpin Aceh, kemudian memberikan saran kepada Belanda agar serangan mereka diarahkan kepada para ulama, bukan kepada sultan. Saran ini ternyata berhasil. Pada tahun 1898, Joannes Benedictus van Heutsz dinyatakan sebagai gubernur Aceh, dan bersama letnannya, Hendrikus Colijn, merebut sebagian besar Aceh.
Sultan M. Dawud akhirnya meyerahkan diri kepada Belanda pada tahun 1903 setelah dua istrinya, anak serta ibundanya terlebih dahulu ditangkap oleh Belanda. Kesultanan Aceh akhirnya jatuh pada tahun 1904. Saat itu, Ibukota Aceh telah sepenuhnya direbut Belanda. Namun perlawanan masih terus dilakukan oleh Panglima-panglima di pedalaman dan oleh para Ulama Aceh sampai akhirnya jepang masuk dan menggantikan peran belanda.
Perang Aceh adalah perang yang paling banyak merugikan pihak belanda sepanjang sejarah penjajahan Nusantara.
Masa penjajahan
Bangkitnya nasionalisme
jmpl|250px|Replika pesawat Dakota RI-001 Seulawah sumbangan rakyat Aceh di Lapangan Blang Padang, Banda Aceh
Sementara pada masa kekuasaan Belanda, bangsa Aceh mulai mengadakan kerja sama dengan wilayah-wilayah lain di Indonesia dan terlibat dalam berbagai gerakan nasionalis dan politik. Aceh kian hari kian terlibat dalam gerakan nasionalis Indonesia. Saat Volksraad (parlemen) dibentuk, Teuku Nyak Arif terpilih sebagai wakil pertama dari Aceh. (Nyak Arif lalu dilantik sebagai gubernur Aceh oleh gubernur Sumatra pertama, Mr. Teuku Muhammad Hasan).
Saat Jepang mulai mengobarkan perang untuk mengusir kolonialis Eropa dari Asia, tokoh-tokoh pejuang Aceh mengirim utusan ke pemimpin perang Jepang untuk membantu usaha mengusir Belanda dari Aceh. Negosiasi dimulai pada tahun 1940. Setelah beberapa rencana pendaratan dibatalkan, akhirnya pada 9 Februari 1942 kekuatan militer Jepang mendarat di wilayah Ujong Batee, Aceh Besar. Kedatangan mereka disambut oleh tokoh-tokoh pejuang Aceh dan masyarakat umum. Masuknya Jepang ke Aceh membuat Belanda terusir secara permanen dari tanah Aceh.
Awalnya Jepang bersikap baik dan hormat kepada masyarakat dan tokoh-tokoh Aceh, dan menghormati kepercayaan dan adat istiadat Aceh yang bernapaskan Islam. Rakyat pun tidak segan untuk membantu dan ikut serta dalam program-program pembangunan Jepang. Namun ketika keadaan sudah membaik, pelecehan terhadap masyarakat Aceh khususnya kaum perempuan mulai dilakukan oleh personel tentara Jepang. Rakyat Aceh yang beragama Islam pun mulai diperintahkan untuk membungkuk ke arah matahari terbit di waktu pagi, sebuah perilaku yang sangat bertentangan dengan akidah Islam. Karena itu pecahlah perlawanan rakyat Aceh terhadap Jepang di seluruh daerah Aceh. contoh yang paling terkenal adalah perlawanan yang dipimpin oleh Teungku Abdul Jalil, seorang ulama dari daerah Bayu, dekat Lhokseumawe.
Pasca kemerdekaan Indonesia
Sejak tahun 1976, organisasi pembebasan bernama Gerakan Aceh Merdeka (GAM) telah berusaha untuk memisahkan Aceh dari Indonesia melalui upaya militer. Pada 15 Agustus 2005, GAM dan pemerintah Indonesia akhirnya menandatangani persetujuan damai sehingga mengakhiri konflik antara kedua pihak yang telah berlangsung selama hampir 30 tahun.
Pada 26 Desember 2004, sebuah gempa bumi besar menyebabkan tsunami yang melanda sebagian besar pesisir barat Aceh, termasuk Banda Aceh, dan menyebabkan kematian ratusan ribu jiwa.
Di samping itu, telah muncul aspirasi dari beberapa wilayah Aceh, khususnya di bagian barat, selatan dan pedalaman untuk memisahkan diri dari Aceh dan membentuk provinsi-provinsi baru.
Darul Islam / Tentara Islam Indonesia
Aceh yang semula bergabung dengan Indonesia dengan jaminan Soekarno akan menerapkan syariat Islam, merasa kecewa karena syariat Islam tidak dijadikan sebagai landasan negara. Sehingga pada tanggal 13 Muharram 1372 H/21 September 1953 M, Teungku Muhammad Daud Beureu'eh atas nama rakyat Aceh mengumumkan bergabung dengan Negara Islam Indonesia yang didirikan oleh Kartosoewirjo.[12]
Gerakan Aceh Merdeka
Pasca Gempa dan Tsunami 2004, yaitu pada 2005, Pemerintah Republik Indonesia dan Gerakan Aceh Merdeka sepakat mengakhiri konflik di Aceh. Perjanjian ini ditandatangani di Finlandia, dengan peran besar daripada mantan petinggi Finlandia, Martti Ahtisaari.
Politik dan Pemerintahan
Sistem pemerintahan yang berlaku di Aceh saat ini ada 2, yaitu Sistem Pemerintahan Lokal Aceh dan Sistem Pemerintahan Indonesia. Berdasarkan penjenjangan, perbedaan yang tampak adalah adanya Pemerintahan Mukim di antara kecamatan dan gampong.
Aceh Sebagai Daerah Istimewa
Saat ini satuan pemerintahan daerah yang berstatus Daerah Istimewa di Indonesia hanya dua provinsi yaitu Provinsi Aceh (UU Nomor 44 Tahun 1999) dan Provinsi Daerah Istimewa Yogyakarta (UU 13 Tahun 2012).
Berdasarkan status pemerintahan daerah yang bersifat istimewa, UU Nomor 44 Tahun 1999 tentang Penyelenggaraan Keistimewaan bagi Daerah Provinsi Istimewa Aceh telah memberikan legitimasi secara yuridis formal keistimewaan.
Penyelenggaraan Keistimewaan Aceh meliputi:.penyelenggaraan kehidupan beragama;
b.penyelenggaraan kehidupan adat;
c.penyelenggaraan pendidikan; dan
d.peran ulama dalam penetapan kebijakan Daerah.[13]
Aceh Sebagai Daerah Khusus
Dalam praktik ketatanegaraan di Indonesia hingga saat ini hanya empat satuan daerah yang dinyatakan berstatus sebagai Daerah Khusus yaitu Provinsi Aceh, Daerah Khusus Ibukota (DKI) Jakarta, dan Provinsi Papua serta Papua Barat.
Kekhususan Aceh telah diatur berdasarkan UU Nomor 11 Tahun 2006 tentang Pemerintahan Aceh pada hakikatnya manifestasi dari UUD Tahun 1945. Negara mengakui dan menghormati satuan-satuan pemerintahan daerah yang bersifat Khusus atau bersifat istimewa yang diatur dengan undang undang.[14] Berdasarkan Undang-undang Pemerintahan Aceh (UU-PA), Sebagai daerah Khusus, saat ini sudah memiliki 26 Kewenangan Khusus. Dengan demikian, otonomi seluas-luasnya pada dasarnya bukanlah sekadar hak, tetapi lebih dari itu yaitu merupakan kewajiban konstitusional untuk dimanfaatkan sebesar-besarnya bagi kesejahteraan di Aceh.
Oleh karena itu Aceh terdapat 2 (dua) sebutan yaitu daerah istimewa dan daerah khusus, sehingga nama Aceh dapat disebutkan sebagai daerah khusus propinsi daerah istimewa Aceh.[15]
Sistem Pemerintahan Indonesia
Sejak tahun 1999, Aceh telah mengalami beberapa pemekaran wilayah hingga sekarang mencapai 5 pemerintahan kota dan 18 kabupaten sebagai berikut:
Daftar kabupaten dan kota di Aceh
Daftar Gubernur
Daftar gubernur Aceh
Dewan Perwakilan
jmpl|Meuligoe, tempat kediaman gubernur Aceh|369x369px
Berdasarkan Pemilihan umum legislatif 2014, Provinsi Aceh mengirim 13 wakil ke DPR RI dari dua daerah pemilihan dan empat wakil ke DPD. Pada tingkat provinsi, DPRA hasil Pemilihan Umum Legislatif 2014 tersusun dari sepuluh partai, dengan perincian sebagai berikut:
Sistem Pemerintahan Lokal Aceh
Sistem pemerintahan lokal Aceh terdiri dari gampông, mukim, nanggroë, sagoë dan keurajeuën.
Demografi
Etnis Bangsa
jmpl|Rambu peringatan tsunami dalam dua bahasa, yaitu bahasa Indonesia dan bahasa Aceh|272x272px
Aceh memiliki 13 etnis bangsa asli. Yang terbesar adalah etnis Aceh yang mendiami wilayah pesisir mulai dari Langsa di pesisir timur utara sampai dengan Trumon di pesisir barat selatan. Etnis lain nya adalah etnis Gayo, (Gayo Lut, Gayo Luwes, Gayo Serbejadi) yang mendiami wilayah pegunungan di tengah Aceh. Selain itu juga dijumpai etnis-etnis lainnya seperti, etnis Jamèë di Aceh Selatan, etnis Singkil dan etnis Pakpak di Subulussalam, Singkil dan etnis Alas di Aceh Tenggara, etnis Kluet di Aceh Selatan dan etnis Tamiang di Aceh Tamiang, dan di Pulau Simeulue terdapat etnis Sigulai.
Hasil sensus penduduk tahun 2000 menunjukkan hasil sebagai berikut:
Aceh (50,32%), Jawa (15,87%), Gayo (11,46%), Alas (3,89%), Singkil (2,55%), Simeulue (2,47%), Batak (2,26%), Minangkabau (1,09%), lain-lain (10,09%)[16]
Namun sensus tahun 2000 ini dilakukan ketika Aceh dalam masa konflik sehingga cakupannya hanya menjangkau kurang dari setengah populasi Aceh saat itu. Masalah paling serius dalam pencacahan ditemui di kabupaten Aceh Timur dan Aceh Utara, dan tidak ada data sama sekali yang dikumpulkan dari kabupaten Pidie. Ketiga kabupaten ini merupakan kabupaten dengan mayoritas etnis Aceh.[17]
Berdasarkan sensus 2010 di peroleh hasil 10 etnis bangsa terbesar di Aceh, yaitu:[18]
Bahasa
Bahasa yang paling banyak dipakai di Aceh adalah Aceh yang dituturkan oleh etnis Aceh di sepanjang pesisir Aceh dan sebagian pedalaman Aceh. Bahasa lain nya adalah Bahasa Gayo di Aceh bagian tengah, Bahasa Alas di Aceh Tenggara, Bahasa Aneuk Jamee di Aceh Selatan, Bahasa Singkil dan Bahasa Pakpak di Aceh Singkil, Bahasa Kluet di Aceh Selatan, Bahasa Melayu Tamiang di Aceh Tamiang, Di Simeulue bagian utara dijumpai Bahasa Sigulai dan Bahasa Lekon, sedangkan di selatan simeulue di jumpai Bahasa Devayan, Bahasa Haloban.
Agama
Sebagian besar penduduk Aceh menganut agama Islam. Dari ke 13 etnis asli yang ada di Aceh hanya etnis Nias yang tidak semuanya memeluk agama Islam.
Agama lain yang dianut oleh penduduk Aceh adalah agama Kristen yang dianut oleh pendatang beretnis Batak dan sebagian warga keturunan Tionghoa yang kebanyakan beretnis Hakka. Sedangkan sebagian lainnya tetap menganut agama Konghucu.
Selain itu Aceh memiliki keistimewaan dibandingkan dengan provinsi yang lain, karena di Aceh Syariat Islam diberlakukan kepada sebagian besar warganya yang menganut agama Islam, berdasar UU No.18/2001. Kalangan intelektual Aceh sendiri masih memperdebatkan apakah yang diberlakukan di Aceh sudah benar-benar syariat atau itu cuma karena alasan politis saja.[19] Alasan yang juga kemudian disebutkan adalah kondisi konkret ketika itu berkenaan dengan politik, polemik di kalangan jumhur ulama soal bisa tidaknya hukum Islam diproduksi pasca kenabian selain persoalan dualisme aliran dalam Islam, dua aliran besar dalam tradisi tafsir hukum Islam.[20]
Pendidikan
jmpl|Gedung rektor Unsyiah
Dalam hal pendidikan, sebenarnya provinsi ini mendapatkan status Istimewa selain dari D.I. Yogyakarta. Namun perkembangan yang ada tidak menunjukkan kesesuaian antara status yang diberikan dengan kenyataannya. Pendidikan di Aceh dapat dikatakan terpuruk. Salah satu yang menyebabkannya adalah konflik yang berkepanjangan dan penganaktirian dari RI, dengan sekian ribu sekolah dan institusi pendidikan lainnya menjadi korban. Pada Ujian Akhir Nasional 2005 ada ribuan siswa yang tidak lulus dan terpaksa mengikuti ujian ulang.
Aceh juga memiliki sejumlah perguruan tinggi yaitu:
Perguruan Tinggi Negeri ;
Universitas Syiah Kuala
Universitas Islam Negeri Ar-Raniry
Universitas Malikussaleh, Aceh Utara
Universitas Samudra Langsa
Universitas Teuku Umar, Meulaboh
Universitas Terbuka, Aceh
Politeknik Negeri Lhokseumawe
Politeknik Aceh
IAIN Malikussaleh, Lhokseumawe
IAIN Zawiyah Cot Kala Langsa
STAIN Teungku Dirundeng Meulaboh
STAIN Gajah Putih Takengon
, Aceh Utara
Perguruan Tinggi Swasta ;
Universitas Abulyatama
Universitas Almuslim
Universitas Muhammadiyah Aceh
Universitas Iskandar Muda
Universitas Sains Cut Nyak Dhien, Kota Langsa
Universitas Serambi Mekkah
Universitas Jabal Ghafur
, Aceh Tengah
Sekolah Tinggi Teknik Bina Cendikia Indonesia
STIEI Banda
STKIP Muhammadiyah Aceh Barat Daya
STKIP Bina Bangsa Getsempena
STIKes & STIE Bumi Persada, Lhokseumawe
STIKes Darussalam, Lhokseumawe
, Lhokseumawe
,Banda Aceh
, Lhokseumawe
Seni dan Budaya
jmpl|Rumoh Aceh, merupakan rumah budaya Aceh di Museum Aceh
Aceh merupakan kawasan yang sangat kaya dengan seni budaya lazimnya wilayah Indonesia lainnya. Aceh mempunyai aneka seni budaya yang khas seperti tari-tarian, dan budaya lainnya seperti:
Meuseuke Eungkot (sebuah tradisi di wilayah Aceh Barat)
Peusijuek (atau Tepung tawar dalam tradisi Melayu)
Sastra
Bustanus Salatin
Hikayat Prang Sabi
Hikayat Malem Diwa
Hikayat Raja-raja Pasai
Legenda Amat Rhang Manyang
Legenda Putroe Neng
Legenda Magasang dan Magaseueng
Senjata tradisional
Rencong adalah senjata tradisional bangsa Aceh, bentuknya menyerupai huruf L, dan bila dilihat lebih dekat bentuknya merupakan kaligrafi tulisan bismillah. Rencong termasuk dalam kategori belati.
Selain rencong, bangsa Aceh juga memiliki beberapa senjata khas lainnya, seperti sikin panyang, peurise awe, peurise teumaga, siwah, geuliwang dan peudeueng.
Rumah Tradisional
Rumah tradisonal Aceh dinamakan Rumoh Aceh. Rumah ini bertipe rumah panggung dengan 3 bagian utama dan 1 bagian tambahan. Tiga bagian utama dari rumah Aceh yaitu seuramoë keuë (serambi depan), seuramoë teungoh (serambi tengah) dan seuramoë likôt (serambi belakang). Sedangkan 1 bagian tambahannya yaitu rumoh dapu (rumah dapur).
Tarian
Aceh yang memiliki setidaknya 10 etnis, memiliki kekayaan tari-tarian yang sangat banyak dan juga sangat mengagumkan. Beberapa tarian yang terkenal di tingkat nasional dan bahkan dunia merupakan tarian yang berasal dari Aceh, seperti Tari Rateb Meuseukat dan Tari Saman.
Tarian Aceh
Tari Laweuët
Tari Likok Pulo
Tari Pho
Tari Ranup lam Puan
Tari Rapa'i Geleng
Tari Rateb Meuseukat
Tari Ratoh Duek
Tari Seudati
Tari Tarek Pukat
Tarian Gayo
Tari Saman
Tari Bines
Tari Didong
Tari Guel
Tari Munalu
Tari Turun Ku Aih Aunen
Tarian Alas
Tari Mesekat
Tarian Melayu Tamiang
Tari Ula-ula Lembing
Makanan Khas
Aceh mempunyai aneka jenis makanan yang khas. Antara lain Timphan, Gulai Bebek, Kari Kambing yang lezat, Gulai Pliek U dan Meuseukat yang langka. Di samping itu Keurupuk Meuliëng asal Pidie yang terkenal gurih, Dodoi Sabang yang dibuat dengan aneka rasa, Bu Leukat Boh Driën (ketan durian), serta bolu manis asal Peukan Bada dan Ruti Samahani Aceh Besar juga bisa jadi andalan bagi Aceh.
Di Pidie Jaya terkenal dengan kue khas Meureudu yaitu Adè. Sedangkan di Aceh Utara lazim kita temukan kuliner khas lainnya yaitu Martabak Durian yang lezat. Kuliner Bireuen yang paling terkenal adalah Sate Matang yang merupakan sate daging sapi atau kambing yang dibakar yang pada awalnya berasal dari kota Matang Glumpang Dua.
Makanan khas Kota Langsa yang sangat terkenal hingga ke seluruh Indonesia adalah Sop Sumsum yaitu berupa sop tulang daging sapi yang berisi sumsum di dalam tulangnya dan tulang daging sapi tersebut telah dipotong untuk dapat dinikmati sumsumnya menggunakan sedotan atau menuangnya langsung ke atas piring. Sop Sumsum tulang daging sapi ini disajikan panas dengan potongan-potongan daging sapi yang diracik dengan sangat gurih dan lezat menggunakan racikan bumbu khas Aceh. Lalu ada Gulai Ikan Sembilang yang juga khas Kota Langsa.
Sementara kuliner khas Aceh yang juga sangat terkenal bahkan hingga ke mancanegara adalah Mie Aceh, sejenis mie kuning basah yang diracik dengan bumbu khas nan pedas.
Iklim
Sebagai wilayah yang berada tidak jauh dari garis khatulistiwa, iklim di Aceh hampir seluruhnya tropis. Pada wilayah pesisir pantai suhu udara rata-rata 26,9°C, suhu udara maksimum mencapai 32,5°C dan minimum 22,9°C. Kelembaban relatif daerah ini berkisar antara 70 dan 80 persen. Antara bulan Maret sampai Agustus Aceh mengalami fase musim kemarau, kondisi ini dipengaruhi oleh massa udara benua Australia. Sementara musim hujan berlangsung antara bulan September hingga Februari yang dihasilkan dari massa udara daratan Asia dan Samudra Pasifik. Aceh memiliki curah hujan yang bervariasi berkisar antara 1.500-2.500mm per tahun.[21]
Geografi
Aceh menempati wilayah ujung paling barat di pulau Sumatera dan Negara Indonesia, di mana titik terluar Negara Kesatuan Republik Indonesia terletak di Pulau Rondo, sementara itu kilometer Nol Indonesia berada di pulau Weh. Secara geografis Aceh terletak antara 2° - 6° lintang utara dan 95° – 98° lintang selatan dengan ketinggian rata-rata 125 meter diatas permukaan laut. Batas batas wilayah Aceh, sebelah utara dan timur berbatasan dengan Selat Malaka, sebelah selatan adalah satu-satunya perbatasan darat dengan Sumatera Utara dan sebelah barat dengan Samudra Hindia.[22]
Luas Aceh 5.677.081 ha, dengan hutan sebagai lahan terluas yang mencapai 2.290.874 ha, diikuti lahan perkebunan rakyat seluas 800.553 ha. Sedangkan lahan industri mempunyai luas terkecil yaitu 3.928 ha. Cakupan wilayah Aceh terdiri dari 119 pulau, 35 gunung dan 73 sungai utama.[22]
Perekonomian
Sumber daya alam
Minyak bumi
Gas alam
Emas
Hutan
Kayu
Kopi
Ikan
Rempah-rempah
Kakao
Pinang
Perbankan
Aceh terdapat dua kantor Bank Indonesia, bank sentral Republik Indonesia, yang dibuka di Banda Aceh (kelas III) dan Lhokseumawe (kelas IV). Tugas Bank Indonesia yang terdiri dari bidang moneter, sistem pembayaran, dan perbankan. Di daerah-daerah tugas Bank Indonesia lebih dominan di bidang sistem pembayaran dan perbankan.
Di bidang sistem pembayaran menyelenggarakan sistem kliring dan BI-RTGS dan di bidang perbankan mengawasi dan membina bank-bank agar beroperasi dengan sehat dan menguntungkan.
Sistem Perekonomian berbasis Syariah saat ini sangat gencar dilaksanakan, apalagi Pemerintah Aceh telah mengubah Bank Aceh dari Konvesioonal ke Bank Syariah.
Industri
Pada awal 2018 direncanakan akan dibuka Kawasan Ekonomi Khusus (KEK) Arun Lhokseumawe yang menyerap 40.000 tenaga kerja, Selain itu Aceh memiliki sejumlah industri besar di antaranya
Kawasan Ekonomi Khusus Arun Lhokseumawe
Badan Pengusahaan Kawasan Perdagangan Bebas dan Pelabuhan Bebas Sabang
PT Arun: Kilang Pencairan Gas Alam di Lhokseumawe
PT Pupuk Iskandar Muda (PIM): Pabrik Pupuk Iskandar Muda di Aceh Utara
PT Aceh Asean Fertilizer (AAF): Pabrik Pupuk Asean di Aceh Utara
PT Kertas Kraft Aceh (KKA): Pabrik Kertas di Aceh Utara
PT Semen Andalas Indonesia-Lafarge (SAI): Semen Andalas di Aceh Besar
ExxonMobil: Kilang Gas Alam di Aceh Utara
Perta Arun Gas, Lhokseumawe
Pembangkitan Jawa-Bali (PJB), Lhokseumawe
Medco E&P Indonesia , Aceh Timur
Pertambangan
Emas di kabupaten Aceh Barat, di kabupaten Aceh Tengah
Batubara di kabupaten Aceh Barat
Batu gamping di kabupaten Aceh Besar, di kabupaten Aceh Selatan
Pariwisata
Masjid Raya Baiturrahman
Museum Aceh
Taman Putroe Phang
Kuburan Kerkhoff
Danau Laut Tawar
Danau Aneuk Laot
Pantai Lhoknga, Aceh Besar
Museum Tsunami Aceh
Guha Tujoh di Laweueng
Lapangan Merdeka Kota Langsa
Ligkok Kuwieng, Pidie
Taman Hutan Kota Langsa
Hutan Mangrove Kota Langsa
Taman Bambu Runcing Langsa
Pulau Teulaga Tujoh
Gedung Balee Juang
Bukit Goa Jepang, Lhokseumawe
Waduk Jeulikat, Lhokseumawe
Gunung Salak, Aceh Utara
Blang Kulam, Aceh Utara
Transportasi
1. Transportasi Darat:
Terminal Batoh, Banda Aceh
Terminal Bireuën
Terminal Lhokseumawe
Terminal Langsa
Terminal Takengon
Terminal Meulaboh
2. Transportasi Laut:
Pelabuhan Malahayati
Pelabuhan Internasional Samudera Pasai, Krueng Geukuh
Pelabuhan Langsa
Pelabuhan Arun, Lhokseumawe
Pelabuhan Internasional Sabang
Pelabuhan Ulèë Lheuë
Pelabuhan Jetty
3. Transportasi Udara:
BTJ - Bandar Udara Internasional Sultan Iskandar Muda , Aceh Besar
LSW - Bandar Udara Malikus Saleh, Aceh Utara
MEQ - Bandar Udara Cut Nyak Dhien, Nagan Raya
SNB - Bandar Udara Lasikin, Sinabang
SBG - Bandar Udara Maimun Saleh, Sabang
TXE - Bandar Udara Rembele, Bener Meriah
SKL - Bandar Udara Syekh Hamzah Fansyuri, Singkil
TPK - Bandar Udara Teuku Cut Ali, Tapaktuan
LSX - Bandar Udara Lhok Sukon, Aceh Utara
Pra-tsunami 2004
Sebelum bencana tsunami 26 Desember 2004, perikanan merupakan salah satu pilar ekonomi lokal di Aceh, menyumbangkan 6,5 persen dari Pendapatan Daerah Bruto (PDB) senilai 1,59 triliun pada tahun 2004 (Dinas Perikanan dan Kelautan Aceh 2005). Potensi produksi perikanan tangkap mencapai 120.209 ton/tahun sementara perikanan budidaya mencapai 15.454 ton/tahun pada tahun 2003 (Dinas Perikanan dan Kelautan Aceh 2004). Produksi perikanan tersebut merata, baik di Samudra Hindia maupun Selat Malaka.
Industri perikanan menyediakan lebih dari 100.000 lapangan kerja, 87 persen (87.783) di sub sektor perikanan tangkap dan sisanya (14.461) di sub sektor perikanan budidaya. Sekitar 53.100 orang menjadikan perikanan sebagai mata pencaharian utama. Namun, 60 persen adalah nelayan kecil menggunakan perahu berukuran kecil. Dari sekitar 18.800 unit perahu/kapal ikan di Aceh, hanya 7.700 unit yang mampu melaut ke lepas pantai. Armada perikanan tangkap berskala besar kebanyakan beroperasi di Aceh Utara, Aceh Timur, Bireuen, Aceh Barat dan Aceh Selatan.
Menurut Nurasa et al. (1993), nelayan Aceh sebagian besar menggunakan alat tangkap pancing (hook and line). Alat tangkap lain adalah pukat, jaring cincin (purse seine), pukat darat, jaring insang, jaring payang, jaring dasar, jala dan lain-lain.
Infrastruktur penunjang industri ini meliputi satu pelabuhan perikanan besar di Banda Aceh, 10 pelabuhan pelelangan ikan (PPI) utama di 7 kabupaten/kota dan sejumlah tempat pelelangan ikan (TPI) kecil di 18 kabupaten/kota. Selain itu terdapat 36.600 hektare tambak, sebagian besar tambak semi intensif yang dimiliki petambak bermodal kecil. Tambak-tambak ini tersebar di Aceh Utara, Pidie, Bireuen dan Aceh Timur.
Departemen Kelautan dan Perikanan (DKP) Indonesia mengelola sebuah pusat pendidikan dan latihan (Pusdiklat) budidaya, sebuah pusat penelitian dan pengembangan (Puslitbang) budidaya, sebuah laboratorium uji mutu perikanan dan sebuah kapal latih. Di tiap kabupaten/kota, terdapat dinas perikanan dan kelautan. Total aset di sektor perikanan pra-tsunami mencapai sekitar Rp 1,9 triliun.
Pasca-tsunami 2004
Badan Perencanaan Pembangunan Nasional/Bappenas (2005) memperkirakan 9563 unit perahu hancur atau tenggelam, termasuk 3969 (41,5%) perahu tanpa motor, 2369 (24,8%) perahu bermotor dan 3225 (33,7%) kapal motor besar (5-50 ton). Selain itu, 38 unit TPI rusak berat dan 14.523 hektar tambak di 11 kabupaten/kota rusak berat. Diperkirakan total kerugian langsung akibat bencana tsunami mencapai Rp 944.492,00 (50% dari nilai total aset), sedangkan total nilai kerugian tak langsung mencapai Rp 3,8 miliar. Sebagian besar kerugian berasal dari kerusakan tambak.
jmpl|kiri|250px|Kapal PLTD Apung yang dibawa oleh tsunami sampai ke darat
Kerusakan tambak budidaya tersebar merata. Bahkan di daerah yang tidak terlalu parah dampak tsunaminya (misalnya di Aceh Selatan), tambak-tambak yang tergenang tidaklah mudah diperbaiki dan digunakan kembali. Total kerugian mencapai Rp 466 miliar, sekitar 50 persen dari total kerugian sektor perikanan. Kerugian ekonomi paling besar berasal dari hilangnya pendapatan dari sektor perikanan (tangkap dan budidaya). Hilangnya sejumlah besar nelayan, hilang atau rusaknya sarana dan prasarana perikanan termasuk alat tangkap dan perahu serta kerusakan tambak menjadikan angka kerugian sedemikian besarnya.
Diperkirakan produksi perikanan di Aceh akan anjlok hingga 60 persen. Proses pemulihan diperkirakan membutuhkan waktu paling sedikit 5 tahun. Di subsektor perikanan tangkap, bahkan diduga perlu waktu lebih lama (sekitar 10 tahun), karena banyaknya nelayan yang hilang atau meninggal selain rusaknya sejumlah besar perahu atau alat tangkap. Berdasarkan asumsi tersebut, total kerugian yang mungkin terjadi hingga sektor ini pulih total dan kembali ke kondisi pra-tsunami diperkirakan mencapai Rp 3,8 triliun.
Tokoh dari Aceh
Pahlawan
Bangsa Aceh merupakan bangsa yang gigih dalam mempertahankan kemerdekaannya. Kegigihan perang bangsa Aceh, dapat dilihat dan dibuktikan oleh sejumlah pahlawan (baik pria maupun wanita), serta bukti-bukti lainnya (empat jenderal Belanda tewas dalam perang Aceh, serta kuburan Kerkoff Peucut yang pernah mencatat rekor sebagai kuburan Belanda terluas di luar Negeri Belanda).
Pahlawan Perempuan
Cut Nyak Dhien
Cut Nyak Meutia
Laksamana Keumalahayati
Pocut Baren
Teungku Fakinah
Pahlawan Pria
Sultan Iskandar Muda
Teungku Chik Di Tiro
Teuku Umar
Panglima Polem
Teuku Nyak Arif
Mr. Teuku Muhammad Hasan[23]
Tokoh asal Aceh
Lihat pula Suku Aceh untuk tokoh-tokoh yang bukan berasal dari provinsi Aceh namun berketurunan Aceh.
Sultan Ali Mughayat Syah dari Aceh
Sultan Iskandar Muda
Malikussaleh
Hamzah Fansuri
Nuruddin Ar-Raniri
Syiah Kuala
Syamsuddin As-Sumatrani
Syeh Muda Wali Al-Khalidi
Tun Sri Lanang
Teungku Chik Pante Kulu
Hasan di Tiro
P. Ramlee
Teuku Jacob
Teuku Markam
Teungku Daud Beureu'eh
Referensi
Keterangan tabel Daftar Gubernur
Lihat pula
Bangsa Aceh
Sejarah Aceh
Bahasa Aceh
Pranala luar
(in Indonesian)
(in Indonesian)
(in Indonesian)
(in Indonesian)
(in Indonesian)
(Global) Situs tidak resmi pariwisata Aceh -
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北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。
概要
島としての北海道
北海道本島</b>は、面積77,983.90平方キロメートル (km2) [1]、最高標高2,291メートル (m) [※ 1]、本州、四国、九州とともに日本列島を構成する主要4島の一つ[※ 2]。
この中では、唯一、島名と地方公共団体名が同じで、1「道」のみで管轄する島である[※ 3]。
日本の島の中では本州に次ぐ第2位[1]、世界の島の中ではアイルランド島に次ぐ第21位の大きさである。
江戸時代までは一般的に、千島や樺太を含めて<b data-parsoid='{"dsr":[3015,3025,3,3]}'>蝦夷ヶ島、本島単独では蝦夷地、北州、十州島</b>などと呼ばれていたが[※ 4]、明治2年(1869年)、古代日本の律令制における広域行政区画「五畿七道」の7つの「道」に倣って、北海道 (令制)と命名された[※ 5]。
なお、地質学や考古学などでは<b data-parsoid='{"dsr":[4276,4286,3,3]}'>北海道島</b>という名称も使用される[2][3]。
地方公共団体としての北海道
北海道本島とその付随する島々(利尻島、礼文島、奥尻島、天売島、焼尻島、渡島大島、渡島小島など)、千島列島から成る地方公共団体が「北海道」であり、47都道府県で唯一の「道」である。道庁は札幌市に置かれる。
この「北海道」1道から成る地方を<b data-parsoid='{"dsr":[4806,4817,3,3]}'>北海道地方</b>と言い、人口5,475,783人で都道府県順位第8位[4]、面積83,456.75km2で都道府県順位第1位[5]、これは日本の総面積の約2割 (22.9%) に当たる。
また、国土交通省による日本の14地域区分の1つである北海道も、「北海道」1道から成る。なお、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島については「北海道」の領域に含まれるものの、事実上はその管轄下に置かれていない。すなわち、1945年(昭和20年)8月28日から9月5日にかけてソビエト連邦が占領し、現在もその後継国家であるロシア連邦の実効支配下にあり、日本の施政権が及んでいないと日本政府は主張している(北方領土問題参照)。
「北海道」には179の市町村(35市129町15村)、74の郡がある(この他、北方領土に5郡6村がある)。「北海道」では、森町を「もりまち」と読む以外は、町は全て「ちょう」、村は全て「むら」と読む。
名称
この島の先住民であるアイヌの言葉(アイヌ語)では、「アィヌモシㇼ」(ainu mosir、「人間の住む土地」の意)または「ヤウンモシㇼ」(ya un mosir、「陸地の国土」)[6]と呼ばれる。日本人(和人)は古代には渡嶋(わたりのしま)、近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいたが[※ 4][※ 6]、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名された。なお、松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明しているが、言語学者の金田一京助は、当時のそのような事実を示す証拠は見つかっていないと唱えている。
北海道は地方自治法において他の「都・府・県」と同格の普通地方公共団体(都道府県)の1つとされているが、「都」「府」「県」の場合、これを外して、「東京」「大阪」「京都」「神奈川」「愛知」のように表記・呼称することがあるのに対し、北海道については「道」を外して単に「北海」と表記・呼称することは(北海タイムス、北海学園大学など、社名や学校名などの固有名詞の一部分に使用される例はあるものの)非常に稀である。英語での公式表記は『Hokkaido Government』、もしくは『Hokkaido』[7]であり、『Hokkai Government』や『Hokkai Prefecture』と表記する事はない。一方、「道」である普通地方公共団体は北海道しか存在しないため(東京都の「都内」「都下」などと同様に)、逆に「道」が「道産米」、「道外」など、事実上北海道を唯一的に指し示す語彙(形態素)として広く普及している。
後述の通り、1886年(明治19年)から1947年(昭和22年)まで北海道を管轄した地方行政官庁は、北海道庁であった。この場合、「北海道」は単なる地域呼称であって、「北海道庁」が「東京府」や「青森県」などと並んで置かれた官庁の名である(樺太と樺太庁の関係に同じ)。この「北海道庁」は、現在用いられているような地方自治体の中央官庁ではない。1901年(明治34年)に北海道会法および北海道地方費法が公布・施行されて「北海道会」という議会を持つ地方自治体となったが、自治体としては「北海道地方費」と呼ばれた。戦後、1946年(昭和21年)の第1次地方制度改革で市制・町村制・東京都制とともに府県制が改正された際、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて<b data-parsoid='{"dsr":[8026,8036,3,3]}'>道府県制</b>に統合された。また改正法律の附則の規定により、従来「北海道地方費」と呼ばれていた自治体を「道」と呼ぶこととされた。地方行政官庁としての北海道庁は1947年(昭和22年)の地方自治法施行により、「北海道庁官制」とともに廃止され、同法に基づく普通地方公共団体としての北海道となった。
地理・地域
「日本の地理・北海道」も参照のこと
北海道本島は面積77,983.90 km2、日本の島の中では本州に次ぐ第2位の面積で[1]、世界の島の中ではアイルランド島に次ぐ第21位の面積を持ち、樺太(同第23位)よりやや大きく、台湾島35,980km2の約2倍の大きさである[※ 7]。これは九州と四国を合わせた面積55,050.77km2を上回る。
南の本州とは津軽海峡で隔てられているが、青函隧道により鉄路で繋がれており、同トンネル内で青森県に接している[※ 8](トンネルの上の津軽海峡中央部は公海[8](但し日本の排他的経済水域[9]))。北は宗谷海峡を隔てて樺太と向かい合い、東には千島列島が連なり、間接的にではあるがロシアと国境を隔てている。西の日本海、南東の太平洋、北東のオホーツク海と、3つの海に囲まれており、周辺には対馬暖流とその分枝である津軽暖流・宗谷暖流、および親潮と東樺太海流が流れている。
北海道は大きく分けて胴体部に当たる菱形の部分と、南西の半島部(渡島半島を含む)よりなる。胴体部は南北に蝦夷山系と呼ばれる山地群が貫き北海道の脊梁を成している。蝦夷山系は南の日高山脈に始まり、東の石狩山地・北見山地と、西の夕張山地・天塩山地に分岐しており、この二列の間には富良野盆地・上川盆地・名寄盆地などの盆地列が形成されている。頓別平野からこの盆地列を通り、鵡川の河谷に抜ける低地帯を北海道中央凹地帯と呼ぶ。
北海道東部は千島弧の延長である知床半島や阿寒の山々が、それぞれ北東-南西の山列を成しながら全体としては東西に伸びている。この北側は北見山地からなだらかな傾斜が海岸近くまで続き平野は少ないが、南側では十勝平野、根釧台地などの大平野が形成されている。
胴体部と半島部の間の地域は、石狩湾から石狩平野、勇払平野を通って太平洋へと抜ける石狩低地帯である。ここには人口約190万を抱える札幌市や、千歳市、苫小牧市などが並び、北海道で最も人口が集中する地域となっている。
半島部には、石狩低地帯の西に位置する南西部山地と、その南西に延びる渡島半島があり、間に太平洋側から内浦湾(噴火湾)か入り込む。渡島半島は東北日本弧内帯の延長部に当たり、渡島山地がある。渡島山地と南西部山地の間には、日本海側の寿都町から内浦湾にかけての低地があり、黒松内低地帯という。
北海道の主な高峰は、蝦夷山系と千島弧の会合する中央部の石狩山地(大雪山連峰、十勝岳連峰など)と、その南に続く日高山脈に集中している。最高峰は大雪山の旭岳で、その標高は2,291mである。南西部山地には「蝦夷富士」と呼ばれる羊蹄山などの山がある(北海道の山の一覧も参照のこと)。
一級水系は13水系ある。石狩川、天塩川、十勝川、釧路川、網走川、常呂川、湧別川、渚滑川、留萌川、沙流川、鵡川、尻別川、後志利別川。
阿寒湖、大沼、屈斜路湖、サロマ湖、支笏湖、洞爺湖、摩周湖、ウトナイ湖、網走湖、能取湖、風蓮湖などの湖がある。
隣接県は青森県だが青森をはじめ、北海道と各都府県は陸路、歩行では移動することができない。飛行機、船、青函トンネルを介して北海道新幹線への乗車のいずれかが必須となっており、いずれも料金がかかる形となる。
広袤(こうぼう)
国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、北海道の面積は平方キロメートルである[10]。
北海道の東西南北それぞれの端と重心は以下の位置である[11][12]。北端は択捉島のカモイワッカ岬、南端は渡島小島、東端は択捉島のラッキベツ岬、西端は渡島大島にある。また統計局の平成22年国勢調査によると、人口重心は栗山町本沢にある[13]。
重心
北端
↑人口重心
西端<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[12294,12300,6,0]}'/>←北海道庁舎所在地
東端<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[12461,12467,6,0]}'/>→↓
南端
(東端、北端は日本政府、北海道当局の公式見解。前述のように、2011年現在施政権は及んでいない)
自然公園
国立公園
利尻礼文サロベツ国立公園(サロベツ原野がラムサール条約登録)
支笏洞爺国立公園
大雪山国立公園
阿寒摩周国立公園
知床国立公園(世界遺産(自然遺産))
釧路湿原国立公園(ラムサール条約登録)
国定公園
ニセコ積丹小樽海岸国定公園
大沼国定公園
暑寒別天売焼尻国定公園
日高山脈襟裳国定公園
網走国定公園
道立自然公園
恵山道立自然公園
道立自然公園野幌森林公園
厚岸道立自然公園
松前矢越道立自然公園
朱鞠内道立自然公園
天塩岳道立自然公園
野付風蓮道立自然公園
斜里岳道立自然公園
北オホーツク道立自然公園(クッチャロ湖がラムサール条約登録)
狩場茂津多道立自然公園
富良野芦別道立自然公園
檜山道立自然公園
気候
西岸海洋性気候や温暖湿潤気候が見られる道南の一部沿岸地域を除くと、亜寒帯湿潤気候である。日本海側、内陸部で冬の積雪は根雪となる。日本海側は特に豪雪地帯であり、一部市町村は特別豪雪地帯になっている。道北、道東の内陸部は寒さが非常に厳しい。
太平洋沿岸部は、親潮の影響を受け夏は涼しく冬は比較的少雪。
動物・植物
エゾヒグマ
エゾオオカミ(絶滅)
エゾシカ
エゾリス
キタキツネ
エゾタヌキ
北海道犬
道産子
エゾサンショウウオ
オショロコマ
エゾマツ
アカエゾマツ
クゲヌマラン
ハマナス
総合振興局・振興局(支庁)
北海道は、地方自治法155条第1項に基づき、支庁を設置している。「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」において「北海道総合振興局」(以下「総合振興局」)および「北海道振興局」(以下「振興局」)とされている。各総合振興局および振興局は、その所管区域において、納税証明書の発行および旅券発給などの窓口業務など、所管区域ごとに行った方が効率の良い業務を担当している。
2008年(平成20年)6月28日の道議会で、それまであった14支庁を9総合振興局に再編し、その下に総合振興局の出張所として5振興局を置くとする条例が可決された。しかし、縮小の対象となった、檜山支庁、日高支庁、留萌支庁、根室支庁、石狩支庁の支庁所在地を抱える管内各自治体では住民の反発の声が上がり、地域経済の悪化に拍車が掛かることも懸念された。また、再編する際に必要な公職選挙法の改正が先送りされ(北海道では衆議院小選挙区区画区分を支庁管内境界で区分している)[14]、2009年(平成21年)4月実施は不可能となった。これらのことから当初の条例は施行されず、結局2009年(平成21年)3月31日の道議会で「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」が改正され、総合振興局・振興局への改称後も、どちらも同格の支庁として存続することになった。但し総合振興局は隣接する振興局管内の広域行政を担うことができ、該当する振興局が条例で規定されている[15]。この改正では、網走支庁がオホーツク総合振興局となる以外は名称は従来の支庁名が継承された。なお幌延町が旧留萌支庁管内から宗谷総合振興局管内へ、幌加内町が旧空知支庁管内から上川総合振興局管内に移った[16]。
総合振興局・振興局一覧
※ 人口はの住民基本台帳人口。
※ 面積は2015年10月1日全国都道府県市区町村別面積調[10]。
※ 根室振興局の市町村の( )内は北方領土内の村。人口・面積には、北方領土<!--5,003.05km2-->を含まない。
地域区分
一般的区分
一般的な区分は何通りかあるが、ここではその一例を挙げる。
道南地方:渡島・檜山の2振興局管内
道央地方:石狩・後志・空知・胆振・日高の5振興局管内、大雪地区(上川総合振興局の塩狩峠以南、旭川富良野地区)
道北地方:宗谷・留萌の2振興局管内、天塩地区(上川総合振興局の塩狩峠以北)、紋別地区
道東地方:十勝・釧路・根室の3振興局管内・北見網走地区(オホーツク総合振興局の以東)
胆振・日高・後志を道南に区分したり、オホーツクの北見網走地区を道北に区分したり、あるいは上川の大雪地区(旭川富良野地区)や空知の深川地区を道北に区分したりする例も見られる。
地域生活経済圏としての区分
北海道庁は道内を6つの「」に分けている。「道東地方」については面積が広いため3分割し計6地域とされている。
表の「人口」および円グラフの「人口比率」は、付けの住民基本台帳による。
その他の地域区分
北海道は東北地方に新潟県を加えた面積に匹敵する程広大であるため、旭川市、函館市、釧路市の3市に、本州以南であれば都府県庁所在地にのみ設置される機関が置かれる例が見られる。
国の出先機関の支局などが札幌市・旭川市・函館市・釧路市に設置される場合は、概ね振興局を分割することなく、その支局などが置かれる振興局と近隣の振興局を管轄することとなる。
一部の機関にあっては、歴史的経緯・地理的状況により、振興局を分割して管轄する場合がある。
日銀の管轄は、函館支店が渡島・檜山2振興局、釧路支店は釧路・根室・十勝3振興局を担当。その他は札幌支店が管轄するが、その中の旭川事務所の管轄が上川・オホーツク・宗谷・留萌4振興局となっている。
また、道内の放送局は7地域に分割される。詳細は、北海道の報道機関の一覧を参照。
歴史
先史時代(旧石器時代 - 飛島時代)
北海道には数万年前の氷河期にシベリアからマンモスやオオツノシカなどの大型哺乳動物を追いかけて、陸橋となった宗谷海峡を人類が渡ってきたとされる。約12,000年から13,000年前(-8000年から-9000年)には、氷河が後退し温暖となってからは本州からも渡来したようである。
道内各地で旧石器時代の発掘調査は、群馬県の岩宿遺跡で旧石器が発見されたのをきっかけに行われるようになった。それらの遺跡は約2万年前から1万3000年前の間、つまり後期旧石器時代と推定されている。現在のところ最も古い遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)三角山遺跡と考えられている。この遺跡から採取した炭化材を放射性炭素年代測定法では21450±750年BPであった。出土した石器類は、ナイフ形石器・尖頭器・削器・石核などである。これらの石器の原材料となった黒曜石の産地は「十勝石」の名で親しまれている白滝村が代表的である。他には、置戸・十勝三股・赤井川などがある[17]。
縄文時代後期の周堤墓は北海道にしか見られず、特に石狩低地帯に集中している。最も大きいものは千歳市郊外にあるキウス周堤墓群で、知床半島の付け根部にある斜里町でも朱円遺跡、芦別市野花南、標津町伊茶仁(いちゃに)などで発見されている。
続縄文文化
本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えたが、北海道には弥生文化(水稲耕作)が伝播せず、続縄文文化が展開した(本州の弥生・古墳時代に並行する続縄文時代は、紀元前2世紀から8世紀の奈良時代頃まで続いた)。この文化は、北は樺太南端部、東は国後島・択捉島、南は宮城県北部から新潟県にまで及んでいる。時期のはじめの土器は東北北部の土器の影響が及んだ恵山式土器で紀元前2世紀から3世紀までを恵山文化と呼ぶ。この文化と弥生文化との交流を示す鉄器や碧玉製の管玉が見つかっている。また、この文化の影響が道央部に及んで江別式土器が出現する。この土器は後北式土器[※ 9]とも呼ばれている。江別式土器を特徴とする江別文化は紀元前1世紀から7世紀頃までで、サケ・マスの漁撈生業を中心とした狩猟・採集経済である。この文化の遺跡からソバの花粉や緑豆の種子が検出されており、食用植物が栽培されていたと考えられる[18]。
擦文文化
つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、この文化を8世紀までを前期、9世紀 - 10世紀を中期、12世紀頃までを後期の三期に区分する。この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀頃には鉄器を持ち、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。
オホーツク文化期
擦文文化が営まれていた頃、オホーツク海沿岸には、道東に漁業と海獣狩猟を中心とするオホーツク文化を持った人々が移住したが、アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。この古代文化は、3世紀から13世紀に樺太、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。うち北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。
アイヌ文化
擦文文化の時代から、徐々にアイヌ民族によるアイヌ文化へと移行した。アイヌ文化の時代は、明治期に和人が進出するまで続いた。
和人進出(奈良時代 - 鎌倉時代)
古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている。
中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)など様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、鉄などを日本人(和人)の交易で得るようになっていった。
また鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる。
松前藩(室町時代 - 江戸時代)
室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた[19]。和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている[20]。当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている[21]。室町・戦国期には本土から和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した『新羅之記録』(寛永20年(1643年)成立)があり、同書に拠れば康正3年/長禄元年(1457年)に起きたコシャマインの戦いで、甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)。
松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌはシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された。天明4年(1784年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。
江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた(ゴローニン事件)。ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)には西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として享和2年(1802年)に蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった。ゴローニン事件解決以降、ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は文政4年(1821年)に廃され、全蝦夷地は松前藩に還付された。
近代(明治 - 昭和前期)
律令制・幕藩体制の延長期
慶応4年/明治元年4月12日(1868年5月4日)に、新政府は蝦夷地にそれまで置かれていた箱館奉行を箱館裁判所に置き換え、すぐにその名を箱館府と改めた(府藩県三治制)。これに伴い、道内でもそれまでの公議御料(幕府直轄領)は天領(天皇の御料)となった。ただし、明治元年12月(1869年1月)旧幕府軍が五稜郭を占拠し榎本武揚を首班とする「蝦夷共和国」が成立、翌年にかけて新政府軍との間で戊辰戦争の一つ箱館戦争が戦われた。旧幕府側の降伏直後の明治2年(1869年)、和人地および蝦夷地(北州)には大宝律令の国郡里制を踏襲し北海道11国86郡が置かれた(→北海道 (令制))。同年7月(天保暦)館藩(松前藩)領以外は箱館県(箱館府の後身)から引き継ぐ開拓使(「使」という名称は、律令制下で使用された臨時の独自な任務をこなす令外官である。東北地方などには按察使が置かれた)が設けられ北海道の開拓は本格化した。当初、開拓使直轄領以外では、道外の藩・士族・寺院・華族などによる幕藩体制と同様の北海道の分領支配も行われていた。また、同年10月場所請負制が漁場持と名称を変えしばらくの間存続することとなった。
北海道11国86郡(1869年設置)
※ 得撫郡、新知郡、占守郡の3郡は、1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により得撫島以北の千島列島を編入したため千島国に加わった
注:よみがなは『新北海道史』による
明治維新の変遷期
明治3年(1870年)、根室国の花咲郡、根室郡、野付郡が東京府の所領となったが、同年末に返上。
明治3から4年(1870年 - 1871年)本願寺道路が建設される。
明治4年(1871年)5月に開拓使庁も函館から札幌に移転。同年の明治4年7月14日(8月29日)廃藩置県に伴い館藩の旧領(爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡)に館県設置。その直後に分領支配も終わり、館県以外の地域はすべて開拓使の直轄となった。同年旧暦9月、館県は道外の弘前県などと合併、弘前県(青森県)の一部となり消滅。明治5年10月(1872年)、福島郡など四郡(旧館県)が青森県から開拓使に移管。これにより、北海道全域が開拓使の所管となる。また、札幌農学校の開校もこの年で、同年旧暦10月10日(11月10日)には大区小区制が施行され、明治5から6年[※ 10](1872年 - 1873年)には札幌本道が建設されている。1874年(明治7年)には開拓と北辺の守りを固めるため屯田兵の駐屯が開始された。1976年(明治9年)9月には漁場持(場所請負制)廃止。1879年(明治12年)7月23日、郡区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告第17号)を施行。1885年(明治18年)の太政官廃止に先立つ1882年(明治15年)、開拓使は設置からわずか13年で廃止された。
近代行政機関の設置
開拓使を置き換えるように北海道全体として初の近代行政区画・近代行政機関である函館県、札幌県、根室県の3県(三県一局時代)が設けられた(内閣制の発足は1885年(明治18年)12月22日である)が、当時は人口も少なく非常に偏った分布(特に根室県の人口は著しく少なかった)で3県体制が機能していないことから、1886年(明治19年)には道内全域を管轄する北海道庁が置かれた。1896年(明治29年)になると旭川にて陸軍第七師団が編成され、1899年(明治32年)10月1日には北海道区制および北海道一・二級町村制が施行されている。明治政府の政策により多くの人が全国各地から移住し、道内各地に開拓の波が押し寄せた。特に東北地方と北陸地方からの移住者は全体の7割近くを占め、言語や習慣などの点で北海道文化の礎となった。これにともない官営幌内鉄道や北海道官設鉄道をはじめとする鉄道や国道が建設されたが、網走刑務所に代表されるように、懲役刑の一環として行われた面もある。石炭が産出されることから、数多くの炭鉱が開発され、輸送するための鉄道が縦横に張り巡らされた(明治29年北海道鉄道敷設法、大正11年改正鉄道敷設法)。人口も増加し、1922年(大正11年)4月20日には市制を施行し北海道区制を廃止。
1943年(昭和18年)3月20日には町村制の改正により北海道一・二級町村制が廃止(旧二級町村は特例で指定町村と)された。1946年(昭和21年)9月27日の府県制改正にともない、北海道における自治制度を規定していた「北海道会法」と「北海道地方費法」が廃止されて「道府県制」に移行し、指定町村の特例も廃止されている。もっとも、和人の「開拓」はアイヌにとっては土地収奪と強制移住を伴うものであり、「日本による侵略」であったとする見方もある(本多勝一など)。
昭和戦後
1950年(昭和25年)、北海道を開発するため、調査・立案及び実施に関する事務を担当する北海道開発庁が総理府の外局として設置された。北海道内には北海道開発局と各地方に開発建設部が置かれ、開発の任に当った。第二次世界大戦の復員兵や、旧植民地からの帰還者の受け入れ先として北海道が注目され、人口が急増した。
戦後復興と高度経済成長期の初めは、北海道産の石炭が重宝され、多くの炭鉱労働者が北海道で暮らしたが、1960年代に石油へのエネルギー転換が起こり、1980年代までにほとんどの炭鉱が閉山された。これに伴い、不要になった鉄道が相次いで廃止され、市民生活の自動車化が推し進められた。道路網の整備が行われ、道央自動車道をはじめとする高速道路が建設された。他の都府県は直轄国道(旧一級国道)以外の整備補修を自ら行うのに対し、北海道はすべての国道を国が管理する体制がとられた。
1967年(昭和42年) 旭川市旭山動物園が開園。
1968年(昭和43年) 北海道百年記念祝典開催
1971年(昭和46年) 日本で4番目となる札幌市営地下鉄が開業した。
1972年(昭和47年)にはアジア初の冬季オリンピックである第11回冬季札幌オリンピックが開催され、それを契機に札幌市営地下鉄などのインフラの整備も進んだ。
1988年(昭和63年)7月20日、千歳空港に代わる民間航空用の空港として開港した。
平成期
2001年(平成13年)の中央省庁再編により、北海道開発庁は統合され、国土交通省北海道局となった。それに伴い、北海道開発局は国土交通省の地方支分部局となった。
2003年(平成15年)9月26日、4時50分頃、 十勝沖地震 - Mj 8.0(Mw 8.0〜8.3)、北海道新冠町・静内町・浦河町・鹿追町・幕別町・豊頃町・忠類村・釧路町・厚岸町で最大震度 6弱、死者・不明者2人。津波警報が発表され2mを超える津波が来襲し2人が飲み込まれ、2年後に1人が遺体で発見された。
2008年(平成20年) 北海道洞爺湖サミット開催
2010年(平成22年) 支庁制度改革、支庁を「総合振興局・振興局」と改称。
2018年(平成30年)9月6日、3時08分頃、胆振地方中東部(北緯42.7度 東経142.0度)で最大震度7 (M.6.7) を観測する北海道胆振東部地震が発生した。厚真町では震度7を観測した。北海道で震度7を観測したのは観測史上初。
分県構想
1905年(明治39年) 函館県設置に関する建議 帝国議会で満場一致で可決。
1946年(昭和21年) 北海道会解散時に北海道の3県または4県分割案の意見書
1948年(昭和23年)1月 旭川商工会議所「県政促進」議会決議
1948年(昭和23年)3月12日 釧路商工会議所「分県決議」常議員会決議
1949年(昭和24年) 北海道4県制(札幌県 函館県 旭川県 釧路県)『北海評論』の公表
1950年(昭和25年) 北海道県政施行促進協議会 旭川に発足(会長 前野良三吉 旭川市長、副会長 武藤大陸 函館市長、佐熊宏平 釧路市長、山田利忠 北海道町村会会長 就任)
1954年(昭和29年) 北海道議会分県議員促進連盟発足
1955年(昭和30年) 民主党北海道総合開発特別委員会「北海道における行政機構改革案」(1県 札幌 2県 旭川 3県 函館 4県 室蘭 5県 釧路)北海道省の設置と5県発足を公表 「北海道の分県に関する法律案」を1956年(昭和31年) 国会法制局に提出。
1986年(昭和61年) 北海道議会分県勉強会発足
1988年(昭和63年) 北海道分県協議会発足(1998年(平成10年) 解散)
2016年(平成28年)1月7日の毎日新聞に、北海道議会の「自民党・道民会議」が私的機関「北海道分県研究会」を設立し、「知事一人では広大な北海道の地域の課題に目が行き届かない」として、道を複数の都道府県に分ける「分県」案についての議論を開始したと報じられた[24]。
その後、同8月10日の北海道新聞で、同研究会のまとめた報告書の素案を公開し、具体的に「道央・道南」、「道北」、「道東」の3つの都道府県に分ける案と、「道東」だけを切り離して残りの地域で一つの都道府県にする2都道府県案のどちらかが望ましいと結論付けている[25]
またこのほかに、「道央」「道南」「道東」「道北」の4つの都道府県、ないしは道東を「オホーツク」「十勝」「根釧」にさらに細分化しての6つの都道府県の案もたたき台として検討されているという[26]
人口
北海道の人口は537万7782人(2016年(平成28年)1月1日、国勢調査)であり、都道府県単位で全国8位である。しかし人口密度はもっとも低く、これが地域の特色にもなっている[27]。
北海道は他の多くの都府県と比べて主要都市部に人口が偏在するという性格が強く、特に<!--2011年時点で-->近年は札幌市への人口集中が著しく、道内の他の自治体を大きく圧倒する。2番目の人口規模をもつ旭川市でさえ札幌市の人口の約18%しかない。道内の179の自治体のうち政令指定都市は札幌市の1市、中核市は旭川市と函館市の2市で、施行時特例市は存在しない。
人口の都市集中は、他の市町村の人口密度がさらに低いことを意味する。家屋の密度が著しく低く、大区画でほぼ無人の畑地・牧草地が広がる大地を、どこまでも続く直線道路が切っていく景観は、人口密度の低さで北海道につぐ東北地方でも見られない、北海道独特のものである[28]。総務省によると、2011年(平成23年)現在の段階で179の自治体のうち、ほぼ80%に上る143の自治体が過疎地域に指定されている[29]。
都市
北海道内 都市別人口ランキング(2017年10月 現在)
政治・行政
国政
2017年(平成29年)現在、衆議院議員選挙は、小選挙区を12区に分け、比例北海道ブロック議席は8議席保有している。
歴代知事
初代:田中敏文(1947年4月21日 - 1959年4月22日、3期)
2代:町村金五(1959年4月23日 - 1971年4月22日、3期)
3代:堂垣内尚弘(1971年4月23日 - 1983年4月22日、3期)
4代:横路孝弘(1983年4月23日 - 1995年4月22日、3期)
5代:堀達也(1995年4月23日 - 2003年4月22日、2期)
6代:高橋はるみ(2003年4月23日 - 現職、現在4期目)
議会
会派
2015年4月12日に行われた道議会議員選挙の結果を反映している。
出典:北海道議会ホームページ
財政
2006年(平成18年)度の実質公債費比率は19.9%と、全国では長野県に次いで2番目に悪い。
2006年度(平成18年度)決算の財務状況
財政力指数 0.38046 (47都道府県平均 0.46)
経常収支比率 93.8% (47都道府県平均 92.6%)
実質公債費比率 20.6% (注:過去3か年平均 47都道府県平均 14.7%)
実質収支比率 0.1
定員管理の適正度 人口100,000人当たり職員数 1,389.79人 (47都道府県平均 1,173. 11人)
ラスパイレス指数 90.5 (47都道府県平均 99.6)
北海道債の残高
2008年(平成20年)度末北海道債残高 合計 5兆6971億円
一般会計分 5兆5058億円
特別会計分 1912億円
姉妹・友好提携都市
Canadaアルバータ州:姉妹提携(1980年(昭和55年)10月17日)[30]
China黒竜江省:友好省(1986年(昭和61年)6月13日)
United Statesマサチューセッツ州:姉妹提携(1990年(平成2年)2月7日)
Russiaサハリン州(ロシア連邦):友好・経済協力に関する提携(1998年(平成10年)11月22日)
United Statesハワイ州:友好提携(2017年(平成29年)5月8日)[31]
なお、2005年(平成17年)12月からは 釜山広域市(大韓民国)と、2006年(平成18年)6月からは 慶尚南道(大韓民国)との交流を開始している。
Bhutanティンプー:姉妹提携
北海道洞爺湖サミット
2008年(平成20年)7月7日 - 7月9日の3日間、第34回主要国首脳会議(通称:北海道洞爺湖サミット)が洞爺湖畔で開催された。
経済・産業
平成20年度(2008年 - 2009年)の道内総生産は18兆3595億円である[32]。これは世界40位前後の「国」に相当する経済規模を有している[33]。北海道内総生産の産業別構成比は、第一次産業が3.8%、第二次産業が15.5%、第三次産業が84.0%である(平成19年度)[※ 12]。全国平均と比べて第一次、第三次産業の比率が高く、第二次産業、特に製造業の比率が小さい。
第一次産業
農業
北海道は、食糧基地を自称するほど[34]農業が栄えており、全国の約12%に当たる1兆579億円の農業産出がある(2003年(平成15年))。麦や芋などの畑作も全国平均と比べて比率が高く、テンサイやジャガイモ、小麦など、生産量が日本一の品目が多い。中でも道内農業産出額の約37%を占めるのは乳用牛であり[35]、生乳生産量は全国の約40%を占める。また、日高振興局を中心にサラブレッドなどの軽種馬の生産も盛んである。
農家1戸当たりの耕地面積は16.9ha(2002年(平成14年))で、他都府県の13倍にも達する。これは単に土地が広いこともあるが、北海道の各地方の気候条件に対応した農業が発達し開拓当初から大規模化したこと、農村部で兼業の機会が少ないために専業農家が多く、離農する者が多かったことから周辺農家が離農地を吸収合併し規模を拡大してきたこともその要因とされる。
2007年(平成19年)4月、日本とオーストラリア間の自由貿易協定を柱とする経済連携協定(日豪EPA/FTA)に関する交渉が両国間で開始された。同協定が締結され農産物の関税が撤廃された場合、オーストラリア産農産物の輸入増により北海道農業は大打撃を受け、新たな財源がまったく確保できないとすると、北海道経済全体で約1兆3700億円の経済損失が生じ、約8万8000人が失職すると、北海道は試算している[36]。これが現実となれば農業・酪農のみならず道内消費や他産業まで、北海道拓殖銀行の破綻をはるかに超える影響が及ぶとされ、道財政の破綻・財政再建団体転落の可能性も指摘されている。
宗谷総合振興局・釧路総合振興局・根室振興局は、気候が耕作には適していないため、亜寒帯湿潤気候を利用した酪農が盛んである。釧路総合振興局、根室振興局では農家1戸当たり耕地面積は60.3ha(2003年(平成15年))にも達し、宗谷総合振興局に至っては99%が牧草地である。大規模経営のため農家の所得水準は高く、北海道の農家1戸あたり農業所得は約580万円である。この地域はほかに肉牛の生産もしている。
稲作は主に空知総合振興局・上川総合振興局などで行われている。代表銘柄は、「ゆめぴりか」・「きらら397」・「ほしのゆめ」・「ななつぼし」・「ふっくりんこ」。特に上川中部(旭川市周辺)のコメは一等米比率が高く、品質の良さで知られている。
渡島総合振興局は比較的畜産が盛んで、後志総合振興局は、余市町・仁木町を中心に果樹の生産が盛ん。羊蹄山麓はジャガイモの産地となっている。
空知総合振興局は稲作のほか、北部でソバ、南部でタマネギも生産している。特にソバの収穫量は幌加内町が全国1位、深川市が第2位、音威子府村が第3位、旭川市が第4位である[37]。
上川総合振興局は、稲作のほか野菜の生産が盛ん。タマネギ・ジャガイモ・ニンジン・トウモロコシ・アスパラガス・キャベツ・ダイコン・キノコなどの生産量が多い。また、大豆・大麦・ソバ・小豆(アズキ)・テンサイ(ビート)なども生産されている。名寄市はアスパラガスの、和寒町はカボチャのそれぞれ生産量日本一である。コメも先述の通り生産量が多い。
オホーツク総合振興局では、タマネギ・ジャガイモ・トウモロコシ・テンサイの生産量が多い。北見市はタマネギの産地として有名。酪農も大変盛ん。
十勝総合振興局は、畑作が盛ん。小麦・テンサイ・小豆などの豆類・トウモロコシなどの生産が多い。近年ではニンジン、ナガイモ、ダイコンなどの野菜類の栽培もさかんで、音更町はニンジンの生産量日本一である[38]。また、酪農も盛んである。
水産業
明治時代までは日本海沿岸でニシン漁<!--を始めとして、北海道の水産業への依存率は高かった-->が栄えた。その後カムチャツカ半島沖、ベーリング海沖での北洋漁業が飛躍的に伸び、太平洋沿岸で水産業が発達した。また同時に発展した水産加工業は北海道の工業の基盤ともなった。
サケとホタテガイが道内生産額のそれぞれ23%、19%を占める[39]。サケは全国生産量(属人)の7割、スケトウダラ、コンブは8割以上、ホッケは97パーセントを占める[40]。
1977年(昭和52年)の排他的経済水域(200海里水域)設定で遠洋中心の北海道の漁業は大打撃を受けた。しかし依然として、北海道での水揚げ量は全国のおよそ4分の1を記録[41]するなど、水産業は北海道の主要な産業の一つである。またホタテやカニ、ウニなどの水産物を目当てに訪れる旅行者もいるなど、観光産業にも貢献をしている。
現在の水揚げ量は根室市が道内で一番多い。釧路は1990年(平成2年)まで13年連続日本1位の水揚げ量であったが、その後急減した。
第二次産業
北海道では第二次産業の占める割合が全国に比べて極めて低い。
鉱業
明治から高度成長期(1960年代まで)にかけては、石狩炭田(三笠市・歌志内市・夕張市など)と釧路炭田(釧路市・白糠町・釧路町・厚岸町など)を中心に石炭産業が盛んであったが次々と閉山した。現在では、国内で唯一の坑内採炭事業が釧路炭田で行われ、海外炭の高騰の影響を受け露天掘り採炭事業が石狩炭田などで再開されている[42][43]。
昭和に入り、鴻之舞鉱山(紋別市)の金の産出量が増加。全盛期には「東洋一の金山」といわれるが、資源枯渇などを理由に1973年(昭和48年)閉山。また、豊羽鉱山(札幌市南区)もかつて銀・銅・鉛・亜鉛で日本最大級の産出量を数え、希少金属であるインジウムの産出量も世界一だったが、2006年(平成18年)鉱量枯渇のため閉山となる。
イトムカ鉱山(旧留辺蘂町、現北見市)ではかつて良質の水銀を産出し、第2次大戦中に最盛期を迎えたが、1974年(昭和49年)に閉山した。2011年(平成23年)現在は水銀含有廃棄物のリサイクルを行っている[44]。
製造業
製造業は、食料品生産の割合が高く、製造品出荷額の約3割を占める。ほか石油・石炭製品、鉄鋼製品、パルプ・紙製品が多い。道内6圏域の中では道央圏が出荷額の6割、事業所数・従業員数の5割を占める。市町村別では道央圏の室蘭市と苫小牧市の2市で計35パーセントを占め、続いて札幌市が第3位 (7.9%) を占める。第4位の釧路市(4.1%)は札幌市の半分強を占める[45]。
北海道の工業は明治期に札幌で1876年に開拓使麦酒醸造所、函館で1896年(明治29年)函館船渠株式会社 造船、釧路で1901年(明治34年)前田製紙、室蘭で1909年(明治42年)製鉄所が開業したのが始まりである。
現在北海道の食品加工業は札幌市をはじめ各地に点在している。製紙・パルプは釧路市、苫小牧市で発達している。製鉄は室蘭市に、また石油化学コンビナートが苫小牧市、室蘭市にある。飼料肥料コンビナートが釧路市にある。臨空工業都市として千歳市が挙げられる。自動車部品製造も苫小牧市で発達している。
建設業
明治以降の北海道は国策による開拓と開発が積極的に行われ、建設業は公共事業に大きく依存して発展を遂げた。現在でも北海道は公共事業への依存度が高く、北海道の基幹産業の一つである[46]。
しかし近年は公共事業の大幅な減少によって、建設業は大きな苦境に立たされている。
大規模開発
苫小牧東部開発計画(苫小牧東部地域)、石狩湾新港地域開発など、国と道が一体となった大規模開発が進められてきたが、当初想定していた企業立地が進まず、開発主体の第三セクターの経営破たんや計画の見直しを強いられている。現在、再建会社が事業を引継ぎ運営しており、近年では札幌圏に位置する地理的な優位性から、石狩湾新港地域開発では物流関連、リサイクル関連企業の進出などが進んでいる。
産業系特区
さっぽろベンチャー創出特区(札幌市)
ITビジネス特区(岩見沢市)
港湾物流特区(石狩湾新港)
企業立地促進特区(南幌町)
マリン・フロンティア科学技術研究特区(函館市)
釧路・白糠次世代エネルギー特区(釧路市、白糠町)
第三次産業
観光関連産業
海外からの観光客が増加していることから、2011年度以降、訪日外国人旅行者の受入環境整備に係る戦略拠点・地方拠点が観光庁によって選定されている。道内の戦略拠点は札幌、函館、登別の3地点、地方拠点は釧路・弟子屈の1地点である[47]。
1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開催を機に、北海道開発庁を中心に新千歳空港や鉄道の整備が進み、観光産業が大きく花開いた。夏は避暑やアウトドアレジャー、ドライブ、オートバイによるツーリング、冬はスキー、そして1990年代からはスノーボードなどが楽しめるほか、日本の農業基地としての北海道という側面から名産食品もあり、温泉の多さも手伝って毎年多くの観光客を集めている。また、観光客などを対象として小売業や運輸業が発達している。
しかし近年では海外旅行が安価で手軽になったことから北海道の魅力が相対的に薄れてきている。北海道拓殖銀行の破綻後は連鎖倒産も相次ぐなど、観光産業の経営状況は必ずしも芳しくない。札幌市は碁盤の目状の都市構造を持ち、中心部に都市公園とテレビ塔を備える事から政令指定都市の中では愛知県名古屋市と、都市計画としての類似性が指摘される事もある。
道外からの観光客数は1997年(平成9年)以降2011年(平成23年)現在にかけて、年間600万人前後でほぼ横ばいに推移しているが、この間に外国人観光客は12万人(1997年(平成9年)度)から29万人(2003年(平成15年)度)へと増加している。特に台湾、香港、韓国の3地域からの団体客数の伸びが大きい。雪の降らない台湾や香港の人々にとって、北海道は手近でありながら雄大な自然や温泉が楽しめる場所であり魅力に感じられている。また、倶知安町にあるニセコマウンテンリゾート グランヒラフには、2002年(平成14年)頃よりオーストラリアからのスキー・スノーボード客が急増している。
札幌市、旭川市、釧路市の3市が国土交通省の国際会議観光都市に指定され数次の国際会議が開催されている。2008年(平成20年)には北海道洞爺湖サミットが開かれた。
情報関連産業
北海道ではかつてほとんどの市町村に書店が存在していたが、2013年時点で常設書店が存在しない北海道の「無書店自治体」は全道自治体の約三分の一に相当する60市町村になった[48]。北海道庁は「無書店自治体」の拡大に効果的な歯止めをかけることができず、高橋はるみ道政のもとで廃業書店は増え続け、2015年11月の時点で喜茂別町、妹背牛町、西興部村など道内179市町村のうち約3割に当たる47市町村に拡大した。そのため47の自治体住民は雑誌や新刊本などを入手するために近隣自治体の書店に行かなければならないケースもある。常設書店が存在しない自治体は全国で322市町村で、新刊を扱う書店がない現状となっており、北海道の無書店自治体は全国の無書店自治体の5分の1以上を占める。その多くが「消滅可能都市」である[49]。
近年コールセンターの立地に札幌市、釧路市で積極的な制度整備を図り大規模なコールセンターが立地している。
寒冷地であることからデータセンターの好適地と目されており、中でも石狩市は積極的な誘致を進めている。さくらインターネットは2010年(平成22年)、石狩市に石狩データセンターを設置することを発表した[50]。
札幌には大学の卒業生を中心としたコンピュータ関係のベンチャー企業が1980年代から継続的に興っている。これは、1976年(昭和51年)に北海道大学工学部の青木由直教授が立ち上げた北海道マイクロコンピュータ研究会がルーツとされる。これに関連した企業は主に札幌駅北口周辺に集積している。2000年(平成12年)頃には「サッポロバレー」とも呼ばれるようになり、地場産業育成の成功事例として研究されている。これとは別に、厚別区の札幌テクノパークにはビー・ユー・ジーDMG森精機のような札幌発の企業だけでなく、富士通や日本アイ・ビー・エム、日本ユニシスなどの大手企業の支店などの拠点も置かれている。
また、かつてはハドソンやネットドラゴンウェブソフトなど、ゲーム会社も創立された。
生活・交通
都道府県魅力度ランキングでは2009年から2017年まで1位[51]。
警察
北海道警察
交通
鉄道・バス・道路
鉄道の旅客輸送人員(年間)
JR
2012年 3億323万4000人
民鉄
道内では札幌市営地下鉄や、函館市営(路面電車)の数値
2012年 21億9388万人
いずれも全国の鉄道旅客輸送人員は47位中10位と利用は多い[52]
路線バスの輸送人員(年間)
2012年 1億9839万1000人
利用者数は47位中8位[53]
港湾
国際拠点港湾2港 重要港湾12港
国際拠点港湾
苫小牧港(中核国際港湾)
室蘭港
重要港湾・重点港湾
釧路港 (国際バルク戦略港湾、特定貨物輸入拠点港湾、臨海部産業エリア形成促進港)
函館港
石狩湾新港
その他の重要港湾
小樽港 ,留萌港 ,稚内港 ,紋別港 ,網走港 ,根室港 ,十勝港
空港
以前は日本各地の空港と直接結ぶ路線も多様に見られたが、近年は新千歳空港乗継と東京国際空港(羽田)乗継に路線が整理縮小されてきている。
2005年(平成17年)度旅客数(日本の空港#乗降客数参照)
※国内線旅客数の内、東京(羽田)便の旅客数を上位空港のみ括弧内に記載。
※ 上記を含む飛行場、場外離着陸場など
※ 出典は国土交通省航空局・
※ 斜字</i>は不定期路線を示す
※ 就航先は2008年(平成20年)4月1日現在
※ チャーター便の旅客数含む
※ 括弧は通年運航ではない(季節運航もしくは運休期間がある)路線を示す
※ 三大都市圏への便は<b data-parsoid='{"dsr":[67445,67453,3,3]}'>太字
医療・福祉
災害拠点病院
北海道災害拠点病院
保育所
北海道保育所一覧
教育
国民生活基礎調査によれば北海道の子どもの貧困率は16.3%(2012年高橋道政下)、生活保護世帯の高校進学率は96.7%(2013年3月)で50人に約2人が高校進学に到っていない[54]。
大学
北海道の大学一覧
専修学校
北海道専修学校一覧
特別支援学校
北海道特別支援学校一覧
高等学校
北海道高等学校一覧
中学校
北海道中学校一覧
小学校
北海道小学校一覧
幼稚園
北海道幼稚園一覧
マスメディア
文化・スポーツ
北海道では、独特な文化が見られる。神棚や玄関、車の正月用飾り付けおいても注連縄のような質素なものではなく、宝船(七福神)を模したものである。
また企業が北海道限定品を発売する例がある。
北海道方言
北海盆踊り(北海盆唄・子供盆おどり唄)
よさこいソーラン祭り
さっぽろ雪まつり
アイヌ文化
食文化
日本各地の人々が北海道開拓のために移り住んだこともあり、各地の地方文化とともにそれらが融合して新しくなった北海道独自の食文化が見られ、呼称も独自のものがある。
料理
正月に食される「口取り」(口取り菓子)も北海道独特である。本来、口取り菓子は、茶会に出される料理(本膳料理)であるが、御節料理の一部で扱われ、正月に食される。これは、鯛や海老など縁起物を縁取った菓子(今日では白餡を用いた練り切り・羊羹などもある)である。尚、慶事の際に振る舞われる事が多い「赤飯」を作る際に入れる豆は、小豆ではなく甘納豆を入れる事が多い。
アイヌ料理
日本の郷土料理一覧(北海道)
ジンギスカン
ザンギ(から揚げ)
食材
ギョウジャニンニク(アイヌネギ/キトピロ)
アオマス(カラフトマス)
飲料
ガラナ飲料
リボンシトロン・リボンナポリン
カツゲン
伝統工芸
経済産業大臣指定伝統的工芸品
二風谷イタ(木工品、2013年)
二風谷アットゥシ(織物、2013年)
音楽
民謡
江差追分
ソーラン節
蝦夷太鼓
ご当地ソング
北海道のご当地ソング一覧
交響楽団
札幌交響楽団
釧路交響楽団
スポーツ
サッカー
北海道コンサドーレ札幌(札幌市)
ノルディーア北海道(札幌市)
フットサル
エスポラーダ北海道(札幌市)
野球
北海道日本ハムファイターズ(札幌市)
野球マスターズリーグ
札幌アンビシャス(札幌市)
バスケットボール
レバンガ北海道(札幌市)
アイスホッケー
日本製紙クレインズ(釧路市)
王子イーグルス(苫小牧市)
札幌ホッケークラブ(札幌市)〈現在はリーグから撤退〉
道路建設ペリグリン(苫小牧市)
釧路ベアーズ(釧路市)
帯広レディース(帯広市)
フルタイムシステム御影グレッズ(上川郡清水町)
バレーボール
ヴォレアス北海道(旭川市)
陸上競技
北海道ハイテクアスリートクラブ(恵庭市)
ホクレン女子陸上部(札幌市)
スキー
雪印メグミルクスキー部(札幌市)
土屋ホームスキー部 (札幌市)
カーリング
北海道銀行フォルティウス(札幌市)
ロコ・ソラーレ(北見市)
ウィンタースポーツ
とかちチームAA(帯広市)
自転車競技
DOKYUレーシングクラブ(札幌市)
ボクシング
協栄札幌赤坂ボクシングジム(札幌市)
北海道畠山ボクシングジム(札幌市)
プロレス
北都プロレス(北海道)
キックボクシング
BOUT(北海道)
競馬
ホッカイドウ競馬(北海道)
ばんえい競馬(帯広市)
フロアカーリング
新得フロアカーリング協会(上川郡新得町)
観光
詳細は「北海道の観光地」、「日本の観光地一覧・北海道」を参照
文化財
北海道の文化財一覧
北海道遺産
北海道の映画祭
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭
さっぽろ映画祭
新得空想の森映画祭
函館港イルミナシオン映画祭
北海道を舞台とした作品
北海道出身の人物
道民栄誉賞受賞者
受賞条件[55]
「栄誉をたたえて」
文化、スポーツ等の分野において輝かしい活躍をし、その功績が顕著な個人又は団体。
「栄誉賞」
文化、スポーツ等の分野において輝かしい活躍をし、その功績が特に顕著な個人又は団体。
栄誉をたたえて
※1978年〜1992年の受賞者は道庁HPに不記載
阿部雅司(1993年4月)
原田雅彦(1993年4月)
堀井学(1994年4月)
岡部孝信(1994年5月)
葛西紀明(1994年5月)
清水宏保(1995年5月)
依田紀基(1995年5月)
室塚一也(1996年9月)
米澤昌子(1996年9月)
田中雅美(2000年8月)
山下敬吾(2000年10月)
上野雅恵(2001年9月)
上野順恵(2003年12月)
内藤大助(2007年11月)
加藤大平(2009年4月)
金由起子(2012年10月)
志村亜貴子(2012年10月)
髙梨沙羅(2013年4月)
栄誉賞
若松勉(1981年1月)
北の湖敏満(1981年8月)
北海道大学ヒマラヤ遠征隊(1983年2月)
北沢欣浩(1984年3月)
橋本聖子(1985年7月)
小林光一(1986年1月)
千代の富士貢(1987年8月)
北島三郎(1991年8月)
毛利衛(1992年10月)
阿部雅司(1994年5月)
惠本裕子(1996年8月)
清水宏保(1998年4月)
桑原明美(1998年4月)
武田豊(1998年4月)
岡崎朋美(1998年4月)
里谷多英(1998年4月)
斎藤浩哉(1998年4月)
岡部孝信(1998年4月)
原田雅彦(1998年4月)
船木和喜(1998年4月)
篠原広樹(1998年5月)
安彦諭(1998年5月)
大鵬幸喜(2000年8月)
米澤昌子(2000年11月)
田中雅美(2000年11月)
栄花直輝(2000年12月)
上野雅恵(2003年12月)
田南部力(2004年9月)
駒澤大学附属苫小牧高等学校野球部(2004年9月)
磯﨑直美(2006年11月)
北海道日本ハムファイターズ(2008年11月)
坂本功貴(2010年9月)
高平慎士(2010年9月)
佐藤久佳(2010年9月)
藤田征樹(2010年10月)
穂積雅子(2012年3月)
田畑真紀(2012年3月)
長島圭一郎(2012年4月)
伊藤仙孝(2012年4月)
永瀬充(2012年4月)
須藤悟(2012年4月)
狩野亮(2012年6月)
上野順恵(2012年10月)
山下敬吾(2013年2月)
熊谷紗希(2013年7月)
髙瀬愛実(2014年1月)
三浦雄一郎(2015年9月)
清水礼留飛(2016年3月)
伊東大貴(2016年3月)
葛西紀明(2016年3月)
久保恒造(2016年5月)
竹内智香(2016年10月)
金由起子(2016年10月)
志村亜貴子(2016年10月)
山部佳苗(2016年9月)
池崎大輔(2016年10月)
辻沙絵(2017年1月)
丹羽孝希(2017年6月)
長原茉奈美(2017年11月)[56]
高木美帆(2018年5月)[57]
高木菜那(2018年5月)
佐藤綾乃(2018年5月)
栄誉賞特別賞
狩野亮(2016年4月)
北の湖敏満(2016年4月)
藤田征樹(2016年10月)
秋元貢(千代の富士・九重親方)(2016年10月)
注釈
出典
参考文献
総務省統計局 『第六十三回 日本統計年鑑 平成26年』 総務省統計局、2013年。
藤岡謙二郎監修・大明堂編集部編『北海道地方』(新日本地誌ゼミナール I)、大明堂、1985年。
関連項目
Category:北海道
北海道洞爺湖サミット
三毛別羆事件
北海道出身の人物一覧
北海道の自然景勝地
北海道 (令制)
令制国一覧
北海道の地名・駅名
北海道指定文化財一覧
北海道遺産
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北海道の乗合バス事業者
北海道地方の道路一覧
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外部リンク
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The demographics of China demonstrate a large population with a relatively small youth component, partially a result of China's one-child policy. China's population reached the billion mark in 1982.
In 2019, China's population stands at 1.418billion,[1][2] the largest of any country in the world. According to the 2010 census, 91.51% of the population was Han Chinese, and 8.49% were minorities. China's population growth rate is only 0.59%, ranking 159th in the world.[3] China conducted its sixth national population census on 1 November 2010.[4] Unless otherwise indicated, the statistics on this page pertain to mainland China only; see also Demographics of Hong Kong and Demographics of Macau.
Population
Historical population
The population of China fluctuated between 30 million and 86 million during the Han dynasty.
After the collapse of the Han Dynasty, the population stayed around 50 million until the advent of the Tang Dynasty.
Under the Tang Dynasty, the population increased from 45 million to 80 million over the course of 200 years.
At the beginning of the Song Dynasty, the population stood at over 100 million.
After Ming and earlier period of Qing dynasty founded population moved around 100 million to 150 million until 1700s.
In the period between 1749 and 1851, the population doubled in a century.
During 1960-2015, the population grew to nearly 1.4 billion. Under Mao Zedong, China nearly doubled in population from 540 million in 1949 to 969 million in 1979. This growth slowed because of the one-child policy instituted in 1979. [5]
Census data
Censuses in China
The People's Republic of China conducted censuses in 1953, 1964, 1982, 2000, and 2010. In 1987, the government announced that the fourth national census would take place in 1990 and that there would be one every ten years thereafter. The 1982 census (which reported a total population of 1,008,180,738) is generally accepted as significantly more reliable, accurate, and thorough than the previous two. Various international organizations eagerly assisted the Chinese in conducting the 1982 census, including the United Nations Fund for Population Activities, which donated US$15.6million for the preparation and execution of the census.
China has been the world's most populous nation for many centuries. When China took its first post-1949 census in 1953, the population stood at 583 million; by the fifth census in 2000, the population had more than doubled, reaching 1.2billion.
By the sixth census in 2010, the total population had reached to 1,370,536,875, with the mainland having 1,339,724,852, Hong Kong having 7,097,600, and Macau having 552,300.
Population of China by age and sex (demographic pyramid)
China population pyramid as of 1st National Census day on June 30, 1953
China population pyramid as of 2nd National Census day on July 1, 1964
China population pyramid as of 3rd National Census day on July 1, 1982
China population pyramid as of 4th National Census day on July 1, 1990
China population pyramid as of 5th National Census day on July 1, 2000
China population pyramid as of 6th National Census day on July 1, 2010
China population pyramid as of 2016
In 1982 China conducted its first population census since 1964. It was by far the most thorough and accurate census taken since 1949 and confirmed that China was a nation of more than 1 billion people, or about one-fifth of the world's population. The census provided demographers with a set of data on China's age-sex structure, fertility and mortality rates, and population density and distribution. Information was also gathered on minority ethnic groups, urban population, and marital status. For the first time since the People's Republic of China was founded, demographers had reliable information on the size and composition of the Chinese work force. The nation began preparing for the 1982 census in late 1976. Chinese census workers were sent to the United States and Japan to study modern census-taking techniques and automation. Computers were installed in every provincial-level unit except Tibet and were connected to a central processing system in the Beijing headquarters of the State Statistical Bureau. Pretests and small scale trial runs were conducted and checked for accuracy between 1980 and 1981 in twenty-four provincial-level units. Census stations were opened in rural production brigades and urban neighborhoods. Beginning on 1 July 1982, each household sent a representative to a census station to be enumerated. The census required about a month to complete and employed approximately 5 million census takers.
The 1982 census collected data in nineteen demographic categories relating to individuals and households. The thirteen areas concerning individuals were name, relationship to head of household, sex, age, nationality, registration status, educational level, profession, occupation, status of nonworking persons, marital status, number of children born and still living, and number of births in 1981. The six items pertaining to households were type (domestic or collective), serial number, number of persons, number of births in 1981, number of deaths in 1981, and number of registered persons absent for more than one year. Information was gathered in a number of important areas for which previous data were either extremely inaccurate or simply nonexistent, including fertility, marital status, urban population, minority ethnic groups, sex composition, age distribution, and employment and unemployment.
A fundamental anomaly in the 1982 statistics was noted by some Western analysts. They pointed out that although the birth and death rates recorded by the census and those recorded through the household registration system were different, the two systems arrived at similar population totals. The discrepancies in the vital rates were the result of the underreporting of both births and deaths to the authorities under the registration system; families would not report some births because of the one-child policy and would not report some deaths so as to hold on to the rations of the deceased.
Nevertheless, the 1982 census was a watershed for both Chinese and world demographics. After an eighteen-year gap, population specialists were given a wealth of reliable, up-to-date figures on which to reconstruct past demographic patterns, measure current population conditions, and predict future population trends. For example, Chinese and foreign demographers used the 1982 census age-sex structure as the base population for forecasting and making assumptions about future fertility trends. The data on age-specific fertility and mortality rates provided the necessary base-line information for making population projections. The census data also were useful for estimating future manpower potential, consumer needs, and utility, energy, and health-service requirements. The sudden abundance of demographic data helped population specialists immeasurably in their efforts to estimate world population. Previously, there had been no accurate information on these 21% of the Earth's inhabitants. Demographers who had been conducting research on global population without accurate data on the Chinese fifth of the world's population were particularly thankful for the 1982 breakthrough census.
Population control
Initially, China's post-1949 leaders were ideologically disposed to view a large population as an asset. But the liabilities of a large, rapidly growing population soon became apparent. For one year, starting in August 1956, vigorous support was given to the Ministry of Public Health's mass birth control efforts. These efforts, however, had little impact on fertility. After the interval of the Great Leap Forward, Chinese leaders again saw rapid population growth as an obstacle to development, and their interest in birth control revived. In the early 1960s, schemes somewhat more muted than during the first campaign, emphasized the virtues of late marriage. Birth control offices were set up in the central government and some provincial-level governments in 1964. The second campaign was particularly successful in the cities, where the birth rate was cut in half during the 1963–66 period. The upheaval of the Cultural Revolution brought the program to a halt, however.
In 1972 and 1973 the party mobilized its resources for a nationwide birth control campaign administered by a group in the State Council. Committees to oversee birth control activities were established at all administrative levels and in various collective enterprises. This extensive and seemingly effective network covered both the rural and the urban population. In urban areas public security headquarters included population control sections. In rural areas the country's "barefoot doctors" distributed information and contraceptives to people's commune members. By 1973 Mao Zedong was personally identified with the family planning movement, signifying a greater leadership commitment to controlled population growth than ever before. Yet until several years after Mao's death in 1976, the leadership was reluctant to put forth directly the rationale that population control was necessary for economic growth and improved living standards.
Population growth targets were set for both administrative units and individual families. In the mid-1970s the maximum recommended family size was two children in cities and three or four in the country. Since 1979 the government has advocated a one-child limit for both rural and urban areas and has generally set a maximum of two children in special circumstances. As of 1986 the policy for minority nationalities was two children per couple, three in special circumstances, and no limit for ethnic groups with very small populations. The overall goal of the one-child policy was to keep the total population within 1.2billion through the year 2000, on the premise that the Four Modernizations program would be of little value if population growth was not brought under control.
The one-child policy was a highly ambitious population control program. Like previous programs of the 1960s and 1970s, the one-child policy employed a combination of public education, social pressure, and in some cases coercion. The one-child policy was unique, however, in that it linked reproduction with economic cost or benefit.
Under the one-child program, a sophisticated system rewarded those who observed the policy and penalized those who did not. Through this policy, the increasing population got temperate after the penalties were made. Couples with only one child were given a "one-child certificate" entitling them to such benefits as cash bonuses, longer maternity leave, better child care, and preferential housing assignments. In return, they were required to pledge that they would not have more children. In the countryside, there was great pressure to adhere to the one-child limit. Because the rural population accounted for approximately 60% of the total, the effectiveness of the one-child policy in rural areas was considered the key to the success or failure of the program as a whole.
In rural areas the day-to-day work of family planning was done by cadres at the team and brigade levels who were responsible for women's affairs and by health workers. The women's team leader made regular household visits to keep track of the status of each family under her jurisdiction and collected information on which women were using contraceptives, the methods used, and which had become pregnant. She then reported to the brigade women's leader, who documented the information and took it to a monthly meeting of the commune birth-planning committee. According to reports, ceilings or quotas had to be adhered to; to satisfy these cutoffs, unmarried young people were persuaded to postpone marriage, couples without children were advised to "wait their turn," women with unauthorized pregnancies were pressured to have abortions, and those who already had children were urged to use contraception or undergo sterilization. Couples with more than one child were exhorted to be sterilized.
The one-child policy enjoyed much greater success in urban than in rural areas. Even without state intervention, there were compelling reasons for urban couples to limit the family to a single child. Raising a child required a significant portion of family income, and in the cities a child did not become an economic asset until he or she entered the work force at age sixteen. Couples with only one child were given preferential treatment in housing allocation. In addition, because city dwellers who were employed in state enterprises received pensions after retirement, the sex of their first child was less important to them than it was to those in rural areas.
Numerous reports surfaced of coercive measures used to achieve the desired results of the one-child policy. The alleged methods ranged from intense psychological pressure to the use of physical force, including some grisly accounts of forced abortions and infanticide. Chinese officials admitted that isolated, uncondoned abuses of the program occurred and that they condemned such acts, but they insisted that the family planning program was administered on a voluntary basis using persuasion and economic measures only. International reaction to the allegations were mixed. The UN Fund for Population Activities and the International Planned Parenthood Federation were generally supportive of China's family planning program. The United States Agency for International Development, however, withdrew US$10million from the Fund in March 1985 based on allegations that coercion had been used.
Observers suggested that an accurate assessment of the one-child program would not be possible until all women who came of childbearing age in the early 1980s passed their fertile years. As of 1987 the one-child program had achieved mixed results. In general, it was very successful in almost all urban areas but less successful in rural areas.
Rapid fertility reduction associated with the one-child policy has potentially negative results. For instance, in the future the elderly might not be able to rely on their children to care for them as they have in the past, leaving the state to assume the expense, which could be considerable. Based on United Nations and Chinese government statistics, it was estimated in 1987 that by the year 2000 the population 60 years and older (the retirement age is 60 in urban areas) would number 127 million, or 10.1% of the total population; the projection for 2025 was 234million elderly, or 16.4%. According to projections based on the 1982 census, if the one-child policy were maintained to the year 2000, 25% of China's population would be age 65 or older by the year 2040. In 2050, the number of people over 60 is expected to increase to 430 million. [7]
Population density and distribution
Overall
China is the most populated country in the world and its national population density (137/km2) is similar to those of Switzerland and the Czech Republic. The overall population density of China conceals major regional variations, the western and northern part have a few million people, while eastern half has about 1.3billion. The vast majority of China's population lives near the east in major cities.
Coast and eastern China
In the 11 provinces, special municipalities, and autonomous regions along the southeast coast, population density was 320.6 people per km2.
Broadly speaking, the population was concentrated east of the mountains and south of the northern steppe. The most densely populated areas included the Yangtze River Valley (of which the delta region was the most populous), Sichuan Basin, North China Plain, Pearl River Delta, and the industrial area around the city of Shenyang in the northeast.
Western areas
Population is most sparse in the mountainous, desert, and grassland regions of the northwest and southwest. In Inner Mongolia Autonomous Region, portions are completely uninhabited, and only a few sections have populations denser than ten people per km2. The Inner Mongolia, Xinjiang, and Tibet autonomous regions and Qinghai and Gansu comprise 55% of the country's land area but in 1985 contained only 5.7% of its population.
Gender disparity concern
Future challenges for China will be the gender disparity. According to the 2010 census, males account for 51.27% of China's 1.34billion people, while females made up 48.73% of the total. The sex ratio (the number of males for each female in a population) at birth was 118.06 boys to every 100 girls (54.14%) in 2010, higher than the 116.86 (53.89%) of 2000, but 0.53 points lower than the ratio of 118.59 (54.25%) in 2005.[8] In most western countries the sex ratio at birth is around 105 boys to 100 girls (51.22%). At the moment there are about 9million more boys than girls in China.
Vital statistics
Table of births and deaths 1950–2018
China's fertility statistics differ depending on the source. According to the Ministry of Health and Family Planning November 2015 announcement, China's 2015 TFR was somewhere between 1.5 and 1.6.
Ministry of Health and Family Planning:[9][10]
The latest data from the National Bureau of Statistics (NBS) seems to contradict this, stating China's TFR for 2015 was 1,05. Although there is a natural margin of error since the NBS surveys only a thin cross-section of Chinese society, approximately 1% of the total population.[15] Fertility according to National Bureau of Statistics (NBS):[16]
Total Fertility Rate from 1930 to 1949
Children born per woman from 1930 to 1949. It is based on fairly good data for the entire period. Sources: Our World In Data and Gapminder Foundation.[10]
Life expectancy
Source: UN World Population Prospects[17]
Fertility and mortality
In 1949 crude death rates were probably higher than 30 per 1,000, and the average life expectancy was only 35 years. Beginning in the early 1950s, mortality steadily declined; it continued to decline through 1978 and remained relatively constant through 1987. One major fluctuation was reported in a computer reconstruction of China's population trends from 1953 to 1987 produced by the United States Bureau of the Census. The computer model showed that the crude death rate increased dramatically during the famine years associated with the Great Leap Forward (1958–60).
According to Chinese government statistics, the crude birth rate followed five distinct patterns from 1949 to 1982. It remained stable from 1949 to 1954, varied widely from 1955 to 1965, experienced fluctuations between 1966 and 1969, dropped sharply in the late 1970s, and increased from 1980 to 1981. Between 1970 and 1980, the crude birth rate dropped from 33.4 per 1,000 to 18.2 per 1,000. The government attributed this dramatic decline in fertility to the wǎn xī shǎo ("晚、稀、少", or "late, long, few": later marriages, longer intervals between births, and fewer children) birth control campaign. However, elements of socioeconomic change, such as increased employment of women in both urban and rural areas and reduced infant mortality (a greater percentage of surviving children would tend to reduce demand for additional children), may have played some role. The birth rate increased in the 1980s to a level over 20 per 1,000, primarily as a result of a marked rise in marriages and first births. The rise was an indication of problems with the one-child policy of 1979. Chinese sources, however, indicate that the birth rate started to decrease again in the 1990s and reached a level of around 12 per 1,000 in recent years.
In urban areas, the housing shortage may have been at least partly responsible for the decreased birth rate. Also, the policy in force during most of the 1960s and the early 1970s of sending large numbers of high school graduates to the countryside deprived cities of a significant proportion of persons of childbearing age and undoubtedly had some effect on birth rates (see Cultural Revolution (1966–76)). Primarily for economic reasons, rural birth rates tended to decline less than urban rates. The right to grow and sell agricultural products for personal profit and the lack of an old-age Welfare system were incentives for rural people to produce many children, especially sons, for help in the fields and for support in old age. Because of these conditions, it is unclear to what degree education had been able to erode traditional values favoring large families.
Today, the population continues to grow. There is also a serious gender imbalance. Census data obtained in 2000 revealed that 119 boys were born for every 100 girls, and among China's "floating population" the ratio was as high as 128:100. These situations led the government in July 2004 to ban selective abortions of female fetuses. It is estimated that this imbalance will rise until 2025–2030 to reach 20% then slowly decrease.[18]
China now has an increasingly aging population; it is projected that 11.8% of the population in 2020 will be 65 years of age and older. Health care has improved dramatically in China since 1949. Major diseases such as cholera, typhoid, and scarlet fever have been brought under control. Life expectancy has more than doubled, and infant mortality has dropped significantly. On the negative side, the incidence of cancer, cerebrovascular disease, and heart disease has increased to the extent that these have become the leading causes of death. Economic reforms initiated in the late 1970s fundamentally altered methods of providing health care; the collective medical care system has been gradually replaced by a more individual-oriented approach.
In Hong Kong, the birth rate of 0.9% is lower than its death rate. Hong Kong's population increases because of immigration from the mainland and a large expatriate population comprising about 4%. Like Hong Kong, Macau also has a low birth rate relying on immigration to maintain its population.
Total fertility rate
According to the 2000 census, the TFR was 1.22 (0.86 for cities, 1.08 for towns and 1.43 for villages/outposts). Beijing had the lowest TFR at 0.67, while Guizhou had the highest at 2.19. The Xiangyang district of Jiamusi city (Heilongjiang) has a TFR of 0.41, which is the lowest TFR recorded anywhere in the world in recorded history. Other extremely low TFR counties are: 0.43 in the Heping district of Tianjin city (Tianjin), and 0.46 in the Mawei district of Fuzhou city (Fujian). At the other end TFR was 3.96 in Geji County (Tibet), 4.07 in Jiali County (Tibet), and 5.47 in Baqing County (Tibet).[19]
The 2010 census reported a TFR of 1.18 (0.88 in cities, 1.15 in townships, and
1.44 in rural areas).[20]
The five regions with the lowest fertility rates were Beijing (0.71), Shanghai
(0.74), Liaoning (0.74), Heilongjiang (0.75), and Jilin (0.76). The five regions with the highest
fertility rates were Guangxi (1.79), Guizhou (1.75), Xinjiang (1.53), Hainan (1.51), and Anhui
(1.48).[20]
Total fertility rate by ethnic group (2010 census): Han (1.14), Zhuang (1.59), Hui (1.48), Manchu (1.18), Uyghur (2.04), Miao (1.82), Yi (1.82), Tujia (1.74), Tibetan (1.60), Mongols (1.26).[21]
Labor force
In 2012, for the first time, according to statistics released by China's National Bureau of Statistics in January 2013, the number of people theoretically able to enter the Chinese labor force (individuals aged 15 to 59), shrank slightly to 937.27 million people, a decrease of 3.45 million from 2011. This trend, resulting from China's demographic transition, is anticipated to continue for at least the next 20 years, to 2030.[22]
The CIA World Fact Book estimates the 2012 actual active labor force to amount to 798.5million.[23]
Height and weight
As of 2012, the average Chinese man was 167.1 centimeters tall (5ft 5.8 in) in 2012, the figures showed, and women's average height was 155.8 centimeters (5ft 1.3 in). The same study showed an average Chinese man weighed 66.2 kilograms (145.9lbs, or 10 stone 5.9lbs), up 3.5 kilograms (7.7lbs) over 10 years, while women were 2.9 kilograms (6.4 pounds) heavier on average at 57.3 kilograms (126.3 pounds, or 9 stone 0.3lbs). They were up just 0.4 centimeters (0.16in) and 0.7 centimeters (0.28in) respectively from 10 years earlier.[24]
Ethnic groups
The People's Republic of China (PRC) officially recognizes 56 distinct ethnic groups, the largest of which are Han, who constitute 91.51% of the total population in 2010. Ethnic minorities constitute 8.49% or 113.8million of China's population in 2010. During the past decades ethnic minorities have experienced higher growth rates than the majority Han population, because they are not under the one-child policy. Their proportion of the population in China has grown from 6.1% in 1953, to 8.04% in 1990, 8.41% in 2000, and 8.49% in 2010. Large ethnic minorities (data according to the 2000 census) include the Zhuang (16million, 1.28%), Manchu (10million, 0.84%), Uyghur (9million, 0.78%), Hui (9million, 0.71%), Miao (8million, 0.71%), Yi (7million, 0.61%), Tujia (5.75million, 0.63%), Mongols (5million, 0.46%), Tibetan (5million, 0.43%), Buyei (3million, 0.23%), and Korean (2million, 0.15%).
Neither Hong Kong nor Macau recognizes the official ethnic classifications maintained by the central government. In Macau, the largest substantial ethnic groups of non-Chinese descent are the Macanese, of mixed Chinese and Portuguese descent (Eurasians), as well as migrants from the Philippines and Thailand. Overseas Filipinos (overwhelmingly female) working as domestic workers comprise the largest non-Han Chinese ethnic group in Hong Kong.
People from other immigration jurisdictions
The 2010 Census counted 234,829 residents from Hong Kong, 21,201 residents from Macao, 170,283 residents from Taiwan, and 593,832 residents from other locations, totaling 1,020,145 residents.[26]
Religions
vtGraphic representations of various analyses
General surveys' results
Geographic and socioeconomic distributions
Migration
Internal migration in the People's Republic of China is one of the most extensive in the world according to the International Labour Organization.[51] In fact, research done by Kam Wing Chan of the University of Washington suggests that "In the 30 years since 1979, China's urban population has grown by about 440 million to 622million in 2009. Of the 440million increase, about 340million was attributable to net migration and urban reclassification. Even if only half of that increase was migration, the volume of rural-urban migration in such a short period is likely the largest in human history."[52] Migrants in China are commonly members of a floating population, which refers primarily to migrants in China without local household registration status through the Chinese Hukou system.[53] In general, rural-urban migrant workers are most excluded from local educational resources, citywide social welfare programs and many jobs because of their lack of hukou status.[54]
In 2011 a total of 252.78million migrant workers (an increase of 4.4% compared to 2010) existed in China. Out of these, migrant workers who left their hometown and worked in other provinces accounted for 158.63million (an increase of 3.4% compared to 2010) and migrant workers who worked within their home provinces reached 94.15million (an increase of 5.9% compared to 2010).[55] Estimations are that Chinese cities will face an influx of another 243 million migrants by 2025, taking the urban population up to nearly 1 billion people.[56] This population of migrants would represent "almost 40 percent of the total urban population," a number which is almost three times the current level.[56][57] While it is often difficult to collect accurate statistical data on migrant floating populations, the number of migrants is undoubtedly quite large. “In China’s largest cities, for instance, it is often quoted that at least one out of every five persons is a migrant.”[58] China's government influences the pattern of urbanization through the Hukou permanent residence registration system, land-sale policies, infrastructure investment and the incentives offered to local government officials. The other factors influencing migration of people from rural provincial areas to large cities are employment, education, business opportunities and higher standard of living.[59]
The mass emigration known as the Chinese diaspora, which occurred from the 19th century to 1949, was mainly caused by wars and starvation in mainland China, invasion from various foreign countries, as well as the problems resulting from political corruption. Most immigrants were illiterate peasants and manual labourers, called "coolies" by analogy to the same pattern of immigration from India, who emigrated to work in countries such as the Americas, Australia, South Africa and Southeast Asia.
Urbanization
Urbanization increased in speed following the initiation of the reform and opening policy. By the end of 2014, 54.7% of the total population lived in urban areas, a rate that rose from 26% in 1990.[60]
Demographic statistics
Demographic statistics according to the World Population Review.[61]
One birth every 2 seconds
One death every 3 seconds
One net migrant every 2 minutes
Net gain of one person every 6 seconds
The following demographic statistics are from the CIA World Factbook, unless otherwise indicated.[62]
No statistics have been included for areas currently governed by the Republic of China (Taiwan). Unless stated otherwise, statistics refer only to mainland China. (See Demographics of Hong Kong and Demographics of Macau.)
Population
Mainland only: 1,379,302,771 (2015)
Hong Kong: 7,191,503 (2015)
Macau: 601,969 (2015)
Total: 1,387,096,243 (2015).
Population rank: 1 (See List of countries by population.)
Urban-rural ratio
Urban: 55.8% (2015)— 779,478,624
Rural: 44.2% (2015)— 617,549,929
Age structure
0-14 years: 17.15% (male 127,484,177/female 109,113,241)
15-24 years: 12.78% (male 94,215,607/female 82,050,623)
25-54 years: 48.51% (male 341,466,438/female 327,661,460)
55-64 years: 10.75% (male 74,771,050/female 73,441,177)
65 years and over: 10.81% (male 71,103,029/female 77,995,969) (2017 est.)
0–14 years: 17.15% (2015)
15–64 years: 72.04% (2015)
65 years and: 10.81% (2015)
Median age
total: 37.4 years Country comparison to the world: 67th
male: 36.5 years
female: 38.4 years (2017 est.)
Population growth rate
0.41% (2017 est.) Country comparison to the world: 160th
Birth rate
12.3 births/1,000 population (2017 est.) Country comparison to the world: 161st
Death rate
7.8 deaths/1,000 population (2017 est.) Country comparison to the world: 101st
Net migration rate
-0.4 migrant(s)/1,000 population (2017 est.) Country comparison to the world: 121st
Population growth rate
Population growth rate: 0.59% (2016)
Sex distribution
Sex distribution: 104.98 (2016)
Sex ratio
At birth: 1.15 male(s)/female (2015)
Under 15 years: 1.17 male(s)/female (2015)
15–64 years: 1.08 male(s)/female (2015)
65 years and over: 0.92 male(s)/female (2015)
Total population: 1.05 male(s)/female (2016)
Infant mortality rate
Total: 12.2 deaths/1,000 live births (2015 est)
Male: 12.4 deaths/1,000 live births (2015 est)
Female: 12.0 deaths/1,000 live births (2015 est)
See Infant mortality in China
Urbanization
urban population: 59.2% of total population (2018)
rate of urbanization: 2.42% annual rate of change (2015-20 est.)
note: data do not include Hong Kong and Macau
Life expectancy at birth
Total population: 76.34 years (2015)
Male: 73.64 years (2015)
Female: 79.43 years (2015)
Religious affiliation
Predominantly: Mahayana Buddhism, Taoism (Chinese folk religion), Confucianism (via ancestral worship).
Others: Christianity (3%– 4%), Islam (1.5%), ethnic minority religions, others.
Note: State atheism, but traditionally pragmatic and eclectic.
Sources:[63][64][65][66]
See also
Metropolitan regions of China
Metropolitan cities of China
Demographics of Central Asia
Demographics of Beijing
Secession in China
Language Atlas of China
Notes
This article incorporatespublic domain material from the Library of Congress Country Studiesdocument .
This article incorporatespublic domain material from the CIA World Factbookwebsite .
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Robert Heinrich Herman Koch (/ˈkɔːx/;[3] German:[ˈkɔχ];), dianggap sebagai pendiri modern bakteriologi, dikenal karena perannya dalam mengidentifikasi agen penyebab spesifik TB, kolera, dan antraks dan untuk memberikan dukungan eksperimental untuk konsep penyakit menular. Selain studi rintisannya pada penyakit ini, Koch yang diciptakan dan ditingkatkan teknologi laboratorium yang signifikan dan teknik di bidang mikrobiologi, dan membuat sejumlah penemuan kunci yang berkaitan dengan kesehatan masyarakat. Penelitiannya menyebabkan penciptaan postulat Koch, serangkaian empat prinsip umum menghubungkan mikroorganisme spesifik untuk penyakit tertentu yang tetap hari ini "standar emas" dalam medis mikrobiologi. Sebagai hasil dari terobosan penelitian pada TB, Koch menerima Penghargaan Nobel dalam Fisiologi atau Kedokteran pada tahun 1905.
Kehidupan pribadi
Robert Koch lahir di Klausthal, Hanover, Jerman pada tanggal 11 Desember 1843 hingga Hermann Koch dan Mathilde Julie Henriette Biewand. Koch unggul di bidang akademik sejak usia dini. Sebelum masuk sekolah pada tahun 1848, Koch telah belajar sendiri cara membaca dan menulis. Dia lulus dari sekolah tinggi pada tahun 1862, setelah unggul dalam ilmu pengetahuan dan matematika. Pada usia 19, Koch memasuki Universitas Göttingen, mempelajari ilmu alam. Namun, setelah dua semester, Koch memutuskan untuk mengubah daerahnya studi untuk obat-obatan, karena ia bercita-cita menjadi dokter. Selama Koch semester kelima sekolah kedokteran, Jacob Henle, seorang ahli anatomi yang telah menerbitkan sebuah teori penularan pada tahun 1840, Koch meminta untuk berpartisipasi dalam proyek penelitiannya pada struktur saraf uterus. Pada semester keenam, Koch mulai melakukan penelitian di Fisiologis Institute, di mana ia belajar sekresi asam suksinat. Hal ini pada akhirnya akan membentuk dasar dari disertasinya. Pada bulan Januari 1866, Koch lulus dari sekolah kedokteran, mendapatkan kehormatan penghargaan tertinggi. Pada bulan Juli 1867, setelah lulus dari sekolah kedokteran, Koch menikahi Emma Adolfine Josephine Fraatz, dan dua memiliki seorang putri, Gertrude, pada tahun 1868. Setelah lulus pada tahun 1866, ia bekerja sebagai ahli bedah di Franco-Prusia, dan mengikuti dinasnya, bekerja sebagai dokter di Wollstein (sekarang Wolsztyn, Polandia). Pernikahan Koch dengan Emma Fraatz berakhir pada tahun 1893, dan kemudian pada tahun yang sama, ia menikah dengan aktris Hedwig Freiberg. Dari 1885-1890, Koch menjabat sebagai administrator dan profesor di Universitas Berlin. Koch menderita serangan jantung pada tanggal 9 April 1910 pernah membuat pemulihan lengkap. Pada tanggal 27 Mei, hanya tiga hari setelah memberikan ceramah tentang tuberkulosis penelitian di Berlin Academy of Sciences, Robert Koch meninggal di Baden Baden pada usia 66. Setelah kematiannya, Institut bernama pendiriannya setelah dia di menghormatinya.
Kontribusi penelitian
Antraks
Robert Koch secara luas dikenal karena karyanya dengan antraks, menemukan agen penyebab penyakit fatal menjadi Bacillus anthracis. Koch menemukan spora formasi bakteri anthrax, yang bisa tetap aktif dalam kondisi tertentu. Namun, di bawah kondisi yang optimal, ia menemukan bahwa spora yang diaktifkan dan menyebabkan penyakit. Untuk menentukan agen ini penyebab, ia mengkultur kering tetap bakteri ke slide kaca, pewarna yang digunakan untuk mewarnai kultur, dan kemudian mengamati mereka melalui mikroskop. Karya Koch dengan anthrax adalah penting dalam bahwa ia adalah yang pertama untuk menghubungkan suatu mikroorganisme tertentu dengan penyakit tertentu, menolak gagasan generasi spontan dan membuktikan kuman teori penyakit.
Empat Postulat Koch
Koch menerima posisi sebagai penasihat pemerintah dengan Imperial Departemen Kesehatan pada tahun 1880. Selama waktunya sebagai penasihat pemerintah, ia menerbitkan sebuah laporan di mana ia menyatakan pentingnya kultur murni dalam mengisolasi organisme penyebab penyakit dan menjelaskan langkah-langkah yang diperlukan untuk memperoleh kultur ini, metode yang diringkas dalam [[postulat Koch |koch empat postulat] ]. Penemuan Koch dari agen penyebab anthrax menyebabkan pembentukan satu set generik postulat yang dapat digunakan dalam penentuan penyebab penyakit menular. Dalil tersebut, yang tidak hanya diuraikan metode untuk menghubungkan sebab dan akibat dari penyakit menular tetapi juga membentuk makna kultur laboratorium agen infeksi, yang tercantum di sini:
1. Organisme ini harus selalu hadir dalam setiap kasus penyakit.
2. Organisme harus diisolasi dari host yang mengandung penyakit dan ditumbuhkan dalam kultur murni.
3. Sampel dari organisme yang diambil dari kultur murni harus menyebabkan penyakit yang sama bila diinokulasi menjadi sehat, hewan rentan di laboratorium.
4. Organisme harus diisolasi dari hewan diinokulasi dan harus diidentifikasi sebagai organisme asli yang sama pertama kali diisolasi dari host awalnya sakit.
Mengisolasi kultur murni pada media padat
Koch mulai melakukan penelitian tentang mikroorganisme di laboratorium yang terhubung ke ruang pemeriksaan pasiennya. Penelitian awal Koch di laboratorium ini terbukti menghasilkan salah satu kontribusi besar untuk bidang mikrobiologi, karena di sanalah ia mengembangkan teknik bakteri yang tumbuh. Koch postulat kedua panggilan untuk isolasi dan pertumbuhan patogen yang dipilih dalam kultur laboratorium murni. Dalam upaya untuk tumbuh bakteri, Koch mulai menggunakan nutrisi padat seperti irisan kentang. Melalui percobaan awal, Koch mengamati koloni individu identik, sel murni. Datang ke kesimpulan bahwa irisan kentang tidak media yang cocok untuk semua organisme, Koch kemudian mulai menggunakan solusi nutrisi dengan gelatin. Namun, ia segera menyadari bahwa gelatin, seperti irisan kentang, itu bukan media yang optimal untuk pertumbuhan bakteri, karena itu tidak tetap solid pada 37 ˚ C, suhu yang ideal untuk pertumbuhan sebagian besar patogen manusia. Oleh karena itu, Koch akhirnya mulai memanfaatkan agar untuk tumbuh dan mengisolasi kultur murni, karena ini polisakarida tetap solid pada 37 ˚ C, tidak terdegradasi oleh sebagian besar bakteri, dan hasil dalam media transparan.
Kolera
Koch selanjutnya mengalihkan perhatian ke kolera, dan mulai melakukan penelitian di Mesir dengan harapan mengisolasi agen penyebab penyakit. Namun, Koch tidak mampu menyelesaikan tugas sebelum epidemi di Mesir berakhir, dan ia kemudian pergi ke India untuk melanjutkan studinya. Di India, Koch memang mampu menentukan agen penyebab kolera, mengisolasi Vibrio cholera.
Tuberkulosis
Selama waktunya sebagai penasihat pemerintah dengan Imperial Departemen Kesehatan di Berlin pada tahun 1880, Robert Koch menjadi tertarik pada TB penelitian. Pada saat itu, secara luas diyakini bahwa TBC adalah penyakit bawaan. Namun, Koch yakin bahwa penyakit itu disebabkan oleh bakteri dan menular, dan diuji empat postulat menggunakan kelinci percobaan. Melalui percobaan ini, Koch menemukan bahwa eksperimen dengan tuberkulosis puas keempat postulat nya. Pada tahun 1882, ia menerbitkan penemuannya tentang TBC, di mana ia menemukan agen penyebab penyakit menjadi lambat tumbuh Mycobacterium tuberculosis. Karyanya dengan penyakit ini memenangkan Koch yang Nobel dalam Fisiologi dan Kedokteran pada tahun 1905. Selain itu, penelitian Koch pada tuberkulosis, bersama dengan studi tentang penyakit tropis, dia memenangkan Orde Prusia Pour le Kemuliaan pada tahun 1906 dan Robert Koch medali, didirikan untuk menghormati dokter hidup terbesar, pada tahun 1908.
Referensi
Bacaan lanjutan
Weindling, Paul. "Scientific elites and laboratory organization in fin de siècle Paris and Berlin: The Pasteur Institute and Robert Koch’s Institute for Infectious Diseases compared," in Andrew Cunningham and Perry Williams, eds. The Laboratory Revolution in Medicine (Cambridge University Press, 1992) pp: 170–88.
Pranala luar
ID Tree:
, Robert Koch Biography and bibliography in the Virtual Laboratory of the Max Planck Institute for the History of Science
, original microscope out of the laboratory Robert Koch used in Wollstein (1877)
, microscope objectives: as they were used by Robert Koch for his first photos of microorganisms (1877–1878)
at Project Gutenberg
at Internet Archive
Texts on Wikisource:
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} | Ikatan kimia adalah sebuah proses fisika yang bertanggung jawab dalam interaksi gaya tarik menarik antara dua atom atau molekul yang menyebabkan suatu senyawa diatomik atau poliatomik menjadi stabil. Penjelasan mengenai gaya tarik menarik ini sangatlah rumit dan dijelaskan oleh elektrodinamika kuantum. Dalam praktiknya, para kimiawan biasanya bergantung pada teori kuantum atau penjelasan kualitatif yang kurang kaku (namun lebih mudah untuk dijelaskan) dalam menjelaskan ikatan kimia. Secara umum, ikatan kimia yang kuat diasosiasikan dengan transfer elektron antara dua atom yang berpartisipasi. Ikatan kimia menjaga molekul-molekul, kristal, dan gas-gas diatomik untuk tetap bersama. Selain itu ikatan kimia juga menentukan struktur suatu zat.
Kekuatan ikatan-ikatan kimia sangatlah bervariasi. Pada umumnya, ikatan kovalen dan ikatan ion dianggap sebagai ikatan "kuat", sedangkan ikatan hidrogen dan ikatan van der Waals dianggap sebagai ikatan "lemah". Hal yang perlu diperhatikan adalah bahwa ikatan "lemah" yang paling kuat dapat lebih kuat daripada ikatan "kuat" yang paling lemah.
Tinjauan
Elektron yang mengelilingi inti atom bermuatan negatif dan proton yang terdapat dalam inti atom bermuatan positif, mengingat muatan yang berlawanan akan saling tarik menarik, maka dua atom yang berdekatan satu sama lainnya akan membentuk ikatan.
Dalam gambaran yang paling sederhana dari ikatan non-polar atau ikatan kovalen, satu atau lebih elektron, biasanya berpasangan, ditarik menuju sebuah wilayah di antara dua inti atom. Gaya ini dapat mengatasi gaya tolak menolak antara dua inti atom yang positif, sehingga atraksi ini menjaga kedua atom untuk tetap bersama, walaupun keduanya masih akan tetap bergetar dalam keadaan kesetimbangan. Ringkasnya, ikatan kovalen melibatkan elektron-elektron yang dibagi dan dua atau lebih inti atom yang bermuatan positif secara bersamaan menarik elektron-elektron bermuatan negatif yang dibagi.
Dalam gambaran ikatan ion yang disederhanakan, inti atom yang bermuatan positif secara dominan melebihi muatan positif inti atom lainnya, sehingga secara efektif menyebabkan satu atom mentransfer elektronnya ke atom yang lain. Hal ini menyebabkan satu atom bermuatan positif dan yang lainnya bermuatan negatif secara keseluruhan. Ikatan ini dihasilkan dari atraksi elektrostatik di antara atom-atom dan atom-atom tersebut menjadi ion-ion yang bermuatan.
Semua bentuk ikatan dapat dijelaskan dengan teori kuantum, namun dalam praktiknya, kaidah-kaidah yang disederhanakan mengizinkan para kimiawan untuk memprediksikan kekuatan, arah, dan polaritas sebuah ikatan. Kaidah oktet (Bahasa Inggris: octet rule) dan teori VSEPR adalah dua contoh kaidah yang disederhanakan tersebut. Ada pula teori-teori yang lebih canggih, yaitu teori ikatan valens yang meliputi hibridisasi orbital dan resonans, dan metode orbital molekul kombinasi linear orbital atom (Bahasa Inggris: Linear combination of atomic orbitals molecular orbital method) yang meliputi teori medan ligan. Elektrostatika digunakan untuk menjelaskan polaritas ikatan dan efek-efeknya terhadap zat-zat kimia.
Sejarah
Spekulasi awal dari sifat-sifat ikatan kimia yang berawal dari abad ke-12 mengganggap spesi kimia tertentu disatukan oleh sejenis afinitas kimia. Pada tahun 1704, Isaac Newton menggarisbesarkan teori ikatan atomnya pada "Query 31" buku Opticksnya dengan mengatakan atom-atom disatukan satu sama lain oleh "gaya" tertentu.
Pada tahun 1819, setelah penemuan tumpukan volta, Jöns Jakob Berzelius mengembangkan sebuah teori kombinasi kimia yang menekankan sifat-sifat elektrogenativitas dan elektropositif dari atom-atom yang bergabung. Pada pertengahan abad ke-19 Edward Frankland, F.A. Kekule, A.S. Couper, A.M. Butlerov, dan Hermann Kolbe, beranjak pada teori radikal, mengembangkan teori valensi yang pada awalnya disebut "kekuatan penggabung". Teori ini mengatakan sebuah senyawa tergabung berdasarkan atraksi kutub positif dan kutub negatif. Pada tahun 1916, kimiawan Gilbert N. Lewis mengembangkan konsep ikatan elektron berpasangan. Konsep ini mengatakan dua atom dapat berkongsi satu sampai enam elektron, membentuk ikatan elektron tunggal, ikatan tunggal, ikatan rangkap dua, atau ikatan rangkap tiga.
Dalam kata-kata Lewis sendiri:
“An electron may form a part of the shell of two different atoms and cannot be said to belong to either one exclusively.”
Pada tahun yang sama, Walther Kossel juga mengajukan sebuah teori yang mirip dengan teori Lewis, namun model teorinya mengasumsikan transfer elektron yang penuh antara atom-atom. Teori ini merupakan model ikatan polar. Baik Lewis dan Kossel membangun model ikatan mereka berdasarkan kaidah Abegg (1904).
Pada tahun 1927, untuk pertama kalinya penjelasan matematika kuantum yang penuh atas ikatan kimia yang sederhana berhasil diturunkan oleh fisikawan Denmark Oyvind Burrau.[1] Hasil kerja ini menunjukkan bahwa pendekatan kuantum terhadap ikatan kimia dapat secara mendasar dan kuantitatif tepat. Namun metode ini tidak mampu dikembangkan lebih jauh untuk menjelaskan molekul yang memiliki lebih dari satu elektron. Pendekatan yang lebih praktis namun kurang kuantitatif dikembangkan pada tahun yang sama oleh Walter Heitler and Fritz London. Metode Heitler-London menjadi dasar dari teori ikatan valensi. Pada tahun 1929, metode orbital molekul kombinasi linear orbital atom (Bahasa Inggris: linear combination of atomic orbitals molecular orbital method), disingkat LCAO, diperkenalkan oleh Sir John Lennard-Jones yang bertujuan menurunkan struktur elektronik dari molekul F2 (fluorin) dan O2 (oksigen) berdasarkan prinsip-prinsip dasar kuantum. Teori orbital molekul ini mewakilkan ikatan kovalen sebagai orbital yang dibentuk oleh orbital-orbital atom mekanika kuantum Schrödinger yang telah dihipotesiskan untuk atom berelektron tunggal. Persamaan ikatan elektron pada multielektron tidak dapat diselesaikan secara analitik, namun dapat dilakukan pendekatan yang memberikan hasil dan prediksi yang secara kualitatif cukup baik. Kebanyakan perhitungan kuantitatif pada kimia kuantum modern menggunakan baik teori ikatan valensi maupun teori orbital molekul sebagai titik awal, walaupun pendekatan ketiga, teori fungsional rapatan (Bahasa Inggris: density functional theory), mulai mendapatkan perhatian yang lebih akhir-akhir ini.
Pada tahun 1935, H. H. James dan A. S. Coolidge melakukan perhitungan pada molekul dihidrogen.Berbeda dengan perhitungan-perhitungan sebelumnya yang hanya menggunakan fungsi-fungsi jarak antara elektron dengan inti atom, mereka juga menggunakan fungsi yang secara eksplisit memperhitungkan jarak antara dua elektron.[2] Dengan 13 parameter yang dapat diatur, mereka mendapatkan hasil yang sangat mendekati hasil yang didapatkan secara eksperimen dalam hal energi disosiasi. Perluasan selanjutnya menggunakan 54 parameter dan memberikan hasil yang sangat sesuai denganhasil eksperimen. Perhitungan ini meyakinkan komunitas sains bahwa teori kuantum dapat memberikan hasil yang sesuai dengan hasil eksperimen. Namun pendekatan ini tidak dapat memberikan gambaran fisik seperti yang terdapat pada teori ikatan valensi dan teori orbital molekul. Selain itu, ia juga sangat sulit diperluas untuk perhitungan molekul-molekul yang lebih besar.
Teori ikatan valensi
Pada tahun 1927, teori ikatan valensi dikembangkan atas dasar argumen bahwa sebuah ikatan kimia terbentuk ketika dua valensi elektron bekerja dan menjaga dua inti atom bersama oleh karena efek penurunan energi sistem. Pada tahun 1931, beranjak dari teori ini, kimawan Linus Pauling mempublikasikan jurnal ilmiah yang dianggap sebagai jurnal paling penting dalam sejarah kimia: "On the Nature of the Chemical Bond". Dalam jurnal ini, berdasarkan hasil kerja Lewis dan teori valensi ikatan Heitler dan London, dia mewakilkan enam aturan pada ikatan elektron berpasangan:
1. Ikatan elektron berpasangan terbentuk melalui interaksi elektron tak-berpasangan pada masing-masing atom.
2. Spin-spin elektron haruslah saling berlawanan.
3. Seketika dipasangkan, dua elektron tidak bisa berpartisipasi lagi pada ikatan lainnya.
4. Pertukaran elektron pada ikatan hanya melibatkan satu persamaan gelombang untuk setiap atom.
5. Elektron-elektron yang tersedia pada aras energi yang paling rendah akan membentuk ikatan-ikatan yang paling kuat.
6. Dari dua orbital pada sebuah atom, salah satu yang dapat bertumpang tindih paling banyaklah yang akan membentuk ikatan paling kuat, dan ikatan ini akan cenderung berada pada arah orbital yang terkonsentrasi.
Buku teks tahun 1939 Pauling: On the Nature of Chemical Bond menjadi apa yang banyak orang sebut sebagai "kitab suci" kimia modern. Buku ini membantu kimiawan eksperimental untuk memahami dampak teori kuantum pada kimia. Namun, edisi 1959 selanjutnya gagal untuk mengalamatkan masalah yang lebih mudah dimengerti menggunakan teori orbital molekul. Dampak dari teori valensi ini berkurang sekitar tahun 1960-an dan 1970-an ketika popularitas teori orbital molekul meningkat dan diimplementasikan pada beberapa progam komputer yang besar. Sejak tahun 1980-an, masalah implementasi teori ikatan valensi yang lebih sulit pada program-program komputer telah hampir dipecahkan dan teori ini beranjak bangkit kembali.
Teori orbital molekul
Teori orbital molekul (Bahasa Inggris: Molecular orbital theory), disingkat MO. Dala teori ini menyebutkan bahwa interaksi yang terjadi antara atom pusat dengan ligan melibatkan interaksi elektrostatik dan interaksi kovalen. Teori ini muncul untuk menyempurnakan teori sebelumnya yaitu teori medan kristal. Pada teori medan kristal menyebutkan bawa interaksi yang terjadi antara atom pusat dengan ligan berupa ineraksi elektrostatik saja. Padahal dari fakta eksperimental ditemukan bahwa terdapat kompleks dengan ligan netral namun stabil. Dan juga melakui eksperimen resonansi spin ditemukan bahwa terdapat pemakaian bersama sepasang elektron oleh loga dan ligan. Hal ini berarti terdapat juga interaksi kovalen. Teori ini meruapakan teori paling lengkap dari teori-teori sebelumnya, namapun juga yang paling rumit.
Menggunakan kombinasi linear orbital-orbital atom untuk membentuk orbital-orbital molekul yang menrangkumi seluruh molekul. Semuanya ini seringkali dibagi menjadi orbital ikat, orbital antiikat, dan orbital bukan-ikatan. Orbital molekul hanyalah sebuah orbital Schrödinger yang melibatkan beberapa inti atom. Jika orbital ini merupakan tipe orbital yang elektron-elektronnya memiliki kebolehjadian lebih tinggi berada di antara dua inti daripada di lokasi lainnya, maka orbital ini adalah orbital ikat dan akan cenderung menjaga kedua inti bersama. Jika elektron-elektron cenderung berada di orbital molekul yang berada di lokasi lainnya, maka orbital ini adalah orbital antiikat dan akan melemahkan ikatan. Elektron-elektron yang berada pada orbital bukan-ikatan cenderung berada pada orbital yang paling dalam (hampir sama dengan orbital atom), dan diasosiasikan secara keseluruhan pada satu inti. Elektron-elektron ini tidak menguatkan maupun melemahkan kekuatan ikatan.
Perbandingan antara teori ikatan valensi dan teori orbital molekul
Pada beberapa bidang, teori ikatan valensi lebih baik daripada teori orbital molekul. Ketika diaplikasikan pada molekul berelektron dua, H2, teori ikatan valensi, bahkan dengan pendekatan Heitler-London yang paling sederhana, memberikan pendekatan energi ikatan yang lebih dekat dan representasi yang lebih akurat pada tingkah laku elektron ketika ikatan kimia terbentuk dan terputus. Sebaliknya, teori orbital molekul memprediksikan bahwa molekul hidrogen akan berdisosiasi menjadi superposisi linear dari hidrogen atom dan ion hidrogen positif dan negatif. Prediksi ini tidak sesuai dengan gambaran fisik. Hal ini secara sebagian menjelaskan mengapa kurva energi total terhadap jarak antar atom pada metode ikatan valensi berada di atas kurva yang menggunakan metode orbital molekul. Situasi ini terjadi pada semua molekul diatomik homonuklir dan tampak dengan jelas pada F2 ketika energi minimum pada kurva yang menggunakan teori orbital molekul masih lebih tinggi dari energi dua atom F.
Konsep hibridisasi sangatlah berguna dan variabilitas pada ikatan di kebanyakan senyawa organik sangatlah rendah, menyebabkan teori ini masih menjadi bagian yang tak terpisahkan dari kimia organik. Namun, hasil kerja Friedrich Hund, Robert Mulliken, dan Gerhard Herzberg menunjukkan bahwa teori orbital molekul memberikan deskripsi yang lebih tepat pada spektrokopi, ionisasi, dan sifat-sifat magnetik molekul. Kekurangan teori ikatan valensi menjadi lebih jelas pada molekul yang berhipervalensi (contohnya PF5) ketika molekul ini dijelaskan tanpa menggunakan orbital-orbital d yang sangat krusial dalam hibridisasi ikatan yang diajukan oleh Pauling. Logam kompleks dan senyawa yang kurang elektron (seperti diborana) dijelaskan dengan sangat baik oleh teori orbital molekul, walaupun penjelasan yang menggunakan teori ikatan valensi juga telah dibuat.
Pada tahun 1930, dua metode ini saling bersaing sampai disadari bahwa keduanya hanyalah merupakan pendekatan pada teori yang lebih baik. Jika kita mengambil struktur ikatan valensi yang sederhana dan menggabungkan semua struktur kovalen dan ion yang dimungkinkan pada sekelompok orbital atom, kita mendapatkan apa yang disebut sebagai fungsi gelombang interaksi konfigurasi penuh. Jika kita mengambil deskripsi orbital molekul sederhana pada keadaan dasar dan mengkombinasikan fungsi tersebut dengan fungsi-fungsi yang mendeskripsikan keseluruhan kemungkinan keadaan tereksitasi yang menggunakan orbital tak terisi dari sekelompok orbital atom yang sama, kita juga mendapatkan fungsi gelombang interaksi konfigurasi penuh. Terlihatlah bahwa pendekatan orbital molekul yang sederhana terlalu menitikberatkan pada struktur ion, sedangkan pendekatan teori valensi ikatan yang sederhana terlalu sedikit menitikberatkan pada struktur ion. Dapat kita katakan bahwa pendekatan orbital molekul terlalu ter-delokalisasi, sedangkan pendekatan ikatan valensi terlalu ter-lokalisasi.
Sekarang kedua pendekatan tersebut dianggap sebagai saling memenuhi, masing-masing memberikan pandangannya sendiri terhadap masalah-masalah pada ikatan kimia. Perhitungan modern pada kimia kuantum biasanya dimulai dari (namun pada akhirnya menjauh) pendekatan orbital molekul daripada pendekatan ikatan valensi. Ini bukanlah karena pendekatan orbital molekul lebih akurat dari pendekatan teori ikatan valensi, melainkan karena pendekatan orbital molekul lebih memudahkan untuk diubah menjadi perhitungan numeris. Namun program-progam ikatan valensi yang lebih baik juga tersedia.
Ikatan dalam rumus kimia
Bentuk atom-atom dan molekul-molekul yang 3 dimensi sangatlah menyulitkan dalam menggunakan teknik tunggal yang mengindikasikan orbital-orbital dan ikatan-ikatan. Pada rumus molekul, ikatan kimia (orbital yang berikatan) diindikasikan menggunakan beberapa metode yang bebeda tergantung pada tipe diskusi. Kadang-kadang kesemuaannya dihiraukan. Sebagai contoh, pada kimia organik, kimiawan biasanya hanya peduli pada gugus fungsi molekul. Oleh karena itu, rumus molekul etanol dapat ditulis secara konformasi, 3-dimensi, 2-dimensi penuh (tanpa indikasi arah ikatan 3-dimensi), 2-dimensi yang disingkat (CH3–CH2–OH), memisahkan gugus fungsi dari bagian molekul lainnnya (C2H5OH), atau hanya dengan konstituen atomnya saja (C2H6O). Kadangkala, bahkan kelopak valensi elektron non-ikatan (dengan pendekatan arah yang digambarkan secara 2-dimensi) juga ditandai. Beberapa kimiawan juga menandai orbital-orbital atom, sebagai contoh anion etena−4 yang dihipotesiskan (\/C=C/\ −4) mengindikasikan kemungkinan pembentukan ikatan.sehingga terjadi ikatan rangkap dua.
Ikatan kuat kimia
Ikatan-ikatan berikut adalah ikatan intramolekul yang mengikat atom-atom bersama menjadi molekul. Dalam pandangan yang sederhana dan terlokalisasikan, jumlah elektron yang berpartisipasi dalam suatu ikatan biasanya merupakan perkalian dari dua, empat, atau enam. Jumlah yang berangka genap umumnya dijumpai karena elektron akan memiliki keadaan energi yang lebih rendah jika berpasangan. Teori-teori ikatan yang lebih canggih menunjukkan bahwa kekuatan ikatan tidaklah selalu berupa angka bulat dan tergantung pada distribusi elektron pada setiap atom yang terlibat dalam sebuah ikatan. Sebagai contohnya, karbon-karbon dalam senyawa benzena dihubungkan satu sama lain oleh ikatan 1.5 dan dua atom dalam nitrogen monoksida NO dihubungkan oleh ikatan 2,5. Keberadaan ikatan rangkap empat juga diketahui dengan baik. Jenis-jenis ikatan kuat bergantung pada perbedaan elektronegativitas dan distribusi orbital elektron yang tertarik pada suatu atom yang terlibat dalam ikatan. Semakin besar perbedaan elektronegativitasnya, semakin besar elektron-elektron tersebut tertarik pada atom yang berikat dan semakin bersifat ion pula ikatan tersebut. Semakin kecil perbedaan elektronegativitasnya, semakin bersifat kovalen ikatan tersebut.
Ikatan kovalen
Ikatan kovalen adalah ikatan yang umumnya sering dijumpai, yaitu ikatan yang perbedaan elektronegativitas (negatif dan positif) di antara atom-atom yang berikat sangatlah kecil atau hampir tidak ada. Ikatan-ikatan yang terdapat pada kebanyakan senyawa organik dapat dikatakan sebagai ikatan kovalen. Lihat pula ikatan sigma dan ikatan pi untuk penjelasan LCAO terhadap jenis ikatan ini.
Ikatan kovalen polar
Ikatan kovalen polar merupakan ikatan yang sifat-sifatnya berada di antara ikatan kovalen dan ikatan ion.
Ikatan ion
Ikatan ion merupakan sejenis interaksi elektrostatik antara dua atom yang memiliki perbedaan elektronegativitas yang besar. Tidaklah terdapat nilai-nilai yang pasti yang membedakan ikatan ion dan ikatan kovalen, namun perbedaan elektronegativitas yang lebih besar dari 2,0 bisanya disebut ikatan ion, sedangkan perbedaan yang lebih kecil dari 1,5 biasanya disebut ikatan kovalen.[3] Ikatan ion menghasilkan ion-ion positif dan negatif yang berpisah. Muatan-muatan ion ini umumnya berkisar antara -3 e sampai dengan +3e.
Ikatan kovalen koordinasi
Ikatan kovalen koordinasi, kadangkala disebut sebagai ikatan datif, adalah sejenis ikatan kovalen yang keseluruhan elektron-elektron ikatannya hanya berasal dari salah satu atom, penderma pasangan elektron, ataupun basa Lewis. Konsep ini mulai ditinggalkan oleh para kimiawan seiring dengan berkembangnya teori orbital molekul. Contoh ikatan kovalen koordinasi terjadi pada nitron dan ammonia borana. Susunan ikatan ini berbeda dengan ikatan ion pada perbedaan elektronegativitasnya yang kecil, sehingga menghasilkan ikatan yang kovalen. Ikatan ini biasanya ditandai dengan tanda panah. Ujung panah ini menunjuk pada akseptor elektron atau asam Lewis dan ekor panah menunjuk pada penderma elektron atau basa Lewis
Ikatan pisang
Ikatan pisang adalah sejenis ikatan yang terdapat pada molekul-molekul yang mengalami terikan ataupun yang mendapat rintangan sterik, sehingga orbital-orbital ikatan tersebut dipaksa membentuk struktur ikatan yang mirip dengan pisang. Ikatan pisang biasanya lebih rentan mengalami reaksi daripada ikatan-ikatan normal lainnya.
Ikatan 3c-2e dan 3c-4e
Dalam ikatan tiga-pusat dua-elektron, tiga atom saling berbagi dua elektron. Ikatan sejenis ini terjadi pada senyawa yang kekurangan elektron seperti pada diborana. Setiap ikatan mengandung sepasang elektron yang menghubungkan atom boron satu sama lainnya dalam bentuk pisang dengan sebuah proton (inti atom hidrogen) di tengah-tengah ikatan, dan berbagi elektron dengan kedua atom boron. Terdapat pula Ikatan tiga-pusat empat-elektron yang menjelaskan ikatan pada molekul hipervalen.
Ikatan tiga elektron dan satu elektron
Ikatan-ikatan dengan satu atau tiga elektron dapat ditemukan pada spesi radikal yang memiliki jumlah elektron gasal (ganjil). Contoh paling sederhana dari ikatan satu elektron dapat ditemukan pada kation molekul hidrogen H2+. Ikatan satu elektron seringkali memiliki energi ikat yang setengah kali dari ikatan dua elektron, sehingga ikatan ini disebut pula "ikatan setengah". Namun terdapat pengecualian pada kasus dilitium. Ikatan dilitium satu elektron, Li2+, lebih kuat dari ikatan dilitium dua elektron Li2. Pengecualian ini dapat dijelaskan dengan hibridisasi dan efek kelopak dalam.[4]
Contoh sederhana dari ikatan tiga elektron dapat ditemukan pada kation dimer helium, He2+, dan dapat pula dianggap sebagai "ikatan setengah" karena menurut teori orbital molekul, elektron ke-tiganya merupakan orbital antiikat yang melemahkan ikatan dua elektron lainnya sebesar setengah. Molekul oksigen juga dapat dianggap memiliki dua ikatan tiga elektron dan satu ikatan dua elektron yang menjelaskan sifat paramagnetiknya.[5]
Molekul-molekul dengan ikatan elektron gasal biasanya sangat reaktif. Ikatan jenis ini biasanya hanya stabil pada atom-atom yang memiliki elektronegativitas yang sama.[5]
Ikatan aromatik
Pada kebanyakan kasus, lokasi elektron tidak dapat ditandai dengan menggunakan garis (menandai dua elektron) ataupun titik (menandai elektron tungga). Ikatan aromatik yang terjadi pada molekul yang berbentuk cincin datar menunjukkan stabilitas yang lebih.
Pada benzena, 18 elektron ikatan mengikat 6 atom karbon bersama membentuk struktur cincin datar. "Orde" ikatan antara dua atom dapat dikatakan sebagai (18/6)/2=1,5 dan seluruh ikatan pada benzena tersebut adalah identik. Ikatan-ikatan ini dapat pula ditulis sebagai ikatan tunggal dan rangkap yang berselingan, namun hal ini kuranglah tepat mengingat ikatan rangkap dan ikatan tunggal memiliki kekuatan ikatan yang berbeda dan tidak identik.
Ikatan logam
Pada ikatan logam, elektron-elektron ikatan terdelokalisasi pada kekisi (lattice) atom. Berbeda dengan senyawa organik, lokasi elektron yang berikat dan muatannya adalah statik. Oleh karena delokalisai yang menyebabkan elektron-elektron dapat bergerak bebas, senyawa ini memiliki sifat-sifat mirip logam dalam hal konduktivitas, duktilitas, dan kekerasan.
Ikatan antarmolekul
Terdapat empat jenis dasar ikatan yang dapat terbentuk antara dua atau lebih molekul, ion, ataupun atom. Gaya antarmolekul menyebabkan molekul saling menarik atau menolak satu sama lainnya. Seringkali hal ini menentukan sifat-sifat fisik sebuah zat (seperti pada titik leleh).
Dipol permanen ke dipol permanen
Perbedaan elektronegativitas yang bersar antara dua atom yang berikatan dengan kuat menyebabkan terbentuknya dipol (dwikutub). Dipol-dipol ini akan saling tarik-menarik ataupun tolak-menolak.
Ikatan hidrogen
Ikatan hidrogen bisa dikatakan sebagai dipol permanen yang sangat kuat seperti yang dijelaskan di atas. Namun, pada ikatan hidrogen, proton hidrogen berada sangat dekat dengan atom penderma elektron dan mirip dengan ikatan tiga-pusat dua-elektron seperti pada diborana. Ikatan hidrogen menjelaskan titik didih zat cair yang relatif tinggi seperti air, ammonia, dan hidrogen fluorida jika dibandingkan dengan senyawa-senyawa yang lebih berat lainnya pada kolom tabel periodik yang sama.
Dipol seketika ke dipol terimbas (van der Waals)
Dipol seketika ke dipol terimbas, atau gaya van der Waals, adalah ikatan yang paling lemah, namun sering dijumpai di antara semua zat-zat kimia. Misalnya atom helium, pada satu titik waktu, awan elektronnya akan terlihat tidak seimbang dengan salah satu muatan negatif berada di sisi tertentu. Hal ini disebut sebagai dipol seketika (dwikutub seketika). Dipol ini dapat menarik maupun menolak elektron-elektron helium lainnya, dan menyebabkan dipol lainnya. Kedua atom akan seketika saling menarik sebelum muatannya diseimbangkan kembali untuk kemudian berpisah.
Interaksi kation-pi
Interaksi kation-pi terjadi di antara muatan negatif yang terlokalisasi dari elektron-elektron pada orbital
π
{\displaystyle \pi }
dengan muatan positif.
Elektron pada ikatan kimia
Banyak senyawa-senyawa sederhana yang melibatkan ikatan-ikatan kovalen. Molekul-molekul ini memiliki struktur yang dapat diprediksi dengan menggunakan teori ikatan valensi, dan sifat-sfiat atom yang terlibat dapat dipahami menggunakan konsep bilangan oksidasi. Senyawa lain yang mempunyai struktur ion dapat dipahami dengan menggunakan teori-teori fisika klasik.
Pada kasus ikatan ion, elektron pada umumnya terlokalisasi pada atom tertentu, dan elektron-elektron todal bergerak bebas di antara atom-atom. Setiap atom ditandai dengan muatan listrik keseluruhan untuk membantu pemahaman kita atas konsep distribusi orbital molekul. Gaya antara atom-atom secara garis besar dikarakterisasikan dengan potensial elektrostatik kontinum (malaran) isotropik.
Sebaliknya pada ikatan kovalen, rapatan elektron pada sebuah ikatan tidak ditandai pada atom individual, namun terdelokalisasikan pada MO di antara atom-atom. Teori kombinasi linear orbital yang diterima secara umum membantu menjelaskan struktur orbital dan energi-energinya berdasarkan orbtial-orbital dari atom-atom molekul. Tidak seperti ikatan ion, ikatan kovalen bisa memiliki sifat-sifat anisotropik, dan masing-masing memiliki nama-nama tersendiri seperti ikatan sigma dan ikatan pi.
Atom-atom juga dapat membentuk ikatan-ikatan yang memiliki sifat-sifat antara ikatan ion dan kovalen. Hal ini bisa terjadi karena definisi didasari pada delokalisasi elektron. Elektron-elektron dapat secara parsial terdelokalisasi di antara atom-atom. Ikatan sejenis ini biasanya disebut sebagai ikatan polar kovalen. Lihat pula elektronegativitas.
Oleh akrena itu, elektron-elektron pada orbital molekul dapat dikatakan menjadi terlokalisasi pada atom-atom tertentu atau terdelokalisasi di antara dua atau lebih atom. Jenis ikatan antara dua tom ditentukan dari seberapa besara rapatan elektron tersebut terlokalisasi ataupun terdelokalisasi pada ikatan antar atom.
Lihat pula
Ikatan Aromatik
Ikatan Ion
Ikatan Kovalen
Ikatan Kovalen Tunggal
Ikatan Kovalen Rangkap Dua
Ikatan Kovalen Rangkap Tiga
Ikatan Kovalen Koordinasi
Ikatan Kovalen Polar
Ikatan Kovalen Nonpolar
Ikatan Logam
Ikatan Pisang
Ikatan Antarmolekul
Ikatan 3c-2e dan 3c-4e
Referensi
Pranala luar
W. Locke (1997). . Retrieved May 18, 2005.
Carl R. Nave (2005). . Retrieved May 18, 2005.
. Retrieved February 29, 2008.
| https://id.wikipedia.org/wiki/Ikatan%20kimia |
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} | Mchezo wa soka una wachezaji wangapi kila upande? | Orodha ya wachezaji wa klabu ya Soka ya Manchester United | swahili | {
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} | Orodha hii inahusu Manchester United F.C., klabu ya mpira wa miguu ya Uingereza yenye makao makuu mjini Trafford, Greater Manchester.
Klabu ilianzishwa mwaka 1878 kama Newton Heath L & YR FC, na kucheza mechi ya kwanza ya ushindani mnamo Oktoba 1886, wakati waliingia duru ya kwanza ya Kombe la FA 1886-87. Tangu hapo, zaidi ya wachezaji 800 wameichezea timu ya klabu hiyo, ambapo karibu wachezaji 200 wamecheza walau mechi 100 na kuonekana pamoja na wachezaji wa ziada; wachezaji hao wameorodheshwa hapa, vilevile wale ambao walicheza mechi chache lakini walitoa michango muhimu katika historia ya klabu (kwa mfano Billy Whelan na Carlos Tevez).
Wachezaji wameorodheshwa kulingana na tarehe ya kuanza kuchezea klabu hiyo. Kuonekana na mabao ni kuhusu michezo ya ushindani tu; michezo ya vita haijaorodheshwa.
Orodha ya wachezaji
Vichwa vya Meza
Apps - Idadi ya michezo aliyocheza akiwa kikosi cha kwanza
Sub - Idadi ya michezo aliyocheza kama mbadala
Jumla - Jumla ya idadi ya michezo aliyocheza
Takwimu sahihi kwa mechi iliyochezwa 8 Desemba 2009
Nahodha wa Klabu
Marejeo
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Jamii:Manchester United FC
Jamii:Orodha ya wachezaji | https://sw.wikipedia.org/wiki/Orodha%20ya%20wachezaji%20wa%20klabu%20ya%20Soka%20ya%20Manchester%20United |
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} | Je, kuna spishi ngapi za Samaki? | Spishi | swahili | {
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Spishi (kutoka Kilatini "species", yaani: aina, maumbile) katika biolojia ni jina la kutaja kundi la wanyama au mimea wa aina moja. Spishi ni kitengo muhimu katika uainishaji wa kisayansi.
Kwa kuhesabiwa katika spishi ileile haitoshi kama viumbe vinafanana sana, ni lazima waweze kuzaliana na kuwa na watoto ambao wanaweza kuzaa tena.
Kwa mfano, farasi na punda ni spishi mbili tofauti zinazoweza kuzaliana lakini watoto wao, wanaoitwa baghala, hawazai tena. Mbwa wote ni spishi moja, hata kama wanaonekana na maumbile tofauti kutokana na historia ya ufugaji wa kuteua sifa kadhaa tu kwa kuzaana. Lakini hata mbwa mkubwa kabisa anaweza kuzaliana na mbwa mdogo na watoto wao wanazaa tena.
Spishi za karibu hupangwa pamoja katika jenasi.
Mfano: mbwa, mbweha, mbweha wa Ethiopia na koyote wa Marekani wote ni spishi mbalimbali za jenasi inayoitwa "Canis".
Nususpishi
Nususpishi ni aina ndani ya spishi moja inayoonesha tofauti za wazi na spishi kwa jumla. Viumbe vya nususpishi moja wanaweza kuzaa na viumbe vya nususpishi nyingine lakini hii haitokei kwa kawaida; mfano moja ni kwamba eneo la nususpishi lipo mbali kwa hiyo hawakutani.
Nususpishi inapewa neno la tatu ndani ya jina lake.
Jina la kisayansi
Kila spishi inaweza kupewa jina la kisayansi kufuatana na kanuni za uainishaji. Hali halisi wanyama wakubwa wameshaainishwa karibu wote lakini bado kuna wadudu, viumbehai wa baharini na bakteria wengi ambao hawajaainishwa bado.
Jina la spishi huwa na maneno mawili: Kwanza jina la jenasi (linaloanza kwa herufi kubwa) halafu neno la pili la kutofautisha spishi (linaloanza kwa herufi ndogo). Maneno ya jenasi na spishi huandikwa kwa herufi italiki.
Kwa mfano jina la paka ni "Felis silvestris". Felis ni jenasi na paka yumo pamoja na wanyama wengine wanaofanana naye kama simba, tiger au chui. Ndani ya spishi la Felis silvestris kuna nususpishi kadhaa; kwa mfano paka wa porini wa Afrika Kaskazini (Felis silvestris lybica) anayeaminiwa kuwa asili ya paka wa nyumbani (Felis silvestris catus).
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발효(醱酵, )는 넓은 의미로는 미생물이나 균류 등을 이용해 육종하는 과정을 말하고, 좁은 의미로는 산소 없이 당을 분해해서 에너지를 얻는 대사 과정을 말한다. 발효의 생성물은 유기산, 가스 또는 알코올이다. 발효는 효모와 세균에서 일어나고, 또한 젖산 발효의 경우처럼 산소가 결핍된 근육세포에서도 일어난다. 발효의 과학은 발효학(zymology)으로 알려져 있다.
미생물에서 발효는 유기 영양소를 혐기적으로 분해하여 ATP를 생산하는 주요 수단이다.[1] 사람은 신석기 시대부터 식량과 음료를 생산하기 위해 발효를 이용해 왔다. 예를 들어 발효는 피클, 김치, 요구르트와 같은 신맛이 나는 음식에서 보존을 위해 젖산을 생성하는 과정에서 사용되며, 포도주, 맥주와 같은 주류를 생산하는 데에도 사용된다. 발효는 사람을 포함한 모든 동물의 위장관 내에서 일어난다.[2]
어원
"발효(ferment)"라는 단어는 끓이다는 뜻의 라틴어 동사인 "fervere"에서 파생되었다. 발효라는 말은 14세기 후반에 연금술에서 최초로 사용된 것으로 생각되지만, 넓은 의미에서의 사용에 한정된다. 발효라는 말은 대략 1600년대까지 현대 과학적인 의미로는 사용되지 않았다.
정의
아래는 몇몇 발효의 정의들로 비공식적이며 일반적인 사용에서부터 좀더 과학적인 정의에 이르기까지 다양하다.[3]
미생물을 통한 식품의 보존 방법(일반적인 사용).
주류 또는 산성의 유제품을 생산하는 과정(일반적인 사용).
공기와 함께 또는 공기없이 일어나는 대규모의 미생물 공정(산업계에서 일반적으로 사용되는 정의).
혐기성 조건 하에서만 일어나는 에너지 방출 대사 과정(보다 과학적인 정의).
당이나 다른 유기물로부터 에너지를 방출하는 대사 과정으로 산소(O2)나 전자전달계를 필요로 하지 않으며 최종 전자수용체로 유기물을 사용한다(가장 과학적인 정의).
발효와 부패의 차이
호흡 기질의 분해 산물이 사람에게 유용하면 발효, 악취나 독성 등으로 사람에게 해를 끼치면 부패라고 부르지만 과학적으로는 발효와 부패는 동일하다.
