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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n4\n\n 藝術は創造である。之は疑がない。併し藝術は創造であると云ふことは、一切の創造は藝術であると云ふ意味ではない。藝術は特殊の創造である。云はゞ第一の創造を描出する第二の創造である。藝術は一種の創造として人生そのものである。併し第一の創造(人生そのもの)を描寫するものとして、それは人生にあらずして、藝術である。云はゞ藝術は第二の人生である。\n 藝術の内容は人生である。故に藝術家は大なる人生を經驗したものでなければならない。換言すれば大なる「人」でなければ、大なる「藝術」の創造者となることが出來ない。併し之は大なる人生を經驗した者が、換言すれば大なる「人」が悉く大なる「藝術」を創造し得ると云ふ譯ではない。大なる藝術の創造者は第一の創造を深く内面的に把握して、之を外化し、之を感覺界に投射する第二の創造に堪へる人でなければならない。經驗を内化するが故に外化する祕義を攫んでゐる人でなければならない。此意味に於いて藝術家は「生」を深くすると共に「生」を殺戮する。此意味に於いて藝術家は質料を殺して「形式」を創造する。藝術家の個性は此形式を外にして現はれることが出來ない。從つて藝術はなまのまゝではいけない、質料そのまゝではいけない。云はゞ第一の創造は第二の創造によつて新しく蘇へる。蘇へる爲には第一の創造がなければならない。蘇へらせる爲には第二の創造がなければならない。要するに大なる「人」と大なる「藝術家」と――男なるアダムと、アダムの肋骨から出たイヴと――の交りによつて大なる「藝術」は生れるのである。\n 此の第二の創造に對して敬虔に跪くことを知らざる者は眞正に藝術を理解する者とは云ひ得ない。私はルノアールの繪に對する時――勿論原圖を見たのはたつた一枚であるが――此第二の創造の生氣溌剌たるを崇敬する。然るに人の語る處によればK氏はルノアールを唾棄すると云つたさうだ。私はK君の云つた意味を詳しく知らない。併しもしそれがルノアールの藝術に對する輕蔑をも意味してゐるならば、私はそんな人の藝術を信用しない。さうして其の人がセザンヌの繪の或エツセンシヤルな一面を理解してゐることをも信用しない。それにも拘らずK君の繪に或藝術的價値があるのは、K君の粗笨なる思索のヹールの底に、未だ眞正に眼醒めぬ藝術家が隱れてゐるからであらう。私はK君の樣な有望な畫家が――私は敢て畫家と云ふ――未だその渾沌たる思想を恥づる迄に自覺して呉れないことを惜しいと思ふ。\n\n5\n\n 藝術が創造ならば、その中心生命は藝術品の如何なる細部にも滲透しなければならない筈である。私は色彩も筆觸も構圖も――換言すれば微細なる技巧が――問題にならない樣な繪は信用しない。文章や句調や其他のデテイルが問題にならない樣な文學は信用しない。舞臺裝飾や採光や人物の出入や場面のとり方が問題にならないやうな演劇は信用しない。街路や家屋や服飾や裝飾品の一々に波及する傾向を持たないやうな「美術界の新潮流」は信用しない。\n\n6\n\n 藝術は自己内生の表現であると云ふ。湧き上る心をおし出したものであると云ふ。藝術家の個性の創造であると云ふ。凡て正しくその通りである。併しその表現される内生とは何ぞ。その湧上る心の内容は何ぞ。その個性によつて創造されるところのものは何ぞ。それは死んだ兒の着物をひろげて見せる三千代の姿である。サランボオの足に下に落ちてゐる金の鎖である。パオロの腕の上に見えるフランチエスカの顏とそのうしろにひいた腰の恰好とである。兩手を以つて髮を抑へてゐる裸の女と黒奴との上に落つる光である。それは凡て此等具象的のものであつて、藝術家の「哲學」でも、乾物の「個性」と「自己」とでも何でもない。もし表現を求める内生が、おし出して來る心が、個性によつて創造されるものが、此等抽象的のものならば、それが三千代となり、金の鎖となり、姿となり色となるのは餘りに間接に過ぎる。餘りに「おし出す」趣がなさすぎる。此等のものは哲學の講義となり、自己又は個性の讚美演説とはなつても、小説と彫刻と繪畫とにはならない筈である。唯藝術家の中からおし上げて來る内生が、姿であり色であり形であればこそ、その直接なる表現が藝術となるのである。藝術家の製作に當つて、直接にその意識に上つて來るものは、哲學や自己や個性であつてはいけない。此等のものは藝術家に作爲と強制と誇張と打算とを教へるにすぎない。藝術家の意識に上るものが色と形と姿とで――更に適切に云へば、いのちと融け合つた色と形と姿とで――あればこそ、その藝術は自然に直接に生氣があるのである。さうして藝術家の哲學や自己や個性は、自らその上に漂ひ、その中に顫へるのである。哲學や自己や個性の表現は自然の結果であつて努力の目的ではないのである。約言すれば藝術家の第一の努力は對象――物、自然、空想世界――の心の捕捉である。さうして藝術家の個性は對象を統覺する形式の上に、必然に、併し無意識に表現されるのである。\n 吾等は此の如き見地から藝術家の自然――現在の意味に於いて自然は對象の一代表者である――に對する崇敬を理解することが出來る。自然と自己と孰れが原本的實在なりやは藝術家の關知する處ではない。彼等は唯自己の前に――哲學的に云へば自己の中に――展べられたる美の無盡藏を見る。さうしてその美を自己の藝術中に生擒せむと踴躍する。私の見る處では、藝術家の自然に對する態度の相違は、自然の本質に對する理解の相違である。物質的に見るか精神的に見るか、如何に深く、如何なる方面より、如何なる強調を以つて自然を見るかの相違である。若しくは對象を狹義の自然にとるか、抽象的形式にとるか、空想的自然にとるかの相違である。自然を殺して自己を活すか、自己を殺して自然を活すかの問題ではない。若し意識的に此デイレンマに陷つた藝術家がありとすれば、それは其人の論理的迷妄であつて、實際彼の藝術の價値を上下するものは此デイレンマに對する解答ではあるまい。形象(對象)の熱愛に動かされざる藝術家は、必ず無價値なる藝術を殘したに違ひない。\n ロダンの自然に對する崇敬は今更繰返す迄もない。彼の誇張は自己を表現する爲の誇張ではなくて、自然の心を生かす爲の誇張であつた。私の見る處では所謂表現派の代表者フアン・ゴーホの如きも實によく自然の心を攫み、物の精を活かした畫家であつた。ゴーホの強烈なる個性が常に畫面の上に渦卷いて、其中心情調をなしてゐることは今更云ふ迄もないことであるが、個性が猛烈に活きてゐると云ふことは物の虐殺を意味するとは限らない。彼の描く着物は暖かに人の身體を愛撫する、手觸りの新鮮な毛織である。彼の火は農婦の手にする鍋の下に暖かに燃えた。木の骨に革の腰掛をつけた椅子も、ガタ〳〵の硝子窓も、彼の繪の中には凡て活きた。彼の天を燒かむとするシプレスも、ゴーホの眼には確かにあの樣に恐ろしい心を語つたに違ひない。ゴーホは自然を心の横溢と見た。さうして自分も自然と一つになつて燃え上つた。併し私はゴーホの繪の前に、自然か自己かのデイレンマを見ることが出來ない。自己表現のイゴイズムが自然と物とを虐待してゐることを見ることが出來ない。哲學的に云へばゴーホの自然に生命を附與したものは固よりその特色ある個性である。併し藝術家ゴーホは自ら生命を附與した自然の前に跪いた。彼の活かさむとした處は、恐らくは自己でなくて自然であつたであらう。寧ろ自然を包む靈であつたであらう。\n 藝術家は個性の修錬によつてその藝術的形式を獲得し精練する。此意味で藝術家に個性の修練を説くのはよいことである。又藝術を説明して表現であり創造であると云ふのは固より結構である。併し個性の表現とは作爲と打算との奬勵ではない。創造と云ふのは對象の壓迫と主觀の放恣(換言すれば客觀的有機性の蔑視)ではない。此點に就いて特に念を押す必要があるやうに思ふ。\n(註。ゴーホはテオドールに送つた手紙の中に、「例へば一友の肖像を描くに、單に眼に映じた處に拘泥することなく、自己を強く表現する爲に、彼に對する余の愛を表現する爲に、勝手に誇張して着色する云々」、と云ふ意味のことを云つてゐる。その云ふ處は一見私の説に反對することばかりのやうである。併し少し考へれば兩者の間に精神上の矛盾のないことは直に明かになるであらう。勝手に誇張して着色するのは對象の外形を無視してその本質を表現する爲である。自己を表現し、對象に對する愛を表現するのは換言すれば人を牽引し人を感動させる對象の力を表現することである。此處には自己表現と對象の本質の表現との間に何の矛盾もない。自己表現の中に對象の精を壓迫する何のイゴイズムもない。私の非難の理由は此矛盾此壓迫此イゴイズムにあつて、對象の表現に即する自己表現を難ずる意味ではないのである。)\n\n7\n\n 藝術家は對象を――物を、自然を、色を、線を、形を、空想世界を――活かすことによつて自ら活きる。對象を活かす外に決して自ら活きる途がない。\n 藝術家らしい素朴を以て對象を自然と呼ぶも、又哲學者らしく之を自己と呼ぶも、それはどちらでも構はない。唯その自己は常に對象的内容を持つてゐることを忘れてはならない。\n 藝術家は物と遊ぶものである。その血まみれ汗まみれの勞苦によつて到達せむとする究竟の境地は、物と遊ぶの歡喜である。吾人の祖先が「天地の化育に參す」と云つたり、「萬物と遊ぶ」と云つたりした意味に於いて。シラーが「人は遊ぶ時にのみ完全に人である」と云つた意味に於いて。換言すれば物を深く、痛切に、而も自由に經驗すると云ふ意味に於いて。" }, { "role": "assistant", "content": " 此意味に於いて物と遊ぶものには、如何に慘苦なる内容に對する時と雖も、根柢に靜かなる歡喜があるに違ひない。之はクラツシツクの藝術家のみならず、デカダンの藝術家にも表現派の藝術家にも適用するに違ひない。\n\n8\n\n 私達は戀愛によつて「成長」する。戀は成つても破れても、兎に角戀愛によつて成長する。併し成長する爲に、戀するのは、戀愛ではなくて戀愛の實驗である。成長の目的が意識にある限り、その戀愛の經驗は根柢に徹することが出來ない。成長も破滅も此戀に代へられなくなる時に、戀愛は始めて身に沁みる經驗となる。さうしてその戀の結果として私達は成長するのである。\n 之を一般的の言葉に移せば、私達は成長の目的を意識せずとも、凡て與へられたる經驗に深入りすることによつて成長(事實上)する。之に反して成長の意識は一度具體的經驗の深みに陷つて死ななければ、其目的を實現することが出來ない。成長の欲望を一度殺して蘇らせることを知つてゐる者でなければ、人生に於ける個々の經驗の意味を汲み盡すことが出來ない。その人の精神的生活の中心は永久に「成長の意識」に在つて、經驗内容の意識に移ることが出來ないからである。此の如き人生のパラドツクスは主我主義に固執する者が自我の内容を眞正に豐富にすることが出來ないのに似てゐる。\n\n9\n\n 俺は強いぞと云ふ言葉は本當に強い人にとつては云ふを要しないことである。本當に強くない人にとつては、云ふ可からざることである。否啻に云ふ可からざることであるにとゞまらず、彼は此誤信によつて身分相應の謙遜を忘れ、自己の眞相に對する自覺を誤る。さうして彼は自ら膨れることによつて内容を空しくする。\n 曾て私は内省の過敏によつて苦しめられた。さうして殆んど内省の拘束なしに行きたい處に行き、したいことをなし得る人を羨んだ。併し私は今抑へる力の如何に眞正の生活に必要であるかを悟つた。膨れ上る力を抑へて、内に内にと沈潛して行くことによつて、私達は始めていのちの道に深入することが出來る。弱い者の人生に入る第一歩は自分を弱いと覺悟することの外にあり得ない。強い者に必要な謙遜は自分の強さを過信しないことである。鋭敏なる内省は如何なる意味に於いてもよいことである。私の罪は唯内省の過敏に釣合ふ程の旺盛な發動力を持つてゐないことであつた。此點に於いて私は本當に謙遜な心を以つて周圍の友人から學ばなければならない。併し私の内省は如何なる場合に於いても私の強みに違ひない。私は眞正の内省から出發しない思想の人間的眞實を信ずることが出來ない。\n 眞正に強さを示すものはその實現である。敵對力の征服である。この實現なしに、強者は自己に對してもその強さを承認させることが出來ない筈である。少くとも思想上にその強さを實現して見なければ――之は俺は強いぞと繰返すことではなくて、頭の中で想定した敵對力を實際に征服することでなければならぬ。――自分は強いとは云はれない筈である。若しこの順序を經ず、だしぬけに俺は強いぞと云ふ人があらば、私はその人の力の意識が内省の缺乏に因してゐることを何の疑惑もなく斷言することが出來る。若し又その事實により、その實現によつて眞正の強さを示す人があらば、私はその人の前に跪かうと思ふ。さうしてその人が自分の強さに就いて沈默すればする程、私は愈〻その人を崇敬する。\n 他人が眞正に強いか弱いかを檢査するのは、私の仕事ではない。唯繰返して云ふ、弱者は唯その弱さを自覺する處に人生の第一歩がある。さうして弱者と雖もその行く可き道を與へられてゐないのではない。弱者の行く可き道にも幾多の懷かしい先輩が我等を待つてゐるのである。弱者は決して強者の口眞似をすることによつて強くはならない。強者の眞似をすることによつて弱者は唯膨れるのみである。青膨れ又は赤膨れになるのみである。私は此の事を私自身の爲めに、又私自身と同じく弱い人達の爲めに云つて置きたい。(九月十一日)\n\n\n十七 年少の諸友の前に\n\n\n\n1\n\n 私は此一兩年になつて始めて自分より若い人の存在を感じ出した。此感じは一種不思議な經驗として、私に刺戟と鞭韃と悲哀とを與へてゐる。私は未だ此新しい經驗に馴染むことが出來ない。私の心は一種物珍らしい落付かない驚きを以つて、此新しい感じを――私の意識内に於ける新來の珍客を、右から左から眺めてゐる。\n 此迄私は唯思想文藝の世界に於ける最も若いゼネレーシヨンとのみ意識して、何の不思議をも感じなかつた。私の前には先輩がゐた、私の周圍には私と同じ樣に自分の世界を開拓して行かうとする友人がゐた。さうして私のあとから來るものは、未だ思想上文藝上何の問題とするに足らぬ子供ばかりだと思つてゐた。私は自分を日本に於ける最も若いゼネレーシヨンだと信じて、唯現在を開拓すること、未來を翹望することにのみ生きて來た。\n 現今と雖も、私は自分を如何なる意味に於いても完成品だなどとは思はない。自分の本當の仕事も――否、寧ろ本當の準備も、本當の創造に備へる眞劍な吸收も、凡て之からだと思つてゐる。併し自分でも知らずにゐる間に、日本の社會にはいつしか更に若いゼネレーシヨンが生れた。自分より年の若い幾多の人々はそれ〴〵活氣の多い、注目に値する仕事を始め出した。さうして彼等の或者は自分よりも更に新しい時代に育つて來た特徴を、鮮かにその思想と文藝との上にあらはすやうになつた。私は次第に自分より若い人の存在を信じない譯に往かない樣になつて來た。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n 吉田君は語る。\n\n 万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後五時)に二挺の駕籠が東海道の大森を出て、江戸の方角にむかって来た。\n その当時、横浜見物ということが一種の流行であった。去年の安政六年に横浜の港が開かれて、いわゆる異人館が続々建築されることになった。それに伴って新しい町は開かれる、遊廓も作られる、宿屋も出来るというわけで、今までは葦芦の茂っていた漁村が、わずかに一年余りのあいだに、眼をおどろかすような繁華の土地に変ってしまった。それが江戸から七里、さのみ遠い所でもないので、東海道を往来の旅びとばかりでなく、江戸からわざわざ見物にゆく者がだんだんに多くなった。いつの代も流行は同じことで、横浜を知らないでは何だか恥かしいようにも思われて来たのである。\n 今この駕籠に乗っている客も、やはり流行の横浜見物に行った帰り道であった。かれらは芝の田町の近江屋という質屋の家族で、女房のお峰はことし四十歳、娘のお妻は十九歳である。近江屋は土地でも古い店で、お妻は人並に育てられ、容貌は人並以上であったが、この時代の娘としては縁遠い方で、ことし十九になるまで相当の縁談がなかった。家には由三郎という弟があるので、お妻はどうでも他家へ縁付かなければならない身の上であるが、今もなお親の手もとに養われていた。\n 近江屋の親類でこの春から横浜に酒屋をはじめた者がある。それから横浜見物に来いとたびたび誘われるので、女房のお峰は思い切って出かけることになった。由三郎はまだ十六でもあり、殊に男のことであるから、この後に出かける機会はいくらもある。お妻は女の身で、他家へいったん縁付いてしまえば、めったに旅立ちなどは出来ないのであるから、今度の見物には姉のお妻を連れて行くことにして、ほかに文次郎という若い者が附添って、おとといの朝早く田町の店を出た。\n お妻は十九の厄年であるというので、その途中でまず川崎の厄除大師に参詣した。それから横浜の親類の酒屋をたずねて、所々の見物にきのう一日を暮らした。横浜にふた晩泊って、三日目に江戸へ帰るというのが最初からの予定であるので、きょうは朝のうちに見残した所をひとめぐりして、神奈川の宿まで親類の者に送られて、お峰とお妻の親子は駕籠に乗った。文次郎は足拵えをして徒歩で付いて来た。\n 川崎の宿で駕籠をかえて、大森へさしかかった時に、お峰は近所の子供へ土産をやるのだといって名物の麦わら細工などを買った。そんなことで暇取って大森を出た二挺の駕籠が今や鈴ヶ森に近くなった頃には、旧暦の九月の日は早くも暮れかかって、海辺のゆう風が薄寒く身にしみた。\n「お婆さん。お前さんはどこまで行くのだ。」と、文次郎は見かえって訊いた。文次郎は十一の春から近江屋に奉公して、ことし二十三の立派な若い者である。\n 一行の駕籠が大森を出る頃から、年ごろは六十あまり、やがては七十にも近いかと思われる老婆が杖も持たずに歩いて来る。それだけならば別に子細もないのであるが、その老婆は乗物におくれまいとするように急いで来るのである。\n 駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと付いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たないで腰をかがめ、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつづけているのであった。\n 文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分たちのあとに付いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。\n「はい。鮫洲までまいります。」\n「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」\n「それでも年を取っておりますので......。」と、老婆は息を切りながら答えた。\n「杖はないのだね。」\n「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして......。」\n かれは浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよいよ迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を立てて、提灯に蝋燭の灯を入れることになった。それを待つあいだに、文次郎はまた訊いた。\n「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」\n「はい。日が暮れると、ここらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので......。」\n「よっぽど大事なものかえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。\n「はい。」\n 駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を偲ばせるような、色の白い、人品のよい女であった。木綿物ではあるが、見苦しくない扮装をしていた。\n「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に付いて来ようとするのは無理だね。転ぶとあぶないぜ。」\n 言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した、老婆もやはり続いて来た。鈴ヶ森の畷ももう半分ほど行き過ぎたと思うころに、老婆はつまずいて、よろけて、包みを抱えたままばったりと倒れた。\n「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」\n 文次郎は引っ返して老婆を扶け起そうとすると、かれは返事もせずにあえいでいた。疲れて倒れて、もう起きあがる気力もないらしいのである。\n「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。\n さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聞いていたのであるが、もうこうなっては聞き捨てにならないので、お峰は駕籠を停めさせて垂簾をあげた。\n「その婆さんは起きられないのかえ。」\n「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。\n お妻も駕籠の垂簾をあげて覗いた。\n「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあそこまで私の駕籠に乗せて行ってやったらどうだろう。」\n「そうしてやればいいけれど......。」と、お峰も言った。「それじゃあ私がおりましょう。」\n「いいえ、おっ母さん。わたしがおりますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」\n 旅馴れない者が駕籠に長く乗り通しているのは楽でない。年のわかいお妻が少し歩きたいというのも無理ではないと思ったので、母も強いては止めなかった。\n お妻が草履をはいて出ると、それと入れ代りに、老婆が文次郎と駕籠屋に扶けられて乗った。お妻を歩かせる以上、駕籠を早めるわけにもいかないので、鮫洲の宿に着いた頃には、その日もまったく暮れ果てていた。\n「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」\n 駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束の間で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽ちに叫んだ。" }, { "role": "assistant", "content": "「あれ、忘れ物をして......。」\n 老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。\n「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」\n 口叱言を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾をあげた。\n「あっ。」\n 驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝いて出た。風呂敷に包まれた物というのは、白い新しい経帷子であった。\n\n 二\n\n かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。\n もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。\n 自分の店へ帰り着いて親子はまずほっとした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げかけた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌み嫌うの念が強かったので、縁起が悪いとみな思った。そうして、それが何かの不吉の前兆であるかのようにも恐れられた。\n 夜がふけて文次郎が帰って来た。彼は鮫洲の宿をうろ付いて、一晌ほども待っていたが、老婆は遂に引っ返して来ないので、よんどころなくかの風呂敷包みをかかえて戻ったというのである。\n「こんなことが近所にきこえると、何かの噂がうるさい。知れないように捨てて来い。」と、由兵衛は言った。\n 文次郎は再びその包みを抱え出して、夜ふけを幸いに、高輪の海へ投げ込んでしまった。それを知っているのは、由兵衛夫婦とお妻だけで、忰の由三郎も他の奉公人らもそんな秘密をいっさい知らなかった。\n 横浜見物のみやげ話も何となく浮き立たないで、お峰親子は暗い心持のうちに幾日を送った。取分けて、お妻はかの怪しい老婆から不吉な贈りものを受けたようにも思われて、横浜行きが今更のように悔まれた。厄除大師を恨むようにもなった。なまじいの情けをかけずに、いっそかの老婆を見捨てて来ればよかったとも思った。女房や娘の浮かない顔色をみて、由兵衛は叱るように言い聞かせた。\n「もう済んでしまったことを、いつまで気にかけているものじゃあない。物事は逆さまというから、却ってめでたいことが来るかも知れない。刃物で斬られた夢を見れば、金が身に入るといって祝うじゃあないか。」\n 由兵衛はそれを本気で言ったのか、あるいは一時の気休めに言ったのか知らないが、不思議にもそれが適中して、果たして目出たいことが来た。それから十日も経たないうちに、今まで縁遠かったお妻に対して結構な縁談を申込まれたのである。\n 淀橋の柏木成子町に井戸屋という古い店がある。井戸屋といっても井戸掘りではなく、酒屋である。先祖は小田原北条の浪人井戸なにがしで、ここに二百四、五十年を経る旧家と誇っているだけに、店も大きく、商売も手広く、ほかに広大の土地や田畑も所有して、淀橋界隈では一、二を争う大身代と謳われている。その井戸屋へ嫁入りの相談を突然に申込まれて、近江屋でも少しく意外に思ったくらいであった。しかもその媒妁に立ったのは、お峰の伯父にあたる四谷大木戸前の万屋という酒屋の亭主で、世間にあり触れた不誠意の媒妁口ではないと思われるので、近江屋の夫婦も心が動いた。十九になるまで身の納まりの付かなかった娘が、そんな大家の嫁になることが出来れば、実に過分の仕合せであるとも思った。勿論、お妻にも異存はなかった。\n 十月はじめに、双方の見合も型のごとく済んで、この縁談はめでたく纏まった。但しお妻は十九の厄年であるので、輿入れは来年の春として、年内に結納の取交せをすませることになった。近江屋も相当の身代ではあるが、井戸屋とは比較にならない。井戸屋の名は下町でも知っているものが多いので、お妻はその幸運を羨まれた。\n「どうだ。経帷子が嫁入り衣裳に化けたのだ。物事は逆さまといったのに嘘はあるまい。」と、由兵衛は誇るように笑った。\n まったく逆さまである。怪しい老婆に経帷子を残されたのは、こういうめでたいことの前兆であったのかと、お峰もお妻も今更のように不思議に思ったが、いずれにしても意外の幸運に見舞われて、近江屋の一家は時ならぬ春が来たように賑わった。相手が大家であるので、お妻の嫁入り支度もひと通りでは済まない。それも万々承知の上で、由兵衛夫婦は何やかやの支度に、この頃の短い冬の日を忙がしく送っていた。\n 十一月になって、結納の取交せも済んで、輿入れはいよいよ来年正月の二十日過ぎと決められた。その十二月の十八日である。由兵衛は例年のごとく、浅草観音の歳市へ出てゆくと、その留守に三之助が歳暮の礼に来た。三之助は由兵衛の弟で、代々木町の三河屋という同商売の家へ婿に行ったのである。兄は留守でも奥の座敷へ通されて、三之助はお峰にささやいた。\n「姉さん。このおめでたい矢先に、こんなことを申上げるのもどうかと思いますけれど、少し変なことを聞き込みましたので......。」\n「変な事とは......。」\n「あの井戸屋さんのことに就いて......。」と、三之助はいよいよ声を低めた。「あの家には変な噂があるそうで......。何代前のことだか知りませんが、井戸屋に奉公している一人の小僧のゆくえが知れなくなったのです。人にでも殺されたのか、自分で死んだのか、それとも駈落でもしたのか、そんなことはいっさい判らないのですが、その小僧の祖母さんという人が井戸屋へ押掛けて来て、自分の大事の孫を返してくれという。井戸屋では知らないという。又その祖母さんが強引に毎日押掛けて来て、どうしても孫を返せという。井戸屋でもしまいには持て余して、奉公人どもに言い付けて腕ずくで表へ突き出すと、そのばあさんが井戸屋の店を睨んで、覚えていろ、ここの家はきっと二代と続かないから......。そう言って帰ったぎりで、もう二度とは来なかったそうです。」\n「それはいつごろの事なの。」と、お峰は不安らしく訊いた。経帷子の老婆のすがたが目先に浮かんだからである。\n「今も言う通り、何代前のことか知りませんが、よっぽど遠い昔のことで、それから六、七代も過ぎているそうです。」\n「それじゃあ、二代は続かせないと言ったのは、嘘なのね。」と、お峰はやや安心したように言った。\n「ところが、まったく二代は続いていないのです。井戸屋の家には子育てがない。子供が生れてもみんな死んでしまうので、いつも養子に継がせているそうです。それですから、井戸屋の家はあの通り立派に続いているけれども、代々の相続人はみな他人で、おなじ血筋が二代続いていないのです。」\n「そんなら身内から養子を貰えばいいじゃありませんか。そうすれば、血筋が断える筈がないのに......。」\n「それがやっぱりいけないのです。」と、三之助はさらに説明した。「身内から貰った養子は自分の実子と同じように、みんな死んでしまうので、どうしても縁のない他人に継がせる事になるのだそうです。」\n「変だねえ。」\n「変ですよ。」\n「そのばあさんというのが祟っているのかしら。」\n「まあ、そういう噂ですがね。」\n こんなことを言うと、折角の縁談に水をさすようにも聞えるので、いっそ黙っていようかと思ったが、知っていながら素知らぬ顔をしているのもよくないと思い直して、ともかくもこれだけのことをお耳に入れて置くのであるから、かならず悪く思って下さるなと、三之助は言訳をして帰った。\n それと入れ違いに由兵衛が帰って来たので、お峰は早速にその話をすると、由兵衛も眉をよせた。淀橋と芝と遠く離れているので、井戸屋にそんな秘密のあることを由兵衛夫婦はちっとも知らなかったのである。三之助の話を聞いただけでは、そのばあさんが一途に井戸屋を恨むのは無理のようにも思われるが、今更そんなことを論じても仕様がない。ともかくそんな呪いのある家に、可愛い娘をやるかやらないかが、差しあたっての緊急問題であった。\n「万屋の伯父さんはそんな事を知らないのでしょうかねえ。」と、お峰は疑うように言い出した。\n「といって、三之助もまさか出たらめを言いはすまい。ほかの事とは違うからな。」と、由兵衛も半信半疑であった。\n 万屋はお峰の伯父である。三之助は由兵衛の弟である。お峰としては伯父を信じ、由兵衛としては弟を信じたいのが自然の人情で、夫婦のあいだに食い違ったような心持がかもされたが、それで気まずくなるほどの夫婦でもなかった。まずその疑いを解くために、由兵衛は弟をたずねて再び詳しい話を聞き、お峰は伯父をたずねて真偽を確かめることにして、その翌日の早朝に夫婦は山の手へのぼった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ところが三捕は、伏せをするどころか、衛兵の方をみて、げらげらと笑いだしたのである。\n 衛兵はびっくりして鉄砲をひいた。よく見ると、黄いろい顔をした妙な風体の男が、長いひげをひっぱりながら、こっちをむいてあはははと笑うのである。\n 三浦は、気が変になったわけではない。例のクイクイの神様に、ちょっと早がわりをしただけのことである。神様になると、妙に気がおちつくのであった。\n「待て、ポーリン」\n という声とともに、入口に、どやどやと足音がきこえたが、いきなりとびこんできたのは、衛兵長であった。\n クイクイの神は、すばやく両手をあげて、降参の意をしめした。\n「生き残ったのは、こいつだけか」\n と衛兵長は、いって、\n「おい、ポーリン。しばっちまえ」\n と、命令した。\n 三浦がしばられている間に、部下の衛兵たちは、ぞくぞくあつまってきた。\n「こいつら、一たいどこからまぎれこんだのだろう。それとも、前から、この要塞の中にいたのかな。どうもふしぎだ」\n 衛兵長は、つぶやいて、\n「とにかく司令官のところへ、こいつを引立てよう。さあ、歩け。この長ひげめ!」\n 三浦は、衛兵長に腰をけられて、いやいやながら歩きだしたが、その時、とつぜん、妙な節まわしで、唄をうたいだした。\n「いまにイ、たすけるかーら、たんきを、だアすナ」\n それは三浦のとくいな磯節だった。\n 太刀川は、それをきくと、三浦の方に向かって、自分の足を指さし、\n「君をけとばした奴が、鍵をもっている!」\n といった。日本語だから誰にも分かるはずがない。うまくいったら、鍵をとってくれというのだが、すこぶる無理な注文である。\n 三浦が、引立てられていったところは、司令官室であった。\n しかし一同は、衝立のかげで、しばらく待っていなければならなかった。\n というのは、奥で、しきりにケレンコ司令官のあらあらしい声が聞えているからであった。\n「......日本攻略の日は、明朝にせまっているのに、貴様は、酒ばかりのんでいる。少しつつしみがたりないではないか」\n その声は、三浦に聞えたが、ロシア語だからその意味を知ることはできなかった。もし太刀川が、これをきいたとしたら、どんなにおどろいたろう。一たいあの恐竜型潜水艦に勝てるような防禦兵器が、わが日本にあるのだろうか。\n 危機は、もう目と鼻との間にせまっているのだ。\n「うーい。日本攻略は攻略、戦争は戦争。酒は酒ですぞ。リーロフは、戦闘にかけちゃ、ふん、お前さんたあ、第一この腕がちがうよ」\n そういっている相手は、やっぱり副司令のリーロフ大佐だった。\n「無礼なことをいうな。よし、ただ今かぎり、貴様の副司令の職を免ずる」\n「なに、副司令の職を免ずる」\n 酔った勢いも手つだって、リーロフも負けていない。\n とつぜん椅子がたおれ、靴ががたがたとなる音がきこえた。司令官ケレンコとリーロフ大佐とが、日本攻略を前に、大喧嘩をはじめたのだった。\n\n\n 鍵を掏る神\n\n\n クイクイの神様こと三浦須美吉を引きたててきた衛兵長は、司令官の前で、工合のわるいことになった。\n ケレンコ司令官とリーロフ大佐が、扉の向こうでつかみあいを始めたからである。室内に入るに入れず、そうかといって、このままひきかえすわけにもいかない。\n「えッへん」\n 衛兵長は、わざと大きな咳ばらいをした。\n「ええ、司令官閣下、ただ今わが海底要塞に怪人物が三人、しのびこんでいるのを発見しましたぞ。私が引っとらえて、ここへつれてきましたが、ものすごい奴であります」\n 衛兵長じまんの、大声がケレンコの耳に入らないはずはなかった。\n「おい、リーロフ。しずかにしろ」\n 司令官は、リーロフ大佐になぐられた頤を、いたそうにさすりながら、大佐に目くばせした。\n(われわれ二人の格闘は一時休戦だぞ――)\n「な、なにを、......」\n リーロフ大佐は、床にたおれたまま歯をむきだして、どなった。たった今、ケレンコ司令官から、副司令の職をはぎとられたことが、大いに不平でならないのだ。\n だが、喧嘩はとにかく一時おさまったらしいので、衛兵長は、室内へはいった。\n「司令官閣下。この男です、監禁室にあてた倉庫の中から、とびだしてきた奴は」\n そういって、クイクイの神様の背中を、どんと前についた。\n「ほう、この髭もじゃか」と、ケレンコは目をみはって、\n「ところで衛兵長、お前は、三人のあやしい男を発見したとかいったが、あとの二人はどうしたのか」\n「はい、二人はその場で、鉄砲でうちたおしてあります。ご安心ください」\n「おお、そうか」\n と、司令官はうなずき、クイクイの神様の方にむいて、\n「おい、髭もじゃ。貴様は、何者だ。又どうして、こんなところへはいりこんだのか」\n クイクイの神様である三浦須美吉には、ことばは通じなかった。彼は、そんなことはかまわず、\n「ああ、ゼウスの神よ、奇蹟をもたらせたまえ」\n 妙な言葉をとなえて、上目づかいに天井をみあげた。\n「ああ神よ、床にはうこの牛男が、奇蹟をもたらすといいたまうか」\n 牛男というのは、酔っぱらいのリーロフ大佐のことだった。クイクイの神様は、つと手をのばして、リーロフの服にさわったかと思うと、ぎゃっとさけんで、掌のうちに一箇の鶏卵をぬきとった。\n「おお、牛男は、卵を生んだ」\n クイクイの神様は、あきれ顔のリーロフ大佐の掌に、いま彼の服からぬきとった卵をのせてやった。\n「あれ、この髭もじゃ先生、おれの体から卵を、ぬきだしやがったぜ。これは、ふしぎだ」\n リーロフは、目をまるくして、掌のうえにのっている卵をみていたが、\n「おお、ほんとうの卵だ。この海底要塞の中で、卵にお目にかかるなんて、たいへんな御馳走にありついたものじゃ」\n ケレンコ司令官をはじめ、その場にいあわせた将校や兵士も、クイクイの神様の手なみにあっけにとられている。\n「ああ神よ。次なる奇蹟は、こっちのいかめしき鮭男から、下したまえ」\n クイクイの神様は、こんどはくるりと後へむいて、手を衛兵長の腰のあたりにさしのばした。\n「これ、そばへよるな」\n 衛兵長が、たじたじとなる刹那、\n「ええい!」\n クイクイの神様は、衛兵長の腰のあたりから、また一箇の鶏卵をぬきだして、その掌のうえにのせてやった。\n「おお、神の力は、広大無辺である」\n「あれ、いやだねえ。とうとうわしは卵を生むようになったか」\n 衛兵長は、掌にのせられた卵を、気味わるそうにながめつつ、大まじめでいった。\n そばに立っていた将校や兵士が、くすくすと笑った。\n クイクイの神様になりすました三浦須美吉は、してやったりと、心の中でにやりと笑った。こんなことはなんでもない。ほんのちょっとした手品にすぎない。卵は、島で仕入れ、服の下にかくしておいたものである。\n「こら、さわぐな」\n ケレンコ司令官が、にがにがしそうにどなった。\n「子供だましの魔術をつかうあやしい男だ。だが明日の行動について、これから幕僚会議をひらくから、この男のとりしらべは後まわしだ。向こうへつれていって監禁しておけ」" }, { "role": "assistant", "content": "\n\n 司令官室の激論\n\n\n 室の外へつれだされて、クイクイの神様こと三浦須美吉は、(ほい、しめた)\n と、思った。\n もうこの司令官室に用はないのだ。彼の掌の中には、衛兵長のポケットから、すりとった一個の鍵がかくされていたのである。卵を出すとみせて、手さきあざやかに、この鍵をすりとったのだ。\n この時、床のうえに寝そべっていたリーロフ大佐が、むくむくとおき上った。そして司令官には、目もくれないで、部屋を出ていこうとする。\n「おい、リーロフ大佐。どこへいく」\n「どこへいこうと、おれの勝手だ」\n「いっちゃならん。日本進攻を前にして最後の幕僚会議を開こうというのに出ていくやつがあるか」\n「副司令でもないおれに、会議の御用なんかまっぴらだ。おれはおれの実力で自由行動をとる。あたらしい副司令には、太刀川時夫を任命したがいいだろう」\n「なにをいうんだ。リーロフ、少し口がすぎるぞ、貴様は、明日のことをわすれているのか。われわれが、スターリン(ソビエトの支配者)の命令をうけ、これだけの時間と労力と費用とをかけて、この海底大根拠地をつくったのは何のためであったか。明日こそいよいよ恐竜型潜水艦をひきいて、日本艦隊を屠り去り、そして東洋全土にわれわれの赤旗をおしたてようという、多年の望がかなう日ではないか。その明日を前にして、貴様のかるがるしい態度は、一たいなにごとか」\n「いや、おれはケレンコ司令官の戦意をうたがっているのだ。いつも、口さきばかりで、今まで一度も言ったことを実行したことがないではないか。君は、要塞の番人にあまんじているのだ。ほんとうの戦闘をする気のない司令官なんか、こっちでまっぴらだ」\n「リーロフ大佐、何をいう。近代戦で勝利をおさめるのに、どれほどの用意がいるかを知らないお前でもないだろう。ことに相手は、世界に威力をほこる日本海軍だ。われわれはどうしても今日までの準備が必要だったのだ」\n「ふふん、どうだか、あやしいものだね。君がやらなきゃ、おれは今夜にも、恐竜型潜水艦で、東京湾へ突進する決心だ。なあに、日本艦隊がいかに強くとも、東京湾の防備が、いかにかたくとも、あの怪力線砲をぶっとばせば、陸奥も長門もないからねえ。いわんや敵の空軍など、まあ、蠅をたたきおとすようなものだ」\n リーロフ大佐は、いよいよ鬼神のような好戦的な目をひからせる。\n「おい、リーロフ。それほど何もかもわかっている君が、なぜ目先のみえない乱暴なふるまいをするのか」\n「おれは、日本艦隊を撃滅するのをたのしみに、はるばるこんな海底までやってきたんだ。勝目は、はじめからわかっているのに、いつまでもぐずぐずしている司令官の気持がわからない。明日攻撃命令を出すというが、ほんとうか、どうか、いつもがいつもだから、あてになるものか」\n ケレンコ司令官は、リーロフ大佐のことばを、腕組して、じっときいていたが、やがて顔をあげ、\n「よし、わかった。君の心底は、よくわかった。余が君を副司令の職から去ってもらおうとしたのは、大事を前にして、粗暴な君に艦隊をまかせておけないと思ったからだ。君がそれほど戦意にもえているのなら、今後は、粗暴なことをやるまい。なにしろ明日になれば、わが全艦隊は出動して、余も君も、ひたむきに太平洋の水面下を北へ北へと行進するばかりだからね」\n「わたしもというと......」\n「リーロフ大佐、君をあらためて副司令に任命するのだ」\n「なんじゃ。それは、ごきげんとりの手か」\n「いつまでも、ばかなことをいうな」とケレンコ司令官は、リーロフをたしなめて、\n「そのうえ、もう一つ重大任務をさずける。これを見ろ」\n と、ケレンコ司令官は、テーブルの上の海図を指し、\n「わが海底要塞に、今ある潜水艦は、三百八十五隻だ。余はそのうち二百五十五隻をひきいて、これを主力艦隊とし、大たいこの針路をとって、小笠原群島の西を一直線に北上する」\n「ふん。そこで、のこりの百三十隻の潜水艦は?」\n「その百三十隻をもって、遊撃艦隊とし、われわれよりも先に出発させ、針路をまずグァム島附近へとって、日本艦隊をおびきよせ、そのあたりで撃滅し、次に北上を開始し、紀淡海峡をおしきって、瀬戸内海をつくんだ。そのうえで、艦載爆撃機をとばせて、大阪を中心とする軍需工業地帯を根こそぎたたきつぶしてしまう」\n「ふふん。話だけはおもしろい。この遊撃艦隊をひきいていく長官は、誰だ。もちろん、わたしにそれをやれというんだろう」\n リーロフ大佐は、先まわりをしていった。ケレンコ司令官は、いかめしい顔つきで、ぐっとうなずき、\n「そのとおりだ。遊撃艦隊司令長官リーロフ少将だ。そうなると、君は提督だぞ。これでも君は、人をうたがうか。いやだというか」\n「わたしは少将で、そっちは太平洋連合艦隊司令長官兼主力艦隊長官ケレンコ大将か。ふん、どうでも、すきなようにやるがいい」\n リーロフのことばは、どこまでも針をふくんでいる。\n「さあ、そうときまったら、むだないさかいはよして、すぐに最後の幕僚会議だ。さあさあ、全幕僚を招集してくれ」\n ケレンコ司令官は、リーロフの気を引きたてるように、うながした。\n\n\n 戦闘開始\n\n\n ケレンコ司令官の部屋で、会議がはじまった。\n テーブルの上の大海図を前に、おもだった者が、額をあつめて、作戦にふける。\n そこへ、監視隊からの、無電報告が、つぎつぎとしらされて来る。\n「ただ今、十日午後六時。北北西の風。風速六メートル。曇天。あれ模様。海上は次第に波高し」\n「よろしい」\n だが、しばらくすると、おどろくべき報告がはいってきた。\n「......日本第一、第二艦隊は、かねて琉球附近に集結中なりしが、ただ今午後六時三十分、針路を真東にとり、刻々わが海底要塞に近づきつつあり。彼は、決戦を覚悟せるものの如し」\n「ほう、日本艦隊もついにはむかってくるか。どこで感づいたのだろうか。いやいや、もっと見はってみないと、にわかに日本艦隊の考えはわかるまい。とにかくリーロフ提督、君のひきうける敵艦隊の行動について、ゆだんをしないように」\n と、ケレンコがいえば、リーロフは海図をながめて、無言でかるくうなずいた。\n おそろしい時が、刻一刻と近づきつつある。ケレンコのひきいる怪力線砲をもった恐竜型潜水艦隊の、おそるべき攻撃破壊力の前に、わが日本海軍が、はたしてどれほどの抵抗をみせるであろうか。\n この時、快男児太刀川時夫は、一たい、どうしていたか。\n ――われわれは、目をうつして彼が両脚をしばられて、とじこめられている部屋をのぞいてみよう。\n 太刀川は、どうしたのか、脚をしばられたまま、床のうえに、うつぶせになって、たおれている。床のうえに、血が一ぱい流れている。あっ、足がつめたい。\n 太刀川は、ついにやられてしまったのか。\n いや、待った。彼の顔を、横からみると、どうもへんだ。たしかにソ連人の顔である。ソ連人が、太刀川のかわりに、両脚をしばられて死んでいるのである。\n そのとなりにたおれているのは、ダン艇長らしくしてあるが、これもやはりソ連兵だ。その向こうにころがっているロップ島の酋長ロロらしいのも、よくみると酋長の腰布が、藁たばの上にふわりとおいてあるばかりだ。\n もちろんクイクイの神様もみえない。みんな、どこかへいってしまったのだ。一たいどうしたというのであろうか。\n この時、司令官室では、そのすみにある、むらさき色のカーテンのかげから、するどい二つの目が、のぞいていたのである。室内の将校たちは、明日にひかえた作戦会議に、夢中になっていて、気がつかない。部屋の外を、がちゃりがちゃりと音をさせて歩いているのは、衛兵である。みんな安心しきっているのだ。\n このするどい目の主こそ、わが太刀川青年であった。\n 彼は、全身の注意力を耳にあつめて、作戦会議の成行をうかがっているのである。\n「それでは紀淡海峡に集めないで、一隊を豊後水道にまわすことにしよう。呉軍港をおさえるのには、これはどうしても必要だ。どうだ、リーロフ少将」\n ケレンコ司令官の声だ。\n「いや、おれは、紀淡海峡一本槍だ。せっかくの勢力を、いくつにも分ける作戦は、どうもおもしろくない」\n リーロフは、相かわらず、なかなか剛情だ。\n カーテンのかげの太刀川青年は、じーっと息をころして、きいている。\n それにしても彼は、どうしてこんなところへはいりこむことができたのか。――\n クイクイの神様の三浦は、たくみに衛兵長から鍵をうばうと、何くわぬ顔をしてひきたてられて行き、太刀川と同じ監禁室に入れられた。衛兵たちは、出発前夜の酒と御馳走に夢中になっていたので、三浦をほうりこむと、そのくさい部屋から、あたふたと出ていった。だから、三浦が、太刀川の足の枷をほどくことはなんでもなかったのだ。\n 太刀川と三浦とは、衛兵にうたれてきずついたダン艇長と酋長ロロのきず口に、とりあえず手当をして、ありあわせの布でしばった。\n ダン艇長は、右の腕をうたれ、酋長ロロは耳のところにすりきずをうけただけだが、二人とも、びっくりして気をうしなっていたのであった。\n 太刀川が「よし!」とさけんで、立ちあがったとき、監禁室の扉を、どんどんとたたく者があった。\n「すわ、衛兵だ!」\n 一同はびっくりして、その場に立ちすくんだが、太刀川は三浦に命じて扉をひらかせた。するとそこに立っていたのは、守衛のソ連兵ではなく、意外にも意外、とっくの昔に死んだものとばかり思っていた石福海少年だったのである。\n\n\n 生きていた石福海\n\n\n さすがの太刀川も、これには、おどろいた。\n「おう、石福海。お前、よくまあ、無事に生きていたねえ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「えツ、早いに越したことはありませんよ。私もお靜も、親分がその氣になつて下さると、どんなに嬉しいかしれないが――」\n 母親は眞つ紅になつて差し俯向くお靜を振返つて、かう續けました。\n「此の月といつても、あと三日しかないから、支度がとても間に合はないよ、親分」\n「おつ母ア、それも承知だ。が、あと三日のうちに祝言の眞似事だけでもしないと、俺の男が立たないことがあるんだ」\n「親分の男が?」\n「さう言つただけでは解るまいが、――知つての通り、近頃彼方此方の花嫁が盜まれる。それも、神田一圓と日本橋の數ヶ町かけての祝言ばかりを狙つて、暮から六人も行方知れずだ。神隱しに逢ふのか誘拐されるのか、兎も角容易なことぢやねえ」\n「さうだつてね、親分」\n「笹野樣もことの外御心配で、平次何とかしろと仰しやるが、こればかりは雲を掴むやうで、何うにも手に了へねえ。神隱しなどといふ言譯は、お上筋は通らないから、十手捕繩を預かる者から言へば、これは何處までも惡者の仕業に相違ねえ」\n「――」\n「ガラツ八も石原の兄哥も失敗つたのを承知で、伊勢直の祝言へ行つて見張つたはいゝが、この平次までが見事に裏を掻かれ、尻尾を卷いて引下がつてしまつたやうなわけだ」\n「――」\n「世上の人が後指をさして居るやうで、どうにも外へ出る勢もねえ。お願ひといふのは此處だよ、おつ母ア」\n「――」\n「此節はすつかり怯えて了つて、此界隈には猫の子の祝言もねえ。愚圖々々して居るうちに、相手が見切りを付けて、六人の花嫁を纒めて殺めるとか――そんな事はない迄も――、遠國にでも持出されたら手の付けやうがねえ。此處でもう一度相手から仕掛けさせて、動きの取れぬ證據を握る爲には、たつた一つでもいゝから祝言が欲しいんだよ」\n「――」\n「俺の眼の前で花嫁を掏り代へた相手だ。平次が嫁を貰ふといつたら、萬に一つも默つて見てゐる筈はねえ。お靜坊に、幾度も危ない思ひをさせちや氣の毒だが、一番花嫁になつて誘拐されて、曲者の巣を探つて貰ふわけには行かないだらうか」\n 折入つて頼み、男の額には冷汗さへ浮かべて居りますが、あまりの事に、母親は返事の仕樣もありません。暫く胡麻鹽になつた首を襟に埋めて、何を考へるともなくぼんやりしてしまひました。\n「親分、そんな事でお役に立つなら、どうぞ私を使つて下さい」\n 祝言をしてとは言ひませんが、お靜は顏を上げて、平次よりは寧ろ、母親の心持を測り兼ねた樣子でかう言ひました。\n「お靜、何を言ふのだえ、お前」\n「いえ、お母さんの御心配は御尤もですが、私は親分のお力を信じきつて居ります。高田お藥園の手入の時だつて、お茶の水の空屋に吊された時だつて、親分は見事に救つて下すつたぢやありませんか。ね、お母さん、どうぞ私を、今晩にも親分のところへやつて下さい」\n 母親の膝に手を置いたお靜、それを搖ぶりかげんに、少し甘える調子でせがんで居ります。平次は此健氣な心意氣に打たれて、兩手を合せて拜みたいやうな心持で、默つて差控へました。\n\n六\n\n その翌々日、平次はお靜と祝言の盃をあげることになりました。仲人は笹野新三郎の用人、小田島傳藏老人、いづれ春には輿入する筈で、ボツボツ支度を心掛けて居た矢先ですから、貧しい調度ながら、一と通りのものは揃つて居ります。\n お靜の家から平次の家までは、ほんの二三町、駕籠にも車にも及びません。平次とお靜が強つて斷るのも聞かず、小田島傳藏老人夫婦の外に、平次の朋輩やら乾分やら二三人、花嫁姿のお靜を遠卷にして、平次の家に送り屆けたのは、その晩のまだ宵の内でした。\n ガラツ八が居たら、さぞ頓興な聲で、一座を賑はしてくれるだらう――と思ふと、見えざる相手の仕掛を待つて期待と鬪爭心に燃える平次の胸にも、何かしら一脈の淋しさが冷たい風のやうに吹き入ります。\n 新妻を攫はせるつもりの平次、祝言の席から誘拐されるつもりのお靜、二人の氣持を薄々讀んだ客――この祝言は、まことに不思議なものでした。\n どうせ裏店住ひの平次、智惠や侠氣はあつても、金つ氣などはろくにありません。それでも花嫁を迎へる用意だけは一と通り調へて、借り物乍ら屏風を廻し、島臺を飾り、足の高い膳や、絹物らしい座蒲團、時節柄寄せ集め物の火鉢まで、何うやらかうやら揃ひました。\n 二た間打つこ拔いた室が式場で、その裏が花嫁の支度部屋、長屋の者が集まつて、目出度く三三九度が濟むと、『高砂や――豆腐イ』と言つた調子のが始まります。\n 紋付姿の平次も立派でしたが、それにも増して、お靜の花嫁姿は鮮やかでした。このまゝ、お開きとなれば、何も彼も無事に納まります。六人の花嫁を盜んだ曲者も、さすがに錢形の平次の嫁には手を付けられなかつたのでせう――か。\n やがて花嫁は次の間へ下がりました。怪し氣乍ら、紋付を脱いで、色直しといふことになります。盃は幾巡りかして、さんざめく一座、誘拐も何も忘れて了つて、大分いゝ心持になつて來ましたが、何うしたことか、暫く經つても、お靜の姿が見えません。\n「ちよいと」\n 髮結のお鶴さんが、屏風から顏を出して小田島老人を呼びました。\n「嫁さんは何うしたんだい」\n「先程から、お見えになりません」\n「何?」\n 一座は騷然として立ち上がりました。頭から被つた風呂敷でもかなぐり捨てたやうに、亂醉が一遍にさめて了つたのです。\n「色直しの着付けを濟して、御不淨へいらしつたやうですが、それつきり見えません」\n 界隈でよく知られた、名人の髮結、額から右の眼へかけて赤い痣のあるお鶴が、その醜い顏を歪めておろ〳〵して居ります。\n「頭到やりやがつたな」\n 聟姿の平次、忙しく羽織をかなぐり捨てると、足袋跣の儘パツと裏庭へ飛出しました。誰が開けたか、路地へ拔ける木戸はバタバタになつて、其處には夜目にもほの白く、贋物乍ら、玳瑁の簪が一本落ちて居ります\n\n七\n\n 平次の活動は、本當に火の出るやうでした。六人の花嫁を救ひ出す爲に、あらゆる物を賭けて了つた平次は、この上失敗を重ねるやうなことがあれば、死んでも申譯が立たないことになるのです。\n 世上の噂、笹野新三郎の督勵、それは暫く我慢するとしてもお靜の母親の嘆きは、一刻も見ては居られません。それに、あの自分の爲に進んで、死地に飛込んだお靜の、清淨無垢な美しい身體を考へると、賽ころの目一つに、あらゆる身上を張り込んだ人間のやうに、平次は腹の底から胴顫ひを感ずるのでした。\n 平次は今までも決して遊んで居たわけではありませんが、もう一度必死のスタートを切つて、嫁入と關係のある、あらゆる商賣を調べて見ました。第一番に、神田日本橋の呉服屋、越後屋、白木屋をはじめ、筋の立つたところを全部當つて見ましたが、江戸中に毎日、幾つあるか判らない祝言のうちから、神田日本橋のを選り出して聞くなどは、呉服屋へ行つたところで、何の足しにもならないことが判つただけでした。\n 次は鰹節屋、小間物屋、箪笥屋、諸道具屋、肴屋、酒屋、いやしくも嫁入の御用を勤めさうな店は、自分か子分かが一と通り廻つて見ましたが、何處にも怪しい節などはなく、又婚禮の日取などを聞き廻つた人間の噂は一つもありません。\n 併し、七人の花嫁誘拐の手口は、悉く周到な用意と、長い間の計畫でやつたことで、偶然の廻り合せで、行當りばつたりな仕事でないことはよくわかつて居ります。\n 念の爲、一度は諦めた女乞食のお六を、その巣にして居る明神樣の裏手の、建て捨てた物置小屋へ見に行きましたが何としたことでせう、これは、見るも無慙に縊り殺されて、ボロと藁屑の上に、醜い死骸を横たへて居ります。\n「しまつたツ、こんな事なら、もう少し口を利かせるんだつた」\n と言つたところで追附きません。\n 今度ばかりは錢形の平次ほどの者も、全く持て餘して了ひました。\n 下町中の質屋といふ質屋、古物屋といふ古物屋は、子分の者を飛ばして詮索しましたが、暮から此方、嫁入道具などを持ち込んだ者は一人もありません。\n こんな空しい努力を續けてゐるうち、たつた一つ氣の附いたことは、石原の利助と、ガラツ八が、平次とほゞ同じ調べ口で、彼方此方を探し廻つて居るといふことだけでした。\n\n八\n\n 平次はお靜にいろ〳〵のことを言ひ含めて置いた筈ですが、不思議なことに、誘拐されたお靜からは、何の合圖もありません。\n お靜の襟や帶揚の中には、格子や雨戸の隙からでも投れるやうに、平次宛に書いた手紙が、幾本も用意してあつた筈ですが、何んな場所に閉ぢ籠められたか、そんなものは、一つも平次の手許に屆かなかつたのです。\n そればかりでなく、お靜の帶の間や、懷ろの中には小さい竹笛が幾つか潜めてある筈です。その笛を引つきりなしに吹いてくれさへすれば、平次の子分達が聞込まない迄も、近所の人が變に思つて、井戸端の噂ぐらゐに上らない筈はありません。\n 平次は夜となく晝となく、神田から日本橋を、へと〳〵になるまで彷徨ひ歩きました。途に落ちた鼻紙にも驚き、按摩の笛の音にも膽を冷して、本當に氣の觸れた犬のやうに馳け廻つたのです。" }, { "role": "assistant", "content": " 併し何も彼も無駄でした。若しかしたら、六人の花嫁と一緒に、美しいお靜の死體は、今月にも大川に浮くかも知れない――といつた恐ろしい幻想に、平次は休むことも眠ることも出來ない有樣になつて居りました。\n 犇々と身に迫るのは、喰ひ入るやうな恐ろしい後悔です。疲れ果てた足を引摺るやうに、聖堂裏から昌平橋を渡つて柳原の方へ出ようとする平次の、鹽垂れ果てた肩へ、後ろからソツと手を置いたものがあります。\n「親分、御心配ですね」\n 振返つて見ると、髮結のお鶴、醜い顏ですが、それでも人のいゝ笑ひを浮べて、慰め顏に、平次の顏を差しのぞきます。\n「あ、お鶴さんか」\n 平次は夢見るやうに立止りました。\n「お靜さんの行方は、少しも判りませんか」\n 毛筋を鬢に差して、襟の掛つた小袖、結び下げた黒繻子の帶は、少し猫じやらしに尻を隱します。\n「因つたよ、お鶴さん。お前さんにも心當りはないだらうか」\n「ホ、ホ、ホ、錢形の親分さんがそんな事を仰しやつちや困るぢやありませんか。でも、今度ばかりは、本當にお氣の毒ねえ」\n 親切とも、皮肉とも聞える言葉を空耳に、平次はお鶴に伴いてその家の前まで行つて居りました。\n「ちよいと寄つていらつしやいな? お茶でも淹れませう」\n「有難う、少し休まして貰はうか」\n 斷るかと思つた平次は、お鶴に誘はれるまゝ、細かい格子戸を潜りました。\n 中は女やもめの住みさうな、磨き拔かれた調度、二三人の若い梳手が、男の客を物珍らしさうに、奧の方から娘らしい視線を送つてゐる樣子です。\n「出涸らしで御座います」\n 汲んで出す茶、一と口飮んで、長火鉢の猫板の上に置いた平次。\n「あの娘さん達は、夜も此處へ泊んなさるのかね」\n「いえ、用事のない時は、日が暮れると銘々の家へ歸しますよ」\n「住込みもあるんだらう」\n「私はこんな性分で人樣の娘を預かることなどは、面倒臭くて出來ませんから、皆んな歸つて貰ひますよ」\n「すると夜分はお鶴さん一人だね」\n「え」\n「丁度いゝ鹽梅だ。これからチヨクチヨク遊びに來るとしよう」\n「あれ、冗談ばかり。そんな事を言ふと罪ですよ、これでも女なんですから」\n「それはそれとして、いゝ加減にして、頭巾を脱つたらどうだえ」\n「え? 何を仰つしやるんです」\n お鶴は思はず屹となりました。\n「七人の花嫁を出して貰はうか」\n\n九\n\n 平次の手はサツと延びて、お鶴の左の手首をピタリと掴みます。\n「何をするんだえ、いやらしい。巫山戯たことをすると、岡ツ引だつて勘辨しないよ」\n と言ふのを引寄せて、グイと掴んだ女の腕をしごくと、二の腕に赤々と朱彫の折鶴。\n「丹頂のお鶴、御用だツ」\n「何をツ」\n 何處から取出したか、お鶴の手には、キラリと匕首、平次の首にサツと來るのを、叩き落して膝の下へ。\n「お前が怪しいことは、早くから氣が附いたが、證據がなくて踏込まずに居たんだ。花嫁が七人も續け樣に消えてなくなるのに、それを手掛けた髮結ひを疑はずに居るほどの平次と思ふか」\n 言ふ内にも、懷ろから蛇のやうに引出した捕繩、見る〳〵お鶴の身體は高手小手に縛り上げられて了ひました。\n「何をするんだ、私は女髮結のお鶴、下町でも知らない者はない。何を證據に、錢形とも言はれる者が繩を打つんだ」\n 疊を舐めさせられた額の赤痣は火の如く燃えて、醜女の怨の眼は、毒蛇のやうにキラキラと光ります。\n「默れツ、あの壁を見ろ。ところ〴〵に爪で引つ掻いた蛇の目の印があるだらう。あれはお靜に言ひ附けた合圖の栞、俺の名前から思ひ付いた錢形だ。あの印があるところにお靜が居るに相違ない――サア言へ、七人の花嫁を何處に隱した」\n「知らない知らない。たつて探したかつたら、裏は神田川だ。水の底でも覗いて見るがいゝ」\n 不貞腐れたお鶴、齒を食ひ縛つて、平次の顏を憎々しく見上げます。\n「七人の命には替へられない。言はなきア、平次の宗旨にはないことだが、お前の身體を五分試しだ。これでもか」\n 平次もさすがに一生懸命です、額にふり注ぐ冷汗を片手なぐりに拭き上げると、女の手から打落した匕首を取つて、その白々とした喉へピタリと當てました。\n「冷たくて、飛んだいゝ心持だよ、さア一と思ひに突いておくれ、――お前に殺されゝば本望だ。何を隱さう、私は長い間、お前に岡惚して居たんだよ」\n それは恐らく本音でせう。平次を斜下から見上げる惡女の眼には、不思議な情火が、メラメラと燃えさかるのです。\n「えツ、しぶとい女だ。言へツ、七人の花嫁を何處へやつた」\n 思はずゾツとし乍らも、平次は匕首のみねを返して、女の頬を叩きます。\n「駄目だよ、そんな事を言つて居るうちに、七匹の雌は一と纒にして江戸から送り出す手筈が出來て居るんだ。私はお處刑になるだらうが、その代り私の首が梟される頃は、お靜を始め七人の花嫁は、島原か長崎へ叩き賣られて居るよ」\n「何? 一と纒にして江戸から送り出す?」\n 平次はサツと次の間の唐紙を開けました。此騷ぎに、梳手の娘達は何處へ行つたかわかりませんが、突き當りの障子を開けると、目の下は眞つ黒に濁つた神田川の流れ、平次の胸には、始めて事件の謎を解く最後の曙光が射したのです。\n\n十\n\n「石原の親分、さう言つたやうなわけだ。面目次第もないが、當分此處へ置いておくんなさい」\n ガラツ八は悄氣返つて、利助の前に兩手を突きます。\n「――」\n 利助は默つて腕を拱きました。平次の恬淡な心持が、今はもう判り過ぎるほど判りましたが、長い間反目して來た利助は、ガラツ八の前に釋然として見せるには、少しばかり負借みが強かつたのです。\n「兎も角、詫をするなら、石原の兄哥にしろといふくらゐですから、あつしの言ふことなどを聞く錢形の親分ぢやありません。序の時、どうぞ宜しく取なして下さい。私はあの親分から見離されるくらゐなら、頸でも吊つて死んで了ひますよ」\n 道化たうちにも妙に眞劍なガラツ八の調子を見ると、利助は何となく擽ぐつたい心持になります。\n「まア、いゝやな、その内に何んとかなるだらう。暫く此處にブラブラして居るがいゝ」\n「有難う御座います、親分」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 何をしているのだろう?\n 何かしている。車座になって、その中に交〻人が立って、みんな礼拝の形をとって。\n その景色は強い好奇を誘惑するにたるものでした。日本左衛門もお蝶も、いつかしら両端の崖を這って、共に、その不思議な火と人との実体に近づこうとしています。\n 近づいてみて、びッくりしたのは、お蝶ばかりではありますまい。\n「天帝」\n「マリヤさま」\n そんな祈祷の声がきれぎれに風に送られてくる。\n 疑わずにはいられません。この一団は人里をはなれたかかる山奥に来て、幕府がきびしく禁じている邪宗門の祈祷を奉じているらしく想像されます。\n いや。\n それだけの事実ならまだしもですが、今、火の円座の中ほどに立って、何か空に向って祈念している背の高い人物がある。ただ一枚の黒い布にすぎない衣服を肩から足元までまとい、胸に、白い十字の金属をさげているのがいよいよ疑うべくもない邪宗門のばてれんです。\n 似ている!\n 一目見て、お蝶はあまりのことに仰天しました。\n なぜかといえば、そのばてれんは、茗荷谷の切支丹屋敷の鉄窓につながれているはずのヨハンに生き写しです。\n いや、ヨハンがこんな所にいるはずはない。あの厳重な小石川の切支丹牢を破って出られるわけもないし、こういう山間に、こういう多くの人と共に居るわけもない――と自分でその驚きを打ち消してみるものの、近づいて行けば行くほど、やはり、あの羅馬の使者ヨハンに相違ありません。\n 不思議な!\n どうして彼がこんな所にいるのだろう。\n 私が切支丹屋敷を抜け出る時に、ああ言って彼と別れたけれど、私ひとりで夜光の短刀をさがしてくることは覚束ないと考えて、矢もたてもたまらずに、彼も小石川を逃げだしたのだろうか。\n それとも、羅馬の本国から、何か変った知らせでも来たのか。\n ああ分った。そうではない。ヨハンは私に深いのぞみをかけていない。私は美しい悪魔、救われない人間、そう考えている彼だから、とうとう自分で夜光の短刀を捜索に出て来たのだろう。\n それにしても、私がここにいることを知ったら、彼もどんなに喜ぶことだろう。切支丹屋敷のあれから後の消息も聞きたい。そして、自分がこんなに旅で苦しめられていることも話したい。\n 驚きのあと、そうした種々な感情で、お蝶は前後の考えもなく、絹を裂くような声で、そこから叫びました。\n「ヨハン! ヨハンさん――!」\n と、ふた声ばかり。\n 不意に、ヨハンと呼びかけた女の声に、静かに祈祷をしていた松明は、総立ちになって狼狽しました。そうでしょう。もしそれが世に隠れて切支丹を奉ずる者の群だったら、素破とばかり、その発覚を恐れる心理に騒がされたはずです。\n 各〻の明りはすぐさま踏み消されて、山間の奇怪な幻影は真っ黒にぬり消されました。\n「あっ――ヨハンさん」\n その幻滅を追うように、お蝶がも一度呼んでみた時、それに答えて来たものは、轟然たる一発の短銃でした。\n「やっ?」\n 二度目の弾は、あわてて姿を隠しかけた日本左衛門の近くをかすッて、ド――ンという音波が眠れる山ふところを揺すぶりました。\n\n どこをどうあるき迷ったあげくか、その翌日には、お蝶は相州津久井県の堺を出て、甲州の郡内に一歩足をふみ入れておりました。\n そして、容易ならない旅のしかたをしつつ、ともかくも、彼女の姿を甲府の柳町に見るようになったのは、それからだいぶ日数を費やした後のこと。\n そこへ着くまでの間は、たえず、日本左衛門におびやかされている気持でしたが、繁昌な甲府の城下にまぎれこむと、何か気強い気がして、いつかその恐怖も忘れています。\n で、幼いころの記憶をたどって、きッと自分をよろこんで抱き入れてくれるであろうところの乳母の家をたずねてみました。\n その乳母は彼女が十二の年に、切支丹屋敷の父から暇をもらって、甲府の家に帰っている。名は、忘れもしない、お咲という、おはぐろを染めた黒い歯に、なつかしみのある小母さんでした。家は、城下から身延街道に近い西青沼のはずれで、家は小さい機屋で、機屋のほかに、御岳の百草という薬の金看板を出しているという話――そんな話もおぼえている。\n そしてその乳母やが、切支丹屋敷の、あの吉野桜の咲く南縁で、よく、甲斐絹を織る機織唄をうたって聞かせてくれたことも、お蝶はいまだに忘れません。\n 今たずねて行っても、小さな髷に結った乳母のお咲が、おおお嬢様――と膝にのせてくれるような気がする。\n 宿に休んだのは一日だけで、翌日はもう、お蝶は城下の西青沼の方角へ、お百草の金看板と、小さな機屋をたずねていました。\n しかし、それは徒労でした。\n 尋ねるような家もないし、お咲という女を知る機屋の人もありません。\n がっかりして、柳町筋を帰って来る。\n 日いッぱい歩いたので、足もかなり疲れていました。\n 江戸を離れた後、久しくふれない町の繁昌ぶりも、今夜だけは、お蝶にうるさい騒音としか響きませんし、また、往来の都会人の身なりと見くらべて、自分の装いをさびしく思う心も起きません。\n ただ、注意するともなく、自然に目にはいったのは、\n(江戸名題曲独楽娘一座嵐粂吉)\n という辻ビラです。\n 行く先々にはりつけてあるので、いやでもそのビラが目につきます。ことに、江戸という字がなつかしい。やはりここは甲府です。お蝶にも旅の空のたよりない意識がどこかにひそんでいます。\n 東両国で見たあの曲独楽かしら、それとも、浅草の地内に興行していたあれかしら。\n 切支丹屋敷にいたころは、よく父の二官をだまして、両国や浅草のいろいろな小屋をのぞいて歩いたが......\n そんな事を考え出しました。\n そして途方に暮れて来た彼女の心が、無意識に柳町の小屋場の灯に吸われてゆく。\n すると、ちょうど小屋場の二つ目の横丁から、スタスタと追いかけて来た見なれぬ男が、お蝶を追い越して振りかえったり、わざとおくれて小半町ついて歩いていたかと思いますと、人通りのすきを見て、\n「お蝶さん」\n と、見事に彼女の名をさしました。\n ひやりとしたように、彼女のひとみが自分の肩越しにうしろを見ると、\n「やっぱり、お蝶さんですね」\n と、男は、左の肩にのせていた物を、右の肩にのせかえました。\n それは、箒のように藁を束ねた俗に「べんけい」という物で、そのべんけいには子供がよく空へ舞わせて遊戯する竹の蜻蛉がいくつも刺してありました。\n お蝶は、いぶかしさと、油断のない要心をひとみに沈めて、\n「あら? ......」\n「お蝶さんでしたね。あなた様は」\n「わたし、お前さんみたいな人を知らないけれど......だれなの? 一体」\n「わたくしですか。わたくしはその、とんぼ屋久助という旅商人でございます」\n\n お蝶がいぶかしそうな顔をしているのにかまわず、とんぼ売りの久助は、旧知のような口ぶりで、\n「ところで切支丹屋敷のお嬢さん。折入って、あなたにお話があるんですが、ちょっと私と一緒にその辺までお徒歩なすって下さいませんか。......なあに、お話すればすぐわかることで」\n と、竹とんぼを挿したべんけいを担いでスタスタと先に歩き出しました。\n 切支丹屋敷のお嬢さんだって?\n 久助は今たしかにそう言いました。どうしてそんなことを知っているのだろうか、見たことも聞いたこともない蜻蛉売りが......と、お蝶は勿論ためらいました。しかし、振顧って、また招いた久助の眼ざしに、何かしらやさしみがこもっているような気がしたので、ふと、\n「尾いて行ってみようかしら?」" }, { "role": "assistant", "content": " と、彼女のいたずらな心がうごきかけました。\n 久助は、さびしい裏町へお蝶を導いて、何を渡世にする家とも分らない一軒のしもたやの戸を開けて、顔を出したそこの内儀と小声で話しておりましたが、\n「さ、遠慮はいりませんからおはいりなすって」\n お蝶を招き入れて、自分も草鞋とべんけいを戸口の隅におきました。\n そして、奥の――という程でもない、せまい一間に坐りこんだ時には、折角のお蝶の好奇心も、つまらない所へ来てしまったような悔いに取り代っておりました。\n「どうか、御安心なすって下ざい、今は山へ行って留守ですが、ここの亭主も私たちと回じ心の者、何を話しても、心配はない家ですから」\n 久助はこう言ってから――\n「ところで、お嬢様は、さだめし変な奴だと、私をお疑いでございましょうが、実は、或るお方のいいつけで、郡内の手前からあなた様を蔭身になって守って来たので、まあとにかく、ここまでは御無事で、ほんとによいあんばいでございましたよ」\n と、暗裏に、日本左衛門のことを知ってるような話し振りで、しかも、その難を蔭身になって守護して来たと明言するにおいては、お蝶も意外に思わずにいられません。\n「じゃ何ですか、郡内の手前というと、あの小仏の近くからこの甲府まで、お前さんは私のあとについて来たんですか」\n「そうです。今も申しました、私たちの仲間の長老――ばてれん様の御命令で」\n「ばてれん?」\n「はい」\n「ヘエ、ばてれん、それは一体だれのことなの......」\n「御存知ないわけはございますまい。あの切支丹屋敷のヨハン様を」\n「えっ、ヨハン? ......。そしてお前はヨハンから頼まれて、私のあとを守って来たのかえ」\n「そうです、何しろあなた様は、大事なお体だという話です」\n「だけれど妙じゃないか、そのヨハンは、小石川の終身牢に捕われている人間、どうして私が日本左衛門に追い廻されたことなどを知っているわけがないもの」\n「実は、そのヨハン様は、私たち山岳切支丹族の仲間の者が相談の上、茗荷谷の牢獄から山へお迎えいたしたのでございます。......それもこれもお嬢様、みんな、あなたの為、あなたの御先祖の羅馬王家のために、仲間の者もヨハン様も御苦労をしているのでございますぜ」\n 久助の強い目に、お蝶は思わずうつ向かせられました。\n そこで、なお得心のゆくように説いて話す彼のことばが、お蝶にとっては、いちいち今日まで夢想もしない世間と不思議な事実ばかりです。\n ――徳川初世の禁教令このかた、殊に寛永年度のきびしい邪宗門狩りの法度が天下に布かれて以来日本の地には、表面、切支丹の宗徒まったく影を絶っているようでありましたが、事実は、柱に天帝の像をかくして、マリヤに似せた観音像を仏壇にひそめて、ひそかにそれを信奉するものや、或いは、そうした人々のみで、法令のとどかぬ山間の部落をなして、一種の切支丹村をかたちづくり、領主のさとるところとなると、山から山を遊牧して、またどこかに聖教の村を作る――そういったふうな宗徒は今に至っても決して絶えていないのでありました。\n その最も力のある団体が、榛名、赤城、秩父、甲府にわたる無人の地を所さだめずに棲んで移る山岳切支丹族の仲間の者であるのです。\n とんぼ売りの久助もその一人。いま座敷をかりているこの家の亭主もその一人です。\n\n また、吾々山岳切支丹族のなかまは、その漂泊してゆくところの武甲の山や秩父の奥に、いくつもの耶蘇教会をもっている。だから、幕府が今よりも宗門の制を苛酷にして、信徒にあらゆる迫害をきわめても、少しも信仰を害されることはない。また、そんな政策によって、日本に聖徒があとを絶つことも決してない。\n そこは自由な天地。\n 地上の楽園であります。\n 私たちは、その自由な山の教会へ、小石川の牢獄からヨハン様をお迎え申し、今また貴女様をお迎えに来たものです。そしてあなたを中心に、ヨハン様をそのうしろだてに、夜光の短刀をたずねようという仲間一統の申し合せなんでございます。\n ――久助はこう話し終って、\n「この上は、私がお供をして、山へ御案内いたします。そして、ヨハン様にお会わせするのが久助の役目でございます。――小仏の沢で会合した仲間達は、あれから秩父の天童壇へまいっているはずでございます。今夜はここでごゆるりと体をやすめて、明日は早朝に立つことにいたしましょう」\n 彼はひとりでのみこんで、そこへお蝶の夜具をのべ、自分は隣の部屋へさがって、一方の角柱へ礼拝して、ふッと行燈を消して寝てしまいました。\n 疲れているので、お蝶もこの家を出る勇気はありません。と言って、久助のことばにまかせて、奥秩父の教会とかへ行ったものだろうか、それとも行かない方がいいだろうか。\n とにかく、寝て考えることに決めて、明りが消えたあとの蚊帳の波に、静かになって思案しています......\n たよる者もなく行く先もなく、自分は暗夜の途方にくれている。\n お蝶は自分の姿をこうながめてみました。\n だが、あの人たちの自由の天地というところが、ほんとに自分にも自由の天地であろうか、楽園であろうか。いやいや、そんないい所ではないような気がする。お蝶は信仰の生活を求めて切支丹屋敷を逃げたのではありません。\n 彼女の欲しているものは、世の女が競ッて謳歌している華美な生活と飽くなき若さの享楽であります。それがために今の艱苦をこらえ、それがために一日も永く生きていたい。\n 何も、秩父の奥や、世間を遠去かった山の会堂などで一生を終るくらいなら、一緒に死ねといった父の二官と共に、心残りなくこの世を去っている。その方がどれ程ましか知れやしない。\n 彼女の考えはこう傾きましたが、また、今の辛い放浪を思うとやはりその生命の安全を計るには、久助に連れられて、ヨハンの所へ行くのが最も善策であるように思われます。\n 何しろ、あの日本左衛門がいったん自分をつけ狙った以上は、必ず、いつか一度はどうかされるに極っている。そうだ、何よりもいのちが大切、一時久助と共に切支丹族のなかまにはいって、それから折があったら逃げ出そう。\n こう思案がきまると、いつか、彼女はスヤスヤと寝息をかきはじめました。\n いままでは毎夜毎夜、心から気をゆるめて休んだこともありませんが、今夜は、久助という者が隣の部屋にいて、自分の身を守っていてくれるという安心がはっきり胸にあったので、お蝶の寝息も次第にグッスリと深まってまいりました。\n かくて、短夜はまもなく白み初めたようです。カラカラと明け方の街道をとおる野菜車、どこか裏の方で、もう仕事をはじめたらしい機屋の筬のひびき、物売りの呼び声、井戸つるべの音。\n 陽はその家の東の窓に、朝からカンカンと照りつけています。たれか、用のあるらしい者が、一、二度その戸をたたいたりしましたが、ゆうべ夜ふかしをしたせいか、陽が三竿に至っても起きる気しきが見えません。\n 暫くすると、やっと、\n「あ、暑い......」\n と、お蝶が一番先に目をさましたらしい。\n ゆうべ、ちょっと見かけたここのお内儀も久助も、まだグッスリと寝坊している様子です。羽目板がソックリ反るほど照りつけている外の陽に、家の中は蒸籠のように蒸されています。\n 勝手がわからないので、お蝶は、蚊帳のつり手を外しながら、\n「久助さん」\n と、隣へ声をかけてみる。\n「まだお寝み? おそいようですよ、ああ暑い――」\n 耐えられなくなって、窓の雨戸を開けますと、カッと、眼のくらみそうな日光が、寝起きのあぶら顔へ容赦なく照りつけます。\n「おや、もう午ごろじゃないか。――久助さん、久助さん」\n 少しあわてて呼び起こしましたが、返辞がないので、境のふすまを細目に開けてみますと、その部屋は、閾際から枕元へかけて、ぶちまけたように一面の血汐です。\n 駆け戻って、奥をのぞくと、そこにも、ゆうべの内儀が夜具のなかにことぎれている。\n お蝶は、いったん明けかけた窓の戸をピッシャリとしめて、よろよろと蚊帳の裾に腰をついてしまったのです。そして、茫となった彼女のひとみは、目の前の有明行燈に、こんな文字が書かれてあるのを、読む気力もなく見つめました。\n\nお蝶に告げおくこと。\nお蝶よ。\nきょうは何処かにて必ずおんみに会うであろう。化粧をととのえて待て。身もたのしみに待つ。\n日本左衛門\n\n\n柳沢吉保\n\n「仁三じゃねえか、そこへ行くなあ。――おお仁三だ、雲霧の兄い」\n と、西瓜のたねをホキだしながら、あわてて呼んだ者があります。\n なまこ塀の多い横丁のつきあたりには、たたえたような青い水と巨大な石垣がふさいでいました。柳沢美濃守吉保の封ぜられている甲府城の外濠。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 軍港を出た五潜水艦\n 謎の航路はどこまで\n\n\n「波のうねりが、だいぶ高くなって来ましたですな」\n 先任将校は欄干につかまったまま、暗夜の海上をすかしてみました。\n「うん。風が呻りだしたね」\n そういったのは、わが○号第八潜水艦の艦長清川大尉です。\n 司令塔に並び合った二つの影は、それきり黙って、石像のように動こうともしません。今夜もまた、第十三潜水戦隊は大波の中を、もまれながら進んでいるのです。\n 暗澹たる前方には、この戦隊の旗艦第七潜水艦が、同じように灯火を消して前進しているはずです。又、後には、第九、十、十一の三艦が、これも同じような難航をつづけているはずです。五分おきにコツコツと水中信号器が鳴って、おたがいが航路から外れることのないように、警戒をしあっています。\n この五隻の○号潜水艦が、横須賀軍港を出たのは、桜の蕾がほころびそうな昭和○年四月初めでありました。それからこっちへ、もう一月ちかい日数がたちました。その間、どこの軍港にも入らないし、島影らしいものも見かけなかったのでした。\n もっとも水面をこうやって航行するのは、きまって夜分だけです。昼間は必ず水中深く潜航を続けることになっていましたので、明るい水上の風景を見ることも出来ず、水兵たちはまるで水中の土竜といったような生活をつづけていたわけでした。\n とにかくこんなに永い間、どこにも寄らないで、一生懸命走っているということは、今までの演習では、あまり類のないことでした。\n「どうも、本艦はどの辺を航海しているのか判らんねえ」\n 第八潜水艦の兵員室で、シャツを繕っていた水兵の一人がいいました。\n「もう二十五日もたつのに、どこの根拠地へも着かないんだからね」\n それにこたえた水兵が、手紙を書く手をちょっと休めて、あたりの戦友をグルッと見廻しました。グルッと見廻すといったって、まるで樽の中のような兵員室です。右も左も、足許を見ても天井を仰いでも、すぐ手の届きそうなところに大小のパイプが、まるで魚の腸を開いたように、あらゆる方向に匍い並んでいます。\n「第一不思議なのは本艦の方向だよ。或時は東南へ走っているかと思うと、或時は又真東へ艦首を向けている」\n「そうだ。俺は昨夜、オリオン星座を見たが、こりゃひょっとすると、飛んでもない面白いところへ出るぞと思ったよ」\n「面白いところへ出るって、どこかい。おい、いえよ」\n「うふ。その面白いところというのはな」\n「うん」\n「それは......」\n と、先をいおうとしたときに、室内に取付けてある伝声管が突然ヒューッと鳴り出しました。丁度その側に「猿飛佐助」を夢中で読んでいた三等兵曹が、あわてて立ち上ると、パイプを耳にあてて聞きました。何だか向うから怒鳴っている声が洩れて聞えます。\n「はいッ、判りましたッ」\n パイプをかけて、一同の方に向いた兵曹は厳格な顔付で叫びました。\n「兵員一同へ艦長から重大訓令がある。直に発令所へ集合ッ!」\n 皆、手にしていたシャツも手紙も、素早く箱の中へ片付けると、ドヤドヤと立ち上って発令所の方へ駈足です。何しろエンジンとエンジンの間をぬけ、防水扉のところで頭を打ちつけそうになるのをヒョイとかがんで走りぬけるのですから大変です。あわてると駄目です。\n\n\n 宣戦布告の無電\n 雷撃隊の任務重し!\n\n\n 発令所には、さっきまで司令塔にいた艦長と先任将校とが、いつの間にか儼然たる姿を現しています。そして艦長の清川大尉の手には、一枚の紙片が、しっかと握られています。\n「全員集合しましたッ」\n 当直将校が報告をいたしました。\n「気を付けッ」\n 一斉に、サッと、全員は直立不動の姿勢をとりました。何とはなしに、激しい緊張が全身に匍いあがってきて、身体が細かく震えるようです。\n 艦長は、一歩前へ進みました。\n「唯今、本国から重大なる報告があったからして、一同に伝える」艦長は無線電信を記した紙片をうやうやしく押戴いて、「大元帥陛下には、只今、×国に対して宣戦の詔勅を下し給うた」\n ×国へ対して宣戦布告――一同は電気にでも触れたように、ハッとしました。乗組員たちは、かねてこういうことがあろうかと覚悟をしていたものの、いよいよ詔勅が下ったとなると、俄かに血が煮えくりかえるようです。思わずグッと握りしめた拳に、ねっとり汗が滲みでました。\n「皇国のために万歳を唱える」艦長は静にいいました。しかしその両眼は忠勇の光に輝いていました。\n「大日本帝国、万歳!」\n「ばんざーい」\n「ばんざーい」\n「ばんざーい」\n 艦内は破れんばかりに反響しました。\n「次に――」艦長は語を改めました。「南太平洋に出動中の連合艦隊司令長官閣下から、本戦隊の任務について命令があったが、それを報告するに先立て、本艦の現在の位置について述べる」\n 乗組員は、いまや待ちに待った本艦の位置が判るんだと知って、思わず唾をゴクリとのみこんだのです。\n「――本艦は現在、米国領ハワイの東方約二千キロの位置にある」\n 乗組員は、思わず口の中で、「あッ」と小さい叫び声をあげました。\n ああ、×領ハワイ。\n ×国艦隊が太平洋で無二の足場とたのむ島。大軍港のあるハワイ。\n そのハワイを更に東へ二千キロも、×国本土に近づいたところに、わが潜水戦隊は入りこんでいるのでした。\n まるで×の巣の中です。ちょいと手を伸ばしただけで、すぐめぼしい相手にぶつかれるのです。またそれだけ自分の身の上に大危険があるわけですが、そんなことを気にかけるような乗組員は、一人もありませんでした。それにしても、わが潜水戦隊の、この遥かなる遠征の使命は、いかなることでありましょうか。\n「最後に、本戦隊に下された命令を読みあげる」艦長はぐるりと一同を見まわしました。\n「連合艦隊司令長官命令。×領ハワイ島パール軍港ニ集リタル×ノ大西洋及ビ太平洋合同艦隊ハ、吾ガ帝国領土占領ノ目的ヲ以テ、今ヤ西太平洋ニ出航セントセルモ、ハワイ根拠地ノ防備ニ一大欠陥アルヲ発見セリ。ヨリテ直ニ二個師団ノ陸兵及ビ多数武器ヲ大商船隊ニ乗セ、パナマ運河ヲ通過シテハワイヘ向ケ出発セシメタリ。モシコノ大商船隊ヲシテ、ハワイニ到着セシメンカ、ハワイ島ハ一躍、難攻不落ノ要塞トナリ、×軍ノ東洋進出ヲ容易ナラシメ、進ミテ、皇国ノ一大危機ヲ生ズルニ至ルベシ。故ニ第十三潜水戦隊ハハワイト、パナマ運河トヲ結ブ海面附近ニ出動シ、途中ニオイテコレヲ撃滅スベシ。終」\n 非常に重大なる任務でした。間もなく日×両軍の主力艦隊が決戦しようという時、この大商船隊がハワイにつけば、×艦隊は岩をふまえた虎のように強くなるでしょう。又その反対に、この大商船隊を撃滅出来れば、わが連合艦隊の作戦は大分楽になります。随って、この大商船隊を葬るか、それともその商船隊を護る×の艦隊にこっちが撃退されるかによって、両軍決戦の勝敗がどっちかへハッキリきまることになるのです。\n 清川艦長はこのことを一通り部下に説明したのち、一段声を励ましていいました。\n「大元帥陛下の御命令により、只今からわが第十三潜水戦隊は、この名誉ある任務を果そうとするのだ。――総員、直に配置につけッ」\n 一同はもう一度、万歳を唱えたいのを我慢して、サッと挙手の敬礼をして忠勇を誓いました。誰の顔にも、見る見るうちに、盆と正月とが一緒に来たような喜色がハッキリと浮かび上りました。操舵手は舵機のところへ、魚雷射手は発射管のところへ、飛んでゆきました。\n\n\n ×の駆逐艦に見つかる 八門の\n 大砲にねらわれての大離れわざ\n\n\n 勇みに勇む第十三潜水戦隊は、その日から船脚に鞭うって、東南東の海面へ進撃してゆきました、いよいよ×国は近くなる一方です。\n それは宣戦布告を聞いてから、丁度六日目にあたる日の昼下りのことでありました。第八潜水艦の司令塔は、にわかに活溌になってきました。\n「どうも哨戒艦(見張の軍艦)らしいな」と清川艦長が叫びました。\n「まだ向うは気がついていないようですね」\n 先任将校は双眼鏡から眼を離して、いいました。\n「艦長どの、旗艦から報告です。『正面水平線上ニ×国二等駆逐艦二隻現ル』」伝令です。\n「よし、御苦労」\n 行く手にあたって、高くあがった微かな煤煙は、だんだんと大きくなって来ます。よく見ると、成程それは×の二等駆逐艦が二隻並んでこちらへ進んで来ているのです。潜水艦の二倍もの快速力で走り、そして優勢な大砲を積んでいるという、潜水艦にとっては中々の苦手、その駆逐艦が、しかも二隻です。" }, { "role": "assistant", "content": " だから、この場合潜水戦隊としては、出来るだけ姿を見せずに逃げだすのが普通なのです。\n「艦長どの。司令官閣下から、お電話であります」\n 伝令兵は忙しく、清川大尉の方へ報告をいたしました。\n「うむ。――」\n 大尉が無線電話機をとりあげて見ますと、待ちかまえたように、司令官の声がしました。\n その電話は、×を控えて、二分間ほども続きました。その間に、この難関を切りぬける作戦がまとまりました。\n「それでは――」と司令官は電話機の彼方から態度を正していわれました。\n「貴艦の武運と天佑を祈る」\n「ありがとう存じます。それでは直に行動に移ります。ご免ッ」\n 電話機はガチャリと下に置かれました。\n(よオし、やるぞッ!)\n 艦長の顔面には、固い決心の色が、実にアリアリと出ています。\n「総員戦闘位置につけッ」\n そう叫んだ艦長は、旗艦はじめ四隻の僚艦の行動を、司令塔の上からじッと見ています。四艦はグッと揃って右に艦首を曲げました。そしてグングンと潜航です。見る見る波間に姿は隠れてしまいました。海上に残ったのはわが第八潜水艦一隻だけです。\n「水面航行のまま、全速力ッ」\n ビューンと推進機は響をたてて波を蹴りはじめました。何という無茶な分らない振舞であろう! まるで、敵の牙の中へ自らとびこんでゆくようなものです。\n 五分、十分、十五分......。\n 航路をやや外れかかった×の哨戒艦が、俄かに艦首を向けかえて、矢のように、こっちへ向って来ます。\n ああ、遂に×の駆逐艦二隻と、第八潜水艦との正面衝突――これはどっちの勝だか、素人にも判ることです。恐らく潜水艦の砲力が及ばない遠方から、はるかに優勢な駆逐艦の十サンチ砲弾が、潜水艦上に雪合戦のように抛げかけられることでしょう。そうなれば一溜りもありません。\n しかし艦長の清川大尉は、悠々と落ちついていました。味方の四艦からは、もうかなり離れました。そのときです。\n「面舵一杯ッ」\n 艦長の号令に、艦首はググッと右へ急廻転しました。\n ×の哨戒艦も、これに追いすがるように、俄かに進路をかえました。四千メートル、三千メートル......。×の四門の砲身はキリキリキリと右へ動きました。\n「あッ」\n 八門の砲口から、ピカリ赤黒い焔が閃きました。と同時に真黒い哨煙がパッと拡がりました。一斉砲撃です。\n どどーン。どど、どどーン。\n 司令塔のやや後の海面に、真白な太い水柱がドッと逆立ちました。まだすこし遠すぎたようです。\n「×艦はあわてているぞッ」\n 清川艦長は微笑しました。\n「もう少しだ。全速力!」\n ○号潜水艦はありったけの快速力を出して走ります。しかし、×艦はグングン近づいて、いよいよ完全に弾丸のとどく所へ迫りました。砲身には既に新たな砲弾が填められたようです。こんどぶっ放されたが最後、潜水艦はどっちみち沈没するか、さもなくても大破は免れないでしょう。乗組員の胆のあたりに、何か氷のように冷いものが触れたように感じました。\n そのときです。\n が、が、がーン。\n さッと周をとりまいた黒煙。\n「あッ――」\n「やられたな、どうした伝令兵!」\n 艦長の声です。弾丸は司令塔の一部を削りとって海中へ......。\n「しっかりしろ、傷は浅い」と先任将校。\n ×の大砲は、いよいよねらいがきまって来たようです。いよいよ危い次の瞬間......。\n「おお、あれ見よ!」\n 今や追撃の真最中だった×の哨戒艦の横腹に、突然太い水柱があがりました。くらくらと眩暈のするような閃光。と、ちょっと間をおいて、あたりを吹きとばすような大音響!\n どどーン、ぐわーン。\n ×艦の胴中から四方八方に噴き拡る黒煙。――檣が折れて空中に舞い上る。煙突が半分ばかり、どこかへ吹きとばされる。何だか真黒い木片だか鉄板だか知れないものが、無数に空中をヒラヒラ飛んでいる。\n「作戦は図に当ったぞッ」\n 艦長は叫びました、×艦隊は清川大尉の第八潜水艦を見付けて、夢中になって追跡したのです。まさか他の四隻の潜水艦が隠れているとは露知らず、遂にうまうま計略に載せられて、僚艦四隻の待ちかまえていた魚雷のねらいの中へ、ひっぱりこまれたのでした。\n 大きいといっても二等駆逐艦です。ドンドン傾いてゆきます。×兵は吾勝ちに海中へ飛びこんでいます。\n「万歳!」\n「潜水戦隊、万歳!」\n 海面を圧して、どっと喜びの声があがりました。\n\n\n 無念の手傷\n 取残された第八潜水艦\n\n\n 初陣に、×の哨戒艦二隻を撃沈して、凱歌をあげたわが第十三潜水戦隊は、直に隊形を整えて、前進をつづけようといたしました。ところが、ここに大変困ったことが起りました。\n それは一番の手柄をたてた第八潜水艦の出入口の蓋が、敵弾に壊されたことです。これがしっかり閉じられないと、潜水することは出来ません。\n これには清川艦長は勿論のこと、司令官も心を痛められましたが、しかし、これから先の大事な任務を思うと、ここでぐずぐずしているわけにゆかないのです。\n 司令官は心をきめて、第八潜水艦をあとへ残し、無事な四隻を率いて、目的のパナマ運河近くへ進むこととしました。\n 傷ついて取残された第八潜水艦の心細さはどんなでしょう。蓋を直しきらないうちに、もし先刻のような駆逐艦に見つかったら、今度こそは否応なく、撃沈されてしまいます。あれほどの大手柄をたてた艦に、なんと惨い御褒美でしょう。\n だがあくまで沈勇な清川艦長は、全員を指揮して、早速修理にとりかかりました。もうこうなったら、運は天に委せるのです。委せてしまえば、かえって朗かな気持になれます。\n 一時間を過ぎ、もう二時間になろうというときになって、やっと出入口の鉄蓋は、間に合わせながら役に立つようになりました。大変な努力です。そして武運に恵まれたこの艦は、その間×国の艦船にも見つからずにすみました。一同の顔には、隠しきれない喜びの色が浮かびあがりました。\n「やれやれ」\n「お祝いに、煙草でものもう」\n 一同ホッとして、腰をのばしかけたその時です。\n 監視兵が、俄かに大声をあげました。\n「艦長どの、×船が見えます。本艦の左舷二十度の方向です」\n「なに×船!」艦長は直に双眼鏡をとって、海面を見渡しました。「うん、これは×国の汽船だな。これは大きい。まず、三万噸はある」\n「軍需品を積んでいるようですな。甲板の上にまで積みあげています」\n 副長がそういっているうちに、汽船は急に進路を曲げて、こっちへ驀進して来ます。\n「おや、あいつ、こっちへ向ってくるぞ」\n「こりゃ怪しいですな。大砲を持っているわけでもないらしいですが」\n「とにかく停船命令に一発、空砲を御馳走してやれ」\n「はッ――主砲砲撃用意ッ」\n 艦内は急に緊張しました。実に危いことでした。もう三十分も早ければ、潜水艦の運命はどうなったかわかりません。\n「艦長どの報告」監視兵が突然叫びました。「×船から飛行機が飛出しました。只今高度、約二百メートル」\n「うん。とうとう仮面を脱ぎよったぞ、飛行機を積んでいるから、先生気が強いのだ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 飯後神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩と云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手には、楢の大木が五六本川面へ差かゝって居る。其蔭に小さな小屋がけして、杣が三人停車場改築工事の木材を挽いて居る。橋の下手には、青石峨々たる岬角が、橋の袂から斜に川の方へ十五六間突出て居る。余は一人尖った巌角を踏み、荊棘を分け、岬の突端に往った。岩間には其処此処水溜があり、紅葉した蔓草が岩に搦んで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山が、水際から屏風を立てた様に聳えて居る。其中腹を少しばかり切り拓いて、こゝに停車場が取りついて居る。檣の様な支柱を水際の崖から隙間もなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側乗って居るのである。停車場の右も左も隧道になって居る。汽車が百足の様に隧道を這い出して来て、此停車場に一息つくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道の孔に吸わるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余の上流では白波の瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝い色をなして、其処此処に小さな渦を巻き〳〵彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋の袂から突出た巌に礙げられてこゝに淵を湛え、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角を摩って、また下手対岸の蒼黒い巌壁にぶつかると、全川の水は捩じ曲げられた様に左に折れて、また滔々と流して行く。去年の出水には、石狩川が崖上の道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。此窄い山の峡を深さ二丈も其上もある泥水が怒号して押下った当時の凄じさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石に凄い。橋下の水深は、平常二十余尋。以前は二間もある海の鯊がこゝまで上って来たと云う。自然児のアイヌがさゝげた神居古潭の名も似つかわしく思われる。\n 夕飯後、ランプがついて戸がしまると、深い深い地の底にでも落ちた様で、川音がます〳〵耳について寂しい。宿から萩の餅を一盂くれた。今宵は中秋十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎雲をかぶって、朦朧とした谷底を石狩川が唯颯、颯と鳴って居る。\n\n\n名寄\n\n 九月十九日。朝神居古潭の停車場から乗車。金襴の袈裟、紫衣、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換え、名寄に向う。旭川からは生路である。\n 永山、比布、蘭留と、眺望は次第に淋しくなる。紫蘇ともつかず、麻でも無いものを苅って畑に乾してあるのを、車中の甲乙が評議して居たが、薄荷だと丙が説明した。\n やがて天塩に入る。和寒、剣淵、士別あたり、牧場かと思わるゝ広漠たる草地一面霜枯れて、六尺もある虎杖が黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓うつ。\n 余放吟して曰く、\n\n泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖の秋\n\n 士別では、共楽座など看板を上げた木葉葺の劇場が見えた。\n 午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐ例の見物に出かける。\n 旭川平原をずっと縮めた様な天塩川の盆地に、一握りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗の寺、天理教会、清素な耶蘇教会堂も見えた。店頭で見つけた真桑瓜を買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々と北へ流れて居る。鉄線を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜を剥いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早日が入りかけて、薄ら寒く、秋の夕の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二たび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中を乗馬の男が野の方から駈を追うて帰って来る。馬蹄の音が名寄中に響き渡る。\n 宿の主人は讃岐の人で、晩食の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室には、先刻馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩の笛が大道を流して通る。\n\n\n春光台\n\n 明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文に往って、土産話にアイヌの老酋の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻して、当年のわびしい記憶を喚起そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。\n 余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場を横ぎり、車を下りて春光台に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻の台である。上川原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居して居る。丘上は一面水晶末の様な輝々する白砂、そろ〳〵青葉の縁を樺に染めかけた大きな檞樹の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下は第七師団である。黒んだ大きな木造の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩いたり、赤い旗が立ったり、喇叭が鳴ったりして居る。日露戦争凱旋当時、此丘上に盛大な師団招魂祭があって、芝居、相撲、割れる様な賑合の中に、前夜恋人の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。\n 余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり〳〵檞の葉を揺かして居る。\n\n春光台腸断ちし若人を\n 偲びて立てば秋の風吹く\n\n 余等は春光台を下りて、一兵卒に問うて良平が親友小田中尉の女気無しの官舎を訪い、暫らく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤って、硝子窓を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀に囲われた見すぼらしい板葺の家で、垣の内には柳が一本長々と枝を垂れて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿の花が其処此処に叢をなして咲いて居た。\n\n\n釧路\n\n(一)\n\n 旭川に二夜寝て、九月二十三日の朝釧路へ向う。釧路の方へは全くの生路である。\n 昨日石狩岳に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処此処に焼け残りの黒い木の株が立って居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる様だ。下富良野で青い十勝岳を仰ぐ。汽車はいよ〳〵夕張と背合わせの山路に入って、空知川の上流を水に添うて溯る。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹霜を閲し、狐色になった樹々の間に、イタヤ楓は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝駅に来た。石狩十勝の境である。余は窓から首を出して左の立札を見た。\n\n狩勝停車場\n 海抜一千七百五十六呎、一二\n狩勝トンネル\n 延長参千九呎六吋\n釧路百十九哩八分\n旭川七十二哩三分\n札幌百五十八哩六分" }, { "role": "assistant", "content": "函館三百三十七哩五分\n室蘭二百二十哩\n\n 三千呎の隧道を、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松の翠に秀であるいは白く立枯るゝ峰を過ぎて、障るものなき辺へ来ると、軸物の大俯瞰図のする〳〵と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯の萱山から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地と空と融け合う辺にとまった。其処に北太平洋が潜んで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花の白く光る山腹を、波状を描いて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上に蟠る連嶺が青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。\n 当分は㓐別まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点、球燈、国旗、満頭飾をした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々たる十勝川の流れに暫くは添うて東へ走った。時間が晩れて、浦幌で太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室の電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路断続海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月を横目に見ながら、夕汐白く漫々たる釧路川に架した長い長い幣舞橋を渡り、輪島屋と云う宿に往った。\n\n(二)\n\n あくる日飯を食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸に跨って居る。停車場所在の側は平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高い丘をなして自から海風をよけ、幾多の人家は水の畔から上段かけて其蔭に群がり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋に挾まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面には海と平行して長く延いた丘の上、水色に冴えた秋の朝空に間隔てゝ二つ列んだ雄阿寒、雌阿寒の秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋には蟻の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日人を尋ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は匇々にして宿に帰る。\n\n\n茶路\n\n 北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路に住むと云うM氏の在否を調べて貰うと、先には居たが、今は居ない、行方は一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児を宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘一柄、身軽に出かける。時は最早午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈を入れ、案内者は夜食の握飯と提灯を提げて居る。\n 海の音を背に、鉄道線路を踏切って、西へ槍の柄の様に真直につけられた大路を行く。左右は一面じめ〳〵した泥炭地で、反魂香の黄や沢桔梗の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯れかゝった草を彩どって居る。煙草の火でも落すと一月も二月もぷす〳〵燻って居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処此処で人夫がレールや枕木を取りはずして居る。\n「如何するのかね」\n「何、安田の炭鉱へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰になってます。エ、最早廃しちゃったんです」\n 案内者は斯云って、仲に立った者が此レールを請負って、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当な儲をした事を話す。枕木は重にドス楢で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢は堅硬にして容易に朽ちず栗にも劣らぬそうである。\n 案内者は水戸の者であった。五十そこらの気軽そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。\n「随分色々な者が入り込んで居るだろうね」\n「エ、其りゃ色々な手合が来てまさァ」\n「随分破落戸も居るだろうね」\n「エ、何、其様でもありませんが。――一人困った奴が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往ってたのを、奴が捉えましてな。丁度其処に木を伐りに来た男が見つけて、大騒ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場を稼いで居るってことです」\n 山が三方から近く寄って来た。唯有る人家に立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹の釣瓶はバケツで、井戸側は径三尺もある桂の丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際までぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶である。まだ此辺までは耕地は無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類は出来るが、地上に育つものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。\n 鹿の角を沢山背負うて来る男に会うた。茶路川の水涸れた川床が左に見えて来た。\n 二里も来たかと思う頃、路は殆んど直角に右に折れて居る。最早茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。\n「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。\n 大きな炉をきって、自在に大薬罐の湯がたぎって居る。煤けた屋根裏からつりさげた藁苞に、焼いた小魚の串がさしてある。柱には大きなぼン〳〵が掛って居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗、皿、小鉢の類が多くのせてある。\n 額の少し禿げた天神髯の五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。\n「茶路は誰を御訪ねなさるンですかね」\n 余はMの名を云った。\n「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町です。葬儀屋をやってます。エ、エ、俺とは極懇意で、つい先月も遊びに往って来ました」\nと云って、主は戸棚から一括した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。\n「かみさんも一緒ですかね?」\n 実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道したきり、音信不通だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。\n「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲に居るとか云うことでしたっけ」\n 案外早く埒が明いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠へ引かえした。\n「分かってようございました。エ、彼人ですか、たしか淡路の人だと云います。飯屋をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。\n 白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭に妻児が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。\n\n\n北海道の京都\n\n 釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※(「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」)別に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。\n 往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教信者が八万の都府に八百からあると云う。唯一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太の日露国境の辺で採収して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草、木の髄を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣の生活等につき面白い話を聞いた。楡の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n「こいつは可哀想だ」\n 銭形平次も思わず顔を反けました。ツイ通りすがりに、本郷五丁目の岡崎屋の娘が――一度は若旦那の許嫁と噂されたお万という美しいのが、怪我(事故)で死んだと聴いて顔を出しますと、手代の栄吉がつかまえて、死にように不審があるから、一応見てくれと、いやおう言わさず、平次を現場へ案内したのです。\n それは三月の四日、雛祭もいよいよ昨日で済んで、女の子にはこの上もなくうら淋しいが、華やかな日でした。桃は少し遅れましたが、桜はチラリホラリと咲き始めて、昔ながらの広い屋敷を構えた大地主――岡崎屋の裏庭からはお茶の水の前景をこめて富士の紫まで匂う美しい日、この情景とはおよそ相応しくない、陰惨なことが起ったのでした。\n「これはひどい」\n 平次はもういちど唸りました。二十一というと、その頃の相場では少し薹が立ちましたが、とにもかくにも、美しい娘盛りのお万が、土蔵の中、――ちょうど梯子段の下のあたりで巨大な唐櫃の下敷になって、石に打たれた花のように、見るも無残な最期を遂げていたのです。\n「あ、親分」\n 平次の顔を見ると、必死の力を出して、娘の死骸の上から唐櫃を取除けた父親の半九郎――岡崎屋の支配人――は気違いじみた顔を挙げて、平次に訴えるのでした。その絶望的な瞳には、形容しようもない狂暴な復讐心が燃えるようでもあり、運命に虐げられて、反抗することのできない檻の中の猛獣の諦めがあるようでもあります。\n「親分さん、あんまりじゃありませんか。お万の仇を討って下さい」\n 手代の栄吉はそっと袖を引きました。\n 唐櫃は骨董やガラクタ道具を入れたもので、旧家にこんな物のあることはなんの不思議もありませんが、その唐櫃の中に、骨董品にまじって、巨大な漬物石が二つ――二三十貫もあろうと思われるのが入っていたのは奇怪で、その上二階の梯子段から少し離れて、安全な場所にあるはずの二つ重ねの唐櫃が、いつの間にやら手摺の側に寄って、上のが一つ、欄干を越して転がり落ちたのは尋常ではありません。\n 見ると、唐櫃と一緒に二間あまりの長い綱で連絡した棒が一本と薄い板が庭に落ちており、その綱は有合せの短い縄を三本も結び合せたもので、結び目がちょっと見ると男結びに似た機結びだったことなどが、咄嗟の間に平次の注意をひきます。\n お万の死骸は全く見るも無残でした。百貫近い唐櫃にひしがれて声も立てずに死んだことでしょう。\n「親分さん、これがただの怪我や過ちでしょうか」\n 手代の栄吉の言うのも全く無理のないことです。\n ともかくも、お万の死骸を家の中に移さして、これから一と調べという時、\n「親分、大変なことがあったんですってね。何だってあっしを呼んで下さらなかったんで」\n 甚だふくれて飛び込んできたのは、ガラッ八の八五郎でした。\n「八か、そう言ってやる隙がなかったのさ。まア、手を貸してくれ。いい塩梅だ」\n「何をやらかしゃいいんで?」\n「近所の噂を集めてくれ、いつもの通り」\n「それだけですか」\n「後は後だ。まずそれだけでいい」\n 平次は八五郎を追っ払うようにして、死んだお万にひどく同情を寄せている手代の栄吉から調べ始めました。\n\n二\n\n この男はもう三十を越したかもわかりません。典型的なお店者で、物柔かな調子や、蒼白い顔や、物を正視することのできない臆病な態度など、岡っ引にとっては、くみし易い方ではありません。\n「先代の旦那様は、安兵衛様とおっしゃって、一と月ほど前に亡くなりました。病気は卒中という見立てでございました。若旦那の安之助様は、二年前から勘当され、潮来の遠い親類に預けっ放しで、親旦那様の御葬いにもお呼びになりません」\n「世間並の道楽でもしたというのか」\n「ヘエー、まアそんなことでございます――お万さんと一緒になるのが嫌だとおっしゃってツイ家を外になさいましたので、番頭さんへの義理で勘当なすったように世間では申しております」\n 栄吉はこれだけの事を言うのが精いっぱいでした。\n「岡崎屋の身上は?」\n「私にはよく判りませんが、貸地家作、貸金がたいそうな額でまずざっと二万両――」\n「それは大したことだな。跡取りはどういうことになるのだ」\n「大旦那様がたいそうお腹立ちで、若旦那様の勘当を許すとおっしゃらずに亡くなってしまいましたので、やっぱりお嬢様のお琴さんに御養子をなさることになりましょう」\n「一番馬鹿を見たのは、番頭の半九郎だな。娘のお万が岡崎屋の嫁になり損ねた上、こんなに虐たらしく殺されては」\n「ヘエー」\n「お万を怨む者はないのか」\n「あるわけはございません、――陽気で話好きで、皆んなに好かれておりました。嫌いだったのは若旦那だけで」\n「若旦那の安之助は、そんなにお万が嫌いだったのか」\n「ヘエー」\n それが嵩じて勘当されることになったのでしょう。\n「口を利く親類は?」\n「旧いお店ですが、江戸には遠縁の御親類が二三軒。あとは木更津や、潮来にあるだけで」\n「支配人の半九郎は、ただの奉公人か」\n「いえ、遠い親類だと申すことでございます」\n「ところで、この家に、田舎で育った者があると思うが――」\n 平次の問いは妙な方へ飛びます。\n「下女のお文と、飯炊きのお今は田舎で育ちました。お文は房州で、お今は相模で、そんなものですね」\n「男では」\n「男は皆んな江戸生れです。支配人も、私も、与七さんも」\n「その与七さんというのは?」\n「先代が亡くなった大旦那と懇意だったそうで、奉公人とも客とも付かず、三年前からおります」\n「その男に逢ってみよう」\n 平次はひどく好奇心を動かしたようです。\n が、逢ってみて驚きました。暗がりから牛を曳出したような男というのは、この与七のためにできた形容詞でしょう。いちいち噛みしめてから物を言うような、言葉も動きも、恐ろしくテンポの遅い人間で、二た言三言話していると、ジリジリ腹が立って来るのです。\n「お前さんは与七さんだね」\n「ヘエ、――世間では――そう申します」\n 二十五六の良い若い者が、すべてこの調子で受け答えをするのでした。\n「世間でそう言うから、与七みたいな気がするというのかえ」\n「ヘエ」\n 平次はツイ、ポンポンやりました。ニヤリニヤリと薄笑いしながら、恐ろしく粘った調子で、こんな歯切れの悪いことを言う人間を、平次は見たこともありません。\n「けさお前は何をしていたんだ」\n「いつもの通り、帳面をしておりました。家賃や地代の払わない分を纏めて、五日には一と廻りしなきゃなりません」\n これだけのことを言うのに、ざっと四半刻(三十分)もかかりそうです。この調子で地代家賃の居催促をされたら相手はさぞ参るだろうと思うと、ポンポン言いながらも平次はツイ可笑しくなります。\n「お万は人に殺されたんだぜ。お前さんに下手人の心当りはないのか」\n 露骨に直截に言う平次。\n「ヘエ、――殺されましたかな。――あの女ばかりは人に殺されそうもない女でしたが」\n「何故だい」\n「ガラガラして、薄っぺらで、気軽で、尻軽で、人間が面白くて、浮気っぽくて」\n「たいそう悪く言うんだね――お前も怨みのある方かい」\n「御冗談で、――私はあんなのは虫が好きません――死んだ者を悪く言っちゃ済まないが、――もっとも、若旦那と来た日にゃ、顔を見るのもイヤだと言っていましたよ」\n「お前さんとこの家は、どういう引っ掛りになるんだ」\n「私の親父と、亡くなった大旦那は無二の仲でしたよ。――たったそれだけのことで」\n 噛みしめながら物を言うくせに、この男には恐ろしく遠慮のないところのあるのを見てとると、平次はもう少し突っ込んで訊く気になったのです。\n「今朝、倉の扉を開けたのは誰だえ」\n「栄吉どんの役目です。今朝に限ったことじゃありません。毎朝顔を洗うと、帳場から鍵を持って行って土蔵の大戸を開け、それから中へ入って、二階の窓を開けるんです」\n「それから誰も倉へ入った者はあるまいな」\n「そいつは判りません」\n 与七はキナ臭い顔をするのでした。" }, { "role": "assistant", "content": "「ところで、外にかわったことはないのか」\n「かわったことというと、この間から変なものが無くなりますよ」\n「変なもの?」\n「役にも立たないものが無くなるんで」\n「例えば?」\n「火箸が無くなったり、鉄瓶の蓋が無くなったり、足袋が片っぽ無くなったり、貝杓子が無くなったり、支配人の煙草入が無くなったり、私の紙入が無くなったり」\n「フーム」\n「まだたくさん無くなりましたよ。筆、墨、矢立、徳利、お嬢さんの手箱の鍵、用箪笥の鍵、お今どんの腰紐、お万さんの簪、お文どんの櫛、――」\n「それは大変なことじゃないか」\n「もっとも、たいがい出て来ました。翌る日か、遅くて三日目くらいには、誰かが見付けます。簪が火鉢の灰の中に突っ立っていたり、擂粉木が仏壇の中にあったり、徳利が水甕の中に沈んでいたり」\n「みんな出て来るのか」\n「中には二つ三つ出て来ないものもありますが、大概はつまらないもので、出なくたって大した不自由はしません」\n「いつ頃からそんなことが始まったんだ」\n「大旦那が亡くなって間もなくでしたよ」\n「フーム」\n「大旦那が亡くなった後で、支配人の半九郎さんが、有金や証文を調べるとおっしゃって、家中から倉の中まで調べました。その後まもなく変な泥棒が始まったんです」\n「誰かの悪戯かな」\n「悪戯にしては念が入りすぎます。――もっともさいしょは鼠かと思いましたが、鼠は鉄瓶の蓋を抽斗の中へなんか入れません」\n「フーム、面白いな」\n「ちっとも面白くはありませんよ」\n この悪戯者には、与七も、ひどく腹を立てている様子です。\n「で、その中でとうとう出なかったのは何と何だ」\n 平次の注意は細かく動きます。\n「お文さんの櫛と、用箪笥の小抽斗の鍵が一つと、お今さんの足袋が片っぽと、――もっともこれはお文さんから新しいのを貰ったようですから諦めが付くが、私の紙入は出て来ません」\n「いくら入っていたんだ」\n「大したことじゃございませんが、それでも小粒で二両ばかり」\n 与七が怨み骨髄に徹するのはそのためだったのです。\n\n三\n\n 平次はもういちど栄吉に逢ってみました。これは与七をあまりよくは思っていない様子ですが、それでも与七の言ったことは大体承認し、倉の戸を開けに行ったのも、二階の窓を開けたのも自分だが、朝は倉の中に何の変りもなかったと言い、その後では誰が入ったか知らないと言い張ります。\n 暮から小さい物の盗まれるのは、栄吉も苦々しく思っているらしく、これは誰の仕業にしろ、ついでに平次に捜し出して貰って、うんと懲らして頂きたいという意見です。\n その時、\n「親分、みんな判りました」\n 飛んで来たのはガラッ八の八五郎でした。\n「何が判ったんだ」\n 平次は眼顔で誘って、倉の蔭の方に歩き出しながら、ガラッ八の集めた材料を訊きました。\n「変な家ですぜ、この家は」\n「変な家というと?」\n「第一、先代の主人安兵衛は、卒中で死んだことになり、寺方で無事に葬式を受けたが、どうも尋常の死にようじゃないという者がありますよ」\n「誰だえ、そんなことを言うのは?」\n「横町の小唄の師匠で」\n「横町の小唄の師匠は、何だってそんなことを知っているんだ」\n「与七が毎晩のように絞め殺されそうな声を出しに行くそうですよ」\n「ヘエ――、あの男がね。人は見かけによらないというが、こいつはよらなさすぎるぜ」\n 暗がりから曳出された牛のような、生活のテンポの恐ろしく遅い男が、黄なる声を出して小唄を唄ったら、一体どんなことになるだろうと思うと、平次もツイ噴き出しそうになります。\n「支配人の半九郎は、先代の主人が死ぬとすっかり羽を伸ばして、今じゃ店中を切り廻しているが、親類中には半九郎の仕打ちが気に入らないものもあるから、いずれ一と騒ぎ始まるだろうということですよ」\n「フーム」\n「現に、この十日には親類が顔を寄せて岡崎屋の跡取りを決めることになっているそうで――」\n「跡取りは勘当されて潮来にいる倅の安之助でなきゃ、娘のお琴だろう」\n「先代の主人は、生きているうちに、安之助の勘当を許す気があったと言いますよ。卒中で不意に死んで、それを運び兼ねたが、遺言をするとか、遺言状を書く力があったらきっと若旦那の勘当を許したに違いないと――」\n「そいつは誰の言葉だ」\n「近所の衆は若旦那贔屓で、みんなそう言いますよ。許嫁のお万をきらって、どうしても祝言しないばかりでなく、ツイ家を外にすることが多くなったから、亡くなった主人も支配人の半九郎(お万の父)への義理で、若旦那を勘当したに違いない。あのお喋舌で浮気っぽくて容貌自慢で、若旦那とはまるっきり反の合わないお万と一緒にされるが嫌で、ツイ自棄なことがあったかも知れないが、それくらいのことで勘当されちゃ若旦那の方が可哀想だ――とそれは御近所衆の噂で――」\n「なくなった主人は、支配人の半九郎に、それほど義理があったのかい」\n「主人の弱い尻を掴んでいるのだろうとか、主人の命の恩人だとか言いますが、真当のことは解りませんよ」\n 八五郎の持って来た材料はそれだけ。しかし思いの外役に立ちそうな種だったことは、平次の会心の笑みにも見えるのでした。\n\n四\n\n 平次は検屍に立会った上、一と通り家の中を見せて貰いました。本郷きっての大地主で、幾百軒とも知れぬ家作持と言われるにしては、思いの外質素な生活ですが、どうしたことか店も奥も滅茶滅茶の荒らしようで、壁が落ちたり、戸棚が引っくり返されたり、何か大風の吹いた跡のような浅ましさを感じさせられるのです。\n「何を探したんだ。――先代の隠した宝でも見付からなかったのかい」\n 平次は誰へともなく言いました。主人が死んで何千、何万という身上の隠し場所が判らなくて、天井も床も剥いだ浅ましい家を、平次は稼業柄幾度も見ているのです。\n「とんでもない。――先代大旦那の亡くなったのは急でございましたが、支配人の私が帳面も金も預かっておりましたので、鐚一文も不審な金はございません」\n どこで聴いていたか、支配人の半九郎は平次の不審に応えるように顔を出しました。娘のお万が非業に死んで、その打撃の重大さに押しのめされながら、それでも大家の支配人としての責任に目覚めて、辛くも事務的な心持に立ち還ったといった世にも痛々しい姿です。\n「支配人さん、とんだことだったね。娘さんの敵はきっと討ってやるが、――私の訊くことに、何事も隠さずに話して貰いたいが、どうだろう」\n「それはもう。親分さん、どんなことでも」\n 半九郎は、蒼い顔を挙げました。五十前後の柔和な男です。\n「第一に訊きたいのは、亡くなった主人とお前さんの関係だ」\n「ヘエ――」\n「遠縁のつながりがあるとは聞いたが、その他に何か深いわけがあると思うがどうだろう」\n「ひどい強請に逢ってお困りのところを、少しばかりお助けしたことがありますが、外に何にもございません。ただよく判った御主人でございました」\n「お前さんがここへ来てから何年になるんだ」\n「三年でございます」\n「もとは?」\n「柳橋の船宿におりました」\n「その前は」\n「いろいろのことをいたしました」\n 平次はチラリと八五郎の方を振り向くと、心得た八五郎は、スルリと外へ抜け出してしまいました。半九郎の身許前身を、得意の順風耳で聴き出して来るつもりでしょう。\n「ところで、隠した宝を探したんでなきゃア、何だってこんなに家を荒らしたんだ」\n「そのことでございます、親分さん」\n 半九郎の言うのは尤も至極でした。それは先代の安兵衛が一度は自分たち父娘への義理で若旦那の安之助を勘当したが、もともと憎くて勘当した倅ではなく、いずれ許す気で時節を待っているうち、その機会はなくて、不意に死んだに違いない。\n「――卒中で死んで遺言はありませんが、用心の良い御主人のことですから、遺言状くらいは書いて、どこかに隠して置いたかもわかりません。若旦那様を許すと書いた遺言状さえあれば、五日後に迫った親類会議も無事に済んで、若旦那を潮来から呼戻されます。――私が家中を探したのは、遺言状を見付けたかったためでございます」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 世の中には色々な職業がある。肉をひさぎ、貞操を売って生活してゆく女があるかと思うとそういう女の上前をはねてくらしてゆく奴もある。泥棒が悪いというなら、泥棒に凶器を売る銃器店や、金物屋もわるいことになる。金貸しが不徳だというなら、金貸しから金を借りる者も共犯者のわけだ。死刑執行人だって、国家の秩序を維持してゆくにはなくてはならぬ職業といえる。悪人のために生活するのが悪いなら、刑事裁判所の役人はみんな道徳上の罪人のわけだし、病人がたくさん出れば家業の繁盛する医者や、死人が多いほど収入のある僧侶などは最も恥ずべき職業だという寸法になる。\n だから僕は要するに、どんな職業だってみんな社会に必要だからこそ存在するので、一概に、あれは高利貸だから代議士になる資格がないの、あれは女郎屋の主人だから、市会議員になっちゃいけないのとは言わない。\n だが、それ程さとりきっている僕でも、新聞の探訪記者という職業だけは、つくづくいやになっちまうことがある。僕だけは、ほかに取り柄もなし、もう三十六にもなって、いまさら職業がえでもあるまいから、まあ、社で使ってくれている間は観念して、はたらいてゆくことにきめているが、この職業だけは孫子の代までさせたくないと思っている。\n といって、探訪記者という職業がしょっちゅう面白くないことばかりあるのかというとそうでもない。ときどき胸のすうっとするような痛快なこともないではない。だが要するに、誰かも言ったように、人生には愉快なことと、不快なこととを差し引きすると、不快なことがずっと多いものだ。ことに探訪記者なんて職業をやっていると、人生の裏面ばかりをさがしまわっているせいか、世の中には不幸な人間や、不快な出来事ばかりしかないような気がする。そして、かくれている不幸な人間を明るみへ出し、人の気のつかない不快な出来事を世の中へ公表して、世の中をますます暗黒に、ますます不浄に、ますます堪え難いものにしているのが我々探訪記者だというような気がするのだ。\n しかし今も言ったように、僕はこの職業をやめる気は毛頭ない。僕がやめれば他の誰かが後釜にすわって僕のやってきたことをやるだけのことで、僕が辞職するということはただ僕が路頭に迷うようになるという以外に、社会には何の利益にもならぬことを知っているからだ。\n こんな用もない前おきでも言っておかないと、気がさして、職業上の経験を口にしたり筆にしたりすることができないほど、僕はお人よしだという所をせめて買って貰いたいものだと思う。といって、これから話そうと思うのは僕らの経験の中ではごくおとなしい、あたりさわりのない事件の方で、こんな事件は、僕らの手帳にはざらにあるのだ、が。\n\n * * *\n\n だいぶ古い話だが××大学の勅任教授の遠藤博士が(もちろんこれは仮名だが)「胎教」について新学説を発表して、学界の大問題をおこしたことがある。あの当時新聞の社会面にまででかでかに書きたてられたから、専門家でなくても、まだ記憶している人があるかも知れない。\n その学説の趣旨というのはこうだ。婦人が妊娠中に、精神的にある人をひどく崇拝するとか、その人の思想や徳行の感化を受けると、その感化が胎児に影響して、生まれた子供は、その人に似てくる、というのである。しかもただ精神的に似てくるというだけではなくて、容貌や、肉体上の特質までも似てくるというのだ。\n「だから」と遠藤博士は言っていた。「妊婦の教育は非常に大切で、立派な子供を生もうと思えば、妊娠中に、自分の崇拝している人物のことを常に念頭において、その人を亀鑑として精神修養を怠ってはならない。従来の遺伝学や、優生学はあまり唯物論的で誤っている。将来の遺伝学や優生学は、この精神的な学説によって改造されなければならない」と、しかも、博士は、典拠こそ示さなかったが、色々西洋の実例をあげて、この説を立証しようとしていたものだ。\n 無論、少し変わった学説が出ると、理屈に合おうがあうまいが、わかろうがわかるまいが、素人はすぐに感心してしまうものだ。気のはやい連中は、妊娠中の細君に向かって、「お前はおれのようなやくざな人間のことを考えていちゃいけないよ。俺のことなんか考えていると子供も俺のようなろくでなしになる。ナポレオンか、乃木大将のことでも考えているといい」なんて言ったかも知れない。また病身な男は妊娠中の細君に向かって、「お前俺のことなんか考えてると子供が病身になるよ。常陸山やタニーのことを一生懸命に考えていなくちゃいかん」なんて言ったかも知れない。\n しかし、素人はだますことができても、専門家はそう易々とはだまされない。じっさい妊婦が頭の中である人のことを考えておれば、胎児の体質や容貌までその人に似てくるなんてことになってくると、これまでの遺伝学の原理はすっかりくつがえされることになる。そんなべら棒な話があってたまるかというので、若手の医学者連中がやっきになって、遠藤博士の説を完膚なきまでにたたきつけたものだ。それだけならいいが、博士が引例している西洋の事実はすべて虚構の事実だ、もし何か典拠があるなら典拠を明らかにしろとまでいきまいたものもあったくらいだ。\n そうなっては博士もだまっているわけにはいかないので、心霊学を研究している何とかいうアメリカの神学博士の著書の中から、すっかり頁数まで示して堂々と回答したものである。\n この回答は素人を感心させるには十分なもので、そのために、博士の胎教信者が全国にできて盛んに博士に激励の手紙を送ってきた。中には官僚学閥の横暴なんて記事をかかげて博士を擁護する与太新聞も出てくるというしまつだった。\n ところが専門家側では博士の駁論を見て、あっけにとられてしまったものだ。実験を唯一の生命とする医学の領域へ怪しげな心霊学の学説をひっぱり出してきたんだから、あっけにとられるのも無理はない。しかも当事者は最高学府の勅任教授なのだから、実際博士が典拠としてあげた書物は、どこの国にでもある与太学者のいかさま著述で、とうてい医学上の権威にするような価値のないものだったのである。\n しかし、群集心理というものは妙なもので一度このことが新聞に発表されると、博士の信者が無数にできてきた。怪しげな宗教がひろまるのはいつもこの手なんだが、群集というものは、信ずるか信じないかのどちらかで、批判するということはないものだ。いわんや、博士は横文字の書物を引証して堂々と反対者に駁論したんだから、多くの読者は一も二もなくまいってしまったものだ。\n だが、博士の説はどうしたって正統派の医学者連と折れ合う気づかいはないので、博士はまもなく、「研究の自由を拘束する学閥への別辞」というセンチメンタルな文章を発表し教授の職を辞したのであつた。ところが、世の中は妙なもので、その時博士の家へは激励の投書が降るように来るにひきかえ、××大学へは罵倒、脅迫の投書が続々舞いこんできたそうだ。それをもっても世論の大勢がその当時、どんな風であったかわかるだろう。\n\n * * *\n\n ところがこの話は、僕がこれから話そうとする話の単なる前おきに過ぎないのである。我々新聞記者にとってはこんなことはただ一回の報道価値をもっているだけで、もちろん二三日もたつとすっかり忘れてしまう必要があるのだ。新聞記者にとっては古いことをきれいさっぱり忘れてしまうということが、一つの重要な修業なんだから。\n さてこの事件があってから二三日たったある日のこと、僕は夕刊の締切がすんで、大組ができあがってから、社会部長の成田さん(これも仮名)、だかと行きつけの喫茶店へ珈琲をのみに行った。そして珈琲をのみながら、全く何の気なしに遠藤博士ともあろう学者が、あんな出鱈目な学説を堂々と発表するのはおかしい、これには何か事情がありそうだと、口を辷らしたもんだ。" }, { "role": "assistant", "content": " すると社会部長は急に熱心になって、「そうかも知れんね。ことによると大学部内に何か軋轢があるかも知れんから、君一つしらべて特別記事にしたらどうだ」という話である。特別記事をとると、その内容の価値に応じて、僕の社では五円以上の特別賞与がおりることになっていたので、実をいうと、浅間しい話だがこの五円の賞与に僕は食指を動かしたというわけなのである。\n ところが、大学の方へ色々さぐりを入れてみたが、どうもこの方では別段、特別記事になりそうなねたはさぐり出せなかったので、僕は、博士の病院の方へ探訪の触手をのばしたものである。もともと僕の社では、この事件では、博士の肩をもっていたのだから、博士の病院へ出入りするには都合がよかったのだ。\n 僕はまず看護婦長にとり入った。秘密をかぎだすには女に限ることは、僕たち探訪記者が永い経験によって体得したモットーなのである。\n 博士があまり品行のかんばしくない人であることはすぐにわかった。その点で、看護婦仲間では博士の評判は甚だしく不良だった。ことに婦長は、博士に対してひどい反感をもっていた。このことは、博士の秘密をさぐる上には非常に好都合であった。で、僕は婦長の口から、驚くべき事実を告白させるのに、あまり大して骨を折らなくてもよかったというわけだ。\n「婦人科の医者には、婦人の貞操を破るような不埒な奴があるってことをよくききますが、そんなことができるもんでしょうか?」と僕はある日婦長に話をもちかけた。もちろん、こんな話から何か材料を探り出そうと思ったわけでなく、ただの世間話として、たずねてみたのである。\n「そりゃできますとも」と婦長は意外に乗り気になって話だしたものである。「しかも、患者の方じゃ大抵の場合それをさとらないでしまうんですからね。麻酔剤をつかうんですもの。それに、気がついたところで、こういう事件は大抵は泣き寝入りですわ」\n「医者というものには妙な役得があるもんですな、僕も婦人科の医者にでもなればよかったなあ」と僕はまるで冗談のように言った。「でも、うちの病院あたりじゃそんなことはないでしょうけれど」\n こう言って僕は相手の顔を挑発するように上眼づかいで見た。\n「ないもんですか、先達て大変な騒ぎが起こったのよ」\n「へぇ、どんなことが?」僕は職業的興奮をかくして、何でもなさそうにこう聞き返した。\n「あんた新聞なんかに書いちゃいやよ、妾のくびにかかわりますから」\n「まさか、そんなことを書いたりしやしませんよ。書いてよいことと、書いてはならんこととはちゃんとわきまえていますからね」こう答えながらも僕は心の中ではぞくぞくしていた。\n「もう三ヶ月も前のことですけれどね。そのことで、先生がひどく弱っていたのをわたしたち聞いたのよ」と彼女は語り出した。「わたしきいてて歯がゆくて相手の方によっぽど応援してやりたいと思ったわ。あんまり先生が白ばっくれているんですもの。ほんとうにうちの先生くらい、いけ図々しい人ったらありゃしないわよ。病院の中じゃもう皆知ってたことなんですものね、あのことは。つまり、ある身分のある人の夫人に先生が手をつけたのよ」\n「まさか、あのおとなしそうな先生がそんなことはないでしょう」\n 僕は相手をたきつけるために、わざと相手の話を否定した。すると策戦はまんまと図にあたって、彼女はまっ赤になって語りつづけた。\n「ところが、あの顔をしていて、先生はまるで色魔なんですよ。診察室の扉をしめきって、一時間もその奥さんと二人っきりでいたことが何度あるか知れやしないわ。診察のときには、いつもついたての外に看護婦をつけておくのがここのきまりなんですけれどね、とにかく、とうとうその夫人が妊娠して、三ヶ月ばかり前に分娩したのよ。しかもこの病院で」\n「だって人の夫人が妊娠したのなら、先生の子供かどうかわからないでしょう。きっと誰かの中傷ですよ、そんなことを言いふらすのは」\n 僕は相変わらず、急所々々で相手の話に抗議をさしはさむことを忘れなかった。すると、その度に婦長の話には熱心の度が加わってきたものである。探訪記者というものは皆こういうこつを知っていなくちゃならんのだ。\n「だって、そのことについては生きた証人があるのよ。その子供が先生と瓜二つなんですもの。わたしもはじめて見たときにはっとしちゃったわ。おでこの具合から、口のあたりがまるで先生にそっくりなの」\n この言葉をきいた時は僕も別の理由で、思わずはっとした。\n「夫人が、その赤ちゃんの顔を見たときの表情ったらなかったわ。きっとあの人は、はじめから、そのことを内々心配していたんでしょう。妾が赤ちゃんに生湯をつかわせて、消毒して病室へつれてゆくと、大急ぎで、貪るように赤ちゃんの顔を眺めていらしったわ。そして一分間も眺めていらっしゃるうちに、脳貧血をおこしておしまいになったの。妾たちはみんなその理由を知っていたので、どうなることかとはらはらしてたのよ、かわいそうでね」\n 僕は覚えず婦長の話に興奮して、半畳を入れることも忘れてしまっていた。\n「先生が赤ちゃんの顔を見たときの表情も忘られないわ。実に困りきったような、何とも言えない表情でしたわ。でも一番たまらなかったのは、夫人の旦那様がじっと夫人のベットと赤ちゃんのベットとの中央に石像か何かのようにつったって、二人の顔を見くらべてらしたときの顔ですわ。先生も、夫人も旦那様も、三人とも、事の真相をはっきりと即座に知ってしまったのです。あれじゃ知らないでいるわけにはゆきませんものね。それでいて三人とも、もちろん一言もそのことについては言わないのです。男の方はどちらも身分のある方でしょう。うっかりしたことを口外したら取り返しのつかないことになりますからね」\n 婦長はちょっと言葉をきってから、またつづけた。\n「そのうちに産後の経過もよくて、退院の日になって、先方の旦那様が奥様をひきとりにいらっしゃいました。その方はその日は何となく、気むずかしそうな顔をしていらっしゃいましたが、とうとう、診察室で先生と二人きりの時、その話をきり出されたんです。――あの子供と家内とは貴方にひきとって頂こうかと思うんですが、ご承知下さるでしょうな――あの方はのっけからこう切り出されたもんです。わたしは扉の外で息をころして聞いていたのです。この西洋剃刀のような鋭い言葉をきいたときは、無関係なわたしでさえひやりとしました。ところが、どうでしょう。先生はちっとも騒がないで、まるで相手の言葉の意味がわからないようなふりをしているじゃありませんか。わたしもうじれったくて、腹がたって、いきなり扉をあけて中へはいって先生の面皮をはがしてやろうかと思いましたわ。先方の旦那様はかわいそうに言葉をふるわして、――あの子供はあなたの子供だから引きとって貰いたいのだ。いまさら過ぎたことはとがめんから、貴方の行為に対して責任をとってもらいたいのだ――とこう仰言るのです。わたし立派な態度だと思いましたわ。すると先生は突然、大きな声で笑い出されるんです。図々しいとも鉄面皮とも、わたしはもうあきれてしまいましたわ。そしてこう言うんです。――父親のあなたまでが、あのお子さんが僕に似ていることを認められるんですな。素敵、素敵、僕の新学説は、すっかり実験的に証明されたわけです、......僕はね、実はこういう研究をしているんですよ――こう言いながらあの人は書棚から原稿のとじこみをとりだして、それを相手に渡しながらつづけました。――『妊婦の精神状態が胎児に及ぼす影響』っていうのですがね。つまりいわゆる胎教ですね。たとえば妊婦がある人のことをしじゅう考えているとそれが精神的に胎児に影響して、生まれた子供がその人に似てくるんです。気質も体質も容貌もその他の精神的肉体的の特質がすべて似てくるんです。これは従来の唯物的遺伝学説を転覆する学説なんです。私は、それをこん度奥さんについて実験してみたんです。奥さんをできるだけ親切にみてあげて、私に対する感謝の気持ちを奥さんの頭に強く印象さして、その効果を見ようと思ったんです。奥さんがもともと感受力の強い方だったものですから、実験の結果は正の符号となって現れて、お父様のあなたまでが吃驚なさるようなことになったわけです。喜んで下さい、赤ちゃんが少しでも私に似ているとすれば私の実験が成功したことになるんですから。私は近々にこの学説を学界で発表しようと思って、この通り原稿もでき上がっているんです――わたしはもう先生の空とぼけた態度と、悪事にかけての用意周到さとにあいた口がふさがらないくらいでした。自分の不品行の体裁をつくるために、もっともらしい学説をこしらえあげて学界に発表しようというんですからね。そして、それをこないだほんとうに発表してあんな問題をおこしたんです。内輪のことを知っているわたしにしてみりゃ、あんな説をまじめになって議論している人たちがおかしくなってきますわ」" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "酒井欽蔵 (四十八)\n妻 いく (四十五)\n娘 加代 (二十四)\n息子 鉄蔵 (十八)\n娘 美代 (十六)\n店員 庄市 (三十)\n 其他\n\n\n\n\n\n\n解説 東京山の手の裏通りに、さゝやかな店を構へてゐる時計商、酒井欽蔵の一家、物語の中心はこの一家であります。帝都は既に敵機襲来に備へて、警戒管制が敷かれてゐるのです。蒸し暑い真夏の夜のことです。\n\n\n店先に並んだ大小幾十の時計が一斉に時を刻んでゐる。やがて、オールゴール入りの眼覚し時計が平和なメロデイを奏ではじめる。これは、今、主人欽蔵が店先で修繕をしてゐるのだ。\n奥の部屋で\n\n\n妻いく こんな晩に、仕事をする人つてあるか知ら......全く変りもんだよ、お父つあんは......。\n娘加代 鉄ちやん、もう起しといた方がよかない? 若しか、急に出て行くやうなことがあると、晩御飯も食べないぢや、お腹を空かすわよ。\nいく さあ、お腹もお腹だけど、昨夜からあの通り眠つてないんだからね。お握りでもこさへといてやらうよ。\n加代 なんだか元気がなささうなんだもの。いやだわ、あたし。かういふ時は、もつと勇ましさうにしてゝくれなきあ、張合がないぢやないの。\nいく そこへ行くと、兵隊に行つてただけあつて、庄さんなんかきびきびしたもんさ。まるで、お祭へでも出掛けるやうな......。\n加代 さうよ、あれも普通ぢやないけど、鉄ちやんみたいにしてると、人が変に思ふわね。臆病なんだと思はれてよ。\nいく 臆病かね、あれで......。\n加代 ほんとはどうだかわからないわ。十八の子供にしちやあれで、なかなか図太いところがあるんだけど......五円のお小遣ひきりで、北海道を一とまはりして来るなんて、ちよつと出来ない芸当よ。\nいく (突然、頓狂な声で)あゝ、びつくりした。いやな美代ちやんだよ。そんなもの、今頃からくつつけてどうすんの。\n娘美代 (防毒マスクをつけた声で)兄さんのをちよつと借りたのよ。これをつけて、毒瓦斯の中へ飛び込んで行くんだわ。重いわよ。\nいく また、兄さんに叱られるから......。\n美代 (マスクを外して)ほんとに戦争あるの。嘘見たいでしやうがないわ。お父つあん、だつて、あんな平気な顔してお店に坐つてるぢやないの。\n欽蔵 (はじめて)お美代......。\n美代 なあに?\n欽蔵 鉄蔵を起して来い。\n美代 よく眠てるわよ。\n欽蔵 いゝから起して来い。\n\n\n時計のねぢを巻く音。オールゴール。\n美代が階段を走り上る音。\n\n\n美代 兄さん。\n鉄蔵 ............。\n美代 兄さんつたら......。\n鉄蔵 ............。\n美代 可哀さうね。こら、兄さん、起きるのよ。\n鉄蔵 (飛び起きたらしい)\n美代 あら、そんなに吃驚りしないだつていゝわ。\n鉄蔵 畜生......。\n美代 お父つあんが起して来いつて云ふんだもの。\n鉄蔵 おやぢ、なにしてるんだ。\n美代 眼覚しを直してるわ。\n加代 (上つて来て)鉄ちやん、眠いでせう。\n鉄蔵 当りめえよ。おやぢ、なんの用があるんだい。\n加代 あんた、あんまり元気がなささうだからよ。心配してるんだわ。きつと。\n鉄蔵 やい、マスクをどうしたんだい、こいつ......入れとけよ。\n加代 お父つあんと喧嘩しちや駄目よ。なに云はれても、ハイハイつて云つてなさい、(間)鉄ちやん、なにぼんやりしてんのよ。\n\n\n鉄蔵、急に起ち上つて、階段を下りはじめる。\n\n\n鉄蔵 お父つあん、なにか用?\n欽蔵 まあ、そこへ坐れ。\n鉄蔵 そんな時計、何時だつていゝんぢやないか。それより松田さんの懐中、早く頼むつて云はれてるんだぜ。あの人警報班で、時計がないと不自由だらう。\n欽蔵 わかつてる。さつき代りを渡しといたよ。時に、お前からだの具合でも悪いんぢやねえか。\n鉄蔵 どうして?\n欽蔵 浮かねえ顔をしてるからさ。\n鉄蔵 戦争で浮いた顔ができるかい。\n欽歳 出来ないつてのは、生命が惜しいからだ。やい、男なら男らしく、腕つ節をみせろ。日本男児は、理窟を云はずに、悦んでお国のために働くんだ。手前は、防護団の一員ぢやねえか。毒瓦斯班といふ大事な役目を云ひつかつてるんだ。葬式へ参列するやうな面をして、そんな任務が勤まると思つてゐるのか。第一、見つともねえぢやねえか。\n鉄蔵 第一、毒瓦斯班なんてものはありやしないよ。防毒班だよ。それから、お父つあんは、僕の面が葬式へ参列するみたいだつて云ふけど、全く、さういふ気がしてるんだ。悲しいやうな、じれつたいやうな、早く云や、面白くもなんともないんだ。\n欽蔵 何が面白くねえんだ。\n鉄蔵 今度の戦争がさ。文明人なら文明人らしい戦争をしたらよささうなもんぢやないか。\n欽蔵 ところが、空中戦なんてえのは、文明が進んだ証拠ぢやねえか。\n鉄蔵 抵抗力のない女子供を、空の上からおどかすなんて、全く、強盗か野蛮人の仕業だよ。\n欽蔵 そんなこと云つたつてしやうがねえ。だから、その女子供を、われわれ男が......。\n鉄蔵 (夢中で)僕の声が若し千里先まで聞えるなら「やい貴様達恥を知れ」つて云つてやるよ。\n加代 鉄ちやん、御飯をおあがりよ。\n鉄蔵 なんにも食ひたくないんだ。\n加代 夜中にまた、お腹がすくわよ。交代は十一時なんだから、まだ時間があつてよ。\n鉄蔵 ぢや、食ひ納めに食つてやらあ。\n欽蔵 敵が攻めて来るからつて、飯が喉へへえらねえやうでどうする。あきれた野郎だ。\n\n\n沈黙。\n波の音に交つて、電話の呼鈴。\n\n\n「小笠原島東方五キロ、はい聞えます。敵の主力艦隊......はい......航空母艦二隻を有する......はい......千葉監視隊本部へ......はあ......無線電信の故障で......はい......はい、わかりました」\n\n\n波の音が次第に消えて、再び時計のチクタク。\n\n\n欽蔵 戦争が好きだとか嫌ひだとか云つてみたところではじまらねえ。だからよ。どうしても戦争をしなけれやならんと云ふんなら、勝つより外に道はあるめえ。負けたら最後おれたちや、犬猫同然だ。手前のやうな、煮えきらねえ男ばかりだつたら、それこそ、勝つ戦もどうだかわからなくなるぞ。\n鉄蔵 そんなこと云つて、お父つあん、僕たちや、手の出しやうがないぢやないか。爆弾にしろ、毒瓦斯にしろ、相手は喧嘩にならない代物なんだぜ。敵の飛行機は、味方の軍隊がやつつけようとする。それやいゝさ。だけど、僕たちや、地べたの上で、何をしてるんだ。武器を執つて堂々とわたり合ふことも出来ず、たゞ殺されない工夫ばかりしてなきやならないんだ。\n欽蔵 それが間違えだ。手前は、自分のことばかり考へてる。なぜ「殺させない工夫」と云はねえんだ。自分を守るんぢやねえ。同胞を守るんだ。帝都を守るんだ。日本といふ国を守るんだ。そんなことがわからねえのか。\n鉄蔵 わかりすぎるくらゐわかつてるよ。僕の云ふのは、なんのために働くかといふことぢやない。同じ働くにしても、受身ぢや張合がないと云つてるだけだ。\n欽蔵 なんだ。張合がねえ!\n鉄蔵 言葉は悪るいかも知れないよ。ぢや、なんて云つたらいゝかな。\n欽蔵 なんにもいはないのが一番いゝ。\n鉄蔵 だから、僕は、なんにもいはずにゐたんぢやないか。お父つあんが、余計なことを訊くからさ。僕は、空元気をつける必要はないんだ。\n欽蔵 みんなが気もちを揃へようと思つたら、ちつたあ、大きな声ぐらゐ出すもんだ。\n鉄蔵 ヨイトマケ、ヨイトマケつてかい。\n欽蔵 畜生、このおれだつて、何時までも、ぢつとしちやゐねえぞ。防護団の連中に欠員が出来たら、何時でも出掛けてくから、手前さう伝へてくれ。\n鉄蔵 そんなこたあ、云はなくつたつてわかつてるよ。\n加代 食べたくないなんて、随分食べるぢやないの。\n美代 兄さん、お弁当つけて何処へ行くの......。\n鉄蔵 おつ母さん、服部の息子ね、僕と同じ班なんだぜ。昨日、戦友の契を結ぼうなんて、レモン・テイイをおごりやがつた。あいつ、センチだからなあ。\n美代 もう、頭髪分けてんのね。\nいく あんな大きなお店でも、息子さんが毒瓦斯の組へはひりなさるのかね。\n鉄蔵 鼻の利くやつがとられたんだよ。試験にパスしたんだからしやうがないや。\n美代 あら、どんな試験?\n\n\nオールゴールの音が次第に消え、波の音がだんだん高く聞え出す。犬吠崎附近の海岸監視哨。波の音。\n\n\nA 来たぞ、来たぞ。\nB 待て、落着いて聴け。\nC 距離は?\nA 確かにさうだ。ちよつと、測つてくれ。\nB 懐中電燈を見せろ。\nC おい、伝令。\n\n\n電話の呼鈴。\n\n\n声 銚子第二監視哨報告......午後八時五十分、東北二千五百、重爆三機、高度三千、海岸に沿ひ南進す。\n\n\n電話の呼鈴。\n\n\n別の声 東金防空監視隊本部報告......午後八時五十二分、鳴浜東方三千、重爆三機、高度二千五百、九十九里海岸に沿ひ南進............。\n\n\n電話の呼鈴。\n\n\n別の声 関東防衛司令部ですか。こちらは、千葉監視隊本部です。\n\n\n電話の呼鈴......(前の文句に重つて)\n\n\n防衛司令部\nA別の声 警報係! 非常燈火管制......。\nB別の声 こちらは防衛司令部です。司令官命令、各部隊は戦闘配備に就け。\nC別の声 飛行隊は速かに出動せよ。\nD別の声 消防、防毒機関、直ちに警戒配備につけ。\n\n\nこれに重ねて、遥かに砲声。砲声が消えると、もとの、時計のチクタク。\n\n\n加代 あゝ、さうさう、さつきお父つあんの留守に、あの方が、ほら、予備の少将つて方がいらしつたわ。時計はまだ出来ないかつて......庄さんもゐないし、あたしぢやわからなかつたの。\n欽蔵 ありや、ヒゲが錆びてたから取替へたんだ。今時間の調節をしてゐるとこなんだが、二三日待つて貰ふよりしやうがねえ。畜生、手がふるへてやがら。敵の飛行機なんかちつとも怖かねえが、どうも、空襲つてものにや慣れてねえからなあ。\n\n\n急にサイレンの音。\n\n" }, { "role": "assistant", "content": "美代 あ、電気が消えたわ......。\n加代 ぢつとしといで。\nいく また点いた。なんだい、あのサイレンは......。\n美代 来たんだわ。飛行機が来たんだわ。\nいく ちよいと、あんた......ほんたうですか。\n欽蔵 静かにしろ。雨戸はしめたか。\n加代 二階の電気。\n\n\nサイレンの音に交つて、(空襲、空襲)とさけぶ警報班員の声。\n某地点にある照空隊長の号令。\n\n\n定位に就け。\n目標、東方上空の爆音。\n航速四十。\n運転始め。\n照射用意。\n\n\n照空隊分隊長の号令。\n\n\nA 第一分隊聴音よし。\nB 第二分隊聴音よし。\nC 航速四十。\nA 運転始め。\n\n\n(発電自動車の機関の音)\n\n\nA 照射用意、送電。第一分隊点燈よし。\nB 第二分隊点燈よし。\n\n\n照空隊長の号令。\n\n\n統一照射。\n十秒照射始め。\n用意、測れ。\n\n\n照空隊分隊長の号令。\n\n\nA 統一照射、十秒照射始め。\nB 用意、測れ。\nC 零五二、四三(射手の報告)\nA 照射。\n\n\n照空隊長の号令。\n\n\n目標発見。\n目標追随。\n聴音機は東方上空を警戒せよ。\n\n\n高射砲隊長の号令。\n\n\n目標、東方上空の射光内の重爆。\n高度千二百。\n始め。\n航速十秒。\n航路角五百。\n五発。\n\n\n(砲声続いて五発)弾丸を装填する音。発射。弾丸の空気を裂く音。爆裂する音。薬莢の落ちる音。飛行機の爆音。機関銃の音(空中戦に於ける)やがて凄じい爆弾の音。悲鳴。その余韻に続いて、再び、時計のチクタク。\n\n\n欽蔵 出掛けるか。よし、しつかり頼むぞ。\n鉄蔵 姉さん、水筒......。\n加代 気をつけてね。\n美代 兄さん......。(泣声になる)\n\n\nまた、爆弾の音、続いて二つ。\n\n\n美代 お父つあん......。\n欽蔵 大丈夫、大丈夫......。\n\n\n爆弾、砲声、機関銃、プロペラの音、しばらく止まず。あちこちに、悲鳴が聞える。警報班員及び交通班員の声。\n\n\n警報班員A なるべく家の外に出ないで下さい。\n交通班員 避難者は道路の右側をあけて下さい。\n\n\n消防自動車のサイレン。呼子、拍子木。\n\n\nB 第二小学校附近に毒瓦斯弾を投下しました。防毒マスクを用意して下さい。\nC この辺は風下ですから、急いでマスクをつけて下さい。\nA 早く用意をして下さい。\n\n\n避難する群集の騒音。\n\n\n加代 鉄ちやんの組が行くんだわ。\nいく 防毒班つていへばさうだね。あのマスクをしてゐれば、大丈夫なんだらう。\n欽蔵 鉄のことはどうでもいゝ。早く、お前たち、マスクをかけろ。糊刷毛は何処へやつた。\n\n\n表の戸をたゝく音。\n\n\n欽蔵 なんですか。\n声 旦那、わたしです。庄市です。\n欽蔵 あゝ、庄さんか、どうしたい?\n庄市 どうも、この辺は危いですよ。避難した方がよささうです。猛烈な毒瓦斯らしいです。普通のマスクぢや、駄目と見えて、ばた〳〵やられます。\n欽蔵 何処へ避難するんだい?\n庄市 ですから、わたしが御案内します。早く、みなさん出て下さい。\n\n\n群集の叫び声、砲声に交つて、愈々はげしくなる。\n\n\n欽蔵 やめたよ、庄さん、おれたちは動くまい。行つた先でまたやられやおんなじこつた。それより、救護班の方は忙がしかないかね。\n庄市 あゝ、忙がしいには忙しいやうですが、救護班も今、避難準備をしてゐるところです。なにしろ、一度にどつとやつて来たもんですから......。\n欽蔵 よし、おれはそつちへ行くよ。旭市場だつたね、救護所は......いゝから、君はほかを廻れ。おい、お加代、あとを頼むぞ。\n加代 お父つあん、あんたみたいな半病人が行つたつて、なんにもならないわよ。\n欽蔵 馬鹿吐かせ。子供をおぶふぐらゐのこたあ、おれにだつて出来ら。\n加代 人手が足りなけれや、予備班つていふのがあるんだから、お父つあんなんか行つたつて、追ひ返されるだけよ。\n\n\n直ぐ近くに、爆音。美代をはじめ、女共のけたゝましい悲鳴。\n\n\n庄市 あ、飛行機が落ちた。\n欽蔵 敵のか。\n庄市 さあ......あゝ、燃える、燃える。こりやいけない。\n加代 どこ? どこ?\n\n\nしばらく、砲声と、プロペラの爆音。群集のどよめき、電話の呼鈴。\n\n\n声 防衛司令部参謀です。敵機主力は千葉方面に一部は東京湾に向つて退却。友軍戦闘機は、これを急追中であります。は? いえ、まだ、そつちの方面からは情報が上がりません。は? あゝ、さうですか、敵の航空母艦、艦名はわかりませんか。それや御目出度う。いえ、大したことはありません。\n\n\n電話の呼鈴。\n\n\n声 下田監視哨報告。三十機以上より成る敵の爆撃機編隊はその先頭を以て、只今、大島南端上空を北進中。高度三千。\n\n\n電話の呼鈴。\n\n\n別の声 海軍飛行隊の一部は直ちに出動、大島の上空に於てこれを邀撃せんとす。\n\n\n電話の呼鈴。やがて、底鳴りのやうなどよめきの中に、時計のチクタク。警報班員の声。\n\n\nA 敵機は退却しました。しかし、まだ油断はできません。非常管制を継続します。\nB 救護所の手は揃ひました。却つて混雑を出しますから、もうどなたも手伝ひを御遠慮下さい。\nC 毒瓦斯は空気より重いのですから、縁の下へ逃げ込まないで下さい。臭ひがしたら、取りあへず、濡れ手拭で鼻をおさへて下さい。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「考えられ得ることだ」\n「大池が自殺したのでなければ、これははじめから企んでやった偽装行為だ。この辺のところは簡単明瞭だ......捜査二課の追及は相当執拗だったから、さすがの大池も疲労してこんなトリックをつかって捜査を中止させようとした......自殺する場所はどこにでもあるのに、この湖水をえらんだのは、死体があがったためしがないという伝説を利用するつもりだったのだろう......幼稚だが、思いつきは悪くない。われわれでさえ、暗示にひっかかって、身を入れてやれなかった」\n「話はわかるがね、判定してかかっていいのか」\n「公式的でおはずかしいが、こういうことじゃなかったかと思うのだ......木曜日の午後に湖畔に着く。金曜日の未明までに偽装の作業を完了する。女はロッジに残ってわれわれの出方を見ている......あるいは妨害をして死体の捜査を遅らせる」\n「宇野久美子が湖水へ飛びこんだのは、捜査を遅らせるための所為だったというわけか」\n「そうもとれるということだ......そうして、われわれを湖のまわりに釘づけにしておいて、土、日の夕方、観光バスにまぎれこんで、袋の底からぬけだす......悲しくなるほど単純なところが、この企画のすぐれているゆえんだ。われわれがひっかかるのは、得てして、こういう単純なことにかぎるんだから」\n「大池はどこにいる?」\n「それは土地署の練達に伺うほうが早道だ......丸山さん、大池が生きているとすれば、どの辺にいるでしょう。可能性のことだが」\n 丸山捜査主任は、図面を見てくださいといいながら、床の上に地図をひろげた。\n「二十三日の金曜日の朝以来、萩、十足、湖水の分れ道、吉田口......この四ヵ所で終日検問を実施しているが、大池らしいやつが出た形跡がないから、潜伏しているなら、湖水を中心にした十号国有林の中以外ではない......このロッジの地境に猪除けの堀がありますが、そのむこうが十号国有林の北の端です......いまは気候がいいから、そのつもりでテントや食糧を用意して入れば、二ヵ月や三ヵ月は平気でしょう......ただし、つかまえようということになったら、五百人ぐらいも人を出して山狩りをしないことには、どうにもならない。また、そうしたからといって、かならず成功するとは保証できません」\n 神保部長刑事が思いついたようにいった。\n「加藤君、昨日は、警戒されて失敗したが、もういちど宇野久美子を泳がせてみるか。大池としては企図したことが成功したんだから、そんなところにこれから幾月も隠れていることはない。できるだけ早くぬけだしたいと思うだろう」\n「そうはいうが、あいつはひどく敏感だから、かんたんには欺せないよ......泳ぎだすどころか、昨夜はバンガローで朝まで眼をあいていた」\n\n 久美子は重苦しい意識の溷濁の中で覚醒した。\n 眼をあいて瞬きをしているつもりなのに、冥土の薄明りとでもいうような、ぼんやりとした微光を感じるだけで、なにひとつ眼に映らない。\n 湿っぽいブヨブヨしたものの上に仰臥しているのだが、虚脱したようになって身動きする気にもならない。なにかもの憂く、もの悲しく、ひとりでに泣けそうになる。\n この感覚におぼえがあった。\n「......また、やった」\n 夜明しのパーティでつぶれてしまい、やりきれない疲労と自己嫌悪の中で眼をさますあの瞬間――眼をさましたといっても、はっきりとした自覚があるわけではない。遊び呆けたあとの憂鬱が身体に沁みとおり、わけもなく飲みつづけたコクテールやジン・フィーズの酔いで手足が痺れ、そのまま、ふと夢心地になる......\n「それにしても、あたしはどこにいるんだろう」\n 掌で身体のまわりを撫でてみる。マトレスの粗木綿のざらりとした感触。マトレスの下は冷え冷えとしたコンクリートの床だ。マトレスの上に、下着もなしに裸で寝ているらしい。おかしなこともあるものだ。\n 記憶に深い断層が出来、時の流れがふっつりと断ち切られ、どういうつづきでこんなことになったのか思いだせない。昏睡し、しばらくして、また覚醒した。こんどはいくらか頭がはっきりしている。なにも見えなかったはずだ。眼の上に折畳んだガーゼが載っている。\n ガーゼをおしのけ、薄眼をあけて見る。意外に低いところに天井の裏側が見えた。三方はモルタルの壁で、綰ねたゴムホースや、消火器や油差などが掛かっている。頭のほうに戸口があって、そこから薄緑に染まった陽がさしこんでいる。頭をもたげると、戸口を半ば塞ぐような位置にプリムスの後部が見えた......湖水の分れ道で久美子が拾われた、れいの大池の車だった。\n「ガレージ......」\n ロッジの横手にあるガレージのコンクリートの床の上にマトレスを敷き、裸身にベッド・カヴァーを掛けて寝かされているというのが現実らしい。\n 髪がグッショリと濡れしおり、枕とマトレスに胡散くさい汚点がついている。足が氷のようだ。\n「寒い......」\n と呟きかけたひょうしに、咽喉のあたりに灼けるような痛みを感じた......それで、いっぺんに記憶が甦った。石倉に首を絞められ、水藻のゆらぐ仄暗い湖水の深みで必死に藻掻きながら、死というものの顔を、まざまざとこの眼で眺めた恐怖と絶望の瞬間。\n「ああ」\n 久美子は悚みあがり、われともなく鋭い叫声をあげた。\n まさに絶えようとする時の流れ......必死に抵抗していたのは、一秒でも長く命をつなぎとめようという、ただそのための藻掻きだった。\n 死ぬことなんか、なんでもないと思っていたのは、なにもわかっていなかったからだ。あの辛さの十分の一でも想像することができたら、自殺しようなどという高慢なことは考えなかったろう。\n「あたし助かったんだわ」\n 自分というものを、こんなにいとしいと思ったことがなかったような気がし、久美子は感動して眼を閉じた。\n「気がつかれましたね」\n 隆は久美子の顔をのぞきこむようにしてから、仔細らしく脈を見た。\n「もう大丈夫ですが、覚醒したら、臨床訊問をするといっていますから、念のためジガレンを打っておきましょう」\n 久美子は無言のまま、マジマジと隆の顔を見あげた。なぜか、ひどく寛大な気持になり、怨みも憎しみも感じない。湖底の活劇は、遠いむかしの出来事のようで、いっこうに心にひびいて来なかった。\n「こんなこともあろうかと思って、いろいろ用意してきたのですが、お役にたったようで、私も満足です」\n 注射器に薬液をみたして久美子の上膊に注射すると、撫でさするようなやさしさで、そこを揉みつづけた。\n「宇野さん、よけいなお節介をして、あなたを死なせなかったのを、怒っていられるんじゃないですか......もし、そうだったら、お詫びしますが、私としては、あの場合、どうしたってあなたを死なせるわけにはいかなかった」\n 意外なことを聞くものだ。久美子はムッとしかけたが、相手になることもないと思って、返事もせずにいた。\n「引揚げようとすればするほど、深く沈もうとなさる。最後は、水藻にしがみついて離れようとしないんだから、強かった」\n 隆の眼頭に、一滴、キラリと光るものを見て、久美子はあわてて眼をそらした。\n「溺れかける父を見捨てて、泳ぎかえってくるような、非情な方だと思っていましたが、まったくのところ誤解でした......そんな方だったら、父にしても、あれほど強くあなたに惹かれることはなかったろうし......はじめから、わかりきったことだったのです」\n 久美子は、そっと溜息をついた。\n「死んだ私の母のことは、あなたもよくごぞんじのことでしょうが、テレビではじめてあなたを見たとき、死んだ母の若いときの顔によく似ているし、名が宇野久美子だから、父のいうK・Uという女性は、あなたではないかと思ったことがあります。父には言いませんでしたが、私があなたのどこに惹かれるのか、よく知っているので、父の心情は、手にとるようにわかりました......父は不幸な再婚を後悔していたし、家庭がみじめになればなるほど、あなたのほうへ向いて行ったその気持も......」\n 久美子は、たまりかねて遮った。" }, { "role": "assistant", "content": "「ああ、そのことなら、もう結構よ」\n 隆は、はっと眼の中を騒がせると、搏たれたように急に口を噤んだ。\n「そんなことより臨床訊問......このうえ私からなにを聞きだそうというのかしら。言うだけのことは言いつくしたつもりだけど」\n「あの連中がコソコソ言っているのを耳に挟んだのですが、あなたの供述書で逮捕状を請求したら、こんな不完全な内容で令状が出せるかと、令状係の判事に拒絶されたそうです。早急に死体があがる見込みがないので、伊東署の捜査本部を解散して、東京へ引揚げるといっていますから、訊問といっても、行掛り上、一応、形式をととのえるという程度のことではないでしょうか。そのほうはたいしたことはないでしょうが、私が心配しているのは、あなたのことなんです......心臓衰弱の気味だから、乗物に乗るのは、ちょっと無理です。傍にいてあげられればいいのですが、病院の仕事があるので、私は夕方までに東京へ帰らなくてはなりません......母はあなたをロッジへ入れないなんて、愚にもつかないことをいっていますが、気になさらないで、ロッジで今日一日静かにしていらして、いい頃にお帰りになるように」\n 言い憎そうに眼を伏せ、\n「おしつけがましいのですが、今朝のようなことはしないと約束していただきたいのです。さもないと、私は東京へ帰ることができません。それでは困るから......」\n と、つぶやくようにいった。\n\n ロッジの二階の大池の部屋に運びあげられると、加藤主任がやってきて、そばの椅子に掛けた。\n「やっと人間らしい顔色になった。一時は、だめかと思ったんだが」\n はじめからこんな調子でやってくれたら、逆らうことはなかったのだ。久美子は愛想よく微笑してみせた。\n「なんのつもりで、呼吸のとまるまで水にもぐったりするんだ? 人騒がせにもほどがある。なにをしようと勝手だが、捜査の邪魔をすることだけは、やめてもらいたいね」\n「はずみでやったことなんだけど......お手数をかけました」\n「君には手を焼いた。とても面倒は見きれないから、さっさと、どこへでも行ってくれ」\n 膝の上に書類をひろげて、\n「いま、これを読むから、相違した点がなかったら、署名して拇印をおしてくれたまえ」\n「それは供述書というやつなの」\n「そんなむずかしいもんじゃない......捜査調書の抜萃......宇野久美子に関係のある部分だ。われわれの仕事は、確認という形式を踏まなければ体をなさないのだから、どうしようもないのだ。概略だよ、いいね......東洋放送の宇野久美子、すなわち君は五月二十日、郷里の和歌山市に帰る目的で、二十一時五十分、東京駅発、大阪行の一二九号列車に乗ったが、途中で気が変って......ここは君が供述したとおりになっている......翌、二十一日、三時五十四分に豊橋に下車。七時〇分の東京行に乗った。十一時三十分、熱海駅着、十一時四十分の伊東行に乗車、十二時十二分、伊東駅着......店名失念の駅前食堂で中食、遊覧の目的で徒歩で湖水に向った......二時すぎ、湖水の分れ道、その附近で雨に逢った......雨の中を歩いていると、東洋相互銀行......通称、東洋銀行の取締役頭取......大池忠平の運転するプリムスが通りかかり、宇野久美子にたいして乗車をすすめた......宇野久美子はプリムスに乗ってそのまま大池所有のロッジに至った。一晩だけならお宿をしようというので一泊することにきめた。六時半ごろ大池と夕食をし、食後一時間ほど湖畔を散歩し、八時近く、ロッジに帰ると、大池はすでに二階の寝室に引取って広間には居なかった。宇野久美子はその後、大池忠平を見ていない......翌、二十二日、午前八時ごろ、湖水会の管理人、石倉梅吉が自転車で大池の在否を聞きに来たので、宇野久美子は不在だと答えた。同日、十時ごろ、石倉から、大池さんは湖水に投身自殺されたらしいという報告を受けた......だいたい、こんなところだ」\n そういうと、畳紙の写真挟みから手札型の写真を出して久美子に渡した。\n「それが大池忠平の顔写真だ......湖水の分れ道で君を拾ったのがその男だったはずだ。写真を見て確認してくれたまえ」\n 久美子は仰臥したまま、写真を手にとって見た。\n「これはあたしを拾ったひととちがうようだ」\n よく似ているが、誰か別な人間の顔だ。\n プリムスに乗っていた大池忠平の顔には、生活の悪さからくる陰鬱な調子がついていたが、写真の顔はどこといって一点、翳りのない明るい福々とした顔をしている。額の禿げかたもちがう。プリムスのひとの額は、面擦のように両鬢の隅が禿げあがっていたが、写真のほうは、額の真甲から脳天へ薄くなっている。額のほうはいいとしても、首のつきかたも肩の張り方も、ここがこうと指摘できるほど、はっきりとちがうが、それを言いだせば、またむずかしくひっかかってくる。\n 久美子は浮かない顔で考えこんでいたが、どうしたって真実を告げずにすますわけにはいかないので、思いきっていった。\n「確認するもしないも、写真のひとが大池忠平にまちがいないのなら、ロッジにいたのは、確実にべつなキャラクターだわ」\n 主任は眉をひそめて、背筋をたてた。\n「大池じゃないって?」\n「よく似ているけど、はっきりとちがうのよ」\n そうして、異なる印象のニュアンスを、できるだけくわしく説明した。\n 主任は薄眼になって聞いていたが、やりきれないといったようすで、クスクス笑いだした。\n「さすが、芸術家の観察はちがったもんだね。お話は伺ったがデリケートすぎて、われわれにはよくわからない。レンズには収差というものもあるし、額のあたりにハイ・ライトがかかると、実際より強い感じになることもある......あまり世話を焼かせずに、署名したらどうだ」\n「それでいいなら、喜んで署名するけど、キャラクターだけのことではなくて、ほかにも、いろいろと妙なことがあったのよ」\n 鍵のかかるバンガローなんか一つもないのに、鍵を預っている男が吉田へ行っているから、バンガローは使えないだろうといったこと、部屋の中はうっとうしいくらいの陽気なのに、むやみに松薪をおしこんで、煖炉を燃やしつけたこと、大池のボートならロッジの近くの岸にあるべきはずなのに、一町も離れたところに繋いであったこと、なにかの方法で催眠剤を飲ませられたらしくて、翌朝まで酩酊状態が残っていたこと......心にかかっていたことを、ありったけ吐きだしたが、主任は笑うばかりで相手にもならなかった。\n\n 石倉があらわれるかと、ひそかに怖れていたが、いそがしいのか、石倉はあらわれず、伊東署の連絡係の若い巡査が心をこめて夕食の世話をしてくれた。\n 食慾はなかったが、無理をして、パン粥を一杯食べた。\n「おいしかったわ」\n「食が細いねえ。もうすこし、やったらどうだ」\n「心臓のところが重っ苦しくて、食べられないのよ」\n「そうか。無理をしちゃ悪いな」\n しみじみとして、残っていられるなら、残っていてもらいたかったが、七時ごろ、おだいじにと言って帰って行った。\n 夜になると、対岸の草地でジャンボリーがはじまった。キャンプ・ファイヤーを囲んで讃美歌やボーイ・スカウトの歌を合唱している。\n 降るような星空の下、釉薬を流した黒い湖の面に、ちりばめたようにキャンプ・ファイヤーの火の色がうつり、風が流れると、それが無数の小さな光に細分され、眼もあやにゆらゆらとゆらめきわたる。\n 久美子は子供たちの合唱を聞くともなく聞きながら、空の中にある満々と張りつめたもののたたずまいをぼんやりとながめていたが、そのうちに、なんともつかぬ嫌悪の念に襲われて、枕に顔を伏せた。\n 昨日まで、あんなにも心を惹かれた湖の風景が、なぜか嫌らしくて見てやる気もしない。安らかな方法で自殺しようなどと、あてどもないことを考えていたが、そんな方法はありえないことを身をもって学んだ。父のように肝臓癌で阿鼻叫喚のうちに悶死するにしても、たぶん、もう二度と自殺しようなどとは考えないだろう。\n 久美子は自嘲するようにニヤリと笑った。\n「たいへんなことになった」\n 自殺という作業を完成しようと、それだけにうちこんできたが、その目標が失われたので、することがなくなった。古びた生活の糸で、昨日と明日の継ぎ目を縫いつづけなくてはならない。夢や希望がなくなり、憎しみだけがふえ、ひねくれた、意地の悪い、ご注文どおりのオールド・ミスになっていくのだろう。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n しかし、伊右衛門は、まだ未練げに、凝っと浮きを見詰めていると、やがて髪毛がかかり、次に引き上げた櫛の歯から、一筋二筋と、もつれ毛を取り去る、指のしなだれ、その蒼白さ。\n 時刻も黄昏、所は十万坪隠亡堀、すべてが陰の極みである。\n すると、おどろ怖ましい薄ドロにつれて、下手から、菰をかぶった一枚の杉戸が流れ寄る。\n 端には一塊の腐れ縄、そこに、蛙がひょんと跳んで、凝っと動かないのだ。\n 伊右衛門思わず仰天して、\n\n やや、覚えの杉戸は。\n\n と、戸板にかかった針先をとろうとし、つるりと滑った途端に、菰が摺り落ちて、皮も萎え血もしこり、肉脱した岩の死骸が、ぬるっとばかりに現われた。\n しかしその時、観客の駭きはともかくとして、伊右衛門に扮した、山村儀右衛門が、どうしたことか、どかっと尻もちを突いた。\n と云うのは、なんとそのお岩が後向きであって、ただ守り袋をさしつける人形の作り手のみが、ひょいと不器用な、動きかたをしたにすぎなかった。\n\n 伊右衛門 まだ浮ばぬな。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。このまま川へ突出したら、鳶か鴉の。業が尽きたら、仏になれ。\n\n と、戸板を蹴ると、今度は裏に返り、藻をばらりと被った小仏小平が、「お主の難病、薬下され」と、片手を差し出すかと思いのほか、それも背後を向いているのだった。\n その瞬間儀右衛門は、全身の血が、まるで逆流せんばかりの思い、いまや一身に、世界中の嘲りをうけているような気がした。\n と云うのは、舞台こそ異なれお岩と小平の向き合せは、かつて胸を癒着ていた、彼ら双体畸形のそれではないか。\n しかし、儀右衛門は気力を振い起して、\n\n 伊右衛門 またも死霊の。\n\n と、抜打ちに死骸に切りつけると、大ドロあって、浪幕の間より、代りの戸板が差し出されて、骸骨を載せたまま、本水の中を花道指して流れ行くのであった。\n けれども、その時儀右衛門は、塑像のように動かなくなり、釣竿を腕に支えたまま凝っと戸板の上を見詰めていた。\n もはや彼は、奔馬のような脈を感じ、錯覚さえも生じて、蘆も土橋も水も何もかも、キラキラした、陽炎の中に消え去る思いがした。と云うのは、いかなる魔の所業であろうか、戸板の上の骸骨には、肢首が括り合わされていて、それが人魚を象どる、あの図紋のように感じられたからである。\n しかし、そのうち水門が開かれて、滝流しの浴衣を着た与茂七が現われると、舞台は陰惨の極から、華麗の頂辺に飛び上り、まさに南北特有の生世話だんまり、あのおどろおどろしい声や、蒼白い顔や、引き包まんばかりの物影などは、とうに昔の夢と化して、どこかへ飛び去ってしまうのだった。\n ところが、そのだんまりの真最中、板戸が進み行くにつれて、なにか金色に輝いた脂肪のようなものが、水面をじわりじわりと拡がって行くのだった。そうして花道を行く間に、だんだんと右に傾いて行き、ようやく切幕の下に達したとき周囲の観客はつんざくような叫び声を上げた。\n 見ると、戸板がくるりと返って、そこには、お岩の衣裳を着、咽喉に無残な孔を開いた花桐逢痴が、ぬうと、藻の中から顔を突き出しているのだった。\n こうして、観衆の真唯中で、小六殺しの推定犯人逢痴は、無残な死体を曝したのである。\n\n三、首が飛んでも動いて見せるわ\n\n 死体には一面に太い襞が盛り上っていて、肋骨が浮き上り、傷は左横から、刃様のもので頸動脈が貫かれていた。\n しかし、こうして死に、硬くなって、永久動くことのない身体のいろいろな部分が、法水の眼には、異常な意味を持ってきた。彼は何度となく水中を透し見たり、浮んでいる作り藻を絞ったりしていたが、そうして滴り落ちる蒼黒い水に、明らかな失望の色を泛べるのだった。\n 彼は、傍らの儀右衛門を振り向いて、\n「どうだね友田屋、君は気がつかんかね。こりゃ、とてもひどい出血なんだぜ。ところが、浮いているのは、血漿や脂肪だけで、肝腎要の血が、この水の中にどうしても見出せないのだ。屍体には、これほど明らかな羸痩が現われていて、そのくせ、血がいったいどこへ行ってしまったのだろうか。藍で染めた水の中に、赤いものがあれば黝ずんで見えるのだから、何より色を見れば、一目瞭然じゃないか。すると友田屋、これで逢痴の死が、戸板の中で行われたのでないという事が分るだろうね」\n そうして、執念く作り藻を取り上げては、キュッと捻り、したたる水の色を、貪るように眺めているその光景には、また髪梳きの場が聯想されてきて、それは「玻璃の光り」という、下座の独吟でも欲しいほどの物凄さだった。\n しかし、水中に出血がないという事は、一方において、殺人現場を舞台以外に局限してしまった。そうなると、当然裏向きお岩の疑問が起ってきて、幸いだんまりの場面の暗さを機に、あれが誰かの一人三役ではないかとの疑いも起ってくるのだった。" }, { "role": "assistant", "content": " しかし、そうしているうちに、舞台裏の調査が終って、実に驚くべき、報告がもたらされてきた。\n と云うのは、座内を隅々まで探したのだったが、一滴の血さえ発見されないばかりでなく、誰しもが、格闘の物音も聴かずと云い、ただ逢痴の部屋から平素使う沃度の注射器を、拾い上げて来たのみであった。\n そうなってみると、出血の失踪は、実に驚嘆すべき奇跡となり、早くも法水の顔には、ただならぬ困惑の色が現われた。\n したがって奈落の調査が、慌しく行われることになったのである。\n この座の奈落には、小芝居特有の色が現われていて、天井の低い、すべてが、だんだんと朽ちて行く、骨のように黝ずんでいた。\n そして、白っちゃけた壁や、中央にある轆轤には「四谷怪談」に使う漏斗の幽霊衣や、仏壇返しや、提灯の仕掛などが立て掛けてあって、何もかも、陰惨な沼水そのもののような代物ばかりだった。\n しかし、法水は、そこにいる村次郎の口から、戸板返しの技巧を聴くことができた。\n「つまりなんでさあ、本水口に使うのと、お岩を入れるのと、杉戸が二枚いるんですよ。そして、最初は下手の方から、菰を被せたのを流して来るんですが、さて伊右衛門の前に来ると、それを浪幕の陰から、手際よく引っ張り込むんです。そして今度は、役者の入っている方を、みんなでかつぎ上げて、きっかけと同時に、ぬうと突き出すという寸法なんですよ。ところが御覧のとおり、浪幕があるものですから、奈落はせいぜい二燭の電球ぐらいで、人の顔なんぞ、てんで見分けがつくもんですか。つまり、そんな具合で、間の悪い時だと、杉戸の所在が分らなくなるものですから、こうして同じ孔をあけたやつを二つ作っておくのです。ところで、この杉戸ですが、御覧のとおり、少し幅広に作られてあるでしょう。そして、間に役者が入って孔から顔だけを、突き出すんですよ。なあに他愛のねえもんで、外側は括り付けの衣裳なんでさあ。ですが、今日はなんとも不思議なことで、誰か取り違えて押し込んだのかも知れませんが、豊竹屋が後向きに入ってしまったんです。なんですって、それが豊竹屋じゃねえって――とうに殺されていたっておっしゃるんですか。じょ、冗談じゃねえ、わっしらはちゃんと、台詞までも、聴いているんですからね」\n「なに、逢痴の台詞を聴いたって――」\n 法水は、その一度ですっかり顔色を失ってしまった。\n「そうですとも、聴いたのはわっしばかりじゃねえ、みんながそうでさあ。なあ、銀五郎――」\n と傍らにいる、顔中傷だらけの小道具方を見て、村次郎は同意を求めるように云った。\n「なにしろ、最初本づりのきっかけで、入って来たのも、豊竹屋なんですよ。それからわっしらが、総掛りで浪衣を着て、杉戸を差し上げているうちに、何を見たのか為十郎が、アッ久米八さんが――と叫んだものです。ですからわっしは聴えてはならぬと、為十郎の口を塞ぎましたが、それからすぐとお岩の台詞になり、小仏小平がすんで、ようやく杉戸を下しましたが、それからが、息を次ぐ暇もないほどの早業なんです。前に引き入れておいた、もう一つの杉戸に、骸骨を引っ掛けて、それを本水の中に、押し出したのですよ。ええ、見ましたとも。むろんその前に、滝流しの浴衣に引き抜いて、飛び出した豊竹屋を見ましたとも。ですから、わっしには、どうして豊竹屋が――ねえ先生、現在眼の前に、自分の死骸を眺めながらだんまりを演るなんて――」\n 村次郎は、咽喉をゴクゴク鳴らせて、息を出すのも、苦しげになってきた。\n しかし、そうしてこの事件は、紛糾混乱の絶頂にせり上ってしまったのである。\n 現在眼の前には、二枚の杉戸が立てかけられているのだけれど、それとて一様に、小仏小平の衣裳がなく、同じように水に濡れていて、しかもその衣装は、眼前の床に投げ捨てられているではないか。すると、もっとも合理的な解釈が、不可能になってしまって、犯人は暗さに乗じ、お岩・小平・与茂七と、三段早変りを演ってのけたのがそうであり、逢痴はそれ以前、幕間にでも殺されていて、屍体を隠した杉戸が、それとも知らず、水中に押し出されたのではないか。\n と、そうも思われたけれども、何より楔のように打ち込まれた、逢痴の声と血潮の失踪とが、それを根底から否定してしまうのだった。\n そして、裏向きお岩の謎は、遠く遠く雲層の彼方に没し去ってしまったのである。\n ところが、その翌日、法水が河原崎座を訪れた時は、ちょうど四幕目の終り、これから「蛇山の庵室」に、かかろうとする際のことであった。\n 儀右衛門は、法水の顔を見ると、顫きながらも、待ち兼ねたように切り出した。\n「実は先生、ゆうべ一晩で、わっしは十年も、年老ったような気がしましたよ。と云うのは、村次郎が云った逢痴の台詞のことですが、そう云えばなんとなく、嗄れたような声を、聴いたような気もするのです。しかし、問題というのは、その後でして、実は昨夜、わっしが使った刀を抜いて見たのですが、それには薄っすらと脂肪が浮き出ているではありませんか。あの時わっしは、あの向き合わせを見ると、思わずそれに、暹羅兄弟が聯想されて、赭っとなりました。そして、たぶん切りつける所作の拍子に、逢痴の咽喉を刺したのかも知れませんよ。けれどもそうなると、わっしを踊らせた人形師が、ぜひともここで、一人必要になってくるのです。それは、杉戸入りの際に、逢痴を裏向きに押し込んだ人物で、たしかあの時、奈落にいた六人の一人に違いないのです。先生、わっしはなんという因果でしょうか、実の弟を殺してしまったのですよ」\n 法水は、しばらく口を噤んで、何事も云わなかったが、やがて全身の気力が、眼の中に移ったかと思われた。\n「だが友田屋、それを僕に云わせると、けっして弟殺しとは云えないのだよ。実は、今朝の解剖で、僕は動かせぬ確証を掴んできた。逢痴には、暹羅兄弟特有の、臓器転錯症がなかったのだよ。すると、三引く二は一じゃないか。君の片身は、村次郎なんだ。しかも、その二人が、里虹の子であるという証拠は、あの、人魚の尾鰭を象どった図紋なんだよ。実はあれが、竜鋤の形で、トラケーネン血種という、高貴な馬に捺す烙印だったのだ。つまりクイロス教授は、あの画の中で、双体畸形こそ、嵯峨家の血系であると暗示したのだ。だが、それはそれとしても、なんだか僕には、逢痴殺しよりも先に、君の親殺しを、訊ねねばならぬ義務があると思うのだよ。ねえ、そうだろう、里虹は君が殺したんだっけね」\n その瞬間、儀右衛門は化石したようになって、それは永いこと、姿勢を改めなかったのである。しかし、法水は静かに言葉を次いだ。\n「いつぞや、君に里虹が失踪した時刻を、訊ねたことがあったっけね。すると君は、風が止んだのが午前三時で、騒ぎ出したのは、たしか六時十五分前頃でしょう――と云った。しかし、後で調べてみると、風が止んだ時刻は、すでに五時近かった。そこで僕は、その偽りが、何に原因しているのか考えはじめたのだが、ふと思いついたのは、三時も五時四十五分も、それぞれ時計の盤面では、直角をなしていてしかもそれが、正午の十二時を軸に廻転しているという事だ。ねえ友田屋、類似聯想たるや、実に正確な精神化学なんだぜ。そして、正午という一語から、昇汞という解答を発見すると、僕はその錠剤の不足を、薬屋の販売台帳から見つけ出したのだ。しかし、それから里虹の屍体を、埋めたか、河に投じたかは問わないにしても、人魚の嘆きを、父に報いた心理だけには同情できるよ。それを、フロイド的に云ったら、いっぷう変った、エディポス複合と云うことができるだろうね」\n と、そこで言葉を截ち切って、法水はやや顔色を和らげた。\n「しかし、君にしても、おめおめ僕の手を待つとも思われないし、この事件の落着を見ないで死ぬのは、いかにも残念にちがいない。だが、それより何より、はじめての『四谷怪談』を、さぞ君は、終りまで勤めたいだろうね。よろしい。僕は舞台の上で、君に、犯人の声を聴かせてやることにしよう」\n そうして儀右衛門が、いよいよ最後の一頁を飾る、劇的な演技がはじまった。\n 眼は血走り、息は喘いで、台詞の調子はバラバラであるけれども、今か今かと待つ焦らだたしさは、ひとしお末期の伊右衛門に、悽愴な気魄を添えるのだった。\n しかし、その頃奈落の中で、法水は、六人を前に何事かを語っていた。\n「あるいは君たちの中で、前の座頭の里虹を、知らない者があるかも知れない。けれども、そのむかし里虹と小六とが、或る事情からルソン島へ行かねばならなかったことがあるのだ。その時、クイロスという生理学者が、二人の嬰児に、血液循環の実験をしたのだ。それは、片側の静脈を切って、そこに塩化鉄を置き、反対側の静脈には、フェロシアン・カリウムを注射するのだ。すると、二十何秒か経って、その血液が一順したとき、塩化鉄が溶けて真青な色に変るのだよ。つまり、あの時の逢痴が、意識朦朧としていたというのも、結局は常用の沃度と、フェロシアン加里を掏り変えて置いたからで、また出血が、行衛知れずになったというのも、藍で染めた水のために色が分らなかったからなのだ。さらに小六も、その青血の衝撃をうけて、逢痴逢痴と叫びながら、斃されてしまったのだ。と云うのは、赤い地の中に白い円を置いて、背後から照すとする。それから、しばらく瞶めていると、やがては赤の補色――青色に変ってしまうからだ。つまり、逢痴を思わせたその技巧が、お岩の、半面仮髪の中に、秘められてあったのだよ」\n すると、一同の視線が、思わず仮髪師の為十郎に注がれたが、法水の言はたちまちに、その臆測を粉砕してしまった。\n「ところが、そうして小六を殺めた人物は、あの時奈落の中で、それは素晴らしい離業を行なったのだ。最初、塩化鉄で練り固めた刃物を使って、頸動脈を刺し貫き、その上二つの杉戸を取り違えさせて、逢痴の死体についている方を、本水の中へ押し出してしまった。それから、浴衣に引き抜いて、与茂七のだんまりを演ったが、その時闇の中で、それは鮮やかに、逢痴の声色を使ったのだよ。しかし、それが誰であるかは、ともかくとして、いずれ僕が、君たち六人の中から指摘して見ることにしよう」\n そうして、犯人の所在は局限されたが、ここで再び、形勢は逆転してしまった。村次郎に口を押えられた為十郎だけが、一人安全圏内に止まることになった。しかし、そうしているうちに演技は進んで、すでに蛇山の庵室も終りに近く、伊右衛門が父源四郎に勘当をうけるところで、\n\n 伊右衛門 昔気質の偏屈親仁。勘当されたも、やっぱりこれもお岩の死霊か。イヤ、呆れたものだ。\n\n と思い入れのところに、いきなり下の奈落から、声高に叫んだものがあった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " やがて曲者は、博士のしゃがんでいる池のむこうがわを、いま博士がでてきた非常口のほうへと、ちかづいていくようです。必死にみはっている博士の目に......いいえ、目というよりも、その心の感じに、いま曲者が非常口の戸に、手をかけているようにみえました。\n「しまった?」\n と、おもわず博士は胸をとどろかせました。\n 戸はしめてあっても、心張棒をかっていないその非常口は、もし曲者が手をかけたがさいご、スルスルとあいてしまうでしょう。しかも曲者は、その非常口のまえにすいつけられたように、うごかないのです。\n 博士はかたずをのみました。\n と、とたんにやはり曲者は、かんで戸じまりのしてないのに気づいたものか、ゴトゴトやっているなと思っているうちに、スーッと重い杉戸が開きはじめました。\n もう、猶予はできません。戸があいたがさいご、そのスグとなりの寝室には、頼子が雇人と遠くはなれて、ただひとりでふるえているのです。どんな危険がおこるかもわかりません。\n 博士は、いつ、どうしてそこまでかけよっていったか、じぶんにもおぼえがありませんでした。\n「き、貴様! なにをするのか!」\n と、さけんで、はげしいいきおいで樫の棒をうちおろしました。\n たしかに手ごたえが......いいえ、手ごたえどころではありません。すでに非常口に半身をのりいれた曲者の肩さきへ、火のようないきおいで棒はうちおろされたのです。が、なんというかたいからだでしょう。うちこんだ棒は、岩にでもブツかったように、ジーンと博士の手のほうがしびれてきました。\n しかもおどろいたことには、これほどの一撃をくらいながら、あいてはべつだんうろたえたようすもなく、半身をのりいれたまま、ジロリとこちらをふりむいているのです。\n「あ! き、貴様は......」\n と、博士がおどろいたのも道理!\n なんとそれは、ゆうべのあの老婆ではありませんか! いいえ、ゆうべばかりではなく、さっきは坂の途中でくるまの母衣をまくってのぞきこみ、博士のるすちゅうに家にきて、みんなをふるえあがらせた、あのおそろしい老婆だったのです。\n 博士はいきどおりが、胸もとまでこみあげてきました。\n「なんの恨みがあって、貴様は真夜中まで、人の家へめいわくをかけるのだ! さ、そのわけをいえ!」\n あいてが強盗や泥棒でなくて、あのやせおとろえた老婆だとしっては、腹はたっても、いまさら打ちすえる気にもなれません。\n しかたなく博士は棒をすてて、ことばはげしくつめよりました。\n「わけをいえ! さ、早く、わけをいえったら、なぜいわんのだ! 老人だと思ってがまんしていれば、いい気になって! ふざけたまねばかりすると、しょうちせんぞ! さ、いえ! どうして、わけがいえんのだ!」\n ウヌ! と博士は老婆のえりをひっつかみました。が、そのえりに博士の手がかかったかかからぬかに、老婆の顔がみるみるかわりました。闇のなかで口が耳もとまでさけ、目がランランと輝いて......しかもその顔が、博士の眼前におどったとみた瞬間、あッ! と博士のからだはもんどりうって、いやというほど、大地にたたきつけられました。\n「ウヌ、病人だと思っていれば、なまいきな! 貴様、手むかいする気か?」\n 起きあがっておどりかかった瞬間! ギャオッ! とひと声、すさまじい叫びをあげて、老婆はたちまち博士の手をふりはらって、にげだしました。その瞬間、ヒリリと刺すような痛みを手の甲に感じて、博士がおもわずひるんだすきに、ガサガサガサとはげしい音をのこして、となり屋敷とのさかいの、雑木林へわけいってしまったのです。\n スグつづいてあとを追いましたが、その早いこと! 早いこといなずまのごとく陽炎のように、とても人間業とは思われません。夜の闇はふかくて、そのすがたをたちまち博士は見うしなってしまいました。\n いまのさわぎで、雇人も起きだして、寝室では、夫人が吉蔵たちにかこまれて、ガヤガヤとさわいでいました。\n「だんなさま、泥棒がへえったそうでやすが、寝とりまして、いっこうにぞんじませんで、......えら、申しわけねえこんでごぜえやした」\n「あなた、どこまで追ってらっしゃったの? やっぱり泥棒でしたの? どんなかっこうしてまして?」\n「暗いから、よくわからなかった。追ってったんだが、雑木林のなかへにげこんじゃってね」\n「夜があけやしたら、村の駐在所までしらすことにいたしやしょう。またやってくるといけねえだから」\n「なあに、何かとられたわけでもないから、まあ、いいさ。さ、みんなも寝なさい。......どうせコソ泥棒だ、もうきもせんだろう」\n と、なにげない体に博士は、あの老婆のことはひとことも口にされませんでした。こんな真夜中に、あの老婆がしのびこんできたなどと話したら、女たちが、またどんなさわぎをするかと、それをけねんされたからなのです。\n「あら、あなたの寝巻に血が......、まァ......手の甲から血がたれて......どうなさったの?」\n「うむ、いまあいつを追ったときに、そこでつまずいたから、茨ででもひっかいたんだろう」\n と夫人に心配させぬよう、さりげなくいいすてて、博士は診察室へはいっていかれました。\n 夫人から注意されるまでもなく、さっき老婆から爪でもたてられたとみえて、手の甲がヒリヒリとかなり痛んでいたのです。\n 手ばやく消毒して、さて傷口をあらためてみて、かなりそのふかいのにおどろきました。\n 一筋......二筋......三筋......するどい爪でひきさかれたとみえて、あらってもあらっても、ポタリポタリと、血がしたたりおちてくるのです。しかもながめればながめるほど、これが人間からうけた傷あとか? とうたがわれんばかりの、深いふかい傷......。\n「ウム......ふしぎだな!......」\n と博士は、小首をかしげました。\n どう考えてみても、人間には、これほどまでにあいてに深い傷をおわせるするどい爪は、生えていないはずなのです。ハテナ? と思ったとたん、ふと頭にうかんできたものがありました。\n あの犬の五郎丸の死因になった爪傷、どうしても腑におちなかったあの爪傷が、ちょうど、いまじぶんの手の爪傷とまったくおなじだったのです。ハッと、おもわず博士は、くらい診察室にたちすくみました。\n もしそうだとすると、犬の五郎丸を殺したのもあの老婆......? 樫の棒で一撃をあたえたときの手ごたえといい、襟首に手をかけたときに、すごい力で大地にたたきつけられたことといい、目にもとまらぬはやさで雑木林ににげこんだすばやさ!......みんなたしかに人間業とも思われぬあやしさです。\n ではあの老婆の正体はいったいなんでしょうか?\n むかしは、年老いて通力を得たキツネやタヌキは、人をたぶらかしたという話もありますが、文明のこんにちに、そんなバカバカしいことのあろうはずもなく、考えれば考えるほど、老婆の正体というものが、博士にもわからなくなってくるのでした。\n\n山奥の村\n\n さて、その夜もあけると、顔をあらっている博士に、\n「だんなさま、おはようごぜえやす」\n と、吉蔵がほうきを片手に、よってきましたが、\n「俺にはどうも、解せねえことがありやすだ。ちょっくら、きてみておくんなさらねえだか」\n「なんだい? 吉蔵、朝っぱらから」\n「だんなさまは、ゆんべ泥棒がへえったとおっしゃいましただなあ?」\n「ああいったよ。だが、それがどうしたんだね?」\n「泥棒なら、人間でやんしょう? ところがけったいなことに、人間の足跡なんてえものはちっともねえでやす。あるものはだんなさまのばかりでやんすがな......」\n「だって、俺がこの目で見たんだからね、まちがいはないよ」" }, { "role": "assistant", "content": "「だんなさま、そりゃなにか、だんなさまのかんちげえじゃ、ねえでやんしょうかな? 大きな獣の足跡が、......クマみてえな足跡ばかりがあるでやんす」\n 吉蔵にいわれて博士は、裏庭へまわってみました。\n ふだんだれも足をふみこまず、おまけに陽の目を見ぬ家のかげなので、土もやわらに青苔がはえて、裏庭から雑木林のほとりまで、吉蔵がいうとおり、博士のはだしの足跡にいりみだれて、大きな獣の足跡が、クッキリとのこされているのです。\n「ふうむ......」\n と、さすがに博士も、うならずにはいられませんでした。\n この足跡は、老婆の肩に一撃をくわせてあとを追いかけ、この雑木林の中で見うしなったときのものにちがいなく、そうすると、あの老婆は獣の足跡をのこしていったことになります。\n「ようし、吉蔵、俺にはすこし考えがあるから、このことだけは、だれにも話すなよ。人にけっしてしゃべるんじゃないぞ!」\n「話すでねえとおっしゃれば、しゃべりはしましねえが、......だんなさま、やっぱり、クマでごぜえやしょうがな? この足跡はクマでなけにゃ、ほかに見当もつかねえだ」\n「だから、それをしらべるまで、だまっているんだというんだ」\n と、かたく吉蔵にくちどめしておいてから、博士は夫人の待っている、茶の間の朝の食卓にむかいました。\n もしかすると、またあの老婆が、なにくわぬ顔でやってくるかもしれないぞ! とその日一日博士は、胸をおどらせていましたが、とうとうその日は、老婆はすがたを見せませんでした。が、やがてその日も暮れかかろうとするころ、またもや博士がひっくりかえるような、おどろくべきニュースがとびこんできたのです。\n その日の診察もこれでおわろうとするときでしたが、\n「先生、診察ではありませんけれど、東戸松村からお百姓さんが、先生にちょっとおうかがいしたいことがあるって、いってきてますが」\n と、看護婦の笠井にあんないされてはいってきたのは、年のころ三十七、八、みるからにぼくとつそうな、陽にやけたお百姓さんでした。\n「なにか、わたしにききたいことがあるとか? どういうご用でしょうね?」\n と、きがるく博士からうながされましたが、えらいお医者さまの前へでて気おくれしたのか、汗ばかりふいて恐縮しているのです。が、やっと決心したように、\n「どうしてもわしどもにゃハァ、合点のいかねえ話だけんど、もしや先生さまごぞんじじゃねえかと思いやんして、それで、おうかげえしたわけでごぜえやすけんど......先生さまは、おとついふたつばかりになる赤ン坊のできものを療治なさったことァあんめえでやしょうかね?......どうも、ふしぎでたまんにえでやんすが......わしは東戸松村の、白上てえところのものでやんす......」