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3,807 | 479 | 88,727,366 | これまで、何度か形を変えてアニメ化されているが、メインキャラクターはOVA版以降ほとんど変更されることなく、一貫して同じ声優が担当し続けている。ただし舞台設定はTVシリーズ開始に伴い、一旦リセットされている。アニメ作品の路線や作風はOVA発売時、またはTVアニメの本放送時の原作の作風に沿っている。1993年から1994年にかけて全5巻が制作・発売された。第5話は原作の最終回として想定したストーリーと原作者本人が語っている。またアメリカで発売されたレーザーディスク版は両面で完全英語版と完全日本語版の全く同じものが収録されている(ただし、日本語版のオープニングとエンディングのスタッフロールなどのキャプションは日本版と異なる)。1998年4月6日 - 1999年3月29日に、WOWOWのアニメコンプレックス枠内で全48話が放送された。 | アニメ | ああっ女神さまっ |
3,808 | 479 | 88,727,366 | 2007年12月7日からTOKYO MXにてセレクション放送(地上波初放送)。キッズステーションでも放送されている。この作品はコミックに掲載されていた外伝的なもので、ウルド、スクルド、岩ちゃんをメインに据えて描かれているため、ベルダンディーは脇役に回ることが多く、螢一は声のみの登場である。また2クール目(第25話)からはマーラーも登場する。ナレーションは『奥さまは魔女』で有名な中村正である。第1-13話ではベルダンディー役の井上喜久子が産休を取っており、岡村明美が代役を務めた。また、放送当時はまだセルアニメが多かったことに対し、同作では全編がデジタルアニメで制作されているのも特徴である。OVAまでのスタッフは劇場版の制作に関わっていたためアニメの制作会社が同作のみ異なり路線も違う異色作となっている。2000年10月21日、松竹洋画系で劇場公開された。興行収入は1.5億円。 | アニメ | ああっ女神さまっ |
3,809 | 479 | 88,727,366 | 同時上映:『エクスドライバー Clip』サブタイトルは「ああっ○○○○っ(?)」で統一されており、TV本放送時は「ああっ」が付されていなかった第1話についても「ああっ」が付いたものに変更されている。下記の各話リストはDVDのサブタイトルに準じている。講談社限定版企画として、2011年2月23日発売のコミックス第42巻限定版および、2011年9月22日発売のコミックス第43巻限定版、2013年8月23日発売コミックス第46巻限定版同梱のOVA作品。原作にない完全オリジナルストーリー。 | アニメ | ああっ女神さまっ |
3,810 | 480 | 88,399,880 | 西原 理恵子(さいばら りえこ、1964年11月1日 - )は、日本の漫画家。一般財団法人高須克弥記念財団理事長。高知県高知市出身。1988年『ちくろ幼稚園』でデビュー。前夫はカメラマンの鴨志田穣、パートナーは高須クリニック創業者で東京院院長の高須克弥(事実婚)。代表作は『ぼくんち』、『毎日かあさん』など多数。 | __LEAD__ | 西原理恵子 |
3,811 | 480 | 88,399,880 | 高知県高知市浦戸出身。私立土佐女子高等学校中退、大学入学資格検定合格、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。私立土佐女子高等学校在学中に飲酒によって退学処分を受けるが、納得のいかない一方的な処分に不服を申し立て、学校側を訴える。その事件を取材に来たフリーライターの保坂展人(のち社民党衆院議員を経て2011年より世田谷区長)と知り合う。中退後は美大受験を志すが、美大受験の前日にギャンブルで莫大な借金を作った継父が縊死を遂げる。その後大検に合格し、美大受験のための予備校である立川美術学院に通う。1年後、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科に入学する。在学中から、飲食店での皿洗いやミニスカパブでホステスのアルバイトをしながら描き続けていた成人雑誌のカットが小学館の編集者八巻和弘の目に留まり、1988年『ちくろ幼稚園』(『ヤングサンデー』)でデビュー。1989年3月大学卒業。 | 経歴 | 西原理恵子 |
3,812 | 480 | 88,399,880 | その後、パチンコ雑誌、麻雀漫画誌、漫画週刊誌などに連載を持つ。数年間パチンコや高レートの麻雀に熱中する日々が続く。結果、損失金額は10年間で約5000万円となる。1992年には『週刊朝日』誌上に神足裕司とタッグを組み連載したグルメレポ漫画『恨ミシュラン』を発表。1996年に企画された旅行体験ルポ漫画『鳥頭紀行』のアマゾン取材旅行で、カメラマンとして同行して知り合ったフォトジャーナリスト鴨志田穣と結婚。やがて一男一女をもうけるも、鴨志田のアルコール依存症やDV、西原の多忙によるすれ違いなどが原因で2003年に離婚。『毎日かあさん』(毎日新聞紙上の連載)2006年8月掲載分にて復縁を匂わせ、婚姻届を出さない事実婚の形で同居を再開したが、その時点で鴨志田は末期の腎癌であり、半年後の2007年3月20日に死去。葬儀では西原は元妻として喪主を務めた。 | 経歴 | 西原理恵子 |
3,813 | 480 | 88,399,880 | その後、3か月間活動を休止していたが、親友であるゲッツ板谷原作の映画『ワルボロ』の宣伝用イラスト制作を機に、『毎日かあさん』などの連載を再開。2001年に渋谷PARCOにて初の展示会『西原理恵子 大ブレークへの道』を開催。2009年には同場所にて第二回展示会『バラハク』を開催。2009年より、交際中の高須克弥が院長を務める高須クリニックのCMに出演している。2010年には菅野美穂主演、吉田大八監督で『パーマネント野ばら』が映画化された他、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』を原作として『崖っぷちのエリー〜この世でいちばん大事な「カネ」の話』が山田優主演でテレビドラマ化された。 「毎日かあさん」の実写映画化決定の旨を自身のブログで発表。 「かあさん」は小泉今日子。「鴨ちゃん」は永瀬正敏。2011年2月5日に全国松竹系にて実写映画版が公開された。 | 経歴 | 西原理恵子 |
3,814 | 480 | 88,399,880 | 2016年、高須克弥との共著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)が、「編集上の不備があった」として回収の対象となる。2017年、高須克弥が民進党代表(当時)の蓮舫と民進党議員(当時)の大西健介を名誉毀損で訴えた裁判では法廷画家を務めている。1997年:『ぼくんち』で文藝春秋漫画賞。2005年:『毎日かあさん(カニ母編)』で文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞、『毎日かあさん』『上京ものがたり』で手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2008年:第29回日本雑学大賞受賞。雑学倶楽部主催。2011年:『毎日かあさん』で第40回日本漫画家協会賞参議院議長賞を受賞。2013年:第6回ベストマザー賞(文芸部門)受賞。日本マザーズ協会主催。 | 経歴 | 西原理恵子 |
3,815 | 480 | 88,399,880 | デビュー当時は原律子のエロギャグを写し書きしていたが、誰からも気付いてもらえなかったことに寂しさを感じたと語っている。絵柄は基本的に非常にラフで、特にギャグ作品では描き殴ったような印象を受ける。自ら「上達ではなく下達するタイプ」と評している。『まあじゃんほうろうき』『恨ミシュラン』『できるかな』などの、型破りな「エッセイ漫画」が前人未到の「無頼派」と評される一方、『はれた日は学校をやすんで』『ゆんぼくん』『ぼくんち』『いけちゃんとぼく』などでは「叙情性」が特徴とされる。ちなみに『まあじゃんほうろうき』のコラムで片山まさゆきは「彼女がその気になれば、すぐにでも童話作家になれる」と評している。元夫の鴨志田穣や友人の金角(後に、ゲッツ板谷に改名)・銀角らがライターとしてデビューしたのも西原がきっかけであると言われている。 | 作風 | 西原理恵子 |