부패란 미생물이 유기물을 분해할 때 악취를 내거나 유독물질을 생성하는 경우를 말한다. 이는 부패 세균에 의해서 일어나는데 발효와 부패는 모두 미생물에 의한 유기물의 분해현상이다.
생물학적인 역할
발효는 분자에서 에너지를 추출하는 방법으로 모든 세균과 진핵생물에서 유일하게 공통적인 대사 방식이다. 따라서 발효는 산소가 없는 환경에 적합한 대사 과정으로 가장 오래된 대사 경로로 간주된다.[4]:389 균류의 일종인 효모는 과일 껍질, 곤충과 포유류의 소화관, 심해에 이르기까지 미생물이 살아갈 수 있는 거의 모든 환경에서 발견되며, 당이 풍부한 물질을 에탄올과 이산화 탄소로 전환시키면서 에너지를 얻는다.[5][6]
발효를 위한 기본 메커니즘은 고등 생물체의 모든 세포에 존재한다. 포유류의 근육은 강렬한 운동시에 산소 공급이 제한되므로 발효를 수행하게 되고, 그 결과 젖산이 생성된다.[7]:63 무척추동물에서 발효는 석신산과 알라닌을 생성한다.[8]:141
발효 세균은 소의 반추위와 같은 소화기관 및 담수 퇴적물에 이르는 서식지에서 메테인 생산에 필수적인 역할을 한다. 세균들은 수소, 이산화 탄소, 포름산, 아세트산, 카복실산들을 생산한다. 그리고 미생물들은 이산화 탄소와 아세트산을 메테인으로 전환시킨다. 아세트산 생성 세균은 산을 산화시켜 더 많은 아세트산과 수소, 포름산을 생성한다. 마지막으로, 고세균역에 속한 메테인 생성균은 아세트산을 메테인으로 전환시킨다.[9]
생화학적 개요
발효는 NADH를 내인성 유기 전자수용체와 반응시킨다.[1] 보통 이 유기 전자수용체는 해당과정을 통해 당으로부터 생성되는 피루브산이다. 발효는 NAD+와 유기물을 생성하며, 대표적인 예로 젖산, 에탄올, 이산화 탄소, 수소 가스(H2)가 있다. 그러나 발효에 의해 뷰티르산, 아세톤과 같은 보다 색다른 화합물이 생성될 수도 있다. 발효 산물은 화학 에너지를 가지고 있지만(완전히 산화되지 않았기 때문에), 산소를 사용하지 않고서는 더 이상 대사될 수 없기 때문에 노폐물로 간주한다.
발효는 일반적으로 혐기성 환경에서 일어난다. 산소(O2)가 존재하면 NADH와 피루브산은 산소호흡에서 ATP를 생성하는데 사용된다. 이것은 산화적 인산화라고 하며, 해당과정만 사용하는 것보다 더 많은 ATP를 생성한다. 이러한 이유로 산소를 이용할 수 있을 때 발효는 거의 사용되지 않는다. 그러나, 산소가 충분히 존재하더라도 Saccharomyces cerevisiae 와 같은 일부 효모 균주는 당의 적절한 공급이 있는 한 산소호흡보다 발효를 더 선호한다(크랩트리 효과로 알려진 현상).[11] 일부 발효 과정에는 산소를 견딜 수 없는 절대혐기성 미생물이 포함된다.
효모는 발효를 통해 맥주, 포도주 및 다른 알코올 음료에 들어있는 에탄올을 생성한다. 세균은 발효를 통해 잔탄검을 생성한다.
생성물
에탄올
에탄올 발효에서 1분자의 포도당은 2분자의 에탄올과 2분자의 이산화 탄소로 변환된다.[12][13] 에탄올 발효는 빵 반죽을 부풀게 하는데 사용되는데 발효시 발생하는 이산화 탄소는 빵 반죽을 팽창시킨다.[14][15] 포도주, 맥주, 증류주와 같은 주류에 들어있는 에탄올은 술에 취하게 만드는 물질이다.[16] 사탕수수, 옥수수, 사탕무를 포함한 공급 원료의 에탄올 발효를 통해 가솔린에 첨가되는 에탄올을 생산한다.[17] 금붕어와 잉어를 비롯한 어류의 일부 종에서는 산소가 부족할 때 에탄올 발효를 통해 에너지를 공급한다(젖산 발효와 함께).[18]
그림은 에탄올 발효 과정을 보여준다. 에탄올 발효에서 먼저 1분자의 포도당은 해당과정을 거치면서 2분자의 피루브산으로 분해된다. 이러한 발열반응에서 방출된 에너지는 ATP를 생성하고, NAD+를 NADH로 전환시키는데 사용된다. 2분자의 피루브산은 2분자의 아세트알데하이드와 2분자의 이산화 탄소로 분해된다. 아세트알데하이드는 NADH로부터 에너지, 전자, 수소를 얻어 에탄올로 환원되고, NADH는 NAD+로 산화되는데, 이러한 주기는 반복된다. 이 반응은 피루브산 탈카복실화효소와 알코올 탈수소효소에 의해 촉매된다.[12]
젖산
젖산 발효는 가장 간단한 형태의 발효이다. 해당과정에서 생성된 피루브산은[19] 간단한 산화환원반응을 거쳐 젖산을 형성한다.[20][21] 젖산 발효는 부산물로 가스를 생산하지 않는 유일한 호흡 과정이기 때문에 특이하다. 전체적으로 1분자의 포도당(또는 다른 6탄당)은 2분자의 젖산으로 전환된다.
C6H12O6 → 2 CH3CHOHCOOH
젖산 발효는 혈액이 산소를 공급할 수 있는 것보다 빠르게 에너지를 소모할 때 동물의 근육에서 일어난다. 또한 젖산 발효는 일부 세균(예: 젖산균[22])과 일부 균류에서도 일어난다. 유산균은 요구르트에서 젖당을 젖산으로 전환시켜서 신맛을 내게하는 세균의 유형이다. 동형젖산 발효(homolactic fermentation)는 최종 생성물로 주로 젖산만을 생성하는 것이고, 이형젖산 발효(Heterolactic fermentation)는 일부 젖산이 추가로 대사되어 에탄올과 이산화 탄소[20] (포스포케톨레이스 경로를 통해), 아세트산 또는 다른 대사 산물을 생성하는 것이다.
C6H12O6 → CH3CHOHCOOH + C2H5OH + CO2
젖당이 발효되면(요구르트와 치즈에서 처럼), 먼저 포도당과 갈락토스(둘 다 같은 분자식을 가진 6탄당 이성질체들)로 전환된다.
C12H22O11 + H2O → 2 C6H12O6
이형젖산 발효에서 젖산을 다른 화합물로 전환해야 하는 이유는 다음과 같다.
젖산에 의한 산성화는 생물학적 과정을 방해한다. 이는 젖산 발효 생물이 산성 환경에 부적합한 경쟁자들을 몰아내는데 유용할 수 있다. 결과적으로 식품이 더욱 더 긴 유통기한을 가질 수 있게 된다(이유는 음식이 의도적으로 발효되지 때문에). 그러나 특정 시점이 지나면 산성화가 젖산을 생성하는 생물에게 영향을 미치기 시작한다.
고농도의 젖산(젖산 발효의 최종 생성물)은 발효가 일어날 수 있는 속도를 감소시키고, 성장을 늦추어 역평형(르 샤틀리에의 원리)을 유도한다.
젖산이 쉽게 전환될 수 있는 에탄올은 휘발성이어서 쉽게 빠져 나가므로 반응이 쉽게 진행될 수 있도록 한다. 또한 이산화 탄소(CO2)도 생성되지만, 약산성이며 에탄올보다 휘발성이 높다.
아세트산(다른 전환 생성물)은 산성이며, 에탄올처럼 휘발성이 아니다. 그러나 산소가 제한된 조건에서 젖산으로부터 아세트산의 생성은 추가적인 에너지를 방출한다. 아세트산은 젖산보다 가벼운 분자로 주변과 수소결합을 적게 형성하므로(수소결합을 형성할 수 있는 작용기를 적게 가지기 때문에), 보다 휘발성이며 정반응이 더 빨리 진행될 수 있게 한다.
프로피온산, 뷰티르산, 더 긴사슬의 모노카복실산이 생성되면, 에탄올의 경우와 같이 소비된 포도당 분자당 생성되는 산의 양이 감소하여 빠른 성장을 가능하게 한다.
수소 가스
수소 가스는 NADH로부터 NAD+를 재생성하는 방법으로 여러 가지 유형의 발효(혼합 유기산 발효, 뷰티르산 발효, 카프로산 발효, 뷰탄올 발효, 글리옥실산 발효)에서 생성된다. 전자는 페레독신으로 전달되고, 이어서 수소화효소(hydrogenase)에 의해 산화되어 H2를 생성한다.[12] 수소 가스는 메테인 생성균과 황산환원세균의 기질이다. 이들 미생물은 수소 농도를 낮추고, 에너지가 풍부한 화합물의 생산을 선호하지만,[23] 그럼에도 불구하고 방귀에서처럼 상당히 높은 농도의 수소 가스가 생성될 수 있다.
혼합 유기산 발효의 예로 Clostridium pasteurianum 와 같은 세균은 포도당을 발효시켜서 뷰티르산, 아세트산, 이산화 탄소, 수소 가스를 생성한다.[24] 아세트산을 생성하는 반응은 다음과 같다.
C6H12O6 + 4 H2O → 2 CH3COO− + 2 HCO3− + 4 H+ + 4 H2
포도당은 이론적으로 CO2 와 H2 로 전환될 수 있지만, 이러한 반응에선 에너지를 거의 방출하지 않는다.
발효 공정의 유형
대부분의 산업적인 발효는 비연속 발효(batch fermentation) 또는 유가 배양식 발효(fed-batch fermentation)를 사용하지만, 다양한 난제들 특히, 무균상태를 유지하는 어려움을 해결할 수 있다면 연속발효가 더 경제적일 수 있다.[25]
비연속 발효
비연속 발효(batch fermentation, 회분 발효)는 원료를 넣은 다음 더 이상 추가적인 원료의 투입없이 발효 반응을 진행시키는 것이다. 비연속 발효는 수천년 동안 빵과 술을 만드는데 사용되어 왔으며, 여전히 일반적인 발효 방법이다.[26]:1 그러나 발효기는 배치(batch) 사이에 고압 증기를 사용하여 멸균되어야 하기 때문에 비연속 발효는 비용이 많이 들 수 있다.[25] pH를 조절하거나 거품을 억제하기 위해 소량의 화학 약품이 첨가되는 경우가 종종 있다.[26]:25
비연속 발효는 일련의 단계를 거친다. 이들 단계 중에는 세포가 환경에 적응하는 유도기(lag phase)가 있다. 그 다음에 지수적으로 생장하는 단계(증식기)가 일어난다. 일단 영양소가 많이 소비되면 생장이 느려지고, 비지수적이 되지만 2차 대사 산물(상업적으로 중요한 항생제 및 효소를 포함하는)의 생성이 가속화된다. 대부분의 영양소가 소비된 후에 정지기를 거치며, 이 후에 사멸기를 거쳐서 단계가 마무리된다.[26]:25
유가 배양식 발효
유가 배양식 발효(fed-batch fermentation)는 발효 중에 일부 성분이 첨가되는 비연속 발효의 변형이다. 이를 통해 발효 공정의 각 단계를 보다 효과적으로 제어할 수 있다. 특히 2차 대사 산물의 생산은 비지수적인 생장기 동안 제한된 양의 영양 물질을 첨가함으로써 증가될 수 있다. 유가 배양식 발효는 종종 비연속 발효 과정 사이에 끼워지기도 한다.[26]:1[27]
개방 발효
배치(batch) 사이에 발효기를 멸균 처리하는데 소요되는 높은 비용은 오염을 방지할 수 있는 다양한 개방 발효 방법을 사용하여 피할 수 있다. 하나는 자연스럽게 발전된 혼합 배지를 사용하는 것이다. 이것은 혼합된 개체군들이 다양한 노폐물에 적응할 수 있기 때문에 폐수 처리 공정에서 특히 선호된다. 호열성 세균은 약 50°C의 온도에서 젖산을 생성할 수 있어서, 미생물에 의한 오염을 막을 수 있다. 그리고 에탄올은 약 70°C에서 생성된다. 이것은 끓는점 바로 아래에 있으므로 쉽게 추출할 수 있다. 호염성 세균은 고염의 조건에서 바이오플라스틱을 생산할 수 있다. 고체 상태 발효는 고체 기질에 소량의 물을 첨가하는데, 이것은 풍미, 효소, 유기산을 제조하기 위해 식품 산업에서 널리 사용된다.[25]
연속 발효
연속 발효에서는 기질을 첨가하고, 최종 생성물을 연속적으로 제거한다.[25] 연속 발효 장치에는 3가지 종류가 있는데, 영양 물질의 양을 일정하게 유지하는 물질환경조절장치(chemostat), 세포 질량을 일정하게 유지하는 터비도스탯(turbidostat), 세포가 출구에서 입구로 재순환되는 동안 배양 배지가 튜브를 통해 꾸준하게 순환하는 관형 흐름 반응기(plug flow reactor)가 있다.[27] 발효 공정이 잘 진행되면 사료와 유출물이 꾸준하게 흘러나오고, 반복적으로 배치를 설치하는 비용이 발생하지 않는다. 또한 지수적인 성장기를 연장하고 부산물을 연속적으로 제거함으로써 부산물이 반응을 억제하는 것을 방지한다. 그러나 연속 발효는 정상 상태를 유지하면서 오염을 피하는 것이 어렵고, 장치의 설계가 복잡해지는 경향이 있다.[25] 일반적으로 발효기는 비연속 발효보다 더 경제적인데 500시간 이상을 작동시켜야 한다.[27]
발효 이용의 역사
신석기 시대부터 술을 만들기 위해 발효를 사용해 왔다. 이에 대한 기록은 기원전 7000~6600년 사이에 중국 지아후의 문서,[28] 기원전 5000년 인도의 아유르베다에 많은 약용 포도주에 대한 언급, 기원전 6000년의 조지아,[29] 기원전 3150년의 고대 이집트,[30] 기원전 3000년 바빌론,[31] 기원전 2000의 스페인 정복 이전의 멕시코,[31] 기원전 1500년의 수단[32] 에서 찾아볼 수 있다. 발효 식품은 유대교와 기독교에서 종교적으로 중요하다. 발트 신화에 등장하는 "Rugutis"는 발효의 신으로 숭배받았다.[33][34]
1837년에 카냐르 드 라 투르(Charles Cagniard de la Tour), 테오도어 슈반(Theodor Schwann), 프리드리히 트라우고트 퀴징(Friedrich Traugott Kützing)은 현미경 관찰을 통해 효모가 출아법에 의해 생식하는 생물이라는 결론을 내린 논문을 독자적으로 발표했다.[35][36]:6 슈반은 효모를 죽이기 위해 포도 쥬스를 끓인 다음 새로운 효모를 다시 첨가할 때까지 발효가 일어나지 않는다는 것을 발견했다. 그러나 앙투안 라부아지에를 비롯한 많은 화학자들은 발효를 단순한 화학 반응으로 간주하여 살아있는 생물이 발효에 관여할 수 있다는 개념을 거부하였다. 이것은 생기론으로의 복귀로 여겨졌고, 유스투스 폰 리비히와 프리드리히 뵐러는 익명의 출판물에서 이를 풍자하였다.[4]:108–109
1850년대와 1860년대에 루이 파스퇴르가 슈반의 실험을 반복하고, 일련의 연구를 통해 발효가 생물에 의해 개시된다는 것을 보여준 것이 발효 연구의 전환점이었다.[21][36]:6 1857년에 파스퇴르는 젖산 발효가 생물에 의해 일어난다는 것을 보여주었다.[37] 1860년에 파스퇴르는 세균이 우유의 산성화를 일으킨다는 것을 보여주었다. 이전에는 우유의 산성화가 단지 화학적인 변화일 뿐이라고 생각되었었다. 그리고 미생물이 식품 손상을 일으킨다는 것을 확인한 파스퇴르의 연구는 저온살균법(pasteurization)을 이끌어냈다.[38] 프랑스의 양조 산업의 발전을 위해 노력한 파스퇴르는 1877년에 《맥주에 관한 연구(Etudes sur la Bière)》라는 발효에 관한 유명한 논문을 발표하였고, 1979년에 《발효에 관한 연구(Studies on fermentation)》라는 제목으로 영어로 번역되었다.[39] 파스퇴르는 발효를 "공기가 없는 생명"이라고 정의했지만(현재의 관점에선 잘못된 정의),[40] 특정 유형의 미생물이 특정 유형의 발효 및 특정 최종 산물을 야기한다는 것을 정확하게 보여주었다.
살아있는 미생물의 작용의 결과로 발효가 일어난다는 것을 보여주는 것은 획기적이었지만, 발효 과정의 기본적인 성질을 설명하지는 못하였다. 파스퇴르를 포함한 많은 과학자들은 효모에서 발효 효소를 추출하는데 실패했다.[40] 1897년 독일의 화학자 에두아르트 부흐너는 발효 효소를 추출하는데 성공하였는데, 부흐너는 효모를 갈아서 효모 추출액을 얻은 후, "죽은" 효모 추출액이 마치 "살아있는" 효모와 흡사하게 설탕 용액을 발효시켜 이산화 탄소와 알코올을 만드는 것을 보고 크게 놀랐다.[41] 부흐너의 발효 과정에 대한 연구 결과는 생화학의 시작으로 간주된다. 비조직화된 발효 효소들은 조직화된 것처럼 행동했다. 이때부터 효소(enzyme)이라는 용어는 모든 발효물에 적용되었다. 그런 다음 발효가 미생물에 의해 생성된 효소에 의해 유발된다는 것을 알게 되었다.[42] 부흐너는 자신의 연구성과를 인정받아 1907년 노벨 화학상을 수상했다.[43]
미생물학 및 발효 기술의 발전은 현재까지 꾸준히 계속되어 왔다. 예를 들어, 1930년대에는 물리적, 화학적 처리로 돌연변이가 된 미생물이 높은 수율, 빠른 성장, 산소 부족에 대한 내성, 보다 농축된 배지를 사용할 수 있다는 사실이 밝혀졌다.[44][45] 균주 선택과 잡종화 기술 또한 개발되어 대부분의 현대 발효 식품에 영향을 미쳤다.
발효차
발효차(醱酵茶)는 일반적인 미생물에 의한 발효가 아니라 차잎에 함유된 산화 효소에 의해 산화 처리한 차이다. 미생물이 작용하지 않으므로 진정한 발효는 아니다. 산화정도에 의해 차의 종류가 여러가지로 나뉜다. 홍차, 보이차는 완전발효, 우롱차는 반발효차이다.
같이 보기
무산소 호흡
발효식품
젖산 발효
에탄올 발효
아세톤-뷰탄올-에탄올 발효
프로피온산 발효 (프로피온산균)
메테인 발효 (메테인 세균)
수소 발효
글리세롤 발효
각주
외부 링크
Pasteur Brewing.
분류:생화학
분류:물질대사
분류:발효
분류:균학
분류:미생물학
분류:양조
분류:양조주
분류:포도주 양조학
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Dallara Automobili on italialainen kilpa-autovalmistaja, joka on valmistanut autoja useisiin eri kilpasarjoihin. Nykyään valmistaja tunnetaan vahvasta roolistaan amerikkalaisessa Indy Racing League -sarjassa sekä todella menestyksekkäistä Formula 3 -autoistaan joita käytetään ympäri maailmaa.
Historia
1959 insinööriksi valmistunut Gian Paolo Dallara työskenteli valmistuttuaan lyhyitä aikoja Ferrarilla ja Maseratilla, ja vuonna 1961 siirtyi vasta perustetun Lamborghinin palvelukseen. Lamborghinilla ollessaan Dallara oli mukana suunnittelemassa muun muassa erästä kaikkien aikojen tunnetuinta urheiluautoa, Miuraa. Yhteistyö päättyi 1968 jolloin Dallara siirtyi De Tomasolle jolle suunnittelu kaudeksi 1969 Formula 2-auton, mallinumeroltaan 103. Dallara suunnitteli myös Frank Williamsin tilauksesta toteutetun De Tomaso F1-auton kaudelle 1970 mutta Piers Couragen menehdyttyä onnettomuudessa De Tomaso vetäytyi sarjasta kauden päätteeksi.
Vuonna 1972 Gian Paolo Dallara perusti oman yrityksensä Dallara Automobilin Varano Melegariin, Italiaan. Aluksi tehdas valmisti pienimoottorisia prototyyppejä joita käytettiin urheiluauto- ja mäkikilpailuissa. Dallara toimi myös konsulttitehtävissä muille autotehtaille, muun muassa Lancialle Stratos-projektissa ja avusti myös Frank Williamsin F1-tallia sen ensimmäisten mallien suunnittelussa.
Formula 3
Dallara valmisti ensimmäisen Formula 3-luokan kilpa-autonsa vuonna 1978 Walter Wolfin tilauksesta. Parin vuoden kehitystyön jälkeen Guido Pardini toi merkille sen ensimmäisen mestaruuden voitettuaan Italian kansallinen F3-mestaruussarjan vuonna 1980. Taistelu muita eurooppalaisia valmistajia, muun muassa Raltia, Reynardia ja Martinia vastaan oli kovaa, ja Dallaralla ajettiin useisiin kansallisiin mestaruuksiin Italiassa, Ranskassa ja Saksassa.
Vuonna 1993 esitelty Dallara F393 osoittautui ylivoimaiseksi muihin kilpailijoihin nähden ja siitä lähtien Dallaran autot ovat hallinneet F3-ratoja sekä kansallisissa että kansainvälisissä sarjoissa ympäri maailman. Nykyään useat sarjat (esimerkiksi Espanjan kansallinen F3-sarja) sallivat ainoastaan Dallaran autojen käytön.
Formula 3000 ja Formula 1
Kaudeksi 1987 Dallara suunnitteli ja rakensi auton Formula 3000-sarjaan. Mallinumerolla 3087 tunnettu auto ei kuitenkaan täyttänyt odotuksia, ja satunnaisista lupaavista kilpailuista huolimatta menestys jäi laihaksi. Italialainen Euroventurini-talli ajatti autoja kaudet 1987, ja parhaaksi sijoitukseksi jäi Marco Apicellan viides sija Spa-Francorchampsin kilpailussa 1987. Kaudella 1988 autoja ajatti Forti Corse, joka korvasi täysin kilpailukykynsä menettäneet autot Lolan autoilla kesken kauden.
Vuoden 1987 lopulla italialainen teräsmagnaatti Giuseppe 'Beppe' Lucchini antoi Dallaran tehtäväksi suunnitella ja rakentaa autot tulevalle Formula 1-tallilleen. Suunnittelutyön viivästyttyä uusi Scuderia Italia-talli aloitti kauden 1988 käyttämällä ensimmäisessä kilpailussa, Brasilian GP:ssä vanhaa Formula 3000-autoaan välttääkseen poissaolosta saatavat sakot. Uusi, Sergio Rinlandin suunnittelema F188-malli valmistui toiseen kilpailuun, San Marinon GP:hen mennessä. Kausi ei ollut uudelle tallille helppo mutta Alex Caffin seitsemäs sija Portugalin GP:ssä oli rohkaiseva tulos.
Mario Tolentinon ja Gian Paolo Dallaran suunnittelema F189 oli edeltäjäänsä menestyksekkäämpi, ja Caffi saavutti sillä neljännen sijan Monacossa ja Andrea de Cesarikselle kolmannen sijan Kanadassa. Kaudella 1990 ajatettiin edellisvuoden auton kehitysversiota, ja seuraavaksi kaudeksi suunniteltiin uusi F191. Suomen JJ Lehto sivusi tallin parasta F1-tulosta ottamalla kolmannen sijan San Marinon GP:ssä, tallikaveri Emanuele Pirron saavuttaessa kuudennen sijan Monacossa. 1992 oli vaikea kausi, talli saavutti uudella F192-autolla tehokkaista Ferrarin moottoreista huolimatta vain kaksi kuudetta sijaa. Kauden päätteeksi Lucchini päätti siirtyä Lolan autoihin.
Kilpailuihin asti Dallara ei ole Formula 1-sarjassa kauden 1992 jälkeen osallistunut, mutta tehtaalla on ollut sormensa pelissä muiden tallien projekteissa. Vuonna 1999 Dallara suunnitteli ja rakensi testiauton paluuta sarjaan suunnitelleelle Hondalle, joka kuitenkin vetäytyi talliprojektista sitä vetäneen Harvey Postlethwaiten kuoleman jälkeen ja keskittyi pelkkään moottorien valmistamiseen. Vuosina 2004 ja 2005 Dallara työskenteli yhteistyössä Midland F1-tallin kanssa ennen kuin Midland osti Jordanin F1-tallin, jonka jälkeen yhteistyö hiipui.
Kaudella 2010 F1-sarjassa aloittanut Hispania Racing -talli käytti Dallaran suunnittelemaa ja valmistamaa autoa.
Indy Racing League
Dallara liittyi Indy Racing League-sarjaan heti sarjan siirryttyä omaan autotyyppiinsä vuonna 1997, ja on mukana edelleen. Kaudella 2006 sarjan 20 autosta lähes kaikki olivat Dallaran valmistamia. Kauden 2006 loppuun mennessä tehtaan autoilla on saavutettu sarjassa 93 paalupaikkaa ja 96 kilpailuvoittoa. Kuljettajien mestaruus on otettu Dallaran autoilla 7 kertaa ja autonvalmistajien mestaruuden merkki on voittanut kahdeksan kertaa. Lisäksi Dallara on voittanut kuusi kertaa sarjaan kuuluvan Indianapolis 500-kilpailun.
Urheiluautot
Dallara on ollut mukana useissa eri valmistajien urheiluautoprojekteissa. 1993 tehdas kehitti Ferrarille menestyksekkään 333SP-mallin amerikkalaiseen IMSA-urheiluautosarjaan, ja autolla voitettiin kilpailuja myös Euroopassa. Myöhemmin yhteistyö Ferrarin kanssa jatkui F50-katuauton pohjalta kehitetyn kilpaversion merkeissä, mutta kehitystyö keskeytettiin.
Myöhemmin Dallara sai tehtäväkseen suunnitella Toyotan GT-One-auton jolla japanilaismerkki yritti valloittaa Le Mansin 24 tunnin ajon 1998 ja 1999 siinä kuitenkaan onnistumatta. Audille vuodeksi 1999 rakennettu R8 sen sijaan osoittautui erääksi kaikkien aikojen menestyneimmistä urheiluautoista, ja sillä on voitettu sekä Le Mans että useita muita tunnettuja kestävyyskilpailuja ennen sen poistumista käytöstä kauden 2005 päätteeksi.
Kaudeksi 2001 Dallara oli suunnittelemassa omaa prototyyppiään urheiluautokilpailuihin, ja Chryslerin lähestyttyä Dallaraa malli tarjottiin heidän käyttöönsä. Chrysler käytti autoa vuoden 2001 Le Mansin 24 tunnin ajossa, sijoittuen neljänneksi, mutta vetäytyi vuoden lopussa yhteistyöstä. Vuonna 2002 Oreca-talli ajatti kahta edelleen kehitettyä autoa Le Mansissa, tuloksena sijat 5 ja 6. Myöhemmin Rollcentre Racing osti autot Orecalta ja ajatti niitä kausilla 2004 ja 2005 saavuttaen useita palkintopallisijoituksia.
Vuodesta 2008 asti Dallara on valmistanut myös Grand Am -sarjassa käytettävän Daytona Prototype -luokan urheiluautoja.
Dallara nykyään
Nykyään Dallara vastaa IndyCar-autojensa lisäksi useiden yksityyppisarjojen autojen kehittelystä ja rakentamisesta. Näitä ovat muun muassa IndyCarin yhteydessä ajettava Indy Lights, Formula 1 -kilpailujen yhteydessä järjestettävä GP2 sekä Eurooppalainen Renault World Series (ent. Nissan World Series). Alkuperäisen Varanassa sijaitsevan tehtaan rinnalle rakennettiin uudet tilat vuonna 1994, ja tänään yritys työllistää noin sata työntekijää.
Formula 1 kaudella 2016 Dallara vastaa Haas F1 Teamin auton rakentamisesta ja vastaa sen aerodynamiikkaratkaisujen suunnittelusta.
Lähteet
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Aiheesta muualla
Grandprix.com:
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Jiografia ya Urusi inaeleza tabia za nchi ya Urusi inayotanda juu ya maeneo mapana ya Eurasia ya kaskazini na ambayo ni nchi yenye eneo kubwa duniani, ikiwa na kilomita za mraba milioni 17.[1]
Ina asilimia 11 za maeneo yote ya nchi kavu duniani ndani yake ambayo ni sawa na jumla ya maeneo ya Ulaya na Australia.
Kutokana na ukubwa huo kuna tofauti sana ndani ya Urusi kuhusu tabianchi, uoto na aina za udongo.[2] Aina zote za tabianchi za dunia zinapatikana hapa isipokuwa tabianchi za kitropiki.
Kutoka kaskazini kuelekea kusini kuna kanda zifuatazo zinazofuatana katika nchi kwa jumla:
tundra au maeneo baridi ambako ardhi imeganda mwaka wote, ikiyeyuka juujuu pekee wakati wa majirajoto; kwa hiyo hakuna miti
taiga ambayo ni kanda ya misitu
mbuga baridi yaani kanda ya ardhi inayobeba manyasi pekee na haina miti kutokana na uhaba wa mvua
nusu-jangwa upande wa kusini kabisa
Upande wa mashariki, yaani katika Siberia, kanda ya taiga (misitu) ni pana zaidi.
Urusi ina hifadhi ya biosferi 40 zilizokubaliwa na UNESCO.[3]
Mahali pa Urusi duniani na mipaka yake
Urusi yote iko kwenye nusutufe ya kaskazini ya dunia yetu na kwa jumla iko karibu zaidi na ncha ya kaskazini.
Kuanzia Kaliningrad upande wa magharibi hadi Kisiwa cha Ratmanov kwenye mlangobahari wa Bering upande wa mashariki kuna umbali wa kilomita 8,000.
Kutoka visiwa vya Aktiki vya Urusi kwenye kaskazini hadi Dagestan kwenye mwambao wa Bahari ya Kaspi upande wa kusini kuna umbali wa kilomiita 4500.
Mipaka ya Urusi huwa na urefu wa kilomita 57,792 na kilomita 20,139 ziko kwenye nchi kavu, nyingine ni mipaka ya baharini na pwani za nje. Kuna mipaka na nchi 14:
Norwei, Ufini, Estonia, Latvia, Lithuania, Poland (mpaka na Kaliningrad Oblast), Belarus, Ukraina, Georgia, Azerbaijan, Kazakhstan, Mongolia, China na Korea Kaskazini.
Sehemu kubwa ya mipaka ya nje iko kwenye maji. Pwani ndefu ni pwani ya kaskazini iliyopo ng'ambo ya Mzingo Aktiki; kwa hiyo pwani hiyo inafunikwa na barafu ya bahari kwa sehemu kubwa ya mwaka isipokuwa bandari ya Murmansk inayopokea maji fufutende kiasi kutoka mkondo wa ghuba. Bahari Aktiki, Atlantiki na Pasifiki zinagusana pwani za Urusi.
Ina mipaka iliyopo baharini na Marekani, jimbo la Alaska na Japani, mkoa wa Hokkaido.
Bahari mpakani urusi - Bahari Nyeusi, Bahari ya Azov, Bahari Nyeupe, Bahari ya Barents, Bahari ya Kara, Bahari ya Laptev, Bahari ya Mashariki ya Siberia, Bahari ya Chukchi, Bahari ya Bering, Bahari ya Ohotsk na Bahari ya Japani.
Topografia
Eneo kubwa la Urusi hugawiwa kwa macho ya ekolojia kwa kanda asilia tano:
kanda la tundra (ardhi iliyoganda);
kanda la taiga (misitu)
kanda la porinyasi au tambararere nusuyabisi
kanda yabisi
kanda la milima
Maeneo makubwa ni uwanda, hasa uwanda wa Ulaya ya Mashariki na uwanda wa Siberia ya Magharibi, halafu nyanda za chini za Siberia Kaskazini na Kolyma. Nyanda za juu za Siberia ya Kati na Lena halafu safu za milima kwenye kaskazini-mashariki na kwenye mpaka wa kusini.
Kanda za uoto
Tundra
Sehemu ya Aktiki ya Urusi zinaenea karibu kilomita 7000 kuanzia Karelia na Rasi ya Kola upande wa magharibi hadi Nenetsia, Ghuba ya Ob, Rasi ya Taymyr na Rasi ya Chukchi (Kolyma upande wa mashariki.
Visiwa muhimu katika Aktiki ya Urusi ni pamoja na Novaya Zemlya, Severnaya Zemlya na Visiwa vya Siberia Mpya.
Takriban asilimia 11 za maeneo za Urusi ni tundra yaani uwanda bila miti kutokana na udongo jalidi wa kudumu, inayojaa matope kipindi cha majirajoto. Hii ni kanda ya kaskazini ya Urusi kutoka mpaka na Ufifi hadi mlangobahari wa Bering. Jua halionekani kwa wiki kadhaa mfululizo wakati wa majirabaridi lakini katika wiki za mwezi wa Juni hakuna usiku kamili.
Miti haiwezi kustawi kwa sababu udongo umeganda na jalidi ya kudumu haitoki ardhini. Kama miti iko inatokea kwa umbo la vichaka vidogo tu. Ni ganda la juu pekee linalopoa wakati wa joto na kuruhusu uoto wa manyasi, kuvumwani, kuvu na vichaka vichache vidogo. Wakati joto linapanda barafu ya juu inayeyuka lakini maji haiwezi kutiririka chini katika ardhi kwa hiyo nchi inajaa matope na mabwawa madogo.
Kilimo hakiwezekani na hivyo wakazi ni wachache, junma ni asilimia moja ya wananahi wa Urusi pekee. Tasnia ya uvuvi na bandari kwenye rasi ya Kola na uzalishaji wa gesi asilia na mafuta ya petrol katika Siberia ya Kaskazini Magharibi ni ajira ya wengi wao. Bandari ya Murmansk na mji wa viwanda Norilsk (wakazi 180,000) ni miji miklubwa kiasi ya pekee hapo katika tundra.
Taiga
Taiga ni kanda inayoenea kutoka mipaka ya magharibi hadi Pasifiki upande wa mashariki na kuwa 60% za eneo la Urusi kwa jumla. Inafunikwa kwa theluji kwa miezi mingi ya mwaka. Miti yake ni hasa aina mbalimbali za misonobari. Kutokana na baridi kuna wanyama wengi wenye manyoya mazito kama vile dubu, fisi-maji, melesi, elki, vicheche, wolverini na wengine waliovindwa kwa sababu ngozi zao zilitafutwa sana kwa matumizi ya koti katika nchi zote zenye majirabaridi kali. Uwindaji huu ulikuwa muhimu kiuchumi na sababu muhimu kwa uenezaji wa Urusi katika Siberia.
Misitu mingine
Mbuga baridi
Mbuga baridi (kwa Kiingereza steppe) ni kanda ya nchi inayoenea kuanzia Ukraina kupitia Urusi ya kusini hadi Kazakhstan na Manchuria. Uoto wake ni manyasi bila miti; miti inaweza kutokea penye maji karibu na mito au maziwa. Lakini kwa jumla tabianchi ya kanda hii ni yabisi au nusuyabisi ni hasa ukame unaozuia uoto wa miti.
Ni eneo linalofaa kwa kilimo kutokana na rutba ya ardhi lakini maji ni tatizo.
Mbuga wa Urusi na Asia ya Kati ulikaliwa tangu miaka mielfu na wafugaji wahamiaji waliotembea hapa na makundi yao ya kondoo, mbuzi na farasi. Farasi walianza kufugwa hapo na kutumiwa kwa usafiri na vita. Mawimbi ya wahamiaji na wavamizi yalipita hapa katika historia na kuvamia nchi jirani, mashuhuri ni uenezaji wa milki ya Wamongolia na Waturuki.
Mito, maziwa, utiririshaji
Urusi ni nchi penye maji mengi. Kuna beseni za utiririshaji 20. Mito mikubwa ilikuwa njia za kwanza za usafiri na mawasiliano. Mto Volga ni mto mrefu wa Ulaya na njia muhimu ya usafiri. Miji minne mikubwa (kati ya miji 13 mikubwa zaidi nchini) iko kando la Volga: Nizhny Novgorod, Samara, Kazan na Volgograd. Mto Kama unaotoka milima ya Ural na kuelekea magharibi unapojiunga na Volga katika Jmahuri ya Tatarstan ni muhimu pia.
Kwa jumla kuna mito mielfu. Mingi iko sehemu ya beseni ya utiririshaji ya Aktiki ambako kuna watu wachache. Kwa hiyo sehemu kubwa ya maji haina matumizi kwa manufaa ya kibinadamu. Kinyume chake maeneo ya Urusi ya kusini penye vipindi vya joto na wakazi wengi yanaona vipindi vya uhaba wa maji kama vile beseni za mto Don na mto Kuban.
Upande wa mashariki ya Ural kuna mito 40 yenye urefu unaozidi kilomita 1,000. Ni hasa mito 3 inayobeba maji ya Siberia kwenda Bahari Aktiki:
Irtysh na mto Ob (jumla 5,380 km),
Yenisei (4,000 km)
Lena (3,630 km).
Mito hii mitatu humwaga kila sekunde 50,000 m³ kwenye Bahari Aktiki. Vyanzo vya maji viko kusini vikielekea kaskazini. Hii inasababisha kutokea kwa maeneo makubwa mno ya kinamasi kwa sababu theluji ya kusini inaanza kuyeyuka mapema na maji yanaongezeka kaskazini wakati huko ardhi bado imegandishwa kwa hiyo maji hayawezi kuingia ardhini na kufanya vianmasi vikubwa. Takriban asilimia 10 za uso wa ardhi ya Urusi ni kinamasi.
Kati ya maziwa makubwa kuna Ladoga, Onega karibu na Saint Petersburg, Ziwa Peipus kwenye mpaka wa Estonia na lambo la Rybinsk kaskazini ya Moscow. Ziwa la lambo la Bratsk ni kati ya malambo makubwa duniani.
Ziwa lenye kina kubwa duniani ni Ziwa Baikal inayoshika asilimia 85 ya maji matamu ya Urusi na asilimia 20 ya maji matamu duniani.
Tabianchi
Tabianchi ya Urusi ni hasa ya kibara kutokana na umbo la nchi na umbali wa sehemu nyingi na bahari. Maeneo mengi yana umbalio wa kilomita 400 na zaidi kutoka ufukoni, na kitovu cha nchi kipo kwa umbali wa 3840 na bahari.
Zaidi ya hayo Urusi ina safu za milima mirefu hasa upande wa kusini na upande mashariki inayozuia kufika rahisi upepo kutoka Bahari Hindi na Pasifiki mwenye uweyo wa kupoza halijoto. Kinyume chake upepo kutoka Bahari aktiki unaweza kuingia bila vizuizi vya aina hii.
Ilhali zaidi ya nusu ya nchi iko kaskazini ya latitudo ya 60° sehemu kubwa hufunikwa kwa theluji kwa muda miezi sita. Chini yake iko ardhi kwenye hali ya jalidi ya kudumu kwa kina cha mita mamia. Halijoto ya wastani ya sehemu kubwa ya Siberia iko chini ya 0°.
Sehemu kubwa za Urusi zinaona majira mawili tu ambayo ni majirajoto na majirabaridi yenye jeledi. Vipindi vya kati ni vifupi sana. Hii inaathiri pia njia za usafiri. Wakati wa majirabaridi ambako maji yote kwenye mito na maziwa yanaganda barabara zinafunguliwa juu ya barafu ya mito mikubwa au kupitia maziwa makubwa.
Kuna maeneo machache ambayo hayafuati maelezo haya, ni eneo la Kaliningrad Oblast kwenye pwani la Bahari Baltiki pamoja na sehemu zilizo karibu na Pasifiki katika Mashariki ya Mbali. Kanda nyembamba la pwani kwenye Bahari Nyeusi huwa na tabianchi nusutropiki.
Wakati wa Januari halijoto ni −6°C huko Saint Petersburg, −27 °C katika Siberia ya magharibi na −43 °C huko Yakutsk katika Siberia ya Kati. Wakati wa majirajoto halijota inapatikana kati ya wastani ya 4 °C kwenye visiwa vya aktiki na wastani ya 20 °C katika kusini.
Halijoto ya chini iliyopimwa ilikuwa −68 °C huko Siberia ya kaskazini na +45 °C katika kusdini ya nchi.
Ukali wa baridi ina athari kubwa juu ya maisha yote, jinsi gani watu wanaweza kufanya kazi na kama kilimo kinawezekana au la. Majengo yanapaswa kuwa na tabia za pekee hasa katika maeneo ya jalidi ya kudumu ambako ni lazima kuweka kila jengo juu ya nguzo zinazofikia kina cha jalidi kwa sababu uso wa ardhi inakuwa laini na matope wakati wa joto; mashine zinapaswa kutengenezwa kwa kutumia feleji inayovumilia tofauti kubwa za jalidi na joto.
Miezi ya jalidi ni pia kipindi cha giza kwa hiyo kuna mahitaji ya pekee ya nishati na nguo.
Usimbishaji katika sehemu nyingi za Urusi si mkubwa kwa sababu maeneo mengi yako mbali na pwani na hivyo hayapokei hewa yenye unyevunyevu kutoka bahari.
Sehemu zinazopokea mvua nyingi ziko karibu na pwani kama Sochi kwenye Bahari Nyeusi (1500 mm kwa mwaka) na visiwa vya Kurili (1000 - 1500 mm, hasa theluji). Pwani la Baltiki lapokea 600 mm, Moscow 525 mm kwa mwaka. Maeneo yaliyo karibu na Kazakhstan hupokea 20 mm kwa mwaka pekee, na kwenye sehemu za pwani za Aktiki ni 15 mm pekee.
Theluji hufunika uso wa ardhi kati ya siku 40 hadi 200 kwa mwaka katika Urusi ya magharibi, na siku 120 - 200 kila mwaka katika Siberia.
Eneo na mipaka
Eneo (bila Krim):
Jumla: 17,098,242km²
Nchi kavu: 17,021,900km²
Maeneo ya maji: 79,400km²
Urefu wa mipaka yote
Jumla (bila Krim): 19,917km
Kaliningrad ni sehemu ya magharibi kabisa tangu 1945; ni eneo la pekee iliyotengwa kijiografia na sehemu nyingine za Urusi, iko ng'ambo ya Lithuania.
Krim ni rasi kwenye Bahari Nyeusi inayotazamiwa kuwa sehemu ya Ukraina na jumuiya ya kimataifa lakini ilijitega katika uasi wa 2014 na kutekjwa na Urusi kwenye Machi 2014.
Nchi zinazopakana:
Urusi bila Kaliningrad Oblast na Krim — Azerbaijan; 284 km; Belarus: 959 km; China: 3645 km; Estonia: 294 km; Ufini: 1,313 km; Georgia: 723 km; Kazakhstan: 6,846 km; Latvia: 217 km; Mongolia: 3,441 km; Korea Kaskazini: 19 km; Norwei: 167 km; Ukraina: 1,576 km
Kaliningrad Oblast — Lithuania: 227km; Poland: 206km
Jumla ya pwani zote (bila Krim): 37,653km
Malighafi na matumizi ya ardhi
Urusi ina akiba kubwa za malighafi duniani katika ardhi yake kushinda nchi zote nyingine. Tatizo ni ziko mara nyingi katika maeneo penye tabianchi ngumu hasa baridi kali na tofauti kali za joto na baridi kwa hiyo ni vigumu kuzilima.
Urusi ina fueli za kisukuu tele, labda nusu ya makaa mawe yote duniani na pia mafuta ya petroli mengi. Akiba za gesi asilia ni asimila 40 za jumla ya duniani.
Matapo ya metali nyingi hupatikana:
chuma hasa upande wa kusini ya Moscow
milima ya Ural huwa na akiba za manganese. Nikeli, tungsten, kobalti, molibdeni na metali nyingine zinazohitajika kwa aloi za feleji.
Alumini iko katika eneo la Ural lakini si nyingi sana.
Shaba iko tele kwenye Ural, karibu na mdomo wa mto Yenisey katika Siberia na kwenye Rasi ya Kola. Akiba kubwa karibu na Ziwa Baikal ilianza kuchimbwa tangu kumalizika kwa reli ya Baikal-Amur Magistrale (BAM) tangu 1989.
Risasi na zinki zinapatikana kwenye Kaukazi na Siberia ya Kusini.
Urusi huwa na akiba kubwa ya dhahabu
Zebaki inapatikana kwenye Ural na katika kusini ya Siberia
Takriban asilimia 8 za ardhi hulimwa, asilimia 4 ina matumizi kama lishe ya ufugaji, asilimia 64 ni misitu.
Marejeo
Kujisomea
Blinnikov, Mikhail S. A geography of Russia and its neighbors (Guilford Press, 2011)
Catchpole, Brian. A map history of Russia (1983)
Chew, Allen F. An Atlas of Russian History: Eleven Centuries of Changing Borders (2nd ed. 1967)
Gilbert, Martin. Routledge Atlas of Russian History (4th ed. 2007)
Henry, Laura A. Red to green: environmental activism in post-Soviet Russia (2010)
Kaiser, Robert J. The Geography of Nationalism in Russia and the USSR (1994).
Medvedev, Andrei. Economic Geography of the Russian Federation by (2000)
Parker, William Henry. An historical geography of Russia (University of London Press, 1968)
Shaw, Denis J.B. Russia in the modern world: A new geography (Blackwell, 1998)
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Yhdysvaltain presidentti Dwight D. Eisenhower varoitti 17. tammikuuta 1961 jäähyväispuheessaan Yhdysvaltain sotateollisen kompleksin vaikutusvallan liiallisen kasvun aiheuttamista vaaroista.
Lähteet
Pres. Eisenhower's Military-Industrial Complex Speech Farewell Address, Wikiaineisto Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.
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Luokka:Seulonnan keskeiset artikkelit | https://fi.wikipedia.org/wiki/Sotateollinen%20kompleksi |
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} | Gryffindor
Tiga Tokoh Sentral (Trio Emas)
Harry Potter
Ronald Weasley
Hermione Granger
Satu Angkatan Dengan Harry
Neville Longbottom anggota Laskar Dumbledore, Guru Herbologi Hogwarts pada masa depan, suami Hannah Abbott
Lavender Brown anggota Laskar Dumbledore, menghadiri pesta dansa Yule Ball bersama Seamus Finnigan, sempat menjadi pacar Ron Weasley di buku keenam
Seamus Finnigan anggota Laskar Dumbledore
Parvati Patil anggota Laskar Dumbledore
Dean Thomas anggota Laskar Dumbledore, sempat menggantikan Katie Bell sebagai Chaser Gryffindor di buku keenam
1 Tahun Di Atas Harry
Katie Bell anggota Laskar Dumbledore
Cormac McLaggen
2 Tahun Di Atas Harry
Fred dan George Weasley anggota Laskar Dumbledore. Fred terbunuh dalam pertempuran Hogwarts
Lee Jordan anggota Laskar Dumbledore
Angelina Johnson anggota Laskar Dumbledore
Alicia Spinnet anggota Laskar Dumbledore
Kenneth Towler teman sekamar Fred, George, dan Lee; salah satu korban lelucon mereka
Patricia Stimpson
4 Tahun Di Atas Harry
Percy Weasley
Oliver Wood
1 Tahun Di Bawah Harry
Ginny Weasley
Colin Creevey (anggota Laskar Dumbledore, terbunuh dalam pertempuran Hogwarts, 1998)
2 Tahun Di Bawah Harry
Romilda Vane anggota Laskar Dumbledore (di film)
3 Tahun Di Bawah Harry
Dennis Creevey
Jimmy Peakes
Natalie McDonald (topi seleksi)
4 Tahun Di Bawah Harry
Euan Abercrombie (topi seleksi)
Tahun Masuk Tidak Diketahui
Eloise Midgen (murid yang memiliki masalah jerawat yang gawat, beberapa kali disebutkan dalam percakapan, tetapi tidak pernah benar-benar diperlihatkan. Dipulangkan dari Hogwarts di buku keenam dengan alasan keamanan)
Ritchie Coote
Andrew Kirke
Demelza Robins (masuk tim Quidditch Gryffindor di buku keenam sebagai Chaser, bersama Ginny Weasley dan Katie Bell)
Jack Sloper
Vicky Frobisher (Ikut uji coba Quidditch di buku kelima)
Geoffrey Hooper (Ikut uji coba Quidditch di buku kelima)
Ravenclaw
Satu Angkatan Dengan Harry
Terry Boot anggota Laskar Dumbledore
Mandy Brocklehurst
Anthony Goldstein anggota Laskar Dumbledore
Isabel McDougal
Padma Patil anggota Laskar Dumbledore
Lisa Turpin
Michael Corner anggota Laskar Dumbledore
Su Li
Stephen Cornfoot
Kevin Entwhistle
Sarah Fawcett
Anak Ravenclaw yang Lebih Tua Dari Harry
Eddie Carmichael
Cho Chang anggota Laskar Dumbledore
Penelope Clearwater sempat menjadi pacar Percy Weasley di buku kedua dan ketiga
Roger Davies
Marietta Edgecombe anggota Laskar Dumbledore, berkhianat
Marcus Belby
'Anak Ravenclaw Yang Lebih Muda Dari Harry
Luna Lovegood
Stewart Ackerley
Orla Quirke
Anak Ravenclaw Yang Tahun Masuknya Tidak Diketahui
Stebbins
Bradley Brodeleir
Chambers
Hufflepuff
Anak Hufflepuff Yang Satu Angkatan Dengan Harry
Hannah Abbott, anggota Laskar Dumbledore, menikah dengan Neville Longbottom
Susan Bones, anggota Laskar Dumbledore, menikah dengan Ernie Macmillan
Justin Finch-Fletchley anggota Laskar Dumbledore
Ernie Macmillan anggota Laskar Dumbledore
Zacharias Smith anggota Laskar Dumbledore
Anak Hufflepuff Yang Lebih Tua Dari Harry
Cedric Diggory (terbunuh pada tahun 1995)
Anak Hufflepuff Yang Lebih Muda Dari Harry
Eleanor Branstone
Owen Caldwell
Laura Madley
Kevin Whitby
Rose Zeller
Anak Hufflepuff Yang Tahun Masuknya Tidak Diketahui
S Fawcett
Summerby
Cadwallader
Leanne teman Katie Bell. Dalam Harry Potter and the Deathly Hallows - Bagian 2, ia diperlihatkan bertempur di Hogwarts, anggota Laskar Dumbledore
Slytherin
Satu Angkatan Dengan Harry
Draco Malfoy
Vincent Crabbe
Gregory Goyle
Pansy Parkinson
Millicent Bulstrode
Daphne Greengrass
Theodore Nott
Blaise Zabini
Anak Slytherin Yang Lebih Tua Dari Harry
Miles Bletchley
Bole
Derrick
Terence Higgs
Marcus Flint
Adrian Pucey
Anak Slytherin Yang Lebih Muda Dari Harry
Malcolm Baddock
Graham Pritchard
Anak Slytherin Yang Umurnya Tidak Diketahui
Astoria Greengrass
Harper
Montague
Urquhart
Vaisey
C. Warrington
Murid Hogwarts Yang Tidak Diketahui Berada Di Asrama Mana
Satu Angkatan Dengan Harry
Moon (Diketahui dari Topi Seleksi)
Sally-Anne Perks (Diketahui dari Topi Seleksi)
Morag MacDougal
Tidak Satu Angkatan Dengan Harry
Derek (seorang anak kelas satu yang menghadiri pesta natal di saat Harry kelas tiga, yang ditawari chipola oleh Dumbledore)
Harold Dingle
Emma Dobbs (Diketahui dari Topi Seleksi)
Patricia Stimpson (Satu angkatan dengan Fred dan George)
Murid Murid Lain Yang Disebutkan Dalam Catatan J.K Rowling
Dalam acara TV spesial yang berjudul Harry Potter and Me, J.K Rowling menunjukkan sebuah buku catatan yang berisi nama-nama murid yang satu angkatan dengan Harry. Setiap nama disertai dengan jenis kelamin, asrama, dan "status darah" (muggle, campuran, atau murni). Tetapi daftar ini bukanlah daftar yang baku, karena banyak karakter yang mengalami perubahan. Misalnya, Michael Corner dan Anthony Goldstein dalam catatan tersebut berada di asrama Hufflepuff, tetapi ketika diperkenalkan pada Harry di Harry Potter and the Order of the Phoenix, keduanya adalah anak-anak Ravenclaw; bahkan Anthony Goldstein adalah salah satu prefek Ravenclaw.
Ada beberapa murid dari angkatan Harry yang disebutkan dalam buku catatan itu, tetapi justru tidak muncul di buku. Mereka disebutkan dalam daftar di bawah ini sebagai kelengkapan.
Stephen Cornfoot (Ravenclaw)
Tracey Davis (Slytherin)
Kevin Entwhistle (Ravenclaw)
Wayne Hopkins (Hufflepuff)
Megan Jones (Hufflepuff)
Su Li (Ravenclaw)
Isabel MacDougal (Ravenclaw, mungkin versi awal atau saudara dari Morag McDougal)
Malone (Tidak Diketahui)
Rivers (Tidak Diketahui)
Roper (Tidak Diketahui)
Runcorn (Tidak Diketahui)
Spinks (Tidak Diketahui)
Murid-Murid Hogwarts Di Masa Lalu
Di Masa Tom Riddle
Tom Riddle (Slytherin)
Avery
Rubeus Hagrid (Gryffindor)
"Myrtle Merana" (terbunuh karena serangan basilisk pada tahun 1942, tetapi sampai sekarang masih menghantui toilet wanita)
Olive Hornby
Rodolphus Lestrange
Di Masa James Potter
Bertram Aubrey
Sirius Black (Gryffindor)
Regulus Black (Slytherin)
Lily Evans (Gryffindor)
Davy Gudgeon (mencoba untuk melewati Dedalu Perkasa)
Remus Lupin (Gryffindor)
Peter Pettigrew (Gryffindor)
James Potter (Gryffindor)
Evan Rosier (Slytherin)
Severus Snape (Slytherin)
Wilkes
Stebbins
Murid Dari Sekolah Sihir Lain
Fleur Delacour (Beauxbatons)
Gabrielle Delacour (Beauxbatons)
Viktor Krum (Durmstrang)
Poliakoff (Durmstrang) – salah satu murid yang disebutkan dalam Harry Potter and the Goblet of Fire, yang mengatakan kepada Karkaroff bahwa ia juga ingin anggur.
Guru-Guru dan Staf Hogwarts
Kepala Sekolah Hogwarts
Severus Snape, (buku ke-7), dipilih oleh kementerian yang baru pura-pura di bawah kendali Lord Voldemort, Slytherin
Minerva McGonagall, 1997-? (akhir dari buku ke-6), menggantikan Dumbledore yang mati terbunuh, Gryffindor
Albus Dumbledore, 1955-1997 (buku ke-6), Gryffindor
Dolores Umbridge, 1995-1996 (buku ke-5)kementrian
Armando Dippet, ?-1955
Phineas Nigellus, Slytherin
Dilys Derwent, 1741-1768
Everard Proudfoot,
Eoessa Sakndenberg
Newt Scamander
Kepala Asrama
Aurora Sinistra (Guru Astronomi)
Minerva McGonagall (Guru Transfigurasi) – Kepala Asrama Gryffindor dan menggantikan Dumbledore menjadi Kepala Sekolah Hogwarts
Horace Slughorn (Guru Ramuan) – Kepala Asrama Slytherin sampai 1981; menjadi Kepala Asrama Slytherin dari 1997 (setelah Snape melarikan diri dari Hogwarts)
Severus Snape (Guru Ramuan/Pertahanan Terhadap Ilmu Hitam) – Kepala Asrama Slytherin 1981-1997
Pomona Sprout (Guru Herbologi) – Kepala Asrama Hufflepuff
Filius Flitwick (guru mantra)- Kepala Asrama Ravenclaw
Guru Pertahanan Terhadap Ilmu Hitam
Selama Harry berada di sekolah, masing-masing mengajar selama satu tahun.
Tahun ke-1: 1991-1992 - Quirinus Quirrell – merelakan tubuhnya untuk ditempati Voldemort, mati ketika Voldemort meninggalkannya setelah bertempur dengan Harry.
Tahun ke-2: 1992-1993 - Gilderoy Lockhart – terkena jampi memorinya sendiri sehingga ia hilang ingatan dan sekarang berada di rumah sakit sihir St.Mungo.
Tahun ke-3: 1993-1994 - Remus Lupin – mengundurkan diri setelah terungkap bahwa dia adalah manusia serigala.
Tahun ke-4: 1994-1995 - Barty Crouch Jr. - (menjalankan misi Voldemort) menjadi guru dengan cara menyamar sebagai Alastor Moody (mantan auror dan guru yang sah) dengan cara meminum ramuan polijus milik Snape. Moody yang asli dibius dengan mantera dan dikurung oleh Crouch selama setahun di dalam koper ajaib Moody sendiri. Crouch berakhir dengan mendapatkan Kecupan
Dementor.
Tahun ke-5: 1995-1996 - Dolores Umbridge – sekaligus sebagai Asisten Menteri Sihir, sangat ketat dengan peraturan dan dekret-(yang dibuat-buat)-nya, sempat menjadi kepala sekolah, dibawa pergi dan dibuat trauma oleh Centaurus, karena menyebut mereka sebagai "turunan-campuran-kotor".
Tahun ke-6: 1996-1997 - Severus Snape – meninggalkan Hogwarts setelah membunuh Dumbledore.
Tahun ke-7: 1997-1998 - Amycus Carrow - mata pelajaran Pertahanan terhadap Ilmu Hitam tetap ada tetapi yang diajarkan adalah Ilmu Hitam itu sendiri.
Guru-guru Hogwarts Yang Lain
Masa Lalu
Albus Dumbledore - Transfigurasi, 52 tahun yang lalu
Professor Silvanus Kettleburn – Pemeliharaan Satwa Gaib sampai buku ke-3 (1993)
Professor Galatea Merrythought – Pertahanan Terhadap Ilmu Hitam 50 tahun yang lalu
Horace Slughorn – Guru Ramuan 50 tahun yang lalu dan di ajak kembali oleh Dumbledore
Saat ini
Cuthbert Binns – Sejarah Sihir (satu-satunya guru Hogwarts yang hantu)
Firenze – Ramalan sejak buku ke-5 (1995)
Rubeus Hagrid – Pemeliharaan Satwa Gaib sejak buku ke-3 (1993)
Madam Rolanda Hooch – Pelajaran Terbang, Wasit Quidditch
Aurora Sinistra – Astronomi
Sybill Patricia Trelawney – Ramalan
Septima Vector - Arithmancy
Charity Burbage - Telah Muggle ,dibunuh oleh Lord Voldemort
Bathsheda Babbling – Rune Kuno
Horace Slughorn - Ramuan – sudah pensiun, tetapi berhasil diyakinkan untuk kembali mengajar di Hogwarts di buku ke-6 (1996)
Guru Pengganti
Wilhelmina Grubbly-Plank – Pemeliharaan Satwa Gaib
Karyawan Hogwarts yang lain
Apollyon Pringle (penjaga sekolah pada masa lalu)
Argus Filch (penjaga sekolah di saat ini)
Ogg (pemegang kunci pada masa lalu)
Rubeus Hagrid (pemegang kunci tanaman dan pengawas binatang liar)
Irma Pince (petugas perpustakaan)
Poppy Pomfrey (perawat)
Penguji OWL (Ordinary Wizarding Level)
Griselda Marchbanks
Professor Tofty
Staf dari Sekolah Sihir Lain
Igor Karkaroff (Kepala Sekolah Durmstrang)
Olympe Maxime (Kepala Sekolah Beauxbatons)
Pengajar Lain
Wilkie Twycross (Pengajar Apparate dari Kementerian Sihir)
Para Hantu
Nick-Si-Kepala-Nyaris-Putus, hantu Gryffindor (Sir Nicholas de Mimsy-Porpington)
Baron Berdarah, hantu Slytherin
Rahib Gemuk, hantu Hufflepuff
Nyonya Kelabu/Helena ravenclaw, hantu Ravenclaw
Professor Binns guru sejarah Sihir
Myrtle Merana
Sir Patrick Delaney-Podmore
Peeves
Lukisan
Lukisan di kantor Kepala Sekolah
Dilys Derwent (berhubungan dengan lukisannya di rumah sakit St Mungo's Hospital Untuk Penyakit dan Luka-Luka Sihir)
Everard Proudfoot (berhubungan dengan lukisannya di Kementrian Sihir)
Fortescue
Phineas Nigellus (berhubungan dengan lukisannya di Grimmauld Place nomor 12)
Armando Dippet
Albus Dumbledore (sejak kematiannya pada tahun 1997)
Semua Kepala Sekolah sebelumnya
Lukisan Lain di Hogwarts
Nyonya Gemuk
Violet (kawan Nyonya Gemuk ~ berhubungan dengan lukisannya di rumah sakit St Mungo's Hospital Untuk Penyakit dan Luka-Luka Sihir)
Sir Cadogan
Putri Duyung di Kamar Mandi Prefek
Lukisan di Tempat Lain
Elfrida Clagg (Kementrian Sihir)
Walburga Black (Grimmauld Place nomor 12, ibu Sirius)
Lukisan di kantor Perdana Menteri Muggle ("pria kecil bertampang kodok memakai wig perak panjang")
Orde Phoenix
Selama Perang Kedua
Albus Dumbledore (pemimpin Orde; dibunuh Snape pada bulan Juni 1997, atas perintah Dumbledore sendiri)
Amelia Bones (meninggal di bulan Juli atau Agustus 1996)
Sirius Black (meninggal di bunuh sepupunya sendiri, meninggal bulan Juni 1996)
Dedalus Diggle
Elphias Doge
Aberforth Dumbledore(adik Dumbledore)
Arabella Figg
Mundungus Fletcher (dipenjara akibat merampok dan menyamar sebagai Inferius, namun berhasil kabur)
Rubeus Hagrid
Hestia Jones
Remus Lupin (terbunuh dalam pertempuran Hogwarts, 2 Mei 1998)
Minerva McGonagall
Alastor Moody (terbunuh pada bulan Juli 1997)
Sturgis Podmore
Kingsley Shacklebolt
Nymphadora Tonks (terbunuh dalam pertempuran Hogwarts, 2 Mei 1998)
Severus Snape (agen ganda)
Emmeline Vance (meninggal pada bulan Juli atau Agustus 1996)
Arthur Weasley
Bill Weasley
Charlie Weasley
Molly Weasley
Fred Weasley (Terbunuh dalam pertempuran Hogwarts, 2 Mei 1998)
Agen Ganda
Peter Pettigrew (sampai 1981, sekarang menjadi Pelahap Maut, dicekik oleh tangan peraknya sendiri ketika gagal membunuh Harry di Malfoy Manor)
Severus Snape (sampai 1997, terakhir diketahui berada di pihak Orde Phoenix, mengikuti permintaan Albus Dumbledore untuk menyusup pada pihak Voldermort)
Terluka Parah Akibat Perang Pertama
Frank dan Alice Longbottom adalah pasangan Auror dan orangtua dari sahabat Harry Potter, Neville Longbottom. Frank dan Alice Longbottom dilukai oleh Bellatrix Lestrange dengan kutukan Siksa - Cruciatus, satu dari Tiga Kutukan Tak Termaafkan, sekarang kehilangan ingatan dan dirawat di St. Mungo.
Meninggal di Perang Pertama
Edgar Bones – dibunuh oleh Pelahap Maut
Caradoc Dearborn – kemungkinan dibunuh oleh Pelahap Maut, mayatnya tidak pernah ditemukan.
Benjy Fenwick – dibunuh oleh Pelahap Maut
Marlene McKinnon – dibunuh oleh Travers dan Pelahap Maut lainnya
Dorcas Meadows – dibunuh oleh Voldemort
James Potter – dibunuh oleh Voldemort
Lily Potter – dibunuh oleh Voldemort
Fabian Prewett – dibunuh oleh Pelahap Maut (Antonin Dolohov)
Gideon Prewett – dibunuh oleh Pelahap Maut (Antonin Dolohov)
Penyihir Hitam
Pelahap Maut
Saat Ini
Lord Voldemort (pimpinan)
Alecto
Amycus
Avery
Crabbe Sr. (ayah dari Vincent Crabbe)
Antonin Dolohov
Goyle Sr. (ayah dari Gregory Goyle)
Fenrir Greyback (manusia serigala)
Jugson
Bellatrix Lestrange
Rabastan Lestrange
Rodolphus Lestrange
Walden Macnair
Draco Malfoy
Lucius Malfoy (ayah dari Draco Malfoy)
Narcissa Malfoy (ibu dari Draco Malfoy)
Mulciber
Nott Sr. (ayah dari Theodore Nott)
Peter Pettigrew
Augustus Rookwood
Travers
Yaxley
Penyihir Hitam Yang Mati atau Tidak Memiliki Jiwa
Barty Crouch Jr. (diberi Kecupan Dementor pada tahun 1995)
Quirinus Quirrell
Evan Rosier
Wilkes
Gibbon
Pengkhianat Pelahap Maut
Igor Karkaroff (dibunuh pada tahun 1996)
Regulus Black (diperkirakan dibunuh sekitar tahun 1980-an)
Penyihir Hitam Yang Lain
Gellert Grindelwald (dikalahkan oleh Albus Dumbledore tahun 1945, akhirnya dibunuh oleh Lord Voldemort tahun 1998 setelah menolak mengungkapkan rahasia Tongkat Elder kepada Voldemort)
Kementrian Sihir
Staf Kementerian dan Departemen
Millicent Bagnold (1980-1990, sebelum Cornelius Fudge)
Cornelius Fudge (buku 1 sampai 5)
Rufus Scrimgeour (buku ke-6 dan ke-7)
Kingsley Shacklebolt (akhir buku ke-7, sementara, kemudian permanen)
Ludo Bagman (mantan Kepala Departemen Olahraga dan Permainan Sihir)
Bob (Departmen Peraturan dan Pengawasan Makhluk-makhluk Sihir)
Broderick Bode (mantan Unspeakable, meninggal tahun 1995 setelah dijerat oleh satu pot tanaman Jerat Setan di RS St. Mungo)
Amelia Bones (mantan Kepala Departemen Pelaksanaan Hukum Sihir, dibunuh tahun 1996)
Dirk Cresswell (Kepala Kantor Hubungan Goblin, meninggal tahun 1997 saat sedang dalam pelarian. Kematiannya disebutkan dalam siaran Potterwatch.)
Croaker (Unspeakable)
Bartemius Crouch, Sr. (mantan Kepala Departemen Kerjasama Sihir Internasional)
Amos Diggory (Departemen Peraturan dan Pengawasan Makhluk-makhluk Sihir)
Madam Edgecombe (Departemen of Transportasi Sihir, Otoritas Jaringan Floo)
Mafalda Hopkirk (Kantor Penggunaan Sihir Tidak Pada Tempatnya)
Bertha Jorkins (mantan pegawai Departemen Olahraga dan Permainan Sihir, Departemen Kerjasama Sihir Internasional, ditangkap, disiksa dan dibunuh oleh Voldemort. Memiliki ingatan yang parah)
Walden Macnair (Komite Pemunahan Makhluk-makhuk Sihir Berbahaya, Pelahap Maut)
Cuthbert Mockridge (Kantor Hubungan Goblin)
Bob Ogden (karyawan Departemen Pelaksanaan Hukum Sihir 50 tahun yang lalu)
Arnold Peasegood (Obliviator)
Perkins (kantor Penyalahgunaan Barang-barang Muggle)
Newt Scamander (mantan karyawan Departemen Satwa Gaib, Divisi Hewan, kepala sekolah Hogwarts)
Dolores Umbridge (mantan Asisten Khusus Menteri Sihir)
Rufus Scrimgeour (mantan Kepala Divisi Auror, Menteri Sihir, digulingkan dalam kudeta tahun 1997 dan dibunuh oleh Pelahap maut)
Wilkie Twycross (karyawan Pusat Pengujian Apparate)
Arthur Weasley (mantan karyawan departemen Penyalahgunaan Barang-barang Muggle, sekarang Kepala Kantor Pendeteksian dan Penyitaan Mantra Pertahanan dan Benda Perlindungan Palsu)
Percy Weasley (Menteri Junior)
Gilbert Wimple (Komite Mantra-mantra Eksperimen)
Tiberius McLaggen (Paman dari Cormac Mclaggen)
Basil (Petugas Transportasi)
Eric Munch (petugas keamanan di Atrium)
Hermione Granger (Departemen Pelaksanaan Hukum Sihir, pereformasi hukum sihir yang pro darah murni)
Auror
Dawlish
Alice Longbottom (tidak dapat bertugas)
Frank Longbottom (tidak dapat bertugas)
Alastor 'Mad-Eye' Moody (tewas dalam buku ke-7, dibunuh Voldemort langsung)
Proudfoot
Gawain Robards (Kepala Kantor Auror periode 1997-2007, menggantikan Scrimgeour)
Savage
Kingsley Shacklebolt (dulu adalah kepala perburuan Sirius, ditempatkan di kantor Perdana Menteri Inggris untuk melindunginya pada buku keenam. Setelah Pertempuran Hogwarts, diangkat menjadi pejabat sementara Menteri Sihir, kemudian permanen.)
Nymphadora Tonks (tewas dalam buku ke-7)
Williamson
Harry Potter (Kepala Kantor Auror periode 2007-sekarang)
Ron Weasley
Anggota Wizengamot
Albus Dumbledore (Chief Warlock)
Griselda Marchbanks (Tetua)
Tiberius Ogden (Tetua)
Elphias Doge
Orang-Orang Yang Berhubungan Dengan Quidditch
Pemain Quidditch Hogwarts
Lihat: Tim Quidditch Hogwarts
Pemain Quidditch Internasional
Pemain Irlandia
Connolly
Aidan Lynch (seeker)
Mullet
Moran
Quigley
Ryan
Troy
Pemain Bulgaria
Dimitrov
Ivanova
Viktor Krum (seeker)
Levski
Volkov
Vulchanov
Zograf
Pemain Quidditch Yang Lain
Gwenog Jones (Kapten Holyhead Harpies)
Ludo Bagman (mantan beater Winbourne Wasp)
Oliver Wood (pemain cadangan Puddlemere United)
Catriona MacCormack
Rudolf Brand (seeker Heidelsburg Harriers)
Gwendolyn Morgan (keeper) Holyhead Harpies)
Glynnis Griffiths (seeker) Holyhead Harpies)
Roderick Plumpton (memecahkan rekor tangkapan snitch-3 1/2 detik)
Barry Ryan (beater tim Quidditch Irlandia)
Meaghen MacCormack (putri dari Catriona MacCormack)
Karl Broadmoore (beater Falmouth Falcons)
Kevin Broadmoore, (Beater Falmouth Falcons)
Darren O'Hare
"Dangerous" Dai Llewellyn (pemain Caerphilly Catapults yang dimakan seekor Chimaera ketika ia berlibur di Mykonos, Yunani)
Josef Wronski (pencipta taktik Wronski Feint)
Orang Lain Yang Berhubungan Dengan Quidditch
Hassan Mostafa, wasit di Final Piala Dunia Quidditch ke-422
Penyihir Terkenal
Penyihir Terkenal Yang Terdapat Dalam Cokelat Kodok
Agrippa
Circe
Cliodna
Albus Dumbledore
Alberic Grunnion
Archibald Alderton
Hengist of Woodcroft
Merlin
Morgana
Paracelsus
Ptolemy
Herpo the Foul
Godric Gryffindor
Helga Hufflepuff
Rowena Ravenclaw
Salazar Slytherin
Newt Scamander
Gwenog Jones
Falco Aesalon
Ignatia Wildsmith
Laverne de Montmorency
Leopoldina Smethwyck
Mopsus
Oswald Beamish
Wendelin the Weird
Uric the Oddball
Xavier Rastrick
Catatan: Menurut JK Rowling, setelah kekalahan Voldemort. Trio Emas (Harry Potter, Ron Weasley, dan Hermione Granger), ditambahkan ke dalam koleksi kartu coklat kodok.
Pendiri Hogwarts
Godric Gryffindor
Helga Hufflepuff
Rowena Ravenclaw
Salazar Slytherin
Penyihir Terkenal Lain
Nicholas Flamel
Perenelle Flamel
Urquhart Rackharrow
Wendelin si Aneh
Bowman Wright (terkenal karena menciptakan Golden Snitch)
Keluarga Dekat Dari Karakter Utama
Alphard Black – Paman Sirius Black
Elladora Black – Bibi Sirius Black
Orion Black – Ayah Sirius Black
Walburga Black – Ibu Sirius Black
Fergus – Sepupu Seamus Finnigan
Fridwulfa – Ibu Rubeus Hagrid (raksasa)
Morfin Gaunt – Paman Lord Voldemort
Merope Gaunt – Ibu Lord Voldemort
Marvolo Gaunt – Kakek Lord Voldemort
Tom Riddle Sr. – Ayah Lord Voldemort yang Muggle
Algie Longbottom – Adik dari Nenek Neville Longbottom
Augusta Longbottom – Nenek Neville Longbottom
Enid Longbottom - Adik dari Nenek Neville Longbottom
Abraxas Malfoy – Kakek Draco Malfoy
Narcissa Malfoy - Istri Lucius Malfoy, Ibu Draco Malfoy, sepupu Sirius Black, saudara kandung Bellatrix Lestrange
Araminta Meliflua – Sepupu dari Ibu Sirius Black
Eileen Prince – Ibu Severus Snape
Tobias Snape – Ayah Severus Snape yang Muggle
Andromeda Tonks – Ibu Nymphadora Tonks
Ted Tonks – Ayah Nymphadora Tonks yang kelahiran Muggle
Cassandra Trelawney – Nenek buyut Sibyll Trelawney
Sepupu Molly Weasley yang akuntan
Nyonya Zabini – Ibu Blaise Zabini
Penyihir yang Lain
Penyihir yang berhubungan dengan Diagon Alley, Knockturn Alley dan Hogsmeade
Borgin
Caractacus Burke
Aberforth Dumbledore
Florean Fortescue
Madam Malkin
Mr Ollivander
Madam Rosmerta
Tom, bartender Leaky Cauldron
Fred Weasley
George Weasley
Penyembuh
Dilys Derwent
Augustus Pye
Hippocrates Smethwyck
Miriam Strout
Mungo Bonham (pendiri St. Mungo's Hospital)
Penulis Buku
Gilderoy Lockhart menulis "Magical Me", "Traveling with Troll", "Voyage with Vampire", "Year with Yeti"
Newt Scamander menulis Fantastic Beasts And Where To Find Them
Kennilworthy Whisp menulis Quidditch Through The Ages
Bathilda Bagshot menulis History of Magic
Libatius Borage menulis Advanced Potion Making
Miranda Goshawk
Inigo Imago
Arsenius Jigger
Wilbert Slinkhard
Phyllida Spore
Emeric Switch
Quentin Trimble
Cassandra Vablatsky
Adalbert Waffling
Eldred Worple
Pemain Musik
Stubby Boardman, penyanyi utama dari band the Hobgoblins
Celestina Warbeck, penyanyi
The Weird Sisters, sebuah band
Heathcote Barbary, pemain gitar rhythm The Weird Sisters
Herman Wintringham, pemain flute The Weird Sisters
Gideon Crumb, pemain bagpipe The Weird Sisters
Donaghan Tremlett, pemain bass The Weird Sisters
Orsino Thruston, pemain drum The Weird Sisters
Merton Graves, pemain cello The Weird Sisters
Kirley McCormack Duke, pemain lead guitar The Weird Sisters
Myron Wagtail, penyanyi utama The Weird Sisters
Lain-Lain
R.A.B. (ditemukan di salah satu horcrux Voldemort, kemudian diketahui sebagai Regulus Arcturus Black, adik Sirius)
Doris Crockford
Barnabas Cuffe
Ambrosius Flume
Gladys Gudgeon
Ciceron Harkiss
Madam Marsh
Tiberius Ogden
Ernie Prang (sopir Bus Ksatria)
Doris Purkiss
Sanguini (vampire, teman Slughorn)
Stan Shunpike (kondektur Bus Ksatria)
Rita Skeeter (animagus, reporter The Daily Prophet)
Veronica Smethley
Hepzibah Smith
Rave Wild'e
Willy Widdershins
Timothy Blenkinsop, seorang supporter Puddlemere United
Squib
Arabella Figg
Argus Filch
Saudara Keluarga Weasley yang akuntan
Muggle
Keluarga Dursley
Vernon Dursley
Petunia Dursley
Dudley Dursley
Marjorie Dursley (Bibi Marge)
Geng Dudley
Dennis
Gordon
Malcolm
Piers Polkiss
Lain-lain
Perdana Menteri Inggris (kemungkinan John Major)
Hetty Bayliss
Amy Benson
Dennis Bishop
Frank Bryce
Cecilia
Herbert Chorley
Nyonya Cole
Mary Dorkins
Dot (warga Little Hangleton yang menyebarkan gosip tentang pembunuhan Keluarga Riddle)
Mark Evans (ditilik dari nama belakangnya, banyak pembaca yang berasumsi bahwa ia mempunyai hubungan dengan ibu dan bibi Harry. Namun hal ini dibantah Rowling, dan menyatakan bahwa kesamaan nama ini hanyalah kebetulan belaka)
Angus Fleet
Colonel Fubster
Jim McGuffin
Tuan dan Nyonya Granger, orangtua Hermione
Tuan dan Nyonya Mrs Mason, klien Vernon Dursley
Tuan Payne
Tuan Prentice
Tom Riddle Sr. dan orangtuanya
Tuan dan Nyonya Roberts dan kedua anak mereka (dari Piala Dunia Qiudditch)
Billy Stubbs
Ted, penyiar di acara berita sore
Nyonya Tetangga Sebelah, seorang wanita tak-bernama yang tinggal di sebelah rumah Keluarga Dursley
Peri Rumah
Dobby (pernah bekerja di rumah Keluarga Malfoy, sempat bekerja di Hogwarts meninggal di buku ke-7 ketika berusaha menyelamatkan Harry Potter dari rumah kediaman Malfoy)
Hokey (Peri Rumah Hepzibah Smith)
Kreacher (Peri Rumah yang diwariskan Sirius kepada Harry – yang disuruh untuk bekerja dengan Peri Rumah lain di Hogwarts)
Winky (pernah bekerja di rumah Keluarga Crouch, sekarang di Hogwarts)
Goblin
Modern
Griphook
Ragnok
Masa Lalu
Elfric the Eager
Emeric the Evil
Uric the Oddball
Raksasa
Raksasa Murni
Fridwulfa, Ibu Hagrid
Grawp, adik Hagrid
Karkus, si Gurg
Golgomath, Gurg yang baru
Setengah-Raksasa
Rubeus Hagrid
Olympe Maxime
Centaurus
Bane
Firenze - menjadi guru ramalan Hogwarts
Magorian – pimpinan para centaurus di Hutan Terlarang
Ronan
Manusia Serigala
Fenrir Greyback
Remus Lupin
Bill Weasley, belum sepenuhnya manusia serigala, tetapi memiliki sifat-sifat manusia serigala (sejak buku ke-6).
Hewan Peliharaan dan Makhluk Sihir Lainnya
Burung Hantu
Errol (milik Keluarga Weasley)
Hedwig (milik Harry Potter, terkena kutukan Avada Kedavra yang nyasar tahun 1997)
Hermes (milik Percy Weasley)
Pigwidgeon (milik Ron Weasley)
Burung Hantu-Elang milik Keluarga Malfoy (nama tidak diketahui)
Kucing
Crookshanks (milik Hermione Granger)
Kucing Millicent Bulstrode (nama tidak diketahui)
Mrs Norris (kucing Argus Filch)
Paws, Snowy, Tibbles dan Tufty (milik Arabella Figg)
Minerva McGonagall (animagus kucing)
Anjing
Fang (milik Hagrid)
Fluffy (anjing Hagrid yang berkepala tiga)
Ripper (milik bibi Marge)
Sirius Black (animagus anjing) alias Padfoot
Hewan Peliharaan dan Makhluk Lain
Aragog (Acromantula milik Hagrid, yang hidup di Hutan Terlarang, mati di buku ke-6)
Arnold (Pygmy Puff ungu milik Ginny Weasley)
Binky (kelinci Lavender Brown yang dimakan serigala)
Fawkes (burung phoenix milik Albus Dumbledore)
Nagini (ular milik Lord Voldemort)
Norbert (bayi naga milik Hagrid yang dibawa ke Rumania oleh Charlie Weasley)
Scabbers (tikus milik Ron Weasley, yang sebenarnya adalah animagus Peter Pettigrew)
Trevor (katak Neville Longbottom)
Buckbeak (alias Witherwings), seekor hippogriff yang pada mulanya milik Hagrid, kemudian Sirius Black, kemudian Harry yang dirawat oleh Hagrid
Dementor, penjaga penjara sihir Azkaban, yang sekarang menjadi pengikut Voldermort
Kategori:Daftar karakter fiksi | https://id.wikipedia.org/wiki/Daftar%20karakter%20Harry%20Potter |
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ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Hungarian: Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。
歴史
王国のはじまり
955年、レヒフェルトの戦いに敗れたマジャール人たちは、戦後当初、外交的には東ローマ帝国(ビザンツ)、ブルガリア帝国、あるいはルーシ(キエフ大公国)などと結びつく道もあったが、大首長のハンガリー大公は、973年、神聖ローマ皇帝に依頼して宣教師を派遣させ、マジャール人へのキリスト教布教を認めた[1]。ゲーザの子ヴァイクは985年、プラハの聖アダルバートから洗礼を受け、イシュトヴァーンの洗礼名を授けられた[1]。イシュトヴァーンは997年、父ゲーザの死を受けて大首長となり、各地に軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日[注釈 1]、ローマ教皇のシルウェステル2世から授かった冠を用いて、ハンガリー王イシュトヴァーン1世としてエステルゴムで戴冠式を行った[1]。こうして、正式にハンガリー王国が発足した。以後、その一族であるアールパード朝による統治が300年続いた。
以後、ハンガリー王国は北部のスロヴァキア(モラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにルーマニアトランシルヴァニアにも勢力を伸ばした。この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。この時代の領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。このためハンガリー王となるものは聖イシュトヴァーンの王冠を頂く者であるという概念が生まれた。
1240年にはモンゴル帝国のバトゥによる侵略を受け、甚大な被害をうけた(モンゴルのポーランド侵攻)。この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した。その例として、シビウ、ブラショフ、ビストリツァ、コシツェなどが挙げられる。
ハプスブルクとオスマン
その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年にナポリ王国のアンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。一方、14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。
15世紀にはトランシルヴァニア貴族ののマーチャーシュ1世が中小貴族の圧倒的支持を受けて国王に即位し、常備軍を維持して強盛を極めた[2]。しかし、ハンガリーはオスマン帝国の脅威に常にさらされていた。1526年のモハーチの戦いではボヘミア王を兼ねたハンガリー王ラヨシュ2世(ルドヴィク)が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した[3]。こうして、王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになった[3]。しかし、ボヘミアとハンガリーの貴族は、ラヨシュ2世の姉の夫であるオーストリア大公フェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)を国王に迎えることには強く抵抗した[4]。ボヘミアではほどなくしてフェルディナントを国王に選出したが、ハンガリーではポジョニ(ブラチスラヴァ)でフェルディナントが国王に選出されたとき、すでにトランシルヴァニア出身の大領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー国王としてハンガリー貴族たちの支持を受けて選出されていた[4]。こうしたなか、1529年、オスマン帝国によって第一次ウィーン包囲が起こっている[4]。
ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配され、両国の係争地となった[4]。
1683年の第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった[5]。これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動(ラーコーツィの独立戦争)が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された[5]。
二重制の時代
19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。
1848年の2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。
しかし1866年にプロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。
これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した[6]。これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる[6]。ハンガリー王国はオーストリア=ハンガリー二重帝国一翼を担う存在に位置づけられた[6]。王国内には独自の内閣や議会も置かれ、ハプスブルク家に対するハンガリーの影響力は強まったのである[6]。
19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。
王国の終焉
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は中央同盟の一翼を担い戦ったが、1918年に敗北した。11月16日にカーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立した。しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。
1918年、二重帝国は崩壊し、1919年、ハンガリー革命にともなうハンガリー民主共和国の成立により王国は消滅した[7]。
歴代国王
アールパード朝が300年(王国成立以前を含めれば400年)続いた後、13世紀末に断絶するが、その後はアールパード家の血を引く王位請求者による抗争を経て、1308年以降は選挙王制となる。14世紀にはほぼアンジュー朝の統治が続いたが、その断絶後はルクセンブルク家、ハプスブルク家、フニャディ家、ヤギェウォ家の間を王位が変遷した。
1526年以降はハプスブルク家が王位をほぼ独占し(ただし当初は対立王がいた)、同家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。彼女の夫フランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王などではなかった。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったため皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。法的にはマリア・テレジアのハンガリー王継承はカール6世が1713年に発した国事勅書によるものである。
首都
ペシュト( - 1361年)
ブダ(1361年 - 1541年)
ポジョニ(ブラチスラヴァ)(1541年 - 1784年)
ブダ(1784年 - 1873年)
ブダペシュト(1873年 - )
1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァが首都になったのは、バルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。
年譜
896年 アールパードに率いられたマジャール人がパンノニアに入る。10世紀前半、モラヴィアの大モラヴィア王国を征服、第一次ブルガリア帝国よりトランシルヴァニアアルプス山脈以北を獲得。ヨーロッパ各地に遠征。
1000年頃 イシュトヴァーン1世がローマ教皇より戴冠され、ハンガリー王国が成立する。同時期マジャル人がカトリックを受容し始める。
12世紀から13世紀 - ハンガリー王国の領域が最大となり、スロバキア、クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニアを領域化する(大ハンガリー)。
1241年 モンゴル帝国の襲来を受け(モヒの戦い)、異民族クマン族(ジョチ・ウルス)も流入する。ベーラ4世は、荒廃したハンガリーの復興事業を行なう。
1246年 ライタ川の戦いでベーラ4世がオーストリア公フリードリヒ2世を敗死させる。
1248年 バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世がオーストリアなどの支配権を獲得。
1260年 クレッセンブルンの戦いでベーラ4世がオタカル2世に敗れる。
1278年 マルヒフェルトの戦いでラースロー4世は神聖ローマ皇帝ルドルフ1世とともにボヘミアのオタカル2世を破り、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝とともに欧州の有力な勢力となる。
1308年 選挙王政に移行。外国貴族による王朝の時代。
1396年 オスマン帝国とのニコポリスの戦い。ジギスムント敗走。
1444年 オスマン帝国とのヴァルナの戦い。ヴァルナ十字軍が敗れ、1452年までハンガリー王位が空位となる。
1446年-1452年、ハンガリー王国摂政フニャディ・ヤーノシュによるハンガリー復興。
1458年 フニャディによってオスマン帝国撃退。
1479年 ハンガリー王マーチャーシュ1世がオーストリア(オーストリア大公国)を支配する。
1485年 マーチャーシュ1世、ウィーンを占領(-1490年)。
1526年 オスマン帝国とのモハーチの戦いでラヨシュ2世戦死。
ハンガリー王国は領土の大部分をオスマンに奪われる。
ハンガリー王位を巡り、ハプスブルク家とハンガリー貴族サポヤイ・ヤーノシュが争う。
以降ハンガリー王冠はハプスブルク家によって所有される。
1541年 オスマン帝国がハプスブルク家のハンガリー王位を承認。代わりにオスマン帝国領ハンガリーが南部に成立。
1571年 トランシルヴァニア公国が分離。ハンガリー王国は、公国とハプスブルク家の王領ハンガリー、オスマン帝国領ハンガリーに分断される。
1623年 ハプスブルク家によるハンガリー王位の世襲権を認める。
1683年 第二次ウィーン包囲。ポーランドの支援を受けて撃退。オスマン帝国への反撃を開始する。
1699年 カルロヴィッツ条約においてハンガリーがオスマン領ハンガリー、トランシルヴァニアなど大半を回復する。
1740年 マリア・テレジアによるハンガリー女王戴冠(オーストリア継承戦争)。
1761年 クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナも回復。
1804年 オーストリア帝国成立。
1848年 1848年革命起こる。ハンガリーで蜂起。ハンガリー独立宣言( - 1849年)
1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国成立(アウスグライヒ)。
1867年 クロアチアとの間でナゴドバ法が結ばれる。
1918年 第一次世界大戦で敗れる。後、11月16日にによるハンガリー民主共和国が独立宣言。350年以上に亘ったハプスブルク家によるハンガリーの統治は終焉した。
統治地域
現在のハンガリー共和国とは異なる。現在の共和国領全域に加え
スロバキア共和国全域(北部ハンガリー)
クロアチア共和国
クロアチア地方
スラヴォニア地方
セルビア共和国
ヴォイヴォディナ
ルーマニア
トランシルヴァニア
オーストリア共和国
ブルゲンラント州
がハンガリー王国の最大領域であった。
王国の残した問題
ハンガリー王国はかつてのその広大な領域に数多くのマジャール人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャール人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。
例として、ヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。また、1989年に起こったルーマニア革命も、発端はルーマニアのマジャール人問題であった。
脚注
注釈
出典
参考文献
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関連項目
ハンガリー王国の歴史的地域
ハンガリー国王一覧
聖イシュトヴァーンの王冠
ハンガリー・アンジュー朝
オスマン帝国領ハンガリー
ハプスブルク君主国
オーストリア=ハンガリー帝国
アウスグライヒ
ハンガリー王国 (1920年-1946年)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%8E%8B%E5%9B%BD |
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} | Язы́к богослуже́ния (также литургический язык, церковный язык) — язык богослужения, применяемый в ходе церковной службы, написании церковной литературы, ведении церковного делопроизводства (то есть фактически как рабочий язык церкви), применяемый также и в религиозном образовании.
Языковые особенности
Языки богослужения обычно проявляют склонность к употреблению консервативных, порой крайне архаичных языковых форм в лексике, синтаксисе, фонетике, опираясь при этом на языковые нормы предыдущих поколений, эпох, формаций. Поэтому литургический язык, даже если он родственен языку разговорному, зачастую малопонятен простым прихожанам-современникам без определённой подготовки, создавая таким образом атмосферу таинства, религиозной возвышенности и даже благоговейного страха.
История
Исторически в разных государствах и у разных народов наблюдалось несовпадение между разговорным языком и языком богослужения. В Средние века часто формировались ситуации многоязычия, когда функции разговорного, государственного, процессуального, торгового (лингва франка) и литургического языков выполняли разные (иногда даже совершенно неродственные) языки или идиомы. Однако, с началом формирования современных наций в XVIII веке, и особенно в течение XX века, активное вмешательство государства в языковую политику, усиление роли СМИ в процессе национального строительства при резком падении общей религиозности населения привело к упрощению языковых ситуаций в большинстве регионов мира и сближению языка церкви с языком народа.
Примеры
Древнерусское государство
Примером церковного языка на территории восточнославянских стран, ранее входивших в состав Древнерусского государства, был старославянский язык — южнославянский по происхождению, а разговорным и отчасти литературным — древнерусский язык. Наблюдалось взаимовлияние этих близкородственных языков: влияние древнерусского привело к образованию особой формы церковнославянского языка на территории Руси, а сам древнерусский впитал в себя южнославянские синтаксические конструкции и значительное количество лексики, превратившись в современный русский язык. В настоящее время наблюдается тенденция к постепенной русификации церковнославянского языка русской православной церкви на территории России и стран СНГ. При этом до возникновения письменности на церковнославянском языке, южные славяне некоторое время пользовались древнегреческим, а затем также и византийским (среднегреческим) языками.
Романские народы
Похожей была языковая ситуация у романских народов Европы, где классическая латынь продолжала функционировать в церкви и на письме. Со временем её отрыв от вульгарной латыни регионов становился более очевидным и начал затруднять взаимопонимание из-за чего в Галлии в Средние века произошло становление независимых романских языков, но классическая латынь оказала на них существенное влияние в области лексики (языковые дублеты) и грамматики.
Восточно-романский ареал
Несколько отличной ситуация была в восточном — балкано-романском регионе, где до начала XVIII валахи пользовались церковнославянским языком, которым, по-видимому, хорошо владели и на разговорном уровне. В результате глубокие славянские влияния обнаруживаются и в современных румынском и молдавском языках. Сокращение употребления церковнославянского языка объяснялось усилением влияния греков-фанариотов, стремящихся заместить славянские языки греческим и турецким.
Примеры литургического языка в многоязычной среде
С другой стороны, западные славяне и часть южных (хорваты, словенцы) пользовались латынью для проведения церковных служб и записей текстов. До Реформации латынь также была языком литургии и летописей у большинства германских народов Европы, а также венгров, литовцев и т. д. В средневековой Англии классическая латынь была языком церкви и формальных исторических документов; англо-нормандский язык (англо-французский) употреблялся как официальный язык рутинного делопроизводства, городских регистров и юриспруденции, как разговорный язык при королевском дворе, а также как язык преподавания в престижных школах для дворян; сами же крестьяне же продолжали общаться на староанглийском просторечии. Как результат взаимовлияния этих трёх компонентов возник современный английский язык.
Восточные цивилизации
В ряде восточных обществ ситуация была ещё более сложной. В средневековой Монголии функции языка богослужения на себя брали санскрит, затем тибетский язык и китайский. По этим причинам объяснение языка современной монгольской литературы немыслимо без знания языков тибетского, китайского и отчасти маньчжурского. Также, изучение фарси немыслимо без знакомства с классическим арабским языком.
Некоторые известные языки богослужения
Старославянский язык и церковнославянский язык — ряд православных церквей.
Классическая латынь — Римско-католическая церковь.
Тибетский язык — гималайско-монгольский буддизм.
Классический китайский язык — конфуцианство, даосизм, восточноазиатский буддизм.
Классический арабский язык — ислам.
Санскрит — индуизм.
Пали: буддизм тхеравады.
Авестийский язык — зороастризм.
Бунго — Японская православная церковь.
Геез — Эфиопская православная церковь.
Готский язык — арианство.
Грабар — Армянская апостольская церковь.
Иврит — иудаизм.
Ирландский язык — ирландские католики.
Йоруба — религии кандомбле и сантерия негров-рабов, перевезённых из Нигерии в Новый Свет (Бразилия, Карибы).
Коптский язык — Коптская православная церковь, Коптская католическая церковь.
Сирийский язык — христиане Леванта и Ирака.
Португальский язык и латынь — крипто-христиане средневековой Японии (Какурэ-кириситан), обращённые в католицизм португальцами.
Этрусский язык — язык мистических ритуалов в языческом Риме.
Дамин — ритуальный язык некоторых аборигенов Австралии.
Ранненововерхненемецкий язык — используется амишами.
Койне — используется греческими христианами.
Кальяуайя — ритуальный язык индейской этнопрофессиональной группы Калавайя в Андах.
Шумерский язык — использовался последующими цивилизациями Двуречья как ритуальный, многие годы после того, как исчез в качестве разговорного.
См. также
Официальный язык
Региональный язык
Рабочий язык
Примечания
Категория:Социолингвистика
Категория:Языковая политика | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%AF%D0%B7%D1%8B%D0%BA%20%D0%B1%D0%BE%D0%B3%D0%BE%D1%81%D0%BB%D1%83%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D1%8F |
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Спиноза́вр[1] (Latin: Spinosaurus, буквально — шипастый ящер) — представитель семейства спинозаврид (Spinosauridae), обитавший на территории современной Северной Африки в меловом периоде (112—93,5 млн лет назад[2]).
Впервые этот вид динозавров был описан по найденным в Египте останкам немецким палеонтологом в 1915 году, который привёз скелет в Мюнхен. Однако, во время Второй мировой войны, в ночь с 24 на 25 апреля 1944 года, на город был совершён налёт, часть музея сильно пострадала, а кости спинозавра были уничтожены[3], хотя ранее Штромер предлагал эвакуировать экспозицию, но получил отказ директора[4]. До наших дней дошли лишь рисунки и редкие фотографии Штромера, на которых изображён голотип вида BSP 1912 VIII 19.
На сегодняшний день палеонтологи располагают 20 образцами спинозавров. Половина из них была обнаружена в Марокко, четыре — в Египте, три — в Тунисе, по одному образцу из Нигера, Камеруна и Кении[5].
Описание
Спинозавр хорошо известен по уничтоженным останкам, не считая недавно обнаруженных зубов и элементов черепа. Недавно обнаруженные в Марокко окаменелости нижних конечностей спинозавра[6], вероятно, принадлежали молодой особи, так как достигали небольшого размера. Челюсть и элементы черепа, представленные в 2005 году, показывают, что он обладал одним из самых длинных черепов среди всех плотоядных динозавров, достигавшим более 1,5 метра в длину[7]. Череп имел узкую морду с челюстями, заполненными прямыми конусообразными зубами. Самый крупный из известных образцов спинозавра обладал впечатляющими габаритами: около 15 метров[2] в длину и массой более 7 тонн[7] (возможно, около 11,7—16,7 тонн[8], так как его кости имели относительно маленькие полости). Однако, другие известные окаменелости взрослых и почти взрослых спинозавров затрудняют его идентификацию как крупнейшего в истории теропода, поскольку эти особи заметно уступают по размерам даже молодому бариониксу и зухомиму[9].
Одной из отличительных черт спинозавра является его позвоночник. Отростки спинных и хвостовых позвонков своим размером и формой образуют своеобразный «парус». Похожие образования имелись и у других динозавров (спинозавриды, некоторые орнитоподы), а также у древних диапсид (Poposauroidea) и синапсид (сфенакодонты). Назначение «паруса» является предметом многочисленных дискуссий[10]. Одной из последних гипотез является его роль в качестве гидростабилизатора[11].
Внешний облик
Устаревшая реконструкция спинозавра
Недавняя реконструкция
Новейшая реконструкция
На протяжении столетия со времени открытия спинозавра, представления о его внешнем облике постоянно менялись. Причиной этому был недостаток материала. На самых первых реконструкциях спинозавр изображался как типичный теропод с почти прямой походкой и черепом, подобным черепу аллозавра (кроме нижней челюсти, известной в то время)[12].
Во второй половине XX века спинозавра представляли, как своеобразного большого барионикса с круглым парусом на спине. На это повлиял отказ от выпрямленного положения позвоночника у хищных динозавров, а также находка верхней челюсти[13].
В свою очередь португальский палеоиллюстратор Родриго Вега предложил свою реконструкцию спинозавра, согласно которой он имеет квадрупедальную локомоцию, жировой горб и миниатюрный хобот. Он считает, что для животного, которое питается преимущественно рыбой (а в период засухи в водоёмах мелового периода она почти полностью отсутствовала), необходимо обеспечивать себе энергетический запас в виде жировой прослойки, или горба, на спине. Спинозавр отличается наличием достаточно больших передних конечностей, которые могут использоваться и для квадрупедальной локомоции. Родриго Вега считает, что стойка на задних лапах — чрезвычайно несбалансированное положение для спинозавра, так как его центр тяжести гораздо ближе к черепу, нежели к крестцовым позвонкам, как у других теропод. Кроме того, стойка на четырёх лапах может быть весьма полезна при ловле рыбы на берегу[14][15].
В 2014 году палеонтологи Дэвид Мартилл, Низар Ибрагим, Пол Серено и Кристиано Даль Сассо обнаружили в Марокко части скелета спинозавра — куски черепа, фаланги пальцев передних конечностей, несколько хвостовых и спинных позвонков с отростками и задние конечности. Возраст неотипа FSAC-KK 11888 оценивается в 97 млн лет. Эта находка перевернула все представления палеонтологов о спинозавре. Во-первых, была выдвинута гипотеза, что он передвигался на четырёх конечностях. Во-вторых, полукруглая форма паруса была изменена на трапециевидную. В-третьих, было найдено подтверждение о скорее водном, чем сухопутном, образе жизни[16][6]. Об этом был снят документальный фильм[4]. Тем не менее, в дальнейшем квадропедальная реконструкция спинозавра была подвергнута широкой критике[9][17][18][19].
Образ жизни
Его узкие и длинные челюсти были усеяны большими острыми зубами и хорошо подходили для удержания скользкой вырывающейся жертвы, например, рыбы или амфибии. Спинозавр был довольно крупным животным и имел большие передние конечности, вооружённые крупными острыми когтями, которые, вероятно, могли играть не последнюю роль в удержании и убийстве захваченной зубами жертвы перед проглатыванием. Череп спинозавра был весьма неустойчив к боковым нагрузкам, а зубы совершенно не подходили для откусывания кусков мяса, и поэтому спинозавр, вероятно, был способен поедать только относительно мелких животных, которых он мог проглотить целиком[20]. Кости спинозавра были очень плотными и твёрдыми, из чего можно сделать вывод о хорошей способности ящера к плаванию[6]. Строение скелета и среда обитания (побережье, дельты и поймы рек[5]) динозавра позволяют предположить, что основной пищей спинозавра была рыба, например, молодь распространённых в то время пилоносых скатов Onchopristis[21]. Хотя содержимое желудка других спинозавридов демонстрирует более гибкую диету, из-за особенностей строения зубов спинозавр был, вероятно, более специализированным хищником[21].
Систематика
Спинозавр дал своё имя семейству динозавров, спинозавридам, которое включает два подсемейства — Baryonychinae и Spinosaurinae. Также известны останки ещё не описанного динозавра из Австралии — позвонок, похожий на позвонок барионикса[22]. Спинозавр наиболее близок к родам Irritator и Oxalaia, все они объединены в подсемейство Spinosaurinae. Кладограмма анализа тетанур (сокращённая до спинозаврид), представленная Allain и др. в 2012 году[23]:
Spinosauridae
Spinosaurinae
Irritator
SpinosaurusBaryonychinae
Ichthyovenator
Suchomimus
Baryonyx
Примечания
Литература
Категория:Мегалозавры
Категория:Динозавры мелового периода
Категория:Динозавры Африки
Категория:Фоссилии, описанные в 1915 году | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%BF%D0%B8%D0%BD%D0%BE%D0%B7%D0%B0%D0%B2%D1%80 |
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紋章地図<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[137,143,6,0]}'/>(郡の位置)基本情報連邦州:ノルトライン=ヴェストファーレン州郡:リッペ郡緯度経度:標高:海抜 105 m面積:88.64 km²人口:[1]人口密度:Expression error: Unrecognized punctuation character "[". 人/km²郵便番号:32668 - 32676市外局番:05281, 05283ナンバープレート:LIP自治体コード:05 7 66 052行政庁舎の住所:Am Markt 1
32676 Lügdeウェブサイト:首長:ハインリヒ・ヨーゼフ・レーカー (Heinrich Josef Reker)郡内の位置
リュクデ(German: Lügde、ˈlʏkdə、地元では[ˈlʏçtʰə]と発音する。また、低地ドイツ語では Lüde)は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州のリッペ郡に属す市である。本市はトイトブルクの森/エッゲ山地自然公園内に位置する。2012年7月24日以降、リュクデは公式に「オスターラートの街」という称号を掲げている[2]。
地理
位置
リュクデは東部に位置し、谷をが流れている。この川は、バート・ドリーブルク市のランゲラント地区に湧出し、エンマータールでヴェーザー川に合流する。さらに西には、北西にトイトブルクの森があり、東にはヴェーザー川が流れる。ヴェーザー山地で最も高い山の一つである 496 m のケーターベルクは本市の市域内に含まれる。市内で最も低い場所は 98 m である。
地質学
市内のリッパー・ベルクラントは主に中生代の泥灰岩、石灰岩、砂岩で形成されている。これらの堆積岩は、1から1.5 km の厚さがある。これらは地質学的年代の推移に伴って隆起し、造山活動によって鞍部や窪地が形成された。南部の市区には地塁や地溝も現れた。こうした地層の下に古生代、特にデボン紀、石炭紀、ペルム紀の岩盤がある。氷期のもろい岩(礫、砂、黄土)は、堅い岩盤を地下水として流れるエンマー川やその支流の流域部分に見られる。
裂け目の多いやの石灰岩や泥灰岩は、地下水の好適な流路となっている。ただし。深い地層の岩塩や石膏が溶け出すことにより、地下水は所によって塩分やミネラル分を含んでいる。
市内では、割栗石や砕石に加工するための石や土が採取されている。
ムシェルカルクやコイパーの岩の上に、やの表土が広がっている。その一部は林業に、一部は耕作地として利用されている。市域北部の山頂にあたる狭い部分には、泥土質で石を多く含んだへの移行箇所も見られる。広く張り出した谷の窪みや斜面の下部の岩盤は氷期の黄土で覆われている。その結果、シルト質のロームから肥沃なパラブラウンエルデ(亜褐色土)が形成された。
市域の南部は、主にシルトを多く含んだスタグノゾルが存在している。小川が形成した低地は牧草地として利用されている。高地やスタグノゾルに覆われた場所は林業に利用されている。さらに肥沃な黄土・ローム質の場所では、集約的な農耕が盛んである[3]。
リュクデは、地熱ゾンデによる地熱源やヒートポンプによる地熱採取については、一貫して「良好」から「極めて良好」な状態にある(右図参照)[4]。
市域の広がりと土地利用
「グローセ・ラントゲマインデ」(直訳すると「大きな地方自治体」)に分類される本市の面積は 88.62 km2 である。市域の東西の最大幅は約 11 km、南北の最大幅は約 14 km である。
隣接する市町村
リュクデは、北から時計回りに以下の市町村と境を接している: バート・ピルモント(ハーメルン=ピルモント郡)、ファールブルーフおよびポレ(ホルツミンデン郡ザムトゲマインデ・ボーデンヴェルダー=ポレ)(ここまではいずれもニーダーザクセン州)、ヘクスターおよびマリーエンミュンスター(ヘクスター郡)、シーダー=シュヴァーレンベルクおよびブロムベルク(リッペ郡)(以上は、ノルトライン=ヴェストファーレン州)
市の構成
基本条例 § 3 Abs. 1 によれば、リュクデ市は以下の表に示す10地区からなる[6]。これらは1970年以前はデトモルト郡またはヘクスター郡アムト・リュクデに属する独立した町村であった。地区の境界は、かつての市町村境である。
1. 人口は、リュクデ市の人口調査に基づく2013年12月31日現在の数値である[7]。
気候
リュクデは、中央ヨーロッパの穏和な気候帯に属しており、亜大西洋性海洋気候地域に位置している。冬は大西洋の影響でおおむね穏やかであり、夏はかなり暑い。年間の平均気温は約 8 – 9℃である。
亜大西洋性海洋気候に位置することから年間を通して湿潤な気候であり、降水はほぼ均一にある。リュクデの気候データはなく、約 10 km 離れているが地理環境が類似したシーダーでの値を、用いることができる。シーダーの測候所における年間降水量の長期平均値は 867.7 mm である。
歴史
中世と都市の設立
リュクデは、フランク王国年代記 の784年の記事に初めて記録されている。カール大帝は、当時のザクセン公領で最初のクリスマス祭を開催した。その場所は、現在はヘルリングスブルクという名で知られている Skidrioburg に近いVilla Liuhidi であったという記述である。この集落はおそらく紀元後1世紀頃に成立し、現在の中核市区の北側、現在のリュクデとバート・ピルモント=ホルツハウゼンとの間にあたるオレンリューダーフェルトにあった。その後カール大帝の宿営地に教会が建設され、同じ場所に12世紀に現在のキリアン教会が建設された。
元々 Liuhidi またはLiuhith とも呼ばれていた地名の由来には様々な説がある。有力な説の一つが、多くの庶民が住み着いた場所を指したというものである。Liu は、低地ドイツ語では Lüe であり、Leute(庶民)を意味する。これはいわゆるポエタ・ザクソ(「ザクセンの詩人」、本名が知られておらずこう呼ばれている)の作品に Liudi という人物が登場することもこの説を支持している。別の有力な説では、784年の Liuhidi という最初の文献表記は、古高ドイツ語の luhhen = waschen(洗う)に由来すると考えている(cf. Latin: luere = 「洗う」)。すなわち、Liuhidi は「洗濯場または水浴地の集落」と解釈される。集落に古い時代に使われていた鉱泉があったことが、この説の信憑性を高めている。カール大帝が、たとえばアーヘン、パーダーボルン、ヴィースバーデンといった鉱泉がある場所を滞在地として好んだのは周知のことである[9]。
2つの分農場を持つ荘園「Lugete」に関する文献記録は、1036年5月25日のブスドルフ文書に遺されている。これはパーダーボルン司教が新しく設立されたパーダーボルンのブスドルフ修道院にこの荘園からの十分の一税徴税権を寄贈したというものである[10]。
1195年に設立されたピルモント伯ゴットシャルク1世の貨幣鋳造所を背景に、リュクデは早くもこの頃に都市権を得た。都市の設立を証明する根拠史料は何一つ現存していないが、遅くとも1246年までには都市権の授与がなされていた。この頃に、現在も遺る都市のグランドデザインがなされ、市壁、壕、防衛等といった多くの部分が保存されている都市防衛施設が建設された。さらにリュクデには市場や印章の使用を認められた市議会が設けられた[11]。
リュクデはピルモント伯の計画的な都市計画によって建設された。この街は中心となる本通りと、それと並行して延びる2本の脇通りの3本の道路によって構成される典型的なドライシュトラーセンシステム(3本の道路システム)である。これらは街の南で本通りから鋭角に分岐し、並行に街中を通り、北側で横向きの通りに接続した。
中世後期、リュクデはピルモント伯領の首都であり、同伯の居住地であった。市壁内の城の場所は、現在では不明である。リュクデは、何度も他国の領土的関心に弄ばれた。1255年にヴァルデック=ピルモント伯は、リュクデの半分をケルン大司教に割譲しなければならなかった。市の紋章にもこのことが示されている[11]。
ヒリガー・ボルン、三十年戦争、パーダーボルンの飛び地
16世紀半ばにヒリガー・ボルンの物語が広まった。この水が身体の障害を治療するというのである。ドイツのみならず、ヨーロッパ全土から人々が群れをなしてリュクデ周辺に、やがては関係のないピルモントにまで押し寄せた。リュクデとその周辺の村では、この群衆を受け容れることができず、数千人が森や空き地で寝泊まりした[12]。
1583年にリュクデの住民は宗教改革を受け容れた。三十年戦争中は入れ替わる支配者に信仰を強要されたが、再びルター派の信仰に戻り、1624年には激しい対立の末カトリックの信仰に戻った。戦争が終わった時、都市の 1/3 が破壊され、住民たちは完全に貧困状態にあえいでいた。
1668年3月14日、司教領主フェルディナント・フォン・フュルステンベルクとヴァルデック伯は、174年以上紛争が続いた土地の所有をピルモント伯領とすることで合意した。伯はピルモントの泉とそれに隣接する村とを建設した。ヴァルデック家で最も有名な領主が(1620年 - 1692年)である。彼は湧水をふさぎ、後に有名になるリンデンアレー(セイヨウボダイジュの並木道)を整備し、バート・ピルモントを建設した。この後もパーダーボルン司教領主はリュクデの領有を続けた。住民に福音主義信仰は浸透せず、信仰に関してカトリック勢力の飛び地となった。七年戦争(1756年 – 1763年)でリュクデは、軍勢の宿営や進軍により甚大な被害を受け、周縁部は経済的廃墟と化した[13]
火災と洪水
リュクデは時代とともに何度も火災や洪水の被害に悩まされてきた。15世紀から18世紀までに限っても、建て込んだ旧市街は19回都市火災に遭い、このうち2回は完全に灰となった。1797年の大火は、街をほぼ完全に破壊した。火災は市の南西部、現在の郷土博物館付近から始まり、数時間のうちに、当時315棟あった家屋のうち243棟が焼失した。200棟以上が同じ様式で3年以内に再建された[14]。住民たちには、革袋に消火用水を用意しておくことが義務づけられていた。消火用水はエンマー川から引かれており、約120の泉があった。
2000年代に洪水被害防止施設が建設されるまで、リュクデの市民は、エンマー川が溢れ、洪水となる危険に絶えずさらされていた。中核都市では1946年、周辺の住宅地区では1998年に洪水に見舞われた。
1802年、この街はプロイセン軍に占領され、その後プロイセン王国に属すこととなり、ヘクスター郡に編入された。1803年から1813年のフランスによる占領の時代には、リュクデはジェローム王が統治するヴェストファーレン王国に属した。ナポレオン支配が終焉すると、本市は再びプロイセンに返還された[13]。
工業化の時代と帝国
リュクデの住民の多くは、いわゆる都市農民であり、18世紀末まで主に農業で暮らしていた。それ以外の者は、商業や手工業で生計を立てていた。19世紀中頃に工業的なタバコ製造業が興り、タバコ製造の中心都市となったことで経済状態はやっと改善された。それでも、多くの人々、特に16世紀からリュクデに住んでいたユダヤ人商人や手工業者、農家の息子などはツンフトに加盟しておらず、アメリカや南アフリカへ移住していった[13]。
鉄道ハノーファー – アルテンベーケン線が 1875年に開通した。この路線はキリアン教会のすぐそばを通った。当初はバート・ピルモントとリュクデ共同の駅であったが、1892年にリュクデに固有の駅が設けられた[13]。
第一次世界大戦(1914年 – 1918年)では、82人のリュクデ市民が亡くなり、14人が行方不明となった。
ヴァイマル共和制と国家社会主義
第一次世界大戦後、人口が増え続け、かつての市境を超えて都市が広がり、いわゆるノイシュタット(新市街)が建設された。それに加えてリュクデは、隣接するバート・ピルモント市の急速な発展によって経済的利益を得た[13]。
キリスト教的世界観を背景に、多くのリュクデ市民は国家社会主義に困惑した。1933年、国家社会主義者はオスターレーダーラウフ(復活祭にこの街で行われる年中行事)に目をつけた。彼らはこれを自らの目的に悪用し、原始キリスト教化を図ろうとした。これに対して、1935年にオスターレーダーのコース沿いに抵抗の徴として高さ10 m の白い木製の十字架が勇気ある住民によって建てられた[13]。
第二次世界大戦中、鉄道路線沿いに何度も空爆が行われ、キリアン教会や民家に甚大な被害が生じた。1943年にリュクデは、エッセンから疎開してきた 253人の女性と子供を受け容れ、そのための仮設住宅を建設した。この戦争で114人のリュクデ市民が亡くなり、12人が行方不明となった[13]。
1945年4月4日の夕方18時頃、リュクデにあわただしく軍事法廷が招集された。多くのドイツ軍司令官が参加し、オットー・ゲルビヒ少将が裁判長で、同時に告発者であった。当時のレムゴー市長ヴィルヘルム・グレーファーに対する告発は国家反逆罪で、短い審理の後グレーファーに死刑が申し渡された。この判決は、翌朝ボーデンヴェルダーで執行された。
1945年4月5日、アメリカ軍戦車がエッシェンブルーフ(現在はブロムベルク市内)からリュクデへ向かう谷に侵入した。村の入り口に着くと、キリアン教会脇や墓地に陣取った親衛隊による射撃を受けた。アメリカ軍は砲撃による支援を要請し、これにより4棟の家屋と3棟の納屋が炎上した。射撃が続く中、数人のリュクデ市民が聖マリエン市教会の塔に登り、白旗を掲げた。15時頃戦車は抵抗なく市内に入り、夕方までにはアメリカ軍によって街は完全に制圧された[15]。
戦後、現在の状況
1946年2月8日にこの街はエンマー川の洪水に見舞われた。所によっては道路から1.8 m もの高さまで冠水した。全域合わせて300棟の家屋が1階は住居不能の状態になった。同じ年に、旧ドイツ東部領土から 336人の難民や放逐された人々がリュクデにやって来た[13]。1951年にリュクデ市は隣接するハルツベルク村とともに行政共同体アムト・リュクデを形成した。アムト・リュクデは、自治体再編に伴って住民の意思により1969年12月31日にヘクスター郡から分離され当時のデトモルト郡に編入された。同時に他の9つの村を合併し、新たなリュクデ市が成立した[16]。第二次世界大戦後、数多くの中小企業、特に電子技術企業がこの街に拠点を構えた。リュクデの重要な雇用主で、ヨーロッパで主要な地位を占めているのがエナメル銅線メーカーである。タバコ工場は1992年に操業を停止した。いくつもの会社が廃業し、リュクデは職場を失った。以前は重要だった木工・家具製造業、食品加工業者のいくつか、多くの建築業者が姿を消した[17]。
旧市街にとって最大の問題はその中を一日 13,000台の乗物が通過し、人や物が危険にさらされていることであった。特にミットレーレ通り沿いの家屋の所有者の多くがその家屋を放棄し、20棟以上が空き家となった。多くの店舗が空になり、人口減少が顕著な状態となった。2005年末に 6,133人だった旧市街の人口は、2008年には 5,884人にまで減少した。何年にもわたる計画や議論の末、1980年代末に市議会と市の行政当局は、こうした危険な開発を停止するためのバイパス道路の建設を決定した。この建設計画の肝は旧市街の景観を守るためのエンマーアウエントンネルである。このバイパス道路の完成は2009年末に計画されていたが、最終的には2010年10月に開通した[17]。
「リュクデの歴史的中核市部再活性化のための統合開発コンセプト」に従って、バイパス道路とともにレジャー施設をもつエンマーアウエが設けられた。旧市街には街を通る道路が新たに建設され、商店は活性化され、古い建築物は近代化された[18]。
市町村合併
ヘクスター郡とデトモルト郡の市町村合併に伴い、1970年1月1日にリュクデ市はヘクスター郡アムト・リュクデのハルツベルクおよびデトモルト郡の8町村すなわちエルプリンクセン、ファルケンハーゲン、フンメルゼン、ケーターベルク、ニーゼ、リシェナウ、ザベンハウゼン、ヴェルダーフェルトとともに合併し、新たなリュクデ市が形成され、デトモルト郡に編入された[19]。後にデトモルト郡とレムゴー郡は合併し、新たにリッペ郡が成立した。
州境変更に関するニーダーザクセン州とノルトライン=ヴェストファーレン州との間の協定のための法律が1971年10月1日に発効したことにより、ニーダーザクセン州バールゼン(現在はバート・ピルモント市の市区)の一部がリュクデに合併し、ザベンハウゼン地区に編入された[6]。
一方、1922年4月1日にリュクデの一部約 20 ha が隣接するバート・ピルモント市に移譲された[20]。
住民
宗教
リュクデで最初の教会は、780年から784年に市壁の外に建設されたキリアン教会である。この教会はアイルランドの司教であった聖キリアンに献げられた。その後リッペでは、1538年にカペルでの領邦会議の決議により宗教改革が行われ、リュクデでは1583年に新たな教義が受け容れられた。しかし、パーダーボルンの補佐司教ヨハネス・ペルキングは対抗宗教改革の過程でリュクデとヘクスターの敬虔なキリスト教徒をローマ・カトリック教会に転向させることに成功した。ピルモント伯領がヴァルデック伯領と統合された1668年以後も、パーダーボルン司教はリュクデ市を領有し続け、住民のカトリック信仰は維持された。
1624年以降では初めて1853年に福音主義教会の礼拝がリュクデで行われ、1864年に福音主義ルター派の小さな教会聖ヨハニス教会が建設され、1902年にはこの教会に塔が増築された[13]。この聖ヨハニス教会はリュクデ福音主義ルター派教会共同体に属している。なお、このルター派教会共同体はヴェストファーレン福音主義教会(パーダーボルン教会地区)に属しており、パーダーボルンの飛び地としてのリュクデの歴史を反映する形になっている。
第二次世界大戦後、難民や旧ドイツ東部領土から放逐された人々が流入したことで、福音主義信仰を持つキリスト者が増加した。1970年1月1日に周辺地域を合併した結果、ファルケンハーゲンとエルプリンクセンに地域教会を持つ改革派教会共同体がリュクデ市に加わった。このファルケンハーゲン=エルプリンクセン福音主義改革派教会共同体はリッペ州教会(東地区)に属している。ファルケンハーゲンの改革派教会はシトー会の旧ファルケンハーゲン修道院だった歴史を有している。
現在の宗教分布を知る手がかりの一つが、リュクデの学生に対する所属宗教団体の調査である。この調査によれば、2006年/2007年の学期では学生の 48.4 % が福音主義、35.4 % がカトリック、4.3 % がイスラム教に所属した。4.2 % がその他の宗教団体に所属し、無宗教は 7.7 % であった。この調査は全部で 1,212人の学生について行われた[21]。
人口推移
以下の表に各時点の市域におけるリュクデ市の人口推移を示す。この間にあった市域の変化は、1922年4月1日に約 0.2 km2 の有人の土地がピルモントに分離され、1970年1月1日に当時の 9つの町村がリュクデ市と合併した。1970年までと1987年の数値は人口調査の結果である。1975年からは州統計局の公的な研究結果であるが、1975年、1980年、1985年の値は推定値、1990年以降の数値は1987年の人口調査結果に基づく推計値である。
各時点でのリュクデ市域の人口
現在の市域にあたる範囲の人口
行政
リュクデ市は、州議会議員選挙ではリッペ II区に、連邦議会選挙ではヘクスター=リッペ II区(第137選挙区)に属す。
市議会
2014年5月25日の選挙の時点で、リュクデの市議会は 26議席で構成される[22]。これに市長が議長として加わる。
市長
リュクデの市長は、2009年8月30日の選挙で CDUと SPDが推薦し、対立候補がない状態で 89.1 % の票を得たハインリヒ・ヨーゼフ・レッカーが務めている[23]。彼は2014年5月25日の選挙でも 89.3 % の信任票を得た[24]。
紋章、幟、旗
紋章の図柄: 左右二分割。向かって左は銀(白)地で、金(黄)色の蘂を持つ5弁の赤いバラの上部に赤い錨型十字。向かって右は青地で歯が右上(向かって左上)を向いた銀の鍵が描かれている(基本条例 § 2)[6]。
解説: 赤い錨型十字は1668年までリュクデを治めたヴァルデック=ピルモント伯の紋章、銀の鍵はケルン大司教領の紋章である。赤い5弁のバラはリッペのバラであり、1970年に多くのリッペの町村と合併し、デトモルト郡に編入されたことにより、1971年に追加された。
幟: 長軸と平行に青と赤に分割。中央上部に市の紋章。
旗: 長軸と平行に青と赤に分割。中央旗竿寄りに市の紋章。
姉妹都市
アンガーミュンデ(ドイツ、ブランデンブルク州)
アンガーミュンデとの姉妹都市協定は、1990年7月6日にアンガーミュンデで、1990年8月11日リュクデで、当時の市長ヴォルフ=フーゴ・ユストとベルント・アーレンスによって締結された。この姉妹都市協定の目的は、相互協力である。さらに、両市の住民交流が奨励され、自治体機関、社会団体、クラブ、商工会などが共同作業を強化している。
文化と見所
演劇
リュクデには固有の劇場はない。ただしエルプリンクスのマルクトショイネで2003年からエルプリンクサー・ドルフビューネによる演劇作品が上演されている[25]。このアマチュア劇団は1985年から初めはレストランで、後にマルクトショイネで公演を行っている。
これ以外の演劇は、デトモルト州立劇場やテアター・ビーレフェルトで行われる。
博物館
郷土博物館は、1799年に建設された木組み建築に入居しており、見学者をリュクデの歴史に導く。低地ドイツの典型的な農民の館であるこの建物自体の他に、ここにはオスターラートやボビンレース作りあるいはタバコ製造に関する展示がなされている[26]。
もう一つの博物館がリシェナウのパラディースミューレで、古い水車の機構が展示されている。
音楽
リュクデには、2つの狩猟ホルンアンサンブル、2つのブラスアンサンブル、2つの音楽隊と、吹奏楽団、ファンファーレ隊、リコーダーグループがそれぞれ 1つ、ハーモニカクラブが 1つある。3つのキリスト教会が 1つの教会合唱団を運営している。これに加えて 3つの女声合唱団、4つの男声歌唱クラブ、2つの混声合唱団と児童合唱団が 1つある。
さらにグロースゲマインデ・リュクデ音楽学校がある。
建造物
リュクデ市内には、かつての防衛施設の遺構が2つある。リュクデの西には、ヘルリングスブルクの麓にあるボムホーフと呼ばれる環状土塁跡がある。その機能や来歴についての詳細は分かっていない。リュクデの東は、おそらく 11世紀または 12世紀に建設された小さな貴族の城塞であったシルトベルク城のわずかな遺構がある[27][28]。城址の他の場所は採石によって破壊された。
現在の旧市街の施設は 12世紀中頃に設けられた。道路の配置、壁に囲まれた中核市区、防衛塔はこの時代から保存されている。市壁内の建物は、1797年の火災後に建設された。建物は主に木組み建築で構成されている。リュクデ旧市街は、これによりノルトライン=ヴェストファーレン州で最も良好に保存されている歴史的中核市街を有している街の一つである。
聖キリアン教会は、市南部にあるロマネスク様式の十字型ヴォールトをもつ教会である。この十字型ヴォールトはリッポルツベルクの修道院教会にならって建造された。見所は柱頭で、この形式のものはヴェストファーレンにはわずかしか遺されていない。この教会は、ここに埋葬された最後の主ヴァーレンベルク家の人物であるピルモント伯モーリッツの廟所として用いられていた。
1797年に本市の古い教区教会が消失した後、19世紀末に新しく聖マリエン教会が建設された。164,283マルクの建造費のうち、2/3を市が、1/3を教区組織が供出した。教会塔は古い教会の石材を転用して建設された。本堂内には、十字架の祭壇と呼ばれる1520年に創られた十字架の磔刑の群像を有する装飾祭壇がある。この群像は元々キリアン教会にあったものである。1877年に制作された十字架の道行きのプレートは、消失した先代の建物の資材で創られている。
エルプリンクセンの福音主義教会は12世紀に建設された。このロマネスク教会は、同時に防衛塔としても建造された。1620年頃と1969年に教会と塔は修復された。この教会内には1562年から1699年までホルンにあった講壇が設置されている。教会前には、幹周り 12 m の千年ボダイジュがある。
シトー会のファルケンハーゲン修道院は、1247年にブルーフハーゲン修道院がこの地に移転して創設された。1604年に閉鎖されるまでに、この修道院はあわせて4つの修道会に属した。修道院の一部は、三十年戦争で破壊された。現在は、回廊を持つ旧修道院教会、参事会ホール、食堂、修道僧の寄宿舎が保存されている。この寄宿舎は1509年に建設された、リッペで最も古い木組み建築である。
1734年にリュクデにフランシスコ修道会が組織され、1749年に修道院が建設された。1752年に修道院の建物が完成し、次いで教会の建設が始まった。この修道院は1812年にジェローム・ボナパルトによって閉鎖された。カトリックの教区組織が1859年にこの建物を獲得した。この建物はその後、聖マリエン教会の司祭館および青年館として利用された。現在は幼稚園およびシニア会議場として使われている。時には文化イベントの会場にも利用される。
公園
市内には 2つの公園があり、ともに一般に公開されている。ファルケンハーゲン修道院の庭園は約 2 ha の広さがある。この歴史的な公園は、修道院として利用されていた状態を現在もとどめている[29]。リュクデ土塁跡は遊歩道であり、旧市街をほぼ完全に取り囲んでいる。この公園には、中世の市壁の一部や2つの防衛塔が含まれる[30]。さらに、2011年からはリュクデ旧市街の門の前にエンマーアウエンパルクが設けられた。この公園はバイパス道路建設時に造られた。この公園は、散策、レクリエーション、スポーツの試合やイベントに用いられている[31]。
自然文化財
エルプリンクセンの福音主義改革派教会の庭に「千年ボダイジュ」(ナツボダイジュ)がある。この木は「ヴィッテキント=リンデ」(ヴィッテキントのボダイジュ)とも呼ばれる。この木は、幹周り 12 m、樹冠の直径は 30 m、高さは 30 m である。この木は、リッペで最大の樹木の一つであり、ドイツで最も古いボダイジュのひとつにも数えられる。
リュクデには、その全域が市内に含まれているものだけで 5つの自然保護地区がある。ギンツェンベルク(約 19.4 ha)、シルトベルク(約 122.8 ha)、ビールベルク(約 31.6 ha)、イルゼンバッハ(約 43.2 ha)と、エンマータール(同名の自然保護地区が 2つあるが、その一つが本市に完全に含まれている、約 393 ha)である。
リュクデにはさらに、一部が市域にかかる自然保護地区が 3つある。シュヴァーレンベルクの森(約 2,924.6 ha)、ブロムベルクの森(約 1,168 ha)、もう一つのエンマータール(約 82 ha)である。
スポーツ
リュクデには、他種目のスポーツクラブが 9つある。その他に、3つのテニスクラブ、1つの障害者スポーツグループ、ドイツ人命救助協会支部、体操グループ、柔道クラブ、モータースポーツクラブ、乗馬・騎馬クラブ、ダンスサークル、トルコ系住民のサッカークラブ、およびバート・ピルモントと共同の航空スポーツ組織がある。
名物料理、食材
リュクデおよび全リッペ地方での名物料理は、リッピシァー・ピッケルト(ジャガイモで作る焼き菓子)、リッパー・シュッツェ(ビャクシンで香りづけした蒸留酒)といった典型的なリッペ料理やヴェストファーレン全土で食されているグリュンコール・ミット・ピンケル(コールヴルストあるいはブレーゲンヴルストとも呼ばれるソーセージ)がある。グリュンコール(チリメンキャベツ、ケール)は、この地方ではしばしば「リッピシェ・パルム」とも呼ばれる。
オスターレーダーラウフ
リュクデは、自らをオスターレーダーの街と称している。これは、古くから行われ、現在も続けられている風習に由来している。その風習とは、復活祭に、水を含んだオークの輪に藁を詰めて火を点け、付近の山から転がして落とすというものである。言い伝えによれば、784年にカール大帝によってこの行事が行われ、クリスマスが近づいたことを祝ったと言われている。オスターレーダーラウフは、おそらく非キリスト教的なゲルマンの太陽崇拝に基づいており、カール大帝以前から既に風習になっていたと考えられている。これまでに何度もこの風習を禁止する試みがなされてきた。1743年のヴィカール・フォン・ヴィーデンブリュックによる禁止も、1781年のパーダーボルン司教領主ヴィルヘルム・アントンによる禁止も失敗した。19世紀末に鉄道ハノーファー - アルテンベーケン線の軌道が建設されて以後は、オスターベルクから6つの輪が転がされるだけとなり、その向かいに位置するキルヒベルクから転がされることはなくなった。
現在は、伝統文化保護を目的とする「デーヒェンフェライン・リュクデ」が毎年のオスターレーダーラウフを主催している。直径約 1.7 m、重さ約 270 kg のオーク製の輪が毎年6つずつオスターベルクから転がり落とされる。毎年新しい輪が造られ、奉納の辞が彫り込まれる。まず、行事の何日も前から輪はエンマー川に浸される。輪は当日にオスターベルクに運ばれてそれぞれ約 120 kg の藁が詰め込まれるのである[32][33]。
会場となるオスターベルクからリュクデの街を望む
奉納の辞が彫り込まれた木製の輪に藁を詰める
藁に火がつけられ、オスターベルクの斜面を転がり落とされる
経済と社会資本
リュクデは、ブロムベルク、ホルン=バート・マインベルク、リュクデ、シーダー=シュヴァーレンベルク、シュランゲンの連合体であるリッペ南部統一地方開発コンセプトに属している[34]。
交通
州道 L614号線と L946号線が、リュクデとブロムベルクおよびバルントルプとを結んでいる。州道 L429号線経由でバート・ピルモントに至る。
リュクデ駅はハノーファー - アルテンベーケン線の駅である。平日は1時間ごと、日曜や祝日は2時間ごとにハノーファーSバーン5号線パーダーボルン - ハーメルン - ハノーファー中央駅 - ハノーファー空港の列車が発着する[35]。
周辺の街や地区へは地方バスで行くことができる。バート・ピルモント、シーダー=シュヴァーレンベルク、ブロムベルク、レムゴー(レムゴーでビーレフェルト方面への鉄道に接続できる)行きの定期路線がある。夏季の週末には、デトモルト、特にエクステルンシュタイネ、ヘルマン記念碑、ベルレベック鷲園への観光路線が運行する。
本市の市域は「デア・ゼクサー」運賃連合(OWL交通GmbH)に属している。ノルトライン=ヴェストファーレン方面については、NRW運賃が適用される。
本市から約 8 kmにグライダー、ウルトラライトプレーン、モーターグライダー、2,000 kg までのスポーツ用飛行機のためのハーメルン=ピルモント飛行場がある。
メディア
唯一の日刊紙がリッピシェ・ランデス・ツァイトゥングである[36]。リッピシェ・ルンドシャウは2003年末に廃刊された。さらに隣のハーメルン=ピルモント郡でのダイスター・ウント・ヴェーザーツァイトゥングのローカル版「ピルモンター・ナハリヒテン」にもリュクデに関するニュースが掲載される。
リュクデはのビーレフェルト地方スタジオおよびローカルラジオ局ラジオ・リッペの放送ービスエリアに属している。
公共機関
リュクデの自衛消防団は、6つの消火グループと2つ消火隊で構成されている。さらに青年消防団の育成に努めている。
市の水道局は、3,098戸を結ぶ全長 124 km の水道管を管理している。また、14基の高架水槽に 4,090 m3 の水が蓄えられている。年間の水消費量は、約 552,000 m3 である。
市はエルプリンクセンとリシュエナウに汚水処理場を有している。ニーゼの旧処理場は、リシェナウの処理場に排水を送るポンプステーションに改築された。中核市区の排水は、バート・ピルモントとの共同汚水処理場で処理される。
リュクデの旧フランシスコ会修道院の1階では、カトリックの教区組織による図書館が運営されている。
教育
市内には、リュクデの聖マリエン教会基礎課程学校の他に、エルプリンクセンとリシェナウにそれぞれ1校ずつの基礎課程学校、本課程学校と1990年代に開校した実科学校を含む聖ギガス学校センターがある。
2013年、本市の学校には 60人の教師と、合わせて 848人の児童・生徒がいた[5]。
成人教育は、リッペ東市民大学が担っている。この市民大学はシーダー=シュヴァーレンベルクに本部を置き、リュクデも加盟している目的連合が運営している。
幼児教育には、5園の幼稚園がある。3園は市が、1園は労働福祉事業団が、1園はカトリック教会組織が運営している。
地元企業
リュクデは中小企業による多彩な経済構造を特徴としており、大企業は立地していない。重要な経済分野は加工業で、リュクデの社会保険支払い義務のある労働者の 29.4 % がこの業種に従事している。これは、リッペ郡の平均よりも約 5 % 低い数値である。郡平均との比較で比重が高いのは、25.5 % が従事する商業(郡平均は 13.6 %)と、15.5 % の建設業(郡平均は 5.5 %)である。
特筆すべき企業は、シュヴェーリング&ハッセ電線 GmbH で、年間約5万トンを生産する重要な被覆銅線メーカーである[37]。
人物
ゆかりの人物
(1591年 - 1635年)法律家、詩人。『犯罪に対する警告』はファルケンハーゲン修道院で著作された。
参考文献
Wilhelm Engelbert Giefers: Zur Geschichte der Stadt Lügde. In: Zeitschrift für vaterländische Geschichte und Alterthumskunde. 9, 3. Folge, Münster 1871, pp. 139–192.
Edmund Schlieker: Aus der Geschichte der Stadt Lügde. Josefs-Druckerei, Bigge/Ruhr 1950.
Heinrich Horstmann, Stadt Lügde (Hrsg.): Lügde, Stadt der Osterfeuerräder. Buchdruckerei Berges, Hamm 1970.
Edmund Schlieker, neu bearbeitet und fortgeführt von Josef Friese: Aus der Geschichte der Stadt Lügde. 1983 1983, ISBN 3-924394-00-8.
Willy Gerking: Die mittelalterlichen Siedlungen der Großgemeinde Lügde. Eine historisch-archäologische Studie zur Wüstungsforschung. In: Lippisches Landesmuseum (Hrsg.): Schriften des Lippischen Landesmuseums. 2, Detmold 1986.
Reinhard Oldemeier, Stadt Lügde (Hrsg.): Jubiläumsgedenken zu Ehren von Friedrich Spee von Langenfeld SJ 1591–1635. Lügde 1991.
Fritz Verdenhalven (Bearb.): Bürgerbuch der Stadt Lügde von 1726 bis 1858. In: Naturwissenschaftlicher und Historischer Verein für das Land Lippe / Lippischer Heimatbund (Hrsg.): Lippische Geschichtsquellen. 20, Detmold 1992, ISBN 3-923384-11-4.
Reinhard Oldemeier, Stadt Lügde (Hrsg.): In memoriam Johannes Gigas (Doktor der Medizin und Mathematik, Kartograph und Astronom) 1582–1637. Lügde 1992.
Willy Gerking, Stadt Lügde (Hrsg.): Stadtarchäologie in Lügde. Lügde 2000, ISBN 3-00-006255-6.
Manfred Willeke: Lügde. Sutton, Erfurt 2000, ISBN 3-89702-220-6 (alte Ansichten und Archivbilder).
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。
引用
外部リンク
Archiv für Heimat- und Familienkunde in Lügde und der alten Grafschaft Pyrmont
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ศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง อ.เหนือคลอง จ.กระบี่
หมวดหมู่::มีประวัติความเป็นมาการกินเจของศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง อ.เหนือคลอง จ.กระบี่ ยุคแรก เริ่มก่อตั้งโดย กำนันตำบลเหนือคลอง ขุนชลาลัยพิศาล พวกสกุล เจียวก็ก โดยมีนายอังก๋าว เอ่งฉ้วน เป็นผู้จัดการเป็นคนแรกของอ๊ามเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง บ้านเหนือคลอง ประมาณ 140 ปีมาแล้ว สิ่งของที่ชาวบ้านเหนือคลองนำมาจากเมืองจีนทางเรือสำเภา เพื่อใช้ประกอบพิธีกรรมกินเจในช่วงสมัยนั้น คือ
1. เก่ว(เกี้ยว)
2. ป้ายหนังสือจีน
3.ป้ายชื่อเทพเจ้า
4.หัวมังกรและน้ำเต้า
5.รูปมือ
6.รูปปั้นเทพเจ้า 3 องค์ คือ จ้อซู้ก๋ง , เล่าจ้อ , ยี่จ้อ
ยุคที2เริ่มมีผู้ดำเนินการจัดให้มีการกินเจ มีการแสดงอยู่ประมาณ 2- 3 คืน ผู้ที่เทพเจ้าเข้าประทับทรง " ม้าทรง " มีประมาณ 6 คน ตลอดเวลาศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง จะมีผู้ดูแลจัดการภายในทุกๆด้าน ให้เป็นระเบียบเรียบร้อยด้วยความเสียสละตลอดมา คือ 1. นายสิ่ว เอี่ยนเล่ง 2. นายสมนึก เอ่งฉ้วน 3. นายสวัสดิ์ อริยวงศ์ แต่เดิมศาลเจ้าจะเป็นอาคารไม้ชั้นเดียวหลังคามุงจาก กอปรกับจิตเลื่อมใสศรัทธาของชาวกระบี่และจังหวัดใกล้เคียง ร่วมกันบริจากทรัพย์ โดยที่ทางศาลเจ้าไม่เคยเรี่ยไรแม้แต่ครั้งเดียว จำนวนผู้คนที่มาร่วมกินเจก็เพิ่มขึ้นเรื่อยๆ ทุกปี ไม่ว่าจะเป็นคนจีน คนไทยเชื้อสายจีน แม้กระทั่งคนไทยแท้ก็มาร่วมกินเจ มีผู้คนหลากหลายสาขาอาชีพ มีทั้นคนรวย มีทั้งคนจน ต่างก็มารับประทานอาหารหม้อเดียวกันในโรงเจ ปัจจุบันศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุก๋ง ได้พัฒนาไปอย่างรวดเร็วด้วยแรงศรัทธา ทำให้มีอาคารเพิ่มมากขึ้นหลายหลัง มีความสะอาด สะดวก และสบาย พร้อมที่จะต้อนรับทุกท่านได้เป็นอย่างดี ศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุก๋ง ได้รับคัดเลือกจากกรมการปกครอง กระทรวงมหาดไทยประกาศเกียรติคุณให้เป็นศาลเจ้าที่บริหารงานดีเด่น ปี 2538 และ ปี 2541 ]]
เบื้องต้นแห่งพิธีกรรมกิวอ๋องเจ
[[หมวดหมู่:ณ สิวาลัยรัตนสถาน เป็นที่ประชุมของเหล่าเทพทั้งปวง พระมัญชูศรีมหาโพธิสัตว์ ได้ทูลถามต่อพระผู้มีพระภาคเจ้า "ข้าแต่พระองค์ผู้เจริญ พระเทพสัตตเคราะห์ทั้ง 7 พระองค์ ได้มีกุศลสะสมมาอย่างไร จึงได้เสวยทิพย์ผลพร้อมเพรียบไปด้วยยศ และอำนาจในเทวภพนี้ สมเด็จพระผู้มีพระภาคเจ้า มีพระราชดำรัสตอบว่า ดูกรมัญชูศรี อันดาวสัตตเคราะทั้ง 7 นั้น แท้จริงเป็น พระอวตารอดีตพระพุทธเจ้า 7พระองค์ ทรงแบ่งภาคมากับ พระมหาโพธิสัตว์ อีก 2 องค์ เป็นดาวพระราหู และดาวพระเกตุ รวมเป็นดาวพระเคราะทั้ง 9 เรียกว่า "นพราชา" หรือพระกิวอ๋อง การกินเจเดือน 9 นี้ เป็นเพราะชาวจีนเชื่อว่า ช่วง 10 วันตอนต้นเดือน 9 เป็นช่วงที่ "ฮุดโจ้วเฮี้ยง" ที่สุด แปลว่า เป็นช่วงที่พระพุทธศักสิทธ์ที่สุด จึงเชื่อกันว่า ช่วงนี้ใครอธิษฐานขออะไร ก็มักสมปรารถนา แต่ต้องตั้งจิตให้บริสุทธิ์และถือศีลกินเจ
]]
นพราชา (พระกิวอํอง) เกี่ยวข้องกับมนุษย์อย่างไร
[[หมวดหมู่:มนุษย์ ถ้าหากไม่มี ธาตุลมก็ต้องตาย มัจฉาชาติ ถ้าหากไม่มีธาตุน้ำ ก็ต้องตาย พฤๅษาชาติ ถ้าหากไม่มีธาตุดิน ก็ต้องอับเฉากิ่งใบแห้งเหี่ยวตาย สัตว์โลก ถ้าหากสูญสิ้นธาตุไฟ ในร่างกายก็อยู่ไม่ได้ เศรษฐกิจการค้า เป็นหัวใจสำคัญยิ่งของมนุย์ทั่วโลกในสมัยปัจจุบัน ถ้าหากขาดธาตุทอง ก็ไม่สามารถดำเนินกิจการลุล่วงไปได้แล้วเทพเจ้าทั้งเก้า ก็ได้ทรงแบ่งภาคต่อจากภาคของการเป็นเทพเจ้าลงไปเป็นดาวพระเคราะห์ 9 ดวง เพื่อการบริหารธาตุทั้งห้าที่ประกอบกันเป็นจักรราศีแห่งดวงชะตา ที่ว่าการหมุนหรือเคลื่อนตัวของแต่ละดวงดาวมีผลต่อโลก เช่น น้ำขึ้นน้ำลง หากดวงดาวใดหยุดหมุนหยุดทำงานโลกคงเกิดโลกาวินาศ
]]
ดาวพระเคราะห์ทั้ง 9 ดวงคือ
[[หมวดหมู่:
1. พระอทิตย์ คือ ไท้เอี๊ยงแช
2. พระจันทร์ คือ ไท้อิมแช
3. ดวพระอังคาร คือ ฮวยแช
4. ดาวพระพุธ คือ จุ๊ยแช
5. ดาวพระฤหัสบดี คือ บั๊กแช
6. ดาวพระศุกร์ คือ กิมแช
7. ดาวพระเสาร์ คือ โท้วแช
8. ดวพระราหู คือ ล่อกิมแช
9. ดาวพระเกตุ คือ โกยโต้วแช
โดยที่ทุกปีเมื่อถึงวันที่ 1-9 ของเดือน 9 จะเป็นกำหนดวันที่เทพเจ้าประจำดาวนพเคราะห์ แต่ละองค์จะผลัดกันเสด็จลงมาเยือนโลกมนุย์ เพื่อประทนพรแต่ผุ้ปฏิบัติดี เมื่อถึงเทศการกินเจ จึงมีการกราบไหว้เพื่อขอพรจากท่าน และเป็นการขอบคุณที่ทรงมีคุณตอโลกที่ทรงไว้ ซึ่งธาตุทั้งห้า และจักรราศีแห่งดวงดาว
]]
คนกินเจได้ชื่อว่าเป็นผู้ไม่ประมาท
[[หมวดหมู่:กินเนื้อก็ต้องตาย กินเจก็ต้องตาย เหมือนกัน กินเนื้อตายแล้ว ยังมีหนี้เวรกรรมติดตามตัวไป ต้องชดใช้ กินเจ ตายไปแล้ว ไม่มีหนี้สินเวรกรรมเป็นอิสระ แล้วเราจะเลือกอยางใหน ? ฉะนั้น ผู้ที่กินเจถือว่า ไม่ประมาท ทั้งในโลกนี้ และโลกหน้า ทานที่เกี่ยวกับชีวิตทุกอย่าง ไม่ว่าจะงดเว้นจากการฆ่า งดเว้นจากการกิน หรือ บอกให้ผู้อื่น งดกิน งดฆ่า จึงเป็นมหากุศลที่ยิ่งใหญ่ที่สุด ในโลกใบนี้ ผู้ที่ทำผิดมีทนายคอยแก้ต่างให้ แต่ในกฎแห่งกรรม มีตัวเราเองเท่านั้น ที่เป็นทนายให้ตัวเอง ทำดีได้รับผลดี ทำชั่ว ก็ย่อมได้รับผลชั่ว มโนกรรม ได้แก่ กรรมที่กระทำทางใจ นับเป็นความชั่ว ร้ายแรงที่สุดตามคำสอนของพระพุทธศาสนา มิจฉาทิฏิ ที่แปลว่า ความเห็นผิด จากธรรมนองคลองธรรม คือ เห็นว่า กรรมดี กรรมชั่ว นรก สวรรค์ ไม่มี]]
เริ่มงานกินเจวันแรก
[[หมวดหมู่:คณะกรรมการได้จัดหาต้นไม้ไผ่ตง ขนาดเหมาะเจาะมา 2 ต้น เพื่อทำเป็นเสาโกเต็งหรือเสาเทวดา สำหรับห้อยดวงไฟ 9 ดวงกับตะเกียงอีก 1ดวง ก่อนยกเสาโกเต็ง ต้องทำพิธีไหว้เจ้าที่ และเชิญสี่ไท้อ๋อง ทั้ง 4 ทิศ ธงที่ผูกติดบนยอดเสาโกเต็ง คือ - ธงเล่งกี๋ (ธงสัญญาณกินเจ) - ธงกิ๋วอ๋อง (ธงประธานในการกินเจ) - ธงเป้งอั้น (ธงอวยพรพรลูกหลานให้โชคดี) เมื่อชาวบ้าน อ.เหนือคลองและผู้มีจิตศรัทธาร่วมกันยกเสาโกเต็งขึ้น พิธีกินเจนับว่าได้เริ่มต้นขึ้นแล้ว]]
พิธีรับพระประธานงานกินเจ
[[หมวดหมู่:พระประทานในงานกินเจ คือ พระกิวอ๋อง ผู้ที่กินเจจะจัดขบวนแห่ไปรับพระกิวอ๋อง ณ หาดนพรัตน์ธาราเป็นจำนวนมาก โดยจะทำพิธีบวงสรวง ดิน น้ำ ลม ไฟ เพื่ออัญเชิญดวงวิญญาณพระกิวอ๋องจากสวรรค์ ซึ่งต้องลงมาถึงที่ที่มีน้ำเท่านั้น เพราะท่านจะไม่เหยียบพระแม่ธรณี ทั้งนี้เจ้าหน้าที่ศาลเจ้าจะลงไปอัญเชิญดวงวิญญาณของท่านใส่ในหม้อพิธี ภายในนั้นจะมีเครื่องหอมบรรจุอยู่ เช่น ไม้จันทน์หอม ต่อจากนั้นก็จะอัญเชิญเข้าขบวนแห่มาประทับที่ศาลเจ้า จะมีการประโคมเสียงดนตรีเช่น กลอง ผ่าง ฉาบ ในบวนแห่ไปทางใหนผู้มีศรัทธาตั้งโต๊ะบูชาจุดประทัดเป็นระยะๆตลอดทาง เมื่อขบวนมาถึงศาลเจ้า ผู้จัดการศาลเจ้าจะถวายรายงานเป็นภาษาจีน ว่าการกินเจปีนี้เป็นปีที่เท่าไร มีผู้ที่มากินเจกี่คน เหตุการณ์เป็นอย่างไรบ้าง เมื่อรายงานเสร็จจึงอัญเชิญพระกิวอ๋องเข้าประทับในศาลเจ้า ดวงไฟบนยอดเสาก็ถูกจุดขึ้น และดวงไฟทุกดวงในบริเวณศาลเจ้าก็สว่างไสวไปตลอดทั้งงานเลย]]
พิธีเลี้ยงอาหารทหารเทพ (พิธีโกกุ้น)
[[หมวดหมู่:วันที่ 3 ของงานกินเจ คณะผู้จัดการศาลเจ้า ต้อง เลี้ยงอาหารทหารเทพทั้ง 5 เหล่าทัพ "เป้งสิน" เนื่องจากการกินเจ จะต้องอัญเชิญเทพเจ้าชั้นผู้ใหญ่มาประทับทรง ทหารเทพก็จะมาคอยดูแลอารักขาประจำที่ศาลเจ้า ดังนั้นการจัดเลี้ยงก็จะมีอาหารเจนานาชนิดและผลไม้ตามฤดูกาล นอกจากนั้น ก็จะมีอาหารเลี้ยงม้าของเหล่าแม่ทัพต่างๆอีกด้วยเช่น หญ้า ถั่วเขียว ข้าวสาร ข้าวเปลือก และเกลือ
ทหารทั้ง 5 เหล่าทัพ ซึ่งเป็นกองทัพองค์รักษ์
1.กองทัพธงดำ มีกำลังพลทหาร 999,999 องค์
2.กองทัพธงเขียว มีกำลังพลทหาร 888,888 องค์
3.กองทัพธงแดง มีกำลังพลทหาร 777,777 องค์
4.กองทัพธงขาว มีกำลังพลทหาร 666,666 องค์
5.กองทัพธงเหลือง มีกำลังพลทหาร 555,555 องค์
พิธีเลี้ยงอาหารทหารเทพ จะมี 3 ครั้งด้วยกัน คือ ขึ้น 3 ค่ำ 6ค่ำ และ 9 ค่ำ เมื่อเสร็จพิธีก็จะส่งออกไปรักษาความสงบตามอาณาเขตของศาลเจ้า
เทพเจ้าออกอวยพรลูกหลาน วันที่ 4 ของงานกินเจ เทพเจ้าออกอวยพรชาวเหนือคลอง และ วันที่ 5 เทพเจ้าออกอวยพรชาวตลาดเก่า และในตัวเมืองกระบี่ จะมีการจัดขบวนแห่ไปตามถนนต่างๆ ผู้มีจิตศรัทธาจะตั้งโต๊ะไว้หน้าบ้าน ซึ่งปูด้วยผ้าสีแดง มีกระถางธูป เทียน ดอกไม้ น้ำชา ข้าวสารผสมเกลือ (เกียมบี้) และผลไม้ต่างๆ นอกจากนั้นจะมีการเผาไม้หอม ( ไม้จันทน์ ) ให้ควันอบอวลไปทั่วบ้าน เทพเจ้าจะเข้ามาอวยพรขจัดปัดเป่าให้โชคดี และอยู่เย็นเป็นสุข สิ่งที่ขาดไม่ได้คือ การจุดประทัดให้ดังสนั่นทั่วทั้งบ้าน]]
พิธีลุยไฟ
[[หมวดหมู่:ราววันที่ 6 ของงาน เจ้าหน้าที่จะทำพิธีก่อกองไฟล่วงหน้า 1 คืน เมื่อถึงเวลา เทพเจ้าจะทำพิธีปัดเป่าอีกครั้งหนึ่ง และจะเริ่มลุยไฟก่อน ถัดมาก็จะเป็นลูกหลานที่ถือศีลกินเจ การลุยไฟ คือ การเดินเหยียบกองไฟที่ลุกโชน และเป็นกองไฟที่ผ่านการทำพิธีมาแล้ว เป็นการทำความดี ไม่เบียดเบียนสัตว์ มีจิตใจบริสุทธิ์ จะไม่มีสิ่งใดมาทำร้ายตัวเองได้ แม้แต่ความร้อนของไฟ ถือว่าเป็นการขจัดปัดเป่า และทำลายล้างสิ่งไม่ดี สิ่งชั่วร้ายที่แอบแฝงมาให้ออกไปจากตัวผู้ลุยไฟเอง เป็นการล้างตัวให้บริสุทธิ์
พิธีไหว้ดาว เทพเจ้า 9 พระองค์]]
พิธีไหว้ดาว
[[หมวดหมู่:จะมีขึ้นประมาณคืนที่ 7 ของงาน คณะกรรมการได้จัดเตรียมสถานที่ ดอกไม้ธูปเทียน และเหรียญ (ตามกำลังเทวดาประจำวันวันเกิด) เพื่อนำสิ่งของทั้งหมดไปบูชาดาวประจำตัว พิธีนี้ ถือว่าเป็นพิธีสำคัญเช่นกัน เพราะทุกคนจะมีดาวประจำตัวของตนเอง ในปีหนึ่งๆเราควรไหว้เทพเจ้าประจำวัน ที่ปกป้องคุ้มครองเราอยู่สักครั้งหนึ่ง เพื่อเป็นสิริมงคลแก่ตัวเอง เทพเจ้าทั้ง 9 พระองค์มีดังนี้
1.ไต้ซวยเอี้ยงเม้งทัมหลั่งไท้แชกุน
2.ไต้เจียกกิมเจ็กมิ้งง้วนแชกุน
3.ไต้ควงจิงหยิ๊งอกชุ้นกุน
4.ไต้เฮ้งเยี่ยงเม้งยุ้งเคียกนิวกุน
5.ไต้ปิ๊กตังง้วนเนี้ยมเจงกังแชกุน
6.ไต้ปั้งเก็กบู๊เคียกกี่แชกุน
7.ไต้เพียงเทียนกานผั่วกวงแชกุน
8.ตั่งเม้งงั่วหูแชกุน
9.อุ้นกอไล่เพี๊ยกแชกุน]]
กำลังเทวดาทั้ง 9 พระองค์
[[หมวดหมู่:
1.ไท้เอี้ยงแช ดาวพระอาทิตย์ 6 องค์
2.ไท้อิมแช ดาวพระจันทร์ 15 องค์
3.ฮวยแช ดาวพระอังคาร 8 องค์
4.จุ๊ยแช ดาวพระพุธ 17 องค์
5.ปั๊กแช ดาวพฤหัสบดี 19 องค์
6.กิมแช ดาวพระศุกร์ 21 องค์
7.ไท้วแช ดาวพระเสาร์ 10 องค์
8.ล่อกาแช ดาวพระราหู 12 องค์
9.โกยโต้วแช ดาวพระเกตุ 9 องค์
สำหรับศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง นอกจากมีพิธีไหว้ดาว ยังมีการไต่บันไดมีด สวดมนต์ต์ต์ให้พรและส่งสัญญาณให้เทวดาฟ้าดินได้รับรู้ถึงการกินเจ ]]
พิธีเดินข้ามสพานสะเดาะพระเคราะห์ (พิธีโกยฮั่น)
[[หมวดหมู่:วันที่ 8 ของงานกินเจ นับว่าเป็นวันที่สำคัญของงานกินเจ ที่ศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋ง ผู้มีจิตศรัทธาจากทั่วทุกอำเภอ และจากต่างจังหวัดมาร่วมเดินข้ามสะพานโกยฮั่น เป็นจำนวนมาก ทำให้ศาลเจ้าที่กว้างขวางพอสมควรคับแคบไปทันที ไม่ว่าฝนจะตกฟ้าจะร้องเพียงใด ก็ไม่สามารถทำให้มหาชนเหล่านั้นละความศรัทธาได้ ในอดีตศาลเจ้าเฉ้งจุ้ยจ้อซุ้ก๋งมีเพียงสะพานไม้แคบๆให้คนเดินผ่านได้เพียงไม่กี่คน แต่ปัจจุบัน(ตามรูปข้างบน) แรงศรัทธาของประชาชนทำให้ได้สร้างสะพานคอนกรีตที่แข็งแรง ทนทาน และสวยงามเป็นอย่างยิ่ง เป็นที่เล่าขานว่าเป็นศาลเจ้าที่มีสะพานสะเดาะเคราะห์ที่สวยงามที่สุด มีลักษณะถูกต้องตามตำราฮวงจุ้ย บนราวสะพานมีรัศมี ประจำปีเกิดทั้ง 12 ราศี มี ดิน น้ำ ลม ไฟ ผู้ทีเดินข้ามสะพาน เหมือนเดินอยู่ท่ามกลางเทพเจ้า สวรรค์เปิด ฟ้า ดิน รับรู้ ก่อนเดินสะพานโกยฮั่น ทางศาลเจ้าจะมีรูปแทนตัวทำด้วยกระดาษลงเส้นสีชัดเจนว่าเป็น ชาย หรือ หญิง เสียบธูป 3 ดอก บนรูปแทนตัวให้เขียน ชื่อ นามสกุล วันเดือนปีเกิด พร้อมทั้งตัดเศษผม เศษเล็บมือ เล็บเท้า และเศษชายเสื้อผ้า ใส่ในรูปแทนตัวของแต่คน ถือเดินข้ามสะพาน ขณะเดินก็ให้ทำจิตใจให้ผ่องใส มีสมาธิ ตั้งจิตอฐิษาน ขอให้หมดทุกข์หมดโศก ปราสจากโรคภัยไข้เจ็บ และอันตรายทั้งปวง หากผู้ใดมีเคราะห์ร้าย หรือมีสิ่งไม่ดีที่แอบแฝงอยู่ในตัว ก่อนเดินข้ามจนสุดสะพานก็จะล้มลงไป บางรายยังเดินไม่ถึงครึ่งทางของสะพานก็ลมลงแล้ว ซึ่งทุกๆปี ผู้ที่มีอาการดังกล่าวจะเยอะมาก แต่ไม่ต้องกลัวเพราะมีเจ้าหน้าที่ทางศาลเจ้าคอยดูแลอยู่ จะช่วยกันอุ้มเข้าไปบนศาลเจ้า ให้เทพเจ้าทำพิธีปัดเป่าให้เป็นรายๆไปโดยไม่มีค่าใช้จ่ายใดๆทั้งสิ้น เมื่อเดินมาสุดสะพานจะมีเจ้าหน้าที่ศาลเจ้าคอยเก็บรูปแทนตัวท่านนำมารวบรวมกัน และทำพิธีเผาหลังจากปิดสพานในเวลา 23.59 น. แล้วนำเถ้าถ่านนั้น จะนำไปใส่หม้อดินปิดผ้าแดง เพื่อนำเคราะห์ของท่านไปลอยกลางทะเล ปัจจุบันการเดินสะพานโกยฮั่น มิใช่มีเพียงเฉพาะผู้ที่มากินเจเท่านั้น แต่จะเปิดกว้างสำหรับทุกคน ทุกเชื้อชาติ ทุกศาสนา ใครก็ตามที่มีความเชื่อ ความศรัทธา ก็สามารถเดินข้ามสะพานโกยฮั่นได้ทั้งสิ้น เพราะสิ่งที่ได้รับคือ ความสุขกาย ความสุขใจ ความสะบายใจ จิตใจผ่องใส]]
ทางศาลเจ้ามีข้อห้ามมิให้เดินข้ามสะพาน คือ
[[หมวดหมู่:
1. ผู้หญิงมีครรภ์
2. ผู้ที่ไว้ทุข์ (สวมชุดดำ หรือ ขาวดำ)
3. ผู้ที่มีกำลังประจำเดือน
4. ห้ามสวมรองเท้าเดินข้ามสะพาน
5. ห้ามนำส่งของที่มีค่าติดตัวมาในขณะเดินสะพาน (เนื่องจากผู้คนมาร่วมงานเยอะมากทางศาลเจ้าอาจดูแลไม่ทั่วถึงและป้องกันพวกมิฉาชีพที่แอบแฝงปะปนเข้ามาภายในงาน) และในเวลา 24.00 น. (ขึ้น 8 ค่ำ) จะมีพิธีส่งยกอ๋อง (เทวดา) กลับสู่สวรรค์
พิธีส่งพระกิวอ๋อง
]]
คืนสุดท้ายของการกินเจ
[[หมวดหมู่:เจ้าหน้าที่จะจัดเตรีมเก่ว เพื่ออัญเชิญพระกิวอ๋องกลับสู่สวรรค์ เมื่อขบวนแห่ผ่านไปตามถนน สองข้างทางที่มีบ้านเรือนอยู่ จะตั้งโพร้อมเครื่องเส้นไหว้ที่หน้าบ้าน มีการจุดประทัด พลุ และดอกไม้ไฟ ผู้ที่ไม่สามารถไปรวมงานได้ก็จะออกมายืนส่งพระกิวอ๋อง ทั้งสองข้างทางเป็นทิวแถว แต่ละคนก็จะถือธูปเทียนและกระดาษทอง เผาไฟหลังจากท่านผ่านไปแล้ว ขบวนแห่พระกิวอ๋องจะไปหยุดที่สะพานเจ้าฟ้า มีเรือเตรียมพร้อมที่ท่าเทียบเรือ ขวนแห่จากเหนือคลอง จะไปสมทบกับประชาชนชาวเมืองกระบี่และผู้มีจิตศรัทธาที่มาจากจังหวัดใกล้เคียงที่รอเตรียมส่งพระกิวอ๋องอยู่ก่อนแล้ว ทุกคนนุ่งขาวห่มขาว ในมือถือธูปเทียน แสงธูปเทียนสว่างไสวแลดูสวยงามยิ่งนัก เจ้าหน้าที่ศาลเจ้าบางส่วนได้นำหม้อ " เชี้ยโหย " (หม้ออัญเชิญดวงวิญญาณ) และหม้อที่ใส่เถ้าถ่านรูปแทรตัวที่เผาในคืนเดินข้าวสะเดาะเคราะห์เพื่อนำไปลอยในทะเลใหญ่ จึงอัญเชิญพระกิวอ่องกลับสู่สวรรค์ ณ จุดนั้นหมายถึง ท่านได้นำเอา ความทุกข์ ความโศก โรคภัยต่างๆ ทั้งปวงไปด้วย คงเหลือไว้แต่ความสงบสุข ความโชคดีทุก ๆ ครัวเรือน เมื่อส่งพระกิวอ๋องเรียบร้อยแล้ว ผู้ที่มากินเจจะต้องกลับมาไหว้พระ ณ ศาลเจ้าด้วยธูป 3 ดอก 9 ดอก หรือกลับมาไหว้พระที่บ้านของตนเองก็ได้ ถือว่าเป็นการบอกกล่าวและเปลี่ยนเสื้อผ้าเป็นสีทั่วไปจากนั้นจึงรับประทานอาหารคาวได้ ในวันรุ่งขึ้น (ขึ้น 10 ค่ำ) จะมีพิธี " หาวเจียง " คือ พิธีเลี้ยงอาหารคาวหวาน แก่ดวงวิญญาณบรรพบุรุษที่มาร่วมกิเจ พิธีจะเริ่มในเวลาประมาณ 15.00 น. หน้าศาลเจ้า โดยชาวบ้านจะนำอาหารไปร่วมในพิธี เมื่อเสร็จพิธี " หาวเจียง " ก็จะทำพิธียกเสาโกเต็งลง เป็นอันจบพิธีกินเจ ธง ทั้ง 3 ผืนที่อยู่บนยอดเสาโกเต็ง ผู้ที่ประมูลได้ก็จะอัญเชิญกลับไปบูชาที่บ้าน เพื่อความสุข ความเจริญ เป็นศิริมงคล กับทุกคนในครอบครัว]]
กิจกรรมทั่วไป
[[หมวดหมู่:ตั้งแต่อดีตจนถึงปัจจุบัน คณะกรรมการที่จัดงานกินเจในแต่ละปี พยายามหากิจกรรมอื่นๆ มาเสริมให้เทศกาลกินเจ เพื่อเป็นศูนย์รวมของบุคคลในท้องถิ่น เสริมสร้างความรัก ความสามัคคี ไห้เกิดขึ้นในชุมชน ผู้อื่นที่มาศาลเจ้าจะได้มีความประทับใจ รู้สึกสุขกาย สบายใจ กิจกรรมที่มีการจัดขึ้น เช่น ตระกร้อ บาสเก็ตบอล ฟุตบอลประตูเล็ก 7 คน การเสดงของเยาวชน การจัดกิจกรรมเหล่านี้ ได้รับความร่วมมือจากหน่วยงานทั้งภาครัฐและเอกชน รวมทั้งประชาชนทั้งในท้องถิ่น และต่างอำเภอ เป็นอย่างดีเสมอมา ]]
การรับประทานอาหารเจ ให้ผลทางด้านจิตใจ ดังนี้
[[หมวดหมู่:
1. จิตใจสงบ เยือกเย็น สุขุม บังเกิดเมตาจิตอย่างเต็มเปี่ยม อารมณ์ไม่ฉุนเฉียว ไม่หุนหันพลันแล่น ไม่โกรธง่าย เป็นพื้นฐานเบื้องต้นแก่การบำพ็ญบารมีธรรมยิ่งๆขึ้นไป
2. หยุดเวร ตัดกรรมผูกพัน ไม่มีศัตรูทั้งมนุษย์ และสัตว์ที่คิดมุ่งร้ายพยาบาท อาฆาต ติดตามจองเวร
3. มีสติมั่นคง ทั้งในขณะยังมีชีวิตและยามที่จิตวิญญาณจะละทิ้งสังขารออกจากร่างไป ไม่หวั่นไหวตื่นตระหนก หวาดผวาตกใจกลัวง่ายต่อเหตุการณ์ต่างๆ สามารถรอดพ้นจากเภทภัยทั้งหลายได้แก่ ภัยจากธรรมชาติ , ภัยจากสัตว์ร้าย , ภัยจากเคราะห์กรรม เป็นต้น
4. ตนเอง ครอบครัว บุตรหลาน ตลอดจนถึงบริวารจะบังเกิดความสุขความเจริญรุ่งเรืองในชีวิต มีเหตุให้เกิดอยู่ในอารยประเทศอันอุดมสมบูร ชีวิตไม่ต้องตกอยู่ในท่ามกลางการรบราฆ่าฟัน ไม่ประสบเหตุการณ์ที่โหดร้าย ประหัตประหารล้างผลาญย่ำยีซึ่งกันและกัน
5. บรรดาเหล่าพรหม เทพ เทวดา สิ่งศักดิ์สิทธิ์ชั้นสูงต่างสรรเสริญยินดี อวยพร ให้การอารักขาคุ้มครองตลอดเวลา ไม่มีช่องทางให้วิญญาณชั้นต่ำทุกประเภทเข้าแอบแฝงแทรกสิงทำอันตรายใดๆได้
]] | https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%A8%E0%B8%B2%E0%B8%A5%E0%B9%80%E0%B8%88%E0%B9%89%E0%B8%B2%E0%B9%80%E0%B8%89%E0%B9%89%E0%B8%87%E0%B8%88%E0%B8%B8%E0%B9%89%E0%B8%A2%E0%B8%88%E0%B9%89%E0%B8%AD%E0%B8%8B%E0%B8%B8%E0%B9%89%E0%B8%81%E0%B9%8B%E0%B8%87 |
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Prohibition in the United States was a nationwide constitutional ban on the production, importation, transportation, and sale of alcoholic beverages from 1920 to 1933.