\n お百姓の話によると、この白上という辺鄙な山奥にすむお百姓夫婦のふたつになる赤ン坊が、五、六日まえから左の股にできものができて、痛むとみえて、昼も夜もヒイヒイないてお乳もろくろくのまず、夫婦で話して、いちどお医者さまへつれていこうと思いながら、なにせ山奥のこととて、一日のばしにしているうちに、いいあんばいにできものが熟んでふききれて、やっと赤ン坊は泣かなくなりました。\n ところが、三日ほどまえに夫婦が野良からかえってきてみますと、いつも赤ン坊をいれておくかごの中が、もぬけのからになっていたというのです。そこで村中大さわぎしてさがしていましたところ、その日もとっぷり暮れたころになって、だれもいないとなりの納戸から、不意に火のつくような赤ン坊の泣きごえがして、神かくしにでもあったように、赤ン坊がいつのまにかちゃんとかえってきていたというのです。\n それにまだふしぎなことは、その三、四時間のあいだに、赤ン坊のできものは、ガーゼや絆創膏でりっぱに手当がほどこされてあったというのです。しかもそれも素人の手療治などではなく、専門のお医者さまの療治だというので、夫婦をはじめ村人たちも、ふしぎなこともあればあるもんだと、びっくりしてしまいました。\n いったいだれが、こういうことをしでかしたのか? しんせつでしてくれたのか、いたずらなのか?\n「もうそれからは、家内はまた子どもをかくされやしねえかと、半狂人みてえになっとりやして、仕事も何も手につかねえでやす。そこでわしもきょうは野良を一日休んで町さきで、医者さまのとこさ軒なみにきいてまわっとるでやすが、もうこれで五人の先生さまに、うかがったでやす。こちらの先生さまいれて、六人目になるでやすが......」\n「ほう!......フウム......」\n きけばきくほどふしぎな話ですが、博士には思いあたるふしがあるのです。\n「わしどものとこから、ここまで十里近くありやすだ......でやすから、赤ン坊の見えなくなった、ほんの三時間や四時間ぐらいでは、いくら足のはやいもんでも、先生さまのお宅までくるわけのねえことはようくわかっとでやすが、どこできいても知んねえ知んねえおっしゃってでやしたから、念のため、うかげえにあがりましたようなわけで......」\n「ちょっとお待ちなさい。わたしにも、すこし思いあたるところがある......」\n 博士はあいてをおさえて、大いそぎでカルテをぬきだしてみました。\n「......東彼杵郡、東戸松村、字白上、津田まさ長女二歳......これだ! たしかにわたしのところへきている。......わたしが赤ちゃんの手当をしてあげているが......この津田まさという人は?」\n「それが、わしの家内の名前でやすが......へえ? 先生さまのところへめえっておりやしただか? で、だれが、つれてめえりやしたでしょうな?」\n「お婆さんですよ。こわい顔をした、六十くらいのお婆さんがね」\n「へえ! 六十くらいの婆さんが? 先生さま、すりゃふんとうでごぜえやしょうかな?」\n と、あいては目をまるくして、せきこみました。\n「何か先生さまの、お考えちげえじゃねえでやしょうかな」\n「いや、そのお婆さんにたのまれて、わたしがこの手で、あなたの赤ちゃんのできものを切開してあげたんですから、まちがいはないです。しかし女だから、家内や看護婦のほうがわたしより、もっとよくおぼえているかもしれません。念のため、呼んできいてみましょう」\n もう、こうなっては、夫人や看護婦たちにも内証にしておくことができなくなりました。\n 博士はお百姓のまえへ夫人や平松をよんで、そのとき赤ン坊が、どんな模様のちゃんちゃんこをきていたか、そして赤ン坊の顔の特長がどうであったかということなどを、あらためてききだしてみましたが、お百姓は、その赤ン坊はたしかにじぶんの子どもにそういがないが、そのおそろしい顔をした老婆だけは、なんとしても、心あたりがないと、頭をふっているのです。そしてさいごに夫人が、老婆のきもののことを話すと、\n「へえ! その婆さんは、単衣もんをきてたんでやすか?」\n と、お百姓の目がひかりました。\n「ど、どういう模様の、単衣もんでやしょうな? じつはそのとき、外にほしといた家内の単衣が、二枚なくなってたでやす。洗いざらしの、ボロでやすが......」\n「下の単衣はわかりませんけど、上のは、あらい十字絣の......まるで三十二、三の女がきるような、派手な柄でしたわ。......お婆さんが、ずいぶん派手なゆかたをきてらっしゃると、それでいまでもおぼえてるんですわ」\n「あ、奥さま! それでやす、とられたのは、その十字絣で! わしどもの家内は二十七になりやすから、それにまちがいはねえでやす」\n「まァ! それではあのお婆さんは、お宅からとったきものをきて......お宅の赤ちゃんをつれてきたんでしょうか? まァおそろしいこと......なんてお婆さんなんでしょうね!」\n と、夫人はおそろしさに、身をふるわせました。\n それにしてもふしぎなのは、このお百姓の足でさえ、たっぷり一日はかかる遠い道を、わずか三、四時間のうちに平気でいったりきたりする。あの老婆の正体は、いったい何者なのだろうか? ということでした。\n しかも夫人は、これだけのことでもうふるえあがっていられるのですから、昨夜老婆が家をのぞきまわっていたことなどしったら、それこそもうどんなにおびえあがって、家中がたいへんなさわぎになってしまうかわかりません。それを思うと必要以外のことは、いっさいいわずにおこうと、博士はいっそうかたく口をつぐんでしまわれました。\n\n老僧の眼力\n\n けさ足跡を見て吉蔵にくちどめしていらい、博士は老婆の正体について頭をなやましぬいていたのです。そこへもってきて、いまのお百姓のことばをきけば、その神出鬼没のはやわざには、まったくおどろかずにはいられません。\n もはやこれでは、この老婆はけっして、人間ではありません。たしかに、妖怪変化のたぐいです。\n その妖怪変化のたぐいが、おとといもきてまたゆうべも、真夜中に足音をしのばせて、すきあらばこの家をおそおうとして、庭をウロつきまわっているのですから、さすが快活な博士も、なんともかともいいようのないおそろしさをおぼえずにはいられませんでした。\n「おそろしいわね」\n「とても、こわいわ......わたし......」\n お百姓もかえったあとは、もうじぶんたちの部屋へひっこむどころではなく、看護婦も女中も、夫人といっしょに茶の間にひしかたまって、青い顔をしてふるえているかたわらで、博士はひとり黙念として腕をくみながら、考えこんでいました。\n だいいちかりに、あの老婆が妖怪変化であるとしても、いまの世のなかに、そんな妖怪などというものが、ありうることでしょうか? よしあったにしても、その妖怪変化がなぜこうまでもしつこく博士の家を、ねらっているのでしょうか? 考えれば考えるほど、まったくわからなくなってくるのです。\n そこでその晩は、家中一同、せまい茶の間へあつまって、ほとんどだきあわんばかりのざこねということにして、ただ博士と車夫の吉蔵だけが、枕許へお酒をとりよせて、夜をあかすことにしました。それでも一同は、風にガタンと雨戸がなったり、きしんだりするごとに、すわこそ老婆がしのびこんだか? と、安き心地もありません。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「お酒盛ですかい。先生、わしはお恨みを申しに来ましたがな。へへ。」\n「どうしたのです。まあ、お掛けなさいよ。」\n「ええ、難有う。」と、ソファの尻、Y君の隣に、ぐにゃりとして、両膝に手をついた。眼がとろんとしている。鯨の赤肉見たいような顔の皮膚だ。\n「支那服ですがな。支那服。あれは喜んで進上申すと、このY君にもいうときました。先生の御希望じゃ。それはありがたい。結構じゃで、喜んで、進上と。」\n「こん人酔うとる。もうそげんか事いわんちゃよか。」Yは元気だ。\n「いや、お恨み申す。それをそのお返しになった。これは理窟じゃが、折角の志。」\n「そりゃあ、僕も欲しかったんだがね、ちょっと惜しそうに、あんたがしていたというから、お返したまでさ。人が物惜みするのを貰ったってしょうがない。」\n「物惜しみ。これはおかしい。いったい、どの仁がそう申したか。怪しからん事じゃな。」\n「俺がいうた。ほんな事じゃろが。」とY君が口髭をキウと一つひねって、\n「うん、よかたい。一杯飲みなはれ。」\n「いや、いただきますまい。わしがボーイを呼ぶ。そういう事なら、一倍お恨み申す。わしの面目が丸つぶれじゃ。先生、御用心さっしゃれじゃ。今度こそはどえらい仕返しをし申すで。」\n「よし、よし、わかった。わかった。」\n「わかりゃしませんがな。わしの子分を連れて来る。ボーイ、麦酒だ、麦酒だ。――おおい。」\n ふらふらと立ち上って、そのまま甲板へ出たと思うと、\n「おおい、おおい。」\n\n\nおおい、おおいと、海豹も\n海のなかから呼んでます。\nどうせ、薄雲、北の海、\nおおいおおいで日が暮れる。\n\n\n *\n\n とうとう日が暮れてしまった。\n いかにも何かしら物寂しい風と煙である。色と響である。光のない上の世界と下の世界、その間を私たちの高麗丸のスクリュウが響く。機関が熱る。帆綱が唸る。通風筒の耳の孔が僅かに残照の紅みを反射する。\n あ、書くのを忘れた。あの後、私は専用の雪白の湯槽の中に長々と仰向きになった私自身であった。船中でも入浴ほど心の安まるものはない。私は湯にひたり、薄紅い角の石鹸をいつまでも私の両掌の中に弄んでいた。なんと温かな、いい匂であろう。私はまた蓮の実型の撒水器の下に立って、頭からさんさんと水を浴びた。新しい浴衣の下に、改めて薄いメリヤスの襯衣を着こんだのはそれからであった。思いなしか、ひえびえとした気流が昨日とは何か変って感じられたものだ。\n 私は船室の前に出て、空いていた籐椅子の一つに凭れて見た。一列にみんなが並んで、誰もが蒼茫と暮れてゆく北海の薄明りを眺めていた。全く物寂しい風と煙であったのだ。\nフネガデルデルカラフトヘ\n 小樽を出る時、私は小田原の妻子へ、こう打電したものだ。つい三、四時間前のことであった。私たちは一旦着換を済ますと、しばらくは右舷へ集って、応接に遑もない鮮緑色の海岸線を物珍らしく楽しんでいたが、一人減り二人減りすると、私もまた左舷の自分たちの甲板へ還って来た。其処には先きにいったように遥々とした大洋があった。あの光のない、ただ明るいだけの波濤の連続が。\n その波濤の面の金と紅とが乳黄となり、やや寒い瓏銀となり、ブリュブラックとなり、重く暗くなり、そうして今は舷下の飛沫と潮漚とがただ白く青く駛って、擾れて、機関部の汚水がタッタッと吐き出されてゆく。\n 一寸したウイスキイの酔は、すぐにも発散したし、湯上りのやや肌寒を感ずるところへ、明日はいよいよ樺太だと思うと、何か気も昂れば、引き緊っても来る。\n「おい、何を考えてる。」\n こうした時、ぽんと肩でも叩かれたら、私は恐らく顔を赤めたであろう。\n「郷愁だな。」\n そうしたものだろうなと私は私自身にも答えても見た。\n 私ばかりでなく、これは籐椅子、木の椅子、安楽椅子のこれらの一列の人々の凡ての顔にも表われている。\n\n\nおおいおおいと誰やらが\n海のはてから呼んでます。\nどうせ、ぬか星、北の海、\nおおいおおいで日が暮れる。\n\n\n と、一斉に燈が点く。ジャランジャランと銅鑼が鳴る。\n\n *\n\n 煌々たる食堂。それが却って明る過ぎて、何か今夜は堅苦しい。誰でもが緊張して、以前とは様子が違っている。それは、札幌鉄道局の役人たちと、小樽からの新来客の二人とが加わったための、やや油に水をそそいだ気配もあったかも知れぬ。その人たちにとっても初めての晩餐ではあり、そうそう寛げもし得ないであろう。それに一同の郷愁である。とはゆかなくとも、近づいて来る目的地への期待と何とない或種の武者ぶるいもある。\n ここで、この一等船客の食堂について、多少の説明をして置こう。先ず食器棚の両方の入口からはいると、奥の正面にはピアノが一台装飾的に据えてある。ピアノの上にはどす黒いラジオの喇叭が載っている。その室内には白いテエブルクロースを掛けた食卓が三列に流れ、中央のにはピアノを背にして船長が腰かける。船長はいかにも穏かな温顔の人で、先ずは無口に近い。やや前跼みでいつも黙々としてナイフとフオクとを使っている。それに向って事務長が末座に位置する。長身の、まだ若いが、職掌柄だけに凛として気の利いた顔貌と風采の持主だ。左舷寄りの上席には門司鉄道局の船舶課の、かなりの上役らしい人が据わる。この仁は鼻も高いが、いくらか権高のすっかり官僚風にできている。これらの三つの座席は必ず極っている。船客の座席はどれと定ってはいない。自由ではあるが、中央部には、下の関や神戸から乗ったO・M・A・K・D、それにH夫妻その他が既に早やお極まりのように両側に居流れている。O氏は日露戦役の志士沖禎介氏のお父さんで、肥前は有田の弁護士である。もう六十を越えて、それで前額は禿げているが、矍鑠としたシャンとした老人である。郷里ではその子の禎介氏の記念図書館の館長をしていられ、老後を全く壮烈な忠死を遂げた、その子の名誉を己れの円光として生きている人である。親としてはこれほどの光栄もなかろうが、その子としてはこれほどの孝行もなかろう。この人が団長に挙げられたのも忠孝並びいたる禎介氏の功績が与って力がある。少々は酒がいける。Mさんは神戸の縉商である。いうところによると、美術院の大観観山等の極めて親しいパトロンだそうである。飄逸な反り型の赤ら顔だが、どこかに俗っぽい。好きで酔うと贅六句調で、変な唄ばかり歌う。A博士は電気学者で京都の大学教授である。髪をキッと分けて、角ばった頤の、眼鏡の奥に謹直らしい眼を光らしている。絶対に禁酒家である。もとはかなりいけたそうであるが、今は何か病後でもあるという。一、二度はその夫人も並んで見えたが、すっかりこの頃は影をひそめてしまった。同行の令息とでも一緒かも知れぬ。令息ははっきりと覚えぬが三高の学生らしい。建築家のK氏は我親友の木下杢太郎の姉さんの夫にあたる人で、彼を準養子にされている。胡麻塩頭の、金縁眼鏡をかけた、顔の白い、一寸学閥風の老紳士である。もっともらしい態度でやや中脊だ。少しは飲めそうだ。津軽海峡あたりからそろそろよい機嫌になって来られた。これは内密だが、一寸長唄に懸腕直筆で富士山の画がお得意だ。D中学校長は温厚そのものといっていい。円い眼の笑えば眼尻が細くなる。棗面である。酒にはすぐに赤くなる方である。団員名簿に会社員と記されたH君夫妻は小倉から出て来た、土地では相当の資産家らしい。夫君はまだ若いが代議士の候補にも一、二度は立ったとも誰かの話であった。船員を除いて、この人ばかりはいつも黒の背広を着て来る。浴衣がけなぞにはなったためしがない。髪をオールバックにチックで反らして、美髯の、瀟洒な風姿であるが、何か気取って、笑うにも声もさして立てず、肯き肯きする。腕を拱む。ボーイに麦酒ひとつ呼んだことがない。夫人は先ず船中一の美人であろう。細っそりして、色が白い。身重で、時には面やつれがして見えるが、そのせいか何かコケチッシュにも感じられる。童謡音楽会の時はこの奥さんが、私の「あわて床屋」をピアノで弾いたのが導火線になった。だが一曲弾いただけですっと居なくなってしまった。若い学生たちの乱酒と騒擾とに驚いたのだろう。食堂ではチンと澄ましている。それが今夜は鼠色の眼鏡をかけて、急に寂しくなった。\n 私と庄亮とはO氏やA博士やH君夫妻を向う斜めに見わたせる、船舶課側の窓際のクッションに凭れる、末席の方だが、このテエブルには若い船医や京都府の警部さんのA君やと大概は同席である。だが、今は私たちの前には某銀行の重役のBさん夫妻が並んでいる。私たちの隣室の客だ。Bさんは下り眉の濃い眼尻のたるんだ中老の恵美須顔だ。サイノロジイらしいなと誰かが噂した。妻君は桃いろのスカートで、歩くときには、その健康そうな円いお腰がくるりくるりと弾む。これも誰かが手真似をしては怪しからぬ笑い声を立てた。顴骨が高くて、さほど美しくはないが、近代的ともいえばいえる魅力を持った顔だちだ。頭取さんは甲板ゴルフが好きと見えて、午前も午後もぶっ通しの、相手を集めては莞爾として杓子棒で玉を突いたり飛ばしたりしている。下戸でその方は話にならぬ。ただお二人はいつも御一緒である。だから若い者がやきやき騒ぐ。" }, { "role": "assistant", "content": " 右舷寄りのテエブルには、音楽会の晩、私に利休鼠の頭巾を貸してくれた、小さな小さな商人風の、若山牧水に似た顔のお爺さんと、その連れの須田町のある旅館の主人だという、これも江戸っ子式の快活な中爺さんと、例によって酒が賑やかだ。これは珍らしく向うの隅っこで気勢を挙げる。\n 私たちの席はいつも私たちだけが残されてしまう。時には外のテエブルに鞍替して見るが、何処へ行っても残されてしまう。つまらない事おびただしいのだ。船舶課の側へずり上ったところで、何だかお役所風で話が堅くなるし、中央は占領されているし、たまには例の白髪の、牧畜家の、活気縦横な和製タゴール氏と対い合になることもあるが、まだまだ十分には双方からうち解けない。\n こう見渡したところ、その他の船客たちも何れも相当な紳士ばかりで、至極至極におとなしい。\n それが申し合せたように、今夜は不思議に静粛である。庄亮までが、風邪気味で咽喉を痛めたというので、さして左が利かない。\n「止すか。」\n「うむ。御飯にしょう。」\n 何とまたH夫人の鼠色の眼鏡が寂しいことだ。\n\n *\n\n \n、こちらは東京、ゴウゴウゴウ、放送、ガバガバガバ、局であ、グワウグワウ、す、す、す、す、ジャオジャオジャオ。\n「何だ、いったい、こりゃあ、しょうがないな。」\nと、誰やらが、心細い声を出した。まだ宵のくちの一等談話室のソファである。\n「今頃は半七さ、グワウグワウグワウ。ジャオオ。」\n「ああ、ああ。」とまた一人が立ち上った。\n「ラジオにもいよいよ見放されるのかな。」\nと、また一人が、しみじみと、眼鏡をはずして、浴衣の袂で拭き初めた。\n と、また新来の若い中脊の背広の紳士が、その台の方へ行ってしきりに二つのレシーバーを耳に嵌めては、針を動かして見たり、跼んだり、透かしたりして見ていたが、それも諦めたように、耳のをはずして、カチャリと置くとこちらを向いた。美髪のどちらかといえば円顔の眉の凛々しくつまって、聡明な眼の、如何にも切れそうな態度でいい。余程のラジオ狂らしい。\n「もういけない。ひどい無電だ。」\n 私はラジオはどうにも好きでない。ラジオを聴くといらいらして来る。ああ、化物じみた、非音楽的の非人情の音響で、神経を刺戟されてはとても坐っているに堪えられないのだ。一つには私が文明化された電気というものとあまりに交渉のない生活をして来たせいかも知れぬ。この四、五年こそ電燈の下で創作もしているが、この十五年来、ほとんど縁がなかった。いや、ずっと以前にも、そうだ、明治三十八、九年の早稲田時代にも、私たちは下宿から下宿へ引越車の後を蹤いてゆく時にも、ニッケル製のランプを片手に捧げて、とぼりとぼりと歩いたものだ。大正の一、二年にも相州の三崎ではランプであった。小笠原では無論のこと。その後葛飾でも初めはそうだったし、小田原へ移ってからも、二、三年は煤けランプの油煙くさい臭気をいつでも徹夜の暁には嗅がされた。それに電話は身ぶるいするほど嫌いだし、田舎に引き籠ってからは、あの雑閙する東京の電車にはとても飛び乗れそうにない。ラジオ流行の時節にも到底救われない旧人だと見えて、酒の座などで、いきなり、ワァワァワァと唸られると、それこそカッと疳癪が起って来る。何で周囲に当り散らすのかわからぬ立腹が、たちまち私の眼先を真っ暗にしてしまう。それがまた、地球外の不快な何かの囂々音らしい無電の妨害までが挟まっては、まるで悪魔の洞窟にでも堕ちたような気がする。見放されてこそ仕合せだと思うのだ。だが、日本内地からいよいよ私は離れつつあるのだ。それを思うとまた、頼りない郷愁も湧く。\n「や、活動が初まったな。」\n 総立ちに出て見ると、もう、左舷の甲板は観客でいっぱいになっている。自分の船室への通路も全く塞がれてしまった。それよりか、丸窓もはいり口も燈が消されて、ほの青い光の中に、密集した低い高い黒い頭の壁際になってしまっていた。\n で、私もその前に跼んでしまう。\n チカチカチカチカ、コチコチコチコチ、パッとまた幕面が白く明って見出しの円が出る。思いがけない樺太風景である。\n「や、鰊漁だ。すばらしいすばらしい。」\n 現れたる青い画面には溌剌とした鰊の数千数万本が飜る。小蒸汽とモオタア船の甲板である。日光、漁夫、モリ、舷側の飛沫。\n 影、影、影、光、光、光。\n 鰊だ、眼だ、腹だ、尻尾だ、雪崩だ、総雪崩だ。や。\n 密集、重積、氾濫、迷眩、混乱。\n 帆だ、帆だ、帆だ、\n 運搬、駛走、海洋、巻雲。煙、煙、煙。\n と、砕氷船。\n「大きいぞ。」と声がかかる。\n と、たちまち、船影は消えて、一面の氷結した極寒の海峡が真白く、白く、暗い影の底から遥かに遥かに光る。輝く。寒い寒い雲だ。あっ、樺太だ、確かに。\n と、来た来た、氷を蹴砕き蹴砕き、さっきの砕氷船が。\n ピー。\n あっと、一同が振り向くと、それは白髪の白い支那服のタゴール爺さんだ。吹きも吹いたり。とてつもない鋭い口笛だ。「あっはっはあ。」「ヤハイハイ。」\n パッパッパッ。「大泊の光景でござい。」\n 雪、雪、雪、煙突、倉庫、店看板、防寒帽子、毛ごろも、手袋、がんじき、橇、橇、橇。スキーだ。スキーだ。\n 駛る駛る駛る、樺太犬が、一匹二匹三匹、五匹六匹、二列だ。\n パルプだ。突進、突進、突進。\n と、牛肉だ、肉塊だ、犬だ、頭だ、うおうおっうおうおっ、頭、頭、頭、口、口、口、や、舌、舌、舌。\n 食慾だ。争闘だ。血だ、血だ、血だ。\n「氷上の魚獲。」\n 静かな月光、声のない声。雪白の幌内川の氷上に、ただひとつ穿たれたばかりの黒い穴。\n\nついと、こちらを見て笑ったギリヤアク土人の顔、しょぼしょぼの眼。毛皮の帽子。\nや、また、一人、二人、三人。\n砕く砕く。一心に、懸命に、こつこつこつこつ。\n振り上げた手、手、手。\n跳ねた。水だ。や、魚だ。魚だ。魚だ。\n黒、黒、黒、穴、穴、穴、穴、穴。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n しんどい。\n 火のない掘ごたつに向いあったまま、老夫婦はだまりこんでいた。思いは一つなのだが、今はそれを口に出して云いあう気力もない。ほかにだれがいるというわけでもないのだから、今こそ、ぶちまけた相談をしてもよい筈なのだし、しなければならない時なのに、言葉が出てこない。今更、あれこれとたしかめあう必要もないといえばないのだが、ぐっと勇気をふるって腰の骨をのばさねばならないような事態に、改めて直面してみると、やっぱりしんどさが先きに立つ。年寄りらしくぜい肉を落しきったような痩せた夫は、白髪の交った眉毛を、くぼんだ眼のまぢかに寄せて、巻煙草をつまんだまま火もつけず考えこんでいる様子だし、人並はずれに太っている妻は、こたつ板に頬杖をついたまま放心したようにまばたきもしない。よっぽどしんどいらしい。\n やがて夫がつぶやいた。\n「虫が鳴いてる」\n 妻は暗い部屋に気がついたが、あかりをつけに立つのも大儀だった。近年病気がちの妻は、こんなとき一そうからだが重たくなるのだった。いつもなら身軽な夫が用を足してくれるのだが、その夫も今日は立ち上ろうとしない。そしてまたつぶやく。\n「虫が鳴いたりすると、よけいかなしい」\n 妻に聞けというのだろうが、重ねてのつぶやきに、妻はふっとおかしさのようなものが涙と一しょにこみ上げてきた。いかにも実感のこもったそのつぶやきを笑う気はなかったのだが、四十年もつれそってきたその永い年月に、ついぞ聞いたこともない感傷的な言葉が、日頃はそんな言葉を使わないたちの夫の口から出てきたのがおかしかったのだ。くそまじめであるだけに、夫にしては実感そのままにちがいない。妻はそれで気もちがほぐれ、スイッチをいれに立った。\n「かわいそうだった」\n あかりに背を向けて涙をふきながら、\n「彼の前では、うっかり涙もこぼせないんですもの。思いつきのうそばっかりならべ立てて気休め云って――」\n「少しは病気のこと、気がついてるんじゃないのかね」\n「つかない筈がないわ。でも気のつかないふりをしてるんじゃないかしら」\n「ふーん」\n「口がくさっても、云えないものね。本人ももしやと思っても口に出せないのね」\n 老夫婦はさっき方、胃潰瘍のあとが思わしくなくて、二度めの入院をしている娘婿を病院に見舞ってきたのだった。そして朝に晩に病勢の深まるらしい様子に気を重らしていた。今日は四十二度にも上った熱がやっと注射でさめたばかりだという病人は、それでもまだ喘ぎながら、\n「熱の、原因が、わからないんです」\nと、それさえわかれば毎日の苦しみからのがれられでもするかのように、口惜しそうに訴えた。聞きとりかねるほど力のない声で、かわいた唇が今にもさけて血がふき出しはせぬかと思うほどかさかさになっていた。そしてあとはもう目を閉じたまま、うつらうつらの状態である。食慾も全然ないのだと、附添っている娘はいい、声をひそめて、\n「おこってばっかりいるのよ」\nとかなしそうにいった。\n「おこられている間が花よ」\n「うん」\n おこらなくなったらおしまいなのだし、それがもうせまっているのだから、覚悟をしなさい、とはいくら娘にでも云えない。それにしても、これが二十日前には小型テレビを喜びながら入院したあの気さくな病人だとはとうてい思えない。今はもうそのテレビを見る元気さえなく、がたがたふるえ出したり、高熱に意識を失ったり、うつらうつらと眠ったり、そのくり返しの合間を輸血とリンゲルで、ようやく保っているのだ。そして、それが好転する見込みは今のところ全然立たない。それどころか、苦痛と衰弱は加わるばかりらしい。\n「もう、うちへ帰れないような気がする――」\n そんなことまでいい出した彼に、\n「なに、いってんの。私でさえもよくなって帰ったのに、若いあんたが、馬鹿なこといいなさんな」\n その「私」もごく最近まで同じこの病院に病を養っていたのである。\n\n二\n\n「出向いて行っても、なんの役にも立ちはしないけんど」\n「それでも、病人にとっちゃあ顔みるだけで、うれしいかもしれないわ。私らにはあいたがっているっていうから」\n「しかしなあ、顔みりゃ見たで、彼もいろいろと、辛いんじゃないか。おれはそう思う」\n「私も、そうは思うけど」\n「だれにも会いたくないとは云っても、さてだれも見舞ってくれないとなると、さびしかろうしな」\n「だから、私らだけでも、いってやらなくちゃあ」\n 夫婦がそんな問答を交しているところへ、ある知人から花が届けられてきた。病人へではなく、小説書きの老妻の方へであった。花は高貴な蘭である。なんという名の蘭か知らぬが、ハワイから飛行機でとり寄せるのだという。年老いた妻は、時折このぜいたくな花を同じ人から贈られる。そこらの花屋では見かけることもない花を、彼女はいつも、とてつもなく喜んで仕事部屋に飾った。が、今日はちがう。\n「病人へ、もってってやる」\n すると、その花をことづかってきた息子の太郎は、ちょっと言葉をつまずかせながら、\n「お母さんにくれたんだから、お母さんの部屋においたら」\n だが彼女はかぶりをふり、\n「悪いけど、今日は、もってってやる」\n 太郎もすぐさとって、\n「そうだね」\nと同意した。花の贈り主は、太郎の親しい人だった。\n「今日は、バスでいこうかな」\n 花のほかには荷物もないのだし、と思って、いつもはハイヤーで出かける妻がそういうと、病気上りの妻のひとり歩きをいつも気にしている夫は、\n「じゃあおれも一しょにいこう。そうだ、ついでに蜂蜜を持ってってやろうか。唇がひどくあれとったからな」\n「それいいわ。りんご酢も少し持ってってみましょうか。蜂蜜とまぜたの、ひょっとしたらのめるかもしれないわよ。口あたりいいから」\n 一縷の望みに妻の声はあかるかった。野菜スープも口にしない病人ではあるが、これならのどを通るかもしれない。\n 満員のバスは席をゆずってくれる人もなく、細い道路をひどくゆられながら終点の阿佐ヶ谷駅前についた。片手に花をもった妻と、小さな蜂蜜の瓶をさげた夫は、一ばんあとからのろのろと下りた。乗っていた時間は十五分ぐらいなのに、妻はひどく疲れを感じていた。久しぶりのバスに酔ったのかもしれない。ふとった妻はゆっくりと、停留所わきの丸い花壇に近づいてゆき、コンクリートの縁に腰をおろした。思わずためいきが出た。\n「気分わるいのか」\n よってきた夫が不きげんに聞く。だまってうなずくと、\n「だから遠慮せんと、ハイヤー呼べばよかったんだよ」\n こんなときすぐ声がとがるのが夫のくせである。以前の妻ならすぐまにうけて、\n ――云ってもしようのないこと。よしてよ。\nとつっかかっていったものだ。そして話はだんだんもつれてゆき、日ごろの不平不満を投げつけあうことになる。\n それが夫のくせであり、いたわりでさえあることに気がつくまでに四十年かかった。と妻は思いながら、\n「ごめんなさい、もう大丈夫」\n 立ち上ると、その妻の片腕を小脇にかかえこむようにして、\n「大丈夫か。ゆっくり、歩こうよ」\nと夫の声は急にやさしい。病院へいくには、目の前の広場を横ぎってから、妻の足では十五分ほど歩かねばならない。その道のりを、腕をくんで歩いていくつもりなのだろうか。つい最近まで肩を並べて歩くのさえてれていたのに、病後の足の弱った妻をみては、そんな恥じらいの気もちも失せてしまったのか。\n「並川文吉と、並川元子が、手をつないで歩いている。人がみたらおかしいでしょうね」\n「知らんよ、だれも」\n「ただのふとっちょばあさんが、ただのやせっぽちじいさんにいたわられてるおかしさだけ?」\n「............」\n「詩人の並川文吉くんも、作家の並川元子さんも、元気ないわね」\n「そうかね」\n「そうよ。ここで若い者にどうかなられるなんてことになると、逆さごとですからね。――私やあなたが病みつくにしろ、死ぬにしろ、それは巡儀だけれど」\n 不吉な予感に、並川元子の声はふるえだしていた。" }, { "role": "assistant", "content": "「かわいそうだ」\nと並川文吉の声も沈んでいる。\n「私たちが?」\n 元子はわざと聞きかえした。\n「山形くんがさ。これからというときになって、たおれたんだからね。口惜しかろう」\n 元子も同じように、\n「女房子供だって、かわいそうじゃない」\n 云ってもしようのないことをまたくりかえしている。そして、大してなぐさめにもなりそうにない花などをもって、苦痛にうめいている娘婿の枕辺を訪れようとしているのだ。それは病人をよけい苦しめることにもなりかねない場合だってあるにちがいないが、さりとて、一日も放ってはおけない。苦しんでいればその苦しみの渦の中に一しょにまきこまれることで自分をもなぐさめているのかもしれないが、朝に晩に病室を訪れて、なにかをたしかめねば気がすまなくなっているのだ。たまに眠ってでもいればそれが薬のせいにしろ一とき胸をなでおろせるわけだが、そんなことにはめったにめぐりあえなくなっている。せめては附添っている娘の力づけにでもなろうかと思うのに、その娘のひろみも病夫と一しょに、みる度、会う度、頬の肉を削りおとしているのだ。\n「しっかりしなさい」\nといったところで、不眠不休の彼女にとっては、ビタミン剤の注射をしてもらうぐらいのことしかない。そんなところへ、花をもってゆくのか。病勢が極度に進むと、花などというものは、むしろ邪魔かもしれない。\n 並川元子はそっと紙包みの蘭をのぞいた。匂いはないが、反り返ったような花弁のピンクの花が豪華にむらがっていて、ほのかに匂うような気がした。美しい。しかしこの花が喜んでもらえないかもしれないのだ。\n「山形さんて、あれでとてもよく気のつくとこがあるのね」\n 丈夫だったころのことを思い出していうと、夫もうなずき、\n「そうだよ。仕事も熱心だったしね」\n「去年も今年も、二月二十日に花をもってきてくれたの、山形さんだけよ」\n「二月二十日? 多喜二の日じゃないか」\n「ほら、あんたでさえそれでしょう」\n「ああ」\n そんなことかという顔だ。二月二十日は、三十年前に、作家であり共産党員であった小林多喜二が、つかまっていた築地警察で虐殺された忘れがたい日であるが、更に一昔前の同じ日、並川文吉と元子は、たった二人きりの結婚式をあげたのであった。あれから四十年たったというわけだ。\n「実は、私も忘れてたんだ」\n「............」\n「白のフリージヤを、うんともってきてくれたのよ」\n 一昨年の、元子のはじめての入院中のことであった。ピンクのリボンで結んだ美事なフリージヤの花束を、ベッドの上の元子にささげて、\n「おめでとうございます。花束だけでかんべんしていただきます」\n にやにやされて、ただのお見舞いでないことに元子はすぐ気がついた。\n「ありがとう」\n 家族のだれも忘れているほど遠々しい結婚記念日を、彼だけが覚えていて、病気見舞いのところをそれにさしかえた思いつきが、元子はうれしかった。\n「よく、知ってたわね」\n「いやあ、ひろみに、いわれたんですよ」\n 正直なところをぶちまけるのもよかった。\n そういえば、フリージヤは、山形の結婚式にも、花嫁のひろみが胸に抱えていた花でもある。太郎が一任されて買ってきたその花は今も心に残っているほど美しく清楚で、花嫁のひろみを引き立たせた。そんな思いにつながったフリージヤだったかもしれない。......\n「あっ」\nと元子は小さく叫んで立ちどまった。そしてうろうろとあたりを見まわしながら、文吉に、\n「この道だわ。たしかに。向うにフミキリがあるでしょ。そこを渡って少しいくと左側に多喜二の家があった――」\n その日夕刊で多喜二の死を知った元子は、まだ小さかったひろみをつれて、多喜二の母のいる家へかけつけたのだった。その道が、今、病院へいくこの同じ道であることに気がついたのも、フリージヤからの連想であった。たくさん集った多喜二の葬式の花をその時獄中にいた大勢の多喜二と同じ文化団体の人たちに差入れたのである。その中に文吉もいた。一輪ずつの赤いカーネーションにフリージヤを添え、差入れ者は多喜二の母の名にした。そうすることで、多喜二の死を知らせようとしたのだった。その思いつきは元子であり、そしてそれを刑務所に運んだのも並川元子であった。その時の元子はまだ小説などは書いていず、解放運動犠牲者として獄にとらわれていた文吉の家族として、文化団体の中の差入れ係をしていた。――\n 病院の玄関を入ると、まるで待ちうけてでもいたようにひろみがかけよってきて、\n「今、電話かけたのよ。そしたらもうつくころだって」\n「わるいの?」\n「うん。しゃっくりがついて、とまらないのよ。かわいそうで」\n「そう」\n 玄関からは遠い病室へ、三人は足音をひそめて歩いた。ひろみのやつれが目立つ。\n\n三\n\n 毎日、わさわさと仕事も手につかない。となると、けっきょく病院通いになってしまう。\n「こんなに毎日、忙しい人が、朝に晩にきてくれたりすると、やっぱりガンかなと思ったりするんですよ」\n きのうはついにそんなことを云い出した。壁の方を向いて、だれの顔も見えない恰好であったが、反応に耳をすましている様子は、毛布をかけてやっていた元子には痛いほどわかった。冷静らしくいってはいても、唇もやせた頬もこまかくふるえていたのだ。しかし、元子にだけしか聞えぬほど低い、小さな声だったので、そろそろ耳の遠くなりかかっているのを利用して、元子はよく聞きとれぬふりで、ごまかしをいった。\n「近いんだから、平気よ。運動になって、私の足もきたえられるからちょうどいいのよ。またくるわね」\n そして、廊下に出ると、玄関まで見おくろうとするひろみに、\n「いってたの、聞えた?」\n ひろみはわりあい平気で、\n「うん、あんなことばっかりいってるのよ」\n もう馴れ馴れになって、それがただのいやがらせででもあるような調子だ。\n「気にしてるのね。かわいそうに」\n 元子が涙をこぼすと、ひろみもほろりとしながら、\n「でも、まともに相手になるわけにいかないでしょ。いいかげんな気休めでも云おうものなら、荒れちゃうし、だから、わざとにやにやしてるの。ガンだと云ってもらいたいのなんて、逆ねじいったりね。とにかく、扱いにくいわ」\n 小心な、正直者のひろみにもそんなかけひきができるようになったのかと、元子は今更のように目をみはる思いだった。ひたすらに夫により添い、何一つさからうことを知らぬような古風な、今時珍しい女だったのに、二人の子の母親ともなれば、いろいろと変ってくるのだろう。そういえばついこないだ山形は面白い話をした。\n ――はしごをしましてね、有り金全部のんじゃったんです。あり金といったって二千円ほどですがね。帰りの電車賃もなくなりましてね、タクシーひろったんですよ。ヘベレケなもんだから運ちゃん気を利かして宿屋へつれていきましてね、今夜はそこへ泊れってんですよ。一銭も金がないんだからって、空っぽの財布をみせて、やっとうちまで運んでもらいましたがね、一時をすぎてたでしょう。九百円ほどとられましたがね。ひろみ、ぷんぷんしてるんですよ」\n「でも、よくお金があったわね」\n「サラリーもらった、翌日でしたからね。でなかったら、そんな無茶しませんよ。でも、その翌日が大変でしたね。折悪しく日曜なんですね。二日酔で頭ががんがんしてるのを、無理やりたたき起されましてね。さ、出かけるのよ。昨日父ちゃんが無駄づかいしただけ、今日は私がつかうのよ。――デパートのお供ですよ。坊や抱かされて、六階から地下まで、ぐるぐるぐるぐると歩いて、三百円の鍋一つ買って帰ったんですよ。まいったな。これが女の無駄づかいか。哀れなもんだなって冷かしたら、彼女、にやにやしながら、はい! ってぼくの前に包み紙を投げてよこすんですよ。あけてみたら、二千円のセーターなんです」\n 山形はからからと笑い、\n「ひろみにしちゃあ大出来でしょう」とうれしそうにつけ加えた。まだ子供も一人の時なら、彼がさかんにのんでいた頃である。その子供の生れる前には、ひろみをつれてバーめぐりをした話なども聞かされたことがある。酒がのめなくなった今、山形にとっては、こんなこともなつかしい思い出なのだろう。\n「あんまりせきせき見舞っても、それが気になるとすると、遠慮した方がいいのかしら」\n「どうかね」\n「万一の時にあとへ思いが残っても、辛いしね」\n「そうなんだ」\n「ひろみだって、心細いでしょう」\n こんなところへひろみから、容体をしらせる電話でもあると、それを待ちかねていたように老夫婦は出支度をする。別に化粧をするでもない元子は、帯をしめ直すぐらいですぐにも出かけられるが、文吉の方はいつでもそうはいかない。一とき、せかせかと部屋を出たり入ったり、頭をかしげたり、ぶつぶつと口の中でつぶやいたり、そのあげく、\n「めがね、知らないかね」\n「しってる、めがねぐらい」\n「どこだ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ――何でそんな無理をなさるのです。あなたは一体、子供が大切なのですか、着物が大切なのですか。子供は着物のためにあるのじゃありません。子供のために着物があるのです。そんなに汚していけないのなら、わるいお粗末な着物を着せておけばいいじゃありませんか。\n ――大人は自分の見栄や骨惜しみのために子供を犠牲にしています。大人は、ことに母親は、子供を危険から譲り、子供の天分をのばしてやるのがその職分です。子供の自由を奪い、子供の人格を奪うのは恐ろしい罪悪です。子供を自由に遊ばせなさい。自由の天地に遊ぶことは自然が子供に与えた唯一の特権です。そうされてこそ、子供は伸び伸びと人間らしい人間にまで成長するのです――と。\n 私は決して、これを間違った考えだとは思わないのである。\n\nその十三\n\n 祖母たちからこうした宣告をうけてから、四、五日後のことであった。\n 何かの時間の後で服部先生は、ふと憶い出したように、教壇の上から生徒たちを見渡しながら言った。\n「どうだね、今度学校で農業を始めたことについて、君たちの家で何とか言っていやしないかね、......たとえば、いいことを始めたとか、困ったことだとか、いった風に......」\n 子供たちは黙っていた。\n 先生は私のクラスの細田という男の子を名指してきいた。\n「細田のうちはどうだ。兄さんが何とか言わなかったかね」\n 肺病の兄と二人で暮している細田は答えた。\n「兄さんは身体が丈夫になって好いと言って喜んでいます」\n 先生は嬉しそうな顔をして、今一度教室を見まわした。\n「うちのお父さんもそう言ってたわ」\n「うちのお父さんも......」\n 子供たちは小さな声で囁くように言い合った。けれど自分から進んで大きな声で答えるものがなかった。先生は誰かをまた名指しそうにしていた。\n 私は私を名指されるのでないかと、心の中ではらはらしていた。それで、なるべく私に気づかないようにと、隠れるように俯向いてじっとしていた。それだのに先生はわざと私を名ざした。\n「岩下の家ではどうだ。祖母さんがきっと何か言われたろう......黙っちゃいないはずだ......」\n 先生は何もかも知っていて私にそう訊いたのだと私は思った。また、よし祖母たちが何と言ったかを知らないにしても、祖母たちの心持ちをよく知っている先生に、とってつけたような嘘は言われないと思った。だが、だが、もしほんとうのことを言ったなら......。\n いつになく私の答えは曖昧であった。\n「ええ、あの......おばあさんは、農業、百姓なんかすると、着物がやけて仕様がない......と言いました」\n すると先生は皮肉な顔に苦笑を浮ばせながら腹立たしそうに言った。\n「ふむ、なるほどね、いかにも女王様のような立派な着物をお召しだからな......」\n そう言って先生は、プンとして教科書をひッかかえたまま戸を荒々しく引きあけて出て行ってしまった。\n みんなはじろじろと私の着物を見た。私は思わず顔をあかめた。そして今さらのように自分の着物のお粗末なのに驚いた。\n 白地に藍の、柄のわるい浴衣だ。型はもうすっかり剥げて、あっちこっちにつぎさえあててある。\n 私はしかし先生を恨んだ。先生はどうして私を人の前で恥をかかしたのだろう。農業の時間に自分で育てるものへの愛を説いた先生ではないか、それだのに......それだのに......。\n 私は家に帰った。\n 学校でのことが胸にこびりついて離れない。その上、私の答えたことが、祖母たちにわるいことでなかったかを心配した。それを心配すればするほど、黙っていてはいけないことを感じたので、今日学校で起ったことの実際を語った。\n 祖母たちは怒らなかった。勝ち誇ったような顔さえした。ただ叔母と顔を見合わせながら祖母は、こう言った。\n「やれやれ、こんなお馬鹿さんには全く降参だよ。他人に言っていいこととわるいこととの見境がちっともつかないんだからなあ。ねえ、これからさきは、この子の前ではうっかり真実のことは言えないよ、何でも彼でも喋べるんだから......」\n 祖母たちはこれまで、自分らの言ったりしたりすることは絶対に間違いのないことだと私に信じさせていた。少くともそう信ずることを強制していた。だが、私は今初めて、そしてはっきりと、祖母たちもやはり、人の前にうっかり話されてはならないことをしたり言ったりしているのだということを知った。\n 私はもう、うっかりと祖母たちの言葉を信じまい。無批判には受け取るまい。朧げながら私は、そういった感じを自分の胸の中で感じた。\n\nその十四\n\n 私はもう一切を奪われてしまった。学校も家庭も、今の私にとっては一つの地獄にしか過ぎなくなってしまった。\n だが私は小さい時から、どんなに打たれても打たれても全くは打ちのめされない剛情な子であったのに違いない。だからこうした時にもなお一つの楽しい世界を持つことができた。それは私が人と離れて、ただ一人でいることであった。そうだ、ただそれだけであった。\n こうした苦しみを回顧していると、私はついその頃味わったたった一つの楽しい経験を思い出さずにはいられない。\n 台山は叔母の家の持ち山だった。叔父が以前鉄道に勤めていた頃買っておいたとかいう山で、栗の木が植え込まれていた。そしてそれがもうこの頃では、かなり大きな収入を叔母の家にあげさせているのだった。\n 栗の木の株間株間には、刈萱や薄が背丈ほども伸びて、毎年秋になると人夫を雇って刈らせるのだったが、その収入もかなりあるようだった。\n 秋、栗の実がはじけて落ちる頃になると、誰かしらうちの者が出かけて行っては、栗拾いをするのだった。その仕事は大抵、身体の弱い叔父の役目だったが、叔父は時々、その山にさえ登れぬほど身体の調子のわるいことがあった。そうした時には私は、自分から進んでその役目を引き受けることにしていた。なぜなら、私はそこで、ほんとに自由な自分を見出すことができるからだった。" }, { "role": "assistant", "content": " 一切を奪われた年の秋だった。叔父はまたしても身体をひどくわるくしていた。私は祖母に乞うて、学校を休んで幾度となく栗拾いに出かけた。\n 山に行くときは、私はまず、足袋を穿き脚絆を捲きつけ、草履を足に縛りつけるのだった。――なぜなら、その山には蝮がいて、時々人を咬むので......鎌や、棒切れや、拾った栗を入れる袋なども用意するのだった。そして私はいそいそと家を出るのだった。\n 子供たちは学校に行く。けれど、私はもう学校を休むのをそう悲しいこととは思っていなかった。それよりも独り山に登るのがどんなに楽しいか知れないと思っていた。\n 木の枝に褪紅色の栗の実が、今にも落ちそうにイガの外にはみ出している。私はそれを尖端が二叉になった棒切れでねじ折る。そしてそれを草履の下で揉んで栗の実を採り出す。それでも出ないものは鍬の背で皮を押しひらく。はじけかかった枝の実をとると、今度は眼を地上に落して、落ちた実を拾う。そうして私は、木から木へと移って行った。\n 時には草一本ないところに出るかと思えば、時には深い草叢のところに出くわした。そんなところからは雉子が驚いては飛び立ったり、兎が跳び出したりした。私は驚いて立ち止まるが、じきにまた、それらの動物に懐しみを感じ始める。そして、\n「なんだ、びっくりさせるじゃないか。そんなに遁げ出さなくってもいいよ。私達はお友達じゃないの?」と声を出して呟くのだった。無論、兎も雉子も私には何とも答えずに遁げて行く。けれど私は、別にそれを寂しいとは思わない。かえって微笑ましくなる。そして「可笑しな奴!」と再びまた呟いて、その草叢の栗は彼らのために残しておいて、もっと他のところに移って行く。\n 袋は重くなる。足が疲れて来る。私はそこで、持って来たすべてのものをおっぽり出して、一直線に山のてっぺんにまで駆け上って行く。そしてそこで休む。\n 頂上には、木というほどの木がなく、黄色い花の女郎花や、紫の桔梗だの萩だのが咲き乱れている。先生が、「あれは山ではない、丘だ」と定義をしたことがあるくらいで、この山は決して高い山ではなかったが、それでも位置がいいので頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。\n 西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋やその他の建物が列なっている。町の形をなした村だ。中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引き出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の疳高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。\n それは余りいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。格好のいい芙蓉峰が遥か彼方に聳えている。その裾を繞って東から西へと、秋の太陽の光線を反射させて銀色に光る白川が、白絹を晒したようにゆったりと流れている。その砂原を荷を負うた驢馬が懶そうに通っている。山裾には木の間をすかして鮮人部落の低い藁屋根が、ちらほらと見える。霞の中にぼかされた静かな村だ。南画に見るような景色である。\n それをじっと眺めていると、初めて私は、自分がほんとに生れて生きているような気がする。ゆったりとした気分になって草の上にごろりと横わって、空を眺める。深い深い空だ。私はその底を知りたいと思う。私は眼を閉じて考える。涼しい風が吹いて来る。草がさわさわと風に鳴る。再び眼を開けると、蜻蛉が鼻の先で飛んでいる。耳もとで鈴虫や松虫が鳴いている。\n 学校はおひる休みになったのであろう。子供達の騒ぐ声がきこえて来る。私は立ち上ってすぐ眼の下に見える校庭を見る。子供たちはフットボールをやっている。ボールが地に落ちてからしばらくしてやっとその跳ね上る音が聞えて来る。落ちたボールを奪い合って子供達は騒ぐ。愉快そうなその遊びよ。私は今まで、学校で、ただ悲しげにそれを見ていなければならなかったのだ。けれど今はもう悲しいとも嬉しいとも感じない。ただそのうちに融け入っている自分を見出す。\n 何だか腹の底から力が湧いて来るような気がして、私は思わず「おーい」と誰にと言うのではなく叫んでみる。けれど無論誰もそれに答えるはずはない。私は独り山にいるのだ。\n ベルが鳴って子供たちはまた教室の中に這入って行く。私もまた、頂からおりて栗林の中に這入る。\n 晴やかな気持ちになった私は、我知らず学校でならった唱歌を歌い始める。誰もそれを咎めるものがない、小鳥のように私は自由だ。歌い、歌い、声の嗄れるまで歌い続ける。時には即興に自分の歌を歌う、常々の押し込められた感情が自由に奔放に腹の底から噴き上げて来る。そしてそれが私を慰める。\n 咽が渇くと栗番小屋の側の梨畑から採って来た梨を、皮も脱かずに、滓ぐるみ呑み込んでしまう。そしてまた地上にごろりと寝そべって木の間から漏れる雲間を眺める。咽ぶほど強烈な草いきれや、茸のかおりが鼻につく、私はそれを貪るように吸い込む。\n ああ自然! 自然には嘘いつわりがない。自然は率直で、自由で、人間のように人間を歪めない。心から私はこう感じた、「ありがとう」と山に感謝したくなる。同時にまた、ふと今の生活を思い出しては泣きたくなる。そしてその時には思う存分泣くのであった。だが、いずれにしても山に暮す一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。\n\nその十五\n\n 暑い夏のまさかりだった。\n 江景というところで独力で病院を経営している福原という人の細君が、祖母を訪ねて来た。その女は操といって、祖母の姪の一人である。\n 操さんはこれまで一度も訪ねて来たことがなかった。手紙の往復さえろくにしていなかったように私は思う。だが、操さんは私のような下司な貧乏人ではなかった。祖母を初め、岩下家は上を下への大騒ぎでこの珍客をもてなした。\n 操さんは二十四、五の美しい女だった。一人の乳呑子をつれていた。\n 着いたとき彼女は、胸から裾にかけて派手な秋草模様のついた絽縮緬の単衣に、けばけばしく金紙や銀紙を張りつめた帯を背負っていた。その上、暑苦しいのに錦紗縮緬の半コートまでも羽織っていた。首には金鎖、指には金の指環、調和はとれないが一眼見てどこかの貴婦人だと思わせるような服装だった。\n 一通り挨拶がすむと祖母はすぐ操さんの着物に汗が泌み出ているのを認めた。\n「おやまあ、みいさん、帯から着物から汗びッしょりじゃないか。脱いでお着更えなさいよ」\n こう祖母が言うと、操さんも、\n「そうですね、着かえましょうか」\n と答えて、今着て来た着物をぬぎ捨てた。祖母は自分でそれを持って行って、一枚一枚叮嚀にひろげて日光にあてた。近所の貧乏なおかみさん達が水をもらいに来る井戸端からよく見えるところへ......。\n 操さんは嫁入り先の裕福な生活について祖母たちに話した。「ふん、ふん、そりゃ結構だねえ、お前さんは仕合せだよ。旦那さんの世話をよく見てあげて大切にしなきゃいかんよ」などと祖母たちは祝福の言葉と、そして親切な忠告とを与えた。と同時に自分の家の暮し向きや、芙江における地位などについて誇らしげに語った。そうした話は一日や二日では尽きなかった。その間には祖母たちは操さんをつれて庭内を散歩したり、所有地を見せたりなどもした。\n 私のこともまた話されたのに相違ない。操さんは私を尻目にかけて碌に言葉すらもかけてくれなかった。私は別に操さんを憎みはしなかった。けれど余り感じのいい女だとは思わなかった。\n 芙江から十里ばかり離れたところに操さんの知人が住んでいた。操さんはその人を訪ねようかどうしようかと迷っているようであった。\n「そんなら行ってお出でよ。汽車に乗って行けばわけがないんだから......」と祖母が傍から元気づけるように言った。\n「だけど、この子があるんでねえ、面倒臭くて......」と操さんはまだ躊っていた。\n それは明らかに、子守として私をつれて行きたかったのであった。それを察した祖母は操さんに言った。\n「いいじゃないか、坊やはふみにおんぶさせて行けば......」\n 困ったことになったと私は思った。この暑いのに、余り好きでない乳呑子を縛りつけられて、そして勝ち誇ったクィーンのような女の尻にくッついて行くなんて!\n「そうですねえ、そうしていただければほんとうに結構ですけれど、......でも、ふみちゃんは行ってくれるかしら......」と操さんはそれとなく私の同意を求めた。\n 私は当惑して、はっきりと返事をしかねた。と、いつもなら祖母からがんというほど怒鳴りつけられるのであるが、なぜだか、今日に限って祖母は、むしろ私の機嫌をとるように、「行っておあげよ、ふみ」と平常の命令でなく、ただそう勧めた。そして操さんの姿がちょっと見えなくなるとすぐ、小さな声で、言葉やさしく私に言うのだった。\n「なに、いやならいやとはっきり言えばいいんだよ。いやなものを無理にやろうとは言わないんだから」\n 温い言葉に飢えていた私は、そう言われた時、妙に柔かい素直な心になった。祖母の胸に縋りついて泣いて見たいような気にもなった。子供が母親に甘えるような気で私ははっきりと答えた。\n「ほんとうは私、行かなくってもいいんなら行きたくないの」\n「何だと?」と祖母はいきなり、その疳癪玉を破裂させた。そして私の胸倉を捉えて小突きまわした。不意を喰った私は縁側から地べたへ仰向けざまに落ちた。それを気味よがしに眺めながら祖母はまた例の通り罵り始めた。\n「何だと! 行きたくないと! 少しやさしい言葉をかけてやれば図にのってすぐこれだ。行きたくないもあるもあったものじゃない。行くのが当りまえじゃないか。百姓の鼻たれっ児の子守だった癖にさ。だが行きたくなきゃ無理にお願いしないよ。お前が行かなくったってこっちはちっとも困りゃしないよ。その代りお前はもう、うちにゃ用はないから出て行ってもらおうよ。さあ出て行っておくれ、たった今出て行っておくれ!」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "畑地開墾四町\n牧草地二十町\n\n\n (三)\n\n三十七年一月一日。\n寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。\n二月七日、又一帰塲す。\n三月一日、瑞暲北宝を舎飼とし、他の馬匹を昨暮よりさる人に預けたり。然るに本年の大雪にて多くの馬匹を傷め、四十頭を斃したり。或は衰弱して流産するあり。此れ我家の不注意と、預り人の怠りとに由るなり。\n五月廿八日、寛は着塲せり。\n六月十日、又一は札幌に向うて発す。.........倉次氏より、アイ衰弱の報あり。\n十二日、朝アイ死去せり。\n老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、一日に一銭たりとも多く貯えて又一が手許に送り、牧塲の資本を増加せん事をとて熱心に働き、自らも大快楽なりとて喜び居れり。然るに昨年より心臓病に罹り、貧血となり、次第に一身に疲労を起し、且つ痩せて時々心動亢盛の発作あるも、然れども性として仕事好きにて、少しも休息せず。自らも牧塲の為めには一身を尽すは本より望む処なりとて、労苦を取りて休まず。移住後は滋養の為めとて在東京周助妻より蒲焼及び鯛サワラ等の味噌漬其他舶来品の滋養物を絶えず送られて好みつつ喰するも、次第に衰弱せり。或は温泉を好むを以て、近所なる山鼻の温泉にも予は同行する事もあり。或は快く、或は発作し、自分にても此度は迚も全治すべからざるを悟りて、予に懇切に乞うて曰く、此度は决する事あり、依て又一に面会して能く我等夫婦が牧塲に関する素願たるの詳細を告げ示し置きたし、依て牧塲に行き又一と交代して又一をして早く帰宅せしめられたしと。乞う事切なり。且つ此れは妾が大に望む処なりと、数回促されたり。予は今世の別れとは知り、忍びざるも、然れども露国に対するの戦端開け、又一が召集せらるるも近きにあらんか、依て速に又一を札幌に出でしめ、責めては存命中に又一に面会せしめて、十分に話を致させるとして出発するも、心は残りて言うべからざるに迫まれり。尚死後の希望を予に向うて乞う事切なり。左に。\n\n一、葬式は决して此地にて執行すべからず。牧塲に於て、卿が死するの時に、一同に牧塲に於て埋めるの際に、同時に執行すべし。\n一、死体は焼きて能く骨を拾い、牧塲に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に埋め、草木を養い、牛馬の腹を肥せ。\n一、諸家より香料を送らるるあらば、海陸両軍費に寄附すべし。\n\n五郎は常に看護を怠らず、最も喰料には厚く注意して滋養品を取り、且つ何の不自由無し、故に予が傍らに在らざるも少しも差支無きとて、出発を促せり。予が発途後は何等の異状も無し。倉次氏は時々来診せられたり。然るに十二日の朝は、例により臥床を放れて便所に行きて、帰りて座に就くや、暫時にして俄かに面貌変じたり。夫れより只眠るが如くにして絶息せり。急ぎて倉次氏を迎うるも、最早致すべき無し。\n然るに近隣及び知人は集りて五郎を助け、東京へも電信を発し、マスキはキク、ヒデを同行にて来り、厚く葬儀を営み、且つ遺言により骨は最も能く拾いて集め箱に入れ置きたるを、予は其後に自ら負うて牧塲に帰りて保存せり。アア三十五年に徳島を発する時は、老体ながらも相共に手を携うるも、今や牧塲には白骨を存するのみ。肉体無きも、無形の霊たるや予が傍らに添うて苦楽を共に為すを覚えたり。早晩予も形体は無きに至るも、一双の霊魂は永く斗満の地上に在て、其盛なるを見て楽まん事を祈る。\n\n亡き魂よ、ここに来りて、諸共に、幾千代かけて駒を守らん。\n秋の夜の、俤うつる夢さめて、ねやにただきく川風の音。\n\n廿九日、餘作来塲して予を慰む。\n寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、如何せん精神上に於ける言うべからざるの欝を以てし、且つ全身は次第に衰弱して喰料を※(冫+咸)じ、動作困難にして、耳鳴眩暈して読書するにも更に何の感も無く、亦喰物に味無く、只恍惚たるのみ。餘作にも語り合い、此儘にて空く沈欝に陥る時は、或は如何に転変するに至らん乎と、自らも此れを案じ、餘作も共に慰めくれて、此際には精神上一大変化を実行して、此難関を一掃すべきの大奮励を要すべきを悟り、此れが為めには先ず例年暑中には海水浴を実行するを以て、此れに習い今回は温別にて行い、且つ甞て高岡氏より釧路支庁長に向うて予が為めに厚意を報ずるの一通あり、未だ釧路に出でざるを以て、此一通を釧路支庁長に呈し、且つ予が現状と牧塲の現状とを語るべし、更に甞て予が厚く信ずる処の二宮尊徳翁の霊位を藻岩村二宮尊親氏の家に至りて親く拝せん、且つ其遺訓をも拝聴し、及び遺書をも親く拝読せん事を切望し、尊親氏にも約する処あるを以て、此れを実行せば或は精神上に於けると転地療法とを二つながら全うせん事に决し、七月五日餘作同行にて発途。足寄橋にて別れて餘作が後貌を遥に眺めて一層の脱力を覚えたるも、強て歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に近藤味之助氏は学校に在勤して慰めくれたり。\n然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く増人を以て渡る。其日上徳氏に泊し、夫れより釧路に出でたるも、支庁長不在なるを以て書状を置き、帰路白糠軍馬補充部を一見して菅谷氏に一泊し、温別にて海水に浴す。此際は汽車は浦幌迄通ずるのみ。浦幌に泊し、豊頃に至る。前九時なり。此れより十勝川を渡り藻岩村に向わんとす。然るに昨日迄は満水にて渡船無きも、今日に至り漸く丸木舟にて渡すとて川向に着す。川には流材多く危険にして、泥水と腐草とは舟を妨げる事ありしなり。然るに藻岩村に行くの道路に向うて僅に四五十間行くに、昨日迄の洪水は去れども、瀦水は膝を浸す。尚行くに従うて深きが如し。依て渡人なる土人に其詳細を聴くに、道路は深くして腰を浸すべし、強て藻岩に行くには堤防を行き、夫より畑の中を通り、遥に見ゆる処の小屋に至り、夫れより間道を通らば藻岩に至ると。依て土人を傭て、助けられて行くとせり。然るに泥水とゴミと流れ、木材多く、歩行困難にして或は倒れんとする事あり。依て土人に手をひかれて歩するに、深さ膝を過ぎ、泥水中に朽木を踏みて既に危く倒れんと欲するあり。或は大なる流材ありて、此れを跨りて越えるあり。或は畑の溝にて深き所ありて股を浸すあり。故に一歩毎に危く、片手は土人にひかれ、片手には倒れ木を握り、或は蝙蝠傘を杖として歩行するが為めに、胸迄泥水に浸されて、僅に脊負う所の風呂敷を浸さざるのみ。為めに或は立ながら休み、或は泥水中に倒れ木によりて休みて、数回倒れんとしたるを遁るるのみ。為めに呼吸促迫し、更に今朝浦幌にて僅に粥二椀を喰したるままにて、豊頃にては昼飯を喰せざるを以て、追々空腹を覚え、殊に歩行は遅くして、三時頃に至り彼の小屋に着したり。然るに泥水の中に三時間余在るを以て、寒くして震慄を覚えたり。依て農家に頼み、火にて暖まり、湯を飲みたるも空腹なるを以て食事を乞うも、黍飯なり、且つ硬くして喰する時は胃痛下痢を発する事を恐れて、忍んで藻岩村に向う。此間廿町ばかりなるも、泥水の溜まるあり、或は道路の破む処ありて歩行甚だ究するも、漸く二宮家に着するを得たり。然るに尊親氏は不在なり。妻君に面会を乞うに、未だ一面識無きのみならず、大に怪むが如し。此れは予が半体以上は泥水に汚れ、面色も或は異様なりしなるべし。然れども強て尊親氏の面会を乞う。近隣にありて、帰宅す。予が現状を見て大に驚けり。依て其詳細を述ぶるに、俄に風呂をわかし、着類を洗いくれ、負う所の着類を換えて、初めて精神に復したり。尚乞うて粥を喰す。空腹のみならず疲労あるとて鶏卵を加えて饗せられたり。然るに過般来は喰味無く、且つ喰後は胃部には不快を覚えたるも、今や進んで喰するを好むも、然れども注意して少量にして尚空腹を覚ゆるを耐忍せり。且つ尊親夫婦は最も喰味の調理に意を用いて、漸次に喰量を増し、粥をも少しずつを濃くせり。実に初めは極薄きを用い、追々其喰料を増加して漸次に復常し、書を読み、或は近傍を歩行するに至れり。然るに尊親夫婦は厚意を以て日々滋養品を交々に饗せらるるにより、漸次体力復したり。従うて精神上に於ても大に安堵ありて、日々尊徳翁の霊位を拝し、且つ遺訓と其遺れる二宮家庭を視、或は遺書を拝写して、一週間を経て体力復し、精神上の快活を得たり。為に欝を忘れ、喰気は追々増加して、一層の快を覚えたるを以て、彼家を去るに至れり。爾後は漸次に喰量を増し、食後の胃痛も無くして、心身復常せり。ああ此時に在りて誤りて空く床上に在て只平臥する事あらば、或は心身共に衰弱するに至るべきなり。此れ泥水の内に在て空腹にて困苦するのみならず、過度の運動するが為めに喰機を振起し、為めに心身一大変動を起すに至り、尚尊徳翁の霊前に侍したるの感動により精神上の活溌の地に進み、更に尊親夫婦の厚意の切なる喰料を饗せられたるとを感じて、夫れより二宮家と数層の親睦を厚うせり。\n同廿五日、寛は帰塲せり。" }, { "role": "assistant", "content": "八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。\n三日、馬、熊害にかかる。\n十五日、又一動員令下るの報あり。\n二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。\n二十九日、寛は又一に面語す。\n甞て将来の事を語らんと欲したるも、然れども夫れは実に大なる予が迷いたるの事たるを悟れり。戦地に出るは、此れ死地に勇進するなり。殊に世界第一等たる強兵たるの露国に向うて為す事あるは、此れ日本男子の名誉たり。殊に我家に於ては、未だ戦地に出でたる男子無し。依て此迄は我等夫婦は世上に向うて大に恥ずる処にして、既に清国と兵を交うるの際に当ては、実に我等夫婦は大に恥ずる事あり、為めに我等夫婦は一身を苦めて出兵者及び負傷者の為めに尽すのみならず、家計の及ぶ限りを以て実行せり。然るに其後北海道に来りて牧塲にのみ傾きたるも、然れども我国に於ける露国と兵を交うる事あらば、出でて其実行に当らんとの念を以て、為めに十分に寒気に耐うるの習慣を取りて止まず。然るに奇遇にも永山将軍に親くせり。同将軍は露国に向わん事を平生語れり。且つ予に同行をすすむる事ありしも今春病死せり。依て予は独行する事は難きのみならざるを密に思うのみなり。然るに又一が出征せば、予は残りて牧塲を保護すべきなり。依て又一が出征は実に我家の名誉なり、予が大満足なり。故に又一には牧塲の事は一切精神上に置かずして勇んで戦地に出ずべき事死を决すべきを示すのみにて、他は决するの必要無し、依て又一が名誉の戦死あらば、第二の又一を以て素願を貫くべきとして、更に将来を議せざるなりと决して、勇みて別れたり。\n十月二日、寛は帰塲す。\n寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱咜して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、直に我牧塲を立退けよ、とて大に怒鳴りて衆に告げたり。且つ曰く、予は生活する間は决して此牧塲を退かざるなり、予は生活する間はココを退かずして、仮令一人にても止まりて牛馬の全斃を待つ。尚語を継ぎ曰く、全斃の後に至り斃馬の霊を弔わんと欲するなり、若し幸にして一頭にても残るあらば後栄の方法を設くべし、我等夫婦が素願を貫くの道なりと信じて動かざるなり、幸にして種牡馬二頭は無事なり、依て此上に病馬あらば、十分に加療を施して死に至らしむるこそ、馬匹に対するの大義務たるべきなり、予は老体を忘て尚活溌に至らんと欲するなり、甞て札幌に於ては又一が出兵するを以て、其不在中は全く独立自営を主とし、官馬を返納して一家計を細く立て、其及ぶ限を取らんと决したるも、ココに至ては官馬は斃るるも、我牧塲と共に予も死する迄として実行すべきを决したるを告げて、大に一同を責めたり。然るに片山初め一同は、予と同情を以て大奮励するとして、何れも予が説に伏して、初めて復常するに至れり。ああ此時に於て予も共に憂に沈みて活気を失う事あらば、或は瓦解に至る事あらん乎。此れを熟考する時は、予が如き愚なるも平生潔白正直を取るの応報として、冥々裡に於て予を恵みたるかを覚えたり。実に予が愚なるもかかる断乎たる説を立たるを感謝す。かかる数回の厄難を重ねたるは、此れ天恵の厚き試験たるを感悟して、老朽に尚勇あらん事を怠らざるなり。\n四日、斃馬一頭あり。\n五日、今日に至り病馬全く無きに至れり。内祝として餅をつく。\n今日に至り病馬無く、且つ一般の順序を得るを喜びて、\n\n西風吹送野望清 万樹紅黄色更明\n扶杖草鞋移歩処 只聞山鳥与渓声\n\n此れより層一層の勤倹を守り、一身を苦境に置くに勇進せり。\n十九日、瑞暲号種牡馬の検査合格、十勝国一等の評あり。\n十二月二十日、寛は七福の夢あり。\n\n\n牛十四頭\n馬六十七頭 今年斃馬五十六頭なり\n\n\n (四)\n\n明治三十八年\n一月一日\n昨三十七年は我家の大厄難たるも、幸にして漸く維持を得たるを以て、尚本年は最も正直と勤倹とを実行し且つ傭人等に成丈便宜を与えん事を怠らず、更に土人及び近傍の農家にも幸福なる順序を得せしめん事に勤め。特に寛は七十六歳にして、昨年数回の病に罹るも、今日に至ては健にして、且つ本年は初めて牧塲の越年たるを以て、如何なる事あらんかと一同配慮するも、寒さにも耐えて、氷結の初めより暁夕毎に堅氷を砕き、或は雪を踏んで一日二回は習慣たる冷水灌漑を実行し止まざるはうれし。又一は入営兵の留主中たるも、先ず牧塲の無事に維持あるを謝すると、尚本年は無事に経過あらん事を祈ると共に、最も衣喰を初め仮令僅少にても節約を守り、物品金員を貯えて牧塲費に当てて、又一が無事に帰るの後には、更に幾分かの助けたらん事を日夜怠らざるなり。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 大尉の胸は、にわかに高鳴った。\n 彼は穴のあくほど、その東洋人の顔をみつめた。そしてもっとはっきり見たいと思って、ピントを合わせなおしたが、そのとたんに、窓から消えさった。\n それからは、いくど双眼鏡を向けてみても、もうふたたびその顔は入ってこなかったのである。\n「ああ――」\n と長谷部大尉は双眼鏡をおろして、嘆息した。\n(あの頭に繃帯して、こっちを覗いていた男は、川上の顔のように思ったが、気の迷いだったろうか)\n まさか川上機関大尉が、あのような労働者アパートの男女の中にまじっているとは、ちょっと考えられない。\n「――どうも分からない」\n 大尉は吐きだすように独言をいった。\n\n\n 脱艦兵\n\n\n 軍艦明石は、ぐんぐん船あしを早めてゆく。\n 南方に遠ざかる飛行島を、長谷部大尉は胸もはりさける思いで、じっと見送った。\n 川上機関大尉の失踪事件は、こうして、未解決のまま、よくない帳簿の上に永く記録せられることになったのだ。\n 飛行島の影は、謎を包んだまま、ずんずん小さくなってゆく。もうなんとも手の出しようがない。\n そのときであった。\n「当直将校!」\n 大きな水兵がばたばたと駈けてきて、さっと挙手の礼をした。大辻二等水兵だった。彼の顔には、ただならぬ緊張の色が浮かんでいる。\n「おう、なにか」\n「杉田二等水兵の姿が見えません。私はしゃべりたくないのでありますが、当直将校にはおとどけしておきます」\n「なんだ、そのいい方は――」と大尉はたしなめて、\n「杉田がいないのか。杉田といえば川上の世話をしていた水兵だろう」\n「はっ、そうであります」\n「そうか、杉田が姿を消したか」\n 大尉はさてはと思ったが、顔色には出さず、\n「すぐ行くから、お前は先へ分隊へ行っておれ」\n「ははっ、先へ参ります。しかし......」\n 大辻は体をかたくして、\n「当直将校。私がしゃべったことは、ないしょにねがいたいのであります」\n「なぜか」\n「ははっ、私はいま、村の鎮守さまに願をかけまして、向こう一年間絶対にしゃべらんと誓ったところであります。でありますから、私がしゃべったということは、お忘れねがいたいのであります」\n「変なことをいいだしたね。それほどにいうのなら、お前のいうとおりにしよう。さあ、早く先へ行っておれ」\n「あ、ありがたいであります」\n 大辻は、やれやれと胸をなでおろしながら、昇降口の方へ駈けていった。\n 長谷部大尉は副長に、この新たな事件を伝えると、すぐその足で、杉田二等水兵の分隊へ行った。\n そこでは分隊長以下が集って、憂わしげな面持で、一枚の紙切を読んでいるところだった。\n「杉田二等水兵が姿を消したそうだな」\n と長谷部大尉は、分隊長に声をかけた。\n「おお当直将校。そういう妙な噂が立ったので、いま杉田の衣嚢をとりよせて調べてみると、ほら、こういう遺書がでてきました」\n「えっ、遺書? どれ、――」\n と長谷部大尉が手にとってみると、なるほど用箋一枚に、何か、かんたんに書きつけてある。\n それを読むと、\n「杉田ハ決心シマシタ。飛行島ニ川上機関大尉ノ行方ヲタシカメルタメ脱艦ヲイタシマス。再ビ生キテ皆サマニオ目ニカカレナイコトト覚悟ヲシテイマス。シカシ御安心下サイ。杉田ハ決シテ卑怯ナフルマイヲ致シマセン。郷里ノ方ヘハ、海ニ墜チテ死ンダトダケオ伝エクダサイ」\n とうとうやったな――と、長谷部大尉は思った。\n 杉田二等水兵は、ついに機関大尉の行方を案じて、脱艦したのである。脱艦事件というものは、外国の軍艦にあっても、わが帝国軍艦には例のないことだ。それはたいへん重い罪としてある。杉田は、その重い罪であることを十分承知で、死の覚悟をもって脱艦したのである。その目的は、川上機関大尉の行方を、たしかめるためだというのだ。ああなんという悲壮な決心であろうか。\n 長谷部大尉はその遺書を手にしたまま、分隊長はじめ一同の顔をぐるりと見まわした。誰もみな沈痛な顔をしていて、一語も発する者がなかった。\n「本当に脱艦したものだろうか。脱艦したとすれば、どこからどういう風に脱艦したものだろうか」\n と、長谷部大尉は、誰に問うともなくそういった。\n「遺憾ながら、私はなんにも知らないのです」\n 分隊長は首をふった。\n「あの――、杉田は、艦側から、海中にとびこんだのであります」\n と、誰かうしろの方で大声で叫んだ者があった。\n「なに、艦側から? よく知っているのう。おい、誰か。もっと前へ出て話をせよ」\n 分隊長はのびあがって、このおどろくべきニュースを報道した者の姿をさがした。\n「はっ、――」\n と答えはしたが、その先生は急に頭をかいて、こそこそ逃げ出そうとする。その姿を見ると、外ならぬ大辻二等水兵だった。\n「なんだ、大辻じゃないか。早くこっちへ出て当直将校の前で話せ」\n 大辻はもじもじしながら長谷部大尉の前に出てきた。\n「ははあ、お前か。――」\n 長谷部大尉は呆れた。村の鎮守さまにおしゃべりをしない誓をたてたといった例の大男である。杉田の脱艦したことを自分がしゃべったことは、ないしょにしておいてくれと、さんざん頼んでいったその大辻二等水兵だったから、これが呆れずにいられようか。\n 大辻は、ふだんから赤い顔を一層赤くしながら、いまにも泣き出しそうである。\n「わ、私がしゃべらないといけませんか」\n「あたりまえだ」\n 長谷部大尉は一喝した。\n「杉田の脱艦について要領よく、ありのままにしゃべれ、村の鎮守さまの方は、あとから俺があやまってやる」\n「うへっ、――」と大辻は眼を白黒させ、\n「――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります」\n「ふむ――それから」\n「杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもと鮑とりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました」\n「ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった」\n「それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります」\n「なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな」\n 長谷部大尉は、かっと両眼をむいて大辻を睨みつけた。\n「......」\n 大辻はそれに対して返事ができなかった。ただ両眼から、豆のような大粒の涙を、ぽろんぽろんと落しはじめた。" }, { "role": "assistant", "content": "「黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ」\n「うへっへっへっ」\n と大辻は奇妙な泣声をあげながら、\n「そうおっしゃいますけれど、杉田のあの苦しい胸中も考えてやって下さい。あ、あいつは海へとびこむ前に、手をあわせて、この私を拝みました。どうぞこの俺に川上機関大尉の後を追わせてくれ。もし機関大尉が生きていられたら、きっと連れ戻る。もし死んでいられたら、俺もその場で死ぬる覚悟だ。機関大尉の先途を見とどけないで俺のつとめがすむと思うか。どうか俺を男にしてくれ。それに俺には、いやな疑いがかかっているのだ。俺が川上機関大尉の行動を知っていていわないように思われている。俺は知らないのだ。たとえそれを察していても、川上機関大尉は自分の命も名も捨てて行かれたのだ。それをどうしていえるものか。俺は貴様みたいにおしゃべり病にかかってはおらん。――あわわ、しまった。とにかくそういって杉田は泣いて私に見張を頼んだのであります。わ、私も泣きました。それで見張に立ちました。涙があとからあとから湧いて、見張をしてもよく見えませんでした。私は覚悟しています。どうか厳罰に処してください」\n 一座はしーんと水をうったよう。誰か痍をすする者がある。\n 眼を真赤にしている者がある。\n「よおし、よくしゃべった。おい大辻、俺と一しょに艦長室へこい」\n そういった長谷部大尉の眼も赤かった。\n\n\n 川上機関大尉の秘密\n\n\n 波間に、杉田二等水兵の首が一つ、ぽつんとただよっている。\n 南海の太陽は、いま彼の顔に灼けつくように照っている。\n 彼は海面に波紋をたてぬように静かに静かに泳いでいる。クロールや、抜手にくらべるとはなやかではないが、この水府流の両輪伸こそは遠泳にはもってこいの泳法だ。\n 杉田二等水兵は、飛行島目ざして必死だ。\n「うむ、もう一息!」\n この南シナ海には、無数の人喰鮫が棲んでいる。それに、下からぱくりとやられると、もうおしまいだ。\n「川上機関大尉。私がそこへ泳ぎつくまで、どうか生きていて下さい。杉田はきっとお助けします」\n 杉田二等水兵には、誰にもいえない、一つの秘密があった。飛行島へ川上機関大尉と一しょに上陸して、共楽街の前で左右に別れる時、機関大尉から重大なる用事をいいつけられた。\n それは帰艦の前に、その共楽街にある広珍という中華料理店に立ち寄って、一つの荷物をうけとって帰れ。そして帰ったら、俺の室に持って行ってその荷物をあけておいてくれ。これはその広珍という中華料理店で荷物を渡してもらう時の合札だといって、ボール紙の札を杉田に渡した。その札には、白い羽と赤い鶏冠をもった矮鶏の絵が描いてあった。\n 杉田二等水兵は、その命をうけて、別れようとすると、川上機関大尉はなにを思ったか彼の傍へつかつかと近づいて、ぐっと手を握りしめながら、\n「杉田、では頼んだぞ。それからもう一つ大事なことだ。その荷物をうけとって帰艦するまで、どんなことがあっても、俺が命令したということをしゃべっちゃいかんぞ」\n 妙な命令だと思ったが、杉田は承知しましたと答えた。\n「じゃあ、ここで別れる。時間まではゆっくり遊んで来い。気をつけてゆけ」\n そういって機関大尉は、またぐっと力を入れて杉田の手を握ったのであった。\n 機関大尉は共楽術を奥の方へすたすたと歩いていった。そしてある店舗のかげに、姿を消してしまった。これが機関大尉を見た最後だったのである。\n 杉田は、共楽街を散歩する非番の労働者やその家族たちと肩をならべて歩きまわった。そして手まねでもって、甘いココアを飲んだり、肉饅頭を食べたり、それから映画館に入ったりして時間いっぱいに遊びまわった。そして帰りぎわに川上機関大尉のいいつけどおり広珍に寄って、矮鶏の合札とひきかえに、一つの荷物をうけとって帰艦したのだった。\n 彼はすぐとその足で、荷物を川上機関大尉の室にもって入った。\n 荷物はすぐに開けという命令だ。\n 杉田は、この荷物の中に一体なにが入っているのか知らなかった。彼は早く中の品物をみたかった。さっそく包紙をやぶってみると、その中はまた紙包になっていた。なんのために、そう厳重にしてあるのだろうかと怪しみながら、二重三重の包紙をやぶって、やっと待ちに待った品物が、杉田二等水兵の眼の前に出てきた。それを見た時、彼は驚きのあまり、思わずあっと叫んだ。\n 品物は一たい何であったろうか。\n 白い機関大尉の軍服、軍帽、短剣、靴、襦袢その他のものであった。\n「これはどうしたんだろう」\n 杉田二等水兵は、自分の眼を疑った。調べてみると、これはたしかに川上機関大尉の着ていった服装だ。実に不可解なことだ。\n 杉田はその時、包の中に一枚の紙切が入っているのを見つけた。彼は思わず胸をおどらせて、それを開いた。\n はたしてそれは、川上機関大尉の筆蹟で認められた杉田にあてた手紙であった。\n その文句は次のようであった。\n「――杉田。驚カナイデ、ヨクコノ手紙ヲ読ンデクレ。\n(一)コノ荷物ノ中身ガ何デアッタカ誰ニモイウナ。\n(二)コノ品物ハスグチャントシマッテクレ。\n(三)コノ手紙ハスグ焼キステロ。ソシテオ前ハ俺ノ行動ニツイテ、昼間飛行島デ別レテカラ後ノコトハ、スベテミナ忘レルノダ。オ前ガ秘密ヲヨク守ルコトヲ信ズル。タッシャデクラセ。川上」\n これは遺書だ。まさに川上機関大尉の遺書である。\n 杉田二等水兵は、腰をぬかさんばかりに驚いた。\n なぜ川上機関大尉は、こんなことをするのか、彼には何にも分からなかった。\n しかしその次の瞬間、杉田は自分がいいつけられた重大な命令を思いだした。わけは分からないが、ぐずぐずしていては、いいつけに背くことになる。あの立派な機関大尉が、まちがったことを命ずるはずはない。こうなれば、その遺書に命ぜられたとおりを即時やるよりほかない。\n そう決心した杉田二等水兵は、いまにもめりこみそうな気持をひったてて、いいつけどおりに品物の始末をしたり、その惜しい手紙を焼きすてたりした。\n さてこれから一たいどうなるのだ。\n それから後、艦長に呼ばれたり、長谷部大尉に調べられたり、いろいろなことがあったが、最後まで川上機関大尉のいいつけを頑固に守り通したのだった。だが彼の胸中は、もうはりさけるようであった。\n 彼も若い血のみなぎる人間だ。この上の我慢はとてもできなかった。遂に決心をして、大尉のあとを追い脱艦をすることとなった。――\n いま彼は、目ざす飛行島に見事泳ぎついたのだった。\n 彼は監視員の眼をのがれるために、遠方から得意のもぐりをつづけて、橋構の間を分けて入り、かなり奥の方の橋構まで進んで、やっと水中から顔を出したのであった。\n 橋構鉄塔にはいのぼると、彼は胴にまきつけてきた用意の白いズボンの水を絞ってはいた。腹から上は裸だった。何しろここは暑いところで、こうした半裸体の労働者が多いので、これで十分なのだった。\n 起重機のがらがらという音だの、圧搾空気の鉄槌のかたかたかたと喧しい響だの、大きなポンプの轟々と廻る音だのが、頭の上にはげしく噛みあっている。どこかでひゅーっと号笛が鳴るのが聞える。自分が忍びこんだのが見つかったのではないかと、ひやりとした。\n 鉄塔のかげにかくれていたが、追ってくる人もないようなので、杉田二等水兵は、そこを出て、そろりそろりと甲板の方へよじのぼっていった。こういうことなら、水兵さんだけに得意なものである。\n 彼はやがて川上機関大尉の荷物をうけとった広珍料理店前にやって来た。\n そこで、彼はしばらくためらった後、思い切って店内へ足を踏みこんだ。\n\n\n 広珍料理店\n\n\n 飛行島に泳ぎついた杉田二等水兵は、その足ですぐ共楽街の広珍料理店にとびこんだ。\n昨日、機関大尉の荷物を受取ったあの料理店である。\n この杉田二等水兵の姿というのがたいへんだった。腰から下に白ズボンをはいたきり、そして胴中から上はなに一つまとっていない赤裸だった。しかし潮風にやけた体は赤銅色で、肩から二の腕へかけて隆々たる筋肉がもりあがっているという、見るからにたくましい体格であった。\n このとき、店内には、客は一人もおらず、白い詰襟の上下服を着た中国人ボーイが五六名、団扇をつかって睡そうな顔をしているところだった。そこへ杉田二等水兵がぬっと入ってきたものだから、一同はびっくりして、玩具の人形のように椅子からとびあがった。しかし杉田の半裸体姿を見ると、なあんだという顔をして、又椅子につき団扇をぱたりぱたり。\n「おい、ちょっとたずねるが、昨日俺がここへ来たことを覚えているだろうね」\n と、杉田二等水兵は、おもいきり大きな声で叫んだ。\n「......」\n 中国人ボーイたちはきょとんとして、互の顔を見合うばかり。日本語なんか、ちっとも分からないという風だ。\n 日本語のほか知らない杉田二等水兵は、はたと困っちまった。\n「誰か日本語の分かる者はいないのか。ニッポン、日本だぞ」\n 杉田二等水兵のはげしい権幕に恐れてか、中国人ボーイは一人立ち二人立ちして、だんだん杉田の前に集ってきた。そしてぺちゃぺちゃしゃべっては、いぶかしそうな顔をしている。\n「おい、どこかへ行って日本語の分かるやつを引張ってこい。一たい、日本語が分からないなんて、けしからんぞ」\n と、きめつけたが、もちろん、通じるわけがない。\n そのうちに、一人のボーイが奥へかけこんだ。\n 誰か探しにいったんだろうと思っていると、果して奥から別の人間を引張ってきた。それは胸にエプロンをしめ、片手に肉切庖丁を握った料理人風の男だった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n 1) Robertson, b. iv. p. 85.\n 2) Charlevoix, tom. iii. p. 302, 303.\n 3) Robertson, b. iv. p. 86. Charlevoix, tom. iii. p. 364. Lafitau, tom. ii. p. 361.\n\n 宣教師は、南アフリカのインディアンについて、彼らが治療法を知らない病気に絶えずかかると云っている1)。最も簡単な薬草を用いることも、またはその粗雑な食事を変えてみることも知らず、彼らは数多くこれらの病気で死んでしまう。ジェスイット僧のフォークは、彼が旅行した各地ではどこでも老人はただの一人も見なかったと云っている2)。ロバトスンは、蒙昧人の寿命は、よく整った勤勉な社会におけるよりも短いと断定している3)。レイナルは、蒙昧生活をしばしば擁護しているにもかかわらず、カナダのインディアンについて、もっと整った安穏な生活方法をしている吾々国民ほど長生きするものはほとんど無いと云っている4)。そしてクックとペルウズは、アメリカの西北海岸の住民のあるものについて述べているところで、これらの意見を確認しているのである5)。\n\n 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 83.\n 2) Id. tom. vii. p. 317, et seq.\n 3) Id. b. iv. p. 86.\n 4) Raynal, b. xv. p. 23.\n 5) Cook's Third Voy. vol. iii. ch. ii. p. 520. Voy. de Pérouse, ch. ix.\n\n 南アメリカの大平原においては、広い沼や雨期に続く洪水に焼けつくように照りつける太陽は、時に恐るべき流行病を惹き起す。宣教師は、インディアンの間にしばしば伝染病が起り、そして時々その部落に大きな死亡率を生ずると云っている1)。天然痘は至る処に猖獗を極めるが、それは注意が足りずまた住居が狭いので、これに罹った者は、ほとんど全く恢復しないからである2)。パラグアイのインディアンは、ジェスイット僧が世話や注意を払っているにもかかわらず、非常に伝染病に罹ると云われている。天然痘と悪性熱病は、それがもたらす惨害からして、悪疫と呼ばれているが、これはしばしば盛んな伝道を駄目にしてしまうのであり、そしてウロアによれば、伝道が始まって以来の時間と彼らの非常に平和な生活とに比例してそれがその勢を増さないのは、この原因によるのである3)。\n\n 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 79, 339; tom. ix. p. 125.\n 2) Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 349.\n 3) Id. tom. i. p. 549.\n\n かかる流行病は啻に南方のみに限られるものではない。それはもっと北の民族にも稀しくないかの如き記述が行われている1)。そしてキャプテン・ヴァンクウヴァは、アメリカ西北方海岸の、最近の航海記において、明かにこの種のある疾病から起った極めて異常な荒廃を、報告している。ニュウ・ダンジェネスから海岸を百五十哩彼は通過したが、前と同じ数の住民を見たことは一度もなかった。人影のない部落がしばしばあったが、それはいずれも、以前にこの地方に散らばっていた蒙昧人を全部収容するに足るほど大きかった。彼が行った色々の地方で、特にポオト・ディスカヴァリ附近では、人間の頭蓋骨、肋骨、脊髄骨、その他種々の人体の遺物が滅茶苦茶にたくさん散乱していた。そして生き残ったインディアンの身体には戦の傷痕は何もなく、また恐怖や不安の特別な徴候は何も認められなかったのであるから、この人口減少は流行病により生じたに違いないと考えるのが最も当然である2)。天然痘はこの海岸地方におけるインディアンでは普通であり、致命的なものであるように見える。その消し難いあばたは多くの者に見られ、また若干はそれにより一眼の視力を失っていたのである3)。\n\n 1) Lettres Edif. tom. vi. p. 335.\n 2) Vancouver's Voy. vol. i. b. ii. c. v. p. 256.\n 3) Id. c. iv. p. 242.\n\n 一般的に云えば、蒙昧人は、その極端な無智、その身体の不潔、その小屋のつまって汚れているところから1)、通常人口稀薄な地方に伴う利点、すなわち人口稠密な地方よりも流行病から免れうるという利点を、失っている。アメリカのある地方では、家屋は多くの異った家族を容れるように作られる。そして八十人も百人もが同じ屋根の下に群居している。家族が分れて暮している場合には、その小屋は極度に小さく、つまっており、みすぼらしく、窓は無く、そしてその入口は非常に低くて、そこに入るには手と膝で這わなければならない2)。アメリカの西北岸地方では、家屋は一般に大きい。そしてミイアスは、ヌウトカ・サウンドに近いある酋長に属している非常に大きな家のことを記しているが、そこでは、八百人の人間が食事をしたり、坐ったり、寝たりするのである3)。すべての旅行者は、この海岸地方の人民の住居の不潔と身体のきたなさについては見解が一致している4)。キャプテン・クックは、彼らが群をなす虱を摘まみ取って食うと書いており5)、また彼らの住居の状態を最大の厭悪をもって述べている6)。ペルウズは、彼らの小屋は世界中の既知のいかなる動物の洞窟とも比較しえない不潔と臭気を有っている、と云っている7)。\n\n 1) シャルルヴォアは、アメリカ人の小屋の極度の不潔と悪臭とを語るに最も強い言葉を使っている。曰く、『病気にかからずにその小屋の中に入ることは出来ない。』またその食事の不潔について曰く、『身の毛がよだつ、』と。Vol. iii. p. 338.\n 2) Robertson, b. iv. p. 182. Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 340.\n 3) Meares's Voyage, ch. xii. p. 138.\n 4) Id. ch. xxiii. p. 252. Vancouver's Voyage, vol. iii. b. vi. c. i. p. 313.\n 5) Cook's Third Voyage, vol. ii. p. 305.\n 6) Id. c. iii. p. 316.\n 7) Voyage de Pérouse, c. ix. p. 403.\n\n かかる事情の下において、流行病がひとたび彼らの間に現れる時には、いかに恐るべき荒廃を作り出さねばならぬかは容易に想像し得よう。そして、彼らの家の空気は最も混雑した都会の空気よりも澄んでいることはあり得ぬのであるから、上に述べた程度の不潔がこの種の疾病を作り出すべきことは、当然のことと思われる。\n 幼年期の危険と疾病から免れた者は絶えず戦争のおそれに曝らされている。そしてアメリカ土人の戦争行動は極度に用心深く行われるにもかかわらず、しかも、平和な時期はほとんどないのであるから、戦争で失われる彼らの数は大きなものである1)。アメリカ土人の中最も野蛮なものでも各団体が自分の領土に対して有つ権利のことはよく知っている2)。そして他の団体が自分達の猟場の獲物を殺すのを防ぐのは最も重大なことであるから、彼らはこの民族的財産を最大の注意をもって番をする。かくて無数の戦争原因が必然的に起る。隣り合う民族は互に不断の敵対状態にある3)。一種族における膨脹行為は、まさに近隣者に対する侵略行為となる。けだしその増加した人を養うためにはより以上の領域が必要であろうからである。この場合においては、当然に、双方の損害によって勢力の均衡が回復されるか、または弱い方の団体が絶滅され、またはその土地から駆逐されるまで、続けられるであろう。敵の侵入が彼らの耕地を荒廃し、または彼らをその猟場から駆逐する時には、彼らは滅多に持運び得る貯えを有たないのであるから、一般に極度の欠乏に陥れられる。侵略された地域の全人民はしばしば森林や山の中にのがれなければならないが、この森林や山は彼らに生活資料を何も与えることが出来ず、従ってそこで多くの者は死んでしまうのである4)。こうして逃げる場合には自分を守る者は自分だけである。子供はその親を離れ、親はその子供達を他人と考える。人情の絆はもはや働かない。父親は一つのナイフや一つの斧でその息子を売る5)。あらゆる種類の飢饉と窮乏とが、剣を免れた人間を完全に滅ぼしてしまう。かくして全種族がしばしば絶滅されてしまうのである6)。" }, { "role": "assistant", "content": "\n 1) Charlevoix, Hist. de la Nouv. France, tom. iii. 202, 203, 429.\n 2) Robertson, b. iv. p. 147.\n 3) Id. b. iv. p. 147. Lettres Edif. tom. viii. p. 40, 86, and passim. Cook's Third Voy. vol. ii. p. 324. Meares's Voy. ch. xxiv. p. 267.\n 4) Id. b. iv. p. 172. Charlevoix, Nouv. France, tom. iii. p. 203.\n 5) Lettres Edif. tom. viii. p. 346.\n 6) Robertson, b. iv. p. 172. Account of North America, by Major Rogers, p. 250.\n\n かかる事態は、一般に蒙昧人に、またなかんずくアメリカ土人に見られる、かの獰猛な戦闘精神を醸成するに有力に寄与したものである。彼らの戦闘目的は征服ではなくして殺すことである1)。戦勝者の生命は敵の死に依存する。そして敵が恨みと復讐心をもって追いかけているので、彼は絶えず打負かされた場合の窮状のことばかり考えているようである。イロクォイ族の間では、敵に戦をしかける決意を示す言葉は、『行こう、そしてあの民族を食おう』というのである。もし彼らが近隣の種族の援助を仰ぐ場合には、その敵の肉で作った汁を食うように招待する2)。アブナアキイ族の間では、その戦士の一団が敵地に入った時には、それは一般に三十人または四十人から成る若干の部隊に分れ、そして酋長はその各々に云う、『お前はあの村を食ってよい、お前はあの村』等、と3)。こういう表現法は、戦争で得た捕虜を食う習慣がもはや存在しない種族の言葉に残っている。しかしながら食人の風は、疑いもなく新世界の多くの地方に広く行われていたのである4)。そして、ロバトスン博士の意見とは反対に、私は、この習慣は後になって他の動機により継続されたということもあろうが、その起源は極端な欠乏に違いない、と考えざるを得ない。この恐るべき御馳走を、必要に迫られたのでない悪むべき情欲に帰し、最も人道的な文明的な人民の間ですら時に他のあらゆる感情に打克つところの自己保存の大法則に帰しないのは、人性と蒙昧状態に対する余りよいお世辞ではないようである。それがこの原因から時偶にせよ行われるに至った後は、敵の御馳走にされるかもしれぬという蒙昧人の恐怖は、恨や復讐の精神を著しくかき立て、その結果として、飢に迫られない場合にも捕虜を食うようになるのであろう。\n\n 1) Robertson, b. iv. p. 150.\n 2) Id. p. 164.\n 3) Lettres Edif. tom. vi. p. 205.\n 4) Robertson, b. iv. p. 164.\n\n 宣教師達は、人間の肉が手に入りさえすれば、何か珍らしい動物の肉を食うのと同じに、これを食う、若干の民族のことを語っている1)。これはおそらく誇張されているかもしれぬ。もっともアメリカ西北方海岸の最近の航海記や、キャプテン・クックのニュウ・ジイランド南島の社会状態に関する記述は2)、大いにこれを裏書しているようである、が。ヌウトカ・サウンド人は食人種であるらしい3)。そして、この地方の酋長マクインナは、この恐るべき御馳走が非常に好きで、故に冷酷にも、この不自然な食欲を充たすために、満月のたびに一人ずつ奴隷を殺すと云われている4)。\n\n 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 105, 271; tom. vi. p. 266.\n 2) 常に慎重なキャプテン・クックすら、ニュウ・ジイランド土人について次の如く云っている、『彼らがこの種の食物が大好物であることは、明かすぎるほど明かである。』Second Voyage vol. i. p. 246. また最後の航海記では、彼らの絶え間ない争闘について曰く、『またおそらくおいしい御馳走に対する願望が少なからざる刺戟をなすものであろう。』Vol. i. p. 137.\n 3) Cook's Third Voyage, vol. ii. p. 271.\n 4) Meares's Voyage, ch. xxiv. p. 255.\n\n 自己保存という優越原則は、蒙昧人の心の中で、彼れの属する社会の安全と力とに極めて密接に結びついているので、もっと開けた国民の間に見られるような戦争上の名誉や勇気という観念を少しも許さない。彼が見張っている敵から逃げ、そして自分自身の体に、従って自分の団体に、危険を及ぼすに違いない闘争を避けるのが、アメリカ土人にとって名誉な行為なのである。武装を整え抵抗の準備をしている敵を攻撃するには、十対一という優勢が必要である。そしてそんな時でさえ各人は第一に進むのを恐れるのである1)。最も優れた戦士の大きな目的は、狡智と詐術のあらゆる術策と、彼れの智恵が考え得るあらゆる戦略と奇襲によって、自己の最小の損失で敵を弱め亡すことである。敵と同等の条件で戦うのは最上の愚とされている。戦士は名誉な死とは考えられず2)、不運と考えられ、死者の軽率不慎慮として記憶される。しかし、幾日も幾日も機をうかがい、最も安全な、最も抵抗力の少い時に敵を襲い、深夜に敵に接近してその小屋に火を放ち、敵が裸で無防禦で焔から逃げるところを虐殺するのは3)、名誉な行為なのであり、これは感謝する仲間の胸に永久に記憶されるであろう。\n\n 1) Lettres Edif. tom. vi. p. 360.\n 2) Charlevoix, No. Fr. tom. iii. p. 376.\n 3) Robertson, b. iv. p. 155. Lettres Edif. tom. vi. p. 182, 360.\n\n かかる戦法は明かに、蒙昧生活の困難と危険の下において若い人間を育てるのに伴う困難を意識するから生じたものである。そして強大な破壊原因は、ある場合には、人口を生活資料よりもはるかに低く保っておくほどに大であろう。しかしアメリカ土人がその社会の縮少を恐れる様を現わし、またそれを拡大せんとする明かな希望を現わすということは、一般に事実もその通りであるということの証拠ではない。各々の社会で相食い合うようなその国はおそらく増加人口を養い得ず、一種族の力の増加は、それに対し、比較的弱くなったその敵から新しい生活資料の源泉を新しく奪う途を与える。そして反対に、その成員の減少は、残った成員に対し前よりも豊富に食物を与えるどころか、かえってより強い種族の侵略による絶滅や飢饉を蒙らしめることとなるのである。\n 本来は単にグアラニイ族の一小部分に過ぎなかったシリグアンヌ族は、彼らのパラグアイの故国を去って、ペルウに近い山中に定着した。彼らはこの新しい国で十分な生活資料を見出し、急速に増加し、近隣を攻撃し、そして優れた勇気と優れた財産とによって次第にこれを絶滅し、その土地を奪った。広大な土地を占領し、そして数年にして三四千人から三万人に増加したが1)、近隣のより弱い種族は日に日に飢饉と剣とによって減少して行った。』\n\n 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 243.『シリグアンヌ族は恐ろしく増加し、わずか数年にしてその数は三万に上った。』\n\n かかる事例は、アメリカ土人ですら、好都合の事情の下においては急速に増加するものであることを証明し、またあらゆる種族がその成員の減少を恐れ、そして現実に所有する領土内の食物の豊富を仮定せずしてしばしばその成員の増加を希望することを1)、十分に説明するものである。\n\n 1) Lafitau, tom. ii. p. 163.\n\n 上述の、アメリカ土人の人口に影響を及ぼす諸原因は1)、主として生活資料の多少により左右されるものであることは、湖水や川に近いか、土地の肥沃度が優れているか、または改良がより進んでいるので、食物がより豊富になっている一切の地方において、土人の種族がより多く、またその各種族の成員の数も多いという事実によって、十分に証明される。オリノコ河に接する地方の奥地では、どちらへ数百哩行っても、一軒の小屋もなく、一匹の動物の足跡も見られない。気候がより厳しく、土地がより瘠せている、北アメリカのある地方では、荒廃は更にいっそう甚しい。数百リイグ四方の広大な土地を通っても、無住の平原と森林とがあるだけである2)。宣教師は十二日間ただの一人にも出会うことなく旅をしたと云い3)、また非常に広大な土地にわずか三、四の散在する部落が見られただけであるとも云っている4)。かかる荒野のある所は鳥獣を全然産せず5)、従って全く人影がない。ある程度鳥獣のいる他の場所では、狩猟期になると猟の部隊がやって来、獲物の有るに従って各地に天幕を張って止り、従って文字通りそこで産する生活資料の量に比例して人が住むことになるのである6)。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 近代のいわゆる認識論が実体概念の批評をもって始まったということは特徴的である。ヒュームはそれを次の如く批評した。物というものを分析すると、種々の観念に分解されてしまう。そこには色の観念とか大いさの観念とか堅さの観念とかがある。それらの観念とは別に物というべきものはない。従ってヒュームに依ると、物とは観念の束に過ぎぬ。しかるになお物というものがあるかのように考えるのは、或る一定の観念が繰返し結合して経験されるところから、習慣によって我々はそこに物というものがあるかのように信じているのである。もしこのように物が観念結合の習慣に過ぎないとすれば、その知識は普遍性も必然性ももたないことになるであろう。実体は観念の結合であるにしても、その結合は普遍的で必然的なものでなければならぬ。しかるに経験論は観念結合の普遍妥当性を明かにすることができない。そこでカントは実体を一つの範疇、言い換えると思惟の先験的形式と考えたのである。物とは直観に与えられた多様なものが実体と属性という範疇によって構成されたものにほかならず、我々は物を構成することによって物を認識するのである。カントのいわゆる先験論理は経験構成の論理である。それは経験の対象を可能ならしめると共に対象の認識を可能ならしめる論理であった。\n ところで既にいった如く、カントの構成主義の認識論は近代の自然科学的思惟に影響され、これに相応している。アリストテレスにおいては、実体が先のものであり、関係は性質、量、状態等と共に実体に附帯するものとして従属的な地位にある。関係は本来の本質概念に対して依存的なものにとどまっている。概念構成についてのアリストテレスの説における指導的な見地は、属性に対する実体の優位の関係のうちに存している。しかるに自然科学的思惟においては実体概念に代って関係概念が指導的な地位を占むるに至った。実体概念と関係概念との間に想定される価値関係の相違に従って、アリストテレス的論理とカント的論理との二つの典型的な形態が区別される。自然科学的見方においては物は関係から構成されるのであり、諸関係の網のいわば結び目である。\n 近代自然科学に特徴的な認識論はカント主義者であったヘルムホルツの記号説において見ることができる。知識は記号であるというとき、記号は物的な類似でなくてただ双方の側の構造の函数的対応を要求するのである。記号のうちに捉えられるものは記号された物の特殊な固有性でなく、それが他の類似のものに対して立っている客観的な関係である。我々は我々の表象によって現実そのものをその孤立した自体において存在する性質において認識するのでなく、現実がそのもとに立ちそれに従って変化するところの規則を認識するのである。我々が一義的に見出し得るのは現象における法則であり、この法則は函数概念において現わされる。関係概念によって考えることは函数概念によって考えることである。法則性は我々にとって現象が理解され得るものになる条件であり、法則性は我々が物そのものに移し得る唯一の属性である。かようにしてカントのいった如く、自然とは「現象の、その現存在に従っての、必然的な規則即ち法則に従っての聯関」にほかならず、言い換えると、空間と時間とにおける現象の規則性である。物は諸関係に分解され、諸関係、諸法則から認識されるのである。ここに物概念或いは実体概念に対する関係概念或いは函数概念の優位が成立する。そこで精神についても、従来の心的実体を考えた心理学に対していわゆる「心のない心理学」が唱えられ、また物理学においても「物質は消滅した」とさえいわれるようになった。しかしながら自然科学からあらゆる物的要素を排除し得るかの如く考えることは間違っている。関係概念的見方は、我々はただ存在要素の間の関係をのみ思惟的に把握し得るという意味でなく、我々はただ関係の範疇を通じてのみ物の範疇に達し得るという意味である。\n しかるに現代に至って、自然科学的認識に対する歴史的認識の特殊性が注目され、両者における概念構成の相違が主張されるようになった。自然科学の認識目的が法則であるに反し、歴史学の認識目的は法則でなくて個性であるといわれる。ヴィンデルバントは自然科学と歴史学との区別を論じて、自然科学が法則定立的であるに反し、歴史学は個性記述的であると述べている。個性というのは個人のことばかりでなく、社会にしても文化にしても個性をもっている。すべて歴史的なものは個性的である。自然科学においては個々の特殊的なものは一般法則の例としてそのもとに包摂される。しかるに個性は一般法則の例に過ぎぬようなものでなく、それぞれ他に換えることのできぬ独自性を具えている。また自然現象は繰返すと考えられるに反し、歴史的なものは一回的なものである。更に自然科学が対象を意味とか価値とかから離れて取扱うに反して、歴史的なものはすべて意味とか価値とかに関係して考えられる。生理学の対象としては仮に天才と狂人とは同じであるとしても、文化価値に関係させて見れば全く違い、天才は芸術的価値というが如き文化価値の見地から歴史学の対象となるが、狂人はそうでない。かような個性は法則に対して何かといえば、形であると一般に答えることができる。すべて歴史的なものは形をもっている。ここに形というのは単なる形式のことでなく、内容を内から生かしているもの、内容そのものの内面的統一をいうのである。しかし形は、もとより単に内的なものでなく、外に現われたもの、表現的なものである。表現的なものとは内と外とが一つのものである。それは意味をもったものであるといっても、その意味は単に内的なものでなく、物の形において現われたものでなければならぬ。形はそれぞれ特殊的なものである。けれどもそれは単に特殊的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一である。個性といっても単に特殊的なものでなく、特殊的であると共に一般的なものであり、その統一は具体的には形において与えられている。歴史学の認識しようとするのは個性でなく、型(タイプ)であるともいわれている。型は或る一般的なものである。けれどもそれは形式論理における類概念の一般性とは異っている、型はむしろそれぞれ個性的なものである。型というのは歴史的な形にほかならない。或いは歴史科学は単に個性を捉えようとするのでなく、却って法則、例えば、歴史の発展段階の法則の如きものを求めるのであると主張されている。しかしかような法則も、歴史の法則として、形の変化に関わっている。古代社会には古代社会の、封建社会には封建社会の、近代社会には近代社会の、形がある。歴史とは形の変化にほかならない。歴史的範疇というものも法則でなくて形である。普通に歴史と考えられるのは人間の歴史であって、自然は人間の歴史の舞台であるといわれているが、自然は人間の歴史的行為にとって環境である。歴史的なものはすべて環境においてある。環境としての自然は自然科学において考えられるような客観としての自然でなく、それ自身すでに歴史的なものであり、表現的なものである。我々は環境から作られ逆に我々が環境を作ってゆく。人間は環境を変化することによって自己を変化する、環境を形成してゆくことによって自己を形成してゆく。形は主体と環境との作用的聯関から作られてくるものであり、従って変化するもの、歴史的なものである。環境における人間の行為はすべて技術的であり、形は技術的に作られてくるもの、技術的な形である。ここに環境というのは、単に自然のことでなく、社会や文化も我々にとつて環境である。" }, { "role": "assistant", "content": " 形は一方或る実体的なものである。形は単なる形式ではなく、内容を内から生かすものであってしかもどこまでも外のものである。形は物をその固有性において現わすのである。しかしながら形は他方或る関係的なもの、函数的なもの、機能的なものである。形は主体と環境との作用的聯関から作られてくるものとして技術的な意味をもち、機能を組織したもの、機能を表現するものである。形は働くものでなければならぬ。形は時間的に変化してゆくものであるが、単に時間的なものは形とはならず、形はまた空間的に固定したものである。それは時間的であると同時に空間的であり、生成と存在との統一である。かようなものとしてそれは歴史的なものである。一言でいうと、形は実体的であると共に関係的であり、形概念は実体概念と関係概念との統一である。\n 歴史的なものの認識は形の認識であるとすれば、認識が形成であることはこの場合特に明瞭であろう。形成という言葉はもと形に関係している。歴史は記述であるといわれるのも、形は究極において記述されるのほかないためである。自然科学のうちにおいても生命を取扱う生物学の如きが純粋な説明科学とならないで記述的であるのも、すべて生命あるものは形の統一をもっているのに依るであろう。説明と記述との相違は根本において関係概念と形概念との相違であるということもできる。形は全体性であり、創造的綜合として形成されるのである。形は環境と主体との作用的聯関から作られてくるのであって、環境的に限定されると共に主体的に限定され、一般的なものと特殊的なものとの統一である。従ってそれを分析的に見て、一般的限定の方向において捉えるならば、歴史的なものも説明されることができる。歴史学が単に記述的でなく説明的であろうとするのは当然である。しかし歴史的なものは、それをどこまでも一般的なものから説明してゆけばもはや歴史的なものでなくならねばならぬ。そのとき主体はただ環境から規定されたものとなり、主体の意味を失ってしまう。主体にはどこまでも自己が自己を限定するという自律的なところがなければならぬ。歴史的なものの支点はつねに形である。形は単に客観的に捉えられ得るものでなく、却って形は主観的なものと客観的なものとの統一である。歴史的認識は純粋に客観的であることができず、主体的認識でなければならぬ。歴史は内から主体的に認識される、従ってそこでは知性のみでなく情意の協同が必要である。型といっても形式論理における類概念の如きものでなく、類概念が客観的に構成されるものであるに反して、型は主体的に形成されるものである。自然科学の方法が説明であるに対して歴史学の方法が理解であるといわれるのも、同じ関係においてである。歴史的なものは表現的なものであり、表現的なものにおいては主観的なものと客観的なものとが、内部と外部とが一つである。それを認識する方法が理解であり、理解の方法の学問的に組織されたものが解釈学と称せられている。解釈は、外から内を理解することであると共に内から外を理解することであり、一般的なものから特殊的なものを理解することであると共に特殊的なものから一般的なものを理解することである。ディルタイが解釈学におけるアポリア(難問)といったかような関係は、単なる循環でなく、理解というものが弁証法的に対立するものの間における形成作用でなければならぬことを示している。理解そのものがひとつの形成的創造である。歴史的認識は主観的・客観的な作用として形成作用でなければならぬ。歴史は記述であるといっても、単なる模写でなく、構成的なところを含んでいる。尤も理解とか記述とかということは多くの場合観想の立場に止まっている。しかるに歴史はもと行為の立場から把握さるべきものである。歴史のうちに一般的なもの、法則的なものを求めるということも、行為の立場において要求されることである。自然を変化するには自然の法則を知らねばならぬように、社会を形成してゆくにも法則の認識が必要である。歴史の認識は形の認識であるといっても、歴史学、或いは文化科学、或いは精神科学、或いは社会科学と呼ばれるものが、一般的なもの、法則的なものを認識しようとすること、理論的であろうとすることを否定するのでなく、むしろ反対である。そこにも理論がなければならぬ。社会科学において歴史と理論とは区別されている。しかも歴史的な形は一般的なものと特殊的なものとの統一であるとすれば、歴史の認識が芸術とは違って科学的概念的である限り、歴史的な概念構成にとっても、一般的なもの、理論的なものは欠くことのできぬ基礎である。社会科学は歴史・理論・政策の三部から成るといわれるが、政策は特に明瞭に行為の立場を現わしている。政策においては一般的なものと特殊的なものとの統一が求められ、この統一は究極は形において与えられる。歴史・理論・政策は形概念において統一され、形から出て形に還ると考えることができるであろう。現実の行為にとっては形の構想が必要である。理論をそのまま行おうとするのは抽象的な公式主義であり、真の実践家は理論の一般性と現実の特殊性とを形において構想的に統一するものでなければならぬ。歴史記述において古くから型的な人間、型的な文化が絶えず目標とされたということも、多くの場合実践的な関心に基いている。ひとは過去の歴史のうちに現在の行為のための型を求めた、型は行為の模範的な形と考えられたのである。\n 形というものは、従来の哲学においては殆どつねに観想の立場から見られた。それが特に芸術に関係して理解されたのも、そのためである。しかし形に対する我々の関心は芸術的な関心に限られないであろう。天才とか英雄とか指導者とかと呼ばれる典型的人物、そのほか一般に歴史における典型的事実に対して人々がつねに深い興味を懐くということは、行為の形に対する彼等の実践的な関心を示すものである。形概念の見方は芸術主義と混同されてはならぬ。それはむしろ芸術をも、従来の哲学においての如く単に鑑賞或いは享受の立場から見るのでなく、形成作用の一つとして、広く行為の立場から捉えることを要求するのである。次にこれと関聯して、形概念の見方は単なる直観主義であるのではない。芸術の如きにしても単なる直観からは作られないであろう。芸術もまた技術である。すべて物を作るには知識が必要である。行為的直観は概念的知識に媒介されたものでなければならぬ。単に見るのでなく作るという立場に立つならば、一般的なもの、法則的なものの認識は形成作用にとって欠くことのできぬものである。結果は直接的なものであるとヘーゲルはいったが、直接的なものは媒介を経て出てきた結果である。\n かようにして形概念は何よりも技術に定位をとるのである。技術にとっては先ず客観的な法則の認識が要求されている。科学は技術の基礎である。自然の法則に反して人間は何物も作ることができぬ。しかし自然の法則はつねに働いているにしても、この机、この椅子の如きものは森の中から出てきはしないであろう。技術があるためには自然の法則に人間の目的が加わらねばならず、技術はこの主観的なものと客観的なものとの統一を求めるのである。しかし主観的なものと客観的なものとの統一がただ頭の中で考えられるだけでは技術とはいわれず、技術はこの統一を行為的に実現するのである。技術は物を変化し、物を作る、技術は生産的である。技術によって作られたものはすべて形を有し、形は主観的なものと客観的なものとの統一を現わしている。あたかもそのように、あらゆる歴史的なものは主観的・客観的なものであり、形のあるものである。それは技術的に形成されたものである。文化も技術的に作られ、社会の制度や組織の如きも技術的に作られる。すべて歴史的なものは技術的に形成されたものとして、環境的に限定されると共に主体的に限定され、主観的であると同時に客観的なもの、一般的であると同時に特殊的なものである。歴史的認識は究極において形を目的とするところから、すぐれた意味において形成作用であるといい得るが、飽くまでも客観的であることを期する自然科学的認識でさえもが、右に述べたように主観的・客観的な形成作用と見られ得るというのは、元来それをも歴史的なものとして捉えるからでなければならぬ。自然も環境の意味においては単なる客観としての自然でなく、すでに歴史的なもの、表現的なものであり、自然の認識も、それを環境として生活する歴史的人間の行為として始まるのである。自然科学における主観も操作的であり、行為に媒介されるのでなければ、その求める客観性に達することもできない。また自然科学における法則も個々の事実から発見されるのであって、特殊的なものに媒介されるのでなければ、その求める一般性に達することもできぬ。しかし自然科学が客観的な一般的な法則を求めてゆくに対して、それを基礎とする技術に至って再び現実的に形に結び付くのである。技術によって生産されたものは主体から独立なものとなり、我々の生活にとって新しい環境となるのである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「待てッ」\n 三根夫は、このとき、やっとそのお面が、作りもののお面ではなく、生きている動物の顔であることに気がついたので、腹をたてて、長く伸ばした折り尺をとりなおして、ぷすりとお面ではない、その怪物の顔をついた。たしかに手ごたえがあった。\n が、とたんにその顔は、換気穴から消えてしまった。そしてばしゃんと音がして、金網が穴をふさいだ。\n「逃げてしまった」三根夫は、ざんねんでたまらず、歯をぎりぎりかんだ。\n そのとき、入口の戸をノックして、扉をひらいてはいってきた者がある。\n\n\n 見えない怪物\n\n\n「おや、三根クン。そんなところで何をしているんだい。おやおや、へんなものをかぶって、それはどうしたんだ」\n それは帆村荘六だった。この部屋は、三根夫と帆村とふたりの部屋であったから、帆村がはいってきてもふしぎでない。\n「今、へんな怪物が、あそこの穴から、こっちをのぞいていたんですよ」\n と、三根夫は帆村のほうへふり向いてそういった。が三根夫はそのとき大驚愕の顔になって、\n「あッ。誰のゆるしをえて、この部屋へはいってくるんだ」\n と叫びながら、椅子からとびおり、帆村のほうへ向かってきた。\n「おいおい、三根クン。どうしたんだ。ぼくだということがわからんのか。落ちつかなくちゃいけない......」\n と、帆村が三根夫をなだめにかかるのを、三根夫は耳にもいれず、両手をふりあげて突進してきた。\n しかし三根夫は帆村にとびかかりはしなかった。帆村のうしろにまわった。そこには一ぴきの怪物が、かくれていた。ひそかに帆村のあとについて、この部屋へはいってきたのである。その顔は、さっき天井の換気穴から下をのぞいたとおなじようなふしぎな面がまえをしていた。背は帆村よりもずっと低く、三根夫ぐらいであるが、その身体は、三根夫がはじめてお目にかかる異様なものであった。大きな赤い顔の下には、枕ぐらいの小さい胴がついていた。それが胴であることに気がつかないと、この怪物は顔の下に、すぐ脚が生えているように見えたことであろう。\n とにかくその小さくて短かい胴の下には、細いぐにゃぐにゃした脚が三本、垂直に立って床を踏みつけていた。脚の先には、足首と見えて、魚のひれのように、三角形になった扁平なものがついていた。脚の二本は、前方左右に並んでおり、もう一本の脚は、うしろにあった。つまりカンガルーの尻尾とおなじところについていた。\n 腕も左右に二本ずつあった。つまり合計すると四本である。\n そのうちの二本は、左へ一本、右へ一本とでて、そうとう太い腕に見えたが、これがまた鞭のようにぐにゃぐにゃしていて、たいへん長くのびていて、伸ばせば床にとどくのではないかと思われた。この太い腕が、れいの小さい胴中からでているところは、肩のような形をしていた。その肩のうしろにあたるところで、首のほうへよったあたりから、左右へ一本ずつの、細い腕がでていて、これはずっとぐにゃぐにゃしており、肩の上のところで、なまずのひげのように、宙におどっていた。それは腕というよりも、触手というほうがてきとうかもしれない。\n とにかくその四本の腕の先は、細くさけて、五本ばかりの長い指になっている。\n このような怪物が、帆村のうしろについてこの部屋へはいってきたのである。だから三根夫のおどろいたのもむりではない。\n「さっさとでていってもらおう」\n 三根夫は、気味がわるかったが、その怪物につかみかかると、それを外へ追いだした。そして扉をばたんとしめた。三根夫の手に、怪物の奇妙な肌ざわりが残った。それは、いやにつるつるしているくせに、すうーッと吸いつけるような肌ざわりのものであった。\n 扉に鍵をかけて、三根夫は、ほっと息をついた。\n「かわいそうに。いつから気がちがったんだろう。これはたいへんなことになった」\n と、帆村は、壁のところへ身を引いて、目を丸くして三根夫をながめた。\n「はははは。はははは」\n 三根夫は、おかしくてたまらず、大きな声で笑った。帆村には、あの怪物の姿が見えないのだ。だから三根夫のすることが、さっぱりわけがわからず、三根夫は頭が変になったのだと思ったのだ。そのやさきに、三根夫が大きな声をあげたもんだから、いよいよ三根夫は頭が変になったにちがいないと思い、沈痛な面持になり、大きなため息をついた。\n 帆村がすべてを知るまでには、それからしばらく時間がかかった。それと、三根夫のくどくどと説明のくりかえしがひつようであった。変調眼鏡を見せられて、帆村はやっとすべてを了解したのであった。それがなければ、帆村はその後もながい間、三根夫のことを変だと思っていたろう。\n「やあ、安心したよ。ぼくは、絶壁の上へつきやられたような気がしていたよ。そうか、そうか。これを手に入れたとは、三根クンの一番大きいお手柄だ。ふーン南京ねずみが、そんなに高く売れたとは、おもしろい」\n 三根夫の頭が変になったのでなかったことが、よほどうれしかったと見え、帆村のひとりしゃべりはしばらくやまなかった。\n\n\n 秘密の指令\n\n\n 三根夫がはるばる地球から持ってきて、これまで飼いつづけた南京ねずみは、このようにお手柄をたてた。そして、それはお手柄のたてはじめであったともいえる。というわけは、それからも南京ねずみはたいへんよく売れた。みんなハイロが買いとっていくのだった。売り手も、もちろん三根夫ひとりであった。\n その南京ねずみも、はじめとはちがって、だんだんに、いいおそえものがつくようになった。それはかわいい南京ねずみの家であった。赤や青や黄のペンキで塗られ、塔のような形をしたものもあれば、農家そっくりのものもあった。それから南京ねずみのくるくるとまわす車も、だんだんきれいな模様がつくようになった。ハイロのよろこんだことはいうまでもない。かれはそれを、いままでの分よりももっと高価に、ガン人たちへ又売りをすることができるのであったから。\n このだんだん手のこんできた美しいおそえものは、三根夫が作る工作品にしては、少々できすぎていると思われた。そうであった。これは三根夫が作ったものではなく、テッド隊の中に、こういう模型ものを作る名手が三、四人いて、それが他の隊員にも教えながら、毎日ほかの仕事はしないで、南京ねずみの家と車ばかりを、えっさえっさと作っているのだった。\n これは、ちょっとふしぎなことに見えた。だが、これにはわけがあった。それは帆村が考えついたことであって、いまではテッド隊長もしょうちしていることだった。それは、このおそるべき怪星ガンから、テッド隊が脱出する秘密計画に、密接なつながりがあるのであった。\n はじめ、帆村がテッド隊長に、三根夫がれいの変調眼鏡を手に入れたことを報告した。そしてその眼鏡を使ってみると、はたしてガン人の奇妙な姿がありありと見えることや、こころみに各部屋をまわって、この変調眼鏡でみると、かならずといっていいほどのぞき穴が用意されてあり、そしてガン人がしばしばそこから首をつきだして、室内のようすをうかがっているのが見られたことを告げた。\n「おお、なるほど、なるほど」\n 隊長テッド博士も、さすがにこれにはおどろいて、さっと顔色をかえた。\n「そして、いまこの部屋には、顔をだしていないのかね」\n それは大丈夫であった。帆村は、変調眼鏡を三根夫に借りてきて、頭からかぶって、天井の換気穴に注意しながら、ガン人の覗いていないことをたしかめながらしゃべっているのであった。\n「それで、隊長。わたしはこのさい、三根夫をつかってどんどん南京ねずみを売りだし、あのふしぎな働きをする変調眼鏡をどんどん買いこみたいと思うのです。どう思われますか」\n「それはいいことだ。そういうものがあるなら、われわれはそれを利用して、ガン人に対抗していきたいと思うね」\n「では、さっそく、その用意をしましょう。南京ねずみも、大いに繁殖させるよう飼育班を編成いたしましょう」\n「そうだ。そのほうのことはきみにまかせる。そしていまわしは、重大なることを思いついたのだ。もっとこっちへ寄りたまえ」テッド隊長はひきよせんばかり帆村をそばへ招き、\n「われわれはこの国でいまたいへんよく待遇されているし、またいろいろ観察したところ、ガン人はわれわれよりもずっとすぐれた、科学力その他を持っているように思う。しかしわれわれはこんなところにいつまでも、とまっていることはできない。われわれはできるだけはやい機会にこの国を脱出しなくてはならない。わしは、ずっとまえから、脱出の決心をして、いろいろとその方法を考えていたところだ。きみも、わしの気持はわかってくれるだろう」\n「は、もちろんですとも」\n「そこで、脱出に必要ないろいろなものを、われわれは手にいれたいのだ。その変調眼鏡もその中の一つだが、そのほかにいろいろ必要なものがある。じつは、何がこの国から脱出するのに必要なのか、その研究もまだじゅうぶんにできていない。これからみんなで手わけして研究しながら、必要な脱出道具を手にいれていきたい。これは表向きにいったんでは、手にはいらないことがわかっている。ついては、これから先、三根夫君の手によって、それをやってもらいたいと思うんだ。どうだね、きみの意見は」\n「隊長にあらためて敬意をささげます。そのかたいご決心と、ねん入りなご準備のことをうけたまわって、わたしもうれしいです」\n「じゃあ、その方針で進むことにしよう。これは非常に困難な事業だが、われわれは全力をあげて成功させなくてはならないんだ」" }, { "role": "assistant", "content": " テッド隊長と帆村荘六の手は、しっかりと握られた。\n\n\n 計画公表\n\n\n「怪星ガンから脱出するんだ」隊長のかたい決心は、ひそかに隊員全部に伝えられた。\n「しかし、そのことは、あくまでガン人にはさとられないように注意をする必要がある」\n もっともなことだった。怪星ガン人が隊員の待遇をたいへんよくしているのも、結局隊員たちをながくここにとめておきたいからなのであろう。だからもし、隊員がここから脱出する決意を知ったら、ガン人はきっと怒りだすであろうし、待遇はわるくなり、自由はうばわれるにちがいない。隊長が、隊員たちに極力秘密をまもるようにといったのは、もっともだ。\n「みんなは、それぞれ、脱出にひつような知識をうることに気をつけていること」\n 捕虜生活に、気をくさらせていた隊員たちは、隊長の決心がわかったので、困難ではあるが、大きな希望をつかむことができた。だから隊員たちは、目に見えて元気になった。\n ガン人の監視がないと思われる真夜中に、ねんのために変調眼鏡であたりをよくしらべたうえで、隊員たちはベッドから顔をだして、それぞれの脱出計画の意見を交換することがはやった。\n「おれの考えでは、なんとかして天窓をあけることだと思う」\n「なんだ、天窓だって。屋根に天窓をあけるのかい」\n「そうじゃないよ。怪星ガンの天井に天窓をあけることをいってんのさ」\n「ふん、怪星ガンの天井に天窓があけられるのかい。第一、天井とはどこをさしていうのかね」\n「わかっているじゃないか。本艇が、このまえ、怪星ガンの捕虜となったときに、ほら、空が四方八方から包まれていったじゃないか。あの包んだしろものが、怪星ガンの天井なんだ。その天井になんとかして、天窓をあける方法はないものかな」\n「さあ。どうすればいいかな。とにかくその怪星ガンの天井までのぼらなくちゃならないね。その天井は、そうとう高いところにあるんだろう。どこからのぼっていけばいいか、その研究が先だね」\n「そうとう遠いと思うね。飛行機にのっていかないと、あそこまでいきつけないのではないか」\n「えっ、飛行機だって。そんなに高いところにあるのかい。何千メートルというほどの上にあるのかい」\n「いや、はっきりしたことはわからないが、あのときの感じでは、そう思った」\n「ぼくも、天井が何千メートルも高いところにあるという考えにはさんせいだが......」\n と、別の隊員がいった。\n「しかし、どうも分らないことがある」\n「それは何だね」\n「本艇から、あの繋留塔をおりて、街へいくが、本艇と街と、いったいどっちが、怪星ガンの中心に近いのだろうか」\n「なんだって」\n「つまり、ぼくははじめ、本艇のほうが、怪星ガンの表面に近くて、街は、それより深い所にあると思っていたんだ。ところがこの頃になると、そうではなくて、そのはんたいのように考えられるんだ」\n「それはちがうよ。はんたいだね。きみのいうように、街のほうが、本艇よりも、怪星ガンの外側に近いところにあると仮定すると、重力の関係があべこべになるじゃないか。なにしろ足の方向に、重力の中心があるはずだからねえ。だから本艇よりも、街のほうが、怪星ガンの中心に近いのさ」\n「いや、それでは、怪星ガンの構造がおかしくなるよ。街の上に、本艇がいまふわりと浮いている空間があって、その外にまた何か怪星ガンの外側の壁があるというのは、おかしいと思うね」\n「さあ、どっちかしらん」脱出方法を見つけることは、あとまわしで怪星ガンの構造のほうが、やっかいな問題を起こしてしまって、討論ははてそうにもない。\n このことについて、三根夫少年は、隊長テッド博士から秘密の指令をうけて、非常にむずかしい行動にうつることとなった。もちろんそれには、帆村荘六がついていて、できるだけ手落ちのない計画をたて、準備をしたのであったが。\n 三根夫の冒険である。その冒険に、隊員たちの全部の運命がかかっていた。\n その三根夫は、ある日、なにくわぬ顔で、サミユル博士邸をおとずれて、れいのハイロに会いにきた。三根夫は、紙でつつんで、赤いリボンをかけた四角な箱を抱えていた。その箱の中にはなにがはいっているのであろうか。三根夫はいまや冒険の第一歩を踏みだしたのである。\n\n\n 三根夫の変装\n\n\n この日ハイロは、三根夫少年をつれて、この怪星の中の名所を案内するやくそくになっていた。ハイロは、三根夫のおかげで、ずいぶん富をふやした。そして三根夫とも仲よしになって、三根夫がたのむことについては、できるだけ便宜をあたえているのだった。\n「ぼく、この国の名所を見物したいなあ。まだすこしも見ていないんだもの、ハイロ君、ぼくを見物につれていってくれない」三根夫がそういいだしたとき、ハイロは困った顔をして、\n「それはできないことですよ。この国の人でないと、この国の中を自由に歩くことはできません。見つかれば、三根夫さんはすぐとらえられて、牢の中へほうりこまれ、死刑になってしまうでしょう。だから、そのことばかりはだめです。あきらめてもらいましょう」と、はっきりいった。\n しかし三根夫は、あきらめなかった。なお、いろいろとハイロにねだったり、質問してはかれの考えをいったりした。\n「それじゃあ、ほくがきみたちとおなじような顔や身なりをしていれば、それでいいんでしょう。そんなことは、わけないや、ねえハイロ君。ぼくのために、きみとおなじ顔つきのお面をこしらえてくれたまえ。頭からすっぽりかぶれるような構造になっているのがいいね。それからきみの服を貸してくれたまえ。なるべくすそが長くて、足がかくれるようなのがいい。そして、他にきみたちの仲間がいるときは、ぼくは決して口をきかなければいいんでしょう。ねえハイロ君、そうしようよ」\n そういわれて、ハイロはしぶしぶしょうちしてしまった。\n「じゃあ、そうしますか。しかし、へたをするとたいへんなことになるがなあ」\n「大丈夫だよ、ハイロ君。ぼくは、へまなことをやりゃしないよ」\n「それでは、お面と服と靴は、わしが用意をしましょう」\n そこで三根夫は、怪星ガンの名所見物をすることができるようになったのだ。もっとも、この妙案は、三根夫が考えついたものではなく、あらかじめテッド隊長のまえで幹部があつまって、ちえをしぼったもので、主として帆村荘六の考えだしたものだった。\n さて三根夫は、サミユル博士の家へハイロをたずねていった。ハイロは、その日はきげんがよくなかった。\n「三根夫さん。あぶないから、見物はもっと先にのばしましょう」\n「いやいや、早いほうがいいよ。ぼくは、もうちゃんとお土産なんかも用意してきたんだもの。やくそくどおり、すぐでかけようよ」三根夫は、ハイロがまだ知らない品物をおくりものとしてかれにあたえた。それはオルゴール人形だった。\n 箱の上に、美しい少女の人形が立っていた。箱の横にあるネジをまき、人形の背中についている釦に、ちょっとさわるときれいなオルゴールの曲がなりはじめ、それと同時に人形がおどりはじめるのだった。このオルゴール人形は、三根夫が地球を出発するときに、買物をした三つの品物のうちの一つであり、そして一等高価なものだった。このおくりものは、たいへんハイロの気に入った。オルゴールの音にあわせて、人形とおなじようなかっこうで踊りだしたほどだ。悪かったかれのきげんも、すっかりどこかへ吹きとんでしまったようである。\n「そのほか、ぼくはこの箱の中に、十ぴきの南京ねずみをいれて持ってきたんだよ。まんいち、途中でやかましくいう者があったら、これを一ぴきずつあげて、きげんをなおしてもらおうと思うんだ。ハイロ君、よろしくやってくれたまえね」\n「ああ、それはいいことだ」\n「もし、見物がおわるまでに、南京ねずみが残れば、みんなきみにあげますよ」\n「おお、それはたいへんけっこうです。それではあなたの仕度をはじめましょう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "お蔦 寝てしまっちゃ、しょうがありはしないよ、仙さん! 早くフケないじゃ、こいだけのことをしといてさ。......今に鷲尾の何とかやらがやって来たらどうするんだえ? ねえお前さん。......(仙太返事をせぬ)......もう一月の余も、お前さんの為に、手引をしたり駆け歩いたり私もよっぽど粋狂な、今夜なぞも、この外をあっちへ行ったりこっちへ廻ったりして見張っている間、あたしゃきもが縮んだわな。......何が何だか女なんぞにゃ理屈もヘチマも解りゃしないけど、お前の為だと思えばこそ、こんな真似もするが、これっきりでふるふる御免。......寝込んでしまっちゃ、いけないよ。......そんなに人を殺せばとて、世間がどうこうとなるじゃなしさ。第一、お前さんだとて、井上さんからヤイヤイ言われながら、そんなに気は進んじゃ居なかったもの......。\n仙太 言うか!\nお蔦 ......言うなと言えば言ゃあしない。したが話がさ、あたしが、何故こんなことを言うのか、お前さんも百も承知だものを。ちっとは察しておくれよ。\n仙太 (やはり仰向いたままで)お前も度胸がよくなった。\nお蔦 あいさ、元はこんな女じゃなかった。......御朱印外も常陸の方の生れは生れだけど、小さい時からの深川育ち、もともとこんなにシダラがなくはない。意気も張りもなくなったのは何のためだ?......去年の暮れの、お前さんが百姓になるんだと言って江戸を打立った時にだって、百姓暮しで結構だと言ってさ、少しばかり有った稼業のかかりの肩を抜いてまで、一緒に連れて行って貰うのを楽しみに待っていたのを振切って、お前は一人で行ってしまった。......ヒョックリ戻って来ておくれだと思えば、今度は斬ったの斬られたのの沙汰ばかり......。\n\n\n短い間。\n\n\n仙太 そうかも知れねえ。\nお蔦 え? なにが?\n仙太 デク人形がだ。......親方は何とか言ったっけ?\nお蔦 しっかりしておくれよ。......今だって私あ、今だって私あ......。\n仙太 お前にゃ済まねえ。\nお蔦 すぐに、済まないとお言いだ。私あ、そんな、そんな、詫びてなんぞもらいたくはない......。\n\n\n長い間。\n仙太郎、ムックリ起きる。少し顔が青い。そのまま立上って、少しキョトキョトするような気味でその辺を見ていた末、何と思ったのか畳を歩いて縁を庭へ降りスタスタくぐり戸の方へ。\n\n\nお蔦 仙さん、どこへ行くんだよ?\n仙太 ウ?(と言ってチョイと振返るが、お蔦の姿が目に入らないような表情で再びスタスタくぐり戸をくぐって外へ)\nお蔦 ま、待って、仙さん! 待っておくれよ、まあ、邪慳な(と自分も行こうとして、柱に打込んだままになっている仙太郎の刀を認めて、それをこじ上げるようにして抜いて)これを置きっ放しにしてさ。......ま、待っておくれってば! 仙さん、どこへ行くんだよ、私も一緒に連れてってくれ、仙さん! 仙さん!\n\n\nと抜身を袖で蔽うようにして抱えて、すそをキッとはしょって小走りに仙太郎の後を追って消える。――舞台空虚のまま暫く間......。\n\n―幕―\n\n\n7 花道だけで\n\n\n前場の幕が降りるとすぐ起る夏祭の囃し鳴物、それに混って遠くで多人数のワッショ、ワッショの掛け声。それらが賑かさを通り越してヤケクソ気味な急調子である。\nやがて揚幕の奥でワッワッと罵り叫ぶ七、八人の人声がして、その中からひときわ高くわめきながら一人で花道へ飛出して来る読売りの男。気早やに白地大型ゆかた、片肌脱ぎ、尻はしょり、向う鉢巻。腰に結びつけた数個の大型馬鈴が動くにつれてジャジャジャンとやかましく鳴る。瓦版の束を小わきに抱えている。手を振り腰を振り、六法を踏みでもするように、足は走っている足であるが同じ所を何度も踏むので、前へは少しずつしか進まぬ。\n\n\n読売り アラ、ラ、リャリャリャリャ。買った、買った、買った、そら買った!(観客を市民に見立て、叫ぶ)今出たばかりの三州屋早刷り瓦版!(チョットろのあがきを小さくして立停った風になり)版でおこした墨がまだ乾き上がっていねえと言うしろものだ! 一枚三文、二枚で五文! 所は常陸の国、空っ風でおなじみの筑波の山は天狗党の一揆が大変じゃ大変じゃ! これぞ、早耳早学問、今出来たてのホヤホヤという瓦版が一枚三文とは安過ぎる! さ、買った、残りは僅か五十枚、売り切れてから買うんだったと出ベソを噛んでも追付かねえぜ! 三州屋の瓦版、これを知らなきゃ江戸っ児末代までの恥だっ! (また走り出す)リャリャリャ、さあ買った、買った、買ったっ! 天狗だ、天狗だ、天狗だっ! 水戸の天狗があばれ出したっ! いよいよ御若年寄田沼玄蕃の殿様が天狗征伐にお乗り出しだ!(手ぶり身振り)そうもそも、水戸の天狗と言ッぱ、天狗なり! 眼はランランとして鼻高く、色あくまで赤く、八面六臂、声破れ鐘の如くウォーッと、アハハ、いや全くだ。これを打つ手の総大将田沼様の御手勢かれこれ三万余人、そのあらましを申さんに、先ず先手には切先手組、御徒組さては大砲組、小筒組、御持組、大御番には両御番と来た。小十人組、別手、御目付、御使番。御小人目付、御作事奉行、御勘定方、御顔役、御右筆、その他諸勢、甲冑に身をしめて小手臑当、陣羽織、野山を埋め、えいえいどっと押出せば、勇ましかりける次第なり。頃はいつなんめり元治元年は夏の頃、まずこの辺で張り扇が欲しいとこだ。相手の逆徒、天狗もさるもの、敵の陣立て見てあれば、総大将は水戸町奉行田丸稲之右門直諒を初めとして文武諸館、神勢館の水戸藩士、浪人、あぶれ者、野士、百姓、町人、ならず者、都合その勢四千人、......オット喋っちまっちゃ商売にゃならねえ。さ、買った買った、一枚三文! (いつの間にか止めていた足でまた駆け出す)天狗一揆がスッカリわかって三文たあ、安いもんだ! さあ買った。ケチケチするねえ江戸っ児だ。買ったっ! よしじゃこれだけは御愛嬌に薩摩の守だ、それ!(と瓦版の二、三十枚を掴んで、観客席へ向ってパッと雲のように投げる)それつらつら今古の治乱を考うに、だ、治まる時は乱に入り、乱極まれば治に入るとかや、一乱一静は寒暑の去来するが如く、天のなす所にして人力の及ぶべきに非ず、チャンと本文に書いてあらあ。家衰えて孝子現われ、国乱れて忠臣現わるたあ、広小路の古今堂の先生の言い草だ。昇平打続くこと二百六十有余年! 四民鼓腹して太平を唱う折、馬関と浦賀に黒船が来てさ、さあことだてんであわて出した、開港通商、尊王攘夷、ケンケンゴーゴー、へん尊王攘夷が笑わせやがらあ! とは言うもののこう世間がせちがらくなって民百姓が食えなくなりゃ、何とか世直しをせざあなるめい、てんで、それ、表看板が尊王攘夷、と来りゃ、天狗もまんざらでもねえと言うわけ。只の天狗と天狗が違うと筑波で尻をまくったのが、今年の三月は二十七日だ! 上を恐れず、暴威を震い、民家に放火し、宝蔵を奪う、とチャンとこれに書いてある。四月四日筑波を出て日光に飛んだ、天狗にゃ翼がある、早えや、次が下野太平山、あんまり太平でもねえ。そこで公方様が腹を立てなすって宇都宮以下常野十二藩に出兵を命ずと来たが、何しろ相手は命がけだ、埓が明かねえ、その内に水戸様不取締りとあって五月二十八日、幕命を以て天狗方の御家老武田伊賀守隠居謹慎、六月一日、同じく岡田国老をも隠居させ、諸生組の頭棟朝比奈、市川、佐藤を執権に据えは据えたが、天狗は筑波でやっぱりあばれる。追討軍が常陸国は高道祖で天狗を破ったのが先月は七日、ところが天狗もさる者、たちまち盛り返して掛けた夜討が丁の目と出て追討軍散々の目で逃げて帰るが江戸表、田沼様お乗出しと相成ったり。その間に水戸様では内輪もめだ、諸生組の御家老連またぞうろう首を斬られて水戸へ下って、お世つぎをトッコに取って水戸城籠城と来た、これを圧えにお乗り出しが宍戸の殿様は松平頼徳侯、水戸様お目代として進発あり。田沼様の公方がた本月三日には古河に御着陣、足利学校に御在陣、高の知れたる天狗党、シャニムニ踏み破り、蹴散らさんと思うても、そうは問屋がおろさねえ。(花道七三で興に乗って唄って踊り出す。三味線、鳴物よろしく)\n\n ○田沼の達磨(棚の達磨さんの節で)\nあまり戦争したさに、\n田沼玄蕃さんをチョイト出し、\n腹巻させたり、また、こわがらしたり。\n\nアッハハハ、ま、そ言った次第さ。おっと調子に乗ってこんな所を岡っ引にでも見付かろうもんなら打首もんだ。さても、戦の有様見てあれば、だ、利あらずと見て逃げるは天狗、追うは田沼勢、府中は小川のあたり、ドンドンパチパチ大砲小筒、鳴るは蜂の頭、引くは天狗の鼻、さあてこの次第如何相成りまするか、ただ今、ホコダ塚に於て合戦真最中! 天狗が水戸へ逃げるか、田沼が江戸へ逃げるか、さあ、評判じゃ評判じゃ! 今出来たての三州屋は早耳瓦版、ことの次第はみんな出ている! 一枚が三文、二枚で五文だ、おまけに長州勢に取りつめられた京都のことまでみんなわかる! さあ、買ったり買ったり! オヤオヤ、誰も買わねえのかい? 呆れた貧的ぞろいだなあ。ふん、(幕のフチに手をかけ、眼をむいて声色)いずれを見ても貧乏育ち、菅秀才の......ハッ、ハックショイ、あったら口に風を引かしたわえ。アリャ、リャ、リャ、リャ、買った買った......。(叫びつつ、馬鈴を鳴らしながら幕尻に走って入る)\n\n\nその音が消えると、すぐに内と下座で鳴り出す常盤津の三味線。シンミリと。それが暫く続いて幕開く。\n\n\n\n8 植木村お妙の家の中" }, { "role": "assistant", "content": "\n\n第四場に同じく植木村お妙の家の中。\n夏の夕方の、差し込んで来る夕焼の光の中に黙っている四人――お蔦と仙太と今井(前出)と子供の瀧三。お蔦は板敷のフットライト寄りの敷居近く、つまり観客席に一番近く、観客の方を向いて片膝立てに坐って三味線を爪弾きしている。仙太郎はイロリの右側に坐って、ガックリ首を垂れている。今井は右側の上り端に腰をかけ、いかにも脱走して行く兵らしく泥や汗や血に汚れきった小具足姿のまま、時々仙太郎の背中やお蔦の方をジロリジロリ睨むように見ながら、前に据えられた釜から椀粥をよそっては菜も添えずにガツガツ食っている。子供の瀧三はイロリの左側、仙太と向い合った所にチョコナンとして坐らされてマジマジしているが、この異様な空気に泣きべそをかきそうにしている。――永い無言。\n\n △常盤津節、巽八景(お蔦、爪弾きで唄う。場合により唄は下座にてもよし)\n〽大江戸とならぬ昔の武蔵野の、尾花や招き寄せたりし、張りと意きじの深川や、(この辺までは幕の開くまでに済んで)縁しも永き永代の、帰帆はいきな送り舟その爪弾きの糸による、情に身さえ入相の、後朝ならぬ山鐘も、ごんとつくだの辻占に、燃ゆるほむらの篝火や......」\n\n\n今井 (粥を呑み込みながら)それでは、どうあっても、行かぬと言うのだな、仙太?\n仙太 ......。(聞えたか聞えぬのか返事も、身じろぎもせぬ)\n\n\n〽せめて恨みて玉章と、薄墨に書く雁の文字、女子の念も通し矢の、屈いて今は張り弱く、いつか二人が仲の町に、しつぽりぬるる夜の雨......」\n\n\n仙太 (ひとり言のように)......とうどう、それじゃ、長五郎も抜刀隊にやられたか。......長五郎が。\n今井 真壁の仙太郎の命を貰いに来た、俺ぁ上州無宿のくらやみの長五郎と、チャンと名乗って突っかかって来たのだから相違はない。いつもなら、そうは言っても、無宿者の一人や二人、いくら気は立っていても斬りはすまい。が、何しろ小川以来の難戦苦戦だ、大砲小筒で追い打ちかけられている最中だ、そこへからんで来たので、うるさくなって、やったらしい。死んだか生きたか、見とどけた者は居ないのよ。......いやこんなこと幾度言っても、何になるか? それよりも湊へ行くかどうか、仙太郎?\n仙太 くでえ、俺ぁ行かぬ。\n今井 どうせ負け戦だと見切りを付けたのか?......裏切者だ!\n仙太 何とでも言うがいい。\n\n\n〽堅い石場の約束に、話は積る雪の肌、とけて嬉しき胸の雲、吹払うたる晴嵐は、しん新地じゃないかいな......」\n\n\n今井 同志の誓よりは女の方が大事か。お前がこんな所に来てもう半月余もブラブラしているのが何のためか誰のためか、しかも、そんな女まで引張って来ている――大概わかっている。ふん、しょせんは糞土の牆だろう。無頼だ無頼だ。(何と言われても仙太返事をせぬ。今井は呆れ果てたと言った様子で仙太の背を睨んでいたが、あきらめて、粥も食い終ったし、椀をカラリと放り出して、出かける身仕度をする。手早く腹帯を締直し、血の脂で少しギチギチする大刀を抜いてあらため、土間に片膝突いて草鞋の紐を結び直しながら)......そんな女、僕がやってもよい。が、しかし、まことは、女が居るからではなくして、貴様の心に隙が出来たから女が出来たのだ。斬るべきものは、女ではなくして、貴様の根性だ。......これでよし、さあ、行くかな。\n\n\n〽洲崎の浦の波越さじと、誓いし事も有明の......」\n\n\n仙太 瀧三。......瀧三。\n瀧三 ......あい。\n仙太 刀を持ったことがあるか?......刀を抜いたことがあるか? うん、どうだ? ほれ、こりゃ小父さんの刀だよ。切れるぞ。(自分の刀を滝三に握らせる)\n瀧三 .........。(オドオドして今にもワッとしぐれそうである)\n仙太 ハハハ、斬ろうと思うな、斬ろうと思えば狂う、突き刺すんだと思え。それ、(スラリと刀を抜かせて持たせる)......いいか、人を斬るにゃ、......父の仇を斬るならば、こうして斬るのだ。......さ、小父さんの方を向いて突いて来い。突いて来い。\n瀧三 ......ワアーン。(こらえきれずに泣き出す)\n今井 ......馬鹿! だが仙太、まだおそくはない。加多先輩などは殿軍にまわって、まだ筑波だ。湊へ来い。笠間へは廻るな。道は山を突切れ。......利有らずして逃げる。しかしながら湊への道は、天下に通ずる道だぞ。忘れるな。必ず後から来いよ。いいな? 作造にあずかって腹ごしらえも出来た。田沼の兵を斬りながら行くのだ。来いよ、仙太郎! さらばだ。......(戸口の方へ)一剣、天下を行く......。(ドシドシ歩いて戸外へ消える)\n\n\nまだクスンクスン泣いている瀧三。知らぬ顔をして三味を弾くお蔦。下を向いてそれを聞いている仙太郎......。\n\n〽誓いしことも有明の、月の桂の男気は、定めかねたる秋の空、だまされたさの真実に、見下ろされたる櫓下」\n\n\nお蔦 (三味線と唄をプッツリ止める)......天下を俺一人で背負っていると言った顔だ、ふん、あたしぁキツイきらいさ。......おやおや糸も切れたそうな。(三味線を放り出す)瀧ちゃん、泣くんじゃないよ。その小父さんは気がふれているんだから。(瀧三の傍に行って顔を覗き込んだりして、あやす)......お士なんて言うものの気は知れない。......と言いたいが、それは昔のこと、あの手合いにゃ自分自身の功名や手柄だけしか有りはしない。そうじゃないか、仙さん。......あたしも江戸にいる間は、訳もわからないくせにいい気になって、勤王芸者だなんて言われちゃ江戸っ子から憎がられて得意になったもんだ。フン、芸者だって?......そうかと思うと講武所芸者がいるわな。みんな身過ぎ世過ぎの方便、でなきゃ見えさ。一皮ぬけばみんなオレガだ。中でもお士がオレガの頂骨。だからすぐに内輪喧嘩。他人のエサを横取りしたいのだ。お前さんは、吉村さんをなにし、この家の親父さんをやったけど、それだとてやっぱり......。\n仙太 お蔦、それをまた......。(続けて言おうとするが止してしまって、ゴロリと仰向けて寝転んでしまう)\n\n\n間。\n\n\nお蔦 ここでは言われて困ると言うのかえ。お嬢さんは段六さんと子供衆と一緒に田の草取りだ、聞いちゃいないから安心おし。......ふん、面白くもありゃしない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 話しをするために何処かへ招かれたということは、伸子にとってその夜の日本人クラブの会合が初めての経験だった。ほんとに自分の話をききたいと思っている人なんかなかったのだ。堪えがたい気持で伸子はその場の空気を身にうけた。もしかしたら、木曜会の幹事である津山進治郎ひとりの思いつきだったのかもしれない。来なければよかった。そのまま帰ってしまいたい気になって、伸子が、たすけをもとめるように素子と目を見合わせたときだった。伸子たちにまうしろを見せてテーブルに向っていた一人の男が、ふいと人の気配を感じたように首をねじって振向いた。津山進治郎だった。\n「やあ――」\n 彼は、いくらかあわてたように椅子をずらして立ち上った。\n「さあ、どうぞ。どうぞこちらへ。失礼しました。御案内しませんでしたか――例会の前にちょっと報告していたもんですから、失敬しました」\n 伸子と素子とは、大きなテーブルの一方の端に並んだ席を与えられた。落付くと素子は例によってタバコをだした。そして、口をきかないまま隣席の人に向ってちょいと頭を下げて火をもらい、男連がどう思おうとかかわりない風でそれをうまそうにくゆらしながら、古風なベルリンごのみでいかつく装飾されている室内とそこに集っている人々をひっくるめた視野においている。人々の間にかけてみると、一座の親しみにくい雰囲気は、一層具体的な感じで伸子をしめつけた。みんな学問をしているはずの人々だのに、その室内の空気はどこまでもかたくて、妙に粗くて、浸透性をかいている。伸子はテーブルにおいていたハンド・バッグを膝の上におろして、小さいハンカチーフをとり出した。彼女はそのハンカチーフで、そっと力を入れててのひらを片方ずつこすった。\n やがて津山進治郎が、雑談の中止を求める意味で手を鳴らしながら立ち上った。そして、格式ばって講演者としての伸子を紹介した。津山進治郎にとって伸子はベルリンで初対面した母方のまたいとこであったが、津山進治郎はそういう個人的な点にはふれないで、小説をかく佐々伸子、日本の民間婦人としてはじめてソヴェト生活を経験して来たものとして紹介した。\n「このたび各国視察旅行の途中、ベルリンに来られたのを機会に、今晩は一席ソヴェト同盟の医療問題について、話を願った次第です。御清聴をわずらわします」\n それをきいて、伸子は思わず心の中でつぶやいた。\n\n「そんな医療問題なんて――、わたしこまっちゃう」\n 津山進治郎が木曜会の例会に伸子をよんだとき、彼はそんないかめしい専門の区分はつけて話をするようにとは云わなかった。おおまかにソヴェトの生活について、ということだった。伸子はそれならば、とあながち自分にできないこととも思わなかったのだった。\n 何だか心やすさのない室内の空気だったわけも、伸子にのみこめた。小説をかく佐々伸子が、ソヴェトを見て来たというだけでベルリンの専門家に医療問題を話すときかされれば、軽い反撥もおこるだろう。話のきっかけがむしろそこにつかめた気持で、伸子は案外自然に口をひらくことができた。何よりも、自分には、医学上の専門のことは何もわかっていないこと。従って、伸子としては実際に見聞したソヴェト――主としてモスクヷの日常生活の有様を、ありのままに話して参考になればと思っているという点を明瞭にした。伸子はソヴェトの工場やそこで見た医療設備のこと、労働組合と健康保護の関係、母子健康相談所やレーニングラードの母性保護研究所の仕事、労働者、特に婦人労働者の保健のために職場で行われている一分体操や休養室の細かい注意、海岸や温泉地につくられている休みの家の様子などについて話した。座談的な伸子の話は、おさないような云いまわしながら、どの一つをとっても、それはみんな彼女が心を動かされて自分の眼で見て来ているものであり、ソヴェト生活の現実から生々しくきりとられて来た、誰にもわかる報告なのであった。\n 話がすすみ、まざまざとした印象がよみがえって描写されてゆくにつれて、伸子は心の自由をとりもどした。話している伸子にも聴きての感興が集中されてゆくのが感じとられる刹那もあった。\n 最後に、伸子は自分が肝臓炎でついこの四月まで、三ヵ月も入院していたモスクヷ大学附属病院の生活を話した。いかにもソヴェトの病院らしい事実は、ナターシャのことだった。熟したはたん杏のような頬っぺたをして、ずんぐりした身持ちの看護婦ナターシャと伸子とが、どんなに滑稽に車輪付椅子のまわりで抱きあいながらもごもごしたか。患者である伸子が、それについてどんな癇癪を起したか。やがて、身持ちのナターシャが、健康で美しく働いているのを見たり彼女と話したりすることが、伸子の病床生活の一つの歓びとなったいきさつについて、ナターシャはコムソモールカであり、モスクヷ大学医科の労働者科二年生であることをも添えて伸子は新鮮に話した。\n「みなさまは、あちこちで立派な病院をどっさり御存知でございましょうし、御自分でそういう病院をおもちかもしれません。よく訓練された看護婦というものも珍しくおありになるまいと思います。けれど、このナターシャの看護婦としての生活ね、わたくしは女ですから、やっぱり深く感銘いたしました。ドイツの人は音楽好きと云われますけれど、このナターシャたちのように、国立音楽学校のバリトーンの学生の若い細君が大学附属病院の看護婦だというような組合わせは、あんまりないでしょうと思います」\n 四十分あまり、変化をもって話しつづけて来た伸子は、そこで絶句した。ナターシャのことまで話して来るうちに、伸子の心にいろいろの思いが湧いた。めいめいが偉くなることを目的としているような従来の医学の道について、その本質をくつがえす一言を呈したい気持になって来た。\n 頭上から強い光をうけているせいで断髪の頭や、ゆるやかな頸から肩への輪廓が緊ってなお小柄に見える伸子は、影を絨毯の上におとしながら、首をかしげてちょっとの間黙って考えていた。適切な表現が見つからなかった伸子は実感のままを率直に、\n「わたくしが最もつよく感じたのは、ソヴェトで医学は、ほんとにすべての人の生活をまもるために役立てられようとしているということです。もちろんまだいろいろ不備な点はあって、たとえば、歯医者が下手で痛いという漫画が出たりもして居りますけれど、それにしろ、医学は、どんどん生活のなかへ普及して居ります。すべての国で医学が、そういう本来の働きを発揮できるように、お医者さまというものが、ほんとに苦しんでいる人間の燈台となれるように、そういう社会がつくられてゆくことが、医学の側からも求められていいのだと思います」\n そう結んで、また一二秒だまった。が、ぽつんと、\n「わたくしの話はこれでおしまい」\n 一つお辞儀をして伸子は席に復した。\n 三四十人ほどの聴きての間から、儀礼的でない拍手が与えられた。あきらかに、伸子の話は、自然さといきいきした事実とによって、ききてに人間らしい感銘を与えたのだった。\n「や、御苦労さまでした」\n 色の黒い太い頸に、うすくよごれの見えるソフト・カラーをしめた津山進治郎が立って挨拶した。\n「具体的で、得るところがあったと思いますが、例によって、どうぞ諸君から自由に質問を出して下さい」\n 伸子があんまり素人だから、専門家であるききてとしては、かえってききたいことがないのだろう。ややしばらくはタバコの煙があっちこちからあがるばかりであった。その沈黙をやぶって、伸子の右側にいた六十がらみの人が、チョッキの前でプラチナの時計の鎖をいじりながら、\n「どういうもんかね、これで。――いまの話で、社会的な面はどうやらわかったようなもんだが」\nと、そこへ伸子にわからないドイツ語をさしはさんで、\n「そっちの方面は低いんじゃないのかね」\n 臨床の大家といわれる医者によくあるように少し鼻にかかった声でゆっくり、じかに伸子に向うというのでもなく云った。この額の四角い半白の人は、伸子が話しはじめたときから終るまで、腕組みをして椅子の背にもたせた顔を仰向けたなり目をつぶっていた。\n「どうですか、佐々さん」\n 幹事の津山が、伸子には横柄に感じられたそのひとの間接の質問をとりついだ。\n「あっちの、医学そのものとしてのレベルは、どうです? 現在はやっぱり相当のものだと思いますか」\n「――?」\n 伸子はのみかけていた番茶の茶碗をテーブルの上において、顔の上に意外そうな表情をむき出しながら津山から一座の人々へと目をうつした。\n「わたしにそんなことをおききになるなんて――ソヴェトの研究や発見の報告はいつも世界の学界へ報告されているんじゃないでしょうか――ドイツの医学雑誌では、ソヴェトのものはのせないことになっているのかしら――」" }, { "role": "assistant", "content": " 伸子は、この言葉の皮肉な効果を全く知らずに云ったのだった。\n 音楽の都のウィーンでは、ソヴェト音楽をしめ出していた。ドイツでの学会というようなところでは、似たようなことがあり得ないことでもないと思ったのだった。ところが、伸子の単純な問いかえしに答えて発言する人は誰もなかった。みんな黙っている。その黙りかたが何だか妙だった。話しがすんで、いくらかゆとりのできた伸子は、いぶかしがる視線で、部屋の奥にかたまっている人たちの方まで見た。そっちの壁には、ドイツの趣味で紫がかった水色タイルで飾られたカミン(煖炉の一種)が四角くつきでていた。その左右のくぼみへ椅子をひきつけて、若い人々が云い合わせたようにその隅にかたまっていた。その一番隅っこのところで、三十三四の一人のひとが、カミンへ肩と頭とを軽くよせかけた楽な姿勢で腕組みして居た。その人は組合わせた脚をゆるくふりながら、唇をしめたまま微笑していた。伸子の視線がその微笑にとめられた。それは智慧のあらわれた微笑であり同時に批評をたたえている微笑だった。その表情が暗示するものがあった。伸子は視線をもどして、勿体ぶって間接に質問した人や自分がそこでかこまれているテーブルのぐるりの人々を見直した。どっかりと自分たちをテーブルのぐるりに落つけている人々はみんな概して年配であった。カミンのところにかたまっている後輩たちが、当然彼らのためにその場所をあけておくものときめてそこへかけているような人々だった。ベルリンの木曜会なるものの性格が伸子に断面を開いたような感じだった。ここも一種の学界みたいなのだろう。先輩後輩の関係やら会員同士にもいろいろと面倒くさい留学生らしい感情があるのだろう。その木曜会のしきたりにとって、伸子のもの云いの簡明率直さはおのずと笑いを誘うようなところがあるだろう。伸子に質問している人が、格式にかかわらず、学問上のことについては若い専門家たちから批評をもって見られている人であるらしい感じもうけた。\n 血色いい角顔に半白の髭をつけて、金杉英五郎にどこか似た面ざしのその人は、伸子の話から一座に流れたソヴェトに対する好感的な印象を、そのまま人々の胸に沈められることをきらうらしかった。\n「医学にかぎらず、すべて学問というものは、学問それ自身として重大な多くの問題をもっているものなんでね。あなたに云っても無理だろうが、まああなたの話は、要するに医学というよりもソヴェトというところの社会状態の紹介さね」\n ここにいる学者たちにとって、それだけで価値をみるには足りないのだ、ということを伸子にわからせ、同時にほかのききての自尊心も刺戟しようとするようだった。\n「ところで、どうですかな、予防医学なんかの方面は――」\n「――予防医学って――結核や流行病の予防なんかのことでしょうか」\n 伸子は津山進治郎にきいた。\n「そんなようなことです」\n「結核のサナトリアムは随分できていますが――どうなんでしょう」\n 伸子は不確に答えた。\n「御承知のとおり一九二二年、三年まで、饑饉のチフスであれだけ死んだんですから、ソヴェトは決して無関心だとは思えません。でも、一般に予防注射なんかどの程度やっているかしら......」\n モスクヷに一年半ちかくいた間に、伸子たちはそういう場合にめぐりあわなかった。\n「性病予防の知識を普及させることは労働者クラブなんかでも随分行きとどいてやられて居ります」\n「そりゃそうだろう」\n 半白の髭をつけた人は、満足そうにうなずいた。\n「かなりな乱脈ぶりらしいからね。政府としても放っちゃおかれまい」\n ソヴェトでは女が共有されているとか、乱婚が行われているとかいう種類のつくり話を否定しきろうとせずに、その半白の頭の中にうかべているらしいそのときの表情だった。\n「いずれにしろ、現在予防医学の進歩しているところはアメリカだね。つぎが、戦前のドイツ」\n「でもね」\n その人がひとつひとつにひっかかってくる云いかたにだまっていにくい気持につき動かされた伸子は、\n「この間、宮井準之助さんがジェネヷの国際連盟で報告なさるとき」\nと、木曜会員なら知らないわけにゆかない、知名な伝染病と予防医学の大家の名をあげた。\n「モスクヷへよって何かしらべていらっしゃいました。案外、何かあったんじゃないでしょうか。予防医学という学問そのものとして......」\n 聴いていた素子が、にやりとしてこころもち顎をつき出すような形でわきを向いた。その素子を見たとたん、伸子は、ほんとだった。なんてばかばかしい! と自分がひっかかっていた予防医学という専門語の鉤から身をふりほどいた。この医者は伸子がまごつくような質問をするためにだけ質問しているのだった。伸子の話をすらりときいていた人なら、ソヴェトでは予防医学というものの枠がひろげられていて、予防注射とかワクチン製造とかいうせまい範囲から、もっと広く深く勤労生活の日常そのものを健康にしてゆこうとする現実に移って来ている事実がいくつもの実例のうちに理解されたはずだった。伸子の話全体が、いわば新しい予防医学の現実だったのに。――そのことに思いついて、伸子はあらたまった顔つきになった。彼女は半ばその半白の髭の人に向い、半ばその席にいあわせるすべての人に向って、\n「ちょっと、ひとこと追加させていただきます」\n 椅子にかけたまま、にぎりあわせた両手をテーブルの上において云い足した。\n「みなさまは、いつも専門的な言葉でばかり話される報告に馴れていらしって、わたしのように、あたりまえの言葉で毎日の生活の中から話す話は、よっぽど、おききになりにくかったんだろうと思います。さもなければ、失礼でございますが、ただいまの御質問ね」\nと、伸子はさっきから、伸子の話が与えた印象をつき崩そうとしている父親のような年配の半白の髭の人に向って、云った。\n「ああいう御質問は出なかったんじゃないでしょうか。――ああいう御質問いただくと、なんだか、わたしのお話したことを、どこできいて頂いていたのか、わからないみたいで......」\n 控えめだがおさえきれない笑いがカミンのわきにかたまっている人々の間から湧いた。それはテーブルのぐるりまで波及した。\n「どっちみち、みなさまソヴェトの様子は御自分でじかに見ていらっしゃるのが一番いいんです」\n 伸子は、本気で他意なくみなにそれをすすめた。\n「わたしの話をもの足りなくお思いになったり、半信半疑でいらっしゃるのは、当然だわ。よそと全くちがうんですもの。ほんとに、どなたにしろ、行って御覧になればいいのに――経験も自信もおありになるんだから......ここからモスクヷまでは一晩よ」\n そう云って、伸子は反響をもとめるように若い人々がかたまっているカミンの横の席の方を眺めた。さっき、怜悧で皮肉な微笑を泛べながら伸子を見ていたひとは、やっぱり腕組みした肩を軽くカミンにもたせ、くみ合わせた脚をふっているが、視点は低く足許のどこかにおかれている。テーブルに向っている半白の髭のひとは、こげ茶色の服を着て鼻髭のある隣席のひとと、伸子にはそれが伸子を無視したことを示すものだと感じとれる態度で私語しはじめた。モスクヷへみんなが自分で行って見て来るように、という伸子の実際的なすすめは、その夜、伸子が話したどの言葉よりも吸収されずに、伸子のそういう声がひびいたそのところにそのままかかっているのだった。\n ひきつづいて何かうち合わせをするという皆より一足さきにその室をでるとき、伸子と素子とは木曜会の客として、来週のうちに二ヵ所で行われる見学――セント・クララ病院とベルリン未決監獄の病舎の視察に招待された。提案をしたのは津山進治郎であった。それはあっさり通った。伸子のまたいとこにあたる津山進治郎は、ただ一人の医学博士であるというばかりでなく木曜会には何かの角度から発言権をもつ存在であることが感じられた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "序言\n\n 妖怪学は応用心理学の一部分として講述するものにして、これに「学」の字を付するも、決して一科完成せる学を義とするにあらず。ただ、妖怪の事実を収集して、これに心理学上の説明を与えんことを試むるに過ぎず。すなわち、心理学の学説を実際に応用して事実を説明し、もって心理考究の一助となすのみ。かくのごとく、妖怪の事実を考究説明して他日に至れば、あるいは一科独立の学となるも知るべからず。ゆえに、これを講述するは、哲学ならびに心理学研究に志ある者に、裨益するところあるは明らかなり。これ、余が妖怪学の講義を始むるゆえんなり。\n しかりしこうして、余、いまだ妖怪の事実を究め尽くしたるにあらず、今日なお事実捜索中なれば、各事実について、いちいち説明を与うることあたわず。ただ、余が従来研究中、二、三の事実につき説明を与えしもの、あるいは雑誌、あるいは新聞、あるいは諸小冊子中に参見せるあり。今これを集録し、その部類を分かち、さらにその後研究したる事実を増補し、左に「妖怪学講義」として掲載することとなれり。読者、よろしく心理学講義の一部分とみなすべし。\n\n\n第一章 総論\n\n 今、妖怪学を講述するに当たり、まずその意義を略解せざるべからず。余のいわゆる妖怪とは、いたって広き意味を有し、一切、妖怪不思議に属するものを総称するなり。およそ宇宙間の諸象の中に洋の東西を問わば、世の古今を論ぜず、普通の道理にて説明すべからず、一般の規則にて解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す。その種類、民間に存するものいくたあるを知らずといえども、これを大別すれば左の二種となる。\n\n ┌物理的妖怪\n妖怪┤\n └心理的妖怪\n\n 物理的妖怪とは、有形的物質の変化作用より生ずるものにして、心理的妖怪とは、無形的精神の変化作用より生ずるものをいう。\n 今その一例を挙ぐれば、狐火、流星、不知火、蜃気楼、および京都下加茂社内へ移植する木はみな柊に変じ、尾州熱田に移養する鶏はみな牡鶏に化すというがごときは、物理的妖怪なり。これに反して、奇夢、神感、狐憑き、予言のごときは、心理的妖怪なり。もし、物理的妖怪の種類についてこれを分かてば、左の数種となるべし。\n\n ┌物理学的妖怪(すなわち物理学の説明を要するもの)\n │化学的妖怪(すなわち化学の説明を要するもの)\n │天文学的妖怪(彗星、流星のごとき天文に属するもの)\n物理的妖怪┤\n │地質学的妖怪(化石、結晶石のごとき地質に属するもの)\n │動物学的妖怪(熱田の鶏の類)\n └植物学的妖怪(下加茂の柊の類)\n\n その他、人身の構造、機能上に関する妖怪は生理学に属する等の類、なお種々あるべし。つぎに、心理的妖怪にも、その種類はなはだ多し。これを分類するに、事実の上に考うる法と、これを説明する学科の上に考うる法との二様あるべし。\n まず、事実上の分類によるに、左の三種となるべし。\n\n第一種、すなわち外界に現ずるもの\n\n幽霊、狐狸、天狗、鬼神、その他諸怪物\n\n第二種、すなわち他人の媒介によりて行うもの\n\n巫覡、神降ろし、人相、墨色、九星、方位、卜筮、祈祷、察心、催眠、その他諸幻術\n\n第三種、すなわち自己の身心上に発するもの" }, { "role": "assistant", "content": "\n夢、夜行、神感、神知、偶合、俗説、再生、妄想、癲狂、その他諸精神病\n\n そのうち、第一種の幽霊、狐狸等は、人身の外部に現存し、あるいは外界に現見するものにして、たとい精神作用より発するにもせよ、夢および巫覡等と異なるところあれば、しばらくその一種を別置するなり。第二種は、他人ありてわが心身の事情変化を考定審判するものにして、神を降ろす術、狐をつける法、人相、家相、九星、方位、干支、卜筮等、みなこれに属す。察心とは、人の心を察知する術、催眠とは、人為によりて人の眠りを催起する術なり。かくのごとき魔法、幻術に類するもの、世間はなはだ多し。第三種は、人の媒介をまたずして自己の身心上に発するものにして、夢のごとく夜行のごときこれなり。夜行とは夢中の動作を義とし、睡眠中、あるいは言語を発し、あるいは起座し、あるいは歩行して、自らなにも知覚せざるがごときものをいう。神感とは、自然に神の感通告示ありて、遠路のことを感知し、あるいは未来のことを予知するの類をいい、神知とは、教育を受けず、経験に接せずして、自然に種々のことを知るの類をいう。例えば、二、三歳の子供が書をよくし字を知り、下女が論語を読むがごとき、これ神知の一種なり。偶合とは偶中暗合のことにして、偶然に想像と事実と暗合するの類をいう。例えば、親戚の者の病死を感じて、事実これに合するがごときこれなり。俗説とは愚俗の説明にして、例えば、海上にて風波に際会すれば、愚俗これを解して曰く、「海神、祟をなすなり」と。また、山上にありて暴風に会すれば、「これ、山神怒りをなすなり」との類をいう。再生とは、これまた俗説の一種にして、愚俗中には、「死したる子供の身体に黒点を印して葬るときは、必ずこれと同じき場所に黒点を有する子供の、後に生まるるあり。これ、前の子供の再生なり」と唱うるものあるがごときこれなり。妄想とは、空想中に天国現見し天神を現見して、そのまま実在せりと信ずるがごときをいう。その他、精神諸病のこれを、第三種に属するもの、いくたあるを知らず。\n 右の表を、あるいは左のごとく分類すべし。\n\n ┌外界(幽霊、狐狸等)\n妖怪┤ ┌他人(巫覡、神降ろし等)\n └内界┤\n └自身(夢、夜行等)\n\n 今、外界とはわが目前の物質世界をいい、内界とはわが体内の心性世界をいう。すなわち、夢、夜行等は心性の変動より生ずるはもちろん、巫覡、神降ろし等も心性の作用にほかならざれば、これを内界に属するなり。ただし幽霊のごときは、これまた心性作用の変態なること疑いなしといえども、その体の外界に現見するをもって、しばらく外界に属するなり。\n 以上数種の妖怪、その理由を説明する法、古今大いに異なるところあり。けだし、その異なるところあるは人の賢愚、時代によりて同じからざるによる。これを要するに、その説明の順序、三時代に分かつことを得べし。\n まず、第一時代にては、人知いまだ無形の心を考うるに至らず。しかれども、多少知力の発達せるありて、種々の変化を説明せんとするに当たり、夢のごときに至りては、わが体ここにありて遠方の物を見、遠方のことを知るは、けだし、我なる体に二種あり。その一種ここにありて、他の一種かれに遊ぶによると解釈せり。これを一身重我説と名づく。重我とは、我に二重の体ありて、内外相合してこの一身を成立するを義とし、昼間は二種の我相合して作用を現し、夜間はその一種出でて野外に遊ぶ。これ、夢の起こる原因となす。この重我説ようやく発達して、身心二元説となる。身心二元説にありては、身は有形、心は無形なることの道理明らかに知らるるも、重我説にありては、二元ともに有形にして、同一の作用をなすものと信ぜり。しかれども、古代にありて、大抵この説に基づきて妖怪の説明を下せり。例えば、人の死するがごとき、これを夢と同一に解釈し、一我ここにありて他我ほかに遊ぶより、死の起こるなりと信ぜり。ただ、その夢と異なるは、他我の遊ぶ所、夢よりは一層遠く、かつその遊ぶ時間、夢よりは一層長きの別あるのみ。これをもって、夢のときは、その人を呼びてたちまち醒覚せしむることを得るも、死のときは、なにほど大声にてその名を呼ぶも蘇生することなし。けだし、死のときは他我の出でて遊ぶ所いたって遠くして、呼び声のこれに達することあたわざるによると信ずるなり。その他、病気、癲狂、狐憑き等は同一理によりて説明し、一我ここにありて他我ほかに出ずるときは、他人の我その不在をうかがいてわが体中に入り、また両我ともに一身中にあるも、他人の我のその力一層これより強きものあるときは、わが他我を制して身内に入り、わが体を苦しむることありという。以上は第一時代の説明なり。\n つぎに第二時代の説明は、身心二元の関係を知り、心元は全く無形にして、有形の肉身と全くその性質を異にすることを知り、物心のほかに一種霊妙の神体ありて物心二者を支配するものと信じ、一切物心の変化は、その体の媒介または感通より生ずるものと考うるなり。これを鬼神交感説と名づく。この説によりて、一切妖怪に属する事実を説明せり。これ、重我説より一歩進みたるものなれども、いまだ今日の学説にあらず。ゆえに、そのつぎに第三時代ありて起こる。\n 第三時代は学術の時代にして、妖怪の原因を重我説に帰せず、鬼神説に帰せず、万有の理法、普通の規則に基づきて説明を与うるものなり。すなわち、物理学、化学、天文、地質、生理、心理の原理原則にその原因を帰するをいう。\n 以上の三時代、これを概言すれば左の三条となるべし。\n\n第一は、万物各体の内に存する他体にその原因を帰すること\n第二は、万物各体の外に存する鬼神にその原因を帰すること\n第三は、天地自然の規則にその原因を帰すること\n\n このうち第三時代の解釈法は、余がこれより試みんと欲するところのものにして、古来、人の妖怪不思議と称して道理の外に置きたるものを、道理以内に引き入れんことをもって、余が研究の目的とす。しかしてその説明法に、外界一方より起こる原因と、内界一方より起こる原因との二種あり。その一はさきにいわゆる物理的妖怪にして、その二は心理的妖怪なり。余はそのうち、ひとり心理的妖怪を説明せんとす。これ、余がさきに示すごとく、応用心理学の一部分として講述するによる。\n 心理的妖怪は、我人の精神思想作用の上に現ずるものなれば、心理学のみにて解釈し尽くすべきがごとしといえども、これに数種類ありて、精神病によりて発するものは病理的妖怪と称し、生理学、精神病学の説明をまたざるべからず。また、宗教上に関し、あるいは形而上の問題に関するものは、宗教学および純正哲学の説明をからざるべからず。その他、社会学、人類学等の説明を要するものあるべし。今、概括してその種類を表示するときは左のごとし。\n\n ┌病理的(精神病に属するもの)\n │迷信的(宗教上の迷信、妄想より生ずるもの)\n心理的妖怪┤\n │経験的(平常の経験上、事実の符合適中するの類)\n └超理的(理外の理にして人知以外にありと想定するもの)\n\n これ、余がさきに妖怪の分類に二種ありと述べたるうちにて、第二種の学科の上に考うる分類法と知るべし。すなわち、病理的妖怪は心理学のほかに生理学、病理学等によりて研究せざるべからず、超理的妖怪は純正哲学をまたざるべからず、迷信的、経験的はもっぱら心理学の研究を要するなり。\n およそ世間の人は、世界に理外の理ありと信じ、そのいわゆる理とは、人知以外にありて知力の及ばざるものをいう。すなわち超理的これなり。しかれども、超理的必ずしも人知以外に存するにあらず。もし、果たして人知のほかにあるときは、我人これを知るべき道理なし。いやしくも、その超理的たるを知れば、これまさしく人知以内にあるものなり。かつ超理的とは、わが感覚上接見することあたわざる事物の本体に名づくるものにして、その体もとより直接の経験によりて知るべからざるも、推理論究の方法によりて知ることを得べし。これ、純正哲学の起こるゆえんにして、その学の目的は全くこの理外の理を推究するにあり。もし、仮に人知以外の道理、真にありとするも、いずれより以上は理外にして、いずれより以下は理内なるや、その限界を定むることはなはだ難し。けだし、今日までの結果に考うるに、その間に一定の限界なきもののごとし。ゆえに、世間一般に理外の理なりと確信せるものも、我人は進みてその理のなんたるを考究せざるべからざるなり。\n また世人は、一切の妖怪はみな理外の理なりという。このいわゆる理外とは、人知以外を義とするにあらずして、万有自然の規則に反するものを義とす。万有自然の規則とは、原因あれば必ず結果あり、結果あれば必ず原因ありというがごとき、必然の天則を意味するなり。この天則に反したる不必然のものを名づけて妖怪という。すなわち、余がさきに普通の道理をもって解釈すべからざるものと説きたるはこれなり。しかして、その実、全く解釈すべからざるにあらず、ただ世間にて解釈すべからざるものと信ずるのみ。今、妖怪を不必然となすも、これまた世間の説のみ。余の考うるところによるに、そのいわゆる妖怪は、みな普通の道理をもって説明すべきものと信ず。さきに、学術上の道理をもって説明すべしといえるものこれなり。これ、余が研究の目的とするところなれば、その説明は必ず世人一般の信ずるところのものと異なるべしといえども、畢竟、世人の妖怪を解して理外の理、不必然の道理となすは、その思想の浅きによることを知らざるべからず。なんとなれば、もし宇宙間に必然と不必然との二種の規則あるときは、これ二種の道理あるものなり。道理に二種あるは、すなわち真理に二種あるなり。これ、あに論理の許すところならんや。しかして、事々物々の日夜変化するもの、一つとして必然の規則に従わざるはなく、我人の古来経験上にて考定せるもの、また、みな因果の道理にもとづかざるはなし。\n これによりてこれをみるに、宇宙間には唯一の因果必然の規則あることを知らざるべからず。しかして、その規則に反するものの世に存するを見るは、全くその研究の足らざるによる。昔時、理外の理、不必然の道理と想定せるものにして、今日学術の進むに従い、因果必然の理法なることを発見せるもの、幾種あるを知らず。昔日の妖怪にして今日の妖怪ならざるもの、その例はなはだ多し。これによりて将来を推すに、今日の妖怪のまた他日の妖怪にあらざるを知るべし。かつ、道理に必然と不必然との二種ありと許すも、いずれの点より不必然にして、いずれの点より必然なるや、一定の分界なきは明らかなり。果たしてしからば、余輩は宇宙間唯一の必然の天則のみ存せることを論定せざるべからず。これ、妖怪研究の起こるゆえんにして、かつ、学理にもとづきてその道理を考究するの必要なるゆえんなり。\n かくのごとく論じきたるときは、余は世に全く妖怪なしと論定するもののごとし。しかるに余、あえて妖怪なしと断言するにあらず。ただ、余が妖怪となすものと、世人の妖怪となすものの、その種類を異にするのみ。けだし、世人はいやしくもその有するところの知力をもって説明しあたわざるものあるときは、これを一に妖怪となし、その妖怪の果たして妖怪なるやいなやを討究せず。しかるに余は、妖怪のなにをもって妖怪なるやを自ら問いて、自ら答えんとす。かくのごとく推究するときは、世間一般に妖怪なりと信ずるものは真の妖怪にあらずして、一般に妖怪にあらずとなすもの、かえって真の妖怪なることを発見すべし。しかして、その妖怪は絶対の大怪にして、その胎内に一切の妖怪も非妖怪も、みなこれを包有せるをもって、世間普通の種々雑多の妖怪は、妖怪の一分子、一元素にも足らざるものなり。果たしてしからば、その大妖怪はなにものなるや。狐か狸か、はた天狗か、はた大入道か。狐狸、大入道はその形見るべく、その声聞くべく、握るべく、さぐるべし。これ、いまだ妖怪と称するに足らず。しかして、そのいわゆる大妖怪は、「師曠の聡」あるも聴くべからず、「離婁の明」あるもみるべからず、「公輸子の巧」あるもさぐるべからず、声もなく臭もなく、実に妖怪の精微、かつ至大なるものなり。\n この精微至大の体、ひとたび動きて二象を現ず。その一はこれを心と名づけ、その二はこれを物と名づく。この二者互いに相接し相交わりて、その間に隠見するものは小妖怪に過ぎず。ゆえに、そのいわゆる小妖怪は、波石相激して、その間に白雪を躍らすがごとし。見る者誤り認めて白雪となすも、真の白雪にあらず。今、世人の一般に妖怪なりと信ずるもの、あたかもこの白雪のごとし。ゆえに余は、そのいわゆる妖怪は真の妖怪にあらずして、この妖怪を現出するものひとり真の妖怪なりという。もし我人、この真の妖怪を接見せんと欲せば、よろしくこの偽物妖怪を一掃して、半夜風波の静定するを待ち、良心の水底に真理の月影を観見せざるべからず。これ、我人の理想の真際に接触せるときなり。余は、この理想の本体を真の大妖怪というなり。もしまた、我人、外界にありて千万無量の物象を観察し去りて、その裏面に一貫せる理法の中心に洞達し、その実体いかんを想見するときは、また、この大妖怪に接触することを得べし。そもそもこの大妖怪は、物心相対の雲路の上にはるかに三十三天をしのぎ、須弥山上なお幾万由旬の高き所に一大都城を開き、理想その帝王となり、物心の二大臣をこの世界にくだし、千万無量の諸象を支配せしむ。これ、真に妖怪の巨魁にして、我人の究め尽くさざるを得ざるものなり。これを究めざる間は、決して世に妖怪を尽くすことあたわず。しかして、三十三天なお高し遠し、いわんや理想の都城をや。なにを階梯としてこれにのぼり得べきや。曰く、実験と論究との二者なり。この二者は、物心二大臣より理想の朝廷へ差遣する使節なり。もし、我人その都城にのぼらんとするときは、この使節に随伴せざるべからず。しかして、その使節も関門以内に入るあたわず。ゆえに、我人も関門をもって限りとせざるべからず。果たしてしからば、世に妖怪の根拠を断絶することあたわざるべし。ただ、我人は偽妖怪を払い去りて、真妖怪を現じ出だすをもって足れりとせざるべからず。これによりてこれをみるに、妖怪研究は万有普遍の規則にもとづき、内外両界の関係を究め、物象の実体、心象の本源にさかのぼり、妖怪の真相を開現するにほかならざるなり。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 趣味というものは広いものだ。信じられないようなことを好む人がある。\n 井田信二は農村の静かな風物のなかで何不自由なく育った。彼の周囲の人々はそれぞれアクセク土にまみれて働いているのに、彼だけは戦時中も卵や牛乳にも不自由なくいわば小国の王子のように育ったのである。そのアゲクとして、彼が成人したときに、何が一番好きかというと、人から物を借りること、借りた物を返さないこと、サイソクされるとヌラリクラリと弁舌縦横敵を論破して退却せしめる。それが何より好きになった。早く云えば借金とり撃退を地上随一の快と感じるに至ったのである。\n 借金とり撃退に快を感じる人はこの世に少くないかも知れないが、多くはやむをえずそうなったもので、有るべき物が手もとにあれば強いてそのへんに快をむさぼるにも及ばないというのが実情であろう。中には矢でも鉄砲でも持ってこいなぞと身体をはる威勢のいい撃退組もあるが、ハタから見ればこれも悲痛で感心できないものがある。雅致がない。もともと借金はセッパつまったものではあるが、すすんで特攻隊になるのも感服すべき手段ではない。とはいえ、思いあまったアゲクのことで、風雅の道に欠けるところがあっても責めるわけにいかない性質のものだ。\n ところが井田信二は名実ともに威勢のいい人物ではなかった。小学校の時から体操がヘタで、至って栄養がよいのに力がない。鉄棒にぶら下れば、ぶら下りッ放しで動くことができないという非力で、およそスポーツというものには何一ツ趣味もなければ縁もなかった。\n こういう虚弱児童には才気が恵まれているのが普通であるが、彼はその方にも縁がなかった。少くとも学校で教えてくれる学問というものには腕の見せ場がなかったのである。農村の特殊階級、大旦那の坊っちゃんだから、物さえ言わなければボロをださずにすむ。駈けッこをさせなければ負けるはずもない。ボロをださせないために小学校の先生なぞは大そう苦心したものだが、思わぬ諸方にボロをだすので音をあげたものだ。箸にも棒にもかからないノータリンの風格があった。\n しかるに彼が鋭鋒を見せはじめたのは中学校へあがってからで、自転車にも乗れないから、中学校の所在地に然るべき家を買い女中に侍かれて通学したのであるが、その頃から人の物を横どりするのに才腕をあらわすようになった。\n 左側の生徒が使っているナイフをそッと掌中に握る。これを右手の掌中に持ちかえて、右側の生徒の机の下からそれを拾いあげたようなフリをする。そして右側の生徒にきく。\n「これ、キミのだろう?」\n「オレんじゃないね」\n「そうかい。キミの足もとに落っこってたんだが、じゃア持主がないんだね。もらっとこう」\n と自分のポケットへおさめてしまう。そのナイフを買う金に不自由のない彼だから、ナイフが欲しいわけじゃない。左側の生徒がそれに気附いて、\n「オイ、よせよ。それ、オレんだよ」\n と云ってくるのがツケ目なのである。彼の目玉は三角になる。当時はまだ若いから、そうであった。つまり大いに怒るのである。\n「キミのナイフがそこに落ちてるはずはないじゃないか。かりにキミのナイフだとしても、ボクが見つけてあげなければ、キミはなくした物なんだぜ。ボクが見つけて拾ったんだからボクの物だよ」\n ここから論戦がはじまるけれども、井田信二の論法は発想が根本的にちがうから論戦にならない。六法全書の論法はフシギに通用の力を失ってしまう。ナイフの所有権は信二の手に帰する結末になるのである。\n この鋭鋒は彼の裏庭のタケノコのように目ざましく成長した。しかし、村の人たちは気づかなかった。なぜなら、中学校と大学をよその土地ですごしたからである。終戦後、彼が大学を卒業して村へ戻ってきたとき、村の人々は孤島のジャングルから南方ボケした能なしが復員してきたように彼を迎えたにすぎなかったのである。彼は目立たない存在として何年かすぎた。\n この年、村の青年団が文化祭をやることになった。寄附をつのることになって、幹事数名が帳面をぶらさげて、まず、まっさきに彼のところを訪問した。幹事の中には五助がいた。五助は信二と小学校の机をならべた同級生で、級長であった。口も八丁、手も八丁。青年団のホープなのである。直接信二に会うことができればしめたものだが、たぶん女中がでてきて包み金で追い返されることになろうと胸算用をしていたのである。ところが女中と入れ換って、信二が直々現れた。\n 信二は土間からつづいている応接間のドアをあけて、\n「さア、どうぞ」\n「イエ、寄附なんてえものは、立話に限るようで。さっそくですが」\n「ま、どうぞ」\n「そうですか」\n 顔や口とはアベコベ、五助は内々しめたとほくそえんで一同とともに応接間に通り、皮張りのバカに大きな肱かけイスに身体をうずめた。\n 久々にシミジミ見る信二坊っちゃん、不自由はないはずだが、栄養充分の顔色でもない。やや、やせている。深窓に閉じこもっているせいか、なんとなく苦行僧のようなうッとうしいマナザシをしているところが面白い。一見、ノータリンに見えないからである。苦行僧は両の掌を卓上に組み合わせて一点を凝視していたが、\n「文化祭の寄附とはオドロキですね。文化祭というものは、よそではもうかるものですよ」\n と意外なことを言いだした。\n「よそと申しますと、アメリカのことで?」\n「いえ、もうこの村以外の津々浦々ですよ。ボクら、大学のころ、文化祭でもうけたものです。切符の売上げをタダ飲みしましてね。売上げを半分ぐらいごまかすんです。たのしかったものですよ。文化祭は、そういうものですね」\n「入場料をとるんですか」\n「当り前ですよ。アナタ、タダでやるつもりですか。呆れましたね。タダでねえ。タダほど人生につまらないものはないですね。ダイヤモンドもタダにすればつまらない石にすぎないですよ。アナタ、文化祭を石にするわけですね」\n「それが、ねえ。もともと石なんですよ。素人ノド自慢と、三ツの歌でしょう」\n「呆れた。おうかがいしますが、文化とは何ぞや? 農村といえどもですね。かりにも青年団が牛耳る文化祭でしょう。鎮守さまのお祭の余興とはちがうはずでしょう」\n「どうも恐れ入りましたね。まさか本職の芸人がこの村へ来てくれるわけもありませんのでね」\n「お金次第ですよ。お金をだして芸人をよんで、お金をとって見せる。そして、もうけなさい。文化祭はもうかるものですよ」\n「興行は不況だそうじゃありませんか。本職がもうからないのに、素人がもうかるはずはないでしょう」\n「素人だから、もうかります。文化祭ですからね。本職は文化祭がやれないので、気の毒なものですよ」\n「では、失礼ですが、アナタに文化祭の幹事をやっていただけませんか」\n「ええ、やってあげましょう。文化祭らしく、ワッとみなさんに景気をつけてあげましょう。たのしいものですよ。青春ですね」\n 意外また意外。いともアッサリとひきうけた。\n 当日から信二の家が文化祭企画本部になって、青年団の幹事連中が集合する。外れても自分の損にはならないようだから、ノータリンの坊っちゃんが何をやらかすかと面白ずくも手つだって、別に不平を云う者もいなかった。\n「ストリップだしたら、もうかるべい」\n という意見が圧倒的であったが、かの苦行僧はこれを静かに制して、\n「いけません。かりにも、文化祭ですよ。生活を高めるものが、文化です。ボクの意見としては、ジャズバンドと美貌の歌手をつれてきたいと思うのですが、それも純粋な芸人でなしに、大学生のジャズバンドですね」\n「アナタの母校ですね」\n「そういう関係は意味ないです。大学生のバンドにも本職ハダシのがあって、高給で一流キャバレーへ出演しているのもあるのです。その一流どころをよびましょう。美しい女子大学生の歌手が附属しているバンドを狙いましょう。東都一流の学生バンドと美貌のアルバイト歌手。日劇出演。青春の花形。微風と恋、恍惚のメロディ。こんな、広告、いかが? 三十円の入場料で最低千枚が目標です」\n 大半の人々はまさかと思っていた。どうせお流れだろうが、とにかくこれも一興と万事を信二にまかせた。\n 信二は青年団の団長に正式の契約書数枚を作らせて、これを握って出演契約をとりに上京した。数日して、目的通り契約をとって戻ったばかりでなく、青春の花形、微風と恋、恍惚のメロディ云々というビラ百枚と入場券五千枚を持ってきた。印刷屋にも青年団の契約書を入れてきただけで、手金も払っていない。この借金を撃退するのが、また彼の後日のタノシミなのである。\n 信二は青年団の重役連三十名の男女に切符を分配して、\n「近郷近在、手づるをもとめ、顔をきかせて、売れるだけ売って下さい。全力をあげることですね。売上げをあんまり使いこんじゃいけませんね。半分は持ってきて下さらなくちゃア、雑費が払えませんから」\n ニコリともしないで重大な訓示を云い渡した。男女三十名の重役連、訓示の重大さに気づいたのは、信二の家を辞してからであった。\n「売上げをあんまり使いこんじゃいけませんね、と。たしか、そう云ったねえ。アンマリ、と。アンマリか。ちッとはいいのかい?」\n「半分は持ってきて下さらなくちゃアと仰有ったわねえ」\n「ウウム。そうか。オイ。これだぜ。これを政治的フクミと云うんだ。今の言葉でな。そうか。血筋は争えないもんだなア。さすがに名門の子孫だよ。おそるべき政治的手腕だぜ。バカどころか、バカとみせて、見上げた腕じゃないか」\n「政治家ねえ」\n「おそれいった」\n にわかに認識が改った。\n\n ★" }, { "role": "assistant", "content": "\n 昭和大学のバンド一行はねむい目をこすりながら上野駅に集合したが、歌手の小森ヤツ子が二等でなければ乗らないと言いだしたので、この旅行は出発から情勢険悪になってしまった。\n 契約に際して二等車を指定するのがバンドマスターの義務である。三等に乗せるなぞとは芸術家を軽蔑している、というヤツ子の云い分であったが、これにはワケがあった。バンドマスターの谷とヤツ子はここ一週間ほど反目しあっていた。というのは、ヤツ子がキャバレーの常連の社長と飲みにでかけようとするのを谷が嫉いて、女給みたいなことをするな、バンドの名折れだぞ、と云ってヤツ子を怒らせてしまったからだ。\n「ドサ廻りの旅芸人のような旅行はイヤ。誇りを持ちたいのよ」\n ヤツ子はこう云い放った。この一行はまだ二等車で興行にでかけたことがなかったが、云われてみれば、なんとなく一理あるような云い分だ。そろそろ二等車で興行にでかけたいような気分になっていたからだ。\n これもヤツ子に思召しのある田沼が心配して、谷を物蔭によび、\n「ヤツ子さんの云い分も、もっともだ。どうだい、誇りをもとうじゃないか」\n「誇りをもちたいのは山々だが、まだ契約金を受けとっていないから、フトコロの問題なんだ。キミ、たてかえてくれるかい」\n「よせやい。そんな金があるぐらいなら、田舎へアルバイトにでるものですか。しかし、帰っちまうと困るから、ヤツ子さんだけ二等の切符買ってあげなさいよ」\n「そうだなア。一枚だけなら買えるんだ。仕方がねえ」\n 谷は恨みをのんで二等を一枚買った。ところが改札になると、いつのまにやら田沼も二等の切符を握っている。\n「アッハッハ。歌手は二等。バンドは三等。これは芸術の格だね。では、失礼」\n 田沼も歌手であった。彼はヤツ子を護衛するようにして二等車に乗りこんだ。バンド組の五名はそろって素寒貧、指をくわえて見送る以外に手がなかったのである。\n 小さな駅に降りて、そこから、またバスに乗らなければならない。\n「駅に出迎えもでていないのね」\n と、またヤツ子がイヤミを云った。重々もっともなイヤミではある。だから谷は一そう無念だ。\n「バスには二等がないそうで、どうも、相すみません」\n 腹立ちまぎれに、つい口をすべらしてしまったから、ヤツ子が顔色を変えた。自分だけ乗るつもりでタクシーを探したが、そんな気のきいた物があるような駅ではない。しかし、胸がおさまらないから、\n「私は歩いて行きます。どうぞ、お先に」\n「無理ですよ。三里もあるそうですから」\n「いいえ、歩きます」\n「こまるなア。じゃア、ボクも一しょに。キミたち、先に行ってくれたまえ。ボクたち、何か乗物さがして、追いつくから。歌手は真打だ。バンドが先にやってるうちに、静々とのりこむからね」\n「よせやい。ほかに乗物はありやしないよ」\n「モシ、モシ。発車いたします」\n「畜生め。ウーム」\n 仕方がない。バンドの五人はヤツ子と田沼を残してバスにのらざるを得なかった。\n「乗物をさがして、早く来てくれよ、な」\n「ああ、大丈夫」\n こういう次第で、バンドと歌手は別々になってしまった。歌手の到着が一時間もおくれたのである。\n「ワガママったら、ありやしないよ。美人を鼻にかけやがって」\n「悪く云うなよ。三里もある道歩くなんて意地はるとこ可愛いよなア」\n「歌手なんか、いらねえや。バンドの腕を見せてやるんだ」\n「そうはいかねえらしいぜ」\n とバンドの一人が楽屋の黒板を指さした。楽屋というのが小学校の教室だ。その黒板に例のポスターが一枚はってある。右下にマリリンモンローのような美女がタバコをかざして煙を吹いてる。左には薄い桃色の裸体美人。そして中央に「馬草村文化祭」美貌の女子大学生歌手。あこがれの明星。微風と恋、恍惚のメロディ。ああ、青春の文化祭。東都一流の大学バンド出演。\n「なア。オレたちのことなんか、サシミのツマほどしか書いてないぜ。馬草村のアンチャンは目が高いやア」\n「アドルムのみてえよなア」\n 一同ヤケを起して大声で喋っている。これを小耳にはさんだ信二がシメタと思った。\n もともと信二は自分のお金モウケを考えて文化祭にのりだしたわけではない。行きがかりでこうなったが、村の若い衆にうまい汁を吸わせてみても、自分は別に面白くもない。\n しかし、大学生のバンドをよぼうじゃないかと主張しはじめた時からなんとなく狙いはあった。田舎娘を相手にしても一向に心は浮かない。なんとかして意気な都会娘とネンゴロな交際を持ちたいものだと常日頃考えていたのであるが、文化祭を機会にそんな風になりたいものだという狙いはなんとなくあった。そこで女優、ダンサー、歌手、ストリッパー、いろいろギンミしたあげく、自分の好みにも合い、また見込みのありそうなのもアルバイトの女学生芸能家だと見当をつけた。そこで契約に上京した時もバンドよりも女学生歌手のフェースの方に主眼をおいて念入りにギンミしたのである。\n その小森ヤツ子がワガママを起しバンドとケンカしておくれてくるというのだから、これはうまいぞと思った。どこがうまいのか信二にもハッキリしないが、何事によらずチャンスというものは何もないところには起らない。何かがあれば、チャンスの見込みもあるから、したがって、うまいのである。モーローとチャンスの訪れを待つことは彼の大いに好むところで、半日や一日は物の数ではない。彼は文化祭の会場である小学校の門前で、モーローと小森ヤツ子の到着を待った。ヤツ子と田沼は一バスおくれて到着した。信二は進みでて、\n「どうも遠いところ御苦労さまです。皆さんお待ちかねですから、田沼さんは至急会場へいらして下さい。それから小森さんにはファンの方が昼食にお招きしたいとお待ちになっておりますが」\n「ずいぶんおくれちゃいましたけど、昼食の時間あるでしょうか」\n「ありますとも。では田沼さん。会場はあちらですから」\n 有無を云わさずヤツ子をさらわれた田沼はいぶかしそうな顔をして仕方なしに会場へ向った。信二はヤツ子を自宅へ案内した。\n「私まだ歌手になって算えるほどしかステージに立たないのですけど、ファンの方って、どんな方?」\n「イエ。ボクなんです」\n「あら、まア」\n「招待をうけていただいて光栄の至りです」\n 自分でコーヒーをわかしたりして、まめまめしくもてなした。\n「あら、大変。もう会場へ行かなくちゃア」\n「そうですね。ですが田舎のことですから、ちょッと唄って下さるだけで結構なんですよ。あとはバンドと田沼さんがやって下さるでしょうから」\n「そうも行きませんわ」\n「唄のあとで、またお目にかかれたらと思うんですが」\n「ええ」\n ヤツ子は流行歌を五ツ唄って退いた。そのまま姿を現さない。少憩してバンドと田沼は再び力演に及んだが、雨天体操場に満員鈴ナリの若い衆、\n「アマッコだせえ。アマ、どうしたア」\n ついに足ふみならして騒ぎだす。そこで五助が進みでて、\n「エエ、会場の皆さまに申上げます。小森ヤツ子嬢は急病のため残念ながら再演は不能になりました。小森嬢に代りまして、さらに田沼先生が優美なメロディを唄って下さいます。静粛、々々」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n安どもらひの蓮のあけぼの\n\n かう云ふ川柳の発句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)のみならず後代の川柳も全部俗悪と云ふことは出来ない。それ等も亦封建時代の町人の心を――彼等の歓びや悲しみを諧謔の中に現してゐる。若しそれ等を俗悪と云ふならば、現世の小説や戯曲も亦同様に俗悪と云はなければならぬ。\n 小島政二郎氏は前に川柳の中の官能的描写を指摘した。後代は或は川柳の中の社会的苦悶を指摘するかも知れない。僕は川柳には門外漢である。が、川柳も抒情詩や叙事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう、尤も江戸伝来の夏羽織か何かひつかけながら。\n\n心より詩人わが\n喜ばむことを君知るや。\n一人だに聞くことを\n願はぬ詞を歌はしめよ。\n\n\n 二十六 詩形\n\n お伽噺の王女は城の中に何年も静かに眠つてゐる。短歌や俳句を除いた日本の詩形もやはりお伽噺の王女と変りはない。万葉集の長歌は暫らく問はず、催馬楽も、平家物語も、謡曲も、浄瑠璃も韻文である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上都々逸と変りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒ませることをや。\n 尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新体詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に掴めと言ひたいのである。\n 僕等は皆どう云ふ点でも烈しい過渡時代に生を享けてゐる。従つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から来るかも知れない。が、過去からも来る訣である。アポリネエルたちの連作体の詩は元禄時代の連句に近いものである。のみならず数等完成しないものである。