3,816 | 480 | 88,399,880 | 『いけちゃんとぼく』『女の子ものがたり』『パーマネント野ばら』など映画化が相次いでいる理由を問われ、「不況に強かったかな、と。景気が良かったら、もっとお金のかかる大作を映画化するんだろうけど。私の作品は、現実はキッチリ描くけど、最後はちょっとだけ笑っていただけるところがある。それが理由かな。みなさん精神的にキツい局面なので、夢みたいなセレブ生活なんて見たくないのかもしれませんね。」と語った。『ぼくんち』の題名はけらえいこの漫画『あたしンち』をもじったものであると言われていたが作者本人はこれについて「よりぬき毎日かあさん」内のインタビューにて否定している。文章担当者(山崎一夫、鴨志田穣、清水義範、末井昭、ゲッツ板谷ら)と共著扱いになっている書が多数存在する。『毎日かあさん』では男女差別と思われる表現もあった。また、「私は悪くない」という言葉を「北朝鮮」と表現した。 | 作風 | 西原理恵子 |
3,817 | 480 | 88,399,880 | 作品内の自画像は度々変化している。初期の頃はおかっぱ頭に黄色のシャツと赤いスカート姿だったが、『まあじゃんほうろうき』では麻雀に負けると羽をむしられた鳥の姿に変身し、『鳥頭紀行ジャングル編』辺りからモンペを穿き手ぬぐいを首に巻いた土木作業員のような格好になった。『鳥頭紀行 くりくり編』にてミャンマーで出家して以降は坊主頭(髪は前髪の一房のみ)と修行衣姿になる(この姿は、本人によれば読者から「腐ったキューピー人形」と投書が来るほど不評だったらしい)。そして2児の母となった現在は、お団子頭を玉かんざしでまとめ割烹着にサンダル履きという「古き良き時代の庶民的おかん」というべき格好をしている(青島幸男扮する『意地悪ばあさん』の伊知割石と、ばってん荒川扮するお米ばあさんを、モデルにしているという)。 | 作風 | 西原理恵子 |
3,818 | 480 | 88,399,880 | ただし毎日新聞で『毎日かあさん』を連載開始してからは、著作権の関係から新たな作品ではこの割烹着スタイルは使用されておらず、2007年〜2009年連載の『西原理恵子の太腕繁盛記』以降では「おかっぱ頭で首に手ぬぐい、黄色のシャツと青スカート」という自画像になっている。 | 作風 | 西原理恵子 |
3,819 | 480 | 88,399,880 | 同年齢の親友である小説家の岩井志麻子、編集者の中瀬ゆかりとともに「熟女キャッツアイ」を名乗り、トークショーなどの活動を行っている。また、「熟女キャッツアイ」はともに高須クリニック院長の高須克弥との親交が深く、高須の支払いで食事や旅行などしている。高須の私財を基に設立された高須克弥記念財団においては、西原が理事長に就任している。2012年10月11日発売の『女性セブン』では高須克弥との対談において、高須の妻の死去後、2年間にわたって「交際」していることを明らかにした(知り合ったのは10年前という)。2018年8月より、高須とは事実婚の関係にある。敢えて入籍せず事実婚を選んだ理由として高須は「籍を入れると何かあった時に全部不倫と言われる」と述べており、西原もこの考え方に賛成している。2012年2月まで、TOKYO MXの夕方帯番組『5時に夢中! | 人物 | 西原理恵子 |
3,820 | 480 | 88,399,880 | 』に、同番組のスポンサーである高須克弥とともに出演していた。同番組では高須、西原、ファッションモデルのジョナサン・シガーのそれぞれの頭文字より「TSJお稽古クラブ」と題したレギュラーコーナーを持ち、毎週出演をしていた。しかし、2012年2月23日に出した際、ディズニーランドの清掃業者に関する本を酷評し、さらに3月15日には、ど真ん中に牡丹の花が描かれている本の表紙を見て「牡丹ど真ん中、まんこど真ん中」と失言。その結果、5時に夢中!を降板させられた。この降板の件で、本人が「大ファン」という東京スポーツの一面記事に載り「人生最良の日を迎えられました」とブログでコメントしている。幼少より映画鑑賞を好み、自身の作品が映画化される際はほぼカメオ出演をしている。 | 人物 | 西原理恵子 |
3,821 | 480 | 88,399,880 | 同郷であるやなせたかしの訃報に際し、毎日新聞2013年10月20日号の「毎日かあさん」で追悼の意思を表しており、その中で「自身のサイン会にて、不機嫌だった子供に対しアンパンマンのイラストとやなせたかしのサインを勝手に書いてプレゼントしたことがあり、そのことをやなせに対して話すと「いいよ、ぼくも売れないころドラえもんのサイン描いてたから」と承諾された」というエピソードを紹介した。子供は前夫の鴨志田との間に一男一女がいる(二人は西原の漫画にもしばしば登場する)。西原と高須が共に朝帰りする様子を『フライデー』に掲載された際は「息子たち公認」と書かれたが、息子曰く「んなもん誰も認めてねーよ」とのこと。ただし「何としてでも漫画家になるんだという不屈の精神は尊敬している」とのことで、家族仲は悪くない。但し長女とは疎遠になりつつあり、約2年間会話をしていない、と自著に描いている。 | 人物 | 西原理恵子 |
3,822 | 481 | 87,734,487 | 里中 満智子(さとなか まちこ、女性、1948年1月24日 - )は、日本の漫画家、大阪芸術大学教授。公益社団法人日本漫画家協会理事長(2018年6月 - )。大阪府大阪市出身。描いた作品数は2019年時点で500を超える。 | __LEAD__ | 里中満智子 |
3,823 | 481 | 87,734,487 | 小学校入学に際して何か本を買ってあげるといわれて親と本屋に行った時に当時創刊された月刊なかよしを購入する。その中の手塚治虫『とんから谷物語』を好きになりそこから、少年マンガも読み始めて『鉄腕アトム』や、すでに連載が終わっていたが当時はまだ珍しかった単行本になっていた『ジャングル大帝』を愛読した。『火の鳥』を模倣して自分で書いた『愛のオーロラ』で時間の流れをコマ割りで読者に確実に伝える手塚の技法を模倣した。19歳の時、生の手塚治虫に見かけた時、気持ちがフワフワして、緊張した。24歳の時、新幹線ひかりで大阪まで手塚治虫と2人だけで移動する事になり、究極のエロティシズムを書きたい話や奥様の話を聞くというチャンスにめぐまれた。中学在学中から漫画家を志していた。成績は良かったが、漫画が悪書とみなされていた時代であったので、学校の教師や母親は漫画家になることには強く反対していた。 | 来歴 | 里中満智子 |
3,824 | 481 | 87,734,487 | 「テストで1問間違えたら、漫画を1冊捨てる」という条件を母親に出し、優先順位をつけて本当に残したい蔵書は守りつつ、漫画との関わりを続けた。手塚作品が様々な歴史の知識や科学理論を背景としていることから幅広い読書の必要を痛感し、高校進学後も含めて図書館の本を読み漁った。16歳で第1回講談社新人漫画賞で1位入賞し、そのままデビュー。週刊誌が取材に来る一躍脚光を浴び、親や教師も漫画家になることを賛成するようになった。人物描写力を磨くため、目をつぶって新聞で指さした記事の当事者になりきって考えるという独特のトレーニングを編み出した。大学受験が近づくと、漫画業を一時休むことを勧められたが、「学校は一生は行かないが、仕事は一生」と考えて、3年生で大阪市立桜宮高等学校を中退した。 | 来歴 | 里中満智子 |
3,825 | 481 | 87,734,487 | その後、当時の少女漫画で描かれたような「恋」や「ときめき」だけでなく、激しい愛のあり方や、愛によって生まれる憎しみや苦しみ、道ならぬ恋愛などを描いた。それらはやがて少女漫画というジャンルを超えて、大人の女性も読む恋愛ドラマとしてその世界を広げていった。近年では、『天上の虹』(2015年完結)やギリシア神話、名作オペラ、『旧約聖書』のコミカライズ等を出版している。創作活動以外にも多彩な社会活動を行なっており、過去現在ともに学識経験者・文化人として実績がある。「コミック表現の自由を守る会」世話人、「漫画原稿を守る会」賛同者など、漫画家の権利と地位向上に関する活動にも熱心である。国が計画中の漫画・アニメ等を展示する施設「国立メディア芸術総合センター(仮称)」を推進する立場を取っており、新聞報道などで同施設が「国立漫画喫茶」と書き立てられたことに「誤解されていると危惧している」とコメントしている。 | 来歴 | 里中満智子 |