During the nineteenth century, alcoholism, family violence, and saloon-based political corruption prompted prohibitionists, led by pietistic Protestants, to end the alcoholic beverage trade to cure the ill society and weaken the political opposition. One result was that many communities in the late-nineteenth and early-twentieth centuries introduced alcohol prohibition, with the subsequent enforcement in law becoming a hotly debated issue. Prohibition supporters, called "drys", presented it as a victory for public morals and health.
Promoted by the "dry" crusaders, the movement was led by pietistic Protestants and social Progressives in the Prohibition, Democratic, and Republican parties. It gained a national grass roots base through the Woman's Christian Temperance Union. After 1900, it was coordinated by the Anti-Saloon League. Opposition from the beer industry mobilized "wet" supporters from the Catholic and German Lutheran communities. They had funding to fight back, but by 1917–18 the German community had been marginalized by the nation's war against Germany, and the brewing industry was shut down in state after state by the legislatures and finally nationwide under the Eighteenth Amendment to the United States Constitution in 1920. Enabling legislation, known as the Volstead Act, set down the rules for enforcing the federal ban and defined the types of alcoholic beverages that were prohibited. For example, religious use of wine was allowed. Private ownership and consumption of alcohol were not made illegal under federal law, but local laws were stricter in many areas, with some states banning possession outright.
Criminal gangs were able to gain control of the beer and liquor supply for many cities. By the late-1920s a new opposition mobilized nationwide. Wets attacked prohibition as causing crime, lowering local revenues, and imposing "rural" Protestant religious values on "urban" United States.[1] Prohibition ended with the ratification of the Twenty-first Amendment, which repealed the Eighteenth Amendment on December 5, 1933. Some states continued statewide prohibition, marking one of the last stages of the Progressive Era.
Research shows that prohibition reduced overall alcohol consumption by half during the 1920s, and consumption remained below pre-Prohibition levels until the 1940s, suggesting that Prohibition did socialize a significant proportion of the population in temperate habits, at least temporarily.[2][3] Rates of liver cirrhosis "fell by 50% early in Prohibition and recovered promptly after Repeal in 1933."[4][2][5] Criticism remains that Prohibition led to unintended consequences such as a century of Prohibition-influenced legislation and the growth of urban crime organizations, though some scholars have argued that violent crime did not increase dramatically,[2] while others have argued that crime during the Prohibition era was properly attributed to increased urbanization, rather than the criminalization of alcohol use.[6][7] As an experiment it lost supporters every year, and lost tax revenue that governments needed when the Great Depression began in 1929.[8]
History
In the United States, once the battle against slavery was won (indeed, even before it), social moralists turned to other issues, such as Mormon polygamy and the temperance movement.[9][10][11]
On November 18, 1918, prior to ratification of the Eighteenth Amendment, the U.S. Congress passed the temporary Wartime Prohibition Act, which banned the sale of alcoholic beverages having an alcohol content of greater than 1.28%.[12] (This act, which had been intended to save grain for the war effort, was passed after the armistice ending World War I was signed on November 11, 1918.) The Wartime Prohibition Act took effect June 30, 1919, with July 1, 1919 becoming known as the "Thirsty-First".[13][14]
The U.S. Senate proposed the Eighteenth Amendment on December 18, 1918. Upon being approved by a 36th state on January 16, 1919, the amendment was ratified as a part of the Constitution. By the terms of the amendment, the country went dry one year later, on January 17, 1920.[15][16]
On October 28, 1919, Congress passed the Volstead Act, the popular name for the National Prohibition Act, over President Woodrow Wilson's veto. The act established the legal definition of intoxicating liquors as well as penalties for producing them.[17] Although the Volstead Act prohibited the sale of alcohol, the federal government lacked resources to enforce it.
Prohibition was successful in reducing the amount of liquor consumed, cirrhosis death rates, admissions to state mental hospitals for alcoholic psychosis, arrests for public drunkennness, and rates of absenteeism.[4][18][19] While some allege that Prohibition stimulated the proliferation of rampant underground, organized and widespread criminal activity,[20] many academics maintain that there was no increase in crime during the Prohibition era and that such claims are "rooted in the impressionistic rather than the factual."[21][7] By 1925, there were anywhere from 30,000 to 100,000 speakeasy clubs in New York City alone.[22] Wet opposition talked of personal liberty, new tax revenues from legal beer and liquor, and the scourge of organized crime.[23]
On March 22, 1933, President Franklin Roosevelt signed into law the Cullen–Harrison Act, legalizing beer with an alcohol content of 3.2% (by weight) and wine of a similarly low alcohol content. On December 5, 1933, ratification of the Twenty-first Amendment repealed the Eighteenth Amendment. However, United States federal law still prohibits the manufacture of distilled spirits without meeting numerous licensing requirements that make it impractical to produce spirits for personal beverage use.[24]
Origins
Consumption of alcoholic beverages has been a contentious topic in America since the colonial period. In May 1657, the General Court of Massachusetts made the sale of strong liquor "whether known by the name of rum, whisky, wine, brandy, etc." to the Indians illegal.[25]
In general, informal social controls in the home and community helped maintain the expectation that the abuse of alcohol was unacceptable. "Drunkenness was condemned and punished, but only as an abuse of a God-given gift. Drink itself was not looked upon as culpable, any more than food deserved blame for the sin of gluttony. Excess was a personal indiscretion."[26] When informal controls failed, there were legal options.
Shortly after the United States obtained independence, the Whiskey Rebellion took place in western Pennsylvania in protest of government-imposed taxes on whiskey. Although the taxes were primarily levied to help pay down the newly formed national debt, it also received support from some social reformers, who hoped a "sin tax" would raise public awareness about the harmful effects of alcohol.[27] The whiskey tax was repealed after Thomas Jefferson's Democratic-Republican Party, which opposed the Federalist Party of Alexander Hamilton, came to power in 1800.[28]
Benjamin Rush, one of the foremost physicians of the late eighteenth century, believed in moderation rather than prohibition. In his treatise, "The Inquiry into the Effects of Ardent Spirits upon the Human Body and Mind" (1784), Rush argued that the excessive use of alcohol was injurious to physical and psychological health, labeling drunkenness as a disease.[29] Apparently influenced by Rush's widely discussed belief, about 200 farmers in a Connecticut community formed a temperance association in 1789. Similar associations were formed in Virginia in 1800 and New York in 1808.[30] Within a decade, other temperance groups had formed in eight states, some of them being statewide organizations. The words of Rush and other early temperance reformers served to dichotomize the use of alcohol for men and women. While men enjoyed drinking and often considered it vital to their health, women who began to embrace the ideology of "true motherhood" refrained from consumption of alcohol. Middle-class women, who were considered the moral authorities of their households, consequently rejected the drinking of alcohol, which they believed to be a threat to the home.[30] In 1830, on average, Americans consumed 1.7 bottles of hard liquor per week, three times the amount consumed in 2010.[20]
The 1898 Congressional Record, when reporting on a proposed tax on distilled spirits (H.R. 10253), noted that the relationship between populations, tax on distilled spirits (made from things other than fruit), and consumption was thus: (The Aggregates are grouped by tax rate)
Development of the prohibition movement
The American Temperance Society (ATS), formed in 1826, helped initiate the first temperance movement and served as a foundation for many later groups. By 1835 the ATS had reached 1.5 million members, with women constituting 35% to 60% of its chapters.[31]
The Prohibition movement, also known as the dry crusade, continued in the 1840s, spearheaded by pietistic religious denominations, especially the Methodists. The late nineteenth century saw the temperance movement broaden its focus from abstinence to include all behavior and institutions related to alcohol consumption. Preachers such as Reverend Mark A. Matthews linked liquor-dispensing saloons with political corruption.[32]
Some successes for the movement were achieved in the 1850s, including the Maine law, adopted in 1851, which banned the manufacture and sale of liquor. Before its repeal in 1856, 12 states followed the example set by Maine in total prohibition.[33] The temperance movement lost strength and was marginalized during the American Civil War (1861–1865).
Following the war, the dry crusade was revived by the national Prohibition Party, founded in 1869, and the Woman's Christian Temperance Union (WCTU), founded in 1873. The WCTU advocated the prohibition of alcohol as a method for preventing, through education, abuse from alcoholic husbands.[34] WCTU members believed that if their organization could reach children with its message, it could create a dry sentiment leading to prohibition. Frances Willard, the second president of the WCTU, held that the aims of the organization were to create a "union of women from all denominations, for the purpose of educating the young, forming a better public sentiment, reforming the drinking classes, transforming by the power of Divine grace those who are enslaved by alcohol, and removing the dram-shop from our streets by law".[35] While still denied universal voting privileges, women in the WCTU followed Frances Willard's "Do Everything" doctrine and used temperance as a method of entering into politics and furthering other progressive issues such as prison reform and labor laws.[36]
In 1881 Kansas became the first state to outlaw alcoholic beverages in its Constitution.[37] Arrested over 30 times and fined and jailed on multiple occasions, prohibition activist Carrie Nation attempted to enforce the state's ban on alcohol consumption.[38] She walked into saloons, scolding customers, and using her hatchet to destroy bottles of liquor. Nation recruited ladies into the Carrie Nation Prohibition Group, which she also led. While Nation's vigilante techniques were rare, other activists enforced the dry cause by entering saloons, singing, praying, and urging saloonkeepers to stop selling alcohol.[39] Other dry states, especially those in the South, enacted prohibition legislation, as did individual counties within a state.
Court cases also debated the subject of prohibition. While some cases ruled in opposition, the general tendency was toward support. In Mugler v. Kansas (1887), Justice Harlan commented: "We cannot shut out of view the fact, within the knowledge of all, that the public health, the public morals, and the public safety, may be endangered by the general use of intoxicating drinks; nor the fact established by statistics accessible to every one, that the idleness, disorder, pauperism and crime existing in the country, are, in some degree...traceable to this evil."[40] In support of prohibition, Crowley v. Christensen (1890), remarked: "The statistics of every state show a greater amount of crime and misery attributable to the use of ardent spirits obtained at these retail liquor saloons than to any other source."[40]
Proliferation of neighborhood saloons in the post-Civil War era became a phenomenon of an increasingly industrialized, urban workforce. Workingmen's bars were popular social gathering places from the workplace and home life. The brewing industry was actively involved in establishing saloons as a lucrative consumer base in their business chain. Saloons were more often than not linked to a specific brewery, where the saloonkeeper's operation was financed by a brewer and contractually obligated to sell the brewer's product to the exclusion of competing brands. A saloon's business model often included the offer of a free lunch, where the bill of fare commonly consisting of heavily salted food meant to induce thirst and the purchase of drink.[41] During the Progressive Era (1890–1920), hostility toward saloons and their political influence became widespread, with the Anti-Saloon League superseding the Prohibition Party and the Woman's Christian Temperance Union as the most influential advocate of prohibition, after these latter two groups expanded their efforts to support other social reform issues, such as women's suffrage, onto their prohibition platform.[42]
Prohibition was an important force in state and local politics from the 1840s through the 1930s. Numerous historical studies demonstrated that the political forces involved were ethnoreligious.[43] Prohibition was supported by the dries, primarily pietistic Protestant denominations that included Methodists, Northern Baptists, Southern Baptists, New School Presbyterians, Disciples of Christ, Congregationalists, Quakers, and Scandinavian Lutherans, but also included the Catholic Total Abstinence Union of America and, to a certain extent, the Latter-day Saints. These religious groups identified saloons as politically corrupt and drinking as a personal sin. Other active organizations included the Women's Church Federation, the Women's Temperance Crusade, and the Department of Scientific Temperance Instruction. They were opposed by the wets, primarily liturgical Protestants (Episcopalians and German Lutherans) and Roman Catholics, who denounced the idea that the government should define morality.[44] Even in the wet stronghold of New York City there was an active prohibition movement, led by Norwegian church groups and African-American labor activists who believed that prohibition would benefit workers, especially African Americans. Tea merchants and soda fountain manufacturers generally supported prohibition, believing a ban on alcohol would increase sales of their products.[45] A particularly effective operator on the political front was Wayne Wheeler of the Anti-Saloon League,[46] who made Prohibition a wedge issue and succeeded in getting many pro-prohibition candidates elected. Coming from Ohio, his deep resentment for alcohol started at a young age. He was injured on a farm by a worker who had been drunk. This event transformed Wheeler. Starting low in the ranks, he quickly moved up due to his deep rooted hatred of alcohol. He later realized to further the movement he would need more public approval, and fast. This was the start of his policy called 'wheelerism' where he used the media to make it seem like the general public was "on in" on a specific issue. Wheeler became known as the "dry boss" because of his influence and power.[47]
Prohibition represented a conflict between urban and rural values emerging in the United States. Given the mass influx of migrants to the urban centers of the United States, many individuals within the prohibition movement associated the crime and morally corrupt behavior of American cities with their large, immigrant populations. Saloons frequented by immigrants in these cities were often frequented by politicians who wanted to obtain the immigrants' votes in exchange for favors such as job offers, legal assistance, and food baskets. Thus, saloons were seen as a breeding ground for political corruption.[48]
In a backlash to the emerging reality of a changing American demographic, many prohibitionists subscribed to the doctrine of nativism, in which they endorsed the notion that America was made great as a result of its white Anglo-Saxon ancestry. This belief fostered resentments towards urban immigrant communities, who typically argued in favor of abolishing prohibition.[49] Additionally, nativist sentiments were part of a larger process of Americanization taking place during the same time period.[50]
Two other amendments to the Constitution were championed by dry crusaders to help their cause. One was granted in the Sixteenth Amendment (1913), which replaced alcohol taxes that funded the federal government with a federal income tax.[51] The other was women's suffrage, which was granted after the passage of the Nineteenth Amendment in 1920; since women tended to support prohibition, temperance organizations tended to support women's suffrage.[51]
In the presidential election of 1916, the Democratic incumbent, Woodrow Wilson, and the Republican candidate, Charles Evans Hughes, ignored the prohibition issue, as did both parties' political platforms. Democrats and Republicans had strong wet and dry factions, and the election was expected to be close, with neither candidate wanting to alienate any part of his political base.
In March 1917, the 65th Congress convened, in which the dries outnumbered the wets by 140 to 64 in the Democratic Party and 138 to 62 among Republicans. With America's declaration of war against Germany in April, German Americans, a major force against prohibition, were sidelined and their protests subsequently ignored. In addition, a new justification for prohibition arose: prohibiting the production of alcoholic beverages would allow more resources—especially grain that would otherwise be used to make alcohol—to be devoted to the war effort. While wartime prohibition was a spark for the movement,[52] World War I ended before nationwide Prohibition was enacted.
A resolution calling for a Constitutional amendment to accomplish nationwide Prohibition was introduced in Congress and passed by both houses in December 1917. By January 16, 1919, the Amendment had been ratified by 36 of the 48 states, making it law. Eventually, only two states—Connecticut and Rhode Island—opted out of ratifying it.[53][54] On October 28, 1919, Congress passed enabling legislation, known as the Volstead Act, to enforce the Eighteenth Amendment when it went into effect in 1920.
Start of national prohibition (January 1920)
Prohibition began on January 17, 1920, when the Volstead Act went into effect.[55] A total of 1,520 Federal Prohibition agents (police) were tasked with enforcement.
Supporters of the Amendment soon became confident that it would not be repealed. One of its creators, Senator Morris Sheppard, joked that "there is as much chance of repealing the Eighteenth Amendment as there is for a humming-bird to fly to the planet Mars with the Washington Monument tied to its tail."[56]
At the same time, songs emerged decrying the act. After Edward, Prince of Wales, returned to the United Kingdom following his tour of Canada in 1919, he recounted to his father, King George V, a ditty he had heard at a border town:
Four and twenty Yankees, feeling very dry,
Went across the border to get a drink of rye.
When the rye was opened, the Yanks began to sing,
"God bless America, but God save the King!"[57]
Prohibition became highly controversial among medical professionals, because alcohol was widely prescribed by the era's physicians for therapeutic purposes. Congress held hearings on the medicinal value of beer in 1921. Subsequently, physicians across the country lobbied for the repeal of Prohibition as it applied to medicinal liquors.[58] From 1921 to 1930, doctors earned about $40 million for whiskey prescriptions.[59]
While the manufacture, importation, sale, and transport of alcohol was illegal in the United States, Section 29 of the Volstead Act allowed wine and cider to be made from fruit at home, but not beer. Up to 200 gallons of wine and cider per year could be made, and some vineyards grew grapes for home use. The Act did not prohibit consumption of alcohol. Many people stockpiled wines and liquors for their personal use in the latter part of 1919 before sales of alcoholic beverages became illegal in January 1920.
Since alcohol was legal in neighboring countries, distilleries and breweries in Canada, Mexico, and the Caribbean flourished as their products were either consumed by visiting Americans or smuggled into the United States illegally. The Detroit River, which forms part of the U.S. border with Canada, was notoriously difficult to control, especially rum-running in Windsor, Canada. When the U.S. government complained to the British that American law was being undermined by officials in Nassau, Bahamas, the head of the British Colonial Office refused to intervene.[60] Winston Churchill believed that Prohibition was "an affront to the whole history of mankind".[61]
Three federal agencies were assigned the task of enforcing the Volstead Act: the U.S. Coast Guard Office of Law Enforcement,[62][63] the U.S. Treasury's IRS Bureau of Prohibition,[64][65] and the U.S. Department of Justice Bureau of Prohibition.[66][67]
Bootlegging and hoarding old supplies
As early as 1925, journalist H. L. Mencken believed that Prohibition was not working.[68] "Prohibition worked best when directed at its primary target: the working-class poor."[69] Historian Lizabeth Cohen writes: "A rich family could have a cellar-full of liquor and get by, it seemed, but if a poor family had one bottle of home-brew, there would be trouble."[70] Working-class people were inflamed by the fact that their employers could dip into a private cache while they, the employees, could not.[71]
Before the Eighteenth Amendment went into effect in January 1920, many of the upper classes stockpiled alcohol for legal home consumption after Prohibition began. They bought the inventories of liquor retailers and wholesalers, emptying out their warehouses, saloons, and club storerooms. President Woodrow Wilson moved his own supply of alcoholic beverages to his Washington residence after his term of office ended. His successor, Warren G. Harding, relocated his own large supply into the White House after inauguration.[72][73]
After the Eighteenth Amendment became law the United States embraced bootlegging. In just the first six months of 1920 alone, the federal government opened 7,291 cases for Volstead Act violations.[74] In just the first complete fiscal year of 1921, the number of cases violating the Volstead Act jumped to 29,114 violations and would rise dramatically over the next thirteen years.[75]
Doctors were able to prescribe medicinal alcohol for their patients. After just six months of prohibition, over fifteen thousand doctors and fifty-seven thousand pharmacists got their license to prescribe medicinal alcohol. Grape juice was not restricted by Prohibition, even though if it was allowed to sit for sixty days it would ferment and turn to wine with a twelve percent alcohol content. Many folks took advantage of this as grape juice output quadrupled during the Prohibition era.[76]
To prevent bootleggers from using industrial ethyl alcohol to produce illegal beverages, the federal government ordered the poisoning of industrial alcohols. In response, bootleggers hired chemists who successfully renatured the alcohol to make it drinkable. As a response, the Treasury Department required manufacturers to add more deadly poisons, including the particularly deadly methyl alcohol, consisting of 4 parts methanol 2.25 parts pyridine base and 0.5 parts benzene per 100 parts ethyl alcohol.[77] New York City medical examiners prominently opposed these policies because of the danger to human life. As many as 10,000 people died from drinking denatured alcohol before Prohibition ended.[78] New York City medical examiner Charles Norris believed the government took responsibility for murder when they knew the poison was not deterring people and they continued to poison industrial alcohol (which would be used in drinking alcohol) anyway. Norris remarked: "The government knows it is not stopping drinking by putting poison in alcohol... [Y]et it continues its poisoning processes, heedless of the fact that people determined to drink are daily absorbing that poison. Knowing this to be true, the United States government must be charged with the moral responsibility for the deaths that poisoned liquor causes, although it cannot be held legally responsible."[78]
Another lethal substance that was often substituted for alcohol was Sterno, commonly known as "canned heat." Forcing the substance through a makeshift filter, such as a handkerchief, created a rough liquor substitute; however, the result was poisonous, though not often lethal. Many of those who were poisoned as a result united to sue the government for reparations after the end of Prohibition.[79]
Making alcohol at home was common among some families with wet sympathies during Prohibition. Stores sold grape concentrate with warning labels that listed the steps that should be avoided to prevent the juice from fermenting into wine. Some drugstores sold "medical wine" with around a 22% alcohol content. In order to justify the sale, the wine was given a medicinal taste.[79] Home-distilled hard liquor was called bathtub gin in northern cities, and moonshine in rural areas of Virginia, Kentucky, North Carolina, South Carolina, Georgia, and Tennessee. Homebrewing good hard liquor was easier than brewing good beer.[79] Since selling privately distilled alcohol was illegal and bypassed government taxation, law enforcement officers relentlessly pursued manufacturers.[80] In response, bootleggers modified their cars and trucks by enhancing the engines and suspensions to make faster vehicles that, they presumed, would improve their chances of outrunning and escaping agents of the Bureau of Prohibition, commonly called "revenue agents" or "revenuers". These cars became known as "moonshine runners" or "'shine runners".[81] Shops with wet sympathies were also known to participate in the underground liquor market, by loading their stocks with ingredients for liquors, including bénédictine, vermouth, scotch mash, and even ethyl alcohol, which anyone could purchase legally.[82]
In October 1930, just two weeks before the congressional midterm elections, bootlegger George Cassiday—"the man in the green hat"—came forward and told members of Congress how he had bootlegged for ten years. One of the few bootleggers ever to tell his story, Cassiday wrote five front-page articles for The Washington Post, in which he estimated that 80% of congressmen and senators drank. The Democrats in the North were mostly wets, and in the 1932 election, they made major gains. The wets argued that prohibition was not stopping crime, and was actually causing the creation of large-scale, well-funded and well-armed criminal syndicates. As Prohibition became increasingly unpopular, especially in urban areas, its repeal was eagerly anticipated.[83]
When Prohibition was repealed in 1933, many bootleggers and suppliers with wet sympathies simply moved into the legitimate liquor business. Some crime syndicates moved their efforts into expanding their protection rackets to cover legal liquor sales and other business areas.[84]
Enforcement
Once Prohibition came into effect, the majority of U.S. citizens obeyed it.[18]
Enforcement of the law under the Eighteenth Amendment lacked a centralized authority. Clergymen were sometimes called upon to form vigilante groups to assist in the enforcement of Prohibition.[85] Furthermore, American geography contributed to the difficulties in enforcing Prohibition. The varied terrain of valleys, mountains, lakes, and swamps, as well as the extensive seaways, ports, and borders which the United States shared with Canada and Mexico made it exceedingly difficult for Prohibition agents to stop bootleggers given their lack of resources. Ultimately it was recognized with its repeal that the means by which the law was to be enforced were not pragmatic, and in many cases the legislature did not match the general public opinion.[86][87]
In Cicero, the prevalence of ethnic communities who had wet sympathies allowed prominent gang leader Al Capone to operate despite the presence of police.[88]
The Ku Klux Klan talked a great deal about denouncing bootleggers and threatened private vigilante action against known offenders. Despite its large membership in the mid-1920s, it was poorly organized and seldom had an impact. Indeed, the disgrace of the Klan after 1925 helped disparage any enforcement of Prohibition.[89]
Prohibition was a major blow to the alcoholic beverage industry and its repeal was a step toward the amelioration of one sector of the economy. An example of this is the case of St. Louis, one of the most important alcohol producers before prohibition started, which was ready to resume its position in the industry as soon as possible. Its major brewery had "50,000 barrels" of beer ready for distribution since March 22, 1933, and was the first alcohol producer to resupply the market; others soon followed. After repeal, stores obtained liquor licenses and restocked for business. After beer production resumed, thousands of workers found jobs in the industry again.[90]
Prohibition created a black market that competed with the formal economy, which came under pressure when the Great Depression struck in 1929. State governments urgently needed the tax revenue alcohol sales had generated. Franklin Roosevelt was elected in 1932 based in part on his promise to end prohibition, which influenced his support for ratifying the Twenty-first Amendment to repeal Prohibition.[91]
Repeal
Naval Captain William H. Stayton was a prominent figure in the anti-prohibition fight, founding the Association Against the Prohibition Amendment in 1918. The AAPA was the largest of the nearly forty organizations that fought to end Prohibition.[92] Economic urgency played a large part in accelerating the advocacy for repeal.[93] The number of conservatives who pushed for prohibition in the beginning decreased. Many farmers who fought for prohibition now fought for repeal because of the negative effects it had on the agriculture business.[94] Prior to the 1920 implementation of the Volstead Act, approximately 14% of federal, state, and local tax revenues were derived from alcohol commerce. When the Great Depression hit and tax revenues plunged, the governments needed this revenue stream.[95] Millions could be made by taxing beer. There was controversy on whether the repeal should be a state or nationwide decision.[94] On March 22, 1933, President Franklin Roosevelt signed an amendment to the Volstead Act, known as the Cullen–Harrison Act, allowing the manufacture and sale of 3.2% beer (3.2% alcohol by weight, approximately 4% alcohol by volume) and light wines. The Volstead Act previously defined an intoxicating beverage as one with greater than 0.5% alcohol.[17] Upon signing the Cullen–Harrison Act, Roosevelt remarked: "I think this would be a good time for a beer."[96] According to a 2017 study in the journal Public Choice, representatives from traditional beer-producing states, as well as Democratic politicians, were most in favor of the bill, but politicians from many Southern states were most strongly opposed to the legislation.[97]
The Eighteenth Amendment was repealed on December 5, 1933, with ratification of the Twenty-first Amendment to the U.S. Constitution. Despite the efforts of Heber J. Grant, president of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, the 21 Utah members of the constitutional convention voted unanimously on that day to ratify the Twenty-first Amendment, making Utah the 36th state to do so, and putting the repeal of the Eighteenth Amendment over the top in needed voting.[98][99]
In the late 1930s, after its repeal, two fifths of Americans wished to reinstate national Prohibition.[100]
Post-repeal
The Twenty-first Amendment does not prevent states from restricting or banning alcohol; instead, it prohibits the "transportation or importation" of alcohol "into any State, Territory, or Possession of the United States" "in violation of the laws thereof", thus allowing state and local control of alcohol.[101] There are still numerous dry counties and townships in the United States that restrict or prohibit liquor sales.[102]
Additionally, many tribal governments prohibit alcohol on Indian reservations. Federal law also prohibits alcohol on Indian reservations,[103] although this law is currently only enforced when there is a concomitant violation of local tribal liquor laws.[104]
After its repeal, some former supporters openly admitted failure. For example, John D. Rockefeller, Jr., explained his view in a 1932 letter:[105]
When Prohibition was introduced, I hoped that it would be widely supported by public opinion and the day would soon come when the evil effects of alcohol would be recognized. I have slowly and reluctantly come to believe that this has not been the result. Instead, drinking has generally increased; the speakeasy has replaced the saloon; a vast army of lawbreakers has appeared; many of our best citizens have openly ignored Prohibition; respect for the law has been greatly lessened; and crime has increased to a level never seen before.
It is not clear whether Prohibition reduced per-capita consumption of alcohol. Some historians claim that alcohol consumption in the United States did not exceed pre-Prohibition levels until the 1960s;[106] others claim that alcohol consumption reached the pre-Prohibition levels several years after its enactment, and has continued to rise.[107] Cirrhosis of the liver, a symptom of alcoholism, declined nearly two-thirds during Prohibition.[108][109] In the decades after Prohibition, any stigma that had been associated with alcohol consumption was erased; according to a Gallup Poll survey conducted almost every year since 1939, two-thirds of American adults age 18 and older drink alcohol.[110]
Shortly after World War II, a national opinion survey found that "About one-third of the people of the United States favor national prohibition." Upon repeal of national prohibition, 18 states continued prohibition at the state level. The last state, Mississippi, finally ended it in 1966. Almost two-thirds of all states adopted some form of local option which enabled residents in political subdivisions to vote for or against local prohibition. Therefore, despite the repeal of prohibition at the national level, 38% of the nation's population lived in areas with state or local prohibition.[111]:221
In 2014, a CNN nationwide poll found that 18% of Americans "believed that drinking should be illegal".[112]
Christian views
Prohibition in the early to mid-20th century was mostly fueled by the Protestant denominations in the Southern United States, a region dominated by socially conservative evangelical Protestantism with a very high Christian church attendance.[113] Generally, Evangelical Protestant denominations encouraged prohibition, while the Mainline Protestant denominations disapproved of its introduction. However, there were exceptions to this rule such as the Lutheran Church–Missouri Synod (German Confessional Lutherans), which is typically considered to be in scope of evangelical Protestantism.[114] Pietistic churches in the United States (especially Baptist churches, Methodists, Presbyterians, Congregationalists and others in the evangelical tradition) sought to end drinking and the saloon culture during the Third Party System. Liturgical ("high") churches (Roman Catholic, Episcopal, German Lutheran and others in the mainline tradition) opposed prohibition laws because they did not want the government to reduce the definition of morality to a narrow standard or to criminalize the common liturgical practice of using wine.[115]
Revivalism during the Second Great Awakening and the Third Great Awakening in the mid-to-late 19th century set the stage for the bond between pietistic Protestantism and prohibition in the United States: "The greater prevalence of revival religion within a population, the greater support for the Prohibition parties within that population."[116] Historian Nancy Koester argued that Prohibition was a "victory for progressives and social gospel activists battling poverty".[117] Prohibition also united progressives and revivalists.[118]
The temperance movement had popularized the belief that alcohol was the major cause of most personal and social problems and prohibition was seen as the solution to the nation's poverty, crime, violence, and other ills.[119]
Upon ratification of the amendment, the famous evangelist Billy Sunday said that "The slums will soon be only a memory. We will turn our prisons into factories and our jails into storehouses and corncribs." (Compare Christianity and alcohol.) Since alcohol was to be banned and since it was seen as the cause of most, if not all, crimes, some communities sold their jails.[120]
The nation was highly optimistic and the leading prohibitionist in the United States Congress, Senator Morris Sheppard, confidently asserted that "There is as much chance of repealing the Eighteenth Amendment as there is for a hummingbird to fly to the planet Mars with the Washington Monument tied to its tail."[121]
Effects of Prohibition
Mark H. Moore, a professor at Harvard University Kennedy School of Government, stated, with respect to the effects of prohibition:[2]
Alcohol consumption declined dramatically during Prohibition. Cirrhosis death rates for men were 29.5 per 100,000 in 1911 and 10.7 in 1929. Admissions to state mental hospitals for alcoholic psychosis declined from 10.1 per 100,000 in 1919 to 4.7 in 1928. Arrests for public drunkennness and disorderly conduct declined 50 percent between 1916 and 1922. For the population as a whole, the best estimates are that consumption of alcohol declined by 30 percent to 50 percent.[2]
Specifically, "rates for cirrhosis of the liver fell by 50 percent early in Prohibition and recovered promptly after Repeal in 1933."[4]
The historian Jack S. Blocker, Jr. stated that "Death rates from cirrhosis and alcoholism, alcoholic psychosis hospital admissions, and drunkenness arrests all declined steeply during the latter years of the 1910s, when both the cultural and the legal climate were increasingly inhospitable to drink, and in the early years after National Prohibition went into effect."[18] In addition, "once Prohibition became the law of the land, many citizens decided to obey it".[18]
Most economists during the early 20th century were in favor of the enactment of the Eighteenth Amendment (Prohibition).[122] Simon Patten, one of the leading advocates for prohibition, predicted that prohibition would eventually happen in the United States for competitive and evolutionary reasons. Yale economics professor Irving Fisher, who was a dry, wrote extensively about prohibition, including a paper that made an economic case for prohibition.[123] Fisher is credited with supplying the criteria against which future prohibitions, such as against marijuana, could be measured, in terms of crime, health, and productivity. For example, "Blue Monday" referred to the hangover workers experienced after a weekend of binge drinking, resulting in Mondays being a wasted productive day.[124] But new research has discredited Fisher's research, which was based on uncontrolled experiments; regardless, his $6 billion figure for the annual gains of Prohibition to the United States continues to be cited.[125]
Making moonshine was an industry in the American South before and after Prohibition. In the 1950s muscle cars became popular and various roads became known as "Thunder Road" for their use by moonshiners. A popular ballad was created and the legendary drivers, cars, and routes were depicted on film in Thunder Road.[126][127][128][129]
Rates of consumption during Prohibition
Illegal sales are not officially reported or measured, but there are indirect estimates using alcohol related deaths and cirrhosis, a liver disease specifically tied to ongoing alcohol consumption.[130] After the prohibition was implemented, alcohol continued to be consumed. However, how much compared to pre-Prohibition levels remains unclear. Studies examining the rates of cirrhosis deaths as a proxy for alcohol consumption estimated a decrease in consumption of 10–20%.[131][132][133] However, the National Institute on Alcohol Abuse and Alcoholism's studies show clear epidemiological evidence that "overall cirrhosis mortality rates declined precipitously with the introduction of Prohibition," despite widespread flouting of the law.[134]
One study reviewing city-level drunkenness arrests concluded that prohibition had an immediate effect, but no long term effect.[135] And, yet another study examining "mortality, mental health and crime statistics" found that alcohol consumption fell, at first, to approximately 30 percent of its pre-Prohibition level; but, over the next several years, increased to about 60–70 percent of its pre-prohibition level.[130]
Within a week after Prohibition went into effect, small portable stills were on sale throughout the country.[136]
A 2017 study concluded that in six years from 1934 to 1939, "an excess of 13,665 infant deaths ... could be attributable to the repeal of federal prohibition in 1933."[137]
Organized crime
Mark H. Moore states that contrary to popular opinion, "violent crime did not increase dramatically during Prohibition" and that organized crime "existed before and after" Prohibition.[2] Kenneth D. Rose, a professor of history at California State University, maintains that the idea of a "prohibition crime wave was rooted in the impressionistic rather than the factual."[21]
Another source, however, opines that organized crime received a major boost from Prohibition. Mafia groups limited their activities to prostitution, gambling, and theft until 1920, when organized bootlegging emerged in response to Prohibition.[138] A profitable, often violent, black market for alcohol flourished. Prohibition provided a financial basis for organized crime to flourish.[139] In one study of more than 30 major U.S. cities during the Prohibition years of 1920 and 1921, the number of crimes increased by 24%. Additionally, theft and burglaries increased by 9%, homicides by 12.7%, assaults and battery rose by 13%, drug addiction by 44.6%, and police department costs rose by 11.4%. This was largely the result of "black-market violence" and the diversion of law enforcement resources elsewhere. Despite the Prohibition movement's hope that outlawing alcohol would reduce crime, the reality was that the Volstead Act led to higher crime rates than were experienced prior to Prohibition and the establishment of a black market dominated by criminal organizations.[140] The Saint Valentine's Day Massacre produced seven deaths, considered one of the deadliest days of mob history.[141] A 2016 NBER paper showed that South Carolina counties that enacted and enforced prohibition had homicide rates increase by about 30 to 60 percent relative to counties that did not enforce prohibition.[142]
However, some scholars have attributed the crime during the Prohibition era to increased urbanization, rather than to the criminalization of alcohol use.[6] In some cities, such as New York City, crime rates decreased during the Prohibition era.[7] Crime rates overall declined from the period of 1849 to 1951, making crime during the Prohibition period less likely to be attributed to the criminalization of alcohol itself.[7]
The historian Kenneth D. Rose corroborates historian John Burnham's assertion that during the 1920s "there is no firm evidence of this supposed upsurge in lawlessness" as "no statistics from this period dealing with crime are of any value whatsoever".[21] Rose writes:[21]
Opponents of prohibition were fond of claiming that the Great Experiment had created a gangster element that had unleashed a "crime wave" on a hapless America. The WONPR's Mrs. Coffin Van Rensselaer, for instance, insisted in 1932 that "the alarming crime wave, which had been piling up to unprecedented height" was a legacy of prohibition. But prohibition can hardly be held responsible for inventing crime, and while supplying illegal liquor proved to be lucrative, it was only an additional source of income to the more traditional criminal activities of gambling, loan sharking, racketeering, and prostitution. The notion of the prohibition-induced crime wave, despite its popularity during the 1920s, cannot be substantiated with any accuracy, because of the inadequacy of records kept by local police departments. —Kenneth D. Rose, a professor of history at California State University[21]
Other effects
During the Prohibition era, rates of absenteeism decreased from 10% to 3%.[143] In Michigan, the Ford Motor Company documented "a decrease in absenteeism from 2,620 in April 1918 to 1,628 in May 1918."[19]
As a result of Prohibition, the advancements of industrialization within the alcoholic beverage industry were essentially reversed. Large-scale alcohol producers were shut down, for the most part, and some individual citizens took it upon themselves to produce alcohol illegally, essentially reversing the efficiency of mass-producing and retailing alcoholic beverages. Closing the country's manufacturing plants and taverns also resulted in an economic downturn for the industry. While the Eighteenth Amendment did not have this effect on the industry due to its failure to define an "intoxicating" beverage, the Volstead Act's definition of 0.5% or more alcohol by volume shut down the brewers, who expected to continue to produce beer of moderate strength.[100]
As saloons died out, public drinking lost much of its macho connotation, resulting in increased social acceptance of women drinking in the semi-public environment of the speakeasies. This new norm established women as a notable new target demographic for alcohol marketeers, who sought to expand their clientele.[100] Women thus found their way into the bootlegging business, with some discovering that they could make a living by selling alcohol with a minimal likelihood of suspicion by law enforcement.[144] Before prohibition, women who drank publicly in saloons or taverns, especially outside of urban centers like Chicago or New York, were seen as immoral or were likely to be prostitutes.[145]
In 1930 the Prohibition Commissioner estimated that in 1919, the year before the Volstead Act became law, the average drinking American spent $17 per year on alcoholic beverages. By 1930, because enforcement diminished the supply, spending had increased to $35 per year (there was no inflation in this period). The result was an illegal alcohol beverage industry that made an average of $3 billion per year in illegal untaxed income.[146]
Heavy drinkers and alcoholics were among the most affected groups during Prohibition. Those who were determined to find liquor could still do so, but those who saw their drinking habits as destructive typically had difficulty in finding the help they sought. Self-help societies had withered away along with the alcohol industry. In 1935 a new self-help group called Alcoholics Anonymous (AA) was founded.[100]
Prohibition also had an effect on the music industry in the United States, specifically with jazz. Speakeasies became very popular, and the Great Depression's migratory effects led to the dispersal of jazz music, from New Orleans going north through Chicago and to New York. This led to the development of different styles in different cities. Due to its popularity in speakeasies and the emergence of advanced recording technology, jazz's popularity skyrocketed. It was also at the forefront of the minimal integration efforts going on at the time, as it united mostly black musicians with mostly white audiences.[147]
Along with other economic effects, the enactment and enforcement of Prohibition caused an increase in resource costs. During the 1920s the annual budget of the Bureau of Prohibition went from $4.4 million to $13.4 million. Additionally, the U.S. Coast Guard spent an average of $13 million annually on enforcement of prohibition laws.[148] These numbers do not take into account the costs to local and state governments.
Winemaking during Prohibition
The Volstead Act specifically allowed individual farmers to make certain wines "on the legal fiction that it was a non-intoxicating fruit-juice for home consumption",[149] and many did so. Enterprising grape farmers produced liquid and semi-solid grape concentrates, often called "wine bricks" or "wine blocks".[150] This demand led California grape growers to increase their land under cultivation by about 700% during the first five years of Prohibition. The grape concentrate was sold with a warning: "After dissolving the brick in a gallon of water, do not place the liquid in a jug away in the cupboard for twenty days, because then it would turn into wine".[26]
The Volstead Act allowed the sale of sacramental wine to priests and ministers, and allowed rabbis to approve sales of sacramental wine to individuals for Sabbath and holiday use at home. Among Jews, four rabbinical groups were approved, which led to some competition for membership, since the supervision of sacramental licenses could be used to secure donations to support a religious institution. There were known abuses in this system, with imposters or unauthorized agents using loopholes to purchase wine.[51][151]
Prohibition had a notable effect on the alcohol brewing industry in the United States. Wine historians note that Prohibition destroyed what was a fledgling wine industry in the United States. Productive, wine-quality grapevines were replaced by lower-quality vines that grew thicker-skinned grapes, which could be more easily transported. Much of the institutional knowledge was also lost as winemakers either emigrated to other wine-producing countries or left the business altogether.[152] Distilled spirits became more popular during Prohibition.[79] Because of its higher alcohol content in comparison to fermented wine and beer, it became common to mix and dilute the hard alcohol.[79]
See also
Cultural and religious foundation
Timothy Shay Arthur
Bootleggers and Baptists
Ethnocultural politics in the United States
Christianity and alcohol
Teetotalism
Women's suffrage in the United States
Controlled substances
Beer in the United States
Ethanol
Moonshine
Legal foundation
Drug prohibition
Dry county
Dry state
Webb-Kenyon Act
Medicinal Liquor Prescriptions Act
Legal drinking age
Prohibition
Prohibition in Canada
Repeal of Prohibition
Rocco Perri
Lawbreakers and illegal practices
American gangsters during the 1920s
Chicago Outfit
Rum-running
Organized crime
The Purple Gang
Places involved in smuggling
Free State of Galveston
Govenlock, Saskatchewan
Whiskey Gap, Alberta
Law-enforcement organizations
Izzy Einstein and Moe Smith
The Untouchables
Bureau of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives (ATF)
Bureau of Prohibition
United States Coast Guard
United States Customs and Border Protection
U.S. Immigration and Customs Enforcement (ICE)
Similar policies and institutions
War on Drugs
Controlled Substances Act
Drug Enforcement Administration
Notes
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See more images by selecting the "Alcohol" subject , Cornell University Library
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ద్రవ్య మార్పిడి అంటే రెండు పక్షాల మధ్య చేసుకునే విదేశీ మారక ద్రవ్య ఒప్పందం. ఒక మారక ద్రవ్యంతో తీసుకున్న ఋణం (ఉదాహరణకు అసలు మరియు వడ్డీ చెల్లింపులు) దానికి సరిపడిన వేరొక మారక ద్రవ్యంతో ప్రస్తుత విలువ ఆధారంగా మారుస్తారు; విదేశీ మారక ద్రవ్య సూత్రాలను చూడుము. ద్రవ్య మార్పిడులు సాధారణంగా ఉపయోగాన్ని పోల్చి చూసి చేయబడతాయి.[1] ద్రవ్య మార్పిడి అనేది కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య మార్పిడి నుండి వైవిధ్యంగా ఉండాలి.
నిర్మాణం
ద్రవ్య మార్పిడిలు ఓవర్ డి కౌంటర్ నిర్వచనాలు మరియు వడ్డీ రేటు మార్పిడితో దగ్గర సంబంధం కలిగి ఉండేవి.[1] వడ్డీ రేటు మార్పిడి వలె కాకుండా ద్రవ్య మార్పిడిలో అసలు మార్పిడి ఉంటుంది.[1]
రుణ మార్పిడి చేసే ద్రవ్య మార్పిడిలో మూడు విభిన్న విధానాలు ఉంటాయి:
అత్యంత సాధారణ ద్రవ్య మార్పిడి నిర్మాణం అంటే ప్రస్తుతం అవతలి పక్షంతో ఒప్పందం చేసుకున్న అసలు మొత్తం భవిష్యత్తులో చెల్లించవలసి ఉంటుంది. అటువంటి ఒప్పందం పూర్వపు ఒప్పందం లేదా భవిష్య ఒప్పందాలతో సమానమైన కార్యక్రమంగా చెప్పబడుతుంది. అవతలి పక్షం వారిని వెదకడంలో అయ్యే ఖర్చు (ప్రత్యక్షంగా లేక మధ్యవర్తి ద్వారా) మరియు వారితో చేసుకునే ఒప్పందాల కారణంగా మరి ఏ ఇతర ఉత్పాదకాల (చాలా తక్కువగా ఉపయోగింపబడే) కన్నా ఖరీదైనవిగా ఉంటాయి. ఇది స్వల్పకాలిక మార్పిడి రేటు ఒప్పందాన్ని కుదర్చుకునే పద్ధతి. ఏది ఏమైనప్పటికీ, ప్రత్యామ్నాయ ఉత్పాదకాలలో భవిష్యత్తులో రానున్న పది సంవత్సరాల వరకు పెరుగుదల అధికంగా ఉంటుంది. అసలు-మాత్రమే ఉన్న ద్రవ్య మార్పిడులు తరచుగా రేట్లను పెంచటానికి తక్కువ ధరలో లభించే మార్గాలుగా ఉపయోగపడతాయి.[2] ఈ పద్ధతిలో ద్రవ్య మార్పిడి జరగడాన్ని FX - మార్పిడి అని కూడా అంటారు.[2]
ఇంకొక రకమైన ద్రవ్య మార్పిడి విధాన నిర్మాణంలో పైన చెప్పిన విధంగా ఋణం యొక్క అసలు వడ్డీతో కలుపుకుని మార్పిడి జరుగుతుంది. అటువంటి మార్పిడి విధానంలో అవతలి పక్షానికి ఇవ్వవలసిన వడ్డీకి సంబంధించిన డబ్బు లావాదేవీలు ముందే నిశ్చయించబడవు (వారు వెనిలా వడ్డీ రేటు ద్రవ్య మార్పిడి విధానంలో ఉండవచ్చు) యెందుకంటే వారు వివిధ ద్రవ్య రూపాలలో వాటిని పెట్టి ఉండవచ్చు. ఒక్కో పక్షం ఇతరుల తరపు నుండి ఋణం తీసుకుంటారు. ఈ తరహా ద్రవ్య మార్పిడిని బ్యాక్-టు-బ్యాక్ ఋణం అంటారు.[2]
చివరగా చెప్పినా, దేనికి తక్కువ కానీ విధానం కేవలం వడ్డీ రేటు చెల్లింపు డబ్బు లావాదేవీలు. ఇవి కూడా ఒకే పరిమాణంలో, ఒకే పద్ధతిలో జరుగుతాయి. మరలా ఈ ద్రవ్య మార్పిడి విధానం వలెనె డబ్బు మార్పిడి లావాదేవీలు కూడా వివిధ పద్ధతులలో జరుగుతాయి కానీ, మొత్తం ఒకేసారి కాదు. అటువంటి ద్రవ్య మార్పిడి విధానానికి ఉదాహరణ: నిశ్చిత రేటు వడ్డీ చెల్లింపు మార్పిడి అమెరికా డాలర్లలో ఉంటే మారుతూ ఉండే వడ్డీ రేటు చెల్లింపు యురోలలో ఉంటుంది. ఈ విధమైన మార్పిడి విధానాన్ని క్రాస్ కరెన్సీ వడ్డీరేటు మార్పిడి లేక క్రాస్ కరెన్సీ ద్రవ్య మార్పిడి అంటారు.[3]
ఉపయోగాలు
ద్రవ్య మార్పిడి విధానాలలో ముఖ్యంగా రెండు ఉపయోగాలున్నాయి:
[2] తక్కువ వడ్డీ రుణాలను రక్షించుకోవడం (ద్రవ్యంతో సంబంధం లేకుండా తక్కువ వడ్డీకి ఋణం తీసుకుని కావలసిన ద్రవ్యంలో ఋణం వెంటనే తిరిగి వచ్చే విధంగా ద్రవ్య మార్పిడి చేసుకోవచ్చు).[2]
[2] మార్పిడి రేటు హెచ్చు తగ్గులను ఆపడం[2]
ఆపడానికి ఉదాహరణలు
ఉదాహరణకు, ఒక అమెరికా ఆధారిత సంస్థ స్విస్ ఫ్రాన్క్స్ నుండి ఋణం తీసుకోవాలని కోరుకుంటే లేక స్విస్ ఆధారిత సంస్థ ప్రస్తుత అమెరికా డాలర్ ధర ప్రకారం ఋణం తిసుకోవలనుకుంటే రేటు మార్పిడి హెచ్చు తగ్గులకు బహిరంగపరచకుండా ఈ క్రింది వాటిలో ఏదో ఒక పద్ధతిని పాటించాలాి:
సంస్థలు తమకు కావలసిన ద్రవ్యంతో ఋణం తీసుకుని, ద్రవ్య మార్పిడి లావాదేవీలకు దూరంగా ఉంటే ప్రతి సంస్థ ఆర్థిక ధర సంస్థ యొక్క దేశీ ద్రవ్యంలో ఉంటుంది.
ప్రత్యామ్నాయంగా, సంస్థలు తమ స్వంత దేశీ ద్రవ్యంతో అప్పు తెచ్చుకోవచ్చు, (అలా చేస్తున్నప్పుడు ప్రతి ఒక్క దాన్ని ఉపయోగమా కదా అని పోల్చి చూసుకోవచ్చు) అంతేకాక అసలు ద్రవ్య మార్పిడి ద్వారా, అసలును వారికి కావలసిన ద్రవ్యంతో పొందవచ్చు.
చరిత్ర
1970వ సంవత్సరంలో యునైటెడ్ కింగ్డంలో సర్కంవెంట్ విదేశీ మార్పిడి నియంత్రణలో మొదటిసారిగా ద్రవ్య మార్పిడులు జరిగాయి. ఆ సమయంలో UK సంస్థలు ప్రీమియాన్ని అమెరికా డాలర్ లలో చెల్లించవలసి వచ్చేది. దీన్ని నిరోధించడానికి UK సంస్థలు అమెరికా సంస్థలతో బ్యాక్-టు-బ్యాక్ స్టెర్లింగ్ రుణ ఒప్పందాలు కుదుర్చుకుంది.[4] ద్రవ్య మార్పిడి మీద అటువంటి నిర్బంధాలు తక్కువగా ఉన్నప్పటి నుండి తులనాత్మక ఉపయోగం వలన బ్యాక్-టు-బ్యాక్ రుణాల నుండి పొదుపులు ఇంకా లభ్యమవుతునే ఉన్నాయి.
1981వ సంవత్సరంలో IBMతో డబ్బు లావాదేవీలు జరిపి స్విస్ ఫ్రాన్క్స్ మరియు జర్మన్ లక్షణాలు పొందడానికి క్రాస్ వడ్డీ రేటు ద్రవ్య మార్పిడి ప్రపంచ బ్యాంకు ద్వారా ప్రవేశ పెట్టబడింది. ఫలితంగా సలోమన్ బ్రదర్స్ ద్వారా ఉద్దేశించబడిన 210 మిలియన్ డాలర్ల ఒప్పందం మధ్యవర్తుల ద్వారా పది సంవత్సరాల కోసం కుదర్చబడింది.[5]
2008వ సంవత్సరంలో వచ్చిన ప్రపంచ ఆర్థిక సంక్షోభం సమయంలో, ద్రవ్య మార్పిడి వ్యవహార నిర్మాణం అమెరికా సమాఖ్య సంక్షేమ నిధి వ్యవస్థచే కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య మార్పిడి లావాదేవీ నిర్మాణం ఉపయోగించబడింది. ఇందులో అభివృద్ధి [6] లేక నిశ్చిత నిర్గమన [7] ఆర్థిక వ్యవస్థ కలిగిన సమాఖ్య సంక్షేమ నిధి మరియు కేంద్ర బ్యాంకు ప్రస్తుత మార్కెట్ మార్పిడి రేటుతో దేశీయ ద్రవ్య మార్పిడి చేయడానికి ఒప్పుకుంది. అంతేకాక భవిష్యత్తులో ఒక నిశ్చిత తరీఖులో అదే మార్పిడి రేటుతో అపసవ్య క్రమంలో ద్రవ్య మార్పిడి చేయడానికి కూడా ఒప్పుకుంది. కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య మార్పిడి లక్ష్యం విదేశీ మార్కెట్ కు అమెరికన్ డాలర్లలో ద్రవ్యాన్ని అందచేయడం.[8] కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య మార్పిడులు మరియు సులభంగా ద్రవ్య రూపం పొందగల మార్పిడులు రెండూ నిర్మాణాత్మకంగా ఒకలాంటివే. ద్రవ్య మార్పిడులు ఉపయోగం కోసం చేసే వ్యాపార లావాదేవీలు. కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య రూపంలోకి మరే మార్పిడులు అమెరికా డాలర్లలో విదేశీ మార్కెట్ల యొక్క అత్యవసర రుణాలు. వారు దళారకు కానీ, అమెరికాకు కానీ ఎంతవరకు లబ్ధిదారులు అవుతారో చెప్పడం కష్టం.[9]
ప్రజా గణతంత్ర రాజ్యమైన చైనాకు [[అర్జెంటీనా|అర్జెంటినా[[, బెలారస్, హాంగ్ కాంగ్, ఐస్లాండ్, ఇండోనేసియ, మలేషియా, సింగపూర్ మరియు దక్షిణ కొరియా లతో రెన్మిన్బి]]]] చాలా సంవత్సరాల ద్రవ్యమార్పిడి ఒప్పందాలు చేసుకుని కేంద్ర బ్యాంకు ద్రవ్య రూపంలోకి మరే మార్పిడులను చేపట్టింది.[10]
సూచనలు
వర్గం:అర్థ శాస్త్రము | https://te.wikipedia.org/wiki/%E0%B0%A6%E0%B1%8D%E0%B0%B0%E0%B0%B5%E0%B1%8D%E0%B0%AF%20%E0%B0%AE%E0%B0%BE%E0%B0%B0%E0%B1%8D%E0%B0%AA%E0%B0%BF%E0%B0%A1%E0%B0%BF |
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Коммунисти́ческая па́ртия Сове́тского Сою́за[1] (офиц. аббр. КПСС; разг. па́ртия) — правящая политическая партия в Союзе Советских Социалистических Республик.
С начала 1920-х до марта 1990 года партия (под разными названиями — РКП(б), ВКП(б), КПСС) действовала в условиях однопартийной системы и обладала монопольным правом на политическую власть, что способствовало установлению в стране тоталитарного автократического режима. Этот статус был закреплён конституционно: в статье 126 Конституции 1936 года Коммунистическая партия провозглашалась «руководящим ядром» государственных и общественных организаций трудящихся, а в принятой в 1977 году Конституции СССР КПСС была, согласно статье 6, провозглашена руководящей и направляющей силой советского общества в целом[2]. В 1990 году конституционная монополия партии на политическую власть была отменена[3], однако в Конституции СССР даже в новой редакции соответствующих положений КПСС была отдельно выделена в числе прочих политических партий[4].
События 19—21 августа 1991 года послужили основанием для обвинения КПСС в антиконституционной деятельности. Указом Президента РСФСР № 169 от 6 ноября 1991 года деятельность КПСС и её республиканской организации — КП РСФСР была прекращена, организационные структуры распущены, имущество конфисковано. Однако Конституционный Суд РФ вынес судебное Постановление № 9-П от 30 ноября 1992 года, в котором признал неконституционным запрет деятельности первичных организаций КПСС—КП РСФСР. Производство дела было прекращено в связи с распадом и утратой статуса общесоюзной организации[5].
Названия
В разные годы своей деятельности в Российской империи, Российской республике и Советском Союзе партия имела разные наименования:
Российская социал-демократическая рабочая партия—РСДРП—1898—1917Российская социал-демократическая рабочая партия (большевиков)—РСДРП(б)—1917—1918Российская коммунистическая партия (большевиков)[6]—РКП(б)—1918—1925Всесоюзная коммунистическая партия (большевиков)—ВКП(б)—1925—1952Коммунистическая партия Советского Союза—КПСС—1952—1991
История
1898—1917
Образование РСДРП
Российская социал-демократическая рабочая партия (РСДРП) была создана в России в конце XIX века на базе нескольких социал-демократических групп и кружков («Союз борьбы за освобождение рабочего класса», группа «Киевской Рабочей газеты», «Бунд» и др.). Учредительный съезд РСДРП, на котором присутствовало 9 делегатов от различных марксистских организаций России, прошёл в Минске 13 — 15 марта 1898 года (все даты даны по новому стилю). Съезд провозгласил образование РСДРП и принял «Манифест Российской социал-демократической рабочей партии», однако фактически партия как централизованная политическая организация создана не была (в связи с тем, что почти сразу после съезда члены вновь избранного ЦК были арестованы, а большинство местных организаций РСДРП разгромлены)[7][8].
На II съезде РСДРП (30 июля — 23 августа 1903 года; Брюссель, затем Лондон) произошло окончательное организационное оформление партии — были приняты первая Программа партии, Устав партии, избраны центральные руководящие органы — Центральный комитет (ЦК) РСДРП и Центральный орган (ЦО) РСДРП (редакция газеты «Искра»). На съезде произошло оформление двух фракций РСДРП — большевиков во главе с В. И. Лениным и меньшевиков во главе с Г. В. Плехановым и Ю. С. Мартовым.
Основным поводом для раскола стал незначительный, на первый взгляд, пункт партийного устава; Ленин предлагал требовать от членов партии «личного участия», тогда как Мартов — «личного содействия». На деле же речь шла о допустимой степени централизма в партстроительстве; Ленин стремился к созданию жёстко централизованной организации, с обязательностью выполнения нижестоящими директив вышестоящих. Мартов же, по образцу западноевропейской социал-демократии, особенно по образцу наиболее авторитетной тогда германской партии, отстаивал принцип свободной ассоциации.
Многим социал-демократам казалась нелепостью ссора, произошедшая на II съезде. На уровне низовых организаций долгое время сохранялось единство; вплоть до мая 1917 года существовал целый ряд объединённых социал-демократических («большевистско-меньшевистских») партийных организаций на местах.
Уже с сентября 1903 года стороны начали ожесточённую борьбу за контроль над партийными организациями — ЦК, редакцией печатного органа «Искра», Заграничной лигой революционной социал-демократии (заграничной парторганизацией РСДРП), парторганизациями на местах. Ленину удалось удержать большинство в ЦК, тогда как меньшевики получили большинство в редакции «Искры» и в Совете партии. Большинство парторганизаций Центральной России, также Одессы и Кавказа поддержали большевиков, тогда как донецкая, киевская и другие парторганизации присоединились к меньшевикам.
РСДРП во время Революции 1905—1907 гг.
В 1904 году Ленин приступил к формированию собственных фракционных органов: фактически параллельное ЦК Бюро комитетов большинства (распущено в преддверии III съезда) и собственный печатный орган (газета «Вперёд»). В 1905 году большевики и меньшевики провели два параллельных «съезда РСДРП»: большевики в Лондоне, а меньшевики в Женеве.
Крупным поражением Ленина стал IV («объединительный») съезд РСДРП в Стокгольме (1906). Его сторонники оказались в меньшинстве. В ЦК прошло 7 меньшевиков и 3 большевика, редакция печатного органа стала на 100 % меньшевистской. Вместе с тем в 1907 году Ленин образовал новый фракционный руководящий орган — Большевистский центр (распущен решением пленума ЦК в январе 1910 года, как руководящий орган фракционного раскола); были созданы новый фракционный печатный орган и даже фракционная касса.
Организационное обособление большевиков
Подавление революции 1905—1907 годов привело партию к серьёзному кризису. Численность РСДРП сократилась в 7 раз, многие руководящие органы многократно арестовывались. Партийные организации были густо «нашпигованы» полицейскими агентами, среди которых особую известность снискал член ЦК и член большевистской фракции Госдумы IV созыва Р. В. Малиновский.
На VI (Пражской) конференции РСДРП (5 — 17 января 1912 года) большевики организационно оформились в самостоятельную партию[7]. Из 14 делегатов с решающим голосом 12 были большевиками, а двое — меньшевиками-«партийцами» (представляли группу Г. В. Плеханова). Национальные организации и те местные группы, которые находились под влиянием меньшевиков, отклонили направленные им приглашения на конференцию и не признали её в качестве Всероссийской и общепартийной. В августе 1912 года Л. Д. Троцкий, стоявший тогда на объединительных позициях, созвал в Вене «параллельную» партконференцию. Большевики на Венскую партконференцию (так называемый «августовский блок») не явились. Последняя попытка воссоединения большевистского и меньшевистского крыльев социал-демократии провалилась.
Окончательно большевистская фракция РСДРП выделилась в Российскую социал-демократическую рабочую партию (большевиков) (РСДРП(б)) только на VII (Апрельской) Всероссийской конференции РСДРП(б) в мае 1917 года.
РСДРП(б) между Февралём и Октябрём
На момент Февральской революции большевики являлись лишь третьей по влиятельности силой среди социалистов. Непосредственно во время событий последний царский министр внутренних дел А. Д. Протопопов арестовал большевистский Петроградский комитет, из известных крупных большевиков в городе в это время находился только Шляпников, все члены ЦК были в ссылке либо эмиграции. Ядром революционного Петросовета стала Рабочая группа Центрального военно-промышленного комитета, в целом меньшевистская («гвоздёвцы»), и вплоть до осени 1917 года в Советах сохранялось эсеро-меньшевистское большинство.
После своего возвращения из эмиграции в апреле 1917 года Ленин немедленно взял курс на захват большевиками власти в стране с целью осуществления радикальных преобразований. Быстро преодолев сопротивление в рядах собственной партии, он добился принятия своей программы («Апрельских тезисов»)[8]. Первая крупная попытка захвата власти в июле 1917 года (Июльские дни) едва не закончилась для большевистской партии катастрофой и полным уничтожением. В ходе этих событий Троцкий окончательно оставил все попытки преодолеть раскол до недавнего времени единой РСДРП и присоединился к большевизму, войдя на VI съезде РСДРП(б) в состав ЦК.
Съезд, проходивший в Петрограде в нелегальных условиях с 8 по 16 августа 1917 года, принял решение о подготовке вооружённого восстания[7].
Осенью 1917 года большевикам удалось «оседлать» поднимавшуюся революционную волну, успешно играя на пробуждённых революцией глубинных анархистских инстинктах народа. В ходе большевизации Советов они захватывают контроль над Советами Петрограда и Москвы и большинством Советов рабочих и солдатских депутатов на местах, солдатскими комитетами Северного и Западного фронтов, Балтийским флотом[7][8]. Вместе с тем в традиционных органах самоуправления, в частности, Петроградской городской думе, большевики остаются в меньшинстве. Их представительство в Советах крестьянских депутатов остаётся ничтожным (из 455 таких Советов в 264 даже не было большевистских фракций).
Опираясь на контроль над Петросоветом, Петроградским гарнизоном и Кронштадтской военно-морской базой, большевики начали подготовку вооружённого выступления в преддверии II Всероссийского съезда советов рабочих и солдатских депутатов.
Октябрь 1917—1921 годы
В результате вооружённого восстания 7 ноября (25 октября по старому стилю) 1917 года было сформировано Временное Рабоче-Крестьянское Правительство. Меньшевики и эсеры негативно отнеслись к восстанию, назвав его «военным заговором». В знак протеста они объявили бойкот, покинув заседания II съезда Советов. В результате исторический первый состав Совнаркома (Временного Рабоче-Крестьянского правительства) был на 100 % большевистским. 25 октября 1917 года был распущен Временный совет Российской республики, ряд других органов.
На этом этапе, по всей видимости, большевики ещё не планировали установления диктатуры своей партии. В деятельности основного органа восстания — Петроградского ВРК принимали широкое участие левые эсеры, а также анархисты. В знак протеста против произошедшего восстания в Петрограде правоцентристское большинство ЦК эсеров исключило из партии всех представителей своего левого крыла, поддержавших большевиков. Левые эсеры окончательно выделились в самостоятельную партию.
В декабре 1917 года оформилась правительственная коалиция; в состав Совнаркома вошёл ряд левых эсеров, принявших также деятельное участие в организации ЧК и ряда других органов. Популярным лозунгом «умеренных» стало «однородное социалистическое правительство» — широкая правительственная коалиция всех социалистических партий, требование, на котором настаивал исполком железнодорожного профсоюза Викжель, угрожая остановкой перевозок.
Временное Рабоче-Крестьянское Правительство провело ряд прогрессивных реформ — было установлено полное и всеобщее гражданское равноправие, которое было распространено и на военнослужащих, был введён восьмичасовой рабочий день, выборный, гласный, равный для всех суд, признана независимость Финляндии.
Выборы в Учредительное собрание фактически начались ещё до прихода большевиков к власти, и никак ими не контролировались, причём Комиссия по проведению выборов (Всевыборы) Октябрьскую революцию не признала. Результаты выборов показали, что крестьянское большинство России поддерживает эсеров; осознав, что их курс на радикальные преобразования под угрозой, коалиция большевиков и левых эсеров 6 января 1918 года разогнала Всероссийское учредительное собрание.
8 марта 1918 года на своём VII съезде партия большевиков РСДРП(б) была переименована в РКП(б).
В мае 1918 года СНК ввёл государственную монополию на торговлю сельскохозяйственной продукцией. Первые попытки введения продразвёрстки, по образцу других воюющих держав, предприняло ещё царское правительство в декабре 1916 года, однако из-за яростного сопротивления крестьянских общин эти попытки провалились. Также безуспешными оказались аналогичные попытки Временного правительства в 1917 году. В мае 1918 года большевики вновь вернулись к продразвёрстке.
В первой половине 1918 года наметилась новая тенденция; опираясь на большевизированных солдат рассеянных по всей России запасных полков, большевики разгоняли те Советы на местах, где им не удалось получить большинства. Власть передавалась либо большевистской фракции Совета, либо целиком невыборному ревкому. Отношения с правыми эсерами стремительно портились; они всё больше склонялись к терактам против лидеров большевизма, по образу дореволюционного террора против царских чиновников и генералов. После восстания Чехословацкого корпуса реальностью стала так называемая «демократическая контрреволюция» — вооружённое эсеро-белогвардейское сопротивление большевизму. Основной ударной силой этого сопротивления стало правоконсервативное офицерство, тогда как эсеры, выступая как идеологи движения, декларировали принцип так называемого «обволакивания» белогвардейских элементов. Очень скоро такой подход закончился провалом, офицерство всё более склонялось к военной диктатуре и не нуждалось в эсерах. В декабре 1918 колчаковцы расстреляли в Омске ряд видных эсеров и меньшевиков, членов Учредительного собрания.
Параллельно испортились и отношения большевиков со вчерашними союзниками. В апреле 1918 года были разогнаны анархистские организации в Москве, обвинённые в разложении, перерождении в «анархо-бандитизм», подготовке вооружённого переворота. Наращивая давление на эсеров, большевики взяли курс на замену проэсеровских сельских советов пробольшевистскими комбедами. Недовольство непопулярным Брестским миром, введением продовольственной диктатуры и особенно комбедами вызвало восстание левых эсеров в июле 1918 года. Это неудачное и плохо организованное выступление закончилось политической смертью левых эсеров; партия раскололась на ряд осколков, часть которых предпочли осудить восстание, и сотрудничать с большевиками.
В августе 1918 произошла серия терактов против лидеров большевизма, в ответ на которую был официально объявлен «красный террор».
По факту, с июля 1918 года в России на 70 лет установилась однопартийная система. Партии меньшевиков и эсеров, в целях совместной борьбы с Колчаком, затем несколько раз легализовывались и вновь запрещались. Окончательно они прекратили своё существование только в 1923—1925 годах.
В частности, в декабре 1918 года меньшевики, под впечатлением от колчаковского переворота в Сибири и поражения Германии в мировой войне (что позволило большевикам денонсировать непопулярный Брестский мир) объявили о сотрудничестве с большевизмом и даже провели ряд партийных мобилизаций в Красную Армию, однако уже с марта 1919 года вновь столкнулись с репрессиями. Другим примером подобных колебаний стала эсеровская группа «Народ» (см. Уфимская делегация), решившая поддержать большевиков в их вооружённой борьбе с колчаковцами, за что была решением ЦК ПСР исключена из партии.
Множество рядовых эсеров и особенно меньшевиков предпочли вступить в большевистскую партию, рассчитывая сделать карьеру. До четверти делегатов X съезда РКП(б) 1921 года являлись выходцами из других партий, главным образом, бывшими меньшевиками. Кроме того, с 1917 года целый ряд маленьких и слабых партий и фракций, поодиночке не имевших никаких политических перспектив, предпочли вступить в компартию: социал-демократическая фракция «межрайонцев» (июль 1917), Российская социалистическая рабочая партия интернационалистов (бывшая фракция меньшевиков-интернационалистов, или «новожизненцы», самораспустились и присоединились к РКП(б) в 1920 году), ряд осколков партии левых эсеров: Партия народников-коммунистов (1918), Партия революционного коммунизма (1920), также ряд национальных левых партий: еврейская партия Бунд (на деле вошли в состав РКП(б) только частично), младобухарцы, украинские боротьбисты и др.
23 марта 1919 года была принята новая программа РКП(б), согласно которой главной целью партии объявлялось установление и защита «советской демократии», которую РКП(б) толковало как власть советов рабочих и крестьянских депутатов и их съездов, и противопоставляли её обычной («буржуазной») демократии в виде парламентского государства.
К концу 1920 года сложилась противоречивая картина: большевикам удалось уничтожить все основные очаги вооружённого сопротивления, однако в то же время вся страна оказалась буквально «затоплена» множеством «зелёных» крестьянских восстаний. Принудительные изъятия хлеба подтолкнули крестьян к массовому сокращению посевов, что при первом же серьёзном неурожае вызвало массовый голод с миллионами жертв.
Под давлением Ленина X съезд РКП(б) (1921) заменил продразвёрстку более лёгким продналогом, в течение года страна взяла курс на восстановление свободы торговли и частного предпринимательства (см. НЭП).
1921—1941
В августе 1922 года ЦК РКП(б) создал специальную комиссию, которая должна была подготовить проект предложений по вопросу о будущих взаимоотношениях между РСФСР и другими советскими республиками. Под руководством И. В. Сталина был подготовлен проект «автономизации», предусматривавший вхождение этих республик в состав РСФСР. Однако В. И. Ленин отверг данный проект, настояв на создании Союза Советских Социалистических Республик (СССР), в который РСФСР и другие союзные республики вошли бы на началах равноправия. В итоге 27 декабря в Москве был подписан Договор об образовании СССР, а 30 декабря 1922 года договор был одобрен I Всесоюзным съездом Советов[8]. После этого в декабре 1925 года на XIV съезде партии РКП(б) была переименована во Всесоюзную Коммунистическую партию (большевиков) — ВКП(б).
1920-е годы ознаменовались тяжёлой внутрипартийной фракционной борьбой. По её итогам из возможных кандидатов на роль преемника Ленина победил Сталин, с 1927—1929 годов взявший курс на коллективизацию, индустриализацию и культурную революцию.
В середине 1920-х годов партия была реформирована — численность членов Центрального Комитета ВКП(б) была расширена, а сам ЦК стал играть роль «внутрипартийного парламента», съезд ВКП(б) стал созываться раз в 5 лет, роль исполнительного органа партии перешла к Секретариату ЦК ВКП(б). В 1937 году, после принятия новой конституции, высшим законодательным органом СССР стал Верховный Совет, избиравшийся по одномандатным округам. Он был полностью подконтролен ВКП(б), так как в каждом округе мог быть выставлен только один кандидат — представитель блока коммунистов и беспартийных. По их же решению в 1930-е годы была проведена индустриализация СССР.
1941—1945
В годы Великой Отечественной войны в действующую армию было направлено свыше 1,5 млн коммунистов, значительное количество действовало в составе партизанских отрядов и подпольных организаций на оккупированной территории. Несмотря на потери, в период войны численность партии увеличилась на 1,6 млн человек[9][10]. К началу Великой Отечественной войны в вооружённых силах СССР насчитывалось 654 тыс. коммунистов, к январю 1945 года их количество увеличилось до 3 031 тысяч. В общей сложности в течение Великой Отечественной войны в партию были приняты около 4 млн человек[11].
После вхождения в октябре 1944 года Тувы в состав Советского Союза как автономной области члены правившей в ТНР Тувинской народно-революционной партии не включались в ВКП(б) автоматически: члены ТНРП должны были вновь вступить в состав ВКП(б). 18 октября 1944 года было образовано Бюро Тувинского обкома ВКП(б), состав которого был предварительно утверждён секретарём ЦК ВКП(б) Г. М. Маленковым. Из 7 518 человек в приёме было отказано 3 574 (основные причины: политическая пассивность, наличие репрессированных родственников, владение крупной частной собственностью)[12].
1945—1985
В октябре 1952 года на XIX съезде партии её название было вновь изменено: ВКП(б) была переименована в Коммунистическую партию Советского Союза — КПСС[8].
Во многом поворотным пунктом в истории партии и всего Советского Союза стал прошедший в феврале 1956 года XX съезд КПСС, на котором первый секретарь ЦК КПСС Н. С. Хрущёв выступил с докладом «О культе личности и его последствиях». В докладе был осуждён культ личности Сталина. Съезд положил начало развенчанию социальных мифов сталинизма, дал толчок обновлению советского общества и освобождению общественного сознания от догм и стереотипов[8]. После XX съезда было пересмотрено большое количество судебных дел, которые были сфабрикованы на основе надуманных, ложных и ошибочных обвинений; многие репрессированные люди были реабилитированы[7].
В октябре 1964 года пост первого (с марта 1966 года — генерального) секретаря ЦК КПСС занял Л. И. Брежнев. Он положил конец ряду недостаточно продуманных мероприятий, предпринятых Хрущёвым, и в первый период своего 18-летнего периода пребывания на руководящем посту провёл в стране достаточно серьёзные экономические реформы. Однако в начале 1970-х гг. стали снижаться темпы развития советской промышленности, осуществление реформ зашло в тупик, а страна стала скользить к краю кризиса. С середины 1970-х гг. наблюдается окостенение идеологии, в партии и обществе нарастает инертность, усиливается бюрократизм; идеологическое воспитание членов партии приобретает всё более формальный характер, теряет содержательность и убедительность, приводя к ослабеванию их веры в идеалы коммунизма. Попытки непосредственных преемников Брежнева на посту генерального секретаря ЦК — Ю. В. Андропова (ноябрь 1982 — февраль 1984 года) и К. У. Черненко (февраль 1984 — март 1985 года) — исправить положение дел к серьёзным изменениям не привели[7].
1985—1993
В марте 1985 года генеральным секретарём ЦК КПСС стал М. С. Горбачёв. По его инициативе начались широкомасштабные реформы, получившие название «перестройки»[8].
Состоявшаяся в Москве с 28 июня по 1 июля 1988 года XIX Всесоюзная конференция КПСС внесла существенные изменения в политическую систему страны. Фактически Коммунистическая партия перестала быть её стержнем. В октябре 1988 года пленум ЦК КПСС издал постановление, запрещавшее партийным организациям разного уровня вмешиваться в регулирование экономических вопросов. 1 декабря 1988 года после всенародного обсуждения Верховный Совет СССР принял поправки в три главы Конституции СССР, касающиеся избирательной системы и связанные с учреждением нового органа власти — Съезда народных депутатов. На выборах весной 1989 года на местах мандаты получили представители демократической общественности и национальных движений.
14 марта 1990 года был принят закон, вносивший в Конституцию СССР масштабные поправки, которые, в частности, исключали из текста 6-й статьи Конституции упоминание о руководящей роли КПСС и разрешали создание других политических партий[13]. При этом в рядах самой КПСС нарастают дезориентация и идейный разброд, возникает моральное отчуждение членов партийных организаций от масс, а сами партийные организации различного уровня бездействуют[7].
В 1990—1991 годах начался массовый выход из партии рядовых членов[14], возмущённых вскрывшимися фактами злоупотребления властью и потерявших веру в моральное право и способность КПСС управлять обществом.
19—23 июня 1990 года была созвана Российская партийная конференция, которая позиционировала себя как Учредительный съезд Компартии РСФСР (в составе КПСС).
2—13 июля 1990 года г. состоялся XXVIII съезд КПСС. В его работе приняло участие 4683 делегата. Съезд выявил глубокий кризис в партии. Делагаты разделились на нескольких разных платформ: Демократическая платформа, Марксистская платформа и др., причём сторонники социалистического курса партии на съезде оказались в меньшинстве. Сторонники перестройки и рыночных реформ сохраняли большинство, хотя наиболее радикальные из них уже не хотели ассоциировать свою политику с КПСС, в связи с чем прямо на съезде Б. Н. Ельцин и некоторые другие его единомышленники вышли из партии.
Из-за внутренних разногласий съезду не удалось утвердить новую Программу КПСС. Несмотря на глубокий кризис внутри партии и ослабление её позиций в обществе, М. С. Горбачёв был переизбран Генеральным секретарём партии на второй срок (голосовало за — 3411, против — 1116, за альтернативную кандидатуру Т. Г. Авалиани — 501 голос за, 4026 — против). Съезд впервые избрал ЦК КПСС без кандидатов в члены, только из членов, в составе 412 человек.
В августе 1991 г. ряд членов руководящих членов КПСС участвовал в деятельности ГКЧП.
Деятельность КПСС была приостановлена 23 августа 1991 года, её имущество конфисковано, здания партийных организаций опечатаны[15]. Партия была запрещена в России 6 ноября 1991 года указом Президента РСФСР Б. Н. Ельцина[16]. Однако, согласно ст. 22 Закона СССР от 9 октября 1990 года «Об общественных объединениях» принятие решения о ликвидации общесоюзной политической партии находилось в компетенции Верховного суда СССР[17]. Уже на следующий день после запрета КПСС возникло движение «Трудовая Россия», 23 ноября — «Российская Коммунистическая Рабочая Партия», 14 декабря — «Российская Партия Коммунистов». Некоторые члены КПСС, в том числе руководящие работники партии, не согласились с запретом КПСС и не вошли в новообразованные партии и общественные объединения, продолжив партийную деятельность от лица КПСС. По сути, появилось неопределённое число полуподпольных организаций со старым названием «КПСС».
13 июня 1992 года было проведено совещание членов ЦК КПСС, конституировавшее себя как пленум ЦК КПСС. В его работе приняли участие 46 из более 400 членов прежнего ЦК. Пленум исключил из рядов КПСС М. С. Горбачева «за развал партии и государства и предательство интересов трудового народа», распустил Политбюро и Секретариат ЦК КПСС «как не обеспечившие руководство партией» и создал Оргкомитет по подготовке XX партконференции и XXIX съезда КПСС во главе с членом ЦК КПСС К. А. Николаевым.
10 октября 1992 года в Москве прошла XX Всесоюзная конференция КПСС, собравшая делегатов из 13 республиканских партий бывшего СССР и большинства регионов России. Конференция рассмотрела проекты новой Программы и Устава КПСС и приняла решение о подготовке XXIX съезда КПСС[18].
30 ноября 1992 года Конституционный суд РФ признал незаконным роспуск всей партии, законным был признан только лишь роспуск руководящих структур КПСС и руководящих структур её российской республиканской организации — КП РСФСР.
26 марта 1993 года был в Москве проведён XXIX съезд КПСС, на котором было решено преобразовать партию в Союз коммунистических партий — Коммунистическая партия Советского Союза[19], российской секцией которой стала Коммунистическая партия Российской Федерации (воссозданная КП РСФСР). Одновременно была произведена реформа СКП—КПСС — Центральный Комитет КПСС был заменён Советом СКП—КПСС, Секретариат ЦК КПСС Центральным Исполнительным Комитетом СКП—КПСС.
Продолжили существовать и другие организации и партийные группы, как правило, возглавляемые бывшими членами старой советской КПСС, сохранившие наименование «КПСС», но не вошедшие в СКП-КПСС. Кроме того, с начала 90-х неоднократно появлялись новые партии, которые объявляли себя преемниками КПСС либо сохраняли старое наименование или давали партии новое название с аббревиатурой КПСС[20].
Дело КПСС
В ноябре 1992 года Конституционный суд России принял постановление по «делу КПСС»[21]. Суд посчитал не соответствующими Конституции предписание Президента провести расследование фактов антиконституционной деятельности КП РСФСР и национализации собственности КПСС. Конституционными были признаны приостановка деятельности органов и организаций КП РСФСР и роспуск руководящих структур КПСС и КП РСФСР (но не оргструктур первичных парторганизаций, образованных по территориальному принципу).
Суд констатировал, что в лице Коммунистической партии Советского Союза в СССР господствовал режим неограниченной, опирающейся на насилие власти сравнительно небольшой группы партийных функционеров во главе с Политбюро ЦК КПСС под руководством Генерального секретаря. Высшие руководящие органы и должностные лица КПСС «действовали в подавляющем большинстве случаев втайне от рядовых членов КПСС, а нередко — и от ответственных партийных руководителей более низкого уровня и лиц партийного аппарата. На нижестоящих уровнях управления вплоть до района реальная власть принадлежала первым секретарям соответствующих партийных комитетов. Лишь на уровне первичных организаций КПСС имела черты общественного объединения, хотя производственный принцип формирования этих организаций ставил членов КПСС в зависимость от их руководства, тесно связанного с администрацией»[22]. Руководящие структуры КПСС были инициаторами, а структуры на местах — исполнителями «политики репрессий в отношении миллионов советских людей, в том числе в отношении депортированных народов»[22].
Период правления КПСС характеризовался сращиванием аппаратов государственной власти и управления с аппаратом коммунистической партии[23]. Руководящие структуры КПСС «присвоили государственно-властные полномочия и активно их реализовывали, препятствуя нормальной деятельности конституционных государственных органов»[22]. Руководители КПСС и работники её аппарата самостоятельно и, как правило, в нарушение действующего законодательства решали многие вопросы, входящие в компетенцию соответствующих органов государственной власти и управления. Благодаря фактическому и, во многих случаях, юридическому подчинению себе всех институтов государства, КПСС обладала надгосударственным суверенитетом в рамках советской государственной системы, ставившим КПСС над законом: её деятельность была неподнадзорна органам прокуратуры, в отношении имущества КПСС не осуществлялся финансовый контроль государства, имели место случаи неосновательного обогащения партии за счёт государства в нарушение союзного и республиканского законодательства[22].
Решение российского государственного руководства о ликвидации руководящих структур КПСС было продиктовано объективной необходимостью исключить возврат к прежнему положению и ликвидировать структуры, повседневная практика которых была основана на том, что КПСС занимала в государственном механизме положение, не согласующееся с основами конституционного строя страны и республик Союза ССР[22].
Членство
Для вступления в КПСС требовались рекомендации двух членов партии (с партийным стажем не менее года). После одобрения этих рекомендаций беспартийный становился кандидатом в члены КПСС и ему выдавалась кандидатская карточка.
Количество требуемых рекомендаций изменялось исторически, а также (в 1920—1930-е годы) могло зависеть от социальной принадлежностии (две рекомендации, три, пять). Мог изменяться и срок кандидатского стажа (один год, два, три).
Все члены партии и кандидаты были обязаны ежемесячно платить партийные взносы. Отметки об уплате членских взносов указывались в Партийном билете.
В 1917 году численность РКП(б) составляла 350 тыс. чел. После смерти Ленина в 1924 был проведён массовый набор в партию рабочих («ленинский призыв»).
В 1923 году партия насчитывала 386 тыс. чел., в 1924 году 735 тыс. чел., в 1927 году 1 236 тыс., в 1930 году 1 971 тыс., в 1934 — 2 809 тыс. чел. Исследователь Маслов Н. Н. указывает, что за период 1920—1929 гг. численность рабочего класса за счёт восстановления промышленности до довоенного уровня выросла в 5 раз, в первую очередь за счёт деклассированной крестьянской молодёжи. На 1927—1929 гг. каждый седьмой рабочий не умел читать и писать.
В 1937 году численность членов ВКП(б) составляла 1 453 828 человек[10].
По своему социальному составу на 1 января 1973 года 40,7 % членов КПСС являлись заводскими рабочими, 14,7 % — колхозниками[10].
Так как государственная идеология утверждала, что КПСС является партией трудового народа, при наборе новых членов партия старалась выдержать квоту, сохраняя в своих рядах определённый процент рядовых колхозников и заводских рабочих.
В связи с большой численностью партии, абсолютное большинство членов партии состояло из рядовых коммунистов.
В марте 1990 года, с принятием нового Устава КПСС (последнего в её истории) на пленуме ЦК КПСС, кандидатский стаж в КПСС, составлявший на тот момент 1 год, был полностью отменён — для упрощения порядка приёма новых членов. Все кандидаты были автоматически переведены в члены партии. Причина состояла в том, что к тому моменту среди партийных интеллектуалов уже наметилась тенденция к выходу из КПСС. До 1961 года кандидатский стаж составлял 1 год для 1 категории (промышленные рабочие со стажем более 5 лет) и 2 года для всех прочих, кроме выходцев из других партий, для которых он был 3 года, с 1961 1 год.
На 1 января 1991 года численность членов КПСС составляла 16 516 066 членов и кандидатов в члены КПСС (согласно данным поданным в Минюст СССР при регистрации КПСС, они же опубликованы[24]).
Особенностью КПСС являлась её организационная структура. В состав КПСС входили коммунистические партии четырнадцати из пятнадцати республик СССР, при этом крупнейшая из республик, РСФСР, не имела собственной компартии, и партийные организации на её территории подчинялись общесоюзным органам КПСС. Коммунистическая партия РСФСР была образована только в 1990 году, однако после августовского путча была запрещена указом президента РСФСР; восстановлена как КПРФ в 1993 году.
Организационная структура
В состав входили 14 правящих республиканских Коммунистических партий СССР: до июня 1990 года РСФСР оставалась единственной республикой Советского Союза, не имевшей республиканской компартии, которая базировалась на Центральной структуре КПСС. В 1940—1956 гг. существовала КП Карело-Финской ССР.
Структура
Центральные органы
Высшим органом КПСС являлся съезд партии, который изначально созывался ежегодно, но после 1925 года съезды стали нерегулярными: был даже промежуток в 13 лет (1939—1952 годы), между съездами — Центральный комитет, избирался Съездом, между заседаниями Центрального комитета — Политическое бюро Центрального комитета (до 1919 года — Бюро Центрального комитета, в 1952—1966 — Президиум Центрального комитета), избиралось Центральным комитетом, высший исполнительный орган — Секретариат Центрального комитета, избирался Центральным комитетом, высшее должностное лицо — Генеральный секретарь Центрального комитета (до 1919 г. — Председатель Центрального комитета, в 1919—1922 гг. — Ответственный секретарь Центрального комитета, в 1934—1953 гг. — должность отсутствовала[25], в 1953—1966 гг. — Первый секретарь Центрального комитета), избирался Центральным комитетом, высший контрольный орган — Комитет партийного контроля (в 1962—1965 гг. — Комитеты партийно-государственного контроля, в 1934—1952 гг. — Комиссия партийного контроля, в 1920—1934 гг. — Центральная контрольная комиссия), избиралась Центральным комитетом, высший аудиторский орган — Центральная ревизионная комиссия, избиралась съездом.
Съезды были важнейшими событиями в её жизни, во время которых определялись основные направления политики партии и формировались составы её высших органов. Всего было проведено 28 съездов. Первым считается учредительный съезд Российской социал-демократической рабочей партии в Минске (1898), последним — 28-й съезд КПСС в Москве в 1990 году. Согласно уставу, высшую руководящую роль в Партии должен был играть съезд партии, но фактически, после запрета в 1921 году внутрипартийных фракций и групп, высшую руководящую силу получил сначала Центральный комитет и Политическое бюро Центрального комитета, а с 1924 г. — Генеральный секретарь ЦК, ставший де-факто главой СССР.
Республиканские органы
Высшие органы коммунистических партий союзных республик — съезды, избирались областными конференциями (в союзных республиках не имевших областного деления — районными конференциями), между съездами — центральные комитеты, избирались съездами, между заседаниями центральных комитетов — политические бюро центральных комитетов, избирались центральными комитетами, исполнительные органы — секретариаты центральных комитетов, избирались центральными комитетами, высшие должностные лица — первые секретари центральных комитетов, избирались центральными комитетами.
Местные органы
Коммунистические партии союзных республик состояли из областных организаций (до 1928 года — губернских организаций) по одной на область или край и городских организаций городов республиканского подчинения по одной на город республиканского подчинения, областные организации из районных организаций (до 1930 года — окружных организаций, до 1928 года — уездных организаций) по одной на район и городских организаций городов областного подчинения по одной на город областного подчинения, городские организации из районных организаций районов в городах по одной на район в городе, уездные организации до 1928 года делились на волостные организации, районные организации и городские организации городов областного подчинения не имевших районного деления состояли из первичных организаций (до 1934 года — на партийные ячейки) по одной на предприятие, по одной на часть Советской Армии и по одной на сельский комитет и (с 1972 г.) на домоуправление, первичные организации предприятий состоявшие более чем из 50 членов состояли из цеховых организаций (до 1934 года из цеховых ячеек) по одной на цех, первичные организации состоящие менее чем из 50 членов и цеховые организации состояли с 1972 года из партийных групп по одной на бригаду и звено.
Высшие органы областных организаций — областные конференции (до 1928 г. — губернские конференции), избирались районными конференциями, между областными конференциями — областные комитеты (до 1928 г. — губернские комитеты), избирались областными конференциями, между заседаниями областные комитетов — бюро областных комитетов (до 1928 г. — бюро губернских комитетов) избирались областными комитетами, исполнительные органы — секретариаты областных комитетов (до 1928 г. — секретариаты губернских комитетов), избирались областными комитетами, высшие должностные лица — первые секретари областных комитетов (до 1930 г. — ответственные секретари областных комитетов, до 1928 г. — ответственные секретари губернских комитетов, до 1920 г. — председатели губернских комитетов), избирались областными комитетами.
Высшие органы районных организаций — районные конференции (до 1928 г. — уездные конференции, до 1934 года в большинстве районов их функции выполняли общие собрания), избирались партийными собраниями, между районными конференциями — районные комитеты (до 1928 г. уездные комитеты), избирались районными конференциями, между заседаниями районного комитета — бюро районных комитетов (до 1928 г. — бюро уездных комитетов), избирались районными комитетами, исполнительные органы — секретариаты районных комитетов (до 1928 г. — секретариаты уездных комитетов), избирались районными комитетами, высшие должностные лица — первые секретари районных комитетов (до 1930 г. — ответственные секретари окружных комитетов, до 1928 г. — ответственные секретари уездных комитетов, до 1920 г. — председатели уездных комитетов), избирались районными комитетами.
Высшие органы городских организаций — городские конференции, избирались партийными собраниями (в городах с районным делением — районными конференциями), между городскими конференциями — городские комитеты, избирались городскими конференциями, между заседаниями городских комитетов — бюро городских комитетов, избирались городскими комитетами, исполнительные органы — секретариаты городских комитетов, избирались городскими комитетами, высшие должностные лица — первые секретари городских комитетов (до 1930 г. — ответственные секретари городских комитетов, до 1920 г. — председатели городских комитетов), избирались городскими комитетами.
Высшие органы волостных организаций — общие собрания (в крупных волостных организациях — волостные конференции, избиравшиеся общими собраниями ячеек), между общими собраниями или волостными конференциями — волостные комитеты, избиравшиеся общими собраниями или волостными конференциями, высшие должностные лица — ответственные секретари волостных комитетов (до 1920 г. — председатели волостных комитетов), избирались общими собраниями или волостными конференциями.
Высшие органы первичных организаций — партийные собрания, между партийными собраниями — партийные бюро (в первичных организациях состоящих менее чем из 15 членов — секретарь партийной организации (до 1972 года — партийные организаторы[26]) и заместитель секретаря партийной организации, в первичных организациях заводов состоящих более чем из 300 членов (в первичных организациях колхозов и совхозов — более чем из 50 членов) — партийные комитеты, до 1972 года партийные комитеты существовали во всех первичных партийных организациях объединяющих более 15 членов), избирались партийными собраниями, высшие должностные лица — секретари первичных организаций (до 1972 года — секретари партийных комитетов, до 1934 года — секретари партийных ячеек), избирались партийными собраниями.
Высшие органы цеховых организаций — партийные собрания, между партийными собраниями — партийные бюро (в цеховых организациях состоящих менее чем из 15 членов — секретарь партийной организации и заместитель секретаря партийной организации, до 1972 года во всех цеховых организациях — партийные организаторы), избирались партийными собраниями, высшие должностные лица — секретари цеховых организаций, избирались партийными собраниями.
Высшие органы партийных групп — партийные собрания, между партийными собраниями — групповые организаторы, избираемые партийными собраниями.
В самых маленьких партийных ячейках секретари являлись действующими работниками соответствующих заводов, поликлиник, школ и т. д. Крупные ячейки возглавлялись «освобождённым секретарём», получавшим заработную плату из бюджета партии.
Партийный аппарат
Во всех партийный комитетах (цеховых, районных, окружных, городских, областных, краевых, центральных комитетах республиканских компартий и Центральном Комитете КПСС) существовала одинаковая структура партийного аппарата:
инструкторы
секторы
отделы
секретари
бюро
Особое положение занимал ЦК КПСС, который обладал более сложной и более часто меняющейся структурой отделов, чем нижестоящие комитеты. Так, в ЦК КПСС, помимо отделов, существовали управления, комиссии и обособленные структурные подразделения, а сами отделы были организованы не только по отраслевому, но и по территориальному признаку — например, существовал Отдел лёгкой и пищевой промышленности ЦК КПСС по РСФСР. К 1991 году структура аппарата ЦК КПСС приняла следующий вид:
отдел ЦК КПСС по связям с общественно-политическими организациями
государственно-правовой отдел ЦК КПСС
отдел ЦК КПСС по законодательным инициативам и правовым вопросам
отдел национальной политики ЦК КПСС
отдел аграрной политики ЦК КПСС
оборонный отдел ЦК КПСС
международный отдел ЦК КПСС
организационный отдел ЦК КПСС
гуманитарный отдел ЦК КПСС
идеологический отдел ЦК КПСС
отдел социально-экономической политики ЦК КПСС
общий отдел ЦК КПСС
Управление делами ЦК КПСС
Всего в 1917—1991 гг. в аппарате ЦК КПСС существовали следующие подразделения:
Агитационно-пропагандистский отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1920—1928)
Аграрный отдел ЦК КПСС (1988—1990)
Административный отдел ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1953)
Административный отдел ЦК КПСС (1954 —)
Государственно-правовой отдел ЦК КПСС (1988—1990)
Гуманитарный отдел ЦК КПСС (1990—1991)
Идеологический отдел ЦК КПСС (1962—1965)
Идеологический отдел ЦК КПСС (1988—1991)
Идеологический отдел ЦК КПСС по промышленности РСФСР (1962—1964)
Идеологический отдел ЦК КПСС по сельскому хозяйству РСФСР (1962—1964)
Издательский отдел ЦК РКП(б) (1919 —)
Иностранный отдел ЦК ВКП(б) (1943 —)
Инспекторско-разъездной отдел ЦК РКП(б) (1919—1920)
Информационно-статистический отдел ЦК РКП(б) (1919—1920)
Информационный отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1924—1930)
Международный отдел ЦК КПСС (1988—1991)
Международный отдел ЦК КПСС по связям с коммунистическими партиями капиталистических стран (1957—1988)
Оборонный отдел ЦК КПСС (1988—1991)
Общий отдел ЦК РКП(б) (1919)
Общий отдел ЦК КПСС (1953—1991)
Организационно-инструкторский отдел ЦК РКП(б) (1919—1924)
Организационно-инструкторский отдел ЦК ВКП(б) (1930—1934)
Организационно-инструкторский отдел ЦК ВКП(б) (1939—1946)
Организационно-распределительный отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1924—1930)
Организационный отдел ЦК КПСС (1990—1991)
Отдел агитации Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1939—1947)
Отдел агитации и массовых кампаний ЦК ВКП(б) (1930—1934)
Отдел агитации, пропаганды и печати ЦК ВКП(б) (1928—1930)
Отдел агитационно-массовой работы Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1947—1948)
Отдел административно-хозяйственных и профсоюзных кадров ЦК ВКП(б) (1930—1934)
Отдел административных и торгово-финансовых органов ЦК КПСС (1953—1954)
Отдел административных и торгово-финансовых органов ЦК КПСС по РСФСР (1956—1962)
Отдел административных органов ЦК КПСС ( — 1988)
Отдел административных органов ЦК КПСС по РСФСР (1962—1966)
Отдел бумажной промышленности Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1945—1947)
Отдел внешней политики ЦК ВКП(б) (1945—1948)
Отдел внешнеполитической пропаганды ЦК КПСС (1978—1982)
Отдел внешних сношений ЦК ВКП(б) (1948—1949)
Отдел высших учебных заведений Управления кадров ЦК ВКП(б) ( — 1948)
Отдел единого партбилета и партийной статистики Управления по проверке партийных органов ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Отдел естественных и технических наук и высших учебных заведений ЦК ВКП(б) — КПСС (1952—1953)
Отдел заграничных кадров ЦК КПСС (1965—1973)
Отдел здравоохранения, социального обеспечения и физической культуры ЦК КПСС (1962)
Отдел издательств Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1945—1947)
Отдел информации ЦК РКП(б) (1920—1921)
Отдел информации ЦК КПСС (1958—1959)
Отдел информации ЦК КПСС (1965—1968)
Отдел искусств Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1947—1948)
Отдел истории партии ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1920—1928)
Отдел кадров дипломатических и внешнеторговых органов ЦК ВКП(б) — КПСС (1949—1962)
Отдел кадров дипломатических и внешнеэкономических органов ЦК КПСС (1962—1965)
Отдел кадров Наркомата обороны Управления кадров ЦК ВКП(б) (1940)
Отдел кадров партийных органов Управления кадров ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Отдел кадров советских органов Управления кадров ЦК ВКП(б) (1946—1947)
Отдел кадров тяжёлого машиностроения Управления кадров ЦК ВКП(б) (1939—1944)
Отдел кадров угольной промышленности Управления кадров ЦК ВКП(б) (1941—1948)
Отдел кадров чёрной металлургии Управления кадров ЦК ВКП(б) (1940—1943)
Отдел кинематографии Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1943—1947)
Отдел кинематографии Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1948)
Отдел культурно-просветительских учреждений Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1939—1948)
Отдел культурно-просветительской работы ЦК ВКП(б) (1935—1939)
Отдел культуры ЦК КПСС (1955—1962)
Отдел культуры ЦК КПСС (1965—1988)
Отдел культуры и пропаганды ЦК ВКП(б) (1930—1934)
Отдел культуры и пропаганды ленинизма ЦК ВКП(б) (1934—1935)
Отдел лёгкой и пищевой промышленности ЦК КПСС (1958—1962)
Отдел лёгкой и пищевой промышленности ЦК КПСС (1965—1983)
Отдел лёгкой и пищевой промышленности ЦК КПСС по РСФСР (1962)
Отдел лёгкой, пищевой промышленности и торговли ЦК КПСС (1962—1965)
Отдел лёгкой, пищевой промышленности и торговли ЦК КПСС по РСФСР (1962—1966)
Отдел лёгкой и пищевой промышленности ЦК КПСС (1965—1983)
Отдел лёгкой промышленности и товаров народного потребления ЦК КПСС (1983—1988)
Отдел лесной и бумажной промышленности Управления кадров ЦК ВКП(б) (1946—1947)
Отдел литературы Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1947—1948)
Отдел марксистко-ленинской подготовки и переподготовки партийных кадров Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1939—1947)
Отдел машиностроения ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1952)
Отдел машиностроения ЦК КПСС (1954—1988)
Отдел машиностроения ЦК КПСС по РСФСР (1962—1966)
Отдел международной информации ЦК КПСС (1982—1986)
Отдел международной политики ЦК ВКП(б) (1943—1945)
Отдел местных газет Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1945—1948)
Отдел науки Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1942—1948)
Отдел науки, высших учебных заведений и школ ЦК КПСС (1955—1962)
Отдел науки и высших учебных заведений ЦК ВКП(б) (1950—1952)
Отдел науки и культуры ЦК КПСС (1953—1955)
Отдел науки и учебных заведений ЦК КПСС (1965—1988)
Отдел науки и учебных заведений ЦК КПСС по РСФСР (1964—1966)
Отдел науки, научно-технических изобретений и открытий ЦК ВКП(б) (1935 —)
Отдел науки, школ и культуры ЦК КПСС по РСФСР (1956—1962)
Отдел национальной политики ЦК КПСС (1990—1991)
Отдел оборонной промышленной ЦК КПСС (1954—1988)
Отдел организационно-партийной работы ЦК КПСС (1965—1988)
Отдел организационно-партийной работы ЦК КПСС по РСФСР (1965—1966)
Отдел партийного строительства и кадровой политики ЦК КПСС (1988—1990)
Отдел партийной информации Управления по проверке партийных органов ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Отдел партийной пропаганды Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1939—1948)
Отдел партийной пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1935—1938)
Отдел партийных органов ЦК КПСС по РСФСР (1954—1962)
Отдел партийных органов ЦК КПСС по РСФСР (1964—1965)
Отдел партийных органов ЦК КПСС по промышленности РСФСР (1962—1964)
Отдел партийных органов ЦК КПСС по сельскому хозяйству РСФСР (1962—1964)
Отдел партийных органов ЦК КПСС по союзным республикам (1954—1965)
Отдел партийных, профсоюзных и комсомольских органов ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1954)
Отдел печати Управления кадров ЦК ВКП(б) (1947)
Отдел печати Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1939—1947)
Отдел печати ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1924—1928)
Отдел печати и издательств ЦК ВКП(б) (1935—1938)
Отдел писем ЦК КПСС (1978—1985)
Отдел плановых и финансовых органов ЦК КПСС (1965—1982)
Отдел по авиационному моторостроению Управления кадров ЦК ВКП(б) (1930—1934)
Отдел ЦК КПСС по вопросам работы Президиума Верховного Совета СССР (1963—1965)
Отдел ЦК КПСС по законодательным инициативам и правовым вопросам (1990—1991)
Отдел по организационно-уставным вопросам Управления по проверке партийных органов ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Отдел ЦК КПСС по промышленности, перерабатывающей сельскохозяйственное сырьё (1962—1965)
Отдел ЦК РКП(б) по работе в деревне (1919—1921)
Отдел ЦК ВКП(б) по работе в деревне (1928—1930)
Отдел ЦК КПСС по работе с заграничными кадрами и выездам за границу (1973—1988)
Отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) по работе среди женщин (1919—1926)
Отдел ЦК КПСС по руководству делом подбора и распределения кадров во всех партийных, общественных и государственных органах (1952—1955)
Отдел ЦК КПСС по связям с зарубежными коммунистическими партиями (1953—1957)
Отдел ЦК КПСС по связям с коммунистическими и рабочими партиями социалистических стран (1957—1988)
Отдел ЦК КПСС по связям с коммунистическими партиями (1953—1957)
Отдел ЦК КПСС по связям с общественно-политическими организациями (1990—1991)
Отдел ЦК КПСС по экономическому сотрудничеству с социалистическими странами (1962—1965)
Отдел полиграфии и бумаги Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1942—1945)
Отдел полиграфической промышленности Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1945—1947)
Отдел промышленности вооружения Управления кадров ЦК ВКП(б) ( — 1948)
Отдел промышленности по переработке сельскохозяйственного сырья и торговли ЦК КПСС по РСФСР (1962—1964)
Отдел промышленности товаров широкого потребления и продовольственных товаров ЦК КПСС (1954—1958)
Отдел пропагандистских групп Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1942—1947)
Отдел пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1956)
Отдел пропаганды и агитации ЦК КПСС (1965—1988)
Отдел пропаганды и агитации (устной и печатной) ЦК ВКП(б) (1938—1939)
Отдел пропаганды и агитации ЦК КПСС по РСФСР (1956—1962)
Отдел пропаганды и агитации ЦК КПСС по РСФСР (1964—1966)
Отдел пропаганды и агитации ЦК КПСС по союзным республикам (1956—1962)
Отдел пропаганды марксизма-ленинизма в вузах Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1942—1947)
Отдел работниц и крестьянок ЦК ВКП(б) (1926—1930)
Отдел радиовещания и радиофикации Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1944—1947)
Отдел радиофикации и радиовещания Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1948)
Отдел руководящих партийных органов ЦК ВКП(б) (1934—1939)
Отдел самолётостроения Управления кадров ЦК ВКП(б) (1946)
Отдел сельского хозяйства и пищевой промышленности ЦК КПСС (1983—1988)
Отдел сельскохозяйственного машиностроения ЦК КПСС (1980—1985)
Отдел социально-экономической политики ЦК КПСС (1990—1991)
Отдел среднего машиностроения Управления кадров ЦК ВКП(б) (1939—1943)
Отдел строительства ЦК КПСС (1954—1988)
Отдел строительства ЦК КПСС по РСФСР (1962—1966)
Отдел торговли и бытового обслуживания ЦК КПСС (1965—1988)
Отдел торгово-финансовых и плановых органов ЦК КПСС (1954—1962)
Отдел торговых и финансовых органов ЦК КПСС (1962)
Отдел транспорта и связи ЦК КПСС (1954—1988)
Отдел тяжёлой промышленности ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1952)
Отдел тяжёлой промышленности ЦК КПСС (1954—1983)
Отдел тяжёлой промышленности и энергетики ЦК КПСС (1983—1988)
Отдел тяжёлой промышленности, транспорта и связи ЦК КПСС по РСФСР (1962—1966)
Отдел философских и правовых наук и высших учебных заведений ЦК ВКП(б) — КПСС (1952—1953)
Отдел химической промышленности ЦК КПСС (1962—1988)
Отдел художественной литературы Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1943—1948)
Отдел художественной литературы и искусства ЦК ВКП(б) — КПСС (1950—1953)
Отдел цветной металлургии Управления кадров ЦК ВКП(б) (1939—1943)
Отдел центральных газет Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1947—1948)
Отдел школ ЦК ВКП(б) (1935—1946)
Отдел школ Управления пропаганды и агитации ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Отдел школ ЦК ВКП(б) — КПСС (1950—1956)
Отдел экономических и исторических наук и высших учебных заведений ЦК ВКП(б) — КПСС (1952—1953)
Планово-торгово-финансовый отдел ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1953)
Планово-финансово-торговый отдел ЦК ВКП(б) (1934—1939)
Политико-административный отдел ЦК ВКП(б) (1934—1939)
Производственный отдел партийных издательств Управления делами ЦК КПСС (1989)
Промышленно-транспортный отдел ЦК КПСС (1952—1954)
Промышленно-транспортный отдел ЦК КПСС по РСФСР (1956—1962)
Промышленный отдел ЦК ВКП(б) (1934 —)
Распределительный отдел ЦК ВКП(б) (1930)
Секретно-оперативный отдел ЦК РКП(б) (1920—1921)
Секретный отдел ЦК ВКП(б) (1926—1934)
Сельскохозяйственный отдел ЦК ВКП(б) (1932—1946)
Сельскохозяйственный отдел ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1954)
Сельскохозяйственный отдел ЦК КПСС (1965—1983)
Сельскохозяйственный ЦК КПСС по РСФСР (1954—1966)
Сельскохозяйственный отдел ЦК КПСС по союзным республикам (1954—1965)
Социально-экономический отдел ЦК КПСС (1988—1990)
Статистический отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1921—1930)
Транспортный отдел ЦК ВКП(б) (1934 —)
Транспортный отдел ЦК ВКП(б) (1942—1946)
Транспортный отдел ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1952)
Учётно-распределительный отдел ЦК РКП(б) (1919—1924)
Учётный отдел ЦК ВКП(б) (1932—1934)
Учётный отдел Управления кадров ЦК ВКП(б) (1946—1948)
Финансово-бюджетный отдел Управления делами ЦК КПСС (1989)
Финансовый отдел ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1919—1927)
Школьно-просветительный отдел ЦК РКП(б) (1919)
Экономический отдел ЦК КПСС (1982—1988)
Особый сектор ЦК ВКП(б) — КПСС (1934—1953)
Главное управление специальной службы при ЦК ВКП(б) — КПСС (1949—1953)
Внешнеполитическая комиссия ЦК ВКП(б) — КПСС (1949—1952)
Идеологическая комиссия ЦК КПСС (1958—1966)
Идеологическая комиссия ЦК КПСС (1988—1990)
Комиссия по выездам за границу при ЦК ВКП(б) — КПСС (1950—1960)
Комиссия по выездам за границу при ЦК КПСС (1967—1973)
Комиссия ЦК КПСС по вопросам аграрной политики (1988—1990)
Комиссия ЦК КПСС по вопросам международной политики (1988—1990)
Комиссия ЦК КПСС по вопросам партийного строительства и кадровой политики (1988—1990)
Комиссия ЦК КПСС по вопросам правовой политики (1988—1990)
Комиссия ЦК КПСС по вопросам социально-экономической политики (1988—1990)
Комиссия ЦК КПСС по организационным и партийным вопросам (1962—1965)
Комиссия ЦК КПСС по связям с иностранными коммунистическими партиями (1952—1953)
Постоянная идеологическая комиссия ЦК КПСС (1990—1991)
Постоянная комиссия ЦК КПСС по аграрной политике (1990—1991)
Постоянная комиссия ЦК КПСС по вопросам женщин и семьи (1990—1991)
Постоянная комиссия ЦК КПСС по национальной политике (1990—1991)
Постоянная комиссия ЦК КПСС по обновлению деятельности первичных партийных организаций (1990—1991)
Постоянная комиссия ЦК КПСС по проблемам международной политики (1990—1991)
Постоянная общественно-политическая комиссия ЦК КПСС (1990—1991)
Постоянная социально-экономическая комиссия ЦК КПСС (1990—1991)
Центральный архив материалов о кадрах ЦК ВКП(б) — КПСС (1948—1953)
Центр обработки информации при Отделе торгово-финансовых и плановых органов — Экономическом — Социально-экономическом отделе — Отделе Социально-экономической политики ЦК КПСС (1970—1991)
Институт В. И. Ленина при ЦК РКП(б) — ВКП(б) (1923—1931)
Институт К. Маркса и Ф. Энгельса при ВЦИК — ЦИК СССР (1921—1931)
Институт Маркса-Энгельса-Ленина при ЦК ВКП(б) — КПСС (1931—1953)
Институт Маркса-Энгельса-Ленина-Сталина при ЦК КПСС (1953—1956)
Институт марксизма-ленинизма при ЦК КПСС (1956—1991)
Газета «Правда» (1917—1991)
Партийный контроль
КПСС в государственных и общественных институтах СССР
Силовые ведомства
Руководство КПСС уделяло особое внимание своим государственным силовым ведомствам. В частности, в обязанности Комитета государственной безопасности СССР (КГБ СССР) входила охрана руководителей КПСС и Правительства СССР, организация и обеспечение правительственной связи, а также борьба с национализмом, инакомыслием и антисоветской деятельностью. Также в задачу КГБ входило обеспечение Центрального комитета КПСС и высших органов государственной власти и управления СССР информацией, затрагивающей государственную безопасность и оборону страны, социально-экономическое положение в Советском Союзе и вопросы внешнеполитической и внешнеэкономической деятельности советского государства и коммунистической партии. Официальный девиз КГБ — «Верность партии — верность Родине» — означал, что верность партии — это верность Советской Родине. Все сотрудники КГБ были обязаны с ранних лет быть членами комсомола (ВЛКСМ) и Коммунистической партии Советского Союза[27].
Партийный контроль также был на государственном уровне в советской армии, в частности, Министерство обороны СССР выдавало призывникам военные билеты, где обязательными пунктами указывалось членство в партии и комсомоле. Местные комитеты комсомола, где был закреплён комсомолец, (член ВЛКСМ), выдавали комсомольские путёвки для прохождения срочной военной службы. В каждой воинской части и военных учебных заведениях существовали партийные и комсомольские ячейки, замполиты и политруки (заместители командиров по идеологической и воспитательной работе с личным составом). В частях находились партийные комнаты (красный уголок). Офицерский состав был обязан состоять в партии. Аналогичный партийный контроль был в управлениях и отделениях МВД СССР[28][29][30].
Законодательные органы власти
Молодёжные организации КПСС
Для воспитания будущих строителей коммунизма в духе идей марксизма-ленинизма и патриотизма к Советской родине на государственном уровне существовала детская Всесоюзная пионерская организация и молодёжная комсомольская организация ВЛКСМ (комсомол), деятельность которых носила государственный и всеохватывающий характер. Пионерские дружины существовали в каждой школе, приём осуществлялся с 9 лет. До пионерской организации дети с 7 лет принимались пионерами в младшие группы октябрят[31].
В средних образовательных учреждениях дружины пионерской организацией делились: «школа — дружина», «класс — отряд». Как правило, пионерские дружины носили имена героев. Пионерская организация бесплатно, массово обеспечивала советских детей внешкольным досугом с помощью всевозможных тематических кружков, клубов и Дворцов пионеров. Школьные пионерские отряды делились на звенья по 4-7 пионеров в каждом, члены звеньев оказывали друг другу взаимопомощь в учёбе, звенья, отряды и дружины соревновались друг с другом за лучшие показатели в учёбе, поведении, сборе металлолома и макулатуры и т. д.
Большое внимание партия уделяла оздоровлению подрастающего поколения. Летом пионеры направлялись в загородные пионерские лагеря, созданные по типу санаторно-курортного летнего отдыха. Пионеры брали шефство над юными октябрятами.
С 14 лет пионеры принимались в комсомол (молодёжную организацию ВЛКСМ). После окончания школы и поступления комсомольца в среднее профессиональное, специальное, техническое или высшее учебное заведение (училище, техникум, институт) комсомолец закреплялся в местной комсомольской ячейке своего учебного заведения и участвовал в общественной и культурной деятельности.
В школах комсомольцы брали шефство над пионерами, из комсомольцев формировался вожатский состав в летние пионерские лагеря, строительные студенческие отряды. После окончания учебного заведения ВЛКСМ сохранял контроль и связь со своими членами. По прибытии на место работы комсомольцы ставились на учёт в местной комсомольской организации предприятия или учреждения[32].
Комсомольская ячейка наряду с партийной существовала на каждом предприятии, организации или учреждении. На предприятиях комсомольская ячейка была в каждом цехе. Работой комсомольских первичных ячеек осуществляли секретари и комсорги, избранные в её руководство на собраниях. Их деятельность находились на полном материальном обеспечении. Из работающих членов ВЛКСМ, в поддержку милиции для патрулирования улиц, формировались комсомольские отряды народных дружин (ДНД). Участие в ДНД материально поощрялось в виде дополнительных рабочих часов, премий, дней к отпуску по основному месту работы комсомольца. После достижения 28 лет комсомольская организация предоставляла служебную характеристику (официальный документ, содержащий оценку деловых и личных качеств человека) в партийную организацию КПСС, если комсомолец был готов продолжить своё общественное участие в жизни советского общества.
Партийные информационные издания
Официальным печатным органом ЦК КПСС являлась газета «Правда», одна из ведущих советских центральных газет, наряду с официальной газетой Верховного Совета «Известия» (полные названия в разные годы «Известия Советов рабочих, крестьянских и солдатских депутатов», «Известия Советов рабочих и крестьянских депутатов», «Известия Советов народных депутатов»), профсоюзной газетой «Труд» и другими газетами.
По образцу газеты «Правда» было образовано множество других популярных газет — газета комсомола «Комсомольская правда», пионерской организации «Пионерская правда», разнообразные региональные газеты (республиканские, областные, городские и проч.).
ЦК КПСС издавал также официальный журнал «Коммунист». Важную роль в системе государственной агитации занимало издание Всесоюзного общества «Знание» «Аргументы и факты».
Подготовка кадров
Подготовка кадров партийных работников производилась в сети Высших партийных школ, при республиканских ЦК. Общее методическое руководство осуществляла Высшая партийная школа при ЦК КПСС. Действовала очная и заочная формы обучения. Различались программы для учащихся уже имевших высшее образование и на базе среднего образования. Партийные школы готовили не только партийных, но и государственных руководителей.
Международное сотрудничество
После распада Международной организации Коминтерн координацией международного коммунистического движения занимался Международный отдел ЦК КПСС.
В филателии
Марка, посвящённая 50-летию КПСС
XX съезд КПСС, номинал 40 коп.
XX съезд КПСС, номинал 1 руб.
XXI съезд КПСС, номинал 40 коп.
XXI съезд КПСС, номинал 60 коп.
XXI съезд КПСС, номинал 1 руб.
XXII съезд КПСС: Вперёд к победе коммунизма
XXIII съезд КПСС
XXIV съезд КПСС
Почтовый блок СССР XXV съезд КПСС
Почтовый блок СССР XXVI съезд КПСС
К борьбе за дело Коммунистической партии — будь готов!
Преемники
Ряд организационных структур КПСС не признали законность запрета и отказали его исполнять, практически продолжая действовать нелегально.
Наиболее крупной из организаций-наследниц КПСС в форме является Союз коммунистических партий — Коммунистическая партия Советского Союза. 26-27 марта 1993 года в Москве состоялся съезд организации, объявленный XXIX съездом КПСС, участники которого объявили о преобразовании КПСС в СКП-КПСС. Лидером организации с 1993—2001 гг. являлся бывший секретарь ЦК КПСС Олег Шенин[12].
Организационная структура КПСС в РСФСР стала базой для создания Коммунистической партии Российской Федерации[33].
В 2001 г. СКП-КПСС раскололся на две части: 14 партий (из 19) переизбрало руководство, и председателем Совета СКП-КПСС стал Г. А. Зюганов. С 2018 г. в СКП-КПСС состоит 18 партий: из всех 15 союзных республик бывшего СССР, а также из непризнанных государств — Южной Осетии, Абхазии и Приднестровья.
Пять партий осталась под руководством О. С. Шенина. В 2004 г. сторонники Шенина объявили о преобразовании Союза компартий в единую КПСС, которая к 2013 г. раскололась на четыре части[19].
Кроме того, в 1990-е годы были созданы ещё несколько партий под названием КПСС и ВКПБ. По состоянию на 2 июня 2009 года ни одна из «КПСС» и «ВКПБ» не зарегистрирована Министерством юстиции Российской Федерации[34]. 18 июня 1998 года СКП-КПСС была официально зарегистрирована Министерством юстиции Республики Беларусь как общественная организация[19].
См. также
Большевизм
Устав КПСС
Многопартийность в СССР
Капиталы КПСС
Примечания
Литература
Андреев Г. Н. Не близнецы, но — братья. // Новый мир. — 1994. — № 4. — С. 185—189. — ISSN 0130-7673
, руководящих органов РКП(б)-ВКП(б)-КПСС, и по их членам. // «Известия ЦК КПСС» 1990. № 7.
Check date values in: |date= (help)
// Научный коммунизм: Словарь / Александров В. В., Амвросов А. А., Ануфриев Е. А. и др.; Под ред. А. М. Румянцева. — 4‑е изд., доп. — М.: Политиздат, 1983. — 352 с.
Месяц С. А. — М.: Открытое общество, 2001.
Список № 5 исключённых из РКП по Сибири // «Советская Сибирь», № 284 (644), 24 декабря 1921.
Лукашевич Д.А. Юридический механизм разрушения СССР. М., 2016. 448 с.
Ссылки
/ Составитель Буковский В. К.
// Encyclopædia Britannica
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Категория:Внутренняя политика СССР
Категория:Запрещённые политические партии
Категория:Всесоюзные организации | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%BE%D0%BC%D0%BC%D1%83%D0%BD%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%B8%D1%87%D0%B5%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F%20%D0%BF%D0%B0%D1%80%D1%82%D0%B8%D1%8F%20%D0%A1%D0%BE%D0%B2%D0%B5%D1%82%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B3%D0%BE%20%D0%A1%D0%BE%D1%8E%D0%B7%D0%B0 |
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الثلج أو تساقط الثلج{{#وسم:ref|قاموس المورد}} هو نوع من أنواع الهطول على شكل بلورات دقيقة للجليد تحدث في الفصل البارد لكنها لا تحدث في كل دول العالم. وتزداد غزارة الثلوج وكثافتها كلما اتجهنا قريباً من القطبين الجنوبي والشمالي.
تتم هذه الظاهرة عند التقاء تيارات هوائية رطبة ودافئة مع تيارات باردة تكون درجة حرارتها 12.5 تحت الصفر ويجب لتكون الثلج توفر نويات التكاثف التي يتكون عليها الثلج وهي عبارة عن جسيمات صلبة صغيرة جدا عالقة في الجو العلوي مثل ذرات الغبار أو الرماد وعند وجودها تتوفر الحالات الثلاث التي تمكن بخار الماء ليتحول من الحالة الغازية إلى الحالة الصلبة مكونا الثلج ويتم ذلك بتكاثف جزيئات الماء على النواة وعلى إثر التصاقها مع بعضها البعض يتم في العادة بناء بلورة الثلج وتكون في هذه المرحلة عبارة عن صفيحة رقيقة ذات ستة جوانب وعندما تسقط هذه البلورة بسبب ازدياد وزنها ترتفع درجة حرارتها فيتكاثف عليها قدر أكبر من جزيئات الماء وهكذا تنمو حيث يتفرع من الصفيحة البلورية ست أذرع وفي درجات حرارة أكبر بقليلا تذوب حواف البلورة قليلا وذلك لإتاحة فرصة الالتصاق مع البلورات الأخرى وبهذا تتكون الصفيحة الثلجية.
الثلج والأدب الإنساني
لطالما اتصفت صورة الثلج في ذهن الإنسان بالنقاء والعفة والطهارة وربما جاء هذا من لون الثلج الأبيض الناصع، فمثلا قصة بياض الثلج والأقزام السبعة كان اسم بطلة القصة وهي الفتاة الطيبة بيضاء الثلج. وفي أحيان أخرى يكون الثلج رمزا للموت البطيء والقاسي والذي جاء بطبيعة الحال بسبب ترافق الثلج مع تيارات باردة ومتجمدة ومع غياب للشمس وهبوط حاد لدرجات الحرارة.
الثلوج في العالم العربي
يلاحظ في الفترة الأخيرة انحسار حاد في كمية الثلوج المتساقطة في البلاد العربية خصوصا وفي العالم عموما وقد يرجح ذلك إلى ظاهرة الاحتباس الحراري. لكن المناطق التقليدية لتساقط الثلوج في العالم العربي هي الجبال بطبيعة الحال وخصوصا الجبال في شمال الوطن العربي. ومن هذه المناطق التي تشهد تساقطا سنويا للثلوج:
لبنان وخصوصا المناطق الجبلية.
كافة مناطق سوريا تقريبا وخصوصا الجبال سلاسل الجبال الساحلية في الشمال الغربي وفي سلاسل جبال الحرمون وفي جبل العرب في الجنوب مثل باستثناء الشريط الساحلي، وهضبة الجولان وجبل الشيخ وكافة الجبال المحيطة بدمشق مع الامتداد في جميع الاتجاهات والعديد من المناطق في حلب وشمال شرق سوريا.
ليبيا في منطقة الجبل الأخضر وخاصة مدينة البيضاء وضواحيها.
الأردن في أغلب مناطق المملكة وخاصه الجبال يكون التساقط كثيف ويتمركز في محافظة عجلون وشمال وغرب العاصمة والجبال المحيطة بالعاصمة وأيضا بمحافظة البلقاء ومحافظات الجنوب خاصه الرشاديه والشراه وعدة مناطق أخرى.
مناطق الجليل والضفة الغربية وأحيانا النقب في فلسطين.
السعودية بشكل مستمر في فصل الشتاء في المناطق الشمالية مثل تبوك خصوصا جبل اللوز وأحيانا في عرعر. وقد شهدت منطقة عسير هطولا نادرا للثلوج قبل عدة أعوام. كما تهطل الثلوج أحيانا في فصل الشتاء في منطقة الباحة وهطلت لأول مرة في فصل الصيف عام 2009 في بعض قرى منطقة الباحة في الحجاز.
في شمال العراق خصوصا المرتفعات والجبال مثل نينوى واربيل والسليمانية ودهوك وسنجار وكركوك كما تتساقط الثلوج ولكن بشكل غير منتظم في البادية وصحراء الحجارة غرب العراق[1].
مصر: جبال سيناء خاصة جنوب سيناء وبعض مدن وسط سيناء مثل نخل زنادرا مدن الساحل الشمالي المطلة على البحر الأبيض المتوسط.
جبال تونس وخصوصا عين دراهم وجل مناطق الشمال والوسط وحتى الجنوب أحيانا.
الجزائر; وخصوصا المناطق الداخلية كولاية سطيف وغيرها.
المغرب وخصوصا جبال الأطلس.
اليمن هطولات نادرة في المناطق الجبلية مثل ذمار وأب. السعودية- في الشمال.
الإمارات العربية المتحدة في جبل جيس برأس الخيمة هطلت كميات كثيفة من الثلوج في عامي 2009 و 2017 ووصلت درجة الحرارة في قمة الجبل إلى -5 درجات تحت الصفر.
صناعة الثلج
يوجد طرق كميائية لصناعة الثلج تعتمد على استخدام بعض الأملاح مثل الأزوتات وكلوريدات النشادر وكربونات الصودا التي تعمل على امتصاص الحرارة من الماء وتبريده حتى يتحول إلى ثلج
مصادر
وصلات خارجية
تصنيف:أشكال الماء
تصنيف:ثلوج
تصنيف:جليد
تصنيف:علم المناخ
تصنيف:هطول
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김영하(金英夏, 1968년 11월 11일 ~ )는 대한민국의 소설가이다.
생애
출생과 수학
1968년 강원도 화천군에서 태어나 군인인 아버지를 따라 여러 지방을 옮겨 다니며 성장하다 1980년부터 서울에 정착하였다. 잠실의 신천중학교와 잠실고등학교를 졸업하고 연세대학교 경영학과에 입학하여 경영학 학사와 석사를 취득하였다. 이후 방위병으로 헌병대 수사과에서 군역을 마쳤다.[1]
작가 경력
정식 작품활동 이전
어린 시절 글쓰기로 상을 받아본 적이 한번도 없어서 작가가 될 것이라고 생각하지 않았지만, 연세대학교 대학원에 재학 중이던 1990년대 초에 PC 통신 하이텔에 올린 짤막한 콩트들이 뜨거운 반응을 얻는 것을 보고 자신의 작가적 재능을 처음으로 깨달았다고 한다.[2] 1992년 김영하의 글을 본 한 출판사 사장이 무협지로 학생운동사를 써보지 않겠냐는 제의를 해서 《무협 학생운동》, 《대권무림》을 집필하였다.[1] 1993년 《월간중앙》 7월호에 발표한 정치소설 <거대한 뿌리>에서 김영삼 대통령이 저격을 당하는 설정으로 인해 청와대에서 중앙일보에 항의한 사건도 있었다.[3]
정식 작품활동 이후
1995년 단편 <거울에 대한 명상>을 계간 《리뷰》에 발표하며 작품활동을 시작하였고 이듬해 96년 장편《나는 나를 파괴할 권리가 있다》로 제1회 문학동네 작가상을 수상하였다. 1997년에는 단편집 <호출>, 1999년에 역시 단편집 <엘리베이터에 낀 그 남자는 어떻게 되었나>를 출간하여 호평을 받았다. 2001년, 아랑전설을 현대적으로 차용한 장편 《아랑은 왜》를 출간하였고 2003년, 과테말라와 멕시코를 다녀온 후, 장편 《검은 꽃》을 발표하였다. 근대 초기의 멕시코 이민자들의 삶을 다룬 이 소설은 출간 당시부터 뜨거운 화제를 불러일으켰으며 그 해말 많은 매체에서 '올해의 책'으로 선정하였고 이듬해에는 동인문학상 수상작으로 선정되기도 하였다.[4] 2004년 한 해, 김영하는 장편 《검은 꽃》으로 동인문학상, 단편집 《오빠가 돌아왔다》로 이산문학상, 단편 <보물선>으로 황순원문학상을 받았다. 한 작가에게 상을 몰아주지 않는 한국 문단의 관례에 비추어볼 때 이례적인 사건이었으며 '문학계의 그랜드슬램'으로 불렸다.[5] 그해 김영하는 한국예술종합학교 연극원 전임강사로 임용되어 학생들에게 글쓰기를 가르치기 시작하였다. 2006년에는 갑자기 귀환 명령을 받은 남파간첩의 하루를 그린 장편 《빛의 제국》을 출간함. 2007년에는 20대 젊은이들의 삶을 다룬 장편 《퀴즈쇼》를 발표하였다. 이후 김영하는 한국예술종합학교 교수직을 사임하고 전업작가의 길로 들어섰다.[6] 2012년 <옥수수와 나>가 36회 이상문학상을 수상했다. 같은해 고아 트릴로지의 최종편 <너의 목소리가 들려>를 출간하였다. 2013년 장편소설 <살인자의 기억법> 출간했으며 이때도 역시 그가 국내 처음으로 시도한 낭독회 방식의 북 콘서트를 열었다. 2014 산문집 <보다> 출간. 이듬해 2015년 3월 <말하다> 출간. 이어서 11월 <읽다>를 출간하여 김영하 산문 트릴로지(보다+말하다+읽다)를 완성시킴. 각 산문집의 출간때에는 예약도서를 구매한 독자들을 대상으로 낭독회를 진행하였다. 동네 도서관, 기업체에도 활발한 강연활동을 이어 나갔다. 2016년에는 그의 자택이 있는 연희동 개나리 언덕의 무문별한 개발을 다수의 매체출연과 청원활동으로 저지하는데 성공하였으며 상반기에 장편소설 출간을 계획 중에 있다.
작품 특징
구한말 멕시코 한인 이민자들을 그린 《검은꽃》에서부터 21세기 초를 살아가는 남파간첩을 그린 《빛의제국》, 조선시대 설화를 재해석한 《아랑은 왜》까지 김영하 작품의 시대적 스펙트럼은 동시대에 한정되지 않는다. 나르시시즘, 성욕, 후기 자본주의, 80년대 학생운동 후일담 등의 주제를 도회적 감수성을 바탕으로한 냉정한 시선으로 그려낸다는 평을 받는다. 평론가 남진우는 문학비평 김영하의 “전복적 사유와 상상력”을 높이 사면서 그가 “허무주의의 깊숙한 세례를 받았으면서도 감상적인 상실감이나 냉소주의로 치닫지 않는다”고 평가한다.[7] 2008년 인터뷰에서 김영하는 자신의 작품의 허무주의적 색채에 대하여 "제가 이십대 후반에 쓴 소설에 나타난 허무주의에 대해서 많은 분들이 젊어서 그럴 거야라고 생각했지만, 지금까지 계속 보신 분들은 아니라는 것을 알게 됐을 거예요. 앞으로도 저는 별로 변하지 않을 것 같아요. 지금까지 그렇게 살아왔으니까요."라고 밝혔다.[2]
각색된 작품들
《나는 나를 파괴할 권리가 있다》가 전수일 감독에 의해 영화화되었다. 정보석, 추상미가 주연을 맡았다. 《주홍글씨》-변혁 감독, 한석규 주연- 는 김영하의 단편, <거울에 대한 명상>과 <사진관 살인사건>을 원작으로 하여 제작되었다. - 사진관에서 살인사건이 벌어진다는 설정은 <사진관 살인사건>에서, 동성애적 관계의 두 여자가 한 남자와 기묘한 삼각관계-설정은 <거울에 대한 명상>에서 빌려온 것이다.[8] <엘리베이터에 낀 그 남자는 어떻게 되었나>를 권해효 주연으로 MBC 베스트극장에서 제작하여 방영하였고 <사진관 살인사건>을 김갑수 주연으로 KBS 단막극으로 각색하여 방영하였다. <오빠가 돌아왔다>와 <흡혈귀>는 연극으로 각색되어 대학로 무대에 선보였다.[9][10]《퀴즈쇼》는 뮤지컬로 각색되어 예술의 전당에 선보였다. 2005년 즈음에는 <컷 런스 딥>, <내 머릿속의 지우개>의 이재한감독과 김영하는 그의 장편 <검은 꽃>을 토대로 시나리오 작업에 매진하였으나 아쉽게도 영화화는 불발됐다. 그는 시나리오 각색작업에도 참여해 이재한 감독, 정우성, 손예진의 <내 머리속의 지우개>가 2004년 개봉했다. 2010년 <오빠가 돌아왔다>가 노진수 감독, 손병호,김민기 주연의 동명의 영화로 개봉했다. 2013년 재능기부 형식으로 3편의 독립영화에게 원작이 제공되어 프로젝트<소설, 영화와 만나다>에서 각각 <더 바디>, <비상구>, <번개와 춤을>이 개봉되었다. 같은 해에는 1년전 출간된 그의 작품과 동명이지만 원작을 기반으로 하지 않은 18부작 드라마 <너의 목소리가 들려>가 SBS에서 이보영, 이종석 주연으로 방영됨. 가장 최근 출간된 <살인자의 기억법>이 설경구, 김남길, 걸그룹 <AOA> 설현의 캐스팅 확정으로 영화제작이 진행 중이다. 또한 그의 등단후 첫 장편소설 <나는 나를 파괴할 권리가 있다>는 미드로 제작중이라는게 그의 전언이다.
방송 활동 및 광고
2006년 - 2007년 KBS 제1라디오 <김영하의 문화포커스> 진행.
2008년 2월 방송된 EBS 간판 다큐멘터리인 <세계테마기행>에 출연. 이탈리아 시칠리아의 풍경과 문화를 전함
2010년 이후 팟캐스트 <김영하의 책읽는 시간>이 지금(2016년)까지 진행. 에피소드는 대부분의 팟캐스트가 주기적으로 올리는 것과는 다르게 김영하의 자유분방한 의지에 달렸다.
2013년 KBS <이야기쇼 두드림> 57회 출연하여 작가의 유년시절과 결혼생활등을 소개.
2015년 SBS 이경규, 김제동, 성유리가 진행하는 <힐링캠프, 기쁘지 아니한가>에서 젊은세대(88만원 또는 삼포세대)에게 비관적 현실주의라는 키워드와 세속적 성공이 아닌 자기 즐거움,내면을 가질것을 새로운 비전을 제시하였다.
2017년 6월 2일~ tvN <알아두면 쓸데없는 신비한 잡학사전 ; 알쓸신잡> 출연.
2018년 한국방송광고진흥공사의 산하 기구인 공익광고협의회가 제작한 독서 공익광고 출연.
해외 번역 출간된 작품들
그의 소설들은 해외에도 다수 번역 출간되어 있다. 1998년 프랑스의 필리프 피키에(Philippe Picquier) 출판사가 《나는 나를 파괴할 권리가 있다》를 출간한 이래, 미국의 하코트(Harcourt)[11], 독일의 하이네 랜덤하우스(Heyne Randomhouse), 네덜란드의 암보&안토스(Ambo&Anthos), 터키의 아고라(Agora), 폴란드의 베스페르(Vesper), 중국의 화성출판사가 뒤를 따랐다.[12] 그밖에도 《검은 꽃》이 역시 프랑스의 필리프 피키에[13] 에서, 《빛의 제국》이 독일의 하이네 랜덤하우스[14] 와 일본의 후타미쇼보(二見書房), 프랑스의 필리프 피키에에서 번역 출간되었다. 그밖에도《아랑은 왜》가 일본의 하쿠테이샤(白帝社)에서, 단편선이 이탈리아의 오바라오(O Barra O)와 폴란드의 크비아티 오리엔투(Kwiaty Orientu)에서 각각 출간되었다. 최근작인《퀴즈쇼》는 중국의 화성출판사에서 출간되었다. 《빛의 제국》은 2010년 9월 미국 NPR에 소개되면서 시사작가로 유명한 조너선 프랜즌과 비교되며 높은 평가를 받았다. 이 작품은 김지영이 Your Republic Is Calling You라는 제목으로 영어로 번역하여 2010년 미국에서 출간되었다.[15] 2010년 현재 그의 작품은 20여 종의 타이틀이 12개 언어로 번역되어 있다[16]
사생활
기혼이나 자녀가 없다. 《글쓰기의 최소 원칙》에 담긴 김수이 교수와의 인터뷰에서 인간은 "어떤 의미있는 것"을 할 수 있는 존재가 아니라 "어리둥절한 채 서로에게 상처를 입히고, 죽지 않으려고 발버둥치다가 결국은 죽어 사라지는 존재"로 생각한다면서 자신이 30대 초반에 자식을 낳지 않기로 결심한 것은 오래전부터 가지고 있는 이러한 "도저한 허무주의"에 기인한 것임을 밝혔다.[2]
주요 작품
장편소설
《나는 나를 파괴할 권리가 있다》(문학동네, 1996) ISBN978-89-8281-967-4
《나는 나를 파괴할 권리가 있다》- 3판 김영하 콜렉션 (문학동네, 2010)
《아랑은 왜》(문학과지성사, 2001) ISBN978-89-320-1230-8
《아랑은 왜》| 김영하 콜렉션 (문학동네, 2010)
《검은 꽃》(문학동네, 2003) ISBN978-89-8281-714-4
《검은 꽃》- 개정판 | 김영하 컬렉션 (문학동네, 2010)
《검은 꽃》- 문학동네 한국문학 전집 17 (문학동네, 2014)
《빛의 제국》(문학동네, 2006) ISBN978-89-546-0191-7
《빛의 제국》| 김영하 컬렉션 (문학동네, 2010)
《퀴즈쇼》(문학동네, 2007) ISBN978-89-546-0417-8
《퀴즈쇼》-2판 | 김영하 컬렉션 (문학동네, 2010)
《너의 목소리가 들려》(문학동네, 2012) ISBN978-89-546-0417-8
《살인자의 기억법》(문학동네, 2013) ISBN9788954622035
단편 및 소설집
《호출》- |창작도발 1997| (오늘예감, 1997)
《호출》(문학동네, 1997) ISBN89-8281-077-3
《호출》- 2판 (문학동네, 2006)
《흡혈귀》- 현장비평가가 뽑은 올해의 좋은 소설(현대문학, 1998) ISBN89-8281-077-3
《호출》(문학동네, 2010) - 3판 김영하 컬렉션
《당신의 나무》- 현대문학상수상 소설집 제44회 (현대문학,1999) ISBN89-320-1086-2
《엘리베이터에 낀 그 남자는 어떻게 되었나》(문학과지성사, 1999) ISBN89-320-1086-2
《엘리베이터에 낀 그 남자는 어떻게 되었나》- 2판 (문학동네, 2010)
《피뢰침》- 그대에게 꽃을(청년 작가 12 인 헌정 소설집)(시공사, 2003)
《이사》- 찔레꽃(2003 제4회 이효석문학상 수상작품집)(해토, 2003)
《오빠가 돌아왔다》(창작과비평사, 2004) ISBN978-89-364-3676-6
《오빠가 돌아왔다》- 2판 (문학동네, 2010)
《아이스크림》-2006년 30회 이상문학상 작품집(문학사상사, 2006)
《무슨 일이 일어났는지는 아무도》(문학동네, 2010) ISBN978-89-546-1762-8
《옥수수와 나》-2012년 36회 이상문학상 작품집(문학동네, 2012)
《오직 두 사람》(문학동네, 2017) ISBN978-89-546-4561-4
산문집
《굴비낚시》(마음산책, 2000) ISBN978-89-89351-00-9
《김영하 이우일의 영화 이야기》(마음산책, 2003) ISBN978-89-89351-35-1
《일상》(홍성택디자인, 2001)
《포스트잇》(현대문학, 2002) ISBN978-89-7275-228-8
《랄랄라하우스》(마음산책, 2005) ISBN978-89-89351-74-0
《랄랄라하우스(묘하고 유쾌한 생각의 집)》- 개정판 (마음산책, 2012)
《여행자-하이델베르크》(아트북스, 2007) ISBN978-89-89800-93-4
《여행자-도쿄》(아트북스, 2008) ISBN978-89-6196-013-7
《글쓰기의 최소원칙 - 김영하외》(룩스문디, 2004) ISBN978-89-364-3676-6
《네가 잃어버린 것을 기억하라》(랜덤하우스코리아, 2009) ISBN978-89-255-3152-6
《보다 - 김영하의 인사이트 아웃사이트》(문학동네, 2014) ISBN9788954625470
《말하다 - 김영하에게 듣는 삶, 문학, 글쓰기》(문학동네, 2015) ISBN9788954635356
《읽다 - 김영하와 함께하는 여섯 날의 문학 탐사》(문학동네, 2015) ISBN9788954638401
번역
크리스 반 알스버그, 《리버벤드 마을의 이상한 하루》(문학동네어린이, 2001) ISBN978-89-8281-404-4
크리스 반 알스버그, 《벤의 꿈》(문학동네어린이, 2001) ISBN978-89-8281-405-1
F. 스콧 피츠제럴드, 《위대한 개츠비》(문학동네, 2010) ISBN978-89-546-1046-9
각주
외부 링크
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Kansainväliset matematiikkaolympialaiset on koululaisille tarkoitettu matematiikkakilpailu. Sääntöjen mukaan osallistujien on oltava alle 20-vuotiaita eivätkä he ole vielä saaneet aloittaa korkeakouluopintoja.
