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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。\n なおこの事に関する我輩の考証は、先頃帝国学士院に提出し、「帝国学士院第一部論文集」第一号として出版されているが、それらは余り細かい事に渉っているから、今はその大筋だけを話して置くのである。\n\n\n九六 梅博士は真の弁慶\n\n\n 民法起草委員の一人であった梅謙次郎博士は、非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人であった。同君は法文を起草するにも非常に迅速であったが、起草委員会において、三人がその原案を議するときには、極めて虚心で、他の批評を容れることいわゆる「流るるが如く」で、即座に筆を執って原稿を書き直したものであった。しかるに原案が一たび起草委員会で定まり、委員総会に提出せられると、同君はその雄健なる弁舌をもってこれに対する攻撃を反駁し、修正に対しても、一々これを弁解して、あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては、余り剛情であると思い、同じ原案者なる我々から譲歩を勧めたこともあった。同君の弁論の達者なことは、法典調査会の始めの主査委員会二十回および総会百回に、同君の発言総数が、三千八百五十二回に上っている一事でも分る。\n 或時、委員の一人にて、これも鋭利なる論弁家であった東京控訴院長長谷川喬君が、総会の席上で原案の理由なきことを滔々と論じていると、梅君はその席から「大いに理由がある」と叫んだ。すると長谷川君は梅君の方を振向いて、「君に言わせると何でも理由がある」と反撃した。これは素より心易い間の戯ではあるけれども、これに依って、如何に梅君の弁論が達者であって、且つ原案の維持に努められたかの一斑を知ることが出来よう。\n 富井博士の起草委員ぶりはまるで梅君と反対であった。沈思熟考の上起草された原案は、起草委員会において他の二人が如何に反対しても容易に屈することなく、極力原案の維持に努めて、中には或る重要な規定について、数日間討論を行うた末、議竟に合わず、よって富井君一個の案として総会に提出して、その案が総会で採用されたことなどもあった。かくの如く、富井君は起草委員会においては極力原案の維持に努められたけれども、起草委員の原案が一たび総会に提出されると、同君はその心を空うして委員全体の批評を待ち、反対論を容るるには毫も吝ならずというが如き態度であった。\n かくの如く二君の態度の互に相反するもののあったのも、各々一理あることである。いやしくも起草委員会において慎重に取調べて案を定め、最も適当なりと信じて提出した以上は、あくまでこれを維持して所信を貫こうと努めるのは当然の事で、これに依って総会の議事も精密になり、自然利害得失の考究も細かになる訳であるから、一歩も譲らず原案を死守するというのも至極尤である。また起草委員会はその原案を作るところであるから、各自が充分にその所信を主張してこれを固執するは当然のことであるけれども、一たびその原案を委員全体の審査に付した以上は、一個の主張は衆議の参考に資するに過ぎぬものにて、法案は畢竟委員全体の意見に依って定まるものであるから、個人責任で定まる起草の際にはあくまで自説を固執するけれども、共同責任なる総会議事においては、なるべく衆議に従わんとするも、また素より道理至極である。\n 我輩はある時委員の某博士に、「梅君は委員総会では非常に強いが、起草委員会では誠にやさしい。「内弁慶」ということがあるが、梅君は「外弁慶」である」と言うたら、同博士は「それが本当の弁慶である」と答えられた。\n\n\n九七 法典実施延期戦\n\n\n一 法典争議\n\n 明治二十三年および明治二十五年の両度において、我邦の法律家の間に法典の実施断行と延期とについて激烈なる論戦があった。この論争は、我邦の立法史上および法学史上頗る意味の深い事柄であるから、ここにその梗概を話して置こうと思う。\n この論争というは、商法民法両法典の実施断行の可否に関する争議であった。即ち明治二十三年三月二十七日に公布せられて、その翌二十四年一月一日より施行せらるべきはずの商法と、および明治二十三年三月二十七日および同年十月六日の両度に公布せられて、明治二十六年一月一日より施行せらるべきはずの民法とには、重大な欠点があるから、その実施を延期してこれを改修しなければならぬとの説と、これに対して、両法典は論者の言う如き欠点の存するものでないのみならず、予定期日においてその実施を断行するは当時の急務であるという説との論争であった。\n 右の争議に関しては、後ちに述べる如く、当時イギリス法律を学んだ者は概ねみな延期派に属し、フランス法律を学んだ者は概ねみな断行派に属しておったから、この延期戦の真相を説明するためには、予め商法民法編纂の経過と、当時我邦における法学教育の状況とについて一言する必要がある。\n\n二 民法商法の編纂\n\n 明治維新の後ち、政府は諸般の改革を行うと同時に、鋭意諸法典の制定に着手した。これは素より維新以後における政事上の改革および国情民俗の急激なる変遷に伴うためと、古来区々一定せざる諸藩の旧法および各地方の慣習を統一するの必要などに促されたためではあるが、就中その成功を急いだのは、在来の条約を改正して一日も早く治外法権を撤去したいというのは、当時一般の熱望するところであったが、この条約改正を行うには、法典を制定するという事が、その条件の一つとなっていたからである。\n 民法の編纂は、明治三年太政官に制度取調局を置き、先ず箕作麟祥博士に命じてフランス民法を翻訳せしめたのがその端緒であって、明治八年民法編纂委員を命じて民法を編纂せしめ、十一年四月にはその草案を脱稿したが、これは殆んどフランス民法の敷写のようなものであったということである。この後ち明治十二年に至り、政府は更に仏人ボアソナード教授に命じて民法草案を起稿せしめたが、明治二十三年に公布せられた民法の大部分は、実に同氏の起草になったものである。\n 商法の編纂は、明治十四年太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロェースレル博士に商法草案の起草を命じた。該草案は二年を経て脱稿し、その後ち取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、明治二十三年三月二十七日に御裁可があり、翌二十四年一月一日より施行せられることとなったのである。\n\n三 法律学派\n\n また当時我邦における法学教育の有様はどうであったかと言うと、明治五年に始めて司法省の明法寮に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めであるが、これに次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治七年からイギリス法の教授を始めることとなった。これがそもそも我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治十七年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治十九年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。故に前に挙げた法典の発布された時分には、司法省の学校を卒業したフランス法学者と、大学を卒業したイギリス法学者とが多数あったが、民間にもまた一方にはイギリス法律を主とする東京法学院(今の中央大学の前身)、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校(今の明治大学の前身)、和仏法律学校(今の法政大学の前身)等があって、互に対峙して各多数の卒業生を出しておった。\n 当時の法学教育はかくの如き有様であって、帝国大学の法科大学には英、仏、独の三科があり、私立学校には英法に東京法学院、東京専門学校あり、仏法に明治法律学校、和仏法律学校あり、ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから、あたかも延期問題の生じた時分には、我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。\n\n四 延期戦の起因"
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"role": "assistant",
"content": "\n かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に八箇月にして、法律に慣れざる我商業者に対してこれを実施しようとしたのであるから、これについて一騒動の起るのは固より当然の事であった。\n 政府が憲法の実施、帝国議会の開会を目の前に控えながら、これを待たずして倉皇二大法典を発布したのは、聊か憲法実施の始より帝国議会を軽視したる如き嫌いがないでもないが、その実は法典編纂が治外法権撤去の条件となっておったので、もしこれを帝国議会の議に附したなら、非常に隙取る恐れがあったからである。\n しかるに第一帝国議会は、民法商法の発布せられた年の十一月に開会せられ、商法の実施期は、その後ち僅に一箇月の近くに迫っていたから、この法典を実施すべきや、将た延期すべきやは第一帝国議会の劈頭第一の大問題となった。これより先き、大学の卒業生よりなる法学士会は、政府が法典の編纂を急ぎ、民法商法は帝国議会の開会前に発布せらるべしとの事を聞いて、明治二十二年春期の総会において、全会一致をもって、法典編纂に関する意見書を発表し、且つ同会の意見を内閣諸大臣および枢密院議長に開陳することを議決した。その意見書には法典の速成急施の非を痛論してあったが、これが導火線となって、当時の法律家間には、法典の発布、実施の可否が盛んに論争せられた。英仏両派の論陣はその旗幟甚だ鮮明で、イギリス法学者は殆んど皆な延期論を主張し、これに対してフランス法学者は殆んど皆な断行論であった。ただ独り富井・木下の両博士がフランス派でありながら、超然延期論を唱えられておったのが異彩を放っておった位である。我輩が「法典論」を著わしたのも当時の事で、法学士会の意見書の全文も同書に載せて置いた。\n\n五 商法延期戦\n\n かくの如く法典発布の前より既に論争が始まっておったのであるが、法典は竟に発布せられ、且つその施行期日も切迫して来たことであるから、英法派は、第一帝国議会において、極力その実施を阻止せんとし、商法の施行期限を明治二十六年一月一日、即ち民法の施行期日まで延期するという法律案を衆議院に提出することとなった。これ実に法典実施延期論の開戦であって、英法派は法学院を根拠として戦備を整え、仏法派は明治法律学校を根拠として陣容を整え、双方とも両院議員の勧誘に全力をつくし、或は意見書を送付し、或は訪問勧説を行い、或は商工会その他の実業団体より請願書を出さしめなどした。そして、一方政府側においてもまた極力断行派の運動を助け、また新聞紙も、社説、雑報などにおいて各々その左袒する説に応援し、なおまた双方の法律家は各所に演説会を開いて声援をなすなど、敵味方の作戦おさおさ怠りなかったが、いよいよ十二月十五日の議案に上る前夜に至っては、双方激昂の余り、中には議員に対して脅迫がましき書状を送った者さえもあったとの事である。衆議院では、延期法案の議事は十二月十五、十六の両日にわたったが、延期派の英法学者では元田肇君、岡山兼吉君、大谷木備一郎君等の法学院派、その他関直彦君、末松謙澄君等が発議者の重なる者であった。断行派の仏法学者では井上正一君、宮城浩蔵君、末松三郎君等が最も有力なる論者であった。かくて両軍衆議院の戦場で鎬を削った結果は、延期説賛成者百八十九に対する断行説賛成者六十七で、とうとう延期派の大勝に帰した。\n 衆議院で可決した商法施行延期法案は貴族院に回付されて、十二月二十日に同院の議に附せられ、当時我輩も加藤弘之博士等とともに延期論者中に加わったが、同院においても激論二日間にわたった末、延期説賛成者百四に対する断行説賛成者六十二で、これもまた延期派の大勝に帰してしまった。かくて、同年法律第百八号をもって商法の施行期限を明治二十六年一月一日即ち民法施行と同期日まで延ばすこととなったのである。\n\n六 民法延期戦\n\n 既成法典の施行延期戦は、商法については延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期日と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を俟ち、捲土重来して会稽の恥を雪ごうと期したのは尤も至極の事である。また延期派においては、既にその第一戦において勝利を占めたことであるから、この勢に乗じて民法の施行をも延期し、ことごとく既成法典を廃して、新たに民法および商法を編纂せんことを企てた。故にその後は何となく英仏両派の間に殺気立って、「山雨来らんと欲して風楼に満つ」の概があった。果せるかな。明治二十五年の春に至って、江木衷、奥田義人、土方寧、岡村輝彦、穂積八束の諸博士を始め、松野貞一郎君、伊藤悌次君、中橋徳五郎君等法学院派の法律家十一名の名をもって「法典実施延期意見」なるものが発表せられた。右の意見書は、翌年一月一日より施行さるべき民法の実施期日を延べ、徐ろにこれを修正すべしとの趣意であったけれども、その延期の理由として挙げたる七箇条は、民法を根本的に攻撃した随分激烈な文字であったことは、その題目を一見してもこれを知ることが出来る。曰く、\n\n一 新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。\n一 新法典ハ憲法上ノ命令権ヲ減縮ス。\n一 新法典ハ予算ノ原理ニ違フ。\n一 新法典ハ国家思想ヲ欠ク。\n一 新法典ハ社会ノ経済ヲ攪乱ス。\n一 新法典ハ税法ノ根原ヲ変動ス。\n一 新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス。\n\n この宣戦書に対して、明治法律学校派の岸本辰雄、熊野敏三、磯部四郎、本野一郎の諸博士を始め、宮城浩蔵君、杉村虎一君、城数馬君等が発表した「法典実施断行意見」と題するものの論旨および文字は、一層激烈であった。この意見書も延期意見書の如く題目を立てて左の如く言うておる。\n\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱スルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ倫理ノ破頽ヲ来スモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ主権ヲ害シ独立国ノ実ヲ失ハシムルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ憲法ノ実施ヲ害スルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ立法権ヲ抛棄シ之ヲ裁判官ニ委スルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ノ権利ヲシテ全ク保護ヲ受クル能ハザラシムルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ争訟紛乱ヲシテ叢起セシムルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ヲシテ安心立命ノ途ヲ失ハシムルモノナリ。\n一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ経済ヲ攪乱スルモノナリ。\n\n この題目を一瞥して見てもその内容を想像することが出来る。延期論者を呼んで「痴人ナリ」「狂人ナリ」また「国家ヲ賊害スルモノ」といい、その結末に至って、「特リ怪ム、是時ニ当リテ敢テ法典ノ実施ニ反抗セントスル者アルヲ、此輩畢竟不法不理ナル慣習ノ下ニ於テ其奸邪曲策ヲ弄セントスル者ノミ、咄何等ノ猾徒ゾ」と言うておるが如きは、頗る振っている。\n さて、右の二つの意見書が両軍対戦における最初の一斉射撃であって、それより双方負けず劣らず多数の意見書、弁駁書等を発して、これを議員、法律家、その他各方面に配附した。梅謙次郎博士、高木豊三博士等の組織せる明法会の会員や、当時はまだ法科大学フランス部の学生であった若槻礼次郎君、荒井賢太郎君、入江良之君、岡村司君、織田萬君、安達峯一郎君等、あるいはまた東京府下代言人有志者百余名等からも断行意見書が発表され、延期派では当時まだ若手であった花井卓蔵君なども盛んに筆を執って延期論を起草された。当時我輩も、法理上から民法の重なる欠点を簡単に論じたものを延期派の事務所に送って、意見書中の一節とせられんことを請うたが、事務所から「至極尤もではあるが、この際利目が薄いから御気の毒ながら」と言うて戻して来た。なるほど前に挙げた意見書でも分るような激烈な論争駁撃の場合に、法典の法理上の欠点を指摘するなどは、白刃既に交わるの時において孫呉を講ずるようなもので、我ながら迂濶千万であったと思う。要は議員を動かして来るべき議会の論戦において多数を得ることであった。その目的のために大なる利目のあったのは、延期派の穂積八束氏が「法学新報」第五号に掲げた「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文であったが、聞けばこの題目は江木衷博士の意匠に出たものであるとのことである。双方から出た仰山な脅し文句は沢山あったが、右の如く覚えやすくて口調のよい警句は、群衆心理を支配するに偉大なる効力があるものである。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "\n 吉田博士は其舊作『日韓古史斷』第三編に於いて、卑彌呼は「日子」「ひのみこ」の義、姫子にあらずと云ひて、亦本居氏の説に贊成を表せざりき。余輩の考ふる所によれば、卑彌呼とは女王の尊稱にて、其實名にあらず。その義は既に松下氏の説けるが如く、姫尊即 himemikoto の轉訛ならん。漢人は常に外國の名稱の長きを厭ひて之を省略する風あり。故にヒメミコトのメミ(memi)二音の相重なるを略して、單に之をメ(me)とし、又ミコトのトを省きて、卑彌呼と書けるなり。此解釋の正を失はざるは、狗奴國王の名卑彌弓呼の解釋と相待ちて之を悟るべし。卑彌弓呼の名義に就きて、詳細なる説明を與へたるものを『日韓古史斷』となす。同書第三編第二章筑紫の條に曰く\n\n狗奴國は男王あり卑彌弓呼素と曰ふ。後漢書に云ふ、女王國より東、渡海千餘里、狗奴國に至る、皆倭種なりと雖も女王に屬せずと。魏志に云ふ、奴國の南に狗奴國ありと。或は曰ふ、狗奴は河野にして伊豫國なりと、恐らくは當に然るべし〔注略〕。按ずるに伊豫は西南の舊國にして大族あり、河野と云ふ、其の初久努に作る、其の祖子致と云ふ、魏志に謂はゆる官狗古智卑狗と曰ふ者は即子致彦歟。子致又越智と云ふ〔注略〕。而て又王あり卑彌弓呼素と爲すは又日子の稱を冠れり。伊豫國造の皇別に出で〔注略〕、當時來り其の國を鎭めたまへるを謂ふに似たり。又其の名、女王を壹與と曰ひ男王を呼素と云ふは、二國講和して、古俗盟約易名の事をなし、伊豫壹與の稱を女王に附し、襲小襲にや、又「古事記傳」「征韓起源」等に因れば、襲の語源は「ヲソ」より出づといへり、「コ」「ヲ」は古言多く相通せり、或は熊襲の徒魏人に告ぐるに殊に卑めて小襲と呼びしにやの稱を男王に附せしに因る歟。\n\n 吉田博士は狗奴國王の名を卑彌弓呼と云はずして、卑彌弓呼素と讀み、此名の中卑彌弓は卑彌呼と同じく日子の對譯、呼素は襲の音譯なりと見られたり。博士が狗奴國王の名を卑彌弓呼素となししは、倭人傳の文に「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」とある副詞の素を男王名稱の末尾に連結せしめたるが故なり。呼の今音は hu なれば、呼素は hu-so と音し、襲(oso)と音聲相近けれども、同文卑彌呼の名に於いて、呼は正しく ko と響かしたるを見れば、卑彌弓呼の名に於いて、之を(o)と音せしむるは如何にや。菅氏は「漢籍倭人考」に於いて亦此王の名義を説いて曰はく\n\n卑彌弓呼ハ、卑彌呼ニ弓一字ヲ加ヘタルマデナル上ニ、卑彌ハ姫ニテ女子ノ稱ナレバ、男子ニサル名ノアルベクモ思ハレズ、サラバ字ノ誤ハモトヨリナガラ字ノ誤リハヒトリ此ノミナラズ、往々ニアリ狗奴國ノ所在サヘ詳ナラネバ、思ヒヨスベキスベモナシ、サレド試ニイハヾ、卑彌弓呼ハモト卑呼彌呼トアリケンヲ、卑下ノ呼ヲ脱シ、彌偏ヲ誤リテ、再ビ彌ノ下ニ弓ト書シタルモノナラン、卑呼彌呼ハ彦御子ニテ、其ハ開化天皇々子彦坐王ヲ訛リテ申シシナリ。\n\n 余輩の考ふる所によれば、卑彌弓呼は卑弓彌呼の倒置にて、hikomikoto の省略なり。されば卑弓彌呼は卑彌呼と同じく狗奴國王の實名にあらずして、その尊稱なり。『魏志』の文中にも女王卑彌呼に對して、男王卑彌弓呼と記したれば、當時九州の倭人は邪馬臺國王は女子なりしが故に、之を尊稱して卑彌呼即ち姫尊といひ、狗奴國王は男子なりしが故に、之を卑弓彌呼即ち彦尊といひしなり。ヒコ、ヒメのヒはムスコ、ムスメのムスの如く一個の美稱なれば、必ずしも之を日の義に解くべきにあらず。『魏志』倭人傳の中に種々の官名(人名)を擧げたれども、之にミコトの尊稱を附せざるは、何れも一地方の酋長にして、女王或は男王に隷屬する臣下なりしが故なるべく、之に反して倭女王狗奴男王がミコトと稱せられしは、此二王が九州に於ける二大勢力たりし一證と見るべし。\n 太古九州全島が二大國に分裂せしことは、我が開闢史によりても、その形勢を窺ひ得べきが如し。余輩は隼人等が祖先として知られたる火闌降命と其弟彦火火出見尊とが、鉤針の故を以て爭ひし一條の物語を、此二大勢力の爭鬪を神話に化し去りしものと思惟す。蓋し彦火火出見尊は九州北部の勢力を表はし、火闌降命は南部の勢力即ち隼人國を表はししなり。而して弟尊が兄命を苦めて、遂に之を降服せしめたる方法は、一種特別にして、而も地方的性質を帶ぶるものなるが故に、余輩は左に『古事記』の一節を引用すべし。\n\n是以備如海神之教言、與其鉤、故自尓以後、稍愈貧、更起荒心迫來、將攻之時、出鹽盈珠而令溺、其愁請者、出鹽乾珠而救、如此令惚苦之時、稽首白、僕者自今以後、爲汝命之晝夜守護人、而仕奉、故至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也。\n"
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"role": "assistant",
"content": " 九州の西海岸は潮汐滿乾の差甚しきを以て有名なれば、上に記せる鹽盈珠鹽乾珠の傳説は、此自然的現象に原因して起れるものならん。故に神典に見えたる彦火火出見尊と火闌降命との爭鬪は、『魏志』によりて傳はれる倭女王と狗奴男王との爭鬪に類せる政治的状態の反映と見做すべきものなり。\n 『魏志』の記す所によれば、邪馬臺國は本と男子を以て王となししが、其後國中混亂して相攻伐し、遂に一女子を立てて王位に即かしむ。是を卑彌呼となす。此女王登位の年代は詳かならざれども、その始めて魏國に使者を遣はしたるは、景初二年即ち西暦二百三十八年なり。而して正始八年即ち西暦二百四十七年には、女王狗奴國の男王と戰鬪して、其亂中に歿したれば、女王は蓋し後漢の末葉より此時まで九州の北部を統治せしなり。女王死して後國中また亂れしが、其宗女壹與なる一小女を擁立するに及んで國亂定りぬ。卑彌呼の仇敵狗奴國の男王卑弓彌呼は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に傳らざれば、また之を知るに由なし。然れども正始八年に此王は女王卑彌呼と戰つて勝利を得たれば、女王の嗣者壹與の代に及んでも、依然として九州の南部に據りて、暴威を逞しうせしに相違なし。\n 九州に於いて此の如く南北の二大國が對立して、互に雌雄を爭ひし時に方りて、此より以東の國々は果して如何なる状態にてありしか、漢史の方面よりは、其の消息を窺ふに由なし。若しも當時大和の朝廷が九州地方と密接なる關係にてありたらんには、『魏志』倭人傳に之を逸すべき筈なし。然るに傳中に女王國以東に關する事を載する甚だ漠然たるを思へば、當時皇朝の威力は未だ九州地方に及ばざりしなり。那珂氏の「上世年紀考」(『史學雜誌』第八編第一二號)によれば、崇神天皇の崩年戊寅は魏帝曹髦の甘露三年即ち西暦二百五十八年に當り、仲哀天皇の崩年壬戌は晉の穆帝の永和十一年即ち西暦三百五十五年に當る。然れば倭女王卑彌呼及其嗣者壹與は崇神天皇と同時代の人たりしなり。此年紀推定の正確なることは、之によりて日韓の古史がよく解説し得らるるにても證すべし。國史を案ずるに皇化の九州地方に加はりしは、崇神天皇以後にあり。此帝の時四道將軍を四方に派遣せられけるが、その中西道に向ひしは、吉備津彦なり。此將軍は專ら中國を經略せしにて、九州に渡りしとは思はれず。然るに『國造本紀』に此朝に十一國の國造を定め給へるが中に\n\n火國造、瑞籬朝御世、大分國造同祖志貴多奈彦命兒建男祖命定賜國造。\n阿蘇國造、瑞籬朝御世、火國造同祖神八井耳命孫速瓶玉命定賜國造。\n\nと見ゆれば、火國造は肥後國の一部を賜はり、阿蘇國造は肥後國の阿蘇郡を賜はりしに聞ゆれども、崇神天皇の頃九州の北部殊に肥後は卑彌呼女王の本地にして、其沒後に至りても尚ほ壹與の領土なれば、瑞籬朝御世に此處に國造を置かれしこと事實と思はれず。されば那珂氏もこの國造設置に就きては疑を懷かれ\n\n景行紀ニ「吉備津彦遣西道」トアル西道ハ、イヅコマデヲ云ヘルカハ詳ナラネドモ、古事記ニ「大吉備津日子命、與若建吉備津日子命、言向和吉備國」トアリテ、二皇子ノ平ゲ給ヒシハ、今ノ中國ノ地ナレバ、西方ノ經略ハ未ダ筑紫島マデハ及バザルベク思ハルレバ、此ノ二國造ノ事モ、後ヲ前ニメグラシテ、祖先ヲ擧ゲテ云ヘルニハ非ザルカ。\n\nと説かれたるは極めて理なり。然るに其後景行の朝に天皇親ら豐、火、日向、筑紫を巡狩せられ、次で日本武尊をして熊襲を討たしめ給ひ、また此朝の時に葦北國造などをも置かれたりしを以て之を觀れば、九州の北半は是時より漸く王化に沾ひ始めたるなり。成務天皇の時に至りて、九州に筑志、筑志米田、豐、國前、比多、松津、末羅、天草、葛津の國造を定め給ひしこと、『國造本紀』に見えたれば、此天皇の時となりては、往昔卑彌呼の領土たりし處は、悉く大和朝廷の命令を奉ずることとなれりしなり。此の如く景行の朝より成務の朝に亙りて、九州の北部が容易に王化に靡きしは、固より列聖御稜威の然らしむる所なるべしと雖も、而もまた此處に據れる女王國の勢力が衰頽に赴きしこと、その原因たらずんばあらず。而して女王國の衰弱せし原因に二あり。一は此國が卑彌呼女王の時に、南方の敵國狗奴國と戰つて敗北を取りしより以來、其勢力また昔日の如くならざりし事、一は西晉末より五胡中國に侵寇したる結果として、女王國の依頼せし樂浪帶方の二郡滅亡せしこと即ち是なり。若しも此の如き形勢の變動無からんには、如何に景行天皇及日本武尊が勇武にましますも、此く容易に九州の北部を經略平定すること、或は能はざりしならん。九州の北部既に皇朝の命を奉ずるに及んでも、南部の熊襲即ち狗奴國は依然として王師に反抗して、尚ほ獨立の地位を保ちしなり。然れども仲哀神功の代となりては、皇室の威力は東海、北陸、四國、中國及び九州の北半に及びしかば、流石の熊襲も其壓力に堪へずして降服するの已なきに至れり。かくて大八洲國は悉く討平せられて、皇室の隆なること前後に比びなかりしかば、神功皇后は全國の兵力を傾けて三韓を征伐し給へり。而して韓國當時の状態を顧るに、樂浪帶方二郡の滅亡するや、高勾麗北方より南下して其故地を略し、更に進んで三韓を併呑せんず勢なり。是に於いて從來緩慢なりし韓族は、はじめて強固なる國家を組織する必要を感ずると同時に、尚ほその中には東方倭國の應援を得て、自國の獨立を維持せんと圖るものありき。神功皇后の征韓は此大勢に駕せしかば、容易に效果を收めたるものなるべく、必ずしも之を皇國の勢力強大なりしのみに歸すべからず。\n 以上女王國の興亡及其の滅亡が、皇威の發展に好箇の機會を與へたるを敍したれば、再び本論に立ち歸り、卑彌呼女王の人物に就いて、論ずる所あらんとす。已に前にも述べたるが如く、邪馬臺國には元と男王ありしが、其後國中に混亂を生じ、遂に卑彌呼を奉じて王となせり。卑彌呼死して國また亂れしが、十三歳の少女壹與を奉戴するに及んで、國亂遂に定りぬ。此の如く邪馬臺國が二代引き續きて女王を奉戴せしは甚だ奇怪に思はれんが、景行の朝より神功の代に至るまで、九州地方に女酋の多かりしを見れば、邪馬臺國が女王を君主と仰ぎしも、亦怪むに足らざるべし。那珂博士は其『外交繹史』第二八に『書紀』・『風土記』に見たる女酋の例を擧げたれば、左に之を引用すべし。\n\n筑紫島ニハ女酋ヲ尊ブ習俗ノ有リシト見エテ、景行紀ニ云「到周芳娑麽時、天皇南望之、詔群卿曰、於南方、煙氣多起、必賊將在、則留之、先遣多臣祖武諸木、國前臣祖兎名手、物部君祖夏花、令察其状、爰有女人曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也、聆天皇之使者至、則拔磯津山賢木、以上枝挂八握劍、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰、願無下兵、我之屬類、必不有違者、今將歸徳矣云々」周芳娑麽ハ、今ノ周防國佐波郡ナリ。一國之魁帥也トハ、筑紫國ノ中ニテ、一地ノ酋長タルヲ云フ。磯津山ハ、河田羆氏ノ西征地理考ニ「今ノ企救郡貫山、一名シハツ山是也」トアリ。又「到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長、其聞天皇車駕、而自奉迎之云々」速見邑ハ、今ノ豐後國速見郡ナリ。速津媛ノ事ハ、豐後國風土記速見郡ノ條ニモ「昔者纒向日代宮御宇天皇、欲誅玖磨贈、幸於筑紫、從周防國佐婆津發船而渡、泊於海部郡宮浦時、於此村有女人、曰速津媛、爲其處之長、即聞天皇行幸、親自奉迎云々、因斯名曰速津媛國、後人改曰速見郡」トアリ。景行紀ニ又、「天皇將向京、以巡狩筑紫國、始到夷守、是時於石瀬河邊、人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰、其集者何人也、若賊乎、乃遣兄夷守弟夷守二人令覩、乃弟夷守還來而諮之曰、諸縣君泉媛、依献大御食而其族會之」夷守ハ、今ノ日向國西諸縣郡小林郷ナリ。「到八女縣、則越藤山、以南望粟岬、詔之曰、其山峯岫重疊、且美麗之甚、若神有其山乎、時水沼縣主猨大海奏言、有女神、名曰八女津媛、常居山中、故八女國之名、由此而起也」八女縣ハ今ノ筑後國上妻下妻二郡ナリ。藤山ハ、今御前嶽ト云ヒテ、御井郡ト下妻郡トノ界ニアリ、水沼縣ハ、今ノ筑後國三潴郡ナリ。豐後風土記日田郡ノ條ニ「昔者纒向日代宮御宇大足彦天皇、征伐球磨贈於凱旋之時、發筑後國生葉行宮、幸於此郡、有神名曰津媛、化而爲人、參迎辨申國消息、因斯曰久津媛之郡、今謂日田郡者訛也」上ノ津媛ノ上ニ、久字落チタルカ、生葉ハ、景行紀ニ的邑トアリ、今ノ生葉郡ナリ。日田郡、今モ然云フ。肥前國風土記松浦郡賀周里ノ條ニ「昔者此里、有土蜘蛛、名曰海松橿媛、纒向日代宮御宇天皇巡國之時、遣陪從大屋田子、誅滅云々、」杵島郡孃子山ノ條ニ「同天皇行幸之時、土蜘蛛八十女、又有此山頂、常捍皇命、不肯降服、於茲遣兵掩滅、因曰孃子山」、彼杵郡浮穴郷ノ條ニ「同天皇在宇佐濱行宮、詔神代直、曰云々、即勅直遣此村、有土蜘蛛、名曰浮穴沫媛、捍皇命甚無禮、即誅之、因曰浮穴郷」、神功紀ニ「轉至山門縣、則誅田油津媛、時田油津媛兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之」山門縣ハ、今ノ筑後國山門郡ナリ。ナド見エ、又豐後風土記日田郡五馬山ニ、土蜘蛛五馬媛、肥前風土記佐嘉郡ニ、土蜘蛛大山田女、狹山田女ナドモアリ。"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": "「若殿の忠作様も実は御病死でない。それにも何か仔細があるように云う者もありますが、それも嘘ですか」と、澹山はまた訊いた。\n「それもよくは存じません」\n 彼女もまんざら愚鈍でないので、いかに打ち解けた男のまえでも、領主の家の噂を軽々しく口外することはさすがに慎しんでいるらしく見えたので、澹山も根問いしないでその儘に口を噤んだ。用人の死、若殿の死、この二つの問題はそれぎりで消えてしまって、話はやがて来る冬の噂、それもおげんの重い口から途切れ途切れに語られるだけで、あんまり澹山の興味を惹かないばかりか、今夜も五ツ(午後八時)を過ぎたのに、おげんはただ黙って坐り込んだままで容易に動きそうにも見えないので、澹山は例の迷惑を感じて来た。\n「おげんさん。もう五ツ半頃でしょう。そろそろおやすみになったらどうです」\n「はい」と、云ったばかりで、おげんはやはり素直に起ち上がりそうもなかった。\n「早く行ってお寝みなさい」と、澹山は優しい声ながらも少し改まって云った。\n「はい」\n 彼女はやはり強情に坐り込んでいた。そうして、重い口をいよいよ渋らせながら云い出した。\n「あの、わたくしのような不器用なものにも絵が習えましょうか」\n「誰でも習えないということはありません」と、澹山は、ほほえみながら答えた。\n「では、これからあなたの弟子にして、教えていただくことは出来ますまいか」\n 澹山は返事に少し躊躇した。もとより良家の娘が道楽半分に習うというのであるから、その器用不器用などは大した問題でもなかったが、澹山の別に恐れるところは、彼女が絵筆の稽古をかこつけに、今後はいっそう親しく接近して来ることであった。しかし今の場合、それをことわるに適当の口実をも見いだし得ないので、結局それを承知すると、おげんは初めて座をたった。\n「では、きっとお弟子にしていただきます」\n そこらの茶道具を片付けて、かれは自分で澹山の寝床をのべて、丁寧に挨拶して出て行った。そのうしろ姿を見送って澹山は深い溜息をついた。\n 旅絵師山崎澹山の正体が吹上御庭番の間宮鉄次郎であることは云うまでもあるまい。この土地の領主は三年あまりの長煩いで去年の秋に世を去った。その臨終のふた月ほど前に、嫡子の忠作が急病で死んで、次男の忠之助を世嗣ぎに直したいということを幕府に届けて出た。嫡子が死んで、次男がその跡に直るのは別にめずらしいことでもない。むしろそれは正当の順序であるので、幕府でも無論それを聞き届けたが、それから間もなく当主が死んだ。その葬式が済むと、つづいて用人の一人貝沢源太夫が死んだ。それが禁制の殉死であるともいい、または毒害ともいい、詰腹ともいう噂があった。\n こうなると、嫡子の急病というのも一種の疑いが起らないでもない。当主の余命がもう長くないのを見込んで、何者かが嫡子を毒害などして次男を相続人に押し立てようと企てた。その反対者たる用人の一人は何かの口実のもとに押し片付けられてしまった。大名の家の代換りには、こういうたぐいのいわゆる御家騒動がたびたび繰り返されるので、幕府でも一応内偵をしなければならなかった。\n そうでなくても、大名の代換りには必ず隠密を放つのが其の時代の例であるのに、仮りにもこういう疑いが付きまとっている以上、今度の隠密は比較的重大な役目になって来た。それをうけたまわった鉄次郎は絵筆の嗜みのあるのを幸いに、旅絵師に化けて奥州へ下ってくる途中で、偶然に房川の渡しでおげんを救ったのが縁となって、千倉屋伝兵衛と親しくなった。しかも其の家は鉄次郎の澹山がこれから踏み込もうとする城下の町にあるというので、彼はこの上もない好都合をよろこんで、抑留められるままに千倉屋の客となった。そうして三月あまりを送るうちに、彼は伝兵衛の推挙で城の用人荒木頼母の伜千之丞から掛物の揮毫を頼まれた。\n 城内の者に知己を得るという事は、澹山に取っては最も望むところであったので、彼はいよいよ喜んでそれを引き受けたが、それがどうも思うように描きあがらないので、彼の心はひどく苦しめられた。あの絵師はまずいと一旦見限られてしまうと、城内の他の人々にも接近する機会を失うことになるので、彼はこの絵を腕一ぱいにかきたいと思った。もう一つには万一自分が隠密であるということが発覚した暁に、江戸の侍はこんなまずい絵を描き残したと後日の笑いぐさにされるのが残念である。十分に念を入れて描きたいと、あせれば躁るほど其の筆は妙に固くなって、彼として相当の自信のあるような作物がどうしても出来あがらなかった。おれはほんとうの絵師ではない。おれは侍で、単に一時の方便のために絵を描くのであるから、所詮は素人の眼を誤魔化し得るだけに、ただ小器用に手綺麗に塗り付けて置けばよいのである。田舎侍に何がわかるものかと時々こう思い直すこともありながら、彼はやはり自分の気が済まなかった。現在の彼は江戸の侍、間宮鉄次郎の名を忘れて、山崎澹山という一個の芸術家となって苦しみ悩んでいるのであった。\n その最中に千倉屋の娘がうるさく付きまとって来て、いよいよ自分の弟子にしてくれという。それを邪慳に突き放すすべもない彼は、いっそ此の家を逃げ出して、どこか静かなところに隠れて思うような絵をかいてみたいとも思ったが、その小さい目的のために他の大きい目的を犠牲にすることの出来ないのは判り切っているので、澹山はただ苦しい溜息をつくのほかはなかった。\n 寺の鐘が四ツ(午後十時)を撞き出したのに気がついて、彼は寝床へ入ろうとした。用心ぶかい彼は寝る前にかならず庭先を一応見まわるのを例としているので、今夜も縁先の雨戸をそっとあけて、庭下駄を突っかけて、大きい銀杏の下に降り立つと、星の光りすらも見えない暗い夜で、早寝の町はもう寝静まっていた。広い庭を囲っている槿の生垣を越して、向うには畑を隔てた小家が二、三軒つづいている筈であるが、その灯も今夜は見えなかった。まして、その又うしろに横たわっている小高い丘や森の姿などは、すべて大きい闇の奥に埋められていた。\n 落葉の音にも耳をすまして、澹山はやがて内へ引っ返そうとする時、向うの田圃路に狐火のような提灯の影が一つぼんやりと浮き出した。丘の上に祠られてある弁天堂に夜まいりをした人であろうと思いながらも、彼はしばらく其の灯を見つめていると、灯はだんだんに近づいて生垣の外を通り過ぎた。灯に照らされた人のすがたは主人の伝兵衛と伜の伝四郎とであることを、澹山は垣根越しにはっきり認めた。\n「碁を打ちに行ったのではない。親子連れで夜詣りかな」と、かれは小首をかしげた。\n 座敷へ帰って、行燈をふき消して、澹山は自分の寝床にもぐり込むと、やがて母屋の方からこちらへ忍んで来るような足音がきこえた。\n\n 三\n\n 澹山は蒲団の下に隠してある匕首を先ず探ってみた。そうして自分の耳を蒲団に押し付けて、熟睡したような寝息をつくっていると、足音は障子の外でとまった。もしやおげんが執念ぶかく忍んで来たのかとも疑ったが、その足音はもっと力強いように思われた。\n「先生」と、外の人は小声で呼んだ。「もうおやすみでござりますか」\n それが伝兵衛であると知って、澹山はすぐに答えた。\n「いや、まだ起きて居ります。御主人ですか」\n「はい。では、ごめんください」\n 勝手を知っている伝兵衛は暗いなかへはいって来ると、澹山は起き直って行燈の火をともした。"
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"content": "「夜ふけにお邪魔をいたしまして相済みませんが、荒木様の御子息様からおあつらえの掛物はまだお出来に相成りませんか」と、伝兵衛は坐り直して訊いた。\n 申し訳のない延引と澹山があやまるように云うのを聴きながら、伝兵衛は少し考えていたらしいが、やがてやはり小声で云い出した。\n「就きましては先生、一方の御仕事のまだ出来あがらないうちに、こんなことをお願い申すのは甚だ心苦しいようではござりますが、実は別に大急ぎで願いたいものがござりまして......」\n「ははあ。それはどんなお仕事で......」\n「御承知くださりますか」\n「承知いたしましょう。わたくしで出来そうなことならば......」と、澹山は快く答えた。\n「ありがとうござります」と、伝兵衛も満足したらしくうなずいた、「では、恐れ入りますが、これからわたくしと一緒にそこまでお出でくださりませんか。なに、すぐ近いところでござります」\n これからどこへ連れてゆくのかと思ったが、澹山は素直に起きて着物を着かえて、匕首をそっとふところに忍ばせた。その支度の出来るのを待って、伝兵衛は庭口の木戸から彼を表へ連れ出した。今度は提灯を持たないで、二人は暗い路をたどって行った。伝兵衛は始終無言であった。\n 江戸の隠密ということが露顕したのかと、澹山はあるきながら考えた。城内の者が伝兵衛に云いつけて、自分をどこへか誘い出させて闇打ちにする手筈ではあるまいかと想像されたので、暗いなかにも彼は前後に油断なく気を配ってゆくと、伝兵衛はさっき帰って来た田圃道を再び引っ返すらしく、それを行きぬけて更に向うの丘へのぼって行った。丘のうえには昼でも暗い雑木林が繁っていて、その奥の小さい池のほとりには古い弁天堂のあることを澹山は知っていた。\n 堂守は住んでいないのであるが、その中には燈明の灯がともっていた。その灯を目あてに、伝兵衛は池のほとりまで辿って来て、そこにある捨て石に腰をおろした。澹山も切株に腰をかけた。\n「御苦労でござりました。夜が更けてさぞお寒うござりましたろう」と、伝兵衛は初めて口を開いた。「そこで、早速でござりますが、わたくしが折り入って描いて頂きたいのはこれでござります」\n 澹山をそこに待たせて置いて、伝兵衛はうす暗い堂の奥にはいって行ったが、やがて二尺ばかりの太い竹筒をうやうやしく捧げて出て来た。彼は自分の家から用意して来たらしい蝋燭に燈明の火を移して、片手にかざしながらしずかに云った。\n「まずこれを御覧くださりませ」\n かなりに古くなっている竹は経筒ぐらいの太さで、一方の口には唐銅の蓋が厳重にはめ込んであった。その蓋を取り除けて、筒の中にあるものを探り出すと、それは紙質も判らないような古い紙に油絵具で描かれた一種の女人像で、異国から渡って来たものであることは誰の眼にも覚られた。伝兵衛がさしつける蝋燭の淡い灯で、澹山はじっとこれを見つめているうちに彼の顔色は変った。\n「これは何でございます」と、彼はしずかに訊いた。\n「弁天の御像でござります」\n それは嘘であることを澹山はよく知っていた。この古びた女人像は、切支丹宗徒が聖母として礼拝するマリアの像であった。四国西国ならば知らず、この奥州の果ての小さい寂しい城下町でこんなものを見いだそうとは、澹山はすこしく意外に思って、手に持っている其の油絵と伝兵衛の顔とをしばらく見くらべていると、伝兵衛の方でも彼の顔をのぞき込みながら云った。\n「先生、いかがでござりましょう。それを模写して頂くわけにはまいりますまいか」\n 澹山は黙っていた。伝兵衛もしばらく黙ってその返事を待っていた。蝋燭の灯は夜風にちらちらとゆれて、時々にうす暗くなる光りの前に、彼の顔は神々しく輝いているように見られた。澹山は一種の威厳にうたれて、おのずと頭が重くなるように感じた。\n「大方は御不承知と察して居りました」と、伝兵衛はやがてしずかに云い出した。「それはわたくし共に取りましては、命にも換えがたい大切の絵像でござります。この弁天堂もわたくしの一力で建立したのでござります。娘を連れて金毘羅まいりと申したのも、実は四国西国の信者をたずねて、それと同じような有難い絵像をたくさん拝んで来たのでござります。こう何もかも打ち明けて申しましたら、御禁制の邪宗門を信仰する不届き者と、あなたはすぐにわたくしの腕をつかまえて、うしろへお廻しになるかも知れません。しかしわたくし一人をお仕置になされても、私には又ほかに幾人もの隠れた味方がござります。迂闊な事をなさると、却ってあなたのお為になりますまい。あなたの御身分もわたくしはよく存じて居ります。今日まで百日あまりのあいだに、わたくしが一度口をすべらしましたら、失礼ながらあなたのお命はどうなっているか判りません。娘の命を助けてくだされた御恩もあり、もう一つは斯ういう御無理をお願い申したさに、今日までわたくしは固く口をむすんで居りました。この後とても決して口外するような伝兵衛ではござりません。その代りに......と申しては、あまりに手前勝手かは存じませんが、どうぞ快く御承知くださりませ」\n 自分をここまで誘い出して、おそらく闇討ちにでもするのであろうと澹山は内々推量していたが、その想像はまったく裏切られて、彼は思いもよらない難題を眼のまえに投げ付けられた。彼は国法できびしく禁制されている切支丹宗門の絵像を描かなければならない羽目に陥ったのである。隠密という大事の役目をかかえている彼は、手強くそれを刎ねつけることが出来ない。相手が伝兵衛ひとりならばいっそ斬って捨てるという法もあるが、ほかにも彼と同じ信徒があって、その復讐のためにこっちの秘密を城内の者に密告されると、我が身が危ない。わが身のあぶないのは江戸を出るときからの覚悟ではあるが、大事の役目を果たさずには死にたくない。邪宗門ということが発覚すれば、伝兵衛も命はない。隠密ということが発覚すれば、澹山も命は無い。どっちも命がけの秘密をもっているのであるが、この場合には相手の方が強いので、澹山も行き詰まってしまった。\n しかし斯う順序を立てて考えたのは、それから余ほど後のことで、その一刹那の澹山はただ何がなしに相手に威圧されてしまったという方が事実に近かった。\n「これを模写してどうするんです」と、彼はわざと落ち着き払って訊いた。\n「それはおたずね下さるな」と、伝兵衛はおごそかに云った。「わたくしの方に入用があればこそ、こうして折り入ってお願い申すのでござります」\n 自分の頼みを素直に引き受けてくれる上は、自分たちもかならずあなたの身の上を保護して、秘密の役目を首尾よく成就させてやると、伝兵衛は彼の信仰する神のまえで固く誓った。\n\n 四\n\n それから一と月ほどの間、澹山は病気と云って誰にも逢わなかった。夜も昼も一と足も外へ踏み出さなかった。かれは千倉屋の離れ座敷に閉じ籠って、朝から晩まで絵絹にむかって、ある物の製作に魂をうち込んでいた。そのあいだに荒木千之丞は絵の催促にたびたび来たが、伝兵衛がいつもいい加減にことわっていた。十月の末になって、ここらでは早い雪が降った。\n「先生、ありがとうござりました。御恩は一生忘れません」\n 秘密の絵像が見事に出来あがって、澹山の手から伝兵衛に渡されたときに、彼は涙をながして澹山を伏し拝んだ。そうしてその報酬として、伝兵衛の手からもいろいろの秘密書類が澹山に渡された。この一ヵ月のあいだに伝兵衛はおなじ信徒を働かせて、また一方にはたくさんの金を使って、いろいろの方面から秘密の材料を蒐集して来たのであった。\n この城内における小さいお家騒動の事情はこれでいっさい明白になった。嫡子忠作の死は毒害などではなく、まさしく庖瘡であったことが確かめられた。しかし藩中に党派の軋轢のあったことは事実で、嫡子の死んだのを幸いに妾腹の長男を押し立てようと企てたものと、正腹の次男を据えようと主張するものと、二つの運動が秘密のあいだに行なわれたが、結局は正腹方が勝利を占めて、家老のひとりは隠居を申し付けられた。用人の一人は詰腹を切らされた。そのほかに閉門や御役御免などの処分をうけた者もあって、この内訌も無事に解決した。\n これでもう澹山の役目は済んだものの、他人のあつめてくれた材料ばかりを掴んで帰るのはあまりに無責任である。これだけの材料を土台として、自分が直接に調べあげて見なければ気が済まないので、澹山はここで年を越すことにした。千倉屋ではいよいよ鄭重に取り扱ってくれた。"
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"role": "user",