3,826 | 481 | 87,734,487 | その上で、近年取り上げられている児童ポルノ法改正案に対しては「表現の自由を侵害する」として慎重な立場を取っており、創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志の賛同人として名を連ねている。2010年の東京都青少年の健全な育成に関する条例改正に反対する記者会見にもちばてつや、永井豪、竹宮惠子らとともに出席している。また放送倫理・番組向上機構(BPO)評議員会議長代行を務める。 | 来歴 | 里中満智子 |
3,827 | 481 | 87,734,487 | また、漫画『ドカベン』に登場する里中智の名前の元となった人でもある。『野球狂の詩』の富樫平八郎が主人公である「~10番」シリーズでは子供や女性の作画で協力している。私生活では二十歳のとき編集者と結婚、その後、離婚している。 | 人物 | 里中満智子 |
3,828 | 481 | 87,734,487 | 西暦は受賞年を示す。 | 受賞歴 | 里中満智子 |
3,829 | 482 | 87,781,539 | 椎名 高志(しいな たかし、1965年〈昭和40年〉6月24日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。大阪府立箕面高等学校、京都市立芸術大学卒業。血液型はO型。妻は高橋留美子の元・アシスタントである清水彩。 | __LEAD__ | 椎名高志 |
3,830 | 482 | 87,781,539 | 高校時代に「小学館新人コミック大賞」佳作受賞(作品名は非公表)、また、アニメーションを製作していた。そのときのメンバーに吉松孝博がいる。1989年、『週刊少年サンデー』(小学館)に掲載の「Dr.椎名の教育的指導!!」でデビュー。主に『週刊少年サンデー』などで活動する。デビュー直後は4コマ漫画や読みきりを描いており、『(有)椎名百貨店』にまとめられた。それに収められている作品はパロディが多用されている。藤子・F・不二雄を心の師と仰いでいる。後に『GS(ゴーストスイーパー)美神 極楽大作戦』で長編連載を持つようになった。アニメ『GS美神』では鶴ひろみが美神令子を演じたが、椎名は鶴のデビュー作『ペリーヌ物語』を少年期に見ており、それ以来のファンだったという。また、自身の結婚式では鶴に司会を依頼した結果、鶴と横島忠夫役の堀川亮(現・堀川りょう)が司会を担当することになったという。 | 経歴 | 椎名高志 |
3,831 | 482 | 87,781,539 | 2005年からは『週刊少年サンデー』にて「絶対可憐チルドレン」の連載を開始。さらに途中から毎週4コマ2つまでもプラスするようになる。さすがにネタ出しがきつく、ある時期『サンデー』での入稿は一番遅かったらしい。また数ヵ月または数週間に1回の休載という事態も増えてきている。テレビアニメ第13話とOVAでは、自身も声優として参加している。2014年13号で中学生編が完結したため休載し、2014年39号から高校生編が最終章として再開。2021年33号をもって完結した。 | 経歴 | 椎名高志 |
3,832 | 483 | 87,529,259 | 篠原 千絵(しのはら ちえ、2月15日 - )は、日本の少女漫画家。神奈川県出身 。女性。血液型はO型。文星芸術大学非常勤講師。2021年12月時点で著作の累計部数が5500万部を超えている。 | __LEAD__ | 篠原千絵 |
3,833 | 483 | 87,529,259 | 1981年、『コロネット』掲載の「赤い伝説」でデビュー。別の漫画家が締め切りに遅れたことによる代理原稿だった。この際、本名と同姓の漫画家がいたために編集者から指示されてペンネームを「篠原千絵」とした。以後、主に小学館系の少女漫画雑誌にて執筆。小説家としての活動もあり、カバーとイラストも自分で手掛けている。ホラー・ミステリー・歴史調の作品が多い。1984年に連載を開始した「闇のパープル・アイ」は、1996年にドラマ化されている。2008年、『プチコミック』4月号より『刻だまりの姫』の連載を開始するが、4月号、6月号 - 9月号の5回連載で休載。その後、2009年6月号〜10月号にて連載を一時的に再開している。2009年、『ChuChu』3・4月合併号から5月号にて『セルゲイ王国の影使い』を前後編で掲載。2010年、『姉系プチコミック』創刊号より『夢の雫、黄金の鳥籠』を連載開始。 | 来歴 | 篠原千絵 |
3,834 | 483 | 87,529,259 | 2021年、画業40周年を迎えた記念の企画を『プチコミック』などで展開。 | 来歴 | 篠原千絵 |
3,835 | 483 | 87,529,259 | 趣味はドライブ。猫好きで有名。竹宮惠子の大ファンであり、幼少期彼女に貰ったサイン色紙を現在でも大切に保管している。また山田ミネコの元アシスタントであった。 | 人物 | 篠原千絵 |
3,836 | 484 | 88,880,150 | 介錯(かいしゃく)は、切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為。 | __LEAD__ | 介錯 |
3,837 | 484 | 88,880,150 | 腹部を切開しただけでは人は即死しない。従って切腹では、割腹の後、自ら喉を突き通したり心臓を刺すことが正式な作法であったが、現実問題として難しい場合が多かった。そこで切腹を行う者の負担を軽減し、また即死できない本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になった。後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立した。首を刀で斬り落とすのには、首の骨の関節を切る、また「首の皮一枚」を残すなどいくつかの作法が存在する。頭部を完全に切断せず首の皮で胴体に繋げた状態とするのは、胸の前にぶらさがった頭の重みで切腹者を前のめりの状態で死なせる配慮で、首が落ちずに危うくつながる意味の「首の皮一枚」という表現はここから出た。すなわち本来の「首の皮一枚」という状態は、別に命が助かったわけではない。 | 概要 | 介錯 |
3,838 | 484 | 88,880,150 | 切腹の儀礼化がさらに進んだ江戸時代中期以降になると、いわゆる「扇子腹」で切腹人が小刀・脇差に見立てた扇子に手を伸ばそうとした瞬間に介錯することもあった。また、首の皮一枚を残すという事が「切腹」≠「不名誉な斬首刑」を表している。剣の扱いに未熟な者は手許を誤って斬り損ね、何度も首に斬りつけたり、刀を損傷してしまうことも多々あった。三島事件の際に介錯した森田必勝は、2度斬り損ねた上に刀を曲げてしまった。介錯の不手際は切腹人を苦しめるのみならず、面目を失する行為とされたため、介錯人は通例として剣の腕の立つ者が選ばれた。 | 概要 | 介錯 |
3,839 | 484 | 88,880,150 | 介錯は、居合道の形として現代でも伝承が続いている。介錯の形を伝える流派は無双直伝英信流(無雙神傳英信流、夢想神伝流)に並流された大森流などである。夢想神伝流では順刀とも呼ばれる。 | 伝承 | 介錯 |
3,840 | 484 | 88,880,150 | 切腹に限らず、介錯の語には「補助する」という広い意味もある。鉄骨などをクレーンで吊り上げる時、補助者がロープで揺れを抑えることを「介錯する」と呼称し、舞台芸能では世話をすることを介錯と称する。例えば、文楽などの古典芸能では小道具の受け渡しを介錯と呼ぶ。現代の演劇では、幕の開閉や役者の動作の補助などを介錯と呼ぶ。照明などの角度を変更するための介錯棒という道具もある。 | 広義の介錯 | 介錯 |
3,841 | 485 | 81,733,294 | 川原 泉(かわはら いずみ、1960年9月24日 - )は、日本の漫画家。女性。鹿児島県指宿市出身、鹿児島市在住。鹿児島大学法文学部卒業。専攻は日本史。 | __LEAD__ | 川原泉 |