Kansainväliset matematiikkaolympialaiset järjestetään kerran vuodessa. Jokainen maa saa lähettää kilpailuihin yhden, enintään kuusi kilpailijaa käsittävän joukkueen. Jokaisella joukkueella on myös johtaja ja varajohtaja. Joukkueenjohtajat ovat tehtävänsä puolesta kilpailun tuomariston jäseniä, kääntävät tehtävät kilpailijoiden haluamille kielille ja esitarkastavat yhdessä varajohtajan kanssa joukkueensa kilpailuvastaukset. Kilpailu on yksilökilpailu, mutta kun useimmilla osallistujamailla on samankokoiset joukkueet, tapana on laskea pisteet yhteen ja vertailla maiden sijoituksia. Kilpailussa ratkaistaan kahtena päivänä pidettävissä neljän ja puolen tunnin mittaisissa kokeissa yhteensä kuusi tehtävää. Tehtävät ovat algebrasta, lukuteoriasta, geometriasta ja kombinatoriikasta[1]. Tehtävät valitsee kaikkien kilpailujoukkueiden johtajista koostuva tuomaristo juuri ennen kilpailupäiviä. Tehtävät ovat periaatteessa ratkaistavissa lukiotiedoin, mutta pelkällä lukiopohjalla ratkaisut vaativat yleensä todellista matemaattista lahjakkuutta ja nerokkaita oivalluksia. Siksi eri maat järjestävät matematiikkaolympialaisia varten valmennustilaisuuksia. Kilpailijat vastaavat omalla kielellään, ja suoritukset arvioidaan yhteistyössä kunkin kilpailujoukkueen johtajan ja järjestäjien arvostelua varten asettamien matemaatikkojen, koordinaattorien kanssa.
Historia
Ensimmäiset Kanasainväliset matematiikkaolympialaiset pidettiin vuonna 1959 Romaniassa. Mukana olivat isäntämaan lisäksi Bulgarian, Puolan, Unkarin, Tšekkoslovakian, Neuvostoliiton ja Saksan demokraattisen tasavallan joukkueet. Taustalla olivat useissa Itä-Euroopan sosialistisissa maissa järjestetyt moniportaiset matematiikan koululaiskilpailut, joiden päätteeksi oli luontevaa järjestää kansainvälinen kilpailu. 1960-luvun puolivälin jälkeen kilpailuun liittyi myös muita kuin Itä-Euroopan sosialististen maiden joukkueita. Ensimmäisen kerran kilpailu järjestettiin tuon alueen ulkopuolella vuonna 1976 Itävallassa. Joukkueita oli tuolloin 18. Herrasmiessopimus, jonka mukaan kilpailu olisi ollut vuorovuosin idässä ja lännessä, särkyi vuonna 1980, jolloin kilpailu jäi kokonaan pitämättä. Vuodesta 1981 (jolloin kilpailtiin Washingtonissa, Yhdysvalloissa) lähtien Kansainväliset matematiikkaolympialaiset on pidetty joka vuosi. Sadan osallistujamaan määrä ylittyi ensi kerran vuoden 2009 kilpailuissa Saksan Bremenissä. Mukana ovat nykyisin lähes kaikki merkittävät maat, vain Afrikka on huonommin edustettuna.
Kilpailujoukkueen koko oli aluksi kahdeksan, mutta vuodesta 1983 alkaen koko on rajattu kuuteen. Viime vuosina olympialaisten kilpailijoiden lukumäärä on ollut runsaat 500. Jostakin syystä osallistujien valtaenemmistö on aina ollut poikia. Tyttöjen osuus on harvoin ollut yli 10 prosenttia.
Kansainvälisten matematiikkaolympialaisten alkuaikojen historia sosialistimaiden kilpailuna on taustana edelleenkin jatkuvalle käytännölle, jossa kulloinenkin järjestäjämaa vastaa kaikista kustannuksista kilpailun aikana.
Matematiikkaolympialaiset toimivat pitkään täysin itseohjautuvasti, ilman kansainvälistä katto-organisaatiota. Kun vuonna 1980 ei ilmaantunut olympialaisten järjestäjää, International Commission on Mathematical Instruction eli ICMI perusti yleiskokouksessaan 1980 – Suomen aloitteesta – Imo Site Committee -nimisen toimikunnan, jonka tehtävänä oli huolehtia olympialaisten järjestämisen jatkuvuudesta.[2] Vuonna 1994 toimikunnan tehtäväkenttää laajennettiin, ja sen nimeksi tuli IMO Advisory Board.
Kansainväliset matematiikkaolympialaiset ovat toimineet mallina ja esikuvana lukuisille muille eri alojen koululaiskilpailuille. Tällaisia ovat muun muassa Kansainväliset fysiikkaolympialaiset, Kansainväliset kemiaolympialaiset, Kansainväliset biologiaolympialaiset ja Kansainväliset tietotekniikkaolympialaiset.
Kilpailut
Suomi
Suomi oli vuonna 1965 ensimmäinen ei-sosialistinen maa, joka osallistui Kansainvälisiin matematiikkaolympialaisiin. Kilpailut olivat tuolloin Berliinissä, Itä-Saksassa. Suomen osallistumisen taustalla olivat rehtori Jarmo Nyströmin henkilösuhteet Saksaan. Nyström oli myös ensimmäisen Suomen joukkueen johtaja. Useimmin joukkueenjohtajana on toiminut Matti Lehtinen. Suomi jäi kymmenen maan kilpailussa viimeiseksi. Seuraavan kerran Suomen joukkue oli mukana matematiikkaolympialaisissa Moskovassa vuonna 1973. Tuosta vuodesta alkaen Suomi on ollut mukana joka vuosi (vuotta 1975 lukuun ottamatta). Kilpailumatkat on rahoittanut Opetusministeriö. Suomi on sijoittunut viimeisinä kymmenenä vuotena noin sadan maan joukossa sijoille 39–72.
Suomen joukkueen valitsee ja sen valmennuksesta huolehtii Suomen matemaattisen yhdistyksen Valmennusjaosto.[3] Valmennus koostuu kuudesti vuodessa Päivölän kansanopistossa Valkeakoskella pidettävistä valmennusviikonlopuista, kirjevalmennuksesta sekä viikon pituisesta joukkueen valinta- ja valmennusleiristä. Joukkueen valinnassa otetaan huomioon myös osallistuminen ja menestys MAOLin vuotuisessa matematiikkakilpailussa, Pohjoismaisen matematiikkakilpailussa, Baltian Tie -joukkuematematiikkakilpailussa ja Euroopan tyttöjen matematiikkaolympialaisissa.
Suomi järjesti Kansainväliset matematiikkaolympialaiset vuonna 1985. Mukana oli tuolloin 37 maan joukkueet. Kilpailu pidettiin Joutsassa.
Palkinnot
Olympialaisissa vertaillaan henkilökohtaisia paremmuuksia. Palkitseminen on avokätistä: noin puolet kilpailijoista saa suorituksestaan mitalin. Paras kahdestoistaosa kilpailijoista palkitaan kultamitalila. Seuraava kuudesosa saa hopeamitalin ja seuraava neljäsosa pronssimitalin. Vuodesta 1988 alkaen on lisäksi noudatettu käytäntöä, jonka mukaan ne kilpailijat, jotka eivät voita mitalia, mutta saavat ratkaistua ainakin yhden tehtävän virheettömästi, saavat kunniamaininnan. Erikoispalkintoja myönnetään, mikäli joku kilpailija pystyy keksimään tehtävään erityisen elegantin ratkaisun tai yleistyksen. Viimeksi niin on tapahtunut vuosina 2005, 1995 ja 1988, mutta ennen 1980-lukua useammin. Suomen mitalisaldo kautta aikojen on yksi kulta, kahdeksan hopeaa, 49 pronssia ja 46 kunniamainintaa. Suomen ainoan kultamitalin sai Taneli Huuskonen vuonna 1981.[4]
Monista matematiikkaolympialaisissa menestyneistä on tullut merkittäviä matemaatikoita, esimerkkeinä mainittakoon Grigori Perelman ja Terence Tao.
Katso myös
Kansainväliset fysiikkaolympialaiset
Kansainväliset tietotekniikkaolympialaiset
Lähteet
Aiheesta muualla
Luokka:Matematiikan palkinnot
| https://fi.wikipedia.org/wiki/Kansainv%C3%A4liset%20matematiikkaolympialaiset |
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Albert Einstein (/ˈaɪnstaɪn/;[1] German:[ˈalbɛɐ̯t ˈaɪnʃtaɪn](listen); ) adalah seorang ilmuwan fisika teoretis yang dipandang luas sebagai ilmuwan terbesar dalam abad ke-20. Dia mengemukakan teori relativitas dan juga banyak menyumbang bagi pengembangan mekanika kuantum, mekanika statistika, dan kosmologi.[2][3]:274 Dia dianugerahi Penghargaan Nobel dalam Fisika pada tahun 1921 untuk penjelasannya tentang efek fotolistrik dan "pengabdiannya bagi Fisika Teoretis".[4]
Setelah teori relativitas umum dirumuskan, Einstein menjadi terkenal ke seluruh dunia, pencapaian yang tidak biasa bagi seorang ilmuwan. Pada masa tuanya, keterkenalannya melampaui ketenaran semua ilmuwan dalam sejarah, dan dalam budaya populer, kata Einstein dianggap bersinonim dengan kecerdasan atau bahkan genius. Wajahnya merupakan salah satu yang paling dikenal di seluruh dunia.
Pada tahun 1999, Einstein dinamakan "Tokoh Abad Ini" oleh majalah Time.
Untuk menghargainya, sebuah satuan dalam fotokimia dinamai einstein, sebuah unsur kimia dinamai einsteinium, dan sebuah asteroid dinamai 2001 Einstein.
Rumus Einstein yang paling terkenal adalah E=mc².[5]
Biografi
Masa muda dan universitas
Einstein dilahirkan di Ulm di Württemberg, Jerman; sekitar 100km sebelah timur Stuttgart. Bapaknya bernama Hermann Einstein, seorang penjual ranjang bulu yang kemudian menjalani pekerjaan elektrokimia, dan ibunya bernama Pauline. Mereka menikah di Stuttgart-Bad Cannstatt. Keluarga mereka keturunan Yahudi; Albert disekolahkan di sekolah Katholik dan atas keinginan ibunya dia diberi pelajaran biola.
Pada umur lima tahun, ayahnya menunjukkan kompas kantung, dan Einstein menyadari bahwa sesuatu di ruang yang "kosong" ini beraksi terhadap jarum di kompas tersebut; dia kemudian menjelaskan pengalamannya ini sebagai salah satu saat yang paling menggugah dalam hidupnya. Meskipun dia membuat model dan alat mekanik sebagai hobi, dia dianggap sebagai pelajar yang lambat, kemungkinan disebabkan oleh dyslexia, sifat pemalu, atau karena struktur yang jarang dan tidak biasa pada otaknya (diteliti setelah kematiannya). Dia kemudian diberikan penghargaan untuk teori relativitasnya karena kelambatannya ini, dan berkata dengan berpikir dalam tentang ruang dan waktu dari anak-anak lainnya, dia mampu mengembangkan kepandaian yang lebih berkembang. Pendapat lainnya, berkembang belakangan ini, tentang perkembangan mentalnya adalah dia menderita Sindrom Asperger, sebuah kondisi yang berhubungan dengan autisme.
Einstein mulai belajar matematika pada umur dua belas tahun. Ada isu bahwa dia gagal dalam matematika dalam jenjang pendidikannya, tetapi ini tidak benar; penggantian dalam penilaian membuat bingung pada tahun berikutnya. Dua pamannya membantu mengembangkan ketertarikannya terhadap dunia intelek pada masa akhir kanak-kanaknya dan awal remaja dengan memberikan usulan dan buku tentang sains dan matematika.
Pada tahun 1894, dikarenakan kegagalan bisnis elektrokimia ayahnya, Einstein pindah dari München ke Pavia, Italia (dekat kota Milan). Albert tetap tinggal untuk menyelesaikan sekolah, menyelesaikan satu semester sebelum bergabung kembali dengan keluarganya di Pavia.
Kegagalannya dalam seni liberal dalam tes masuk Eidgenössische Technische Hochschule (Institut Teknologi Swiss Federal, di Zurich) pada tahun berikutnya adalah sebuah langkah mundur dia oleh keluarganya dikirim ke Aarau, Swiss, untuk menyelesaikan sekolah menengahnya, di mana dia menerima diploma pada tahun 1896, Einstein beberapa kali mendaftar di Eidgenössische Technische Hochschule. Pada tahun berikutnya dia melepas kewarganegaraan Württemberg, dan menjadi tak bekewarganegaraan.
Pada 1898, Einstein menemui dan jatuh cinta kepada Mileva Marić, seorang Serbia yang merupakan teman kelasnya (juga teman Nikola Tesla). Pada tahun 1900, dia diberikan gelar untuk mengajar oleh Eidgenössische Technische Hochschule dan diterima sebagai warga negara Swiss pada 1901. Selama masa ini Einstein mendiskusikan ketertarikannya terhadap sains kepada teman-teman dekatnya, termasuk Mileva. Dia dan Mileva memiliki seorang putri bernama Lieserl, lahir dalam bulan Januari tahun 1902. Lieserl Einstein, pada waktu itu, dianggap tidak legal karena orang tuanya tidak menikah.
Kerja dan Gelar Doktor
Pada saat kelulusannya Einstein tidak dapat menemukan pekerjaan mengajar, keterburuannya sebagai orang muda yang mudah membuat marah professornya. Ayah seorang teman kelas menolongnya mendapatkan pekerjaan sebagai asisten teknik pemeriksa di Kantor Paten Swiss pada tahun 1902. Di sana, Einstein menilai aplikasi paten penemu untuk alat yang memerlukan pengetahuan fisika. Dia juga belajar menyadari pentingnya aplikasi dibanding dengan penjelasan yang buruk, dan belajar dari direktur bagaimana "menjelaskan dirinya secara benar". Dia kadang-kadang membetulkan desain mereka dan juga mengevaluasi kepraktisan hasil kerja mereka.
Einstein menikahi Mileva pada 6 Januari 1903. Pernikahan Einstein dengan Mileva, seorang matematikawan. Pada 14 Mei 1904, anak pertama dari pasangan ini, Hans Albert Einstein, lahir. Pada 1904, posisi Einstein di Kantor Paten Swiss menjadi tetap. Dia mendapatkan gelar doktor setelah menyerahkan thesis "Eine neue Bestimmung der Moleküldimensionen" ("On a new determination of molecular dimensions") pada tahun 1905 dari Universitas Zürich.
Pada tahun yang sama dia menulis empat artikel yang memberikan dasar fisika modern, tanpa banyak sastra sains yang dapat ia tunjuk atau banyak kolega dalam sains yang dapat ia diskusikan tentang teorinya. Banyak fisikawan setuju bahwa ketiga thesis itu (tentang gerak Brownian), efek fotolistrik, dan relativitas khusus) pantas mendapat Penghargaan Nobel. Tetapi hanya thesis tentang efek fotoelektrik yang mendapatkan penghargaan tersebut. Ini adalah sebuah ironi, bukan hanya karena Einstein lebih tahu banyak tentang relativitas, tetapi juga karena efek fotoelektrik adalah sebuah fenomena kuantum, dan Einstein menjadi terbebas dari jalan dalam teori kuantum. Yang membuat thesisnya luar biasa adalah, dalam setiap kasus, Einstein dengan yakin mengambil ide dari teori fisika ke konsekuensi logis dan berhasil menjelaskan hasil eksperimen yang membingungkan para ilmuwan selama beberapa dekade.
Dia menyerahkan tesis-tesisnya ke "Annalen der Physik". Mereka biasanya ditujukan kepada "Annus Mirabilis Papers" (dari Latin: Tahun luar biasa). Persatuan Fisika Murni dan Aplikasi (IUPAP) merencanakan untuk merayakan 100 tahun publikasi pekerjaan Einstein pada tahun 1905 sebagai Tahun Fisika 2005.
Gerakan Brownian
Di artikel pertamanya pada tahun 1905 bernama "On the Motion—Required by the Molecular Kinetic Theory of Heat—of Small Particles Suspended in a Stationary Liquid", mencakup penelitian tentang gerakan Brownian. Menggunakan teori kinetik cairan yang pada saat itu kontroversial, dia menetapkan bahwa fenomena, yang masih kurang penjelasan yang memuaskan setelah beberapa dekade setelah ia pertama kali diamati, memberikan bukti empirik (atas dasar pengamatan dan eksperimen) kenyataan pada atom. Dan juga meminjamkan keyakinan pada mekanika statistika, yang pada saat itu juga kontroversial.
Sebelum thesis ini, atom dikenal sebagai konsep yang berguna, tetapi fisikawan dan kimiawan berdebat dengan sengit apakah atom itu benar-benar suatu benda yang nyata. Diskusi statistik Einstein tentang kelakuan atom memberikan pelaku eksperimen sebuah cara untuk menghitung atom hanya dengan melihat melalui mikroskop biasa. Wilhelm Ostwald, seorang pemimpin sekolah anti-atom, kemudian memberitahu Arnold Sommerfeld bahwa ia telah berkonversi kepada penjelasan komplet Einstein tentang gerakan Brown.
Kehidupan pribadi
Kecintaan terhadap musik
Einstein mengembangkan apresiasi musik pada usia dini, dan kemudian menulis: "Jika saya bukan seorang fisikawan, saya mungkin akan menjadi musisi. Saya sering berpikir dalam musik. Saya menjalani lamunan saya di musik. Saya melihat hidup saya dalam hal musik... saya mendapatkan sebagian besar sukacita dalam hidup dari musik."[6][7]
Ibunya memainkan piano cukup baik dan ingin anaknya belajar biola, tidak hanya untuk menanamkan dalam dirinya kecintaan terhadap musik, tetapi juga untuk membantu dia berasimilasi ke dalam budaya Jerman. Menurut konduktor Leon Botstein, Einstein dikatakan telah mulai bermain ketika dia berumur 5 tahun, meskipun ia tidak menikmatinya pada usia itu.[8]
Ketika ia berumur 13 tahun, ia menemukan sonata biola Mozart, yang mana "Einstein jatuh cinta" dengan musik Mozart dan belajar musik dengan lebih rela. Dia belajar sendiri untuk bermain tanpa "pernah berlatih secara sistematis", katanya, memutuskan bahwa "cinta adalah guru yang lebih baik daripada rasa kewajiban."[8] Pada usia 17 tahun, ia didengar oleh pemeriksa sekolah di Aarau saat ia bermain sonata biola Beethoven, pemeriksa menyatakan setelah itu bahwa permainannya adalah "luar biasa dan mengungkapkan 'wawasan'." Apa yang memukul pemeriksa, ditulis Botstein, adalah bahwa Einstein "menampilkan cinta yang mendalam dari musik, kualitas yang adalah dan tetap dalam pasokan terbatas. Musik memiliki arti yang tidak biasa bagi siswa ini."[8]
Musik mengambil peran penting dan permanen dalam kehidupan Einstein dari periode itu dan seterusnya. Meskipun ide menjadi seorang profesional sendiri tidak ada di pikirannya setiap saat, di antara mereka yang memainkan musik kamar dengan Einstein beberapa adalah profesional, dan ia tampil untuk pemirsa pribadi dan teman-teman. Musik kamar juga telah menjadi bagian rutin dari kehidupan sosialnya ketika tinggal di Bern, Zürich, dan Berlin, di mana ia bermain dengan Max Planck dan putranya, antara lain. Dia kadang-kadang keliru dikreditkan sebagai editor dari edisi 1937 katalog Köchel dari karya Mozart; edisi itu sebenarnya disiapkan oleh Alfred Einstein, yang mungkin telah menjadi kerabat jauh.[9][10]
Pada tahun 1931, ketika terlibat dalam penelitian di California Institute of Technology, ia mengunjungi keluarga konservatorium Zoellner di Los Angeles, di mana ia memainkan beberapa karya Beethoven dan Mozart dengan anggota Zoellner Quartet.[11][12] Menjelang akhir hidupnya, ketika Juilliard Quartet muda mengunjunginya di Princeton, ia bermain biola dengan mereka, dan kuartet itu "terkesan dengan tingkat koordinasi dan intonasi Einstein."[8]
Pandangan politik dan agama
alt=Foto kelompok kasual empat pria dan dua wanita berdiri di atas trotoar bata.|jmpl|Albert Einstein dengan istrinya Elsa Einstein dan para pemimpin Zionis, termasuk Presiden Israel masa depan Chaim Weizmann, istrinya Vera Weizmann, Menahem Ussishkin, dan Ben-Zion Mossinson ketika tiba di New York City pada tahun 1921
Pandangan politik Einstein mendukung sosialisme dan mengkritik kapitalisme, yang dirinci dalam esainya seperti "Mengapa Sosialisme?".[13][14] Einstein menawarkan dan dipanggil untuk memberikan penilaian dan opini tentang hal-hal yang sering tidak berhubungan dengan fisika teoretis atau matematika.[15] Dia sangat menganjurkan gagasan pemerintahan global yang demokratis yang akan memeriksa kekuatan negara-bangsa dalam rangka federasi dunia.[16]
Pandangan Einstein tentang keyakinan agama telah dikumpulkan dari wawancara dan tulisan asli. Dia menyebut dirinya seorang agnostik, sementara menjauhkan dirinya dari label ateis.[17] Dia mengatakan "Saya percaya kepada Tuhan Spinoza, yang mengungkapkan dirinya dalam harmoni yang sah dari semua yang ada" (New York Times, 25 April 1929). Ia mengatakan ia percaya pada Tuhan "panteistik" dari Baruch Spinoza, tetapi tidak pada tuhan pribadi, keyakinan yang dikritiknya.[18][19] Einstein pernah menulis: "Saya tidak percaya pada Tuhan pribadi dan saya tidak pernah menyangkal ini tetapi menyatakan dengan jelas".[20]
Kematian
Pada 17 April 1955, Albert Einstein mengalami pendarahan internal yang disebabkan oleh pecahnya suatu aneurisma aorta perut, yang sebelumnya telah dilakukan pembedahan oleh Rudolph Nissen pada tahun 1948.[21] Ia mengambil konsep pidato yang sedang dipersiapkannya untuk penampilan televisi memperingati ulang tahun Negara Israel ketujuh dengan kondisi di rumah sakit, tetapi dia tidak hidup cukup lama untuk menyelesaikannya.[22]
Einstein menolak operasi, mengatakan: "Saya ingin pergi ketika saya ingin. Hambar untuk memperpanjang hidup secara artifisial. Saya telah melakukan bagian saya, sekarang saatnya untuk pergi. Aku akan melakukannya dengan elegan."[23] Dia meninggal di Rumah Sakit Princeton, pagi, pada usia 76, setelah terus bekerja sampai mendekati akhir.
Selama autopsi, ahli patologi dari Rumah Sakit Princeton, Thomas Stoltz Harvey, mengambil otak Einstein untuk pengawetan tanpa izin dari keluarganya, dengan harapan bahwa ilmu saraf masa depan akan mampu menemukan apa yang membuat Einstein begitu cerdas.[24] Einstein tetap dikremasi dan abunya tersebar di sebuah lokasi yang dirahasiakan.[25][26]
Dalam pidatonya pada peringatan Einstein, fisikawan nuklir, Robert Oppenheimer, meringkas kesan pribadinya tentang Einstein: "Dia hampir seluruhnya tanpa kecanggihan dan sepenuhnya tanpa keduniawian... Selalu ada bersamanya kemurnian indah sekaligus kekanak-kanakan dan keras kepala mendalam."[27]
Dalam budaya populer
Pada periode sebelum Perang Dunia II, The New Yorker menerbitkan sketsa di fitur mereka "The Talk of the Town" yang mengatakan bahwa Einstein begitu terkenal di Amerika sehingga ia akan dihentikan di jalan oleh orang-orang yang ingin dia menjelaskan "teori itu". Dia akhirnya menemukan cara untuk menangani pertanyaan gencarnya. Dia mengatakan kepada orang yang bertanya kepadanya "Maaf, maaf! Selalu saya dikira Profesor Einstein."[28]
Einstein telah menjadi subyek atau inspirasi bagi banyak novel, film, drama, dan karya-karya musik.[29] Dia adalah model favorit bagi penggambaran ilmuwan gila dan profesor absent-minded; wajahnya yang ekspresif dan gaya rambutnya yang khas telah banyak disalin dan dilebih-lebihkan. Frederic Golden dari majalah Time menulis bahwa Einstein adalah "mimpi kartunis yang menjadi kenyataan".[30]
Penghargaan dan kehormatan
Einstein menerima berbagai penghargaan dan kehormatan dan pada tahun 1922 ia dianugerahi Penghargaan Nobel dalam Fisika tahun 1921 "untuk pengabdiannya bagi Fisika Teoretis, dan khususnya untuk penemuan hukum efek fotolistrik." Tak satu pun dari nominasi pada tahun 1921 memenuhi kriteria yang ditetapkan oleh Alfred Nobel, sehingga penghargaan tidak diberikan pada tahun 1921 dan diberikan kepada Einstein pada tahun 1922.[31]
Publikasi
Publikasi berikut oleh Albert Einstein menjadi referensi di artikel ini. Daftar yang lebih lengkap dari publikasinya dapat ditemukan di Daftar publikasi ilmiah oleh Albert Einstein.
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. First of a series of papers on this topic.
. The chasing a light beam thought experiment is described on pages 48–51.
Collected Papers: . Further information about the volumes published so far can be found on the webpages of the and on the Princeton University Press
Lihat pula
Patung Albert Einstein
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كتاب من أمريكا إلى الشاطئ الآخر هو كتاب من تأليف الدكتور مصطفى محمود يتحدث فيه عن التقدم التكنولوجي الكبير في الولايات المتحدة بذكر مجموعة من التواريخ المتتالية وكيف كانت الأحداث المسيطرة على الرأي العام الامريكي وكلها عن اختراع كذا وظهور كذا. ثم يذهب الكاتب إلى التحدث عن الشيوعية وكيف اختلفت مع الوقت من قتال من أجل الطبقات الكادحة ومثل عليا في وجهه نظرهم إلى حروب ودمار من أجل مطامع مادية وأنها لا تختلف مع الرأسمالية في كونهم نتاج الثورة الصناعية الوثنية وحضارة مادية خالصة. يتحدث الكاتب عن التلفاز وكيف سيغير ويقود العالم وربما ما ذكره الكاتب من تنبؤات بما سيحدثه هذا الإختراع على حد قوله نعيشه الان ونعيش اثار هذا التلفاز. يذهب الكاتب بعد ذلك إلى يوغوسلافيا ( الكتاب يتحدث عن فترة أوائل الثمانينات) وبالتحديد إلى سراييفو عاصمة البوسنة حاليا ويحكي الكاتب كيف يعيش 4 مليون مسلم هم مسلموا يوغوسلافيا في قلب أوروبا في نفس الجبال والسهول والروح الأوروبية تجد القيم الإسلامية الرفيعة والسماحة والتواضع وكيف أنه إذا انتقل فقط إلى النمسا بجوارها سيجد حياة مختلفة. يمر الكاتب مروراً سريعاً إلى جزيرة رودس التابعة إلى اليونان ويتحدث عن نفسية البائع اليوناني الذي يعيش حياته معتمدا على السياحة تماما لا يبالي بالإشتراكية أو غيرها هو يريد أن يأتي إلى اليونان ليشتري الجميع ما يبيع من تماثيل الحضارة الاغريقية ثم يتحدث الكاتب بعد ذلك عن الثورة الإيرانية بقيادة الخميني ورؤية الغرب لها عن طريق عرض مقولة لتوماس ليمان يتحدث فيها عن فكرة الدولة الاسلامية من الأساس وأنه من المستحيل أن يصبح هناك دولة اسلامية متوحدة في المستقبل! ثم يذهب إلى الحل في الفصل الاخير بالكتاب وكيف يكون موقفنا من هذة المتغيرات ويقول: العلم والعمل والإنتاج ومكارم الاخلاق التي عودنا عليها الاسلام والوحدة خلف رايته واحترام العقل ونبذ التعصب والنظر إلى كل شئ في شمول وتدبر وتفكر.[1]
مقتطفات من الكتاب
“من يقرأ التاريخ لا يدخل اليأس إلى قلبه أبداً وسوف يرى الدنيا أياماً يداولها الله بين الناس. الأغنياء يصبحون فقراء، والفقراء ينقلبون أغنياء، وضعفاء الأمس أقوياء اليوم، وحكام الأمس مشردوا اليوم،والقضاه متهمون، والغالبون مغلبون والفلك دوار والحياة لا تقف.”
“الكتاب الجيد يحرر الإنسان الذي يقرأه، أما التلفزيون الجيد فيعتقل الإنسان الذي يشاهده”
“أحياناً لابد أن نصادر الحرية لنحمي الحرية”
“تيتو.. هو موحد جمهوريات يوغسلافيا الثماني ذات اللغات المتعدده(صربية وكرواتية وسلوفينية) والديانات المتعددة(إسلام وكاثوليك وأرثودكس وشيوعيين) تحت علم واحد وولاء واحد. ونص تيتو في دستوره على حرية المسلم في أداء شعائره والدعوة الدينية، وكذلك حرية المسيحي وحرية الشيوعي، ويحفظ له المسلمون الجميل والمسلمين من المصير الذي حاق بهم في ألبانيا والمجر وبولندا وروسيا.. وأنقذ يوغوسلافيا من الشيوعية الستالينية ومن التبعية العمياء لروسيا او امريكا ومن الحروب الطائفية.. أختار لهم خطا إقتصاديا خاصا بها هو.. دولة المؤسسات هو ذلك الخط الوسط الدقيق بين ملكية الفرد وملكية الدولة. وقد قرأ تيتو القرأن ثلاث مرات (في ترجمت اليوغسلافية) وكانت أخر مرة في مرضه الأخير.. كما أوصى قبل موته بألا توضع على قبره النجمه الشيوعية، وألا يكفن في الكفن الأحمر الذي يكفن به الشيوعيين. كما اوصى قبل موته بألا توضع على قبره نجمة الشيوعية. كما رفض أن يوضع على قبره الصليب، وأن يدفن تبعاً لأي طقس مسيحي، وطلب أن يدفن في بيته بلا طقوس والا يكتب على قبره اي كلمة سوى (تيتو ولد في كذا ومات في كذا) وذهب وذهب معه سره ولا نعلم على اي عقيدة مات ولكنه ترك وراءه يوغسلافيا الموحدة والسلام والحرية والعمار ووراء بناء كلمة لا إله الا الله في يوغسلافيا وبقاء الاسلام حياً في قلعة الالحاد الاوروبية جهود خارقة لجنود مجهولين.. كما أن وراءه تخطيطاً وتنظيماً مستنيراً متقدماً متطوراًات في كذا”
“وأكاد أقول إن أصدق تعريف للحضارة هو القدرة على التفاهم بين المختلفين، والقدرة على تجاوز التناقضات في المواقف والأراء والأمزجة وتغليب الإنسانية والحكمة”
“وعلى المسلم أن يقرأ ويتعلم وينفتح على جميع التيارات ليعرف كيف يتعامل معها في سلام وكيف يرد عليها بمنطق وبموضوعية وبعلم دونما تعصب”
“إن التيار السائد الان هو التيار الدينى فليعمل الجميع تحت هذه الراية الضرورة واستراتيجية المرحلة تحكم تلك مبادئهم .. ولقد سمعنا الإرهابى الإيرانى ” فلاح الدين حبشى ” يقول إن حزب توده الشيوعى يعمل من داخل عباءة الخومينى بل هم يعملون من تحت جلده وفى سن الثمانين يصبح العجوز طفلاً فى عقليته بسبب تصلب الشرايين .. وما أسهل أن يصبح العوبة فى أيدى من يعرف كيف يقوده ويؤثر فيه وهم هنا فى الجامعة يعملون من وراء الشعارات الدينية ويدفعون بالشباب المتطرف الرافض إلى هوس دينى فى محاولة ذكية ماكرة للتخلص من النظام ومن الدين معا والوصول بالمجتمع إلى حالة من الفوضى تصبح فيها الشيوعية هى طوق النجاة الوحيد هؤلاء هم أصحاب اللحى الجدد الذين يرفعون المصاحف على أسنة المطرقة والسندان وينادون بالشريعة ليقطعوا بها ايدى خصومهم ويصلون على محمد بظاهر السنتهم وعلى لينين بكوامن قلوبهم ودفعون امامهم بقطعان من الشباب الساذج ويقولون له .. اقتل .. احرق – خرب .. فى سبيل الله .. ضع القنابل فى السينمات والمسارح والبنوك والمؤسسات .. ارفع راية العصيان فى كل مكان .. فتلك دولة الفسق وانت المهدى المنتظر .. وما اكثر من يندفع من الشباب ليموتوا فى معركة ليست معركتهم فليكن الشباب على حذر من هذه اللغة المزدوجة وليتذكر أن الدين حب وسماحة وتقوى وعمل صالح وبناء وتفان فى الخير وتعاون على البر وليتذكر أن محمدا عليه الصلاة والسلام لم يكن سفاحا ولا قاتلا ولا مخربا ولم يكن يشعل الحرائق ولم يكن يغتال الامنين بل كان بدا خضراء ولسان صدق وكلمة محبة اما هؤلاء الرافضون فهم الماركسيون الجدد فى لباسهم التنكرى الجديد بعد أن تعرت مبادئهم وظهر فسادها حتى النخاغ”
انظر أيضاً
أكذوبة اليسار الإسلامي
مغامرة في الصحراء
إسرائيل البداية والنهاية (كتاب)
الإسلام في خندق
شلة الأنس
الشيطان يسكن في بيتنا
القرآن: محاولة لفهم عصري
اعترافات عشاق
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، العربية نت، 31 أكتوبر 2009.
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تصنيف:كتب مصطفى محمود
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} | Сколько есть теорий происхождения мира на 2019 год? | Возникновение жизни | russian | {
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} | Возникновение жизни, или абиогенез, — процесс превращения неживой природы в живую; в узком смысле слова под абиогенезом понимают образование органических соединений, распространённых в живой природе, вне организма без участия ферментов. Альтернативой абиогенеза в этом смысле является панспермия.
Согласно современным моделям, на Земле жизнь возникла около 4,1—3,8 млрд лет назад[1][2].
История развития представлений о возникновении жизни
В разное время относительно возникновения жизни на Земле выдвигались следующие теории:
Теория стационарного состояния жизни
Теория самозарождения
Теория «первичного бульона»
Самозарождение жизни
Эта теория была распространена в Древнем Китае, Вавилоне и Древнем Египте в качестве альтернативы креационизму, с которым она сосуществовала. Аристотель (384—322 гг. до н. э.), которого часто провозглашают основателем биологии, придерживался теории спонтанного зарождения жизни. Согласно этой гипотезе, определённые «частицы» вещества содержат некое «активное начало», которое при подходящих условиях может создать живой организм. Аристотель был прав, считая, что это активное начало содержится в оплодотворённом яйце, но ошибочно полагал, что оно присутствует также в солнечном свете, тине и гниющем мясе.
С распространением христианства теория спонтанного зарождения жизни оказалась не в чести, но эта идея все продолжала существовать где-то на заднем плане в течение ещё многих веков.
Вплоть до XIX века в научной среде существовало представление о «жизненной силе» — некой всепроникающей субстанции, заставляющей зарождаться живое из неживого (лягушек — из болота, личинок мух — из мяса, червей — из почвы и т. д.). Известный учёный Ван Гельмонт описал эксперимент, в котором он за три недели якобы создал мышей. Для этого нужны были грязная рубашка, тёмный шкаф и горсть пшеницы. Активным началом в процессе зарождения мыши Ван Гельмонт считал человеческий пот.
В 1668 году итальянский биолог и врач Франческо Реди подошёл к проблеме возникновения жизни более строго и подверг сомнению теорию спонтанного зарождения. Реди установил, что маленькие белые червячки, появляющиеся на гниющем мясе — это личинки мух. Проведя ряд экспериментов, он получил данные, подтверждающие мысль о том, что жизнь может возникнуть только из предшествующей жизни (концепция биогенеза). В горшочках с мясом, накрытых марлей, мухи не заводились.
Эти эксперименты, однако, не привели к отказу от идеи самозарождения, и хотя эта идея несколько отошла на задний план, она продолжала оставаться главной версией зарождения жизни.
В то время как эксперименты Реди, казалось бы, опровергли спонтанное зарождение мух, первые микроскопические исследования Антони ван Левенгука усилили эту теорию применительно к микроорганизмам. Сам Левенгук не вступал в споры между сторонниками биогенеза и спонтанного зарождения, однако его наблюдения под микроскопом давали пищу обеим теориям.
В 1860 году этой проблемой занялся французский химик Луи Пастер. Однако Пастер не ставил перед собой вопрос о происхождении жизни. Он интересовался проблемой самозарождения микробов в связи с возможностью борьбы с инфекционными заболеваниями. Если «жизненная сила» существует, то бороться с болезнями бессмысленно: сколько микробов ни уничтожай, они самозародятся вновь. Если же микробы всегда приходят извне, тогда есть шанс.[3] Своими опытами он доказал, что бактерии вездесущи, и что неживые материалы легко могут быть заражены живыми существами, если их не стерилизовать должным образом. Учёный кипятил в воде различные среды, в которых могли бы образоваться микроорганизмы. При дополнительном кипячении микроорганизмы и их споры погибали. Пастер присоединил к S-образной трубке запаянную колбу со свободным концом. Споры микроорганизмов оседали на изогнутой трубке и не могли проникнуть в питательную среду. Хорошо прокипячённая питательная среда оставалась стерильной, в ней не обнаруживалось зарождения жизни, несмотря на то, что доступ воздуха и «жизненной силы» был обеспечен. Вывод: «жизненной силы» не существует, и в настоящее время микроорганизмы не самозарождаются из неживого субстрата.[4][5]
Однако этот эксперимент вовсе не доказывает, что живое вообще никогда не может самозарождаться из неживого. Эксперимент Пастера доказывает лишь невозможность зарождения микроорганизмов конкретно в тех питательных средах, которые он использовал, при весьма ограниченном диапазоне условий и в течение коротких промежутков времени. Но он не доказывает невозможность самозарождения жизни в течение сотен миллионов лет химической эволюции, в самых разных средах и при разных условиях (особенно при условиях ранней Земли: в бескислородной атмосфере, наполненной метаном, углекислым газом, аммиаком и циановодородом, при пропускании электрических разрядов и т. д.). Этот эксперимент в принципе не может касаться вопроса об изначальном зарождении жизни хотя бы потому, что в своих опытах Пастер использовал мясные и дрожжевые бульоны (а также мочевину и кровь)[3], а до зарождения жизни не было ни дрожжей, ни мяса. И тем более эксперимент Пастера никак не опровергает современные научные теории и гипотезы о зарождении жизни в глубоководных горячих гидротермальных источниках, в геотермальных источниках, на минеральных кристаллах, в космическом пространстве, в протопланетной туманности, из которой сформировалась Солнечная система и др.
Теория стационарного состояния
Согласно теории стационарного состояния, Земля никогда не возникала, а существовала вечно; она всегда была способна поддерживать жизнь, а если и изменялась, то очень незначительно. Согласно этой версии, виды также никогда не возникали, они существовали всегда, и у каждого вида есть лишь две возможности — либо изменение численности, либо вымирание.
Однако гипотеза стационарного состояния в корне противоречит данным современной астрономии, которые указывают на конечное время существования любых звёзд и, соответственно, планетных систем вокруг звёзд. По современным оценкам, основанным на учете скоростей радиоактивного распада, возраст Земли, Солнца и Солнечной системы исчисляется ≈4,6 млрд лет. Поэтому эта гипотеза не рассматривается академической наукой.
Сторонники этой гипотезы не признают, что наличие или отсутствие определённых ископаемых остатков может указывать на время появления или вымирания того или иного вида, и приводят в качестве примера представителя кистепёрых рыб — латимерию. По палеонтологическим данным кистеперые вымерли в конце мелового периода. Однако это заключение пришлось пересмотреть, когда в районе Мадагаскара были найдены живые представители кистеперых. Сторонники теории стационарного состояния утверждают, что только изучая ныне живущие виды и сравнивая их с ископаемыми останками, можно сделать вывод о вымирании, да и в этом случае весьма вероятно, что он окажется неверным. Используя палеонтологические данные для подтверждения теории стационарного состояния, её сторонники интерпретируют появление ископаемых останков в экологическом аспекте. Так, например, внезапное появление какого-либо ископаемого вида в определённом пласте они объясняют увеличением численности его популяции или его перемещением в места, благоприятные для сохранения остатков.
Теория стационарного состояния представляет собой только исторический или философский интерес, так как выводы этой теории противоречат научным данным.
Теория Опарина — Холдейна
В 1924 году будущий академик Опарин опубликовал статью «Происхождение жизни», которая в 1938 году была переведена на английский и возродила интерес к теории самозарождения. Опарин предположил, что в растворах высокомолекулярных соединений могут самопроизвольно образовываться зоны повышенной концентрации, которые относительно отделены от внешней среды и могут поддерживать обмен с ней. Он назвал их коацерватные капли, или просто коацерваты.
Согласно его теории, процесс, приведший к возникновению жизни на Земле, может быть разделён на три этапа:
Возникновение органических веществ
Возникновение белков
Возникновение белковых тел
Астрономические исследования показывают, что как звёзды, так и планетные системы возникли из газопылевого вещества. Наряду с металлами и их оксидами в нём содержались водород, аммиак, вода и простейший углеводород — метан.
Условия для начала процесса формирования белковых структур установились с момента появления первичного океана (бульона). В водной среде производные углеводородов могли подвергаться сложным химическим изменениям и превращениям. В результате такого усложнения молекул могли образоваться более сложные органические вещества, а именно углеводы.
Наука доказала, что в результате применения ультрафиолетовых лучей можно искусственно синтезировать не только аминокислоты, но и другие органические вещества.[6][7]
Согласно теории Опарина, дальнейшим шагом по пути к возникновению белковых тел могло явиться образование коацерватных капель. При определённых условиях водная оболочка органических молекул приобретала чёткие границы и отделяла молекулу от окружающего раствора. Молекулы, окружённые водной оболочкой, объединялись, образуя многомолекулярные комплексы — коацерваты.
Коацерватные капли также могли возникать при простом смешивании разнообразных полимеров. При этом происходила самосборка полимерных молекул в многомолекулярные образования — видимые под оптическим микроскопом капли.
Капли были способны поглощать извне вещества по типу открытых систем. При включении в коацерватные капли различных катализаторов (в том числе и ферментов) в них происходили различные реакции, в частности полимеризация поступающих из внешней среды мономеров. За счёт этого капли могли увеличиваться в объёме и весе, а затем дробиться на дочерние образования. Таким образом, коацерваты могли расти, размножаться, осуществлять обмен веществ.
Далее коацерватные капли подвергались естественному отбору, что обеспечило их эволюцию.
Подобные взгляды также высказывал британский биолог Джон Холдейн.
Проверил теорию Стэнли Миллер в 1953 году в эксперименте Миллера — Юри. Он поместил смесь H2O, NH3, CH4, CO2, CO в замкнутый сосуд и стал пропускать через неё электрические разряды (при температуре 80°С). Оказалось, что образуются аминокислоты[8]. Позднее в разных условиях были получены также сахара и нуклеотиды[6]. Он сделал вывод, что эволюция может произойти при фазовообособленном состоянии из раствора (коацерватов). Однако такая система не может сама себя воспроизводить.
Теория была обоснована, кроме одной проблемы, на которую долго закрывали глаза почти все специалисты в области происхождения жизни. Если спонтанно, путём случайных безматричных синтезов в коацервате возникали единичные удачные конструкции белковых молекул (например, эффективные катализаторы, обеспечивающие преимущество данному коацервату в росте и размножении), то как они могли копироваться для распространения внутри коацервата, а тем более для передачи коацерватам-потомкам? Теория оказалась неспособной предложить решение проблемы точного воспроизведения — внутри коацервата и в поколениях — единичных, случайно появившихся эффективных белковых структур. Однако было показано, что первые коацерваты могли образоваться самопроизвольно из липидов, синтезированных абиогенным путём, и они могли вступить в симбиоз с «живыми растворами» — колониями самовоспроизводящихся молекул РНК, среди которых были и рибозимы, катализирующие синтез липидов, а такое сообщество уже можно назвать организмом[9].
Однако Ричард Докинз в своём «Эгоистичном гене», где он излагает , предположил, что в первичном бульоне возникли не коацерватные капли, а первые молекулы-репликаторы, способные создавать копии самих себя. Такой молекуле было достаточно возникнуть единожды и копировать себя в дальнейшем, используя органические соединения из окружающей среды (насыщенного органикой «бульона»). Сразу после появления репликатора, он стал распространять свои копии по всем морям, пока более мелкие молекулы, которые стали «строительными блоками», не стали дефицитными, что вынудило первичные репликаторы бороться за выживание друг с другом и эволюционировать.
Зарождение жизни в горячей воде
Гипотезу о возникновении жизни вблизи подводных вулканов высказал Л. М. Мухин в начале 1970-х[10]. Научные исследования показывают, что зарождение жизни в минеральной воде и, в особенности, гейзерах наиболее вероятно[11]. В 2005 году академик Юрий Викторович Наточин высказал предположение, отличное от общепринятой концепции возникновения жизни в море, и аргументировал гипотезу, согласно которой средой возникновения протоклеток были водоемы с преобладанием ионов К+, а не морская вода с доминированием ионов Na+[12]. В 2009 г. Армен Мулкиджанян и Михаил Гальперин на основе анализа содержания элементов в клетке также пришли к выводу, что, вероятно, жизнь зародилась не в океане[13]. Дейвид Уард доказал, что в горячей минеральной воде появились и сейчас образуются строматолиты[14]. Самые древние строматолиты были обнаружены в Гренландии. Их возраст насчитывает 3,5 миллиарда лет. В 2011 г. Тадаси Сугавара создал протоклетку в горячей воде[15]. Исследования Мари-Лор Пон минерала серпентина в геологической формации Исуа, Гренландия, в 2011 г. показали, что жизнь могла зародиться и в грязевых вулканах[16]. Лауреат Нобелевской премии биолог Джек Шостак отметил, что мы можем легче представить себе накопление органических соединений в первичных озёрах, чем в океане. Такого же мнения группа учёных под руководством Евгения Кунина[17].
Современные научные представления
Химическая эволюция или пребиотическая эволюция — первый этап эволюции жизни, в ходе которого органические, пребиотические вещества возникли из неорганических молекул под влиянием внешних энергетических и селекционных факторов и в силу развертывания процессов самоорганизации, свойственных всем относительно сложным системам, к которым относится большинство углеродосодержащих молекул.
Также этими терминами обозначается теория возникновения и развития тех молекул, которые имеют принципиальное значение для возникновения и развития живого вещества.
Генобиоз и голобиоз
В зависимости от того, что считается первичным, различают два методологических подхода к вопросу возникновения жизни:
Генобиоз — методологический подход в вопросе происхождения жизни, основанный на убеждении в первичности молекулярной системы со свойствами первичного генетического кода.
Голобиоз — методологический подход в вопросе происхождения жизни, основанный на идее первичности структур, наделённых способностью к элементарному обмену веществ при участии ферментного механизма.
Мир РНК как предшественник современной жизни
К XXI веку теория Опарина—Холдейна, предполагающая изначальное возникновение белков, практически уступила место[18] более современной. Толчком к её разработке послужило открытие рибозимов — молекул РНК, обладающих ферментативной активностью и поэтому способных соединять в себе функции, которые в настоящих клетках в основном выполняют по отдельности белки и ДНК, то есть катализирование биохимических реакций и хранение наследственной информации. Таким образом, предполагается, что первые живые существа были РНК-организмами без белков и ДНК, а прообразом их мог стать автокаталитический цикл, образованный теми самыми рибозимами, способными катализировать синтез своих собственных копий.[19]
Мир полиароматических углеводородов как предшественник мира РНК
Гипотеза мира полиароматических углеводородов пытается ответить на вопрос, как возникли первые РНК, предлагая вариант химической эволюции от полициклических ароматических углеводородов до РНК-подобных цепочек.
Альтернативные концепции
Панспермия
Согласно теории панспермии, предложенной Ю. Либихом, в 1865 году немецким ученым Германом Эбергардом Рихтером и окончательно сформулированной шведским учёным Аррениусом в 1895 году, жизнь могла быть занесена на Землю из космоса. Наиболее вероятно попадание живых организмов внеземного происхождения с метеоритами и космической пылью. Это предположение основывается на данных о высокой устойчивости некоторых организмов и их спор к радиации, глубокому вакууму, низким температурам и другим воздействиям. Однако до сих пор нет достоверных фактов, подтверждающих внеземное происхождение микроорганизмов, найденных в метеоритах. Но если бы даже они попали на Землю и дали начало жизни на нашей планете, вопрос об изначальном возникновении жизни оставался бы без ответа.
Фрэнсис Крик и Лесли Оргел предложили в 1973 году другой вариант — управляемую панспермию, то есть намеренное «заражение» Земли (наряду с другими планетными системами) микроорганизмами, доставленными на непилотируемых космических аппаратах развитой инопланетной цивилизацией, которая, возможно, находилась перед глобальной катастрофой или же просто надеялась произвести терраформирование других планет для будущей колонизации[20]. В пользу своей теории они привели два основных довода — универсальность генетического кода (известные другие вариации кода используются в биосфере гораздо реже и мало отличаются от универсального) и значительную роль молибдена в некоторых ферментах. Молибден — очень редкий элемент для всей Солнечной системы. По словам авторов, первоначальная цивилизация, возможно, обитала возле звезды, обогащённой молибденом.
Против возражения о том, что теория панспермии (в том числе управляемой) не решает вопрос о зарождении жизни, они выдвинули следующий аргумент: на планетах другого неизвестного нам типа вероятность зарождения жизни изначально может быть намного выше, чем на Земле, например, из-за наличия особенных минералов с высокой каталитической активностью.
В 1981 году Ф. Крик написал книгу «Life itself: its origin and nature»[21], в которой он более подробно, чем в статье, и в популярной форме излагает гипотезу управляемой панспермии.
Академик РАН А. Ю. Розанов, глава комиссии по астробиологии в Российской академии наук, считает, что жизнь на Землю была занесена из космоса[22].
См. также
Космогония
Хронология эволюции
История жизни на Земле
Примечания
Ссылки
Лорен Грэхэм
А. С. Спирин. — статья академика, директора Института белка РАН, члена Президиума РАН.
К. Ю. Еськов
Марков А. В. // Рождение сложности. CORPUS, «Астрель», 2010.
Чернавский, Дмитрий Сергеевич. // Успехи физических наук. Т. 170. 2000. № 2. С. 157—183.
Marie-Laure Pons et al. PNAS
Ричард Докинз. Эгоистичный ген / пер. с англ. Н. Фоминой. — Москва: АСТ:CORPUS, 2013. — 512 с. — 5000 экз. — ISBN 978-5-17-077772-3
Фильмография
«Через червоточину с Морганом Фрименом. Как мы сюда попали?» (English: Through the Wormhole with Morgan Freeman. How Did We Get Here?) — научно-популярный фильм, снятый Discovery в 2010 г.
Категория:Разделы биологии
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Категория:Эволюция | https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE%D0%B7%D0%BD%D0%B8%D0%BA%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B5%20%D0%B6%D0%B8%D0%B7%D0%BD%D0%B8 |
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قائمة الهاتريك في دوري أبطال أوروبا منذ بداية دوري أبطال أوروبا في عام 1992، أستطاع 89 لاعب من أصل 35 دولة تسجيل ثلاثية (هاتريك) أو أكثر في مباراة واحدة، في المجموع 93 مرة عن 42 نادي مختلف في 15 دوري مختلف. أول لاعب يحقق هذا الإنجاز هو الألماني جول إليرمان، حيث سجل الهاتريك مع نادي آيندهوفن عندما فاز على نادي فيلنيوس 6 لصفر في 16 سبتمبر 1992.
إثنى عشر لاعبا سجلوا أكثر من ثلاثة أهداف في مباراة واحدة، من بينهم وحده ليونيل ميسي حقق هذا أكثر من مرة، وفقط ميسي والبرازيلي لويز أدريانو من سجلوا خمسة أهداف.[1][2] وحقق هذا الإنجاز عشرة لاعبين آخرين هم: ماركو فان باستن، سيموني إنزاغي، دادو برشو، رود فان نيستلروي، أندري شيفتشينكو، بافيتيمبي غوميس، ماريو غوميز، روبرت ليفاندوفسكي، زلاتان إبراهيموفيتش وكريستيانو رونالدو.
سجل ليونيل ميسي ثلاثة أهداف ثمان مرات في دوري أبطال أوروبا أكثر من أي لاعب آخر.[3] حقق كل من فيليبو إنزاغي، ماريو غوميز ولويز أدريانو ثلاث مرات،[4] بينما أندي كول، مايكل أوين، صامويل إيتو، ماركو سيموني، رود فان نيستلروي، روي ماكاي، روبيرتو سولدادو، ديدييه دروغبا، أدريانو، أندري شيفتشينكو وروبرت ليفاندوفسكي سجلوا هاتركين.[5][6] تسعة لاعبين سجلوا هاتريك لناديين أو أكثر: إنزاغي (يوفنتوس وميلان)، أوين (ليفربول ومانشستر يونايتد)، إيتو (برشلونة وإنتر ميلان)، سيموني (ميلان وموناكو)، فان نيستلروي (آيندهوفن ومانشستر يونايتد)، ماكاي (ديبورتيفو وبايرن ميونخ)، شيفتشينكو (دينامو كييف وميلان)، دروغبا (مارسيليا وتشيلسي) وليفاندوفسكي (بوروسيا دورتموند وبايرن ميونخ).[6]
كريستيانو رونالدو اللاعب الوحيد الذي سجل هاتريك في مبارتين متتاليتين موسم 2016–17 ضد كل من بايرن ميونخ في إياب ربع النهائي وأتلتيكو مدريد في ذهاب النصف. كما أنه الوحيد الذي سجل هاتريك لثلاث مواسم متتالية، يليه كل من أدريانيو (إنتر ميلانو)، غوميز (بايرن ميونخ) وسولدادو (فالنسيا) تمكنوا من تسجيل هاتريك في موسمين متتاليين. وأطول فترة بين هاتركين تم تحقيقه من قبل أوين، الذي سجل أول هاتريك له في 22 أكتوبر 2002 في ليفربول والثاني كان بعد أكثر من سبع سنوات، في 8 ديسمبر 2009 لصالح مانشستر يونايتد.
أما أقصر فترة بين هاتركين فكان من قبل كريستيانو رونالدو، الذي سجل هاتريك في مباراة لريال مدريد ضد بايرن ميونخ يوم 18 أبريل و2 مايو في دوري أبطال أوروبا 2016–17.[7] وقد سجل ثلاثة لاعبين آخرين فقط هاتريكين في نفس الموسم: ليونيل ميسي سجل هاتركين في دوري أبطال أوروبا 2011–12 لبرشلونة، الأول يوم 1 نوفمبر 2011، والثاني بعد ستة أشهر في 7 مارس 2012؛[8] ماريو غوميز سجل أيضا هاتريك لبايرن ميونخ في 2 نوفمبر 2011، وأربعة أهداف أخرى في 13 مارس 2012؛[1] كريستيانو رونالدو سجل هاتريك لريال مدريد في 15 سبتمبر 2015، وأربعة أهداف آخرين في 8 ديسمبر 2015، وثلاثة آخرين في 12 أبريل 2016.
بافيتيمبي غوميس يحمل الرقم القياسي لأسرع هاتريك في دوري الأبطال، سجل ثلاث مرات لنادي ليون الفرنسي ضد نادي دينامو زغرب الكرواتي في الدقيقة 7 يو 7 ديسمبر 2011. وكان الرقم القياسي السابق الذي حُفظ لمدة 16 عامًا من قبل مايك نيويل، حيث سجل هاتريك لنادي بلاكبيرن روفرز الإنجليزي ضد نادي روسنبورغ النرويجي في الدقيقة 9 يوم 6 ديسمبر 1995.
أصغر من سجل هاتريك كان راؤول الذي سجل هاتريك لريال مدريد ضد نادي فيرينكفاروسي حيث كان عمره 18 عامًا و114 يوما[9]، كما سجل واين روني في السن ال 18 هاتريك لنادي مانشستر يونايتد ضد نادي فنربخشة.[10]
موسم 2016–17 شهد تسجيل أكبر عدد من الهاتريك، بتسعة هاتريكات.
القائمة
As of 7 نوفمبر 2018[11]
الإحصائيات
As of 7 نوفمبر 2018
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Ру́сско-япо́нская война́ (Japanese: 日露戦争 нити-ро сэнсо: — ) — война между Российской и Японской империями за контроль над Маньчжурией с Кореей[1] и Жёлтым морем. После перерыва в несколько десятков лет стала первой большой войной с применением новейшего оружия: дальнобойной артиллерии, броненосцев, миноносцев.
На первом месте во всей русской политике первой половины царствования императора Николая II стояли вопросы Дальнего Востока — «большая азиатская программа»: во время своей встречи в Ревеле с императором Вильгельмом II русский самодержец прямо сказал, что рассматривает укрепление и усиление влияния России в Восточной Азии как задачу именно своего правления.
Основным препятствием к русскому преобладанию на Дальнем Востоке была Япония[2][3], неизбежное столкновение с которой Николай II предвидел и готовился к нему как в дипломатическом, так и в военном отношении (сделано было немало: соглашение с Австрией и улучшение отношений с Германией обеспечивало русский тыл; постройка Сибирской дороги и усиление флота обеспечивали материальную возможность борьбы), однако в русских правительственных кругах была сильна и надежда на то, что страх перед силой России удержит Японию от прямого нападения[3].
После реставрации Мэйдзи в 1868 году, проведя масштабную модернизацию экономики страны, Япония к середине 1890-х годов перешла к политике внешней экспансии, в первую очередь в географически близкой Корее. Натолкнувшись на сопротивление Китая, Япония в ходе японо-китайской войны (1894—1895) нанесла Китаю сокрушительное поражение. Симоносекский договор, подписанный в 1895 году по итогам войны, зафиксировал отказ Китая от всех прав на Корею и передачу Японии ряда территорий, включая Ляодунский полуостров и Маньчжурию. Эти достижения Японии резко увеличивали её мощь и влияние, что не отвечало интересам европейских держав[4], поэтому Германия, Россия и Франция добились изменения этих условий: предпринятая с участием России тройственная интервенция привела к отказу Японии от Ляодунского полуострова, а затем и к передаче его в 1898 году России в арендное пользование. Осознание того, что Россия фактически отобрала у Японии захваченный в ходе войны Ляодунский полуостров, привело к новой волне милитаризации Японии, на этот раз направленной против России.
В 1903 году спор из-за русских лесных концессий в Корее и продолжающегося русского освоения Маньчжурии привёл к резкому обострению русско-японских отношений. Несмотря на слабость российского военного присутствия на Дальнем Востоке, Николай II не пошёл на уступки, так как для России ситуация, по его мнению, была принципиальна: решался вопрос о выходе к незамерзающим морям, о преобладании на огромной территории относительно слабо заселённых просторов Маньчжурии. Япония стремилась к полному своему господству в Корее и требовала, чтобы Россия очистила Маньчжурию[2]. По мнению исследователя царствования императора Николая II профессора Сергея Ольденбурга, избежать борьбы с Японией Россия могла лишь ценой капитуляции и своего самоустранения с Дальнего Востока, и никакие частичные уступки[2], которых было сделано немало (в том числе задержка отправления подкреплений в Маньчжурию), не смогли не только предотвратить, но даже отсрочить решение Японии начать войну с Россией, в которой Япония и по существу, и по форме стала нападающей стороной[5]. В октябре 1901 года Николай II говорил принцу Генриху: «Столкновение неизбежно; но надеюсь, что оно произойдёт не ранее, чем через четыре года — тогда у нас будет преобладание на море. Это — наш основной интерес»[3].
В конце декабря 1903 года Главный штаб в докладной записке Николаю II обобщил всю поступившую разведывательную информацию: из неё следовало, что Япония полностью завершила подготовку к войне и ждёт лишь удобного случая для атаки. Кроме реальных доказательств неизбежности войны, русская военная разведка смогла установить и практически точную дату её начала. Однако никаких экстренных мер со стороны Николая II и его окружения так и не последовало. Нерешительность высших должностных лиц привела к тому, что ни один из планов подготовки кампании против дальневосточного соседа, составленных А. Н. Куропаткиным, Е. И. Алексеевым и Главным морским штабом, не был осуществлён до конца[6][7]. В январе Куропаткин обвинял В. К. Плеве в содействии развязыванию войны, на что тот ответил: «Чтобы удержать революцию, нам нужна маленькая победоносная война»[8].
Внезапное, без официального объявления войны, нападение японского флота на русскую эскадру на внешнем рейде Порт-Артура в ночь на 9[O.S. 1904 год]февраляа привело к выводу из строя нескольких сильнейших кораблей русской эскадры и обеспечило беспрепятственную высадку японских войск в Корее в феврале 1904 года. В мае, использовав бездействие русского командования, японцы провели высадку своих войск на Квантунский полуостров и перерезали железнодорожное сообщение Порт-Артура с Россией. Осада Порт-Артура была начата японскими войсками уже к началу августа 1904 года, а 2[O.S. 1905]января года гарнизон крепости был принуждён к сдаче. Остатки русской эскадры в Порт-Артуре были потоплены осадной артиллерией японцев либо взорваны собственными экипажами.
В феврале 1905 года японцы заставили отступить русскую армию в генеральном сражении при Мукдене, а 27[O.S. 1905]мая — 28[O.S. 1905 год]маяа в Цусимском сражении нанесли поражение русской эскадре, переброшенной на Дальний Восток с Балтики. Причины неудач русских армий и флота и их конкретных поражений были обусловлены многими факторами, но главными среди них явились незавершённость военно-стратегической подготовки, удалённость театра военных действий от главных центров страны и армии, чрезвычайная ограниченность сетей коммуникаций и технологическое отставание царской России от своего противника[2]. В результате поражений в этой войне с начала января 1905 года в России возникла и развивалась революционная ситуация.
Война завершилась Портсмутским миром, подписанным 5[O.S. 1905 год]сентябряа и зафиксировавшим уступку Россией Японии южной части Сахалина и своих арендных прав на Ляодунский полуостров и Южно-Маньчжурскую железную дорогу.
Предыстория
Расширение влияния Российской империи на Дальнем Востоке
В середине 1850-х годов Крымская война обозначила пределы территориальной экспансии Российской империи в Европе. К 1890 году, после выхода на границы Афганистана и Персии, был исчерпан потенциал экспансии в Центральной Азии: дальнейшее продвижение было чревато прямым конфликтом с Британской империей. Внимание России переключилось дальше на Восток, где цинский Китай, ослабленный в 1840—1860 годах сокрушительными поражениями в опиумных войнах и восстанием тайпинов, больше не мог удерживать северо-восточные земли. Айгунский договор, подписанный с Китаем в 1858 году, зафиксировал передачу России современного Приморского края, на территории которого уже в 1860 году был заложен Владивосток.
С Японией в 1855 году был заключён Симодский трактат, согласно которому Курильские острова к северу от острова Итуруп объявлялись владениями России, а Сахалин объявлялся совместным владением двух стран. В 1875 году Петербургский договор зафиксировал передачу Сахалина России в обмен на передачу Японии всех 18 Курильских островов.
Дальнейшее укрепление российских позиций на Дальнем Востоке ограничивалось малочисленностью российского населения и отдалённостью от населённых частей империи — так, в 1885 году Россия располагала за Байкалом всего 18 тысячами войскового контингента, причём, по расчётам Приамурского военного округа, первый батальон, направленный в Забайкалье из Европейской России походным порядком, мог подойти на помощь только через 18 месяцев[10].
С целью сократить время в пути до 2—3 недель, а также для освоения и развития восточно-сибирских и дальневосточных земель в мае 1891 года было начато строительство Транссибирской магистрали — железнодорожной магистрали между Челябинском и Владивостоком длиной около 7 тысяч километров, призванной соединить железнодорожным сообщением Европейскую часть России и Дальний Восток. Российское правительство было крайне заинтересовано в сельскохозяйственной колонизации Приморья, и как следствие — в обеспечении беспрепятственной торговли через незамерзающие порты Жёлтого моря, такие как Порт-Артур.
Борьба Японии за доминирование в Корее
После Реставрации Мэйдзи, начавшейся в 1866 году, новое правительство Японии прекратило политику самоизоляции и взяло курс на модернизацию страны. Масштабные экономические реформы позволили к началу 1890-х годов провести модернизацию экономики, создав такие современные отрасли как производство станков и электрооборудования, начать экспорт угля и меди. Созданные и обученные по западным образцам армия и флот набрали силу и позволили Японии задуматься о внешней экспансии, в первую очередь в Корею и Китай.
Корея, ввиду её географической близости к Японии, рассматривалась последней как «нож, направленный в сердце Японии». Недопущение иностранного, особенно европейского, контроля над Кореей, а желательно взятие её под свой контроль, было главной целью японской внешней политики[11]. Уже в 1876 году Корея, под японским военным давлением, подписывает договор с Японией, закончивший самоизоляцию Кореи и открывший её порты японской торговле. Последовавшая борьба с Китаем за контроль в Корее привела к японо-китайской войне 1895 года.
30 марта 1895 года на Особом совещании по вопросу о японо-китайской войне начальник Главного штаба генерал-адъютант Н. Н. Обручев говорил[12]:
По мнению начальника Главного штаба, для нас в высшей степени важно ни под каким видом не впутываться в войну. Необходимо иметь в виду, что нам пришлось бы воевать за десять тысяч верст с культурной страной, имеющей 40 миллионов населения и весьма развитую промышленность. Все предметы военного снаряжения Япония имеет у себя на месте, тогда как нам пришлось бы доставлять издалека каждое ружье, каждый патрон для наших войск.
Китайский флот был разбит в сражении в устье реки Ялуцзян, а его остатки, укрывшиеся в хорошо укреплённом Вэйхае, были уничтожены (частично захвачены) японцами в феврале 1895 года, после 23-дневной комбинированной наземной и морской атаки. На суше японская армия в ряде сражений разбила китайскую армию в Корее и Маньчжурии и в марте 1895 года оккупировала Тайвань.
17 апреля Китай был вынужден подписать Симоносекский договор, согласно которому Китай отказывался от всех прав на Корею, передавал Японии остров Тайвань, Пескадорские острова и Ляодунский полуостров, а также уплачивал контрибуцию в 200 млн лян (около 7,4 тыс. тонн серебра), что было эквивалентно трети ВВП Японии[13] или 3 годовым бюджетам японского правительства[14].
Непосредственные причины войны
Тройственная интервенция
Россия, Франция и Германия, обеспокоенные усилением Японии, предприняли Тройственную интервенцию — в ультимативной форме потребовали отказа Японии от аннексии Ляодунского полуострова. Япония, не имея возможности противостоять объединённому давлению трёх европейских держав, уступила.
Возвратом Ляодуна Китаю воспользовалась Россия. 15 (27) марта 1898 года между Россией и Китаем была подписана конвенция, согласно которой России предоставлялись в аренду незамерзающие порты Ляодунского полуострова Порт-Артур и Дальний и разрешалась прокладка к этим портам железной дороги от одного из пунктов Китайско-Восточной железной дороги.
Осознание того, что Россия фактически отобрала у Японии захваченный в ходе войны Ляодунский полуостров, привело к новой волне милитаризации Японии, на этот раз направленной против России, под лозунгом [15], призывавшего нацию стойко перенести рост налогообложения ради военного реванша в будущем[16].
Оккупация Маньчжурии и заключение англо-японского союза
В октябре 1900 года русские войска, в рамках подавления восстания ихэтуаней в Китае войсками Альянса восьми держав, заняли Маньчжурию.
В мае 1901 года в Японии пал сравнительно умеренный кабинет министров Хиробуми Ито и к власти пришёл кабинет Таро Кацуры, настроенный более конфронтационно в отношении России. В сентябре Ито по собственной инициативе, но с согласия Кацуры, отправился в Россию, с целью обсудить соглашение о разделении сфер влияния в Корее и Маньчжурии. Программа-минимум Ито (Корея — целиком и полностью Японии, Маньчжурия — России)[17], однако, не нашла понимания в Санкт-Петербурге[18][19], в результате чего японским правительством был сделан выбор в пользу заключения альтернативного соглашения с Великобританией[20].
17 (30) января 1902 года был подписан англо-японский договор, статья 3 которого в случае войны одного из союзников с двумя и более державами обязывала другую сторону оказать военную помощь. Договор давал Японии возможность начать борьбу с Россией, обладая уверенностью, что ни одна держава (например, Франция, с которой Россия с 1891 года состояла в союзе) не окажет России вооружённой поддержки из опасения войны уже не с одной Японией, но и с Англией. Японский посол, отвечая на вопрос англичан о возможном поводе для войны с Россией, пояснил, что «если безопасность Кореи будет гарантирована, Япония, вероятно, не пойдёт на войну из-за Маньчжурии, или Монголии, или других отдалённых частей Китая»[21].
3 (16) марта 1902 г. была опубликована франко-русская декларация, явившаяся дипломатическим ответом на англо-японский союз: в случае «враждебных действий третьих держав» или «беспорядков в Китае», Россия и Франция оставляли за собой право «принять соответствующие меры». Декларация эта имела малообязывающий характер — существенной помощи на Дальнем Востоке Франция своей союзнице России не оказала[22].
Рост русско-японской конфронтации
26 марта (8 апреля) 1902 года было подписано русско-китайское соглашение, по которому Россия обязывалась в течение 18 месяцев (то есть к октябрю 1903 года) вывести свои войска из Маньчжурии. Вывод войск должен был быть осуществлён в 3 этапа по 6 месяцев каждый.
В апреле 1903 года российское правительство не выполнило второй этап вывода своих войск из Маньчжурии. 5 (18) апреля китайскому правительству была направлена нота, поставившая условием дальнейшего вывода войск закрытие Маньчжурии для иностранной торговли[23]. В ответ Англия, США и Япония заявили России протест против нарушения сроков вывода российских войск, а Китаю посоветовали не принимать вообще никаких условий, — что китайское правительство и сделало, заявив, что оно будет обсуждать «любые вопросы о Маньчжурии» — лишь «по эвакуации»[21].
В мае 1903 года около сотни российских солдат, переодетых в гражданскую одежду, были введены в деревню Yongampo в Корее, находившуюся в зоне концессии на реке Ялу. Под предлогом строительства лесных складов в деревне было начато строительство военных объектов, что было воспринято в Великобритании и Японии как подготовка России к созданию постоянной военной базы на севере Кореи[24][25]. Японское правительство в особенности было встревожено возможностью развития ситуации в Корее по порт-артурскому сценарию, когда за укреплением Порт-Артура последовала оккупация всей Маньчжурии[26].
14[O.S. 1903]июля года было открыто движение по Транссибу на всём его протяжении. Движение шло через Маньчжурию (по КВЖД). Под предлогом проверки пропускной способности Транссиба, немедленно началась переброска российских войск на Дальний Восток[10]. Участок вокруг Байкала не был завершён (грузы через Байкал перевозились на паромах), что снижало пропускную способность Транссиба до 3—4 пар поездов в сутки[27].
было образовано наместничество Дальнего Востока, объединившее Приамурское генерал-губернаторство и Квантунскую область. Целью образования наместничества было объединение всех органов русской власти на Дальнем Востоке для противодействия ожидавшемуся японскому нападению. Наместником был назначен адмирал Е. И. Алексеев, которому были поставлены в подчинение войска, флот и администрация (включая полосу Китайско-Восточной дороги).
12 августа японское правительство представило российскому проект двустороннего договора, предусматривавшего признание «преобладающих интересов Японии в Корее и специальных интересов России в железнодорожных (только железнодорожных!) предприятиях в Маньчжурии».
5 октября Японии был направлен ответный проект, предусматривавший, с оговорками, признание Россией преобладающих интересов Японии в Корее, в обмен на признание Японией Маньчжурии лежащей вне сферы её интересов.
Положение об исключении Маньчжурии из зоны её интересов японское правительство категорически не устраивало, однако дальнейшие переговоры существенных изменений в позиции сторон не внесли.
8 октября 1903 года истёк срок, установленный соглашением от 8 апреля 1902 года, для полного вывода российских войск из Маньчжурии. Несмотря на это, войска выведены не были; в ответ на требования Японии о соблюдении условий соглашения российское правительство указывало на невыполнение Китаем условий эвакуации[28]. Одновременно Япония начала протестовать против российских мероприятий в Корее. По мнению исследователя царствования Императора Николая II С. С. Ольденбурга, Япония лишь искала повод для начала военных действий в удобный для себя момент[28].
5 февраля 1904 года японский министр иностранных дел телеграфировал послу в Петербурге «прекратить настоящие бессодержательные переговоры», «ввиду промедлений, остающихся большей частью необъяснимыми», и прервать дипломатические отношения с Россией[29].
Решение о начале войны против России было принято в Японии на совместном заседании членов тайного совета и всех министров 4[O.S. 1904]февраля года, а в ночь на 23 января (5 февраля) отдано распоряжение о высадке в Корее и об атаке русской эскадры в Порт-Артуре. Вслед за этим 6[O.S. 1904]февраля Япония официально объявила о разрыве дипломатических отношений с Россией.
Максимально выгодный для себя момент Японией был выбран с высокой точностью: перекупленные ею у Аргентины в Италии броненосные крейсеры «Ниссин» и «Касуга» только что миновали Сингапур, и их уже нигде и никто не мог задержать по пути в Японию; русские же последние подкрепления («Ослябя», крейсеры и миноносцы) ещё находились в Красном море.
Соотношение сил и коммуникаций
Соотношение сил сторон к началу войны приведено в таблице ниже[30].
Основным театром военных действий было Жёлтое море, в котором японский Соединённый флот под командованием адмирала Хэйхатиро Того блокировал российскую эскадру в Порт-Артуре.
В Японском море Владивостокскому отряду крейсеров противостояла 3-я японская эскадра, задачей которой было противодействие рейдерским атакам российских крейсеров на японских коммуникациях.
Соотношение сил русского и японского флотов в Жёлтом и Японском морях, по типам кораблей[36][37]
Театры военных действийЖёлтое мореЯпонское мореТипы кораблейРусская эскадра в Порт-АртуреЯпонский Соединённый флот (1-я и 2-я эскадры)Владивостокский отряд крейсеровЯпонская 3-я эскадраЭскадренные броненосцы7[38]6[39]00Броненосные крейсеры1[40]6[41]3[42]0Большие бронепалубные крейсеры (свыше 4000 т)4[43]4[44]1[45]4[46]Малые бронепалубные крейсеры2[47]4[48]07[49]Минные крейсеры и минные заградители4[50]200Мореходные канонерские лодки7[51]23[52]7[53]Эскадренные миноносцы221900Миноносцы01617[54]12[55]
Российская империя
Армия
Российская империя, обладая почти трёхкратным преимуществом в численности населения, могла выставить пропорционально бо́льшую армию. Вместе с тем, численность вооружённых сил России непосредственно на Дальнем Востоке (за Байкалом) составляла не более 150 тыс. человек, причём, с учётом того, что большая часть этих войск была связана охраной Транссиба/госграницы/крепостей, непосредственно для активных операций было доступно около 60 тыс. человек[56].
К началу войны Транссиб уже действовал, но пропускная способность его составляла лишь 3—4 пары поездов в сутки[27]. Узкими местами были паромная переправа через Байкал и забайкальский участок Транссиба; пропускная способность остальных участков была в 2—3 раза выше[57]. Низкая пропускная способность Транссиба означала низкую скорость переброски войск на Дальний Восток: переброска одного армейского корпуса (около 30 тыс. человек[58]) занимала около месяца[59].
Флот
В конце 1903 года Россией на Дальний Восток были отправлены только что построенные во Франции броненосец «Цесаревич» и броненосный крейсер «Баян»; вслед за ними вышли броненосец «Ослябя» и несколько крейсеров и миноносцев. Сильным козырем России являлась возможность снарядить и перебросить из Европы ещё одну эскадру[60], по численности примерно равную находившейся на Тихом океане на начало войны. Надо отметить, что начало войны застало на полдороге к Дальнему Востоку достаточно крупный отряд адмирала А. А. Вирениуса[61], двигавшийся на усиление русской эскадре в Порт-Артуре. Это ставило перед японцами жёсткие временные рамки, как по началу войны (до прихода отряда Вирениуса), так и по уничтожению российской эскадры в Порт-Артуре (до подхода помощи из Европы). Идеальным для японцев вариантом была блокада российской эскадры в Порт-Артуре с последующей её гибелью после захвата Порт-Артура осаждавшими его японскими войсками.
Суэцкий канал был слишком мелок для новейших русских броненосцев типа «Бородино», проливы Босфор и Дарданеллы были закрыты для прохода русских военных кораблей из достаточно мощной черноморской эскадры. Единственным путём для значимой поддержки флота Тихого океана был путь из Балтики вокруг Европы и Африки.
Японская империя
Армия
По расчётам военной разведки, Япония в момент мобилизации могла выставить армию в 375 тыс. человек[62]. Японская же армия после мобилизации насчитывала около 442 тыс. человек[10].
Возможности Японии высадить войска на материке зависели от контроля Корейского пролива и южной части Жёлтого моря. Япония обладала достаточным транспортным флотом, чтобы одновременно перевозить две дивизии со всем необходимым оборудованием[62], а от портов Японии до Кореи было меньше суток пути.
Стрелковое оружие
Обе армии перед войной закончили перевооружение новым стрелковым оружием. Россия получила винтовку Мосина, а Япония — винтовку Тип-30. Японская винтовка была дальнобойнее, кучнее, легче и короче, что значительно облегчало её использование более низкорослыми японцами, была удобнее в эксплуатации, в частности в перезарядке, но уступала российской винтовке по надёжности. Русская винтовка отличалась простотой устройства, имела высокую прочность, была чрезвычайно живучей, надёжной и безотказной в боевых условиях. Несмотря на хорошие баллистические качества, все достоинства, присущие винтовкам «Арисака», сводились на нет капризным и ненадёжным механизмом запирания, поскольку он давал частые отказы при малейшем загрязнении или запылении затвора. Поэтому после войны появилась модификация Тип-38, где эта проблема была решена. Ещё одним из преимуществ российской винтовки перед японскими была большая, в силу калибра, убойная сила на малых дистанциях. Однако, это преимущество компенсировало многие недостатки, тем более, что и недостаток в размерах в ходе частых штыковых боёв обернулся достоинством — более длинная и тяжёлая винтовка в большей мере позволяла реализовать статистическое преимущество русских в габаритах и физической силе. Впрочем, и японское преимущество в совершенстве конструкции и качестве производства оценивается многими как недостаток, излишним бременем легший на и без того перегруженную промышленность страны Восходящего Солнца. Процесс принятия на вооружение русского оружия, хоть и затянулся, но начался значительно раньше, чем в Японии, русская армия уже имела опыт боевой эксплуатации этой системы. Надо также отметить, что активно модернизируемая англичанами японская армия имела некоторый технологический перевес перед русской, в частности, у неё к концу войны было существенно больше пулемётов (в начале войны Япония не обладала пулемётами[63]), а артиллерия освоила стрельбу с закрытых позиций ещё до начала войны.
Структура
Флот
Основные корабли японского Соединённого флота — включая 6 эскадренных броненосцев и 6 броненосных крейсеров — были построены в Великобритании, Франции (броненосный крейсер «Адзума») и Германии (броненосный крейсер «Якумо») в 1896—1901 годах[64]. Эти корабли по ряду тактико-технических данных (скорость, дальность хода, коэффициент бронирования и т. д.) превосходили российские корабли.
Японская корабельная артиллерия превосходила российскую по массе снаряда (того же калибра) и технической скорострельности, вследствие чего бортовой залп (суммарный вес выпущенных снарядов) японского Соединённого флота во время боя в Жёлтом море составлял около 12 418 кг против 9111 кг у русской эскадры в Порт-Артуре, то есть был в 1,36 раза больше[36].
Кроме 6 эскадренных броненосцев «первой линии», в ВМФ Японии было ещё 2 более старых броненосца («Тин-Эн», это правильное название, в литературе более 100 лет употреблялось написание «Чин-Иен», германской постройки 1882 г, трофей японо-китайской войны, и «Фусо» британской постройки 1877 г).
Стоит также отметить качественную разницу в снарядах, использовавшихся русским и японским флотами — содержание взрывчатых веществ в русских снарядах основных калибров (12, 8, 6 дюймов) было в 4—6 раз ниже[65][66]. При этом мелинит, применявшийся в японских снарядах, по мощности взрыва примерно в 1,2 раза превосходил пироксилин, применявшийся в российских[67][68].
В первом же бою года у Порт-Артура наглядно проявилось мощное разрушительное действие японских тяжёлых фугасных снарядов по небронированным или слабобронированным конструкциям, не зависевшее от дальности стрельбы, а также существенная бронепробивающая способность русских лёгких бронебойных снарядов на коротких дистанциях (до 20 кабельтовых)[65]. Японцы сделали необходимые выводы и в последующих боях, обладая превосходством в скорости, старались удерживать огневую позицию в 35—45 кабельтовых от русской эскадры.
Однако мощная, но нестабильная шимоза собрала свою «дань» — разрушения от взрывов собственных снарядов в стволах орудий при выстрелах наносили японцам едва ли не больший ущерб, чем попадания русских бронебойных снарядов[69]. Стоит упомянуть про появление во Владивостоке к апрелю 1905 года первых 7 подводных лодок[70] которые хоть и не достигли существенных военных успехов, но всё же были важным сдерживающим фактором, существенно ограничившим в ходе войны действия японского флота в районе Владивостока и Амурского лимана[71][72].
Ход войны
Кампания 1904 года
Начало войны
Разрыв дипломатических отношений делал войну более чем вероятной. Командование флотом так или иначе готовилось к возможной войне. Высадка многочисленного десанта и активные боевые действия последнего на суше, требующие постоянного снабжения, невозможна без господства военно-морского флота. Было логично предположить, что без этого превосходства Япония не начнёт сухопутные действия. По предвоенным оценкам Тихоокеанская эскадра, вопреки расхожему мнению, если и уступала японскому флоту, то незначительно[73]. Было логично предположить, что войну до прихода «Касуги» и «Ниссина» Япония не начнёт. Оставалась лишь возможность парализации эскадры, до их прихода, путём блокирования её в гавани Порт-Артура, блокшипами. Для предотвращения этих действий боевые корабли несли дежурство на внешнем рейде. Причём для отражения возможной атаки силами всего флота, а не только блокшипов, на рейде стояли не миноносцы, а самые современные броненосцы и крейсеры. Об опасности такой тактики накануне войны предупреждал С. О. Макаров[74], однако его слова как минимум не успели к адресатам.
В ночь на 9[O.S. 1904]февраля года, до официального объявления войны, 8 японских миноносцев провели торпедную атаку кораблей русского флота, стоявших на внешнем рейде Порт-Артура. В результате атаки на несколько месяцев были выведены из строя два лучших русских броненосца («Цесаревич» и «Ретвизан») и бронепалубный крейсер «Паллада».
9[O.S. 1904]февраля года японская эскадра в составе 6 крейсеров[75] и 8 миноносцев[2] вынудила к бою находившиеся в корейском порту Чемульпо бронепалубный крейсер «Варяг» и канонерку «Кореец». После 50-минутного сражения получивший тяжёлые повреждения «Варяг» был затоплен, а «Кореец» — взорван.
После боя в Чемульпо продолжилась высадка частей 1-й японской армии под командованием барона Куроки, общей численностью около 42,5 тыс. человек (началась ещё 8[O.S. 1904]февраля).
21 февраля 1904 года японские войска заняли Пхеньян, к концу апреля — вышли к реке Ялу, по которой шла корейско-китайская граница.
Отношение русской общественности к началу войны с Японией
Известие о начале войны мало кого в России оставило равнодушным: в первый период войны в народе и общественности преобладало настроение, что на Россию напали и необходимо дать отпор агрессору. В Петербурге, а также других крупных городах империи самопроизвольно возникали невиданные уличные патриотические манифестации. Даже известная своими революционными настроениями учащаяся столичная молодёжь завершила свою университетскую сходку шествием к Зимнему Дворцу с пением «Боже, Царя храни!».
Оппозиционные правительству круги оказались застигнутыми этими настроениями врасплох. Так, собравшиеся 23 февраля (ст. ст.) 1904 года на совещание в Москве земцы-конституционалисты приняли коллективное решение прекратить любые провозглашения конституционных требований и заявлений ввиду начавшейся войны. Это решение мотивировалось патриотическим подъёмом в стране, вызванным войной[76].
Реакция мирового сообщества
Отношение ведущих мировых держав к началу войны между Россией и Японией раскололо их на два лагеря. Англия и США сразу и определённо заняли сторону Японии: начавшая выходить в Лондоне иллюстрированная летопись войны даже получила название «Борьба Японии за свободу»; а американский президент Рузвельт открыто предостерегал Францию от её возможного выступления против Японии, заявив, что в этом случае он «немедленно станет на её сторону и пойдёт так далеко, как это потребуется»[77]. Тон американской печати был настолько враждебен России[77], что побудил М. О. Меньшикова — одного из ведущих публицистов русского национализма — воскликнуть в «Новом времени»:
Франция, ещё накануне войны посчитавшая необходимым разъяснить, что её союз с Россией относится лишь к европейским делам, тем не менее была недовольна действиями Японии, начавшей войну, ибо была заинтересована в России как в своей союзнице против Германии; вся французская, за исключением крайней левой, печать выдерживала строго корректный союзнический тон. Уже 30 марта (12 апреля) было подписано вызвавшее известное недоумение в России «сердечное согласие» между Францией — союзницей России и Англией — союзницей Японии. Это соглашение положило начало Антанте, но в то время осталось почти без реакции в русском обществе, хотя «Новое время» и писало по этому поводу: «Почти все почувствовали веяние холода в атмосфере франко-русских отношений».
Германия накануне событий заверяла обе стороны в дружественном нейтралитете. И теперь, после начала войны, германская пресса была разделена на два противоположных лагеря: правые газеты были на стороне России, левые — на стороне Японии. Существенное значение имела личная реакция германского императора на начало войны. Вильгельм II пометил на докладе германского посланника в Японии:
Блокада Порт-Артура
Утром 24 февраля японцы попытались затопить 5 старых транспортов у входа в гавань Порт-Артура, с тем, чтобы запереть русскую эскадру внутри. План был сорван «Ретвизаном», всё ещё находившимся на внешнем рейде гавани.
2 марта отряд Вирениуса получил приказ на возвращение на Балтику, несмотря на протесты С. О. Макарова, считавшего, что тот должен следовать далее на Дальний Восток.
8 марта 1904 года в Порт-Артур прибыл адмирал Макаров и известный кораблестроитель Н. Е. Кутейников, вместе с несколькими вагонами запасных частей и оборудования для ремонта. Макаров немедленно принял энергичные меры для восстановления боеспособности русской эскадры, что привело к росту воинского духа на флоте.
27 марта японцы снова попытались перекрыть выход из гавани Порт-Артура, на этот раз использовав 4 старых транспорта, наполненных камнями и цементом. Транспорты, однако, были затоплены слишком далеко от входа в гавань.
31 марта, во время выхода в море, броненосец «Петропавловск» налетел на минную банку (3 мины) и затонул в течение двух минут. Погибло 650 человек[36], в их число вошли адмирал Макаров и известный художник-баталист Верещагин. Подорвался и вышел из строя на несколько недель броненосец «Победа».
3 мая японцами была предпринята третья и последняя попытка заблокировать вход в гавань Порт-Артура, на этот раз с использованием 8 транспортов. В результате русский флот оказался на несколько дней заблокирован в гавани Порт-Артура[78], что расчищало дорогу для высадки 2-й японской армии в Маньчжурии.
Из всего русского флота лишь владивостокский крейсерский отряд («Россия», «Громобой», «Рюрик») сохранял свободу действий и за первые 6 месяцев войны несколько раз переходил в наступление против японского флота, проникая в Тихий океан и находясь у японских берегов, затем уходя вновь к Корейскому проливу. Отряд потопил несколько японских транспортов с войсками и орудиями, в том числе 31 мая Владивостокскими крейсерами был перехвачен японский транспорт «Хи-таци Мару» (6175 брт), на борту которого находилось восемнадцать 280-мм мортир для осады Порт-Артура, что позволило затянуть осаду Порт-Артура на несколько месяцев[79].
Японское наступление в Маньчжурии, оборона и сдача Порт-Артура
Весь февраль и март 1904 года русская Маньчжурская армия вела себя совершенно пассивно (лишь кавалерийский отряд Мищенко в феврале и марте совершал рейды в Северную Корею). В главных силах армии по прибытии IV Сибирского корпуса считалось 6 пехотных и 1 кавалерийская дивизия — 80000 бойцов и 210 орудий, расположенных вдоль железной дороги от Ляояна до Мукдена. Восточный отряд генерала М. И. Засулича — 2 пехотные и 1,5 кавалерийские дивизии (25000 бойцов и 78 орудий) — составлял стратегический авангард на реке Ялу, в дикой, горной и лесистой местности на расстоянии свыше 200 километров от главных сил[80].
18 апреля (1 мая) 1904 года 1-я японская армия численностью около 45 тысяч человек форсировала реку Ялу и в бою на реке Ялу нанесла поражение восточному отряду русской Маньчжурской армии под командованием М. И. Засулича численностью около 18 тысяч человек. Началось вторжение японских войск в Маньчжурию.
5[O.S.]мая 2-я японская армия под командованием генерала Ясукаты Оку, численностью около 38,5 тыс. человек, начала высадку на Ляодунском полуострове, примерно в 100 километрах от Порт-Артура. Высадка осуществлялась 80-ю японскими транспортами и продолжалась до 13[O.S.]мая[78]. Русские части, насчитывавшие около 17 тыс. человек, под командованием генерала Стесселя, также как и русская эскадра в Порт-Артуре под командованием Витгефта, активных действий для противодействия высадке японцев не предприняли[81].
10[O.S.]мая наступающими японскими частями было прервано железнодорожное сообщение между Порт-Артуром и Маньчжурией.
Если 2-я японская армия высадилась без потерь, то флот Японии, обеспечивавший десантную операцию, понёс весьма значительные потери.
15[O.S.]мая 2 японских броненосца, 12 320-тонный «Ясима» и 15 300-тонный «Хацусэ», были потоплены после попадания на минное заграждение, выставленное русским минным транспортом «Амур». Всего за период с 12 по 17 мая японский флот потерял 7 кораблей (2 броненосца, лёгкий крейсер, канонерскую лодку, авизо, истребитель и миноносец), а ещё 2 корабля (включая броненосный крейсер «Касуга») ушли на ремонт в Сасэбо[81].
2-я японская армия, завершив высадку, начала движение на юг, к Порт-Артуру, с целью установления тесной блокады крепости. Принять бой русское командование решило на хорошо укреплённой позиции около города Цзиньчжоу, на перешейке, соединявшем Квантунский полуостров с Ляодунским.
13 (26 мая) состоялся бой у Цзиньчжоу, в котором один русский полк (3,8 тыс. человек при 77 орудиях и 10 пулемётах)[82] в течение двенадцати часов отражал атаки трёх японских дивизий (35 тыс. человек при 216 орудиях и 48 пулемётах). Оборона была прорвана только к вечеру, после того как подошедшие японские канонерки подавили левый фланг русских. Потери японцев составили 4,3 тысячи человек, русских — около 1,5 тысяч человек убитыми и ранеными[78].
В результате успеха во время боя у Цзиньчжоу японцами была преодолена главная естественная преграда на пути к порт-артурской крепости. 29 мая японскими войсками был без боя занят порт Дальний, причём его верфи, доки и железнодорожная станция достались японцам практически неповреждёнными, что значительно облегчило им снабжение осаждавших Порт-Артур войск.
После занятия Дальнего японские силы разделились: началось формирование 3-й японской армии под командованием генерала Марэсукэ Ноги, которой была поставлена задача взятия Порт-Артура, в то время как 2-я японская армия начала выдвижение на север.
23[O.S.]июня русская эскадра в Порт-Артуре предприняла попытку прорыва во Владивосток, однако через три часа после выхода в море, заметив на горизонте японский флот, контр-адмирал В. К. Витгефт приказал повернуть обратно, так как посчитал обстановку невыгодной для боя[83].
1—2 (14—15) июня в бою у Вафангоу 2-я японская армия (38 тыс. человек при 216 орудиях) нанесла поражение русскому 1-му Восточно-Сибирскому корпусу генерала Г. К. Штакельберга (30 тыс. человек при 98 орудиях), направленному командующим русской Маньчжурской армией Куропаткиным для снятия блокады Порт-Артура.
Отступающие к Порт-Артуру русские части после поражения у Цзиньчжоу заняли позицию «на перевалах», примерно на полпути между Порт-Артуром и Дальним, которую японцы довольно долго не атаковали в ожидании полного укомплектования своей 3-й армии.
26[O.S.]июля 3-я японская армия (60 тыс. человек при 180 орудиях) прорвала русскую оборону «на перевалах» (16 тыс. человек при 70 орудиях), 30 июля заняла Волчьи горы — позиции на дальних подступах к самой крепости, и уже 9 августа вышла на исходные позиции по всему периметру крепости. Началась оборона Порт-Артура.
В связи с началом обстрела гавани Порт-Артура японской дальнобойной артиллерией, командование флота решило предпринять попытку прорыва во Владивосток.
28 июля (10 августа) состоялся бой в Жёлтом море, в ходе которого японскому флоту, из-за гибели Витгефта и потери русской эскадрой управления, удалось вынудить русскую эскадру вернуться в Порт-Артур[84].
30 июля (12 августа), не зная, что попытка прорыва во Владивосток уже провалилась, 3 крейсера Владивостокского отряда вышли в Корейский пролив, имея целью встретить там прорывающуюся во Владивосток порт-артурскую эскадру. Утром 14 августа они были обнаружены эскадрой Камимуры в составе 6 крейсеров и, не имея возможности уклониться, приняли бой, в результате которого был потоплен «Рюрик».
Оборона крепости продолжалась до 2 января 1905 года и стала одной из ярких страниц русской военной истории.
В отрезанном от русских частей крепостном районе не было единого бесспорного начальства, существовало одновременно три власти: командующий войсками генерал Стессель, комендант крепости генерал Смирнов и командующий флотом адмирал Витгефт (ввиду отсутствия адмирала Скрыдлова). Это обстоятельство, в совокупности с затруднённым сообщением с внешним миром, могло иметь опасные последствия, если бы среди командного состава не нашлось генерала Р. И. Кондратенко, который «с редким умением и тактом сумел согласовать, в интересах общего дела, противоречивые взгляды отдельных начальников». Кондратенко стал героем порт-артурской эпопеи и погиб в конце осады крепости. Его усилиями была организована оборона крепости: были достроены и приведены в боевую готовность фортификационные сооружения. Гарнизон крепости насчитывал около 53 тысяч человек, на вооружении которых было 646 орудий и 62 пулемёта. Осада Порт-Артура продолжалась около 5 месяцев и стоила японской армии около 91 тыс. человек убитыми и ранеными. Потери русских составили около 28 тысяч человек убитыми и ранеными; осадной артиллерией японцев были потоплены остатки 1-й Тихоокеанской эскадры: броненосцы «Ретвизан», «Полтава», «Пересвет», «Победа», броненосный крейсер «Баян», бронепалубный крейсер «Паллада». Единственный оставшийся в строю броненосец «Севастополь» был выведен в бухту Белого Волка в сопровождении 5 миноносцев («Сердитый», «Статный», «Скорый», «Смелый», «Властный»), портового буксира «Силач» и канонерской лодки «Отважный». В результате атаки, предпринятой японцами под покровом ночи, «Севастополь» был серьёзно повреждён, а так как в условиях разбомблённого порта и возможности простреливания внутреннего рейда японскими войсками ремонт корабля был невозможен, было принято решение о потоплении корабля экипажем после предварительного демонтажа орудий и вывоза боезапасов[81].
14 ноября 1904 года японцы начали массированный штурм русских укреплений на горе Высокой (203 м.), господствовавшей над городом[85]. Стороны понимали, что владение высотой означает владение крепостью, сражение имело решающий характер и было чрезвычайно упорным. После непрерывных атак, длившихся 10 дней, в русских ротах на горе оставалось в строю по 10-20 человек, в бой вводили даже подразделения, наспех укомплектованные денщиками, поварами, медперсоналом и ранеными, способными вести огонь[85]. 24 ноября, несмотря на отчаянные усилия защитников удержать позиции, японцам удалось окончательно захватить высоту. «С падением Высокой всем стало совершенно ясно, что близок конец и самого Артура…» — писал в своём дневнике офицер-участник обороны[85]. Крепость находилась на тот момент в безнадёжном положении: без связи с внешним миром, без шансов на помощь, без боезапасов, медикаментов, еды, с выбитым офицерским составом, с цингой, тифом и дизентерией среди голодных, обносившихся и грязных солдат, с 8 000 раненых[85]. 15 декабря при артобстреле погиб генерал Р. И. Кондратенко. 19 декабря 1904 года, хорошо закрепившись и подготовившись, японцы начали следующий штурм. Совершенно истощённый гарнизон в один день потерял укрепления сразу в шести районах, которые до этого успешно оборонялись от превосходивших сил долгих четыре месяца. В тот же день, признав очевидное поражение, командующий Квантунским укрепрайоном генерал Стессель приказал подорвать оставшиеся на плаву суда и запросил у противника условия капитуляции. «При таких обстоятельствах… продолжать оборону значило подвергать ежедневно бесполезному убийству войска наши, сохранение коих есть долг всякого начальника», — объявил он в Приказе по войскам[85]. 20 декабря 1904 года (2 января 1905 года по новому стилю), на 329-й день после начала войны, крепость была сдана японцам. 9 000 человек, оставшихся в строю от 40 000 гарнизона, попали в плен. К ним присоединилось ~14 000 раненых и больных, не пожелавших оставаться в лазаретах[85].
Ляоян и Шахэ
В течение лета 1904 года японцы медленно двигались на Ляоян: с востока — 1-я армия под командованием Тамэмото Куроки, 45 тыс., и с юга — 2-я армия под командованием Ясукаты Оку, 45 тыс. и 4-я армия под командованием Митицуры Нодзу, 30 тыс. человек. Русская армия медленно отступала, в то же время постоянно пополняясь прибывающими по Транссибу пополнениями.
11 (24) августа началось одно из генеральных сражений русско-японской войны — сражение при Ляояне. Три японские армии полукругом атаковали позиции русской армии: с юга наступала армия Оку и Нодзу, на востоке — Куроки. В продолжавшихся до 22 августа боях японские войска под командованием маршала Ивао Оямы (130 тыс. при 400 орудиях) потеряли около 23 тыс. человек, русские войска под командованием Куропаткина (170 тыс. с 644 орудиями) — 16 тысяч[10] (по другим данным 19 тыс. убитых и раненых[86]). Русские три дня успешно отбивали все атаки японцев к югу от Ляояна, после этого А. Н. Куропаткин решил, сконцентрировав свои силы, перейти в наступление против армии Куроки. Операция не принесла желаемых результатов, и русский командующий, переоценивший силы японцев, решив, что они могут перерезать железную дорогу с севера от Ляояна, отдал приказ об отходе к Мукдену. Русские отступили в полном порядке, не оставив ни единого орудия. Общий исход сражения при Ляояне был неопределённым. Тем не менее русский историк профессор С. С. Ольденбург пишет, что этот бой стал тяжёлым моральным ударом, так как все ждали в Ляояне решительного отпора японцам, а по сути, пишет историк, это был ещё один арьергардный бой, чрезвычайно кровопролитный к тому же[86].
22 сентября (5 октября) состоялось сражение на реке Шахэ. Сражение началось атакой русских войск (270 тыс. человек); 10 октября японские войска (170 тыс. человек) перешли в контратаку. Исход сражения был неопределённым, когда 17 октября Куропаткин отдал приказ о прекращении атак. Потери русских войск составили до 40 тыс. убитыми и ранеными, японских — 30 тыс.
После операции на реке Шахэ на фронте установилось позиционное затишье, продолжавшееся до конца 1904 года.
Крейсерские операции
Островное положение Японии и зависимость её промышленности от иностранного сырья открывали для российского флота широкие перспективы крейсерских операций. 8 марта 1904 года специальное совещание признало необходимым начать крейсерские операции, и 9 марта российское правительство объявило список предметов, которые считались военной контрабандой.
В начале июля 1904 года пароходы Добровольного флота «Петербург» и «Смоленск» вышли из Севастополя и 7 июля вошли в Красное море. Там они подняли военный флаг, установили орудия и приступили к операциям против торговых судов, шедших в Японию через Суэцкий канал. «Петербург» осмотрел восемь пароходов, из которых задержал один («Малакка»). «Смоленск» осмотрел семь пароходов и задержал три из них («Ардова», «Скандия», «Формоза»).
Задержание 14 июля британского парохода «Малакка», который был признан военным призом и отправлен в Либаву, привело к тому, что правительство Великобритании пригрозило разрывом дипломатических сношений и войной, если «Малакка» не будет освобождена. В результате было решено отпустить захваченный пароход.
У мыса Гвардафуй крейсеры «Петербург» и «Смоленск» разделились: «Петербург» остался в этом районе, а «Смоленск» пошёл к южной оконечности Африки, где держался на путях пароходов, идущих на восток от мыса Доброй Надежды. Оба крейсера в начале октября прибыли в Либаву.
28 июля 1904 года из Либавы вышли в Атлантический океан переоборудованные в крейсеры пароходы «Дон» и «Урал». «Дон» направился к Канарским островам, а «Урал» стал крейсировать у Гибралтарского пролива. «Урал» 26 августа вернулся в Либаву. За всё время крейсерства он осмотрел 12 пароходов, но ни на одном контрабанды не обнаружил. Крейсер «Дон» вернулся 5 сентября. Из-за неисправности в котлах он не мог развивать полного хода, поэтому никаких пароходов не осматривал.
25 августа из Либавы вышел крейсер «Терек», который с 5 по 18 сентября осмотрел в районе мыс Святого Винцента — мыс Спартель 15 пароходов, но контрабанды на них не обнаружил и 26 сентября вернулся в Либаву.
После этого крейсерские операции были прекращены, не оказав никакого значительного влияния на подвоз военных и других грузов в Японию[87][88].
Кампания 1905 года
Сдача Порт-Артура самым кардинальным образом изменила военную обстановку в Маньчжурии. Теперь у японцев не было необходимости воевать на два фронта. Самая многочисленная из японских армий — 3-я генерал-полковника Ноги, чьи солдаты и офицеры были воодушевлены только что одержанной победой, спешно перебрасывалась из Квантуна по железной дороге в распоряжение маршала Ивао Оямы. Весь поток резервов, боеприпасов, провианта и военного имущества с Японских островов шёл только в Маньчжурию.
Набег на Инкоу
Чтобы не допустить усиления японской армии на северном фронте, русское командование разработало план войсковой операции с целью сорвать наступление противника. Для этого в японский тыл был направлен сборный кавалерийский отряд генерала Мищенко в надежде перерезать железнодорожное сообщение японцев на участке Ляохэ — Порт-Артур и помешать переброске их войск. Эта операция вошла в историю под названием «Набег на Инкоу».
Отряд генерал-адъютанта П. И. Мищенко был сформирован из состава кавалерии всех трёх армий и насчитывал около 45 сотен и эскадронов с 6 конными орудиями (из воспоминаний начальника штаба отряда подполковника Антона Ивановича Деникина, «Путь русского офицера»). В состав отряда вошли Урало-Забайкальская казачья дивизия, Кавказская конная бригада (перед этим одна сотня её Терско-Кубанского казачьего полка была расформирована из-за беспорядков), 4-я Донская казачья дивизия, Приморский драгунский полк, несколько конно-охотничьих команд сибирских стрелков, сборная сотня дивизиона разведчиков главнокомандующего, четыре полусотни конной пограничной стражи, конно-сапёрная команда. Артиллерия отряда состояла из двух забайкальских казачьих батарей, одной конной батареи и поршневой пешей полубатареи. Всего отряд насчитывал 7 с небольшим тысяч человек. Главной целью рейда было разрушение железной дороги, в том числе и железнодорожных мостов, на участке Ляоян — Ташичао — Дальний и тем самым затруднить переброску осадной 3-й японской армии из-под Порт-Артура. Но в день выступления была получена телеграмма: «Синминтинскую железную дорогу считать нейтральной и её не трогать…» (из воспоминаний Деникина А. И.). Вступая по пути в частые перестрелки и непродолжительные стычки с японцами и хунхузами, 30 декабря 1904 года отряд генерала П. И. Мищенко беспрепятственно подошёл к городу-порту Инкоу. По сведениям лазутчиков, там «было сосредоточено запасов на 2, а то и на 20 млн рублей». Для атаки, назначенной на вечер, выделялось 15 эскадронов и сотен, остальные находились в резерве. «Штурмовой колонне было послано приказание взорвать всё что можно и уходить». Перед атакой русская конная артиллерия обстреляла Инкоу и подожгла многочисленные армейские склады, которые горели несколько суток. Однако пламя пожара осветило местность, и японцы повели по атакующей русской коннице прицельный огонь и отбили атаку. На помощь были выдвинуты эскадроны нежинских драгун. Однако слабый, сборный отряд конницы, части которого не учились и не практиковались в наступлении спешенным боевым порядком, бросился в лоб на укрепившуюся и приготовившуюся к встрече пехоту и был отбит с большим уроном. Мищенко хотел повторить атаку в конном строю большими силами, но ему сообщили с линии дозоров, что на выручку гарнизона Инкоу спешит из близкого Ташичао большой японский отряд. Русской коннице пришлось отступить от горящего во многих местах города Инкоу и начать отход в расположение
Маньчжурской армии. Маршал Ояма, обеспокоенный такой глубокой диверсией противника, начав маневрировать тыловыми войсками, пытался перехватить конный отряд генерала П. И. Мищенко. Во время отступления в деревне Синюпученза дивизия была окружена японскими войсками. В последнем сражении отличились 24-й и 26-й донские полки, заставившие противника отступить. 16 января конница вместе с остальными частями отряда вернулись в расположение русских войск.
Результаты набега русской конницы оказались скромными. За 8 дней отряд проделал путь в 270 километров. Во время рейда было разгромлено несколько японских воинских команд, уничтожено до 600 обозных арб с воинскими припасами, подожжены склады в портовом городе Инкоу, в ряде мест нарушена телефонная и телеграфная связь противника, пущено под откос два поезда, взято 19 пленных. За время набеговой операции отряд в боях потерял убитыми и ранеными 408 человек и 158 лошадей.
Главную цель рейда конный отряд не выполнил: разрушенное во многих местах железнодорожное полотно японские ремонтные бригады восстановили всего за 6 часов. Армия генерал-полковника Ноги, которая после овладения Порт-Артуром находилась в приподнятом боевом настроении, была беспрепятственно перевезена по железной дороге из Квантуна на поля Маньчжурии[89][90][91].
В поэтической форме об этом набеге повествуется в народной казачьей песне «За рекой Ляохэ».
Сражение при Сандепу
В январе 1905 года в России началась революция, что осложнило дальнейшее ведение войны.
12 (25) января началось сражение при Сандепу, в котором русские войска попытались перейти в наступление. После занятия 2 деревень сражение было остановлено 29 января приказом Куропаткина. Потери русских войск составили 12 тыс., японских — 9 тыс. человек убитыми и ранеными.
Мукден
В феврале 1905 года японцы заставили отступить русскую армию в генеральном сражении при Мукдене, разыгравшемся на более чем 100-километровом фронте и продолжавшемся три недели. До начала Первой мировой войны оно было крупнейшим сухопутным сражением в истории.
Оно произошло на несколько миль севернее Шахэ, то есть того поля сражения, где противники встречались в октябре.
Первое столкновение произошло в пятидесяти милях от Мукдена, на левом фланге 1-й Маньчжурской армии. Ночью 18 февраля началось японское наступление против внешней линии защиты левого фланга. Два дня спустя вся 5-я армия начала движение вперёд, но не особенно энергично и не делая особых успехов.
28 февраля, пока 3-я армия генерала Ноги на западе сражалась с российской армией и продвигалась вперёд, основные японские усилия были вложены в артиллерийский обстрел, начатый японцами по центру русских войск. Особенно жестокой бомбардировке подвергались два пункта: Путиловская сопка и сопка Одинокого Дерева, которая активно фигурировала ещё в сражении при Шахэ.
Высшее российское командование было в полной растерянности. К 1 марта движение на флангах к западу оторвало японцев на сорок миль от их исходных позиций. Генерал Куропаткин понял, что его обошли с флангов, и послал в этот район войска для подкрепления. 4-я японская армия атаковала русскую в этом секторе, к востоку от железной дороги, но атаки были совершенно безуспешны. Так же безуспешны были и попытки 5-й армии продвинуться на восточном фланге русских.
К 7 марта Россия потеряла надежду возобновить наступление и сражалась за Мукден.
3-я японская армия продвинулась на север от Мукдена, чтобы отрезать генерала Куропаткина от железной дороги, соединяющей маньчжурские армии с Европейской Россией. Если перерезать эту линию, то война для России будет проиграна.
9 марта, в четверг, началась решающая фаза сражения. Разыгралась сильная буря. Юго-западный штормовой ветер дул на поле сражения весь день, иногда поднимая облака пыли, так что видимость составляла не более 90 метров. 4-й, 1-й и 5-й армиям было приказано давить Российские 1-ю и 3-ю Маньчжурские армии, отходившие к Мукдену, чтобы помочь генералу Куропаткину резервами, необходимыми ему для броска против 3-й японской армии на западе. К концу дня русские позиции были почти безнадёжными, потому что атаки на западе провалились. Атаки были слабыми и запоздавшими, а японцы смело шли в рукопашную. На востоке войска 1-й армии генерала Куроки подошли близко к железной дороге, что означало для русских войск опасность окружения в Мукдене, откуда они не смогут уйти или получить подкрепление. 9 марта в 18:45 генерал Куропаткин приказал русским армиям произвести общее отступление вдоль железной дороги на Телин — следующий большой город на севере.
10 марта русские войска оставили Мукден.
Отступление продолжалось 11 и 12 марта. Русская армия дошла до Телина с большими людскими и имущественными потерями.
Японцы продолжали давить по всему фронту, и 12 марта генерал Куропаткин приказал продолжить отступление к городу Сыпингай. Оно длилось десять дней. Теперь японцы прекратили преследование и занимали позиции в нескольких милях к северу и востоку от Телина[93].
В тяжёлых боях русская армия потеряла 90 тысяч человек (убитыми, ранеными и пленными) из 350 тысяч, участвовавших в сражении; японская армия потеряла 75 тысяч человек (убитыми, ранеными и пленными) из 300 тысяч. После этого война на суше начала затихать и приняла позиционный характер.
Вот так оценивает японский историк Окамото Сюмпэй итоги Мукденского сражения:
Битва была жестокой, она окончилась 10 марта победой Японии. Но это была крайне неуверенная победа, так как потери Японии достигли 72 008 человек. Российские войска отступили на север, «сохраняя порядок», и начали готовиться к наступлению, в то время как подкрепления к ним все прибывали. В императорском штабе становилось ясно, что военная мощь России была сильно недооценена и что в Северной Маньчжурии могут оказаться до миллиона русских солдат. Финансовые возможности России также далеко превосходили подсчёты Японии… После «просчитанного отступления» российские силы восполнили свою военную мощь на маньчжурской границе[94].
Цусима
27[O.S.]мая — 28[O.S. 1905]мая года в Цусимском сражении японский (в составе 120 боевых и вспомогательных кораблей атакующего флота) флот почти полностью уничтожил русскую эскадру (в составе эскадры находилось 30 боевых кораблей, хотя к этому составу можно добавить невооруженные суда, конвой которых защищала русская эскадра), переброшенную на Дальний Восток с Балтики под командованием вице-адмирала З. П. Рожественского.
Из 17 её кораблей 1 ранга 11 погибли, 2 были интернированы, а 4 попали в руки противника. Из крейсеров 2 ранга два погибли, один разоружился и только один (крейсер «Алмаз») достиг Владивостока, куда пришли также всего два эскадренных миноносца из девяти. Из 14 334 русских моряков — участников сражения — 5015 человек, в том числе 209 офицеров и 75 кондукторов, были убиты, утонули или скончались от ран, а 803 человека получили ранения. Многие раненые, включая командующего эскадрой (а всего 6106 офицеров и нижних чинов) попали в плен[95].
Вторжение на Сахалин
7 июля началась последняя крупная операция войны — японское вторжение на Сахалин. 15-й японской дивизии численностью 14 тыс. человек противостояло около 6 тыс. человек русских, состоявших главным образом из ссыльных и каторжан, вступивших в войска только для приобретения льгот по отбыванию каторги и ссылки и не отличавшихся особой боеспособностью. 29 июля, после сдачи основного русского отряда в плен (около 3,2 тыс. человек), сопротивление на острове было подавлено[96].
Окончание войны
Численность русских войск в Маньчжурии продолжала увеличиваться, прибывали пополнения. Ко времени заключения мира русские армии в Маньчжурии занимали позиции около деревни Сыпингай и насчитывали около 500 тысяч бойцов; располагались войска не в линию, как раньше, а эшелонированно в глубину; армия значительно усилилась технически — у русских появились гаубичные батареи, пулемёты, количество которых увеличилось с 36 до 374; связь с Россией поддерживалась уже не 3 парами поездов, как в начале войны, а 12 парами. Наконец, дух маньчжурских армий не был сломлен. Однако решительных действий на фронте русское командование не предпринимало, чему в большой мере способствовала начавшаяся в стране революция, а также тактика Куропаткина на максимальное истощение японской армии.
Со своей стороны японцы, понёсшие огромные потери, также не проявляли активности. Японская армия, стоявшая против русской, насчитывала около 300 тысяч бойцов. Былого подъёма в ней уже не наблюдалось. Япония экономически была истощена.
Пленные
Россия
Согласно подсчётам, на август 1905 года число русских военнопленных в Японии достигло 71 272 человека.[97] Они находились в специальных приютах, для них издавали в 1905—1906 гг. газету Япония и Россия.
К началу февраля 1906 г. в Россию на пяти судах Доброфлота из плена вернулись 10 генералов, 2 адмирала, 1 066 офицеров, 51 330 солдат и 8 783 матроса[98][99][100]. В середине февраля 1906 года в Россию были отправлены последние пленные[101].
Япония
Общее количество японских солдат и офицеров, попавших в русский плен, составило 1 622 человека[102]. По другим данным — 115 японских офицеров и 2 217 нижних чинов и более[101]. Всего пленными и пропавшими без вести числится 6 700 человек[103]. По окончании войны военнопленным предоставили право и документы для возвращения домой.
Итоги войны
В мае 1905 года состоялось совещание военного совета, где великий князь Николай Николаевич доложил, что, по его мнению, для окончательной победы необходимо: миллиард рублей расходов, около 200 тысяч потерь и год военных действий. При этом связанные с прошедшими военными действиями расходы уже оценивались в сумму 2,082 миллиарда рублей[104]. После размышлений Николай II принял решение о вступлении в переговоры с посредничеством американского президента Рузвельта по заключению мира (которые уже дважды предлагала Япония) с позиции силы, так как Россия, в отличие от Японии, ещё долго могла вести войну[105]. Первым уполномоченным царём был назначен С. Ю. Витте и уже на следующий день был принят императором и получил соответствующие инструкции: ни в коем случае не соглашаться ни на какие формы выплаты контрибуции, и не отдавать «ни пяди русской земли»[106]. При этом сам Витте был настроен пессимистически (особенно в свете требований японской стороны об отчуждении всего Сахалина, Приморского края, передачи всех интернированных кораблей): он был уверен, что «контрибуция» и территориальные потери «неизбежны»[106].
9 августа 1905 года в Портсмуте (США) при посредничестве Теодора Рузвельта начались мирные переговоры. Мирный договор был подписан 23 августа (5 сентября) 1905 года.
Позиции заинтересованных сторон после заключения договора
Условия договора были значительно ближе к российской, нежели японской программе мира, поэтому в Японии этот мирный договор был встречен с откровенным недовольством — см. Массовые беспорядки в Токио (1905).
Россия уступила Японии южную часть Сахалина (уже оккупированную на тот момент японскими войсками), свои арендные права на Ляодунский полуостров и Южно-Маньчжурскую железную дорогу, соединявшую Порт-Артур с Китайско-Восточной железной дорогой. Россия также признала Корею японской зоной влияния. В 1910 году, несмотря на протесты других стран, Япония формально аннексировала Корею.
Многие в Японии были недовольны мирным договором: Япония получала меньше территорий, чем ожидалось — например, только часть Сахалина, а не весь, а главное, не получала денежных контрибуций. Во время переговоров японская делегация выдвинула требование о контрибуции в 1,2 миллиарда иен, но твёрдая и непреклонная позиция Императора Николая II не позволила Витте уступить в этих двух принципиальных пунктах[106]. Его поддержал президент США Теодор Рузвельт, сообщив японцам, что если они будут настаивать, то американская сторона, до того симпатизировавшая японцам, изменит свою позицию. Так же было отвергнуто требование японской стороны о демилитаризации Владивостока и ряд других условий. Японский дипломат Кикудзиро Исии писал в своих воспоминаниях:
Япония имела дело со страной, которая на протяжении своей истории никогда не платила контрибуции[107].
По результатам мирных переговоров Россия и Япония обязывались вывести войска из Маньчжурии, использовать железные дороги только в коммерческих целях и не чинить преград свободе торговли и мореплавания. Русский историк А. Н. Боханов пишет, что портсмутские договорённости стали несомненным успехом русской дипломатии: переговоры представляли собой скорее соглашение равноправных партнёров, а не договор, заключённый вследствие неудачной войны[106].
Россия затратила на войну 2452 млн рублей, около 500 млн рублей было потеряно в виде отошедшего к Японии имущества.
Война стоила Японии огромного, по сравнению с Россией, напряжения сил. Ей пришлось поставить под ружьё 1,8 % населения (России — 0,5 %), за время войны её внешний государственный долг вырос в 4 раза (у России — на треть) и достиг 2400 млн иен.
Японская армия потеряла убитыми, по разным данным, от 49 тыс. (Б. Ц. Урланис) до 80 тыс. (докт. ист. наук И. Ростунов), в то время как русская от 32 тыс. (Урланис) до 50 тыс. (Ростунов) или 52 501 человек (Г. Ф. Кривошеев). Русские потери в боях на суше были вдвое меньше японских. Кроме этого, от ран и болезней скончались 17 297 русских и 38 617 японских солдат и офицеров (Урланис). Заболеваемость в обеих армиях составила около 25 человек на 1000 в месяц, однако процент смертности в японских медицинских учреждениях в 2,44 раза превышал русский показатель[108].
В своих мемуарах Витте признавался:
Не Россию разбили японцы, не русскую армию, а наши порядки, или правильнее, наше мальчишеское управление 140-миллионным населением в последние годы[109].
Мнения и оценки
Генерал Куропаткин в своих «Итогах» японской войны писал о командном составе:
Люди с сильным характером, люди самостоятельные, к сожалению, в России не выдвигались вперёд, а преследовались; в мирное время они для многих начальников казались беспокойными. В результате такие люди часто оставляли службу. Наоборот, люди бесхарактерные, без убеждений, но покладистые, всегда готовые во всём соглашаться с мнением своих начальников, выдвигались вперёд[110].
Аналогичную оценку дал В. Ключевский:
Война обнаружила полную непригодность флота, его материальной части и личного состава, а в сухопутной армии целый ряд глубоких изъянов: отсутствие знаний, произвол и бюрократический формализм высших чинов, а вместе с тем подавленность рядового офицерства, лишённого подготовки, инициативы[111].
Другие факты
Русско-японская война породила несколько мифов об используемой японцами взрывчатке, шимозе. Снаряды, начинённые шимозой, взрывались при ударе о любое препятствие, давая грибовидное облако удушливого дыма и большое количество осколков, то есть имели ярко выраженный фугасный эффект. Русские снаряды, начинённые пироксилином, такого эффекта не давали, хотя и отличались лучшей бронебойностью. Столь заметное превосходство японских снарядов над русскими по фугасности породило несколько распространённых мифов:
Мощность взрыва шимозы значительно сильнее пироксилина.
Использование шимозы было техническим превосходством Японии, из-за которого Россия потерпела военно-морские поражения.
Оба этих мифа неверны.
Во время перехода 2-й Тихоокеанской эскадры под командованием З. П. Рожественского из Балтики в район Порт-Артура произошёл так называемый Гулльский инцидент. Рожественский получил сведения, что в Северном море эскадру поджидают японские миноносцы. Ночью 22 октября 1904 эскадра обстреляла английские рыболовные суда, приняв их за японские корабли. Это происшествие вызвало серьёзный англо-русский дипломатический конфликт. Впоследствии для расследования обстоятельств происшествия был создан третейский суд.
В годы войны в интендантских службах процветали хищения. В то же время единственным крупным чином, привлечённым к ответственности за данный вид преступления, был бывший начальник управления транспорта 1-й Маньчжурской армии генерал-майор Николай Ухач-Огорович.
Польские революционеры, в частности, Пилсудский, работали на японскую разведку, их деятельность, наряду с разлагающим действием солдат, вернувшихся из японского плена, углубило политический кризис в России. Русские солдаты во время пребывания в плену подвергались психологической обработке, их письма способствовали возникновению революционной ситуации[112].
Хроника событий: предпосылки и военные действия
Русско-японская война в искусстве
Живопись
13 апреля 1904 года в результате подрыва броненосца «Петропавловск» на японских минах погиб знаменитый русский художник-баталист Василий Верещагин. По иронии судьбы незадолго до войны Верещагин вернулся из Японии, где создал ряд картин. В частности одну из них, «Японка», он создал в начале 1904 года, то есть всего за несколько месяцев до своей гибели.
Военный лубок
С февраля 1904 года на территории Российской империи в свет начали выходить «листы» образовательного характера, на которых художники изображали сцены повседневной жизни японцев, их обычаи и национальные особенности, а также — портреты японских лидеров, карты местности и так далее. Неблагоприятные моменты и поражения Русской императорской армии в таких лубочных произведениях скрывались, тем самым искусственно создавалось ура-патриотическое («шапкозакидательское») настроение[113].
Художественная литература
Художественные фильмы
Художественный фильм «Порт-Артур» 1936 г.
Художественный фильм «Крейсер „Варяг“», снят в 1946 г.
— художественный фильм компании Toei об осаде Порт-Артура, снятый в 1980 году. Высота 203 — японское название горы Высокой, господствовавшей над Порт-Артуром.
— художественный фильм о войне между Российской империей и Японией, снят в 1969 году.
— сериал, повествующий о событиях эпохи Мэйдзи (с 1886 года до русско-японской войны) через жизнь братьев-офицеров Акиямы Ёсифуру и Акиямы Санэюки, а также поэта Масаоки Сики.
Война в музыке
Вальс Ильи Шатрова «На сопках Маньчжурии» (1907).
Песня неизвестного автора «Гибель „Стерегущего“»: ,
Песня неизвестного автора «Раскинулось море широко» (1900-е) о 2-й Тихоокеанской эскадре: , , .
Песня «Наверх вы, товарищи, все по местам» (1904), посвящённая гибели крейсера «Варяг»: , .
Песня «Плещут холодные волны» (1904), также посвящённая гибели крейсера «Варяг»: , , .
Песня о Цусиме (1939) Музыка: обр. Ю. Милютин Слова: Богораз и Лебедев-Кумач.
Песня на стихи Александра Блока «Девушка пела в церковном хоре» (1905): , .
Песня Олега Митяева «» (1998) с точки зрения матроса 2-й Тихоокеанской эскадры — жителя Тобольска.
Черкесская народная песня «Япон зауэм и уэрэд», сочинённая кабардинцами, участвовавшими в войне[114].
Башкирская народная песня «Порт-Артур», рассказывающая о событиях 1904 года[115].
Японская песня
Японская песня , сочинённая в честь подписания договора о сдаче японцам русской крепости Порт-Артур. и вариант исполнения.
Японская песня о солдате, у которого погиб друг (1905).
Японская песня об офицере, который погиб в сражении при Ляояне.
Японская песня о капитане японского корабля, который погиб в морском сражении при попытке заблокировать вход в гавань Порт-Артура.
Совместный альбом индустриальных групп Anthesteria и Стальной пактъ «Dedicated To The Russo-Japanese War 1904—1905»[116]
Памятники
Памятник в Петергофе. Надпись: «КАСПIИЦЫ товарищамъ павшимъ
въ войну 1904—1905 г.г.»[117]
Памятник герою русско-японской войны Василию Рябову в Белгороде-Днестровском (Украина)
Памятник матросам миноносца «Стерегущий» в Санкт-Петербурге
Памятник «Героям Русско-японской войны 1904—1905 гг.» во Владивостоке
Памятник «Морякам крейсера „Варяг“» во Владивостоке (захоронение нижних чинов крейсера «Варяг» на Морском кладбище Владивостока)
Обелиск «Погибшим в Цусимском сражении на броненосце „Александр III“» в Никольском саду в Санкт-Петербурге
См. также
Список офицеров и чиновников Российской империи, вернувшихся из японского плена во Владивосток (1905—1906)
Примечания
Литература
Авилов Р. С., Аюшин Н. Б., Калинин В. И. Владивостокская крепость: войска, фортификация, события, люди. Часть I. «Назло надменному соседу». 1860—1905 гг. Владивосток: Дальнаука, 2013. — 383 с.
Боханов А. Н. Николай II / А. Н. Боханов. — М.: Вече, 2008. — 528 с.: ил. — (Императорская Россия в лицах). — ISBN 978-5-9533-2541-7
Масик С. Н. О подробностях не сообщалось… Эвакуационная комиссия генерала Данилова // Гангут, 2001. — № 26. — С. 84—93. — ISBN 5-85875-060-5.
Ольденбург С. С. Царствование императора Николая II / Предисловие Ю. К. Мейера — СПб.: Петрополь, 1991. — 672 с. ISBN 5-88560-088-0. Репринтное воспроизведение издания: Вашингтон, 1981.
Фок А. В.
В. А. Чекмарев
Der Russisch-Japanische Krieg 1904/05: Anbruch einer neuen Zeit? [vom 1. bis 3. Dezember 2005 fand an der Universität Heidelberg ein Kolloquium zur Weltgeschichtlichen Bedeutung des Russisch-Japanischen Krieges statt] / hrsg. von Maik Hendrik Sprotte, Wolfgang Seifert und Heinz-Dietrich Löwe. — Heidelberg: Harrassowitz, 2007. — 302 S.
Rotem Kowner. Historical Dictionary of the Russo-Japanese War. Lanham, MD, Scarecrow Press, 2006 (Historical Dictionaries of War, Revolution, and Civil Unrest, 29).
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1904
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ماي إس كيو إل وتلفظ أحيانا ماي سيكويل هو نظام إدارة قواعد البيانات علائقي يعتمد التعامل معه على لغة إس كيو إل. وسمي بهذا الاسم تبعا لابنة مبرمجه الأصلي Michael Widenius، والتي اسمها My. ماي إس كيو إل هو من المنتجات مفتوحة المصدر ينشر كوده المصدري تحت رخصة جنو العمومية بالإضافة إلى بعض الاتفاقيات الاحتكارية. كانت تملكه وترعاه الشركة الربحية السويدية ، لكن تملكه الآن صن ميكروسيستمز (والتي هي حاليا فرع من أوراكل).
الاستخدام
عادة تستخدم مشاريع البرمجيات الحرة التي تتطلب نظام إدارة قواعد البيانات كامل ماي إس كيو إل. هذه المشاريع تتضمن على سبيل المثال ووردبريس، بي إتش بي بي.بي ودروبال وبعض البرمجيات الأخرى المبنية على لامب.
يستخدم ماي إس كيو إل أيضاً في بعض منتجات الشبكة العنكبوتية كثيفة الاستخدام مثل ويكيبيديا، غوغل سيرش[1]،
فيس بوك [2]،
وفليكر[3].
ترمز الـ 'م' في اسم حزمة البرمجيات الشهيرة لامب إلى ماي إس كيو إل. وترجع شهرته في استخدامه في تطبيقات الإنترنت إلى شهرة بي إتش بي (الذي هو الـ 'ب' في لامب).
المنصات والواجهات
يعمل ماي إس كيو إل على كثير من المنصات المختلفة مثل آي بي إم إيه آي إكس، فري بي إس دي، إتش بي - يو إكس، لينكس، ماك أو إس، نت بي إس دي، نوفيل نت وار، أوبن بي إس دي، أوبن سولاريس، أو إس/2، كيو إن إكس، آيركس، سولاريس، سيمبيان، صن أو إس ومايكروسوفت ويندوز. العديد من لغات البرمجة ذات واجهات لبرمجة التطبيقات تحوي مكتبات برمجية لاستخدام قواعد بيانات ماي إس كيو إل. بالإضافة إلى ذلك، توجد واجهة ODBC تسمى MyODBC تسمح للغات البرمجة الأخرى التي تدعم واجهات ODBC بالاتصال بقواعد بيانات ماي إس كيو إل، مثل صفحات الخادم النشطة وكولدفيوشن. خادم ماي إس كيو إل ومكتباته البرمجية أغلبها مكتوب بلغتي سي وسي++ القياسيتين.
الخصائص
يتميز خادم ماي إس كيو إل بسرعته الكبيرة؛ لأنه خادم قواعد بيانات متعدد المسالك مما جعل إمكانية الاستعلام من قاعدة البيانات سريعة جدا؛ ويتميز بسهولة ربط جداوله بواجهة المستخدم التي تصمم بلغات البرمجة، فمثلا يمكنك ربطها بالبرامج المكتوبة بلغة فيجوال بيسك من خلال واجهة ODBC الخاص بها، كذلك له مكتبة خاصة به للتعامل معه من خلال أدو دوت نت.
انظر أيضا
أوبن كارت
بي إتش بي ماي آدمن
دريزل
انجرس
لامب (حزمة برمجيات)
ماريا دي بي
مراجع
وصلات خارجية
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تصنيف:برمجيات تسخدم رخصة جي بي إل
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Majina ya vitabu yameandikwa hapa kufuatana na tafsiri ya Kiswahili cha kisasa maarufu kama Habari Njema. Kama kuna jina lingine limeongezeka katika mabano.
Agano la Kale
Vitabu vya kihistoria
Mwanzo (Kitabu cha Kwanza cha Musa)
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Walawi (Kitabu cha Tatu cha Musa)
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ఆఫ్ఘనిస్తాన్ లేదా అఫ్ఘనిస్తాన్ (Afġānistān) ఆసియా ఖండం మధ్యలో ఉన్న ఒక దేశము. దీనికి సముద్ర తీరం లేదు. ఈ దేశం ఆధికారిక నామం ఇస్లామిక్ రిపబ్లిక్ ఆఫ్ ఆఫ్ఘనిస్తాన్.
భౌగోళికంగా ఈ దేశాన్ని వివిధ సందర్భాలలో మధ్య ఆసియా దేశంగాను[1], మధ్యప్రాచ్య దేశంగాను[2], లేదా దక్షిణ ఆసియా దేశంగాను[3] వ్యవహరించడం జరుగుతుంది. ఆఫ్ఘనిస్తాన్కు దాని సరిహద్దు దేశాలతో జాతి, భాషా, భౌగోళిక సంబంధాలున్నాయి. దక్షిణాన మరియు తూర్పు న పాకిస్తాన్,[4] పశ్చిమంలో ఇరాన్, ఉత్తర దిశన తుర్కమేనిస్తాన్, ఉజ్బెకిస్తాన్ మరియు తజికిస్తాన్, దూర ఈశాన్యంలో చైనా ఈ దేశానికి సరిహద్దులుగా ఉన్నాయి.
దక్షిణ ఆసియా, మధ్య ఆసియా, నైరుతీ ఆసియా లను కలిపే ఆఫ్ఘనిస్తాన్ చారిత్రకంగా సిల్క్ వాణిజ్య మార్గంలో ఒక ముఖ్యమైన స్థానం. వివిధ సంస్కృతుల మేళనానికీ, జాతుల వలసకూ ముఖ్యమైన మజిలీగా ఉంది. పరిసర రాజ్యాల దండయాత్రలకు ఊ దేశం తరచు గురయ్యేది. అలాగే ఇక్కడి రాజులు కూడా పరాయి రాజ్యాలను ఆక్రమించి సామ్రాజ్యాలు స్థాపించారు. 18వ శతాబ్దం మధ్యకాలంలో కాందహార్ కేంద్రంగా అహమ్మద్ షా దుర్రానీ విశాలమైన రాజ్యాన్ని స్థాపించాడు.[5] కాని 19వ శతాబ్దంలో ఇది బ్రిటిష్ సామ్రాజ్యంలో భాగమయింది. ఆగస్టు 19, 1919 న మళ్ళీ స్వతంత్ర దేశము అయింది.
1970 దశకంనుండి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ తీవ్రమైన అంతర్యుద్ధాలతోనూ, తీవ్రవాద కార్యకలాపాలతోనూ, విదేశీదాడులతోనూ దారుణంగా నష్టపోయింది. దేశప్రజలు దారుణమైన ఇబ్బందులకు గురయ్యారు. 2001 తరువాత నాటో జోక్యంతో జరిగిన యుద్ధం తరువాత ఏర్పడిన ప్రస్తుత ప్రభుత్వం అమెరికా సహకారంతో నడుస్తున్నది. అంతర్జాతీయ సహకారంతో పెద్దపెట్టున పునర్నిర్మాణ కార్యక్రమాలు చేపట్టారు.
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ పేరు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అంటే 'ఆఫ్ఘనుల ప్రదేశం' - ఇక్కడి పర్షియన్లు తమను 'ఆఫ్ఘనులు' అని (కనీసం ఇస్లామిక్ యుగకాలం నుండి) చెప్పుకొన్నారు.[6]
[7] ప్రత్యేకించి పుష్తో భాష మాట్లాడేవారికి 'ఆఫ్ఘన్' పదాన్ని వర్తింపజేయడం జరుగుతున్నది. భారతీయ జ్యోతిశ్శాస్త్రవేత్త వరాహమిహిరుడు క్రీ.శ. 6వ శతాబ్దంలో ఈ ప్రాంతంవారిని అవగాన అని తన బృహత్ సంహితలో ప్రస్తావించాడు.[8].
16వ శతాబ్దంలో మొఘల్ రాజు బాబర్ తన బాబర్నామాలో కాబూల్ దక్షిణ ప్రాంతాన్ని ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అని వ్రాశాడు [9]. 19వ శతాబ్దం వరకూ 'పుస్తూన్' జాతివారికే ఆఫ్ఘనులు అనే పదాన్నివాడారు. మొత్తం రాజ్యాన్ని సూచించడానికి కాబూల్ రాజ్యం అనే పదాన్ని బ్రిటిష్ చరిత్ర కారుడు ఎల్ఫిన్స్టోన్ వాడాడు[10]. క్రమంగా దేశం ఏకమై అధికారం కేంద్రీకృతమయన తరువాత ఆఫ్ఘన్ భూమి అన్న పదాన్ని వివిధ ఒడంబడికలలో వాడారు [11]. 1857 లో ఫ్రెడరిక్ ఎంగెల్స్ మొత్తం దేశాన్ని 'ఆఫ్ఘనిస్తాన్' అనే పేరుతో ప్రస్తావించాడు [12]. 1919 లో దేశానికి పూర్తి స్వాతంత్ర్యం వచ్చిన తరువాత ఆధికారికంగా 'ఆఫ్ఘనిస్తాన్' అనే పదాన్ని ప్రామాణికం చేశారు.[13]. అదే పదాన్ని 1923 రాజ్యాంగంలో నిర్ధారించారు[14].
భౌగోళికం
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ పూర్తిగా ఇతర దేశాలతో చుట్టబడిన (సముద్ర తీరం లేని) దేశం. ఎక్కువ భాగం పర్వత మయం. ఉత్తరాన, నైరుతి దిశన మైదాన ప్రాంతం. దేశంలో అత్యంత ఎత్తైన స్థలం నౌషాక్ (సముద్ర మట్టం నుండి 7,485మీటర్లు లేదా 24,557అడుగులు ఎత్తు). దేశంలో వర్షపాతం బాగా తక్కువ. ఎక్కువ భాగం పొడి ప్రదేశం. ఎండోర్హిక్ సిస్టాన్ బేసిన్ ప్రపంచంలోనే అత్యంత పొడిగా ఉన్న ప్రాంతాలలో ఒకటి.[15]
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వాతావరణం ఖండాతర్గతం (continental climate). వేసవి కాలం చాలా వేడిగానూ, చలికాలం చాలా చల్లగానూ ఉంటుంది. చిన్న చిన్న భూకంపాలు, ముఖ్యంగా ఈశాన్యాన హిందూకుష్ పర్వత ప్రాంతంలో, తరచు సంభవిస్తుంటాయి. 1998 మే 30న వచ్చిన భూకంపంలో సుమారు 125 గ్రామాలు నాశనమయ్యాయి. 4000 మంది మరణించారు.
ప్రస్తుతం ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో తీవ్రమైన పర్యావరణ మార్పులు సంభవిస్తున్నాయి. గడచిన రెండు దశాబ్దాలలో 70% అడవులు నశించాయి. 80% భూమిలో నేల క్షీణత తీవ్రమైన సమస్యగా ఉంది. మట్టి సారం చాలా త్వరగా క్షీణిస్తున్నది. భూగర్భ జలాలు అడుగంటుతున్నాయి[16] .
ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో గణనీయమైన ఖనిజ నిక్షేపాలు, చమురు నిల్వలు, విలువైన రత్నాల గనులు ఉన్నాయి. కాని దేశంలోని రాజకీయ కల్లోలాల వలనా, ఇతర అభివృద్ధి కొరతలవలనా వీటిని వినియోగించుకోవడంలేదు [17]
[18][19]
[20][21]
చరిత్ర
కనీసం 50,000 సంవత్సరాల పూర్వంనాడే ఈ ప్రాంతంలో జనావాసాలున్నాయనీ, ఇక్కడి వ్యవసాయ జీవనం ప్రపంచం లోనే అత్యంత పురాతనమైన వాటిలో ఒకటి అనీ చెప్పడానికి ఆధారాలున్నాయి. కాని 1747 లో అహమ్మద్ షా దుర్రానీ స్థాపించిన రాజ్యం ఇప్పటి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ రాజకీయ స్వరూపానికి ఆద్యం.[5][22]
అనేక సంస్కృతుల, జాతుల ఆవాసాలకు, సమ్మేళనానికీ, పోరాటాలకూ నిలయంగా ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రాంతం చారిత్రక విశిష్టత కలిగి ఉంది.
ఆర్యులు (ఇండో-ఇరానియనులు అనగా కాంభోజ, బాక్ట్రియన్, పర్షియన్ జాతులు ), మీడియన్ సామ్రాజ్యం, పర్షియన్ సామ్రాజ్యం, అలెగ్జాండర్, కుషానులు, హెప్తాలీట్లు, అరబ్బులు, తురుష్కులు, మంగోలులు - ఇంకా ఇటీవలి చరిత్రలో బ్రిటిష్ వారు, సోవియట్లు, ఆ తరువాత అమెరికన్లు - ఇలా ఎన్నో దేశాలు, జాతుల వారి యుద్ధాలకు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ భూభాగం యుద్ధరంగమయింది. అలాగే స్థానికులు కూడా పరిసర ప్రాంతాలపై దండెత్తి తమ రాజ్యాలను స్థాపించిన సందర్భాలు ఉన్నాయి.
క్రీ.పూ. 2000-1200 మధ్య ఆర్యులు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ఉత్తర ప్రాంతంలో నివసించినట్లు భావిస్తున్నారు. అయితే వారి స్వస్థలాన్ని గురించి పలు అభిప్రాయాలున్నాయి. క్రీ.పూ. 1700-1100 మధ్యకాలములో ఆర్యులు స్వాత్ లోయ, గాంధార మరియు కుభ (కాబూల్) ప్రాంతములో ఋగ్వేదమును తొలిసారిగా ఉచ్చరించారు[23][24]. క్రీ.పూ. 1800-800 మధ్య జోరాస్ట్రియన్ మతం ఇప్పటి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రాంతంలో ఆవిర్భవించి ఉండవచ్చునని చరిత్రకారులు ఊహిస్తున్నారు.
[25]. ఋగ్వేద సంస్కృతమునకు అవెస్త పారశీకమునకు చాల సామీప్యమున్నది. రాజేశ్ కొచ్చర్ ప్రకారము రామాయణ, భారతముల మూల సంఘటనలు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ లో జరిగాయి[23].
క్రీ.పూ. 6వ శతాబ్దం నాటికి ఈ ప్రాంతంలో పర్షియన్ సామ్రాజ్యం నెలకొన్నది. క్రీ.పూ. 330లో అలెగ్జాండర్ దండెత్తి ఈ ప్రాంతాన్ని ఆక్రమించాడు. సెల్యూకస్ అధీనంలో సాగిన వారి రాజ్యం కొద్దికాలమే ఉంది. మౌర్యులు దక్షిణ, ఆగ్నేయ భాగాన్ని ఆక్రమించి బౌద్ధమతం వ్యాప్తికి కారకులయ్యారు.
క్రీ.శ. 1వ శతాబ్దంలో కుషానులు ఇప్పటి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ కేంద్రంగా పెద్ద సామ్రాజ్యాన్ని స్థాపించారు. వారి కాలంలో బౌద్ధమతం, సంస్కృతి బాగా వర్ధిల్లాయి. కుషానులను ఓడించిసస్సనిద్లు క్రీ.శ. మూడవ శతాబ్దంలో తమ రాజ్యాన్ని స్థాపించారు.[26] తరువాత కిదరైట్ హూణుల పాలన ప్రారంభమైంది[27]. వారిని ఓడించిన హెఫ్తాలైట్ల పాలన కొద్దికాలమే సాగింది. కాని వారి రాజ్యం క్రీ.శ. 5వ శతాబ్దినాటికి చాలా బలమైనది.[28] క్రీ.శ. 557 లో హెఫ్తాలైట్లను ఓడించి ససానియన్ రాజు 1వ ఖుస్రో మరల పెర్షియాలో ససానియన్ బలం పునస్థాపించాడు. కాని కుషానుల, హెఫ్తాలైట్ల అనంతర రాజులు కాబూలిస్తాన్లో ఒక చిన్న రాజ్యం నిలుపుకొన్నారు. వారిలో చివరివాడైన 'కాబూలి షా'ను జయించి అరబ్బు సైన్యాలు ఇస్లామిక్ పాలన ఆరంభం చేశారు.
ఇస్లామిక్ విజయం
మధ్య యుగంలో, 19వ శతాబ్దం వరకు ఈ ప్రాంతాన్ని ఖొరాసాన్ అనేవారు[29][30][31] ఈ కాలంలోనే పలు నగరాలు అభివృద్ధి చెందాయి. ఇస్లాం మతం ఇక్కడ వ్యాప్తి చెందింది. తరువాత ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రాంతం వివిధ సామ్రాజ్యాలకు కేంద్రంగా వర్ధిల్లింది. వాటిలో కొన్ని - సస్సానిద్లు (875–999), ఘజనివిద్లు (977–1187), సెల్జుకిద్లు (1037–1194), ఘురిద్లు (1149–1212), తైమూరిద్లు (1370–1506). వాటిలో ఘజని, తైమూర్ కాలాలు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ చరిత్రలో ప్రముఖమైనవిగా పరిగణించబడుతున్నాయి[32][33]
1219 లో చెంగీజ్ ఖాన్ నాయకత్వంలో మంగోలులు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ను, తామర్లేన్ (తైమోర్ లాంగ్)ను జయించి విశాలమైన రాజ్యాన్ని ఏలారు. 1504 లో బాబర్ (చెంగిజ్ ఖాన్, తైమూర్ లంగ్, వీరిద్దరి వంశానికీ చెందివాడు) కాబూల్ కేంద్రంగా ముఘల్ సామ్రాజ్యాన్ని స్థాపించాడు. 1700 నాటికి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వివిధ భాగాలు వివిధ రాజుల అధీనంలో ఉన్నాయి. ఉత్తరాన ఉజ్బెక్లు, పశ్చిమాన సఫావిద్లు, మిగిలిన (అధిక) భాగం ముఘల్ లేదా స్థానిక తెగల పాలనలో ఉన్నాయి.
హొతాకీ రాజ వంశం
1709 లో మీర్ వాయిస్ హోతాక్ అనే స్థానిక (పష్టూన్)నాయకుడు గుర్గిన్ ఖాన్ అనే కాందహార్ పర్షియన్ గవర్నరును ఓడించి, చంపి 1715 వరకు పాలించాడు. (పర్షియనులు స్థానికులను సున్నీ మార్గం నుండి షియా మార్గానికి మారుస్తున్నారు). 1715 లో అతని కొడుకు మీర్ మహ్మూద్ హొతాకీ రాజయ్యాడు. అతను 1722 లో తన సైన్యంతో ఇరాన్పై దండెత్తి ఇస్ఫహాన్ నగరాన్ని కొల్లగొట్టి తానే పర్షియా రాజునని ప్రకటించుకొన్నాడు. ఆ సమయంలో వేలాది ఇస్ఫహాన్ వాసులు (3 వేలమంది పైగా మతగురువులు, పండితులు, రాజ వంశీకులు) సంహరించబడ్డారు. తరువాత పర్షియాకు చెందిన నాదిర్ షా హొతాకీ వంశాన్ని అంతం చేసి తిరిగి పర్షియా పాలన చేజిక్కించుకొన్నాడు.[34][35]
దుర్రానీ సామ్రాజ్యం
1738 లో నాదిర్ షా తన సైన్యంతో (ఇందులో పష్టూన్ జాతి అబ్దాలీ తెగకు చెందిన 4వేల సైనికులు కూడా ఉన్నారు) దండెత్తి కాందహార్ను, ఆ తరువాత ఘజని, కాబూల్, లాహోర్లను ఆక్రమించాడు.[36] 1747 జూన్ 19న నాదిర్షా (బహుశా అతని మేనల్లుడు ఆదిల్ షా చేతిలో) హతమయ్యాడు. అబ్దాలీ తెగకు చెందిన నాదిర్ షా అనుచరుడు అహమద్ షా అబ్దాలీ కాందహార్లో నిర్వహించిన నాయకత్వం ఎన్నికలో అహమ్మద్ షా అబ్దాలీ వారి రాజుగా ఎన్నుకొనబడ్డాడు. ఇప్పుడు ఆఫ్ఘనిస్తాన్గా పిలువబడే దేశం అహమద్ షా అబ్దాలీ ఏర్పరచినదనే చెప్పవచ్చును.[17][37]
[38]
పట్టాభిషేకం తరువాత అతను తన వంశం పేరు 'దుర్రానీ' (పర్షియన్ భాషలో 'దర్' అనగా ముత్యం)గా మార్చుకొన్నాడు.[36] 1751 నాటికి అహమద్ షా దుర్రానీ, అతని ఆఫ్ఘన్ సైన్యం ప్రస్తుతం ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అనబడే భాగాన్ని అంతటినీ జయించారు. ఇంకా పాకిస్తాన్ను, ఇరాన్ లోని ఖొరాసాన్, కోహిస్తాన్లను, భారతదేశంలోని ఢిల్లీని కూడా జయించారు.[12] అక్టోబరు 1772 లో అహమ్మద్ షా రాజ కార్యాలనుండి విరమించి తన శేష జీవిత కాలం కాందహార్లో విశ్రాంతి తీసుకొన్నాడు. అతని కొడుకు. తైమూర్ షా దుర్రానీ రాజధానిని కాందహార్ నుండి కాబూల్కు మార్చాడు. 1793 లో తైమూర్ మరణానంతరం అతని కొడుకు జమాన్ షా దుర్రానీ రాజయ్యాడు.
యూరోపియన్ ప్రభావం
19వ శతాబ్దంలో జరిగిన ఆంగ్లో ఆప్ఘన్ యుద్ధాల (1839–42, 1878–80, 1919లలో జరిగినవి) బారక్జాయి వంశం అధికారంలోకి వచ్చింది. తరువాత ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వ్వహారాలలో బ్రిటిష్ వారి పెత్తనం కొంతకాలం సాగింది. 1919 లో అమానుల్లా ఖాన్ అధికారంలోకి వచ్చిన తరువాతనే తన విదేశీ వ్యవహారాలలో ఆఫ్ఘనిస్తాన్ తిరిగి స్వతంత్రత సాధించుకొంది. (గ్రేట్ గేమ్ వ్యాసం చూడండి). బ్రిటిష్వారి జోక్యం ఉన్న సమయయంలో డురాండ్ రేఖ వెంబడి పష్టూన్ తెగల అధికారం విభజింపబడింది. దీని వలన బ్రిటిష్, ఆఫ్ఘన్ వ్యవహారాలలో చాలా ఇబ్బందులు వచ్చాయి. 1933, 1973 మధ్యకాలంలో జాహిర్ షా రాజ్యం కాలంలో ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో పరిస్థితులు నిలకడగా ఉన్నాయి.
1973 లో జాహిర్ షా బావమరిది సర్దార్ దావూద్ ఖాన్ రాజ్యాన్ని చేజిక్కించుకొన్నాడు. అనంతరం 1978లో దావూద్ ఖాన్ను, అతని పూర్తి పరివారాన్ని హతం చేసి ఆఫ్ఘన్ కమ్యూనిస్టులు అధికారాన్ని తమ హస్తగతం చేసుకొన్నారు. ఈ తిరుగుబాటును 'ఖల్క్' లేదా 'మహా సౌర్ విప్లవం' అంటారు.
సోవియట్ ఆక్రమణ, అంతర్యుద్ధం
అమెరికా, రష్యాల మధ్య జరుగుతున్న ప్రచ్ఛన్న యుద్ధం (శీతల యుద్ధం)లో సమీకరణాల భాగంగా ఆఫ్ఘన్ ప్రభుత్వ వ్యతిరేక ముజాహిదీన్ బలగాలకు పాకిస్తాన్ గూఢచారి సంస్థ ఐ.ఎస్.ఐ ద్వారా అమెరికా సహకారాన్ని అందించడం ప్రారంభించింది. దానితో స్థానిక కమ్యూనిస్టు ప్రభుత్వానికీ-తమకూ 1978 లో కుదిరిన ఒప్పందాన్ని పురస్కరించుకొని డిసెంబరు 24, 1979న దాదాపు లక్ష మంది సోవియట్ యూనియన్ సేనలు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ భూభాగంలో (స్థానిక ప్రభుత్వ రక్షణకై) ప్రవేశించాయి. వీరికి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ కమ్యూనిస్టు అనుకూల ప్రభుత్వం సేనలు మరో లక్ష తోడైనాయి. ఫలితంగా 10 సంవత్సరాలు సాగిన (అంతర్)యుద్ధంలో 6 లక్షలు - 20 లక్షలు మధ్య ఆఫ్ఘన్ వాసులు మరణించారని అంచనా. 50 లక్షలు పైగా ఆఫ్ఘన్ వాసులు పొరుగు దేశాలకు శరణార్ధులుగా వెళ్ళారు. ప్రపంచదేశాలనుండి తీవ్రమైన వ్యతిరేకత వ్యక్తమైంది. అమెరికా, పాకిస్తాన్ ద్వారా, పెద్దపెట్టున ముజాహిదీన్కు అనేక విధాలుగా సహకారం అందించింది. 1989 లో సోవియట్ సేనలు వెనుకకు మళ్ళాయి. ఇది తమ నైతిక విజయంగా అమెరికా భావిస్తుంది. తరువాత ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అవుసరాలను అమెరికా దాదాపు పట్టించుకోలేదు. 1992 దాకా రష్యా మద్దతుతో నజీబుల్లా ప్రభుత్వం ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో కొనసాగి [39] తరువాత పతనమయ్యింది.
అప్పటికి ఆఫ్ఘనిస్తాన్ సామాజిక, ఆర్థిక, రాజకీయ స్థితి కకావికలమయ్యింది. విద్యావంతులు, మేధావులు చాలామంది వలస పోయారు. నాయకత్వం కొరవడింది. తెగల నాయకత్వాలు తమలో తాము కలహించుకొంటూ దేశానికి నాయకత్వం కూడా వారే నిభాయించారు. 1994 లోని ఘర్షణలోనే కాబూల్లో 10,000 మంది పైగా మరణించారు. నాయకత్వం కొరవడి రోజువారీ యుద్ధాలు, దోపిడీలు, లంచగొండితనం పెరిగిన అదనులో తాలిబాన్ బలమైన శక్తిగా పరిణమించి, క్రమంగా వ్యాప్తి చెంది 1996 లో కాబూల్ను తన వశంలోకి తెచ్చుకోగలిగింది. 2000నాటికి దేశంలో 95% భాగం వారి అధీనంలోకి వచ్చింది. దేశం ఉత్తర భాగంలో మాత్రం ఉత్తర ఆఫ్ఘన్ సంకీర్ణం 'బదక్షాన్' ప్రాంతాన్ని ఏలుతున్నది. తాలిబాన్ ఇస్లామిక్ న్యాయ చట్టాన్ని చాలా తీవ్రంగా అమలు చేసింది. ఈ కాలంలో ప్రజల జీవనం, స్వేచ్ఛ బాగా దెబ్బ తిన్నాయి. స్త్రీలకు, బాలికలకు ఉద్యోగాలు, చదువు నిషేధించారు. నియమాలను ఉల్లంఘించినవారికి దారుణమైన శిక్షలు విధింపబడ్డాయి. కమ్యూనిస్టులు దాదాపు తుడిచివేయబడ్డారు. అయితే 2001నాటికి గంజాయి ఉత్పాదన అధిక భాగం నిలిపివేయడంలో వారు కృతకృత్యులయ్యారు[40].
2001-తరువాత ఆఫ్ఘనిస్తాన్
2001 సెప్టెంబరు 11 లో అమెరికా నగరాలపై జరిగిన ఉగ్రవాదుల దాడుల అనంతరం అమెరికా ప్రభుత్వం ఆఫ్ఘనిస్తాన్లోని అల్-కైదా ఉగ్రవాదుల శిక్షణా కేంద్రాలను అంతం చేయడానికి ఆపురేషన్ ఎండ్యూరింగ్ ఫ్రీడమ్ అనే మిలిటరీ చర్యను పెద్దయెత్తున మొదలుపెట్టింది. ఒసామా బిన్-లాడెన్ను తమకు అప్పగించకపోతే తాలిబాన్ల ప్రభుత్వాన్ని అంతం చేస్తామని బెదరించింది. ఇదివరకటి ఆఫ్ఘన్ ముజా్ిదీన్ నాయకులు, అమెరికా సైన్యం కలిపి నిర్వహించిన యుద్ధం ఫలితంగా హమీద్ కర్జాయి నేతృత్వంలో తాత్కాలిక ప్రభుత్వం ఏర్పాడింది.