"content": "一\n\n「親分、聞きなすったか」\n「何だ、騒々しい」\n 銭形平次の家へ飛込んで来た子分のガラッ八は、芥子玉絞りの手拭を鷲掴みに月代から鼻の頭へかけて滴る汗を拭いております。\n「大変な事がありますぜ」\n「また、清姫が安珍を追っかけて、日高川で蛇になった――てな話だろう」\n「冗談じゃねえ、今日のはもっとイキのいい話だ。何しろ、仏様のねえお葬いを出したのはお江戸開府以来だろうって評判ですぜ」\n「何? 仏様のねえ葬い、――どこにそんな事があった」\n 平次もツイ乗出しました。日頃は話半分にしか聞かれないガラッ八ですが、今日持って来たネタには、何かしら人の好奇心をそそる重大性がありそうです。\n「近江屋の小町娘、――お雛が行方知れずになった話はお聞きでしょう」\n「それは聞いた。観音様へお詣りに行った帰り、供をしていた女中の眼の前で行方知れずになったという話だろう」\n「それが、海河に落ちて死んだか、人手にかかったか、三日目から毎晩のように化けて出たって言いますぜ」\n「怪談話なんか聞いてやしねえ、馬鹿野郎」\n「馬鹿野郎は情けねえな、それがみんな本当の話なんだから恐ろしい」\n「それで、仏様のない葬いを出したって筋だろう。紋切型の怪談じゃないか、江戸開府以来もねえものだ」\n「ところがね親分、それがみんな幽霊の註文なんだって言いますぜ」\n「何? 幽霊の註文、贅沢な亡者もあったものじゃないか」\n「葬いを出してくれなきゃア浮ばれないから、私の持物のうちでも、日頃から大事にしていたものや金目のものをみんな纏めて、身体の代りに、小判で三百両棺桶の中へ入れて、祖先の墓の側に埋めて貰いたい――って」\n「八ッ、それは本当か」\n「本当にも何にも、町内で知らねえのは銭形の親分ばかりさ」\n「とんでもねえ野郎だ。俺の住んでいる町内で、そんな人を舐めた事をしやがって、ガラッ八、来い」\n 帯をキュッと締め直すと、白磨きの十手を手拭に包んで懐の奥へ、麻裏を突っかけて、パッと外へ飛出します。\n「親分、どこへ行きなさるんだ。断っておくが、あっしのせいじゃないぜ」\n 平次の意気込みに驚いて、少しおどおどするのを、\n「何をつまらねえ、誰も手前のせいだなんて言やしねえ。その面はまた幽霊に向く人相じゃないよ、浅草の化物屋敷で、大入道の役者を一人欲しいって言って来たぜ」\n「チェッ」\n「怒るな八、近江屋へ真っ直ぐに案内しろ。親達に歎きをかけた上、大金までせしめようというのは、いかにも憎い幽霊だ。三日経たない内に、きっと天道様の下で化けの皮を剥いでやる」\n「ヘエ、恐ろしい意気込みなんですね、親分」\n「覚えておけ、俺はそんな細工をする化物は大嫌いなんだ」\n まだその頃は、若くもあり、血の気も多かった銭形の平次は、こう言ってその太い眉をひそめました。寛永から明暦、万治年間へかけて鳴らした捕物の名人、一名縮尻の平次は、水際立った良い男でもあったのです。\n\n二\n\n 花川戸の質両替屋、近江屋治兵衛は観音堂の屋根の見える限りでは、並ぶ者ないと言われる大分限、女房お豊との間に生れた一人娘のお雛は、江戸の町娘の美しさを一人で代表するのではないかと思うような素晴らしい容貌でした。\n あまり美しすぎるのと、親達の選り好みが激しいので、十八の夏までも定まる婿がなく、贅を尽した振袖姿を、お供沢山に、街へ現しては、界隈の冷飯食いの心魂を奪うという有様だったのです。\n ある日、女中のお勢と一緒に、ツイ目と鼻の観音様へお詣りをして、伝法院の前まで来ると、お勢がほんのちょいと眼を外すうちに、お雛の姿が見えなくなってしまったのです。\n 大地へ吸い込まれたか、それとも仁王様の草鞋に化けたか、そうでも思わなければ、考えようのない不思議な失踪に、お勢はしばらく呆気に取られてしまいました。――多分、他所見をしているうちに、自分へからかって、先へ帰ったのだろう――そんな暢気な心持で主人の家へ帰って来ましたが、もとより先に帰ったわけではなく、お雛の姿は、それっきり、誰の目にも付かなかったのです。\n 近江屋の騒ぎは大変なことになりました。出入りの頭を総大将に、番頭小僧から出入りの商人、町内の若い者まで駆り集めて、観音様を中心に、界隈の路地裏からゴミ箱の中までも探し廻りましたが、どこへ消えてしまったか影も形もありません。\n あまり綺麗すぎて魔がさしたか、人買い人さらいといった類の悪者にしてやられたか、それとも、美しい虹のように蒸発してしまったか、噂は噂を生んで、際限もありません。\n 三日目――の夜でした。\n 店の大戸を下ろしてしまってから、ホトホトと叩く者があるので、そこに居た小僧の兼吉が、何の気もなく臆病窓を開けてヒョイと覗くと――、\n ツイ軒の下の暗がりに、紛れもないお雛が、水に濡れたような姿でションボリ立っていたのです。向う側の屋根の上にかかった、青白い月に照されて、それがまた何とも言えない物凄さ。\n「あッ、お嬢様」\n あわてて潜りを開けて、店中の人が飛出しましたが、夏ながら凍るような月夜で、蟻の這うのも見えそうですが、兼吉が見たという、お雛の姿はそこにはありません。\n「馬鹿ッ、夢でも見たんだろう」\n 大僧達に叱られて、兼吉はベソを掻いてしまいました。\n しかしちょうど臆病窓の下、乾いた土の上が一尺四方ばかり、そこだけぐっしょり濡れているのを見て、叱った大僧達も思わずハッとして顔を見合せました。\n 翌る夜の――丑刻(二時)頃。\n 手水に起きた主人の治兵衛が、フト昨夜の話を思い出して手洗い場の障子を開けて、丈夫に出来た格子から、月明りにすかして中庭を見やりました。期待するような、物なつかしいような、そのくせ恐ろしく歯の根も合わないような異様な心持で、右から左へ眼を移すと、――\n 灯籠の蔭から半分身体を出してこっちを差覗くようにションボリ立っているのは、紛れもなく娘のお雛、青白い額口から、少しばかり血をにじませて、白々としたものを引っかけた姿は、この世の者とも思われません。\n「あっ、お雛じゃないか。お待ち」\n 横手の雨戸に飛付いて、大町人らしい厳重な締りをガタガタ外し、一枚開けると、夢中になって中庭へ飛出しましたが、そのとき眼に触れるものは、時代のついた石灯籠ばかり、お雛の姿は掻き消すように失せてしまいました。\n「お雛がどうかしましたか」\n 女房のお豊も、寝巻姿のままで飛出して来ましたが、主人治兵衛が、庭石の上にドッカと腰を下ろして、狐につままれたような顔をしているのを見るだけ、傾く月影にすかしても、猫の子一匹隠れる場所があろうとも思われません。\n\n三\n\n「親分、こういうわけだ。親としては、これほどの歎きはない、死んだなら死んだでもいい、せめてその葬式だけでも出してやりたい、と思うのも無理はありますまい」\n 近江屋の主人治兵衛、ちょうど折よく訪ねて行った、銭形の平次を奥へ招じ入れて、娘の行方不明になった後前から、空の葬式を出した経緯まで詳しく話しました。\n「お察し申します。が、それは世間で言うように、やはりお嬢さんの幽霊の望みでなすったのでしょうか」\n「とんでもない。娘はそれからも二三度姿を見せましたが、一言も口を利くことはございません。空葬式を出せと言ったのは、それ、伝法院の前にいつも出ているあの易者――」\n「ヘエ――」\n「観相院とかいう髯を生やした易者の勧めでしたよ」\n「ヘエ――」\n「あまり娘が可哀相で、死んだ者なら遺骸を探し出して、せめて葬式だけでも出してやりたいと、家内が頻りに言うので、観相院へ行って易を立てて貰うと、――これはいけない、娘さんの遺骸は、海の沖へ流れてしまったから、二度と再びこの世の人の目に触れることではない。そのためにあの世の苦患は大変、娘さんを可哀相に思うなら、日頃大事にしていた品物と、三百両の小判を棺桶へ入れて、菩提所へ葬ってやんなさい――とこう言います」\n「で、その通りなすったのでしょうな」\n「致し方がありません。私どもに何の考えもあるわけはなし、それくらいのことで娘の後生が楽になれば、まことに安いものでございます」\n 治兵衛はこう言って首垂れました。見たところ四十前後、大家の主人らしい落着きと品の中にも、何となく迷信深そうな、篤実らしさも思わせます。"
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"role": "assistant",
"content": "「驚きなすっちゃいけませんが、お嬢さんは生きていますよ」\n「エッ」\n 唐突な平次の言葉に、治兵衛はのけ反らんばかり。\n「お聞きでしょうが私は滅多なことで自分から飛出しません。お上の御用は勤めておりますが、人に縄を打つ商売の浅ましさを、つくづく知っているからでございます。ところが、子分の者の話や、世上の噂で、お宅のお嬢様の災難を聞いて、あまりの事にジッとしていられなくなって、ツイ押付けがましくやって来たようなわけでございます」\n「............」\n「お嬢様は決して死んじゃいません。それは立派に騙りでございますよ。あまりやり方が憎いので平常にもなく、私はやって参りました。――口幅ったい事を言うようだが、三日経たないうちに、きっとお嬢様を探し出して上げましょう」\n「本当でしょうか親分、――もし娘を助けて下さったら、私はこの身上を半分差上げても惜しくはありません。万に一つも生きているものなら、どうぞ助けてやって下さい」\n 大家の主人の貫禄を忘れて、治兵衛は畳の上へ手を落してしまいました。\n「そんな事をなすっちゃ困ります。まアお手をあげて下さい。それに私は慾得ずくで飛出したわけじゃございません」\n「それはもう、平常から親分の気性はよく存じております。家内にも聞かせて、喜ばしてやりましょう」\n 手を叩くと、転がるようにお豊。\n「様子は隣室で聞いておりました。親分、本当に娘は生きておりましょうか」\n 三十六七の盛りを過ぎた女房姿ですが、昔はどんなに美しかったろうと思うお豊、少し取乱した様子で、平次の膝に縋り付かないばかりです。\n「お疑いもあるようだ、こうなすって下さい。伝法院の門前に居る易者が、そのまま店を張っているようなら私はこの事件から手を引きましょう。もしまた、易者の観相院が、二三日この方見えないというようだったら、何もかも騙りの仕業で、お嬢様の身の上には万に一つも間違いはありません」\n こう言う平次の言葉には自信が充ち満ちておりました。\n\n四\n\n 小僧の兼吉を伝法院の門前まで走らせると、平次の予言した通り、易者の観相院は三日前から顔を見せないという話、近江屋夫婦も今さら呆気に取られましたが、その代り、死んだと思った娘のお雛が、あるいは生きているかも知れないという新しい望みが湧いたわけです。\n「この上は見るまでもありますまいが念のためにお墓へ案内して下さい」\n 銭形の平次、近江屋治兵衛、それに番頭が一人、鳶頭が加わって橋場の寺へ駆け付け空柩を葬った墓を見ると、巧みに誤魔化してはありますが、発掘した形跡は疑うべくもありません。\n「御安心なさい。お嬢さんはきっと無事で還りましょう」\n 平次はこう慰めておいて、一たん自分のところへ引取りました。\n 後で、近江屋治兵衛、死んだと思ってあきらめていた娘が、たぶん無事に生きているだろうとなると、居ても立ってもいられない、恐ろしい焦躁に悩まされます。\n「いっそのこと、娘を返したら、大金をやるという高札でも出してみようか。慾にころんで空葬まで出さしたくらいだから、金高次第では、娘を返す気になるかも知れない――」\n 物持の人の親らしい考えで、平次が止めるのも聴かず、役所の許しを得て、江戸の目抜きの辻々に、真新しい「尋ね人」の高札を建てさせました。\n 高札の文句や寸法には自ずから型があります。「江戸、花川戸質両替渡世、近江屋治兵衛娘雛、当年十八歳、右尋ね当て無事親許に引渡されし方には、御礼として金一千両相違なく差上ぐべく候也」と書いて、あとは人相やら、手続きやらを細々と認めてあります。\n 江戸中は、しばらくこの噂で持ちっきり、三日経たないうちに、お雛が五六十人も現れそうな勢いでしたが、さて実際にそうは行かないものとみえて、治兵衛夫婦の気組みや予想を裏切って、心当りを言って出る者は一人もありません。\n ことに弱ったのは、銭形の平次でした。三日と請合った日は今日限りとなりましたが、どこへどう隠されたか、お雛の在処を嗅ぎ出す手掛りも、その誘拐の悪者の当ても付かないのです。\n 近江屋は質屋渡世で、ずいぶん客に泣かれもし商売の事では頑固なことも言いましたが、近頃は身上が出来て、三文質は取りませんから、そんなに怨まれる筋の罪は作った覚えもありません。\n 治兵衛はまことに好人物の旦那、お豊は若い時は評判の美人だったと言いますが、ここへ嫁入りしてもう二十年にもなります、その上近い親類というものがないのですから、財産争いする相手も見付からない有様です。\n 平次はすっかり持て余してしまいました。\n「こいつはいけねえ。あんな綺麗な娘一人、どこへ隠しておいたってピカピカするから、三日と知れずにいるはずはないと思ったのは、俺の料簡違いだ。さて、こうなりゃ始めからやり直しだぞ」\n 高々と腕を拱いて、朝っから軒の釣忍と睨めっこをしております。\n「親分、今日は」\n 言葉より先に、格子をガラリと、入って来たガラッ八。\n「ああガラッ八か、何か変った事でもあるのかい」\n 平次は腕を解きましたが、上眼使いに妙に沈んだ調子です。\n「親分でもねえ、何て不景気なんだろう、近江屋のはまだですかい」\n「それが解りゃ手前なんかに何か変った事――なんて訊きやしねえ」\n「御挨拶だね、生憎変った事と言ったら、気のきいた雌犬にも吠え付かれねえ」\n「不景気な野郎じゃねえか、相変らずお小遣がねえんだろう」\n「図星ッ、さすがに親分は眼が高え、そこを見込んで少し貸してもれえてエくらいのものだ」\n「馬鹿、人が見たら笑うぜ、手なんか出して、ホラ、入用だけ持って行くがいい――たんとはねえよ」\n 平次は懐から財布を出して、投り加減にガラッ八の方へ押しやりました。\n「有難え、だから親分は感心さ。世間では言ってますぜ、銭形のは腕前といい、気前といい、男っ振りといい、大したものだって」\n「取って付けたようなお世辞を言うな」\n「へッ、へッ、どうも今日はまんがよかったよ、紅い結綿で足を縛った烏なんてものは、滅多に見られる代物じゃねえ」\n「何、何だとガラッ八、足を結綿で縛った烏だ、そんなものがどこにいたんだ」\n 平次の気組みは、急に熱を帯びて、ガラッ八の腕――財布を拾ったばかりの二の腕をむんずと掴みました。\n「何でもありゃしませんよ、馬鹿馬鹿しい」\n「いや、何でもなくはない、どこにそんな烏がいた」\n「驚いたな、どうも、先刻子供達が河岸っ縁で捉えて、自身番へ持って来ましたよ。緋鹿の子の結綿で足を縛られて、その上櫛を差し込んであるんだから、どんな烏だって飛びやしません。バタバタやってるのをわけもなく捉えたが、鴨や雉と異って、真っ黒な烏じゃ、煮て食うわけにも行かねえ」\n「それは大変だ、来いガラッ八、その烏に逢って訊きてえことがある」\n「冗談でしょう」\n 平次は有無を言わせず、外へ引張り出しました。昼下がりの花川戸の往来は、暑さにしばらく人足も絶えて、何となくヒッソリしております。\n\n五\n\n 子供達の捉えた烏は、そのまま自身番に縛られて、四方を物好きそうなのが、ワイワイ取巻いておりました。\n「どれだ、その結綿と櫛てえのは?」\n「親分、お出なさい、これがその二た品ですよ。妙な悪戯をする人間もあったものじゃございませんか」\n 番太の爺が出したのは、燃えるような緋鹿の子の結綿と、鼈甲の櫛が一つ。\n「ちょいと借りてえが、いいだろうね」\n「え、え、どうぞ御自由に」\n 平次はこの二た品を内懐に入れると、烏には眼もくれず、そのまま近江屋に飛んで行きました。\n 主人の治兵衛に逢って、\n「この結綿と櫛に見覚えはありませんか」\n と言うと、"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "糸掛け石とは圖中精製石棒の右の端の下に畫き有るが如きものなり。此所に例として擧げたるものの出所は遠江周智郡入野村なるが此地よりは尚ほ類品數個出でたり。他地方より出でたる糸掛け石も形状大さとも概ね此例の如し。此石器の用は未だ詳ならざれども切り目の樣子を見れば糸を以て括りたるものなる事疑ひ無し。案ずるに此類の石噐は或は釣糸を埀るる時に錘りとして用ゐられし事も有るべく、或は鳥を捕ふるに際し束ね糸の端に括り付けられし事も有るべく、(此捕鳥器の事は別に詳記すべし)或は打ち紐を作るに當つて糸の錘りとして用ゐられし事も有るべし。製法は自然の扁平石の小さきものを採り、又は石を打ち缺き摩り减らして斯かる形と爲し、其上に燧石抔の尖りたる角にて切り目を付けしものならん\n●錘り石\n圖中精製石棒中央の下に畫きたるは自然の扁平石にして、周縁相對する部に人爲の缺損有り。此者の用も未た詳ならされと、前項に記したる糸掛け石に於けるよりは更に太き紐を以て括りし者たる事殆と疑ひ無く、從つて何物かの錘りに用ゐられしならんと考へらるるなり。此所に畫きたるものは伊豆君澤郡久連村より出でしものなるが、類品は諸地方より出でたり。恐らくは網の錘りならん。(網の存在に付きては慥なる證據あり。此事に關しては再び記す所あるべし。)\n●凹み石\n錘り石の左方に畫きたる火山石を人工にて橢圓体状に爲したる者にして、上下兩面の中央には人工にて穿ち凹めたる穴有り出所は甲斐西八代郡大塚村なり。諸地方より出でたる類品甚多し。用法未だ詳ならず。之を造るには先づ適宜の大さの火山石を拾ひ自然面の利用すべき部は之を利用し、他の不規則に高低有る部は或は缺き或は摩りて全体を大なる牡丹餅の如き形とし兩面の中央部には尖端の鋭き石片又は鹿の角抔を當て、他の小石を槌として之を打ち徐々に凹みを設けしならん。\n●石皿\n圖中凹み石の下に畫きたるは石皿の例にして其發見地は武藏青梅近傍日向和田なり。一方には深き凹み有り、一方には物を掻き出すに都合好き構造有り。單に形状のみを見るも穀類抔を粉にする時の臺の如くに思はるれど、アフリカの内地の土人は現に同形の石器を同樣の目的に用ゐ居るなり。此類の石器にして果して粉製りの臺たらば、是に對する粉潰しの道具も有る可き筈なり。事實如何と云ふに日向和田に於ては實際石皿と伴ふて是に適合する橢圓石發見されしなり。思ふにコロボツクルは是等の石器を用ゐて草木の實を壓し潰し食用の粉を製りしならん。石皿の名は决して適切には非ざれど、他に好き名を思ひ付かざれば姑く通稱に從ふのみ。類品諸所より出でたり。之を作るには火山石の適宜の大さのものを撰び凹み石を作ると同樣の順序を經て、一面に大なる凹みを設け、此凹みの内部をば他の石を以て摩り减らしたるものなるべし\n●骨器\n石器時代の器具とて何者も總て石を材料とせしには非ず。獸類の骨にて作りたる物、魚類の骨にて作りたる物等も正しく石器時代の遺跡より發見さるるなり。圖中石皿の右に在るは獸骨器の尖端なり。此の如き骨噐はエスキモーの現用漁業具中に在り。此所に畫きたるものの出所は岩磐新地貝塚なるが、其用は恐らくエスキモーの所用の者と等しく銛の先に着けて海獸大魚を打ち留むるに在りしならん。類品は北海道レブン島よりも出でたり。獸骨器の右に畫きたるは魚骨器なり。上端の孔は糸を貫くに適したり。思ふに此骨器は粗き物を縫ひ合はする時に針として用ゐられしならん。類品は他より出でたれど此所に掲げたるものは武藏荏原郡大森貝塚より出でたるなり。骨器の類は此他種々有れど煩を厭ひて記さず\n●角器牙器\n石器時代遺跡よりは又鹿の角にて作りたる噐具も出づ。魚骨器の右に畫きたるは其一例にして、發見地は相模三浦郡久比利貝塚なり。用は大魚を釣るに在りし事何の疑か有らん\n角器の上に畫きたるは猪の牙を摩り减らして作りたる矢の根形の利噐なり。此品は常陸河内郡椎塚より出でたるものなるが是と同樣の品は大森貝塚よりも發見されたり。思ふに此利噐は前に掲げたる獸骨器と等しく、銛の尖端として用ゐられしものなるべし。\n以上の骨器角器牙器は燧石の角にて疵付くる事と、砥石の類に摩り付くる事とに由りて作り上げしならん。圖中に畫きたる石器骨器角噐牙噐は皆理科大學人類學教室の藏品なり。\n●土器\n石器時代遺跡より發見さるる土器は四部に大別するを得。\n\n(第一)飮食物其他の諸品を容るるに適したる噐。(之を容噐と呼ぶ)\n(第二)裝飾として身に帶びしが如きもの。(之を裝飾品と呼ぶ)\n(第三)人の形に造られたるもの。(之を土偶と呼ぶ)\n(第四)はがき位の大さにて札形のもの。(之を土版と呼ぶ)\n此他、用法も詳ならず、分類も爲し難きもの數品有り。\n製法は何れも手づくね素燒きなり。土質中には多少の雲母を含むを常とす。\n\n●容器\n容器には種々の形有り。一々名状すべからず。大は口徑一尺餘。小は口徑一寸許り。高さ厚さ亦區々なり。圖版中右の上に畫く所は形状を主とす、大小の比例は必しも眞の如くならず。色は黒色栗色鳶色カハラケ色等種々有りて表面の精粗も一定せず、製法は圖版中左の下に畫きたるが如し。先づ底面を作り其上に紐形にしたる土を乘せ、周圍に添ふて之を段々に螺旋状に積み上げ、内外兩面を滑かに擦りて全形を仕上げ、後種々の裝飾を施して火に掛けたるならん。此順序は遺跡發見物中に存在する造り掛けの土噐を比較して明かに知るを得るなり。土噐の底面には網代の痕又は木の葉の痕を存するものあり。是製造の始敷き物として用ゐたる編み物或は木の葉が偶然此所に印せられしに他ならず。裝飾には摸樣と彩色との二種有り。摸樣は燒く前に施し、彩色は燒きたる後に施せしなり。摸樣は種類甚多しと雖も大別して沈紋浮紋の二とするを得、沈紋とは土器の面より凹みて付きたる摸樣にして、浮紋とは土器の面上に他の土塊を添へて作りたるものの謂なり。沈紋の中に又押紋畫紋の別有り。布、席、編み物、紐細き棒の小口、貝殼等を押し付けて印したる紋を押紋と云ひ、細き棒或は篦を以て畫きたる摸樣を畫紋と云ふ。是等諸種の摸樣は通例彼此相混じて施され居るなり。彩色には總塗り有り、畫紋有り、兩種を合算するも其數甚少し。色は何れも赤なれど其内に四五種の別有り。(繪具の事に付きては別に記す所あるべし)\n容器の用は必しも飮食品を貯ふるに在らず、時としては手箱の用をも辨じたるなるべし。現に石鏃の入りたる儘の土器、小砂利の入りたる儘の土器、繪具を入れたる痕有る土器等の發見されたる事有るなり。\n圖版中左の上に畫きたるは沈紋の數例なり、形状の圖と共に其據は總て理科大學人類學教室所藏品に在り。(續出)\n\n\n●コロボックル風俗考 第八回(揷圖參看)\n理學士 坪井正五郎\n●土製裝飾品\n身体裝飾として用ゐられしならんと思はるる土製品は極めて稀にして、好例として示すべき物は余の手近には唯一個有るのみなり。(圖中、下段右の端を見よ)此品は大森貝塚より發見されたり。全体に樣々の沈紋有り。他の土器と等しく火に掛けたる物にして、色は黒し。長さの向きに孔有りて恰も軸を拔き取りたる紡錘の如し。思ふに此孔に糸を貫きて身に帶ぶるに便にせしならん。"
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"role": "assistant",
"content": "●土偶\n既に身体裝飾衣服等の事を述べし折に言ひしが如く、本邦石噐時代の諸遺跡よりは燒き物の人形屡ば發見さるるなり。大さは種々なれど今日迄に知れたる事實に由れば最も大なるは陸奧龜ヶ岡發見加藤某氏所藏(第三回圖中に頭部のみを畫き置きしもの、佐藤蔀氏藏せしは誤なり)全長一尺二寸計、最も小なるは武藏下沼發見理科大學人類學教室所藏の物にして全長二寸五分、製作に付きては内部の充實したる物と空虚なる物との二種有り形式に付きては全体に太りたる物と前後より押し平めたるが如き物との二種有り。其用は信仰上關係を有するか、單に玩弄品たるか未だ詳ならずと雖も、間々製作の巧妙精緻なる物有るを以て見れば甲の考への方實に近からんと思はる。物質の異同は有れど、小偶像を作りて禮拜の目的物とし又は身の護りとする事野蠻未開人民中其例少しとせず。貝塚即ち石器時代人民の掃き溜めより宗教上の物を發見すとは如何にも誠しからず聞こゆべしと雖も、一定の時日を經たる後、或は一定の祭祀を終りたる後は、偶像の利益功力を失ふと云ふが如き考へは存し得べき事にして、尊崇すべき物品が食餘の汚物と共に同一所に捨てられしとするも敢て怪むべきには非ざるなり。土偶の頭部或は手足部の欠損せる事常なること、恐くは一種の妄信の爲、故意に破壞せるに由るならん。土偶の用は信仰上に關係有りと假定するも、尚ほ實在の人の形を現したる物か、想像上の神の形を示したる物かとの疑問有らん。此事に付きては後段別に述ぶる所有るべけれど、土偶の形状はコロボツクル日常の有樣を基として作りしものならんとの事丈は此所に記し置くべし。土偶中には裸体の物有り、着服の物有り、素面の物有り、覆面の物有り、冠り物の在る有り、無き有り、穿き物の在る有り、無き有り、上衣と股引とには赤色の彩色を施したるも有るなり、圖中下段右より二つ目に畫きたるものは裸体土偶の一例にして出所は常陸椎塚貝塚、所藏主は理科大學人類學教室なり。左に土偶發見國名表を掲ぐ。\n渡島、陸奧、羽後、磐城、岩代、下總、常陸、武藏、信濃、就中多く出でたるは陸奧龜ヶ岡なり。\n●土版\n土版には長方形のものと小判形のものとの二種有り。用法詳ならずと雖も、恐くは身の護り又は咒ひの具抔ならん。中には前述の土偶との中間物の如きものも有り。從來發見されたる土版の出所は左の如し。圖に示す所は武藏北足立郡貝塚村より出でしものなり。\n\n武藏荏原郡大森貝塚\n同 郡上沼部貝塚\n同北豊島郡小豆澤貝塚\n同 郡西ヶ原貝塚\n同北足立郡貝塚村\n同 郡小室村\n同南埼玉郡黒谷村\n常陸河内郡椎塚貝塚\n下總東葛飾郡國分寺村貝塚\n陸奧南津輕郡浪岡村\n\n●貝殼器\nはまぐりの如き貝殼は自然に皿形を成し、且つ相對する者二枚を合する時葢と身との部さへ具はるが故に物を貯ふる器とするに適したり。我々は是に膏藥の類を入るる事有れどコロボツクルは之を以て繪の具入れとせしなり。赤色の繪の具を入れたる儘のはまぐり貝は大森貝塚より數個發見されたり。\nはまぐり貝は又物を掻き取るに適したり。魚鱗の充ちたる儘のもの貝塚より出づる事有り。\n貝塚發見物中に猪の牙を細く研ぎ减らしたるが如き形のもの有り。其用は未だ詳ならざれど、明かに貝殼の一つなり。最も細く作られたるものは其原料甚だ見分け難けれど稍太きもの及び未成のものを列ね考ふれば、あかがひの縁の部分なる事を知るを得。發見地は常陸椎塚、武藏上沼部、箕輪及び東京谷中延命院脇の貝塚なり。\n●植物質器具\n植物質のものにして今日迄に石器時代遺跡より發見されたるは菱の實、胡桃の實、及び一種の水草の類にして、是等は唯有りの儘の形にて存在したるのみ。植物質の器具に至つては未だ一品も出でたる事無し。木にもせよ、竹にもせよ、草にもせよ、植物質の原料にて作りたるものは腐敗し易き事勿論なれば、其今日に遺存せざるの故を以て曾て存在せざりし證とは爲すべからず。現に土器底面中には網代形の痕有るもの有り、土器形状模様中には明かに籠の形を摸したるもの有り、コロボックルが籠の類を有せし事は推知し得べきなり。\nアイヌ間に存する口碑に由ればコロボックルは又木製の皿をも有せしが如し。\n既に服飾の部に於ても述べしが如く、土器表面の押紋を撿すれば、コロボツクルが種々の編み物、織り物、及び紐の類を有せし事明かにして、從つて袋を製する事抔も有りしならんと想像せらる。\n以上諸種の植物質器具は食物其他の物品を容るるに用ゐられしならん。\n●日常生活\n前々より述べ來りしが如き衣服を着、飮食を採り、竪穴に住ひ、噐具を用ゐたる人民、即ちコロボックル、の日常生活は如何なりしか、固より明言するを得る限りには非ざれど試みに想像を畫きて他日精査を爲すの端緒とせん。\n余は曾てコロボックルは人肉を食ひしならんとの事を云ひしが、此風習は必しも粗暴猛惡の民の間にのみ行はるるには非ず、且つ人肉は决して彼等の平常の食料には非ざりし事、貝塚の實地調査に由りて知るを得べければ、此一事はコロボックルの日常の有樣を考ふに付きて深き據とは爲すべからず\n土器の形状の爲に種々の意匠を廻らし、土器の紋樣の爲に幾多の圖案を工夫せしが如きは土器製造者の心中餘裕有りしを知るに足るべく、土器使用者の性質寧沈着なりしを察するに足るべし。余はコロボックルは温和なる生活を爲せし者と考ふ\n彼等は朝起きて先づ火焚き塲の火を熾にし、食物調理を爲し、飮食を終りたる後は、或は食物原料採集に出掛け、或は器具製造に從事し、日中の時を費したる後、各〻又我が火焚き塲の傍に集り座して且つ談じ且つ食ひ、飽けば即ち横臥して漁獵の夢抔を結びしならん。\n男の仕事は鳥獸魚の捕獲、住居の建築、石器の製造、舟の製造、發火等を主とし、女の仕事は植物性食物原料及び貝類の採集、編み物、織り物、紐類、土噐の製造、調理、小兒保育等を主とせしなり\n●漁業\n遺跡よりは角製の釣り針の出でし事あり(第七回參照)。土器押紋中には慥に網の痕有るもの有り。切り目有る扁平石噐中には網の錘りと思はるるもの有り。貝塚より魚骨魚鱗の出づる傍ら是等遺物の存在するは實にコロボックル漁業の法を明示するものと云ふべきなり。釣り竿の有無は考へ難けれど、網は恐らく曳き網なりしならんと思はる。是等の他にも大魚を捕ふる法有りしなり。此事は常陸椎塚より發見されたる大鯛の頭骨に骨器の刺さり在りし事に由つて知られたり。骨器、牙噐、石噐中には其形状如何にも銛の如くに見ゆるもの有る上に、斯かる證據物さへ出でたる事なれば大魚を漁する爲に銛の用ゐられし事何の疑か有らん。銛は鋭き尖端と槍の如き柄とより成る物なるが魚の力強き時は假令骨に刺さりたるも其儘にて水中深く入る事も有るべく、又漁夫が誤つて此道具を流す事も有るべし。コロボックルは如何にして之を防ぎしか。余は彼等はエスキモーが爲す如く、銛に長き紐を付け其端に獸類の膀胱抔にて作りたる浮き袋を括り付け置きしならんと考ふるなり。エスキモーは斯かる浮き袋に息を吹き込み、且つ其氣の漏るるを防ぐ爲に栓を爲るの便を謀りて、角製の管を是に付け置く事なるが是と等しき物武藏西ヶ原貝塚及び下總柏井貝塚より出でたり。余はコロボックルの遺物たる是等の角噐は實に浮き袋の口として用ゐられしならんと信ずるなり。圖に示す物は余が西ヶ原に於て發見せし所なり。網形の押紋有る土噐片、骨器の刺さりたる大鯛の頭骨、浮き袋の口と思はるる角製の管、皆人類學教室の藏品なり。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " あのとき、私は妻の床に炬燵を入れ、再び子供の蒲団の中に潜り込んだ。妻はどうやら静かになったようであった。やがて浅い眠りがやって来る。私と眠りとの、あの快い戯れは、次第に深間に落ちて行く。妻の低い呻き声が聞こえているようであった。睡魔――しかも私はいかにもそのようなものに魅せられて行くような快さの中にいた。どれほどの時間が経ったか。\n「痛い、痛い、痛いよう」\n 突然、泣き叫ぶような妻の声を聞いたように思った。続いて、激しく額を叩く音。いけないっと思った。しかしそのまま私が眠ってしまったのか、それとも、そのとき妻の意識が失われてしまったのか、その後には、なんの物音も覚えなかったのである。\n 悪夢のようでもあった。が、あのとき、いけないと思いながら、眠りの甘美さに身を任かせたような一瞬の、あまりはっきりした罪の意識を私はどうしようもないのである。\n 私は妻の肩揉むことも厭うたではないか。妻の眠られぬ苦しみにもさしての労りも示さなかったのではないか。まして、蒲団の火に驚いた私は、妻を畳の上に捨ておいて、真先に火を消したではなかったか。最早、なんのために妻はこの苦しみに堪えねばならないのか。\n「死んでしまいたい。こんな中風なんかになって、皆にすまない」\n 三月、病気で倒れた当座、妻はそう言って泣きもした。\n「そんなこと言うものじゃない。少しでも、僕の気持、通じたら、辛いだろうが、我慢してね」\n その頃は、そうとも強く言い切れるほど、まだひねくれぬ妻への激しい愛情が、胸一杯に溢れていたものだった。\n 恐怖にも近い悔恨が、体中を駆け巡る。\n しかし、最早十二時も近いというのに、妻はなに知らぬげに、静かな呼吸を続けている。息する力が弱まったとは心附かず、喉の鳴る音もあるかないか、ずっと楽になったようにも思われた。私はこんな安らかさの中に、死が迫っていようとは、どうしても信じられなかった。\n 私は立ち上った。一散に駆けていた。夜霧の中の小野医院の、赤い門灯が遠い所に浮かんでいるように思われた。\n 私は妻の様子を告げ、強心剤の注射でもと言ってみた。が、小野医師は首傾けたままだった。\n「さあ、しかしそれは無駄でしょうな。直ぐに行きますがね」\n 小野医師はやはり妻の顔を覗き込むようにして、その枕許に坐ったきりだった。\n「少し遅れるようですね」\n 妻は静かに呼吸を続けている。その枕頭には五人の子供達も集まっていた。そのとき、私の頭には時間の感覚はなかったようだ。十二時の鳴るのも、一時の鳴るのも、私は知らなかった。\n「御臨終のようですね」\n しかし妻の様子には、なんの変化も起らなかった。それを見守っている子供達の顔にも、少しも苦痛の色は浮かんでいなかった。\n「こんなにも楽に、人間て死ねるものでしょうか」\n 私は思わず小野医師を見上げた。小野医師は妻の瞼を開いてみた。\n「御臨終です」\n 私はぼんやり妻の顔を眺めていた。そのときになっても、私にはどうしても妻が死んだという実感は迫らなかった。それほど穏やかな死顔だった。が、私の握っていた妻の手が、見る見る冷くなって行った。私は急いで柱時計を見上げた。時計の針は、ちょうど二時を指していた。その私の耳に、急に時計の音が鳴り響いてきた。\n 享年四十六であった。\n\n三\n\n 妻が亡くなったという電報を見て、駆けつけて来た荏田の栄子(妻の異父妹)が、いきなりこんな話をした。\n 妻の実母が、夜半、私と妻が訪ねて来た夢を見たのである。その夢の中で、私は普通に挨拶しているのに、妻はつくねんと立ったまま挨拶一つしようともしないのである。\n「変な、おとくさんだよ」\n 実母は夢の中でそう思いながら、目が覚めた。が、あたりはまだ真暗く、実母は妙に心にかかりながら、うつうつと浅い眠りに落ちていた。\n「おとくさんに、なにか変ったことがなければいいが。夜が明けて、ほんとにほっとしたよね」\n 実母は家人の一人一人に、その夢の話を繰り返しては、そう言い足していたという。そこへ同時に妻の危篤と死亡の電報が届いたのである。\n「道理で、おとくさんが挨拶しなさらなかったはずだよ」\n 妻の息絶えたのは午前二時、すると、実母の夢枕に立ったのは、ちょうどその頃のことかと思われた。\n「しかしおとくさんは幸せ者だったよ。死んでからも、夫婦一緒なんだものね」\n「お祖母さんたら、そんなこと言って、目ばかりぱちぱちやってんのよ。でも、不思議ですわね」と、栄子はその話を結んだ。\n 不意に、悲しみが込み上げてきた。それにしても、妻は、妻の霊はこんな私の姿をも宿して行ってくれたのか。\n「許してくれよ」\n しかし私は泣きはしなかった。愚かな私は以前から、この期に臨んでの、しどろもどろの振舞を恐れていたのだが、不思議なほど涙は出なかった。しかしこのとき以来、瞼の奥に、譬えば涙ぶくろとでもいった、鈍い重みを持った袋のようなものが出来た感じで、もし一度この袋が破れでもしたら、最早涙は際限ないのではないかとも思われた。\n が、葬式というものは、どこか白々しいところのあるものだ。妻の遺骸は、紙花や、電気蝋燭に飾られた祭壇の上に乗せられ、なんだか私の手の届かない所にいるようだ。保木からは八木下夫妻(妻は幼いとき養女に行った、その養家の相続者)が来、翌朝には郷里から私の老母も到着した。\n 私は別になんということなく、朝から酒ばかり飲んでいた。ほっ、ほっと、まるでラジオ時報の前ぶれのような、いかにも痛みに堪えかねた、妻の泣き声が、ふと耳の底に聞こえたり、思わずそれを胸の中で繰り返したり、ひどく時間を間違えたりした。\n 麻布六本木のカッフェで、白いエプロンこそ着けていたが、いかにもいなか娘らしい、初めて会った妻の姿、妙義山の山上で、深い山霧に包まれながら、初めて口づけした妻の姿、麻布宮村町の、あの崖下の妻の下宿で、褥をともにした妻の姿。\n 保木で生れた長男を負って、私は襁褓提げて、初めて移り住んだ長崎町の家、二男の生れた西荻窪の家、三男の生れた深川の家、長女と四男の生れた阿佐ヶ谷の家。"
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"role": "assistant",
"content": " 防空演習の、警報のバケツ叩いていた妻の姿、針の日に、縫糸通しかねていた妻の姿、破れ財布を、インフレ札で脹らませて、走り廻っていた妻の姿。どんな妻の姿も、私はありありと思い浮かべることができた。しかしどんな妻の姿も、忽ち消え失せる。\n 通夜には、生前から「雨女」と笑われていた妻の通夜らしく、雨になった。しかし当日は、冬には珍らしい、うららかな小春日和であった。\n 告別式には、大勢の友人達が焼香してくれた。殊に中谷君は信州松本から、浅見君は千葉の御宿から、わざわざ上京し、また福井の三好君はたまたま上京中で、それぞれ厚い焼香を受けた。麻布時代からの旧い友人達にも見送られ、妻も満足のことだろうと思われた。\n 殊に出棺のとき、妻の棺を瀧井さんに持っていただいたということは恐縮なことではあったが、私はなにか宿縁のようにも思われて、有難いことだった。\n 私は葬儀屋の若い人と、妻の棺を抱えて、玄関の方へ出て行った。そのとき、子供達は先きに火葬場の方へ行き、友人達は庭に立って、出棺を待っていてくれた。ただ三四人の人だけが、部屋に上って話していた。\n「どなたか、ちょっと手貸して下さい」\n 玄関を下りようとして、葬儀屋の若い人が声をかけた。一人が直ぐ立ち上った。それが瀧井さんだったのだ。私は瀧井さんと、妻の棺を抱え、例の涙ぶくろが今にも音たてて脹れ上るようだった。\n 瀧井さんは私の作家としての目を開いて下さった先輩であった。私は妻を知った頃、瀧井さんの「無限抱擁」の一聯の作品を知ったのだ。私は「無限抱擁」から文学の養分を汲み取ると同時に、なにより生きる自信を与えられたとも言い得よう。生来頑な私の、妻への愛情が私は私なりに、こんなにも精一杯に開花出来たというのも、その自信のゆえではなかったろうか。若い日のことが思われた。\n が、妻の棺は生前に妻が買物籠を提げ、古びた下駄を引きずって、日に何度行ききしたかと思われる横町を運ばれて、八百屋の角で霊柩車に乗せられた。\n 自動車は直ぐ動き出した。友人達や、近所の人達に見送られ、霊柩車はやがて次第に速力を増しながら、大きく二三度バウンドして、私の視野から消えてしまった。\n 友人達も帰ってしまった後、私は母と向かい合った。\n「これからが、淋しいものやが、どうか力を落さぬようにな」\n 私はこの母の老先を見護るべき妻の、先立って行った不幸を、妻に代って母に詫びた。そんな日本の妻というものが哀れだった。\n「どうして、こんなに大勢の子供達を、こんなに立派に育ててくれたのですもん。主婦の務は十分につくしてくれられたのです。よい人でした」\n 母は健気な面持で、そう言った。そんな母の姿も哀れだった。\n 数時間後、白骨になった妻は、長男に抱かれて帰って来た。私と母は子供の体に塩まいてから、それを迎え入れるのだった。\n\n四\n\n 初七日もすみ、田舎の歳末の気にかかる母も帰って行ってしまった。\n 私はひとり台所の火鉢によりかかっていた。別に、なにすることもないのである。静かだった。今日も、縁側には暖かそうな陽が当り、冬とも思われない空の色が、障子のガラスを真青に染め、それが部屋隅の鏡に映っている。しかし鏡に映る色というものは、どんな色も冷い。\n そう言えば、鏡というものは冷いものだ。どんなものの影も映すけれど、どんなものの影も止めはしない。そんなものを、昔の母は娘に遺したという。哀れだった。\n 妻が亡くなって以来、私はなにに対してもあまり抵抗を感じなくなってしまったようだ。胸の中にぽかんと穴が開いているような感じである。亡くなった当座は、呆然として、却って朝から酒など飲み、いかにも夢うつつのようであったけれど、こうしてひとりになってみると、急に空洞の大きさが感じられる。不意に得体の知れぬ感情が湧き起こってきた。思わず、私は立ち上る。ぐるぐると部屋の中を歩いてみる。子供達の破れた靴下や、汚れたものが脱ぎ捨てたままである。\n「春も過ぎ、夏もくるのに、冬の支度をどうしよう」\n 病床の妻はよくそういったものだった。が、その妻も死んでしまったではないか。なにごともなるようにしかなりやしない。今年の冬は、そらこんなに暖いではないか。それよりこの自分をどうしよう。\n 書斎の床の間には、妻の遺骨が花々に飾られて置かれてある。私はそっとその横の机の前に坐ってみた。何日ぶりかのことだった。\n 不意に、雲のような哀しみが湧いて来て、ああと思ううちに、哀しみは涙となって溢れ出た。哀しみは胸を慄わせ、涙は溢れ、溢れて来た。私はとうとう机の上に泣き伏した。\n 純粋に、哀しみだけの涙だった。少しの悔恨も、執念も、その中には混ってはいなかった。妻が危篤に陥ったとき、妻は自殺を図ったのではなかったかと、私は妄想にかられたこともあった。しかしその思いは、今は毛頭もない。妻はそのような女ではなかった。あれほどなにごとにも怺え忍んで、生き耐えてきた妻の最後を、そのような妄想で穢してはならない。それは私の人の好い気やすめではないのだ。妻のために、愚なまでにつつましい、妻の心を、私は素直に受けねばならないのだ。\n 実母の夢枕にまで、こんな私の姿を宿して行くような妻ではなかったか。少しの悔恨もあってはならない。またあろうはずもないではないか。\n ただ青みだつような哀しみだった。そんな哀しみが、次ぎから次ぎへ、涙となって溢れて来る。例えばエレベーターなどの急下降するとき、三半規管の中を内淋巴が急に揺れ動く、あの感覚にも似て、不意にきゅっと胸を絞るような、哀しみの湧き方である。私自身どうすることも出来ない。私はあわてて、やっと目の上を押えることができるだけである。\n 最早、善も悪もない、むしろ非情にも近い哀しみである。しかし人の涙となれば生温い。まして、五十近い男の頬を流れる涙などというものは、だらしない極である。しかし私にはそれを怺える力は、今はない。私はまたも机の上に泣き伏してしまう。幸にも涙というものはそういつまでも流れ出るものではない。いつか目の縁を引き吊るようにして、自然に涙の干くのを待つより他はない。\n 外には、冬の日とも思われない、うららかな日日が続いているのに私は自分ながら愛想のつきるような日日を送っている。ひとり、机に向かっていると、必らずあいつがやって来る。来るぞ、と思う。が、もうそのときには、涙はだらしなく頬を流れているのだ。あいつは、日に何度ともなくやって来る。私はその度に他愛なく、机の上に泣き伏さねばならなかった。\n たしかに、夢を見ているのだと思ってはいた。しかし妻は死んだのではなかったとも思っていた。表には、酔払いらしい大声と、足音が聞こえている。なにか玄関の戸に突き当ったような音がした。途端に、隣りに寝ていた妻が上体を擡げ、じっと聞き耳立てているふうであった。私はそんな妻の姿を、夜具の中から首を縮めて眺めていた。が、妻はいかにも安心したように、直ぐ体を落し、蒲団の中に入ってしまった。\n 私は机の上に俯伏したまま、うたた寝をしていたようである。今のは夢であろうか。それとも、妻の生前、そんなことがあったのを思い浮かべていたのであろうか。定かでない。最早夕方近く、ふと気づくと、学校から帰った子供が掛けてくれたのか、私の肩先には、妻の羽織が掛っていた。すると、私はやはり眠っていたのであろうか。\n 涙というものは、まして中年の鰥男の涙などというものは、薄穢いものだ。甘ったるい感情の自慰のようなものであろう。しかしいかに愚かな私でも、既に五十近く、私の涙袋もいつか干からびてしまうであろう。若しも涙のないこの哀しみというものは、どんなものであろうか。\n 一体、こんな哀しみは、どこから来るのであろう。あるいは私の胸の中に開いた空洞から湧いてくるのかも知れない。\n 妻が死んだという、その哀しみだけではないようである。それは私自身にも、なにか関りがあるようだ。たしかにその空洞は、少し曖昧な言葉ではあるが、私の生命力とでも言ったものの中に、口開いているかとも思われる。この腑抜けたような無気力さも、あるいはそのためであるかも知れない。妻を知った頃の私の日記には、毎日気負い立った、若若しい言葉が書き連ねてある。その頃の、某日の一句である。\n「二人は最早、別別の二個ではない。一個である、生けるものに、0.5 というものの存在はない」\n そうであった。私は若い日の自分に教えられた。契りとは、私だけのものではない。妻だけのものではない。すると、私の命の中に開いた空洞は、言って見れば、今は亡い二人の契りの痕かとも思われる。最早、それは 0.5 ではない。0 である。\n その空洞には未来はない。あるものは過去だけである。過ぎ去った日日の黒闇の中に、思い出だけが、儚い色に灯点っているばかりだ。すると、この哀しみは、その空洞の未来のない未来を、私の生の終りの日まで、既に涙もなく、荒涼と駆け巡るのであろうか。\n そう言えば、子供達は思いの他に元気である。和夫でさえも、骨持っての火葬場の帰途、凧上げている友達に、大声で呼びかけたという。\n「直ぐ行くから、待っとってね」\n 案じていた、ひとり娘の郁子も、それほど力落した気配もない。\n 皆、過ぎ去ってしまった母の死に、いつまでもかかずらっていられないほど、彼等の未来は遥かなのであろう。却っていかにも爺むさく、目の縁など脹らしているような私を、急に劬ってくれるようにもなった。"
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"role": "user",
"content": " だが、正造の政党に対する熱意は冷めきっていた。いや、寧ろ一党一派に属することが、問題の解決にいかに支障が多いかを痛感していた。そのために、改進党以来の多年の縁故まで、すでに断っていたのである。山県が政党の利用に腐心し、伊藤がまた自ら政党を組織したのも、要するにもはや藩閥に立法を逆転するほどの力の失せた証拠ともいえる。少くともその杞憂はうすれたと正造は思った。しかし鉱毒問題に対しては、伊藤の心事もまた甚だ疑わしい。いまさら伊藤傘下に参じてみたところで、おそらく問題の解決になんの効果もないだろう。いや、再び政争の裡に入りこんでは、かえって禍根を遺すことになる。そう思わざるを得なかった。まして鉱毒問題は、すでに国家問題である。やはり自分はどこまでも、純粋な立場に立って進むべきだ。正造のその信念は、結局動かすことができなかった。彼は頑固ともみえる態度で、断然入党を拒絶した。\n 例の兇徒嘯集被告事件は、十月十日、前橋地方裁判所刑事部法廷で、第一審公判の第一回が開かれた。\n 当日被告一同の弁護人として、花井卓蔵、塩谷恒太郎、三好退蔵、小木曽義房、太田資時、長島鷲太郎、小川平吉、竹内平吉、信岡雄四郎、今村力三郎、中鉢美明、黒須龍太郎、戸口茂里、平岡万次郎、斎藤次郎、高橋四郎、小林茂八、大島染之助、大野清茂、中村英嘉、伊東昌春、林民五郎、黒羽源治、木村嘉吉、中村勘蔵、山田武、岡馨が出廷した。なお弁護士で当日は欠席したものがこのほか十数人あったが、彼等はいずれも、鉱毒問題並びに被告の境遇に同情して依頼に応じたもの、或はすすんで弁護の労をとろうと申しでたものであった。\n 公判はひきつづき毎週月水金の三回ずつ開廷されて、弁護人の多数はわざわざその度に東京から出張して、被告のために尽力した。こうして公判が五回を重ねたときである。検事と弁護士と双方からの請求によって、群馬、栃木両県の被害地を臨検することになった。即ち十月二十三日から五日間にわたって、判事、検事、書記、弁護士及び各村の鑑定人立合で、被害地の農物作を検べたうえ、雲龍寺、邑楽郡役所、館林警察署、川俣等の現場にも臨検した。一行中の弁護士は塩谷恒太郎、戸口茂里、高橋秀臣、石山弥平、小林茂八であった。\n ついで第十五回目の公判の十一月十八日は、小林検事の論告のある日であった。定刻前になると、原田英三郎を除いた五十名の被告が入ってきた。深編笠をとって、老若とりどりの坊主頭がずらりと並んで着席した。いずれも長いあいだの入獄で一層蒼ざめた顔に緊張をみなぎらせつつ、検事の論告いかにと固唾をのんでいた。\n 検事はまず雲龍寺の騒擾より弁論すべしといって、今鉄平の申立を根拠にして押出しの目的を推論し、「多数が政府にむかって居催促をなし、それでもなお願意の容れられない時は、無政府も同様であるから、古河の家を破壊するのだと公言したということである。政府にむかって破壊的行為に及ぶものとまでは見られないが、無政府云々と公言した以上は、その胸中に危険の念が生じておったことは勿論である。況んや雲龍寺において、死を決するとか、農商務省の門前は墳墓の地なりとか、穏かならぬ演説をしたのは、即ちこれを証するものである」と論断した。\n つづいて雲龍寺の状況について述べだしたが、告発状にも予審調書にも、総指揮官、総督、郡監など、あたかも被告たちがそうした役割を設けてことを構えたように虚構されているのを、彼もまたそのまま取りあげて、たとえ兇徒嘯集のためではなくとも、途中官憲の説諭を受けても帰村を肯じない申し合せで予め設けた用意に疑いないと断じた。こうして今鉄平の解散命令から、本堂内の騒擾、翌朝の出発に到る間の各被告の罪状を一々論述して、さらに邑設郡役所、館林警察署に於ける経緯に及んだ。並いる被告は、法廷の雰囲気もきょうは殊更に厳粛に身にしむ思いで最初から深く覚悟するところのある様子であった。検事の舌端はいよいよ鋭くなって、やがて川俣騒動の論告に移った。\n 予審調査に於ける被告の陳述と、警部や巡査の証言を、適宜に按配しつつまず騒動の概略を述べたのち、\n「而して川俣で舟を押しだす前にこの暴動の協議をなしたのは、野口春蔵、永島与八、稲村与平等であって、警官の固めを破ろうと企てたことは、各警部巡査の証言によって明らかである。この協議の結果、大出喜平、庭田恒吉、設楽常八、室田忠七、青木金次郎、亀井朋治、福田和寿蔵、山崎銈次郎、家富元吉、小林善吉、栗原宰次郎、岩崎佐十、小山孝八郎、川島元次郎、持斎茂吉、原田英三郎等が主としてその暴動に与ったのである」\n いかにも碓信に充ちた語気であった。\n ことごとに不利な論告を下されてきて、さすがに被告たちは、内心の動揺を覆いきれぬ様子だった。先刻から、いよいよ深く項垂れて膝をふるわせている者もあれば、眦を怒らせて検事の顔を睨みつけている者もいた。だが、検事はどこまでも冷厳な調子で言葉をつづけた。\n「証人及び被告人のなかには、警官が暴行したというようなことを申立てる者があるが、これは一件記録中に証拠として見るべきものが少しもない。しかし被告人のうちに傷を受けた者のあるのは事実である。だが、これは巡査に捕えられる際に抵抗したために自ら招いたものであろう。ただ山崎銈次郎の頭部の負傷に至っては、本職も甚だ不憫にたえぬ次第であるが、これは恐らく石塚佳之助という巡査が剣を奪われ、その剣を投げた者があるということゆえ、それが銈次郎の頭部に当って負傷したものであろうと思う」\n この時である。しずまり返っていた傍聴席の一隅から「エヘン、エヘン」と咳払いがきこえ、つづいて「アアア......」という長い大欠伸がひびき渡った。裁判官も弁護士も傍聴人も、この意外な出来事に思わず動揺して耳をそばだてた。なかにも小林検事は、弁論の腰を折られた憤りの目差しで声の方を睨みつけた。欠伸の主は黒の紋服をきた六十前後の肥った老人で、着物の袖から逞しい両腕を高々と突きだしたまま、集る視線に動ずる色もなく、最後まで十分に伸びをして裕々と手を下した。\n 磯野裁判長が手をあげて「これ、これ」と注意した。\n「公判廷でそんな振舞はつつしまねばいかん。傍聴人は静粛謹慎にしておらねばならぬくらいのことは心得ているだろう」\n「はい、はい」\n 老人は、看守たちが引きだそうとして寄ってくるのを、後目にかけて席を立ち、衆目環視のなかを何か危げな足どりで退廷した。いうまでもなく田中正造であった。傍聴席には、それを見送ってクスクスと忍びわらいを洩らす者もいたが、果して何人が、この傍若無人の欠伸の裏に、正造の無言の憤りがひそんでいたことを理解したであろうか。検事はこの欠伸に悪意のあることを認めて、官吏侮辱罪としてただちに起訴に及んだ。\n 次回から引きつづき十数回にわたる公判廷で、花井卓蔵、鳩山和夫をはじめ数名の弁護士の弁論があった。いずれも公訴事実を否定し、検事の論告を反駁して、被告の無実を主張した。\n こうして十二月二十二日に原田を除いた被告一同が法廷に出席して、磯野裁判長から判決の言渡しを受けた。最も重いのは野口で官吏抗拒罪で重禁錮二年、罰金二十円。大出、左部、永島、山本、稲村、谷津は官吏抗拒罪で各重禁錮一年、罰金十円。家富、室田、庭田(恒)、小林、亀井、野村、島田、大森、茂呂、谷、大朏、小山、黒田、中田、小泉、福地、田名網、堀口、関口は官吏抗拒罪で各重禁錮四月、罰金四円。小野は官吏侮辱罪で重禁錮一月、罰金五円。栗原、原田は治安警察法違犯罪で各軽禁錮二月。その他はいずれも無罪であった。この判決に対し検事と被告側と、双方から控訴の申立てをした。よって本件は直ちに東京控訴院の審理に移されることとなり、被告たちは全部日ならずして熊谷警察署を経て東京鍛冶橋監獄署へ護送された。\n まだこの判決の下されるやや以前のこと、ある日、島田三郎が信濃屋へ訪ねてきた。当時弁護士たちは公判ごとに前橋へ出張するので、ほとんど他の事件を顧みる暇もなく、慮外の難渋をしていた。それで彼等もぜひとも事件を東京の裁判所へ移して、控訴で覆えす方針のもとに尽力していた。当局が浦和を避けて前橋へ裁判をもっていったのは、東京に近いと新聞がうるさいからである。正造もそんなふうに穿った観察を下して、その陋劣に憤慨していた。そうした際で、島田の用談も無論裁判に関していたが、島田はかねての心痛を口に出して、健康をたずねた。正造が寝食を忘れて狂奔していることは知っていたが、顔の浮腫や肌に生気のないのは、疲労のせいばかりと思えなかったからである。\n「格別どうということもないが、朝から晩までいろいろの人と会って休む暇もないので、例の通り脳が悪くなって困ります。そのくせ夜更けていざ寝ようとなると、脳が冴えてなかなか寝就かれない。この頃は夜半に酒を飲んで、酒の力で寝るようにしているが......」\n 正造が何気なく答えると、島田は例の生真面目さから突込んできた。\n「それはよろしくない。そんなことをしていたら、酒のためにからだを毀してしまう。あなたはいま、この事件について大勢の利害を一身に背負っている中心人物ではないか。その根幹たるあなたが、自分の慾望に勝てないようなことでは仕方がない。酒は断然おやめなさい」\n「いや、からだは問題ではないです。いま私は、脳が悪くて困るとか、寝られないで困るとかいったが、それはただ私事で、自分のからだなどもとより憎むところでない」"