3,842 | 485 | 81,733,294 | 大学4年在学中に、初めての漫画「ジュリエット白書」を『花とゆめ』に投稿。その後、大学の教授の紹介で地元女子校の教員採用の面接を受けたが、良妻賢母教育と勉学のどちらを優先するかという質問に「もちろん勉学」と答えた結果、不採用となる。この件が川原のお嬢様学校コンプレックスの元となったという。以降は目標を漫画に定め、1983年、『花とゆめ』増刊に掲載された「たじろぎの因数分解」でデビューした。以来、白泉社を中心に活動。1985年、「ゲートボール殺人事件」の頃、東京へ引越しし、世田谷区に住む。1986年、アイススケート漫画『銀のロマンティック...わはは』の取材のため札幌を訪れた際に、当時の担当編集者が同じだった縁で三原順と会い、交流は三原の病没まで続いた。 | 来歴 | 川原泉 |
3,843 | 485 | 81,733,294 | 1987年、初の長期連載となった『笑う大天使(わらうミカエル)』の仕事が一段落し、一旦帰郷した際に初めてファミリーコンピュータを購入し、『女神転生』などのゲームに熱中。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』の影響で『魔法の国ザンス』シリーズなどのファンタジーにも興味を持つに至る。1988年、「笑う大天使 オペラ座の怪人」の原稿を落としてしまい、打ちひしがれた川原は都落ちを決意、荷物をまとめたが周囲の励ましにより帰郷を中止。せっかく荷造りをしたのだからと前の仕事場から徒歩5分の場所に移転する。1996年、鹿児島市に引越す。2005年、『ブレーメンII』で第36回 星雲賞コミック部門と第4回(2004年度)センス・オブ・ジェンダー賞特別賞を受賞。2006年夏、『笑う大天使』が映画化。 | 来歴 | 川原泉 |
3,844 | 485 | 81,733,294 | 架空の学校。明治36年(1903年)創立の由緒正しき名門お嬢様学校で、生徒は「アーク・エンジェルの乙女達」と呼ばれる。カトリック系聖ミカエル教団に属し、宗教の時間・朝の礼拝など、宗教行事も多く取り入れられた、幼稚園から短大まである女子校。教師の半数をシスター(外国人多数)が占める。「よき妻 よき母」を育てるための教育に重きを置き、礼儀作法や清掃活動などには大変厳格だが、多くの生徒がエスカレーター式に付属短大へ入学するためか、勉強への強い意欲はあまり見られず、偏差値は中の上程度と思われ、『不思議なマリナー』の中で、「上品だが、そのぶんバカ」との発言がある。挨拶はいつでも「ごきげんよう」。「登下校の際は車による送り迎え禁止」という校則がある。浮世離れした深窓の令嬢がほとんどだが、変わった毛色の生徒が2 - 3人必ず混ざっている。 | 作中の設定 | 川原泉 |
3,845 | 485 | 81,733,294 | 制服はシスターのような白いハイカラーの襟の胸元にひも状のリボン、プリーツではないひざ下のスカートに三つ折りソックス。ベレー帽をかぶる。映画版『笑う大天使』では、ベレー帽にスクウェアカットの胸元の黒いAラインワンピース、胸下にベルト状の細い白のリボンをつけて、足元は黒ストッキングと、かなりフェミニンになっている。「archangel」は日本ではアーク・エンジェルの読みが一般的だが、『笑う大天使』以前の作品では、「大天使」のルビは「アーチエンジェル」となっている。また、『笑う大天使』において、その事を自虐的なネタとして取り上げている。江戸時代の外様大名が治める架空の藩で、奥州にあるという設定。石高は25万石。藩主は鳴沢家。秋吉田城は「空の鳴滝城」と謳われる名城で、私有財産として現存している設定である。特産は巨大松茸。現代でも旧・家臣団が鳴沢家当主の法要に列席するために集まってくる。 | 作中の設定 | 川原泉 |
3,846 | 485 | 81,733,294 | MHKのアナウンサー。眼鏡を掛けている。ジャンルを問わず作品の報道を一手に引き受ける人物である。ヘリンボーンの上着がトレードマーク。振られキャラ。銀行頭取の令嬢である。映画『笑う大天使』では、菊地凛子が演じた。 | 作中の設定 | 川原泉 |
3,847 | 485 | 81,733,294 | ※掲載誌はいずれも白泉社。 | 作品リスト | 川原泉 |
3,848 | 486 | 88,880,408 | 尾田 栄一郎(おだ えいいちろう、本名同じ、1975年1月1日 - )は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。九州東海大学中退。血液型はA型。妻は元モデルの稲葉ちあき。愛称は尾田っち。1997年より、『週刊少年ジャンプ』で『ONE PIECE』を連載中。同作の2021年7月時点の累計発行部数は、国内累計4億部、世界累計4億9000万部を突破しており、「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネス世界記録に認定されている。67巻は日本国内出版史上最高記録となる初版405万部を発行している。 | __LEAD__ | 尾田栄一郎 |
3,849 | 486 | 88,880,408 | 油絵が趣味だった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め、4歳の時に漫画家という職業の存在を知り「大人になっても働かなくていいんだ!」と思い漫画家を目指し始める。初めて読んだ漫画は藤子不二雄Aの『怪物くん』。藤子不二雄Aによると、尾田は『怪物くん』を読んで、漫画家になる決心をしたという。小学五年生時には『キャプテン翼』の影響でサッカー部へと入部。このサッカー部での経験が元で後に自分の漫画内でチームの楽しさを描くきっかけとなっている。中学2年生の頃より本格的に描き始めた。『ONE PIECE』の題材とした海賊を好きになった原点は『小さなバイキングビッケ』であり、中学時代には「ジャンプに海賊の漫画を描こう」と目標を定め、アイディアを貯め始める。高校一年生の時にサッカー部を辞め、漫画一本に集中することに決める。 | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,850 | 486 | 88,880,408 | 1992年の東海大学付属第二高等学校在学中に月火水木金土(つきひみずきこんどう)のペンネームで投稿した短編「WANTED!」が『週刊少年ジャンプ』の新人賞の手塚賞に準入選する。1993年には「一鬼夜行」が10月期第104回ホップ☆ステップ賞にて入選を受賞。1994年に九州東海大学工学部建築学科を1年時で中退し、甲斐谷忍・徳弘正也・和月伸宏のアシスタントを務める。アシスタント時代に描いた読切の海賊漫画「ROMANCE DAWN」が、後の『ONE PIECE』の原型となる。1997年に『週刊少年ジャンプ』で海賊達の冒険を描く『ONE PIECE』の連載を開始。初連載ながらも1999年にはアニメ化され、国民的人気作品となった。2002年、アニメ『ONE PIECE』の劇場版第3作『ONE PIECE 珍獣島のチョッパー王国』の同時上映作品『夢のサッカー王! | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,851 | 486 | 88,880,408 | 』に愛称の「オダッチ」役で声優として出演。2007年、『週刊少年ジャンプ』2007年4・5合併号に、『ONE PIECE』と鳥山明の『ドラゴンボール』のコラボ作品「CROSS EPOCH」が掲載された。2009年にはアニメ『ONE PIECE』の劇場版10作目を記念して『ONE PIECE FILM STRONG WORLD』の映画ストーリー・コスチューム&クリーチャーデザイン・製作総指揮を務める。この映画は様々な東映記録を塗り替え、漫画原作のアニメ映画としては歴代最高記録(当時)となる興行収入48億円の大ヒットとなり、2010年上半期邦画興行成績ランキング第1位、2010年年間邦画興行成績ランキング第4位となった。同年、鈴木敏夫のラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』に出演した。 | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,852 | 486 | 88,880,408 | 2010年、『週刊少年ジャンプ』2010年39号掲載の『ONE PIECE』第597話で物語に大きな区切りがついたことに伴い、連載を40号(9月6日発売)より43号(9月27日発売)まで4週にわたり長期休載、44号(10月4日発売)より連載を再開。