2002 లో దేశవ్యాప్తంగా నిర్వహించిన లోయా జిర్గా ద్వారా హమీద్ కర్జాయి తాత్కాలిక ప్రెసిడెంట్గా ఎన్నుకొనబడ్డాడు. 2003లో రాజ్యాంగం ఆమోదించబడింది. 2004 ఎన్నికలలో హమీద్ కర్జాయియే 'ఇస్లామిక్ రిపబ్లిక్ ఆఫ్ ఆఫ్ఘనిస్తాన్' ప్రెసిడెంట్గా ఎన్నికయ్యాడు. 2005 లో (1973 తరువాత జరిగినవి ఇవే ఎన్నికలు) సార్వత్రిక ఎన్నికల ద్వారా నేషనల్ అసెంబ్లీ ఏర్పరచబడింది.
దేశం పునర్నిర్మాణం జరుగుతున్నది కాని అనేక సమస్యలతో ఆఫ్ఘనిస్తాన్ సతమతమవుతున్నది. పేదరికం, మౌలిక సదుపాయాల కొరత, దేశమంతటా ఉన్న ల్యాండ్ మైనులు (భూమిలో పాతబడి ఉన్న బాంబులు), ప్రేలుడు పదార్ధాలు, ఆయుధాలు, చట్టవ్యతిరేకంగా సాగుతున్న గంజాయి పెంపకం, రాజకీయ అంతర్యుద్ధాలు, తాలిబాన్ల దాడులు, మిగిలి ఉన్న అల్-కైదా ప్రభావం, (ప్రత్యేకించి ఉత్తరభాగంలో ఉన్న) అనిశ్చితి - ఇవి కొన్ని సమస్యలు.
ఆంగ్ల వికీపీడియాలో చూడదగిన వ్యాసాలు - ఆఫ్ఘన్ చరిత్ర కాలరేఖ మరియు ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ఆక్రమణలు
ప్రభుత్వం, రాజకీయాలు
చారిత్రికంగా ఆఫ్ఘన్ రాజకీయాలలో అధికారంకోసం తగవులు, గూడుపుఠాణీలు, తిరుగుబాట్లు అంతర్భాగాలుగా ఉన్నాయి. రాజరికం, మతవాదపాలన, కమ్యూనిజం, ప్రజా ప్రభుత్వం - ఇలా ఎన్నో విధానాలు మారాయి. 2003 లో జరిగిన లోయా జిర్గా ప్రకారం ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ఇస్లామిక్ రిపబ్లిక్గా ప్రకటించబడింది.
ప్రస్తుత ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రెసిడెంట్ హమీద్ కర్జాయి అక్టోబరు 2004 లో ఎన్నికయ్యాడు. ప్రస్తుత పార్లమెంట్ 2005 ఎన్నికల ద్వారా ఏర్పడింది. వివిధ వర్గాలనుండి ఎన్నికైనవారిలో 28% స్త్రీలు (రాజ్యాంగం ప్రకారం కనీసం 25% స్రీలకు కేటాయించబడింది). ప్రస్తుత సుప్రీంకోర్టు ప్రధాన న్యాధికారి అబ్దుల్ సలామ్ అజీమీ ఇంతకుముందు విశ్వవిద్యాలయంలో ప్రొఫెసర్.[41]
ప్రస్తుతం ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో 60,000 మంది పోలీసు ఆఫీసరులు ఉన్నారు. ఈ సంఖ్యను 80,000 వరకు పెంచే ప్రయత్నం జరుగుతున్నది. దేశంలో ఉన్న ఉగ్రవాద కార్యకలాపాలు, సైనికుల విస్తృతమైన పాత్ర, విదేశీ సేనల ఉనికి, సామాజిక అస్తవ్యస్తల వలన చట్టం అమలు చాలా క్లిష్టతరమౌతున్నది.
[42]
పాలనా విభాగాలు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ పరిపాలనా నిమిత్తం 34 విలాయత్</i>లుగా విభజింపబడింది. ఒకో విలాయత్లోను చిన్న చిన్న జిల్లాలు ఉన్నాయి. ప్రతి విలాయత్కు ఒక గవర్నరు 'అంతర్గత వ్యవహారాల మంత్రి'చేత నిమించబడుతాడు. ఈ గవర్నరు కేంద్రానికి ప్రతినిధిగా వ్యవహరిస్తాడు. అయితే కాబూల్ 'మేయర్' మాత్రం ప్రెసిడెంట్చే నియమింపబడుతాడు.
బదక్షాన్
బదగీస్
బఘలాన్
బాల్ఖ్
బామ్యాన్
దాయ్కుండి
ఫరాహ్
ఫర్యాబ్
ఘజని
ఘోర్
హెల్మాండ్
హేరాత్
జౌజాన్
కాబూల్
కాందహార్
కపిసా
ఖోస్త్
కోనార్
కుందుజ్
లఘమాన్
లౌగార్
నంగర్హార్
నిమ్రూజ్
నూరెస్తాన్
ఒరుజ్గాన్
పక్టియా
పక్టికా
పంజషీర్
పర్వన్
సమంగన్
సారెపోల్
తఖర్
వార్డాక్
జాబోల్
ఆర్ధిక వ్యవస్థ
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రపంచంలో బాగా వెనుకబడిన దేశంగా పరిగణించబడుతుంది. మూడింట రెండు వంతులమంది జనాభా తలసరి రోజువారీ ఆదాయం 2 అమెరికన్ డాలర్ల లోపే ఉంది. అంతర్గత యుద్ధాలూ, విదేశీ ఆక్రమణలూ, రాజకీయ అనిశ్చితీ దేశం ఆర్థిక వ్యవస్థను తీవ్రంగా దెబ్బ తీశాయి. 1998-2001 మధ్య కలిగిన వర్షాభావం దేశాన్ని మరింత కష్టాలలోకి నెట్టింది.[43][44]
2005నాటికి నిరుద్యోగులు 40% వరకు ఉన్నారు.[45]
కాని 2002 తరువాత దేశం చెప్పుకోదగిన అభివృద్ధి సాధించింది. మాదక ద్రవ్యాలు మినహాయిస్తే దేశం జిడిపి 2002 లో 29%, 2003 లో 16%, 2004 లో 8%, 2005 లో 14% వృద్ధి చెందింది.[46] అయితే దేశం 'జిడిపి'లో దాదాపు మూడవవంతు మాదక ద్రవ్యాల పెంపకం, ఉత్పత్తుల మూలంగా జరుగుతున్నది (గంజాయి, మార్ఫీన్, హెరాయిన్, హషీష్ వంటివి)
[17]
[47] దేశంలో సుమారు 33 లక్షలమంది గంజాయి పెంపకంలో పాలుపంచుకొంటున్నారు.[48]
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అభివృద్ధికి ప్రపంచ దేశాల సహకార కార్యకలాపాలు ఆశాజనకంగా ఉన్నాయి. 2001 డిసెంబరు 'బాన్ ఒడంబడిక' ప్రకారం తరువాత 2002లో టోక్యో సమావేశంలో వివిధ దేశాల హామీల ప్రకారం పెద్ద పెట్టున ఆఫ్ఘనిస్తాన్ అభివృద్ధికి అంతర్జాతీయ సహకారం లభిస్తున్నది[49] ముఖ్యంగా విద్య, ఆరోగ్యం, వ్యవసాయం, మౌలిక సదుపాయాలు, పాలనా సంస్కరణలలో ఈ సహకారం వినియోగమవుతున్నది. ఆసియా అభివృద్ధి బ్యాంకు నివేదిక ప్రకారం ప్రస్తుత పునర్నిర్మాణ కార్యక్రమం రెండు దిశలలో పురోగమిస్తున్నాది (1) కీలకమైన మౌలిక సదుపాయాలు, వనరులు సమీకరించడం (2) సోవియట్ ప్రణాలికా విధానంలో ఆరంభించిన పబ్లిక్ సెక్టార్ సంస్థలను మార్కెట్ వాణిజ్యపరంగా సమాయుత్తం చేయడం[50]
యుద్ధకాలంలో వలస వెళ్ళిన 40 లక్షలపైగా ఆఫ్ఘన్ శరణార్ధులు పొరుగు దేశాలనుండి మరలి రావడం దేశం పునర్నిర్మాణ కార్యక్రమంలో కీలకమైన ఆంశంగా పరిణమించింది. వారు ఉత్సాహంతో క్రొత్త నైపుణ్యాలను తమతో వెంటబెట్టుకొస్తున్నారు. దీనికి ప్రతియేటా అంతర్జాతీయ సహాయంగా లభిస్తున్న 2-3 బిలియన్ డాలర్ల పెట్టుబడి తోడవుతున్నది. ఫలితంగా వాణిజ్యరంగం ఊపందుకొంటున్నది.[51]
మొత్తానికి దేశం పేదరికం నుండి బయటపడి ఆర్థికంగా నిలకడైన స్థితిని సాధిస్తుందన్న ఆశ చిగురించింది. దేశంలో గణనీయమైన, విలువైన ఖనిజ సంపద నిక్షేపాలు (సహజ వాయువు, పెట్రోలియమ్ వంటివి) ఉన్నాయన్న వార్తలు ఈ అంచనాలకు దోహదం చేస్తున్నాయి. తగినంత మౌలిక సదుపాయాలు సిద్ధం చేస్తే ఈ భూగర్భ వనరులను సద్వినియోగం చేసికోవచ్చునని పాలకుల అంచనా.[20] బంగారము, రాగి, ఇనుము,బొగ్గు వంటి విలువైన ఖనిజాలు కూడా పెద్దమొత్తాలలో ఉన్నాయని కొన్ని నివేదికలు వెల్లడిస్తున్నాయి.[18][21]
ప్రస్తుతం ఆఫ్ఘనిస్తాన్ దక్షిణ ఆసియా ప్రాంతీయ సహకార సంఘం (SAARC)లోనూ, ఆర్ధిక సహకార సంస్థ (ECO)లోనూ, ఇతర ప్రాంతీయ సంస్థలలోనూ, ఇస్లామిక్ కాన్ఫరెన్స్లోనూ సభ్యత్వం కలిగి ఉంది.
మాదక ద్రవ్యాల నిరోధం ప్రయత్నాలు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ఆర్థిక వ్యవస్థలో గంజాయి పెంపకం, ఉత్పత్తులు కీలకమైన స్థానం కలిగి ఉన్నాయి. దేశం ఆదాయంలో సుమారు మూడవ వంతు వీటిద్వారానే అభిస్తున్నది. కనుక గ్రామీణ రాజకీయాలలో మాదక ద్రవ్యాల నిషేధం చర్యలు బలమైన పరిణామాలకు కారణమౌతాయి. దేశంలో 33 లక్షలమంది దీనిపైనే ఆధారపడి ఉన్నారు. ఒకప్రక్క నిషేధం చర్యలు అమలులో ఉన్నాగాని రెండేళ్ళలో గంజాయి ఉత్పత్తి రెట్టింపు అయ్యింది. ఎక్కువ మందికి జీవనాధారమైన గంజాయిని నిషేధిస్తే అసలు దేశం పునర్నిర్మాణమే కుంటుపడే అవకాశం ఉన్నదని, తలెబాన్ తీవ్రవాదులకు ఇది ఉపయోగకరంగా మారే అవకాశమున్నదనీ విశ్లేషకులు భావిస్తున్నారు.[52]
జన విస్తరణ
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ ప్రజలలో వివిధ స్థానిక జాతులవారున్నారు. శాస్త్రీయమైన జనగణన జరుగని కారణంగా ఆయా జాతుల సంఖ్య, విస్తరణ వంటి వివరాలు అంత నిర్దిష్టంగా లభించడంలేదు.[53] కనుక ఎక్కువ భాగం వివరాలు అంచనాలు మాత్రమే.
భాషలు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో మాట్లాడే భాషలగురించిన వివరాలు ప్రక్కనున్న బొమ్మలో చూపబడినాయి. ఇవి సి.ఐ.ఎ. ఫాక్ట్ బుక్నుండి తీసుకొనబడినవి.
పర్షియన్ భాష ('దారి' యాసలలో) 50% మరియు పష్టూ భాష 35% మంది మాట్లాడుతారు.ఇవి రెండూ ఇండో-యూరోపియన్ భాషలలో ఇరానియన్ భాషల శాఖలకు చెందినవి. పష్టూ మరియు పర్షియన్ భాషలు రెండూ దేశంలో అధికారిక భాషలు. 'హజరా' జాతికి చెందిన వారు మాట్లాడే హజరాగీ భాష కూడా పర్షియన్ భాషకు దగ్గరగా ఉంటుంది. ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో మాట్లాడే ఇతర భాషలు టర్కిక్ (ముఖ్యంగా ఉజ్బెక్ మరియు టర్క్మెన్ యాసలు) 9%, ఇంకా షుమారు 30 ఇతర భాషలు 4% (వాటిలో ముఖ్యమైనవి బలూచీ, నూరిస్తానీ, పషాయి, బ్రహయీ, పామీరీ, హింద్కో, హిందీ/ఉర్దూ). రెండు మూడు భాషలు తెలిసి ఉండడం జనంలో చాలా సామాన్యం.
వివిధ జాతులు
1960-1980 మధ్యకాలంలో జరిగిన జన గణన ఫలితాలను బట్టీ, ఇతర అధ్యయన నివేదికలను బట్టీ [54] ఎన్సైక్లోపిడియా ఇరానికాలో ఇవ్వబడిన అంచనాలు:[54]
36.4% పష్టున్
33.6% తజిక్, ఫర్సివాన్, మరియు కెజెల్బాష్
8.0% హజరా
8.0% ఉజ్బెక్
3.2% ఐమాక్
1.6% బలోచ్
9.2% ఇతరులు
మతాలు
దేశంలో అత్యధికంగా, 99% ముస్లిములు: వీరిలో సుమారు 74–89% సున్నీలు మరియు 9–25% షియాలు[17][55] (అంచనాలలో వ్యత్యాసాలు ఉన్నాయి).1980 దశకం మధ్యవరకూ సుమారు 30,000 నుండి 150,000 హిందువులు, సిక్కులు ముఖ్యంగా నగరాలలో - జలాలాబాద్, కాబూల్, మరియు కాందహార్ వంటి నగరాలలో ఉండేవారు[56][57]
దేశంలో కొద్దిపాటి యూదు మతస్తులు ఉండేవారు. (బుఖారన్ యూదులు) కాని వారు 1979 సోవియట్ ఆక్రమణ తరువాత దేశాన్ని వదలి వెళ్ళిపోయారు. ప్రస్తుతం ఒక్క వ్యక్తి, జబ్లోన్ సిమిన్టోవ్ మాత్రమే ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో ఉంటున్నాడు.[58]
పెద్ద నగరాలు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో పది లక్షలు పైని జనాభా కల ఒకే ఒక నగరం రాజధాని నగరమైన కాబూల్. ఇతర ముఖ్య నగరాలు కాందహార్, హేరాత్, మజారి షరీఫ్, జలాలాబాద్, ఘజని, కుందుజ్.
శరణార్ధులు
1979 లో జరిగిన సోవియట్ ఆక్రమణ మొదలు 1992 వరకు జరిగిన వివిధ యుద్ధాల కారణంగా 60 లక్షలు (6,000,000) పైగా ఆఫ్ఘనులు శరణార్ధులై పాకిస్తాన్, ఇరాన్ వంటి పొరుగుదదేశాలకు వలస పోయారు. ప్రపంచ వ్యాప్తంగా అత్యధిక శరణార్ధులు ఆఫ్ఘనిస్తాన్నుండి వెళ్ళినవారే. 1996 లో తాలిబాన్ అధికారం చేజిక్కించుకొన్న తరువాత కూడా వేలలో జనులు తరలిపోయారు.[59] 2002 తరువాత 40 లక్షలు పైగా శరణార్ధులు స్వదేశానికి తిరిగి వచ్చారు.[60]
2007 ఏప్రిల్ తరువాత ఇరాన్ ప్రభుత్వం తమ దేశంలోని లక్షపైగా శరణార్ధులను బలవంతంగా వెనుకకు పంపించింది. పాకిస్తాన్ కూడా ఈ దిశలో చర్యలు చేపట్టి, తమ దేశంలో ఉన్న 24 లక్షలమంది శరణార్ధులు 2009కల్లా తిరిగి వెళ్ళాలని చెప్పింది.[61] అలా జరిగితే ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వ్యవస్థ బాగా దెబ్బ తింటుందని నిపుణులు అభిప్రాయపడుతున్నారు.[62]
సంస్కృతి
ఆఫ్ఘనులకు వారి మతం, దేశం, చరిత్ర - అన్నింటి కంటే స్వేచ్ఛల పట్ల సగర్వమైన అభిమానం ఉంది. వ్యక్తిగత గౌరవమూ, సంఘం గౌరవమూ వారికి ప్రాణం కంటే మిన్న. తమ కర్తవ్యం నెగ్గించుకోవడానికి ఆయుధాలు ధరించేందుకు వారు సదా సన్నద్ధులు.[63] అనాదిగా తరచు వివిధ జాతుల (ముఠాల) మధ్య జరిగే పోరాటాల కారణంగా యుద్ధం వారికి సామాన్యమైపోయింది. కనుక విదేశీ ఆక్రమణదారులెవ్వరూ ఈ భూమిని తమ అధీనంలో ఉంచుకోలేకపోయారు.
పోరాటాల మయమైన వారి చరిత్రలో సంస్కృతి, భాష నిలిచాయి గాని పురాతన కట్టడాలు చాలావరకు నాశనమయ్యాయి. విగ్రహారాధనను వ్యతిరేకించే తాలిబాన్ చేతుల్లో బమియాన్లోని చరిత్రాత్మక బుద్ధ విగ్రహాలు ధ్వంసమయ్యాయి. ఆఫ్ఘనిస్తాన్లోని మరికొన్ని చారిత్రిక స్థలాలు - కాందహార్, హేరాత్, ఘజని, బాల్. హరిరుద్ లోయలోని 'జామ్ మినారెట్' ఒక యునెస్కో ప్రపంచ వారసత్వ స్థలంగా గుర్తించబడింది. మొహమ్మద్ ధరించిన అంగీ కాందహార్లోని ప్రసిద్ధ 'ఖల్కా షరీఫా'లో భద్రపరుచబడింది.
బుజ్కషి ఆఫ్ఘనుల జాతీయ క్రీడ. ఇది పోలో వంటి ఆట. రెండు జట్టులు ఆటగాళ్ళు గుర్రాలపై ఆడుతారు. పోలో బంతి బదులు ఒక మేక మృతదేహాన్ని వాడుతారు. ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో అక్షరాస్యత బాగా తక్కువగా ఉన్నాగాని, వారి సంస్కృతిలో సంప్రదాయ పర్షియన్ కవిత్వం చాలా ముఖ్యమైన భాగం. అలాగే (తాలెబాన్ కాలానికి ముందు) కాబూల్ ముఖ్యమైన సంగీతకారుల స్థావరం.
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ జనజీవనంలోనూ, రాజకీయాలలోనూ తెగలు (tribal system) చాలా కీలకమైన పాత్ర వహిస్తున్నాయి. తమ తెగ ఔన్నత్యం ఆయుధాలు ధరించడానికీ, ప్రాణాలివ్వడానికీ ఆ తెగవారు ముందుకొస్తారు. ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వంటి భౌగోళిక, సామాజిక వ్యవస్థలో ఈ తెగల విధానమే పప్రజలను సమీకరించడానికి సరైన విధానమని 'హాత్కోటె' అనే సామాజిక శాస్త్రజ్ఞుని ఆభిప్రాయం.
[63]
మౌలిక సదుపాయాలు
కమ్యూనికేషన్లు, టెక్నాలజీ
ఈ సదుపాయాలు ఆఫ్ఘనిస్తాన్లో త్వరితగతిన అభివృద్ధి చెందుతుఉన్నాయి. వైర్లెస్ కంపెనీలు, ఇంటర్నెట్,రేడియో, టెలివిజన్, సెల్ఫోనులు వంటి సదుపాయాలు క్రమంగా వ్యాపిస్తున్నాయి. 2006 లో ఆఫ్ఘన్ ప్రభుత్వం ఫైబర్ ఆప్టిక్ నెట్వర్క్ వ్వస్థాపనకు అంతర్జాతీయ ఒప్పందం కుదుర్చుకొన్నది. దీనివలన ప్రసార, సమాచార సౌకర్యాలు మరింత మెరుగు కాగలవని ఆశిస్తున్నారు[64].
రవాణా సౌకర్యాలు
ఆఫ్ఘనిస్తాన్ వాణిజ్య విమానయాన సంస్థ "అరియానా ఆఫ్ఘన్ ఎయిర్లైన్స్" ఇప్పుడు కాబూల్, హేరాత్లనుండి ఫ్రాంక్ఫర్ట్, దుబాయి, ఇస్తాంబుల్ వంటి అంతర్జాతీయ విమానాశ్రయాలకు సర్వీసులు నిర్వహిస్తున్నది. వివిధ రకాల కారులు, ముఖ్యంగా యు.ఎ.ఇ. నుండి దిగుమతి అయ్యే సెకండ్ హాండ్ కారులు విరివిగా వాడుతున్నారు.
చదువు
2003 నాటికి అంతర్యుద్ధం వలన ఆఫ్ఘనిస్తాన్లోని 7,000 పాఠశాలలలో సుమారు 30% పాఠశాలలు తీవ్రంగా నాశనమయ్యాయని అంచనా. ఉన్న పాఠశాలలలో సదుపాయాలు కూడా చాలా కొరతగా ఉన్నాయి. 2006 నాటికి 40 లక్షల మంది విద్యార్థులు దేశంలో విద్యాలయాలలో చదువుతున్నారు. ప్రాథమిక విద్య అందరికీ ఉచితం. 1999 నాటికి అక్షరాస్యత 36% (మగవారిలో 51%, ఆడువారిలో 21%). దేశంలో 9,500 విద్యాలయాలున్నాయి.
ఉన్నత విద్య అవకాశాలు కూడా త్వరిత గతిన అందుబాటులోకి వస్తున్నాయి. తాలిబాన్ పతనం తరువాత కాబూల్ విశ్వ విద్యాలయం ఆడువారికీ, మగవారికీ కూడా పునఃప్రారంభింపబడింది. మజారె షరీఫ్ వద్ద బాల్ఖ్ విశ్వవిద్యాలయం నిర్మాణం త్వరలో మొదలుకానుండి. ఇది 600 ఎకరాల విస్తీర్ణంలో 250 మిలియన్ డాలర్ల వ్యయంతో నిర్మింపబడనుండి[65].
ఖనిజ సంపద
అఫ్గాన్లో లక్ష కోట్ల డాలర్ల విలువైన ఇనుము, రాగి, కోబాల్ట్, బంగారం,నియోబియం,లీథియం,మోలిబ్డినం, లాంటి అపార ఖనిజ నిక్షేపాలు ఉన్నట్టు శాస్త్రవేత్తలు గుర్తించారు.అమెరికా సైనికాధికారులు, భూగర్భ శాస్త్రవేత్తలు కలిసి అఫ్గానిస్థాన్లో జరిపిన పరిశోధనలో రూ.50 లక్షల కోట్ల విలువైన ఖనిజ నిల్వలున్నాయని తేలిందని పెంటగాన్ ప్రకటించింది. అఫ్గాన్లో ఖనిజాల విలువ అమెరికా వార్షిక బడ్జెట్లో ఆరో వంతు విలువకు సమానం. మన దేశ బడ్జెట్ సుమారు రూ.11 లక్షల కోట్లు. అంటే మన నాలుగున్నరేళ్ల బడ్జెట్తో అఫ్గాన్ ఖనిజాల విలువ సమానం. ఆ దేశానికి ఏటా ప్రపంచ దేశాల నుంచి రూ.15 వేల కోట్లదాకా సాయం అందుతోంది.
విశేషాలు
అఫ్గానిస్థాన్లోని ప్రస్తుత జనాభా 2.81 కోట్లు. మరో 2.7 కోట్ల మంది నిరాశ్రయులుగా విదేశాల్లో తలదాచుకుంటున్నారు.
ఆ దేశ స్థూల దేశీయోత్పత్తి రూ.65వేల కోట్లు.
తలసరి ఆదాయం రూ.20వేలు.
బడ్జెట్లో ఎక్కువ భాగం విదేశీ సాయంద్వారానే సమకూరుతోంది.
80శాతం మంది బాలికలకు, 50శాతం మంది బాలురకు సరైన విద్యా సౌకర్యాల్లేవు.
మొత్తం అక్షరాస్యత 34శాతం. మహిళల అక్షరాస్యత 10శాతమే.
అఫ్గాన్లో ప్రతి అర గంటకు ఒక మహిళ అనారోగ్యంతో మరణిస్తోంది. ప్రసవానికి అత్యంత ప్రమాదకర దేశంగా ఇది గుర్తింపు పొందింది. పుట్టే ప్రతి వేయి మందిలో 247మంది శిశువులు మృత్యువాత పడుతున్నారు.
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สภาผู้แทนราษฎรไทย ประกอบด้วยสมาชิกซึ่งมาจากการเลือกตั้งโดยตรงทั้งหมด 500 คน และแบ่งการได้มาออกเป็นการเลือกตั้งแบบแบ่งเขตเลือกตั้งในแต่ละจังหวัด จำนวน 350 คน และแบบบัญชีรายชื่อของพรรคการเมือง โดยให้เขตประเทศเป็นเขตเลือกตั้ง จำนวน 150 คน ซึ่งหลักเกณฑ์และวิธีการเลือกตั้งสมาชิกสภาผู้แทนราษฎรตามรูปแบบนี้ เป็นไปตามบทบัญญัติรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560 ทั้งนี้อายุของสภาผู้แทนราษฎรมีกำหนดคราวละ 4 ปี นับแต่วันเลือกตั้ง
สมาชิกสภาผู้แทนราษฎรย่อมเป็นผู้แทนปวงชนชาวไทยไม่อยู่ในความผูกมัดแห่งอาณัติมอบหมาย หรือความครอบงำใดๆ และต้องปฏิบัติหน้าที่ด้วยความซื่อสัตย์สุจริต เพื่อประโยชน์ส่วนรวมของประเทศชาติและความผาสุกของประชาชนโดยรวม โดยปราศจากการขัดกันแห่งผลประโยชน์ สภาผู้แทนราษฎรมีหน้าที่โดยตรงในทางนิติบัญญัติ ซึ่งร่างพระราชบัญญัติ หรือร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญ จะตราขึ้นเป็นกฎหมายได้ ก็ด้วยคำแนะนำและยินยอมของรัฐสภา ซึ่งประกอบด้วยสภาผู้แทนราษฎรและวุฒิสภา และยังมีอำนาจควบคุมการบริหารราชการแผ่นดินด้วย เช่น การให้ความเห็นชอบบุคคลซึ่งสมควรได้รับแต่งตั้งเป็นนายกรัฐมนตรี การตั้งกระทู้ถาม และการเสนอญัตติขอให้เปิดอภิปรายทั่วไปเพื่อลงมติไม่ไว้วางใจนายกรัฐมนตรีหรือรัฐมนตรี ทั้งนี้ เป็นไปตามการปกครองระบอบประชาธิปไตยระบบรัฐสภา
ปัจจุบันสภานิติบัญญัติแห่งชาติทำหน้าที่แทนสภาผู้แทนราษฎร จนถึงวันก่อนวันเปิดประชุมสภาผู้แทนราษฎรที่มาจากการเลือกตั้งครั้งแรกตามรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560
อำนาจหน้าที่
การตรากฎหมาย
พระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญ
ร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญจะเสนอได้ก็แต่โดย (ตามมาตรา 131 ของรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560)
คณะรัฐมนตรี โดยข้อเสนอแนะของศาลฎีกา ศาลรัฐธรรมนูญ หรือองค์กรอิสระที่เกี่ยวข้อง
สมาชิกสภาผู้แทนราษฎรจำนวนไม่น้อยกว่าหนึ่งในสิบของจำนวนสมาชิกทั้งหมดเท่าที่มีอยู่ของสภาผู้แทนราษฎร
การพิจารณาร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญ (ตามมาตรา 132 ของรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560)
การเสนอร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญให้เสนอต่อรัฐสภา และให้รัฐสภาประชุมร่วมกันเพื่อพิจารณาร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญให้แล้วเสร็จภายในเวลาหนึ่งร้อยแปดสิบวัน โดยการออกเสียงลงคะแนนในวาระที่สาม ต้องมีคะแนนเสียงเห็นชอบด้วยมากกว่ากึ่งหนึ่งของจำนวนสมาชิกทั้งหมดเท่าที่มีอยู่ของรัฐสภา ถ้าที่ประชุมร่วมกันของรัฐสภาพิจารณาไม่แล้วเสร็จภายในกำหนดเวลาดังกล่าวให้ถือว่ารัฐสภาให้ความเห็นชอบตามร่างที่เสนอตามมาตรา 131
ภายในสิบห้าวันนับแต่วันที่รัฐสภาให้ความเห็นชอบร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญ ให้รัฐสภาส่งร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญนั้นไปยังศาลฎีกา ศาลรัฐธรรมนูญ หรือองค์กรอิสระที่เกี่ยวข้อง เพื่อให้ความเห็น ในกรณีที่ศาลฎีกา ศาลรัฐธรรมนูญ หรือองค์กรอิสระที่เกี่ยวข้อง ไม่มีข้อทักท้วงภายในสิบวันนับแต่วันที่ได้รับร่างดังกล่าว ให้รัฐสภาดำเนินการต่อไป
ในกรณีที่ศาลฎีกา ศาลรัฐธรรมนูญ หรือองค์กรอิสระที่เกี่ยวข้อง เห็นว่าร่างพระราชบัญญัติประกอบรัฐธรรมนูญที่รัฐสภาให้ความเห็นชอบมีข้อความใดขัดหรือแย้งต่อรัฐธรรมนูญ หรือทำให้ไม่สามารถปฏิบัติหน้าที่ให้ถูกต้องตามบทบัญญัติของรัฐธรรมนูญได้ ให้เสนอความเห็นไปยังรัฐสภาและให้รัฐสภาประชุมร่วมกันเพื่อพิจารณาให้แล้วเสร็จภายในสามสิบวันนับแต่วันที่ได้รับความเห็นดังกล่าวในการนี้ ให้รัฐสภามีอำนาจแก้ไขเพิ่มเติมตามข้อเสนอของศาลฎีกา ศาลรัฐธรรมนูญ หรือองค์กรอิสระตามที่เห็นสมควรได้ และเมื่อดำเนินการเสร็จแล้ว ให้รัฐสภาดำเนินการต่อไป
พระราชบัญญัติ
ร่างพระราชบัญญัติให้เสนอต่อสภาผู้แทนราษฎรก่อน และจะเสนอได้ก็แต่โดย (ตามมาตรา 133 ของรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560)
คณะรัฐมนตรี
สมาชิกสภาผู้แทนราษฎรจำนวนไม่น้อยกว่ายี่สิบคน
ผู้มีสิทธิเลือกตั้งจำนวนไม่น้อยกว่าหนึ่งหมื่นคนเข้าชื่อเสนอกฎหมายตามหมวด 3 สิทธิและเสรีภาพของปวงชนชาวไทย หรือหมวด 4 หน้าที่ของรัฐ ทั้งนี้ตามกฎหมายว่าด้วยการเข้าชื่อเสนอกฎหมาย
ในกรณีที่ร่างพระราชบัญญัติซึ่งมีผู้เสนอที่มิใช่คณะรัฐมนตรีเป็นร่างพระราชบัญญัติเกี่ยวด้วยการเงินจะเสนอได้ก็ต่อเมื่อมีคำรับรองของนายกรัฐมนตรี
การพิจารณาร่างพระราชบัญญัติ (ตามมาตรา 134 ของรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560)
เมื่อสภาผู้แทนราษฎรได้พิจารณาร่างพระราชบัญญัติและลงมติเห็นชอบแล้ว ให้สภาผู้แทนราษฎรเสนอร่างพระราชบัญญัตินั้นต่อวุฒิสภา วุฒิสภาต้องพิจารณาร่างพระราชบัญญัติที่เสนอมานั้นให้เสร็จภายในหกสิบวัน แต่ถ้าร่างพระราชบัญญัตินั้นเป็นร่างพระราชบัญญัติเกี่ยวด้วยการเงินต้องพิจารณาให้เสร็จภายในสามสิบวัน ทั้งนี้เว้นแต่วุฒิสภาจะได้ลงมติให้ขยายเวลาออกไปเป็นกรณีพิเศษซึ่งต้องไม่เกินสามสิบวัน กำหนดวันดังกล่าวให้หมายถึงวันในสมัยประชุม และให้เริ่มนับแต่วันที่ร่างพระราชบัญญัตินั้นมาถึงวุฒิสภา
คุณสมบัติ
ตามรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560 มาตรา 97 บัญญัติให้บุคคลผู้มีคุณสมบัติดังต่อไปนี้ เป็นผู้มีสิทธิสมัครรับเลือกตั้งเป็นสมาชิกสภาผู้แทนราษฎร
มีสัญชาติไทยโดยการเกิด
มีอายุไม่ต่ำกว่ายี่สิบห้าปีนับถึงวันเลือกตั้ง
เป็นสมาชิกพรรคการเมืองใดพรรคการเมืองหนึ่งแต่เพียงพรรคการเมืองเดียวเป็นเวลาติดต่อกันไม่น้อยกว่าเก้าสิบวันนับถึงวันเลือกตั้ง เว้นแต่ในกรณีที่มีการเลือกตั้งทั่วไปเพราะเหตุยุบสภา ระยะเวลาเก้าสิบวันดังกล่าวให้ลดลงเหลือสามสิบวัน
ผู้สมัครรับเลือกตั้งแบบแบ่งเขตเลือกตั้ง ต้องมีลักษณะอย่างใดอย่างหนึ่งดังต่อไปนี้ด้วย
มีชื่ออยู่ในทะเบียนบ้านในจังหวัดที่สมัครรับเลือกตั้งมาแล้วเป็นเวลาติดต่อกันไม่น้อยกว่าห้าปีนับถึงวันสมัครรับเลือกตั้ง
เป็นบุคคลซึ่งเกิดในจังหวัดที่สมัครรับเลือกตั้ง
เคยศึกษาในสถานศึกษาที่ตั้งอยู่ในจังหวัดที่สมัครรับเลือกตั้งเป็นเวลาติดต่อกันไม่น้อยกว่าห้าปีการศึกษา
เคยรับราชการหรือปฏิบัติหน้าที่ในหน่วยงานของรัฐ หรือเคยมีชื่ออยู่ในทะเบียนบ้านในจังหวัดที่สมัครรับเลือกตั้ง แล้วแต่กรณี เป็นเวลาติดต่อกันไม่น้อยกว่าห้าปี
ลักษณะต้องห้าม
ตามรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560 มาตรา 98 บัญญัติให้บุคคลผู้มีลักษณะดังต่อไปนี้ เป็นบุคคลต้องห้ามมิให้ใช้สิทธิสมัครรับเลือกตั้งเป็นสมาชิกสภาผู้แทนราษฎร
ติดยาเสพติดให้โทษ
เป็นบุคคลล้มละลายหรือเคยเป็นบุคคลล้มละลายทุจริต
เป็นเจ้าของหรือผู้ถือหุ้นในกิจการหนังสือพิมพ์หรือสื่อมวลชนใดๆ
เป็นบุคคลผู้มีลักษณะต้องห้ามมิให้ใช้สิทธิเลือกตั้งตามมาตรา 96 (1) (2) หรือ (4)
อยู่ระหว่างถูกระงับการใช้สิทธิสมัครรับเลือกตั้งเป็นการชั่วคราวหรือถูกเพิกถอนสิทธิสมัครรับเลือกตั้ง
ต้องคำพิพากษาให้จำคุกและถูกคุมขังอยู่โดยหมายของศาล
เคยได้รับโทษจำคุกโดยได้พ้นโทษมายังไม่ถึงสิบปีนับถึงวันเลือกตั้ง เว้นแต่ในความผิดอันได้กระทำโดยประมาทหรือความผิดลหุโทษ
เคยถูกสั่งให้พ้นจากราชการ หน่วยงานของรัฐ หรือรัฐวิสาหกิจเพราะทุจริตต่อหน้าที่หรือถือว่ากระทำการทุจริตหรือประพฤติมิชอบในวงราชการ
เคยต้องคำพิพากษาหรือคำสั่งของศาลอันถึงที่สุดให้ทรัพย์สินตกเป็นของแผ่นดินเพราะร่ำรวยผิดปกติ หรือเคยต้องคำพิพากษาอันถึงที่สุดให้ลงโทษจำคุกเพราะกระทำความผิดตามกฎหมายว่าด้วยการป้องกันและปราบปรามการทุจริต
เคยต้องคำพิพากษาอันถึงที่สุดว่ากระทำความผิดต่อตำแหน่งหน้าที่ราชการหรือต่อตำแหน่งหน้าที่ในการยุติธรรม หรือกระทำความผิดตามกฎหมายว่าด้วยความผิดของพนักงานในองค์การหรือหน่วยงานของรัฐ หรือความผิดเกี่ยวกับทรัพย์ที่กระทำโดยทุจริตตามประมวลกฎหมายอาญา ความผิดตามกฎหมายว่าด้วยการกู้ยืมเงินที่เป็นการฉ้อโกงประชาชน กฎหมายว่าด้วยยาเสพติดในความผิดฐานเป็นผู้ผลิต นำเข้า ส่งออก หรือผู้ค้า กฎหมายว่าด้วยการพนันในความผิดฐานเป็นเจ้ามือหรือเจ้าสำนัก กฎหมายว่าด้วยการป้องกันและปราบปรามการค้ามนุษย์ หรือกฎหมายว่าด้วยการป้องกันและปราบปรามการฟอกเงินในความผิดฐานฟอกเงิน
เคยต้องคำพิพากษาอันถึงที่สุดว่ากระทำการอันเป็นการทุจริตในการเลือกตั้ง
เป็นข้าราชการซึ่งมีตำแหน่งหรือเงินเดือนประจำนอกจากข้าราชการการเมือง
เป็นสมาชิกสภาท้องถิ่นหรือผู้บริหารท้องถิ่น
เป็นสมาชิกวุฒิสภาหรือเคยเป็นสมาชิกวุฒิสภาและสมาชิกภาพสิ้นสุดลงยังไม่เกินสองปี
เป็นพนักงานหรือลูกจ้างของหน่วยราชการ หน่วยงานของรัฐ หรือรัฐวิสาหกิจ หรือเป็นเจ้าหน้าที่อื่นของรัฐ
เป็นตุลาการศาลรัฐธรรมนูญ หรือผู้ดำรงตำแหน่งในองค์กรอิสระ
อยู่ในระหว่างต้องห้ามมิให้ดำรงตำแหน่งทางการเมือง
เคยพ้นจากตำแหน่งเพราะเหตุตามมาตรา 144 หรือมาตรา 235 วรรคสาม
ลำดับชุดสภาผู้แทนราษฎร
ชุดที่จำนวนสมาชิกระยะการดำรงตำแหน่งการสิ้นสุดสมาชิกสภาพรัฐธรรมนูญหมายเหตุ
(เลือกตั้ง/ครม.)ชั่วคราว7028 มิถุนายน พ.ศ. 2475 - 6 ธันวาคม พ.ศ. 2476มีการเลือกตั้งทั่วไปครั้งแรกพระราชบัญญัติธรรมนูญการปกครองแผ่นดินสยามชั่วคราว พุทธศักราช 2475มาจากการแต่งตั้งทั้งหมดโดยคณะทหารผู้รักษาพระนคร
ครม. 1 ครม. 2 ครม. 3115615 พฤศจิกายน พ.ศ. 2476 - พ.ศ. 2480ครบวาระรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรสยามเลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 1 เป็นการเลือกตั้งโดยอ้อมและมี ส.ส. จากการแต่งตั้งด้วย
ครม. 4 ครม. 5 ครม. 6 ครม. 721567 พฤศจิกายน พ.ศ. 2480 - 11 กันยายน พ.ศ. 2481ยุบสภา [1]"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 2
ครม. 8318212 พฤศจิกายน พ.ศ. 2481 - 15 ตุลาคม พ.ศ. 2488ยุบสภา"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 3/สภาต่อวาระออกไปเนื่องจากสงครามโลกครั้งที่สอง
ครม. 9 ครม. 10 ครม. 11 ครม. 12 ครม. 1342746 มกราคม พ.ศ. 2489 - 8 พฤศจิกายน พ.ศ. 2490รัฐประหารรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรสยาม/รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2489เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 4 และเลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 5 เป็นการเลือกตั้งเพิ่มเติม เมื่อ 5 สิงหาคม พ.ศ. 2489
ครม. 14 ครม. 15 ครม. 16 ครม. 17 ครม. 18521929 มกราคม พ.ศ. 2491 - 25 มีนาคม พ.ศ. 2492ประกาศใช้รัฐธรรมนูญฉบ้บใหม่รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย (ฉบับชั่วคราว) แก้ไขเพิ่มเติม พ.ศ. 2490 (5 ธันวาคม 2490)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 6
ครม. 21 ครม. 2262195 มิถุนายน พ.ศ. 2492 - พ.ศ. 2494รัฐประหารรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2492เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 7
ครม. 23 ครม. 24724626 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2495 - 21 มีนาคม พ.ศ. 2500ครบวาระรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2475 แก้ไขเพิ่มเติม พุทธศักราช 2495เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 8
ครม. 25828326 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2500 - 16 กันยายน พ.ศ. 2500รัฐประหาร"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 9
ครม. 26928115 ธันวาคม พ.ศ. 2500 - 20 ตุลาคม พ.ศ. 2501รัฐประหาร"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 10
ครม. 281021917 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2512 - 17 พฤศจิกายน พ.ศ. 2514รัฐประหารรัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2511เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 11
ครม. 311126926 มกราคม พ.ศ. 2518 - 12 มกราคม พ.ศ. 2519ยุบสภา [2]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2517เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 12
ครม. 35 ครม. 36122794 เมษายน พ.ศ. 2519 - 5 ตุลาคม พ.ศ. 2519รัฐประหาร"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 13
ครม. 37 ครม. 381330122 เมษายน พ.ศ. 2522 - 19 มีนาคม พ.ศ. 2526ยุบสภา [3]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2521เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 14
ครม. 41 ครม. 421432418 เมษายน พ.ศ. 2526 - 2 พฤษภาคม พ.ศ. 2529ยุบสภา [4]"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 15
ครม. 431534727 กรกฎาคม พ.ศ. 2529 - 29 เมษายน พ.ศ. 2531ยุบสภา [5]"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 16
ครม. 441635724 กรกฎาคม พ.ศ. 2531 - 23 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2534รัฐประหาร"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 17
ครม. 45 ครม. 461736022 มีนาคม พ.ศ. 2535 - 30 มิถุนายน พ.ศ. 2535ยุบสภา [6]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2534เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 18
ครม. 48 ครม. 491836013 กันยายน พ.ศ. 2535 - 19 พฤษภาคม พ.ศ. 2538ยุบสภา [7]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย (ฉบับที่ 4) พุทธศักราช 2535 (10 กันยายน พ.ศ. 2535)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 19
ครม. 50193912 กรกฎาคม พ.ศ. 2538 - 28 กันยายน พ.ศ. 2539ยุบสภา [8]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย (ฉบับที่ 5) พุทธศักราช 2535 (10 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2538)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 20
ครม. 512039317 พฤศจิกายน พ.ศ. 2539 - 9 พฤศจิกายน พ.ศ. 2543ยุบสภา [9]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย (ฉบับที่ 6) พุทธศักราช 2535 (27 กันยายน พ.ศ. 2539)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 21
ครม. 52 ครม. 53215006 มกราคม พ.ศ. 2544 - 5 มกราคม พ.ศ. 2548ครบวาระ [10]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2540เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 22 เริ่มมี 2 แบบ คือ แบบแบ่งเขตและแบบบัญชีรายชื่อ
ครม. 54225006 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2548 - 24 กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2549ยุบสภา[11]"เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 23
ครม. 552348023 ธันวาคม พ.ศ. 2550 - 10 พฤษภาคม พ.ศ. 2554ยุบสภา [12]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2550เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 25
ครม. 57 ครม. 58 ครม. 59245003 กรกฎาคม พ.ศ. 2554 - 9 ธันวาคม พ.ศ. 2556ยุบสภา [13]รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย แก้ไขเพิ่มเติม (ฉบับที่ 2) พุทธศักราช 2554 (3 มีนาคม พ.ศ. 2554)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 26
ครม. 6025500พ.ศ. 2562 -รัฐธรรมนูญแห่งราชอาณาจักรไทย พุทธศักราช 2560 (6 เมษายน พ.ศ. 2560)เลือกตั้ง ส.ส. ครั้งที่ 28
ครม. 62
อ้างอิง
ดูเพิ่ม
วุฒิสภาไทย
สภานิติบัญญัติแห่งชาติ (ประเทศไทย)
สภาปฏิรูปแห่งชาติ
แหล่งข้อมูลอื่น
หมวดหมู่:รัฐสภาไทย
| https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%AA%E0%B8%A0%E0%B8%B2%E0%B8%9C%E0%B8%B9%E0%B9%89%E0%B9%81%E0%B8%97%E0%B8%99%E0%B8%A3%E0%B8%B2%E0%B8%A9%E0%B8%8E%E0%B8%A3%E0%B9%84%E0%B8%97%E0%B8%A2 |
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Stand Up Comedy Indonesia (SUCI) adalah ajang kompetisi lawakan tunggal atau stand up comedy yang diikuti oleh pelawak tunggal berbakat melalui hasil seleksi dari seluruh wilayah di Indonesia yang diselenggarakan oleh Kompas TV. Acara ini berbeda dengan Stand Up Comedy Show yang ditayangkan oleh Metro TV yang berformat entertainment show. Dengan tagline "Let's Make Laugh!", acara kompetisi ini merupakan kompetisi stand up comedy pertama di Indonesia yang disiarkan oleh stasiun televisi. Oleh karena itu, acara ini juga dianggap sebagai tolak ukur pencapaian karier tertinggi bagi mayoritas pelawak tunggal khususnya pelawak tunggal di seluruh Indonesia apabila bisa tampil sebagai kontestan/ finalis di acara kompetisi ini dan sebagai acuan bagi acara pada stasiun TV lain dengan format serupa.[1]
Latar belakang
Ide acara ini muncul seiring dengan mulai populernya stand up comedy di Indonesia pada tahun 2010. Pandji Pragiwaksono dan Raditya Dika, pesohor yang merupakan pelopor dalam pengenalan stand up comedy di Indonesia sepakat untuk membuat satu program kompetisi stand up comedy di salah satu stasiun TV swasta. Hal ini dikarenakan belum banyak TV yang menayangkan stand up comedy secara live. Maka dari itu, Pandji, Raditya Dika, Indro Warkop beserta Indra Yudhistira, salah satu produser dan sutradara program komedi di Kompas TV bersama membuat acara stand up comedy bertema kompetisi pertama di Indonesia. Di mana pada awalnya Pandji dan Raditya Dika bertindak sebagai pembawa acara, sementara Indro ditemani Butet Kertaradjasa dan Astrid Tiar menjadi juri kompetisi. Pada penyelenggaraan selanjutnya, Raditya Dika menjadi juri bersama Indro Warkop sementara Pandji sebagai pembawa acara berturut-turut didampingi oleh juara kompetisi musim sebelumnya. Acara ini dimulai pada tahun 2011 dan tayang setiap hari Sabtu pukul 20.00 WIB.[2] Lalu di musim ke-2 menjadi setiap hari Minggu di jam yang sama. Sejak musim ke-4 pada tahun 2014 tayang setiap hari Kamis pukul 22.00 WIB dengan waktu tayang ulang setiap hari Minggu pukul 15.00 WIB, meskipun sempat pindah jam tayang pada jam 20.00 WIB di musim ke-6. Pada musim ke-7 pada tahun 2017, ditayangkan setiap hari Jumat pukul 22.00 WIB serta tayang ulang setiap hari Minggu pukul 15.00 WIB. Acara ini sudah memasuki musim ke-8 pada tahun 2018 dan tayang setiap hari Sabtu pukul 19.00 WIB.[3]
Format kompetisi
Format kompetisi ini awalnya adalah 13 orang komika yang telah terpilih melalui audisi di 4 kota besar yaitu Surabaya, Yogyakarta, Bandung, dan Jakarta (Medan ikut mengadakan audisi di musim pertama, sehingga ada 5 kota). Pada musim ke-3 jumlah peserta bertambah menjadi 18 komika. Lalu pada musim ke-4 selain 4 kota yang telah disebutkan, terbuka pula audisi di Medan, Padang, dan Denpasar yang nantinya 20 komika terpilih akan berjuang dalam babak Pre Show untuk mencari komika finalis yang nantinya menjadi 16 komika. Dan musim ke-5 audisi juga terbuka di Pontianak, Pekanbaru dan Makassar (pada musim ke-5 audisi tidak diadakan di Medan). Sama seperti sebelumnya, juga diadakan babak Pre Show dari 24 komika terpilih sehingga nanti kembali ada 16 komika yang berhak tampil di putaran final. Pada musim ke-6, audisi kembali hanya dilakukan di 5 kota besar yaitu Surabaya, Yogyakarta, Semarang (pertama kali mengadakan audisi SUCI), Medan (kembali mengadakan audisi SUCI), dan Jakarta. Pada musim ke-7, audisi dilakukan lewat "audisi digital" via Youtube dan audisi umum. Hanya dua kota saja yang melaksanakan audisi umum, yaitu Surabaya dan Jakarta. Dalam putaran final atau Babak Show, para komika akan berjuang dalam ber stand up comedy dengan tema dan tantangan yang berbeda dalam setiap minggunya, waktu yang diberikan untuk melawak adalah antara 3 hingga 7 menit. Proses penilaiannya dilakukan oleh tiga orang juri plus satu orang juri tamu yang menjadi bintang tamu show dan yang mendapat akumulasi nilai terendah akan di close-mic (eliminasi).
Pada musim ke-4 dikenalkan babak Pre Show, yaitu 20 komika finalis akan berjuang hingga tersisa menjadi 16 komika yang menjadi finalis sesungguhnya untuk Babak Show. Lalu pada minggu ke-7 terdapat babak yang bernama UTS (Ujian Team Stand Up), di mana kontestan 9 besar dibagi menjadi 2 kelompok dan masing-masing kelompok akan bertanding disekolah yang telah ditentukan, sistem penilaiannya dilakukan oleh para siswa-siswi sekolah tersebut dengan mem-voting, bagi kelompok yang kalah harus mengikuti UAS (Ujian Akhir Stand Up) dengan format yang sama seperti babak UTS sebelumnya. Dan pada saat mencapai 5 besar, terdapat babak Call Back, dimana para peserta yang telah close-mic dipertandingkan kembali untuk memperoleh 1 tempat menjadi 6 besar. Babak Call Back juga diadakan di musim ke-5, tetapi diadakan saat tersisa 7 besar komika sehingga peserta yang berhasil memenangkannya kembali sebagai 8 besar. Call Back kembali diadakan di musim ke-7 setelah di musim sebelumnya tidak diadakan dan kali ini diadakan saat tersisa 4 besar komika.
Pada musim ke-5, sama seperti sebelumnya dengan formasi 16 komika. Berbeda dengan sebelumnya dari total 24 finalis yang mengikuti Pre Show, akan berjuang hingga 14 finalis saja yang akan berlanjut ke Babak Show melalui format yang sama seperti tahun sebelumnya yang terbagi menjadi 12 finalis pada Pre Show 1 dan 2, sedangkan 2 finalis lagi akan masuk melalui jalur LKS Kompas TV yaitu komika yang tim komunitasnya mampu mencapai grand final LKS, 2 komika terbaik dari masing-masing tim langsung masuk menjadi peserta SUCI musim ke-5 tanpa mengikuti audisi dan Pre Show. Selain itu, juga dikenalkan Improv Comedy di mana komika finalis memainkan sketsa parodi secara spontan dan kreatif tanpa menghafal teks untuk menghibur para penonton.
Pada musim ke-6, format kompetisi dikembalikan ke format awal di mana babak Pre Show untuk musim ini ditiadakan. Sehingga terpanggil 16 komika terpilih dari audisi di 5 kota yang akan tampil langsung sebagai finalis di Babak Show. Begitu pula halnya dengan musim ke-7, namun 16 komika terpilih hanya berasal dari audisi di 2 kota, yaitu Surabaya dan Jakarta.[4] Format yang sama juga diberlakukan di penyelenggaraan musim ke-8, namun hanya dengan total finalis 15 komika.[5]
Lokasi
Daftar pembawa acara
Keterangan:
* Uus bertindak sebagai host menggantikan Ernest Prakasa mulai dari Show 8 SUCI musim ke-4.
** Host tamu pada grand-final, Pandji Pragiwaksono menjadi host tamu grand final SUCI musim ke-4, Hifdzi Khoir menjadi host tamu grand final SUCI musim ke-5, Uus menjadi host tamu di dua show terakhir & grand final SUCI musim ke-8.
Daftar juri
Daftar juri tamu di Stand Up Comedy Indonesia
Wulan Guritno
Virnie Ismail
Pevita Pearce
Sissy Priscillia
Nadila Ernesta
Poppy Sovia
Astrid Tiar*
Tora Sudiro
Feni Rose (pada SUCI musim ke-2 dan musim ke-3)
Fitri Tropica
Prisia Nasution
Jono Gugun Blues Shelter
Fanny Fabriana
Alexandra Asmasoebrata
Pongki Barata
Tyson James Lynch
Bedu
Rico Ceper
H. Bolot
Asri Welas
Sogi Indra Dhuaja
Agung Hercules
Kartika Putri
Raditya Dika**
Ernest Prakasa***
Uus
Kemal Palevi
David Nurbianto
Keterangan:
* Astrid Tiar menjadi juri tamu di SUCI 2
** Raditya Dika menjadi juri tamu di SUCI 6 bergantian dengan Pandji Pragiwaksono.
*** Ernest Prakasa menjadi juri tamu di SUCI 8 bergantian dengan Cak Lontong.
Babak-babak
Audisi
Audisi pada awalnya diadakan di 4 kota besar yaitu berurutan dari Surabaya, Yogyakarta, Bandung, dan berakhir di Jakarta, sebelumnya kota Medan sempat menjadi kota ke 5 yang menyelenggarakan audisi di musim pertama dan tidak ditunjuk kembali dua musim sesudahnya. Peserta yang datang audisi harus membawa persyaratan yang sudah ditentukan serta tampil ber stand up comedy dengan durasi 3 menit. Peserta yang dinyatakan lolos akan diberikan Golden Ticket oleh juri. Setelah itu, bagi peserta yang telah mendapat Golden Ticket akan dihubungi oleh pihak Kompas TV untuk dapat lanjut ke babak Pre Show/Show.
Pada musim ke-4, selain 4 kota yang telah disebutkan yang menjadi kota utama audisi, dibuka pula audisi di 3 kota besar lainnya yaitu kembali kota Medan, bersama dengan kota Padang dan Denpasar. Sehingga ada 7 kota tempat dilaksanakannya audisi SUCI Kompas TV. Lalu di musim ke-5, kembali audisi dilaksanakan di 7 kota, di mana selain 4 kota utama 3 kota besar lainnya ditunjuk untuk menyelenggarakan audisi yaitu Pontianak, Makassar, dan Pekanbaru. Untuk musim ke-6, audisi kembali diadakan di 5 kota, dimana 3 kota utama yaitu Surabaya, Yogyakarta, dan Jakarta tetap mengadakan audisi. Sementara kota Bandung digantikan oleh kota Semarang dan kota Medan juga kembali sebagai penyelenggara audisi. Pada musim ini ada dua format audisi yaitu Big Audition dan Small Audition. Big Audition dilaksanakan di Surabaya, Semarang, dan Jakarta dengan jumlah peserta yang tidak dibatasi, sementara Small Audition dilaksanakan di Yogyakarta dan Medan dengan jumlah peserta yang dibatasi maksimal 100 peserta dan diadakan di salah satu cabang KFC di dua kota tersebut. Khusus untuk Big Audition selain Golden Ticket untuk yang berhasil lolos berlaku pula Second Chance Ticket, yaitu tiket untuk peserta yang belum berhasil lolos di satu lokasi Big Audition namun materi dan penampilannya dinilai bagus oleh juri, sehingga mereka masih diberikan kesempatan lagi oleh para juri untuk mengikuti audisi kembali di lokasi paling lambat sehari setelah audisi reguler selesai dilaksanakan. Plus diadakan "Special Hunt" di 5 kota audisi oleh para juri untuk mencari komika yang merupakan tokoh yang sukses dibidangnya yang juga sering ber stand up comedy untuk berkesempatan mencicipi panggung SUCI Kompas TV, tentunya dengan audisi di hadapan para juri.
Pada musim ke-7, audisi terbagi menjadi dua yaitu audisi digital dan audisi umum. Audisi digital atau wild card dilakukan dengan mengunggah video penampilan stand up comedy sesuai durasi dan persyaratan yang telah ditentukan ke akun Youtube. Peserta audisi yang videonya terpilih akan dipanggil untuk ikut audisi umum tanpa harus ikut antrian peserta lainnya yang ikut audisi umum. Sementara audisi umum adalah audisi yang diadakan seperti biasanya dengan persyaratan yang telah ditentukan di hadapan juri. Hanya dua kota yang melaksanakan audisi umum kali ini, yaitu Surabaya dan Jakarta. Khusus untuk audisi umum di Jakarta, tidak hanya peserta yang lolos audisi digital saja yang diberi keistimewaan untuk bisa langsung audisi di hadapan juri. Peserta yang mengikuti event-event yang diadakan Kompas TV seperti "Study Tour (Tour SUCI 6)" dan "KFC Jagonya Comic" serta menjadi pemenang dalam ajang tersebut juga tidak harus mengantri untuk mengikuti audisi umum.[6] Konsep ini tetap dilanjutkan pada musim selanjutnya yaitu musim ke-8. Bedanya wild card dilakukan melalui akun Instagram di mana peserta hanya membuat one liner maksimal 1 menit sesuai durasi video maksimal, dan yang terpilih akan dipanggil untuk ikut audisi umum tanpa harus ikut antrian peserta lainnya yang ikut audisi umum.
Pada musim ke-1 dan ke-2, 13 besar komika berhak tampil di babak Show SUCI Kompas TV. Lalu di musim ke-3 jumlah peserta bertambah menjadi 18 besar komika. Pada musim ke-4 dan ke-5 diperkenalkan babak Pre Show, di mana peserta yang telah dipanggil pihak Kompas TV untuk tampil ditantang untuk open mic di depan 2 juri dengan durasi yang ditentukan. Peserta yang berhasil akan lolos ke babak Show sebagai finalis sesungguhnya. Total peserta SUCI musim ke-4 dan ke-5 pada babak Show adalah 16 besar komika. Khusus untuk musim ke-5, hanya 14 kontestan yang lolos ke babak Show melalui babak Pre Show. Sementara 2 komika lagi diambil dari kompetisi Liga Komunitas Stand Up (LKS), di mana 2 komika tersebut merupakan komika terbaik dari masing-masing tim komunitas yang berlaga di grand final LKS. Sehingga mereka langsung memperoleh Golden Ticket ke babak Show tanpa harus mengikuti audisi dan babak Pre Show. Pada musim ke-6, babak Pre Show ditiadakan sehingga ada 16 besar komika terpilih untuk langsung tampil di babak Show. Dan khusus di musim ini, 13 orang komika berasal dari komika jebolan komunitas daerah melalui audisi reguler dan 3 orang komika lainnya merupakan hasil audisi "Special Hunt" yang dilakukan oleh para juri pada masa audisi reguler. Sama seperti musim sebelumnya, di musim ke-7 juga terpilih 16 komika yang lolos lewat audisi umum/ reguler di mana diantara komika finalis juga ada yang berasal dari audisi digital dan pemenang event-event stand up comedy yang diadakan Kompas TV setahun sebelumnya. Hal ini berlanjut di musim ke-8 namun hanya 15 komika terpilih yang lolos baik dari audisi umum maupun audisi digital.
Persyaratan kontestan
Warga Negara Indonesia, atau Warga Negara Asing yang minimal tinggal di Indonesia selama 5 tahun.
Pria atau Wanita, berusia 17 tahun ke atas.
Membawa fotokopi kartu identitas ( KTP / SIM / Kartu Pelajar ).
Membawa pas foto ukuran 4R.
Materi stand up BEBAS dan BERSIH ( tidak mengandung unsur SARA, Pornografi dan Provokasi ).
Durasi stand up maksimal 3 menit.
Jika telah menyiapkan segala persyaratan, peserta bisa langsung mendatangi tempat audisi dan mendaftarkan diri. Pendaftaran juga bisa dilakukan online di situs Kompas TV lalu bukti pendaftaran dicetak sebagai bukti dan dibawa beserta persyaratan yang telah disebutkan saat hendak mendaftar audisi. Pendaftaran dibuka dari jam 09.00 hingga jam 12.00 waktu setempat.[7][8]
Pre Show
Babak ini baru muncul di penyelenggaraan musim ke-4 tahun 2014, karena banyaknya komika yang memiliki kriteria layak untuk tampil di babak Show. Komika terpilih yang telah lolos audisi dan telah dihubungi oleh pihak Kompas TV masing-masing diberi kesempatan untuk open mic pertama kalinya di panggung SUCI Kompas TV di hadapan 2 juri utama yaitu Indro Warkop dan Raditya Dika dengan durasi yang telah ditentukan. Mengingat jumlah komika yang dipanggil, para komika akan dibagi menjadi 2 kelompok dalam melakukan open mic. Tentunya bagi beberapa komika dengan nilai tertinggi yang menurut juri layak untuk lanjut akan langsung lolos ke babak Show sebagai finalis resmi SUCI. Sementara bagi beberapa komika dengan nilai terendah dan belum mampu memenuhi ekspektasi juri akan tereliminasi atau close mic.
Pada awal Pre Show di musim ke-4, ada 20 komika yang terpilih mengikuti babak ini. Mereka berkompetisi hingga menjadi 16 besar komika, yang artinya 4 orang komika dengan nilai terendah (3 komika dan 1 komika dari masing-masing kelompok) otomatis akan close mic. Lalu di musim ke-5, ada 24 komika yang terpilih mengikuti Pre Show. Berbeda dengan musim sebelumnya, hanya 14 komika yang akan melanjutkan ke babak Show. Di mana 10 komika dengan nilai terendah (4 komika dan 6 komika dari masing-masing kelompok) otomatis akan close mic.
Babak Show
Babak Show merupakan babak utama dalam kompetisi SUCI Kompas TV. Di tiga musim awal, para komika yang lolos audisi serta yang terpilih sesuai kriteria langsung lolos ke babak ini. Di mana musim selanjutnya komika yang berhak tampil di babak ini adalah komika yang mampu lolos di babak Pre Show. Pada babak ini, para komika terpilih yang menjadi finalis akan berjuang dalam ber stand up comedy dengan tema dan tantangan yang berbeda setiap minggunya. Durasi atau waktu yang diberikan untuk melawak adalah antara 3 hingga 7 menit. Proses penilaiannya dilakukan oleh tiga orang juri plus satu orang juri tamu yang menjadi bintang tamu show dan yang mendapat akumulasi nilai terendah akan di close-mic (eliminasi).
Dalam babak Show ini, diberikan tema dan tantangan yang berbeda setiap minggunya. Seiring berjalannya kompetisi, muncul beberapa tantangan baru yang membuat kompetisi makin menarik. Baik yang berhubungan dengan tema maupun yang terkait dengan teknik dalam ber stand up comedy. Berikut beberapa babak tantangan yang sudah populer dalam babak Show SUCI.
Open Mic
Merupakan babak yang selalu ada dalam babak Show (open mic dalam hal ini adalah nama babak, bukan dalam arti sebenarnya yaitu proses latihan seorang komika untuk tampil di depan orang banyak). Pada babak ini, masing-masing komika akan melakukan stand up comedy di hadapan penonton serta para juri sesuai dengan tema ,tantangan, dan durasi telah ditentukan. Tantangan yang diberikan umumnya terkait teknik dalam ber stand up comedy seperti membawakan rule of three, impersonate, riffing, heckling, dan lain-lain. Penulisan materi, jumlah tawa penonton, keserasian materi dengan tema, serta durasi pembawaan materi menjadi poin penting penilaian juri agar komika yang bersangkutan tidak di close mic. Apabila jumlah komika sudah kurang dari 10 orang, maka babak ini bisa dilakukan 2 kali atau 2 putaran dalam 1 show tergantung tema yang diberikan.
Medley
Pada babak ini, masing-masing komika melakukan mini stand up sesuai tema yang diberikan, di mana setiap satu komika selesai menyampaikan sebuah bit singkat harus segera disambung oleh komika lainnya sehingga pada akhirnya terbentuk sebuah cerita mini bersambung dari bit materi yang diberikan seluruh komika menjadi satu materi komedi.
Battle of Comic dan Battle and Heckling
Pada babak ini, masing-masing komika berpasangan akan melakukan battle dalam ber stand up comedy. Di mana dua orang komika yang terlibat battle akan membawakan materi sesuai tema serta memasukkan komika lawan menjadi bahan roasting agar dapat mengundang tawa, dan tetap sesuai dengan durasi yang telah ditentukan. Babak ini biasanya dilakukan apabila jumlah komika tersisa adalah genap (misalnya 10 besar komika). Memasuki musim ke-6, babak ini berubah menjadi battle and heckling di mana pasangan komika tidak hanya melakukan battle tapi juga melibatkan komika finalis lain yang membela masing-masing peserta battle di mana mereka melakukan heckling atau gangguan saat lawan tampil (untuk memecah konsentrasi sang komika) dan komika yang di<i data-parsoid='{"dsr":[24578,24588,2,2]}'>heckle harus bisa membalas atau menanggapi heckling yang dilakukan lawan tersebut, dan berlaku bagi tiap komika yang terlibat battle.
UTS dan UAS
Babak ini muncul di penyelenggaraan musim ke-4. UTS adalah Ujian Tengah Stand Up, sementara UAS adalah Ujian Akhir Stand Up. Pada babak UTS, para komika dibagi dalam kelompok dan akan ditantang untuk ber stand up comedy di tempat umum dan instansi seperti misalnya di sekolah, kantor, dan lain-lain. Setelah dihibur para komika, para penonton akan melakukan voting untuk masing-masing kelompok. Bagi kelompok dengan voting paling sedikit atau kalah akan kembali berjuang dalam babak UAS. Dalam babak UAS, komika dari kelompok yang kalah masing-masing akan tampil ber stand up comedy secara individu sesuai tema dan durasi yang diberikan. Komika yang penampilannya mendapat nilai terendah akan di close mic.
Pada musim ke-4, babak UTS dilangsungkan saat tersisa 9 besar komika dan diadakan di SMA Negeri 52 Jakarta, di mana komika Pras Teguh dari Padang harus close mic setelah penampilannya dinilai paling kurang di babak UAS. Sementara di musim ke-5, babak UTS dilangsungkan saat tersisa 8 besar komika dan diadakan di markas Kodam Jaya TNI AD, di mana komika Heri Horeh harus close mic di babak UAS karena melebihi durasi yang ditentukan saat tampil.
Improv Comedy
Babak ini muncul di penyelenggaraan musim ke-5. Babak ini adalah babak di mana para komika memainkan sebuah sketsa parodi singkat. Sketsa yang dimainkan dilakukan tanpa persiapan seperti menghafal teks sehingga dituntut spontanitas dan kreativitas dari para komika dalam memainkan sketsa tersebut. Sketsa yang dimainkan harus teratur agar dapat mengundang tawa penonton dan juri. Seluruh komika diharuskan aktif dalam ber improv comedy agar masuk penilaian juri dan terhindar dari close mic.
Guest Star Roasting
Babak ini muncul di penyelenggaraan musim ke-5. Babak ini adalah babak di mana para komika finalis melakukan roasting terhadap bintang tamu yang diundang khusus dalam satu show untuk mengundang kelucuan dari informasi berupa fakta yang diperoleh dari sang bintang tamu. Komika diutamakan melakukan roasting atau serangkaian lawakan yang meledek sang bintang tamu untuk mengundang tawa dari penonton tanpa menyakiti perasaan sang bintang tamu. Pada musim ke-5, Agung Hercules menjadi bintang tamu pertama yang di roast oleh para komika 7 besar. Selanjutnya di musim ke-6 berturut-turut Raditya Dika dan Ernest Prakasa yang di roast oleh para komika, berturut-turut saat komika tersisa 10 besar dan 4 besar. Memasuki musim ke-7, komedian Bedu menjadi bintang tamu yang di roast saat tersisa 7 besar komika.
Mission Show
Babak ini muncul di penyelenggaraan musim ke-8. Sama seperti babak UTS dan UAS yang pernah diadakan di musim ke-4 dan ke-5, para komika yang telah dibagi dalam kelompok (di musim ini kelompok telah dibagi 3 dan dimentori oleh masing-masing 3 juri utama) akan ditantang untuk ber stand up comedy di tempat umum dan instansi seperti misalnya di sekolah, kantor, dan lain-lain. Setelah dihibur para komika, para penonton akan melakukan voting untuk masing-masing kelompok dan masih memungkinkan adanya komika yang close mic bagi yang memperoleh voting terendah. Perbedaannya dengan babak UTS dan UAS adalah babak ini disajikan full dalam 1 Show dan bagi komika yang memperoleh voting tertinggi akan memperoleh keuntungan untuk Show selanjutnya di lokasi show reguler. Keuntungan yang diberikan kepada komika dengan voting tertinggi ada tiga dan sang komika hanya boleh memilih satu keuntungan saja. Keuntungan atau privilege yang diberikan antara lain boleh menentukan urutan tampil para komika finalis saat show berikutnya, bebas durasi tampil saat show berikutnya, dan penambahan 5 poin pada akumulasi penilaian juri pada babak ini dan di show berikutnya.
Callback
Babak Callback adalah babak di mana komika yang pernah close mic dan dirasa masih layak berkompetisi oleh juri dipanggil kembali untuk ber stand up comedy dan bagi komika yang berhasil memperoleh nilai tertinggi akan kembali menjadi finalis SUCI. Babak ini juga baru muncul di penyelenggaraan musim ke-4 dan komika yang ikut babak ini dipilih sesuai kesepakatan juri, lalu di musim ke-5 dan musim ke-7 komika yang akan ikut callback dipilih berdasarkan voting yang dilakukan oleh masyarakat se-Indonesia.
Pada musim ke-4, babak callback diadakan saat tersisa 5 besar komika. Ada 4 komika yang dipanggil kembali mengikuti babak ini yaitu Yudha Keling, Pras Teguh, Coki, dan Liant. Pras Teguh yang pernah close mic di 9 besar akhirnya menjadi komika pertama yang memenangkan babak callback dan kembali sebagai komika 6 besar SUCI 4. Lalu pada musim ke-5, babak callback diadakan saat tersisa 7 besar komika. Berdasarkan voting, ada 3 komika yang terpanggil kembali yaitu Kalis, Rachman, dan Wira. Penampilan Kalis, komika dari Purwakarta yang pernah close mic di 13 besar menjadi yang paling baik dari dua pesaingnya, sehingga berhasil membawanya kembali sebagai 8 besar SUCI 5. Karena format kompetisi yang dikembalikan ke format awal, babak ini kembali ditiadakan di musim selanjutnya. Namun karena tingginya minat, babak ini kembali diadakan di musim ke-7 dan diadakan saat tersisa 4 besar komika. Kembali dilakukan melalui voting, ada 4 komika yang terpanggil kembali yaitu Coki Anwar, Alip, Jupri, dan Didi. Didi lah yang akhirnya berhasil kembali menjadi finalis dan membuat SUCI 7 kembali jadi 5 besar finalis.
Reunion Show
Babak Reunion Show adalah babak yang diadakan menjelang babak Grand Final. Babak ini baru muncul di musim ke-5 di mana telah tersisa komika grand finalis yang akan tampil di babak Grand Final. Pada babak ini, 10 besar komika termasuk komika grand finalis dalam satu musim akan reuni dan kembali hadir menghibur para juri dan para penonton di panggung SUCI Kompas TV. Acaranya bebas mulai dari open mic para komika hingga improv comedy, dan tidak ada penilaian dari juri. Serta babak ini merupakan ajang pemanasan jelang babak Grand Final.[9]
Grand Final
Grand Final adalah babak penentuan juara, di mana 2 komika tersisa akan berjuang dalam 3 putaran dalam ber stand up comedy. Tiap putaran memiliki tema dan tantangan berbeda, di mana putaran pertama tema nya bebas, lalu putaran kedua membawakan materi dengan tema "juara", dan putaran ketiga membawakan tema yang ditentukan serta diharuskan memakai beberapa teknik stand up comedy yang biasanya melibatkan kembali komika finalis di musim yang sama untuk bertindak sebagai heckler atau pengganggu. Urutan putaran serta temanya bisa berubah sesuai kesepakatan juri. Komika yang berhasil mengumpulkan nilai tertinggi dari tiga putaran tersebut akan dinobatkan sebagai Juara Stand Up Comedy Indonesia.
Pada empat penyelenggaraan sebelumnya hanya 2 komika tersisa yang menjadi grand finalis. Berturut-turut dijuarai oleh Ryan Adriandhy, Ge Pamungkas, Babe Cabiita, dan David Nurbianto. Dan pada musim ke-5 untuk pertama kalinya babak Grand Final dilangsungkan saat tersisa 3 komika. Di mana Rigen, komika asal Bima menjadi Juara SUCI 5 setelah menyisihkan dua pesaingnya, Rahmat Hidayat dan Indra Frimawan di babak Grand Final. Pada musim ke-6, format grand final kembali hanya diikuti 2 komika tersisa, di mana Indra Jegel keluar sebagai juaranya, dilanjutkan pada musim ke-7 di mana Ridwan Remin lah yang keluar sebagai juara, dan Popon Kerok yang selanjutnya berhasil menjadi juara di musim ke-8.
Musim
SUCI (2011)
Di musim pertama ini, Pandji Pragiwaksono dan Raditya Dika bertindak sebagai pembawa acara, sementara Indro Warkop ditemani Butet Kertaradjasa dan Astrid Tiar menjadi juri kompetisi. Terpilih 13 orang komika dari audisi di 5 kota besar yakni Medan, Surabaya, Yogyakarta, Bandung, dan Jakarta. Sempat diwarnai dengan pengunduran diri salah satu komika, yaitu komika Diyah dari Yogyakarta di Show 2 SUCI. Diyah yang merupakan satu-satunya kontestan wanita mengundurkan diri karena alasan keluarga.
Di Grand Final, Ryan komika asal Jakarta yang merupakan kontestan termuda di musim ini berhasil menjadi juara SUCI setelah unggul atas komika Surabaya, Akbar. Ryan dengan gaya observasionalnya unggul setelah meng<i data-parsoid='{"dsr":[33721,33736,2,2]}'>impersonate gaya Akbar yang kental dengan materi politik serta teknik one liner ketika ber stand up comedy.[10] Hingga saat ini Ryan merupakan juara termuda SUCI karena meraih juara saat berumur 21 tahun.
SUCI 2 (2012)
Di musim kedua ini, Pandji Pragiwaksono sebagai pembawa acara didampingi oleh Ryan Adriandhy, juara SUCI. Nantinya di beberapa Show, Insan Nur Akbar sang runner up SUCI yang mendampingi Pandji membawakan acara. Sementara Raditya Dika menemani Indro Warkop menjadi juri kompetisi. Selain itu, di setiap minggunya akan ada juri tamu berbeda dari kalangan selebriti yang bertindak sebagai juri ketiga. Kembali terpilih 13 orang komika dari audisi di 4 kota besar yakni Surabaya, Yogyakarta, Bandung, dan Jakarta. Isman HS, penulis humor yang juga mentor para kontestan secara mengejutkan juga ikut menjadi kontestan dan mampu menembus 6 besar.
Musim ini menjadi milik kota Bandung, karena dua komika perwakilan dari Bandung yang kebetulan juga satu almamater universitas yaitu Ge dan Gilang bertemu di Grand Final. Ge yang unggul lewat kemampuan act out nya berhasil mengungguli Gilang yang terkenal dengan gaya observasi cerdasnya. Atas keputusan juri, Ge berhasil meraih juara SUCI 2.[11]
SUCI 3 (2013)
Di musim ketiga ini, Pandji Pragiwaksono sebagai pembawa acara didampingi oleh Ge Pamungkas, juara SUCI 2. Raditya Dika dan Indro Warkop konsisten menjadi juri utama kompetisi, di samping setiap minggunya akan ada juri tamu berbeda dari kalangan selebriti yang bertindak sebagai juri ketiga. Kali ini, 18 orang komika dari audisi di 4 kota besar yakni Surabaya, Yogyakarta, Bandung, dan Jakarta berhak tampil di babak Show. Pada musim ini, komika yang close mic bisa lebih dari 1 komika. Dan banyak sekali komika yang memiliki sisi unik, diantaranya Fico dan Rizki yang merupakan saudara kandung, Mang Obed yang seorang debt collector, serta Briptu Ferry yang seorang polisi. Lalu untuk pertama kalinya ada komika yang berasal dari luar negeri, yaitu Alison yang berkebangsaan Inggris dan lolos audisi di Bandung.
Fico, komika asal Jakarta yang terkenal dengan gaya absurdnya dan terkesan bego berhasil melaju hingga Grand Final. Ia berhadapan dengan komika dari Medan, Babe yang terkenal dengan act out nya yang unik. Namun akhirnya Babe lah yang berhasil meraih juara SUCI 3 karena mampu unggul dua putaran dari Fico.[12]
SUCI 4 (2014)
Di musim keempat ini, Ernest Prakasa bertindak sebagai pembawa acara didampingi oleh Babe Cabiita, juara SUCI 3. Di mana Pandji kali ini tidak bertindak sebagai pembawa acara karena sedang melakukan stand up tour. Nantinya Ernest di tengah kompetisi digantikan oleh Uus, salah satu kontestan SUCI 3 sebagai pembawa acara. Feni Rose hadir sebagai juri tetap menemani Raditya Dika dan Indro Warkop, di samping setiap minggunya akan ada juri tamu berbeda dari kalangan selebriti yang bertindak sebagai juri keempat. Pada musim ini diperkenalkan babak Pre Show, di mana dari 20 komika terpilih melalui audisi di 7 kota besar akhirnya disaring menjadi 16 komika finalis SUCI 4 yang akan berkompetisi di babak Show.
Selain babak Pre Show, ada lagi babak UTS dan UAS di pertengahan kompetisi. Lalu babak Callback yang memberi kesempatan bagi komika yang telah di close mic untuk kembali ke kompetisi. Diadakan di 5 besar, Pras Teguh, komika asal Padang menjadi komika pertama yang berhasil memenangkan babak callback dan kembali ke kompetisi sebagai komika 6 besar serta berhasil bertahan hingga 4 besar. Selain itu ada komika yang menjadi sorotan yaitu Dodit, komika asal Blitar dengan gayanya yang polos membawakan materi one liner sebagai orang desa berbudaya kota ditemani dengan sebuah biola untuk menunjang penampilannya, menjadikannya sebagai komika kejutan yang secara tidak langsung menjadi idola para penonton.
Pandji Pragiwaksono akhirnya muncul sebagai pembawa acara tamu di Grand Final. Grand Final musim ini mempertemukan dua komika yang sama-sama unggul lewat materi komedi mengenai etnik daerahnya, yaitu Abdur dari NTT dan David dari Jakarta. Abdur kental dengan materi ala Indonesia Timur nya yang diselingi beberapa catchphrase unik seperti "aduh mama sayangee..", sementara David dengan materi ala Betawi beserta sang Nyai sebagai tokoh pendukung juga tak kalah lucu. Gelar juara SUCI 4 akhirnya direngkuh oleh David, setelah persaingan sengit dalam tiga putaran.[13]
SUCI 5 (2015)
Di musim kelima ini, kembali Pandji Pragiwaksono bertindak sebagai pembawa acara dan didampingi oleh David Nurbianto, juara SUCI 4. Dan sesekali posisi pendamping pembawa acara diisi oleh Babe Cabiita dan Uus. Formasi tiga juri tetap tidak berubah yaitu Indro Warkop, Raditya Dika, dan Feni Rose, serta sesekali ada juri tamu yang diundang dalam beberapa show. Kali ini, kembali 16 komika finalis akan berkompetisi di babak Show, di mana 14 komika adalah mereka yang lolos di babak Pre Show dari 25 komika terpilih dari audisi di 7 kota besar, dan 2 komika lagi adalah jebolan dari tim grand finalis LKS Kompas TV musim sebelumnya. 2 komika tersebut adalah Ridho Brado dari Medan, dan Dicky dari Jakarta Barat.
Kembali beberapa orang komika menjadi sorotan. Beberapa diantaranya adalah Heri Horeh, komika senior berpengalaman yang baru menjadi kontestan SUCI musim ini. Lalu Dicky, komika yang dikenal dengan persona kemayu seperti seorang banci ketika tampil di panggung. Serta Dani yang paling banyak mengundang perhatian karena merupakan seorang difabel yang mengharuskannya tampil di kursi roda, mampu mencapai 4 besar kompetisi. Selain itu, pada musim ini di beberapa show muncul babak improv comedy di mana komika finalis memainkan sketsa parodi secara spontan dan kreatif tanpa menghafal teks untuk menghibur para penonton. Babak callback kembali diadakan kali ini di 7 besar komika, di mana Kalis komika dari Purwakarta yang pernah close mic saat 13 besar memenangkan babak ini dan kembali sebagai komika 8 besar. Kalis sendiri berhasil bertahan hingga 5 besar.
Di samping Hifdzi Khoir yang diundang sebagai pembawa acara tamu, untuk pertama kalinya di SUCI musim kali ini babak Grand Final melibatkan 3 besar komika, yaitu Indra Frimawan, Rahmet, dan Rigen. Setelah sebelumnya diadakan babak Reunion Show dengan komika lainnya yang masuk 10 besar. Indra yang dikenal lewat teknik one liner dan gaya absurdnya, serta Rahmet yang dikenal dengan act out serta materinya yang sering membahas latar belakang dirinya sebagai lulusan STM digadang-gadang sebagai juara. Namun penampilan keduanya dianggap kurang maksimal dan Rigen yang berstatus bukan unggulan secara mengejutkan mampu tampil lepas dan berhasil meraih gelar juara SUCI 5.[14] SUCI 5 menjadi penyelenggaraan terakhir di bawah arahan Indra Yudhistira selaku salah satu founder, karena setelah itu ia mengundurkan diri dari Kompas TV untuk mencari tantangan baru.
SUCI 6 (2016)
SUCI 6 menjadi penyelenggaraan pertama pasca pindahnya sang founder, Indra Yudhistira dari Kompas TV. Di musim keenam ini, terjadi perubahan besar-besaran dalam susunan pengisi acara. Komika alumni SUCI 3 yaitu Uus tampil sebagai pembawa acara. Uus didampingi oleh Hifdzi Khoir dalam membawakan acara, meski sesekali ada Rigen yang merupakan juara SUCI 5, lalu David Nurbianto, serta Babe Cabiita yang bergantian ikut mendampingi pembawa acara. Formasi juri juga mengalami perubahan, kecuali Indro Warkop yang tetap sebagai juri utama. Pandji Pragiwaksono yang lima musim berturut-turut menjadi pembawa acara naik posisi menjadi juri mendampingi Indro. Juri lainnya adalah Nirina Zubir serta Cak Lontong. Kali ini, kembali 16 komika finalis akan berkompetisi di babak Show dan kembali ke format awal bahwa semua finalis murni langsung lolos tanpa babak Pre Show. Komposisi 16 komika finalis ini adalah 13 komika berasal dari audisi reguler di 5 kota besar, dan 3 komika adalah hasil "Special Hunt" dari para juri di masa audisi reguler. Tiga komika tersebut adalah Radit Vent yang merupakan seorang ventriloquis dan dosen dari Yogyakarta, lalu Irvan Karta yang merupakan seorang dosen dan ilmuwan dari Tangerang serta Zarry Hendrik, seorang penulis muda berbakat yang lebih dulu dikenal sebagai seorang selebriti di media sosial twitter.
Format kompetisi dikembalikan ke format awal, yaitu tanpa adanya babak callback dan babak reuni. Banyak kejutan yang terjadi di kompetisi musim ini. Diantaranya dua komika unggulan, yaitu Rin Hermana dan Muhammad Sabiq harus tersisih lebih awal. Sementara itu muncullah banyak kontestan yang berstatus kuda hitam, diantaranya pak polisi Gamayel, mahasiswa sastra Kamaludin, dosen & ilmuwan Irvan Karta, dan Sadana Agung atau Dana yang memiliki persona anak dusun, yang pada awalnya tidak diprediksi akan melangkah lebih jauh dalam kompetisi. Keempat komika tersebut sukses melaju minimal hingga babak 8 besar. Dana dan Gamayel lah yang menjadi kontestan kuda hitam terbaik karena Dana berhasil mencapai 4 besar dan Gamayel meraih juara ketiga.
Kembali di babak Grand Final hanya melibatkan 2 orang komika tersisa, yaitu Ardit dari Samarinda dan Indra Jegel dari Medan. Setelah melewati tiga putaran sengit di babak ini, akhirnya Indra Jegel resmi menjadi juara SUCI 6.[15]
SUCI 7 (2017)
Di musim ketujuh ini, juga banyak perubahan dalam susunan acara. Hifdzi Khoir yang pada musim lalu menjadi co-host menjadi host untuk musim ini. Hifdzi didampingi oleh Gita Bhebhita sebagai co-host, yang juga merupakan alumni SUCI 4. Ini menjadi SUCI pertama yang tidak mengambil juara musim sebelumnya untuk menjadi co-host di musim berikutnya. Kembali Indro Warkop dan Pandji Pragiwaksono didaulat sebagai juri utama di musim ini, bersama Cak Lontong yang kembali menjadi juri di musim ini untuk kedua kalinya. Sama seperti musim sebelumnya, akan ada 16 finalis yang tampil di Babak Show di mana mereka semua lolos dari audisi umum di dua kota, Surabaya dan Jakarta. Dari semua finalis, beberapa dari mereka juga berasal dari audisi digital dan rangkaian event kompetisi stand up comedy yang diadakan oleh Kompas TV sebelum mengikuti audisi umum. Mereka adalah Ridwan Remin dan Dany Beler, dua kontestan asal Bogor yang lolos via audisi digital, lalu Rommy Hakim dari Bekasi yang menjadi juara kompetisi "KFC Jagonya Comic", serta Rere Rassofyan yang menjadi juara "MyTea Comic Hunt" regional Jakarta dalam rangkaian "Study Tour (Tour SUCI 6)" setahun sebelumnya. Pada musim ini, kompetisi dilakukan dengan sistem grup di mana ke 16 finalis dibagi ke dalam dua grup yaitu tim A dan tim B. Tim A terdiri dari Arya, Boah, Deswin, Didi, Jupri, Meggy, Putra Uma, dan Rommy. Sementara Tim B terdiri dari Alip, Coki Anwar, Dany, Mamat, Nury, Patra, Rere, dan Ridwan. Setiap tim akan tampil bergantian per minggu nya dan akan ada satu kontestan yang akan close mic tiap grupnya apabila sang komika mendapat nilai terendah pada penampilannya. Format ini diberlakukan hingga finalis tersisa 10 orang atau jelang fase 10 besar, lalu kembali ke format kompetisi penuh.
Seiring banyaknya perubahan format, banyak pula kejutan yang hadir. Dua komika berpengalaman yaitu Arya Novrianus dan Rere Rassofyan harus terhenti di dua penampilan awalnya. Sorotan kemudian tertuju pada beberapa finalis yang masih bertahan, sebut saja Coki Anwar yang menggunakan persona yang sulit dan tidak mudah tertawa saat di panggung dan Didi Sunardi yang berlatar belakang sebagai seorang kuli bangunan, di mana mereka tetap konsisten meskipun harus terhenti juga di tengah kompetisi. Setelah musim sebelumnya tidak diselenggarakan, babak callback kembali diadakan musim ini di mana empat komika yang telah close mic dan mendapat voting tertinggi dari masyarakat kembali tampil untuk kembali sebagai finalis. Hasilnya Didi lah yang kembali sebagai finalis dan menjadi finalis 5 besar, meskipun akhirnya ia kurang memanfaatkan kesempatan yang diberikan karena ia kembali close mic setelahnya.
Di musim ini dihadirkan pula babak semifinal, di mana komika 4 besar murni (setelah callback) berkompetisi untuk menjadi dua komika grand finalis, serta akan ada juara tiga pada hasil akhirnya. Dany Beler, komika asal Bogor akhirnya meraih juara tiga dan Deswin Faqih harus puas berada di peringkat 4. Sementara dua komika lainnya, Ridwan Remin dan Mamat Alkatiri akhirnya melaju dan melanjutkan pertarungan di babak grand final. Unggul pengalaman dan kualitas penampilan, Ridwan Remin akhirnya menyabet gelar juara SUCI 7.[16]
SUCI 8 (2018)
Di musim kedelapan ini, susunan acara tidak begitu banyak diubah dan masih menggunakan pakem di musim sebelumnya. Hifdzi Khoir masih bertindak sebagai host utama namun kali ini didampingi oleh Bianca Liza sebagai co-host. Formasi tiga juri Indro Warkop, Pandji Pragiwaksono, dan Cak Lontong juga tetap dipertahankan. Sama seperti musim sebelumnya, finalis yang tampil adalah mereka yang berhasil lolos audisi di dua kota yaitu Surabaya dan Jakarta tetapi hanya 15 total finalis yang tampil di Babak Show musim ini. Di musim ini, terdapat variasi baru di mana ke-15 komika finalis dibagi menjadi tiga kelompok dan akan dipimpin oleh masing-masing juri utama tiap kelompoknya sebagai mentor. Tim Indro terdiri dari Popon, Agungprov, Jobe, Bakriyadi, dan Riztegh. Tim Pandji terdiri dari Wahyu Togog, Fianita, Arif Brata, Fedro, dan Ken. Dan tim Cak Lontong terdiri dari Bu Haris, Bintang, Oki, Yudha, dan Ipin. Dari segi finalis, tiga diantaranya merupakan alumni dari SUCI 5 yang harus terhenti di Babak Pre-Show dan akhirnya berhasil menjadi finalis musim ini, yaitu Popon Kerok, Wahyu Togog, dan Yudha Ilham. Bintang Bete menjadi sorotan karena sudah sangat berpengalaman serta berlabel komika nasional dan pernah bermain film, baru mengikuti SUCI musim ini setelah beberapa tahun kompetisi ini diadakan. Para finalis akan diberi tantangan yang disebut "Mission Show" di setiap minggunya di tempat yang tidak diduga sebelumnya, dan tentunya meskipun merangkap mentor para juri akan tetap objektif dalam memberikan penilaian kepada setiap finalis tanpa melebih-lebihkan atau mengurangi poin setiap finalis yang jadi anggota tim mereka masing-masing.[17] Format ini berlangsung hingga tersisa 9 komika finalis setelah masing-masing tim mengeliminasi 2 komika di timnya. Setelah itu, 9 komika tersisa akan berkompetisi bersama-sama seperti musim-musim sebelumnya.
Tiga komika berpengalaman yaitu Bakriyadi, Wahyu Togog, dan Yudha Ilham secara mengejutkan tereliminasi di format tim ini. Setelah itu lahirlah beberapa finalis yang dilabeli kuda hitam seperti Riztegh asal Medan dan Ipin asal Bekasi yang kurang bagus di awal penampilan namun konsisten memberikan perkembangan positif hingga mereka juga terhenti langkahnya atau close mic di posisi yang sangat baik, meskipun belum mencapai 3 besar. Di musim ini babak callback kembali ditiadakan sehingga peringkat yang diperoleh seluruh kontestan adalah peringkat murni. Babak semifinal kembali diadakan dan hanya melibatkan 3 besar finalis, di mana komika senior Bintang Bete akhirnya keluar sebagai juara tiga. Sementara babak grand final mempertemukan antara Oki Rengga sang pemain sepak bola yang juga menjadi "kuda hitam" kompetisi musim ini dan Popon Kerok yang konsisten dengan persona "Anak Menteng" nya. Setelah melalui persaingan sengit dan memiliki nilai total akumulasi penampilan yang beda tipis, gelar juara SUCI 8 akhirnya jatuh ke tangan Popon Kerok.[18]
Daftar finalis
Nama finalis diurutkan berdasarkan peringkat saat kompetisi, mulai dari juara/pemenang hingga yang tereliminasi pertama kali. Informasi tambahan adalah kota asal finalis, komunitas Stand Up Indo asal finalis bernaung (kalau ada), dan kota tempat audisi di mana para finalis lolos.
Keterangan:
Beberapa finalis tidak memiliki komunitas karena komunitas Stand Up Indo (SUI) baru muncul dan menyebar se-Indonesia setelah SUCI 2011, serta beberapa finalis yang tidak memiliki komunitas setelah SUCI 2011 dikarenakan tidak terikat oleh komunitas atau belum terdaftar resmi sebagai anggota komunitas saat ikut audisi.
Bagi finalis yang diketahui tergabung atau ikut lebih dari satu komunitas SUI, yang dilampirkan adalah komunitas SUI yang melambungkan nama peserta hingga dikenal secara nasional pertama kali, untuk lebih jelasnya bisa dilihat di sini (klik).
ᐜ Nama komunitas SUI bisa berubah sewaktu-waktu. Untuk komunitas SUI pada tabel yang memiliki tanda ᐜ, komunitas yang bersangkutan telah berganti nama dengan nama baru dari nama awal saat komunitas yang bersangkutan didirikan pertama kali (SUI Bintaro, Tangerang, dan Serpong (BTS) berganti nama menjadi SUI Tangerang sejak Maret 2018, sementara SUI Banten, Serang, dan Cilegon (BSC) berganti nama menjadi SUI Serang sejak Juni 2016).
* Finalis merupakan jebolan grand final LKS Kompas TV, sehingga lolos langsung ke Babak Show tanpa harus ikut audisi.
** Khusus di SUCI 6 finalis adalah hasil "Special Hunt" oleh para juri di mana finalis merupakan tokoh sukses di bidangnya dan dikenal juga sering ber stand up comedy.
Peserta Pre Show
Nama-nama di bawah ini merupakan para pelawak tunggal atau komika yang berhasil masuk ke Babak Pre Show Stand Up Comedy Indonesia, namun belum beruntung untuk lolos sebagai finalis ke Babak Show (Pre Show diadakan di SUCI 4 dan SUCI 5).
Keterangan:
Beberapa finalis tidak memiliki komunitas karena komunitas Stand Up Indo (SUI) baru muncul dan menyebar se-Indonesia setelah SUCI 2011, serta beberapa finalis yang tidak memiliki komunitas setelah SUCI 2011 dikarenakan tidak terikat oleh komunitas atau belum terdaftar resmi sebagai anggota komunitas saat ikut audisi.
* peserta Mohammad Lukman tampil bersama dengan saudara kembarnya, Mohammad Ludfi di Pre Show SUCI 5 sehingga diberi keistimewaan untuk bisa tampil berdua.
Daftar pemenang
Galeri
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-1
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-2
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-3
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-4
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-5
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-6
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-7
Tampilan Stand Up Comedy Indonesia musim ke-8
Referensi
Pranala luar
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Kategori:Kompetisi
Kategori:Acara televisi
Kategori:Acara televisi Indonesia
Kategori:Acara televisi Kompas TV | https://id.wikipedia.org/wiki/Stand%20Up%20Comedy%20Indonesia%20Kompas%20TV |
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కాకతీయులు ఆంధ్రప్రదేశ్, తెలంగాణా ప్రాంతాలను క్రీ. శ. 750 నుండి క్రీ. శ. 1323 వరకు పరిపాలించిన రాజవంశము[1]. క్రీ. శ. 8వ శతాబ్దము ప్రాంతములో రాష్ట్రకూటుల సేనానులుగా రాజకీయ జీవితాన్ని ప్రారంభించిన కాకతీయులు ఆంధ్రదేశాన్ని అంతటిని ఒకే త్రాటిపైకి తెచ్చి పరిపాలించారు [2]. శాతవాహనుల అనంతరం ఆంధ్రదేశాన్ని, జాతినీ సమైక్యం చేసి, ఏకచ్ఛత్రాధిత్యం క్రిందికి తెచ్చిన హైందవ రాజవంశీయులు కాకతీయులొక్కరే[3].
కాకతీయులు దుర్జయ వంశస్థులుగా కొందరు చరిత్రకారులు అభిప్రాయపడుతున్నారు.[4] కాకతీయుల కాలంలోనే ఆంధ్ర, త్రిలింగ పదాలు సమానార్థకాలై, దేశపరంగా, జాతిపరంగా ప్రచారం పొందాయి. వీరు ఆంధ్రదేశాధీశ్వర బిరుదు ధరించారు.[5]
వీరి రాజధాని ఓరుగల్లు (నేటి వరంగల్లు).
పూర్వ రంగం
తెలంగాణ ప్రాంతంలో కాకతీయుల రాజ్యానికి అంకురార్పణ జరుగుతున్నపుడు తీరాంధ్రంలో వేంగి, చాళుక్య, చోళుల ప్రాభవం క్షీణదశలో ఉంది. ప్రారంభంలో తూర్పు చాళుక్యులు పశ్చిమ (బాదామి) చాళుక్యులకు సోదర సమానులు. కాని క్రమంగా దక్షిణాపథం నుండి విస్తరిస్తున్న చోళులు తీరాంధ్రాన్ని తమ అధీనంలోకి తెచ్చుకోవడానికి తూర్పు చాళుక్యులతో సంబంధాలు కలుపుకొన్నారు. ఆలా క్రీ. శ. 1076నుండి తీరాంధ్రంలో చాళుక్య చోళ యుగం ప్రారంభమై క్రీ. శ. 1200 వరకు సాగింది. వారికి, సత్యదేవుని నాయకత్వంలోని పశ్చిమ చాళుక్యులకు తరచు యుద్ధాలు జరిగాయి. దక్షిణ తీరాంధ్రంలో 11, 12 శతాబ్దాలలో వెలనాటి చోడులు, గుంటూరు జిల్లా ప్రాంతంలో చోళులకు సామంతులుగా ఉంటూ పశ్చిమ చాళుక్యులను ఎదుర్కొన్నారు. క్రీ. శ. 1135లో వేంగిలో జరిగిన యుద్ధంలో గొంకయ అనే వెలనాటి చోళ నాయకుని సైన్యం చేత పశ్చిమ చాళుక్యులు తీవ్రంగా పరాజితులై ఆంధ్ర ప్రాంతంనుండి పూర్తిగా వైదొలగారు. తరువాత వెలనాటి చోళులు దక్షిణ తీరాంధ్రంలో దాదాపు స్వతంత్రులుగా పాలించారు.
తరువాత ఈ ప్రాంతాన్ని అంచెలంచెలుగా కొణిదెన చోళులు, నెల్లూరు చోడులు పాలించారు. కడప ప్రాంతాన్ని రేనాటి చోళులు, కోనసీమను హైహయ రాజులు, నిడదవోలును వేంగి చాళుక్య చోళులు, కొల్లేరు ప్రాంతాన్ని తెలుగు నాయకులు, విజయవాడను చాగివారు, నూజువీడును దుర్జయ వంశ ముసునూరి కమ్మరాజులు, ధరణికోటను కోటవారు, కొండవీడు వెలనాటి దుర్జయ చోడులు, పల్నాటిని హైహయ వంశపు రాజులు పాలిస్తుండేవారు. ఈ చిన్న చిన్న రాజ్యాల మధ్య తగాదాలు వైషమ్యాలు సర్వ సాధారణం. క్రీ. శ. 1176-1182 మధ్యకాలంలో కారంపూడి వద్ద జరిగిన పల్నాటి యుద్ధం అప్పటి మత సంప్రదాయాల మధ్య (శైవులు, వైష్ణవులు), కులాల మధ్య, జ్ఞాతుల మధ్య (నలగామరాజు, మలిదేవరాజు) జరిగిన పెద్ద పోరు. దాదాపు అందరు రాజులూ ఈ యుద్ధంలో ఏదో ఒక పక్షంలో పాలు పంచుకొన్నారు. ఇందులో జరిగిన అపారమైన జన, ఆస్తి నష్టం వల్ల తీరాంధ్ర రాజ్యాలన్నీ శక్తిహీనములయ్యాయి. సమాజం కకావికలయ్యింది. బలం కలిగిన పాలకులు లేకపోతే జరిగే కష్టం ప్రజలకు అవగతమయ్యింది. అరాచకాన్ని అంతం చేసే ప్రభువులకు అది అదనైన సమయం. ఈ పరిస్థితిలో ఓరుగల్లు కాకతీయులకు రాజులందరినీ ఓడించడం అంత కష్టం కాలేదు. ఆంధ్ర దేశాన్ని తమ పాలనలో ఐక్యం చేసే అవకాశం వారికి లభించింది.
తెలంగాణా ప్రాంతం ఆ సమయంలో స్వతంత్ర రాజుల పాలనలో లేదు. కొన్ని భాగాలు పశ్చిమ చాళుక్యుల అధీనంలోను, కొన్ని భాగాలు రాష్ట్రకూటుల అధీనంలోను, కొన్ని భాగాలు వేంగి చాళుక్యుల అధీనంలోను ఉన్న సామంతరాజుల పాలనలో ఉండేవి. ముఖ్యంగా వేంగి చాళుక్యులకు, రాష్ట్రకూటులకు మధ్య ఎడ తెరపి లేకుండా అనేక యుద్ధాలు జరిగాయి. తెలంగాణా లోని వివిధ ప్రాంతాలు పాలకుల మధ్యలో చేతులు మారుతుండేవి. ఇలా దాదాపు ఐదు వందల యేండ్లు తెలంగాణలో స్వతంత్ర రాజ్యం లేనందున అక్కడ ఆర్థిక, సాంస్కృతిక ప్రగతి కుంటువడింది.
క్రీ. శ. 950 - 1100 మధ్య కాలంలో కాకతీయుల పూర్వీకులు రాష్ట్రకూటులకు, లేదా పశ్చిమ చాళుక్యులకు లేదా తూర్పు చాళుక్యులకు (దశలను బట్టి) సామంతులుగా, ఉద్యోగులుగా ఉండేవారు. క్రీ. శ. 934-945 మధ్య నందిగామ, ముక్త్యాల, మాంగల్లు, మధిర, మానుకోటలను పాలించిన కాకత్య గుండన రాష్ట్రకూటులకు ప్రతినిధి. రాష్ట్రకూటులకు, వేంగి రాజులకు మధ్య జరిగిన యుద్ధాలలో ప్రశంసనీయమైన పాత్ర వహించి, తన ప్రభువు ప్రోత్సాహంతో రాజ్యాన్ని ఏర్పరచుకొన్నాడు. అతని వంశస్తులు ప్రోలరాజు, బేతరాజు, రెండవ ప్రోలరాజు క్రమంగా తెలంగాణా ప్రాంతంలో పశ్చిమ చాళుక్యుల పాలనను అంతమొందించ గలిగారు. తరువాత కాకతీయుల పాలన తెలంగాణ ప్రాంతానికి విస్తరించింది విస్తరించింది.
కాకతీయుల పుట్టుపూర్వోత్తరాలు
శాసనాధారాలను బట్టి కాకతీయుల కులదేవత ‘కాకతి’ అనీ, మొదట వారు కాకతి ఆరాధకులు కాబట్టి కాకతీయులయ్యారనీ, ఆ తర్వాత స్వయంభూదేవుని ఆరాధకులయ్యారనీ చారివూతక సమాచారం ఉంది. కాజీపేట శాసనాన్ని బట్టి వీరు గుమ్మడమ్మ సంప్రదాయానికి (తీగకు) చెందిన వారని తెలుస్తోంది. జైన దేవత గుమ్మడమ్మ (కుషాండిని) కి మరోపేరు కాకతి. ఈమె జీవుల్ని అనారోగ్యం నుండి కాపాడే జైన ఆరోగ్య దేవత. కాకతీయులు తమను తాము ‘దుర్జయుల’మని చెప్పుకున్నారు. అంటే ‘జయింప శక్యం కాని వారు’ అని అర్థం. కాకలు తీరిన వీరులుగా వీరు కాకతిని యుద్ధదేవతగా కొలిచారు. ‘కాకతికి సైదోడు ఏకవీర’ అనే నానుడి ఆ రోజుల్లో ప్రచారంలో ఉంది. ఏకవీరాదేవి ఆలయం ఓరుగల్లు సమీపంలోని మొగిలిచర్లలో ఉంది. కొన్ని శాసనాల్లో ‘కాకతి’ వీరి కులపురమని చెప్పబడింది. అయితే, ఆ గ్రామం లేదా పట్టణం ఎక్కడ ఉందో గుర్తించటం ఇప్పుడు కష్టంగా ఉంది.
"కాకతీయుల కులము" గురించి చరిత్రకారుల్లో భిన్నాభిప్రాయమున్నవి. కొన్ని శాసనాల్లో సూర్యవంశ క్షత్రియులని, మరి కొన్ని పుస్తకాల్లో తెలుగు నాయక వంశాల మాదిరి "దుర్జయ వంశము"వారని చెప్పబడ్డారు. గుంటూరు తాలూకా మల్కాపురంలో కూలిపోయిన ఒక గుడియొద్ద ఉన్న నంది విగ్రహం మీద చెక్కిన శిలాశాసనం 395 (A. R. No. 94 of 1917.) కాకతీయులు సూర్యవంశపు క్షత్రియులని తెలుపుచున్నది [6]. కర్నూలు జిల్లా త్రిపురాంతకంలో ఉన్న త్రిపురాంతకేశ్వర ఆలయంలో చెక్కబడిన శిలాశాసనం 371 (A. R. No. 196 of 1905.) ప్రకారం గణపతిదేవుడు సూర్యవంశ క్షత్రియుడని తెలుపుచున్నది [6]. రుద్రమ దేవి భర్త వీరభద్రుడు కాస్యప గోత్రీకుడు కావున తర్వాత కాలంలో కాకతీయులు కాస్యపగోత్రపు క్షత్రియులుగా చెప్పుకున్నారని చరిత్రకారుల భావన [7][8]. చిలుకూరి వీరభద్రరావు తన ఆంధ్ర చరిత్రలో వడ్డమాని శాసనం, బూదవూరు శాసనం, త్రిపురాంతక శాసనం ఆధారంగా చేసుకొని కాకతీయులు శూద్రులు అని తేల్చారు.
చేబ్రోలు శాశనం ప్రకారం గణపతిదేవుడు మున్నూరు సీమ (కృష్ణా జిల్లా) ప్రాంతంలోని దూర్జయ తెగకు చెందిన జయప నాయుడి (జాయప్ప సేనాని) సోదరిలైన కమ్మ నారమ్మ, పేరమ్మలను వివాహమాడాడు. వీరి కుమార్తెలు రుద్రమదేవి, జ్ఞానాంబ. గణపతిదేవుడు తన పెద్ద కుమార్తె రుద్రమదేవిని చాళుక్య వంశీయుడైన వీరభద్రుడు కిచ్చి వివాహం చేశాడు. రెండవ కుమార్తె జ్ఞానాంబను కోట సామ్రాజ్యమునకు చెందిన - బేతరాజు కిచ్చి వివాహం చేశాడు.
కాకతీయుల అచ్చతెలుగు పేర్లు
కాకతీయులు గరుడాంక చిహ్నం కలిగిన రాష్ట్రకూటులు కాబట్టి, వారు రాష్ట్రకూట వంశస్థులని, మహారాష్ట్ర ప్రాంతం నుండి ఆంధ్రదేశానికి వలన వచ్చిన వారని గుండయ, ఎరియల పేర్ల చివర ఉన్న రాష్ట్రకూట శబ్ధమే ఇందుకు తార్కాణమని కొందరు అభివూపాయపడ్డారు. కానీ, ఇది ఏ మాత్రం సబబు కాదనిపిస్తుంది. ఎందుకంటే, రాష్ట్రకూట శబ్ధం ఇందుకు ముందు చెప్పుకున్నట్లు రట్టడిగా గ్రామాధికారులకు కూడా చాళుక్య శాసనాల్లోనూ ఉంది. రాష్ట్రకూటుల వద్ద సైనిక వృత్తిలో ఉన్నమాట వాస్తవమే, కానీ, రాష్ట్ర కూటుల ఆక్రమిత ప్రాంతాలైన ఆంధ్రదేశంలోనే వారున్నారు తప్ప మహారాష్ట్ర ప్రాంతంలో ఉన్న దాఖలాలు లేవు. పైగా వారి పేర్లన్నీ అచ్చతెలుగు దేశీయపదాలే, వ్యవసాయ సంస్కృతికి చెందిన పేర్లు. ‘గుండము’ అంటే ‘లోతైన చెరువు’ అని అర్థం. ‘గుండయ’ పేరు దానికి సంబంధించిందే. చలమయ్య అనే పేరు కూడా నాటికీ నేటికీ ఆంధ్రదేశంలో సాధారణమైన పేరు. అది కూడా నీటి చలమకు సంబంధించిందే.
బేతరాజు పేరు భూతక్షిగాహస్వామి (పోతురాజు) నుండి వచ్చిందే. ఈ పేరు పంటలకు చీడపీడలు రాకుండా పూజింపబడే దేవుడిదే.
ప్రోలయ నూర్పిడి సమయంలో పూజింపబడే దేవత ప్రోచేరాజుగా పోలరాజు) శివుడు కూడా పూజితుడయ్యాడు.
బ (వ) య్యలమ్మ (చదువుల తల్లి),
మైలమ (భూదేవి) కుందమ్మ (వ్వ), మేడలమ్మ, రుయ్యమ్మ, ముమ్మడమ్మ (ముగ్గురమ్మల మూలపుటమ్మ) ముప్పమ మొదలైన కాకతీయ కుటుంబీకుల పేర్లు అచ్చ తెలుగు పదాలతో కూడినవి. రుద్రదేవునితోనే సంస్కృత పేర్లతో కాకతీయ ప్రభువులు కనిపిస్తారు
మూడు దశలు
కాకతీయ సామ్రాజ్యంలో మూడు ముఖ్యమైన ఘట్టాలున్నాయి.
క్రీ. శ. 1000- 1158 - తెలంగాణ విమోచన: ఈ దశలో నలుగురు రాజులు పాలించారు - కాకత్య గుండన, మొదటి ప్రోలరాజు, రెండవ బేతరాజు మరియు రెండవ ప్రోలరాజు - ఈ సమయంలో తెలంగాణ ప్రాంతం కాకతీయుల వశమయ్యింది. తెలుగునాట పశ్చిమ చాళుక్యుల పాలన అంతమయ్యింది. ముఖ్యంగా రెండవ ప్రోలరాజు పెద్ద రాజ్యాలకు ప్రతినిధులైన నలుగురు సామంతులను ఓడించి ఈ నిజయం సాధించాడు. అంతకు ముందు తీరాంధ్రంలో మాత్రమే స్వతంత్ర రాజ్యాలున్నాయి. కన్నడ ప్రాంతపు చాళుక్యులు, మహారాష్ట్రము నుండి రాష్ట్రకూటులు తీరాంధ్రంపై జరిగిన దండయాత్రలకు తెలంగాణా మార్గంగా ఉంది. కనుక తెలంగాణ ప్రాంతంలో ఆర్థిక, సాంస్కృతిక ప్రగతి కుంటువడింది. ప్రజలలో పుట్టి, కష్టసుఖాలెరిగిన కాకతీయులు సాధించిన స్వాతంత్ర్యముతో తెలంగాణ ప్రాంతంలో వ్యవసాయం, సాహిత్యం, వ్యాపారం ఊపందుకొన్నాయి. ఇప్పటికీ కాకతీయులు త్రవ్వించిన చెరువులే చాలా మండలాలలో ముఖ్య నీటివనరులు.
క్రీ. శ. 1159 - 1261 తీరాంధ్రంలో విజయం: ఈ దశలో కాకతీయులు ఉత్తరాన గంజాం నుండి దక్షిణాన కంచి వరకు జయించారు. రాయలసీమ, తెలంగాణ మరియు తీరాంధ్ర ప్రాంతాలు ఒకే పాలనలోకి వచ్చాయి. ఈ దశలో ముగ్గురు పాలకులున్నారు. వారిలో గణపతి దేవుడు ప్రసిద్ధుడు. ఈ కాలంలో అన్ని ప్రాంతాల వారి మధ్య సంబంధ బాంధవ్యాలు పెరిగాయి.
ఖ్రీ. శ. 1262 - 1323 సామ్రాజ్య పతనం: ఈ సమయంలో రుద్రమదేవి, ప్రతాపరుద్రుడు పాలించారు. ఇద్దరూ సమర్థులైన ప్రభువులు మరియు యుద్ధ కోవిదులు. కాని ఉప్పెనలా ముంచుకొచ్చిన ముస్లిం దండయాత్రల కారణంగా కాకతీయ సామ్రాజ్యం పతనాన్ని ఆపలేకపోయారు. వివిధ కులాల మధ్య కలహాలు ఈ పతనానికి మరింత తోడ్పడ్డాయి.
కాకతీయ సామ్రాజ్య క్రమం
ఆరంభ దశ
క్రీ. శ. 934-945 మధ్యకాలంలో గుండయ రాష్ట్రకూటుల ప్రతినిధి (సామంత రాజు) గా మధిర, మానుకోట తాలూకాలను పాలించేవాడు. అది రాష్ట్రకూట రాజయిన రెండవ కృష్ణునకు, వేంగి రాజు మొదటి చాళుక్య భీమునకు యుద్ధాలు జరుగుతున్న సమయం. అనంతరం పెరువంగూరు యుద్ధంలో గుండయ మరణించాడు. బెజవాడను పట్టుకోవడంలో గుండన చూపిన సాహసానికి కృతజ్ఞతాపూర్వకముగా రెండవ కృష్ణుడు గుండయ కుమారుడు ఎరియను ఓరుగల్లు దగ్గరలోని కురవాడికి అధిపతిగా చేశాడు. తూర్పుననున్న ముదిగొండ చాళుక్యులను నివారించుటకు ఇది ఉపయోగపడింది[9]. ఎరియ ఓరుగల్లు (కాకతీపురము) ను రాజధానిగా చేసుకొని పరిపాలన చేశాడు. ఇతని మనుమడు కాకత్య గుండ్యన (ఎరియ కొడుకు బేతన కాలంలో బహుశా మళ్ళీ కురవాడిని చాళుక్యులు ఆక్రమించి ఉండవచ్చును).
దానార్ణవునికి, ఆతని సోదరుడు రెండవ అమ్మరాజునకు జరిగిన ఘర్షణలో, మూడవ కృష్ణుని ప్రోద్బలముతో, దానార్ణవుడు వేంగీ సింహాసనము చేజిక్కించుకొనుటకు గుండ్యన సాయపడ్డాడు. ఆ రాజ్యాలలో చెలరేగిన కల్లోలాలను అదునుగా తీసికొని, మళ్ళీ కురవాడిని తన అధీనంలోకి తెచ్చుకొని ఉండవచ్చును. అయితే ముదిగొండ చాళుక్యులకు చెందిన "విరియాల ఎర్ర భూపతి" ఒక యుద్ధంలో గుండ్యనను వధించాడు. గుండ్యన కొడుకు గరుడ బేతన చిన్న వయసులో రాజ్యం కోల్పోయి నిస్సహాయుడైనాడు. ఎర్ర భూపతి భార్య కామసాని ఆ పిల్లవానిపై జాలిగొని ఓరుగల్లు రాజ్యం ఇప్పించింది. ముందు రాష్ట్రకూటుల సామంతులుగా ఉన్న కాకతీయులు ఇలా విరియాల వారి సౌహార్ద్రత్వంతో చాళుక్యుల సామంతులుగా ఓరుగల్లులో నెలకొన్నారు. బేతన క్రీ. శ. 1052 వరకు రాజ్యం చేశాడు.
బేతరాజు కుమారుడు మొదటి ప్రోలుడు (క్రీ. శ. 1052 - 1076) చాళుక్య యువరాజు ఆరవ విక్రమాదిత్యునికి సహాయపడ్డాడు. స్థానిక ప్రభువులైన అన్నయ్య, గొన్నయ్యలను నిర్జించాడు. ఈతనికి "అరికేసరి" అనే బిరుదు ఉంది. ఇతను అనుమకొండ (హనుమకొండ) ను సోమేశ్వరుడినుండి పొందాడు. ప్రోలుని కుమారుడు రెండవ బేతరాజు (క్రీ. శ. 1076 - 1108) హనుమకొండ రాజధానిగా పాలించాడు. రాష్ట్రకూటులను జయించి కొరవి మండలం, హనుమకొండ విషయం, సబ్బిరాయి మండలాలను కలిపి కాకతీయ రాజ్యాన్ని విస్తరించాడు.
ఈతని తమ్ముడు రెండవ ప్రోలరాజు (క్రీ. శ.1116 - 1157) మిక్కిలి గొప్పవాడు. చాళుక్యులు బలహీనపడిన సమయములో స్వాతంత్ర్యము ప్రకటించుకొని, తెలంగాణమంతయూ రాజ్యవిస్తరణ చేశాడు. పశ్చిమ చాళుక్యుల సామంతులైన తైలప దేవుడు (మహబూబ్ నగర్, నల్గొండ జిల్లాల ప్రాంతం), గోవిందరాజు (వరంగల్ జిల్లా వేలకొండపల్లి ప్రాంతం), గుండరాజు (మంథెన ప్రాంతం), జగద్దేవుడు (వేములవాడ ప్రాంతం) అనే నలుగురు రాజులను జయించి తెలంగాణములో చాళుక్యుల పాలనను అంతం చేశాడు. ఇతడు కళ్యాణిని పాలిస్తున్న బిజ్జలుని సమకాలికుడు. బిజ్జలునికి సహకారంగా తన సేనను పంపి, అతడు కళ్యాణి నగరాన్ని పశ్చిమ చాళుక్యులనుండి వశం చేసుకోవడానికి సాయపడ్డాడు. కాకతీయులు మొదట జైనులు. అప్పటివరకు తెలంగాణ ప్రాంతంలో జైన మతం బలంగా ఉంది. కాని కళ్యాణిలో బసవని నేతృత్వంలో వీరశైవం విజృంభించి ఆంధ్రదేశంలో బలం పుంజుకోసాగింది. ఉప్పెనలా వస్తున్న వీరశైవానికి తలవంచి రెండవ ప్రోలరాజు శైవాన్ని స్వీకరించాడు. ఈ సమయానుకూల చతురత వల్ల కాకతీయుల రాజ్యం మరో రెండు శతాబ్దాలు కొనసాగగలిగింది. తరువాత రెండవ ప్రోలుడు కృష్ణానదిని దాటి తీరాంధ్ర చోళులను జయించాలని యత్నించాడు. మంత్రకూటమును (నూజివీడు మండలము) పాలించుచున్న గుండని నిర్జించి, తన రాజ్యములో కలుపుకున్నాడు. క్రీ. శ. 1158 లో వెలనాటిపై చేసిన యుద్ధములో రాజేంద్ర చోడుని చేతిలో హతమయ్యాడు. ఈ ఘటనతో కాకతీయుల చరిత్ర మలుపు తిరిగింది[10].
రుద్రదేవుడు (1158 - 1195)
ప్రసిద్ధులైన కాకతీయులలో రుద్రదేవుడు మొదటివాడు. పరాక్రమ శాలి. రాజనీతి చతురుడు. ఇతనినే మొదటి ప్రతాపరుద్రుడు అని కూడా అంటారు. ఇతని అనేక శాసనాలలో అనుమకొండ శాసనం (వేయి స్తంభాలగుడి) ప్రసిద్ధమైన చారిత్రకాధారము. రుద్రదేవుడు కాకతీయుల రాజ్యాన్ని విస్తరించి సుస్థిరం చేశాడు. ప్రోలరాజు మొదలుపెట్టిన దిగ్విజయ యాత్రలను ముందుకు తీసుకెళ్ళాడు. పశ్చిమ చాళుక్యుల సార్వభౌమత్వానికి వారసుడుగా బిజ్జలుడు కాకతీయులను లొంగదీసుకోవడానికి ప్రయత్నించాడు. మరో ప్రక్క కాకతీయుల విజృంభణపై అసూయాగ్రస్తులైన చాళుక్య సామంతులు కాకతీయులపై కత్తిగట్టారు. అసమానమైన రాజనీతితో వీరందరిని ఎదుర్కొని రుద్రదేవుడు కాకతీయులకు సంపూర్ణ స్వాతంత్ర్యం సాధించాడు.
మేడరాజు, దొమ్మరాజు, మైలగి దేవుడు, చోడోదయుడు వంటి చిన్న చిన్న స్థానిక రాజులను జయించాడు. తరువాత తీరాంధ్రంవైపు దృష్టి సారించాడు. క్రీ. శ. 1162 లో వెలనాటిపై దండయాత్ర చేసి శ్రీశైలం, త్రిపురాంతకం ఆక్రమించుకొన్నాడు. పలనాటి యుద్ధంలో నలగామరాజుకు సాయంగా పెద్ద దళాన్ని పంపాడు. పల్నాటి యుద్ధంలో వెలనాటి చోళులు బలహీనపడిన తరువాత క్రీ. శ. 1186 లో రుద్రదేవుడు ఈ ప్రాంతాన్నంతా ఆక్రమించుకొని రెండవ ప్రోలుని మరణానికి ప్రతీకారం తీర్చుకొన్నాడు. తరువాత దేవగిరి రాజైన జైతుగితో జరిగిన యుద్ధంలో రుద్రదేవుడు మరణించాడు. రుద్రదేవుడు ఓరుగల్లును దుర్భేద్యమైన దుర్గంగా నిర్మించడం మొదలుపెట్టాడు. అనుమకొండలో దేవాలయాన్ని నిర్మించాడు. ఇతడు భాషాభిమాని. స్వయంగా కవి.
మహాదేవుడు (క్రీ. శ. 1195 - 1199)
రుద్రదేవుని సోదరుడు మహాదేవుడు దేవగిరి యాదవులపై పగసాధించవలెనని ప్రయత్నించి విఫలుడయ్యాడు. రుద్రునికి సంతానం లేనందున మహాదేవుని కొడుకు గణపతిదేవుని దత్తత తీసికొన్నాడు. బహుశా రుద్రదేవుడు మరణించినపుడే గణపతిదేవుడు దేవగిరి యాదవులకు బందీగా చిక్కి ఉంటాడు. అతనిని విడిపించే ప్రయత్నంలోనే మహాదేవుడు దేవగిరిపై దండెత్తి, ఆ యుద్ధంలో (ఏనుగు మీద ఉండి యుధ్ధాన్ని నడిపిస్తూ) మరణించాడు. మహాదేవుడు శైవ మతాభిమాని. ధృవేశహవర పండితుడు అతని దీక్షా గురువు. మహాదేవుని మరణానంతరం క్రీ. శ. 1198లో మహాదేవుని కొడుకు (రుద్రదేవుని దత్తపుత్రుడు) గణపతి దేవుడు కాకతీయ సింహాసనాన్ని అధిష్టించాడు.
గణపతిదేవుడు (క్రీ. శ. 1199 - 1262)
గణపతి దేవుడు రాజ్యానికి రావడానికి ముందు 12 సంవత్సరాలు దేవగిరి యాదవులకు బందీగా ఉండి విడుదల చేయబడ్డాడు. ఈలోగా కాకతీయ సామంతులు చేసిన తిరుగుబాట్లను రేచర్ల రుద్రుడు అనే విశ్వాసపాత్రుడైన సేనాని అణచి, రాజ్యాన్ని గణపతిదేవునికి అప్పగించాడు. గణపతిదేవుడు మహావీరుడు. దూరదృష్టి ఉన్న రాజనీతిజ్ఞుడు. అప్పటికి దక్షిణాన పాండ్యులు, పశ్చిమాన హొయసల, యాదవ రాజులు, ఉత్తరదేశంలో తురుష్కులు బలవంతులై ఆంధ్రప్రాంతాన్ని చుట్టుముట్టి ఉన్నారు. రాగల ప్రమాదాన్ని గుర్తించిన గణపతిదేవుడు ఆంధ్రదేశాన్ని ఐక్యము చేయడానికి విజయయాత్రలు ప్రారంభించాడు. అయితే ఓడిపోయిన రాజులను తొలగించలేదు. వారితో సంబంధాలు కలుపుకొని, వారి సామంత ప్రతిపత్తిని కొనసాగించాడు. ఈ సామంతులు కాకతీయులకు అండగా నిలిచారు.
గణపతిదేవుడు క్రీ. శ. 1212 - 1213 కాలంలో తూర్పు తీరంపై దండెత్తి కృష్ణా, గోదావరి, గుంటూరు ప్రాంతాలను స్వాధీనం చేసుకొన్నాడు. నిడదవోలు పాలకుడైన వేంగి చాళుక్య వీరభద్రునికి (క్షత్రియుడు) తన కుమార్తె రుద్రమ్మను ఇచ్చి పెళ్ళి చేశాడు. రెండవ కుమార్తె గణపాంబను ధరణికోట రాజు బేతరాజుకు, సోదరి మేలాంబికను మధిర పాలకుడు రుద్రరాజుకు ఇచ్చి వివాహం చేశాడు. జాయపసేవాని ఇద్దరు చెల్లెళ్ళను (పిన్నచోడుని కుమార్తెలైన నారమ్మ, పేరమ్మ) గణపతిదేవుడు వివాహం చేసుకొన్నాడు. కమ్మ జాయపసేనానిని (జాయప నాయుడు) తన గజసైన్యాధ్యక్షునిగా ఓరుగల్లు తీసుకెళ్ళాడు. నెల్లూరు ప్రాంతాన్ని జయించి, అక్కడి పూర్వపాలకుడైన మనుమసిద్ధికి ఇచ్చాడు. రాయలసీమ ప్రాంతాన్నంతా జయించి, గంగయ సాహిణి అనే సామంత పాలకునికి అధికారం అప్పజెప్పాడు. తర్వాత కళింగ దేశంలోని గంజాం జిల్లా ఆస్కావరకు జయించాడు.
అప్పటికి కుల వ్యవస్థ, కులాల మధ్య అంతరాలు బలపడుతున్నాయి. కాని గణపతిదేవుడు అన్ని కులాల వారితో సంబంధ బాంధవ్యాలు నెరపుకొంటూ ఈ కుల భేదాలు అంతఃకలహాలుగా మారకుండా జాగ్రత్త పడ్డాడు. జాయప కమ్మ వంశస్తుడు. చాళుక్య వీరభద్రుడు క్షత్రియుడు. నెల్లూరుకు చెందిన తిక్కన సోమయాజి ఓరుగల్లు వెళ్ళి గణపతిదేవుని ఆస్థానంలో తన మహాభారత రచన పూర్తి చేశాడు.
నెల్లూరు రాజ్యంలో కాకతీయుల జోక్యం వలన వారికి పాండ్యులతో వైరం ఏర్పడింది. పాండ్యులు రెండు సైన్యాలను పంపారు. కొప్పెరుంజింగలి నాయకత్వంలోని ఒక సైన్యం కాకతీయులతో యుద్ధంలో ఓడిపోయింది. పాండ్యుల రెండవ సైన్యం జటావర్మ నాయకత్వంలో నెల్లూరు పై దాడిచేసింది. క్రీ. శ. 1263లో ముత్తుకూరు వద్ద జరిగిన యుద్ధంలో కాకతీయ-శేవుణ సైన్యాలు ఓడిపోయాయి. ఈ యుద్ధంలో మనుమసిద్ధి మరణించాడు. నెల్లూరు రాజ్యం పాండ్యుల వశమయ్యంది. ఇది కాకతీయులకు ఘోర పరాజయం. ఇదొక్కటే గణపతిదేవుడు యుద్ధాలలో చవి చూసిన ఓటమి. అప్పటికే గణపతిదేవుడు బాగా వృద్ధుడై యున్నాడు. తరువాత ప్రతాపరుద్రుని కాలం వరకు నెల్లూరును కాకతీయులు వశపరచుకోలేకపోయారు.
గణపతిదేవుని కాలంలో ఓరుగల్లు ఆంధ్రనగరి అయ్యింది. పెక్కు తటాకాల, ఆలయాల నిర్మాణం జరిగింది. అనేక గణపవరాలు వెలిశాయి. విదేశీ వాణిజ్యం వర్ధిల్లింది. మోటుపల్లి రేవు ప్రసిద్ధిగాంచింది. శిల్ప వాస్తువు ప్రభవించింది. రామప్ప దేవాలయనిర్మాణం ఈ కాలంలో జరిగినదే.
రుద్రమదేవి (1269 - 1289)
గణపతిదేవునికి పుత్రులు లేనందున రెండవ కూతురు రుద్రమదేవికి పురుషోచిత విద్యలు నేర్పి "రుద్రదేవ మహారాజు"గా సింహాసనాన్ని అప్పగించాడు. ఆంధ్రదేశమంతటినీ ఒక స్త్రీ అసమాన ధైర్య సాహసాలతో సమర్ధవంతంగా పాలించడం వలన ఈ ఘట్టం తెలుగువారి చరిత్రలో ముఖ్యమైనది.
రుద్రమదేవి పాలనకాలమంతా యుద్ధాలతోనే సరిపోయింది. రుద్రమదేవికి ముందుగా స్త్రీ పరిపాలన సహించని సామంతులనుండి, దాయాదులనుండి ప్రతిఘటన ఎదురయ్యింది. అదే సమయంలో దేవగిరి యాదవరాజు దండెత్తి వచ్చాడు. ఈ రెండు విపత్తులనూ ఆమె సమర్థవంతంగా ఎదుర్కొంది. ఈ పోరాటాలలో ఆమెకు బాసటగా నిలిచిన సేనానులు చరిత్రలో చిరస్మరణీయులయ్యారు. వారిలో కొందరు - గోన గన్నారెడ్డి, రేచర్ల ప్రసాదాదిత్యుడు (వెలమ), రుద్రనాయకుడు (కమ్మ), జన్నిగదేవుడు (కాయస్థుడు), త్రిపురాంతకుడు (కాయస్థుడు) మరియు బెండపూడి అన్నయ్య (బ్రాహ్మణుడు).
తరువాత తూర్పున గంగ నరసింహదేవుడు వేంగి ప్రాంతాన్ని (క్రీ. శ. 1262లో) ఆక్రమించాడు. కాని పోతినాయక, ప్రోలినాయకులు వారిని ఓడించి క్రీ.శ. 1278లో వేంగిలో తిరిగి కాకతీయుల అధికారం నెలకొల్పారు. ఇంతలో దేవగిరి యాదవ మహాదేవుడు దండెత్తాడు. అతనిని ఓడించి రుద్రమదేవి పరిహారాన్ని గ్రహించింది. దక్షిణాదిన నెల్లూరు ప్రాంతంలో పాండ్యులు విజృంభించసాగారు. వారిని ఓడించిననూ అక్కడ కాకతీయాధికారం ఎంతో కాలం నిలువలేదు. పాండ్యుల సామంతులైన తెలుగు చోడులు మళ్ళీ నెల్లూరును ఆక్రమించారు. వల్లూరు రాజ్యం మాత్రం పాండ్యులనుండి కాకతీయుల వశమైంది. దానిని జన్నిగదేవుడు, తరువాత త్రిపురారి కాకతీయుల సామంతులుగా ఏలారు. అయితే త్రిపురారి తరువాత వచ్చిన అంబదేవుడు తిరుగుబాటు చేసి స్వతంత్రరాజ్యం స్థాపించ ప్రయత్నించాడు. అంబయతో జరిగిన యుద్ధంలో రుద్రమదేవి మరణించింది (క్రీ. శ. 1289).
నిరంతరం యుద్ధాలలో ఉన్నాగాని, రుద్రమదేవి చాలా సమర్థవంతంగా పాలన నిర్వహించింది. ఓరుగల్లు కోటను దుర్భేద్యంగా బలపరచింది. దేశం సుభిక్షంగా ఉంది. ఆమె కాలంలోనే వెనిస్ యాత్రికుడు మోటుపల్లి రేవులో దిగాడు. దేశంలో పాలన కట్టుదిట్టంగా ఉందని, పరిశ్రమలు, వాణిజ్యం వర్ధిల్లుతున్నాయని వర్ణించాడు.
రుద్రమ దేవి భర్త చాళుక్య వీరభద్రుడు. వీరికి ముగ్గుర్ కుమార్తెలు, కుమారులు కలగలేదు. పెద్ద కూతురు ముమ్మడామ్మను కాకతి మహాదేవుడు వివాహమాడెను. వారి తనయుడే ప్రతాపరుద్రుడు. రుద్రమ దేవి తరువాత కాకతీయ సామ్రాట్టు అయినాడు. రుద్రమ చిన్న నాదే అతనిని దత్తత తీసుకొని తన తదనంతరం వారసుడిని యువరాజ్య పట్టాభిషేక మొనర్చింది.
ప్రతాపరుద్రుడు (1289 - 1323)
ప్రతాపరుద్రుడు రుద్రమదేవి మనుమడు (కూతురు కొడుకు). రుద్రమదేవి ఈతనిని వారసునిగా చేసుకోవటానికి దత్తత తీసుకొంది. క్రీ. శ. 1289లో కాయస్థ సేనాని అంబదేవుని తిరుగుబాటు అణచు ప్రయత్నములో రుద్రమదేవి మరణించింది. ప్రతాపరుద్రుడు సింహాసనమధిష్ఠించాడు. ప్రతాపరుద్రుని పరిపాలనాకాలమంతయూ యుద్ధములతోనే గడచింది. అంబదేవుని, నెల్లూరులో మనుమగండుని, కర్ణాట రాజులను జయించి రాజ్యము కట్టుదిట్టము చేశాడు. ఇంతలో ఉత్తర దేశమునుండి కొత్త ఉపద్రవము ముంచుకొచ్చింది. క్రీ.శ. 1303,1309, 1318, 1320 లో ఢిల్లీ సుల్తాను అలా ఉద్దీన్ ఖిల్జీ మూడు సార్లు దాడి చేసి విఫలమయ్యాడు[11]. క్రీ. శ. 1323 లో జరిగిన నాలుగవ యుద్ధములో ప్రతాపరుద్రునికి అపజయము సంభవించింది[12].
ముసునూరి నాయకులు
ప్రతాపరుద్రుని పరాజయము తరువాత ఆంధ్రదేశము అల్లకల్లోలమైనది. తురుష్కుల ఆగడాలు చెప్పనలవి గానివి. ముసునూరి ప్రోలయ నాయకుని విలస తామ్ర శాసనములో ఆనాటి తెలుగు వారి దయనీయ స్థితి వర్ణించబడింది. అట్టి విషమ పరిస్థితులలో బెండపూడి అన్నయ మంత్రి మరియు కొలను రుద్రదేవుడను ఇద్దరు దేశాభిమానులు చెల్లాచెదరైన తెలుగు నాయకులను ఐక్యపరచి వారికి నాయకునిగా కమ్మ కులానికి చెందిన ముసునూరి ప్రోలయ నాయకుడు అను మహాయోధుని ఎన్నుకొన్నారు. ముసునూరి ప్రోలయ నాయకుడు ఓరుగల్లు విముక్తి గావించుటకు పలు వ్యూహములల్లాడు. పెక్కు యుద్ధముల పిదప క్రీ. శ. 1325 లో తురుష్కులను దక్షిణభారతము నుండి తరిమివేయుటలో కమ్మవారు సఫలమయ్యారు. హిందూమతము రక్షించబడింది. దేవాలయములు పునరుద్ధరించబడ్డాయి. బ్రాహ్మణులకు అగ్రహారములీయబడెను. అనితల్లి కలువచేరు శాసనములో ముసునూరి ప్రోలయ నాయకుని వీరత్వము, దేశాభిమానము, ప్రజారంజకమగు పరిపాలన విపులముగా కొనియాడబడ్డాయి[13].
కాకతీయుల సామంతులు
కాకతీయుల కాలమున సామంతులు, మహా సామంతాధిపతులు, మహా మాత్యులు, దండనాయకులు, వంశ పాలకులు అమేయమైన శక్తిప్రపత్తులతో రాజ భక్తితో దేశ భక్తితో చాలా చక్కని పాత్రని పోషించారు. వంశ పాలకులు అనగా స్వజాతి కుటుంబ పాలకులు. యుద్ధములలో వీరు చాలా ఎన్న దగిన పాత్ర పోషించారు.
అటువంటి కాకతి వంశ సామంతులలో ఎన్నదగినవారు:
మల్యాల
విరియాల
పోల
వావిలాల
త్యాగి
నతవాడి
కోట
కాయస్థ
ఇందులూరి
ముసునూరి (వంశ పాలకులు )
గురిజాల (వంశ పాలకులు )
చిత్రమాలిక
ములుగు వద్ద కోట గుళ్ళు
కాకతీయులనాటి మంటపం. ఆంధ్రప్రదేశ్ రాష్ట్ర పురావస్తు సంగ్రహాలయం, హైదరాబాదులో భద్రపరచబడింది. (మ్యూజియం వారి సౌజన్యంతో ఫొటో తీయబడినది)
రామప్ప ఆలయం వద్ద నంది మండపం
ఆర్ధిక రంగం
కాకతీయ కాలంలో ఆంధ్రదేశం సిరిసంపదలతో తులతూగుతున్నట్లు అమీర ఖుస్రూ, అబ్దున్నా వాసఫ్, మార్కోపోలో వంటి విదేశీ యాత్రికుల రచనల వల్ల తెలుస్తుంది.
వ్యవసాయమే నాడు ఆంధ్రుల ప్రధాన వృత్తి. వ్యవసాయం చాలావరకు వర్షాధారమే, అయితే కాకతీయ రాజులు, రాణులు, సామంతులు పెద్ద చెరువులు, కాలువలు త్రవ్వించి, నీటి పారుదల సౌకర్యాలు కల్పించారు. రామప్పచెరువు, కేసరి సముద్రం, పాకాల చెరువు, కాటసముద్రం, చౌడ సముద్రం, సబ్బి సముద్రం, జగత్కేసరి సముద్రం ఉదాహరణలు. ఇంకా నెల్లూరు, కడప, పల్నాడు ప్రాంతాల్లోని అడవులు నాశనం చేసి, పంట పొలాలు ఏర్పాటు చేసి క్రొత్త గ్రామాలు సృష్టించారు. దేశం పలు ప్రాంతాల్లో గోధుమలు, వరి, కొర్రెలు, పెసలు, జొన్నలు, చెరకు, నూనె దినుసులు, ఉల్లి, అల్లం, పసుపు వంటివి ఎక్కువగా పండించేవారు. దేశమంతా కొబ్బరి, జామ, మామిడి, అరటి, ఆకుకూరగాయల తోటలు ఉండేవి. పంచదార, బెల్లం, నూనె పరిశ్రమలు ప్రతి గ్రామంలోనూ ఉండేవి. పశుసంపద చాలా ఎక్కువగా ఉండేది. పాలు, పెరుగు, నెయ్యి పుష్కలంగా లభించేది. వ్యవసాయంతో పాటు పెక్కు పరిశ్రమలు వృద్ధి చెందాయి. వస్త్ర పరిశ్రమ నాణ్యమైన వస్త్రాలు ఎగుమతి చేసేది. రత్నకంబళాలు, ముఖమల్ వస్త్రాలు, పంచలోహాలతో పలురకాల వస్తువులు తయారయ్యేవి. ఇంకా లక్కబొమ్మలు, ఆటవస్తువులు, ఆయుధాలు, వంటివి తయారయ్యేయి. తోలుబొమ్మలాటకు కావలసిన బొమ్మలకు రంగులు వెయ్యటం పెద్ద పరిశ్రమ. నిర్మల్ కత్తులు జగత్ర్పసిద్ది. వజ్రాల గనులు ఉండేవి. దేశీ వాణిజ్యానికి ఓరుగల్లు ప్రసిద్ధి. అక్కడ ప్రతి వారము మడిసంత, మైల సంత జరిగేవి. మంథెన, పానగల్లు, అలంపురం, మాచెర్ల, వేల్పూరు, యనమదల, తంగెడ, త్రిపురాంతకం, లేబాక, కొచ్చర్లకోట, నందలూరు, నెల్లారు, పెద గంజాం, ఘంటశాల ఇతర వాణిజ్య కేంద్రాలు. ఇంకా మోటుపల్లి, మచిలీపట్టణం వంటి రేవుపట్టణాల ద్వారా విదేశీ వ్యాపారం జరిగేది.
వ్యవసాయం
కాకతీయుల కాలంలో వ్యవసాయమే ప్రధాన వృత్తి కావడంతో కాకతీయ చక్రవర్తులు వ్యవసాయాభివృద్ధికి ప్రత్యేక శ్రద్ధ తీసుకున్నారు. వ్యవసాయ సంస్కరణల ద్వారా చెన్నూరు, పాలంపేట, పాకాల, మంథని, ఏటూరు నాగారం, కొత్తగూడ, ఎల్లందు, బయ్యారం, అమ్రాబాద్, శ్రీశైలం ప్రాంతాల్లో లక్షలాది ఎకరాల భూమి కొత్తగా సాగులోకి వచ్చింది, ఫలితంగా ఆ ప్రాంతాలలో వందల గ్రామాలు ఏర్పడ్డాయి. ఇందుకోసం రెండు ప్రధానమైన మార్గాలు అనుసరించారు - ఒకటి వ్యవసాయానికి సాగునీటి ఏర్పాటు, రెండు అడవులు కొట్టించడం ద్వారానూ, సాగులో లేని బీడు భూముల సాగుకు ప్రోత్సాహకాలు అందించడం.[14]
సాగునీటికి జలాశయాలు ఏర్పాటు
వ్యవసాయం ప్రధానంగా వర్షాధారం కావడంతో సాగునీటి వనరుల పెంపుకు వర్షపునీటిని నిల్వచేసుకునే లక్ష్యంతో కాకతీయుల కాలపు నిర్మాణాలు సాగాయి. కాకతీయ చక్రవర్తులు నిర్మించిన జలాశయాలు నాలుగు విధాలుగా విభజించవచ్చు: సరస్సులు, చెరువులు, కాలువలు, బావులు. ప్రతీ ఊరికీ అనుబంధంగా, ఆలయానికి ఈశాన్యంగా ఒక చెరువు నిర్మాణం చేసేవారు. ఊరికి దిగువన చెరువు, చెరువుకు దిగువన పొలాలు ఉండేలా జాగ్రత్తపడడంతో ఊరిలో పడిన వాననీరు చెరువును నింపడంతోపాటు ఊరికి వరదల ముప్పు కూడా ఉండేది కాదు. వర్షపు నీటిని నిలువ చేయడం మాత్రమే కాక సమీపంలోని భారీ జలాశయానికి దీన్ని అనుసంధానించేవారు. 1052 నుంచి చాళుక్యుల సామంతునిగా రాజ్యపాలన చేసిన కాకతీయ పాలకుడు మొదటి ప్రోలయరాజు నిర్మించిన కేసీయసముద్రం సరస్సుతో కాకతీయుల చెరువుల నిర్మాణం ప్రారంభమైంది. తర్వాత్తర్వాత స్వాతంత్ర్యం ప్రకటించుకున్న కాకతీయులు చెరువుల నిర్మాణం కొనసాగించారు. రెండవ బేతరాజు అనుమకొండలో చెరువును కట్టించాడు. ఆపైన గణపతిదేవుడు నెల్లూరు, ఎల్లూరు, గణపురం, గంగాపురం వగైరా చెరువులను నిర్మించి ఈ పథకాన్ని ముందుకు తీసుకువెళ్ళాడు.[14]
వ్యవసాయ భూముల పెంపు
సాగునీటి వనరుల పెంపుతోపాటు సాగుభూములను విస్తరించుకుంటూ పోయారు. ఈ క్రమంలో పలు చర్యలు తీసుకున్నారు: అడవులను నరికించి సాగులోకి తీసుకువచ్చి వందలాది గ్రామాలను నిర్మించారు. [నోట్ 1] నిరుపయోగంగా ఉన్న బీడు భూములను సాగులోకి తీసుకువచ్చినవారికి ఆ సాగుపై పన్నులో రాయితీలు కల్పించారు. గ్రామాలకు దూరంగా సాగులోలేని భూములను బ్రాహ్మణులు, పండితులు, వృత్తులవారికి, అధికారులకు, దేవాలయాలకు కానుకలుగా, అగ్రహారాలుగా ఇవ్వడం ద్వారా సాగులోకి తీసుకువచ్చారు. వ్యవసాయం పెంపొందిద్దామని అడపగట్టు అనే పద్ధతిలో రాచభూములను సగం ఆదాయాన్ని ప్రభుత్వానికి జమకట్టడానికి ఇష్టపడేవారికి కౌలుకు ఇచ్చేవారు. ఈ విధానాలు వ్యవసాయానికి, కాకతీయుల ఆర్థిక స్థితికి సాయం చేశాయి.[14]
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నోట్స్
మూలములు
వనరులు
Ventakaramanayya, N. The Early Muslim Expansion in South India, 1942
A History of India, H. Kulke and D. Rothermund, 1998, Routledge, p.160, ISBN 0415154820
A Social History of the Deccan: 1300-1761, R. M. Eaton, 2005, Cambridge University Press, pp.16–20, ISBN 0521254841
ఆంధ్రుల చరిత్ర - డాక్టర్ బి యస్ యల్ హనుమంతరావు
బయటి లింకులు
వర్గం:కాకతీయ సామ్రాజ్యం
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Оде́сса ([ɐˈdʲesːə][1], Ukrainian: Одеса [ɔˈdɛsɑ]) — город на юге Украины. Административный центр Одесской области и единственная военно-морская база Военно-морских сил Украины. Город-герой.
Третий по населению город страны. Численность населения города на 1 января 2018 года составила 993 831 постоянный житель и 1 011 494 человека наличного населения[2]. В пределах агломерации проживает свыше 1,2 млн человек. Национальный состав населения: 61,7 % украинцев, 29,0 % русских, 1,3 % болгар, 1,2 % евреев (2001 год)[3]. Расположена на берегу Одесского залива Чёрного моря.
Крупнейший морской торговый порт Украины. Развиты торговля, металлообработка, нефтепереработка, машиностроение, производство лекарств и продуктов питания. Санаторно-курортное лечение и пляжный отдых, круизный туризм. Крупный научно-образовательный центр.
Исторический центр внесён в предварительный список Всемирного наследия ЮНЕСКО. Ансамбль Приморского бульвара, площади Дюка де Ришельё и Потёмкинской лестницы.
С V века до н. э. — группа античных поселений. Современный город как военно-морской порт на Чёрном море основан Российской империей в 1794 году на месте татаро-турецкого поселения Хаджибей (известного, согласно гипотезе А. И. Маркевича, с XV века), отошедшего к России в 1791 году; переименован в Одессу (предположительно, от античного города Одессос) в 1795 году. К концу XIX века Одесса превратилась в четвёртый по количеству населения город и второй по грузообороту порт Российской империи.
Название города
Впервые новое название города встречается 21[O.S. 1795 год]январяа[4].
Название связано с древнегреческой колонией Одессос (Ancient Greek: Ὀδησσός). В конце XVIII столетия была традиция называть города на завоёванных у турок территориях греческими именами (к примеру, Севастополь, Тирасполь и т. п., в том числе с воспроизведением античных названий, не обязательно на том же месте — Херсон). В те годы предполагалось, что античный Одессос существовал неподалёку от Одесского залива (позже археологи нашли эту колонию недалеко от болгарского города Варны).
Другой вариант — этимологический. По одной из легенд результатом царских дебатов об отсутствии пресной воды поблизости от выбранного для строительства места названием города волею императрицы Екатерины II стало прочитанное наоборот в русской транскрипции французское выражение «assez d’eau» («асседо» — воды достаточно). Данная версия научной историографией отвергается[5].
История
На территории Одессы и Одесского залива когда-то была расположена древнегреческая колония, остатки которой были обнаружены прямо под нынешним Приморским бульваром. Уровень воды был иным, более низким, и береговая линия проходила намного дальше, чем сейчас находится Одесский маяк. Именно недалеко от маяка и за ним до сих пор иногда находят древнегреческие артефакты.
Из-за более низкого уровня воды Тендровская коса продолжалась значительно дальше, чем сейчас, и поселение в районе маяка фактически контролировало выход из устья Буга и Днепра в Чёрное море, и таким образом, имело стратегическое значение.
Археологические артефакты подтверждают существование связей между Одесским регионом и восточным Средиземноморьем. В Средневековье территория Одессы находилась во владении различных кочевых племён (печенегов, половцев), Золотой Орды, Крымского ханства, Великого княжества Литовского, и Османской империи.
XVIII — начало XX века
Официально историю Одессы как города принято отсчитывать с 1794-го года[6], когда 7[O.S. 1794 года]июня императрица Екатерина II издала рескрипт об основании города и гавани на месте Хаджибея, а 2[O.S. 1794 года]сентября после молебна и освящения строительных площадок были забиты первые сваи в основание города. Ранее Осип де Ри́бас представил Екатеринославскому и Таврическому генерал-губернатору князю Зубову доклад, вместе с ходатайством о построении города и порта на месте Хаджибея, а также планы, составленные инженером-полковником российской армии Францем де Волланом. Де Рибасу в конце концов удалось убедить Екатерину, и таким образом был утверждён его проект основания порта и города. Строился город по плану, составленному де Волланом.
Новое название города Одесса впервые встречается 10 января 1795 года. Существует несколько версий о происхождении названия города, однако наиболее достоверным считается предположение, что город назвали так в честь древнегреческой колонии Одессос, которая располагалась недалеко от Одесского залива.
В 1880 году здесь была открыта конно-железная дорога.
При градоначальнике Ришельё Одесса превратилась в главный порт Российской империи на Чёрном море[7]. После назначения Ришельё в 1805 году генерал-губернатором Новороссийского края, Одесса превратилась в административный центр Новороссийского генерал-губернаторства. При Ришельё в городской бюджет поступали 10 % от местных таможенных сборов. При генерал-губернаторе М. С. Воронцове Одесса получила уникальный статус свободного порта, порто-франко, — экспорт и импорт товаров в город осуществлялись без всяких пошлин. Это придало дополнительное ускорение развитию города и его промышленности. При этом Одесса развивалась столь стремительно, что всего за одно столетие превратилась из небольшого посёлка в крупнейший морской порт России на Чёрном море и четвёртый по величине город Российской империи после Петербурга, Москвы и Варшавы[8]. В 1865 году вступила в эксплуатацию железная дорога Одесса — Балта. В 1891 году в Одессе появился первый в Российской империи автомобиль: привезённый из Франции «Бенц», принадлежавший весьма популярному в городе издателю газеты «Одесский листок» В. В. Навроцкому[9]. 11(24) марта 1908 года в Одессе был основан первый в России аэроклуб, а 8(21) марта 1910 года прошли первые в России показательные полёты первого русского лётчика М. Н. Ефимова.
После Октябрьской социалистической революции, 27 октября 1917 года (по старому стилю) совет солдатских депутатов (Румынского фронта, Черноморского Флота и Одессы — Румчерод) объявил о переходе власти к Ревсовету. В начале ноября 1917 года в Ревсовет были приглашены представители старого городского управления. В первых числах декабря 1917 года в городе прошли бои между красногвардейцами и сторонниками Центральной Рады УНР (самостийниками). В результате этого противостояния власть в городе перешла под контроль Центральной Рады. 21 декабря 1917 года Одесса была провозглашена «вольным городом» впредь до созыва Учредительного Собрания. В середине января 1918 года большевики подняли восстание, отбили город у сторонников Центральной рады и Временного правительства. В городе была установлена советская власть, вошедшая в историю под именем Одесской Советской Республики. 14 марта 1918 года (здесь и далее по новому стилю), в результате договорённостей Центральной Рады с Центральными Державами в Одессу вошли австрийские войска. Советская власть была свергнута. Власть в городе формально принадлежала украинскому правительству гетмана Скоропадского. В результате поражения в Первой мировой войне и революций в Германии и Австро-Венгрии в ноябре 1918 года австрийские войска ушли из Одессы. 2 декабря 1918 года в Одессу начали прибывать разнообразные войска стран Антанты — сербские, французские, греческие. Под прикрытием войск Антанты войска Добровольческой Армии в середине декабря 1918 года выбили из Одессы войска петлюровцев. В Одессе установилось правление французской военной администрации. В результате общего наступления большевиков Антанта и Добровольческая Армия оставили Одессу 6 апреля 1919 года. В город вошли подразделения советских войск атамана Григорьева и была установлена советская власть до 23 августа 1919 года, когда в город вновь вернулись войска Добровольческой Армии. Но 7 февраля 1920 года советская власть была установлена в Одессе окончательно.
11 октября 1939 года Приказом НКО СССР № 0157 образован Одесский военный округ с управлением в г. Одессе. Командующий войсками округа комкор И. В. Болдин.[10]
Вторая мировая война
22 июня 1941 года управление Одесского военного округа выделило полевое управление 9-й отдельной армии. 24-25 июня 9-я отдельная армия вошла в состав Южного фронта[11].
Во время Великой Отечественной войны Одесский оборонительный район сражался с превосходящими силами противника 73 дня, с 5 августа по 16 октября 1941. 8 августа в городе было объявлено осадное положение. С 13 августа Одесса была полностью блокирована с суши. Несмотря на сухопутную блокаду и численное превосходство, врагу не удалось сломить сопротивление защитников, — советские войска были планово эвакуированы и переброшены для усиления 51-й отдельной армии, оборонявшейся в Крыму.
В 1941—1944 гг. Одесса была оккупирована румынскими войсками и входила в состав Транснистрии, губернатором города был назначен Г. Пынтя. В начале 1944 года из-за наступления Красной армии в Одессу были введены немецкие войска, а румынская администрация ликвидирована. Во время оккупации Одессы население города оказывало активное сопротивление захватчикам. За годы оккупации десятки тысяч мирных жителей Одессы, в основном евреев, были казнены.
В результате ожесточённых боёв 10 апреля 1944 года войска 3-го Украинского фронта при содействии сил Черноморского флота освободили Одессу. Страна высоко оценила подвиг своих защитников. Указом Президиума Верховного Совета СССР от 22 декабря 1942 года была учреждена медаль «За оборону Одессы», которой награждено свыше 30 тысяч человек. 14 воинам присвоили звание Героя Советского Союза, 57 — награждены орденом Ленина, свыше 2100 — другими орденами и медалями.
Приказом Верховного главнокомандующего от 1 мая 1945 года № 20[12] Одесса, Севастополь, Сталинград и Ленинград, были названы городами-героями. 8 мая 1965 года, Указом Президиума Верховного Совета СССР[13] городу вручена медаль «Золотая Звезда» и орден Ленина.
Послевоенный период
Во второй половине XX века город продолжал насыщаться промышленностью, активно благоустраивался, стал заметным туристическим центром.