この王女を目醒まさせることは勿論誰にも出来ることではない。が、一人のスウインバアンさへ出れば――と云ふよりも更に大力量の一人の「片歌の道守り」さへ出れば......\n 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。何か互に響き合ふものが――僕はその何かを捉へることは勿論、その何かを生かすことも出来ないものの一人であらう。しかしその何かを感じてゐることは必ずしも人後に落ちないつもりである。こんなことは文芸上或は末の末のことかも知れない。唯僕はその何かに――ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹かれるのである。\n\n 二十七 プロレタリア文芸\n\n 僕等は時代を超越することは出来ない。のみならず階級を超越することも出来ない。トルストイは女の話をする時には少しも猥褻を嫌はなかつた。それは又ゴルキイを辟易させるのに足るものだつた。ゴルキイはフランク・ハリスとの問答の中に「わたしはトルストイよりも礼儀を重んじてゐる。若しトルストイを学んだとしたらば、彼等はそれをわたしの素性の為と――百姓育ちの為と解釈するであらう」と正直に衷情を話してゐる。ハリスは又その言葉に「ゴルキイの未だに百姓であることはこの点に――即ち百姓育ちを羞ぢる点に露はれてゐる」と註してゐる。\n 中産階級の革命家を何人も生んでゐるのは確かである。彼等は理論や実行の上に彼等の思想を表現した。が、彼等の魂は果して中産階級を超越してゐたであらうか? ルツテルは羅馬加特力教に反逆した。しかも彼の仕事を妨げる悪魔の姿を目撃した。彼の理智は新しかつたであらう。しかし彼の魂はやはり羅馬加特力教の地獄を見ずにはゐられなかつたのである。これは宗教の上ばかりではない。社会制度の上でも同じことである。\n 僕等は僕等の魂に階級の刻印を打たれてゐる。のみならず僕等を拘束するものは必ずしも階級ばかりではない。地理的にも大は日本から小は一市一村に至る僕等の出生地も拘束してゐる。その他遺伝や境遇等も考へれば、僕等は僕等自身の複雑であることに驚嘆せずにはゐられないであらう。(しかも僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて来るとは限らないのである。)" }, { "role": "assistant", "content": " カアル・マルクスは暫らく問はず、古来の女子参政権論者はいづれも良妻を伴つてゐた。科学上の産物さへかう云ふ条件を示してゐるとすれば、芸術上の作品は――殊に文芸上の作品はあらゆる条件を示してゐる訣である。僕等はそれぞれ異つた天気の下やそれぞれ異つた土の上に芽を出した草と変りはない。同時に又僕等の作品も無数の条件を具へた草の実である。若し神の目に見るとすれば、僕等の作品の一篇に僕等の全生涯を示してゐるのであらう。\n プロレタリア文芸は――プロレタリア文芸とは何であらう? 勿論第一に考へられるのはプロレタリア文明の中に花を開いた文芸である。これは今日の日本にはない。それから次に考へられるものはプロレタリアの為に闘ふ文芸である。これは日本にもないことはない。(若しスウイツルでも隣国だつたとすれば、或はもつと生まれたであらう。)第三に考へられるはコムミユニズムやアナアキズムの主義を持つてゐないにもせよ、プロレタリア的魂を根柢にした文芸である。第二のプロレタリア文芸は勿論第三のプロレタリア文芸と必ずしも両立しないものではない。しかし若し多少でも新しい文芸を生ずるとすれば、それはこのプロレタリア的魂の生んだ文芸でなければならぬ。\n 僕は隅田川の川口に立ち、帆前船や達磨船の集まつたのを見ながら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」を感じずにはゐられなかつた。かう云ふ「生活の詩」をうたひ上げることはかう云ふ生活者を待たなければならぬ。少くともかう云ふ生活者にずつと同伴してゐなければならぬ筈である。コムミユニズムやアナアキズムの思想を作品の中に加へることは必ずしもむづかしいことではない。が、その作品の中に石炭のやうに黒光りのする詩的荘厳を与へるものは畢竟プロレタリア的魂だけである。年少で死んだフイリツプは正にかう云ふ魂の持ち主だつた。\n フロオベエルは「マダム・ボヴアリイ」にブウルジヨアの悲劇を描き尽した。しかしブウルジヨアに対するフロオベエルの軽蔑は「マダム・ボヴアリイ」を不滅にしない。「マダム・ボヴアリイ」を不滅にするものは唯フロオベエルの手腕だけである。フイリツプはプロレタリア的魂の外にも鍛へこんだ手腕を具へてゐる。するとどう云ふ芸術家も完成を目ざして進まなければならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のやうに結晶したまま、僕等の子孫の遺産になるのである。たとひ風化作用を受けるにしても。\n\n 二十八 国木田独歩\n\n 国木田独歩は才人だつた。彼の上に与へられる「無器用」と云ふ言葉は当つてゐない。独歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出来上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」......いづれも器用に出来上つてゐる。若し彼を無器用と云ふならば、フイリツプも亦無器用であらう。\n しかし独歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戯曲的に発展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出来なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は実にそこに存してゐた。\n 独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臓を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞しい実行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその為に彼等よりもはるかに静かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。......\n しかし更に独歩を見れば、彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臓の為に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「画の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も独歩を愛したのは偶然ではない。\n 柔い心臓を持つてゐた独歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村氏や田山花袋氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。独歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の独歩の愛読書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史観も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に触れたことである。\n けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭脳の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武蔵野」の小品に変らざるを得ない。「武蔵野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雑木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。徳富蘆花氏の「自然と人生」は「武蔵野」と好対照を示すものであらう。自然を写生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帯びてゐる。のみならず広いロシアを含んだ東洋的伝統の古色を帯びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある為に「武蔵野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは独歩の拓いた「武蔵野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覚えてゐるのは吉江孤雁氏一人だけである。当時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)\n 独歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蛮な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭脳は死に瀕した彼に「病牀録」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。\n 若し独歩の作品中、最も完成したものを挙げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた独歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた独歩を――或は最も幸福だつた独歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ独歩の作品に近いものだつた。)\n 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人独歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。......\n\n 二十九 再び谷崎潤一郎氏に答ふ\n\n 僕は谷崎潤一郎氏の「饒舌録」を読み、もう一度この文章を作る気になつた。勿論僕の志も谷崎君にばかり答へるつもりではない。しかし私心を挾まずに議論を闘はすことの出来る相手は滅多に世間にゐないものである。僕はその随一人を谷崎潤一郎氏に発見した。これは或は谷崎氏は難有迷惑であると云ふかも知れない。けれども若し点心並みに僕の議論を聞いて貰へれば、それだけでも僕は満足するのである。\n 不滅なるものは芸術ばかりではない。僕等の芸術論も亦不滅である。僕等はいつまでも芸術とは? 云々のことを論じてゐるであらう。かう云ふ考へは僕のペンを鈍らせることは確かである。けれども僕の立ち場を明らかにする為に暫く想念のピンポンを弄ぶとすれば、――\n (1) 僕は或は谷崎氏の言ふやうに左顧右眄してゐるかも知れない。いや、恐らくはしてゐるであらう。僕は如何なる悪縁か、驀地に突進する勇気を欠いてゐる。しかも稀にこの勇気を得れば、大抵何ごとにも失敗してゐる。「話」らしい話のない小説などと言ひ出したのも或はこの一例かも知れない。しかし僕は谷崎氏も引用したやうに「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家の価値は極まる」と言つたのである。これは勿論「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない云々の言葉とは矛盾しない。僕は小説や戯曲の中にどの位純粋な芸術家の面目のあるかを見ようとするのである。(「話」らしい話を持つてゐない小説――たとへば日本の写生文脈の小説はいづれも純粋な芸術家の面目を示してゐるとは限つてゐない。)「詩的精神云々の意味がよく分らない」と言つた谷崎氏に対する答はこの数行に足りてゐる筈である。\n (2) 谷崎氏の所謂「構成する力」は僕にも理解出来たやうに感じてゐる。僕も亦日本の文芸に――殊に現世の文芸にかう云ふ力の欠けてゐることを必しも否むものではない。しかし若し谷崎君の言ふやうにかう云ふ力の現れるのは必しも長篇に限らないとすれば、前に僕の挙げた諸作家もやはりかう云ふ力を持ち合せてゐる。尤もこれは比較的な問題であるから、或標準の上に立つて有無を論じても仕かたはないであらう。なほ又僕の志賀直哉氏に及ばないのを「肉体的力量の感じの有無にある」と云ふのは全然僕には賛成出来ない。谷崎氏は僕自身よりも更に僕を買ひ冠つてゐる。「僕等は僕等自身の短所を語るものではない。僕等自身語らずとも他人は必ず語つてくれるものである。」――メリメエは彼の書簡集の中にかう云ふ老外交家の言葉を引用した。僕も亦この言葉を少くとも部分的に守るつもりである。\n (3) 「ゲエテの偉いのはスケールが大きくて猶且純粋性を失はないところにある」と言ふ谷崎氏の言葉は中つてゐる。これは僕にも異存はない。しかし雑駁である大詩人はあつても、純粋でない大詩人はない。従つて大詩人を大詩人たらしめるものは、――少くとも後代に大詩人の名を与へしめるものは雑駁であることに帰着してゐる。谷崎氏は「雑駁な」と云ふ言葉を下品に感じてゐるのであらう。それは僕等の趣味の相違である。僕はゲエテに「雑駁な」と云ふ言葉を与へた。しかしそこには必しも「騒々しい感じ」を含んでゐない。若し谷崎氏の語彙に従ふとすれば、「包容力の大きい」と云ふ言葉と同意味にしても善いのである。唯この「包容力の大きい」と云ふことは古来の詩人を評価する上に余り重大視されてゐはしないであらうか? ボオドレエルやラムボオを大詩人とする一群はユウゴオの上に円光をかけない。僕は彼等の心もちに少からず同情してゐる。(元来ゲエテは僕等の嫉妬を煽動する力を具へてゐる。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさへゲエテに欝憤を洩らしてゐるのは少くない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇気もないものである。ゲエテは伝記の教へる所によれば、原稿料や印税の外にも年金や仕送りを貰つてゐた。彼の天才は暫く問はず、その又天才を助長した境遇や教育も暫く問はず、最後に彼のエネルギイを生んだ肉体的健康も暫く問はず、これだけでも羨しいと思ふものは恐らくは僕一人に限らないであらう。)\n (4) これは谷崎氏に答へるのではない。僕等二人の議論の相違は「おのおの体質の相違になりはしないか」と云ふ谷崎氏の言葉に対し、ちよつと感慨を洩らしたいのである。谷崎氏の愛する紫式部は彼女の日記の一節に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち、まなかきちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人にことならんと思ひ好める人は、かならず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、......もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじく、あだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん」と云ふ言葉を残した。僕は男根隆々たる清家の少女を以て任ずるものではない。けれどもこの文章を読み、(紫式部の科学的教養は体質の相違に言及するほど進歩してゐなかつたにしろ)はるかに僕を戒めてゐる谷崎氏を感じずにはゐられなかつた。今再び谷崎氏に答へるのに当り、かう云ふ感慨を洩らすのは議論の是非を暫く問はず、「饒舌録」の文章のリズムの堂々としてゐる為ばかりではない。往年深夜の自動車の中に僕の為に芸術を説いた谷崎潤一郎氏を思ひ出したからである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙しいあいだに何となく春らしい暢やかな気分を誘い出すものであった。\n わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。(大正13・12「女性」)\n\n\n\n新旧東京雑題\n\n\n祭礼\n\n 東京でいちじるしく廃れたものは祭礼である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。\n 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳き出すというわけではなく、氏子の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。\n わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨があって、東京府下だけでも丸潰れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。\n 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。\n 深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡したことと察せられる。\n そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会や大阪の天満祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。\n\n湯屋\n\n 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯とか湯屋とかいうのが普通で、元禄のむかしは知らず、文化文政から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。\n 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。\n 五月節句の菖蒲湯、土用のうちの桃湯、冬至の柚湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。\n むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方が据えてあって、客の方では「お拈り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。\n 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。\n 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。\n\nそば屋\n\n そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛・掛は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。\n 私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺かずである。山路愛山氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞はいつか消滅するであろう。\n 人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。\n 地方の人が多くなった証拠として、饂飩を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。\n かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴そばとか夜鷹そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥の「嶋鵆月白浪」は明治十四年の作であるが、その招魂社鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。\n そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。(昭和2・4「サンデー毎日」)" }, { "role": "assistant", "content": "\n\n\nゆず湯\n\n\n一\n\n\n 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡手拭で額をふきながら出て来た。\n「旦那、徳がとうとう死にましたよ。」\n「徳さん......。左官屋の徳さんが......。」\n「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」\n こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸越しに白く見えた。\n 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲って、輪切りの柚があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実の強い匂いが籠っているのも快かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。\n「今日は。」\n「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。\n 彼は近所の山口という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。\n「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊いた。\n「ええ、けさ七時頃に......。」\n「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」\n「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」\n「そうですか。気の毒でしたね。」\n「なにしろ、気の毒でしたよ。」\n 鸚鵡返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船のそばへたくさんの小桶をならべて、真赤に茹られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸っていた。\n 表には師走の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至の獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。\n「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」\n わたしは徳さんの死から惹いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。\n お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父さんは立派な左官の棟梁株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰の俵や土舟などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋があった。どういうわけか、お玉さんの家とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。\n わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。\n 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉をつけていた。\n となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまりいい感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との交際を避け、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たち子供仲間から左官屋の鬼婆と綽名されていた。\n お玉さんの家の格子のまえには古風の天水桶があった。私たちがもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんはたちまちに格子をあけて、「誰だい、いたずらするのは......」と、かみ付くように呶鳴りつけた。雨のふる日に路地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでも障る音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに、たびたびこの阿母さんから「誰だい」と叱られた。\n 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにも一切かかりあったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や端唄を歌ったりしていた。お玉さんが家じゅうで一番陽気な質らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし阿母さんや兄さんがこういう風変りであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。時どきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "猛きヘクト,ル敵とする一人の勇士勵さむ』\n\n藍光の目のアテーネー其言聞きてうなづきぬ。\nしか計らへる二位の神、神意悦ぶ計らひを\n王プリアモス生める息*ヘレノス胸に感知して、 45\n行きて英武のヘクトール訪ひて向ひて陳じ曰ふ、\n『王プリアモス生める息、智は神に似るヘクトール、\n君と我とは同じ胞、君今我に聽くべきか?\nトロイア及びアカイアの軍勢ひとしく坐らしめ、\nアカイア勢の中にして至剛の者を君挑め、 50\n戰慄すべき決鬪に來りて我と戰へと。\n死の運命は未だなほ君に到らず、しかくわれ\n天上不死の神靈の聲を正しく聞き取りぬ』\n\n45 VI 76.\n\n\nしか陳ずればヘクトール聞きておほいに歡喜しつ、\n陣中行きて其槍のもなかを握り、トロイアの 55\nすべての部隊おし留む、衆は即ち地に坐しぬ。\n黄銅鎧ふ自方をばアガメムノーン坐せしめぬ。\n藍光の目のアテーネー、銀弓の神アポローン、\n兩軍眺め喜びて、アイギス持てる天王の\n聖なる樫の樹の上に、身を*猛禽の形にして、 60\n坐せばトロイア、アカイアの兩軍おの〳〵密集の\n部隊をなして地に坐しぬ、盾と兜と槍並めて。\n\n60 神々の變形、XIV 290, XIII 62 にも。\n\n\nあらたに起るゼピュロスの氣息巨海にかかる時、\n下に海潮その爲めに黒むが如き樣見せて、\nアカイア及びトロイアの兩軍共に原上に 65\n坐せり。其時ヘクトール間に立ちて宣し曰ふ、\n\n『われに聞けかし、胸中の心の命を今曰はむ、\nトロイア勢よ、脛甲の善きアカイアの軍勢よ。\n高き位のクロニオーンわが*盟約を遂げしめず、\n禍難心にたくらみて、こを兩軍に課せんとす。 70\nやがて汝等壁高きトロイア城を奪はんか、\n或は汝等水軍のほとりわれらに敗れんか。\n全アカイアの軍勢の諸將汝の軍にあり、\n其中一人其心わが敵たるを望むもの、\nこゝに來りてヘクトールわれと勝敗決せずや? 75\n今われ宣んす、わが言の證者たれかしクロニオーン!\n若し黄銅の鋭刄に我を倒さば、わが武具を\n剥ぎ取り之を水軍の中に持ち去れ、然れども\nわれの屍體は返すべし、かくてトロイア城中の\n男女ひとしくわが死屍に火葬の禮を行はむ。 80\n若しアポローン光榮を我に與へて、我彼を\n打たば*武裝を剥ぎ取りて聖イリオンに運び行き、\n神、銀弓のアポローン祭る祠堂に掲ぐべし、\n而して死屍は汝等の水師の中に返すべし、\nさらば長髮のアカイアの衆人之を葬りて、 85\n*ヘレースポントス廣原のほとりに墓を築くべし。\nさらば將來生るべき人のあるもの、舟にのり、\n暗緑そむる大海を漕ぎめぐりつゝ見て曰はむ、\n「こは古の遠き日の人の墳塋、すぐれたる\n彼を光榮のヘクトール戰ひ勝ちて倒しぬ」と。 90\nかくこそ曰はめ、かくありて我が名聲は亡ぶまじ』\n\n69 IV 64―72 參照、本篇 69―72 を後世の添加とするはリーフ。又曰く先に III に於てメネラオスとパリスとの決鬪あり、而してトロイア軍の盟約の破壞あり、今また再度の決鬪は詩作上一貫の道に非ず、IIIよりも本篇は古き作なるべし云々。\n82 鹵獲の武具を神に捧ぐるは古來の習。\n86 廣き意味に於ての。\n\n\nしか宣んすれば默然と衆人共に鳴靜む。\n其挑戰を拒まんは恥辱、うくるは身の危難、\nやがて勃然メネラオス身を振り起し、憤慨の\n吐息もあらく衆人を罵詈の言句に叱り曰ふ、 95\n\n『ああ嗚呼汝ら大言者、汝ら今はアカイアの\n男兒に非ず、婦女子のみ、ダナオイ族の一人も、\n彼ヘクト,ルに向はずば何ら無上の屈辱ぞ!\nああああ汝悉く*水と土とに成りはてよ、\n汝ら全く譽なく皆茫然とこゝに座す。 100\nいざ今彼に向ふべく武裝を我は整へむ、\n勝敗いづれ、天上のたゞ神明の旨にあり』\n\n99 咒詛の意を包む、「空しく元の水土に歸せよ」此罵詈の言メネラオスに相應せず、全軍は彼のヘレネーの故に惱む。\n\n\nしかく宣んしてメネラオス華麗の武具を身に裝ふ。\nああメネラオス! その時にアカイア諸王立ちあがり、\nなんぢを止め、更にまたアガメムノーン自らも、 105\n汝の右の手を取りて汝に叫ぶなかりせば、\n汝の命はヘクト,ルの手中に遂に落ちつらむ。\nトロイア名將ヘクトール、はるかに汝の上にあり。\n\nアガメムノーン叫び曰ふ、『汝狂へり、メネラオス、\nその狂何の要もなし、扣へよ怒はげしとも、 110\n汝に優る英豪に敵し戰ふこと勿れ、\nプリアミデース・ヘクトール、彼を諸將は皆恐る、\nペーレーデース・アキリュウス遙かに汝に優るもの、\nそれすら恐るヘクトール、彼に敵すること勿れ、\n汝今行き友軍の間に汝の席占めよ。 115\nアカイア軍は敵すべき他の勇將を起たしめむ。\n其者誠に勇にして戰つねに飽かずとも、\n凄き兵亂、恐るべき挌鬪逃れ出でん時、\n*思ふに彼は喜びて疲勞の膝を息ませむ。』\n\n119 ヘクトールと戰ひ生還せば幸ならむ。\n\n\nアガメムノーンかく宣し、その愛弟を説き諭す、 120\n理の當然にメネラオス聽けり、その時喜びて\n彼の肩より戰裝を從者ら共に解きおろす、\nついで老將ネストール立ちてアカイア軍に呼ぶ、\n\n『ああああ悲し、*大哀はアカイア軍に降り來ぬ。\nああ汝等ヘクト,ルを恐れ震ふを耳にせば、 125\nいかに嘆かんペーリュウス、騎馬の老將すぐれたる\nミルミドネスの評定者、また辯論者、そのむかし、\n*其館中に我に問ひ、アルゴス族の血統と\n素生を聞きて喜べるああかれ老雄ペーリュウス、\n高く手を擧げ神明に祈り求めん、魂魄の 130\n肢體を離れ暗深き冥王の府に落ち行くを。\nああわが天父クロニオーン、又アテーネー、アポローン、\nむかしペーアの城壁のほとり、急流ケラドーン、\n又*ヤルダノス岸上に*ピュリオイ族と槍使ふ\nアルカデス族戰ひし、其時我は若かりき。 135\n其日眞先に戰ひて猛勇神の如くなる\n*エリュウタリオーン穿ちしはアレーイトスの着し武裝。\nアレーイトスは戰爭に弓を用ゐず、長槍を\n使はず、獨り鐵の矛揮ひて敵の堅陣を\n破るが故に人々は、帶美はしき女性まで、 140\n矛の勇士と綽名しき。アレーイトスを勇將を\n力に因らず計略に因り、狹隘の道の上、\n打ち倒せしは*リュコルゴス、そこには彼れの鐵の矛、\n彼の破滅を救ひ得ず、不意に襲ふてリュコルゴス、\n槍もて腹部貫けば彼れは地上に打ち斃る、\nかくて軍神アレースの賜へる鎧剥ぎ取りつ、\nその後つねに戰亂の場に其武具身に着けつ、\nやがてさしものリュコルゴスその殿中に老いし時、\nエリュウタリオーン愛臣に之を讓りて穿たしむ。\n之を穿ちて傲然とあらゆる勇士挑みしも、 150\n勇士等共に恐ぢ震ひ彼に抗するものあらず。\n其時衆中年齡に於て最も若かりし\n我奮然と進み出で、かの勇將に手向へる\n戰の果、光榮をわれに賜へりアテーネー、\n躯幹最も大にして、勇氣最も勝れたる 155\n彼はわが手に倒されて大地の上に身を延しぬ。\n其時の如我れ若く勇力今に續き得ば、\n堅甲光るヘクト,ルに忽ち向ひ戰はむ。\n汝らアカイア全軍の中の至剛と誇るもの、\n汝ら立ちてヘクト,ルと戰ふことを敢てせず』 160\n\n124 I 254.\n128 ネストール先にペーリュウスの舘に來りアキリュウスを訪ひトロイアに向はしめき。(XI 765)\n134 ヤルダノスはセミチク起原ヨルダンと同じ。" }, { "role": "assistant", "content": "134 ネストールの族。\n137 矛の勇士アレーイトスをリュコルゴスは倒して其鎧を奪ひ後之をエリュウタリオーンに讓る。其エリュウタリオーンをネストール打ち取る\n143 六歌一三〇のと同名異人。\n\n\n老將しかく罵れば勇將九人立ち上がる、\n眞先きに早く衆の王アガメムノーン身を起し、\n次にチュウヂュウス生みなせるヂオメーデース、又次に\n勇氣飽く迄逞しき同名二人アイアース、\n彼らの後にイドメネー、また彼の友英豪の 165\nメーリオネース、其勇はアレース神に似たるもの、\n*ユウリュピロスは之に嗣ぐ、ユウアイモーン生める息、\nつづくは*トアス、其父はアンドライモーン、また次に\n神明に似るオヂュシュウス、みなヘクト,ルと戰はん。\n\n167 II 638.\n168 II 736.\n\n\nゲレーニャ老將ネストール其時彼らに告げて曰ふ、 170\n『何人撰に當るべき? そを籤に因り決めしめよ。\n善き脛甲のアカイアの全軍彼を喜ばむ。\n彼また自ら心中に深く喜悦を感ずべし、\n凄き兵亂、恐るべき挌鬪逃れ出でん時。』\n\nしか宣んすれば諸將軍おのおの籤に記號附け、 175\nアガメムノーン總帥の兜の中に之を入る。\nその時衆は高らかに其手を擧げて大空を\n仰ぎ、各神明に祈願捧げて陳じ曰ふ、\n『神、願くはアイアース、ヂオメーデース、あるは又\n黄金富める*ミケネーの王に此籤落ちしめよ』 180\n\n180 アガメムノーン。\n\n\n衆は斯く曰ふ、ゲレーニャの老將兜打振れば、\n籤は兜の外に出づ、正しく衆の望むもの、\nアイアースのそれ、傳令使即ち之を手に取りて、\n右より始め順々に諸將のもとを巡り行く。\nアカイア陣中他のものは之を認めず、こを知らず、 185\nかくてあまねく經𢌞りて、末アイアース其籤に\n記し兜に投じたる勇士のもとに到るとき、\nアイアース手をさしのぶる、使者近よりて其籤を、\n渡せば*記號認め得て勇將軍そゞろ歡喜しつ、\n脚下に之を地に投じ衆に向ひて叫びいふ、 190\n\n189 これに因らば當時文書の術あることは明かならず。 VI 168 と矛盾す。以上はある評家の説なれど此場合は記合を用ゐるが正當なり。\n\n\n『見よや同僚この籤を! 嬉し正しく我の者、\n『我は正しく大豪の彼ヘクト,ルに打ち勝たむ。\nさはれ今我戰裝を着くる間にわがために、\nクロニオーン雷霆の神に祈願をたてまつれ、\n聲をな立てそ、トロイアの軍勢之を聞き取らむ、 195\n否、公然と曰ふもよし、我何ものも恐れねば。\n何もの敢て勇力にはた計略に意のままに、\n我を敗らむ、サラミスに生れ育ちしアイアース、\n我甘んじて敗れむや! われ戰術に暗からず。』\n\nしか陳ずれば雷霆のクロニオーンに祈りつゝ、 200\nアカイア軍勢天上を仰ぎてかくも叫び曰ふ、\n『イデーの嶺にまつらへる至上至高のクロニデー!\n勝利並びに光榮を賜へ、われらのアイアスに。\nさはれ等しくヘクト,ルを愛さば共に兩雄に\n賜へ、等しき勇力を、賜へ等しき光榮を』 205\n\n然く衆軍祈るまに黄銅光る鎧着つ、\n武具一切を身のめぐり整へ了るアイアース、\nさながら巨大のアレースの進むが如く驅けいだす、\n雷霆の神クロニオーン荒き戰果すべく、\n命じ進むる諸の勇士の中に軍神の 210\n進むが如くアカイアの堅き城壁アイアース、\n大身の槍を打ち揮ひ、顏面凄く笑浮べ、\n歩武堂々と軍勢の中より立ちて馳け出づる――\nその勇猛の姿見てアカイア軍は歡喜しつ、\nトロイア軍は戰慄の肢體めぐるを禁じ得ず。 215\nヘクトールなほ心臟の鼓動高まる、然れども\n挑戰われより初むれば逃避するを得べからず、\nはた退きて同僚の隊伍の中に混じ得ず。\n近きに迫るアイアース、巨塔に似たる盾を取る――、\n牛七頭の皮重ね、更に其上黄銅を 220\n張りし大楯、*ピュレーの地住める名匠チュキオスの\n精を盡して彼のため造りしところ、燦爛の\n光を放つ黄銅は第八層を成せる盾、\n其盾胸の前にしてテラモニデース・アイアース、\n近く英武のヘクト,ルに迫り威嚇の言放つ、 225\n\n221 ボイオーチアーの一市。(II 800)\n\n\n『知れ明かに、ヘクトール、威は獅子王の如くして、\n敵の軍陣打ち碎くアキルリュウスを外になほ、\nアカイア陣中剛勇の將軍こゝに數あるを。\nああアキリュウス、彼は今潮に浮ぶ曲頸の\n船中殘り衆の王アガメムノーンに憤る。 230\n汝を敵に戰はんわが同輩は數多し、\n起て今汝、いざわれと戰ひ、勝負決すべし』\n\n堅甲光るヘクトールその時答へて彼にいふ、\n『神より生れしアイアース・*テラモーニオス、衆の將、\n戰鬪の技覺えなき弱き小兒を見る如く、 235\n或は女性見る如く我を侮ること勿れ、\n我れ戰鬪の技を知り善く殺戮の技を知る、\n我れ牛革の大楯を右に左に打振りて、\n常勝の威を振ふべく勇み戰ふ技を知る、\n我れ迅速の馬の驅る兵車の上の馳驅を知る、 240\n我れ健脚を踏み鳴らすアレース神の舞踏知る、\nされどさすがの勇猛の汝を我は埋伏の\n途には打たず、打つべくばわれ公に戰はむ』\n\n234 テラモニデースに等し。\n\n\nしかく叫びて影長く曳く大槍を打ち飛ばし、\n革七重の恐るべきテラモーンの子の盾に當て、 245\nまづ貫ぬくは外の端、第八枚の黄銅皮、\n鋭き槍は六枚の革つんざきて内に入り、\n第七枚に觸れて止む。やがて續きておのが順、\n神より生れしアイアース影長く曳く槍飛ばし、\nプリアミデース・ヘクトール持つ圓楯に打ち當てつ、 250\nその燦爛の大楯を鋭き槍は貫ぬきて、\n巧窮むる胸甲の裏をかきつゝ進み入り、\n利刄は更に脇腹のかたへに被服つんざきぬ。\n敵はその時身をそばめ死の運命を免がれぬ。\nついで兩將手を延して各々槍をぬきとりつ、 255\n奮然として彼と此互に襲ひ、生肉を\n食ふ獅子王見る如く、暴べる野猪を見る如し。\nプリアミデース敵將の盾のもなかを槍あげて、\n突けど黄銅貫かず、鋭刄脆く先曲る。\n今奮進のアイアース、敵の盾打ち猛然と 260\n貫き通しヘクト,ルを勇み乍らもよろめかす。\n見よ鋭刄は彼の頸觸れて鮮血迸る、\n堅甲光るヘクトールされど戰鬪まだ止めず、\n數歩すざりて路の上其目に觸れし巨大なる\n黒き巖石逞しき腕に取り揚げ振り飛ばし、 265\nアイアス持てる七重の盾を目がけて投げつけつ、\n盾のもなかの浮彫を打てば鏘然鳴りひゞく、\n續いてやがておのが順、更に一層のおほいなる\n石振り上ぐるアイアース、怪力こめて打ち當てつ、\n碾臼の石見る如き巨大の打撃盾碎き、 270\n盾に潰され打たれたる敵將の膝疵つけて、\n身を仰向きに倒れしむ、アポローン之を引き起す。\nついで兩將劔を取り互に迫り近きて、\n打たんずる折、神明と人との使、彼と此、\nトロイア及び黄銅を鎧ふアカイア軍勢の 275\n中より來るイダイオス、タルチュビオスも細心に。\n兩使即ち兩將の間に笏をさし入れつ、\n忠言馴るるイダイオス知慮ある使者は宣し曰ふ、\n\n『汝等二人戰をやめよ、爭ふこと勿れ、\n汝等共に雷霆のクロニオーンのめづる者、280" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "吉良の殿様よい殿様\n赤いお馬の見廻りも\n浪士にうたれてそれからは\n仕様がないではないかいな、――\n\n 巷間に流布されている俗謡は吉良郷民の心理を諷したものであろう。まったく仕様がない。メイファーズである。人間万事塞翁が馬、――何が起るか見当もつかないところに人間の宿命があるのであろう。終りよければすべてよしというのはシェークスピアの戯曲であるが、家庭を愛し、隣人に慕われ、善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終りに近づこうとするに及んで、運命がだしぬけに逆転する。\n もし、私の郷里の殿様である吉良上野が元禄十三年の秋、中風か何かで死んでいたとしたら、終戦後、戦争に関係のある英雄豪傑がことごとく抹殺された今日の歴史教科書の中においては追放をうけない史上の人物として、メモランダムケースによる「好ましからざる人物」の折紙をつけられる筈もなく、名君吉良上野の令名は日本全国を風靡していたであろう。\n まったく惜しいことをしたものである。幸不幸、運不運のわかれ目は間一髪、しまったと思ったときはもうおそい。因果応報なぞというのは嘘の皮である。\n 私の郷里は正確にいうと愛知県幡豆郡横須賀村であるが通称「吉良郷」と呼ばれ、後年この土地に任侠の気風が汪然として沸ぎりたったのも、彼等が尊敬措く能わざる領主、吉良上野に対する愛情の思い止みがたきものに端を発しているといえないこともない。いやいえないどころか、世を怨み、運命に憤る庶民の感情は三百年間、大地に沁みとおる水のごとく綿々として今につづいているのである。\n もし嘘だと思ったら「吉良郷」まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁いたら、どんな結果を生ずるか、私(作者)といえども軽々しく保証のかぎりではない。\n 村には「吉良史蹟保存会」というものがあって、名君行状の数々は余すところなく調査しつくされているが、「保存会」から刊行しているパンフレットの中にある年譜にも次のような一節が書き加えられている。\n「世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙に遑あらず、これすべて芝居浪花節の題をもって史実なりと誤認するより起る。宮迫村出生の清水一学、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の斎藤清左衛門等を、松の間刃傷後、上杉家より護衛のため附け人として来たるというがごときその一例にして真に嗤うに堪えぬ、云々」\n 嗤うに堪えぬ。どころか彼等の怒りは心頭に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というものがあった。赤馬は上野介の愛撫した彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者もつれず領内の巡視に出かける。そのときの上野介は宗匠頭巾をかぶった好々爺で彼は道で、すれちがう誰彼の差別もなく、和やかな微笑を湛えて話しかけた。\n 菜種の黄、レンゲの紫に彩られた田舎道に領主の赤馬が絵のようにうかびあがると鼻たれ小僧どもがわいわい騒ぎながら駈けあつまってくる。\n 春の陽ざしにゆるやかな影を刻んで、のろのろと動いてゆく赤馬の姿の愉しさが象徴するものは上野介の人徳ででもあった。\n 領民の不平や不満は細大もらさず一つとして領主からとりあげられぬものはない。この好々爺は、気が向くと、細葉(ホソバ)の垣をめぐらした百姓家の前へ馬をつなぎ、\n「いい天気じゃのう、ああ咽喉が乾いた、――茶を一杯所望するぞ」\n と、屈託のない声をかけながら、軒の低い百姓家の暗い土間の中へのっそりと入ってゆく。\n「これは御領主さま」\n 野良着のままの老百姓が、裏で働いている。女房に、それ茶を出せ、それ座蒲団を、なぞといっているあいだに彼は縁ばたに腰をおろす、下肥えのにおいがどこからともなく漂ってくる庭先きで、女房が運んでくる出がらしの番茶を啜りながら今年の植附けはどうだったとか、暮し向きに不如意なことはないかとか、世間ばなしに笑い興じている上野介の姿の中には、およそ領主というものにふさわしい威厳はどこにもなかった。\n もちろん、彼にも名君らしい行状を意識的に示すことによって村民の信頼を深めようという気持がなかったわけではあるまい。しかし、それがために、あらかじめ新聞社に電話をかけ、彼が農家を訪問する時間を打合せ、写真班に、馬の頭を撫でているところを特に写させるような真似はしなかった。\n 今もなお、横須賀村の外郭に黄金堤という名前で呼ばれている堤防の一部が残っているが、これは彼が、灌漑の便に乏しく、毎年梅雨期に入ると雨水が氾濫して水害に悩まされている吉良郷の住民のために丘陵の起伏を利用して築いた堤防である。これが実現されると領内の耕作地はたちまち豊饒な田園に一変するが、しかし、これに隣接する他領、特に岡山以北の土地は矢作川大平川の下流が逆流することになるので隣接領の大名から再三中止の申入れがあったにもかかわらず、一度決潰したら二度と再築しないという約束で、強引に築きあげてしまった。全村の農民が土木工事に参加した。高さ十三尺、長さ百間の堤防は一夜のうちに出来あがってしまったのである。\n これがために水害はたちまち跡を絶った。新秋の風は肥沃千里の田園をかすめて、村民の生活は年毎に裕福になってきた。それが終ると、彼はすぐ道路の改修にとりかかり、一種の耕作整理を断行した、――すべて、上野介が四十をすぎてからの行状で、領民と彼との接触はいよいよぬきさしならぬものになってきた。\n このような隅々にまで善政の行きわたっている村に悪代官なぞのはびこる余地はない。入っては、従四位上少将、高家の筆頭、出でてはすなわち一代の名君、禄は僅かに四千二百石ではあっても、江戸城内における彼の権勢と、領地における実収入は優に四五万石の大名を凌駕していた。\n その上、徳川家と彼との関係は単なる君臣という言葉で解決することのできないようなふかいつながりをもっている。\n 系図をひろげただけで一目瞭然であるが、彼こそは清和源氏の直流南北朝から応仁の乱を経て上野介の代にうつるまで五百余年間、そのあいだに幾度か変転する時代の波にもまれたとはいうものの吉良一族は、北条時政の娘を母として生れた義氏以来、同じ領地に君臨していた。\n それも徳川家康の父広忠の代までは、横須賀村の東端、駮馬東条の街道にちかき丘の上に小なりとはいえ一城をまもるレッキとした城主であった。\n 徳川家とのつながりは、広忠が幼年の頃であるから、上野介の代から数えればそれほど遠い昔ではない。戦国乱世の習わしで、浮沈定めがたき運命に遭逢した徳川一家は四分五裂の窮境に陥ち、やっと十歳になったばかりの広忠は、時の東条城主吉良持広をたよって落ちのびてきた。\n 広忠の幼名は仙千代であるが、持広は身をもってこの一少年をかくまい、進んで仙千代のために烏帽子親となって、彼に元服させ名前の一字をあたえて広忠と名乗らせた。\n 昨日は人の身の上、今日はわが身の上である。家臣たちに迎えられて広忠が岡崎城に帰る日が来た頃には、吉良一族は、城主持広の歿後戦乱の波にもまれて今川勢の強襲に遭い、藤浪畷、鎧ヶ淵の戦いにもろくも敗れた。落城の惨苦を辛うじて逃れた当主義安の未亡人俊継尼は、亡き義安のわすれ形見、義定をつれて駿河を転々としていたが、永禄十二年、吉良荘に帰ることをゆるされ、瀬戸村にささやかな草庵を結んで侘しい生活をつづけていた。\n そのことは、風のたよりで、どこからともなく、早くも三河一円に儼として勢威を保っている若き徳川家康の耳にも伝わってきた。家康も父の恩に酬いたい気持に唆られたものらしい。天正七年正月、鷹狩に名を託して瀬戸村へやってきた。家忠日記によると、彼は俊継尼を伯母としての礼をもって対面し、その日の引出物に瀬戸全村二百戸の知行をおくった上に、\n「義定の将来は必ず某がおひきうけ申した、わが父広忠のうけた御恩は夢にも忘れたことはござらぬ――成人したら岡崎へ来られるがよい」" }, { "role": "assistant", "content": " と、くりかえし言い残して帰っていったという。暗澹たる吉良一族の前途は明るい輝きにみちみちてきた。\n\n もし、義定が家康の知遇に応じ得る才幹にめぐまれた男であったとしたら、この好運をとり逃すようなことはなかったであろう。家康は青年義定のために彼の一家を再興するための、はなやかな機会をねらっていた。\n 時代は次第に熟してくる。豊臣の天下が来ると家康は内大臣になり、二百万石の大大名になった。義定にしてみれば、父祖の家名どころか、名誉も権勢も手に唾してとるべしである。しかし、運はついに人によって決する。家康がいかに彼のために絶好のチャンスを選ぶために苦心したところで、所詮、槍ひと筋につながる戦場の功績なしには義定を一挙に五万石、十万石の大名にとりたてるというわけにはゆかぬ。義定は、このようにめぐまれた境遇に身を置いているにもかかわらず、しかし、戦国に生きて一家を成す男ではなかった。性来の庸愚、怯惰、――剣戟の音を聞いただけで唇が乾いて胸がドキドキするような男だから、血刀をひっさげて戦場を駈け廻るなぞということはもってのほかである。今までにも機会は何べんとなくあったが義定はそのたびごとに家康の期待を裏切るよりほか道はなく、家康も義定の将来はひきうけたと口約束はしたものの、当の義定の器量は家康にもそろそろわかってきたらしい。\n そこへ、慶長五年、天下分け目の関ヶ原となった。もし義定が気の利いた男であったら、敵陣の中へおどりこんだり名だたる大将と組打ちなぞをしなくとも、彼は井伊直政の手勢に加えられ、曲りなりにも遊軍の一部将として扱われていたのだから、なるべく強そうなやつのあとから敗走する敵軍を追って、恰好だけでもせめて勇気凜々たるところを示しているだけでよかったのだ。それだけで、どさくさの論功行賞にまぎれて一万石くらいの大名にはとりたてられていたであろうが、しかし彼ならびに彼の軍隊は後方にあって一歩も動こうとしなかった。\n これが、ほかの場合であったら、いかに気の長い家康といえども、義定を一喝して瀬戸村へでも追い返してしまったであろうが、しかし堂々たる決戦に勝利を占め、一夜にして天下に君臨した家康にとっては、義定が武勲を立てようと立てまいと大した問題ではない、すっかり上機嫌になっていた家康は、唯、関ヶ原に出陣したというだけの理由で彼に、横須賀、吉田、鳥羽、一色その他の部落を合わせた吉良郷に、三千二百石の禄高をあたえた。破格にちかい恩典というべきであった。\n 上野介はその義定から四代目にあたる。いよいよ泰平の時代となってみれば、義定との関係がどうあろうにもせよ、江戸城内における彼の地位は牢として抜くべからざるものがある。\n 況んや、上野介は義定のような凡庸な男ではない。彼が将軍綱吉に謁見を賜わったのが十三歳のときであり、綱吉もまた彼と同じ十三歳であったから、長ずるにつれてその信任はひと方ならぬものがあったというのも当然であろう。十七歳にして従四位に叙せられたのも偶然ではない。十八歳で結婚したが、彼の女房は米沢十五万石、上杉弾正大弼綱勝の妹である。これと同時に上野介の長男三之助は上杉家の養子となって綱勝のあとを継いでいるし、長女鶴子は島津家に入って薩摩守綱貴の室となっている。\n 彼の代になってから四千二百石を拝領することになったが、しかし知行の多寡はもちろん、高家筆頭なぞという地位も表面の格式だけで、かつては百二十万石の雄藩、謙信入道の直系である東北の雄藩上杉と、九州の名門島津をうしろ楯として、将軍綱吉の知遇に任ずる上野介義央が江戸城内においてどのような権勢を保っていたかということは想像に絶するものがあったであろう。\n 齢四十九歳に達した上野介は、上杉家に生れた春千代を養子として鍛冶橋の吉良邸に迎えた。自分の長男を上杉家にやり、こんどは養子を上杉家から逆輸入するというようなことは実にややこしいはなしであるが、このややこしさの中にも上野介の存在がいかに重要視されていたかということを立証するに足る理由のあることはいうまでもない。\n それはともかくとして、五十にして天命を知った彼は、父祖の霊をまつる岡山の華蔵寺に梵鐘の供養を行った。彼にしてみれば、今や江戸城内における彼の地位は位人身をきわめたというべきものである。\n 自分の能力の計算に謙虚であった彼は、現在の境遇に心から満足しきっていた。しかし、上野介相当の誇もあれば名誉もある。それを思うがままに実現したところで誰に遠慮し、誰をはばかるところがあろう。人生もそろそろ終りに近い。人の世の儚さを、せめてもの思い出として、彼は吉良歴代の系譜の中から従四位に叙せられたものだけをえらびだし、三体の木像を刻ませた。左が義定、中央が義安、右が自分、すなわち上野介義央なのである。\n 小堀遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を模してつくったといわれ、本堂から長い渡り縁をつたわって一段下った書院風の客室へはいると、鬱蒼と茂る境内の杉林を背景にした中庭は淡々とした趣向の中に、しっとりと心に迫るような風致をたたみあげている。\n 無造作にならべた石や、植込の松の配置にも、自然に調和した落ちつきがあり、控えの間の窓障子をあけると、額におさまった絵のように鐘楼がうかびあがる。上野介はこの部屋がすきで、領地へかえると、ほとんど陣屋へは入らず、大抵華蔵寺の一室で日をすごしていた。\n 三体の木像を安置した霊屋が出来ると、彼は自分の墓をつくった。もはや、この世に思いおくことはない。強いて言えば、あとはただ名君として行状を後世に残すことだけである。\n 元禄五年の春、五十二歳になった上野介は飄然として領地へかえってきた。着いたのは三月のはじめの雨の日である。大気はまだうすら寒かったが華蔵寺には早くも春の気配が漾っていた。\n その夜、上野介は天英和尚の点ずる茶を喫したあとで、歌をつくった。\n「雨雲は今宵の空にかかれども晴れゆくままにいづる月かげ」\n 俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている、いかにも名君の心境であろう、――上野介は、長旅の疲れでその夜はぐっすりと眠った。翌日は未明に起きて、父祖の墓に詣で、それから早春の田舎道を赤馬に乗って素遊する手筈が整えられていた。\n 天英和尚と、昔ばなしに打ち興じ、これから寝に就こうとするとこへ、代官唐沢半七郎が駮馬村の名主利右衛門同道でやってきた。\n 上野介は利右衛門の来訪を伝えられると、用向を訊こうともせず、すぐ通せといった。六十をすぎた利右衛門は唐沢半七郎のあとについて廊下の前にひれ伏した。\n「殿様にはいつもながら御機嫌うるわしく、恐悦のいたりに存じあげます」\n「まア、まア」\n と、上野介は片手をひろげて遮りながらいった。「どうした、領民、いずれも無事にすごしているか、――遠慮せずと、こっちへ入るがよい、何か急な用事でもあるのか?」\n「百姓一同御高恩に感泣いたしております」\n 唐沢半七郎が膝を敷居際に乗りだした。\n「それは何よりじゃ」\n「おそれながら、それにつきまして」\n「何じゃ?」\n「格別の御慈悲におすがり申したき出来事が発生いたし、某の一存にて計り定めがたく、ぜひとも殿様の御判断を仰ぎたいと存じまして」\n「いや、何でもいうがよい、――その方一存で計えぬというのはよくよくのことであろう。人命にでもかかわることか?」\n「ありがたく存じあげます。事の仔細は名主利右衛門より言上いたすことと存じまするが、おそれながら今日持参の嘆願書、ひととおりお眼どおし下さりまするよう、つつしんでお願いいたします」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 又是文に拠ると、「坤を眄れば更に一大湖有り」とあるので、頂上に立って初めて中禅寺湖を瞰下したのであろうと考え、東側のキノミ平方面から登ったのではないかと疑ったが、『建立記』を見れば第一回登攀の際、既に山の半腹に一大湖のあるのを発見しているので、半腹に住むこと三七日とあるのは、即ち湖畔に宿して二十一日間の修法を行ったのであることを知った。頂上では吹雪に遭ったらしく「乍看腸を絶ち、瞻佇未だ飽かず、風雪人を趁ふ」と書いてある。或は強風が粉雪を吹き飛ばしたのかも知れない。続いて「我蝸菴を其坤角に結びて之に住み、礼讃勤行すること三七日、已に斯願を遂げ、便ち故居に帰る」と禅頂を果した喜を述べている。そして延暦三年の五月、この勝地に神宮寺が建てられたのであった。此種の記録が今後幸にして発見されることもあらば、当時に於ける登山の模様が更に明にされることであろう。\n 此の如くにして中古に其端を発した宗教的登山の道は、時を経るに従って次第に開拓された、というのは衆生の一として考えられていた神は進んで菩薩となり、更に進んで仏となった。神は仏の化現で、本地の仏が迹を垂れて神となったのであると説かれる様になって、ここ本地垂迹説は全く完成し、或は天台或は真言の教義に拠りて詳しく説明された精密なる組織を以て、山王一実神道及び両部習合神道が創設され、古来の山岳信仰と牴触矛盾することなくして、民心を収攬するに足る山岳宗教が新に発生したからである。これが将来に於て民衆的登山の普及するに至った最大の原因であり、そして其理論を実践躬行し、之を全国に伝播する媒介者として最も力あったものは、是等の神道と合流した役行者を始祖とする後に修験宗と呼ばれた一派であったと考える。実に山を開いたものは名僧大徳であったが登山を盛ならしめた者は山伏即ち行者であった。\n 神変大菩薩の号を賜わった役公小角が大峰を開いたのは天武天皇の頃であるが、其歿後は修法の為に登山する者も次第に絶えたものか、宇多天皇の寛平元年に当山派の祖である理源大師(聖宝)が中興開山の峰入りをした時には、榛莽塞りて行路なく、葛藟を攀じて之を蹈み開いたと伝えられている。山を保護する途は他なし、唯自然の儘に放置するにありといわれている通り、どんな立派な山道でも二、三十年も修理を加えなければ、大抵跡方もなくなって了う。況んや道を作ることを禁じてあった大峰縦走の蹈跡などは、二、三年の間に榛莽の掩う所となるのは当然である。大峰がかく荒廃するに至ったのは、小角歿後に高才逸足の徒弟は本山を去って諸国に名山を探り、己が修行の道場を開くに急で、為に本山の衰微を招来したか否か、或は理源大師が葛藟を攀じて之を蹈み開いたというのは偽であるとの説もあって、其真相は知り難いのであるが、二百年近き歳月を経る間に一盛一衰あるは免かれぬ所であろう。\n 理源大師に後れること八十余年にして、堀河天皇の寛治四年に増誉大僧正が白河上皇の熊野行幸に先達を奉仕し、其賞として熊野三山検校職に補せられ、本山派の開祖となったので、此時に諸国に散在していた小角の末徒が多く本山派に属したとの事である。以後修験道は当山及び本山の二派に分れて広く諸国に分布し、更に幾多の支派を分ち、苦行修法する他宗の者までも皆其行法に倣ったので、山開きの間は十六道具に身を固めた行者達が至る所の名山大岳に登り、振鈴の音は雲に入り法螺の響は山をどよもして鳴り亙ったのであった。\n 修験者即ち行者は其名の示すが如く、山を修験の道場として最難の苦行に堪え、験行を勤め咒法を修得するのが本願であったが、山を下れば諸人の為に加持祈祷して、其咒力により一切の災厄を攘い病苦を救いて、功徳を施すことを怠らなかった。過去の滅罪や未来の仏果もさることながら、此世に於ける現在の苦厄を免かれることが凡夫に取りては当面の一大事で、身にしみる有難さである。されば彼等行者は民衆の信仰を一身に集めて、神仏の権化の如く尊崇された、従ってそこに一の信仰団体に似たものが作られるようになったのは、少しも怪しむに足らないであろう。唯この団体が結社として組織されたのは恐らく徳川時代に入ってからで、富士講が国内に於ける登山結社の最初のものであろうと思う。\n 行者の山入りは作法が甚だ厳重であり、且其期間も限られていたから、普通人で登山する者は稀であったろうと想われる。これは修法の道場に俗人が容易く近づくことを嫌ったことが登山の作法を厳格にした所以の一でもあった。しかし信徒となれば格別である。元もと吾等の祖先は山を崇めこそすれ、決して恐ろしい魔所として考えてはいなかった、夫を無理やりに恐ろしい場所として考えさせるようにしたのは、怪奇に近い縁起や由来記などが流布したことにもよるが、有力な原因としては、宗門の徒弟達が次ぎ次ぎに先代の法力が非常に優れたものであることを誇張しようとして、仏教から拾ったらしい種に、荒唐無稽ではあるが当時の人をして恐怖せしむるに充分である様々な伝説を附会させ、火口を地獄に比し、磐座を剣の山に擬するなど、神と崇めた祖先からの美しい感情を奪い去って、恐怖観念を漂わせ、世に蒔き散らしたものが芽立って枝葉を拡げたからである。これは一面に於ては山に勿体をつけて、大衆の好奇心と信仰心とに訴え、信徒の増加を謀ったものと考えられる。敬虔なる信者達は、山の開祖が神に供養し神恩を謝する誦経の為に登山したのと同様に、日頃尊崇する行者を先達として、報謝の禅頂を遂げ、宗祖の偉績を偲ぶ霊場に参拝するようになった。かくて経験を重ね修行が積めば、おのずから先達となる資格も得られる訳で、信徒の登山は信徒の先達にて事足り、年を経るに従い次第に登山者の増加すると共に、登山は専門家の手を離れて素人の手に移り、「講」と称する登山結社が各地に作られるようになるや、多年鬱積していた山岳礼讃の潜在意識は漸く擡頭して、宗教的民衆登山は空前の盛況を呈するに至った。言う迄もなくこれは兵乱の惨禍が全く跡を絶った徳川時代に入ってからである。勿論信徒の登山と雖も、入峰の規定を守り行者の作法によらなければならなかったが、左程厳重なものではなく、唯先達の指揮に従えばよかったのである。\n 徳川時代に於て山登りが如何に普及したかは、中絶していた山の登山が復興し、全国に亙りて「講」と呼ばれる登山結社が設立され、一山にしてよく数十百講、一講にしてよく万を以て数うる信徒を有するものさえあったことから知られる、しかも他講の山に登拝することは互に自由であった。これは生活が安定したので、山を離れては気散じの旅といった気持も手伝っていたに相違ない。恰も現代各地に無数の登山団体が作られ、各所に登山が流行しているのと能く似ていた。異なる所は唯先達の指導精神が飽まで徹底して、山の神聖を汚すような行為が絶対になされなかったことである。啻に中絶していた山が再興されたのみでなく、古人未蹈の山で初登山されたものも少なくなかった。永禄三年六月に木曾長政が登山して以来、暫く中絶の有様であった御岳は、天明五年に黒沢口を改修した覚明行者、寛政四年に王滝口を修造した普寛行者を、共に中興の開山とするが如きは前者の例であり、天明三年六月に南裔和尚が笠ヶ岳に登り、文政十一年七月に播隆上人が槍ヶ岳に登ったのは後者の例である。殊に後者は山が日本北アルプスの中枢にあるだけに、此時代に於ける開山の最後を飾るにふさわしい掉尾の業績であった。唯二人とも登山には勇猛精進であったが、民衆の登山を誘致するには熱意の足りない憾があった為に、広く世に知られずして終ったのは惜しい。交通極めて不便な奥山であったことも関係しているだろう。其他年代は不明であるが、山上に大日、薬師、観音、地蔵等の仏菩薩を安置してある山の過半は、此時代に開かれたものであると称しても過言ではないようである。是等の事実からも登山の盛であったことが窺われる。\n 此時代には又異った意味で多くの登山が行われた。正保元禄の国図製作、大小名の国境又は領域の見分、山論の裁許、森林監視の山廻り、或は薬草の採取、稀に地理研究の為の登山等が其主なるものである。中には是等が機縁となって宗教的登山が開始された山もあった。たとえば木曾駒ヶ岳は見分の為に再三登られているが(其中元文元年の内藤庄右衛門、宝暦六年の坂本運四郎の両士が残した見分の記録は、当時の模様を知る上に於て貴重な文献である)、天明寛政の頃に御岳講の信者が登山するようになって、山頂に駒ヶ岳神社が奉祀されたのである。斯様な例は奥上州方面其他にも少なくないらしい。又加賀藩の山廻り役によって行われた黒部奥山の巡視は、相当に大規模のものであり、立山後立山の両山脈に於ける高峰の幾つかは、此時既に初登攀を完了されたことであろうが、資料が得られないので詳細を知り難い。維新後に至りてはさしも繁昌を極めた宗教的登山も、神仏混合禁止の大鉄槌に恢復し難き痛手を負いて、頓に衰運に向ったとはいえ、日清戦争の頃までは、まだ登山といえば一般には宗教的登山を意味している時代であった。それが次第に勃興して来た現代の登山、殊に最近に至りて急速に発達したスポーツとしての登山に圧せられて、今は僅に片隅で余喘を保っている有様である。しかも昔の精神、昔の道徳は既に失われて空しき形骸のみが残存しているに過ぎない。登山の精神と道徳とを忘れた登山、歴史は繰り返すというは真か、顧みて今昔の感に堪えない多くのものがある。\n 以上は主として宗教的登山の発達に関する私見を述べたものである。私は更に維新後に於ける登山の趨勢に就て記述する予定であったが、遂に之を果すことを得なかったのは遺憾である。唯宗教的登山の発達に就ては従来余り言い及ぼされていなかったように思われるので、この機会にせめてそれだけでも稍や詳細に所信を述べて見たいと考えて、紙面の大部分をこれに費してしまった、文が冗長に流れたのはその為である。思うに維新後に於て総ての文物が一変したのと同じ様に、登山の形式内容共に亦一変した。現代の登山は維新前に於ける登山の延長であるとは言えないかもしれない。両者は出発点を異にして発達したものであるから。然し其根柢に於て共通した思想はないであろうか、それはある、即ち自然愛の思想である。\n\n登山の変遷" }, { "role": "assistant", "content": "\nイ 維新前\n 我国に於ける登山の変遷は、維新前と維新後とに大別し、更に之を適当に区分して記述しなければならぬのであるが、今は其余裕がないので、ここには唯其梗概を略叙するに止め、詳細は他日の機会に譲りたい。\n 維新前は何事も旧慣を墨守しなければならない階級制度の束縛を受けた時代である。横に拡ることは多少自由であっても、縦に伸びることは殆ど禁止されたのも同様であった。人は誰しも其分に安じていなければならない。それには諦めが肝要である。諦めは安易を伴い、与えられた型に満足して其埒外に躍り出すことを断念させた。これが登山にも影響しなかったか、直接ではないが間接には確に影響を受けたようである。成程登山は盛であっても、其型式は固定し、年々歳々同じ登山が繰り返されるのみで、内容には少しも変化を起さなかった。量は増しても質に於ては依然たる宗教登山で、一歩、唯一歩を蹈み出した宗教を離れての登山が遂に行われるに至らなかったのである。\n ここに又一つの型に嵌った古来の風景観なるものがあって、山と水とは其最大なる要素であり、山水の二字は風景の代名詞として用いられた程であったにも拘わらず、世の所謂文人墨客と称するインテリ階級の多数は、水には親しみを持ったが山には疎遠であった。山は離れて眺めるものであることを知るのみで、丘陵程度の山の外は、其懐に入り、其頂に攀ずることを敢てしようともしなかった。稀には鈴木牧之や高橋白山、又は橘南谿や沢元愷の如き人もあって、山に於ける雲の美、岩の奇、眺望の大等に就て嘆美しているが、登った山は多きも二、三を超えず、しかも一度しか登っていないので、其の変化に富んだ無限の興趣を味わい、登山慾を唆られる迄に至らなかったのは惜しいことである。若し是等知識階級の人達が宗教登山者の如く、多くの山を登り、独自の立場から山を視、山を観察するようになったとしたら如何なったろう。或は又宗教登山者に、是等知識階級の人達が登山には雲の美、岩の奇、眺望の大等に就て注意す可きことを教えたとしたら如何なったろう。恐らく従来の風景観は型を破られ、山に対する認識は深まり、観察の眼は肥えて、其処に宗教を離れて独立した登山の萌芽が胚胎したのではないかと、例に引くのは少なからず気がさすのであるが自分の経験から、思うのである。\n 然しながら行者が山に植えた勢力は誠に根強いものであった。芦安の名取直江という人が明治四年に開いた白峰北岳は、登山者がないので間もなく荒廃したというが、明治十九年に敬神講の先達原丈吉という人の開いた赤石、奥西河内、悪沢の三山を含む連峰へは、三十四、五年頃まで講中の信徒が相当に登山したものであるという。しかも赤石岳には明治十二年には既に内務省地理局の測量標が建てられていたのである。これでは、あわよくば綱を用いて嶮崖絶壁を登降することに慣れていた岩茸採りや、藁履に樏をはいて雪中にも登山していた猟師までも応援に引張り出して維新前の岩登りや、雪中登山の可能性にまで筆を駆ろうとした私も、想像の翼を歛めて已ぬる哉と諦めなければなるまい。宗教的登山に終始した維新前の登山には、大なる変遷の有る可き筈は無かった。\n とはいえ、前述の記事からも略ぼ推察し得る通り、全国に亙りて目ぼしい山は殆ど皆登られている、唯後に日本アルプスと呼ばれるようになった高峻山岳の地域のみが全部ではないけれども、維新後に始まる新らしい登山の舞台として残されていたのである。\n\nロ 維新後\n 明治の初期に於ける近代式文化登山は、維新前に取り残されていた日本アルプスに於て生育し発達した。此地域は何といっても面白い山登りを提供する舞台として、内地では他の追従を許さぬものがある。宗教的登山の残骸に慊らない明治中期後期の登山家が競うて活躍したのは此処であった。大正から昭和にかけて少壮登山家が岩登りや冬期登山に必要なる登山技術を錬磨したのも此処であった。此処こそ明治以後に於ける近代登山の発祥地であり、登山を現に見る如く隆盛ならしめた揺籃の地である。\n 北アルプスの登山は、日本アルプスの命名者ウィリアム・ガウランド氏によりて、明治十一、二年頃に行われたのが最初であろうといわれ、立山、爺岳、五六岳、槍ヶ岳、乗鞍岳、御岳と、合せて十余座を登っている。此外にも同時若しくは稍々遅れて、キンチ、サトウ、チェンバレン、アトキンスン氏等五、六人を数えることが出来る。是等の人々は学術探考究を目的として登山したものである。小島烏水君の意見に拠れば、其真意は日本に於ける氷河捜索にあったのだという。夫に就て徳川時代に来朝した蘭人殊にシーボルト先生は、我国の地理風俗特に動植物を研究して幾多の標本を齎し帰り、浩瀚な書物を著わしているので、或は夫等からも何等か示唆されているのではないかとの疑を持っている、唯私の力では今の所それを解決し得る見込みはない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ......それから若親分は自宅へ帰ると、直ぐに乾児どもを呼集め、その大勢の眼の前に、若い奥さんと世話人を呼付けてアッサリ離別を申渡しましたので、二人ともグーの音も出ないで荷物を片付けてスゴスゴと田舎へ帰りました。それを見送った若親分は......ほんとに済まない事をした。俺の顔ばかりでなくお前たちの顔まで潰してしまった。俺はモウ決心を固めているのだからこの際何も云うてくれるなと云って乾児の中の一人に自分の席を譲り、その場で、お別れの酒宴を初めました。\n ......一方に柳仙夫婦の一軒屋へ生蕃小僧が忍び入って、夫婦と女中の三人を惨殺し、家中を引掻きまわして逃げて行ったのは、ちょうどその暁方の事だったそうです。ところで生憎か仕合わせかわかりませんが、その時に柳仙の手許に在ったお金はお小遣の余りの極く少しで、銀行の通帳や貴重品なんかは見付の町に在った心安い貯蓄銀行の金庫に預けてありましたので、お金以外の品物を決して盗らない事にしている生蕃小僧にとってはトテも損な稼ぎだったのでしょう。ところが、それとはウラハラに久蔵若親分はステキに、うまい事をしてしまいました。多分柳仙の家に残っていた印形を利用するか何かしたのでしょう。それにしてもドンな風に胡麻化したものか知りませんが、当然、その娘のものになる筈の何万かの財産と、かなり大きな生命保険を受取ると、そのまま行衛を晦ましてしまったものだそうです。\n ......ね......もうおわかりになったでしょう。柳仙夫婦がこの世に残したものの中でも一番大きい、美味しいことは、みんな久蔵若親分のものになってしまったのですからね......あとからこの事を知った生蕃小僧が、それこそ地団太を踏んで今の轟九蔵を怨んだのは無理もありませんわね。ですから轟がドンナに巧妙に姿を晦ましても生蕃小僧はキット発見出して脅迫して来るのでした。俺が捕まったらキット貴様も抱込んで見せるとか、当り前の復讐では承知しないぞ......とか何とか云っていたそうですが、しかし轟はセセラ笑っておりました。彼奴の怨みは藪睨みの怨みだ。俺は別に生蕃小僧をペテンにかけるつもりじゃなかったんだ。ただお前が可愛くてたまらなかったばかりに、万一の事が気にかかってアンナ事をしただけの話なんだ。もちろん生蕃小僧がアンナに早く仕事にかかろうとは思わなかったし、奥さんの事を片付けてサッパリしてから柳仙に注意もしようし、手配もするつもりでいたんだから、柳仙夫婦が、あのまんま無残絵になってしまったのはヤハリ天命というものだったろう。\n ......柳仙が国禁の絵を描いている事はトックの昔から睨んでいた。しかしイクラ忠告をしても止めないばかりでなく、県内の有力者の勢力なんかを利用して盛んに高価い絵を売り拡げて行くので、俺は実をいうとホントウに柳仙の厚顔さを憎んでいた。ナンノ柳仙を見付から追出すくらい何でもなかったんだが、ただお前の可愛さにカマケていたばかりなんだ。それから先の事は自然の成行で、大和の国に居る柳仙の親類なんかは一人も寄付かなかったんだから仕方がない。生蕃小僧から怨まれる筋合いなんか一つもないばかりでなく、俺はお前を無事に育て上げるために、生命がけで闘わなければならない身の上になってしまった。俺が朝鮮に隠れてピストルの稽古をして来た事を、生蕃小僧が知っていなかったら、俺もお前もトックの昔に生蕃小僧にヤッツケられていたろう。\n ......ところが、それから後、四五年経つと流石の生蕃小僧も諦らめたと見えて、バッタリ脅迫状を寄越さなくなった。彼奴から脅迫状が来るたんびに俺はすこしずつ金を送ってやる事にしていたんだから不思議な事と思ったが、もしかすると自分の怨みが藪睨みだったのに気付いたのかも知れない。それとも病気で死ぬかどうかしたのじゃないかと思うと、俺は急に気楽になって本当の活躍を初め、今の地位を築き上げたものなんだが、その十幾年後の今日になって突然に又生蕃小僧から脅迫状が来はじめたのだ。しかも俺にとっては実に致命的な意味を含んだ脅迫状が......」\n「エッ......チョチョチョット待って下さい」\n 江馬兆策は感動のあまり真白になった唇を震わした。\n「そ......それもホントなんですか」\n「ホホホ......みんな真実なのよ。最初から......まだまだ恐ろしい事が出て来るのよ。これから......」\n「...............」\n「シッカリして聞いて頂戴よ。是非とも貴方に脚色して頂いて、大当りを取って頂きたいつもりで話しているんですからね」\n「...............」\n「......その脅迫状というのは、最初は極く簡単なものだったのです。一週間ばかり前に来たのは普通の封緘葉書で金釘流で『大正十年三月七日を忘れるな......芝居じゃないぞ』といっただけのものだったそうですが、それから後に二三回引続いて来たものは、相当長い文句のチャンとした書体で、とてもとても恐ろしい......私達の致命傷と云ってもいい文句でしたわ」\n「......ど......ど......ドンナ......」\n「ホホホ。アンタ気が弱いのね。そんなに紙みたいな色にならなくたっていいわ。あのオ......チョイト......ボーイさん。ウイスキー・ソーダを一つ......大至急......」\n 江馬兆策はホッと溜息をした。顔中に流るる青白い汗をハンカチで拭いた。\n「ホホホ。落付いてお聞きなさいよ。モウ怖いことなんかないんですからね。犯人が捕まって片付いちゃったアトなんですから......」\n「でも......でも......まだ疑問の余地が......」\n「ええええ。まだまだ沢山に在るのよ。モットモット大きな、深い疑問が残っているのを誰も気付かずにいるのよ。轟さんの心臓にあのナイフが突刺さったホントの理由が、わかる話よ」\n「エエッ。それじゃホントの犯人が......別に......」\n「居るか居ないかは貴方のお考えに任せるわ。そこがこの脚本のヤマになるところよ。いい事......その長い脅迫状の文句はこうなのです。その脅迫状はあたし自分の部屋の鏡台の秘密の曳出にチャント仕舞っているのですから、あとからお眼にかければわかるわ......轟九蔵と甘木三枝は、戸籍面で見ると親子関係になっていない。女優の天川呉羽は轟九蔵の養女でも何でもないのだから、つまるところ轟九蔵は甘木三枝の財産を横領している事になる。それのみか、轟九蔵と天川呉羽とは事実上の夫婦関係になっている事を、俺は最近になって探り出しているのだ。その上にその呉羽こと三枝という女は、ズット以前から劇作家江馬兆策と関係している......」\n「ワッ......ト飛んでもない......アッツ......」\n 江馬兆策は突然真赤になって手を振ったトタンに、たった今来たウイスキー・ソーダの飲みさしを切株のテーブルの上に引っくり返した。それを給仕が急いで拭こうとしたナプキンを慌てた兆策が引ったくって拭いた。\n「ホホホ。馬鹿ねえ貴方は......わかり切っている事を妾の前で打消さなくたっていいじゃないの......ホホ......」\n 兆策はモウすっかり混乱してしまったらしい。濡れたナプキンで上気した自分の顔を拭き拭き給仕にソーダのお代りを命じた。しかし給仕は笑わないで、腰を低くして、恭しくナプキンを貰って行った。\n「......ね。ですから妾あなたに考えて頂こうと思ってお話するのよ。貴方はいつもソンナ問題ばかりを研究していらっしゃるんですから、妾の話をお聞きになったらキット犯人を直覚して下さると思うのよ。轟九蔵を殺したのは生蕃小僧じゃない。あの支配人の笠圭之介......」\n「エッ......ナ何ですって......そんな事が......」\n 江馬兆策が中腰になった。しかし呉羽は冷然と落付いていた。\n「あたし......それが今日わかったのよ。あの笠圭之介がね。ツイ今さっきの夕方の幕間に妾をあの五階の息つき場へ呼んでね。よもや誰も知るまいと思っていた脅迫状の中味とおんなじ事を云って妾を脅迫したのよ。轟さんと妾の関係や貴方と妾の関係を疑ったような事を云ってね......ですから妾ヤット気が付いたのよ、今捕まっているのはホンモノの生蕃小僧じゃない。ドッサリお金を掴ませられているイカサマの生蕃小僧で、公判になったらキット供述を引っくり返すに違いない。だから本物の生蕃小僧はアノ支配人の笠圭之介......」\n「フ――ム――」\n 江馬兆策が頭を抱えて椅子の中に沈み込んだ。眼をシッカリと閉じて、モジャモジャした頭の毛の中へ十本の爪をギリギリ喰い込ませた。\n「......ね......こんな事があるのですよ。今もお話した通り、生蕃小僧の脅迫状が来なくなってから轟がホントウに活躍を初めたのが大正十四年頃でしょう。それからあの呉服橋劇場を買ったのが昭和三年の秋ですから、その間に三四年の開きがあるわけでしょう。その間に生蕃小僧が悪い仕事をフッツリと止めて、あの呉服橋劇場の支配人になり済ますくらいの余裕はチャントあるでしょう。生蕃小僧があんなにムクムクと肥って、丸きり見違えてしまっている事も、考えられない事じゃないでしょう。そこで生蕃小僧は上手に轟さんに取入るか、又は影武者の生蕃小僧に脅迫状を出させるか何かしてあの劇場を買わせたのよ。そうしてあの劇場の経営を次第次第に困難に陥れて、轟さんの爪を剥いだり、骨を削ったりしながら待っている中に、妾が年頃になったのを見澄まして轟さんを片付けて、タッタ一人になった妾を脅迫して自分のものにしようと巧らんだ......と考えて来ると、芝居としても、実際としても筋がよく透るでしょう。何の事はない新式の巌窟王よ......ね......」\n「...............」\n「その中でタッタ一つ邪魔気なのは貴方です。江馬さんです......ね。貴方は天才的な探偵作家ですから普通の人だったら夢にも想像出来ない事をフンダンに考えまわしておられる方です。ですから万一、今のようなお話をお聞きになった暁には、いつドンナ処から自分の正体を看破られるかわからない。警戒の仕様がないでしょう」\n「...............」\n 江馬兆策は頭の毛を掴んだままソッと両眼を見開いた。その両眼は重大な決心に満ち満ちた青白い、物凄い眼であった。わななく指をソロソロと頭から離して、そこいらを見まわすと、ウイスキー曹達に濡れた切株の端に両手を突いて立上った。呉羽の希臘型の鼻の頭をピッタリと凝視して徐ろに唇を動かした。\n「......貴女は名探偵です......」\n 呉羽も調子を合わせるようにヒッソリとうなずいた。大きな眼をパチパチさせた。\n「......ですから......貴方にお願いするのです。今から笠支配人の様子を探って下さい。そうしてイヨイヨ生蕃小僧の本人に違いないという事がわかったら......」\n「......コ......殺してしまいます」\n 江馬兆策の両眼が義眼のように物凄くギラギラと光った。\n「イケマセン」" }, { "role": "assistant", "content": " 呉羽は真剣に手を振った。\n「......ナ......ナゼ......何故ですか」\n「復讐の手段は妾に任せて下さい。両親の仇......轟の仇です......」\n「...............」\n「それでね貴方にその脅迫状の束を全部さし上げます。それをイヨイヨとなったら笠に突付けて云って御覧なさい。お前はお前の書いた文句を忘れてやしまい。呉羽さんを脅迫した言葉も忘れてやしないだろうって......ね......」\n「...............」\n「それからね。貴方の活躍の期限を来月の十日までに切っておきます。来月の十日になっても笠に泥を吐かせる事が出来なかったら一先ず帰っていらっしゃい。よござんすか。費用は脅迫状の束と一緒に、明日の午後に差上げます」\n「イヤ。費用なんか一文も要りません」\n「いいえ。いけません。他人の間は他人のようにしとくもんです」\n「エッ......他人......」\n「ええ。そう。今じゃ全くの赤の他人でしょう。ですからそのつもりでいらっしゃい。それからの御相談は、何もかも来月の十日過にお願いしますわ」\n ハッと感激に打たれた江馬は深海魚のように眼を丸くして呉羽の顔を凝視した。口をアングリと開けて棒立ちになっていたが、やがてクシャクシャ頭をガックリとうなだれると、涙をポトポトと落しながら口籠もった。\n「かしこ......まりました」\n そうして、なおも感激に堪え切れないらしく、兵隊のようにクルリと身を飜すと、非常な勢いでホールを出て行った。百雷の落ちるような凄じい音を立てて階段を駈け降りて行った。\n「......ホホ......確証を掴んだシャロック・ホルムズ......義憤に駈られたアルセーヌ・ルパン、ホホホホホハハハハハ......」\n\n 星だらけの空を真黒く区切った樫の木立の中に燈火を消した轟家は人が居るか居ないか、わからない位ヒッソリとしている。表門に貼付けた「不幸中に付家人一切面会謝絶」と書いた白紙が在るか無いかの風にヒラヒラと動いているきりである。\n これに反してお庭の隅の常春藤に蔽われたバンガロー風の小舎には燈火がアカアカと灯って、しきりに人影が動いている。\n 非常な勢いで帰って来た江馬兆策が、妹の出したお茶も飲まない無言のまま、ガタンピシンと戸棚を引開けて、あらん限りの服、帽子、靴、ズボン吊、トランクを引ずり出して旅支度を初めたのを、妹の美鳥がしきりに心配して止めているのであった。\n「まあ......お兄様ったら......気でもお違いになったの......」\n「感謝感謝。心配しなくたっていいんだ。気も何も違ってやしない」\n「だってイツモのお兄様と眼の色が違うんですもの......まるで確証を握ったシャロック・ホルムズか義憤に猛り立つアルセエヌ・ルパンみたいよ。ホホホ。どうなすったの......一体」\n「黙って見てろったら。非常な重大事件だから......お前が関係しちゃイケナイ問題なんだから絶対に局外中立の態度で、黙って見てなくちゃイケナイ重大事件なんだからね」\n「わかっててよ。それ位の事......轟さんのお家の事でしょう」\n「そうなんだよ。ホントの犯人がわかりそうなんだよ。そいつを僕が突止める役廻りになったんだよ」\n「だからウイスキー曹達を、お引っくり返しになったの......」\n「ゲッ......お前見てたのかい」\n「ホホホホ。ビックリなすったでしょ」\n 兆策は自然木の椅子にドッカと尻餅を突いた。気抜けしたように溜息をして取散らした室内を見まわすと、醜い顔に不釣合な大きな眼をパチパチさせた。\n「......ど......どうして聞いたんだい。タッタ今帰って来たばかりなのに......」\n 美鳥は淋しく笑いながら向い合った椅子に腰を降ろした。\n「何でもないことよ。妾だって今度の轟さんの事件ではずいぶん頭を使っているんですもの。ホントの犯人が誰だか色々考えているうちに、万一貴方が疑われるような事になったらドウしようと思って一生懸命に考えまわしていたのよ」\n「フーン。どうして二人に嫌疑がかかるんだい」\n「お兄さん御存じないの。昨夜十二時頃、轟さんと呉羽さんとが、支配人の眼の前で大喧嘩をなすった事を......」\n「知らなかったよ。俺はその頃お前と二人で、ここで茶を飲んでいたんだから」\n「ええ。そうよ。ですから妾も知らなかったんですけどね。小間使のイチ子さんが今朝になって、その事をおヨネさんに話したんですって......そうしたらおヨネさんがビックリしちゃってね。その喧嘩の話は決して喋舌っちゃイケナイって云ってねあの女、自分がオセッカイのお喋舌のもんですから、イチ子さんにシッカリと口止めをしといてから、わざわざやって来てソッと私に知らしてくれたのよ。こちらでも気ぶりにも出さないようにして下さいってね。おかアしな女よ。おヨネさんたら......ホホホ。あたし最初、何の事だかわかんなかったわ」\n「ああ。その話かい。今朝、台所で暫くボソボソやっていたのは......一体何の喧嘩だい。轟さんと呉羽さんと言い争った原因というのは......」\n「妾たち二人を追い出すとか出さないとかいう話よ」\n「ナニ......俺たちを追い出す......?......」\n「ええ。そうなんですって。何故だかわかんないんですけど」\n「......ケ......怪しからん。俺は今まであの轟をずいぶん助けてやっているのに......」\n「......そんな事云ったって駄目よ。御恩比べなんかすると馬鹿になってよ」\n「馬鹿は最初から承知しているんだ。向うはホンの些とばかりの金を出してくれただけだ。それに対してこちらは、お金で買えない天才を提供しているじゃないか。しかも有らん限りの生命がけで......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「今は、いけません。」彼女は彼の耳元に囁いた。「これから、わたし、英語の勉強をはじめますから、面倒みて下さいね。書斎の方をわたしの居間みたいにしています。こんどから、あちらで......。」\n 彼女はすりぬけるように立ち上り、すーっとドアの方へ行き、呼鈴のボタンを押した。\n\n 十一月にはいると、菊花鑑賞に事よせて、あちこちでティー・パーティーが催された。戦争前、新宿御苑で観菊の招宴があった、それに做ったものである。もっとも、この節では、菊花鑑賞というのも名ばかりで、大して多くの菊の鉢もなかったし、全くお茶の集りで、食物といってはサンドウィッチにコーヒーぐらいなもの、余興におでんや鮨の屋台店が出ることもあるが、実は単に社交の催しにすぎなかった。\n 板倉邸でもその催しがあった。無風の好天気だったし、広庭で日向ぼっこをしながらお饒舌りをするのに、誂え向きだった。菊花の鉢がまばらに竝べられ、あちこちに小卓やベンチが配置されていた。紅白の幕が縁側近くに張り廻され、それに引き続いて、屋台店には和洋の酒瓶が竝んでいた。但しこの酒類は有料なのが愛嬌だった。\n 広庭の隅っこの小卓に、人を避けるような工合で、立花恒子と小泉美枝子とが差し向いでコーヒーを飲んでいた。恒子はもう五十近い年配で、ふくよかな体躯に貫禄が具わっていた。\n「ねえ、おばさま。」美枝子は甘えるような口の利き方をした。「やっぱり、わたくしが申した通りでございましたでしょう。」\n「そうね。だけど、少し薬が利きすぎたかも知れませんよ。」\n「姙娠のこと。」\n「そう。愛人まではよろしいけれど、姙娠となると、ちょっと聞きぐるしいことですからね。わたしも、骨が折れましたよ。」\n「でも、おばさま、噂をひろめるのが、お上手でいらっしゃるわね。」\n「まあ、なにを言うんですか、ひとにさんざん頼んでおいてさ。」\n 恒子は睥むまねをした。\n「わたくし、初めて分りましたわ。姙娠ということが、どんなにひとに嫌われるか......。」\n「ことに、男のかたにはそうですよ。」\n「考えてみると、やっぱり、いやなことですわね。お腹がぶくぶくふくらんできて、お尻がでっぱってきて......わたくし、結婚中に姙娠しないでよかったと、つくづく思いますわ。」\n「今だから、あんた、そんなことが言えるんです。わたしなんか、三人も子供を産みしたよ。」\n「それは、昔のことでございましょう。」\n「当り前じゃありませんか。」\n「昔だったら、構いませんわ。わたくしでも、昔のことなら平気ですわ。いま、この身体で......と思うと、ぞっとしますの。」\n「あ、ちょっと。」\n 恒子は美枝子の腕にさわった。目配せされた方に眼をやると、星山が、あの大きな図体で、だぶだぶの服をつけて、あちらへ歩いてゆくところだった。\n「わたしたちの方を見て、引き返していらしたようですよ。」\n 美枝子は肩をすくめて笑った。\n「だから、おばさま、姙娠の効果はてきめんでしょう。」\n 恒子はじっと美枝子の顔を見た。\n「いったい、あんたは、どうして星山さんがそんなに嫌いなんですの。危い噂までたてて......それほどにしなくてもねえ。」\n「しんから嫌い。もう我慢なりませんでしたの。御商売がどうの、御様子がどうのと、そんなことではありませんわ。わたくしに直接なんとも言わないで、菅野の奥さまを通して、甘言を竝べ立て、しつっこく言い寄るなんて、そのやり口もいやですけれど、それもまあよいとして、あの指輪が気に入りませんの。」\n「指輪......。」\n「精巧な彫りのある、太い金の指輪、いつもはめていらっしゃるあれですの。」\n「ああ、あんなもの、なんでもないじゃありませんか。」\n「では、おばさま、お貰いなさいませよ。おばさまになら、きっと下さるわ。」\n「そうね。貰いましょうか、ほほほ。」\n「あんなの、アメリカ趣味とでも言うんでしょうかしら。」\n「さ、どうだか。それより、一時代前の日本趣味とでも言ったほうが、よろしそうですね。」\n「とにかく、ア・ラ・モードではございませんわね。あんなの、いつの時代にでも、オール・ド・モードのたぐいでしょう。あのかた自身も、そうですわ。」\n「なによ、そのオールなんとか......。」\n 美枝子はもう心がそこになく、何を思い出したか、くすくすと笑った。\n「わたくしね、おばさま、英語の勉強をはじめましたの。すっかり忘れていたので、自分でもびっくりしましたわ。」\n「若いうちに、なんでもやってみるものですよ。先生は......。」\n「それが、あまり上手ではないんですけれど......。」\n「どなた。外人のかたですか。」\n「お上手らしくないから、もちろん、日本人ですの。あの......浅野さん。」\n「あ、そう。」\n 何気なく返事をしながら、恒子はじっと美枝子の様子を窺った。美枝子は話を外らした。\n「それから、おばさま、どうなんでしょうかしら、株の方......。」\n「あ、忘れていました。大丈夫、安心しててよさそうですよ。さっきね、高木の奥さまにお目にかかって......御存じでしょう、総理府のあのかたの奥さま......それとなく探ってみますと、船の方は見込みが多そうですよ。あんたもまた、無鉄砲に背負いこみすぎてるようですけれど、まあ今のところ、なんとか辛棒するんですね。望みがありそうですから、手放さないことですね。」\n「おばさまは、どうなさいますの。」\n「わたしも、時期を待つことにしましょう。それから、ちょっと、あんたを紹介したい方があるから、あちらへ行きましょうか。」\n 立ちかけて、俄に、恒子は美枝子の手を押えた。\n「ところで、あのこと、このままでよろしいかしら。」\n「あのことって......。」\n「なんですか、顔を赤めて......。」恒子は頬笑んだ。「噂のたてっぱなしで、ほおっといて宜しいかしら。もっとも、相手のひとが誰だか、それこそ、まったく根も葉もないことだし、あんたもこうして、平気で人中に出てるんだから、間もなく噂も消えてしまうことでしょうけれど、なにしろ、問題が問題ですからね。」\n「だって、今更、取り消すわけにもまいりませんでしょう。」\n「だからさ、わたしがまた一骨折りしなければならないかと思って......。」\n 美枝子は眼を足先に落した。\n「ほおっといて、大丈夫だと思いますの。もう噂はこりごりですもの。それに、わたくしも、どうせ覚悟の上のことですから。」\n 恒子はまだ不安心らしく、美枝子の顔を覗き込んだ。それから、気を変えるように立ち上った。\n「あまり心配させないで下さいよ。」" }, { "role": "assistant", "content": " 二人は黙って歩き出した。\n\n 板倉邸でティー・パーティーが催された日、而も真昼間、妙な事件が起った。\n 板倉邸は広い敷地で、コンクリートの塀に取り巻かれていた。その塀から出外れてしばらく行くと、左手が五メートルばかりの低い崖になっており、崖の下に小さな泥池があった。そのへん、崖の下は一面、戦災の焼け跡で小さな人家がぽつぽつ建ってるきりで、雑草の荒地と菜園とが入り交っていた。泥池は湧き水だが、赤く濁って、もう子供たちもそこでは遊ばず、木片を浮べて放置されたままだった。その泥池の崖上に、松が数本、ひょろひょろと植っていた。\n その松の木立のところで、突然、二人の男が格闘を始めたのである。二人とも洋服姿の、相当な身なりだった。一人は五十年配の肥満した男で、一人はまだ若く痩せ型だった。年寄りの方がぶらりぶらり歩いてゆくのを、若い方が追っかけてきて、なにかちょっと言葉をかけ、いきなり殴りつけたものらしい。そして暫く揉み合ってるうちに、年寄りの方が、突き落されるか足を滑らすかして、子供みたいに崖下へ転げ落ち、泥池にはまってしまった。若い方は、それを上から眺めて、しばく突っ立っていたが、自分の帽子を拾うと、足早にすたすた行ってしまった。\n その光景を目撃したのは、通りがかりの二三人に過ぎなかった。短時間のことで、訳が分らなかった。馳けつけてみると、男は池の中に坐りこむようにして、ぽかんとしていた。それからのこのこ逼い出してきた。見物人は小径伝いに降りてゆき、彼を崖上に援け上げた。大した怪我もなさそうだった。\n「この近所に、自動車はないかね。」\n びっくりするほど元気なそして横柄な調子で、彼は尋ねた。\n この近所に自動車はなかなか見当るまいと聞いて、彼はちょっと考えてる風だったが、帽子は忘れ、泥水にずぶ濡れになったまま、すたすた歩き出して、板倉邸の方へ行き、その裏口へはいってしまった。見物人は呆気に取られた形だった。\n その男が、星山浩二だった。星山は板倉邸へ裏口からはいってゆき、下男をよんで、ティー・パーティーの際だからと秘密に頼み、遠い自宅へ電話をかけて、着換えを持って自動車の迎いを依頼し、下男部屋を借りて身体を洗った。額と腕に擦り傷があるだけだった。まだ可なり酔っていた。\n「酔ってたため、崖から落ちても、怪我がなくて済んだよ、ははは。」\n 彼は磊落そうに笑った。\n それだけのことだったが、然し、秘密には済まなかった。板倉の家人たちにはすぐに知れ渡った。格闘を目撃した者もいたのである。然し、様子を見に来た警官に向って、星山は、下らないことだと言い、襲われたのは事実だが、顔見知りの男だし、物取りでもないことだし、内分に願うと言った。\n 事件は一応落着した。\n その話が、翌日の夕方、立花恒子の耳にはいった。彼女はティー・パーティーを早めに辞去したため、その時は知らなかったのである。なにか胸に思い当ることがあって、彼女は板倉邸へ電話し、なお事情を確かめた。考えこみながら夕食をすましたが、どうにも落着かず、自動車を駆って小泉美枝子を訪れた。\n 美枝子が出て来るまで、恒子は応接室の中をぐるぐる歩いていた。\n 彼女は立ったまま、美枝子の腕を掴んだ。\n「まあ、あんた、知ってるの。」\n「どうなさいましたの、おばさま。」\n 美枝子はにこやかに彼女を迎え、隅の方のソファーに招じた。\n 恒子は急に気落ちした思いで、美枝子の顔をしげしげと眺めた。思い惑った末、漸く言い出した。\n「昨日、あの板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすったこと、知ってますか。」\n「あ、あのことでございますか、おばさま。存じておりますわ。」\n「それなら、わたしに電話ぐらいして下すってもよろしいでしょう。」\n「だって、つまらないことですもの。」\n「いえ、わたしが言うのは、星山さんのことではありません。どういう人が、どういうわけで襲ったか、それがすこし気になって、わざわざ、こうして出て来たんですよ。わたしたち、星山さんとはああした係り合いがあるでしょう。だから、もしも、その襲った人にも係り合いがあったら、どうしますか。こんどは、噂だけでは済みませんからね。警察の方からも人が来たそうですよ。」\n「そのようなこと、御心配なすっていらしゃいますの。それでは、おばさまにお目にかけるものがございます。」\n 美枝子は立ってゆき、間もなく、一つの封筒を持って来た。\n 封筒にはただ、「小泉美枝子様、必親展」とだけしてあった。\n「今日の午後、宅の郵便箱にはいっておりましたの。御本人が自分で投げ込んでいったものと思われます。」\n 恒子は封筒を開いた。粗末な紙に几帳面な細字が竝んでいた。\n\n 御別れしなければならなくなりました。私は田舎へ引込みます。愛情にかけて、万事を御許し下さい。\n 詳しい御話を承わってから、私はHを憎みました。校舎増築について前からHを知っていただけに、猶更、憎悪の念が深まりました。あなたは一笑に附しておいでになりましたが、噂話其他により、またS夫人の仲介により、世間的にあなたの顔へ泥を塗ったのは、みなHが原因です。\n あなたが私の頬を打たれた真意はどこにあったのでしょうか。あなた自身の自己解放の契機と、私は理解します。然しそればかりではなく、Hへの復讐、ひいては男性一般への復讐も、交っていたに違いありません。\n 板倉家の観菊の会へあなたがおいでになることを、私は知っていました。それは何でもありません。然し、Hも行くことを私は偶然知り、憤慨しました。あなたの身辺にHが存在することは、あなたを涜すことです。尚且、嫉妬反目の念も私にあったことは否定しません。\n 私は殆んど無意識的に、板倉家の近くを彷徨しました。中にはいって行くことの出来ない自分自身を苛立ちました。その時、板倉家から出て来るHを見かけました。酒に酔ってるらしい彼の足取りは、更に私を激昂させました。\n 私は彼を追いかけ、崖のところで呼び止めておいて、迂濶にもあなたの名前を口走り、彼の頬を殴りつけました。あなたの名前を口に出したのは、全く迂濶でしたが、然し私は冷静でありました。あなたに代っての復讐という気もあったのです。\n 彼は私に抵抗し、組打となりました。一瞬、私には殺意が萌しました。これは重大なことです。然し幸にも、彼は崖から転落して、その下の泥沼にはまり込みました。もし彼が酒に酔っていなかったら、彼は大兵肥満で強力ですから、私の方が締め殺されるか、泥沼に投込まれるかしたことでしょう。\n Hは私を知っております。校舎増築のことでです。Hとしては、私をこのまま放任してはおきますまい。必ずや陰険な仕返しをするに違いありません。そうなると、自然、あなたの御名前も出ることになるかも知れません。私はあなたに累を及ぼすことを何よりも恐れます。\n 私は一方ならぬ恩義を御宅から受けています。然るに、何を以て私はあなたに御報いしたでしょうか。私は自殺をも考えました。然し、それは却って悪結果になるかも知れません。\n 私はいつも非常な恐怖と悲哀と歓喜とに嘖まれました。自分の道ならぬ恋愛を怖れました。地位や身分や境遇から考えても、いずれは御別れしなければならないと悲しみました。なおそれらを超えて、あなたの愛情に浸ることは天国的な喜びでした。私は深夜、独りで、どんなにか涕泣し且つ絶叫したことでしょう。\n 然し、もう凡て終りです。現実は苛酷です。私は身を退きます。恋する者にとっては、恋人は神聖無垢なものでなければなりません。私にとってあなたは神聖無垢です。それが、私のために、たとい一点の汚点でも附いたら、私は堪え切れませんでしょう。私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。\n 私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。妻は理解してくれるでしょう。明朝、学校へは辞表を出します。それから、この手紙を御宅の郵便箱へ届けます。お目にかかる勇気はとてもありません。T様の方へは、よろしく御取りなしおき下さい。\n\n 手紙の署名は、ただM・Aとあった。\n 恒子は大きく溜息をついた。\n「ねえ、おばさま、法律か哲学の文章みたいでございましょう。」\n 恒子は飛びあがって、美枝子の手を押えた。\n「これ、ほんとうのことですか。」\n「さあ、御本人が書いたのですから、たぶん......。」\n「あんた、冗談じゃありませんよ。よく平気でおられますねえ。」\n「だって、ほかに仕様がございませんわ。それに、もう済んでしまったことですから。」\n「まだ、昨日からのことですよ。もし間違って、新聞にでも書かれたらどうします。万一のことがあったら、揉み消してもらうように、手を廻しておいてもいいんですけれど......。」\n「大丈夫ですよ、おばさま。昨日から今日で、すんでしまったんですもの。そしてじきに、明日になりますわ。」\n「明日......またなにか始めるつもりですか。」\n「いいえ。」美枝子は頬笑んだ。「もうおばさまに御心配かけませんわ。」\n「ああ、なんだか分らなくなってきた......。もっとよく考えてみます。あんたも考えておきなさいよ。明日、宅へ来て下さいね。」\n「伺いますけれど、おばさま、ほんとに、大丈夫でございますよ。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "そこは心地よいまどろみの国。\n夢は半ばとじた眼の前にゆれ、\nきらめく楼閣は流れる雲間にうかび、\n雲はたえず夏空に照りはえていた。\n\n――倦怠の城\n\n ハドソン河の河幅がひろがり、むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは用心していつでも帆をちぢめ、航海者の守り、聖ニコラスに加護をねがいながら、横断したものだ。そこの東側の岸にくいこんでいる広い入江の奥に、小さな市場か田舎の港といったような町があり、ある人たちはグリーンズバラと呼んでいるが、本来はタリー・タウン(ぶらつき町)という名が正しく、また普通にはその名で知られている。聞くところによれば、この名は、そのむかしこの近隣の女房たちがつけたもので、市場のひらかれる日に亭主連が村の居酒屋のあたりをぶらついてはなれない頑固な癖があったからだという。それはともかくとして、わたしはこの事実の真偽のほどはうけあわない。ただ一応そのことを述べて、正確と厳正を期そうというわけである。この村からさほど遠くない、おそらく二マイルほどはなれた高い丘に、小さな渓谷、というよりはむしろ窪地というべきところがあるが、そこは世の中でいちばん静かな場所である。小川が滑るように流れそのせせらぎは人を眠りにいざない、ときたま鶉が鳴いたり、啄木鳥の木を叩く音が聞えるが、あたりに漲ぎる静寂を破る響はそれくらいのものだ。\n 思いおこしてみると、わたしがまだ少年のころはじめて栗鼠射ちで手柄をたてたのは、この渓谷の片側に茂っている高い胡桃の木の林だった。わたしがその林のなかにはいりこんだのはちょうど午どきで、自然はことのほか静かで、わたしは自分の銃のとどろく音にもおどろいたものだ。銃声はあたりの日曜日のような静けさを破り、こだまとなって尾をひき、怒ったように鳴りひびくのだった。世の中の騒がしさから逃れ、わずらわしいことばかり多かった人生の余暇を静かに夢みながら暮すことができる隠居所をもとめるならば、この小さな渓谷にまさるところは知らない。\n このあたりには、ものういような静けさがただよっているし、またその住民はむかしのオランダ移住民の子孫だが一風変った気質をもっているので、このさびしい谷は長いあいだスリーピー・ホロー(まどろみの窪)という名で知られていた。そして、そこの百姓息子は、この近在のどこへ行ってもスリーピー・ホローの若衆と呼ばれていた。眠気をさそう夢のような力がこのあたりをおおっており、大気の中にさえ立ちこめているようだった。移住のはじまったころ、ドイツのある偉い祈祷医師がこの場所に魔法をかけたのだというものもあるが、またあるものは、ヘンドリック・ハドソン船長がこの土地を発見するよりも前に、インディアンの老酋長で、種族の予言者か妖術師であった男が、ここで祈祷をおこなったのだとも言っている。たしかに、この場所にはいまだになにか魔力が利いていて、それが善良なひとびとの心に呪いをかけ、そのおかげで彼らはいつでも幻想にふけりながらうろついているのである。彼らは、ありとあらゆるふしぎな信心に夢中になり、夢幻の境に遊んだり、幻想におちいったりするし、しばしば奇怪なものを見たり、虚空に音楽や人声を聞くこともある。近隣一帯には伝説は豊富だし、幽霊のでる場所も多いし、うす暗い時刻につきものの迷信もあまたある。流星がとぶのも、隕石がひらめくのも、この谷間では国じゅうのどこよりも頻繁だし、悪夢の魔女は九人の供をひきつれて、ここで跳びはねるのが好きらしい。\n しかし、この妖術をかけられた地方につきまとう主領の精霊で、空中の魔力の総大将とおぼしいのは、首の無い騎士の亡霊である。ある人たちのいうのには、これはヘッセからアメリカに渡った騎兵の幽霊であり、独立戦争のとき、どこかの小ぜりあいで、大砲の弾丸に頭をうちとばされたもので、ときたま村の人たちが見かけるときには、夜の闇のなかを疾走し、あたかも風の翼に乗っているようだということだ。その亡霊のあらわれるところは、この谷間だけに限らず、ときには近所の街道にも及び、特に、そこから遠くないある教会の付近にはよくあらわれるのだ。じっさい、この近傍のもっとも信頼すべき歴史家たちのなかには、この亡霊についての噂を集めたものがあり、彼らが比較検討したうえで言明するところでは、この騎士の死体はこの教会の墓地に埋葬されているが、その亡霊は夜な夜なもとの戦場に馬を駆り、頭をさがすのである。亡霊が夜半の疾風のように速くこの窪地を通り去るのは、刻限におくれたために、大いそぎで夜明け前に墓場へ帰ろうとしているのだということだ。" }, { "role": "assistant", "content": " これがこの伝説的な迷信の大意であるが、この迷信が材料になって、この幽霊が出る地方にはいくたのふしぎな物語ができあがった。この亡霊はどの家の炉ばたでも、「スリーピー・ホローの首なし騎士」という名で知られている。\n ふしぎなことに、さきほど述べた夢想におちいる傾向は、この谷間に生れつき住んでいる人だけでなく、しばらくそこに住む人も知らず知らずのうちにみな取りつかれるのである。ひとびとが、この眠たげな地域に入る前にいかにはっきり目をさましていたとしても、間もなくかならず空中の魔力を吸いこんで、空想的になり、夢を見たり、幻影を見たりするようになるのだ。\n わたしはこの平和な場所にあらゆる讃美の言葉をおしまない。それは、大ニューヨーク州の奥深く、あちらこちらにあるオランダ人の住む辺鄙な渓谷のなかにあり、ここでは人口も風俗習慣もかわらないのだ。休むことを知らないアメリカのほかのところでは、移住民や種々な改善が奔流のようにぞくぞく流れこみ、絶えず変化しているが、その大きな急流もこの渓谷にはまったく気づかれずに流れてゆくのだ。そこは静かな水の片隅のようなもので、急流と境を接しているのに、藁くずや泡が静かにたゆたっていたり、あるいは、波止場にでもついたかのようにゆるやかに渦巻いていたりして、かたわらを流れてゆく急流に乱されないのにも似ている。わたしがスリーピー・ホローの眠たげな森かげを歩いてから、もういくたの年月がたっているが、今もやはり、そのころと同じ樹木が茂っており、同じひとびとがその奥まったところにのんびり暮しているのではないかと思う。\n この自然界の片隅に、アメリカの歴史がはじまったころ、というのは三十年ほど前のことだが、イカバッド・クレーンという名の見あげた人物が、付近の子供たちに勉強を教えるために、スリーピー・ホローに仮り住まいをしていた。いや、その本人の言葉でいえば、「ぶらついて」いたのだ。彼はコネティカット州の生れだったが、その州はアメリカじゅうに森林の開拓者はもちろん学問の開拓者も供給し、毎年大ぜいの木樵を辺境におくり、教師を田舎に出している。クレーン(鶴)という苗字は彼の容姿にぴったりしていた。背は高いが、ひどく細く、肩幅はせまく、腕も脚も長く、両手は袖口から一マイルもはみだし、足はシャベルにでもしたほうがいいような形だった。ひどくいいかげんにまとめあげたようなからだつきなのだ。頭は小さく、上が平らで、大きな耳と、大きな緑色のガラスのような眼と、鷸の嘴のように長い鼻とがくっついているさまは、まるで風見の鶏が、彼の細い首のうえにとまって、風の吹く方向を告げているようだった。風の強い日に彼が丘の背を大股で歩き、洋服をばくばくと風になびかせてゆくのを見ると、貧乏神が地上におりてきたのか、あるいは、どこかの案山子が玉蜀黍の畑から逃げだしてきたのかとまちがえるかもしれない。\n 彼の学校は低い建物で、大きな教室が一つきりの粗末な丸太づくりだった。窓はガラス張りのもあったが、帳面の紙をはぎあわせてあるのもあった。不在のときには、きわめて巧妙に、細枝でつくった紐でしっかりとドアの取っ手をしばりつけ、鎧戸には心張棒がかってあった。したがって、泥棒はまったくやすやすと侵入できるとしても、出るときにはいささか困惑するにちがいない。おそらくこの思いつきは大工のヨースト・ヴァン・ホーテンが鰻落しのからくりから借りてきたものであろう。校舎は、少々ものさびしいとはいえ気持ちのよいところに建っていた。木のおいしげった丘のふもとで、近くを小川が流れ、白樺の巨木がその片端に立っていた。眠けを誘う夏の日には、生徒たちの課業を勉強する声が、校舎から低くぶつぶつ聞えてきたが、蜜蜂のぶんぶんいう音のようだった。ときどきそれが途切れて、先生の、まるで叱っているか命令でもしているような調子の重々しい声が聞えた。また、ときには恐ろしい鞭の音がしたが、おそらく先生が、だれか歩みのおそいものをうながして花咲く学問の道を進ませようとしているのだった。じつのところ、彼は良心的な男で、いつも心に例の金言を銘じていた。「鞭を惜しむと、子供は甘くなる」イカバッド・クレーンの生徒たちはたしかに甘やかされてはいなかった。\n しかし、彼が惨酷な校長で、生徒の苦痛をよろこぶようなものであると想像されては困る。それどころか、彼の罰し方はただ厳格一方というのではなく、ちゃんと差別をつけていたのである。彼は、弱いものの背から負担をとりのぞいて、それを強いもののうえにおいた。弱々しい少年が、ちょっと鞭をふりあげただけでもびくびくすれば、大目に見すごしてやった。だが、処罰が二人前になって十分にふりかかるのは、生意気な、頑丈な、片意地な、尻の大きいオランダ人の腕白小僧だった。そういう子供は、鞭のもとで、すね、ふくれ、頑固になり、むっつり不機嫌になった。こういうことをすべて彼は「親のために自分のつとめをはたすことだ」と言っていた。苦しむほうの腕白小僧にしてみればまったくありがた迷惑なことだが、彼は折檻をしたあとでは、かならず「おまえは生きているかぎりはこのことを思い出して、ありがたく思うだろう」と言ったものだ。\n 学校が終ると、彼は年長の少年のために友だちともなり、遊び相手ともなった。そして、休みの日の午後には年下の子供を家に送って行ってやったが、偶然その子に綺麗な姉がいたり、あるいはその母親が善良な女房で、うまい御馳走をつくるので評判だったりしたものだ。じっさい、彼は当然生徒たちと仲よくしなければならなかった。学校からあがる収入はわずかだったし、とても毎日の糧をもとめるにも足りないくらいだった。彼はなかなかの健啖家で、痩せほそってはいたものの、大蛇のように胃袋をふくらますことができたのだ。ところが、彼は生活費を補うために、このあたりの田舎の風習にしたがって、あちこちの百姓の家に下宿し、食事の厄介になっており、そしてその子供たちを教えていたのだった。彼はこういう農家に、一軒につづけて一週間ずつ世話になっては、近所をめぐり歩いたのだが、そういうときに彼は家財をまとめて、木綿のハンカチに包んで行ったものだ。\n こういうことが彼の後援者たる田舎ものの財布に負担をかけるとなると、彼らはとかく教育費はたいへんな出費だと考えたり、先生は単なる穀つぶしだと思ったりしがちだから、そうならないように、彼はいろいろと用事をしたり、また好かれるようにしたりした。おりをみて、彼は百姓を手つだって、かるい畑仕事をしてやった。乾草つくりに手をかしたり、垣根をなおしたり、馬に水をのませに連れていったり、牝牛を放牧場から駆りたてたり、冬の煖炉に燃す薪をきったりした。そのうえ、彼は、自分の小さな帝国である教室に君臨するときの圧迫的な威厳や絶対支配権をいっさい投げうって、おどろくほどやさしくなり、気に入られるようにした。彼は子供をかわいがってやっては、母親たちの好意をかちえたが、特にいちばん幼い子供をかわいがった。そして、むかしあの猛々しいライオンが、おおらかな気持ちで、羊をだいてやったように、彼はよく子供を膝にのせ、何時間もぶっつづけに足で揺り籠をゆすったものだった。\n ほかの仕事に加えて、彼は近隣の歌の先生でもあり、若い人たちに讃美歌の歌い方を教えて、ぴかぴかの銀貨をたくさん稼いでいた。日曜日に、選りぬきの歌い手たちを引きつれて、教会の聖歌隊の場所の正面に席をしめることは、彼の虚栄心をなみなみならず満足させたものである。そこに立つと、彼は牧師から完全に勝利をうばいとったような気がしたのだ。たしかに彼の声はほかの会衆一同の声よりはるかに高らかに鳴りひびいた。そして、今でもその教会のなかでは妙にふるえる音が聞え、静かな日曜日の朝には水車用水池の正反対のほうに半マイルもはなれたところでも聞えることがあるのだが、その声はまさしくイカバッド・クレーンの鼻から伝わったものだといわれている。こうしてさまざまなやりくりをして、いわゆる「なんでもかんでもする」といううまい方法で、この立派な教育者はまずまず申し分なく暮し、頭を働かす仕事には門外漢な連中には、えらく安楽な生活をしていると思われたのだ。\n 先生というものは概して田舎の女性たちには相当尊敬されるもので、のんきな紳士風の人間のように思われ、荒っぽい田舎の男たちにくらべれば、はるかにすぐれた趣味や才芸もあり、じっさい、学問ではただ牧師に及ばないだけだと考えられるものだ。だから、先生があらわれると、とかく農家のおやつのテーブルには少なからず騒ぎがおこり、菓子や砂糖漬けのご馳走がむやみと増えることもあろうし、ことによれば、銀の茶瓶を見せびらかすこともある。したがって、この学者先生も田舎の娘たちには大もてだった。日曜日の教会の境内で礼拝のあいまに、彼はどんなに彼女たちのなかで目立ったことだろうか。周囲の木々にからみついている野葡萄の実をとってやったり、彼女たちを面白がらせるために墓石の銘を全部朗唱したり、あるいはまた、彼女らをみんな連れて近所の水車用水池の堤を散歩したりしたのだ。しかも、そのあいだ、はにかみ屋の田舎娘たちはおずおずしてうしろのほうにかくれ、彼のすぐれた上品さや応対ぶりを羨しがっていたのである。\n なかば巡回旅行のような生活をしていたので、彼はまた歩く新聞のようなものでもあり、あちこちの噂消息をあつめて家から家へと持ちあるいた。だから、彼が来ることはいつでも歓迎された。そのうえ、彼は婦人たちにたいへんな物識りとして尊敬されていた。なにしろ彼は数冊の書物を読んでいたし、コットン・マザーの「ニューイングランド魔術史」には精通していたのだ。ついでながら、彼はこの著書を深く固く信じていたのである。\n じじつ、彼には小利口で抜け目のないところと、単純にものを信じやすいところとが妙にまじりあっていた。不可思議なことを好む食欲も、またそれを消化する力もなみなみでなかった。しかも、それが両方ともに彼がこのまじないのかかった地方に住んでからいよいよ旺盛になった。どんな大きな話でも、恐ろしい話でも、彼はがぶりとのみこんでしまうのだ。彼のたのしみは、午後、学校が終ってから、学校のそばですすりないている例の小川のほとりの、ふさふさしたクローバの上に、しばしば寝ころがって、マザーの恐ろしい話を熟読玩味することだった。そして、夕闇が濃くなって、書物のページが彼の眼の前で靄のようにかすんでしまうまで、読んでいるのだ。それから帰り途には沼や川や、ものすさまじい森のそばを通って、そのとき厄介になっている農家へ帰ってゆくのだが、この妖怪が出そうな時刻には、自然界のもの音はみな、彼の興奮した想像力を刺戟した。丘の斜面から聞えてくるウィッパーウィル(原註)の鳴く声。雨蛙の不吉な声は嵐の前ぶれだ。梟のさびしい声。突然しげみの中でがさがさいうのは、鳥がおどろいて巣から飛びたつ音だ。蛍さえもひどく暗いところで鮮かにぴかりぴかり光り、ときどき並みはずれてよく光るのが路を横ぎって流れ、彼をおどろかした。なにかのはずみで、大きな馬鹿な甲虫がまごついて飛んできて彼にぶつかろうものなら、このあわれな男は魔女のまじないにうたれたのかと思って、あやうく死ぬほどになった。そういう場合に、気をしずめたり、あるいは悪霊を追いはらうためにただ一つ力の源になるのは、讃美歌をうたうことだった。スリーピー・ホローの善良なひとびとは、夕方家の戸口に腰かけながら、恐怖に満たされて、彼の鼻声の歌をきいたことがしばしばあった。その歌は、「長々と美しくつながり」遠くの丘やほの暗い街道から流れてくるのだった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。\n(幾万両の財宝を強奪したことやら)\n 奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった悪辣の所業なども思い出された。そうして、大仕事をすると、官の探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。\n(下総の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然組を解散したっけ)\n(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)\n こんなことも思い出された。\n(だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?)\n 決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。\n(わしの頭脳はまだ快癒りきらないのかもしれない)\n 淋しくこう思った。\n と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを綯い雑ぜにした男の声が、\n「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」\n と、聞こえて来たではないか。\n「う、う、う!」\n と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼に現われた、「声の妖怪」を切り払うかのように、頭上に振り、\n「あの声! 聞き覚えがある! ......二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ......秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ......おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」\n 一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ斑を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、酣の春は、華麗な宴を展開いていた。耕地には菜の花が、黄金の筵を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を劃って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花や海棠や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ顫わせた。\n(声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!)\n その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。\n「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」\n(あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!)\n 薪左衛門は呻いた。\n\n 栞の発見した物\n\n この頃栞は、林の中を逍遙っていた。\n 父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦と希望とに燃えているのであった。\n(頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ)\n 栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。\n(妾、あの方の命の恩人なのよ。......頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ)\n つい心の中で甘えたりした。\n 林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光は、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、菫や土筆や薺の花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩れ陽の通い路の空間に、蟆子や蜉蝣や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。\n 心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。\n 栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居ってい、桜実のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。\n 栞は木々を縫って目的なく彷徨って行った。\n 一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、\n「あれ」と云って、栞は足を停めた。\n その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。\n「紙帳だよ、......まあ紙帳!」\n どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。\n(その紙帳ではあるまいか?)\n(まさか!)\n と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に捉えられ、立ち去るどころか、怖々ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。\n(気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。\n 短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。\n いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。\n 間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ裂け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し弛るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。\n(この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?)\n この好奇心も、女心の一つであろう。\n 栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。\n しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命より大切の......そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか?\n そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。" }, { "role": "assistant", "content": " 処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして翔けり、その影を、刹那刹那映した。\n\n 戸板の一団\n\n ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた地点に、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、家鶏の雛が十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、欝金色の綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を担い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から滴が落ちて、日和つづきで白く乾いている庭の礫の上へ滴り、潰れた苺のような色を作した。\n 血だ!\n「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」\n と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。\n「俺らも水だ」\n と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。\n そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。\n 農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を選り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。\n 咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ煤ぶれた障子を陽に焙らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。\n「わッ、わりゃア、五味左門!」\n と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。\n「野郎!」\n と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。\n この時、もう左門は、その独活の皮を剥いたように白い足で、縁板を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。\n「わッ」\n 染八の肩から、こう蹴鞠の毱のような物体が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級は、碇綱のように下がっている撥ね釣瓶の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前に消えてしまった。年月と腐蝕とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。\n「タ、誰か、来てくれーッ」\n 染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに躓き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄て間のない小蛇が、井戸端の湿地に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足となり、白い蹠をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。\n 彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。\n\n 悩みの殺人鬼\n\n 懐手をし、少し俯向き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。\n 木々を巡り、藪を避け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。\n それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。\n(いずれは彼奴も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)\n こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。\n 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を!\n そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。\n その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。\n(あの夜紙帳が、独りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる)\n しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか?\n それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。\n 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の礫さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。\n(家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア)\n 顔に精彩のないのも無理がないと思った。\n(どうぞして紙帳を探し出したいものだ)\n 彼は黙々と歩いて行った。\n それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。\n 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。\n(やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな)\n こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、筵をかけた戸板を担って、あの農家の納屋の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。\n(どっちみち油断はならない)\n こう思った。\n やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。\n 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅ったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。\n 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。\n 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。\n 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 余は寄生木を乃木大将に贈呈しなかった。然し伝聞する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確に書かれた、と云われた事、を聞いた。精確な筈だ、記憶の好い本人良平が命がけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有たなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前顔を合わすれば棒立に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気を見せて、恩義を弁えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂であったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂しい将軍の晩年に於てまた一の慰藉となったことは、察するに難からぬ。篠原良平が「寄生木」を遺した目的の一は達せられたのである。\n 余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪う可く多少の努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可かりし演説が某の注意に因り院長たる将軍の言によって差止められたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復も為なかった。茫々たる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝか繋ぐものがあるならば、其は「寄生木」である。\n 然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。唯将軍と余の間に一の縁を作ったに過ぎぬ。乃木将軍夫妻程死花が咲いた人々は近来絶無と云ってよい。大将夫妻は実に日本全国民の崇拝愛慕の的となった。乃木文学は一時に山をなして出た。斯上蛇足を加うる要はないかも知れぬ。然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余相応の義務が感ぜられる。此義務は余にとって不快な義務では無い。余は如何なる形に於てかこの義務を果したいと思うて居る。\n\n\nコスモス\n\n 今日は夏を憶い出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白い蝶が出て舞う。蠅が活動する。蝉さえ一しきり鳴いた。\n 今はコスモスの真盛である。濃紅、紅、淡紅、白、庭にも、園にも、畑にも、掃溜の傍にも、惜気もなく心を見せて思いのまゝに咲き盛って居る。誰か見に来ればよいと思うが、終日誰も来ぬ。唯主人のみ黄金の雨と降る暖かい秋の日を浴びて、存分に色彩の饗応に預かる。\n たま〳〵屋敷下を荷車挽いて通りかゝった辰爺さんが、\n「花車の様だね」\nとほめて通った。\n 庭内も、芙蓉、萩、蓮華つゝじは下葉から色づき、梅桜は大抵落葉し、ドウダン先ず紅に照り初め、落霜紅は赤く、木瓜の実は黄に、松はます〳〵緑に、山茶花は香を、コスモスは色を庭に満たして、実に何とも云えぬ好い時候だ。\n 夕方屋敷の南端にある欅の切株に上って眺める。日は何時しか甲州の山に落ちて、山は紫に匂うて居る。白茶色になって来た田圃にも、白くなった小川の堤の尾花にも夕日が光って、眼には見る南村北落の夕けぶり。烏啼き、小鳥鳴き、秋静に今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色の空に煙が幾条も真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発して二十余名を殺傷した目黒の火薬庫の煙だ。\n(明治四十四年 十月二十三日)\n\n\n鍬取りて\n\n\n秋さびし\n\n 今日はさびしい日である。\n ダリヤの園を通ると、二尺あまりの茶色の紐が動いて居る、と見たは蛇だった。蜥蜴の様な細い頭をあげて、黒い針の様な舌をペラ〳〵さして居る。殺そうか殺すまいかと躊躇して見て居る内に、彼は直ぐ其処にある径一寸ばかりの穴に這入りかけた。見る中に吸わるゝ様にズル〳〵と辷り込んで了うた。\n 園内を歩くと、蝉のヌケ殻が幾個も落ちて居る。昨夜は室内で、小さなものゝ臨終の呻吟の様なかすかな鳴声を聞いたが、今朝見ればオルガンの上に弱りはてたスイッチョが居た。彼は未だ死に得ない。而して死に得る迄は鳴かねばならぬのである。\n 自然は老いて行く。座敷の前を蜂が一疋歩いて行く。両羽をつまんでも、螫そうともせぬ。何に弱ってか、彼は飛ぶ力ももたぬのである。そっと地に下ろしたら、また芝生の方へそろ〳〵歩いて行く。\n 今日はさびしい日である。\n 午後は曇って泣き出しそうな日であった。\n 午後になって、いやに蒸暑い空気が湛えた。懶い自然の気を感じて、眼ざとい鶴子が昼寝した。掃き溜には、犬のデカがぐたりと寝て居る。芝生には、猫のトラが眠って居る。" }, { "role": "assistant", "content": " 南から風が吹く。暖かい事は六月の風の様で、目を瞑って聞くと、冬も深い凩の響がする。\n 今日はさびしい日である。\n 今は午後四時である。雲を漏れて、西日の光がぱっと射して来た。散りかゝった満庭のコスモスや、咲きかゝった菊や、残る紅の葉鶏頭や、蜂虻の群がる金剛纂の白い大きな花や、ぼうっと黄を含んだ芝生や、下葉の褐色に凋れて乾いた萩や白樺や落葉松や、皆斯夕日に寂しく栄えて居る。鮮やかであるが、泣いて居る。美わしいが、寂しい。\n 今日はさびしい日である。\n(大正元年 十月二十八日)\n\n\n展望台に上りて\n\n上\n\n 余の書窓から西に眺むる甲斐の山脈を破して緑色濃き近村の松の梢に、何時の程からか紅白染分の旗が翻った。機動演習の目標かと思うたら、其れは京王電鉄が沿線繁栄策の一として、ゆく〳〵東京市の寺院墓地を移す為めに買収しはじめた敷地二十万坪を劃る目標の一つであった。\n 京王電鉄調布上高井戸間の線路工事がはじまって、土方人夫が大勢入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人辱しめられ、村中の若い女は震え上り、年頃の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓を喰わぬアダム同様無褌の真裸で横行濶歩、夜は何の様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼婆さんのあばら家まで、遽てゝかけ金よ釘よと騒いだりした。其れも工程の捗取ると共に、何時しか他所に流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。\n 京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に、買った敷地を売りつけて一儲けする、此は京王の考としてさもありそうな話である。田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主は、地所を荷厄介にして居る。また大きな地主で些派手にやって居る者に借金が無い者は殆んどない。二十万坪買収は、金に渇き切った其或人々にとって、旱田に夕立の福音であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、盛に仲間を造りはじめた。金は無論欲しい。脅嚇も勿論利く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡承諾の契約書に調印してしまった。踟蹰する者もあった。余はある人に斯う云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好の代地があったら格別、でなければ農が土を手放すは魚の水に離れるようなものだ、金なんか直ぐ泡の様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十堕落の原だ。\n 売らぬと云う側は、人数で関係地主の総数五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様だ。東京が段々西へ寄って来て、豊多摩荏原の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前専ら穀作と養蚕でやって居た北多摩郡が豊多摩荏原に代って蔬菜や園芸品を作る様になり、土地の価は年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地の中、地味も便利も屈指の六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛の寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮を引当てた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地と云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積の寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然騰貴する。小作料の騰貴はまだ可いが、中には小作地が不足して住み馴れた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人が出来たりする。それから寺院墓地は免租地だから、結局村税の負担が増加する。何も千歳村の活気ある耕地を潰さず共、電車で五分間乃至十分も西に走れば、適当の山林地などが沢山あって、其辺の者は墓地を歓迎して居る。其方へ行けばよいじゃないか。反対の理由は、ざっと右の通りだ。尤も中に多少の魂胆もあろうが、大部分は本当に土に生き土に死ぬ自作農の土に対する愛着からである。変化を喜び刺戟に生きる都会人には、土に対する本当の農の執着の意味は中々解せない。真の農にとって、土はたゞの財産ではない、生命其のものである。祖先伝来一切の生命の蓄積して居る土は、其一塊も肉の一片血の一滴である。農から土を奪うは、霊魂から肉体を奪うのである。換言すれば死ねと云うのである。農を斯土から彼土に移すのは、霊魂の宿換を命ずるのである。其多くは死ぬるのである。農も死なゝければならぬ場合はある。然し其は軽々しく断ずべき事ではない。一は田中正造翁に面識なく谷中村を見ないからでもあろうが、余は従来谷中村民のあまり執念深いのを寧ろ気障に思うて居た。六年の田舎住居、多少は百姓の真似もして見て、土に対する農の心理の幾分を解しはじめて見ると、余は否でも曩昔の非を認めずには居られぬ。即ち千歳村の墓地問題の如きも、京王電鉄会社や大地主等にとっては利益問題だが、純農者にとっては取りも直さぬ死活問題であるのだ。\n 然るに京王電鉄は、一方先棒の村内有力者某々等をして頗る猛烈に運動せしむると共に、一方田夫野人何事をか仕出来さんと高を括って高圧的手段に出た。即ち関係地主の過半数は反対であるにも関せず、会社は村長の奥印をもって東京府庁に宛てゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地展望台を畑の真中に持て来て建てる。果ては、云う事を聴かねば土地収用法を適用するまでの事だ、電鉄の手で買えば一反五百七十円から五百五十円までゞ買うが、土地収用法がものを云えば一反三百円か高くても三百五十円は越さない、其でも好いか、好ければ今に見ろ。斯様な調子でのしかゝって来た。\n 売る者は売れ、俺等は売らぬ、と澄まして居た反対側の人達も、流石に怒り出した。腰弁当、提灯持参、草鞋がけの運動がはじまった。村会に向って、墓地排斥の決議を促す申請書を出す。村会に於てはまた、大多数を以て墓地排斥の建議案を通過するぞと意気込む。それから連判の陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た。昨朝の事である。\n\n下\n\n 今日余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田に買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。\n 品川堀に沿うて北へ歩む。昨日連判状を持って来た仲間の一人が、かみさんと甘藷を掘って居る。\n「此処らも予定地の内ですか」\n「え、彼道路からずっとなんですよ。彼処に旗が立ってますだ」\n 成程余が書窓から此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松の梢にヒラヒラして居る。東北の方にも見える。彼旗が敗北の白旗に変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。\n 余は麦畑に踏込む犬を叱り、道草摘む女児を促し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍の尾花は霜枯れて、かさ〳〵鳴って居る。丁度七年前の此月である。余は妻と此世の住家を探がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲れた足を曳きずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花、何処やらに鳴く夕鴉の声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯黙って歩いた。我儕の行衛は何処に落ちつくのであろう? 余等は各自に斯く案じた。余は一個の浮浪書生、筆一本あれば、住居は天幕でも済む自由の身である。それでさえ塒はなれた小鳥の悲哀は、其時ヒシと身に浸みた。土から生れて土を食い土を耕して終に土になる土の獣の農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何であろう!\n 品川堀が西へ曲る点に来た。丸太を組んだ高櫓が畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓を見るようだ。北表面へ廻ると、墨黒々と筆太に\n霊場敷地展望台\nと洋紙に書いて張ったのが、少し破れて風にばた〳〵して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻をした禿頭の爺さんが堆肥の桶を担いで、媳か娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔をして居る。爺さんは桶を下ろし、鉢巻をとって、目礼した。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部買収地の真中に取こめられ、仮令収用法の適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなれば袋の鼠の如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧し、殆ど仕事も手につかず、昨日訪ずねて来た時もオド〳〵した斯老人の容子は余の心を傷ましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨して立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢に魘わるゝことであろう。爺さんの寿命を日々夜々に縮めつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。茶と桑と二方を劃った畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄素縄で丸太をからげ組み立てた十数間の高櫓に人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟蹰したが、終に女児と犬を下に残して片手欄を握りつゝ酒樽の薦を敷いた楷梯を上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三重の楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。頂は八分板を並べ、丈夫に床をかいてある。\n 余は思わず嗟嘆して見廻わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形をなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞、甘藷を掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青をなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑、白っぽい黄色の晩陸稲、入乱れて八方に展開し、其周囲には霜に染みた雑木林、人家を包む樫木立、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻いて居る。北を見ると、最早鉄軌を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人鶴嘴を振り上げて居る。西を見れば、茶褐色に焦れた雑木山の向うに、濃い黛色の低い山が横長く出没して居る。多摩川の西岸を縁どる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れの筋は分明に指さゝれる。少し西北には、青梅から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜んで見えない。唯藍色の雲の間から、弱い弱い日脚が唯一筋斜に落ちて居る。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 葉子のヒステリーはだれかれの見さかいなく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんといわれてもののしられても、打ち据えられさえしても、屠所の羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳癪は嵩じるばかりだった。あんな素直な殊勝げなふうをしていながらしらじらしくも姉を欺いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾が起こしてみたかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊まりするようになったためだと葉子は自分決めに決めていた――幾時間かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の口びるから岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔を紅らめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種になった。\n もう来られそうもないといいながら倉地も三日に一度ぐらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄想に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とをつないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身に持ちかけてみたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な無技巧な事をしていながらも、どうしてものがれ出る事のできないのは倉地に対するこちんと固まった深い執着だった。それは情けなくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根を憫然に思ってそぞろに涙を流して、自らを慰めるという余裕すらなくなってしまった。かわききった火のようなものが息気苦しいまでに胸の中にぎっしりつまっているだけだった。\n ただ一人貞世だけは......死ぬか生きるかわからない貞世だけは、この姉を信じきってくれている......そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で独語ちた。\n けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件がまくし上がった。\n その朝は暁から水がしたたりそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が木の間から来て窓の白いカーテンをそっとなでて通るさわやかな天気だったので、夜通し貞世の寝台のわきに付き添って、睡くなるとそうしたままでうとうとと居睡りしながら過ごして来た葉子も、思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。緑色の風呂敷を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝が始めてだったので、もう熱の剥離期が来たのかと思うと、とうとう貞世の命は取り留めたという喜悦の情で涙ぐましいまでに胸はいっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく開けて行くかもしれない。きっと開けて行く。もう一度心置きなくこの世に生きる時が来たら、それはどのくらいいい事だろう。今度こそは考え直して生きてみよう。もう自分も二十六だ。今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にもすまなかった。倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業といっている仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの暮らし向きはまるでそんな事も考えないような寛濶なものだった。自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分をはめ込む事ぐらいできる女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちにいって聞かして、倉地と一緒になろう。そして木村とははっきり縁を切ろう。木村といえば......そうして葉子は倉地と古藤とがいい合いをしたその晩の事を考え出した。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に紛れていたというほかに、てんで真相を告白する気がなかったので今まではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。ほんとうに木村にもすまなかった。今になってようやく長い間の木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら――そして退院するに決まっているが――自分は何をおいても木村に手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。......葉子はもうそんな境界が来てしまったように考えて、だれとでもその喜びをわかちたく思った。で、椅子にかけたまま右後ろを向いて見ると、床板の上に三畳畳を敷いた部屋の一隅に愛子がたわいもなくすやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊帳をつってなかったが、愛子の所には小さな白い西洋蚊帳がつってあった。その細かい目を通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子をこれまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を通り越して、奇怪な事にさえ思われた。葉子はにこにこしながら立って行って蚊帳のそばによって、\n「愛さん......愛さん」\n そうかなり大きな声で呼びかけた。ゆうべおそく枕についた愛子はやがてようやく睡そうに大きな目を静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝すごしでもしたと思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっと葉子をぬすみ見るようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳癪の種にする葉子も、その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。\n「愛さんお喜び、貞ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから......静かにね」\n「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっと蚊帳をくぐって出て、前を合わせながら寝台のそばに来た。\n「ね?」\n 葉子は笑みかまけて愛子にこう呼びかけた。\n「でもなんだか、だいぶに蒼白く見えますわね」\n と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、\n「それは電燈の風呂敷のせいだわ......それに熱が取れれば病人はみんな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。あなたも親身に世話してやったからよ」\n そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。\n 葉子はなんとなくじっとしてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺りさます事はし得ないで、しきりと部屋の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそとの音もさせまいと気をつかっているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっと葉子の挙動を注意した。\n そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽いにおいと共に部屋の中にみちあふれた。愛子の着かえた大柄な白の飛白も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々しく刺激した。\n 葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある小さな庖厨に行って、洋食店から届けて来たソップを温めて塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったのできげんのよかるべき貞世はいっそうふきげんになって見えた。愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとはしなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、自分の事のように心で弁疏した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓するともう全く朝になっていた。けさこそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を寝台の所に持って行った。\n その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣に絽の羽織を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくりそぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて葉子の立ち直った気分に同じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言目には涼しく笑った。\n「さ、貞ちゃん、ねえさんが上手に味をつけて来て上げたからソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」\n そういって貞世の身ぢかに椅子を占めながら、糊の強いナフキンを枕から喉にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうようにひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。\n「まずい」\n 貞世はちらっと姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップをしいて飲みこんだ。" }, { "role": "assistant", "content": "「おやどうして」\n「甘ったらしくって」\n「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」\n 葉子は塩をたしてみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。また一口飲み込むともういやだといった。\n「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」\n そう促してみても貞世は金輪際あとを食べようとはしなかった。\n 突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。\n そうなるともう葉子は自分を統御する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっと燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝き進んで、頭蓋骨はばりばりと音を立てて破れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、......憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上まぶたの一文字になった目をきりっと据えてはたと貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋のものは倉地から愛子に至るまですっかり見えなくなってしまっていた。\n「食べないかい」\n「食べないかい。食べなければ云々」と小言をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。\n「食べない......食べない......御飯でなくってはいやあだあ」\n 葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっと心臓を破って脳天に衝き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。\n「おねえ様......おねえ様ひどい......いやあ......」\n「葉ちゃん......あぶない......」\n 貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒の中で何か自分に逆らう力と根限りあらそいながら、物すごいほどの力をふりしぼってたたかっているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉笛に針のようになった自分の十本の爪を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣の声とも知れぬ音響がかすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように感じた次の瞬間には、葉子は昏々として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。\n ふと葉子は擽むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがやがやという声をだんだんとはっきり聞くようになった。そしてぽっかり視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は......自分はと葉子は始めて自分を見回そうとしたが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の首根っこに腕を回して、膝の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。\n 葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな......どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっとこみ上げて来た。底のないようなさびしい悲哀......そのうちに葉子は悲哀とも睡さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚から物のない世界に落ち込んで行った。\n ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋のすみの三畳に蚊帳の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。\n 愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執念くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿を臥ていながらひっくり返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり立ち上がって貞世の胸もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、そのうちに激しい癪を起こしてしまったのだとの事だった。\n 葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないようなむなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり元通りにのぼってしまって、ひどくおびえるらしい囈言を絶え間なしに口走った。節々はひどく痛みを覚えながら、発作の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。\n 貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永劫自分を命の敵と怨むに違いない。\n「死ぬに限る」\n 葉子は窓を通して青から藍に変わって行きつつある初夏の夜の景色をながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。貞世の枕もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子......二人が愛し合うのは当然でいい事らしい。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "内乱の起る場合 は法王が薨れたとか、あるいはなお幼くして政を親らすることが出来んという時に当り、ある大臣が威をほしいままにするとか、その時の仮りの法王が権を専らにして人民を虐げるという場合に、人民が憤激して内乱を起すことがありますけれども、法王が成長して実際その国の政を執るに当っては、多少困難な事が起っても、これは活きたる観世音菩薩に仕えるのである、供養するのであるという観念をもって心服して居りますから、兵隊は沢山要らない訳です。\n ただチベットで非常に兵士を置く必要を感じたのは、ネパールとの二度の合戦その後また英領インドとの戦争以来、ぜひ兵士がなくてはならぬというて、まず雇兵として五千人の常備兵隊を置いてあるので、義務兵という者は一人もない。この雇い兵士は要所要所に分遣されて居るので、ラサには僅かに一千人、それからシカチェに二千人、テンリーというてネパール国に対する最も緊要なる防禦場である所に五百名とはいうて居るが、その実三百名しか居らぬかも知れない。其城にはシナ兵も二、三百名ばかり居る。それからギャンチェに五百名、ダムに五百名、マンカム地方に五百名で都合五千名ということになって居る。\n それからシナ兵は二千名程居る。即ちラサに五百名、シカチェに五百名、テンリーにも五百名といいますけれどもこれも二百名位しか居らない。トモ(靖西)に五百名、合せて二千名です。これらのチベット兵士には五百名に対し一人の大将がある。それはデーボンというて居る。それから二百五十名に対する一人の将官、その下は二十五名について一人、五名について一人というように長を設けて統轄して居ります。\n常備兵の内職 チベットの雇兵の月俸は麦二斗余りで、兵舎は別に建てられてなく市中に散在して居るのです。いずれも商家でその家で商いをして居るもあれば、また種々の内職をやって居る者もある。もちろん兵士の居る家の建築費用は市民の負担で、私は市民が折々詰らぬというて不平を漏らすのを聞いたことがありますが、シナ兵もやはり市民の拵えた普通の家に入って居ります。その中には理髪所もあればまた喰物店もあるというような訳で、女房もあれば子供もある。二斗の麦で女房子まで糊口すということはほとんど出来ない事で、つまり商売と内職の方で儲けた銭で生活を立てて居るのです。\n で麦二斗貰う義務は月に五回か六回の調練に出かけるだけである。そうして一年に一回大演習をやるです。それはラサ市街の北セラ大学に行く道筋に当って居る一里弱の所に、タブチーという小さな村がある。そこにはシナの関羽も祀ってある。チベットでは関羽の事をゲーサルギ・ギャルポ(花蕊の王という意味)というて、悪魔を祓う神として大いに尊崇して居る。その多くは在留シナ人が参詣しますので此社には鶏などが沢山飼うてあります。その横にはタブチーという大きな寺があって、このゲーサルギ・ギャルポを祭る坊さんが居るです。\n この関羽の廟の中に面白い物がある。青鬼赤鬼ら地獄の鬼の姿を沢山拵えて関羽の手下のように飾ってある。その美術がてかてか面白く出来て居る。こういう寺及び七、八軒ある小村を過ぎて少しく北に行くと、平地に二丁四面程の高地があって、そこに武器庫が建ててある。それから北へ二里、西へ半里、東へ二里ばかりある広野があります。その曠原において大調練をやります。始めの二日はシナ兵、後の二日はチベット兵、これは大抵夏季の終り、即ち陽暦の八月末九月初頃に行うので、もっともその時が非常に都合が好い、麦は皆刈取られていずこへ走ったところが麦作を害するということはないからです。\n その時にはシナの駐蔵大臣はもちろんチベットの将軍らも皆出て行きまして、成績良い兵士に一円より十円までの金を与えるもあれば銀製の賞牌を与えるもあります。今でもチベットでは兵士に弓を引くことを必要なる業として授けて居る。鉄砲もこの頃は幾分か西洋式の調練をやって居るけれども、見るに足る程の事もない。これはシナ兵士が教えまたインドで学んだチベット兵が教えて居るのです。\n兵士の気概 は私の観察したところではシナ兵にもチベット兵にもない。かえって兵士は普通人民より劣りはすまいかと思う程です。シナ兵の中には痩せた青い顔をして居る奴が随分多い。チベット兵士にはそんなのは少ないがしかし気概は持って居らない。これは大方収入が少なくて活計向に心を艱ますからであろうと思われる。これらの気概の沮喪した兵士に比すると壮士坊主の方が余程えらい。彼らは妻はなし子はなし、少しも顧るところがないから実に勇気凜然として、誰をも恐れないという勢いを持って居る。その点においては確かに壮士坊主の方が頼むに足るです。どうもこれらの兵士は戦争の時分には余り間に合わぬだろうと思う。\n 一番どういう事の働きをするかといえば、まず戦争が起れば乱暴狼藉を働いて、内地人の財産を分捕りする位の事でとても国の役には立たない。これは畢竟妻帯に原因するので、兵士としては妻帯する程勇気を沮喪するものはないです。チベット人は最も情緒の力に富んで居って妻子を想うの情も深いです。妻子のある兵士はまず合戦の間に合わぬといってよいでしょう。この点においては情緒には欠けて居るところがあるけれども、チベット中でカムの国の人間は\n天然的兵士 というてよい。一切の人民は皆兵士であるというてよい。その婦人も婦人というよりもむしろ女丈夫的兵士であるというも過言でない。彼らの職業はもちろん商売もし耕作もし牧畜もやるけれども、最も彼らの勇気を働かしそして大いに喜ぶところの仕事は何かといえば強盗である。最も同国人の讃歎するところの面白い仕事は強盗である。あるいは他の部落を陥れ幾人の人間を殺すことを非常な名誉と思うて居るんである。カムには強盗の歌がある。その俗謡がなかなか面白い。その謡い方はいかにも勇壮活発で、斃れて後已むの気概が充分に充ち満ちて実に勇ましく聞こえるです。だから子供などは大いに悦んでその強盗の歌を謡うて居る。実に子供の心をして奮起せしむるところのものはこの強盗の歌であるです。\n チベットには軍歌というものはない。やはりこのカムの強盗の歌をもって軍歌に代用して居るです。その俗謡はなかなか面白いから二つ三つ訳しましょう。\n\n果てなき原の草の上、巌角するどき険崖の際、鉄の蹄の馬立てて、討手に進む我が心\n弾丸ちる霰の中とても、雪波立てたる風とても、厭うことなき鉄の靴、勝手に進む我が心\n恃みは妻子にあらずして、寄辺は父母にあらぬなり、何かの艱みを忍びつつ、成功に進む我が心\n\n 右の歌を謡うにはその始めに総て「ア、ラ、ラー、ラ、ラ、モ」という発語を用い、その終りには「ラ、ラ、モラ、ラ、ラ、モ」という語尾を付けて勢いよく謡うのであります。\n俗謡の用法 こういう勇壮なる謡は沢山ありますので、その歌を謡う調子の活発さは人をして知らず知らずいかなる曠原、漠野の中へも、またいかなる高山積雪の中へも敵を討つ為には一身を抛って進もうという勇気を喚発せしむるに足るです。そこでこの歌の心はどういうものかというと実によい歌です。かかる勇気がなければ到底大敵を滅して国難を救うことは出来ない。しかしこういう立派な心の歌もです、強盗をする場合に用いますとその歌は兇器となりその人は大悪人とならざるを得ない。もしこれを交戦の場合に用いますればその人は大忠臣となり、いわゆる国家なる一集合体を利益する訳になるです。\n 勇進するという心は一つであるけれども、方法として用いる場合と目的いかんによって善と悪とに岐れるですから、何事にしろただ勇進すればよいという訳にはいかない。また方法はどんなでもよいという訳にいかない。この頃世間の浅はかな学者あるいは生物識の僧侶または才子らしい人を欺くところの実に恐るべき毒の言葉がある。その言葉は実に憎むべき言葉である。そりゃどういうことかというと、目的を達する為にはいかなる方法をも執るべしという譫言である。この意味を極端に解釈すれば、己れの幸福なる目的を達する為には、法律規則にさえ触れなければ、たとい他人を迫害しても白昼公然強盗的行為をやっても構わぬという訳になる。" }, { "role": "assistant", "content": " かかる方法で成功したのはいわゆる悪魔の成功で憫むべきである。それ故私は断言します、目的を達する為にはただ誠実なる方法を執るの一つあるのみと。目的というたところが己れの利益を謀るのみなれば止すがよいです。他人を利するという目的を立て誠実な方法によってこれを実行して行けば、自から自分も利益を得られて、その国民が和合して国が円満に治まるです。これを要するに、カムの強盗の歌でもその歌の心はよいのですから、これを軍歌に用いても差支えないという感じを述べて置くまでの事であります。次は\n\n第百十九回 チベット宗教の将来(一)\n\n迷信中の理想 チベット宗教の将来について述べます。前から述べて居るところによってもほぼ分りましょうが、チベット一般の国民は実に仏教を信ずる事によって活きて居るのです。他の学者からいえばあるいは迷信であるというかも知れない。もちろん迷信が多いので、ほとんど皆が迷信であると思う程感心しない事が沢山ありますけれども、その中に幾分の真実を含んで居るです。全く間違って居る事ばかりと否定するのは軽卒な判断といわねばならん。ちょうど多くの石の中に小さな宝石があるようなもので、玉が眼につかぬからというて石と共に棄ててしまうのは識者の取らぬところである。チベット国民の迷信中にも真実価値のある信仰ありと認識しなければならん。\n さてそのチベット国民の真実の信仰はどういうのかといいますと二つあります。一つは人間より以上の実在物があって、その実在物は確かに我々を保護して下さる。で、その実在物との交通は我々の信仰によって為し得るということを確かに信じて居るです。その存在物を信ずる上においては、種々の間違った祭事や儀式等があるけれども、それは小さな宝玉の周囲にある岩のようなもので、その本心においては確かに仏陀あるいは菩薩があって、我々の困難を救い我々に幸福を与えて下さるという信仰を確実に持って居るです。\n なおその上に神というものを認めて居りますけれども、どんな神でもあるいは腹を立てて人民に害を与え仇を加える事がある。例えば耶蘇教の神さんでも、その昔人民が罪悪に陥って済度し難いからというて大いに憤り、大洪水を起して総ての罪悪人を殺し、ただその中の善い人間即ちノアという者を救うたというような依怙贔屓をする者である。チベットの神も皆然り。いわゆる人間の喜怒哀楽の情緒をその儘に実行される者である。ところが仏はどんな事があってもお怒りなさらぬ。仏ほど深い慈悲と円満なる智慧を持って居らるるありがたい方は世界にはないと堅く信仰して居るです。それはもう実に蒙昧なる人民でも神と仏の違い、即ち神は怖いもの仏はありがたいものということをちゃんと知って居る。\n かくのごとくチベット人民はごく詰らない迷信を沢山持って居るに拘わらず、こういう立派な信仰を持って居る。今一つは原因結果の道理で何事も自業自得、自分の為したる悪事は自分で苦しい思いをして償わなくちゃあならん、また自分の為したる善事の結果即ち快楽幸福もまた自分が受け得らるるのである。そして原因結果の規則は未来永劫に続くものである。いわゆる種が実となり実が種となってどこまでも継続して行くものである。\n それと同じ事で我々の心もまた死んだからというて決して滅するものでない。再びこの世に生れ変って来るものであるということを確かに信じて居るのは、いわゆる瓦礫中の璧であるです。ところが生れ変って来るという原因結果の道理を信ずるところからして、どこそこのラマその者は今度どこへ生れて来たとかあすこに生れ変って来たとかいうて騒ぎ立てるのは、いわゆる真実の信仰が過ぎて迷信となったのであります。ただ原因結果、自業自得の理法に基づいて自分の心体そのものは未来永劫滅しないものであるという尊い信仰は、仏教信者として第一に有すべき信仰でありまして、チベット人はもはやこういう事の話を幼い時からお伽話として母の口より吹込まれて居る。ですからチベット人の\n家庭は説教場 のようなもので、古代の神話にしろ何にしろみんな仏教に関係を持たぬ話は一つもないのですが、かく迷信が深いに拘わらず本当の信仰そのものもやはり国民一般に普及して居るのでございます。それゆえに古代のポン教のごときも、いつしか仏教に化せられてしまって、そうして全くその旨意の違って居る教えが、仏教の説明の通りに説き明かさなければ立たないようになったものですから、ここに新ポン教というものが出来たので、今は古いポン教の面目はどんなものであるかほとんど見ることも出来ないようになってしまいました。\n 新ポン教の教理は仏教に似て、そうしてまた神道の気味合を持って居る教えである。ちょうど日本の両部神道というたようなものであるが、しかし其教よりもなお一層進んで居ります。ポンというは真如ということで、ポンそのものが真如の本体、法身であると説明して、それから教えを説き立てて全く仏教のごとくに解釈してしまったです。これいわゆる偉大なるものに小なるものが化せられた訳です。\n ここに最も訝しい事はチベットにマホメット教があることで、その信者はシナ人と往古カシミールから移住した者の苗裔とであります。ラサ、シカチェを集めておよそ三百人もございましょう。このマホメット教徒は今もやはりその宗義を守り、現にラサの市外にマホメットの寺が二つあり、また墓所も遠い山のあたりに二つあるです。その一つの寺はカシミール人のマホメット教徒の集まる所で、一つはシナ人のマホメット教徒の集まる寺であります。で、この盛大なる仏教国において、微々たる勢力ではあるがマホメット教の面目を維持して居るのは、甚だ奇といわざるを得ない。\n回回教の未来 それからその教徒の言うことが実に面白い。信者のいうところによれば、回回教にも仏教と同じく前世もあり未来もありますけれども、現世の人間は未来もやはり人間に生れ、動物はやはり動物に生れるものであるというて、仏教のように人が他の下等動物に生れる事があるとはいわんです。いよいよ仕舞にはどうなるかというと、神の国に生れるか地獄に行くかの二つであると、こういって居るマホメット教徒もあります。\n 私がいいました。「お前達の信ずるマホメット教中にはそんな教理はない。教旨はつまりキリスト教によって立てられたのではないか。コーランの中には前世はあるがまた後に生れ変って来るという説明はほとんどありはしない。全くないとはいわぬ。既に耶蘇のバイブルの中にそういうような意味も顕れて居るから全く無いとはいわないが、お前達の教会においてかつてそんな事をいうた例はない。どうも訝しいじゃないか」と突っ込みますと、「いや無いことはない。本当にあるんじゃ」なんて本気にいうて居る人が沢山ございましたが、これはいわゆる仏教化されたものであろうと思われる。\n この頃欧米の宣教師は、耶蘇教をチベット人に伝えようとして百折不撓の精神をもって、熱心に布教に従事して居られるのは実に感服の至りであるけれども、かの国は鎖国であるからして内地人には少しもその教えを及ぼすことは出来ない。まずダージリンに出て来て居る人間あるいはシッキム地方に住んで居るチベット人に対して、耶蘇教を伝えようということを非常に企てて居ります。既にこの布教の為には幾十万の金を費やして、聖書もチベット語の翻訳が出来て居る。その外になお細かな書物も沢山チベット語に翻訳され、またチベット語で仏教の取るに足らぬ事、殊に仏教はほとんど迷信をもって満たされて居るという具合に説明して、数十年この方、僅かにダージリンの開けかけると同時に宣教師はその地に足を入れて、チベット人に対し殊に親切に教えを施すことに尽力して居ります。\n\n第百二十回 チベット宗教の将来(二)\n\n各宗教の現状 前回に述べたごとくキリスト教徒が熱心に尽力して居るに拘わらず、今日までのところでは全く不成功である。僅かに得たる信者はいわゆる詐欺的信者であって、決して真実の信者を得て居らない。幾分か信者らしい、信者の出て来てあるのはそりゃ純粋のチベット人ではない。チベット人という名はあるけれども、実際はシッキム人である。チベット人というて居るシッキム人の中には、真実に信じて居る者も少しはあるけれども、今日に至るまで内部から出て来たチベット人で、真実に信じて居る者は一人もないといってよい位です。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n 房枝の興奮は彼女の顔を蒼白にしていた。こんなことは彼女にとって本当に初めてであった。その出張先が自分の家と同じ露地の中だなんて。彼女は近所の侮蔑的な眼が恐ろしかった。しかもそれが同じ軒並みのすぐ先なのだから。彼女はすぐそのまま自分の家に帰って行く気はしなかった。彼女は日頃から親しくしている小母さんの家へ裏口から這入った。小母さんの家は、雇われて行った家の一軒置いて隣になっていた。小母さんは内職の造花を咲かせていた。\n「小母さん! お隣のお隣は、何を職業にしているの?」\n「お隣のお隣? 楽そうだろう? 泥棒をしているんだって。」\n「泥棒? 厭あな小母さん! そんな職業があるの? 泥棒だなんて......」\n 房枝は微笑んで袂で打つ真似をした。\n「そりゃ、不景気だもの、何だって、出来ることはしなくちゃ。泥棒だって何だって、食って行ける者はいいよ。」\n「でも、少しおかしかない? 泥棒だなんて......」\n「職業なら、何もおかしいこと無いじゃない? 食って行くためなら、どんなことだって、しなくちゃならない時世なんだもの。」\n 真面目な顔で小母さんは造花を咲かせ続けた。紫の花。褪紅色の蕾。緑の葉。緋の花。――クレエム・ペエパァの安っぽい造花であった。\n「それはそうだけれど、そんなことをしていて掴まらないのかしら?」\n「そこが職業だもの。掴まってばかりいたら、職業にならないじゃないの。小父さんなんかも(掴まらなけりゃあ、やるがなあ......)って言っているんだけど、小父さんのような野呂間なんかにはとても出来やしないんだよ。」\n「でも、随分変な職業もあるもんね。そりゃ、わたしの職業なんかも、随分変なものには違いないけど......」\n「働いてお金を取って来る分に、何だって同じことさ。自分の好きなことばかりしていちゃ、お金にならないんだから。」\n「それでは、わたしなんかも、肩身を狭くしていなくたっていいわけね。――じゃ、威張って帰るわ。」\n 房枝は赤い緒の下駄を持って、裏口から表玄関へ座敷の中を横切った。\n「もう帰るの? 遊んで行けばいいのに......」\n「こうして、小母さんの家から出て行くと、誰が見たって、小母さんのところへ遊びに行っていたのだと思うでしょう? ねえ!」\n 彼女は格子戸に掴まりながら朗かに微笑んで出て行った。\n\n 二\n\n 房枝は三日過ぎると、また同じ家に雇われて行った。その家は四十前後の独身の男の世帯であった。洗濯物が二三枚あった。家の中は三日前に掃除して行ったままで別段に汚れてはいなかった。併し彼女は一通り形式だけの掃除をした。\n「休んでおいで。掃除なんかどうでもいいんだから。」\n 彼は腹匐いながら言った。\n「まあ、そこへお坐り!」\n 読みかけの雑誌を伏せて彼は命令的に言った。\n「でも、ちょっと、掃くだけでも......」\n「別に汚れてないんだから、いいんだよ。まあ、お坐り、そこへ。」\n「では、これを置いて来ますから。」\n 房枝は箒を片付けてから、身繕いをして二階へまたあがって行った。彼女は男から三四尺ほど離れて坐った。そして薄く白粉を掃いた顔をうちむけた。\n「房枝さん! ――房枝さんって名だったね? 一昨昨日、あの婆さんから、幾らもらったかね?」\n「五円でしたわ。」\n「五円? じゃ、儂が渡した半分も、おまえの手には渡ってやしないんだね。――本当に五円だけなんだねえ?」\n「え。本当ですわ。」\n「あの婆め!そんなぼり方ってあるもんか。――儂は出張して来たばかりで、手許に少し余計にあったもんだから、拾円でいいというのを、おまえに余計やってもらおうと思って、拾五円やって置いたんだ。それを五円きり渡さないなんて......」\n 憤慨したようにして彼は言った。\n「房枝さん! どうだ! これから、あの婆さんを仲に立てないで、直接にしようか?」\n「でも、紹介してもらっていて、そんなことしちゃ......」\n「悪いことなんかあるもんか。――じゃ、とにかく、今度来るとき、儂が一緒に来るように言ったからって、あの婆さんを一緒に伴れて来るといい。明後日来るとき。」\n「今日ぐらいの時間でいいんですか?」\n「ああ、いいよ。」\n 彼は畳の上にばたりと腕を匐わした。\n「房枝さんは、実に綺麗な手をしているね。」\n 彼は言いながら房枝の手を執った。\n\n 三\n\n 房枝は雇われて行った家を裏口から出た。そして裏口から小母さんの家に這入った。小母さんはいつものように濃彩色のクレエム・ペエパァを切っていた。\n「ねえ。小母さん! 泥棒でも、なんかこう、泥棒の勤める会社、というようなものがあるのかしら? 少しおかしいわね。」\n「泥棒の会社? そんな馬鹿なものがあるもんかね。」\n「だってね。小母さん! あの人はね。そら、お隣のお隣の、あの人は......」\n「今日もあそこだったの?」\n「そうよ。――ねえ。小母さん! あの人は、出張して来たって言ったわ。だから、会社のようなところでもあるのかと思って。」\n「あの人の出張って、どこか遠くへ泥棒に行ったことを言っているんだよ。」\n「あら! それを出張っていうの? なかなか洒落ているのね。――でも、小母さん、掏摸なんかには、なんかそんなところがあるそうじゃないの?」\n「掏摸のことは知らないけど、併し泥棒会社だなんて、そんなものはないだろうよ。個人経営なんだよ。例えあったって、あの人はそんなところへ勤めて働く人じゃないよ。あの人はとても物事のわかっている人なんだもの。――つまり、そんなところへ関係すると、働きもしない奴に、頭を刎ねられるだろう? それが馬鹿らしいというのさ。あの人に言わせると。――ねえ、房ちゃんも、あんな皺苦茶婆さんに頭を刎ねられているよか、自分で、個人経営にしちゃったらどう? 五割も六割も頭を刎ねられて、馬鹿馬鹿しいじゃないの?」\n「馬鹿馬鹿しくたって、わたし、そんな交渉は出来ないんだもの、仕方がないわ。――でも、いくら職業だからって、随分変なものね。雇いたいっていう人があるって、お婆さんが伴れて行ってくれるから、どこへ行くのかと思って従いて行って見たら、自分の家の前を通ってさ、あの家じゃないの? ――いくらなんでも、自分の家の近所へ行くのだけは厭だわ。」\n「だから、何もかも、自分でやったらよかない? 呼ばれて行ったとき、呼んでくれた相手の人がいい人だったら、すぐ(いつかまた呼んで下さいね。そして今度は直接にして下さい。私のところはここですから......)って、頼んで置いたら、先方でだって、かえってその方を欣ぶかも知れないしね。」\n「それはいいわね。小母さん! あの人もそんなことを言ってたわよ。これからは直接にしようかって......」\n「あの人は、とても物事のわかっている人なんだもの。あの人は泥棒はしても、ちゃんと理屈に合った泥棒をしているんだよ。――つまり、あの人に言わせると、金持ちなんて者は、貧乏人が、あくせくして働いたお金を掻き蒐めて金持ちになっているのだから、言って見れば泥棒のようなもんで、その泥棒の上前を刎ねて来て、最も困ってる貧乏な人達にわけてやるのだったら、たとえ泥棒とは言え、何も悪いことは無いじゃないかっていうのさ。――立派なもんじゃないの? 宅なんかでも、困って少しお金を借りて、そのままもらってしまったことがあるけど......」\n「悪くないわね。それなら。――じゃ、小母さん、わたし帰るわ。」\n「また籠抜けかい? 店屋なんかでだと嫌うらしいけど、宅なんかじゃ構わないから、なんなら、行くときにも、宅へ来て、宅の裏から出て行ったらよかない?」\n「そうね。それがいいわね。今度そうさせてもらうわ。」\n 房枝はまた赤い緒の下駄を手にしてその部屋の中を横切った。\n\n 四\n\n 煉瓦の塀に沿うて泥溝の流れが淀んでいた。鼠色の水底を白い雲のようなものが静かに潜って行く。そして水面には襤褓切れや木片などが黒くなってところどころに浮いていた。その間からアセチリン瓦斯がぶくぶくと泡を噴いた。泡は真夏の烈しい陽光の中できらきらと光ったりしては消えた。煉瓦塀の中の工場から流れ出したアンモニアの臭気がその泥溝の上へいっぱいに拡がり漂っていた。泥溝の複雑な臭気の中から特にも激しく。――房枝は二階の窓からいつまでもその泥溝の流れを見おろしていた。\n「本当にどうしたんだろうね? どこへ行っているんだろう?」\n 婆さんは言った。婆さんは退屈になって来たのだ。房枝は泥溝を見おろし続けていた。\n「一緒に来いって言うから、こうして来ると、どこへ行っているんだか、まるで帰って来やしないじゃないか。いったい、何時間待たせるつもりなんだろう?」\n 婆さんは罵倒を始めた。すると、間もなく彼が帰って来た。" }, { "role": "assistant", "content": "「どこへ行っているんですね? 一緒に来いって言うから、こうして一緒に来ると、どこへ行っているんだか、いつまで経ったっても帰って来やしないんだもの、全く呆れてしまう。」\n 婆さんは続けた。\n「いや、どうもすみません。ちょっと出なければならない用事があったもんだから、一人で来たんじゃ、誰もいないところで待っているのが大変だろうと思って......」\n「なんてことだね。馬鹿馬鹿しい。じゃ、留守をさせられたわけね。自分の家を空にして置いて、他人の家の留守だなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるよ。――じゃ、別に用事はないんだね?」\n「あ、別に......」\n「ああ、本当に、馬鹿見たよ。」\n 婆さんは喚きながら帰って行った。彼は房枝の傍へどっかりと坐った。\n\n 五\n\n 房枝は自分の家に帰って肌を脱いで休んでいた。そこへ婆さんが喚きながら飛び込んで来た。婆さんは額に青筋を立てて興奮していた。\n「房ちゃん! 房ちゃん! 帰ったかね?」\n「あら! 小母さん。さあ、おあがりになって。本当にお世話さまで御座いますよ。近頃は。」\n 病気で寝ていた房枝の母親が玄関傍の三畳から出て応待した。併し婆さんはそれどころでないという様子だった。\n「私んとこではまあ、大へんなことになったんですよ。私が、房ちゃんに従いて行って、ちょっと留守にしたばかりに、全く飛んでもないことになったんですよ。ほんとに、ほんとに......」\n「どうしたの? 小母さん!」\n 房枝は帯を締めながら玄関の方へ出て行った。\n「全く、こんな馬鹿なことってあるもんかね。自分の家を空にして置いて、他人の家の留守をしてさ。それで泥棒に這入られるのも知らずにいるなんて......」\n「泥棒が這入ったんですか?」\n「泥棒が這入ったの? 小母さん。」\n「なんか知らないけど、ちょっとあけて置く間に、長火鉢の下へ隠して置いたお金を、房ちゃんをお世話してもらった分を、みんな持って行ってしまったんですよ。」\n「あら! そうですか。それはそれは......」\n「房ちゃんと一緒に行きさえしなければ、なんでもなかったのに、本当に困ってしまう。あの人も私が出れば、私の家が空になるってことを知っているくせして、私に、自分の家の留守をさせるなんて......」\n「本当だわ。あんまりだわ。」\n「私は、埋め合わせをしてもらわなくちゃ。言って見れば、あの人と、房ちゃんのためなんだから、房ちゃんとあの人とに。埋め合わせてもらわなくちゃ......」\n「わたしにも? 小母さん!」\n「だって、房ちゃんなんか、半日も働きに行きゃあ、きっと五円にはなるんだもの、それぐらいのことはしてくれたって、いいじゃないかね? 私が好きで房ちゃんに従いて行ったわけでもあるまいし、それぐらいのことをしてもらわなくちゃ、全く、こっちが立ち行かなくなってしまうんだもの......」\n 婆さんは玄関で立ったまま喚き続けた。\n\n 六\n\n 房枝が今日は小母さんの家の玄関の方から這入って来た。\n「小母さん! あのお婆さんのところで、泥棒に這入られたんですって。」\n「泥棒に?」\n 小母さんも流石に眼を睜るようにした。\n「わたし、あの人じゃないかと思うんだけど......」\n「あの人って? ――あ、あの人か。そうだね。そうかも知れないよ。屹度あの人だよ。――あの人のことだもの、少し余計に取られ過ぎたと思えば、それぐらいのことは、やりかねないから。」\n「どうもそうらしいのよ。」\n「――それが、あのお婆さんを自分の家に呼んで置いて、その留守の間にやったらしいのよ。自分が帰るまでは、お婆さんが自分の家に待っていると思えば、いくらでも念入りに探せるわね。全く、あきれてしまうわ。」\n「でも、そこまで考えてやるなんて、なかなか偉いもんだね。やっぱり、あの人でなければ出来ない芸当だよ。」\n「厭な小母さん! 厭に感心するのね。」\n 房枝は微笑みながら吐き出すように言って、裏口へと部屋の中を横切った。\n\n 七\n\n 房枝は初めて彼の職業を判然と知ることが出来た。彼女は新しい驚きをもって彼の顔を見直すようにした。その手には、あの婆さんのところから取り戻して来たという二枚の紙幣が掴まされていた。\n「――変に思うかも知れないが、ようく考えて御覧。おまえだって、好きでこういうことをやっているのじゃあるまい。それをしなければ、母親は病気をしているし、おまえより働くものがいないし、食って行けないから、仕方なくやるのだろう? それを横から、働かないものが、働いたものの倍も横取りするって法は無いんだ。――それは当然おまえのものなんだから、安心して取ってお置き。」\n 彼は威厳をさえ示していた。\n「そうだろう? そのためにおまえは、一度厭な思いをすればいいところを、二度しなければならないことになる。そんな馬鹿なことって無いんだ。――おまえはそう思わないかね?」\n「............」\n「儂は、自分のやっていることを、決していいことだとは思っていないが、決して悪いことだとも思ってはいない。――働こうたって、仕事はありゃしないんだし、食って行けなければ、持っている者からもらって来るより仕方が無いじゃないか? 此方は、働くのが厭だというんじゃないんだから。――おまえだって、平気そうな顔をしてそんなことしてるけど、決して平気じゃあるまい? 別のちゃんとした仕事をして食って行ければ、そうしたいのだってことあ、儂はちゃんと見抜いているんだが......」\n そのとき、誰か、あわただしく玄関へ飛び込んで来た。腹掛けをして背広を着ている青年であった。\n「すみません。僕をちょっと隠してくれませんか? 追い掛けられているんです。」\n「追い掛けられている? 仕様がないじゃないか。そんなへまなやり方じゃ。――まあ、あがって、押し入れにでも這入っているさ。」\n「同志! 有り難う!」\n 青年は泥靴を脱ぎ捨てて風呂敷包みを持ったまま押し入れの中に飛び込んだ。彼は泥靴で畳の上に大跨の足跡をしるしてから押し入れの前に火の無い火鉢を押してやった。そして房枝に雑巾を持たせて掃除を仮想させ、自分は火鉢の前に坐った。間もなく白麻の背広の男が玄関を覗き込んだ。\n「おいッ! てめえも、他人の家の座敷の中を泥足で駈け抜ける気なのかい?」\n 彼は怒鳴りながら立って行った。\n「いや。――今の奴は、駈け抜けて行きましたか?」\n「ふざけやあがって、この泥を見てくれ。」\n「――それで、どっちへ行ったでしょうね?」\n「そんなこと、知るもんか。いったい、てめえら、なんてまねをしていやがるんだい? ふざけやがって。」\n「............」\n 男は一枚の名刺を彼に渡した。\n「あ、そうですか。それはそれは......」\n 男はすぐ出て行ってしまった。彼は微笑みながら火鉢の前に帰った。\n「帰ったよ。出ても、もう大丈夫だ。」\n「どうも、おかげさまで......此方だって、本当に食えないからやっているのに......」\n 青年は押し入れから出て来てそこへ坐った。\n「一体、何を掻っ払ったんだね?」\n「え? 掻っ払いじゃありませんよ。まさか、そんなことまではしませんよ。」\n「泥棒したんじゃないと言うのか?」\n「宣伝をしていたんです。われわれ失業者、どうにもならないもんですから、ビラをまいていたんですよ。そのうちにビラが無くなったんで、僕は本部ヘビラを取りに行って来たんです。来て見ると、同志は皆んな検束されていて、僕がそこへ帰って来たもんだから......」\n「食えないんなら、そんなことをするより、持っているもののところへ行って、取って来たら、どんなもんだね。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 堀留――現今では堀留町となっているが、日本橋区内の、人形町通りの、大伝馬町二丁目後の、横にはいった一角が堀留で、小網町河岸の方からの堀留なのか、近い小舟町にゆかりがあるのか、子供だったわたしに地の理はよく分らなかったが、あの辺一帯を杉の森とあたしたちは呼んでいた。\n 土一升、金一升の土地に、杉の森という名はおかしいようだが、杉の森稲荷の境内は、なかなか広く、表通りは木綿問屋の大店にかこまれて、社はひっそりしていた。そのかみの東国、武蔵の国の、浅草川の河尻の洲のなかでも、この一角はもとからの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。\n 社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前の葺屋町、堺町の芝居小屋への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保のころ、芝居でする『恋娘昔八丈』や『梅雨小袖昔八丈』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川木場の材木堀のように、材木を溜めておく置場にもなっていたのかもしれない。