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"role": "assistant",
"content": " 正造は、三角の瞼のなかを異様な光におののかせた。\n「その気持はよくわかっている。あなたのその精神に動かされて、弁護士も弁を振えば、新聞記者も筆を揮っている。総ての者があなたの熱誠に免じて、力を惜しまず心を労しているのです。だが、それだからこそ、あなたは体を大事にしなければならない」\n「そんなはずはない」正造は強く首をふり、見る見るうちに声も激してきた。「田中正造などはなにものでもない。弁護士諸君でも、新聞記者諸君でも、鉱毒事件なり被害民なりに同情すればこそ奔走してくれているのだ。あなただってそのはずだ。田中正造に同情するのではなくて、正造の事業に同情してくれているはずだ」\n「それはつまり同じことだ。事業は人がなす。本当の事業というものは人間と仕事が表裏一体をなす。故に事業に同情するのは、同時にその人に同情するのである。......まア、そんな議論はとにかく、酒はおやめなさい」\n「正造に同情してもらったところで、そんな同情はうれしくもなんともない」\n 正造は顔を真赤にして島田を睨みつけた。だが島田もひるまなかった。\n「酒を飲むなといわれてそんなに怒るが、あなたも昔亡くなった沼間さんに手厳しく忠告したことがあった。私はあんな乱暴なやり方はしないが、怒られたくらいで忠告はやめない。事業のためだということがわかっていながら、その忠告をきかれないというのもおかしいではないか」\n それはまだ民権運動の盛んな時分のことである。彼等の共通の先輩であった沼間守一は至って不養生の人で、酒に淫して誰の諌言もきき入れなかった。正造は心配して、あるとき酒を酌み交しながら諄々と忠告した。だが、沼間は頑強に拒けてどうしても耳を貸さない。正造はついに言語をもって論ずべからずと断念して、その場にあった徳利をつかむなり、沼間めがけて叩きつけた。島田は沼間からその話をきいていたので、今それを持ち出したのである。\n 正造は気に添わぬと一時は感情的にむかッ腹を立てる。だが、やがて静思し反省して己の非をさとれば、恬淡と人の言葉を受け入れるに吝でない。島田もその気質を知っていたから、その日は、そのまま別れて帰った。すると果して四五日して、正造が麹町仲六番町の島田の家へ訪ねてきた。無論断然禁酒したという報告を手土産として、過日の無礼をわびるつもりで閾をまたいだのであった。\n 年が改って明治三十四年、正造は還暦の年をむかえた。\n\n――元日や、つるのあたまは真赤なり、わがひげ白しこれみよの春\n\n 手帳の端へ書きとどめた偶詠である。\n 正月の六日に、正造は横浜にいる原田勘七郎たけ子の夫妻を訪ねて、二日間滞在した。その間に正造はひそかに遺言めいたことをたけ子に託した。たけ子は原田定助の長妹で、嘗つて養女として小中に養われていたこともある。正造は旧臘以来宿痾の脳病が思わしくなく、気力が衰え、なんとなく一二カ月のうちに体に異変がありそうな予感に襲われていたため、おのずから思慮がそこへ赴いたのである。\n 帰途片瀬の橋本旅館に一泊したが、その八日の夜半に暈をおぼえ、褥中にいても寝返りごとに頭がくらくらした。その状態は一晩中つづいて、旅寝の憂を深めたが、朝になってやや軽微になった。帰京後、戸口茂里の忠告で、千住大橋の千葉という灸点家に診察をうけた。すると右肩が左肩より六分長い。もし八分長くなれば半身危いといわれた。正造はその診断そのものよりも、にわかに横浜へ出かけていった自分の予感に感悟するところがあった。\n 正造は灸点家の言葉をたけ子へ書き送り、つづいて一月二十日付で次のような後便をしたためた。\n「顧れば明治十一年に於て養男女二人を実家に返し、尚一同財産不残を国家のために追払わん事を父に請うて許可を得たるは、予め今日に至る事を明かに計算せしものなり。所謂一つの予言なり。抑〻予言なるものは、前途の計算の明かなることを明言するものなり。然るに天地間の数の算術を知らぬ者は、其の永遠広大無辺の勘定を知らずして、難有予言の確信なることを解せず候云々」\n なおこの頃から、正造はしきりに憂結の文字を手帳に書きとどめだした。\n「神を信じて組織せる国なり」\n「北清に我が軍分捕せぬは、陛下の御徳を表すべし。国民の気質を表するに足る。上と下とは忠実なり。家にあっても外にあっても忠実なり。行政官は国費を濫用し、及び分捕す。外に分捕せぬは、未だ勢力の至らざるものか。否、軍人の正直なるがためなり。内を見よ。人を殺すもの従五位となる。国土を守る忠義は獄にあり。請願者を獄に下し、請願の事件は放棄し、被害人は獄に下し、加害人は跋扈せしめ、而も請願事項は其の儘放棄せり」\n これよりさき、伊藤内閣は官紀紊乱のそしりをうけ、輿望は早くも地に落ちていた。当時逓信大臣星亨は、東京市参事会に自ら籍をおいて、徒党を擁して市政を専断していたが、たまたま大疑獄事件が起って、一身に世の物論をあびることとなった。のみならず拘禁されるものが頻々で、星自身にも繋累が及ぼうとする風説が専らであった。貴族院議員百余名は、連署して星の免黜を伊藤にせまり、旧臘二十一日に星の辞職となった。こうした紛擾のうちに第十五議会は開かれたが、政府はただちに増税案を提出し、政友会の多数をたのんで難なく衆議院を通過させた。\n 正造はさらに二月から三月にかけて手帳に書きつづけた。\n「憲法なきときは、帝は敬すること神の如し。今憲法できてより、尊厳を失うことあらば奈何。憲法は古来以前の尊崇を保たんためなり。人民は以前にもなき難有権利と義務との区別を判明にしたり。中央の政府は権限を守るに過ぎざるに、今や然らず、上下を掠めて、中央独り権威を専らにせり」"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "段また段を成して、\n羅馬時代の\n野外劇場の如く、\n斜めに刻み附けられた\n桟敷形の伊香保の街。\n\n屋根の上に屋根、\n部屋の上に部屋、\nすべてが温泉宿である。\nそして、榛の若葉の光が\n柔かい緑で\n街全体を濡してゐる。\n\n街を縦に貫く本道は\n雑多の店に縁どられて、\n長い長い石の階段を作り、\n伊香保神社の前にまで、\nHの字を無数に積み上げて、\n殊更に建築家と絵師とを喜ばせる。\n\n\n市に住む木魂\n\n木魂は声の霊、\n如何に微かなる声をも\n早く感じ、早く知る。\n常に時に先だつ彼女は\nまた常に若し。\n\n近き世の木魂は\n市の中、大路の\n並木の蔭に佇み、\n常に耳を澄まして聞く。\n新しき生活の\n諧音の\n如何に生じ、\n如何に移るべきかを。\n\n木魂は稀にも\n肉身を示さず、\n人の狎れて\n驚かざらんことを怖る。\n唯だ折折に\n叫び且つ笑ふのみ。\n\n\nM氏に\n\n小高い丘の上へ、\n何かを叫ぼうとして、\n後から、後からと\n駆け登つて行く人。\n\n丘の下には\n多勢の人間が眠つてゐる。\nもう、夜では無い、\n太陽は中天に近づいてゐる。\n\n登つて行く人、行く人が\n丘の上に顔を出し、\n胸を張り、両手を拡げて、\n「兄弟よ」と呼ばはる時、\nさつと血煙がその胸から立つ、\nそして直ぐ其人は後ろに倒れる。\n陰険な狙撃の矢に中つたのである。\n次の人も、また次の人も、\nみんな丘の上で同じ様に倒れる。\n\n丘の下には\n眠つてゐる人ばかりで無い、\n目を覚した人人の中から\n丘に登る予言者と\nその予言者を殺す反逆者とが現れる。\n\n多勢の人間は何も知らずにゐる。\nもう、夜では無い、\n太陽は中天に近づいて光つてゐる。\n\n\n詩に就いての願\n\n詩は実感の彫刻、\n行と行、\n節と節との間に陰影がある。\n細部を包む\n陰影は奥行、\nそれの深さに比例して、\n自然の肉の片はしが\nくつきりと\n行の表に浮き上がれ。\n\nわたしの詩は粘土細工、\n実感の彫刻は\n材料に由りません。\n省け、省け、\n一線も\n余計なものを加へまい。\n自然の肉の片はしが\nくつきりと\n行の表に浮き上がれ。\n\n\n宇宙と私\n\n宇宙から生れて\n宇宙のなかにゐる私が、\nどうしてか、\nその宇宙から離れてゐる。\nだから、私は寂しい、\nあなたと居ても寂しい。\nけれど、また、折折、\n私は宇宙に還つて、\n私が宇宙か、\n宇宙が私か、解らなくなる。\nその時、私の心臓が宇宙の心臓、\nその時、私の目が宇宙の目、\nその時、私が泣くと、\n万事を忘れて泣くと、\n屹度雨が降る。\nでも、今日の私は寂しい、\nその宇宙から離れてゐる。\nあなたと居ても寂しい。\n\n\n白楊のもと\n\nひともとの\n冬枯の\n円葉柳は\n野の上に\nゴシツク風の塔を立て、\n\nその下に\n野を越えて\n白く光るは\n遠からぬ\n都の街の屋根と壁。\n\nここまでは\n振返り\n都ぞ見ゆる。\n後ろ髪\n引かるる思ひ為ぬは無し。\n\nさて一歩、\nつれなくも\n円葉柳を\n離るれば、\n誰も帰らぬ旅の人。\n\n\nわが髪\n\nわが髪は\n又もほつるる。\n朝ゆふに\nなほざりならず櫛とれど。\n\nああ、誰か\n髪美くしく\n一すぢも\n乱さぬことを忘るべき。\n\nほつるるは\n髪の性なり、\nやがて又\n抑へがたなき思ひなり。\n\n\n坂本紅蓮洞さん\n\nわが知れる一柱の神の御名を讃へまつる。\nあはれ欠けざることなき「孤独清貧」の御霊、\nぐれんどうの命よ。\n\nぐれんどうの命にも著け給ふ衣あり。\nよれよれの皺の波、酒染の雲、\n煙草の焼痕の霰模様。\n\nもとより痩せに痩せ給へば\n衣を透して乾物の如く骨だちぬ。\n背丈の高きは冬の老木のむきだしなるが如し。\n\nぐれんどうの命の顳顬は音楽なり、\n断えず不思議なる何事かを弾きぬ。\nどす黒く青き筋肉の蛇の節廻し.........\n\nわが知れる芸術家の集りて、\n女と酒とのある処、\nぐれんどうの命必ず暴風の如く来りて罵り給ふ。\n\n何処より来給ふや、知り難し、\n一所不住の神なり、\nきちがひ茄子の夢の如く過ぎ給ふ神なり。\n\nぐれんどうの命の御言葉の荒さよ。\n人皆その眷属の如くないがしろに呼ばれながら、\n猶この神と笑ひ興ずることを喜びぬ。\n\n\n焦燥\n\nあれ、あれ、あれ、\n後から後からとのし掛つて、\nぐいぐいと喉元を締める\n凡俗の生の圧迫.........\n心は気息を次ぐ間も無く、\nどうすればいいかと\n唯だ右へ左へうろうろ.........\n\nもう是れが癖になつた心は、\n大やうな、初心な、\n時には迂濶らしくも見えた\nあの好いたらしい様子を丸で失ひ、\n氷のやうに冴えた\n細身の刄先を苛苛と\nふだんに尖らす冷たさ。\n\nそして心は見て見ぬ振......\n凡俗の生の圧迫に\n思ひきりぶつ突かつて、\n思ひきり撥ねとばされ、\nばつたり圧しへされた\nこれ、この無残な蛙を――\nわたしの青白い肉を。\n\nけれど蛙は死なない、\nびくびくと顫ひつづけ、\n次の刹那に\nもう直ぐ前へ一歩、一歩、\n裂けてはみだした膓を\n両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。\nそして此の人間の蛙からは血が滴れる。\n\nでも猶心は見て見ぬ振......\n泣かうにも涙が切れた、\n叫ぼうにも声が立たぬ。\n乾いた心の唇をじつと噛みしめ、\n黙つて唯だうろうろと踠くのは\n人形だ、人形だ、\n苦痛の弾機の上に乗つた人形だ。\n\n\n人生\n\n被眼布したる女にて我がありしを、\nその被眼布は却りて我れに\n奇しき光を導き、\nよく物を透して見せつるを、\n我が行く方に淡紅き、白き、\nとりどりの石の柱ありて倚りしを、\n花束と、没薬と、黄金の枝の果物と、\n我が水鏡する青玉の泉と、\nまた我に接吻けて羽羽たく白鳥と、\n其等みな我の傍を離れざりしを。\n\nああ、我が被眼布は落ちぬ。\n天地は忽ちに状変り、\nうすぐらき中に我は立つ。\nこは既に日の入りはてしか、\n夜のまだ明けざるか、\nはた、とこしへに光なく、音なく、\n望なく、楽みなく、\n唯だ大いなる陰影のたなびく国なるか。\n\n否とよ、思へば、\nこれや我が目の俄かにも盲ひしならめ。\n古き世界は古きままに、\n日は真赤なる空を渡り、\n花は緑の枝に咲きみだれ、\n人は皆春のさかりに、\n鳥のごとく歌ひ交し、\nうま酒は盃より滴れど、\nわれ一人そを見ざるにやあらん。\n\n否とよ、また思へば、幸ひは\nかの肉色の被眼布にこそありけれ、\nいでや再びそれを結ばん。\nわれは戦く身を屈めて\n闇の底に冷たき手をさし伸ぶ。\n\nあな、悲し、わが推しあての手探りに、\n肉色の被眼布は触るる由も無し。\nとゆき、かくゆき、さまよへる此処は何処ぞ、\nかき曇りたる我が目にも其れと知るは、\n永き夜の土を一際黒く圧す\n静かに寂しき扁柏の森の蔭なるらし。\n\n\n或る若き女性に\n\n頼む男のありながら\n添はれずと云ふ君を見て、\n一所に泣くは易けれど、\n泣いて添はれる由も無し。\n\n何なぐさめて云はんにも\n甲斐なき明日の見通され、\nそれと知る身は本意なくも\nうち黙すこそ苦しけれ。\n\n片おもひとて恋は恋、\nひとり光れる宝玉を\n君が抱きて悶ゆるも\n人の羨む幸ながら、\n\n海をよく知る船長は\n早くも暴風を避くと云ひ、\n賢き人は涙もて\n身を浄むるを知ると云ふ。\n\n君は何れを択ぶらん、\nかく問ふことも我はせず、\nうち黙すこそ苦しけれ。\n君は何れを択ぶらん。\n\n\n\n\n君死にたまふことなかれ\n (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)\n\n\n\nああ、弟よ、君を泣く、\n君死にたまふことなかれ。\n末に生れし君なれば\n親のなさけは勝りしも、\n親は刄をにぎらせて\n人を殺せと教へしや、\n人を殺して死ねよとて\n廿四までを育てしや。\n\n堺の街のあきびとの\n老舗を誇るあるじにて、\n親の名を継ぐ君なれば、\n君死にたまふことなかれ。\n旅順の城はほろぶとも、\nほろびずとても、何事ぞ、\n君は知らじな、あきびとの\n家の習ひに無きことを。"
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"role": "assistant",
"content": "\n君死にたまふことなかれ。\nすめらみことは、戦ひに\nおほみづからは出でまさね、\n互に人の血を流し、\n獣の道に死ねよとは、\n死ぬるを人の誉れとは、\nおほみこころの深ければ、\nもとより如何で思されん。\n\nああ、弟よ、戦ひに\n君死にたまふことなかれ。\n過ぎにし秋を父君に\nおくれたまへる母君は、\n歎きのなかに、いたましく、\n我子を召され、家を守り、\n安しと聞ける大御代も\n母の白髪は増さりゆく。\n\n暖簾のかげに伏して泣く\nあえかに若き新妻を\n君忘るるや、思へるや。\n十月も添はで別れたる\n少女ごころを思ひみよ。\nこの世ひとりの君ならで\nああまた誰を頼むべき。\n君死にたまふことなかれ。\n\n\n梅蘭芳に\n\nうれしや、うれしや、梅蘭芳\n今夜、世界は\n(ほんに、まあ、華美な唐画の世界、)\n真赤な、真赤な\n石竹の色をして匂ひます。\nおお、あなた故に、梅蘭芳、\nあなたの美くしい楊貴妃ゆゑに、梅蘭芳、\n愛に焦れた女ごころが\nこの不思議な芳しい酒となり、\n世界を浸して流れます。\n梅蘭芳、\nあなたも酔つてゐる、\nあなたの楊貴妃も酔つてゐる、\n世界も酔つてゐる、\nわたしも酔つてゐる、\nむしやうに高いソプラノの\n支那の鼓弓も酔つてゐる。\nうれしや、うれしや、梅蘭芳。\n\n\n\n\n京之介の絵\n (少年雑誌のために)\n\n\n\nこれは不思議な家の絵だ、\n家では無くて塔の絵だ。\n見上げる限り、頑丈に\n五階重ねた鉄づくり。\n\n入口からは機関車が\n煙を吐いて首を出し、\n二階の上の露台には\n大起重機が据ゑてある。\n\nまた、三階の正面は\n大きな窓が向日葵の\n花で一ぱい飾られて、\nそこに誰やら一人ゐる。\n\n四階の窓の横からは\n長い梯子が地に届き、\n五階は更に最大の\n望遠鏡が天に向く。\n\n塔の尖端には黄金の旗、\n「平和」の文字が靡いてる。\nそして、此絵を描いたのは\n小さい、優しい京之介。\n\n\n\n\n鳩と京之介\n (少年雑誌のために)\n\n\n\n秋の嵐が荒れだして、\nどの街の木も横倒し。\n屋根の瓦も、破風板も、\n剥がれて紙のやうに飛ぶ。\n\nおお、この荒れに、どの屋根で、\n何に打たれて傷したか、\n可愛いい一羽のしら鳩が\n前の通りへ落ちて来た。\n\nそれと見るより八歳になる、\n小さい、優しい、京之介、\n嵐の中に駆け寄つて、\nじつと両手で抱き上げた。\n\n傷した鳩は背が少し\nうす桃色に染んでゐる。\nそれを眺めた京之介、\nもう一ぱいに目がうるむ。\n\n鳩を供れよと、口口に\n腕白どもが呼ばはれど、\n大人のやうに沈著いて、\n頭を振つた京之介。\n\n\n\n\nAの字の歌\n (少年雑誌のために)\n\n\n\nAi (愛)の頭字、片仮名と\nアルハベツトの書き初め、\nわたしの好きなAの字を\nいろいろに見て歌ひましよ。\n\n飾り気の無いAの字は\n掘立小屋の入り口、\n奥に見えるは板敷か、\n茣蓙か、囲炉裏か、飯台か。\n\n小さくて繊弱なAの字は\n遠い岬に灯台を\nほつそりとして一つ立て、\nそれを繞るは白い浪。\n\nいつも優しいAの字は\n象牙の琴柱、その傍に\n目には見えぬが、好い節を\n幻の手が弾いてゐる。\n\nいつも明るいAの字は\n白水晶の三稜鏡に\n七つの羽の美くしい\n光の鳥をじつと抱く。\n\n元気に満ちたAの字は\n広い沙漠の砂を踏み\nさつく、さつくと大足に、\nあちらを向いて急ぐ人。\n\nつんとすましたAの字は\nオリンプ山の頂に\n槍に代へたる銀白の\n鵞ペンの尖を立ててゐる。\n\n時にさびしいAの字は\n半身だけを窓に出し、\n肱をば突いて空を見る\n三角頭巾の尼すがた。\n\nしかも威のあるAの字は\n埃及の野の朝ゆふに\n雲の間の日を浴びて\nはるかに光る金字塔。\n\nそして折折Aの字は\n道化役者のピエロオの\n赤い尖つた帽となり、\nわたしの前に踊り出す。\n\n\n\n\n蟻の歌\n (少年雑誌のために)\n\n\n\n蟻よ、蟻よ、\n黒い沢山の蟻よ、\nお前さん達の行列を見ると、\n8、8、8、8、\n8、8、8、8......\n幾万と並んだ\n8の字の生きた鎖が動く。\n\n蟻よ、蟻よ、\nそんなに並んで何処へ行く。\n行軍か、\n運動会か、\n二千メエトル競走か、\nそれとも遠いブラジルへ\n移住して行く一隊か。\n\n蟻よ、蟻よ、\n繊弱な体で\nなんと云ふ活撥なことだ。\n全身を太陽に暴露して、\n疲れもせず、\n怠けもせず、\nさつさ、さつさと進んで行く。\n\n蟻よ、蟻よ、\nお前さん達はみんな\n可愛いい、元気な8の字少年隊。\n行くがよい、\n行くがよい、\n8、8、8、8、\n8、8、8、8.........\n\n\n\n\n\n\n\n壺の花\n (小曲十五章)\n\n\n\n\n\n\n\nコスモス\n\n一本のコスモスが笑つてゐる。\nその上に、どつしりと\n太陽が腰を掛けてゐる。\nそして、きやしやなコスモスの花が\nなぜか、少しも撓まない、\nその太陽の重味に。\n\n\n手\n\n百姓の爺さんの、汚れた、\n硬い、節くれだつた手、\nちよいと見ると、褐色の、\n朝鮮人蔘の燻製のやうな手、\nおお、之がほんたうの労働の手、\nこれがほんたうの祈祷の手。\n\n\n著物\n\n二枚ある著物なら\n一枚脱ぐのは易い。\n知れきつた道理を言はないで下さい。\n今ここに有るのは一枚も一枚、\n十人の人数に対して一枚、\n結局、どうしたら好いのでせう。\n\n\n朱\n\n小さな硯で朱を擦る時、\nふと、巴里の霧の中の\n珊瑚紅の日が一点\nわたしの書斎の帷に浮び、\nそれがまた、梅蘭芳の\n楊貴妃の酔つた目附に変つて行く。\n\n\n独語\n\n思はぬで無し、\n知らぬで無し、\n云はぬでも無し、\n唯だ其れの仲間に入らぬのは、\n余りに事の手荒なれば、\n歌ふ心に遠ければ。\n\n螇蚸\n\nわたしは小さな螇蚸を\n幾つも幾つも抑へることが好きですわ。\nわたしの手のなかで、\nなんと云ふ、いきいきした\nこの虫達の反抗力でせう。\nまるで BASTILLE の破獄ですわ。\n\n\n蚊\n\n蚊よ、そなたの前で、\n人間の臆病心は\n拡大鏡となり、\nまた拡声器ともなる。\n吸血鬼の幻影、\n鬼女の歎声。\n\n\n蛾\n\n火に来ては死に、\n火に来ては死ぬ。\n愚鈍な虫の本能よ。\n同じ火刑の試練を\n幾万年くり返す積りか。\n蛾と、さうして人間の女。\n\n\n朝顔\n\n水浅葱の朝顔の花、\nそれを見る刹那に、\n美くしい地中海が目に見えて、\nわたしは平野丸に乗つてゐる。\nそれから、ボチセリイの\n派手なヸイナスの誕生が前に現れる。\n\n\n蝦蟇\n\n罷り出ましたは、夏の夜の\n虫の一座の立て者で御座る。\n歌ふことは致しませねど、\n態度を御覧下されえ。\n人間の学者批評家にも\nわたしのやうな諸君がゐらせられる。\n\n\n蟷螂\n\n男性の専制以上に\n残忍を極める女性の専制。\n蟷螂の雌は\nその雄を食べてしまふ。\n種を殖やす外に\n恋愛を知らない蟷螂。\n\n\n玉虫\n\nもう、玉虫の一対を"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": "「驚いたね、昨夜だつたぢやないか。」\n「さうよ、だからさ、勉強しないと目端が利かなくなるんさ。」\n\n\n納所花婿2・14(夕)\n\n 一頻り世間を騒がせた結婚沙汰が取り極められて、愈々名妓八千代が菅家へ輿入のその当日、花婿の楯彦氏は恥かしさうに一寸鏡を見ると、自分の頭髪が栗の毬のやうに伸び過ぎてゐるのに気が注いた。\n「これではどむならん。何ぼ画家やかて今日は花婿やよつてな。」\nと、楯彦氏は非常な決断で直ぐ理髪床に往く事にきめた。\n 楯彦氏はいつも頭をくりくり坊主に剃る事に定めてゐるが、婚礼の宵に納所のやうな頭をして出るのも幾らか興覚がした。\n「いつそ揉上を短くして、ハイカラに分けてやらうか知ら。」と楯彦氏は理髪床へ往く途中、懐手のまゝで考へた。「そやけど、それも気恥かしいし、やつぱり五分刈にしとかう、五分刈やと誰も変に思はんやろからな。」\n 楯彦氏は腹のなかでさう決めて理髪床に入つて往つた。床屋は先客で手が一杯になつてゐた。楯彦氏はそこらの明いてゐた椅子に腰を下して美しい花嫁の笑顔など幻に描いてゐるうち、四辺の温気でついうと〳〵と居睡を始めた。\n 額に八千代の唇が触つたやうな気持がして楯彦氏は吃驚して目を覚ました。鏡を見ると、白い布片に捲まつた毬栗な自分の額が三分一ばかり剃り落されてゐる。\n「あつ。」\nと言つて、楯彦氏は首を縊められた家鴨のやうな声を出した。\n「何ないしやはりましたんや。」\n 理髪床の爺は剃刀を持つた手を宙に浮かせた儘、腑に落ちなささうに訊いた。\n 楯彦氏は白布の下から手を出して、剃落された自分の頭にそつと触つてみた。頭は茶碗のやうに冷かつた。\n「五分刈やがな、お前、今日は......」\nと言つた儘、泣き出しさうな顔をした。\n 理髪床の爺は飛んだ粗忽をした。だが、まあ堪忍してやるさ、十日も経てば頭は五分刈の長さに伸びようといふものだ。世の中には三年経つても髪の毛一本生えない頭もあるのだから。\n\n\n道楽2・15(夕)\n\n 郵便切手を集める――といふと、何だか子供染みた事のやうに思ふものが多い。また実際欧羅巴の子供には切手を集めるに夢中になつて、日本人が偶に故国の郵便切手でも呉れてやると、\n「親切な叔父さんね、だから私支那人が好きなんだよ。」\nと、お世辞を振撒いて呉れるのがある。\n だが、切手の蒐集は決して子供染みた事ではない。堂々たる帝王の事業で、その証拠には英国のジヨオジ皇帝陛下が大の切手道楽である事を挙げたい。凡そ地球の上で発行せられた切手といふ切手は、残りなく陛下の手許に集まつてゐる。陛下が世界一の海軍と共に世界一の郵便切手の蒐集を誇られても、誰一人異議を申し上げるものはあるまい。\n ジヨオジ陛下には今一つ道楽がある。それはタイプライタアを叩く事で、この道にかけての陛下の手際は、倫敦で名うてのタイピストに比べても決して負は取られない。\n だが、タイピストとしての陛下には唯一人恐るべき敵手がある。それは米国のウヰルソン大統領で、ウヰルソン氏がタイピストとしての手際は、大統領としての手腕よりも、学者としての見識よりも、際立つて傑れてゐる。\n ウヰルソン氏は閑さへあると、タイプライタアに向つてコツ〳〵指を動かしてゐる。ある忙しい会社の重役は、甚く氏の手際に惚れ込んで、\n「タイピストとしてうちの会社に来て呉れたら、七百弗までは出しても可い。」\nと言つたさうだ。してみると、氏が若い寡婦さんを、後妻に貰つたのは、経済の立場から見ても聞違つた事ではなかつた。\n\n\n平謝り2・16(夕)\n 東京神田の駿河台に大きな病院を持つてゐる広川和一氏といふ医学博士がある。芸者の噂でもすると、顔を真蒼にして怒り出すといふ、名代の堅蔵である。\n 広川氏は多くの医者がするやうに独逸へ留学をした。洋行といふものは色々の事を教へて呉れるもので、東大の姉崎博士など、日本に居る頃は芝居を外道のやうに言つてゐたが、独逸から帰つて来ると、劇は宗教と同じく神聖なものだと言ひ出して来た。尤も姉崎博士の言ふのは劇の事で、芝居とはまた別の物らしい。\n 広川氏は独逸で芝居も見た。ミユンヘンの麦酒も飲んだ。その上にまた劇場よりも、居酒屋よりも、もつと面白いところへも往つた。そして大層賢くなつて日本に帰つて来た。\n 広川氏は停車場から一息に駿河台の自宅へ帰つて来た。そして窮屈な洋服を褞袍に脱ぎかへるなり、二階へ駆け上つて、肘掛窓から下町辺をずつと見下した。\n「かうしたところは、日本も満更悪くはないて。――だが伯林はよかつたなあ。」\nと、留学中の総決算をする積りで、腹の中で彼地であつた色々の事を想ひ出してみた。そして鳥のやうに独りでにや〳〵笑つてゐた。\n すると、だしぬけに二階の階段を、二段づつ一息に駈け上るらしい足音がして、夫人が涙ぐんで其処へ現はれた。\n「貴方、これは何うなすつたの。」\n 夫人が畳の上へ投げつけた物を見て、広川氏は身体を鼠のやうに小さくして恐れ入つた。\n「謝る〳〵。もう何も言つて呉れるな。」\n 広川氏が平謝りに謝るのを見て、夫人は漸と気色を直した。夫人は貞淑な日本婦人である。日本の婦人は「貞淑」といふ文字の為には、どんな事をも辛抱しなければならないのだ。\n それにしても夫人が畳の上に投げつけたのは何だらう。仕合せと神様と茶話記者とは其処に居合はさなかつたので少しも知らない。\n\n\n洋服和服2・17(夕)\n\n 下田歌子女史が最近大阪のある講演会で言つた所によると、最も理想的な衣服は、日本服で、それも女房や娘の縫つたものに限るのださうな。女史が『明倫歌集』の講義をするのは惜し過ぎるやうな婀娜つぽい口許で、\n「女房や娘の縫つたものには、一針づつ情愛が籠つてゐますから。」\nと言ふと、その席に居合した多くの夫人令嬢達は吻と溜息を吐いて、\n「ほんとにさうやつたわ、些とも気が注かなかつた。」\nと、それからは主人の着物を家庭で縫ふ代りに、女房や娘の物をそつくり仕立屋に廻す事に定めたらしいといふ事だ。\n 悲惨なのは男で、これからは仕立屋の手で出来上つた、着心地の好い着物はもう着られなくなつた。然し何事も辛抱で、女の「不貞腐」をさへ辛抱する勇気のある男が、女の「親切」が辛抱出来ないといふ法は無い筈だ。\n だが、下田女史の日本服推賞に対して、一人有力の反対者がある。それは広岡浅子刀自で、刀自は日本服などは賢い人間の着るべきものでないといふので、始終洋服ばかりつけてゐる。\n この頃のやうな寒さには、刀自は護謨製の懐中湯たんぽを背中に入れて、背筋を鼠のやうに円くして歩いてゐる。いつだつたか大阪教会で牧師宮川経輝氏のお説教を聴いてゐた事があつた。宮川氏が素晴しい雄弁で日本が明日にも滅びてしまひさうな事を言つて、大きな拳骨で卓子を一つどしんと叩くと、刀自は感心の余り椅子に凭れた身体にぐつと力を入れた。その途端に背の湯たんぽの口が弾けて飛んだ。\n 宮川氏のお説教を聴きながら、自分ひとり洋服のまま天国に登つた気持で居た刀自は、吃驚して立ち上つた。裾からは水鳥の尻尾のやうに熱い雫がぽた〳〵落ちて来た。\n 刀自は宮川牧師を振り向いて言つた。\n「でも洋服だからよかつたのです。これが和服だつたら身体中焼傷をするところでした。」\n\n\n欠け皿2・18(夕)\n\n 日本の遺英赤十字班が英国へ渡つた時、自惚の強い英吉利人は、\n「日本にも医者が居るのかい。」\nと甚く珍しがるやうだつたが、決して歓迎はしなかつた。\n 一行の食事は一人前一ヶ月百円以上も仕払つたが、料理はお粗末な物づくめであつた。外科医の一人は堅いビフテキの一片を肉叉の尖端へ突きさして、その昔基督がしたやうに、"
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"content": "「お皿のなかのビフテキめ、羊の肉ならよかんべえ、もしか小猫の肉だつたら、やつとこさで逃げ出しやれ。」\nと蠱術のやうな事を言つてみたが、ビフテキは別段猫に化つて逃げ出さうともしなかつた。\n ある時など態と縁の欠けた皿に肉を盛つて、卓子に並べた事があつた。それを見た皆の者は艴になつて腹を立てたが、あいにく腹を立てた時の英語は掻いくれ習つてゐなかつたので、何と切り出したものか判らなかつた。\n 一行の通弁役に聖学院の大束直太郎氏が居た。氏は英語学者だけに腹の減つた時の英語と同じやうに、腹の立つた時の英語をも知つてゐた。氏は給仕長を呼んだ。給仕長は鵞鳥のやうに気取つて入つて来た。\n「この皿を見なさい。こんなに壊れてゐるよ。」と大束氏は皿を取上げて贋造銀貨のやうに給仕長の目の前につきつけた。「日本ではお客に対して、こんな毀れた皿は使はない事になつてゐる。で、余り珍しいから記念のため日本へ持つて帰りたいと思つてゐる。幾らで譲つて呉れるね。」\n 給仕長は棒立になつた儘、目を白黒させてゐた。大束氏は畳みかけて言つた。\n「幾らで譲つて呉れるね、この皿を。」\n 給仕長はこの時漸と持前の愛嬌を取かへした。そして二三度頭を掻いてお辞儀をした。\n「この皿はお譲り出来ません。日本のお客様の前へ出た名誉の皿でがすもの。」\nと言つて、引手繰るやうに皿を受取つた。そしてそれ以後、縁の欠けない立派な皿を吟味して、二度ともう欠皿を出さうとしなかつた。\n\n\nお愛嬌2・19(夕)\n\n リンコルンと云へば、亜米利加中の人間の苦労と悲しみとを自分一人で背負ひでもしてゐるやうな、気難かしい、悲しさうな顔をしてゐる大統領であつた。\n 日本でも内村鑑三氏などはリンコルンが大好きで、「君のお顔はどこかリンコルンに肖てゐる。」と言はれるのが何よりも得意で、精々悲しさうな顔をしようとしてゐるが、内村氏には他人の苦労まで背負はうといふ親切気が無いので、顔がリンコルンよりも、リンコルンの写真版に肖てゐる。\n 将軍ウヰルソンが或時コネクチカツトの議員を仕てゐる自分の義弟某と、リンコルン大統領を訪ねた事があつた。ウヰルソンの義弟といふのは、身の丈七尺もあらうといふ背高男で、道を歩く時にはお天道様が頭に支へるやうに、心持背を屈めてゐた。\n リンコルンは応接室に入つて来たが、室の中央に突立つてゐる背高男が目につくと、挨拶をする事も忘れて、材木でも見る様に履の爪先から頭に掛けて幾度か見上げ見直してゐる。材木は大統領の頭の上で馬の様ににや〳〵笑つた。\n「大統領閣下お初にお目に懸ります。」\n「や、お初めて。」とリンコルンは初めて気が注いたやうに会釈をした。「早速で甚だ無躾なやうだが、一寸お訊ねしたいと思つて......」\n 背高男の議員は不思議さうな顔をして背を屈めた。\n「何なりとも。閣下。」\n 大統領は口許をにやりとした。\n「貴方は随分お背が高いやうだが、何うです、爪先が冷えるのが感じますかな。」\n「へゝゝ......御冗談を。」議員は頭を掻いて恐縮した。\n リンコルンの愛嬌と無駄口を利いたのは、一生にこれが唯一度きりであつた。\n\n\n中村不折2・20(夕)\n\n 洋画家中村不折氏の玄関には銅鑼が吊してある。案内を頼む客は、主人の画家の頭を叩く積りで、この銅鑼を鳴らさねばならぬ事になつてゐる。\n ところが、来る客も来る客も誰一人銅鑼を叩かうとする者が無い。皆言ひ合せたやうに玄関に立つて、\n「頼まう。」\nとか、または、\n「御免やす。」\nとか言つて案内を通じる。\n 何事も他の云ふ事には聾で、加之に独断の好きな不折氏も、これだけは合点が往かなかつた。で、お客の顔さへ見ると、六朝文字のやうに肩を変な恰好に歪めて、\n「宅の玄関には銅鑼が吊つてありますのに、何故お叩きになりません。まさか君のお目につかなかつた訳でもありますまい。」\n 幾らか嫌味交りに訊いてみる。\n すると、誰も彼もが極つたやうに、\n「いや、確かに拝見しましたが、あれを叩くのは何だか気が咎めましてね、恰どお寺にでも詣つたやうな変な音がするもんですから。」\nと言ふので、自分を雪舟のやうな画僧に、(残念な事には雪舟は不折氏のやうな聾では無かつた)自宅を雲谷寺のやうな山寺と思つてゐる不折氏は、顔の何処かに不満足の色を見せずには置かなかつた。\n だが大抵の客は用談が済んで帰りがけには、玄関まで見送つて出た不折氏の手前、\n「成程結構な銅鑼だ。どれ一寸......」\nと言つて極つたやうに鋼鑼の横つ面を厭といふ程叩し付ける。銅鑼は急に腹が減つたやうな声をして唸り出す。\n「これは〳〵雅致のある音が出ますね。」\nと客が賞め立てでもすると、不折氏は顔中を手布のやうに皺くちやにして、\n「お気に入りましたか、ははは......」\n 台所で皿でも洗つてゐたらしい女中は、銅鑼の音を聴いて、あたふた玄関へ飛び出して来ると、其処には帰途の客と主人とが衝立つて、今鳴つたばかしの鋼鑼の評判をしてゐる。\n「まあ、帰りがけの悪戯なんだわ。」\nと女中は、腹立たしさうに余計者の銅鑼を睨まへる。\n 神よ、女中をして同じやうな聾ならしめ給へ。\n\n\n竹越夫人2・22(夕)\n\n「阿母さん、お金を下さい。」\n 竹越三叉氏の、中学へ行つて居る息子さんは、上り端に編上げ靴の紐を解くと、直ぐに追はれる様に駈け上つた。阿母さんの竹代夫人は、その声にこの頃凝つて居る座禅を止めて、パツチリと眼をあけた。\n「お帰り、いくらです。突然に、何にするの。」\n「えゝ、十円。」\n 十円――中学へ行く子の要求としては少し多過ぎた。つい、この頃まで、物の値段も知らなかつたその子が何にするのか。兎も角何か目論んで、その費用を要求するといふ事は、子供の次第に一人前の人間になつて行く事を裏書する様なもので、一方には言はう様のない頼もしさがあつた。\n「十円、何を買ふの。」\n「えゝ、万年筆を買ふんです。」\n「ちと高過ぎはしなくて。」\n 阿母さんの頭には、電車の車内広告の頭の禿げた男が、万年筆を捧げ銃の形にした絵が思ひ出された。それには二円八十銭より種々とあつた。が息子の方が、一足お先に母親の胸算用を読んでしまつた。\n「ね、二円七八十銭からも有るにはあるけれど駄目なんです。友達は誰一人そんな安いの持つてないんですもの。」\n 賢明を誇る阿母さんは、手も無く十円の万年筆を買はされた。然し腹の底では、その学校の当局者が、そんな贅沢な万年筆を、学生風情に持たせてゐるといふ行り方が気に喰はなかつた。\n「宅の人の二千五百年史なんか、二銭五厘の水筆で書き上げたんぢやないか、真実に贅沢な学校だよ。」\n で、ある時竹代夫人は、何かの用事で学校に出掛けて、校長に会つた時、それとなく皮肉を言つた。校長は眼を円くして聞いてゐた。(それに無理もない。校長は万年筆が欲しい〳〵と思ひながら、十年以来鉛筆で辛抱してゐたのだ。)夫人の帰るのを待つて、生徒の誰彼は呼び出されたが誰一人万年筆は持つて居なかつた。そして最後にたつた一人あつた。その名は――竹越某。\n\n\n侯爵夫人2・23(夕)"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「フェリクスが富と地位を奪われたという消息がリヴォルノに達すると、商人は娘に、恋人のことはもう考えないで故国へ帰る準備をすることを命じた。気立ての高潔なサフィーは、この命令に踏みつけられたものを感じ、父を諌めようとしたが、父は怒ってそれに取り合おうとせず、圧制的な命令をくりかえした。\n「数日後にトルコ人は、娘の部屋に入って来て、自分がリヴォルノに住んでいることがばれたと思われるふしがある。そしたらフランス政府にさっそく引き渡されるだろう、ということを大急ぎで語った。そこで自分は、コンスタンチノープルに行く船を傭っておいたから、数時間のうちにそこへ向って出帆すると、いうのであった。娘は、腹心の召使に世話させることにして後に残し、まだリヴォルノに着いていない財産の大部分をもって、あとでゆっくり自分のあとを追って行かせるつもりであった。\n「ひとりになると、サフィーは、このばあい自分の取るべき行動の計画を心のなかで決めた。トルコに住むのはいやなことで、自分の宗教も、感情も、同様にそれに反対した。自分の手に落ちた父の書類から、恋人が国外に追放されたことを聞き、その後に住んでいる地点の名を知ったとき、しばらく躊躇はしたものの、とうとう決心した。自分のものである宝石をいくらかと金を少しばかり持ち、リヴォルノの土地の者ではあるが日常のトルコ語を解する娘を供にして、ドイツに向けて出発した。\n「サフィーは、ド・ラセーの家から二十四、五里ばかり離れた町まで無事に辿り着いたが、そのとき供の者が病気になって危篤に陥ってしまった。サフィーはできるかぎりの献身的な愛情をこめて介抱したが、きのどくなことにその娘は死んでしまって、この国のことばがわからず、世間の風習などもてんでこころえないアラビアの婦人は、ひとりぼっちになった。けれども、さいわいに親切な人に出会った。というのは、イタリア人の娘が行き先の地名を言っておいたので、その娘が死んだ後で、二人が泊っていた家の婦人が、サフィーが無事に恋人のいる家に着くように世話をしてくれたのだ。\n\n\n15 怪物とド・ラセー老人\n\n\n わたしの好きな家の人たちの経歴は、このようなものであった。それはわたしに深い印象を与えた。そのためにわかってきた社会生活のありさまから、わたしは、この人たちの美徳に感心し、人類の悪徳を非難することを学んだ。\n「とはいうものの、わたしはまだ、犯罪などというものは、縁の遠い悪事だと考えていた。つまり、慈愛と寛大がたえずわたしの眼の前にあったので、多くの称讃すべき性質が求められ発揮される活舞台に、一役を買って出たいという願望を、わたしの心に呼びおこした。しかし、わたしの知力の進んだことをお話するには、同じ年の八月はじめに起ったひとつの出来事を省略するわけにいかない。\n「ある夜、自分の食べものを集めたり家の人たちの薪を取ったりする近所の森に、いつものように出かけたさい、わたしは、衣類数点と数冊の書物の入っている革の旅行鞄が、地面に落ちているのを見つけた。わたしは、いっしょうけんめいにその獲物をつかんで、小屋に戻った。書物はさいわい、小屋でその初歩を習いおぼえたことばで書かれてあったが、見るとそれは『失楽園』、『プルタルコス人物伝』の一巻、『ヴェルテルの悲しみ』であった。こういう宝物が手に入ったので、わたしは、このうえもなく喜び、家の人たちがいつもの仕事をしているあいだに、これらの書物についてたえず自分の心を磨きかつ働かせることにした。\n「書物の影響をお話するのは、なかなか、できそうもない。それは、ときにはわたしを有頂天にする新しい想像力と感情を限りもなく心のなかに湧き立たせもしたが、失意のどん底に投げ込むことのはうが多かった。『ヴェルテルの悲しみ』のなかには、その単純で感動的な物語の興味のほかに、今までわたしにわからなかった事がらについて、いろいろ多くの意見が述べられ、多くの見方が示されてあったので、わたしはそのなかに、尽きることのない思索と驚異の源泉を見つけた。それに書いてあるやさしい家庭的な習慣は、自己以外のものを目的とする高潔な情操や感情と結びつき、家の人たちのあいだで得たわたしの経験や、自分の胸のなかにたえず生きていた欲求とも、よく一致していた。しかし、ヴェルテルそのものは、かつて見たり想像したりしたよりずっとすばらしい人間で、その性格はなんらの衒いもなく深く沈潜している、と考えられた。死と自殺についての考察は、わたしをすっかり驚嘆させた。わたしはこの立場のよしあしに立ち入るつもりはないが、それでもわたしは、主人公の意見のほうに傾き、何ゆえかはっきりはわからなかったが、その死に涙した。\n「けれども、書物を読みながらわたしは、自分の感情や境遇に、個人的にいろいろ当てはめてみた。すろと、それについて読みもしその会話を聞きもした人々と、自分が似てはいるが、同時に妙に違ってもいることがわかった。わたしは、その人々と同感したし、かなり理解もしたが、わたしは精神的にできあがっておらず、頼るものとてもなく、縁つづきの者もなかった。『生きようが死のうが勝手だった』し、死んでも誰ひとり歎いてはくれなかった。わたしの体は醜悪だったし、背丈は巨大だった。これはいったい、どういうことだ? わたしは何者だ? どこから来たのだ? 行き先はどこだろう? こういった疑問がしじゅう起きてきたが、それを解くことはできなかった。\n「わたしのもっていた『プルタルコス人物伝』には、古代のいろいろな共和国の最初の建国者の物語があった。この書物は、『ヴェルテルの悲しみ』とはずいぶん違った影響をわたしに与えた。ヴェルテルの想像からは、失意と憂愁を学んだが、プルタルコスは高い思想を教え、ふりかえって見る自分のみじめな境遇からわたしを高めて、古い時代の英雄たちを崇拝させ敬愛させた。わたしの読んだ多くのことがらは、自分の理解や経験を超えていた。わたしは、王国、土地の広大なひろがり、大きな河、はてしのない海などについて、ひどく混乱した知識を得た。しかし、都会や人間のおおぜい集まっているところはまったく知らなかった。わたしの保護者たちの家が人間研究のたった一つの学校であったわけだが、プルタルコスのこの書物は、新しくてずっと大きな行動の場面をくりひろげてくれた。国事に携わって同族を統治したり虐殺したりする人間のことを、わたしは読んだ。自分の身に引きくらべてみたところでは、いわは歓びと苦しみだけの関係においてではあったが、そこにあることばの意味を解したかぎり、美徳に対するたいへんな熱情と悪徳に対する嫌悪感が自分のなかに湧きあがるのを、わたしは感じた。こういう感情に動かされて、わたしはもちろん、ロムルスやテセウスよりは、ヌマ、ソロン、リュクルゴスというような平和な立法者に感服させられた。家の人たちの家長を中心とする生活が、こういう印象を頭にこびりつかせていたのだが、もしも、わたしの人間性に対する最初の開眼が若い兵士などによってなされ、栄誉と殺戮のために心を燃え立たせるとしたら、わたしは違った感情に染まっていたことだろう。"
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"role": "assistant",