В составе независимой Украины
Физико-географическая характеристика
Город расположен на берегу Одесского залива Чёрного моря. Большая часть города, включая исторический центр, располагается на равнине, возвышающейся над морем примерно на 50 м. Минимальная высота Одессы составляет 4,2 м ниже уровня моря (Куяльницкий лиман), максимальная — 65 м. Площадь территории города 236,9 км² , плотность населения 4251,3 чел./км² (по другому источнику: площадь — 163 км²[14]; соответственно, плотность населения — 6178,7 чел./км²). Источники питьевой воды на территории города в настоящее время — бюветные комплексы, основное снабжение водой Одессы и близлежащих окрестностей осуществляется из реки Днестр по 40-километровому водопроводу через водозабор в районе Беляевки[15].
Вблизи города находятся семь крупных лиманов:
Куяльницкий,
Хаджибейский,
Сухой,
Большой Аджалыкский,
Григорьевский,
Тилигульский,
Днестровский.
Расстояние до Киева 443 км (655 — по железной дороге, 466 — по автомобильной).
Пляжи
На десятки километров протянулись одесские пляжи. Одесские пляжи простираются от Коблева (Николаевской области) до Днестровского лимана. Большинство пляжей — песчаные, песок привозной.
Пляжи в черте города, за исключением «Лузановки» и Черноморки, укреплены берегозащитными сооружениями. От района пляжа Ланжерон до района мыса Аркадия, чуть выше пляжей и соединяя их, проходит 6-километровая прибрежная асфальтированная дорога «Трасса Здоровья», закрытая для автомобильного движения и предназначенная для пешеходных и велопрогулок.
Среди пляжей можно выделить следующие:
«Лузановка» в жилмассиве им. Котовского;
пляжи вдоль «Трассы Здоровья»:
«Ланжерон» в районе парка им. Т. Г. Шевченко, с 2005 года рядом с ним работает самый большой на Украине круглогодичный дельфинарий и океанариум «Немо»;
«Отрада» в районе ул. Пироговской;
«Дельфин» в районе Шампанского переулка;
«Аркадия» — одна из визитных карточек города. В отличие от большинства других пляжей, в Аркадию ведёт пологий и удобный спуск;
пляжи вдоль Фонтанской дороги, простирающиеся от 8-й до 16-й станции Большого Фонтана — от пляжа «Чайка» до пляжа «Золотой берег»;
пляж «Черноморка», расположенный в посёлке Черноморка, в настоящее время опять Люстдорф, входящем в состав Киевского района Одессы. Этот пляж находится за пределами Одесского залива.
Климат
Одесса расположена в зоне влажного субтропического климата (Cfa) по классификации В. П. Кёппена или субтропического муссонного климата по классификации Б. П. Алисова.
Среднегодовая температура составляет +10,7 °C, среднегодовое количество осадков — 456 мм[16].
Население
Наличное
население
Одессы[3][17][18][19][20]
годчеловек1795234918006000180290001813350001829520001832600001844[21]7780018498672918581042001863118900186611940018731935131880217000188524060018912976001892[22]3277251897[23]4038151907449700191050600019114981001912[21]6350001914[21]4815001915[22]5046151920[21]4542001923[21]3168001925[21]32535419264114001936534000193754819019396016511956607000195966718219647210001966[24]7530001967776000197089200019739620001974100000019811072000198911153711991110070019951060000199810276002001102904920051007131200899473920091008604201010092042011100910020121008200201310149002014101700020151016500201610108002017101078320181011494
Национальный состав Одессы
на 2001, в тыс. человек[25]
Украинцы622,9(61,6 %)Русские292,0(29,0 %)Болгары13,3(1,3 %)Евреи12,4(1,2 %)Молдаване7,6(0,7 %)Белорусы6,4(0,6 %)Армяне4,4(0,4 %)Поляки2,1(0,2 %)Всего1010,3(100,0 %)
Данные по постоянному населению
города
Численность населения города на 1 января 2018 года составила 993 831 постоянный житель и 1 011 494 человека наличного населения[2].
По всеукраинской переписи населения 2001 г. численность наличного населения Одессы составило 1 029 049 жителей (из них — 480 341 мужчин или 47 % и 548 708 женщин или 53 %)[26], постоянное население — 1 010 298 жителей[27]. Одесса — традиционно многонациональный город. Многонациональность Одессы объясняется относительно поздним возникновением города (по сравнению с другими крупными городами данного региона), географическим расположением в районе исторического стыка нескольких государств, интенсивным развитием города как крупного морского транспортного узла. Здесь проживают представители десятков национальностей. Первоначальными поселенцами Одессы были греки, итальянцы, албанцы, армяне[28]. Наиболее многочисленной этнической группой в Одессе были русские (49 % населения в конце XIX века)[29].
Национальный состав Одессы в1926 году: 39,2 % русских, 36,9 % евреев, 17,7 % украинцев, 2,4 % поляков и другие[30].
Национальный состав Одессы
(по языку) на 1897 год, чел.[31][32]
Великороссы198 233(49,09 %)Евреи124 511(30,83 %)Малороссы37 925(9,39 %)Поляки17 395(4,31 %)Немцы10 248(2,54 %)Греки5 086(1,26 %)Татары1 437(0,36 %)Армяне1 401(0,35 %)Белорусы1 267(0,31 %)Французы1 137(0,28 %)Другие5 175(1,28 %)Всего403 815
В городе существовала большая еврейская диаспора. Согласно переписи населения 1897 года в Одессе проживали 124 тыс., или 30,5 % евреев по отношению ко всему населению города (404 тыс. жителей)[23][33]. После того, как в 1970-е началась широкая эмиграция в Израиль, количество евреев в городе значительно уменьшилось[25].
Национальный состав Одессы в 1989 году: 48,9 % украинцев, 39,4 % русских, 5,9 % евреев, 1,5 % болгар и представителей других национальностей.
В курортный сезон население города увеличивается за счёт туристов. По этому поводу одесситы шутливо отмечают, что в Одессе празднуют два дня освобождения города: 10 апреля — от немецко-румынских оккупантов, и 1 сентября — от отдыхающих[34].
Наличное и постоянное население города Одесса
годналичное
население,
чел.постоянное
население,
чел.источ-
ник01.1959667182…[35]01.1970891546…[36]01.19791046133…[37]01.19891115371…[38]05.12.200110290491010298[26][27]01.01.20031021064[39]01.01.20041012949[39]01.01.20051007131[39]01.01.20061002048[39]01.01.20071000583[39]01.01.20081005676[39]01.01.20091008627[39]01.11.20091009074991411[40]01.01.20101010326[39]01.11.20101008119990456[41]01.01.20111009145991500[39][42]01.01.20121008162990500[39][43]01.01.20131014852997200[39][44]01.08.20131011535993872[45]01.01.20141017022999400[39][46]01.01.20151016515998900[39][47]01.01.20161010800993200[48]01.01.20171010783993120[49]01.01.20181011494993831[2]
Символика
У Одессы есть свои герб, флаг, гимн, которые отражают статус города.
Современный герб Одессы представляет собой серебряный речной якорь с четырьмя лапами в червлёном поле. Щит на гербе расположен в золотом картуше и увенчан золотой городской короной, под которой изображён контур пятиконечной звезды, утверждён 29 июня 1999 года. Герб с изображением якоря-кошки город получил ещё в период принадлежности к Российской империи; тогда в верхней половине щита изображался двуглавый орёл. Первый Герб Одессы утверждён 22 апреля 1798 года. «В верхней золотой части щита возникающий государственный орёл, в нижней червлёной части серебряный якорь». Так как герб Одессы утверждался при Павле I, то российский орёл в верхней половине щита изображался «павловского типа» — с мальтийским крестом на груди.
Флаг города представляет собой прямоугольное полотнище с гербом по центру, разделённое по вертикали на три части — красную, белую и оранжевую. Последняя версия флага утверждена 29 апреля 2011 года.
Продолжительное время неофициальным[50] гимном города являлась «Песня об Одессе». Проект городского устава, вынесенный на общественное обсуждение 14 июня 2011 года, предлагал в качестве гимна Одессы песню Леонида Утёсова «У Чёрного моря»[51]. 25 августа 2011 года Устав территориальной громады города Одессы был утверждён[52][53], 7 октября 2011 года зарегистрирован органами юстиции[54] и согласно абзацу 2 пункта 1 статьи 5, официальным гимном города является «Песня об Одессе» из оперетты И. О. Дунаевского «Белая акация»[55][56][57].
Символы Одесского городского головы
Свою символику также имеет Одесский городской голова. 19 октября 2011 года в ходе X сессии[58] Одесского городского совета депутаты утвердили в качестве официальных символов Одесского городского головы Штандарт городского головы и «Знак городского головы». Штандарт представляет собой квадратное двустороннее с золотой бахромой полотнище, разделённое на три части — красную, белую и золотисто-жёлтую, в центре — герб города Одесса. Знак Одесского городского головы имеет форму орденской цепи, состоящей из медальона-подвески с гербом города Одессы и декоративных звеньев, расположенных в соответствующей последовательности.
Согласно решению, официальные символы городского головы вручаются новоизбранному городскому голове предыдущим городским головой или председателем городской избирательной комиссии по выборам депутатов Одесского городского совета и городского головы, как правило, в начале пленарного заседания первой сессии городского совета очередного созыва после объявления вышеуказанной комиссией решения об избрании городского головы[59].
Власть
В Российской империи Одесса была уездным центром Одесского уезда, Херсонской губернии.
Управление городом осуществляется Одесским городским советом во главе с Одесским городским головой. Исполнительный орган — исполнительный комитет (исполком) городского совета.
В Одессе существуют четыре административных района, которые управляются районными администрациями:
Киевский,
Малиновский,
Приморский,
Суворовский.
Одесса граничит с тремя районами Одесской области: Овидиопольским, Беляевским, Лиманским.
Экономика
Одесса — самый крупный морской порт Украины[60][61], транспортирующий зерно, сахар, уголь, нефтепродукты, цемент, металлы, джут, древесину, продукцию машиностроительной промышленности. База военно-морского (с 2014 года) и рыболовного флота. Крупный железнодорожный центр. Основные отрасли промышленности — обработка нефти, машиностроение, металлообработка, лёгкая, пищевая, деревообрабатывающая, сельскохозяйственная и химическая промышленность.
Ещё одной своеобразной «достопримечательностью» Одессы является «промышленно-вещевой рынок 7-й километр» (официальное название — «Авангард»; разговорное название — «Толчок», «Седьмой» или «Сёмик», являющийся самым крупным в Восточной Европе торговым комплексом подобного рода[62].
По версии наиболее упоминаемого ежегодного рейтинга журнала «Фокус» в 2011 году Одесса стала лучшим по качеству жизни городом Украины[63].
Связь
Мобильная связь в регионе представлена следующими операторами:
«Киевстар»,
«Vodafone» (ребрендинг оператора «МТС Украина»),
«Turkcell» (ТМ Lifecell),
«ТриМоб» (все в стандарте UMTS),
«Интертелеком» (стандарт CDMA-2000).
На улицах и в некоторых зеленых зонах Одессы действует бесплатный доступ в Интернет по технологии Wi-Fi (сеть City Public Internet Access) и действует бесплатно в течение 15 минут. Бесплатный Wi-Fi есть на ряде улиц в центре города, на поселке Котовского, Таирова, Черемушках[64]. Практически в каждом кафе, ресторане и отеле Одессы в центре города есть доступ к бесплатному беспроводному Интернету по технологии Wi-Fi.
В регионе действуют следующие провайдеры:
Укртелеком,
TeNeT,
Briz,
Vega
и др.
С 2012 г. созданы точки бесплатного общественного доступа к ряду онлайн-ресурсов, полезных как путешественникам, так и одесситам в рамках социальной инициативы «City Public Internet Access»[65].
Туризм
Курортная зона Одессы протянулась на десятки километров по берегу Чёрного моря. Один из самых популярных курортно-развлекательных районов Одессы — Аркадия. На его территории расположены санатории, дома отдыха, а также водолечебница, курортная поликлиника, туристическая база, гостиницы и многочисленные рестораны, созвездие ночных клубов и других увеселительных заведений, работающих в курортный сезон 24 часа в сутки.
В Одессе и вблизи неё, а также к западу от Днестра вдоль побережья Чёрного моря располагается группа бальнео-грязевых, бальнео-климатических и климатических приморских курортов государственного значения. Лечебные средства:
лечебные иловые грязи;
рапа лиманов;
морские и искусственные минеральные ванны на морской воде (углекислые, сероводородные, радоновые, кислородные, азотные);
морские купания;
солнечные и воздушные ванны (талассогелиотерапия);
виноградолечение.
Основные курорты Одессы:
бальнео-грязевые и климатические —
Аркадия (санатории для больных с заболеваниями сердечно-сосудистой и периферической нервной систем, опорно-двигательного аппарата, органов дыхания не туберкулёзного характера; взрослые и детские противотуберкулёзные санатории),
Куяльницкий (санатории, грязеводолечебница),
Лермонтовский (санаторий — база клиник Одесского института курортологии — для больных с заболеваниями сердечно-сосудистой и нервной систем, опорно-двигательного аппарата; бальнеогрязелечебница, дом отдыха, пансионаты),
Холодная Балка (санаторий для детей с последствиями полиомиелита и ревматизмом в неактивной форме);
бальнео-климатические —
Большой Фонтан (специализированный санаторий с водолечебницей для больных с заболеваниями органов пищеварения, неврологический санаторий, противотуберкулёзные взрослые и детские санатории),
Затока (санаторий для детей с костно-суставным туберкулёзом, пансионаты),
Лузановка (санатории, пионерские лагеря),
Приморское,
Черноморка (на обоих курортах — противотуберкулёзные санатории для детей и взрослых);
грязевые и климатические —
Лебедевка,
Сергеевка
Отдыхающие могут совмещать отдых в Одессе с лечением: так, прямо на Французском бульваре находится всемирно известный Институт глазных болезней и тканевой терапии им. В. П. Филатова и ряд санаториев.
Транспорт
В городе действует Международный аэропорт «Одесса». Регулярное воздушное сообщение соединяет Одессу с Веной (Austrian Airlines и Ukraine International, ежедневно), Тель-Авивом (Ukraine International), Стамбулом (Turkish Airlines), Афинами, Алеппо, Ларнакой, Киевом, Ереваном, Тбилиси, Варшавой, Дубай, Минском и рядом других городов Европы и Азии. В настоящее время строится новый терминал одесского аэропорта, а также новая взлётно-посадочная полоса, что резко увеличит его пропускную способность[66].
В городе действует железнодорожный вокзал. Пассажирские поезда регулярно курсируют между Одессой и Варшавой, Прагой, Братиславой, Веной, Берлином, Москвой, Санкт-Петербургом, основными городами Украины и многими другими городами бывшего СССР. Планируется строительство нового железнодорожного вокзала в районе 2-й Заставы[67].
В Одессе функционируют два автовокзала (Центральный автовокзал и автовокзал «Привоз»), а также автостанция «Южная». Автобусное сообщение соединяет Одессу со многими городами Украины, а также с Молдовой (Кишинёв, Бельцы, Бендеры, Атаки), Россией (Ростов-на-Дону, Краснодар, Пятигорск, Ставрополь), Германией (Берлин, Гамбург и Мюнхен), Грецией (Салоники и Афины), Болгарией (Варна и София) и другими европейскими странами.
В настоящее время регулярное пассажирское судоходство из одесского порта не осуществляется. В распоряжении Кабинета министров Украины № 548-р от 11 июля 2013 года «Об утверждении стратегии развития морских портов Украины на период до 2038 года» говорится о том, что в перспективе одесский порт будет в полном объёме осуществлять пассажирские перевозки и обслуживание круизных лайнеров[68].
Городской транспорт
Первый электрический трамвай в центре Одессы появился в 1910 году, после чего были электрифицированы все линии конно-железной дороги (конки). Его предшественником был паровой трамвай, который ходил на станции Фонтана и на Хаджибей.
Одесса обслуживается трамваями, троллейбусами, автобусами и маршрутными такси.
В советское время городская прибрежная зона обслуживалась пассажирскими катерами, а причалы располагались как в одесском морском порту, так и на многих городских пляжах — от Лузановки до Черноморки морские катера являлись полноценным видом общественного городского транспорта[69]. В наши дни причалы для морских катеров оборудованы только в порту и на пляжах Аркадия и Ланжерон, помимо рейсов между морским портом и двумя этими пляжами (рейсы в Аркадию производятся без заходов на пляж Ланжерон) осуществляются морские прогулки из одесского порта.
При советской власти в Одессе проектировался сначала метротрам, затем — метрополитен. В настоящее время строительство в Одессе двух линий метро общей протяжённостью 38 километров входит в градостроительные планы до 2022 года[70][71].
Также в городе работают фуникулёр (на Приморском бульваре, рядом с Потёмкинской лестницей) и канатная дорога (на пляже Отрада).
Монастырский фуникулёр
В резиденции Митрополита в Свято-Успенском мужском монастыре на Даче Ковалевского в районе мыса Большой Фонтан также существовал подъёмник, известный как монастырский фуникулёр[72]. Oн был сооружён в конце 1940-х[73] и просуществовал до 1980-х годов, когда был окончательно разрушен оползнем[74]. Технически этот подъёмник был наклонным лифтом, а не фуникулёром, так как представлял собой однопутную линию с наклоном около 45 градусов к горизонту, по которой перемещалась единственная кабина, уравновешивавшаяся противовесом[72].
Здание железнодорожного вокзала
Одесский трамвай
Одесский фуникулёр
Центральный Автовокзал
Одесский троллейбус
Одесский аэропорт
Образование и наука
Учебные заведения
Одесса является крупным научным и образовательным центром страны. Одесский национальный университет имени И. И. Мечникова, основанный 1 (13) мая 1865 года, является родоначальником многих действующих сегодня высших учебных заведений Одессы, основанных на базе его факультетов. Среди них можно отметить такие вузы, как:
Одесский национальный медицинский университет,
Одесский национальный экономический университет,
Национальный Университет «Одесская юридическая академия»,
Одесский государственный аграрный университет.
Также родоначальником многих одесских вузов можно назвать Одесский национальный политехнический университет (бывший ОПИ), основанный в 1918 году. На его базе были созданы такие учебные заведения, как:
Одесский национальный морской университет,
Одесская государственная академия строительства и архитектуры,
Одесская государственная академия холода,
Одесская национальная академия связи,
Одесская национальная академия пищевых технологий,
Одесский государственный экологический университет.
Во многих портах мира можно встретить выпускников Одесской национальной морской академии, Одесского национального морского университета, мореходного училища им. Маринеско ОНМА, Мореходного колледжа технического флота ОНМА и одесского мореходного училища рыбной промышленности.
Студенты Высших учебных заведений города Одессы каждые 2 года избираются в число депутатов (100 человек) Молодёжного совета при Одесском городском голове — консультативно-совещательный, представительский орган по вопросам молодёжной политики.
Наука
В Одессе располагается ряд научных институтов и лабораторий, в том числе старейший научно-исследовательский институт в системе высшего образования Украины — Научно-исследовательский институт физики Одесского национального университета имени И. И. Мечникова.
Большую площадь над самым берегом моря занимает Ботанический сад Одесского национального университета имени И. И. Мечникова.
В Одессе расположены следующие научные организации.
Медицинские:
НИИ глазных болезней и тканевой терапии им. В. П. Филатова — крупнейший в бывшем СССР офтальмологический центр (здесь работали В. П. Филатов, С. Н. Фёдоров, Н. А. Пучковская);
НИИ стоматологии АМН Украины — крупный стоматологический центр;
Украинский НИИ медицинской реабилитации и курортологии МЗ Украины;
Украинский научно-исследовательский противочумный институт им. И. И. Мечникова,
Естественно-научные:
Физико-химический институт им. Богатского НАН Украины — центр органической, биоорганической, неорганической, аналитической, каталитической и медицинской химии;
Институт морской биологии НАН Украины (реорганизован из Одесского филиала Института биологии южных морей имени А. О. Ковалевского).
Инженерно-технологический институт «Биотехника» ААН Украины — крупнейший в бывшем СССР центр по разработке и производству оборудования для биологической защиты растений. На данный момент центр практически прекратил своё существование, здание отдано под бизнес-центр, а оставшиеся сотрудники переведены на научную станцию в пгт Хлебодарское.
Кроме того, в городе существуют десятки НИИ, научных центров и проектных организаций.
Средства массовой информации
В Одессе действует свыше 60 печатных СМИ, более 20 радиостанций, примерно 19 телевизионных каналов[75], а также множество кабельных операторов.
Среди печатных СМИ более 11 общественно-политических газет, 8 рекламно-информационных газет, а также газеты бесплатных объявлений.[76]
Печатные СМИ
Афиша Одессы;
Одесский вестник;
ЮГ;
Вечерняя Одесса;
Время Ч;
Одесская правда;
Мастер Класс;
Покупай;
Чорноморські новини;
Думська площа;
Деловая Одесса+;
Одесская Жизнь;
Порто-франко;
Слово;
Свободная Одесса;
Час пик;
Вечерний город.
Телепередачи
Каламбур;
Джентльмен-шоу;
Маски-шоу;
Даю слово;
Голые и смешные
Смешной, ещё смешнее.
Телеканалы
|
ТРК «Одесса» (РИО);
Первый городской;
АРТ 24;
Град;
ТРК «Круг»;
7 канал;
GTV;
ООГТРК;
ТРК «ГЛАС»;
PLUS (ПЛЮС);
ТРК «Академия»;
Здоровье;
Репортёр;
Третий цифровой;
|
Моя Одесса;
Общественное Независимое TV (ОНТ);
Renome;
А1;
Odessa Fashion Channel (A2);
КТК;
MEDIA-ІНФОРМ;
100 %;
Страна советов;
Телерадиокомпания КТВ - Первый Одесский онлайн телеканал.
Бриз — передислоцирован из Севастополя.
Радиостанции
Спорт
Одесса — один из крупнейших на Украине центров по подготовке спортсменов. Среди них особо выделяются школы фигурного катания, шахмат, бокса, тяжёлой атлетики, стрельбы, футбола, баскетбола, альпинизма, яхтенного спорта[77].
В городе имеются несколько стадионов: «Черноморец», «Спартак», «СКА», «Динамо»; работают школа олимпийского резерва, областной стрелково-спортивный клуб, ряд детско-юношеских спортивных школ, секций.
В городе базируется футбольный клуб «Черноморец», выступающий в украинской футбольной премьер-лиге (многократные призёры Украины/СССР, двукратные обладатели Кубка Украины и Федерации футбола СССР). До 1999 г. в Одессе базировалась и другая футбольная команда — одесский СКА, с 1992 г. переименованная в СК «Одесса». В 2011 г. команда была вновь воссоздана, однако просуществовала лишь до второй половины сезона 2012/13 гг.
Долгое время в Одессе базировались женская волейбольная команда «Джинестра» (многократные Чемпионы и призёры Украины/СССР, неоднократный обладатель Еврокубков и Кубков Украины/СССР) и мужская волейбольная команда «Диамант» (многократные Чемпионы и призёры Украины/СССР, обладатель Кубка Украины/СССР).
Одесса также является домом для одноимённого мужского баскетбольного клуба (прежнее название СКА «Бипа-Мода»), многократные Чемпионы Украины, обладатели Кубка Украины и еврокубка. Команда выступает в украинской баскетбольной суперлиге.
Религия
В городе проживают представители самых различных религий, среди них: православные, а также католики, лютеране (Одесская кирха),иудеи, мусульмане, баптисты (ЕХБ), (ХВЕ), еврейская мессианская община, пятидесятники, харизматы, Свидетели Иеговы, старообрядцы, караимы, кришнаиты и др.
Культура
Известные деятели искусств
Родились и работали в Одессе:
Утёсов, Леонид Осипович — эстрадный артист и руководитель оркестра
Водяной, Михаил Григорьевич — артист оперетты, режиссёр и киноактер
Черкасский, Шура — американский и британский пианист. Родился в Одессе, в юном возрасте иммигрировал за границу
Гилельс, Эмиль Григорьевич — пианист
Ойстрах, Давид Фёдорович — скрипач
Ганькевич, Игорь Юрьевич — рок-музыкант
Ахматова, Анна Андреевна — поэтесса
Катаев, Валентин Петрович — писатель
Бабель, Исаак Эммануилович — писатель, переводчик, сценарист и журналист
Багрицкий, Эдуард Георгиевич — поэт
В Одессе жили и работали:
Муратова, Кира Георгиевна — режиссёр и автор киносценариев
Довженко, Александр Петрович — режиссёр кино
Говорухин, Станислав Сергеевич — актёр, кинорежиссёр и сценарист
Юнгвальд-Хилькевич, Георгий Эмильевич — кинорежиссёр и сценарист
Высоцкий, Владимир Семенович
поэт Бродский, Иосиф Александрович —
писатель Грин, Александр Степанович —
Пушкин, Александр Сергеевич
Гоголь, Николай Васильевич
Рихтер, Святослав Теофилович — пианист
Музеи
В Одессе функционирует более двух десятков музеев.
Театры
Видное место в культурной жизни города и страны занимает Одесский национальный академический театр оперы и балета. Его здание, построенное в 1884—1887 годах, является уникальным архитектурным сооружением. Театр знаменит своей историей. В нём бывали выдающиеся писатели и композиторы, на его сцене выступали великие певцы: Фёдор Шаляпин, Крушельницкая, Энрико Карузо, Собинов.
Кроме того, в Одессе имеются:
Одесский академический театр музыкальной комедии им. М. Водяного
Одесский академический Русский драматический театр им А. Иванова
Одесский академический украинский музыкально-драматический театр им. В. Василько
Одесская областная филармония
Одесский государственный театр юного зрителя им. Н. Островского
Одесский областной театр кукол
Одесский государственный цирк
Одесский муниципальный театр духовой музыки им. А. Салика
Одесский дом клоунов
Театральная лаборатория «Театр на Чайной»[78]
Киноискусство
С 1919 года в городе работает Одесская киностудия, а с 2010 — ежегодно проводится Одесский международный кинофестиваль.
Кинотеатры
«Звёздный»
«Золотой Дюк»
«Маски» в «Доме клоунов»
«Москва»
«Планета кино» (IMAX)[79]
«Родина» (Молдаванка)
«Одесса» — стерео-кинотеатр (с советских времён) на пл. Тираспольская (1905 года)
«Синема-сити»
арт-хаусный кинотеатр Инотеатр
«KINOSTAR» (район Поселок Котовского)
«U-cinema» — с 2015 года функционирует как концертная и фестивальная площадка Одесской киностудии
Литературная Одесса
Истории литературной Одессы посвящён Одесский государственный литературный музей. Музей стал одной из площадок Международного поэтического фестиваля «Межгород» (2009), Международного арт-фестиваля «Провинция у моря» (2012—2017), проведённых Южнорусским Союзом Писателей, а также Гоголевского Открытого Литературного Фестиваля, учреждённого в 2009 году. Самыми известными литературными периодическими изданиями являются журнал «Южное Сияние» и альманах «Дерибасовская — Ришельевская».
Одесский диалект
В Одессе существует местный диалект русского языка, подвергшийся влиянию украинского, идиш, молдавского, французского, греческого, итальянского, испанского языков.
Городские праздники
День города отмечается ежегодно 2 сентября. Праздник проводится по всему городу. Традиционно завершает праздник Гала-концерт на Потёмкинской лестнице с фейерверком.
День освобождения Одессы (от немецко-фашистских захватчиков) отмечается ежегодно 10 апреля. См. также Одесская операция 1944.
Юморина (День смеха). Этот праздник отмечается ежегодно 1 апреля. По традиции 1 апреля объявляется нерабочим днём (с последующей отработкой его в ближайшую субботу). Специфический одесский юмор славится со времён «одесской плеяды». На одесскую Юморину 1 апреля приезжает немало туристов.
25 сентября 1766 в Париже родился Арман-Эммануэль дю Плесси, герцог Ришелье (1766—1822), французский и российский государственный деятель.
В этот же день в 1789 г. отрядом генерала де Рибаса была взята турецкая крепость Хаджибей, она же будущая Одесса, основу благосостояния которой заложил знаменитый Дюк [де Ришелье]. День 25 сентября является неофициальным праздником (днём) города Одессы (как правило, с этим днём и связано одесское [шутливое] слововыражение Освобождение Одессы от отдыхающих; впрочем, город-курорт открыт для отдыхающих и посетителей круглый год).
Команды КВН
«Одесские трубочисты»;
«Деловые люди»;
«Одесские джентльмены»;
«Одесские Мансы».
Одесские команды, становившиеся чемпионами КВН[80]:
Сезон КВНКомандаВУЗ1966/1967«Одесские трубочисты»1971/1972«Деловые люди»ОИНХ1986/1987«Одесские джентльмены»ОНУ1990«Одесские джентльмены»ОНУ
Архитектура
В основном Одесса представлена архитектурой XIX—XX столетий: неоклассицизм, модерн, постмодернизм, конструктивизм. Первые здания в Одессе строились в стиле классицизма, отличались рационализмом и скупостью декора. Многонациональный состав населения привёл к тому, что в архитектуре культовых зданий отразилось византийско-греческое влияние, а в планировке и фасадных композициях жилых домов можно встретить не только итальянский и французский, но и армянский декор. Также большое влияние на облик города оказал природно-климатический характер. Применение камня-ракушечника определило кладку из крупных блоков и отсутствие мелких деталей. С целью защиты от палящего летнего зноя, широко применяли портики, лоджии, крытые галереи. Даже рыночные площади, подобно древнегреческим агорам, обрамлялись по контуру галереями. В 1820—1830-е гг. в Одессе наблюдается высший расцвет ампира, что отражало экономический взлёт города и его растущую политическую роль.
В Одессе находится знаменитая Потёмкинская лестница, имеющая сейчас 192 ступени. Светлейший князь Михаил Семёнович Воронцов подарил лестницу, обошедшуюся ему в 800 тыс. рублей, своей жене Елизавете Ксаверьевне.
В советское время лестница была переименована в память восстания на броненосце «Князь Потёмкин-Таврический» в 1905 году (до революции называлась Гигантской (по другим источникам — Ришельевской, так как у её верхнего завершения стоит памятник дюку де Ришельё). Строительство этой действительно гигантской лестницы было начато в 1837 году и закончено в 1841 году. Автором проекта был архитектор Ф. К. Боффо, который тщательно разработал пропорции сооружения, отличающегося несколькими оптическими эффектами. Поднявшись по Потёмкинской лестнице, можно попасть на Приморский бульвар. Отсюда хорошо видна панорама порта. Вдоль всего бульвара тянутся прекрасные архитектурные ансамбли, здесь же, возле одного из красивейших зданий Одессы, Городской думы, возвышается памятник великому русскому поэту Александру Сергеевичу Пушкину.
Приморский бульвар и бульвар М. Жванецкого (ранее бульвар Искусств и Комсомольский бульвар) соединяет пешеходный мост, который возведён над Военным спуском в 1968 году по проекту архитектора Владимирской и инженера Кириенко. Этот самый молодой из одесских мостов более известен в городе под названием «Тёщин мост». Не меньшей достопримечательностью является главная улица города — Дерибасовская, названная так в честь основателя города Иосифа Дерибаса, и примыкающая к ней площадь Греческая. В настоящее время бо́льшая часть улицы и площадь являются пешеходными и, вместе с примыкающим к ней Городским Садом, является одним из самых любимых мест для отдыха и прогулок жителей города и его гостей. Ранее Горсад также являлся местом выставки-продажи картин одесских художников. Теперь эту роль выполняет Соборная площадь.
Обширный массив занимает Центральный парк культуры и отдыха им. Т. Г. Шевченко, бывший Александровский парк. Там воздвигнут памятник Неизвестному матросу. Вечно горящий огонь у его подножия напоминает людям о великом подвиге защитников Одессы. Одесские катакомбы — один из самых грандиозных экскурсионных объектов Одесского региона. Они уникальны и известны тем, что являются самым большим в мире подземным лабиринтом: их общая протяжённость составляет, по приблизительным оценкам, 2500 километров[81].
center|225pxПлощадь Дюка де РишельёУлица ЛанжероновскаяПотёмкинская лестницаПриморский бульвар
Международные отношения
Города-побратимы
Ереван, Армения (с 1995 года);
Варна, Болгария (с 1958 года);
Ливерпуль, Великобритания (с 1957 года);
Сегед, Венгрия (с 1961 года);
Регенсбург, Германия (с 1990 года);
Пирей, Греция (с 1993 года);
Хайфа, Израиль (с 1992 года);
Калькутта, Индия (с 1986 года);
Лодзь, Польша (с 1993 года);
Ростов-на-Дону, Россия (с 2009 года);
Констанца, Румыния (с 1991 года);
Балтимор, США (с 1975 года);
Стамбул, Турция (с 1997 года);
Оулу, Финляндия (с 1983 года);
Марсель, Франция (с 1973 года);
Сплит Хорватия (с 1964 года);
Ванкувер Канада (с 1944 года);
Иокогама, Япония (с 1965 года).
Прекращены побратимские отношения с Триполи и Валенсией.
Города-партнёры
Вена, Австрия (с 2006 года)
Брест, Белоруссия (с 2004 года)
Минск, Белоруссия (с 1996 года)
Тбилиси, Грузия (с 1996 года)
Нинбо, Китай (с 2008 года)
Ларнака, Кипр (с 2004 года)
Клайпеда, Литва (с 2004 года)
Варшава, Польша (с 2010 года)
Гданьск, Польша (с 1996 года)
Волгоград, Россия (с 2001 года)
Москва, Россия (с 1995 года)
Санкт-Петербург, Россия (с 2002 года)
Таганрог, Россия (с 1993 года)
Вальпараисо, Чили (с 2004 года)
Таллин, Эстония (с 1997 года)
Прекращены партнёрские отношения с Любляной.
Представительства иностранных государств
В Одессе располагаются:
генеральные консульства 10 стран:
Армения;
Белоруссия;
Болгария;
Греция;
Грузия;
Китай;
Польша;
Россия;
Румыния;
Турция.
почётные консульства 7 стран:
Германия;
Казахстан;
Кипр;
Литва;
Сирия;
Словакия;
ЮАР.
консульство Молдавии.
культурные центры Болгарии, Израиля и Франции («Альянс Франсез»), а также Греческий фонд культуры.
Участие в международных организациях
Город является участником международных организаций: Eurocities, ICLEI, Лигой исторических городов и других[82].
Примечания
Литература
CS1 maint: Multiple names: authors list (link)
Ссылки
Два века каменной летописи
Одесса в каталоге ссылок Open Directory Project (dmoz)
Категория:Областные центры Украины
Категория:Города, основанные в XVIII веке
Категория:Курорты Украины
Категория:Портовые населённые пункты Украины
Категория:Порты Чёрного моря
Категория:Переименованные населённые пункты Украины
Категория:Города-миллионеры Украины
Категория:Города Одесской области
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ギャップ(Gap Inc.、NYSE:)は、アメリカの最大の衣料品の小売店の一つ。
自ら製品を企画し、自社製品として委託生産させ、自らのチェーン店で販売する製造小売業(SPA:specialty store retailer of private label apparel)という形態である。これは、1986年にGAPが提唱した概念である。
概要
カリフォルニア州、サンフランシスコに本社があり、日本、カナダ、ヨーロッパに支社を持つ。また、親会社であるギャップ株式会社は、他にオールド・ネイビーとバナナ・リパブリックという小売ブランドを傘下に持つ。2008年の同社報告書によると[3]、世界中で3100店を持ち、134,000人を雇用している。
1969年に東欧から移民したユダヤ系アメリカ人のドナルド・フィッシャー (Donald Fisher) とドリス・フィッシャー(Doris Fisher)夫婦によって始められたGAPは、ヒッピー運動と関連して注目されるようになってきた子供と大人の間、いわゆるティーン世代をターゲットにした洋服を手がけることで急成長することになる。1990年までリーバイ・ストラウス社のジーンズを店頭で扱っていたが、それ以後はプライベートブランドを販売している。
GAPの名前の由来は、ドンとドリスが友人たちと“ジェネレーション・ギャップ”について討論していたときに思いついた名前だと言う。
2007年7月からのCEOはグレン・マーフィー(Glenn Murphy)である[4]。かつてのCEOにはポール・プレスラー (Paul Pressler) がいたが、この人は、以前はディズニー社のテーマパーク部門の責任者であった。
ドナルド・フィッシャーは役員会議の会長職を辞しており、息子であるロバート・フィッシャー (Robert Fisher) がその後を継ぐと予想されている。フィッシャー一族は全体の25%の株式を保有しており、依然として大株主である。
オールド・ネイビーは1994年に第一号店を開き、ヒップホップを意識したデザインなど、低価格路線を目指している。1983年に買収したバナナ・リパブリックは、それまでのサファリをイメージした路線を捨て、高級服路線を目指している。
2004年にGAP社はドイツから撤退し、ヨーロッパでの最大の競争相手であるスウェーデンのH&M社にその店舗を売却している。
GAPの企業ロゴは1988年から使用。2010年10月に新ロゴを発表したが、従来とイメージが大きく異なり不評だったため、わずか1週間で新ロゴの採用を撤回している。その過程では消費者からデザイン案を募ったが、これも併せて撤回された[5]。ただし完全に撤回したわけではなく商品ラベルなどに使用されている場合がある。
2018年11月段階の店舗数は、世界全体で1000以上、北米市場だけでも約800の店舗を展開している[6]。
日本での事業
日本では1994年(平成6年)12月に日本法人 「ギャップジャパン株式会社」を設立し、翌1995年(平成7年)に第一号店を東京の数寄屋橋阪急内に開店した。さらに、1999年(平成11年)には旗艦店を東京・表参道の商業施設「ティーズ原宿」(渋谷区神宮前)に出店、約10年間に渡って営業していた。
2011年(平成23年)、新たな旗艦店として「Gapフラッグシップ銀座」を東京・銀座に開業。
未出店の地域
青森県
山形県
福島県
長野県
福井県
鳥取県
島根県
山口県
高知県
関連
ユニクロ(GAPをモデルに、SPA業態に転換)
出典
外部リンク
(in English)
(in Japanese)
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} | Berikut adalah daftar bupati dan wali kota petahana di Provinsi Sulawesi Tenggara. Bupati adalah kepala daerah kabupaten dan wali kota adalah kepala daerah kota.[1]
Bupati
Catatan:
1 Mulai menjabat merupakan awal periode yang saat ini sedang berjalan atau, untuk penjabat bupati, merupakan tanggal pengangkatan sebagai penjabat bupati.
2 Amir Sahaka menjadi Plt. Bupati Kolaka setelah Menteri Dalam Negeri Gamawan Fauzi menonaktifkan Bupati Buhari Matta yang terjerat kasus korupsi.
Wali kota
Catatan:
1 Mulai menjabat merupakan awal periode yang saat ini sedang berjalan atau, untuk penjabat wali kota, merupakan tanggal pengangkatan sebagai penjabat wali kota.
Referensi
Lihat pula
Daftar kabupaten dan kota di Sulawesi Tenggara
Sulawesi Tenggara | https://id.wikipedia.org/wiki/Daftar%20bupati%20dan%20wali%20kota%20di%20Sulawesi%20Tenggara |
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ซาโตชิ (Japanese: サトシ Satoshi) หรือชื่อภาษาอังกฤษว่า แอช เคตชัม (English: Ash Ketchum) เป็นตัวละครเอกของโปเกมอนฉบับอนิเมะและฉบับมังงะที่ชื่อ "Electric Tale of Pikachu" ตัวของซาโตชินั้นมาจากตัวละครหลักที่ชื่อ เรด ในเกมโปเกมอนภาคเรดและบลู ชื่อของเขาเป็นชื่อเดียวกับผู้สร้างแฟรนไชส์โปเกมอนที่ชื่อ ซะโตะชิ ทะจิริ โดยชื่อซาโตชินั้นอาจแปลได้ว่า "ปัญญา" หรือ "เหตุผล" ส่วนชื่อภาษาอังกฤษของเขานั้นมีหลายความหมาย ชื่อท้ายภาษาอังกฤษมาจากการเล่นคำจากคำว่า "Gotta Catch 'em All!" ซึ่งเป็นสโลแกนของโปเกมอนภาคแรก สำหรับชื่อแรกของเขานั้น แอช (Ash) มีตัวอักษรเหมือนกับชื่อ (S<b data-parsoid='{"dsr":[1388,1395,3,3]}'>a</b>to<b data-parsoid='{"dsr":[1397,1405,3,3]}'>sh</b>i) ยังมีคนอีกกลุ่มที่บอกว่าต้นไม้ที่ชื่อ แอช (Ash Tree) อาจเป็นที่มาของชื่อนี้ก็ได้
ประวัติ
เป้าหมายในชีวิตของซาโตชิคือการได้เป็นโปเกมอนมาสเตอร์อันดับ 1 ของโลก ซึ่งได้กล่าวไว้ในตอนแรกของอนิเมะ Pokémon - I Choose You! (Japanese: ポケモン! きみにきめた!Pokémon! I Choose You!: EP001) ซาโตชิเริ่มต้นเดินทางด้วยวัย 10 ขวบเป็นผู้ฝึกโปเกมอน (Pokémon Trainer) ซึ่งมีจิตใจเมตตา มีเจตนาดี แต่ดื้อรั้นและยังไม่เชี่ยวชาญ เขาได้รับพิคาชูตัวที่มีนิสัยไม่มีความเคารพเจ้าของจากดร.ออคิดส์ เป็นโปเกมอนเริ่มต้นเพราะเขาไม่ตั้งนาฬิกาปลุกและตื่นสายในวันที่เขาต้องมา รับโปเกมอนตัวแรก ซาโตชิตั้งใจที่จะไปถึงเป้าหมายสูงสุดให้ได้ ซึ่งการที่เขาสร้างความสัมพันธ์ที่ดีกับพิกะจู โปเกมอนคู่หูได้ จะทำให้เขาเดินทางได้ง่ายขึ้น
ตั้งแต่นั้นมา ซาโตชิได้เรียนรู้เรื่องราวมากมายเกี่ยวกับการเป็นผู้ฝึกโปเกมอน เขาจับโปเกมอนตัวแรกได้ขณะที่เขายังไม่รู้เกี่ยวกับการต่อสู้ของโปเกมอนเลย และจะไม่พอใจที่จะต้องยอมรับความผิดของเขา ยิม 5 ยิมแรกที่เขาเข้าชิงเข็มกลัดได้มอบเข็มกลัดให้เขาเพียงเพื่อขอบคุณที่ซาโตชิ ให้ความช่วยเหลือมากกว่าการชนะการต่อสู้กับผู้นำยิม ความจริงแล้วผู้นำยิมคนแรกที่ซาโตชิต่อสู้ชนะมาก็คือ มาทิส ผู้นำยิมลำดับที่ 3 ของเขตคันโต ทุกครั้งที่ซาโตชิคิดว่าเขาทำได้ดีแค่ไหน ก็มักจะถูกนำไปเปรียบเทียบกับคู่แข่งในวัยเด็กของเขาที่ชื่อ ชิเงรุ ที่ชอบเตือนซาโตชิเสมอว่าเขายังคงเหมือนเด็กเดินเดินเตาะแตะหรือเด็กอายุ 7 ขวบอยู่ และขณะที่ชิเงรุจับโปเกมอนได้ประมาณ 45 ตัว ซาโตชิเพิ่งจะจับได้ถึงตัวที่ 7 จนสถานการณ์นี้ต้องหยุดชะงักลงเมื่อลิซาด้อน โปเกมอนที่เก่งที่สุดของซาโตชิในตอนนั้น ไม่ยอมเชื่อฟังซาโตชิเนื่องจากการขาดประสบการณ์จนกระทั่งเขาได้ปรับปรุง แก้ไขตัวเองจนลิซาด้อนยอมเชื่อฟังซาโตชิในที่สุด
ซาโตชิยังคงมุ่งหน้าไปสู่เป้าหมายของเขาตลอดเวลา หลังจากเขาสะสมเข็มหลักครบทั้ง 8 อัน เขาได้เข้าร่วมแข่งขันในโปเกมอนลีกเซคิเออิ (Japanese: セキエイリーグ Sekiei League) ซาโตชิเข้ารอบลึกกว่าชิเงรุ โดยซาโตชิเข้าได้ถึงแค่รอบที่ 5 แต่ชิเงรุต้องพ่ายแพ้ในรอบที่ 4 หลังจากที่ซาโตชิทำใจได้หลังจากพ่ายแพ้โปเกมอนลีกครั้งนี้ เขาก็ปรับปรุงฝีมือของตนต่อไป เข้าร่วมต่อสู้ครั้งใหม่ และแข่งขันในโปเกมอนลีกอีกมากมาย โดยสามารถเอาชนะ<b data-parsoid='{"dsr":[3571,3588,3,3]}'>ออเร้นจ์ลีก (Japanese: オレンジリーグ Orange League) และ<b data-parsoid='{"dsr":[3628,3651,3,3]}'>แบทเทิลฟรอนเทียร์ (Japanese: バトルフロンティア Battle Frontier) ในเขตโฮเฮ็นได้
ซาโตชิมีการเปลี่ยนแปลงมากมายตลอดทั้งเรื่อง ไม่ว่าจะเป็นเรื่องทักษะการฝึกโปเกมอน แต่ความกระตือรือร้นและความมุ่งมั่นยังคงเหมือนเดิมไม่เปลี่ยนแปลง ซาโตชิเป็นคนซื่อสัตย์ และไม่เคยทอดทิ้งเพื่อน ครอบครัว และผู้ช่วยเหลือต่าง ๆ ยกเว้นโปเกมอนบางตัวของเขา ซาโตชิกลายเป็นผู้ฝึกที่เก่งกล้าได้จากการค้นหาและใช้ความแข็งแกร่งของโปเก มอนโดยอาศัยความผูกพันใกล้ชิดและค้นหาที่ที่ความสามารถนั้น ๆ ซ่อนอยู่ รวมทั้งใช้ยุทธวิธีแปลกใหม่ในการต่อสู้กับคู่ต่อสู้ เช่น ซาโตชิใช้ความเร็วของพิกะจูเอาชนะโปเกมอนตัวใหญ่กว่าและมีพลังโจมตีมากกว่า หรือได้เปรียบ และการใช้ลิซาด้อนเอาชนะคาเม็กซ์ของ ชิเงรุโดยการทำให้สนามแข่งร้อน และเข้าต่อสู้ระยะประชิดขณะที่คาเม็กซ์ลายตาจากไอที่ระเหยออกมา ซาโตชิยังสามารถฝึกโปเกมอนของเขาให้เก่งได้โดยไม่จำเป็นต้องพัฒนาร่าง ซาโตชิยังรู้สึกลังเลใจว่าจะยอมให้โปเกมอนของเขาพัฒนาเพื่อให้แข็งแกร่งขึ้น ดีหรือไม่ อย่างที่ปรากฏตอนที่เขาทำกับไกลเกอร์ ในตอน Fighting Fear With Fear! (Japanese: グライガー! 友情の翼!Gliger! Wings of Friendship!: DP085)
right|frame|200px|ซาโตชิตอนไม่ใส่หมวก
ระหว่าง เนื้อเรื่องในฤดูกาลแรก ซาโตชิไม่ได้ฝึกฝนตัวเองเพื่อให้ตัวเองก้าวหน้าแต่เป็นการจับโปเกมอนให้ได้ มากกว่าชิเงรุแทน ต่อมาซาโตชิสนใจจุดเด่นของโปเกมอนแต่ละตัวมากขึ้น ในการทัวร์สัมมนาชิโรกาเนะในเขตโจโต ซาโตชิได้ชนะการต่อสู้กับชิเงรุด้วยการเติบโตและความอ่อนน้อมถ่อมตัว ซึ่งถือว่าเป็นเหตุการณ์สำคัญในชีวิตของเขา ซาโตชิเติบโตมากขึ้นในเรื่องของความสัมพันธ์กับโปเกมอน อย่างเช่นตอนที่มังกี้ฉกหมวกของเขาไป ในตอน Primeape Goes Bananas (Japanese: おこらないでねオコリザル!Angry Okorizaru: EP025) เขาส่งเสียงร้องขอหมวกคืน แม้แต่การปืนต้นไม้เพื่อให้ได้หมวกคืนมา แต่ตอนที่เอปามทำเช่นเดียวกับแมนกี้ในตอน Slaking Kong (Japanese: 驚異!巨大ケッキングの山!! Marvel! Mountain of the Giant Kekking!!: AG179) เขาพูดเพียงแค่ว่าเขารู้สึกแปลกเมื่อไม่ได้ใส่หมวกใบนั้น
โปเกมอนอะนิเมะหลายตอน โดยเฉพาะระหว่างดำเนินเนื้อเรื่องในเขตโจโต ซาโตชิมักได้ผูกมิตรกับผู้คนที่จะคอยฝึกฝนให้เขาเป็นผู้ฝึกโปเกมอนที่เก่ง ขึ้นได้ แม้ว่าซาโตชิจะไม่ใช่เด็กที่อยู่ในการอุปถัมภ์ แต่ก็เขาก็ยังอ่อนต่อโลกและได้เรียนรู้ถึงวิธีการไว้ใจเพื่อน แม้ว่าเพื่อนของซาโตชิที่ดีที่สุดคือพิกะจู แต่ต่อมาซาโตชิได้มองเพื่อนมนุษย์ที่ใกล้ชิดได้ในระดับเดียวกับพิกะจูได้ เช่น คาสึมิและทาเคชิในตอน Gotta Catch Ya Later (Japanese: サヨナラ…そして、たびだち!Goodbye... And Then, Setting off!: EP273) รวมถึง ฮารุกะและมาซาโตะในตอน Battling the Enemy Within (Japanese: バトルピラミッド!VSレジロック!! Battle Pyramid! VS Regirock!!: AG178)
ซาโตชิได้เดินทางไปตามโลกของโปเกมอน และได้เข้าร่วมแข่งขันในการแข่งขันโปเกมอนลีกประจำเขตภูมิภาคถึง 6 ครั้ง ซึ่งยังไม่เคยได้รับชัยชนะเลยแม้แต่ครั้งเดียว แต่เขาก็ได้เรียนรู้เรื่องราวใหม่ ๆ เกี่ยวกับโปเกมอนตลอดเวลา
ซาโตชิเคยได้เห็นและสัมผัสกับโปเกมอนในตำนาน โดยเฉพาะ โฮโอ ลูเกีย ลาติอัส ลาติออส และเชมิน ในโปเกมอนฉบับภาพยนตร์เรื่องที่ 2 (The Power of One) เวอร์ชันพากย์ภาษาอังกฤษ ซาโตชิได้เป็น "ผู้ที่ได้รับเลือก" เป็นผู้ที่นำความสมดุลกลับมาสู่โลก แม้ว่าจะดูเหมือนเป็นมนุษย์ธรรมดา แต่ซาโตชิก็มีลักษณะพิเศษที่ว่าเขามีพลังคลื่นชี้นำเหมือนกับอาร์ลอน ฮีโร่ในตำนาน (ใน Lucario and the Mystery of Mew) และเขาสามารถใช้งานพลังนี้ได้เหมือนกับอาร์ลอน อย่างไรก็ตาม เขาก็ไม่ได้รับการฝึกฝนในเรื่องนี้ แต่เลือกที่จะเดินทางต่อไปแทน เขายังถูกเปรียบเทียบได้กับผู้คุ้มครองพลังคลื่นชี้นำโบราณในตอน The Keystone Pops! (Japanese: ミカルゲの要石!Mikaruge's Keystone!: DP056) ที่มีคู่หูเป็นพิกะจูเหมือนกัน ต่อมาในตอน Pokémon Ranger and the Kidnapped Riolu! Parts 1 (Japanese: ポケモンレンジャー!波導のリオル!!(前編) Pokémon Ranger! The Wave-Guiding Riolu!! (Part 1): DP071) และ Pokémon Ranger and the Kidnapped Riolu! Parts 2 (Japanese: ポケモンレンジャー!波導のリオル!!(後編) Pokémon Ranger! The Wave-Guiding Riolu!! (Part 2): DP072) ซาโตชิใช้พลังคลื่นชี้นำอีกครั้งเพื่อหาตำแหน่งที่อยู่ของโปเกมอนที่ชื่อริโอลุที่ หายไป และใช้อ่านจิตใจของริโอลุด้วย อย่างไรก็ตาม การใช้พลังงานนี้เกิดขึ้นครั้งเดียวเท่านั้น เนื่องจากริโอลุมีพลังคลื่นชี้นำที่แข็งแกร่งอย่างผิดธรรมชาติ
ซาโตชิได้รับบัตรประกวดโปเกมอนสำหรับ เขตภูมิภาคซินโน เขากล่าวไว้ว่าเขาสนใจเข้าประกวดโปเกมอนที่นี่ แต่ความจริงแล้วเขายังเคยได้รับจากเขตโฮเอ็น แต่เพียงเพื่อเข้าชมการประกวดเท่านั้น ซาโตชิยังได้นำมอนสเตอร์บอลครึ่ง ซีกติดตัวไว้ โดยอีกครึ่งซีกนั้นอยู่กับชิเงรุและเป็นสัญลักษณ์ของการเดินทางอย่างต่อ เนื่องไม่หยุดยั้ง นอกจากนี้ยังมีเหยื่อตกปลารูปคาสึมิที่คาสึมิมอบให้ซาโตชิเป็นของขวัญ และริบบิ้นครึ่งซีกที่ได้รับจากการประกวดโปเกมอนกับฮารุกะก่อนที่เธอจะออกจากกลุ่มเพื่อไปแข่งประกวดต่อในเขตโจโต
นอกจากนี้ ซาโตชิยังเป็นเด็กหนุ่มที่มีพลังพิเศษ แม้จะเดินทางเป็นสิบปีแล้ว ก็ยังอายุเท่าเดิม
ครอบครัว
ซาโตชิเคยอาศัยอยู่กับแม่ของเขาที่ชื่อ ฮานาโกะ จนกระทั่งเขาออกจากบ้านเพื่อเดินทางเป็นผู้ฝึกโปเกมอนเมื่ออายุได้ 10 ขวบ
สำหรับพ่อของซาโตชิยังไม่มีการแนะนำในอะนิเมะ บอกเป็นนัย ๆ ไว้ว่าพ่อของซาโตชิครั้งหนึ่งเป็นผู้ฝึกโปเกมอนที่เริ่มเดินทางจากเมืองมาซาระ แต่ยังไม่ทราบแน่ชัดว่าเขายังมีชีวิตอยู่หรือไม่ ในแวดวงแฟนคลับโปเกมอนมีการพูดคุยอภิปรายกันถึงบุคลิกลักษณะของพ่อของซาโตชิ ทั้ง ๆ ที่ผู้เขียนเรื่องนี้ไม่ได้มุ่งความสนใจไปที่ลักษณะมุมมองชีวิตของซาโตชิ ตัวละครในเรื่องโปเกมอนที่แฟนคลับวางตัวไว้ให้เป็นพ่อของซาโตชิมีหลายตัว เช่น ซาคากิ (บอสของแก๊งร็อคเก็ต) ดร.ออคิดส์ และซิลเวอร์ ซึ่งปรากฏตัวใน Pokémon Chronicles ตอน The Search for the Legend (Japanese: 天駆ける伝説 ヒロシとファイヤー!The Heavenly Legend, Hiroshi and Fire!: H018)
บทสัมภาษณ์ของผู้เขียนโครงเรื่องโปเกมอนยืนยันว่าพ่อของซาโตชิเป็นผู้ฝึกโปเกมอนอยู่ในเขตคันโต พ่อของซาโตชิอาจจะหรืออาจจะไม่ได้แนะนำไว้ในเนื้อเรื่อง แต่เนื้อเรื่องจะเน้นไปที่การเติบโตของซาโตชิและการพัฒนาฝีมือผู้ฝึกโปเกมอน
ซาโตชิเป็นเด็กที่แตกต่างจากตัวละครหลักตัวอื่นที่มีพี่น้อง ยกเว้นฮิคาริ เค็นจิ ไอริส เซเรน่า และ มามาเนะ
โปเกมอนของซาโตชิ
ซาโตชิได้จับโปเกมอนและเป็นมิตรกับเหล่าโปเกมอนมาตลอดเนื้อเรื่องของอนิเมะ แนวความคิดของเขาเกี่ยวกับการฝึกโปเกมอนคือโปเกมอนแต่ละตัวจะมีการผสมผสานระหว่างความเชื่อใจ มิตรภาพ และการถาโถมฝึกฝนเพื่อเอาชนะเคราะห์กรรมที่ต้องเผชิญ ซาโตชิจะต่อสู้กับโปเกมอนที่มีเหมือนกันพิคาชูได้ดีที่สุด กล่าวคือโปเกมอนที่มีความเร็ว หลบหลีกเก่ง และสามารถแสดงท่าโจมตีอันทรงพลังออกมาได้ แต่ซาโตชิก็จะใส่ใจฝึกฝนโปเกมอนที่อยู่กับเขาทุกตัวที่อยู่ในการดูแล ไม่ว่าจะเป็นตัวไหนก็ตาม รูปแบบการต่อสู้ของซาโตชิมักจะเป็นการต่อสู้แบบธรรมดาทั่วไป และผิดแผกไปจากกติกาพอสมควร และโปเกมอนของเขาเองก็ปฏิบัติเช่นนี้เช่นกัน โดยพอเมื่อเห็นโปเกมอนของตนมีความสุขกับการที่ได้เจอกับคนที่เข้าใจหรือบ้านเกิดของโปเกมอนตัวนั้น ซาโตชิจะปล่อยโปเกมอนนั้นให้เป็นอิสระหรือแลกเปลี่ยนไป เพราะเห็นว่าโปเกมอนที่ตนจับมานั้นมีความสุข พอเดินทางประจำเขตต่างๆ จะใช้โปเกมอนประจำเขตนั้น พอการเดินทางจบจะเอาโปเกมอนประจำเขตนั้นฝากให้กับดร.ออคิดส์ โดยไม่ว่าจะไปเขตไหนซาโตชิจะเอาพิคาชูเดินทางไปด้วยตลอดเวลาเคยมีครั้งหนึ่งที่เอปามแอบตามซาโตชิมาด้วย
ต่อไปนี้คือรายชื่อโปเกมอนที่ซาโตชิเป็นเจ้าของและเคยเป็นเจ้าของ
อยู่ที่ตัว
พิคาชู
โมะคุโร่
อิวังโกะ → ลูกาลูกัน
เนียบี้ → เนียฮีท
เดินทางด้วยกัน
โรตอม ↔ สมุดภาพโรตอม
เป็นโรตอมที่ดร.คุคุอิได้ถ่ายโอนข้อมูลใส่ลงไปในสมุดภาพโปกมอนเขตอโลล่า ซึ่งในเขตอโลล่านั้น โรตอมเมื่อเข้าไปอยู่ในสมุดภาพโปเกมอนแล้ว จะเป็นสมุดภาพที่ลอยไปมากับเจ้าของ ซึ่งโรตอมนั้นจะสามารถพูดโต้ตอบกับให้ข้อมูลเหมือนสมุดภาพของภูมิภาคอื่นๆ ได้ โดยดร.คุคุอิให้ซาโตชิเพื่อให้รู้เรื่องโปเกมอนในเขตอโลล่า
อยู่ที่บ้านของซาโตชิ
บาร์เรียต
อยู่กับดร.ออคิดส์
ฟุชิงิดาเนะ
เป็นโปเกมอนตัวที่ 4 ที่ซาโตชิจับได้จากป่าลึก ตั้งแต่นั้นมามันก็กลายเป็นส่วนสำคัญของทีมซาโตชิ ทั้งการต่อสู้ในระดับยิมและระดับลีก ฟุชิงิดาเนะเคยผ่านโอกาสของการพัฒนาร่าง แต่มันปฏิเสธ เพราะมันตัดสินใจที่จะอยู่ในร่างเดิมของมัน หน้าที่ของมันในศูนย์วิจัยของ ดร.ออคิดส์ ก็คือไกล่เกลี่ยปัญหาที่เกิดขึ้นระหว่างโปเกมอน ด้านความรักดูเหมือนว่ามันจะแอบมีใจให้กับฟุชิงิดาเนะเพศเมียของฮารุกะ
ฮิโตคาเงะ → ลิซาโดะ → ลิซาดอน
เป็นโปเกมอนตัวที่ 5 ของซาโตชิในเขตคันโต
แครบ → คิงเกลอร์
เป็นโปเกมอนตัวที่ 7 ของซาโตชิในเขตคันโต มันพัฒนาร่างจากการต่อสู้ในเซคิเอลีก คิงเกลอร์เป็นโปเกมอนที่แข็งแกร่งอีกตัวนึงของซาโตชิ มันค่อยสนับสนุนการต่อสู้ทั้งในเซคิเอลีกและโจโตลีก แต่เรากลับไม่ค่อยได้เห็นความสามารถของมันนอกลีกมากนัก
เบโตะเบตอน
เบโตะเบตอนถูกจับที่โรงไฟฟ้า หลังจากนั้นมันก็ถูกส่งไปยังศูนย์วิจัยของดร.ออคิดส์ทันที จนทำให้ความผูกพันที่มันมีต่อดร.ออคิดส์เพิ่มขึ้นเรื่อย ๆ อย่างไม่น่าเชื่อ บ่อยครั้งที่โผเข้ากอดดร.อย่างไม่ทันให้ตั้งตัว ถึงแม้สภาพร่างกายของมันจะมีแต่โคลน แต่มันก็ถูกเลือกเพื่อใช้ต่อสู้ในหลายลีก มันมักกระโจนทับดร.ออคิดส์ ขณะที่คุยวิดีโอคอลล์กับซาโตชิ
เคนทารอส (30 ตัว)
เคนทารอสอาศัยอยู่ในซาฟารีโซน ซาโตชิสามารถจับมันมาได้ทั้งหมด 30 ตัว ซึ่งทุกตัวอาศัยอยู่ที่ศูนย์วิจัยของดร.ออคิดส์ ทำหน้าที่วิ่งวนไปรอบศูนย์ฯ เพื่อตรวจตราความเรียบร้อย ซาโตชิมักใช้มันเพียง 1 ตัวในการต่อสู้ระดับลีกและการแข่งขันแบตเทิลฟรอนเทียร์
คาบิกอน
เฮราครอส
จิโคริตะ → เบลีฟ
ฮิโนอาราชิ → แม็กมาราชิ
วานิโนโกะ
โยรุโนะสุกุ (สีส่องประกาย)
ไข่โปเกมอน → โกมาโซะ → ดอนแฟน
ซูบาเมะ → โอซูบาเมะ
คิโมริ → จุปทอล → จูไคน์
เฮกานิ
โคตัส
ยูคิวาราชิ → โอนิโกริ
มุคุรุ → มุคุเบิร์ด → มุคุฮอร์ก
นาเอโทรุ → ฮายาชิกาเมะ → โดไดโทส
ฮิโคซารุ → โมคาซารุ → โกคาซารุ
บุยเซล
ไกลเกอร์ → ไกออน
ฟูคามารุ
มาเมพาโตะ → ฮาโตโบ → เคนโฮโรว์
มิจูมารุ
โพคาบู → ชาโอบู
สึทาจะ
ไข่โปเกมอน → ซูรูกกุ
คุรุมิรุ → คุรุมายุ → ฮาฮาโคโมริ
กามาการู
แดนโกโร่ → แกนเทิล
วารูวีลล์ → วารูเวียร์
ยายาโคมะ → ฮิโนยาโคมะ → ไฟร์แอโร่
ลูชาบูล
ไข่โปเกมอน → ออนแบต → ออนเวิร์น
อยู่ระหว่างการฝึกฝนหรือฝากไว้กับเทรนเนอร์คนอื่น
เซนิกาเมะ
โอโคริซารุ
ปล่อยไปแล้ว
คาเตอร์ปี → ทรานเซล → บัตเตอร์ฟรี
ปล่อยเพื่อไปหาคู่ผสมพันธุ์
พีเจียน → พีจ๊อต
ปล่อยเพื่อเฝ้าฝูงป็อบโปะจากฝูงโอนิซึสึเมะ
ลาพลัส
ปล่อยกลับเข้าฝูง
เคโรมัตสึ → เกโคงาชิระ → เกโคงะ ↔ ซาโตชิ เกโคงะ
ปล่อยเพื่อช่วยซีการ์ดค้นหารากไม้ปริศนาที่แก๊งแฟลร์สร้างขึ้นเพื่อทำลายภูมิภาคคาลอส
นูเมล่า → นูเมล → นูเมลก้อน
ปล่อยเพื่ออยู่ปกป้องหนองน้ำซึ่งเป็นบ้านเกิด
เวเวนอม
ปล่อยกลับเข้าอัลตร้าสเปซ
แลกเปลี่ยน
รัตตะ
เอปาม
มอบให้ผู้อื่น
สเปียร์
ไม่เป็นทางการ
โกสต์
ไข่โปเกมอน → โยกิรัส ส่งคืนที่ป่าสงวนแหล่งที่อยู่ของโยกิรัส
โฮชิกุโมะจัง
อยู่ด้วยกันเพียงชั่วคราว
โพนีต้า → แกลลอพ
โพรีก้อน
อาบ็อก
มาตาโดกัส
เนียส
โฮโฮ
ฮิโตะเดมัง
โคดัก
อัสมาโอ
ฮัสเบรโร่
ซาวามูล่า
ไรจู
บาเนบู
ทามันตะ
โมนเมน
พจจามะ
เมโลเอตต้า
หมายเหตุ: เครื่องหมาย → หมายถึง พัฒนาร่างเป็น / เครื่องหมาย ↔ หมายถึง พัฒนาร่างเมก้า
แหล่งข้อมูลอื่น
ซ | https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%8B%E0%B8%B2%E0%B9%82%E0%B8%95%E0%B8%8A%E0%B8%B4%20%28%E0%B9%82%E0%B8%9B%E0%B9%80%E0%B8%81%E0%B8%A1%E0%B8%AD%E0%B8%99%29 |
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貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、青森県弘前市出身(北海道室蘭市生まれ)の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は<b data-parsoid='{"dsr":[1123,1133,3,3]}'>花田 満(はなだ みつる)。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花の弟という血筋のよさに加え、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから、角界のプリンス</b>と呼ばれた[1]。大相撲の歴史上、また日本のスポーツ史上屈指の人気を誇った。位階は従五位旭日小綬章受章。
1993年1月場所後に次男の花田光司が四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に変え、そして1994年11月以降の四股名であり後に一代年寄名跡となった「貴乃花」にして以降は、父の方は「初代貴ノ花」または「先代貴ノ花」と呼ばれている。
来歴
相撲界へ入門
北海道室蘭市で10人兄弟の末っ子として生まれる。初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。大豪久照の義弟。第66代横綱・3代目若乃花で現タレントの花田虎上と、「平成の大横綱」と呼ばれた第65代横綱(現・一代年寄)・貴乃花光司の父。母は武ノ里武三の又従姉。夫人は元女優で現タレントの藤田紀子(当時・憲子。2001年(平成13年)離婚)。
満が誕生した時、長兄の勝治(若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、巡業がてら帰省した際に実家で初めて満と対面した。最初は結婚した姉の子供だと思っていたが、両親から「お前の弟だ」と聞かされて仰天し、「いい加減にせえや。何人産んだら気がすむんだ」と半ば呆れたという。
杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ[2]、オリンピック選手の候補になるほどだった。専門はバタフライで、100mで中学新記録を出し[3]、1968年メキシコシティーオリンピック代表でメダルも期待された高田康雄とライバル関係にあった。2人で交互に中学記録を更新したほどの実力でオリンピック候補選手だった。
しかし、兄である二子山(初代若乃花)の相撲部屋への入門を希望した。二子山はもう一人の弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため猛反対した[4]。また二子山はあるテレビ番組で『オリンピックのドン・ショランダーの活躍を見て、弟には相撲よりも水泳のオリンピック選手になってもらいたかった。』と語った。結局母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は、父が早くに亡くなった後は兄弟たちの父代わりだった)とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない(から力士になろうと思った)」という発言については、師弟揃って否定している。
入門から入幕まで
1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。兄から師匠へと立場の変わった二子山は徹底的に厳しく指導した。「弟だから甘くしている」と言われないため、二子山は貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。[5]また兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受けたとも伝わる(二子山の指導が厳しかったため、弟が仕返しされるという図式)。二子山はまた日頃より「相撲に入った以上、痛いとか苦しいということを口にするな」と教えていた。そのため貴ノ花は1965年7月場所を6勝1敗の成績で終えて序ノ口優勝を果たした後に、東京へ帰り日大病院に入院した時も病気が悪化するまで誰にも言わずに頑張った[6]。
当時まだ日本大学の相撲部員だった輪島が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をしたことがあった。年齢は輪島の方が2歳上なのだが、さすがにプロの十両力士の方が強いだろうという周囲の予想に反し、貴ノ花は学生の輪島に負けてしまった。これに怒った二子山が「おい!黒い廻し持って来い!」(お前に十両の資格はない!)と言ったというエピソードがある(稽古廻しは、十両以上は白で、幕下以下は黒、という取り決めがある)。
1965年7月場所序ノ口優勝、1968年(昭和43年)3月場所に18歳0ヶ月の史上最年少(当時)で新十両。新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立した[7]。同年5月場所に7勝8敗と負け越したものの9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕[1]は武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、これも当時の新記録であった[8]。また、これによって兄の若乃花と共に明治以降では初の兄弟幕内力士となった。[9]
なお新入幕当時、二日酔いで稽古を休もうとしたところを見つかったことがあった(当時未成年であったが、取的時代の兄弟子の強要もあり、飲酒は常態化していた)。これを見て激怒した二子山は青竹で殴って叩き起こし(聞くところによると布団が血で真っ赤になるまで叩き付けたらしい)、稽古場に連れて行ったという[10]。
入幕から大関昇進まで
新入幕の1968年11月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越し。次の3月場所は、初日黒星の後2日目に急性上気道炎のため不戦敗・途中休場。7日目から再出場したが5連敗、この場所一つも白星を挙げられず(8敗7休)に12日目に2度目の不戦敗・再休場となる。
その後一度十両に下がり、再入幕するまでの間のある時に40度の高熱を押して出場した結果肝硬変寸前の状態になったことがある[6]。1970年(昭和45年)1月場所、花田から<b data-parsoid='{"dsr":[4374,4383,3,3]}'>貴ノ花</b>と改名し再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの連日の健闘が讃えられ、会場(当時)の福岡スポーツセンターから表彰された。その後、横綱・大鵬との対戦(1971年(昭和46年)1月場所5日目)で足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて名を上げる(大鵬はこの日の敗戦を最後に引退)。大鵬との対戦成績は通算2勝3敗であった。その後も、9月場所6日目に大関・清國に足を取られながら逆転勝ちなど、驚異的な足腰の強さを発揮、角界一の人気を不動のものとした。翌7日目には横綱・玉の海と対戦、もろ差しになり土俵際まで攻めながら、差した両腕を抱えられ吊り出しに敗れた。玉の海とは7回対戦したが1度も勝てず、玉の海の堂々とした相撲ぶりや稽古熱心さを尊敬し目標としたものの、1971年10月に玉の海が急逝したためついに恩返しをすることはできなかった。また、新入幕当時からの対戦相手として羽黒岩と大麒麟(対戦当初の四股名は戸田、麒麟児)を苦手としていた。両者とも喧嘩四つ(玉の海同様、羽黒岩、大麒麟も右四つ。貴ノ花は左四つ)の相手であり、立合い一気の押し相撲を得意とする羽黒岩には通算3勝9敗(1不戦敗を含む、貴ノ花が大関昇進後も1勝3敗)、柔軟で差し身が良く腰の重い大麒麟には通算6勝13敗(貴ノ花が大関昇進後も2勝6敗)と、玉の海同様苦手な対戦相手だった。
大鵬の1人勝ちにより低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは貴ノ花が幕内に登場したのがきっかけであるとされている[11]。
「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦(1972年(昭和47年)1月場所8日目)は、立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵に着いた。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助は千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となった。当時の映像(正面から)を見ると、どちらが有利か際どい内容である。一方、死に体の判断では足の形が重要な基準となるが、写真を見ると(東方からのものが多い)貴ノ花の両足はつま先立ちながらも、足の指でしっかりと土俵を噛んでおり、北の富士をうっちゃろうとする力にあふれているようにも見える。
なお、翌3月場所7日目に両者は再戦、このときも土俵際でもつれる展開となり、またも行司差し違え(このときの行司は22代式守伊之助)、今度は北の富士が勇み足を取られ敗れている(取組後に北の富士は「“かばい手”はあるのに“かばい足”はないのか」と語ったといい、2016年に出版された自著では「僕は自分の顔をかばっただけ」と改めてかばい手であると主張[12])。こうした貴ノ花の強靭な足腰、奇跡的な逆転勝利の連続に対し、当時の相撲解説者・玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフを残した。
同門の花籠部屋に入門した輪島とはライバル同士になり、激しい争いを演じた。その一方、プライベートでは大の親友だったとも言われている。両者大関取りとなる1972年9月場所千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に二人が揃って大関に昇進した[1]。貴ノ花は昇進前3場所で33勝挙げた一方、直近場所が10勝どまりであった点で注文が付いたが、前述の熱戦が評価されたことや、輪島と一時代を築き上げることが待望されていたことが後押しになって大関推挙が実現した[13]。この千秋楽は当時の皇太子一家(今上天皇、美智子皇后、現皇太子、秋篠宮)が観戦しており、この大熱戦に大喜びした様子がNHKのテレビ中継を通して全国に流れた。
大関昇進当初、貴ノ花は「自分の場合は、周りが大関、大関と騒いでくれたのが結果的に良くって、なれたものと思う」と自分が昇進の機運に乗っかって昇進したと自覚するところを語り、大関昇進伝達式の使者が来るまで昇進を実感できなかったという[14]。またこの頃、体力的な問題について記者から聞かれた時には「自分じゃ無理に体重を増やしてもかえっていけないと思っているが……総合的な体力は、そりゃもっと強くしたいがね。それよりもこのままの体でもっと強くなればいい」と答えている[15]。太れなかったことに関しては、後に北の富士が「貴ノ花の阿佐ヶ谷の頃の部屋の食事を見たら、野菜中心。まあ、肉も食べてたんだろうけど」と当時について証言している[16]。
大関時代
輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱を取ったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは「貴輪時代」(きりん じだい)を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖に実力面で追い抜かれ、「輪湖時代」(りんこ じだい)が訪れることになったのである。
1974年(昭和49年)7月場所の貴ノ花は、休場明けで体調が万全でなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った。この一番は、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の一つとして記憶されることになる。北の湖は11日目まで全勝で、横綱輪島に2差をつけ優勝を手中に収めたと思われていたが、この貴ノ花戦で敗れたこともあって千秋楽には1差を逆転され、輪島に優勝を奪われた。ただし前の場所で優勝していた北の湖は、場所後に横綱に昇進している。
1975年(昭和50年)ごろのある時から、貴ノ花は「ただガマンすることではダメなのだ。ガマンをしたって病気は悪くこそなれ、良くはならない。悪いところを治療していかなければならない」ということに気づいた。以来、稽古が終わって風呂をあがると温湿布を約20分間続け、東京にいるときは温湿布の他に特殊な器具で首と腰椎を引き延ばす治療も行い、外出する時には腰にカイロを入れ保温することを忘れなかった。そうした努力もあってか、3月場所には場所中に若三杉と毎朝10番から20番取ってもスタミナ切れを起こさない体が出来上がり、11日目の豊山を終えた時点で「今場所は疲れはほとんど残っていない。まだ5分ぐらいの長い相撲を3倍ぐらいとっても平気だ」といつになく強気な言葉を吐いていた[17]。千秋楽は、13勝1敗の貴ノ花と12勝2敗の北の湖の対戦となり、貴ノ花は勝てば初優勝だったが、負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込んだ。休憩時間に北の湖は床山に髷を整えてもらう中黙想していたのに対し、貴ノ花は支度部屋で乱れた髷もそのままに黙々と四股を踏み続けていたという。決定戦で貴ノ花は仕切り2回目でつっかけ、北の湖もこれに対して4回目の仕切りでつっかけた。しかし時間いっぱいになってからはお互いにけん制して立てず、制限時間後4回目に立った。北の湖は右で上手を引き、貴ノ花は左を引きつけ、左に頭を下げて食いついた。正面土俵で北の湖は強引な上手投げを放ったが、腰の据わっている貴ノ花はぐっとこらえた。貴ノ花は右手を送り、左手を浅く入れてぐっと腰を落とし西土俵によって出ると、北の湖はこらえきれずに土俵を割った[18]。北の湖を下し、悲願の初優勝を果たした[1]。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となったが、これも貴ノ花の人気がいかに凄まじかったかを物語るものである。優勝旗は本来なら審判部長の高砂が渡すべきところだったが、協会の粋な計らいによって、兄であり師匠でもある二子山審判部副部長の手から渡された。優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目には涙が浮かんでいたのを相撲中継のカメラが捉えた。二子山はこの優勝劇に対して「ワシが部屋を持って13年。早く関取を出したいとは思ったが、まさか、13年目で優勝力士が出るとは思わなかった。貴ノ花は妻を持ち、子を持ち、人の親となって大きく成長した。技術的にはまだまだだが、今度は、当然横綱を目ざさなくてはならない。そのためには今までどおり、相撲に関しては兄でも弟でもない師匠として厳しく鍛えていかなければならないと思う。花田家はオクテだから、貴ノ花が本当の力を発揮するのはこれからと信じている。最高位を目ざし、相撲命の灯が消えた時、兄弟として盃をくみかわしたい。それまでは横綱を目ざして2人で頑張る……」とコメントしている[19]。大鵬親方も「わずか2場所ぐらいの間にこんなに大きく変わった人も珍しい。相撲の取り口もガラッと変わったし、精神的にも著しい成長の跡が伺える」と驚きの声を上げていた[19]。
同年9月場所にも北の湖との優勝決定戦を制し12勝3敗で2回目の優勝[1]。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず、綱取りは果たせなかった。このころから腎臓病や足の怪我に悩まされていたといわれ、開運を期待して<b data-parsoid='{"dsr":[9037,9046,3,3]}'>貴乃花</b>と改名もしたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻している。
結局のところ優勝はこの1975年の2回のみで、この頃が力士としての全盛期だったといえる。以後はゆるやかに力が衰えていき、大関在位50場所という当時史上1位の記録は立てたが、優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1977年(昭和52年)1月場所に12勝3敗、翌3月場所に13勝2敗と2差ながら優勝次点の成績を収めた時を例外として、以後は新聞記事で「貴ノ花」の名が「横綱」の文字に絡むことも絶えた。
当時最大級の巨漢だった高見山との取組は牛若丸と弁慶との対決にもたとえられる大相撲きってのゴールデンカードとして知られた。45回対戦し、貴ノ花の29勝16敗だったが、数々の名勝負が生まれている。両者最後の対戦となった1980年(昭和55年)9月場所7日目の取組では、土俵際での高見山の左小手投げと貴ノ花の右掬い投げの打ち合いで、高見山の右手が先に落ちたように見え、行司二代目式守伊三郎の軍配も貴ノ花に上がった。しかし物言いがつき、貴ノ花の髷の先端がわずかに早く土俵に付いたとして、軍配差し違えで高見山の勝ちとなった。投げの打ち合いの際、貴ノ花は一切手を付かなかったため、鼻を土俵に強打して出血していた。取組後のインタビューで、アナウンサーの「髷がなければ勝っていましたね」という問いに対し、「髷がなければ相撲なんて取れないよ」と返した機転でも有名になった。
弟弟子である横綱・二代目若乃花が北の湖と優勝を争った際には、見事な援護射撃も行っている。この頃までには、脂が乗り切った大横綱の北の湖との取組ではよほどのことがない限り貴ノ花が勝つことはなくなっていた。ところが貴ノ花は立合いで一瞬の変化を見せ、北の湖は全く為す術もなくあっさりと土俵を割ってしまった。北の湖は取組の後で「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった」と語っている。貴ノ花が本場所の土俵で立合いの変化を見せたのはこの一回だけだと言われており、これも貴ノ花の土俵態度をよく物語る逸話の一つとして知られている。
30歳で現役引退
1980年(昭和55年)1月場所は、7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と、背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げ、なんとか面目躍如となったものの、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。
1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。自分と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって、千代の富士はきっぱりとタバコを止めたという。その後千代の富士は「貴ノ花関のおかげで横綱になれた」とも語っている。
なお、後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子である貴花田に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけと言われている。また、千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、これも同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。
その翌場所、1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の、大関在位50場所目を迎えた(現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海と魁皇に次いで歴代3位)。しかし序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳11か月でついに土俵を去っていった(7日目は引退により不戦敗、成績は2勝5敗)。実は、貴ノ花自身は翌7日目の対戦相手である朝汐戦を最後の相撲として取りたかったそうだが、師匠の二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ」と止められたという。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ」と喜んでいる[10]。
朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは引退を惜しむファンから「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日の実況を担当した、当時のNHKアナウンサー:杉山邦博は「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた後に、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(この事から後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている)。その杉山の状況を察した、解説の玉ノ海は機転を利かせて、しばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この場所貴ノ花は、力の衰えを感じそれを体重でカバーする為に禁煙を試みたものの、却って体調不安を起こす結果になった。[20]長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での現役引退だった。ちなみに貴ノ花の子息である長男・3代若乃花は29歳2か月、次男・貴乃花は30歳5か月と、父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。
年寄時代
引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦は藤島部屋の稽古について「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていた」と後年振り返っている[21]。歴史学者で江戸東京博物館名誉館長の竹内誠は、部屋の新弟子が相撲教習所に入所する度に藤島が挨拶に出向いたことを話しており、親方としての礼儀正しさを評価している[22]。しかしその反面、パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成は苦手で、豊ノ海、五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず、期待にこたえることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼と藤ノ花は関取にすらなることができなかった。
1993年、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称)。
日本相撲協会では1992年に監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰、2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。
晩年・55歳で早世
2003年秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は公には「口内炎」と発表していた。なお入院時には<!--、自身の弱っていく姿を他人に見せたくなかったからか、-->北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からの見舞いはほとんど断っていたという。
2005年1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。しかし、投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登ることが出来ず、呼出の手を借りなければならないほど、体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影はほとんど失われ、まるで別人のように衰えた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。
この頃から重病説などが囁かれるようになったこともあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された(現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因とも言われる)。その後、二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。55歳だった。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が生涯最後の公の姿となった。
自ら手塩にかけ育て上げた2人の愛息子であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001年に離婚するなど、現役時代「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。
6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には、両国国技館に於いて北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つが在る。
家系図
┏━━━━┓
○ ○
┃ ┃
○ ○
┃ ┏━┻━┓
男━┳━女 吉崎 武ノ里
┏━━┻━┳━━━━┳━━━━━━━┓
貴ノ花 若緑 ちえ子=大豪 初代若乃花
┏━━━┻━━━┓ ┃
貴乃花 3代若乃花 女=2代若乃花
主な成績
通算成績:726勝490敗58休 勝率.597
幕内成績:578勝406敗58休 勝率.587
大関成績:422勝278敗42休 勝率.603
現役在位:95場所
幕内在位:70場所
大関在位:50場所(当時1位、現在歴代3位)
三役在位:11場所 (関脇6場所、小結5場所)
三賞:9回
殊勲賞:3回 (1970年9月場所、1971年5月場所、1971年7月場所)
敢闘賞:2回 (1972年7月場所、1972年9月場所)
技能賞:4回 (1971年3月場所、1971年9月場所、1972年5月場所、1972年7月場所)
金星:1個(北の富士1個)
各段優勝
幕内最高優勝:2回 (1975年3月場所、1975年9月場所)
十両優勝:2回 (1968年9月場所、1969年11月場所)
序ノ口優勝:1回 (1965年7月場所)
場所別成績
改名歴
花田 満(はなだ みつる) 1965年5月場所 - 1969年11月場所
貴ノ花 満(たかのはな - ) 1970年1月場所 - 1973年7月場所
貴ノ花 利章( - としあき) 1973年9月場所 - 1973年11月場所
貴ノ花 利彰( - としあき) 1974年1月場所 - 1974年3月場所
貴ノ花 満郎( - みつお)[31] 1974年5月場所 - 1974年7月場所
貴ノ花 健士( - けんし) 1974年9月場所 - 1977年9月場所
貴乃花 健士(たかのはな - ) 1977年11月場所 - 1978年5月場所
貴ノ花 利彰(たかのはな としあき) 1978年7月場所 - 1981年1月場所
年寄変遷
鳴戸 満(なると みつる) 1981年1月 - 1981年12月
藤島 利彰(ふじしま としあき) 1981年12月 - 1993年2月
二子山 利彰(ふたごやま としあき) 1993年2月 - 1995年11月
二子山 満( - みつる) 1995年11月 - 2005年5月(死去)
歌
テレビCM
パンアメリカン航空(柳生博と共演、1983年)
霊友会(師匠・二子山や息子達と共演)
資生堂「アウスレーゼ」「WAVY BOY」(輪島大士…当時の花籠と共演)
サントリー「ナマ樽」(成田三樹夫・田中好子・桂三枝(現・六代目桂文枝)→レオナルド熊・高見知佳→所ジョージ・田中美佐子と共演)
紀文「越前棒」(憲子夫人と共演)
黄桜「本造り」
脚注
参考文献
『あたって砕けろ: 貴ノ花自伝』(講談社、1975年)
『裸の交友番付』(スポニチ出版、1981年、ISBN 4790309088)
『土俵の鬼 三代』(杉山邦博著、講談社、1992年)
『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p102-104
『大関にかなう』(文春文庫、石井代蔵著、1988年)ISBN 4-16-747501-4
『大相撲杉並場所展: 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年)
ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)
関連項目
日馬富士公平(貴ノ花を尊敬しており、彼の相撲を参考にしているという)
外部リンク
- goo 大相撲
- Internet Archiveのキャッシュ
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The barn swallow (Hirundo rustica) is the most widespread species of swallow in the world.[2] It is a distinctive passerine bird with blue upperparts and a long, deeply forked tail. It is found in Europe, Asia, Africa and the Americas. In Anglophone Europe it is just called the swallow; in Northern Europe it is the only common species called a "swallow" rather than a "martin".[3]
There are six subspecies of barn swallow, which breed across the Northern Hemisphere. Four are strongly migratory, and their wintering grounds cover much of the Southern Hemisphere as far south as central Argentina, the Cape Province of South Africa, and northern Australia. Its huge range means that the barn swallow is not endangered, although there may be local population declines due to specific threats.
The barn swallow is a bird of open country that normally uses man-made structures to breed and consequently has spread with human expansion. It builds a cup nest from mud pellets in barns or similar structures and feeds on insects caught in flight.[4] This species lives in close association with humans, and its insect-eating habits mean that it is tolerated by humans; this acceptance was reinforced in the past by superstitions regarding the bird and its nest. There are frequent cultural references to the barn swallow in literary and religious works due to both its living in close proximity to humans and its annual migration.[5] The barn swallow is the national bird of Estonia.
Description
The adult male barn swallow of the nominate subspecies H. r. rustica is 17–19cm (6.7–7.5in) long including 2–7cm (0.79–2.76in) of elongated outer tail feathers. It has a wingspan of 32–34.5cm (12.6–13.6in) and weighs 16–22g (0.56–0.78oz). It has steel blue upperparts and a rufous forehead, chin and throat, which are separated from the off-white underparts by a broad dark blue breast band. The outer tail feathers are elongated, giving the distinctive deeply forked "swallow tail". There is a line of white spots across the outer end of the upper tail.[4] The female is similar in appearance to the male, but the tail streamers are shorter, the blue of the upperparts and breast band is less glossy, and the underparts paler. The juvenile is browner and has a paler rufous face and whiter underparts. It also lacks the long tail streamers of the adult.[2]
The song of the barn swallow is a cheerful warble, often ending with su-seer with the second note higher than the first but falling in pitch. Calls include witt or witt-witt and a loud splee-plink when excited (or trying to chase intruders away from the nest).[4] The alarm calls include a sharp siflitt for predators like cats and a flitt-flitt for birds of prey like the hobby.[6] This species is fairly quiet on the wintering grounds.[7]
The distinctive combination of a red face and blue breast band render the adult barn swallow easy to distinguish from the African Hirundo species and from the welcome swallow (Hirundo neoxena) with which its range overlaps in Australasia.[2] In Africa the short tail streamers of the juvenile barn swallow invite confusion with juvenile red-chested swallow (Hirundo lucida), but the latter has a narrower breast band and more white in the tail.[8]
Taxonomy
The barn swallow was described by Linnaeus in his Systema Naturae in 1758 as Hirundo rustica, characterised as H. rectricibus, exceptis duabus intermediis, macula alba notatîs.[9] Hirundo is the Latin word for "swallow"; rusticus means "of the country".[10] This species is the only one of that genus to have a range extending into the Americas, with the majority of Hirundo species being native to Africa. This genus of blue-backed swallows is sometimes called the "barn swallows".[2][3]
The Oxford English Dictionary dates the English common name "barn swallow" to 1851,[11] though an earlier instance of the collocation in an English-language context is in Gilbert White's popular book The Natural History of Selborne, originally published in 1789:
The swallow, though called the chimney-swallow, by no means builds altogether in chimnies [sic], but often within barns and out-houses against the rafters... In Sweden she builds in barns, and is called ladusvala, the barn-swallow.[12]
This suggests that the English name may be a calque on the Swedish term.
There are few taxonomic problems within the genus, but the red-chested swallow—a resident of West Africa, the Congo basin, and Ethiopia—was formerly treated as a subspecies of barn swallow. The red-chested swallow is slightly smaller than its migratory relative, has a narrower blue breast-band, and (in the adult) has shorter tail streamers. In flight, it looks paler underneath than barn swallow.[8]
Subspecies
Six subspecies of barn swallow are generally recognised. In eastern Asia, a number of additional or alternative forms have been proposed, including saturata by Robert Ridgway in 1883,[13] kamtschatica by Benedykt Dybowski in 1883,[14] ambigua by Erwin Stresemann[15] and mandschurica by Wilhelm Meise in 1934.[13] Given the uncertainties over the validity of these forms,[14][16] this article follows the treatment of Turner and Rose.[2]
H. r. rustica, the nominate European subspecies, breeds in Europe and Asia, as far north as the Arctic Circle, south to North Africa, the Middle East and Sikkim, and east to the Yenisei River. It migrates on a broad front to winter in Africa, Arabia, and the Indian subcontinent.[2] The barn swallows wintering in southern Africa are from across Eurasia to at least 91°E,[17] and have been recorded as covering up to 11,660km (7,250mi) on their annual migration.[18] The nominate European subspecies was the first to have its genome sequenced and published. [19]
H. r. transitiva was described by Ernst Hartert in 1910. It breeds in the Middle East from southern Turkey to Israel and is partially resident, though some birds winter in East Africa. It has orange red underparts and a broken breast band.[2]
H. r. savignii, the resident Egyptian subspecies, was described by James Stephens in 1817 and named for French zoologist Marie Jules César Savigny.[20] It resembles transitiva, which also has orange-red underparts, but savignii has a complete broad breast band and deeper red hue to the underparts.[6]
H. r. gutturalis, described by Giovanni Antonio Scopoli in 1786,[13] has whitish underparts and a broken breast band. Breast chestnut and lower underparts more pink-buff.[21] The populations that breed in the central and eastern Himalayas have been included in this subspecies,[22] although the primary breeding range is Japan and Korea. The east Asian breeders winter across tropical Asia from India and Sri Lanka[23] east to Indonesia and New Guinea. Increasing numbers are wintering in Australia. It hybridises with H. r. tytleri in the Amur River area. It is thought that the two eastern Asia forms were once geographically separate, but the nest sites provided by expanding human habitation allowed the ranges to overlap.[2] H. r. gutturalis is a vagrant to Alaska and Washington,[24] but is easily distinguished from the North American breeding subspecies, H. r. erythrogaster, by the latter's reddish underparts.[2]
H. r. tytleri, first described by Thomas Jerdon in 1864, and named for British soldier, naturalist and photographer Robert Christopher Tytler,[13] has deep orange-red underparts and an incomplete breast band. The tail is also longer.[21] It breeds in central Siberia south to northern Mongolia and winters from eastern Bengal east to Thailand and Malaysia.[2]
H. r. erythrogaster, the North American subspecies described by Pieter Boddaert in 1783,[13] differs from the European subspecies in having redder underparts and a narrower, often incomplete, blue breast band. It breeds throughout North America, from Alaska to southern Mexico, and migrates to the Lesser Antilles, Costa Rica, Panama and South America to winter.[7] A few may winter in the southernmost parts of the breeding range. This subspecies funnels through Central America on a narrow front and is therefore abundant on passage in the lowlands of both coasts.[25]
The short wings, red belly and incomplete breast band of H. r. tytleri are also found in H. r. erythrogaster, and DNA analyses show that barn swallows from North America colonised the Baikal region of Siberia, a dispersal direction opposite to that for most changes in distribution between North America and Eurasia.[26]
Behaviour
Habitat and range
The preferred habitat of the barn swallow is open country with low vegetation, such as pasture, meadows and farmland, preferably with nearby water. This swallow avoids heavily wooded or precipitous areas and densely built-up locations. The presence of accessible open structures such as barns, stables, or culverts to provide nesting sites, and exposed locations such as wires, roof ridges or bare branches for perching, are also important in the bird's selection of its breeding range.[4]
It breeds in the Northern Hemisphere from sea level to typically 2,700m (8,900ft),[27] but to 3,000m (9,800ft) in the Caucasus[4] and North America,[28] and it is absent only from deserts and the cold northernmost parts of the continents. Over much of its range, it avoids towns, and in Europe is replaced in urban areas by the house martin. However, in Honshū, Japan, the barn swallow is a more urban bird, with the red-rumped swallow (Cecropis daurica) replacing it as the rural species.[2]
In winter, the barn swallow is cosmopolitan in its choice of habitat, avoiding only dense forests and deserts.[29] It is most common in open, low vegetation habitats, such as savanna and ranch land, and in Venezuela, South Africa and Trinidad and Tobago it is described as being particularly attracted to burnt or harvested sugarcane fields and the waste from the cane.[7][30][31] In the absence of suitable roost sites, they may sometimes roost on wires where they are more exposed to predators.[32] Individual birds tend to return to the same wintering locality each year[33] and congregate from a large area to roost in reed beds.[30] These roosts can be extremely large; one in Nigeria had an estimated 1.5 million birds.[34] These roosts are thought to be a protection from predators, and the arrival of roosting birds is synchronised in order to overwhelm predators like African hobbies. The barn swallow has been recorded as breeding in the more temperate parts of its winter range, such as the mountains of Thailand and in central Argentina.[2][35]
Migration of barn swallows between Britain and South Africa was first established on 23 December 1912 when a bird that had been ringed by James Masefield at a nest in Staffordshire, was found in Natal.[36] As would be expected for a long-distance migrant, this bird has occurred as a vagrant to such distant areas as Hawaii, Bermuda, Greenland, Tristan da Cunha the Falkland Islands,[2] and even Antarctica.[37]
Feeding
The barn swallow is similar in its habits to other aerial insectivores, including other swallow species and the unrelated swifts. It is not a particularly fast flier, with a speed estimated at about 11m/s, up to 20m/s and a wing beat rate of approximately 5, up to 7–9 times each second.[38][39]
The barn swallow typically feeds in open areas[40] 7–8m (23–26ft) above shallow water or the ground often following animals, humans or farm machinery to catch disturbed insects, but it will occasionally pick prey items from the water surface, walls and plants.[4] In the breeding areas, large flies make up around 70% of the diet, with aphids also a significant component. However, in Europe, the barn swallow consumes fewer aphids than the house or sand martins.[4] On the wintering grounds, Hymenoptera, especially flying ants, are important food items.[2] When egg-laying, barn swallows hunt in pairs, but will form often large flocks otherwise.[2]
The amount of food a clutch will get depends on the size of the clutch, with larger clutches getting more food on average. The timing of a clutch also determines the food given; later broods get food that is smaller in size compared to earlier broods. This is because larger insects are too far away from the nest to be profitable in terms of energy expenditure.[41]
Isotope studies have shown that wintering populations may utilise different feeding habitats, with British breeders feeding mostly over grassland, whereas Swiss birds utilised woodland more.[42] Another study showed that a single population breeding in Denmark actually wintered in two separate and different areas.[43]
The barn swallow drinks by skimming low over lakes or rivers and scooping up water with its open mouth.[28] This bird bathes in a similar fashion, dipping into the water for an instant while in flight.[33]
Swallows gather in communal roosts after breeding, sometimes thousands strong. Reed beds are regularly favoured, with the birds swirling en masse before swooping low over the reeds.[6] Reed beds are an important source of food prior to and whilst on migration; although the barn swallow is a diurnal migrant that can feed on the wing whilst it travels low over ground or water, the reed beds enable fat deposits to be established or replenished.[44]
Breeding
The male barn swallow returns to the breeding grounds before the females and selects a nest site, which is then advertised to females with a circling flight and song.[4] Plumage may be used to advertise: in some populations, like in the subspecies H. r. gutturalis, darker ventral plumage in males is associated with higher breeding success. In other populations,[45] the breeding success of the male is related to the length of the tail streamers, with longer streamers being more attractive to the female.[4][46] Males with longer tail feathers are generally longer-lived and more disease resistant, females thus gaining an indirect fitness benefit from this form of selection, since longer tail feathers indicate a genetically stronger individual which will produce offspring with enhanced vitality.[47] Males in northern Europe have longer tails than those further south; whereas in Spain the male's tail streamers are only 5% longer than the female's, in Finland the difference is 20%. In Denmark, the average male tail length increased by 9% between 1984 and 2004, but it is possible that climatic changes may lead in the future to shorter tails if summers become hot and dry.[48]
Males with long streamers also have larger white tail spots, and since feather-eating bird lice prefer white feathers, large white tail spots without parasite damage again demonstrate breeding quality; there is a positive association between spot size and the number of offspring produced each season.[49]
The breeding season of the barn swallow is variable; in the southern part of the range, the breeding season usually is from February or March to early to mid September, although some late second and third broods finish in October. In the northern part of the range, it usually starts late May to early June and ends the same time as the breeding season of the southernmost birds.[50]
Both sexes defend the nest, but the male is particularly aggressive and territorial.[2] Once established, pairs stay together to breed for life, but extra-pair copulation is common, making this species genetically polygamous, despite being socially monogamous.[51] Males guard females actively to avoid being cuckolded.[52] Males may use deceptive alarm calls to disrupt extrapair copulation attempts toward their mates.[53]
As its name implies, the barn swallow typically nests inside accessible buildings such as barns and stables, or under bridges and wharves.[54] Before man-made sites became common, it nested on cliff faces or in caves, but this is now rare.[2] The neat cup-shaped nest is placed on a beam or against a suitable vertical projection. It is constructed by both sexes, although more often by the female, with mud pellets collected in their beaks and lined with grasses, feathers, algae[54] or other soft materials.[2] The nest building ability of the male is also sexually selected; females will lay more eggs and at an earlier date with males who are better at nest construction, with the opposite being true with males that are not.[55] After building the nest, barn swallows may nest colonially where sufficient high-quality nest sites are available, and within a colony, each pair defends a territory around the nest which, for the European subspecies, is 4 to 8m2 (43 to 86sqft) in size. Colony size tends to be larger in North America.[28]
In North America at least, barn swallows frequently engage in a mutualist relationship with ospreys. Barn swallows will build their nest below an osprey nest, receiving protection from other birds of prey that are repelled by the exclusively fish-eating ospreys. The ospreys are alerted to the presence of these predators by the alarm calls of the swallows.[28]
There are normally two broods, with the original nest being reused for the second brood and being repaired and reused in subsequent years. The female lays two to seven, but typically four or five, reddish-spotted white eggs.[2] The clutch size is influenced by latitude, with clutch sizes of northern populations being higher on average than southern populations.[56] The eggs are 20mm ×14mm (0.79in ×0.55in) in size, and weigh 1.9g (0.067oz), of which 5% is shell. In Europe, the female does almost all the incubation, but in North America the male may incubate up to 25% of the time. The incubation period is normally 14–19 days, with another 18–23 days before the altricial chicks fledge. The fledged young stay with, and are fed by, the parents for about a week after leaving the nest. Occasionally, first-year birds from the first brood will assist in feeding the second brood.[2] Compared to those from early broods, juvenile barn swallows from late broods have been found to migrate at a younger age, fuel less efficiently during migration and have lower return rates the following year.[57]
The barn swallow will mob intruders such as cats or accipiters that venture too close to their nest, often flying very close to the threat.[47] Adult barn swallows have few predators, but some are taken by accipiters, falcons, and owls. Brood parasitism by cowbirds in North America or cuckoos in Eurasia is rare.[4][28]
Hatching success is 90% and the fledging survival rate is 70–90%. Average mortality is 70–80% in the first year and 40–70% for the adult. Although the record age is more than 11 years, most survive less than four years.[2] Barn swallow nestlings have prominent red gapes, a feature shown to induce feeding by parent birds. An experiment in manipulating brood size and immune system showed the vividness of the gape was positively correlated with T-cell–mediated immunocompetence, and that larger brood size and injection with an antigen led to a less vivid gape.[58]
The barn swallow has been recorded as hybridising with the cliff swallow (Petrochelidon pyrrhonota) and the cave swallow (P. fulva) in North America, and the house martin (Delichon urbicum) in Eurasia, the cross with the latter being one of the most common passerine hybrids.[47]
Eggs in the Muséum de Toulouse
A chick less than an hour after being born
Chicks and eggs in a nest with horse hair lining
Older chicks in nest
Juvenile being fed
Parasites and predators
Barn swallows (and other small passerines) often have characteristic feather holes on their wing and tail feathers. These holes were suggested as being caused by avian lice such as Machaerilaemus malleus and Myrsidea rustica, although other studies suggest that they are mainly caused by species of Brueelia. Several other species of lice have been described from barn swallow hosts, including Brueelia domestica and Philopterus microsomaticus.[59][60] The avian lice prefer to feed on white tail spots, and they are generally found more numerously on short-tailed males, indicating the function of unbroken white tail spots as a measure of quality.[61] In Texas, the swallow bug (Oeciacus vicarius), which is common on species such as the cliff swallow, is also known to infest barn swallows.[62]
Predatory bats such as the greater false vampire bat are known to prey on barn swallows.[63] Swallows at their communal roosts attract predators and several falcon species make use of these opportunities. Falcon species confirmed as predators include the peregrine falcon[64] and the African hobby.[34]
Status
The barn swallow has an enormous range, with an estimated global extent of 51,700,000km2 (20,000,000sqmi) and a population of 190 million individuals. The species is evaluated as least concern on the 2007 IUCN Red List,[1] and has no special status under the Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora (CITES), which regulates international trade in specimens of wild animals and plants.[28]
This is a species that has greatly benefited historically from forest clearance, which has created the open habitats it prefers, and from human habitation, which have given it an abundance of safe man-made nest sites. There have been local declines due to the use of DDT in Israel in the 1950s, competition for nest sites with house sparrows in the US in the 19th century, and an ongoing gradual decline in numbers in parts of Europe and Asia due to agricultural intensification, reducing the availability of insect food. However, there has been an increase in the population in North America during the 20th century with the greater availability of nesting sites and subsequent range expansion, including the colonisation of northern Alberta.[2]
A specific threat to wintering birds from the European populations is the transformation by the South African government of a light aircraft runway near Durban into an international airport for the 2010 FIFA World Cup. The roughly 250m (270yd) square Mount Moreland reed bed is a night roost for more than three million barn swallows, which represent 1% of the global population and 8% of the European breeding population. The reed bed lies on the flight path of aircraft using the proposed La Mercy airport, and there were fears that it would be cleared because the birds could threaten aircraft safety.[65][66] However, following detailed evaluation, advanced radar technology will be installed to enable planes using the airport to be warned of bird movements and, if necessary, take appropriate measures to avoid the flocks.[30]
Climate change may affect the barn swallow; drought causes weight loss and slow feather regrowth, and the expansion of the Sahara will make it a more formidable obstacle for migrating European birds. Hot dry summers will reduce the availability of insect food for chicks. Conversely, warmer springs may lengthen the breeding season and result in more chicks, and the opportunity to use nest sites outside buildings in the north of the range might also lead to more offspring.[48]
Relationship with humans
The barn swallow is an attractive bird that feeds on flying insects and has therefore been tolerated by humans when it shares their buildings for nesting. As one of the earlier migrants, this conspicuous species is also seen as an early sign of summer's approach.[67]
In the Old World, the barn swallow appears to have used man-made structures and bridges since time immemorial. An early reference is in Virgil's Georgics (29 BC), "Ante garrula quam tignis nidum suspendat hirundo" (Before the twittering swallow hangs its nest from the rafters).[68]
Many cattle farmers believed that swallows spread Salmonella infections, however a study in Sweden showed no evidence of the birds being reservoirs of the bacteria.[69]
In literature
Many literary references are based on the barn swallow's northward migration as a symbol of spring or summer. The proverb about the necessity for more than one piece of evidence goes back at least to Aristotle's Nicomachean Ethics: "For as one swallow or one day does not make a spring, so one day or a short time does not make a fortunate or happy man."[67]
The barn swallow symbolises the coming of spring and thus love in the Pervigilium Veneris, a late Latin poem. In his poem "The Waste Land", T. S. Eliot quoted the line "Quando fiam uti chelidon [ut tacere desinam]?" ("When will I be like the swallow, so that I can stop being silent?") This refers to the myth of Philomela in which she turns into a nightingale, and her sister Procne into a swallow.[70] On the other hand, an image of the assembly of swallows for their southward migration concludes John Keats's ode "To Autumn".
The swallow is cited in several of William Shakespeare's plays for the swiftness of its flight, with "True hope is swift, and flies with swallow's wings" from Act 5 of Richard III, and "I have horse will follow where the game Makes way, and run like swallows o'er the plain." from the second act of Titus Andronicus. Shakespeare references the annual migration of the species in The Winter's Tale, Act 4: "Daffodils, That come before the swallow dares, and take The winds of March with beauty".
In culture
Gilbert White studied the barn swallow in detail in his pioneering work The Natural History of Selborne, but even this careful observer was uncertain whether it migrated or hibernated in winter.[12] Elsewhere, its long journeys have been well observed, and a swallow tattoo is popular amongst nautical men as a symbol of a safe return; the tradition was that a mariner had a tattoo of this fellow wanderer after sailing 5,000nmi (9,300km; 5,800mi). A second swallow would be added after 10,000nmi (19,000km; 12,000mi) at sea.[71]
In the past, the tolerance for this beneficial insectivore was reinforced by superstitions regarding damage to the barn swallow's nest. Such an act might lead to cows giving bloody milk, or no milk at all, or to hens ceasing to lay.[5] This may be a factor in the longevity of swallows' nests. Survival, with suitable annual refurbishment, for 10–15 years is regular, and one nest was reported to have been occupied for 48 years.[5]
It is depicted as the Martlet, Merlette or Merlot in heraldry, where it represents younger sons who have no lands. It is also represented as lacking feet as this was a common belief at the time.[72] As a result of a campaign by ornithologists, the barn swallow has been the national bird of Estonia since 23 June 1960.[73][74]
See also
Swallow migration versus hibernation
Further reading
High quality audio recording of a group of swallows
European Swallow (barn swallow) - .
- USGS Patuxent Bird Identification InfoCenter
– Cornell Lab of Ornithology
.
at VIREO (Drexel University)
| https://en.wikipedia.org/wiki/Barn%20swallow |
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Manchester United ni kilabu cha kandanda cha Uingereza, ambacho ni kimojawapo kati ya vilabu maarufu sana ulimwenguni, na kina makao katika Old Trafford eneo la Greater Manchester. Kilabu hiki kilikuwa mwanachama mwanzilishi wa Ligi ya Premier mwaka 1992, na kimeshiriki katika divisheni ya juu ya kandanda ya Uingereza tangu mwaka wa 1938, isipokuwa msimu wa 1974-1975. Mahudhurio ya wastani kwenye kilabu yamekuwa ya juu kuliko timu nyingine yoyote katika kandanda ya Uingereza kwa misimu yote isipokuwa sita tangu 1964-65.[3]
Manchester United ndiyo bingwa wa sasa wa Uingereza na washikilizi wa Kombe la Dunia la Vilabu, baada ya kushinda Ligi ya Primia 2008-09 na Kombe la Dunia la FIFA. Kilabu hicho ni miongoni mwa vilabu vyenye ufanisi mkubwa katika historia ya kandanda ya Uingereza na kimeshinda mataji makubwa 22 tangu Alex Ferguson alipochukua wadhifa wa meneja wake mnamo Novemba 1986. Mwaka wa 1968, kilikuwa kilabu cha kwanza kushinda Kombe la Uropa kwa kucharaza Benfica 4-1. Walishinda kombe la pili la Ulaya kama sehemu ya ushindi wa mataji matatu mwaka 1999, na la tatu mwaka wa 2008, kabla ya kumaliza katika nafasi ya pili mwaka wa cha 2009. Kilabu hicho kinashikilia rekodi mbili ya kushinda mataji mengi ya Ligi ya Uingereza mara 18 na pia kushikilia rekodi kwa wingi wa kutwaa kombe la FA ikiwa imeshinda mara 11.[4]
Tangu mwisho wa mwaka ya 1990, kilabu hicho kimekuwa mojawapo ya vilabu tajiri duniani kilicho na mapato ya juu kuliko kilabu chochote,[5] na sasa kinatajwa kama kilabu chenye thamani zaidi katika mchezo wowote, na makisio ya thamana ya takriban bilioni £ 1.136 (bilioni € 1.319 ) Aprili 2009.[6] Manchester United ilikuwa mwanachama mwanzilishi wa kundi la vilabu la G-14 la Vilabu kuu vya kandanda Uingereza, ambalo halipo tena, na European Club Association, muungano uliochukua nafasi yake.[7]
Alex Ferguson amekuwa meneja wa kilabu hicho tangu 6 Novemba 1986 alipojiunga na kilabu hicho kutoka Aberdeen baada ya kung'atuka kwa Ron Atkinson.[8] Nahodha wa kilabu wa sasa ni Garry Neville, aliyechukua nafasi ya Roy Keane Novemba 2005.[9]
Historia
Miaka ya mwanzo (1878–1945)
Kilabu kilianzishwa kikijulikana kama Newton Heath L & YR F.C. mwaka wa 1878 kama timu ya kazi ya bohari la Reli la Lancashire na Yorkshire huko Newton Heath. Mashati ya kilabu hiyo yalikuwa ya kijani na nusu dhahabu. Walicheza kwenye uwanja mdogo, uliochakaa huko North Road kwa miaka kumi na mitano, kabla ya kuhamia Bank Street katika mji wa karibu wa Clayton mwaka wa 1893. Kilabu kilikuwa kimeingia ligi ya kandanda ya Football Leagu mwaka uliotangulia na kuanza kukatiza uhusiano wake na bohari la reli, na ikawa kampuni ya kujitegemea, ikimteua katibu wa kilabu na kudondoasha herufi “L&YR” kutoka jina lao na kujiita Newton Heath F.C. Muda mrefu haukupita, mwaka 1902, kilabu kilikaribia kufilisika, kikawa na madeni ya zaidi ya £2,500. Wakati mmoja, uwanja wao wa Bank Street ulifungwa na wadai wao.[10]
Kabla ya kufungwa kabisa, kilabu kilipokea uwekezaji mkubwa kutoka kwa J. H. Davies, mkurugenzi mtendaji wa Manchester Breweries.[11] Kuna tetesi kuwa Harry Stafford, nahodha wa kilabu alikuwa akijivunia mbwa wake wa thamani wa aina ya St. Bernard katika mkutano wa kuchangishia kilabu fedha, wakati Davies alipomwendea ili kumnunua mbwa huyo. Stafford alikataa, lakini aliweza kumshawishi Davies kuwekeza katika kilabu na kuwa mwenyekiti wake.[12] Iliamuliwa katika kikao cha bodi ya mapema kuwa kilabu kilihitaji kubadilishwa jina ili kuashiria mwanzo huo mpya. Manchester Central na Manchester Celtic ni miongoni mwa majina yaliopendekezwa kabla ya Louis Rocca, mhamiaji mchanga kutoka Italy aliposema "Ndugu zangu, mbona tusijiite Manchester united?"[13] Jina hilo lilibakia hivyo, na Manchester United likawa jina rasmi tarehe 26 Aprili 1902. Davies pia aliamua itakuwa vyema kubadili rangi za kilabu, walitupilia mbalirangi za kijani na nusu dhahabu za Newton Health na kuchagua nyekundu na nyeupe kuwa rangi za Manchester United.
Ernest Mangnall aliteuliwa kama katibu wa kilabu baada ya James West ambaye alikuwa amejiizulu kama meneja tarehe 28 Septemba 1902. Mangnall alitwikwa jukumu la kujitahidi kukifika kilabu kwenye Divisheni ya kwanza, na kushindwa kidogo tu katika jaribio la kwanza kusudio hilo kwa jaribuio la, walipomaliza katika nafasi ya tano katika Divisheni ya pili. Mangnall aliamua kwamba ilikuwa muhimu kuleta machipukizi katika klabu, na kuwasajili wachezaji kama vile Harry Moger katika lango, Dick Duckworth, beki wa nyuma na Jack Picken mbele lakini ilikuwa na beki wa nyuma mwingine kwa jina la Charlie Roberts aliyeleta mabadiliko makubwa. Alinunuliwa kwa £750 kutoka Grimsby Town Aprili 1904, na kuisaidi klabu kumaliza msimu wa 1903-04 kikiwa kimekosa alama moja tu kipandishwe ngazi iliyofuata.
Hata hivyo, haikuchukua muda mrefu, kilabu kilipandishwa cheo hadi Divisheni ya Kwanza kwa mara ya kwanza chini ya jina mpya na kumaliza katika nafasi ya pili katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1905-06. Msimu wa kujiiimarisha ulifuatia, huku kilabu ikimaliza katika nafasi ya nane, kabla ya kutwaa taji lao la kwanza la ligi mwaka wa 1908. Katika siku za karibuni,Manchester City ilikuwa ikichunguzwa kwa kuwalipa baadhi ya wachezaji wao mshahara uliozidi kiwango kilichopendekezwa na masharti ya FA. Walipigwa faini ya £250 na wachezaji wao kumi na wanane wakapigwa marufuku kuwachezea tena. United hawakusita kukabiliana na hali hiyo na kuwatwaa Billy Meredith (almaarufu Welsh Wizard) na Sandy Turnbull, miongoni mwa wengine. Vijana hao wageni kutoka mji jirani hawakuruhusiwa kucheza hadi tarehe mosi mwaka wa 1907, kwa sababu ya marufuku yao, kwa hivyo hatua hiyo iliahirishwa hadi msimu wa 1907-08 ili waweze kuendeleza jitihada za united kutwaa taji. Na hilo walifanya, walianza kampeni yao kwa kishindo kwa kuishinda Sheffield United 2-1 na kuanzisha msururu wa ushindi mfululilizo mara kumi. Licha ya msimu kuonekana wenye tatizo mwishoni, United ilifaulu kushikilia na kumaliza msimu kwa pointi tisa mbele ya wapinzani wao wa karibu Aston Villa.
Msimu uliofuatia ulianza kwa United kujitwalia fedha nyingine, Charity Shield,[14] ambayo ilikuwa ya kwanza kuwahi kutolewa na kumalizia kwa taji jingine, taji la kwanza kwa kilabu cha FA, ambalo lilipanda mbegu njema ya kile kimekuwa rekodi ya mataji ya FA. Jinsi walivyokuwa katika kampeni ya taji la kwanza la klabu, Turnbull na Meredith walikuwa na umuhimu katika msimu huu, Turnbull akifunga bao la ushindi katika Finali ya kombe la FA. Ilibidi Klabu kusubiri miaka mingine miwili kabla ya kushinda makombe mengine zaidi, kilishinda Divisheni ya Kwanza kwa mara ya pili katika msimu wa 1910-11. Wakati huo huo, United ilihamia uga wao mpy wa Old Trafford. Walichezea mmchuano wao wa kwanza huko tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool, lakini wakapoteza 4-3 baada ya kupoteza ushindi wao wa 3-0. Kisha wakasalia bila kombe tena katika msimu wa 1911-12, ambao haukuwa tu wa mwisho kwa Mangnall kuhusikia (alihamia Manchester City baada ya miaka kumi na United), lakini pia wakati wa mwisho kwa klabu kushinda Divisheni ya Kwanza baada ya miaka 41, muda mrefu zaidi ambao klabu imekaa bila kushinda ligi katika historia yake.
Kwa miaka kumi iliyofuata, klabu kilishuhudia hali ya kudidimia polepole kabla ya kushushwa ngazi ya chini, Division ya pili katika 1922. Walipandishwa ngazi tena mwaka 1925, wakang'ang'ana kufika nusu ya msimamo wa ligi, na wakashushwa ngazi tena mwaka wa 1931. Katika miaka minane iliyotangulia Vita vya Pili vya Dunia, klabu kilididimia na kuwa klabu yo-yo, kikafikia kiwango chao cha chini zaidi cha nafasi ya 20 katika Divisheni ya Pili mwaka wa 1934. Walipandishwa tena katika msimu wa mwisho kabla ya Vita vya Pili vya Dunia. Walijihakikishia nafasi yao katika kiwango cha juu baada ya vita kwa kumaliza katika nafasi ya 14 katika msimu wa 1938-39.
Kipindi cha Busby (1945-1969)
1945 ilishuhudia kuteuliwa kwa Matt Busby kuwa msimamizi katika Old Trafford. Alitumia mtindo usio wa kawaida kufanya kazi yake, akisisitiza kuwa aruhusiwe kuchagua timu yake mwenyewe, kuchagua wachezaji atakaowaajiri na kuwafunza mwenyewe. Mwenyewe alikuwa tayari amepoteza kazi ya usimamizi kwenye kilabu chake cha awali, Liverpool, kwa sababu klabu kiliona kazi hizo kama za wakurugenzi lakini United ikaamua kujaribu mawazo bunifu ya Busby. Wa kwanza kusajiliwa na Busby hakuwa mchezaji, bali meneja msaidizi mpya kwa jina la Jimmy Murphy. Hatua hatari ambayo klabu ilichukulia kumteua Bushy ilileta mazao ya mara moja, klabu kilipomaliza katika nafasi ya pili katika ligi ya 1947, 1483 na 1949 na kushinda kombe la FA 1948, kutokana na juhudi za wazao wa hapo watatu, Stan Pearson, Jack Rowley na Charlie Mitten (Rowley na Pearson walifunga katika fainali ya kombe la 1948), na pia kiungo wa kati kutoka Kazini Mashariki, Allenby Chilton.
Charlie Mitten alikuwa amekimbilia Kolombia kutafuta mshahara bora,lakini wachezaji waliobaki waliweza kushinda taji la Divisheni ya Kwanza baadaye mwaka 1952. Hata hivyo, Busby alijua kwamba timu za kandanda zilihitaji zaidi ya tajriba, kwa hivyo alitumia sera ya kuleta wachezaji kutoka katika timu ya vijana pale ilipowezekana. Mara ya kwanza, wachezaji wachanga kama vile Roger Byrne, Bill Foulkes, Mark Jones na Dennis Viollet, walichukua muda kuzoea timu kuu, na kuteremka hadi nafasi ya nane mwaka 1956, lakini timu hiyo ilishinda ligi tena katika mwaka wa 1956 kwa umri wa wastani miaka 22 tu, na kufunga mabao 103 wakati huo. Sera ya kuteua vijana iliyowekwa na Busby sasa imekuwa fadhila mahususi kwa vipindi vilivyofanikiwa zaidi katika historia ya klabu (katikati ya 1950, kati na mwisho wa miaka ya 1960 na miak 1990). Kundi asilia la vijana wachezaji lilijulikana kama Busby Babes, ambapo aliyevuma sana alikuwa kiungo wa pembeni Duncan Edwards. Kijana huyo kutoka Dudley, West Midlands aliichezea United kwa mara ya kwanza kabisa akiwa na umri wa miaka 16 tu mwaka 1953. Ilisemekana kuwa Edwards angeweza kucheza katika nafasi yoyote uwanjani, na wengi waliomwona akicheza walisema kuwa yeye ndiye alikuwa mchezaji maarufu kabisa katika historia ya mchezo huo. Msimu uliofuata, 1956-57, walishinda ligi tena na kufikia fainali ya Kombe la FA, na kupoteza kwa Aston Villa. Pia ilikuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushindana katika kombe la Uropa, kwa amri ya FA, ambayo ilikuwa imeiinyima Chelsea fursa sawa na hiyo msimu uliotangulia, na kufika nusu fainali kabla ya kung'olewa na Real Madrid. Ikielekea nusu fainali hizo, United pia iliacha rekodi kwa ushindi ambayo bado ipo kama washindi wakuu katika mashindano yote, kwa kuwachapa mabingwa wa Ubelgiji Anderlecht mabao 10-0 ugani Maine Road.
Janga liliikumba msimu uliofuata, wakati ndege iliyokuwa imewabeba wachezaji kurejea nyumbani kutoka mchuano wa European Cup ilipoanguka pindi ilipoanza kupaa baada ya kutua kujaza mafuta huko Munich, Ujerumani. Ajali hiyo ya ndege Munich ya 6 Februari 1958 ilisababisha vifo vya wachezaji - Geoff Bent, Roger Byrne, Eddie Colman, Duncan Edwards, Marko Jones, Daudi Pegg, Tommy Taylor na Liam "Billy" Whelan - na abiria wengine kumi na watano, pamoja na wafanyikazi wa United Walter Crickmer, Bert Whalley na Tom Curry.[15] Tayari kulikuwa na majaribio mawili ya kupaa kabla hilo la tatu lililoishia maafa, lilisababishwa na kujazana kwa tope mwishoni mwa barabara ya ndege na hivyo kupunguza kasi ya ndege hadi kiwango kisichotosha kupaa. Ndege iliteleza nje ya mwishoni mwa barabara ya kupaa, kupitia uani na kuingia katika nyumba ambazo hazikuwa na watu watu. Mlindalango wa United Harry Gregg alifanikiwa kutozirai baada ya ajali, na kwa kuhofia kulipuka kwa ndege wakati wowote, aliwakamata Bobby Charlton-ambaye alikuwa ameichezea United mechi yake ya kwanza kabisa miezi 18 tu iliyopita – na Denni Viollet viunoni na kuwavuta mahali salama. Wachezaji 7 wa United walikufa katika eneo la tukio, huku Duncan Edwards akifa majuma mawili baadaye hospitalini. Wing'a wa kulia Johnny Berry pia alinusurika ajali hiyo, lakini majeraha aliyopata kwenye ajali yalisitisha ghafla uchezaji wa kandanda. Matt Busby hakutumainiwa kuishi zaidi na madaktari wa Munich na wakati mmoja alifanyiwa Maombi ya Mwisho, lakini alipata afueni kimiujiza na hatimaye aliruhusiwa kutoka hospitalini baada ya kulazwa kwa zaidi ya miezi miwili.
Kulikuwa na uvumi kuwa klabu ingefilisika na kujiondoa kutoka mashindano yote, lakini Jimmy Murphy aliposhikilia usukani kama meneja huku Busby akiendelea kupona majeraha, klabu kiliendelea kucheza kwa timu hafifu. Licha ya ajali hiyo, walifika fainali ya kombe la FA tena, ambapo walipoteza dhidi ya Bolton Wanderers. Mwishoni mwa msimu, UEFA iliipa FA nafasi ya kuwasilisha United na mabingwa wa msimu Wolverhampton Wanderers, kushiriki kombe la Uropa mwaka 1958-59 kama heshima kwa waathiriwa lakini FA ilikataa. United ilimudu kuikaba Wolves koo msimu uliofuata, huku ikimaliza katika nafasi ya kuridhisha ya pili; haikuwa mbaya kwa timu iliyokuwa imepoteza wachezaji tisa katika ajali ya ndege ya Munich.
Busby aliijenga upya tena timu hiyo mapema miaka ya 1960, akisajili wachezaji kama vile Denis Law na Pat Crerand, wakati huo huo akilea kizazi chake kipya cha vijana chipukizi. Huenda maarufu zaidi katika kundi hili jipya alikuwa kijana kutoka Belfast aliyeitwa George Best. Best alikuwa na uanariadha wa kipekee , lakini kipawa chake cha thamani zaidi kilikuwa kudhibiti mpira. Miguu yake ya kasi ilimruhusu kupenya kwenye mwanya wowote katika ngome ya wapinzani, hata uwe mdogo kiasi gani. Timu hiyo ilitwaa Kombe la FA mwaka wa 1963, ingawa ilimaliza katika nafasi ya 19 katika Daraja la Kwanza. Shangwe za ushindi wa Kombe la FA zilionekana kuwaimarisha wachezaji, waliosaidia klabu kufikia nafasi ya pili 1964, na kuimarika zaidi kwa kushinda ligi katika mwaka wa 1965 na 1967. United ilishinda kombe la Uropa 1968 kwa kuinyuka Eusébio's Benfica 4-1 kwenye fainali na kuwa kilabu cha kwanza Uingereza kushinda shindano hilo. Timu hii ya United ilikuwa maarufu kwa kuwa na wanakandanda watatu bora wa Mwaka barani Uropa: Bobby Charlton, Denis Law na George Best. Matt Busby alijiuzulu kama meneja 1969 na nafasi yake kuchukuliwa na kocha wa akiba na pia aliyekuwa mchezaji wa United, Wilf McGuinness.
1969-1986
United ilijitahidi kujaza nafasi ya Busby, na timu ilitatizika chini ya Wilf McGunness katika msimu wa 1969-70, ilipomaliza katika nafasi ya kukatisha tamaa ya nane, na kufuatiwa na kuanza vibaya katika msimu wa 1970-1971, McGunnies alishushwa madaraka na kuwa kocha wa timu ya akiba. Busby alishawishwa kurudi klabuni, japo kwa miezi sita pekee. Matokeo yalikuwa bora chini ya uongozi wa Busby, lakini hatimaye aliondoka klabuni kwa mara ya mwisho katika majira ya joto ya 1971. Hayo yakijiri, United ilikuwa imewapoteza wachezaji wa hali ya juu kama Nobby Stiles na Pat Crerand.
Licha ya kumwomba maneja aliyeiongoza Celtic kushinda kombe la Uropa Jock Stein, kuwa meneja wake, Stein alikubali kwa mkataba wa mazungumzo kujiunga na United, lakini akaghairi msimamo dakika za mwisho- Frank O’Farrell aliteuliwa kumrithi Busby. Hata hivyo, kama Mc Guinness, O’Farrell alidumu chini ya miezi 18, tofauti kati ya wawili hao ni kuwa O’Farrell aliitikia matokea ya timu yasiyo ya kuridhisha kwa kuleta vipaji vipya, wakutajika hasa ni Martini Buchaman kutoka Aberdeen kwa malipo ya £125,000. Tommy Docherty akawa meneja mwishoni mwa 1972. Docherty, au "Doc", aliiokoa United kutoshushwa ngazi msimu huo lakini walishushwa mwaka 1974, wakati ambapo nyota watatu , Best, Law na Charlton walikuwa wamekihama klabu. Denis Law alikuwa amehamia Manchester City katika majira ya joto ya 1973, na kuishia kufunga bao ambalo watu wengi husema liliishusha ngazi ya United, kwa adabu alikataa kusherehekea pamoja na wanatimu wenzake. Wachezaji kama vile Lou Macari, Stewart Houston na Brian Greenhoff waliletwa kuchukua nafasi za Best, Law na Charlton lakini hakuna aliyefikia kimo cha watatu hao waliotangulia.
Timu iliweza kupandishwa ngazi katika jaribio la kwanza, huku kijana Steve Coppell akishiriki mchuano wake wa kwanza kuelekea mwisho wa msimu baada ya kujiunga na klabu kutoka Tranmere Rovers na kufika fainali za Kombe la FA mwaka 1976, lakini walishindwa na Southampton. Walifika fainali tena mwaka 1977, walipoishinda Liverpool 2-1. Pamoja na mafanikio na umaarufu wake miongoni mwa mashabiki, Docherty alipigwa kalamu mara baada ya fainali ilipopatikana kuwa alikuwa na uhusiano wa kimapenzi na mke wa mtaalamu wa tibamaungo (physiotherapist).
Dave Sexton alichukua nafasi ya Docherty kama meneja katika majira ya joto ya 1977 na kuifanya timu kucheza mtindo wa kujihami zaidi. Mtindo huu haukupendwa na mashabiki ambao walikuwa wamezoea mtindo wa kandanda ya kushambulia iliyopendelewa na Docherty na Busby. Usajili mkuu wa wachezaji uliofanyika chini ya Sexton ulihusisha Joe Jordan, Gordon McQueen, Gary Baileyna na Ray Wilkins lakini kwa sababu ya mtindo wa kujihamu wa Sexton, United ilishindwa kutoka katika safu ya kati isipokuwa mara moja tu, ilipomaliza katika nafasi ya timu mbili bora na ikaweza kufikia finali ya kombe la F.A mara moja, ilipoteza kwa timu ya Arsenal. Kwa sababu ya ukosefu huu wa vikombe, Sexton alifutwa mwaka wa 1981, ingawa alikuwa ameshinda michuano yake yote saba ya mwisho.
Nafasi yake ilichukuliwa na mshaufu Ron Atkinson ambaye fikra zake za ucheshi zilidhihirika katika vilabu alivyosimamia. Mara moja alivunja rekodi ya Uingereza ya ada ya uhamisho kwa kumsajili Bryan Robson kutoka klabu yake ya zamani, West Bromwich Albion. Robson aliibuka kuwa kile wengi walifikiria kuwa mchezaji bora kiungo cha kati wa United tangu Duncan Edwards. Timu ya Atkinson iliweza kushuhudia usajili mpya wa wachezaji kama vile Jesper Olsen, Paul McGrath na Gordon Strachan ambao walicheza na wliokuwa wachezaji wa timu ya vijana wakiwemo Norman Whiteside na Mark Hughes. United ilishinda Kombe la FA mara mbili katika miaka mitatu, katika mwaka wa 1983 na 1985, walipigiwa upatu kushinda Ligi katika msimu wa 1985-86 kabla ya kushinda mechi zao kumi za kwanza ligini jambo lililopelekea kuwepo na tofauti ya pointi kumi kati yao na wapinzani wao mwanzoni mwa mwezi wa Oktoba. Hata hivyo, muundo wa timu uliporomoka na United ikamaliza msimu huo katika nafasi ya nne. Uhafifu wa timu uliendelea katika msimu uliofuata, na United ilikuwa ikichungulia kushushwa ngazi kuanzia mwanzo wa Novemba 1986, Atkinson alifutwa.
Enzi ya Alex Ferguson, kabla ya Treble [1986-1998]
Alex Ferguson aliwasili kutoka Aberdeen kuchukua nafasi ya Atkinson siku hiyo hiyo aliyofutwa Atkinson, alikuja pamoja na meneja msaidizi wake, Archie Knox. Ingawa mechi yake ya kwanza uongozini, dhidi ya Oxford United tarehe 8 Novemba 1986 alishindwa 2-0, Ferguson aliiongoza klabu kumalizia nafasi ya 11 katika ligi. Kumaliza katika nafasi ya pili 1987-88, pamoja na Brian McClair kuwa mchezaji wa kwanza wa United tangu George Best na kufunga mabao ishirini katika msimu wa ligi, huenda kuliwafanya mashabiki kuwa na matumaini kidogo kwa siku za usoni lakini walirejelea haraka uhafifu kwa kumalizia nafasi ya 11 mwaka 1989.
Wachezaji wengi waliosajiliwa na Ferguson hawakufikia matarajio ya mashabiki, na meneja iliripotiwa nusura aachishwe kazi mwanzoni mwa 1990, wengi waliamini kwamba kushindwa kwao na Nottingham Forest katika duru ya tatu ya Kombe la FA kungetia muhuri hatma yake. Bao la Marko Robins kunako dakika 56 liliiwezesha United kushinda mchuano huo na kuwaweka katika king'ang'anyiro kilichowapeleka hadi fainali iliyofanyika Wembley, ambapo waliitinga Crystal Palace 1-0 katika mchuano wa marudio baada ya sare ya 3-3 katika mechi ya awali. Mwaka uliofuata, United ilifika fainali ya League Cup na kupoteza kwa bao 1-0 kwa timu ya aliyekuwa meneja wao Ron Atkinson Sheffield Wednesday. Hata hivyo, msimu ulimalizika kwa ushindi wa kwanza wa Kombe la Washindi wa Vilabu (Cup Winners 'Cup), walipoiadhibu Barcelona 2-1 katika fainali ugani Rotterdam. Ushindi wa taji la Cup Winners uliiruhusu timu kucheza katika UEFA Super Cup mwaka 1991 ambapo waaliwashinda waliokuwa washindi wa Kombe la Ulaya Red Star Belgrade 1-0 uwanjani Old Trafford. Mechi hiyo ilipaswa kuchezwa kwa michuano miwili lakini kutokana na ukosefu wa utulivu wa kisiasa nchini Yugoslavia wakati huo, UEFA iliamua kwamba mchuano wa Old Trafford tu ndio utakaochezwa. Kushiriki kwa mara ya pili mfululizo katika fainali ya kombe la Ligi kulitokea mwaka 1992, United wakati huo iliifunga Nottingham Forest 1-0 ugani Wembley.
Wakati huo huo, matukio yalikuwa yakiendelea nje ya uwanja mwishoni mwa mwongo, huku mwenyekiti Martin Edwards akijaribu kuiuza klabu kwa mkwasi Michael Knighton mwaka 1989. Uuzaji huo wa milioni £20 ulikuwa karibu kuthibitishwa huku Knighton akiingia Old Trafford akiwa na sare ya Manchester United na akifanya mbwembwe kadha kabla ya kuvurumisha mpira kuelekea langoni upande wa Stretford ugani humo. Knighton aliweza kuona rekodi za kifedha za klabu, lakini, kabla ya mkataba wa uuzaji kukamilishwa washauri wake wa kifedha walikataa na mpango huo ukafutiliwa. Hata hivyo, kwa kuwa Knighton alikuwa na ufahamu wa jinsi mambo yalivyokuwa yakiendeshwa klabuni, alipewa wadhifa katika bodi ya klabu kama njia ya kumfanya kubaki kimya kuhusu jambo hilo. Mwaka 1991, ikihitaji msaada zaidi wa kifedha kufuatia Ripoti ya Taylor klabu ilianza uuzaji katika Soko la Hisa la London kwa thamana iliyokisiwa kuwa paundi milioni 47, na kuleta katika macho ya umma hali yake ya kifedha. Martin Edwards alihifadhi wadhifa wake kama mwenyekiti, lakini sasa klabu ilikuwa ikimilikiwa na umma.
Majira ya joto ya mwaka 1991 pia yalishuhudia kuwasili kwa mlindalango raiya wa Denmak Peter Schmeichel, ambaye kutofungwa kwake katika michuano 17 kuliipa United rekodi bora ya kujihami katika Divisheni ya kwanza msimu wa 1991-92na kuwasaidia kumaliza katika nafasi ya pili nyuma ya Leeds United, ndani ya safu hizo kulikuwa na sogora fulani Mfaransa aliyeitwa Eric Cantona. Alex Ferguson alitambua haja ya United ya kuwa na mshambulizi kama njia ya kumzuia Mark Hughes na Brian McClair na alijaribu - na kushindwa - mara kadhaa kumsajili mshambuliaji wa Sheffield Wednesday David Hirst, lakini wakati meneja wa Leeds Howard Wilkinson alipompigia Martin Edwards mwezi Novemba 1992 kuuliza kuhusu uwezekano wa kupatikana kwa Denis Irwin, mazungumzo hayo yaligeuka haraka na kumhusu Cantona. Kwa mshangao wa Edward na Ferguson, vilabu hivyo viwili viliweza kukubaliana kwa ada ya pauni milioni 1.2 ili kumpata Mfaransa huyo thabiti. Kuwasili kwa Cantona kuliipa United mwamko muhimu sana na kuisaidia timu hiyo kuweza kujishindia taji la kwanza la Ligi tangu mwaka wa 1967. Baada ya kusajiliwa kwa Roy Keane kutoka Nottngham Forest mnamo mwaka wa Julai 1993, United iliweza kushinda taji la pili mtawalia kwa mara ya kwanza tangu mwaka wa 1957 kwenye mwaka uliofuata, kabla ya kushinda kombe la FA ili kukamilisha "Ushindi pacha" wa kwanza katika historia ya Kilabu hiyo. Mwaka huo, hata hivyo, klabu kiliomboleza kufuatia kifo cha aliyekuwa meneja na mkurugenzi wa klabu Matt Busby, aliyekufa tarehe 20 Januari 1994.
Msimu wa 1994-95 ulikuwa wa kwanza kwa klabu kumaliza bila kombe tangu 1988-89, ingawa walicheza vizuri hadi katika wiki ya mwisho wa msimu na kufikiwa fainali ya FA Cup, ambapo walipoteza kwa Everton. Andy Cole alisajiliwa kutoka Newcastle United kwa gharama iliyoweka rekodi Uingereza ya paundi milioni £6 pamoja na Keith Gillespie. Hata hivyo, baada mchuanio wa kwanza wa Cole akiwa United, Eric Cantona alipokea marufuku ya miezi nane kwa kuruka ndani ya eneo umati na kumuumiza Mathayo Simmons shabiki wa Crystal Palace, ambaye alikuwa amemdhihaki Cantona kutokana na rangi ya ngozi yake akiondoka uwanjani wakati wa mchuano wa United ugani Selhurst Park. Kusimamishwa kwa Cantona kulitolewa na baadhi kama sababu ya United kushindwa kukamilisha kwa mataji matatu "hat-trick" msimu huo. Kutofanikiwa kama ilivyotarajiwa msimu huo kulimsababisha Ferguson kufanya marekebisho makuu katika timu aliwauza Paul Ince, Andrei Kanchelskis na Mark Hughes na kujaza nafasi zaoo kwa wachezaji kutoka katika timu ya vijana wa klabu hiyo, akiwemo David Beckham, Gary Neville, Phil Neville na Paul Scholes. Baada ya kushindwa 3-1 na Aston Villa katika siku ya ufunguzi wa msimu 1995-96, mwanahabari wa televisheni maarufu Alan Hansen alitoa kauli maarufu kwa kusema "kamwe hamtashinda chochote mkiwa na watoto."[16] Wachezaji kadhaa wapya, ambao baadhi yao kwa haraka walijumuishwa katika michuano ya kimataifa ya mara kwa mara na timu ya Uingereza, waliitikia vizuri na kutokana na motisha ya kurejea kwa Cantona Oktoba 1995, United ikawa klabu ya kwanza ya Uingereza kuwahi kushinda mataji mawili mara mbili, ufanisi uliokuja kujulikana kama "Double Double".[17]
Nahodha Steve Bruce aliondoka kuelekea Birmingham City mwezi Julai 1996, na Alex Ferguson akamtaja Eric Cantona kama nahodha mpya wa klabu. Aliiongoza timu kutwaa taji la nne la ligi kati ya miaka mitano katika 1996-97 kabla ya kustaafu kutoka kandanda akiwa na umri wa 30 ilipofika mwisho wa msimu huo. Teddy Sheringham aliletwa kuchukua nafasi yake, na shati yake tambulika nambari 7 ikakabidhiwa David Beckham. Walianza msimu wa 1997-98 vizuri, lakini wakapoteza michuano mitano baada ya Krismasi na kumaliza katika nafasi ya pili, pointi moja nyuma ya washindi mara mbili Arsenal. Baada ya kipindi bila mshindani wa kila mara kuwania taji ligi, hii ilikuwa dhibitisho ya kuwasili kwa Arsenal kama mshindani halisi ambao wangegombea katika miaka michache iliyofuata.
Ushindi mara tatu, Treble (1998–99)
Msimu wa 1998-99 kwa Manchester United ulikuwa na mafanikio sana katika historia ya vilabu vya kandanda nchini Uingereza kwani walikuwa timu ya pekee ya Uingereza iliyowahi kushinda mataji matatu - Ligi Kuu (Premier), kombe la FA na taji la mabingwa UEFA Champions Leaguae katika msimu huo.[18] Baada ya msimu wa wasiwasi wa Ligi ya Premier, Manchester United ilitwaa taji hilo kwenye siku ya mwisho ya fainali kwa kuwashinda Tottenham Hotspur mabao 2-1, huku Arsenal ikiishinda Aston Villa bao 1-0.[19] Kutwaa taji la Ligi ya Premier kulikuwa sehemu ya kwanza ya ushindi mara tatu (treble), sehemu moja ambayo meneja Alex Ferguson aliieleza kuwa ngumu zaidi.[19] Katika Fainali ya kombe la FA United ilikabiliana na Newcastle United na kushinda 2-0 kwa mabao kutoka kwa Teddy Sheringham na Paul Scholes.[20] Katika mechi ya mwisho ya msimu wa 1999 walicheza UEFA Chapions League Final na kuishinda timu ya Bayern Munich katika kile kinafikiriwa kuwa mwamko mkuu sana kuwahi kushuhudiwa, mchuano ulikuwa umeingia muda wa ziada wakiwa wameshindwa kwa bao moja kabla ya kutoka nyuma na kufunga mara mbili na hivyo kushinda 2-1.[18] Ferguson baadaye alipongezwa kwa huduma zake katika kandanda na kutunukiwa heshima ya taifa inayompa ruhusa kuitwa "sir".[21] Kuhitimisha mwaka huo wa kuvunja rekodi, Manchester United ilishinda kombe la Intercontinental baada ya kuinyuka Palmeiras bao 1-0 mjini Tokyo.[22]
Baada ya kipindi cha ushindi Mara Tatu (1999-hadi sasa)
United ilishinda ligi mwaka 2000 na 2001, lakini vyombo vya habari vikaona kana kwamba klabu kimeshindwa msimu huo kwa sababu kilishindwa kutwaa tena taji la Ulaya. Mwaka 2000, Manchester United ilikuwa mojawapo ya timu 14 waanzilishi wa G-14, kundi la vilabu vya soka mashuhuri Ulaya.[23] Klabu hicho pia kilikataa kushiriki kombe la FA 1999-2000 na badala yake kushiriki katika mashindano ya uzinduzi wa taji la FIFA la Klabu Bingwa Duniani Brazil, kilitaja shinikizo kutoka kwa FA, UEFA na kamati ya Uingereza iliyokuwa ikishughulikia kombe la dunia la 2006. Ferguson aliweka mikakati ya kujihami ili kufanya iwe vigumu kwa United kushindwa Ulaya, lakini mikakati hiyo haikuwa na mafanikio kwani United ilikamilisha msimu wa Ligi Kuu ya 2001-02 katika nafasi ya tatu. Walitwaa tena ligi msimu uliofuata (2002-03) na kuanza msimu uliofuata vizuri, lakini hali yao ilishuka kwa kiasi kikubwa baada ya Rio Ferdinand kupokezwa marufuku tata ya miezi minane kwa kutohudhuria upimaji wa madawa ya kulevya. Walishinda kombe la FA 2004, hata hivyo, waliibandua nje Arsenal (hatimaye Arsenal ilishinda taji la Ligi Kuu msimu huo) wakiwa njiani kuelekea fainali ambako waliishinda Millwall.
Msimu wa 2004-2005 ulijawa na hali ya kutofunga mabao, hasa kutokana na jeraha la mshambulizi Ruud van Nistelrooy na United ikamaliza msimu huo bila taji lolote na katika nafasi ya tatu. Wakati huu, hata kombe la FA liliwaponyoka kwani Arsenal iliishinda United kwa mikwaju ya penalti baada ya kutoka sare baada ya kucheza kwa dakika 120. Nje ya uwanja, hadithi kuu ilikuwa uwezekano wa klabu kuchukuliwa, tarehe 12 Mei 2005 na mfanyibiashara wa Kimarekani Malcom Glazer ambaye aliweza kupata udhibiti wa klabu hiyo kupitia uwekezaji kutumia kampuni yake ya Red Football Ltd. katika ununuzi uliothaminiwa kufikia kima cha takribani milioni £800 (wakati huo ikikisiwa kuwa sawa na dola bilioni 1.5).[24][25] Tarehe 16 Mei, aliziongeza hisa zake hadi 75% zinazohitajika kukiondoa klabu hicho kutoka Soko la Hisa na kukifanya kuwa binafsi tena, alitangaza nia yake kufanya hivyo katuka muda wa siku 20.[25] Tarehe 8 Juni, aliwateua wanawe katika bodi ya Manchester United kama wakurugenzi wasio watendaji.[26]
United ilianza vibaya msimu wa 2005-06, huku kiungo wa kati Roy Keane akiondoka kujiunga na Celtic baada ya kuwakosoa hadharani wachezaji wenzake kadhaa. Klabu pia ilikuwa imeshindwa kuhitimu kufuzu kwa awamu ya mwondoaano wa UEFA Champions League kwa zaidi ya mwongo mmoja, baada ya kupoteza kwa Benfica. Msimu huu pia walikumbwa na mikosi kadhaa ya majeraha kwa wachezaji wakuu kama vile Gabriel Heinze, Alan Smith, Ryan Giggs na Paul Scholes. Hata hivyo, walizuiliwa kuachwa mikono mitupu katika misimu mifululizo- masikitiko ambayo yalikuwa hayajashuhudiwa kwa miaka 17 iliyopita-kwa kushinda kombe la Ligi ya 2006, baada ya kuwalaza majirani zao waliopandishwa cheo Wigan Athletic katika fainali kwa mabao 4-0. United pia ilijihakikishia nafasi ya pili na kufuzu moja kwa moja kushiriki michuano ya Ligi ya Mabingwa (Champions League) siku ya mwisho ya msimu kwa kuishinda Charlton Athletic 4-0. Mwishoni mwa msimu wa 2005-06, mmoja wa washambuliaji wa United, Ruud van Nistelrooy, alikihama klabu na kujiunga na Real Madrid, kutokana na ugomvi baina yake na Alex Ferguson.[27]
Mnamo Julai 2006, klabu kilitangaza mpango wa ufadhili mpya. Kiasi cha jumla kitakuwa £ milioni 660, ambayo italipiwa riba ya £ milioni 62 kwa mwaka.[28] Matokeo ya mpango huu mpya wa ufadhili utakuwa punguzo la asilimia 30 ya malipo ya kila mwaka.[29] Uwanjani, msimu wa 2006-07 ulishuhudia United ikirejea na mtindo wao wa kandanda ya kushambulia ambao ndio ulikuwa msingi wa miaka yao ya ufanisi mwishoni mwa miaka ya 1990, wakifunga takriban mabao 20 zaidi ya Chelsea waliokuwa katika nafasi ya pili baada ya michuano 32. Januari 2007, United ilimsajili Henrik Larsson kwa mkopo wa miezi miwili kutoka Helsingborg ya Uswidi, mshambuliaji alitekeleza jukumu muhimu sana katika kuisaidia United kuingia nusu fainali ya Ligi ya Mabingwa,[30] huku ikiwa na matumaini ya kushinda mataji matatu kwa mara ya pili, hata hivyo, baada ya kufikia nusu fainali, United iliaibishwa na Milan kwa jumla ya mabao 3-5.[31] Miaka minne baada taji lao la mwisho, United ilishinda taji la Premier League tarehe 6 Mei 2007 baada ya Chelsea kutoka sare na Arsenal jambo lililoiacha The Blues pointi saba nyuma ikiwa imesaza michuano miwili ili kumaliza, kufuatia ushindi wa United wa 1-0 katika mchuano wa timu kutoka mji wa Manchester "Derby" siku iliyopita na kuifanya kombe lao la 9 la Ligi ya Premier katika misimu 15 ya uwepo wa ligi hiyo. Hata hivyo, ushindi pacha "Double" wa mara ya nne ambao haukutarajiwa haukutokea baada ya Chelsea kuifunga United 1-0 katika muda wa ziada katika kombe la kwanza la FA kufanyika katika uwanja mpya wa Wembley; wa kwanza kufanyika nchini Uingereza tangu uwanja wa zamani kubomolewe miaka saba iliyopita.
Kipindi cha kati ya 2007-08 kilishuhudia United ikimaliza kwa kushinda mataji mawili ya Ulaya licha ya kuanza vibaya msimu huo walipojipata katika nafasi 17 katika Ligi Kuu baada ya kushiriki katika mechi tatu. Hata hivyo, tarehe 11 Mei 2008, United ilihifadhi taji la Ligi ya Premier kufuatia ushindi dhidi ya Wigan Athletic. Huku washindani wao katika taji hilo Chelsea wakiweza tu kutoka sare na Bolton Wanderers, United iliweza kumaliza msimu kwa alama mbili mbele. Klabu pia ilifika fainali ya Kombe la Ulaya kwa mara ya tatu katika historia yake, baada ya kuvishinda vilabu kama Barcelona na Roma ili kufuzu kwa fainali. Waliifunga Chelsea katika mikwaju ya penalti 6-5 katika fainali ugani Luzhniki Moscow baada ya kutoka sare ya 1-1 katika muda wa kawaida tarehe 21 Mei 2008. Kupitia ushindi huu , walijipatia taji lao la tatu la Ulaya na kuweka rekodi yao kutowahi kupoteza fainali kubwa ya Ulaya. Kisadfa, msimu huu ulikuwa wa miaka 100 tangu Manchester United iliposhinda taji lao la kwanza la Ligi, ilikuwa miaka 50 baada ya ajali ya ndege ya Munich na miaka 40 baada ya Manchester United kuwa timu ya kwanza ya Uingereza kushinda taji la Ulaya. Fainali ya Kombe la Ulaya ilishuhudia pia Ryan Giggs akiichezea klabu hiyo kwa mara ya 759, na kumpita Bobby Charlton aliyekuwa akishikilia rekodi ya kuichezea mara nyingi zaidi klabu hicho.
Kabla ya kuanza kwa msimu wa 2008-09, United walishiriki na kushinda tuzo ya ngao yaFA Community Shield ya 2008. United walifunga Portsmouth katika mikwaju ya penalti 3-1, washindi wa Kikombe cha FA cha 2007-08, baada ya mechi kukamilika kwa sare tasa ya 0-0 ndani ya dakika 90. Mnamo tarehe 21 Desemba 2008, United waliongezea nishani zaidi kwenye hazina yao ya tuzo kwa kushinda katika fainali ya Kombe la Ulimwengu la Vilabu vya FIFA kwa kuishinda LDU Quito kutoka Ecuador kwa bao 1-0 kule Japan, Wayne Rooney ndiye aliyefunga bao la ushindi. Miezi miwili baadaye, waliliongezea kombe la Ligi ya 2009 katika hazina yao ya tuzo kwa kuishinda Tottenham Hotspur mabao 4-1 kwenye mikwaju ya penalti.[32] Mnamo tarehe 16 Mei, United waliweza kuwahi taji la 11 katika Ligi ya Primia - na taji la ujumla la 18 katika Ligi – baada ya kuenda sare tasa ya 0-0 nyumbani kwao wakicheza na Arsenal huku wakishinda mataji matatu mtawalia ya Ligi ya Premier kwa mara ya pili.[33] Mnamo tarehe 27 Mei 2009, Barcelona waliweza kuishinda Manchester United mabao 2-0 katika fainali ya Ligi Mabingwa kule Rome, yaliyofungwa na Samuel Eto'o na Lionel Messi.[34] Fainali ya Ligi ya Mabingwa ilitokea kuwa mechi ya mwisho kwa Carlos Tévez – ambaye mkataba wake ulikamilika mnamo tarehe 30 Juni – na Christiano Ronaldo – aliyeuzwa kwa Real Madrid kwa gharama ya milioni £80, kuvunja rekodi ya dunia ya kuhamisha na kusajiliwa kwa Kaka na Real Madrid kutoka Milan kwa gharama ya milioni £56. Hata hivyo, United waliitikia hasara hizo kwa kumhamisha na kumsajili Michael Owen bila gharama yoyote, Antonio Valencia kwa milioni £17 na Gabriel Obertan kwa gharama ya milioni £3.
Msimu wa 2009-10 ulianza vizuri kwa timu ya Manchester United, licha ya kushindwa 1-0 na timu ya Burnley kule Turf Moor iliyokuwa pigo kubwa kwao. Wingi wa ushindi ukafuata hatimaye, pamoja na ushindi wa kusisimua dhidi ya Manchester City kwa mabao 4-3, uliopatikana mnamo dakika ya 96 kutokana na bao lake Michael Owen. Hata hivyo, mchezo isioridhisha uliwafanya kushindwa mabao 2-0 na Liverpool uwanjani Antfield. Kufikia 1 Novemba, Manchester United ni ya pili katika ligi, alama 2 nyuma ya Chelsea. Katika Ligi ya Mabingwa, United kwa sasa ndio washindi wa kwanza kwenye kundi lao, pamoja na ushindi dhidi ya Beşiktaş na CSKA Moscow na ushindi dhidi ya Wolfsburg huko nyumbani kwao. Mnamo tarehe 3 Novemba, Manchester United waliweza kuhifadhi na kuhitimu kutoka katika kikundi kwa kupata mabao sare 3-3 dhidi ya CKSA Moscow.
Nembo na rangi za klabu
Katika enzi zake kama Newton Heath, klabu kilitumia mavazi ya rangi tofauti, inayotambuliwa zaidi ni shati la rangi ya manjano na kijani lililovaliwa kuanzia 1878 hadi 1892, na tena 1894-1896; vazi hili la milia lilitumika tena katika michuano ya ugenini mapema miaka ya 1990. Mavazi mengine yaliyovaliwa na Newton Heath ni pamoja na shati jekundu lililokuwa na weupe robo yake (1892-1894) na shati jeupe lisilo kuwa na milia (1896-1902), zote hizi zilivaliwa na kaptura ya rangi ya samawati.[35] Katika mwaka wa 1902, pamoja na klabu kubadili jina na kuwa Manchester United, klabu pia kilibadili rangi zake kuwa jezi nyekundu, kaptura nyeupe na soksi nyeusi, ambayo imesalia kuwa sare wastani ya Man Utd katika michuano ya nyumbani tangu wakati huo. Kilicho tofauti na haya ni jezi ambazo timu ilivaa ikicheza fainali ya kombe la FA 1909 na Briston City ambayo ilikuwa nyeupe na mshipi mwekundu wa muundo wa “V”.[36] Mtindo huu ulifufuliwa katika miaka ya 1920 kabla United kurudia mashati yenye rangi nyekundu pekee, pia ilitumika kwa ajili ya michuano ya nyumbani na ugenini katika msimu wa 2009-10 kama njia ya kusherehekea miaka 100 katika Old Trafford.[37][38]
Jezi za kuchezea ugenini kawaida huwa nyeupe na kaptura nyeusi na soksi nyeupe, lakini rangi nyingine zimetumika, ikiwa ni pamoja na shati iliyokuwa na milia ya samawati na nyeupe iliyotumika kati ya 1903-1916, sare nyeusi kila kitu kilichotumika mwaka 1994, 2003 na 2007 na shati la blue iliyokuwa na mistari myembamba mwaka 2000. Mojawapo ya sare iliyokuwa maarufu kwa wengi, japo haikudumu, ni sare ya United iliyokuwa ya michuano ya ugenini ya rangi ya kijivu pekee iliyotumika kati ya 1995-96, iliacha kutumiwa baada ya timu kushindwa mchezo mmoja wakati walikuwa wameivaa. Katika muda wa mapumziko wakicheza dhidi ya Southampton, wakati united ilikuwa imetingwa 3-0, walibadilisha mavazi na kuvaa sare ya samawati na nyeupe lakini bado wakashindwa 3-1. Kulingana na wachezaji, mavazi ya kijivu hayakuwa yakionekana vyema jambo lililosababisha matokeo duni.[39] Sare nyingine maarufu ya kucheza ugenini ya Man Utd ilikuwa uweza wa kuvalika pande zote, ilikuwa na milia ya nyeupe na mikono mieusi na mstari wa kidhahabu upande mmoja na milia ya kidhahabu na mstari mweusi upande mwingine. Shati hii ilitolewa kama sare ya mwisho iliyoshonwa na Umbro kwa klabu kabla ya kuanza kuhudumiwa na Nike, na iliadhimisha miaka 100 tangu klabu kilipobadili jina lake kutoka Newton Heath kuwa Manchester United.