\n こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門威を東国に振い、藤原秀郷朝敵誅伐の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡したので、この地にいたり、喬々たる杉の森に、神像を崇め祀ったのだとある。\n そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁はあるが、廂をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。\n それは寛正の頃、東国大に旱魃、太田道灌江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷りをした験があって雨降り、百穀大に登る。依て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌が祷ったという神の名も記してない。秀郷祀るところの御本体も置いてない。だが、附記にも、昔杉の木立いと深かりしなりとある。あたしも子供の時分、四月十六日のお祭奠に、杉の木へ寄りかかって神楽を見た覚えもあざやかに残っているし、小僧が木の幹にしがみついて、登って見ていたのも覚えているから、幾本かは、幾度かの江戸の大火にも、焼け残って芽をふいていたものと思われる。\n 堀留は、地名辞書によると、堀江、または堀留江、伊勢町堀ともいう、日本橋川の一支、北にほり入ること四、五町ばかりとある。\n 前置きは長くなったが、そのほとりの大店は、夕方早くから店の格子を入れてしまう。この格子は特長のあるいいものだった。一、二寸角の、荒目の格子で、どっしりとした黒光りの蔵造りの、間口の広い店は、壮重なものにさえ見えた。灯し火がつけば下の方だけの大戸が下りて、出入口は、引き戸へ潜り口のついたのが一枚おりている。上の方は、暑中でなければ油障子がおろされ、家の中からの灯が赤く、重ったくうつって、墨で描いた屋号の印しが大きくうきあがっている。譬えば、※(「∴」の下に「ノ」、屋号を示す記号)丁字星だとか、それが三つ組んでいるのが丁吟だとか丁甚だとか――丁字屋甚兵衛を略してよぶ――※(「仝」の「工」に代えて「二」、屋号を示す記号)だとか、※(「◯」の中に「十」、屋号を示す記号)だとかいうのだった。そうした大店の棟つづきで、たてならべた門松などが、師走末の寒月に、霜に冴えかえって黒々と見える時は、深山のように町は静まりかえって、いにしえの、杉の森の寒夜もかくばかりかと思うほど、竦毛の立つひそまりかただった。\n いま、ここに、ちょっと出てくる杉本八重さんも、そうした大店のお嫁さんだったのだ。あいにく、幼少かったわたしは、美しかったお嫁さんのお八重さんの方を見ないでしまって、憎らしいおばあさんの方を見たことがあるが、そのお姑さんの方も顔にハッキリした記憶が残らないで、話の方が多く頭のお皿のなかに残されている。尤も、ほんとの主題は、この二人の方でなくて別にあるのだから、どうでもよいというものの、事実は決してつくりごとではない。しかも一つ家に姉妹とよばれた人が、お八重さんに同情してよく繰りかえして話してくれたことで、おばあさんの方の話は、その当時あまり有名で、子供のあたしたちは聞くのも煩いものに思っていたほどであった。\n 明治二十一年ごろ、東京の芝居は、大劇場に、京橋区新富町の新富座、浅草鳥越の中村座、浅草馬道の市村座。歌舞伎座が廿二年に出来るまでは、そのほかに中芝居に、本所の寿座と本郷の春木座、日本橋蠣殻町の中島座と、後に明治座になった喜昇座だけだった。劇場はちいさくとも中島座や寿座の方が、喜昇座より格がよいかにさえ見えた。浅草公園の宮戸座や、駒形の浅草座などは、あとから出来たもので、数はすけなかった。\n そのころの中島座には、現今の左団次の伯父さんの中村寿三郎や、吉右衛門のお父さんの時蔵や、昨年死んだ仁左衛門が我当のころや、現今の仁左衛門のお父さんの我童や、猿之助のお父さんの右田作時代、みんな、芸も、顔もよい、揃って覇気のある、若い役者の大役を演じるところだった。そこに、後に工左衛門となった、市川鬼丸という上方くだりの若い役者がいて、唐茄子屋という、落語にもよくある、若旦那やつしが、馴れぬ唐茄子売をする狂言が当って、人気が登って来たが、坊主頭の女隠居がついているというので、大変やかましい取り沙汰になった。その当時、そうしたみだらごとで、女隠居の名が新聞に出るということなどは、この物堅い大店町では、実際たいした内面暴露なのであったが、ものに動じない女隠居は、資産のあるにまかせて、堀留から蠣殻町まで、最も殷賑な人形町通りを、取りまき出入りの者を引きしたがえて、廓のなかを、大尽客がそぞめかすように、日ごとの芝居茶屋通いで、世間のものを瞠目させたのだった。男妾――いやな字だが、そんなふうにも書かれた。男地獄――そんなふうにも言われた。だが、幼いものには、なんのことだかわからないが、憎々しい坊主女だとは思った。\n このお婆さんが、人もなげな振舞いを、当主がどうして諫められないのかといえば、実子ではなかったのだ。二人生んだ子を、二人まで死なせてしまって、養子をしたのではあり、このおばあさんと、死んだ連合とが、前にいった大長者格の呉服問屋、丁吟からのれんを貰って、幕末明治のはじめに唐物屋を開いたのが大当りにあたって、問屋まちに肩をならべ、しかも斬新な商業だけに、横浜の取引、外国人との接触などで、派手であり暮しむきも傍若無人な、金づかいのあらいものだったのだ。\n おばあさんは頭のおさえ手がなく、鼻息のあらいのは、その辺の御内儀とちがって、成上り者だったのだ。この女は、生れたのが葺屋町――昔の芝居座の気分の残る、芸人の住居も多く、芳町は、ずっとそのまま花柳明暗の土地であり、もっと前はもとの吉原もあった場処ではあり、葺屋町は殷賑なところで、そこの古着屋の娘に生れた、おつやというのがそのおばあさんの名だったが、役者買いと嫁いじめで、人よんで「鬼眼鏡」と綽名した。\n その女が若い盛りに、杉の森の裏小路で、長唄のお師匠さんをしていた時分、若い衆であったお店の人甚兵衛さんが思いついて夫婦になり、当時の開港場横浜取引の唐物屋になったのだ。この鬼眼鏡に睨まれて、三十歳になるかならずで、明治廿二、三年ごろに死んだお八重さんは、神田ッ子だった。下駄の甲羅問屋の娘さんで、美しいので評判な娘だったのを、鬼眼鏡が好んでもらったのだが、実家にいては継母で苦労し、そこでは鬼眼鏡に睨み殺された。と、いうと、おだやかでないが、陰気で、しなやかに撓む、クニャクニャした気象の女だったら、どうか我慢も出来たであろうが、お八重さんが、サックリした短所も長所も、江戸ッ子丸出しの気性だったのだから、その嫁と姑のやっさもっさが、何処やら、今から見ると時代ばなれがしている。\n 鬼眼鏡おばあさんのおつや、世間でやかましい鬼丸との評判を、嫁にきかせまいとするので、嫁の外出はすっかりとめて、しかも嫁いじめの手は、雪が降る日には、店の者も奥の者も、みんな、およそ雇人と名のつくものは一人残らず中島座の見物にやり、土間(客席のこと)の桝を埋めさせる。そのあとで、風呂にはいりたいといいだす。それも、折角だから、雪風呂にはいりたいといって、雪を嫁さんに掻きあつめさせて沸かさせる。今日のようにガスや、石炭などはない、薪で燃す時分にである。\n だから、お八重さんは、勝気な血がどうしても鎮まらないと、生の好い鰹を一本買って腸をぬかせ、丸で煮て、ちょっと箸をつけたのを、下の者へさげたりする。あるときは、大丸(有名な呉服店)へ、明石の単衣物を誂えて出来上ってくると、すぐさま、たとう紙から引出して素肌に引っかけ、鬼眼鏡の目をぬすんで、戸棚の中へはいって昼寝をする。一度でも、好みの衣類に手を通したよろこび――それで堪能していたのだった。\n\n 唐物屋は――小売店の唐物屋は、舶来化粧品から雑貨類すべてを揃えて、西洋小間物雑貨商などのだが、問屋はその他、金巾やフランネルの布地も主であり、その頃の、どの店でも見ない、大きな、木箱に、ハガネのベルトをした太鋲のうってある、火の番小屋ほどもあるかと思われる容積の荷箱が運びこまれて、棟の高い納屋を広く持ち、空函をあつかう箱屋までがあって、早くから瓦斯やアーク燈を、荷揚げ、荷おろしの広場に紫っぽく輝かしたりした。構えも大きく広やかだった。\n それにつづいて、見かけは唐物問屋ほど派手ではないが、鉄物――古鉄もあつかう問屋がめざましく、揚々としていた。洋銀相場での儲けは、商業とともに投機的で、鉄物屋の方が肌合が荒かったかともおもわれる。いってみれば唐物屋はインテリくさく、鉄商は鉄火だった。\n この、鬼眼鏡おつやを学ぶのが、鉄屑肥りの大内儀さんであったのだ。\n 前承のおおかめさんは、たしかに鬼眼鏡の有名な遊興によって、発奮したといってもよいのは、彼女も八丁堀の古着やの娘であったし、俺も働いて資産をつくったのだという威張りと、亭主が、横浜まで裸で、通し駕籠にのって往来したというほど野蛮で、相場上手だったので運をつかんだのだが、理想が鬼眼鏡だから、自分もそうした人気者を贔屓にしようとした。\n\n「おい、この子は、どこの娘だ。」\n「あたいの娘だよ。」\n「嘘言え、手めえの面にきいてみろ。」\n「ほんだよ、末の娘だあね。」" }, { "role": "assistant", "content": "「ごらんじゃい、まあ! あんまり乱暴におはなし遊ばすので、このお娘が、はは様のお顔を、びっくりしてごろうじる――」\n まったくわたしは吃驚して! 母などとは、きくもいまわしい、汚ない、黒いダブダブ女を瞪めていた。\n ここで、わたしという、あんぽんたん女史十歳か十一歳の、ぼんやりした映像をお目にかける。厳しい祖母の家庭訓に、こんな会話の場所へ連れだされても、みじろぎもしないで坐っているのだったが、鉄屑ぶとりのおおかみさんの死んだ末っ子と、おなじ年齢だというので、ちょっと遊んだこともあったので、思い出してしかたがないから、浅草観音様への参詣にお連れ申したい、かしてくれと申込まれて、いやいやながら、親のいいつけにより伴われて来たのだが、そこは観音様ではなく、芝居がえりの、料理屋の座敷だった。\n あたしたちが座蒲団に乗ると、すぐ間もなく、テラテラした、金壺眼で、すこしお出額の、黒赤い顔の男――子供には、女も男も老人に見えたが、中年人だったのかもしれない――柔らかい袴を穿いて、黒い手提げ袋をさげてはいってくると、座蒲団の上に突ったったまま、あんぽんたんを見てそういったのだった。\n と、大女房さんが、衣紋をつきあげながら甘ったれて言ったのだ。あたいの娘だと――\n あんぽんたんの憤懣は、それっきり、ものを食べなくなってしまったのだが、大人はそんな感情がわかるほど、しっとりとしていなかった。乾ききった人たちだった。\n 青黄ろい、横皺の多い、小さな体で、顔が、ばかに大きく長目な、背中をわざと丸くするような姿態をする、髪の毛が一本ならべて嘗めたような、おおかめさんのお供をしてきた大番頭の細君は、御殿づとめをしたという、大家の女房さんたちのするような、ごらんじゃい言葉で、ねちねちとものをいって、その場をとりなすのだった。\n「ほんとにおめえの娘なら、亭主の子じゃあねえな、おれんとこへよこしな、みっちり芸をしこんで――」\n「芸者に売るんだろう。」\n「まあまあ、何をおっしゃるやら、以前のようには、茂々お目にかかれませぬに――」\n そういう大番頭夫人の顔を、いつぞや、見世ものでみた、※(けものへん+非)々のような顔だと、あんぽんたんは見ているうちに気味が悪くなった。\n「しげしげお目にかかるんじゃあ、おらあ、生きてるより死んだ方がいい。」\n「あんな、もう、憎て口を――」\n 大番頭夫人は口で憎がるが、おおかめさんは機嫌よくお杯口を重ねて、お酌をしたり、してもらったりしている。\n「次の狂言には、何をやるのさ、お前さん。」\n「八百屋の婆あだよ。」\n「まあね、さぞ、およろしかろうね。」\n 大番頭夫人は、小さな丸髷とはつりあわない、四分玉の珊瑚珠の金脚で、髷の根を掻きながらいった。\n「厭味な婆あにすりゃあいいんだから、よくなくってどうするんだ。手近に、そのままのがいるじゃあねえか。そっくりそのまま真似ときゃあ、すむんだ。」\n ぼんやりと憤っているあんぽんたんの顔を見て、あごで、そら、そこにね、というふうにおおかめさんの方を、しゃくって示しながら、その男は上機嫌に笑った。もの言いより賤しくない態度で、鋭い毒舌だった。\n「おい、おさつさん、八百屋が出るようだったら、衣類をかりるぜ、今着ているのを、そのままでいいや。」\nと、猪首で、抜き衣紋をするかたちを、真似て見せた。\n あたしは、この肥っちょのおおかめさんに、おさつさんという名があるのを、不思議な気もちできいていた。\n ――この、不思議な会話を、後日思出したときに、幼いころの、この謎のようなことばが、やっと解けたのだった。八百屋の婆とは『心中宵庚申』の八百屋半兵衛の養母の役でいろぶかい姑婆あのことであったのだ。その時の、袴をはいた、色の黒い中年男は、中村勘五郎といった皮肉屋で、浅草今戸に書画や骨董の店を、後になって出したりした、秀鶴仲蔵を継ぐはずの俳優だった。彼は、贔屓の女客を反らさないようにしながらも、なかなか傲岸で、しゃれのめしていたのだった。\n もし、この女客――八百屋半兵衛の養母の拵らえ、着附けを、すこし委しく述べるとすると、黒繻子の襟のかかった南部ちりめん、もしくは、そのころは小紋更紗も流行っていた。友禅の長襦袢のこともあったが、売出されたばかりの、ごく薄手の上等の英ネルの赤いのを胴にした半じゅばんへ水色っぽい友禅ちりめんの袖をつけて、袷仕立にした腰巻き――塵よけともいうが、白や、水浅黄のゴリゴリした浜ちりめんの、湯巻きのこともある。黒ちりめん三つ紋の羽織、紋は今日日とおなじ七卜位だった。そのあとで、女でも一寸一卜位まで大きくなって、またあともどりしたのだ。しかし、そのまた前まで、ずっと昔から大きいのがつづいていたのだったようだ。\n おおかめさんの体重は、年をとっていたから、十八、九貫ぐらいだったろうが、そのかわり皮膚が拡がって、どたりとしていたから、お腹の幅や、長く垂れた乳房の容積などは、それはたいしたものだった。鼠ちりめんへ宝づくしを細かく縫にしたじゅばんの半襟は、一ぱいにひろがって藤色の裏襟が外をのぞいている。その間からお酒に胸焼けのしている皮がはみだすのを、招き猫のような手附きで話をしながら、時々その手で、衣紋を押上げるのだった。羽織の紐が閂のように、一文字に胸を渡っていた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " といった。葉子は、\n「えゝ夢を見ました。あの黒い蛾が悪いんです。早く追い出してください」\n そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。\n こういう発作を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物などに注意しろといったりした。\n 岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。\n\n四〇\n\n 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森の中から小さな羽虫が集まってうるさく飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋で酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を単衣物の下にとがらして、神経的に襟をぐっとかき合わせて、きちんと膳のそばにすわって、華車な団扇で酒の香に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつんと会話を杜絶やしてしまった。\n「貞ちゃんやっぱり駄々をこねるか」\n 一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。\n「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」\n「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」\n「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」\n 葉子は途轍もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょんな事をいった。\n「そうだおれもそう思う事があるて......。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒はあかんからな。......したが、おれはまだもう一反り反ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」\n「ほんとうですわ」\n そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。\n「正井のやつが来るそうじゃないか」\n 倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、空腹がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきりとはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、\n「いゝえ」\n と答えてしまった。\n「来ない?......そりゃお前いいかげんじゃろう」\n と倉地はたしなめるような調子になった。\n「いゝえ」\n 葉子は頑固にいい張ってそっぽを向いてしまった。\n「おいその団扇を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん......来ない事があるものか」\n「だれからそんなばかな事お聞きになって?」\n「だれからでもいいわさ」\n 葉子は倉地がまた歯に衣着せた物の言いかたをすると思うとかっと腹が立って返辞もしなかった。\n「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」\n 葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の拗ねかたに不快を催したらしかった。\n「おい葉子! 正井は来るのか来んのか」\n 正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。\n「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」\n「酒も何も飲めるか......おれが暇を無理に作ってゆっくりくつろごうと思うて来れば、いらん事に角を立てて......何の薬になるかいそれが」\n 葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が明々地にいってくれさえすれば、元の細君を呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前一人だ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄の苛責よりも葉子には堪えがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。\n 葉子は倉地の最後の一言でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張りながら幾度も雄々しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。\n「葉子! お前はなんでこのごろそう他所他所しくしていなければならんのだ。え?」" }, { "role": "assistant", "content": " といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒っていた。\n「他所他所しいのはあなたじゃありませんか」\n そう知らず知らずいってしまって、葉子は没義道に手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、\n「あゝ......あ、地獄だ地獄だ」\n と心の中で絶望的に切なく叫んだ。\n 二人の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。\n その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の間にはいって来て、古藤が来たと告げた。\n「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ......御飯時も構わないで......」\n とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想を尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。\n「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」\n そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。\n 二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶を済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。\n「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓なんです。ところが僕は整頓風呂敷を洗濯しておくのをすっかり忘れてしまってね。今特別に外出を伍長にそっと頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、縁を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」\n「おやすい御用ですともね。愛さん!」\n 大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生に似合わず、あたふたと階子段をのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより緊く結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。\n「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは......そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」\n そういって古藤を妹たちの部屋の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。\n「木村からたよりがありますか」\n 木村は葉子の良人ではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。\n「困っているようですね」\n「えゝ、少しはね」\n「少しどころじゃないようですよ僕の所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」\n なんというぶしつけな事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまりがないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。\n「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」\n「木村っていうのはそうした男なんだ」\n 古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、\n「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」\n と激しく葉子をまともに見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の真鍮ぼたんをはめたりはずしたりした。\n「なぜですの」\n「木村は困りきってるんですよ。......ほんとうにあなた考えてごらんなさい......」\n 勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、襖を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、\n「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」\n と言葉をそらした。\n「愛さんもうできて?」\n と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしおに葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両肘を持たせたまま、ぼんやりと庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。垣根添いの木の間からは、種々な色の薔薇の花が夕闇の中にもちらほらと見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪はぎりぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、\n「これっぽっち......愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは......貞ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで......」\n「僕は倉地さんにあって来ます」\n 突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段を降りて行こうとした。葉子はすばやく愛子に目くばせして、下に案内して二人の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。\n 葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳癖が募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまともにぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその心根を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国三界にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ素直で誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して懸念などする必要はないし、事業というようなものはてんで持ってはいない。木村とはなんといっても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真裸になるほど、職業から放れて無一文になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は哀しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。......それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている......それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。......そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちくちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "絵のない絵本\n\n ふしぎなことです! わたしは、なにかに深く心を動かされているときには、まるで両手と舌とが、わたしのからだにしばりつけられているような気持になるのです。そしてそういうときには、心の中にいきいきと感じていることでも、それをそのまま絵にかくこともできなければ、言い表わすこともできないのです。しかし、それでもわたしは絵かきです。わたしの眼が、わたし自身にそう言い聞かせています。それに、わたしのスケッチや絵を見てくれた人たちは、みんながみんな、そう認めてくれているのです。\n わたしは貧しい若者で、たいへんせまい小路の一つに住んでいます。といっても、光がさしてこないというようなことはありません。なにしろ、まわりの屋根ごしに、ずっと遠くの方まで見わたすことができるほど、高いところに住んでいるのですから。この町にきた、さいしょのころは、ひどくせまくるしい気がして、さびしい思いをしたものです。それもそのはず、森やみどりの丘のかわりに、地平線に見えるものといえば、ただ灰色の煙突ばかりなのですからね。おまけに、ここには、友だちひとりいるわけではありませんし、あいさつの声をかけてくれるような顔なじみもなかったのです。\n ある晩のこと、わたしはたいへん悲しい気持で、窓のそばに立っていました。ふと、わたしは窓をあけて、外をながめました。ああ、そのとき、わたしは、どんなに喜んだかしれません! そこには、わたしのよく知っている顔が、まるい、なつかしい顔が、遠い故郷からの、いちばん親しい友だちの顔が、見えたのです。それは月でした。なつかしい、むかしのままの月だったのです。あの故郷の、沼地のそばに生えている、ヤナギの木のあいだから、わたしを見おろしたときと、すこしもかわらない月だったのです。わたしは、自分の手にキスをして、月にむかって投げてやりました。すると、月はまっすぐわたしの部屋の中にさしこんできて、これから外に出かけるときには、まい晩、ちょっとわたしのところをのぞきこもうと、約束してくれました。そのときからというもの、月は、ちゃんとこの約束を守ってくれています。ただ残念なのは、月がわたしのところに、ほんのわずかの間しかいられない、ということです。でも、くるたびごとに、その前の晩か、その晩に見たことを、あれこれと話してくれるのでした。\n「さあ、わたしの話すことを、絵におかきなさい」と、月は、はじめてたずねてきた晩に、言いました。「そうすれば、きっと、とてもきれいな絵本ができますよ」\n そこでわたしは、いく晩もいく晩も、言われたとおりにやってみました。わたしは、わたしなりに、新しい「千一夜物語」を絵であらわすことができるかもしれません。でも、それでは、あまりに数が多すぎます。わたしがここに書きしるすものは、勝手に選びだしたものではなくて、わたしが聞いたとおりの順序にならべたものなのです。すぐれた才能にめぐまれた画家なり、詩人なり、音楽家なりが、もしもこれをやってみようという気があれば、もっとりっぱなものにすることができるにちがいありません。わたしがお見せするものは、ごく大ざっぱに紙の上に書きつけた、ほんの輪郭にすぎません。そしてそのあいだには、わたし自身の考えもまじっているのです。というわけは、月はかならず、まい晩きてくれたわけではありませんし、ときには一つ二つの雲が、わたしと月のあいだにはいりこんでくることもあったからです。\n\n\n第一夜\n\n「ゆうべ」これは、月が話したとおりの言葉です。「わたしは、インドの澄みきった空気の中をすべって、ガンジス河にわたしの姿をうつしていました。わたしの光は、古いプラタナスの葉が、ちょうどカメの甲のように盛りあがって、茂っている生垣の中に、さしこもうとしていました。\n するとそのとき、茂みの中から、カモシカのように身軽で、イブのように美しい、ひとりのインド娘が出てきました。このインド娘は、なにかしら空気のように軽やかでしたが、それでいて、ぴちぴちとした、ゆたかなからだつきをしていました。わたしは、この娘のきゃしゃな皮膚をとおして、考えていることを読みとることができました。とげのあるつる草が、娘の履物を引きさきましたが、そんなことにはかまわずに、娘はいそいで先へ進んでいきました。そのとき、野獣がのどのかわきをうるおして、河から帰ってきましたが、娘を見るとびっくりして、そばをとびすぎていきました。むりもありません。この娘は、火のもえている明りを手に持っていたのです。娘はほのおが消えないように、そのまわりに手をかざしていましたから、わたしはかぼそい指の中の、いきいきとした赤い血を見ることができました。\n 娘は河に近よって、明りを流れの上におきました。すると、明りは流れにつれて、くだっていきました。ほのおは、いまにも消えそうにちらちらしました。それでも、もえつづけていきました。娘の黒い、きらきらかがやく眼は、長い絹糸のふさのような、まつ毛の奥から、魂のこもった眼つきをして、そのほのおのあとを、じっと見おくっていました。娘は、その明りが、自分の眼に見えるかぎりのあいだ、もえつづけていれば、愛する人はまだ生きている、けれども、もしも消えてしまえば、もうこの世にはいないのだということを、知っていたのです。見れば、明りは、もえながらふるえました。娘の心も、もえあがって、ふるえました。娘は膝まずいて、祈りました。すぐそばの草の中に、ぬらぬらしたヘビがいました。けれども娘は、梵天王と自分の花婿のことしか考えていませんでした。\n『あの人は生きている!』と、娘は喜びの声をあげました。すると、山々からこだまが返ってきました。\n『あの人は生きている!』」\n\n\n第二夜\n\n「きのうのことですよ」と、月がわたしに話しました。「わたしは、家にかこまれている、小さな中庭をのぞいていました。見ると、めんどりが一羽、十一羽のひなどりたちといっしょに寝ていました。ところが、そのまわりを、ひとりのきれいな女の子が、はねまわっているのです。めんどりはびっくりして、コッコッコと鳴きながら、羽をひろげて、小さなひなどりたちをかばいました。そこへ女の子の父親が出てきて、女の子をしかりつけました。わたしはそれきり、もうそのことは考えずに、先へすべっていきました。\n ところが今夜、それもほんの二、三分前のことですが、わたしは、またおなじ中庭を見おろしていたのです。はじめのうちは、ひっそりとしていましたが、まもなく、あの小さな女の子が出てきて、そっと、とり小屋にしのびよりました。そして、かんぬきをはずして、めんどりとひなどりたちのいるところへ、しのびこみました。にわとりたちは大声でさけびながら、羽をばたばた打って、飛びまわりました。けれども、女の子は、そのあとを追いかけるのです。わたしは壁の穴からのぞいていたので、このありさまが、手に取るようにはっきりと見えました。わたしは、このいけない子に、すっかり腹をたててしまいました。ですから、父親が出てきて、きのうよりももっとひどくしかりつけて、女の子の腕をつかんだときには、ほんとにうれしくなりました。女の子は、頭をうしろへそらせました。すると、青い眼に大粒の涙が光っていました。\n『おまえは、ここで何をしているんだ?』と、父親がたずねました。すると、女の子は泣きだしました。\n『あたしはね』と、女の子は言いました。『この中へはいって、めんどりにキスをしてやって、きのうのおわびをしようと思ってたの。だけど、おとうさんには、どうしても、そのことが言えなかったのよ!』\n それを聞くと、父親は、このむじゃきな、かわいい子のひたいにキスをしてやりました。わたしも、その眼と口にキスをしてやりました」\n\n\n第三夜\n\n「ここのすぐ近くの、せまい小路で――そこはとてもせまいので、わたしは家の壁にそって、ほんの一分間しか光をすべらせることができません。でもその一分間に、そこに動いている世間を知るのに十分なものを見るのですが――わたしは、ひとりの女を見ました。十六年前には、この女はまだ子供でした。そして、田舎の、古い牧師の家の庭で遊んでいたのでした。バラの生垣は古くなって、もう花ざかりをすぎていましたが、道の外まで生いしげって、長い枝をリンゴの木立の中までのばしていました。まだあちこちに咲きのこっている花もありましたが、花の女王にふさわしいほど美しくはありませんでした。それでも、色もありましたし、香りもありました。しかしわたしには、牧師の小さな娘のほうが、ずっと美しいバラの花のように思われました。その娘は、のびにのびた生垣の下の、足台に腰かけて、厚紙でこしらえた人形の、へこんだ頬にキスをしていました。\n それから十年たって、わたしは、その娘をもう一度見ました。こんどは、はなやかな舞踏室にいるのを見たのです。そのときは、ある金持の商人の、美しい花嫁になっていたのでした。わたしは娘の幸福をよろこんで、静かな夜ごとに、たずねてやりました。ああ、それにしても、だれひとりとして、わたしの明るい眼と、わたしのたしかな眼差しとを、考えてくれる者はありません! わたしのバラの花も、牧師の家の庭のバラの花とおなじように、ずんずん若枝をのばしていきました。\n 日常の生活にも、悲劇があります。今夜、わたしは、その最後の一幕を見たのです。そのせまい小路で、その女は死の病にとりつかれて、寝台の上に横になっていました。ところが、その女の主人は、ただひとりの保護者であるはずなのに、乱暴で、冷酷な悪人だったものですから、その女のふとんをひきはがして、こう言いました。" }, { "role": "assistant", "content": "『起きろ! おまえの顔を見りゃ、だれだっていやんなっちまわあ! さあ、おめかしでもしろ! 金をかせぐんだ! さもなきゃ、表へおっぽりだすぞ! 早いとこ、起きた、起きた!』\n『死神が、わたしの胸の中にいるんです!』と、その女は言いました。『ああ、どうか休ませてください!』\n それでも、男は女をひきずり起して、顔におけしょうをし、髪にバラの花をさして、窓ぎわにすわらせました。それから、火のもえている明りを、すぐそばへおいて、出ていきました。わたしは、女をじっと見つめていました。女は身動きもしないで、すわっていました。と、手が膝の上に落ちました。風のために窓がはねかえって、窓ガラスが一枚、ガシャンと割れました。けれども、女はじっとすわっていました。カーテンが女のまわりを、ほのおのようにはためきました。女は、もう死んでいたのです。あけはなたれた窓から、死んだ女が、人間のありかたをといていました。牧師の家の庭の、わたしのバラの花が!」\n\n\n第四夜\n\n「わたしは、今夜、ドイツ喜劇を見てきました」と、月が言いました。「それは、ある小さな町でのことでした。馬小屋が芝居小屋になっていました。つまり、馬をつなぐ仕切りはそのまま残してあって、これをかざりたてて、見物の桟敷にしてあったのです。そして木造のところは、どこもかしこも色とりどりの色紙で張りめぐらしてありました。ひくい天井からは、小さな鉄のシャンデリアがさがっていました。そしてその上には、桶が一つさかさにはめこまれていて、まるで大きな劇場のように、プロンプターのベルが『リーン、リーン』と鳴りひびくのを合図に、その桶の中にシャンデリアが引き上げられるようになっていました。『リーン、リーン』小さな鉄のシャンデリアが、三、四十センチばかり跳ねあがりました。こうして、喜劇が始まることになったのです。\n 旅行中の、ある若い公爵が、奥方といっしょに、ちょうどこの町を通りかかって、きょうの芝居を見物にきていました。そのため、小屋は人でいっぱいでしたが、ただシャンデリアの下だけは小さな噴火口のようになっていました。そこには、ろうが『ポタリ、ポタリ』と落ちるので、だれもすわる人がなかったのです。わたしは、なにもかもながめました。というわけは、小屋の中がひどくむし暑かったので、壁の小窓という小窓を、あけはなしておかずにはいられなかったからです。そしてどの小窓の外からも、若い男や女が中をのぞきこんでいました。もっとも、中には警官がいて棒でおどしてはいましたが。\n オーケストラのすぐそばに、若い公爵夫妻が、二つの古い肘掛いすに腰かけているのが見えました。いつもなら、この席には町長夫妻がすわることになっていたのですが、今夜ばかりは、ほかの町の人たちとおなじように、木のベンチに腰かけなければなりませんでした。\n『まあどうでしょう。タカがタカに追われたというものですわね!』と、奥さんたちが小声で話しあっていました。なにもかもが、このために、いっそうお祭らしくなっていました。シャンデリアがおどりあがりました。のぞいている連中は、指をぶたれました。そうしてわたしは――そうです、この月のわたしは、ぜんたいの喜劇をいっしょに見たのです」――\n\n\n第五夜\n\n「きのう」と、月が言いました。「わたしはそうぞうしいパリを見おろしていました。わたしの眼は、ルーブル宮殿の中のあちこちの部屋の中へ入りこんでいきました。みすぼらしい身なりをした、ひとりの年とったお婆さんが――このお婆さんは貧しい階級の人でした――身分のいやしい番人の後について、がらんとした大きな玉座の間にはいってきました。お婆さんはこの広間を見たかったのです。見ないではいられなかったのです。お婆さんがこの部屋までくるのには、なんどもなんども、ちょっとした贈り物をしたり、言葉をつくして頼みこんだりしたのでした。\n お婆さんはやせこけた手を合せて、まるで教会の中にでもいるように、うやうやしくあたりを見まわしました。\n『ここだったんだ!』と、お婆さんは言いました。『ここだ!』\n こう言って、金の縁飾りのついている、立派なビロードの垂れさがった玉座に近づいて行きました。\n『そこだ、そこだ!』とお婆さんは言いました。そして膝をついて、まっかなじゅうたんにキスをしました。――お婆さんは泣いていたと思います。\n『これはそのビロードじゃなかったんだよ』と、番人は言いました。そう言う番人の口もとには、微笑がただよいました。\n『でも、ここでしたよ!』と、お婆さんは言いました。『こんなふうだったんですもの!』\n『こんなだったかもしれないが』と、番人は答えました。『そうじゃないね。窓はたたきこわされ、戸はひっぱがされて、床の上には血が流れていたのさ! ――だがね、あんたは、わたしの孫はフランス国の玉座の上で死んだと、言おうと思えば言えるんだよ!』\n『死んだ!』とお婆さんはくりかえしました。――それからは、一言も話さなかったような気がします。ふたりは、まもなくその広間を出て行きました。夕暮の薄明りが消え失せました。そのためわたしの光は、二倍に明るくなって、フランス国の玉座のまわりの立派なビロードの上を照らしました。きみは、そのお婆さんはだれだったと思いますか?――\n わたしはきみに一つの物語をしてあげましょう。それは七月革命のときのこと、あの世にも輝かしい勝利の日の夕暮だったのです。一軒一軒の家が城砦となり、一つ一つの窓が堡塁となっていました。民衆はチュイルリー宮へ向って突進しました。女や子供たちまでも、戦う人々の中にまじっていました。人々は宮殿の部屋や広間の中に押し入って行きました。ぼろを着た貧しい小さな男の子がひとり、年上の人たちのあいだで勇敢に戦っていました。しかしそのうちに、あちこちを銃剣でつかれて致命傷を受け、とうとう床の上に倒れました。それは玉座の間での出来事でした。人々は血まみれの男の子をフランス国の玉座の上に横たえて、傷のまわりにビロードを巻きつけました。血潮は王のまっかなじゅうたんの上に流れました。そのありさまはまったく一つの絵でした! 華麗な広間、戦っている人々の群れ!\n 引裂かれた旗は床の上に落ちていました。三色旗は銃剣の先にはためいていました。そして玉座の上には、青ざめて聖らかな顔をした貧しい男の子が、眼を天へ向けて横たわっていました。手足は死との戦いのために、もうぐったりとしていました。あらわな胸、みすぼらしい着物、そしてその上を半ばおおっている、銀のユリの花のついた、立派なビロードのひだ。この子がまだゆりかごの中にいたころ、そのそばで『この子はフランス国の玉座の上で死ぬだろう!』という予言がなされていたのです。母親の心は、新しいナポレオンを夢みていたのでした。\n わたしの光は、その子のお墓の上の不滅花の花輪にキスをしたものです。そして今夜は、年とったお婆さんのひたいにキスをしました。そのときお婆さんは、きみが絵にすることのできる『フランス国の玉座の上の貧しい男の子』の絵を、夢にみていました」\n\n\n第六夜\n\n「わたしはウプサラにいました」と、月が言いました。「わたしは作物の育たない畑と、わずかしか草の生えていない大きな平野を見おろしました。わたしはフュリス河に自分の姿を映しました。ちょうどそのとき、蒸気船にびっくりした魚が、葦のあいだに逃げこみました。わたしの下の方を雲が走っていましたが、長い影をオーディンの墓、トールの墓、フレイヤの墓と人々が呼んでいる小高い丘の上に投げていきました。これらの丘の上をおおっている薄い芝生の中には、人々の名前が切りこまれていました。ここには旅行者たちが自分の名前を刻みつけることのできるような記念石もなければ、どこかに自分の姿をえがかせることのできるような岩壁もありません。ですから、ここを訪れる人々は芝生を刈りとらせました。はだの見える地面が、大きな文字や名前となって現われています。そしてそういう文字や名前が、大きな丘の上に張られた一つの網のようになっているのです。いわば一種の不滅です。もっとも、それをまた新しい芝生がおおっていくのですが。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " すぐ目の下の塀の外にうろうろしている背広服の男。あれは警察からよこしてくれた私服刑事達だ。一人二人三人、表門丈けでも三人の見張り番だ。裏門にも同じ人数、その外邸内には、態々東京の警視庁から来て下すった波越警部とかいうお方を初め、十人に近い人数である。でも、聞く所によると黄金仮面は、数千人の群集に取り囲まれながら、悠々と逃げ去った程の不敵の曲者、この位の防備で充分なのであろうか。私達一族のものは災難とあきらめもせよ。大使ルージェール様の御身に若しものことがあったら、国際関係にも累を及ぼす大問題だ。父侯爵は万一を気遣って、大使の御来遊延期を申出でたけれど、ルージェール伯は、欧洲大戦にも参加され、シャンパーニュの激戦では、一時戦死を伝えられた程の勇士故、可愛らしい日本人の盗賊など、物の数とも思召さず、今日の予定を御変更にならなかった。で、邸内のこの物々しい警戒も、大使の身辺を護衛申上げる為に、父侯爵がお取計いなされたことなのだ。\n そこへ突然、真青な顔をして駈け込んで来たのは、姫の御気に入りの侍女の小雪だ。彼女は姫と一つ違いの二十歳。侯爵家旧重臣の家の娘で、十七歳の時からずっと姫の侍女を勤め、時には友達の様な口も利き合う仲である。\n「御嬢さま、わたくし、もうもう、こんなゾッとしたことはございません。どうしましょう。どうしましょう」\n「マア、小雪、どうおしなの」\n「わたくし、今、御部屋に生ける花を探しに、築山の奥の方へ参りましたの」\n「エエ、それで」\n「あの小暗い森の中を、何気なく見たのでございます」\n「エエ」\n「すると、お嬢さま」小雪は震え声で、囁く様に「私見ましたの。アレを......」\n「金色の......」\n 姫はゾッとして思わず立上った。\n「黄金仮面......」\n「お前、本当に御覧なの」\n「エエ、森の茂みの奥から、あの、三日月型の口で笑っている様に見えたのでございますの」\n「で、お父さまに申上げて?」\n「御前さまにも、警視庁のお方にも申上げました。今警視庁の方々が、築山のうしろを検べてお出でなさいます」\n 心臓のしびれてしまう様な恐怖に、二人はおびえ切った目と目を見合わせて、黙り反っていたが、やがて姫が独言の様に呟く。\n「一体そのものは、ここで何をしようと企らんでいるのでしょう。盗みでしょうか、それとも、もっと外に何か恐ろしい目的があるのではないでしょうか」\n 気の毒な美子姫は、怪物黄金仮面と彼女自身の運命とが、恐ろしいつながりを持っていようなどとは知る由もなく、ただ漠然とした恐怖に、唇の色を失って、打震えるばかりであった。\n そこへ父侯爵の姿が見えた。\n「アア、お父さま」\n「小雪が喋ったのか」\n 侯爵はその場の様子を見て取って、お喋りの侍女を叱る様に云った。\n「お父さま、警察の人達は、そのものを捕えまして?」\n「イヤ、残る隈なく検べさせたが、どこにもそんなものはいない。小雪が、余り怖がっているものだから、きっと幻を見たのだ」\n とは云うものの、侯爵とても、一抹の不安を隠すことは出来なかった。\n「決して、御前さま。幻やなんかではございません。わたくし、いくら何でも、そんな臆病者ではございませんわ」\n 小雪の抗弁を聞き流して、侯爵は、話題を変えた。\n「美子、もう御客さまの見えるに間もあるまい。御出迎えの用意をしなければなりません」\n「でも、邸内にまで、そんなものが這入り込んで来ますのに、お客さまをお迎え申上げても、よろしいのでしょうか」\n「それは、私も気がつかぬではない。併し、今更らどうする訳にも行かぬのだ。もう先刻大使館をお出ましになったという電話が来ているし、ルージェール伯爵は豪胆なお方だ。それに、いくら怪賊にもせよ。何の利害関係もない大使に、御迷惑を及ぼす様なことを仕出来す気遣いもあるまいではないか」\n 侯爵は寧ろ自から慰むるが如く、力をこめて云うのであった。\n\n小美術館\n\n それから一時間程たって、F国大使ルージェール伯爵は、秘書官と通訳を伴って、大使館紋章入りの大型自動車を鷲尾侯爵邸の車寄せに横づけにして、侯爵、美子姫、執事の三好老人其他一同の出迎えを受け、無事洋風大広間に入られた。\n ルージェール伯は、その年二月下旬、信任状を捧呈せられたばかりの新大使であったが、当時帝国ホテルで朝野の歓迎宴を張った際、鷲尾侯も出席して、今日の御訪問も、その時からの御約束が延び延びになっていた訳だ。侯爵伯爵は、今二ヶ月ぶりの再会である。\n 伯爵は、この国を訪れた外国人の例に漏れず、いやその中でも殊更らに日本古美術の非常な愛好者であった。彼はこの二ヶ月の間、要務の余暇には、京都奈良の博物館、神社仏閣を巡覧して、東洋美術の賞美に日も足らぬ有様であったが、そうした公共の場所丈けでは満足が出来ず、名家の珍蔵にかかる名画仏像等の観賞を思立ち、鷲尾侯爵家は、そのプログラムの第一に選ばれた訳である。\n 美術館は母屋から離れて、新しく建てられた、コンクリート造り二階建ての、百坪に余る建築だ。先ず三好執事が持参の鍵を以て、入口の大扉を開くと、侯爵を先頭に、大使一行、美子姫、三好老人の順序で、館内に這入って行く。\n 土蔵風の建物で窓が小さい為に、館内は昼間でも電燈が輝いている。高い天井、冷え冷えとした空気、防虫剤のほのかな匂い、その中に立ち並ぶ異形の仏像、今にも動き出すかと怪しまれる甲冑の列、様々の刀剣類、千年の夢を通わす絵巻物。何とやら肌寒き感じである。\n 侯爵は先頭に立って、一歩美術館に足を踏み入れた時、異様な恐怖を感じないではいられなかった。先刻小雪が見たという怪しのものと、場内にニョキニョキ立並ぶ、不気味な仏像とが、奇怪なる聯想を生じて彼をおびやかしたのである。\n「若しや怪賊は、この貴賓来訪の時を待構えていたのではあるまいか。どういう手段かは分らぬ。だが、この虚に乗じて、美術館内の宝物を盗み出そうと目論んでいるのではないだろうか」\n そう思うと、侯爵は、小暗い物蔭が気になって、伯爵への受け答えさえ、おろそかになり勝ちであった。\n だが、ルージェール伯は、思いもかけぬ素ばらしい観賞家であった。彼は日本支那の美術史にも詳しく、通訳官を通じての批評、悉く肯綮に当るばかりでなく、最も侯爵を喜ばせたのは、幾百万の金銭にも換え難き名宝として珍蔵せる、藤原時代の極彩色仏画「閻魔天像」と、同時代の作、木造塗箔の阿弥陀如来坐像との前に、伯爵は最も長く立止り、垂涎おく能わざる体に見えたことである。\n 一行は徐々に進んで、二階への階段の下に達した。その階段の裏の三角形の暗所に、ふと見るとハッとおびえないではいられぬ一物がある。比較的新しい時代の、金色燦爛たる、等身大の鍍金仏だ。それが、ほの暗い電燈に、異様な光輝を放って、ニョッキリと突立っているのだ。\n 美子姫は、美術館へ這入った時から、遠くの隅の、その鍍金仏を、目も離さず見つめていた。黄金の顔、......黄金の衣、......若しやあの仏像は生きているのではないかしら、というギョッとする様な妄想に、彼女はおびえ切っていた。" }, { "role": "assistant", "content": " 近づくに従って、その大男程もある仏像が、金箔の内側で、ひそかに、ひそかに、呼吸をしている様にさえ思われる。アア、今にも、今にも、あの柔和な口が、キューッと三日月型に曲って、糸の様な血を吐きながら、ニタニタと笑い出すのではあるまいか。と思うと、ゾーッと総毛立って、いきなり大声でわめきたい衝動を感じるのだ。\n 父侯爵も、娘程ではないけれど、同じ思いに悩まされていた。彼は鍍金仏の前に近々と顔を寄せ、突き通す様な恐ろしい目で睨みつけていたが、突然、ヒョイと手を出して、仏像の腕を力まかせに掴んで見た。若しやそれが、生きた人間の腕の様に生温く、柔いのではないかと考えたからだ。\n「アハハハ......」ルージェール伯は、侯爵の心持を察して笑い出した。「では、『金の仮面』と云われている盗賊は、まだ捕縛されないのですね。恐らくその賊は、この仏像みたいな顔をしているのでしょう。キッとそうでしょうね、侯爵」\n 侯爵は大使の言葉に、臆病過ぎた所業が極り悪く、ソッと手を引いた。\n その時である。突如として、美子姫の口からほとばしった、絹を裂く様な悲鳴。人々は不意をつかれて、飛び上った。姫の飛び出す程見開かれた両眼が、鍍金仏の背後の小窓に、釘着けになって、顔色は紙の様に白く、今にも卒倒せんばかりである。\n 見るとその小窓に奇怪な人間の顔。咄嗟にヒョイと隠れてしまったが、確かに何者かが大使の一行を覗いていた。しかも全く見覚えのない異様の人物、邸内の召使でもなければ、警戒中の刑事でもない。\n 侯爵はいきなり小窓へ飛んで行って、ガラス戸を開いた。\n 軒下を辷る様に逃げて行く人影。背の高い、髪を女の子の様に長髪にして、黒木綿の紋つきに、黒セルの袴をはいた、何とも形容の出来ない変てこな姿である。\n「君、一寸待ち給え」\n 侯爵が怒鳴ると、男はクルッと振返って、ニヤニヤ笑いながら一礼した。肩まで垂れた長髪の上に、アイヌの酋長みたいな顔中髭だらけの、薄気味悪い人物だ。\n「君は、一体誰です。今何をしていたのです」\n 侯爵の詰問に、相手の男が答える前に、突然横合から口を出したのは、執事の三好老人だ。\n「木場さん。こんなことを仕出来して下すっては、私が困るじゃありませんか。もう一日もお泊めして置くことは出来ませんぞ。......イヤ、御前様、何とも申訳がございません。あの男は、実は、......」\n「分った、分った。君の信仰している天理教の教師だね」侯爵は、怪人物の素姓が分ると、安堵して云った。「だが、再びこんな粗相のない様に、君からよく云って置く方がよい」\n 三好執事は天理教の狂信者で、門内の彼の住居には、時々説教旅行の教師が泊り込んで行く。木場さんというのもその一人で、見ず知らずではあったが、教会の確かな紹介状を持参したので、三好老人は安心して泊めて置いたのだ。どうして覗いたりしたのかと尋ねて見ると、新任のフランス大使閣下の御顔を一目見たかったのだと答えた。\n さてそれからは別段の出来事もなく、大使一行の美術品巡覧は主客とも充分の満足を以て終った。\n\n浴場の怪人\n\n 美子姫は毎夜ベッドに這入る前に、湯殿で身体を清める習慣があった。今日は御一泊なさる大使一行のおもてなしで就寝時間がひどくおくれたけれど、身分あるお客さまへの気疲れと、その上黄金仮面の恐怖に、心身ともヘトヘトになっていたので、気分を落ちつける為にも、入浴を省略する気にはなれなかった。\n 姫が侍女の小雪に手伝わせて、着物を脱ぎ、大理石の浴槽に身をつけたのは、もう十二時を過ぎていた。\n 純白の大理石に照り映る、まばゆいばかりの電燈。それに気丈者の小雪が、大タオルを手にして見張り番を勤めていてくれるので、深夜の湯殿ではあったが、姫はのびのびとした気持で、肌にしみ入る温湯を楽しむことが出来た。\n 透明な湯の中に、平べったく浮上って見える、ねっとりと白い肌。姫も世の多くの女達の例に漏れず、我れと我が肉体の美しさに見とれる娘であった。我が肌の不可思議な魅力に感じる恥しさは、やがて、遠き異郷の懐しき背の君への、云い難きあこがれであった。\n うっとりと物思いに耽っている内に、姫はふと襲いかかる様な深夜の静けさにおびえて、小雪に話しかけようと、うしろを振向くと、いつの間に立去ったのか、侍女の姿は消えていた。\n「どこへ行ったのかしら、きっと着換の寝間着を取りに行ったのでしょう」\n と心待ちに待っていても、小雪はなかなか帰って来ぬ。\n 耳をすますと、しんと静まり反った、夜の中に、幽かに、幽かに、あるかなきかに聞えて来る、裏山の夜鳥の声。姫は湯の中ながら、ゾッと鳥肌立つ思いで、おびえた目は自から庭に開いた窓に注がれる。その曇りガラスの扉の外に、ソッと忍びよる人の足音さえ聞える様な気がするのだ。\n 浴槽を出るのはおろか、湯の中で身体を動かすことさえ憚られ、破れる様に高鳴る胸を押えて、じっと身をすくめていると、アア、何ということだ、その窓の扉が、ひとりでに、一分ずつ一分ずつ、じりじりと開いて行くではないか。\n 幻覚だ。でなければ、悪夢を見ているのだ。夢なら覚めよと祈ったが、覚めるどころか、扉の隙間は見る見る拡がって、その向うから、吹き込む冷かな夜気と共に、真黒な夜がバアと覗いている。\n 姫は身動きは勿論、喉がふさがって、声を立てる気力もない。だが、目丈けは、目に見えぬ糸で引張られている様に、扉の隙間に固定して動かぬのだ。\n アア、今にも、今にも、あの真黒な隙間から、無表情な金色の顔が、覗くのだ。覗くに極っている。とおびえる心が、そのまま形となって現われる様に、そこから、その黄金仮面が、三日月型の口で笑いながら、本当に、ヒョイと現われたではないか。\n 姫はその刹那、半ば意識を失って、その黄金仮面の怪物に向って、まるで仲よしのお友達ででもある様に、ニッコリと笑いかけた。極度の恐怖が――泣くことも叫ぶことも出来ぬ程の恐れが、遂に人を笑わせたのであろうか。\n 怪物は、姫の不思議な笑顔に誘われた様に、窓をのり越えて、ツカツカと湯殿の中へ這入って来た。顔は黄金仮面、後頭部は黒布にすっかり包まれている。身には、例のダブダブの金色外套だ。\n 姫は生命の危険を感じた。「早く早く、逃げなければならぬ」消えて行く意識を取戻そうと、死にもの狂いの戦いだ。\n やっとの思いで、浴槽を出た彼女は、乙女の羞恥も忘れ、むき出しの赤はだかで、よろよろとドアに走った。\n だが、黄金仮面は燕の素早さだ。姫が半ばも走らぬ内に、彼は已にドアの前に立ちはだかっていた。見ると怪物の右手には、黄金マントの下に隠し持っていた、鋭い短剣がギラギラと光っている。\n 素っぱだかの、花はずかしい姫君と、全身金色に輝く怪物の、いとも奇怪なる睨み合い。怪物は又しても、例の三日月の唇で、顔一杯の笑いを笑った。と見る間に、パッと飜える黄金マント。彼は一飛びで、姫の白い肉塊を組み敷いてしまった。\n 怪物は姫のふくよかな胸を狙って、短剣をふりかぶった。か弱き女性の、断末魔の悲惨なる抵抗。もがきにもがく姫の手が、近々とのしかかって来る怪物の顔を、発止と打った。そのはずみに、どうしたことか、ポロリと落ちた黄金仮面!\n 怪物はアッと叫んで、素早く仮面を被り直したが、咄嗟の場合、姫は怪物の正体を、まざまざと見て取った。\n「マア、おまえ!」\n 姫の驚愕と憎悪の絶叫。\n 正体を見られた怪物は、物狂わしく短剣を振り下した。針の様な切先が、純白の肌にサッと通る。飛び散る血潮、ギャッといううめき声、そして、宙を引掻く、真白な指......。\n 丁度その頃、鷲尾侯爵とルージェール伯とは、まだ寝もやらず、晩餐から引き続いての美術論に打興じていた。書記官も通訳も同席して、聴手の役を勤めている。\n この席へ、無躾にも、転がる様に駈け込んで来たのは、侍女の小雪だ。\n「御前さま、大変でございます。お姫さまが、胸を刺されて、......お湯殿で......」\n 主客とも色を変えて立上った。侯爵は、客を残して、小雪の案内で湯殿へと駈けつけた。騒ぎを聞いた書生もあとに続く。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "屡〻都城破りたるオトリュンチュウスは彼の父、\n仙女ネーイス彼の母、彼は多數の民の長、\n雪を戴くトモーロス、麓のヒュデー彼の郷、 385\n憤然として進み來る彼の頭のたゞ中を、\nアキルリュウスは槍飛ばし、射當て二つに打ち碎く。\n摚と大地に倒れ伏す彼に叫べるアキリュウス、\n\n『オトリュンチューデー、勇猛の汝大地に横はる、\nこゝに汝の命盡きぬ、*ギューガイエーの湖の 390\n岸は汝の生れし場、父祖の莊園あるところ、\n魚族に富めるヒュルロスと渦のヘルモス程近し。』\n\n390 II 865.\n\n\nしかく誇りて陳じ曰ふ、かくて敵の目暗に閉づ。\n彼の屍體をアカイアの戰馬、車輪に先陣の\n中に碎けり、之に次ぎアキルリュウスは打ち斃す、 395\nアンテーノールの生みし者、*デーモレオーン、勇武の子、\nその黄銅の頬當を具せる兜を貫きて、\n顳顬うてば黄銅は槍を支へず、鋭刄は\n貫き通り骨碎き、内の頭腦は悉く\n微塵となりて、アキリュウス敵の猛威を抑へ止む。 400\n而して次に兵車より降り、目前逃げゆける\n*ヒッポダマスに槍投げて、背筋貫き地に倒す、\n敵は最後の息吐きて呻めき、恰も*ヘリケーの\n神の祭壇めざしつゝ、ポセードーンの喜に、\n若き人々ひきて行く牛の呻めきを見る如し、 405\nしかく呻めきて敵將の猛き魂魄身を離る。\nつゞいて彼は槍揮ひポリュドーロスに向ひ行く、\n王プリアモス生みたる子、年齒最も若ければ、\n父王は彼の最愛の此子進んで戰ふを\n許さず、更に競走にすべてを凌ぎ勝ちし彼、 410\n今若年の誤に脚の速さを示すべく、\n先鋒中を駈け𢌞り遂に一命亡しぬ。\n脚神速のアキリュウス馳せ行く彼の背の眞中、\n飛刄はげしく打當てゝ金の締金、革帶を\n留め、二重に胸甲の重なるほとり貫きつ、 415\n穗先鋭く投槍は臍のほとりに突きいづる、\n討たれし敵は膝折りて、呻めきはげしく暗黒に\n目は蔽はれつ、はみいづる臟腑を抱き地に伏しぬ。\n\n396 前後に無し。\n402 前後に無し。\n403 アカイアにあり、ポセードーン崇拜の本據。VIII 203.\n\n\n臟腑を抱き地に伏せるポリュドーロスを、愛弟を、\n見たる將軍ヘクトール、悲哀に堪へず、双眼は 420\n愁の霧に掩はれつ、離れて遠くたゆたふに\nもはや忍びず、憤然と鋭き槍を打ち揮ひ、\n猛火の如くアキリュウスめがけ驀地に馳せ出づる、\n之を眺めてアキリュウス跳り上りて喝し曰ふ、\n\n『來れり、われの心情を最も痛く惱ませる 425\n彼れ――わが愛でし僚友を斃したる者、戰鬪の\n場を雙方、彼と我、逃るゝことをもはやせじ。』\n\nしかく陳じてヘクト,ルに目を怒らして叫び曰ふ、\n『近寄れ、汝速かに死滅の運に逢はんため。』\n\n堅甲振ふヘクトール恐れず答へて彼に曰ふ、 430\n『*ペ,レーデース! 言句もてさながら小兒見る如く、\nわれを嚇かすこと勿れ、われも同じく慘毒の\n言句を放つ術を知る、侮辱の言を吐くを知る。\n我また汝の勇を知り、*我の劣るを善く悟る、\nさもあれ勇は劣るとも汝に槍を投げ飛ばし、 435\n汝の命を奪はんか、否か、其事神明の\n手中に殘る、わが槍の穗先誠に鋭利なり。』\n\n431 上文 200―202 にあり。\n434 斯る文句を敵將に述ぶること訝かし。\n\n\nしかく陳じて大槍を揮ひ飛ばせばアテーネー、\n輕きいぶきに鋭刄を拂ひ、英武のアキリュウス、\n打つを得させじ、あとがへる槍は將軍ヘクト,ルの 440\n足許近く地に落ちぬ、續きて敵を倒すべく\nはげしく念じ、憤然と呌喚すごくアキリュウス、\n勢猛く飛び出せば敵をプォイボス・アポローン\n神力揮ひ、容易くも救ひて雲に隱れしむ。\n三たび英武のアキリュウス、其青銅の槍あげて、 445\n鋭き脚に進みより、三たび濃霧の中を打つ、\n四たび續きて神靈の暴るが如く進みつつ、\n聲を勵まし物凄く羽ある言句陳じ曰ふ、\n\n『汝今また、憎き狗! 死を逃れたり、禍は\n眞近く側に來れるも、今は汝が投槍の 450\n響の中に祈る神、アポローン汝を救ひたり。\nされど此後われに又神の助の有らん時、\n汝に向ひ戰ひて汝の命を奪はんず。\n今は他の敵わが前に現はるゝもの追ひ打たむ。』\n\nしかく叫んでドリュオプス打てる投槍、其頸の 455\n眞中通れば脚もとに倒れて伏せり。そを捨てて、\nフィレートールの生みたる子デームウコスの膝討ちて、\n槍に貫き逃げ走る彼を留めつ、引きつゞき、\nかざす大刀ふりあげて其生命の根を留む。\nつゞきて襲ひ打ち取るはビアースの二子、車上なる\n*ラオゴーノスとダルダノス――槍を飛ばして彼を打ち、\n劔を揮ひてこれを打ち、共に地上に倒れしむ。\nアラストールの生みたる子、*トローオス又打ち倒す、\n等しき年齒顧みてわが一命を助けよと、\n彼は近づく敵將の膝を抱きて哀を乞ふ、 465\n哀訴素より空しきを愚かや彼は悟り得ず、\n敵は柔和の性ならず、温情知らず、勇猛の\n氣に滿ち溢る、手をのべて膝を抱きて哀願を\n致すも遂に效あらず、敵の利劍は肝臟を\n碎けば臟腑溢れいで、流れ出でたる黒き血は、 470\n胸を滿たして、暗黒は一命つきし彼の目を\n蓋へり。次に*ムーリオス近くにあるを槍飛ばし、\n耳より耳に青銅の穗先するどく貫きて、\n之を倒しつ、又次にアゲーノールの生みたる子、\nエケクロス打ち、長劍に頭のまなか打碎く。 475\n刀身すべて血に熱く、一命こゝに盡き果てし\n彼の双眼、暗き死と凄き悲運はおほひ去る。\n*ヂュウカリオーンは次の牲、肱の筋肉合ふところ、\n其腕をうつ青銅のアキルリュウスの槍凄し、\n彼は空しく腕を垂れ死の運命を覺悟して、 480\n敵の迫るを迎へ待つ、敵は利劍を打ち揮ひ、\n兜のまゝに其頭、打つて落せば背骨より、\n脊髓溢れほとばしり、屍は大地に倒れ俯す。\n*ペーレーオスの産みたる子、リグモス――郷は豐沃の\n土地トレーケー――こを目がけアキルリュウスは迫り寄り、 485\n槍を飛ばして胸を打ち、青銅肺を貫きて\n兵車の下に倒れしめ、更につゞいて彼の御者。\n*アレーイト,スの背を槍に、打ちて同じく兵車より\n大地に落ちて倒れしむ、戰馬は爲に暴れ狂ふ。\n\n461 XVI 604 に他のラオゴーノスあり、ダルダノスは前後に無し。\n463 上文 231 に他のトローオスあり。\n473 XVI 696 は別人。\n478 トロイアのヂュウカリオーンは前後に無し。\n484 II 844 ペーレーオスはペーローオスと同人。リグモスは前後に無し。\n488 VII 8 のと別人。\n\n\n譬へば旱る山脈の、深き谷間に暴れ狂ふ 490\n猛火の力炎々と、深き林を燒き拂ひ、\n風は四方に其火焔吹き捲き飛ばす樣や斯く、\nアキルリュウスは槍揮ひ、神の如くに猛然と、" }, { "role": "assistant", "content": "踏まるる敵を追ひ討ちて大地に黒き血は流る。\n譬へば額廣き牛、軛を附けて農場の 495\n床に小麥を踏み行けば、高らに吠ゆる牛の下、\n紛々として白き穀、踏まれて殼を去る如く、\nアキルリュウスの進め驅る單蹄の馬脚あげて、\n*敵の屍體を盾を踏み、而して車軸悉く、\n車臺をめぐる縁と共、馬蹄並に輪金より 500\n飛び散る凄さ鮮血に、皆一齊に染められぬ。\nかくして勇むアキリュウス・ペーレーデース、功名の\n情念切に剛勇の手を血に染めて暴れ狂ふ。\n\n499 XI 534 以下と同じ。\n\n\n\n第二十一歌\n\n\n クサントスの岸上にアキリュウスの奮戰。 トロイア軍の一部は城中に逃げ、一部は河上に逃ぐ。 後者をアキリュウス劔を揮つて討ち、又十二人の敵の少年を捕ふ。 リカオーン及びアステロパイオスの死。 クサントス(=スカマンダロス=)の河靈怒りて激浪を揚げて勇將を苦しむ。 アキリュウス生命の危きを恐れて神に呼ぶ。 ポセードーンとアテーネー來りて彼を慰む。 されど河靈は怒をやめず、シモアイスの河靈を呼び再びアキリュウスに迫る。 ヘーレー之を見てヘープァイストスに命じ、猛火を起して平野を燒き、河流を枯渇せしむ。天上に於て諸神互に相討つ。 アテーネーはアレースを破る。 ポセードーンに激せらるるもアポローン戰はず。 アルテミスはヘーレーに惱まさる。 プリアモス王命じて城門を開き、逃れ來る自方を入らしむ。 追撃し來るアキリュウスはアゲーノールに迫る、アポローン之を救ふ。\n\n\n水美はしきクサントス、クロニーオーン生むところ、\n流渦卷くクサントス、其岸さしてトロイアの\n軍到る時、アキリュウス之を散らして、一隊を\n都城の方に平原の上に追ひ打つ、*前の日に、\nアカイア軍がヘクト,ルに追はれ畏れて逃げし場。 5\nトロイア勢は逃げ走りこゝに群がる、其前に\nヘーレー霧を敷き散らし路を遮る、他の隊は\n深き大河、銀浪を渦卷く中に追はれ入り、\n騷音高く落ちこみつ、深き流は咆え哮び、\n岸はめぐりに轟々の音もの凄く鳴りひゞき、 10\n叫喚高く敵の軍泳ぎて波に捲かれ去る。\n譬へば猛き火に追はれ、流に向ひ遁るべく\n蝗の一群飛び翔くる、而して火焔炎々と、\n激しく襲ひ燒き立てゝ、蟲は流に落つる如、\n流れ渦卷くクサントス、其喧囂の大水は、 15\nアキルリュウスの手よりして人と馬とに滿たされぬ。\n\n4 XVII 753 以下。\n\n\nヂュウスの寵兒アキリュウス、岸の傍楊柳の\n幹に其槍立てかけて、たゞ一刀を手に握り、\n神の如くに勇猛の業たくらみて、切りまくる、\n四角八面斬りまくる其鋭刄につんざかれ、 20\n凄き叫喚湧き起り、流るゝ川は血に紅し。\n譬へば魚群おほいなる海豚に追はれ、逃げ泳ぎ、\n捕ふるものを皆喰らふ敵を恐れて、碇泊に\n善き港灣の隅にある洞を充たすを見る如し。\n斯くトロイアの軍勢は、流うづまく大川の 25\nけはしき岸に身を隱す、而して既に殺戮に\n其手の倦めるアキリュウス、流れの外に、生き乍ら\nパトロクロスの牲として、囚ふ*少年十二人。\n仔鹿の如くおのゝける其一群を引き出し、\n彼ら自ら*しなやかの被服のめぐり纒ひたる 30\n*革紐奪ひ、背の上に彼らの双手しばりつけ、\n兵船さして送るべく、其友僚に渡すのち、\nまた殺戮の念に燃え、陣頭さして躍り出づ。\n\n28 XVIII 337 に十二人のトロイア少年を牲とするをアキリュウスは盟ふ。\n30 鎖かたびらの類か。(V 113)\n31 捕虜を縛るため用意せるものと見ゆ(評家ユウスタチオスの説)。\n\n\nその時彼の逢ひたるは、ダルダニデース・プリアモス\n生みたる愛兒*リカオーン、水より遁れ出でしもの。 35\nこれより先にアキリュウス夜に乘じて襲ひ入り、\n捕へて父の果園より荒くも奪ひ取りしもの、\n乘車の輪縁造るべく鋭き刄、無花果の\n枝に加へし彼の上、不意の禍難は降りけり。\n而して舟にのせ行きて彼を賣りしはレームノス、 40\n堅き都城のあるところ、*イエソーンの子は買ひ取りき、\nそこより彼を莫大に*エーイチオーンは賠ひき、\n(彼の故郷はイムプロス)そこより更にアリスベー、\n送られし彼逃れ出で祖先の家に歸り來ぬ。\n\n35 リキエーの將軍に同名別人あり。(II 827)\n41 イエソーンの子はユーネーオス VII 468.\n42 テーベーの君主に同名別人あり。(VI 416)\n\n\nレームノスより歸り來て、友と語りて樂しめる 45\n日數十一、其の次の第十二日、運命の\n神は可憐の子を又も、アキルリュウスの手に渡し、\n勇將彼を好まざる冥王の許送らんず。\n脚神速のアキリュウス、勇める眼に見るところ、\n彼は赤裸に、兜無く、盾なく、更に槍も無し、 50\nすべて是らを地の上に彼悉く投げ棄てぬ、\n汗は川より逃れ來し彼を弱らせ、兩膝は\n疲勞に惱む――之を見てペーレーデース怒り曰ふ、\n\n『何らの奇怪! 今われの眼に親しく映るもの!\n彼の勇猛のトロイアの軍勢われの討ちしもの、 55\n陰霧の暗の郷を出で再びこゝに現はれむ、\n見よ秀麗のレームノス郷に賣られし彼は今、\n不幸の運を免れてこゝに來れり、海岸の\n白波は衆を捕ふるも彼を抑ゆることあらず。\nさはれ今はたわが槍の鋭刄彼も味はゝむ、 60\nしかせば我は胸中に觀じ、しかして悟るべし、\n同じく彼がかなたより歸るや、あるは生の本、\n大地は彼を留むるや、他の勇將に爲す如く。』\n\nしかく念じてアキリュウス立てば、恐怖を抱く敵、\n近くに來り彼の膝ふれんとしつゝ飽く迄も、 65\n無慚の死滅暗黒の運命逃れ去らんとす。\nその時かなた英剛のアキルリュウスは*大槍を\n高く振りあげ打たんとし、こなたリカオーン其下を\n潛り、身を屈し膝に觸る其背を越して飛べる槍、\n人の血肉飽く迄も求め乍らも地に刺さる。 70\nその時彼は片手もて哀願しつゝ膝に觸れ、\nまた他の手もて*鋭刄の槍を抑へて放たせず、\nかくて飛揚の翼ある言句を陳じ彼に曰ふ、\n\n67 先文17には槍を岸の樹に立てかくとあり、かかる矛盾或は略文に關して古の或評家は喋々す。\n72 槍は地に刺さる、他の槍か?(17)\n\n\n『あゝアキリュウス、哀願を聞きて憐みわれ許せ、\n神の寵兒よ、われの身は君の被保護者、そのむかし 75\nデーメーテールの穀物を君の許にて味はひき、\nそは果樹園の中にわれ囚へて父と友とより、\n離して遠くレームノス聖なる郷に曳き行きて、\nわれを賣りし日――百頭の牛はわが身の代なりき。\n而して我今三倍を與へて此身償はむ、 80\n多くの苦難受けし後、われイリオンに着きてより、\n今に到りて十二日、しかも今猶非なる命、\n君の手中に我を置く、ヂュウスは我を憎しみて、\n再び君に我與ふ、ラーオトエーはわれの母、\nわれを短命の子と生めり、母の老父はアルテース、 85\nサトニオエース河に沿ふ地勢の高きペーダソス、\n領とし、猛きレレゲース族を率ゐるアルテース。\n彼の愛女をプリアモス、他の女性らと共に取る、\nこれより生れし二人の子、われらを君は打たんとす。\nポリュドーロスを先鋒の歩兵の中に*君打てり、 90\n鋭き槍に君討ちし彼は正しく神に似る。\n而してこゝに禍は我に及ばむ、われは知る、\nある神靈の驅りし我れ、君の手中を逃れずと、\nさはれ他の事我曰はむ、之を銘ぜよ、胸の中、\n我をば殺すこと勿れ、優しきしかも猛勇の 95\n君の愛友殺したるヘクトールとは母は別。』\n\n90 XX 408." } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " さてそのひょうたんの酒をきれいに湑んでしまってからその男は語りつぐのであった。父がそれをわたくしに話してくれましたのはまいとし十五夜の晩にその堤をあるきながら子供にこんなことをいってきかせても分るまいけれどもいまにお前も成人するときがくるのだからよく己のいったことをおぼえていてそのときになっておもい出してみてくれ、己もお前を子供だと思わずに大人にきいてもらうつもりではなしをするとそういってそれをいうときはいつもたいへん真顔になって、どうかすると自分とおなじ年ごろの朋輩を相手にしているようなもののいいかたをするのでござりました。そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お遊様」といったりしてお遊さまのことをわすれずにいておくれよ、己がこうして毎年おまえをつれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらいたいからだと涙ぐんだこえでいうのでござりました。わたくしはまだ父のいうことがじゅうぶんには会得できませなんだがそれでも子供は好奇心が強うござりますし父の熱心にうごかされて一生懸命に聴こう聴こうといたしましたのでこうなんとなく気分がつたわってまいりましておぼろげにわかったようなかんじがしたのでござります。で、そのお遊さまという人はもと大阪の小曾部という家のむすめでござりましてそれが粥川という家へ器量のぞみで貰われて行きましたのが十七のとしだったそうにござります。ところが四、五年しましてから御亭主に死に別れまして二十二、三のとしにはもう若後家になっていたのでござります。もちろん今の時節ならばそんなとしから後家をたてとおす必要もござりませぬし世間もだまって捨てておくはずはござりませぬけれどもそのころは明治初年のことで旧幕時代の習慣が残っておりましたし、実家の方にも嫁入り先の粥川の方にもやかましい老人がいたということでござりますし、ことに亡くなった御亭主とのあいだに男の子が一人ありましたそうにござりますからなかなか再縁というようなことは許されなんだものとみえます。それにお遊さんは望まれて行ったくらいでござりますから姑にも御亭主にもたいへん大事にされまして実家にいましたときよりもずっと我がままにのんびりとくらしておりましたので後家になりましてからもときおり大勢の女中をつれて物見遊山に出かけていくという風でそういう贅沢は自由に出来たのだそうにござりますからはたから見ればまことに気楽な境涯なのでござりまして、当人もその日その日の花やかな生活に紛れてかくべつ不平も感じなかったのでござりましょう。わたくしの父がはじめてお遊さんを見ましたときはお遊さんという人はそういう身の上の後家さんだったのでござります。そのとき父が二十八歳でわたくしなどの生れます前、独身時代でござりましてお遊さんが二十三だったと申します。なんでも夏の初めのことで父は妹の夫婦、わたくしの叔父叔母にあたります人と道頓堀の芝居に行っておりましたらお遊さんがちょうど父のまうしろの桟敷に来ておりました。お遊さんは十六、七ぐらいのお嬢さんと二人づれで外に乳母か女中頭といったような老女が一人と若い女中が二人つき添っておりましてその三人がお遊さんのうしろから代る代る扇子であおいでおりました。父は叔母がお遊さんに会釈をしましたのであれはというと粥川の後家さんだという話で、つれのお嬢さんはお遊さんの実の妹、小曾部の娘だったのでござります。己はその日、最初にひとめ見たときから好もしい人だと思ったと父はよくそう申しましたがいったいその時分は男でも女でも婚期が早うござりましたのに父が総領でありながら二十八にもなって独身でおりましたのはえりこのみがはげしゅうござりまして降るようにあった縁談をみんなことわってしまったからなのでござりました。尤も父もお茶屋遊びはいたしましたそうにござりましてその方面に馴染みの女がないことはござりませなんだけれどもさて女房にするとなるとそういう女ではいやなのでござりました。と申しますのは父には大名趣味と申しますか御殿風と申しますかまあそういったふうな好みがござりまして、いきな女よりも品のよい上﨟型の人、裲襠を着せて、几帳のかげにでもすわらせて、『源氏』でも読ませておいたらば似つかわしいだろうというような人がすきなのでござりましたから芸者では気に入るはずがないのでござります。それにしましても父がどういうところからそんなふうな趣味になりましたものか町人にそぐわないようでござりますけれども、大阪も船場あたりの家になりますと奉公人の礼儀作法がめんどうでござりましていろいろ格式をおもんじるふうがござりましたので小さな大名などよりも貴族的なところがあったくらいでござりますから大方父もそういう家庭にそだったせいでござりましょう。とにかく父はお遊さんを見ましたときひごろ自分のおもっていたような人柄の人だとかんじたのでござります。なぜそうかんじましたものか分りませぬがすぐまうしろにいたのだそうにござりますから女中どもにものをいうときの口のききかた、そのほかの態度やものごしなどがいかにも大家の御寮人らしくおうようだったのかも知れませぬ。お遊さんという人は、写真を見ますとゆたかな頬をしておりまして、童顔という方の円いかおだちでござりますが、父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少くないけれども、おゆうさまの顔には何かこうぼうっと煙っているようなものがある、㒵の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない、じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる、むかしのものの本に「蘭たけた」という言葉があるのはつまりこういう顔のことだ、おゆうさまのねうちはそこにあるのだというのでござりましてなるほどそう思ってみればそう見えるのでござります。大体そういう童顔の人は所帯やつれさえしなければわりあいに若々しさを失わないものでござりますがお遊さんは十六、七の時から四十六、七になりますまで少しも輪郭に変りがなくていつみても娘々したういういしいかおをしていた人だと叔母なども始終そう申しておりました。でござりますから父はその、お遊さんのぼうっとした、いわゆる「蘭たけた」ところに一と眼でこころをひかれたのでござりまして父の趣味をあたまにおいてお遊さんの写真を見ますとなるほどこれなら父が好いたであろうということが分ってまいるのでござります。つまり一と口に申しますなら、古い泉蔵人形の顔をながめておりますときに浮かんでまいりますような、晴れやかでありながら古典のにおいのするかんじ、おくぶかい雲上の女房だとかお局だとかいうものをおもい出させるあれなのでござります。あの匂いが何処かお遊さんの㒵のなかに立ち迷っているのでござります。わたくしの叔母、いま申しました父の妹は、このお遊さんの幼な友達でござりまして娘時代には同じ琴の師匠のところへかよっていたものでござりますから、おいたちのことだの家庭のことだの輿入れのときのことだのいろいろと事情を知っておりましたのでそのとき父に話したのでござりますが、お遊さんにはきょうだいが大勢ありまして芝居へ連れてきておりました妹のほかにまだ姉さんも妹もありましたけれども中でもお遊さんがいちばん両親に可愛がられていてどんなわがままでもお遊さんなら許されるという風でとくべつあつかいにされていたそうにござります。それはお遊さんがきょうだいじゅうでの美人でござりましたからそれもあったかも知れませぬけれども、ほかのきょうだいたちもお遊さんだけは別物のようにかんがえておりまして誰もそうするのがあたりまえだと思っているというようなふうであったと申します。おばの言葉を借りますなら「お遊さんという人は徳な人だった」と申しますので自分の方からそうしてほしいというわけでもなくまた威張ったり他人をおしのけたりするのでもござりませぬが、まわりの者がかえっていたわるようにしましてその人にだけはいささかの苦労もさせまいとして、お姫さまのように大切にかしずいてそうっとしておく。自分たちが身代りになってもその人には浮世の波風をあてまいとする。おゆうさんは、親でも、きょうだいでも、友だちでも、自分のそばへ来る者をみんなそういう風にさせてしまう人柄だったのでござります。叔母なども娘のころにお遊さんのところへあそびにまいりますとお遊さんは小曾部の家のたからものといったあんばいで身のまわりのどんなこまかい用事にでも自分が手をくだしたことはなくほかの姉さんや妹たちが腰元のように世話をやくことなどがござりましたけれどもそれがすこしも不自然でなくそういうようにされているお遊さんがたいへんあどけなくみえたそうにござります。父はおばからそんな話をききまして一層お遊さんがすきになりましたがそののちはついぞよいおりもなくてすごしますうちあるときお遊さんが琴のおさらいに出るという噂を叔母がききつたえてまいりましてお遊さんをみたければわたしが一緒に行ってあげるからと父を誘ったのでござりました。そのおさらいの日にお遊さんは髪をおすべらかしにして裲襠を着て香をたいて「熊野」を弾きました。さようでござります、いまでも許しものを弾きますときには特にそういう儀式張ったことをする習慣があるのでござりましてずいぶんそのためには大袈裟な費用をかけるものなので金のあるお弟子には師匠がそれをやらせたがるのでござりますが、お遊さんもたいくつしのぎに琴のけいこをしておりまして師匠からすすめられたのでござりましょう。ところでお遊さんのこえのよいことは前にも申しましたようにわたくし自身も聞いたことがござりましてよく存じておりますのでその人柄を知ってそのこえをおもうと今更のように奥床しさをおぼえるのでござりますが父はそのときにはじめてお遊さんの琴唄をきいて非常にかんどうしたのでござります。そのうえおもいもかけず裲襠すがたのお遊さんを見たのでござりますからかねがねゆめにあこがれていたまぼろしが事実になったのでござりましてさだめし父は自分の眼をうたがったほどにおどろきもしよろこびもしたでござりましょう。なんでも叔母がその琴唄のすんだあとで楽屋へ会いにいきましたらまだ裲襠を着たままできょうのおさらいは琴はどうでもよいのだけれどもいっぺんどうしてもこういう姿がしてみたかったのだといってなかなか裲襠をぬぎたがらないでこれから写真をうつすのだなどといっていたそうにござります。父はまたその話をききましてお遊さんの趣味がたまたま自分と一致していることを知ったのでござりました。そういうわけで父は自分の妻にすべき人はお遊さんをおいて外にはないとおもったのでござりまして自分が長いあいだ胸にえがきつつ待っていた人はお遊さんであったことをかんじたのでござりましてその望みをそれとなく叔母に洩らしてみたのでござりましたが叔母は先方の事情がよく分っていたものでござりますから父のこころもちに同情はしてくれましたけれどもとうていそんなことはだめだからというのでござりました。叔母の申しますのには子供でもなければなんとか話の持っていきようもあるけれどもお遊さんにはこれから養育していかなければならない頑是ない子供がある。それも大事な世忰であってみればその児をすてて粥川の家を出られそうなわけがない、のみならず姑さんもあれば、実家の方でも母親は亡くなっていましたが父親はまだ達者でいる、そういう老人たちがお遊さんをああいう風に気随にさせておくのは若後家という境遇をきのどくにおもってできるだけさびしさをわすれるようにさせようという慈しみから出ているので、その代りには一生操を立て通しておくれよという意味がこもっているのだしお遊さんもそれは承知であれだけ栄耀栄華をしても不品行なうわさはきいたこともないので、当人も二度と縁づくりょうけんはないにきまっているというのでござります。父はそれでもあきらめかねてそういうわけなら嫁にもらおうといわないから叔母が仲に立ってときどき会えるように計らってくれ、自分はせめて㒵を見るだけでもまんぞくするというのでござりました。叔母はちちがそんなにまで申しますのをそれもきかないとはいいかねたのでござりますがしかしお遊さんと親しくしておりましたのはお互に娘時分のことでもうそのころは疎遠になっておりましたのでござりますから、ちょっとそれもむずかしい註文なのでござりました。でまあおばもいろいろ考えまして、ではいっそお遊さんの妹をもらったらどうです、どうせ外の人をもらう気がないのだったら妹でがまんおしなさい、お遊さんはのぞみがないけれども妹でよかったら随分はなしになるだろうからと、そういい出したのでござります。その妹といいますのはお遊さんが芝居へつれてきておりました「おしず」という娘のことなのでござりましてそのうえの妹はもうよそへかたづいておりましてお静さんがちょうど年頃になっておりました。父は芝居のときに見ておりますから顔をおぼえていたわけでござりまして叔母にそういわれましたときによほどかんがえたらしいのでござります。と申しますのはおしずさんも美人でないことはない、お遊さんとは顔だちが違っていたのでござりますけれどもやはりきょうだいでござりますから何処かにお遊さんをしのばせるようなところはある、しかし何よりも不満なのはお遊さんの㒵にあるあの「蘭たけた感じ」がない、お遊さんよりずっと位が劣って見える、おしずさんだけを見ていればそうでもござりませぬけれどもお遊さんとならべましたらお姫さまと腰元ほどのちがいがある、それゆえもしおしずさんがお遊さんの妹でなかったら問題にならなんだかも知れませぬがお遊さんの妹であるゆえにお遊さんとおなじ血がその体の中にかよっておりますゆえに父はおしずさんも好きだったのでござります。が、さればといっておしずさんでがまんするというところまでは容易にけっしんがつかないのでござりました。それはそういうつもりで貰ったのでは第一おしずさんにすまなくもある、それにまた父はお遊さんに対してどこまでも純なあこがれを持ちつづけたい、一生お遊さんというものをひそかに心の妻としておきたいというような意地がござりまして妹にもせよ外の人を女房にしましては、その、自分の心持がおさまらないのでござります。けれどもまたかんがえてみますと妹を嫁にもらいましたらこれからたびたびお遊さんに会うこともでき言葉をかわすこともできるのでござりますがそうでなかったらこののち一生涯のあいだ偶然にめぐまれるよりほかにはめったに顔を見ることもできないわけでござりましてそれを思いますときゅうにたまらなく淋しくなるのでござりました。父はそんなふうに迷いぬきまして結局おしずさんと見合いをするまでに運んだのでござりましたが、正直のところまだその時分までほんとうにおしずさんを貰うという意志はなかったのでござりましてそれよりもじつは見合いにかこつけて一遍でも余計おゆうさんに会いたかったのでござります。父のこのおもわくは巧くあたりましてお遊さんは見合いとか打ち合わせとかのたびごとに出て参りました。小曾部の家には母親がおりませなんだし、そこへ持ってきてお遊さんがひまな体でござりましたからおしずさんは月のうち半分ぐらいは粥川の方へとまりに行っているというようなぐあいでどっちの家の娘だか分らないようにしておりましたので自然お遊さんの出る幕が多かったのでござりますがそれが父にはねがってもない仕合わせだったのでござります。父はもともと目的がそこにあったのでござりますからなるべく話を引っぱっておくようにしまして二度も三度も見合いをして半年ばかりぐずぐずにしておきましたのでそんなことからお遊さんも叔母のところへ足しげく来るようになりました。そのあいだには父とも話をするようなことがござりましてだんだん父というものがわかってまいったのでござります。するとある日のことお遊さんは父にむかって、あなたはお静がおきらいですかと尋ねるのでござりました。父がきらいではありませんといいましたらそれならどうぞ貰ってやって下さいましといってしきりに妹との縁組みをすすめるのでござりましたが叔母に向ってはもっとはっきりと自分はきょうだいじゅうであの児といちばん仲好くしているからどうかあの児を芹橋さんのような人と添わしてやりたい、ああいう人を弟に持ったら自分も嬉しいということを申したそうにござります。父の決心がきまりましたのはまったくこのお遊さんの言葉がありましたためでござりましてそれから間もなくおしずの輿入れがござりました。さようでござります、でござりますからおしずは私の母、お遊さんは伯母になるわけでござりますけれどもそれがそう簡単ではないのでござります。父はお遊さんの言葉をどういう意味に取りましたのか分りませぬがおしずは婚礼の晩にわたしは姉さんのこころを察してここへお嫁に来たのです、だからあなたに身をまかせては姉さんにすまない、わたしは一生涯うわべだけの妻で結構ですから姉さんを仕合わせにして上げて下さいとそういって泣くのでござりました。" }, { "role": "assistant", "content": " ちちはおしずのおもいがけない言葉をききましてゆめのようなここちがしたのでござります。と申しますのは自分こそお遊さんをひそかにしたっておりましたけれどもお遊さんにそのいちねんがとどいていようとは思ってもおりませなんだし、まして自分がお遊さんから慕われていようなどとは考えたこともなかったからでござります。それにしてもそなたはどうして姉さんのむねのうちを知っていなさる、そういうのには何かしょうこがあっての上でなければならぬが姉さんがそういうことを洩らしたことがあるとでもいうのかと泣いているのを問いつめましたら、そのようなことを口へ出していうはずもなし聞くはずもありませぬけれども私にはよくわかっておりますと申すのでござりました。おしずが、わたくしの母が、まだ世馴れないむすめの身としてそれをかんづいておりましたというのは不思議のようでござりますがのちに知れたところを申しますと初め小曾部の人たちはこのえんだんは年がちがいすぎるからと申してことわることにきめておりましてお遊さんも皆がそういう意見ならばといっていたのでござりましたが、それから或る日おしずがあそびに行きましたらわたしはこんなよい縁はないと思っているけれども自分がもらう婿でもないのにみんながああいっているものをぜひにという訳にもいかない、いやでさえなかったら静さんの口から行かしてほしいということをいい出してみたらどうかしらん、そうしたらわたしもあいだをとりなして巧くまとめてみせるけれどもとそういいますので自分にはさだまったかんがえもござりませなんだのでそれほど姉さんが気に入っているのだったら悪いはずはありますまい、わたしは姉さんがよいということならその通りにしますといいますとそういってくれるのはうれしいといって、十一、二の年ちがいなら世間には例のあることだし、それに何よりもあの人はわたしと話が合うような気がする、きょうだいたちがお嫁にいくとだんだん他人になってしまうのでしずさんだけは誰にも取られたくないのだけれどもあの人ならば取られたという気がしないできょうだいが一人ふえたようなこころもちになれるであろう、こういうと自分の都合であの人を押しつけるようだけれどもわたしによい人なら静さんにもよいにちがいないから姉に孝行をするとおもってここはいうことをきいておくれ、わたしのきらいな人のところへ行かれたのでは遊び相手がないようになってこれからさき淋しくてしようがないからというのでござりました。まえにも申しましたようにつねづねみんなからいとしがられて我が儘を我が儘とかんじないように育った人でござりますから仲よくしている妹にあまえただけのことだったのでござりましょうがそのときおしずはお遊さんのそぶりのなかに何かしらいつもの甘えかたとちがったものがあるのを看てとりました。身勝手なことや無理をいうほど余計様子が可愛くみえるのでござりましたが大方そのときはあどけない中にも一種の熱がこもっていたのでござりましょうか。お遊さんじしんはそんなつもりではなかったとしてもお静にそれがわかったのではござりますまいか。うちきな女というものは黙っていながら気がまわるものでござりますがお静がやはりそうだったのでござりましてきっとそのほかにも思いあたるふしぶしがあったのでござりましょう。そういえばお遊さんはちちと懇意になりましてからきゅうに顔のいろつやなどもいきいきとしてまいりお静を相手に父のうわさをしますのをこのうえもないたのしみにしている風があったと申します。父はおしずにそれはそなたの思いすごしというものだからと、とどろく胸のうちをさとられまいとして心外な態度をよそおいながらえんあって夫婦になったうえは不足なところもあろうけれども何もやくそくごとだと思ってくれぬか、そなたの姉様孝行はけっこうなことにちがいないが自分のひとりがてんから筋道の通らぬ義理をたててわたしにつれないしうちをしては姉さんの本意にもそむくことになろう、よもや姉さんはそんなことを望んでいなさるはずがないからそれをきいたらきっとめいわくしなさるだろうといいますとしかしあんさんがわたしをおもらいなされたのは私のあねときょうだいになりたかったからでござりましょう、姉はあんさんの妹さんからそんなはなしをきいておりましたので私もしょうちしておりました、あんさんはずいぶん今日までよいえんだんがありながらどれもお気にめさなんだとやらではござりませぬか、そんなにむずかしいお方がわたしのようなふつつかなものを貰ってくださいましたのはあの姉があるゆえでござりましょうといいますので父はこたえることばがなくさしうつむいてしまいましたら、そのいつわりのないお胸の中をひとこと姉につたえましたらどんなによろこぶかとおもいますけれどもそうしてしまってはかえってお互にえんりょが出るでござりましょうから今はなにも申しませぬがわたしにだけはどうかお隠しなされますな、それこそお恨みにぞんじますといいますので、なるほど、そなたにそれほどの思いやりがあって来てくれたのだとは知らなんだ、そのこころづくしは一生わすれますまいと父もなみだをながしながらそれにしてもわたしはあの人をきょうだいとばかりおもうようにしているのだし、そなたがなんとしてくれたところでそう思うよりどうもなりようはないのだからなまじ義理だてをしてくれるとあの人もわたしもそれだけ苦しまなければならない、そなたとしては面白くないこともあろうが、わたしというものがよくよく嫌いでないのだったらこれも姉さんへの孝行だとおもってそんな水くさいことをいわずに夫婦になってくれまいか、そしてあの人はわたしたち二人の姉さんとして敬っていくようにしようではないかといいますとなんのあんさんを嫌っているの面白くないのとそんな勿体ないことがござりましょう、わたしはむかしから姉さんしだいでござりますから姉さんに気に入っているあんさんなら私かて好きでござります、けれども姉さんの思っている人を夫にしてはすまない訳でござりますから本来ならば此処へまいるのではござりませなんだが、そうかといって私がまいりませなんだら世間のてまえかえって仲が堰かれるようになるとおもってわたしこそあんさんの妹にしてもらうつもりで嫁入りしましたといいますので、そんならそなたは姉さんのために一生を埋れ木にしてしまいなさるのか、妹にそんなことをさせてよろこぶような姉さんでもあるまいに折角きよいこころの人をけがすようなものではないかといいましたら、そういう風にお取りなされてはこまります、わたしも姉さんのきよい心を心としたいのでござります、姉さんが亡くなった兄さんに操をたてていくのなら私だって姉さんのために操をたててみせましょう、わたしばかりが一生を埋れ木にするのではござりませぬ、姉さんにしてもおなじことではござりませぬか、あんさんは御存じないかも知れませぬがあの姉さんは気だても器量もとりわけ人にかわいがられる生れつきで一家じゅうが大名の児を預かってでもいるようにみんな気をそろえてあの人ばかりをかばうようにしておりましたのにその姉さんがあんさんというものがありながらままならぬ掟にしばられていると分ってみれば私がそれを横取りしては罰があたるでござりましょう、姉さんにきこえたらさだめし飛んでもないことといわれましょうからあんさんだけがふくんでいてくださりませ、人に知ってもらえようともらえまいとわたしは自分の気のすむようにいたします、姉さんのようにしょうとく福運のそなわった人がどうにもならない世の中なら私などはもののかずでもござりませぬからせめてすこしでも姉さんをしあわせにして上げたいと最初からその覚悟をしてここへ貰われてまいりました、それゆえあんさんもその気になって人の見ているところでは夫婦のようにふるまっても内実は操をまもってくださりませ、そのしんぼうが勤まらぬようなら私のおもっている半分もねえさんをおもっていないのですとそういうものでござりますからこのおんながあの人のためにこうまで身を捨ててかかっているものを男の己が負けてなるものかと父もいちずに思いつめまして、いや、ありがとう、よくいってくれた、あの人が後家をとおすなら私もやもめをとおしたいのが実はほんしんだったのだ、ただそなたまでも尼も同様にさせてしまってはきのどくと思うばかりにさっきのようにいったのだけれどもその神のようなこころを聞いては礼をのべることばもない、そなたがそれほどの決心ならわたしとてなんのいぞんがあろう、無慈悲のようだが正直のところはその方がわたしも嬉しいのだ、あたりまえならそう願いますといえた義理ではないけれども何もいわずにせっかくの親切にすがらせてもらいましょうとお静の手をとっておしいただいてとうとうその晩はまんじりともせずに語りあかしたのでござりました。" 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[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして偕老同穴を誓っている。ビー子にはエイ子とシー子の事に就いて口を拭うて共白髪を誓う。シー子の前では又、お前こそ俺のいの一番のシー子さんだと言明する。いずれも注文に応じて即座に情死を承知する位の第一義を挑発しようと努めているのであります。\n 尤も中には「情夫があったら添わしてやろう」式に恐ろしく大きく世話に砕けたのもあります。しかしこれは相手の第一義式の性愛が望まれないために、思い切ってその第二義第三義以下の愛に対する期待までも捨ててしまって、性愛とは方面違いの人類愛的精神状態に入ったものと見るべきであります。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当などの意味も含まれていない事は無いと考えられます。些くともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。\n 要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。\n この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。\n 仮令その相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。\n 殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、或は又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」と威しても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。\n ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。\n「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。\n「身体は売っても心は売らぬ」という篦棒なのが出て来るのもこの意義からであります。\n ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。\n\n 記憶と鼻\n ――悪魔式鼻の表現(十二)\n\n 人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには措かぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。\n 然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが勝だという意見の方が昔から勝を占めているようであります。\n これは至極尤もな話であります。\n 少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の児なぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、\n「まだ世間知らずだなあ」\n なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化しつつあるのであります。\n これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。\n 善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の祟り、親罰、子罰、嬶罰のと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒かれておりますが、近頃の人間は頓と相手にしなくなりました。恰も往来の塵同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。\n しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面に証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。\n「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け惜みの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。\n 鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。\n\n 鼻と文化生活\n ――悪魔式鼻の表現(十三)\n\n 悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄抉り付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。\n\n鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。\n第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。\nたった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽ではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。" }, { "role": "assistant", "content": "\n ......と......。\n ......まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町の黒犬と竪町の白犬とが往来の真中で証明してくれるのであります。\n 横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然として態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる......何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅の巷を演出したりします。\n これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで......尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。\n ですから......これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束ない......とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。\n そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を和らげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅式になります。\n これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。\n 同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。\n これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人も欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従は、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。\n 鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。\n この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。\n「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」\n という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。\n「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾こんや嬉しいわ」\n という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。\n「お蔭様で助かります」\n という仏面と、\n「抵当が欲しけりゃ持って行け」\n という閻魔面とのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。\n 鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事から出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外廃れ切らないのは、偏にこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。\n 親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白を切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪だな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッキリ此奴と名判官が睨むのは、その無私公明、青空止水の如き心鏡に、被告人の鼻の表現がありありと映ったものに違いありませぬ。\n かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ不確なものとなります。指紋などの研究よりも何よりも、先ず鼻の表現の研究の方が刻下の急務ではあるまいかと考えられる位であります。\n かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。\n\n 輪廻転生\n ――運命と鼻の表現(一)\n\n その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで研き上げられた人格とが、鼻の表現の変化の根柢を作っている事は、今まで研究して参りましたところに依って最早充分に了解の事と信ぜられます。鼻の表現に現われた喜怒哀楽の基調が卑しいものであるか、高尚なものであるか、又は狡いものであるか、正直なものであるかという事は、その底に表現されている、その人間の性格を見れば一目瞭然するのであります。\n 勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は研磨まされた心鏡の光を現わしております。仁者の鼻は和かい静かな気持を示しております。聖者の鼻からは上品な清らかな霊感を受るのであります。\n さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと上わ反りになっているかの表現をしております。\n これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、直にその鼻の持ち主の運命となって来るのであります。即ち鼻はその持ち主の運命を支配していると云っても差し支えないのであります。\n これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、或は悲観し、或は楽観し、又はこれに対抗して行く意志や感情や信念は積り積って行く中に、更にその人の性格を作って行くものであります。即ちその人の性格は、その人の経歴の縮図で、その性格をすっかり見せている鼻の表現は、その人の将来の運命と共にその持主の経歴も象徴しているのであります。\n その人の性格の基礎となるべき個性の中には、先天的の分子、即ち遺伝に依って稟け継いだ性質が多分に含まれている事は学者の証明するところであります。その先天性の中には、動物性もあれば人間性もあります。動物性というのは吾々の祖先が猿か猫か何かであった時代に体験して来た性質で、子供の時に只わけも無く木に登って見たり、動物を生殺しにして玩弄にして見たり、又は無意味に暗黒を恐れたりするのは、この性質の発露だそうであります。\n 人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n三十九\n\n「自分は何時迄も兄に厄介を掛けてゐる譯には行かん。三十圓の金も到底長くこの生活を支へる事は出來ん。一日も早く衣食の道を見出さねばならぬ」と斯ういふ考へは此頃の春三郎の弛んだやうな頭の中にも絶えず往來してゐた。唯それにしても如何なる職業を見出すべきか、其を決するのは容易ではなかつた。松葉屋を訪問して文太郎の辛勞を見て歸つた時と、朝寢の目をこすつて靜かな障子の日影を眺めた時とは其考へが一致しなかつた。其結果此頃になつて漸く一條の活路を見出した。それは或事業に携はることであつた。下宿屋の如き勞働生活ではなく、春三郎に適當した事業であつた。\n\n四十\n\n それから春三郎は一心に其事業に沒頭した。其の店の番頭なるものに逢つて賣捌上の相談をした。この番頭は今迄春三郎の逢つた事のない種類の人であつた。皮膚は生白くつて光澤が無く、笑ふ時は猿のやうな聲を出して、並びのいゝ白い齒を見せるのが癖であつた。大概な場合は笑つて居て、「御尤で」とか「いかにも」とか他愛もなくいふのであるが、一旦利益上の問題になると顏の筋肉が俄に引締つて、奧底の知れぬやうな慳貪な眼附をして、「はい」と一言人を冷殺するやうな厭な返辭をした。\n それから今迄表を通つて亂雜な器械の音許り聞いてゐた或工場にも出入りした。其處には髭を生やした、色の燻つた、齒の汚い、それに何を聞いても明確な答を與へぬ、さうして追求しても外の用事をしてゐて圖々しく知らぬ風を裝ふ人であつた。\n 斯ういふ人々に出逢ふ度に春三郎は心細く思つた。下宿營業に携はつた時、自分は初めて世の中に飛び出したのだ、漸く世の中といふものが判つた、といふやうな心持がしたが、扨て更に別種の方面にぶつかつて見るとどうして〳〵世の中は判つたやうでまだなか〳〵判らなかつた。けれども心細い半面には未見の地に足を踏入れたやうな大膽な誇を覺えた。\n かゝる間に松葉屋では三度目の月末計算をやつた。今度は帳面上では三圓某の利益を見ることになつたが九番の客が下宿料を拂はずに四五日前出た切りで歸つて來ない――あとに殘つたのは新聞殼の一束と、單物が一枚にシャツが二枚這入つてゐる古びた行李許りであつた――ので其を差引くと矢張り十圓足らずの損失となつた。\n 春三郎の事業は種々の故障があつて中々容易く運ばなかつた。春三郎は朋友から借りた資金を食ひ込んだ。松葉屋の計算は相變らず損失が續いた。照ちやんの腹はだん〳〵せり出して來た。\n\n四十一\n\n 八月の盛暑の頃であつた。春三郎が暫く無沙汰をした擧句に松葉屋を訪ねると、文太郎は晝寢をしてゐた。それからお金は斯んな話をした。\n「どういふ譯ですかね此頃は三番と四番と五番とに南京蟲が出るやうになりましてね。えゝさうです、初めは四番にゐたお客樣が多分持つてらしつたんでせうけれど半月も經たぬうちに三番にも五番にも擴がつてしまつたんです。此鹽梅だと瞬く間に家中に擴がつてしまふかも知れぬといつて兄さんが大變心配なすつていろ〳〵藥を買つて來て撒いて見なすつたけれども全く駄目なんです。そこで貴方三番のお客も五番のお客も此間夏休みで國へ歸ると言つて出てしまはれたんですが、大方南京蟲の爲めに轉居しなすつたんでせうよ。そんな風になつて段々お客が減つては大變だから、この夏休みの部屋の空いてゐる間に撲滅してしまひ度いといふので、到頭貴方、兄さんが裸になつて夜中起きてらしつて、ちくッと南京蟲が兄さんの體を食つた處を捕まへる事になすつてね、もう彼此十日餘しも毎晩のやうに起きてらつしやるのです。初めのうちはどうしても旨く捕まへる事が出來なかつたさうですが段々上手になつて、昨晩なんか十五匹も捕まへたと言つて今朝も威張つてらつしやいました。さうですとも、私もそんな事をして體を毀しては大變だからと言つて止めるのですけれど例の一途でね、なか〳〵私のいふ事なんかお聞きにならないんですよ。春さんからもよく話して見て下さいな」お金は心配さうに斯う言つた。\n さらぬだに此頃の松葉屋の空氣はだん〳〵冷たく室内の光はだん〳〵暗くなるやうな心持がして、例の時計も柱鏡もコローム版の繪も文太郎が之を買つた當時の得意氣な色はもう止めぬやうになつた。お金の顏や姿からも以前のつゝましやかな内儀らしい氣色は漸次消え失せて、粗野な、荒々しい容子が目につくやうになつて來た。毎月末の計算は大方損失で、彼の芝の親戚で借りた三十圓も春三郎が朋友から借りた事業の資金のうちで融通するまで支拂ふ事が出來なかつた。文太郎は相變らず骨身を惜しまずに働きはした。けれども未來の希望がだん〳〵薄くなつて來て、殆ど絶望的に、唯手足を器械的に働かして居るに過ぎぬ事が多かつた。此文太郎の淋しい心持は春三郎は十分知つてゐた。けれども春三郎の力ではどうすることも出來なかつた。今の所春三郎は唯一途に事業の方を成功させるより外道が無かつた。この事業さへ成功すれば文太郎の窮境を救ふ方法はいくらでもある事と考へた。斯して春三郎は唯專念に奔走してゐたのであつた。今春三郎はお金の話によつて、覺えず文太郎の夜中目を怒らして、南京蟲と奮鬪しつゝある絶望的の顏を世界終末の圖の如くに目の前に描き出した。\n\n四十二\n\n 一寸考へると隨分馬鹿氣た話であつた。南京蟲を撲滅するに適當な藥が無いと言つた處で何も裸になつて夜中起きてゐる必要は無かつた。けれども春三郎はそれを馬鹿氣てゐるとは考へなかつた。世の中の總ての事に敗北して來た文太郎が、今度こそと志した下宿營業も亦遂に同樣の運命と略相場の極まり挂けた今日如何にしてこの悶を遣るべきか。文太郎は例によつて奮鬪を續ける外に方法を見出すことが出來なかつた。實にこの南京蟲狩も亦其奮鬪の一つであるに相違ないと春三郎は考へた。文太郎は正直に一途に骨身を殺いで働いて居るに何者の狡兒か寄つてたかつて彼を不運の淵に陷いれようとする。目に其形は認めぬけれども周圍は皆讎敵のやうな心持がしてゐる矢先にこの南京蟲が現はれた。文太郎は責めてこの蟲に向つて勝利を希つた。生藥屋で二三品の藥を買つたがどれも此も無效であつた。此上思慮ある謀を𢌞らすことは文太郎に取つて寧ろ苦痛であつた。若かず裸になつて自分の體を蟲に食はせて生體を見屆けた處で捕獲するには、これ程確實で痛快な方法は無いと思つた。そこで連夜彼は奮鬪を續けた。この奮鬪は苦痛といふよりは寧ろ一種の慰藉であつた。一夜に十五匹をも捕まへた時の心持は彼が未だ何物にも經驗する事の出來なかつた勝利の味を初めて味ひ得たのであつた。「今朝も威張つてらつしやいました」といふお金の言葉は正しくこの淋しい誇を示して居ると言つてよかつた。春三郎は斯る意味に於てこの南京蟲捕獲の奮鬪の光景を世界終末の圖の如く物凄く想像したのであつた。太陽の光が赤く燒けたやうな色に減退した下に人間が最後の奮鬪を爲しつゝある圖、カンテラの薄赤い光の中に骨立つた裸の男が光澤の無い皮膚に汗を流しつゝ一昆蟲と奮鬪を爲しつゝある處の圖、兩者の間にたいした差違は無いと思つた。\n 其うち文太郎は眼を覺まして出て來た。頭は暫く刈らぬと見えて蓬髪が長く延びてゐるので顏が小さく病人らしく見えた。それに目の中に赤く血走つて毛穴の汚れた青白い皮膚には脂が冷たさうに光つてゐた。粘つた口に二三服煙草を喫んで、\n「時にお前の事業はどうなつた。何か故障でも起つたのではないかい。昨夜も南京蟲狩りを遣り乍らひよつと氣になつたので今日は聞きに行かうかと思つてゐたのだ」と心配さうに言つた。斯く々々の手順になつてゐるのだといふ事を話すと、\n「さうかそりや結構だ。お前の事だから旨く遣る事とは思つてゐるが時々氣になつての」斯く言つて全く安心したやうに心地よく笑つた。\n\n四十三\n\n 春三郎は嘗て松葉屋の營業に猪突した如く又此新事業に猛進するより外もう取る可き道は無いのであつた。\n 斯して愈〻九月一日を以て緒についた。\n 事業は案外の好成績であつた。\n 十月の末に照ちやんは分娩した。お霜婆さんは暫くの間手傳に來た。照ちやんが産褥に就いてから春三郎は又下宿屋當時のやうな種々の不便を經驗することになつた。殊にお霜婆さんが二日許りして歸つた後は已むを得ず襁褓の洗濯をもした。赤ン坊の糞が飴のやうに粘著してゐる上に自暴に石鹸を塗りつけてごし〳〵と洗つたりもした。\n\n四十四" }, { "role": "assistant", "content": "\n 松葉屋の暗い冷たいやうな感じとは反對に春三郎の家は狹い乍らも明るく暖く、照ちやんの顏にも春三郎の顏にも生き〳〵した色が見えてゐた。\n「まあ春さんが働きがあるから斯ういふ事になつて來たのだ。お前は仕合せだよ」とお霜婆さんは照ちやんに言つた。お霜婆さんは斯く照ちやんの身の上を喜べば喜ぶ程常藏の今の境遇を悲しむ情も亦自ら禁ずる事が出來なかつた。尤も常藏に就ては辯護、差入れ其他萬事上役に任してあるので唯時々の手紙を見て僅に安否を知る位に止まつてゐた。斯してお霜婆さんは宮詣が濟むまで赤ン坊の世話を見てそれから上役の宅へ歸つた。\n「此機會に斷つてしまつたらいゝでせう」と春三郎は言つた。\n「そりや私だつて孫の世話をする方が幾ら樂しみか知れないけれど、それでは義理が濟まんから」と言つてお霜婆さんは聞かなかつた。けれども其後照ちやんが少し腹をいためたとか、今日は忙しいとか言つて何かにつけてお霜婆さんを呼び附けた。お霜婆さんも其都度又喜んで來た。\n 松葉屋の方は盛春館の女將の言つた通り半年越ぎた後は漸く損失が少くなつて帳面づらだけでは四五圓の利益を見る月すらあつた。文太郎は非常に喜んで、\n「流石に盛春館の女將さんは旨いもんだ。ちやんと言ひ當てたから豪い」と言つて嬉しさの餘り頻りに盛春館の女將に感服してゐた。春三郎もそれを聞いて嬉しく思つたが、此頃だん〳〵文太郎の皮膚の色が惡くなつて、少し瘠も見え、どことなく元氣も銷沈してゐるのを氣にして、時々牛肉位は食ふやうにしたらよからうと注意した。\n「そんな事をしたらお前、折角の利益がすぐ又無くなつてしまふぢやないか。ハヽヽヽ」と淋しく笑つたが、「けれども子供にだけは月に一二度位は食はせて遣ることにせうかねえ」と思ひ入つたやうに言つた。さうして其後逢つた時、\n「此間お前があんなに言つたので、二三日前ひよつと思ひついて馬肉を食つて見た。少し臭いが併しなか〳〵食へるよ。子供なんかも喜んで食つた」と言つた。けれども亦其次ぎ出逢つた時は、相變らず色の惡い皮膚をして元氣が優れぬやうであつたが、\n「馬肉も一度や二度はいゝが度々は矢張り駄目だね」と笑つた。もう馬肉は懲りて止めたものと見えた。それかと言つて牛肉を食ふ容子などは更に見えなかつた。\n 事業の方は漸く盛大に赴くやうであつた。\n 赤ン坊は滯りなく肥立つた。唯乳が不足するので牛乳で育てねばならなかつた。牛乳を蒸す器械を買ふ時に照ちやんは餘り高いからよさうと言つた。春三郎はいくら高くつても生の牛乳を子供に飮ますことは出來ぬと言つて其を買つた。照ちやんは蒲團でくるんだ赤ン坊を更にねんねこで負つて表の井戸の水も酌むし板間の雜巾がけもした。\n 赤ン坊の秀子はだん〳〵に成人してふら〳〵と歩くやうになり、お霜婆さんも遂に同居するやうになり、晩飯の食卓を照らす灯火は明るく、秀子を中心に一家が笑ひ崩れる事も珍しくなくなる程事業はだん〳〵歩を進めて、折節の北清事變が多少經濟界に影響を及ぼしたに拘らずかなりの成績をあげた。\n 斯る同じ状態を持續して其翌年も半ば以上を過した八月の末頃であつた。暫く無沙汰をしてゐた文太郎から葉書が來た。見ると稍震へた字で斯うあつた。\n\n『小生十餘日以前より發熱、八九度の間を上下して今に解熱せず、少し御相談致し度、御閑暇ならば御光來を待つ』\n\n\n四十五\n\n 春三郎は取敢へず行つて見た。此日は殊に蒸し暑い日であつたが例の八疊の室に文太郎は薄い蒲團を延べて肌脱ぎになつた儘暑苦しさうに寢てゐた。筋肉に弛みが見えて青白い皮膚に光澤が無かつた。「春、失策つた」と春三郎の顏を見ると行きなり文太郎は大きな聲で言つた。體の上部は肌脱ぎになつてゐるに拘らず、腹部には厚ぼつたいものを卷き附けて、更に又幅の廣いフランネルの切を後から股をくゞらせて臍の邊まで當てがつて其端を片方の手で握つてゐた。\n「下痢でもするのですか」と春三郎は其大きな聲に一驚を喫して聞いた。\n「此間何も敷かずに晝寢をして腹を冷やしたのが因らしい」といかにも殘念さうに言つて文太郎は彼の股をくゞらせて居たフランネルを力を入れてぐつと引締めた。二本の脚も露出したまゝ投げ出してゐた。\n「それで醫者は何といふのですか」\n「醫者はマラリヤだといふのだがね、これを見て呉れなか〳〵熱が下らない」と言つて文太郎は枕頭に自分で亂雜に書き留めた體温表を示した。熱は頑固さうに三十八度一二分から九度四五分の間を毎日のやうに上下してゐた。こんな激しい熱でゐて自分で體温表を認めてゐるのを春三郎は哀れに思つた。\n「腹を冷やしたのが因でマラリヤといふのは變ですね。下痢は激しいですか」\n「下痢は餘りしない。唯時々腹が痛くつて困る。それに食慾が無くつての」と顏を顰めた。それから俄に噴き出すやうに笑つて、一昨日餘り何も食へぬから鮨が食ひ度いと思つて醫者に内々で食つたところがさあしまつたね。直ぐ身顫が附いて吐き出してしまつた」其笑つた顏は衰へてゐるに拘らず目の縁など熱の爲めに赤く色づいてゐた。\n 春三郎は母の命を取られたチブスを病氣の中で最も恐るべきものとして嫌つてゐた。さうして少し熱の頑固な病人を見ると直ぐチブスではあるまいかと想像して怖氣立つのが常であつた。嘗て照ちやんの病氣もさうではあるまいかと一時は心配したがそれは幸にさうではなかつた。今文太郎の此熱もどうやら疑へば疑はるゝ點の多いのに少からず心を痛めた。さうして兎も角も今一人確かな醫者に見せてはどうかと勸めた。文太郎は、\n「其ももの入りだからね」と淋しい眼で一寸春三郎の顏を見た。春三郎は、\n「馬鹿な、命に代へられますか」と言つて早速車を命じて或國手を訪問した。車の上でも春三郎の心は騒ぎ立つて容易に靜まらなかつた。國手は幸に在宅であつて日暮には往診して遣るとの事であつた。\n 國手を待ち兼ねて春三郎は文太郎の傍に坐つた儘恐ろしい想像を𢌞らしては打消してゐた。其時文太郎は斯んな話をした。\n\n四十六\n\n「實はお前にもゆつくり相談せうと思つてゐたのだが、一時漸く利益を見るやうになつたのも僅かの間であつて、近頃の景氣では迚も此商賣で食つて行くだけの事は難かしい。いつかお前ところに掛けた厄介もまだ其儘になつてゐるし、其他二三軒も同樣の始末だし、僅かばかりあつた嫂さんのものも皆質屋に入れてしまつたし、先々月あたりから月末の諸拂も滯り勝ちの有樣で、もう愈〻といふ處迄行き詰めてしまつた、矢張り此商賣も駄目であつたね」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「やッ、手めえは左源太か!」\n 同時に刀へ手をかけたが、二人とも抜こうとはしなかった。さっと飛びさがったものである。\n「今夜はせわしい。オイ早引、また逢おうぜ。一昨日逢おう」\n「今夜はせわしい。オイ左源太、また逢おうぜ。一昨日逢おう」\n サーッとそのまま馳せちがった。\n 忠三は鸚鵡を追っかける。\n「花公花公、早い早い、ゆっくり翔けな。たのむたのむ! そりゃアそうとえらいことになった! 袴様が紛失したんだとよ。城之介のしわざだ。わかっている。それというのも駄弁のたたりだ。おれのよ、おれのよ、おれの駄弁のよ! さぞあねごおこっているだろうなあ。ヤイ忠々、うしゃアがったな! それこそポカリとやられるかもしれねえ」\n 飛鳥の後を追っかける。\n 長崎左源太も走って行く。するとまたもや行く手から、二、三十人の人影が走ってきた。手に手に得物を持っている。忠三のあとを追っかけて行く。\n「ははあ南蛮屋の一味だな? だがいったいどこへ行くんだろう?」\n グルリ迂廻してやり過ごした。眼についたは百姓屋、馬小屋に馬がつないである。\n「無断借用、かまうものか」\n 飛び込むとマセ棒を引っ放し、ド――、ド――、ド――と引き出そうとした。後じさりをしていななこうとする。チョッ、チョッ、チョッ、と口を鳴らし、驚かさないように引き出したのは、さすがにさむらい、慣れたものである。スラリと乗ると裸馬、鞍もなければあぶみもない。しかしちっとも困らない。手綱の代わりにたてがみをつかみ、腰を浮かせると前のめり、キュッと両足で胴をしめた。駄馬ではあったが乗り手がたっしゃ、パッ、パッ、パッと走りだした。隅田へ出て一直線、堤上をのっ立てのっ立てる!\n\n ところでこの頃巴御殿では、天草時行同志をはべらせ、一本の巻軸を前に拡げ、陰湿たる奥の小座敷で、ヒソヒソ謀議にふけっていた。\n 巻軸のおもてに描かれているのは、宏大な城郭の縄張り図面、ただし半分しか描いてない。\n「これはな」と天草さえない調子で、ポツリポツリと話し出した。「ある大城の絵図面さ、ご覧のとおり半分しかない。それ大手前の半分だ。肝腎の要害は描いてない。もっとも三の丸は描いてある。ところで。......」というと天草時行、例の窪んだ小粒の眼へ、例のあたかも硫黄のような、蒼光る焔をたき出したが、さらに一段声を落とすと、膝まで進めていい出した。「ここをご覧、この一点を! 三の丸と二の丸の境い目を! 井桁があろう? 半分の井桁が! こいつが大変なしるしなのだ」\n\n家康のお墨付き\n\n「こいつが大変な符号なのだ」こういってグッと睨むようにしたが、ヒョイと話を横へそらせた。「いや、その前に聞きたいことがある。この素晴しい大城だが、どこの城だか見当がつくかな?」ジロリと見廻したものである。\n「さあ?」といったように十数人の武士ども、互いに顔を見合わせたが、どうやら見当がつかないらしい。誰一人口をきこうとしない。\n「わからないかな? そうだろうて」時行むしろ満足そうに、「わからない方が当然だ。わからないものならきもを冷やすだろう。ところがおれにはわかっている。いやいや、それとても見当だけさ。たしかなところはわかっていない、それでもう一本の巻軸を是非手に入れたいと思っているのさ。二つを合わせると完全に、どこの城だかわかるんだからなあ。が、ともかくも見当だけは、おれについているのだよ。ところでもしもおれの見当が、見当外れにならなかったら、日本の歴史はひっくり返ってしまう。そうさ少なくも徳川幕府が、キリシタン宗徒を迫害した、あの恐ろしい歴史だけはな」\n ここでニヤニヤ笑い出したが、例のみつ口がほころびたため、かえって物すごく怒ったように見えた。\n「というのはほかでもない」さえない調子で話し出した。「家康以来代々の将軍、すなわち秀忠も家光も、いずれも熱心なキリシタン信者! ということになるんだからなあ。こいつは実に考えただけでも、きものつぶれる話ではないか。実際代々の徳川幕府が、信者に加えた圧迫ときたら、その残忍と酷薄さにおいて、世界に名高い宗教戦のうちでも、特筆大書していいほどの、すばらしく大げさなもんだからなあ。しかるに親玉の将軍家が、その宗教の信者だとあっては、全くもってどういっていいやら、挨拶にさえ困るじゃアないか。ところがおれの考えによれば、事実代々の徳川将軍は、たしかにキリシタンの信者らしいのさ。いやいやこれはおればかりではない。原の城にこもった一揆の中の、幹部と称される連中は、ことごとくそんなように思っていたらしい。そうしてそう思っていたればこそ、あんな騒動も起こしたってものさ。幕府攻囲軍の大将として、松平信綱をよこしたのは、決して将軍家の本意ではない。あれは二義的の策略なのさ。神主や坊主がキリシタンのために、ドシドシ縄張りを犯される、そこで大いに閉口して、幕府に向かって上訴した。キリシタンをやッつけてくださいとな! 坊主や神主の勢力は、日本としてはおろそかには出来ない。もしこいつらを怒らせると、反噬される恐れがある。反噬されると世が乱れる。政治の執り方が悪いといわれる。天朝に対しても申し訳ない。それより何より浮世には、豊臣恩顧の大名や、関ヶ原以来の浪人者や、取りつぶされた大名の家来や、そういう者がウジャウジャいる。そいつらが坊主や神主と結ぶと、ちょっと事が面倒になる。で坊主や神主の、機嫌を取らなければならないだろう。キリシタン宗徒は今のところ、坊主や神主の信者より数においてずっと少ない、そこで気の毒だが小の虫を殺し、いや殺すのではない一時おさえ、大の虫のあばれるのを防ぐことにしよう。こういうところから信綱をよこし、原の城を攻めてはいるのだが、そのうち引きあげるに相違ない。そうして事をうやむやに葬り、キリシタン宗徒を放任し、教義布衍を許すだろう。その証拠には家康公から、たいへんなお墨付きがきているじゃアないか! 二本の巻軸! 二本の巻軸――というのが原の城に籠っていた、信徒一味の考えだったのさ。実際......」というと天草時行、改めてひろげられた巻軸へ、例の気味の悪い小粒の眼を、焼きつけるように注いだが、「二本の巻軸は徳川家康からキリシタン教徒に手渡した、ある意味におけるお墨付きなのだよ。ひとつこれについて話してやろう」\n\nザビエルの財産\n\n キリシタン宗徒の連中へ、徳川家康がお墨付きを渡した! これはまことに意外なことで、充分驚いてもよさそうである。その秘密を知っていて、天草時行が話そうという。興味を起こさざるを得ないではないか。座にい並んだ十数人の武士ども、そこでちょっとばかり居住まいを直し、固唾を呑むような格好をした。\n と、天草こんなことをいった。\n「これこれ神浦、聞きたいことがある。日本へキリシタンが渡ったのは、いったいいつ頃と思うかな?」\n「は」というと三十格好、ほおひげの濃いさむらいが、「天文十八年かと存じます」\n「まず及第、その辺であろう。......これこれ隅庄、お前へ聞こう。名ある日本の武将の中で、どんな連中がキリシタン宗に、一番早く帰依したかな」\n「は」というと三十二、三、薄あばたのあるさむらいが、「大友義鎮、大村忠純、有馬晴信というような西国方の大名が、帰依したように存じますが」\n「まず及第、その辺であろう。......平戸平戸お前へ聞こう。もっと有名な中央の武将が、キリシタン宗へ帰依したが、その武将の名を知っているかな?」\n「は」というと四十年輩、片耳欠けたさむらいが、「織田信長かと存じます」\n「まず及第、その辺であろう。......唐津唐津お前へ聞こう。どうして日本の武将連が、キリシタン宗へ帰依したかな?」\n「は」というと四十二、三、胸毛の多いさむらいが、「天帝如来を信仰し、現世においては安心を得、死して天国へうまれよう......」\n「ははあ、それで帰依したというのか?」\n「私、さように存じますが」\n「零点だ、落第だよ」天草苦笑したものである。「なんの戦国の戦争請け負い人が、そんな悠長な考えで、異国の神なんか拝むものか。きゃつら金儲けをしたかったからさ。そうだよ神様をダシに使ってな。というのは天帝如来、そいつを拝むようなまねをして、毛唐の連中のご機嫌をとり、うまく通商貿易をし、ボロい儲けをしようとしたのさ。実際きゃつらは悧口だったよ。神様をさえ食ったんだからなあ。たしかにウントコサもうけた筈だ。それをなんぞや、いい年をして、安心を得るの天へうまれるのと、今頃つまらないことをいう。ヤクザだなあ、え、唐津。とてもそれじゃア出世はしない。考え方が間違っている。以後注意、よろしいかな。歴史であれ宗教であれ、万事万端浮世のことは、一度経済の眼を通して、研究しなければ間違いが起こる。儲かるか損するかが標準さ。儲からないもの、みんな悪い! 戦国時代の請け負い人どもが、儲からないことをするものか。さてところで信長だが、こいつはとても感心な奴で、悪党振りが大きかった。そこで考えたというものさ。きゃつらの財産をふんだくってやれとな。......伊万里伊万里、お前へ聞こう。最初に日本へ来たキリシタンの司僧、なんという名か知っているかな?」\n「は」というと二十八、九、眼に星のあるさむらいが、「スペイン人ザビエルで」\n「かれの持って来た財産のたかは?」\n「は」といったがわからなかった。" }, { "role": "assistant", "content": "「わからないかな、そうかもしれない。絶対秘密になっているんだからなあ。が、伝説による時は、ザビエルの持って来たその財産、日本の国なら二つも買える! そんなにも莫大なものだったそうだ。そいつへ眼をつけたというのさ。感心な悪党の信長がな。......多比良多比良!」と声をかけた。\n\n千代田城図面\n\n 多比良と呼ばれた五十歳ぐらいの武士、\n「は!」といったものの尻込みをした。答えそこなって、以後注意、落第だよ。出世しまい! などといわれるのがこわかったからだ。\n 天草時行一向平気、そんな様子には気がつかないらしい。\n「大ばくち打ちの信長が、南蛮寺を建てたのはいつだったかな?」\n「さようで」といったが知らなかった。「失念致しましてございます」\n「よろしい、満点、その方がいい。無駄な年号なんか覚えているより、そろばんはじきを習う方がいい。満点ついでにもう一つ聞こう。なぜ南蛮寺を建立したかな?」\n「は、やっぱり紅毛人の、ご機嫌を取るためでございましょう」\n「百二十点! 感心感心。お前むやみといい点を取るなあ。ではもう一つ質問しよう。機嫌を取ってさてそれから?」\n「は」といったがまたわからなかった。そこでもう一度ほめられようと、「失念致しましてございます」\n「今度はいけない、零点だよ。失念ということがあるものか。お前ははなから知らなかったのだろう。そうそういつも柳の下に鰌というものはいるものではない。メッキははげる。以後注意! よろしいそれでは教えてやろう。南蛮寺を建てた原因はな、例の途方もない財産を、一所に集めるためだったのさ。集まったところでふんだくってやれ、つまりこういう腹だったのさ。ところがザビエルもただ者ではない。天父よ! などと変なことをいって、平気で南蛮寺を建てさせたが、お宝の方は出し惜しみをして、献上しなかったというものさ。そこで怒ったのが信長だ、おれが建てたんだからおれがこわす、ひどく合理的に考えて、南蛮寺を破毀し信徒をいじめ、日本における第一期の、宗教迫害をオッぱじめたのさ。つづいて出たのが秀吉さ。この男は一種の気違いでね、いってみれば誇大妄想狂だ。その秀吉が最初のうちは、やはり信長のまねをして、キリシタン宗徒を大事にしたが、これまた金がほしかったからさ。ところがどうしても献金をしない。そこで怒って第二期の迫害! つづいて出たのが家康だ。この家康だけは真人間だったが、少し粘液質の鈍感者で、はなやかな事は出来なかったらしい。ところが奇妙にも宗教心があって、天海だの崇伝だのというような、坊さんをそばへ集めたものだ。そうして真実キリシタンをも、信仰したということだ。そこへ眼をつけたのがキリシタン宗徒で、はじめて例の大財産を、引き渡してやったということだが、しかし献金したのではなく、保管を託したんだということだ。もっとも金なんかあずかるとおおかた流用するもので、その途方もない財産も、半分くらいは使われたかもしれない。それはとにかくその時にだな、キリシタン宗徒と家康とが、一つの約束をしたそうだ。徳川幕府の続くかぎり、将軍家はキリシタンの信者となろう。その証拠として徳川家にとり、何より大切の千代田城の縄張り、そいつを宗徒へ渡して置こう。......さて」というと天草時行、ここで微妙な微笑をしたが、「もう大概わかったろう。すなわち二本の巻軸が、千代田城の縄張り図面なのさ。ただし」というと苦笑した。「今の話は伝説だよ。真偽は保証の限りではない。いや」というとどうしたものか、天草にわかに真面目になった。\n\nわかった! 住居!\n\n 真面目になった天草時行、急に暗示的にこんなことをいった。\n「もう一本の巻軸を、この巻軸へつなぎ合わせ、それが事実千代田城の、縄張り図面となったなら、伝説が伝説でなくなるのさ。そうだよ、伝説が事実になるのさ。すなわち素晴らしい財産が、千代田城中の一ヵ所に――ここだよここだよ、井桁の地点だ! ここに隠されてあろうってものさ。理由は......」といったが口をつぐんでしまった。\n カッ、カッ、カッと馬のひづめが、門のあたりで聞こえたからである。\n「おかしいなあ」と天草時行、「こんな時分に馬に乗って、誰が訪ねて来たのだろう?」\n くぐり戸の開く音がした。つづいて玄関をあがる音、間のふすまがやがて開き、現われたのは長崎左源太、すわるといきをはずませた。\n「なんだ、お前か、変哲もない。あわただしいなあ、どうしたんだ」\n「天草殿、大きな獲物」左源大のっけからいい出した。「島原城之介のおり場所を、だいたい突きとめてございます」\n「ああそうだろう、だいたいだろう」時行期待もしないらしい。「そのだいたいが、あぶないものさ『この天が下、人あるところ、みなそれがしの住居でござる』などと途方もなく大たばをきめこむ、あの島原城之介の住居だ。なかなか目つかるものではないよ」\n「いえ」と左源太膝をすすめた。「今回にかぎって、おおかたたしか......」\n「そうだろうて、おおかただろう。が、ともかくもいってごらん」\n「は、今日私こと、所用ありまして小梅の方へ......」\n「まあさ」と天草とめてしまった。「おやめよおやめよ、道行はな! 一句でよろしい、どの辺だな? 感覚でわかる。俺の胸に、ピーンと響くか響かぬか、それが標準。いってごらん」\n そこで左源太いったものである。\n「南葛飾、寺島村、蓮華寺のうしろ、渋沢の藪地!」\n「待て!」とにわかに天草時行、鬼気のある声音で一喝した。「ううむ、そうか。渋沢の藪地か! ははあなるほど、渋沢だな?」突然マリのように飛びあがった。「これ、馬は幾頭ある?」\n「十五頭!」といったのは隅庄という武士。\n「至急繰り出せる人かずは?」\n「は、大略、三十人!」こういったのは平戸という武士。\n「よし、繰り出せ、三十人! そのうち十五人は騎馬で行け! このおれも行く、真っ先に! ......地雷弾を持て! 火縄を長く! ......左源太、功名をしたなア! 間違いはない。そこが住居だ! 渋沢の藪地のまん中に、一座そびえている傾城塚! 時々女の泣き声が、聞こえて来るという世間の噂! な、わかったか。城之介めが、良家の娘をたぶらかし、こめて置くのだ、その塚へ! 傾城塚こそきゃつの住居! それ繰り出せ! 勝ったぞ勝負!」\n パッと玄関へ走り出した。\n と間もなく巴御殿の、大門の戸がいっぱいに開き、サーッと駈け出した馬上の武士、すなわち天草時行で、つづいて一騎、長崎左源太! さらに一騎、さらに一騎、さらに一騎! 間隔を置いて十五人、月明りの町を走らせた。\n しかるにこの時、巴御殿の塀に、ピッタリ身体をくッつけてじっと様子をうかがっていた、一個の覆面の武士があったが、ツト離れるとどことも知れず、立ち去ったのは何者であろう?\n それはとにかく、この頃のこと、渋沢の藪地を前にして、向かい合っている男女があった。\n「あねご、おわびだ。おれが悪い!」\n\n忠三の推理\n\n 渋沢藪地を背景にして、地面へべったり膝を揃えあやまっているのは早引の忠三。その前にこれもベッタリとすわり、怒っているのはイスラエルのお町、自然としゃべるのは忠三だけで、お町はムッツリとだまっている。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " として、名目はあっても、関わらざるを潔しとしているような風であった。\n その点では、秀吉は実に器であった。\n 生れながらの彼の能は、何よりも経綸にあったのである。今なお世人は彼を目するに武将として観ていなかった。\n 本来、戦は彼の本技ではない。しかし戦は経綸の車軸であることを知っている。いかなる大理想をかざそうと、戦にやぶれては、その大経大綸も一尺として進み出さないことをよく知るところから、彼は、戦に絶対を賭し、ひとたび戦陣を展けば、権化となって、戦いを戦い切るのであった。\n 京都は盆地の小山水に過ぎない地だが、政治的には、全日本を俯瞰するに足る所だし、思想的には、草莽の心の根という根は悉くここにつながっており、ここを根としていない家々なく華々なしである。\n なおまだ、一介の奉公人にすぎなかったが、秀吉は、京都政治所でする日々の時務が実に楽しかった。忙しければ忙しいほど楽しまれた。その頃、彼が左右の者に、\n(この筑前にも、時来って、ようやくほんとうのお勤めが与えられて来たようであるぞ。お汝らも心せよや)\n と、本懐のほどを洩らし、同時に側臣たちへも精勤をうながしたとのことであるが、春潮盈ちて船出を想うような彼の心事は、まさに、成るも成らぬも、われ世に会せりとして、時代に結ばれたる身のいのちを、今さらのごとく驚歎の眼で省みていたにちがいない。\n 従って彼の部下も京都にあっては著しく人品を磨いていた。いやしくも恥あるを行わなかった。時務は私心なくきびきび決裁した。箇々が小秀吉のごとく明朗だった。わけて皇城の守護には、誇りをもって任に当った。\n 朝廷は、彼の武勲を賞して、右近衛中将たるべしと御沙汰あらせられた。彼は寸功を顧みて拝辞した。が、かさねて優渥なお沙汰を賜うて、従五位下、左近衛少将に叙任せられた。\n よいことをする人間と見ると何か悪いけちをつけたがる。正しく働く者にたいし、卑屈な働かぬ者が何のかのとあげつらう。\n いつの世にもあることだ。大きく世の変動しているときは特に清濁の飛沫もはげしい。\n「秀吉は早や専横を現わしおる。部下どもまでが、権をとって」\n「柴田どのをさし措き、他の奉公人など、有るか無しじゃ」\n「きょうこの頃の羽振を見れば、まるで、信長の相続者は、筑前にて候といわぬばかりな......」\n 翕然として、非難は彼を中心に喧ましい。――が、誰がという、火元の弾劾者の知れないのも、こういう場合の常である。\n 聞えても、聞えなくても、秀吉には頓着がない。そういう陰性の声は彼の多忙な心はおろか茶間の耳を傾けさすにも足りなかった。\n 何しても忙しいのである。\n 六月、信長逝き、中旬、山崎に戦い、七月、清洲に会し、下旬、長浜を撤去し、家族を姫路に移し、八月、宝寺城の工を起し――この間、京都政治所と山崎とのあいだを隔日に往来しつつ、朝に禁闕に伏し、昼に市井を巡察し、夕べに庶政を見、答使を発し、賓客を迎え、夜半の燈下に遠国の文書を閲し、払暁、部下の訴えに裁決を与えて、飯を噛み噛み一鞭またどこかへ出かけてゆくというような毎日だった。\n 行く先も頻りと多い。\n 公卿の第宅、会合、視察、そして近来は、紫野へと度々出向く。\n そこでも尨大な工事をやらせていた。寺である。大徳寺の地域のうちに、新たにもう一寺を興しているのだった。\n「十月の七日までぞ。八日には掃除片づけを終り、九日には式事一切の調えをすませ、十日の朝方には何もすることないようにしておけや」\n 蜂須賀彦右衛門と弟の羽柴秀長にはかたくこういってある。何の工につけ、期限は二言とないものだった。\n やれ、といわれたら、否といえず。はい、と受けたら、爾後の云い訳はゆるされない。\n 秀吉のすがたが見えても、ここの奉行や督励している侍たちは、彼をふり返る者もない。また、何千の木工、土工、左官、石工、あらゆる工匠や人夫たちも、一顧しているすきもなかった。\n 秀吉は、かんな屑を、足にからませながら、そこここと、木の香のあいだを一巡し、\n「できる。できる」\n 独りつぶやきつつ上機嫌に馬へ移って立ち帰ってゆく。帰るや否、そこにも訪客や政務や――また、今とりかかっている総見院建立と、故信長の葬儀準備の用向きが山積して待っている有様だった。\n「由己。はようせい」\n「はい」\n「認めたらすぐ、使いを走らすのじゃ。文言はざっとでよい。はやく書け」\n「はっ」\n 祐筆の大村由己は、今、秀吉の口述をうけて、一書を代筆していたが、ふと、醍醐という文字をどわすれして、頻りと、筆の穂を噛みつつ思い出そうとしていた。\n 秀吉は焦れったそうに急いていたが、横からのぞいて、それと知ると、\n「由己っ。何しているか」\n と、寝ている者でもよび起すように、\n「大五と書けやい」\n と、呶鳴りながら、手をもって、虚空へ大きく、大の字と、五の字を書いて見せた。\n 大村由己は、驚いた。\n 醍醐と、大五では、まるで字がちがう。\n 宛字にしても、ひどすぎる。醍醐を――大五と書いたのでは、てんで意味をなさないではないか。そう思った。\n「......は。恐縮にござります。......がそんな文字ではございませぬ。どわすれいたしましたのは」\n「何をまだ。......これ由己。そちが先程から眉をしかめて思い出そうとしているのは、だいごと申す文字であろうが」\n「御意で」\n「じゃからよ――」\n と、秀吉は、ふたたび指をもって、空間へ手習いするように大きく書いた。\n「大五と書け。それで分るではないか」\n「......はっ、はい」\n ぜひなく、急かれるまま、由己はそう書いて、代筆の書翰を終り、秀吉はすぐ、それを小姓の手から、使番に持たせて、公卿の邸へ走らせてやってしまったが――由己は何とも後味が悪くて、\n(さだめし、あの手紙をうけた人は、無学にも程があると、嗤っているだろう)\n とか、\n(祐筆ともある自分が、いかにも物を知らないようで、末代まで恥かしい。何とかして、あの手紙をもらい戻して、焼いて捨てたいものだ)\n とか、いつまでも、恋々とこだわって、気にかかる顔をしていた。秀吉はたくさんな客に会い、また以来不沙汰の毛利家へ、その夕、使いを出したりしていたが、煩事一掃のあと、やっと由己をあいてに一盌の茶をのみながら、\n「どうした? 由己」\n と彼のすぐれない顔つきを質した。由己も、こういう時ならと、彼の気色を察して、先刻の、無茶な宛字の愚痴を述懐すると、秀吉は、途方もない声して、いつまでもおかしがった。\n「なんじゃあ? 祐筆の身として、あのような無学な書面が残っては恥になると。......はははは。由己よ、そちでも、自分の筆蹟が、千年も世に残ってゆくと思うておるのか。安心せい、お汝あたりの筆では、まず百年も世にあるまい。おまえが生きている間だけでもどうかな? ......よくしたものぞ、世は滔々と、無用の文字は塵に流して余しはせぬよ」\n そしてまた、云った。" }, { "role": "assistant", "content": "「お汝らのように、醍醐とは、こう書いたやら、ああ書いたやら......などと首をひねったり、筆の穂をなめたりして、この多忙な一日を暮していては、何と、今日のように、日月も世情も、車輪のごとく早く移り変りゆく時勢にあって人寿一代の限りある身をもち、いったいどれほどな業ができると思いおるぞ。秀吉には到底、そんな暇はない。――醍醐と書くべきところを、大五といたしても、たいがい、書面をうける方の者には、読み心があるゆえ、用向きの見当はつくであろう。......それでいいのだ。今の世はな」\n「なるほど。承れば、まことにごもっともで」\n「苦しゅうない。あれでいい。――見ろ、もう最前の使いが、どうやら返辞を持って帰って来たらしいぞ」\n こんな日常の心事だった。大村由己はまもなく、故信長の葬儀を紫野に執行のため、織田有縁の近親や諸州の遺臣に、その期日参列の場を報ずる会状の代筆に多忙を極めた。\n\nむらさき野\n\n 何か盛儀が行われれば洛中洛外は賑わい立つ。そして労銀が下層にまでゆき渡るほど、町々の灯や炊煙にも、庶民の謳歌があらわれてくる。\n この秋。紫野において執り行われるという故信長の葬儀と十七日の大法事は、どれほど貧しい者たちに、事前の布施となったかしれなかった。\n 六月以来、本能寺、山崎と打ちつづいた戦乱に、家を失い、職に離れ、なお屋根も壁も持たない人がたくさんいた。\n 討ち洩らされた明智部下のうちには、領主の代った丹波へ逃げ帰るよしもなく、すがたを変えて、市の裏や橋の下に、日の目も見ず、流民となって潜んでいる者もなお少なからずあった。\n 捕え尽すはいとやすいが、秀吉はそこまでの詮議だてはしなかった。光秀の首級ひとつに一切の解決を負わせ、時の彼方に投げやっていた。のみならず、戦後の窮民とそれらの者をひっくるめて、これに、更生の仕事を与えた。\n 総見院建立と、信長の葬儀とが、それだった。\n「これも、御供養のひとつ」\n と、彼はひとり呟いた。\n 信長の攻めるところは草木も枯れる――と恐れられたその人の冥福の営みをいまなそうとするに当って、秀吉はみずから、故主信長と自分との性格には、戦をするにも、経綸を行うにも、必然な相違があったことを、あらためて思いみずにいられない。\n 近頃、世人はややもすると、秀吉のやり口を評してこういう。\n(筑前は、何事にも、信長の手口を真似、信長の行き方を、師として習んで、やがてその相続者となろうとしている)――と。\n これは、秀吉の耳に、おかしかった。\n 信長があるうちは、信長は主君である。どこまでもその性格に副い、指揮に従い、日常も呼吸をあわせて、大道一貫の歩をそろえていたのは当りまえである。――が、すでにその人亡き今日、何ぞ先人の規矩にとらわるるの要あろうや――である。秀吉にはおのずから秀吉の資質がある。信長の長所に習ぶところあったにしても、それすら彼というべつな器に入って新たな経綸として現われてくるものは、まったく信長的な戦法や施政とはその趣を一変していた。どこまでも秀吉独自のものだった。\n(まず窮民に仕事を)\n と考えたことも、秀吉が、かつては、その窮民の子であった思いが、すぐ施策にも出たのであるし、なおまた、みすみす旧明智党の組子と知れている流離の者をも、大法事の工事に使うなどという寛度は、到底、信長には見られなかったところである。\n かくて、紫野の工はすすみ、準備もほぼ調い、祐筆大村由己の手から、同日の招き状は、諸国へ発せられていた。\n 故信長の近親者はもちろん、清洲に会した日の宿老以下諸大名への招きも漏るるところなかった。そのほかおよそ有縁にして主なる公卿、武門、町人、諸職にまで、案内状はゆきとどいた。\n が、秀吉は、近親であり宿老であるからとて、特に、鄭重なとか、或いは執拗な書状などは出さなかった。それらの人々には、来るもよし、来らざるもよし、としている風に見えた。\n 果たして、風当りは強い。\n 不参か参列かの返辞もない代りに、柴田勝家からは長文の抗議が来た。神戸信孝からも嫌味たっぷりな書面が来た。共に、大不満なのである。\n 秀吉には、要意がある。こんどのことも、柴田や信孝へたいして、決して、唐突に参列の通知を出したわけではない。\n 事前に、養子の秀勝の名をもって、書面で相談はしてあった。\n けれど、勝家も信孝も、\n(於次ごときが、何の小才な)\n と、返辞もせずにいたのである。――於次丸とは、秀勝がまだ信長の第四子としていた頃の幼名である。功労を経た宿老勝家の眼からも、ずっと兄の信孝の眼からも、秀勝はまだ乳くさく見えた。おかしくて――と、それに真面目な返書もせずに打ち捨てておいたのもあながち無理でない点もある。\n 殊にまた。\n この九月から十月にかけては、勝家にとっては、多忙な吉事があった。そのよろこびにも取り紛れていたのである。\n お市御料人は、かねてからもう甥の信孝の斡旋で、北ノ庄へ再嫁することに内輪はきまっていたが、先夫浅井長政とのあいだに生していた三人の子もあるので、身がらはなお織田家のうちにおいていた。\n ところがここ四囲の情勢は、勝家と信孝との、両者の緊密を急速に強化するの必要にも迫られ、かつは、世上にたいしても、この際、公然と、\n(柴田殿こそ、故信長様も、生前よりゆるされていた妹聟である)\n ことを一度盛大な華燭をもって披露するも急務なりと考えられて来た。その結果、曠れて輿入をとにわかに、お市御料人の北ノ庄入りの盛儀が運ばれ出していたのである。\n 小谷の城の落ちた年からすでに十年になるが、お市の方はまだまだほんとうに美しかった。年も三十四、五でしかない。まだ信長の生きていた頃から、世間では、しきりと、その人を、勝家と秀吉とが恋い争っているなどと、あらぬ噂をもしたものだった。が、それほど彼女の容色が時人に記憶されていたのは事実である。\n けれど、当のお市御料人の胸としては、何としても、気がすすまなかったはなしであったにちがいない。それをしも拒みきれない環境の中にある彼女でもあった。兄の信長のない後はなおさら自分の意志は口にもいえなかった。信孝は初めから勝家のために運動していたが、今では自己の将来の計として叔母を用いる気になっていた。清洲会同の以後、彼や勝家も、策謀連携の往来に寧日なく、勝豊を長浜へ入れたり、滝川ともしばしば会ったり、何かと心忙しかったが、信孝はその中で、同族のことばや四囲の事情を措いて、どしどし事を運んでしまった。十六になる長女の茶々をかしらに女の子のみ三人を連れたお市御料人は、それこそ、王昭君の遠きへ行く日にも似るかなしき綾羅錦繍につつまれて、五彩の傘輿は列をなして北越の山をこえ、九月には、すでに北ノ庄の館に入っていたのである。\n 老木に花が咲いたように、五十三歳の聟殿は、国中の被官を連日招いて、披露の祝宴に満悦を見せていた。――こういう折に、羽柴家の一養子たる於次秀勝から、紫野に一寺の建立と、故右府の法事の相談が書面で来たのである。つい怠ったまま打ち過ぎてしまったのもむりはない。\n しかし、十月に入り、重ねて今度は、秀吉が名をうたっての正式の招き状に接してみると、\n(これは黙視できぬ)\n と、彼は事の重大と、瞋怒の焔にわなないて、烈しい抗議の一書を、秀吉へぶつけたのであった。\n\n 歳月は人間を対象として流れてはいない。\n が、人は往々、歳月をあてにして歩む。\n あだかもいつも歳月は味方のような片思いを抱いて。\n 雲無心。歳月の光輪響輪もまた、大虚の車に過ぎない。\n だが、同じ歳月を同じ時代のもとに持って、これを、どう用いるかは、人々の意志によるのである。ここに生態の分野が生じ、人間社会の隔差ができ、興る国、亡ぶ国、――千載までの歴史も、天地間一瞬のまに、決定づけられてゆく。\n とかくして、十月だった。\n 勝家がそれまでに用いた日数と、秀吉が費やして来た日数と、天は同じ運行のもとに施与していた。本能寺の日から指折っても、まる四ヵ月。――清洲の会合からすれば、まだわずか百日たらずの歳月でしかない。\n しかも両者が、その歳月をもって、自己の上へ具顕して来たところの差は、今日――十月半ば――余りにも大きな差を結果していた。\n 即ち。秀吉が主唱し、また全力を傾けて実行した信長の大法要は、やがて、全日本の耳目をあつめ、\n(彼こそ、右府の遺業を継ぐ人と見ゆる)\n という印象を与えたばかりでなく、ひいては中央の庶政も、秀吉を措いては行われないような感じを民心の中にふかく植えこんでいた。\n この点、勝家がその権翼の拡大を、以後、同列の宿将や、織田家との婚姻による緊密化などに恃んでいたのとは、雲泥のちがいであった。秀吉が対象としていたものは、丹羽長秀でもないし、池田、細川、筒井の輩でもない。いわんや織田信雄や女子供の遺族達でもなかった。実に民衆であった。彼は百姓の子だ。土と熱を知りぬいている。\n その月、十一日から十七日にわたって行われた紫野大徳寺の法要が、言語に絶す大規模なものであって、荘厳万華の大光演を極めたのも、単に、彼の大気や亡主を慕う真情の溢ればかりではなく、民衆をも会葬者とみなし、民衆にも親しく見せ、この善奉行を、衆と共にするという彼の大布施心によるものであった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " では又。木曜日にお目にかかれると思いますが。\n\n 五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕\n\n 隆治さんの宛名が変りました。\n ジャワ派遣輝第一六三〇〇部隊(乙)\n けさは、胡瓜の苗を植えました。問題の南瓜が遂に二本出て、思わず二匹出たよと申しました、そんなに生きものが出たという感じ。大きい種は孵ったという感じよ。\n\n 五月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕\n\n 五月二十七日\n 今、夜の九時です、きょう歯医者が手間どって、かえったのが七時。それから御飯たいて今すんだらこの時間。けさは咲が帰るのでわたしは五時半から起きて働きました。くたびれたところへ俄におなかがはって大変眠うございます。森長さんへ電話をかけて、もうねてしまうわ。あした朝早くおきてまる一日二人暮しするのをたのしみに。二十八日から三十一日まで防空訓練で、夜明け頃起きて警戒しましょう、と廻覧板にありましたから二十九日は夜明けに目のさめる位早くねなくてはなりますまい。早ね早おきは大した規模で必要な次第となりました。では電話かけましょうね、ああでも、しきりに全く独特な工合にまつ毛のところが美しい二つの眼が浮んではなれません。光線の工合で何とくっきり面白く見えたでしょう。\n 二十八日\n こんにちは。ちっともお早うではございません、もう十二時五分前よ。勿論只今御起床というのではなくて、きのう咲が立つので大乱脈のままになっていた台所を一時間ほどまとめて働き、その前に小鳥の世話、犬の御飯、胡瓜とニラの芽の見物をしたわけです。\n いつもこうなのよ、咲が来ると実にゴタつき、帰って国がいなくなると、私は長大息をついて次の朝なかなか腰があがりません。可笑しいのね、主婦が帰れば却ってよく片づいて単純になりそうなものなのに、決してそうゆきません。国はわたしとの暮しではいろいろ辛棒して書生っぽにしているから、愛妻御帰館で、気持の要求がぐっと殖えるのでしょうね、食事にしろね。それに咲の来ている気分にしろ、察しのつくところもあるわけでしょう、だから何だかごたごたになってしまうのよ。わたしだったら、と思うから、ごたつきについては敬意を表しておくの。だって、そうでしょう? 眼が一つのものからはなれやしないでしょうと思います。オヤ、見なくては。おひると朝けんたいの、メリケンコの妙なものをやいているのよ、ストーヴのところのガスで。こうやって書き乍らやくと急がないから、きっとよく出来るでしょう、どれ、どれ。\n 成程成功よ、大いにふくらんで狐色になりました。これは、その昔ホットケークと呼ばれたものの同族ですが、牛乳ナシ、玉子ナシ、バタナシ。ナシナシづくしのふくらし粉一点ばりのやきものです、さとうナシですしね。でもふくらめばいいわ、にちゃつかないから。\n 鏡で見たところ、きょうの頬っぺたは、きのうより幾分ましになりました。きのうかえりに見たら、まだ洗ったり薬つけたりしなくてはならない由です。どうしようかと考え中です。抜いたところ二本ブリッジになります、そのために一番奥のいい歯の神経をぬいたりけずったりしなくてはならないの。金をかぶせたところで、又いたんで、又その歯をぬくなんてやりきれないと思います。そのギイギイ仕事の最中に、一ヵ月以上かかりますから、ドカンドカン来て、歯は放っておけない、にもかかわらず御入院なんていうのは閉口よ、十中八九までは、そうなりそうです。そうなると思って万端やることにいたしました。咲もいず、(役に立たないけれ共)寿もいず。歯まで心配の種ではやり切れないから、もしかしたら秋ぐらいまでこのまま歯かけでいようかと思います、こんなこと迄相談されては、と笑止でしょう? でも、マア。相談というのでもないけれど。\n ここまで書いたら電話のベルが鳴りました。寿。長者町に、やっと永住出来そうな家がありそうになったら、別の借手が現れて怪しくなったので、九段の家主まで来た由です。お米が足りなくてキャベジたべて、気分わるい程とのことです、どこも同じね。弁当にお握りをもって来て、寿は其をたべ、わたしはパフパフをたべ。ホットケークの悲しき同族は、たべるときまことに空気が多くて、パフパフいうようだから、わたし一流の名づけ術で、パフパフと申します。名だけきくと美味しそうだと大笑いです。\n 四方山の話をして六時頃寿引上げかけたら、酒やで福神漬を売るから月番よろしくとのことで、わたしは日のかげったときゆっくり畑いじりしてみようと思っていたのに、其ではと大鍋をもって寿送りかたがた出かけました。団子坂上なのよ。行ったら各戸なのだって。組長の女中さん、時刻が時刻なのでちょいとよろしく計らったのね、それが通用せず、というわけだったのでしょう。\n 帰ってから、寿サービスの片づけをして、自分の夕飯たべたら、又もうこんな時間。九時です。明朝の御飯は今晩炊きましょうという二十八日ですから、今炊いて居ります。夜あけに起きて警戒しましょう、というのはどういうことをするのでしょうね\n きのうは朝公共防空壕の修繕を隣組でやりました、国がオバーオール着て、鉢巻きして出ました。わたしは台所するとき、薄緑の布で髪をつつむのが好きで、これは灰で髪をよごさない実効がありますが、鉢巻は気分ものね、てっぺんの薄いところもまる出しだし、まさか頭の鉢が、あの手拭一本でしまるほど、それほどたががゆるんでも居りますまい。国は身なりも極端ね、この間は咲の迎に、ハッピ着てゆきました。「目黒のさんま」(落語)のくちね、殿様の御微行は、いつも下賤におなりです。実直な働く人々が、自分の身分に謙遜して、ちゃんとしてなくては失礼と思う反対ね。\n きょうの二人遊びは、右のようなわけで肝心の午後が潰れてしまって、まことに残念でした。先週は国ずっといて、咲が来て大バタバタだったから、今日はほんとに待ちかねていたのに。でも、寿はよろこんで休んで帰ったから、あなたも計らぬ功徳をおほどこしになったわけです。寿も一人きりの生活は、食事の一人のことなどつまらないようです。あのひとも十二月から大変だったわけで、いろいろこまかいことで、可哀そうだと思うし、大局的に寿はそれで世間並のことを覚え、生活力も身につけるのです。よく変れる側が、人間学から云って大いなる利益を蒙って居ります。" }, { "role": "assistant", "content": " この間うち、『スペイン文化史概観』という仏人のかいた(一九三七)ものですが、よんでいて、昨夜よみ終り、いろいろ深く感じました。これはスペインの一九三五年までの新しい希望とその実現の時代に及び、一九三五年以降の混乱によって再びその美しい向上の試みがこわされる頃までを、統一(中世の終)から書いたものです。小冊子で、不充分だけれ共、わたし達が所謂スペイン風として異国趣味で誇張して珍しがっているすべてが、スペインにとっては誇よりは寧ろ悲劇であるということを知って慙愧を感じます。日本について、大部分の外国人の評価が、赤面ものであるように、スペインにとって、世界の人々がもつ興味の角度は、心ある精神に、名状出来ない思いを抱かせるでしょう。しかし、日本文学の代表を、いつも万葉と源氏において、恥しさを感じない人があるように、レオナルドを今日もあげるしかない貧弱さを感じるイタリー人が少いように、スペインにもそういう感じの人々が十分どっさりいないために、文化のそういう無力さのために、あの国の悲劇はくりかえされるのですね。\n この小冊子が面白いもう一つは、スペインのジェスイット派(ロヨラの派)が、どんな暗い情熱で専横を極めたかということ、一般にキリスト教が、スペインではスペインを興隆させず第三流国に堕すに活溌な作用を与えた点です。信長の時代日本に渡来したジェスイットは、西欧の宗教改革によって失った地盤を求めるためと、黄金探求の慾望と二つから来たのですが、スペインのキリスト教は、スペインがムーア人に支配され、それを奪いかえすために一役買ったキリスト教徒のおかげで、僧院だらけ、坊主政治おそろしい始末になって、今日の貧乏と無智と当途ない情熱のために、短刀さわぎをおこす情熱的民族となってしまったのであったのね。\n わたしはふるくから日本における切支丹文化に興味をもち、芥川の「きりしとほろ」とはちがったものを直覚していたのですが、当がなくて来ました。この小冊子は何かどっさりのヒントを与えるようです。キリシタン文化については、いつも新村出や幸田成友や、考証家歴史家さもなければ信者によって語られて来ましたが、それでは決して十分でないわ。\n ムーア人の回教徒との接触を経験したジェスイットが、日本も東洋であるからと思ってふれて来たとき、そこには随分ムーアの回教徒とちがった要素があったでしょう、信長がそれを許し又禁止し、秀吉がゆるし又禁止した時代の起伏は、極めて興味があります。その頃スペインは、南米で、罪業ふかい血まみれの黄金をかき集めはじめていたのでしょう。\n 歴史小説というものも、現代のレベルでは、この位のテーマをもつべきですね。「ピョートル大帝」にしろ、オランダの商業を或程度勉強しなくては書けなかったでしょう。現代史が十分かける力量をもって、歴史小説もかかれる筈だと思われます。ジェスイットの坊主の中にも、本当に宗教に献身した人々があります。こういう卓越した個性と宗団の矛盾、信長の禁圧の当然さと、逆に信仰せざるを得なかった武家時代の貴婦人のこころもちなどのあやは何と人間らしい姿でしょう。面白いことね。\n ピョートル大帝と云えばこの前一寸かいたかしら。レフ・トルストイが、ピョートル大帝を書こうとして遂にかけなかった、ということ。「戦争と平和」はかけてもピョートルはかけなかったのね。ピョートルは、ナポレオンの侵入というような巨大な背景の前に、あの夥しい各性格の箇人を描写するにふさわしいテーマではなくて、一面から云えばもっと単純であり、一方から云うと、もっと複雑です。だからレフにはかけなくて、才能の大小を云えばより小なるアレクセイにかけたというところ。作家にとって殆ど落涙を催させる時代というものの力があります。これは同じ名の二人のトルストイの間に横わる時代の絶対のちがいです、秀抜な作家が一時代にしか生きられないということは、何と何と云いつくせない生物的事実でしょうね。死んでも死にきれない事実だと思います。\n 後輩の中に能才なものを求める、慾得ぬきの心というものは、科学者にしろ芸術家にしろ、真にその仕事の悠久さと人間業蹟としての偉大さを自覚した人々だけのもちものでしょうね、そういうものがチラリと見えたらどんなに可愛いと思い望みをかけるでしょう、科学よりも文学において其は更に茫漠として居ります。科学は研究ノートをそれなり継承出来る部分があります、文学はどうでしょう、未来というものの中に、うちこめて、そこに期待するしかないようです、\n こういう風にして、自分を益〻捨てて行く心もちから、芸術家や科学者の才能が更新され、若がえるというのは、不思議な面白さね。自分に執しているものは、自分より大きく成長出来なくて、つまりは世俗の成功だの不成功だのという目やすに支配され、とどのつまりは世俗の日記と一緒に歴史のつよく大きい襞の間にまぎれこんでしまいます。山本有三という作家が、主人公に芸術家も科学者も扱い得ず、教師をつかまえるのは雄弁な彼の人生のリミットですね。\n\n 六月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕\n\n 六月三日 土曜日\n きょうは、思いがけないことでわたしの時間が出来ました。国が、急に国府津の家の件で、役所の人とあっちへ出かけ、朝八時四十分で立ちました。けさは六時におきて台所へ出ました。珍しく八時すこし過にひとりになったので、この時と、早速郵便局へ出かけそちらの書留や小包送り出しました。本、一冊しか今手許になくて御免なさい。『療養新道』の方は、多賀ちゃんにきいてやったまま、ついそれなりで。多賀ちゃんも忘れてしまったのね、すぐハガキかきましょう、又。ついでにケプラーお送りしておきました。\n きょうは、三時頃に太郎と咲が来ます。太郎は、農繁期休暇二週間のうち、半分だけはお父さんの顔を見て来なさいと云われた由。夏の休みなんか全く当になりませんから、いいでしょう。子供の頃一夏ハダシ暮しして、東京へ帰って来るとき、次第に上野が近づく心持、家へ入って来るときの心持、あれを太郎が味うのだと思うと、面白く、笑ましい気持です。それは非常に新鮮で、人柄や感情を豊富にするし、抑揚を与えるようです。太郎すこしは大まかにゆったりしたかしら。たのしみです。健ちゃんがウマウマと云うようになって、ヨチヨチかけ出すのですって。可愛いこと。実にみたいわ。立つ朝、小鳥のカゴにだきついて(よく見たくて)餌こぼしたって親父がにがり切って、それも忘られませんが。馬糞が草道に落ちていると、太郎がいち早く、健ちゃんこれなアに、ときくんだって。すると、たどたどしい頬っぺの赤い健坊が、ウマウマと云うって大笑いよ。食べるあのウマと馬のウマと同じにこんぐらかって、つづけてウマウマと出てしまうのね、健坊は、陽気で、人なつこくて生れながら愛嬌をもって居ります、どんな男になるでしょう!\n 森長さんの用向きは通じました。日曜日にゆけるでしょうとのこと。しかし妙なものですね、お疲れになるのは閉口です、何よりも。\n ヴィタミン剤益〻なくて、メタボリンはもう二ヵ月ほどありません。これからは注射しかないのかもしれません、岩本さんのところには大分お金は預けてありますが、手に入りにくいと見えます、\n うちは、疎開の割当、強制ではないのですって。国府津をああやって使うことになったから、国はここに居ります。国がいて、急に人が一家族入ったのでは、私が困難一手引受けでやり切れないから、咲に町会へ行ってたしかめて貰ったの。強制でなくて大助り。どういうことになるかは今のところ判明いたしません。家を移ることはないでしょう、もうこの頃になると、一般の生活の感情は、大きいさけがたい変化を、今か今かと思っているようなところがあって、あわててあっちこっちする段階を通りすぎてしまいましたね。わたしは、さしづめ、冬のどてらとふとん何とかしなくてはならないと気が気でなくて。引越車の多いこと。\n 美校、音楽学校、みんな先生の首のすげかえをいたしました。ゲートルの巻ける人、モンペはける人に。結城素明というような七十歳も越したような先生や小倉末先生(ピアノ)のような大先輩は引こみました。国宝はこの際すべて引こめて、しまっておくというわけでしょう。博物館でやったように。\n アラ、八百やだって。一寸待って頂戴。帯をしめ直さなくては、ね。布をかぶり、筒袖を着、縞木綿の前かけしめ、カゴ下げて出かけます。\n 犬が母娘でついて来て、どうでしょう、気のつよい雌犬が八百屋に出現して、ムキになってチンの首ったまにかぶりつきました。小さいくせに。女の人ばかりだからアレアレなのよ。エイ、と思って、その犬の頸輪つかんでギューギュー引っぱったら喉がキュークツになってはなしました。チンたらキャベジ籠の間にはさまってぶるぶるふるえているの。可笑しいのは、雄犬だと、大きくってもいじめたりしないし、チンも「わたし女よ」という風でつんとしていて、何と滑稽でしょう。腰がぬけかけみたいになって、一寸だいてやりました。犬抱くなんて、私の大きらいなことです。でも可愛がっているのね結局。だくのだもの、腰がぬけると。\n この八百やへは高村光太郎先生もザルを下げて来ます、八分の一ほどのキャベジを貰うのよ。あすこは一人ですから。うちの半分ね。うちは四分の一の小さい半分貰います。芸術の神様たちの養分としてはいかがかと思われますね。\n 今このテーブルから見えるところに、あなたのドテラ二枚ふらふらと日向ぼっこして居ります、余りよごれず、来年使える程度なのは本当にありがとう。これを虫よけ入れて、開成山へ送っておきましょう、覚えていらして下さい。ドテラ二枚とも、よ。きのう洗った足袋もフラフラして居ます。\n この間、歯医者の帰りに、ガンサーの『アジアの内幕』を見つけよみはじめました。あなたはヨーロッパの方を、およみになりましたっけか。考えかたや観察の深さよりもインフォーメーションが面白いのね。荒木大将邸の虎の皮や鶴亀の長寿のシムボルが西欧の目にどんなに映るかなどというところも、日本人として面白く且つ参考になります。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n 俳諧師松風庵蘿月は今戸で常磐津の師匠をしている実の妹をば今年は盂蘭盆にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛りの暑さにはさすがに家を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水をつかった後そのまま真裸体で晩酌を傾けやっとの事膳を離れると、夏の黄昏も家々で焚く蚊遣の烟と共にいつか夜となり、盆栽を並べた窓の外の往来には簾越しに下駄の音職人の鼻唄人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸を出るのであるが、その辺の涼台から声をかけられるがまま腰を下すと、一杯機嫌の話好に、毎晩きまって埒もなく話し込んでしまうのであった。\n 朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うと共に大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中へ差込んで来る時分になると鳴きしきる蝉の声が一際耳立って急しく聞える。八月もいつか半過ぎてしまったのである。家の後の玉蜀黍の畠に吹き渡る風の響が夜なぞは折々雨かと誤たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩した道楽の名残とて時候の変目といえば今だに骨の節々が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になったと思うと唯わけもなく気がせわしくなる。\n 蘿月は俄に狼狽え出し、八日頃の夕月がまだ真白く夕焼の空にかかっている頃から小梅瓦町の住居を後にテクテク今戸をさして歩いて行った。\n 堀割づたいに曳舟通から直ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂回した小径が三囲稲荷の横手を巡って土手へと通じている。小径に沿うては田圃を埋立てた空地に、新しい貸長屋がまだ空家のままに立並んだ処もある。広々した構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった。蘿月宗匠はいくら年をとっても昔の気質は変らないので見て見ぬように窃と立止るが、大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調を早める。そして売地や貸家の札を見て過る度々、何ともつかずその胸算用をしながら自分も懐手で大儲がして見たいと思う。しかしまた田圃づたいに歩いて行く中水田のところどころに蓮の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定の事よりも記憶に散在している古人の句をば実に巧いものだと思返すのであった。\n 土手へ上った時には葉桜のかげは早や小暗く水を隔てた人家には灯が見えた。吹きはらう河風に桜の病葉がはらはら散る。蘿月は休まず歩きつづけた暑さにほっと息をつき、ひろげた胸をば扇子であおいだが、まだ店をしまわずにいる休茶屋を見付けて慌忙て立寄り、「おかみさん、冷で一杯。」と腰を下した。正面に待乳山を見渡す隅田川には夕風を孕んだ帆かけ船が頻りに動いて行く。水の面の黄昏れるにつれて鴎の羽の色が際立って白く見える。宗匠はこの景色を見ると時候はちがうけれど酒なくて何の己れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。\n 休茶屋の女房が縁の厚い底の上ったコップについで出す冷酒を、蘿月はぐいと飲干してそのまま竹屋の渡船に乗った。丁度河の中ほどへ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄にもあるようにいかにも投遣った風に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独で鼻唄をうたった。\n 向河岸へつくと急に思出して近所の菓子屋を探して土産を買い今戸橋を渡って真直な道をば自分ばかりは足許のたしかなつもりで、実は大分ふらふらしながら歩いて行った。\n そこ此処に二、三軒今戸焼を売る店にわずかな特徴を見るばかり、何処の場末にもよくあるような低い人家つづきの横町である。人家の軒下や路地口には話しながら涼んでいる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立って白く見えながら、あたりは一体にひっそりして何処かで犬の吠える声と赤児のなく声が聞える。天の川の澄渡った空に繁った木立を聳かしている今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊と勘亭流で書いた妹の家の灯を認めた。家の前の往来には人が二、三人も立止って内なる稽古の浄瑠璃を聞いていた。\n\n 折々恐しい音して鼠の走る天井からホヤの曇った六分心のランプがところどころ宝丹の広告や『都新聞』の新年附録の美人画なぞで破れ目をかくした襖を始め、飴色に古びた箪笥、雨漏のあとのある古びた壁なぞ、八畳の座敷一体をいかにも薄暗く照している。古ぼけた葭戸を立てた縁側の外には小庭があるのやらないのやら分らぬほどな闇の中に軒の風鈴が淋しく鳴り虫が静に鳴いている。師匠のお豊は縁日ものの植木鉢を並べ、不動尊の掛物をかけた床の間を後にしてべったり坐った膝の上に三味線をかかえ、樫の撥で時々前髪のあたりをかきながら、掛声をかけては弾くと、稽古本を広げた桐の小机を中にして此方には三十前後の商人らしい男が中音で、「そりや何をいはしやんす、今さら兄よ妹といふにいはれぬ恋中は......。」と「小稲半兵衛」の道行を語る。\n 蘿月は稽古のすむまで縁近くに坐って、扇子をぱちくりさせながら、まだ冷酒のすっかり醒めきらぬ処から、時々は我知らず口の中で稽古の男と一しょに唄ったが、時々は目をつぶって遠慮なく噯をした後、身体を軽く左右にゆすりながらお豊の顔をば何の気もなく眺めた。お豊はもう四十以上であろう。薄暗い釣ランプの光が痩せこけた小作りの身体をばなお更に老けて見せるので、ふいとこれが昔は立派な質屋の可愛らしい箱入娘だったのかと思うと、蘿月は悲しいとか淋しいとかそういう現実の感慨を通過して、唯だ唯だ不思議な気がしてならない。その頃は自分もやはり若くて美しくて、女にすかれて、道楽して、とうとう実家を七生まで勘当されてしまったが、今になってはその頃の事はどうしても事実ではなくて夢としか思われない。算盤で乃公の頭をなぐった親爺にしろ、泣いて意見をした白鼠の番頭にしろ、暖簾を分けてもらったお豊の亭主にしろ、そういう人たちは怒ったり笑ったり泣いたり喜んだりして、汗をたらして飽きずによく働いていたものだが、一人々々皆死んでしまった今日となって見れば、あの人たちはこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じようなものだった。まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人の記憶の中に残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何も彼も煙になって跡方もなく消え失せてしまうのだ......。\n「兄さん、実は二、三日中に私の方からお邪魔に上ろうと思っていたんだよ。」とお豊が突然話しだした。\n 稽古の男は「小稲半兵衛」をさらった後同じような「お妻八郎兵衛」の語出しを二、三度繰返して帰って行ったのである。蘿月は尤もらしく坐り直して扇子で軽く膝を叩いた。\n「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込のお寺が市区改正で取払いになるんだとさ。それでね、死んだお父つァんのお墓を谷中か染井か何処かへ移さなくっちゃならないんだってね、四、五日前にお寺からお使が来たから、どうしたものかと、その相談に行こうと思ってたのさ。」\n「なるほど。」と蘿月は頷付いて、「そういう事なら打捨っても置けまい。もう何年になるかな、親爺が死んでから......。」\n 首を傾げて考えたが、お豊の方は着々話しを進めて染井の墓地の地代が一坪いくら、寺への心付けがどうのこうのと、それについては女の身よりも男の蘿月に万事を引受けて取計らってもらいたいというのであった。\n 蘿月はもと小石川表町の相模屋という質屋の後取息子であったが勘当の末若隠居の身となった。頑固な父が世を去ってからは妹お豊を妻にした店の番頭が正直に相模屋の商売をつづけていた。ところが御維新この方時勢の変遷で次第に家運の傾いて来た折も折火事にあって質屋はそれなり潰れてしまった。で、風流三昧の蘿月はやむをえず俳諧で世を渡るようになり、お豊はその後亭主に死別れた不幸つづきに昔名を取った遊芸を幸い常磐津の師匠で生計を立てるようになった。お豊には今年十八になる男の子が一人ある。零落した女親がこの世の楽しみというのは全くこの一人息子長吉の出世を見ようという事ばかりで、商人はいつ失敗するか分らないという経験から、お豊は三度の飯を二度にしても、行く行くはわが児を大学校に入れて立派な月給取りにせねばならぬと思っている。\n 蘿月宗匠は冷えた茶を飲干しながら、「長吉はどうしました。」\n するとお豊はもう得意らしく、「学校は今夏休みですがね、遊ばしといちゃいけないと思って本郷まで夜学にやります。」\n「じゃ帰りは晩いね。」\n「ええ。いつでも十時過ぎますよ。電車はありますがね、随分遠路ですからね。」\n「吾輩とは違って今時の若いものは感心だね。」宗匠は言葉を切って、「中学校だっけね、乃公は子供を持った事がねえから当節の学校の事はちっとも分らない。大学校まで行くにゃまだよほどかかるのかい。」" }, { "role": "assistant", "content": "「来年卒業してから試験を受けるんでさアね。大学校へ行く前に、もう一ツ......大きな学校があるんです。」お豊は何も彼も一口に説明してやりたいと心ばかりは急っても、やはり時勢に疎い女の事で忽ちいい淀んでしまった。\n「たいした経費だろうね。」\n「ええそれァ、大抵じゃありませんよ。何しろ、あなた、月謝ばかりが毎月一円、本代だって試験の度々に二、三円じゃききませんしね、それに夏冬ともに洋服を着るんでしょう、靴だって年に二足は穿いてしまいますよ。」\n お豊は調子づいて苦心のほどを一倍強く見せようためか声に力を入れて話したが、蘿月はその時、それほどにまで無理をするなら、何も大学校へ入れないでも、長吉にはもっと身分相応な立身の途がありそうなものだという気がした。しかし口へ出していうほどの事でもないので、何か話題の変化をと望む矢先へ、自然に思い出されたのは長告が子供の時分の遊び友達でお糸といった煎餅屋の娘の事である。蘿月はその頃お豊の家を訪ねた時にはきまって甥の長吉とお糸をつれては奥山や佐竹ッ原の見世物を見に行ったのだ。\n「長吉が十八じゃ、あの娘はもう立派な姉さんだろう。やはり稽古に来るかい。」\n「家へは来ませんがね、この先の杵屋さんにゃ毎日通ってますよ。もう直き葭町へ出るんだっていいますがね......。」とお豊は何か考えるらしく語を切った。\n「葭町へ出るのか。そいつア豪儀だ。子供の時からちょいと口のききようのませた、好い娘だったよ。今夜にでも遊びに来りゃアいいに。ねえ、お豊。」と宗匠は急に元気づいたが、お豊はポンと長煙管をはたいて、\n「以前とちがって、長吉も今が勉強ざかりだしね......。」\n「ははははは。間違いでもあっちゃならないというのかね。尤もだよ。この道ばかりは全く油断がならないからな。」\n「ほんとさ。お前さん。」お豊は首を長く延して、「私の僻目かも知れないが、実はどうも長吉の様子が心配でならないのさ。」\n「だから、いわない事ッちゃない。」と蘿月は軽く握り拳で膝頭をたたいた。お豊は長吉とお糸のことが唯何となしに心配でならない。というのは、お糸が長唄の稽古帰りに毎朝用もないのにきっと立寄って見る、それをば長吉は必ず待っている様子でその時間頃には一足だって窓の傍を去らない。それのみならず、いつぞやお糸が病気で十日ほども寝ていた時には、長吉は外目も可笑しいほどにぼんやりしていた事などを息もつかずに語りつづけた。\n 次の間の時計が九時を打出した時突然格子戸ががらりと明いた。その明けようでお豊はすぐに長吉の帰って来た事を知り急に話を途切しその方に振返りながら、\n「大変早いようだね、今夜は。」\n「先生が病気で一時間早くひけたんだ。」\n「小梅の伯父さんがおいでだよ。」\n 返事は聞えなかったが、次の間に包を投出す音がして、直様長吉は温順しそうな弱そうな色の白い顔を襖の間から見せた。\n\n二\n\n 残暑の夕日が一しきり夏の盛よりも烈しく、ひろびろした河面一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目に反映していたが、忽ち燈の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐の上を滑って行く荷船の帆のみが真白く際立った。と見る間もなく初秋の黄昏は幕の下るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩しくきらきら光り出して、渡船に乗っている人の形をくっきりと墨絵のように黒く染め出した。堤の上に長く横わる葉桜の木立は此方の岸から望めば恐しいほど真暗になり、一時は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘残らず上流の方に消えてしまって、釣の帰りらしい小舟がところどころ木の葉のように浮いているばかり、見渡す隅田川は再びひろびろとしたばかりか静に淋しくなった。遥か川上の空のはずれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間なく閃めいては消える。\n 長吉は先刻から一人ぼんやりして、或時は今戸橋の欄干に凭れたり、或時は岸の石垣から渡場の桟橋へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めていた。今夜暗くなって人の顔がよくは見えない時分になったら今戸橋の上でお糸と逢う約束をしたからである。しかし丁度日曜日に当って夜学校を口実にも出来ない処から夕飯を済すが否やまだ日の落ちぬ中ふいと家を出てしまった。一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた。門口に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添う低い小家の格子戸外には裸体の亭主が涼みに出はじめた。長吉はもう来る時分であろうと思って一心に橋向うを眺めた。\n 最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣を着た坊主であった。つづいて尻端折の股引にゴム靴をはいた請負師らしい男の通った後、暫くしてから、蝙蝠傘と小包を提げた貧し気な女房が日和下駄で色気もなく砂を蹴立てて大股に歩いて行った。もういくら待っても人通りはない。長吉は詮方なく疲れた眼を河の方に移した。河面は先刻よりも一体に明くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えている。長吉はその時長命寺辺の堤の上の木立から、他分旧暦七月の満月であろう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけているのを認めた。空は鏡のように明いのでそれを遮る堤と木立はますます黒く、星は宵の明星の唯た一つ見えるばかりでその他は尽く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳く雲のちぎれが銀色に透通って輝いている。見る見る中満月が木立を離れるに従い河岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に湿れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、逸早く月の光を受けて蒼く輝き出した。忽ち長吉は自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。通りかかるホーカイ節の男女が二人、「まア御覧よ。お月様。」といって暫く立止った後、山谷堀の岸辺に曲るが否や当付がましく、\n\n〽書生さん橋の欄干に腰打かけて――" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖も地蔵もこの国に渡って来てから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集ってこの国を大きくすることも出来なかった如く、児童が楽しんで多くの伝説を覚えていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりも遙かに薄かったかも知れません。その大きな功労に比べるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出て来る日本の伝説集はもっと面白く、またいつまでも忘れることの出来ぬような、もっと立派な学問の書でなければなりません。\n\n\n伝説分布表\n\n\n\n\nこの本に出ている伝説の中で、町村の名の知れている分を、表にしてならべてみました。この以外の県郡町村でも、ただ私が知らなかったというだけで、むろん尋ねてみたら幾らでも、同じような伝説があることと思います。下の数字はページ数です。自分の村の話が出ていましたら、まずそこのところから読んで御覧なさい。\n\n\n\n\n東京府\n\n東京市浅草区浅草公園...............................................................箸銀杏\n同 下谷区谷中清水町............................................................清水稲荷\n荏原郡品川町南品川宿...............................................................縛り地蔵\n豊多摩郡淀橋町柏木..................................................................鎧大明神\n同 高井戸村上高井戸.........................................................薬師の魚\n南葛飾郡亀戸町........................................................................頓宮神\n八王子市子安...........................................................................歯吹仏\n\n京都府\n\n乙訓郡新神足村友岡..................................................................念仏池\n南桑田郡稗田野村柿花...............................................................片目観音\n\n大阪府\n泉北郡八田荘村家原寺...............................................................放生池\n神奈川県\n\n橘樹郡向丘村上作延..................................................................鼻取地蔵\n足柄上郡南足柄村弘西寺............................................................化粧地蔵\n足柄下郡大窪村風祭..................................................................機織の井\n\n兵庫県\n\n川辺郡稲野村昆陽.....................................................................行波明神\n有馬郡有馬町...........................................................................うわなり湯\n加古郡加古川町........................................................................上人魚\n同 野口村阪元.....................................................................寸倍石\n赤穂郡船阪村高山.....................................................................水掛地蔵\n多紀郡城北村黒岡.....................................................................時平屋敷\n\n長崎県\n北松浦郡田平村........................................................................釜が淵\n新潟県\n\n長岡市神田町...........................................................................三盃池\n北蒲原郡分田村分田..................................................................都婆の松\n三島郡大津村蓮華寺..................................................................姨が井\n北魚沼郡堀之内町堀之内............................................................古奈和沢池\n南魚沼郡中之島村大木六............................................................巻機権現\n刈羽郡中通村曽地.....................................................................おまんが井\n中頸城郡櫛池村青柳..................................................................片目の聟\n西頸城郡名立町青木阪...............................................................乳母神とつぐら\n同 根知村........................................................................諏訪の薙鎌\n\n埼玉県\n\n川越市喜多町...........................................................................しやぶぎ婆石塔\n北足立郡白子町下新倉...............................................................子安池\n同 大砂土村土呂...............................................................神明の大杉\n入間郡所沢町上新井..................................................................三つ井\n同 小手指村北野..................................................................椿峯\n同 山口村御国.....................................................................椿峯\n比企郡大河村飯田.....................................................................石船権現\n秩父郡小鹿野町........................................................................信濃石\n同 吾野村大字南..................................................................飯森杉\n南埼玉郡萩島村野島..................................................................片目地蔵\n\n群馬県\n\n高崎市赤坂町...........................................................................婆石\n北甘楽郡富岡町曽木..................................................................片目の鰻\n利根郡東村老神........................................................................神の戦\n同 川場村川場湯原...............................................................大師の湯\n佐波郡殖蓮村上植木..................................................................阿満が池\n\n千葉県\n\n千葉郡二宮村上飯山満...............................................................巾着石\n市原郡平三村平蔵.....................................................................二本杉\n印旛郡臼井町臼井.....................................................................おたつ様の祠\n同 酒々井町........................................................................仲の悪い神様\n同 富里村新橋.....................................................................葦が作\n同 根郷村太田.....................................................................石神様\n長生郡高根本郷村宮成...............................................................