"content": "「しかし、『失楽園』は、それとはまた違ったずっと深い感動を与えた。わたしは、手に入ったほかの書物を読んだのと同じように、それをほんとうの歴史として読んだ。それは、自分の違ったものと戦う万能の神の姿を仰いだ時のような、あらゆる驚異と畏怖の感情をひきおこした。それがあまり似ているのに気づいたので、わたしはよく、いろいろな境遇を自分にひきあててみた。わたしは明らかに、アダムと同じように、生きているほかのどんな人間とも結びつけられてはいなかったが、アダムの状態は、そのほかのどの点でも、わたしのばあいとはずいぶん違っていた。アダムは、神さまの手から完全な被造物として出てきたもの、創造者の特別な心づかいに護られた幸福で有望なものであって、性質のすぐれた者と話をし、そういうものから知識を得ることを許されていたが、わたしときたら、まったくみじめで、頼りなく、ひとりぼっちであった。わたしは何度も、魔王サタンを自分の状態にずっとぴったりした象徴だと考えた。というのは、サタンと同じように、よく、家の人たちの幸福を見ると、にがにがしい嫉み心がむらむらと湧きあがってきたからだ。\n「もう一つ、別の事情が、こういう感情を強め、ゆるぎないものにした。この小屋に着いてからまもなく、あなたの実験室から持ってきた服のポケットに、何か書類の入っているのを見つけたのだ。はじめのうちはそれをほったらかしておいたが、さて、そこに書いてある文字を判読できるようになると、精を出してそれを研究しはじめた。それは、わたしというものが創造されるまでの四箇月間に、あなたがつけた日記だった。この書類には仕事の進捗のあらゆる段階をこまかに書きつけてあったが、そのなかには、家庭的な出来事の記事もまじっていた。あなたはむろん、その書きもののことをおぼえているはずです。これがそうですよ。わたしというものの呪われた起原に関わりのあることは、何もかもこのなかには書いてある。そういうことになった胸のわるくなるような事情の一部始終が詳しく示され、あなた自身を恐怖感で苦しめ、わたしの激しい嫌悪感を消しがたいものにしたことばで、わたしの忌まわしい醜悪な姿が微に入り細をうがって書いてあるのだ。読んでいてわたしは気もちがわるくなった。苦しくなってわたしは叫んだ、『おれが生を享けた憎むべき日よ! 呪われた創造者よ! おまえでさえ嫌って顔をそむけるような醜い怪物をどうしてつくったのだ? 神さまは哀れだとお思いになって人間を自分の姿にかたどって美しい魅力のあるものにお造りになったが、おれの姿ときたら、似ているのでかえってよけいに忌まわしい、おまえの姿のけがらわしい模型だ。サタンには敬服し激励する仲間や同類の悪魔どもがあるが、おれはひとりぼっちで厭がられている。』\n「落胆しきった孤独な気もちでいる時にわたしが考えめぐらしたのは、こういうことだが、母家の人たちの美徳や愛すべく情深い気性を眺めると、わたしは、この人たちが、わたしがその美徳に感服していることを知るようになったら、わたしに同情してわたしの体のできそこないなどは見のがしてくれるだろう、と自分に言い聞かせた。いくら畸形だといって同情と友情を哀願する者を玄関払いすることがあるだろうか。わたしは、すくなくとも絶望せず、自分の運命を決するこの人たちとの会見に際して恥しい思いをしないように、どんな方法でも取ろうと決心した。わたしはこの企てをさらに幾月か延ばした。成功するかどうかが重大なことだったので、失敗したら一大事だぞと心配したからだ。そのうえ、わたしの理解力が毎日の経験ごとに向上しているので、もう数箇月ほど経って、わたしがもっと賢くなるまで、この企てに着手したくない、と考えたのだ。\n「そのあいだに、家のなかにはいくつかの変化がおこった。サフィーの居ることが家じゅうを幸福にしたが、また、家のなかがずっと豊かにもなったことがわかった。フェリクスとアガータは、もっと長い時間を娯楽と会話に費し、仕事には召使をつかった。金持ちのようでもなかったが、満足して幸福にしていた。このとおり、みんなの感情が穏かでなごやかなものであったのに、わたしの感情は、日ごとに乱れてきた。知識が増した結果はただ、自分がみじめな宿なしであることを、いよいよはっきりと見せてくれただけのことであった。なるほど、わたしは、希望をもってはいたが、水に映った自分の姿とか、月光の投げた自分など、あの壊れやすい像や変りやすい像を見てさえも、それは消えてしまった。\n「わたしは、こんな心配を握りつぶし、二、三箇月の後に受けようと決意した試験に対して、自分を強くしようと努力した。そして、ときには、理性では抑えきれない自分の思想が楽園の野に逍遥し、愛らしく美しい人たちが、自分の気もちに同感し、自分の憂いを吹きはらって、その天使のような顔が慰めの笑いを浮べている、というようなところを空想した。しかし、それはみな夢であって、悲しみを和らげてくれ、考えを共にしてくれるイヴは居なかった。わたしはひとりぼっちだった。創造者に対するアダムの歎願を、わたしはおぼえていた。けれども、わたしの創造者はどこにいるのだ? 創造者はわたしを見棄てておいたし、わたしも、心のつらさに堪えかねてこの創造者を呪った。\n「秋はこんなふうにして過ぎてしまった。わたしは、木の葉が枯れ落ち、自然がふたたび、はじめて森や美しい月を見た時にまとっていた、あの荒凉とした吹きさらしの相貌を装ったのを、驚きかつ悲しんで眺めた。けれども、塞い気候はなんとも思わなかった。わたしは、体のつくりが暑さよりも寒さに堪えるのに適していたのだ。しかし、花や、鳥や、夏のあらゆる華美な装いを眺めるのが、何よりの歓びだったのに、そういうものがなくなったとなると、家の人たちにもっと注意を向けてみるしかなかった。この人たちの幸福は、夏を過ぎても減らなかった。この人たちは、たがいに愛しあい、同情しあった。この人たちの喜びは、いずれも相互に依りあっていて、まわりに起る偶発的なことでは中絶させられなかった。この人たちを見ていればいるほど、その保護と親切を得たいというわたしの願望はいよいよ強くなり、この愛すべき人たちに知られ愛されることを心から願い、この人たちの感情のこもったやさしい眼がわたしに向けられるのを見るのが、わたしの野心の極限であった。この人たちが軽侮と恐怖の念をもってわたしから眼をそむけるようなことは、どうしても考えられなかった。この家の戸口に立った貧乏人で、まだ追いはらわれた者はなかったのだ。わたしはたしかに、わずかばかりの食べものや休息よりも大きな宝を求め、親切や同情を欲したのだが、自分にその資格がてんで無いとは思わなかった。\n「冬も深くなって、わたしが生命に眼ざめてから、四季がまるまる一めぐりした。このときわたしの注意は、自分を家の人たちに引き合せる計画だけに向けられていた。あれやこれやと、いろいろ計画をめぐらしましたが、最後に決めたのは、盲の老人がひとりでいる時に家に入って行くことであった。以前にわたしを見た人たちが怖れたのは、主としてわたしの姿の不自然な無気味さであった、ということがわかるほど、わたしは賢くなっていたのだ。わたしの声は、耳ざわりではあるが、そのなかには怖ろしいものがなかった。だから、もしも若い連中の居ないあいだにド・ラセー老人の善意ととりなしを得ることができれば、そのために若い人たちに咎められないですむかもしれない、と考えた。\n「ある日、地面に散らばった紅葉を陽が照らして、暖かくはなかったが晴ればれとしていたとき、サフィーとアガータとフェリクスは遠足に出かけ、老人は自分から望んでひとりで畄守をしていた。みんなが出かけると、老人はギターを取り出し、悲しげであるが甘美な、今までに聞いたことのなかったほど甘美で、しかも悲しみにみちた曲を、いくつか奏でた。はじめのうちは、その顔は歓びに輝いていたが、続けているうちに、考えこみ、悲しみはじめたかとおもうと、おしまいにはとうとう、楽器をわきにおいて、もの思いにふけるのだった。\n「わたしの心臓は速く鼓動した。これこそ、わたしの希望を解決するか、それとも怖れていたことが事実となってあらわれるかの、試煉の時であり、瞬間であった。召使たちは近所の市へ出かけていった。家の内も外も静まりかえり、絶好の機会だった。とはいえ、計画をいざ実行に移すとなると、手足がいうことをきかなくなって、わたしは、地面にへたばりこんだ。ふたたび立ちあがって、できるだけの断乎たる力を揮い起しながら、自分の足どりをくらますために小屋の前に立ててあった板を、取りのけた。すると、新鮮な空気にあたって元気が出たので、決意を新たにして家の戸口に近づいた。\n「わたしは戸をたたいた。『どなたです?』と老人が言った、――『お入りください。』\n「わたしは中に入って言った、『とつぜんに参りましてすみません。わたしは旅の者ですが、ちょっと休ませていただきたいとぞんじまして。ほんのちょっとのあいだ、火のそばに居させていただければ、たいへんありがたいのですが。』\n「ド・ラセーは言った、『さあ、お入りになって。お望みに添えるようにはできるでしょうが、あいにく子どもたちが畄守でして、それにわたしが盲なものものですから、食べものをさしあげかねるようなわけですが。』\n「『どうぞおかまいなく、食べものはもっていますから。暖まって休めるだけでけっこうです。』\n「わたしは膝をおろして、そのまま黙っていた。一分でもたいせつなことはわかっていたが、どんなふうに話をきりだしたらよいか迷った。と、そのとき老人が話しかけた――\n「『お客さんは、おことばから察しますと、わたしの国の方のように思われますね。――フランスの方ですね?』"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 村は雪の中のあちこちに置き捨てにされた塵芥箱のやうに、意氣地なく寂れてしまつたやうに見えた。鳶に油揚げをさらはれた後のやうに、皆ポカーンとしてしまつた。源吉は寢ながら、然し寢てゐられない氣持で、興奮してゐた。母親が、源吉の枕もとに飯を持つてきて、何時もの泣言交りの愚痴をクド〳〵してから、フト思ひついたやうに、\n「お芳が來てゐたで。」と云つた。\n「あつたら奴、ブツ殺してしまへばえゝんだ。」顏も動かさずに、ぶつきら棒に云つた。\n「何んだか、お前えに話してえことあるてたど。すつかりやつれてよ。青ツぷくれになつてな。ヒヨロ〳〵してるんだど。」\n「金持のなまツ白い息子さおべツかつくえんた奴だ――!」\n「こゝさ來て話すのも、戸口さ手で身體ばおさへてねば駄目だ位だんだ。」\n 母親がそれからお芳のことをボツリ〳〵云つた。――お芳は、まだ然し大學生からの手紙をあきらめ切つてはゐなかつた。夢の中で手紙が配達されて、思はず聲をあげ、その自分の聲で眼をさましたりする事があつた。然し今では、その手紙を待つてゐる氣持が前とはだん〳〵異つてきてゐた。前は、その男がやつぱり戀しかつた。それが何より一番だつた。それでその手紙を待つてゐた。が、男から手紙がどうしても來ないといふことが分ると、今度はいくら藥をのんでも、おまじなひをしても墮りない、どうしても生れて來ようとしてゐる子供のために、男の手紙を待つやうになつてゐたのだつた。\n お芳はあの體で一生懸命働いた。時々陣痛が起ると、物置に走つて行つて、そこで、エビのやうにまんまるにまるまつてうなつた。それは前に、家の中で突然陣痛がきたので、お芳は腹を抑へたまゝ、そこにうつぶせになつてうなつた、その時「この恥さらし」と、嫂に云はれたことがあつたからだつた。働いてゐながら、めまひが起ることもあつた。突然家の中がゆがんだまゝ、グウツと眼の前につり上つてみえた。そしてクラ〳〵ツと來た。自分でごはんの仕度をして、それがすつかり出來上つてならんでしまふと、お芳は家の隅ツこの方に坐つて、じいとしてゐた。そして皆がたべてしまつて、餘れば――餘りがあれば、コソ〳〵自分で今度はたべた。\n 寒い日だつた。お芳が仕事の手をフト置いて、ぼんやり考へこんでゐた。その時表から嫂が、手桶に一杯水をくんで入つてきた。寒中に水を汲みに行くのは、相當つらい仕事だつた。ところが入つてきて、お芳が何かぽかーんとしてゐたのを嫂が見た。\n「えゝ、この穀つぶしの淫だら女。」いきなり、お芳の體に、ひしやくで水をぶツかけた。\n「何するツ!」お芳はカツとして、向き直つた。\n「ふにやけた體して、それで働きの足しになれるか。穀つぶし。」\n ......源吉は、お芳が話して行つたことを聞きながら、逆に憎惡をもつて、そんなことで、まだまだ足りないぞ! と思つてゐた。今までのお芳に對するどんな氣持もフツ飛んでしまつてゐた。\n「んで、俺に?」\n「何時くるべかツて云つてだ。分かねツて云つたらなんも云はなえで歸つて行つた。」\n お芳から先だ! 源吉はまだ自分の顏が、自分のものでないやうに、はれ上つてゐる痛みを感じながら、一途にさう考へた。人もあらうに俺達のあの敵に身體を賣つた裏切者だ! あの女郎、眞裸にして、逆さにつり下げ、飴ん棒のやうにねぢり殺してやれ! こいつから先だ!\n\n 二、三日した。\n 今度の事件で、地主が普段生意氣な百姓の畑を取りあげてしまふ、といふ噂が村中に立つてきた。差配がそれを云つて歩いてゐるらしかつた。一度とてつもなく打ちのめされて、ウロ〳〵してゐる百姓達はビク〳〵に、一日一日を送つて行かなければならなかつた。勿論百姓達が土地を取上げられては、生きるか死ぬかの問題であつた。それに對して、本當に結束を固めて、地主に當らなければならない事であつた。然し、「幹部」を取られてしまひ、殘虐な仕打ちにあつては、百姓達はもう手も足も出ない形だつた。\n お芳が薄暗い臺所に立つて、茶碗を洗つてゐた。家には、町へ出て行つたり、近所の通夜で誰もゐなかつた。\n「お通夜さ行げば、お前の噂で、顏が狹くなる。」出しなに父親が云つた事を、お芳が考へてゐた。\n「あ、痛た。」お芳は思はず息をのんで、顏に力を入れると、口をゆがめた。又、と思ふと、情ない氣がした。お芳は茶碗を洗ふ手をやめて、臺所の端につかまると、腰をゆがめて、ウン〳〵うなりながら、こらへてゐた。間をおいて、痛みが襲つてくる度に、クラ〳〵と目まひを感じた。額に油汗がネト〳〵に出てきた。お芳は額を腕の上にのせた。お芳はしばらくさうしてゐた。痛みはちつとも止まりさうでもなく、その滿ちひきの重なる度に、一つは一つと、痛みがひどくなつて行つた。\n「あツ――うん、うん――うん、」お芳は腰から下の感覺が、しびれてしまつて、思はず、そこへ坐つてしまつた。腹の中で胎兒が動くのがはつきり分つた。瞬間、豫感が來た。お芳はハツと思ふと、夢中で、ゐざりのやうに臺所を這つた。ひどい痛みのために、黒瞳が變にひきつツて、お芳には、自分のそばが何が何やら見えなかつた。\n「あツ痛、――うん――あツ痛、」お芳は齒をギリ〳〵かみながら、ケイレンでも起したやうになつた。臺所の土間から續いてゐる納屋の方へ這つて行つた。\n 納屋の中は暗かつた。藁が澤山積まさつてゐる甘酸つぱい匂ひや、馬鈴薯や、豆類の匂ひや、澤庵漬や鰊漬の腐つたやうな便所くさい臭ひが、ごつちやになつて、お芳にはハキ氣がしてきた。鼠がすぐ側から藁をガサ〳〵いはせて走つてゆくのを、お芳は感覺の何處かで、ひよいと感じた。お芳は、放り出された毛蟲のやうに、身體をまん圓にして、痛みがうすらいでくるのを待つてゐた。色々な今までのことが考へられた。それ等がグル〳〵と頭の中を慌しくまはつて行つた。\n しばらく經つてから、町からお芳の兄と嫂が提灯をつけて、雪の夜道を歸つてきた。家の戸口が半開きになつたまゝ、うちには誰もゐなかつた。父親がお通夜に行つてゐたのは知つてゐた。お芳がゐる筈だつた。嫂はチエツと舌打ちすると、仕樣がないな、といふ顏をした。九時頃になつて、父親が歸つてきた。\n「お芳どうした。」\n「七時頃歸つたときから、居ない。」\n「七時頃――」\n 三人とも急に不安になつた。皆は家中を探がした。それから提灯に火を入れて、三人で便所を探がしたり、うま屋を探がした。居なかつた。嫂は寒さと變な豫感から齒をカタ〳〵いはせながら、二人の後に身體をすりつけるやうにしてゐた。\n 納屋の戸をあける時、もうそこより殘つてゐる所がないので、三人が妙に心に寒氣をゾツと感じた。戸をあけて、提灯を土間の方へ、さしのべて見た。光の輪が床に落ちた。ゐない。漬物樽や藁などが重なり合つてゐた。\n「もう少し奧かな。」\n 父親がさう云つて、納屋に入つたとき、何か重い、つり下つてゐるやうな、そして柔味のあるものに頭を打つつけた。\n「あツ!」彼はものも云はずにいきなり横つ面をなぐられた人のやうに、棒立ちになつた。提灯を土間の方ばかり照らしてゐたので、空間の半分から上は分らなかつた。三人は一かたまりになつたまゝ誰かに力一杯押しもどされたやうに、戸の外へよろ〳〵ツと出た。\n 兄と嫂は近所の家に息を切らして走つた。そして又その家の人から他の家に知らしてもらつた。一寸して、十二、三人の村の人が集つてきた。\n 源吉も來てゐた。皆口々に何か云ひながら、提灯を澤山つけて納屋に入つて行つた。\n お芳は入口の少し入つた所に、首を縊つて、下つてゐた。さつき父親が打ち當つたゝめか、ぶら下つてゐる身體が、その充分の重みをもつて空中でゆるく、その垂直の軸のまはりを、右へ左へと眼につかない程の圓轉を描いて搖れてゐた。"
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"role": "assistant",
"content": " 各自口を抑へ、提灯だけを差しのべて見てゐた百姓達に、そのかすかに動いてゐるといふ事が不氣味さを誘つた。お芳の顏色は紫色になつて、變にゆがんでゐた。身體には藁くづが澤山ついてゐた。\n 後で家の中をさがしたとき、前に書いて用意をして置いたらしい遺書が二通出てきた。一つは親、一つは源吉に宛てたものだつた。あとはいくら探がしてもない事は意外であつた。お芳は自分の關係した大學生には遺書をのこして行つてゐなかつた。それをきいたとき、源吉はぐいと心を何かに握られたやうに思つた。\n ――自分は金持を憎んで、憎んで、憎んで死ぬ。......自分は生きてゐて、その金持らに、飽きる程復讐しなければ死に切れない、さう思つたこともあつた。そして、それが本當だ、と思ふ。が、自分は女であり、(それだけなら差支へないが)女の中で一番やくざな、裏切りものである。それが出來さうもない。自分は、貴方と一緒になつてゐたら、どんなに幸福であつたか、と、今更自分のあやまつた、汚い根性を責めてゐる。――そして、最後に、自分は、札幌の大學生には、ツバをひつかけて死ぬ。と書いてあつた。\n お芳も矢張り俺達と同じだつたんだ、――だまされるのは、何時だつて、外れツこなく俺達ばかりだ! ――源吉はさう思ふと、身體中がヂリ〳〵と興奮してくるのを覺えた。\n\n 十\n\n 源吉はいよ〳〵やらう、と思つた。それは警察の事件と、今度のお芳の縊死で、前にさうと考へてゐたのより、もつと根強いものになつてゐた。百姓達はいくら警察の拷問で、ビク〳〵してゐると云つても、如何に彼等が自分達を苦しめるものであるか、といふことが、骨の心までもしみ入つてゐた。それは間違ひなくさうだつた。だから、意志の強いものが、嫌應なしに、グン〳〵――グン〳〵その氣持をつツついて行つたら、今度百姓達は自分達の命である畑のことで、極めて不安な立場にも置かれてゐるのだから、又――そして而も前よりはモツト強く立ち上ることが出來る可能性があるやうに思はれた。「幹部」が居なくなつた今、初め源吉は、自分がそれを引きうけて、やつてみようと思つたのだつた。それがうまく行けば、それこそ素晴しいものだつた。さうなれば、源吉は、自分なら、あんなヘマな、そしてあんな生ヌルイことはしないぞ、と思つた。氣持は、この前のがきまる時からだつた。地主の家を燒打ちでもして、他人の血で肥つたまるで虱のやうな――いや、「虱そのまゝ」の彼奴等を、なぶり殺してやる!\n 源吉はそれを――さうならせる迄、然し、待つてゐられなかつた。勿論さうなれば、自分一人でやるよりは、もつときゝめがあることは分つてゐた。が、この場合、源吉の氣持としては、さうする事さへはがゆかつた。嚴密に云つて、源吉は、どうなる、など、さう先のことは考へなかつた。それよりも亦、自分のしようと思つてゐることさへ、出來るものか、どうかさへ分らずに、やつてのけようとしてゐたのだ。それは、この前の、鮭の密漁をした時、皆が二ヶ月も三ヶ月も魚を食へもせずに、モグ〳〵やつてゐたとき、源吉はそんなのにお構ひなしにさつさと自分でやつてのけた、それと同じだつた。「親父とお芳の遺言と、俺の考へ――この三つでやるんだ。」\n 然し、一方、源吉は自分のすることが、さう無駄であるとは思はなかつた。かへつて、自分の思ひ切つたことが、闇にゐる牛のやうにのろい百姓にキツト何か、グアンとやるだらう、そしたら、それが、口火のやうになつて、皆が案外かへつて手ツ取早く、一緒になつて、ヤレツ、ヤレツ!! と鍬と鎌をもつて立ち上る! さうなれば、まんまと、畑は俺達百姓の手に、もぎ取れるやうになるかも知れないぞ。――源吉はそんな事まで想像した。然し、何より、憎い! 畜生、待つてゐやがれツ、源吉はまだすつかりハレの引かない痛みの殘つてゐる頬や身體をさすりながら、叫んだ。\n その晩、源吉は、ドロツプスの罐程の石油罐に石油をつめ、それを、ボロ〳〵になつた座布團で包んで、外へ出た。母親には、今度皮はぎに朝里の山に入ることゝ、春の鰊場のことで、石田へ相談に行つて來る、と云つて置いた。外は星もない暗い夜だつた。雪道がカン〳〵に凍つてゐた。源吉は身體が、さうせまいと思つても、小刻みに顫へてゐた。ひよいとすると、獨りで齒がカチ〳〵と打ち當つてなつた。源吉は道を急いだ。然し、歩いてゐるといふことが、水落ちのあたりが變にくすぐつたくなつて、じつとしてゐられない程齒がゆく思はれた。しまひに源吉は小走りに走り出してしまつた。凍つてゐた空氣が兩方に分れて、後へ流れて行つた。もうどつちを向いても何んにもない處に出てゐた。何時のまにか、源吉は普通の速さにかへつてゐた。振りかへつてみると、灯りが二つ三つ暗い原ツぱにチカ〳〵今にも消えさうに、頼りなく光つて見えた。源吉は又ひよいと思ひついたやうに、走り出した。呼吸がはげしくなると冷たい空氣で、鼻穴がキン〳〵してきた。一寸すると源吉は又歩いてゐた。\n 夜道では誰にも會はなかつた。\n「停車場のある町」の電燈の光が、ずウと前方の黒い幕のやうな闇に文字通り點々と見える所まで來たとき、フト源吉は、立ち止つた。何かにグイと立ち向ふやうな氣持の張りを感じた。\n 町に入ると、源吉は用心深く、本通りでなく、家の裏、裏と歩いて行つた。町の通りは誰も、もう歩いてゐるものがなかつた。大抵の家は、電燈を消してゐた。雪がつもつて馬の背のやうになつた狹いデコボコ道を、源吉は注意深く歩いて行つた。時々、戸がガラ〳〵ツと開いた。それが靜まり返つた平野の町に、思つたより高く響きかへつた。源吉は何度もその音でギヨツとした。\n\n 誰か、大きな聲で叫びながら、町の通りを、周章てゝ、走つて行つた。二、三軒の家の表戸がガラ〳〵と開いた。\n「何んだべ。」と、隣り同志が、丹前の前を抑へながら、きゝ合つた。急に町がやかましくなつた。と思ふと、\n「火事だ! 火事だ!」と叫びながら、停車場の方へ、二、三人走つて行つた。\n 表に立つてゐた町の人達が一齊に、そつちを見た。暗い空が、心持明るかつた。が、瞬き一つする間に、高さが一丈もある火の柱がフキ上つた。バチ〳〵と燒けあがる火の音が聞えてきた。見てゐるうちに、町中の、家と云はず、木と云はず、それ等の片側だけが、搖めく光をあびて、眞赤になつて、明暗がくつきりとついた。町を走つてゆく人の殺氣だつた顏が一つ一つ、赤インキをブチかけたやうに見えた。\n 町中の人が皆家から外へ飛び出してゐた。女や子供は、齒をガタ〳〵いはせて、互に肩を合はせながら立つて見てゐた。\n「何處だらう。」\n「さあ。――停車場だらうか。」\n「停車場なら、方角が異ふよ。もうちよつと右寄りだ。」\n「何處だべ。」向側の家の人に言葉をかけた。\n「地主でないかな。」\n「んだかも、知れない。――」\n「まあ〳〵。」\n 走つてゆく人に、きくと、\n「地主だ、地主だ!!」と、大聲でどなつて行つた。\n「地主だら放つておけや。」誰かゞ、ひくい聲で云つた。\n「たゝられたんだ。」\n「んだべよ。」\n「――放け火でねえか。」思はず大聲で云つたものがあつた。\n 一寸だまつた。\n「さあ、大變なことになるべ。」\n 急に、皆の頭の上で、毀れたやうな音をたてゝ、半鐘がすりばんでなり出した。それが空中に反響して、不氣味な凄味で、人達の背中に寒氣を起さした。\n 地主の家は停車場からは離れてゐた。が、その邊は、ヂリ〳〵とこげる程熱くなつて、白い眩光を發しながら燃えてゐるので、消防の人や、立つて見てゐる人達の顏の皺一本、ひげ一本までもはつきり見分けがついた。\n 汽車が構内に入つてくる度に、警笛を長くならした。それが何か生物の不吉な斷末魔の悲鳴のやうに聞えた。地主の家は、立派な金をかけた建物なために、俗つぽい、腐れかゝつた町の家などゝ軒を並べるのを潔ぎよしとしないとあつて、とくに町並から離して建てられてあるために、――それに風もなかつたので、他に火が延びるといふ心配はなかつた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一行の遠去かるのを待って、僕は入れ代りに土窟の方へ入っていった。\n「深夜の市長さん。――」と呼ぶと、奥から声があって、\n「おう、――おお、先達の若いのだな。......早くこっちへ入れ」\n 僕は逡巡することなく、勝手を知った土窟の中にゴソゴソと匍いこんだ。奥では市長がニコニコ笑っている。僕はまず気になることを最先に訊いた。\n「いま出ていった提灯の連中は何者ですか。立派な風体をしていたが、真逆ここまで入ってきたわけじゃないでしょうね」\n「うふン。――」と、老人は例の癖で拇指と人差指とで小鼻を先の方へツーンとつまみながら「いや儂のところへやって来たんだよ。――どうだ、こんな汚いところに住むのをやめないか。年寄の身体には持ってこいの、その上便利この上もないというアパートがあるから、そっちへ引越をせんか、もし引越しをするなら、室代を無料にした上、三食を只で賄うようにしてやるから、行く気はないか――などと大層なことをぬかしやがった」\n「ああ、それは願ってもない幸いじゃないですか。失礼だが年齢を考えると、行って厄介になった方がいいですよ」\n「莫迦を云え、お前も思いの外とんちきだな。誰が行ってやるものかい」\n と、老人は意気軒昂として叫んだ。\n「一体あれは何者です」\n「何とか委員というのだろうが、あの達磨のように肥っていた奴が、有名な市会議員の動坂三郎という人物だ」\n「えッ、動坂三郎......」僕は少からず驚いた。動坂三郎といえば、いまは市会議長の後釜に擬せられている人物で、その実力は測るべからざるものとされている。ただ商売が、さる大遊廓の持ち主であるため、実力は十分にありながら寧ろ市政の表面にはあまり出たがらなかったのであるが、近年どう悟ったものか、従来の消極主義を捨てて積極主義に転向し、しかもかなり目にあまるほどの振舞いが見えてきた。またそれだけに彼の門を叩きその幕下に馳せ参ずる者も増加し、その方面では凄い信望があるという人物だった。そのような人物がこの汚い土窟をわざわざ覗きに来るなんて、全く意味がわからない。\n「市議の大立物たる動坂三郎が訊ねてくるなんて、変ですね」\n「なに変でもないよ。こっちは『深夜の市長』さんだから、市議が来ても大して不思議じゃないじゃないか。うわッはッはッ」\n「貴方は深夜の市長! そうでしたネ。あッはッはッ」\n「......変に儂の機嫌をとったりしやがって、ほんとに彼奴はイヤな野郎だよ。はッはッはッ」\n 土窟の中は、時ならぬ哄声のために、ワンワンと反響した。深夜の市長は笑い疲れたものか土窟の中にゴロリと横になった。\n 僕はこのとき、街の科学者と呼ばれる速水輪太郎から預ってきた手紙を取りだして、老人に手渡した。\n「ほう......」といって深夜の市長は身を起した。「なんだお前が持ってきたのか。道理で手間取ると思ったよ」\n 軽く叱言をいいながら、老人は至極機嫌よく、天井に隠した電灯をつけながら、その下で封を切って読みだした。\n「......なるほど、流石は輪太郎だ。これなら間違いなしの答だ。三月二十九日午後七時五十一分三十秒に、あの時計を狂わせる原因を得ているというのだな。よオし、それでは早速出かけるとしよう」\n「出かけるって、どこへ行くんですか。その前に、どうして街の科学者が、そんな答を出したのですか、僕に説明して下さい」\n「どうして答が出たなんてことを、今喋っている隙はない。そんなことは輪太郎から聞いたらいいだろう。それよりも例の事件を早く解決しなければならないのだ。そうだ、恰度いい。お前さんも一緒に来て、手伝ってくれないか」\n「えッ、それではこれから出掛けて、二十九日の夜の殺人事件の謎を解こうというのですか」僕は深夜の市長の毅然たる面を見上げていった。「それならこっちからお願いします。連れてって下さい」\n「うん、そうして貰いたい。その代り駄賃として、途中で面白い話を聞かせてやる。一昨夜油倉庫の火事があったことを知っているだろう。あの火事も一と通りの火事とは訳が違うという話だ。どうだこれなら面白いだろう」\n「ああ、あの夜の火事が曰くつきなんですか。......」\n「そうともそうとも、新聞には出ていないが、あの火事場に半焼けになった人間の片腕が転がっていたのだ」\n「ほう、片腕が、......ですか」\n「うん。ところがその片腕を拾おうとすると、なんのことだ何処に行ったか、影も形も見えなくなっていたというんだ」\n「焼け棒杭かなんかが、人間の片腕に見えたのでしょうか」\n「そういう解釈もあるねえ、何しろ油倉庫にいた人達の中には行方不明者なんか一人も居らないし、それに......それに附近にいたルンペンどもの頭数もちゃんと揃っていた。だから眼の誤りだという解釈もあるが、しかし見た男は、確かにそこに片腕が転がっていたと保証するのだ。それが本当なら、変な話じゃないか。......さあ、その後は歩きながら話すとしてお前さん一足先に外へ出てくれ」\n そういって「深夜の市長」は、土窟の天井の明りをパッと消した。\n\n\n9\n\n\n それから「深夜の市長」と僕との奇妙な道行が始まった。彼は三月二十九日夜の殺人事件を解くのだと称していたが、なにをするのかと思っていると、大通りへ出るなり、そこに通りかかった空のトラックの方を向いて手をあげた。するとトラックは、驚くべき素直さをもって、大急ぎでブレーキをかけ僕たちをすこし通りすぎたところで停車したのだった。\n「亀沢町まで頼むよ」\n と「深夜の市長」が何か変な手真似をしながら声をかけると、運転手は黙って肯くのであった。だが僕は、その運転手が敬虔な眼眸をもって「深夜の市長」に対するのを見遁がしはしなかった。――僕等はトラックの後へ攀じのぼった。\n 向きを変えたトラックが亀沢町へ入りこむと、老人は合図をして車を停めさせた。\n「廻り路をさせて済まなかったな」\n 老人の挨拶は若々しかった。運転手は何か云いたげに唇をモゴモゴ動かしたが、遂に一言も発しなかった。ただ前と同じような敬虔な眼眸で老人を見送るばかりだった。\n「深夜の市長」は、そこに佇立して走りゆくトラックを眺めている僕を促して、ドンドン明るい街の方へ引張っていった。\n「いよいよやって来たぞ」と老人は僕のオーヴァを抑えた。"
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"role": "assistant",
"content": "「ええッ。......」\n「さあ、向うの角に見えるのが、明治昼夜銀行の亀沢支店だ。そこへ行って、支店長を呼んで貰ってなるべく小さな声で――ちょっと用事が出来ましたから、恐縮ですがお願いいたします......と丁寧に云うんだよ。それから一つ、これを頸にかけていってくれ。......」\n といって「深夜の市長」は、僕の頸に、なにか頸飾りのようなものを懸けてくれた。驚いて手で触ってみると、それは細い黒い紐で、ただ胸に当るところになにか鍵のようなものが下っていた。よくよく見ると、それは美しい翡翠で、風変りにも太短い鍵の形を彫ってあった。どうやらそれは何かの信号を先方へ伝えるものらしく思われた。\n 僕は半信半疑で、昼夜銀行の扉を押した。\n 銀行の中はまだ宵のうちのせいか、だいぶん混み合っていた。どこに支店長がいるのかと、僕は帳簿が沢山並んだ間に点在する銀行員を見廻した。すると室の中央に突立っていた年配の人物が、こっちを向くや否や、手招きをしながら、ツカツカと高い応接台のところへ出て来た。僕は彼が支店長だなと悟った。\n「......ちょっと用事ができまして、お願いしたいというんですが......」\n と、面羞い言葉を支店長の耳に囁くと、\n「畏りました。只今参りますとお伝えを......」\n 支店長は僕の胸に揺めいている翡翠の鍵に向って慇懃に挨拶をした。あまりうまく事が搬ぶので、僕はむしろ呆気にとられた程だった。\n 外へ出てみると「深夜の市長」は最前の位置で、じッと待っていた。\n「まことにお待たせを......」\n と、裏口から出てきたらしい支店長を見ると「深夜の市長」はニコニコしながら二、三歩近づき、\n「早速ですが、二十九日の午後七時五十一分頃に、貴方のお店から新しい十銭白銅貨を沢山受取っていった男がなかったでしょうかね」\n「はッ。十銭白銅を沢山に......二十九日の午後七時五十一分でございますか。はアて、当行に於きましては左様なお客様がお見えになりませんでした」\n「そうかネ。いや、どうもお忙しいのに済みませんでした」 \n ぶっきら棒な挨拶をし終ると、「深夜の市長」はすぐさま僕のオーヴァを引張って、また歩きだすように信号した。\n それは実に妙な光景だった。りゅうとした支店長と汚い服装をした「深夜の市長」とが相対して、変な問答をするところは、まるで芝居の舞台を見るような気がした。それにしても、例の飾り気ない調子でぶっきら棒な物の言い方をするのを横から聞いていると、この老人にはどことなく冒しがたい威厳が備っているようであった。「深夜の市長」の綽名はその辺から来たのかもしれないが、とにかく怪しみても余りある人物だと云わなければならない。僕は「市長」の素性に、ますます深い興味を覚えた。\n それから老人は、またトラックを呼びとめて、今度は大川を渡って、小伝馬町の支店へ馳らせた。そしてまた僕に、同じような使いをさせた。須田町支店、上野支店、金杉支店という順序に、同じような順礼が続いたが、どこでも同じ質問を発し、そして同じような答を受取った。しかし老人は一向失望する様子もなく、昼夜銀行の順礼を続けるのであった。二十九日の午後七時五十一分に、沢山の十銭白銅貨を受取っていった男......を一体何処でうまく探しあてることができるのであろうか。\n 僕がすこし疲れを催して来た様子を見たのか、「深夜の市長」は自らすすんで、一昨夜、横川町四丁目の油倉庫に起った火事について語りだした。\n「......いいかネ。火事場に転がっていた片腕というのは、右の腕だったよ。二人ばかり見た奴があったが、どっちの云うこともピッタリ合っていたから信用してもいい。その右腕は倉庫の水道口のところに転がっていて、明るい余燼の火を浴びているのが見えたのだが、そこはやはりプスプス燃えている焼け跡の中だから、踏みこんでいっては取れない。何か棒切れはないかというので、二人が一寸場を外して探しにいった後で、どうなったのか見えなくなってしまったのだ。うまく取出せば、これはまた面白いことになったがまことに残念だ。しかしその片腕については、もう一つ、面白い話がある。その手の指が四本しかなかったのだ。欠けているのは拇指だった。この指だ。......」\n といって「深夜の市長」は自分の拇指を目の前へ出して、ピクピク動かせて見せたのち、それを鼻へ持っていって例の癖をスーッと鮮かにやってのけた。\n「......拇指のない右腕が、あの火事場に転がっていた。そしていつの間にか見えなくなった。しかも焼け死んだ人間の心当りはないというのだから、面白い話じゃないか」\n「それは、また下に落ちて燃えだしたか、それとも別の人が持っていったか、どっちかでしょうね」\n と、僕は次第に興奮を感じながら口を挟んだ。\n「そうだ。そのどっちかだろう。ところが現場をいくら探しても、右腕の骨は見当らなかった。尤も他の骨も見当らなかったのだ。だからもともと腕だけが投げこんであったものか、それとも身体全体があって腕だけ焼け残っていたのか分らないが、とにかく油倉庫の火事のことだ。うまく真中のところで焼けると、人骨なんか粉々になって、形を止めないだろう。それはこの頃の火葬場のように、重油を使って焼いた屍体を見るがいい。実によく焼けているからねえ。あれをもっと火力を強くすることは訳はないのだ。そのとき人骨は粉々になってしまうだろうと想像するのは、これは容易なことだろうじゃないか、ねえ君」\n「はア......。そうですねえ」\n「いや思わず演説しちまった。儂は昔、雄弁大会というのを聞いたことがあったのでねえ。はッはッはッ」\n「深夜の市長」は笑ったが、その笑いは妙な含羞の響きを持っていた。僕の方はすこしも笑うことができなかった。その理由は、誰にも分ってくれるだろう。......\n 遂に「深夜の市長」がその夜の順礼に凱歌をあげたのは、出発地とは途方もない見当外れの、T市の反対側に位するところの明治昼夜銀行目黒支店だったのである。――頭髪を短かく刈りこみ、色眼鏡をかけた目黒支店長は、屋台寿司の出てくる薄暗い横丁で大袈裟に驚きの様子を現わしながら、ハッキリ応えた。\n「......よく存じて居りますよ。なにしろその時、実にうまく行ったのでございます。二十九日のたしか午後七時五十一分ごろ、もう店を仕舞うちょっと前のことでございますナ、お客様がお見えになりまして、手前の店払渡しの小切手九十九円八十銭というのを払出していらっしゃいましたが、九円八十銭だけはニッケル貨で、それも新しいのを呉れと仰有いました。ところがそれより十分ほど前に、別のお客様が見えまして、紙幣の外に新しいニッケル貨を八円ばかり交ぜて預けていらっしゃったのがありました。その前のお客さまは、新しいニッケルをバラのままお出しになり、それからわざわざ手前の店に備えつけの貨幣を包みます紙がございますが、それを御請求になってご自分でお包みになって、預けていらっしゃったのでございます。それが四本の棒包みになりましたが、後のお客様にその四本で八円の外に、別にバラでございました一円八十銭を添えまして差上げましてございます」\n「それは面白いなア」と「深夜の市長」は盛んに例の小鼻を引張る癖をくりかえしくりかえし発揮しながら、「つまり、四本の二円棒包みに、バラで一円八十銭のニッケル貨幣を持っていったんですね。どうです。その人はどんな風体をしていましたか」\n ――背広服で、背は高い方、年齢は三十になるかならずか、色浅黒く、苦が味走った無髭、無眼鏡の逞しい男......と、支店長は一つ一つ思いだしながら答えた。\n「何か手に特徴がなかったかネ。――」\n そう云った「深夜の市長」の声は、気のせいか少し上ずって聞えた。\n「ああ、手です手です。そうです忘れて居りました。手と仰有ったので思い出しましたが、そのお客様はニッケル貨幣の棒包みを手帛の中に丸めてお収いになりましたがどこか様子が変なので、注意して見ていますと、お客様は左手ばかりを使って手帛の端を結んでいらっしゃるのです。実に器用なものでしたなア。......いえ、まだ話が厶います。それから右手の方はどうなすったのかと、それとなく見ていますと、まあどうでしょうか、右手に拇指がないのです。つまり右手は拇指なしの四本指なんで......」\n「ウむ......」と老人は呻った。横から聞いていた僕は「深夜の市長」が先刻話した拇指のない人間のことを想い出してハッとした。\n「......それでナニかね......」深夜の市長は乗りだしながら、\n「そのお客様は、右手の四本指を見せまいと気にしていたようだったかナ」\n「いえ、そんな気配はありません。恥かしいともなんとも思っちゃいないようなようでした」\n「大ぴらで四本指を見せていたんだと......ハテナ。それからもう一つ訊きたいことは、始めの方のお客様が棒包みを作る前に、そのニッケル貨幣はバラバラだったかね。それとも......」\n「さあ、それはハッキリ覚えていませんが、こうっと......。そうです。なんでもそのお客様は小型の鞄をもっていらっしゃいまして、それを台の蔭でお開きになり、それからニッケルを取出されましたが、応接台の上に二十枚ずつキチンと積みあげたものを私どもの目の前にお並べになりました。つまりバラバラなところは見なかったように思いますが......」\n「ああ、それでよく分った。どうも支店長さん、いろいろ済みませんでした。後は小切手の番号から振出人と裏書に書いた四本指の男の名前、それからその十分前にニッケルを預けていった男のことなどが伺いたいんだが、また何れ後からもう一度来ますから、それまでに調べて置いて下さいな。いや、どうも済みませんでしたね」\n そういって「深夜の市長」は、何遍も丁寧に頭を下げた。そして僕を促して、そこを立ち去ったのである。\n「どうもお前さんにも、散々苦労をかけたが、これで用事は一と先ず済んだよ。だが苦労しただけあって、今夜の話はお前さんにも面白かったろう。ことに四本指の手のことなんかはネ」\n 僕は「深夜の市長」と、目黒の通りを肩を並べて歩みながら、さっきから聞いてみたいと思ったことを遂に口に出した。"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖し、検覈することを、そうしてそれが彼らの確執を最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。\n 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬が彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲を我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造していることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。\n それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳しく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。\n 今日我々のうち誰でもまず心を鎮めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。\n\n 二\n\n むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究を始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。\n しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」\n かの早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。\n かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合(矛盾せる両思想の)は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。(後段参照)\n 魚住氏はさらに同じ誤謬から、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。\n すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる検覈を加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想から来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 三\n\n むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎められる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。\n 見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露、無解決、平面描写、劃一線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって推讃の辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに一見して矛盾に見えるばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、刻一刻に身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや? その中心はどこにありや?」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも起ってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。\n さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。\n 魚住氏はこの一見収攬しがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。曰く、「この奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の利いた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を犯さねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という冠詞をつけて呼ばねばならなくなるのである。\n この論者の誤謬は、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と称えらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった(一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった)ことに起因していたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた)に起因しているのである。そうしてさらに詳しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。\n かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その同棲者が無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。\n\n 四\n\n かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。\n 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。\n 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": " そういわれると、「むむ......それも一理あること」と、袁紹の心はすぐなだめられてしまった。\n 武将の大事な資格のひとつは、果断に富むことである。その果断は、するどい直感力があってこそ生れる。――実に袁紹の短所といえば、その直感の鈍いところにあった。\n 玄徳は、なお弁明した。\n「徐州にやぶれて、孤身をご庇護のもとに託してからまだ自分の妻子はもとより一族の便りすら何も聞いておりません。どうして関羽と聯絡をとる術がありましょう。私の日常は、あなたも常に見ておいででしょう」\n「いや、もっともだ。......だいたい、沮授がよくない。沮授がわしを惑わせたため、こんなことになったのだ。賢人、ゆるし給え」\n と、玄徳を、座上に請じて、沮授に謝罪の礼をとらせ、そのまま敗戦挽回の策を議し始めた。\n すると、侍立の諸将のあいだから、一名の将が前へすすんで、\n「兄顔良に代る次の先鋒は、弟のそれがしに仰せつけ下されたい」と、呶鳴った。\n 見れば、面は蟹の如く、犬牙は白く唇をかみ、髪髯赤く巻きちぢれて、見るから怖ろしい相貌をしているが、平常はむッつりとあまりものをいわない質の文醜であった。\n\n二\n\n 文醜は、顔良の弟で、また河北の名将のひとりであった。\n「おお、先陣を望みでたは文醜か。健気健気、そちならで誰か顔良の怨みをそそごう。すみやかに行け」\n 袁紹は激励して、十万の精兵をさずけた。\n 文醜は、即日、黄河まで出た。\n 曹操は、陣をひいて、河南に兵を布いている。\n「敵にさしたる戦意はない、恟々とただ守りあるのみだ」\n 旌旗、兵馬、十万の精鋭は、無数の船にのり分れて、江上を打渡り、黄河の対岸へ攻め上って行った。\n 沮授は心配した。\n 袁紹を諫めて、\n「どうも、文醜の用兵ぶりは、危なくて見ていられません、機変も妙味もなく、ただ進めばよいと考えているようです。――いまの上策としては、まず官渡(河南省・開封附近)と延津(河南省)の両方に兵をわけて、勝つに従って徐々に押しすすむに限りましょう。それなら過ちはありません。――それをば軽忽にも黄河を打渡って、もし味方の不利とでもなろうものなら、それこそ生きて帰るものはないでしょう」\n諄々と、説いた。\n 人の善言をきかないほど頑迷な袁紹でもないのに、なぜかこの時は、ひどく我意をだして、\n「知らないか。――兵ハ神速ヲ貴ブ――という。みだりに舌の根をうごかして、わが士気を惑わすな!」\n 沮授は、黙然と外へ出て、「――悠タル黄河、吾レ其ヲ渡ラン乎」と、長嘆していた。\n その日から、沮授は仮病をとなえて、陣務にも出てこなかった。\n 袁紹もすこし云い過ぎたのを心で悔いていたが、迎えを重ねるのも癪なので不問にしていた。\n その間に玄徳は、\n「日頃、大恩をこうむりながら、むなしく中軍におるは本望ではありません。かかる折こそ、将軍の高恩にこたえ、二つには顔良を打った関羽と称する者の実否をたしかめてみたいと思います。どうか私も、先陣に出していただきたい」と、嘆願した。\n 袁紹は、ゆるした。\n すると、文醜が、単身、軽舸に乗って、中軍へやって来た。\n「先陣の大将は、それがし一名では、ご安心ならぬというお心ですか」\n「そんなことはない。なぜそんな不平がましいことをいうか」\n「でも玄徳は、以前から戦に弱く、弱い大将というのでは、有名な人間でしょう。それにも先陣をお命じあったのは、いかなるわけか、近ごろ御意を得ぬことで」\n「いやいやひがむな。それはこうだ。玄徳の才力を試そうためにほかならん」\n「では、それがしの軍勢を、四分の一ほども分け与えて、二陣に置けばよろしいでしょうな」\n「むむ。それでよかろう」\n 袁紹は、彼のいうがままに、その配置は一任した。\n こういうところにも、袁紹の性格は出ている。何事にも煮えきらないのである。戦に対して、彼自身の独創と信念がすこしもない。\n ただ彼は、父祖代々の名門と遺産と自尊心だけで、将士に対していた。彼の儀容風貌もすこぶる立派なので、平常はその欠陥も目につかないが、戦場となると、遺産や名門や風采では間に合わない。ここでは人間の正味そのものしかない。総帥の精神力による明断や予察が、実に、全軍の大きな運命をうごかしてくることになる。\n 文醜は、帰陣すると、「袁将軍の命であるから」と称し、四分の一弱の兵を玄徳に分けて、二陣へ退がらせてしまった。そして自身は、優勢な兵力をかかえ、第一陣ととなえて前進を開始した。\n\n燈花占\n\n一\n\n 関羽が、顔良を討ってから、曹操が彼を重んじることも、また昨日の比ではない。\n「何としても、関羽の身をわが帷幕から離すことはできない」\n いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を鋳させた。\n それが出来上ると、彼は張遼を使いとして、特に、関羽の手許へ持たせてやった。\n「......これを、それがしに賜わるのですか」\n 関羽は一応、恩誼を謝したが、受けるともなく、印面の文を見ていた。\n 寿亭侯之印\n と、ある。\n すなわち寿亭侯に封ずという辞令である。\n「お返しいたそう。お持ち帰りください」\n「お受けにならんのか」\n「芳誼はかたじけのうござるが」\n「どうして?」\n「ともあれ、これは......」\n なんと説いても、関羽は受け取らない。張遼はぜひなく持ち帰って、ありのまま復命した。\n 曹操は、考えこんでいたが、\n「印を見ぬうちに断ったか。印文を見てから辞退したのか」\n「見ておりました。印の五文字をじっと......」\n「では、予のあやまりであった」\n 曹操は、何か気づいたらしく、早速、鋳工を呼んで、印を改鋳させた。\n 改めてできてきた印面には、漢の一字がふえていた。\n ――漢寿亭侯之印――と六文字になっていた。\n ふたたびそれを張遼に持たせてやると、関羽は見て、呵々と笑った。\n「丞相は実によくそれがしの心事を知っておられる。もしそれがし風情の如く、ともに臣道の実を践む人だったら、われらとも、よい義兄弟になれたろうに」\n そういって、こんどは快く、印綬を受けた。\n かかる折に、戦場から早馬が到来して、「袁紹の大将にして、顔良の弟にあたる文醜が、黄河を渡って、延津まで攻め入ってきました」と、急を報じてきた。\n 曹操は、あわてなかった。\n まず行政官を先に派遣して、その地方の百姓をすべて、手ぎわよく、西河という地に移させた。\n 次に、自身、軍勢をひきいて行ったが、途中で、\n「荷駄、粮車すべての輜重隊は先へ進め。――戦闘部隊はずっと後につづいてゆくがいい」\n と、変な命令を発した。\n「こんな行軍法があろうか?」\n 人々は怪しんだが、ぜひなく、その変態陣のまま、延津へ馳せ向った。すると案のじょう、戦闘装備を持たない輜重隊は、まっ先に敵に叩かれた。おびただしい兵糧を置き捨てて、曹軍の先頭は、四方に潰走してしまった。\n「案ずるに及ばん」\n 曹操は、立ち騒ぐ味方をしずめ、\n「兵糧など捨て置いて味方の一隊は、北へ迂回し、黄河に沿って、敵の退路を扼せ、――また一隊は、逃げるが如く、南の阜へ馳けのぼれ」と、下知した。\n 戦わぬうちから、すでに曹軍は散開を呈して、兵の凝集力を欠き、士気もあがらない様子を見たので、文醜は、\n「見ろ、すでに敵は、わが破竹の勢いに恐れをなして、逃げ腰になっている」と、誇りきった。\n そして、この図をはずすな、とばかり彼の大兵は、存分に暴れまわった。\n 盔や甲も脱いで、悠々と阜のうえにもぐりこんでいた曹操の部下も、すこし気が気ではなくなってきた。\n「どうなることだ。今日の戦は。......こんなことをしていたら、やがてここも」\n と、ほんとの逃げ腰になりかけてきた。\n すると荀攸が、物陰から、"