甲斐谷忍はツイッターで尾田が実質休んだのは一週間のみで残りは仕事をしていたと語っている。尾田は休暇の間は家族でハワイに旅行に行っていた。2011年、『週刊少年ジャンプ』2011年17号に島袋光年の『トリコ』のアニメ化に伴い、『ONE PIECE』と『トリコ』のコラボコミック「実食! 悪魔の実!!」が掲載された。尾田は島袋に指定されたところに絵を描いただけだが、作中には尾田の考えたモンスター「トラノイヲカルキツネノイヲカルブタ」が登場している。2012年、初の展覧会『ONE PIECE展』の監修を務めた。 | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,853 | 486 | 88,880,408 | テーマ曲にはかねてより親交があった中田ヤスタカ書き下ろしの「パノラミック・エクスペリエンス」が起用された。同年、『ONE PIECE』劇場版12作目となる『ONE PIECE FILM Z』の総合プロデューサーを務めた。興行収入は『STRONG WORLD』を上回る68.7億円を記録するメガヒット作となった。2013年5月、扁桃周囲膿瘍で入院しジャンプの連載を2週休載した。退院後は定期的に1週休載する連載シフトを敷いていた。2014年5月、病状完治を目的として扁桃腺切除の手術を受けるため、2週休載することが発表された。2015年6月15日、『ONE PIECE』が「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネス世界記録に認定され、「漫画界の先人達または協力者達、読者の皆様への感謝を忘れず、これからも記録に恥じぬ作品を描いていきたいと思います」とコメントした。 | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,854 | 486 | 88,880,408 | 2016年の熊本地震では、復興支援として『ONE PIECE』の主人公ルフィ名義で8億円を寄付。また、南阿蘇鉄道のラッピング車両等にイラスト提供を行うなど復興プロジェクトに協力。復興活動への尽力が評価され、2018年4月4日に熊本県民栄誉賞を受賞した。 | 来歴 | 尾田栄一郎 |
3,855 | 486 | 88,880,408 | いずれも、集英社より発行。いずれも、〈ジャンプ・コミックス〉より新書判で発行。 | 作品リスト | 尾田栄一郎 |
3,856 | 486 | 88,880,408 | アニメ『ONE PIECE』のメイン声優陣とは深い親交があり、「プロのエンターテイナーとの交流はいい刺激になる」と語っている。 | 関連人物 | 尾田栄一郎 |
3,857 | 487 | 87,874,870 | 唐沢 なをき(からさわ なをき、男性、1961年10月21日 - )は、日本の漫画家、同人作家。本名は唐沢 直樹。別筆名に南里 こんぱる。兄の唐沢俊一との共著では唐沢商会名義を使っていた時期もあるが、現在は両名の並記が主である。 | __LEAD__ | 唐沢なをき |
3,858 | 487 | 87,874,870 | 北海道札幌市出身。薬局を営む両親の元に生まれる。生まれてからしばらく、昼間のうちは親戚の家に預けられて育てられていた。幼少時代はテレビアニメ『鉄人28号』や特撮『ウルトラQ』、『ウルトラマン』に熱中。漫画では特に赤塚不二夫から大きな影響を受けて育った。実家である薬局に余っていた大学ノートとボールペンを利用して怪獣図鑑や漫画を描き始め、高校時代までに約50冊分のノートに漫画を描いていた。高校に入ると、兄に誘われて同人誌活動を始める。同時期、札幌では島本和彦とあさりよしとおが同人活動しており、同人誌即売会で机を並べることもあった。高校卒業後は多摩美術大学付属の専門学校に入学するために上京。卒業を控えて就職活動でデザイン会社にいくも、担当者から生活態度まで全否定を受けてその帰りの電車の中で漫画家を目指すようになる。 | 経歴 | 唐沢なをき |
3,859 | 487 | 87,874,870 | 漫画家デビューのため小学館へ持ち込みを開始するが 持ち込み時代はギャグや絵柄について否定され続け、時として高橋留美子の絵柄を真似るように言われたという。この時期に小学館の編集者から紹介されて弘兼憲史のアシスタントを1年ほど勤める。白泉社の担当から評価されて、1985年に「南里こんぱる」のペンネームで同社の『月刊コミコミ』1986年1月号に掲載された『無敵刑事』でデビュー。同年末にコミコミ編集部の紹介でとり・みきのアシスタントを始める。『コミコミ』での仕事は3ヶ月に1回しかなく他に月数回のアシスタントのとエロ雑誌のカットだけが収入源 だったが、作品については特に文句を言われなくなったという。徳間書店の『ハイパーゾーン』に持ち込んだのをきっかけに『月刊少年キャプテン』から読切の仕事を貰う。それ以後、連載も増えて順調に仕事を続けられるようになり、20年以上精力的に執筆している。 | 経歴 | 唐沢なをき |
3,860 | 487 | 87,874,870 | 2009年、NHK『マンガノゲンバ』の取材を受けるが、この時のスタッフの態度があまりに非常識だったため、途中で出演を辞退している。この件は「まんが極道」の中でネタにしている。2012年10月1日より読売新聞夕刊にて4コマ漫画『オフィス ケン太』の連載を開始。同紙夕刊での4コマ漫画連載は、鈴木義司『サンワリ君』(2004年7月2日連載終了)以来8年3ヶ月ぶりとなる。 | 経歴 | 唐沢なをき |
3,861 | 487 | 87,874,870 | もっぱらギャグ漫画のフィールドで活躍している。漫画の常識や漫画という体裁・メディア性そのものをネタとする、実験的なメタ・ギャグを得意とする。その作風はデビュー以前からほとんど変わっていないという(ただし、初期はほとんどなかった下ネタやプライベートな内輪ネタを扱うようになるなどの変化もある)。パロディ・オマージュ・揶揄も好んでネタとし、ギャグとして他の漫画家の絵柄や作風を模倣することも多い。特に杉浦茂など、昭和の漫画家の作風をリスペクトしている。兄・唐沢俊一原作のものを除き、ほとんどの作品は短編連作または4コマ漫画。また非常に多作であることも特徴で、一時期は月30本の締切を抱えていた。本人の弁によれば「細かい仕事をたくさんこなしていかないと食べられないだけ」という。 | 作風 | 唐沢なをき |
3,862 | 487 | 87,874,870 | 『電脳炎』『電脳なをさん』『パソ犬モニ太』などパソコンをネタにした漫画も生み出しているが、自身はパソコンなどコンピューターが苦手であると語り、『電脳炎』に出てくるパソコン嫌いのお父さんは自分がモデルだとしている。 | 作風 | 唐沢なをき |
3,863 | 487 | 87,874,870 | 妻はエッセイストの唐沢よしこ。作家で「と学会」元運営委員でもある唐沢俊一は実兄。 | 家族・親族 | 唐沢なをき |
3,864 | 487 | 87,874,870 | 兄の俊一曰く「親戚づきあいなどはかなり苦手なのだが、交友関係は広く、マンガ業界からSF業界、映像業界に至るまで人脈を持っている」という。 | 関連人物・交友関係 | 唐沢なをき |
3,865 | 488 | 87,314,030 | 玖保 キリコ(くぼ きりこ、1959年5月21日 - )は、日本の女性漫画家。東京都文京区出身。本名・福住 幸恵。東洋大学文学部英米文学科卒業。東京の大学で英米文学を教えていたイギリス人と結婚し1996年に渡英し、現在はロンドン在住。 | __LEAD__ | 玖保キリコ |
3,866 | 488 | 87,314,030 | 1982年『LaLa』掲載の「物思いモノローグ」でデビュー。『シニカル・ヒステリー・アワー』の連載で人気を得る。『いまどきのこども』で、男性読者にも知られるようになった。ピッキーピクニックというバンドにも参加している。小学館の『マミイ』の表紙に、2000年4月号から2007年9月号までイラストレーションを掲載した。 | 概要 | 玖保キリコ |
3,867 | 489 | 88,691,327 | 倉田 真由美(くらた まゆみ、1971年7月23日 - )は、日本の漫画家。本名、叶井 真由美。通称「くらたま」。MIYN(ミューン)所属。血液型O型。代表作は『だめんず・うぉ〜か〜』。一橋大学商学部卒業。 元NHK経営委員会委員。恵泉女学園大学非常勤講師。 | __LEAD__ | 倉田真由美 |