新箸節供\n山武郡大和村山口.....................................................................雄蛇の池\n君津郡清川村...........................................................................畳が池\n同 小櫃村俵田字姥神台.........................................................姥神様\n君津郡八重原村........................................................................念仏池\n同 関村大字関.....................................................................関のおば石\n夷隅郡千町村小高.....................................................................大根栽えず\n同 布施村...........................................................................二本杉\n安房郡西岬村洲崎.....................................................................一本薄\n同 豊房村神余.....................................................................大師の塩井\n同 白浜村青木.....................................................................芋井戸\n\n茨城県\n\n那珂郡柳河村青柳.....................................................................泉の杜\n久慈郡阪本村石名阪..................................................................雷神石\n同 金砂村...........................................................................横山ぎらい\n鹿島郡巴村大和田.....................................................................主石大明神\n筑波郡筑波町...........................................................................筑波山の由来\n\n栃木県\n\n河内郡上三川町........................................................................片目の姫\n芳賀郡山前村南高岡..................................................................片目の皇子\n那須郡黒羽町北滝.....................................................................綾織池\n同 那須村湯本.....................................................................教伝地獄\n安蘇郡犬伏町黒袴.....................................................................天神の敵\n同 旗川村小中.....................................................................人丸大明神\n足利郡三和村板倉.....................................................................大師の加持水\n\n奈良県\n\n山辺郡二階堂村........................................................................泥掛地蔵\n高市郡舟倉村丹生谷..................................................................雨乞と地蔵\n吉野郡高見村杉谷.....................................................................入鹿を祀る山\n\n三重県\n\n宇治山田市船江町.....................................................................白太夫の袂石\n飯南郡宮前村...........................................................................めずらし峠\n同 射和村...........................................................................成長する石\n多気郡佐奈村仁田.....................................................................二つ井\n同 丹生村...........................................................................子安の井" }, { "role": "assistant", "content": "南牟婁郡五郷村大井谷...............................................................袂石\n\n愛知県\n\n丹羽郡池野村...........................................................................尾張小富士\n知多郡東浦村生路.....................................................................弓の清水\n南設楽郡長篠村横川..................................................................氏子片目\n八名郡石巻村...........................................................................山の背くらべ\n\n静岡県\n\n清水市入江町元追分..................................................................姥甲斐ない\n賀茂郡下田町...........................................................................下田富士\n同 岩科村雲見.....................................................................富士の姉神\n田方郡熱海町...........................................................................平左衛門湯\n同 函南村仁田.....................................................................手無仏\n駿東郡須山村...........................................................................山の背くらべ\n富士郡元吉原村........................................................................化け地蔵\n安倍郡長田村宇都谷..................................................................鼻取地蔵(索麪地蔵)\n同 賤機村...........................................................................鯨の池\n小笠郡中浜村国安.....................................................................子供と地蔵\n周智郡犬居村領家.....................................................................機織の井\n磐田郡見付町...........................................................................姥と草履\n同 上阿多古村石神...............................................................富士石\n\n山梨県\n\n東山梨郡松里村小屋舗組............................................................御箸杉\n同 等々力村.....................................................................親鸞上人の箸\n西山梨郡相川村........................................................................片目の泥鰌\n同 国里村国玉..................................................................国玉の大橋\n東八代郡富士見村河内組............................................................七釜の御手洗\n中巨摩郡百田村上八田組............................................................しわぶき婆の石\n\n滋賀県\n\n蒲生郡桜川村川合.....................................................................麻蒔かず\n栗太郡笠縫村川原.....................................................................麻作らず\n愛知郡東押立村南花沢...............................................................花の木\n犬上郡脇ヶ畑村大字杉...............................................................御箸の杉\n阪田郡大原村池下.....................................................................比夜叉の池\n東浅井郡竹生村........................................................................竹生島の由来\n伊香郡伊香具村大音..................................................................粉掛地蔵\n同 片岡村今市.....................................................................大師水\n\n岐阜県\n\n揖斐郡谷汲村...........................................................................念仏橋\n山県郡上伊自良村.....................................................................念仏池\n武儀郡乾村柿野........................................................................黄金の鶏\n加茂郡太田町...........................................................................目を突いた神\n益田郡萩原町...........................................................................蛇と梅の枝\n同 上原村門和佐..................................................................竜宮が淵\n同 中原村瀬戸.....................................................................ばい岩\n同 朝日村黍生谷..................................................................橋場の牛\n\n長野県\n\n長野市....................................................................................善光寺と諏訪\n北佐久郡三井村........................................................................鎌倉石\n小県郡殿城村赤阪.....................................................................滝明神の魚\n下伊那郡上郷村........................................................................恨みの池\n同 竜丘村........................................................................花の御所\n同 竜江村今田..................................................................竜宮巌の活石\n同 智里村小野川...............................................................富士石\n東筑摩郡島内村........................................................................仲の悪い神様\n西筑摩郡日義村宮殿..................................................................野婦の池\n同 大桑村須原..................................................................矢さいこ行事\n南安曇郡安曇村........................................................................門松立てず\n北安曇郡中土村........................................................................芋作らず\n上水内郡鬼無里村岩下...............................................................梭石榺石\n\n宮城県\n\n玉造郡岩出山町........................................................................驚きの清水\n登米郡宝江村新井田..................................................................代掻地蔵\n牡鹿郡鮎川村...........................................................................金華山の土\n\n福島県\n\n福島市腰浜..............................................................................鼻取庵\n信夫郡余目村南矢野目...............................................................片目清水\n同 土湯村...........................................................................片目の太子\n伊達郡飯阪町大清水..................................................................小手姫の社\n安達郡塩沢村...........................................................................機織御前\n安積郡多田野村........................................................................氏子の片目\n南会津郡館岩村森戸..................................................................立岩\n耶麻郡大塩村...........................................................................大師の塩の井\n石城郡草野村絹谷.....................................................................絹谷富士\n同 大浦村大森.....................................................................すがめ地蔵\n同 同 長友.....................................................................鼻取地蔵\n\n岩手県\n\n岩手郡滝沢村...........................................................................送り山\n和賀郡小山田村........................................................................はたやの神石\n同 横川目村........................................................................笠松の由来\n下閉伊郡小国村........................................................................原台の淵\n\n青森県\n\n東津軽郡東嶽村........................................................................山の争い\n南津軽郡猿賀村........................................................................片目の魚\n下北郡脇野沢村九艘泊...............................................................石神岩\n\n山形県\n\n東村山郡山寺村........................................................................景政堂\n西村山郡川土居村吉川...............................................................大師の井戸\n北村山郡宮沢村中島..................................................................熊野の姥石\n飽海郡東平田村北沢..................................................................矢流川の魚\n同 飛島村...........................................................................鳥海山の首\n東田川郡狩川村........................................................................毛呂美地蔵\n西田川郡大泉村下清水...............................................................しょうずかの姥\n\n秋田県\n\n南秋田郡北浦町........................................................................片目の神主\n同 同 野村..................................................................寝地蔵\n雄勝郡小安..............................................................................不動滝の女\n北秋田郡阿仁合町湯の台............................................................水底の機\n仙北郡金沢町...........................................................................片目の魚\n同 同 荒町.....................................................................三途河の姥\n同 花館村...........................................................................雨恋地蔵\n同 大川西根村.....................................................................おがり石\n\n福井県\n\n大野郡大野町...........................................................................山の背くらべ\n三方郡山東村阪尻.....................................................................機織池\n大飯郡青郷村関屋.....................................................................水無川" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "思想と性格\n\n「思想」といふ言葉がたびたび口にされる。それは常に「誰か」の思想であると同時に、右か左かといふやうな政治的意味をもつもののやうに考へられる。「思想」そのものと、思想の表現との間に、ある作用がみられることを屡々人は忘れがちであるが、それを「性格」の作用とみるのは誤りであらうか。ある思想はある性格と結びつき易く、またある性格はある思想を生み易いといふやうなことを前提として、これは不即不離なものと云へば云へるが、こゝに注意すべきことは、ある性格が思想に対して弱く、影響が速かでかつ目立つのに反して、ある性格は思想に対して強く、影響が緩慢で内部から徐々に表面に及んでいくといふやうな傾向のあることである。この強さ弱さは、性格のなんらの価値とも関係はない。たゞ、表面が一つの思想に著色される濃度によつて、むしろ、強さが弱く、弱さが強く印象づけられるのみである。思想が信念にまで昇華し、信念が思想としての体系をとる過程に於て、これに対する心理的抵抗は、性格の宿命として、思想を思想するもののみの興味を惹くに足る問題である。\n 観念としての思想が、やゝもすれば脆弱な性格の衣裳となつて、純然たる思想の悲劇ではなく、奇怪な思想の軽喜劇を演ずることを、時代の現象として後世はなんとみるであらう。\n\n掛値とマイナス主義\n\n 現代の教育について多くの革新意見が提出された。いづれも当を得た、あるひは虚を衝いた意見のやうにうけとれる。\n 尻馬に乗るわけではないが、平生から疑問に思つてゐることを、私もついでに云はせてもらへば、ひとつは、道徳教育の上で「これくらゐに云つておいて丁度いゝ」といふやり方、つまり例外を一般の目標にさせようとする見えすいた掛値主義がこれである。それから、学校の試験制度は止むを得ないとして、試験の採点に、なぜ「間違ひ」だけ点を引くことによつて成績の上下をきめ、問題に対する予想以上の名答に対して、その問題に割当てられた点数以上の点数を与へることにより、答案全体の成績を引き上げることをしないのか。例へば二問題のうち、一問題が仮に零点でも、残りの一問題が予想以上に優秀な答案になつてゐたら、極端に云へば敢て満点をつけてもいゝではないかといふことがひとつ。\n この二つの「主義」は、現代の教育に於ける最も痛ましい痕跡を国民の性情の上に印してゐるやうに思はれる。しかも、これは学校教育ばかりでなく、その延長でもあらうか、社会各方面の指導的言論のうちにこれをみるのである。\n 日本国民の、本来、与へられたもの以上を与へ、命ぜられることをそれ以上になさんとする、かの闊達恬淡な気宇は、教育こそがこれを尊重すべきであると思ふがどうであらう。\n\n義腹、論腹、商腹\n\n 浅学にして私は、かういふ言葉が徳川時代にあちこちで用ひられたといふことを知らなかつた。\n 例の殉死の流行した時代、主君の病死に際してさへもその後を追ふ家臣が続々と現れ、遂に幕府は禁令をもつてこれを制したといふ話は、たしかに聞いたことがあるけれども、その当時、この流行に対して、かくも鋭い批判を加へるものがあつたのは、流石に日本人は隅におけぬといふ気がする。\n 切腹といふ行為は、もちろんそれ自身として人間力のある極致を示したものであり、客観的にも悲壮といふ言葉以外にこれを形容することは困難であるが、さういふ神聖な行為さへも、一旦流行となると、その本質から遥かに遠い動機によつて遂行されるといふ不可思議な現象を、三百年以前の日本が既にこれを示してゐたのである。即ち、義腹とは、主に称する義によつて側近たるの務めを死後にまで果さうとする、云はゞ宗教的信念に基くもので、これは、本物の殉死である。論腹とは、主死すれば臣死せざるべからずといふ論法に依つたもので、一種の理攻めであり、時によると、殉死者を一人も出さなかつたと世間で云はれるやうなことがあつては、死んだ主人もさぞ面目なからうといふやうな考慮から、自ら進んでその一人となる老臣があつたであらう。\n ところで、第三の商腹とは、文字通り、算盤づくの切腹である。殉死者の世襲ぎは間違なく禄高を上げられ、主家の覚えはことのほか目出たく、うまくいけば幕府の恩賞にでも与らうといふやうな抜目のない追跡自殺を指すのださうである。何時の時代にも極めて打算的な人物はゐない筈がなく、加俸を望まない武士は、これも殆どなかつたに違ひないけれども、たゞそれだけの理由で、切腹までしてみせるとは、これこそ「ハラキリ」を辛うじて理解する外国人の常識ではとても考へられないことである。彼らには考へられないことだが、しかし、それくらゐのことはしさうだと、われわれには考へられるところが面白い、と、私は思ふ。\n 一念凝つて発する無気味な激しさと、生命を何ものとでも代へ得る気軽さとを、ほんたうに神聖な目的のために、われわれの独自の力としたいものである。\n 時は昭和の御代である。幾千万といふ日本人が悉く「死」をもつて君恩に報い奉らうとしてゐるこのすがたは、米英のともがらにはしよせん想像もつくまい。\n\n理髪業\n\n ある地区で商業報国会の役員会が開かれ、警察の経済関係官から一場の訓示があつた。\n それはそれでよろしいのであるが、役員のうちに、理髪店を経営してゐる某といふものがゐて、訓示中、しきりに首をひねつてゐる。訓示が一向にぴんと来ないのである。それもその筈、訓示の要旨は、「物品を売買するもの」の戦時下の心構へについてであつたからである。\n「理髪業は商業であらうか」といふ疑問が某の念頭にはじめて浮んだ。\n「人間の髪の毛を刈るといふ仕事は、衛生上の必要と外容を整へる本能とを満足させる仕事であつて、一定の道具と技術とがありさへすれば立ち行く職である。してみると、これは整形外科医のそれとまつたく似たものである」と、気がついた。\n そこまではそれでいゝ。\n 彼は、その席で報国会の最高幹部に申出た。「自分たちはどうも呉服屋さんや時計屋さんの仲間入りをして一緒に会を作つても、なんにもお役に立ちさうもないから、どこか適当な別の職域へ加へてもらふことにしたいと思ふ。ひとつ御詮議を願ひたい」\n「まあまあ、そんなことを云はずに......」\n と、これがその返答であつた。\n 彼は諦めかねて、誰彼をつかまへて、「いつたい理髪師は商人だらうか」と、詰問した。\n「まあさうだらうね」\n「だつて、君、なんにもこれといふものを売つてやしないぜ。たかが、クリームとローションの......」\n「理窟はさうだけれども、お客に――毎度ありがたうと云ふぢやないか」\n 彼は、憮然として家に戻り、折から来合せた客の一人に、鏡に映るその無精髭を生やした顔に話しかけた。\n「旦那は理髪屋へいらしつて、いつたい、何をもつてお帰りになりますか」\n「うむ......なんだらうな、まあ、好い気持ぐらゐのもんかな」\n「それだ」\n と、彼は雀躍した。\n「すると、ほかの商売に例へるとなんでせう」\n「芸術家さ」\n「芸術家?」\n「彫刻家だよ」\n「彫刻家?」\n しばらく、彼は考へた。\n「しかし、旦那、彫刻家つていふのは、あつしの知つてるんぢや、夜店へどしどし品物を出してますぜ」\n\n この話は別に大した寓意を含んでゐるわけではない。近頃云はれる「職域」なるものの分類について、さう簡単にはいかぬといふ一例にすぎない。\n\n単刀直入\n\n 日本人の最も好みに通つた物の言ひ方に、「単刀直入」といふのがある。\n「言あげせぬ」といふことが、若し、「議論をせぬ」といふ意味なら、さういふところからも来てゐるのだらう。とにかく、ずばりと物を言ひ、いきなり急所要点をついて、相手に有無を云はせぬ筆法である。もちろん「武道」の呼吸にならつたものと云へよう。\n 実際、言論の士には、廻りくどい方も少くないが、単刀直入の使ひ手がなかなか多い。ほかのことはともかく、単刀直入だけは心得てゐるといふ風な人物もゐるのである。\n うまくいけばこれほど痛快なことはなく、うまくいかなくても、相手に罪を着せることは容易であり、少くとも、こつちはもともとであるやうに思へる。" }, { "role": "assistant", "content": " 大体、人と言葉を交すことを、日本では戦闘競技に喩へる風習があつて、短兵急とか、一本参らすとか、止めを刺すとか、揚足を取るとか云ふ。尚武の国であつてみれば、それは当然であるが、たゞ、そのためには、言葉を武器として使ふほどの用意がいりはせぬかといふことを、私は近頃、ふと気がついた。\n 修練を欠いた言葉の操作は、それが武器のつもりであればあるほど、生兵法の危険を伴ひ、相手を戸迷ひさせ、何か間違ひではないかと、頭を叩かれながら訊ねるやうなことにもなる。\n ところで、単刀直入は、やはり、禅などの影響もあり、人が眼をぱちくりさせることは勘定に入れず、極めて象徴的な一言を放つて、相手が応と受けとめてくれることを期待するところがないではない。\n しかし、単刀直入の名手のみあつて、これと正面から渡り合ふ相棒がゐなくなつた今日を考へると、私はなんとなく淋しい気がする。\n その証拠に、多くの議論を聴いたり読んだりすると、何れも、手応へのない単刀直入と、その解説、弁疏に満ちてゐるのである。\n\n文化の擁護\n\n 私は嘗て二年前、「文化の擁護」といふ言葉は、この時局下に穏かでないし、さういふ考へ方も、戦争といふ国民的事業を遂行しつゝある際、今日までの模造舶来文化などに恋々としてゐるやうにみえてよろしくないから、潔く投げ棄てゝ、今後、文化の「建設」とか「創造」とかいふ方向に一大転換を試みなければならぬ、と云つた。\n これは一部の人々の同意を得たやうに思ふ。\n 当時、一般に「文化」の概念なり、意識なりは、今日とはおよそ違つてゐたことは事実で、云はゞ「文化」の国際性といふやうなものに大きな意義を与へ、戦争も文化の一表現だなどと云へば、忽ち反対者が現れさうな情勢であつたけれども、しかしまた、一面に、「文化」は如何なる状態に於て最も健全に伸び育つかといふ問題を、真面目に考へてゐた人々もゐたであらう。\n「文化」とは何ぞやといふ問題だけは、一応、日本自体の問題として解決され、日本の文化は将来如何なる方向に発展すべきやといふことすら、もはや、心あるものゝ間では、漠然とではあらうが、焦点らしいものもつかめて来たやうに思ふ。\n この時に当つて、私は、前言を翻すことではなく、まつたく新しい見地に立つて、「文化の擁護」といふ言葉を、もう一度使ひたくなつたことを告白する。\n それは、戦争そのものではなく、戦争に附随する様々な予期せざる生活事情のなかに、また、政治そのものではなく、政策遂行の繁雑な手順のなかに、往々、日本文化のかくあるべきすがたを見失はしめ、かくあらしむべき方向を迷はすやうな処理法が、誤つて介入することがあり、これに対して、一言の注意を加へるものがないとあつては、まことに国家のために由々しいことだからである。\n たゞ、一言の注意ですむくらゐなら、わざわざ「文化の擁護」などと云はなくてもよろしいのである。私の考へをもつてすれば、これこそ、戦争目的達成の上からも、政治の日本的な在り方の上からも、なんとかして、有力な民間の声としなければならぬまでに、問題は重大性を帯びて来てゐる。\n\n握り飯\n\n これは実話である。あちこちで話したから二番煎じのやうな気もするが、棄て難いものなので、こゝに収録する。そして、美談とはかくの如きものであらうと思ふ。\n ある若い画家が、写生のためと、暮しを安くあげるために、山間の鄙びた温泉宿で一と夏を過した。\n 宿の附近に駐在所があつて、そこのお巡りさんが度々その画家を訪ねて来た。遊びに来ると云つた方がいいくらゐ、お巡りさんは画家と話が合ふ。夜おそくまで夢中で話し込むこともあつた。\n すると、ある晩のこと、女中が駈け込んで来て、お巡りさんに七分、画家に三分の割合で、かう告げた。\n「そこの時に行き倒れがゐるさうです。子供がそれをみつけて、いま駐在へ行つたんですつて......」\n お巡りさんは、話の腰を折られ、それでも元気をつけて起ち上つた。と、その姿が部屋から消えようとする時、画家は、お巡りさんの後ろから声をかけた。\n「握り飯を持つてつたらどう?」\n お巡りさんは、そのまゝ、下駄をつつかけて、峠へと走つた。\n 画家は、ぢつとしてゐられず、女中にさう云つて握り飯をこしらへさせ、それをつかんで、これも峠へ急いだ。\n 翌日は朝から、お巡りさんが画家の部屋へ顔を出した。\n「やつと送り出した。あゝあ、僕は、もう巡査は勤まらんと思つた」\n「どうして?」\n と、画家は訊いた。\n「どうしてつて、君にしてやられたからさ。握り飯といふ声はたしかに聞えたつもりだが、その時は、なんのことかわからなかつたよ。だつて、行き倒れの処置なんぞ始めてだからねえ。法規になんとあつたか、それを想ひ出しながら駈け出したんだもの。それでも、一所懸命なんだぜ、職務上、手落があつてはならんと思つて......」\n お巡りさんの、口惜しさうな、そして悄げ返つた様子を、画家は面白さうに眺めながら、\n「だつて、立派に職責は尽したんだらう?」\n「うむ、尽したと云へば云へるが、さうでないと云へば、さうでないとも云へる」\n「お巡りさんとしての?」\n と、画家は念を押した。\n「さうさ、警官として、行き倒れの命は救はんでいゝといふ法はない。君が握り飯を持つて来なかつたら、あいつ、助からなかつたよ」\n 画家は始めてわかつたといふやうな顔をし、お巡りさんの真剣な眼差しに見入りながら、ふと、胸をつまらした。\n「僕は絵かきで、ほかになんにもすることはないぢやないか」\n 慰めるつもりで、画家は、呟いた。\n「僕は警官だ。ねえ、人民の生命財産を保護するといふのが第一の勤めなんだ。僕は平生、神にさう誓つてゐながら......」\n お巡りさんが、いよいよくどくならうとするので、画家は、口笛を吹きだした。\n 話はこれだけである。私は、もちろん、この画家は当り前の「人間」だと思ふ。しかし、お巡りさんは、当り前のお巡りさんでないばかりでなく、なかなかさうざらにはゐない「人物」だと思ふ。この方を実は美談の主として、私は推賞する所以である。\n\n この話は、もう一つの、ある医者から聞いた話に通じるところがありさうだから、これも序に紹介する。\n ある婦人がお産をして寝てゐた。産科の医者がもう起す時分だと思ふ頃、その産婦は胸が痛むと云ひ出した。産婦の主人の希望で内科の医者が呼ばれた。医者二人の対診がはじまつた。\n 内科医は、軽微な肋膜と診断した。しかし当分絶対安静を必要とする旨、厳かに宣告した。\n 産科医は、当惑げに、産婦の経過から云へば、もう今日明日にも床上げをさせなければ、婦人科的に見て余病を起す惧れが多分にあるのだがと、説明した。\n 内科医は、それはさうかも知れぬが、内科的に云へば、この容態では、なんとも致し方がない、と答へた。\n 産科医は、それでは、極く静かに床の上に坐らせるぐらゐはどうか、と訊ねた。\n 内科医は、それは貴下の御自由だが、自分には責任はもてぬ、といふ。そして、附け加へる。いつたい、これ以上寝てゐると、どこがどうなるか知らんが、あとはまたあとでなんとか処置があるだらう、と。\n 産科医は、それがさう簡単にはいかんので、と曖昧に云ふ。\n これを側で聴いてゐる産婦とその主人とは、気が気ではない。\n この話を私にして聞かせた医者は、最後にかう言つた。\n「そこで、その産婦のことはもう心配せんでいゝけれども、かういふことはだね、つまり、近頃の医者が、患者の生命よりも病気により多く関心をもつといふことなんだ。病気は癒した、しかし病人は殺した、といふやうな例もなくはないぜ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n *\n\n 他方、当時の思想状態もまた混乱を極めていた。異国との交通が頻繁になるにつれて、様々の教義が流入し、国内に様々の説を流布するものが続出するのはいつの世も同じである。国運隆盛は半面に必ずこうした危険を伴わねばならない。奈良朝時代には、仏教のみならず諸々の漢学、法、算、暦、易、陰陽、方術、医学、呪禁等が唐より流入したのであるが、それは屡々神秘不可思議な思想として、乃至は迷信として人心に作用した。たとえば後にもふれる長屋王の変のごとき、その理由は「私に左道を学んで国家を傾けんとす」というのであるが、「左道」とは何か、今もって史家の見解は定らない。またその後まもなく、天平元年四月百官に賜われる詔には「有学習異端、蓄積幻術、厭魅咒咀、害傷百物者、首斬従流」と戒められている。異端を学び、幻術を蓄積し、厭魅咒咀して百物に害を及ぼす者は、首謀者は斬罪に、連類者は流刑に処すというのであるが、今日で謂う思想取締乃至は邪教処断を思わしめて興深い。いずれにしても天平精神の昏迷を示すものといえよう。万葉後期の諸歌人がこの間に処して、言霊を云々したのも大きな戦いであった。\n その他続日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や掠奪も多く、人心不安だったことがうかがわれる。これに対する禁令が屡々みうけられるし、聖武天皇は御心配になって、徒に重罰を科すことを戒められ、法の適正な運用にみ心をつくされていることが拝されるのである。要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。仏陀の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化は及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の裡にこそ信仰の光りは輝き出ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、泥中の蓮華のごとく咲き出でたのである。この点については後節「不空羂索観音」で更に詳しくふれたい。\n 民草のすべてが仏陀の教えにめざめ、国内悉く平穏に、云わばわが国そのものが浄土の荘厳を現出するよう御二方は祈念された。地上天国の樹立――これこそ御二方の描かれた壮大な夢であったのである。東大寺を総国分寺とし、法華寺を総国分尼寺として、全国各地方に分寺を建立せしめられたのも、また東大寺というよりは我が国分寺すべての本尊として大仏鋳造の念願を発せられたのも、すべて以上に述べた事情に基く。\n 何よりもまず理想を実行に移されようとした。乾坤一擲ともいうべき途方もない壮大な計画を実現された情熱には、凡情のとうていうかがい知れぬ激しさがある。同時に、天平の深淵の凄じさも推察される。\n 天平十五年十月に発せられた、大仏鋳造に関する詔に、私がいままで述べたような帝のみ心はよくあらわれていると思うので左に記する。\n「粤に天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して廬舎那仏の金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が智識となす、遂に同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしめん、夫れ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり、此の富勢を以て此の尊像を造ること、事成り易くして、心至り難し、但恐らくは徒らに人を労する有りて能く聖を感ずる無く、或は誹謗を生じ、反て罪辜に堕ちんことを。是の故に智識に預る者は懇に至誠を発して各介福を招かば、宜しく毎日三たび廬舎那仏を拝し、自ら念を存し各廬舎那仏を造るべし、若し人の一枝の草一把の上を持ちても像を助け造らんと情願する者あらば恣に之を聴せ、国郡等司此の事に因りて百姓を侵擾して強ひて収斂するなかれ」\n これをみるに、帝の造仏の決意がいかに深く、且つ雄大細心なるかをうかがうことが出来るであろう。国民すべてとともに恩寵を蒙り、菩提を致さしめんと、何よりもまず民草の上に御心を垂れ給い、ついで「夫れ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり」と帝王の尊厳を雄大な言葉で述べておられる。またかような大規模の造営に際して、役人が民草を強いて働かしめることなきよう細心の注意を告げられ、たとい一枝の草一把の土でも、助けようと欲するものにはこれをゆるせと仰せられている。即ち天皇の祈念されたところは、全国民が一致して、自発的にこの壮大な地上天国をうちたてることであった。信仰を導きとして、豪壮無比の大芸術品を地上に構想されたのである。上宮太子の「和」の精神をも、必ずや大伽藍の上に夢みておられたであろう。\n この詔が発せられて、大仏殿が実際に建立され、大仏の開眼供養が行われたのはおよそ九年の後、天平勝宝四年の四月であった。これよりさき聖武天皇は出家されたので太上天皇と申し上げ、光明皇后は皇太后と申し上げた。すでに孝謙天皇に位を譲られた後であるが、開眼供養の当日には三方おそろいにて出御され、文武百官、一万二十六人の僧侶が大仏殿に参集したと伝えられている。堂上堂下は花をもってうずめられ、五色の幡がひらめき、放鳥と空中より降らす花のあいだに諸々の音楽と舞踊が行われ、読経の声は潮のごとく奈良の山々にひびいたといわれる。また東大寺の門前には数万の民草がひしめきあいながらこの盛儀を拝していた。このとき大仏殿の上にあらわれた光明皇后の御姿は、輝くばかり美しく崇高であったであろう。\n\n *\n\n 光明皇后の御生涯は、かくのごとく聖武天皇と信仰をともにされた美しい生涯であったが、しかし皇后もまた帝にもまして時の苦悩を負われた方であった。前にちょっとふれたように、光明皇后は不比等と橘三千代とのあいだにお生れになったのだが、この橘三千代は天平の背後に躍った稀代の辣腕家であった。血族国家において女権の伸長するのは、とくに女帝のみ代において甚しい。持統、元明両帝は女帝であったが、次の文武天皇を養育申し上げるためには当然乳母を要した。三千代ははじめ県犬養連三千代と云い、三野王の女房であったが、その後長く宮廷に仕え、とくに乳母として大功があった。女帝の信頼も厚く、文武天皇の妃を選ばれる折にも、必ずや絶大な発言権をもっていたであろうといわれている。かように宮廷の事に参与する女性が、ひとたびそこに野心を生じたとするならば、その害毒たるや実に大きいといわねばならない。\n 文武天皇が成長され、不比等の娘宮子を妃とされた後、三千代は不比等の妻として再縁した。すでに外戚たるゆえの威望漸く高まった不比等の夫人となったことは、さきの乳母としての功とあいまって、三千代の勢力をいよいよ増長せしめたことは云うまでもない。彼女は自家一統の繁栄をはかるとともに、政治にも容喙し、諸臣の進退に言をはさみ、自家に不利なるものはおとしいれた。いま法隆寺に伝わる彼女の念持仏が白鳳の比類ない荘厳を具現しているのは不思議である。あのように崇高なみ仏を拝した人とは思われない。尤も崇仏と政治謀略は別であったことは、馬子以来の伝統かもしれない。\n 光明皇后はこの辣腕の夫人を母として生れたのである。神亀元年三月御年十六歳のとき光明子として聖武天皇の妃となられ、天平元年八月に皇后として立たれた。臣下の姫にして皇后となるのは稀有であり、まして不比等一族の背景あることを思えば、当時群臣に与えた衝動の大きかったことは云うまでもない。長屋王の自尽は讒言に由ると伝えられるが、若しこの王在世ならば、光明子立后の事もなかったであろうと言わるるところからみても、長屋王の変の背後に介在する魔手は想像がつく。光明皇后は誕生とともにすでに暗澹たる運命を担われていたのだ。\n しかも光明皇后御自身は、無比の美貌と端麗の挙措を以て、私心なく帝を愛され、帝とともに信仰の道に入って行かれた。藤原不比等の娘として、おそらく最高の教養をうけられたであろうし、この名家にふさわしい誇りと気品を備えておられたであろう。続日本紀巻二十二(淳仁天皇紀)には、天平宝字四年六月、皇后崩ぜられし時の追悼の記がみられるが、「幼而聡慧、早播声誉、勝宝感神、聖武皇帝、儲弐之日、納以為妃、時年十六、摂引衆御、皆尽其歓、雅閖礼訓、敦崇仏道」としるされている。若く美しい妃として、群卿に臨まれ、つねに優雅な振舞いをもって接したもうたことが推察される。母君たる三千代夫人にも無心の孝養をつくされたであろう。しかも一方において、御自身に注がれる羨望と反感の眼をも、鋭敏な御心は必ずや感じておられたに相違ない。皇后に関する伝説はすべて熱烈な信仰を物語っているが、血につながる一切のものの罪禍を、自らそれとなく悟られ、観無量寿経の韋提希夫人のように仏前に祈られたのではなかろうか。ともあれ光明皇后は、女性の身として、時の最も苦しい立場に立たれたことは歴史をみるとき明らかである。\n\n *" }, { "role": "assistant", "content": "\n 皇后に関する伝説のうちで、今日最もひろく知られている二つの事について次に述べよう。そのひとつは文答師の、皇后をうつして三躯の観音像を彫ったという伝説。\n 北天竺の乾陀羅国の見生王という王様がいたが、どうかして生身の観世音菩薩を拝みたく思い、発願入定して祈りをささげた。するとやがて、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝せよというお告げが下った。見生王は自身かような遠国へ渡ることはとても不可能なので再び入定して祈ると、今度は彫刻師を派遣して光明皇后の御姿を彫らせ、それを拝せよとお告げがあった。そこで王は文答師という名匠をはるばる日本へよこすことになった。文答師は難波津に着いて、この旨を奏上したが容易にゆるされない。ただ皇后御自身の願い――即ちその頃亡くなった母君のために御堂に安置する仏像をつくってくれるならば、望みをかなえようということになって、文答師は皇后の御願とおり釈迦像をつくった。その代り漸く光明皇后を写しえて、三躯の観音像をつくることが出来たという。一躯は見生王のため本国にもちかえり、他の二躯はわが国にとどめた。いま奈良の法華寺に安置されている十一面観音立像は、その御姿であるという伝説である。\n むろんこれは伝説であって厳しい考証に堪えないのであるが、しかしこうした伝説の裡には、当時の人々の、光明皇后に対するひそかな憧憬が宿っているのではなかろうか。前述のとおり皇后は無比の美貌であり、云わば天平の美の象徴として思慕の的であった。その端麗にして気高い御姿が、かかる美の伝説を生んだともいえよう。\n いまひとつは皇后の熱烈な信仰に関する伝説である。続紀にもしるされているように、「太后(光明皇后)仁慈志在救物、創建東大寺及天下国分寺者、本太后之所勧也、又設悲田施薬両院、以療養天下飢病之徒也」――皇后は慈心ふかく、諸寺建立のために力をつくされたのみならず、皇后宮職に悲田と施薬の両院を設け、天下の病者や飢えたる者を救い養われたのは事実である。志、物を救うに在りと続紀のしるせるとおりである。\n ところで法華寺の境内には、光明皇后施浴の「から風呂」がある。皇后が病者のために建てられた浴室であるという。伝説によると、或るとき皇后は、自ら千人の垢を流してやろうという誓を立てられた。そこで、日々ここに集まる汚れた肉体に、自ら御手をさしのべられて、九百九十九人までの垢を流してやった。ところがいよいよ最後のひとりになったとき、それは身体の崩れかかった癩者であった。臭気は湯殿に充ちて、さすがの御誓いもこの最後の一人で破れるかと思われた。しかし癩者は、自分の体から流れ出る膿を吸って下さるならば必ず快癒するにちがいないと申し立てた。いかに深い慈心といえどもこれだけは躊躇されたであろう。しかしこの一歩において誓いを破ることは信仰がゆるさなかった。遂に皇后はやむをえず、その美しい唇を癩者の肌にふれ、膿を吸いつつ全身に及んだという。すると癩者の身体は急に麗しく光りを発し、仏の姿と化して立ち去ったというのである。\n むろんこれも伝説であるが、しかしさきの場合と同じく、ここにも皇后に対する当時の民草の思いはひそんでいるであろう。全く根拠のないところには伝説はない。浴を賜わったことへの感謝の思い出でもあろうか。或は皇后の御手を、自らの身体にうけた病者達の激しい感動と謝念が、こうした伝説を生じたとも考えられようか。文答師の場合は美の伝説であり、これは信の伝説である。皇后が、天平の美と信仰を代表さるる花華として仰がれていた証拠でもあろうか。かように奇しく美しい伝説のまつわっておらるる方は、わが国史でも皇后以外にはない。なお法華寺十一面観音や浴室を通じて皇后を偲んだ歌が、会津八一博士の「鹿鳴集」にある。\n\nふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる\nししむらはほねもあらはにとろろぎてながるるうみをすひにけらしも\nからふろのゆげたちまよふゆかのうへにうみにあきたるあかきくちびる\nからふろのゆげのおぼろにししむらをひとにすはせしほとけあやしも\n\n ここに「あかきくちびる」と歌っておられるのは、法華寺十一面観音の唇が生身のように朱に染められているからである。ふくよかな肉体をもった蠱惑的な像である。右手をすっと伸ばして、衣の裾をゆびで軽くつまみあげているが、人指しゆびと小ゆびのかすかにそりかえっているのが実に美しい。右足をそっと斜に出して、まさに蓮華の花の上を渡ろうとしている御姿である。\n\n *\n\n 聖武天皇は前述のごとく出家し、譲位して太上天皇となられるとともに、皇后も位を退かれ光明太后とよばれた。しかし次の孝謙天皇登位とともに、皇后宮職は紫微中台と改められ、不比等の子武智麻呂の次男たる仲麻呂がここにあって専ら内政のことに当った。孝謙天皇は女帝であらせられたので、いきおい光明太后が摂政され、紫微中台より令旨は発せられるようになった。この間、藤原氏の勢力一層はびこり、時に内訌はあったが、仲麻呂を中心とする一族はいよいよ強固に政治の中枢をかためた。太上天皇は剃髪して沙弥勝満と名のられ、政の中枢より離れたわけであるが、藤原氏一族による不如意の事もあったように後世史家は語っている。聖武天皇の厚い祈念にも拘らず、その後も外戚の専断おさまらず、国民の状態また不安にして、御念願のとおりでなかったことは、史に明らかである。光明太后摂政とはいえ、もとより実権は藤原氏に在った。\n 太上天皇は御年五十六歳にしておかくれになったが、それより四年の後、淳仁天皇のみ代(天平宝字四年六月)光明太后は御年六十歳であとを追い給うた。十六歳のとき妃となられてより実に四十年あまりのあいだ、太后は藤氏の勢力の裡に在って、不如意のいのちを嘆かれつつ信仰と国政のためにおつくしになったのである。国政についてはもとより太后の御手腕を云々すべきではない。また生前の讃歌が、藤原一門なるゆえとのみ断ずるのも不当であろう。いま親しくそのお人柄を偲ぶべきよすがともなるものは続紀や伝説であるが、私は冒頭にひいた御歌も忘るることは出来ない。かような歌にこそ、光明皇后の親しい音声が、即ちいのちの息吹がこもっていると思うからである。\n また今日正倉院に伝える多くの御物には、聖武天皇と光明皇后の御調度品が多いことは周知のところであろう。紀元二千六百年祝典の日に、上野帝室博物館で私も御物を拝観したが、あの華麗な工芸品の中には、光明皇后が愛蔵され、日夜身近く備えられて、にこやかにめでられた品もあったであろうと、皇后の余香を偲んだのである。また御物中には、皇后直筆の楽毅論も残っているということである。私は写真版によって拝見しただけであるが、たっぷりした力づよい筆致のうちに、一抹の稚拙美もうかがわれ、皇后の鷹揚な御性質が偲ばれて興味ふかかった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n二十五\n\n「しかし癬が汚えといったのが、柳屋の気に入ったというでもなかろう。」\n 愛は真面目に、\n「へい、そういう訳でもないんですがね。」\n「それじゃあ手術台に肌脱の、俗にそれあられもないという処を見られたのが御縁になったか、但しちっとどうもおかしいな。」\n「何、そういうわけでもないんですがね。」\n「何しろ、汝の方からゆすり込んだものと私は思うな。」\n「先生御串戯を、勿論あれです、お夏さんは華族てえと大嫌です。私が心も同一だ、癬は汚えに違いません、ですが、それがどうということはありませんよ。それからね、素肌を気にして腋の下をすぼめるような筋のゆるんでる娘さんじゃアありませんや。けれども私が出入をするようになったのは、こちらから泣附いたんです、へい。」\n「手を合せて、拝みます、と口説いたか。」\n「どういたし、......手前御慮外は申しません、泣ついたのは母親でさ。」\n「ははあ、紋三郎がいったように、いつも酒の方の意見の義だろう。」\n「いいえ、その時は生命にかかわります一件。」\n「おや、お前それでも酒の他にかかわることがあるだろうか。」\n「大有り、」といって愛吉は硝子杯の縁を圧えながら、金之助をじっと見て、\n「串戯じゃアありませんでしたよ、まったく。\n それがね、やっぱりその日なんです、事というと妙なもんで、何でもない時は東京中押廻したって、蜻蜓一疋ぶつかりこはねえんですが、幕があくと一斉でさ。」\n「大層感じたな。」\n「まったくですから。」\n「じゃあ何か、華族様へ御無礼を申したとあって、お差紙でも着いたのかい。」\n「いえ、先刻も申しました通り、外科室の方へ呼ばれたんで、まずお座は濁りましたね。\n それからお手当が済みました、もう通って来ないでも大丈夫だ、あとはただ大人しくなさいよ、さ、大人しくしろが可うございましょう。\n 無暗とお礼を謂って匆々に山の井さんの前を抜けて、玄関へ参りますとね、入る時にゃあ気がつきませんでしたが、ここにそのまた珍事出来の卵が居たんです。女の子で、」\n「いずれそうだろう。」と金之助は故とらしく深く頷く。\n「まあ、お聞きなさいまし。上口の突尖の処、隅の方に、ばさばさした銀杏返、前髪が膝に押つくように俯向いて、畳に手をついてこう、横ずわりになって、折曲げている小さな足の踵から甲へかけて、ぎりぎり繃帯をしていました、綿銘仙の垢じみた袷に、緋勝な唐縮緬と黒の打合せの帯、こいつを後生大事に〆めて、」\n「大分悉しいじゃないか。」\n「私だって先生、唐縮緬と繻子ぐらいは知ってますぜ。」\n「幾干か出せ、こりゃ恐ろしい。」\n「真平御免なさい、先方は小児なんです。ごく内気そうな、半襟の新しいが目立つほど、しみッたれた哀な服装、高慢に櫛をさしてるのがみじめでね、どう見ても女中なんですが。\n 恐ろしく疼むかして、小さく堅くなって、しくしく泣いてるんです。\n 姉さんどうしたんだッてね、余り可哀相だから声を懸けてやりましたが、返事をしません。疵処にばかり気を取られて、もう現なんだろうと思いました、少いのに疼々しい。」\n\n二十六\n\n「じれったいから突然肩に手を懸けると、その女中は苦しくッてか、袷も透すような汗びっしょり、ぶるぶる震えているんでしょう。\n どうしたんだって聞きますとね、足の裏から突通るほどの踏抜をしたんだそうで、その前の日の事だっていうんです。\n 見りゃ込合っていましたけれど、どれも病人、人の世話を焼こうという元気の好い奴は居りませんや、こいつかかり合だ、身体を抜くわけにゃいかねえような気になりました。\n 一体どこの者だ、家は遠いかって聞きますとね、つい五町ばかり先でございます、あの、親分の処に、と弱った声でいいました。親方というのは鯰の伝――どうです騒の卵じゃありませんか、尋常事じゃアありますまい。\n 何でも伝が内の奉公人に違えねえ。野郎め、親方々々と間違でも人に謂われる奴が、汝が使ってる者がこんな怪我をしてるのに、医者に寄越すッて、ないら病の猫を押放したような工合は何たる処置だい、姉さんをつけて寄越さないまでも、腕車というものがないのじゃあなかろう、可哀相に丸ぽちゃの色の白いのが、今の間にげっそり痩せて、目のふちを真蒼にしていらあ、震えてるぜ。\n そう思って堪らなかったんですが、気が着きますとね、待てよ、私が思った通を口へ出して謂やあ、突然伝を向うへまわして、ずらりと並べる台辞になる、さあ、おもしろい、素敵妙だ。\n 一番、この女をかつぎ込んで、奴が平生侠客ぶるのを附目にして、ぎゅうと謂わそう。\n 蝦蟇の膏で凹まされるのも何のためだ、忘れやしねえ。」\n と話をするにも凄まじい意気込だった、愛吉はちょいと気をかえ、\n「へへへへ、先の縁日の晩のは、全くこっちが悪かったんでさ。落度はあったって口惜いにゃ口惜いでしょう、先生、子曰はよして聞いて下さい、可うございますか。」\n「可いさ、可いさ。」\n「オイ、姉や、私が肩へつかまりねえ、わけなしだ。お前ン処まで送ってやろうと、穿物を突懸けておいて、蹲んで背中を向けますとね、そんな中でも極のわるそうに淋しい顔をして、うじうじ。\n じれってえ女じゃあねえか、尻なんざあ抱きやしねえや、帯を持って脊負ってやら、さあ来い、と喧嘩づらの深切ずくめ、言ぐさが荒っぽうございますから、おどおどして、何と肩へ喰いつくように顔をかくして、白昼、それでもこの野郎の背中へ負をしましたぜ。あとで考えると気の毒でさ、女の気じゃあ疵が痛む方がどんなにお恰好だか知れませんよ。\n 全く叱りつけるように勧めたんですからね、すすめ人が私でしょう。阿魔はてっきり、ぶんなぐられると思って負さったもんです、名はお米ッていいます、可愛い女なんですがね、十七でしたよ。\n さあ、歩行き出すと、こう耳朶の処へ縺れた髪の毛が障るでしょう、あいつあ一筋でもうるそうがさ、首を振るとなお乱れて絡いますから、呼吸をかけてふッふッ鬢の尖を向うへ吹いちゃあ、三角の処まで参りますとね、背後から腕車が来ました。\n 町幅が狭いんですから、すれ違って前へ駆け抜けたと思うと、振返った若衆と一所に、腕車の上から見なすったのは先刻のお嬢様、ええ、お夏さん。」\n\n二十七\n\n「藤お納戸の、あの脱いであった羽織を被ておいでなすった。襦袢の袖口に搦んだ白い手で、母衣の軸に掴まって、背中を浮かすようにして乗ってましたっけ、振向いて私がお米を負ってた形を見て莞爾笑いなすった。\n 顔を見合せますとね、こっちでも何だか知己のような気がしたもんですから、遠慮しねえで、\n(今日は、)と肚の中で言ってお辞儀したんです。" }, { "role": "assistant", "content": " 腕車は何、休んだんじゃあございません、駆けてる中、ちょいとの間なんで、そのまま飛ぶように行っちまいましたが、縁でございましょう、先生。\n 世の中というものは、どこにどんな引かかりがあるか知れませんぜ。なぜッてますと、あとで分りましたが、そのお夏さんの勝山という家は、私の亡くなりました父爺が、船頭で、奉公人同様に久しい間御恩になったのでございました。\n さあ、それから米坊をかつぎ込んで、ちょうど縁端に大胡坐をかいて毛抜をいじくってやあがった、鯰の伝をふんづかまえて、思う状毒づいたとお思いなさいよ。\n くだらないことをお耳に入れるでもありませんから、始末は申上げませんが、何しろ侠客だとか何とかいわれる分では、お米に届かねえ点が十分にあったんですから、こりゃ力ずく、腕ずくじゃあ不可ませんや、伝の親仁大凹み。\n こっちあぐッと溜飲が下って、おさらばを極めてフイとなって、ざっぷり朝湯を浴びた気さ、我ながら男振を上げて、や、どんなもんだい。\n 人形町居廻から築地辺、居酒屋、煮染屋の出入、往復、風を払って伸しましたわ、すると大変。\n 暗がりを啣え楊枝、月夜には懐手で、呑気に歩行いてると、思いがけねえ狂犬めが噛附くような塩梅に、突然、突当る奴がある、引摺倒す奴がある、拳固でくらわす奴がある、一度々々呼吸を引かないばッかりで、はッはッと思うことが、毎晩じゃアありませんか。」\n「成程、」\n「その度に微傷です、一年三百六十五日、この工合じゃあ三百六十五日目に、三百六十五だけ傷がついて、この世を宜しく申させられそうで、私も、うんざり。\n 様子を聞くと、伝がこの事を意趣にして、子分子方の奴等がしょっちゅう附け廻すんだそうですから、私あ堪らなくなって、舟賃を一銭出して、川尻を渡って佃島へ遁げました。\n 佃島には先生、不孝者を持って多いこと苦労をする婆さんが一人ね、弁天様の傍に吝な掛茶屋を出して細々と暮しています、子に肖ない恐しい堅気なんで。」\n「何だい、それは、」\n「私の母親でございます。」\n「それだもの。」\n「へへへへ、今更いたし方がありません、そこへ転がり込んで、居縮まって震えてたもんですから、愛吉どうしたんだって、母親が尋ねます。\n これこれだといいますとね、それだから常日頃いって聞かさないことではない、蟻じゃあなし、毛虫じゃあなし、水があったって対手は渡って来ます。しかし......鯰の伝......それならば死んだ父爺が御恩になった深川の勝山さんへ出入をするから、彼家へ行って、旦那様にお頼み申して、伝にいい聞かしておもらい申して、お前の身体を無事なよう計らいましょうと、父爺が亡くなってからも暑さ寒さにゃあお見舞を欠かしたことがないという、律儀はこんな時用に立ちます、で母親が取りあえず。」\n\n二十八\n\n「深川へ参りましてね、母親が訳を謂って話をしますと、堅気の商人だ、遊人なんぞ対手にして口を利けるんじゃあないけれども、伝か、可し、鯰ならば仔細はないと、さらりと埒は明いたんです。\n 私はこんなやくざものの事ですから、母親も別に話さないでいたのがその時知れまして、そうか、そんな倅があるのか、床屋が家業と聞きゃちょうど可い、奉公人も大勢居るこッた、遊びながら働きに寄越すが可いと、深切におっしゃって下すったので、二度目にはお礼かたがた、母親について伺いますと、先生、吃驚しましたぜ。\n 中庭でもってきゃっきゃっという騒ぎ、女中衆が三四人、池の周囲を駆けてるんで、鬼ごッこがはじまってるか、深川だって呑気なもんだと、ひょいと見るとどうです、縁側に腰をかけてたのは山の井の診察所で見た、別嬪だろうじゃありませんか。\n そうして女中が遁げるのを追懸けますのは、恐しい、犬でも蹴そうな軍鶏なんで。\n 今でも柳屋に飼ってあります。強いことッたら御用の小僧なんか背後からはたかれて、ぎゃっといって、打っ坐りまさ。\n 心持が可うございますぜ、とさかを立ってずっと伸して、眼をくるりと遣りますとね、私とでも取組みそうでさ。一体気の勝った、お夏さんは癇癪持なんだけれど、婦人だけにどうすることも出来ないんですから、癪なことは軍鶏と私とで引受けてるんで、ええ、可うごす、軍鶏と愛吉とで請合いましたと謂うと、蒼くなって怒ってる時でも莞爾しまさあ。\n お夏さんは飛んだその鶏を可愛がってます。それから母上はいうまでもありませんが、生命がけで大事にしているお雛様がありますよ。\n 十軒店で近頃出来合の品物じゃあないんだそうで、由緒のあるのを、お夏さんのに金に飽かして買ったって申しますがね、内裏様が一対、官女が七人お囃子が五人です、それについた、箪笥、長持、挟箱。御所車一ツでも五十両したッていいますが、皆金蒔絵で大したもんです。\n このお雛様の節句と来た日にゃ、演劇も花見も一所にして、お夏さんにかかる雑用、残らず持出すという評判な祭をしたもんですッさ。\n 私が勝山に伺うようになりました翌年、一昨年ですな。\n 三月三日の晩、全焼にあいなすった。」といいかけて、愛吉は四辺を眗したが、浮かぬ色をした。\n 声も低く、\n「しかも私が行合せていたんです。十時頃でございましたね、お雛様を見せておくんなさいって、勝手の方から。不断、皆様で可愛がってくれますし、お夏さんも贔屓にして下すったもんだから、すぐにその何でさ、二階の座敷へ上りました。\n 目の覚めるような六畳は、一面に桜の造花。活花の桃と柳はいうまでもありませんや、燃立つような緋の毛氈を五壇にかけて、炫いばかりに飾ってあります、お雛様の様子なんざ、私にゃ分りません、言ったって、聞いたって、ただもう綺麗で沢山。\n お夏さんは直ぐその壇の下の処に雪洞を控えて、立派に着換えていなすったっけ。\n あの内裏様のだって、別に二個蒔絵の蝶足のそうですな!......」\n 愛吉は卓子の上に四角な線を指の先で引いた。\n「この位なお膳がありましょう、男雛のと女雛のと一対、そら、あの、」\n 金之助は熱心に耳を傾けながら頷いた。\n\n二十九\n\n「可うございますか、その一対の小さなお膳を、お夏さんが自分の前に置いて、もう一個の方を向うへならべて、差向いという形で居なすったが、前には誰も見えなかったんです。\n 指を丸げた様な蒔絵の椀、それから茶碗、小皿なんぞ、皆そのお膳に相当したのに、種々な御馳走が装ってありましたっけ。\n その後病気で亡くなりましたが、あの診察所に附いていた年増ね、乳母というんじゃあなかったんですが、お夏さんのお気に入で傍の処へ。もう二人、小間使が坐って、これが白酒の瓶を持ってお酌をしてる、二ツ三ツ飲んなすったか、目の縁をほんのりさせて、嬉しそうに、お雛様の飾りものを食べてる処で。\n や、素敵なものだと、のほうずな大声で、何か立派なのとそこいらの艶麗さに押魂消ながら、男気のない座敷だから、私だって遠慮をしました。\n いつものようにお台所へ下ってお末の出尻と一所に頂くべいとね、後退りに出ようとすると、愛吉さん一ツあげましょうかと、お夏さんが言ったんです。\n まるで夢中、私あ腰が抜けたように突然そこへ坐りましたぜ。\n さあ、一面の桜と、咲乱れた桃の中、雪洞の灯で見たその時の美しさ。\n しかも微酔と来ていましょう。もう雛壇を退けようという三日の晩、この間飾ってから起きると寝るまで附添って、階下へも滅多にゃあ下りたことのないばかり、楽み疲れに気草臥という形で、片手を畳について右の方に持ってなすった小杯を、気前よくつつと差してくんなすったい。\n 震えながら......まったくですよ、震えながらそのお杯を受けようとすると、愛吉さんもうちっとそちらへと、傍から年増のが気をつけたんです。\n 坐ったのは、お膳の前でしょう、これは先生。毎年々々そうやって差向いに並べても、向うへ坐った奴はまだ一人も無かったんだそうで。\n お夏さんは朋友が嫌だっていうんです、また番頭や小僧が罷出ようという場じゃアありませんや。\n しかもその年、一昨年ですな、その晩にゃ私より一足前に、雛の間で一人お客があったんです。\n 何でも天下に聞えた立派な豪傑な爺だそうですが、旦那とは謡の方で、築地の宝生の師匠の宅ね、あの能楽堂などで懇意になってるんだって謂いましたよ。大層な雛だというが、どれどれと押上がって、やあ一人でやっていなさるの、私が相手をしようッて、そのお膳の前に坐りましたっさ。\n お爺ちゃん、厭なこった! とお夏さんが屹となったので、傍の者はあッふあッふ、旦那も御新造様も顔色を変えなすったけ。ははあ、これは遣られたと、肥った腹から大笑を揺り出して、爺さんは訳もなく座敷をかえ、階下で今、旦那、御新造様なぞと一座で飲んでいるという、その後でしょう。\n だから年増は遠慮しろと気を着けたんでさ。\n するとお夏さんがね、可いよッて、言いながら、白酒の瓶を取って、お酌して酔わしてやろうや。莞爾してお前様、いえさ、先生!」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " そうだ、海中に山なし、体を離れて肝なし。俺は自分の古い肝を噴火口の中に投げ込んできたつもりだったが、体を離れて肝はなく、それはやはり俺の胸の中にあるのだ。瞞されてはいけない。ただ、その古い肝を新らしいものに更生させなければならないのだ。まだ未練があるのか。古い肝の憂愁が俺を苦しめるのか。もうたくさんだ。秋晴れの好天気が続く頃だ。起き上ってやれ。\n\n八\n\n 北村庄作はしずかに眼覚めた。泥酔後のこととて、徐ろに晴れてゆく霧の中に意識はまだ半ばたゆたってる気持ちで、謂わば水中の魚の眼覚めもそのようなものであろうか。\n もはや陽も高く昇っているらしい明るみが、障子一面にさしていた。北村は布団の中で思いきり伸びをし、枕頭の水をがぶがぶ飲み、煙草を吸った。だが意識は冴えなかった。布団を頭まで被ってみた。ふっと、涙が出てきた。\n その涙に、彼は駭然とした。悲しいことがあったのではない。泣きたいことがあったのではない。理由もなく流れだした涙なのだ。それ故に却って、根深く心に痕を止めて、漠然たる恐怖を起させる。自分自身が、すべてのものが、宙に浮いて頼りない感じだった。\n 足場を求めて、彼は昨夜来のことを思い起してみた。泥酔の後のくせで、多くは忘却の淵に沈みこみ、ただ所々に、幾つかの印象が峙ってるだけである.........。\n\n 前日の午後、北村は数名の画家仲間と共に、若竹で飲んでいた。\n 若竹はもともと、下谷花柳界のなかで最も美術家に親しまれた待合である。空襲のためにこのあたりは、不忍池に面した僅かな一部を残して、すべてが焼かれてしまったが、終戦後次第に復興してきた。若竹もそのうちの一つで、平家建てながら、わりに広々とした間取りである。待合や料亭の閉鎖中のこととて、表面は貸席となっているが、昔からの馴染みの客にとっては、却って気楽に我儘が出来る。\n 正午すぎ、上野の都美術館に集まって、展覧会に関する用事をすました時、誰が言い出したともなく、久しぶりに若竹へ寄ってみようということになったのである。雨と風の天候が、酒席に足溜りを求めさせたとも言える。\n 若竹のお上さんは、楽しそうに彼等を迎えた。その顔立ちが示す通り、ぱっとした派手な気性だ。贅沢なもてなしをされそうなので、彼等は、仲間の一人が金を持ち合せていたとはいえ、少し心細くなって、この頃すっかり貧乏でねと、ケチなことを言い出した。貧乏は昔からでしょうと、お上さんは笑った。お金が足りなかったら、絵を書いていきなさい、とも言った。以前この家には、日本画家の軸物ばかりでなく、洋画家の余技のものまで沢山あった。それらを空襲の火災に焼いてしまったことを、お上さんはひどく残念がっている。\n 芸者まで交えて、一座は賑やかになった。放談と酒がはずんだ。ところが、はじめは酒興をそそった筈の風雨が、烈しさをまして重苦しくなってきた。紀州沖に来ていた台風が、関西方面に上陸する予定を変え、次には静岡方面に上陸する予定を変え、房総沖を通過することになったらしく、東京の被害も予想された。何よりも交通機関が心配だった。夕刻、一同は早めに引上げることにした。\n その時を待ち構えていたように、北村のところへ一枚の名刺を女中が持って来た。北村はうなった。菅原洋平の名刺なのだ。ちょっとお目にかかりたいと書いてある。\n「この家に来ているのかい。よろしい、私の方から行く。」\n 北村は仲間と別れた。\n\n 北村は呆れた。\n 奥の静かな八畳の室で、菅原は酒を飲みながら碁をうっていた。相手は、天元社の若い編輯者の須田正太郎である。菅原は顔を挙げて、丸い眼付きでじっと眺めた。\n「こちらから伺うつもりだったんです。あちら、もう宜しいんですか。」\n 北村は席について、勧められるまま猪口を手にした。なにか腑に落ちない気持ちだ。\n「一体どうしたというんだい。いつ旅行から帰って来たのかい。」\n 帰るといえば、北村の家より外にない。\n 菅原は微笑した。\n「これから帰るところですよ。然し、この雨だから明日にしましょう。」\n「なに、家へはどうでもいいが、東京にはいつ帰って来たのかね。」\n「二三日前でしょうか。疲れていたものだから、少し静養したんです。」\n 須田がくすくす笑った。――彼は社の用で、急ぎの画稿を北村のところへ頼みに行った。北村は不在だった。菅原が旅から帰ってることを聞いていたので、北村の奥さんに尋ねると、まだ帰らないとの返事。少し不審になって、菅原の以前の居所の紹興へ、雨の中をわざわざ訪れていった。菅原はいた。二三日、ほんとに寝たっきりで暮したというのである。少し退屈になったから、碁でもうとうとここへ引っぱって来られた。すると、北村がいることが分った。\n「先生、急いでお願いしたいんです。」と須田は改めて画稿のことを頼んだ。\n 用件をすまして須田が帰りかけるのを、菅原は引きとめた。そして北村へ言った。\n「久しぶりで、ゆっくりやりましょう。今に、あなたへ紹介したい人も来ますから。」\n ゆったりと落着いている。女中を呼んで、芸者などはいらんと言い、銚子をどしどし持ってくるように頼み、そして碁の話などを始めた。相当にうてる須田に六目も置かせる腕前である。酒量のほどはちょっと測り難い。丸く見開いて人を見つめる眼付きに、冴えた光りが籠っている。\n 北村はすっかり信頼する気持ちになった。しみじみと言った。\n「君が帰って来てよかった。」\n「何かあったんですか。」\n「いや。少し気になることがあってね......。どこをぶらついていたんだい。」\n「火山めぐりですよ。阿蘇、桜島、高千穂、浅間と......。あなただったら、いい収穫があったでしょうけれど。今年の展覧会、何点か出品なさいましたか。」\n 北村は眉根をしかめた。\n「今年はやめた。」\n「どうしてですか。」\n「気に入る作品が出来なかったんだ。」\n「それはいい、賛成ですね。気に入る作品が出来なかったから出品しない、その態度は立派だと思います。祝杯を挙げましょう。」\n「その代り、こんどは、個展をやるつもりだ。」\n「いいですね。自分一人だけの個人展覧会、大賛成です。祝杯を挙げましょう。」\n 北村は菅原の顔を見つめた。\n「君は、私をからかってるのかい。」\n「とんでもない。真面目に言ってるんです。」\n 北村は急に笑った。\n「うむ、分ったよ。私は怒りだすところだった。君のいつもの悪い癖だ。人に誤解されるよ。そんなだから、無籍者なんて噂も立つ。不正事件の嫌疑も受ける......。」\n 北村は酔うと、ものを胸にしまっておけなくなるのだ。――彼は天元社内の不祥事件を打ち明けた。印刷用紙の一部がひそかに他へ転売されたらしいこと、その不正行為の疑いが菅原にもかけられてるらしいことなど。\n 菅原はしばらく考えこんだ後、軽蔑的な微笑を浮べた。\n「そいつは、おかしな話ですね。」\n「そうさ、ばかばかしいことだ。然し、君の方もあまりよくはない。旅に出たきり音沙汰なしだからね。」\n「いえ、僕のことではありません。不正事件そのものが、おかしいですよ。そこには、なにか巧妙なトリックがあるような匂いがしますね。」\n「巧妙なトリックによって不正が行われたんだ。」\n「むしろ、不正事件が捏造されたんだと、僕は言いたいですね。些細な不正は、或は幾度かくり返して行われてるかも知れません。大きな不正も、或は企まれてるかも知れません。その両者に対する警告として、手頃な五十万円ばかりのものを捏造し、最も痛痒を感じそうにない僕にその罪を着せる。而も僕は、印刷用紙の問題をも持って旅に出ているので、僕に対する警告ともなる。見事な計略じゃありませんか。天元社にも案外知恵者がいますね。社長の頭から搾り出されたことではありますまい。」\n 余りに善良すぎる考え方だ。然しその底に、ひどく辛辣なものを含んでるようでもある。つまり、人の心を冷りとさせるような善良さだ。\n 沈黙が続いた。風雨はますます勢を増してゆくようだった。平家建てが並んでるせいか、屋根の上を、轟々と荒れ狂った巨大なものが押し通ってゆき、庭先や路地には闇が深かった。\n\n 何がどうしたのか分らなかったが、須田がもうすっかり酔っ払って、涙声で叫びだした。\n「僕は悲しいんだ。ちきしょう、僕は悲しいんだ。」\n「悲しかったら飲めよ。」と菅原は言った。\n「僕は悲しいんだ。菅原さんまで、嘘をつくかと思うと、僕は悲しい。菅原さんは決して嘘をつかない人だと、僕は信じていた。」\n「嘘なんかつかないよ。」\n「いや、でたらめな嘘をついた。あれが嘘でなかったら、菅原さんは天使の仲間か、さもなくば、悪魔の仲間だ。」\n「天使も悪魔も、つまりは同じことじゃないか。」" }, { "role": "assistant", "content": " 須田は黙った。しばらくして言った。\n「いや違う。天使も悪魔も人間じゃない。人間とは違う。ねえ北村先生、そうでしょう。」\n 北村はきょとんとしている。\n「俺は無籍者だなんて、人間の言うべきことじゃない。食糧の配給を受けて生活してる以上、無籍者はない、これは常識です。そんな常識のことじゃありません。心の持ち方だということぐらい、僕にも分る。だが、人間は無籍者にはなれない。どこにも籍がないのは、天使か悪魔だけだ。」\n「その天使か悪魔に、人間もなっていいじゃないか。少くとも、なり得る権利を、人間は持っているよ。なぜなら、天使も悪魔も、人間が作り出したものだから。」\n「僕はそんな権利を信じません。人間には、人間になるだけの権利しか認めません。これは僕が戦地で得てきた確信です。神になってもいけない、動物になってもいけない、虫けらになってもいけない、ただ人間にならなければいけない。人間以外の一切のものになる権利の否定です。そうしなければ、人間は救われません。」\n「君の言うことはよく分るよ。僕も賛成だ。然し、それは道徳の問題だ。僕の言うのは、人間の本質の問題で、つまり人間の領域を拡げたいのだ。権利の拡張によって、領域を拡張したい。そうしなければ、人間は狭い地域に閉じ込められて、窒息してしまう。殊に機械文明の世の中ではそうだ。」\n「今の僕には、そんなことは考えられません。たとい窒息しても、あくまでも人間でありたいんです。僕には一人の母があります。その母を安心させたいんです。もし恋人があるとしたら、どんな犠牲を払ってもその恋人を愛したいんです。それが最も人間らしいことだからです。人間......人間......そればかり僕は考えています。然し考えれば考えるほど、人間は僕の手から遠くへ逃げていきます。なぜでしょう。人間を考えることが、なぜこう淋しいんでしょう。」\n 須田は泣きながら酒を飲み、酒を飲みながら泣いた。菅原も憂鬱そうに黙りこんだ。\n 暴風雨はやみそうになかった。\n\n「周さんが見えましたよ。」\n 女中の後からすぐ、周組南とも一人がはいって来た。\n その機会に須田は帰っていった。\n 菅原は北村と二人を紹介した。周の連れについては、ただ本堂誠と名前だけしか言わなかった。\n 周と北村とは、全然の初対面ではない。紹興の店で顔を合せたことがあるし、名前は菅原を通じて互に知り合っている。\n 席が落着くと、菅原は周に尋ねた。\n「わりに早かったね。駄目だろう。」\n 周は曖昧な微笑を浮べた。\n「僕が言った通りだ。嵐の中を御苦労さまだな。」\n「いや、得るところもあったよ。君の火山のようなものさ。」\n「言葉には言えないことか。そんならまあいいが、本堂君こそ災難だね。」\n「その代償は約束ずみだ。」と本堂は笑った。「周さん、あれ、本当でしょうね。」\n「あ、忘れるところだった。すぐ取り寄せます。」\n 周は北村の方を向いた。\n「北村さん、あなたは洋画家だから、洋酒もお好きでしょうね。ウォートカは如何ですか。」\n「ほう、それは珍らしい。昔はずいぶん飲んだものです。」\n「それは丁度よかった。いっしょにやりましょう。」\n 周は電話に立って行った。戻って来ると、北村の方へ坐り直した。\n「菅原君が長い間お世話になりましたが、こんど、ようやく家が見付かりました。喜んでやって下さい。」\n 北村には思いがけない話だ。菅原の方を見たが平然としている。\n「菅原君から、まだ何も話していませんか。」\n「いいえ。」\n「そうですか。もっとも、菅原君は、どこのどんなところに住もうと、同じことだという、そんな人ですが......。」\n 紹興の近くに家が一つ見つかったから、それを買い取ったと、周は話した。二階に適当な室があるから、菅原に住んで貰う。階下は周夫妻の住居だが、一部を、漢方医局か或は漢方薬局かにしたい。両方とも面倒なら、ただ周個人の研究室としてもよい。――彼は妙に、医局とか薬局とか公然の名称に執着していた。\n「ただ研究室でいいじゃないか。」と菅原は言った。\n「いや、君には分らないよ。草根木皮の薬剤にしても、沢山並べておくと、警察の方がうるさいんだ。」\n「そうですよ。菅原君は何にも知らん。」と本堂が同意した。\n 北村にも漸く理解された。その家は松本の所有だったものに違いない。家の売主を尋ねてみると、果して松本順造だった。\n「松本さんなら、私の親戚に当りますよ。」\n「僕も知っている。」と菅原が言った。\n 周は二人の顔を見比べた。\n「買ってはいけなかったのでしょうか。」\n「いいですとも。私もあなたに買って貰いたかった。あの家へなら、喜んで菅原君をお譲りしますよ。」\n ウォートカの一瓶が紹興から届いた。\n「乾杯しましょう。」と周はグラスを挙げた。\n「菅原君の幸福のためにも。」と北村は言った。\n「菅原君、どうも、彼女は君を愛してるらしいよ。」\n 菅原は珍らしく顔を赤くした。それが北村には嬉しかった。\n 北村は松本千重子に電話をかけた。なんどやっても先方に通じなかった。それから停電となり、蝋燭の火で酒を飲んだ。再び電燈がついてから後、暫くして電話が通じた。菅原が帰ったことを知らせたが、千重子は黙っていて、何にも尋ねなかった。そのことがへんに北村の気にかかった。\n\n 周が取り寄せたウォートカは、芳醇で強烈だった。その合間には日本酒も味が増して感ぜられた。北村は殆んど料理に手をつけず、ただ飲んだ。思わず深い酔いに陥っていった。酔いの底からぼんやり、菅原と周と本堂と、この三人は何のために集まってるのだろうと、妙なことを思った。\n「私はもう御免蒙って帰るよ。」\n よろよろと立ちかけると、いつのまにか来ていた芸者が、体を支えるようにして逆に坐らせた。\n「外はあぶないわ、こんな嵐ですもの。」\n「なに、そんなら君はどこから来た。」\n「天から降って来たのよ。もうお忘れなすったの。そんなぺらぺらな着物、まるで天の羽衣みたいだって、あちらで、なんども仰言ったじゃないの。」\n「ああ、天の羽衣か。よし、飲もう。」\n 風雨は静まりそうになかった。風の方向から察すれば、台風は果して房総沖を通過してるらしかった。\n「昨年の台風と、全く同じコースを辿ってるようだね。」と本堂は言った。\n「全く同じコースだということはあるまい。」と菅原が応じた。\n「そう厳密に言うなよ。大体同じさ。この通り、日本へ襲来する台風がどれもこれも、同じようなコースを辿るものとしたら、対策も立て易いし、被害なんか恐るるに足りないね。」\n「然し、僕は不賛成だ。台風にしたって、いつも同じコースを辿るのは、退屈極まるだろうじゃないか。自由奔放な進路を取ることにこそ、台風の生命はある。」\n「またいつもの議論だな。競馬場のコースだけを駆け廻る競馬馬には、馬の生命はない。いつも同じ所を流れる潮流や、同じ河筋を流れる河水には、水の生命はない。そういうばかな結論に君は陥らざるを得なくなるよ。」\n「ちょっと違う。競馬馬だって狂奔することがある。潮流だって時には変化する。河水だって時には洪水となる。」\n「それでも構わんと言うのかい。」\n「構わんどころか、その方がいいんだ。」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「さよう、たしかにお尋ねのようなことがあったゆえ、ちと不思議でござる。なんでも、何かばりばりとひっかくような音がありましたのでな――」\n「なにッ。ばりばりとかく音がござりましたとな! すりゃ、まことでござるか!」\n「まこととも、まこととも、真もってまことでござる。その廊下のあたりで、何かこうばりばりとかきむしるような音が耳にはいったのでな、不審と思って、そのほうへつい気をとられた拍子に、あれなるうしろのふすまを不意に押しあけて、覆面の武者わらじをはいたやつが、いきなりおどり入りさま、物をもいわずに、このとおり腕を切りとったのでござるわ」\n「ふうむ、さようでござるか。そうするとそろそろほしが当たりかけてきたな」\n ばりばりという音がしたといったその一語によって、すでになにものかの推定がついたもののごとく、腹の底から絞り出したようなうめき声を発して、じっと廊下先の障子を一本一本巨細に見まわしていましたが、と――果然、その痕跡があった。歴然としてそこの障子の一本に何かつめでひっかきむしったような紙の破れのあとがあったものでしたから、右門の声は突如として力に満ちながらさえだしました。\n「切られたその腕は、どうしたのでござる!」\n「え! 腕ですかい。腕なら、だんな、ここにころがってますぜ」\n さすが伝六もおひざもとの岡っ引き、さしずをうけないうちに先回りして、犯跡の証拠収集に努めていたものか、右門のことばに応じて、庭先からそういう声があったものでしたから、まをおかずに、やっていってみると、いかにも手首はまっかに血を吹いて、これがつい数分まえに人のからだへくっついていたんだろうかと怪しまれるようなぶきみな姿をしながら、縁側つづきの便所のわきに投げすてられてありました。しかも、ひょっと見ると、そこの便所の白壁になにやらべったりと黒い跡がついていたものでしたから、右門はあかりをとりよせて、なにげなくのぞき入りました。と同時に、さすがの右門も、おもわず少しばかりぎょっとなりました。見ると、その黒い色とみえたのは紛れもなく生き血の色で、さながらやつでの葉かなんかを押したように歴然と、切り取った手首のてのひらの跡が押されてあったからです。のみならず、その手形の下には、同じ生き血をもって、次のごとき文字がはっきりと書きしるされてありました。\n\n\n――あと少なくも十本はこのように手首ちょうだいいたすべくそうろう。\n\n\n「おそろしくおちついたやつじゃな」\n おもわずうなりながら、じっとそこにころがっている腕首を見改めていましたが、と――不意に、右門の鼻先へぷんとにおってきたえもいわれぬかぐわしい不思議な高いかおりがありました。はてな、と思いましたので、腕首を取り上げて鼻先へもっていきながらかいでみると、いかにも不思議! かつて聞いたこともないようなすばらしく上等の香のにおいがするのです。しかも、あきらかにそれが移り香なんでしたから、右門はあわてて腕を切り取られた当の主人のところへやっていって、それとなく身体をかぎためしました。しかるに、奇怪とも奇怪、その移り香はあるじの身についていたものではないのです。とすると、むろん下手人の身についていた移り香で、ただ一度それをつかんだだけでもこんなにかおりの強く乗り移ったところを見れば、よほど高価な香ということが推察できたものでしたから、もう一度丹念にかいでいると、まさにそのときでした。\n「くせ者じゃッ。くせ者じゃッ。例のやつめがこちらにも押し入りましてござりますゆえ、お早くお出会いめされい!」\n 不意にまた二、三軒向こうの屋敷の中から、やみをついてそう呼び叫ぶ声がありました。まだこちらの始末がつききらないうちでしたから、居合わした警固の面々のいまさらのごとくに二度青ざめたのはいうまでもないことでしたが、伝六もぎょっとなって、血相変えながら警固の面々のあとを追おうとしましたので、すばやくそれを認めた右門が、おちついた声でうしろから呼びとめました。\n「まてッ」\n「だって、逃げちまうじゃござんせんか!」\n「どじだな。今から追っかけていったって、おめえたちの手にかかるしろものじゃねえんだよ。こっちを騒がしておいて、そのすきに隣へ押し入る大胆な手口だけだって、相手の一筋なわじゃねえしろものってことがわかりそうなものじゃねえか。それよりか、ほら、これをな――」\n「えっ?」\n「わからんか、な、ほら、ぷんといい女の膚みたいなかおりがするんじゃねえか。おそらく、向こうの手首にもこれと同じ移り香があるにちげえねえから、ちょっといってかいでこい」\n「なるほどね。ようがす、心得ました。じゃ、それだけでいいんですね」\n「しかり――だが、みんなにけどられねえようにしろよ。騒ぎたてると、ぼんくらどもがろくでもない腕だてをして、せっかくのほしをぶちこわしてしまうからな」\n「念にや及ぶだ。あっしもだんなの一の子分じゃごわせんか。どっかそこらの路地口であごひげでもまさぐりながら、待っていなせえよ」\n 自分のてがらででもあるかのように伝六が駆けだしたものでしたから、右門は災難に会った一家の者に悠揚として黙礼を残しながら立ち去ると、門を出たそこの路地口のところで、いったとおりあごひげをまさぐりまさぐり、伝六のかえりを待ちうけました。まもなく駈けもどってきた伝六の報告によると、果然切り取られた手首には同じ香のにおいがあったばかりでなく、血の手形の跡もばりばりと何か障子をひっかいた手口も、全然両者が同様であるということがわかったものでしたから、もうそれからの右門は例のごとし――いいこころもちにふところ手で宿に引き揚げていくと、すっぽりと郡内かなんかの柔らかいやつをひっかむって、すやすやとすぐに快い寝息をたてだしました。\n\n 4\n\n しかし、朝になると、右門はまだ朝飯さえもとらないうちから、反対におそろしく疾風迅雷的な命令を伝六に与えました。\n「きさまこれからお城下じゅうの宿屋という宿屋を一軒のこらず当たって、例のきのうつけてきたあのさるまわしな、あいつの泊まったところを突きとめてこい!」\n「なるほどね、やっぱりそうでしたか。ありゃあれっきりのお茶番と思ってましたが、じゃいくらかあいつにほしのにおいがするんですね」" }, { "role": "assistant", "content": "「においどころか、ばりばり障子をひっかいた音っていうのは、そのさるなんだよ。とんだ古手の忍術つかいもあったものだが、しかし、さるをつかってまず注意をそのほうへ集めておいてから、ぱっさりと腕首を盗むなんていうのは、ちょっとおつな忍術つかいだよ。石川五右衛門だって知るめえからな」\n「石川五右衛門はようござんしたね。そうと決まりゃ、もうしめこのうさぎだ。じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。だんなはそのるす中に、あの、なんとかいいましたね、そうそう、お弓さんか、まだけさは姿を見せませんが、おっつけご入来になりましょうからね。江戸へのみやげ話に、ちょっぴりとねんごろになっておきなせえ。ゆうべの赤い顔は、まんざらな様子でもなかったようでがしたからね」\n つまらんさしずをしながらかいがいしく伝六が命を奉じて駆けだしたので、右門はそのあとに寝そべりながら、例のごとくあごの無精ひげをでもつまみそうに思われましたが、どうして、かれもまた今は文字どおり疾風迅雷でした。すぐに裏口伝いを濠に沿って城中へ参向すると、ようやくお目ざめになったばかりの伊豆守に向かって、猪突に不思議なことを申し入れました。\n「つかぬことをお願いいたしまするが、ただいますぐと、ご城中にお使いのお腰元たちのこらず、わたくしにかがしてくださりませぬか」\n「なに、かぐ?――不思議なことを申すが、腰元たちのどこをかぐのじゃ」\n「膚でござります」\n「そちには珍しいいきな所望をまた申し出たものじゃな。よいよい。なんぞ捜査の手づるにでもいたすことじゃろうから、安心してかがしてつかわそうわい。こりゃこりゃ、誰そあるか」\n すぐと右門の目的がよめたものか、お手を鳴らしたので、つるの一声はひびきの物に応ずるごとく、たちまち後宮の千姫に伝わって、間をおかず色とりどり腰元たちがぞろぞろとそこへ現われてまいりましたので、冗談かと思うと、ほんとうに右門は鼻をもっていって、ひとりひとり彼女らの招かばなびかんばかりな色香も深い膚のにおいを順々にかいでいましたが、すべてでおよそ七十人、しかしかぎ終わったかれの面には、来たときと違って、どうしたことか、はなはだしい失望の色が見えました。少し見込みがはずれたかな――というように首をひねりながら、しばらく考えていましたが、やがてぷいと立ち上がると、ややうなだれて、あっけにとられている腰元たちをしり目にかけながら、さっと引きさがってしまいました。\n だが、かえりつくと、そこに三つ指ついてつつましく待っていたものは、前夜来から旅寝の間の侍女として伊豆守がお貸しさげくださったあのゆみで、右門はまだ朝食もとっていなかったものでしたから、ゆみは右門のむっつりとしておし黙りながら考え込んでいる姿を見ると、ことばをかけるのを恐れるように、おずおずといいました。\n「あの......朝のものが整ってでござりまするが......」\n「おう、そうか! では、いただかしてもらいましょう」\n なにげなくお茶わんを差し出して、なにげなくそれをお給仕盆に受け取ったおゆみの腕首をちらりと見守ったときでした。実に意外! たしかに前夜見たときはなかったはずの腕首に、まっかなばらがきのあとが――さるかねこにでもひっかかれたように、赤いみみずばれの跡がはっきりとついていたものでしたから、突然右門の胸はどきどきと高鳴りました。しかも、それがまだ新しいつめの跡らしかったのでしたから、右門はやや鋭く尋ねました。\n「そなた、けさほど姿を見せなかったようじゃが、どこへ行ってこられた」\n「えっ!」\n「おどろかんでもいい。見れば、手首にみみずばれの跡があるが、さるにでもひっかかれましたか!」\n と――ぎくりとなったようにうろたえて、その腕首をあわてながらそでにおし隠したものでしたから、右門は心の底までをも見抜くようにじっと彼女の顔を射すくめていましたが、はしもつけないで突然ぷいと立ち上がりました。目ざしたところは、いうまでもなく城中で、ふたたび例のようにどんどんと大奥までも参向すると、突如として伊豆守にいったものです。\n「ゆうべお貸し下げの弓とか申すあの小女は、殿さまのお腰元でござりまするか」\n「さようじゃ。城中第一の美姫、まだつぼみのままじゃが、所望ならば江戸へのみやげにつかわしてもよいぞ」\n「またしてもご冗談でござりますか、そのような浮いた話ではござりませぬ。あの者の素姓をご存じにござりまするか」\n「よくは存ぜぬが、ついこの濠向こうの仁念寺という寺の養女じゃそうな」\n「えっ! お寺! お寺でござりまするとな!」\n「さよう――住持が大の碁気違いじゃそうでの。それから、なんでもあの小女に、もうひとり有名なおくびょう者じゃそうなが唖の兄とかがあって、どういうつごうでか、その兄もいっしょに養われているとかいうことじゃわ」\n 濠向こうの寺、そしてその寺の養女とおくびょう者の唖の兄? ――なにものか胸中に明察のついたもののごとく、ぴくりとまゆを動かして考え込んでいましたが、そのまま右門はおし黙って、ぷいと立ち去りました。ただにぷいと城中を立ち去ったばかりではなく、実に不思議――それっきりむっつり右門の姿は、どこへ行ったものか、皆目行くえがわからなくなってしまいました。宿へもかえらず、おしゃべり屋の伝六もそこへ置いてきぼりにしたままで、さながら地へもぐりでもしたかのように、煙のごとく城下からぷいと消えてなくなってしまいました。\n\n 5\n\n けれども、そのかわりに、同じ日の夕暮れどきから、むっつり右門のいなくなったのに安心でもしたかのごとく、ぽっかりとどこからかひとりの怪しい秩父名物のさるまわしが、忍の城下の羽生街道口に現われてまいりました。見ると、そのさるまわしはもう五十をすぎた老人で、腰はよぼよぼと弓のごとく曲がり、目にはいっぱいの目やにがたまって、顔は赤黒く日にやけ、いかにも見すぼらしいかっこうでした。だのに、怪しいそのさるまわしは、たえず何者かを恐れつつ、それでいてたえず何者かを捜し求めでもするかのように、きょときょととまわりを見まわしながら、どっかりと道ばたに腰をすえると、道ゆく城下の人たちを集めて、一文二文のお鳥目を請い受けながら、じょうずにさるをあやつりました。さるもきわめて手なれたもののごとく、よくさるつかいの命に従いましたが、しかし、さるつかいの目は、さるを踊らしながらも、不断に城下のほうへそそがれました。そして、ちらりとでも虚無僧姿の男が見えると、よぼよぼの腰でありながら、すばらしい早さでどこともなく姿をかくし、見えなくなるとまたどこからか現われて、同じところに陣取りながら、今度はしきりと羽生街道口のほうにその目をそそぎました。しかも、それが一日ばかりではなく、二日三日と、きまって夕暮れどきに同じ場所へ陣取りますので、しだいに怪しさが加わってまいりましたが、かれがそこへ姿を見せだしましてからちょうど四日め――ふいと今度は別なひとりの秩父名物さるまわしが、羽生街道のほうからやって参りました。新しく来たそのさるまわしの姿をよく見ると、どうやら右門と伝六が先の日、久喜のあのいなりずし屋で見かけたうちのひとりの、江戸へ行ったほうのに似ているらしいのですが、不思議なことに、くだんの新しいさるまわしは、そこにうずくまって商売を開いていたまえからの老人のさるまわしのところにやって来ると、突然腰をこごめて、ひどく何かを恐れながら、あのとき久喜の宿でもしたように、飯籠をあけて、ひとつかみ中の椎の実を老人のほうへ移しました。と同時に、老人の目は怪しく輝き、いま移されたその椎の実の中から、ひときわ大きい一つを捜し出して、やにわにそれを歯でこわし、意外なことにはその椎の実の中から小さく丸めた紙切れを取り出すと、手早く押し開きながら、そこに書かれた通信の文句を読んでいたらしいようでしたが、そうか、事急だ――突然そうつぶやくと、大急ぎにさるを背負って、あとから来たのといっしょに足を早めながら、いずこにともなく城下の夕暮れやみに消え去りました。\n それとも知らずに、その怪しいできごとがあって一刻ほどすぎたのち――。今、忍のご城内では、何か高貴のおかたでもこよい城中に迎えるらしく、熨斗目麻裃の家臣たちが右往左往しながら、しきりとその準備に多忙をきわめているさいちゅうでした。しかし、よほどそれは内密のお来客とみえて、準備に当たっている者はいずれも黙々と口をとじたきりでした。しかも、不思議なことに、高貴のおかたと見えるそのお来客の接待場所は、ついふた月ほどまえに松平伊豆守がわざわざそのために造営さしたお庭つづきのお濠ばたの、ほんとうに文字どおりお濠ばたの数寄をきわめたちいさな東亭でした。唐来とおぼしき金具造りの短檠にはあかあかとあかりがとぼされ、座にはきんらんのおしとねが二枚、蒔絵模様のけっこうやかなおタバコ盆には、馥郁として沈香入りの練り炭が小笠原流にほどよくいけられ、今は、ただもうそのお来客と城主伊豆守のご入来を待つばかりでした。\n と――警蹕の声とともに、家臣たちがひらめのごとく土下座している中を、伊豆守とおぼしき人が先頭で、うしろに一見高貴と見ゆるおんかたを導きながら、しずしずと東亭へおなりになりました。そして、今おんふたかたがおしとねにつかれようとしたとき! 突如、真に突如、意外な大珍事がそこに持ち上がりました。床が没落したのです! がばッ! という大音響とともに、堅固なるべきはずの東亭の床が、めりめりとおんふたかたをのせたままで、突然地の中へ没落してしまったのです。\n「わあッ! 一大事! 一大事! 将軍家と伊豆守様とのお命をちぢめまいらした不敵なくせ者がござりまするぞッ。それッ。おのおの、ぬかりたまうな! 城内要所要所の配備におんつきそうらえ!」\n すわ、事おこりしと見えましたので、家老とおぼしき者の叫びとともに、どッと城中が騒乱のちまたに化そうとしたとき――だが、そこへいま没落した床の下の抜け穴らしいところから、ぬうと現われてきたひとりの怪しき男の姿があったのです。手に手にともしたあかりのまばゆい光でよくよく見ると、これは意外! その男こそはだれあろう、あの老人の怪しきさるまわしでした。四日まえの晩からお城下の羽生街道口に陣取って、怪しの別なさるまわしから椎の実をうけとり、かき消すように姿をかくしたあの老人のさるまわしでした。\n「それッ、あいつだ! くせ者はあの者だ! めしとれ! めしとれッ」\n むろん、下手人はそれにちがいないことがわかりましたので、さっと左右から家臣の者が迫ろうとすると、しかし意外! さらに意外! 老人の曲がった腰はまずしゃっきりと若者のごとくに伸び直り、そして悠揚とそこの泉水で面を洗うと、りりしくもくっきりとした美丈夫の姿と変わったのです。と同時でした。たち騒いでいる人々の中から鉄砲玉のように飛んできて、すがりつくようにいった声がありました。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n二、本文の記事に關する我邦最舊の見解\n\n 本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。\n\n三十九年。是歳也大歳己未。(魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等詣郡。求詣天子朝獻。太守鄧夏遣使將送詣京都也。)\n四十年。(魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。)\n四十三年。(魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲耆掖耶等約八人上獻。)\n六十六年。(是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重譯貢獻。)\n\n 此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍げかあらん。然るに近世の國學者の間には、此等の細注ある記事の大部分を、後人の※(てへん+纔のつくり)入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を※(てへん+纔のつくり)入とせる所以は、其の外國史書の文が國史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、其の口實とする所は、古本に之なしといふに在り。されども此等の説も、近時田中勘兵衞氏の藏せる奈良朝の古寫本と思はるゝ應神紀斷簡出づるに及びて、大に其の信用を薄弱ならしめたり。應神紀五年船を造りて枯野と名づけたる條の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書記集解に古本に無し、私記※(てへん+纔のつくり)入せりとなせる者なるに、古寫本には之あり、此外にも集解に引ける古本の據るに足らざる證あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も、之を※(てへん+纔のつくり)入なりと見るべき根據なし。特に六十六年の細注が晉起居注を引きたるは、尤も其の信ずべきを見る者にして、晉起居注は藤原佐世が日本國現在書目にも見え、古く我邦に流傳せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晉書を引かずして、此の書を引きたるは、或は未だ晉書を見ざりしに由るならん。されば此の細注の古きことも隨て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵、同十六年の細注に出でたる爾林の如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる布彌支、半古の地は、、馬韓傳に不彌國、支半國、狗素國、捷盧國の名見えたり。こは三國志が不彌支國、半狗國、素捷盧國とすべきを誤りて四國に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは、實に奇と謂ふべし。凡そ此等の地名は、韓國の古史にも多く見えず、見えたるも、兒林が爾陵に作らるゝなど、反て日本紀と三國志との近接せるに似ざるを證するに過ぎざるに、日本紀と三國志との符合は、以て日本紀の作者が、已に三國志若くは魏略の類を見たりしことを推知すべし。かく神功紀の細注、並びに紀中の地名の兩端によりて考ふれば、日本紀の作者が、卑彌呼を神功皇后と推定して、其年代をも同時に置きたりしことは疑ふべからず。是れ實に我邦の史家が卑彌呼の記事に對して下せる批評の嚆矢といふことを得べし。此の古き批評は、固より今日史家に在りても漫然看過すべからざる所なり。但し此の見解が果して正當なりや否やは、猶ほ別問題に屬す。\n(以上明治四十三年五月「藝文」第壹年第貳號)\n\n三、舊説に對する異論\n\n 足利氏の中世に當り、僧周鳳あり、文正の頃、善隣國寶記を著はして、始めて倭國が果して日本なりやに疑を挾めり。即ち前漢書地理志の樂浪海中有倭人。分百餘國。とあるを、若し日本とせば百餘國とするは疑ふべしといひ、又魏志の在帶方東南海中。依山島爲國。度海千里。復有國。皆倭種。とあるを、若し日本とするときは、上に所謂樂浪海中百餘國とある倭人は何れの國を指すやといひ、韻書に倭を以て女王國の名と爲す、蓋し天照大神を地神の首として、此國の主たり、故に之を女王國の名と謂ふか、然るときは凡そ此國の人民は皆其種其奴たるのみ、但し海を度ること千里の語は、樂浪海中の倭と倭種の國と異あるに似たり、未だ疑を決せざるのみといへり。此れ樂浪海中の倭と海を度ること千里の東に在る倭種の國と、何れか果して日本なりやを疑ひ、并せて女王の名が天照大神に本づくにあらざるかを疑へるなり。(善隣國寶記に此疑あることは鶴峰戊申の襲國僞僭考にも摘出せり)" }, { "role": "assistant", "content": " 然るに元禄年間、松下見林が其の名著、異稱日本傳を作りし時は、後漢書、三國志の所謂卑彌呼を全く神功皇后の舊説のまゝに信じて、少しも疑ふ所なき者の如くなりき。\n 此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。\n 鶴峰戊申に襲國僞僭考あり、(やまと叢誌に出でたり)本居氏を祖述して、更に一新説を出し、襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞て漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を獻ぜしも、皆此國なり、景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼とは傳へたるさまなりといへり。此説は又頗る世の學者を驚かして、靡然として之に從はしむる力ありたる者の如く、黒川春村の北史國號考には、猶ほ本居氏の舊説によりて、卑彌呼を神功皇后とし、筑紫人の使譯、僞りて朝廷のと名告しならんといへるも、鶴峰氏の説の後の史家に奉行せらるゝには如かざりき。\n 明治以來の史家は、大體に於て鶴峰説の範圍を出でず。菅政友氏の漢籍倭人考、吉田東伍氏の日韓古史斷、那珂通世氏の日本上古年代考、久米邦武氏の日本上古史等、皆一樣に筑紫女酋の説を取り、但だ熊襲の女酋とする者と、筑後、肥後あたりの女酋とする者との小差を存するに過ぎず。久米、菅諸氏の手に成れりと見ゆる國史眼の若き、吉田氏の日本地名辭書の若き、常用の典據とせらるべき性質の書にすら、已に此説を載せ、久米氏の如きは邪馬臺の考證時代は既に通過したりといふに至れり。\n 此等諸家の説に對し、各別に批評を加へんことは、煩雜にして且つ冗漫に渉るを免がれざるを恐るゝを以て、單に其の大意を述べて、評論の變遷を示し、而して其説の可否は、必要なる限り、本文考證の際に道及ぼさんとす。\n\n四、本文の考證\n\n 本文は上に掲げたれば、此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。猶ほ事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に擧ぐべし。\n\n帶方 漢末公孫氏が遼東に據りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と樂浪郡の縣名なりしを陞せて郡としたるにて、樂浪の南、即ち今の韓國の忠清、全羅二道の間に當るべし。松下見林が帶方會稽郡名。今八閩地方といへるは妄なり。\n舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰魏略。事止明帝。とあれども、三國志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、齊王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、齊王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陳壽が自ら其時を指すとせるは、高句麗傳等の例を察せざる誤なり。\n到其北岸狗邪韓國 同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。後漢書に樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓國を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し當時狗邪韓が已に倭國に服屬せることを思はざるに出づ。魏志の韓傳に云く、韓在帶方之南。東西以海爲限。南與倭接と、又弁辰傳に其涜盧國與倭接界といへり。弁辰涜盧國は吉田氏之を今の陝川郡に當てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、涜盧津として、別に東莱府多太浦に當て、二つの涜盧あるが如く説きしは牽強なり。涜盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓國内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にして、又其内地の涜盧國が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る。\n對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、 對馬は宋本に對海に作れるは誤なり。一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。\n南至投馬國。水行二十日。 之には數説あり、本居氏は日向國兒湯郡に都萬神社有て、續日本後記、三代實録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峰氏は和名鈔に筑後國上妻郡、加牟豆萬、下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬臺に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を擧げ、一は鶴峰説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩國とし、三は和名鈔、薩摩國麑島郡に都萬郷ありて、聲近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも擧げたるが何れも穩當ならずといへり。國史眼は設馬の譌りとして、即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも擧げ、菅氏は本居氏に從へり。之を要するに皆邪馬臺を筑紫に求むる先入の見に出で、南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の洮兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にもあらず、此れ余がかく定めたる理由なり。\n南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。 邪馬壹は邪馬臺の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬臺は襲人の僭稱にて、おのれがをる處を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謠にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々(地つるぎは地續をよこなまれるなり)水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅國噌唹郡の中なる國府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恆氏、久米氏は之を筑紫國山門郡にあてたり。其陸行一月とあるを一日と改め讀むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一月の字は魏略及び三國志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覽、册府元龜、通志、文獻通考等、一も一日に作れる者なければ輕々しく古書を改めんことは從ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に據なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も兒戲に等しとし、たとひ邊裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は當時、漢國にて倭と指しゝは、筑紫九國の地なれば、其を領きて威權ありし者を倭王とは稱へしなり、大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬臺が筑紫に在りしを證するには不十分なり。且つ日本紀によれば、意富加羅國王の子、都怒我阿羅斯等が日本國に聖皇ありと聞きて、歸化して穴門に到りし時、其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西將軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏國の使が親しく筑紫に來りて其の内亂にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、據るに足らず。隋書及び北史に倭國都於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也といへり。是れ隋の時には大和を以て邪馬臺と看做したる證なり。東晉より宋、齊、梁の代に亙りて倭王讚珍濟興武等が朝貢の記事は宋梁各書に見えたるが、之を以て大和朝廷の正使にあらずして邊將の私使なりとするの説あるも、其の上表文によれば、大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬臺國は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき餘地なし。其投馬國より水行十日陸行一月といへる距離も、奴國あたりより投馬までの距離を水行二十日と算するに比しては、無理なりとせず。又當時七萬餘戸を有する程の大國は、之を邊陲の筑紫に求めんよりも、之を王畿の大和に求めん方穩當なるに似たり。此れ余が邪馬臺國を以て、舊説の大和に復すべしと思へる理由なり。尤も邪馬臺と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和國よりは廣大にして、當時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「うむ、母の会へ出てもらつたもんだから......」\n と、彼は、ひとり言のやうにつぶやいた。\n「それに、結城さんたら、ちよつとお手伝ひのひとみたいぢやないからよ」\n 姉の加寿子が、何か意味ありげに口を挟んだ。\n「それやさうさ。ただの手伝ひぢやないつてことは、お前たちも知つてるだらう? 女学校を出て、ちやんとしたところへお嫁に行つて、未亡人になつたひとだ。まあ家政婦といふ名儀だけれども、主婦代理といつた方がいいくらゐなんだ。お父さんは一切のことを委せてある。お前たちの世話だつて、普通の手伝ひのひとには、ああはできないよ。勉強のことも見てくれるし、薬の心配もするし......。それに行儀だつてお前たちが見習つてもいいくらゐだしさ......」\n すこし褒めすぎるかなと思ふほど、彼は結城ひろ子のことを褒めあげた。\n 結城ひろ子は、移動演劇金剛座の座員の一人、芸名園一枝の姉で当年三十三の、いはば何処にでもゐる平凡な女性である。強ひて特徴といへば、子供の頃踊りを習つたことがあるといふ、その下地のせいか、からだのこなしに癖ほどの技巧がみえ、つくりはどちらかといふと、下町好みの渋さが勝つてゐる。小柄で、色の浅黒い、いやみのない顔だちのところへ、万事控へ目に振舞ひながら、することだけはぴしぴしやるといふ風が、わりと彼の気に入つてゐた。\n と、果して、娘たちは、彼の言葉に、いちいち逆らふやうな眼くばせで、まづ妹の世津子が、\n「でも、学校のこと聴いたつて、なんにも出来ないつていふのよ」\n「それや、先生みたいなわけにいかないさ。若し、さういふ必要があるなら、家庭教師を頼まなくつちや......」\n「それに......」\n と、今度は姉の加寿子が妹に応援した。\n「お母さまの箪笥を勝手に開けたりなんかして、あたし、ああいふの、いやだわ」\n\n二\n\n「それやきつと土用干しかなんかしようと思つたんだらう。結城さんがしなけれや、誰もするもんがないぢやないか」\n こんな理窟で娘たちが納得するとは思へなかつたけれど、彼はこの小さな子供たちの眼が意外な光り方をするのを知つて、ちよつと驚き、その驚きを顔に出すまいとして、ついさういふ出方をした。\n 二人の娘たちは、むろんまだ納まらぬといふ風で、そこへ運ばれた膳に向つた。\n 加寿子は箸を取りあげると、それでも、近頃珍らしい種々の料理を、ひと色ひと色、味はつては父の方をみた。\n「おいしいか?」\n それには黙つてうなづいてみせ、思ひ出したやうに、少し口籠りながら、またこんなことをいひ出した――\n「結城さんてば、毎日ご飯の支度をするたんびに、お父さまこれお好き、お嫌ひ? つて、あたしたちに訊くの」\n 田丸は、やりきれんと思つた。\n 十六の少女が、いつたい何を考へてゐるのか。そして自分のいつてることがどんなことか、ちやんとわかつてゐるのか。\n 義母を金沢へ帰したその翌日から、こつちのいつたとほり、風呂敷包み一つを提げて飛んで来てくれた、この縁もゆかりもない女が、二月たつかたたぬかの間に、もう、わが家の空気をかき乱す存在になつてしまつた。\n それについては、彼になんの責任もないことだけは、誰の前でもはつきりいへるのである。一家のあるじとしての彼の起居は、むしろ単調なほどにきまりきつたものであり、自然、結城ひろ子とは娘たちのゐる時以外に、親しい口を利くこともないくらゐであつた。身のまはりの世話など、こつちからは何ひとつ頼んだこともなく、普通、女の心遣ひとみえるやうな、細々とした用事にも、いちいち礼をいふほどの距てもつけてゐるつもりであつた。\n が、さうはいふものの、男一人女一人の接触には、互に微妙な神経の使ひ方をしなければならぬ場合も生じて来る。彼が服を脱いだ裸の背へ、浴衣を着せかけるといふやうな科を、相手は平然とやるにしても彼の方では、待てよ、と、その瞬間うしろを振り返らずにはゐられないのである。\n 結城ひろ子にしてみても、おそらく程度といふものを弁へてゐるであらう。たしかに、それがあればこそ、彼の寝間へは、蒲団の上げおろしと掃除以外、顔をみせたこともなく、彼が寝たところへ灰皿を洗つて持つて来るにも、それを唐紙の陰から声だけを掛けて、姿はみせず、そつとそこへ置いて行く始末である。\n 思へば、さういふところに問題があるのである。\n 僅か三日かそこいらの間であつたけれども、かうして明け暮れ娘たちを相手にのんびりした気分になつたことが、彼をまた動きのとれぬ羽目に追ひ込む結果となつた。\n\n三\n\n どんな小さなこと、ほかからみれば取るに足りないほどのこと柄にも、人間は時と場合によつては、全身を打ち込むものである。\n 全身を打ち込むといふことは、決して生やさしいことではないが、また同時に自分では気もつかぬうちに、事実はさうなつてゐるやうな場合もあり得る。一方は強い意志の力によつて始めてできるのに反して、一方は全くといつていいくらゐ、意志の力を働かせてゐない。一方は抵抗を押しのけ、一方は流れに身をまかせてゐるのである。\n さて、田丸浩平は、私事に煩はされないで全身を仕事に打ち込めるやうに、一家の問題は手軽に片づけて大切な公の職務に没頭しようと、あせればあせるほど何時の間にか、およそ、いはゆる「決戦の段階」とは関係のない、愚にもつかぬ家庭の瑣事がしばしば彼の頭を支配し、どうかすると、そつちの方へ「半身」ぐらゐは打ち込みかねない由々しい傾向が見えだしたので、彼はある日、娘たちをわざわざ自分の寝間へ呼びつけ、すこし改まつた調子でかういふ質問をしてみた。\n「今のお前たちには、まだよくはわからないだらうけれど、主婦のゐない家といふものは、心棒のない車みたいなもの、或は舵のない舟みたいなもので、家のものがみんな安心して暮して行けない。そればかりぢやない。この戦争では一軒一軒の家が戦争に勝つための用意をちやんとしていかなけれやならん。お母さんがゐなくなつてから、うちだけは、どうしてもほかのうちのやうにうまくいかないところがある。それはなるほど当り前で、誰だつてお母さんのやうに自分で考へて、自分でいいやうにするつていふわけにいかん。お父さんにいちいち相談しないでも、お父さんの思つてるとほりになんでもするつていふ人間はこれはお母さん以外にないのだ。そこで、お前たちに訊ねたいのだが、もう一度死んだお母さんに生きて来てもらふなんてことはどうせできないんだから、お前たちにとつても優しい小母さんで、お父さんもこの女なら家のこと、お前たちのことを委されると思ふひとを、ひとつお母さんの代りに探さうぢやないか。それが一番いいと思ふが、どうだ?」\n 二人の娘は口を固く結んで、眼はそれぞれ一点を見つめたまま、なかなか返事をしようとしない。\n「加寿子はどうだ?」\n 彼は促した。\n「でも、やつぱり、お母さんて呼ぶの?」\n「さう呼べるひとがいいぢやないか」\n「結城さんぢやないんでせう?」\n この逆襲を、彼は待ち構へてゐたやうに、\n「さうぢやない。それははつきりいつとく」\n「そんなら、どうでもお父さまのいいやうに......あたしはいいわ」\n\n四\n\n「あたしは、いいわ」\n と、いつてしまふと加寿子は激しく瞬きをした。涙がぼろぼろとこぼれた。\n それをみて、田丸は「しまつた」と思ふ途端、横から世津子が、いきなり、思ひ余つたやうな声で、\n「あたしは、いや」\n と、実に、キツパリ、が、少しヒステリカルな調子で叫んだ。" }, { "role": "assistant", "content": "「お前にはまだ訊いてゐないぞ」\n と、田丸は喉まで出かかつた言葉を、ぐつと呑み込んで、今度は、その方へ向き直つた。\n「どうしていやなんだ?」\n 努めて、やはらかく言葉をかけた。\n「どうしてでも、いや」\n「どうしてでもいや......ふむ、ほんとのお母さん以外のひとを、お母さんと呼ぶのはいやなんだね」\n「お母さんみたいにされるのがいや」\n この方は、十三でも、時々十三のやうな口の利き方をしないことがある。義母にいはせると「世津子は理窟つぽい」さうだが、おそらく、頭が理論的だといふよりも好きな読物の影響であらうと彼は推察してゐるのである。\n 彼には返す言葉はなかつた。若し父親の感傷が許されるならば、なんと、死んだ母親に聞かせたい言葉ではないか!\n しかし、このことがあつて、娘たちは結城ひろ子を、いくぶん警戒を緩めた眼で見るやうになつたらしい。\n その証拠は、結城ひろ子がある晩、彼の書斎へ茶を持つて来た序に、めつたにないことだが、そこへ坐り込んで、こんなことを喋つた。\n「申上げよう申上げようと思つて、ついそのままになつてをりますんですけれど、あたくし、なんにもお役に立ちませんし、それに妹からあんなにいはれましたもんですから、取敢へずどなたかいらつしやるまでと思つて、かうして伺つたわけなんでございますよ。ですから......なんて申しませうか、自分でも中途半端な気持ちで精いつぱいのことができませんし、それではまた先へ行つて、こちらさまのお為めにならないことはわかつてをりますので、あんまり長くなりませんうちに、そろそろお暇をいただかうかと存じますの。最近は急にご様子がお変りになりましたけれど、それでも、やつぱりもうあれだけのお年になりますと、余計な気兼ねを遊ばしたり、さもなければ、あたくしの方で差出たことをしてしまつたり、なかなか、むづかしうございますわ。実を申しますと、只今のやうなお取扱ひでなく、女中なら女中としてお使ひ下さいますなら、また別でございますけれど......」\n「わかりました。考へておきませう。だが、子供たちの様子が変つて来たつていふのは、あなたの方からいへば、楽なんでせう?」\n\n五\n\n「それや、ずつと楽になりましたわ、先生からなにかおつしやつて下さいましたの......」\n「いや、いや別に......そんなことはなんにもいひやしない。僕だつて細かいことにさう気がついてゐないから......」\n「それやさうでございませうとも......。いいえ、なんですか、急に打ち融けたやうなところをおみせになりますんですよ。小さいお嬢さまなんか、わざとでせうけれど、お甘えになりますの......」\n といつて、結城ひろ子は屈託なく笑ひこけた。\n 聞けば聞くほど少女の心理の不思議さに彼もほとほと呆れはてるばかりである。\n まあ、かういふあんばいなら、しばらく放つておいても大丈夫だと彼はひそかに高を括つてゐた。\n ところが、これまた娘たちの報告によると、今度は隣組の細君のうちの誰かが、世津子をつかまへて、根掘り葉掘り結城ひろ子のことを訊ね、\n「いまにあなた方のお母さまになる方でせう?」\n と、独りぎめに決めてゐるばかりでなく、ほかの細君連に向つて、\n「あの方とはあたしたちもそのつもりでおつきあひをしなければ」\n などと公然、しかも子供のゐる前でいつてのけたといふのである。\n それをいつた細君が何処の細君だつたか、名前をうつかり聞き漏らしたので、もう一度聞き返さうとしたが、娘たちの顔をみてゐるとそれも馬鹿々々しくなつて、よした。\n「そんなこといふひとには、いはせておけばいい。お前たちが知らないうちに、さういふひとがこの家の中にはいつて来るといふやうなことは、絶対にない。そんなことを心配するより、来年になると加寿子は四年、世津子は女学校だ。もうそろそろ、二人で家の事を覚えなさい。お父さんは男だけれども、中学へ上るとすぐ、ご飯焚きをさせられたことがある。自分のものは必ず自分で始末しなければ、お祖父さんにひどく叱られたもんだ」\n かういひながら、彼は、継母の冷たい顔を侘びしく思ひ出しはしたけれども、彼は、世間の「継母」なるものに対する通念を信ぜず、娘たちが、やはりその通念によつて、正当な理解を防げられてゐる事実を、ただ慨かはしく思ふばかりである。すべての女が、いくぶんかは、すべての子供の母であるといふ真理を、一般社会が、理窟でなく実感で、たしかに認める時代は、そんなに早く来ないものであらうか? 血の濃さを説くのはよい。しかし、生みの母親でなければ、と、その事だけを過大にいひふらす、一種迷信にも似た功利主義を、彼は見逃すわけにいかなかつた。\n それから数日たつて、彼は嘗ての仲介である宇治博士を能率協会の研究所に訪ねた。\n そして、最近の家庭の事情を手短かに語り、熟考の末、再婚の決心をした旨を告げ、適当な相手はまだ見つからぬが、先生もひとつお心掛けをと、そのへんは、雑談にぼかして引きさがつた。\n\n六\n\n やつとこの七月で亡妻の一周忌もすんだところへもつて来て、彼に再婚の意志があるといふことが、知れるところへは知れるとみえ、最近急にあちこちから、候補者の紹介、推薦をして来る向きがふえ、田丸浩平はそのために、見たくもない写真をみせられ、会ふのに躊躇するやうな異性との会見を強ひられもした。\n この調子の狂つたやうな身辺の賑やかさに、彼は事実、辟易したけれども、今更あとには退けぬといふ状態で、たうとう、最後に、ある女学校の国語教師で、生徒間に素晴しく人気のあるといふ笠間由子を、初対面の印象で、これならと心に決め、しばらく、なんといふことなしに家庭へ出入りしてもらひ、幸ひ娘たちが懐いたなら、正式に話を進めるといふことにした。\n 笠間由子は、三十八の今日まで独身で通して来た、いはゆる老嬢には違ひないが、その風丰と云ひ、挙止と云ひ、殊に、多少鼻にかかる言葉の調子に至つては「老」の色よりも「嬢」の気が勝ち、世間タイプで云ふ先生型のなかでも、寧ろ一風変つた姐御肌の、少女たちの眼からみれば、ちつとも怖くはないが、どこか頼もしいといふ、あの型の先生であつた。\n 田丸浩平は、あらかじめ、父親としての立場から、ひと通り相手の参考にもと、娘たち二人の性格について語りはしたものの、笠間由子は、さういふことには一向無頓着らしく、ただ、「どんな女の子でも、女の子でありさへすれば可愛い」の一点張りで、それが、懐くか懐かぬかは、専らこつちの出方にあるといふ信念を、やや自信を交へた口ぶりで述べるだけであつた。田丸浩平は、むろん、この女性の、さういふ自信を高く買つたのである。\n 娘たちには、最初、どういふ風に紹介したものであらうと、田丸はちよつと頭をひねつた。が、結局、笠間由子の家庭も是非のぞいておきたかつたし、彼は、娘たちに映画を見せると云つて浅草へ連れ出した序に、少し廻り路をして田端へ寄つた。おやつの時間であつた。器用に盛られた手製の菓子、砂糖の利いたしるこ、缶詰のパインナプル、その合間々々に、笠間由子は、トランプの手品をやつてみせ、室内用の環投を持ち出し、その他、娘たちが一つ時も退屈しないやうな用意が整へられ、そして、それが一家を挙げての招待として、手順よく運ばれて行つた。一家と云へば、家族は両親と三人きり、養子を断念してよそへ出すことにした一人娘の笠間由子なのである。父親は、機械の仲買といふ商売を早くやめて、今は、ささやかながら、金利生活をしてゐるといふ話であつた。\n 加寿子、世津子の娘二人は、この不意打ちの饗応には、さすがに、ただごとでないものを感じたらしく、「お父さまはどうしてこんな家をご存じなの?」と云はぬばかりの眼付を、ちらちらと田丸の方に投げてゐた。\n\n七\n\n ともかくも、一応これで、笠間由子が時をり田丸家を訪ねて来るきつかけができたやうなものである。極めて自然にといふわけにいかなかつたことは、田丸も重々承知のうへであるが、これで押し切るより外はない。\n 笠間由子は、それから一週間ほどたつて、田丸の勤先へ電話をかけてよこし、次の日曜日の都合はどうかといふことであつた。田丸は「どうぞ」と返事をした。\n 娘たちは、笠間由子のことを、もうまるで忘れてでもゐるやうにその後一度も彼との話題にのぼせなかつたが、彼の方で、\n「笠間さんね、ほら、こないだ映画の帰りに寄つた家さ、今度の日曜日に遊びに来るさうだ。お友達になるといい」\n と、話をそこへ持つて行くと、姉の加寿子は、\n「今度の日曜、あたし学校のお友達と勉強のお約束があるの」\n と、明らかに、それよりも大事なことがある風を示す。妹の世津子も、その尻馬に乗つて、\n「あたし貫ちやんに図画を描いたげなくつちやならないわ」\n「図画を? 学校のかい?」\n「ええ」\n と、平気なものである。\n「どつちも一日かかりやしないだらう、折角来るんだからお相手をしてあげなさい」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一頃ジャーナリズムに対してアカデミズムというものが対置されたものである。私はかつてアカデミーとジャーナリズムとを対比したのだが、世間ではいつの間にか之をアカデミズムとジャーナリズムという風に云うようになった。そこで私も亦この用語例を借りたこともあるが、併しよく考えて見ると、アカデミズムという言葉が第一に外国語として変であり、それから観念としても変なのである。ジャーナリズムという現象に対比されるべきものは、アカデミズムという変なものではなくて正にアカデミーそのものなのだ。もしジャーナリズムを一つの人間的態度の名として取れば、之に対比されるべきものはアカデミシャニズムとでも云うものである筈だ。アカデミズムという造語は一つの社会現象として理解するに欠ける処がある証拠なのだ。\n ジャーナリズムを表現報道現象とすれば、古来社会機構の変化に沿うて、ジャーナリズムの社会科学的規定が与えられる。少なくとも資本主義化以前のものとそれ以後のものの、本質的な差別が重大視される、つまり表現報道が一種の資本主義的商品であるかないかでジャーナリズムの歴史的規定が変って来る。今日の資本主義社会で行なわれているものは勿論資本主義的ジャーナリズムだ。だが之だけがジャーナリズムではない。ジャーナリズムは古来から存在した社会現象だ。今日のジャーナリズムのブルジョア階級性に注目する余り、ジャーナリズムと云えばブルジョア社会のものだと考えるのはナンセンスだろう。凡そプロレタリア・ジャーナリズムという観念も之では成り立たなくなるし、社会主義的出版現象や其の他を説明する包括的なカテゴリーがなくなってしまうだろう。\n さてこうしたジャーナリズムが、原則に於て、古来常に大衆の存在を条件にしていたことは、何も不思議なことではあるまい。尤も或る時期のジャーナリズムは王侯や大商人の特別情報機関であったとも考えられるが、それは偶々、今日のブルジョア・ジャーナリズムの萌芽としてのジャーナリズムのことであって、その時代にも大衆は自分達の間に別のジャーナリズムという大衆的現象を持っていたのだ。――今日のブルジョア・ジャーナリズムが大衆を観客とする商品の生産販売以外のものでないのは、人の知る通りである。\n だが大衆というカテゴリーも亦、極めて多くの問題を含んでいて、簡単には使えない点で有名である。少なくともキング式観念(「大衆」雑誌や「大衆」小説)とウルトラ的観念(プロレタリアだけが本当の大衆であるという類の)との対極があるが、どれも困る。前者は大衆が質的に低いものだと決めてかかることによって事実大衆を低める効果を有っているし、後者は大衆の質的な高さを仮定することによって大衆が多衆であるという量的規定を忘れて了っている。大衆の社会科学的観念は、大衆の質を高めることから離れてはあり得なかった筈だのに。\n 処で大衆乃至大衆性に就いてのこの各種の規定方が、ジャーナリズムの機能の規定方となって来るのである。キング式大衆の観念はキング式ジャーナリズム(野間イズム?)となり、ウルトラ的な大衆観念は福本イズム(?)的ジャーナリズムとなるのである。福本主義(?)的ジャーナリズムは今日の野間イズム的ジャーナリズムの内にもなお、部分的に存在し得るのだということは見逃してはならない。ブルジョア・ジャーナリズムで固めた評論雑誌が、なぜ一見大衆性を全く欠いたような学術論文めいた「論文」をかかげ得るかを、見ればよい。――だがジャーナリズムが現実に社会主義的意義を有つためには、勿論こうした意味での大衆性では仕方がない。社会主義的ジャーナリズムは今や自力で大衆とは何か、大衆性とは何か、の問題を解かねばならぬ。\n でこうなると、社会主義的ジャーナリズムは啓蒙活動にまで追跡されねばならぬのである。社会主義的ジャーナリストとも云うべきものは大衆に於ける啓蒙活動の役割を担う。之はあたり前のことのようだが、決して判り切ったことではない。一体大衆とは何か、そして大衆の啓蒙とは何か。之はジャーナリストが身を以て解決しなければならぬ問題だからである。ジャーナリスト達は、自分を本当に大衆の一員として自任し得なければ、この問題は現実には解けないのだ。処が今日の所謂ジャーナリストは知能上の特権意識があったり職業的な誇りがあったりして、決して大衆の一員としては安住していない。社会主義的ジャーナリストは正に台頭しようとしつつある、併し(この点が大切だ)まだ現実にはみじめであることを免れない、大衆の一員となることを、その足場とし予想としなければならぬ。処が之はブルジョア社会に於ては最大の芸術家や文学者さえが行こうとし遂に行きつき得なかった境地なのだ。――進歩的ジャーナリズムと進歩的ジャーナリストの困難な使命がここにある。\n\n二 現下のジャーナリズム\n\n 敢えて定義を下すわけではないがジャーナリズムというものを広く夫々のインスティチュート乃至オルガンを通じて現われる処の、表現報道の現象だと考えよう。と云うのは、今日の常識的用語としてはジャーナリズムとは精々新聞や雑誌の現象のことであるが、併し単行本でも勿論ジャーナリズム現象に数えられなければなるまい。それからラジオをジャーナリズムに数えていない場合も見受けられるが、ラジオが新聞と全く別な社会的機能の本質を持つものでないことは、誰知らぬものもない。だから総てこうした表現報道現象を一般的にジャーナリズムと考えることが出来るし、又そう考えなくては困る理由があるのだ。なぜなら、そうでないと、どのジャーナリズム現象一つも他との連関に於てその本質をつかみ得なくなるからである。例えば今日新聞現象を論じるのにラジオを問題にせずには根本的に何等の断定を下すことも出来ないのである。\n ただ、そういっても単なる風評や噂の類は、表現でもあり報道でもあるにも拘らず一定のインスティチュートなりオルガンなりと結び付いて現われないから、この際多少便宜的に、ジャーナリズムのカテゴリーから省こう。所謂流言飛語の類はジャーナリズムに於ける役割からいって極めて大きな意義を持っているが、別に新聞社=新聞紙とか放送局=ラジオセットと云ったようなインスティチュートなりオルガンなりがないのだから省くのである。――それから同じ報道現象でも広告は、色々の斬新新奇な乗具を用いるが(例、アドバルーンの如き)今は言論の表現報道だけに話を限定しよう。政治的言論に限らず、文学乃至純文学的表現発表までも含むが併しアドバルーンやチンドン屋は入れないことにするわけである。\n さてこういう風に問題を持ち出す限り、ジャーナリズムの本質はその社会的機能になくてはならぬことは、云うまでもない。ラジオ、新聞、雑誌、単行本乃至パンフレット、等々のジャーナリズム現象をその社会的機能、つまり表現報道という社会的機能を標準にして較べて見ると、色々な意味に於ける社会的統制に服するその服し方や程度に夫々の差があることが最も興味のある点となるだろう。社会的統制は広義のビューロークラシーによる統制(例、官報、公報、ラジオの類に見る)と、出版資本家的必至から来る統制(新聞や雑誌に於ける編集スタッフや出版業者の営業方針の拠り処)と、行政及び司法上の統制(出版法、新聞紙法、によるもの)とに区別されるが、併し夫々の間には交互作用や三体関係が横たわっている。このような社会的諸統制の総和から云って、最も統制の厳重なものから比較的軽いものへの順序に並べて見ると、今日の日本では、ラジオ=新聞=雑誌=単行本(乃至パンフレット)という次第になるだろう。\n 筆者や出演者の側から考えて見れば、最も自由に好きなことの云えるのは単行本で、最も不自由なのはラジオである。勿論、云いたい人が誰も云えるという意味での自由も自由の一つの場合だが、併しその場合だけに就いてならラジオでも随分多数の人に時間を与えているし、単行本だからと云って勝手に誰の本でも出版屋が引き受けて呉れるのではない。ここでだから今自由不自由と云うのは言論内容に就いてのことであって、言論の主体たり得る人間の資格とは一応関係がないように見えるのだ。処が実はここにも問題はあるので、ラジオの如き、或る一定の人間には決して放送をさせないのだし、新聞なども又別な範囲に於て同様な限定をおのずから持っている。\n 言論の内容上の自由の制限は、自然、言論の主体たる筆者や出演者のジャーナリズムに於けるチャンスの自由の制限に、直接関係しているのである。" }, { "role": "assistant", "content": " 日本放送協会のラジオは以前は政治放送を行なわなかったが、かつて一遍各政党の代表者を選んで伸び行く日本を語らせた。之は云わば画期的な政治放送だったのである。だが日本のラジオにとって「政治」と考えられるものには、ある制限が存する。所謂既成政党の有名な無内容な大言壮語だけがこの際の政治的言論であって、之に少しでも内容が這入って来ると、之はもう政治以上のものとなる。「政治」は政党のものだが、これは国家のものとなる。日本では国家はもはや政治を行なうものではない。「マツリゴト」を行なうものだ。でAKは「政治放送」は出来ても国家の実際のマツリゴトに関する言論を放送することは許されない。社会民主主義者の言論でも社会ファシストの言論でさえも許されないのである(但ししばらく前までは国粋的ショーヴィニストは大威張りで講演をやったものだが)。\n こうして社会大衆党の放送代表に選ばれた安部磯雄氏の放送は要するに結果に於て許されなかったのである。安部磯雄事件は日本のラジオ放送に対する社会的統制力のバロメーターとして極めて鋭敏な感度を有っていたわけだ。\n 二・二六事件を一期として、『東京朝日新聞』を初めとして都下の大新聞は、その「自由主義」なるものを著しく引き込めるようになって来た。その限り著しく反動化したことは有名な事実である。特に『東朝』に就いてはその批難が高い。之に反して都下の二流新聞は却って相対的に「自由主義」振りを発揮するというような奇観をさえ呈した程である。この新聞紙反動化現象は社内幹部の自発的な決心によるものでもあるが(例えば自分の新聞紙以外のジャーナリズムに於て記者は言論を発表してはならぬという箝口令が社内で下された――恰度軍人は軍部大臣を通じて大蔵省の官吏は蔵相か次官を通じてしか物を云ってはならぬということになったように)、それと並行して通信社の合同によるニュースの単源化と、その当然な結果としてのニュースの御用化とによって、之は裏づけられている(同盟通信社の成立)。\n 国内ニュースの重大なものの大多数は官許のステートメントのように、画一的でディクテートされている。このようにディクテートするものを恐らくディクタトールと呼ぶべきかも知れない。とに角社会的関心を惹きそうな事象に就いてのニュースはどの新聞を見ても全く同じだという場合さえ少なくない。例えば、所謂コムアカデミー事件などがそうで、同じ日の各新聞に全く同じ内容で殆んど全く同じタクトに基いた記事が現われたのである。偶々取引所改革案のような自由な記事らしい記事が載ると、夫は流言浮説であるという流言が行なわれて、新聞記者は社自身によって馘首されたりするようなわけなのである。\n 近頃の東京諸新聞紙の著しい傾向はスター・システムの強化であろう。ジャーナリストの独占は勿論企業上優れた方針であろうし、有力なジャーナリストを社内に編入するのだから、新聞ジャーナリズムの社会的機能を高める意義を一面に於て持っているのだが、処がスター・システムの事実上の条件は、他新聞乃至他のジャーナリズム機関一般に於て自社のスターに対する箝口令を敷くことにあるのである。でこのスターたる社会的ジャーナリストは自分のぞくすることになった新聞紙上に於ては社内・紙上・の約束に絶対的に束縛されるし、社外に於ての自由な言論活動は封じられる、ということになる。だから所謂スター・システムも、一面に於ては新聞の反動化と直接の連関を有っていると云わねばならぬ。\n 今日のフリーランサーの自由というものも実は取るに足りないものだろうから、特にスター・システム下のスターの不自由だけを論じるには当らぬという者もいたが(読売新聞の匿名評論氏)、問題はジャーナリスト個人の問題として提出されるべきではなくて、新聞というジャーナリズム機関の社会的機能の問題として提出されねばならぬ、ということを見落しては困るのである。\n 新聞の営業上の問題としては、東京地方版のような、読者にとって不快で退屈で迷惑な競争の愚や、学芸方面では匿名評論や短評の問題も面白いが、それは省略するとして、言論の自由の退潮は雑誌界に就いて特有な姿を現わしている。満州事件以前に較べて所謂左翼出版物としての雑誌は種類と量とを減じたことは勿論だが、併しその点ならば最近特に頽勢にあるとは云うことが出来ない。寧ろ問題は所謂評論雑誌の内容にあるのである。大雑誌に於けるマルクス主義の基調は可なり衰えた。\n これに代わる何等かの基調を編集者は模索しているように見える。或いは自由主義のごく思いつき的な悪質の論文をバックに持って来て見たり、ヒューマニズムをあてがって見たりしようとしているかと思えば、青年論や恋愛論という形に於て、全く違った道から評論の可能性を求めようとしたりする。青年論や恋愛論が一般に興味を有たれるようになって来たことは別に説明を要するが、夫が評論雑誌に於ても有力な内容とされつつあるのは、こうした必然性からなのである。――とに角マルクス主義の基調を離れた評論雑誌はにわかに言論的魅力を失い始めたことが事実で、評論雑誌は面白くなくなったのが事実だ。評論雑誌の編集方針は帰趨に迷い、危機に臨んでいるとも云うことが出来る。\n だが単行本は必ずしもそうではない。所謂左翼出版物としての単行本は大して衰えないどころではなく、多少は実質的な発展をさえ遂げつつあるのではないかと思われる節があるようだ。\n とに角おびただしい伏字や外国語交りの翻訳ではあっても、相当読まれている左翼出版物に限らず、特に翻訳ものの読書量は圧倒的だということが近頃の通説になっているが、このこと自身が読者の一般的な漠然たる進歩性と何等かの関係を有つものであることは推定していい点だろう。尤も近時の出版界の新しい現象は(駅売り又は頒布用の)パンフレットの洪水である。之は言論の強圧に対する反作用として流言飛語的な魅力を目当にしているものが多いのだが、そういうのを見ると、多くは小市民の末梢的な政治感覚に訴えるデマゴギーの役目を負っているもので、大体に於てファッショ化的本質を有ったものといわねばならぬ。修養物や出世法を説くものの類も亦、本質に於て之と同じ社会的機能を持つものだ。\n\n三 ジャーナリストの問題\n\n 同人雑誌の声明書のような箇所を見ると、吾々同人はジャーナリズムの束縛から脱して自由な文学的精神の発揚に努力する、というような意味のことが往々書いてある。なる程今日のジャーナリズム、つまりブルジョア・ジャーナリズム企業によるジャーナリズムは、文芸的価値とは原則上別な価値尺度を持っていて、決して、良いものが好く待遇されるのでもないし、悪いものが不当な好遇を受けないのでもない。それは本当なのだが、併し冷静に考えて見ると、失礼ながらああした同人雑誌作家諸氏は果してブルジョア・ジャーナリズムによって妨害排撃される程の、反資本主義的なプリンシプルを持った作家であるかどうか、それが私にはいつも疑問なのである。\n 真に進歩的な、又ラディカルな思想や思想表現の持ち主ならば、ブルジョア・ジャーナリズムの束縛を脱するということが本質的な意義をもつのだけれども、大体に於てブルジョア・イデオロギーのスケールに於て、而もブルジョア・イデオロギーのマンネリズムに於てさえ、右往左往している諸同人作家達が、ジャーナリズム攻撃をするということに、私はなにか妙なものを感ぜざるを得ない。既成のジャーナリズム自身のもつマンネリズムのために折角実力と意義とのある作家が文壇に進出出来ないというなら、怪しからぬのはブルジョア・ジャーナリズムの現在に於て示しているそのマンネリズム事情であって、決してブルジョア・ジャーナリズム自身ではないのだ。だから、現在の特定なジャーナリズム事情が気に入らぬからと云って、直ぐ様(ブルジョア・)ジャーナリズムそのものがよろしくないというような口吻は、少し口が過ぎはしないかと思う。寧ろ同人雑誌に立て籠ることによって、ブルジョア・ジャーナリズムの現状を打破するとか現在のブルジョア・ジャーナリズムを改革するとか、号した方が、合理的で堂々としていて、そして又正直ではないのかと思う。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 神様の恵みのゆたかにあなたを包むようにお祈りいたします。\n 私はこの頃は何だか悲しい変な心地がして私の力でなく、何らかの力――運命に引きずられて生きてるような心地がいたします。おちつきますまで謙さんに手紙がしみじみと書かれませんので、なにとぞこの手紙の旨を謙さんにお伝え下さいませ。\n 今日はこれで筆をおきます。(久保正夫氏宛 十二月四日。一燈園より)\n\n 聖者の子\n\n 御親切なお手紙をありがとうございました。お父さんはもはやお帰国なさいましたか、叔父さんが病篤き由さぞ御心配のこととお察し申します。何やかやであなたの心も不安でおちつかないでしょうね。しかしあなたは怒号せず叫泣せざる静かな悲苦と調和との心をもってそれらの思いのままにならぬ周囲に対して平和を保つように努めていられることと思っておいとしく尊く存じます。なにとぞ静かに大きくふくらむように成長していって下さい。私はあなたのために祈っています。私は一燈園で毎日よく働いて暮らしています。畑の仕事や洗濯や車曳きなどもいたします。昨夜はバケツを携げてお豆腐を買いに十町もある店まで行きました。そのような卑しい僕のようなことも心にうちより溢るるものがある時には悦んでできます。四、五日前には三条の河道屋というそばやに手伝いに行き、粗末な黒木綿の絆纏を着て朝から夜の七時まで働きました。車を廻したりそば粉をこねたりしましたが馴れない力わざなのでぐったり疲れて半里もある一燈園への帰り道に燈火の明るい京女の往き交う二条通りなどを歩む時には私はロシアの都会などを歩く労働者などの気持ちがしのばれました。そしてやはり小説を読んだだけではわからないところの、ただ労働者の眼にのみ展ける一種の世界があるような気がいたしました。畑へ出て耕したり、野菜を植えたり、草を刈り、焚火をしたりしていると土に対する親しい感じや農夫に対する同悲の心などがしみじみ起こります。私は畑から担いで帰った葱やしゃくし菜などを谷川を洗いましたが、その冷たさ、それからは路を歩いても、子をおぶった女などが手を赤くして菜を洗っているのを見ると(これまでは少しも目につかなかったのに)限りなき同悲の情が起こります。私は社会の下層階級の人々の持つ感じ方に注意せられます。そして共に労働するものの間に生まれる愛憐と従属との感じなどを思うときに古えの聖者たちが愛と労働とを結びつけて考えたのは道理のあることと思われます。私は健康さえたしかならば労働者として暮らしたい心地さえいたします。しかし謙さん、私に不安なのは私の健康のことです。一燈園は麦飯と汁のほかは食物はありません。そして労働しなければなりませんし、睡眠もとかく乱れがちになります。私はこれまでの養生法と正反対の生活状態にはいりました。どうも他の質素な人々の目の前で私だけ豊かな暮らし方をするわけにも参りません。私は一昨日も荷車の後押しをして坂を上る時息が苦しくて後で嘔吐を催しました。また立膝をして菜などを洗うので痔のぐあいもよろしくないようです。幸いにして今のところでは無事で暮らさせてもらっています。けれどどうも不安が去りません。天香師は強い信仰から、仏によりて養われるならば粗食でも仏の加護で壮健を保たれるといわれます。また私の二つの病気を知りながら労働することもあまり気にもとめられません。私は慈悲深い西田さんが私の健康をおろそかに取扱って下さるはずはないと信じていますけれど、でもまだ不安は去りません。そしてどこまでも私の理想を妨げる病気が怨めしい心地も起こります。からださえ丈夫ならば、労働は私はたしかに大切な、生活を清新にする尊いものと信じますから喜び勇んでいたしますが、今のところ、まだ少し不安があります。私はこのことに関して神様に特別に祈っております。一燈園は喜捨で生活して行くので、他家ではたらくのは無報酬なのです。二十九人おりますが、みなそれぞれ不幸な運命のもとに生まれた人ばかり、白髪の老人や、切髪の奥様や、宿無し児や若い娘などもおります。私といつも一緒に畑に行く人は気狂いで時々無理をいって私を困らせます。私はこれからおいおいそれらの人々についてあなたにお知らせいたしますつもりですが、今日は天香師の息子さんの理一郎という十四になる少年について少し書きましょう。理一郎さんには母がありません。それは西田さんが出家の生活を初めた時に西田さんを気狂いだと思って西田さんを捨てて行かれました。それは今から十数年前まだこの不幸な少年が三、四歳の時でした。理一郎さんは純な愛らしい少年です。色の白い丸ぼちゃの活溌な子です。それがまたどうした因縁か私をたいへん好くのです。そして寝床も私のなかにはいって寝ます。幾らかそして私に甘えるようにもいたします。昨夜はいい月夜でした。私は理一郎さんと一緒に散歩しました。畑の間や林のそばを通って街の方へ歩きながら、いろいろ話しました。私はこの少年の感じやすい純な性質によく触れました。そしてこの少年の小さな胸のなかに動く悲哀や疑いや憧憬などを聞き感動させられました。母のことを語る時には特別にセンチメンタルでした。「長浜から来た当分は悲しくて悲しくて泣けてしようがなかった」などともいいました。また「みな私のお父さんを偉い偉いといやはるけど私はお父さんの主義はきらいや」などともいいました。その理由を聞くと西田さんは理一郎さんをも他人をも同じように愛するのだそうです。そしてものを買うのにでもなかなかお金を出してくれない。不自由を忍耐させる。また学校も早くやめさせるつもりなのだそうです。私は西田さんの心持ちをよくわかるように説明してやりましたらうなずいていました。そして少年倶楽部が買いたいけれどお父さんが買ってくれないといいましたから、私は「西田さんはお金は幾らでもあるけれどあなたを贅沢な習慣にしないために買ってくれないのだ。それさえわかってれば私が買ってあげる」といって寺町の本屋まで行って少年倶楽部を買ってやりました。帰り道に博覧会のイルミネーションのそばを通る時、急に曲馬の楽隊の音が始まりました。少年は好奇心を挑発されたと見えて大分見たそうでした。私はこの少年は平常このようなものを少しもお父さんに見せてもらっていないことを知りました。そしてちょうどこの年頃の少年の好奇心の強い時代には苦しいことであろうと推察しました。「今晩は遅いから、みなが心配するから帰ろう、また私が見物に連れて来てあげる」と私がいうと「いいえこんなものとは縁を切ります」といいました。しかし見たそうでした。\n 私は西田さんの子供の育て方はよいかどうか疑問だと思いました。「そして私のことは習ってはいけない。お父さんのいうとおりにしなさい。しかし今度曲馬を見せてあげるよ」と約束しました。昨夜もこの少年と一緒に寝ました。あわれではありませんか。お絹さんは免職になり今は広島の牧師の家に預けられています。私は彼女をゆくゆくは妻にしてやる気です。彼女を苦しめはしませんから、安心して下さいませ。今日はこれで筆をおきます。どうぞ御大切になさいませ。「朝」と「百合の谷」は今一燈園の人が読んでいます。いつでもお返しいたします。\n(久保謙氏宛 一燈園より)\n\n\n 大正五年(一九一六)\n\n\n 離れ島にさまよう" }, { "role": "assistant", "content": "\n 私は今広島の南にあたる瀬戸内海の一小島倉橋島にある倉橋という漁村の淋しい旅屋の二階でこの手紙を書いています。あなたのお手紙は尾道で読みました。実富君と往復することが妨げられたという報知は、私を失望させました。そしてそのような目にあうときには、人間はだれでもその動機の世にはありがちなものとは知りながら、非常に不愉快になることを免がれがたいものです。私は何だかあなたの傷つけられた心持ちに同情せられて一緒に不愉快に感じます。自分がただ向こうの幸福を祈る心のほかにはないときに、向こうからあたかも愛するものを損う誘惑のごとくに取扱われるときには淋しいものですね。いったいに子を守る母の愛には他の人に対してえてかってなふるまいが多いものですね。H・Hの母はそのようなふうに私を取扱いました。私はその時の傷つけられた心持ちを今に忘れることができません。そして私は実富君の態度にも少しく不満足を感じます。しかしあなたの手紙には少しも怒りの心持ちは現われていませんでしたのをいとしく、また尊く感じました。何事も耐え忍んで平らかな静かな暮らし方をなすって下さい。あなたはいったいに人に誤解されやすい方だと思われます。これはあなたの自由な対人態度が常人の習慣と容れなかったのでしょうか。実は私はあなたのことを多くの人がよくいわないのを知っています。そして注意しておきますが、御木本君のお姉様に与えたあなたの印象はよいものではありませんでした。私はその事を聞いた時には大いにあなたを弁護いたしました。私はあなたを不幸な、淋しい人だとその時思いました。私はあなたを愛していますから、人があなたをよくいわないのは苦痛に感じます。私はあなたに注意しておきますが、あなたが愛せられていると信じていらっしゃる人々のあいだには、ほんとうはあなたを愛しない人が多いかもしれません。信ずる心はいつでもよい心です。私はそれを知りながら、上のようなことを書かなければならないのでした。人間と人間との交わりはどうしてこのように虚偽が多いのでしょうね。\n 私は尾道の叔父からぜひ帰れという手紙に接して尾道に帰ってからずーっと叔父の家にいました。両親は私の一燈園にての生活を非常に心配いたします。そしてこの寒さの増して行く季節を、ことに寒い京都の修道院にて暮すことはどうしても許してくれません。そして冬の間はぜひ暖地で暮らせと申します。まだ荷物はすべて一燈園にあります。私はしいても争いかねてまだきめずにあります。広島の牧師の家にいるお絹さんは私には悲しい、せつない、諦めの手紙をよこしました。そして艶子へは「兄さんの心配を除くためにあきらめるといってやったけれど、私にはどうしてもあきらめられない、私は朝顔日記の深雪や、袖萩のような強い恋をする。その心は兄さんにも告げない、あなただけは知っていてくれ」という手紙をよこします。そのようにしていつまでも結婚せずにいてくれては私もまことにあわれにかつ責任を感じずにはいられません。\n しかるに最近に、私は驚くべき音信に接しました。それは「H・Hを君の妻君にすることは可能である、私がほねをおりたい、至急帰郷せよ」という私の同郷の、札幌の農科大学を出た友人からの手紙なのです。三年昔の苦しい、血の出るような思い出が急に心に蘇りました。H・Hはたしかに結婚したはずです。してみれば去られて帰ったのでしょうか。なにしろ私は心が動揺しました。私はH・Hと結婚することが可能であっても、今は考えなければならない真実な問題がたくさんあってけっして軽率なことはする気はありません。三年の間に私の思想は、いうにいわれぬ淋しい無常な気持ちを植えつけられて、魂のあくがれははるかに遠いあなたに向かっています。私は今もH・Hを愛し、彼女の幸福のためにはどのようなことでもしてやる気です。しかし結婚することがどれだけ二人のために幸福かわかりません。また今そんなことをしたらお絹さんはどうしましょう。私はかわいそうです。とはいえもし今私がH・Hに会いでもしたら、どんな心になるかもわかりません。おそらくは衣の袖にすがって千行の涙を垂れて泣くでしょう。私はけっして忘れてはいないのですもの。\n それやこれで私の心はちぢに乱れ、尾道にいたたまらずに、船に乗って遠くへ行って考えたいと思ってここまで参りました。雨が降って小さな汽船に揺られて、船に酔い、頭の底はしんしんと痛み、傘がないので衣は濡れ、まっくらなこの漁村に昨夜おそく着きました。\n 今朝も空は灰色に低く垂れて、船宿の汚ない部屋の欄干にすがって、海のどんよりした色を見ていると、淋しい淋しい気がいたします。何ともいいようのない無常を感じます。私はこの頃は西行や芭蕉などの行脚や托鉢して歩くような雲水のような心に同感します。\n 私は西国八十八か所を遍路して歩きたいと思いましたが止められました。天香さんは勝淳さん(一燈園の尼さん、切髪の品のいい四十歳ぐらい、天香さんと、夫婦のようにして暮らしていられます)と一緒に去年の春西国巡礼をせられました。「お遍路さん――」といって路ばたの茶屋などでも大切にしてくれるそうです。\n 私はこのようにぶらぶらしていてついにどうするのでしょう。明日はともかく尾道に帰ろうと存じます。そのうえでまた何とか考えをつけましょう。私は考えをまとめたいと思ってここに来たのに、来てみれば冷たいおちつかぬ心地ばかりして、アンイージーで、はやく帰りたくなりました。\n 艶子はこの冬休暇にお訪ねいたしましたかしら。今日は何だか悲しくて書く気がいたしません。寒いゆえできるだけ大切にして御勉強なさいませ。(久保正夫氏宛 一月十日。倉橋島より)\n\n 師と弟子との純情\n\n 今日はあなたの「聖フランシスの小さき花」が届きました。装いも、内容も、文体も典雅な美しさと悦びを保ち、私の心にふさわしき、感激を帯びたひびきを伝えました。私はあなたのお仕事が初めて世に公けになったことを祝します。やがてあなたの創作なども公けの宝として人々に別けもたるる日の早かれかしと祈ります。あなたのプレゼントを私ははじめから、あたりまえのこととして待ち設けられるほど、あなたの生活と仕事に親しくなっていることを悦びました。感謝と同慶の心をもてあなたの送り物を受け取ります。\n 私は先月の末からこの宿にうつりました。青い畑と、静かな林を後ろにして小さな牧場とが二階の欄干から眺められる小じんまりした、感じのいいところです。一燈園から七、八丁ばかり、天香さんは町へ出るたびに、下から倉田さんと声をかけて下さいます。ちょうど通り路にあたるのです。私は二階から首を出して晴れやかな親しい挨拶を交わします。私は一燈園へ毎朝通ってお経を誦し礼拝した後で、天香さんの次男の、理一郎という十五になる少年を連れてかえって英語を教えています。この少年は色の白い美しい悧溌な子で私を信じてすがります。\n 私はふしあわせな人々のためにできるだけ力を分かっています。それらのさまざまな物語りはあなたにお目にかかって話したらば限りなくたくさんに多様にあります。よく私は一燈園で何心なく座敷の襖をあけると、天香さんの前に奥様らしい三十女などの泣きくずれて訴えているところを見受けて、はっと心を打たれることなどございます。私は天香さんのひとりの弟子として信愛されその愛憐の仕事をたすけることを幸福に感じます。\n あなたは日々仕事にいそしみ、御家庭の不調和にもたえて、愛と忍耐とをまなび、そのなかからあなた自身と周囲とをしあわせにする道を拓きつつ、努力していらっしゃるのですね。そのなかからあの「小さき花」の訳書などもできたのですから尊いと思います。フランシスのものなどこそローマンスを求める心や、ドキュメントを渉る心などで読まれるべきものではなく、己れの日々の生活に愛と忍びとの味を沁み出させんとの実践の気持ちでしかせられなくてはなりませんね。天香さんなどはフランシスのとおりに行なっていられます。たしかに聖者という感じがいたします。天香さんは昔西村家という待合に十何年間も住んでいられました。今の勝淳さんという一燈園のクララともいうべき尼は、昔の西村家の仲居でした。品のいい静かな婦人です。一燈園の二階の婦人の室には大小をはさんだりっぱな武士の絵姿を軸物にして懸けてあります。これは勝淳さんの祖父の肖像だそうです。私が一燈園にかえってあくる朝は大雪で、林も垣根もま白になりました。私は顔を洗いに庭に出ますと、そこに勝淳さんが、白雪の重たく降るなかに、立ちつくして、天を拝しつつ、指を輪のようにして黙って祈りの姿でいました。私はその気高い、切髪にした四十幾つの女の祈りの姿を忘れることができません。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「本郷にも林町はありゃしませんかね、駒込林町と云うのが」\n 岸本は云った。\n「ふん、然し、駒込はついていなかったんだろう」\n「えゝ、町名だけのようでした」\n\n 石子刑事は翌朝本郷に出かけた。\n 先ず森川町を目指して行ったのだが、好運にも直ぐ竹内と云う写真館を発見する事が出来た。一高の少し手前を左の方へダラ〳〵と坂を下った右側だった。\n 浅田写真館よりは大分繁昌しているらしく、飾窓の写真にも現代風の令嬢や、瀟洒たる青年の半身姿などが飾ってあった。\n 石子刑事は暫く飾窓の前に佇んで中の様子を覗った後、一高前の交番に行って刑事の手帳を示し、神楽坂署へ電話をかけた。迂闊に飛び込んで又裏口からでも逃げられては、折角の苦心も水の泡だと思ったので応援を頼んだのである。\n 五、六名の応援刑事が到着するのを千秋の思いで待ちかねていた石子は、彼等の姿が見えると、すぐに夫々手配りをして、竹内写真館の入口のドアを押して中へ這入った。流石に異様な緊張の為に息が弾むのだった。\n 這入ると直ぐ突当りに幅の広い階段があって、「お写しの方は直ぐに二階に上って下さい」と云う札が目を惹くように立て掛けてあるきり、中はしーんとしていた。石子刑事は暫く考えていたが、思い切って静かに階段を上った。\n 上は広い洋風の待合室になっていた。中央の卓子の上には厚い表紙の金縁の写真帳がいくつも置かれていた。石子がどうしようかと窓際の長椅子の前に佇んでいると、次の間から一人の書生が現われた。\n「いらっしゃいまし」\n「今日は、ちょっと松下さんにお目にかゝりたいのですが」\n 石子は丁寧に云った。\n「松下さんは居られませんですが」\n 書生は吃驚したように云った。\n「どちらへ行かれましたか」\n「松下さんは滅多にこっちへ来ないのですよ」\n 書生は怪訝そうな表情で答えた。\n「こちらに居られると云う事を聞いて来たのですが」\n「はあ、居る事にはなっていますが」\n 書生は困ったように、\n「鳥渡お待ち下さい」\n そう云って彼は引込んだが、引違いにこの家の主人らしい四十恰好の風采の好い男が出て来た。\n「いらっしゃいまし。まあ、お掛け下さいまし」\n 彼は愛想よく云った。\n「有難うございます」\n 石子は軽く頭を下げて答えた。\n「松下さんと云うのは一体何をしている人ですか」\n 主人は意外な質問を発した。石子は面喰った。\n「何をしているって、こちらに御厄介になっているんでしょう」\n「それがね、誠に奇妙な人物なんですよ」\n 主人は顔をしかめながら、\n「私の所に居る事になっているらしいのですが、滅多に姿を見せないのです」\n「はてね、私はずっとこちらにいると思っていたんですが」\n 石子は主人の顔色を覗った。\n「どうもそう見せかけているらしいのです」\n 主人は苦笑いしながら、\n「時々郵便が来るのです。そして松下は三日目に一度位それを取りに来るのですよ」\n「こちらとはどう云う関係なんですか」\n「書生と云う事になっているんですがね」\n 主人の答えは益〻意外である。\n「つい二週間位前ですかしら、別に誰の紹介もなくブラリとやって来ましてね、写真が研究したいから門下生にして呉れと云うのです。私の所では住込で研究さしていろ〳〵雑用もさせる代りに少しばかり給料をやるのと、いくらか教授料を取って、通いで研究させるのと二種類あるのです」\n\n 竹内写真館主の話によると、その松下と名乗る男は早速束脩を納めて門下に加わったのだった。所が一向写真を研究しようともせず、前に云った通り三日目か四日目に彼宛に来る郵便物を取りに来るのだった。\n「恰で私の宅を郵便の中継所のようにしているので、私も少し腹が立ちましたから断ろうかと思っているのですが、何分三週間の謝礼を前に取っているものですから、期限が来るまで鳥渡云い出し悪くかったのです」\n「松下と云うのは三十六、七の色の真黒な頑丈な男で、眼が大きくて眉の気味の悪い程濃い、ひどく東北訛のある大きな声を出す男でしょう」\n「その通りです」\n 主人の云う所は嘘とは思えぬ。石子は登りつめた絶頂から九仭の谷へ落されたように情なくなった。\n「今手紙は来ていませんか」\n「一昨日でしたか、すっかり持って行った所です」\n あゝ、又しても僅な違いで出し抜かれて終った。\n「実は私はこう云う者です」\n 石子は名刺を差出しながら、\n「松下と云う男は本名を支倉と云って、ある犯罪の嫌疑者なのです。今度もしやって来ましたら引留めて警察へ渡して下さい」\n 写真館主は名刺を受取って、吃驚したように眼を瞶りながら答えた。\n「承知いたしました」\n 石子刑事は悄然として外へ出た。\n 度々の事とて見張をして呉れている同僚に合す顔がないのだった。\n 同僚には手短かに話をして、歯噛みをしながら署へ帰った。\n 今度こそはと期待していた根岸刑事は石子の話を聞くと落胆して終った。\n「どうも旨く立廻る奴だなあ」\n「全く以て我ながら嫌になるよ」\n 石子は面目なげに答えた。\n「支倉だけでも好い加減持て余しているのに、浅田なんて一筋縄で行かぬ奴がついているのだからね、骨が折れる訳さ。だけど、それだけ材料があると、愈〻浅田の奴を引っぱたいて本音を吐かせる事が出来るよ。前に一度飴を甞めさして帰してあるのだ。今度こそは少し辛い所を見せてやるぞ」\n 根岸は珍しく興奮した。\n「然し奴素直に出て来るかしら。何か旨い口実があるかね」\n「そうだね、岸本とか云う君の諜者はどう云う契約だったんだ」\n「あれは諜者と云う訳じゃないのだ。僕に鳥渡恩を着ている事もあるし、行方不明になっている例の女中も鳥渡知っていると云うような訳で、進んで浅田へ住込んだのだがね、危いと思っていた割合にはよくやったが、結局駄目だったよ。契約なんてむずかしい事はありゃしないさ。只書生に這入ったんだよ」\n「うん、じゃ岸本を利用して契約不履行とかなんとか云う訳にもいかんね」\n「犯人隠匿と云う訳にも行かんし、営業違反と云う事もなし、全く困るね」\n「世間ではよくこうした場合に、徒に口実を拵えて良民を拘引すると云うがね」\n 根岸刑事はふだんの冷然たる態度に帰って云った。\n「今の場合のように非常に濃厚な嫌疑のある男の逃走を援助している男をだね、取押えて調べる道がないとすると、殆ど犯罪の検挙は出来ないじゃないか。時に誤って良民を苦しめる事があるとしても、その人はだね、丁度そんな嫌疑のかゝる状態にいたのが云わば不運で、往来で穴の中へ陥ちたり、乗ってる電車が衝突したりするのと同じ災難じゃないか。こっちは決して悪気でやっているのじゃないからね」\n「そんな議論は然し世間には通用しないさ」\n 石子は苦笑いをした。\n\n「つまりこうなんだ」\n 石子刑事は続けた。\n「災難と云っても、穴に陥ちたり、電車で怪我したりしたのは夫々賠償の道があるだろう。我々の方へ引懸かったのはどうせ犯罪の嫌疑者だから、扱い方もそう生優くしていられないさ。さんざんまあ侮辱的な扱いを受けて揚句損の仕放しじゃ、辛い訳だね」\n「賠償する事にしたって好いさ。どうせそうザラにある訳じゃないから。新聞はそんな方ばかり書くから矢鱈に多いようだが、そんなものじゃないからね」\n「所がそうなると僕達は直ぐ成績に影響して来るからビク〳〵もので、碌な検挙は出来ないぜ」\n「何にしても悪い事をする奴がなくなればいゝんだがなあ」\n「そうなると僕達は飯の食上げだぜ」\n「ハヽヽヽ」\n「ハヽヽヽ」\n 二人は顔を見合して笑ったが、さて現実の問題として見ると、こんな呑気な事は云っていられなかった。\n「兎に角、俺が、浅田を引っ張って来よう」\n 根岸が云った。\n「そうかい、じゃお願いしようか。僕はもう少し支倉の旧悪の方を突ついて見よう。何と云って連れて来るんだい」\n「無策の策と云うか、当って砕けろと云うか、別に口実なんか拵えないでやって見よう。対手も食えない奴だから下手な事は云わん方が好いだろう」\n 根岸と石子は別れ〳〵に白金と高輪に向った。\n 石子が高輪へ出かけたのは、そこの警察へ行って放火事件を委しく調べる為だった。\n「さあ、無論記録にあるはあるでしょうがね、五、六年前に半焼一軒じゃ鳥渡さがすのに骨が折れましょうて」\n 係の巡査は首を捻った。" }, { "role": "assistant", "content": "「今日は馬鹿に古い調物があるなあ」\n 隣にいた巡査がニヤ〳〵しながら云った。\n「僕の方は三年前の仮埋葬死体の照会だ」\n「え、三年前」\n 耳寄りな話だと石子刑事はその巡査の方を向いて聞いた。\n「どう云うんですか」\n「何ね、三年前にね、大崎の池田ヶ原の古井戸から女の死体が出ましてね、身許不明で大崎の共同墓地へ埋葬したんですがね、今日或地方から照会がありましてね、親心と云うものは有難いものですね、三年前に家出したまゝ行方不明の娘があるので、どこで見たんですかね、仮埋葬の広告を見たとみえて、早速の照会なんですよ」\n 三年前! 池田ヶ原! 家出娘! 何と似寄った話ではないか。\n 石子刑事は胸を轟かした。\n「いくつ位の娘なんですか」\n「二十二、三です」\n「そうですか」\n 石子は落胆した。\n「えーと、やっと見つかりましたよ」\n 隣の巡査が声をかけた。\n「支倉方より出火、半焼と之でしょう」\n 巡査の指し示す所を見ると、確に石子の求める記録だった。彼はそれを写し取って外へ出た。\n 世め中はだん〳〵春らしくなる。物持らしい家の南に向った気の早い梅は、塀越しに一輪二輪綻びかけていた。冷たく顔に当る風さえが、眼に見えない伸びようとする霊気を含んでいるようだった。\n 力なく〳〵帰署する石子の頭には、支倉の失踪を中心として起ったいろ〳〵の奇怪な事件が渦を捲いていた。\n\n\n 魔手\n\n「奥さん、これですっかり手続はすみました」\n 浅田は落着き払って云った。\n「どうもいろ〳〵有難うございました」\n 静子は丁寧に頭を下げた。\n こゝは支倉の留守宅の離れ座敷である。基督受難の掛額や厚ぼったい金縁の聖書其他の調度がありし日の姿そのまゝに残っている。石子刑事が見たら感慨無量であろう。相対した男女の二人は支倉の妻の静子と写真師浅田である。\n 庭には午後の陽が暖かそうに一杯当っていた。\n「之でこの家も高輪の借家の方もみんなあなたのものになった訳です」\n 浅田は生際の薄くなった額を撫で上げながら、気味の悪い笑いを洩らした。\n「ほんとにお手数をかけました」\n 静子は格別嬉しそうにせず、\n「何ともお礼の申上げようがありません」\n 浅田は要件が済んで終っても中々尻を上げようとせず、又新しい敷島に火を点けて、四辺をジロ〳〵睨み廻していた。\n 静子は手持無沙汰で、一刻も早く彼の帰って呉れる事を念じていた。\n「お淋しいでしょう」\n 暫くすると浅田が云った。\n「はい」\n「お子供さんの御病気はいかゞですか」\n「有難うございます。病気はもう夙から好いんでございますけれども――」\n 静子は後を濁らした。支倉との間に出来た太市という今年六つになる男の子は、少し虚弱な質で、冬になると直ぐ風邪を引いて熱を出したりするので、一月の初めから温かい海岸にいる親切な信者の所へ預けてあった。一月末には迎いに行く事になっていたが、丁度刑事に踏み込まれたりして、迎いに行くのが延々になり、子供にこんな有様を見せたりするのは面白くなかったし、幸い子供も帰りたがらないので、その儘預け切りになっているのだった。\n「支倉さんも坊ちゃんに会いたがっていましたよ」\n「――――」\n 静子は黙ってうつむいた。涙がにじみ出て来た。子供に会いたいのは彼女とても同じ事、一時も早く親子三人団欒して、昔の平和な生活に帰りたかった。もしや子供が今頃父母を慕って泣いていはせぬかと思うと、落着いた気はなかった。一時の心得違いから家を外に隠れ廻っている夫が恨めしかった。彼女はどうして夫が逃げ隠れをして、自分に家作を譲ったりする事を急ぐのか、よく分らないのだった。\n 静子は顔を上げた。睫にキラ〳〵と小さい露が宿っていた。\n「何でございましょうか、夫は之で警察へ出頭いたしますでしょうか」\n「さあ、分りませんね」\n 浅田は意地の悪い笑を浮べながら、\n「まあ自首なんかなさるまいよ。誰でも刑務所へ這入るなどは感心しませんからね」\n「あの」\n 静子は顔色を変えた。\n「じゃ、矢張り罪になるような事をしたんでございますか」\n「さあ」\n 浅田は困ったと云う表情をしながら、\n「まあそうでしょうね」\n「どんな事をしたんでございましょう」\n「奥さんご存じないのですか」\n「聖書の事でございましたら」\n 静子は云い悪くそうに、\n「あれは決して盗んだのではない。正当に譲り受けたのだと申して居りました」\n「そうですか。じゃ何か外にあるのでしょう」\n 浅田はニヤリと笑った。\n\n ニヤリと笑った浅田は続けた。\n「何か未だ外にあるんでしょうよ。あゝ逃げ廻る所を見れば」\n「いいえ。逃げていると云う訳ではありません」\n 静子は躍起となった。\n「この譲渡しの手続きさえすめば進んで警察へ出頭するものと信じて居ります」\n「所がね、奥さん」\n 浅田は狡猾そうな表情を浮べながら、\n「支倉さんは未だ逃げ歩く積りですよ。本郷の方ですね、手紙の送先の写真館ですね、あれが発覚しそうになって来たので、近々又格別の所を云って寄越す事になっているのです」\n「本郷の方はどうなったのですか」\n「私が少し失敗ったものですからね」\n 浅田は腮を撫でながら、\n「宅へ探偵の廻物が這入ったのですよ。小僧だと思って抛って置いたのですが、うっかりして本郷の方を嗅ぎ出されそうになったのです。それでね態と外の所を教えて遣って、昨日叩き出して終ったのですが、昨日今日あたりは探偵の奴め間違った所を探し歩いて、靴をすり減らしている事でしょうよ。ハヽヽヽ」\n「そんな危険な思いをしないで、早く自首して呉れると好いんですがねえ」\n 静子はホッと溜息をついた。\n「然しね、奥さん、これはそうあなたが簡単に考えて居られるような事じゃありませんよ」\n「えっ」\n「と云って、そう驚く程でもありませんがね」\n 浅田は態と話を切って、じっと静子の顔を見た。\n 静子は浅田の気味の悪い視線を避けながら、\n「どう云う事なんでございましょうかしら」\n「さあ、私にもよくは分りませんがね。もし支倉さんが潔白なのでしたら、あゝ逃げ廻る必要もなくあなたに周章て財産を譲る必要もない筈です。今だに姿を晦ましているのは何か重大な罪を犯して居られるのではないかと思われますがね」\n「そんな筈はございません。そんな逃げ廻るような罪を犯している気遣いはありません」\n 静子はきっぱり云った。\n「そうですか、それなら結構ですが」\n 浅田はニヤリとして、\n「大分前の事ですが、あなたの所の女中さんが行方不明になった事がありましたね」\n「はい」\n 静子は恨めしそうに浅田を見上げながら答えた。\n「あの女中さんは、こんな事を云っちゃなんですが、支倉さんがどうかなすったのでしょう」\n「はい」\n「そんな事で警察へ呼ばれるんじゃないでしょうか」\n「そんな筈はないと存じます。あの時の事はちゃんと片がついているのでございますから」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " そのくせ、工場の者を連れて派手に飲み歩くことが好きで、朝帰りには、よくウマが家までついてきた。俺は死んだおふくろが、びんの毛を手で掻きあげながら、そっと質屋へ飛んで行く姿を、幾度見たか分らない。\n 世帯の苦労に女の苦労、あらゆる苦労のしずくめで、おふくろは死んで行った。しかもその死に際に、おふくろは、\n「おとっつぁん、ごめんなさい」\nと、自分がさもさも至らなかったみたいに、おやじに詫びた。いまいましいったら、ありやしない。\n おやじは男泣きに泣いていたが、\n「なんでえ」\nと俺は思った。俺はおふくろが好きだった。\n おふくろが死んだのは、俺が小学生の三年のときだった。それから一年もたたないうちに、三郎のおっかさんに当る後妻が、俺の家へやってきた。俺が夕暮の街で、コウモリと遊ぶような少年になったのは、それからのことである。兄貴の五郎はおやじから、鋳物のコツを習わせるんだと雑工なみに工場で働かされていた。\n 兄貴とちがって中学へやって貰った俺なのに、それがヘンに曲って行ったのは、おふくろと死に別れたことにも原因がある。だが、俺がテロリストになったのは、いわばそんな感傷からではない。\n 俺は中学四年のときに、大杉栄の本を読んだ。恐ろしい人のように言われ、恐ろしい本のように言われていた大杉栄の本を、俺は恐ろしいという噂にひかれて読んだのである。読んで、俺は恐ろしいなんて感じなかったと言い切っても、うそになるが、恐ろしい真実を知らされた感動のほうが強かったことも事実である。\n 中学四年生の俺には、読んでもよく呑みこめない部分が多かったが、呑みこめた部分は俺の若い血をかっと燃え立たせた。つづいて俺が、大杉栄の訳したクロポトキンの『青年に訴う』を読んだときの昂奮は、今もって鮮やかに記憶に残っている。伏せ字だらけのそれには、こんなことが書いてあった。\n「嗚呼。諸君の両親と同じ悲惨な生活を、この上にも猶、三十年も四十年も続けて行かなければならぬのか。幸福や知識や芸術の有らゆる快楽を他人に得させるために生涯の間働いて、自分は一片のパンを得る事が出来るかどうかと言う永遠の心配をしていなければならぬのか。少数のなまけ者共に有らゆる贅沢をさせる為めに、自分の生活を美しくする一切のものを永久に見棄てなければならぬのか。そして労苦に使いへらされて、一旦不景気が――あの悲しい不景気――来れば、其の報いとして餓死する。これが果して諸君の一生の憧憬であろうか」\n 俺は俺のおやじの生活を特に悲惨だとは思わなかったし、たとえ悲惨だとしても自業自得だと思っていたが、俺の周囲は、クロポトキンの言う「悲惨な生活」にみちみちていた。それとくらべて、俺はおやじを悲惨だとは思わなかったわけだが、それだけに俺は多くの悲惨を知っていたとも言えるのだ。でも、俺がもしも、こうした本を読まなかったとしたら、俺の知っている悲惨を、この社会の不合理な仕組みの故とは知らないで、その人々が「なまけ者」だからなのだと思っていたにちがいない。思いつづけていたにちがいない。\n「なまけ者」は逆に、働いても働いても食えない貧乏人を、悲惨な生活に陥れていることでヌクヌクと遊んでいられる少数の人たちなのだ。その恐ろしい真実を俺は本を読んだことで知ったのである。学校へなど行くと、ろくなことはないと、おやじが言ったのは、こうなると、いくらか当っていたようだ。\n 俺はそのころ、近所の貧しいが美しい少女に、淡い恋心めいたものを寄せていた。もちろんこっちだけの片想いである。\n 肺病やみらしい蒼い顔をした父親は、新聞紙に包んだ弁当箱をかかえて、毎朝、割引電車でどこかの工場へ通っていたが、それが少女の母親に言わせると「甲斐性なし」で、母親も赤羽橋の煙草工場に働きに行っていた。母代りに弟たちの面倒を見ていた少女も、やがて口べらしに、どこかのお屋敷へ女中奉公に出た。小間使いという言葉があって、それになったのだ。きりょう良しのせいか、台所女中でなく、お座敷女中になった少女は、藪入りに家へ帰ってきたときなど、見ちがえるような美しさになっていて、俺をどきどきさせたが、間もなく若旦那さまの手がついて、家に戻された。少女を誘惑した若旦那は咎められないで、むしろ少女のほうが非難された。貧しさのゆえである。\n 彼女は自分で今度は周旋屋へ行って、奉公先を探して家を出て行った。あんまりかんばしくない勤め先のようだったが、それなり彼女は俺の眼から消えたのである。\n『青年に訴う』のなかの次のような部分は、そのまま、日本の現実なのだった。大杉栄の古い訳をまたぞろここへ持ち出すのはどうかと思うが、俺の思い出につながる、俺にとっては大きなショックだったそれを、ここにやはり転載したいと思うのである。\n「或る日又、諸君は、諸君があれほど愛して讃めていた、あのすばしこい歩きぶり、あの淡泊な処作、あの嬉しそうな話しぶりの、あの可愛い娘の話を聞くであろう。幾年も幾年も貧窮と闘って、彼女は生れ故郷を去って都へと行った。そこでは生存競争が激しいと云う事も、彼女はよく知っていた。それでも彼女は少なくとも正直な生活を送る事は出来ようと思っていたのだ。然るに其の運命がどうであったか、諸君が今知っている通りだ。或る資本家の息子に言いよられて、彼女は其のうまい言葉にだまされて了った。彼女は其の青春の燃えるような情熱を尽して、その男に身を捧げた。そして其のただ一つの報いとして、彼女は赤ん坊を抱いたまま棄てられて了った。彼女はいつも勇敢に闘って行った。しかし彼女は寒さと饑えとに対する不平等な闘いに負けた。そして彼女は或る病院の中で其の一生を終えて了った」\n 訳が古いと言うよりは、内容自体が、こういう説き方自身が古いと言ったほうがよさそうだ。そしてこんなことはもう常識になっていると言うよりは、資本家を単に人間的な悪玉にする見方は間違っているとも言える。しかし当時の俺には、これで初めて、社会を見る眼を開かせられたおもいだった。\n 俺はどうしたらいいか。クロポトキンはその解答を俺にさし示していた。\n「諸君の取るべき道は二つある。諸君は良心を曲げても自分の安居逸楽が出来る間は、そして人々がそれをさせて置く間は、人道などは俺の知った事じゃないと云って了うか、然らざれば社会主義者の中に投じて全社会の改革に従事するかの、二つのとるべき道がある。これは必ず到着すべき論理的結論である」\n 社会主義者の中に俺は身を投じたいと思った。それにはどうしたらいいか。このとき俺は砂馬慷一に会ったのである。――\n\n 兄貴の五郎は、おやじの眼を盗むようにして、俺のそばに来た。俺を路地へ引っ張って行って、\n「何か用か」\n「いいや、ちょっと遊びに来たんだ」\n「奥で待ってなよ」\n うーんと俺は生返事をした。おやじの後妻に会うのは、うっとうしい気持だった。\n「四郎はまだカタギにならないのか」\n「カタギ?」\n「嫁でも貰って、早く身を固めちゃ、どうだ」\n そう言う兄貴だって「部屋住み」のため女房を持ってない。だから俺は、俺も結婚したいと思った女がいたんだがと、口に出して言うのは憚られて、心のなかでそう言ったとき、\n「せんだって女が四郎を訪ねてきたぜ」\n モダン・ガールだったと兄貴は言って、\n「お前の居所を知らせてくれって......」\n 照子だなと俺は思った。照子は俺に会いたくて、ここまで来たのか。千駄木の方は、ただ下宿屋だと言っただけだったから、見当がつかないので、四の橋の鋳物工場を探して、わざわざここへ来たのか。\n「それで......?」\n「知らせていいもんかどうか、分んないから、ごまかしといた。知らせていいんなら、今度訪ねて来たとき、教えておく」\nと兄貴は親切に言ってくれたが、俺は、もう駄目だ、もう来ないだろうと思った。照子は俺に会いたがっていたのかと、その心を知った今、照子とはもう会えないだろうと、なぜかはっきりとそれを俺は感じた。――\n\n 慷堂から砂馬を通して、\n「瀬良という男のことが分った」\nという言葉が俺に伝えられたのは、俺のリン病も、治療作業の仕上げ工程にはいって、ブウジイによる治療をやっているときだった。仕上げと言えば、もう簡単のようだが、このブウジイ療法というのが、ほんとは治療工程のなかで、もっともいやなもので、最後にもっともいやなものが待っていたのだ。悪質の拷問みたいなものだ。\n それまでの、てめえのヨシコのさきを、てめえの指でつまんで、あらぬ方を睨んでいるなんてのは、心理的にただいやなだけで、このブウジイの肉体的苦痛に比べれば、物の数ではない。その苦痛というのも、痛いんなら痛いとはっきりしてるんなら、まだしも、鈍い苦痛がなんとも言えぬいやな感じで、じわじわと迫ってきて、それを一定の時間、じっとこらえていなくてはならぬのだから、悪質と言いたいのである。\n ブウジイは日本語で「消息子」と訳されている。医学用語のこの「消息子」とは何か。辞書を見ると「尿道、膀胱の拡張、探査につかう棒」とある。その棒が細いのから太いのにかけて、何種類かある。まずその細いのからはじまって、串焼き肉のあの棒みたいなブウジイが尿道に揷入される。尿道の拡張が目的で、拡張させた上で殺菌液を注入するのがブウジイ療法――なんとも、はや旧式な、鋳物屋を笑えぬ旧式さだが、そんな妙な棒を、ひとのヨシコのなかに串焼きみたいに突っこんでおいて、何分か放っておくのだから、放っておかれる身はたまらない。旧式の旧式たる所以である。ブウジイのさきで膀胱を刺戟されるせいか、たった今、小便をしたばかりなのに、なんだかひどく小便がしたい気持にさせられるんだが、棒を突っこまれた尿道では、小便も出せない。汚水の金魚みたいに大口をあいて、ハーハーと口で息をしていると、じりじりと脂汗が額ににじんでくる。\n それが一遍や二遍ならまだいいけれど、細いのから、だんだん太い棒に移って行く。毎日、その拷問が執拗に続けられるのである。尿道の側管に忍びこんだリン菌を、そうして絶滅させるんだそうだが、まるで女遊びに対してバチが当って、いや、バチを当ててやると、俺はわざと苦しめられているみたいだった。\n そのブウジイ療法の中途で、俺は慷堂からの伝言を聞いたのだが、その慷堂の家へ行ったちょうど前の日のことである。俺は前に、ボル派の組合のオルグを道に待ち伏せして、ひとりひとり殴ったと書いたが、そのひとりの大学生崩れと診療所の廊下でばったり顔をあわせたのである。\n「よお」\nと俺は与太者みたいに声をかけた。\n「やあ」\nと奴も言って、苦笑を浮べた。\n(なんだ、このヒョウロクダマ! もう一度、殴ってやろうか)\nと俺は奴を睨みつけてやった。\n ところで俺が、ヨシコに棒を突っこまれて、ベッドにへたばっていると、なんと驚いたことに、奴がそこへはいって来て、俺の係りの若い医者に、" }, { "role": "assistant", "content": "「よお」\nと言った。\n「やあ」\nと医者は言った。二人は友だちだったのである。\n\nその六 思想落後\n\n その日以来、俺はもうセツルの診療所へは行かなかった。とっても、行けたもんじゃありゃしない。どの面さげて行けるというのだ。\n 俺のリン病も、せっかくの、この大事なドタン場に来て、一挙に逆戻りか。ながい間の忍耐我慢も、これで一遍にフイになるのか。かまうもんかい。いっそ、振り出しに戻って、もう一度、あのいやなウミが吹き出してくりゃいいんだ。盛大に噴き出したほうがいいくらいだ。そう思った。ざまあ見やがれと言うもんだ。俺は自分をそうして笑ってやりたいのだった。ボルの仲間にのめのめとリン病をなおして貰ったとあっては、胸糞が悪いと俺は歯軋りをした。\n あのとき、俺は全く、なんとも言いようのない屈辱感に打ちのめされたものだ。アナ系の組合員を、ごっそりと持って行きやがったボル派の、あの大学生崩れのオルグの友人とは驚いた。俺の組合を一挙に裏切らせた奴の友人となれば、あの医者だって、俺の敵だ。敵のお世話に、俺はなっていたのだ。\n そのとき、俺はヨシコのなかにブウジイを突っこまれてさえいなかったら、ベッドからすぐさま飛びおきて、あの大学生崩れの横っ面を、思い切りひっぱたいて、それから、その同類の医者を――まさか、これは、ひっぱたくわけにも行かないから、医者には、\n「アバヨ!」\nと思いきり憎ったらしく言って、ペッと床に唾でも吐いて、そのまま、そこを、えいクソと引きあげたいところだったが、なにしろ、あの状態では、\n「畜生!」\nと思っただけで、それがもう膀胱のほうにキュッとひびきやがって、\n「イテテ......」\nとネをあげざるをえないざまだった。ベッドにへたばった俺は、屈辱感に文字通り打ちのめされた形だった。\n 大体、丸万にここを紹介されたときに、あらかじめ警戒すりゃよかったのだとも思うし、こんなところを紹介しやがった丸万の奴も丸万の奴だと思うが、いやもう、後の祭だ。歯を食いしばった俺の耳に、聞くまいと思う会話が、ツンツンと鋭く聞えてくるのも、くやしかった。低い声なのだが、だから、よけい刺戟的に、針のさきで突っつかれるみたいに響いてきた。\n「今度のパニックは、相当こたえたろうな」\nと医者は言った。\n「すごいね。クビ切り、賃下げで大変だ。操短ぐらいでは切り抜けられないで、工場閉鎖があちこち出てきてる」\nと大学生崩れは言った。\n「組織も、のびたろう」\nと医者は言った。医者のくせに、こんなことを言うのは、ボル派の大学生崩れと同じ穴のムジナであることを俺に告げる。\n「民心は険悪化してるね」\nとも医者は言った。\n「それを外へそらせるために、今度の内閣はおそらく支那へ手を出すだろう」\nと大学生崩れが言った。何を、しゃらくせえと俺が口のなかで罵ったとき、医者が、\n「対支非干渉のスローガンで、無産政党は共同闘争に出ているが、スローガンや声明だけじゃ駄目だな。大衆闘争に盛りあげなくちゃ......」\n「そうなんだ。俺たちのほうも、アジ・プロ活動を一生懸命やってるがね。今の様子では、どうかな。相手が軍刀を持った内閣じゃ、とても、おさえ切れないだろう」\n「居留民保護の名目で、出兵か」\n「その名目でとどまればいいが......」\n「いやねえ」\nと看護婦が――こいつまでがボル派の口調で、\n「不景気の打開を外国侵略で解決しようというのね」\n「帝国主義の当然の方法だな」\nと言いながら、医者はブウジイを抜きに俺のところへ来た。\n ツベコベ言やがって、このタンコアマ(おしゃべり)と、俺は腹が立ってならなかった。口さきだけで、大口を叩いてやがる。ツベコベ言うくらいなら、総理大臣を刺したらどうなんだ。イクジなしにかぎって、ツベコベ言やがると俺は苦り切っていたが、それらもみんな、俺としたことが、こんなツベコベ派の世話になったのかという屈辱感から来ていることだった。\n ブウジイからやっと解放された俺はベッドからおりると、壁に向って、エテマタをはき、ズボンをはいた。そしてベルトをしめて、ひょいと、うしろを向くと、\n「よお」\nと大学生崩れが言った。\n「やあ」\nと俺は言って、いけねえ、さっきの、これは反対だと気づいた。さっきは俺が挑戦的に「よお」と言って、向うが「やあ」と答えたのだ。\n それが逆になっていた。すでにこのとき、敗色は明らかなのだった。\n「知り合いか」\nと医者が言った。大学生崩れは黙ってうなずいて、まじめな顔で、\n「年は僕たちのほうが、ちょっと上だが、闘争経歴ではずっと先輩だ」\n そう、ぬかしやがった。ひやかしの語調でないのが、よけい、いけない。これには俺も参った。\n もしも俺がその大学生崩れだったら、このとき、きっと医者に向って、\n「こんな奴のリン病なんか、なおしてやることはない」\nと言っていたにちがいないのだ。\n ところで、医者は医者で、\n「知り合いか」\nともう一度言って、\n「帆住先生から、特別のお声がかりで、この加柴さんは、絞首台を覚悟した人物なんだからってね。特別に大事にしてあげてほしいと言われたんだ」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 金「欲しいたって無いよ、縁ずくだから」\n 蓮「裏に居る売卜者の浪人の娘は好い器量だね」\n 金「うむ、彼は何うも無いのう、品格と云い、親孝行でな、彼の娘に味噌漉を提げさせるのは惜しいものだ、お父さんはヨボ〳〵してえるがまだ其んなに取る年でもないようだが、寒さ橋の側へ占いに出るのだが可哀想だのう」\n 蓮「あの娘を貰い度いもんだね」\n 金「貰い度いたって先方も一人娘だから」\n 蓮「其処を工夫してさ」\n 金「工夫たって一人子だから呉れないよ」\n 蓮「私に宜い工夫が有るんです、先方は大変に困って居る様子だから、可愛がって店賃を負けておやんなさいよ」\n 金「店賃を負けるてえ訳にはいかない、地主へ遣らなくっちゃアならないから」\n 蓮「成る丈け催促をしないようにおしなさい」\n 金「催促するのも、少しは遠慮をして居るのよ」\n 蓮「彼んな親孝行な娘は有りませんね、浪人ぐるみ引取っても構やアしない」\n 金「親付きでか」\n 蓮「親付きだって、あの浪人者なら宜いよ、あの浪人者を呼んで、お前さんね、親一人子一人だが、良い子を持ってお仕合せだ、どうせ宅へ養子をするのだが、甥の竹と云う者が奉公先から下って来れば宅の養子に成る身の上だが、彼に添わしたいように思うが、お前様も一人子だから他へ呉れる理由にも行くまいから、一緒こたにお成んなさいと云って御覧なさい」\n 金「馬鹿ア云え、そんな事が云えるものか、あの浪人は堅い男だ、毎朝板の間へ手を突いて、お早うと丁寧に厳格した人だが、そんな篦棒な事を頭を禿らかして云えるものか」\n 蓮「じゃア斯う仕ましょう宅へみいちゃんだのおしげさんだのが綿摘みの稽古に来ますから、あの娘にも綿を摘む内職を成さいと云って呼寄せ様じゃアありませんか、幸いすうちゃんが休んで桶が明いてるから」\n 金「あゝ云う遠慮深い人だから身装があの通りだからって寄越すめえ」\n 蓮「それは此方で貸して手間で差引くといって悉皆り私の物を貸して遣って習いに来ればもう占めたもので、内職が出来ても出来なくても、あの娘のは光沢が好くって評判が宜い、是丈揚ったって手習丈の物はなくても宜いから無闇に手間賃を出してお遣んなさいよ」\n 金「夫は大変な散財だな」\n 蓮「夫から段々覚えて来たから前貸だと気を附けてお金子を貸してやって、ホイ〳〵云って子の様に可愛がって遣ってお父さんが留守の内は私の側に置いて娘のようにして可愛がって、段々馴染が深く成るうち一年が二年と年月がたつ内に、三年経つと竹が年期が明いて来ますから、丁度宜いねえ二人差向いに成ったら気を利かしてお外しなさいよ、私はお参りに行くよ、二人置いて行けば、冬なら炬燵が有るから当人同志で旨く成って仕舞い、当人が来たいと云えば宜いじゃアないか」\n 金「夫じゃア無理無体にか、併しあの浪人は堅いから寄越すか知らん、おゝ噂をすれば影だ、ピー〳〵風でさむさ橋に出て居ても、見て貰い人もないかしてもう帰って来た、帰り際に早いから屹度寄るぜ」\n 浪「えゝ御免を」\n 金「はい」\n 浪「留守中誠に有難う存じました、えゝ只今帰りました、清左衞門で」\n 金「まア一寸お上んなさいよ」\n 蓮「ちょいとお這入んなさい」\n 浪「はい御免を、誠に何うも両三日は引続いてお寒い事で、併しながら何日も御壮健な事で」\n 金「其んな堅い事を云わないでも宜しい、お茶を煎れて羊羹でも切んなさい、なに無く成ったえ、何か切んなよ」\n 蓮「切んなって切るものは無いよ」\n 金「じゃア最中でも出しなよ」\n 浪「えゝ御内室様私が出ますると娘一人を残しまして一日留守に致し何かと御厄介勝で、夫にお隣の麹屋のお内儀さんが誠に御真実になすって一通りならんお目をお懸け下され誠に有難い事でございます、お礼にも都度〳〵上り度う存じますが何分貧乏暇なしで遂々御無沙汰勝に相成って済みません」\n 金「其んな堅い事には及びません、裏の方の屋根が少し損じたから其の内に修繕させます、お前さんは能く毎日寒さ橋へお出なさる、此の寒いのに名さえ寒さ橋てえんだから嘸ぞお寒かろう、ピュー〳〵風で、貴公はお幾歳です」\n 清「いえ何うも誠に多病の人間で、大きに病魔の為めに老けて見られますんですが、未だ四十六歳で」\n 金「御壮んですな」\n 浪「いえ甚く弱むしに成りまして困ります、貴方は何日も御壮健ですな」\n 金「マお茶をお喫んなさい」\n 清「是は有難う存じます、頂戴致します、結構なお茶で、手前は茶が嗜で素より酒が嫌いだから、好い菓子も買えません、斯くの如く困窮零落しては菓子も喫べられません、斯様な結構なお茶、結構なお菓子を、イエ〳〵是は戴きますまい是は娘に持って行って遣わしましょう」\n 金「今お前様処のお嬢さんのお噂をして居たのだが、実に私は鼻が高い、私の長屋にあゝ云う親孝行の娘が居れば私は何の位鼻が高いか知れない、お前さんはお仕合せだと云ってお噂ばかりして居ます、お前さんが留守でも隙間なく働いて、長屋の評判も好し、ちょいと宅へ来ても水を汲みましょうか、買い物はありませんかといって気を附けてお呉れで、御品格と云い、御器量と云い実に申し分が有りませんね」\n 清「イエ何う致しまして誠に不束者で、屋敷育ちで頓と町家の住居を致した事がないので様子合を一向に心得ませんから皆様に不行届勝ちで、夫に一体無口で」\n 金「イエ余りペラ〳〵喋るのは宜けません、年の行かん娘などがお世辞を云うのはいかんもので、今ね其の家内がお噂をして居ましたので、お宅で何か内職でもおさせですかえ」\n 清「イエ恥入ります、碌な事も出来ませんが少々ばかり鼻緒を縫ったり致して居ります」\n 金「鼻緒も宜うございましょうが、家内が綿を紡むことを覚えて近所の娘子に教えるので、惠比壽屋だの、布袋屋だの、通り四丁目の棒大や何かから頼まれましてお店の仕事ばかり為ますが余程宜い手間で、立派な男の手間位には成ります、処が此の節おすみと云う娘が休んでて桶が明いてますから、教えて上げ度いが、甚だ失礼で何うしたら宜かろうなんて、家内が云いますから、なに失礼な訳は無い、覚えてお父さんのお手助けに成れば結構だ、鼻緒を縫ってお在でのようだが、夫も時々休みが有るようだ、夫から見れば是は毎日の仕事だから少しはお父さんのお手助けに成るかも知れんと考えたんで」\n 清「夫は御親切に有難い事で、実は娘も好い内職を皆さんが御当家へ来て成さるが、何うかして私もあゝいう内職を覚え度いと申して居りますが、何分立派なお嬢さん方の入らっしゃる中へ」\n 蓮「いえそんな事を心配してはいけません、尤も宅へ参る娘達は可なりの処の娘ですから其ん中へ這入るのだからとお思いなさるのは御尤ですが、私の着物が明いてますから、碌なのじゃアありません私が若い時分に着たので、今は入りませんから上げちまっても宜いが、失礼ですからお貸し申します、其の内に手間が取れゝば又拵えて上げるように為ますが、是は若い時分に締めた帯で、宅には娘はなし、親類にも女の児がないから取って置いても仕様が有りませんから」\n 金「何か上げなよ、失礼だが半纒を、誠に失礼で御立腹か知らんが襦袢なども上げなよ」" }, { "role": "assistant", "content": " 蓮「どうぞ不用なのですから、赤いのも今は土器色に成ったんです」\n 金「細帯も附けて上げなよ」\n 清「是は何うも恐れ入ります、残らず拝借致しても他の物と違いまして、瀬戸物や塗物は瑾を付けた位で済みますが、着類は着れば切れるもので」\n 金「宜しい切れても、仕舞って置いたって折切れます、誰にも遣る者はなし詰らんわけだから着せて下さい、綺麗な身装をして出入りをして下されば私も鼻が高い、今だって汚くも何ともない、私の綿入羽織が有ったろう、お前さんの身装を軽蔑んじゃアございませんが是は古くって一旦染たんで、一寸余所へ行く時に之を着て出て下さると私は鼻が高い、然うして姉さんは是非寄越して下さいよ」\n 清「是は何共何うも御親切千万有難う、親子の者が窮して居りまするのを蔭ながら御心配下され、着物がなければ貸して遣ろうと仰しゃる思召し、千万辱い事で、御親切は無にいたしません、然らば拝借を願います」\n 蓮「姉さんを屹度お寄越しなさいよ」\n 清「何のようにも是は願わなければ成りません、筆も嘸ぞ悦びましょう」\n 金「お筆さんと云いますか、私は始めてお名を覚えました宜しく」\n 清「左様なら拝借を致します」\n と清左衞門悉く悦んで、ニコ〳〵しながら家に帰って来ました、娘お筆は、寒さの取附だと云うにまだ綿の入った着物が思うように質受が出来ず、袷に前掛だけで短い半纒に幅の狭い帯を締てお筆は頻に働いて居ります。