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"role": "assistant",
"content": "「いや、もっけの幸いだ。これでいいんだ!」と、あたりの者へ呶鳴った。\n すると曹操が、ジロリと、荀攸の顔を白眼で見た。\n 荀攸は、はっと、片手で口をおさえ、片手で頭をかいた。\n\n二\n\n 荀攸は、曹操の計略をよく察していたのだった。\n で、浮き腰立つ味方へ、ついに自分の考えを口走ったのであるが、いまや大事な戦機とて、\n(要らざることをいうな!)と、曹操から眼をもって叱られたのも当然であった。\n まず味方から計る――曹操の計略は、まもなく図にあたって来た。\n 文醜を大将とする河北軍は、敵なきごとく前線をひろげ、いちどは、七万の軍隊が後方に大きな無敵圏を抱いたが、\n「戦果は充分にあげた。勝ち誇って、単独に深入りするのは危ないぞ」\n と、文醜も気づいて、日没頃ふたたび、各陣の凝結を命じた。\n 後方の占領圏内には、まっさきに潰滅した曹操の輜重隊が、諸所に、莫大な粮米や軍需品を置き捨ててある。\n「そうだ、鹵獲品は、みなこっちの隊へ運んでこい」\n 後方に退がると、諸隊は争ってこんどは兵糧のあばき合いを始めた。\n 山地はとっぷり暮れていた。曹操は、物見の者から、敵情を聞くと、\n「それっ、阜をくだれっ」\n と、指揮を発し、全軍の豹虎が、ふもとへ降りたと見ると、阜の一端から狼煙をあげさせた。\n 昼のうち、敗れて、逃げるとみせて、実は野に阜に河に林に、影を没していた味方は、狼煙を知ると、大地から湧き出したように、三面七面から奮い起った。\n 曹操も、野を疾駆しながら、\n「昼、捨ておいた兵糧は敵を大網にかける撒餌の計だ。網をしぼるように、雑魚一尾のがすな」\n と、さけび、また叱咤をつづけて、\n「文醜を生捕れ、文醜も河北の名将、それを生捕らば、顔良を討った功に匹敵しようぞ!」\n と、励ました。\n 麾下の張遼やら徐晃やら、先を争って追いかけ、遂に文醜のすがたを乱軍の中にとらえた。\n「きたなし文醜。口ほどもなく何処へ逃げる」\n うしろの声に、文醜は、\n「なにをッ」と、振向きざま、馬上から鉄の半弓に太矢をつがえて放った。\n 矢は、張遼の面へきた。\n はッと、首を下げたので、鏃は盔の紐を射切ってはずれた。\n「おのれ」\n 怒り立って、張遼が、うしろへ迫ろうとした刹那、二の矢がきた。こんどはかわすひまなく、矢は彼の顔に突き立った。\n どうっと、張遼が馬から落ちたので、文醜は引っ返してきた。首を掻いて持ってゆこうとしたのである。\n「胆太い曲者め」\n 徐晃が、躍り寄って、張遼をうしろへ逃がした。徐晃が得意の得物といえば、つねに持ち馴れた大鉞であった。みずから称して白焔斧といっている。それをふりかぶって文醜に当って行った。\n 文醜は、一躍さがって鉄弓を鞍にはさみ、大剣を横に払って、苦々と笑った。\n「小僧っ、少しは戦に馴れたか」\n「大言はあとでいえ」\n 若い徐晃は、血気にまかせた。しかし弱冠ながら彼も曹幕の一驍将だ。そうむざむざとはあしらえない。\n 大剣と白焔斧は、三十余合の火華をまじえた。徐晃もつかれ果て、文醜もみだれだした。四方に敵の嵩まるのを感じだしたからである。\n 一隊の悍馬が、近くを横切った。文醜はそれを機に、黄河のほうへ逸走した。――すると一すじの白い旗さし物を背にして、十騎ほどの郎党を連れた騎馬の将が彼方から歩いてきた。\n「敵か? 味方か?」\n と、疑いながら、彼のさしている白い旗を間近まで進んで見ると、何ぞはからん、墨黒々、\n 漢寿亭侯雲長関羽\n と、書いてある。\n\n三\n\n 謎の敵将関羽?\n 兄の顔良を討った疑問の人物?\n ――文醜はぎょっとしながら駒をとめて、なお河べりの水明りを凝視した。\n すると、肩に小旗をさした彼方の大将は、早くも、文醜の影を認めて、\n「敗将文醜。何をさまようているか。いさぎよく、関羽に首を授けよ」\n と、一鞭して馳け寄ってきた。\n 馬は、逸足の赤兎馬。騎り人は、まぎれもない赤面長髯の人、関羽だった。\n「おおっ、汝であったか。さきごろわが兄の顔良を討った曲者は」\n 喚きあわせて、文醜も、ただちに大剣を舞わして迫った。\n 閃々、偃月の青龍刀。\n 晃々、文醜の大剣。\n たがいに命を賭して、渡りあうこと幾十合、その声、その火華は黄河の波をよび、河南の山野にこだまして、あたかも天魔と地神が乾坤を戦場と化して組み合っているようだった。\n そのうち、かなわじと思ったか、文醜は急に馬首をめぐらして逃げだした。これは彼の奥の手で、相手が図に乗って追いかけてくると、その間に剣をおさめ、鉄の半弓を持ちかえて、振向きざまひょうっと鉄箭を射てくる策であった。\n だが、関羽には、その作戦も効果はなかった。二の矢、三の矢もみな払い落され、ついに、追いつめられて後ろから青龍刀の横なぎを首の根へ一撃喰ってしまった。文醜の馬は、首のない彼の胴体を乗せたまま、なお、果てもなく黄河の下流へ駈けて行った。\n「敵将文醜の首、雲長関羽の手に挙げたり」\n と呼ばわると、百里の闇をさまよっていた河北勢は、拍車をかけて、さらに逃げ惑った。\n「今ぞ、今ぞ。みなごろしに、追いつめろ」\n 曹操は、かくと伝え聞くや、中軍の鼓隊鑼隊に令して、金鼓を打たせ鉦を鳴らし、角笛を吹かせて、万雷風声、すべて敵を圧した。\n 討たれる者、黄河へおちて溺れ死ぬ者、夜明けまでに、河北勢の大半は、あえなく曹軍の餌になってしまった。\n 時に玄徳は、この戦のはじめから、文醜に邪魔もの扱いにされて、ずっと後陣に屯していたが、ようやく逃げくずれてくる先鋒の兵から、味方の第一陣の惨敗を聞き取って、\n「こことても油断はならぬ」と、きびしく陣容を守りかためていた。\n そして、ほうほうの態で逃げこんでくる敗兵がみな、口々に、\n「文将軍を討ったのも、さきに顔将軍を討った髯の長い赤面の敵だ」\n というので、夜明けとともに、玄徳は一隊を率いて前線の近くまで馬をすすめて見た。\n 黄河の支流は、ひろい野に、小さい湖や大きな湖を、無数に縫いつないでいる。ふかい春眠の霞をぬいで、山も水も鮮やかに明け放れてはいるが、夜来の殲滅戦は、まだ河むこうに、大量な人物を撒いて咆哮していた。\n「オオ、あの小旗、あの白い小旗をさしている男です」\n 案内に立った敗兵のひとりが支流の対岸を指した。百獣を追いまわす獅子王のような敵の一大将が遠く見える。\n「......?」\n 玄徳はややしばらく眸をこらしていた。小旗の文字がかすかに読まれた。「漢寿亭侯雲長関羽」――陽にひるがえるとき明らかにそう見えた。\n「ああ! ......義弟の関羽にちがいない」\n 玄徳は瞑目して、心中ひそかに彼の武運を天地に祈念していた。\n すると、後方の湖を渡って、曹操の軍が退路を断つと聞えたので、あわてて後陣へ退き、その後陣も危なくなったので、またも十数里ほど退却した。\n その頃、袁紹の救いがようやく河を渡って来た。で、合流して一時、官渡の地へひき移った。\n\n四\n\n 郭図、審配の二大将は、憤々と、袁紹の前に告げていた。\n「怪しからん沙汰です。このたび文醜を討ったのも、やはり玄徳の義弟関羽だということですぞ」\n「それは、まったくか」\n「こんどは漢寿亭侯雲長関羽としるした小旗を負って、戦場へ出たそうですから、事実でしょう」\n「玄徳を呼べ。いつぞやは巧言をならべおったが、今日はゆるさん」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 隣室では外人たちも落ちつかぬらしく廊下へ出て来て立噺をし始めた。矢代は列車が次第に膨れてゆくように見え、身体が凄い渦の中に吸い込まれて流れるような眩暈いを感じた。絶えず潮騒に似た音が遠くから聞えて来ているくせにあたりが実に静かだった。\n しかし、何んといおうと、間もなく着くのだ。――矢代は嬉しくて堪らなかった。日本の方を向き後頭部を後の板に摺りつける風に反って腰かけながら、注意に注意を重ねて落ちついてみたが微笑が喰み出て来て停らなかった。\n「日本は良い国ですよ。実に良い国ですよ。」\n こんな風に触れ込みつつ今自分が馳け込んでいるときだと彼は思った。しかし何んといおうともうすぐ着くのだった。手がさきに向うへ飛んで行き、足が飛び、頭が飛び出して、残っているのはただ胸だけのような気持ちがした。何か日の目を見に世の中へ生れて出て行くときが、丁度こんなものかもしれないと矢代は思った。胸の中でごうごうと水の流れる音がしていて、南が何んとか云っているようだったがよく彼には分らなかった。どこからともなく押しよせて来始めた熱気のほとぼりに似たものが、面にあたって来るようだった。それは何んとも云い様のない気忙しさだったが、急に息苦しい空気が狭い廊下から部屋に入って来たかと思うと、沢山な日本人が並んでどやどや廊下を歩いて来た。いつの間にか列車が満洲里に着いて停っていたのである。\n 矢代は腰が上らなかった。混雑して曇って見える廊下の方を向いたまま暫く彼は動かずにきょとんとしていた。すると、彼の名を高く呼びながら各部屋を覗いて来るらしい声が聞えた。\n「矢代耕一郎さんいませんかア――矢代耕一郎さアん――」\n その声はだんだん矢代の方へ近よって来ると、円顔の眼の脹れぼったい頑強そうな青年が、部屋の入口から矢代を覗き込んでまた呼んだ。\n「僕です。」と矢代は答えた。\n「あなたですか矢代さん、フィルムありますか。」\n といきなりその青年はむっつりした顔で畳み込むように訊ねた。生れたばかりのような期待に胸がまだどきどきしていたときだったので、矢代はこの青年の失礼な云い方に拍子抜けがして、\n「持ってますよ。」と一言答えた。\n「じゃ、それ貰おうじゃないか。」\n と早速青年は不躾けに云って手を出した。\n これが最初に会った日本人だったのか、とふとそう思うと、矢代は張り詰めていた喜びも急に堪え難い悲しさに変った。\n「僕のフィルムは大切な預り物だから、君には渡せないね。誰です君は?」\n 矢代はもうこの男には絶対フィルムは渡さないと思った。彼はもう車から降りるのもいやになり腰を上げなかった。すると、その青年の肩を掻き除けるようにして、痩せた眼の大きい美しい別の青年が後から顕れ、矢代に鄭重にお辞儀をした。\n「私はハイラルのT社のものですが、この人は今日一寸手伝いに頼んだ人です。遠い所をたいへん御苦労でございました。今日は大雨が降りましたものですから、ハイラルの飛行機が出ませんので、この人を頼んだのです。どうぞフィルムを下さいませんでしょうか。」\n なるほど、この青年でこそ自分の念い描いていた日本人だと矢代は思った。彼はまた急に嬉しくなって来た。\n「そうですか、雨ですかこれで、僕はまだ汽車が動いているような気持ちなものだから、――じゃ、これをどうぞ。」\n 矢代は横に用意してあったフィルムの円鑵を青年に手渡した。誰もそれぞれ何をしているのか分らない泡立たしいときだったので、南はと思って見ると、彼もA社の人に引き立てられ廊下の方へ出て行くところだった。\n 矢代は荷物を下げ、フィルムを持った青年に守られてプラットへ降りて行きながらも、前の円顔の青年の顔が見えると少し気の毒な気がして来た。待合室でも荷物の検査があったから、審査の始まるまで待っていなければならなかった。大連行の次ぎの汽車の出るまでまだ八時間も間があるとのことだった。ソビエット側の国境の駅とは違い、こちらの待合室は天井も高く、コンクリートの巌丈さで近代的な感じだったが、大きな包みを抱えて眠っている中国人の群衆の間から蠅が群り立ち、電灯の周囲を飛んでいるのが、先ずひと目で受けたヨーロッパとは違った間延びのした東洋の表情だった。矢代は検査の始まるまで広い待合室を眺めて立っていた。一緒の汽車で来た外人たちは睡眠の不足で元気のない顔つきだった。それにしてもこの汚い包みを抱え蠅の中でい眠っている群衆が地球の大半を埋めているのだと思うと、それを見て来た矢代は、今さら世界の上に蠅につき纏われた宿命の人種の多いのに驚いた。それは東洋のほとんど皆の国がそうだった。\n この皆の国から蠅を追い払う努力だけでも、人人のこれからの役目は大変な力が要ると矢代は思った。\n「私は警察の者ですが、今夜はこれからどうされます。」\n と、私服の眼鏡をかけた背の高い日本人が、矢代に今井と書いた名刺を出して訊ねた。矢代は別にどこへ行く考えもなく汽車を待つだけと答えた。\n「じゃ、まだ八時間もありますよ。何んなら宿屋をお世話しますから、そこで休んで行かれたらどうです。まだこれからならひと眠り出来ますよ。」\n 矢代はこの特高課の今井の職責上の目的のことなど今は考えてはいられなかった。それよりも、話しかけてくれる日本人を見るとただ誰でも懐しくなり、職業の差別など全然消えて人間だけが直接話しよる魅力を強く感じた。\n「じゃ、宿屋お世話して下さい。一時間でも眠られれば有りがたいな。」\n「そうなさいよ。ここは良い宿屋はありませんが、まア休むだけなら沢山ありますから。」\n 二人がこんな話をしているうちに荷物の検閲が始まった。ここでは所持金を検べなかったが、荷物の中味の検査はソビエット側よりも厳格で時間がかかった。南は矢代からずっと離れたところでA社の人たちに取り包まれ旅中の事など話していた。矢代の傍には特高課の今井がただ一人附き添っていてくれるだけだった。\n 検査を済ませて外へ出たときはもう夜が明けていた。矢代は朝の日光に眼を細めて、レールを跨いだ。初めて見る日の光りのように爽快だった。彼は呼吸を大きくしながらあたりを眺めて歩いた。樹木の一本もない平原の胸の起伏が波頭のように続いていて、その高まった酒色の襞のどこからも日が射し昇っているように明るかった。短い草の背がハレーションを起しているらしい。一望遮るもののない平原のその明るさに囲まれた中で、街がまだ戸を閉めて眠っていた。刑事の今井は矢代の荷物を持ってやろうといって聞かず、「よろしよ、よろしよ。」と云って重い方を奪うように携げると、ステッキを地に引き摺って、人のいない通りを先に立った。"
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"role": "assistant",
"content": "「実に美しい所だなア。」\n と矢代はときどき立ち停り周囲の平原の波を見ながら呟いた。先に歩いていた今井はその度びに矢代の傍まで戻って来て、賞められたことが嬉しいらしく彼も一緒に並んで平原を眺めた。乳房の高まりの連ったような地の起伏が、空に羞らう表情を失わず、嬉嬉として戯れ翻っている賑やかな嬌態で、見れば見るほど平原の美しさが増して来た。\n「いつも見てると分りませんが、万ざら捨てたもんでもないでしょう。」と今井は謙遜に云ってまた先に立った。\n「いや、たしかに美しい所ですよ。一寸類がありませんね。」\n 矢代は疲れも忘れ宿舎へ行くのも惜しまれたほどだった。それも周囲のどちらを見ても美しさは変らなかった。人工の極致とも見える繊細な柔かさで、無限の末にまで届いて祈りのような悲しみが地の一面の表情だったが、それは見ていると、また奔放自由な歓びの線にも見え、清らかな希いに満ちた明け渡っていく世界の明るさにも変って来た。矢代は国境の方の蒼く幽かに薄靄の立っているあたりを指差して、\n「あのあたりがつまり、国境ですね。」と訊ねた。\n「まア、国境というのですがね。どこからどこが国境だか誰にも分りませんよ。それにどういうものですか、ここでは自殺をするものが多いのですが、不思議ですね。」\n 永らくここで暮していても、それだけが分らぬという風に今井は声を落して歎じた。なるほど無理もない、ここなら死にたくなる美しさだと矢代は頷きながら宿舎のホテルへ案内されて入っていった。玄関へ顕れた女中が矢代の前にスリッパを揃えて出した。別に取り立てていうほどの婦人ではなかったが、これも矢代には初めて見る和服の日本の婦人だった。外人には見あたらぬ、特殊な皮膚の細やかな美しさが襟もとから延びているのを見て、思わず矢代はどきりとした。\n\n\n 南と矢代の別れたのはハルビンの駅だった。彼は一路大連まで来てそこから飛行機で福岡まで飛ぶつもりだったのに、平壌まで来ると先きは雨がひどく不時着したので、途中から汽車に替えて海峡を渡った。彼は昼間の内地を見たいと思っていたが、下関へ上ったのは夜の一時ごろになった。東京行の出るまでには、まだ一時間半もあったので、彼は山陽ホテルで休息している間に東京の自宅へ電報を打った。そのついでに千鶴子へも打とうかと暫く茶を飲みながら考えたが、やはりそれだけは思い止まった。関門海峡の両側の灯が、あたりに人の満ち溢れている凄じさで海に迫っていた。眼にする物象が絶えず跳ね動いているような活気に矢代は人からも押され気味になり、受け答えにも窮する遅鈍なものが、いつの間にか自分になっているのを感じた。それはひどく時代の遅れた自分であり、早急の間に合いかねるその自分から錆が沁み出ているようだったが、しかし、ともかくも日本へ無事帰りついている自分であることだけはたしかだった。今はもうそのことだけで彼は嬉しく、後はどのような目に逢おうとも忍耐出来ると思い、彼は胸の中に笑いの綻ろんでいくようなゆったりとした気持ちで周囲を見廻した。人人の多くは洋服を着ていたが、どれも皆洋服のようには見えなかった。男たちは皆眼光が鋭く不意に殺到して来そうな気配の中を、婦人たちが何んの恐れげもなく歩いているのが、不思議と優雅ななまめいた魚の泳ぐ姿に見え楽しそうだった。\n 上りの汽車に乗ってからも、彼は満員の食堂車へ入って見た。ナイフとフォークを使う人人の手の早さが刀を使っているようで、狭い車内の傾いて飛ぶぐらぐらした中でも、揺れつつ肉を突き刺し巧みに口へ入れていた。総体が気忙しく立ち廻り、入り乱れているにも拘らず、それぞれ何んの間違いもなく無事安泰に流れてゆくようなその感じは、見ていても胸の空くほど凄じい勢いだった。それはもう西洋でもなければ東洋でもなかった。まさしくそれは世界で類のない一種奇妙な生の躍動そのもののような姿態だと思った。\n その夜はつづいた睡眠の不足で矢代はすぐ眠くなったが、寝台を取り忘れていたので、展望車の椅子にそのままうとうとした。彼の横にマニラから帰って来た青年が二人、十年ぶりだといって、窓から故郷の沿線の様子を楽しげに眺めていた。対い合った二人は嬉しそうに落ちつかないらしく右を見たり左を見たり、絶えずして眠らなかった。矢代にも向うから話しかけて来て、マニラの状況を報らせたり、どこから来てどこへ行くのかと訊ねたりした。矢代はシベリヤから帰って来たと答えると、シベリヤのどこかとまた訊ねた。乗車したのはベルリンからだと答えると、急に二人は他人行儀な冷淡な顔つきになって窓の外を向いてしまい、それからもう話そうとしなかった。矢代はそれを機会に横になって眠った\n 眼が醒めたときもう朝になっていた。窓の下に海が拡がり砂浜の上を浴衣の散歩姿が沢山あちこちに歩いていた。夾竹桃の花が海面の朝日を受けて咲き崩れている間を、よく肥えた紳士が敷島を一本口に喰わえ、煙をぱッぱと吐き流して歩いているのを見て、矢代は瞬間眼の醒めるようなショックを受けた。淡路島らしい島が薄霧の上に煙って幽かに顕れて来る。雄松の幹のうねりが強く車窓に流れていった。日本の朝の日の光りを矢代は初めて見たのである。彼は車窓から乗り出すようにして、一見したところ、自分の国は世界で一番無頓着そうににこにこした、幸福そうな国だと思った。そのうちにシベリヤ以来すっかり忘れていた合服が夏の日にだんだん暑くなって来た。\n\n\n\n いつも矢代の旅は目的地へ着くころになると夜が来た。東京駅へ近づいて来たときもそうだった。故郷へ帰りついたと思う気持ちは、山陽線から東海道を上って来る車中の憶いの中に吸われてしまい、今は身心とも彼は疲れ果てていた。物音らしいものは耳鳴りで聞えず、かすめ通る灯火の綾の間に見えたホームの荷造の藁束が、いよいよ身近なものの匂いを伝えて迫って来る。継ぎはぎだらけの襯衣を着せられても苦にならぬ、里帰りの子のように疲れが気持ち良かった。\n 汽車が停って矢代はホームへ降りた。最後の車のため人込みから離れた端れの柱の傍で、夏羽織の背の低い父の姿がすぐ彼の眼についた。父は暫く矢代を見つけなかったが、彼の方から片手を上げて父の方へ歩いてゆくと、父は「あッ」と口を開き、そのまま無表情な顔で近よって来た。その後から見えなかった母が小趨りに追って来た。矢代は父の前で黙ってお辞儀を一度した。非常に鄭重なお辞儀をしたつもりだったのに、妙に腰が曲らず軽くただ頭を下げただけのような姿になった。\n「どうも御心配かけました。」\n と矢代は父の後ろの母を見て云った。\n「お帰りなさい。」\n 母は矢代の顔を見ず羞しそうにそう云っただけで、重ねた両手を中に縮まるような姿で立っていた。父も母もさて次ぎにどうして良いのか分らぬらしく動かなかったが、矢代もやはりそのままだった。その間も東京駅の光景が薄霧の中から、見覚えのある活気を漸次鮮明に泛べて来た。赤帽が荷物を運んで行く後から三人はホームを出た。矢代は靴でしっかり歩いている筈なのに、まるで地から足が浮き上り、身体が絶えず飛び歩いているように思われた。障壁が尽く取り脱された自由な気持ちに、彼は自分がひらひら舞っている蝶に似て見え、眼につくあの灯この灯と広場の明りを眺めながらまたタクシを待った。\n「とにかく分ったぞ。何んだかしら分った。」\n と彼はひとり呟いた。そのくせ何が分ったのか考えもしなかったが、もう考えずとも、証明を終えた答案から離れたような身軽さで、後を振り返る気持ちはさらになかった。\n「何んか僕食べたいのですよ。お寿司がどうも食べたいなア。一寸お母さんさきに帰ってくれませんか。」\n 矢代は母にそう云ってタクシに乗り込み途中で自分一人だけ銀座で降りるつもりだった。銀座の方へ動き出した車の中で、彼は、今は勝手気ままの云える子供の自分を、仕合せこの上もないことだと思った。母の縮みの襟もとが清潔な厳しさで身を包んでいる夏姿へ、彼は凭りかかるように反り、自分の永らく忘れていたのは、この母と父との労苦だったとふと思ったが、それも今は自分の身の疲れと同じように感じられた。\n「もうじき涼しくなるが、まだ暑さは相当つづくね。」始終黙っていた父は誰にともなく一言云った。\n「そうだ。まだ夏なんだな。」と矢代は呟くように云った。そして、季節のことなどすっかり忘れていた自分に気がついて初めて笑った。\n「あなた、暑くないの。合服なんか着て。」\n 矢代を見てそう云う母に、「何んだかもう分らないですよ。」と云いながら、彼は、春夏秋冬といってもどこのもそれぞれ違うのだと思ったり、東京よりもどこより先ず帰れば温泉へ行きたいと、パリで友人らと話したことを思い出したりした。しかし、こうして帰ってみれば、やはりどこより彼は東京が懐しかった。東京のどんな所が面白いのか分らなかったが、この地が間違いなく東京だと思うことで、彼は心が落ちつけるのだった。車が帝国ホテルの前まで来たとき、父は、"
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"role": "user",
"content": "なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容をすな。\n\n(マタイ六章十六。)\n\n\n\n 今は亡き、畏友、笠井一について書きしるす。\n 笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。亡父は貴族院議員、手沼源右衛門。母は高。謙蔵は、その六男たり。同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。昭和二年同校四学年修了。同年、弘前高等学校文科に入学。昭和五年同校卒業。同年、東京帝大仏文科に入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。なあんてね。笑いながら厳粛のことを語る。と。\n「笠井一」にはじまり、「厳粛のことを語る。と。」にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎の硯箱のしたに隠されていたものである。案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯の悪癖、含羞の火煙が、浅間山のそれのように突如、天をも焦がさむ勢にて噴出し、ために、「なあんてね」の韜晦の一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ご自慢の竜頭蛇尾の形に歪めて置いて筆を投げた、というようなふうである。私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩でもまれて焼き焦がされる思いであった。\n 残念、むねんの情であった。若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。私は、これより数段、巧みに言い表わされたる、これら諸感情に就いての絶叫もしくは、嗄れた呟きを、阪東妻三郎の映画のタイトルの中に、いくつでも、いくつでも、発見できるつもりで居る。殊にも、おのが貴族の血統を、何くわぬ顔して一こと書き加えていたという事実に就いては、全くもって、女子小人の虚飾。さもしい真似をして呉れたものである。けれども、その夜あんなに私をくやしがらせて、ついに声たてて泣かせてしまったものは、これら乱雑安易の文字ではなかった。私はこの落書めいた一ひらの文反故により、かれの、死ぬるきわまで一定職に就こう、就こうと五体に汗してあせっていたという動かせぬ、儼たる証拠に触れてしまったからである。二、三の評論家に嘘の神様、道化の達人と、あるいはまともの尊敬を以て、あるいは軽い戯れの心を以て呼ばれていた、作家、笠井一の絶筆は、なんと、履歴書の下書であった。私の眼に狂いはない。かれの生涯の念願は、「人らしい人になりたい」という一事であった。馬鹿な男ではないか。一点にごらぬ清らかの生活を営み、友にも厚き好学の青年、創作に於いては秀抜の技量を有し、その日その日の暮しに困らぬほどの財産さえあったのに、サラリイマンを尊び、あこがれ、ついには恐れて、おのが知れる限りのサラリイマンに、阿諛、追従、見るにしのびざるものがあったのである。朝夕の電車には、サラリイマンがぎっしりと乗り込んでいるので、すまないやら、恥かしいやら、こわいやらにて眼のさきがまっくろになってしまって居づらくなり、つぎの駅で、すぐさま下車する、ゲエテにさも似た見ごとの顔を紙のように白ちゃけさせて、おどおど私に語って呉れたが、それから間もなく死んでしまった。風がわりの作家、笠井一の縊死は、やよいなかば、三面記事の片隅に咲いていた。色様様の推察が捲き起ったのだけれども、そのことごとくが、はずれていた。誰も知らない。みやこ新聞社の就職試験に落第したから、死んだのである。\n 落第と、はっきり、きまった。かれら夫婦ひと月ぶんの生活費、その前夜に田舎の長兄が送ってよこした九十円の小切手を、けさ早く持ち出し、白昼、ほろ酔いに酔って銀座を歩いていた。老い疲れたる帝国大学生、袖口ぼろぼろ、蚊の脛ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。\n 舞台では菊五郎の権八が、したたるほどのみどり色の紋付を着て、赤い脚絆、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟いた。嗚咽が出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたときには、書物を売り、きまって三円なにがしのお金をつくり、浅草の人ごみのなかへまじり込む。その店のちょうし一本十三銭のお酒にかなり酔い、六人の女中さんときれいに遊んだ。その六人の女中のうち、ひとり目立って貧しげな女の子に、声高く夫婦約束をしてやって、なおそのうえ、女の微笑するようないつわりごとを三つも四つも、あらわでなく誓ってやったものだから、女の子、しだいに大学生を力とたのんだ。それから奇蹟があらわれた。女の子、愛されているという確信を得たその夜から、めきめき器量をあげてしまった。三年まえの春から夏まで、百日も経たぬうちに、女の、髪のかたちからして立派になり、思いなしか鼻さえ少したかくなった。額も顎も両の手も、ほんのり色白くなったようで、お化粧が巧くなったのかも知れないが、大学生を狂わせてはずかしからぬ堂々の貫禄をそなえて来たのだ。お金の有る夜は、いくらでも、いくらでも、その女のひとにだまされて、お金を無くする。そうして、女のひとにだまされるということは、よろこばしいものだとつくづく思った。女は、大学生から貰ったお金は一銭もわが身につけず、ほうばいの五人の女中にわけてやり、ばたばたと脛の蚊を団扇で追いはらって浅草まつりが近づいたころには、その食堂のかんばん娘になっていた。神のせいではない。人の力がヴィナスを創った。女の子は、せわしくなるにつれて恩人の大学生からしだいに離れ、はなれた、とたんに大学生の姿も見えずなった。大学生には困難の年月がはじまりかけていたのである。\n その夜、歌舞伎座から、遁走して、まる一年ぶりのひさごやでお酒を呑みビールを呑みお酒を呑み、またビールを呑み、二十個ほどの五十銭銀貨を湯水の如くに消費した。三年まえに、ここではっきりと約束しました。ぼくは、出世をいたしました。よい子だから、けさの新聞を持っておいで。ほら、ね。ぼくの写真が出ています。これはね、ぼくの小説本の広告ですよ。写真、べそかいてる? そうかなあ。微笑したところなんだがなあ。約束、わすれた? あ、ちょいと、ちょいと。これは、新聞さがして持って来て呉れたお礼ですよ。まったく気がるに、またも二、三円を乱費して、ふと姉を思い、荒っぽい嗚咽が、ぐしゃっと鼻にからんで来て、三十前後の新内流しをつかまえ、かれにお酒をすすめたが、かれ、客の若さに油断して、ウイスキイがいいとぜいたく言った。おや、これは、しっけい、しっけい。若いお客は、気まえよく、あざむかれてやってウイスキイを一杯のませ、さらにそのうえ、何か食べたいものはないかと聞くのである。新内いよいよ気をゆるし、頬杖ついて、茶わんむしがいいなと応え、黒眼鏡の奥の眼が、ちろちろ薄笑いして、いまは頗る得意げであった。さて、新内さん。あなたというお人は、根からの芸人ではあるまい。なにかしら自信ありげの態度じゃないか。いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋の若旦那。三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五十を越したくらいの商人が、まじめくさってはいって来て、女中みんなが、おや、兄さん、と一緒に叫んで腰を浮かせた。立ちあがって、ちょっとかれに近づき、失礼いたします。久保田先生ではございませんか。私は、ことし帝大の文科を卒業いたします者で、少しは原稿も売れてまいりましたが、未だほとんど無名でございます。これから、よろしく、教えて下さい。直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違いですと鼻のさきで軽く掌を振る機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹を据えたようである。"
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"role": "assistant",
"content": " ――ははは。ま。掛けたまえ。\n ――はっ。\n ――のみながら。\n ――はっ。\n ――ひとつ。\n ――はっ。という工合いに、兵士の如く肩をいからせ、すすめられた椅子に腰をおろして、このようなところで先生にお逢いするとは実もって意外である。先生は毎晩ここにおいでになるのでしょうか。私は、先夜、先生の千人風呂という作品を拝誦させていただきましたが、やはり興奮いたしまして、失礼ながらお手紙さしあげた筈でございますが。\n ――あれは君、はずかしいものだよ。\n ――しつれいいたしました。私の記憶ちがいでございました。千人風呂は葛西善蔵氏の作品でございました。\n ――まったくもって。\n わけのわからぬ問答に問答をかさねて、そのうちに、久保田氏は、精神とかジャンルとか現象とかのこむずかしい言葉を言い出し、若い作家の読書力減退についてのお説教がはじまり、これは、まさしく久保田万太郎なのかもしれないなどと思ったら酔いも一時にさめはて、どうにも、つまらなくなって来て、蹌踉と立ちあがり、先生、それではごめん下さい。これから旅に出るのです。ええ、このお金がなくなってしまうところまで、と言いつつ内ポケットから二三枚の十円紙幣をのぞかせて、見せてやって、外へ出た。\n あああ。今夜はじつに愉快であった。大川へはいろうか。線路へ飛び込もうか。薬品を用いようか。新内と商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄に堕ちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒して、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなければ。よこはまほんもく二円はどうだ。いやならやめろ。二円おんの字、承知のすけ。ぶんぶん言って疾進してゆく、自動車の奥隅で、あっ、あっと声を放って泣いていた。今は亡き、畏友、笠井一もへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。はじめに意図して置いたところだけは、それでも、言って知らせてあげよう。私は、日本の或る老大家の文体をそっくりそのまま借りて来て、私、太宰治を語らせてやろうと企てた。自己喪失症とやらの私には、他人の口を借りなければ、われに就いて、一言一句も語れなかった。たち拠らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家の人となりを語り、そうして、その縊死のあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この「狂言の神」という一篇の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、もはやどうでもよくなった。文章に一種異様の調子が出て来て、私はこのまま順風を一ぱい帆にはらんで疾駆する。これぞ、まことのロマン調。すすまむ哉。あす知れぬいのち。自動車は、本牧の、とあるホテルのまえにとまった。ナポレオンに似たひとだな、と思っていたら、やがてその女のひとの寝室に案内され枕もとを見ると、ナポレオンの写真がちゃんと飾られていた。誰しもそう思うのだなと、やっとうれしく、あたたかくなって来た。\n その夜、ナポレオンは、私の知らない遊びかたを教えて呉れた。\n あくる朝は、雨であった。窓をひらけば、ホテルの裏庭。みどりの草が一杯に生えて、牧場に似ていた。草はらのむこうには、赤濁りに濁った海が、低い曇天に押しつぶされ、白い波がしらも無しに、ゆらりゆらり、重いからだをゆすぶっていて、窓のした、草はらのうえに捨てられてある少し破れた白足袋は、雨に打たれ、女の青い縞のはんてんを羽織って立っている私は、錐で腋の下を刺され擽ぐられ刺されるほどに、たまらない思いであった。ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国訛りのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅の口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗が、さっと脳裡に浮んだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑の吉野へも行く、神戸へ行く、ナイヤガラ、と言いかけて、ははははと豪傑笑いの真似をして見せた。しっけい。さようなら、あら、雨。はい、お傘。私は好かれているようであった。その傘を、五円で買います。みんながどっと声をたてて笑い崩れた。ああ、ここで遊んでいたい。遊んでいたい。額がくるめく。涙が煮える。けれども私は、辛抱した。お金がないのである。けさ、トイレットにて、真剣にしらべてみたら、十円紙幣が二枚に五円紙幣が一枚、それから小銭が二、三円。一夜で六、七十円も使ったことになるが、どこでどう使ったのか、かいもく見当つかず、これだけの命なのだ。まずしい気持ちで死にたくはなかった。二、三十円を無雑作にズボンのポケットへねじ込んであるが儘にして置いて死ぬのだ。倹約しなければいけない、と生れてはじめてそう思った。花の絵日傘をさして停車場へいそいだのである。停車場の待合室に傘を捨て、駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのであるが、聞いてしまってから、ああ、やっぱり、死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と素直に首肯き、少し静かな心地になって、駅員の教えて呉れたとおりの汽車に乗った。\n ながれ去る山山。街道。木橋。いちいち見おぼえがあったのだ。それでは七年まえのあのときにも、やはりこの汽車に乗ったのだな、七年まえには、若き兵士であったそうな。ああ。恥かしくて死にそうだ。或る月のない夜に、私ひとりが逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵である。裏切者としての厳酷なる刑罰を待っていた。撃ちころされる日を待っていたのである。けれども私はあわて者。ころされる日を待ち切れず、われからすすんで命を断とうと企てた。衰亡のクラスにふさわしき破廉恥、頽廃の法をえらんだ。ひとりでも多くのものに審判させ嘲笑させ悪罵させたい心からであった。有夫の婦人と情死を図ったのである。私、二十二歳。女、十九歳。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに、入水した。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄の女性だけを尊敬している。私は、牢へいれられた。自殺幇助罪という不思議の罪名であった。そのときの、入水の場所が、江の島であった。(さきに述べた誘因のためにのみ情死を図ったのではなしに、そのほかのくさぐさの事情がいりくんでいたことをお知らせしたくて、私は、以下、その夜の追憶を三枚にまとめて書きしるしたのであるが、しのびがたき困難に逢着し、いまはそっくり削除した。読者、不要の穿鑿をせず、またの日の物語に期待して居られるがよい)私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n 11\n\n「第一回の犯罪においては今いつたように、駿三、ひろ子、さだ子、伊達の四人を疑うことができる。ところで第二回すなわち昨夜の犯罪ではどうだ。このうち、駿三、ひろ子、さだ子の三人はいずれも直接の犯人ではない、といわなければならぬ。皆が皆完全にアリバイをもつていることすでにいつた通りだ。\n「ところで始末の悪いことに、今いつたように一番怪しく思われる――すなわち直接の犯人と疑い得べき伊達正男はこの三人のどれとも、ひそかに連絡し得るのだ。では右の三人はいずれも同じ程度に疑わしいかというにそうではない。\n「僕は父親になつた経験はないけれども、父が子を殺すということは、姉が弟を殺すというよりもはるかに難いと思つている。従つてこの場合、ひろ子、さだ子の方が駿三よりも疑うとすれば程度が高かるべきだ。\n「ところで、僕はここで君に昨夜の事件のうち、最もデリケートな一点を特に指示したい。それはあのレコードのトリックだよ。犯人が何故あのレコードに変な仕かけをしたか、僕は昨夜の犯罪の重大な特色の一つとしてあのトリックをあげたい。夕べ君に示した通り、あのレコードは知らない人が見ると、トリオの部分まで行かぬ所で君が針をあげてしまつたことになつている。そういうトリックだ。僕は幸いあれと同じレコードをもつているので昨夜おそくうちで、標準スピードでかけて見ると、あそこまでは丁度二十四秒しかかかつていない。ほんとに君が針をあげた所までやると正確に一分二十秒かかる。こんなトリックを何故やつたか。そもそもかようなトリックが通常の犯人に考えつくことだろうか。実にこの点だよ。あれは、今回の犯人がやつたことの中で一番賢いところだが一方から云えば、大変な手落ちだつた。何故ならば、僕らは、愚かな頭脳所有者を嫌疑者の中からオミットすることが出来るからねえ。あんな利口なまねの出来る人がもし秋川家の中にいるとすれば一体誰だろう」(ヴィクターレコードの標準スピードは一分間七十八回転。作者附記)\n 藤枝はここまで来るとちよつと黙つたが、ふとまた云つた。\n「今回の犯罪で注意すべきはまず此の点だろうね」\n 私はこの時思い出したことがあつたのでたずねた。\n「駿太郎ね、一体あの少年をすつぱだかにして後手に縛つてなぶり殺しにするとはずいぶんひどいやり方じやないか。もし彼をただ殺すのが犯人の目的だつたとすれば......」\n「さあね、しかしここに駿三に深刻な恨みをもつている奴がいて出来るだけ彼を苦しめようとすれば、出来るだけその子を残酷に殺すことになる。現にその目的は充分達しているぜ。駿三はわりにしつかりしているが心の中ではずいぶん苦しんでいるらしいからな」\n「駿太郎は何と云つたつて少年だ。そう大して人に恨まれているとも思えない。して見ると親の因果が子に報いたという次第かな。そうするとただ財産関係であの少年が殺されたというわけでもないね」\n「君は中々うまいことを言うよ。いい所に気がついたね。全くそうだ。問題は二つある。第一は何故駿太郎が殺されたかということ。第二は何故彼があんな殺され方をしたか、あんな残酷な殺され方をしたかということだ。あの少年の殺された方法はたしかに今度の事件で考慮に入れるべき特色の一つだよ。この二つの問題を同時に満足させるべき答はただ一つだ。すなわち非常に深刻に駿三を憎んでいる人の犯罪だという解答だ」\n 彼はこう云つて私をしばらく見つめていたがやがて三分の一程にもえつくしたシガーをポンと灰皿に投げこんだ。\n「けれども、もう一つ妙なことに君は気がつかないかい」\n\n 12\n\n「さあね」\n「あの豊頬の美少年を素裸体にした上、後手に縛つてしめ殺したり、あるいは頭を割つたり、やす子の胸まではだけて殺していたりして何となくこの犯罪は、いわば変態的なエロティックな臭味を大分もつているとは思わないかい」\n「そういえばそうだね」\n「やす子の方はまあ抵抗の結果ああいう死にざまになつたとしても駿太郎の着物をはいだのはどうしたつて犯人だからね。死んだ後にはいだかもしれないけれど......」\n「しかし君、後手に縛られた手首が大分すり切れていた所を見ると駿太郎は縛られてからかなりもがいたらしいじやないか」\n「えらい。中々君はよくおぼえている。じや君、もがいている間に少しも叫び声を立てなかつたのをどう説明する?」\n「そうさね。まずガンと一撃頭をなぐつて昏倒したひまに着衣をとつてはだかにし、それから縛つて駿太郎が息をふき返したとき改めて絞り殺したんじやないか」\n「その通り。解剖の結果で判るだろうが、僕もそう思うよ」\n「ともかく、駿三に深刻な恨みをもつている奴の仕業とすれば、少くもひろ子、さだ子、伊達の仕事としちやちよつとおかしいな」\n「君、物には裏の裏ということがある。僕が検事をしている時に取り扱つた事件で、一見財産の為の人殺しのように思われて調べて行つたら実は痴情の故だということが判つたのがある。また丁度それと反対なケースもあるよ。だから外見からうつかりスタートすると、とんだ迷路にはいり込んでしまうものだ。僕は今度の駿太郎の死に方を一つの特色にかぞえるけれども、この特色に決してごまかされてはいかんよ。案外犯人のあくどいトリックかも知れんからね」\n 藤枝はこういうと、シガレットケースからエーアシップをまた一本とり出した。\n この時電話がチリチリとなつたので彼はいそいで立つて行き、暫く話していたが、まもなくそれが終ると、にこにこしながらもとの椅子に腰をおろした。\n「奥山君からだよ、頼んでおいたのでけさ二人の死体の解剖に立ち会つた結果を報告してくれたんだ。駿太郎の直接原因は、絞殺だそうだ。つまり、ガンと食わせた方がさきで、後に絞殺ということになつて、今君の云つたのとよく合つている。それからやす子の方は扼殺だということが明らかになつたよ」\n するとまた、電話のベルがけたたましく鳴りはじめた。\n「おやまた奥山検事からかな」\n 藤枝はいそいで立つて受話器を手にとつたが、\n「あ、高橋さんですか。何、けさ捕まつた? どこで? 新宿駅で? そうですか。うかがつてもいいですか。じや、御邪魔します」\n と云つて電話を切るとすぐ私の前に来た。\n「何だい。犯人が捕まつたのかい?」\n「うん、けさ早く牛込署の刑事が、方々の停車場に張り込んでいると妙にそわそわした男を新宿駅で発見したそうだ。不審訊問をすると答がおかしいのでとりあえず署につれて来たら、ようやつともう少し前に昨夜秋川邸へ侵入したという事実を自白したそうだよ」\n「殺人もか」\n「そこまでは行つていないらしい。司法主任の好意で来るなら来てもいいつてことだから行つて見ようじやないか」\n 無論躊躇すべき場合ではない。\n 藤枝と私とはすぐに自動車に乗つた。\n\n 被疑者\n\n 1\n\n 車に乗ると、彼は相変らず自動車中を一杯に煙草の煙を吹きつづけたが、何を思つたか、ふとこんなことをいい出した。\n「あの、伊達正男という青年ね。ちよつと好意のもてる顔をしているじやないか。いい青年だよ。僕は、彼が今度の犯罪事件に全く関係のないように望んでいるんだがね。そういえばあの男たしかに誰か僕の見た男に似ているよ。どうも思い出せない......」\n 私にはしかし彼のいつてることがよく判つていた。伊達は、そのおもざしが、花形力士天竜をまともに見た時の感じによく似ているのである。あの凛然としていて同時に一くせありげな面だましい、ともいうべき顔によく似たいい男である。\n この年の一月場所、私は藤枝を角力にさそつたことがあつた。少年時代に、梅ヶ谷、常陸山の角力を見た切り、さつぱり角力を見たことのない彼は、つまらなそうに土俵を見ていたけれど、幕内の土俵入りの時早くも彼は天竜を見て、"