3,868 | 489 | 88,691,327 | 福岡県出身。本人によれば、中学3年生の時にスパルタの塾に通って猛烈に勉強したため、大学にはその余力で受かったみたいなものと述べている。 高校時代は「それほど熱心に勉強せずにマンガを描きながら、勉強もしたという感じが近い」と述べている。福岡県立福岡高等学校3年の頃は小学館や集英社のある東京に憧れ、東京の大学への進学を希望していたが、親からは地元の九州大学より上の国立大学でないとダメだと言われていた。そこで高校では理系であったが、大学受験ではこだわらず、前期に理系の東京工業大学、後期に文系の一橋大学商学部を受験した。ところが大学入試の前日にも持ち込み原稿を持参し出版社巡りを行い、最後に回った講談社では「まずは受験をしっかりやれ」と言われたという。東京工業大の入学試験で不合格となるが、後期で一橋大学商学部に合格、同大学に入学した。サッカー部の主将に初恋をし、マネージャーとして入部。 | 略歴 | 倉田真由美 |
3,869 | 489 | 88,691,327 | その後は恋愛に夢中になり、漫画を描くことを止めていた。さらに同じゼミの、当時既にプロの漫画家であった黒田硫黄と自分の画力の差に愕然とし、漫画家になることを断念した。倉田の漫画家活動は就職活動に失敗したことから始まる。大学4年の就職活動で山一證券の最終面接まで残ったが、面接官からこの会社を選んだ理由を聞かれた倉田は「歯医者が近いので」と思ったことをそのまま口に出してしまったために面接官の不興を買い、最終面接で落とされた。このエピソードを元に就職活動に失敗する女子学生を描いた漫画を、『ヤングマガジン』ギャグ大賞に応募。大賞を受賞し、デビューを果たした。ヒット作には恵まれなかったが、雀荘従業員や学習塾講師などのアルバイトの傍ら、漫画の創作を続けた。2000年に週刊誌『SPA! | 略歴 | 倉田真由美 |
3,870 | 489 | 88,691,327 | 』で、大きな欠陥のある男性との交際を繰り返す女性たちについて描いた作品『だめんず・うぉ〜か〜』の連載を始め、ブレイクを果たす。以後、恋愛・男女関係やコミュニケーションに関する仕事が増える。現在では漫画家としてだけではなく、主にコメンテーターとしてテレビなどにも多く出演している。28歳で結婚し、第一子となる男児を出産したが、2年後に離婚(親権は倉田)。普段は息子を福岡の実家に預けて東京で生活し、およそ週に一度、息子に会うために福岡へ帰省している。2009年7月、自らの連載上で未婚のまま第二子を妊娠していることを公表。相手の男性は中村うさぎから紹介された映画配給会社「トルネード・フィルム」取締役・叶井俊太郎。同年9月、叶井と入籍。同年11月、第二子となる女児を出産。 | 略歴 | 倉田真由美 |
3,871 | 489 | 88,691,327 | 2021年10月、最長8ページの漫画しか描いたことがなかった倉田が初の長編作品『凶母(まがはは)〜小金井首なし殺人事件 16年目の真相〜』を執筆。「まんが王国」ほか電子書店にて連載を開始。 | 略歴 | 倉田真由美 |
3,872 | 489 | 88,691,327 | 西原理恵子、浜口乃理子などと同様に、作者自身を主人公としてその日常体験を漫画にするのを基本的な作風とする。倉田の自伝的代表作『だめんず・うぉ〜か〜』3巻によると、漫画家を目指したきっかけは、西原理恵子の作品を読んで「この程度なら私にも描ける」と思ったからだという。ただし、西原理恵子本人は、「あんたいくら走っても前に私いないよ」とコメントしている。倉田は、インタビューで画力について聞かれ「西原さんのほうが全っ然うまい。私の絵はヘタウマじゃなくて本当にヘタなんです(笑)」と述べている。渡辺洋香(女流雀士)や中村うさぎ(小説家)や深澤真紀(コラムニスト)と親交がある。渡辺洋香はだめんず会会長として『だめんず・うぉ〜か〜』レギュラーだった時期があり、中村うさぎとは共著が多く、深澤とも多く仕事をしている。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,873 | 489 | 88,691,327 | また北芝健と仲が良く、2003年には倉田真由美と北芝健の2人が協力した『踊る大捜査線』のオフィシャル解読本も出版された(同書内で、倉田は青島俊作をだめんずではないと言い切っている)。2009年から「日本催眠術協会」の役員を務めている。2010年6月20日付でNHK経営委員会委員。2012年2月末に任期満了で退任。2013年4月から恵泉女学園大学非常勤講師。2006年7月、民主党が衆議院・参議院・地方選に向けて候補者公募の選考で意見を聞くために開設された有識者会議のメンバーに選ばれてたことを契機に、小沢一郎政経研究会の講演を行なうなど、民主党と深くかかわるようになる。2009年の政権交代により鳩山由紀夫を首班とする政権が誕生すると、倉田は日本放送協会経営委員会委員に就任することが決まった(2010年5月)。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,874 | 489 | 88,691,327 | しかし、国会の承認議決において、後述の所得隠しを問題とする自民党・みんなの党・新党改革・たちあがれ日本によって反対を受けた。2012年の政権交代により、第2次安倍内閣が成立すると麻生太郎副総理を「失言放言が多く、良いところが全くない。景気対策に失敗した時に責任を取らせるためか、引退前の最後の花道で起用しただけ。」と非難し、安倍晋三のことを自身の漫画に登場する『働かないヒモ』と一刀両断した。また、自民党が民主党の政権運営の拙さを指摘したことについても、国民の選択を批判する行為であると非難している。『こんな男とは絶対、結婚するな!』の共著や、『だめんず・うぉ〜か〜』第7巻の対談などで福島瑞穂と面識があり、福島と山口二郎との共著『本当に憲法改正まで行くつもりですか?』もある。新型コロナワクチンに疑義を唱えていて、2021年10月時点でも接種していない。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,875 | 489 | 88,691,327 | 2021年8月にはニューヨークの教職員のワクチン義務化について、「もはやアメリカはまったく自由の国じゃないな」と述べている。2021年10月11日に「昔、水痘に罹った子をわざわざ訪ねて自分の子にうつし免疫を獲得させることは普通にあった。『軽症ですむ子供のうちに罹ってしまう』って、病気によっては最高の解決法なんじゃないのか」とツイートした際には、「それを安全に、手軽に出来るようにしたのがワクチン」「亡くなることだってあるのに...」「最高じゃなかったからワクチンが義務付けられるようになったんでしょ」と指摘された。日本で接種されている水痘(帯状疱疹)ワクチンは1回の接種で水痘にかかるのを80 - 85%減らすことが出来、重症化をほぼ100%防げるものである。医師にも批判されたため、2021年10月13日時点で該当ツイートを削除した。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,876 | 489 | 88,691,327 | 2006年11月29日、自身が社長を務める漫画制作会社「たまくら」(東京都新宿区)が東京国税局の税務調査で、2005年4月期までの3年間に約1800万円の所得隠しをおこなったと指摘されていたことが判明した。数十人の架空のアシスタントを立て、給与を水増ししていたとされている。重加算税を含めた追徴税額は約600万円と報道された。同社は2005年12月に修正申告し、追徴税額を支払った。倉田本人は追徴された税金はすでに支払っている、と税金不払いの事実を認めて事件が過去のものだと述べている。また『だめんず・うぉ〜か〜』内でこの事件を漫画にし、「税理士に60人分の架空のアシスタントを立てろと言われたから立てただけ」と弁明、「レポーターにつめ寄られてとっても怖かった」と述懐している。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,877 | 489 | 88,691,327 | この件が発覚した後に出演した『たかじんのそこまで言って委員会』(2006年12月10日放送分)冒頭でこの件について涙ながらにコメントをしたが、宮崎哲弥ら共演者からは悪質だと追及を受けた。また『週刊文春』2006年12月14日号でも「くらたま悪質脱税 だめんずを使って領収書集め」と題する記事が掲載されている。倉田がNHKの経営委員会に入ることが決まった際にも、この事件を理由に批判が起きた。 | 人物 | 倉田真由美 |