\n 筆「おやお帰り遊ばせ」\n 清「今日は風が吹くんで往来も繁くないから早く帰って来た」\n 筆「私がお迎いに出ようと思って居りました処で、大層にこ〳〵笑って在っしゃいますね」\n 清「お家主さんが御親切に色々仰しゃって下さり、それにあのお内儀さんは綿を紡む内職が名人だそうで近所の娘達も稽古に来るからお前も遣したら宜かろうと、色々と御親切に仰しゃって衣類まで貸して下さり、此の通り私に綿入羽織にしろと被仰ってこれを貸して下すった実に御親切な事で恐入った訳で、仇に思っては成りませんぞ、実に仕合せな事で、何うか一生懸命に覚えて呉れるかね」\n 筆「お父様、私は一生懸命に神信心をして上手に成ってお父様のお手助けをいたし度うございますから御心配なく、来年の夏迄には屹度一人前に成りますから」\n 清「然う早くも覚えられまいが其の心得で居れば宜い」\n と直に貰った着物を着せて礼に遣ると此方は嫁に仕様と思うのでございますから、ちやほや致し是から綿紡みを教えまして出来ても出来なくても、あゝ能く出来た、お前のはお店の受けが好い是は光沢が別だと云うので手間を先へ貸して呉れるように致して万事に気をつけて呉れるから大仕合せで、其の内暮になると何か手伝いをして遣り度いと思って居る処へ清左衞門が礼に参りました。\n 清「エヽ御免を蒙ります」\n 金「おやお出なさい斯うなって近々お出でになるに、然うお前さんの様に窮屈で悪固くっては困る」\n 清「何うも私は武骨者で困ります、段々とお世話様に相成り何共お礼の申し上げようが有りません、先達は又出来もせんものに、前以てお給金を頂戴致し、中々今からお手間などを戴けるわけのものでは有りません」\n 蓮「なアにお前さん何日でも旦那と噂をして居るの、大層お店の受けが宜い事、ちょいとお前さん早くお出しなさいよ」\n 金「あれはね其のどうせ来年の三月迄の手間賃で、私が上げる訳じゃアない、店から来たんだから遠慮をしてはいけない、是はね私の心許りのお歳暮でお筆さんに上げます、家内がお年玉をって、今から年玉を上げるのも可笑しいが、どうせ上げる物だからお歳暮と一緒に預かって置いて下さい」\n 清「是は何うも暮の二十八日にお年玉を、是は千万辱ない事で」\n 蓮「それから正月のうちはね、女子供は皆美い身装をして来るから、貴方もお筆さんに着せ度くお思いでしょう、また追々春の手間で差引きますが、年頃の娘の事ですから皆の身装を見たら羨しくも思いなさろう、仮令其様な気がないにもせよ、お筆さんばかり悪い身装をして来る訳にもいきますまい、是は台なしに成って今は不粋ですが、荒っぽい小紋が有るんです、好いンじゃアないんですが、お筆さんは人柄だけに小紋の紋付はお似合いだろうと思って、仕立屋へ遣ったんではないので、家で縫ったんですよ、夫に帯は紫繻子が宜かろうと、斯う云う訳で、赤い物が交って気に入らないかも知らないが、朱の紋縮緬と腹合せにしてほんのチョク〳〵着るように、此の前掛は古いのですが、二度ばかりっきゃア締めないんで、此の簪は私が若い時分に買ったんですが、丸髷には差せないから、不粋なもんですが...」\n 金「貴方にお歳暮に羽織を上げましょう」\n 清「是は何うも斯うは戴けません、其んなに無闇と然う下さる訳のものではない、又人様に無闇と戴くべき道理がない、然う御贔屓下さいますと却って褪めるもので、何うか末長く幾久しく」\n 金「其んな堅い事を云わずに取ってお置きなさい、只上げやアしません、後で差引きますよ」\n 清「こんなに何うも何共ハヤ千万有難う、親子の者が助かります、彼は誠に孝行致して呉れ、親思いでワク〳〵致して呉れますが、才覚の無い親を持って不便とは思いながら、何一つ買って与える事も出来ませんが御当家へ内職に上るように成ってから、結構な櫛を戴いたり、食物まで贈って下さり、何たる御真実の事か実に何うも此の御恩は決して忘却は致しません、千万辱ない事で有難う、折角の思召ゆえ当季拝借致しましょう」\n と悦んで包みに致し小脇に抱えて宅へ帰って話すと娘は飛立つ程の嬉しさ、是から僅な物を持って娘が礼に参るような事で、其の年も果てゝ宝暦三年となりましたが、職を致す者は大概正月廿日迄は休みますので、此の金兵衞の宅の内職も十七日迄休みでございます、丁度六日お年越しの朝早く起きて金兵衞は近辺に年始に出ました、此方はお筆が昼飯を喰べましたから、かねて近金から貰った小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて出ると一際目立つ別嬪でございます、時々金兵衞の家内とお湯に行きますから誘いました。\n 筆「お内儀さんお湯に入っしゃるならお供を致しましょう」\n 蓮「私は今御年始客が有るから先へ行ってお呉れ、直に後から行くから、柳原町のお湯だろうね」\n 筆「はい」\n 娘は一人でお湯に参りましたのが一つのお話になりますことで、お筆がそこ〳〵に湯から上りましたがまだお内儀さんが来るようすがない、何か御用が出来てお手間が取れるのか、お迎いに行こうかと、手拭を小桶で絞って居ると、最前から板の間で身体を洗って居た婆さんは、年の頃六十四五で、頭の中央が皿のように禿げて居り、本郷町の桂庵のお虎と云うもので、\n 虎「ちょいと姉さん、待ってお呉れよ......おい姉さん」\n 筆「はい」\n 虎「お前ね、今此処に居る人は一人か二人しか居ないよ、小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて良い処のお嬢さんのふりをして、大胆な女じゃアないか人の金入を取りやアがって、あの巾着にゃア金は沢山入ってやアしないよ、三両一歩入ってるの、此方へ返えせ、此の前も此方ア銘仙の半纒が失ってらア、疾うから眼を注けて居たんだ、近所で毎度顔を見て知ってるぞ、左の袂に入ってるから出しなよ、何だ利いた風な阿魔女だ」\n と口穢なく罵るのを此方は何を云われても只おど〳〵して居ると、お虎婆アは無闇に来てお筆の袂から巾着を引出して、\n 虎「それ見やアがれ此の通りだ、此の阿魔女め」\n と小桶を取って投り付けると小鬢に中って血が出る。娘だけに他が大騒ぎで、\n 番「外へ立っちゃアいけません、板の間稼ぎでも何でもない物の間違でげす」\n と云って居る所へ、人を掻分けて近江屋金兵衞が参り、\n 金「何だ〳〵」\n 番「是は大屋さん入らっしゃいまし、相手は帰りましたが、本郷町の桂庵婆のお虎てえいけない奴で」\n 金「何か取ったのか」\n 番「婆アが取ったんじゃア有りませんが、貴方の店子で、それ浪人で売卜に出る人が有りましょう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し詳しく具体的の事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を捜し出して読んでみる。そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後には、つまりいいかげんに、賽でも投げると同じような偶然な機縁によって目的の地をどうにかきめるほかはない。\n こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。そうして主要な名所旧跡をうっかり見落とす気づかいもない。\n しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初から賽をふって行く所をきめてしまう。あるいは偶然に読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。\n しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李の中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。\n しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。\n しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出す機会がある。\n 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行をさしながら、「この窓から見ると景色がいいと書いてある」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この見のがしてならない景色を充分に観賞する事ができた。\n 私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時に、なんだかそこに名状のできない物足りなさあるいは一種のはかなさとでもいったような心持ちがするのを禁ずる事ができなかった。なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。\n ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには最新刊のベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学を尋ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり、名高い料理屋を捜しあてると貸し家札が張ってあったりした事もある。杜撰な案内記ででもあればそういう失敗はなおさらの事である。しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。\n それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。\n 中学時代に始めての京都見物に行った事がある。黒谷とか金閣寺とかいう所へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分の什物の品々の来歴などを一々説明してくれる。その一種特別な節をつけた口調も田舎者の私には珍しかったが、それよりも、その説明がいかにも機械的で、言っている事がらに対する情緒の反応が全くなくて、説明者が単にきまっただけの声を出す器械かなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議に感ぜられた。その時に見た宝物や襖の絵などはもう大概きれいに忘れてしまっているが、その時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありありと残っている。\n その時に一つ困った事は、私がたとえばある器物か絵かに特別の興味を感じて、それをもう少し詳しくゆっくり見たいと思っても、案内者はすべての品物に平等な時間を割り当てて進行して行くのだから、うっかりしているとその間にずんずんさきへ行ってしまって、その間に私はたくさんの見るべき物を見のがしてしまわなければならない事になる。それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいものについての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しい事をしたという気の起こるのは免れ難かった。\n 学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、いろいろの点で旅行案内記や、名所の案内者から得る知識に似たところがある。\n もし学校のようなありがたい施設がなくて、そしてただ全くの独学で現代文化の蔵している広大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするのであったら、その困難はどんなものであろうか。始めから終わりまで道に迷い通しに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もつかずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。\n しかし学校教育の必要といったような事を今さら新しくここで考え論じてみようというのではない。ただ学校教育を受けるという事が、ちょうど案内者に手を引かれて歩くとよく似ているという事をもう少し立ち入って考えてみたいだけである。\n 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案内記に誌してない横道に隠れた貴重なものを見のがしてしまう機会ははなはだ多いに相違ない。そういう損失をなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記をひろく参照するといい。ただ困るのは、すでに在る案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。\n しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない事はもちろんである。" }, { "role": "assistant", "content": " 案内記が系統的に完備しているという事と、それが読む人の感興をひくという事とは全然別な事で、むしろ往々相容れないような傾向がある。いわゆる案内記の無味乾燥なのに反してすぐれた文学者の自由な紀行文やあるいは鋭い科学者のまとまらない観察記は、それがいかに狭い範囲の題材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなものに火をつける。そうして誌された内容とは無関係にそこに取り扱われている土地その物に対する興味と愛着を呼び起こす。\n 専門の学術の参考書でもよく似た事がある。何かある題目に関して広く文献を調べようという場合にはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類のものはなくてならない重宝なものであるが、少し立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文や著書を見なければならない。それでこのような参照用の大部なものを、骨折って始めから終わりまで漫然と読み通し暗唱したところで、すでになんらかの「題目」を持っていない学生にとってはきわめて効果の薄い骨折り損になりやすいものである。またこんなものから題目を選み出すという事も、できそうでできないものである。これに反して個々の研究者の直接の体験を記述した論文や著書には、たとえその題材が何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受ける暗示は読む人の自発的な活動を誘発するある不思議な魔力をもっている。そうして読者自身の研究心を強く喚びさます。こういう意味からでも、自分の専門以外の題目に関するいい論文などを読むのは決して無益な事ではない。\n それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。\n\n 名所旧跡の案内者のいちばん困るのは何か少しよけいなものを見ようとすると No time, Sir ! などと言って引っ立てる事である。しかしこれも時間の制限があってみれば無理もない事である。それでほんとうに自分で見物するには、もう一ぺんひとりで出直さなければならない事になる、ただその時に、例の案内者が「邪魔」をしてくれさえしなければいい。\n しかし案内者や先達の中には、自己のオーソリティに対する信念から割り出された親切から個々の旅行者の自由な観照を抑制する者もないとは言われない。旅行者が特別な興味をもつ対象の前にしばらく歩を止めようとするのを、そんなものはつまらないから見るのじゃないと世話をやく場合もある。つまるとつまらないとが明らかに「相対的」のものである場合にはこれは困る。案内者が善意であるだけにいっそう困るわけである。この種の案内者はその専門の領域が狭ければ狭いほど多いように見えるが、これは無理もない事である。自分の「お山」以外のものは皆つまらなく見えるからである。\n 一方で案内者のほうから言うと、その率いている被案内者からあまりに信頼されすぎて困る場合もずいぶんありうる。どこまでも忠実に付従して来るはいいとしても、まさかに手洗い所までものそのそついて来られては迷惑を感じるに相違ない。\n ニュートンの光学が波動説の普及を妨げたとか、ラプラスの権威が熱の機械論の発達に邪魔になったとかという事はよく耳にする事である。ある意味では確かにそうかもしれない。しかしこの全責任を負わされてはこれらの大家たちはおそらく泉下に瞑する事ができまい。少なくも責任の半分以上は彼らのオーソリティに盲従した後進の学徒に帰せなければなるまい。近ごろ相対原理の発見に際してまたまたニュートンが引き合いに出され、彼の絶対論がしばしば俎の上に載せられている。これは当然の事としても、それがためにニュートンを罪人呼ばわりするのはあまりに不公平である。罪人はもっともっとほかにたくさんある。言わばニュートンは真理の殿堂の第一の扉を開いただけで逝いてしまった。彼の被案内者は第一室の壮麗に酔わされてその奥に第二室のある事を考えるものはまれであった。つい、近ごろにアインシュタインが突然第二の扉を蹴開いてそこに玲瓏たる幾何学的宇宙の宮殿を発見した。しかし第一の扉を通過しないで第二の扉に達し得られたかどうかは疑問である。\n この次の第三の扉はどこにあるだろう。これはわれわれには全然予想もつかない。しかしその未知の扉にぶつかってこれを開く人があるとすれば、その人はやはり案内者などのやっかいにならない風来の田舎者でなければならない。第三の扉の事はいかに権威ある案内記にも誌してないのである。\n\n 思うにうっかり案内者などになるのは考えものである。黒谷や金閣寺の案内の小僧でも、始めてあの建築や古器物に接した時にはおそらくさまざまな深い感興に動かされたに相違ない。それが毎日同じ事を繰り返している間にあらゆる興味は蒸発してしまって、すっかり口上を暗記するころには、品物自身はもう頭の中から消えてなくなる。残るものはただ「言葉」だけになる。目はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。そうして丹波の山奥から出て来た観覧者の目に映るような美しい影像はもう再び認める時はなくなってしまう。これは実にその人にとっては取り返しのつかない損失でなければならない。\n このような人は単に自分の担任の建築や美術品のみならず、他の同種のものに対しても無感覚になる恐れがある。たとえばよその寺で狩野永徳の筆を見せられた時に「狩野永徳の筆」という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴のはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない。\n 職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。それにはもちろん異常な努力が必要であるが、そういう努力は苦しい。それをしなくても今日には困らない。そこに案内者のはまりやすい「洞窟」がある。\n ニュールンベルグの古城で、そこに収集された昔の物すごい刑具の類を見物した事がある。名高い「鉄の処女」の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌をしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるような事はありませんか」と聞くと、なんとも返事しないでただ音を立てて息を吸い込んで、暗い顔をして目を伏せた。私はずいぶん残酷な質問をするものだと思ってあまりいい気持ちはしなかった。おそらくこの女も毎日自分の繰り返している言葉の内容にはとうに無感覚になっていたのだろう。それがこの無遠慮な男の質問で始めて忘れていた内容の恐ろしさと、それを繰り返す自分の職業の不快さを思い出させられたのではあるまいか。\n これと場合はちがうが、われわれは子供などに科学上の知識を教えている時にしばしば自分がなんの気もつかずに言っている常套の事がらの奥の深みに隠れたあるものを指摘されて、職業科学者の弱点をきわどく射通される思いがする事はないでもない。\n 案内者になる人はよほど気をつけねばならないと思う。\n\n ナポリを見物に行ったついでに、ほど遠からぬポツオリの旧火口とその中にある噴気口を見に行った。電車をおりてベデカをたよりに尋ねて行こうとすると、すぐに一人の案内者が追いすがって来てしきりにすすめる。まだ三十にならないかと思われるあまり人相のよくない男である。てんで相手にしないつもりでいたがどこまでも根気よくついて来て、そして息を切らせながらしつこく同じ事を繰り返している。それをしかりつけるだけの勇気のない私は、結局そのうるささを免れる唯一の方法として彼の意に従うほかはなかった。その結果は予想のとおりはなはだ悪かった。始め定めた案内料のほかに、いろいろの口実で少しずつ金を取り上げられて、そして案内者を雇っただけの効能はほとんどなかった。ただ一つのおもしろかったのは、麻糸か何かの束を黄蝋で固めた松明を買わされて持って行ったが、噴気口のそばへ来ると、案内者はそれに点火して穴の上で振り回した。そして「蒸気の噴出が増したから見ろ」と言うのだが、私にはいっこうなんの変わりもないように思われた。すると彼はそことはだいぶ離れた後方の火口壁のところどころに立ち上る蒸気をさして「あのとおりだ」という。しかし松明を振る前にはそれが出ていなかったのか、またどれくらい出ていたのか、まるで私は知らなかったのだから、結局この松明の実験は全然無意味なものに終わってしまった。しかしそういう飛びはなれた非科学的の「実験」がおそらく毎日ここで行なわれてそして見物人の幾割かはそれで納得するものだとすると、そういう事自身がかなり興味のある事だと思われた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " さうしてゐるうちに、彼等と私との間に色々の私交が生れて來た。彼等の或者は私の宅へ尋ねて來たり、手紙を寄せたりして、樣々の相談を持込むやうになつた。さうして彼等は私を遇するに先輩を以つてした。何等かの意味に於いて「與へる者」に對するが如き態度を以つて私に對した。從來單に「受ける」者としてのみ生きて來た私は――現今と雖も「受ける者」以上の資格を持つてゐると自信することの出來ない私は、此新しい待遇に對して不安と壓迫と不思議とを感ぜざるを得なくなつた。併し私の如何なる遁避も、私を「與へる者」として待遇する少數の人の存在を防遏する譯に往かない。自ら知らぬ間に、私は小なる先輩の一人になつてゐることを感ずる。私の内省のあらゆる抗辯に拘らず、社會的に云へば私は小さい先輩の中の一人になつて了つたに違ひない。悲しむべき自覺は私にこの事實の承認を強ひる。\n さうして此悲しむ可き自覺は、若い人達――私自身がこんな言葉を使はなければならないやうになつた。何と云ふ驚きだらう――との交りによつて、内容的にも亦確められざるを得なかつた。彼等との親しい交りによつて、私は彼等の或者が嘗て自分の經過した道を新しく經過する爲に苦しんでゐることを發見した。又私が落付いて正視するを得る事物の前に、彼等が困惑し動亂してゐることを發見した。併し之と同時に、私は彼等が新鮮なる感情と驚異とを以つて對する若干の事物に、最早同樣の感情と驚異とを以つて對する事が出來なくなつてゐることをも感ぜざるを得なかつた。さうして私の年少時代に與へられなかつた若干の經驗が彼等に與へられて、その精神の一養分となつてゐることをも亦感ぜざるを得なかつた。要するに私は彼等によつて、嘗て私の中に經過したものと、既に私の中に死滅したものと、運命が私に與へ惜んだところのものを發見せざるを得なかつた。此等の發見は私に「經過」を思はせた。漸く三十になつたばかりの私にも既に「過去」と云ふものがあることを思はせた。悲しいことには私が「先輩」になつてゐることは最早何の疑もなかつた。私は年と共に益〻痛切を加へ行く可き此新しい經驗の萌芽に面して困惑を感ずる。\n 併し此自覺は單に悲觀的の色彩をのみ帶びた經驗ではない。私は此自覺と共に、從來の樣々な疑惑と混亂とに拘らず不知不識の中に私の人格に凝成した些細な或者を感ずる。從來の模索と瞑搜との底に、些細ながらも或「確かなもの」のいつしか出來かゝつてゐることを感ずる。「更に若いゼネレーシヨン」との相違如何に拘らず、私には私の爲に與へられた一つの道が開けてゐることを感ずる。さうして之と共に「更に若いゼネレーシヨン」の功過を批評すべき人生の視點を與へられてゐることを感ずる。大體から云へば先輩と云ふ名は私にとつて甚だ厭ふ可き名である。併し自然の齎す善惡一切の經過は到底人力の能く囘避する處ではない。私は唯年少諸友の狂奔に對するにたじろがざる沈着と獨立とを以つてして、先輩と云ふ名の淋しさと果敢さとを堪へて往きたいと思ふ。\n\n2\n\n 私は中學校から高等學校にかけて内村鑑三先生の文章を愛讀した。出來るならば先生に親炙して教を請ひたいと思つてゐた。之は私のゐた高等學校の位置と便宜の上から云つて決して出來ないことではなかつた。私の友達は段々先生の私宅を訪問したり、日曜日の聖書講義に出席したりするやうになつて來た。併し私は私の個性の獨立が早晩明瞭に發展して遂に先生に背かなければならぬ日が來ることの恐ろしさに、先生の親しい御弟子になる氣にはなれなかつた。思想の分立は遂に生活の分立となるは洵にやむを得ざる自然の經過である。併し、此最後の日の豫想は――先生の感ぜらる可き淋しさと、私の感ず可き苛責との豫想は、私の勇氣を挫いた。私は勇氣ある諸友の斷行を羨みながら、自分は依然として先生の文章にのみ親しんで、遠くから隱れて先生の感化に浴してゐた。\n 私は私のとつた態度を他人に薦めようとは思はない。今の私が本當に崇拜す可き人を發見するならば、あの樣な痴愚にして卑怯な態度をとらずに、逡巡しながらもその人の膝下に跪くに違ひないと思ふ。併しその時分にはどうしてもそれが出來なかつた。さうしてそれが出來なかつた心持が今でもまざ〳〵と私の記憶に殘つてゐる。\n 今になつて事情が轉換した。さうしてこの轉換した事情の上から、私は近頃又あの時分の心持をしみ〴〵思ひ返して見るやうになつた。私の性格から云へば、私は一生かゝつても先生の樣なセンセーシヨンを起すことが出來ないにきまつてゐる。併し小さくかすかながらも兎に角私は先輩の一人になつた。私の周圍には二三の「求める者」がゐる。從つて私は先輩の虚名に伴ふ特殊の離合を經驗す可き地位に置かれてゐる。嘗て内村先生の爲に考へてあげたことが、今は自分の爲に考へなければならないやうになつた。どんな意味に於いても別離は淋しいものである。\n さうして嘗て求めるに怯懦であつた心は、今や與へるに逡巡する心となつて私に隱遁の誘惑を投げてゐるやうである。併し私ももう羞恥の情にのみ支配される紅顏の少年ではない。私も少しは強くなつた。私はもう求める者の身邊にあることを恐れない。詳しく言へば、逡巡はするが退却はしない、はにかみはするが隱遁はしない。求める者を身邊に吸收することを嫌ふが、求める者の自然に集つて來ることをば恐れない。\n 私の身には或る些細なものがあるやうだ。之が他人の發育に滋養となるならば、勝手に近づいて勝手にこれをとつて行くがいゝ。もし滋養分をとる爲に近づいても、其實彼等を益する何物もないのに失望するならば、勝手に自分を捨てゝ走るがよい。もし又自分の中から吸收し得るものは吸收し盡して、最早私に用がないならば、自由に私を離れて新しい途を往くがよい。此等の一切は私の本質に何の増減する處もない。求める者の集散去來に拘らず、私は常に私である。私の中には或る些細なものがあるやうだ。此些細なものを生育させるのが私の唯一の本質的事業である。\n 此迄も自分の奧底の問題に觸れる毎に、自分は常に孤獨であることを感じて來た。先輩も友人も父兄も愛人も自分の奧底には何の觸れる處がないことを感じて來た。さうして此孤獨に堪へて來た。私は今後と雖も、此孤獨の心を以つて求める者の去來を送迎するの寂しさに堪へることが出來ることを信ずる。求める者の到着を迎へる空しい華かさも、去る者の遠ざかり行く影を見送る切ない寂しさも、その時々の過ぎ行く影を投げるのみで、私の本質的事業には何の影響する處もないことを信ずる。「求める者」が隊をなして自分を圍繞しても、私の魂は遂に孤獨である。「求める者」の群が嘲罵の聲を殘して遠く去つても私は常に私である。\n 私は「求める者のむれ」を持つてゐない。さうして私の周圍にゐる二三の求める人は未だ一人も私を捨てない。併し神經質な私の心は、此等二三の友人との間に、屡〻小なる別離と小なる再會とを經驗する。さうして更に大なる別離と再會との心を思ふ。來る者を拒まず去る者を追はざる程の覺悟は既に私に出來てゐると信ずる。願くは去る者を送るに祝福を以つてする程の大いなる心を持ちたい。少くとも思想の上でその先輩に背かない樣な後輩は、要するに頼もしくない後輩に相違がないのだから。\n\n3\n\n 崇拜者を求める爲に徒に聲を大きくして叫びたくない。崇拜者をつなぎとめる爲に、徒におどしたりすかしたりしたくない。之は私の樣な性格と境遇とにゐる者には殆んど何の誘惑にもならない心持である。併しもつと華かな、もつとセンセーシヨンを以つて迎へられるやうな性格と境遇とにゐる友人には、少くとも無意識の底に多少の誘惑になつてゐるらしい。" }, { "role": "assistant", "content": " 崇拜者の歡呼に浮かされて不知不識いゝ氣になつて納まつて了ふことは先輩に與へられる誘惑の一つである。自己の内生に對する感覺が鈍麻して、環境に對する神經のみが過敏になつて了ふことは先輩に與へられる一つの誘惑である。崇拜者の歡心を買ふに專らにして、内生の流動を公表するに怯懦となることは先輩に與へられる一つの誘惑である。殊に年少諸友の狂奔に暗示されて、自己の進路に迷ふ樣な先輩は憐憫に堪へない。\n 吾人は年少諸友の傾向を批評するに臆病であつてはいけない。吾人は「求める者」の群を捨てゝ新しい途に進むだけの勇氣を持たなければいけない。要するに自然によつて與へられた先輩の地位を、何等の意味に於いても、内なる「人」を縛る力としてはいけない。\n ロマンテイクの運動が始まつてもゲーテはたじろがなかつた、さうして靜かに落付いて自分自身の途を進んだ。\n\n4\n\n 眞正に自己の生命を愛惜する者は模倣と獨創との意味を深く理解して置く必要がある。模倣を嫌惡する意識と暗示に對する敏感とが手を携へて増長して行くことは注目すべき現象である。獨創を求める意識と作爲誇張とが蔓を並べてはびこつて行くことは看過す可からざる事實である。その結果として生れるものは獨創の外見とフレテンシヨンとの中に模倣の内容を盛つた鼻つぱしの強い思想と文藝とである。\n 新しい言葉と珍らしい思想との刺戟にひかされて、此新しい言葉を綴り合せ、此珍らしい思想をはぎ合せて嬉しがつてゐるのは、淺薄な、無邪氣な模倣である。此の如き模倣の經驗は私達の少年時代にも隨分あつた事である。今でも中學や女學校にゐる文藝愛好者の多數は、恐らくは此種の模倣衝動に浮かされてゐることゝ思ふ。此種の文藝には珍らしがり、新しがりの臭氣が著しく人の鼻を衝くから、他人も當人も此種の模倣によつて欺かれることが少ない、淺薄なだけに罪も少く又害も少い。\n 併し模倣とは此種のものばかりだと思ふのは大なる誤である。新しがり、珍らしがりの意識から出てゐるのでないから模倣でないと云ふ申開きは成立たない。模倣の深いもの、精かなものは「意識」に現はれずに「心」に潛んでゐる。「意志」にあらはれずに「本質」に隱れてゐる。模倣者に模倣せむとするつもりがなくとも、猶彼のする處は模倣に過ぎない場合が決して少くない。現今の青年によつて嫌惡されること模倣の名の如く劇しいものは滅多にないであらう。それにも拘らず彼等の思想文藝の多くに模倣の名を強ひなければならないのは悲しむ可き事實である。\n 模倣とは個性の底から湧いて來ない一切の精神的營爲に名づけらる可き名である。起源を外面のあるものに發し、經過の方向を外面のあるものより來る暗示によつて規定される行動は總て模倣である。碎いて云へば、自分の中から發する自然の衝動が溢れ出るのでなしに、眼に視耳に聽いたものに動かされて、視聽に映じた外部的存在と同じ型に從つて行動するものは總て模倣である。從つて模倣せむとする意志がなくとも猶模倣の事實がある。如何に興奮と熱情とを以つてする行爲の中にも猶模倣の事實がある。模倣を嫌惡する強烈な意識と獨創を誇りとする勇猛な自覺の下になされた行動の中にも猶模倣の事實がある。或る行動が模倣でないことを證據立てるものは興奮でも熱情でも獨創の自覺でも何でもない。それは唯興奮と興奮との推移の間に證明される深い人格的の連續性である。その行動がその人の全生活全生涯を押通して行く深い貫徹性である。この連續性と貫徹性とによつて證據立てられない行爲は、總て獨創として承認されることを要求する資格がない。此連續性と貫徹性とを裏切る樣な經過をとる一切の行動は、如何に興奮と熱情と獨創の自覺とを以つてするものと雖も畢竟するに模倣である。今の人は獨創と云ふことを餘りに廉價に考へ、模倣と云ふことを餘り淺薄に解しすぎてゐるやうだ。私達は自らに獨創の名を許すことが容易でないことを思ひ、自分から模倣の名を斥けるには深い内省を要することを思はなければいけない。\n 性情の輕薄で頭腦の雋敏なものは、外來の刺戟によつて容易に興奮する。さうして熱情と無意識(若しくは獨創の輕信)とを以つて模倣的に行動する。彼の模倣を證明するものはその興奮と興奮との間に人格的の連續がないことである。外來の刺戟に差等を附する人格的の判別が働かないことである。強力なる刺戟を反撥する餘儀なさと、世間の潮流と背進する寂しさとを知らないことである。外來の刺戟によつて生ずる興奮と興奮との間に、自ら道を開かむとする要求を感ぜざる懶惰が挾まれることである。彼等は自然主義來れば自然主義によつて興奮し、浪漫主義來れば浪漫主義によつて興奮する才人である。個性と獨創とを要求する聲が盛んとなれば、個性と獨創とを要求する叫びをさへ模倣し得る程「幸福」な人である。實際頭腦の雋敏な才人は、その興奮を抑へて内省するだけの底力を持つてゐない限り、殆んど模倣者に墮することを免れることが出來ない。彼等が模倣を斥け獨創を誇りとするの輕易なることは寧ろ彼等の模倣性に富む證據である。\n 先輩の影響は唯個性の萌芽を成育せしめる際にのみ、進路に困惑する個性の爲に新たなる道を指示する際にのみ、獨創の助けとなる。其他の影響は暗示にすぎない。模倣性の刺戟に過ぎない。此事は私一個の經驗として、私の閲歴から來る懺悔としても亦云ふを得ることである。\n 教育學者の説によれば模倣は兒童の發達に缺く可からざる階段であると云ふ。恐らくは教育學者の云ふ處に誤があるまい。併し模倣者が獨創者として自ら誇ることは孰れにしても不遜にすぎるやうだ。自ら知らざるに過ぎるやうだ。私は年少の諸友に向つて模倣と獨創との意味を再考することを要求したいと思ふ。\n\n5\n\n 自分の天分を問題とすることは近來の一風潮である。さうして此問題に觸れる人は大抵自分は強いと云ふ自覺を得て自分のちからの意識に就いて飽くことを知らざる享樂を恣にしてゐるやうである。私は此の自覺を諸友と共にすることが出來ない自然の結果として、此等の人の自信に對しても亦多少の疑惑を感じない譯に行かないが、併し私には此等の人の内省に立入つて其缺陷を指摘するの資格もないし、又此の自信を持つことそれ自身は彼等にとつて非常の幸福に違ひないから、彼等の爲に之を悲しまうとも思はない。併し此自信が彼等の中に如何に働いてゐるかに就いては、多少の憂慮がないでもない。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " と、流沙河の最も繁華な四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。\n「我々の短い生涯が、その前とあととに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ! 噴嚏一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」\n 白皙の青年は頬を紅潮させ、声を嗄らして叱咤した。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳に見入った。渠は青年の言葉から火のような聖い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。\n「我々の為しうるのは、ただ神を愛し己を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」\n 確かにこれは聖く優れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今饑えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言は薬のようなもので、痎瘧を病む者の前に瘇腫の薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。\n\n その四つ辻から程遠からぬ路傍で、悟浄は醜い乞食を見た。恐ろしい佝僂で、高く盛上がった背骨に吊られて五臓はすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、頤は臍を隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛れた腫物が崩れている有様に、悟浄は思わず足を停めて溜息を洩らした。すると、蹲っているその乞食は、頸が自由にならぬままに、赤く濁った眼玉をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に吊上がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、渠を見上げて言った。\n「僭越じゃな、わしを憐れみなさるとは。若いかたよ。わしを可哀想なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左臂が鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が弾き弓になったら、それで偊氏の弟子での、ものの形を超えて不生不死の境に入ったれば、水にも濡れず火にも焼けず、寝て夢見ず、覚めて憂いなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって首とし、生をもって背とし、死をもって尻としとるわけじゃとな。アハハハ......。」\n 気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人というものかもしれんと思うた。この言葉が本物だとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿の臭さとが悟浄に生理的な反撥を与えた。渠はだいぶ心を惹かれながらも、ここで乞食に仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女偊氏とやらについて教えを乞いたく思うたので、そのことを洩らした。\n「ああ、師父か。師父はな、これより北の方、二千八百里、この流沙河が赤水・墨水と落合うあたりに、庵を結んでおられる。お前さんの道心さえ堅固なら、ずいぶんと、教訓も垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな佝僂は、尖った肩を精一杯いからせて横柄に言うた。\n\n四\n\n 流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、悟浄は北へ旅をした。夜は葦間に仮寝の夢を結び、朝になれば、また、果知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。楽しげに銀鱗を翻えす魚族どもを見ては、何故に我一人かくは心怡しまぬぞと思い侘びつつ、渠は毎日歩いた。途中でも、目ぼしい道人修験者の類は、剰さずその門を叩くことにしていた。\n\n 貪食と強力とをもって聞こえる虯髯鮎子を訪ねたとき、色あくまで黒く、逞しげな、この鯰の妖怪は、長髯をしごきながら「遠き慮のみすれば、必ず近き憂いあり。達人は大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、鮎子は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉を掴み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌とならねばならぬ因縁をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲にふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故に鯉なりや、鯉と鮒との相異についての形而上学的考察、等々の、ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前は。おまえの物憂げな眼の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋に注いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉がゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、咄嗟に、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い爪が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を蹴って、泥煙を立てるとともに、愴惶と洞穴を逃れ出た。苛刻な現実精神をかの獰猛な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫えながら考えた。\n\n 隣人愛の教説者として有名な無腸公子の講筵に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然饑えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹の妖精ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰べてしまったのを見て、仰天した。\n 慈悲忍辱を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。忘れたのではなくて、先刻の飢えを充たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。ここにこそ俺の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄はへんな理窟をつけて考えた。俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。渠は、貴き訓を得たと思い、跪いて拝んだ。いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。教訓を、罐詰にしないで生のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、拝をしてから、うやうやしく立去った。\n\n 蒲衣子の庵室は、変わった道場である。僅か四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに倣うて、自然の秘鑰を探究する者どもであった。探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。彼らの勤めるのは、ただ、自然を観て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。" }, { "role": "assistant", "content": "「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」と弟子の一人が言った。\n「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧い氷、紅藻の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻類の光、鸚鵡貝の螺旋、紫水晶の結晶、柘榴石の紅、螢石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。\n「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」と、また、別の弟子が続けた。「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが創造ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」\n その間も、師の蒲衣子は一言も口をきかず、鮮緑の孔雀石を一つ掌にのせて、深い歓びを湛えた穏やかな眼差で、じっとそれを見つめていた。\n 悟浄は、この庵室に一月ばかり滞在した。その間、渠も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃え、その最奥の生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹かれたためである。\n 弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。肌は白魚のように透きとおり、黒瞳は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる捲毛は鳩の胸毛のように柔らかであった。心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの微かな陰翳が美しい顔にかかり、歓びのあるときは静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のように輝いた。師も朋輩もこの少年を愛した。素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。少年は、ひまさえあれば、白い石の上に淡飴色の蜂蜜を垂らして、それでひるがおの花を画いていた。\n 悟浄がこの庵室を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵を出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子はまじめにそれをうべなった。そうかもしれぬ、あの児ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。\n 悟浄は、自分を取って喰おうとした鯰の妖怪の逞しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。\n\n 蒲衣子の次に、渠は斑衣鱖婆の所へ行った。すでに五百余歳を経ている女怪だったが、肌のしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜たるその姿態は能く鉄石の心をも蕩かすといわれていた。肉の楽しみを極めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿端正な若者を集めて、この中に盈たし、その楽しみに耽けるにあたっては、親昵をも屏け、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、三月に一度しか外に顔を出さないのである。悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。道を求める者と聞いて、鱖婆は悟浄に説き聞かせた。ものうい憊れの翳を、嬋娟たる容姿のどこかに見せながら。\n「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲の修業も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」と女怪は酔ったように豔妖淫靡な眼を細くして叫んだ。\n「貴方はお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに留まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が困憊のために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを怨んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」\n 悟浄の醜さを憐れむような眼つきをしながら、最後に鱖婆はこうつけ加えた。\n「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」\n 醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。\n\n 賢人たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠はまったく何を信じていいやら解らなかった。\n「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず吼えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥じゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、曰く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮、我の知る能わざるものだ」と。\n 別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。\n 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積だよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、俺たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅か一部の、朧げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。\n\n さて、五年に近い遍歴の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答があるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした己の愚かさ。そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、渠は目指す女偊氏のもとに着いた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「君たち、一手は手を揃えてできるだけのたきだしをしてくれ給え、それから、有らん限りの米を積下ろしてくれ給え、庫には三日分ほどの量を残して置けばよろしい、それから最近、長浜で両替をしてきた銭の全部を出して庭へ積んでくれ給え、その数量は拙者が行って読むから、それが済んだら、直ちにそれを馬と車とに積めるだけ積んで、麓へ下って、春照の火の見の下に待機しているんだ。一手は留守を守ってくれ給え、留守といっても僅かの間だ。そのほかは、馬と車を以てできるだけの米と銭とを麓へ運ぶことに全力を尽すのだ、無論、拙者も同行する」\n 青嵐居士は、五十人の手勢を日頃の訓練通りに部隊分けをして、一手は第一線に、一手は留守、しかして出動軍の第一線に自分が立つというのです。しかし、戦争をするつもりの出動でないことは、一同の胸によく納得されている。うちの大将は智将であるから、徒らに戦争をしない。人数の総動員も、物資の総動員も、みな緩和の目的のために費されるのだということを、王国の民が皆、納得しながら勇み立つ。その勇み立ち方が、平和に向っての希望ある勇み方で、戦争に対する捨身的な勇気でないことは、臨時留守総理の器量に向っての無言の信任でもありました。青嵐居士は留守師団長、留守師団長と言い慣らされてはいるが、事実、この王国に於ける現在の地位は、師団長たるにとどまらない、むしろ臨時総理であり、女王代理であり、胆吹一国の興廃はその肩にかかっていると見るべきであります。\n かくて、この一行が繰出されました。青嵐居士は正装はしているが、決して武装しないことを以て見ても、この出動の目的が平和にあって、戦争にあらざることがよくわかる。それがまた味方の民心を、安静鎮定せしむること偉大なる効果もよくわかる。\n だが、しかし、この通り物資の総動員をして山を繰出す以上には、この物資をどう扱うのだか、それは味方の誰にもわからない。この人員と物資とを以て、一揆に参加するのだとは誰も考えない。また、一揆の不安から、人間と物資の避難のために繰出したのだとも考える余地がない。逃げるために、隠すための出動ならば、後へ留守を残して置くはずもなし、また、こんなに派手に正面を切って逃げ出すという手はない。\n 策戦の方針は、臨時総理の胸一つにあって、王国民は測ることができない。測ることはできないけれども、全幅の信任はある。青嵐居士は徒歩で、一行について、かなり寛いだ気分で、山を下りつつあります。その途中も、国民を相手に平気で談笑をしているし、車の動きが悪い時は、後へ廻って後押しの腕貸しをするかとみれば、少し疲れた、馬へ乗らせてくれと、引かせた副馬に跨がって少し歩ませてみては、いいかげんで馬上から飛び下りて、一行と共に談笑しながら徒歩立ちになるという行進ぶりです。\n やがて、相当の時を費しての後に、春照村の火の見のところまで一行が到着すると、その程よきところへ、約二百俵ばかりの米を積み上げさせ、別に盤台にのせて夥しい緡銭を積み上げさせました。金額としてはそう驚くほどではないにしても、銭に換えてこうして積み上げると、田舎の者の眼を驚かすに足るほどの夥しさでした。\n「さあ、これでよろしい、あとに残るものは五人だけでよろしい、他の一同はこのまま山へ引上げたり。そうして、平常通りに持場持場で仕事をしていること」\n 青嵐居士はこう言って、一行の大部分を館へ帰らせてしまい、右の銭と米とは、五人の若い者を選抜して張番をさせ、自分はそのまま馬に乗って、いずれの方向へか打たせて行きました。\n\n 二十八\n\n ゆくりなくも、青嵐居士から駒井甚三郎のことが口に出たのを機会として、あの人及びその周囲の一行の消息に向って筆を転ずることに致します。\n 読者の便宜のためというよりは、書く人の記憶の集中のために、まず地点を陸中の国、釜石の港に置きましょう。人間のことを語るには、まず地理を調べてかかるのが本格です。陸中の釜石の港に、今、駒井甚三郎の無名丸が碇泊している。この船が陸前の松島湾の月ノ浦を出てから四日目、とにかく、船は安全に北上して、釜石の港まで到着することができました。\n 駒井甚三郎の無名丸は八十噸、六十馬力の、駒井独創の和洋折衷形なのであります。人間で言えば五十人の人を乗せるに適している。無論、機関の設備はあるが、それは港を出る時と、港に入る時の少し以前だけに石炭を使用することにして、大海に出てからは、帆前の風力を利用することになっている。大砲も一門あって、その他の武器も護船用だけのものは備えている。農具工具も着陸早々の実用だけのものは備えている。\n さてその次には、この船の中に現在乗込の船員と船客の全部についてなのですが、無論この船に於ては、船員すなわち船客なのでありますから、人と名のつくものの全体を言えば、すなわちこの全船の人別がわかるのです。これは、いつぞや清澄の茂太郎が、出鱈目の歌にうたわれ出たことがある。よって便宜のために、あのでたらめをここに転載して、反芻を試みてみると――\n\nさて皆さん\nこれを現在\nわたしたちが\n一王国となして\n乗込んでいる\nこの無名丸の社会と\n引きくらべてみたら\nどうでしょう\n実際問題ですよ\n御承知の通り\nこの船には\n男が多くて女が少ないです\n男は美男子の駒井船長をはじめ\n豪傑の田山白雲先生\n豪傑の卵の柳田平治君\nだらしのないマドロス君\n房州から来た船頭の松吉さん\n同じく清八さん\n同じく九一さん\n月ノ浦から乗込んだ平太郎大工さん\n同じく松兵衛さん\n漁師の徳蔵さん\nそれから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの\n何の商売だかわからない七兵衛おやじ\nそれに、若君の登さん\nつんぼの金椎君\nさて、しんがりに\nかく申す清澄の茂太郎も\nこれで男の端くれなんです\nかく数えてみますると\nこの無名丸の中には\n男と名のつく者が\n都合十三人\nそれなのに女というものは\n登さんのばあやさん\nお松さん\nそれからもゆるさん\nその三人きりなんです\n十三人の男に\n三人の女――\nもし駒井船長が\n理想の、人のいない島を求めて\nそこに一王国を作るとしたら\nいま申す\n世界のドコかの国と同じような\n女が不足の国になります\n............\n............\n\n 右の茂太郎の即興歌は、船が回航の途上、まだ釜石の港に入らない以前の出鱈目なのですから、船が安着してみると、ここに多少の人員の増減が考えられなければならない。増減と言い条、これ以上の減は、船の操縦の必要上、許されないと言うべきだから、増が有り得れば有るのです。果して、この釜石の港で、この船に更に二人の人を加えることになりました。\n 二人の人といっても、その一人は、すでに茂太郎の口頭に上っている人で、すなわち右の出鱈目の第二十三句から第二十四句までに表現されている――それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの、何の商売だかわからない七兵衛おやじ――その人であります。七兵衛が無事に、この港でこの船へ戻って来ました。清澄の茂公をはじめ、この老練家の怪おやじを船に迎え得たことの喜びは申すまでもありません。おそらく無事では帰れまいかとの予想で心配しきっていたその人が、無事で帰って来たのだから、家出をした親爺が無事で帰って来てくれたように、船中一同が喜ぶのは無理はありません。\n しかし、無事で帰って来たとは言い条、無事なのはその身体の健康だけで、外面は絶大なる異変を以て、見る人の目を驚かさずには置きませんでした。船へついて、はじめて笠を取った七兵衛の頭を見ると丸坊主でした。それに、袈裟こそかけていないが、首に大きな一連の数珠をかけておりましたことが、誰をしも、七兵衛らしくない七兵衛だと驚異がらせずには置きません。\n それと、もう一つは、この不可解な新しい老発意が、張りきった若盛りの田舎娘を一人携帯して来ていることです。七兵衛おやじだってまだ五十にはならないのだから、男やもめに花が咲いて、長い道中の間、艶種の一つも作るということは、或いはお愛嬌みたようなものかも知れないが、いい年をして人前へ若いのを引っぱり込んで来たと言えば、七兵衛らしくもないだらしなさを感ずるけれども、とにかく、頭を丸めてしまって、そうして数珠をかけながら、そうして、若いのを引っぱって来たものですから、まるで判じ物のようでありました。\n そこで、清澄の茂の野郎の遠慮のないすっぱ抜きが、誰でもの人の驚異と疑惑とを代表して発表されました――\n\n帰った\n帰った\n七兵衛おやじが帰った\n嬉しい\n嬉しい\n七兵衛おやじが\nやっとこさと戻った\n戻ったと思ったら\nやっとこさと丸坊主\n丸坊主\n丸坊主\n七兵衛おやじが丸坊主\nやっとこさと丸坊主\n\n 七兵衛が、船へ上って、乗組の者に挨拶をするために笠を取った、その途端にこの歌が飛び出たものですから、一同がドッと笑い、七兵衛が思わず苦笑しましたが、その苦笑のうちには、言い知れぬ苦闘の含蓄があって、笑いかけた一同のものを笑えないものにしました。だが、茂公の即興はひるまない。\n\n皆さん\n七兵衛おやじが\n坊主になって" }, { "role": "assistant", "content": "若い女の\n手を引いて戻って来ましたよ\nこれには\n仔細のあることでしょう\n\n なんてませた言い方だろう、もう慣っ子になっているから、船中同士はさのみ驚かないけれど、七兵衛につれられて来た若い女その人は、真赤になりました。ただでさえ、もう上気しきって、わくわくしているところへ、無遠慮にこんな歌を浴びせられたものだから、真赤になるのも無理はありません。\n\nその仔細というのは\n追って\n七兵衛おやじの口から\n皆さんのお聞きに入れるでしょう\n五十路に近いおやじが\nまだはたちに足らぬ女の\n手を引いて\n戻って来たのは\n皆さんの前に申しわけがないことがあるから\nそれで頭を丸めて\nお詫びをする\nといったような浮気の沙汰ではありません\n同じ女を連れて来るにしても\nマドロス君と\n七兵衛おやじとは\n性質が違いますよ――\nウスノロのマドロス君と\n老練家の七兵衛おやじと\n同じに見ちゃあいけません\nすなわち\nマドロス君が\n女をつれて逃げてまた戻ったのは\nつまり、だらしのない駈落なのさ\n七兵衛おやじのは\nまさか\n掠奪でも\n誘惑でも\n駈落でも\nありますまい\nくわしくは本人に聞いていただきたい\n\n ここまでは、内容に於てほぼ無事でしたが、ここで完全にバレてしまって、\n\n坊主\n間男して\n縛られた\n頭がまるくて許された\n\n この時、船中の警視総監たる田山白雲のために、\n「コレ......」\nと一喝を食いました。白雲の一喝に怖れをなした茂公は、調子をかえてテレ隠し、\n\n土佐の高知の\n播磨屋橋で\n坊さんかんざし買うを見た\n坊さんかんざし何するの\n頭が丸くてさせないよ\n頭が丸くてさせないよ\n\n しかし、聞きようによっては、この歌が七兵衛の帰着を歓迎する音楽隊の吹奏のようにも聞えて、船中の人気をなんとなくなごやかなものにした効果はたしかにありました。\n\n 二十九\n\n 七兵衛のつれて来た若い娘は、お喜代さんという村の娘でありました。\n この娘と、七兵衛との間には、言うに言われぬ複雑微妙なものがある。ただ単に、長の旅の途中で娘を一人拾って来たというだけの、単純な受渡しにはなっていないことは、前の巻にくわしく物語られているはずです。\n いずれにしても、女の少ないこの海上王国に、ただ一人の、しかも、張りきった健康と年齢とを持った、生気満々の若い娘を一人拾って来たということは、特に一つの大きな収穫と見るべき理由もあるのです。それはそれとして、これで船の全員が揃いました。当然来るべき人と、充たさるべき人が全部集まりました。人が集まってみると、その次は物です。ここで、今後の長期航海に堪えるあらゆる物資を集めて、或いは新たに積入れ、或いは極度の補充をして行かなければならない。その物の補充に於ては、あらかじめ駒井船長が多大の心配を持っておりました。\n 何となれば、船籍の不明瞭なこの船へ、人が恐れて物資を供給しないことになるかも知れない。よし供給してくれたにしても、その限度というものがある。釜石は悪い港ではないけれども、何を言うにも中央から遠い、ここで補給すべくして、出来ない品がありはしないか。\n そういうものは、今後どこで補充するか、というような先から先までを、駒井が頭に置いて、補給の準備を命ずると、案外にも非常に迅速に且つ多量に、ほとんど立ちどころに補給の道がつきました。代金も相当、或いは相当以上にしはらったには相違ないが、さりとて、この迅速豊富なる供給ぶりは、ただ金銭だけには換算し難い好意というものが含まれていることを、駒井船長が認識せざるを得なかったけれども、しかし、自分の船が、知らぬ他国の人から疑惑を蒙ろうとも、好意を寄せらるべき因縁は持たない。それを、こんなに土地の人が好意を以てしてくれることは、おそらくこの土地柄なんだろう。この土地の気風が、おのずから他国の客を愛するように出来ている、その人気の致すところかも知れない。駒井はその辺に疑惑を持ったけれども、これは悪い方の疑惑ではない、極めて素質のよい疑惑でありました。\n こうなった以上は、この港に久しく留るべき理由はない。万端がととのうて、即時出帆ということになりました。\n 船が動き出した時に、陸上に、意外にも多数の見送りの人が現われました。ズラリと海岸に並んで、こっちへ向って笠を振り振り、さらば、さらばをしている。そこで、駒井をはじめ、船の者がまた不審がりました。あの人たちは、たしかに人を送るの情を現わしているようだが、さて送られる人は誰だ。我々は、ここに仮りの碇泊こそしたけれども、送らるべき知己を持たない。他に船出する人があってそれを送るべく、あそこに立っている。この船が大きく、あの人たちの送る舟が小さいがために、こちらが好意を独占するような形式におちているのではないかと、港の周囲を見渡したが、自分たちの船のほかに、それと覚しい舟の出帆は一ツも見えない。そこで、こちらは戸惑いをしました。我々を送ってくれるならばその好意を受けて、これに答えなければならぬ。こちらもハンケチを振るとか、テープを投げるとかしなければならない。ところが我々において送らるべき好意の所在を知ることができないから、\n「あの人たちは、あれは何です、誰を送るためにああして集まって、笠を振り、さらばさらばをしているんですかな」\n 田山白雲が、駒井船長に向って問いかけたのは、船長も最初から同じ思いで迷っているところの理由でした。\n「分らないです、あの連中は果して誰を送っているのですか、我々を送っているとすれば、我々の中の誰がその人に当るのか」\n その上に、改めてまた甲板の上を見渡すと、こちらでたった一人、七兵衛が笠を振っている。\n「やあ、七兵衛親爺だ」\nと船長も、白雲も、こちらで笠を振る七兵衛の方へ振向くと、船上の一同もそのようにして、それからあらためて陸上の送り手と、送らるる七兵衛とを見比べていると、彼方の人数の真中に囲まれたデップリした頭領らしい男が、最後に笠を取って打振りました。事の光景が、船中一同に呑込めない、追って後刻、七兵衛から説明されたらわかることに相違ないが、それだけでは、いかにも合点がなり難いことに思っていると、早くもマストの頂上に登りつめていた清澄の茂太郎が、高らかに歌い出しました。\n\n坊主\n坊主\n向うにも坊主がいる\n七兵衛おやじも坊主になったが\nあちらにも一人、坊主首がいる\n七兵衛おやじが\n数珠をかけているように\nあちらのおやじも\n坊主首に数珠をかけている\n坊主と\n坊主が\n笠を振り振り\nチイチイ\nパアパア\n\n その歌におしえられて、岸に見送りの人数の真中の頭領株を見ると、なるほど、同じような新発意の坊主頭で、衣装足ごしらえ、長脇差、すべて俗体であるのに、頭だけを丸めて、これは茂太郎の眼で見なければわからないが、そう言われて見ると、首になにやら数珠のようなものを掛けている。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n 今日は良い凪だった。「巨勢教授」十六枚書いた。天ぷらで酒を呑んだ。よい月夜である。午後から当代島へ行ってスケッチした。明日もよい凪だろう、直ぐ寝る。地の上に恵みあれ。(一、二四)\n\n 今日は終日強風、寒かった。「巨勢教授」二十枚書いた。明日是を博文館へ持って行く、幸運があるように。静子よ我が運命は明日で定まるだろう。何も考えなかった。金という奴は実に人生を愚劣にするものだ。高梨は大変に親切にして呉れる、恩人の一人だ。此の四五日程、真剣な「生」に面接したことはない。明日の運が予に幸いするにまれせぬにまれ此の一月間の貧乏は、全く予にとって新しい境地の開拓であった。予は人生のどん底の貧を嘗めた。予は今は本当に大地に根を下ろしている。予は今程自身を無力に、然も最大の強さに見ることはないだろう。予は何ものをも歓んで迎えよう、予には最も大きな「恁の為事」がある、何だって予を挫くことは出来はしない。さらば、賽は投げられた。(二五)\n\n 賽は予の運命を窮まらしめた。従って予の運命は新しき土地に鍬を下ろさざるを得ざらしめている、予は北海道へ落つべきか、平凡に東京で落着くべきか未だ決定していない。\n 予は真に人生の底にいる。今は全くの孤立だ、予は人生にあっては自分より外には何ものも之を頼むべからずと云う事を切実に知った。友達とは何か? 若し人に友達が必要である時、――その時こそ友達ならではと云う時、友達が背を見せて去ったら、――何の為の友ぞと云うであろう、然り、友達とは何か。現代にあって「友達」と云う関係の有つ意味は、「利害相一致せる倶楽部員」と云う以外の何ものでもない。若しAとの友達関係に於て、Bが多少なりとも損害を被ると杞憂せられんか、最早AとBとの「友達」はおしまいである。\n よし、予は現代の「友達」を見棄てた。\n 今日は府の美術館に「西洋美術回顧展」を見た。槐大の画三枚、関根正二の画二枚、黒田清輝の画数枚、それから高橋由一の画を見た。関根と黒田が大きかった。特に黒田は偉大である。矢張り人は長生きをして為事を完成しなくてはだめだ。若い内は作品は唯衒気ばかりだ、天才があってもそれは唯閃きをみせている丈だ。五十にならなくては本当じゃない。今日、ストリンドベリイの「青巻」を読み了えた。最後の言葉「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久の定住を望むな、此の世は巡礼である」――がひどく予を鞭撻しまた慰めて呉れた。ああストリンドベリイ、吾が友、吾が師、吾が主。予は貴方を礼拝しつつ巡礼を続けよう。(二五八九、一、二八)\n\n 男子は一生の為事が楽に出来ると思っているか、馬鹿め。武者小路\n\n 三十六よ此の一言の前に頭を下げろ。(二五八九、一、二九)\n 予は今日更に開眼された、宜し、七を七十倍した丈倒れよ、予は飽くまで起上るぞ。今日の大収獲。今は午前二時だ。眠れ三十六よ、新しい日があるだろう。(一、二九)\n\n 予の浦安町の生活は終りをつげる。両三日内に予は此の懐かしい町を去る。今日博文館を訪ねた、予の原稿は退けられた。予の父は神経痛症で悩んでいる。予は職を失って四月、愈々金に窮し、蔵書を売却して、新しく踏み出さねばならぬ。然も唯一の友は予を棄て、約婚の少女は遂に予の手を飛去った。予の唯一人の後援者である木挽町家でも最早予の為には金銭的補助は拒んでいる。\n 今こそ、予に残っているものは、唯一つ“創作の歓び”是丈だ。予は最後の宝玉を、(然も自分の血液に等しく、死を以っても手放すことは出来ぬ宝玉を)抱いて、明日の道へと踏み出す。\n\n 師よ、(弟子が訊ねた)人は如何なる時に歇む可きか。信なく望なく金なく友なく愛人なく飢えし時にか。\n 否、(師が答えて曰った)汝の脈の最後の三つが打ち切るまで歇む可からず。汝を全くせむには、それらの困難艱苦は必要なるが故なり。いと尊き玉はいと勁き金剛砂もて飽くまで磨かざるべからざる也。汝はいと貴き玉なれば也。\n\n 師よ、人は奴何なる時に怒る可きか、侮辱せられし時にか。\n 師答えて曰いけるは、否、汝自ら汝を涜せし時にせよ。他人は絶えて何を侮辱する事能わず、何となれば汝は玉にして彼等は砂なれば、彼等五十万を十万倍する程集いて貶るとも汝を亡ぼす事を得ざる故なり。(二五八九、一、三一)\n\n 昨日は東京から本屋を招いて蔵書を売払った。八拾円の金が手に入った。借金を支払えば残りは僅かである。これで当分東京で暮す。勤め口があったら勤めても宜し、でなかったら四国へ行っても宜い。\n 今日は「長」を連れて東京に遊んだ。シネマを見せ、地下鉄に乗せ、動物園に「おっとせい」と「白熊」と「獅子」と「猿」にて興じていた。予の幼時の亢奮が、長の亢奮につれて予の胸に湧上って来た。幸福な思い出多き一日であった。これから湯に入り高梨家で「まろさん」、「秋葉君」、「高梨夫妻」、「留さん」等が予を送る為の酒宴に臨む。いよいよ別れの日が近づいた。今夜はひとつ大いに歌うつもり。(二五八九、二、二、午後七時)\n\n在浦安町(茫屋にて)\n\n 予は浦安町に居着くことになった。\n 藁葺屋根の古い朽ちかかった茫屋である。二坪の広い土間と四坪半一間の家である。予は炊事道具を揃え玄米を買った。自ら炊ぐ積りである。夕景玉とその母とが訪ね新香漬を予に贈ると約した。予の隣家は炭屋の貧しい家族である。主は顎骨化膿で二日来病臥し、その最中に妻が出産した。子供は十五の男を頭に五人。正に人生の悲劇である。いま、壁の彼方では、夫妻が金の相談を続けている声がしている。(二五八九、二、七、夜)\n\n 子供達が大勢来る。話をしてやる。未だ為事には取りかからない、予の全精神を傾倒してかかるような「モティヴ」がみつからないのだ、従って予はいま大変に淋しい。早く為事をしたい。為事を。石井信次が十日に来るそうだ。その時「女と自動車」八景を読む、と通信があった、予はそれを期待している。今夜は堀の薬師様の縁日であった。堀は賑わっていた。ああ、宵の内お玉の母が予に漬物を持って来てくれた。今日は川を越して葛西村の方まで散歩した。別に何も考えなかった。ああ、中外商業新報から僅かな稿料が入った。それで酒を呑んだ。今は十時である。(二五八九、二、八)\n\n 昼にコンテ画を一枚書いた。子供達は盛んに遊びに来る。「巨勢弘高」二部曲のプランに着手。ス・ベの「ルッテル」に負うところが多い。蔵書を沽売したので頗る不便だ。その代り、却ってそれだけ真剣になれるのは有難い、早く為事に手をつけなければならない。この貧しさ、この淋しさから逃れる為にも。明日は石井が来るだろう、たのしみである。今は十一時。もう寝る。(二五八九、二、九)\n\n 悲劇「画師弘高」十五場幕明く。(二、一三)\n いよいよ本物が書けそうだ。金が段々窮乏して来た。当分は玄米と薯で過す積り。今日は寒かった。夕食にうどんを煮て少年「助」に馳走し自分も喰べた、贅沢の空なることを知った。助と喰べた自炊のうどんはうまかった。こんなことを若し母が生きていて聞いたら泣くだろう。重大なことは何も考えなかった。弟に手紙を出した。「を」とは再び和解することはないだろう。神の御心のままに。明日は早く起きるぞ。(二、一三)\n「土用風景」小説書いている。今は午後十二時。(二、一三)\n" }, { "role": "assistant", "content": "「弘高」書いている。金が全く無くなった。「浦島」改造へ送った、どうなることやら。悪くたって己は決して気を落しはしないが、なるべくなら金になってくれ。何も考えなかった。江川でコンテを一枚画いた。今朝は非常に寒く新聞は零下七度を報じていた。今は十二時半である。本を読んで寝る。(二、一四)\n\n「弘高」書いている。第一場が終り、第二場が終りかかっている。高梨の妻君が夕食の菜を持って来て呉れた。昼堀の方で画を一枚描いた。今日は充分に為事をした、今は十二時半である。明朝は早く起きる。(二、一五)\n\n「弘高」書いている、今日は随分した。十三枚書いた。今は午前四時である。中外商業新報から僅かな稿料が入って二三日のしのぎがついた。高梨に感謝している。何も考えなかった。酒を十銭買って来て飲み、そして寝る。今日((十七日日曜))は子供がポオトレイトを描かれにやって来る、予の話をも楽しみにしていることだろう。平安我が上にあれ。(一六)\n\n 今日は一日子供達と遊んで了った。夕食には「長」の釣った鮒を味噌煮にして喰べた。うまかった。今は十一時、これでねる、平安吾が上にあれ。(一七)\n\n「弘高」第四景は骨が折れた。今日は為事をした。第四場を書き上げ、第五場を書き上げた。久し振りに天ぷらで酒を呑んだ。今は十二時である、これから夜食のうどんを執って第六場法隆寺金堂の場面にかかる。雨後の明月で佳き静夜だ、静かな西風が吹いている、葛西村の灯は月明で瑠璃色に輝く川の上にちらちらと揺れていた。さあ、元気を出してかかるぞ。労れるまで。労れるまで。――そして又書く。二五八九、二、一八、午後十二時。うどんを煮る鮒の汁の煮沸る音をききつつ。(月は三時ちょっと前に落ちた)。\n\n「弘高」第六場が終った、骨が折れた。五枚ばかり破いて書き直さねばならなかった。今は午前五時過ぎである、風が出てひどく冷える。今度は「第七場」金堂の場だが寝るとしよう。\n 今日は三場三十数枚を書いた。これから高梨を訪ね、酒をのんでねる。平安我が上にあれよ。二五八九、二、一九、午前五時十分。\n いま東の空は暁の光に染められている。五時三十分。味醂干で酒をうまく呑んだ、今は六時半である。さて寝よう。静子よよき夢を私に送っておくれ。二五八九、二、一九。午前六時十五分。今は全く明けている。\n\n 今日は何もしなかった。高梨で金を借りた。写真を二枚撮ってくれた。(まろさん)。あしたは弟と省児が来る。今は十二時半である、寝よう。平安我が上にあれ。(二、一九)\n\n 随分日記をつけなかった。二十日には弟と省児とが来た。二十六日には予が東京を訪れた。二十七日には久しく滞渋していた「弘高」第八場を書き上げた、昨日は雨、今日も雨、今は午前二時である。今日昼「長」をのせて青べか舟で大川を漕いだ。妙見島へ上って枯草の上に仰臥て微風の温かい陽を身に浴びた。よき運動だった、「弘高」第九場を書き上げた。骨が折れる。もう寝る、平和吾が上にあれ。(二五八九、三、一)\n\n 弘高第十場を書きあげた。(三、三)\n 高梨の家で雛の節句の祝盃をあげた。\n 今日沢田正二郎が死んだ。彼は暴風の如く来り暴風の如く去った、予は独り渠の為に一夜の弔宴を張ってやる。渠も又予の為に役立ってくれた一人である。平安あれ沢田の魂の上に平安あれ。(三、四)\n 今日午後からべか舟を漕いで新川口の方まで行った。妙見島でコンテを一枚書いた。第四幕の幕を明けた、骨が折れる。(三、四)\n\n 高梨の手で稼がせて貰う童話「時計と蛸」書いた。始めての創作童話。別にシナリオ「春はまた丘へ」を書き始めた。今は午前四時である。\n 今日は寒かったが、矢張りべか舟を漕いだ、今井橋まで行った、午後からは海苔取りに行くべか舟が川の面を黒くしていた。いま芥川龍之介集を読んでいる、矢張り胸に来るものは考証物よりも現代物である。「鼻」「羅生門」「芋粥」などよりも、一短篇「蜜柑」の方がどれ丈貴いかしれない。現代に生き現代を生かさねばならぬ、それが全部でないまでもそれが基本でなければならぬ。など考えた。「蛙」は傑作だろう。併しどうせパラドクスなら、もっとずっと突込んでやる余地があった筈だ、ひと皮は切ったがふた皮目み皮目には刃が届きかねた形だ、況や骨にをやだ。是は明らかに荷が勝ち過ぎたのと、彼の体力の不足から来たものだろう。予は彼の為に、後者を其の原因に採る。\n 芥川は真面目に生きた、特に後半生に於て然りだ。彼に若し充分の体力と、勁健不抜な精神力とがあったなら、日本はどんなに大きな収獲をえたことぞ。彼は今人類の最大の苦役から解放された、(彼自身がそう望んだ如く)果して彼は今解放されたか。(二五八九、三、五)\n\n 自分はいま、をと自分との関係を書き始めた。「をと自分」と云う題である、何かに役立ちそうだ、出来上ったら石井を通じて見せても宜いと思う。今は午前五時半である。(二五八九、三、五――否既に六日である――)\n\n 芥川集読んでいる。「歯車」良い。今日は何もしなかった。今日は淋しく憂鬱だった。元気がなかった。夕方に沖の弁天社の方まで散歩した。舟には乗らなかった。酒を買って来て独りで飲んだ。高梨で白い飯を呉れた。(六)\n\n 今日はべか舟で川を下り大三角の右を海へ出た、海には風がなく、波は瑠璃色に輝き、空には石竹色の美しい雲が流れていた、ずっと沖にはごぜえきの走るのが見え、其の向うには上総の山が霞んでいた、予はべか舟を沖へと進め三番の澪木まで出た、海苔を拾った。そこでクリイムパンを喰べあんこ玉を喰べ、シャツ一枚になって、大三角を廻り東の川口から川を溯って帰った。石井信次に手紙を書いた。大吾船長、(あの色っぽい妻君)夫妻はひどく喧嘩をした、妻君が賭事をする。亭主は嫉妬深い。だが無事に納まるらしい。夫婦喧嘩と云えば「慶さん夫妻」のは更に面白い(なすびの下った妻君)是は予の「TELL'S OF 浦安」は好題目である。今日も何も為なかった。明日は東京へ行く積り。また本を売る。今は一時である。井口からは何の返事もない。(七)\n 慶さん夫妻の喧嘩では、いま商売〔小さな飲食店〕をしている店は妻君の金で買ったものだが、料理場である軒先の張出しは慶さんが自分で造作したのである、従って慶さんは、その張出し丈を剥がして舟に積んで持って行くと云う。\n 予の窮乏のどん底に於て井口の情ある通知があった、予はまた三十円足らずの金ではあるが井口の手で稼がせて貰える訳である。井口の手紙を受取ったのは、十円足らずの金を手にする為に、幾許かの書物を包んで東京へ立とうとしている時だった。予は思わず涙を覚え、井口の手紙を犇と握った。井口も予の恩人の一人である、予の日記は大きく彼の名を書くだろう。今日は何も為なかった。だが明日からは、明日からは。今は十二時である。静かな温かな夜だ。(二五八九、三、八)\n\n 今日はべか舟で沖へ行った。「ヴェルテル」を読んだ、少し風があった。夜は浦安亭に浪花節を聞いた。帰ってから少女小説を書いた、十二時頃に驟雨があり、霰が降った。雷が鳴った。初雷である、かなりひどかった。雨後はからりと晴れしきりに雁の渡る声がした。今は午前四時半である、もう寝る。(九)\n\n 昨日は「あちや」原稿を持って博文館を訪ね、帰路木挽町に寄った、主人は元気にしていた。夕景「ヒ」と会った、酒を呑み天ぷらを喰べた。なつかしく且つ心温かい歓会だった。帰りは船がなくなって電車で今井まで来て、そこから歩いて帰った。ひどい風が終夜吹き通した。今日は何もしなかった、頭を悪くしている。シナリオ苦しんでいる。昨日石井信次から来信。康子さん小康との報。明日東京へ行く。(一二)\n\n 今日は博文館へ行って金を貰った。省児と高梨との借金を済した。牛肉とすじ子で酒を呑んだ。何もしなかった。ああ、木挽町で文子と会った。懐かしそうにしていた。色々話した。彼女はめがねをかけて勉強している。信春と会った。ゆかいな男だ。のーちゃんも二十になった。風は未だ続いている。「ヴェルテルの悩み」一昨日読み了えた。今日のものではない、退屈なものだ。感心しなかった。彼は些しも自殺する必要はない。と思った。今は酔っている。(二五八九、三、一三)" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " ある日は大祭日か何かで、里では、國旗が學校や役場やその他の民家の軒にかゝげられて、酒に醉つて赤い顏をした人達が彼方此方を歩いてゐた。ある木地屋では、平公夫婦は酒や蕎麥を御馳走になつた。お金の澤山に取れた時には、かれ等は白鳥に一杯地酒を買つて、それを山に持つて來たりした。\n 常公はいつも獨りで別に桐油を樹間にかけた。かれは木地をつくるよりも、蜂を取つたり、岩魚を取つたりする方が得意で、岩魚は燒き串にさして、そして里へ持つて行つた。\n『もう、冬が近づいた。國に歸るのももうぢきだ。』\n かう言つて、平公は常公の桐油を訪ねた。この冬は是非嚊を持つやうに平公は勸めた。『一人で稼ぎに出るのと、二人で出るのとでは、大變な違ひだぞな。何しても二人だと樂みで好いだ。この冬に、うんと好いのをさがして、早く祝儀をする方が好い。』かう言ふかと思ふと、『でも、この冬は俺は樂しみがねえな。嚊のない時分には、一年一度國に歸るのが、何より樂しみだつたものだがなア。』\n『でも、皆なに逢へるから、樂みでねえこともあんめい。』\n『それはさうだがな。』\n 一年一度の同種族の會合、そこに集つて來る大勢の人々、彼方此方から持つて來るめづらしい御馳走、あの時の宴會の歡樂は、言葉にも言ひ盡すことが出來なかつた。大勢の若い娘達、それを其の日其の夜は何處に伴れて行つても差支なかつた。樹間に幾つとなくかけられた桐油小屋、バケツの中に一杯滿された酒、年寄も若者も一緒になつて賑はしく歌を唄つて躍つた。\n 彼處に五日、此處に三日といふやうにして、かれ等は次第に國の方へと近づきつゝ放浪して行つた。峯から峯、谷から谷、林から林と移つて行くかれ等は、ある宿泊地で、最初に、三人づれの同種族と一緒になつた。\n 老いた婦に若夫婦、その若夫婦は今年二つになる子供をつれてゐた。その群を最初常公が發見した。\n『何うも、あそこに桐油があるかしら?』\n『何處に......』\n『そら、あの山の陰の林の中に。』\n『あれやさうかしら?』\n 若い平公の嚊は、かう言つて始めは本當にしなかつたが、漸くそれは同じ種族の群であるといふことがわかつた。で、此方からも行けば向うからも來た。その群は始め十五人で、一昨年、遠い會津の山奧から南部の方へと入つて行つたが、昨年はたうとう國に歸ることが出來ず、日光の奧で年を迎へて、それから、上州から信州の方へと段々出て來たといふことであつた。艱難も多かつたらしく、その中のある群とは、會津でわかれ、南部でわかれ、最後に上州でわかれた。『今年は何うしてもな、一度、國に歸るべい思つてな。』かうその老婦は話した。\n 老婦は一つの位牌を肌身離さずに持つてゐた。それは一昨年同じく國を出て、途中で死に別れた一人息子の位牌であつた。老婦は涙ながらにその話をした。『會津から南部に行く途中だつたけな。急に、病氣になつてな、吐くやら反すやら、里のお醫者にもかゝる間もなくて、つい、死んで行つて了つたがな。平生丈夫ぢやつたで、こんなことがあらうとは夢にも思はなかつたで、俺ア、一時氣拔けのやうになつて了つたゞ。それでも、皆なは氣の毒だと言うて、えらく力になつて呉れしやつた。』かう言つた老婦の眼には、ある山から下りて行つた森に圍まれた寺や、本堂や、珠數を繰つた人の好ささうな老僧や、山の上の火葬の夜のさまなどが、今も歴々と映つて見えた。\n『これに骨が入つてゐるのだよ。』\n かう言つて老婦はその持つてゐる小さな瓶を平公と常公に見せた。\n かれ等は何んな遠い山の中で死んでも、決してその屍を異郷に葬ることはしなかつた。かれ等はさういふ不幸に出會すと、山の上で、木を集めて、それを火葬にして、いつも骨を遠くその故郷へ持つて來て埋めた。そこにはかれ等の祖先がゐた。古い系統と古い歴史とを持つたかれ等の寺があつた。\n『まだ、若いだんべ。』\n『二十七だよ。』\n『まだ、上さんも持たずか?』\n『今度歸つたら、嚊でも持たせべい思つてゐたゞよ。』\n『可哀想なことをしたよな。』\n 老婦は涙を流した。利益の多い遠征ではあつたが、またそれだけ艱難の多い旅であつた。老婦は木の多い山、産物の豐富な山、淳良な氣風の里の話をすると共に、危い崖、恐ろしい猛獸、凄しい山海嘯の話などをした。其地方では恐ろしいのは警官ではなくして自然そのものであつた。日光の山奧などには、いくら伐つても伐り盡せないほどの木材があつた。そこにある山奧の温泉は、川一面が湯で、上州でわかれた群の一人がその前の絶壁から落ちて怪我をした創傷を一日か二日で治したといふことがあつた。熊や猪などにも度々出會つた。\n かれ等はしかしかうした長い遠征をも決して辛いとは思つてゐなかつた。幼い頃から親に連れられ、仲間に伴はれて、草を枕に、露を衾に平氣で過して來た習慣は、全くかれ等をして原始の自然に馴れ親しませた。それにかれ等の血には放浪の血が長い間の歴史を持つて流れてゐた。\n『此處まで來れや、もう、國へ歸つたも同じだな。』\n などと若い夫婦も言つた。夫婦はかなりに多く金を貯蓄して來た。かれ等も矢張、冬の會合のことを樂みにしてゐた。親にも逢へれば同胞にも逢へると思つてゐた。馴れてゐる故もあらうが、南部の山の險しいのに比べては、此方は平地のやうだなどと言つてゐた。\n 其處にかれ等は一週間ほどゐた。平公夫婦の毎日里の方へ下りて行くのに引替へて、遠くから來た方の人達は、多くは山で遊んで暮した。\n 平公夫婦の里に行つてゐる間に、ある日、里の人達らしい男が二人此方へとやつて來た。その時は別に何も言はずに歸つて行つたが、そのあくる日に、白い服を着て、劍を下げた人達が草鞋ばきで、二人三人までやつて來た。\n『貴樣達は何處から來た。』\n『............』\n『山の向うや此方でわるいことをしたのは、貴樣達だらう?』\n『............』\n かれ等は一番多くかういふ人達を恐れた。そしてかういふ人達は、きまつて、かれ等に籍の所在地を聞いた。しかしかれ等はさういふものを何處にも持つてゐなかつた。強ひて詰問されると、かれ等はかれ等の頭領から持たせられた木地屋の古い證書の冩しのやうなものを出して見せた。それは七八百年も前の政廳から公に許可されたやうなもので、麗々しく昔の役人達の名と書判とがそこに見られた。全國の山林の木は伐つても差支ないといふやうな文句がそこに書かれてあつた。\n 白い服を着た人達も、要領を得ないかれ等種族を何うすることも出來なかつた。徳川幕府の潰れたのも、明治の維新になつたのも、京都から東京へ都が遷つたのも、日清戰役があつたのも、日露戰爭があつたのも、軍艦が出來たのも、飛行機が出來たのも、何も彼も知らないやうなかれ等の種族には、何を言つて聞かせても效がなかつた。後には、警官達も持餘して、唯一刻も早く、自分の受持つ管内からかれ等を立去らしめることをのみ心がけた。\n『一刻も早く立去れ。』\n『............』\n『わかつたか。』\n『............』\n 翌日は、其處を去つて、かれ等は別なところへと移つた。一しきり雨の時節が通り過ぎると、今度は秋の美しい晴れた日が毎日續いた。重なり合つた山は、くつきりと線を碧空に劃して、破濤のやうに連りわたつた山嶺は、遠く廣く展開されて見えた。木の葉は紅葉して、朝日夕日は美しくこれを照し、月は銀のやうな光をあたりに漂はせた。谷川の囁くやうな響は微かに下に下に聞えた。\n 鹿の鳴音が笛のやうに聞えた。\n それは廣い高原のやうなところであつた。草藪と林と落葉松とが廣くつゞいて、熊笹が一面に生え茂つた。ある日、夕日が西の山陰に沈んだ頃、平公はふとその廣い野原を越して、誰か五六人一緒に此方にやつて來るのを見た。後に負つた荷物と、杖と、桐油とは、矢張その同じ種族のものであるといふことを思はせた。\n『おーい。』\n『おーい。』\n 呼び且つ答ふる聲がこだまに響いてきこえた。\n\n 四\n\n 一行は賑やかになつた。其處にも此處にもテントが張られて、若い娘や子供がバケツを下げて、水汲みにと谷川の方へ下りて行つた。後から來た群は、西の方の大きな山脈に添つて、崖を渉つたり谷を越えたりしてやつて來た。種族の中でも聞えた老人が一人ゐて、その孫娘やら息子やら仲間やらが一緒になつて來た。老人は宿泊地の所在、水の所在、路程の遠近などをそらで知つてゐた。かれは幼い頃から一生を山で暮した。南部の奧へも行けば、九州の果てまでも行つた。よく若者をその周圍に集めて、彼方此方の山の話や、處々で遭難した冒險談などをしてきかせた。\n 孫娘は二人あつた。姉をあぐりと言ひ、妹を小菊と言つた。あぐりは二十歳、小菊は十八歳、何方もこの冬には相應な夫を持たせて、一人前の山捗ぎをさせる筈になつてゐた。娘達の元氣に笑ふ聲は、山裾の遠いテントから常に洩れてきこえた。\n 平公は常公に言つた。『何うだな。あのあまつ子は?』\n『うむ......』\n 常公はにやにや笑つてゐた。\n 傍にゐた平公の嚊は、『妹の方が好がんべ。容色も好いし、氣立も好いや。それに肥つてるアな。』\n『あはゝ。』\n 平公も常公も笑つた。\n『でもな、もつと好いのがあるかも知んねえでな。』\n『ほんまに......』\n『好いのを選る方が好いがな。あんまり選ると、終ひには、相手がなくなるぜや。俺の嚊のやうなものでも、お方にして見りや好いもんだぞな。』\n『まア、行つてからだ。國にや好いのが來よるぞ。』" }, { "role": "assistant", "content": " などと常公は言つた。かれはもうこの冬こそは必ずすぐれた氣に入つた相手を得なければならぬと思つてゐた。\n 里に下りて行く路などで、何うかすると、常公はその孫娘達と一緒になつた。姉も妹も襤褸を着て、さゝらやたわしを背負つて尻を高くはしより上げて、後になり先になりして岨道を歩いた。\n『をんさん(おぢいさん)おつかねえかよ。』\n 姉も妹も笑ひながら頭を振つた。\n『おつかなくねえけりや、俺らんとこへ來うな。』\n『............』\n『來ねえ?』\n わざと調戯ふやうにして、『來れや、荊棘でも何でも負うぞな。三年一生懸命になつて働くぞな。南部へ伴れて行くぞ。』\n『俺ア、なるべいか。』\n などと姉娘は笑つた。\n『そんなこと言ふけど、好いのがあるんだんべ、ちやんと約束して置いたんべ、歸つて來るのを待つてるんだんべ。』\n『さうかも知れねえよ。』\n『當てゝ見べいか?』\n『見さつしやい。』\n こんなことを言ひながら三人は縺れながら歩いた。娘達は一緒に行つた朋輩の一人二人が町で誘惑されて行方不明になつた話などをした。『何處へ行つたか、いくらさがしてもわかんねえだ。男でも拵らへて突走つたんだんべいがて言ふこんだ。』\n『お女郎にでも賣られたんべ。』\n『お女郎に、俺アもなるかや。綺麗だな、お女郎は――』妹を顧みて、『いゝ着物を着て、見ただけでも俺は吃驚したゞよ。金はくれるし、男は好き次第だつて言ふしな、山捗ぎなぞより何ぼ好いか?』\n『ほんまにな。』\n『雨にぬれなくつても好いし、働かなくつて好いしな。』\n 常公は言つた。『でもな、山を出ると、好いことはねえや。』\n 町へ出た娘達の話などを姉妹は胸に思ひ浮べずには居られなかつた。中には、一度出て行つた山に謝罪して再び戻つて來るものなどもあつた。町には好いこともあれば、怖ろしいことも澤山にあつた。昔、朋輩であつた娘の一人が其處から彼處へと賣られて、辛い〳〵世を送つてゐるのにひよつくりある處で出會つたことなどを娘達は思ひ起してゐた。『矢張り、山が好い。』姉も妹もこんなことを思ひながら歩いた。\n 雨に濡れたり坂路を歩いたりするのは辛いけれど、時にはまた樂しい面白いことも山にはあつた。蕨、山牛蒡、山獨活、春は一面に霞が棚引いて、鶯やカツコ鳥が好い聲をして啼いた。谷には綺麗な水が流れ、山には美しい花が咲いた。生れたばかりの子供を負つて、やさしい力強い亭主と二人で、誰もゐない山の中を其處から此處へと放浪して歩く興味を娘達はをり〳〵頭に繰返した。\n 老人のテントへは若い人達がよく遊びに出かけた。老人がせつせと木地をつくつてゐる傍で若い人達は娘と種々な話などをした。ある夜、姉が眼を覺してゐると、テントの外には、誰か人が來たやうな氣勢がした。ガサ〳〵と草をわける音がして、つゞいてある相圖の音がした。姉はじつとしてゐた。と、急に、妹の小菊は、そつと立つて、靜かにテントの外へと出て行くのが見えた。星が美しく空にかゞやいてゐた。\n あくる日、姉のあぐりは訊いた。\n『昨夜何處へ行つたかや?』\n 妹は吃驚したやうな顏の表情をしたが、『何故や?』\n『だつて、行つたんべや?』\n『何處へも行きやしねえ。俺ア。ちやんと、姉つ子の傍に寢てたがな。』\n『さうかや。』\n『何でそんなこと訊くだべや?』\n『さうかや、それぢや、夢だつたかな。』かう言つて、姉は默つた。姉はその後は何も言はなかつた。\n『おつさん。早う國へ歸りたいな。』かう言つて姉は涙を流した。\n『この孫は、まア、何うしたんだんべ。國に歸りていなんて......。イヤでも、この冬には歸るだア。そして今年こそ、好い婿どん、取つてやんべいな。せつせと稼げよな、好い兒ぢやで。』\n『............』\n『もうぢきだアな。此處に十日ゐて、それから、あそこに三日、あそこに七日、そしてあの大きな山を越しさへすりや、國はもう見えるだで。』\n などと言つて老人は慰めた。\n 山の氣象は日に〳〵寒くなりつゝあつた。落葉はガサ〳〵と風に吹かれて飛んだ。落葉松は黄葉して、霜を帶びた下草は皆枯れて見えた。奧山は、早くも、雪が白くかゝつた。\n ある日は凄じい凩が山をも撼かすばかりに吹いた。木の葉も皆散り〴〵に、草は薙倒され、谷川の音は吠えるやうに聞えた。聳え立ち、重なり合つた山々には雲もかゝらず、黄色い冬近い日影が廣い高原を淋しく照らした。姉娘のあぐりは、ひとりさびしくこの吹きあるゝ凩の中を、祖父の造つた木地を負つて、里へ通ふ岨道を下りて行つた。\n\n 五\n\n ある處からある處へと行く途中で、一行はまた向うの山脈の中から出て來た一群の人達と落ち合つた。群の頭領の老人は、此方の老人と路の角で立つて話した。\n『ヤ、無事かや。』\n『おぬしも無事かや。』\n 此方の老人は、ぞろ〳〵とあとについて來る群を見渡して、『かなりに大勢だな。』\n『おう、こんな大勢になつたぢや。作の組と、政の組とに、向うで出逢つたでな......。おぬしは何處から來た?』かう言つたが、南部に行つて去年歸らなかつた老婦達の群の中に雜つてゐるのを見て、『おう、おぬしも歸つて來たぢやな。去年は歸らねえし、たよりはなし、何うかしたかと思つて案じてゐたがや。』\n また見廻して、\n『息子はな?』\n『死んだがや。』\n 老婦の眼からは見る〳〵涙が流れた。\n 彼方の老人の頭領と老婦とは、長い間立つて話した。頭領の點頭いたり、眼をしばたゝいたりするのが此方から見えた。『さうかや、氣の毒なことをしたなア。若い好い息子ぢやつたに......それから、他の衆は何うしたな?』\n『上州でわかれたが、もう其處等に來てゐべいよ。』\n『さうかな。』\n 二人は猶立つて話した。\n この群は二組三組其處此處で落合つたゞけに、息子達も娘達も夫婦連も子供達も非常に多かつた。誰れも皆鍋と道具とバケツとを負つて、木の枝の杖をついてゐた。\n『まア、無事で好かつたな。』\n『おめいさん達も。』\n『うんと、貯めて來たかな。』\n『何うしやんして。』\n こんな會話が其處にも此處にも起つた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子に日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝の念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。\n\n二\n\n 己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留めて一晩泊らせようと云つた。己はとう〳〵主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬む癖がある。\n バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其詞は此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物は、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖の頭に附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金がきら附いてゐるのである。\n そのうち食事の時刻になつた。奢を極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込んだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は絿れた毛の上に黄絹の帽を被つてゐる。帽の上には鷺の羽がゆら〳〵と動いてゐる。耳には黄金の環が嵌めてある。黒い手で注いでくれるのは、己の大好なジエンツアノの葡萄酒だ。己はそれを飲めば飲む程機嫌が好くなつたが、主人の顔は見る見る陰気になつた。己に盛んに飲食させながら、主人は杯にも皿にも手を着けずにゐる。併し此場合に己の食機の振つたのは、矢張模範として好い事かと思ふ。無論旅をして腹を空かしてゐるので、不断より盛んに飲食したには違ひない。併しそればかりでは無い。一体世間を広く渡つた人の言つてゐる事が譃でないなら、己は今にもどんな事に出逢ふかも知れず、又その出逢ふかも知れぬ事が千差万別なのだから、己はしつかり腹を拵へて掛かるべき身の上ではあるまいか。兎に角己はいつに無い上機嫌になつて来た。己は酒に逆せて、顔が健やかな濃い紅に染まつた。それを主人は妬ましげに見てゐるらしい。心身共に丈夫な主人の事だから、誰をも妬むには及ばぬ筈なのに。\n 主人は岩畳なには相違ない。併し明るい燈の下でつく〴〵見てゐると、どうも顔に疲労の痕が現れてゐるやうに思はれた。庭を余り久しく散歩した為めか、それとも外に原因があるのか。此人は見掛けが丈夫らしくても、どこか悪い処があるのだらうか。バルヂピエロの年齢はもう性命を維持して行く丈の力しか無くなる頃になつてゐる。あれでも若し将来に於いて自分にふさはしい限の事をしてゐたら、まだ長く体を保つて行かれるだらう。然るにこのバルヂピエロはもう若いもので無いと諦念を附けることの出来ない人として、世間の人に知られてゐる。此人は今も機会があつたら若いものの真似をしようとしてゐる。自分では控目にしてゐるのかも知れぬが、それでもその冒険が度を過ぎてゐるらしい。\n いろ〳〵話をしてゐるうちに、己がかうではあるまいかと思ひ遣つたやうな事を、主人が公然打ち明けて訴へ出した。己を為合せだと云つて褒めて、それを自分の老衰に較べた。その口吻が特別に不満らしかつた。己は気を着けて聞いてはゐない。己の考では、それはどうせ人間の一度は出逢ふ運命で、人間は早晩さうなると云ふことを知つて、さうならぬうちに早く出来る丈の快楽を極めるが好いのだ。そこで己は話をしながらも盛んにジエンツアノの葡萄酒を飲み続けて、肴には果物を食つた。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛つて持つて来たのだ。己は果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言つた。主人がこれに答へた辞令は頗る巧なものだつた。余り思ひ設けぬ来訪に逢つたので、心に思ふ程の馳走をすることが出来ない。只庭を見せて食事を一しよにする位の事で堪忍して貰はんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のやうな不機嫌な老人を相手にして我慢して貰はんではならない。せめて音楽でもあると好いのだが、それも無いと云ふのだつた。己はかう云ふ返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向ひで静に食事をするのが愉快だ。只主人の清閑を妨げるのでは無いかと云ふ事丈が気に懸かる。勿論かう云ふ機会に聞く有益な話が、どれ丈自分の為めになると云ふことは知つてゐると云つた。主人は項垂れて聞いてゐたが、己の詞が尽きると頭を挙げた。そしてかう云つた。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思ふ。お前も今さう云つてゐる瞬間には、その通りに感じてゐるかも知れない。併しも少しするとお前の考が変るだらう。それはお前が一人で敷布団と被布団との間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀がられる若いものにはと、主人は云つた。\n 女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら〳〵と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火になつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果の一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。\n 主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多の鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。尤当時の己の意識は此驚きをもはつきり領略してはゐなかつたが、兎に角己は驚いてゐたには違ひ無い。なぜと云ふに己は突然かう云ふことを聴き取つたのだ。己は只即坐に立ち上がつて、さつき気にした、あの窓の鎖してある部屋に往けば好い。そこには寝台の上に眠つてゐる女があると云ふのだ。それに就いて己は誓言をさせられた。それはその女が何者だとか、どこから来たのだとか云ふことを、決して探らうとしてはならぬと云ふのだ。それから己はかう云ふことを先づ以て教へられた。その女は必ず多少抗抵を試みるだらう。併し主人は己をそれに打ち勝つ丈の男と見込んで頼むと云ふのだ。いかにも己にはその位の気力はある。\n 己は急劇な猛烈な欲望の発作を感じた。己は立ち上がつた。それと同時に周囲の鏡にうつつてゐる大勢のバルヂピエロが一斉に立ち上がつた。そしてその中の一人が己の手を取つて、鏡の広間を出た。\n 広間を出て見れば、寂しい別荘はどこも皆真つ暗だつた。主人は己を延いて、梯を一つ登つた。その着てゐる長い上衣の裾が、大理石の階段の上を曳いて、微かな、鈍い音をさせる。己の靴の踵がその階段を踏んで反響を起す。幾度も廊下の角を曲がつた末に、主人と己とは一つの扉の前に立ち留まつた。鍵のから〳〵鳴るのが聞えた。続いて鍵で錠を開けた。油の引いてある枢が滑かに廻つて、扉が徐かに開いた。主人は己の肩を衝いて、己を室内へ推し遣つた。\n 己はひとり闇の中に立つてゐた。深い沈黙が身辺を繞つてゐる。己は耳を澄まして聞いた。微かな、規則正しい息遣ひが聞えるやうだ。室内は只なんとなく暖く、そして匂のある闇であつた。" }, { "role": "assistant", "content": " 此夜は奇怪な、名状すべからざる夜であつた。\n 己はこの室内で、不思議なことに遭遇して、そのうちにどれだけ時間が立つたか知らない。\n やう〳〵己は起つて戸口に往つた。そして肩で扉を押し開けようとした。併し扉は開かない。誰か外から力を極めて開けるのを妨げてゐるやうだつた。その隙に衣服のさわつく音がして、続いて廊下を歩み去る軽い足音がした。\n 己は又扉を押した。戸は開いた。己は二三歩出て、又跡へ引き返さうとした。暁の薄明かりと共に再び室内へ帰らうと思つたのだ。併し己は前の誓言を思ひ出して、急ぎ足にそこを立ち退いた。\n 廊下が尽きて梯になる。梯の下の前房には人影が無い。己は柱列のある所に出た。朝の空気には柑子の香が籠つてゐる。\n 己の馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。己は車に乗つた。そして車が動き出すと共に、己はぐつすり寐入つた。\n バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、己を夢のやうな状態に陥いらせた。旅の慰みが次第に此夢を醒した時、己は其顛末を考へて見て、どうした事か分からぬやうに思つた。又それをどうして分からせようと云ふ手段も、己には見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だつたか。それに対してバルヂピエロの取つた手段にはどう云ふ意味があつたのか。主人があの女を憎んで己を復讐の器械に使つたのだらうか。それとも主人はわざと只周囲の状況を秘密らしくして、己にする饗応に味を加へたまでの事か。\n 己はミラノへ来た。滞留が長引いた。己は上流の人達と一しよに遊び暮らした。己を優待してくれた女は大勢ある。その中で己を一箇月以上楽ませてくれたのが一人ある。其女は己に自分の内で逢つたり、芝居で逢つたり、又己と一しよに公園を散歩したりした。夜燭火の下で逢ふ時は、其女は顔をも体をも己に隠さなかつた。そのうちにバルヂピエロの別荘にゐた未知の女の俤は、己の記憶の中で次第に朧気になつて、己がフランスへ旅立つ頃には、とう〳〵痕なく消えてしまつた。\n パリイと云ふ美しい都会の遊興は、その多寡を以て論じても、その精粗を以て論じても、全く人の意表に出てゐる。己はあらゆる遊興に身を委ねて、月日の過ぎるのを忘れてゐた。舞踏があり、合奏会があり、演劇があるが、そればかりでは無い。バルヂピエロの紹介状が用に立つて、己は種々の立派な人達に交際することが出来た。己は昏迷の中に日を送つて、ヱネチアの事やそこの友達の事を忘れてしまつた。併しそれは己ばかりの咎では無い。ロレンツオや、君も外の友達も己を忘れてゐたやうだ。そんな風で殆ど一年ばかり立つた。\n 己はペロンワルと云ふ女を情人にしてゐた。体の小さい、動作の活溌な、舞踏の上手な女であつた。己は此女とロンドンへ往つた。これは女のためには職業上の旅行で、己はその道中の慰みに連れて行かれたのだ。ところがロンドンでロオド・ブロツクボオルと云ふ大檀那が段々不遠慮に此女に近づいて来て、女は又ロオドと己との共有物になりたさうな素振をして来た。そこで己はペロンワルと切れた。\n パリイに帰つて見ると、イタリアから己に宛てた大きい封書が届いてゐた。中にはバルヂピエロの長い手紙があつた。種々な事が書いてある。ジエンツアノの葡萄酒やピエンツアの無花果の事がある。それから例の不思議な事件の其後の成行がある。あの事件はそつちのためには不愉快では無かつただらうが、そつちを或る葛藤の中に引き入れたのは気の毒だと云つてある。兎に角客にあんな事をさせる主人は無い筈だから、主人を変に思つただらうと云つてある。今其手紙の一部を読んで聞かせよう。\n「あゝ、我が愛する甥よ。御身もいつかは老の哀を知ることだらう。御身が顔を見なかつたあの娘を、その住んでゐた土地から、非常な用心をして秘密に奪つて来させた時、己は自分の老衰を好くも顧慮してゐなかつた。御身が来るまでにあれはもう二週間ばかり己の所にゐた。それに己はまだ一度もあれを遇すべき道を以てあれを遇することが出来なかつた。御身にも気が附いたらしかつた己の不機嫌はそれゆゑであつた。それに御身の若い盛んな容貌は愈己の心を激させた。あゝ。己は御身の青春をどれ丈か妬く思つただらう。此思を機縁として、己のあの晩の処置は生れて来たのだ。己はあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のゐる密室を、御身がために開かうと決心した。己はあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云ふことを、此処置で見せ附けて遣る積りであつた。それと今一つの己の予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知つたら、己の恋が褪めるだらうと云ふことであつた。己の既往の経験によれば、己は自分の好いてゐる女が別の男に身を委せたと知ると、己の恋は大抵褪めた。畢竟情人の不実を知ると云ふことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなく己がために此毒を作つてくれるだらうと、己は予期したのだ。\n 己が御身の肩を押して、御身をあの暗室に入らせたのはかう云ふわけであつた。然るになんと云ふ物数奇か知らぬが、己はふとあの暗室の戸口に忍び寄つて、扉に耳を附けて偸聴をする気になつた。御身等二人の格闘、あの女の降服、呻吟が己の耳に入つた。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。あゝ、此時己は意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰した己の筋肉の間を狂奔して、その拘攣してゐた生活力を鞭うち起たしめた。己は闥を排して闖入しようとしたことが二十度にも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。\n あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿嬌態を千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年に贏ち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟に入ることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女には気に入るらしかつた。女は此間に己の心を左右する無制限の威力を得た。己はとう〳〵御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云ふことを知つてゐる。そして己を憎むと同じやうに、御身をも憎んでゐる。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " そして前夜からのことはそれきりすっかり忘れ果てていたのでございました。が、ちょうど晩の八時頃ちょっと用事がありまして離れの自分の居間へまいろうとしておりますと、血相変えて部屋を飛び出して来た家内と、廊下でぶつかり合ってしまったのでございます。\n「また......あの怖い女の人が! 早く貴方! 早く行って見て!」家内は結い立ての髷も乱して蒼褪めきって歯の根も合わぬくらいに震えているのでございます。途端に前夜のあの出来事がハッと私の胸を衝きました。とり縋る妻を振り切るようにして私は大急ぎで今家内の逃げ出した座敷へ飛び込んで見ました。\n が、そこには明るく洋灯が輝いて、長押の隅々、床の間、相変らずどこに何一つの変ったところもないのでございます。今まで家内はそこで片づけ物をしていたと見えて、押し入れの唐紙が半開きになり、そこから嫁入り道具や髪の物なぞがはみ出しているばかりでございました。\n 私は隣りの座敷の唐紙もことごとく開け放して見ました。しかもここにも別段の変ったところはないのでございます。そして第一まだこんな宵の口の、八時や九時頃家のものもみんな起きて往来も賑やかな時刻に、幽霊なぞというそんな莫迦なものの出ようはずもないことでございました。\n「何を莫迦なことばかり言ってるんだい? 来てごらん! 何にもいやしないじゃないか! お前さんの気のせいだよ! どこにそんなものがいる! さ、来てごらん!」\n と私はまた廊下へ引き返してきて家内の手を執りました。\n「だって......あの血だらけな恰好をしてあの蒲団の上に坐っていたんですもん。淋しそうな顔をして......真っ青な顔をして! わたし怖うて、もうどうもならん」\n と家内はまだ今のその顔が眼先にちらついてくるのでしょう。さも恐ろしそうに肩を震わせておりました。\n「どこにもそんなものはいやしないと言うのに! お鹿、来てごらん! どこにそんなものがいる」\n じれったくなって私は力をこめて家内の手を引きました。がその途端でございます。ギョッとしてすんでのことに私は声を立ててそこを逃げ出すところでございました。血の気もない顔をして私に手を引っ張られながら、まだその場を動こうともしないで私を凝視ている家内の顔が、みるみる何ともいえぬ凄まじい形相に変ってきて、その腰から半身以下が真っ紅に染まりながら、私の顔を食い入らんばかりに眺めているのでございます。\n 私は竦然と総毛立ちながら、思わず眼を閉じて二、三度頭を振りました。そして、こわごわ眼を開けて見れば、そこに恐ろしそうに私を振り仰いで竦んでいるのは、やっぱり私の可愛い家内のお鹿の顔に相違ございません。\n「そんな怖い顔をしないどいて! なぜまた貴方そんな怖い顔をしてわたしの顔ばっかり見ていらっしゃるん?」\n と家内は震えながらも、怪訝そうに私の顔を覗き込みましたが、その拍子に何を私の眼の中に見たものか、\n「キャッ!」\n と叫ぶと憑かれたように私を振りもぎって母屋のほうへ逃げ出しました。そして今の家内の叫びに驚いたのでしょう。茫然と突っ立っている私の耳にも、店の方から番頭や小僧たちのどやどやと駈け出して来る跫音が聞こえてきたのでございます。\n\n四\n\n 騒ぎは一時に大きくなりました。そして困ったことには妻はもう私さえも恐ろしがって、私が側へ寄ると慌てて父や番頭の陰へ隠れるようにして飛び退きました。そしてこんな恐ろしい家には一刻もいることができないから、すぐに離縁を貰って家へ帰ると言うのでございます。\n「莫迦なことを言いなされ! 昨日祝言がすんだばかりで何の理由があって家へ帰らせられる? 幽霊? 莫迦な! 幽霊が出るから家へ戻って来たと貴女は親許へ戻っていいなさる気か! 阿呆らしい! 家に幽霊が出るもんなら、なにも昨日や今日に来た貴女一人の眼には映らんわ。親子三人番頭も小僧もこうして多勢いるに、今までにそういう人々の眼に映らんというはずがないじゃないか!」\n と親父は頭ごなしに呶鳴りつけました。阿母は阿母で離縁をしてくれなぞととんでもないことを言い出すには、何かそんな莫迦げた理由ではなくて、ほんとうの理由があるに違いない。理由によってはそちらから離縁を望まぬでも、こちらから熨斗を付けて親許へ帰して上げるから、仲人を呼ぶまでのことはない、ここでハッキリした理由を言いなさいというようなわけで、彦吉がここにいるために言いにくいのなら彦吉にはしばらく店の方へ出てもらいましょう、といきり立つのでございます。お陰で私はしばらく莫迦な顔をして、店番を勤めていたような始末でございました。\n さすがにこう膝詰談判をくいましては、家内もただ恐ろしい怖いだけではすまされなくなってまいりましたのでしょう。泣きながら昨夜からの一部始終をありのままにぶち撒けたものとみえまして、やがて私がまた奥の間へ戻ってまいりました時には、親父と阿母と家内との三人がまことに気拙そうに顔見合せながら坐っているのでございます。\n「それほどお前が言うのでは、まんざら根も葉もないことでもないだろうが、困ったことが持ち上がったものだな」\n と親父は腕組みをして苦り切っていました。\n「たださえ去年の秋から商売の方も旨く行っていねいのに、またこんな噂でも立った日にはよけい商売の方にも響いてくるし、弱ったもんだ」\n「それにしても彦吉が幽霊というわけでもあるまいに、なにもお前さんが彦吉までを怖がることもないだろうにね」\n と母も厭な顔をしているのでございます。\n「......」\n 妻はまるで自分が悪いことでもしでかしたかのように、切なげに俯向いておりました。\n「ところでそんなことばかり言っていても仕方がないが、さしづめ今夜のところですがね」\n と阿母が膝を乗り出してまいりました。だれの彼のというよりも、もしそういう自分の逢ったあの女の人そっくりの幽霊が出るものならば、わたしが自分で今夜はひとつ離れへ泊ってみようじゃないかね、と言い出してきたのでございます。\n「怨みのあるところへ出るというのなら話もわかっているが、なんの怨みつらみもないここの家へなんぞ出てケチをつけるのがわたしには腑に落ちない。今夜出て来たらわたしだってもう容赦はないね。向う様どころか! こっちこそ、怨みの百万だら並べ立ててやらなけりゃ腹が癒えないよ」\n と阿母は煙管を叩いて意気込みました。もちろんその反面には嫁いで来て早々妙なことを言い出してきた家内に対して、もし幽霊でも出なかったぶんにはそのままにはしておかないよという母の勝気な、いつもの気性がありありと眉の間に溢れていたのでございました。\n「また婆さんがつまらねいことを買い込みよる。人が怖がることをなにも無理に買って出るには及ばねえがな。ほかに部屋がねえというわけじゃあるめえし、離れが気味悪かったら、なあに戸締めっ放しにして使わずにおけば済むことなんだから」\n と、親父は穏やかな気性ですから笑っておりましたが、母の気丈はよくのみ込んでいましたから、どうせ言い出したからには後へは引かないと思ったのでしょう。\n「それもいいだろう。こんな強い婆さんに出て来られたら先様で面食らって引っ込んでしまうだろう。そいじゃまあそうと決まったら、さあもう若いもんは引き取って寝んだがいい! 寝んだがいい!」" }, { "role": "assistant", "content": " とその時小僧が呼びに来たのを機会に店の方へ立って行ってしまいました。そんなことでまあこの騒ぎにもケリがついたのでございましたが、私と家内とで、店と奥との隣りの三畳の方へ、家内の嫁入りの蒲団を搬び込んでいました時には、阿母はもう昨夜まで私たちの使っておりました例の蒲団の上に横になって、\n「ああ極楽や! 広々とした座敷の中でこんな結構な蒲団の上にのびのびと寝てられるものを、お前さんたちは粋狂な人たちやな」\n と笑い笑い私たちを眺めて冗談なぞを言っておりました。\n それをまた私も笑いながら、蒲団を搬んでおりましたのですが、さすがに親父の寝ている隣り座敷だという安心があったのかもしれません。あるいは座敷が狭くて床を敷くともう幽霊の出てくる隙間もないほどに、一杯になったのに気持が休まったのでございましょうか。\n 家内もまことに心が落ち着いて、初めて楽しそうな笑顔なぞを見せてくれましたのでつい私もうっかりして阿母の様子も気にかけずに安心して眠ってしまいましたのですが......。\n ハッとして夢うつつのうちに、思わず私は枕に頭を擡げて耳を澄ませました。\n かたわらに家内は、二日間の疲れが出たのか気持よさそうにスヤスヤと軽い寝息を立てて眠っておりましたが、どこか地の底からでも響いてくるような人の呻き声がかすかに耳を打ってくるのでございます。高く低く尾を曳いて、まるで喉首でも締めつけられているような、総毛立つほど厭な魘され声でございました。\n 阿母さんだな! と気がついて私がはね起きた時には、隣りで親父も眼を醒ましたらしい気色でございました。\n「お父つぁん、眼が醒めているのかい?」\n「魘されているようだな」\n と親父も嗄れ声でございます。\n「なんだな大きなことを言って! だから止せばいいのに、から意地はねえじゃねいか! 彦吉! 起してやりねえ!」\n「よし起して来てやろう」\n と私が障子に手を掛けた途端、ひときわ高くううむと身の毛のよだつような声を張り上げたと思いましたが、それっきりパッタリと声は途絶えて、離れからはもう何の物音も聞こえてはきませんでした。\n「なんだか様子が可怪いぞ!」\n と親父も気に掛かるとみえて起き出したらしい工合です。変に胸騒ぎがして廊下を離れの前まで行って、\n「阿母さん! 阿母さん!」\n と呼んでみましたが、内部は洋灯も消えて何の物音もしないのでございます。もう猶予はできませんから障子に手を掛けて一思いにがらっと引き開けようとしましたが、どうしたことか障子が磐石のような重さで開かないのでございます。\n「いけねえ! 変だ!」\n と親父もいつの間にか背後に突っ立っていて、一緒になって開けようと焦ってみましたが、開かばこそ! ふと気づいて隣りの障子に手を掛けましたが、これもまた敷居際に閊えて滑らかに開きません。苛ら立ち切ってうんと力を籠めると一緒に、障子は敷居をはずれて物凄い勢いでドサッ! と掩いかぶさるように縁側へ倒れかかってまいりましたが、一瞥見るといきなり私は「阿母さん!」と夢中で取り縋りました。\n 外から開かなかったのも道理! 肥った母は寝巻の胸もはだけたまま、よほど苦しんだものとみえて、両手を開けるだけ開いて、障子に向って大の字なりに縋りつきながら、眼を吊るし上げてもう息は絶えていたのでございました。\n\n せっかくのお望みでございますから、私の存じておりますことだけは申し上げましたが、どうぞ阿母のところはこの辺で御勘弁下さいまし。\n ともかく母の初七日も済んだ後、親類どもも寄り集まりましていろいろと後々の相談をいたしましたが、結局だれ言うともなく、どうも蒲団に何か怪しい怨霊でも憑いているのではないかということになりました。\n この蒲団を仕入れましてから、商売も左前になったり家中が陰気臭くなっておかしなことばかり続きますし、それに現に亡くなった晩も、阿母は、あの蒲団を敷いておりましたが、私どもは幸か不幸か、座敷を変えておりましたばっかりに、蒲団も家内の持ってまいりましたのを使いましたからなんのこともなかったのでございますが、どうもこの蒲団に何か怪しいことがあるのではなかろうかということになりまして、初七日の法事も済んだあと、親類どもにも集まってもらいまして、この蒲団を解いて見たのでございます。\n 中の綿もいちいち揉みほぐして丹念に調べて見ましたが、掛け蒲団にはなんのこともございませんでした。夜着にも別段変ったことはございませんでした。それから敷蒲団――これも一枚の方にはなんの変ったところもございませんが、残る一枚の方、つまり私どもの重ねた下の方に当る分なのですが、これを解いてまいりますと、真ん中頃に二カ所どす黒くコチコチに乾干らびた、どうも血らしいものの付いているところがございました。\n さてはとここを取り分け丁寧に解きほぐしてゆきますと、どうでございましょう! カラカラに乾干らびた女の片手の指が五本......よほど鋭利な刃物でバラリと落したものでございましょう、肉なぞはすっかり落ちて、撚れ撚れになった皮膚が白い骨と爪だけに纏わりついて現れてまいりました。\n それともう一つ、......これはいかにも申し上げにくいのでございますが、御婦人のある場所を抉り取ったとみえて、これも白くカラカラに乾干らびきった皮膚が、ただ一掴みの毛だけはそのままに綿に包まって出てまいりました時には、その場におりました者七、八人思わず「呀っ」と叫んだきり、あまりの不気味さに顔色を変えぬものはございませんでした。\n 手の指の方はともかくとして、御婦人でこの場所を抉られましたらもうどんなことをしましても命のあろうはずはございません。なるほど亡くなった阿母が話し合ったというあの美しい女の人も、家内の見ました怨霊も、腰から下が血塗れになっていたというわけがようく私どもにも合点がまいったのでございます。\n 存ぜぬ昔ならばともかくも、もうこういうことを知りました以上一刻でもこんな蒲団を家へ置いとくわけにはなりませんから、すぐ元どおりに縫い繕って、私どもの菩提寺の舒林寺というのへ何はともあれ預かってもらうことにしたのでございました。\n 実はその時警察の方へも一応届けたらという話が出ぬでもございませんでしたが、いまさらこんな日数の経ったものを警察へ届けたからとて、亡くなった阿母が戻ってくれるものでもございませんし、それよりも何事も因縁と諦めて、どういう身の上のお方かは存じませんが、こんな酷たらしい殺され方をなすった方の後生をようくお祈りして上げたらということになって、いちおう菩提寺の方へお預けしたようなわけなのでございます。\n\n五\n\n その後舒林寺の住持の方からもお話がありまして、こういう怨霊の籠ったものはこんな小さな田舎の寺に置くよりも、いっそ総本山の増×寺へお納めして、今の大僧正様は近代での名僧智識と評判の高いお方だから、こういうお方に引導を渡してもらったならば、この非業な最期を遂げられた御婦人も安心して成仏ができるだろうから、そうなさったらどうだろうかという御相談でございました。もしその気持があるのなら、衲も一緒に行って、ようく大僧正様に頼んで上げてもいいとの親切なお話でしたから、さっそく親父にその話をいたしましたら、阿母を亡くしましてからめっきり気が弱くなっております親父は、一も二もなく賛成してくれまして、ぜひそうお願いした方がいいと申すのでございます。\n で、親父の代りに私と親類の者と、それから御住持との三人で蒲団とそのほかにお経料として五十円携えて上京いたしまして、増×寺様にわけをお話してようくお願いしてまいりました。増×寺様でも快くお引受け下さいまして、懇に回向をしておくから、もう何にも心配せずに安心してお帰りと仰せて下さいましたので、はじめて私どもも吻といたしました。\n ところがどうでございましょう。不思議なことには、去年の秋親父が仕入れから帰ってまいりまして以来、急に店が寂れ出して、さきほども申し上げましたように、まるで物怪に憑かれたように暗くじめじめとしておりました家の中が、増×寺様から帰ってまいりますと一緒に拭ったようにからっと晴れ渡りまして、店へ見える客も、働いております番頭や小僧たち、煤けた天井の隅々までも、気のせいか見違えるように明るく生き生きとしてきたことでございます。まるで雨降りあげくに、青空が顔を覗かせてきたような工合でございました。本来なれば阿母があんな悲業な最期を遂げまして、家の中はいっそう陰気さを増さなければならなかったはずなのでございますが、かえって思いもかけずその反対になってまいりました時には、今まで知らなかったこととは申せ、あの蒲団に絡まる怨霊の恐ろしさに、いまさらながらただただ震え上がらずにはいられなかったのでございます。そしてこれもひとえに増×寺の有難い御引導のお陰と、手を合せておりましたのでございますが、しかもそれがどうでございましょう。忘れもせぬ、三月の二日、ちょうど私どもがお納めして安心して帰ってまいりましたその翌る日に新聞を見ますと、あの結構な増×寺が時も時私どもが蒲団をお納めして帰りましたその晩のうちに、原因分らずの怪火を発して見る間に焼け落ちてしまったと出ているではございませんか!" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 前がき\n『ジャン・クリストフ』の作者ロマン・ローランは、西暦千八百六十六年フランスに生まれて、現在ではスウィスの山間に住んでいます。純粋のフランス人の血すじをうけた人で、するどい知力をもっています。世界中の人々がみなお互に愛しあい、そして力強く生きてゆくこと、それが彼の理想であり、そして彼はいつも平和と自由と民衆との味方であります。\n これまでの彼の仕事は、いろいろな方面にわたっています。第一に、五つの小説があり、そのなかで『ジャン・クリストフ』は、いちばん長いもので、そしていちばん有名です。ここに掲げたのはその中の一節です。第二に、十あまりの戯曲があり、そのなかで、フランス革命についてのものと信仰についてのものとが、重なものです。第三に、十ばかりの偉人の伝記があり、そのなかで、ベートーヴェンとミケランゼロとトルストイとの三つの伝記は、もっとも有名です。第四に、音楽や文学や社会問題やそのほかにいろいろなものについて多くの評論があります。\n 彼はいま、スウィスの田舎に静かな生活をしながら、仕事をしつづけています。そして人間はどういう風に生きてゆくべきかということについて、考えつづけています。(訳者)\n\n\n\n クリストフがいる小さな町を、ある晩、流星のように通りすぎていったえらい音楽家は、クリストフの精神にきっぱりした影響を与えた。幼年時代を通じて、その音楽家の面影は生きた手本となり、彼はその上に眼をすえていた。わずか六歳の少年たる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと決心したのは、この手本に基いてであった。だがほんとうのことをいえば、彼はもうずいぶん前から、知らず知らずに作曲していた。彼が作曲し始めたのは、作曲していると自分で知るよりも前のことだったのである。\n 音楽家の心にとっては、すべてが音楽である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照りわたった夏の日、風の夜、流れる光、星のきらめき、雨風、小鳥の歌、虫の羽音、樹々のそよぎ、好ましい声やいとわしい声、ふだん聞きなれている、炉の音、戸の音、夜の静けさのうちに動脈をふくらます血液の音、ありとあらゆるものが、みな音楽である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏でるそういう音楽は、すべてクリストフのうちに鳴りひびいていた。彼が見たり感じたりするあらゆるものは、みな音楽に変わっていた。彼はちょうど、そうぞうしい蜂の巣のようだった。しかし誰もそれに気づかなかった。彼自身も気づかなかった。\n どの子供でもするように、彼もたえず小声で歌っていた。どんな時でも、どういうことをしてる時でも、たとえば片足でとびながら往来を歩きまわっている時でも――祖父の家の床にねころがり、両手で頭を抱えて書物の挿絵に見入っている時でも――台所のいちばんうす暗い片隅で、自分の小さな椅子に坐って、夜になりかかっているのに、何を考えるともなくぼんやり夢想している時でも――彼はいつも、口を閉じ、頬をふくらし、唇をふるわして、つぶやくような単調な音をもらしていた。幾時間たっても彼はあきなかった。母はそれを気にもとめなかったが、やがて、たまらなくなって、ふいに叱りつけるのだった。\n その半ば夢心地の状態にあきてくると、彼は動きまわって音をたてたくてたまらなくなった。そういう時には、楽曲を作り出して、それをあらん限りの声で歌った。自分の生活のいろんな場合にあてはまる音楽をそれぞれこしらえていた。朝、家鴨の子のように盥の中をかきまわす時の音楽もあったし、ピアノの前の腰掛に上って、いやな稽古をする時の音楽も――またその腰掛から下る時の特別な音楽もあった。(この時の音楽はひときわ輝かしいものだった。)それから、母が食卓に食物を運ぶ時の音楽もあった――その時、彼は喇叭の音で彼女をせきたてるのだった。――食堂から寝室に厳かにやっていく時には、元気のいい行進曲を奏した。時によっては、二人の弟といっしょに行列をつくった。三人は順々にならんで、威ばってねり歩き、めいめい自分の行進曲をもっていた。もちろん、いちばん立派なのがクリストフのものだった。そういう多くの音楽は、みなぴったりとそれぞれの場合にあてはまっていた。クリストフは決してそれを混同したりしなかった。ほかの人なら誰だって、まちがえるかも知れなかった。しかし彼は、はっきりと音色を区別していた。\n ある日、彼は祖父の家で、そりくりかえって腹をつき出し、踵で調子をとりながら、部屋の中をぐるぐるまわっていた。自分で作った歌をやってみながら、気持が悪くなるほどいつまでもまわっていた。祖父はひげをそっていたが、その手をやすめて、しゃぼんだらけな顔をつき出し、彼の方を眺めていった。\n「何を歌ってるんだい。」\n クリストフは知らないと答えた。\n「もう一度やってごらん。」と祖父はいった。\n クリストフはやってみた。だが、どうしてもさっきの節が思い出せなかった。でも、祖父から注意されてるのに得意になり、自分のいい声をほめてもらおうと思って、オペラのむずかしい節を自己流にうたった。しかし祖父が聞きたいと思ってるのは、そんなものではなかった。祖父は口をつぐんで、もうクリストフに取りあわない風をした。それでもやはり、子供が隣の部屋で遊んでいる間、部屋の戸を半分開放しにしておいた。\n それから数日後のこと、クリストフは自分のまわりに椅子をまるくならべて芝居へいった時のきれぎれな思い出をつなぎあわせて作った音楽劇を演じていた。まじめくさった様子で、芝居で見た通り、三拍子曲の節にあわせて、テーブルの上にかかっているベートーヴェンの肖像に向かい、ダンスの足どりや敬礼をやっていた。そして爪先でぐるっとまわって、ふりむくと、半開きの扉の間から、こちらを見ている祖父の顔が見えた。祖父に笑われてるような気がした。たいへんきまりが悪くなって、ぴたりと遊びを止めてしまった。そして窓のところへ走っていき、ガラスに顔を押しあてて、何かを夢中で眺めてるような風をした。しかし、祖父は何ともいわないで、彼の方へやって来て抱いてくれた。クリストフには祖父が満足しているのがよくわかった。彼は小さな自尊心から、そういう好意がうれしかった。そしてかなり機敏だったので、自分がほめられたのをさとった。けれども、祖父が自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家としての才能か、音楽家としての才能か、歌い手としての才能か、または舞踊家としての才能か。彼はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを立派な才能だと思っていたから。\n それから一週間たって、クリストフがそのことをすっかり忘れてしまった頃、祖父はもったいぶった様子で、彼に見せるものがあるといった。そして机をあけて、中から一冊の楽譜帖をとり出し、ピアノの楽譜台にのせて、弾いてごらんといった。クリストフは大変困ったが、どうかこうか読み解いていった。その楽譜は、老人の太い書体で特別に念をいれて書いてあった。最初のところには輪や花形の飾がついていた。――祖父はクリストフのそばに坐ってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の音楽かと尋ねた。クリストフは弾くのに夢中になっていて、何を弾いてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと答えた。\n「気をつけてごらん。それがわからないかね。」\n そうだ、たしかに知っていると彼は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。......祖父は笑っていた。\n「考えてごらん。」\n クリストフは頭をふった。\n「わからないよ。」\n ほんとうをいえば、思いあたることがあるのだった。どうもこの節は......という気がした。だがそうだとは、いいきれなかった......いいたくなかった。\n「お祖父さん、わからないよ。」" }, { "role": "assistant", "content": " 彼は顔を赤らめた。\n「ばかな子だね。自分のだということがわからないのかい。」\n たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと聞くと、はっとした。\n「ああ、お祖父さん。」\n 老人は顔を輝かしながら、クリストフにその楽譜を説明してやった。\n「これは詠唱曲だ。火曜日にお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、行進曲。先週だったね、もう一度やってごらんといっても、思いだせなかったろう、あれだ。それから三拍子曲。肱掛椅子の前で踊っていた時の歌だ。......みてごらん。」\n 表紙には、見事な花文字で、こう書いてあった。\n\n\n少年時代の快楽――詠唱曲、三拍子曲、円舞曲、行進曲。ジャン・クリストフ・クラフト作品I。\n\n\n クリストフは目がくらむような気がした。自分の名前、立派な表題、大きな帖面、自分の作品! これがそうなんだ。......彼はまだよく口がきけなかった。\n「ああ、お祖父さん! お祖父さん!......」\n 老人は彼を引寄せた。クリストフはその膝に身体を投げかけ、その胸に顔をかくした。彼は嬉しくて真赤になっていた。老人は子供よりもっと嬉しかったが、わざと平気な声で――感動しかかってることに自分でも気づいていたから――いった。\n「もちろん、お祖父さんが伴奏をつけたし、また歌の調子に和声を入れておいた。それから......(彼は咳をした)......それから、三拍子曲に中間奏部をそえた。なぜって......なぜって、そういう習慣だからね。それに......とにかく、悪くなったとは思わないよ。」\n 老人はその曲を弾いた。――クリストフは祖父と一しょに作曲したことが、ひどく得意だった。\n「でも、お祖父さん、お祖父さんの名前も入れなきゃいけないよ。」\n「それには及ばないさ。お前よりほかの人に知らせる必要はない。ただ......(ここで彼の声はふるえた)......ただ、あとで、お祖父さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお祖父さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父さんを忘れやしないね。」\n 憐れな老人は思ってることをすっかりいえなかった。彼は、自分よりも長い生命があるに違いないと感じた孫の作品の中に、自分のまずい一節をはさみ込むという、きわめて罪のない楽しみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から想像される孫の光栄に一しょに加わりたいというその願いは、ごくつつましい哀れなものだった。彼は自分が全く死にうせてしまわないようにと、自分の思想の一片を自分の名もつけずに残しておくだけで、満足していたのである。――クリストフは、ひどく感動して、老人の顔にやたらに接吻した。老人はさらに心を動かされて、彼の頭を抱きしめた。\n「ねえ、思い出してくれるね。これから、お前が立派な音楽家になり、えらい芸術家になって、一家の光栄、芸術の光栄、祖国の光栄となった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お前を最初に見出し、お前の将来を予言したのは、この年とったお祖父さんだったということをね......」\n\n その日以来、クリストフはもう作曲家になったのだったから、作曲にとりかかった。まだ字を書くことさえよく出来ないうちから、家計簿の紙をちぎりとっては、いろいろな音符を一生懸命書きちらした。けれども、自分がどんなことを考えているかそれを知るために、そしてそれをはっきり書きあらわすために、あまり骨折っていたので、ついには、何か考えてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼は、やはり楽句(楽曲の一節)を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の天分がゆたかだったので、まだ何の意味も持たないものではあったけれど、ともかくも楽句をこしらえ上げることができた。すると彼は喜び勇んで、それを祖父のところへ持っていった。祖父は嬉し涙をながし――彼はもう年をとっていたので涙もろかった――そして、素晴らしいものだといってくれた。\n そんなふうに、彼はすっかり甘やかされてだめになるところだった。しかし幸なことに、彼は生まれつき賢い性質だったので、ある一人の男のよい影響をうけて救われた。その男というのは、ほかの人に影響を与えるなどとは自分でも思っていなかったし、誰が見ても平凡な人間だった。――それはクリストフの母親ルイザの兄だった。\n 彼はルイザと同じように小柄で、痩せていて、貧弱で、少し猫背だった。年のほどはよくわからなかった。四十をこしている筈はなかったが、見たところでは五十以上に思われた。皺のよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな青い眼が色のさめかけた瑠璃草のような色合だった。隙間風がきらいで、どこででも寒そうに帽子をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐形の赤い小さな禿頭があらわれた。クリストフと弟たちはそれを面白がった。髪の毛はどうしたのと聞いてみたり、父親メルキオルの露骨な常談におだてられて、禿をたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで彼をからかってあきなかった。すると小父はまっさきに笑いだし、されるままになって少しも怒らなかった。彼はちっぽけな行商人だった。香料、紙類、砂糖菓子、ハンケチ、襟巻、履物、缶詰、暦、小唄集、薬類など、いろんなもののはいってる大きな梱を背負って、村から村へと渡り歩いていた。家の人たちは何度も、雑貨屋や小間物屋などの小さな店を買ってやって、そこにおちつくようにすすめたことがあった。しかし彼は腰をすえることが出来なかった。夜中に起上って、戸の下に鍵をおき、梱をかついで出ていってしまうのだった。そして幾月も姿を見せなかった。それからまた戻ってきた。夕方、誰かが戸にさわる音がする。そして戸が少しあいて、行儀よく帽子をとった小さな禿頭が、人のいい目つきとおずおずした微笑と共にあらわれるのだった。「皆さん、今晩は。」と彼はいった。はいる前によく靴をふき、みんなに一人一人年の順に挨拶をし、それから部屋のいちばん末座にいって坐った。そこで彼はパイプに火をつけ、背をかがめて、いつものひどい悪洒落がすむのを、静かに待つのであった。クリストフの祖父と父は、彼を嘲りぎみに軽蔑していた。そのちっぽけな男がおかしく思われたし、行商人という賤しい身分に自尊心を傷つけられるのだった。彼等はそのことをあからさまに見せつけたが、彼は気づかない様子で、彼等に深い敬意をしめしていた。そのため、二人の気持はいくらか和いだ。ひとから尊敬されるとそれに感じ易い老人の方は、殊にそうだった。二人はルイザがそばで顔を真赤にするほどひどい常談を浴せかけて、それで満足した。ルイザはクラフト家の人たちの優れていることを文句なしにいつも認めていたから、夫と舅が間違っているなどとは夢にも思っていなかった。しかし、彼女は兄をやさしく愛していたし、兄も口には出さないが彼女を大切にしていた。彼等は二人きりでほかに身寄の者もなかった。二人とも生活のためにひどく苦労して、やつれはてていた。人知れず忍んできた同じような苦しみとお互の憐れみの気持とが、悲しいやさしみをもって二人を結びつけていた。生きるように、楽しく生きるように頑固に出来上ってる、丈夫な騒々しい荒っぽいクラフト家の人たちの間にあって、いわば人生の外側か端っこにうち捨てられてるこの弱い善良な二人は、今までお互に一言も口には出さなかったが、互に理解しあい憐れみあっていた。\n クリストフは子供によく見られる思いやりのない軽率さで、父や祖父の真似をして、この小さい行商人をばかにしていた。おかしな玩具かなんかのように彼を面白がったり、悪ふざけをしてからかったりした。それを小父(小さい行商人)はおちつき払って我慢していた。でもクリストフは、知らず知らずに彼を好いてるのだった。第一に、思うままになるおとなしい玩具として、彼が好きだった。それからまた、いつも待ちがいのあるいいもの、菓子とか絵とか珍らしい玩具などを持って来てくれるから、好きだった。この小さい男が戻って来ると、思いがけなく何か貰えるので、子供たちはうれしがった。彼は貧乏だったけれど、どうにか工面して一人一人に土産物を持って来てくれた。また彼は家の人たちの祝い日を一度も忘れることがなかった。誰かの祝い日になると、きっとやってきて、心をこめて選んだかわいい贈物をポケットからとりだした。誰もお礼をいうのを忘れるほどそれに馴れきっていた。彼の方では、贈物をすることがうれしくて、それだけでもう満足してるらしかった。けれど、クリストフはいつも夜よく眠れないで、夜の間に昼間の出来事を思いかえしてみる癖があって、そんな時に、小父はたいへん親切な人だと考え、その憐れな人に対する感謝の気持がこみ上げて来るのだった。しかし昼になると、また彼をばかにすることばかり考えて、感謝の様子などは少しも見せなかった。その上、クリストフはまだ小さかったので、善良であるということの価値が十分にわからなかった。子供の頭には、善良と馬鹿とは、だいたい同じ意味の言葉と思われるものである。小父のゴットフリートは、その生きた証拠のようだった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "『奈何だい、君、今の談話は――瀬川君は最早悉皆自分で自分の秘密を自白したぢやないか。』\n 斯う私語いて聞かせたのである。\n 丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其周囲へ集つた。\n\n\n 第拾九章\n\n (一)\n\n この大雪を衝いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯の風説に驚かされて、今更のやうに防禦を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻に行はれる。壮士の一群は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘は次第に近いて来たのである。\n 其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤も銀之助は拠ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶えたりしたのである。冬の一日は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓に響いて聞える頃は、殊に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。\n『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』\n と不図斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷が身を襲ふやうに感ぜられた。\n 待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭つて、洋燈の下にお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々の想像に耽り乍ら、悄然と五分心の火を熟視めて居るうちに、何時の間にか疲労が出た。丑松は机に倚凭つた儘、思はず知らずそこへ寝て了つたのである。\n 其時、お志保が入つて来た。\n\n (二)\n\n こゝは学校では無いか。奈何して斯様なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其疑惑は直に釈けた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ〳〵自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩な眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり〳〵と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様疎々しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其口唇は言ひたいことも言はないで、堅く閉ぢ塞つて、恐怖と苦痛とで慄へて居るのであらう。\n 斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長く継かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促した。終には羞しがるお志保の手を執つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。\n『勝野君、まあ待ち給へ。左様君のやうに無理なことを為なくツても好からう。』\n と言つて、丑松は制止めるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光のやうに出逢つた。\n『お志保さん、貴方に好事を教へてあげる。』\n と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽して居る其恐しい秘密を私語いて聞かせるやうな態度を示した。\n『あツ、其様なことを聞かせて奈何する。』\n と丑松は周章てゝ取縋らうとして――不図、眼が覚めたのである。\n 夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛は身を離れた。しかし夢の裡の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁へ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。\n『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。』\n 斯う声を掛ける。軈て銀之助はがた〳〵靴の音をさせ乍ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、其内に御別れだ。』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜しいやうな気に成つて、着た儘の襯衣とズボン下とを寝衣がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。\n『斯うして君と是部屋に寝るのも、最早今夜限りだ。』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つては是が最終の宿直だ。』\n『左様かなあ、最早御別れかなあ。』と丑松も枕に就き乍ら言つた。\n『何となく斯う今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『其は左様と、瀬川君、此頃から僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――』\n『僕に?』\n『まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様に苦しいことが有るものなら、少許打開けて話したらば奈何だい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。』\n\n (三)\n" }, { "role": "assistant", "content": "『何故、君は左様だらう。』と銀之助は同情の深い言葉を続けた。『僕が斯ういふ科学書生で、平素其方の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他の手疵を負つて苦んで居るのを、傍で観て嘲笑つてるやうな、其様な残酷な人間ぢや無いよ。』\n『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯になつて答へる。\n『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』\n『話せとは?』\n『何も左様君のやうに蔵んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』\n 丑松は答へなかつた。銀之助は猶言葉を継いで、\n『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕にばかり裃を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様ぢや無いか。だから僕は言つて遣つたよ。今日彼先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故瀬川君は彼様考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』\n『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』\n『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』\n『誤解されるとは?』\n『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』\n『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』\n 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈の光は天井へ射して、円く朦朧と映つて居る。銀之助は其を熟視め乍ら、種々空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終には友達は最早眠つたのかとも考へた。\n『瀬川君、最早睡たのかい。』と声を掛けて見る。\n『いゝや――未だ起きてる。』\n 丑松は息を殺して寝床の上に慄へて居たのである。\n『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀といふことを考へると、毎時君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六ヶ敷考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯う為たら奈何だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』\n『あゝ、左様言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有い。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』\n『ふむ。』\n『君はまだ克く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了つたんだよ。』\n 復た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。\n\n (四)\n\n 銀之助の送別会は翌日の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ揷んだは、弁当がはりに鮨の折詰を出したからで。教員生徒はかはる〴〵立つて別離の言葉を述べた。余興も幾組かあつた。多くの無邪気な男女の少年は、互ひに悲んだり笑つたりして、稚心にも斯の日を忘れまいとするのであつた。\n 斯ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、殆ど其が記憶にも留らなかつた。唯頭脳の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙はれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定出世するから。』斯う私語き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。\n 送別会が済む、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏の入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、と斯う推測が付く。其時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝斯の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷と言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。『むゝ、必定市村さんだ。』と丑松は独語ちた。話の様子では確かに其らしいのである。\n『直に、これから尋ねて行つて見ようかしら。』とは続いて起つて来た思想であつた。人目を憚るといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。『まあ、待て。』と丑松は自分で自分を制止めた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でも有るやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。斯う用心深く考へた。\n『それは左様と、お志保さんは奈何したらう。』と其人の身の上を気遣ひ乍ら、丑松は二階へ上つて行つた。始めて是寺へ引越して来た当時のことは、不図、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。其に比べると人の境涯の頼み難いことは。丑松はあの鷹匠町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度斯の蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠が舁がれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で『御機嫌よう』と言つた主婦を思出した。罵つたり騒いだりした下宿の人々を思出した。終にはあの『ざまあ見やがれ』の一言を思出すと、慄然とする冷い震動が頸窩から背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事とも思はれない。噫、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様に卑められたり辱められたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入が出来ないのであらう。何故、新平民ばかり斯の社会に生きながらへる権利が無いのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。\n 斯う考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。其時奥様が入つて来た。\n\n (五)\n\n いかにも落胆したやうな様子し乍ら、奥様は丑松の前に座つた。『斯様なことになりやしないか、と思つて私も心配して居たんです。』と前置をして、さて奥様は昨宵の出来事を丑松に話した。聞いて見ると、お志保は郵便を出すと言つて、日暮頃に門を出たつきり、もう帰つて来ないとのこと。箪笥の上に載せて置いて行つた手紙は奥様へ宛てたもので――それは真心籠めて話をするやうに書いてあつた、ところ〴〵涙に染んで読めない文字すらもあつたとのこと。其中には、自分一人の為に種々な迷惑を掛けるやうでは、義理ある両親に申訳が無い。聞けば奥様は離縁の決心とやら、何卒其丈は思ひとまつて呉れるやうに。十三の年から今日迄受けた恩愛は一生忘れまい。何時までも自分は奥様の傍に居て親と呼び子と呼ばれたい心は山々。何事も因縁づくと思ひ諦めて呉れ、許して呉れ――『母上様へ、志保より』と書いてあつた、とのこと。\n『尤も――』と奥様は襦袢の袖口で眶を押拭ひ乍ら言つた。『若いものゝことですから、奈何な不量見を起すまいものでもない、と思ひましてね、昨夜一晩中私は眠りませんでしたよ。今朝早く人を見させに遣りました。まあ、父親さんの方へ帰つて居るらしい、と言ひますから――』斯う言つて、気を変へて、『長野の妹も直に出掛けて来て呉れましたよ。来て見ると、斯光景でせう。どんなに妹も吃驚しましたか知れません。』奥様はもう啜上げて、不幸な娘の身の上を憐むのであつた。\n 可愛さうに、住慣れたところを捨て、義理ある人々を捨て、雪を踏んで逃げて行く時の其心地は奈何であつたらう。丑松は奥様の談話を聞いて、斯の寺を脱けて出ようと決心する迄のお志保の苦痛悲哀を思ひやつた。\n『あゝ――和尚さんだつても眼が覚めましたらうよ、今度といふ今度こそは。』と昔気質な奥様は独語のやうに言つた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「お母さ、味噌湯つくって貰うべかな。......お父さもどうだべ? 大ていきまったんでねえかなん?」\n 土間の奥にしつらえたかまどの前に蹲ったまま、黙りこくった顔の半面を赤くほ照らして楮煮をしていた父は、ん、どうやらきまったようだと呟くと、ゆっくりと腰をのばしながら釜の蓋を少しずらして、上半身にからみつく湯気をすかすように覗くのだった。\n 粗皮除をした白皮を、一度水に洗って「白楮」としたものを、ソーダ灰で煮るのが「楮煮」である。さしわたし二尺五寸の、水が四肩、手桶で八つと言えば約一石は入る大釜で、五十把の白楮を一本一本ほぐして投げ入れ、よく煮立った頃を見てソーダ灰を調加する。一釜を煮上げるのに四時間前後を要した。燃料としては細い柴木を用いるので、これも普通作業であったが、煮方には相当のコツもあり、大ていは漉き方の現役を退いた老人の受持とされていた。\n「実はなお母さ、お母さに嘘言をついてすまなかったげんと、今日俺が八軒町さ出たのは大事なわけがあったでなん。」\n「ふ、おなご(女子)にでも会って来たのかや。」\n 味噌湯の茶碗をさし出しながら、母のおときはいつものとぼけた調子であった。\n「んだぞいお母さ、ほんとにお母さの言う通りだで......んでも俺の女子でねえ、惣の女子だ。」\n「なにや?」\n 果して母は調子のはずれたこえを上げた。これもびっくりしたらしい父の茶碗が揺れて、ちぷちぷと小さな灰かぐらを立てた。\n「何てたって......腹にはァややこ(嬰児)が出来てるでなん。」\n 一瞬の躊躇を越えて思い切って口にしたが、呼吸を呑んだ両親の驚愕をまともに見ることは出来なかった。\n「兄ちゃ、それほんとかや。」\n「俺、今日ちゃんと会って来たで。」\n「ど、どこの女子だべ?」\n 急いで喋ろうとする友太の話は、ところどころ前後したり吃ったりした。\n「お父さ達に黙ってたのは俺があやまる。したげんと、何てたって惣達はお互いに好き合ってるでなん。」\n ほんとかや、ちっとも知らなかったでなあと、やがて母は少し嗄れたこえで呟いた。\n「兄ちゃにばかり心配させてなや。惣の奴ったら、なんつ奴だかま......。」\n「お母さ、俺の心配なんど問題でねえでなん。何てたって惣は戦地だし......そらァお父さにもお母さにも文句はあるべが、こうなってからははァ、何とかきまりをつけねなんねで。」\n「んでもな......。」\n その時まで黙っていた父が、ふっと妙に冷たい笑いを見せた。その歪めた口辺を掠めた影は、思わず友太の背すじを悚然と撫でたほど気味悪かった。\n「んでもな......お母ァと友の前だがな、はははは、俺のな、俺のしくじりを惣の野郎がまたやるとなったらどうしたもんだ? や? 俺の失敗をよ。」\n「そ、そうだこと今更言って!」\n 父にではない、また父と自分を捨てた母にというのでもなかった。ただ、綺麗に葬り去ったつもりでいるいまいましい過去を、いきなり目の前につかみ出された不快さに、友太はかっとした怒りに駆られた。\n「んだこと言うんなら、どうでもお父さの好きにしろや、んだこと言うんなら!」\n 兄ちゃってば、兄ちゃってばと、母は吃りながらおろおろした。\n「お父さが悪いで、今さ頃そうだこと言い出してどうすんだべま。惣の話は惣の話でねえべかや。今さ頃、そ、そうだ、とんでもねえ......。」\n んだで、んだでと、忽ち憑きものから醒めたうつろな哀しさにかえった眼で、父の惣次郎は頭を振りながら、ぶるぶるとふるえる手に煙管をとり上げた。\n「友、機嫌なおしてくんろ。......んだども、惣の話は別だでな。いいおなごだべ、いいおなごに違えねえ。お母ァとよく相談してやってくんろ。な、友、機嫌なおしてくんろ。」\n 友太はぼろぼろ涙をこぼした。こうした感情のあらしに、一度は遭わねばならないかも知れないという予感を、それとは捕え得ずに、心のどこかにひそめていた自分に友太はこの時はじめて気づいた。やはりそうだった。親子が一度このあらしの洗礼を受けないでは、納まるはずがなかったのだ。\n ――祖父の代からの日傭取で辛うじて暮していた父の兄が感冒をこじらせての肺炎で、無論医者にもかからなかったが、床についてから三日目に、うわ言を口ばしりながらあっけなく死んでしまうと、しきりに咳き入るままに働いていたのを目撃した村の人達は、惣太郎さは肺病で死んだと言いふらしたものである。二男である父の惣次郎は、磐城の炭坑に出稼ぎしていた。農村ならばどこでもその傾向はあるのだが、この上川崎村では、家を継ぐ長男をおいての二男三男は殊更に冷遇された。大てい尋常科(初等科)だけで徴兵検査前を家に手伝い、検査を終えるとそれぞれの仕事を選んで離村させられた。その頃は工場に職を求めることも難しく、謂わゆる労働者になるのが普通であった。巡査になったり検定を受けて小学校(国民学校)の教師になったりするのは、まれに見る努力家とされていた。二男で財産を分けられて分家するなどは、極く少数の資産家にあることで、七八百円の製紙道具を与えられて分家するのさえ、数えるほどしかないのだった。\n ソウタシンダ スグ カエレアンという、安斎の旦那からの電報でびっくりして駈けつけると、閾をまたぐや否やいきなり旦那に言い渡された。\n「惣次郎、お前が惣太のあとを継ぐだぞ、いいかや。」" }, { "role": "assistant", "content": " はあ、俺がですかい? ときょとんとして訊きかえすのへ、旦那は厳粛な顔をした。\n「当り前だ、長男が死んだからには、今度はお前が喜古の家を継がねばなんね。」\n 借金だらけの、貧乏世帯を背負い込む将来の苦労を考えるよりも、喜古の家を継ぐという思いも設けぬ事実に、その時不思議な魅惑と誇りを感じた惣次郎は、何分はァよろしくお願いしやす、と、旦那をはじめ集っていた屋敷うちの人々に挨拶をしてしまった。\n 同じ坑夫仲間の妹で、選炭をしていた女と内縁関係が出来ていて、男の子が生れたばかりであった。恐る恐る旦那に申し出てみると、そんならわしが仲人になって、正式の夫婦にしてやろう、それだけで別に小言もなくあっさりと引き受けてくれた。\n「もちっと気の利いた家だと思ったわ。」\n 村に近い安達駅がまだなかった頃で、線路づたいに二本松駅まで迎えに行ってはじめて連れて来た時、だらしなく赤ん坊を負ったお君は、庭さきに立ったまましばらく内に入ろうとしなかった。\n「我慢してくんろ、今に俺が働いてどうにかするでな。」\n 惣次郎は身の退ける思いに顔を赤くして、詫びるようにひくく言った。\n 弟が一人これも出稼ぎをしていたほか、妹が一人いた。旦那の家の手伝いをしていた母もまだ達者であった。やもめになった嫂は、二本松の商家に女中奉公をするのだと、女の子を連れて去って行った。\n 日傭取に出るのでもなく、鍬の持ち方一つ知らないお君は、終日子供を相手にぶらぶらしていた。惣次郎が何かいうと、嘘言つきめ、おらを欺しやがってと、大ごえを上げて喚くのだった。妹が、嫂さ嫂さと優しくしても碌な返事もしない。鉛筆をなめなめ長いことかかって手紙を書いては、磐城の兄へ出していた。\n 惣次郎は惣次郎で、身を苛む借金ぐらしの重圧に、こんなことなら、力業だけで頑張っていさえすれば、結句気苦労というものもなく、お君の機嫌もよかった炭坑ぐらしの方が、どんなにのびのびと気儘にやってゆけたことかと、しみじみ振り返られもしたが、今ではそれも後の祭で、さっぱりと諦めるよりしかたがない。どうせ村に帰って家を継いだからには、紙漉きをやらなければと惣次郎は考えはじめた。紙の漉けない日傭取が、同じ村の人々にさえ、一段ひくいものにあしらわれることに気づいてからは、余計その決心を堅くした。安斎の旦那に相談をしかけると、そうか、やってみるか。しばらく考えてからそう言って、資本を貸し、道具もあれこれと心配してくれた。\n はじめは、鼻紙や屑紙を買い集めての「漉き返し」紙であった。しかし、この村には生れても、その経験のない惣次郎に、おいそれといい紙の漉けるはずはなかった。最初に漉いたのを旦那に見せると、はははは、これでは尻もふけねえぞと笑われた。もっとも、漉き返しの技術はかえって難しいとも言えた。普通の紙の漉き汁と違って張りもなくべたついて、そのまま漉き重ねたら、あとで乾す時に一枚ずつ剥ぎとることが出来なくなるので、琉球藺を細く割いた、置き草と言われる仕切を一枚毎に挟まなければならない。そうした余計な手間のうえに、ともすれば破れがちで、乾し板に張る呼吸でも生やさしいものではなかった。\n 村の人々はそら手と言っている。簀框を操る手首が腫れて動かせなくなることであった。槽数を多く仕上げようとして無理をすると、よくこのそら手になるので、また初心者がこれに悩まされるのは言うまでもない。無気味に腫れあがった手首をさすって、惣次郎は幾度か輾転反側した。\n 藪の椿が暗い葉の中に咲きかけた頃であった。町から紙屑を買い集めて夜になって帰ってみると、妹が泣きむずかる友太をあやしかねていた、翌日になってお君の逃げたことがいよいよたしかになった。からだをふるわせて怒った旦那は、気の利いた作男を一人磐城へ追わせたが、何の要領も得ずに帰って来た。\n 友太を背負って磐城へ出かけて行った惣次郎も、お君にはついに会えないどころか、お君の兄から手強い離縁を迫られてすごすごと戻って来た。その時はもういち早く、近くの町の、小金を持った五十男の後妻に行ってしまったという噂であった。裁判に持ち出してやるといきまく旦那を、かえって惣次郎がなだめながら、前からこんな事になるのではないかと思っていたと、悄然とした。それでも半年ばかりの間は、ひょっとしたら戻ってくるのではないかという心待ちもあったのだが、それもやがてあきらめて、綺麗に離縁をしてしまった。\n 間もなく旦那の肝煎りで、隣村の下川崎からおときが迎えられた。きりょうも満更ではなかったし、表面とぼけたように見えていても、どうして肚はしっかりした働き者で、何よりも、友太を親身に可愛がることが、どうだ、いい嬶ァだろうと、時折旦那に自慢をさせるのであった。\n 漉き返しは二年だけで、惣次郎は普通の紙漉きにまで漕ぎつけた。当時は、手漉き業者の組合というものもなく、材料も思いのままに手に入った。毎日、麦七分のうえに干大根をまぜこんだ、ぼろぼろと箸にかからぬ飯を食って、惣次郎さの家と来たら、食うものも食わないのだと、かれら自身がこの上もない粗食をしている近所の女達からさえよくかげ口を言われながらも、四年目、五年目とぐんぐん身上をよくして行った。一体、紙漉きでは、暮してはゆけるが財産はつくれないとされていた時代のことで、その頃一軒の家の生産高を、たとえば四千円内外だったとしても、原料費が二千八百円はかかるので、収入は千二百円ということになる。が、これから食費や雑費をさし引いての手取金として換算すれば、一日わずかに七八十銭の純益に過ぎなかった。それにもかかわらず十年後の惣次郎は借金を綺麗に済したうえ、漉屋は二間に三間の手広いものに建てかえた。続いて家の増築もしたばかりか、いつか二反歩の畑さえ手に入れた。そして、宇北竹の惣次郎さの障子(障子紙)と言えば、村でも一目置かれるものを売り出すようになっていた。\n\n三\n\n 昨日の昼頃から降り出して、一晩中烈しく吹雪いたのが、今朝は深い碧さに晴れ渡って、吹き溜りの稜線がきらきらと眩しかった。坂路の雪踏みを義兄にして貰って、重い手桶を提げたユミが道路を越えた小屋に来てみると、よしはもう仕事にかかるところであった。\n「郡山のひといつ来んの? まだなのかい。」\n 誰もほかにはいないのだが、自然ひそまる声で訊くと、それが癖の、よしは細かく首を振った。\n「あっちの家との話は手紙ですっかりきまったんだって。何でも正月前には来るらしいの。」\n 村の正月は、あと十日とちょっとに迫っていた。もっとも、こんな大戦争になったからには、盆も正月も言ってはいられないと、つい二三日前にも役場からその達示が廻ってきている。\n 小屋は、田圃わきの流れを堰き止めた、せいぜい一坪ぐらいの池の上に、萱の屋根を葺き出して三方を藁で囲ってある。水の上まで突き出た床板に藁束を敷きつめた座席には、いつからのものかわからない、綿のはみ出たぼろ座布団が敷いてあることもある。こうした小屋が村の低地に点点としてあるのだった。ソーダ灰で煮上げた白楮の、まだこの時まで残っていたりする粗皮や固い筋を、鎌の尖で取り除きながら洗い灑いで灰汁を抜くので、村では「楮さらし」と言っていた。暖い日はいいとして、安達太郎山颪の吹き荒ぶ日の楮さらしは、時に、漉き手よりも辛い作業になるのであった。東南の村境を阿武隈川が流れている。大川の流れに灑ぐ楮はことに灰汁抜けがいいとされて、ここの岸に十数軒共同のさらし場があるのだが、川面を渡ってまともに吹きつける寒風はたまらないものであった。それから見ると、射す陽を一杯に孕む高い土堤をうしろにした、よしとユミの家の共同小屋はまだ楽な方の仕事場だった。\n たっぷりと水に浸けたまま二人の鎌尖が器用に裁く楮の束から、かすかな白さでにじみ出る灰汁は、青い澱みの中にそこはかとなく消えて行った。\n「ユミちゃん、あんた、惣兄ちゃのあれってどんなひとだと思う?」\n しばらく黙り合ってから、よしがまたぽつんとそれを言い出した。余程気になっているのだろう。わざわざユミの家に駈け込んで来て、ものも言わずユミを納屋のわきへ引っぱって行ったと思うと、大変なことがあんのよユミちゃん、おらの家の惣兄ちゃの嫁さまがくるんだってと、息を弾ませて話した時から、どんな女だと思うと訊くのであった。\n「お母さったらない、とってもそわそわしてんのよ。何でもな、嫂さ、嫂さって優しくしろやだって。なんぼおらだって、それぐらいのこと言われなくたってわかってるわ。」\n その次に会った時は、こんなことを言いながら、不平とも嫉妬ともつかない眼で頬をふくらました。\n よっちゃんの兄さんと好き合う女だもの、いい女にきまってるわと、そう答えるほかはない。よしからはじめてきかされた時は、それがもう腹に子供が出来ているというので、惣吉をも女をもあさましく厭わしいものに思ったが、だんだん考えているうちに、その女に妙な羨しさを感じてきた。自分のように、始終結婚というものの不安に恟えているよりも、いっそ、そういうことになってしまえば、何もかもはっきりするのではないだろうか。と、そこまで考えた時は、烈しい羞恥に身うちの血がかっと燃えた。今、福島市の印刷会社に勤めている許婚の良三郎は、まるでユミには冷淡で、彼女を鼻のさきであしらったうえ、二言目には、村の娘達はニュース映画も見られまいと、それがユミの落度ででもあるかの口吻だった。昭和九年の不況時代に、良三郎の家からユミの父は大分金を借りたのだったが、その時親同士が勝手にきめたそんな古風な約束事にも、そうしたものと思い込んで敢えて反撥しようともせず、好きにはなれそうもない良三郎に嫁ぐ気ではいるのである。が、どこから取りついていいのか手がかりのつかない良三郎と、しかも村を離れて福島の町に住むのかと思うと、何とも言えない憂鬱に圧しつけられた。\n「......みんな幸福だわ。よっちゃんだって仮祝言もすんでるんだし。」\n 現在、北方の第一線にいる、同じ部落内の繁治とよしとの仲は、これは公然のものだったから、笑っただけで別に気まり悪がりもしなかったが、よしの気持にすれば、そういうユミもきまっているのではないかと、すぐに酬いられない窮屈さがあった。良三郎とユミとの感情がこじれ切っていることも知っていたし、それはそれとして、ユミが兄の友太をひそかに好いているのではないだろうかと、そんなふしぶしに時として思い当るのであった。無論、他人の許婚であるユミを兄がどうしようはずもなく、ユミ自身も結局は良三郎に嫁ぐ覚悟はしているに相違ない。つまりは自他共に認めたどうにもならぬ境界にあるという、ユミのあきらめからくる気のゆるみが、不覚にも心の奥を覗かせることになるのだろうか。ともかくよしは、ユミの前では、言い出された自分のことにすぐ乗る方が安全だった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "敵の猛火を掃ひ去り、水師に歸れ、豪勇の\nヘクトールとな戰ひそ――しか我れ彼に命ぜしを。』\n\n6 グリース人を指す、ホーマア詩中に「グリース」の名なし。\n9 アキリュウスの母神テチス――ここに述ぶる處は XVII 410 と矛盾す。\n10 彼らの種屬の稱。\n12 パトロクロス。\n\n\n斯くも胸裏に煩ひて思に惱むアキリュウス、 15\nその傍に走り來て英名しるき*ネスト,ルの\n子は熱涙を流しつつ彼に凶變告げて曰ふ、\n『ああ無慘なり! 勇しき*ペーレーデース、大哀の\nおとづれ今こそ君聞かめ、世にあるまじき禍や!\n*パートロクロス殺されて、鎧はヘク,トル奪ひ去り、 20\n彼れの赤裸の屍を兩軍今し爭へり。』\n\n16 「ネストール」を音調のため縮む Poetical License「,」を用ふ。\n18 ペーリュウスの子アキリュウス。\n20 パトロクロス、パートロクロス、パトロークロス....音調のために種々に變化す(Brasse's A Greek Gradus)\n\n\nしか陳ずれば英雄を悲哀の黒き雲は蔽ふ。\n見よ、彼れ、双の手を延して餘燼の*黒き灰握み、\n*頭の上に振りかけて其秀麗の面汚し、\n灰塵更に美はしき軍袍の上まみれつく。 25\n\n23 水師の戸外に立てど神壇恐らく戸の前にありて香火を燒きしならむ。\n24 舊約全書ヨブ紀――大苦惱の時、ヨブは塵をかぶる。\n\n\n長躯今はたおほいなる幅を滿たして地に倒れ、\n我と我手に頭髮を*將軍そぞろに掻きむしる。\nパートロクロスと*アキリュウス、共に囚へて侍らしし\n婢女一齊に悲みて、叫はげしく陣營の\n門走り出で、猛勇のアキルリュウスの傍に、 30\n寄りてひとしく胸打ちて、おのおの膝を震はしむ。\nア,ンチロコスは自らの涕ながらも警めて、\n悲嘆のあまり鋭刄に喉を割かん恐より、\n英武無双のアキリュウス・ペーレーデースの手を抑ゆ。\n斯く物凄く嘆く彼れ、そを千尋の波の底、 35\n老いたる*父の傍に其座を占むる端嚴の\n*神母ききとり誘はれて共にひとしく咽び泣く。\nその時蒼溟の底に住む仙女の群は其めぐり、\n集り寄りぬ、*グラウケー、ターレーア、はたキモドケー、\nネーサイエーとスペーオウ、トエー、*美目のハリイエー、 40\nキユモトエイ又續き來るリムノーレーア、アクタイエ、\n更にメリテー、イアイラー、アムピトエーとアガウエー、\nドウトウ及びプロウトウ、ペルーサ及びヂナメネー、\nデクサメネーに續き來るカルリアネーラ、アムプィノメー、\nドリース及びパノペーと高き譽れのガラテーア、 45\nネーメルテース更に又アプシューデース、カリアナサ、\n續きて更にクリメネー、ヤネーラ及びヤナッサア、\nオーレーチュイア、マイラアと髮美しきアマテーア、\nその他、波浪の底に住む水の仙女ら群りて、\n銀光照らす洞窟に皆一齊に胸打ちて、 50\n悲み泣けり、其時にテチス先づ聲あげて曰ふ、\n\n27 X 15. XX 77. 406.\n28 アキリュウス、アキルリュウス兩用。\n36 海王ネーリュウス。\n37 テチス。\n39 39―48 行の仙女の名―ヘーショッドの『テオゴニス』243 行以下にある中より撰ばれしものならん。後の添加なるべし。\n40 『牛王の目ある』直譯。\n\n\n『*ネーレーイデス、われに聽け、ああわが姉妹、汝らの\nおのおのすべてわが胸の悲哀いかにと思ひ見よ。\nあはれ薄倖! 英雄の母たる我の運命や!\n絶えて責むべきあと見ざる英武のわが子産み出でて、 55\n勇者の中に傑れたる(巨幹の如く生ひ立てる)\n彼を沃土の野に立てる樹木の如くはぐくみつ、\nやがて曲頸の船の上、トロイア族の戰に、\nイリオンさして遣はしき、――ああペーリュウスの家の中、\n再び歸りくる彼を迎ふる時はあらざらむ。 60\n生の脈搏ある限り、日の光明を見る限り、\n彼れ其苦惱免れじ、*われ近よりて救ひ得じ。\nさはれ今行き、めづる子に逢ひて訊さむ、戰鬪の\n場を離るる彼にして何の禍難に苦むや?』\n\n52 「海王ネーリュウスの子ら」。\n62 神々も運命を抂ぐるを得ず。\n\n\nしかく宣んして洞窟を出でつつ共に一齊に、 65\nネーレーイデス伴ひて涙ながらに波を分け、\n進みて斯くて豐沃のトロイア郷の岸の上、\n行列なして登り來ぬ、ミルミドネスの數多き\n兵船曳かれアキリュウス將を𢌞りて並ぶ場。\n悲慟はげしき彼のそば、端嚴の母近く寄り、 70\n共に流涕はげしくて愛兒の頭かき抱き、\n痛く悲み彼に斯く*羽ある言句述べて曰ふ、\n\n72 羽翼を有するものと言葉を形容す。\n\n\n『愛兒! 何らの涙ぞや? 何ら心の哀傷ぞ?\n陳ぜよ、隱すこと勿れ、先に汝が手を揚げて\n祈り求めし*情願は成りしならずや? 神明の 75\n計らひありてアカイアの子らは汝の無きが故、\n水師のかたへ破られて恥をかく迄受けたれば。』\n\n75 第一歌――總戎アガメムノーン辱かしめし故にアキリュウス怒りて退きアカイア軍の敗北を望めり。\n\n\n脚神速のアキリュウス、泣きて叫びて答へ曰ふ、\n『慈母よ、誠にわがために*ウーリュンポスの神これを\n成しぬ、惠みぬ、しかはあれ、パートロクロス、恩愛の 80\n友は亡べり、一切の友に優りてめでし友、\nわれの頭を見る如く愛せし友は殺されぬ!\n彼を倒してヘクトール、目を驚かす莊麗の\n鎧奪へり、*ペーリュウス、神の惠みと受けしもの、\n神そのむかし人間の妻とし君を爲せる時。 85\n――波浪を宿の神明の間に君は留りて\nペーリュウスただ人界の女性を娶るべかりしを、――\nさもあれ今はおほいなる悲哀は君の胸にあり。\n君の愛兒は斃るべし、故郷に歸る彼の身を\n君は再び見ざるべし、われ又生を續くべき 90\n情願あらず、人界に殘り留る事あらず、\nわが槍に因り、ヘクトール先づ三寸の息絶えて、\nパトロクロスの無慘なる戰死償ふこと無くば。』\n\n79 オリュムポス、又ウーリュンポス。\n84 鎧はアキリュウスがパトロクロスに貸せしもの、即ち前者の父ペーリュウスが其妻テチスを娶りし時、海神ネーリュウスより受けしもの。\n\n\n涙流して端嚴のテチス即ち答へ曰ふ、\n『愛兒よ、汝曰ふ如く、汝の壽命長からず、 95\n死の運命はヘクト,ルの其れに續きて備へらる。』\n\n脚神速のアキリュウス、慨然として答へ曰ふ、\n『*非命に逝ける愛友を救はん事の叶はねば、\n願はく、ただちに我れ死せむ――友は故郷に遠ざかり、\nその逆運を防ぐべき我が救助なく斃されぬ。 100\n愛づる祖先の故郷へと歸るに非ず、しかも猶、\nパトロクロスを救ひ得ず、敵の勇將ヘクトール、\n其手に逝ける幾何の他の將卒を救ひ得ず、\n用なく地上の煩ひと水師のそばに身をおきて、\n青銅鎧ふアカイアの中に無双の勇者の名、 105\n享くるもよしな、(評定の席には優るものあれど)。\nいざ、*神明の爭も、又人間の爭も\n失せよ、深慮の人々を分離せしむる憤、\n*流るる蜜の甘きにも遙かに勝さり、あらびては、\n猛火の如く人間の胸に燃えたつ憤、\n失せよ、大王アガメムノーン我をさばかり怒らせき。\n苦惱は激しかりしとも、過ぎたるものを過ぎしめよ、\n胸の中なる心靈をただ運命に屈せしめよ。\nいざ今行きて、愛友を倒しし敵將ヘクトール" }, { "role": "assistant", "content": "屠り、つづきてわが生を棄てむ、ヂュウスと諸の 115\n天の神靈一齊に、此事成るを望む時。\n天王ヂュウス・クロニオーン、其最愛の子と誇る\nヘーラクレース偉なりしも、遂に死命を免れず、\n*運命及びヘーレーの凄き怒に倒されき。\n斯く又我に運命の同じきものの來るべくば、 120\n倒れて遂に地に伏さむ、ただ光榮を羸ち得まし。\nダールダニエイ、トロイアの*胸温柔の女性らの\n一人、双の手を延して、紅潮さむる頬の上、\n涙を拭ふ慟哭の*本を我まづ成し遂げむ。\n知るべし彼等、戰鬪の休みは既に我に足る、 125\n愛はさもあれ戰を止めざれ、命に從はじ。』\n\n98 屡〻古代の諸の著書に引用さるゝもの、プラトーの『アポロギア』三十八節など。\n107 戰は宇宙の第一義と説けるグリース哲人ヘラクリタスは此句を責む――アリストートルの倫理學に之を説くよし。\n109 樹より滴る野生の蜜=舊約全書サミユル前書十四章二十六節參照。\n119 VIII 362. XIV 250. XV 27. XIX 119.\n122 βαθυκολπων「深き胸の」「深き襞ある胸衣の」―Voss は Schwellenden Busens と譯す。\n124 ヘクトールを殺し、アンドロマケーを哭せしむること。\n\n\n*足は銀色玲瓏の神女答へて彼に曰ふ、\n『わが子、誠に然かなりき、厄に陷る同輩を、\n破滅無慚の境より、解くをいみじとせざらめや?\nさはれ汝の美しき武具、青銅の燦爛の 130\n鎧、トロイア人の手に、殘り今その肩の上、\n堅甲振ふヘクトール着けて誇らふ――さはれ見よ、\n彼の歡喜は永からず、死の運命は近よりぬ。\n今ただ汝戰鬪の中にな入りそ、この場に\n親しく汝まのあたり我が再來を見なんまで―― 135\n*ヘープァイストス神工の許より美麗の武具を率て、\nあしたの空に昇る日と共に我また音づれむ。』\n\n127 「銀色の足ある」――テチスの常用形容句。\n136 ラテン名はヴルカン、鍛冶の神、跛足なり。\n\n\nしかく陳じて身を轉じ、愛兒を去りて海洋の\n波浪に浮ぶ姉妹水の仙女に宣んし曰ふ、\n『汝ら去りて大海の深き胸のち潜り行き、 140\n波浪のあるじ、老齡のわが父のもと音づれて、\nこの一切を物語れ、*ウーリュンポスの頂に、\nヘープァイストス神工のもとをわれ訪ひ、燦爛の\n武具を武勇の我れの子に、造るや否や尋ね見む。』\n\n142 オリュンポス、又ウーリュンポス、神々の住める山。\n\n\nしか宣んすれば仙女らは海潮ただちに潜り行く。 145\n足銀色の玲瓏のテチス、即ち莊麗の\n武具を愛兒に倶せんため、ウーリュンポスに進み行く。\nウーリュンポスに双の脚彼女を運ぶ、その間、\n殺戮無慙のヘクト,ルの手を免れて水陣に、\nヘレースポントス海峽に叫喚高くアカイオイ 150\n着きぬ、されども堅甲のアカイア軍も、斃れたる\nパトロクロスの屍を、激しき敵の飛箭より\n救ひも得せじ、トロイアの軍勢軍馬一齊に、\n猛火の如きヘクトール共に屍體を襲ひ討つ。\n三たび光榮のヘクトール屍體の双の脚取りて、 155\n奪ひ去るべく、奮然とトロイア人に呼はりつ、\n三たび勇猛の威を奮ふ*アイアス二人一齊に、\n死屍より彼を逐ひ攘ふ、されども勇むヘクトール、\n時に亂軍のただ中に突き入り、時に大音に\n喚めき叫びて、一歩も絶えて後に退かず。 160\n譬へば原に牧の子ら、焔の如き獅子王の\n飢はげしきを屍の餌より攘ひ得ざる如、\n勇を奮へるアイアスの二人斯くして屍體より、\n*プリアミデース・ヘクト,ルを逐ひ斥くること難し。\n斯くして敵は奪ひ去り、無比の譽を得なんとす、 165\nその時疾風の脚早く、ヂュウスと諸神の目を掠め、\nウーリュンポスを降り來て、ペーレーデース・アキリュウス、\n彼に軍裝せしむべく、天妃ヘーレーの命帶ぶる\n*イーリス彼の側に立ち羽ある言句陳じ曰ふ、\n\n157 同名二人のアイアース。\n164 トロイア王プリアモスの子。\n169 ヂュウス、ヘーレーらの使者。\n\n\n『起て、アキリュウス、一切の人中最も猛き者、 170\nパトロクロスの屍を救へ、――そのため水軍の\nかたへ戰荒れ狂ひ、兩軍ひとしく彼と此、\n討ちつ討たれつ爭へり、此は屍を囘すため、\nかれトロイアの軍勢は風凄しきイーリオン、\n都城に之を奪ふため、中に光榮のヘクトール、 175\n切に望を之に懸け、いみじき頸を斬り落し、\n頭を高く城門の杙に懸けんとこころざす。\n起て、今、休既に足る、――パトロクロスの屍にして、\nかれトロイアの群犬の戲弄となるを恐れずや?\n屍露だも汚るれば汝何等の恥辱ぞや!』 180\n\n脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、\n『あゝ、イーリスよ、我に君送りしものは誰なりや?』\n答へて疾風の脚早きイーリス示して彼に曰ふ、\n『ヂュウスの天妃、端嚴のヘーレー我を遣はせり、\n高き天位のクロニオーン、はた白雪のオリュンポス 185\n嶺に住へる諸の神靈共にこを知らず。』\n\n脚神速のアキリュウス答へて即ち彼に曰ふ、\n『我いかにして戰鬪の場に入るべき? わが鎧、\n敵は奪へり、わが神母われに命じて出陣を\n禁ぜり、彼の再來をわが眼親しく見なんまで、 190\nヘープァイストスの手許より武具齎らすは彼の約。\nそを外にして勝れたる武具を借るべき者知らず、\nテラモーンの子アイアスの盾ただ一つあるばかり、\nさはれ彼今先鋒の間にありて槍揮ひ、\nパトロクロスの屍を衞るがために戰へり。』 195\n\nその時疾風の脚早きイーリス答へて彼に曰ふ、\n『美なる汝の鎧いま敵手にあるを我も知る、\nただ塹濠の側に行き、トロイア人に身を示せ、\nトロイア軍勢恐らくは汝を恐れ、戰を\nやめん、斯くしてアカイアの疲勞の勇士休らはむ、 200\n斯くして荒るる戰鬪の休息しばし有り得べし。』\n\n然かく宣んして疾風の早きイーリス立ち去れば、\nヂュウスの寵兒アキリュウスこなたにすくと身を起す、\nその剛健の肩の上總あるアイギス投げかけて、\n頭のめぐり黄金の雲を擴ぐるアテーネー、 205\n神女斯くして燦爛の焔を彼に燃え立たす。\n譬へば遠き離島、その城中に狼煙の\n天に冲して入るところ、敵軍四方を取り圍み、\n城兵終日討ち出でて奮戰苦鬪なす處、\n太陽やがて落ち行けば數團の火焔燃え渡り、 210\n火光閃めき炎々と冲いりて天に映る時、\n四周の隣里望み見て禍難をこゝに救ふべく、\n計略おのおの𢌞らして船に乘じて寄する如、\n然かく英武のアキリュウス頭より光空に射る、\n即ち城壁の外に出で、塹濠の上立ちとまり、 215\n神女の命をかしこみてアカイア軍に加はらず、\n立ちて叫べば、遠くより妙音振ひ、トロイアの\n陣一齊に震らしむる*藍光の目のアテーネー。\n斯くて城都を四方より圍める敵の、吹き鳴らす\n*サリピンクスの朗々の響の如く、叫喚の 220\n*アイアキデース呼ばはれる音聲高く雲に入る。\n\n218 「藍光の目の」アテーネーの常用形容。\n220 喇叭の一種。\n221 アキリュウスの別名。\n\n\nアイアキデース呼ばはれる其朗々の聲聞きて、\n敵軍怖ぢて騷ぎ立ち、鬣長き一群の\n戰馬ひとしく禍を、感じて兵車曳き返し、\n車上の敵は勇猛のペーレーデース頭上に、 225\n藍光の目のアテーネー、點じ燃せる光焔の\n不盡の靈火望み見て、心に畏怖を充たしめぬ。\n三たび塹壕の上に立ち叫ぶ英武のアキリュウス、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「お前は俺の阿母さんを殺したのか。」と、重太郎は呶鳴った。\n「そんなことは知らねえ。」\n 男は手暴く重太郎を突き退けると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口に喞えて又跳ね起きた。此に忽ち掴み合が始まった、上になり下になり、互に転げて挑み争う中に、何方が先に足を滑らしたか知らず、二人は固く引組んだままで、傍の深い谷へ転げ墜ちた。\n\n(三十八)\n\n 山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な別離があった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてある間、市郎は暗い岩穴の底に取残されて、救いの人々の来るのを待っていた。\n 一本の蝋燭は漸次に燃え尽して、風なきに揺めく火の光は軈て其の消えんとするを示している。左したる重傷ではないと知りながらも、股と膝との疼痛は漸々に激しくなって来た。疲労と空腹とは愈よ我を悩して来た。\n「七兵衛は何うしたろう。彼奴等も途に迷っているのか知ら。それにしても使の男が早く行着いて呉れば可いが......。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、何時まで経っても際限があるまい。何うか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。若し彼奴が不親切な奴で、金を貰いながら其儘どこへか行って了ったら何うだろう。いや、真逆にそんな事もあるまい。」\n 甲から乙へと考えながら、市郎は硬い岩を枕に暫く寝転んでいた。\n「もう何時だろう。」\n 懐中時計を取出して視ると、先刻からの騒ぎで何時何うしたか知らぬが、硝子の蓋は毀れて針は折れていた。日光の視えぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。\n 待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、取分けて今此の場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを染々感じた。彼は何とは無しに起き上って、蝋燭を照しつつ四辺を見廻すと、四方の壁は峭立の岩石であるが、所々に瘤のような突出の大岩があって、其岩の奥には更に暗い穴があるらしい。\n「𤢖は此穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は首肯いた。先刻自分を傷けた𤢖も、恐くあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、彼の𤢖なるものが何匹居るのか知らぬが、若し大勢が其処や彼処の穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら到底敵わぬ。\n 彼は何等の武器を有って居なかった。而も先夜の経験に因て、彼等に対する唯一の武器は燐寸の火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱を検めると、剰す所は僅に五六本に過ぎぬ。彼は先刻から燐寸を濫用したのを悔いた。\n で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を其処ここと照して視ると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く金色の光を視た。蝋燭の淡い光で熟くは判らぬが、兎にかく其処に一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。或は怪獣の眼かと市郎は屹と瞰上げる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身には中らなかった。市郎は俄に蝋燭を吹き消した。敵の的にならぬ用心である。\n「これも𤢖の仕業だろう。」\n 斯う思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のは余ほど大きいと見えて、投げると云うよりも、寧ろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。\n 市郎も流石に肝を冷して、愈よ小さくなっていると、又もや石をがらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が一時に上から落ちて来た。何人も此の石攻めに逢っては堪らぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容の能ぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。\n「どうしたら可かろう。」\n 此のまま小さくなっているのも愚である。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに種々考えていると、わが傍らにひらりと飛んで来た者があるらしい。𤢖め、近寄って来たなと、市郎は直ちに用意の燐寸を摺った。果して一人の敵は刃物を振翳して我が眼前に立っていた。\n 不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く立縮んで了った。其隙を見て、市郎は我が足下に落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の真向を目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。\n\n(三十九)\n\n 目前の敵を一人殪したので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の恐怖を作したか、其後は石を降らさなくなった。が、彼等は何処に隠れているか判らぬ、又何時不意に近寄って来るか判らぬ。斯う思うと些とも油断が能ぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。\n 併しこんな不安の状態で何時までも続いていたら、結局自分は根負がして了うに決っている。先刻から余ほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は勝誇った市郎も漸次に心細くなって来た。この上は依頼にもならぬ救援の手を待ってはいられぬ、自分一人の力で此の危険の地を脱出するより他はない。\n「早く然う決心すれば可かった。」\n 市郎は痛む足を踏み締めて、例の毛綱を再び我が胴に緊と結び付け、綱を力に精一杯伸び上って、傍の高い岩に飛び付こうとしたが、何うも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又墜ちた。さらでも痛い足を更に痛めた。\n「到底不可い。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。\n この時、遠い頭の上で例の金色の光が淡く閃いた。市郎は眼を定めて熟視ると、穴の入口と覚しき所で何者か火を照しているらしく、其光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。\n「扨は救いの人が来たか。」\n 市郎は我を忘れて蹶ね起きた。精一ぱいの声を振絞って、「助けて呉れ。角川市郎はここにいるぞ。」\n 声はあなたまで響いたらしい、上でも之に応じて、「おうい。」と、答えた。\n 市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ可矣と安心する途端に、何処から飛んで来たか知らず、例の大石が磊々と落ちて来て、市郎の左の肱を強く撃ったので、彼は堪らず横さまに倒れた。生きているのか死んで了ったのか判らぬ、彼は既う再び起き上らなかった。\n 上では其んなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。其中には塚田巡査の錆びた声も、七兵衛老翁の破鐘声も混って聞えた。