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"role": "assistant",
"content": "「ありやいい角力だね。何ていうんだい」\n と私に説明を求めた。\n ついで天竜が土俵に登つて能代潟と戦い、掬投げでこれを仕止めると思わず拍手を送つて喜んでいた。もつともこの日人気の焦点となつた勝負は武蔵山と朝潮の一番で、立ち上つてから左四つになるまで、朝潮甚だしく優勢で、武蔵山は東二字口に寄りつけられ危く見えたが、これを残して左をさすと、朝潮の打つた例の強引の小手投げに乗じて、掬投げを打ち返し美事に武蔵山の勝となつたのである。\n 藤枝の頭の中には天竜の顔がおぼろげながらうつつて伊達と結びついているのだろう。\n 私はわざと何も云わず、やはり煙草をふかしていた。\n 自動車が警察署の前につくと、藤枝と私はただちに、高橋司法主任の部屋に通された。\n「さき程はありがとう。早速小川君をつれてうかがいましたよ」\n「いや大分手ごわいので刑事も閉口したらしいのですが、やつとさつき口を割るようになつたので、取り敢えずおしらせしたようなわけで」\n「ありがとう。で、供述はピンと来ますかね」\n「まあ、殺人の点は否認しておりますが、邸宅侵入は立派に認めています。この点は間違いはありません」\n「ふうん、で、動機は窃盗ですか」\n「いや。被疑者は佐田やす子の情夫ですよ。僕の方でも調べたんだがあの佐田やす子という女は今まで方々のバーやカフェーを渡り歩いた女ですな」\n この時、給仕がわれわれの為に茶をもつて来てくれたが、私は高橋警部の前におかれた訊問書の上書をちらと見ることができた。\n そのはじめの行に何かむずかしい法律語が書いてあつたが次のところには、\n 住居不定 無職\n 岡本一郎事 早川辰吉\n (当二十三年)\n と記されている。\n 藤枝も茶に口をうるおしながらそれを認めたものと見え、\n「その早川辰吉というのが、今日の被疑者ですね」\n「そうですよ。さつきから暫く休ませてあるのですが、もう一度ここで改めて供述をきく所だつたのです」\n 高橋警部はそういうと卓上の呼鈴を押した。\n やがてドアがあいて、制服の巡査がはいつて来ると、警部は何か小声でささやいていたが、巡査はすぐ立ち去つた。\n 二、三分程たつと、さきの巡査が一人の青年をさきにたてて部屋にはいつて来た。\n これが早川辰吉という男であろう。\n\n 2\n\n 私はその青年を見て少々驚いたのである。\n 昨夜あの秋川邸に侵入した上、二人の人間を殺したのじやないかという恐ろしい嫌疑のかかつている男のことだから、しかもその上、刑事を相当手こずらしたのだという以上、余程獰猛な青年が現れると想像していたのだ。\n ところが、今われわれの前に出て来た早川辰吉はどう見てもそんな大犯人とは見えない。かりに犯罪をやつてもたかだか空巣を狙う位の所だろう位にしか考えられない。\n 暫く留置場におかれたので眠不足の顔色は全く衰弱し切つてはいたが、一見やさしい好男子で、しかもどことなく品がある。\n 今車の中で話に出た伊達を凛然という言葉で形容すれば、この早川の方は決して凛然ではないが、やさ男である。伊達がどこか天竜を偲ばせるとすれば、早川の方は役者の感じだ。(私は読者に早川辰吉の顔をはつきり呑み込んで貰いたい為に、東京の福助の顔をあげたいのだがあれでは余り美しすぎる。あの感じの顔をもつとずつと汚くして考えて頂きたいと思う。それに加うるに時蔵の憂鬱そうな感じを混ぜて考えて頂けばややこの男のようすが判ると信ずる)\n よごれたかすりの着物に兵児帯をしめ、足には草履をはいている。\n すつかり諦めきつたという様子で、警部の質問に対して、語りはじめた。\n(早川辰吉が育つた所は、彼の供述でも判る通り関西方面なので彼の話は全部上方弁で語られたのだが便宜上、ここには標準語に改めて御紹介する)\n「私は早川辰吉と申し本年二十三才になります。最近牛込区○町○丁目の八重山館という下宿にまいりましたが別だん職業というものはありませぬ。私の父母は相当の商人で、質屋をしておりました。私の少年時代には父母は健在で大阪におり、私も同地の小学校に通つていたのです。小学校を出る頃父を失いました。しかし、資産は相当ありましたので私は別段困ることもなく、つづいて同地の某中学校に入学致しました。中学の三年の頃母を失つてしまつたので、大阪市外に当時住んでいた私の叔父の所に預けられ、そこから学校に通つておりました。\n それからずつと叔父の所で通学して居りましたが、中学を出る頃になつて、私ははじめて、父の財産の全部を叔父に横領されていることに気がつきました。無論私は叔父だの叔母だのとさんざん争いましたけれども、とうとうごまかされてしまつたのです。叔父は私の後見人である地位を利用して実に非道な事をやつてしまつたのです。そうです、叔父があんな奴でなかつたなら私も今こんな浅ましい姿にはなつていなかつた筈なのです」\n 彼はこう云つたが余程残念だつたと見えて涙が一杯目にあふれて来た。\n「親戚の人々もこの悪い叔父に楯をつく者は一人もないので、私全く一人ぼつちになつてしまいました。でも中学を出ると、進んで高等学校に入る気だつたので、一回その入学試験を受けましたがうまくまいりませんでした。これが丁度私の十九才の時であります。\n「叔父は私に僅かばかりの資産を渡して、私が堕落するようにしむけました。今から思えば実に残念なわけですが、当時一方には自暴自棄になり、一方若いのに少しばかり自由に金が費えるようになつたものですから、私は日夜酒色に耽るようになつてしまいました。全く私は叔父のうまい計略に引つかかつてしまつたのでした。叔父は一方私に自由になる金をまかせて、酒色に溺らせるようにしておきながら他方多くの親戚達に、いかに私が愚か者であり、手におえぬ道楽者であるか、という事を宣伝してまわつたのです」\n\n 3\n\n「それまでは、表向き叔父に反抗しないでもかげではひそかに私に同情していてくれた人たちが親戚の中にも友人の中にも二、三あつたのですが、日毎にすさんでゆく私の有様を見、またそれを誇大して伝える叔父の宣伝の為に、皆私に愛想をつかして、だんだんと遠ざかつてしまいました。\n「二十歳の春に私はバーに通う事を知り、その年の秋には茶屋酒の味を知りました。私はほんとうに淋しかつたのです。父母が生きていてくれたら......何度、どんなにこう心で叫んだか分りません。一番近いと思つていた親戚に裏切られた私は、色街にさまよいながらもいつも他人の――ことに異性の親切、真心をしたい求めるようになつたのです。\n 私が、全く酒色に溺れ、とうとうある廓の女と懇ろになつたのは、真に叔父にとつては思うつぼでした。彼は私の知らぬ間に、親族会議を開いて私が到底父の業をつげぬ男だということを親戚一同にも認めさせ、公然と私の家を乗取つてしまつたのでした。御上の前で恐れ入りますが、実際こういう人間が平気で大きな顔をしてくらしておるなんて、世の中というものは変なものだと思います」\n 辰吉は真実うらめしそうにこう云いながらわれわれの方を見た。警部は石のように無表情で彼のいう事をだまつてきいている。藤枝はしかし、いかにも同感というような顔付で、早川辰吉をながめた。\n「私の家を乗取つた叔父は公然と私を追い出しました。否私の方からとび出たのです。そうして南地に出ていた金三という芸者と大阪市外に半年程同棲するようになりました」\n「その姓名は?」と警部がちよつと口を入れた。\n「岡田かつ子と申しました。当時は未だいくらか金もありましたので、二人でのんきにくらしておりましたが、半年程一緒におりまして事情があつて別れました。これが二十一才の時であります。それから後懇意になつたのが、今度事件になりました佐田やす子という女で、これは道頓堀のシュワルツエ・カッツエというバーの女給でした。\n 昨年の一月頃に私はそこへ行つて懇意になりました。当時やす子ははるみという名で出ていました。その頃はもう余り金もなく、公然と一緒になるのもうるさかつたので、忘れもしませぬ、昨年の一月廿八日、二人で大阪を逃げ出しまして、名古屋におちついたのでした。名古屋には、やす子も元いたことがあるという事だつたので、都合がいいと思つたのです。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"content": " 權次郎の言ふことは一向取止めもなかつたのです。\n「此處の演し物に、繩拔けがあつた筈だが」\n 平次は不思議なことを訊きます。\n「それは、倉松の十八番でございますよ」\n 權次郎は此上もなく無造作な調子でした。\n「拔けるのは倉松だらうが、縛るのは誰だい」\n「お客に縛つて頂きます。――お客が引込み思案で出て下さらない時は、三太がやりますが」\n「ちよいと、此處でやつて見てくれ」\n「へエ――」\n 權次郎も三太も倉松も變な顏をしましたが、錢形平次の望みに反きやうもなく、舞臺で使ふ細引を持つて來て、木戸番の三太の手で、キリキリと倉松を縛つて見せました。\n「もうそんな事でよからう、拔いて見てくれ」\n「――」\n 倉松は何か襲はれるやうな心持らしく、引つ切なしに平次の顏を見て居ります。これが、何時、本繩に變るかも知れないと思ふのでせう。\n でも、二度平次に催促されると、藝人らしく、はつきり見得を切つて、\n「え――ツ」\n 氣合が一つ、繩はゾロゾロと解けて、死んだ蛇のやうに、倉松の足許に這ひます。\n「御苦勞々々。それでいゝ、――飛んだ邪魔をして濟まなかつた」\n 平次は、丁寧に禮さへ言つて、小屋の外へ出るのでした。\n「親分」\n 暫らくすると、ガラツ八はたまり兼ねた樣子で聲を掛けました。\n「何だい、八?」\n「倉松の野郎を縛らないんですか」\n「無駄だよ」\n「?」\n「繩拔けの名人だ、縛るだけが野暮さ」\n「へエ――」\n「それに倉松は繩を拔けるのが渡世で、縛る方は得手ぢやなかつたんだ」\n ガラツ八は、不服さうに頬を膨らせます。\n「それより、あの娘の方はどうした?」\n 平次は話題を變へました。\n「娘?」\n「知らばつくれちやいけねえ。中江川のお琴さんだよ。用心棒に手前を置くのは何の爲だと思ふ」\n「――」\n ガラツ八の顏は見物です。\n「呆れた野郎だ、若い娘と三日も四日も鼻を突き合せてゐるくせに、まだ埒が明かねえのか」\n「親分」\n「手前は、あの娘を女房にしたいつて言つたらう。だから、俺は粹をきかして、手前を用心棒にしてやつたのさ。中江川さんは年寄で、眼も耳も遠いから、三日經たないうちに、手前とお琴さんは、夫婦約束位出來るだらうと思つたんだ。――相惚れの仲人實は廻し者――つてね、それから俺が乘出して口をきくのさ」\n 平次はそんな事を、面白さうにまくし立てるのです。\n「だつて無理だよ、親分、あゝ見えても武家の娘だ」\n「武家の娘が何だい、――それともお琴さんが二本差してゐるとでも言ふのかい」\n「弱つたなア」\n「弱ることなんかあるものか、――どうせ年寄は早寢だらう」\n「そりや、宵には奧へ引込むが」\n「それから手前へ晩酌が出るだらう、――醉つた勢ひで、何とかならないものかね」\n「あれでも武家の娘だ。綺麗なだけで大した悧口ぢやあるまいと思つたが、どうしてどうして」\n「手前より悧口だと解つたのかい、ハツ、ハツ、ハツ、ハツ、こいつは大笑ひだ」\n 何が面白いのか、カラカラと笑ふ平次。その羽目を外した調子を、ガラツ八はムツとした心持で見詰めるのでした。\n\n五\n\n それから三日の間に、兇賊は三ヶ所を荒し廻りました。質屋と、呉服屋と、女隱居と、――中でも末廣町の女隱居は、あんまり金を深くしまひ込んで、さすがの曲者も搜し兼ねたものか、叩き起して刄物で脅かし、落しの中の石疊の下にあつた、百二十兩の小判のありかを言はせてしまひました。\n その時、曲者の姿を、朧ろ氣ながら見てしまつた女隱居は、危ふく殺されるところでしたが、曲者は曉近い外部の人通りに驚いて逃出し、既に刄を喉笛に擬せられた女隱居は、危ふいところで命を助かつたのでした。\n 平次とガラツ八が、朝のうちに驅け付けて、まだ驚きと怖れから癒り切らぬ女隱居の口から、一生懸命訊き出したことは言ふ迄もありません。\n 女隱居は、六十前後、嘗ては日本橋あたりの大店の主人の圍ひ者だつたさうで、下女一人を使つて、つゝましく暮して居りました。\n 昨夜は丁度下女を葛西の在所に歸して、たつた一人淋しく過してゐると、夜中過ぎに、天窓をコジあけて、覆面の大男が入つて來たといふのです。\n「大男――? それは本當かい」\n「へエ、大きな男でございましたよ。頭巾を冠つたまゝで、よくは解りませんが、聲の樣子ではまだ若さうで」\n「下女は長く奉公してゐるのかい」\n「五六年も居りますよ。大の忠義者で、まだ三十そこ〳〵でせう。一度縁付いたさうですが、不縁になつて私のところへ參り、もう一生動かないといつて居る位で、へエ」\n「葛西の在から、使でも來たんだらうな」\n「口上で、――母親が加減が惡いから一と晩泊りでも來るやうにと、百姓衆が言つて來ました」\n「下女の知つて居る人かい」\n「いえ、村の人ぢやない――と言ひました」\n こんな事は、何時まで訊ねて居ても際限もありません。いづれは僞使に決つて居るやうなものです。\n「昨夜の事を、もう一度詳しく話して貰はうか」\n 平次は女隱居の言葉を、くり返して檢討する積りでせう。\n「子刻が鳴つてから寢付きましたから、丑刻近かつたかも知れません。變な音がして眼が覺めると有明の行燈の前に、眞つ黒な男が立つて居るぢやありませんか」\n「確かに男だね」\n「それはもう親分さん、――飛起きて聲を立てようとすると襟頸を押へて枕に仰向に押付けられ、喉笛を脇差でピタピタと叩くぢやありませんか」\n その時の事を思ひ出したか、女隱居はゾツと身を顫はせました。\n「何にも物を言はなかつたのか」\n「――金を出せ――たゞそれだけです。何にも言ひません。それつきり默りこくつて、四半刻もヂツとして居るんですもの、命より惜しい虎の子だつて隱し切れるものぢやありません」\n 奪ひ取られた百二十兩の惜しさが、身に滲みたものか、女隱居は此時はじめてポロポロと涙をこぼしました。\n「聲は?」\n「低い聲で、――聞いたことのあるやうな、ないやうな――」\n「――」\n「仕方がないから、落しの中の、石疊の下に、虎の子を隱してあることを言ひました。すると、私の胸倉を掴んだまゝ行つて、落しを開けて黄八丈の財布に入れた、百二十兩の小判を取出し、憎らしいぢやありませんか、悠々と勘定までして自分の懷ろに入れ、それから元の部屋に歸ると、もう一度脇差を拔いて、この私を――」\n 女隱居は自分の喉のあたりを指し乍ら、恐怖に絶句したのです。\n「それから」\n「どうせ、姿を見られると、決して助けては置かない泥棒だと聞いてゐたので、私も觀念しました。――觀念したくないにも、聲が出なかつたのです。思はず念佛を稱へると、泥棒はあわてゝ私の胸倉を突放し、蒲團の中へ私を押込んで、裏口から飛ぶやうに逃出してしまひました」\n「外で物音でもしたのかい」\n「物音がしたかも知れませんが、私には聞えません。私はもう生きた心地もなかつたので、聞き落したのでせう。泥棒があんなにあわてたところを見ると、人聲か足音か、何か聞えたに違ひありません」\n「時刻は?」\n「間もなく丑刻半だつたと思ひます」\n「曉方と言つても、まだ人の通る時刻ではないな」\n 平次はいろ〳〵の事を考へてゐる樣子でした。\n「どうしたらいゝでせうね、親分さん。あの百二十兩を奪られてしまつては、私はもう明日から暮しやうがありません」\n 女隱居は命に別條のないことをはつきり意識すると、次第に盜まれた百二十兩が惜しくなつたものらしく、頼み少ない姿で、悲歎にくれるのでした。\n「泥棒はきつと捉まへてやる、――もう少し落着いて、俺の言ふことを聽いてくれ」\n「――」\n「泥棒の足を見なかつたかい、何を履いて居たか」\n「跣足でしたよ。尤も懷ろへ草履か雪駄を入れて居るのがチラと見えましたが」\n「八、聞いたか、泥棒は履物を懷中へ入れて居たとよ。以前は泥の付いた履物のまゝ、疊の上も蒲團の上も踏み荒した泥棒が、此の間から馬鹿にお行儀のよくなつたのに、手前も氣が付くだらう」\n「さう言へばさうですね」\n 八五郎は一應うなづきました。が、それは何んな意味のあることか解りさうもありません。\n「此處でも梯子は使はなかつたやうだな。ところで、お婆さん、外に氣の付いたことは?」\n 平次はまだこの女隱居から引出せさうな氣がしたのです。\n「頭巾の下から、切り揃へた毛が少しはみ出して居たやうですよ」\n「何? 頭巾の下から、切り揃へた毛? さア大變だ、八?」"
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"content": " 平次は躍り上がりました。\n「そいつは何でせう、親分」\n「たしかに女でないなら、そいつは總髮だ。總髮にしてゐる男といふと――」\n「醫者か、八卦か、法印か――」\n「しめたツ」\n 平次は新しい光明を臨んで驀地に飛出しました。\n\n六\n\n 神田から下谷日本橋界隈に、總髮姿で身體の利きさうな男といふと、筋違見附外に大道易者をしてゐる、浪人大谷道軒の外にはありません。\n「八、下つ引を二三人呼んで來い、相手はうんと手剛いぞ」\n「大丈夫ですか、親分」\n「大概大丈夫なつもりだが、――念のため筋違見附を覗いて行かう」\n 二人は一氣に筋違ひ見附へ――。\n その頃筋違見附、今の萬世橋の袂は、丸ノ内、日本橋から、上野へ、甲州街道への要路で、警戒の嚴重なところであり、人出の多いところでもありました。\n 見附外の少し離れた空地、三脚の臺を据ゑ、天眼鏡を構へた易者は、時々編笠を取つて汗を拭きますが、無精髮の總髮、まだ四十そこ〳〵の屈強な男です。\n「八、止さう」\n 平次は張り切つた肩を落しました。\n「どうしたんで? 親分」\n「總髮は江戸に何十人あるか解らねえ、迂濶にあの易者を縛つて、物笑ひになるのもイヤだ」\n「それぢや、あの野郎の家へ行つて、家搜しませうか」\n「家は何處だい」\n「鍋町の源助店で」\n「いやな事だが、それも仕方があるまいな、行つて見よう」\n 二人は鍋町へ引返しました。\n 源助店の路地の外に、ガラツ八を見張りに置いて、道軒の家へ潜り込んだのは平次たつた一人。\n それから一刻あまり、近所の思惑を憚り乍ら、平次は一生一代のいやな家探しを續けました。\n 何處にも、血の付いた脇差も、小判の片らもありません。天井も、床下も、押入も、蒲團の中も見ました。\n「ありませんか、親分」\n ガラツ八はたまり兼ねて入つて來ました。\n「何にもないよ、浪人者にしても、念入りの貧乏だな」\n「その佛壇は?」\n「盜んだ金を、入口から見透しの佛壇へ入れて、御先祖樣にお目にかける奴もあるめえ、――が待てよ、外の考へやうもある」\n 平次はもう一度ひき返すと、佛壇の中を念入りに見た上、下の抽斗も嘗めるやうに調べました。\n「おや?」\n 抽斗を拔いて、その奧へ手を突つ込むと、何やら指先に觸れるものがあるのです。ズルズルと引出して見ると、\n「親分」\n 八五郎は思はず喊聲をあげました。黄八丈の財布が一つ、扱いて見ると、中から出たのは、數も百二十枚、昨夜女隱居が盜られたといふ小判に紛れもありません。\n「――」\n 平次は默つて考へ込んで居ります。\n「親分、見附へ行つて見ませう。氣が付いてずらかつちや一大事」\n「騷ぐな八、まだ縛るには早い。去年の暮から諸方で盜つた金はどう積つても千兩以上だ。此處にあるのは百二十兩、あとの金が出ねえうちは、滅多に繩を打つわけには行かねえ」\n「だつて親分」\n「まア、いゝ、俺に任せて置け、――この事は人に言ふな」\n 平次は黄八丈の財布に入つた百二十兩を元の引出しの裏に入れると、泥棒猫のやうに、そつと大谷道軒の浪宅を滑り出たのです。\n それから二日目。\n「ところで、八」\n「へエ――」\n 平次のところへ行つた八五郎は、妙に擽つたい笑顏に迎へられました。\n「あの娘はどうだえ」\n「へエ――」\n「まだモノにならないのか」\n「ありや鑑定違ひですよ、親分の前だが」\n 八五郎は照れ臭く頸筋を叩きます。\n「何が違つたんだ」\n「あのお琴といふ娘は飛んだ喰はせものですよ」\n「はてね?」\n「第一、中江川平太夫の娘なんかぢやありやしません」\n「へエ――」\n「二三日は娘らしくして居ましたが、近頃ぢや――」\n ガラツ八は頸を縮めて赤い舌を出すのです。\n「孫かい、娘でなきや――」\n と平次。\n「親分もどうかして居ますぜ」\n ガラツ八の鼻の穴は次第に大きくなります。\n「何がどうしたんだ」\n と平次。\n「不思議なことばかりで、あつしには見當も付かねえ」\n「何が不思議なんだ」\n「第一、あの平太夫はそんな年寄ぢやありません、髮こそ眞つ白だが」\n「そんな馬鹿なことがあるものか、第一ヨボヨボして、歩くさへ不自由ぢやないか」\n「でも――」\n「手前氣が弱くてそんなつまらねえ事を考へるんだ。待ちな、俺が結構な禁呪を教へてやる。今晩あの平太夫の前で、あの娘を嫁にくれと言つてみるんだ」\n「そんな馬鹿なことが言へる道理はありません。痩せても枯れても向うは武家で、此方は唯の岡つ引だ」\n「つまらねえ遠慮をするぢやないか。武家でも浪人だらう、手前は十手捕繩をお上から預かる一本立の御用聞だ」\n「だつて、あの娘は、あつしの事なんか、何とも思つちや居ませんぜ」\n「居ないことがあるものか。大ありの名古屋だ、畜生奴ツ」\n「痛いツ」\n 平次の手は威勢よくガラツ八の背をなぐつたのです。\n「それでも文句を言ふなら、結納の代りだとか何とか、いゝ加減な事を言つて、これを見せるがいゝ」\n 平次は何やら風呂敷に包んだ品を、ガラツ八に持たせるのでした。\n「何です、これは」\n「浦島の玉手箱だ、あけちやならねえ、――耳を貸しな、少し含んで貰ひてえことがある」\n「へエ――」\n「たまには耳も掃除して置くんだぜ、いゝ若い者が、こんな汚い耳をして居ちや、お琴さんだつて、結構なことを囁やく氣にもなれないだらうぢやないか」\n\n七\n\n その晩中江川平太夫の家で、大變な騷ぎが起つたのです。\n 丑刻少し過ぎ、いつぞや中江川平太夫が心配したやうに、兇賊が例の天窓から、二度目の襲撃をして娘のお琴を縛り上げ、部屋々々をあさつて、店に寢て居るガラツ八のところまでやつて來たのでした。\n 遠い有明に透した曲者は、ガラツ八の上に馬乘りになると、脇差の一と突き。が、その手は宙に淀みました。何か見當の違つたものを感じたのでせう。\n「泥棒々々ツ」\n 恐ろしい聲で、後ろからわめき立てたのは、床に寢て居る筈のガラツ八です――。いや、ガラツ八は早くもこの襲撃を察し、床の中には枕と座蒲團と雜物を入れ、自分は後ろの戸棚の蔭に隱れて、神田中に響き渡るやうな聲を出したのです。\n 曲者は面喰つて立ち上りました。が、ガラツ八の大音聲に膽を潰した上、近所のざわめき始めたのに氣おくれがしたらしく、縁側の戸を開けて、パツと外の闇へ――。\n「御用ツ」\n 其處には錢形平次が待つて居たのです。\n 火のやうな格鬪が一瞬庭に展開しました。曲者の脇差が、幾度か平次に迫りましたが、得意の投錢がそれを封じて、暫らく睨み合ふうち、家の中から助太刀のガラツ八が、大音聲と一緒に飛出して來たのでした。\n × × ×\n 大盜中江川平太夫は、平次と八五郎の手に召捕られ、その夜のうちに南の御奉行所假牢に送られました。\n 娘――と稱した、妾のお琴は、逐電して行方知れず。その後の取調べで、中江川平太夫は白虎の平太と異名を取つた大盜賊で、三十臺に傷寒を患つて頭の毛は眞つ白になりましたが、年はまだ四十そこ〳〵、ヨボヨボどころか恐ろしい體術の達人で、猿のやうに梁を渡り、庇を飛ぶ術を知つて居たのです。"
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"content": " 佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水数間屋、夕陽不見人、牯牛麦中宿」といふ五絶を、\n\n\n杏咲くさびしき田舎\n川添ひや家をちこち\n入日さし人げもなくて\n麦畑にねむる牛あり\n\n\nと訳してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ数間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に帰る」と題する詩に、「拙を守つて園田に帰る、方宅十余畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡数間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齢八十を過ぎ、久く已に一棺を弁ず、廬を結ぶ十余間、身を著けて海の寛きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡数間屋、結廬十余間は、みな間数を示したものである。杏花一孤村流水数間屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に数間の屋を数軒の家と解したのであらうか。専門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。\n 「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。\n\n ○\n\n 孟浩然集を見ると、五言絶句は僅に十九首しか残つて居ないが、唐詩選にはその中から二首採つてある。しかし私は取り残してある「建徳江に宿す」の詩が、十九首の中で一番好きである。それはかう云ふのだ。\n\n\n移舟泊烟渚 舟を移して烟渚に泊せば、\n日暮客愁新 日暮れて客愁新たなり。\n野曠天低樹 野曠うして天樹に低れ、\n江清月近人 江清うして月人に近し。\n\n\n 小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、この詩の起句を「烟渚に泊す」と読み切つてあり、結句を「月人に近づく」と読ませてある。しかし私は、「烟渚に泊せば」と読み続けたく、また「月人に近し」と、月を静かなものにして置きたい。\n なほ野曠天低樹は、舟の中から陸上を望んだ景色であり、そこの樹はひろびろとした野原の果てにある樹なので、遥に人に遠い。(近ければ野曠しと云ふことにならない。)次に江清月近人の方は、舟の中から江を望んだ景色であらう。そして江清しと云ふは、昼間見た時は濁つてゐたのに、今は月光のため浄化されてゐるのであらう。月はもちろん明月で、盥のやうに大きく、ひどく近距離に感じられるのである。私は明月に対し、月が近いとは感じても、月が自分の方へ近づいて来ると感じ〔た〕ことはない。で月人に近しと読み、月人に近づくと読むことを欲しない。\n\n ○\n\n 孟浩然の詩で唐詩選に載せられて居るものは七首あるが、その何れにも現れて居ない特徴が、全集を見ると眼に映じて来る。それは同じ文字が一つ詩の中に重ね用ひられて居ると云ふことである。例へば「友人の京に之くを送る」と題する五絶に、次のやうなのがある。\n\n\n君登青雲去 君は青雲に登りて去り、\n余望青山歸 余は青山を望んで帰る。\n雲山從此別 雲山これより別かる、\n涙濕薜蘿衣 涙は湿す薜蘿の衣。\n\n\n 僅か二十字のうち、青雲青山雲山と同じ字が三つも重なつてゐるが、その重なり方がおもしろい。吾々は少しも不自然を感ぜず、却て特殊の味ひを覚える。\n 以下重字の例を列記して見る。\n\n朝游訪名山、山遠在空翠。(尋香山湛上人)\n悠悠清江水、水落沙嶼出。(登江中孤嶼)\n鴛鴦鸂※((來+攵)/鳥)満沙頭、沙頭日落沙磧長、金沙耀耀動飆光。(鸚鵡洲送王九遊江左)\n売薬来西村、村烟日云夕。(山中逢道士)\n煙波愁我心、心馳茅山洞。(宿揚子津)\n余亦乗舟帰鹿門、鹿門月照開煙樹。(夜帰鹿門歌)\n山公常酔習家池、池辺釣女自相随。(高陽池送朱二)\n翻向此中牧征馬、征馬分飛日漸斜。(同上)\n傲吏非凡吏、名流即道流。(梅道士水亭)\n払衣去何処、高枕南山南。(京還贈張維)\n河県柳林辺、河橋晩泊船。(臨渙裴明府席遇張十一房六)\n県城南面漢江流、江嶂開成南雍州。(登安陽城楼)\n異俗非郷俗、新年改故年。(薊門看灯)\n試登秦嶺望秦川。(越中送張少府帰秦中)\n\n 拾つて見ればこの程度のものに過ぎぬが、残つてゐる詩が極めて少いので、これだけのものでも特に目に着く。\n\n ○\n\n 絶句や律詩では、例へば李太白の「一叫一廻腸一断、三春三月隠三巴」の如く、王勃の「九月九日望郷台、他席他郷送客杯」や「故人故情懐故宴、相望相思不相見」の如く、高青邱の「渡水復渡水、看花還看花、春風江上路、不覚到君家」の如く、王安石の「水南水北重重柳、山後山前処処梅、未即此身随物化、年年長趁此時来」の如く、また陸放翁の「不飢不寒万事足、有山有水一生閑、朱門不管渠痴絶、自愛茅茨三両間」の如く、一句中に同字を用ひるは差支なきも、一首中に句を別にして同字を重ね用ひるは、原則として厭むべきものとされてゐる。しかし同字の重畳によつて却て用語の妙を発揮せる例も少くない。\n 前に掲げた孟浩然の送友人之京と題せる五絶の如きは、その適例の一つであるが、文同(晩唐)の望雲楼と題する次の五絶の如きも、各句に楼字を重ね用ひることによつて、特殊の味を出して居ると思はれる。\n\n\n巴山樓之東 巴山は楼の東、\n秦嶺樓之北 秦嶺は楼の北。\n樓上捲簾時 楼上簾を捲くの時、\n滿樓雲一色 楼に満つ雲一色。\n\n\n 家鉉翁(晩唐)の寄江南故人と題する次の詩も、やはり同字の重畳に面白味がある。\n\n\n曾向錢唐住 曾て銭唐に向つて住し、\n聞鵲憶蜀郷 鵲を聞いて蜀郷を憶ひき。\n不知今夕夢 知らず今夕の夢、\n到蜀到錢唐 蜀に到るか銭唐に到るか。\n\n\n 銭唐は今の浙江省の銭塘で、即ち江南であり、蜀は今の四川省に当る北地。向つては於いてと云ふに同じ。作者は今、郷里の蜀地にも居らず、また曾て住みたる銭塘にも居らず、却て友人の銭塘に在るを憶へるのである。\n 張文姫(鮑参軍妻)渓口雲詩にいふ、溶溶渓口雲、纔向渓中吐、不復帰渓中、還作渓中雨(溶々たる渓口の雲、纔に渓中に向つて吐く。復び渓中に帰らず、還た渓中の雨と作る。)これも亦た重字の妙を得たものと云へる。\n また鄭谷の淮上与友人別詩にいふ、揚子江頭楊柳春、楊花愁殺渡江人、数声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦と。江字、楊字、向字各〻重出して却て詩美を成す。\n 白楽天の憶江柳詩、また同じ。曾栽楊柳江南岸、一別江南両度春、遥憶青青江岸上、不知攀折是何人。\n 以上の例と違ひ、わざとらしく同字を重ねたものは、概して鼻につく。次に若干の例を挙げて見る。\n\n\n\n 亂後曲江 王駕\n\n憶昔曾遊曲水濱未春長有探春人遊春人盡空池在直至春深不似春\n(憶ふ昔し曾て曲水の浜に遊ぶや、未だ春ならざるに長へに春を探るの人有りしに、春に遊ぶの人尽きて空く池在り、直ちに春の深きに至りて春に似ず。)\n\n\n 古意 王駕\n\n夫戍蕭關妾在呉西風吹妾妾憂夫一行書信千行涙寒到君邊衣到無\n\n\n 前の詩には春字五、遊、人の二字は各〻二、後の詩には妾字五、夫、到の二字が各〻二、重複してゐるが、そのために特別の味が出てゐるとは思はれない。\n\n\n\n 春夜 劉象\n\n幾處兵戈阻路岐憶山心切與山違時難何處披懷抱日日日斜空醉歸"
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"content": "(幾処か兵戈路岐を阻て、山を憶ふ心切にして山と違ふ。時難にして何れの処か懐抱を披かん、日々日斜にして空く酔うて帰る。)\n\n\n 春夜 劉象\n\n一別杜陵歸未期祇憑魂夢接親和近來欲睡兼難睡夜夜夜深聞子規\n(一たび杜陵に別れて帰ること未だ期なく、祇だ魂夢に憑りて親和に接す。近来睡らんとするも兼て睡り難く、夜々夜深けて子規を聞く。)\n\n\n 曉登迎春閣 劉象\n\n未櫛憑欄眺錦城煙籠萬井二江明香風滿閣花滿樹樹樹樹梢啼曉鶯\n(未だ櫛らず欄に憑りて錦城を眺めば、煙は万井を籠めて二江明かなり。香風閣に満ち花は樹に満ち、樹々樹梢に暁鶯啼く。)\n\n\n 私は以上の三首、いづれも甚だ好まない。殊に第二首は甚だ嫌である。次に掲げる方秋崖以下のものも、私はみな好まない。\n\n\n\n 梅花 方秋崖\n\n有梅無雪不精神有雪無詩俗了人薄暮詩成天又雪與梅併作十分春(雪字三、梅、詩、有、無の四字は各〻二)\n(梅あるも雪なくんば精神ならず、雪あるも詩なくんば人を俗了す。薄暮詩成りて天又た雪ふり、梅と併せて十分の春を作す。)\n\n\n 野外 蔡節齋\n\n松裏安亭松作門看書松下坐松根閑來又倚松陰睡淅瀝松聲繞夢魂(松字六)\n(松裏に亭を安んじ松を門と作し、書を松下に看て松根に坐す。閑来又た松陰に倚りて睡れば、淅瀝たる松声夢魂を繞る。)\n\n\n 吉祥探花 蔡君謨\n\n花未全開月未圓看花待月思依然明知花月無情物若使多情更可憐(花、月の二字は各〻三、未、情の二字は各〻二)\n(花未だ全開せず月未だ円かならず、花を看、月を待つの思ひ依然。明かに知る花月は無情の物なるを、若し多情ならしめば更に可憐ならん。)\n\n\n 凭欄 蒙齋\n\n幾度凭欄約夜深夜深情緒不如今如今強倚闌干立月滿空階霜滿林(夜、深、如、今、滿の五字各〻重出)\n(幾度か欄に凭りて夜深を約す、夜深うして情緒今に如かず、如今強ひて闌干に倚りて立てば、月は空階に満ち霜は林に満つ。)\n\n\n どの詩もどの詩も俗で、詩といふほどのものになつて居ない。\n\n\n賀蘭溪上幾株松南北東西有幾峯買得住來今幾日尋常誰與坐從容\n(賀蘭渓上幾株の松、南北東西幾峰か有る、買ひ得て住し来たる今幾日、尋常誰と与にか坐して從容。)\n\n\n これは王安石の詩、三たび幾字を重用して不思議に目立たない。\n\n ○\n\n 無責任なる漢詩訳解の一例。続国訳漢文大成、蘇東坡詩集、巻四、三〇八―九頁、註釈者、釈清潭。\n\n\n 「書李世南所畫秋景\n\n野水參差落漲痕 野水参差として漲痕落つ、\n疎林攲倒出霜根 疎林攲倒して霜根出づ、\n扁舟一櫂歸何處 扁舟一櫂何の処に帰る、\n家在江南黄葉邨 家は江南黄葉の邨に在り、\n[詩意]野水は東西南北参差として、何も漲痕が落ちてある、其の上の疎林は攲倒の形を為して霜根を露出する、扁舟は舟人一櫂して何の処に帰るやを知らず、察するに江南黄葉邨に帰るのであらう、其の方向に舟は進みつつある、\n[字解](一)参差 不斉の貌、詩経に参差荇菜とある、(二)一櫂 一棹に作る本あり、」\n\n これなどは巻中まだましな方であるが、有名な詩だから先づ之を見本に写し出して見た。詩意として書き付けてある文章は、中学生の答案としても恐らく落第点であらう。文章のよしあしは別として、「漲痕」とは何のことか、「漲痕が落ちてある」とはどういふ意味か、「疎林が攲倒の形を為す」とは何のことか、「舟人が一櫂する」とはどんな事をするのか、これでは総て解釈になつて居ない。こんな日本文が分かるやうなら、何も国訳本を必要としないであらう。不親切な註釈もあつたものだ。\n 長い詩は写し取るのが面倒だから、絶句だけについて、も少し見本を並べて見よう。\n\n\n 「與王郎夜飮井水\n\n呉興六月水泉温 呉興六月水泉温なり、\n千頃菰蒲聚鬭蚊 千頃の菰蒲鬭蚊を聚む、\n此井獨能深一丈 此の井独り能く深きこと一丈、\n源龍如我亦如君 源竜我の如く亦君の如し、\n[詩意]呉興の六月は水泉温かである、千頃の菰蒲に鬭蚊が集る、此の井は独り深きこと一丈、源竜我の如く亦君の如くである、」\n\n これだけの説明でこの詩の意味が分かるつもりなのであらうか。そもそも筆者自身がこの詩を理解し得たのであらうか。――今一つ。\n\n\n 「南堂五首(其五)\n掃地焚香閉閣眠 地を掃ひ香を焚き閣を閉ぢて眠る、\n簟紋如水帳如煙 簟紋水の如く帳は煙の如し、\n客來夢覺知何處 客来りて夢覚め知る何れの処ぞ、\n挂起西窗浪接天 挂起すれば西窓浪天に接す、\n[詩意]地を掃ひ香を焚き閣を閉ぢて眠る、簟紋は冷水の如くにて帳帷は煙の如くである、客来の声を聞いて夢より覚めて客は何処ぞと云うて、挂起すれば西窓の外は浪が天に接する勢である、\n[字解](一)簟紋 夏日に敷いて坐する具、(二)帳如煙 太白の詩、碧紗如煙隔窓語と、李義山の詩、水紋簟滑鋪牙牀と、」\n\n 世間に名の知れた漢詩人でありながら、平気でこんなことを書き並べて居るのは、不思議に感じられる。\n\n ○\n\n 漢詩を日本読みにするのは、簡単なことのやうで、実は読む人の当面の詩に対する理解の程度や、その人の日本文に対する神経の鋭鈍などによつて左右され、自然、同じ詩でも人によつて読み方が違ふ。\n 日本人の作る漢詩は之を日本読みにする場合の調子に重きを置くべきであると考へてゐる私は、(この種の考については、いづれ項を別にして述べる、)総じて漢詩の日本流の読み方について色々な注文を有つ。次に思ひ付くままを少し述べて見よう。\n 漆山又四郎訳註の唐詩選(岩波文庫本)には、李白の越中懐古を、次の如く読ませてある。\n\n\n越王勾踐破呉歸 越王勾践 呉を破りて帰る\n義士還家盡錦衣 義士家に還りて尽く錦衣なり。\n宮女如花滿春殿 宮女は花の如く春殿に満つ\n只今惟有鷓鴣飛 只今惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ。\n\n\n 私はかうした句読の切り方にも賛成せず、それに何よりも全体の調子がひどく拙いと思ふ。「義士家に還りて尽く錦衣なり、」私はこんな文章を好まない。「宮女は花の如く云々、」何故、前の句では「義士は」と読まずに、この句だけ「宮女は」と読ませたのであらう。「錦衣なり」「春殿に満つ」と現在に読むのもいけない。また春殿に満つは間違であらう。ここの春殿は、論語に「暮春には春服既に成り云々」とある場合などと同じく、春は殿の形容詞である。春満殿となつて居るのではないから、強ひて満春殿を「春殿に満つ」などと読ます必要は絶対にない。「惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ」も、私はその調子を好まない。私は全体の詩を次のやうに読む。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"content": " 筒井は三年が四年になるか四年が五年になっているように遥かな昔におもえた。そしてその頃と何か世界が変っていて筒井自身も変っているように思われた。\n「そなたはその御仁が生きていられるとお思いか。」\n「生きていられるように思われます。生きていられるから消息がないのだと考えられます。」\n「訪ねて見えると思わるるか。」\n 貞時のこの尋ね方には、行きづまりがあり、筒井にそれをひらいてもらいたい気持がかくされていた。\n「きっと一度だけは何時の日かに見えるような気がいたします。」\n「その時は何と仰せられるか。」\n「その折はその折にございます。お逢いできなければそのままで彼の方をおかえし申します。」\n「それを聞いて我ら安堵のおもいがした。それにしてもそなたは永い間怺えていられた。その永い間怺えていられたことだけでも、その人はそなたの倖せを願われるであろう、貞時、そなたのような女の人ははじめて知り申した。」\n その時、宮腹の主人は遠慮深げではあったが、二人の前にあらわれ、筒井は極めて落着いたこなしで貞時を紹介し、そしてあらためていった。\n「迎えにまいられたのでございます。いままで何ごとも申上げずお許しくださいますよう。」\n「なるほど。」\n 宮腹の主人は貞時を見て、はじめて筒井が秘めていた事情を諒解したのであった。貞時の風貌は宮腹の主人の反感を呼ぶような種類のものではなく、きわめて善良な好印象をあたえた。\n「お庭先にて無礼の段、おゆるしあるよう。」\n「せめて簀の子まで近寄られい、お父上とは御昵懇なものでござる。」\n「それははじめて承ります。」\n 貞時は自分の父を知る主人を見直して、あたたかさを感じた。\n「近年おあい申さぬが、お父上も、わしもみなつれあいを亡くし、かなしいともがらでござる。」\n 筒井もこと偶然ではあったが、父同士の知り合いには、くすしき縁を感じざるをえなかった。彼らは簀の子にあつまり、梅花の匂いをこもらせた白湯を味った。貞時はなんとなくいった。\n「いずれ申し上げる折もござろうが、実は筒井どのとは父も許してくだされた仲であったが、筒井どのの謙遜から身をひかれたわけにて、なにとぞ、おいとまたまわるよう願わしく存じます。」\n「さような訳なら何でおとどめ申そう、いや、筒井どのが見えられてから我が一家は蘇生の思いが致しておりました。」\n 筒井は頭を垂れ、どこに行っても大切にされる自分にどこがそれほどの人格があるのか分らなかった。そして自分が去ればあとに残った人の心をさびしくする、......そういうことにも徳のない自分を感じた。徳のある自分になろうとすれば、生活を投げ出さなければならなかった。\n「すぐに筒井どのは行かれるか。」\n「いいえ、愉しき十日間ほど御娘子様、弟様にたてまつり、家の中をととのえ、お許しの出る日を待ちとうございます。」\n「ああ、よく申された、愉しき十日あまりとはよく申された。」\n 宮腹の主人は筒井の手をとらんばかりに、その言葉を喜んで受けとり、いますぐ行かれてはこまるともいった。\n「貞時さまにまいっても時々はお家のこともおてつだい申し上げたく思います、貞時さま、この儀いまからおねがいいたしておきたく存じます。」\n「それでこそまことの女の道、貞時よろこんで承認します。」\n そのとき宮腹の主人は愉しく笑いをふくんで、自分の愛児にあたえる言葉のようにいった。\n「お二人の宴にはわしもお祝いにあがってもいいかの。」\n「枉げてお招きを受とりくださるように只今からおねがいいたします。」\n「ありがとう、われらの娘もともに宴につらなるでござろう。」\n 間もなく十日を約して貞時はいそいそとして門前に出て行き、筒井と宮腹親子が見送るのであった。\n「きょうはよい吉日であった。」\n あとで宮腹の主人はいった。\n「よくその日まで気をつけていてくださるよう。」\n 主人はあまり仕事に熱心になりつかれてはならぬと言い添え、筒井は頭をさげて善い人ばかりいる世界を感じた。どこに行っても、筒井は悪い人を見ることがなかった。四年近くも便りのない人にも、筒井はそれを責めるには余りにも心は平明であり、しあわせであった。その夜、彼女は黄金のみ仏を抱いてそれにのみ心をささげ、おん慈しみを乞うのであった。み仏は筒井の肌にあたためられ、殆ど、冷たくなっている日とてはなかった。\n「み仏よ、あなたさまをおまもりする日はもはや生涯をこめてのことでございます。あなたさまより外には、もはやお待ちいたしませぬ。みやこに去られた方も、あなたさまのなかに秘められてあるという、愚鈍なわたくしの考えをお憐れみくださいませ。あなたさまより外には筒井のまもるべき方もございませぬ、そしてあたらしい彼の方も加えて永くおまもりくださいませ。なにとぞ、人間のさだめない宿命の汚れをおいとい下さいませぬよう。」\n 夜はあたたかいほど外は晴れているらしく、水辺を去るみず鳥のこえが絶え間なく北方につづいて起っていた。それは春が来る前のしらせのようなものであった。筒井はふと眼をすえてもう便りの絶えた男に、何かいわなければならぬものをも感じた。\n「もうお便りがなくなってから四年にもなります。そして筒井はお便りをいただこうにも、いただきようがなくなりかけています。筒井もまだ生きねばならず、どうぞ筒井を生かしてくださいませ、四年というものあなたさまをお待ちするために生きましたけれど、それは反古同様ないのちのつなぎでございました。あとの何年かはわたくし自身のために生きてゆかなければなりません、そしてわたくしによって更に生きてゆこうとする老いた人と、その御子息さまとに望を絶えさせることはわたくしには出来かねます、ちからを藉してもろともに生きてゆかねばならないのでございます。これもお許しくださいませ、そして何処にいらせられてももはやわたくしのことはお忘れあるよう、お尋ねくださらないように念じ上げとうぞんじます。わたくしはあなたさまを忘れるために努め、あなたさまなきように心できめようとするほど、まだあなたさまに悩まされていて悲しゅうございます。ともあれ、いまは何よりも永いお別れをいたしとうぞんじます、それだけがわたくしのこらえ怺えて来たあとに、やっと分ったことのそのひとつでございます。」\n「わたくしどもがはじめ別れて勤めおうたのが、みんな間違うて行ったはじまりのように思われます。人はもろともに暮していたはずのものが別れてはたらき、別れて行き逢うということがもう悲しみのはじめに思われます。大人のような考えをおたがいに持ち合っていたようなのも、ここまで来て見ればあれはみな子供のそら考えとしか思われません、子供の考えごとがわたくしどもをたいへんに不幸にさせ、もし仮に他の人であったら現今のわたくしのような善い人たちにかこまれることもなく、かなしい憂目を見たかも分りません。ともあれ、わたくしは仕合せでございます。仕合せのままお別れすることはきょうの何よりの喜びにございます。わたくしにさえ仕合せがあるくらいでございますから、あなたさまにもその仕合せの翼が間もなくあなたをかき抱いてくれることは疑いませぬ。かならずあなたさまも愁いの眉をおひらきになるときがあると思います。」\n「さよならきのうのひとよ、かつてわたくしの中にあった大きい信仰のような人よ、わたくしは今宵こそしめやかにおわかれの言葉をさしあげる時を得ました。あなたさまのみ仏は、筒井は永くおもりをいたしたい考えにございます。何よりも世界でもっとも大切なものにおまもりいたします。では、つつがなくおすごし下さいませ、わたくしごときを決しておもい出してくださらないように終りにおねがいいたします。あなたさまは大変によい方であらせられましたが、いまもなおいい方であり善いお心を持っていられる方であることを疑うものではございませぬ、どうぞ、またなき幸いのうちにお暮しくださいませ。」\n 筒井はこういう祷のような言葉を頭にうかべているあいだに、男はずっと遠のいてゆき殆どその顔も見えないところにいるように感じ出した。そしてやっと筒井はやすらかさを胸におぼえた。\n\n 十日あまりの日はまたたく間に過ぎた。そしていま一日、もう一日と停められているあいだに、筒井は気が気でないようなあせった気持になった。哀れな唖の娘は終日彼女のそばを離れず、弟も同様はなれなかった。唖の娘はさまざまな海の貝、衣裳の断ちぎれ、造花を筒井におくり、宮腹の主人は紅梅色の襲を生きがたみとして贈り、亡妻のこまごまとした女物を筒井にあたえた。別れを惜しむための家だけの宴がもよおされ、春の菜のあつものにさびしい一夜を送った。\n そのあいだに貞時は二度尋ねて来たが、この不倖な家からすぐにも筒井を引き出すことが出来なかった。彼自身の幸福のために、あまりにも人を悲しがらせたくはなく、むしろ、快くあと二日くらいはとどまることを彼自身から申し出たほどであった。二度目のときはすでに十日を過ぎていて、貞時自身も一刻も早く筒井のそばにいたかった。彼は主人が座を立ったあとで、せき込んだ悲しい掠れた声音になっていった。\n「我ら何事も手につかぬほど待ち申しているほどに、一日もはやく来て下され。」\n「わたくしももう参りたくはぞんじていますけれど、いま一日お待ちくださいませ。」\n 貞時が去った後二日、やっと筒井は宮腹の家に別れを告げた。この家にとどまっていたことも偶然ではあったが、この偶然ははなはだ筒井にとって明るい春秋がおくられ、そして此処にいたために貞時に逢えたようなものであった。\n 宮腹親子は門前に出て迎えの女車に乗った筒井に、こういう善い人たちが生きている世の安らかさを再び感じたほど、ふしぎに感動したのであった。\n「かならず吉日にはたずねて見えられい、我らその日をお待ちする。」"
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"role": "assistant",