3,878 | 489 | 88,691,327 | 書名、共著者名、出版社名、出版年、ISBN の順に記載 | 著作 | 倉田真由美 |
3,879 | 491 | 88,588,968 | 高河 ゆん(こうが ゆん、本名:山田 理沙(やまだ りさ、旧姓:木村)、1965年7月9日 - )は、日本の漫画家・同人作家。東京都品川区出身、世田谷区在住。東京都立三田高等学校卒業。血液型はB型。夫は漫画家のたつねこ。一女の母。代表作に『アーシアン』、『LOVELESS』、『車田水滸伝 HERO OF HEROES』など。 | __LEAD__ | 高河ゆん |
3,880 | 491 | 88,588,968 | 二次創作の同人作家出身であり、『銀河旋風ブライガー』、『キャプテン翼』、『聖闘士星矢』、『魔王伝』などが知られている。商業誌デビュー後も同人活動は継続している。ペンネームは車田正美作『リングにかけろ』の登場人物である高嶺竜児、河合武士、剣崎順(じゅんの読みから)を合わせて名づけられた。『ぱふ』2006年9月号のインタビューにて「本来なら高河じゅんだが、高河ゆんにした」と答えている。ずっと自己流で制作しており、漫画入門書の類はプロデビューから数年後に初めて読んだ。ネームおよび原稿用紙は特注品で、「高河ゆん専用」(由来は『機動戦士ガンダム』の「シャア専用ザク」)と印刷されている。現在は『コミックZERO-SUM』で『LOVELESS』を、『コミックZERO-SUM増刊WARD』で『佐藤くんと田中さん -The blood highschool』を連載中。 | 概要 | 高河ゆん |
3,881 | 491 | 88,588,968 | また、『月刊ニュータイプ』2012年10月号より連載が開始された『悪魔のリドル』(漫画:南方純)の原作を担当している。また『チャンピオンRED』では車田正美の漫画作品のクロスオーバー作品となる『車田水滸伝 HERO OF HEROES』の連載も開始。 | 概要 | 高河ゆん |
3,882 | 492 | 82,949,161 | 桜 玉吉(さくら たまきち、本名:野澤 朗、1961年3月2日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。東京都立芸術高等学校卒業、多摩美術大学中退。有限会社「玉屋」社長。実姉はイラストレーターの真野匡。エンターブレイン(旧・アスキー出版)の雑誌を中心に、漫画日記やコンピュータゲームを題材とするギャグ漫画を発表している。代表作に『しあわせのかたち』『漫玉日記』シリーズ。『サンサーラ・ナーガ』シリーズなどのゲームのキャラクターデザインやイラストも手がける。 | __LEAD__ | 桜玉吉 |
3,883 | 492 | 82,949,161 | 「MSXマガジン」「スコラ」「平凡パンチ」のカットなど、イラストレーターとしての仕事を経て、1986年よりアスキー発行の「ファミコン通信(現・ファミ通)」創刊号から連載された『し・あ・わ・せのかたち』(のちに『しあわせのかたち』に統一)で漫画家デビュー。ファミコンゲームを題材にしたパロディギャグ漫画で人気を博し、8年間の長期に渡り連載され、OVA化・ドラマCD化もされた。アスキーの漫画部門(現在のエンターブレイン)が設立されたのは、『しあわせのかたち』の人気がきっかけとされている。1991年3月、作者の突然の体調不良で『しあわせのかたち』の連載が数か月中断される。1991年7月、「ファミコン通信」が隔週刊から週刊に移行するのに伴い、『しあわせのかたち』の連載が(減ページで)再開されるが、それまでのキャラクター「例の3人組」を用いたパロディ路線から、エッセイ形式の漫画日記へ移行した。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,884 | 492 | 82,949,161 | 漫画日記には、竹熊健太郎、藤原カムイ、相原コージ、奥村勝彦、押井守、呉智英など、業界関係者も多数登場する。ゲームのパロディネタはたまに行われる程度になった。さらにゲームパロディでも日記マンガでもない『ラブラブROUTE21』という暗黒舞踏漫画を連載内中編として掲載。ファミコンと全く関係ない内容にもかかわらず、アンケートで上位となった。2014年には劇団Patchの末満健一によって映画化されている。同じく連載内中編作品の『しあわせのそねみ』は、桜玉吉のターニングポイントとなった。それまでの作風と大きく異なり、写実風の絵柄で暗くひねくれた作風の漫画を数回にわたり展開した。余りに毒々しい内容であったため、誌上で『この作風が嫌なら、「嫌」と書いたハガキを送ってほしい。「嫌」ハガキが50通来たら考え直す』と告知したら「嫌」ハガキが153通も来たため、直後の回を必要以上にポップな作風で描いた。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,885 | 492 | 82,949,161 | 『しあわせのそねみ』の作風は一回のみの予定ではあったが、後のエッセイ漫画の作風の実質的なプロトタイプとなり、ここで確立された日記形式の作風は、その後の作品にも受け継がれている。『しあわせのかたち』は病状悪化に伴い作中では玉吉本人がカービィ星へ行くかたちで1994年3月に連載終了。その後、アスキーが発行していた漫画雑誌「ファミコミ」にて、『トル玉の大冒険』を連載。『しあわせのかたち』後期と同形式の日常を描いた漫画日記へと移行する。1995年に「ファミコミ」と「月刊アスキーコミック」が休刊となり、両誌を引き継ぐ形で創刊された「月刊コミックビーム」に移籍する。それを機に『トル玉の大冒険』から『防衛漫玉日記』にタイトルが変更された。桜玉吉が結成した地球防衛隊(釣りサークル)での活動を中心に描いていたが、私的事情の混乱もあってか次第に無気力になり、防衛隊を解散させて連載を突然終わらせる。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,886 | 492 | 82,949,161 | 私生活では、『しあわせのかたち』の連載中の1989年にコピーライターの女性と結婚しており、娘をもうけていたが、すれ違いなどが原因で『防衛漫玉日記』終了後に離婚した。しかし、その後も絶縁したわけではなく、子供の親として頻繁にコミュニケーションはとっていた模様。『防衛漫玉日記』の連載終了後、虚脱状態に陥り、病院で軽いうつ病と診断される。漫画家という孤独な仕事にその原因があると考えた玉吉はペンを置くことを決心する。しかし担当編集者の「何でも独力でやろうとし過ぎる。もっと組織的な活動をすべきである」とのまじめな説得に思いとどまり、漫画家活動のための有限会社設立を決め、有限会社「玉屋」を設立した。『防衛漫玉日記』から1年の休筆を経て『幽玄漫玉日記』を「月刊コミックビーム」1998年1月号から連載する。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,887 | 492 | 82,949,161 | 『防衛漫玉日記』とほぼ同じ漫画日記の形式をとる内容で、当初「玉屋」の活動日記という体裁の通常のエッセイ漫画を企図していたが、この頃より鬱の症状及びそれに伴う前衛的な表現と、個人の独白のような内容が出始める。画風もデフォルメタッチの表現から、水彩画まで幅広くあり、終盤は後の『御緩漫玉日記』に繋がる現実と虚構が交錯する独特の内容となっており、自己の内面を私小説風に掘り下げつつそれ自体を自己模倣の対象としてユーモラスに描いた。「月刊コミックビーム」2003年11月号から『御緩漫玉日記』連載。念願叶って手に入れた伊豆の一軒家での生活を描く。また、多摩川の近くに新しく仕事場を借りた頃の過去の回想的な物語も不定期に描かれるが、連載中に急性腹膜炎になり死線を彷徨う。