Sare ya tatu ambayo huvaliwa katika michuano ya nyumbani ni samawati tangu shati hadi sokisi kwa heshima ya sare iliyovaliwa 1968 timu iliposhinda Kombe la Ulaya, ukumbusho wa moja kwa moja ulifanywa na klabu 2008-09 kukumbuka miaka 40 ya jezi la tatu la 1968. Kinyume na desturi hii ni kuwa ni pamoja na sare ya rangi ya manjano iliyovaliwa katika miaka ya 1970, sare iliyotajwa hapo awali ya mistari ya samawati na nyeupe kuanzia 1996, ambayo ilionekana kuwapendeza sana mashabiki, na shati jeupe iliyokuwa na mikato ya mlazo wa rangi nyeusi na nyekundu kuanzia 2004. United pia imetumia shati zilizo wahi kutumika kama ya mazoezi kuwa sare zao za tatu, iliwahi kutumia sare nyeusi toka juu hadi chini katika msimu 1998-99 na shati samawati iliyokuwa na rangi ya damu ya mzee ubavuni mwaka 2001 kwa michuano dhidi ya Southampton na PSV Eindhoven.
Hivi sasa, jezi ya nyumbani ya Manchester United ni nyekundu na iliyo na tepe nyeusi isiyokolea kifuani. Nembo ya klabu huwa juu ya ngao nyeusi yenye ukubwa sawa upande wa kushoto wa V, ilihali alama ya Nike ni nyeupe na huwa upande wa kulia; nembo ya AIG pia ni nyeupe. Katika kukumbuka miaka 100 tangu kufunguliwa kwa uwanja wa klabu hicho cha Old Trafford kuna kitambulisho kinachosoma “Uwanja wa ndoto tangu 1910” (The Theatre of Dreams Since 1910) kilichoshikishwa upande wa mshono. Shati la nyumbani huvaliwa na kaptura nyeupe iliyo na mistari myekundu inayoteremka pande zote mbili za miguu, na soksi nyeusi iliyo na mkato mwekundu.[37] Hivi karibuni sare ya kucheza ugenini imekaribiana katika muundo na sare ya nyumbani, lakini shati ni jeusi lililo na utepe wa samawati kifuani na nembo ya klabu huwa juu ya ngao ya samawati. Sawa na sare ya nyumbani, nembo ya wadhamini iko katikati na kwa rangi nyeupe. Kaptura pia ni nyeusi na milia ya samawati ikielekea chini, huku soksi nazo zikiwa nyeusi na tepe ya samawati.[38] Sare ya ugenini ya klabu ya msimu wa 2008-09, inayojumuisha shati jeupe lililo na mstari wa samawati kwenda chini ubavuni na ukosi wa samawati ilio na mkato mwekundu, unaotumiwa kama sare ya tatu ya msimu wa 2009-10. Ikivaliwa pamoja na kaptura za samawati na soksi nyeupe, jezi la tatu lina nembo za wafadhili kwa rangi ya samawati pamoja na herufi "MUFC" nyuma ya ukosi.Beji ya klabu inakalia nguo nyeupe kushoto mwa kifua.[40][41]
Nembo ya Manchester United imebadilishwa mara chache, lakini umbo la kimsingi limebakia sawa. Beji hiyo imechukuliwa kutoka kwa nembo ya jiji la Manchester. Picha ya Shetani kwenye beji ya klabu ilitokana na lakabu ya klabu “Red Devils” (Shetani Wekundu); lililoanza kutumika mapema miaka ya 1960 baada ya Matt Busby kusikia likirejelea timu ya raga ya Salford kutokana na jezi zao nyekundu.[42] Kufikia mwisho wa miaka ya 1960 nembo hiyo ya shetani ilianza kujumuishwa katika utaratibu na shali za klabu kabla ya kujumuishwa kwenye beji ya klabu mnamo 1970 ikishikilia mkuki wenye ncha tatu. Katika mwaka wa 1998, beji iliundwa upya tena, wakati huu maneno "Footbal Club" yakiondolewa.[43]
Wachezaji
Kikosi cha timu ya kwanza
Kama ilivyokuwa 29 Oktoba 2009,kulingana na vyanzo mseto katika tovuti rasmi.[44][45]
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer1GKEdwin van der Sar2DFGary Neville (captain)3DFPatrice Evra4MFOwen Hargreaves5DFRio Ferdinand6DFWes Brown7FWMichael Owen8MFAnderson9FWDimitar Berbatov10FWWayne Rooney11MFRyan Giggs (vice-captain)12GKBen Foster13MFPark Ji-Sung14MFZoran Tošić15DFNemanja Vidić16MFMichael Carrick17MFNani18MFPaul Scholes
No.PositionPlayer19FWDanny Welbeck20DFFábio21DFRafael22DFJohn O'Shea23DFJonny Evans24MFDarren Fletcher25MFAntonio Valencia26FWGabriel Obertan27FWFederico Macheda28MFDarron Gibson29GKTomasz Kuszczak30DFRitchie De Laet31MFCorry Evans38GKRon-Robert Zieler41FWJoshua King42MFMagnus Wolff Eikrem43MFMatthew James
Wa mkopo
Note: Flags indicate national team as defined under FIFA eligibility rules. Players may hold more than one non-FIFA nationality.
No.PositionPlayer35MFTom Cleverley (at Watford until 3 Januari 2010)[46]36MFDavid Gray (at Plymouth Argyle until 18 Desemba 2009)[47]37DFCraig Cathcart (at Watford until 4 Januari 2010)[48]
No.PositionPlayer40GKBen Amos (at Peterborough United until 29 Novemba 2009)[49]—FWMame Biram Diouf (at Molde until 31 Desemba 2009)[50]
Wa ziada na walio chuoni
Kwa kikosi cha wachezaji wa ziada na walio chuoni, tazama Manchester United F.C. Reserves and Academy.
Waliokuwa wachezaji hapo awali
Kwa maelezo juu ya wachezaji wa zamani, tazama Orodha ya wachezaji wa klabu ya Soka ya Manchester United na Category:Manchester United F.C. players
Manahodha wa klabu
Rekodi za wachezaji
Kwa mujibu wa mechi iliyochezwa tarehe 8 Novemba 2009 na kulingana na takwimu ya tovuti rasmi.[52] Wachezaji walioandikwa kwa maandishi kolezo ndiyo bado wanaichezea timu ya Manchester United.
Walioshiriki michuano mingi
Waliofunga zaidi
Washindi wa matuzo
Ballon d'Or
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa Ballon d'Or wakati wakiichezea Manchester United:
Denis Law - 1964
Bobby Charlton - 1966
George Best - 1968
Cristiano Ronaldo - 2008
European Golden Shoe ( taji la kiatu cha dhahabu cha Ulaya)
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa European Golden Shoe wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo (mabao 31 ) - 2008
Tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo la UEFA kwa mwanakandanda wa klabu bora wa mwaka wakati wakiichezea Manchester United:
David Beckham - 1999
Cristiano Ronaldo - 2008
Mchezaji wa mwaka wa FIFA
Wachezaji wafuatao walikuwa washindi wa tuzo laMchezaji wa mwaka wa FIFA wakati wakiichezea Manchester United:
Cristiano Ronaldo - 2008
Timu ya akina dada
Timu ya soka ya akina dada ya Manchester United yaani Manchester United Ladies FC ilianzishwa mwaka 1977 kama klabu ya mashabiki akina dada yaani Manchester United Supporters Club Ladies. Walijiunga na ligi ya Three Counties League mwaka 1979, na wakawa wanachama waanzilishi wa ligi ya wanawake wa eneo la kaskazini (North West Women's Regional Footbal League) mwaka 1989, walipogeuza jina lao rasmi na kuwa Manchester United Ladies FC. Ingawa walishushwa kutoka katika ligi msimu wao wa kwanza, walipandishwa ngazi tena baada ya msimu huo na kushinda taji ya ligi ya 1995-96. Msimu wa 1998-99, timu hiyo ilijiunga na Northern Combination, hatua mbili chini ya Ligi Kuu ya wanawake ya FA. Waliletwa rasmi chini ya mwavuli wa Manchester United FC mwanzo wa msimu wa 2001-02, lakini walivunjiliwa mbali kiutata mwanzo wa msimu wa 2004-05 kwa sababu za kifedha. Uamuzi huo ulikumbwa na upinzani ikizingatiwa faida inayopatikana na Manchester United na pia kutokana na ukweli kuwa timu ziliondolewa ligi zao zote kabla hata wachezaji kuarifiwa kuhusu uamuzi huo. Hata hivyo, klabu bado kilishiriki katika kandanda ya wasichana kwa kutoa mafundisho kwa wasichana chini ya umri wa miaka 16.[53]
Maafisa wa klabu
Mmiliki: Malcolm Glazer
Rais wa heshima: Martin Edwards
Manchester United Limited
Wenyekiti wenz: Joel Glazer & Avram Glazer
Afisa mkuu mtendaji: David Gill
Afisa mkuu wa utekelezaji: Michael Bolingbroke
Mkurugenzi wa Kibiashara: Richard Arnold
Mkurugenzi mtendaji: Ed Woodward
Wakurugenzi wasio watendaji: Bryan Glazer, Kevin Glazer, Edward Glazer & Darcie Glazer
Manchester United Football Club
Wakurugenzi: David Gill, Michael Edelson, Sir Bobby Charlton, Maurice Watkins
Katibu wa Klabu: Ken Ramsden
Naibu katibu wa klabu: Ken Merrett
Balozi wa kimataifa: Bryan Robson
Maafisa wa ukufunzi na wa kimatibabu
Meneja: Sir Alex Ferguson
Naibu meneja: Mike Phelan
Mkufunzi wa timu ya kwanza: René Meulensteen
Mkufunzi wa walindalango: Eric Steele
Mkufunzi wa mazoezi: Tony Strudwick
Mkufunzi wa nguvu & uzoefu: Mick Clegg
Mkuu wa utendaji wa binadamu: Dr. Richard Hawkins [54]
Meneja wa timu ya ziada: Ole Gunnar Solskjær
Mkufunzi wa timu ya ziada: Warren Joyce
Skauti mkuu: Jim Lawlor
Skauti mkuu wa Ulaya: Martin Ferguson
Mkurugenzi wa chuo cha vijana: Brian McClair
Mkurugenzi wa kandanda ya vijana: Jimmy Ryan
Daktari wa klabu: Dr. Steve McNally
Naibu daktari wa klabu: Dr. Tony Gill
Mwanatibamaungo wa timu ya kwanza: Rob Swire
Historia ya usimamizi
Ufuasi
Kabla ya Vita ya Pili vya Dunia, mashabiki wachache wa kandanda wa Uingereza walisafiri mbali kutazama michezo kwa sababu ya muda, gharama, na vikwazo vya kivifaa kama vile uhaba wa magari miongoni mwa wakaazi. Jinsi City na United walivyocheza michuano ya nyumbani kwa kubadilishana siku za Jumamosi, Wanamanchester wengi wangetazama United juma moja na juma lifuatalo City, lakini baada ya vita, ushindani mkali ukaibuka na ikawa kawaida zaidi kwa shabiki kuchagua kufuata timu moja pekee.
United iliposhinda ligi mwaka 1956, walikuwa na ufuasi wastani wa juu zaidi wa mahudhurio ya ligi nyumbani, rekodi iliyokuwa inashikiliwa na Newcastle United kwa miaka michache iliyotangulia. Kufuatia ajali yao ya ndege Munich mwaka wa 1958, watu zaidi walianza kushabikia United na wengi wakaanza kuhudhuria michuano. Hii illisababisha ushabiki kwa United kupanuka sababu moja inayofanya United kuwa mahudhurio ya juu katika ligi ya kandanda ya Uingereza kwa takribani kila msimu tangu wakati huo, hata wakati waliposhushwa ngazi na kuwa katika Divisheni ya Pili 1974-75.[3] Kwa kweli, kwa misimu miwili ambayo United haikuwa na mahudhurio ya ligi, Old Trafford ilikuwa ikifanyiwa kazi kubwa ya ujenzi (1971-72 na 1992-93).
Ripoti ya mwaka 2002, kwa anwani Do You come From Manchester?, Ilionyesha kuwa asilimia kubwa ya wanunuzi wa tiketi za msimu za Manchester City huishi katika wilaya za posta za Manchester, wakati United ilikuwa na idadi kamili juu ya wanunuzu wa tiketi za msimu wanaoishi katika eneo moja.[55]
Katika miaka ya 1990 na mapema miaka ya 2000, chanzo cha wasiwasi kwa mashabiki wengi wa United kilikuwa uwezekano wa klabu kununuliwa. Kundi la wafuasi IMUSA (Independent Manchester United Supporters' Association) lilijihusisha sana katika kupinga ununuzi uliotarajiwa wa Rupert Murdoch mwaka 1998. Kundi lingine lililotoa shinikizo klabu kisiuzwe, Shareholders United against Murdoch (ambalo baadaye lilikuwa Shareholders United na sasa ni Manchester United Supporters' Trust) liliundwa wakati huu kuhamasisha wafuasi kununua hisa za klabu, ili kwa kiasi kuwawezesha wafuasi kuwa na usemi zaidi katika masuala yaliyowatia wasiwasi kama vile bei na mgao wa tiketi, na kwa kiasi kupunguza hatari ya watu wasiohitajika kununua hisa za kutosha kumiliki klabu. Hata hivyo, mpango huu ulishindwa kumzuia Malcolm Glazer kuwa mmiliki mwenye hisa nyingi. Wafuasi wengi walikasirishwa, na baadhi walibuni klabu asi kwa jina F.C. United of Manchester. Licha ya hasira ya baadhi ya wafuasi kwa wamiliki wapya, mahudhurio yameendelea kuongezeka.
Hisia zilizotolewa na mashabiki hao, wakati mwingine umeshutumiwa. Mwaka 2000, maoni yaliyotolewa kuhusu baadhi ya mashabiki katika Old Trafford na nahodha wa wakati huo Roy Keane, kwamba baadhi ya mashabiki hawawezi hata " kuendeleza neno kandanda, acha kuielewa" yalipelekea wao kutajwa kama "mashabiki wanaohudhuria mchuano kufurahia ukarimu wa klabu na wala si kuishabikia".[56] Alex Ferguson pia ametoa maoni kadhaa kuhusu mashabiki kiasi kwamba alidai kuwa hali iliyoshuhudiwa tarehe 1 Januari 2008 ilikuwa kama "matanga".[57] Baadaye aliongeza, "Nadhani kumekuwa na siku kama hizi hapo nyuma. Ilitokea miaka michache iliyopita, wakati tulipotawala".[57] Baada ya ushindi maarufu wa 1-0 dhidi ya Barcelona ugani Old Trafford, ambao uliiwezesha United kushiriki katika fainali ya Ligi ya Mabingwa ( Champions League) Moscow, Ferguson alisema kwamba mashabiki wa United "walikuwa wapevu sana" na kwamba wao "walituwezesha kufanikiwa".[58][59]
Uwanja
Klabu kilipoanzishwa mara ya kwanza, Newton Heath alicheza michuano yao ya nyumbani kwenye uwanja mdogo ulio North Road, Newton Heath. Hata hivyo, timu geni zilizokuja kucheza uwanjani humo zililalamikia hali yake, ambayo ilikuwa "bwawa upande mmoja na uliojaa miamba kama ya timbo upande mwingine".[10] vyumba vya kubadilishia nguo pia havikuwa vya kujivunia, vilikuwa umbali wa kutembea dakika kumi katika baa ya Three Crowns iliyokuwa Oldham Road. Baadaye walihamishiwa Shears Hotel, mkahawa mwingine uliokuwa Oldham Road, hata hivyo mabadiliko yalihitajika kama klabu ilitaka kuendelea katika Ligi ya Kandanda.
Heath walibaki katika uwanja wao wa North Road kwa miaka kumi na mitano 1878-1893, mwaka mmoja baada ya kuingia Football League na baadaye kuhamia makao mapya Bank Street hapo Clayton. Uwanja mpya haukuwa mzuri sana, vipande vichache vya nyasi vilijipenyeza usoni mwa changarawe na mawingu ya moshi yalifuka kutoka katika kiwanda kilichokuwa karibu. Wakati mmoja, Walsall Town Swifts ilikataa kucheza kutokana na hali mbaya ya uwanja. Changarawe ilimwagwa uwanjani na walinda uga, hatimaye wageni wakawashawishi kucheza na kupoteza 14-0. walipinga matokeo hayo, wakitaja hali mbaya ya uwanja kama sababu ya wao kushindwa, mchuano ukarudiwa. Hali haikuwa nzuri sana wakati wa marudiano, timu ya Walsall ilishindwa tena, ingawa wakati huu walibugia 9-0 tu.[10]
Mwaka wa 1902, klabu karibu kifilisike na uwanja wa Bank Street ulifungwa na mdai kutokana na klabu kushindwa kulipa deni lake. Klabu kiliokolewa katika dakika za mwisho na nahodha Harry Stafford ambaye aliweza kuchangisha fedha za kutosha kulipia mchuano wa ugenini Bristol City na kupata uwanja wa muda karibu na Harpurhey kwa kuchezea duru nyingine dhidi ya Blackpool.[60]
Kufuatia uwekezaji kuimarisha klabu tena, jina lilibadilishwa na kuwa Manchester United, ingawa kulikuwa na hamu ya kupata uwanja uliokubalika. Wiki sita kabla ya mchuano wa kwanza wa United kuwania Kombe la FA Aprili 1909, Old Trafford ilitajwa kuwa nyumbani kwa Manchester United kufuatia ununuzi wa ardhi muhimu kwa takribani £ 60,000. Msanifumijengo Archibald Leitch aliajiriwa na mwenyekiti wa United John Henry Davies na kupewa bajeti ya £ 30.000 kwa ajili ya ujenzi. Mipango asilia ilionyesha kuwa uwanja ungefaa kujengwa kuhimili watu 100.000, ingawa idadi hiyo ilipunguzwa hadi 77,000. Licha ya hilo, rekodi ya mahudhurio ya 76,962 ilirekodiwa, ambayo hata sasa ni zaidi ya idadi rasmi inayokubalika katika uwanja huo. Ujenzi ulifanywa na Messrs Brameld na Smith wa Manchester. Katika ufunguzi wa uwanja, tiketi za kusimama ziligharimu peni sita, wakati viti ghali zaidi katika jukwaa kuu zililipiwa shilingi tano. Mchezo wa ufunguzi ulikuwa tarehe 19 Februari 1910 dhidi ya Liverpool FC, na wageni wakashinda kwa 4-3. Kama ilivyotokea, mabadiliko ya uwanja yalitokea wakati mwafaka zaidi - siku chache tu baada ya klabu kucheza mchuano wao wa mwisho ugani Bank Street, mojawapo ya jukwaa liliangushwa chini na dhoruba.[61]
Kupigwa kwa bomu wakati wa Vita vya Pili vya Dunia, tarehe 11 Machi 1941, kuliharibu sehemu kubwa ya uwanja, hasa jukwaa kuu. Handaki la kati katika South Stand ndilo la pekee lililobakia katika robo hiyo ya uwanja. Baada ya vita, United iliwasilisha ripoti kwa Tume ya Madhara ya Vita na kupokea fidia ya £ 22.278 kwa ajili ya ukarabati wa uwanja huo. Ingawa uwanja ulijengwa upya tena 1949, hakuna mchuano uliosakatwa Old Trafford kwa takribani miaka 10 michuano ya "nyumbani" katika kipindi hicho ilichezwa katika uwanja wa Manchester City, Maine Road. Manchester City iliilipisha United £ 5,000 kwa mwaka kwa matumizi ya uwanja wao, pamoja na asilimia fulani ya ada ya kiingilio.[62]
Marekebisho mengine yalitokea baadaye, yakianza na kuwekwa paa upande wa Stretford End kisha ikawekwa pande za North Stand na East Stand. Hata hivyo, mtindo wa zamani wa paa uliwazuia mashabiki wengi kutazama na hivyo, kupelekea kuboreshwa kwa paa hizo kuwa zilizoinuka na ambazo bado zipo katika uwanja huo leo. Stretford End lilikuwa jukwaa la mwisho kufanyiwa ukarabati wa kuinuliwa paa, kazi iliyokamilika kwa muda ufaao kuruhusu michuano ya msimu wa 1993-94.[63]
Taa za uwanjani ziliwekwa kwa mara ya kwanza uwanjani katikati ya miaka ya 1950. Viunzi180-foot (55m) vinne vikuu vilijengwa, kila kimoja kikiwa na taa 54. Mfumo mzima wa taa uliigharima klabu £ 40,000, na kutumika mara ya kwanza katika mechi ya tarehe 25 Machi 1957. Hata hivyo, taa mtindo zamani zilibomolewa mwaka wa 1987, na kubadilishwa na taa za kisasa zilizowekwa katika paa la kila jukwaa, zinadumu hadi leo.
Mwaka 1990, kufuatia janga la Hillsborough Disaster, ripoti ilitolewa iliyotaka viwanja vyote kukarabatiwa ili kuruhusu mashabiki wanaoketi pekee, hilo lilipelekea ukarabati ulioshusha idadi ya mashabiki wanaoruhusiwa hadi takribani 44,000. Hata hivyo, umaarufu wa klabu ulimaanisha kuwa maendeleo zaidi yangetokea. Mwaka 1995, North Stand ilijengwa kuwa na daraka tatu na kuongeza idadi inayoruhusiwa hadi takribani 55,000. Hii ilifuatiwa na upanuzi kwanza wa jukwaa la East na kisha West kufikisha jumla ya idadi ya 68,000. Upanuzi wa hivi karibuni zaidi ulikamilika mwaka 2006, ambapo robo iliyopo North-East na North West ilifunguliwa, na kufikisha rekodi ya idadi ya sasa ya 76,098, 104 tu chini ya upeo wa idadi inayoruhusiwa.[63]
Imekadiriwa kwamba kwa maendeleo zaidi kufanyiwa uwanja, hasa Southern Stand ambayo ndio hadi sasa ina daraka moja tu, gharama ya uboreshaji inaweza kukaribia £ million 114 ambazo tayari zimetumika kuboresha uwanja huo katika miaka kumi na minne iliyopita. Hii ni kutokana na ukweli kwamba ingebidi takriban nyumba hamsini kununuliwa na klabu, hilo huenda likaongeza usumbufu kwa wakazi wa mtaa huo,na upanuzi wowote ungelazimika kujengwa juu ya laini ya reli inayopita karibu na uwanja huo. Kwa kweli , upanuzi huo utajumuisha kuifanya South Stand kuwa na angalau daraka mbili na kujaza jukwaa za South-West na South-East kuhifadhi umbo la "bakuli" la uwanja huo. Makadirio ya sasa yanaashiria kuwa uwanja huo ukijengwa hivyo utakuwa na uwezo wa kuhimili takriban mashabiki 96,000, zaidi wa uwanja mpya wa Wembley.[63]
Udhamini
AIG ndio wadhamini wakuu wa Manchester United, na kama sehemu ya mpango huo wa udhamini nembo yao imebandikwa mbele ya mashati ya klabu na bidhaa nyingi nyinginezo za klabu. Udhamini wa AIG ulitangazwa na afisa mtendaji wa Manchester United David Gill tarehe 6 Aprili 2006, ina thamani ya £ milioni 56.5 rekodi ya aina yake nchini Uingereza na ya kulipwa kwa takribani miaka minne (£ milioni 14.1 kila mwaka).[64] Udhamini huo ulikuwa wenye thamani zaidi dunia mwezi Septemba 2006 baada ya kubatilishwa kwa udhamini wa £ milioni 15 kila mwaka kati ya Juventus na kampuni ya mafuta ya Tamoil.[65] Tarehe 21 Januari 2009, ilitangaza kuwa AIG haitafanya upya udhamini wao wa klabu ifikapo mwisho wa udhamini wa sasa Mei 2010. Hata hivyo, si wazi ikiwa mkataba wa AIG kusimamia MU Finance utaendelea.[66] Kampuni ya bima ya marekani Aon ilitajwa kama mdhamini mkuu wa klabu tarehe 3 Juni 2009, huku udhamini wao kwa klabu ukianza kutekelezwa mwanzo wa msimu wa 2010-11.[67] Masharti ya mpango huo hawakufichuliwa, lakini imeripotiwa kuwa una thamani ya takriban £ million 80 kwa takriban miaka minne, ambayo itaifanya kuwa mdhamini mkuu zaidi katika historia ya kandanda.[68]
Klabu kimekuwa na wadhamini wakuu watatu tu wa shati. Wa kwanza na waliohudumu kwa muda mrefu zaidi walikuwa Sharp Electronics, ambao walifadhili klabu kuanzia 1982 hadi 2000, ilikuwa moja ya udhamini wa faida kubwa na wa muda mrefu katika Soka ya Uingereza.[69][70] Nembo ya Sharp ilikuwa mbele ya shati za United katika miaka hiyo 17, wakati ambao timu ilishinda mataji saba ya Ligi Kuu, tano za Kombe la FA, moja la Football League, moja la Washindi wa makombe ya Ulaya na moja la Kombe la Ulaya. Vodafone ilichukua udhamini kwa mkataba wa awali wa miaka minne wa £ million 30 tarehe 11 Februari 2000, udhamini ulianza mwanzo wa msimu wa 2000-01.[69][70] Mnamo Desemba 2003, udhamini ulirefushwa kwa miaka minne na Vodafone ikakubaliana kulipa £ million 36 zaidi kwa miaka minne ya 2004-2008.[71] Hata hivyo, tarehe 23 Novemba 2005, Vodafone ilitangaza kuwa itakomesha udhamini wake Mei 2006 ili kuangazia zaidi udhamini wao wa UEFA Champions League.[72]
Vivyo hivyo, klabu imekuwa na washonaji huru nne tu wa sare yake, wa kwanza walikuwa kampuni ya Uingereza UMBRO. Admiral ilichukua usukani mwaka 1975, na kuwa kampuni ya kwanza ya kuweka nembo yao kwenye shati la Manchester United mwaka wa 1976.[73] Adidas ilifuatiwa mwaka 1980,[74] kabla Umbro kuanzaa kipindi chao cha pili kama watengenezaji wa sare za klabu hiyo mwaka wa 1992.[75] Udhamini wa Umbro ulidumu kwa miaka kumi zaidi kabla ya klabu kupata udhamini wa kuvunja rekodi - £ million 302.9 kutoka kwa Nike. Makubaliano na Nike yatadumu kwa miaka 13 ya awali, na kuendelea hadi angalau mwaka wa 2015.[76]
Washindani
Kihistoria, washindani wa karibu wa Manchester United wamekuwa Liverpool, Manchester City na Leeds United.[77][78] Hivi sasa, mashabiki wengi huona Liverpool kama washindani wao wakubwa kutokana na mafanikio ya klabu zote mbili,[79] ingawa bado wengine huiorodhesha Manchester City kama wapinzani wao wakuu.
Ushindani na Liverpool ulianza katika miaka ya 1960 wakati klabu hizo mbili zilikuwa kati ya klabu imara zaidi Uingereza, na zimekuwa zikishindana kwa karibu sana kila msimu tangu zamani. Ushindani wa Manchester City ulianza wakati wa enzi ya Newton Heath ya miaka ya 1890 na imebakia kali kutokana na klabu hizi mbili kuwa katika divisheni sawa kwa muda mrefu wa historia yao. Huku ushindani ukiwa na msingi wa ukinzani wa jadi kati yaYorkshire-Lancashire, ushindani kati yao na Leeds United ulianza mwishoni mwa miaka ya 1960 wakati Leeds ilitawazwa mshindi, na kuendelea katika miaka ya 1970 na 1980 kabla kufikia kilele wakati Leeds ilipoiadhibu United katika taji la ligi 1992.
Tuzo
Nchini Uingereza
Ligi
Ligi Kuu: [80] 11
1992-93, 1993-94, 1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08, 2008-09
Divisheni ya kwanza: [80] 7
1907-08, 1910-11, 1951-52, 1955-56, 1956-57, 1964-65, 1966-67
Divisheni ya pili: [80] 2
1935-36, 1974-75
Vikombe
Kombe la FA: 11
1909, 1948, 1963, 1977, 1983, 1985, 1990, 1994, 1996, 1999, 2004
Kombe ya Ligi: 3
1992, 2006, 2009
FA Charity / Community Shield: 17 (washindi waziwazi mara 13, mara 4 imegawanywa)
1908, 1911, 1952, 1956, 1957, 1965 *, 1967 *, 1977 *, 1983, 1990 *, 1993, 1994, 1996, 1997, 2003, 2007, 2008 (* washindi wa pamoja)
Ya Ulaya
Kombe la Ulaya / UEFA Champions League: 3
1968, 1999, 2008
UEFA Cup Winners' Cup: 1
1991
UEFA Super Cup: 1
1991
Duniani
Kombe la Mabara: 1
1999
Kombe la FIFA la Klabu za Dunia: 1
2008
Ushindi wa mataji mawili au matatu
Mataji mawili:
Ligi na Kombe la FA: 3
1994, 1996, 1999 (kama sehemu ya Utatu)
Ligi na Kombe ya Ligi: 1
2009
Mataji mawili ya Ulaya (Ligi na Kombe la Ulaya): 2
1999 (kama sehemu ya ya Utatu), 2008
"Utatu" (League, Kombe la FA na Kombe la Ulaya): 1
1999
Hasa mashindano mafupi kama vile Charity / Community Shield, Kombe la mabara, Kombe la FIFA la klabu za Dunia au Super Cup hazifikiriwi kwa jumla kuchangia Ushindi mara mbili au tatu.
Taji kuu la peke ambalo Manchester United haijashinda kamwe ni Kombe la UEFA,[81] ingawa walifika robo-fainali mwaka 1984-85 na nusu fainali ya mashindano tangulizi ya michuano hiyo Inter-Cities Fairs Cup, mwaka wa 1964-65.[82][83]
Tazama pia
Vilabu tajiri vya kandanda
Miungano ya mashabiki
IMUSA
Manchester United Supporters 'Trust
Vijarida
Red Issue
United we Stand (kijarida)
Red News
Marejeo
Viungo vya nje
Main Page on BBC Sport: –
katika skysports.com
katika premierleague.com
Jamii:Manchester United FC
Jamii:Vilabu Mpira vya Uingereza
Jamii:Klabu za Ligi Kuu
Jamii:Klabu za Ligi ya Kandanda | https://sw.wikipedia.org/wiki/Manchester%20United%20F.C. |
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يوسُفُ عبد الله هديب وهبي قطب الشهير باسم يوسف وهبي (17 يوليو 1898 - 17 أكتوبر 1982[1])، ممثل ومؤلف ومنتج ومخرج مسرحي وسينمائي مصري، يعتبر أحد الرُوَّاد الأوائل في مجالي السينما والمسرح في مصر والوطن العربي.
مولده ونشأته
ولد في مدينة الفيوم على شاطئ بحر يوسف وسُمي تيمناً باسمه[2]، وكان والده (عبد الله باشا وهبى) يعمل مفتشًا للرى بالفيوم[3]، وكان يقطن منزلاً يقع على شاطئ بحر يوسف (بجوار شارع بحر ترسا الآن).[4]
بدأ تعليمه في كُتَّاب العسيلى بمدينة الفيوم[5]، وكان أعلى مسجد العسيلي قبل تجديده بشارع الحرية أمام "كوبرى الشيخ سالم" بمدينة الفيوم[6]، وتلقى يوسف وهبي تعليمه بالمدرسة السعيدية بالجيزة[7] ثم بالمدرسة الزراعية بمشتهر[8]،ولا يزال تراث والده موجودًا في الفيوم إذ أنه هو الذي قام بحفر (ترعة عبد الله وهبى) بالفيوم[9]، والتي حولت آلاف الأفدنة من الأراضي الصحراوية إلى أراضي زراعية[10]، كما أنشأ المسجد المعروف باسم (مسجد عبد الله بك) المطل على كوبري مرزبان بمدينة الفيوم[11]، والذي كان يعتبر أكبر مسجد بالفيوم حتى وقت قريب.[12]عمل يوسف مصارعًا في (سيرك الحاج سليمان) حيث تدرب على يد بطل الشرق في المصارعة آنذاك المصارع عبد الحليم المصري.[13]
مسيرته الفنية
بدايته
شغف يوسف وهبي بالتمثيل لأول مرة في حياته عندما شاهد فرقة الفنان اللبناني سليم القرداحى في سوهاج[14]، وبدأ هوايته بإلقاء المونولوجات وأداء التمثيليات بالنادى الأهلى والمدرسة.[15]
سافر إلى إيطاليا بعد الحرب العالمية الأولى بإغراء من صديقه القديم محمد كريم، وتتلمذ على يد الممثل الإيطالى كيانتونى، وعاد إلى مصر سنة 1921 بعد وفاة والده، حيث حصل على ميراثه عشرة آلاف جنيه ذهبي بالتساوي مع إخوانه الأربعة، ثم انضم للعمل في فرقتي حسن فايق وعزيز عيد كبداية لحياته الفنية على سبيل الهواية وليس الاحتراف ولكن واجهت هذه الفِرَق السرحية العديدمن المشاكل المالية لذلك ذهب عزيز عيد مع مختار عثمان إلى يوسف وهبي في إيطاليا كمحاولة لإقناعه بالعودة إلى مصر ومتابعة المشروع الفني الذي يسعون من أجله وكان يوسف وهبي الممول الأول لهذا المشروع حيث أنه بواسطة المال الذي ورثه كان وهبي يهدف إلى ما اعتقده تخليص المسرح من الهاوية التي رآها قد نتجت من الشعرِ الراقص لنجيب الريحاني وعلي الكسار فأنشأ شركة مسرح باسم فرقة رمسيس في نهاية عشرينيات القرن الماضي.
تأسيس فرقة رمسيس ونجاحها
أسس يوسف وهبي فرقة رمسيس المسرحية مع عدد من الممثلين الكبار مثل عزيز عيد ومختار عثمان وحسين رياض، وأحمد علام، وفتوح نشاطي، وزينب صدقي، وأمينة رزق، فاطمة رشدي، وعلوية جميل، واُفتُتِح مسرح رمسيس في 10 مارس 1923.
وبدأت الفرقة بمسرحية المجنون كباكورة لأعمالها المسرحية حيث عُرضت على مسرح راديو عام 1923 وكانت معظم مسرحياتها في بداياتها مترجمة عن أعمال عالمية لشكسبير وموليير وإبسن، ويعتقد البعض أن يوسف وهبي هو الذي أدخل فكرة الموسيقى التصويرية قبل رفع الستار التي لم تكن معروفة إلا في أكبر المسارح في العالم، وقدمت الفرقة بعد ذلك عددًا كبيرًا وصل إلى أكثر من 300 من المسرحيات المؤلفة والمقتبسة باللغة العربية أو بلغات أخرى منها الفرنسية، ونقلت العديد من مسرحيات الفرقة إلى السينما مثل: كرسي الاعتراف، راسبوتين، المائدة الخضراء، بنات الشوارع، أولاد الفقراء، وبيومي أفندي، واتسمت معظم مسرحيات الفرقة بالميلودراما مما جعلها مختلفة عن المسرحيات في ذلك الوقت التى قدمها الفنانون أمثال نجيب الريحاني وعلي الكسار وغيرهم والتي كانت تحمل الطابع الكوميدي الراقص أو الساخر أو المسرحيات الغنائية، كما كانت المسرحيات التي تُقدم على مسرح رمسيس من روائع الأدب الفرنسي والإيطالي والإنجليزي مخالفةً بذلك ما كان يقدم من مسرحيات ومن هذه المسرحيات: خليفة الصياد، وهارون الرشيد، ووصلاح الدين الأيوبي، وصدق الإخاء، وأصدقاء السوء.
اهتم يوسف وهبي بتوعية جمهور المسرح، وتغيير الاهتمام بالمسرح الهازل إلى الاهتمام بالفن والمسرح الجاد، وقد منع التدخين في قاعات العرض، وعمل على احترام مواعيد رفع الستار، ووضع إتيكيتًا للممثل، متمثلًا في الحفاظ على المواعيد، والالتزام بالنص، وتنفيذ تعليمات المخرج، وهو ما دفع الحكومة لتكليفه عام 1933م بتشكيل فرقتها المسرحية التي كانت نواة المسرح القومي فيما بعد، كما عمد يوسف وهبي بجانب تمثيله الأدوار الرئيسة في مسرحياته إلى التأليف والإخراج، فإجمالًا قام يوسف وهبي بتمثيل 302 من المسرحيات العالمية، وأخرج منها 185 مسرحية، وقام بتأليف 60 مسرحية، وكان يهدف من وراء أعماله إلى نشر الوعي الاجتماعي ونقد عيوب المجتمع؛حيث عرض مشكلات مثل: الزواج من أجنبيات، وأطفال الشوارع، وأبناء الخطيئة، والصراع بين الضمير والعاطفة، كذلك عمد إلى محاربة الاستعمار والفساد.
أزمة فيلم النبي محمد 1928م
في ذروة تألقه، تعرض لأزمة كادت أن تعصف بنجاحه الفني، حيث نشرت إحدى المجلات الإيرانية سنة 1928 أن شركة سينماتوغراف الفرنسية جاءت إلى مصر، واتفقت مع عميد المسرح العربي على تمثيل فيلم النبي محمد، واشترطت أن ينتقل مع بعض أفراد فرقته إلى باريس، وأن الفيلم من إنتاج تركي، وحضر المنتج إلى القاهرة وبصحبته المخرج توجو مزراحي، وبعد المقابلة أخذ وهبي يستعد لأداء دوره وصنع لنفسه صُوَرًا فوتوغرافية للشكل الذي سيظهر عليه في الفيلم، وهي صورة لا تختلف عن صورة راسبوتين، لتفتح عليه أبواب جهنم من كل حدب وصوب، وشُنَّت حملة شرسة ضده، وأرسل شيخ الأزهر خطابًا إلى وزارة الداخلية في اليوم التالي مباشرة يطالبها فيه بالتحقيق في الأمر ومنع هذا المشخصاتي من القيام بالدور حتى لو اقتضى الأمر منعه من السفر بالقوة وإيداعه السجن، كما طالب أن تخاطب حكومة باريس بواسطة السفارة المصرية هناك لمصادرة هذه الرواية، واستدعت الداخلية يوسف وهبي وحققت معه وأرسلت ردًّا للأزهر تقول فيه إن يوسف وهبي سيعتذر في الصحف عن قبوله هذا الدور تحت ضغط شعبي وتحت تهديد الملك فؤاد بسحب جنسيته المصرية منه.بسبب هذه الأزمة تأخر دخول يوسف وهبي عالم السينما.[16]
بداية دخوله عالم السينما (1930-1939)م
في عام 1930 وبالتعاون مع محمد كريم أنشأ وهبي شركة سينمائية باسم رمسيس فيلم التي بدأت أعمالها بفيلم زينب سنة 1930، والذي كان من إنتاجه وإخراج محمد كريم، وفي عام 1932 أنتج أولاد الذوات الذي كان أول فيلم عربي ناطق وكان الفيلم مقتبسًا عن إحدى مسرحياته الناجحة، حيث قام بكتابة النص وقام ببطولة الفيلم، كما قام محمد كريم أيضا بإخراجه، ثم كتب فيلمه الدفاع سنة 1935، ليخرجه هذه المرة بنفسه بالتعاون من المخرج نيازي مصطفى حتى بلغ به التكامل الفني إلى تلحين أغاني هذا الفيلم. ثم في عام 1937 قدم فيلمه الثالث المجد الخالد وهذه المرة كان هو الكاتب والبطل والمخرج، ثم قدم فيلم ساعة التنفيذ 1938 من بطولته وتأليفه وإخراجه وبذلك قدم يوسف وهبي مجموعة من أوائل أفلام السينما المصرية فكان عدد الممثلين السينمائيين قليل وكانت الأفلام غالبًا ما تكون من بطولة يوسف وهبي أو نجيب الريحاني أو علي الكسار في فترة الثلاثينيات.
بعد ذلك بدأ يوسف وهبي في تقديم ثنائي ناجح مع المطربة والممثلة الشابَّة في ذلك الوقت ليلي مراد حيث شارك معها في ثلاث أفلام متتالية هي ليلة ممطرة 1939، ليلى بنت الريف 1941، وليلى بنت المدارس 1941،وكانت هذه الأفلام من إخراج توجو مزراحي.
كما لم يشغل يوسف وهبي دخوله عالم السينما عن استكمال مشواره المسرحي حيث قدم في عام 1939م ست مسرحيات وهي: ناكر ونكير، الشبح، العدو الحبيب، ابن الفلاح، يد الله، ألف ضحكة وضحكة.
مرحلة السطوع السينمائي (1943-1947)م
كانت مرحلة السطوع السينمائي ليوسف وهبي عندما بدأ في الالتفات إلى السينما ومواصلة رسالته الهادفة المتمثلة في نقاش القضايا الاجتماعية ونقد عيوب المجتمع والسعي نحو حلها حيث قدم وهبي في هذه الفترة مجموعة من أهم وأعظم أفلامه الخالدة.
بدأت هذه المرحلة بفيلم الطريق المستقيم من تأليف يوسف وهبي وتوجو مزراحي ومن إخراج توجو مزراحي، وشارك في بطولة هذا الفيلم أمينة رزق التى كونت مع يوسف وهبي أشهر ثنائي درامي على الإطلاق حيث قدمت معه حوالي 11 فيلمًا ، كما شاركت في فيلم الطريق المستقيم الفنانة فاطمة رشدي ، وبشارة واكيم، ومحمود المليجي، حتى أنَّ إسماعيل ياسين أسطورة الكوميديا ظهر في مشهد قصير في الفيلم كرجل مخمور وكان هذا من أوائل مشاركاته في السينما، ودارت أحداث الفيلم حول رجل طيب يحب أسرته ويتفانى في رعايتهم، ويمضي حياته في طريق مستقيم، تعترضه امرأة توقعه في حبائلها فتغير من أحواله وينشغل بها عن أسرته، ويهمل في عمله فتنقلب حياته، ينتهى به الأمر إلى قتل هذة المرأة التي قضت عليه وخانته، ثم يهاجر إلى سيناء حيث يعيش هناك بضع سنوات، وعندما يعود إلى أسرته يجد الأبناء قد صاروا كبارًا ومتزوجين، ورغم أن زوجته تتعرف عليه، إلا أنه يموت برصاص الشرطة دون أن يعرف الأبناء حقيقته؛ لأنه أراد أن يترك لديهم انطباعًا جيدًا عن أبيهم ولم يُرِد أن يعلموا أنه صار مجرمًا ، وبذلك ناقش الفيلم قضية اجتماعية هامَّة وهي الانشغال بالنساء واللهو والملذَّات عن الحياة الأسرية والانحراف عن الطريق المستقيم.
قدم يوسف وهبي فيلم غرام وانتقام عام 1944، وكان من إخراجه وتأليفه ،ويعتبر الفيلم من أعظم وأهم أفلام يوسف وهبي والسينما المصرية عمومًا ، كما يتميز الفيلم بمشاركة نجمة الغناء أسمهان فيه بجانب أنور وجدي، وبشارة واكيم، ومحمود المليجي ، وفاخر فاخر وغيرهم وتدور قصة الفيلم حول سهير سلطان (أسمهان) مطربة شهيرة، تقرر اعتزال الفن من أجل الزواج من حبيبها وحيد عزت، ولكن لسوء الحظ يموت وحيد برصاصة قاتلة قبيل حفل زفافه على سهير، ويتناهى إلى علم سهير فيما بعد أن الموسيقار جمال حمدي (يوسف وهبي) هو المشتبه الرئيسي في ارتكاب الجريمة، ولكن بسبب عدم وجود أدلة كافية لإدانته، تقرر أن تتقرب منه وتمثل عليه الحب لكي تصل بنفسها إلى الحقيقة، فيحبها ويعترف لها بأنه قتله بسبب خيانته لثقته فيه والتغرير بأخته، وعند مشاهدة الملك فاروق لأول عرض للفيلم بسينما ريفولي بالقاهرة أُعجب به وقرر منح يوسف وهبي رتبة البكوية.
وفي عام 1944م أيضًا قدَّم وهبي فيلم سيف الجلَّاد من إخراجه وتأليفه وبطولته بالاشتراك مع الفنانين عقيلة راتب، بشارة واكيم، محمود المليجي، محمد فوزي، وعلوية جميل، وتدور أحداث الفيلم حول خالد الكيميائي الذي نبغ نبوغًا فائق الحد في معمله وكانت له صيدلية، أخيرًا هبط عليه أحد أقاربه الذي اقتنى ثروة كبيرة بالبرازيل، يتفق مع خالد في عمل مشروعات تدر عليهم الربح إلا أن الشيطان لعب في رأس خالد فأذاب سمًّا لقريبه فمات لساعته، أخذ يسعد هو بالمال الحرام وأصبح صاحب معامل وصيت وشهرة، كانت له علاقة ببنت من بنات الهوى، وأخيرًا طلبت مصلحة التنظيم شراء الفيلا التي كان يقتنيها قبل انتقاله للقصر الجديد. فذهب متخفيًا يريد حرق جثة قريبه المدفون تحت الفيلا حتى لا يفتضح أمره عند هدمها وكانت زوجته تقتفي أثره، فلما قام بحرق الجثة أغلق الأبواب وذهب لقصره بينما بقيت زوجته في الفيلا ولم تستطع الخروج فكان مصيرها الموت، ثم يتم القبض على خالد ويستيقظ ضميره ويعرف أن العدالة الإلهية لا تغفل، فاعترف بكل ما اقترفت يداه ونال جزاءه.هكذا ناقش يوسف وهبي قضية أخرى هي قضية تأنيب الضمير عند ارتكاب الأخطاء والعودة إلى الطريق القويم.
ثُمَّ قدَّم وهبي فيلمه الثالث في عام 1944م وهو فيلم ابن الحدَّاد من إخراجه وتأليفه ، وبطولته بالاشتراك مع مديحة يسري وفؤاد شفيق وعلوية جميل ومحمود المليجي، ويُعَدُّ الفيلم أحد أهم أفلام يوسف وهبي والذي ناقش فيه قضية المجتمع الأولى وقتها وهي التفرقة الطبقية من حيث الحسب والنسب والمستوى المالي حيث وضح الفيلم أن البشر جميعًا سواء على اختلاف طبقاتهم ومستوياتهم، وتدور أحداث الفيلم حول طه ابن لعامل بسيط، لكن هذا العامل اهتم بتربيته حتى صار مهندسًا ومالكًا للعديد من المصانع. تزوج طه من ابنة أحد الباشاوات، ويتكشف له بعد زواجه منها مدى استهتارها الشديد وعدم اهتمامها بزوجها أو حتى ابنها، وغرقها الشديد في حياة اللهو، وبعد ذلك أقنع طه زوجته وأهلها بأنه خسر جميع أمواله، لينتقل هو وزوجته وابنته للعيش في أحد المناطق الشعبية، فتعتاد زوجته تدريجيًّا على هذه الحياة ويعيشان بسعادة ، ثم يفلس والدا زوجته فيعترف لهم بالحقيقة وأنه لم يخسر أمواله ولكنه أراد أن يعلم زوجته درسًا في الحياة. وكان عام 1944م من أزهى أعوام يوسف وهبي فنِّيًّا فقدَّم رابع أفلامه فيلم برلنتي من إخراجه وتأليفه وبطولته ، وشاركته في بطولة الفيلم المطربة اللبنانية نور الهدى في ثاني أفلامها بعد فيلم جوهرة 1943م مع يوسف وهبي أيضًا، ويُحسب ليوسف وهبي أنه أول من اكتشفها كممثلة وساهم في دخولها عالم السينما، كما شارك في بطولة فيلم برلنتي أمينة رزق وفؤاد شفيق وعلوية جميل ومحمود المليجي، وتحكي قصة الفيلم أنه عقب موت والد الفتاة برلنتي تضيق بها سُبُل الحياة بعد وتسقط أمها مريضة فتضطر برلنتي للعمل كمطربة حتى تتمكن من علاجها، ثم يتزوجها المحامي سامي، ومع توالي الأحداث ترى برلنتي أنها تقف في سبيل نجاح سامي ، فتضحي بسمعتها حتى يهجرها فيصدق ذلك فيطردها ويتزوج من الفتاة سميحة ومع تطور الأحداث تُتَّهم برلنتي بالقتل، لكنَّ سامي يكتشف أن زوجته سميحة هي القاتلة، وتبرئ المحكمة برلنتي وتحكم على سميحة التي تصاب بصدمة فتموت على إثرها ويعود سامي إلى برلنتي مرة أخرى ليستأنفا حياتهما.
في عام 1945م قدم يوسف وهبي واحدًا من أكثر أفلامه تميُّزًا وشهرةً وهو فيلم سفير جهنم من تأليفه وإخراجه وبطولته بالاشتراك مع فؤاد شفيق وفردوس محمد وليلي فوزي، وفي هذا الفيلم أدَّى يوسف وهبي دورًا مميَّزًا وهو دور الشيطان، حيث تدور قصَّة الفيلم حول عبد الخلًاق جل فقير معدم طاعن في السن وكذا زوجته وله ابن وابنة. يختار الشيطان هذه الأسرة ليثبت مدى سيطرته على البشر فيعرض عليهما الشباب والمال، فيستسلم الرجل وزوجته لغوايته فيعودان إلى سن وحيوية الشباب، ثم ينصرف الزوج إلى كل أشكال العربدة التي تطولها يداه كما تواعد الزوجة الشبان وتحيا حياة الرذيلة وينصرف الابن إلى عالم الشر إلى أن يتورط بغواية الشيطان له في جريمة قتل، وتعلم البنت أن المال هو كل شيء فتتزوج من رجل ثري، لينتصر الشيطان في استقطاب سكان جدد إلى جهنم، ثم تحلُّ عليهما المصائب ويخسرا مالهما ، ثم يستيقظ أفراد الأسرة من النوم فيكتشفون أنهم جميعًا رأوا نفس الحلم المرعب، فيقسمون بعدم الشكوى من أحوالهم مجددًا لأنَّ حالهم أفضل ممَّا رأوه في الحلم. وقدم يوسف وهبي عام 1945م فيلمين هما: فيلم بنات الريف مع فاطمة رشدي ، زوزو ماضي، محمود المليجي، وسراج منير، وفيلم الفنَّان العظيم من تأليفه وإخراجه وبطولته بالاشتراك مع مديحة يسري، وسراج منير، ومحمود المليجي، وفاخر فاخر، وبشارة واكيم.
وفي عام 1946م بدأ يوسف وهبي تعاونه مع الفنانة فاتن حمامة التى قدمت معه بعد ذلك واحدًا من أعظم ثنائيَّات السينما المصرية، حيث قدم وهبي فيلم ملاك الرحمة 1946م من تأليفه وإخراجه وبطولته بالاشتراك مع فاتن حمامة، وراقية إبراهيم، وسراج منير، وبشارة واكيم، زوزو شكيب، كما شهد الفيلم أول ظهور للفنَّان الشهير فريد شوقي.
وفي نفس العام 1946م قدم يوسف وهبي فيلم شمعة تحترق من تأليفه وإخراجه، وتميَّز الفيلم بأنه أول تعاون بين يوسف وهبي والفنانة عزيزة أمير وكذلك أول فيلم له مع المطربة الصاعدة في ذلك الوقت صباح، كما شارك في الفيلم أحمد علام_زميل يوسف وهبي في فرقة رمسيس_وفردوس محمد، وسراج منير.
ثم قدم ثالث أفلامه في عام 1946م وهو فيلم يد الله من تأليف وإخراج وبطولة يوسف وهبي بالاشتراك مع أمينة رزق، وعلوية جميل، وسراج منير، ومحمود المليجي، زوزو حمدي الحكيم.
في عام 1947م عاد يوسف وهبي للتعاون مع ليلي مراد حيث قدم معها فيلمين، أولهما هو فيلم شادية الوادي من تأليف وإخراج يوسف وهبي وبطولته مع ليلي مراد، وحسن فايق، وأحمد علَّام، وعبد السلام النابلسي، والمطرب كارم محمود، وإستيفان روستي، وحسن البارودي، وشفيق نور الدين.والفيلم الثاني كان فيلم ضربة القدر من إخراج يوسف وهبي وكان مقتبسًا من رواية الكاتب الفرنسي إميل زولا، وسيناريو وحوار يوسف وهبي، وبطولته مع ليلي مراد، ويحيى شاهين، ومختار عثمان، ولولا صدقي، زوزو ماضي، وسراج منير.
مرحلة النضوج الفنِّيِّ والجمع بين السينما والمسرح (1948-1953)م
في هذه المرحلة انتقل يوسف وهبي إلى مستوى آخر فصار يجسد شخصيات أكبر سنًّا وأكثر نضوجًا وحكمةً في الغالب فيجسد شخصية الأب أو الشخص الأربعيني أو الخمسيني الناضج وقدم في هذه الفترة مجموعة من الأعمال المميزة والهادفة للارتفاع بالمستوى الثقافي والاجتماعي، كما عاد في هذه المرحلة إلى الاهتمام بالمسرح والجمع بين الأفلام والمسرحيات في ظلِّ الإطار الميلودرامي.
بدأ يوسف وهبي عام 1948م بتقديم مسرحية الصهيوني مع أمينة رزق، فؤاد شفيق، فاخر فاخر، نجمة إبراهيم، حسن البارودي، سراج منير، وقُدِّمت المسرحية على مسرح دار الأوبرا الملكية، وكانت تدور قصتها حول حوادث جاسوسية.
وفي نفس العام قدم يوسف وهبي فيلم رجل لا ينام من تأليفه وإخراجه وبطولته بالاشتراك مع مديحة يسري وفريد شوقي ونجمة إبراهيم وأحمد علَّام، وكانت تدور قصَّة الفيلم حول الطبيب منير صابر( يوسف وهبي ) رجل ملتزم و مثالي في عمله و يكرس كل وقته في عيادته و محاضراته للطلبة متزوج من امرأة مشاكسة غيورة و مريضة بالقلب ( نجمة إبراهيم )، يلتقي في القطار أثناء سفره بالغانية خمرية ( مديحة يسري ) وصديقتها (نيللي مظلوم ) وتنشأ علاقة بينهم فيقوم بعلاجها حيث تعاني من تدهور الكبد نتيجة شرب الخمور بالملهى الذي تعمل به ، و يقع الدكتور منير في حبها و تستغل خمرية الفرصة حتي تستنزف أمواله و تقدمها لعشيقها المجرم جلال (فريد شوقي )، وتكتشف زوجته ضياع الأسهم التي كانت تدخرها بالبورصة والتي صرفها علي خمرية فتتشاجر معه و تموت من الصدمة، ثم يطلب منير الزواج من خمرية و لكنها تصده و تهينه بعد أن تسببت في إفلاسه تمامًا فيفكر في الانتقام منها و يحاول قتلها و لكنها تموت علي يد جلال اعتقادًا منه بأنها غدرت به وأرشدت عنه البوليس، و يعتقد منير أنه قتلها وأن جلال اتهم ظلمًا فيحاول إنقاذه من حبل المشنقة و لكنه يفشل و يكتشف أنه لم يقتلها بعد أن اعترف جلال بالحقيقة، فيعود مرة أخري إلي التزامه و مثاليته بعد أن أراح ضميره.وبهذا مزج هذا الفيلم بين رسالتين هادفتين هما عدم الانحراف عن الطريق المستقيم والانسياق وراء النساء والمُتَع والملذَّات كما كانت رسالة فيلم الطريق المستقيم، والرسالة الأخرى هي أن سعادة الإنسان في راحة الضمير والاعتراف بالذنب لإنقاذ الآخرين كما كان هدف فيلم سيف الجلَّاد.بذلك نجد أن أعمال يوسف وهبي الفنِّيَّة مترابطة ومشتركة في أهدافها السامية الهادفة إلى الارتفاع بالمستوى الثقافي والحضاري والأخلاقي للمجتمع.
واصل يوسف وهبي مسيرته عام 1948م فقدم مسرحية المليونير من إخراجه وبطولته بالاشتراك مع أمينة رزق وسامية فهمي وفؤاد شفيق.وفي عام 1949م شارك في مسرحية أخري وهي مسرحية شلومي ، وقدمها على مسرح النهضة.
وفي 1949م أيضًا قدم يوسف وهبي الفيلم المصري الإيطالي أمينة من إخراج المخرج الإيطالي جيوفريدو إليساندريني ومن تأليفه بالاشتراك مع يوسف وهبي ومن بطولة يوسف وهبي والممثلة الإيطالية ذات الأصل الروسي آسيا نوريس ورشدي أباظة وسراج منير وحسن البارودي.
وفي نفس العام قدم فيلم كرسي الاعتراف الذي قدمه كمسرحية قبل ذلك وكان الفيلم من إخراجه وتأليف مشترك بينه وبين محمد أسعد لطفي ومن بطولة يوسف وهبي وفاتن حمامة وفاخر فاخر وسراج منير وعبد العليم خطَّاب، حيث يقع الكاردينال جيوفاني (يوسف وهبي) في موقف أخلاقي صعب ، وذلك حين يعترف له (أستزونزي) بأنه قد قام بارتكاب جريمة قتل ، وبعد اختفاء (أستزونزي) تُلْقَى التهمة على عاتق (جوليانو) شقيق المتهم الحقيقي، ويقع الكاردينال في حيرة كبرى بين واجبه الديني الذي يحتم عليه عدم الإفشاء بما اعترف به (أستزونزي)، وبين ضميره الإنساني الذي يملي عليه أن يشهد من أجل تبرئة ساحة شقيقه المتهم ظلمًا.وكان ثالث أفلامه في 1949م هو فيلم غزل البنات الذي يُعتبر واحدًا من أشهر وأهم الأفلام في تاريخ السينما المصرية، وكان الفيلم من إخراج وتأليف أنور وجدي وشارك في كتابة الحوار الفنَّان نجيب الريحاني، وشارك في الفيلم مجموعة من عمالقة التمثيل في مصر والوطن العربي مثل نجيب الريحاني وليلي مراد وأنور وجدي ويوسف وهبي وسليمان نجيب ومحمود المليجي وفردوس محمد وعبد الوارث عسر وإستيفان روستي وظهور الموسيقار والمطرب محمد عبد الوهَّاب حتى أن المطرب اللبناني الكبير وديع الصافي ظهر في دور بسيط كعازف ناي في إحدى أغاني الفيلم، وشهد الفيلم ظهور بعض الممثلين الكبار في بدايتهم مثل فريد شوقي وزينات صدقي وظهرت الفنانة نبيلة السيد كتلميذة صغيرة في المدرسة، كما ظهرت الفنانة الشهيرة هند رستم ككومبارس صامت في الفيلم، وكان ظهور يوسف وهبي في الفيلم ظهورًا مميزًا حيث ظهر كضيف شرف لعِدَّة دقائق بشخصيته الحقيقية شخصية يوسف بك وهبي الممثل السينمائي حيث أن أحداث الفيلم جعلت الأستاذ حمام (نجيب الريحاني) وتلميذته ليلي(ليلي مراد) يدخلان منزل يوسف وهبي عن طريق الخطأ فيظنُّ الخادم أنهما لِصَّان ولكن سيده يأمره بتركهما ثم يتجاذب معهما أطراف الحديث ويحدثهما عن روايته الجديدة وهدفها هو تضحية الحبيب من أجل سعادة حبيبه، ثم يعرض عليهما سماع أغنية محمد عبد الوهَّاب التي كان يغنِّيها في منزل وهبي، ثم يبكي الأستاذ حمام فيخبر يوسف وهبي الفتاة بأن أستاذها يحبَّها لذا كان دوره محوريًّا في الفيلم ثم يختم ظهوره المميز بكلمته الشهيرة: "ما الدنيا إلا مسرح كبير".
ثم قدم يوسف وهبي في نفس العام مسرحية اللص من إخراج الفنان الكبير زكي طليمات ،وتأليف الكاتب الكبير توفيق الحكيم ،وبطولة يوسف وهبي وإحسان شريف وزوزو حمدي الحكيم وفاخر فاخر وفريد شوقي، وفي هذه المسرحية أدَّى وهبي دور الرجل الشرير الفاسد الذي لم يؤدِّه كثيرًا في حياته الفنية حيث أنه في مسرحية اللص يتحرش محمود باشا(يوسف وهبى) بخيرية (زوزو حمدى الحكيم) ابنة زوجته (إحسان شريف) ويغازلها ويراودها عن نفسها في حجرتها ولكنها تصده برقة خوفًا من معرفة أمها بنواياه، وبعد خروجه تكتشف أن وراء الستار لصًّا، وقبل أن تصرخ خيرية يستسمحها أن تتستر عليه ويخبرها بقصته فاسمه حامد(فاخر فاخر) وكان يعمل باجتهاد في مكتبة وكسب صاحبها من وراءه الكثير ثم طرده، فأراد أن يتخلى عن المبادئ والمُثُل ويسرق حتى يتمكن من افتتاح عمل خاصٍّ به، ولما أحس بتعاطفها معه سألها عمَّا سمعه ورآه من الباشا معها، فقصَّت عليه قصتها، ووعدها بعدم التخلى عن الأخلاق وبذل الجهد ولمَّا سمع صوت الباشا يقترب حاول الهرب من النافذة، فأطلق الباشا عليه النار وأصابه في قدمه، وأراد استدعاء البوليس، فحاولت خيرية منعه دون جدوى، فقالت له أنه ليس لصًّا وأنه جاء من أجلها، وأنه إذا تزوجها ستكون في وضع اجتماعي تستطيع أن تتخفى فيه وتستجيب لرغبات الباشا الدنيئة، فاقتنع الباشا وأقنع أمها بالموافقة على الزواج به، وقام بتعيينه مديرًا في شركته بدلًا من شاكر(فريد شوقى). تقابل حامد مع شاكر وعلم منه أن الباشا مزوِّر ولص ويقوم بتزوير الأسهم والسندات والتلاعب بالبورصة معتمدًا على وجاهته الاجتماعية وأنه قد عينه في شركته من أجل أن يتلاعب بأخته فلما حملت منه وطلب منه أن يصلح خطأه معها طرده من العمل. طلب الباشا من خيرية أن توفى بوعدها معه، فرفضت أن تخون زوجها، فتوعَّدها وزوجها حامد بإيذاء شديد، ولكنَّ خيرية صارحت أمها بكل شئ، فتصدت للباشا وحذرته، ولكنه لم يرتدع وخرج مسرعًا، ثم سُمِع دويُّ رَصاص في الخارج وجاء من يخبرهم أن شاكر قد أطلق النار على الباشا انتقاما لأخته.
ثم قدم وهبي فيلمًا آخر في عام 1949م وهو فيلم بيُّومي أفندي، من إخراجه وتأليفه وبطولته بالاشتراك مع فاتن حمامة وميمي شكيب وفاخر فاخر وإيفون ماضي وسراج منير وفريد شوقي، و يعد الفيلم واحدًا من أفضل أفلام يوسف وهبي الهادفة التي ناقش فيها قضية اجتماعية أُخرى وهي أبناء الخطيئة الذين أُنجبوا بطريقة غير شرعية عن طريق الزنا، وحثَّ الفيلم على عدم التعامل مع هؤلاء الأشخاص كمجرمين، وأنه لا ذنب لهم في الجريمة التي ارتكبها والدوهم، حيث تدور أحداث الفيلم حول بيومي أفندي ساعاتي فقير, يوفقه الله ويشاء القدَر أن يحصل على توكيل لماركة ساعات عالمية. تصير زبيدة حامل من شوكت بيه فتتزوج من بيومي أفندي خوفًا من الفضيحة لها ولشوكت بيه، فتنجب زبيدة نبيل وبعدها تنجب زينات من بيومي وتتواصل الأخبار السعيدة ويفتح فرع للمصنع في مصر باسم بيومي مصطفى، في يوم يعرف بيومي أفندي أن شوكت بيه في آخر ايامه ويريد أن يخبره بشيء مهم قبل أن يتوفى، فيخبره بأن نبيل ابن خطيئة، وتكفيرًا للخطيئة كَتب لنبيل 100 فدان، ويريد بيومي أفندي أن يقتل ابن الخطيئة لكنه رجل تقي يخاف الله. تربط علاقة حب بين الدكتور كمال وزينات ويرغبان في الزواج، ولكن تعلم زبيدة وبيومي أن إخوته قد حركوا ضده دعوى قضائية ادَّعوا فيها أنه ليس أخوهم وأنه ابن خطيئة، ولكن يصر بيومي على إتمام الزيجة لكنَّ زبيدة تقف في طريقه فيطفح بـبيومي الكيل ويقول لزبيدة أنه كان يعرف أن نبيلًا ابن خطيئة كل هذه السنين، ويطفح ببيومي الكيل أيضًا لأن نبيل الذي لا يحترم أباه لا يريد أن يكون كمال واحدًا من عائلتهم لأنه ابن خطيئة فيقول له الحقيقة. يحاول نبيل أن ينتحر، ولكن لحسن حظه إن المارة أنقذوه من الغرق، ويوافق الأم والأب على زواج دكتور كمال من زينات، وفي النهاية ترجع ألفت بنت شكري باشا لنبيل خطيبها بعد أن تركته بـسبب إصرارهم على زواج الدكتور كمال من زينات.وصرح يوسف وهبي في عديد من المواقف واللقاءات الصحفية والتليفزيونية أن فيلم بيومي أفندي هو أحب أعماله إلى قلبه.بعد ذلك أنهي يوسف وهبي عام 1949م باشتراكه في مسرحية الشيطان.
في أبريل 1950م عُرِض فيلم الأفوكاتو مديحة من تأليف وإخراج وبطولة يوسف وهبي ، وشاركه في بطولة الفيلم مديحة يسري وحسين رياض وفردوس محمد وفاخر فاخر وعمر الحريري، ولم يقدم يوسف وهبي أي عمل فني آخر في عام 1950.في عام 1951م قدم ثلاث مسرحيات متتالية هي الخيانة العُظمى، شارع عماد الدين، عطيل.
وغي عام 1951م أيضًا قدم فيلم حبيب الروح من إخراج أنور وجدي وتأليفه وسيناريو وحوار أبو السعود الإبياري وبطولة أنور وجدي وليلي مراد ويوسف وهبي وميمي شكيب وصلاح منصور وسميرة أحمد.وفي نفس العام قدم يوسف وهبي واحدًا من أعظم الأفلام الهادفة في تاريخ السينما المصرية هو فيلم أولاد الشوارع ،من تأليف وإخراج يوسف وهبي وبطولته بالاشتراك مع مديحة يسري وزوزو ماضي وسراج منير وفاخر فاخر وحسن البارودي، وبعض الممثلين الكبار في بدايتهم مثل رشدي أباظة وشكري سرحان وعُمَر الحريري، كما شهد ظهور فريد شوقي، وناقش الفيلم قضية اجتماعية خطيرة يتضح من اسم الفيلم أنها قضية أطفال الشوارع التي سبق الفيلم عصره بالتحدث عنها وعن كيفية علاجها، فقد وضَّح الفيلم أنَّ السبب في هذه المشكلة هو المجتمع الظالم الذي يلقي بهؤلاء الأطفال في الشارع فتضطرهم الظروف والأحداث لمخالفة القانون ثم يتعامل معهم المجتمع كمجرمين، ودعا الفيلم إلى التكفل بهؤلاء الأطفال ورعايتهم على قدر الإمكان حيث يقول يوسف وهبي في أحد مشاهد الفيلم لأخت زوجته عن أطفال الشوارع: .
وفي عام 1952م عاد يوسف وهبي للتعاون مع المخرج محمد كريم في فيلم ناهد من تأليف يوسف وهبي وحوار عبد الوارث عسر وإخراج محمد كريم وبطولة يوسف وهبي وراقية إبراهيم وعمر الحريري وعلوية جميل ومحمود المليجي
، وفي نفس العام قدم يوسف وهبي فيلم المهرج الكبير الذي يعتبر واحدًا من أشهر أفلامه، وكان هذا أول تعاون بينه وبين المخرج الكبير يوسف شاهين، وكان الفيلم مقتبسًا من رواية للكاتب البريطاني شيلي سميث، ووضع السيناريو يوسف شاهين.شارك يوسف وهبي في بطولة الفيلم كلًّا من فاتن حمامة ونبيل الألفي وحسن فايق وسراج منير وفردوس محمد.
وفي عام 1953م قدم فيلم بيت الطاعة ، ولأول مرة منذ عام 1944م يُكتب اسم يوسف وهبي علي ملصق فيلم بدون كلمة بك حيث كان ذلك بعد إلغاء الرُتب المدنية بعد قيام ثورة 23 يوليو 1952 في مصر، وكان الفيلم من إخراج وتأليف وبطولة يوسف وهبي، واختلف طاقم التمثيل بعض الشيء فلأول مرَّة شاركته في بطولة فيلم الفنانة هُدى سلطان، ولأول مرة أيضًا شاركه نجم الكوميديا إسماعيل ياسين في دور مهم، كما شاركت الفنانة ماري منيب، وفريد شوقي، زوزو ماضي، وشفيق نور الدين.ومع اختلاف طاقم العمل اختلفت أيضًا نوعية الفيلم عن أفلام يوسف وهبي فكان الفيلم يميل إلى الطابع الكوميدي وإلى التشويق والإثارة وليس الطابع الميلودرامي الذي اعتاد عليه يوسف وهبي حيث تدتدور أحداث الفيلم حول زوجين كان يجمعهم الحب ولكن تشتد المشاحنات الشديدة بين الزوج والزوجة حتي وصلت إلى القضاء للفصل بينهم ولكن الحكم كان لصالح الزوج ودخلت الزوجة في حكم طاعة زوجها أى بيت الطاعة ومن هنا يبدأ الزوج في تأديب زوجته. وفي نفس العام عاد يوسف وهبي للميلودراما بفيلم بنت الهوى من إخراجه وتأليفه وبطولته بالاشتراك مع فاتن حمامة ولأول مرة تشارك مع يوسف وهبي الممثلة والراقصة تحيَّة كاريوكا، كما شاركت ماري منيب وزينات صدقي وفاخر فاخر وشفيق نور الدين وعزيزة حلمي.
مرحلة الشمول والتنوُّع ومشاركة النجوم الجدُد في البطولة(1954-1969)م
في هذه المرحلة كان يوسف وهبي قد بدأ يتقدم في السنِّ نسبيًّا، فبحلول شهر يوليو عام 1953م كان قد بلغ من العمر 55 عامًا، وبطبيعة الحال فقد اختلفت نوعية الأدوار والأعمال التي يقدمها، فقد اتجه يوسف وهبي إلى التنوع والشمول في أنواع أعماله فصار يقدم الأفلام الكوميدية والرومانسية وأفلام التشويق والإثارة وكذلك مجاله الأساسي الميلودراما، وفي هذه المرحلة قلَّ بنسبة كبيرة عدد الأفلام من تأليف أو إخراج يوسف وهبي، كما ندرت بطولته المطلقة للأعمال ولكنه كان يشارك بدور مهم _مثل دور الأب أو الشخص كبير السن_ في بطولة الأعمال أمام ممثل أو ممثلة من نجوم الصف الأول من أبناء جيله أو الجيل الجديد أمثال عماد حمدي، ويحيى شاهين، وشكري سرحان، ورشدي أباظة، وفريد شوقي، وعمر الشريف، وصلاح ذو الفقار، وأحمد رمزي، وكمال الشناوي، والمطرب فريد الأطرش، ونجم الكوميديا فؤاد المهندس، ومن الممثلات فاتن حمامة، وسعاد حسني، ومديحة يسري، وزبيدة ثروت، وشويكار، وشادية، ونيللي.
بدأ يوسف وهبي عام 1954م بواحد من أشهر أدواره على الإطلاق وهو دور (حكمدار العاصمة) في فيلم حياة أو موت أحد أشهر الأفلام المصرية، من إخراج كمال الشيخ وبطولة عماد حمدي ومديحة يسري ويوسف وهبي وحسين رياض ورشدي أباظة، والطفلة ضُحى أمير، وتدور أحداث العمل حول رجل يصاب بأزمة قلبية فيرسل ابنته لشراء الدواء، ثم يكتشف الصيدلي تسببه بالخطأ في تركيب الدواء ليصبح سم قاتل، فيحاول بمساعدة الشرطة البحث عن الرجل وإنقاذه قبل تناول الدواء، وقد أدى يوسف وهبي دور حكمدار العاصمة أي رئيس الشرطة في العاصمة المصرية القاهرة، وعلى الرغم من انشغاله بقضية مجرم خطير إلا أنه يهتم بقضية الصيدلي وبعد فشل أغلب محاولاته، أمر بأن يُذاع في الراديو البيان الشهير حتى الآن: مما ساهم في إنقاذ الرجل بعدما سمعت زوجته البيان فأسرعت إليه ومنعته من شرب الدواء.
وفي عام 1954م أيضًا قدم يوسف وهبي مسرحية الأيدي الناعمة من إخراجه وتأليف الكاتب الكبير توفيق الحكيم، وبطولة يوسف وهبي وسميحة أيوب وفاخر فاخر وحسن البارودي.ثم قدم في نفس العام مسرحيتين محولتين من فيلمين له هما سفير جهنم وأولاد الفقراء، أمَّا عن مسرحية أولاد الفقراء فقد كانت من إخراج وتأليف وبطولة يوسف وهبي بالاشتراك مع أمينة رزق وعلوية جميل وفاخر فاخر وزهرة العلا.وعاد يوسف وهبي إلى أدوار البطولة عن طريق فيلم أسعد الأيام 1954م من إخراج حسن رضا، وتأليف إبراهيم الورداني، وبطولة يوسف وهبي وزهرة العلا وشكري سرحان وبرلنتي عبد الحميد وفردوس محمد وعبد الوارث عسر.في عام 1955م شارك يوسف وهبي في فيلم عهد الهوى ليشاركه في بطولة الفيلم لأول مرة المطرب والموسيقار فريد الأطرش، ومريم فخر الدين، وإيمان، وكان الفيلم من إخراج أحمد بدرخان، كما كان مقتبسًا من رواية غادة الكاميليا للمؤلف الفرنسي ألكسندر دوماس.وفي نفس العام شارك في فيلم بحر الغرام بطولة رشدي أباظة مع الفنانة الاستعراضية نعيمة عاكف وعبد الوارث عسر وسميحة توفيق والسيد بدير.بعد ذلك لم يقدم يوسف وهبي أي عمل فني في عام 1956م بسبب الظروف السياسية الصعبة في مصر أثناء العُدوان الثلاثي.
في عام 1957م شارك في فيلم الملاك الصغير بطولة زبيدة ثروت ويحيى شاهين وحسين رياض، واكتفى به في هذا العام.ثم اكتفي أيضًا بعمل واحد عام 1958م وهو فيلم حبيبي الأسمر مع تحية كاريوكا وسامية جمال وشكري سرحان.وللعام الثالث على لتوالي يقدم يوسف وهبي عملًا فنيًّا واحدًا في العام كان هذه المرة فيلم مفتش المباحث 1959م مع رشدي أباظة وشريفة فاضل ونجوي فؤاد.
بحلول عام 1960م أراد يوسف وهبي تعويض الشُحِّ الفني الذي أصابه في الأعوام الأربعة الأخيرة والتي قدم فيها 3 أعمال فنية فقط، فجاء التعويض قويًّا عن طريق مشاركة يوسف وهبي في بطولة 7 أعمال فنية متضمنة مسرحيتين و5 أفلام، ولم تكن مجرد سبعة أعمال فنية بل كانت أغلبها أهم وأشهر أعمال فنية قدمها علي الإطلاق وعاد فيها إلى البطولة سواء البطولة المطلقة أو البطولة المشتركة مع النجوم الشباب، وقدم في هذا العام أعمالًا ميلودرامية وكوميدية وحتى تاريخية.
بدأ يوسف وهبي عام 1960م بتقديم مسرحية راسبوتين واحدة من أهم مسرحياته على الإطلاق، من تأليفه وإخراج مشترك بينه وبين حمدي غيث، ومن بطولة يوسف وهبي وأمينة رزق وعلوية جميل وفاخر فاخر وسلوي محمود وعبد البديع العربي ونظيم شعراوي.
وفي نفس العام أدَّى يوسف وهبي أشهر أدواره وأكثرها شعبيةً على الإطلاق في واحد من أشهر أفلام السينما المصرية الكوميدية فيلم إشاعة حب من إخراج فطين عبد الوهَّاب، وبطولة عمر الشريف وسعاد حسني ويوسف وهبي وهند رستم وإحسان شريف وعبد المنعم إبراهيم، حيث تدور أحداث الفيلم حول حسين (عمر الشريف) الشاب الخجول المشغول بعمله الذي يحب ابنة عمه سميحة (سعاد حسني) في نفس الوقتلا تعيره هى أي اهتمام وتحب ابن خالتها لوسي الشاب الذي يجيد الرقص والغناء، ولكن عم حسين عبد القادر النشاشجي (يوسف وهبي) معجب بشخصيته، فيبدأ في تحويله ظاهريًّا إلى شخصية أخرى تستطيع أن تجذب ابنته عن طريق رسم خطة ماكرة بأن ينشر إشاعة مفادها أن حسين على علاقة بهند رستم الممثلة الشهيرة.وأدَّي يوسف وهبي دور الرجل زير النساء الماكر الذي يخدع زوجته بطريقة فكاهية، كما أدى أفضل أدواره الكوميدية عندما كان يعد الخطة لتغيير شخصية ابن أخيه وتلفيق الخطابات وغيرها من الأشياء التي توضح أنه على علاقة بالممثلة الشهيرة هند رستم.ومن أشهر مشاهده في الفيلم مشهد تمثيله على ابنته وصديقاتها وأمها وكل من في المنزل عندما أخبرته ابنته باكتشاف خطابات وصور هند رستم التي أرسلتها لحسين، فمثل عليهم بكل براعة اندهاشه الشديد وغضبه الكبير وصراخه القوي واستمر في سب وتعنيف ابن أخيه وأمره بالخروج من منزله.
وفي عام 1960م أيضًا قدم فيلمه مال ونساء من إخراج وتأليف حسن الإمام، وبطولة يوسف وهبي وسعاد حسني وصلاح ذو الفقار وأمينة رزق وفاخر فاخر وعدلي كاسب وتوفيق الدقن، وتدور أحداث الفيلم حول شحاتة موظف ملتزم في إحدى المستشفيات الأهلية يعيش مع ابنته نعمت وزوجته، وفي يوم من الأيام يتقدم الشابُّ حسين لخطبة ابنته، لكن المشكلة أن شحاتة غير قادر على تجهيز ابنته مما يدفعه لطلب سلفة من الشركة، فترفض الإدارة لأن المدير وجميع الموظفين كانوا فاسدين ومرتشين ومختلسين ولصوصًا، وكانوا يكرهون شحاتة لأنه كان رجلًا مستقيمًا يحارب فسادهم، فعندما علم شحاتة تشاجر مع المدير وتم رفده، واستغل موظف فاسد الفرصة فجعل أحد معارفه يقرض شحاتة مالًا مقابل إيصال أمانة فأصبح شحاتة مهددًا بالسجن،فعاد للمدير ليرجوه بأن يسامحه فطلب منه المدير بأن يغمض عينيه عن الفساد وأن يتماشى مع السرقة والاختلاس، فوافق مضطرًّا فانتهت مشاكله وتزوجت ابنته، ولكن الفساد ملأ قلبه وأصابه الطمع فتمادي في السرقة ومواعدة النساء وحياة الفساد والتلف، ولكن في النهاية يكشف أمر فساد الموظفين من الرقابة ويهددون بالسجن فيقررون حرق المخازن قبل جردها، وهنا يصحو ضمير شحاتة الذي خشي من أن تلحق النيران بالمستشفي وتقتل المرضي البرياء فيضحي بنفسه لإطفاء النيران ويموت وهو يدافع عن أرواح الأبرياء.وهكذا يعود يوسف وهبي لمناقشة القضايا الاجتماعية فيناقش قضية الفساد في مؤسسات الدولة، وقضية الطمع وعدم القناعة والرضا مما يؤدي إلى عواقب وخيمة.
وفي 1960م قدم فيلم الناس اللي تحت مع ماري منيب وسلوي سعيد ومحمد سالم، وشفيق نور الدين، وقدم مسرحية الأخرس مع علوية جميل ونظيم شعراوي.وفيلم مولد الرسول مع مجموعة من النجوم العرب من مصر ولبنان مثل ثريا نور الدين وأخيها محمد نور الدين وأنور زكي وشكيب خوري وسميرة توفيق.واختتم وهبي هذا العام الفني الرائع بالنسبة له بفيلم شجرة العائلة مع أحمد رمزي وعمر الحريري وعبد السلام النابلسي وحسين رياض وعبَّاس فارس وميمي شكيب وماري منيب وعبد الفتَّاح القُصَريِّ.
وفي عام 1961م عاد الشح الفني إلى يوسف وهبي حيث اكتفى في هذا العام بمسرحية عريس في علبة من تأليفه، وفي عام 1962م عاد يوسف وهبي إلى التعاون مع الكاتب الكبير توفيق الحكيم الذي ألَّف قصة مسرحية الأيدي الناعمة من إخراج وبطولة يوسف وهبي.وفي نفس العام قدم فيلم الاستعباد منتأليفه وإخراجه وبطولته مع شريكته المعتادة أمينة رزق، ومحسن سرحان، وحسن البارودي.وفي عام 1963م لم يقدم سوى فيلم أيام زمان من تأليفه وإخراجه وبطولته بالاشتراك مع برلنتي عبد الحميد ونظيم شعراوي ورشدي المهدي وأنور إسماعيل.
في عام 1964م وعلي الرغم من أن يوسف وهبي لم يشارك سوى في بطولة عمل فني واحد إلا أنه كان كافيًا، فقد كان هذا العمل هو الفيلم الكوميدي اعترافات زوج الذي شارك فيه يوسف وهبي لأول مرة الممثل الكوميدي الشهير فؤاد المهندس وزوجته شويكار، بالإضافة إلي ماري منيب، وهند رستم، وأحمد رمزي.تحكي قصة الفيلم أنَّه أثناء سفر الموسيقيِّ (وحيد) وزوجته على متن الطائرة المتجهة لبيروت لقضاء إجازة، يعلن قائد الطائرة عن عطل في محركات الطائرة، ويعتقد الزوجان أنهما سيموتان، ويقرران الاعتراف لبعضهما بأسرار دفينة، فيخبر (وحيد) زوجته بأنه كان يحلم بتقبيل جارته المطربة الحسناء (بثينة)، وإذا بالإعلان عن إصلاح العطل لكن تدب الشكوك في قلب الزوجة، وتغذي أمُّها تلك الشكوك وتتوالى الأحداث في إطار كوميدي.وأدي يوسف وهبي دور والد الزوجة وكان دوره شبيهًا بدوره في فيلم إشاعة حب عام 1960م حيث أدى_في إطار فكاهي_ دور الرجل الذي يخون زوجته ويخدعها وفي الوقت ذاته تقتنع هي بأنه أكثر الرجال إخلاصًا في العالم.
في عام 1965م لم يقدم أي عمل فني، وفي عام 1966م ظهر كضيف شرف ظهورًا بسيطًا لكن مميزًا حيث ظهر بشخصيته الحقيقية في مشهد من مسرحيته غادة الكاميليا حيث ذهبت بطلة الفيلم سعاد حسني لمشاهدته، وفي نفس العام شارك في أول مسلسل تليفزيوني له في مسيرته الفنية، وهو مسلسل العبقري بطولة سعيد صالح ، ونبيلة السيد، وبوسي، ومحمود المليجي، وحسن مصطفي، ونبيلة عبيد، وفريد شوقي كضيف شرف.في عام 1967م شارك يوسف وهبي في بطولة فيلم نورا مع كمال الشناوي ونيللي.
بعد فترة الشح الفني جاء التعويض قويًّا من يوسف وهبي؛ حيث قدم في عام 1968م 4 من أهم أعماله حيث بدأ عامه بمسرحيته الشهيرة غادة الكاميليا من إخراجه بالاشتراك مع منير التوني، ورواية الكاتب الفرنسي ألكسندر دوماس. ثم قدم فيلم الحب الكبير مع المطرب الشهير فريد الأطرش، وفاتن حمامة، وأدى يوسف وهبي دورًا مميزًا هو دور المصور الخاص بمطرب مشهور والذي يكتشف من خلال عمله وجود علاقة حب بين ابنته وبين المطرب الشهير بعلاقاته النسائية فيحذرها أبوها منه ولكن عندما يري حبهما الشديد لبعضهما يتركها لتذهب إليه ويجمعهما الحب الكبير.
وفي نفس العام شارك في بطولة الفيلم المصري الإيطالي كيف تسرق القنبلة الذرية (بالإيطالية: Come rubammo la bomba atomica)، بطولة مجموعة من الممثلين المصريين وهم يوسف وهبي وعبد المنعم إبراهيم وعادل أدهم وأحمد الحداد وإدمون تويما، والممثلين الإيطاليين جولي مينارد وفرانكو فرنشي وشيشواتن جراسيا وأوجينيا ليتريل وجان فرانكو موريتشي.وفي عام 1968م أيضًا عاد يوسف وهبي إلي التعاون مع النجم الكوميدي فؤاد المهندس وزوجته شويكار حيث شاركهما في بطولة فيلم شنبو في المصيدة مع الممثلين توفيق الدقن وسمير صبري وزوزو شكيب.وأثناء عرض هذا الفيلم ظل لفترة متربعًا في المركز الأول من حيث الإيرادات متفوقًا على أفلام مثل شيء من الخوف، والرجل الذي فقد ظله.
كان عام 1969م بالنسبة ليوسف وهبي شبيهًا من الناحية الفنية لعام 1968م حيث قدم يوسف وهبي في عام 1969م أيضًا 4 أعمال فنية، كان أولها وأهمها هو فيلم ميرامار من تأليف الكاتب الكبير الحائز علي جائزة نوبل في الأدب بعد ذلك نجيب محفوظ، ومن إخراج كمال الشيخ، وبطولة يوسف وهبي وشادية ويوسف شعبان وعماد حمدي وعبد المنعم إبراهيم وأبو بكر عزت ونادية الجندي.واختير هذا الفيلم في قائمة أفضل 100 فيلم في تاريخ السينما المصرية من النُقَّاد عام 1996م بمناسبة مرور 100 عام علي تأسيس السينما المصرية.بعد ذلك قدم يوسف وهبي مسرحية بنت الهوى من تأليفه وإخراجه.وفي نفس العام 1969م شارك في فيلم دلع البنات_الذي تم تقديمه في نفس العام كمسرحية باسم الدلوعة لم يشارك فيها يوسف وهبي_من تأليف نجيب الريحاني وبديع خيري، وكان الفيلم من بطولة فريد شوقي ونيللي ومحمود المليجي وتوفيق الدقن وإبراهيم سعفان.
مرحلة اختفاء النجومية (1969م-1975)م وأداء الأدوار الثانوية (1976-1982)م
في هذه المرحلة كان يوسف وهبي قد تقدم في السن وتجاوز عامه السبعين، فبدأت الأضواء تبتعد عنه وابتعدت عنه أدوار البطولة ولكنه استمر في المشاركة في الأعمال الفنية مع نجوم شارك معهم من قبل مثل هند رستم وسعاد حسني وشكري سرحان وفريد شوقي، أو مجموعة من نجوم الجيل الأحدث الذي ظهر في أواخر الستينيات وبداية السبعينيات مثل نجلاء فتحي وميرفت أمين وعزت العلايلي وعادل إمام وغيرهم.
في عام 1969م شارك يوسف وهبي في فيلم الحلوة عزيزة بطولة هند رستم وشكري سرحان وسمير صبري ونجوى فؤاد، ثم ظهر كضيف شرف في فيلم عصابة النساء 1970م من بطولة صباح وجونيت آركين وطروب وإسماعيل ياسين ومديحة كامل.
وفي عام 1971م استعاد يوسف وهبي القليل من رونقه حيث شارك في 4 أعمال فنية، فشارك باسم وشخصية يوسف وهبي في فيلم الاختيار بطولة سعاد حسني وعزَّت العلايلي وهدى سلطان ومحمود المليجي وميمي شكيب ومديحة كامل.ويحتل هذا الفيلم المركز رقم 53 في قائمة أفضل 100 فيلم في ذاكرة السينما المصرية حسب إستفتاء النقاد بمناسبة مرور 100 عام على أول عرض سينمائي مصري.ثم شارك في بطولة فيلم عُشَّاق الحياة مع المطرب الشهير محرم فؤاد، ونادية لطفي، ومحمود المليجي، وحسن مصطفى وغيرهم.بعد ذلك شارك في فيلم موعد مع الحبيب مع النجمين فريد شوقي ونجلاء فتحي، وحسن مصطفي وزوزو شكيب.كان آخر أفلامه في عام 1971م هو الفيلم المصري اللبناني أمواج الذي تم تغيير اسمه عام 1985م إلى عالم الشهرة بطولة يوسف شعبان ونادية الجندي وشمس البارودي.
وفي عام 1972م شارك في فيلم أزمة سكن بطولة محمد عوض وميرفت أمين ومحمد رضا وعماد حمدي وتوفيق الدقن وعدلي كاسب وعبد المنعم إبراهيم وإبراهيم سعفان، ومع أن الفيلم كان كوميديًّا إلا أن دور يوسف وهبي كان بعيدًا عن الكوميديا حيث أدى دور مسئول هام في إحدى الشركات يرفض الفساد ويكتشف فساد بعض الموظفين فينالون جزاءهم.وفي نفس العام قدم يوسف وهبي آخر مسرحية له في مسيرته الفنية وهي مسرحية بيومي أفندي من تأليفه وإخراجه وكانت مستوحاة من فيلمه بيومي أفندي، وكانت من بطولته بالاشتراك مع شريكة حياته الفنية أمينة رزق ومدحت غالي وكريمة الشريف وسهير صبري.
بحلول عام 1973م بلغ عمر يوسف وهبي 75 سنة، ونتيجة لهذا التقدم في السن لازم في كل أعماله دور الشخص العجوز أو الأب أو حتى الجدِّ للبطل أو البطلة.فقدم في هذا العام 3 أفلام كانت آخر أدواره المهمة، حيث كان أولها فيلم البنات لازم تتجوز بطولة نجلاء فتحي ورشدي أباظة ومريم فخر الدين وصفية العمري ومحيي إسماعيل، وأدَّى يوسف وهبي في هذا الفيلم دور جد بطلة الفيلم نجلاء فتحي.ثم شارك في بطولة فيلم زمان يا حب مع فريد الأطرش وزبيدة ثروت وليلي طاهر ومديحة كامل.
وفي نفس العام شارك في بطولة فيلم البحث عن فضيحة بطولة نجم الكوميديا الصاعد حينها عادل إمام، وميرفت أمين وسمير صبري وميمي شكيب ومحمد رضا ونبيلة السيد، كما شارك في الفيلم العديد من ضيوف الشرف من كبار نجوم السينما المصرية مثل أحمد رمزي وعماد حمدي ومحمد عوض وجورج سيدهم وتوفيق الدقن وصلاح نظمي وزوزو ماضي وزيزي البدراوي ونوال أبو الفتوح وغيرهم.وأدي يوسف وهبي في هذا الفيلم دور والد بطلة الفيلم ميرفت أمين.وفي عام 1974م شارك يوسف وهبي في فيلم حكايتي مع الزمان بطولة المطربة وردة الجزائرية، ورشدي أباظة وسمير صبري ولبلبة ونبيلة السَيِّد وصلاح نظمي ومحمد نجم والمطرب الشعبي شفيق جلال.
وفي عام 1975م شارك في بطولة فيلم الرداء الأبيض مع نجلاء فتحي وأحمد مظهر ومجدي وهبة وزهرة العُلا، وأدَّى في هذا الفيلم أيضًا دور جد بطلة الفيلم نجلاء فتحي وكان هذا آخر دور بطولة له في مسيرته حيث أدى دور عمر بك رجل طيب القلب يعيش بعقلية الماضي لذا غضب عندما عرف أن ابنه الوحيد كمال تزوج دون علمه من فتاة فقيرة، ثم تمر السنوات وتقوم دلال بنشل حافظة نقود شخص يُدعَى أحمد وتحاول الهرب منه إلا أنه ينجح في العثور عليها ويقرر أن يقدمها إلى الشرطة لكنها تستعطفه وتحكى قصة حياتها التى ذهبت سُدًى حيث تزوجت من كمال رغم رفض والده الثريِّ عمر بك وعاشت معه لحظات سعيدة إلا أنه مات بعد فترة إثر حادث، ثم علم عمر بك بالزواج من دلال فيثور عليها وعلى ولده المتوفى ويكون الجزاء حرمان دلال من ابنتها صفاء ويطردها خارج قصره ويأخذ الحفيدة ويربى فيها الإحساس بالمستوى الذى يعيش فيه ويوهم الصغيرة أن أمها قد ماتت ، وتمر السنون وتصبح الفتاة صفاء شابة جميلة ولذلك قامت دلال بالسرقة لشراء فستان لتحضر به حفل زفاف ابنتها ويذهب معها أحمد مقتنعًا بقضيتها وتفلح دلال في إخبار ابنتها دلال بالحقيقة فيثور الجد على دلال لكنَّه سرعان ما يعترف بالحقيقة كاملة.
ولأول مرة في مسيرة يوسف وهبي الفنية غاب عن الأضواء لمدة عامين لم يقدم فيهما أي عمل فني وهما عاما 1976م و1977م، وعندما عاد للتمثيل بعد ذلك عاد لتقديم الأدوار الثانويَّة، أو الأدوار قليلة الأهمية في العمل الفني.شارك يوسف وهبي في فيلم البؤساء وعمره 80 عامًا في 1978م عن رواية الكاتب الفرنسي فيكتور هوجو التي تحمل نفس الاسم، والتي نشرت عام 1862 وتعد من أشهر روايات القرن التاسع عشر، حيث يصف وينتقد الظلم الاجتماعي في فرنسا بين سقوط نابليون بونابرت في 1815 والثورة الفاشلة ضد الملك لويس فيليب في 1832.ولكن تم تغيير سيناريو الفيلم قليلًا بحيث تدور أحداثه في مصر وتتماشى مع طبيعة المجتمع المصري، وكان الفيلم من بطولة فريد شوقي وعادل أدهم.وفي نفس العام شارك في المسلسل الكوميدي كيف تخسر مليون جنيه مع عادل إمام ونبيلة عبيد وهالة فاخر وزوزو ماضي وحسن حسني وجمال إسماعيل ومحمد نجم، ومجموعة من كبار النجوم كضيوف شرف مثل نجمي الكوميديا محمد صبحي وسمير غانم والمطرب اللبناني الكبير وديع الصافي ومحمد رضا وعمر الحريري.وفي عام 1978م أيضًا شارك في فيلم أغنية الحب والموت بطولة عِزَّت العلايلي وحمدي أحمد وليلي طاهر وسمير صبري.
في عام 1979م شارك يوسف وهبي في فيلم إسكندرية... ليه؟ الذي شارك فيه 45 ممثل أغلبهم من النجوم في هذا الوقت مثل نجلاء فتحي وعزت العلايلي وأحمد زكي وعبد الله محمود وعبد العزيز مخيون وأسامة عباس وأحمد بدير، أو النجوم القدامى مثل فريد شوقي ويوسف وهبي ويحيى شاهين وليلي فوزي ومحمود المليجي وعقيلة راتب وزينب صدقي وعبد الوارث عسر وزوزو حمدي الحكيم أو الوجوه الجديدة الذين أصبحوا نجومًا بعد ذلك مثل محسن محيي الدين ومحمد هنيدي، وتناول الفيلم أكثر من قصة، فتناول قصة يحيى الذي يحب التمثيل والذي عبر عن يوسف شاهين في فترة شبابه، كما تناول طبيعة الحياة الاجتماعية في الأسكندرية، وذلك عن طريق قصة حب بين شاب مصري يدعى إبرهيم وفتاة يهودية تدعى سارة. كما تطرَّق الفيلم للسياسة وذلك عن طريق قصة مجموعة من الشباب يريدون التخلص من الاحتلال الإنجليزي، وتطرق أيضًا إلى نشأة العصابات اليهودية، وكيف أنَّ يحيى فقد صديقه بسبب انضمامه لتلك العصابات.
في عام 1980م شارك يوسف وهبي في مسلسل أيام لا تضيع بطولة سعيد صالح ومديحة كامل وأحمد راتب وأحمد بدير ووحيد سيف وحسن عابدين وضيف شرف محمد نجم.وفي عام 1981م شارك في عملين فنيين أولهما مسلسل صيام صيام بطولة يحيي الفخراني وفردوس عبد الحميد وآثار الحكيم ومريم فخر الدين وصلاح السعدني، وثاني أعماله عام 1981م هو فيلم دماء على الثوب الوردي بطولة ناهد شريف وسمير صبري ويسرا.وفي عام 1982م شارك في آخر عمل فني له في حياته حيث ظهر في دور بسيط كضيف شرف في فيلم السلخانة بطولة سمير صبري وسيد عبد الغني وعادل أدهم وغيرهم، وفي نفس هذا العام توفي يوسف وهبي بعد مسيرة فنية حافلة دامت لمدة قياسية وهي 60 عامًا، قدم خلالها 123 عملًا فنيًّا بين أفلام ومسلسلات تليفزيونية وإذاعية ومسرحيات وتمثيليات.
سِمَات حياته الفنية
ممثلون اعتاد العمل معهم
لكل نجم طاقم عمل محدد من الممثلين يرتاح في العمل معهم في أغلب أعماله بسبب التناغم والتفاهم بينه وبينهم نتيجة اعتيادهم علي العمل معًا، وكذلك كان الحال بالنسبة ليوسف وهبي الذي اعتاد العمل مع مجموعة من الممثلين في معظم أفلامه ومسرحياته وكان معظمهم من أعضاء فرقة رمسيس المسرحية مثل أمينة رزق وفاخر فاخر ومحمود المليجي وحسن البارودي وسراج منير وغيرهم.
أمينة رزق
في عام 1926م جاء يوسف وهبي فتاة عمرها 16 عامًا وامرأة تكبرها في السن، كانت الفتاة الشابة تدعى أمينة رزق والمرأة هي خالتها أمينة محمد، فوافق يوسف وهبي علي ضمهما إلى فرقة رمسيس، وكان يرى أن حجم أمينة رزق وصغر سنها يؤهلانها لتأدية دور ابن القيصر المريض (ألكسي) في مسرحية راسبوتين، فكان أول دور تؤديه هو دور رجل، وأوكل يوسف وهبي إلى مختار عثمان مهمة تدريبها علي الدور.
ومنذ ذلك الحين شاركت أمينة رزق يوسف وهبي مسيرته الفنية، فشاركت معه في عشرات المسرحيات وفي 11 فيلمًا وهي أولاد الذوات، الدفاع، ساعة التنفيذ، عاصفة على الريف، أولاد الفقراء، الطريق المستقيم، برلنتي، يد الله، كرسي الاعتراف، مال ونساء، الاستعباد.
ولم يكن انضمام أمينة لفرقة عميد المسرح العربي بداية حقيقية لفنها فقط، وإنما أيضا بداية حبها للعميد يوسف وهبى، حيث تملك حبه من قلبها، لكنها لم تجرؤ يوما على البوح بما تعانيه، خاصة أنها لم تجد منها تجاوبًا، حيث ظل يتزوج ويطلق أمام عينيها تاركًا قلبها لينفطر دون أن يعلم.ووصل الأمر إلى أن أمينة تنكّرت مرة في زى خادمة، لتلعب دور مرسال الغرام بينه وبين حبيبته سعيدة منصور التي أصبحت زوجته فيما بعد، فقد كانت تلك السيدة متزوجة، ورغم ذلك تجمع بينها وبين يوسف وهبى قصة حب كبيرة، وظلت أمينة توصل لها رسائله الغرامية حتى تم طلاقها من زوجها، وتزوجها وهبى في النهاية.كثيرون هم من يرجعون عدم زواج أمينة رزق طوال حياتها لهذه القصة أحادية الطرف التى عاشتها مع أستاذها ومكتشفها يوسف وهبى، لكنها توقعت لنفسها هذا الأمر منذ البداية، ففى أول حوار أجرته مع أحد البرامج، أكدت أنها لن تتزوج، ولا تسعى لأن يكون لديها بيت وأبناء.
ومن مواقفها التي تدل على وفائها ليوسف وهبي أنها باعت مصوغاتها وتبرعت بثمنها لتسديد ديونه والمساهمة في حل الأزمة المالية التي تعرض لها بعد إشهار إفلاسه بعد طلاقه من عائشة فهمي، ومن مواقفها العظيمة مع يوسف وهبي أيضًا أنها بعد إشهار إفلاسه ذهبت إلى عائشة فهمي وطلبت منها باسم الحب الذي جمع بينها وبين يوسف أن تترفق به وتوقف الدعوات القضائية المرفوعة ضده، لكن الأمر كان قد خرج من يدها حيث تولى أهلها مهمة الانتقام من يوسف وهبي، لكنها وعدتها بعدم تقديم الكمبيالات التي وقعها يوسف لها بشكل شخصي إلى المحكمة، وأحضرت تلك الكمبيالات ومزقتها وهي تبكي أمام أمينة رزق التي انهارت هي الأخرى بالبكاء.
محمود المليجي
يعتبر محمود المليجي واحدًا من أكثر الممثلين المصريين مشاركة في الأعمال الفنية، وهو أيضًا من أكثرهم مشاركة مع يوسف وهبي، حيث بدأ حياته الفنية كعضو في فرقة فاطمة رشدي المسرحية ثم التحق بفرقة رمسيس وعمل فيها بوظيفة ملقن براتب 9 جنيهات، ثم أصبح بعد ذلك ممثلًا فيها وشارك في مسرحياتها، كما شارك يوسف وهبي في حوالي 22 فيلمًا وهي ساعة التنفيذ، ليلة ممطرة، عاصفة على الريف، عريس من إستنبول، أولاد الفقراء، الطريق المستقيم، سيف الجلاد، ابن الحدَّاد، برلنتي، غرام وانتقام، الفنان العظيم، بنات الريف، سفير جهنم، يد الله، ضربة القدر، غزل البنات، ناهد، حبيبي الأسمر، دلع البنات، الاختيار، عُشَّاق الحياة، إسكندرية..ليه؟، كما شاركا معًا في مسلسل صيام صيام عام 1981م.
فاخر فاخر
بدأ فاخر فاخر حياته الفنية عندما اكتشفه أحمد علام عضو فرقة رمسيس الذي رشحه للعمل بالفرقة فوافق يوسف وهبي علي ذلك، فكان فاخر من الممثلين الذين ارتبط اسمهم بيوسف وهبي، حيث شارك معه في عشرات المسرحيات مثل كرسي الاعتراف، والصهيوني، وراسبوتين، وأولاد الفقراء، والأيدي الناعمة.
بعد ذلك استقال فاخر من فرقة رمسيس ليتفرغ للعمل السينمائي ومع ذلك استمر تعاونه الكبير مع يوسف وهبي، حيث شارك معه في 19 فيلمًا هي عاصفة على الريف، ليلي بنت الريف، عريس من إستنبول، أولاد الفقراء، بنت ذوات، جوهرة، غرام وانتقام، الفنان العظيم، سفير جهنم، ملاك الرحمة، رجل لا ينام، كرسي الاعتراف، بيومي أفندي، الأفوكاتو مديحة، أولاد الشوارع، ناهد، بنت الهوى، بيت الطاعة، مال ونساء.
سراج منير
تعرف سراج منير علي المخرج محمد كُرَيم أثناء دراسة كل منهما في ألمانيا، حيث كان سراج يدرس الطب وكان كريم يدرس السينما، تمكن الأخير من إقناع سراج منير بترك الطب والعمل بالسينما، وبعد عودتهما إلى مصر رشح محمد كريم لصديقه يوسف وهبي سراج منير للعمل في فرقة رمسيس فوافق يوسف، وشارك سراج منير مع يوسف وهبي في بعض مسرحيات الفرقة مثل الخطر والصهيوني.
وشارك سراج منير مع يوسف وهبي في نحو 13 فيلمًا وهي أولاد الذوات، ساعة التنفيذ، بنات الريف، الفنان العظيم، ملاك الرحمة، يد الله، شمعة تحترق، ضربة القدر، كرسي الاعتراف، بيومي أفندي، أمينة، أولاد الشوارع، المهرج الكبير.
حسن البارودي
في عام 1921 انضم حسن البارودي لفرقة عزيز عيد، وعند افتتاح مسرح رمسيس عدها بعامين بواسطة يوسف وهبي انتقل حسن للعمل بها ،ولكن عندما تقدم للعمل بقرقة يوسف وهبي كممثل لم يكن له مكان لاكتمال عدد أعضاء الفرقة، فارتضى بالعمل ملقنًا في فرقة رمسيس التي عمل بها لمدة 20 عامًا.وجاء دخول البارودي عالم التمثيل عن طريق الصدفة، ففي إحدى الأيام تحققت أمنيته عندما اعتذر الممثل إستيفان روستي عن دوره في مسرحية غادة الكاميليا أحد أهم مسرحيات الفرقة، فأخذ البارودي الدور، ونجح فيه فتوالت أعماله.
شارك حسن البارودي يوسف وهبي في عدد كبير من مسرحياته مع فرقة رمسيس مثل مسرحيات: الخطر، كرسي الاعتراف، غادة الكاميليا، الصهيوني، الأيدي الناعمة، كما شاركه في عدد من الأفلام وصل إلى 13 فيلمًا وهي أفلام: عاصفة على الريف، ليلي بنت الريف، أولاد الفقراء، بنت ذوات، برلنتي، شادية الوادي، كرسي الاعتراف، أمينة، الأفوكاتو مديحة، أولاد الشوارع، المهرج الكبير، بيت الطاعة، الاستعباد.
مواهب ساهم في اكتشافها
فاتن حمامة
تعتبر فاتن حمامة واحدة من أعظم الممثلات في تاريخ السينما المصرية، ولُقِّبت بسيدة الشاشة العربية، وقد ساهم في اكتشافها ونجوميتها أكثر من فنان، حيث يعتبر المخرج محمد كريم أحد أكبر المساهمين في اكتشافها حيث أنه أعطاها الفرصة للظهور لأول مرة على الشاشة وعمرها 9 سنوات وذلك في فيلم يوم سعيد بطولة الموسيقار محمد عبد الوهاب، كما كان ثاني أفلامها أيضًا من إخراج محمد كريم وبطولة محمد عبد الوهاب، وهو فيلم رصاصة في القلب 1944م، كما يُنسب اكتشافها أيضًا إلى الفنان زكي طليمات مؤسس المعهد العالي للتمثيل الذي تقدمت إليه فاتن حمامة عام 1944م، وساهم زكي في تخليص فاتن حمامة من مشكلة كانت ستصبح عقبة في طريق نجوميتها، حيث كانت مصابة بلثغة من نوع خاص حيث كانت تنطق حرف الراء غينًا مثل الفرنسيين، فساعدها طليمات علي التخلص من تلك اللثغة.
أما بالنسبة ليوسف وهبي فقد ساهم بشكل كبير في سطوع فاتن حمامة وتألقها في السينما، حيث يقول محمد وهبي ابن شقيق يوسف وهبي: .
لاحظ يوسف وهبي موهبة فاتن حمامة فأشركها معه في أول بطولة لها في حياتها وذلك في فيلم ملاك الرحمة 1946م من تأليف وإخراج يوسف وهبي، وكان عمرها 15 سنة فقط، ثم شاركت في فيلم القناع الأحمر 1947م من تأليف وإخراج يوسف وهبي ولكنه لم يشارك فيه.
وإجمالًا شاركت فاتن حمامة يوسف وهبي في 6 أفلام هي ملاك الرحمة، بيومي أفندي، كرسي الاعتراف، المهرج الكبير، بنت الهوى، الحب الكبير.
أنور وجدي
يعد أنور وجدي أحد أهم الممثلين المصريين، وفتى الشاشة الأول في أواخر أربيعينيات وبداية خمسينيات القرن الماضي، ويعود الفضل ليوسف وهبي في دخول أنور عالم التمثيل، حيث أراد أنور وجدي أن يكون ممثلًا فطرده والده من المنزل عندما علِم أنه يريد التمثيل، ومع ذلك لم يتراجع. لم تنجح محاولاته الحثيثة للسفر إلى هوليوود، فقرر الذهاب إلى شارع عماد الدين بحثًا عن فرصة بين النجوم، وكان يقف بالساعات في كواليس مسرح فرقة رمسيس في انتظار يوسف وهبي، على أمل أن يوافق على ضمه للفرقة، وبعد محاولات عديدة توسط له ريجيسير الفرقة قاسم وجدي، ، وأصبح أنور مساعدًا لوهبي، يسلم مواعيد العروض والبروفات للفنانين، وبعد وقت قصير شارك في العروض المسرحية بأدوار صامتة في البداية، ثم كومبارس متكلم، وأدوار ثانوية، وكان أول ظهور له في مسرحية "يوليوس قيصر"، عام 1922، نظير أجر شهري 4 جنيهات، مكنه من الحصول على غرفة مشتركة ليسكن فيها مع رفيق البدايات عبد السلام النابلسي.فكانت بداية أنور وجدي المسرحية على يد يوسف وهبي.
كما كانت بدايته السينمائية أيضًا علي يد يوسف وهبي، حيث شهد عام 1932 انطلاقة وجدي في السينما، حيث استعان به يوسف وهبي في عدد من الأفلام، التي كان يقوم بإنتاجها وإخراجها وتأليفها وتمثيلها، وأسند له بعض الأدوار الثانوية، بدايةً من فيلم أولاد الذوات عام 1932، ثم الدفاع عام 1935.وعمومًا شارك أنور وجدي يوسف وهبي في 6 أفلام هي أولاد الذوات، الدفاع، ليلي بنت الريف، غرام وانتقام، غزل البنات، حبيب الروح.
من المواقف الطريفة بينهما أن وجدي أثناء عمله في فرقة رمسيس قد نال صفعة قوية على وجهه من يوسف وهبي، حين تأخر في نقل قطعة ديكور في إحدى المسرحيات بوصفه عامل إكسسوار، وتكررت أخطاؤه حتى خصم منه وهبي 15 جنيهًا، وبعد أكثر من ربع قرن أنتج وجدي فيلم "غزل البنات"، الذي استعان فيه بوهبي نظير أجر 1000 جنيه، لكنه أعطاه 985 فقط، مذكرًا إياه بمبلغ الخصم.
عبد الحليم حافظ
كان اكتشاف المطرب الشهير عبد الحليم حافظ علي يد الإذاعي حافظ عبد الوهاب، الذي سمح له باستخدام اسم حافظ بدلًا من اسمه الحقيقي عبد الحليم شبانة، ولكن كانت شهرة عبد الحليم وتقديمه للجماهير علي يد يوسف وهبي، ففي أثناء تقديم يوسف بك وهبي إحدى الحفلات الغنائية بمناسبة إعلان الجمهورية المصرية 1953م، كان من المقرر تقديم الفنانة صباح لوصلتها الغنائية في تمام الساعة الحادية عشرة مساءً، ولكنها أبلغت عميد المسرح العربي هاتفيا بأنها موجودة في أستوديو مصر، وأنها سوف تتأخر 10 دقائق عن موعد طلوعها على المسرح، ولأن وهبي كان شديد الدقة في تنظيمه ومواعيده، ظل يبحث بين الموجودين عن البديل الذي يملأ فراغ صباح في الدقائق العشر، فوجد حينها الشاب عبد الحليم شبانة ليسأله إن كان قادرًا على تقديم أغنية للجمهور، فأجاب بنعم، واقترح تقديم أغنيته التي لم تكن معروفة آنذاك "على أد الشوق"، فسأل وهبي الفرقة الموسيقية إن كانت تعرف تلك الأغنية، فوجد بعض العازفين يعرفونها، فقدم يوسف وهبي عبد الحليم قائلًا:، وبالفعل صعد حليم على المسرح وقدم أغنيته، التي كانت بداية طريقه في عالم النجومية، وفق ما أوضح وهبي في لقاء تليفزيوني نادر.
فريد شوقي
كان ليوسف وهبي دور كبير في ظهورفريد شوقي، أحد أهم الممثلين في تاريخ السينما المصرية حيث بدأ الفنان الراحل فريد شوقي حياته الفنية في فترة الأربعينات في فرقة يوسف وهبي (فرقة رمسيس)، ولعب دور كومبارس في عدد من مسرحياتها، كما كان أول ظهور له علي شاشة السينما في فيلم ملاك الرحمة عام 1946، من تأليف وإخراج يوسف وهبي وبطولته بالاشتراك مع فاتن حمامة.فمهد هذا الفيلم الطريق لفريد شوقي لينطلق في عالم السينما والمسرح ويقدم طوال حياته الفنية 380 عملًا فنيًّا.
نور الهدى
يعتبر يوسف وهبي صاحب الفضل الأول في ظهور المطربة والممثلة اللبنانية نور الهدى، حيث تعرف عليها في إحدى رحلاته بلبنان عام 1942م فأُعجب بموهبتها، ووقع معها عقدًا لمدة 5 سنوات، واصطحبها معه إلى القاهرة مع والدها، وهو من أطلق عليها اسم نور الهدى بدلًا من اسمها الحقيقي (ألكسندرا نقولا بدران)، وأعطاها وهبي الفرصة لإظهار موهبتها في الغناء والتمثيل، في فيلم جوهرة عام 1943م، الذي شاركها فيه البطولة، وكان من تأليفه وإخراجه، ثم شاركها أيضًا بطولة فيلم برلنتي عام 1944م من تأليفه وإخراجه، فمهد لها يوسف وهبي طريق الشهرة، وشاركت بعد ذلك في العديد من الأفلام وصل عددها إلى 27 فيلمًا مع عمالقة الغناء والتمثيل مثل محمد عبد الوهاب ومحمد فوزي وفريد الأطرش وحسين صدقي ومحمود ذو الفقار ومحسن سرحان وكمال الشناوي وعماد حمدي وزكي رستم وغيرهم.
حياته الشخصية
زوجاته
تزوج يوسف وهبي في حياته ثلاث مرَّات ولم يُرزق بأي ابن أو ابنة.
إلينا لوندا
في عام 1922م أثناء فترة دراسة يوسف وهبي في إيطاليا حيث التحق بمسرح (إيدن) في ميلانو، ثم معهد التمثيل في روما التقي بالممثلة الايطالية إلينا لوندا وعاش معها قصة حب طويلة تكللت بالزواج، وكان عمره حينها 24 عاما، فاستطاعت أن تصقل مواهبه السينمائية وانتقل من أدوار الكومبارس إلي الأدوار الثانوية، حتي عاد إلي القاهرة واستمر زواجهما لمدة أربع سنوات الي أن انفصلا عام 1925م بسبب غيرتها الشديدة لارتباطه بعزيزة أمير التي تقاسمت معه أدوار البطولة وظهرت معه في الموسم الرابع في فرقة رمسيس عامي 1925م-1926م، وكانت لوندا قد دخلت علي يوسف وعزيزة أمير المسرح شاهرة مسدسها مهددة بالقتل إن لم تغادر عزيزة المسرح وهكذا هربت عزيزة من المسرح بلا رجعة، لذلك سافرت زوجة يوسف وهبي إلي جنو، ومن هناك أرسلت اليه محاميًا يطالبه بنفقة فلم يتردد في أن يرسل إليها وثيقة الطلاق.
ويوسف وهبي نفسه يعترف في مذكراته (عشت ألف عام - مذكرات عميد المسرح المصري يوسف وهبي) التي صدرت عن دار المعارف في مصر عام 1973م مشيرًا الي النساء اللاتي حُمن حوله، أو أحطن به، أو اقتربن منه قائلًا: .
عائشة فهمي
كان يوسف وهبي يدعو عائشة فهمي إلى السهرات التي كان يقيمها في منزله ويدعو إليها المقربين منه مثل محمد عبد الوهاب وفكري أباظة وزكي طليمات، وكان يرفض أن يعلن عن وجود أي علاقة خاصة بينهما بل كان يقدمها كصديقة للعائلة، مستغلًّا الصداقة المعروفة بين والده عبد الله باشا وهبي ووالدها علي باشا فهمي، فكانت علاقة حبهم سرًّا لا يعلمه إلا المقربون منهم مثل الموسيقار محمد عبد الوهاب الذي شجع يوسف وهبي علي الزواج منها، ولكن كانت هذه الفكرة في البداية بعيدة عن ذهن يوسف وهبي الذي كان لا يعاني من فشل زواجه الأول، فاقترح عليه محمد عبد الوهاب السفر خارج مصر للتفكير في إعادة ترتيب حياته بهدوء، فرحب يوسف بالفكرة وبدلًا من السفر بمفرده قرر أن يسافر مع عائشة إلى لندن ليصبح قريبًا منها أثناء النظر في قضية مقتل شقيقها علي فهمي الذي قتلته زوجته الفرنسية من أجل الحصول على أمواله والهروب بها مع عشيقها، وكانت كل الأدلة والمستندات تثبت إدانتها، ومع ذلك أصدر قاضي محكمة أولد بايلي حكمه بالبراءة على مارجريت ميلر، وكان هذا الحكم بمثابة صدمة للمجتمع المصري الذي ثار ضده فتصدرت الصحفَ عناوينُ تنتقد زواج المصريين من الأجنبيات، مما مهد ليوسف وهبي تأليف روايته أولاد الذوات والتي صنع منها بعد ذلك أول فيلم عربي ناطق حمل نفس اسم الرواية، ثم بدأت قصة زواجه من عائشة فهمي الثرية عندما أوشك على الإفلاس فتدخلت هي لإنقاذ مسرح رمسيس وساعدته على النهوض من جديد والقيام بجولات عرض فيها مسرحياته في سوريا ولبنان والأردن وفلسطين وليبيا وتونس والسودان والبرازيل والأرجنتين ثم في باريس وكانت عائشة فهمي تصحبه في كل هذه الرحلات وكانت متزوجة من طبيب اضطرت إلى منحه عشرين ألف جنيه وكان هذا مبلغًا مهولًا في هذا الوقت وتنازلت له عن مساحة أرض كبيرة مقابل أن يطلقها لتتزوج يوسف وهبى، وفي باريس تزوج يوسف وهبي من عائشة فهمي وكانت أغني سيدة في مصر وتكبره بستة عشر عاما، حيث أعدت هي كل شيء لعقد القران حيث اتفقا على أن يكون الزواج في باريس بعيدًا عن أعين المتطفلين وكاميرات الصحف، وحضر الزفاف عدد قليل من المدعوِّين وهم المقربون جدًّا من الزوجين مثل شقيق يوسف وهبي إسماعيل وزوجته، وصديقه المخرج محمد كريم، كما دعت عائشة صديقة واحدة فقط هي سعيدة منصور ابنة منصور باشا يوسف وزوجة عبد الشافي بك المغازي، وكان عمرها 20 سنة وكانت عائشة هانم تعتبرها ابنتها، وبعد ذلك أعدت عائشة لزوجها مفاجأة سعيدة وهي وجود صديقه المطرب والموسيقار الكبير محمد عبد الوهاب الذي جاء ليهنئه بزواجه وغني له مع فرقته الموسيقية أجمل أغانيه العاطفية حينها مثل (جفنه علَّم الغزل) و(جارة الوادي)، وتم الزواج ثم مضت الأيام ويقول يوسف وهبي: .هجر يوسف وهبي قصر عائشة فهمي الموجود على النيل في الزمالك دون أن يحمل معه شيئا من ملابسه، ولم يكن في جيبه غير خمسين جنيهًا، فأرسلت إليه عائشة هانم تعرض أن يعود إليها علي أن تقتطع من أرضها الخصبة في صعيد مصر خمسمائة فدان تكتبها باسمه، ورفض يوسف وهبي وقام برحلة خارج البلاد عاد بعدها ليجد أن السيدة عائشة قد رفعت عليه دعوي نفقة وأوقع محاميها الحجز علي مدينة رمسيس وظلت تلاحقه حتي استطاعت أن تشهر افلاسه.
وأمام الأزمة الحادَّة التي واجهته ذهبت أمينة رزق زميلته في مسرح رمسيس إلى عائشة فهمي وطلبت منها باسم الحب الذي جمع بينها وبين يوسف أن تترفق به وتوقف الدعوات القضائية المرفوعة ضده، لكن الأمر كان قد خرج من يدها حيث تولى أهلها مهمة الانتقام من يوسف وهبي، لكنها وعدتها بعدم تقديم الكمبيالات التي وقعها يوسف لها بشكل شخصي إلى المحكمة، وأحضرت تلك الكمبيالات ومزقتها وهي تبكي أمام أمينة رزق التي انهارت هي الأخرى بالبكاء.
سعيدة منصور
كانت بداية معرفة يوسف وهبي بسعيدة منصور هي حضورها في حفل زفافه على عائشة فهمي، وكانت-بشهادة يوسف وهبي- تحاول الإصلاح بينه وبين زوجته دون جدوى، وبعد طلاقه من عائشة نشأت قصة حب بينه وبين سعيدة على الرغم من أنها كانت متزوجة من عبد الشافي بيه المغازي وكانت من عائلة ثرية، ومع ذلك أحبت رجلًا في ظروف مالية صعبة وأشهر إفلاسه، وسافرت معه إلى الإسكندرية وتلقى يوسف تهديدات من زوجها وإخوتها، ولكن لم يتخلَ عنها، فكان لهما ما أرادا وتم طلاقها من زوجها، وتزوجها يوسف وهبي، وعرف معها الاستقرار فاستمر معها حتى وفاته عام 1982م، واستطاع أن يبدأ نشاطه الفني من جديد ويستعيد مجده ويسدد ديونه، ويحول دار سينما بيجال في وسط القاهرة إلى مسرح يسع ألف متفرج وعادت فرقة رمسيس من جديد.وعلى الرغم من نزوات يوسف وهبي وخيانته لها في بعض الأحيان إلا أنها كانت تتجاهل وتغفر وتتناسى؛ لأنه -على حد قولها- كان دائمًا يعود إليها نادمًا مستغفرًا.
قصره
عاش يوسف وهبي مع زوجته عائشة فهمي في قصرها الكبير في الزمالك الذي كان قد بناه أخوها علي، وبعد وفاته اشترته هي كاملًا من ورثته، وبعد طلاقه منها قرر أن يبني قصرًا لنفسه يعيش فيه مع زوجته الجديدة سعيدة منصور فبنى قصرًا عظيمًا في منطقة الهرم عاشا فيه بقية عمرهما، حيث تقول د.لوتس عبد الكريم الصديقة المقربة من العائلة في كتابها السيرة الأخرى لأسطورة المسرح يوسف وهبي: .
هواياته ومعتقداته
لعب القمار والرهان على سباقات الخيل
علاقات وهبي النسائية لم تكن الشيء الوحيد الذي أتعب زوجته، بل كان يوجد شيء أكثر إيذاءً لروحها، وهو إدمانه لعب القمار أو «البوكر» ورهانه على سباقات الخيل وخسائره الفادحة التي بدد فيها أمواله في سنواته الأخيرة.
وبحسب ما نقلت الكاتبة لوتس عبدالكريم في كتابها عن وهبي، أنها سافرت معه وزوجته سعيدة إلى أماكن كثيرة في سويسرا وفرنسا ولبنان وإنغلترا، وذهبت معها لترى يوسف وهبي في حلبات السباق من باب الفضول، فكان لا يملُّ من لعب القمار والرهان في سباقات الخيل والكلاب، وكانت تراقبه وهو يخسر الجولة بعد الجولة، ثم يكسب ثم يخسر إلى أن يخسر كل ما معه ويلعب بأموال زوجته.وفى سنوات عمر وهبي الأخيرة، كان لا يملك شيئًا من الثروة الكبيرة التي حققها، فكانت ثروة زوجته هي التي حفظت له مظهره حتى آخر يوم.
الإيمان بالخوارق
كان يوسف وهبي من أكثر الفنانين الذين يؤمنون بعالم تحضير الأرواح، بل إنه كان يعالج نفسه بها، وكان مؤمنًا بالأرواح ورسائل العالم الأخر.وقد قالت الكاتبة لوتس عبدالكريم في كتابها عن وهبي أنها كانت تذهب معه لجلسات تحضير الأرواح، وتسمع وتحاول أن تفهم كل ما تهمس به، وفي لندن عام 1961 وقع ليوسف وهبي ما هو أغرب، حيث أجري له الدكتور (تانر9 أشهر جراح في مستشفي «لندن كلينيك»، جراحة لإزالة المرارة، وما إن مضي يومان حتي أخبره الجراح أن الجرح قد أصيب بصديد ولابد من المسارعة في علاجه خشية التسمم، وبدءوا يغلسون الجرح بالمطهرات ودخل هو في شبه غيبوبة.وتضيف لوتس على لسان يوسف وهبي أنه زاره سير إنجليزي نائبًا عن «هاري إدوارد»، الطبيب الروحي الشهير وتلمَّسَ الجُرح من الخارج بيد مرتجفة، وشعر وهبي بعدها بأنه كمن مسَّه تيار كهربائي، وفي تلك الليلة أخبرته الممرضة المعالجة أنه لم يعد هناك أثر للصديد.
وقد قال يوسف وهبي: «أعلم أن هناك من لا يؤمن بوقوع هذه الخوارق.. فقلت إن الخوارق لا يصدقها إلا من رآها رؤي العين»
نظرة على حياته
كان أبوه يريده أن يصبح فلاحا مثله، ولكن عشقه للتمثيل دفعه بعيدا تماما عن هذا الطريق، ووسط دهشة عائلته كلها التحق بالسيرك للعمل كممثل، وهكذا انتقل من أعلى طبقة في المجتمع إلى أدنى طبقة وهي طبقة "المشخصاتية" التي لم يكن معترف بشهادتها أمام محاكم الدولة في ذلك الوقت.
وكرد فعل طبيعي "للعار" الذي لحق بسمعة عائلته من جراء فعلته قام والدة بطرده من بيت العائلة، وألحقه بالمدرسة الزراعية في محاولة منه "لإصلاحه وتهذيبه".
لم يستجب يوسف وهبي وهرب إلى إيطاليا لتعلم المسرح ولكي يهرب من ملاحقة عائلته قام بتغيير اسمه إلى "رمسيس"، ولم يعد إلى مصر إلا بعد أن وصله خبر وفاة والده الباشا الذي توفي وترك له ولأخوته ثروة كبيرة.
بعد أن تسلم هذه النقود قام يوسف وهبي بإنشاء فرقة مسرحية خاصة وأطلق عليها فرقة رمسيس، وقرر أن يقدم بها شيئا مختلفا عن مايقدمه مشاهير المسرح في ذلك الوقت (علي الكسار ونجيب الريحاني) بعد أن قام بدراسة أعمالهم دراسة متأنية، وأطلق علية في تلك الفترة من بداياته لقب "رسول العناية الإلهية" الذي سوف ينهض بفن التمثيل في مصر.
وبعد بداية قوية في المسرح دخل يوسف وهبي إلى السينما متأخرا قليلا وذلك بسبب إعطاءه المسرح الجزء الأكبر من اهتمامه، وبسبب آخر أهم وهو العداء الذي نشأ بينه وبين الصحافة والرأي العام عندما قرر تجسيد شخصية النبي "محمد" على شاشة السينما، وهو ما أثار حفيظة الجمهور والنقاد بل والعاملين بالمجال السينمائي نفسه.
بعد أن هدأت هذه الأزمة بدأ يوسف وهبي في الإعداد مع المخرج محمد كريم لفيلم روائي طويل وهو فيلم "زينب"، على أن يقوم هو بإنتاجه ويقوم محمد كريم بالإخراج. ثم أتفق مع محمد كريم بعد ذلك على صناعة أول فيلم مصري ناطق وهو فيلم "أولاد الذوات" الذي حقق نجاحا ساحقا، فقام يوسف وهبي بكتابة ثاني أفلامه وهو "الدفاع" 1935 واشترك في إخراجه مع نيازي مصطفى، ثم كان الفيلم الثالث "المجد الخالد" 1937 الذي قام فيه بالكتابة والتمثيل والإنتاج والإخراج.
عمل بعد ذلك يوسف وهبي كمؤلف لثلاثة أفلام متتالية "ليلة ممطرة" "ليلى بنت الريف" و"ليلى بنت مدارس" كلها من إخراج توجو مزراحي، وبعد نجاحهم جميعا قام يوسف وهبي بإخراج فيلم "غرام وأنتقام" الذي قام فيه بدور العاشق صغير السن، رغم كونه قد بلغ من العمر حينئذٍ السادسة والأربعين تقريباً.
وقد حصل بسبب إحدى أغاني هذا الفيلم على لقب "بك" لأنها كانت تمجد في ذات العائلة المالكة. حصل يوسف وهبي أيضا على وسام تقدير من مجلس قيادة الثورة ودرجة الدكتوراة الفخرية عن مجمل عطاءه للفن المصري.
في عام 1979 قام يوسف وهبي بتمثيل دور اليهودي العجوز الذي يعشق مصر بعد أن عاش كل حياته بها وذلك في فيلم إسكندرية... ليه؟، وهي المرة الأولى التي يقوم فيها ممثل بأداء شخصية اليهودي بعد ثورة 1952، وقد أظهر في هذه الشخصية إحساس مرهف مدعم بخبرة سنين طويلة من الإبداع والفن.
وفاته
توفى في 17 أكتوبر عام 1982 بعد دخوله لمستشفى المقاولون العرب اثر اصابته بكسر في عظام الحوض نتيجه سقوطه في الحمام. توفي أثناء العلاج إثر إصابته بسكتة قلبية مفاجئة، وكان إلى جواره عند وفاته زوجته وابنها. وقد ودعه محبو فنه بعد حياة حافلة بالإبداع، وتخليداً لذكراه تكونت في مسقط رأسه الفيوم جمعية تحمل اسمه هي "جمعية أصدقاء يوسف وهبى"، وأقيم له تمثال أمام مقر هذه الجمعية بحي الجامعة بالفيوم على رأس الشارع الذي يحمل اسمه.
أفلامه
أولاد الذوات 1932م.
الدفاع 1935م.
المجد الخالد 1937م.
ساعة التنفيذ 1938م.
ليلة ممطرة 1939م.
ليلى بنت الريف 1941م.
ليلى بنت المدارس 1941م.
عاصفة على الريف 1941م.
عريس من إسطنبول 1941م.
أولاد الفقراء 1942م.
بنت ذوات 1942م.
الطريق المستقيم 1943م.
جوهرة 1943م.
غرام وانتقام 1944م.
سيف الجلاد 1944م.
ابن الحداد 1944م.
برلنتي 1944م.
سفير جهنم 1945م.
الفنان العظيم 1945م.
بنات الريف 1945م.
ضحايا المدينة 1946م.
شمعة تحترق 1946م.
ملاك الرحمة 1946م.
يد الله 1946م.
ضربة القدر 1947م.
القناع الأحمر 1947م. (تأليف وإخراج)
شادية الوادى 1947م.
رجل لا ينام 1948م.
كرسي الاعتراف 1949م.
بيومي افندي 1949م.
غزل البنات 1949م.
الأفوكاتو مديحة 1950م.
أولاد الشوارع 1951م.
حبيب الروح 1951م.
أمينة 1951م.
المهرج الكبير 1952م.
بيت الطاعة 1953م.
بنت الهوى 1954م.
عهد الهوى 1955م.
حياة أو موت 1955م.
الفيلم الفرنسي - المصري قناع توت عنخ آمون 1955م، (Le masque de Toutankhamon)
بحر الغرام 1956م.
الملاك الصغير 1958م.
مفتش المباحث 1959م.
مال ونساء 1960م.
الناس اللى تحت 1960م.
إشاعة حب 1960م.
اعترافات زوج 1964م.
القاهرة 30 1966م.
البحث عن فضيحة 1976م.
نورا 1967م.
الفيلم الإيطالي - المصري كيف سرقنا القنبلة الذرية[17] 1967م (Come rubammo la bomba atomica).
شنبو في المصيدة 1968م.
ميرامار 1969م.
الحب الكبير 1970م.
عشاق الحياة 1971م.
عالم الشهرة 1971م.
أزمة سكن 1972م.
زمان يا حب 1973م.
حكايتي مع الزمان 1973.
الرداء الأبيض 1974.
إسكندرية ليه ؟ 1978م.
السلخانة 1982م.
مسرحياته
عطيل.
المسترفو.
سر الحاكم بأمر الله (تأليف على أحمد باكثير).
الكوكايين.
يوليوس قيصر.
الطمع.
الدنيا مسرح كبير.
المائدة الخضراء.
بيومى أفندى.
حب عظيم.
هاملت.
أولاد الفقراء.
اليتيمان.
الاستعباد.
نحن وانتم.
بنات الريف.
واحد يساوى اثنين.
كرسى الاعتراف.
راسبوتين.
غادة الكاميليا.
الذبائح.
أولاد الذوات.
أولاد الشوارع.
بنت مدارس.
ابن الفلاح.
ناكر ونكير.
الموت المدني.
حدث ذات ليلة.
البحار المزيف.
لويس الحادي عشر.
كليوباترا.
الأدب + ليبونار.
الجريمة والعقاب.
المجنون.
المرأة المقنعة.
الدم.
متى تتزوج.
عريس في علبة.
شجرة الدر.
دافيد كوبرفيلد.
الذهب.
التاج والفضيلة.
أوبريت العشرة الطيبة.
الجوائز التقديرية والمناصب
منحه الملك فاروق الأول رتبة البكوية.
وسام الاستحقاق من الطبقة الأولى عام 1960.
جائزة الدولة التقديرية العام 1970.
انتخب نقيبا للممثلين العام 1953 وعمل مستشارا فنيا للمسرح بوزارة الإرشاد.
حاز على جائزة الدولة التقديرية والدكتوراة الفخرية العام 1975 من الرئيس المصري أنور السادات.
منحه بابا الفاتيكان وسام "الدفاع عن الحقوق الكاثوليكية"، وهو أول مسلم يحصل على هذه الجائزة.
لقب عميد المسرح العربي.
المراجع
وصلات خارجية
تصنيف:أشخاص من محافظة الفيوم
تصنيف:أفريقيا
تصنيف:الشرق الأوسط
تصنيف:قوميون مصريون
تصنيف:مخرجون سينمائيون مصريون
تصنيف:مصريون حاصلون على جائزة الدولة التقديرية
تصنيف:مصريون من أصل تركي
تصنيف:ممثلو أفلام مصريون
تصنيف:ممثلو مسرح مصريون
تصنيف:ممثلون مصريون في القرن 20
تصنيف:منتجو أفلام مصريون
تصنيف:مواليد 1316 هـ
تصنيف:مواليد 1898
تصنيف:مواليد في الفيوم (مدينة)
تصنيف:وفيات 1402 هـ
تصنيف:وفيات 1982
تصنيف:وفيات في القاهرة
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సుందర్బన్స్ (Bengali: সুন্দরবন షున్దొర్ బోన్ ) అనేవి ప్రపంచంలోని ఏకైక అతి పెద్ద ఏకదళ వృక్ష ప్రాంతం క్షారప్రియ నీటిమొక్కల మడ అరణ్య ప్రాంతం.[1] సుందర్బన్ అనే పేరుకు సాహిత్యపరమైన అర్ధం "అందమైన అడవి" లేదా "అందమైన అరణ్యం", బెంగాలీ భాషలో (సుందర్ అనగా "అందమైన" మరియు బన్ అనగా "అరణ్యం" లేదా "అడవి"). సుందర్బన్స్ లో పెద్ద సంఖ్యలో లభ్యమయ్యే సుందరి చెట్ల వలన ఈ పేరు వచ్చి ఉండవచ్చు. అంతేకాక, సముద్రబన్ (Bengali: সমুদ্রবনషోముద్రోబోన్ "సముద్ర అడవి") లేదా చంద్ర-బందే (ఆదిమజాతి యొక్క పేరు) యొక్క రూపాంతరంగా కూడా దీనిని ప్రతిపాదించారు. కానీ సుందరి చెట్ల వలన ఈ పేరు ఏర్పడిందనేది సాధారణంగా అంగీకరించబడింది.[1]
ఈ అడవి గంగానది పాదాల వద్ద ఉండి బంగ్లాదేశ్ లోని కొన్ని ప్రాంతాలు మరియు భారతదేశంలోని పశ్చిమ బెంగాల్ ప్రాంతాలలో విస్తరించి, డెల్టా యొక్క సముద్రపు అంచుని ఏర్పరుస్తుంది. కాలానుగుణంగా-వరదలకు గురయ్యే సుందర్బన్ మంచినీటి తంపర అడవులు మడ అడవుల లోపలిభాగంలో ఉంటాయి. ఈ అడవి 10,000కిమీ2 వ్యాపించి ఉండగా, దీనిలో సుమారు 6,000 బంగ్లాదేశ్ లో ఉంది.[2] ఇది 1997లో యునెస్కో ప్రపంచవారసత్వ సంపదగా ప్రకటించ బడింది, బంగ్లాదేశీ మరియు భారత భాగాలు ఒకే విధమైన పర్యావరణ ప్రాంతాలు ఇవి యునెస్కో ప్రపంచ వారసత్వ సంపద జాబితాలో సుందర్బన్స్ మరియు సుందర్బన్స్ నేషనల్ పార్క్ ప్రాంతాలు ఉన్నాయి. సుందర్బన్స్ సంక్లిష్టమైన వేలా జలమార్గాలు, బురద మైదానాలు మరియు లవణ స్వభావాన్ని తట్టుకోగలిగిన మడ అడవుల యొక్క ద్వీపాలతో నిండి ఉంది. ఈ ప్రాంతం, దీని నుండే తన పేరు పొందిన రాయల్ బెంగాల్ పులి (పాన్థేరా టైగ్రిస్ టైగ్రిస్ ) తో పాటు, పక్షి యొక్క జాతులు, మచ్చల లేడి, మొసళ్ళు మరియు పాము వంటి అనేక జంతు జీవజాలాలకు ప్రసిద్ధి చెందింది. ప్రస్తుతం ఈ ప్రాంతంలో 500[3] బెంగాల్ పులులు మరియు సుమారు 30,000 మచ్చల జింకలు ఉన్నట్లు అంచనా వేయబడింది. సుందర్బన్స్ 1992 మే 21న ఒక రాబ్మ్సర్ స్థలంగా ప్రకటించబడింది. ఈ డెల్టా యొక్క సారవంతమైన భూములు శతాబ్దాలుగా మానవులచే విస్తృతంగా ఉపయోగించబడుతున్నాయి, మరియు ఈ పర్యావరణ ప్రాంతంలో ఎక్కువ భాగం విస్తృత వ్యవసాయం కొరకు మార్చబడి, అడవి యొక్క కొన్ని అంతఃక్షేత్రాలు మాత్రం మిగిలి ఉన్నాయి. సుందర్బన్స్ మడ అడవులతో సహా, మిగిలి ఉన్న అడవులు, అపాయంలో ఉన్న పులి యొక్క ఆవాసంగా ఉన్నాయి. ఇంతేకాకుండా, సుందర్బన్స్, చక్రవాత ప్రభావానికి గురైనపుడు కోల్కతా (కలకత్తా) మరియు చుట్టూ ప్రక్కల ప్రాంతాలలోని మిలియన్ల మందికి వరదల నుండి రక్షణ కవచంగా నిలిచే కీలకమైన విధిని కూడా నిర్వర్తిస్తోంది.
చరిత్ర
ఈ ప్రాంత చరిత్ర క్రీస్తుశకం 200-300 నాటి నుండి ఉంది. బఘ్మర అడవి సముదాయంలో చాంద్ సదగర్చే నిర్మించబడిన నగరం యొక్క శిథిల భాగం కనుగొనబడింది. మొఘల్ల కాలంలో, స్థానిక రాజులు సుందర్బన్స్ అడవులను నివాసితులకు కౌలుకు ఇచ్చారు. ఈ కాలంలో, ముందుకు వస్తున్న అక్బర్ సేనల నుండి తప్పించుకోవడానికి రాజా బసంత రాయ్ మరియు అతని మేనల్లుడు సుందర్బన్స్ లో ఆశ్రయం పొందారు.[4] వారిచే నిర్మించబడిన అనేక కట్టడాలు, 17వ శతాబ్దంలో పోర్చుగీసు దొంగలు, ఉప్పు దొంగ రవాణాదారులు మరియు బందిపోట్ల చేతిలో పడ్డాయి. దీనికి సంబంధించి సాక్ష్యాలుగా నేటిధోపాని మరియు సుందర్బన్స్ అంతటా విస్తరించి ఉన్న ఇతర ప్రాంతాల శిథిలాలు ఉన్నాయి.[5] ఈ అడవుల చట్టస్థాయి అనేక మార్పులకు గురైంది, వీటిలో ప్రపంచంలో మొట్ట మొదట శాస్త్రీయంగా నిర్వహింప బడుతున్న మడ అడవులు అనే ప్రత్యేకత కూడా ఉంది. మొఘల్ చక్రవర్తి ఆలంగిర్ II నుండి ఈస్ట్ ఇండియా కంపెనీకి 1757లో ఆస్తి హక్కులు సంక్రమించిన వెంటనే 1764లో మొదటిసారి సర్వేయర్ జనరల్ చేత మానచిత్రణ జరుపబడింది. 1860లో భారతదేశంలోని బెంగాల్ రాష్ట్రంలో అటవీశాఖను ప్రారంభించిన తరువాత ఈ అటవీ ప్రాంత క్రమబద్ధమైన నిర్వహణ ప్రారంభమైంది.[6]
1869లో సుందర్బన్ పరిధిలో మొదటి అటవీ నిర్వహణా విభాగం స్థాపించబడింది. 1875 -1876లో అటవీ చట్టం, 1865 (ఆక్ట్ VIII అఫ్ 1865) ప్రకారం సుందర్బన్స్ అభయారణ్యంగా ప్రకటించబడింది. 1893-1898 కాలానికి మొదటి నిర్వహణా ప్రణాళిక రచించబడింది.[7][8] 1875లో మడ అడవులలో ఎక్కువభాగం అటవీ చట్టం, 1865 (ఆక్ట్ VIII అఫ్ 1865) ప్రకారం అభయారణ్యంగా ప్రకటించబడింది. అడవులలోని మిగిలిన భాగాలు తరువాత సంవత్సరంలో అభయారణ్యంగా ప్రకటించబడ్డాయి మరియు జిల్లా పౌర యంత్రాంగంచే నిర్వహించబడే దూరంగా ఉన్న ఆటవీ ప్రాతం, అటవీ విభాగం యొక్క నియంత్రణలో ఉంచబడింది. ఒక ముఖ్య అటవీ నిర్వహణ మరియు పరిపాలనా సంఘం 1879లో ఖుల్న ముఖ్య కేంద్రంగా స్థాపించబడింది.
1911లో, ఈ ప్రాంతం ఎప్పుడూ సర్వేక్షణం జరుపబడని ఒక పనికిరాని భాగంగా జనాభా గణన విస్తరించబడని ప్రాంతంగా పేర్కొనబడింది. అది ఆ కాలంలో 165 miles (266km)హుగ్లీ నది ముఖద్వారం నుండి మేఘన ముఖద్వారం వరకు విస్తరించింది మరియు మూడు జిల్లాలైన 24 పరగణాలు, ఖుల్న మరియు బకర్ గంజేలతో భూ సరిహద్దులను కలిగిఉంది. (నీటితో కలిపి) మొత్తం ప్రాంతం6,526 square miles (16,902km2)గా అంచనా వేయబడింది. నీటితో-నిండిన ఈ అరణ్యంలో, పులులు మరియు ఇతర క్రూరమృగాలు ఎక్కువగా ఉంటాయి. పూర్వ స్థితికి మళ్ళించడానికి చేసిన ప్రయత్నాలు అంతగా విజయవంతం కాలేదు. ఈ ప్రాంత సహజ వృక్షం సుందరి (హేరిటిఎర లిట్టోరాలిస్ ) నుండే ఈ ప్రాంతానికి ఆ పేరు వచ్చిఉండవచ్చు. దీని నుండి భవన నిర్మాణం, పడవల తయారీ, మరియు వస్తువులు మొదలైన వాటికి అవసరమైన దృఢమైన కలప లభిస్తుంది. సుందర్బన్స్ ప్రతి చోట నదీ ప్రవాహాలు లేదా కయ్యలను కలిగి ఉంది, వీటిలో కొన్ని కలకత్తా మరియు బ్రహ్మపుత్ర లోయకు నాటు పడవలు మరియు స్టీమర్ల ద్వారా రవాణాకు వీలు కలిగిస్తున్నాయి.
నైసర్గిక స్వరూపం
మడ అడవుల-ఆధిక్యత కలిగిన గంగా డెల్టా–సుందర్బన్స్-ఒక సంక్లిష్ట పర్యావరణ వ్యవస్థ ప్రపంచంలోని మూడు అతిపెద్ద ఏకప్రాంత మడ అడవులలో ఒక ప్రాంతాన్ని కలిగిఉంది. రెండు పరిసర దేశాలైన, బంగ్లాదేశ్ మరియు భారత దేశం మధ్య విస్తరించి ఉంది, ఎక్కువభాగం (62%) బంగ్లాదేశ్ యొక్క నైరుతి ప్రాంతంలో ఉంది. ఈ అడవి దక్షిణాన బంగాళాఖాతంతో కలుస్తుంది; తూర్పున బలేశ్వర్ నది మరియు ఉత్తరాన విస్తృతమైన వ్యవసాయ భూములను హద్దుగా కలిగిఉంది. ప్రధాన నీటి పారుదల నదులు కాక, ఎగువ ప్రవాహ ప్రాంతాలలోని సహజ నీటి పారుదల, ప్రతిచోట విస్తృతమైన గట్లతో మరియు పోల్డర్లతో అవరోధింపబడుతుంది. సుందర్బన్స్ మొట్టమొదట (సుమారు 200 సంవత్సరాల క్రితం) సుమారు 16,700చదరపు కిమీగా గణించబడింది. ప్రస్తుతం ఇది సహజ పరిమాణంలో సుమారు 1/3 వంతుకు క్షీణించింది. ప్రస్తుతం మొత్తం భూభాగం 4,143చదరపు కిమీ (బహిర్గతమైన సంద్బార్లతో కలిపి: 42చ.కి.మీ.) మరియు మిగిలిన జలప్రాంతం 1,874కిమీ² నదులు, చిన్న ప్రవాహాలు మరియు కాలువలచే పరివేష్టితమై ఉంది. సుందర్బన్స్ యొక్క నదులు మంచినీరు మరియు ఉప్పునీరు కలిసే ప్రాంతాలుగా ఉంటాయి. అందువలన, గంగానది నుండి ఉద్భవించే నదుల నుండి వచ్చే మంచి నీరు మరియు బంగాళాఖాతం నుండి వచ్చే ఉప్పునీరు కలిసే ప్రాంతంగా ఈ ప్రదేశం ఉంది (వాహిద్ వంటివి, 2002).
సుందర్బన్స్ బంగాళాఖాతంతో పాటు సహస్రాబ్దాల కాలంలో ఎగువ ప్రవాహాల ఒండ్రు నిల్వలతో పాటు అంతర్వేలా విభజన వలన ఉద్భవించింది. ఈ నైసర్గిక స్వరూపం డెల్టా రూపాలైన అనేక ఉపరితల పారుదల మార్గాలు మరియు ఉపజల కరకట్టలు, వాలు మరియు వేలా మైదానాలు ఉన్నాయి. సగటు అల స్థాయి కంటే పైన కొన్ని చిత్తడినేలలు, వేలా ఇసుక గట్లు మరియు ద్వీపాలు వాటి వేలా ప్రవాహాల వ్యవస్థ, ఉపజల దూర అడ్డుకట్టలు మరియు సహజ-డెల్టా మృత్తికలు మరియు ఒండ్రు పదార్ధాలు ఉంటాయి. ఈ సుందర్బన్స్ నేలలు సముద్ర మట్టానికంటే 0.9 మీ నుండి 2.11 మీ ఎత్తులో ఉంటాయి.[9]
భౌతిక తీరం యొక్క పరిణామంలో జీవకారకాలు ముఖ్య పాత్ర వహిస్తాయి మరియు వన్యమృగాల కొరకు అనేకరకాల ఆవాసాలు అభివృద్ధి చెందాయి, వీటిలో సముద్రతీరాలు, కయ్యలు, శాశ్వత మరియు తాత్కాలిక చిత్తడినేలలు, వేలా మైదానాలు, వేలా ఖండికలు, తీర ప్రాంత ఇసుక దిబ్బలు మరియు కరకట్టలు ఉన్నాయి. మడ వృక్షసంపద నూతన భూభాగం ఏర్పడటానికి సహాయపడుతుంది మరియు అంతర్ వేలా వృక్షసంపద చిత్తడి భూస్వరూపం ఏర్పాటులో ముఖ్య పాత్ర వహిస్తోంది. అంతర్వేలా బురద మైదానాలలోని మడ అడవుల యొక్క జంతు సముదాయ కార్యకలాపాలు అవక్షేపాలను నిరోధించి మడ విత్తనాల అధస్తర సృష్టికి సూక్ష్మజీవరూప లక్షణాలను అభివృద్ధి పరుస్తాయి. వాయుకృత ఇసుక దిబ్బల స్వరూపం మరియు పరిమాణం ఎడారిమొక్కలు మరియు క్షారప్రియ మొక్కల విస్తృతిచే నియంత్రించ బడతాయి. లతలు మరియు తృణాలు, తుంగలు ఇసుక దిబ్బలను మరియు విడిగా ఉండే మృత్తికలను స్థిరపరుస్తాయి. సుందర్బన్స్ బురద మైదానాలు (బెనర్జీ, 1998) కయ్యలు మరియు నది మరియు వేలా ప్రవాహాల వేగం తక్కువగా ఉండే డెల్టా యొక్క ద్వీపాలలో కనుగొనబడ్డాయి. ఈ మైదానాలు చిన్న అలలకు కనబడతాయి మరియు పెద్ద అలలకు మునిగిపోతాయి, ఆ విధంగా ఒక పాటుపోటు చక్రంలోనే స్వరూప మార్పుకు గురవుతాయి. ఈ మైదానాల అంతర్భాగాలు విస్తారమైన మడ అడవుల ఘనమైన ఆవాసాలుగా ఉన్నాయి.