"content": " 主人がそういえば唖の娘は、ただ、声をあげて別れを惜しんだ。\n「ではお別れいたします。」\n 筒井は人情というものの重たさを背負いきれない気持であった。女はみなそんなものかも知れないが、筒井の生涯の半ばもそれの続きだった。彼女は愛せらるために身も心も重く、そしてそれに離れるために苦しまねばならなかった。それにしても筒井の知った人びとは、どの人もみな不幸と悲哀を言い合わしたように持っていた。或る意味でどの人にも多少の不幸がくい込んで離れないのかも知れない、筒井のくるしみなぞは物の数であろうかと思ったが、彼女はその三年四ヶ月の永い歳月は一生の半ばをついやしたように永いものに思われた。\n\n 暖かい春の昼頃であった。筒井がもどって来てから急に明るくなった水辺の家では、いよいよ筒井と貞時の婚宴の日が迫ると、家の中、庭の内そとがあらためられ、塵一つのこさずに掃き清められた。貞時は筒井の長い髪を見ていった。\n「とうとう今宵という日が来たね。永い間ではあったがきょうになって見るとそれほど永いとは思わない。」\n 筒井はだまって領いて見せた。この四年のあいだに女としてまもるものを守った彼女は、なにか苦行を終えた後のような身の軽さが感じられた。いまになって見ると何の為に永い間はたらいてばかりいたか、徒事にすぎないことに思われた。人は徒らに無駄な歳月を経てから、或る頂に辿りつくものらしく、そうなると役なき歳月もまた頂に達する日のために、用意された苦行としか思われなかった。\n「永いゆめでございました。なにも彼も、あまりに遠い日のことに思われてなりませぬ。」\n「そなたは誰でもできないことをなされた。そのよい償いは我らがつかまつるようになるであろう、まるできょうの日のためにそなたは苦労されたようなものだ。」\n「それは勿体のうございます。わたくしはやはりあれだけのことをしていなければならぬように、約束されていたのでございます。それゆえにきょうの身心の軽さは生れかわったように思われます。」\n「間もなく日がくれると変った夜がおとずれて来る......」\n 筒井は赧くなってうつ向いた。梅の梢にきょうの夕陽はひとしきり華やいで間もなく、日ぐれがいきなりやって来て暗くなるのであろう、西、東の対にはや灯火がともれはじめた。\n「では今宵にさいわいあれ。」\n 貞時が去り、筒井はくらみかけた庭先を去ることをせず、まだ明るみを持つ雲の色を見つめていた。変ることに迅く、形を消すに早い夕雲は間もなく鼠色のひと色にとざされてしまった。だが、まだ筒井は気のせいか庭戸から離れようとしなかった。その時、築地の外に落葉をふみ分ける音らしいものがしたが、筒井は気にしなかった。しかし音はなおつづいてそれが人の跫音であることを知った。こういう日暮に誰人の跫音であろうと、筒井ははじめて注意を向けた。跫音は裏戸のあたりで停ったらしく、何となくその方に眼をとどめた。その折、低い声音を忍んで二声ばかり聞え、その声は実に遠い記憶に応えのある声だった。\n「筒井、筒井、」\n 筒井は愕然として髪の根を釣られるような緊迫した一瞬の中にあった。名前はふたたび呼ばれた。その時、ふたたび駭きに憑かれた筒井はその声のぬしが、四年前に別れた男であることをもはやうたがうことが出来なかった。とうとう戻って見えられた。しかも今宵という日に、漂然ともどって見えられた。しかも生きていられ健やかであった。これは一体どうしたことであろう――筒井は、からだを小さくできるだけ小さくし、呼吸を呑みこんでなおうかがうように裏戸の方を見すえていた。\n「筒井、ただいま戻って来た、お会い申したい。」\n 男の声はむかしとは渝りのないものであったが、筒井はすぐに答えることの軽卒さを身に感じた。それにしても今宵とは誰のいたずらであろう。筒井は悲しい怒りさえかんじ、眼をうら戸から離さなかった。そして彼女は畳紙にさらさらと書きくだして、それを自分で持って行くべきか、仕えの女に持たせようかと考えているあいだにも、そとの声はつづいた。\n「この戸を開けたまえ。」\n ついに筒井は裏戸の方に行こうとしたが、きゅうに会うべきでないことを知った。彼女は仕えの女を呼んだ。仕えの女に彼女は裏戸にいる男を教えた。\n「これをあの方にたてまつるよう、ほかのことは承ってはなりませぬ。ただこれだけを差し上げるように。」\n 筒井は畳紙にしるした一首の和歌を仕えの女に手渡した。\n「はい。」\n 仕えの女は裏戸に向いて去った。\n\n\nあらたまの年の三年を待ちわびて\n ただ今宵こそにひまくらすれ\n\n\n 仕えの女はしばらく裏戸から去らずに、何かを待っているふうだった。筒井は固い唾を呑み身じろぎもせずに立っていた。仕えの女はもどって来ていった。\n「これをと仰せられました。」\n 筒井は早書きにした紙片にしるされた文字をなつかしく読みくだした。落着いた心をそのまま述べたような和歌だった。そしてそれは男が謙遜にもできるだけ広い愛を持ち、その愛情を示すことにより、一層、筒井を愛したような迫ったものさえうかがわれた。\n\n\nあづさ弓ま弓つき弓としを経て\n わがせしがごとうるはしみせよ\n\n\n「わがせしがごとうるはしみせよ」こういうお気持でいられたのか、自分にしたように貞時さまに尽すようにとのお言葉であった。これはありがたい言葉であった。\n「あづさ弓ま弓つき弓......」こうも弓にも品々あるほど、我も苦労したといわれている、便りのなかったのは苦労が多く、身を起すひまさえなかったのではなかろうか、それゆえにこそ逢いに津の国に下らなかったにちがいない、それは筒井はまるで知らなかったことだ。やはり彼方はよい人であった。いまになってもよい心を失さずにいられるではないか。筒井は頬をぬらしながらなお一首をものし、何度もよみ返して、さて、さめざめといった。\n「これをお渡しあるよう、筒井はいいあらわせないお礼を申しているとおつたいくだされ。」\n\n\nあづさ弓ひけどひかねど昔より\n こころは君によりにしものを\n\n\n そしてなお、しばらくじっとしている間に仕えの女はもどり、よろしく仕合せにつくよう仰せられ、こちら向きになり拝して去られましたといった。筒井はたえかねて自ら裏戸に走り出て見たが、夕はもはや夜を継いで道のべ裏戸近くに人かげはなく、暖かい夜の夕靄さえそぞろに下りていた。\n「おすこやかにおわしませ。」\n 筒井は誰に行うとなく頭をさげて拝した。なぜにもっと早くにもどって来てくださらなかったのかと、筒井はものの終りへささげる言葉を心につぶやいた。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 法水は、そこで新しい莨を取り出して一息入れたが、依然知識の高塔を去らずに、続いて、よりも痛烈な引例に入った。\n「時代は十六世紀の中葉フェリペ二世朝だが、この一つは、淫虐的な嗜血癖の、むしろ異例的標本とでも云うものなんだ。西班牙セヴィリアの宗教裁判所に、糺問官補のフォスコロという若い僧がいたのだ。ところが、彼の糺問法がすこぶる鈍いばかりでなく、万聖節に行われる異端焚殺行列にも恐怖を覚えるという始末なので、やむなく宗教裁判副長のエスピノザは、彼を生地サントニアの荘園に送り還してしまったのだ。ところが、それから一、二ヶ月後に、エスピノザはこういうフォスコロの書翰を受取ったのだが、同封の紙片に描かれたマッツオラタ(中世伊太利でカーニバル季における最も獣的な刑罰)の器械化を見て、思わず一驚を喫してしまった。\n ――セヴィリアの公刑所には、十字架と拷問の刑具と相併立せり。されど、神もし地獄の陰火を点し、永遠限りなくそれを輝かさんと欲せんには、まず公刑所の建物より、回教式の丈高き拱格を逐うにあらん。吾、サントニアに来りてより、昔ゴーティア人の残せし暗き古荘に棲む。実に、その荘は特種の性質を有せり。すなわちそれ自身がすでに、人間諸種の苦悩を熟慮したる思想を現わすものにして、吾そこにおいて種々の酷刑を結合しあるいは比較して、終にその術において完全なる技師となれり――と。\n ねえ熊城君、こういう凄惨な独白は、そもそも何が語らせたのだろうか。どうしてフォスコロの嗜血癖が、残忍な拷問刑具の整列裡では起らずに、美しいビスカヨ湾の自然のなかで生れたのだろうか。そのセヴィリア宗教裁判所とサントニア荘との建築様式の差を、この事件でもけっして看過してはならんと、僕は断言したいのだよ」とそこで彼は激越な調子を収めた。そして、以上二つの例を黒死館の実際に符合させて、その様式の中に潜んでいる恐ろしい魔力を闡明しようと試みた。\n「現に僕は、事実一度しか行かない、しかもあの暗澹たる天候の折でさえも、黒死館の建築様式に、様々常態ではない現象が現われるのに気がついているのだ。勿論、そういう感覚的錯覚には、とうてい捕捉し得ない不思議な力がある。つまり、それから絶えず解放されないことが、結局病理的個性を生むに至るのだよ。だから熊城君、いっそ僕は極言しよう。黒死館の人々は、恐らくその程度こそ違うだろうが、厳密な意味で心理的神経病者たらざるはない――と」\n 誰しも人間精神のどこかの隅々には、必ず軽重こそあれ、神経病的なものが潜んでいるに相違ない。それを剔抉し犯罪現象の焦点面へ排列するところに、法水の捜査法は無比なものがあった。けれども、この場合、伸子のヒステリー性発作と猶太型の犯罪とは、とうてい一致し得べからざるほどに隔絶したものではないか。\n\n\n(しかるにワルドシュタインの左翼は、王の右翼よりも遙かに散開しいたれば、王ウイルヘルム侯に命じて戦列を整わしむ。その時、侯は再び過失を演じて、加農砲の使用を遅らしめたり)\n\n\n 検事は、相変らず法水を鈍重ウイルヘルム侯に擬して、黙々たる皮肉を続けていたが、熊城はたまらなくなったように口を開いた。\n「とにかく、ロスチャイルドでもローゼンフェルトでもいいから、その猶太人の顔というのを拝ませてもらおう。それに君は、伸子の発作を偶然の事故に帰してしまうつもりじゃないんだろうね」\n「冗談じゃない。それなら伸子は、何故朝の讃詠をあの時繰り返して弾いたのだろう」と法水は語気を強めて反駁した。\n「いいかね熊城君、あの女は、非常に体力を要する鐘鳴器で、経文歌を三回繰り返して弾いたのだ。そうなると、モッソウの『疲労』を引き出さなくても、神経病発作や催眠誘示には、すこぶるつきの好条件になってしまう。そこに、あの女を朦朧状態に誘い込んだものがあったのだよ」\n「ではなんという化物だい。だいたい鐘楼の点鬼簿には、人間の亡者の名が、一人も記されていないのだからね」\n「化物どころか、勿論人間でもない。それが、鐘鳴器の鍵盤なんだよ」法水はチカッと装飾音を聴かせて、そこでも二人の意表外に出た。「ところで、これは一つの錯視現象なんだが、例えば一枚の紙に短冊形の縦孔を開けて、その背後で円く切った紙を動かして見給え。その円が激しく動くにつれ、しだいと楕円に化してゆく、ちょうどそれと同じ現象が、上下二段の鍵盤に現われたのだ。ところでここに、頻繁に使う下段の鍵があったとしよう。そうすると、その絶えず上下する鍵を、上段の動かない鍵の間から瞶めていると、その下段の鍵の両端が、上段の鍵の蔭に没していく方の側に歪んでいって、それが、しだいに細くなっていくように見えるのだ。つまり、そういう遠感的な錯視が起ると、それまで疲労によってやや朦朧としかけていた精神が、一途に溶け込んでゆく。勿論、それによって固有の発作が起されるのだ。だから熊城君、僕に極言させてもらえるなら、あの時伸子に三回の繰り返しを命じた、その人物が明らかになれば、とりもなおさず犯人に指摘されるのだよ」\n「だが、君の理論はけっして深奥じゃない」熊城はここぞと厳しく突っ込んだ。「だいたいその時伸子の瞼を下させたのは? 全身を蝋質撓拗性みたいな、蝋人形のようにしてしまった道程が説明されていない」"
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"role": "assistant",
"content": "\n 法水は大風な微笑を泛べて、相手の独創力の欠乏を憫んでいるかのごとく見えたが、すぐ卓上の紙片に、上図を描いて説明を始めた。\n「これが、猫の前肢と云う、猶太人犯罪者特有の結び方なんだよ。そこで熊城君、この結び方一つに、廻転椅子に矛盾を現わした筋識喪失――あの蝋質撓拗性に似た状態を作り出したものがあったのだ。見たとおり下方の紐を引っ張ると、結び目がしだいに下っていく。けれども、結び目に挾まっている物体が外れると、紐はピインと解けて一本になってしまうのだ。だから犯人は、予めその鍵の使用数と最初結び付ける高さを測定しておいてから、その鍵と鐘を打つ打棒とを繋いでいる紐の上方に、鎧通しの束を結び付けておいたのだ。そうすると、演奏が進行するにつれて、鎧通しを廻転させながら、結び目がしだいに下の方へ降っていく。そして、伸子が朦朧状態で演奏している――ちょうど讃詠の二回目あたりで、彼女の眼前を、まるで水芸の紙撚水みたいに、刃の光が閃き消えながら、横になり縦になりして、鎧通しが下降していったのだ。つまり、明滅する光で垂直に瞼を撫で下す。それを眩惑操作と云って、催眠中の婦人に閉目させる、リエジョアの手法なんだよ。だから、瞼が閉じられると同時に、蝋質撓拗性そっくりに筋識を喪った身体が、たちまち重心を失って、その場去らず塑像のように背後に倒れたのだ。そして、その機みに、鍵と紐を裏側から蹴ったので、鎧通しが結び目から飛び出して床の上に落ちたのだよ。勿論伸子は、発作が鎮まると同時に、深い昏睡に落ちていったのだがね」と検事の毒々しい軽蔑を見返したが、法水は突然悲痛な表情を泛べて、\n「だがしかしだ。伸子はどうして、あの鎧通しを握ったのだろうか。また、あの奇矯変態の極致ともいう倍音演奏が、何故に起されたものだろうか。ああいう想像の限外には、まだ指一本さえ触れることが出来ないのだ」といったんは弱々しげな嘆息を発したけれども、その困憊げな表情が三たび変って、終に彼は颯爽たる凱歌を上げた。「いや、僕は天狼星の視差を計算しているのだっけ。またδもあればξもある! それ等を、一点に帰納し綜合し去ることが出来ればいいのだ」\n そこで、空気が異様に熱してきた。もはや解決に近いことは、永らく法水に接している二人にとると、それが感覚的にも触れてくるものらしい。熊城は不気味に眼を据え、顔を迫るように近づけて訊ねた。\n「では、率直に黒死館の化物を指摘してもらおう。君が云う猶太人というのは、いったい誰なんだね?」\n「それが、軽騎兵ニコラス・ブラーエなんだ」と法水はまず意外な名を述べたが、「ところで、その男がグスタフス・アドルフスに近づいた端緒というのは、王がランデシュタット市に入城した時で、その際に猶太窟門の側で雷鳴に逢い、乗馬が狂奔したのを取り鎮めたからなんだ。そこで支倉君、何よりブラーエの勇猛果敢な戦績を見てもらいたいんだが」と検事が弄んでいたハートの「グスタフス・アドルフス」を取り上げて、リュッツェン役の終末に近い頁を指し示した。と同時に、二人の顔に颯と驚愕の色が閃いた。検事はウーンと呻き声を発して、思わず銜えていた莨を取り落してしまった。\n ――戦闘は九時間に亙って継続し、瑞典軍の死傷は三千、聯盟軍は七千を残して敗走せしも、夜の闇は追撃を阻み、その夜、傷兵どもは徹宵地に横たわりて眠る。払暁に降霜ありて、遁れ得ざる者は、ことごとく寒気のために殺されたり。それより先日没後に、ブラーエはオーヘム大佐に従いて、戦闘最も激烈なりし四風車地点を巡察の途中、彼の慓悍なる狙撃の的となりし者を指摘す。曰く、ベルトルト・ヴァルスタイン伯、フルダ公兼大修院長パッヘンハイム......\n そこまで来ると、熊城は顔でも殴られたかのようにハッと身を引いた。そして、容易に声が出なかった。検事はしばらく凝然と動かなかったが、やがてほとんど聴取れないほど低い声で、次句を読みはじめた。\n「デイトリヒシュタイン公ダンネベルグ、アマルティ公領司令官セレナ、ああ、フライベルヒの法官レヴェズ......」とグッと唾を嚥み込んで、濁った眼を法水に向けた。「とにかく法水君、君が持ち出した、この妖精園の光景を説明してくれ給え。どうも、配役の意味がさっぱり嚥み込めんのだよ――何故リュッツェン役を筋書にして、黒死館の虐殺史が起らねばならなかったのだろうか。それに、あるいは杞憂にすぎんかもしれんがね。僕はここに名を載せられていない旗太郎と、クリヴォフとそのどっちかのうちに、犯人の署名があるのではないかと思うのだよ」\n「うん、それがすこぶる悪魔的な冗談なんだ。考えれば考えるほど、慄然となってくる。第一、この大芝居を仕組んだ作者というのは、けっして犯人自身ではないのだ。つまりその筋書が、あの五芒星呪文の本体なんだよ。リュッツェンの役では、軽騎兵ブラーエとその母体である暗殺者の魔法錬金士オッチリーユとの関係だったものが、この事件に来ると、犯人+Xの公式に変ってしまうのだ」と法水は、この妖術めいた符合の解釈を、ぜひなく事件の解決後に移したけれども、続いて凄気を双眼に泛べて、黒死館の悪魔を指摘した。\n「ところで、そのブラーエが、オッチリーユからの刺者であることが判ると、そこで、彼の本体を闡明する必要があると思う。それが、二重の裏切なんだ。旧教徒と対抗して比較的猶太人に穏かだったグスタフス王を暗殺したのは、新教徒から受けた恩恵と、彼の種族に対するとの両様の意味で、二重の裏切じゃないか。つまり、ハートの史本にはないけれども、プロシア王フレデリック二世の伝記者ダヴァは、軽騎兵ブラーエを、プロック生れの波蘭猶太人だと曝いている。そして、その本名が、ルリエ・クロフマク・クリヴォフなんだ!」\n その瞬間、あらゆるものが静止したように思われた。ついに、仮面が剥がれて、この狂気芝居は終ったのだ。常に審美性を忘れない法水の捜査法が、ここにもまた、火術初期の宗教戦争で飾り立てた、華麗きわまりない終局を作り上げたのだった。しかし、検事は未だに半信半疑の面持で、莨を口から放したまま茫然と法水の顔を瞶めている。それに法水は、皮肉に微笑みながらも、ハートの史本を繰りその頁を検事に突き付けた。\n(グスタフス王の歿後、ワイマール侯ウイルヘルムの先鋒銃兵ホイエルスヴェルダに現われるに及び、初めて彼が、シレジアに野心ある事明らかとなれり)\n「ねえ支倉君、ワイマール侯ウイルヘルムは、その実皮肉な嘲笑的な怪物だったのだよ。しかし、さしもクリヴォフが築き上げた墻壁すらも、僕の破城槌にとれば、けっして難攻不落のものではないのだ」と背後にある大火図の黒煙を、赫っと焔のように染めている、陽の反映を頭上に浴びながら、法水は犯人クリヴォフを俎上に上せて、寸断的な解釈を試みた。\n「最初に僕は、クリヴォフを土俗人種学的に観察してみたのだ。勿論イスラエル・コーヘンやチェンバレンの著述を持ち出さなくても、あの赤毛や雀斑、それに鼻梁の形状などが、それぞれアモレアン猶太人(最も欧羅巴(ヨーロッパ)人に近い猶太人の標型)の特徴を明白に指摘しているものだと云える。しかしそれを、より以上確実にしているのが、猶太人特有ともいう猶太王国恢復の信条なんだ。猶太人がよく、その形をカフス釦や襟布止めに用いているけれども、そのダビデの楯()の六稜形が、クリヴォフの胸飾では、テュードル薔薇に六弁の形となって現われているのだ」\n「だが、君の論旨はすこぶる曖昧だな」と検事は不承げな顔で異議を唱えた。「なるほど、珍しい昆虫の標本を見ているような気はするが、しかし、クリヴォフ個人の実体的要素には少しも触れていない。僕は君の口から、あの女の心動を聴き呼吸の香りを嗅ぎたいのだよ」\n「それが、樺の森(グスタフ・ファルケの詩)さ」と法水は無雑作に云い放って、いつか三人の異国人の前で吐いた奇言を、ここでもまた軽業的に弄ぼうとする。「ところで、最初にあの黙示図を憶い出してもらいたいのだ。知ってのとおりクリヴォフ夫人は、布片で両眼を覆われている。そこで、あの図を僕の主張どおりに、特異体質の図解だと解釈すれば、結局あれに描かれている屍様が、クリヴォフ夫人の最も陥りやすいものであるに相違ないのだ。ところが支倉君、眼を覆われて斃される――それが脊髄癆なんだよ。しかも、第一期の比較的目立たない徴候が、十数年にわたって継続する場合がある。けれども、そういう中でも、一番顕著なものと云うのは、ほかでもないロムベルグ徴候じゃないか。両眼を覆われるか、不意に四辺が闇になるかすると、全身に重点が失われて、蹌踉とよろめくのだ。それがあの夜、夜半の廊下に起ったのだよ。つまりクリヴォフ夫人は、ダンネベルグ夫人がいる室へ赴くために、区劃扉を開いて、あの前の廊下の中に入ったのだ。知ってのとおり両側の壁には、長方形をした龕形に刳り込まれた壁灯が点されている。そこで、自分の姿を認められないために、まず区劃扉の側にある開閉器を捻る。勿論、その闇になった瞬間に、それまで不慮にも注意を欠いていた、ロムベルグ徴候が起ることは云うまでもない。ところが、そうして何度か蹌めくにつれて、長方形をした壁灯の残像が幾つとなく網膜の上に重なってゆくのだ。ねえ支倉君、ここまで云えば、これ以上を重ねる必要はあるまい。クリヴォフ夫人がようやく身体の位置を立て直したときに、彼女の眼前一帯に拡がっている闇の中で、何が見えたのだろうか。その無数に林立している壁灯の残像と云うのが、ほかでもない、ファルケの歌ったあの薄気味悪い樺の森なんだよ。しかも、クリヴォフ夫人は、それを自ら告白しているのだ」\n「冗談じゃない。あの女の腹話術を、君が観破したとは思わなかったよ」と熊城は力なく莨を捨てて、心中の幻滅を露わに見せた。それに、法水は静かに微笑んで云った。"
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"role": "user",
"content": "小原女の五人揃ふて袷かな\n照射してさゝやく近江八幡かな\n葉うら〳〵火串に白き花見ゆる\n卓上の鮓に眼寒し観魚亭\n夕風や水青鷺の脛を打つ\n四五人に月落ちかゝる踊かな\n日は斜関屋の槍に蜻蛉かな\n柳散り清水涸れ石ところ〴〵\nかひがねや穂蓼の上を塩車\n鍋提げて淀の小橋を雪の人\nてら〳〵と石に日の照る枯野かな\nむさゝびの小鳥喰み居る枯野かな\n水鳥や舟に菜を洗ふ女あり\n\n\nの如し。一事一物を画き添へざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりも更に客観的なり。\n\n人事的美\n\n 天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なる者につきて美を求むるは易く、複雑なる者は難し。沈黙せる者を写すは易く、活動せる者は難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的に善く天然を写し得たるは易きより入りたる者なるべし。俳句の初より天然美を発揮したるも偶然にあらず。しかれども複雑なる者も活動せる者も少しくこれを研究せんか、これを描くこと強ち難きにあらず。ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出だししものを、同じ区劃の内に変化極りなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたる者少き所以なり。芭蕉、去来はむしろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとして端なく佶屈聱牙に陥り、あるいは人をしてこれを解するに苦ましむるに至る。此の如く人は皆これを難しとする所に向つて、独り蕪村は何の苦もなく進み思ふままに濶歩横行せり。今人はこれを見てかへつてその容易なるを認めしならん。しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。\n 芭蕉の句は人事を詠みたる者多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり\n\n鞍壺に小坊主のるや大根引\n\nの如く自己以外にありて半ば人事美を加へたるすら極めて少し。\n 蕪村の句は\n\n\n行く春や選者を恨む歌の主\n命婦より牡丹餅たばす彼岸かな\n短夜や同心衆の川手水\n少年の矢数問ひよる念者ぶり\n水の粉やあるじかしこき後家の君\n虫干や甥の僧訪ふ東大寺\n祇園会や僧の訪ひよる梶がもと\n味噌汁をくはぬ娘の夏書かな\n鮓つけてやがて去にたる魚屋かな\n褌に団扇さしたる亭主かな\n青梅に眉あつめたる美人かな\n旅芝居穂麦がもとの鏡立て\n身に入むや亡妻の櫛を閨に踏む\n門前の老婆子薪貪る野分かな\n栗そなふ恵心の作の弥陀仏\n書記典主故園に遊ぶ冬至かな\n沙弥律師ころり〳〵と衾かな\nさゝめごと頭巾にかづく羽折かな\n孝行な子供等に蒲団一つづゝ\n\n\nの如き数へ尽さず、これらの什必ずしも力を用ゐし者に非ずといへども、皆善く蕪村の特色を現して一句だに他人の作とまがふべくもあらず。天稟とは言ひながら老熟の致す所ならん。\n 天然美に空間的の者多きは殊に俳句において然り。けだし俳句は短くして時間を容るる能はざるなり。故に人事を詠ぜんとする場合にも、なほ人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質の然らしむるに因る。たまたま時間を写す者ありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。\n\n御手討の夫婦なりしを更衣\n打ちはたす梵論つれだちて夏野かな\n\n 前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なる者なる事も二句同一なり。此の如き者は古往今来他にその例を見ず。\n\n理想的美\n\n 俳句の美あるいは分つて実験的、理想的の二種となすべし。実験的と理想的との区別は俳句の性質において既に然るものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際有り得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にある者あり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざる或る社会の情状を描き出す者これなり。ここに理想的といふは実験的に対していふものにして両者を包含す。\n 文学の実験に依らざるべからざるはなほ絵画の写生に依らざるべからざるが如し。しかれども絵画の写生にのみ依るべからざるが如く、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画は終に微妙の趣味を現す能はざらん、実験にのみ依らんか、尋常一様の経歴ある作者の文学は到底陳套を脱する能はざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒の中に逍遥して無碍自在に美趣を求む。羽なくして空に翔るべし、鰭なくして海に潜むべし。音なくして音を聴くべく、色なくして色を観るべし。此の如くして得来る者、必ず斬新奇警人を驚かすに足る者あり。俳句界において斯人を求むるに蕪村一人あり。翻つて芭蕉は如何と見ればその俳句平易高雅、奇を衒せず、新を求めず、尽く自己が境涯の実歴ならざるはなし。二人は実に両極端を行きて毫も相似たる者あらず、これまた蕪村の特色として見ざるべけんや。\n 芭蕉も初めは\n\n菖蒲生り軒の鰯の髑髏\n\nの如き理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せる総ての事物より句を探り出だすに非ず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲し、ただ自己を本としてこれに関聯する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識の卑きこと実に笑ふに堪へたり。けだし芭蕉は感情的に全く理想美を解せざりしには非ずして、理窟に考へて理想は美に非ずと断定せしや必せり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、堅固なる意思に制せられて謹厳に身を修めたる彼が境遇は、苟にも嘘をつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、将た彼が愛読したりといふ『杜詩』に記実的の作多きを見ては、俳句もかくすべきものなりと自ら感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといへども、芭蕉の如く記実的なるは一人もなく、また芭蕉は記実的ならずとてそを悪く言ひたる例も聞かず。芭蕉は連句において宇宙を網羅し古今を翻弄せんとしたるにも似ず、俳句には極めて卑怯なりしなり。\n 蕪村の理想を尚ぶはその句を見て知るべしといへども、彼がかつて召波に教へたりという彼の自記は善く蕪村を写し出だせるを見る。曰く\n\n(略)其角を尋ね嵐雪を訪ひ素堂を倡ひ鬼貫に伴ふ、日々この四老に会してわづかに市城名利の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒を酌て談笑し句を得ることは専不用意を貴ぶ、かくの如くすること日々或日また四老に会す、幽賞雅懐はじめの如し、眼を閉て苦吟し句を得て眼を開く、忽ち四老の所在を失す、しらずいづれの所に仙化して去るや、恍として一人自彳む時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これ子が俳諧の郷なり(略)\n\n 蕪村は如何にして理想美を探り出だすべきかを召波に示したるなり。筆にも口にも説き尽すべからざる理想の妙趣は、輪扁の木を断るが如く終に他に教ふべからずといへども、一棒の下に頓悟せしむるの工夫なきにしもあらず。蕪村はこの理想的の事をなほ理想的に説明せり。かつその説明的なると文学的なるとを問はず、かくの如き理想を述べたる文字に至りては上下二千載我に見ざる所なり。奇文なるかな。\n 蕪村の句の理想と思しき者を挙ぐれば\n\n\n河童の恋する宿や夏の月\n湖へ富士を戻すや五月雨\n名月や兎のわたる諏訪の湖\n指南車を胡地に引き去る霞かな\n滝口に燈を呼ぶ声や春の雨\n白梅や墨芳ばしき鴻臚館\n宗鑑に葛水たまふ大臣かな\n実方の長櫃通る夏野かな\n朝比奈が曾我を訪ふ日や初鰹\n雪信が蠅打ち払ふ硯かな\n孑孑の水や長沙の裏長屋"
},
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"role": "assistant",
"content": "追剥を弟子に剃りけり秋の旅\n鬼貫や新酒の中の貧に処す\n鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな\n新右衛門蛇足をさそふ冬至かな\n寒月や衆徒の群議の過ぎて後\n 高野\n隠れ住んで花に真田が謡かな\n\n\n 歴史を借りて古人を十七字中に現し得たる者、以て彼が技倆を見るに足らん。\n\n複雑的美\n\n 思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好も簡単を尚ぶは自然の趨勢なり。我邦千余年間の和歌の如何に簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す。この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかへつて和歌よりも複雑なる意匠を現さんとして漢語を借り来り佶屈なる直訳的句法をさへ用ゐたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句は終に俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引の山鳥の尾のといふ歌の簡単なるに比すべくもあらざれど、なほ俳句中の最簡単なる者に属す。芭蕉はこれを以て自ら得たりとし、終身複雑なる句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するにはなほ遠かりき。\n 芭蕉は「発句は頭よりすらすらと云下し来るを上品とす」と言ひ、門人洒堂に教へて「発句は汝が如く物二、三取集る物にあらず、こがねを打のべたる如くあるべし」と言へり。洒堂の句の物二、三取集るといふは\n\n鳩吹くや渋柹原の蕎麦畑\n刈株や水田の上の秋の雲\n\nの類なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用ゐたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よりいふも鳩吹、刈株の句の如きは決して芭蕉の下にあらず。芭蕉がこの特異の処を賞揚せずして、かへつてこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。\n 芭蕉は一定の真理を言はずして時に随ひ人により思ひ思ひの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨へたるもこれらの佳作を斥けたるにはあらで、むしろその濫用を誡めたるにやあらん。許六が「発句は取合せものなり」といふに対して芭蕉が「これほど仕よき事あるを人は知らずや」といへるを見ても、強ち取合を排斥するには非るべし。されどここに言へる取合とは二種の取合をいふ者にして、洒堂の如く三種の取合をいふに非るは、芭蕉の句、許六の句を見て明なり。芭蕉また凡兆に対して「俳諧もさすがに和歌の一体なり、一句にしをりあるやうに作すべし」といへるもこの間の消息を解すべき者あり。凡兆の句複雑といふほどにはあらねど、また洒堂らと一般、句々材料充実して、彼の虚字を以て斡旋する芭蕉流とはいたく異なり。芭蕉これに対して今少し和歌の臭味を加へよといふ、けだし芭蕉は俳句は簡単ならざるべからずと断定して自ら美の区域を狭く劃りたる者なり。芭蕉既に此の如し。芭蕉以後言ふに足らざるなり。\n 蕪村は立てり。和歌のやさしみ言ひ古し聞き古して紛々たる臭気はその腐敗の極に達せり。和歌に代りて起りたる俳句幾分の和歌臭味を加へて元禄時代に勃興したるも、支麦以後漸く腐敗してまた拯ふに道なからんとす。是において蕪村は複雑的美を捉へ来りて俳句に新生命を与へたり。彼は和歌の簡単を斥けて唐詩の複雑を借り来れり。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁なる、豪壮なる漢語もて我不足を補ひたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によつて容易に成就せられたり。衆人の攻撃も慮る所にあらず、美は簡単なりといふ古来の標準も棄てて顧ず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。\n 芭蕉の句は尽く簡単なり。強ひてその複雑なる者を求めんか\n\n\n鶯や柳のうしろ藪の前\nつゝじ活けて其陰に干鱈さく女\n隠れ家や月と菊とに田三反\n\n\n等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じて然り。中につきて数句を挙ぐれば\n\n\n草霞み水に声なき日暮かな\n燕啼いて夜蛇を打つ小家かな\n梨の花月に書読む女あり\n雨後の月誰そや夜ぶりの脛白き\n鮓をおす我れ酒かもす隣あり\n五月雨や水に銭踏む渡し舟\n草いきれ人死をると札の立つ\n秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者\n鹿ながら山影門に入日かな\n鴫遠く鍬すゝぐ水のうねりかな\n柳散り清水涸れ石ところ〴〵\n水かれ〴〵蓼かあらぬか蕎麦か否か\n我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす\n\n\n 一句五字または七字の中なほ「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭踏む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言ひ下し来る」者の解し得ざる所、しかも洒堂、凡兆らもまた夢寐にだも見ざりし所なり。客観的の句は複雑なりやすし。主観的の句の複雑なる\n\nうき我に砧打て今は又やみね\n\nの如きに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失言ふ所を知らざるべし。\n\n精細的美\n\n 外に広き者これを複雑といひ、内に詳なる者これを精細といふ。精細の妙は印象を明瞭ならしむるにあり。芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んで為したる所なりといへども、一は精細的美を知らざりしに因る。芭蕉集中精細なる者を求むるに\n\n粽結片手にはさむ額髪\n五月雨や色紙へぎたる壁の跡\n\nの如き比較的に爾か思はるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば\n\n\n鶯の鳴くや小き口あけて\nあぢきなや椿落ち埋む庭たづみ\n痩臑の毛に微風あり衣がへ\n月に対す君に投網の水煙\n夏川をこす嬉しさよ手に草履\n鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門\n夕風や水青鷺の脛を打つ\n点滴に打たれてこもる蝸牛\n蚊の声す忍冬の花散るたびに\n青梅に眉あつめたる美人かな\n牡丹散て打ち重りぬ二三片\n唐草に牡丹めでたき蒲団かな\n引きかふて耳をあはれむ頭巾かな\n緑子の頭巾眉深きいとほしみ\n真結びの足袋はしたなき給仕かな\n歯あらはに筆の氷を噛む夜かな\n茶の花や石をめぐりて道を取る\n\n\n等いと多かり。\n 庭たづみに椿の落ちたるは誰も考へつくべし。埋むとは言ひ得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成りをはらん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用ゐたるは蕪村の力量なり。善き句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざる処、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了しやすきは蕪村の夙に感ぜし所にやあらん、後世の俳家徒に精細ならんとしてますます俗に堕つる者、けだし精細的美を解せざるがためなり。妙人の妙はその平凡なる処、拙き処において見るべし。『唐詩選』を見て唐詩を評し展覧会を見て画家を評するは殆し。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者に非るなり。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「イヤ、ならぬ! たとえ一流の武芸者でも、めったに斬りかけられまいこの身の隙を計って、見事に、ふところの物を抜きおった汝の手際、出来心とは思われない......ウム」とうなずくと侍は、お綱の利腕を取ったまま、有無をいわせず、グングンと歩き出した。\n そして、宏壮な一構えの大屋敷、漆喰塗の塀際に沿ってしばらく歩いたかと思うと、その屋敷の裏門へ、ポンと、お綱をほうりこんだ。\n 自分に屋敷は持たぬ――といったこの侍、お綱を引っ立てて、その裏門から、さッさと奥庭へ進んで行った。\n しかもそこは、善美をつくした庭作り、丘あり池泉あり馥郁と咲く花あり、書院茶室の結構はいうまでもなく、夜を待つ春日燈籠の灯が、早くもここかしこにまたたいている。\n\nかなしき友禅\n\n 捕まえられた恐怖よりも、引っ立てられてきた屋敷のすばらしさに、お綱は気を奪われてしまった。\n なんという豪華な庭、数寄な建築。\n いずれ何十万石という、大名の屋敷には相違なかろうが、女掏摸を成敗するため、わざわざ引き出した白洲にしては、あまり舞台が勝ちすぎる。\n「これ」\n 編笠の侍は、お綱の肩を軽く押して、\n「しばらくそこに控えておれ」と初めて笠の紐を解きにかかった。\n ひょいと見ると、色浅黒く、眉毛の濃い顔だち。――オヤ、どこかで一度見たような......とお綱はフイとびっくりしたが、どこで見たというほどな、はっきりとした記憶はない。\n「御前様、御前様――、只今帰りました」\n 廊下へ身を寄せてこういうと、すぐ前の一室、書院か主人の居間であろう、スーと一方の障子が開いた。\n 銀泥の利休屏風に、切燈台の灯がチカチカと照り返していた。青螺つぶしの砂床には、雨華上人の白椿の軸、部屋の中ほどに厚い褥を重ね、脇息を前において、頬杖をついている人物があった。\n いうまでもなく、当屋敷の殿。金目貫、白鮫巻の短い刀を差し、黒染の絹の袖には、白く、三ツ扇の紋所が抜いてあった。――三ツ扇は誰も知る松平左京之介輝高の紋だ。\n 輝高は、かの寛永年間に腕の冴えをみせた智慧伊豆、松平信綱の孫にあたる人物である。智慧伊豆の名声に圧せられて、その孫の左京之介輝高には、さしたる聞えもなかったが、今から十一年前、かれが所司代として京都に在職していた当時――宝暦の事変が起った時には、自身、竹内式部をしらべ公卿十七家の処分をして、相当にその手腕をみせたものである。\n「おお、今帰ったか」\n と、左京之介は、茶をすすりながら、\n「当分の間は、なるべく、外出無用であるぞ」\n「心得ております。しかし、今日はちと是非ないことで、自身買物に出かけました」\n「買物にじゃ? はて、なぜ家来どもにいいつけぬか」\n「それが、ちとむずかしい蘭薬の調じ合せをいたしますため、薬名や何かも、自分でなければなりませぬので」\n「ほほう、さては、あの病人にのます薬かの」\n「御意にございます。所詮、ああまでの状態になりましては、漢薬の利き目おぼつかなく存じますので、実は、今日ふと思いつきました蘭薬の処方を持ち、本町薬種屋町の問屋を一軒ごとに歩きまして、ようよう望みどおりの薬種を揃えてまいりました」\n「ふーむ、そちも、かなり博識と聞いたが、医学にまで精通しているとは、今日初めて知った。近頃はだいぶ蘭薬流行であるようじゃな」\n「いえ、なかなかもって、この処方は、手前の究学ではござりませぬ。大阪表におりました頃、しばらく一緒におりました、鳩渓平賀源内と申す男の秘とする処方で」\n「ああ、源内であるか。なるほど、あれなら蘭学の方も詳しい筈じゃ。して、その源内は、ただ今どこにおろうな」\n「いつか、殿にもお話しいたした通り、住吉村で別れまして以来、トンと音沙汰もござりませぬ」\n 住吉村と聞いた刹那に、お綱は初めて、アッと思い当った。今、左京之介輝高となれなれしく話している深編笠の侍――それは、自分がお十夜と一緒に、住吉村のぬきや屋敷にいた時、目明し万吉を救うべく、俵一八郎や源内と一緒に、不意に、そこを襲ってきた、もと天満与力の常木鴻山! おお、その鴻山に違いない。\n どうしてあの常木鴻山が、この松平家にいるのであろう? イヤイヤ、そんなことよりは、知らぬこととはいえ、とんだ人のふところを狙ったものだ。天満の鴻山といえば、常木流の十手術にかけて天下に比のない人だとはお綱も噂を聞いている。\n その人の懐へ手をかけたのだもの、捕まるのが当然であった。知って見れば、今さら身の毛がよだつ心地がする。\n「誰じゃ、そこにいるのは?」\n 気がついたか、松平輝高、脇息から頬杖を外して、不思議そうに庭先を見透かした。\n「御前、これにおります者は、見返りお綱と申す、名うてな、女掏摸でござります」\n「なに、掏摸じゃと申すか。女だてらに――」\n「これでどうやら、尋ねる者の手がかりがあろうかと存じます。で、おそれ多うござりますが、じきじきに一つお調べを願いとう存じます」\n「では、この女が、たしかに弦之丞の居所を存じていると申すのじゃな」\n 左京之介が、褥をずらせて前へ進むや、お綱も弦之丞という一言をきいて、思わずハッと正面へ顔をあげた。\n\n「手がかりになる者とあらば、貴賤を問う場合ではない、鴻山、まずそちが口を開かせてみい」\n 左京之介は、上からジッと、お綱の姿を見つめていた。\n「はっ」と、一礼をして、常木鴻山。\n「お綱――」と、おごそかに向きなおった。\n「そちは拙者を知っているであろうな」\n「ハイ、存じております」\n「ウム、たしか二度ほど見かけている。一度は大阪表にいた当時、住吉村でそちを見た。また、一度はツイ先日じゃ――おお、駿河台大火の節、太田媛神社の境内で......」\n「えっ......」お綱はあきれたような顔をして、\n「あの墨屋敷が焼けた晩に?」\n「そうじゃ、しかし、そちは知るまい。気を失っていた筈だからの。ちょうどあの夜、この鴻山は所用あって、飯田町から戻る途中であった。火に行く先をふさがれて、ぜひなく駕を休めていると、そこへそちと、もう一人、由ありげな女子とが、気を失って引きずられてきた」\n「あ! その、もう一人の女子こそ、お千絵様でありました!」と、お綱は心で叫んだが、口には出ずに、ただ鴻山の言葉に気をとられていた。\n「しかし、その晩には、そちを助ける気はないので、もう一人の女子だけを駕に乗せて、はるか、四谷の台を迂回して、焔の中から逃れてきたのじゃ。ところが、後になって後悔いたした。なぜ、その時、そちをも一緒に連れてこなかったかと......」\n アア、さてはお千絵様の身は、あの時、無事に鴻山の手に救われて、この屋敷の内に守られているのかと、お綱は初めてうなずいた。\n が、どうして、常木鴻山がこの屋敷にいて、そして、かくも詳しく、何かを知っているのであろうか。\n それにも、径路がなければならぬ。\n 去年の夏――、蜂須賀家の原士に斬りこまれて、住吉村を去ったかれは、あれから幾月かを、紀伊の山奥に暮らしていた。\n その後、かれは、阿波守が安治川屋敷を引きあげたと聞いて、ソッと平賀源内の住居を訪れ、そこで、法月弦之丞の話をきいた。\n かけ違って、弦之丞と会わなかったため、鴻山もすぐに、江戸へ立った。\n そして彼は、松平輝高の門を訪れた。\n 左京之介とは古くから面識がある。\n 十一年前、鴻山が宝暦の事変で血眼になって活躍していたころ、左京之介も京都にあって、事件の要路にあたる所司代であった。\n で、かれは、今日までの苦心を、つぶさに打ち明けた。\n 与力や目明しの中には、一つの事件に、四年五年の根気をつづける者もあるが、十一年――しかも、職をはがれて今なお意志をかえない鴻山の話には、左京之介も、心を動かされずにはいられない。\n 折も折とて、輝高は、ちょうどこの頃、江戸長沢町に兵法講堂を開いている、山県大弐という者に目をつけていた。\n この大弐も、十一年前に事変を起こした、竹内式部と何らかの連脈がありそうで、京の堂上たちと事を結んで、幕府の虚をうかがっているらしい疑いがある。"
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"role": "assistant",