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,888 | 492 | 82,949,161 | 連載再開後は、前々作、前作において見られた、鬱症状を描いた内容および現実と虚構が交錯するメタ表現が顕著に出ており、それに合わせて画風も濃い水墨画を用いた大胆な作風になる事が多くなった。鬱の影響もあって、作画作業が困難になることが多かったらしく、独白のみを描き殴ったような実験的作風も見られ、今まで以上に幻想的な展開となっていく。「自分の知らない間に勝手に別人格が制作中の漫画を書き換える」など解離性同一性障害を思わせる症状が出始め、体力的・精神的な限界を感じ『御緩漫玉日記』の連載を終了(未完)。その後は「コミックビーム」の宣伝4コマ『読もう! コミックビーム』や僅かなイラスト仕事のみで作品連載は行わず、ヤフーオークションに出品を行って金銭を得ているエピソードが4コマの作中で明かされていた。2012年4月、約5年ぶりとなる新作『漫喫漫玉日記 深夜便』を「コミックビーム」に発表。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,889 | 492 | 82,949,161 | 近況と震災時のエピソードを描いた短編作品となっており、その後も不定期ながら漫画日記を連載。ネットカフェを仕事場代わりにしている近況が明らかにされた。2013年9月、週刊文春にて漫画日記『日々我人間(ヒビワレニンゲン)』を連載開始した。 | 経歴 | 桜玉吉 |
3,890 | 492 | 82,949,161 | 本名・素顔は非公表というのが建前であるが、初期の『MSXマガジン』では本名で(誌上インタビューで顔も出していた)、『ファミコン通信』では桜玉吉名義で活動していた。1987年、『MSXマガジン』がリニューアルしたのを機に「桜玉吉」へ統一。最近は自分の本名を再び作中に登場させ、ネタとして使っている。ペンネームの由来は桜上水に住んでいて、近くに玉川上水があって、めでたいので吉、とのこと。『SUPER MARIO ADVENTURES マリオの大冒険(英語版)』執筆時に「チャーリー野沢」というペンネームを使っているが、これはこの作品がアメリカのテレビゲーム雑誌『Nintendo Power』へ掲載される際、糸井重里によって付けられたものであることを雑誌インタビューで桜玉吉本人が語っている。日本へ逆輸入する際に名前をそのまま残したようである。 | ペンネーム | 桜玉吉 |
3,891 | 492 | 82,949,161 | なお玉吉本人は、このペンネームについては気に入っていない旨を発言している。一時期マンガのネタとして、編集長に本名を姓名判断でバカにされたあてつけからペンネームを編集長の本名である奥村勝彦へ改名した。実際に使用されたのは「コミックビーム」掲載時の一回のみだが、表紙や巻末でも奥村勝彦名義で記載された。 | ペンネーム | 桜玉吉 |
3,892 | 492 | 82,949,161 | 絵柄は『しあわせのかたち』に代表されるアニメ風のデフォルメ形、『幽玄漫玉日記』に代表される筆を使った水墨画形、緻密に書き込まれた写実形があり、巧みに使い分けられる。実在する人物でも作品に登場する際にはキャラ付けされているため、必ずしもその人物本来の性格、容姿、行動等と一致しないことがある。 特に『しあわせのかたち』における終盤の担当者は本人の意向もあり、奇行、支離滅裂な発言、鼻提灯であることが多い等の過剰な演出で作品に登場していた。日記形式の作風は本質的に自分や他人の私生活をダシにするというものであるため、「周囲の人間をいじくり倒し本当にロクな者ではない。こんな事でしかメシを食えぬ人間」と葛藤する様子も時折見せる。 | 作風 | 桜玉吉 |
3,893 | 493 | 88,899,667 | 手塚 治虫(てづか おさむ、1928年〈昭和3年〉11月3日 - 1989年〈平成元年〉2月9日)は、日本の漫画家・アニメ監督・医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。本名:手塚 治(読み同じ)。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。 | __LEAD__ | 手塚治虫 |
3,894 | 493 | 88,899,667 | 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。 | 概要 | 手塚治虫 |
3,895 | 493 | 88,899,667 | 藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。 | 概要 | 手塚治虫 |
3,896 | 493 | 88,899,667 | 手塚治虫(本名・治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日)と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,897 | 493 | 88,899,667 | 戦前の寶塚(現・宝塚)は、小林一三が箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,898 | 493 | 88,899,667 | また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路や淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている。1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であったために、小学2年生の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になったという。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,899 | 493 | 88,899,667 | 囃し歌を歌われる度に泣いていたという。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,900 | 493 | 88,899,667 | この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた。1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,901 | 493 | 88,899,667 | この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられる。9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,902 | 493 | 88,899,667 | この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、従って旧制中学校からの入学が可能であった。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,903 | 493 | 88,899,667 | これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,904 | 493 | 88,899,667 | 漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,905 | 493 | 88,899,667 | 映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている(後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。 | 生涯 | 手塚治虫 |
3,906 | 493 | 88,899,667 | 同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。 | 生涯 | 手塚治虫 |
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