పర్యావరణం
సుందర్బన్స్ రెండు రకాల పర్యావరణ ప్రాంతాలను కలిగి ఉంది — "సుందర్బన్స్ మంచినీటి చిత్తడి అడవులు " (IM0162) మరియు సుందర్బన్స్ మడ అడవులు (IM1406).[10]
ఆయనరేఖా ప్రాంత తడి విశాల పత్ర అరణ్యాలు అయిన సుందర్బన్స్ మంచినీటి చిత్తడి అడవులు భారతదేశం మరియు బంగ్లాదేశ్ యొక్క పర్యావరణ ప్రాంతాలు. ఇది సుందర్బన్స్ మడఅడవుల వెనుక ఉన్న ఉప్పు నీటి చిత్తడి అరణ్యాలను కలిగి ఉంది ఇక్కడ లవణీయత అధికంగా ఉందని నిర్ణయించబడింది. మంచినీటి పర్యావరణ ప్రాంతం ఉన్న ప్రదేశంలో నీరు కొద్దిగా మాత్రమే ఉప్పగా ఉండి వర్షాకాలంలో పూర్తి మంచి నీటిగా మారిపోతుంది, ఆ సమయంలో గంగ మరియు బ్రహ్మపుత్రా నదుల నుండి వచ్చే మంచినీటి ధారలు చొచ్చుకు వచ్చే ఉప్పు నీటిని తోసివేయడంతో పాటు ఒండ్రును కూడా తీసుకువస్తాయి. ఇది విశాలమైన గంగా-బ్రహ్మపుత్ర డెల్టాలో 14,600 చదరపు కిలోమీటర్లను (5,600 చదరపు మైళ్ళు) ఆక్రమించి, భారత దేశం యొక్క పశ్చిమ బెంగాల్ రాష్ట్రం నుండి పశ్చిమ బంగ్లాదేశ్ వరకు విస్తరించింది. సుందర్బన్స్ మంచినీటి చిత్తడి అడవులు నిమ్న గంగా మైదానాల తేమ ఆకురాల్చు అడవుల ఉన్నత ప్రదేశాలు మరియు ఉప్పు-నీటి సుందర్బన్స్ మడ అడవుల మధ్య బంగాళాఖాతం సరిహద్దుగా ఉన్నాయి.[11]
సమస్యలు
డెల్టా యొక్క సారవంతమైన భూములు శతాబ్దాలుగా మానవులచే విస్తృతంగా వాడబడుతున్నాయి, మరియు పర్యావరణ ప్రాంతంలోని అధికభాగం సాంద్ర వ్యవసాయానికి అనుగుణంగా మార్చబడింది, అరణ్యంలోని కొన్ని అంతఃక్షేత్రాలు మాత్రం మిగిలి ఉన్నాయి. సుందర్బన్స్ మడ అడవులతో కలిపి మిగిలి ఉన్న అరణ్య ప్రాంతాలు అపాయంలో ఉన్న బెంగాల్ టైగర్ (పాన్థేరా టైగ్రిస్ ) యొక్క ముఖ్య నివాసంగా ఉన్నాయి. అపాయంలో ఉన్న పులితో పాటు, ఆపదను ఎదుర్కుంటున్న ఇతర క్షీరద జాతులైన, కాప్డ్ ల్యాంగూ (సేమ్నోపిథేకాస్ పిలేయేటాస్ ), మెత్తటి-తొడుగు గల ఆటర్ (లుత్రోగల్ పెర్స్పిసిల్లాట ), పురాతన చిన్న-పంజా గల ఆటర్ (యోనిక్స్ సినేరేయ ), మరియు గ్రేట్ ఇండియన్ సివిట్ (పునుగు పిల్లి) (వివెర్ర జిబెత") ఉన్నాయి. ఈ పర్యావరణ ప్రాంతం చిరుత పులి(పాన్థేరా పర్డాస్ ) తో పాటు అడవి పిల్లి (ఫెలిస్ ఖవాస్ ), చేపలను వేటాడే పిల్లి (ప్రియోనైలురుస్ వివేర్రినుస్ ), మరియు చిరుత పిల్లి (ప్రియోనైలురుస్ బెంగాలెన్సిస్ ) వంటి ఇతర చిన్న వేటాడే జంతువులను కలిగిఉంది.[11]
ఆసియాలో అత్యధిక సాంద్రత కలిగిన మానవ జనాభాకు ఆసరా కల్పించడానికి పెద్ద ఎత్తున నరికివేయబడటం వలన ఈ పర్యావరణ ప్రాంతం దాదాపు అంతరించిపోతోంది. వందల సంవత్సరాలుగా ప్రపంచంలోని అత్యధిక సాంద్రత కలిగిన మానవ జనాభా యొక్క ఆవాసాలు మరియు దోపిడీ ఈ పర్యవారణ ప్రాంత ఆవాసానికి మరియు జీవ వైవిధ్యానికీ భారీ నష్టాన్ని చేకూర్చాయి. ఇక్కడ రెండు రక్షిత ప్రాంతాలు ఉన్నాయి— నరేంద్రపూర్ (110 కిమీ2) మరియు అట డంగ బోర్ (20 కిమీ2) రెండూ కలిపి పర్యావరణ ప్రాంతం యొక్క విస్తీర్ణంలో కేవలం 130 కిమీ2 మాత్రమే. ఈ పర్యావరణ ప్రాంతంలో ఆవాస నష్టం ఎక్కువగా ఉంది, మరియు మిగిలిన ఆవాస ప్రాంత విభజన వలన ఈ పర్యావరణ ప్రాంతం యొక్క సహజ సంపద మేళనాన్ని కనుగొనడం కష్టమవుతోంది. చాంపియన్ మరియు సేథ్ (1968) ప్రకారం, ఈ మంచి నీటి చిత్తడి అడవులు స్వాభావికంగా హేరిటిఎర మైనర్ , జైలోకార్పస్ మోల్లుకేన్సిస్ , బ్రుగుయీరా కాంజుగాట ", సొన్నెరటియా అపెటల , అవిసెంనియా ఆఫిషియనాలిస్ , మరియు సొన్నెరటియా కాసియోలారిస్ , పండనస్ టెక్టోరియాస్ తో, హైబిస్కస్ తిలియాసియస్", మరియు ఒడ్డు యొక్క అంచుల వెంట నిపా ఫ్రుటికాన్స్ కలిగి ఉన్నాయి.[11]
సుందర్బన్ మడ అడవులు జంతువులు
20,400 చదరపు కిలోమీటర్లు (7,900 చదరపు మైళ్ళ) విస్తీర్ణంతో సుందర్బన్స్ మడ అడవుల పర్యావరణ ప్రాంతం ప్రంపంచంలోని అతి పెద్ద పర్యావరణ వ్యవస్థ. గంగా, బ్రహ్మపుత్ర మరియు మేఘన నదుల సంగమం వలన ఏర్పడిన విశాలమైన డెల్టాలో ఉన్న ఈ అడవి దక్షిణ బంగ్లాదేశ్ మరియు భారతదేశంలోని పశ్చిమ బెంగాల్ రాష్ట్రాలలో విస్తరించి, అధికంగా కనిపించే హేరిటిఏరా ఫోమేస్, స్థానికంగా సుందరిగా పిలువబడే మడ జాతి పేరుతొ పిలువబడుతోంది. ఇది భారత-పసిఫిక్ ప్రాంతం యొక్క అతి పెద్ద వేట జంతువు అయిన బెంగాల్ పులికి ఆశ్రయమిచ్చే ఏకైక మడ అడవుల పర్యావరణ ప్రాంతం. ఇతర ఆవాస ప్రాంతాలలో వలె కాక, ఇక్కడి పులులు మడ అడవుల ద్వీపాలలో నివసించి వాటి మధ్య ఈదుతాయి, ఇక్కడ ఇవి అరుదుగా కనిపించే చిరుత లేడి (సెర్వాస్ ఆక్సిస్ ), మొరిగే లేడి (మున్టియకుస్ ముంట్ జాక్ ), అడవి పంది (సస్ స్క్రోఫా"' ), చివరికి మకాకీస్ (మకాకా ములట్టü ) వంటి ఆహారాన్ని వేటాడతాయి. మడ అడవులు సముద్రజలం నుండి మంచి నీటికి మరియు భౌమ వ్యవస్థలకు మారుతున్నాయి. ఇవి అనేక జాతుల చేపలు మరియు క్రస్టేషియన్లకు అవి నివసించడానికి, పునరుత్పత్తికి మరియు వాటి బాల్య దశను వాయురహిత బురద నుండి మొక్కలకు ఆక్సిజన్ అందించడానికి పైకి ఎదిగే న్యుమటోఫోర్లుగా పిలువబడే చిక్కుపడి ఉన్న వేర్ల సమూహం మధ్య గడపడానికి కీలకమైన ఆవాసాన్ని కల్పిస్తాయి.[12]
జంతువులు
అనేక ఇతర భౌమ పర్యావరణ వ్యవస్థలతో పోల్చినపుడు మడ అడవులు విభిన్నమైనవి కావు. ఈ భంగ పరచబడని అడవులు అవక్షేపం లేని, చిక్కని ఛత్రం మరియు ఛత్రం వలె ఏర్పడిన మొక్కల యొక్క నారు మరియు లేత మొక్కలతో నిండి ఉంటాయి. సుందర్బన్స్ లో, మడ అడవుల స్వాభావిక వృక్షమైన సుందరి జాతి యొక్క కలప విలువైనది. అరణ్యంలో ఉండే ఇతర జాతులలో అవిసెన్నియ , జైలోకార్పస్ మెకోన్జెన్సిస్ , జైలోకార్పస్ గ్రానటం , సొన్నెరాటియా అపెటల , బ్రుగువేర గిమ్నోరిజ , సెరెప్స్ డికాండ్ర , ఏజిసురాస్ కొర్నిక్యులటం" , రిజోఫోర ముక్రోనాట , మరియు నైప ఫ్రుటికాన్స్ తాడిచెట్లు ఉన్నాయి. ఈ చిక్కు ప్రవాహాల మధ్య అనేక రకాల వేటాడే జంతువులు నివసిస్తున్నాయి. రెండు రకాల మొసళ్ళు — క్రోకోడైలస్ పోరోసాస్ మరియు క్రోకోడైలస్ పలాస్ట్రిస్ — ఇక్కడ నివసిస్తాయి, వీటితో పాటు గంగా ప్రాంత గవియల్ (గవియాలిస్ గాన్జేటికస్ ), మరియు నీటిలో చూడగలిగే తొండలు (వరనాస్ సాల్వేటార్ ) వేటాడడానికి మరియు చలి కాచుకొనడానికి నీటిని మరియు భూమిని కూడా ఉపయోగిస్తాయి. సొరచేపలు మరియు గంగా ప్రాంత మంచి నీటి డాల్ఫిన్లు (ప్లటనిస్తా గాంజెటిక ) నీటి మార్గాలలో నివసిస్తాయి. మరియు అనేక ఇతర రకాల పక్షులు వేట కొరకు ఆకాశంలో కావలి కాస్తుంటాయి. రహస్యంగా సంచరించేవే కాక అంతే ఆకర్షణీయమైన బురదదాటే గోబియాయిడ్ చేపలు నీళ్ళ నుండి బురద మైదానాల పైకి వచ్చి చెట్లను కూడా ఎక్కగలుగుతాయి. ఎండ్రకాయలు, సాధు ఎండ్రకాయలు, మరియు రొయ్య వేర్ల మధ్య శుభ్ర పరుస్తూ ఉంటాయి.[12]
జనసఖ్యాభివృద్ధి
బంగ్లాదేశ్ ప్రపంచంలోనే మానవ జనాభా సాంద్రతను అత్యధికంగా కలిగి ఉండటం వలన, జనాభా వత్తిడి వలన ఈ పర్యావరణ ప్రాంత మడ అడవుల యొక్క సగభాగం వంట చెరకు కొరకు నరికి వేయబడి ఇతర సహజ వనరులు ఈ అధిక జనాభాచే సంగ్రహించబడ్డాయి. తీవ్రమైన మరియు భారీ-స్థాయి దోపిడీకి గురైనప్పటికీ, ఈ పర్యావరణ ప్రాంతం ఇప్పటికీ ప్రపంచంలో మడ అడవులను తాకి ఉండే ప్రదేశాల అత్యధిక విస్తీర్ణతను కలిగిఉంది. ఇక్కడ ఏడు రక్షిత ప్రాంతాలు ఉన్నాయి— సజ్నఖలి(2,090 కిమీ2), తూర్పు సుందర్బన్స్ (210 కిమీ2), చార్ కుక్రి-ముక్రి (30 కిమీ2), దక్షిణ సుందర్బన్స్ (200 కిమీ2), పశ్చిమ సుందర్బన్స్ (130 కిమీ2), హల్లిడే ద్వీపం (4 కిమీ2), లోథియన్ ద్వీపం (20 కిమీ2) — ఇవన్నీ కలిపి 2,700 కిమీ2, లేదా పర్యావరణ ప్రాంతంలో 15 శాతాన్ని కలిగి ఉన్నాయి. వీటిలో సజ్నఖలి మాత్రమే-స్థల విస్తీర్ణంపై ఆధారపడిన పులి వంటి జాతులకు సరిపోయేంత స్థలాన్ని కలిగి ఉంది.[12]
శీతోష్ణస్థితి
తీర ప్రాంతం వెంట అభివృద్ధి ప్రక్రియలు అనేక కారకాల వలన ప్రభావితమవుతున్నాయి, వీటిలో అలల కదలికలు, సూక్ష్మ మరియు స్థూల -పాటు పోటుల చక్రాలు మరియు తీర ప్రాంతానికి ప్రత్యేకమైన పొడవైన తీర ప్రవాహాలు ఉన్నాయి. ఈ తీర ప్రవాహాలు ఋతుపవనాలను అనుసరించి గొప్ప మార్పులకు లోనవుతాయి. ఇవి తుఫానుల ప్రభావానికి కూడా లోనవుతాయి. ఈ కారకాల వలన కలిగే క్రమక్షయం మరియు సహజవృద్ధి వలన నైసర్గిక మార్పు వివిధ స్థాయిలలో ఉన్నప్పటికీ, ఇంకా పూర్తిగా గణించబడలేదు అయితే మడ అరణ్యాలు వాటంతట అవే పూర్తి వ్యవస్థకు విశేషమైన స్థిరత్వాన్ని చేకూరుస్తున్నాయి. ప్రతి ఋతుపవన కాలంలోను బెంగాల్ డెల్టా దాదాపుగా మునిగిపోతుంది, ఎక్కువ భాగం సగం సంవత్సరం మునిగి ఉంటుంది. నిమ్న డెల్టా మైదానం యొక్క మృత్తిక ప్రాధమికంగా తీర వ్యవస్థ ఋతుపవనాల వలన మరియు తుఫాను సంఘటనల వలన భూభాగం పైకి వస్తుంది. రాబోయే సంవత్సరాలలో గంగా డెల్టా ప్రజలు ఎదుర్కొనబోయే ఇబ్బందులలో పాక్షికంగా శీతోష్ణస్థితి మార్పు వలన సముద్ర మట్టాలు పెరిగి ఈ ప్రాంతం తరిగిపోవడం ఒకటి.
చాలావరకు భారతదేశ మడ చిత్తడి భూములలో, 19వ శతాబ్దం చివరి నుండి ఎగువ ప్రవాహ ప్రాంతాలలో మంచినీటిని మళ్ళించడం వలన మడ అడవులకు చేరే మంచి నీరు చెప్పుకోదగినంతగా తగ్గిపోయింది. దీనితో పాటు, బెంగాల్ హరివాణం నూతన-విరూపకారక కదలికల వలన నిదానంగా తూర్పుకు వంగుతోంది, అందువలన ఎక్కువ భాగం మంచి నీరు బంగ్లాదేశ్ సుందర్బన్స్ కు తోసివేయబడుతుంది. దీని ఫలితంగా, బంగ్లాదేశ్ సుందర్బన్స్ యొక్క లవణీయత భారతదేశ సుందర్బన్స్ యొక్క లవణీయత కంటే ఎంతో తక్కువగా ఉంటుంది. 1990 నాటి ఒక అధ్యయనం "హిమాలయాలలో పర్యావరణ హీనత లేదా 'హరితవాయు' ప్రేరణ వలన పెరిగిన సముద్ర మట్టాలు బంగ్లాదేశ్ లో వరదలను పెంచుతున్నాయని అనడానికి ఆధారం లేదు" అని తెలియ చేసింది; అయితే,2007 నాటి యునెస్కో నివేదిక, "కేస్ స్టడీస్ ఆన్ క్లైమేట్ చేంజ్ అండ్ వరల్డ్ హెరిటేజ్" ఒక మానవ కారకాల వలన సముద్ర మట్టంలో 45-సెంమీ పెరుగుదల (ఇంటర్ గవర్నమెంటల్ పేనల్ ఆన్ క్లైమేట్ చేంజ్ ప్రకారం 21వ శతాబ్దం చివరికి జరుగవచ్చు), సుందర్బన్స్ పై ఇతర మానవ కారక ప్రభావాలతో కలిపి, సుందర్బన్స్ మడ అడవులలో 75% నాశనానికి దారితీస్తుంది.[13]
వృక్షశాస్త్రం
సుందర్బన్స్ లో స్వాభావికంగా విస్తృతంగా దొరికే పుష్పాలలో హేరిటిఎర ఫామ్స్ , ఎక్సోఎకారియా అగల్లోచ , సెరియోప్స్ డికాంద్ర మరియు సొన్నెరేటియ అపెటల ఉన్నాయి. 1903లో డేవిడ్ ప్రైన్ చే 245 సాధారణ మరియు 334 వృక్ష జాతులు నమోదు చేయబడ్డాయి.[14] ప్రైన్ నివేదిక తరువాత అనేక మడ జాతుల స్థాయిలలో మరియు మడ పుష్పాల వర్గీకరణలో గమనించదగిన మార్పులు వచ్చాయి.[15] అయితే, ఈ మార్పులకు అనుగుణంగా కొనసాగడానికి సుందర్బన్స్ వృక్ష స్వభావం గురించి చాలా కొద్ది అన్వేషణలు మాత్రమే జరుపబడ్డాయి. ప్రపంచంలోని ఇతర ప్రాంతాలలోని మడ అరణ్యాలు రిజోఫోర్సే, అవిసెంనేసే లేదా లగన్కులరిసే రకాలచే నిండి ఉంటాయి, బంగ్లేదేశ్ మడ అరణ్యాలలో స్టేర్కులిఎసే మరియు యుఫోర్బిఎసే అధికంగా ఉన్నాయి.[7]
సుందర్బన్స్ యొక్క బంగ్లాదేశ్ ఇతర డెల్టా-ప్రాతం కాని తీర మడ అడవులకు మరియు మెట్ట అరణ్య సముదాయాలకు చాలా విభిన్నంగా ఉంటుంది. మొదటిదాని వలె కాక, రిజోఫోర్సియె తక్కువ ప్రాముఖ్యతను కలిగిఉన్నాయి. ఈశాన్య ప్రాంతంలో వృక్షసంపదలో తేడాలకు కారణాలు మంచినీరు మరియు తక్కువ లవణీయత మరియు పారుదల మరియు ఒండ్రుమేటలో తేడాలుగా వివరించబడుతున్నాయి. సుందర్బన్స్ పట్టు యొక్క తేమ అయన ప్రాంత అడవులుగా వర్గీకరించబడినాయి, ప్రాధమికంగా ఇవి కొంత పరిణితి చెందిన తీర అడవుల నూతన కలయికతో, తరచూ కెయిరా (సొన్నెరటియ అపెటల ) మరియు వేలారణ్యాల స్పష్టమైన ఆధిక్యతను కలిగిఉంటాయి. చారిత్రకంగా మూడు ముఖ్యమైన వృక్షసంపద రకాలు వైవిధ్యమైన జల లవణీయత, మంచినీటి ఒరవడి మరియు భూ స్వరూపంతో సంబంధం కలిగి వన్యమృగ అభయారణ్యములలో కనబడతాయి:
సుందరి మరియు గేవ ఈ ప్రాంతంలో దుండుల్ (జైలోకార్పాస్ గ్రనటం ) మరియు కాంక్ర యొక్క అస్థిర పంపిణీతో ప్రముఖంగా ఉంటాయి. తృణ భూములు మరియు తాడి చెట్లతో పాటు, పోరేసియ కయరాక్టాటా , మైరియోస్టాచ్య వైటియానా , ఇమ్పరేట సిలిండ్రిక , ఫ్రాగ్మైట్స్ కార్క , నైప ఫ్రూటికన్స్ కూడా వ్యాపించి ఉన్నాయి. కేయోర కొత్తగా ఏర్పడిన బురద గట్లపై ఏర్పడిన జాతికి సూచనగా ఉంది మరియు ముఖ్య వన్యమృగ జాతి మచ్చల లేడి (ఆక్సిస్ ఆక్సిస్ ). అరణ్యంతో పాటు, విస్తృతమైన ఉప్పునీటి మరియు మంచినీటి ప్రాంతాలు మరియు మడ అడవులు, అంతర్వేలా బురద మైదానాలు, ఇసుక మైదానాలు, ఇసుక దిబ్బలు దిబ్బలపై పెరిగే మొక్కలు మరియు విశాల పచ్చిక బయళ్ళు ఇసుక నేలలపై మరియు ఉన్నత ప్రాంతాలపై పెరిగి అనేక భూ ఉపరితల పొదలు మరియు వృక్షాలను కలిగిఉంటాయి.
అనేక వృక్షజాతులచే ఒక ప్రాంతం క్రమంగా ఆక్రమించబడటం పరంపరగా ఉంటుంది.[16] వృద్ధి చెందే బురద మైదానాలలో వెలుపల ఉండే జాతి, శ్రేణిలో ఆరంభ జాతిగా ఉండి క్రమంగా తరువాత జాతిచే ఆక్రమింపబడి వరుస స్థాయిలను సూచించి ఇంకా చివరికి ప్రదేశ శీతోష్ణ స్థితికి అంతిమజాతి వస్తుంది.[17] ట్రూప్, క్రమక్షయ మృత్తికల వలన నూతనంగా సృష్టించబడిన నేలపై ఆక్రమణ ప్రారంభమవుతుందని సూచించారు.[18]
కొత్తగా వృద్ధి చెందిన ప్రాంతంలో ముఖ్యమైన వృక్షసంపద సొన్నెరేటియ , దాని తరువాత అవిసెన్నియ మరియు నైప ఉంటాయి. మృత్తికలు చేరడం వలన నేల ఎత్తు పెరగడం ఫలితంగా ఇతర వృక్షాలు కూడా పెరుగుతాయి. చివరిగా వచ్చేది అయినప్పటికీ అన్నిటికంటే ముఖమైనది, ఎక్సోఎకారియా . వృద్ధి వలన భూమట్టం పెరిగి అలల తాకిడికి మునిగి పోవడం తగ్గడంతో, హేరిటిఏరాఫామ్స్ రావడం మొదలవుతుంది.
జంతుశాస్త్రము
సుందర్బన్స్ ఒక ప్రత్యేక పర్యావరణ వ్యవస్థను కలిగి ఘనమైన వన్యమృగ ఆవాసాన్ని కల్పిస్తుంది. సుందర్బన్స్ 2004 నాటికి సుమారు 500 బెంగాల్ పులులను[3] కలిగి, పులుల అతిపెద్ద ఆవాసంగా ఉంది. సుందర్బన్స్ లో పులుల దాడులు సర్వ సాధారణం. సంవర్సారానికి 100 నుండి 250 మంది దీనివలన మరణిస్తున్నారు. అయితే, అనేక రక్షణచర్యలు చేపట్టడం వలన 2004 నుండి సుందర్బన్స్ యొక్క భారతదేశ భాగంలో ఏ విధమైన మరణాలు నమోదుకాలేదు.
ఇటీవలి అధ్యయనాలు బంగ్లాదేశ్ సుందర్బన్స్ వాణిజ్యపరంగా ముఖ్యమైన 120 చేపల యొక్క జాతుల, 270 పక్షుల జాతులు, 42 క్షీరద జాతులు, మరియు 35 సరీసృపాలు మరియు ఎనిమిది ఉభయచర జాతులతో వైవిధ్యమైన జీవ సంబంధ వనరులను కలిగి ఉన్నదని వెల్లడించాయి. ఇది బంగ్లాదేశ్ లో లభ్యమయ్యే జాతుల యొక్క విలువైన నిష్పత్తిని ప్రతిబింబిస్తుంది (అనగా సరీసృపాలలో 30%, పక్షులలో 37% మరియు క్షీరదాలలో 34%) మరియు దేశంలోని ఇతర ప్రాంతాలలో ప్రస్తుతం అంతరించిపోయిన జాతులను అధిక సంఖ్యలో కలిగిఉంది.[19] రెండు ఉభయచరాలు, 14 సరీసృపాలు, 25 అరుదైన పక్షులు మరియు ఐదు క్షీరదాలు ప్రస్తుతం అపాయంలో ఉన్నాయి.[20] సుందర్బన్స్ వలస నీటి పక్షులకు ముఖ్యమైన శీతాకాల స్థావరంగా ఉంది[21] మరియు ఈ ప్రాంతం వాయు జీవజాల అధ్యయనానికి మరియు దర్శించడానికి అనువుగా ఉంటుంది.[22]
రాయల్ బెంగాల్ పులి తో పాటు; చేపలను వేటాడే పిల్లులు, మకాకీలు, అడవి ఎలుగు, సాధారణ బూడిద రంగు ముంగిస, నక్క, అడవి పిల్లి, దూకే నక్క, పంగోలిన్, మచ్చల జింకలు, కూడా సుందర్బన్స్ లో విస్తారంగా లభ్యమవుతాయి. నదీ తాబేలు (బటగుర్ బస్క ), భారతదేశ దళ-పెంకు తాబేలు (లిస్సేమిస్ పంక్టాట ), మెత్తటి నెమలి-పెంకు తాబేలు ట్రియోనిక్స్ హురుం ), పచ్చ బల్లి (వరనాస్ ఫ్లవెసేన్స్ ), నీటి బల్లి (వరనాస్ సాల్వేటర్ ), భారతదేశ కొండచిలువ (పైథాన్ మొలురస్ ) మరియు బెంగాల్ పులి (పాన్థేర టైగ్రిస్ టైగ్రిస్ ) వంటివి కొన్ని నివాసజాతులు.
ప్రస్తుతం వన్యమృగ నిర్వహణ, జీవజాల వేటను నిరోధించడం మరియు కొన్ని ప్రాంతాలను అభయారణ్యములుగా అటవీ ఉత్పత్తులు సేకరించకుండా నిరోధించి, వన్యమృగాలకు తక్కువ ఇబ్బంది కలిగేటట్లు చేయడానికి నియంత్రించబడింది. బంగ్లాదేశ్ జీవజాలం ఇటీవలి కాలంలో తరుగుదలకు గురై[7] సుందర్బన్స్ కూడా ఈ తరుగుదల నుండి రక్షింపబడనప్పటికీ, ఈ మడ అడవులు ఇప్పటికీ అనేక మంచి వన్యమృగ ఆవాసాలను మరియు వాటికి సహవాస జీవజాలాన్ని కలిగిఉన్నాయి. వీటిలో, వన్యమృగ నిర్వహణ ప్రణాళిక మరియు పర్యాటక అభివృద్ధికి పులి మరియు డాల్ఫిన్ జాతులు కేంద్రంగా ఉన్నాయి. ఉన్నత లక్షణాలు మరియు హాని కలిగించే క్షీరదాలు రెండు విభిన్న పర్యావరణాలలో ఉన్నాయి మరియు వాటి స్థాయిలు ఇంకా నిర్వహణ వన్యమృగ సాధారణ స్థితి మరియు నిర్వహణలకు సూచికగా ఉంటాయి. వీటిలో కొన్ని జాతులు చట్టం ద్వారా రక్షింపబడ్డాయి, వీటిలో ప్రసిద్ధమైనది బంగ్లాదేశ్ వన్యమృగ (రక్షిత) శాసనం, 1973 (P.O. 23 అఫ్ 1973).
పక్షులు
ఈ ప్రాంతంలోని కొన్ని ముఖ్యమైన పక్షులలో ముక్కు తెరచి ఉండేకొంగలు, తెల్ల కంకణాలు, నీటి కోళ్ళు, బోడి కోళ్ళు, నెమలి, మాల గద్దలు, బ్రాహ్మినీ గద్ద, చిత్తడినేల వేటకుక్క, చిత్తడినేల కౌజులు, ఎర్రని అడవి కోళ్ళు, మచ్చల పావురాలు, సాధారణ గోరింకలు, అడవి కాకులు, అడవి పిచ్చుక, నూలు అడవి బాతులు, సముద్రపు కాకులు, కాస్పియన్ రీవపిట్టలు, బూడిద రంగు నారాయణ పక్షులు, బ్రాహ్మినీ బాతులు, మచ్చల గూడు కొంగలు, పెద్ద తెల్ల కొంగలు, నైట్ హీరోన్స్, సాధారణ ఉల్లాము పిట్టలు, అడవి ఏటి గట్టు పిట్ట, ఆకు పచ్చని పావురం, గులాబీ రంగు చుట్లు గల పరకీత్ లు, పారడైస్ వేట పక్షి, చెరువు కాకి, చేపలను పట్టే రాబందు, తెల్ల-పొట్ట గల సముద్రపు రాబందు, నీటి కాకి, సాధారణ లకుముకి పిట్ట, సంచరించే డేగ, వడ్రంగి పిట్ట, వింప్రెల్, నల్ల-తోక నేల నెమలి, చిన్న స్టింట్, తూర్పు నాట్, కర్లీస్, బంగారు ప్లోవర్, పిన్ టైల్ , తెల్ల కళ్ళ పోచార్డ్, మరియు ఈలవేసే టీల్ బాతు ఉన్నాయి.
జల చరాలు
ఇక్కడ కనిపించే కొన్ని చేపలు మరియు జల చరాలలో, రంపపు చేప, వెన్న చేప, ఎలెక్ట్రిక్ రే, వెండి గండు చేప, నక్షత్ర చేప, సాధారణ గండు చేప, పెద్ద ఎండ్ర కాయలు, రొయ్య, పీత, గంగా ప్రాంత డాల్ఫిన్ , ఎగిరే కప్ప, సాధారణ బోదురు కప్ప మరియు చెట్ల కప్ప ఉన్నాయి.
సరీసృపాలు
సుందర్బన్స్ నేషనల్ పార్క్ లో అత్యధిక సంఖ్యలో సరీసృపాలు కూడా ఉన్నాయి. సాధారణంగా కనిపించే వాటిలో ఆలివ్ రిడ్లే తాబేలు, సముద్రపు పాములు, డాగ్ ఫేస్డ్ నీటి పాము, ఆకుపచ్చ తాబేలు, కయ్యలలో ఉండే మొసలి, ఊసరవెల్లి, త్రాచు పాము, సాల్వేటర్ బల్లి, ద్రుఢమైన పెంకుగల బట్గున్ టెర్రపిన్స్, కట్ల పాము, ఎలుక ఘెకొస్, మోనిటర్ బల్లి, కర్విఎర్, హాక్స్ బిల్ తాబేలు,కొండ చిలువ, సాధారణ తుట్టెపురుగులు, చెకర్డ్ కిల్ బాక్స్ మరియు ఎలుక పాము ఉన్నాయి.
అంతరించిపోతున్న జాతులు
సుందర్బన్స్ లో అపాయంలో ఉన్న జాతులలో రాయల్ బెంగాల్ పులి, కయ్యలలో నివసించే మొసలి, రివర్ టెర్రపిన్ (బటగుర్ బస్క), ఆలివ్ రిడ్లే తాబేలు, గంగాప్రాంత డాల్ఫిన్, ఉపరితల తాబేళ్లు, హాక్స్ బిల్ తాబేలు మరియు కింగ్ క్రాబ్స్ (ఎండ్రకాయలు) (గుర్రపు డెక్క) ఉన్నాయి.
పంది లేడి( ఆక్సిస్ పోర్సినస్ ), నీటి గేదె (బుబలాస్ బుబలిస్ ), చిత్తడి లేడి (సెర్వుస్ డువుసెలి ), యువ ఖడ్గమృగం (రైనోసారస్ సొండైకస్ ), ఒంటికొమ్ము ఖడ్గమృగం (రైనోసారస్ యూనికార్నిస్ ) మరియు మగ్గర్ మొసలి(క్రోకోడైలస్ పాలుస్ట్రిస్ ) వంటి కొన్ని జాతులు గత శతాబ్ద ప్రారంభం నుండి అంతరించి పోయాయి.[20]
ఆర్థిక వ్యవస్థ
సుందర్బన్స్ 4 మిలియన్ల జనాభా కలిగి ఉంది[23] కానీ దీనిలో చాలా వరకు శాశ్వత మానవ నివాసాలు లేవు.
బంగ్లాదేశ్ నైరుతి ప్రాంత ఆర్ధిక వ్యవస్థతో పాటు ఆ దేశ ఆర్ధిక వ్యవస్థలో సుందర్బన్స్ ప్రముఖ పాత్ర పోషిస్తున్నాయి. ఇది ఆ దేశం యొక్క అటవీ ఉత్పత్తికి అతిపెద్ద ఏకైక ఆర్ధికవనరుగా భావిస్తున్నారు. కలప ఆధారిత పరిశ్రమలకు ముడి పదార్ధాలను ఈ అడవి అందిస్తోంది. సాంప్రదాయ అటవీ ఉత్పత్తులైన కలప, వంట చెరకు, కర్రగుజ్జు మొదలైన వాటితో పాటు, పెద్ద మొత్తంలో కలప కాక ఇతర పదార్ధాలైన పైకప్పు సామాగ్రి, తేనె, కందిరీగ-మైనం, చేపలు, క్రస్టేషియ మరియు మోలుస్క్ ల వంటి అటవీ ఉత్పత్తులు పెద్ద మొత్తంలో సాగవుతాయి. సుందర్బన్స్ యొక్క వేలా సాగు భూములు అవసరమైన నివాస ప్రాంతాలు, ఆహార ఉత్పత్తి, నీటి శుద్ధి, ఆహార మరియు అవక్షేపాలను చిక్కించుకోవడానికి, తుఫాను అడ్డగించడానికి, ఒడ్డును స్థిరపరచడానికి, శక్తి భద్రపరచు స్థానాలుగా మరియు రస సౌందర్య ఆకర్షణ వంటి వివిధ ప్రక్రియలకు ఉపయోగపడుతున్నాయి.
ఈ అడవి అపారమైన భద్రత మరియు ఉత్పత్తి కార్యములను కూడా కలిగి ఉంది. బంగ్లాదేశ్ యొక్క మొత్తం అభయారణ్య ఆస్తిలో 51% ఆక్రమించి ఇది మొత్తం అటవీ ఆదాయంలో సుమారు 41% అందచేస్తుంది మరియు దేశం మొత్తం లోని కలప మరియు వంట చెరకు అవసరాలలో సుమారు 45% ఇక్కడినుండే లభిస్తుంది.(ఎఫ్.ఎ.ఒ. 1995). అనేక పరిశ్రమలు (ఉదా. కాగితపు మిల్లులు, అగ్గిపెట్టెల పరిశ్రమ, గట్టి చెక్క, పడవల నిర్మాణం, వస్తువుల తయారీ) సుందర్బన్స్ పర్యావరణ వ్యవస్థ నుండి లభించే ముడి పదార్ధాలపై ఆధారపడి ఉన్నాయి. అనేక కలప కాని అటవీ ఉత్పత్తులు మరియు చెట్ల పెంపకాలు సుమారు సగం మిలియన్ మంది తీర ప్రాంత పేద ప్రజలకు ఆదాయ మరియు ఉద్యోగ అవకాశాల కల్పనకు సహాయ పడుతున్నాయి. అటవీ ఉత్పత్తుల ప్రక్రియతో పాటు, తుఫానులకు గురయ్యే బంగ్లాదేశ్ తీర జనాభా ప్రాణ మరియు ఆస్తికి సహజ రక్షణను కూడా ఇది కల్పిస్తుంది.
1985లో యునైటెడ్ కింగ్డం యొక్క ఓవర్సీస్ డెవలప్మెంట్ అడ్మినిస్ట్రేషన్ (ఒ.డి.ఎ.) ప్రకారం మానవ నివాసాలు మరియు అడవి యొక్క ఆర్ధిక పరమైన దోపిడీ ఉన్నప్పటికీ సుందర్బన్స్ 70% అటవీ ప్రాంతాన్ని నిలుపుకోగలిగింది.
రెండు ముఖ్యమైన మడ జాతులైన — సుందరి (హెరిటిఎర ఫోమేస్ ) మరియు గెవా (ఎక్సోఎకారియా అగల్లోచ ) —ల స్థిర పరిమాణం 1959 మరియు 1983 మధ్య ప్రాంతంలో వరుసగా 40% మరియు 45% (ఫారెస్టాల్ 1960 మరియు ఒ.డి.ఎ. 1985) తగ్గాయని అటవీ జాబితాలు తెలియచేస్తున్నాయి. చేపలు మరియు కొన్ని అకశేరుకాలు తప్ప ఇతర రకాల వన్య ప్రాణులను చంపడం లేదా బంధించడం నిషేధించినప్పటికీ, జీవావరణ తరుగుదల నమూనా లేదా కొన్ని జాతుల నష్టాన్ని గమనించవచ్చు (ప్రత్యేకించి ఈ శతాబ్దంలో ఆరు క్షీరదాలు మరియు ఒక సరీసృపము), మరియు "సహజ మడ అడవుల పర్యావరణ వ్యవస్థ స్వభావం అంతరిస్తోంది" (ఐ.యు.సి.ఎన్. 1994).
బంగ్లాదేశ్ లోని అభయారణ్యాలు
సుందర్బన్స్ యొక్క బంగ్లాదేశ్ భాగం సుమారు 4,110చదరపు కిమీలు ఉంటుందని అంచనా వేయబడింది, దీనిలో సుమారు 1,700చదరపు కిమీల భాగం కొన్ని మీటర్ల నుండి కొన్ని కిలోమీటర్ల వరకు విభిన్న వెడల్పు కలిగిన జల వనరులైన నదులు, కాలువలు మరియు కయ్యలచే ఆక్రమించబడి ఉంది. ఈ జలమార్గాల అంతర్గత శృంఖల అడవిలోని దాదాపు అన్ని మూలలకు పడవ ద్వారా చేరే అవకాశాన్ని కలిగిస్తోంది. ఈ అడవి రెండు అటవీ విభాగాలలో విస్తరించి ఉంది, మరియు నాలుగు పరిపాలన శ్రేణులు చాంద్పై, సరన్ఖోల, ఖుల్న, మరియు బురిగోలిని, సత్ఖిర మరియు పదహారు అటవీ స్థావరాలను కలిగిఉంది. ఇది యాభై-ఐదు భాగాలు మరియు తొమ్మిది సముదాయాలుగా మరింతగా విభజింపబడింది.[1]
1993లో అటవీ సంరక్షణకు నూతనంగా ఖుల్న ఫారెస్ట్ సర్కిల్ ప్రారంభించి కన్జర్వేటర్ అఫ్ ఫారెస్ట్స్ ను నియమించారు. ఈ విభాగ ముఖ్య అధికారి డివిజనల్ ఫారెస్ట్ ఆఫీసర్ కూడా ఖుల్న కేంద్రంగా పని చేస్తారు. డివిజనల్ ఫారెస్ట్ ఆఫీసర్ అవసరమైన నిర్వహణ మరియు పరిపాలనా కార్యక్రమాల అమలు కొరకు అనేక వృత్తిపరమైన, ఉప వృత్తిపరమైన మరియు సహకార సిబ్బంది మరియు విధాన నిర్వహణ సిబ్బందిని కలిగి ఉంటారు. నిర్వహణ యొక్క ఆధార యూనిట్ ను కంపార్ట్మెంట్ గా పిలుస్తారు. నాలుగు ఫారెస్ట్ రేంజ్ లలో 55 కంపార్ట్మెంట్లు ఉన్నాయి మరియు నదులు, కాలువలు మరియు కయ్యల వంటి సహజ ఆకృతుల ద్వారా స్పష్టంగా విభజించబడి ఉంటాయి.
1977లో బంగ్లాదేశ్ వైల్డ్ లైఫ్ (ప్రిజర్వేషన్) ఆర్డర్, 1973 (P.O. 23 అఫ్ 1973) ప్రకారం మూడు అభయారణ్యాలు స్థాపించబడ్డాయి. ఇవి:
సుందర్బన్స్ ఈస్ట్ వైల్డ్ లైఫ్ సాన్క్చ్యుయరీ: 31,227 ha ప్రదేశంలో విస్తరించి ఉంది. మంచి నీరు మరియు సుందరి (హేరిటిఏరా ఫోమేస్ ) అధికంగా ఉంది మధ్యలో గేవ (ఎక్సోఎకారియా అగల్లోచ ) మరియు పస్సుర్ (జైలోకార్పస్ మేకోన్ జెన్సిస్ ) తో పాటు కంక్ర (బ్రుగుఎర జిమ్నోరిజా ) అధికంగా వరదలు సంభవించే ప్రాంతాలలో ఉంటాయి. పొడినేలలు ఉన్న ప్రాంతాలలో షింగ్ర (సినోమేట్ర రామిఫ్లోర ), తడి నేలలు ఉన్న ప్రాంతాలలో అముర్ (అమూర కుకుల్లట ) మరియు అధికంగా ఉప్పు ఉన్న ప్రాంతాలలో గోరన్ (సెరియోప్స్ డికాండ్ర ) లభిస్తాయి. నీటి పారుదల ఉన్న ప్రాంతాల వెంట నైప పామ్ (నైప ఫ్రుటికాన్స్ ) విస్తృతంగా లభిస్తాయి.
సుందర్బన్స్ సౌత్ వైల్డ్ లైఫ్ సాన్క్చ్యుయరీ: 36,970 హెక్టార్ల పైన విస్తరించిన ప్రాంతంలో ఉంది. లవణీయత స్థాయిలలో ఋతువులకు అనుగుణంగా గొప్ప మార్పులు గోచరిస్తాయి మరియు గేవ ముఖ్య వృక్ష జాతిగా ఉన్న ప్రాంతాలలో సాపేక్షంగా లవణీయత తగుమాత్రంగా అధిక కాలం కొనసాగే అవకాశం ఎక్కువగా ఉంటుంది. సుందరి సమర్ధవంతంగా పునరుత్పత్తి చేయలేని కృత్రిమంగా తెరువబడిన పొదలు ఉండే పరిస్థితులలో ఇది దానిని తొలగించగలిగి కలిసిఉంటుంది. ఇది తరుచు దట్టమైన గొరాన్ మరియు పస్సుర్ వంటి పొదల క్రింద పెరిగే మొక్కలతో కూడా కలిసిఉంటుంది.
సుందర్బన్స్ పశ్చిమ వన్యమృగ సంరక్షణ కేంద్రం: 71,502 హెక్టార్ల ప్రాంతంలో విస్తరించి ఉంది. అరుదుగా గేవ మరియు దట్టంగా గోరాన్ వరుసలు మరియు అక్కడక్కడా పొడి భూములపై మరియు నది ఒడ్దు, కరకట్టలపై హన్టాల్ తాటి చెట్లు (ఫోనిక్స్ పలుదోస ) ఉంటాయి.
ప్రజాదరణ పొందిన సంస్కృతి
అనేక బెంగాలీ జానపద పాటలలో మరియు నృత్యాలలో సుందర్బన్స్ ప్రముఖంగా ఉన్నాయి, సుందర్బన్స్ కి ప్రత్యేకించబడిన జానపద కథానాయకులు, దేవతలు మరియు దేవుళ్ళ చుట్టూ (బోన్ బీబీ మరియు దక్షిణ రాయ్ వంటివారు) మరియు నిమ్న గంగా డెల్టాకు (మానస మరియు చాంద్ సదగర్ వంటివి) కేంద్రీకరించబడి ఉన్నాయి. బెంగాలి జానపద గ్రంథం మానసమంగళ్లో నేటిధోపని ప్రస్తావించబడింది మరియు కథానాయిక బేహుల తన భర్త లఖిందర్</i>ను పునర్జీవితుణ్ణి చేసేందుకు జరిపిన అన్వేషణలో కొంత భాగం సుందర్బన్స్ కు చెందినది.
ఈ ప్రాంతం ఎమిలియో సల్గారి యొక్క అనేక నవలలకు నేపథ్యంగా నిలిచింది, (ఉదా. ది మిస్టరీ అఫ్ ది బ్లాక్ జంగిల్ ). పద్మ నాదిర్ మాఝి కూడా గౌతమ్ ఘోష్ చే చిత్రంగా తీయబడింది. శిబ్శంకర్ మిత్రా రచించిన సుందర్బనీ అర్జన్ సర్దార్, మరియు మాణిక్ బందోపాధ్యాయ్ రచించిన పద్మ నాదిర్ మాఝి నవల, సుందర్బన్స్ ప్రాంతంలోని గ్రామీణులు మరియు బేస్తవారి జీవితాల కష్టాల గురించి వ్రాయబడి, కొంతవరకు బెంగాలి మనస్తత్వానికి దగ్గరగా అల్లబడ్డాయి. బుకర్ ప్రైజ్ పొందిన సల్మాన్ రష్దీ యొక్క నవల, మిడ్ నైట్స్ చిల్డ్రెన్ '" లోని కొంతభాగంలో సుందర్బన్స్ గురించి వ్రాయబడింది. మానవ శరీర నిర్మాణ శాస్త్రవేత్త అమితావ్ ఘోష్ యొక్క 2004 నాటి బహుమతి పొందిన నవల, ది హంగ్రీ టైడ్ , కూడా సుందర్బన్స్ లోనే రూపుదిద్దుకుంది.
సుందర్బన్స్ అనేక-యదార్ధ గ్రంధాలకు విషయంగా ఉన్నాయి, ది మాన్ -ఈటింగ్ టైగర్స్ అఫ్ సుందర్బన్స్ సి.మోంటేగోమేరిచే యుక్త పాఠకుల కొరకు రచింపబడి, డోరోతి కాన్ ఫిషర్ చిల్డ్రన్స్ బుక్ అవార్డు కొరకు పరిశీలింపబడింది. అప్ ది కంట్రీ లో, ఎమిలీ ఇడెన్ సుందర్బన్స్ లో తన యాత్రను గురించి వివరిస్తారు.[24] సుందర్బన్స్ గురించి అనేక డాక్యుమెంటరీ చిత్రాలు తీయబడ్డాయి, వీటిలో 2003లో బెంగాల్ పులి గురించి ఐమాక్స్ నిర్మాణం షైనింగ్ బ్రైట్ కూడా ఉంది. ప్రశంశలు పొందిన బి.బి.సి. టి.వి. ధారావాహిక గాంజెస్ , గ్రామస్తుల జీవితాలను ప్రత్యేకించి సుందర్బన్స్ లో తేనె సేకరణ చేసేవారిని గురించి చిత్రీకరించింది.
ఇవి కూడా చూడండి
కోరింగ వన్యప్రాణి అభయారణ్యం
గమనికలు మరియు సూచనలు
మూలములు
This articleincorporates text from a publication now in the public domain:
లష్కర్ ముక్సుదుర్ రెహమాన్, ; ఎట్ ; మక్ కూల్, స్టీఫెన్ F.; కోల్, డేవిడ్ N.; బోర్రీ, విల్లియం T.; ఓ’లౌఘ్లిన్, జెన్నిఫర్, కంప్స్. 2000. వైల్డర్నెస్ సైన్స్ ఇన్ ఎ టైం అఫ్ చేంజ్ కాన్ఫెరెన్స్, వాల్యూం 2: వైల్డర్నెస్ వితిన్ ది కాంటెక్స్ట్ అఫ్ లార్జర్ సిస్టమ్స్; 1999 మే 23–27; మిస్సౌల, MT. ప్రొసీడింగ్స్ RMRS-P-15-వాల్యూం-2. ఒగ్డేన్, UT: U.S. డిపార్టుమెంటు అఫ్ అగ్రికల్చర్, ఫారెస్ట్ సర్వీస్, రాకీ మౌంటైన్ రిసెర్చ్ స్టేషను.
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బాహ్య లింకులు
సుందర్బన్స్ లోని వ్యవసాయ నీటి నిర్వహణ పై ఒక పరిశోధన
జంతు సంపద, బెస్తవారు, ఎగ్ ద్వీపం మరియు హిరోన్ పాయింట్ లతో కూడిన వీడియో
Coordinates:
వర్గం:బంగ్లాదేశ్ లోని ప్రపంచ సంస్కృతి స్థలాలు
వర్గం:భారత దేశంలోని ప్రపంచ సంస్కృతి స్థలాలు
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వర్గం:మడ అడవులు
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شيراز هي مدينة إيرانية. وهي مركز محافظة فارس ومقاطعة شيراز. وحسب إحصاء سنة 2006 كان عدد سكان شيراز 1,204,882 نسمة. وتعد شيراز سادس أكبر مدينة في إيران بعد كلٍ من طهران ومشهد وأصفهان وتبريز وكرج.[1][2]
وتقع شيراز في منتصف أرض محافظة فارس، على ارتفاع 1486 مترا عن مستوى سطح البحر. وتقع بالقرب من جبال زاجروس، وتتمتع شيراز بجو لطيف يميزها عن المناطق القريبة منها كيزد وخوزستان. ويقع في غرب شيراز جبل دراك. وفي شمالها تقع جبال بمو، وسبزبوشان وجهل مقام وباباكوهي، وهذه الجبال تابعة لجبال زاجروس.[2]
يختلف اسم شيراز في الكتب والأوراق التاريخية، حيث تسمت شيراز بعدة أسماء منها «تیرازیس»، «شیرازیس» و«شیراز». وأيضاً لقبت شيراز بـ"دار العلم" في أيام الدولة الصفوية لكثرة رجال الدين فيها آنذاك.[3] ومن الأسماء القديمة لها أيضاً شهر راز [4] والمكان الأصلي لمدينة شيراز كان في قلعة أبونصر. شيراز كانت عاصمة لعدة دول تاريخية كالدولة الصفارية والدولة البويهية والدولة الزندية في (1750-1781).
تشتهر شيراز بالشعراء، وقد أنجبت أشهر الشعراء الذين كتبوا باللغة الفارسية (كحافظ الشيرازي، وسعدي الشيرازي..)، وتشتهر أيضاً بالحدائق والزهور. اشتهرت شيراز أيضاً في التاريخ بصناعة النبيذ ويوجد إلى اليوم نبيذ يسمى باسم .[5]
التاريخ
قبل الإسلام
يرجع تاريخ شيراز حسب التقديرات لأكثر من 4,000 سنة. وقد عثر على اسم شيراز في النقوش المسمارية القديمة التي يرجع تاريخها إلى عام 2,000 قبل الميلاد في الزاوية الجنوبية الغربية من مدينة شيراز.[6]. ووفقا لبعض الأساطير الإيرانية القديمة، فإن مؤسس مدينة شيراز هو طهمورث وهو ملك أسطوري فارسي[7]. لكن المدينة تحولت بعده إلى خراب ومجرد آثار[8]. ويميز شيراز أن أقدم عينة من النبيذ في العالم اكتشفت على جرار طينية بالقرب من شيراز، ويرجع تاريخها إلى ما يقرب من 7000 سنة.[9]
في عصر الأخمينيين، كانت تقع شيراز على طريقه من شوشان إلى برسيبوليس وباسارغاد. وقد ذكر في ملحمة الشاهنامة للفردوسي أن أرطابونس الخامس، الإمبراطور الأشكاني قام بتوسيع نطاق سيطرته على شيراز. كما يقع قصر أبي النصر الذي يعود للحقبة الأشكانية في شيراز.
في الحقبة الساسانية، كانت شيراز بين الطريق التي كانت تربط بيشابو وغور إلى إصطخر. كما كانت شيراز مركزاً إقليمياً مهما للساسانيين[6].
الفتح الإسلامي لشيراز
شيراز من المدن التي استجدت عمارتها واختطاطها في الإسلام. وأول من تولى عمارتها محمد بن القاسم الثقفي. وبعد الفتح الإسلامي للمدينة ظلت شيراز المركز العسكري والإداري لإقليم فارس منذ عام 650 م. فصاعداً.
وقد غزاها أبو موسى الأشعري وعثمان ابن أبي العاص في أواخر خلافة عمر بن الخطاب، وفي القرون الأولى للإسلام كان لا يزال فيها هيكلان من هياكل النار التي كان يعبدها المجوس قبل الإسلام، كان أحدهما يسمى كارنبان والآخر هرمز؛ وكان ثمة هيكل ثالث خارج أبوابها يسمى مسوبان في قرية تركان. وقد أعاد بناء المدينة محمد بن القاسم بن محمد بن الحكم ابن أبي عقيل الثقفي ابن عم الحجاج بن يوسف الثقفي ونائبه في عهد الخليفة الوليد بن عبد الملك على أنقاض مدينة قديمة كانت تبعة لولاية أردشير خره، وكانت قصبتها كور (جور)، وهي فيروز آباد الحديثة. وكانت المدينة في ذلك الوقت في غاية الازدهار.
وفي زمن عمر بن عبد العزيز، أظهر في آخر خلافته التي لم تدم أكثر من سنتين ونصف (717 -720م)، رغبة شديدة في توسيع المؤسسات الخيرية كما بنى كثيرا من المساجد وذلك ضمن حدود مدينة شيراز.[10]
وفي القرن التاسع الميلادي أصاب العباسيين خلفاء بغداد تقهقر رافقته في عام 822 م إعلان طاهر بن الحسين ، أحد قواد المأمون، استقلال ذاتي عن الخليفة، وأسس أول دولة مستقلة ذاتيا شرقي بغداد. وفي عام 867 م تمثل به يعقوب بن ليث الذي استولى على مقاطعة سجستان ومنها امتدت سلطته لتشمل معظم بلاد فارس. وقد جلب المجد إلى شيراز باتخاذه إياها عاصمة له. وبنى أخوه الذي خلفه في الحكم عام 879 م المسجد القديم، وذلك في عام 894 م، وكان أول مسجد جامع بني في شيراز. وتعاظم الرخاء الذي بدأه الصفاريون في شيراز عندما اتخذها البويهيون قاعدة أولى لسلطتهم.
وقد أسس أبو شجاع بويه الدولة البويهية، وقد خدم الأمراء السامانيين الذين طردوا الصفاريين. وفي عام 945 م كان من ابنه أحمد أن أجبر الخليفة المستكفي على تعيينه قائدا عاما وتلقيبه بمعز الدولة، كذلك أجبر الخليفة على أن يخصه بذكر اسمه في صلاة الجمعة مقرونا باسم الخليفة كما ضرب اسمه على السكة. وظل البويهيون لأكثر من قرن من الزمن هم الذين يقررون من سيكون الخليفة في بغداد وأصبح العراق محكوماً كأية مقاطعة أخرى من عاصمتهم شيراز. وقد حاول البويهيون فرض شعائرهم الدينية حيث كانوا من الشيعة.
وفي عام 950 م، أصبحت حكومة إقليم فارس في أيدي ابن أخيه عضد الدولة ابن ركن الدولة. وركن الدولة هو الذي بنى ركن آباد، القناة المشهورة في شيراز، ودعاها باسمه. وفي هذه الأثناء بسط عضد الدولة سيطرته على جميع الإمبراطورية البويهية وبلغت في عهده الذي انتهى عام 983 م أوج مجدها. وشيراز تدين في الكثير من أبنيتها إلى عضد الدولة الذي أنشأ فيها القناطر والجسور وبنى فيها مستشفى جميلا وقفت له الأوقاف ورعى العلوم والفنون والعلماء والشعراء.
وبأفول نجم البويهيين أخذ ازدهار شيراز المادي في التقهقر. في تلك الأثناء كانت قوة جديدة في طور الصعود، فبقيام السلاجقة بزغ عصر جديد مهم في تاريخ الإسلام والخلافة. ففي عام 956 م ظهر زعيم يدعى سلجوق وذلك على رأس قبائل الغز أو أغز التركمانية. وكان قومه هؤلاء الرحل قد تحدروا من سهول قيرغيزستان في بلاد تركستان فاستقروا في منطقة بخارى الواقعة في أوزباكستان حاليا، حيث اعتنقوا المذهب السني ونصروه بغيرة وحماسة. وشق سلجوق ثم ابنه من بعده طريقهما رويدا رويدا في مناطق خانات الأيلك ومناطق السامانيين مثبتين أقدامهما. ثم نشط حفيد سلجوق المعروف بطغرل، فشن هجوما هو وأخوه بلغا فيه خراسان ثم انتزعوا مرو ونيسابور من أيدي الغزنويين في عام 1037 م، وما لبثا أن استوليا على بلخ وغرغان وطبرستان والري وأصفهان فتداعى أمام بأسهما صرح بني بويه.
وفي عام 1055 م بلغت جيوش طغرل بك أبواب بغداد واضطر القائد الذي كان من قبل بني بويه إلى ترك بغداد، ورحل عنها وهكذا عاد الزمام مرة أخرى إلى بغداد. وأضحى إقليم فارس يحكمه ولاة من قبل السلاجقة يدعون الأتابكة وذلك لأكثر من ثمانين سنة.
ثم استطاع سنقر بن مودود الثورة على أسياده من السلاجقة ونجح في الاستقلال بإقليم فارس. وقد حافظت هذه العائلة التي عرفت في التاريخ بالسلغريين نسبة إلى جدهم سلغر الذي كان في خدمة طغرل بك في أول الدولة السلجوقية. ووقعت شيراز تحت سلطان هذه الأسرة وظلت تحيط بها الفتن والمكائد في التصارع على الملك.
وفي عام 1226 م. تولى الحكم سعد بن زنكي وأبو بكر ابن سعد وهما من بيت السلغريين واستمرّا لمدة طويلة كانت حافلة بالأحداث. وفي عهدهما تخلص إقليم فارس من الفوضى والبؤس الذين كانا قد حلا به في أواخر القرن الثاني عشر الميلادي، فاستعادت هذه المقاطعة مجدها وازدهارها الذين كانت تتمتع بهما في عهد البويهيين.
أما سعد فقد قدم لشيراز المسجد الجديد، وهو من أكبر المباني الدينية في الشرق الإسلامي وأجملها. كما رمم سور المدينة الذي كان الأتابك جاولي قد بناه. أما إبنه أبو بكر فقد كان هو الذي عمل كل ما بوسعه لكي يعيد رونق شيراز القديم، ومع أن كارثة المغول حلت في عهده إذ دمر هولاكو خان بغداد سنة 1258 م، وذلك قبل موت أبي بكر بسنتين فإن دهاء أبي بكر السياسي وحكمته المرنة خلصا شيراز من الكارثة العامة وجعلا من المدينة موئلا يلجأ إليه كثير من الهاربين من وجه المغول وذلك بعد أن اضطر إلى تقديم الولاء إلى ابن جنكيز خان ودفع له الجزية ثم من بعده لهولاكو وبموت أبي بكر انهار بيت بني سلغر وفي عام 1264 م تولت الحكم آبش خاتون بنت سعد الثاني ثم تزوجت من مانكور تيمور الابن الرابع لهولاكو خان ومن ثم أصبح إقليم فارس تحت حكم المغول مباشرة.
وفي عام 694 هـ / 1295 م اعتلى غازان العرش وعاد نجم الازدهار الفارسي إلى الصعود. كان غازان مسلماً مؤمناً متعبداً. وقد كان لموته في الثانية والثلاثين وقع أليم على جميع البلاد. وعين أخوه أولجاتيو عام 1305 م رجلا يدعى شرف الدين محمود شاه مديرا للممتلكات الإمبراطورية من إقليم فارس. وقد خلفه في هذا المنصب أبو سعيد 1317 م. ولم يأت عام 1325 م حتى نصب أبو سعيد نفسه حاكماً مستقلاً على المقاطعة وتلت ذلك مضاعفات سياسية في إقليم فارس استمرت حتى مجيء تيمور لنك.
وبموت أبي سعيد استولى أبو إسحاق على شيراز وأصفهان وهو أحد أبناء محمود شاه إينجو. وأخيراً استطاع أن يطرد عدوه القديم بينما نادى محمد بن مظفر بنفسه سيدا على يزد، وكان قد ذاع صيته لشجاعته وهو في خدمة أبي سعيد. وفي عام 1340 م حاصر شيراز أحد الأتابكة المنافسين وأخذها عنوة. واضطر ابن محمود شاه أن يرضى بأصفهان ولكنه ما لبث أن عاد في السنة التالية ليستولي على شيراز خدعة وينصب نفسه حاكماً على إقليم فارس كله.
ومنذ عام 1353 م إلى عام 1393 م، أي عندما فتح تيمور لنك شيراز للمرة الثانية والأخيرة، كان يحكم معظم إقليم فارس أفراد من بني مظفر. ونادراً ما كانت تمر سنة واحدة لا تعكر صفوها حرب داخلية، وبعد سقوط منصور آخر أمراء بني مظفر انتهى عصر الرونق الملكي الثاني في شيراز. وتحول إقليم فارس إلى مقاطعة مهملة في الإمبراطورية التيمورية، وكانت لا تزال على هذه الحال عندما استولى الصفويون على بلاد فارس أجمع.
وعاد نجم المدينة إلى الصعود في عهد الأمير قوبي خان وكان الحاكم العام لإقليم فارس من قبل الشاه عباس. حيث عمل كثيراً على تجميل المدينة مقلداً في ذلك ما فعله سيده في أصفهان، وقد بنى الأسوار وغرس أشجار السرو على الجانبين لمسافة بعيدة على الطريق المؤدية إلى أصفهان مضفيا على المدينة من جهة الشرق ما يليق بها من منظر، كذلك نصب السرادقات بين مسافة وأخرى على غرار تشاهرباغ الشهير الذي بناه الشاه عباس في أصفهان. كما بنى في الميدان الكبير قصراً فخماً. وفي عام 1615 م. بنى الكلية المعروفة بمدرسة خان، ولم يبق منها إلا بهو مثمن الشكل يمتاز بالفسيفساء والقيشاني البديع.
وفي عام 1668 م. هطلت الأمطار بغزارة ووافق ذلك وقت ذوبان الثلوج على الجبال، مما سبب فيضانا عارما تضررت منه المدينة ضرراً شديداً؛ فقد تبع هذا الفيضان وباء جعل المدينة في حالة يرثى لها. وكانت شيراز قد ابتلت من هذه الكارثة إلى حد بعيد.
وفي عام 1725 م جند الأفغان قوة للاستيلاء على شيراز، وكانوا قد استولوا قبلاً على أصفهان وحكموا معظم بلاد فارس. غير أن هذه القوات صدت وقتل قائدها. ثم حاصرت المدينة قوة أفغانية تفوق الأولى عددا واستولت عليها بعد أن مات كثيرا من السكان جوعا. وقد جعلها كريم خان زند عاصمته وأحاطها بالأسوار والخنادق ورصف شوارعها وأقام العمائر الجميلة فيها، وبخاصة السوق الكبير.
وفي عام 1729 م وردت الأخبار تقول: إن نادر قولي بك الذي أصبح فيما بعد نادر شاه، طرد الأفغان من أصفهان، فثار أهل شيراز ولكن الحامية الأفغانية أخضعتهم وقتلت منهم الكثير وأنزلت بالمدينة وببساتينها خسائر فادحة. غير أن نادر قولي بك هزم الأفغانيين في ديسمبر عام 1729 م، وذلك في معركة جرت قرب شيراز التي سقطت بعد ذلك في يديه. فأعاد النظام والأمن، وأصلح الأضرار التي نزلت المدينة وغرس البساتين. ولكن تقي خان شيرازي، حاكم شيراز قاده طموحه لسوء الحظ إلى التمرد على نادر شاه ونصب نفسه حاكما مستقلا على شيراز. فأرسل نادر الجيوش في الحال لإخماد نار الثورة، وسقطت المدينة في يديه بعد حصار دام أربعة أشهر ونصف، ثم أعمل الجنود في شيراز السلب فنهبوا كل بيت وقتلوا كثيرا من الأهالي. وبعد اغتيال نادر شاه عام 1747 م عانت شيراز الأهوال مرة أخرى.
وفي عهد كريم خان زند أصبحت شيراز عاصمة بلاد فارس. وعند موته عام 1779 م كانت المدينة قد استعادت كثيراً من مجدها السابق وبعد خمس عشرة سنة تولى الحكم آقا محمد شاه مؤسس العائلة القاجارية وعدو بني زند اللدود، واتخذ طهران عاصمة له بدلا من شيراز فعادت مرة أخرى إلى التأخر.
الجغرافيا
تصغير|يسار|بحيرة مهارلو
تقع مدينة شيراز في جنوب إيران وشمال غرب محافظة فارس. وتقع شيراز في سهل أخضر على سفوح جبال زاغروس (على ارتفاع 1500 متر عن مستوى سطح البحر). وشيراز منطقة جبلية، ومن الجبال المشهورة فيها جبل دراك وجبل باباكوهي وجبل جهل مقام وجبل سبزبوشان.
وتقع شيراز 919 كيلومترا (571 ميلا) إلى الجنوب من طهران[11]. أحد الأنهار الموسمية في شيراز وهو نهر رودخانه خشك يصب في الجزء الشمالي من المدينة في بحيرة مهارلو.
تتمتع شيراز بمناخ معتدل في المواسم العادية. وتحتوي شيراز على عدد كبير من الحدائق، ولكن بسبب النمو السكاني في المدينة، فقدت الكثير من هذه الحدائق لبناء شقق. هطول الأمطار في السنوات الأخيرة قد تغير بصورة ملحوظة، وبلغ 23 بوصة في السنة، ومتوسط سقوط الأمطار سنوياً بين 14 و 18 بوصة.
السكان
بلغ عدد سكان شيراز سنة 2006 حوالي 1,204,882 نسمة. وغالبية سكان شيراز من الفرس، ويتكلمون لهجة خاصة من لهجات اللغة الفارسية تعرف باسم "اللهجة الشيرازية"، وهي اللهجة السائدة في جنوب إيران، كما تعيش أقليات أذرية وكردية عربية وغيرها في شيراز.
هذا الجدول يوضح بعض المصطلحات المتسخدمة في اللهجة الشيرازية، والتي تختلف عن اللغة الفارسية القياسية، مع مقابلها في اللغة العربية:
الدين
أكثر سكان شيراز مسلمون على المذهب الشيعي الإثني عشري، كما تعيش فيها أقلية من أتباع المذهب السني. في مايو 2008، تعرض أحد مساجد الشيعة في شيراز إلى تفجير أودى بحياة أربعة عشر شخصاً. ووجهت إيران الإتهام إلى الولايات المتحدة وبريطانيا، فقد صرح المتحدث باسم القضاء الإيراني علي رضا جمشيدي للتلفزيون الإيراني[12]:
وكانت نسبة كبيرة من اليهود تعيش في شيراز، ومعظمهم هاجر إلى الولايات المتحدة وإسرائيل. وفي الوقت الحاضر يعيش في شيراز حوالي 4000 يهودي فقط.[13]
بسبب التبشير المسيحي في إيران نشأت طائفة مسيحية في شيراز وغالبيتهم بروتستانت[14]. وتوجد في شيراز حالياً كنيستين تعملان بفعالية، الأولى كنيسة أرمنية والثانية كنيسة إنجيلية.
أحياء شيراز
آبيوردي
فرهنج شهر
غسرودشت
كويه زهراء
ملا صدرا
شاه جراغ
شهرك جلستان
شهرك صدرا
تاجارا (تاچارا)
زرهي
ساحة ارتش (ساحة الجيش)
باغ ناري
بودناك
الاقتصاد
تعد شيراز المركز الاقتصادي لجنوب إيران. في النصف الثاني من القرن التاسع عشر حصلت العديد من التغييرات والتطويرات في شيراز. وافتتاح قناة السويس سنة 1869 كان له أثر على نمو الاقتصاد في شيراز. فنشأت حركة استيراد كبيرة في جنوب إيران للبضائع الأوروبية الرخيصة، ويكون الاستيراد مباشرة من أوروبا. وأحياناً تستورد البضائع من الهند.
وابتدأ المزراعين بحصد أرباح خيالية من اشياء من مزروعات لم تكن تزرع في إيران. كالخشخاش المنوم التبغ والقطن والكثير من هذه المحاصيل مرت على شيراز في طريقها إلى الخليج العربي. وقد عمل التجار الإيرانيين شبكات تسويق لهذه المحاصيل لمسافات طويلة بعيدة عن فارس. وأسسوا هذه التجارة في مدن مومباي وكلكتا وبورسعيد وإسطنبول وحتى هونغ كونغ.[15]
اقتصاد شيراز يعتمد على منتجاتها المحلية ومنها العنب والحمضيات والقطن والرز. وبعض الصناعات كالاسمنت والسكر والسماد والمصنوعات النسيجية والمصنوعات الخشبية والمعدنية والسجاد تنتشر في شيراز[16]. شيراز فيها أيضاً بئر نفط وهو من أهم البئر في إيران. وشيراز مركز مهم للصناعات الإلكترونية. حيث أن 53% من الاستثمار الإيراني في الصناعات الإلكترونية موجود في شيراز.[17]
والزراعة دائما جزء رئيسي من الاقتصاد في شيراز والمناطق المحيطة، ويعود ذلك بسبب توافر المياه في شيراز والمناطق التي تقع حواليها على عكس الصحاري القريبة منها. تشتهر شيراز أيضاً مشهور بالورد وصناعة السجاد. زراعة العنب لها تاريخ طويل في المنطقة. والنبيذ الشيرازي كان يتصنع في شيراز قبل الثورة الإسلامية الإيرانية. شيراز أيضاً أهم مدينة في إيران في تكنولوجيا المعلومات وصناعة الاتصالات والإلكترونيات.
منطقة شيراز الاقتصادية الخاصة (The Shiraz Special Economic Zone - SEEZ) تأسست سنة 2000 لتطوير صناعة الاتصالات والإلكترونيات.[18][19]
وتحتوي شيراز على عدد كبير من المجمعات التجارية، أهمها:
مجمع خليج فارس (بالفارسية: مجتمع بزرگ تجاری وتفریحی خلیج فارس)يقع مقابل منطقه جلستان (بالفارسية شهرک گلستان) [20]
مركز التجارة العالمي (بالفارسية: مرکز تجارت جهانی, ایران-شیراز).يقع في منطقة قصر دشت بين عفيف آباد وولي عصر [21]
مجمع ستاره (بالفارسية: مجتمع تجاری تفریحی ستاره فارس) يقع في شارع عفيف آباد.[22][23]
المواصلات
مطار شيراز الدولي (إياتا: SYZ) (ايكاو: OISS)، وهو ثاني أهم مطار في إيران بعد مطار الإمام الخميني الدولي. وهو يخدم سكان شيراز وجميع مدن محافظة فارس.
مترو شيراز S.U.R.O (بالفارسية متروی شیراز) مشروع ابتدأت الحكومة الإيرانية بعمله في شيراز، وذلك ضمن خطة لبناء مشاريع مماثلة في مدن أخرى في إيران (كقم، أصفهان، مشهد وتبريز). وذلك لإن المدن الإيرانية تزداد نمواً سكانياً يوماً بعد يوم، مما يجعل الحاجة إلى وسائل مواصلات أكثر. هذا وسيتكون المترو من ثلاثة خطوط [24]:
خط 1: سيكون يبتدأ من ساحة جلسرخ (گلسرخ) (القريبة من المطار) إلى ساحة احسان وساحة ميرزا كوجك خان في شمال غرب شيراز.
خط 2: سيكون طوله 8.5 كم ويتقاطع مع خط 1 عند ساحة الإمام الحسين (میدان امامحسین)
خط 3: سيكون طوله 16 كم، وسيكون يمر على محطة القطارات كي يخدم المسافرين عبر القطار ليركبوا المترو في أي وقت.
شيراز لديها شبكة باصات حديثة تتكون من سبعة خطوط. ويتحرك في هذه الخطوط 5000 باص. ثالث باص سريع (Bus Rapid Transit)) في إيران فتح في شيراز سنة 2009 والآن يعمل على خطين. وسيفتح أيضاً خطين آخرين سنة 2010. وشركة إيران خودرو (الذي كان اسمها "ایران ناسیونال" قبل الثورة) هي التي تدير الباصات.[25]
التعليم
يوجد في شيراز عدد من الجامعات، ومؤسسات التعليم العالي:
جامعة شيراز للعلوم الطبية (بالفارسية: دانشگاه علوم پزشکی شیراز). تأسست سنة 1950.[26]
جامعة شيراز التقنية (بالفارسية دانشگاه صنعتی شیراز). تأسست سنة 2004، وهي متخصصة.[27].
کلیّة صنایع مخابرات راه دور ایران [28]
کلیّة صنعت الكترونیك
جامعة شهید باهنر شیراز الفنية والمهنية [29]
مركزآموزش عالی حافظ شیراز [30]
مركز آموزش عالی پاسارگاد شیراز [31]
جامعة شيراز
جامعة شيراز (بالفارسية: دانشگاه شیراز). من أهم الجامعات في شيراز. تأسست سنة 1946، وكان تسمى جامعة بهلوي قبل الثورة الإيرانية الإسلامية. الرئيس الحالي للجامعة هو الدكتور محمد هادي صادقي. ومن المشاهير المتخرجين من جامعة شيراز الأمريكي جون ليمبرت (John Limbert). والأمريكي ریتشارد فرای (Richard Frye). ووزير الاتصالات الإيراني محمد سليماني.أستاذ نظام الدین فقیه هو واحد من أساتذة هذه الجامعة الشهيرة.[32][33]
الرياضة
تصغير|استاد حافظية
كرة القدم هي الرياضة الأكثر شعبية في شيراز كما هو الحال في باقي مناطق إيران. ومن الأندية المشهورة في شيراز نادي برق شيراز الذي تأسس سنة 1946، ويعد من أهم الأندية المشاركة في دوري المحترفين الإيراني. كما يوجد نادي آخر في شيراز وهو نادي فجر شهيد سباسي الذي تأسس سنة 1988.
ويوجد في شيراز ملعبين لكرة القدم، الأول استاد حافظية الذي تأسس سنة 1945، واستاد شيراز الذي تأسس سنة 2009 ويسع لـ50,000 متفرج. وكلا الناديين (برق شيراز وفجر شهيد سباسي) يشتركان في الملعبين.
الرياضة في شيراز مشهورة بامتلاكها فريقاً نسائياً في الرجبي.[34][35]
بلدية شيراز
تأسست بلدية شيراز سنة 1907 م. وتتبع لها ثمانية مراكز بلدية. وأول رئيس لبلدية شيراز كان حبيب الله خان حاج قوام ديوان، وأما الرئيس الحالي للبلدية فهو محمد علي معتكف.
معالم المدينة
المعالم المعماريّة في شيرازباسارغاد
باسارغاد (بالفارسية: پاسارگاد) هي مدينة في فارس القديمة كانت أول عاصمة للأخمينيين في أيّام كورش الكبير (سايروس)، وتقع هذا اليوم في مقاطعة سعادت شهر. من آثارها قصور وقبر كورش الكبير (کوروش بزرگ). هي اليوم موقع أثري هام واحد مواقع منظمة اليونسكو للتراث العالمي. تقع على بعد 87 كم شمال شرق برسيبوليس ،في محافظة فارس في إيران. بناها كعاصمة كوروش الكبير في حوالي 546 قبل الميلاد وظلت عاصمة لفارس حتى بنى داريوش الكبير العاصمة برسيبوليس.برسبوليس
برسبوليس (بالفارسية: تخت جمشيد، باليونانية: Πέρσης πόλις برس بولس) هي عاصمة الإمبراطورية الأخمينية (550-330ق.م). يبعد هذا الموقع مسافة 70 كم شمال شرق مدينة شيراز في محافظة فارس في إيران. في الفارسية الحديثة، يعرف هذا الموقع باسم تخت جمشيد (أي عرش جمشيد) أو پارسه. أقدم بقايا هذا الموقع يعود تاريخها إلى 515ق.م. يدعى هذا الموقع عند الفرس القدامى باسم پارسه، والتي تعني "مدينة الفرس". وترجمة اسم برسبوليس في اليونانية تعني "المدينة الفارسية".
وقد تم إعلان تخت جمشيد كموقع للتراث العالمي من قبل اليونسكو.[36]
الأدلة الآثارية تثبت بأن أولى بقايا هذا الموقع قد تم إنشائها في عام 515ق.م. عالم الآثار الفرنسي ،رينيه غودار، الذي قام يالتنقيب في الموقع في بداية العقد الرابع من القرن السابق، افترض أن قورش الكبير قام باختبار موقع تخت جمشيد، لكن دارا الأول هو من قام ببناء المصطبة والقصور العظيمة.
وقد أمر دارا الأول ببناء قصر آبادانا وقاعة المجلس (القاعة ذات الأبواب الثلاث)، وخزانة الدولة وما حولها. وقد تم إنهائها في عهد إبنه، الملك خشایار الأول. والعديد من المنشأت تم بنائها على نفس المصطبة إلى حين سقوط السلالة الأخمينية.[37]متحف بارس
متحف بارس (بالفارسية: موزه پارس) أحد أهم المتاحف التاريخية في شيراز. ومبنى المتحف كان قصر ضيافة تابع للدولة الزندية. وقد دفن في المتحف الإمبراطور كريم خان زندنقش رستم
نقش رستم هو موقع أثري إيراني يقع في واد يبعد حوالي 12 كم شمال غرب مدينة برسيبوليس الأثرية بالقرب من إصطخر وشيراز في محافظة فارس بإيران يحتوي على نقوش حجرية منحوتة على الصخر كما يضم موقع صليب فارسي والذي يحتوي على قبور أربع ملوك من ملوك فارس. يضم الموقع العديد من الآثار والتي تعود إلى فترات زمنية عديدة تعرض عدد منها إلى الدمار على مر الزمن يعتقد أن أقدم محتويات الموقع تعود لحوالي 1000 عام قبل الميلاد, كما يضم الموقع آثاراً عيلامية إضافة إلى آثار أخمينية بالإضافة إلى آثار ساسانية وهي الأحدث مقارنة بالآثار الأخرى.حديقة أرم
حديقة أرم، (بالفارسية: باغ ارم) هي عبارة عن حديقة من حدائق مدينة شيراز تحوي جميع أنواع الأشجار بالعالم بألوانها وأشكالها الغريبة. ويوجد بها قصر للشاه، وبركة صناعية بها أسماك. وتعد متحفاً عاماً للزوار. وهي تابعة لجامعة شيراز.200بكبوابة القرآن
بوابة القرآن (بالفارسية: دروازه قرآن) تعود جذور هذه البوابة الي الازمنة القديمة، وهي عبارة عن مدخل لمدينة شيراز تقع علي بداية طريق اصفهان، ففي عد الأمير کريم خان زند أجريت فيها عمليات التعديل والترميم وبنيت فوقها غرفة صغيرة وضع فيها القرآن، تبرکاً من صون المارة من المکاره والحوادث. وفي الآونة الأخيرة شملتها عملية التوسيع، مما اظهرها بطابع متنزه جميل.شاه جراغ
شاه جراغ (بالفارسية: شاه جِراغ). هو مسجد يضم ضريح للأخوين أحمد ومحمد أبناء موسى الكاظم وشقيقي علي الرضا. والإثنين قاما باللجوء إلى شيراز، إيران (حوالي 900 م.) إبان فترة حكم العباسيين واضطهادهم للمسلميين الشيعة. يعتبر المسجد من أبرز أماكن العبادة في المدينة، حيث صار مركزاً للاحتفالات الدينية منذ القرن الرابع عشر. كما يقصده الزوار الشيعة.200بك
مدن متوأمة
فايمار،
تشونغتشينغ،
دوشنبه،
نيقوسيا،
كوالالمبور،
أغادير،
معرض صور
برسيبوليس
حديقة أرم
قبر الشاعر سعدي الشيرازي
شاه جراغ
قبر كورش الكبير
قبر الشاعر حافظ الشيرازي
مسجد نصير الملك
بوابة القرآن
تخت جمشيد
حديقة عفيف آباد
سعدية في المساء
نقش رجب
قلعة كريم خان
نقش رستم
حديقة نما
مراجع
طالع أيضًا
مسجد جامع عتيق
تصنيف:شيراز
تصنيف:أماكن مأهولة في مقاطعة شيراز
تصنيف:تاريخ إيران
تصنيف:عواصم الثقافة في إيران
تصنيف:عواصم المحافظات الإيرانية
تصنيف:عواصم إيران السابقة
تصنيف:مدن محافظة فارس
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pr-aa
"গ্রেট ঘর"
in hieroglyphs
ফারাও (/ˈfeɪ.roʊ/, /fɛr.oʊ/[1][2] বা /fær.oʊ/[2]) হলো
গ্রিক-রোমান কর্তৃক বিজয়ের পূর্ব পর্যন্ত প্রাচীন মিশরীয় রাজবংশের রাজাদের প্রচলিত উপাধি।[3] ফারাও (Pharaoh) আদি মিশরীয় সভ্যতা। মিশরে নগর সভ্যতা গড়ে উঠেছিল খ্রীস্টপূর্ব ৫০০০ অব্দে।নীল নদকে কেন্দ্র করে মিশরের এ সভ্যতা গড়ে উঠেছিল বলে গ্রিক ইতিহাসবিদ হেরোডোটাস মিশরকে বলেছেন “নীল নদের দান”(Gift of the Nile)। ৫০০০-৩২০০ খ্রীস্টপূর্বাব্দ পর্যন্ত সময়ের মিশরকে প্রাক-রাজবংশীয় যুগ বলা হয়।এ সময় মিশর কতগুলো ছোট ছোট নগর রাষ্ট্রে বিভক্ত ছিল। এগুলোকে বলা হয় নোম।৩২০০ খ্রীষ্টপুর্বাব্দে “মেনেস” নামের এক রাজা সমগ্র মিশরকে একত্রিত করে একটি নগর রাষ্ট্র গড়ে তোলেন। দক্ষিণ মিশরের “মেস্ফিস” হয় এর রাজধানী। এভাবে মিশরে রাজবংশের সূচনা হয়।
nesu-bit
"King of Upper
and Lower Egypt"
in hieroglyphs
প্রাচীন মিশরের নতুন রাজ্যের সময় ফেরাউনরা ধর্মীয় এবং রাজনৈতিক নেতা ছিল। "বড় বাড়ি" বলতে তখন রাজাদের বাড়িকে বোঝানো হত কিন্তু মিশরীয় ইতিহাসের গতিপথের সাথে সাথে তা হারাতে বসে ছিল এমনকি রাজা, nswt এর জন্য ঐতিহ্যবাহী মিশরীয় শব্দের পরস্পরিক পরিবর্তনে মধ্যে প্রকাশ করা হয়েছিল। যদিও মিশরের শাসকরা সাধারণত পুরুষ ছিল, ফেরাউন শব্দটা বিরলভাবে মহিলা শাসকদের হ্মেত্রেও ব্যবহার করা হত। ফেরাউনরা বিশ্বাস করত যে দেবতা হরুসের সাথে জীবনের দেহযুক্ত সমস্ত মিশরের পৌরাণিক শাসক এবং ওসিরিসের মৃত্যুতে।
এরা নিজেদেরকে সূর্যের বংশধর মনে করত। নিজেদেরকে দেবতা বলে মনে করায় তারা বংশের বাইরে কাউকে বিবাহ করত না। ফলে ভাইবোনেদের মধ্যেই বিবাহ সম্পন্ন হত। ফেরাউনরা মৃত্যুর পরও জীবন আছে বলে বিশ্বাস করত। তাই তাদের মৃত্যুর পর পিরামিড বানিয়ে তার নিচে সমাধিকক্ষে এদের দৈনন্দিন জীবনের ভোগ-বাসনার সমস্ত সরঞ্জাম রক্ষিত করত। মৃতদেহকে পচন থেকে বাঁচাবার জন্য তারা দেহকে মমি বানিয়ে রাখত এবং স্বর্ণালঙ্কারে মুড়ে সমাধিকক্ষের শবাধারে রাখা হত।
নামের উৎপত্তি
এই উপাধি বা নামের উৎপত্তি ঘটেছে মিশরীয় শব্দ pr ˤ3 থেকে, আক্ষরিক অর্থে "মহান নিবাস", যা রাজকীয় প্রাসাদের বর্ণনা দিয়ে থাকে। ঐতিহাসিকভাবে, যদিও, "ফারাও" নামটি শুধুমাত্র নতুন রাজ্যের সময়কালে রাজদের জন্য একটি নাম হিসেবে ব্যবহৃত হতো, বিশেষভাবে অষ্টাদশ রাজবংশের মধ্যবর্তী সময়ে, হাতশেপসুত রাজত্বের পরবর্তীকালে।[4]
মুকুট এবং প্রধান পোশাক
ফারাওদের পোশাক অতি বৈচিত্রময় ছিল।তবে সবচেয়ে উল্লেখযোগ্য হল তাদের পরিহিত মুকুট। তারা সাদা এবং লাল রঙের মুকুট পরত।মিশর হতে উদ্ধারকৃত নার্মার প্যালেট থেকে এ তথ্য মেলে।
নার্মার প্যালেটসাদা মুকুট পরিহিত নার্মারলাল মুকুট পরিহিত নার্মার
স্থাপত্য ও ভাস্কর্য
মিশরীয়রা মৃত্যুর পর আরেকটি জীবনে বিস্বাসী ছিলো।সে জীবনেও রাজা হবেন ফারাও।তাই তারা মৃতদেহ সংরক্ষনের জন্য তৈরী করল পিরামিড।মিশরের সবচেয়ে বড় পিরামিড হল ফারাও খুফুর পিরামিড।খুফুর পিরামিড গড়ে উঠেছিলো ১৩ একর যায়গা জুড়ে।এর উচ্চতা ছিলো প্রায় সাড়ে চারশত ফুট।মিশরীয় ভাস্কর্যের সবচেয়ে বড় গৌরব স্ফিংস তৈরিতে ।বহুখন্ড পাথরের গায়ে ফুটিয়ে তোলা হয়েছিলো এ ভাস্কর্য।স্ফিংসের দেহ সিংহাকৃতির,আর মাথা ছিলো ফারাওএর।ফারাও অভিজাত্যের প্রতীক ছিলো এ মূর্তি।
বিজ্ঞান
মিশরীয়রা সর্বপ্রথম ১২ মাসে ১ বছর, ৩০ দিনে ১ মাস-এই গণনা রীতি চালু করে। যেহেতু ফারাও মৃত্যুর পরে রাজা হবেন সেহেতু তাঁর মৃতদেহকে সংরক্ষনের জন্য তারা মমি তৈরি করতে শেখেন।
তথ্যসূত্র
গ্রন্থতালিকা
Shaw, Garry J. The Pharaoh, Life at Court and on Campaign, Thames and Hudson, 2012.
Sir Alan Gardiner Egyptian Grammar: Being an Introduction to the Study of Hieroglyphs, Third Edition, Revised. London: Oxford University Press, 1964. Excursus A, pp.71–76.
Jan Assmann, "Der Mythos des Gottkönigs im Alten Ägypten," in Christine Schmitz und Anja Bettenworth (hg.), Menschen - Heros - Gott: Weltentwürfe und Lebensmodelle im Mythos der Vormoderne (Stuttgart, Franz Steiner Verlag, 2009), 11-26.
বহিঃসংযোগ
ফারাও এর চুরুট(Cigars of the Pharaoh)-Tintin comics ₵
*
বিষয়শ্রেণী:প্রাচীন মিশরীয় উপাধি
বিষয়শ্রেণী:রাষ্ট্র প্রধান
বিষয়শ্রেণী:রাজকীয় উপাধি
বিষয়শ্রেণী:কর্তৃপক্ষের পদসমূহ
বিষয়শ্রেণী:তৌরাত রাষ্ট্রশাসক
বিষয়শ্রেণী:তৌরাত বব্যক্তি
বিষয়শ্রেণী:জাতীয় বা জাতিগত নেতৃত্বের উপাধি
বিষয়শ্রেণী:মিশরীয় রাজকীয় উপাধি
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} | జీఎస్ఎల్వి-D2 ఉపగ్రహ వాహకనౌకను ఎప్పుడు అంతరిక్షంలోకి పంపారు? | జీశాట్-2 ఉపగ్రహం | telugu | {
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జీశాట్-2 ఉపగ్రహం భారతదేశం యొక్క అంతరిక్ష పరిశోధన సంస్థ ఇస్రో తయారుచేసి ప్రయోగించింది.ఇస్రో వారు జీఎస్ఎల్వి ఉపగ్రహ వాహకనౌకలశ్రేణిలో అభివృద్ధిపరచిన వాహకనౌక GSLV-D2 ను మొదటిగా ప్రయోగించి
జీశాట్-2 ఉపగ్రహం ఉపగ్రహాన్ని అంతరిక్షంలో కక్ష్యలో ప్రవేశపెట్టారు.జీశాట్-2 ఉపగ్రహం ప్రయోగాత్మక సమాచార ఉపగ్రహం.GSLV-D2 ఉపగ్రహ వాహక నౌక 2.0టన్నుల (2000కిలోల) పేలోడు కలిగిన ఉపగ్రహాలను అంరతిక్షంలోకి మోసికొని పోగలదు.
ఉపగ్రహ ప్రయోగ వివరాలు
1800 కిలోల పేలోడ్ కలిగిన జీశాట్-2 ఉపగ్రహన్ని గురువారం, మేనెల 8వతేదిన,2003 సంవత్సరాన ఆంధ్రప్రదేశ్ రాష్ట్రంలోని నెల్లూరుజిల్లాలోని శ్రీహరికోటలో ఉన్న సతిష్ థావన్ అంతరిక్ష ప్రయోగ కేంద్రంనుండి జీఎస్ఎల్వి -డీ2 అను ఉపగ్రహ వాహక నౌక ద్వారా అంతరిక్షానికి పంపారు. ఉపగ్రహాన్ని భూస్థిర కక్ష్యలో ప్రవేశపెట్టారు. ఉపగ్రహం యొక్క పెరిజీ35,904కిలోమీటర్లు, అపోజీ 35,920కిలోమీటర్లు. ఉపగ్రహం వాలు 2.43°. ఒక ప్రదక్షణకు పట్టు సమయం 24.03 గంటలు. ఉపగ్రహం నియమితకాలము 29 అక్టోబరు 2013.
GSLV-D2 ఉపగ్రహ వాహకనౌక ద్వారా జీశాట్-2 ఉపగ్రహన్ని, జియో-సమస్థితి బదిలీ కక్ష్యలోకి ప్రవేశపెట్టిన తరువాత ద్రవఅపోజి మోటారును వివిధదశలలో మండించి, అంతిమ నిర్దేశితకక్ష్యలోకి ఉపగ్రహాన్ని ప్రవేశపెట్టారు.
ఇది భౌమ స్థిరకక్ష్య చేరుకున్న తర్వాత, దాని యాంటెన్నా మరియు సౌరఫలకాలను తెరచిమరియు ఉపగ్రహ చివరకు 48° తూర్పు రేఖాంశం యొక్క స్లాట్లో దానికి కేటాయించిన కక్ష్యలో ఉంచారు.
ఉపగ్రహం వివరాలు
ఉపగ్రహం యొక్క బరువు 1800కిలోలు. ఉపగ్రహంలో నాలుగు శాస్త్రీయ ప్రయోగాత్మకపేలోడ్లను టోటల్రేడియేషన్ డోస్ మానిటర్ (TRDM, ఛార్జ్ మానిటర్ (SCM) సర్ఫేస్సోలార్ ఎక్స్-రే స్పెక్ట్రోమీటర్ (SOXS) మరియు
కోహేరేంట్ రేడియో బెకన్ ప్రయోగపరికరం (CRABEX) అమర్చారు.ఉపగ్రహ నాలుగు సి-బ్యాండ్ ట్రాన్స్పాండర్లు, రెండుకూ (Ku) బ్యాండ్ ట్రాన్స్పాండర్లను మరియు లింక్ కోసం ఎస్-బ్యాండ్ మరియు సి బ్యాండ్ లో పని చేయుసంచార ఉపగ్రహ సర్వీస్ (MSS) పేలోడ్ కలిగి ఉంది.
టోటల్ రేడియేషన్ డోస్ మానిటర్ (TRDM) (RADFET) ఒక రేడియేషన్ సెన్సిటివ్ ఫీల్డ్ ప్రభావం ట్రాన్సిస్టర్ ఉపయోగించి నేరుగా ఉపగ్రహ లోపల రేడియేషన్ పరిమాణాలు లెక్కించగలుగుతుంది., మరియు టోటల్రేడియేషన్ డోస్ మానిటర్ (TRDM) (RADFET) తోఉపగ్రహ లోపల అంచనా రేడియేషన్ పరిమాణాలు సరిపోల్చుతుంది. ఉపరితల ఛార్జ్ మానిటర్ (SCM) అంతరిక్ష సమీపంలోని పర్యావరణం యొక్క స్థితి సూచిస్తుంది.• సోలార్ ఎక్స్-రే స్పెక్ట్రోమీటర్ (SOXS) 4 keV లో సౌరమంట ఉద్గారఅధ్యయనం - చెయ్యుటకు సోలార్ ఎక్స్-రే స్పెక్ట్రోమీటర్ (SOXS)4 keVను అమర్చారు. 60 keV [3] శక్తి స్థాయిలో సెమీకండక్టర్ పరికరాలు మరియు Phoswich సింటిలేషన్ డిటెక్టర్ ఉపయోగించారు.
అంతరిక్షనిర్మాణం, భూమధ్యరేఖ ఎలెక్ట్రో వైవిధ్యాలు, నమిక్ మరియు తత్కాల ఐనోస్ఫేరే వంటిని తెలుసుకొనుటకు రేడియో బెకన్ ప్రయోగాలు (CRABEX) చెయ్యు అమరిక ఉంది.
ఉపగ్రహాన్నిప్రారంభ భూస్థిరకక్ష్య నుడి అంతిమ భూస్థిరకక్ష్యలో చేర్చుటకు ఒక 440 న్యూటన్ ద్రవఇంధన అపోజి (LAM) మోటరును, పదహారు 22 న్యూటన్ రియాక్షను కంట్రోల్ త్రస్టరులను అమర్చారు.GSAT-2ఉపగ్రహంలో840కిలోలఇంధనాన్నినింపారు (మొనోమిథైల్ హైడ్రాజీన్ మరియుMON-3)
దీని సౌరపలకల అమరిక 1380 W శక్తి ఉత్పత్తి చేస్తుంది, రెండు24 A•h Ni-Cd బ్యాటరిలను కలిగి ఉంది.
ఇవికూడా చూడండి
జీశాట్-1 ఉపగ్రహం
జీశాట్-3 ఉపగ్రహం
జీశాట్-6 ఉపగ్రహం
జీశాట్-7 ఉపగ్రహం
జీశాట్-16
జీశాట్-17
మూలాలు
వర్గం:కృత్రిమ ఉపగ్రహాలు
వర్గం:ఇస్రో ప్రయోగించిన ఉపగ్రహాలు
వర్గం:జీశాట్ శ్రేణి ఉపగ్రహాలు
వర్గం:ఇస్రో తయారుచేసిన ఉపగ్రహాలు
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} | అనకాపల్లి పట్టణం ఏ నది తీరాన ఉంది? | అస్తిత్వనదం ఆవలి తీరాన | telugu | {
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అస్తిత్వనదం ఆవలి తీరాన కేంద్ర సాహిత్య అకాడెమీ అవార్డు పొందిన పుస్తకం. దీనిని మునిపల్లె రాజు రాసారు. ఇందులో మొత్తం పదిహేను కథలు, ఒక మినీ నవల ( ‘పూజారి ‘. ఇదే 1964 లో బి.ఎన్.రెడ్డి గారి దర్శకత్వంలో నాగేశ్వరరావు హీరోగా పూజాఫలం సినిమాగా వచ్చింది),కొన్ని స్వగతాలు ఉన్నాయి. [1]
విశేషాలు
ఈ పుస్తకానికి 2006లో కేంద్రసాహిత్య అకాడమీ అవార్డు వచ్చింది.[2] ఈ కథలలోని "వీరకుంకుమ" లో రాయలసీమ కరవు సమస్యలను తెలియజేసాడు. "నైమిశారణ్యంలో సత్రయాగం" కథలో విఫల ప్రేమతో అభయానంద గోస్వామి గా మారి నైమిశారణ్యంలో అధ్యాత్మిక పరివేదనలో మునిగిపోయి ఏళ్ళు గడిపి ఆఖరుకి అదే అరణ్యంలో ఒకప్పటి తన ప్రియురాలిని అంత్యదశలో కలుసుకొనే చక్రి, "చేనేత చిత్రం" లో కుగ్రామం నుంచి ఎంతో ఉత్సాహంగా ముంబయిలోని హస్తకళలపోటికి వచ్చి ద్వితీయ బహుమతి గెలుచుకొని,ఆ తర్వాత నగరంలోని జౌళిమిల్లులు,బట్టల ఖార్ఖానాలు చూసి వాటి ముందు తన చేనేత వృత్తి నిలబడగలదా అని పరితాపం చెందే ఓబయ్య, "స్తపతి మహోత్సవం" కథలో యానాది కుష్టుమహిళకు ఆలయంలోని బంగారు పంచామృత పాత్రలో పాయసం తినిపించే సీతారాం, "ఒక బాకీ తీరలేదు" లో బాల్యంలో తనకు అన్నం పెట్టి ఆదుకున్న కమలమ్మ రుణం తీర్చుకోవడం కోసం విదేశాలనుంచి వచ్చే డాక్టర్ మురళి,వారు గతించారని చెప్పి మళ్ళీ అతనికి ఆతిథ్యమిచ్చే ఆ ఇంటి ముసలమ్మ, "మహాబోధి ఛాయలో" లో చిన్నతనంలోనే తండ్రిని కోల్పోయి చెరువు గట్టునున్న ఒక మహావృక్షంతో అనుబంధాన్ని అల్లుకొని, ఆ వృక్ష ఛాయలోనే తన జీవితాన్ని మలచుకొని, అనేక ఆటుపోట్లకు తట్టుకొని పరాయి రాష్ట్రంలో స్థిరపడి, చివరికో పని మీద మళ్ళీ స్వగ్రామం వచ్చి ఆ చెట్టు కనబడక తల్లడిల్లే కథానాయకుడు. ఇలా ప్రతి పాత్రా మానసాకాశంలో కారుమబ్బులా కదిలిపోతూ భావుకత్వపు కుంభవృష్టిలో మనల్ని తడిపి ముద్ద చేస్తుంది.[3]
మూలాలు
ఇతర లింకులు
వర్గం:పుస్తక పరిచయాలు
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} | পায়রা একসাথে সর্বাধিক কতগুলো ডিম পাড়তে পারে ? | রুই | bengali | {
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রুই (English: Rohu Carp) ভারত ও বাংলাদেশের বহুল পরিচিত মাছগুলোর মধ্যে একটি। এর বৈজ্ঞানিক নাম: Labeo rohita (ল্যাবিও রোহিটা)। মাছের দেহ অনেকটা মাকুর মতো। মাথা ও লেজ ক্রমশ সরু। প্রস্থ থেকে উচ্চতা বেশি। চলনের সময় জলের ভেতর গতি বাধাপ্রাপ্ত হয় না বলে এ ধরনের আকৃতিকে স্ট্রিমলাইনড বলে।[1] শরীরের দুপাশ সমানভাবে চ্যাপ্টা এবং সারা শরীর রূপালী আঁশ দিয়ে আবৃত থাকে। আঁশগুলো মসৃণ ও সারিবদ্ধ ভাবে সাজানো থাকে। ধুসর বর্ণের পাখনার এই মাছের পৃষ্ঠদেশের আঁশের কেন্দ্র লালাভ এবং প্রান্ত কালো বর্ণের হয়ে থাকে। আঁশের কেন্দ্রের এই লালাভ বর্ণ প্রজনন ঋতুতে আরও গাঢ় ও উজ্জ্বল হয়। এছাড়াও অধিক জলজ উদ্ভিদময় পরিবেশে বেড়ে ওঠা মাছের পৃষ্ঠদেশের বর্ণ সবুজ-লালাভ হতে পারে। এদের পিঠ ও পিঠের নিচের দিকটা বাদামী রঙের এবং পেট রুপালী সাদা রঙের হয়৷ মুখ নিচের দিকে নামানো থাকে এবং পুরু ঠোট ভিতরের দিকে ভাঁজ হয়ে থাকে৷ মুখের উপরে ঠোঁটে এক জোড়া গোঁফ থাকে।
রুই মাছ সর্বোচ্চ ২০০ সেমি পর্যন্ত লম্বা হতে পারে।এরা সবোর্চ্চ ১০ বছর পর্যন্ত বাঁচতে পারে এবং ওজন ৪৫ কেজি পর্যন্ত হতে পারে বলে জানা গেছে।আন্তর্জাতিকভাবে রুই মাছের নাম বলা হয়ে থাকে রোহু।স্থানীয় নাম রুই, রোহিতা, রুহিত, রাউ, নলা, গরমা, নওসি।
প্রাপ্তিস্থান
রুই মাছ ভারত(মূল ভূখণ্ড) পাকিস্তান, বাংলাদেশ ও মায়ানমারের নদীতন্ত্রের প্রাকৃতিক প্রজাতি। মিষ্টি জলের পুকুর, হ্রদ, নদী ও মোহনায় পাওয়া যায়। বাংলাদেশে বিভিন্ন বড় নদীতে বিচরণ করে, ডিম ছাড়ার সময় প্লাবন ভূমিতে প্রবেশ করে। স্বাদ, সহজ চাষপদ্ধতি ও অর্থনৈতিক গুরুত্বের কারণে ও পুষ্টি ঘাটতি মেটাতে স্রিলঙ্কা, চায়না, রাশিয়ান ফেডারেশান, জাপান, ফিলিপাইন, মালয়েশিয়া এবং আফ্রিকান দেশগুলোতে রুই মাছের চাষ হচ্ছে। ইন্ডিয়ান আন্দামান দ্বীপপুঞ্জের মিঠাপানির নদীতেও অনুপ্রবেশিত রুইয়ের সফল চাষ হচ্ছে।[2]
খাদ্যাভাস
রুই মাছ শাকাশী।এরা সাধারণত জলের মধ্যস্তরে চলাচল করে৷ এদের মুখ কিছুটা নিচের দিকে নামানো এবং পুরু ঠোঁট থাকার কারণে জলজ উদ্ভিদ, আগাছা এবং মাঝে মাঝে জলের তলদেশ থেকে পঁচা জৈব পদার্থ খেয়ে জীবণ ধারণ করে৷ এছাড়াও ফিসমিল, খৈলের গুড়া, কুঁড়া ইত্যাদি পুকুরে চাষের সময় সম্পূরক খাদ্য হিসাবে ব্যবহার করা হয়।তবে ছোট অবস্থায় এদের প্রধান খাদ্য থাকে প্রাণীকণা বা প্লাংকটন।
পুষ্টিগুণ
প্রতি ১০০ গ্রাম রুই মাছে ১৬.৪ গ্রাম আমিষ, ১.৪ গ্রাম চর্বি, ৬৮০ মিলিগ্রাম ক্যালসিয়াম, ২২৩ মিলিগ্রাম ফসফরাস থাকে।
বাহ্যিক গঠন
মাথা
দেহের অগ্রপ্রান্ত থেকে কানকোর পশ্চাৎ পর্যন্ত হল মাথা। মাথা ৪-৫ ইঞ্চি লম্বা হয়। দেহের পৃষ্ঠীয় ভাগ উত্তল তবে উদর থেকে মস্তকের উপরিভাগ বেশি উত্তল। [1]
মুখ
থুঁতনি ভোঁতা, নিচু, কদাচিৎ স্ফীত।[1] মুখ নিচের দিকে অবস্থিত, মুখের দুই কোনা পিছনের দিকে বাঁকা হওয়ায় মুখ অর্ধচন্দ্রাকার।[3] মুখের উপরে ও নিচে ঝালরের মত ঠোঁট আছে। থুঁতনির পৃষ্ঠদেশের চক্ষুদ্বয়ের সামান্য সম্মুখে একজোড়া নাসারন্ধ্র আছে।[1]
চোখ
মাথার দুই পাশে একটি করে মোট দুইটি বড় বড় চোখ আছে। চোখে কোন পাতা নেই, কর্নিয়া স্বচ্ছ চামড়ার আবরন দ্বারা আবৃত।[1][3]
প্রজনন
রুই মাছ দুই থেকে তিন বছরেই প্রাপ্তবয়স্ক হয়ে থাকে।বর্ষাকালে প্লাবিত নদীতে (বিশেষত জলজ উদ্ভিদময় স্থানে) নারী-পুরুষ রুই প্রজননে অংশ নেয়।এক প্রজনন ঋতুতে একটি মা মাছ প্রায় দুই থেকে ত্রিশ লাখ ডিম দিয়ে থাকে যা মাছের বয়স, দৈর্ঘ্য্য ও ওজনের এবং অমরার দৈর্ঘ্য ও ওজনের উপর নির্ভর করে কমবেশি হতে পারে।
মাছের ডিম
অপেক্ষাকৃত কম গভীর জলেতে এবং স্রোতের টানে নদীর পাড়ে স্ত্রী রুই মাছ ডিম ছাড়ে৷ এছাড়াও বাঁধ বা পুকুরে কৃত্রিম উপায়ে স্রোতের সৃষ্টি করা হলে রুই মাছ সেখানে নির্বিঘ্নে ডিম ছাড়তে পারে।৪-১০ কেজি ওজনের রুই মাছে ৬ লক্ষ থেকে ৩৫ লক্ষ ডিম থাকে৷ তবে গড়ে প্রতিটি পূর্ণবয়স্ক মাছে প্রায় ১ঌ লক্ষ করে ডিম থাকে।রুই, কাতলা, মৃগেল, কালবোস ইত্যাদি যে সব মাছ আমরা চাষ করি এরা বর্ষাকালে নদীতে ডিম পাড়ে।আবার বাঁকুড়া, মেদিনীপুর অঞ্চলের কিছু সংখ্যক বিশেষ ধরণের বাঁধেও ডিম পাড়ে।বাজারে যে পোনা পাওয়া যায় তা নদী থেকে ধরা মাছের ডিম পোনা।পশ্চিমবঙ্গের মুর্শিদাবাদ জেলায় লালগোলা, ধুলিয়ান অঞ্চলে এবং মালদহ মাণিকচক অঞ্চলে নদী থেকে মাছের ডিম পোনা ব্যাপক ভাবে ধরা হয়।
রুই মাছ স্বাদে আকর্ষনীয় হওয়ায় বাজারে এর চাহিদা ব্যাপক।তাই চাষকৃত মাছের মধ্যে এই মাছ যথেষ্ট গুরুত্ব বহন করে।
বাংলাদেশে বর্তমান অবস্থা এবং সংরক্ষণ
আইইউসিএন বাংলাদেশ (২০০০) এর লাল তালিকা অনুযায়ী এই প্রজাতিটি বাংলাদেশে হুমকির সম্মুখীন নয়।[4]
আরও দেখুন
বাংলাদেশের মাছের তালিকা
বাংলাদেশের স্বাদুপানির মাছের তালিকা
বাংলাদেশের সংরক্ষিত মাছের তালিকা
তথ্যসূত্র
বহিঃসংযোগ
বিষয়শ্রেণী:স্বাদু পানির মাছ
বিষয়শ্রেণী:বাংলাদেশের মাছ
বিষয়শ্রেণী:ভারতের মাছ
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} | 2013 నాటికి కృష్ణా జిల్లా లో ఎన్ని రైల్వే స్టేషన్లు ఉన్నాయి? | కృష్ణా జిల్లా | telugu | {
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కృష్ణా జిల్లాకు [1] ఆ పేరు జిల్లాలో ప్రవహించే కృష్ణా నది వల్ల వచ్చింది. జిల్లా అధికారిక కేంద్రం మచిలీపట్నం కాగా, వాణిజ్య కేంద్రంగా విజయవాడ ప్రసిద్ధి చెందింది. ఈ జిల్లా సరిహద్దులలో ఉత్తరాన ఖమ్మం జిల్లా, తూర్పున పశ్చిమ గోదావరి, దక్షిణాన బంగాళాఖాతము, నైరుతిలో గుంటూరు జిల్లా, వాయవ్యంలో నల్గొండ జిల్లా ఉన్నాయి.
జిల్లా చరిత్ర
కృష్ణా పరీవాహక ప్రాంతం కనుక ఈ జిల్లాకు ఈ పేరు వచ్చింది. ఈ జిల్లాలో ఉన్న ఇంద్రకీలాద్రి మీద అర్జునుడు పాశుపతాస్త్రం కొరకు పరమశివుని ఉద్దేశించి తపమాచరించాడని, దుర్గాదేవి ఇక్కడ మహిశాసురుడిని సంహారం చేసిందని పురాణకథనాలు వివరిస్తున్నాయి. కృష్ణా నది తీరాన ఇంద్రకీలాద్రిపై కొలువు తీరి ఉన్న కనక దుర్గాదేవి భక్తజన పూజలను అందుకొంటూ ఉంది.
చరిత్రలో వివిధ కాలాల్లో శాతవాహనులు, చోళులు, రెడ్డిరాజులు, గోల్కొండ నవాబులు మొదలైనవారు ఈ ప్రాంతాన్ని పాలించారు.
మొవ్వ గ్రామము లోని కృష్ణుని దేవాలయము చాలా పురాతనమైనది. ఈ ఊరి స్థల పురాణము ప్రకారం మౌద్గల్య మహర్షి చేత ఇసుకతో ఇచటి మువ్వ గోపాల స్వామి విగ్రహం తయారుచేయబడెను. ఆ విగ్రహం ఇప్పటికీ చెక్కుచెదరకుండా ఉండటం విశేషం. అంతే కాక చదువు రాని వరదయ్య తరువాతి కాలంలో క్షేత్రయ్యగా స్వామి కృపతో గొప్ప కవి అయ్యాడని ప్రతీతి. క్షేత్రయ్య రాసిన శృంగార కవిత్వం ఎంతో ప్రసిద్ధి.
కృష్ణా జిల్లాను ఇంతకు ముందు "మచిలీపట్నం జిల్లా" అని పిలిచేవారు. 1859లో గుంటూరు జిల్లాలోని కొన్ని తాలూకాలను ఈ జిల్లాలో కలిపి కృష్ణాజిల్లాగా పేరు మార్చారు. 1925లో కృష్ణాజిల్లాను కృష్ణా మరియు పశ్చిమ గోదావరి జిల్లాలుగా విభజించారు.
శాతవాహనుల కాలం
శ్రీకాకుళం రాజధానిగా శ్రీముఖుడు శాతవాహన సామ్రాజ్యాన్ని స్థాపించాడు. శాతవాహన రాజులు నాలుగు శతాబ్దాల కాలం పాటూ ఈ ప్రదేశాన్ని పాలించారు.
పల్లవులు
గుంటూరు జిల్లా మైదవోలులో లభించిన తామ్ర శాసనాలననుసరించి పల్లవులు ఈ ప్రాంతాన్ని 250 నుండి 340 క్రీ.శ॥ వరకూ పాలించారు.
బృహత్పలాయనులు
వీరు కోడూరు రాజధానిగా ఈ జిల్లా ప్రాంతాన్ని పల్లవుల తదుపరి పాలించారు.
విష్ణు కుండినులు
వీరు క్రీ.శ॥5వ శతాబ్దంలో పాలించారు. వీరి కాలంలోనే మొగల్రాజపురం ఇంకా ఉండవల్లిలోని గుహలు తవ్వించి తీర్చిదిద్దబడ్డాయి.
తూర్పు ఉండవల్లిలోతూర్పుచాళుక్యులు
వీరుని గుహామందిరాలు ఇంకా శివాలయాలు కట్టించారు.
కాకతీయులు
క్రీ.శ॥1323 వరకు వీరి పాలన జరిగింది. వీరి కాలంలో జిల్లాలోని ఎన్నో దేవాలయాలు పోషించబడ్డాయి.
రెడ్డిరాజులు
కొండపల్లిలోని కోట శిథిలాలు వీరి పాలనకు తార్కాణంగా నిలుస్తాయి.
గజపతులు
రెడ్డిరాజుల అనంతరం గజపతుల పాలనలో కృష్ణా జిల్లా ప్రాంతం వచ్చింది. ప్రస్తుత పమిడిముక్కల మండలంలోని కపిలేశ్వరపురం గజపతి రాజయిన కపిలేశ్వర గజపతి పేరున నామకరణం చేయబడింది. కపిలేశ్వర గజపతి తదుపరి వచ్చిన విద్యాధర గజపతి విజయవాడలోని విద్యాధరపురాన్ని ఇంకా కొండపల్లి సరస్సుని నిర్మించాడు.
విజయనగర సామ్రాజ్యం
విజయనగర సామ్రాజ్య కాలంలో జిల్లాలో ఎన్నో దేవాలయాలు, కోటలు వెలిశాయి. జీర్ణ దేవాలయాలు ఉద్ధరింపబడ్డాయి. శ్రీకాకుళాంధ్ర మహావిష్ణువు సన్నిధిలోనే కృష్ణదేవరాయలు ఆముక్తమాల్యదను రచించి అంకితమిచ్చాడు.
కుతుబ్ షాహీలు
క్రీ.శ॥1512 లో గోల్కొండ వద్ద సుల్తాన్ కులీ కుతుబ్ షా సామ్రాజ్యాన్ని స్థాపించాడు. ఆ సామ్రజ్యంలో జిల్లా కూడా ఒక భాగమే. మచిలీపట్నం ఓడ రేవుగా ఎగుమతి-దిగుమతులు జరిగేవి. తానీషాగా ప్రసిద్ధి చెందిన అబూ హుసేన్ షా మంత్రులయిన అక్కన్న ఇంకా మాదన్న వారి కార్యాలయాన్ని విజయవాడలో స్థాపించారు. వీరిరువురు కనక దుర్గ అమ్మవారిని ఆరాధించేవారు. నేటికీ ఇంద్రకీలాద్రి కొండ దిగువన వీరు ఆరాధించిన గుహలు మనకు దర్శనమిస్తాయి.
నిజాములు
ఔరంగజేబు సామ్రాజ్యంలో భాగమయిన గోల్కొండను 5 నవాబులకు విభజించి ఆసఫ్ ఝా సుబేదారుగా పాలించాడు. ఆర్కాటు, కడప, కర్నూలు, రాజమండ్రి మరియు చీకకోల్(శ్రీకాకుళం) నవాబుల కింద పాలించబడ్డాయి. రాజమండ్రి నవాబు కృష్ణా జిల్లాను పాలించేవాడు.
ఆంగ్లేయులు
క్రీ.శ॥1611 లో ఆంగ్లేయులు మచిలీపట్నంలో బస చేసారు. 1641 లో మద్రాసుకు తరిలి వెళ్ళే వరకూ ఇది వారికి ముఖ్యపట్నం(హెడ్క్వార్టర్)గా కొనసాగింది. ఆంగ్లేయుల తరువాత డచ్చి మరియు ఫ్రెంచి వారు మచిలీపట్నాన్ని తమ అధీనంలోకి తెచ్చుకున్నారు. 1748 లో నిజాం-ఉల్-ముల్క్ మరణంతో జిల్లా ఆంగ్లేయులు మరియు ఫ్రెంచి వారి హస్తగతమయింది. 1761 లో నిజాం అలీ ఖాన్ తిరిగి గోల్కొండ నవాబు అయినపుడు మచిలీపట్నం నిజాం పట్నం ఇంకా కొండవీడులో కొంత భాగం బ్రిటిష్ వారికి కానుక ఇచ్చాడు. మెల్లిగా సర్కారు ప్రాంతం మొత్తం బ్రిటిష్ వారి చేతుల్లోకి వెళ్ళిపోయింది.
వృత్తి
పట్టణ ప్రాంత ప్రజలలో ఎక్కువ మంది వ్యాపారంలో ఉండగా, గ్రామాల్లో వ్యవసాయం ప్రధాన వృత్తి.
నదులు
కృష్ణా నది(పొడవు 1280 కి.మీ.) జిల్లాలో ప్రవహించే ముఖ్యమయిన నది. బుడమేరు, మున్నేరు మరియు తమ్మిలేరు ఇతర నదులు. కృష్ణా నది బంగాళా ఖాతంలోకి హంసలదీవి మరియు నాచుగుంట వద్ద కలుస్తుంది. ఇవి కాక జిల్లాలో చిన్న కొండవాగులు కూడా ప్రవహిస్తాయి. ఇవి జయంతి, కట్టలేరు, ఇప్పలవాగు, ఉప్పుటేరు, తెల్లేరు, బళ్ళలేరు, ఇంకా నడిమేరు.
ప్రపంచ ప్రసిద్ధి గాంచిన కొల్లేరు సరస్సులో కొంత భాగం కృష్ణా జిల్లాలో ఉంది.
ముఖ్యమయిన పట్టణాలు
విజయవాడ, గుడివాడ, ఉయ్యూరు,మచిలీపట్నం,చల్లపల్లి, కొండపల్లి, తిరువూరు, కైకలూరు, నందిగామ, నూజివీడు, జగ్గయ్యపేట, మొవ్వ మొ॥ ఈ జిల్లాలోని ముఖ్యమైన పట్టణాలు.
జిల్లాలోని హనుమాన్ జంక్షన్ కు ప్రత్యేకత ఉంది. ఇక్కడ కృష్ణా జిల్లా, పశ్చిమ గోదావరి జిల్లాలు కలిసి నూజివీడు-మచిలీపట్నం రహదారికిరువైపులా ఉంటాయి. అలాగే మూడు మండలాలు కలిసి ఉంటాయి. ఇక్కడ ఉన్న హనుమంతుని ఆలయము చాలా విశిష్టమైనది. పట్టణానికి ఆ పేరు ఈ ఆలయము వలన వచ్చినదే.
భౌగోళిక స్వరూపం
కృష్ణా జిల్లా పీఠభూమి మరియు తీర ప్రాంతాలుగా విభజించబడింది. భారతదేశ అత్యంత పర్యావరణ సంబంధిత ముఖ్యమైన చిత్తడినేలలో కొల్లేరు సరస్సు ఒకటి ఈజిల్లా లోనే పాక్షికంగా ఉంది.
కొండలు
జిల్లాలో ప్రధాన కొండ ఒకే పొడవుతో నందిగామ మరియు విజయవాడ పట్టణముల మధ్య 24 కిలోమీటర్ల పరిధిలో ఉంది. దానిని కొండపల్లి అని పిలుస్తారు. జమ్మలవాయిదుర్గం, మొగల్రాజపురం మరియు ఇంద్రకీలాద్రి జిల్లాలోని ఇతర ప్రముఖ కొండలు.
భారతదేశములో అత్యంత ప్రసిద్ధమైన కనకదుర్గదేవాలయం, విజయవాడ వద్ద ఇంద్రకీలాద్రి కొండ మీదనే ఉంది.
నీటివనరులు
భూమి మరియు భూగర్భ వనరులు
జిల్లాలో నల్లమట్టి (57.6%), ఇసుక బంకమట్టి (22.3%) ఎర్ర బంకమట్టి (19.4%) అను మూడు రకాల నేలలు ఉన్నాయి.
విస్తృతంగా సహజ వాయువు మరియు ముడి పెట్రోల్ నిక్షేపాలు తీరం వెంబడి సముద్రం మరియు జిల్లా యొక్క తీర ప్రాంతములో ఉన్నాయి.
కొద్దిపాటి వజ్రాల చిన్న చిన్న నిక్షేపాలు లభిస్తాయి.
సున్నపురాయి ప్రధాన ఖనిజముగా ఈ జిల్లా నుండి సేకరిస్తారు.
భవన నిర్మాణం కోసం వాడబడే ఇసుకను కృష్ణ మరియు మున్నేరు నదుల నుండి త్రవ్వకాలు జరిపి సేకరిస్తారు.
ఖనిజాలు దొరుకు ప్రాంతములు:
క్రోమైటు: కొడపల్లి కొండలు మరియు దగ్గర ప్రాంతాలలో
వజ్రాలు: పరిటాల, ఉస్తేపల్లి, కొండవీటికల్లు, రామన్నపేట, సూర్యవరం, కొత్తపేట, నెమలిపురం, మాగులూరు మరియు పుట్రేల (రాజస్థాన్ లో ప్రముఖ మైనవి) మొదలైన ప్రాంతాలు.
ఇనుము ధాతువు: జగ్గయ్యపేట ప్రాంతం.
సున్నపురాయి: జగ్గయ్యపేట ప్రాంతం.
మైకా: తిరువూరు ప్రాంతం.
ఆటవీ ప్రదేశం
వాతావరణం
జిల్లా వాతావరణ పరిస్థితులు వేసవికాలం చాలా వేడిగా, శీతాకాలం తేలికపాటిగా ఉంటాయి. అంతేకాక ఇక్కడి వాతావరణం పరిస్థితులు ఉష్ణ ప్రాంతములుగా వర్గీకరింపబడ్డాయి. ఏప్రిల్ ప్రారంభ కాలం నుండి జూన్ వరకు చాలా వేడిగా ఉంది. ఈ ప్రాంతంనకు నైరుతి రుతుపవనాల ద్వారా వర్షపాతం 1028 మి.మీ. అందించబడుతుంది.
ఆర్ధిక స్థితి గతులు
వ్యవసాయం
వ్యవసాయం గురించిన సమగ్రసమాచారం [2] కంప్యూటర్ ద్వారా అందుబాటులో ఉంది. దీనిని ఎక్కడికైనా తీసుకెళ్లగల కంప్యూటర్ మరియు ప్రొజెక్టర్ ద్వారా రైతులకు అందుబాటులోనికి తెస్తున్నారు.
వ్యాపారం
కృష్ణా జిల్లా పట్టణ ప్రాంతాలలో ఎక్కువ మంది వ్యక్తులు వ్యాపారము మరియు వాణిజ్యం లతో నిమగ్నమై ఉన్నారు. వ్యవసాయం జిల్లా ప్రజల యొక్క అతి ముఖ్యమైన వృత్తిగా ఉంది.
కృష్ణా జిల్లాలో ఎన్నో చిన్న, మధ్య తరహా పరిశ్రమలు ఉన్నాయి. జిల్లా అనేక పరిశ్రమలకు ఆతెధ్యము ఇస్తున్నది. వాటిలో కెసీపి చక్కెర కర్మాగారం చెప్పుకోతగ్గది. ఉయ్యూరు వద్ద ఉన్న KCP షుగర్ ఫ్యాక్టరీ భారతదేశంలోని అతిపెద్ద చక్కెర కర్మాగారములలో ఒకటి. ఇబ్రహీంపట్నం సమీపంలో, విజయవాడ థర్మల్ పవర్ స్టేషను (VTPS) దాని పనితీరునకు భారతదేశంలో నం .1 అధిక పవర్ ఉత్పత్తి యూనిట్గా స్థానం పొందింది. ఇది కాక, అనేక మీడియం స్కేల్ సిమెంట్ కర్మాగారాలు జిల్లా అంతటా ఉన్నాయి. మచిలీపట్నం వద్ద బంగారం-లేపనం ఆభరణాలు, కొండపల్లి వద్ద బొమ్మలు మరియు జగ్గయ్యపేట వద్ద సంగీత సాధన తయారీ పరికరాలు వంటి పలు చిన్న తరహా పరిశ్రమలు ఎన్నో ఉన్నాయి.
విజయవాడ వద్ద సిరీస్ (SIRIS) ఫార్మాస్యూటికల్ కంపెనీ, అలోపతిక్ మందులు తయారీ దిగ్గజాలలో ఇది మరొక సంస్థ. ఆంధ్ర ప్రదేశ్ లోని అతి పురాతన పోర్ట్ మచిలీపట్నంలో ఉంది. ఇదికాక ఎన్నో సిమెంటు ఫ్యాక్టరీలు కూడా ఉన్నాయి. విజయవాడ దగ్గర ఇబ్రహీమ్ పట్నం వద్ద ఉన్న తాప విద్యుత్కేంద్రం చాలా పేరెన్నికగన్నది. ఇవికాక మచిలీపట్నంలో గిల్టునగల తయారీ, కొండపల్లి చెక్కబొమ్మలు, జగ్గయ్యపేటలో సంగీత సాధనముల తయారీ మొదలయిన చేతి వృత్తి పనులు కూడా ఉన్నాయి. ప్రసిద్ధి చెందిన సాంప్రదాయిక నృత్య రీతి యైన కూచిపూడి నృత్యం జిల్లాలోని కూచిపూడి గ్రామంలో పుట్టింది.
జీవనస్థాయి
ఈ జిల్లాలో ఉన్న 4.187.841 (2001 నాటికి) జనాభాలో 32,08% శాతం పట్టణ జనాభా. జిల్లా పరిపాలన ప్రధాన కార్యాలయం మచిలీపట్నంలో ఉంది. విజయవాడకార్పొరేషన్ జిల్లా ప్రముఖ వ్యాపార, వాణిజ్య కేంద్రంగా ఉంది.
ఆర్థిక గణాంకాలు
డివిజన్లు లేదా మండలాలు, నియోజక వర్గాలు
భౌగోళికంగా కృష్ణా జిల్లాను 50 రెవిన్యూ మండలాలుగా విభజించారు.[3].
కృష్ణా జిల్లాలో విజయవాడ కార్పొరేషన్ మరియు మచిలీపట్నం, గుడివాడ, జగ్గయ్యపేట, నూజివీడు, పెడన మున్సిపాలిటీలుగా ఉన్నాయి. 2011 సం. నుండి నందిగామ, తిరువూరు, ఉయ్యూరులను మున్సిపాలిటీలు (పురపాలక సంఘాలు)గా ప్రభుత్వము ప్రకటించింది.
1 జగ్గయ్యపేట మండలం18 పెనమలూరు మండలం35 నాగాయలంక మండలం2 వత్సవాయి మండలం19 తోట్లవల్లూరు మండలం36 కోడూరు3 పెనుగంచిప్రోలు మండలం20 కంకిపాడు మండలం37 మచిలీపట్నం మండలం4 నందిగామ మండలం21 గన్నవరం38 గూడూరు5 చందర్లపాడు మండలం22 అగిరిపల్లి మండలం39 పామర్రు మండలం6 కంచికచెర్ల మండలం23 నూజివీడు మండలం40 పెదపారుపూడి మండలం7 వీరులపాడు మండలం24 చాట్రాయి మండలం41 నందివాడ మండలం8 ఇబ్రహీంపట్నం25 ముసునూరు మండలం42 గుడివాడ మండలం9 జి.కొండూరు మండలం26 బాపులపాడు మండలం43 గుడ్లవల్లేరు మండలం10 మైలవరం27 ఉంగుటూరు44 పెడన మండలం11 ఏ.కొండూరు మండలం28 ఉయ్యూరు మండలం45 బంటుమిల్లి మండలం12 గంపలగూడెం మండలం29 పమిడిముక్కల మండలం46 ముదినేపల్లి మండలం13 తిరువూరు మండలం30 మొవ్వ మండలం47 మండవల్లి మండలం14 విస్సన్నపేట మండలం31 ఘంటసాల48 కైకలూరు మండలం15 రెడ్డిగూడెం మండలం32 చల్లపల్లి మండలం49 కలిదిండి మండలం16 విజయవాడ గ్రామీణ మండలం33 మోపిదేవి మండలం50 కృత్తివెన్ను మండలం17 విజయవాడ పట్టణం34 అవనిగడ్డ
లోకసభ నియోజకవర్గాలు
కృష్ణా జిల్లా పరిధిలో విజయవాడ, మచిలీపట్నం మరియు ఏలూరు (కొద్ది భాగము) పార్లమెంటరీ నియోజకవర్గాలు ఉన్నాయి.
ఈ జిల్లాలో విజయవాడ మరియు మచిలీపట్నం అను రెండు పార్లమెంటరీ నియోజకవర్గాలు ఉన్నాయి.
అసెంబ్లీ నియోజకవర్గాలు
ఆంధ్ర ప్రదేశ్ కృష్ణ జిల్లాలో 16 శాసనసభ నియోజకవర్గాలు ఉన్నాయి.
పార్టీలు
తెలుగు దేశం మరియు కాంగ్రెస్ (ఐ), వై.యస్.ఆర్ కాంగ్రెస్ జిల్లాలో మూడు ప్రధాన పార్టీలు ఉన్నాయి. కమ్యూనిస్టు పార్టీ ఆఫ్ ఇండియా, కమ్యూనిస్టు పార్టీ ఆఫ్ ఇండియా (మార్కిస్టు) పార్టీలు, భారతీయ జనతా పార్టీ, లోక్ సత్తా పార్టీ, ఇతర పార్టీలు కూడా ప్రముఖ పాత్రను పోషిస్తున్నాయి.
రవాణా వ్వవస్థ
విజయవాడ వద్ద పండిట్ నెహ్రూ బస్ స్టేషను ఆసియాలోని అతి పెద్ద బస్ కాంప్లెక్స్లలో ఒకటి.
విజయవాడ వద్ద రైల్వే స్టేషను భారతదేశంలో 2 వ రద్దీగా ఉండే జంక్షన్ ఉంది. 200 కంటే ఎక్కువ రైళ్లు ఈ రైల్వే స్టేషను ద్వారా (పాస్) ప్రయాణించడము మరియు రైల్వే స్టేషను వద్ద రైలు ఆగిపోవడము లేదా (ప్రారంభము) బయలుదేరడము కాని జరుగుతుంది.
విజయవాడకు ఈశాన్యదిశలో 16 కి.మీ. దూరములో గన్నవరము వద్ద ఉన్న విమానాశ్రయం నుండి హైదరాబాద్, చెన్నై, బెంగుళూర్, రాజమండ్రి నగరములకు అనుసంధానముతో విమాన ప్రయాణమునకు వీలు ఉంది.
నాలుగు జాతీయ రహదారులు ఈ జిల్లా నుండి కలుపుతున్నాయి.
కోల్కత నుండి చెన్నై = NH-5
మచిలీపట్నం నుండి పూనే = NH-9
జగదల్పూర్ నుండి విజయవాడ = NH-221
ఒంగోలు నుండి కత్తిపూడి = NH-214
కృష్ణా జిల్లా రైల్వే స్టేషన్లు
జనాభా లెక్కలు
జనసాంద్రత అనేది ఒక జనాభా కొలమాన విధానము. ఒక చదరపు కిలోమీటరు ప్రాంతంలో నివసించే జనాభాను జనసాంద్రతగా పరిగణిస్తారు.
కృష్ణా జిల్లా 8.727 చదరపు కిలోమీటర్ల ప్రాంతం ఆక్రమించింది (3,370 sq mi),[4] ఈ జిల్లా సుమారు, తులనాత్మకంగా కోరిస్కాతో [5] సమానం.
విభాగాలు
ఈ జిల్లా ప్రతి ఆదాయం విభాగానికి ఉప కలెక్టర్ నేతృత్వంలో విజయవాడ, నూజివీడు, మచిలీపట్నం, గుడివాడ అను నాలుగు ఆదాయం విభాగాలుగా విభజించబడింది.
గృహోపకరణ సూచికలు
2007–2008 సంవత్సరములో ఇంటర్నేషనల్ ఇన్స్టిట్యూట్ ఫర్ పాప్యులేషన్ సంస్థ వారు జిల్లా అంతటా 1229 గృహాలు 34 గ్రామాలలో ఇంటర్వ్యూ జరిపారు.[6] వారు 94.7% విద్యుత్, 93,4% నీటి సరఫరా మరియు పారిశుద్ధ్యం, 60.3% టాయిలెట్ సౌకర్యాలు, మరియు 45.5 (శాశ్వత) నివాస గృహాసౌకర్యాలు ఉన్నట్లు కనుగొన్నారు.[6] 20.6% మంది స్త్రీలు అధికారక వయస్సు 18 సం.లు నిండక ముందే వివాహము చేసుకున్నారు.[7]
ఇంటర్వ్యూ నిర్వహించిన వారిలో 76,9% ఒక దారిద్ర్య రేఖకు దిగువన ఉన్నవారు ఉన్నారు.
సంస్కృతి
ప్రపంచ ప్రసిద్ధ కూచిపూడి నృత్య రూపం ఈ జిల్లాలో నుండి ఉద్భవించింది.[8]
ఈ జిల్లా వాసులు మాట్లాడే తెలుగు యాసను తెలుగు భాషయొక్క సహజరూపమని భావించబడుతుంది.[9]
పశుపక్ష్యాదులు
వృక్షజాలం మరియు జంతుజాలం
జిల్లాలో చెప్పుకోదగ్గ అటవీప్రాంతం లేదు. అడవి మొత్తం జిల్లా వైశాల్యంలో 9% మాత్రమే ఉంది. అయితే నందిగామ, విజయవాడ,నూజివీడు, తిరువూరు,గన్నవరము, మచిలీపట్నం ప్రాంతాలలో మరియు దివి తాలూకాలలో రిజర్వు ఫారెస్ట్ కలిగి ఉంది. ఒక రకం అయిన పొనుకు (గైరోకాపస్ జాక్విని) అని పిలువబడే తేలికపాటి రకమయిన చెక్కకొండపల్లి కొండలు ప్రాంతములో కనిపిస్తుంది. ఈ చెక్కను ఎక్కువగా బాగా అందరికీ తెలిసిన కొండపల్లి బొమ్మలు తయారీకి ఉపయోగిస్తారు. చాలా గుర్తించదగ్గ చెట్లు అయిన టెరోకార్పస్, టెర్మినాలియా, ఎనోజీస్సస్, లోగస్ట్రోయినయ్ మరియు కాజురినా లాంటివి కూడా ఉన్నాయి.
పాంథర్స్ పులులు, దుమ్ములగొండులు, అడవి పిల్లులు, నక్కలు, ఎలుగుబంట్లు మరియు ఇతర మాంసాహార క్షీరదాల జంతుజాలం ఇక్కడ కనిపిస్తాయి. జింక, మచ్చల లేడి సాంబార్, కృష్ణ జింక మరియు ఇతర శాకాహార జంతువులు ఈ భూభాగ అడవులలో గుర్తించవచ్చు.
కృష్ణ జిల్లా సరిహద్దు కొల్లేరుసరస్సులో ఒక వలస బూడిద రంగు గల పెలికాన్ బిల్డ్ అనే ఒక రక్షిత పక్షి ఉంది.
ఈ జిల్లా అనేక ముర్రా జాతి గేదెలు మరియు ఆవులు పెద్ద సంఖ్యలో కలిగి ఉంది.
విద్యాసంస్థలు
విజయవాడ ఆంధ్ర ప్రదేశ్ లోని ప్రధాన విద్యా కేంద్రాలలో ఒకటి.[9]
కృష్ణా జిల్లాలోని ప్రముఖ విశ్వవిద్యాలయాలు:
ఎన్టీఆర్ యూనివర్సిటీ ఆఫ్ హెల్త్ సైన్సెస్, విజయవాడ.
కృష్ణ విశ్వవిద్యాలయం మచిలీపట్నం.
రాజీవ్ గాంధీ యూనివర్సిటీ ఆఫ్ నాలెడ్జ్ టెక్నాలజీస్ అనగా ఇంటర్నేషనల్ ఇన్స్టిట్యూట్ ఆఫ్ ఇన్ఫర్మేషన్ టెక్నాలజీ నూజివీడు.
దక్షిణ భారత శాఖ యొక్క స్కూల్ ఆఫ్ ప్లానింగ్ అండ్ ఆర్కిటెక్చర్ విశ్వవిద్యాలయం
ఆంధ్ర జాతీయ కళాశాల, మచిలీపట్నం
భారతదేశం లోనే కార్పొరేట్ విద్యా సంస్థలు అతిపెద్ద / పెద్ద /మధ్య రకములు అయిన, అనేక నివాస కళాశాలలు మరియు పాఠశాలలు కలిగి ఉన్న సంస్థలలో పేరెన్నికగన్న శ్రీ చైతన్య, నలందా, గౌతమ్, శ్రీ కృష్ణవేణి సంస్థలు, అమెరికన్ మెడికల్ విద్య (USMLE) శిక్షణ సంస్థల ప్రధాన కార్యాలయములు
జిల్లాలో అనేకం ఇంజనీరింగ్ కాలేజ్లు ఉన్నాయి. వాటిలో ప్రముఖమైన వెలగపూడి రామకృష్ణ సిద్ధార్థ ఇంజనీరింగ్ కళాశాల, గుడ్లవల్లేరు ఇంజనీరింగ్ కాలేజ్, కె.ఎల్.సి.ఈ., ఏ.ఏ.ఎన్.ఎమ్. & వి.వి.ఎస్.ఆర్ (గుడ్లవల్లేరు) పాలిటెక్నిక్ కళాశాల, మేరీ స్టెల్లా కళాశాల, సిద్ధార్థ డిగ్రీ కళాశాల సహా అనేక ఇంజనీరింగ్ కళాశాలలు ఉన్నాయి. జిల్లాలో అనేక ప్రసిద్ధ ఆర్ట్స్, సైన్స్ కళాశాలలు కూడా ఉన్నాయి.
కళాశాలలు
డా.ఎన్.టి.ఆర్. యూనివర్సిటి ఆఫ్ హెల్త్ సైన్సెస్. విజయవాడ
శ్రీమతి.వెలగపూడి దుర్గాంబ సిద్ధార్థ లా కాలేజ్, విజయవాడ.
జెస్తో కలినరి అండ్ హాస్పిటాలిటి ఎకాడమి, గవర్నర్ పేట, విజయవాడ
ఎస్.ఆర్.ఆర్. అండ్ సి.వి.ఆర్. గర్నమెంట్ కాలేజ్, విజయవాడ.
కె.బీ.న్.కాలేజ్,విజయవాడ.
సయ్యద్ అప్పల స్వామి కాలెజ్, విజయవాడ.
శాతవాహన కాలెజ్, విజయవాడ.
ఆంధ్ర లయెల కళాశాల, విజయవాడ.
ఆకర్షణలు
జిల్లాలో చారిత్రక స్థలాలు
మచిలీపట్నంపోర్ట్
చింతలపాడు
గుడివాడ
కొండపల్లిఖిల్లా
మహాత్మా గాంధీ హిల్, విజయవాడ
ఘంటసాల
మతపరంగా ముఖ్యమైన స్థలాలు
క్రీడలు
ఈ జిల్లాలో కబాడీ ఆట అత్యంత ప్రజాదరణ ఉన్న క్రీడతో పాటు క్రికెట్, వాలీబాల్ మరియు టెన్నిస్ ఆటలు ప్రాముఖ్యమైనవి. విజయవాడ లోని ఇందిరా గాంధీ మున్సిపల్ స్టేడియం నందు, భారతదేశం యొక్క అంతర్జాతీయ వన్డే క్రికెట్ మ్యాచ్లు జరుగుతాయి. ప్రముఖ హాకీ క్రీడాకారుడు బలరాం ఈ జిల్లాకు చెందినవారు.
ప్రముఖవ్యక్తులు
కృష్ణా జిల్లా ఎందరో ప్రఖ్యాత వ్యక్తులకు, నిపుణులకు ఆలవాలం. వీరిలో కొందరికి ఇది పుట్టినిల్లు కాగా, మరికొందరికి కార్యస్థానం. తమ తమ రంగాల్లో చిరస్మరణీయమైన సేవలందించిన ఎంతో మంది కృష్ణా జిల్లాతో ప్రత్యక్ష/పరోక్ష సాంగత్యాన్ని కలిగి ఉన్నారు. అంశాల వారీగా వారిలో కొందఱు...
లలిత కళలు మరియు సాహిత్యం:
రచయితలు
సూర్యదేవర రామమోహనరావు
సంస్కరణ మరియు అభ్యుదయం:
శాస్త్ర సాంకేతిక రంగాలు:
ఆచార్య సూరి భగవంతం - ప్రఖ్యాత భౌతిక శాస్త్రవేత్త
డా. కానూరి లక్ష్మణరావు - ప్రఖ్యాత ఇంజనీర్
డా. నోరి దత్తాత్రేయుడు - కాన్సర్ వైద్య నిపుణులు
వేలూరి వేంకట కృష్ణ శాస్త్రి - పురావస్తు నిపుణులు, చరిత్ర కారులు
డా. సమరం
క్రీడలు:
సి. కె. నాయుడు
కోనేరు హంపి
చేతన్ ఆనంద్
రంగస్థలం మరియు సినిమా:
రాజకీయం
మండలి వెంకటకృష్ణారావు
వసంత నాగేశ్వరరావు
మండలి బుద్ధ ప్రసాద్
లగడపాటి రాజగోపాల్
సింహాద్రి సత్యనారాయణ
సంగీతం, సాహిత్యం
కొమర్రాజు వెంకట లక్ష్మణరావు
పొట్లూరి వీరరాఘవయ్య చౌదరి
గాయక సార్వభౌమ పారుపల్లి రామకృష్ణయ్య పంతులు
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بنو النضير هي قبيلة يهودية كانت تسكن غرب شبه الجزيرة العربية حتى القرن السابع الميلادي في المدينة المنورة (يثرب)، قام النبي محمد بن عبد الله صلى الله عليه وسلم بطردهم من المدينة المنورة بعد أن قام بغزوهم.[1][2][3]
لمحة تاريخية
عاش بنو النضير في المدينة لقرون، ثم طردهم النبي محمد صلى الله عليه وسلم منها بعد أن أعلن قيام دولته، فلما أرادوا الخروج أخذوا كل شي يستطيعونه وهدموا بيوتهم وساروا ، فمنهم من نزل خيبر على بعد مائة ميل من المدينة ومنهم من نزل في ناحية جرش بجنوب الشام ولم يسلم منها غير اثنان.
و قد ذكر القرآن هذه الحادثة في سورة الحشر": .
قتل حيي بن أخطب
حيي بن أخطب زعيم بني النضير الذين طردهم محمد، وكان حيي قد دخل مع بني قريظة في حصنهم بعد الجلاء، حين رجعت عنهم قريش وغطفان، وفاء لكعب بن أسد بما كان عاهده عليه.
أُتي بحيي بن أخطب، وعليه حله له فقَّاحية قد شقها عليه من كل ناحية قدر أنملة أنملة لئلا يُسلبها، مجموعة يداه إلى عنقه بحبل.
فلما نظر إلى محمد ، قال: أما والله ما لمت نفسي في عدواتك، ولكنه من يخذل الله يخذل، ثم أقبل على الناس، فقال: أيها الناس، إنه لا بأس بأمر الله، كتاب وقدر ملحمة كتبها الله على بني إسرائيل، ثم جلس فتم ذبحه.
فقال جبل بن جوال الثعلبي في مقتل حيي:
لعمرك ما لام ابن أخطب نفسه * ولكنه من يخذل الله يخُذلِ
لجاهد حتى أبلغ النفس عذرها * وقلقل يبغي العز كل مُقلقَل
الجلاء من المدينة المنورة
اغزوة بني النضير حدثت في السنة الرابعة للهجرة في ربيع الأول في منازل بني النضير جنوب المدينة المنورة بين قوات المسلمين في المدينة ويهود بني النضير الذين بلغ عددهم 1500. أتت هذه الغزوة بعد محاولة يهود بني النضير محاولة اغتيال الرسول محمد صلى الله عليه و سلم إذا جائهم طالباً مساعدتهم في دية قتيلين. عاد إلى المدينة وأرسل إليهم طالباً منهم الخروج من المدينة، فتحصنوا وحاصرهم عدة ليالي وبعد الحصار طلبوا إجلائهم عن المدينة فوافق الرسول محمد شرط أن يأخذوا فقط ما تحمله الإبل من دون السلاح[1].
غزوة خيبر
لما قدم النبي محمد من الحديبية ، مكث بالمدينة عشرين يوما ، أو قريبا منها . ثم خرج إلى خيبر، وقد كانت مدينة كبيرة ذات حصون ومزارع على بعد ثمانين ميلا من المدينة في جهة الشمال ، وقد أعلن ألا يخرج معه إلا راغب في القتال، فلم يخرج إلا أصحاب الشجرة وهم ألف وأربعمائة. فلما أشرف على خيبر أمر الجيش بالوقوف ، ثم قال: " اللهم رب السماوات وما أظللن ، ورب الأرضين وما أقللن ، ورب الشياطين وما أظللن ، ورب الرياح وما أذرين ، فإنا نسألك خير هذه القرية وخير أهلها وخير ما فيها ، ونعوذ بك من شر أهلها وشر ما فيها ، أقدموا بسم الله " .
وكانت خيبر منقسمة إلى شطرين، شطر فيها خمسة حصون: حصن ناعم، حصن الصَّعْب بن معاذ، حصن قلعة الزبير، حصن أبي وحصن النِّزَار. الحصون الثلاثة الأولي منها كانت تقع في منطقة يقال لها (النطاة)، أما الحصنان الآخران فيقعان في منطقة تسمي (بالشَّقِّ).
أما الشطر الثاني، ويعرف بالكتيبة، ففيه ثلاثة حصون فقط: حصن القَمُوص، حصن الوَطِيح وحصن السُّلالم.
وفي خيبر حصون وقلاع غير هذه الثمانية، إلا أنها كانت صغيرة، لا تبلغ إلى درجة هذه القلاع في مناعتها وقوتها.
وقد كانت راية جيش محمد لعلي بن أبي طالب حيث أنه لما كانت ليلة الدخول ـ وقيل: بل بعد عدة محاولات ومحاربات ـ قال النبي: (لأعطين الراية غدًا رجلاً يحب الله ورسوله ويحبه الله ورسوله) فلما أصبح الناس غدوا عليه ، كلهم يرجو أن يعطاها، فقال: (أين علي بن أبي طالب؟) فقالوا: يا رسول الله، هو يشتكي عينيه، قال: (فأرسلوا إليه) ، فأتي به فبصق محمد في عينيه، ودعا له، فبرئ، كأن لم يكن به وجع، فأعطاه الراية.
وبات المسلمون الليلة الأخيرة التي بدأ في صباحها القتال قريبًا من خيبر، ولا تشعر بهم اليهود، وكان النبي إذا أتي قومًا بليل لم يقربهم حتى يصبح، فلما أصبح ركب المسلمون، فخرج أهل خيبر بمساحيهم ومكاتلهم، ولا يشعرون، بل خرجوا لأرضهم، فلما رأوا الجيش قالوا: محمد، والله محمد والخَمِيس ، ثم رجعوا إلى مدينتهم، فقال محمد: (الله أكبر، خربت خيبر، الله أكبر، خربت خيبر، إنا إذا نزلنا بساحة قوم فساء صباح المنذرين).
وتدنى محمد الأموال يأخذها مالاً مالا ، ويغزوها حصناً حصنا ، فكان أول ما غزى من حصونهم حصن ناعم، وقد أصاب منهم أسرى، منهن صفية بنت حيي بن أخطب ، وبنتي عم لها ؛ فأخذها لنفسه .
والقتال إنما دار في الشطر الأول من خيبر في النطاة والشق ، أما الشطر الثاني في الكتيبة فحصونها الثلاثة مع كثرة المحاربين فيها سلمت دونما قتال، حيث حاصرهم محمد في حصونهم حتى سألوه أن أن لا يقتلهم .
فلما أراد أن يطردهم قالوا: نحن أعلم بهذه الأرض منكم . فدعنا نكون فيها . فأعطاهم إياها ، على شطرأن يأخذها ثمرها وزرعها،
انظر أيضا
بنو قريظة
بنو قينقاع
صفية بنت حيي بن أخطب
الجهاد
مراجع
وصلات خارجية
تصنيف:بنو النضير
تصنيف:تاريخ المدينة المنورة
تصنيف:تاريخ إسلامي
تصنيف:تاريخ شبه الجزيرة العربية
تصنيف:قبائل يهودية عربية
تصنيف:يهود
تصنيف:يهود حجازيون
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Югосла́вия — государство в Европе, существовавшее на Балканском полуострове с 1918 по 2003 год. Имело выход к Адриатическому морю.
В Большую Югославию — до 1947 года унитарное государство (КСХС, Королевство Югославия), с 1947 года федеративное государство (ФНРЮ, СФРЮ) входило 6 государств: Сербия, Черногория, Хорватия, Словения, Македония, Босния и Герцеговина, ныне все независимые. В Малую Югославию — (СРЮ) — входили ныне независимые государства Черногория и Сербия.
Идея государственно-политического объединения южнославянских этносов зародилась в XVII веке на территории Славонии и Хорватии и была развита в XIX веке хорватскими интеллектуалами-иллиристами. Югославия образовалась (как Королевство Сербов, Хорватов и Словенцев) после Первой мировой войны и распада Австро-Венгерской империи в начале XX века. В конце XX — начале XXI века страна распалась на несколько государств.
Государственным языком в результате сотрудничества сербских и хорватских лингвистов первоначально был сербохорватский или хорватосербский. После Второй мировой войны языки союзных республик были объявлены равноправными государственными языками, хотя сербохорватский и сербский пользовались относительным преимуществом. Основное население — южные славяне: боснийцы (бошняки), сербы, хорваты, словенцы, македонцы, черногорцы, а также неславянские народности — албанцы и венгры. Меньшими общинами были представлены турки, русины, словаки, румыны, болгары, итальянцы, чехи, цыгане.
История
Королевство Югославия (1918—1945)
После распада Австро-Венгрии в 1918 году югославянские земли Хорватии, Словении, Боснии и Герцеговины, Далмации, Сербии и Черногории объединились в государство, получившее название Королевство Сербов, Хорватов и Словенцев (КСХС). В 1929 году, после государственного переворота, оно было переименовано в Королевство Югославия (КЮ)[1].
Вторая мировая война
В годы Второй мировой войны Югославия воевала на стороне Антигитлеровской коалиции, была оккупирована нацистской Германией в результате т. н. Апрельской войны[2]. Кампания началась 6 апреля 1941 года с массированной бомбардировки практически незащищенного Белграда. Авиация Югославии и ПВО города были уничтожены в ходе первых же налётов, значительная часть Белграда была превращена в руины, потери гражданского населения исчислялись тысячами. Была разорвана связь между высшим военным командованием и частями на фронте, что предопределило исход кампании: миллионная армия королевства была рассеяна, захвачено не менее 250 тыс. пленных. Потери нацистов составили 151 убитыми, 392 ранеными и 15 пропавшими без вести.
После оккупации на территории Югославии развернулось обширное партизанское движение[3], по размаху самое значительное в Европе (не считая СССР). Оккупационными властями на территории страны было создано прогитлеровское Независимое государство Хорватия (Хорватия, Босния и Герцеговина). Однако в оккупированной Югославии гитлеровцы вынуждены были держать более 35 дивизий для сдерживания партизан — больше, чем в любой другой европейской стране (например, во Франции германские оккупационные войска составляли 28 дивизий). Воюя с гитлеровцами, глава коммунистического движения Иосип Броз Тито нашёл общий язык как с Западом, так и поначалу с СССР. Преимуществом Тито был многонациональный состав его движения, тогда как другие движения были мононациональными.
Несостоявшаяся «Великая Югославия»
После войны Иосип Броз Тито предполагал создание Великой Югославии в рамках реализации планов создания Балканской Федерации, рассматривавшихся им совместно со Сталиным и Димитровым. Тито рассчитывал сформировать социалистическую федерацию с центральной властью Белграда из территории Первой Югославии, а также Болгарии и Албании в качестве федеральных республик. Поначалу были созданы югославо-албанский и югославо-болгарский экономическо-таможенные союзы с интеграцией албанской экономики в югославскую, однако затем ни Великая Югославия, ни хотя бы присоединение к Югославии Албании реализованы не были ввиду возникших разногласий с руководством Албании и Болгарии, а затем и разрыва со Сталиным.
Социалистическая Югославия (1945—1991)
Югославия была федерацией из шести социалистических республик под названиями: Демократическая Федеративная Югославия (с 1945), Федеративная Народная Республика Югославия (ФНРЮ) (с 1946), Социалистическая Федеративная Республика Югославия (СФРЮ) (c 1963).
В качестве модели национального строительства в социалистической Югославии был избран федерализм. Согласно Конституции СФРЮ, принятой в 1974 г., субъектами федерации являлись шесть социалистических республик и два автономных социалистических края. Все народы Югославии были признаны равноправными. Титовская национально-государственная реформа привела к определённым успехам: стали постепенно забываться этнические чистки военных лет, в стране снизился накал межэтнических отношений. Руководство страны заявило о появлении новой наднациональной этнической общности — югославского народа. Количество людей, считающих себя югословенами (как правило, это были люди, рождённые в смешанных браках), увеличивалось от переписи к переписи, к моменту распада Югославии их доля в населении страны превысила 5 %.
Разногласия между лидером коммунистической партии Югославии Иосипом Броз Тито и Сталиным привели к разрыву отношений с СССР, в 1948 году югославская компартия была исключена из Информбюро. В 1949 году советское руководство разорвало Договор о дружбе, взаимной помощи и послевоенном сотрудничестве с Югославией. Началась пропагандистская кампания, направленная на дискредитацию югославского руководства. Хотя, после смерти Сталина, она утратила былую активность, Югославия не стала членом Организации Варшавского договора, а напротив, в противовес и ей, и НАТО создала Движение неприсоединения, включавшее преимущественно деколонизированные страны. В годы правления Тито Югославия играла роль посредника между Западом и некоторыми коммунистическими режимами (такими, как маоистский Китай).
Режим Иосипа Броз Тито играл на противоречиях между государствами западного и восточного блоков, что позволяло Югославии в послевоенные десятилетия довольно быстро развиваться.
Процессы децентрализации в Югославии
Экономическая и политическая системы послевоенной Югославии начинали строиться по советскому образцу, но конфликт с Информбюро, произошедший в 1949 году, стал предпосылкой к трансформации строящегося уклада. После этого конфликта был принят закон, задавший тенденцию развития югославского общества на десятилетия вперёд — «Основной закон об управлении государственными хозяйственными предприятиями и высшими хозяйственными объединениями со стороны трудовых коллективов»[4]. Формально этот закон лишь давал право рабочим коллективам избирать рабочий совет, обладающий всей полнотой власти на предприятии, однако, с другой стороны, именно он открыл путь на децентрализацию Югославии.
Следующим шагом на этом пути стал закон «Об основах общественного и политического устройства Федеративной Народной Республики Югославии и о союзных органах власти»[5], который закреплял принципы самоуправления и частично распространял их на политическую сферу. Заданный курс укрепили постановления 6-го съезда КПЮ, прошедшего в 1952 году, который установил, что в условиях новой общественно-политической системы, в основу которой положены принципы рабочего самоуправления, главной задачей партии является идейно-политическая работа по воспитанию масс. Эта формулировка была закреплена новым уставом СКЮ, принятым на этом съезде.
Курс на децентрализацию государства в общественном сознании укрепил ряд статей видного политического деятеля Милована Джиласа в газете «Борба», вышедших зимой 1953/54, где автор требует продолжения демократизации страны. Эти статьи взорвали общественное мнение, и, вероятно, отчасти поэтому взятый курс был продолжен, несмотря на некоторые сомнения в верховном руководстве страны.
Распад Югославии
Факторами распада Югославской федерации считают смерть Тито и фиаско проводимой его преемниками экономической и национальной политики, распад мировой социалистической системы, всплеск национализма в Европе (причём не только в странах Центрально-Восточного региона). В 1990 году во всех шести республиках СФРЮ были проведены местные выборы. Победу на них всюду одержали националистические силы.
Ввиду нарастающих национальных разногласий по завещанию Тито после его смерти пост президента страны был упразднён, а во главе страны встал Президиум, члены которого (главы союзных республик и автономных областей) ежегодно сменяли друг друга поочерёдно. Кратковременное экономическое чудо в середине 1980-х гг. закончилось стремительной инфляцией и развалом экономики, что привело к обострению отношений между экономически более развитыми Сербией, Хорватией и Словенией, и остальными республиками.
В ходе политического кризиса в 1991 году отделились четыре из шести республик: Словения, Хорватия, Босния и Герцеговина, Македония. На территорию сначала Боснии и Герцеговины, а затем автономного края Косово были введены миротворческие силы ООН. Для урегулирования, согласно решению ООН, межэтнического конфликта между сербским и албанским населением Косово край был переведен под протекторат ООН (см. Война НАТО против Югославии (1999)). Тем временем Югославия, в которой в начале XXI века оставалось две республики, в 2003 году превратилась в Сербию и Черногорию. Окончательный распад на составляющие произошёл в 2006 после черногорского референдума о независимости от Сербии.
Состав
Большая Югославия
Королевство Сербов, Хорватов и Словенцев (КСХС), Королевство Югославия (КЮ)
Дравская бановина
Приморская бановина
Зетская бановина
Савская бановина
Моравская бановина
Врбасская бановина
Дринская бановина
Вардарская бановина
Дунайская бановина
Белград
Хорватская бановина (с 1939) — возникла в результате объединения Савской и Приморской бановин
Федеративная Народная Республика Югославия (ФНРЮ), Социалистическая Федеративная Республика Югославия (СФРЮ)
Социалистическая Югославия состояла из социалистических республик (до 1963 года — народных республик); кроме того, в составе Сербии имелись два социалистических автономных края (до 1963 года — автономных областей).
* Ныне — Подгорица
Малая Югославия
«Третья Югославия» — Союзная Республика Югославия (СРЮ)
Сербия (союзная республика)
Косово и Метохия (автономный край, фактически — международный протекторат)
Воеводина (автономный край)
Черногория (союзная республика)
См. также
Югославы
Орден народного героя
Создание Югославии
Распад Югославии
Международная комиссия по бывшей Югославии
Вооружённые силы Югославии
Титоизм
Примечания
Литература
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Ссылки
CIA report from November 1970
: an article in the by Charles King about the dissolution of Yugoslavia.
from the
*
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