\n この人々は今や漸くここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山の途に就いた後、七兵衛は慌てて家内の人々を呼び起したが、疲れ切っている連中は容易に床を離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者も之に加わって、一隊十四五名の人数が草鞋穿きの扮装甲斐甲斐しく、まだ乾きもあえぬ朝霜を履んで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。" }, { "role": "assistant", "content": " 巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、何うしたものか路を踏み違えて、あらぬ方へと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに有合う岩角に腰を卸して先ずほッと息を吐く者もあった。寒気を凌ぐ為に落葉を焚く者もあった。\n けれども、巡査は流石に屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人が先ず窟の奥へ潜り入って、第二の石門まで仔細に検査したが、内には暗い冷い空気が漲っているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。\n「どうしたのだろう。」\n 二人は愈よ不安を感じて、そこらを頻に見廻す中に、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の松明をあげて、真暗な底を窺っていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、兎にかく市郎だけは穴の底にいることが確められた。\n 七兵衛は引返して斯くと報告すると、他の人々もどやどや入込んで来た。\n「兎も角も降りて見よう。」\n 巡査は斯う決心して、再び四辺に鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたる彼の長い毛綱を見出した。これを手繰ったら、市郎の身体は無事に引揚げられたかも知れぬが、其綱の端が彼の胴に縛られてあると云うことを誰も知らなかった。が、何人の考えも同じことで、巡査も先ず此の毛綱に縋って、行かれる所まで行って試ようと思い付いた。\n 片手は綱に縋り、片手は松明を把って、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、漸次に暗い底へ降りて行った。他の人々は息を嚥んで其行動に注目していた。\n\n(四十)\n\n 塚田巡査が穴を降るに就ては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱を操って彼の行動を助け、且つ幾多の松明を振翳して、能う限りの光明を彼の行手に与えて居た。\n 巡査も亦大胆であった。一条の綱を力として猶予なくするすると降りて行くと、彼は中腹の稍扁平い岩石の上に立って、先ず彼の安行の死骸を発見した。驚いて其の手足を検めると、既に数時間の前に縡切れたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。\n 父が此の如き有様であるとすれば、其子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の返答もなかった。十分前までは頻に救助を呼んでいた市郎が、俄に黙って了ったのは不可思議である。これも若や何等かの禍害を蒙ったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。\n 此上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に突出した大小の岩が聳えて、天然か人工か知らず、其の岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査は其穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼は唯真直に降りて行った。\n やがて底近く来たと思う頃に、滔々たる水の音が凄まじく聞えた。松明を振照して視たが水らしいものは見えぬ、恐く地の底を流れるのであろう、岩に激するような音が宛がら雷のように響いた。更に二間ばかり降りると、自分の縋っている綱の端には何物か縛られているのを発見した。巡査は息も吐かずに急いで降りると、それは人であった、彼の市郎であった。\n 巡査は今や幾十尺の底に達したのである。先其の綱を解いて市郎を抱え起すと、彼も所々に負傷して、脈は既に止っていた。が、これは確に血温が有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、取敢ず彼の綱を強く曳くと、上では直におうと答えた。\n この時、巡査の足下を距る一間ばかりの所で、怪しい唸声が聞えた。傷いた野獣が喘ぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面血塗れの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが所謂山𤢖だな。」と、巡査も悟った。で、猶能く其正体を見届ける為に、其傍らへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げ墜ちて来た。巡査は慌てて飛退くと、石は傍の岩角に中って、更に跳ね返って彼の𤢖の上に落ちた。𤢖の傷ける顔は更に微塵に砕けて、怪しい唸声は止んだ。\n 併し彼の大石は自然に落ちて来たのか、或は故意に投げ落したのか、巡査には早速の判断が附かなかった。若し故意であるとすれば、四辺には𤢖の同類が猶潜んでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。\n 穴の底は再び旧の闇に復った。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、霎時は太古の如くに静であった。\n 下の松明が俄に消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。迂濶に叫ぶと、其声を便宜に何処からか岩石を投落される危険を懼れたからである。\n そうとは知らぬ人々は愈よ不安の念に駆られて、手に手に松明を振翳しつつ穴の底を窺ったが、底の底までは到底達かぬ。この上は更に第二の探検隊を降すより他は無かった。\n「可、俺が降りて見る。」\n 六十に近い七兵衛老爺が手に唾して奮然と起つを見ては、若い者共も黙っては居られぬ。皆口々に、「老爺さんは危ねえ、私等が行く。」と、遮り止めた。が、此の毛綱を伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。\n「何か可い物はあるまいか。」\n 飛騨の山人は打寄って、この国特有の畚を作ることを案じ出した。\n\n(四十一)\n\n 飛騨の畚渡しは、昔から絵にも描かれ、舞台にも上されて甚だ有名である。河中に岩石突兀として橋を架ける便宜が無いのと、水勢が極めて急激で橋台を突き崩して了うのとで、少しく広い山河には一種の籠を懸けて、旅人は其の両岸に通ずる大綱を手繰りながら、畚に吊られて宙を渡って行く。勿論、今日では其仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形は未だ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な生命を一個の畚に託して、眼も眩むばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。\n されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮の下に、大勢は窟の外へ一旦引返して、四辺に立ったる杉や樅の大枝を折った。或者は山蔦の蔓を折った。斯くて約二十分の後には、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人を容るるに足るほどの畚を作り上げた。\n「これがあれば大丈夫だ。」\n 彼等は再び窟に入って、畚を卸す準備に取懸った。畚を吊るには彼の毛綱が必要である。大勢が手を揃えて其綱を繰上げると、綱の端には尠からず重量を感じたので、不審ながら兎も角も中途まで引揚げると、松明の火は漸く達いた。洋服姿の市郎は胴を縛られたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつ揚って来たのである。人々も驚いて声を揚げた。\n「や、小旦那だ......。角川の小旦那だ......。早く引揚げろ。」\n 市郎は恙なく引揚げられた。が、彼は正体も無く其処に倒れて横わったので、騒ぎは愈よ大きくなった。一隊の中でも足の達者な一人は、麓まで医師を迎えに走った。斯うなると、巡査の身の上も益々不安である。権次という若者を乗せた畚は直ちに卸された。\n 畚が中途まで下って来た時、暗い岩穴の奥から一個の怪しい者が現われた。彼は刃物を振翳して、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃が立なかった。而も権次が無闇に振廻す松明の火に恐れて、彼は忽ち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。\n 塚田巡査は先刻から待侘びていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、先ず其の無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強く曳くと、上ではおうと答えて、畚をするすると繰上げた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " その頃日本の哲学界においても次第に歴史哲学の問題が関心され始めていた。これは主としてヴィンデルバント、リッケルトらの新カント派の影響によるものである。したがって当時歴史哲学として問題にされたのは、主として歴史的認識に関する方法論、認識論の形式的論理的問題であって、ヘーゲルが考えたような世界史の哲学としての内容的な歴史哲学ではなかった。ディルタイの仕事の意味なども、まだ一般には十分に認識されてはいなかった。私も新カント派に導かれて歴史哲学の研究に入ったのである。ヴィンデルバントの『プレルーディエン』、リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』や『文化科学と自然科学』などから始めて、ジンメルの『歴史哲学の諸問題』等、またトレルチのやがて『歴史主義とその諸問題』に収められた論文を雑誌で探して、勉強した。特にトレルチのものが身になったように思う。その時分メーリスの『歴史哲学教科書』が評判になって、読みたいと思い、学校の研究室へ借りに行ったが、いつも誰かがすでに借り出していて見ることができず、だいぶんたってから、外国に注文しておいたのがやっと手に入って、読んでみるとそのつまらないのにがっかりしたことがある。評判の本が必ずしもよいとは限らない一つの例である。評判になるというにはいろいろ理由があるので、内容の質にばかりよらないのである。ディルタイの『精神科学概論』も読んでみたいと思いながら、絶版になっていて、なかなか見ることのできなかった本であった。後にドイツに留学した時、ベルリンで初めて本屋をのぞいたとき、この本の新版が出ているのを見つけて無性に嬉しくなり、ホテルの一室で読みふけったことを今思い出すのである。歴史家の書物では、その時分、ランプレヒト、ブルクハルト、ランケなどの諸著を繙いた。\n 日本における新カント主義は、日本の社会の現実の事情に相応して、特殊な性質のものであった。純粋な新カント派といい得るのは、経済学者で哲学者そして銀行家であった左右田喜一郎先生くらいであろう。そのほかなお桑木厳翼、朝永三十郎の両先生を純粋な新カント主義者に加え得るであろうか。一般には、新カント派を通じてカントに還ることによって同時にカント以後のいわゆるドイツ浪漫主義の哲学に結びつくという傾向が濃厚であった。言い換えると、新カント派の認識論的立場に止まらないで形而上学に行くという傾向が非常に根強く存在していたのである。これは、社会的に見ると、日本においては資本主義とか自由主義とかが純粋に発達しなかったといわれる事情に相応すると考えることができるであろう。ともかく私自身、歴史哲学の研究においても、新カント派から出発して、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ浪漫主義の哲学に進んでいった。シェリングの哲学には特別の親しみを感じていた。シュライエルマッヘルの『宗教的講演』や『独語録』は感激をもって読んだ。そこに青春の浪漫的心情の満足を求めようとしたということもあったであろう。\n しかしその頃、私が学園で平和な生活を送っている間に、外の社会では大きな変動が始まっていた。あの第一次世界戦争を機会として日本の資本主義は著しい発展を遂げたが、私の大学を卒業した大正九年は、それが未曽有の大恐慌に見舞われた年として記憶される年である。このような変化に応じて思想界にも種々新しい現象が現われた。大正七年の末、東大には新人会という団体が出来た。『改造』――すでにこの名が当時の社会にとって象徴的である――が創刊されたのは大正八年のことであったと思う。同じ年にまた長谷川如是閑、大山郁夫氏らの『我等』が創刊されている。主として『中央公論』によった吉野作造博士の活動が注目された。これらの雑誌は私も毎月見ていたので、ある大きな波の動きが私にもひしひし感じられた。京都はまだ比較的静かであったが、『貧乏物語』で有名になられた河上肇博士が次第に学生たちの注意を集めていた。\n このような動きに対して私は無関心ではなかったが、その中に入ってゆく気は生じなかった。また一灯園や「新しい村」の運動にも十分に興味がもてなかった。私はなお数年間、いわば嵐の前の静かな時を過したのである。当時私は古典派ないし教養派であり、ギリシア悲劇などしきりに読んでいた。グロートの『ギリシア史』を繙き、ブルクハルトの『イタリア文芸復興期の文化』を読み、ダンテとかリオナルド・ダ・ヴィンチとかに心を惹かれていた。そういう点で私は林達夫と最もうまが合った。京都時代を通じて文学書のうち私の最も熱心に読んだのは詩であったであろう。その頃有島武郎氏らの影響でホイットマンが流行していたが『草の葉』は私にも忘れられない詩集である。ヴェルレーヌ、ボードレール、ヴェルアーランなど、ゲーテやハイネなど、みな好きであったが、私の特に愛したのはジャムであった。日本の詩人では、白樺派の影響もあったであろう。千家元麿が好きであった。先だって東北へ旅行した時、改造文庫の『千家元麿詩集』を車中に携え「車の音」などという詩を読んで、あの頃のことを懐しく想い起した。宗教書はいつも何か読んでいたが、当時最も深い感銘を受けたのは、フランチェスコの『小さき花』である、ヨルゲンセンのフランチェスコ伝を訳した久保正夫氏――天随氏の令弟――が東京から京都の大学院へ移って来て、私たちの仲間に加わったが、その久保氏もすでに亡き人である。\n 大学を卒業すると同時に私は下鴨から北白川に下宿を変えた。その北白川の下宿に、その頃『改造』の特派員として京都に滞在していた浜本浩氏がよく訪ねて来た。雑誌に原稿を書けということであったらしかったが、私は貧乏をしていたけれども、そのような気持はなく、浜本氏も強いて主張しなかった。原稿を書いて銭にするというような考えは私にはなかったが、これは私ばかりでなく、あの頃の学徒はたいていそうであったので、近頃とは世の中も青年学徒の考え方もよほど違っていた。北白川の下宿に訪ねて来た人で忘れられないのは三土興三――忠造氏の令息――である。三土は非常な秀才で、人間としてもなかなか変っていて、私はその将来の畏るべきことを感じた。その三土が後に大村書店から出た『講座』という雑誌にキェルケゴール論を書いたきりで自殺してしまったのは惜しいことであった。\n すでにいったごとく、東京では新しい時代が活発に動いていたが、京都はまだどこかのんびりしたところがあった。ベートーヴェン通をもって任じていた久保氏が来てから、私たちの仲間では音楽を語ることが盛んになった。日高第四郎君なども非常なベートーヴェン崇拝者であった。そうした影響で、私はロマン・ローランの『ベートーヴェン』を読んでこの作家に親しむようになり、その『ミケランジェロ』や『トルストイ』を読み、さらに『ジャン・クリストフ』に手をつけた。ベートーヴェンで思い出すのは、ハイデルベルクの初めの下宿の主婦がドイツ語の勉強のために紹介してくれたドクトル――その名は忘れてしまった――がまたベートーヴェン研究の専門家で、ドイツ語の稽古にベートーヴェンの文章を使用するという、いささか無法なことをするほどベートーヴェンに熱中していたことである。しかしそのおかげで買ったベートーヴェンの手紙や文章、同時代人の記録を編輯したアルベルト・ライツマンの二巻の『ベートーヴェン』は、今も私は愛蔵している。ベルリオーズの書簡なども、久保氏の勧めで当時面白く読んだものである。久保氏は私たちの仲間で博識家として知られていたが、私がフランスの書物を多く読むようになったのは、深田康算先生とこの久保氏との影響であった。あの頃読んだもので特に思い出すのはポール・グゼルの録したロダンの言葉である。後に叢文閣から高村光太郎氏の編訳で『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』が出た時、私は早速求めたが、当時を思い出したためである。フロベールの書簡は、深田先生が、お訪ねすると、いつも面白いと話されるので、私も読んでみたが、なるほど面白かった。深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。その下宿は知らずしてアナトール・フランスの家の近くにあったが、ちょうど私のパリにいた時に彼は死んで、私は安倍能成氏と一緒にその葬式に行った。何かの因縁というものであろうか。そういうわけで、今は亡き深田先生のことを思い出す場合、アナトール・フランスを連想することが多いのである。\n 私の生涯にもやがて新しい変化が来た。学校を出てから二年間、大谷大学、ついでまた竜谷大学で哲学の講師をしていた私は、外国へ旅立ったのである。" }, { "role": "assistant", "content": "\n 十一\n\n 外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。幸いなことに――この言葉はここでは少し妙な意味をもっている――私はまた当時思う存分に本を買うことができた。ドイツにおけるあの歴史的なインフレーションのおかげで私たちは思いがけなく一時千万長者の経験をすることができたのである。先日も私はラテナウの『現代の批判』という本を読みながら、初めてドイツに入った日のことを想い起した。マルセーユからスイスを通り、途中ジュネーヴを見物して、ドイツに入ったその日、私たちは汽車の中で見た新聞によってラテナウが暗殺されたことを知ったのである。私たちというのは船の中で知り合った四、五人の仲間で、その中にはブルーノ・タウト氏の弟子となった若い建築家上野伊三郎がいた。(上野の名は岩波新書の『日本美の再発見』におけるタウト氏の文章の中に出てくるから読者の中には記憶されている方もあろう)。今手許にあるヘルデルの百科辞書を開いてみると、ラテナウは一九二二年六月二四日ベルリンで「ユダヤ人並びに“Erfüllungspolitiker”(ヴェルサイユ条約履行主義の政治家という意味)として国民社会主義の行動派によって暗殺された」とある。ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後にはすでに英貨一ポンドが千マルク以上になった。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、ついには一兆マルクになるというような有様で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換えるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をくれるのでマッペ(鞄)を持ってゆかねばならないというような状態であった。ハイデルベルク大学の前にワイスという本屋がある。講義を聴いての帰り、私はよく羽仁五郎と一緒にその本屋に寄って本を漁った。それは私ども外国人にとっては天国の時代であったが、逆にドイツ人自身にとっては地獄の時代であったのである。その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなったのは羽仁であったが、私と同時にあるいは前後して、ハイデルベルクにいて知り合った人々には、大内兵衛、北昤吉、糸井靖之(氏はついにハイデルベルクで亡くなった)、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正厳、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。\n 私がハイデルベルクに行ったのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケルト教授に就いてさらに勉強するためであった。リッケルト教授はハイデルベルクの哲学を代表し、その講義はかつてヘーゲルが、クーノー・フィッシェルが、ヴィンデルバントが講義したことがあるという由緒のある薄暗い教室で行なわれた。――リッケルトに『ドイツ哲学におけるハイデルベルクの伝統』(一九三一年)という講演の出版されたものがある。――リッケルト教授には自分の家を離れると不安を感じるという一種の神経性の病気――学生たちはたしか“Platzangst”と称していた――があるということで、大学へはいつも夫人と書生のようにしていたアウグスト・ファウスト氏とが附き添って馬車で来られた。私は教授の著書はすでに全部読んでいたので、その講義からはあまり新しいものは得られなかったが、この老教授の風貌に接することは哲学というものの伝統に接することのように思われて楽しかった。リッケルト教授のゼミナールは自宅で行なわれた。私はそのゼミナールで左右田喜一郎先生のリッケルト批評について報告したが、教授も左右田先生のことはよく記憶しておられたので、嬉しそうであった。タイプライターで打ってもらっておいたその報告を今は失ってしまったのは残念なことに思う。リッケルト教授のゼミナールにはいつもマックス・ウェーベル夫人が出席していられたが、その時のゼミナールの台本として用いられたのは、ちょうど新たに出版されたウェーベルの『科学論論集』であった。\n ハイデルベルクにいた一年あまりの間に私が最もよく勉強したのはマックス・ウェーベルとエーミル・ラスクとであった。ラスクの弟子でその著作集の編纂者であり、後には日本へ来て東北大学で教鞭を取り、『日本の弓術』という本を土産にして今はドイツに帰っているオイゲン・ヘリィゲル氏から私はラスクの哲学を学んだ。私がハイデルベルクにいた時、氏は初めて講師となって教壇に立ったが、前の大戦――この戦争においてラスクは斃れたのである――に従軍したという氏の顔には深い陰影があった。私はヘリィゲル氏のゼミナールでボルツァーノについて報告した。この報告はやがて筆を加えて『思想』に発表した。その時分ボルツァーノの本は絶版になっていて手に入らなかったので、私はリッケルト教授の宅に保管されていたラスクの文庫からその本を借り出して勉強したことを覚えている。ヘリィゲル氏はその頃ハイデルベルクにいた哲学研究の日本人留学生の中心であった。氏を中心として大峡氏や北氏の下宿で読書会が開かれていたが、私もつねに出席した。かようにしてヘリィゲル氏に読んでもらった本の中に、ヘルデルリンの『ヒュペリオン』がある。ヘルデルリンはあの大戦後ドイツの青年たちの間に非常な勢いで流行していたのである。しかし私が当時彼らの精神的雰囲気を作っていたヘルデルリンを初め、ニーチェ、キェルケゴール、ドストイェフスキーなどに深い共感をもって読みふけるようになったのは、マールブルク大学に移って、ハイデッゲル教授について学ぶようになってからのことである。ハイデッゲルの哲学はそのような「戦後不安」の表現であった。その後ハイデッゲルは、ヘルデルリンに基づいて文学を論じている(『ヘルデルリンと詩の本質』一九三六年)。\n ハイデルベルクにいた頃、私は日本を出てまだ間もないことで、京都以来の論理主義を離れず、カントやゲーテのドイツ以外のドイツを深く理解することができなかった。ハイデルベルクにはリッケルト教授と並んでヤスペルス教授がいて、ニーチェやキェルケゴールを講義していたが、私は二、三度出席してみただけであった。リッケルトがヤスペルスなどを批判している『生の哲学』(第二版一九二二年)を読んで別に共鳴したわけでもなかったが、ヤスペルスの『世界観の心理学』(第二版一九二二年)を読んでもその面白さは分らなかった。ヤスペルスの哲学の面白さを教えられたのも、やはりマールブルクへ行ってからのことである。要するに私のハイデルベルク時代は哲学的には京都時代の延長であった。私の集めた本にも論理学や方法論に関するものが多かった。\n ハイデルベルクの教授でその講義を聴いたのは、リッケルトのほかにエルンスト・ホフマン教授である。哲学以外では、グンドルフの講義に数回出てみたことがある。ホフマン教授はディールスの弟子で、プラトン研究家として知られていた。私はホフマン教授の論文を訳して『思想』に載せたことがある。当時ドイツのインテリゲンチャはインフレーションのために生活が窮迫していたので、いくらかでも原稿料が入れば宜かろうと思って、私はその論文を教授に依頼したのであった。そんな状態であったので若いドクトル連中は皆喜んで日本人のために個人教授をした。ヘリィゲル氏の場合もそうであったが、同じように私が本を一緒に読んでもらった人に、後にやはり日本へ来て大阪高等学校で教鞭をとっているシンチンゲル氏がいる。氏はカッシーレルの所からハイデルベルクに移ってきたということであったが、たしかホフマン教授の紹介で、私はプラトンを読んでもらった。さらにヘーゲル全集を出してその名が広く知られるようになったヘルマン・グロックネル氏がある。氏はその頃リッケルト教授のところに下宿していたようであった。私は羽仁と一緒に氏からヘーゲルの『精神現象学』を読んでもらった。やはり羽仁と一緒に講義をしてもらった人にカール・マンハイム氏がある。マンハイム氏は後に日本へ来て東大の経済学部で教えたことのあるレーデレル教授の仕事を手伝っていた。この人がやがて『イデオロギーとウトピー』という著述によって知識社会学の方面において有名になった。私はこの人から初めてマックス・シェーレルの知識社会学の話を聞いたのであるが、当時その重要性を理解することができなかった。マンハイム氏などの仕事に私が興味をもつようになったのは日本へ帰って来てからのことである。あのドイツにおけるユダヤ人の追放の事件を初めて知った時、私はまっさきに思い起したのはマンハイム氏のことであった。そのほか私が本を読んでもらった人に、そのとき『現象学と宗教』という論文で講師の地位を得たウィンクレル氏がある。氏はウォベルミンの弟子であった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n第二十二回\n\n 此時山内伊賀亮座を進申樣天一坊樣御身分の儀は只今の書付にて委しく御承知ならんが御腹の儀御不審御尤ともに存候されば拙者より委細申上べし抑當將軍樣紀州和歌山加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ふ節將監妻の召使ふ腰元澤の井と申婦女の上樣御情懸させられ御胤を宿し奉りし處御部屋住の儀成ば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄は何れへ成とも身を寄時節を待べしとの上意にて御墨附御短刀を後の證據として下し置れしが澤の井儀は元佐渡出生の者故老母諸共生國佐州へ歸り間もなく御安産なりしが産後の血暈にて肥立かね澤の井樣には相果られ其後は老母の手にて養育申上しが又候老母も病氣にて若君の御養育相屆かず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言斯の如し依て常樂院初め我々御守護申上何卒御世に出し奉らんと渺々御供申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方いづれも詞は無く只點頭ばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷相分りたり此上は御證據の品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に向ひ伊豆殿御證據の御品拜見を相願はれ候如何計ひ申さんといふに天一坊は許すと計り言葉少なに言放せば大膳は鍵取出し二品を取出し三寶に載持出伊豆守殿の前に差置にぞ伊豆守殿初め重役の面々各々手水して先御墨附を拜見に及ばる其文面は例の如く\n\n其方懷妊の由我等血筋に相違是なし若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等身に添大切に致し候短刀相添遣し置者也依て如件\n寛永二申年十月徳太郎信房\n澤の井女へ\n" }, { "role": "assistant", "content": "とあり御直筆に相違なければ面々恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに紛ふ方なき御品なれば御老中若年寄には愈々將軍の御落胤に相違なしと承伏し伊豆守殿則ち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻より重役ども一同御身の上委細承知仕り斯の如く慥なる御證據ある上は何をか疑ひ申べき將軍の若君たるに相違なく存じ奉る此上は一同篤と相談仕り近々に御親子御對顏に相成候樣取計ひ仕るべし夫迄は八山御旅館に御座成れ候樣願ひ奉ると言上に及ばる是にて御席相濟伊豆守殿より種々御饗應有て其後歸館を相觸らる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光は彌増たり是にて愈々謀計成就せりと一同安堵の思ひをなしにけり扨又伊豆守殿御役宅には天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿水野和泉守殿若年寄衆は水野壹岐守殿本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等御相談の上にて御側御用御取次を以て申上られけるは先達て大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事今般芝八山御旅館へ御到着に付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ乍ら御身分の御調べ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが何れ近日吉日を撰び御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日限の儀御沙汰願ひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を聞し召れ限りなき御祝着にて片時も早く逢度との上意なりし御親子の御間柄また別段の御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り獨熟々勘考有に天一坊の相貌不審千萬なりと思はるれば翌朝未明伊豆殿御役宅へ參られ御逢を願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を招かれける時に越前守低頭して恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御評議如何候や伺ひ度參上せりと聞れ伊豆守殿の仰せに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御落胤に相違無と存ずれば依て上聞に達せしに上にも御覺悟有らせられ速かに逢度との上意なれば近々吉日を撰び御對顏の儀取計ひ其上は上の思召に任すべきに決せりとの事なり此時まで平伏せられし越前守頭を少し上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議御決定に相成候を越前斯樣に申上候は甚だ恐入候へ共少々思付候仔細御座候是を申述ざるも不忠と存候此儀私事には候はず天下の御爲君への忠義にも御座あるべく依て包まず言上仕り候越前儀未熟ながら幼少の時より人相を聊か相學び候故昨日間は隔ち候へ共彼の方を篤と拜見候處御面相甚だ宜しからず第一に目と頬との間に凶相現はる是は存外の謀計を企つる相にて又眼中殺伐の氣あり是は人を害したる相貌なり且眼中に赤き筋ありて此筋瞳を貫くは劔難の相にて三十日立ざる内に刃に掛り相果るの相なり斯る不徳の凶相にして將軍の御子樣とは存じ奉り難し越前守が思考には御品は實なれど御當人に於ては何とも怪しく存ずるなり愚案は御目鏡には背き候へども何卒此御身の上は今一應越前へ吟味を相許し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏の儀御取計ひ有るとも遲かるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給ふより忽ち怒り面に顯れ越前守を白眼へ越前只今の申條過言なり昨日重役ども並に諸役人一同相調べし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極め上聞にも達したる儀を其方一人是を拒み贋者と申立慥なる證據もなく再吟味願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆と申にや何分にも重役どもを蔑しろに致す仕方不屆至極なりと叱り玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡を立んとて御重役を蔑しろに致すべきや此吟味の儀は御法に背き候とは苟くも越前御役をも相勤る身分なれば辨へ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ聊か忠義と心得候へば何卒枉て御身分調の事一應越前へ御許し下されたしと押て願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を悖き再吟味を願ひ若將軍の御胤に相違なき時は其方如何致す所存にやと仰られければ越前守愼んで答らるゝ樣御意に候再吟味願の義は越前が身に替ての願ひに御座候へは萬一天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行は元より家名斷絶切腹も覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽まで拙者共を蔑しろにし押て再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ控られよと仰せらるれども假令身分は何樣に相成候とも苦しからず君への御爲天下の爲なり幾重にも再吟味の儀御許し下され度偏に願ひ奉と再三押て願はれければ伊豆殿散々に氣色を損ぜられ其方左程に再吟味致し度とあれば勝手にせよと立腹の體にて座をば立たまひたり是に依て御列座も皆々退參と相成りければ跡に越前守只一人殘て手持なき體なりしが外に詮すべもなくて凄々として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に凝なる所存を固め種々に思案を廻し如何にも天一坊怪敷振舞なれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令此身は御咎を蒙るとも明朝は未明に登城に及び直々將軍家に願ひ奉るより外なしと思案を極め家來を呼び出され明朝は六時の御太鼓を相※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)に登城致す間其用意いたすべしと云付けられたり\n\n第廿三回\n\n 扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の戻られし跡にて熟々と思案あるに越前定めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直に願ひ出るも計り難し然ば此方も早く登城し越前に先を越申上置ざれば叶ふ可らずと是も明朝明六時のお太鼓に登城の用意を申付られたり既にして翌日御城のお太鼓六の刻限鼕々と鳴響けば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠をぞ馳られけり又大岡越前守には同く六のお太鼓を相※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)に是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下なり越前守の御役宅は數寄屋橋御門内なれば其道筋も隔たれば伊豆守殿には越前守より少しく先に御登城あり御用取次は未だ登城なく御側衆の泊番高木伊勢守のみ相詰たり乃ち伊豆守殿芙蓉の間に於て高木伊勢守を召れ突然と尋ねらるゝは貴所には當時の役人中にて發明は誰れとの評判と存ぜらるゝやと尋らるゝに伊勢守は不思議の尋なりと當惑ながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯其許をこそ智慧伊豆と下々にては評判も致し御筆頭と申し其許樣に上越す御役人はこれ有まじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置外々の御役人にては誰が利口發明なる噂にやと仰せらる其時伊勢守參候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承まはる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭れ成程當節は越前を名奉行と人々噂を致すやに聞及べり然ど予は越前は嫌ひなり兎角に我意の振舞多く人を輕んずる氣色ありて甚だ心底に應ぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び若直願の取次等を申出るとも取次させまじと態と斯は其意を曉らせし言葉なるべし\n扨又大岡越前守には明六のお太鼓を相澘々と落涙せられ此方はよき家來を持て滿悦に思ふなり三人の忠節心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば密かに申聞すべし近ふ〳〵と三人を側近くこそ進ませたり\n\n第二十四回\n\n 其時越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元へ進ませ申されけるは其方共家の爲め思ひ呉る段忝けなく存るなり依て越前が心底を申聞すなり今越前不慮の儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定なり萬一御對顏の後に贋者と相分るも最早取戻しなり難し然すれば第一天下の恥辱二ツには君への不忠なり依て越前は短慮の振舞致さず今宵計略を以て屋敷を忍び出んと思なり仔細は斯樣々々なり先次右衞門其方の老母病死なりと申僞り不淨門より出て小石川御館へ推參し今一應再吟味の儀を願ふ所存なり萬一小石川御屋形に於ても御取用ひなき時は越前が運命の盡る期なり其時予は含状を出して切腹すべし然有時は將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏は能ふまじ其内には天一坊の眞僞必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば急ぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等は早速古駕籠一挺古看板三ツ并びに帶三筋女の掛無垢等を用意なし日の暮をぞ相待ける扨夜も初更の頃に成しかば越前守は掛無垢を頭より冠りて彼古駕籠に身を潜むれば公用人三人は中間體に身を窶し外に入用の品々は駕籠の下へ敷込二人にて駕籠を舁き今一人は湯灌盥に杖を添て荷ひ不淨門へ向ひ屆ける樣は今日用人平石次右衞門老母儀病死致候依て只今菩提所へ送り申なり御門御通し下さるべしと斷りけるに當番の御小人目附は錠を明け駕籠を改め見るに如何さま女の掛無垢を冠りしは死人の體なれば相違なき由にて通しけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御堀端通りを行鎌倉河岸まで來りたれば先此所にて駕籠を卸し主從四人ほツとばかり溜息を吐ながらも先々首尾よく僞り出しを喜び最早氣遣ひなしと爰にて越前守には麻上下を着用なし三人は何れも羽織袴に改め駕籠等は懇意の町人の家に預置小石川指て急ぎ行に夜は次第に更稍四ツ時と覺しき頃小石川御館には到りたり頓て御中の口へ掛りて案内を乞に取次出來れば越前守申さるには夜中甚だ恐入存ずれど天下の一大事に付越前推參仕つて候何卒中納言樣へ御目通の儀願上奉る旨を述らる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言綱條卿は先達てより御病氣なりしが追々御全快にて今日は中奧に移らせ給ひ御酒下されて御酒宴の最中なり中にも山野邊主税之助と云ふは年は未だ十七歳なれど家老職にて器量人に勝れしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席に召れ御酒頂戴の折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前夜陰の推參何事なるか主税其方對面致し委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は表へ出來り越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助と申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達てより御所勞なり夜陰の御入來何樣の儀なるや御口上承まはる可との御意なりと叮嚀に相述ければ越前守頭を下扨申されけるは越前斯夜中をも省みず推參候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀御座有ての儀なり此段御披露頼み存ずるとぞ述られたり主税是を聞て尋常の儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが國家の御大事を拙者如き若年者の承まはる可事覺束なし兎も角も中納言樣へ言上の上御挨拶すべし暫く御控へ有べしと會釋して奧へ入り綱條卿に申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事出來に付夜中をも憚からず推參仕り候趣き若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿聞し召深く驚かせ給ひ天下の一大事出來とは何事ならん夫は容易ならざる事なるべし越前を書院へ通すべし對面せんとの仰なり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内せらる最早中納言樣には御書院に入せられ御寢衣の儘御着座遊ばさる越前守には敷居際に平伏せらる時に中納言樣には越前近ふ〳〵との御言葉に越前守は少し座を進み頭を下て申上らるゝ樣御恐れながら天下の御大事に付夜中をも省みず推參候段恐入奉り候御病中も厭せ給はず御目通仰付られ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥を下られ給ひ天下の一大事たる儀を承たまはるに略服の段は甚だ恐れ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入て言上に及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御下向有し天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御招ぎ申し御身分調申せしに將軍の御落胤たるに相違無御證據の品も御座あれば近々御對面の御儀式有せらるべき間取計ひ申べしとの事に候然るに私聊か相學を心掛候に付き間も隔候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を竊に拜し奉りしに御目と頬の間に凶相あり此は存外なる工みあるの相にて又眼中に赤筋有て瞳を貫き候は劔難の相にて三十日以内に刄に掛るべき相もあり旁々斯る凶惡上將軍の若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は實なるべきが御當人に於ては贋者必定と見究め候依て重役共へ再吟味の儀度々申立候へども相許さず據ろなく今朝登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀直願仕りしが御親子の御愛情にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑しろに致候上再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の趣きにて越前閉門仰付られ既に切腹とも存じ候へ共若明日にも御對顏ある上萬一贋者にてもある時は取返し相成らず御威光にも拘はり容易ならざる天下の御恥辱と存じ越前惜からぬ命を存らへ御尤めの身分を憚からず押て此段御屋形樣へ言上仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状を仕つり其節切腹仕るべき覺悟に候然らば當年中にはよも御對顏の運びには相成まじく其内に眞僞判然も仕らんかと所存を定め候間今晩は亡者の姿にて不淨門の番人を僞り御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿聞し食され越前其方が忠節頼母しく存ずるなり能も其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難し明朝登城し將軍家へ拜謁し如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝予が登城致す迄に萬一切腹の御沙汰あらんも計り難し假令上使ありとも必ず御請を致さず押返して予が沙汰に及ばざる内は幾度も御斷り申立べし是は其方より上意を背には非ず言ば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ居べしと御懇切なる御意を蒙り越前守感涙肝に銘じ有難く坐ろに勇み居たりけり" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 絵画についての嗜好は次第に強烈になって、絵であればどんなものでも面白がって見るようで、ある時陸翁の娘の六ツばかりになる児が、書いた絵をこんなに面白いがどうだと見せられたこともあった、晩年自分で絵を画くようになってからは、一層嗜好の熱度を高めた、渡辺南岳草花の巻物に狂気じみたことをやったに見てもその熱度が判る、もう長くは生きていぬと承知しながら、是非その草花の絵をわが物にしたいという執念、何という強烈な嗜好であろう、趣味の興快に乗じては自個の命を忘れるのである、自分の字がいやになったから、少し仮名文字を習ってみたいが、善い手本はあるまいかと問われたのも、逝去二月ばかり前のことであった、\n おかしく気取って死際を飾ろうとするような手合とはまるで違っているかと思われる。\n 趣味を貪っては飽くことを知らぬという調子であったから、日夕の飲食にも始終趣向趣向といって居った、まして二、三人の会食でもやるとなれば、趣向問題が湧返ったものである、振ったの振わぬのと翌日の談話にまで興を残したくらいであった、予は随分度数多く参勤した方であるが、文章や歌俳についてこれは得意だなどという話はついに聞かなかったけれど、根岸へ西洋料理屋が出来て、客に西洋料理を御馳走することが出来また一品でも取寄せて食うことが出来るといっては、そんなことをしきりと得意がって居られたり、また骨抜鰌は根岸のが甘いなといえば、これは近頃得意さなどと悦ばれたり、こんな調子で些細なことにもすぐ興に乗って面白がられる、何事によらず三、四の人が集って興に入る時といったら、真に愉快な風に見えるので、集った人も深く愉快を感ずるのが常であった、ある時などよほど可笑かったことがある。\n たしか明治三十五年の春であったと思う、追々と病体衰てくるので、人々種々と慰藉の道を苦心して居る時であった、予も夕刻かけて訪問すると、河東、寒川の両君が居られて、きょうは高浜が、女義太夫を連れてくるから聞いてゆけとのことであった、先生もやや興に乗ってきているので、おひるからはすこぶる工合がよいとのことで、しきりと談笑していられた。\n やがて高浜君が来る、妻君も児供をつれてくる、河東の妻君もくる、陸翁の令嬢達が六人ずらりと這入ってきて並ぶ、いつのまにか日も暮れて明しがついた、三、四台の車が門前へ留った、小声の話声がする、提灯がちらつく、家の人達は皆立っている、門の扉がカタンカタンしてどうっと人が這入ってくる、根岸庵空前の賑いである、予が先生、僕の方であるとほとんど婚礼という感じですナアというと、先生は、\n 松山辺でいえば葬式の感じさ、といって松山の葬式の話などしている内に、太夫連は上り鼻の隣座敷で用意をやっていたらしく、床の正面に蒔絵の見台の紫半染の重々しい房を両端に飾ってあるやつが運出された、跡から師匠の老婆次に鳩羽色か何かの肩衣つけた美人の太夫が出てきて席に就いた、この時予は先生の頭の後方に座して居ったので、先生が思わず拍手しているのが見えた、それがよほど滑稽で今でも思い出すたびに独笑するのであるが、寐返りもよく出来ぬという時であるもの、拍手したとて、どうして音がするものか、かさりとも音がしないじゃないか、予は可笑くてたまらなかったが、先生はなかなか本気でいるので放笑する訳にもゆかず、ようやく口を掩うてこらえたのであった。\n 先生が物に興ずること、いつでもこんな調子である、二人の太夫の内一人はすこぶる美児であったといえば、先生はランプの影に遮られて見えなく、それは残念であったなどと大に笑った、とてもこれが半死の病人と思えようか、烈しく興味を感じてはほとんど病を忘れて了うのである、\n かくのごとく些細なことの内に、先生の大詩人たる性格が躍如として顕われている、われ自ら深く興に入って製作これに従うという順序になっている、先生の文章歌俳が一見平凡なるごとくであってかえって常に人を動すの力があるというも全く以上のような理由に基づくのであろう、事実の上に興味を感じた訳でなく、筆の先に文字の巧を弄だところで、到底読者の感興を促し得るものでない。\n 正岡を宗とする人は、どうかその名を宗とせずにその実を宗として貰いたいものだ、歌俳以外文章以外のことは、よしそれが文学と密接の関係あることでも、大抵は冷淡に他人視しているものが多い、そういう人は少しくらい歌が出来俳句が出来ても、それは決して正岡宗の人ではない、前にもいうた通りで正岡の絵画に対する嗜好の強烈なことついに自分で書くまでになった一事でも知れる、正岡を宗とせる歌人俳人中にも、絵画に対し時間と銭とを惜まぬだけの嗜好を持って居る人が幾人あろうか、先生の趣味嗜好が多くの歌人俳人と何ほどその厚薄を異にして居ったか、はなはだしいのは歌人俳句に冷淡に俳人歌に冷淡な人さえあると聞くは情ないといわねばならぬ。そんな人は断じて正岡宗の人ではない。\n 人には誰にも数寄不数奇がある、正岡は一体画が最もすきであったのだ、正岡が好んだからとて人にも好めと強いるは無理だというかも知れぬ、しかし文学と美術との関係が少しでも解っていれば、歌や俳句は面白いが絵はあまり面白くないなどいうことのあるべきはずがない、絵画の嗜好を欠いているとすれば、歌や俳句も未だ解っていないことを自白すると同じである。先生の詩人たる所以を知り先生の作物の価値を知らんとするならば、まず先生の趣味嗜好を研究してみるが、最も根本的で、そして近道であろう。〔『馬酔木』明治三十七年五月五日〕\n\n「病牀六尺」六月二日\n\n余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。\n\n この文については先生もやや得意であったらしかった、平生先生は自分に対し世間から称誉的の批評などがあっても、ついぞ悦ばれたようなことはなかった、ただこの文について当時真宗派の雑誌、『精神界』というのが大に先生の言に注意した賛同的の批評をされた時に、折柄訪問した予にその『精神界』のことを話され、半解の人間に盲目的の賛詞をいわるるくらいいやなことはないが、また『精神界』などのように充分にこちらの精神意義を解して居ての賛評は、知己を得たような心地で嘻しい云々、\n これを話頭としてこの日は、その悟りということにつきすこぶる愉快な話をした、その時のこと今日充分には記憶して居ないが、大要こうであった。\n 予はまず、私は彼の先生の文について非常な興味を感じました、悟りということとは少し見当が違うかも知れませんが、自分にも多少の実験がありますので一層愉快に拝見しました、私は彼の文を読んで先生は実に大剛の士であると思ったのです、大槻磐渓の『近古史談』というのに、美濃の戦に敵大敗して、織田氏の士池田勝三郎、敵の一将を追うことはなはだ急なりしが竟に及ばずして還る、信長勝三にいう、曰く、今の逃将は必ず神子田長門である、およそ追兵のはなはだ急なる時に方っては、怯懦の士必ず反撃して死す、死せずして遠く遁る、大剛者にあらざればあたわず、既にしてはたして神子田であったと、あります、" }, { "role": "assistant", "content": " 平気で生きて居ると平気で逃るとは趣がやや同じであって、平気で生きている方が、よほど難事であるように思われます、敵に追われたとてその敵がもし自分より弱い奴でもあれば、更に遁るることが出来るまた充分に逃げおおせる見込があるとすれば、恐怖心に襲われないで、平気で逃げることも出来る訳であるが、死という奴に追って来られたばかりは、遁るる見込みが立たないから、どうしても恐れずに居られない訳である、その死という奴が一歩の背後にまでやって来ている際にも、一向その死ということを苦にせず、なお平気で吾したいことをなして生くるまで生きていることは、単に勇気ばかりでは出来ない、勇気以上の悟りがなければ出来ないのであろう、単に悟ったというばかりでもどうかしら、死ということを一向苦にせないだけの覚悟と精神修養とがなければ出来ないことかと思います、してみると神子田長門の剛勇は未だ悟りには遠い訳でありますが、信長も面白い観察をやるじゃありませんか予も一笑したのであるが。\n 先生もすこぶる話興に入って、そんなことがあったか、そりゃ面白い話だ、信長もうまいことをいうているなアちょっと悟ったところがある、さすがに英雄だ話せるなどいって笑われ、それから君の実験談というのはとあった、\n さよう私の実験というは、犬に対する悟りで、私は児供の時分に、犬くらい恐しいものはなかったです、はは先生もそうでありましたか、外村へ使などにゆく犬の奴が意地悪く森の蔭などからいつでも出てくるもうそれが恐しくてたまらなかった、十五、六歳の頃までも犬を恐れました、それでいつの間にかこの犬に対する悟を開いたのです、犬が吠る彼れ始めは熱心でなく吠ている、その機先を掣して、こちらから突然襲撃するのです、何空手でもかまわないです、彼の咽喉部に向って突貫をやるです、この手断をやればどんな犬でも驚鳴敗走再び近寄っては来ません、この手断を覚てから犬に対する恐怖心全くなくなりました、さあこうなってくると時に犬を撃打して興味を弄ぶようになりました、\n 犬が吠る見ぬふりをして居て、成丈け犬の己れに近づくを待って突然反撃、杖で撃つか下駄で蹴るのです、たとい殺さぬまででも吠られた腹いせがすぐ出来てすこぶる愉快なものであります、それが今一歩進できては、犬の吠えるなどを気にすることが馬鹿らしくなってきたのです、犬が何ほど吠ても人に噛みつくものでない、よし噛みついたところで何でもないということになって、その後はいくら犬が吠えてきても平気で跡も見ないで歩くようになりました、犬が飛びつくかと思うように跡から吠えてきても、一向平気でそれを苦にもせずに歩き得る人はちょっと少くないでしょう私はこれも一つの悟りかと思います、先生が死に追われて平気で生きているのと、私が犬に吠えられながら平気で歩いてるのと、いささか不倫な比較でありますが、趣きがちょっと似ているじゃありますまいか、\n 予の言の終るを待って先生は、\n ナポレオンの兵法は、敵国が未だ兵力を集中せない即戦闘準備の整ない虚に乗じて、急馳電撃これを潰乱せしめるのである、ネルソンの兵法はそうでない、敵をなるたけ手近に引寄せておいて掩撃殺闘敵を粉韲するにあるのだ、君の犬に対する手段は、始めはナポレオンの兵法で後にネルソンの兵法に進んだのだ、どちらかといえば、ナポレオンは未だ敵を恐れているが、ネルソンはまるで敵を呑んでいる、君の犬に対する悟非常に面白い、孫子の兵法は戦わずして敵を屈するを最上の策としてある、君の悟りは大勢を観取して敵を相手にせぬところまで進んだのだ面白い、ナポレオン、ネルソン以上だアハハハハハ、戦争は知の至らざる結果である、藤原の保昌が袴垂に追われて笛を吹いていたのも、君が犬に吠られて平気で歩いていたのも全く同意義である、禅宗の悟りというのは少しそれとは違うのであろう、神子田や保昌などの行為は共に知勇の範囲を脱しないのだ、真の悟りというは知勇以上でなければならぬ、事の大小はとにかく、何事も悟るところがあってなすことは興味があって面白い、先から先と話のつくる期を知らずという有様で実に愉快であった。\n〔『馬酔木』明治三十七年七月十五日〕\n\n『竹の里人選歌』に対して、『ほととぎす』や『帝国文学』の批評中に、子規子の標準も年とともに進歩したのであろうに前年の選歌をそのまま輯て本にされては、かえって子規子も迷惑じゃあるまいか、とか、そんなことをしては子規子に叱かられはせまいか、などというような詞が見えるが、予が生前に子規子から聞いた話などに比べて考えてみると、そんなことをいうは、あまり穿ち過ぎた考え過しでいわば余計な心配というものじゃあるまいかと思う、全体『竹の里人選歌』というは、題詞にも断ってある通り、歌壇においての子規子の事業の半面を世に伝うるが同書発刊の目的である、そうでない、新聞によって伝ってはいるけれど、新聞では散逸するから版本にして後に遺そうというのが目的である、\n なるほど半以上の辺には随分拙ない作品も雑っている、しかしながら佳作もまた決して少くはない、世の中にいかなる事業でも、第一期の成績を二期もしくは三期の程度から顧みてみれば、意に充たないところの出てくるは、普通のことで当前の理屈である、どんな偉人の事業でも決して免るることの出来ないものであろう、独り子規子の事業に、それがあることを怪むに及ばぬことじゃないか、世間普通のことをありのままに後世に伝えたとて何にも子規子が迷惑に思う訳はない、吾々の考ではなまじ手をつけて余計なことをするよりは、ありのままを伝て世人の判断を自由にするがかえって子規子に忠なる所以、文壇に忠なる所以であると信ずるのである。いわんや、第三回の募集の時にすら先生は既に左のごとくに云うているのである、\n\n前略、古来小区域に跼蹐して陳套を脱するあたわざりし桜花がいかに新鮮の空気に触れて絢爛の美を現したるかは連日掲載の短歌を見し人の熟知するところなるべし。かつその語法句法の工夫は一段の巧を加え文字の斡旋はよくいいがたき新意匠を最も容易に言い得るに至れり。特にその中の傑作と称すべきもの幾首は優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る。以下略\n\n『帝国文学』の記者はしばらく置く、わが虚子君はなおこれらの文章をも子規子のために抹却するをよしと思わるるであろうか、「優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る」と子規子がいうても新聞の散逸に任しておいたならば、どうして不朽に垂るることが出来ようか、虚子君が子規子の精神を推測する資格がありとすれば、予といえども幾分その資格があるはずだ、予は一夜夢に先生に見えてこのことを問うた、先生はいう、虚子が何をいう、余計な手入などせぬがかえって嘻しいのだ。\n 予は自ら慰めてこんなことをいうものの、子規子没後は虚子、碧梧桐と歌われているその虚子君の口から、子規子が迷惑なるべくやに思わるといわるることを予ははなはだ口惜しく思うのである、親友に敬意を欠くの恐れがあるからあまり理屈はいうまい、ただ生前先生から聞いた二、三の話を紹介して、世人の判断に任せておく。ある日話のついでに、\n 先生私は二、三年前に作った歌は皆反古にしてしまおうかと思います、実に自分ながらいやになって遺しておくのが気になりますからというと、\n いやそうでないやはり遺しておく方がよい、僕などはことごとく記して取ってある、どんな人でも始めから上手ということはない、段々と進歩してくるのが当前だ、古いのを出して見ると自分にも非常に変ってきたことが判って面白い、また人に見せるようなことがあっても決してこれが恥になるものでない、初期のものであるもの拙なさを怪しむことはない、それはまた自選などして公にする場合はもちろん別であるけれど、自然に自分の初期の作物が後世に伝ったとて少しも苦にすることはない、芭蕉の句などには見れば駄句が多い、佳句といったら二百句はあるまい、しかし芭蕉の重みがその駄句のために減ずる訳でない、かえって多方面に大きいところが見える、『金槐集』などでもそうである、佳作といったらば二十首か三十首恐くは三十首を越えまい、それでも右大臣は勝れた歌人というに妨げないのだ、初めの内の作物が後に伝わるを恥辱を遺すように思うは狭い考である、\n それからまた別の時であるがこんな話も聞いた。\n 杜子美と云えば云うまでもなく、盛唐一、二の大詩人であるから、その詩集は金玉の佳什で埋っているかのように思う人もあろうが、その実駄作も随分あるというは苦労人間の定説であるとの話だ、それで杜子美ともあるものが、どうしてそんな駄作を書いておいたかとの疑いもあるけれど、杜子美先生一向平気で出来たまま書いておいたのが、伝った訳で、一方より見るとそれがかえって杜子美の大きいところであるとのことだ、駄作の混じているために、杜子美の詩集の価値が少しも減じないのみか、かえってそれがために杜子美の杜子美たる所以が顕われて居るというは妙でないか、宋詩人(名を忘れた)に非常な杜子美崇拝家があって、杜子美の長所を極力学んだ、その詩集を見るとほとんど杜子美に迫っている、それで子美の好いところばかりを学んだのであるから、かえって杜子美集のごとき駄作が一首もない、さあそんならこの人の詩集は子美詩集に勝っているかというに、とてもそんな訳にはゆかぬ、よいところばかりを学んだのだから、疵もないかわりに極めて狭い、子美集のごとく変化がなく、多方面でなく奥がなく従て重みがないという話だ、それであるから歌の選などをするにはなるたけは趣味多方面に渡らねばならぬ。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n「こう爺さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸けたり。車夫の老人は年紀すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、\n「どうぞまっぴら御免なすって、向後きっと気を着けまする。へいへい」\n と、どぎまぎして慌ておれり。\n「爺さん慌てなさんな。こう己ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪に障って堪えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装が悪いとって咎めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損いでもしなすったのか、ええ、爺さん」\n 問われて老車夫は吐息をつき、\n「へい、まことにびっくりいたしました。巡査さんに咎められましたのは、親父今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地もござりませなんだ。いやもうから意気地がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引きが破れまして、膝から下が露出しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」\n 壮佼はしきりに頷けり。\n「むむ、そうだろう。気の小さい維新前の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱え車じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯より見っこのねえ闇夜だろうじゃねえか、風俗も糸瓜もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠で相撲を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車を曳くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨のあしらいにしてやらあ」\n 口を極めてすでに立ち去りたる巡査を罵り、満腔の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦りしが、四谷組合と記したる煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上ぐる老車夫の風采を見て、壮佼は打ち悄るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人はおめえばかりか、孫子はねえのかい」\n 優しく謂われて、老車夫は涙ぐみぬ。\n「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計が立ちかねますので、蛙の子は蛙になる、親仁ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車をこうやって曳きますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子も揃ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然装なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査さんに、はい、お手数を懸けるようにもなりまする」\n いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方ならず心を動かし、\n「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠めて隙あ潰さした埋め合わせに、酒代でもふんだくってやればいいに」\n「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯き入れがござりませんので」\n 壮佼はますます憤りひとしお憐れみて、\n「なんという木念人だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩びねえ。股火鉢で五合とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴めえて、剣突もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指してみろ、今じゃおいらが後見だ」\n 憤慨と、軽侮と、怨恨とを満たしたる、視線の赴くところ、麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜に怪獣の眼のごとし。\n\n 二\n\n 公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延という巡査なり。渠は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就けるなりき。\n その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。\n 制帽の庇の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。\n 渠は左右のものを見、上下のものを視むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉ることをせざれども、瞳は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。\n されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、およそ這般のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免るることを得ざりしなり。\n しかも渠は交番を出でて、路に一個の老車夫を叱責し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後を振り返りしことあらず。\n 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。\n 兇徒あり、白刃を揮いて背後より渠を刺さんか、巡査はその呼吸の根の留まらんまでは、背後に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼の観察の一度達したるところには、たとい藕糸の孔中といえども一点の懸念をだに遺しおかざるを信ずるによれり。\n ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々としてただ前途のみを志すを得るなりけり。\n その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、わが跫音に蠢けるを、例の眼にてきっと見たり。\n 八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々しき婦人なりき。\n 一個の幼児を抱きたるが、夜深けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊め、着たる襤褸の綿入れを衾となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わざらん。\n しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭に足踏みして、\n「おいこら、起きんか、起きんか」\n と沈みたる、しかも力を籠めたる声にて謂えり。\n 婦人はあわただしく蹶ね起きて、急に居住まいを繕いながら、\n「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭を埋めぬ。\n 巡査は重々しき語気をもて、\n「はいではない、こんな処に寝ていちゃあいかん、疾く行け、なんという醜態だ」\n と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸の下にて、\n「はい、恐れ入りましてございます」\n かく打ち謝罪るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸れたり。母は見るより人目も恥じず、慌てて乳房を含ませながら、\n「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那様お慈悲でございます。大眼に御覧あそばして」\n 巡査は冷然として、\n「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」" }, { "role": "assistant", "content": " おりからひとしきり荒ぶ風は冷を極めて、手足も露わなる婦人の膚を裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、鞠のごとくに竦みつつ、\n「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹き曝しへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難に逢いまして、にわかの物貰いで勝手は分りませず......」といいかけて婦人は咽びぬ。\n これをこの軒の主人に請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査は肯き入れざりき。\n「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」\n\n 三\n\n「伯父さんおあぶのうございますよ」\n 半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき、一個の年紀少き美人はその同伴なる老人の蹣跚たる酔歩に向かいて注意せり。渠は編み物の手袋を嵌めたる左の手にぶら提灯を携えたり。片手は老人を導きつつ。\n 伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足を蹈み占めながら、\n「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時だろう」\n 夜は更けたり。天色沈々として風騒がず。見渡すお堀端の往来は、三宅坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる、この小天地寂として、星のみひややかに冴え渡れり。美人は人ほしげに振り返りぬ。百歩を隔てて黒影あり、靴を鳴らしておもむろに来たる。\n「あら、巡査さんが来ましたよ」\n 伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、\n「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」\n と女の顔を瞻れる、一眼盲いて片眼鋭し。女はギックリとしたる様なり。\n「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」\n「うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車が見えんからな」\n「ようございますわね、もう近いんですもの」\n やや無言にて歩を運びぬ。酔える足は捗取らで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、\n「お香、今夜の婚礼はどうだった」と少しく笑みを含みて問いぬ。\n 女は軽くうけて、\n「たいそうおみごとでございました」\n「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った」\n 女は老人の顔を見たり。\n「なんですか」\n「さぞ、うらやましかったろうの」という声は嘲るごとし。\n 女は答えざりき。渠はこの一冷語のためにいたく苦痛を感じたる状見えつ。\n 老人はさこそあらめと思える見得にて、\n「どうだ、うらやましかったろう。おい、お香、おれが今夜彼家の婚礼の席へおまえを連れて行った主意を知っとるか。ナニ、はいだ。はいじゃない。その主意を知ってるかよ」\n 女は黙しぬ。首を低れぬ。老夫はますます高調子。\n「解るまい、こりゃおそらく解るまいて。何も儀式を見習わせようためでもなし、別に御馳走を喰わせたいと思いもせずさ。ただうらやましがらせて、情けなく思わせて、おまえが心に泣いている、その顔を見たいばっかりよ。ははは」\n 口気酒芬を吐きて面をも向くべからず、女は悄然として横に背けり。老夫はその肩に手を懸けて、\n「どうだお香、あの縁女は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白と紅との三枚襲で、と羞ずかしそうに坐った恰好というものは、ありゃ婦人が二度とないお晴れだな。縁女もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目だ。婿もりっぱな男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがおまえと巡査とであってみろ。さぞ目の覚むることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がおまえをくれろと申し込んで来たときに、おれさえアイと合点すりゃ、あべこべに人をうらやましがらせてやられるところよ。しかもおまえが(生命かけても)という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやアしない。しかしどうもそれ随意にならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。おれという邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥を掻いたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけて懸かればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!」\n「あれ伯父さん」\n と声ふるえて、後ろの巡査に聞こえやせんと、心を置きて振り返れる、眼に映ずるその人は、......夜目にもいかで見紛うべき。\n「おや!」と一言われ知らず、口よりもれて愕然たり。\n 八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。\n\n 四\n\n 老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気に懸くる様子もなく、\n「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつと怨んでいよう。吾ゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」\n 真顔になりて謂う風情、酒の業とも思われざりき。女はようよう口を開き、\n「伯父さん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」\n と老人の袂を曳き動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父の言を渠の耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着せで、平気に、むしろ聞こえよがしに、\n「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満でも択んでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんな賤しい了簡じゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人とでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食ででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそいつに譲って、夫婦にしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾のないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通の人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念めてもらった日にゃあ、おれが志も水の泡さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険な目に逢えば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「ええ」\n「おまえはりこうで注意深い子だ。まあなんによらずすなおに、自分のしなければならないことをいっしょうけんめいにするのだ。それを一生覚えておいで」\n こういう話をしているうち、わたしは勇気をふるい起こして、芝居のけいこのあいだなによりわたしをびっくりさせたことについてかれに質問した。どうしてかれが犬やさるやわたしに対してあんなにしんぼう強くやれるのであろうか。\n かれはにっこり笑った。「おまえは百姓たちの仲間にいて、手あらく生き物を取りあつかっては、言うことを聞かないと棒でぶつようなところばかり見てきたのだろう。だがそれは大きなまちがいだよ。手あらくあつかったところでいっこう役に立たない。優しくしてやればたいていはうまくゆくものだ。だからわたしは動物たちに優しくするようにしている。むやみにぶてばかれらはおどおどするばかりだ。ものをこわがるとちえがにぶる。それに教えるほうでかんしゃくを起こしては、ついいつもの自分とはちがったものになる。それではいまおまえに感心されたようなしんぼう力は出なかったろう。他人を教えるものは自分を教えるものだということがこれでわかる。わたしが動物たちに教訓をあたえるのは、同時にわたしがかれらから教訓を受けることになるのだ。わたしはあれらのちえを進めてやったが、あれらはわたしの品性を作ってくれた」\n わたしは笑った。それがわたしにはきみょうに思われた。でもかれはなお続けた。\n「おまえはそれをきみょうだと思うか。犬が人間に教訓を授けるのはきみょうだろう。だがこれはほんとうだよ。\n すると主人が犬をしこもうと思えば、自分のことをかえりみなければならない。その飼い犬を見れば主人の人がらもわかるものだ。悪人の飼っている犬はやはり悪ものだ。強盗の犬はどろぼうをする。ばかな百姓が飼い犬はばかで、もののわからないものだ。親切な礼儀正しい人は、やはり気質のいい犬を飼っている」\n わたしはあしたおおぜいの前に現れるということを思うと、胸がどきどきした。犬やさるはまえからもう何百ぺんとなくやりつけているのだから、かえってわたしよりえらかった。わたしがうまく役をやらなかったら、親方はなんと言うだろう。見物はなんと言うだろう。\n わたしはくよくよ思いながらうとうとねいった。そのゆめの中で、おおぜいの見物が、わたしがなんてばかだろうと言って、腹をかかえて笑うところを見た。\n あくる日になると、いよいよわたしは心配でおどおどしながら、芝居をするはずのさかり場まで行列を作って行った。\n 親方が先に立って行った。背の高いかれは首をまっすぐに立て、胸を前へつき出して、おもしろそうにふえでワルツをふきながら、手足で拍子をとって行った。その後ろにカピが続いた。イギリスの大将の軍服をまねた金モールでへりをとった赤い上着を着、鳥の羽根でかざったかぶとをかぶったジョリクールがその背中にいばって乗っていた。\n ゼルビノとドルスが、ほどよくはなれてそのあとに続いた。\n わたしがしんがりを務めていた。わたしたちの行列は親方の指図どおり適当な間をへだてて進んだので、かなり人目に立つ行列になった。\n なによりも親方のふくするどいふえの音にひかれて、みんなうちの中からかけ出して来た。とちゅうの家の窓という窓はカーテンが引き上げられた。\n 子どもたちの群れがあとからかけてついて来た。やがて広場に着いたじぶんには、わたしたちの行列に、はるか多い見物の行列がつながって、たいした人だかりであった。\n わたしたちの芝居小屋はさっそくできあがった。四本の木になわを結び回して、その長方形のまん中にわたしたちは陣取ったのである。\n 番組の第一は犬の演じるいろいろな芸当であった。わたしは犬がなにをしているかまるっきりわからなかった。わたしはもう心配で心配で自分の役を復習することにばかり気を取られていた。わたしが記憶していたことは、親方がふえをそばへ置き、ヴァイオリンを取り上げて、犬のおどりに合わせてひいたことで、それはダンス曲であることもあれば、静かな悲しい調子の曲であることもあった。なわ張りの外に見物はぞろぞろ集まっている。わたしはこわごわ見回すと、数知れないひとみの光がわたしたちの上に集まっていた。\n 一番の芸当が終わると、カピが歯の間にブリキのぼんをくわえて、お客さまがたの間をぐるぐる回りを始めた。見物の中で銭を入れない者があると、立ち止まって二本の前足をこのけちんぼうなお客のかくしに当てて、三度ほえて、それから前足でかくしを軽くたたいた。それを見るとみんな笑いだして、うれしがってときの声を上げた。\n じょうだんや、嘲笑のささやきがそこここに起こった。\n「どうもりこうな犬じゃないか。あいつは金を持っている人といない人を知っている」\n「そら、ここに手をかけた」\n「出すだろうよ」\n「出すもんか」\n「おじさんから遺産をもらったくせに、けちな男だなあ」\n さてとうとう銀貨が一枚おく深いかくしの中からほり出されて、ぼんの中にはいることになった。そのあいだ親方は一言もものは言わずに、カピのぼんを目で見送りながら、おもしろそうにヴァイオリンをひいた。まもなくカピが得意らしくぼんにいっぱいお金を入れて帰って来た。\n いよいよ芝居の始まりである。\n「さてだんなさまがたおよびおくさまがたに申し上げます」\n 親方は、片手に弓、片手にヴァイオリンを持って、身ぶりをしながら口上を述べだした。\n「これより『ジョリクール氏の家来。一名とんだあほうの取りちがえ』と題しまするゆかいな喜劇をごらんにいれたてまつります。わたくしほどの芸人が、手前みそに狂言の功能をならべたり、一座の役者のちょうちん持ちをして、自分から品を下げるようなことはいたしませぬ。ただ一言申しますることは、どうぞよくよくお目止められ、お耳止められ、お手拍子ごかっさいのご用意を願っておくことだけでございます。始まり」\n 親方はゆかいな喜劇だと言ったが、じつはだんまりの身ぶり狂言にすぎなかった。それもそのはずで、立役者の二人まで、ジョリクールも、カピもひと言も口はきけなかったし、第三の役者のわたしもふた言とは言うことがなかった。\n けれども見物に芝居をよくわからせるために、親方は芝居の進むにつれて、かどかどを音楽入りで説明した。\n そこでたとえば勇ましい戦争の曲をひきながら、かれはジョリクール大将が登場を知らせた。大将はインドの戦争でたびたび功名を現して、いまの高い地位にのぼったのである。これまで大将はカピという犬の家来を一人使っていたが、出世していてお金が取れて、ぜいたくができるようになったので、人間の家来をかかえようと思っている。長いあいだ動物が人間の奴隷であったけれども、それがあべこべになるときが来たのである。\n 家来の来るのを待つあいだに、大将は葉巻きをふかしながらあちこちと歩き回る。見物の顔にかれがたばこのけむりをふっかけるふうといったら、見物であった。なかなか来ないのでじれて、人間がかんしゃくを起こすときのように目玉をくるくる回し始める。くちびるをかむ。じだんだをふむ。三度目にじだんだをふんだときに、わたしがカピに連れられて舞台に現れることになる。\n わたしが役を忘れていれば犬が教えてくれるはずになっていた。\n やがてころ合いのじぶんに、かれは前足をわたしのはうへ出して、大将がわたしを紹介した。\n 大将はわたしを見ると、がっかりしたふうで両手を上げた。なんだ、これがわざわざ連れて来た家来かい。それからかれは歩いて来て、わたしの顔をぶえんりょにながめた。そうして肩をそびやかしながら、わたしの回りを歩き回っていた。その様子がそれはこっけいなので、だれもふき出さずにはいられなかった。見物がなるほど、このさるはわたしをあほうだと思っているなとなっとくする。そうして見物もやはりわたしをあほうだと思いこんでしまう。\n 芝居がまたいかにもわたしのあほうさの底が知れないようにできていた。することなすことにさるはかしこかった。\n いろいろとわたしを試験をしてみた末、大将はかわいそうになって、とにかく朝飯を食べさせることにする。かれはもう朝飯の仕度のできているテーブルを指さして、わたしにすわれといって合図をした。\n「大将の考えでは、この家来にまあなにか食べるものでも食べさしたら、これほどあほうでもなくなるだろうというのですが、さて、どんなものでしょうか」と、ここで親方が口上をはさんだ。\n わたしは小さなテーブルに向かってこしをかけた。テーブルの上には食器がならんで、さらの上にナプキンが置いてあった。このナプキンをわたしはどうすればいいのだろう。\n カピがその使い方を手まねで教えてくれた。しばらくしげしげとながめたあとで、わたしはナプキンで鼻をかんだ。\n そのとき大将が腹をかかえて大笑いをした。そうしてカピはわたしのあほうにあきれ返って、四つ足ででんぐり返しを打った。\n わたしはやりそこなったことがわかったので、またナプキンをながめて、それをどうすればいいかと考えていた。\n やがて思いついたことがあって、わたしはそれを丸く巻いてネクタイにした。大将がもっと笑った。カピがまたでんぐり返しを打った。\n そのうちとうとうがまんがしきれなくなって、大将がわたしをいすから引きずり下ろして、自分が代わりにこしをかけて、わたしのためにならべられている朝飯を食べだした。\n ああ、かれのナプキンをあつかうことのうまいこと。いかにも上品に軍服のボタンの穴にナプキンをはさんでひざの上に広げた。それからパンをさいて、お酒を飲む優美なしぐさといったらない。けれどいよいよ食事がすんで、かれが小ようじを言いつけて、器用に歯をせせって(つついて)見せたとき、割れるほど大かっさいがほうぼうに起こって、芝居はめでたくまい納めた。\n「なんというあほうな家来だろう。なんというかしこいさるだろう」\n 宿屋に帰る道みち、親方はわたしをほめてくれた。わたしはもうりっぱな喜劇役者になって、主人からおほめのことばをいただいて、得意になるほどになったのである。\n" }, { "role": "assistant", "content": "\n 読み書きのけいこ\n\n ヴィタリス親方の小さな役者の一座は、どうしてなかなかたっしゃぞろいにはちがいなかったが、その曲目はそうたくさんはなかったから、長く同じ町にいることはできなかった。\n ユッセルに着いて三日目には、また旅に出ることになった。\n 今度はどこへ行くのだろう。\n わたしはもう大胆になって、こう質問を親方に発してみた。\n「おまえはこのへんのことを知っているか」と、かれはわたしの顔を見ながら言った。\n「いいえ」\n「じゃあなぜ、どこへ行くと言って聞くのだ」\n「知りたいと思って」\n「なにを知りたいのだ」\n わたしはなんと答えていいかわからないので、だまっていた。\n「おまえは本を読むことを知っているか」\n かれはしばらく考え深そうにわたしの顔を見て、こうたずねた。\n「いいえ」\n「本にはこれからわたしたちが旅をして行く土地の名やむかしあったいろいろなことが書いてある。一度もそこへ来たことがなくっても、本を読めばまえから知ることができる。これから道みち教えてあげよう。それはおもしろいお話を聞かせてもらうようなものだ」\n わたしはまるっきりものを知らずに育った。もっともたったひと月村の学校に行ったことがあった。けれどその月じゅうわたしは一度も本を手に持ったことはなかった。わたしがここに話をしている時代には、フランスに学校のあることをじまんにしない村がたくさんあった。よし学校の先生のいる所でも、その人はなんにも知らないか、さもなければなにかほかに仕事があって、預った子どもの世話をろくろくしない者が多かった。\n わたしたちの村の学校の先生がやはりそれであった。それは先生がものを知らないというのではないが、わたしが学校に行っているひと月じゅうかれはただの一課をすら教えなかった。かれはほかにすることがあった。その先生は商売がくつ屋であった。いやだれもそこから皮のくつを買う者がなかったから、ほんとうは木ぐつ屋だと言ったほうがいい。かれは一日こしかけにこしをかけて木ぐつにするけやきやくるみの木をけずっていた。そういうわけでわたしはなにも学校では教わらなかったし、ABCをすら教わらなかった。\n「本を読むってむずかしいことでしょうか」\n わたしはしばらく考えながら歩いて、こう聞いた。\n「頭のにぶい者にはむずかしいが、それよりも習いたい気のない者にはもっとむずかしい。おまえの頭はにぶいかな」\n「ぼくは知りません。けれども教えてくだされば習いたいと思います」\n「よしよし、考えてみよう。まあ、ゆっくり教えてあげよう。たっぷりひまはあるからね」\n たっぷりひまがあるからゆっくりやろう。なぜすぐに始めないのだろう。わたしは本を読むことを習うのがどんなにむずかしいか知らなかった。もう本を開ければすぐに中に書いてあることがわかるように思っていた。\n そのあくる日歩いて行くとちゅう、親方はこしをかがめて、ほこりをかぶった板きれを拾い上げた。\n「はら、これがおまえの習う本だ」とかれは言った。\n なにこの板きれが本だとは。わたしはじょうだんを言っているのだろうと思って、かれの顔を見た。けれどかれはいっこうにまじめな顔をしていた。わたしは木ぎれをじっと見た。\n それはうでぐらい長さがあって、両手をならべたくらいはばがあった。そのうえには字も絵も書いてはなかった。\n わたしはからかわれるような気がした。\n「あすこの木のかげへ行って休んでからにしよう。そこでどういうふうにわたしがこれを使って、本を読むことを教えるか、話してあげよう」と親方は言って、わたしのびっくりしたような顔を笑いながら見た。\n わたしたちは木のかげへ来ると、背嚢を地べたに下ろして、そろそろひなぎくのさいている青草の上にすわった。ジョリクールはくさりを解いてもらったので、さっそく木の上にかけ上がって、くるみを落とすときのように、こちらのえだからあちらのえだをゆすぶってさわいでいた。犬たちはくたびれて回りに丸くなっていた。\n 親方はかくしからナイフを出して、いまの板きれの両側をけずって、同じ大きさの小板を十二本こしらえた。\n「わたしはこの一本一本の板に一つずつの字をほってあげる」とかれはわたしの顔を見ながら言った。わたしはじっとかれから目を放さなかった。「おまえはこの字を形で覚えるのだ。それを一目見てなんだということがわかれば、それをいろいろに組み合わせてことばにするけいこをするのだ。ことばが読めるようになれば、本を習うことができるのだ」\n やがてわたしのかくしはその小さな木ぎれでいっぱいになった。それでABCの字を覚えるのにひまはかからなかったけれども、読むことを覚えるのは別の仕事であった。なかなか早くはいかないので、ときにはなぜこんなものを教わりたいと言いだしたかと思って、後悔した。でもこれは、わたしがなまけ者でもなく、負けおしみが強かったからである。\n わたしに字を教えながら親方は、それをいっしょにカピにも教えてみようかと思い立った。犬は時計から時間を探し出すことを覚えたくらいだから、文字を覚えられないことはなかった。それでカピとわたしは同級生になって、いっしょにけいこを始めた。犬はもちろん口で言えないから、木ぎれが残らず草の上にまき散らされると、かれは前足で、言われた文字をその中から拾い出して来なければならなかった。\n はじめはわたしもカピよりはずっと進歩が早かった。けれどわたしは理解こそ早かったが、物覚えは、犬のほうがよかった。犬は一度物を教わると、いつもそれを覚えて忘れることがなかった。わたしがまちがうと親方はこう言うのである。\n「カピのはうが先に読むことを覚えるよ、ルミ」\n そう言うとカピはわかったらしく、得意になってしっぽをふった。\n そこでわたしはくやしくなって気を入れて勉強した。それで犬がやっと自分の名前の四つの字を拾い出してつづることしかできないのに、わたしはとうとう本を読むことを覚えた。\n「さて、おまえはことばを読むことは覚えたが、どうだね、今度は譜を読むことを覚えては」と親方が言った。\n「譜を読むことを覚えると、あなたのように歌が歌えますか」とわたしは聞いた。\n「ああ。そうするとおまえもわたしのように歌が歌いたいと思うのかい」と親方が答えた。\n「とてもそんなによくはできそうもないと思いますけれども、少しは歌いたいと思います」\n「じゃあわたしが歌を歌うのを聞くのは好きかい」\n「ええ、わたしは、なによりそれが好きです。それはうぐいすの歌よりずっと好きです。けれどもまるでうぐいすの歌とはちがいますね。あなたが歌っておいでになると、ぼくは歌のとおりに泣きたくなることもあるし、笑いたくなることもあります。ばかだと思わないでください。あなたが静かにさびしい歌をお歌いになると、わたしはまたバルブレンのおっかあの所へ帰ったような気がするのです。目をふさいで聞いていると、またうちにいるおっかあの姿が目にうかびますけれども、歌はイタリア語だからわかりません」\n わたしはあお向いてかれを見た。かれの目にはなみだがあふれていた。そのときわたしはことばを切って、\n「気にさわったのですか」とたずねた。\n かれは声をふるわせながら言った。「いいや、気にさわるなんということはないよ。それどころかおまえは、わたしを遠い子どもだったむかしにもどしてくれた。そうだ、ルミや、わたしは歌を教えてあげよう。そうしておまえは情け深いたちだから、やはりその歌で人を泣かせることもできるし、人にほめられるようにもなるだろう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 緒言\n\n「日本人の自然観」という私に与えられた課題の意味は一見はなはだ平明なようで、よく考えてみると実は存外あいまいなもののように思われる。筆を取る前にあらかじめ一応の検討と分析とを必要とするもののようである。\n これは、日本人がその環境「日本の自然」をいかに見ていかに反応するか、ということ、またそれが日本人以外の外国人がそれぞれの外国の自然に対する見方とそれに対する反応しかたと比べていかなる特色をもつかということを主として意味するように思われる。そうして第二次的には外国人が日本の自然に対する見方が日本人とどうちがうかということも問題になりうるわけである。\n もしも自然というものが地球上どこでも同じ相貌を呈しているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、従って上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には自然の相貌が至るところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも実はあまりに漠然とし過ぎた言葉である。北海道や朝鮮台湾は除外するとしても、たとえば南海道九州の自然と東北地方の自然とを一つに見て論ずることは、問題の種類によっては決して妥当であろうとは思われない。\n こう考えて来ると、今度はまた「日本人」という言葉の内容がかなり空疎な散漫なものに思われて来る。九州人と東北人と比べると各個人の個性を超越するとしてもその上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。しかし、ここでは、それらの地方的特性を総括しまた要約した「一般的日本人」の「要約した日本」の自然観を考察せよというのが私に与えられた問題であろうと思われる。そうだとすると問題は決してそう容易でないことがわかるのである。\n われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。\n 日本人の先祖がどこに生まれどこから渡って来たかは別問題として、有史以来二千有余年この土地に土着してしまった日本人がたとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力しまた少なくも部分的にはそれに成効して来たものであることには疑いがないであろうと思われる。\n そういうわけであるから、もし日本人の自然観という問題を考えようとするならば、まず第一に日本の自然がいかなるものであって、いかなる特徴をもっているかということを考えてみるのが順序であろうと思われる。\n もっとも過去二千年の間に日本の自然が急激に異常な変化をしたのだとすると問題は複雑になるが、幸いにも地質時代の各期に起こったと考えられるような大きな地理的気候的変化が日本の有史以後には決して起こらなかったと断言してもほとんど間違いはないと思われるから、われわれは安心して現在の日本の天然の環境がそのままにわれわれ祖先の時代のそれを示していると仮定してもはなはだしい誤謬に陥る心配はないであろうと思われる。\n それで以下にまず日本の自然の特異性についてきわめて概略な諸相を列記してみようと思う。そうしてその次に日本人がそういう環境に応じていかなる生活様式を選んで来たかということを考えてみたら、それだけでも私に課せられた問題に対する私としての答解の大部分はもう尽くされるのではないかと思われる。日本人を生んだ自然とその中における生活とがあってしかる後に生まれ出た哲学宗教思想や文学芸術に関する詳細な深奥な考察については、私などよりは別にその人に乏しくないであろうと思われる。\n\n 日本の自然\n\n 日本における自然界の特異性の種々相の根底には地球上における日本国の独自な位置というものが基礎的原理となって存在しそれがすべてを支配しているように思われる。\n 第一に気候である。現在の日本はカラフト国境から台湾まで連なる島環の上にあって亜熱帯から亜寒帯に近いあらゆる気候風土を包含している。しかしそれはごく近代のことであって、日清戦争以前の本来の日本人を生育して来た気候はだいたいにおいて温帯のそれであった。そうしていわゆる温帯の中での最も寒い地方から最も暖かい地方までのあらゆる段階を細かく具備し包含している。こういうふうに、互いに相容れうる範囲内でのあらゆる段階に分化された諸相がこの狭小な国土の中に包括されているということはそれだけでもすでに意味の深いことである。たとえばあの厖大なアフリカ大陸のどの部分にこれだけの気候の多様な分化が認められるであろうかを想像してみるといいと思う。\n 温帯の特徴は季節の年週期である。熱帯ではわれわれの考えるような季節という概念のほとんど成立しない土地が多い。南洋では年じゅう夏の島がある、インドなどの季節風交代による雨期乾期のごときものも温帯における春夏秋冬の循環とはかなりかけ離れたむしろ「規則正しい長期の天気変化」とでも名づけたいものである。しかし「天気」という言葉もやはり温帯だけで意味をもつ言葉である。いろいろと予測し難い変化をすればこそ「天気」であろう。寒帯でも同様である。そこでは「昼夜」はあるが季節も天気もない。\n 温帯における季節の交代、天気の変化は人間の知恵を養成する。週期的あるいは非週期的に複雑な変化の相貌を現わす環境に適応するためには人間は不断の注意と多様なくふうを要求されるからである。\n そうした温帯の中でも日本はまた他の国と比べていろいろな特異性をもっている。そのおもな原因は日本が大陸の周縁であると同時にまた環海の島嶼であるという事実に帰することができるようである。もっともこの点では英国諸島はきわめて類似の位置にあるが、しかし大陸の西側と東側とでは大気ならびに海流の循環の影響でいろいろな相違のあることが気候学者によってとうに注意されている。どちらかと言えば日本のように大陸の東側、大洋の西側の国は気候的に不利な条件にある。このことは朝鮮満州をそれと同緯度の西欧諸国と比べてみればわかると思う。ただ日本はその国土と隣接大陸との間にちょっとした海を隔てているおかげでシベリアの奥にある大気活動中心の峻烈な支配をいくらか緩和された形で受けているのである。" }, { "role": "assistant", "content": " 比較的新しい地質時代まで日本が対馬のへんを通して朝鮮と陸続きになっていたことは象や犀の化石などからも証明されるようであるが、それと連関して、もしも対馬朝鮮の海峡をふさいでしまって暖流が日本海に侵入するのを防いだら日本の気候に相当顕著な変化が起こるであろうということは多くの学者の認めるところである、この一事から考えても日本の気候は、日本のごとき位置、日本のごとき水陸分布によって始めて可能であること、従って日本の気候が地球上のあらゆるいわゆる温帯の中でも全く独自なものであることが了解できるであろうと思われる。\n このような理由から、日本の気候には大陸的な要素と海洋的な要素が複雑に交錯しており、また時間的にも、週期的季節的循環のほかに不規則で急激活発な交代が見られる。すなわち「天気」が多様でありその変化が頻繁である。\n 雨のふり方だけでも実にいろいろさまざまの降り方があって、それを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本はおそらく世界じゅう随一ではないかと思う。試みに「春雨」「五月雨」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッターロイヒテン」は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田の闇を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがい従って人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである。\n これに限らず、人間と自然を引っくるめた有機体における自然と人間の交渉はやはり有機的であるから、たとえ科学的気象学的に同一と見られるものでも、それに随伴する他要素の複合いかんによって全く別種の意義をもつのは言うまでもないことである。そういう意味で私は、「春雨」も「秋風」も西洋にはないと言うのである、そうして、こういう語彙自身の中に日本人の自然観の諸断片が濃密に圧縮された形で包蔵されていると考えるのである。\n 日本における特異の気象現象中でも最も著しいものは台風であろう。これも日本の特殊な地理的位置に付帯した現象である。「野分」「二百十日」こういう言葉も外国人にとっては空虚なただの言葉として響くだけであろう。\n 気候の次に重要なものは土地の起伏水陸の交錯による地形的地理的要素である。\n 日本の島環の成因についてはいろいろの学説がある。しかし日本の土地が言わば大陸の辺縁のもみ砕かれた破片であることには疑いないようである。このことは日本の地質構造、従ってそれに支配され影響された地形的構造の複雑多様なこと、錯雑の規模の細かいことと密接に連関している。実際日本の地質図を開いてそのいろいろの色彩に染め分けられたモザイックを、多くの他の大陸的国土の同尺度のそれと見比べてみてもこの特徴は想像するに難くない。このような地質的多様性はそれを生じた地殻運動のためにも、また地質の相違による二次的原因からも、きわめて複雑な地形の分布、水陸の交錯を生み出した、その上にこうした土地に固有な火山現象の頻出がさらにいっそうその変化に特有な異彩を添えたようである。\n 複雑な地形はまた居住者の集落の分布やその相互間の交通網の発達に特別な影響を及ぼさないではおかないのである。山脈や河流の交錯によって細かく区分された地形的単位ごとに小都市の萌芽が発達し、それが後日封建時代の割拠の基礎を作ったであろう。このような地形は漂泊的な民族的習性には適せず、むしろ民族を土着させる傾向をもつと思われる。そうして土着した住民は、その地形的特徴から生ずるあらゆる風土的特徴に適応しながら次第に分化しつつ各自の地方的特性を涵養して来たであろう。それと同時に各自の住み着いた土地への根強い愛着の念を培養して来たものであろう。かの茫漠たるステッペンやパンパスを漂浪する民族との比較を思い浮かべるときにこの日本の地形的特徴の精神的意義がいっそう明瞭に納得されるであろうと思われる。\n この地質地形の複雑さの素因をなした過去の地質時代における地殻の活動は、現代においてもそのかすかな余響を伝えている。すなわち地震ならびに火山の現象である。\n わずかに地震計に感じるくらいの地震ならば日本のどこかに一つ二つ起こらない日はまれであり、顕著あるいはやや顕著と称する地震の一つ二つ起こらない月はない。破壊的で壊家を生じ死傷者を出すようなのでも三四年も待てばきっと帝国領土のどこかに突発するものと思って間違いはない。この現象はわが国建国以来おそらく現代とほぼ同様な頻度をもって繰り返されて来たものであろう。日本書紀第十六巻に記録された、太子が鮪という男に与えた歌にも「ない」が現われており、またその二十九巻には天武天皇のみ代における土佐国大地震とそれに伴なう土地陥没の記録がある。\n 地震によって惹起される津波もまたしばしば、おそらく人間の一代に一つか二つぐらいずつは、大八州国のどこかの浦べを襲って少なからざる人畜家財を蕩尽したようである。\n 動かぬもののたとえに引かれるわれわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。このように恐ろしい地殻活動の現象はしかし過去において日本の複雑な景観の美を造り上げる原動力となった大規模の地変のかすかな余韻であることを考えると、われわれは現在の大地のおりおりの動揺を特別な目で見直すこともできはしないかと思われる。\n 同じことは火山の爆発についても言われるであろう。そうして火山の存在が国民の精神生活に及ぼした影響も単に威圧的のものばかりではない。\n 日本の山水美が火山に負うところが多いということは周知のことである。国立公園として推された風景のうちに火山に関係したもののはなはだ多いということもすでに多くの人の指摘したところである。火山はしばしば女神に見立てられる。実際美しい曲線美の変化を見せない火山はないようである。火山そのものの姿が美しいのみならず、それが常に山と山との間の盆地を求めて噴出するために四周の景観に複雑多様な特色を付与する効果をもっているのである。のみならずまた火山の噴出は植物界を脅かす土壌の老朽に対して回春の効果をもたらすものとも考えられるのである。\n このようにわれらの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き緊める「厳父」としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう。\n 地殻的構造の複雑なことはまた地殻の包蔵する鉱産物の多様と豊富を意味するが、同時にまたある特殊な鉱産物に注目するときはその産出額の物足りなさを感じさせることにもなるのである。石炭でも石油でも鉄でも出るには相応に出ても世界で著名なこれらのものの産地の産額に匹敵するものはないであろう。日本が鎖国として自給自足に甘んじているうちはとにかく世界の強国として乗り出そうとする場合に、この事実が深刻な影響を国是の上に及ぼして来るのである。それはとにかくこのようにいろいろのものが少しずつ備わっているということがあらゆる点で日本の自然の特色をなしているとも言われなくはない。\n 地震の現象でも大小の地震が不断になしくずしに起こっている代わりにたとえば中部アジアなどで起こるような非常に大規模な地震はむしろまれであるように思われる。この事はやはり前記の鉱産に関する所説と本質的に連関をもっているのである。すなわち、日本の地殻構造が細かいモザイックから成っており、他の世界の種々の部分を狭い面積内に圧縮したミニアチュアとでもいったような形態になっているためであろうと思われるのである。\n 地形の複雑なための二次的影響としては、距離から見ればいくらも離れていない各地方の間に微気候学的な差別の多様性が生じる。ちょっとした山つづきの裏表では日照雨量従ってあらゆる気候要素にかなり著しい相違のあるということはだれも知るとおりである。その影響の最も目に見えるのはそうした地域の植物景観の相違である。たとえば信州へんでもある東西に走る渓流の南岸の斜面には北海道へんで見られるような闊葉樹林がこんもり茂っているのに、対岸の日表の斜面には南国らしい針葉樹交じりの粗林が見られることもある。\n 単に微気候学的差別のみならず、また地質の多様な変化による植物景観の多様性も日本の土地の相貌を複雑にするのである。たとえば風化せる花崗岩ばかりの山と、浸蝕のまだ若い古生層の山とでは山の形態のちがう上にそれを飾る植物社会に著しい相違が目立つようである。火山のすそ野でも、土地が灰砂でおおわれているか、熔岩を露出しているかによってまた噴出年代の新旧によってもおのずからフロラの分化を見せているようである。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一\n\n 情報局、出版会という役所が、どんどん良い本を追っぱらって、悪書を天下に氾濫させた時代があった。日配が、それらのくだらない本を、束にして、配給して各書店の空虚な棚を埋めさせた。今から三年ばかり前は、その絶頂であった。本らしい本をさがす心と眼とは、駄本の列の上に憤りをもって走ったのであった。\n そういう時期に、都電が故障した偶然から、神明町のわきの本屋へ入った。何心なく見まわしていたら、「春桃」中国文学研究会編という一冊が目にとまった。\n その赤い文字の「春桃」という題を特別な気持で見たのには、いわれがあった。ざっと一ヵ月も前のことであったろう。護国寺わきの本屋に、この「春桃」が例により十何冊が一束げになって棚に並べられていた。そうもどっさり無感興に並んで、「米鬼を殺せ」という風な本の間にはさまれていては「春桃」という文字が訴える情趣もそがれている。わたしは、惰性めいた微かな反撥の気分のまま、この赤い二つの文字も通りすぎてしまった。\n たった一冊「春桃」と、今は、はっきり読める本を見た刹那、護国寺の本屋のことがすぐ思い浮んだ。全く違う好奇心を感じた。ぬき出してみると、その「春桃」は新本ではなく、誰かが金沢市の本屋で買ったものであった。そして、この本屋かどこかへ、売ったものである。そのことにも、一種の懐しみがある。買って帰って来た。\n 中国文学研究会という集りに対しては、随分古くから、ぼんやりした興味と期待とをよせていた。私たちの精神のなかには、所謂漢文学者を通してでない中国文学を知りたい欲望が非常につよい。現代中国文学の相貌について、深い関心が潜んでいる。その文学が、私共にも読めそうでいて、実は読めない。なまじ、魯迅を知り、魯迅の文学論を読む機会があっただけ、そしてエドガア・スノウの「支那の上の赤い星」の描写が刻みつけられているだけ、この自分でも読めそうで読めない現代中国文学は、不断の魅力となっているのである。\n「春桃」は昭和十四年に支那現代文学叢書第一輯として出されたものである。七篇の作品が収められている。落華生「春桃」、冰心女士「超人」「うつしえ」、葉紹鈞「稲草人」「古代英雄の石像」、郭沫若「黒猫」「自叙伝」等である。\n これら七篇の作品を読み、一貫してつよく心を打たれたのは、これらの中国の作家たちはおそらく小説で飯をたべてはいまい、というリアリスティックな印象であった。\n 一つ一つの作品については、それぞれ異った印象があるし、おのずから出来、不出来がある。しかし、七篇をとおして流れている云うに云えない生真面目な、本気な、沈潜した作者たちの創作の情熱は、少くとも日本の、浅い文学の根が、ジャーナリズムの奔流に白々と洗いさらされている作品たちとは、まるで出発点からちがったものであることを痛感させた。\n ここに集められている作品の作家たちは、おそらく皆、どの人も、中国の文学を愛する人々からは尊敬され、親愛の情をもって期待されている人々であろう。私のように、中国文化について知らない者でさえも、謝冰心女士の名は聞いて久しいし、郭沫若と云えば、彼が日本の家の内に愛妻と愛子たちとをのこし故国へ向って脱出した朝の物語までを、心に銘して知っている。\n だが、中国の社会の歴史は、近代企業としてのジャーナリズムというものを、日本ほど発達させていないのではないだろうか。日本のように、明治以来、よろめきつつ漸々前進しつつある近代の精神を、精神の自立的成長よりテムポ迅い営利的企業がひきさらって、文学的精励、文壇、出版、たつき、と一直線に、文学商売へ引きずりおとしてしまう現象は、中国文学にまだ現れていないのではないだろうか。\n バルザックの「幻滅」は十九世紀において、ヨーロッパに出版業が企業として擡頭し始めた時代に、作者たちが、どんなにその営利業の本性をむき出した奸策と闘い、打算に抵抗し、頑強に作家として闘わなければならなかったかということを、暑くるしいほどに描き出している。\n 芥川龍之介が馬琴を描いた作品の中には、版元が、為永春水と馬琴とを張り合わせようとする苦々しさが、馬琴の感想として語られている。淡く、語られている。\n バルザックの小説を読むと、ヨーロッパの近代文学の作家たちはあくのつよい近代出版業者たちと日夜もみ合いながら、上向する社会全般の経済関係の中で、互に勁くなって来ているように思える。文学者の力量は文学者として十分生活上の経済的基盤を与えるし、そのことは作家の思想性をも確立させ、強大な出版企業に対抗するだけの社会性を身にそなえたものとして来ているかと思える。\n 日本の作家の事情は、少くともこれまでは、中途半端であった。一定の文学的力量は、比較的たやすく彼及び彼女たちを食わせるようになる。けれども、その食わせかたは、日本的水準で、謂わば、手から口へ、という状態からあまり遠くない。一人の作家が、時流におされて、或る程度日常生活を世俗的に膨脹させてしまうと、そのふくらんだ日暮しを、ころがしてゆくために、執筆は稼ぎとならざるを得ず、稼ぎともなれば、注文に敏感ならざるを得ない。\n 戦時中、日本の文学者たちが示したおどろくべき文学精神の喪失は、日本の野蛮な権力による文化圧殺の結果として見られるものであるけれども、兇悪な権力が出版企業と結合して、薄弱な日本文化・文学を底から掘りかえして来た過程は、惨憺たるものがある。\n「春桃」一巻は、私たち日本の作家に、それらの事情について思いをめぐらせずにはおかない迫力をもっている。\n 中国の文化はまだ甚しく不均衡で、民衆の文盲率は高く、文章によって生計を保ちがたい状態かもしれない。出版ということは、利潤追求の手段となっていない程度であるかもしれない。しかし、文化のその状態は「春桃」に集められた作家たちの心に、食う食わぬをぬきにした創作の誠意を湧き立たせているように見える。\n みずから山河巨大な中国に生れ合わした人民の一人として、中国の民衆生活を衷心から愛し、おかれている苦渋の生活を哀惜し、その未来の運命の発展に対して限りない関心をもっている。そのこころが溢れている。ロシア文学史の十八世紀末から十九世紀の間に見られるロシアとロシア人の運命に対する、文学者たちのナロードニキ風の限りない関心が、「春桃」の作者達の行文の間に漲っている。魯迅によって切りひらかれた近代中国の優秀な文学は、そうした意味で、生粋の人民の文学の要素をもっている。\n アメリカの文学は、ブルジョア民主社会内の個性と理性とが発展し得る道行きの様々な経過と摩擦とを鋭く反映している。その意味で、世界的性格を帯びて来ている。ソヴェト文学は、より先の民主社会の創造力を表現している。半ば眠り半ばは確乎と覚醒している厖大なアジアの一国、中国で、資本主義以前にありながら、しかも、目下の急速な世界情勢の動きにつれて、豊饒な民族資源が才能さえも含めていきなり最も民主的方法で開発される十分の可能をもっているという事実は、私たちにとって、興味以上の感動すべき注目事である。\n\n 二\n" }, { "role": "assistant", "content": " 春桃は、徳勝門の城壁に沿った廂房に暮している三十歳ばかりの、すっきりとした清潔ずきの屑買い女である。崩れのこった二間の廂房の外には、黄瓜の棚と小さい玉蜀黍畑とがあり、窓下には香り高い晩香玉が咲いている。劉向高という、同じ年ぐらいの少しは文字のよめる男が、春桃と同棲している。向高は、春桃が一日の稼ぎを終って廂房に戻って来ると、いつも彼女の背をもみ、足をたたいてやった。そして商売の上では、価のある紙質や書類をよりわける。向高は、春桃をどうしても女房や、と呼びたい。そして、実際にそう呼ぶ。けれども春桃はその度毎に、「女房、女房って、そう呼んじゃいけないって云ってるじゃないか、ええ?」と、うけつけないのであった。春桃は、向高と自分とは天地も拝せず三々九度の盃も交さず、ただ故郷の兵火に追われて偶然遁げのびて来た道づれの男女が、とも棲みしているばかりだと主張していた。しきたり通りの婚礼をした春桃の良人は李茂という男だった。やっと婚礼の轎が門に入ったばかりの時、大部隊の兵が部落に乱入して来て、逃げ出した新夫婦は、二日目の夜馬賊に襲撃されて又逃げるとき、遂にちりぢりとなった。その時より四五年経った。彼女の几帳面さと清潔とを見出されて、或る西洋人の阿媽となったが、春桃には、どうしても西洋の体臭に添いかねて、やめてしまった。大きな屑籠を背負い、破れた麦稈帽子に、美しい顔の半分をかくした春桃は、「屑イ、マッチに換えまァす」と呼んで暑い日寒い日を精出した。そして帰れば夏冬の区別なく必ず体を拭いた。その湯を用意して待っているのは向高である。葱五六本、茶碗一杯の胡麻醤油を買って来て二人で食べる。「彼等のこの数年間の同居生活は、鴛鴦のようだと云っていけなければ、一対の小さな雀のようであったと云えよう。」\n ところが或る日のことであった。午砲の鳴る頃、春桃は、いつもの通り屑籠を背負ってとある市場へ来かかった。突然入口で「春桃、春桃!」と呼びとめた者があった。春桃は、向高でさえ、年に何度としか呼ばないそういう呼び方で、誰が自分を呼ぶかと、おどろいた。振返って、春桃の愕きは、物も云えない動悸に高まった。破れた軍服を着て、云いようない軍帽を斜にかぶって、両脚のない乞食こそは、李茂なのであった。\n 春桃は人力車をやとって、李茂と屑籠とをのせた。そして、廂房のわが家へ帰った。李茂は、小ざっぱりとした廂房の内部と、春桃の生活につよい好奇心がある。\n「お前とその劉という人とは一緒にこの部屋に住んでいるのかい?」\n「そうですよ。わたしたちは二人ともこの炕の上で寝ます」春桃は少しもためらう風を見せなかった。\n「じゃ、お前はその人に片附いたのかね?」\n「そうじゃないんだよ。いっしょに暮しているだけのことだよ」\n「じゃ、お前は今でもまだおれの女房というわけだね?」\n「いいえ、わたしは誰の妻でもないんだよ」春桃のこころのうちには、うまく云い表せこそしないが、誰のものでもない春桃の感じがあるのであった。「李茂の夫権意識は激しく動いた。」\n「そんなら、ひとがきっと生きている王八(女房をとられた男)と笑うだろう」\n「王八」ちょっとふくれた春桃は、しかしやはりおだやかに云った。「金もあり勢力もある人しか、王八になる心配はないんだよ」「今、わたしの体は、わたしのものだよ。わたしのすることが、あなたに恥をかかせることは決してない筈だよ」\n 李茂は、「一夜の夫妻は百日の情」というけれども、その百日はもう十以上も過ぎた。春桃は一人で住んで仕事を見つけ、手伝いに向高を見つけた。「情愛から云えば、むろん、李茂に対しての方がずっと薄い」春桃が李茂を連れて来たのは、親たちのつき合い仲間への義理や同郷のよしみからであった。「あんたがわたしを女房だと云っても、わたしは云いません」そして、春桃は泣いた。\n「あんたが片輪だからって、にべない仕打ちは私に出来ない。ただわたしは、あの人をすてかねるんだよ。みんな一緒に暮して、誰が誰を食わしてやってるなんて考えないことにしたら、いいじゃありませんか?」\n 李茂と向高とは、春桃と三人で暮しはじめた。向高は、少し本をよんだので「先に小人、後に君子」の道理をのみこめたし、生存の利害はきっちり春桃に結ばれていたし、嫉妬してはならないと云ったから、彼はその種子さえも踏みにじってしまった。李茂にしても、春桃のところから出てほかのどこへ行きたかろう。李茂は、家の内にいて、切手や紙のよりわけが上手になって行った。\n けれども二人の男と一人の女とが、一つ炕の上に寝るのは、どうもあまり便利ではなかった。二人の男の間に、微妙な不安があった。二人は、春桃をゆずり合い、幾度も字のかける向高は「赤い書付」をかいた。春桃は、何度もそれをやぶいた。そういうおだやかだが、こころにかかるいきさつのうちに或る夕方、向高の姿が見えなくなった。その姿をさがしても見当らず、がっかりして帰って来た春桃が見つけたのは、窓の欞子に自分の体をつり下げている李茂であった。彼は息をふきかえした。二日経って、春桃が商売からかえると、部屋からとび出して来る向高の姿を見た。\n「あんた、帰ったのかい......」春桃の頬を涙が流れた。\n「おれは、もう向哥と相談して、そうきめたよ、あの人が戸主で、わたしは同居人だ」\n 瓜棚の下で、又商売の話が賑やかに始められた。彼等の廂房に、戸口証が貼られた。戸主劉向高、妻劉代。李茂はもうぐっすり眠っていた。天の川はすでに低くなっていたからである。晩香玉の香の高いひっそりとした暗やみの中で、かすかに「女房や」と云いかけるのと「聞きたくもない。わたしはあんたの女房じゃないよ」という答えが聞かれた。\n こういう風趣の作品を書いた作者落華生が、コロンビア大学、オクスフォード大学に遊学して、専門は印度哲学の教授であるというのは面白い。余技のように作品を書いて来ていて、初めの頃は異国情調や宗教的色彩の濃いロマンティシズムに立つ作品であったという人が、一九三四年七月の『文学』にこの「春桃」を発表した。\n 新しい中国の知識人として、彼が享けた西欧の教養が、初めは漫然とヨーロッパ文明に対する東洋というものを意識させ、彼の作品が余技であれば尚更のこと異国情調という程度に止っていたのだろう。しかし中国人民の目ざめとともに、人民生活は、つよくひたひたと彼の紳士であり大先生である皮膚にしみ入って来たと思える。彼はそこに血のぬくもりと、折れども折れぬ民衆の生活力と、学問ならざる愛すべき人間叡智とを感じ直しているように思える。「人に依頼する者と人から掠奪する者のみが所謂風俗習慣を遵守し得る」親愛の情をもって、作者は春桃の生活態度を肯定している。ひとが何と云ったってかまわないし、妙なことを云えば、ねじこんでやればいい、という春桃の頸骨のつよさは、中国独特の肌理のこまかい、髪の黒い、しなやかな姿のうちにつつまれている。\n パール・バックは、中国の庶民の女の生きる力のつよさ、殆ど毅然たる勇猛心を実によく感得した。それら中国の妻たち、母たちは、高い身分から低い身分の女に到るまで、親愛と敬歎をもって描かれている。しかし、文学というものの微妙さ、民族性というものは、云うに云えなく興味ふかい。パール・バックの筆は沈着、精密、精彩をもっているけれども、そして時に偉大に近いけれども、落華生が「春桃」一篇に漂わしている中国のうっすり黄色い、柔かい滑らかな靭さは、パール・バックの生れつきの皮膚とはちがった手ざわりをもっている。\n 封建の伝統をもたない国の女性であるパール・バックが中国の婦人のおどろくべき強靭な生活力を、主として、妻、母という極めて重い軛の担い手としての姿の裡に発見し、描き出した。春桃は、深い伝統の波の底にあって、しかも習俗の形に支配されきってはしまわない一個的婦女として、自覚しない独立の本能に立って見られていることも深い深い意味を感じる。あまりの貧しさ、貧しさ極った無一物から漂然とした従来の中国庶民の自由さとちがって、春桃は、稼業を見つけ出す賢さ、男二人をそれぞれに役立ててゆく才能、小さい店もひろげてゆく実際能力をもつ女であるからこその「誰のものでもない」こころもちを通して生きてゆく。中国文学において、この作品のモティーヴはこの点から観察しただけでも、或る前進の足どりを示していると思える。\n 本もののヨーロッパを知っている落華生は、中国の有閑モダン女性というものに、赤面を感じるところが少くないらしい。短い、辛辣な文句が「春桃」のうちに散在している。\n\n 中国の社会を歴史の遠近もはっきりつけてヨーロッパの心の上に、くっきり映してみせたパール・バックの作品は、世界文学の上にも意義をもっている。彼女の芸術は、東洋をうつす卓抜な鏡の一つであった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n\n六月三十日(木曜)\n 今日は総ざらひだ。「涼風超特急」は、先づ大丈夫と思ふが、此ういふものをトリに据える心配が残る。「お化け」を立つ、この馬劇は、全く菊田式ルーズネスを充分発揮した、かなり無礼なものだが、何のへん迄客が笑ふものか。七時すぎすぐ近くの花の茶屋へ。那波と樋口とで食事、一座の不要なのをドン〴〵チョンにしようといふ話、東宝映画のだらしなさ、森岩雄の話、僕は森絶対擁護で、彼を第一線に引戻すべく運動したいのだが、評判が悪いので困る。花の茶屋の料理おかったるく、ウイをのめど満腹せず、ルパンへ寄って、楽亭の支那料理食って帰る。\n\n\n昭和十三年七月\n\n\n七月一日(金曜)\n 十一時から舞台稽古、電話で、渡辺はま子急病とある、あはてゝ座へ行くと、はま子肋膜で聖路加入院、やれ〳〵手数をかけやがる。「父帰る」の娘を藤田、「涼風」の役は、三益・北村に振り分ける。肋膜じゃ一ヶ月ダメだから本役になるわけ。「父帰る」が二時かゝり位になる。これは先づ大丈夫。「涼風超特急」は、五時頃から夜中の二時近く迄かゝった。先づ手順はついたが、スマートすぎはしまいかと心配だ。双葉のオム弁で食事をすませ、四時近くから「お化け大会」にかゝったが、さあこいつおしまひへ行く程ひどいので心配。終ったのは八時半、くた〳〵に草疲れた、出ると又雨だ。\n\n\n七月二日(土曜)\n 有楽座初日。\n 今朝九時半頃ねて、ぽっかり眼のあいたのが三時、五時に迎へが来て、座へ出る。まだ雨だ、それもかなり強い。初日の入りは満員、補助も出た。「お化け大会」は、一幕目が一ばん笑ふ、段々とつまらなくなり、馬鹿々々しくて笑ひながらやる始末。ルーズなひどい本である。受け方は心配する程のことはない、他愛なく笑ってゐる。「父帰る」大丈夫受ける。三益はぢめ皆セリフが入ってないので、やりにくかった。でも客はシュー〳〵よく泣いた。「涼風超特急」は狙ひの通り行くと見た。も一つ爆笑がほしい感じはするが先づ以て成功、はま子休演などこたへない。ハネ十一時半、ダメを出しカットをして帰宅、レアオールドをのみ、色々食ってねる。\n\n\n七月三日(日曜)\n 二日目のマチネー、又雨だ、東海道線又不通、水害多いらしい。座へ出ると各等売切、大満員である。「夏の日」をのぞいたが、渡辺以外ひどくまづいので呆れる。「お化け」第一幕は絶対に笑ふ。「父帰る」みんなセリフが確りしてないので困る。「涼風」は外人の真似大丈夫受けるが、模写はてんで通じない。ホテルへ一人で行き、ポタアジュ、フィレソールにパスクリンデプール。夜も大満員、「お化け」カットして大分まとまって来たが尻つぼまりで困る。「父帰る」泣きすぎたり、泣かな過ぎたり此の役は、そこの程度がむづかしい。「涼風」も又カットし、模写は、渡辺はま子とエノケンの二つにしたら、これは絶対の受け。まだ雨、まっすぐ帰宅し、レアオールドを傾ける。\n 渡辺はま子は、聖路加へ入院したが、花輪をよこして、「聖路加病院にて 渡辺はま子」と来たのは大出来だ。又、今日の夕刊に休演お詫び広告を、コロムビアと共同で出してゐるが、これもよかった。\n\n\n七月四日(月曜)\n 十一時近く迄ねる、まだ雨がやまない、驚くべき天気。道子同道、名物食堂のデンツーへ。母上と待ち合せて、食事。ポタアジュにスパゲティにビフテキ、まづくはない。座へ出る。天候の影響か少々空席あり。「お化け」の一幕目の受け方スゴし、終りの方を何とかしたい。「父帰る」今日の出来よろしかりし、「涼風」トン〳〵行くやうになったが、ハネが十一時十五分前、もう十五分がところカットしなくてはならず。コロムビアに頼んどいた二葉あき子といふのが来る、七日あたりから出さうと思ひ、芝居を見せておいた。ハネて、ルパンへ行くと、田中三郎に逢ひ、三郎に引っぱられて、分とんぼへ行った。\n\n\n七月五日(火曜)\n 雨はあがったが、えらい風だ。日劇のアトラクション「スクラップショウ」の後半だけ見る、出て、銀座のアザミで犬の大きい玩具を買って、聖路加病院へ渡辺はま子の見舞に行く。藤山も一緒になり、又日劇へ、「スクラップショウ」の前半を見る。どうも感心しない。松平晃が来て三人でホテルのグリルへ。コンソメに鶏ジェリー、ビフカレーライス。藤山のオゴリ。座へ出ると、二円に空席あり。開演中、神戸大洪水の号外出る。「お化け」らくに遊ぶ、渡辺にハリキリを任せて。「父帰る」汗がふけないので苦しい。「涼風」又カットしたがまだハネが十一時二十分前。ルパンへ、屋井と久しぶり。藤山も一緒。ブラック・エンド・ホワイト快し。\n\n\n七月六日(水曜)\n 暑い。神戸の大洪水の新聞、大阪の八月が何うかと思はれる。食後、「父左団次を語る」を読む。三信ビル地下の理髪室へ行く。ホテルのグリルへ。冷コンソメと、ラヴィオリ、ポークビンズを食ふ。座へ出ると、今日もハッキリ満員にならない。「お化け」楽でいゝが、はりあひなし。「父帰る」僕はぢめ、どうもセリフがおこつく。明日けい古し直すことに決定。「涼風」は、僕の出場が少いことが淋しい原因らしい。まだ十一時二十分前ハネ。柳永二郎、娘のことをたのみに楽屋へ来る。二戸儚秋も来り、東宝入社のこと頼まれる。まっすぐ帰宅、レアオールド少々のみ、ねる。\n「父帰る」は、やればやる程六ヶしい。役者が文学的でなく、モダンなためだが、一つには本読みをしなかったゝめである。斎藤のイズムを発表する唯一の機関を略したゝめである。\n\n\n七月七日(木曜)\n 事変一年、ラヂオが正十二時に、一分間黙祷して下さいと言ふ。二階で、「夏の日の恋」と「お化け」のカットをする。「父帰る」を読み直す。「父左団次を語る」を読み上げ、読書日記をつけ、「三十日」のため随筆二枚書く。能率あげたな。座へ。二葉あき子を明日より出演させるので、歌を定める。それから部屋で「父帰る」の読み合せ、三益が理解力のないのに驚いた。花井と田村の「夏の日」のセリフを直す、急しい〳〵、夕食は親子丼一個。入りは今日も九分。「父帰る」まづ、よくなった。京極と藤山・松平に加納でルパンから牛込松ヶ枝へ行く。三時近く帰宅。\n 中野実、大阪の隊から葉書をよこして「留守中たのむと言ふことを忘れた。生還せぬ覚悟で遺言を書いてゐる。」と。事変一年、「涼風」の幕あきで客に起立させ、君ヶ代をボックスでやらせ、その間黙祷して貰った。\n\n\n七月八日(金曜)\n 里見弴の「女優」を読み出す、森律子の話で、モデル的興味もあり、たのしめる。座は、殆んど満員である。今日、東宝社員の異動あり、有楽座主任岡崎は名古屋へ廻され、三橋はこっちへ来て営業部長といふ昇進振りだ。有楽座は畑精力が主任。「父帰る」の引込みが、ト書通りにやると何うしても客が笑ふのだ、これは僕のからだの持つ愛嬌が何うにもならないのだと思ふ。「涼風」今日より二葉あき子出演、曲も「だまってゝネ」が受けて効果はあった。ハネ十時三十分。伊藤松雄と斎藤豊吉で、フロリダ・キチンへ寄り、帰宅。\n\n\n七月九日(土曜)" }, { "role": "assistant", "content": " ボビーと庭で遊ぶ、噴水を出すと、妙な奴で池へ飛込んで噴水を食はうとする。東宝ビルへ。那波に二戸のことを頼む。秦に今月の評を求めると、「父帰る」が無理だと言ふ。十一月を又大阪の、十二と一月を有楽座といふやうな話、一月がほしいからこの話に乗る。日比谷映画へ入って「大地」“Good Earth”を半分程見る。ホテルグリルへ行くと、織田氏に逢ひ、コール・コンソメとチキンパイ。座へ出る、今日は悉く満員。「お化け」ののっけから「涼風」までよく笑ふ。ハネ十時三十五分。ルパンへ、織田氏と会ふ、芝居の話しつゝ、又楽亭とウイ。\n\n\n七月十日(日曜)\n マチネーで十一時半に迎へ来り、座へ。もう補助も売切れて客は外へ溢れてゐる。「お化け」で子供客がキャー〳〵喜ぶ。「父帰る」も力が入った。「涼風」の外人が、やたらに受ける。夕食は、そぼろ丼一個。夕刊の朝日に番匠谷英一が、凡そ好意のない、松竹の廻しものみたいな悪評を書いてるので腹が立った。「父帰る」終ると川口松太郎が来て、今見たがあゝさらりとやるべきではないと言ふ。きくにはきいてたが反対だ。大阪の肥田増雄氏令息と一緒に来訪、いつも元気な人。まっすぐ帰宅。朝日の夕刊に、まだ気をくさらせつゝ、ねる。\n「父帰る」を、もっとクサクやれと、川口が言ふ。然し、今迄の「父帰る」は、泣きすぎてゐる、わめきすぎてゐる、ト書に忠実でない、今度は、原作のト書のまゝやってゐるつもりだ。菊池氏に見て貰ひたい。これが一ばん真に近いと言って呉れるだらう。\n\n\n七月十一日(月曜)\n 十一時起き、二戸から電話、二時に東宝ビルで待ってるやうに言ふ。那波支配人に、二戸を紹介し、ぜひ入れてくれとたのむ。三益は八月の旅も休まして呉れと言ひ出した、所詮アテに出来ないから、後釜の引抜きに力を入れ、新進を養成する。時間を見といて、歌舞伎座の伊井蓉峰祭の口上だけ立見した。何ともヘンなものなりし。デンツーで二戸と食事、日比谷で「大地」の後半を見る、蝗の来襲のとこ面白かった。座へ出ると、九分九厘の入り。報知に批評出る、之も「父帰る」不評だ、然し演出は変へない。肥田、京極と築地の大和にゐる。折柄見物に来てたダッシー八田氏と共に行く。二時すぎ迄。\n\n\n七月十二日(火曜)\n 十時半起き、道子と何か見に行く約束、新聞の広告欄を見ても洋画輸入禁止だから古物ばかり。銀映座へ行く。期待してなかった「別れの曲」“La Chanson de l'adieu”が中々よく、期待してた「巴里祭」“14 Juillet”が一向に面白くなし、ルネ・クレールは何うも好まぬ。もう一つ見ようと、銀座映画劇場へ、松竹大船の「按摩と女」を見る。清水宏作品で東宝映画よりはいゝ。支那グリル一番で食って、座へ出る。今日も九分の入り。読売に河野通勢の評出る、これも「父帰る」悪し。然し此うも問題になれば企画としては大成功なり。「お化け」楽演。「父帰る」は汗、評判悪くちゃアワン。ルパンで軽くのんで帰宅。\n\n\n七月十三日(水曜)\n 十一時半迎へ来り、第一ホテルへ、有楽座の新(畑)旧(岡崎)支配人の歓送迎会である、第一ホテルは初めてだが、安直でいゝ。丁度文芸部員が揃ったので、大森の福利庵迄のし、九、十、十一月とプランを練り、整理すべき役者達の名を挙げ等する。座は今日も九分の入り、他座はよっぽどひどいらしく東劇の青年歌舞伎など四分位の入りの由。大成功といふべし。ハネて、今夜は久保田万太郎氏に吉原山口邑をごちさうになる、屋井・その他で行く。吉原もやかましくなり十二時の大ビケなりと。二時すぎ迄のむ。\n\n\n七月十四日(木曜)\n 十二時迄ねる。「都」に評が出た、これも賞めてゐない、今月は劇評は総ていけなかった。暑い。永井荷風の新刊「おもかげ」を読み出したが、これがダレてゐるのでよけい暑い。入りは九分九厘である。「父帰る」劇評に負けたか、えらく出来が悪かった。ちっとも乗って来ない感じ。終るとクサる。「涼風」まとまって気持よし。鈴木桂介が禿頭ふり〳〵来る、鏑木清一が中元に来る、よく禿の来る日。ハネ十時半、まっすぐ帰宅、いやはや暑い。――やれ夏なり〳〵。\n\n\n七月十五日(金曜)\n 暑さでじっくりと寝られず、屡々目がさめる。十二時に山水楼へ出かける。海軍省の松島中佐を招いて食事。畑・樋口・菊田と揃ひ、色々話した、松島氏によき材料あり、一寸話をきいたゞけでも涙ぐましいのがある。これを近々にまとめて借りる約束。「手紙」といふ仮題をつける。それから車で浅草へ出てみる、盆の人出も大したことなく、常盤座、笑の王国も二階はガラあき、中西でライスカレーの夕食。座へ出る、殆んど満員だが二階が一寸空いてる。「父帰る」何となくやりにくゝて弱る。一雨あって稍々涼し。ハネて、ルパンへ行く。千野と佐藤健さんに会ふ。二戸が一緒、映画昔ばなしに夜を更かす。\n\n\n七月十六日(土曜)\n 暑くて又安眠出来なかった。新聞に、銀座のネオン廃止だの、肉類制限だのと、ます〳〵世間はやかましい。三時に迎へ来り、道子と墓参に出かける。雑司ヶ谷の祖母上のところへ寄り、涼しいので一時間余ゐた。ホテルのグリルへ行って、カレーライスを食ふ。暑いと此奴が食ひたくなる。今日はお盆のため、すっかり売切れ。「お化け」大受け。「父帰る」道具がこはれたり、戸が外れたりして気になり、「新二郎、お前お父様などゝよく空々しいことが言へるな」のあと絶句してしまった。「涼風」今日の客には向かない。ハネ十時半、早田・穂積・南僑とで明月へ寄り、Tボンステーキ食ひ、ボビーに骨を土産にして帰る。\n 今日大阪の寺本と吉岡社長が楽屋へ来り、大阪の出しものを相談。しようがないから大ハリキリの勉強で、二から三本出ることゝし、一、菊田のカナリヤ軒 二、夏の日の恋 三、ガラマサどん 四、海軍のロッパと定めた。\n\n\n七月十七日(日曜)\n 十時起き、暑い。マチネーだから十一時半に出る。座は大満員、補助も出切ってゐる。「お化け」を此の日の客も最も喜ぶ。「父帰る」汗。「涼風」甘い客にはピンと来ない。今月は僕の大活躍ってとこがなく、ロッパファンにはそれが失望らしい。昼の終り、外出する元気なし。夕食は、プランタンのオムレツとカレーライス。夜の部、大満員である。僕よりひどい汗っかきの渡辺の背中がグッショリ、さはれない。大阪行きの配役は明日決定する。三益は、全く変り、もはや手なし。ハネて、藤山と明月へ、食欲なし、ポタアジュとコールミート。帰宅、暑しと言ふばかりなり。\n\n\n七月十八日(月曜)\n 暑い、といふことは日記に書いたってしょうがないが、暑い。冬は、小便に起きて、又床へ入る時、しみ〴〵嬉しいが、夏は、ものういだけだ。二時に銀座へ。モナミで藤山と待ち合せ、銀座映画劇場へ入る。大船の「彼女は何を覚えたか」といふの、中々面白い。名物食堂のハゲ天へ行き、暑さと戦ふ気持で天ぷらを食べる、八月の大阪の配役をする。「夏の日の恋」の二枚目は青年部の加川久を使ってみることゝする。ソ連と日本と衝突のニュースで、心配になる。この上、日ソ戦ふことになったら大変だ。入りは、八の日のせいか、補助椅子を売切る大満員。ハネて、藤山とルパンへ。\n\n\n七月十九日(火曜)\n 今日もどんより蒸し暑い。母上・道子と高島屋迄行き、地下の喫茶で冷たいものをのむ、全館冷房で涼しい。一人で日劇へ、「航行遮断」といふヘンなのを見せられて参る。次に「南十字星」といふレヴィウ、自分のとこのを見てちゃ気のつかない色々なことを学ぶ。偶然屋井と会って、ホテルのグリルへ。ハムエグスのジェリーとゲームパイ。座へ出ると、補助売切れ、他座はひどいさうだがうちばかりは凄い。ハネて、ビクター岡によばれ、京極も一緒で、中州の松本ってのへ行く。川っぷち。ウイのまず、幕の内など食ふ。\n\n\n七月二十日(水曜)\n ジリ〴〵汗が出て、安眠しない。耳へ汗が入るから綿をつめる。新聞によれば、冷房も遠慮から禁止となりさうな様子、やれ〳〵まあ。二時日劇集合、江東楽天地の「お化け大会」を見物に行く、渡辺・三益は例によって来ず、山野・花井・北村・藤田で出かける。昔の八幡の藪知らずだが、その幼稚さ昔よりひどく、暑いこと一と通りならず。淡路浪郎危篤の報を受けたので九段の警察病院へ行く、浪郎今夜にも危い(肺)といふのに元気、シャレなど言ふ。十円見舞として置き、おとわ亭でカツとライスカレー食って座へ。今夜も補助売切。尻っぱね「父帰る」出来がいゝと思ったのに手一つも来ず。まっすぐ帰る。松平晃がブラックエンドホワイト一壜土産に呉れた。森岩雄来訪、要談色々。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "\n第十六回\n\n 扨も常樂院は紺屋五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々と用金を出させんと先本堂の客殿に請じ例の正面の簾を卷上れば天一坊は威有て猛からざる容體に着座す其出立には鼠色琥珀の小袖の上に顯紋紗の十徳を着法眼袴を穿たり後の方には黒七子の小袖に同じ羽織茶宇の袴を穿紫縮緬の服紗にて小脇差を持たる剪髮の美少年の面體雪を欺くが如きは是なん諏訪右門なり其傍らに黒羽二重の小袖に煤竹色の道服を着したるは遠藤屋彌次六一號鵞湖山人なり孰も整々として控たれば四人の者は思はず發と計りに平伏す時に天一坊聲清爽に其方共此度予に隨身せんとの願ひ神妙に存ずるなり依父上より賜はりし證據の御品拜見さし許し主從の盃取らすべしとの詞の下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒御家來に御召抱下され度と詞を盡して願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺して差出し御判物を戴き帶刀苗字をゆるされしかば夫々に改名して家來分となりにける先紺屋五郎兵衞は本多源右衞門呉服屋又兵衞は南部權兵衞蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人と各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間郡川越に有徳の親類あれば彼方か御同道下さらば金千兩位は出來すべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越在の百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續にて辯に任して諸人を欺き櫻井村にて右膳權内馬場内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井五兵衞千塚六郎兵衞大圓寺自性寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩出來せり偖千塚六郎兵衞は帳本にて金子は常樂院へ持參の上證文と引替る約束にて伊賀亮に附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越六郎兵衞の勸に因て江戸屋七左衞門叶屋八右衞門美作屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御出府の節は途中迄御出迎仕つらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃へ立戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來せしと物語れば皆々大に悦び先六郎兵衞に夫々の判物を渡せしかば六郎兵衞は是を請取川越の地へ歸りけり跡に皆々此※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)を外さず近々に江戸表へ下らんと用意にこそは掛ける先呉服物一式は南部權兵衞是を請込染物は本多源右衞門塗物の類は遠藤森右衞門が引請夜を日に繼で支度に掛ば二月の末には萬々用意は整のひたり爰に皆々を呼集め評定に及ぶ樣は直さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜を窺はんやと評議區々にて更に決着せざりしにぞ山内伊賀亮進み出て申樣は直に江戸表へ罷下らん事先以て麁忽に似て然べからず其仔細は先年駿河大納言殿の御子息長七郎君も先大坂へ御出の吉例も有ば此先例に任せ一先大坂へ出張ゆる〳〵關東の動靜を見定め變に應じて事を計らはんこそ十全の策と云べしと理を盡して申ければ皆一同に此議に同ず道理の事とて評議は此に決定したり然ば急ぎ大坂へ旅館を構へ是へ御引移有べしとて此旅館の借受方には伊賀亮が内意を受則ち常樂院が出立する事にぞ定まりぬ頃は享保十一午年三月朔日常樂院は美濃國長洞村を出立し道を急ぎ大坂渡邊橋紅屋庄藏方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿は金比羅參りの定宿にて常樂院は其夜主人の庄藏を呼近づけ申樣は此度聖護院の宮御配下天一坊樣當表へ御出張に付御旅館取調べの爲に拙寺が罷越候なり不案内の事ゆえ萬端其許をお頼申なりとて手箱の中より用意の金子を取出しこれは些少ながら御骨折料なりと差出しければ庄藏は大いに悦び委細畏こまり候と翌日未明より大坂中を欠廻り遂に渡邊橋向ふの大和屋三郎兵衞の控家こそ然るべしと借入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速承知しければ庄藏は我家へ歸り其趣きを常樂院へ物語れば常樂院は偏に足下の働らきなりしと賞賛し庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に赴き辯を飾りて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下の控家を借用の儀を頼入しに早速の承知忝けなしと述終り此は輕少ながら樽代なりと金子を贈り借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印し宿老へも相屆け萬端事も相濟たれば常樂院は尚も紅屋方に逗留し翌日より大工泥工の諸職人を雇ひ破損の處は修復を加へ新規に建添などし失費も厭はず人歩を増て急ぎければ僅の日數にて荒増成就したれば然ば迚一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守に殘しいよ〳〵天一坊樣御出張の節は斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾斯樣々々の場所へ普請出來の事まで申述ければ常樂院が留守中に此方も出立の用意調ひ居れば然あらば發足有べしとて其手配りに及びける頃は享保十一年四月五日いよ〳〵常樂院の許を一同出立には及びたり其行列には第一番の油箪掛し長持十三棹何れも宰領二人づつ附添その跡より萠黄純子の油箪白く葵の御紋を染出せしを掛し長持二棹露拂二人宰領二人づつなり引續きて徒士二人長棒の乘物にて駕籠脇四人鎗挾箱草履取長柄持合羽籠兩掛都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供御長持預りの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人網代の乘物駕籠脇の侍ひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門諏訪右門遠藤彌次六藤代要人等なり先箱二ツは手代とも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人傘持草履取合羽籠兩掛茶辨當等なり引續いて常樂院天忠和尚藤井左京山内伊賀亮等孰も長棒の乘物にて大膳が供立に同じ惣同勢二百餘人其體美々しく長洞村を出立し大坂指て赴き日ならず渡邊橋向の設けの旅館へぞ着したり伊賀亮が差※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)にて旅館の玄關に紫縮緬に葵の御紋を染出せし幕を張渡し檜の大板の表札には筆太に徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に押立玄關には取次の役人繼上下にて控へ何にも嚴重の有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向に知ざる處ろ翌朝に至り市中の者共は是を見付て只膽を潰すばかりにて誰云となく大評判となり紅屋は不審晴ず兎も角もと大和屋三郎兵衞方へ到り前の段を物語り後難も恐ろしければ何に致せ表札と幕をば一先外させ申べしとて兩人は急に袴羽織にて彼旅館へ赴き中の口に案内を乞ば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄に何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を突私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒急速に常樂院樣に御目通り願ひ相伺ひ度儀ありて推參仕れり此段御取次下さるべしと慇懃に相述れば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し通じければ天忠和尚は偖は紅屋等が何か六かしき事を申越たかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮打點頭夫こそ表札幕などの事にて來りしならん返答の次第は斯々と委細に常樂院へ差※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)したりける\n\n第十七回\n" }, { "role": "assistant", "content": " 斯て常樂院は伊賀亮の内意を請徐々と出で來り彼庄藏三郎兵衞の兩人に對面するに兩人は口を揃て申す樣何とも恐入り候事ながら貴院先達て仰聞られ候には聖護院宮樣の御配下にて天一坊樣の御旅館とばかり故庄藏御世話申三郎兵衞の明店御用立差上候ひしに只今御玄關を拜見仕つるに徳川天一坊樣御旅館との御表札あり又御玄關には葵御紋の御幕を張せられしが右樣の儀ならば前以て私共へお話の有べき筈なり若し此事町奉行所より御沙汰あらば貸主三郎兵衞は勿論世話人の庄藏までの難儀なり何卒右の表札と御玄關なる御紋付のお幕はお取外しを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉を聞て打笑乍ら申けるは成程仔細を知ねば驚くも無理ならず然ども御表札と御紋付の幕を暫時なりとも取外す儀は叶ひ難し其故は聖護院宮樣御配下天一坊樣御身分は當將軍吉宗公の未だ紀州公御部屋住の時分女中に御儲けの若君にて此度江戸表へ御下向あり御親子御對顏の上は大方は西の丸へ直らせらるべし左樣に輕からぬ御身分にて徳川は御苗字なり又葵は御定紋なり其方輩が少しも案じるには及ばず若も町奉行より彼是を申出ば此方へ役人を遣はすべし屹度申渡すべき筋も有其方共も落度には毛頭相成ず氣遣ひ無用なり何分無禮の無樣に致すべしと云渡しければ兩人は是を聞て肝を潰し將軍の御落胤との事なれば少こし安堵しけれども後々の咎を恐れ早速名主組合へ右の段を屆け夫より町奉行の御月番松平日向守殿御役宅へ此段を訴へける是に依て東町奉行鈴木飛騨守殿へも御相談となり是より御城代堀田相模守殿へ御屆に相成ば御城代は玉造口の御加番植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿へも御相談となりしが先年松平長七郎殿の例もあり迂濶には取計ひ難し先々町奉行所へ呼寄篤と相調べ申べしと相談一決し御月番なれば西町奉行松平日向守殿は組與力堀十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋の天一坊の旅館へ遣はさる兩人は玄關より案内に及べば取次は遠藤東次右衞門なり出て挨拶に及ぶに兩人の與力の申には我々は西町奉行松平日向守組與力なるが天一坊殿に御重役御意得たし少々御伺ひ申度儀ありと述ぶ取次の遠藤東次右衞門は早速奧へ斯と通ぜんと先兩人を使者の間へ請じ暫く御待有べしと控へさせける間毎々々の立派に兩人も密かに肝を潰し居しが頓て年頃は三十八九にて色白く丈高く中肉にて人品宜しき男の黒羽二重の小袖に葵の御紋を付下には淺黄無垢を着し茶宇の袴を靜々と鳴して出來るは是なん赤川大膳なり頓て座に就て申樣拙者は徳川天一坊殿家來赤川大膳と申者なり何等の御用向にて參られしと尋ければ與力等は平伏して私し共は當月番町奉行松平日向守組與力堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守御目通り致し直に御伺ひ申度儀御座候得ば明日御役宅迄天一坊樣に御入來ある樣との趣きなりと述ければ大膳は篤と聞濟し其段は一應伺ひの上御返事に及び申べしと座を立て奧へ入しが暫く有て出來り兩人に向ひ御口上の趣き上へ伺ひしに御意には町奉行の役宅は非人科人の出入致し穢はしき場所の由左樣の不淨なる屋敷へは予は參る身ならず用事と有ば日向守殿に此方へ來られよとの御意なれば此段日向守殿へ御達し下されと言捨て奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰據ころなく立歸り右の次第を日向守へ申聞れば此は等閑ならぬ事なりとて又も御城代堀田相摸守殿へ申上らるれば左樣の儀ならば是非なし御城代屋敷へ呼寄對面せんと再び堀片岡の兩人を以て御城代堀田相摸守殿屋敷へ明日天一坊殿入せられ候樣にと申入ける此度は異儀なく承知の趣きの返答あり依て日向守殿には與力同心へ申付る樣天一樣定めし明日は乘物なるべし然ど御城代の御門前にて下乘致さすべし若も下乘なき時は屹度制止に及ぶべしと嚴重にこそ申渡し翌を遲しと待れける頃は享保十一丙午年四月十一日天一坊は供揃ひして御城代の屋敷へ赴むく其行列には先に白木の長持二棹萌黄純子に葵御紋付の油箪を掛け宰領二人づつ跡より麻上下にて股立取たる侍ひ一人是は御長持預りの役なり續いて金御紋の先箱二ツ黒羽織の徒士八人煤竹羅紗の袋に白く葵の御紋を切貫し打物を持せ陸尺十人駕籠の左右に諏訪右門本多源右衞門高間大膳同じく權内藤代要人遠藤東次右衞門等また金御紋の跡箱二ツ簑箱一ツ爪折傘には黒天鵞絨に紫の化粧紐を懸銀拵への茶辨當合羽籠兩掛三箇跡より徒士四人朱網代の駕籠侍ひ四人打物を持せ常樂院天忠和尚引續いて同じ供立にて黒叩き十文字の鎗を持せしは山内伊賀亮なり其次にも同じ供立に鳥毛の鎗を持せしは藤井左京なり少し離れて白黒の摘毛の鎗を眞先に押立麻上下にて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭たり右の同勢堂々として渡邊橋の旅館を立出下に〳〵と制しをなし御城代の屋敷を指て來りければ道筋は見物山をなして夥だしく既に御城代屋敷へ到り乘物を玄關へ横付にせん氣色を見るより今日出役の與力駈來る是ぞ島秀之助といふ者なり大音上て下乘々々と制せしが更に聞ぬ風して尚も門内へ舁込んとす此時島秀之助駈寄天一坊の乘物の棒鼻へ手を掛て押戻し假令何樣なる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀より御達し無うちは御城代の御門内打乘決して相成申さず是非御下乘と制して止ざれば然ばとて餘儀なく門外にて下乘し玄關へこそは打通りぬ\n島秀之助が今日の振舞後に關東へ聞え器量格別の者なりとて元文三年三月京都町奉行を仰付られ島長門守と言しは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享三年寅年免ぜらる\n此時天一坊の裝束には鼠琥珀に紅裏付たる袷小袖の下には白無垢を重ねて山吹色の素絹を着し紫斜子の指貫を帶き蜀紅錦の袈裟を掛け金作り鳥頭の太刀を帶し手には金地の中啓を握り爪折傘を差掛させ沓しと〳〵と踏鳴し靜々とぞ歩行ける附從がふ小姓の面々には麻上下の股立を取て左右を守護しける引續いて常樂院天忠和尚は紫の衣に白地の袈裟を掛け殊勝げに手に念珠を携へて相隨ひ山内伊賀亮には黒羽二重の袷小袖に柿染の長上下その外赤川大膳藤井左京皆々麻上下にて續て隨ひ來る其行粧は威風堂々として四邊を拂ひ目覺しくも又勇々敷ぞ見えたりける斯て玄關に到れば取次の役人兩人下座敷まで出迎へ案内して廣書院へ通せしを見るに上段には簾を下し中には二疊臺の上に錦の褥を敷て座を設けたり引れて此處へ着座すれば左右には常樂院天忠山内赤川藤井等の面々威儀を正して座を占たり\n\n第十八回\n\n 大坂御城代堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を請し書院上段の下段に御城代相摸守殿を初として加番には戸田大隅守殿同植村土佐守殿町奉行には松平日向守殿鈴木飛騨守殿大番頭松平采女正殿設樂河内守殿御目附御番衆列座し縁側には與力十人同心二十人出役致しいと嚴重に構へたり時に上段の簾をきり〳〵と卷上れば御城代堀田相摸守殿平伏致され少し頭を上て恐れ乍ら今般如何なる事ゆゑ御上坂町奉行へ御屆もなく理不盡に御紋付の御幕を御旅館へ張せられ町家には御旅宿相成候や剩さへ御苗字の表札を建させ給ふ事不審に存じ奉る此段伺ひ申さん爲今日御招き申したり御身分の義明かに仰聞せられたしとぞ相述らる時に天一坊言葉を柔げ相摸殿よく承はられよ徳川は予が本性ゆゑ名乘申す又葵も予が定紋なる故用ゆる迄なり何の不審か有べきとの詞を聞より相摸守殿は恐ながら左樣の仰聞らるゝ計にては會得も仕つり難し右には其御因縁も候はんが其を委敷仰聞られ下されたしといふ其時伊賀亮少しく席を進み相摸守殿に向ひ相摸守には上の御身分を不審せらるゝ御樣子是は尤も千萬なり御筋目の儀は委敷此伊賀より御聽せ申べし抑々天一樣御身分と申せば當上樣未だ御弱年にて紀州表御家老加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ひ徳太郎信房君と申上し折柄將監妻が腰元の澤の井と申女中に御不愍掛させられ澤の井殿御胤を宿し奉つり御形見等を頂戴し將監方を暇を取生國は佐渡なれば則ち佐州へ老母諸共に立歸りしが其後澤の井殿には若君を生奉つり産後肥立兼相果られ其後は老母の手にて御養育申せしが右の老母病死の砌り若君をば同國相川郡尾島村淨覺院と申す寺の門前に御證據の品を相添捨子として有しを是なる天忠淨覺院住職の砌り拾ひ上て御養育申上し處間もなく天忠には美濃國各務郡谷汲郷長洞村常樂院へ轉住致し候に付若君をも伴ひ奉つれり依て御生長の土地は美濃國にて候此度受戒得道なし奉つり常樂院の後住にも直し申べくと存じ候得ども正しく當將軍の御落胤たるを知つゝ出家になし奉らんは勿體なき儀に付今度我々守護し奉つり江戸表へ御供仕つるに就ては一度江戸表へ御下りの上は二度京坂の御見物も思召に任せられざるべしと依て只今の内京坂御遊覽の爲當表へは御出遊されしなり委細は斯の如し相摸殿にも是にて疑念有べからずと辯舌滔々として水の流るゝ如に述たり是を聞居る諸役人御城代を始めとし各々顏を見合せ誰有て一言申出る者なく如何にも尤もの事と思ふ氣色なり此時御城代相摸守殿申さるゝ樣は成程段々の御申立委細承知せり併し夫には慥に御落胤たるの御證據を拜見願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に向ひ御城代相摸守より御證據拜見の願ひあり如何仕まつらんと云に天一坊は願の趣き聞屆けたり拜見致させよとの事なり則ち赤川大膳御長持を明て内より白木の箱と黒塗の箱とを取出し伊賀亮が前へ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮し恭しく件の箱の紐を解中より御墨附と御短刀とを取出し相摸殿率拜見と差付れば御城代初め町奉行に至る迄各々再拜し一人々々に拜見相濟む是紛もなき正眞の御直筆と御短刀なれば一同に驚き入る是に於て疑心晴相摸守殿には伊賀亮に向ひ斯確なる御證據の御座ある上は將軍の御落胤に相違なく渡らせ給へり此段早速江戸表へ申達し御老中の返事を得し上此方より申上べし先夫れ迄は當表に御逗留緩々御遊覽有べき樣言上せらるべし御證據の品々は先御納下さるべしと伊賀亮へ返しぬ是より種々饗應に及び其日の八つ過に御歸館を觸ぬ此度は相摸守殿には玄關式臺迄御見送り町奉行は下座敷へ罷出で表門を一文字に推開けば天一坊は悠然と乘物の儘門を出るや否や下に〳〵の制止の聲々滯ほりなく渡邊橋の旅館にこそ歸りける今は誰憚る者はなく幕は玄關へ閃き表札は雲にも屆くべく恰も旭の昇るが如き勢ひなれば町役人どもは晝夜相詰いと嚴重の欵待なり扨御城代には御墨附の寫し并びに御短刀の寸法拵へ迄委敷認め委細を御月番の御老中へ宛急飛を差立らる爰に又天一坊の旅館には山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等尚も密談に及び大坂は餘程に富地なり此處にて用金を集めんと評議に及び即ち紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を招き帶刀を許し扨申談ずる樣は天一坊樣此度御城代の御面會も相濟たれば近々江戸表よりの御下知次第江府へ御下り有て將軍へ御對顏相濟ば西の御丸へ直られ給に相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金を差出すに於ては返金は申に及ばず御褒美として知行百石づつ下し置れる樣拙者どもが屹度取り計ひ遣すべし若し御家來に御取立を望まずば永代倉元役を周旋すべし依て千兩は千石の御墨附と御引替に下し置るべしと語らうに兩人とも昨日の動靜に安堵しければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳へて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞襖屋三右衞門播磨屋五兵衞等を初として我先にと金子を持參し少しも早く御用立る者は知行多く下さるとて毎日々々紅屋方へ取次を頼み來る有徳の町人百姓又は醫師など迄思ひ〳〵に五百兩千兩と持參する者引も切ず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は先是にて差向の賄ひ方には不自由無し此上案じらるゝは江戸表の御沙汰ばかり今や〳〵と相待ける" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「さういふのこそ形式的です。村長の資格とか個人の資格とか、われわれの頭にはあつても、村の者は誰もそんな風に分けては考へませんよつて。」\n「私はこれは決して廣岡一人の私事だとは思はないんですが。」\n 私事であつても一向構ひはしないではないか、とは思つた。私事だから村長の職にあるものが、最初から間に入ることが出來ない、といふことは駿介には理解しかねることであつた。村長の仕事といふものを單に村役場の關係にだけ限つて考へてゐるのであらうか。このやうな事柄の圓滿な解決のために力を盡さないで、何が村長であり、何が村の有力者であらう。それともいよいよ爭ひにでもなり、村一般の耳目を集める問題となつた時に、それは初めて「公事」たるの性質を備へ、村長が關係するに適當な事件を得たとでもいふつもりであらうか。かういふことに一々口を挾んでゐてはきりがない、などといふことは無論駿介は信じはしない。\n「普通の地主と小作の間の問題といふこととは少し違ふと思ふんです。小作が普通に、年貢が高いから負けてくれ、といふこととも違ふ、私事と公事といふことを云ひますと、これは立派に公事であると思ひますが。表面はいかにも、耕作地の不足してゐる百姓が、不利な條件を忍んでも新しく小作地を得たいと望んでゐるといふ、ただそれだけのことですが、事柄の實際は、たとへ小さくても農村の生産力の問題に關係してゐると思ひます。作りたいと熱心に希望してゐる人間があり、作ればものの出來る土地があるのですから、この二つを耕作が最も圓滑に行くやうな状態の下に結びつけることが必要なんです。廣岡が諦めて、どんな條件でもいいから作らしてくれと云つたからとて、本人がさういふからそれでいいといふわけのもんぢやない、それぢや生産は決して圓滑には行かないんですから。また伊貝さんにしても、自分の土地だから、どうしておかうが勝手だ、草を生やしておかうが勝手だといふやうなことは決して許されないことです。さう考へて來るとこれは單に當事者だけの問題ではないと思ひますが。村の問題であることは勿論、社會全般の、國家の問題として、その見地からだつて充分ものは云へると思ふんですが。」\n これに對して岩濱は何も云はなかつた。相手を突つぱねての沈默ではなしに、正直な彼は駿介の云ふことを認め、その上で何も云ふことが出來ないのであつた。かういふ岩濱を眼のあたりに見て、駿介はこの弱々しい好人物の本質をはつきり見たやうに思つたが、それにしてもかうまで彼が伊貝に遠慮しなければならぬといふのは殆ど不思議であつた。ほかの理由は僞りではないにしても、要するに附け足りだ。言葉に言ひ出さぬところにほんとうの理由があると駿介には感じられた。\n 同時に駿介は、この對談そのものをやや馬鹿馬鹿しく感じはじめて來た。無理をしてまで岩濱老人を勞さねばならぬ理由が一體どこにあるのであらうか? 氣の進まぬ彼を強ひ、云ふ通りにしてもらつたところで、結果は推して知るべきであらう。村にほかに心當りがあるならば、廣岡とても何も自分のやうなものの所へすぐやつて來たりはしないであらう。\n「――では、ともかく、私が直接伊貝さんにお逢ひしてお願ひして見ようと思ひます。その話の上で、何れまたお力をお借りしなければならないことになると思ひますが、その時には何卒宜敷お願ひ申します。しかし私はまだ伊貝さんを全然知りませんので、紹介の手紙でも一つお書き下さいませんか。」\n「ああ、そりやええとも、そりやもう。――」\n 駿介にさう出られると、岩瀬はいかにも濟まないらしく云つた。\n それから今日の用件を離れて、打ち寛いで話した。さうして話せば實に物分りのいい好々爺で、古い頃の村の話は殊に面白くもあり、爲にもなり、時の經つのを忘れた。夜食を御馳走になり、夜更けて駿介は家へ歸つた。\n\n七\n" }, { "role": "assistant", "content": " 今日訪ねよう、明日訪ねようと思ひながら、駿介の、伊貝訪問の日は、一日一日と延びてゐた。\n 色々な氣持が駿介に働いてゐた。全然未知な人を始めて訪問する際に誰でもが感ずる億劫な氣持といふだけのものではなかつた。相手の伊貝は、年齡、閲歴、境遇、性格、趣味、教養、思想の何れから云つても一つとして共通點を持たぬ人間だつた。同じ村に住んでゐながら、全く觸れ合ふことのない離れ離れの世界に住んでゐる二人であつた。駒平の話を思ひ返して見る毎に、駿介の氣持は重くなつた。駿介には、伊貝の性格といふものは、一寸見當がつかなかつた。彼が今まで接觸したり、見たり聞いたりして來た人間の中にはそれに近いものすらも思ひ浮ばなかつた。駒平の話の斷片から、次々に想像の翼が延びて、益々えたいの知れぬものに伊貝の人間が形造られて行くのであつた。それに彼が持つて行かねばならぬ要件が要件である。若い駿介が二の足を踏んでゐるのは無理がなかつた。想像の世界でだけこねまはしてゐるから伊貝の人間が愈々不可解な、時には怪物じみたものにさへなつて來るのだ。さういふ幻想をぶちこはすためには早く逢つて見ることが必要なのだ。逢へば何でもない人間であることがわかるだらうし、この一點を突きさへすれば、脆くも陷落するといふ弱點だつて見拔くことが出來るだらう。――さう思つては見るのであつたが。\n 部落の中でも特に近く往き來してゐる煙草の耕作者仲間に逢つた時など、駿介は廣岡のことを話してみた。そして彼等と話したといふことは駿介に必ずしもいい心理的影響を與へなかつた。話を聞いても彼等は一向に何の感動をも示さなかつた。何も初めて聞くことではなく、知り盡してゐる事實だからと云へばそれまでのやうでもあるが、駿介が何とかしたいといふ考へに對しても同じやうに冷淡であるのは意外であつた。間接には自分達の利害にも關係する事柄に對して、一向に冷淡であるのは意外であつた。ここで駿介は、今迄彼が見て來たところとは矛盾するやうな彼等の一面を見た。成るか成らぬかも分らぬ、事の初めに當つては常にさうなのかとも思へた。うまく行つた結果だけに對して興奮するのかも知れない。しかしこの場合の彼等の冷淡には、ほかに原因があることが段々に分つて來た。彼等のあるものは、單に消極的に心を動かさぬと云ふだけではなくて、露骨な反對感情をすらも駿介に示した。餘計なことをしなさるな、といふ心だつた。駿介のむきな若い心は嗤はれてゐるやうであつた。\n 村での煙草耕作者の多くは、自作、自作兼小作で、耕作農民中の上層の部分で、暮し向きも比較的らくな方であつた。これは煙草耕作には、固定資金がかなりいるところから來る結果であつた。そのなかで小作一方でひどく貧しい廣岡などは、ごく少數の例外であつた。部落の耕作者仲間の間でも、彼一人は何かにつけて區別されてゐた。そしてこの區別はどこまでも區別として殘しておきたいといふ心理が、云はず語らずの間に人々には働いてゐるらしいのだつた。自分達に何かのとくがあるといふわけでもない。しかしたださうであることを望む心があるのだ。廣岡も自分達も共に均霑し得る利益ならば何も云はない。しかし廣岡一人が浴し得る利益となれば、それがどんな小さな、またどんな性質のものであらうとも、何となく心平らかならぬものがある。劣つてゐるものが、自分達の域に少しでも近づくことに對する不快がある。\n 駿介は、去年の夏の葉煙草乾燥の時、廣岡一人が、それが當然の約束のやうに非常にわるい乾燥場所を與へられて、人も我も怪しまずにゐた奇妙な風景を、その時もおかしなことに思つたことを、今になつて又思ひ出した。\n それには廣岡といふ人間の人柄もある。彼が外見も内も元氣のいい、あたりの者に愉快を感じさせるやうな、その元氣で相手を壓して了ふやうな、さういふ人間であるならば、人々にそんな氣持を抱かしめるやうな餘地は無いのだ。しかし廣岡といふ人間はおよそそれとは反對な存在だつた。見る者をして、陰氣な、じめじめとした感じを抱かしめる貧相な存在だつた。みじめなしよぼしよぼしたものは、同情を起さしめるよりも、却つて苛立たしい氣持を起させる。いぢめてやりたい氣持を人に起させる。\n 兎も角、彼等の態度がそのやうであることは、駿介には愉快ではなかつた。周圍の人間がそんな考へでゐるのを知ると、一方には反撥し、だからこそこの自分が委囑されたのだといふ氣持を強めるが、一方にはまた萎縮する氣持が兆すのもやむを得ないことであつた。\n さうかうしてゐるうちに、家の仕事の方も段々忙がしくなる時にさしかかつてゐた。苗代地の冬起し、煙草の苗床の準備並に播種の時が相前後した。\n 苗代は去年は誘はれるままにほかの家と共同で持つたが、今年は別々だつた。今年は苗の仕立を新しいやり方でやつて見ることになつてゐた。從來の水田苗代に代つて乾田苗代が近年この地方にも段々行はれるやうになつて來てゐた。乾田苗は水田苗に比して優良であることが、經驗から段々わかつて來た。乾田苗の莖は勁く、根本は太くしつかりしてゐて、移植する時もいたまないし、植ゑ附け後は非常に速く根附き、發育は早いと云はれてゐた。どこの地方にも行はれると云ふわけにはいかぬことだが、この地方の土地の條件は、乾田苗代を可能ならしむるばかりか、必要とさへしてゐた。苗代時期にも、表土の充分乾き切る所を隨所に得られるといふ好條件に惠まれてゐた。また水田苗代であれば、播種の時から移植の時まで絶えず水を灌がなくてはならないが、溜池によつて灌漑するこの地方では、水は出來るだけ節約することが必要であつた。どの點から云つても、乾田苗代は有利な方法であつた。\n 駿介は父と共に苗代地の土を打ち起した。その土地は排水がわるく表土が乾きにくいといふやうな所ではなかつたが、今のうちによく打ち起し、日光や空氣を通して、乾かしておくに若くことはなかつた。駿介は最初の力強い一鍬を田の中へ入れた。黒い稻株が打ち下す鍬の先に掘り起され、白つぽく乾いてゐるやうな土の表面と、眞黒な濕りを持つた下の方とが、ムクムクと反轉して行くのを見ると、彼は新鮮な喜びを感じた。その喜びは色々な要素から成り立つてゐた。子供の時、泥にまみれて遊ぶことが特別な歡喜であつた。わざわざ深いぬかるみに入つたり、泥んこで團子やそのほか樣々な物の形を作つたり、手や足が土にまみれることが多ければ多いほど喜びを感じた。遂には何かの衝動に驅られて、着物のまま土の上を轉げまはり、仰向けに寢て、手や足をバタバタさせたりした。また少年の彼は、夏草が背丈ほどにも繁つた野原に寢轉んだり、堆く積んだ乾藁のなかに首を突込んだりして、夏草や乾藁の匂ひで胸一ぱいに膨らませることを喜んだ。草のなかに寢轉んでゐると、風に靡いてゐる草の先はそのまますぐに青い空にくつついてゐる。誰あれも自分がここにかうして寢轉がつてゐることなんか知りやしない、すぐ近くの道路を歩いて行くものからだつて見えやしない、といふことがいやが上にも彼の歡喜をそそる。何か祕密めいたぞくぞくするやうな氣持だ。しかし、さうしてぢつとしてゐるうちにはやがて自分がどこにどうしてゐるかをも忘れてしまふ。空も青草もその青草のかげの翅のある蟲も自分の身體も何もかにもが一つになつてしまふ。さうしてうとうとと眠りに落ちて行く。――秋も末になると、祭りがある。祭りの夜、小屋掛けの芝居を見ての歸るさは、丁度いい工合に疲れてゐる。人混みのなかにゐたのと、今見た芝居のあくどさ、ねつつこさに刺㦸されて、頭はのぼせたやうにぼつとしてゐる。大人達に外れて一人ぶらぶら夜道を來て、向うの田の畔に積み上げた藁グロの黒々と立つのを見ると、もうそこへ走つて行かずにはゐられない。べつたり土の上に腰を下し、手も足も投げ出し、藁のなかに首を突つ込むやうにして寄りかかる。毎日いい天氣が續いたあとで、それにまだ露が下りる時刻ではないから、どこもここもよく乾いてゐる。乾いた藁の匂ひに胸が膨らんで來るうちに、段々氣も冴え冴えとして來る。夜空には星が輝いてゐる。何の物音も聞えない。初めは餘りに何もかにもが澄んでしんとしてゐて、生きて息をしてゐるのは自分ばかりで、自分の存在だけが際立つてゐて、恐いやうだが、次第にその世界にも慣れて來る。慣れて來るといふのは、離れてゐたあたりと自分とが段々一つになつて行くことだ。夜つぴてでもかうしてゐたいと思ふ。するとやがて自分がどこにどうしてゐるのかをも忘れてしまふ。......\n 遠い遠い日の夢だ。あの頃のああした喜びは二度と歸つて來べきものでもない。しかし今鍬を振り土を掘つてゐる時の喜びには、少年の日のあの喜びにどこか通じたもののあることを駿介は感じた。二つのものは無論ちがふ。しかし今かうしてゐるとふとゆくりなくも少年の日の喜びが再び胸に歸つて來るのは、つまりはその兩者の間に共通したものがあるからだと思つた。自然から汲み出す、あるひは自然と一つになる喜び、原始に惹かれるこころには共通なものがあつた。\n そこにはまた季節の喜びがあつた。湯氣でも立ちさうな温かさうな黒土に彼は逸早く春を感じた。これが稻作についての最初の勞働であると云ふこと、我家の稻作は、今年からはじめて、その生産の全過程が自分の勞働によつて貫かれるのだと云ふこと、その自覺から來る喜びも亦大きかつた。\n それらすべての綜合から成る一つの力強い感情は極めて自然に胸に溢れて來た。この極めて自然にといふことの自覺は、駿介に二重の歡喜を與へた。新しい生活に入つた當初、彼は世間での所謂勞働の喜びの概念に對して反撥を感じてゐた。本來美しかるべきその言葉は、それが云はれる時のさまざまな政策的な動機や、ふざけた精神によつて冒涜されてしまつてゐた。人の勞働でうまい汁を吸つてゐるものや、勞働を手なぐさみにしてゐる、勞働の嚴しさを身を以て知らぬものに限つてその言葉を使つた。それを云ふ時、齒の浮くやうな甘たるさがあつたり、鼻持ちならぬ臭氣を發したりして、それを云ふ者のほんとうの腹は、勞働と勞働する者とを輕蔑してゐるのだと云ふことを彼等自身曝露してゐた。そしてそれ故にこそ駿介は自らの勞働によつて勞働の眞實の喜びに觸れることに向つて大きな期待を持つてゐた。勞働が持つあらゆる苛酷さと嚴しさを通り、甘皮を剥いたそれの核心に觸れた上での喜びを期待してゐた。しかしさうした境地といふものは容易には來なかつた。喜びはたしかにあつた。それは抑々初めての彼の勞働、父を助けて井戸を掘つた時からしてあつた。蚊の群に襲はれ、不眠を強ひられながらの葉煙草の乾燥、雜地の開墾、堆肥用の落葉集めなどの諸勞働に伴つた苦痛のなかにもそれはあつた。しかし祕かに思ふ時、その喜びを感ずるといふことのなかにはなほ無理があつた。その喜びを感じようがために、感じたいがために、心を奮ひ起してゐるといふやうなところがどこかにあつた。肉體的の勞働は、いな、肉體的な勞働を基礎としてゐるこのやうな生活は今の自分にとつての活路であると彼は信じてゐる。從つてそこには喜びがなければならぬと思ふ。またどうしても喜びを感じたい。さういふ風に強ひられたものがあつたのである。\n それが何時の間にか變つて來てゐた。事の性質上、何時からと截然と句切りをつけて云ふことは出來なかつたが、今の彼は以前とは變つてゐた。言葉では云ひ難い、人には傳へ難い變化をひとり感じて駿介は嬉しく思つた。彼はこれで落ち着いたのだなどとは思はなかつた。勞働の苛酷さ嚴しさを人並にくぐつて來たなどとは戲談にも云へることではなかつた。今後またどのやうに變るかも知れなかつた。しかし今到達したこの境地すらも、そこからのささやかな歡喜すらも、去年の夏以來の自らの歩みによつて初めて得られたものである。それはほかのどんな方法によつても得らるべきものではなかつた。さう思へば、この到達を貴重に思ひ、自ら愛し育んで行かうとの氣持が、強く深い感情として駿介に湧き上つて來るのであつた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "一\n\n「文化」は国土と歴史との所産であります。言ひ換へれば、民族の血と運命とが創りあげる生存のすがたであります。民族とはこゝでは狭い意味の人種的差別を云々せず、精神的に結合した政治的統一体を指すこととし、やがては、国民の名に於て全く等質の文化圏に入るべき複合民族をも意味するものと考へたいのです。\n ところで、日本の「文化」は、今日まで、いはゆる「大和民族」たるわれわれの祖先が、允文允武にまします歴代の天皇を御親とし奉り、世界を「家」となす遠大な理想をかゝげ、赤子たるの光栄と本分とを忠誠の臣節に籠めて、ひたすら国運の発展と「美しき」国風の充実に尽して来た、その結実なのであります。\n 時に暗雲が朝威を覆ひ、民心転た悄然たる時もありましたが、乱れゝば光り現れ、犯されゝば力湧き起る神の国の、昔も今も、皇運こそ天地とともに窮りなきを、われら固く信じてゐるのであります。\n なによりも、日本の文化は、この揺ぎなき国体と歴聖相継がせ給ふ御遺訓の精神を中軸とし、大和民族独特の性情に根ざす天衣無縫の着想を、営々三千年に亘つて積み重ね、磨きあげた創作なのであります。\n 大陸文化の影響と云ひ、模倣と云ひ、その影響は消化であり、模倣は吸収であつた。文化が仮りに侵略の手を伸ばすものであるとしても、未だわが国は、現代に於ける一部表面的な現象を除いては、嘗て外来文化の侵略に委せたことはありません。\n 文化は高きより低きに流れるのが常とは云へ、文化の高さなるものは、これまでいろいろの標準によつて計られたのです。\n 一例を挙げれば、「技術文化」といふ言葉もあるとほり、技術、特に物を組織立て、合理化し、分析分化する技術の精粗、巧拙を以て文化の優劣を決しようとする見方があります。\n 法律の制定、交通網の整備、教育施設の充実、学問の系統立て、国防力の統一、生産手段の合理化などといふ方面にかけては、たしかに日本は遅れてゐたといふほかありません。しかし、一方から云へば、久しい間鎖国政策によつて、政治的にも、経済的にも、その必要がなかつたからとも云へるのでありまして、ひと度、それが国家の自衛及び発展上欠くべからざる要件だといふことになれば、たちまち、僅か数十年間に、それらの点にかけて優越を誇つてゐた国々と殆ど肩を並べるまでになつたのみならず、ある点では、遥かにこれを凌駕したのであります。\n それはいつたいどういふわけかと云へば、いはゆる「文化」の標準を、もつと別なところにおいて、即ち、複雑な組織を作る代りになるべく単純な道筋で用を足し、合理化に努めるよりも寧ろ道義化に意を用ひ、分析分化に浮身を窶さずして綜合と直観の力によつて事を弁ずるといふ流儀が、測らずも、他の流儀の会得と利用を容易ならしめる底力となつたのであります。\n してみれば、一方の流儀からみて低いと思はれた「文化」は、その実、思ひがけない別の流儀の、しかも、それはそれで相当に高い「文化」であつたといふことが、解るものには解らなければならないのです。\n わが古典文学にみる生活感情の豊かさと表現力の逞しさ、西洋ではまだやつと素朴な手法の物語が生れかゝつた時分、日本の王朝時代には既に、「源氏物語」のやうな幽玄きはまる小説文学が創り出されてゐるくらゐです。\n 韻文としての和歌や俳句の妙境は比較を絶してゐるとは云へ、美術に於ける絵画、彫刻、建築、工芸の粋をとつてみれば、日本人の精神の鋭さ、深さを示す好適例は無数にあるのであります。\n 学問の領域に於ても、最近の研究に従へば、哲学の如き抽象理論の追求は別として、自然科学、特に数学の発達は、明治以前に於て著しいものがあるとのことです。\n 本草学としての薬草の採集、観察、実験の価値などは、将来、世界医学の根柢を覆すものと期待する向もあります。\n この領域のことは、私は受売りに過ぎませんから、確信をもつて事実を述べることはできませんが、少くとも、古来、学者と云はれる人物の日本的特性を考へてみると、甚だ興味あることは、彼等が常に経世済民の志を掲げ、「学」と「徳」と「芸」とを一体として身につけ、更に「文」を業としつゝも、「武」の道をもつて心の備へとしてゐたことであります。即ち「士人」をもつて常に自ら任じてゐたのです。\n 芸術の分野にもう一度帰れば、日本人の「美」の理想は、単なる感覚的なものではなく、そこには必ず、品とか、気韻とか、風格とかいふ、つまり倫理的な高さを求めました。それと同時に、絶えず、自然の形式的模倣をはなれて、自然そのものの魂に直入し、客観の微をすてゝ象徴の裸形をつかむ時、はじめてそれは至芸と呼ばれるのです。いはゞ宗教味を帯びたとも云へるほどの厳粛さがそこにあります。\n しかし、また一方、極めて卑近な庶民的芸術の宝玉が、さりげない顔で、市井の生活に織込まれてゐたといふことも、日本独得の現象であります。浮世絵の如きがその一例です。多くの工芸品がさうです。今日、「下手もの」と称せられる、嘗ては誰の家にでも転がつてゐた雑用器物の美的価値は、われわれの祖先が、如何に無意識に美しきものを愛し、如何に美しきものを平然と作ることに秀でてゐたかを証するものであります。\n\n それはとにかくとして、日本文化の最も重要な特質は、前にも触れたやうに、民族固有の直観力と綜合性にあるのですが、これは単に、芸術、学問の上ばかりでなく、生活のいろいろな面にそれが現れてゐて、時代々々の色調を帯びながら、常に一貫した生活様式の独自な発展を促したのであります。\n 衣食住のいづれをとつてみても、まつたく世界に類のない形態と、その形態を裏づける観念とがあつて、われわれは、そのなかで成長し、それに応ずる習性を身につけ、それによつて心性の陶冶を受けつゝあるのであります。\n いはゆる洋服、洋食、洋館のこれほど普及した今日に於てさへ、一方、和服は決して廃せられず、和食はむしろ常食であり、畳障子の家屋は住みよきものとされてゐます。\n これはたゞ惰性がさうさせるばかりではありません。習慣と云つても、それは単なる過去への執著として軽視せらるべきものではないのです。\n 現代の要求からすれば、そこには幾多の不合理や不便があるでせう。しかし、それにも拘らず、それを知りつゝ、なほかつ、われわれは日本人なるが故に、純日本的な衣食住の様式に心惹かれるのであります。なぜなら、その様式には、日本人の直観力による生活理想の追求があり、同時に、その綜合性に基くあらゆる生活機能の統一融合が見られるからであります。\n 例へば、紋服の端然たる、浴衣がけのざつくばらんなる、子供の肩あげのあどけなき、白足袋の凜としたる、などを、洋服の場合にはどうにもしやうがないといふのが、日本人の底を割つた感情です。\n また、住宅について云つてみても、床の間ひとつで保たれる中心の重みと安定、茶の間の代りに食堂があつても、それはあまりに「食ふ」だけのための部屋でありすぎる淋しさなど、日本人でなければわからぬ消息であります。\n 食事に至つては、ますますこの感が深い。第一に、食事といふものに対する日本人本来の考へ方が、西洋人のそれとは非常に違ふのです。キリスト教でも、食卓での神への祈りといふものはありますが、日本人には、日本人固有の食生活精神といふものがあつて、食前に「戴きます」と云ひ、食後に「御馳走さま」と云ふ挨拶は、決して、今行はれてゐるやうに、子供が親に、客が主人に向つてのみするのではなく、そこにはもつとひろい、この「食物」をわれに与へるもろもろの力、もろもろの恵みに対する深い感謝が籠められてゐる筈であります。\n それにつれて、「食器」に対する考へ方も、まつたくほかの国々にはみられない厳粛で温かみのあふれたものです。茶碗と箸とは家族の一人一人がそれをめいめいの持ち物として、恰も身体の一部のやうに扱ふことも他に例がありません。そして食器の一つ一つは、形と云ひ、色彩と云ひ、それぞれの用途と、それを用ひる人の人柄に応じて変化を極め、やゝ改まつた食事の膳立をみれば、献立の配合の妙と共に、それが如何に綜合の美に富んだ、日本の生活の縮図であるかといふことがわかるのであります。" }, { "role": "assistant", "content": "\n二\n\n 西洋の生活様式にも、それはそれとしての洗煉された「味ひ」はありますし、殊に、近代文明の発達がもたらした一種快適な雰囲気といふやうなものはなくはありませんけれども、それは主として、物質本位の、個人々々の享楽と安逸を目的とした人工的、技術的な部分の浮きあがつたものです。もちろん、生活の技術といふことは、特に社会的訓練を経た個人生活の規律と、集団を対象とした生産と消費との関係の調整などは、これを彼に学ぶ必要はありませう。\n しかし、少くとも家族を単位とした「家」の生活様式は、「家」の伝統がそこに生かされてゐる限り、もはやこれ以上のことは望み得られぬまでに整備完成されたものであり、今後時代の推移と共に、表面的な改革や刷新が行はれようとも根本の基準は聊かも動かしてならぬものと私は信じます。\n\n それほどに、日本の「家」と「生活」とは切離せぬものでありますが、その「家」はまた、日本文化の一つの母胎であり、原動力でありまして、わが家族制度の最も健全な精神と形式は、今日必ずしも一般に受けつがれてゐるとは云へませんが、これを引戻して本来の面目に帰することこそ、現代の日本人の急務であり、新しい国民文化建設の基礎工作であります。\n 家督、家名、家風、家憲などといふ言葉に現れた、日本の「家」の性格は、一国一家、君民一体の大精神をその血液のなかに宿してゐて、はじめて光輝ある伝統となるのであります。\n「家」の祭りは国の祭りに通じ、家の名誉は国の名誉につながり、家の風格は国風の流れに添ひ、家の掟は、臣民の道にもとづくものでなければなりません。\n かうして、日本の「家族」は、家長を中心とする国土の一単位となり、子孫の育成を本務とする国民道場の一段階となるのです。\n そこでは、儀式と起居と団欒との多彩な生活環境のうちで、われわれの、真に「生きる」道と目標とが教へられ、両親の膝の下で、懇ろに、また厳しく、「躾け」が施されます。\n この家庭における「躾け」については、後の章で詳しく述べるつもりですが、そもそもこれは国民錬成の基礎ともなるべきもので、一家の盛衰はもとより、一国の消長にすら関はる重大問題であります。そして、「躾け」の見事な効果は、単に個人と家の風格を高めるばかりでなく、その国のあまたの社会現象、特に時代の風俗に気品と底力を与へ、文化水準の高さを如実に示すことになるのであります。\n 嘗て、スエーデンの植物学者でツンベルグといふなかなか眼の利いた人物が、日本に来たことがあります。それは今から三百年前の昔でありますが、当時、西洋人と云へば、東洋の一孤島日本について何ほどの知識も持つてゐません。ツンベルグも、恐らくこゝでは、異国的な風物に務して、一方学問上の研究資料を蒐め、一方、珍しい土産話でも仕入れようといふぐらゐの気持で、はるばる海を渡つて来たのであります。\n ところが、長崎から江戸までの長い旅をしてみて、彼は沿道の景色に見とれる代りに、そこに住む人々の、予期に反して、「文明人」であることに驚嘆の声を放ちました。彼が云ふ「文明人」とは、もちろん、単に未開野蕃の徒に非ずといふ意味よりはもつと強い、「立派な文化をもつた国民」といふつもりであることは、彼の道中の日記を読めばわかります。\n こんなことは、ツンベルグに教へられなくてもわれわれは承知してゐますが、その頃の西洋人で、さういふ観察を下したものは稀であります。主として、日本の民衆が礼儀正しいこと、嘘を云はぬこと、「矜り」をもつてゐること、清潔を愛し、勇気を尊ぶこと、外国人の野心を見抜いて油断をせぬこと、学問に対する尊敬と好奇心を十分に抱いてゐること、美しいものに敏感であることなどを、「文明人」たる理由として挙げてゐるのです。この見方はまことに西洋人らしいと思はれますが、私がもう少し補足をすれば、そしてもつと彼が直観的に感じたであらう日本人の立派さは、きつと、異国人たる彼自身に対するあらゆる階級の日本人の物腰態度が、総じて物柔かなうちにも凜然としたところがあり、人間としての品格がおのづから備はつてゐたからではないかと思ひます。\n 一国の文化をはかる尺度として、その国民の物腰態度ぐらゐ正確で端的なものはないのです。そして、その物腰態度は、人が考へてゐる以上に、それは「家」そのものの全貌であり、両親をはじめ、子供の「躾け」に当つた人々の意志と好みとが反映するものであります。\n\n三\n\n 日本文化の綜合性を理解する簡単な一例として、私は、「嗜み」といふことを考へたいのです。これについてはやはり後に一章を設けて説明するつもりですが、この「嗜み」といふことは、日本人錬成の理想を示したもので、常に知情意の円満な調和的発達を目指し、「嗜み」が深いと云へば、それはもう、道徳的に善であり、知的に真であり、また情操的に美であるといふ条件を完全に備へてゐることを指します。\n その面白いひとつの場合をあげれば、ある人物が物を云ふ時、わざわざ妙な声を出す。すると「嗜み」のない声と云つてこれを嗤ひます。どういふわけかといふと、その声は、いかにも場所柄にふさはしくない、馬鹿げた、頓狂な、ふざけた声である。その人物の徳性も疑はれ、聡明でないことがわかり、かつ、耳に快く響かないといふ三拍子揃つた欠点を暴露したことになるからであります。\n「嗜み」は元来、訓練によつて身につけるものでありますから、物の価値判断はその勘によつて綜合的に働き、それがつまり、「文化」の健全性を誤りなく識別する基準となるのです。\n\n四\n\n 更に日本文化の特色として、包容性をもつてゐるといふこと、同化力が強いといふこと、しかも、その同化は必ずしもものを一色に塗りあげることをせず、その異質的な形態をそのまゝ存続させつゝ、並行的に処を得させるといふ一視同仁の同化力であることです。\n 外国文化の摂取は、常にこの包容性と同化力によつて、日本の国土を豊かに彩ることに成功しました。\n 現在はその形が最も極端になつてゐて、風俗から云つても多少手に余るといふところが見え、わが国文化の将来を危惧する声も聞えますが、これはたしかに、欧米文物の軽率な模倣によるのであつて、外見はまことに醜態を極めてゐるわりに、私の観察では、日本人の生活自体は、その影響下にありながら、それほど動揺してゐないと信じ得る根拠があります。\n 第一は、西洋風の生活が少しも身についてゐないことです。これが実は伝統的な生活技術の喪失とともに、風俗混乱と悪趣味横行の大きな原因ですが、それはそれとして反省の機会がありませう。私は、むしろ、この現象のなかから、「西洋風なもの」の怪しげな部分の自然淘汰と、そのうちの「いゝもの」を消化しきつて、ほんたうに身につける努力とが生れて来ることを期待してゐるのです。\n 特に、「洋服」と「洋館」とは、今後、集団生活の発展とともに、益々これを利用せざるを得まいと思はれますが、従来、この点に関するわれわれの研究は甚だ杜撰であります。従つてその利用に当つて払はるべき当然の注意、それがわれわれの生活の能率と健康と品位とに及ぼす影響についての配慮が著しく欠けてゐました。試みに、初めて洋服を着る男なり女なりが、誰にその正しい着方を習ふかといふと、それは誰も教へるものがないといふのがまづ実情であります。見やう見真似で、いゝ加減な着方をする。それをまた嗤ふものもない。身につく道理がありません。和服の着方が少し可笑しければきつとさう云つて注意するものがある筈です。誰よりも母親がまづ手を取つて教へるでせう。それは知識よりも寧ろ習慣によつてであります。さういふ勘が働くやうでなければ、生活の機能といふものは完全にその用を果しません。日本の「洋式」は、まだそこまでわれわれのものとなつてゐないのです。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 私は、こうした兄の悲劇を思うとき、「私の家は日本一小さい家だ」ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよいのである。\n\n\n私の生家\n\n\n 私の生れた辻川の家は、私の生れる前年、即ちちょうど祖母が亡くなった翌年、生野街道のかたわらの粟賀か福本あたりにあった老人夫婦だけの、医者か何かの家を買って来て建てたものであった。辻川の街道に面して黒板塀があり、表の空き地には兄が永住の地と定めて、さまざまな花木を植えていた。白桃や八重桜などが、春ともなれば道ゆく人々の話題となるほどに、美しく咲ききそったものである。あの時代には、桜はまだ山か寺院か神社にゆかないと見られないものだったが、どうして兄が家のほとりに移して来たのか、理由はよく分らない。\n この家を何とかして絵にしてでも残しておきたいという気になったのは、昭和八年私が朝日新聞社をやめた記念のため、それまでに執筆した書評や序文の類を集めた『退読書歴』を上梓した時のことであった。私の次の弟の静雄(海軍大佐・言語学者)に――これは書が上手だったので――扉と背文字を書かせ、末弟の映丘には見返しに私たちの辻川の生家を描かせた。弟は四つ、五つまでしかその家にいなかったので、大勢の人々に聞いて回ったり、いろいろなことをして確かめたのだが、出来上ってみると似ても似つかないものになってしまった。\n「こうしなくては絵にならない」と映丘はいっていたが、私の知っている生家の様子とは相当に違っている。いい家で、一夫婦が住むのにはよくできていた。その家はいま、北条へゆく道のカケアガリという所に移されているが、屋根の棟が当時の面影を止めているだけで、私は帰郷しても山の上からはるかにその屋根だけを眺めて、昔をしのぶのに留めている。どうしてみても、私の気持は人に分るまいし、私も当時の気持をこわさない方がいいと思っているくらいである。\n 私の家の小ささは日本一だといったが、それもきっちりした形の小ささで、数字でいうと座敷が四畳半、間には唐紙があって隣りが四畳半の納戸、横に三畳ずつの二間があり、片方の入口の三畳を玄関といい、他の三畳の台所を茶の間と呼んでいた。このような小さな家に二夫婦が住むこと自体、たとえ母がしっかり者でないにしろ、初めから無理だったのである。\n\n\n祖先のこと\n\n\n 私の生家、松岡家というのは非常に変った家すじである。村松梢風が『本朝画人伝』の「松岡映丘」の巻を書く時に私を訪ねて来て、何も知らないというので、少しは地所もあったころから零落するころまでを語ったことがある。\n 私の祖父の陶庵というのは、隣村川辺(現在の市川町)の中川という家から養子に来た人である。この家は何べんも縁組みしているからよく分らないのだが、姫路市網干の中川というのは川辺からの分家であって、何代か前にちょっとすぐれた人が出ている。これが祖父の弟なわけである。\n ところで、この祖父が腸チフスを患ってその回復期に些細な我ままをいったことから離縁になった。残った祖母がまだ若いので、周囲の人はまた何処からか縁があるだろうぐらいに思っていたらしいのだが、本人は古風な道徳観の人で何といっても頑として聞き入れなかった。私の父が一人生れていたからまだよかったわけではあるが......。\n ところで、この祖母の母に当る人というのは、法華宗の家の出であった。代々松岡家は天台宗門で、他宗との結婚は許されないのであるが、自由結婚をして松岡家に入ったのである。そこへたまたま、辻川の村からは市川を隔てた福崎町の山崎という所にある妙法寺という法華宗の寺に、京都の本山から蟄居を命ぜられた僧侶が来ていて、周囲の目ぼしい檀徒を自分の寺にひき入れたことがあった。その時、親孝行を楯にとって自分の子の左仲という医者(この人は顔にコブがあったために人に会うのを嫌い、往診を断るので流行らなかったらしい)を無理に法華宗へひき入れた。松岡家の本山は妙徳山神積寺というやや格式の高い天台門の寺院だったから問題になり、親孝行のためとはいいながらも本山から訴訟されて追放になり、娘(私の祖母)をつれて京都へ引き移った。ちょうど教育を受けなければならない時期を、何一つ教えられずに幼時を過した祖母は、京都で生活の資とした鹿の子絞り以外に家事のことは何も知らなかったということである。\n やがて追放の期も過ぎて辻川へ帰って来たが、この祖母の養子が先に語った陶庵で、彼は離縁されて後は生野で悠々自適、真継という男児一人の家に入夫した。この真継というのはどこでも鉱山に関係がある人の姓になっていた。陶庵は気概ある人で、有名な生野騒動の黒幕となって檄文を起草したりもしたが、事件が落着いてからはごまかし通して罪には問われなかったということである。その後一家は二代の後にこの土地を去ったが、一族は今でもあちこちで鉱業のために活動している。\n 父は成長した後にその離別せられた祖父が恋しくて、ひそかに川向いを通って生野へ会いに行き、祖母から激しく叱られて追い出されようとしたこともあったという。\n\n\n鈴の森神社\n\n\n 私の父賢次(明治のはじめ改名の自由が許されるようになってから操と改め、約斎と号した)が生れた当時の松岡家はすでに財産もなく、父を医者にする以外に方法がなかったため、父を明石の梅谷という医者の許に学僕として出すことにした。父は母が漢学の師匠をしていたから家に些かの書物があり、三木家の蔵書も読んでいたのであるが、住込んだ医者が風流な人で、しばしば漢詩の集いをひらいていた。たまたまその会の席上すすめられて作った七言絶句がいい作であったため、「学問をさせよう」ということになり、姫路藩では最後の儒者だった角田という先生の娘婿、田島家の弟として一時籍を入れ、田島賢次という名で仁寿山というところや好古堂という学校で修業した。やがて医者となり辻川に帰ったが、父の祖父左仲同様に流行らない医者で、思いあまって閉業しようとした矢先き、姫路の熊川舎という町学校の舎主として赴任することとなった。この熊川舎は町人が醵金して創設した学舎で姫路学風の誇りともいうべきものであった。私の家は、明治初年まで相応な暮しをしたのだが、維新の大変革の時には、じつに予期せざる家の変動があり、父の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったともきいている。ちなみに、私には次兄通泰の上、長兄鼎の次に一人亡くなった俊次という兄がいた。姫路野里の芥田という呉服店に働きに出、一時は家計を助けたが、間もなくその店で失敗し、大阪へ出て新規蒔き直しをしようとした矢先き、明治十六年九月十二日腸チフスで亡くなった。年は十九であった。夜半、飛脚が兄の訃報をもたらしたさいの、一家の悲歎がいまも私の記憶に残っている。その兄は別に師に就いたわけではないが、大阪の旅寓でこんな辞世をのこした。\n\nさをしかの身にはあらねど小夜ふけてかたぶく月にねをのみぞなく\n\n 父が明治維新の戸惑いのためひどい神経衰弱になったことで、私は思い出すことがある。私の家の裏の竹藪をへだてた北の道端に、在井堂といって、足利時代の本だといわれる『峯相記』にも出てくる空井戸のある薬師堂があった。ある夏の夜、座敷牢から出して蚊帳の中に寝ませていた父が急に行方不明となり、手をつくして八方捜したところ、この井戸の中に入っていたということである。\n 在井堂に関する一条が『峯相記』の中にあることから、じつはこの本が偽書であろうと推定しつつもそう断定するに忍びない気持がする。\n この空井戸のある薬師堂は、私がいつまでも忘れえない思い出の場所でもある。" }, { "role": "assistant", "content": " 薬師堂の床下は、村の犬が仔を産む場所で、腕白大将の私が見に行くと、いやでもその匂いを嗅ぐことになった。そのころ犬は家で飼わず村で飼っていたので、仔が出来る時はすぐに判った。その懐しい匂いがいまも在井堂のたたずまいを想い起すたびに、うつつに嗅がれるようである。そこから一丁ほど北の方に氏神の鈴の森神社があり、大きなやまももの樹があった。またを明神様ともいい、村人は赤ん坊が生まれると、みなその氏神に詣でて小豆飯を供えていた。その余りを一箸ずつ、集まって来た子供たちのさし出す掌の上にのせるのがならわしであり、村の童たちの楽しみでもあった。前もって、その日を知って、童たちは神社へ集まってくるのであった。母親が「よろしくお願いしますよ」と、いいながら呉れる一箸の赤飯に、私は掌を出したことはなかった。親に叱られるからでもある。私は後年この氏神様を偲んで、こんな歌を作ったことがある。\n\nうぶすなの森のやまもも高麗犬は懐しきかなもの言はねども\n\n\n\n幼時の読書\n\n\n 私は子供のころ、よく寝小便をしたというくらいだったから、よほど虚弱であったのであろう。だから両親が我儘気儘に育てたらしく、そのため私はいつも弟たちをいじめる、近所の子供とは喧嘩をする、いたずらは激しい、というわけで、北条にいたころ、一時父の友人である三木という辻川の旧家に預けられたことがある。ちょうど竹馬の友である同家の拙二氏が神戸の中学校に行っている間なので、先方でも父君の承太郎氏が預かってやろうということになったが、何分にもいたずらが激しいので、同家の女中五人にまず排斥運動を受けるという仕儀になった。\n 拙二氏の祖父に当る慎三郎という人は、農家に似合わず学問好きな人であったらしく、三十数歳で早世したが、大阪の中井竹山の系統を引く学者であったから、同家の裏手にいまも残っている土蔵風の建物の二階八畳には、多くの蔵書があった。そして階下が隠居部屋で二階には誰も入れないことになっていたのだが、私は子供のことだから、自由に蔵書のある所へ出入りして本を読むことができた。あまり静かなので、階下からおじいさんが心配して「寝てやしないか」と声を掛けることがあったほど、私はそれらの蔵書を耽読した。その間はいたずらもしないので、家人は安心したのであろう。いろいろな種類を含む蔵書で、和漢の書籍の間には草双紙類もあって、読み放題に読んだのだが、私の雑学風の基礎はこの一年ばかりの間に形造られたように思う。\n 私はこの三木家の恩誼を終生忘れることができない。こうして私は三木家から北条の家に帰り、やがて体を強くするためにもと、次兄につれられて茨城の長兄の許へと預けられることになったのである。そのような経緯で、故郷を離れてから七十一年といえば、今にして感慨なきあたわずである。\n 昭和二十七年、私が最後のいとまごいにと家内をつれて辻川へ帰った時のことである。もと私の家のあった中所というところから、氏神様へ詣でるために着物を更め、上坂という坂を登り始めると、だしぬけに一人の皺くちゃのお婆さんが飛び出して来て、私の袖にすがったのには驚いた。眼に涙をいっぱいためて、ものがいえないほど感情を昂らせている。よく考えてみると、どうやら私の弟と間違えているらしい。私の家では、ちょうど同じ時期に兄弟三人とも故郷を離れているので、私とつぎの弟とを間違えて久濶の情に耐えなかったらしいのだが、不思議にも私はその老婆の名前まで記憶していた。彼女の家は「樽屋」という一時繁栄した店で、隣村のいまの市川町屋形という土地からそこに貰われて来た養女の、それも「おせん」といった。後年、西鶴の『五人女』を読むと樽屋おせんが登場するので、そんなときにはいつも彼女を連想したので、その名をおぼえていたわけだったが、その女に村の主立ち衆の前ですがりつかれたのには、まったく面食らった。老婆でなくて、ちょっと綺麗な女性ででもあったら本当に困る所であった。何か裏面に事件があったんじゃないかなどと誤解されたことであろう。\n その老婆もそれから間もなく亡くなったそうだが......。\n\n\n南望篇\n\n\n 二十八歳から後家暮しを通した祖母の松岡小鶴は、医術も世渡りも相当に拙かったらしく、その方面にはおかしい逸話もいろいろと残っているが、手習いの子供らに少しずつ漢籍を教えたために、私の成長する時分まで、村には珍しい何人かの才女が残っていた。\n 後になって心づいて、ちょっと驚いたのは、家には『唐詩選』の七言絶句を上下半分ずつに書きわけた、手製の詩がるたが十数枚、手箱の隅にあって、正月にはあれで遊んだものであったと教えてくれるおばさんも何人かあった。私の母が、子供たちにどんな印象を与えるかを見るために、試みにその一部を保存していたとしか思われない。\n 祖母には二十編足らずの漢文集があって『南望篇』と題して父が清書したものが家に伝わっていた。たしか五十年の年忌に、私が浪人をして旅行ばかりしていたころで、他の兄弟が集まって来て、二百部ばかり活版にして人に分けたものが、私の書棚にも一冊だけある。ちっとは父が手を入れたとも思うが、ともかくも『南望』は、一人子が遊学している間、村のはずれに出て遠く思いを寄せたという、中国の故事によった書名で、現にその過半は一人子に贈った書信であった。\n この文集には、まだ他に「三木公逢に与えて仏を論ずるの書」というのもある。これなどは、いまなお私が興奮を覚えるほどの大文章で、あて先の三木公逢は村の大庄屋の若主人、すなわち私が一生親しくしてもらった三木拙二翁の祖父である。すぐれた素質の青年であったかと思われて、若いころに大阪に出て、中井竹山先生の門に入って研学し、莫大な文庫を家に留めておられるが、学問が過ぎたのであろうか、三十いくつという盛りの年に世を去って、幼い一人子が後に残った。それが拙二翁の先代の承太郎さんである。\n 虚弱で、いたずらで、小生意気な十二歳の少年が、どうして一年足らずでもこの家に預かってもらえたのか、いま考えてみてもその動機がはっきりしない。拙二翁はその頃、たしか神戸の良い学校に入れられて家にはおらなかったが、あとには妹たちがたくさんいて、少しも寂しいことはなかった。\n 私の父は、この家の莫大な蔵書を良く知っていて、自分が不自由をするにつけても、毎度そのうわさをしたけれども、家も離れていたのでそうひんぴんと出入りする風はなく、それに、仕事の必要から、いつも五里、三里と外歩きをしていたので、めったに、この家の集まりに参加することもなかった。母などは多分一生の間しみじみとあいさつをしたこともなかろう。それがたった一度の頼みで、この厄介者をひきうけてくれたことは、いま考えても不審のようであるが、これは多分学問への大きな愛情と、つぎには主人の判断を重視した、前々からの家風であったろう。そう思って、いつまでも私は三木家の先代の人柄を懐しがっているのである。\n 客でもないかぎりはめったに表へは出ず、何をしてござるか知らぬような日が多かったが、私が裏座敷の二階の本箱の間に入っておとなしく本を立読みしている時には、妙に段梯子の下に来て、声をかけられることが何度かあった。細かく終いまで読み通したい本があったら、それをそっくり持って降りることも許されるのだが、名も聞かぬような本があまり多いので、つい目移りがして次々と本箱の蓋をとる。中には謡曲の本だの、草双紙だの、用もないのにひっかかって半日を潰してしまう日も折にはあった。\n それよりももっと心残りなのは、若死をせられた先々代の主人の日記なり、書留められたものの中から、松岡小鶴と往復された漢文の原稿でも見出せなかったものか。まだそのころは、あちらのおばあ様も元気で、何でも答えて下さったのに、そこまでは私も気がつかず、また思い出して下さる人もなかった。多分にこれなども、一種の漢文の稽古だけで、祖母はもちろん大庄屋さんの若いご夫婦とは一度も対面しなかったのであろう。\n\n\n大庄屋の家に\n\n\n 私が自由な出入りを許された三木家の裏座敷は、上も下も八畳二室のがっしりした新築で、二階が本箱の置場となり、下がおばあ様の居室となっていて、時折は呼びとめられて珍しい菓子などが出る私たちの理想郷であったが、それ以外にもまだ一つ、生涯もちつづけた思い出がある。もう、いま話して置かないと、かつてなかったと同じに帰するのであるから、ちょっと惜しい。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 塀はあり来りの板塀だから、下の方に一寸ほどの隙間がある。ついに言葉の交換では間に合はなくなつた敵味方は、土くれだの、蛙の死骸だの、石ころだの、みみずだの、電線の切れつぱしだの、妙な恰好に組み合はせた自分の手の指だの、およそありとあらゆる汚物を、その板塀の下の隙間から互ひに突き出しはじめた。双方とも顔は見えない。次にどういふ準備行動をとつてゐるのか、わづかに相手方の押し殺した笑ひ声で想像するほかに途はない。しばらく向う側の行動がとまつた。何やら小声で、ひそひそ囁く気配がする。忍び笑ひもきこえる。ぶつぶつ怒るやうな声もする。......\n やがて、すつと何やらが、塀の下からこちらへ差しこまれた。赤くて細い、なんだか綺麗な光を放つものである。と思つた瞬間、少年は早くもその物体をぐいと握つてゐた。\n しびれるやうな、名状すべからざる痛みが閃いた。少年は咄嗟に、あ、感電だ、と直覚した。恐らく悲鳴をあげたことだらう。塀の向う側で、わあつと歓声があがると、ばらばらと逃げ走る足音がした。そこで少年の知覚は、しばらくとだえた。\n 気がついてみると、少年は自分の部屋の寝床にねかされて、もう電灯がともつてゐた。ずきんずきんする右手の疼痛から、一切の情景が記憶によみがへつて来た。痛む手が、まるで大きな石でもくくり附けられたやうに重い。そつと左の手でさはつてみると、すつかり繃帯されてゐることが分つた。\n よほど経つてから、母はそつと入つて来た。そのまま何も言はずに、少年の額に軽く片手を置くと、また音を立てずに出ていつた。少年はふたたび眠りに落ちた。\n あとで分つたことだが、台湾人の電工たちが少年につかませたものは、灼熱するまでにあぶり上げた銅線の切れはしにすぎなかつた。それを握つた少年の手のひらには、三筋ほど紫色のみみず腫れが出来て、水腫が破れて皮膚が癒着するまでには十日ほどかかつた。\n そのあひだ家で寝たり起きたりしてゐた少年の気持には、ふしぎなほどに怒りや怨恨の影がなかつた。むしろその反対に、自責や悔恨や、一種の罪障感ともいふべきものに対する畏怖の念が、こころの全面を占めてゐた。少年はこの突発的な火傷事件が、おそろしく正確な天罰のやうに思はれた。少年は、当日あの塀をへだてて行なはれた半ば以上は意味不明の猛烈な悪口の交換や、河合の家の二階での出来事や、それに先だつ同じ性質の事件のことや、あの女中の一件やを、次々に思ひうかべ、反芻しながら、ああこれが天罰なのだと、身もだえした。そして言ひやうのない自己嫌悪に、襲はれつづけてすごした。\n\n そのあひだ母は、少年の交友について、いろいろ思ひめぐらしてゐたに相違なかつた。そして年が暮れ、正月が来た。\n 正月になると、街路といはず横町といはず、台北の町はたちまち凄まじい爆音のるつぼと化してしまつた。本島人の好物の一つである爆竹が、昼夜の別なく門なみに打ち揚げられるのである。ただでさへ臆病な上に、つい先頃の痛い目にまで遭はされた少年が、この爆竹の街へは一歩も外出する気になれなかつたことは言ふまでもあるまい。彼は近所の子供たちまでも避けて、冬休みのあひだぢゆう、頭痛がするといつて寝床のなかで暮らしたり、そつと起き出したかと思ふと、縁側で日向ぼつこをしたりして暮らした。母はさうした少年の生態をじつと黙つて観察してゐた。母にしてみれば、この欺しやおだてのなかなか利かぬ少年の心の動きやうは、この世の誰にもまして分つてゐるはずであつた。\n 二学期の成績は、転校早々にもかかはらず、首席だといふことを少年は知つてゐた。どうもあんまり開きがありすぎて点のつけやうに困る――と、担任教師が母に向つて言つたといふことまで、いつのまにかちやんと小耳にはさんでゐた。そして、如何に母や父の前で平気を装ふかといふことよりも、むしろあんまり平気な顔をしてゐて、却つて自分の思ひあがりやうを見破られはしまいかと、その方のことを内心警戒してゐる有様だつた。とりわけ、開きが多すぎて......といふ教師の言葉は、甘く心をくすぐる暇もなく、真正面から少年の自尊心を傷つけて、彼をして当てどのない敵愾心のやり場に困じさせた。\n さういつた少年の心のすがたを、母性といふ自惚れ鏡の剥げ間からちよいちよい覗き見しないでもなかつた母は、少年に新らしい友達を当てがつてみようと思ひ立つた。東京にゐた頃、少年のために友達になるやうに仕向けもし、また少年自身の気に入りもした二三の学友は、いづれも大なり小なり気立てのやさしい、ともすれば柔弱な、美しい目鼻だちをした少年ばかりであつた。中でも吉野といふ未亡人の一人息子などは、母親そつくりの肌理のこまかい瓜実顔をして、少女のやうなぱつちりした眼をおどおどと伏眼にし、何かものを言ふときは女性の語尾を使つて、肩でしなを作りさへしたものだつた。黒い半ズボンに、当時はまだ珍らしかつた黒革のランドセルを背負つて登校するその子の姿は、西洋の家庭小説の挿絵で見る小公子そのままであつた。\n 母はそんな記憶とも経験ともつかぬ残像の中を、しきりに掻きまはしては、それに似た少年の姿を現在この台北の交際仲間の子弟のあひだに求めようとしたらしいが、これはもともと無理な註文だつた。母はたづねあぐねた末に、曲りなりにもどうにか条件にかなふらしく思はれる男の子を探ね当てた。それは瀬川といふ材木問屋の息子で、少年と同じ学校の五年生であつた。母は瀬川の母親とは、婦人会のつきあひか何かで識り合つたらしかつた。材木問屋といふことは、母は一応二の足を踏んだに相違ないが、生まれが同じ東京だといふことから来る親近感は、うるさい植民地の官吏婦人どうしの交際がそろそろ癇にさはりだしてゐた母にとつて、ほとんど圧倒的な誘惑でもあつただらう。のみならず瀬川の息子は、東京の頃の少年の親しい学友たちに共通する美貌と柔弱さと気立ての優しさとを、ある程度まで一身に兼ねそなへてゐた。ついでに蒲柳の質をまで兼備してゐたのであるが、それもまづ一種の気品と見れば見られる資質であつた。その上に瀬川の家の家風ともいふべきものは、暫くのつきあひののち少年にさへ見抜くことができたやうに、東京の山の手の家庭の鼻もちならぬ模倣の気味が濃厚だつたのであるが、これも母の心境としては、目がくらんで見えないか、それとも我慢して目をつぶつたか、そのいづれかであるに違ひなかつた。\n 母の献身的な努力が効を奏して、少年は瀬川と友達になつた。少年は学校の帰りなどに、ちよいちよい瀬川の家に遊びにゆくやうになつた。材木問屋といふことだが、瀬川の家には不思議なほど、商人の家のしるしは片影すらなかつた。少年の家のある△△門街の大通りを、真直ぐ北へ行くと、途中に学校へまがる道があるが、それをなほ真直ぐ北へ同じ位の道のりを歩くと、間もなくおそろしく背の高い竹材置場が見えてくる。瀬川の家は、その竹材置場の横を左へ切れた水田地帯の突端にあるので、最初のうちは材木問屋といふ商売柄その竹材までが瀬川の家のものかと思つたほどだつた。" }, { "role": "assistant", "content": " 少年が二度目に瀬川の家へ遊びに行つたとき、その母親といふのが顔を出した。どういふつもりだか茶色のレンズの金ぶち眼鏡をかけた、小柄な厚化粧の婦人であつた。藤色の着物に、黒い羽織をひつかけてゐる。分厚な膝をきちんと揃へて端坐したまま、切口上でものの十分ほど少年と応対したのち、ではごゆるりと、と引つこんで行つた。\n 入れちがひに、瀬川の姉といふのが、茶菓子の盆をもつてはいつて来た。安子といふ名前で、やはり同じ学校の弟よりも一級上の六年生である。すらりと丈の伸びた少女で、もし並んでみたら、弟より一寸は高からうと思はれた。瀬川は痩形の、色の浅黒い無口な子だつたが、この姉は、色の抜け出るやうに白い、大きな眼のくりくりよく動く、にぎやかな丸顔をした少女であつた。\n 安子は水彩画が得意だつた。さう聞けば少年も、時たま雨天体操場の板壁にずらりと掛け並べられる絵の成績品の優秀作のなかに、一きは際だつた水彩画を幾枚か見た記憶はあるし、その下に、これはあとで描き足した想像であるかも知れないが、六女竹組、瀬川安子と記してあつたやうな気もするのである。いづれにせよそんなわけで、少年は瀬川の家へ遊びにゆく度数が重なるにつれて、瀬川と一緒に、その姉安子の水彩画の弟子入りをしたやうな形になつてしまつた。\n もちろん、いくら大柄だといつても、安子はまだまだ子供である。そんな絵とか水彩とかいふむづかしいことよりも、絵合せだのトランプだのの方が、結構おもしろい年齢であつた。金ぶち眼鏡の母親は、その後たえて姿を見せなかつたが、それをいい幸ひに、瀬川の姉弟と少年の三人は、ときによると時刻の移るのを忘れて、一段高くなつた瀬川の家の離れの十畳間で、子供らしい様々な遊びに吾を忘れることが多かつた。\n そんな或る日のこと、ふと気がついてみると、床の間の置時計はすでに六時を廻つてゐた。少年は、あわてて席を立つた。姉弟は竹材置場の角のところまで、少年を見送つて来てくれたが、あとは△△門街を南へまつすぐに下りる、幅二十間ほどもある人気のない大道があるばかりであつた。正月もとうに過ぎた今日、けたたましい爆竹の音も聞えなかつた。少年はとぼとぼと、その広い大街を南へ歩いて行つた。\n その時の光景は、なぜだか知らないが、少年の記憶に終生ぬぐひ去ることのできない不思議な印象をとどめてゐる。季節はたしか二月であつた。日はいつのまにか沈んで、あたりは蒼茫として暮れようとしてゐた。その中を、少年はほとんど小走りにならんばかりに心せはしく歩いた。しかし足は、いそげばいそぐほど、ますますもつれて、のろくなるやうに思はれた。......\n 落日の光を受けて、謎めいた色合を刻々に築いたり崩したりしてゐた行手の雲も、たうとう薄鼠の空のなかに消えてしまつた。さうして完全にあたりは日暮の景色になつた。その頃になつて少年は、やつとわが家へ曲る横町の角までたどりついた。\n そこには母が、にはかに面やつれしたやうな気色で、白い顔を薄暗に沈ませて立つてゐた。少年はその母のうしろに隠れるやうにして家に入つた。\n その頃すでに、祖母は老衰のため、よほどの重態に陥つてゐたらしい。家の中にたちこめた憂色ともいふべきものを、少年は無言のうちに嗅ぎつけてゐた。何かしら怖るべきもの、いやもつと正直に云へば「忌はしいもの」の近まりが、神経のはしばしにまで感じられた。そんな予感にたいする少年の反撥は、本能的といふよりも生理的だつた。彼は隠居部屋へ招かれることがなくなり、そのうへ、庭や縁側で遊ぶことも禁じられた。それを幸ひ、少年は学校や戸外ですごす時間を、できるだけ延長した。\n 河合を餓鬼大将とする近所の子供たちとの附き合ひは、あの火傷事件このかたぱつたり絶えた形になり、瀬川の家の奥座敷における静かな遊戯が一応それに取つて代つたのではあつたが、実をいふと少年の興味の中心は、もはやそこにもなかつた。万花鏡の色彩が、うす紫いろの主調からいきなり鶸萌葱のそれへ一転したかのやうに、少年の学校生活は、新たな照明のもとに忽然として未知の領域を、少年の眼界にうかびあがらせた。それは、瀬川安子の登場を契機として出現した。色彩と音響との眩暈感にみちた不思議な一世界であつた。それまでは、好人物の一人の教師によつて統べられた小さな教室と、それを雑然とみたしてゐる愚鈍な同年輩の男の子たちと、退屈な学課と、ほそぼそとした虚栄心の満足と、それにもう一つ、身の毛のよだつほどの劣等感と孤独感とを彼に強ひるあの旗とり遊戯とおよそそれだけから成り立つてゐた少年の学校生活に、思ひもかけない別の一面、つまり女生徒たちの世界が、異様なざわめきとともに侵入して来たのである。\n 一時間の終りから次の時間の始まりまで、眠たさうな鐘の音とのあひだに挟まれた十五分ほどの休み時間は、それまで少年にとつて傍観と逃避の無意味な空白にすぎなかつた。ましてや一週に三回ほどある、課業が午後につづくやうな日は、長い昼休みが少年にとつて、苦痛といふよりむしろ拷問であつた。さういふ時の少年の逃避所は、運動場の片隅にある小つぽけな砂場であつた。そこで彼は、ひとりで砂を盛つたり崩したりして時を殺すのである。\n それが今、眼がひらいてみれば、何といふ広い未知の世界がそこにはあつたことだらう! それまでは灰色の沙漠にひとしかつた運動場は、いまや少年にとつて音と色との饗宴の場と化した。彼はみづから進んで同級生の仲間にまぎれこんで、運動場を駈けまはるやうになつた。但し駈けまはるとは云つても、必ずしも級友たちの遊戯の忠実な仲間だつたといふ意味ではない。彼の意識は痛いほど緊張して、瀬川安子を中心とする一団の女生徒たちのあとを追つてゐた。彼女たちは休み時間には、白い大きなゴム毬をついて遊ぶのが常だつた。それがいつもきまつて、運動場のやや西寄りの、つまり彼女たちの教室に近い一角だつたのである。少年たち五年生の教室はほとんどその反対側にあつて、やはり自分の教室の前にかたまつて遊ぶ習性があつた。しかし幸ひなことに、遊びが高潮してくると、女生も男生もだんだんその輪から撥ね出してくる。渦紋の伸び縮みが次第に活溌になつて、つひに男生たちはその運動圏をやぶつて、大海を周游する魚群のやうに、不規則な大きな曲線をゑがきながら、運動場のなかを自在に駈け廻りはじめる。少年はその瞬間を見澄まして、自分もいち早く周游運動にもぐりこむのであつた。\n いつも紫がかつた着物をきて、明るい臙脂色の袴をはいた瀬川安子の大柄な姿は、遠くなつたり近くなつたりしながら、絶えず少年の視野の一隅にあつた。仲間に気どられることを恐れて、少年は決してまともに彼女を見ようとしなかつたからである。時たま彼らの周回曲線が、猛烈な勢ひで、彼女たちの円陣の外周をこすつて過ぎることもある。さういふ時、少年はわざと顔をそむけて、その代り自分の猛烈な速度によつて彼女の認識をもぎとらうとするかのやうに、息をはずませながら駈け抜けるのであつた。ぎらぎら放射する何ものかが、少年の片側に煎りつけた。彼は幼いころ芝浦かどこかで見せられた曲馬の、燃えさかる炎の輪をくぐり抜ける騎手の一人を、自分のうちに感じるのだつた。遠い忘れられた記憶は、そんな思ひがけない一刹那にふと閃めいて、また闇へ没してゆく。......少年は知らず知らず馬上に揺られる人のやうな腰つきになりながら、心の片隅でそんなことを漠然と考へた。それもすぐ忘れた。\n ある時、やはりそのやうな疾走に移らうとする瞬間、少年の五六尺ほど前方へ、はずみのついた大きな白いゴム毯が、勢ひよく撥ね出して来たことがあつた。少年は素早く、われながら自分の狡猾さに驚いたほどの自然さで、針路を転じて、その毬を追つた。五六歩で、毬はうまく手に入つた。少年は振りかへると、網膜のどこかに早くも彼女の姿がちらつくのを感じ、狼狽した。顔が熱くなつた。わざとそのちらつく姿から外らして投げた。毬はみつともなく、女生の円陣のよほど手前に落ちて、迷つたやうに地上をころがつた。その瞬間、円陣がとつぜん音もなくパッと綻ろびて(と少年は思つた)――大きな牡丹のやうな色彩を少年の眼の前へ吐きだした。それが瀬川安子だつた。彼女は臙脂色の袴のひだを大仰に揺りこぼすと、片膝たてて跪いて、しつかりとその毬を両手に受けとめた。そして、やや上気した例の団扇形の白い顔を仰向けると、上眼づかひに少年をちらと睨んだ。彼女のよくするあの怨ずるやうな眼づかひである。それがその瞬間、いひやうのない紫色の晶光を帯びて、少年の顔を射たのである。冷笑と非難の笑ひだつた。それは素早く、豊かな二重瞼のもとに伏せられて、さも満足さうな含み笑ひに融けてしまつたが、少年はそれを見とどけるか見とどけないかのうちに、さつと反転して別の男生たちの人波にまぎれこんだ。その逃走感覚は、少年にとつて一種妖しげな快感を含んでゐた。彼は水飲み場へ駈けつけると、大げさな息ぎれの様子を装ひながら、次の授業開始の鐘が鳴るまでその場をはなれなかつた。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 私は先ず山口の手記に、成子の個性がないこと、アベコベに男の個性がありすぎることを指摘し、成子がしばしばゴミをすてに裏へでたこと、深夜に男が来ていたこと、成子が旦那の売上げを数えるのを見ていたこと等、彼の観察が男女共犯物盗り説の一点にのみ集中していることを指摘した。しかもこれらの目撃者は彼一人であって、他の誰も同じものを見ることができない底のものなのである。その他のことについては、彼の手記にはなんらの個性もないのである。そこで私は結論したのだ。\n「しかし男であるかは探す必要がない。太田成子を追えばタクサンだ。彼女を捕えれば、男が誰であったかは自然に分るであろう」\n 云うまでもなく男は山口だと云う意味だ。そして、その次にフシギな女について詳説したのは、なぜ男が山口であるかということを、補足説明するためのことである。\n 即ち、前述の如くに、女が信用組合の時間だけ気にかけて、現場の発見を気にかけないのは、男が山口であること。また、四人殺害後、冷静に現場の証拠を消しながら男を目撃した唯一の人物山口を殺さないのは有りうべからざることであり、要するに男と山口は同一人であることを暗示したのである。\n しかし、犯人があがらぬうちに、そうハッキリ云えるもんじゃありませんよ。暗示するにしたって、すぐ分るようなハッキリした暗示の仕方ができるものじゃアない。\n 私は今度の事件は数名の目撃者の観察がシッカリしているから、モンタージュ写真によって遠からず成子嬢がつかまると信じていた。しかし、ただ一ツ不安なのは、山口が女を殺してしまう場合がありうることで、こうなると後日に至って山口がどんなにカサにかかって私の文章にインネンをつけてきても、法律上、物的証拠によって彼の犯行を断定することができないと同様に、私も彼のインネンに抵抗するだけの物的証拠をもたないのである。山口の犯行を暗示するたって、そう明々白々に暗示しうるものではない。彼にインネンをつけられてもゴマカせるような伏線をつくっておかなければならないのです。\n 幸いに私の想像通りに太田成子を追うことによって、自然に男もつかまった。別に私の誇るべきところでもなんでもない。当り前の話ですよ。\n だいたい、実際の殺人事件の犯人を当てるなどということは、決して文学者のやるべきことではない。むろん、人間には趣味というものがあるから、犯人はあれだ、いや、これだと世間話に興じるのは当り前だが、文学者がその表芸として犯人を当てるなどということは、笑止千万、バカな話であろう。\n 第一、私に犯人が、当るような事件は万に一ツぐらいのもので、今回がつまり万に一ツの場合であったのである。\n だいたい普通の犯罪は流しの犯罪で、犯人は日本人八千何百万人の中の一人というバクゼンたるものである。探偵小説のように、登場人物二三十人の中に必ず犯人がいるという重宝なものではないし、おまけに、殺人の現場だって当局にだけしか分っておらず、新聞社すら、臆測によっているにすぎない程度である。そういうバクゼンたる材料をモトにして、素人タンテイが犯人を当てるなどということはありうべからざることに類する。\n 今回は珍しく犯人が犯人でない顔をして手記などを書いたから、私は気がつくことができたのであるが、しかし、別に私だけのことではなかろう。\n だいたい、専門家というものは、みんなそれぞれ大したものと心得てマチガイはないものだ。タンテイはタンテイ。素人タンテイとちがって本物のタンテイは素人のはかりがたい経験があるものである。恐らく刑事の多くは山口を疑っていたに相違ない。しかし冷静に兇行後の後始末を完了した山口に恐らく物的証拠はないだろうから、あの場合、女の行方を追求するのが当然であろう。女さえ捕えれば、自然に男を知ることができるからである。衆議院で山口を追求しなかった警察庁を詰問しているのは筋ちがいで、この場合、全力をあげて太田成子を追求するのが当然の本筋だったのである。モチはモチ屋。本職にまかしておけばたいがいマチガイないものである。だいたい、素人タンテイ式に、疑わしい奴を片ッぱしからショッぴくようなやり方は、最も好ましくない。どんなに長時間要してもかまわないから、礼儀正しく、つまり理づめに犯人をあげてもらいたいものである。\n\n ★\n\n ウソ発見器というものは、たぶん利用価値は殆どゼロであろう。脈搏だか心臓だか知らないが、何か電流で通じて鼓動かなんかの変化によってウソを見破ろうというものらしいな。聯想の反応実験などとまア似たようなものだ。その人間の個性を究めていないと、とんだ狂いを生じるし、その実験から証拠をハッキリつかみだすことは、まず不可能であろう。\n 瞬間的な反応というものは、一見人間は本能を偽れないように見えるから確実らしく思われるが、実は犯罪者という老練冷静な実行家にとって、とッさの本能を偽るぐらいは易々たるものかも知れない。\n むしろ考える時間を与えて、手記でも書かせた方が、理ヅメにごまかす手段を考えるからシッポをだす率が多く、だし方がハッキリしてしまうだろう。しかし、山口のように、事件を発見した当人が犯人であったという場合ならとにかく、他の容疑者の場合は、自分は事件に関係せぬ、しかじかのアリバイがあると云えばそれまでのこと。事件と交るところのない手記を書かせたって、糸口はつかめない。たとえば平沢氏の手記の如くに、富士山や如来様かなんか三十一文字によみこんで心境をのべたてられても、タンテイたるもの手のほどこしようはないね。\n 山口の犯人と確定した今となっては、山口の手記はいろいろ考うべき材料を提供しているようだ。\n 今となってはバカバカしいようだが、山口は女の住所をくらますために、新宿の反対側の浅草と云ってるのだね。今となっては、浅草の反対の新宿だと判断するのはカンタンだが、当時としてはできやしない。渋谷だか品川だか池袋だか上野だか、ほかのとんでもないどこかだか、とても見当はつけられない。\n しかし、この手記中の浅草の語は山口の生前、聯想試験の材料にはなったであろう。しかし、この場合にも、この種のテストには個性差というものがあって一定の公式で判定ができない。のみならず解明さるべき問題はその個性差の中に含まれているのであるから、断定的な答えは絶対に出てこないと見てさしつかえない。彼が浅草と云っているのは新宿をごまかすためだということは、心理試験によって知りうる如くでありながら、実はまず絶望的に不可能だろうと思う。探偵小説などでそれが可能なのは、試験がうまく出来すぎているばかりでなく「断定が可能」であるからだが、実際問題としては、彼が他の理由で犯人と定まるまでは、決して断定はできない。試験者の心理の方に断定しがたい弱点が存しているからである。\n 大学の心理教室の実験の場合とも違うのです。なんしろ一人の人間が殺人犯であるか否か、ということを、日本人八千万の耳目の前で決するのだから、責任がちがう。実験者の方にかかっているその責任の負担が、あらゆる断定を疑う弱点となって現れるのである。いかんともしがたいことだ。\n それにしても、毎日新聞が「山口は犯人にあらず」ときめてかかったり、朝日新聞がはじめのうちは「山口は犯人らしい」ときめてかかったことは、内々はよろしいとして、それを紙上に明記するのは、いろんな意味で危険ですね。まず第一にその軽率さを責めらるべきである。\n 新聞は単に事実を報道すべきものであるか、もしくは一人の彼を犯人と見たり犯人に非ずと見てそれを公表してよろしいものであるかどうか、昔からの問題であるが、とにかくそれによって益するよりも害毒を流すことが多いだけは確かであろう。新聞がそれを行うのは功名心、他紙との勝敗を争うという功名心が主であろうが、その結果は一方が下山総裁自殺説をとれば、一方は他殺説をとる、まア時には御愛嬌でよろしいけれども、その推論の根拠がいかにも薄弱で軽薄きわまるものがある。この軽薄さをさして、あるいはジャーナリズムと云うのかも知れない。風の中の羽のように軽いのは、男でも女でもなくて、ジャーナリストの心かも知れませんね。\n あらゆる事件には、その限界があるのである。たとえば下山事件の場合には、動物実験の結果自殺か他殺か明確にしうるか否か、ということが第一の限界である。文明開化も幾久しい現代であるが、科学万能というわけにはいきますまい。動物をレキ殺させてみる。その血痕の飛び方をしらべる。レキ断され方をしらべる。同じ条件で行うことは絶対に不可能な筈であるが、しかも絶対に確実な答えをだしうるか否か。" }, { "role": "assistant", "content": " 私はその実験の方法についても、方法の結果、また結論についても知らないのだから何ともいえないが、想像してみて、半信半疑ですね。現代の科学的方法によっては、自殺とも他殺とも断定できない、という結論が、あるいは出てくるのではなかろうか。しかし、確実に、自殺也、他殺也、と断定できるなら、結構この上もないことだ。以上が第一の限界である。しかし、下山事件はまだ第一の限界すらも明にはされていない。\n すべてタンテイというものは、こういう限界をハッキリと見究めてかからなければならないものだ。その限界を明確にするに時間がかかるとすれば、問題はカンタンさ。自殺、他殺、両方の線で追求するのだね。どちらとも即断すべきではない。\n 八宝亭の場合にも、限界はいくつもあった。犯人は男女共犯也、というのが第一の限界です。太田成子は万人の認めうる犯人だ。なぜなら、盗まれた通帳をもって信用組合の金をおろしにきているのだから。そして彼女がその日から八宝亭へ住みこんだことについては多くの証人がいるのだから。しかし、太田成子に情夫がいて、二人共同の犯行であるということは、山口以外の証人がいないのである。しかしながら、山口がかく認める以上は男女共犯説には絶対にマチガイがない。なぜなら、もしも山口の供述する男が架空である場合には山口自身が犯人なのだから。以上が第一の限界です。\n 第二の限界は、太田成子が八時半ごろ柳ずしに現れ、九時前後に洋品店へ現れ、九時半ごろ信用組合へ現れているという事実です。そして信用組合から金をひきだす時間をまつために、現場にすぐ近いところでできるだけブラブラ時間を費そうと努力してる非人間的なムジュンです。\n 事件はいつ発覚するか分らない。彼女はいろんな客にも顔を見られているし、何よりも山口には顔を熟知せられている。路上で山口に会えばそれまでだが、それを怖れるソブリが全く見られないのはナゼか、しかも山口が生きていることを彼女は知っている筈なのだ。答えは二ツしかない。一ツは、彼女の共犯は、山口が目をさまして起きてきたら殺すために八宝亭のどこかに隠れているから。一ツは、共犯が山口自身であるから。\n 山口以外の男がいて、太田成子が金をひきだす前に山口が起きてきたら殺すつもりで八宝亭に居残っているとすれば、山口を殺してひきあげるのが当然です。なぜなら、十四万円ひきだすのを成就するために山口が起きたら殺そうと九時ごろまで待ちぶせる危険を冒すほど冷静大胆な犯人なら、山口を確実に殺す方が安全だという当然な結論を忘れる筈もないし、実行しない筈もない。彼の顔を見ているのは山口一人だ。太田成子についても最も多くの不利な供述をなしうるのは山口だ。十四万円ひきだすまで山口を見張る以上は、殺すために見張ったであろう。私が先月号に、男はなぜ山口を殺さなかったろう、と何回も云っているのは、このことである。\n 太田成子が信用組合へ現れたのは九時半、山口が築地署へ現れたのは九時半。この時間の暗合を考えても、第三の男が山口を見張っていたということは、時間的に考えられなくなるのである。\n 以上の推理に確実な裏づけを得たのは、毎日新聞へのった山口の手記である。新聞記者は自ら渦中にいて、直接山口と会ったりして却って明白に露出している真相を逸していたようだ。\n 私が「フシギな女」を書いたのは、単に人間の心理を解析するだけで、確実に犯人を推定しうる稀有な場合であったから。\n こんなことはメッタにあるものではない。現場も見ずに素人が犯人を当てるなどということは、万に一ツぐらいの珍しいことだ。\n 事件直後に朝日新聞が犯人は誰だと思う、と聞きに来たが、ことわった。その時はこう明白に推定できた時ではなかった。現場がどんなになっているのか、足跡があるのか、台所で身体を洗ったり、血の始末をした跡があるか、何も分らない。そういうことが分らなくて推理はできないものである。ただ、新聞に報じられている状況から判ずると、朝日の疑っている人物が疑わしいことは確かだ、とだけ、つけ加えて答えただけだ。だいたい事件直後に素人タンテイが犯人を推理するなどとは滑稽なことだ。すべて事件のカギは現場にあるのだ。それを見ずに、まして素人が、きいた風なことを云ってみたって仕様がない。今後もあることだから言っておきますが、事件直後に安吾タンテイの推理をききにきたってムダです。私は答えません。否、答えられません。答える力量がないのだから。\n とてもホンモノのタンテイにはかてませんが、素人の多くの方々にくらべれば捕物帖の作家たるだけのタンテイ眼はあるでしょう。その相違がどういうところに一番ハッキリしているかというと、その事件の個性と限界というものだけはいつもほぼ正確に見究めているという事です。たとえば、太田成子がつかまり、山口が犯人と分ったときに、なぜ山口を疑らなかったか、と世間は怒りました。これが素人の素人たるところでしょう。この事件は太田成子を追う一手ですよ。さすれば男は自然に分るのだ。変に山口を突つかずに、太田成子専一に追えばよかった。さすがに警視庁はそれをやっております。新聞記者だけが山口にいつまでもからみついていました。しかも犯人でないと信じつつ。彼らのタンテイ眼はよほどダメのようです。事件の個性と限界を知らないのだから。\n 五年前、初めてタンテイ小説を書く時に、浅田一博士を研究室にお訪ねして法医学の知識を若干御伝授ねがったことがありました。先生は非常に公正な判断力をお持ちの方で、思考の傾斜が少い方です。法医学者とかタンテイにはそういう性格的な素質が必要だということを実物で教えていただいた次第で、何よりそれが印象に残っています。\n 科学者はみなそうあるべきだとお考えかも知れませんが、否、否、科学の独創的な仕事は、むしろ傾斜する思考から生れるのが自然ではありませんかね。タンテイはそうじゃないね。限界がハッキリ与えられている。独創はないのだ。タンテイに独創はありません。臨床医と同じようなものだ。ただ傾斜の少い正確な眼が必要なだけだ。新聞の報道という任務にも、この眼が基本でなければならないと思うのだが、およそ日本の新聞には、この眼がありませんね。太田成子さんと同じようにヤブニラミであるか、甚しく傾斜したがる眼ですね。いつも事実を自分の方から逃している眼ですよ。眼グスリだけでは治らない病気だね。報道に独創なんてことはあるべきじゃアないから、傾斜してはいけません。\n\n ★\n\n タンテイの推理と科学の独創は違うといったが、科学もある点まではタンテイと類似した推理ですね。私はそれをこの三月、常磐線の汽車の中でイヤというほど思い知らされました。\n 文藝春秋へ連載している安吾日本地理というものの夏のシーズンに「只見川ダム」という予定をたてておいたのである。予定をたてたときは威勢がよかったが、少くとも一週間は人なき山中を彷徨しなければならないのだからね。小生もすでに年老いたよ。先月その日本地理で仙台へ行き、青葉城という城跡の山へ登っただけでノビたのさ。\n「もう、只見川はやめた!」\n 私は青葉城本丸跡で文春記者にかく断乎として宣言したのである。さらに塩竈神社というところの石段を二百段ほど登ったときにも、\n「もう山登りはコンリンザイやらんよ」\n と、かたく念を押したのである。\n ところが妙なもんだね。仙台から帰りの常磐線にのると、中谷宇吉郎先生と同じ箱に乗り合したのである。\n 迂遠な話だが、私は中谷先生がダムの権威で、各地のダム建設に最高顧問として実務にたずさわっておられることを知らなかった。只見川もむろんのことである。いま上京するのも、信濃川ダムへ行くためで、それが終って四月はじめに只見川へ行かれるところでもあった。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 空倉庫と塀と川とに挟まった、不正形の空地はなるほど白昼の密会に持って来いの場所です。\n 話して居るのは、今まで後をつけて来た不思議な乞食と、もう一人は、身投をしようとした美しい娘です。\n「お父様、昨夜はどうなすったのですか、お手紙の通りの時間に、仰しゃった場所へ行っても、お父様はお見えにならないんですもの、私はもう何も彼も駄目になったのではないかと思って」\n 乞食と娘は果して親子? 満更予期しない事ではありませんでしたが、鳴海司郎思わず息をのんで聞耳立てました。\n「知って居るよ、お前はがっかりして、あの欄干から身を投げようとしたじゃないか」\n「エッ、ではお父様はあれを御覧になって居らしったのですか」\n「あの欄干の外の板囲いの蔭に、私は隠れて居たのだよ。出て行き度い事は山々だったが、あの時私は、恐ろしい眼に前後から見張られて、身動きすることも出来なかったのだ。......お前が心配の余りどんな事をするかも知れないと思ったので、正直そうな若い男に頼んで、お前の危いところを助けさせたのだよ」\n「お父様?」\n「おれは何も彼も知って居る......何んだって又お前は、あんな馬鹿な心持になったのだ」\n「お父様」\n 美しい娘は、汚い乞食姿の父親にすがり付いて、声を飲んで咽び泣きます。\n「ネ、あんな不心得な考を起さずに、少し位の事は我慢して、なぜ駒形の別荘にじっとして居ないのだ、......もう二三日すると、私は旅券を手に入れることになって居る。旅券さえ手に入れば、一度台湾か、満州へ行って、そこを足がかりに、南米へ落ち延びるのは何んでもない。南米へ行って落付いたら、直ぐ信用の出来る人を迎いに立てて、お前を呼び寄せると堅く言って置いたじゃないか。あれほど噛んで含めるように言ったのに、どうしてお前はわからないのだ。いくらお前でも、たった半年か、精々一年の辛抱が出来ないという筈は無い......駒形の別荘は、お前の名義になって居るから、世間では誰もお前の身許などを知りはしない、それが嫌なら、竹町の婆やの所へ行って居てもいい、たった半年か一年......」\n 美しい娘の肩に手を置いて、汚らしい乞食の諄々として語る様子は、何んという奇観でしょう。二人の心持が、突き詰めた真剣なものであるらしいにもかかわらず、鳴海司郎は、映画の或情景を見て居る心持にさえなるのでした。\n\n五\n\n「お父様、お父様、仰しゃる事はよくわかりました。けれども、お父様はどうして南米なんかへ行らっしゃらなければならないのでしょう? ――どうしてお父様は、名乗って出て、罰せられるだけ罰せられ、なさるだけの事をなさる気におなりにならないのでしょう? お父様、そんな逃げ隠れするお心持にならずに、どうぞ、多勢のために、名乗って出るお心持になって下さい。正しい道をさえ歩いて居れば、私はお父様と一緒に、あの橋の袖に坐っても、少しも辛いとは思いません......亡くなったお母様も見て居て下さいます。こうして、肩身を狭く、逃げたり隠れたりして暮す位なら、私は本当に乞食になっても、少しも悲しいとも辛いとも思いはしません。お父様!」\n 降りそそぐ涙に、娘は身も浮くばかり、汚らしい父親の膝へ、胸へ、犇々と取り縋ります。\n 真昼の陽は、この不思議な情景をまざまざと照し出して、聞えるものと言っては、近く波の音、遠く大都のどよみ、それも妙に身にしみて、場所柄にも無い異様な静けさが胸を打ちます。\n「馬、馬鹿な事を言え、今更そんな気の弱い事でどうするんだ、この乞食姿をそのまま、長い一生が送られるものでは無い、この父は南米へ行って、王侯のような生活をするために、暫らくこんな酔興な様子をして居るのだ。馬鹿な事を言って、折角の計画の腰を折らしてはいけない」\n「イエイエお父様、王侯とやらの生活も、私は少しも羨ましいとは思いません。多勢の人達の怨みを解いて、少しでも心安い日を送ったら私は日本で乞食をしても」\n「馬鹿な事を言え、もう八分通り出来上った仕事だ、アッ」\n 乞食はハッとした様子で、四方に眼を配りましたが、\n「誰か来たようだ、お前はもう帰れ。用事のある時は竹町へ手紙を出す、わかったか、気丈夫に待って居るんだぞ、もう二度と死ぬような気を起すな、いいか、サア帰れ」\n 娘を引き立てるように、一方の路地へ送りこみ、暫らく打しおれた後姿を見送って居りましたが、何に驚いたか、ハッとした様子で、反対の方の抜け道へ身を跳らせます。\n「どっこい待った」\n その面前へ、大手を広げて立ちはだかったのは、昨夜鳴海の手から、百円紙幣を巻き上げた無頼漢風の男、\n「ヘエヘエ、御免下さい、そちらへ参ります」\n「どこへ行くかは知らないが、たって此処を通り度きゃ税金を出して行きねエ」\n「エッ」\n「驚くことは無いよ、二三日続け様に引っ叩かれてスッカラカンさ、大きな面をしていて百もねエんだ、沢山とは言わねエ、ほんの少しばかり貰い溜めを貸してくれ」\n 鳴海司郎呆れ返ってしまいました。白昼東京の真ん中で、乞食を強請る奴があろうとは思いもよらなかったのです。\n「親分、御冗談仰しゃっちゃいけません、私は御覧の通りの乞食で、人様の袖にすがって、一銭二銭の合力を頂き、それで漸く露命を繋いで居る、情ねエ身の上なんで」\n「ハッハッハッハッハ、その乞食を承知で元手を借りようてんだ、天道様はお前の懐まで見通しさ、四の五の言わずに、綺麗に裸になりねエ」\n「冗談なすっちゃいけません、親分、お助け」\n 逃げ廻るのを追っかけて、あわや懐へ手、\n「ワッ」\n と松葉杖を振り上げて、繃帯を巻いた足がシャンとなると、乞食の顔には、思いもよらぬ殺気が漲ります。\n「オウ皆んな、手を貸せ」\n「合点」\n 無頼漢の声に応じて、同じ様な風体のよくないのが、バラバラと三四人、何処へ潜んで居たか、一遍に飛出します。\n 形勢不利と見た乞食は、自分の懐へ手が入ると、金貨、銀貨、大小紙幣を一と掴み、二た掴み、木の葉のようにサッとバラ撒いて、\n「勝手に拾え」\n 捨ぜりふを後に、何処ともなく姿を隠してしまいました。\n「オイいい加減にしろよ、肝腎の玉はずらかったじゃ無えか」\n「エッ」\n「エッじゃないよ、そんなものに夢中になっちゃいけねえ」\n「なる程、これはしくじった」\n かき集めた金銀貨紙幣の小山を前に、三四人の子分共は暫らくは顔見合せて立って居ります。\n「だがネ、あいつの穴は大概当りが付いたよ」\n「ヘエ、どの辺でげすかい」\n「お前達はあいつの繃帯で巻いた方の足を見なかったかい」\n 親分らしいのが、こう申します。\n「繃帯の足へでも隠してあるんで?」\n「そんな馬鹿な話じゃねエ、あの繃帯の足に、セメントの粉が付いて居たのを見たかてんだ。繃帯の足ばかりじゃ無い、あの若布のようなボロも、よく見ると恐ろしいセメントだ。ネ読めたろう、こりゃ何んだぜ、長い間この辺から吾妻橋へかけて探したのは大間違で、あいつの穴というのは、浅野セメントの近所、清洲橋からあまり遠くない所にあるに相違ねエと睨んだがどうだい」\n 無頼漢の親分の眼は、ハンティングの下でピカリと光ります。\n「なるほど、違えねエ」" }, { "role": "assistant", "content": " これが普通の場合だと横手を打つところですが、何に揮ったか、子分共は互に顔を見合せてしんみり感嘆します。\n「サア、思い立ったら早い方がいい、あいつだって、軍用金が無くなりゃ、直ぐにも穴へ行くに極って居るんだ。これからすぐ出かけて行って、セメントの粉をかぶって居るほどの、石という石、材木という材木、小屋でも物置でも、しらみ潰しに探して見よう」\n\n六\n\n あくる日鳴海司郎が、会社の仕事を片付けて大川端へ駆け付けたのは、もう五時過ぎ、遅々たる春の日も、夕靄の中に沈もうとして居る時分でした。\n 浅野セメントの近所、河岸ぶちを見廻して歩くと、なるほど、あらゆる石垣、材木、橋も倉庫も、かなり丁寧に調べられたようですが、不思議なことに、それが一つも置換えられても、掘り起されもしては居りません。\n「穴とやらが見付からないのかな」\n と思いながら、新大橋へ来ると、川蒸気の発着所に居るのが、昨日の無頼漢の一団です。セメントに汚れた、がっかりした顔を見ると、探検の不成功に終ったのは明かです。\n その内に蒸気が来ると、互に眼顔で話し合って、子分共は岸に踏み止り、親分だけ一人船に乗り込みました。鳴海司郎、何うしたものかと一寸迷いましたが、三四人の子分よりは、たった一人の親分の方が重要らしいと思いましたので、直ぐ後から飛乗って、そしらぬ顔で、親分の動静を見守ることにしました。\n やがて川蒸気は、両国から駒形橋を経て、暮れかかった川面を、その頃改築中の厩橋の下にかかりました。\n 疲れた頭を夕風に吹かれようというのか、無頼漢の親分は、出口の段々を登って低い屋根の上へ半分身体を出して居りましたが、仮橋が見えると、何を考えたか、機械体操の要領で、サッと川蒸気の屋根の上へ飛乗りました。\n 鳴海はすぐ側に居たので、その一挙一動が実によく解ります。混雑した川蒸気の中、乗り合の衆は、二十銭で八冊売る月遅れの雑誌屋の口上に聞取れて、無頼漢風の男が蒸気の屋根に飛乗った事などには気が付きません。\n 夕霞は音もなく川面をこめてその辺はもうたそがれの色が濃かになって居ります。日暮れを合図に終航にする川蒸気の事ですから、これが多分最終船と言うのでしょう、続け様にトボケた汽笛を鳴らして、低い仮橋の橋桁の下へ入ると、\n 屋根の上の無頼漢の身体は、一寸屈んだと思うと、ピンと跳ねて、頭の上の橋桁へサッと飛付きます。実に間髪を入れざる恐ろしい放れ業。\n と見る間もなく、蒸気は仮橋の下をくぐって、ゆるやかな曲線を描き乍ら、厩橋の発着所に着いて居ります。\n これを見て居た鳴海は、鉄砲丸のように川蒸気を飛出しました。一足飛に段々を登って大廻りに橋の上に出ると、橋桁の下から這い上った茫々たる頭の持主、もう欄干に手をかけて、上へ飛上ろうとして居ります。\n「鳴海さん、その乞食を捕えて下さい」\n 橋の下から続いてもう一人、それはいうまでもなく、蒸気の屋根から飛付いた無頼漢です。\n 思いもよらぬ自分の名を呼ばれて、ハッと驚いた鳴海、見るともう欄干を超えた乞食は、身を跳らして浅草の方へ逃げ出そうとして居ります。捕えようか、放って置こうか、鳴海は一瞬間迷うともなく躊躇う暇に、\n「あれ、お父様、逃げないで......どうぞ、このまま、このまま、縛られて下さい」\n 何処から現われたか美しい娘、乞食姿の父に取りすがって必死に争って居ります。\n「放せ、こら、土岐子、放せ」\n「お父様ど、どうぞ、逃げないで」\n 娘の声は涙に咽んで、あやしくかき消されますが、繊手は蔓草のように父親の身体に縋り付いて、死ぬまでもと争い続けて居ります。\n「権堂、未練だぞ娘の手で縛られろ、せめてもの罪亡しだ!」\n 凜として叱咤の声。\n 振り返ると、あの無残な無頼漢が、ハンティングをかなぐり捨てて、父娘相争う不思議な情景をじっと見詰めて居ります。\n これは又何んたる変りようでしょう、蝙蝠安を今様にしたような、安直な悪党が、双子縞の素袷に前下りの三尺帯のままながら、威風四方を払って、別人のように颯爽として居ります。\n「ハッ恐れ入りました」\n 権堂と呼ばれた乞食体の男は、橋の上へ、ヘタヘタと坐ると、その上へ美しい娘の土岐子は、崩折れた芙蓉の花のように、気を喪って倒れてしまいました。\n もう橋の上は野次馬で一パイ。\n「コラコラ立っちゃいかん」\n 制止の警官が来ると無頼漢風の男はそれを小傍へ呼んで、\n「これは予々捜索して居た、拐帯犯人の権堂賛之助です、本署へ電話をかけて護送の手続をして下さい」\n「エッ、あの貯金魔の?」\n 警官が驚いたのも無理はありません。詐欺貯金で数百万円の金を細民から絞り取った上、その経営して居る会社が破綻と見るや、幾十万人の怨みと嘆きを後に、回収の出来るだけの現金有価証券、併せて百万円余を取りこんで、そのまま姿を隠した有名な貯金魔だったのです。\n「そう言うあなたは?」\n 警官の問に答えて、\n「花房一郎といいます」\n「あッ」\n これが、――この冷酷無残の無頼漢が、――名探偵花房一郎とは思いもよりません、さすがの警官も驚きましたが、鳴海司郎の驚きは又一倍です。\n 折から駆け付けた部下の私服に言い付けて、もう一度橋の下を探させると、間もなく、かなりの大トランクを一つ担ぎ上げます。\n「そのトランクには、現金と有価証券で百万円以上入って居るだろう、それは、血の涙で権堂を怨んで居る、何十万の預金者達に分けてやる大事な金だ、気をつけて本署へ運んでくれたまえ」\n するだけの事をして了った花房一郎、静かに司郎を顧みて、こう言います。\n「鳴海さん、お驚きになるには及びません、あなたの名前や身許は、昨夜の内に調べさせて置いたのですよ、あなたは、大事な証人ですから、この娘を介抱して、後から円タクか何んかで警視庁へ入らして下さい、宜しいでしょうネ」\n 風体に似ぬ穏かな言葉が何んとなく人なつかしい心持さえ起させます。\n\n七\n\n 名探偵花房一郎は、一件が解決してから、鳴海司郎にこう話して聴かせました。\n「何んでもありませんよ、権堂が百万円の大金を拐帯して、海外へ高飛しようとして居る事がわかったので、早速吾妻橋から両国橋の間を警戒して居たのです。それには訳があります。留守宅の娘のところへ時々差出人不明の手紙が舞い込みますが、それが極ったように、浅草から投函されて居るのです。それに、駒形には娘名義の別荘があって、百万円入のトランクを一時そこへ匿して置いた事もわかって居りますから、駒形を中心に、吾妻橋から両国の間に居るに相違ないと睨んだわけです。\n 警戒は厳重を極めて居ますし、顔も知れ渡って居ますから、身一つなら知らず、あれだけの大トランクを持って、ノコノコ歩かれるものではありません。それに権堂の身になれば、命に代えても、あの大トランクは離されないのです。\n 私は無頼漢に姿を変えて、あの辺を警戒して居ると、すぐ乞食姿に身をやつした権堂を見付けましたが、困った事に、百万円入の大トランクを、何処に隠して居るか容易にわかりません。あんな大きい拐帯犯人は、身体ばかり捕えるのはウソで、知らぬ存ぜぬでおっ通した上、何年か後、刑をすませてから、そっと隠して置いた大金を取り出して、費わないものでもありません。そんな例は、これまでも数え切れない程沢山あるのです。\n で、暫らくは、知って知らぬ顔で、権堂の身体を放し飼いに、トランクの在所を探して居りました。\n 貴方が権堂から貰った百円札を横合から出て捲き上げたのは、貴方に万一の間違をさせまい為の私の老婆心でした。あの金は細民の膏血を絞った因縁のある金で、一銭と雖ども無駄には出来ないのです。せめて元金の何割でも何分でも、出来るだけ多く、気の毒な預金者達に返してやらなければならなかったのです。\n 横網で私と部下の者が権堂を襲ったのも、持って居る不正の金を全部取り上げる為でしたが、もう一つは権堂が、一銭も身についた金が無くなると、キッと金を隠した場所へ取出しに出かけるに相違ないと思ったからです。権堂は悪い奴に相違ありませんが、乞食の方は本当の新米で、人から物を貰う勇気がないから、金が無くなると一日も生きて行けないのでした。\n セメントの粉では全く騙されましたよ。あれは権堂が私等を外へおびき出す欺術です、イヤもう大笑い......。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「いいのかい」と木内がきいた、「おらあ一文なしだぜ」\n「大丈夫、――だろう」房二郎はふところを押えて云った、「あの女房のようすじゃあ、まだ相当に長びくだろうからな、あんな騒ぎは二度と見たくないよ」\n「そうできればな」木内はまた皮肉な笑いをもらした、「そうできれば、生きてゆくのに苦労はないさ、しかしもし記事屋になるつもりなら、どんなに卑しい、きたならしい事でも眼をそむけちゃあいけねえ、むしろこっちからぶっつかってゆかなくちゃあな」\n「こんなこととは思いもよらなかった」\n 小女のおつまが酒と摘み物を持って来、なにが思いもよらないんですか、ときいた。\n「こっちの話だ」と房二郎が云った、「そうだ、鯛の刺身を頼む」\n「悪いしゃれだ」と木内が云った。\n「ほんとにあがるんですか」とおつまはにやにやした、「今日は鶉の串焼きのうまいのがあるのよ」\n「刺身だ」と房二郎は手酌で一つ飲みながら云った、「かなっけのことは心配するなって云ってくれ」\n「悪いしゃれだ」とまた木内が云った。\n 文華堂へ戻ってみると、刷り部屋の者もみんな来ていたし、記事部屋には木谷桜所が、自分の机の前におっとりと坐り、房二郎の書いた物を、おっとりと読んでいた。房二郎の写し物を読んでいたことはすぐにわかった。房二郎が自分の机の前に坐ると、桜所が立って来て、書いた紙の束ねを、静かに机の上に置き、拝見しましたと云った。\n「拝見しましたが」と桜所はごく上品に云った、「これは雅文ですな、仮名がき女庭訓というのは、子守っ子にも読ませようというものですから、もっと俗語で書かなければ売れないと思うんですがね」\n「俗語と雅文とどこが違うんですか」と房二郎が反問した、「教えていただきましょう」\n 桜所は柔和に微笑した、「あなたが道をあるいてるときとか、飲み屋で聞いたり話したりするときの言葉です、こんなことは云うまでもないでしょうがね」\n 房二郎は嚇となったが、桜所のにこやかに微笑しているのを見ると、気が挫けてどなり返すこともできなかった。桜所がゆったりと、会釈をして出てゆくなり、房二郎は机の前に坐って、きざな野郎だと、舌打ちをした。\n「人さまざまさ」と木内桜谷が云った、「桜所は桜所で、やっぱり生きていかなくちゃならねえからな、それに、――いま桜所の云ったことは間違っちゃあいねえ、おまえさんは気を悪くするかもしれねえが、こういう仕事は、もともとまともなものじゃあない、世間を騙して売っちまえばいいというしろものだ、そのくらいの写し物は二日か三日で片づける、つまりすぐ反故になるというつもりでやらなければだめなものなんだよ」\n「それが人間の仕事だろうか」\n「それが世間というものさ」木内はにやっと笑った、「もういちど云うが」\n「わかったよ」房二郎は首を振って遮った、「沢茂で初めてあんたに会い、この文華堂へ入れて貰ったときに、その覚悟はしていたんだ、けれどもこういう中でだって、少しはまともな仕事ができるんじゃないか、いや、こういう世界でこそ、まともな仕事をしなくちゃあいけないんじゃあないか、と思ったんだ」\n「世の中はそうあまいもんじゃあない、っていうことがわかったわけだ」\n「かなしいな」と云って、房二郎は両手で顔を押えた、「だんだん自信がなくなってきたけれど、なろうことなら記事屋になるつもりだから、どんなことにも慣れることにするよ」\n「危ねえもんだ」と木内が云った、「よしたほうがいいんじゃねえかな」\n そこへ文華がはいって来た。\n「いま桜所はんから聞いたんやけど」とちょび髭を撫でながら、文華は房二郎に云った、「あんたの写したのんは売り物にならんそうやな、どうでっか」\n「そんなことはありませんよ」と木内が云った、「桜所さんには桜所さんの意見があるでしょう、けれども池さんの雅文調の写しも、売り出してみれば長続きがするんじゃないんですか」\n「記事屋はんの勘では、売れるか売れないかの判断はむりでっしゃろ」鼻で笑うような口ぶりで文華は云い、房二郎の机の上から写した物を取りあげた、「――これ、ちょっと読ましてもらいまっせ」\n\n七\n\n「えっ」と房二郎は顔をあげた。\n「鶉の叩きよ」とおるいが云った、「なにをそんなに驚くの」\n「ああそうか」と云って彼は頭を振った、「いや、なんでもない、このあいだどこかで、鶉の串焼きが出来る、って聞いたばかりなんでね」\n「小網町の沢茂っていうお店でしょ、その話はうかがったわ」\n「ひでえもんだな、そんなことまで饒舌ったのか」\n「だからあんまり酔っちゃあだめだって云ってるでしょ、飲みたかったらここへ帰ってからあがればいいのに、それなら酔い潰れたって間違いはないじゃありませんか」\n 膳の上にはあん掛け豆腐と、鶉の椀と、香の物が並んでいた。彼は鶉の椀を取って一と口喰べ、うまいなと云ったが、あとは喰べずに膳へ戻し、盃の酒を啜った。\n「部屋賃を溜めているうえに、返すあてもない小遣いを貰い、こんな馳走をぬくぬく喰べるなんて」と房二郎は頭を垂れて、いかにも恥ずかしそうに云った、「おれはよっぽどのへちまの木だ、犬にでもなっちまいたくなったよ」\n「あたしが好きでしているのに、自分を咎めることなんかないじゃないの」\n「それはおばさんの気持だよ」\n「まあ、おばさんは可哀そうよ」と云ってから、おるいは二人のとしの差に初めて気づいたとみえ、微笑しながら頷いた、「そうね、あなたとは七つもとしが違うんだもの、おばさんに相違ないわね」\n「そんなつもりじゃあないんだ、ただ呼びようがないもんだから」\n「いいのよ」おるいは美しい顔でまた笑ってみせた、「あなたはあんまりこまかく気を使いすぎるわ、もっと気を楽に、自分でしたいようになさるほうがいいのよ」\n「済まないけれど寝させてもらうよ」\n 房二郎は不安定に立ちあがり、おるいがいそいで、ちょっと待ってと云いながら、立って彼を支えた。房二郎はちょっとよろめき、おるいの肩につかまった。そして自分の部屋までゆくあいだ、さりげなく、肩につかまった手をすべらせて、おるいの背中を撫でた。\n「ちょっと待って、そのままじゃだめよ」\n 着たなり夜具の中へもぐり込もうとする房二郎を、おるいは抱き止めながら云った。\n「寝衣があっためてあるの」とおるいは云った、「着替えてから寝てちょうだい」\n「あとでね」彼は夜具の中へもぐり込んだ、「あとできっと着替えるよ、きっとだ」\n\n「あの肩には覚えがある」と房二郎は呟いた、「小さくて柔らかな肩、しなやかで弾力のある背中の手触り、――初めの夜はおぼろげだったが、二度めの晩にはこのまえの女だとすぐにわかった、慥かにあの肩、あの背中だった」\n「なにをぼやいてるんだ」と木内桜谷が振り向いて云った、「まだ宿酔が直らないのか」\n「宿酔にもいろいろあるんでね」房二郎は写し物を続けながら云った、「世間にはこんなにいろいろな穴ぼこがあるとは知らなかったよ」\n「そうして少しずつおとなになるわけさ」\n「おれはいっそ、のら犬にでも生れてくればよかったと思うよ」\n「のら犬だって餌をあさるには苦労するぜ」\n「横っ面へ平手打ちをくうようなもんだ」と房二郎は云った、「家出をしてっからこっち、横っ面をはられるようなことばかりだった、うんざりしたよ」\n「そこいらから始まるんだな、苦みや甘みや辛みを、一つ一つあじわいながらな」と木内は云った、「あんたは敷居を跨いだのさ」\n「敷居だって」\n「おとなの風に当ったということさ」と云って木内桜谷は声を出さずに笑った、「房やんはおくてだよ」\n「おまえさんの敷居や風がどんなふうだったかは知らない」と房二郎は云った、「けれどもおれの跨いだ敷居や、初めて吹かれた風は、おまえさんのものとは違うよ」" }, { "role": "assistant", "content": "「みんなそう思うらしい」木内は書き物を続けながら云った、「人間ってやつは誰しも、初めての経験は自分だけのものだとね」\n「そうしてだんだん驚かなくなるんだな」と房二郎は云った、「――そして、ああきれいだとか、哀れだとか、かなしい、いたましいと感じることもなくなるんだろう、考えただけでもぞっとするよ」\n「まだ自分の知らないことを考えると、恐ろしいような、いやらしいような、きたならしいように感じるものさ」と木内が云った、「そのくせ、そういう未知のものごとに、触れてみたがるのが人間っていうやつさ」\n「口で云うぶんには、地面から天まで説明することができるさ」と房二郎が云った、「他人の火傷は痛かあねえというからな」\n そして痛いことが起こった。その夕方、ちょび髭が記事部屋へはいって来て、木内桜谷と房二郎に小さな紙包みを渡し、明日から来なくていいと云った。\n「これは僅かやけど、わいのこころざしや」と文華はちょび髭を撫でながら云った、「悪う思わんと取っといてや」\n 私の写し物はどうなるんです、と房二郎が云おうとしたとき、木内が机の前からとびあがるように坐り直し、ちょび髭に向かって幾たびもおじぎをした。\n「西川先生このとおりです」と木内桜谷は云った、「それだけは待って下さい、私はこれまでもずいぶん書いてきたつもりですが、これからはもっと書きます、桜所さんや桜水さんのぶんも書きますし、わ印も月に二冊や三冊は書きます」木内はまたおじぎをした、「毎月の手当も減らしてもらっていいです、仰しゃることはなんでも致しますから」\n およしなさい木内さん、と房二郎が云うまえに、ちょび髭がにたにた笑って、それはどこかよそへ持ち込むんだな、と云った。\n「木内さん」と房二郎が呼びかけた。\n「お願いです西川さん」と木内はまた三度おじぎをした、「どうかいますぐにそうはしないで下さい、せめてあと半年でも待って下さい、そうすれば私がきっとお役に立つ、ということがわかると思います」\n「おきなはれ」とちょび髭を撫でながら文華が云った、「なんぼ云うたかてきめたことはきめたこっちゃ、ここでむだな口をきくより、もっと月手当を多く出してくれるとこを捜して、ねっちりうまいこと云わはるがええと思いまんがな」\n 木内桜谷は黙り、両手を突き頭を垂れた。いつか木内や、刷り部屋の二人が、手当の値上げだと叫んだ。そして夫婦喧嘩で、文華は廊下へとびだし、平ぐものように頭をすりつけてあやまるのを、このおれに見られた。それらの仕返しをしようというんだな、と房二郎は思った。そのとき、ちょび髭が房二郎に振り向き、歯をみせて皮肉に笑った。\n「房やんには手当もろくに出さなんで、ほんま済まなんだな」と文華は云った、「悪う思わんといてや」\n 房二郎のがまんはそこで切れた。彼は立ちあがるなり、自分より五寸も低い文華の衿を左手で掴み、右手で頬へ平手打ちをくれた。\n「手当はこっちから呉れてやる」と房二郎はまた平手打ちをくれた、「きさまを人間だと思ったら、こんなことで済ませやあしないんだぞ、よく覚えておけ」\n 彼は文華を突き放した。文華はよろけていって、障子ごと廊下へ仰向けに倒れた。そのとたんに木内桜谷がはね起き、いきなりちょび髭に馬乗りになって、片手で衿を掴み、片手で相手の頬を、撫でるように殴った。\n「この野郎、人をばかにするな」と木内はどなった、「人をばかにするな、この野郎、このちょび髭野郎、人をなんだと思ってるんだ」\n 本当に怒ったときには、人間には思うようなあくたいがつけないものだ、と房二郎は自分のことをこめてかなしく思い、木内桜谷の肩を叩いて、もういいよ、帰ろうと云った。そこへ階下から、女狐のおそでが駆けあがって来、ちょび髭が組伏せられているのを見るなり、逆上したようにきーっと叫んだ。\n「泥棒や、人殺しや」とおそでは足踏みをしながら喚いた、「誰か来て下さい、泥棒ですよう、人殺しですよう」\n そして、木内桜谷にむしゃぶりつこうとした。房二郎はそれを突きとばし、木内の肩を掴んで文華から引き剥がした。刷り部屋はしんとしていて、人の声も聞えず物音もしなかった。おそでは仰向けにひっくり返り、としに似合わぬまっ赤な下の物と、焦茶色の脚が、云いようもなく醜悪に房二郎の眼にうつった。\n「いきましょう木内さん」彼は木内を抱き起こしながら云った、「なにも持ってゆく物はないんでしょう」\n「人殺しや、泥棒や」とおそでは足をばたばたさせながら喚き続けていた、「誰ぞ来て、誰か番所へ届けてえ」\n 房二郎は木内桜谷を抱えるようにして階段をおりた。女狐はまだ喚いていたが、下へおりると女中のおかつが、二人の草履を揃えて待ってい、なにか慰めを云いたそうであったが、吃りであるため、ただ顔を赤くし、意味不明な声を出すばかりであった。\n「おまえも早くこんなうちは出ちまうがいいぜ」と房二郎はおかつに云った、「奉公する気なら、もう少しましなところがあるだろう、こんなうちにいると骨までしゃぶられるぜ」\n 店の外へ出たとき、うしろでおかつの、ありがとよ、と吃りながら云う声が聞えた。\n「飲もうや木内さん」と彼は大きな声で云った、「こんな汚れた銭なんか持ってるのも恥ずかしい、みんな飲んじまおうぜ」\n「そうだ、みんな飲んじまおう」あまり元気な調子ではなく、木内も云った、「今日は川向うへゆこうぜ」\n\n八\n\n「どういう気持だかわからねえ」\n「わからねえことはねえさ」と木内が云った、「おめえに惚れてるからよ」\n「いやなことを云いなさんな」\n「そうでなくって、着物を拵えてくれたり、小遣いを貢いだりする道理があるかい」\n「だって相手は七つもとし上だぜ」\n「もったいないことを云うなよ」木内は湯呑茶碗の酒を啜った、「あれだけの縹緻よしは千人に一人とはいねえぜ、それに、いろ恋にとしなんか問題じゃあねえさ」\n「あら、羨ましいような話じゃないの」と酒を持って来た女が云った、「もっと詳しく聞かせてよ」\n「よけいな口出しをするな」と云って房二郎は女の顔を見、狭い部屋の中を見まわした、「ここはいったいどこだ」\n「そらっつかいね」女は房二郎の肩を叩いた、「ちゃんと知ってるくせに、はいお酌」\n「門前仲町だよ」と木内が云って、女に手を振った、「酌はいいから二人にしてくれ」\n「なによう、このしと」女は木内にかじりついた、「いまあちしをくどいたばかりじゃないの」\n「うるせえ、おれにゃあちゃんと女房がいるんだ」\n「おかみさんを持ってるのはあんた一人じゃないよ、なにさ」女は木内をもっと強く抱き緊めた、「かみさんも持たないような男は、いっしょに寝たって面白みはありゃあしない、ねえ、あっちへゆこうよ」\n「おれは帰るぜ」と房二郎が云った、「なんだか悲しくなってきちゃった」\n「出よう」と木内が云った、「勘定をしてくれ」\n「勘定はこっちだ」と房二郎が云った。\n「だめだよう」女は木内を押し倒した、「あたしをくどいといて、なにさ」と女は木内の上に馬乗りになった、「今夜は寝かさないからね、帰るなんてったって帰しやしないよ」\n そして女は、木内の頬に吸いついた。\n ――かなしいな、生きるということはこんなにかなしいものなんだな。\n その店を出て、あるきながら房二郎はそう思った。女は木内を心から好いているようではなかった。けれども、しがみついたり、抱き緊めたり、頬に吸いついたりするしぐさには、単にしょうばいだけでないなにかがあった。\n ――迷子だな、あの女も迷子だ、なにか自分の生きるすべを捜している、迷子だ。\n 房二郎は声をあげて泣きたいような衝動にかられた。\n「あのちょび髭の、ぼけなす野郎」と木内が云った、「ぶち殺してやればよかった」\n「木内さんは充分にやったよ」と房二郎は云った、「あんな人間は、一寸刻みにしたって痛いとは思やあしねえ、あれで充分だ、あれ以上やればこっちの手に繩がかかるだけで、相手はへとも思やあしねえさ」\n「逆だな」と木内が云った、「世の中はいつでもそうだ、今夜は飲みあかそう、おい、酒をどんどん持ってこい」\n その店がどこだか、房二郎にはわからなかった。冰るような川風に吹かれ、河岸をあるいた覚えがあるので、両国広小路か、その裏のどこかの横丁の飲み屋らしい。門前仲町で三軒ほど飲んだろうか、川をこっちへ渡ってからも二軒か三軒はしごをしたようである。そして西川文華をくさし、刷り部屋の連中が味方をしなかったことをくさし、おそでは女狐であるより、むしろ女狼であり、鬼女であるときめつけ、世の中ぜんたいを罵ったりした。\n「木内さんはさっき、女房持ちだって云ったようだな」と房二郎がきいた、「ああ、門前仲町の飲み屋でだ、ほんとかい」\n「それが問題さ」\n 寒い風が吹いていて、灯の見えない街を、二人はもつれあうように歩いていた。\n「女房持ちにどんな問題がある」と房二郎が云った、「あの飲み屋の女も云ってたが、女房を持ってるのはあんただけじゃあねえだろう」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 須田町の乘換に方角を忘れて、今來た方へ引返すのだと許り思つてゐるうちに、本郷三丁目に來て降りるのだといふ。お定はもう日が暮れかかつてるのに、まだ引張り𢌞されるのかと氣が氣でなくなつたが、一町と歩かずに本郷館の横へ曲つた時には、東京の道路は訝しいものだと考へた。\n 理髮店に歸ると、源助は黒い額に青筋立てて、長火鉢の彼方に怒鳴つてゐた。其前には十七許りの職人が平蜘蛛の如く匍つてゐる。此間から見えなかつた斬髮機が一挺、此職人が何處かに隱し込んで置いたのを見附かつたとかで、お定は二階の風呂敷包が氣になつた。\n 二人はもう、身體も心も綿の如く疲れきつてゐて、晝頃何處やらで蕎麥を一杯宛食つただけなのに、燈火がついて飯になると、唯一膳の飯を辛と喉を通した。頭腦は懵乎としてゐて、これといふ考へも浮ばぬ。話も興がない。耳の底には、まだ轟々たる都の轟きが鳴つてゐる。\n 幸ひ好い奉公の口があつたが、先づ四五日は緩り遊んだが可からうといふ源助の話を聞いて、二人は夕餐が濟むと間もなく二階に上つた。二人共『疲れた。』と許り、べたりと横に坐つて、話もない。何處かしら非常に遠い所へ行つて來た樣な心地である。淺草とか日比谷とかいふ語だけは、すぐ近間にある樣だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて來なけやならぬ樣に思へる。一時間前まで見て來て色々の場所、あれも〳〵と心では數へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乘や、勸工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠める。足下から鳩が飛んだりする。\n お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見𢌞して、一町も向うから電車が來ようものなら、もう足が動かぬ、漸つとそれを遣り過して、十間も行つてから思切つて向側に驅ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況して乘つた時の窮屈さ。洋服着た男とでも肩が擦れ〳〵になると、譯もなく身體が縮んで了つて、些と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乘降、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乘るよりは、山路を三里素足で歩いた方が遙か優しだ。\n 大都は其凄まじい轟々たる響きを以て、お定の心を壓した。然しお定は別に郷里に歸りたいとも思はなかつた。それかと言つて、東京が好なのでもない。此處に居ようとも思はねば、居まいとも思はぬ。一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、温なしいお定は疲れてゐるのだ。ただ疲れてゐるのだ。\n 煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて來たお吉は、明日お湯屋に伴れて行くと言つて下りて行つた。\n 九時前に二人は蒲團を延べた。\n\n三日目は雨。\n\n四日目は降りみ降らずみ。九月ももう二十日を過ぎたので、殘暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々と廂を濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰氣な心を起させる。二人はつくねんとして相對した儘、言葉少なに郷里の事を思出してゐた。\n 午餐が濟んで、二人がまだお吉と共に勝手にゐたうちに、二人の奉公口を世話してくれたといふ、源助と職業仲間の男が來て、先樣では一日も早くといふから、今日中に遣る事にしたら怎だと言つた。\n 源助は、二人がまだ何も東京の事を知らぬからと言ふ樣な事を言つてゐたが、お吉は、行つて見なけや何日までだつて慣れぬといふ其男の言葉に賛成した。\n 遂に行く事に決つた。\n で、お吉は先づお八重、次にお定と、髮を銀杏返しに結つてくれたが、お定は、餘り前髮を大きく取つたと思つた、帶も締めて貰つた。\n 三時頃になつて、お八重が先づ一人源助に伴なはれて出て行つた。お定は急に淋しくなつて七福神の床の間に腰かけて、小さい胸を犇と抱いた。眼には大きい涙が。\n 一時間許りで源助は歸つて來たが、先樣の奧樣は淡白な人で、お八重を見るや否や、これぢや水道の水を半年もつかふと、大した美人になると言つた事などを語つた。\n 早目に晩餐を濟まして、今度はお定の番。すぐ近い坂の上だといふ事で、風呂敷包を提げた儘、黄昏時の雨の霽間を源助の後に跟いて行つたが、何と挨拶したら可いものかと胸を痛めながら悄然と歩いてゐた。源助は、先方でも眞の田舍者な事を御承知なのだから、萬事間違のない樣に奧樣の言ふ事を聞けと繰返し教へて呉れた。\n 眞砂町のトある小路、右側に『小野』と記した軒燈の、點火り初めた許りの所へ行つて、『此の家だ。』と源助は入口の格子をあけた。お定は遂ぞ覺えぬ不安に打たれた。\n\n 源助は三十分許り經つと歸つて行つた。\n 竹筒臺の洋燈が明るい。茶棚やら箪笥やら、時計やら、箪笥の上の立派な鏡臺やら、八疊の一室にありとある物は皆、お定に珍らしく立派なもので。黒柿の長火鉢の彼方に、二寸も厚い座蒲團に坐つた奧樣の年は二十五六、口が少しへの字になつて鼻先が下に曲つてるけれども、お定には唯立派な奧樣に見えた。お定は洋燈の光に小さくなつて、石の如く坐つてゐた。\n 銀行に出る人と許り聞いて來たのであるが、お定は銀行の何ものなるも知らぬ。其旦那樣はまだお歸りにならぬといふ事で、五歳許りの、眼のキョロ〳〵した男の兒が、奧樣の傍に横になつて、何やら繪のかいてある雜誌を見つゝ、時々不思議相にお定を見てゐた。\n 奧樣は、源助を送り出すと、其儘手づから洋燈を持つて、家の中の部屋々々をお定に案内して呉れたのであつた。玄關の障子を開けると三疊、横に六疊間、奧が此八疊間、其奧にも一つ六疊間があつて主人夫婦の寢室になつてゐる。臺所の横は、お定の室と名指された四疊の細長い室で、二階の八疊は主人の書齋である。\n さて、奧樣は、眞白な左の腕を見せて、長火鉢の縁に臂を突き乍ら、お定のために明日からの日課となるべき事を細々と説くのであつた。何處の戸を一番先に開けて、何處の室の掃除は朝飯過で可いか。來客のある時の取次の仕方から、下駄靴の揃へ樣、御用聞に來る小僧等への應對の仕方まで、艶のない聲に諄々と喋り續けるのであるが、お定には僅かに要領だけ聞きとれたに過ぎぬ。\n 其處へ旦那樣がお歸りになると、奧樣は座を讓つて、反對の側の、先刻まで源助の坐つた座蒲團に移つたが、\n『貴郎、今日は大層遲かつたぢやございませんか?』\n『ああ、今日は重役の鈴木ン許に𢌞つたもんだからな。(と言つてお定の顏を見てゐたが、)これか、今度の女中は?』\n『ええ、先刻菊坂の理髮店だつてのが伴れて來ましたの。(お定を向いて)此方が旦那樣だから御挨拶しな』\n『ハ。』と口の中で答へたお定は、先刻からもう其挨拶に困つて了つて、肩をすぼめて切ない思ひをしてゐたので、恁ういはれると忽ち火の樣に赤くなつた。\n『何卒ハ、お頼申します。』と、聞えぬ程に言つて、兩手を突く。旦那樣は、三十の上を二つ三つ越した髭の嚴しい立派な人であつた。\n『名前は?』\nといふを冒頭に、年も訊かれた、郷里も訊かれた、兩親のあるか無いかも訊かれた。學校へ上つたか怎かも訊かれた。お定は言葉に窮つて了つて、一言言はれる毎に穴あらば入りたくなる。足が耐へられぬ程痲痺れて來た。\n 稍あつてから、『今晩は何もしなくても可いから、先刻教へたアノ洋燈をつけて、四疊に行つてお寢み。蒲團は其處の押入に入つてある筈だし、それから、まだ慣れぬうちは夜中に目をさまして便所にでもゆく時、戸惑ひしては不可から、洋燈は細めて危なくない所に置いたら可いだらう。』と言ふ許可が出て、奧樣から燐寸を渡された時、お定は甚麽に嬉しかつたか知れぬ。\n 言はれた通りに四疊へ行くと、お定は先づ兩脚を延ばして、膝頭を輕く拳で叩いて見た。一方に障子二枚の明りとり、晝はさぞ暗い事であらう。窓と反對の、奧の方の押入を開けると、蒲團もあれば枕もある。妙な臭氣が鼻を打つた。\n お定は其處に膝をついて、開けた襖に片手をかけた儘一時間許りも身動きをしなかつた。先づ明日の朝自分の爲ねばならぬ事を胸に數へたが、お八重さんが今頃怎してる事かと、友の身が思はれる。郷里を出て以來、片時も離れなかつた友と別れて、源助にもお吉にも離れて、ああ、自分は今初めて一人になつたと思ふと、温なしい娘心はもう涙ぐまれる。東京の女中! 郷里で考へた時は何ともいへぬ華やかな樂しいものであつたに、......然ういへば自分はまだ手紙も一本郷里へ出さぬ。と思ふと、兩親の顏や弟共の聲、馬の事、友達の事、草苅の事、水汲の事、生れ故郷が詳らかに思出されて、お定は凝と涙の目を押瞑つた儘、『阿母、許してけろ。』と胸の中で繰返した。" }, { "role": "assistant", "content": " 左う右うしてるうちにも、神經が鋭くなつて、壁の彼方から聞える主人夫婦の聲に、若しや自分の事を言やせぬかと氣をつけてゐたが、時計が十時を打つと、皆寢て了つた樣だ。お定は若しも明朝寢坊をしてはと、漸々涙を拭つて蒲團を取出した。\n 三分心の置洋燈を細めて、枕に就くと、氣が少し暢然した。お八重さんももう寢たらうかと、又しても友の上を思出して、手を伸べて掛蒲團を引張ると、何となくフワリとして綿が柔かい。郷里で着て寢たのは、板の樣に薄く堅い、荒い木綿の飛白の皮をかけたのであつたが、これは又源助の家で着たのよりも柔かい。そして、前にゐた幾人の女中の汗やら髮の膩やらが浸みてるけれども、お定には初めての、黒い天鵞絨の襟がかけてあつた。お定は不圖、丑之助がよく自分の頬片を天鵞絨の樣だと言つた事を思出した。\n また降り出したと見えて、蕭かな雨の音が枕に傳はつて來た。お定は暫時恍乎として、自分の頬を天鵞絨の襟に擦つて見てゐたが、幽かな微笑を口元に漂はせた儘で、何時しか安らかな眠に入つて了つた。\n\n一〇\n\n 目が覺めると、障子が既に白んで、枕邊の洋燈は昨晩の儘に點いてはゐるけれど、光が鈍く䗹々と幽かな音を立ててゐる。寢過しはしないかと狼狽へて、すぐ寢床から飛起きたが、誰も起きた樣子がない。で、昨日まで着てゐた衣服は手早く疊んで、萠黄の風呂敷包から、荒い縞の普通着(郷里では無論普通に着なかつたが)を出して着換へた。帶も紫がかつた繻子ののは疊んで、幅狹い唐縮緬を締めた。\n 奧樣が起きて來る氣色がしたので、大急ぎに蒲團を押入に入れ、劃の障子をあけると、『早いね。』と奧樣が聲をかけた。お定は臺所の板の間に膝をついてお叩頭をした。\n それからお定は吩咐に隨つて、焜爐に炭を入れて、石油を注いで火をおこしたり、縁側の雨戸を繰つたりしたが、\n『まだ水を汲んでないぢやないか。』\nと言はれて、臺所中見𢌞したけれども、手桶らしいものが無い。すると奧樣は、\n『それ其處にバケツがあるよ。それ、それ、何處を見てるだらう、此人は。』と言つて、三和土になつた流場の隅を指した。お定は、指された物を自分で指して、叱られたと思つたから顏を赤くしながら、\n『これでごあんすか?』と奧樣の顏を見た。バケツといふ物は見た事がないので。\n『然うとも。それがバケツでなくて何ですよ。』と稍御機嫌が惡い。\n お定は、怎麽物に水を汲むのだもの、俺には解る筈がないと考へた。\n 此家では、『水道』が流場の隅にあつた。\n 長火鉢の鐵瓶の水を代へたり、方々雜布を掛けさせられたりしてから、お定は小路を出て一町程行つた所の八百屋に使ひに遣られた。奧樣は葱とキヤベーヂを一個買つて來いといふのであつたが、キヤベーヂとは何の事か解らぬ。で、恐る〳〵聞いて見ると、『それ恁麽ので(と兩手で圓を作つて)白い葉が堅く重なつてるのさ。お前の郷里にや無いのかえ。』と言はれた。でお定は、\n『ハア、玉菜でごあんすか。』と言ふと、\n『名は怎でも可いから早く買つて來なよ。』と急き立てられる。お定はまた顏を染めて戸外へ出た。\n 八百屋の店には、朝市へ買出しに行つた車がまだ歸つて來ないので、昨日の賣殘りが四種五種列べてあるに過ぎなかつたが、然しお定は、其前に立つと、妙な心地になつた。何とやらいふ菜に茄子が十許り、脹切れさうによく出來た玉菜が五個六個、それだけではあるけれ共、野良育ちのお定には此上なく慕かしい野菜の香が、仄かに胸を爽かにする。お定は、露を帶びた裏畑を頭に描き出した。ああ、あの紫色の茄子の畝! 這ひ蔓つた葉に地面を隱した瓜畑! 水の樣な曉の光に風も立たず、一夜さを鳴き細つた蟲の聲!\n 萎びた黒繻子の帶を、ダラシなく尻に垂れた内儀に、『入來しやい。』と聲をかけられたお定は、もうキヤベーヂといふ語を忘れてゐたので、唯『それを』と指さした。葱は生憎一把もなかつた。\n 風呂敷に包んだ玉菜一個を、お定は大事相に胸に抱いて、仍且郷里の事を思ひながら主家に歸つた。勝手口から入ると、奧樣が見えぬ。お定は密りと玉菜を出して、膝の上に載せた儘、暫時は飽かずも其香を嗅いでゐた。\n『何してるだらう、お定は?』と、直ぐ背後から聲をかけられた時の不愍さ!\n\n 朝餐後の始末を兎に角終つて、旦那樣のお出懸に知らぬ振をして出て來なかつたと奧樣に小言を言はれたお定は、午前十時頃、何を考へるでもなく呆然と、臺所の中央に立つてゐた。\n と、他所行の衣服を着たお吉が勝手口から入つて來たので、お定は懷かしさに我を忘れて、『やあ』と聲を出した。お吉は些と笑顏を作つたが、\n『まあ大變な事になつたよ、お定さん。』\n『怎したべす?』\n『怎したも恁うしたも、お郷里からお前さん達の迎へが來たよ。』\n『迎へがすか?』と驚いたお定の顏には、お吉の想像して來たと反對に、何ともいへぬ嬉しさが輝いた。\n お吉は暫時呆れた樣にお定の顏を見てゐたが、『奧樣は被居しやるだらう、お定さん。』\n お定は頷いて障子の彼方を指した。\n『奧樣にお話して、これから直ぐお前さんを伴れてかなけやならないのさ。』\n お吉は、お定に取次を頼むも面倒といつた樣に、自分で障子に手をかけて、『御免下さいまし。』と言つた儘、中に入つて行つた。お定は臺所に立つたり、右手を胸にあてて奧樣とお吉の話を洩れ聞いてゐた。\n お吉の言ふ所では、迎への人が今朝着いたといふ事で、昨日上げた許りなのに誠に申譯がないけれど、これから直ぐお定を歸してやつて呉れと、言葉滑らかに願つてゐた。\n『それはもう、然ういふ事情なれば、此方で置きたいと言つたつて仕樣がない事だし、伴れて歸つても構ひませんけれど、』と奧樣は言つて、『だけどね、漸つと昨晩來た許りで、まだ一晝夜にも成らないぢやないかねえ。』\n『其處ン所は何ともお申譯がございませんのですが、何分手前共でも迎への人が來ようなどとは、些とも思懸けませんでしたので。』" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " これによりてこれをみるに、将来わが国の宗教を改良せんと欲せば、文明の元素をひとたびわが従来の宗教の胃管の中に入れて消化するを要するなり。そもそもわが国従来の宗教中、仏教のごときは悟道といい安心といい修身といい斉家といい、その教理にいたりてはヤソ教に説くところのものを含有せざるはなし。また、これを応用して実際上、ヤソ教と同一の結果を生ずることあたわざるの理なし。ただ、その教の今日に振るわざるは、教にあらずして人にあり。この人を改良すれば、宗教おのずから改良を得べし。しかして、この人を改良するは国家の文明上最も必要のことにして、現今わが国にある僧侶およそ七万人と称す。この七万人は三千七百万人の一部分にして、みな同一種の日本人たり。西洋人日本に来たりて、わが僧侶の品行下等の地位にあるを見れば、その国に帰りて必ず人に語りて曰く、日本国の野蛮推して知るべし。僧侶の不道徳かくのごとし。すなわち、僧侶の不道不徳は日本人一般の野蛮を代表するなり。ゆえに、日本国をして欧米同等の文明国となさんと欲せば、まず人を教導するをもって本職とする僧侶を教育せざるべからず。もし人ありて、わが国の僧侶はともに談ずるに足らざれば、これを捨てて外国の僧侶をまつべしといわば、これ日本国あるを忘れ、日本人あるを知らざるものなり。\n 近年、世間の論ようやく移り、しきりにヤソ教を主唱するものあり、仏教を排斥するものあり。しかして、かれを主唱するものかれを知らず、これを排斥するものこれを知らず。ただ、その口実とするところ、ヤソ教は欧米諸国の宗教なり、開明社会の宗教なり。ゆえに、わが国ひとたびヤソ教を用うれば、国家を富強にすることを得べし、人知を発達することを得べし、欧米人民の愛顧を受くることを得べし、開明社会と交際を通ずることを得べしと惑えるもまたはなはだし。もしその論者に向かいて、英国のヤソ教と米国のヤソ教とその異同いかん、ドイツのヤソ教とフランスのヤソ教とその区別いかんをたずぬるときは、さらに答うることあたわざるべし。彼ただ曰く、これみなヤソ教なれば、定めて同一なるべしと。ああ妄なるかな、論者の言や。ヤソ教中の甲派の乙派に異なるは、その一派の仏教の一派と異なるよりはなはだし。かつ欧米各国みなその国固有のヤソ教ありて、宗教を論ずるもの、決してわが国のごとく、ロシアのヤソ教もフランスのヤソ教も英教も米教も混同して主唱するにあらず。宗教に一定独立の見なきは、ひいて一国の上に及ぶ。いやしくも国家の独立に志あるもの、あに戒めざるべけんや。これ、余が国家のために、欧米政教の関係を実視せんことを欲せしゆえんなり。\n第九、独立を維持するに必要なる元素\n 政教子曰く、およそ一国の独立を維持するに、最も必要なるもの三種あり。曰く、言語なり、歴史なり、宗教なり。言語、歴史の必要は、人すでにこれを知る。しかして宗教の必要にいたりては、これを知るものはなはだ少なし。今その必要なるゆえんを述ぶるに、第一に、一般の学術は真理を将来に期し、今後いよいよ進みてこれに達せんことを目的とするをもって、旧を去りて新に就くの性あるものなり。しかるに、宗教はその真理既往に定まるをもって、旧を守るの性あるものなり。今、日本国をして永く日本国たらしむるには、その従来日本国たりし精神、思想を維持するを要す。ゆえに、宗教を維持すれば、この従来の思想を維持することを得るなり。第二に、一般の学術は真理いまだ一定せざるをもって、衆説一致せざるの憂いありといえども、宗教はその説一人の口より出でたるものなれば、衆説相分かるるの恐れなし。これ、宗教の力よく人心民情を連合して、一国の団結を助くるゆえんなり。第三に、宗教は人の感情の上に動き、人の精神の中に入り、一心不乱、鋭意不撓の気風を養成するに最も適したるものにして、したがって一国の独立を助くるに必要なるものなり。第四に、宗教の思想は種々その形を変じて、世間の習慣を構造し、社会の礼節を支配し、そのほか国家の秩序を保ち、独立を全うするに欠くべからざる諸元素中に加わりて相離れざるものなり。これ、宗教のその国の言語、歴史とともに、一国の独立を保全するに必要なるゆえんなり。別して社会の諸事諸物、旧を去りて新に就くの際に当たりては、宗教にあらざれば、一国従来の精神を愚民の間に維持すること難し。もし、その愚民をして開明の進歩をとらしめんと欲せば、よろしく旧来の宗教中にその元素を入れて、知らず識らずの間に有知有識の境に誘入するを要するなり。\n 今、わが国旧来の宗教には神仏二教あり。仏はそのはじめ他邦より入りたるも、弘法大師神仏調和論を唱えてより以来、インドの仏教は転じて日本の仏教となり、ついで中世浄土宗起こりて以来、日本に一種固有の仏教を見るに至れり。ゆえに、今日にありては神仏二道ともに日本の宗教なるのみならず、この二者互いに相調和して、その間に不和を生ずるの憂いなし。しかるに、ヤソ教はその今日、日本にあるもの、ロシアより入るものあり、フランスより入るものあり、英国より来たるものあり、米国より来たるものあり、その宗派といい、その組織といい、その性質といい、その精神といい千種万様にして、ただに日本の民情、人心に適合すること難きのみならず、わが人心をしてますます離散し、ややもすれば宗教と宗教との間に不和を生じ、一方には一国政治上の妨害となり、一方には国家独立上の妨害となること明らかなり。余つとに、ここに見るところあり。近日ようやく政教の論穏やかならざるを見て、遠く西洋諸国の、その自国の宗教を保護するの本意、いずれのところにあるやを知らんと欲し、今度の周遊を企つるに至りしなり。\n第一〇、政治と宗教は表裏の関係を有す\n 政教子曰く、政治家は政治の裏面に宗教あることを知らざるべからず、宗教家は宗教の表面に政治あることを知らざるべからず。例えば、政治上いかなる明君明相あるも、その国の人民をして、ことごとく自由を得せしめ、ことごとく幸福を全うせしむることあたわず、いかなる仁君ありて法律を設くるも、貧富貴賤の人をして、ことごとく同等同量の福利を得せしむることあたわず、必ずや一方に満足するものあれば、他方に満足せざるものあり、一方に不平なきものあれば、他方に不平を有するものあり。この不平不満足の心は、必ず幽鬱して病患を結び、激発して争乱を醸すに至るべし。しかるに実際上これをみるに、政治上不平あるものも法律上満足を得ざる者も、みなよく満足して不平を鳴らさず争乱を醸さず、その堵に安んずる者の多きはなんぞや。これ、宗教の影響にあらざるはなし。進みて政治上表面の幸福を得ることあたわざるものは、退きて宗教上裏面の快楽を求め、法律上の不平は流れて宗教内の満足となり、不満不平の人をして、おのおの安心立命の境裏に住せしむるなり。もし世に宗教なかりせば、政治上得たるところの不平は、必ず政治上に向かって発するよりほかなし。けだし政治上の不幸、これより大なるはなし。\n 今、わが国の神仏二道は、たとい今日その勢力を減じたりというも、人民これによりて幸福を得しもの幾人あるを知らず、政治これによりて治安を保つことを得たるやまた疑いをいれず。今や政府新たに憲法を設け、人民はじめて自由に就き、政治上一大変動を人心の上に与えんとす。このときに際して、政府は従来の宗教を保持して、人心をして一方に安んずることをえざるも、他方に安んずるところあらしむるは、政教上最も必要なる機密なり。もし、政治と宗教と同時に大変動を生ずるに至らば、国家の不利またこれより大なるはなし。これ、政治家の注目せざるをえざる要点なり。今、余が洋行の挙ある欧米諸国にも、この機密の政教の間に存するを知らんと欲するなり。\n第一一、哲学的の視察\n そもそも政教子の今度の洋行たるや、その意、欧米政教実際の関係を視察するにあるも、その視察は普通尋常の視察にあらず、哲学的の視察なり。尋常の視察は外面一様の視察に過ぎず、目前直接の視察に過ぎず、哲学的の視察は内部の視察なり、原因の視察なり、道理の視察なり。例えば、西洋は開明国なり、その宗教はヤソ教なり、ゆえに、わが国ヤソ教を用うるにあらざれば、開明国となることあたわずと論定するがごときは、いわゆる尋常一様、皮相外面の視察なり。もしこれに反し、かの国にヤソ教の存する原因を探り、政府のこれを保護する理由を究め、その利害得失を比較審査して、これをわが国の事情の上に考うるがごときは、いわゆる哲学的の視察なり。また、西洋各国の政教の関係を見て、ただちにこれをわが国に適用せんとするは、尋常一様の視察なり。もし、わが国の事情と西洋の事情と比考し、その間接の利害と将来の得失を審査するは、いわゆる哲学的の視察なり。この尋常的の視察は日本人の最も長ずるところなれども、哲学的の視察は日本人の最も長ぜざるところなり。今、余が行はこの哲学的の視察を、欧米各国の政治、宗教、風俗、教育の上に施さんと欲するものなり。\n第一二、真理の味色\n 政教子、船上にありて水天を望みて曰く、真理はなお水のごときか、味なきがごとくにして味あり、真理はなお空気のごときか、色なきがごとくにして色あり。\n第一三、海上の風波\n 政教子、一日太平洋上の風波の穏やかならざるを見て曰く、海上の風波はあたかも社会の変動のごとし。人あり、これを聞きて曰く、社会の変動、海上の風波のごとしというは至当なり、海上の風波、社会の変動のごとしというは不当ならずや。政教子曰く、画景を評して実景のごとしといい、実景を評して画景のごとしというにあらずや。" }, { "role": "assistant", "content": "第一四、船を知るものと知らざるもの\n 船を知らざるもの風波に際会するときは、船の陸に近づくを喜ぶ。船を知るものは船の陸に遠ざかるを喜ぶ。\n第一五、仏教者の肉食妻帯\n 友人、船中にありて問うて曰く、仏教は必ずしも肉食妻帯を禁ずるをもって一宗の要旨とするにあらず。しかるに、今日の宗旨の肉食妻帯せざるものをもって真の仏者となすはいかん。政教子曰く、顔回は貧におるをもってその目的とするにあらず。しかるに、後世その道を伝うるもの、陋巷にありて道を楽しむをもって、まことに顔回の意を得たりとなすと同一なり。\n第一六、造物主を立つるの非理\n また問うて曰く、ヤソ教の『バイブル』中に説くがごとき怪誕妄説は信ずべからずといえども、かのユニテリアン宗に立つるがごとき造物主あるの説は、はなはだ道理あるに似たり、いかん。政教子曰く、その説はなはだ道理あるに似て、その実道理あらず。これ、余がかつて『仏教活論』中に論明せるところにして、その書を一見せるものは、必ずその道理あらざるゆえんを知るべしと信ず。今ここにその一点を述ぶれば、造物主ありというの説は、要するに天地万物は必ずその起源なかるべからずというの理にもとづく。しかるに、天地万物の起源を証明するに両説あり。一つはその体をもって有始有終とし、一つは無始無終とす。有始有終とするときは、別に造物主を想立せざるべからずといえども、無始無終とするときは、天地万物は無始以来の天地万物にして、別に造物主ありて創造せるにあらず。この無始無終説は仏教の天地開闢説にして、今日の学術もまたこの理を証立するに至る。かの物質不滅、勢力恒存等の理学上の原則は、みな無始無終説を証明するものなり。もし、これに反して天地万物を有始有終とするも、いまだ造物主ありの断言を結ぶべからず。仮に一歩を譲りその断言を結ぶべしとするも、第二の問題は造物主の起源なり。すなわち、造物主は有始有終なるや無始無終なるやの問題なり。もし、造物主は有始有終なりとするときは、造物主の造物主なかるべからず。もし、造物主は無始以来現存するものにして自存自立なりとするときは、その体すなわち無始無終なりといわざるべからず。\n ゆえに、天地万物の解釈を下すに、造物主を立ててその体無始無終なりとするも、造物主を立てずして宇宙の体無始無終なりとするも、その結論にいたりては同一なり。決して造物主を立てたるをもって、宇宙の問題を説き尽くしたりというべからず。ただ、甲のほかに別に乙を設けて、その問題を乙の上に移したるのみ。しかして、天地万物の体無始無終自存自立なりとするの論は、理学、哲学の証明せるところにして、造物主を立つるの論は、古代の妄想を保守するに過ぎず。その理は、余が『仏教活論』中に論示せるところなり。\n\n第二、米国ならびに大西洋紀行の部\n\n第一七、日本僧侶とヤソ僧侶との比較\n 政教子、サンフランシスコにありて友人某に語りて曰く、日本人中、その従来の宗教家のこれをヤソ教者に比して、徳行、学識ともに数等の懸隔あるを痛責して、日本将来の宗教はヤソ教を用うるにしかずと論ずるものあれども、第一にその論の正しからざるは、神官、僧侶は日本人にあらざるもののように考うるこれなり。第二にその論の誤りあるは、宗教家は日本人一般の進歩の程度を代表することを知らざるこれなり。今、わが国の宗教家、神官、僧侶を合して十万前後の人員ありと称す。この人員は三千数百万の日本人の一部分なれば、その愚なるはすなわち日本人一部分の愚なるなり。ゆえに、たとい論者の評のごとく、わが宗教家は学識、徳行ともにはるかにヤソ教家の下にありと許すも、この宗教家を奨励して学識研究の方法を設けざれば、日本人一般の知識の程度を進ましむることあたわず。いわんや、この宗教家は民間にありて人民を教導するをもってその本務とするものにおいてをや。この人の知識進歩すれば、その人民の知識また進歩するは必然なり。もし、これに反して人民の教導をひとりヤソ教者に委するも、世間の神仏二教を信ずるもの、決して一朝一夕に改宗転派するものにあらず。その改宗転派の日を待ちて、はじめて人民の知識を進歩せんとするは、実に迂闊の策といわざるべからず。例えばここに幼児あり、これに薬を与えんとす。他人これを与うれば、幼児おそれてあえて近づかず、乳母これを与うれば、喜んでこれを受く。しかるときは、まず他人をして毎日幼児に近づかしめ、幼児のようやくこれになるるを待ちて薬を与うる方良策なるか、すでになれたる乳母の手を経てこれに与うる方良策なるか、余はあくまで従来なれたる宗教家の手を経て、文明の薬物を愚民の脳中に入るるをもって良策とするものなり。しかるときは、宗教家とこれに属する信徒とを、同時に学識、徳行健全の人となさしむべし。\n つぎに余が第二の論点は、宗教家と一般の人民は、その文明の程度を同じくするものなりというにあり。今、世人の見るところによるに、日本の宗教家は知徳ともにはるかに西洋の宗教家に及ばずというも、この懸隔はひとり宗教家の間に存するのみならず、日本の商法家は同一に西洋の商法家に及ばず、日本の工業者は同一に西洋の工業者に及ばず、日本の学者は同一に西洋の学者に及ばざるべし。他語にてこれを言えば、日本人の心力、体力ともに今日の勢い、はるかに西洋人に及ばざるなり。しかして、宗教家の懸隔最もさきに人の目に触れたるは、西洋の宗教早くわが国に入り、人みな東西の宗教家を目前に比較することを得たるによる。ほかの商法、工業等は、幸いに東西遠く相離れて目前に比較することあたわざるをもって、したがって人の批評を免れたるのみ。さらにこれを理論上に考うるに、人民みなその知徳ともに高等の地を占むるときは、宗教家ひとりその間に立ちて下等の知徳を有することあたわず。もし、その知徳ひとり下等にあるときは、一般の人民決してこれを宗教家と許すべき理なし。もし、かくのごとき宗教家の民間に立ちて人民を教導することを得る以上は、人民中その知徳なお下等にあるもの存すればなり。\n 果たしてしからば、日本の宗教家の西洋の宗教家にしかざるは、日本人一般の西洋人にしかざることを代表するものにして、我が輩はこの一例を見て、ますます日本宗教家の教育を進むることをつとめざるべからず。もしその教育を進めずして、ただみだりに宗教を変ずるも、一国の文明上、決してその進歩を見ることあたわざるなり。けだし、文明の進否は人にありて道にあらず。古語に曰く、「人よく道を広む、道の人を広むるにあらず」。わが国の宗教は、その理論一歩もヤソ教に及ばざるにあらず、かえってその上にあるは、今日西洋学者もすでに許すところなり。かつ、その宗教中に説くところの道徳、品行は、決してヤソ教中に説くところのものに下れるにあらず、ただこれを広むる人、その言行一致せざるのみ。これ人の罪にして、教の罪にあらず。ゆえに、今日の急務ただその人の教育、学識を進むるにありて、決して宗教を変ずるにあらざるなり。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「与兵衛殿、いかいご心労をおかけ申した」\n「おお新九郎様でごぜえましたか、よくまアご無事でお帰りなさいましたなあ」\n「騒動の起きた当夜、拙者は金井一角と引っ組んで大川へ墜ち、すんでに命のないところでござったが、菖蒲の寮の不思議な女主人に助けられ思わず今日までの無沙汰の段、ひらにご勘弁願いまする」\n「お詫びなさる筋合はござりません。あ、それよりは新九郎様、貴方のお帰りなさるのが、たッた一足遅うござりましたわい。せめてもう一刻も早かったら、お兄上の重蔵様と千浪様のお二方に、ここで落ち会いなさることができたものを」\n「ええッ、何と仰っしゃいます。では兄上と千浪殿が江戸表へ参られましたとか」\n「昨夜不意にお越し遊ばして、いろいろなお物語。聞けば千浪様の父御の仇、大月玄蕃という奴を尋ねるため、お二人様とも虚無僧にまで身を落して、これから奥州街道を下って行く心算じゃと、今朝ほどこの門から立っておいでなされたばかり」\n「や! では拙者がここへ戻ってくる途中、大川へ向って掌を合せていた二人の虚無僧、解せぬことを致しておると見流して参ったが、さてはそれが......」\n「それこそ重蔵様ではございましたろう。貴方様の変事をお話し申したところお二方の力落しは云うまでもなく、千浪様のお嘆きは傍で見る目もお痛わしゅうごぜえました」\n「アア知らなんだ!」\n と嘆声を洩らした新九郎は、俄かにキッとなって、腰の刀を引ッさげて立ち上がり、\n「たッた今そこで見かけたばかりの兄上、よもや遠くへは参るまい。奥州街道と云えば浅草見附から千住街道へ一本道、後をお慕い申して一目なりとお目にかからねば相済まぬ。与兵衛殿ご免!」\n と語調もせわしながら立ち上がった春日新九郎は、云い捨てるが早いか、そこにあった突ッかけ草履、真一文字に生不動の家から戸外へ駈け出した。\n\n二\n\n 鐘巻自斎の膺懲に会って、浅草お火除地の興行小屋を滅茶滅茶にされた投げ槍小六は、笊組の一門に面目ないと思ってか否か、その夜のうちに、お延、大月玄蕃、金井一角の都合四人づれで身の廻りの物だけを取りまとめ、久八の部屋から逐電してしまった。\n 武州岩槻からくる道と、千住からくる葛飾の往還とが、ここで一路になって奥州街道となる幸手の宿に入り込んだのは前の四人で、高野橋の袂、網屋という旅籠の一室に陣取り、川魚料理を肴に、その翌日は昼から自堕落な酒宴に浸っている。\n「お延さん、小六殿には悪いが三人の中に唯一人の女気だ。もう少しこっちへ出て酌でも致してくれぬか」\n 金井一角が小六の方を横目に見ながらこう云うと、お延は忌々しそうに舌うちして、\n「真ッ平ですよ。私ゃお前さんの女房じゃなし、また大月さんのご家内である訳でもなし、まして......」\n「まして小六殿という良人のある身か。いや、これは痛い所でお惚言を聞くものだ」\n「ちぇッ、だからくさくさするッて云うんですよ。誰が小六さんなんかを亭主だと思っているものかね。変な弾みで、お互にこうなっているだけの悪縁さ」\n 男を前にして自暴にせよ、何にせよ、あられもない手酌を続けて云うお延の言葉も、この頃は小六の方で耳馴れたか、いちいち刀を引ッつかんで立ち上がるようなことはない。\n しかし、さすがに小六の眉間がピリと動いたのでその苦い気配を早くも察した大月玄蕃が、巧みに話をそらしてしまった。\n「ところで小六殿、話は別だが、これから一体どこを打って廻る心算かの?」\n「折角盛った賭け試合も、あんな野放図もない腕ききにあっちゃあたまらないが、まだ田舎廻りをすれば随分面白いことがあろうというものだ。先ずこれから、宇都宮、大田原の城下などを振り出しに奥州路から中仙道へ折れ、あわ好くば四国西国をも一巡して来ようかと存じておる」\n「成程それもよかろう。しかしこの宿を立たぬうちに、拙者が頼んでおいた例の一条、あれから先に片づけてゆかねば、永い道中何となく気がかりで相成らぬが」\n「ご心配あるな、この金井一角もその儀はとくと含んでおります」\n「そういうときには、不意打ちの世話も要らぬ投げ槍の極意で、小六もきっと腕をお貸し申そう」\n「そう聞いて玄蕃も安堵いたした。しかしもう今夜あたりはこの宿へかかって来る筈だが......」\n 玄蕃が二人を組させたこととは、云うまでもなく重蔵と千浪を、再びここで返り討ちにしてしまおうとの魂胆らしい。浅草の小屋へわざと自分の名を掲げておき、二人を奥州街道へ釣り出そうとした苦肉な策を思い合せれば彼の毒刃がどこまで執拗なのか、真に慄然たるものがある。\n が仇持ちの心理はまた別なものに相違ない。幾ら自己の腕に自信があり、当の対手が婦女幼少の輩であろうと、生涯、影を追って尾け狙われているということは、誰にしても耐えられない不安、たまらない不快に違いない。\n 大月玄蕃ほどの者が、前には大草額平を騙って碓氷峠に彼を擁し、その失敗にも懲りず、再びここで二人を絶ってしまおうとする焦り方は、たしかに前の気持に近いものである。\n してみると、仇討というものは――\n 仇を討たんとして、怨霊のごとく、狙けまわしている間が、切実なる復讐の間で、斃して、仇の喉三寸に刺刀を貫くことは、仇の罪業をゆるし、同時に彼を救ってやることになる。\n それはさておき、翌晩一人の駕屋が手ぶらで網屋へ入り、奥にいる玄蕃に会って、夕方から二人連れの虚無僧が、小淵の不動院を出てこの宿へ向って来ると告げて行った。\n これは前もって、玄蕃が駕かきに金を握らせて置いたものであるらしい。不動院からはこの宿までの間には、一軒の宿屋もない筈、従って、いやでも夜道をかけて来なければなるまい。彼は密かに陰険な悦を洩らして、投げ槍小六と金井一角の両助太刀を誘い出し、かねて足場まで見ておいた柳堤に身を隠した。\n 玄蕃と一角は、覚えの一刀を前落しに押さえて草むらに隠れ、小六は手馴れの短槍をとって、堤の上からただ一突きと息をのんで待ち構えている。\n たまたま走る夜駕の灯も絶えて、初更を過ぎかけたこの街道は、刻一刻と、夜涼の静寂に澄み切って、時折、空には飛ぶ星、地には撩乱の露草に啼きすだく虫の音があるばかり。\n と――月見草のやさしい中に、怖るべき魔人の剣が潜んでいようとは、よもや、夢にも知ろう筈がない尺八の音色――、それに連れて、ピタリ、ピタリ......としずかに夜露の土を気まかせに踏んで来る天蓋の影二ツ。\n「来おったな! あの人影はたしかに虚無僧、春日重蔵と千浪の二人だ」\n 密かにプツリと切る鯉口、リュウッと槍の空しごきをして竦める双眸、人の魂を吸うような冷たい風が、そよそよとあたりの闇に吹き漂っている。とは知らず、歩一歩と、彼方の影はここへ近づいてくる。\n 吹きつつ来るのは何の哀曲か、地上の露を払い、天の星を澄ますような音色――それは、聞く人各〻の心に依って、流々の身をかこつ調べとも聞かれれば、また、仇を求める一念の送りとも聞こえ、あるいは、作左衛門の魂魄やはかなき変を聞いた新九郎の為に、兄と恋人とが手向ける譜とも聞かれるのである。\n「えーいッ!」\n いきなりさっと柳絮の闇を破った物凄い小六の掛け声。と見る間にピラピラッと闇を縫って飛んだ投げ槍――ああ悪魔の毒槍。\n「むむウーッ」\n 無残、槍の手ごたえと共に、ぱッと血の香を漂わせたところから、ただ一声の唸きが揚がり、一方の虚無僧は、胸板の真ん中を縫われた槍の柄を掴んだまま、摚と仰向けに大地へ仆れた様子。\n「それッ後はご両所」\n 堤の上から、小六が声をかけると同時に、\n「オオ心得た」\n と白刃を躍らせて現われた玄蕃と一角は、物をも云わず、残る一人の虚無僧を挟んで斬りつけた。人一人を一気に葬った血飛沫は、昏々とあたりを迷って容易に去らない。しかも、残虐に飽かない魔人どもは、更に残る一命に迫った。ああ既にそれも危ない。\n 前に斃されたのは千浪の方か重蔵の方か、いずれにせよその一人が、豪剣怖るべきこの悪剣客どもの切ッ尖を迎えて遁れることは難中の難である。\n\n三\n\n ほとんど、魂をおう狂気の人の如く、千住街道を急ぎ足に、先から先の人を追い抜けて来た春日新九郎は、やがて粕壁の立場あたりまで、遂にそれらしい人にも会えず、がッかりすると同時に足も精根も疲れ、陽もどッぷりと暮れ落ちてしまった。\n「ああどこまで千浪殿とも兄上とも、縁のうすいこの身であろう......ここまで来て会わずに帰るも残念、と云って、このまま行く雲をおうような旅もつづけられず」\n 茫然と路傍に立った新九郎は、疲れた体を進める道に迷っていた。と、里の者らしい人々が此方へ来た。新九郎はその人達を見ると、また一縷の未練をつないで、およその風姿恰好を話し、この街道でそれらしい人を見かけなかったかと訊ねてみた。こうして訊ねる言葉も、今日一日で幾十遍くり返したことであったか知れない。\n「そうさのう......」" }, { "role": "assistant", "content": " 百姓らしい男は、しばらく小首を傾げていたが、何か思い当ったように、\n「む、お見かけ申しましただよ。あの人たちに違いなかんべい」\n と新九郎の胸をどきッとさせた。\n「それもたんと前のことじゃあねえ、つい今し方のこッてがす。小淵の不動院の林から、この街道の先へ出る抜け道を、ぶらぶら行かしゃったお二人づれの虚無僧がありましただ」\n「おお、それじゃそれじゃ! して二人の者は、この街道をどう向いて参ったであろう」\n「あの抜け道を行けば杉戸へ出るのでがす、その先はずッと幸手まで宿屋がごぜえませんから、きっと夜道をかけるつもりでがしょう。そうすれば、なアにこんな平街道、とッとと走って行けば追いつきますわい」\n「いや忝けない」\n 新九郎は、欣びほどの礼を云う遑もなく、再び疲れた体に鞭打って、並木から並木つづきの街道を一心に走りつづけた。\n 三本木から杉戸あたりを過ぎると、もう一軒の家もなく、右はだんだんに柳を植えた堤となり、左は草深い一面の原。\n「はッ......」\n 思わず火のような息を吐いて足を休めると、初めの熱汗は極度の疲労で冷汗となり、しばらくは、空を仰いで星月夜の涼風を入れる気力もない。\n と、今まで気がつかなかった尺八の音が、かすかに行手の先を辿って行くようである。\n「あれじゃ! もう近い」\n にわかに気力が甦えって来た。彼はまた四、五丁も一気に走った。尺八はいよいよ近く聞える。もう一息――と思いつつ駈け出して行くと、糸が断れたように、ぷッつりと音が絶えた。\n「オウーイ」\n 新九郎はそこから声を揚げはじめた。\n「オウーイ。オウーイ」\n 答えはない。尺八の音も再びしない。\n 彼はハッと胸を轟かせた。何か怪しげな物音を一ツ聞いた。そう思って耳を澄ませば、時折、剣と剣の合うような冴え音。\n「何か異変が? ――」\n と思い当った新九郎は一段足を空にして行くと、たしかに二、三人の足音がバラバラと彼方へ逃げて行くのを聞いた。そして、危なくつまずくほどな間近に、一人の虚無僧が朱になった連れの者を、抱き起こしている悲壮なさまを目前に見た。\n それは男らしい骨格、さては斃されたのは千浪だったか。\n 何せよ一足遅かった。ああたッた一足で恋人の玉の緒を絶ってしまった! ――と新九郎は吾を忘れてそこへ飛びつき、\n「兄上ッ」\n いきなり袖に縋ってしまった。\n\n四\n\n「何ッ?」\n 不意を衝たれた虚無僧は、死骸を捨ててパッと飛び退き、同時に一刀の切っ尖をピッタリ新九郎に向けて、すこしも油断のないかたち。\n「兄上、お人違い遊ばすな、新九郎でござる、弟の新九郎でござります」\n「待て、其方は何を申しているのじゃ」\n「や、や、そのお声は?」\n「人違いとはそちらのことではないか。身共に新九郎と申すような舎弟はない」\n「違った!」\n 新九郎は張り詰めた心を、体と共に一遍にそこへくずして、ピッタリと両手をついてしまった。\n「失礼仕りました。まったく、同じ普化僧姿の者を尋ねて参りましたゆえ、夜目でもあり、かたがた心急いた余り人違いの無作法、真ッ平ご免下しおかれましょう」\n「いやご丁寧なる詫びで痛み入る。身共こそ狼藉者の片割れかと存じて、抜刀を向けた慌てようは面目ござらぬ」\n「して、ここに無残なご最期を遂げられているお方は?」\n「同門の友でござるが、何ら怨みを受くべきいわれもなく、不意にあの堤の上から投げ槍を飛ばしてただ一突きに殺られました。拙者へは同時に二人の曲者が迫って参りましたが、今思い合せると、貴殿が遠くから呼ばわった声を聞いて、さては助太刀が参ったかと愕き、急に逃げ去ったものでござろう」\n 新九郎は、前に人違いと知って失望したが、今は人違いに感謝しなければならなくなった。\n 投げ槍の使いてはたしかに西塔小六。一人は悪に繋がる大月玄蕃、その魂胆のあるところは、察知するに難くない。\n「承れば、このお人こそお気の毒千万、実は貴殿に狼藉いたした者こそ、拙者の兄ともう一人をここに待ち伏せ致しおった曲者に相違なく、同じ普化僧のお姿ゆえ、てッきりそれと見違えたものでござろう。何卒不慮の禍いと思し召されて、おゆるし願いとう存じます」\n「いやいや、これは全く宿命でござる。今思い合せても、奇異な心地が致しますが、打ち明けてお話し申せば、今日の昼、この先の不動院で拙者と同宗の二人の者に出合い、ややしばらく打ち解け話をしながら、不動院の縁に四人で腰かけていたことでござった」\n「もしや一人は片足の不自由な?」\n「左様でござった。そして一人は女にも見まほしい人体、宗名は月巣、竹枝と申しおった」\n「おお、それこそ拙者の尋ねる人々でござった。してそれから何と致しましたな」\n「まア聞かれい......」\n 虚無僧は傍らの切株へ腰を落し、宗友の冷たい空骸に瞳を落しながら、口重そうに次の話をしはじめた。\n その虚無僧も、まことは武士であった。\n しかも、柳生家とならんで、将軍家指南役の大職にある小野派三代目忠雄の高弟、夏目大之進という者であった。\n 故あって、大之進は小野門から姿を隠していたが、ちょうど、旧友の鵜飼六太夫が一月寺の普化僧となっているのを幸い、自分もその群に交じっていた。\n ところが、今度計らずも小野家へ帰参が許されたので、旅先から戻り、一月寺へ鑑札尺八を返納して江戸へ入ろうとしたところ、その途中不動院で今日落ち合ったのが重蔵と千浪の二人づれだった。\n 同宗の誼みで、四方山の話をしているうちに、不動院の院主という老人がそこへ来合せ、話に花が咲き出した。院主は梅花堂の心易をよくする者で、千浪と重蔵の運命を占って、言下に、\n「其許たちの尋ねる者は、志して行く土地にはおらぬ。まして行く手にあたって怖ろしい殺気がある。西へ避けろ、上州路へ廻れ」\n と云った。また、鵜飼の運命を見ると、老人は何故か口をつぐんでしまった。そして一言、\n「後ろを振り顧らずに、一散に江戸へお帰りなされ」\n と暗示めいたことを告げた。\n しかしその時は、座興ぐらいに思って鵜飼も大之進もそこを立って来た。けれど、千浪と重蔵とは、老人の占言があるばかりでなく、何となく賭仕合の小屋で聞いたところに疑念を抱いていたので、不動院からにわかに道筋を変え、上州路へ折れてしまったのである。\n 一方、夏目と鵜飼の両名は、そのまますぐに江戸へ急いでしまえば、この奇禍にも遭わなかったろうに、不動院を出ると間もなく、鵜飼六太夫の方から口を切り、幸手の網屋で今宵は別盃を酌もうと云い出し、抜け道をとってそっちへ廻った。と街道を歩きながら六太夫が、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一座はどっと噴き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫え落ちそうだ。糸子は俯向いて声を殺したため二重瞼が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。\n「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫だ。――欽吾さんも、もう貰わなければならんね」\n「ええ、そう急には......」\n いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。\n「しかし阿母さんが心配するだろう」\n 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然として天地の間に懸っている。世界滅却の日をただ一人生き残った心持である。\n「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」\n 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。\n「一にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」\n 老人は自分の心で、わが母の心を推している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。\n「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。\n「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」\n「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」\n「なぜ」\n「やっぱりのらくら以上だからでしょう」\n「アハハハハ」\n 今夕の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。\n\n 九\n\n 真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く憚かりの呼吸を吹くようである。\n 今までは珠よりも鮮やかなる夢を抱いていた。真黒闇に据えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に懸ける暇もなかった。懐に抱く珠の光りを夜に抜いて、二百里の道を遥々と闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海に幾分か往昔の輝きを失った。\n 小夜子は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて逢う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が吠える。自からも、わが来る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に蔵してなおさらに疑を路上に受くるような気がする。\n 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫の油は容易に油壺の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。\n 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。小夜子の世界は新橋の停車場へぶつかった時、劈痕が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。\n 小野さんも同じ事である。打ち遣った過去は、夢の塵をむくむくと掻き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜から出す。おやと思う間に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく向で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛の時節を誤って、暖たかき陽炎のちらつくなかに甦えるのは情けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば労らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖に隠れて見た。紫の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据えかける途端に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。\n「阿父は」と小野さんが聞く。\n「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、蒸れやすき髪に櫛の歯を入れる暇もない。不断着の綿入さえ見すぼらしく詩人の眼に映る。――粧は鏡に向って凝らす、玻璃瓶裏に薔薇の香を浮かして、軽く雲鬟を浸し去る時、琥珀の櫛は条々の翠を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。\n「御忙しいでしょう」\n「まだ荷物などもそのままにしております......」\n「御手伝に出るつもりでしたが、昨日も一昨日も会がありまして......」\n 日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向いて、膝に載せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾の指輪とは無論比較にはならぬ。\n 小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井の白茶けた板の、二た所まで節穴の歴然と見える上、雨漏の染みを侵して、ここかしこと蜘蛛の囲を欺く煤がかたまって黒く釣りを懸けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸が一本横に貫ぬいて、長い方の端が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢でもぶら下げたものだろう。次の間を立て切る二枚の唐紙は、洋紙に箔を置いて英吉利めいた葵の幾何模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい縁の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく椽に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上ほどもない。丈に足らぬ檜が春に用なき、去年の葉を硬く尖らして、瘠せこけて立つ後ろは、腰高塀に隣家の話が手に取るように聞える。\n 家は小野さんが孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかし極めて下卑ている。小野さんは心のうちに厭な住居だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣に辛夷を添わせて、松苔を葉蘭の影に畳む上に、切り立ての手拭が春風に揺らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。\n「御蔭さまで、好い家が手に入りまして......」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情けない。ある人に奴鰻を奢ったら、御蔭様で始めて旨い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑したそうである。\n いじらしいのと見縊るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟ったからである。祟があると眼玉が三角になる。\n「もっと好い家でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好なのがなくって......」\nと云い懸けると、小夜子は、すぐ、\n「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。\n 細い面をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣は背広に変っている。五分刈は光沢のある毛に変っている。――髭は一躍して紳士の域に上る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟は卸し立てである。飾りには留針さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品の好い胴衣の隠袋には――恩賜の時計が這入っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。" }, { "role": "assistant", "content": " 五年の間一日一夜も懐に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東長短の袂を分かって、離愁を鎖す暮雲に相思の関を塞かれては、逢う事の疎くなりまさるこの年月を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。\n 小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気に生い立った阿蒙の変りかたではない。色の褪めた過去を逆に捩じ伏せて、目醒しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が恨めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。\n 新橋へは迎に来てくれた。車を傭って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛親子して寝る庵を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。\n プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。小さい手提の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛といっしょに先へ行った、刻み足の後ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々と来た二人を案内するためではなく、時候後れの親子を追い越して馳け抜けるためのように見える。割符とは瓜二つを取ってつけて較べるための証拠である。天に懸る日よりも貴しと護るわが夢を、五年の長き香洩る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退いている。握る割符は通用しない。\n 始めは穴を出でて眩き故と思う。少し慣れたらばと、逝く日を杖に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。\n やさしく咽喉に滑べり込む長い顎を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭を見た。変る髪の風と変る装とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息を吐いた。ああ。\n「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」\n 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯を逆に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。\n「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」\n「そのくらいでしょう、嵐山は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」\n 花を看る人は星月夜のごとく夥しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。\n「やっぱり阿父とですか」\n「ええ」\n「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情けない心持がする。小野さんは出直した。\n「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」\n「ええ。大悲閣の温泉などは立派に普請が出来て......」\n「そうですか」\n「小督の局の墓がござんしたろう」\n「ええ、知っています」\n「彼所いらは皆掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」\n「毎年俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」\n 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。\n「本当に昔の方が......」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。\n「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓しませんでしたね」\n 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向に返る。金縁の眼鏡と薄黒い口髭がすぐ眸に映る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒の、するすると抜け出しそうな咽喉を抑えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。品のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。\n「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」\n「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳ばかりで、いたずらに育った縞柄と、用い古るした琴が恨めしい。琴は蔽のまま床の間に立て掛けてある。\n「私はだいぶ変りましたろう」\n「見違えるように立派に御成りです事」\n「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように......」\n 小夜子は何と答えていいか分らない。膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶が、行儀よく、鬢の末を潜り抜けて、頬と頸の続目が、暈したように曲線を陰に曳いて去る。見事な画である。惜しい事に真向に座った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵を、地に滅り込むほどに回らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻える袖の香が、濃き紫の眉間を掠めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。\n「また来ましょう」と背広の胸を合せる。\n「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。\n「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜しく」\n「あの......」と口籠っている。\n 相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと急き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。\n「あの......父が......」\n 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪くなる。\n「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道に離れて行く。未練も会釈もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然として、椽に近く坐った。\n 降らんとして降り損ねた空の奥から幽かな春の光りが、淡き雲に遮ぎられながら一面に照り渡る。長閑かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶しい。どこやらで琴の音がする。わが弾くべきは塵も払わず、更紗の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋しく壁に持たれている。いつ欝金の掩を除ける事やら。あの曲はだいぶ熟れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾く爪の、安らかに幾関の柱を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日のように思う。ちらちらに昼の蛍と竹垣に滴る連𧄍に、朝から降って退屈だと阿父様がおっしゃる。繻子の袖口は手頸に滑りやすい。絹糸を細長く目に貫いたまま、針差の紅をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮かに眼を醒ませと、への字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥ねた。曲はたしか小督であった。狂う指の、憂き昼を、くちゃくちゃに揉みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇を破る烏の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日を明日と、その日に数る命は、文も理も危い。......" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " そう云ったかと思うと、あれほど気丈な凜々しい瑠璃子も、顔に袖を掩うたまゝ、しばらく咽び入ってしまった。\n「妾には、その覚えがありますから、貴女のお心が分るのです。身に比べてしみ〴〵と分るのです。」\n 母にそう云われると、今まで抑えていた美奈子の悲しみは、堤をきられた水のように、彼女の身体を浸した。彼女の烈しいすゝり泣きが、瑠璃子の低いそれを圧してしまった。\n 瑠璃子までが、昔の彼女に帰ったように、二人はいつまでも〳〵泣いていた。\n が、先に涙を拭ったのは、美奈子だった。\n「お母様! 貴女は、決して妾にお詫をなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。妾の父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、妾に報いて来たのです。父の犯した罪が子の妾に報いて来たのです。お母様の故では決してありませんわ。」そう云いながら、美奈子はしく〳〵と泣きつゞけていたが、「が、妾今晩、お母様の妾に対するお心を知ってつく〴〵思ったのです。お母様さえ、それほど妾を愛して下されば、世の中の凡ての人を失っても妾は淋しくありませんわ。」\n そう云いながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄った。瑠璃子は、彼女の柔いふっくりとした撫肩を、白い手で抱きながら云った。\n「本当にそう思って下さるの。美奈さん! 妾もそうなのよ。美奈さんさえ、妾を愛して下されば、世の中の凡ての人を敵にしても、妾は寂しくないのです。」\n 二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。\n\n火を煽る者\n\n\n一\n\n 青年の身体は、燃えた。\n 烈しい憤怒と恨みとのために、火の如く燃え狂った。\n 彼は、その燃え狂う身体を、何物かに打ち突けたいような気持で走った。闇の中を、滅茶苦茶に走った。闇の中を、礫のように走った。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼の嵐のような心を抑える方法は何もなかった。樹にでも、石にでも、当れば当れ、川にでも渓にでも陥らば陥れ、彼はそうした必死的な気持で、獣のように風のように、たゞ走りに走った。\n 強羅の電車停留場まで、一気に馳け降りたけれども、其処には電車の影は、なかった。彼は、そこに二三分間待ったが、心の底から沸々と湧き上っている感情の嵐は、彼を一分もじっとさせていなかった。電車を待っているような心の落着は、少しもなかった。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。そう決心すると、前よりは、もっと烈しい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。\n 初め馳けている間、彼の頭には、何もなかった。たゞ、彼をあんなに恥しめた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなったり、小さくなったり、幾つにも分れて、巴のように渦巻いたりした。\n が、だん〳〵走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落着が、彼の狂いかけていた頭を、だん〳〵冷静にしていた。\n 彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん〳〵いろ〳〵な事を考え初めていた。\n 彼が、死んだ兄と一緒に、荘田の家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。\n 荘田夫人の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行った頃の思い出が、後から〳〵頭の中に浮んで来た。\n 夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従って自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと、その中に、兄が夫人に熱狂してしまったこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、自分が兄に対して軽い嫉妬を感じたこと、そうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。\n 実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いていることを知ったとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑えていた。\n 突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去った。彼は、兄に対する遠慮から、抑えていた心を、自由に夫人に向って放った。\n 夫人は、それを待ち受けていたように、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまった。\n 彼は、夫人から、蜜のような甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛していて呉れることを、疑う余地は、少しもなかった。\n 彼は直截に夫人に結婚を求めた。\n「妾も、ぜひそうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考えさせて下さいよ。貴君、箱根へ一緒に行って下さらない。妾、此の夏は、箱根で暮そうと思っていますのよ。箱根へ行ってから、ゆっくり考えてお答えしますわ。」\n 夫人は、美しい微笑でそう云った。\n 箱根へ同行を誘って呉れる! それは、もう九分までの承諾であると彼は思った。\n 箱根に於ける避暑生活は、彼に取って地上の極楽である筈であった。\n 思いきや、其処に地獄の口が開かれていようとは。\n「裏切者め!」\n 青年は、走りながら、思わず右の手のステッキを握りしめた。\n\n二\n\n ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を馳け続けたために、身体こそやゝ疲れていたものの、彼の憤怒は少しも緩んではいなかった。部屋へ飛び込めば、直ぐ鞄の中へ、凡てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だっていたくない。彼女が、帰って来ない裡に、一刻も早く去ってしまうのだ。\n 彼は心の裡で、そうした決心を堅めながら、烈しい勢で、玄関へ駈け上った。其処に立っていたボーイが、彼の面色を見ると、駭いて目を眸った。それも、無理はなかった。彼の眼は血走り、色は蒼ざめ、広い白い額に、一条の殺気が迸って、温和な上品な平素の彼とは、別人のような、血相を示していたからである。が、ボーイが、駭こうが駭くまいが、そんなことはどうでもよかった。彼は駭いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るように馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上ろうとしたときだった。彼は余りに急いだため、余りに夢中であったため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しく打っ衝ってしまった。\n 余りに強く衝き当ったため、彼の疲れていた身体は、ひょろ〳〵として、二三段よろけ落ちた。\n「いやあ。失礼!」\n 相手の人は、駭いて彼を支えた。が、衝突の責任は、無論此方にあった。\n「いゝえ。僕こそ。」\n 彼は、そう答えると、軽く会釈したまゝで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまゝ階段を馳け上った。\n が、彼が六七段も、馳け上ったときだった。まだ立ち止まって、じっと彼の後姿を見ていた相手の男が、急に声をかけた。\n「青木君! 青木君じゃありませんか。」\n 不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭いた。彼は、思わず階段の中途に、立ち竦んでしまった。\n「えゝっ!」\n 青年は、返事とも駭きとも分らないような声を出した。\n「間違っていたら御免下さい! 貴君は、青木君じゃありませんか。あの、青木淳君の弟さんの。」\n 相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でそう訊いた。青年は、やゝほの暗い電燈の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関で逢った、彼の見知らない紳士であった。彼は、どうして此の男が、自分の名前を知っているのだろうかと、不審に思いながら答えた。\n「そうです。青木です。ですが、貴君は......」\n 青年は、一寸相手が、無作法に呼び止めたことを咎めるように訊き返した。\n「いや、御存じないのは、尤もです。」\n そう云いながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。\n「お兄さんの知人と云っても、ホンのお知合になったと云う丈けに過ぎないのですが、然しその......」\n 紳士は、一寸云い澱んだ。青年は、自分がいら〳〵し切っているときに、何の差し迫った用もなさそうな人から、たゞ兄の知人であると云った理由丈で、呼び止められるのに堪えなかった。\n「そうですか。それでは、又いずれ、ゆっくりとお話しましょう。一寸只今は、急いでいますから。」\n そう云い捨てると、青年は振り切るように、残った階段を馳け上ろうとした。\n すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。\n「あゝ一寸お待ち下さい。私も急に、貴君にお話したいことがあるのです。」\n\n三\n\n「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云われると、青年はむっとした。何と云う執拗な男だろう。何と云う無礼な男だろうと腹立たしかった。\n「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はこうしてはいられないのです。」\n 青年は、そう云い切ると、相手を振り払うように、階段を馳け上ろうとした。が、相手はまだ諦めなかった。" }, { "role": "assistant", "content": "「青木君! 一寸お待ちなさい。貴君は、お兄さんからの言伝を聴こうとは思わないですか。そうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」\n そう云われると、青年は遉に足を止めずにはいられなかった。\n「言伝! 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」\n 青年は嘲るように、云い放った。\n「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云わずにはいられなかったのです。貴君は、今可なり危険な深淵の前に立っている。私は貴君がムザ〳〵その中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはいられないのです。」\n そう云いながら、相手は青年と同じ階段のところまで上って来た。\n「危険な深淵! そうです。貴君のお兄さんが、誤って陥った深淵へ貴君までが、同じように陥ちようとしているのです。」\n 青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目で、自分に対して好意を持っていて呉れることが、直ぐ分った。が、相手が妙に、意味ありげな云い廻しをすることが、彼のいら〳〵している神経を、更にいら立たせた。\n「それが一体何う云うことなのです。僕には少しも分りませんが。」\n 青年は、腹立たしげに、相手を叱するように云った。\n「それでは、もっと具体的に云いましょう。青木君! 貴君は、一日も早く、荘田夫人から遠ざかる必要があるのです。そうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君の身体を呑んでしまう恐ろしい深淵です。貴君のお兄さんは、それに呑まれてしまったのです。」\n 紳士は、そう云って、じっと青年の顔を見詰めた。\n「貴君は、兄さんの誤を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」\n そう云うかと思うと、紳士は一寸青年に会釈したまゝ、階段をスタ〳〵と降りかけた、もう云う丈けのことは、スッカリ云ってしまったと云う風に。\n 今度は、青年の方が、狼狽して呼び止めた。\n「待って下さい! 待って下さい! そんなことを本当に兄が云ったのですか。」\n 紳士は顔丈けを振り向けた。\n「文字通に、そう云われたとは云いません。が、それと同じことを私に云われたのです。」\n「何時! 何処で?」\n 青年は、可なり焦って訊いた。\n「お兄さんが死なれる直ぐ前です。」\n そう云って、紳士は淋しい微笑を洩した。\n「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云うのですか。」\n 青年は、可なり緊張して訊いた。\n「そうです。貴君のお兄さんの臨終に居合したたった一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたった一人の人間も私です。」\n 紳士は落着いて、静に答えた。\n「えゝっ! 兄の遺言を。一体兄は何と云ったのです。何と云ったのです。その遺言を貴君が、今まで遺族の者に、隠しているなんて!」\n 青年は、相手を詰問するように云った。\n「いや、決して隠してはいません。現在貴君に、その遺言を伝えているじゃありませんか。」\n\n四\n\n 紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰い入ってしまった。\n「本当に、貴君は兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と云いました。兄は死際に何と云いました?」\n 青年は、昂奮し焦った。\n「いや、それに就いて、貴君にゆっくりお話したいと思っていたのです。茲じゃ、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」\n 紳士は可なり落着いていた。\n「貴君さえお差支えなけれや。」\n「じゃ、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻は、湯に入っていますので誰もいませんから。」\n 紳士の部屋は、階段を上ってから、左へ二番目の部屋だった。\n 紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を勧めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降した。\n「申し遅れました。僕は渥美と云うものですが。」\n そう云って紳士は、改めて挨拶した。\n「いや、実は避暑に出る前に、貴君に一度是非お目にかゝりたいと思っていたのです。貴君にお目にかけたいもの、貴君に申上げたいこともあったのです。それで、それとなく貴君のお宅へ電話をかけて、貴君の在否を探って見ると、意外にも宮の下へ来ていられると云うのです。それで、実は私は小涌谷の方へ行くつもりであったのですが、貴君にお目にかかれはしないかと云う希望があったものですから、二三日、此処へ宿って見る気になったのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君にお目にかゝろうとは、貴君ばかりでなく荘田夫人にお目にかゝろうとは。」\n 紳士は一寸意味ありげな微笑を洩しながら、\n「実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと云う一人の旅客は私なのです。」\n「えゝっ!」\n 思わず、青年は、駭きの目を眸った。\n「お兄さんの死は、形は奇禍のようですが、心持は自殺です。私は、そう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相の間を彷徨っていたのです。奇禍が偶然にお兄さんの自殺を早めたのです。」\n 紳士の表情は、可なり厳粛であった。彼が、いゝ加減なことを云っているとは、どうしても思われなかった。\n「自殺! 兄はそんな意志があったのですか。」\n 青年は駭きながら訊いた。\n「ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。」\n「自殺! 自殺の意志。もしあったとすれば、それは何のための自殺でしょう。」\n「ある婦人のために、弄ばれたのです。」\n 紳士は苦々しげに云った。\n「婦人のために、弄ばれる。」\n そう繰り返した青年の顔は、見る〳〵色を変えた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハッと思い当ったのである。\n「それは本当でしょうか。貴君は、それを断言する証拠がありますか。」\n 青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。\n「ありますとも。お兄さんの遺言と云うのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えて呉れと云うことだったのです。」\n「うゝむ!」\n 青年は、低く呻るように答えた。\n「実は、私はその恨みを伝えようとしたのです。が、その婦人は、恨を物の見事に跳ねつけてしまったのです。そればかりでなく、死んだお兄さんを辱めるようなことまでも云ったのです。その婦人はお兄さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしているのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私の故ではありません、あの方の弱い性格の故だと、その婦人は云っているのです。そればかりではありません......」\n 紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまった。\n\n五\n\n 紳士は興奮して叫び続けた。\n「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲りないで、青木君の弟である......」" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": "「こいつめ、佐々さんにかこつけて、おれのことをいってやがる」\n 親方の権三郎が、為吉の顔を押しとばすと、為は、わざと大げさに顔をかかえて、\n「広厳寺へ行って、渋茶とせんべいでももらって来ましょう。佐々の旦那、なにかお寺へことづてはありませんか」\n 機螽のとぶように、為は草原のなかを、駈けて行った。\n\n二\n\n「ははは、おかしな男だ。しかし、あれがおるので、ここの作業場はつねに明るいな。ああいう男は、よく小馬鹿にされがちだが、実はなかなか大事な存在だ」\n 塚のうえから降りて来ながら、佐々介三郎がつぶやくと、石工の権三郎も、\n「旦那、為のいるところで、そんなことを仰っしゃっては困りますぜ。あのお天気を、よけいおだてるようなもんでさ」\n と、ともに歩いて、そこからやや離れたところに見える丸太と四分板囲いの小屋へはいって行った。\n 小屋の中には、切磨きした巨きな碑の石が横たわっていた。刻文のある碑面には薄紙が貼ってあるが、なおあざやかに隷書体で、\n嗚呼忠臣楠子之墓\n の八字が透いて読めた。\n 光圀の筆になったものである。\n また、この碑の下に埋める石棺もでき上がっていた。石棺のうちには、一面の円鏡をおさめてあり、それにも、\n楠木正成霊源光圀造立\n と、してある。\n 道理で小屋こそ粗末なものだったが、庇を見ると、注連縄がめぐらしてある。もう御霊の象はここに竣工して、あとは塚の地形とか壇石、亀石のすえこみなどを待つばかりとなっていた。\n「もう、工事は、いまが半ばというところだな」\n「さようで」\n と、一枚のむしろを持って来て、権三郎は、彼のために草へ敷いた。\n それへ、腰をおろしながら、\n「いや権三、春以来、この事では、ずいぶんそちにも無理をいったが、ご費用には限りもあるのに、仕事には、やかましいことばかり申して」\n「どういたしまして。そう仰っしゃられると、てまえが面目ありません」\n「なぜか」\n「始めのことを思い出します。......初めて旦那が、図面をお持ちになって、いくらでひきうけるかと、おはなしにお越しなすったときは、水戸さまと聞いて、あいては大名、これは取り放題のうまい仕事がころげこんで来たと――このご建碑で、正直、てまえ根性では、ひと儲けするつもりでございました」\n「気のどくしたな。とんだあてがちがって」\n「いえいえ、あてがちがってくれたからこそ、てまえは今日でも、いえ一生涯、いい心もちを持っていられると、真実、ありがたく思っております。......もしそれが思いどおりに行って、この碑で、悪儲けでもしてごらんなさい。生涯、どんなに寝ざめがよくないかしれません。いや、死んだのちまで、この碑にたいして、後悔がのこりましょう。石は腐りませんからね」\n「そちの義心や、職人どもがみな献身的にやってくれていることは、先ごろ書状のうちにもしたためて、水戸の西山荘においであそばすお方へも達しておいたぞ」\n「旦那のおかげです......。まったく、旦那が、毎日のように、この碑に彰わされる正成公というお方のはなしを、てまえのような無智無学なものにもわかるように、根よく語り聞かせてくださらなかったら、きっと、旦那の眼をかすめて、手をぬくことしか、この仕事にも考えなかったかもしれません。......それが、旦那のおはなしを伺って、楠木正成公というお方、またその御夫人や、お子たちや、ご一族などの――なんといったらいいか、ご忠義のほどを知ってみると、その日からですよ。鑿にはいる力までちがって来たんでさ。ごま化して、儲けようなんて、考えても、身ぶるいが出るようになってしまいました。てまえばかりじゃございません、ここへ来て働く下職まで、みんな人間が変ってしまうから怖ろしいものですよ。......身は石屋だし、手には鑿を持っているが、おなじ御旗の下にいる兵士のような気になりましてね。......だから正成公はまだ、どうしても、この国に生きているっていう気がしてなりませんが、旦那、どんなものでしょう」\n\n三\n\n「そうとも」\n 介三郎は大きく頷いて見せた。\n「正成公ばかりではない。――古人はすべて死んでいない」\n「......へえ、そうでしょうか」\n 石屋の権三郎はまた分らなくなった。\n 楠木正成にたいしては、彼も十分にそれが理解できたが――古人と、ひろくいわれると、解せないことになって来た。\n 介三郎は噛んでふくめるように、\n「たとえばだよ、おまえの宗旨は法華だそうだが、おまえが艱難に克とうとするときは、日蓮のつよい意志を思い出して、自分の意志を励まそうとするだろう」\n「......ええ、日蓮さまも、ずいぶんご苦労なさいましたからね」\n「秀吉は、もう白骨のひとだが、逆境の若い者が、秀吉の幼少や少年のときを胸に呼び起せば、逆境何ものだという気をふるい出されよう。......どんな貧家に生れたものでも、自分をだめだと思い捨てるまえに、秀吉ほどではなくても、将来の夢を持とうという気になるだろう」\n「てまえも小さいとき、うちは貧乏だし、体はよわいし、死のうと思ったことなんかありましたが......そんなときには、誰か、自分を力づけてくれるものをさがしますね、いまの人よりも古い人のなかに」\n「生きているひとなら力になりそうなものだが世事雑多だ。生きている同士はかえって、ほんの心の友にも力にもなれない。――そこへゆくと、古人にそれを求めれば古人はいつでもわが師となってくれる、わが友ともなってくれる」\n「だから、古人は、生きているといえるわけで」\n「いやいやまだ理由がある。――国に国難がおこれば、元寇の折の時宗が世人の胸によみがえって来よう。また、浮華軽佻な時代のあとには、人はおのずから静思を求めて、遠い弘法をしたい、親鸞をおもい、道元のあとをさがすのだ――飢饉となれば、無名な篤農家の業績をあらためて見直したり、国がみだれれば忠臣の生涯をおのれにかえりみ、ひとに呼びかけあう――といったふうに」\n「なるほど」\n「だから、この国の土中にかくれた、過去の偉大な白骨は、この国の非常なときに応じて、いつでも、その時にふさわしい古人が、現在の生きているものから呼び迎えられる。そして文学やら絵やら口伝やら、あらゆる象をとおして、ひとの知性や血液にまではいってゆく」\n「ははあ、そうですか」\n「そうだろう。......知らぬまにその人のなかには、古人の意志が住んでいることになる。たとえば、おまえが半年のあいだ、正成公の碑にむかって、カチカチカチカチ鑿をもって仕事しているうちには、いつか、正成公のこころが、一滴の血ぐらいでも、おまえの意志のなかにはいって来たにちがいない。そう考えてみたら分ろう」\n「なんだか、わかり出しました」\n「だから、古人は白骨であるが死んではいない。つねに今の生けるひとのたましいをかりて、次の時代までの働きをしている」\n「おもしろいものですね」\n「いや、こわいな、ひとの生命の長さを考えると。五十年はめしを喰っているうちだけのことだ。生命の波及することは限りも知れない。次から次、次から次、国土とひとのあるかぎり、自分の生命は結果のない結果を及ぼしてゆく」\n「ちと、むずかしい」\n「はやいはなしが、この碑を建つという仕事にせよ、及ぼすところは、無限だろう」\n「だが旦那、いったい黄門さまは、何を思い出しなすって、ふいに、楠木正成さまの碑なんぞお建てになる気になったんですか」\n「いまの世のなかへ、地下の正成公を、およびする必要をお感じになったからだ。――ただ草蓬々の塚をあらためてご供養するだけなら、これはご隠居さまのお名をもってなされなくても、どこかの坊さんに頼めばいいわけだからな」\n\n四\n\n 職人かたぎだ。初めのうちは、こんなはなしなどに、耳をかたむける石屋の権三郎でなかったが、佐々介三郎のそばにいるうち、いつか変ってきたのである。\n ところが、その親方の石権以上に、介三郎がそんなはなしでもして聴かせていると、かならず物蔭か、うしろに佇んで熱心に聞き入っているもうひとりの男があった。下職ではない、石工の手伝いをしている人夫である。\n「勘太、勘太」\n と、みなから呼ばれていた。\n その勘太というのは、この五月上旬、佐々介三郎がいちど国許へもどって、西山荘の老公から直接いろいろな指図を仰ぎ、またその折、老公の筆になる碑銘の「嗚呼忠臣楠子之墓」の揮毫もできていたので、それを大事に持って、ふたたび上方へのぼって来る途中――箱根の山で拾った男であった。\n 拾ったというと語弊があるが、彼が箱根で山駕にのると先棒をかついでいたのが、この勘太で若くて体もいいのに、ひょろついてばかりいる。そしては後棒の雲助に、\n ――どじめ。しっかりしろい。\n と口ぎたなく罵られるので、介三郎が見かねて訊ねてみると、後棒が、\n ――こいつはまだ、箱根で稼ぐなんざ、無理なんでさ。なんたって、つい一月ほどまえから、初めて駕をかつぎ出した野郎ですからね。まだ一人前の雲助たあいわれませんや。靄助ぐらいな新米なんで。\n それから介三郎は、宥りと、旅の興とで、\n ――もや助、もや助。\n と、おもしろ半分に呼んで、つい三島まで乗ってしまったが、三島の休み茶屋で、そのもや助が、\n ――旦那がいつも、下に置いたことなく、大事そうに持っている物は、いったい何ですか。\n と、たずねた。\n 介三郎が答えて、携えている物は、さる貴人のお筆になった碑銘の草稿であると、楠公建碑のことを、てみじかに話して聞かせるとひどく感服して、\n ――じゃ旦那は水戸ですね。\n と、ふと、人なつこい眼をした。\n 空駕とわかれて、千本松原のあたりまで来ると、後棒者も駕もすてて、もや助のみが一人で、\n ――旦那あ、旦那アあ。\n と、追いかけて来た。\n そして、荷持をさせてくれというので、断ると、では兵庫とやら碑をお建てになる場所で、土かつぎでも、職人の手つだいでも、なんでもいいから使ってくれと強っていう。\n つい不愍をかけたのは自分のほうからである。振切るのも、あわれと思って、そこから荷持として伴い、以来、住吉の石権へたのんで、手伝い人夫に使ってきた勘太であった。\n 勘太は実によく働いた。" }, { "role": "assistant", "content": " ほかの人夫や職人とちがって、酒ものまないし、夜遊びにも出ない。だから仲間には、\n ――吝ッたれ。\n と、蔑まれてもいるが、仕事場では、ひとの嫌がることもすすんでやるので、ほかの日傭いは解雇しても、勘太だけは建碑の終るまではいてくれるようにと、いまでは石権が手放さないものになっていた。\n いまも小屋の蔭に。\n その勘太はぼんやり立っていた。彼としては、介三郎が石権にはなすのを熱心に聞き入っているつもりだったが、ほかの職人たちの眼から見ると、いかにも、いるところを離れて、うつけているように見えるのである。\n「やあい、もや助。水でも汲んで来い、河原へ行って」\n 草のなかで、煙草休みをしている職人たちの屯が、こっちを見て、大声でどなった。\n 勘太が、われに返って、\n「へい。すみません。いま汲んで来ます」\n と、小屋のうしろから、二つの水桶を荷担って、河原のほうへ立去ってゆくのを、介三郎と石権は、いま気がついたように振向いて見ていた。\n\n五\n\n 水くみ桶の天秤を肩にあてがったまま、勘太は、湊川のそばに立った。\n 焦けている石河原から、急に氷のような瀬の水へ脛をひたして、\n「おお、冷てえ......」\n ふたつの桶に水をみたした。\n ずしんと、肩に水の重量が加わる。勘太は、しばらく水のなかを去らずに、水底を見つめていた。\n 赤くさびている兜の鉢金のようなものが透いて見える。ただの鍋かなんぞかも知れないが勘太は、それをさえ足に踏むことを懼れた。\n「もしかしたら、延元の戦に、ここで死んだ忠義なひとの兜かもしれない......」\n 佐々介三郎から聞いている楠公のはなしが頭にあるからであった。\n七たび生れて国を護らん\n とさいごにまで、天地にちかって戦死したというひとの心を考えて、勘太は、\n「......そうだ、うそじゃない。佐々さんもいったように、死んで消えるのは象だけだ。生命は死のうたって死にきれるものじゃない。七生はおろか、いつまでも」\n 勘太は、身ぶるいした。\n つみ重ねてきた半生の悪行を怖れずにいられなかった。\n「......だが、まだおれは三十まえ、あとの半生で、とり返しのつかないこともなかろう。......ああ、そういう気になってから、おれの人相も、自分の欲目か、すこし善くなって来たような気がする」\n じっと、桶の水まで澄んでいた。勘太は、水桶のなかに映っている自分の顔に見恍れていた。もう一つの桶のなかには、秋空の雲が浮いていた。\n「やーい何を見ているんだようっ。もや助え、鯰でも踏んだのかあ」\n 河原のむこうで、大声がしたので、あわてて水を上がってみると、仲間の為が、大土瓶と何か食べ物を提げて歩いている。\n「為吉さんか。どこへ行きなすった」\n「広厳寺へ、渋茶をもらいによ。――きょうは和尚がいたからそいってやった」\n「なんて?」\n「碑ができるために、黄門様から白米やら白銀やら、何かとご寄進もあるんだろうから、たまにはおれたちにも、供養をしてもよかろうぜって」\n「あははは。なんていったね」\n「蕎麦でも打たせて置こうから、晩にみなで来るがよい。貰うた新酒もあるほどに――と、お世辞をいった」\n「お世辞じゃ何もなるまい」\n「なに、かたい約束をしてきたのさ。親方も、佐々さんも、飲ける口だからね、よろこぶだろうぜ」\n ふたりは、もとの仕事場へ、いっしょに帰った。\n「水が来た」\n「茶が来た」\n と、みな寄りたかって、冷たい水で、汗の手拭いをしぼったり、渋茶をのんだり、ようやく、残暑の苦熱を一しのぎした。そして、\n「さあ、やろうぜ」\n また夕方までの仕事にかかった。\n 介三郎も、鍬をとって、塚のうえの地形を手伝った。馴れない者の手伝いなどは、全体の仕事にはほとんど影響もないことは分っていたが、幾百年、草茫々と埋もれていた忠臣の古墳にたいして、\n(土かつぎも、身のほまれ)\n と、すすんで鍬をもちたくなったのである。\n 鍬の音、鑿の音。――それから土台に敷く大石を、てこで塚のうえに押上げる人夫たちの懸声など――夕方の草いきれは陽ざかりよりべつな暑さだった。\n すこし先の街道には、旅人たちが立ちどまって、不審そうにささやき合っていた。\n「なんでしょう。あんな畠のなかへ」\n「何か、碑が建つらしゅうございますね」\n「だれの碑で」\n「さあ、たれの碑やら?」\n\n六\n\n 道具片づけもすまして、為と勘太が、その仕事場から帰って来るのを見かけて、旅人たちの一名が、\n「もし、お職人さん」\n と、呼びかけてたずねた。\n「――いったい、あれや何です。何があそこに建つんですえ」\n 為は、ぶっきら棒に、\n「碑さ」\n「碑はわかっているが、たれの碑で」\n「うるせえなあ。ここを通るやつは、きっと訊きゃあがる。分らなければ分らねえでいいじゃねえか。建ったら、お詣りにおいで」\n「でも、畠のなかへ、いきなり出来るものにしちゃあ、おそろしく、立派じゃございませんか。たれか、金持の地主でも、あそこに守護神を祀ろうとでもいうんで?」\n「なにを、この野郎」\n「......おや」\n「なにが、おやだ」\n「怒らなくってもいいじゃありませんか」\n「怒らずにいられるか。いうにことをかいて、金持の守護神の碑かとはなんだ。やいっ」\n「褒めたんだからいいじゃありませんか。すばらしい碑が建ちそうだから、それで」\n「よしてくれ。こうみえても、おれたちのしている仕事は、そんなものたあものが違うんだ」\n「へえ......。では、誰ので」\n「謹んで聞けよ。楠木正成公の碑だ。見ろ、あの小屋にさえ、注連縄を張って、おれたちは、精進潔斎してやっているんだ」\n「楠木? ......なんていうひとですって」\n「正成公。正成公を、知らないのか」\n「聞いたことがありません」\n「あいそが尽きるなあ」\n「どこのお方で」\n「ばか野郎、この湊川で討死をなすった正成公を知らねえようなやつと、口をきくのも勿体ねえや」\n 為は、唾をするように、そっぽを向いたが、そこにも、うす汚い浪人者と、旅商人と、この辺の船持旦那らしい男と女と、怪訝な顔して、聞いていた。\n「ねえ、ご浪人、おまえさん侍だから、よくご存知だろう。このあんぽんたんに、はなしてやっておくんなさい」\n「なにをじゃ」\n「正成公のことを」\n「知らんて、......身ども、いっこうに、左様な人物のことは弁えん。幼少の折かなんぞに、寺の和尚が物語るのを聞いたことはあるが」\n その尾について、船持旦那が、" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 七日は過ぎたが、危険の最中である。今までどこに潜んでいたのか、縞の着物に股引き腹掛け、頭髪も変えて、ちょいと前のめりに麻裏を突っかけて、歩こうかという、すっかり職人姿の舞台に付いているこの喬之助である。\n 黒門町の家で壁辰を待って、すぱり、すぱりと煙草の輪を吹き上げている。\n 大通りに、木遣りの声が流れて来た。\n\n 人情杉板挾\n\n 一\n\n 下谷長者町に、筆屋幸兵衛という、筆紙商の老舗がある。千代田城のお書役御書院番部屋に筆紙墨類を入れている、名代の大店だ。今度隣りに地所を買って建前を急ぎ、このたび落成したので、壁一切を請負った関係上、黒門町の壁辰も、二、三の弟子を連れて、きょうの棟上げに顔を出している。\n ちょうど七草の日だ。\n これこそ日本晴れという天気であろう。紺いろの空に、鳶が一羽、悠々と輪をえがいて、気のせいか、道ゆく人の袂をなぶる風にも、初春らしい陽のうごきが見られる。女の廻礼は七日過ぎてからとなっている。町家の内儀や娘らしいのがそれぞれに着飾って、萠黄の風呂敷包などを首から下げた丁稚を供に伴れて三々伍々町を歩いている。長閑な景色だ。\n 七草なずな、唐土の鳥が――の唄に合わせて、とことん! とことん! と俎板を叩く音が、吉例により、立ち並ぶ家々のなかから、節面白く陽気に聞えて来ていた。\n 長者町の筆屋の店頭は、さすが町内第一の豪家の棟上げだけあって、往来も出来ないほど、一ぱいの人集りだ。紅白の小さな鏡餅を撒く。小粒を紙にひねったのをまく。慾の皮の突っ張ったのが総出で、それを拾おうというのである。\n 二階の足場に、三宝を抱えて立ち上った出入りの棟梁が、わし掴みに、下を眼がけてバラバラッ! とやるごとに、群集は、押す、蹴る、潜る――果ては、女子供が踏まれて泣き叫ぶ。他町の者の顔が見えるといって喧嘩がはじまる。いやどうも、大変な騒ぎだ。\n 檐には、四寸の角材に、上下に三本ずつ墨黒ぐろと太い線を引いた棒が、うやうやしく立てかけてある。棟上げの縁起物だ。まん中に白紙を巻いてしめ繩を張り、祝儀の水引きが結んである。そのほか、この角材には、色んなものがぶら下っているのだ。まず、鏡、櫛、笄、かもじなど。それに、黒、緑、赤、黄と、四色の木綿片が、初荷の馬の飾りのように、物ものしく垂れさがっている。現代でも、田舎などではどうかすると見かけることがあるが、悠長な江戸時代には、こんなことをばかにやかましく言って、厳重に守ったものだ。\n 裏手はまた職人たちで押すな押すなだ。土間にずらりと祝い酒の鏡を抜いて、柄杓が添えてある。煮締めの大皿、強飯のお櫃が並んでる。下戸には餅だ。飲むは食うは大さわぎで、やがて銘々土産の折りをぶら下げて口々に大旦那の幸兵衛に挨拶しながら帰って行く。\n 広い台所に立って、一々応対をしている六十余りの禿茶瓶が、その筆屋幸兵衛だ。首の廻りに茶色の絹を巻いて、今日だけは奥と台所をいったり来たり、一人で采配を揮ってる。息子の幸吉は、三十近い、色の生っ白い優男である。父親の命令を取り次いで、大勢の下女下男に雑用の下知を下しながら仔猫のように跳び廻っていた。\n「どうも若旦那のお酌は恐れ入りやす。いえもう、遠慮なく頂きやした――おや、これはこれは大旦那様、こん日はおめでとうございます。何ともはや、お盛んなことで――いえね、大した評判でございますぜ。今度の筆屋さんの御普請と来た日にゃアほんとに、追従じゃアございません、へい、三井さんや鴻ノ池さんでも、こう申しちゃア何ですが、あんな豪勢な真似は出来めえ、なアんてね、へっへ、江戸中の職人衆のとり沙汰でございますよ。へい」\n なんかと言うのを、幸兵衛父子は、軽く左右に受け流しながら、それでも、流石に嬉しそうににこにこしている。\n 人混みを潜って、壁辰も幸兵衛に挨拶したのち、酒や餅にそれぞれ喰らいついて離れようともしない弟子達はそのまま残して置いて、ひとり筆屋の店を出た。\n 振舞い酒に好い気持になった連中が、向うから来る廻礼の女なんかをひやかしながら、木遣りの声を張り揚げて流してゆく。\n 明るい日光が街にみなぎって、門松の影がゆらゆらと燃えているように見える。\n きちがい陽気――。\n どこからか外れ飛んで来た羽子が、ヒョイと壁辰の襟首に落ちた。女の児が追っかけて来て噪ぎ立てる。壁辰は、にっこり掴み取って、投げ返した。\n 紺の腹掛け※(ころもへん+昆)襦に粋な滝縞を重ね――苦み走って、いい親方ぶりだ。\n 黒門町。自宅の前。格子を開けようとして覗くと、見慣れない麻裏が一足、かれの帰りを待ち顔に並んでいる。\n\n 二\n\n じろり――茶の間に待っている客を横眼に白眼んで、奥へ通ろうとした。が、その時、ふと壁辰の胸底を走り過ぎたものがあって、彼は、どきりとした。思わず、足が停まった。客は室内、壁辰は茶の間のそとの細廊下――だが、顔が合った。無言である。面と向って、立った。\n 職人風の若い男――神尾喬之助を、壁辰は、どこかで見たような気がしたのだ。見たような顔! 見たような顔!――咄嗟に、眼まぐるしい思案が、壁辰の頭脳を駈けめぐった。と! 思い出した! ぴイン! と来たものがある。そうだ! この元日に西丸御書院番組与頭、戸部近江之介を叩ッ斬って、その生首を御番部屋へ投げ込んで逐電して以来、今まで土中に潜ってでもいたか、頓と姿をくらましていた――神尾喬之助! ううむ、この日頃、きつい御詮議で、詳しい人相書が廻って来ているのだ。\n あの人相書とこの若造!\n 服装かたちこそ変っているが、おれの眼力にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにあるはずはない。そうだ! この奴こそ、いま江戸中の御用の者を煙に巻いている神尾喬之助というお尋ね者に相違はねえのだ――! と、気が付いた途端、一時ははっ! とした壁辰も、ふところ手のまま身構えていた身体をゆるめて、ちょいと、口尻に薄笑いを浮べた。\n 野郎! 百年目だッ! この壁辰が、御用十手を呑んでることを、知って来たか、知らずに来たか――この、蟻一匹逃がさねえ見張りの真ん中へ、しかも、人もあろうに、黒門町の壁辰のところへ面ア出すとは、飛んで火に入る夏の虫てえやつで、いよいよこいつの運の尽きだ――壁辰は、黙ったまま、じイッ! と、焼くように、喬之助の眼を見据えた。\n 壁辰は、左官が本職で、旁々お上の御用もつとめているのである。岡っ引きとして朱総をあずかり、その方でも、いま江戸で、一と言って二と下らない眼利きなのだ。まったく、喬之助はこのことを知ってこの黒門町へ来たのだろうか――それとも、ただの左官職とのみ思って、一時、下塗り奴にでも紛れ込んで八丁堀の眼を誤魔化すために、進んでここへ現れたのであろうか?\n かなり長い間だった。\n だんまりなのである。\n 双方、眼に力を持たせて白眼み合っているのだが――喬之助は?\n と、見ると、娘がひとり留守番をしているところへ上って待っていた、その壁辰が帰宅って来た――のはいいが、一瞥自分を見るより、つと血相を変えて、いま眼前に立ちはだかったまんまだから、脛に傷持つ身、さては! お探ね者の御書院番を見破られたかな?!――と、今、ここで訴人をされて押えられては、この七日間、苦心惨憺、韜晦して来たのが何にもならない。ちょっとでも変に動いたら、隠し持っている九寸五分で、唯一突き――そのまま逃げ出すばかりだ――喬之助は、われ知らず、片膝上げて虚心流居合抜きのかまえ、無言のうちに殺気走って、壁辰の様子に視線を凝らした。\n その、渡り職人らしくない、一分の隙もない喬之助の体配りが、また、壁辰をして、これは確かに武士、武士も武士、大きに腕の立つ武士にきまったと、疑いから確信へ、はっきり思わせたのだった。\n 油断はならぬ! 壁辰は、相手に気取られぬようにそろそろと、内ぶところの手を丼へ入れて、そこに、寝る間も離したことのない十手の柄を、いざとなったら飛び掛る気、朱総を器用に手の甲へ捲き締めて、ぎっしり握った。\n 無言。眼と眼がガッチリ合って、火花を散らしそう――危機を孕んで、今にも激発しそうな沈黙が、一瞬、また二瞬――。\n と!\n 不思議なことが起った。\n 喬之助がニッコリ微笑したのである。\n 江戸一の美女伊豆屋のお園と夫婦になり、お園改め園絵と並んで内裏雛と言われたくらい、そのお園にちっとも見劣りがしないどころか、却って、男だけにきりっとしていて立ち勝って見えるほどの名打ての美男だ。この名打ての美男が、気を張り詰めてポウッと上気していたところへ、何を思ったか、急にニッコリ白い歯並を覗かせたのだから、女なら傾国の一笑というやつ――壁辰、訳もなく釣り込まれて、こっちも、にっと笑ってしまった。\n もっとも、壁辰のほうは、ふだんから白眼み一方で、あんまり愛嬌のある笑いなんか持ち合わせていない。色の黒いやつが笑ったんだから、まるで炭団が転んで崩れたよう――喬之助の焉然に対して、壁辰のは――さア、何というのか。\n ま、そんなことは余計だ。\n「や! おいでなせえ。生憎家をあけて――長くお待ちになったかね」\n 親分らしく、ゆったりして、壁辰が言った。" }, { "role": "assistant", "content": "「いえ。あっしも、ただいま上りましたばかりで、ちょいと親方にお眼にかかって、お頼みしてえことがありやして、へえ」\n どこで覚えたか、喬之助は、もう言葉つきまですっかり職人になりきっている。有名な左官の名人、壁辰親分のまえだ。こちとらのような駈出しは、口を利くせえかっちけねえ――という意で、心得たもの、固くなって恐縮している。\n「ああ、そうかい」と、壁辰もすまして、「よく来なすった。何の用か知らねえが、ま、ゆっくり聞くとしよう――ちょっくら待って下せえ」\n 山雨は横にそれた。のんびりした応対である。台風一過、喬之助はしずかに頭を下げた。壁辰も、ニコニコしてそこの茶の間の前を通り、台所へ這入ったのだが! するすると背後手に境いの板戸を閉め切ると同時に、壁辰、顔いろを変えて、あわて出した。\n 台所の板の間に、娘のお妙がしょんぼり立っているのを見ると、かれは、声を潜めて呼んだ。\n「しッ! お妙! 自身番へ――自身番へ! 裏から、密と出るんだぞ――音がしねえように、跣足で行けよ――」\n\n 三\n\n そして、同時に、茶の間の喬之助へ大声に話しかけた。......\n「いいお正月じゃアねえか。なあ、お前さん、どこから来なすった――やはり、関東のお人のようだね」\n と、直ぐまた声を低めて、娘のお妙へ、\n「いいか、急いで自身番へ行ってナ、うちにこれから捕物がありますからって、町内五人組の方に来て貰うんだ――すこし手強いから、腕ッ節のつよいやつを纏めてくるように――」\n「あの、お捕物――?」\n さッ! と顔色を更えたお妙は、二、三歩、泳ぐようにうしろによろめいて、鈴を張ったような眼で父親の顔を見上げた。急には口も利けないほど、打たれたような驚愕だった。\n「では、アノ。あの、若いお客様が、何か――何か――悪いことでもなすったのでございますか?」\n「まあ、いい。手前の口を出すことじゃねえのだ。汝あただ、言われたとおり、こっそりこの裏ぐちから忍び出てナ、自身番へ駈けつけて――」\n と、言いかけた時に、こっちは、台所から話しかけられた喬之助である。壁辰は、水でも呑みに台所へ行ったのだろう――と思っているところへ、先刻の、\n「お前さんもやはり関東かね、どこから来なすった?」\n というのが聞えたから、咄嗟である。嘘も出ない。魔誤魔誤して、\n「へ? わっしですかい。へえ、やはり、その、その、関東でございます。はい、関東でございます――関東は、関東は、ええと、調布のはしで、へえ」\n うまく、スラスラと出鱈目を言った。\n それが、お妙にコソコソ私語いている壁辰へ聞えてくる。壁辰は、早くいけッ! とお妙を白眼みつけて急き立てながら、感づかれないように、喬之助のほうとも、言葉を合わせなければならない。\n「おお、関東かい。そうだろうと思った。左官のほうじゃあ、大阪土の砂ずりなアンてことを言ってネ。左官も、大阪のほうがいいようなことをいう向きもあるが――」と、再びお妙へ、「な、何を愚図愚図してるんだ! おれがこうして、さり気なく話の撥を合わして足停めしておくあいだに、すっかりこの家の廻りにも手配をしなけりゃあならねえんだ。いけったら行けッ! は、早くしろ――」また大声に茶の間の方へ、「だが、何と言っても、職人は関東さね。江戸一円の、こう、気の荒っぽいやつに限らあね。土台、仕上げが違う――何をしてるッ! 早く行かねえかッ!」\n「え? わっしですか。わっしがどこかへ行くんですか――」\n「ウンニャ、お前、おめえさんじゃアねえ。ははははは、ちょっと当方に話があるんだが――だからよ、大工でも建具でも、何でもそうだが、職人てものは気性でね、ことに左官なんて、濡れ物を扱う職は、気性一つなんだ――」低声でお妙に、「てめえどうしても自身番へ行かねえと言うのか」\n「あのお客さんが何をしたというのでございます? お父つぁん、どうか訳をお話なすって――」\n「べら棒めッ! そ、そんなこと、ここでくどくど言っていられるけえ! 女子供の知ったことじゃアねえんだ。さっさと自身番へ――」\n「いいえ! わたしは聞きたい!」\n お妙は、急に儼然とした口調になった。\n「一たいあの若いお人は、どこの何という人で、何をしたのでございます?」\n「何でもいい。お上のお尋ね者なんだ。だからヨ、だから父の言うことを聞いて、一時も早く五人組を呼んでここらを固めさせ、おいらが不意に面を引っ剥いでひっ縛ろうてんだ。な、わかったか。解ったらさ――」\n「いいえ! わかりません!」\n「お妙、てめえ今日はどうしたというんだ!」\n「親分さん!」茶の間から喬之助の声が聞えた。「何かお取込みのようですが、御迷惑なら、あっしはまた出直して来てもいいのでごぜえます」\n「なあにネ、ちょいとこいつに、使いに行けと言いつけているところなんで、直ぐそっちへ行くから」\n すると、この時、何を思ったか、娘のお妙が大声を張り揚げて言ったのだった。\n「お父つぁんは、あたしに、お前さまのことで自身番に訴え出ろと言って、肯かないのでございます」\n「これッ! 何を言う!」\n 壁辰は、猿臂を伸ばして、娘の口をふさごうとした。お妙はよろめいた。ガタガタッ! と棚へぶつかって、皿小鉢が落ち散った。\n しイん――と静寂。\n 茶の間では、すッくと起ち上った喬之助が、手早く帯を締め直している。いつの間に抜き放ったのか、冷々たる九寸五分を口にくわえて。\n お妙は、父親の手を振りほどこうと、必死に踠いた。\n\n 四\n\n もう仕方がない。\n 客の男に知れてしまえば、これまでだ。真っ正面からぶつかって、手捕りにしてくれようと、壁辰はお妙を離して、閉め切ってある台所の板戸に手をかけた。\n 茶の間のほうはひっそりしている。\n 出て行った気配もないが――思い切って、開けて躍り出ようとして、壁辰は手を引っこめた。待てよ!――と思うのである。\n 待てよ! 日もあろうに元日に、たといどんな理由があったにしろ、殿中である、その殿中で、ああ鮮かに上役の首を刎ね、そいつを窓から抛り込んで、自分は今日まで雲隠れしていた程の豪の者である。虫も殺さねえような、あんな面をしているが、いざとなったらどんなに暴れて、そのうえ、物の見事にずらかるかも知れねえのだ。おれだって、十手をさばかせては、腕に覚えのねえこともねえが、若しヒョッとして器用に逃げられでもしようもんなら、この黒門町の名折れになる。これあ下手に、この台所の戸を開けて出るわけにはいかねえぞ!――と考えたから、尚もかれは、じイと耳を凝らして茶の間の様子を窺うと――。" } ]
[ { "role": "system", "content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。" }, { "role": "user", "content": " 一定の世界観は世界に対する一定の主張を持っている。この主張は全く伝説的な情緒だけに依る場合もあろうし、多少とも分析的な又実験による反省を経た上での予期を持つ処の半ば思惟的な情緒による場合もあろう。併し要するに世界観は直観なのだから情緒的な根拠以上のものをまだ示すことが出来ない。処が又如何に情緒以上の根拠は無いと云っても、何の根拠も持たない情緒はあり得ない。伝説や伝統もその神秘的な被覆の下に、或る条件での合理的な核心を蔵しているが、そのように、情緒は直覚的な形式の下に或る条件での論理的な核心を宿している。だから世界観の有つ一定の主張は、その情緒的な外被の下に示された或る段階の論理的な真髄――客観的世界の存在に関わる――を内容とするものなのである。\n 芸術ならば世界観のこの論理的真髄を、無論、学的な方法によって取り出そうとはしない。芸術は世界観が示す世界のリアリティーの論理的内容を、論理構造として取り出す代りに、部分的にではあるが併し再び或る世界直観的なものに切り換えて示そうとする。初めの総括的な世界観を、部分的な――一定のテーマの下に具体化された――世界観(文学者は之を「世界」と呼んでいるが)に集約する処に、創作方法が成立するのである。科学乃至哲学に於ては、之に反して、世界観の一定の主張が示す客観的世界の論理的内容を、そのまま併し更に一層、論理的な構造として取り出さなければならぬ。そこに学的方法が成立するのである。\n 弁証法的唯物論という今日最も進歩した又最も進歩的な世界観は、文学にとっても科学乃至哲学にとっても、一応同じ一つのものでなくてはならぬ。ただこの世界観の真理内容の取り出し方に、芸術的方法(例えば創作方法)と学的方法との分岐があるので、之が取りも直さず科学(乃至哲学)と文学(乃至芸術)との区別と平行関係とを示している。\n さてこうして学的方法は世界観の真理内容を、論理的核心を、非合理的な外観から自由にし純粋にする。だから方法はすでにこれだけでも世界観の変化もしくは改造を結果するわけだが、それだけではなく、一旦方法が確立されれば従来取り上げ残されていた経験は初めて組織的に取り上げられるし、又これまで経験されなかった経験が或る一定の見透しの下に迅速に吸収される。こうして一定の経験の蓄積は同時にその再蓄積の条件となり、蓄積がこうやって量的に増大すれば、おのずからその増大率そのものを増大するようにオーダーが高まって来て、単位が上昇し、ただの経験は原則にまで高まって来る。その結果は、単に一定の世界観が変化したり改造されたりするに止まらず、世界観の質が交替せざるを得なくなる。即ち一定の世界観が別な世界観になるのである。ここに初めて世界観の歴史的移行が成り立つわけで、今の場合それを歴史的に齎すものが即ち学的方法に他ならない。\n 方法機関の先端は「論理学」又は「論理」であるが、論理学又は論理の機能は、一定の世界観の合理的内容を定着させる方向の下に、人間の経験の歴史を要約することであり、それと同時に又人間の経験の今後の歴史を計画的に前進させることによって、世界観の変革を持ち来たすことにある。一定の世界観は最初にそれに適応した一定の方法=論理を産み出すが、その方法=論理の科学的な機能は、方法=論理自身を発展させることによって、逆にこの発展した方法に対応する新しい世界観を造り出す。この意味で「世界観」と方法とは交互関係に立つ。\n だから世界観が単にその合理的内容・一定の予期や主張を持つと考えられる限り、夫は全く直観に止まっているのだから世界観の名こそ相応わしい。だが、その内容が方法的に定着され又は発展せしめられるという側面から云えば、もはや世界観という直観状態はなくてそこには方法乃至論理しか見当らない。だが、こうした学的方法の内容が参与して結果する凝集物は、一般的に云って再び、世界観(但し新しい)なのである。\n\n だが一概に方法と云っても諸科学が異るに従って、又科学と哲学とが異るに応じても、決して簡単に同じものではない。だから或る科学の方法だけによって、新しい世界観が生まれるとは限らない。自然科学特に物理学がどれ程その方法の上で発達しても、それによって社会観が新しくなるというようなことは十五六世紀の頃はとにかく今日ではもはや望めないことだ。で、一般に方法のお蔭で新しい世界観が生まれると云うためには、その方法とは、諸科学に於ける諸方法の抽象的な平均水準のことである他ないだろう。併しそういう抽象的な方法も架空なものではなくて、大体、哲学に於ける方法(実は哲学とは方法論=論理学に他ならないのだが)が、この抽象的な平均水準の実物に相当する。\n 或る特殊の科学の方法だけを問題にする時には、そうした方法によって結果する処の、新しい世界観に相当するものは、実は充全な世界観ではなくて、部分的な又は輪郭的な世界観でしかない。例えばエネルギー不滅法則とか進化論とか細胞理論だとか、新しくは相対性理論による宇宙論だとか、量子力学による原子構造の理論であるとかが夫で、なる程どれも新しい世界観全体に対して決定的な影響を与えたものを選んだわけだが、そうであるからと云ってそれが独りで一般的な世界観そのものを決めることは出来ない。こうした部分的又は輪郭的世界観を、或る場合には世間では「世界像」と呼んでいる。物理学的世界像がその例になるのだが、進化論も元来そういう性質を持っていただろう。世界像は、一定の或る程度にまで証明された確かな積極的な存在の姿を示すことが出来るだけに、一般的な世界観(それは実は可なり抽象的な予期をしか内容としていない)に較べて、遙かに狭く限定された存在の一角をしか直観否寧ろ概念せしめることが出来ない。\n 処で世界像が世界観として不充分な点は、却って世界像の長処でもあるということを注意しよう。と云うのは世界像とは世界に就いて結ばれた一定の客体の意味で、一つの緊密な組織物なのだが、そんなに緊密な組織内容を持つものは世界の直観としての世界観の名には相応わしくないわけだろう。世界像とは実は体系を可視的に譬喩したものに他ならない。そして一定の科学の方法も、他ではない、こうした体系を組織するための方法に過ぎなかったわけである。\n だから世界像――体系――方法は一連のもので、一定の科学の構造を云い表わしているものに他ならない。そしてこうした一連の三者が、科学の名の下に一般的な世界観に対立して来るのである。もし今、特定に限定された世界像の代りに、一般的な世界観をこの一連の図式の内で置き替えるなら、世界観――体系――方法という図式になるが、これは或る意味での哲学の構造を示すものに他ならぬ。先に世界観は体系乃至組織を有たぬと云ったが、哲学自身が世界観だとも考えられる特殊事情に基けば、哲学の場合、世界観は哲学体系自身と可なり近づけられる。その代りそうした哲学乃至哲学体系(これは事実可なりルーズな哲学概念なのだが)に対立するだろう世界観なるものは、もはやどこにもなくなるわけである。\n\n これだけ云っておいて、自然科学(方法――体系――世界像)と世界観との特殊な考察に這入ろう。これは又自然科学に於て世界観と方法とがどういう関係に立つかという問題に他ならない。\n まず一等初めに世界があり、次にこれの感性的・直覚的・な把握として世界観があり、最後にこの世界観を定着し又発展せしめるものの一つとして自然科学乃至自然科学的方法が生じる。この秩序は動かすことが出来ない(但しこの秩序の上で、世界観と自然科学的――一般に科学的――方法との間に相互決定の関係があるということは既に指摘しておいた)。処で自然科学的方法はどういう要素から成り立っているか。" }, { "role": "assistant", "content": " 第一の要素は範疇又は範疇組織である(範疇組織は論理乃至論理学と呼ばれる)。自然科学は続いて述べるだろうように、色々の方法手段を用いる。だが人間の一切の思考や感動や行動がそうなのだが、自然科学的考察や研究に於ても、いつも何かの諸概念を手段として用いなければ一歩も進むことは出来ない。普通の諸概念は割合任意なもので、それだけ浮動性を有ったものであることが事実だが、概念の内でも根本的なものになると、夫は比較的定着されたものであり、従って又普遍的な通用性を有ったものになる。だから又本当に節度ある発展が出来る概念は、こうした客観性を持った根本概念の他にはない。この根本概念が即ち範疇なのだが、而も範疇は一つずつでは何の客観性を有つものでもない。範疇のノッピキならぬ客観性は範疇組織=範疇体系の内で各範疇が占める抜き差しならぬ部署又は位置から来る。で、こうした範疇組織を用いて一般に吾々は思考し感動し又行動するのであるが、その内で、自然科学にとっては自然科学特有の範疇組織が歴史的に与えられている。例えばエーテルという範疇は物理学的範疇組織の上で嘗て必要になったものであるが、やがて物理学的範疇組織の発展の結果、不用に帰しつつある根本概念である。そしてこうした範疇組織の最も包括的な最後の体系が論理乃至論理学に他ならない。理論と呼ばれるものが成り立つ場面はここにあるのである。\n 自然科学的方法の第二の要素は実験である。物理学的範疇体系は無論物理学に固有であって他の科学に対してそのままでは必ずしも方法的に役立たないが(但し、だからと云って他の科学の範疇体系から独立したものではない、もし孤立したものならば最後の統一としての論理にぞくすることは出来ない筈だから)、一般に範疇体系なるものが方法の第一要素だという点は、他のどの科学に就いても少しも変る処はない。処が実験になると世間では之を自然科学に特有な操作手段だと考えているようである。併しその場合人々は、実は初めから自然科学的実験だけを実験だと決めてかかっているのであって、即ち実験という概念を自然科学的実験によって限定しているのであって、そうすれば実験が自然科学に特有なものだということはタウトロギーに過ぎなくなる。実は実験という概念はもっと広範なもので、人によっては社会科学的実験という手段も考えられるとしている位いで、偶々その特殊な場合が所謂「実験」としての自然科学的実験に他ならない。だがとに角自然科学的実験は、丁度自然科学的範疇組織が一般の範疇組織から区別されるように、一般の実験からは区別されている(この区別を今明らかにする余裕がない)。これが自然科学的方法の第二の要素になる所以なのである。\n 第三の要素は自然科学に於ける数学的操作又は数学の適用である。数学の操作を適用することも亦併し、決して自然科学だけの特権ではない。その最もいい証拠は数理経済学を見れば好いだろう。だが自然科学(特に物理学)に於ける数学の適用は、少なくとも他の諸科学の場合に較べて、著しく発達しているという事実に注目しなければならないのである。自然科学に対して適用される数学は、極めて少ない例外(例えば整数論)などを除いては、殆んど凡ゆる種類に渡っている。どう役立つかも判らずに出来上った数学もいつか役に立つ日が来るだろうと予想することが出来る。こうした数学の自由な適用は、単に量の上の区別ではなくて、自然科学に於ける数学適用の特質を物語るものと云って好いだろう。\n 自然科学(一般に科学そのものさえ)の方法を、フランシス・ベーコンは実験の中に見出したが、之に反して現代の物理学者の多くのものは之を数学の適用の中に見出す(例えば新カント派の或る者やアインシュタイン達)。だがいずれの場合にしても、範疇組織が最も根本的な科学的方法であることを忘れてはならない。この点を忘れると、近代科学の諸原理の独特な発達振りが説明出来なくなるのだが、そうでなくて無理に之を説明しようとすると、数学が客観的実在に対する対応関係の説明を断念する他はなくなるだろう。実験が客観的世界に対する直接な取り引きの歴史の組織的な展開であるのは云うまでもなく、範疇組織も亦客観的世界を反映すべく置き換えた歴史的な結論にすぎない。数学もこの点では変りはないので、客観的世界の諸関係を経験から又は経験を通じての予断によって抽象した範型の理論が数学だと云って好いだろう。数学の形象自身には何等の物理的意味又は論理的意味さえないという数学的形式主義者の主張は無意味ではないが、そういう数学が実は最も有力な物理学的手段となりつつあるのが事実である(「ヒルベルト空間」の如き)。\n 今もしこうした自然科学的方法(範疇組織・実験・数学の適用)が客観的世界と無関係なものであるなら、之によって世界が認識出来るということは極めて偶然で神秘的なことにならねばならぬが、そればかりではなく、こうした方法が(前に述べた)世界観と相互決定の関係に置かれているという一般関係も亦、甚だ偶然で神秘的なことになるだろう。併し実は、科学的方法は客観的世界に初めから対応したものなのであって、この対応は今更吾々が指摘するまでもなく、方法が世界観から生まれたという認識の歴史(それをすでに述べておいたが)が説明しているだろう。世界に関して世界観が成立し、世界観から科学的方法が発生して来たのであった。\n\n さて処で、問題は世界観と自然科学的方法との関係、その相互決定の関係であった。\n 総括して云えば世界観は自然科学的方法の例の三つの要素のいずれをも決定すると共に、又三つのもののどれもが次の高次の世界観を決定する。併し三つの方法要素はこの関係に於て、決して同じ位置関係にあるものではない。\n 方法要素の内で、優れて世界観の側を決定する点を注意されるべきものは自然科学的実験である。同じく自然科学の実験と云っても色々の段階があるのだが、最も原始的な要素的な段階での実験は、要するに人間的経験が多少とも歴史的に組織化されたものに他ならない。高い段階の物理学的実験などになれば、数学的操作や最後には範疇論(論理学)的陶冶を経た理論の、地盤となり又検証場面となることがその重大な役割だが、そこまで行かなくても、感性的な人間活動である経験が、多少とも意識的に取り行なわれるようになれば、本来の実験の意味を有って来る。実験は要するに経験の或る種の延長に過ぎない。\n 処で世界観とは、その原始型を取って見れば、世界に関する人間の感性的な生活経験の総括の他ではなかった。で、原始的な段階での実験という方法要素は、同じく原始的な段階に於ける世界観を規定するものだと云うことが出来る。そしてこの関係は、同様に、高次の実験と高次の世界観との関係に押し及ぼされていいだろう。実際、人間の認識の歴史に於て、世界観を根本的に変革し得た唯一の武器は、実験にあったことを忘れてはならぬ。ルネサンスはその意味で、思想史のコースに於ける最大のカーブであった*。\n\n* 研究方法として実験に着眼した始めは十三世紀に溯る。Dietrich von Freiberg (1250-1310)、Petrus Maricourt(-1269-)、Roger Bacon (1210-1294) 等がその先駆者で、ダ・ヴィンチ、フランシス・ベーコン、ガリレイ等は之に続くのである(H. Dingler, Das Experiment, 1928. 参照)。\n\n\n 逆に世界観が実験の形態や内容や動機を決定する側は、あまり著しくはない。但しそれとても決して無視することは出来ない。例えばガリレイが実験によって落下法則を出したと云われているのは、今日ではピサの斜塔の場合と共に一つの伝説で、寧ろ彼は、Dominicus Soto 等が懐いていた反アリストテレス的思想――如何なるものも同じ速度で落ちるという世界観――から、その実験を企てる気になったという点が注意されている。" } ]