"content": " けれど、確たる証拠はない。\n ところへ、鴻山の話があった。\n 宝暦変――反幕府思想――不平な公卿――竹内式部――その一味――山県大弐――。こう考えあわせてみると、その黒幕に、阿波という謎の強国が、ありありと浮かんでくる。\n 禍根は阿波だ。\n 公卿を踊らす者は阿波だ。無禄の兵学者を踊らすものは公卿だ。不平な浪人を踊らすものは兵学者だ。まず、この禍いの根を刈るには鴻山のいうがごとく、阿波の密謀をさぐり、その確証をつかんで、取りひしいでしまわなければならぬ。\n こう気づいたので、左京之介は、鴻山を自邸にとめて、密かに、いろいろな便宜を与えることを約した。\n で、鴻山は、まず、弦之丞と万吉を見出して、力を協せたいと願った。また一方には、世阿弥の残した、甲賀家のあとの様子、お千絵の身などについても、ぽつぽつと調べていた。\n だから、お綱のあきれるほど、すべてを知っていたわけである。\n けれど、一つ困っていることがある。\n そのために鴻山は、今日も自身で、源内秘伝の蘭薬を買いに出かけたのだが、はたして、それが利くかどうか、すくなからぬ心配である。\n というのは。\n 大火の晩に、この屋敷へ運んできたお千絵が、あのまま、意識を狂わして、気はついても、あらぬことのみ口走っている。\n 医薬の利かぬ、もの狂いの兆がみえる。お千絵は、狂気してしまった。\n「お綱、こういう訳じゃ――」と、一通り話してから、常木鴻山、こん度はほんとの調べ口調になった。\n「そちは、弦之丞と万吉のいる所を存じておろう。前夜の様子から推しても、知っておらねばならぬ筈じゃ。そこへ拙者を案内してくれぬか。――さすれば、そちの罪はゆるしてやる。そして、何か事情は分らぬが、せっぱにつまる金とあらば、要用だけはそちにくれる」\n\n 刀試しか、きびしい糺問をうけるかと思いのほか、弦之丞と万吉の居所へ案内してくれれば、いるだけ金はやろうという、鴻山の言葉に、お綱は思わず手をついて、\n「悪うござりました......悪うございました」ただ、嬉しさに、泣き伏してしまった。\n「いや、罪科を糺すのではない。もとより初めに、このほうをつけてきた時から、そちが掏摸だということは見抜いていた。しかし、前にも話したとおり、こちらにも聞きたいことがあったゆえ、わざとここまで釣り込んでまいった次第――、罪の半分はこの鴻山にもある訳じゃ」\n「恐れ入りました。そうおっしゃられると見返りお綱も、穴があったら入りたいほどでございます」\n「ウム、それほどまでに、しかとした性根をもちながら、なんで、あのようなあぶない芸をいたすのじゃ」\n「一時のがれの、嘘いつわりは申しませぬ。実は自分の心でも、真から悪いと悟って、もう金輪際掏摸は働かぬと誓っていたのでございますが、どうしても、救ってやりたい不愍な目下がございますため、この一仕事で、足を洗おうと思ったのが、私の誤りでございました......。どうぞこの上は、お腹のいえるように、御成敗なすって下さいまし」\n「その言葉に偽りはなさそうじゃ。最前、そちの手にかかったこの紙入れ、過分にはないが納めておくがよい、そして、これを最後に、きッと邪心を起こさぬことだぞ」\n「あ、ありがとう存じます......、これさえあれば、心がかりな妹弟たちを救ってやれます上に、お綱も生れ代りまする」\n「わずかのことで、そちまで生れ代った女になれるとは何よりうれしい。してお綱、弦之丞殿と万吉は、ただ今どこにいるであろうか、一日も早く逢いたいのだが......」\n「御恩返しという程でもございませんが、いつでも、すぐに御案内申しましょう、下谷根岸の一月寺においでなさいます」\n「おお、では虚無僧の宿院にいるのか」\n と、鴻山は、廊下の端から、左京之介の居間の方へ向って、\n「お聞きの通りでござりますが、こちらから出向いたものでございましょうか、それとも、書面でもつかわして、密かにここへ招じ寄せましょうか」\n「そうじゃの? ......」\n 輝高は少し考えてから、\n「当家へ、あまり出入りの多いは人目につくかも知れぬ。その女を案内に、ともかく、そちが訪ねてまいったらどうじゃ」\n「手前も、それがよいように考えておりまする。ではお綱、これからすぐに案内を頼むぞ」\n「乗物は?」\n 左京之介がいうと、鴻山は支度をなおして、いつもの眉深い編笠をいただきながら、\n「町へ出てから求めます」\n「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右が知れるであろうから、心待ちに帰邸を待っておるぞ」\n「はっ、では......」\n と、庭先に立って一礼すると、常木鴻山は、お綱を目で促して、ピタピタとそこから歩きかけた。所詮、生きては、この屋敷を出られまいと諦めていた結果が、思いがけなく、妹や弟を救うだけの金を恵まれた上に、これからすぐに、弦之丞のいる所へ訪ねて行かれようとは、何から何まで、夢のようなトントン拍子。お綱は、嬉しいといってよいか、悲しいといっていいか、また、恥かしいといってよいか、自分で自分が分らぬような感激につつまれていた。\n そして、四、五間歩きかけた。\n すると不意に、長廊下の向うから、晴々とした女の高笑いが聞こえた。と思うとまた、\n「弦之丞様! アレ、アレ、弦之丞様ッ――」\n 絹を裂くように叫びながら、バタバタと走りだしてきた美しい女がある。\n 続いて後から、付き添いの女や家来たちが、ワラワラと手を振って、\n「アアお千絵様――、お千絵様がまたお狂い遊ばして――」と、あっちこっちへ追い廻してくる。\n 背すじへ水を浴びたように、お綱はそこに立ちすくんでしまった。そして、麗しい友禅に身をつつみ、蝋より青白い顔をカラカラと笑みくずしながら、大勢の者に抱き戻されてゆく、お千絵の姿をありありと見た。\n「おお大事な薬を忘れていた」\n 鴻山は別な用口へ廻って、奥坊主の者に、源内秘方の蘭薬を、お千絵にのますことを言いのこして、急ぎ足に裏門の潜戸をぬけ出した。\n\n夕雲流真髄\n\n 春の夜の寒さは、襟と爪の先からしみてくる。\n 炉にはトロトロと紫色の火が崩れていた。\n「どうしたのだろう? ......今日でもう七日目だが」\n また同じことをいって、万吉は指を繰っていた。炉に対して弦之丞は、ピシリと二、三本の枯れ枝を折り、衰えかけた榾の火へつぎ足している。\n「――あんなに熱く言っていたんだから、もう訪ねてこなけりゃならねえ筈だが。はてな、悪くすると、またお十夜にでもふん捕まってしまったのじゃねえかしら? ......」\n 独りごとを洩らすまでに、案じぬいているふうである。無論、それはお綱の身の上。\n ここは根岸の奥の一月寺、普化僧仲間で、俗に風呂入とよぶ宿院である。一枝の竹管をもって托鉢する者は、誰でも宿泊できるが、弦之丞は京都寄竹派の本則をうけているので、この寺とはまったくの派違いだ。で、本院へは寄宿をゆるされず、境内にある別棟の客房を借りうけていた。\n それがかえって、気ままでもあり、都合もいい。\n 折から目明しの万吉も、あれ以来、起居を共にして、昼は外にお千絵様の行方を探し、夜は炉の火をかこんでヒソヒソと、やがて阿波へ入り込む日の密議やうち合せに余念がない。\n しかしここ数日、かなりの努力をつくしたが、お千絵の所在について皆目手がかりがなく、お綱もあのまま、此寺へ訪ねてこず、二人のかこむ炉には焦躁と沈鬱の夜がつづいた。\n と。――敷石をふむ木履の音がしてきて、客房の濡れ縁に、誰か人の気配がする......。\n「客僧どの」\n「はい」\n「まだお寝みではございませんでしたか」\n 聞き馴れた番僧の言葉づかいである。\n「起きておいでのご様子、ちと急用でございます。この障子を開けますが......」"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「はっ」\n 寸を縮めてつけ替えたのは三寸。\n エイ、ヒョウ、サッと射て放たれた矢は、同しくプツリとまた黒星でした。\n「御見事、さすがにござります!」\n「何の、他愛もない。今一度寸を縮めい」\n「はっ。――的は二寸――」\n サラリ、土壇近くの焔がゆらめいたかと見るまに、同じくプツリ黒星!\n「天晴れにござります」\n「まだ早い。事のついでじゃ。一条流秘芸の重ね箭を見せてとらそうぞ。的替えい」\n 英膳、鞠躬如としてつけ替えたのは一寸角の金的です。\n ぐッと丹田に心気をこめて、狙い定まったか、射て放たれた矢は同しくプツリ、返す弓弦に二ノ矢をついだかと見るまに、今的中したその一ノ矢の矢筈の芯に、ヒョウと射て放たれた次のその矢が、ジャリジャリと音立てて突きささりました。\n「お見事! お見事! 英膳、言葉もござりませぬ」\n「左様のう。先ず今のこの重ね矢位ならば賞められてもよかろうぞ」\n 莞爾としながら静かにふりむくと、自若として揶揄しつつ言ったことでした。\n「どうじゃ見たか。スン台武士のお歴々。弓はこうスて射るものぞ。アハハハ。江戸旗本にはな、この早乙女主水之介のごとき弓達者が掃くほどおるわ。のちのちまでの語り草にせい」\n 途端!――不意です。\n 隊長らしいあのいち人が目配せもろ共さッと一同を引き具して主水之介の身辺近くに殺到すると、突然鋭く叫んで言いました。\n「隠密じゃッ。隠密じゃッ。やはり江戸隠密に相違あるまい。素直に名乗れッ」\n「なに!」\n まことに意外とも意外な言葉です。主水之介はにったり微笑すると泰然として問い返しました。\n「なぜじゃ。身共が江戸隠密とは何を以て申すのじゃ」\n「今さら白を切るなッ。千種屋に宿を取ったが第一の証拠じゃ。あの宿の主人こそは、われら一統が前から江戸隠密と疑いかけて見張りおった人物、疑いかかったその千種屋にうぬも草鞋をぬいだからには、旗本の名を騙る同じ隠密に相違あるまいがなッ」\n「ほほう、左様であったか。あれなる若者、何かと心利いて不審な男と思うておったが、今ようやく謎が解けたわい。なれど身共は正真正銘の直参旗本、千種屋に宿を取ったは軒並み旅籠が身共を袖にしたからじゃ。隠密なぞと軽はずみな事呼ばわり立てなば、あとにて面々詰め腹切らずばなるまいぞ。それでもよいか」\n「言うなッ。言うなッ。まこと旗本ならばあのような戯れ看板せずともよい筈、喧嘩口論白刄くぐりが何のかのと、無頼がましゅう飄げた事書いて張ったは、隠密の素姓かくす手段であったろうがッ。どうじゃどうじゃ! まだ四の五の申さるるかッ」\n「ウフフフ、左様か左様か。笑止よ喃。あれまでもその方共には尾花の幽霊に映りおったか。あれはな、そら見い、この眉間疵よ。退屈致すと時折りこれが夜啼きを致すゆえ、疵供養にと寄進者の御越しを待ったのじゃ。慌てるばかりが能ではなかろうぞ。もそッと目の肥えるよう八ツ目鰻なとうんとたべい」\n「申したなッ。ならばなにゆえ胡散げに市中をさ迷いおった。それも疑いかかった第三の証拠じゃ。いいや、それのみではない。今のひと癖ありげな弓の手の内といい、なにからなにまでみな疑わしい所業ばかりじゃ。もうこの上は吟味無用、故なくして隠密に這入ったものは召捕り成敗勝手の掟じゃ、じたばたせずと潔よう縛に就けいッ」\n「わッははは。さてさて慌てもの達よ喃。道理でうるさくあとをつけおったか。馬鹿者共めがッ。頭が高い! 控えおろうぞ! 陪臣の分際以て縛につけとは何を申すかッ。それとも参らばこの傷じゃ。幸いの夕啼き時刻、江戸で鳴らしたこの三日月傷が鼠呼きして飛んで参るぞッ」\n「申すなッ、申すなッ。広言申すなッ。陪臣呼ばわりが片腹痛いわッ。われらは捕って押えるが役目じゃッ。申し開きはあとにせいッ。それッ各々! 御かかり召されッ」\n 下知と共に笑止や仙台藩士、わが退屈旗本早乙女主水之介を飽くまでも隠密と疑い信じて、今ぞ重なる秘密と謎を割りながら、さッと競いかかりました。しかし笑止ながらもその陣立て陣形はさすがに見事、兵家のいわゆる黒白構え、半刀半手の搦め捕りという奴です。即ち、その半数を抜いて払って半数は無手の居捕り、左右にパッと分れながら、じりじりと詰めよりました。\n だのに、今なお気味わるく不審なのはあの矢場主英膳です。敵か味方か、味方か敵か、おのが道場に今や血の雨が降らんとするのに、一向おどろいた気色も見せず、何がうれしいのかにやりにやりと薄笑っているのでした。否! それよりも不気味な位に自若としていたのは退屈男です。\n「ウフフフ。黒白構えか。なかなか味な戦法よ喃。何人じゃ。ひと、ふた、みい......、ほほう、こちらに抜き身が十人、挙捕りは十一匹か。久方ぶりの退屈払いには先ず頃合いじゃ。――行くぞッ」\n ズバリと叫んで、今こそまことに冴え冴えと冴えやかに冴えまさったあの眉間傷に、凄婉な笑みを泛べつつ、ずいと前なるひとりにつめよろうとした刹那! ばたばたと慌ただしげに駈け近づいて来た足音があったかと思うまもなく、矢場の向う横から呼び叫んだ声がありました。\n「お願いでござります! 御前様! 早乙女のお殿様! お願いでござります! お願いでござります!」\n\n四\n\n 声は誰でもない千種屋のあの青白く冷たい、秋時雨のような若女房でした。女将は、その冷たく青白い面を、恐怖に一層青めながら、愛児を必死に小脇へかかえて、凝然とおどろき怪しんでいる黒白隊の間をかいくぐりつつ、退屈男のところへ駈け近づくと、おろおろとすがりついて訴えました。\n「お願いでござります! 夫が、夫が大変でござります。御力お貸し下されませ! お願いでござります!」\n「......!?」\n「夫が、夫が、早乙女のお殿様へ早うお伝えせいと申しましたゆえ、おすがりに参ったのでござります。今、只今、宿の表で捕り方に囲まれ、その身も危いのでござります。お助け下さりませ。お願いでござります! お願いでござります!」\n「捕り方に囲まれおるとは、何としたことじゃ」\n「かくしにかくしておりましたなれど、とうとう江戸隠密の素姓が露見したのでござります。宿改め素姓詮議のきびしい中をああしてお殿様にお泊り願うたのは、御眉間傷で早乙女の御前様と知ってからのこと、いいえ、かくしておいた隠密が露見しそうな模様でござりましたゆえ、万一の場合御力にすがろうとお宿を願うたよし申してでござります。ほかならぬ江戸で御評判の御殿様、同じ江戸者のよしみに御助け下さらばしあわせにござります。わたくし共々しあわせにござります」\n「よし、相分った! そなたが夫とは、あの客引きの若者じゃな」\n「はい。三とせ前からついした縁が契の初めとなって、かようないとしい子供迄もなした仲でござります。お助け、お助け下さりまするか!」\n「眉間傷が夕啼き致しかかったばかりの時じゃ、参ろうぞ! 参ろうぞ! きいたか! ズウズウ国の端侍共ッ、直参旗本早乙女主水之介、ちと久方ぶりに退屈払いしてつかわすぞッ! 来るかッ。馬鹿者共よ喃。ほら! この通りじゃ! よくみい! うぬもかッ。並んでいっぷくせい」\n 右へ二人、左へ三人、行く手を塞いだ四五人に、あっさり揚心流当て身の拳あてて片づけながら道を開いておくと、"
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"content": "「女つづけッ」\n にったり打ち笑みながら、さッと駈け出しました。やらじと、前、横、うしろから藩士の面々が雪崩れかかろうとしたとき、――実に以外です。謎の矢場主英膳が、あの重籐の弓構えとって、突如矢場の切り戸わきに仁王立ちとなると、天にもひびけとばかり呼ばわりました。\n「者共ッ、きけッきけッ。同志の身が危ういときくからは、われらも素姓知らしてやろうわ。何をかくそう、この英膳も同じその隠密じゃッ。三とせ前からこうして矢場を開き、うぬら初め家中の者共の弓の対手となっていたは、みな御老中の命によって当藩の秘密嗅ぎ出すための計りごとじゃ。――御前! 早乙女の御前! あとは拙者がお引きうけ申したぞッ。あちらを早く! 同志を早く! ――者共ッ、一歩たりともそこ動かば、江戸で少しは人に知られた早矢の英膳が仕止め矢、ひとり残らずうぬらが咽喉輪に飛んで参るぞッ」\n 言いつつ、射て放ったはまことに早矢の達人らしく一箭! 二箭! 飛んだかと見るまにヒュウヒュウと藩士の身辺におそいかかりました。不意を打たれて紊れ立つともなく足並みが紊れ立ったその隙に乗じながら、主水之介はわが意を得たりとばかりに、莞爾としながら女共共一散走り!\n 角を曲ると同時に、なるほど目を射ぬいたものは、そこの千種屋の前一帯に群がりたかる捕り方の大群でした。\n 街は暗い。\n 道も暗い。\n いつしかしっとりと秋の宵が迫って、行く手は彼は誰れ時の夕闇でしたが、しかしその宵闇の中にたばしる剣光を縫いながら、必死とあの宿の若者の力戦奮闘している姿が見えました。――ダッと走り寄って、捕り手の小者達のうしろに颯爽として立ちはだかると、叫んだ声のりりしさ爽やかさ、退屈男の面目、今やまさに躍如たるものがありました。\n「宿の若者! 助勢致してつかわすぞッ。――木ッ葉役人、下りませい! 下りませい! 直参旗本早乙女主水之介が将軍家のお手足たる身分柄を以て助勢に参ったのじゃ。わが手は即ち公儀のおん手、要らざる妨げ致すと、五十四郡が五郡四郡に減って行こうぞッ。道あけい!」\n 言葉の威嚇もすばらしかったが、胆の冴え、あの眉間傷の圧倒的な威嚇が物を言ったに違いない。さッとどよめきうろたえながら雪崩れ散るように波を打って道を開いたその中を、ずいずいと若者のところへ歩み寄ると、莞爾たり!\n「三とせ越し上手によく化けおったな。怪我はないか」\n「おッ......。ありがとうござります。ありがとうござります。実は、実は手前、御前と同じ江戸の......」\n「言わいでもいい、妻女からあらましは今きいた。何ぞよ、何ぞよ。隠密に参った仔細はいかなることじゃ」\n「居城修復と届け出して公儀御許しをうけたにかかわらず、その実密々に増築工事進めおりまする模様がござりましたゆえ、矢場主英膳どのと拙者の二人が御秘命蒙り、うまうまと、三年前から当城下に入り込みまして、苦心を重ね探りましたところ、石の巻に――」\n 始終を語り告げているその隙に乗じて、七八名の捕り手達がうしろから襲いかかろうとしたのを、\n「身の程知らずがッ、この眉間傷、目に這入らぬかッ」\n ぐっとふり向いて一喝しながら威嚇しておくと、自若としながらきき尋ねました。\n「石の巻に何ぞ秘密でもあったか」\n「秘密も秘密、公儀御法度の兵糧倉と武器倉を二カ所にこしらえ、巧みな砦塞すらも築造中なのでござります。そればかりか城内二ノ廓にも多分の兵糧弾薬を秘かに貯え、あまつさえ素姓怪しき浪人共を盛んに召し抱えまする模様でござりましたゆえ、ようやく今の先その動かぬ証拠を突きとめ、ひと飛びに江戸表へ発足しようと致しましたところを、先日中より手前の身辺につきまとうておりました藩士共にひと足早く踏みこまれ、かくは窮地に陥入ったのでござります」\n「左様か、左様か、お手柄じゃ。では、先程身共を英膳の矢場へ案内していったのも、うるさくつきまとう藩士達を身共共々追っ払って、その間に動かぬ証拠突き止めようとしてのことか」\n「は。その通りでござります。御前は手前等ごとき御見知りもござりますまいが、手前等英膳と二人には、江戸におりました頃からお馴染深いお殿様でござりますゆえ、この城下にお越しを幸いと、万が一の折のお力添え願うために、お引き合せかたがたあの矢場へ御つれ申したのでござります。それもこれも藩の者共が、江戸に城内の秘密嗅ぎ知られてはとの懸念から、宿改め、武家改めをやり出しましたが御縁のもと、かく御殿様のうしろ楯得ましたからには、もう千人力にござります」\n「よし、それにて悉皆謎は解けた。――者共ッ、もう遠慮は要らぬぞ。これなる眉間傷の接待所望の者は束になってかかって参れッ。――来ぬかッ。笑止よ喃。独眼竜将軍政宗公がお手がけの城下じゃ。ひとり二人は人がましい奴があろう。早う参れッ」\n しかしかかって参れと促されても、三日月傷が邪魔になってそうたやすく行かれるわけがないのです。進んでは退き、尻ごみしては小者達がひしめきどよめきつつ構え直しているとき、タッ、タッ、タッと宵闇の向うから近づき迫って来たのは、まさしく蹄の音でした。知るや、どッと捕り方達の気勢があがりました。\n「お目付じゃ。村沢様じゃ。お目付の村沢様お自ら出馬遊ばされましたぞッ。かかれッ。かかれッ。捕って押えろッ」\n 色めき立った声と共に、いかさま馬上せわしく駈け近づいて来たのは、七八人の屈強な供侍を引き随えた老職らしいひとりです。同時に馬上から声がありました。\n「捕ったかッ、捕ったかッ。――まごまご致しおるな。たかの知れた隠密ひとりふたり、手間どって何ごとじゃッ。早う召し捕れッ、手にあまらば斬ってすてろッ」\n「.........」\n「よッ。見馴れぬ素浪人の助勢があるな! 構わぬ! 構わぬ! そ奴もついでに斬ってすてろッ」\n「控えい! 控えい! 素浪人とは誰に申すぞ。下りませい! 下りませい! 馬をすてい!」\n きいて、ずいと進み出たのは主水之介です。\n「無役ながらも千二百石頂戴の天下お直参じゃ! 陪臣風情が馬上で応待は無礼であろうぞ。ましてや素浪人とは何ごとじゃ。馬すてい!」\n「なにッ?」\n お直参の一語に、ぎょッとなったらしいが、しかし馬はそのままでした。と見るや退屈男は、ついと身を泳がして、傍らの捕り手が斜に構えていた六尺棒を手早く奪いとるや、さっと狙いをつけて馬腹目ざしながら投げつけたのは咄嗟の早業の棒がらみです。――唸って飛んで栗毛の足にハッシとからみついたかと見えるや、馬は竿立ち、笑止にも乗り手は地に叩きつけられました。\n「みい、当藩目付とあらば少しは分別あろう。早う下知して捕り方退かせい」\n「.........」\n「まだ分らぬか。わからば元より、江戸大公儀御差遣の隠密に傷一つ負わしなば、伊達五十四郡の存亡にかかろうぞ。匆々に捕り方退かせて、江戸へ申し開きの謝罪状でも書きしたためるが家名のためじゃ。退けい。退かせい」\n「申すなッ。隠密うける密事があらば格別、何のいわれもないのになにゆえまた謝罪するのじゃ。紊りに入国致した隠密ならば、たとい江戸大公儀の命うけた者とて、斬り棄て成敗勝手の筈じゃわッ。構わぬ、斬ってすてろッ」\n「馬鹿者よ喃。まだ分らぬかッ。石の巻のあの不埒は何のための工事じゃ」\n「えッ――」\n「それみい、叩けばまだまだ埃が出る筈、この早乙女主水之介を鬼にするも仏にするも、その方の胸一つ出方一つじゃ。とくと考えて返答せい」\n「.........」\n「どうじゃ。それにしてもまだ斬ると申すか。主水之介眉間に傷はあるが、由緒も深い五十四郡にたって傷をつけるとは申さぬわッ。探るべき筋あったればこそ探りに這入った隠密、斬れば主水之介も鬼になろうぞ。素直に帰さば主水之介も仏になろうぞ。どうじゃ。とくと分別して返答せい」\n「............」\n ぐっと言葉につまって油汗をにじませながら打ち考えていたが、さすが老職年の功です。\n「退けッ。者共騒ぐではない。早う退けいッ」\n「わッははは、そうあろう。そうあろう。素直に退かばこの隠密とても江戸者じゃ。血もあり涙もある上申致そうぞ。さすれば五十四郡も安泰じゃ。早う帰って江戸への謝罪の急使、追い仕立てるよう手配でもさっしゃい。――若者、旅姿してじゃな。身共もそろそろ退屈になりおった。秋の夜道も一興じゃ。ぶらりぶらり参ろうかい」"
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"role": "user",
"content": "「あら、何をそんなに遠慮していらつしやるの。ぢや、妾が御先に失礼しますわ。」\n さう云ふと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台を軽く踏んで、ヒラリと車中の人になつてしまつた。\n「さあ! 早くお乗りなさいませ。」\n 彼女は振り顧つて、微笑と共に信一郎を麾ねいた。\n 相手が、さうまで何物にも囚はれないやうに、奔放に振舞つてゐるのに、男でありながら、こだはり通しにこだはつてゐることが、信一郎自身にも、厭になつた。彼は、思ひ切つて、踏台に足を踏みかけた。\n 信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。\n 夫人は駭いたやうに、それを制した。\n「あら、そんなことをなさつちや、困りますわ。まあ、殿方にも似合はない、何と云ふ遠慮深い方でせう。さあ此方へおかけなさい! 妾と並んで。そんなに遠慮なさるものぢやありませんよ。」\n 信一郎を、窘めるやうに、叱るやうに、夫人の言葉は力を持つてゐた。信一郎は、今は止むを得ないと云つたやうに、夫人と擦れ〳〵に腰を降した。夫人の身体を掩うてゐる金紗縮緬のいぢり痒いやうな触感が、衣服越しに、彼の身体に浸みるやうに感ぜられた。\n 給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るやうに、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。\n 給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のやうに、恍惚としてゐた。\n\n六\n\n つい知り合つたばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たつた二度目に会つたときに、もう既に自動車に、同乗すると云ふことが、信一郎には、宛ら美しい夢のやうな、二十世紀の伝奇譚の主人公になつたやうな、不思議な歓びを与へて呉れた。万世橋駅迄の二三分が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のやうに思はれた。彼の生涯を通じて、宝石のやうに輝く、尊い瞬間のやうに思はれた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思つてゐた。が、さう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇を、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、さうだ、豊に輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入つてゐるのだつた。時は速い翼を持つてゐる。が、此の三四分の時間は、電光その物のやうに、アツと云ふ間もなく過ぎ去らうとしてゐる。\n 試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却てわく〳〵して、少しも手が付かないやうに、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去らうとする時間を前にして、たゞ茫然と手を拱いてゐる丈だつた。\n 然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の薄暗に、漂はせながら、急に話しかけようともしなかつた。\n 丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと――と言つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが――会話の緒を見付けた。\n「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西語が、お上手でいらつしやいますね。」\n「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」\n「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」\n 信一郎は心でもさう思つた。\n「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈なのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。」\n「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人が来ると、私丈が仏蘭西語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。」\n 信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。\n「外交官の夫人! ほゝゝ、妾などに。」\n さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出ることではなかつたか。彼女が、仏蘭西語の稽古をしたことも、みんなさうした日のための、準備ではなかつたか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出となつて了つてゐる。外交官の夫人と云はれて、彼女の華やかな表情が、急に光を失つたのも無理はなかつた。\n 瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。\n 信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。\n「仏蘭西文学は、お好きぢやございませんか。」\n 信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。\n「あのう――好きでございますの。」\n さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。\n「大好きでございますの。」\n 夫人は、再び強く肯定した。\n\n七\n\n「仏蘭西文学が大好きですの。」と、夫人が答へた時、信一郎は其処に夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたやうに思つた。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛してゐると云ふことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。\n 信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。\n「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」\n「はい、近代のものとか、古典とか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜文学だとか申しましても、英語の廉価版のある作家ばかりが、流行つてゐるやうでございますわね。」\n 信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。\n「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」\n「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひではありませんわ。」\n「メリメは、どんなものがお好きです。」\n「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」\n「あの女主人公を何うお考へになります。」\n「好きでございますよ。」\n 言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。\n「妾さう思ひますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思ひますの。男性の甚だしい我儘だと思ひますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移してゐながら、平然と済してゐますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考へる度毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずにはゐられないのです。」\n 夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、魅惑的であつた。\n 信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い〳〵隔が横はつてゐる。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違ひない。"
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"role": "assistant",
"content": " が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさと頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、麾いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れてゐれば、何うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔を感ぜずにはゐられなかつた。\n が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。\n が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻の静子に依つて充されなかつた欲求が、わづか三四分の同乗に依つて、十分に充たされたやうに思つた。\n さう思つたとき、その貴い三四分間は、過ぎてゐた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走つてゐた。\n「いやどうも、大変有難うございました。」\n 信一郎は、さう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。\n その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思ひ出したやうに云つた。\n「貴君! 今晩お暇ぢやなくつて?」\n\n八\n\n「貴君! 今晩お閑暇ぢやなくつて。」\n と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。\n「閑暇と云ひますと。」\n 信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。\n「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」\n「いゝえ! 別に。」\n 信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。\n「実は......」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜人を、晩餐旁帝劇へ案内してやらうと思つてゐましたの。それでボックスを買つて置きましたところ、向うが止むを得ない差支があると云つて、辞退しましたから妾一人でこれから参らうかと思つてゐるのでございますが、一人ボンヤリ見てゐるのも、何だか変でございませう。如何でございます、もし、およろしかつたら、付き合つて下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」\n 夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。\n 信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。\n さうした夫人と、今宵一夜を十分に、語ることが出来ると云ふことは、彼にとつてどれほどな、幸福と欣びを意味してゐるか分らなかつた。\n 彼は、直ぐ同行を承諾しようと思つた。が、その時に妻の静子の面影が、チラツと頭を掠め去つた。新橋へ、人を見送りに行つたと云ふ以上、二時間もすれば帰つて来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了へて、ボンヤリと待ちあぐんでゐる妻の邪気ない面影が、暫らく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハツキリと分つてゐた。\n「如何でございます。そんなにお考へなくつても、手軽に定めて下さつても、およろしいぢやありませんか。」\n 夫人は躊躇してゐる信一郎の心に、拍車を加へるやうに、やゝ高飛車にさう云つた。信一郎の顔をぢつと見詰めてゐる夫人の高貴な厳かに美しい面が、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛い面影を打ち消した。\n「さうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だつてある。飽き〳〵するほど幾夜だつてある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がさう幾度もあるだらうか。こんな浪漫的な美しい機会が、さう幾度だつてあるだらうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。かうした機会を逸しては......」\n さう心の中で思ふと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのやうに、フハ〳〵となつてしまつた。彼は思ひ切つて云つた。\n「もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。」\n「あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。」\n 夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるやうに声高く云つた。\n 自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐやうに、馳けり始めた。\n 電車道の、鋪石が悪くなつてゐる故か、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けてゐる。\n 車が、小川町の角を、急に曲つたとき、夫人は思ひ出したやうに、とぼけたやうに訊いた。\n「失礼ですが、奥様おありになつて?」\n「はい。」\n「御心配なさらない! 黙つて行らしつては?」\n「いゝえ。決して。」\n 信一郎は、言葉丈は強く云つた。が、その声には一種の不安が響いた。\n\n九\n\n 帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処にはどんな人々がゐるかも知れない群衆の中へ、かうした美しい、それ丈人目を惹き易い女性と、たつた二人連れ立つて、公然と入つて行くことが、可なり気になつた。\n が、信一郎のさうした心遣ひを、救けるやうに、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席へ帰つて行くところだつた。\n 夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやつと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉しかつた。\n 夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めてゐたが、ふと信一郎の方を振り返ると、\n「本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。」\n「いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。」\n「妾も、さうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、妾達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違つてゐるのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云へば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のやうな女ばかりでございますのね。」\n「同感です。全く同感です。」\n 信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。\n「親や夫に臣従しないで、もつと自分本位の生活を送つてもいゝと思ひますの。古い感情や道徳に囚はれないで、もつと解放された生活を送つてもいゝと思ひますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀のやうに、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だつて雲雀のやうに、多くの男と戯れる権利があると申してをりますが、さうぢやございませんでせうか。妾もさう思ふことがございますのよ。」\n 夫人は、周囲の静けさを擾さないやうに、出来る丈信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温い薫るやうな呼吸が、信一郎のほてつた頬を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中が、溶けてしまひさうな魅力を感じた。\n「でも、貴君なんか、さうした女性は、お好きぢやありませんでせうね。」さう、信一郎の耳に、あたゝかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然と笑つて見せた。男の心を、掻き擾してしまふやうな媚が、そのスラリとした身体全体に動いた。\n 夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩んだやうに、フラ〳〵としてしまつた。美しい妖精に魅せられた少年のやうに、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然と黙つてゐた。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 自序\n\n\n 本書の中に、「“虫喰い算”大会」の会場が、第一会場から始まって第三十会場まである。われと思わん方は御遠慮なく、第一会場から出発して、智慧だめし、根だめしをなされたい。\n「虫喰い算」とは、そもそもどんなものであるか。\n 簡単にいえば、「虫喰い算」とは、虫に喰われて判読できない数字を、推理の力によって判定する算数学のことである。\n 但し学といっても、頭の芯がじーんと痛くなり、苦しみのほか、何もないというような詰らないものではない。「虫喰い算」は非常におもしろく楽しいもので、一旦これで遊んだものは、終生「虫喰い算」のうれしい味を忘れ得ないであろう。私も二十年来これを愛好し、時にはこれを探偵小説に組立てて書いたこともあった(海野十三作『暗号数字』)。\n 本書の中には、「虫喰い算」の親類筋にあたる「覆面算」もいくつかおさめてある。「覆面算」というのは、数字が虫に喰われて穴があいているのではなく、文字または符号の覆面をつけている計算なのであって、みなさんたち学徒の名探偵は、その覆面を推理の力で叩き落して数字を剥がし出すのだ。\n この両方をひっくるめて、ここに「“虫喰い算”大会」を開いてあるが、会場の初めの方はやさしいが、だんだん後の方の会場となるとむずかしくなる。その代り「虫喰い算」の魅力はだんだんに強く加わり、最後の第三十会場までが残り少くなるのが惜しまれるようになるであろう。第一会場を合格すれば第一階選士と名乗る。が、第三十階選士となるには、とてもたいへんである。\n やさしい問題は中学校の一年生でも解ける。一等むずかしい問題でも、高校生なら解けるであろう。しかもこの「虫喰い算」の魅力は、大学教授をして鉛筆を嘗めながら呻らせる魔力をも備えていて、実に神秘なところがある。\n 本書にはわざと空白を用意してあるが、そこでは部分的計算や、やりかえしをするために、せいぜい鉛筆を運動せられて然るべし。\n 本書には全部で百三十二箇の問題を集め得たが、これだけ集めるのにも、ずいぶん苦心し、且つ長い年月を要した。もっと多くの新しい問題を探し出したいと思うが、私が二十年で得たものはこれで全部である。同好の諸氏で御存じならば御恵投を煩わしたい。最後に本書は次ぎの各書を参考としたことを記し、謝意と敬意とを表する。\n\nF.C.Boon,“Puzzle Papers in Arithmetic”\nG.C.Barnard,“An Elementary Puzzle Arithmetic”\nF.F.Potter and F.C.Rice,“Common Sense Arithmetic”\nH.E.Dudeney,“Modern Puzzles”\nA.S.E.Ackermann,“Scientific Paradoxes and Problems”\n藤村幸三郎著『新数学パズル』\n\n 昭和二十一年正月七日\n海野十三\n\n\n 1 虫喰い算とは?\n\n\n 古い大福帳や証文や勘定書などがしみという虫に喰われており、肝腎の数字のところが穴になっている。さあたいへん、困ったことになった。そういうとき推理の力でもって、その穴になった数字はこういう数字であらねばならぬと判別する。この算数学がいわゆる「虫喰い算」と称ばれるものである。\n もちろん、一金五万円也、右借用候事しかじかというような一本建の数値だけがあってそのうちの数字が虫に喰われているのでは、探しようがないが、もしそれが加減乗除の運算書であれば、その一部が虫に喰われていても、前後の関係から推理によって正確に判別することができる。時には、数字の全部が虫に喰われていても、それらの数字の配列が分ってさえいれば、推理の力を積んでその全数字をいい当てることができる。\n なお「虫喰い算」に似たものに「覆面算」と名附けるものがある。これは虫喰い算ではその数字が虫に喰われて穴があいているのに対し、「覆面算」では符号または文字になっているのだ。もちろん数字は1から9までの外に0の十箇だから、その覆面の符号または文字は十箇以内に限られる。\n「虫喰い算」と「覆面算」と、どっちが面白いか。それは人によって違うが、私はどっちも面白いと思う。\n「虫喰い算」を解く鍵は、普通の場合、まず初めに0の数字か、1の数字であらねばならぬところの穴を探し出すことにある。\n「覆面算」では、同様のこともあるけれど、同じ文字又は符号がいろいろな関係で並んでいるところからして、ははあ、この文字はこっちの文字の二倍だなどという相互関係が見出されると、後は急に解けやすくなる。\n 虫喰い算の類を解くときは、徹頭徹尾推理の力で推していくところに興味と実益があるのであって、1かなあ、それとも2かなあ、それでなければ3かというふうに、いちいち代入法でやって行くやり方は面白くない。\n 虫喰い算は、序文にも述べてあるとおり、中級以上のものは一題一題が宝石のように尊く且つ愛ずべきものであるからして、なるべくじっくりと解いていただきたい。一日に十題も二十題も解くことは、頭も疲れるし、それに虫喰い算の妙味が分らないと思う。\n そこで本書の“虫喰い算”大会の設計に当っても、やさしいものとむつかしいものとを交ぜて四題ぐらいを一会場とすることとした。\n なお、第一会場から第三十会場までのうち、初めの三分の一ぐらいは割合とやさしいが、それから先はだんだんと複雑難解なるものが入って来、それだけに推理に成功すれば嬉しさがこみあげる。第二十会場以後となると、虫喰い算の愛好者にとっては、こたえられないほどの歓喜と興奮とをもたらすことであろうと思う。\n\n\n 2 やさしい虫喰い算とその解き方\n\n\n まずやさしい虫喰い算の方から、その解き方を述べて行く。\n【例題一】 次頁のような加え算がある。四角の穴は、いわゆる虫の喰ったところである。そういうものが、この問題には四つある。これを推理で探しあてるのだ。\n\n 1□92\n 29□1\n 971□\n+ 2□17\n――――――\n 17592\n\n まず右端の縦列の□から考えて行く。これは一の位である。2と1と□と7とを加えた結果、その値の一位は2となることが、この計算によって分っている。□は別として、分っている2と1と7とを加えると10となる。しかるに、一の位の合計の一位の数字は0ではなくて2である。するとこれは□が0ではなく、2であることが推理される。そこでその2を書き入れ、左上のようになる。\n\n 1□92\n 29□1\n 9712\n+ 2□17\n――――――\n 17592\n\n次は十の位だ。一位から1が送られていることを忘れてはならぬ。やはり□が一つある。それを別にして、分っている数字9と1と1と、一位からくりあがった1とを加えると、その結果は12となる。しかるに、十位の合計の十の位は9となっていて、2ではない。これはつまり十位の□を加えてないからこうなるわけだから、9から2を引いて7、この7が□の数字と決まる。そこで計算を整理すると右下のようになる。\n\n 1□92\n 2971\n 9712\n+ 2□17\n――――――\n 17592\n\n その次は百位だ。これは今までのようには行かない。□が二つもあるからだ。分っている9と7とを加え、それに十位から上がってきた1を加えて17となる。この縦列の合計の数字は5であるから、□と□との合計は8であるかもしれず、18であるかもしれない。さあ分からなくなった。\n が、困ることはない。もう一つ上の千位の数字を見ると、この縦列には□がない。1と2と9と2を加えて14となるが、下の合計では17となっている。すると百位から千位へ送られた数字は17から14を引いた3だと分る。\n そうなると百位の二つの□の和は8ではなくて18であらねばならぬ。18でないと、3は上ってこない。\n これで一応解けたわけだ。□と□の合計が18となる関係があれば、どんな数字でもいいのだ。いや、どんな数字というわけにもいかない。二数字の和で18なら、いずれも9である外にない。なぜなら9以上の数字はこの縦列に存在しないわけで、ぜひとも9でなければならないのだ。そこで答は上の如く決まった。\n\n 1992\n 2971\n 9712\n+ 2917\n――――――\n 17592\n\n 同じ加え算でも、「覆面算」ふうなものが加わった場合がある。次の例題がそれだ。\n\n【例題二】 Nという文字で現わされた数字が五箇所に入っている加え算である。もちろん、どのNも同じ数字である。\n\n 2N8\n 2N2\n 88N\n+ N2N\n―――――\n 2164\n\n この配列を見ると、どこから手をつけていいか分らぬようであるが、しばらく見ていると鍵が発見される。それは一位の四数字の和が8と2と二箇のNであり、また十位の四数字も同じく8と2と二箇のNである点だ。しかもこの合計を下列でみると、一位では4だし、十位では6となっている。これだ、鍵は。\n これは一体どういうことを意味するか。一位から十位へあがった数字は、6から4を引いた2であることを意味する。\n どうして2をあげることができるか。8と2を加えて10だから、これでまず1があがる。その外に二つのNがあるから、この和で1があがらねばならぬ。すると二つのNの和は14である。よってNは7だということになる。\n うそだと思ったら五箇のNに7を代入して検算してみるがよろしい。こういうやり方では、百位のNにはついに手をつけないで解くことができた。一刀両断の快味に、ちょっと似ている。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 引き算を一つやってみよう。やさしいものであるが......。\n\n【例題三】 これは国民学校の一年生でもできるであろう。一位からやって行く。\n\n □84562\n- 8□1□3\n―――――――\n 6□7□7□\n\n 2から3は引けないから、十位から10を借りて、12から3を引いて9が出る。\n 次は十の位だ。6は既に5に減っている。それから□を引いて7が出るというからには、この□は逆算して8でなければならぬ。この際、百位から10を借りた。\n 次は百位だが、被減数の5は、先に1を右へ貸したから4となっている。だからそれから1を引くと3であるから、□は3と決まった。\n 次は千位。これはわけなしだ。□は7であらねばならぬ。但し上から10を借りた。\n 万の位では、被減数の8は下へ1を貸したので、実は7である。それから8を引けば9である。□は9と決まる。\n 十万の位の□は7である。なぜなら下へ1を貸してあって、答は6となっているから、7にちがいない。これで出来た。上のようになる。\n\n 784562\n- 87183\n―――――――\n 697379\n\n 次は掛け算の場合である。掛け算だからといって別にやり方が根本的にちがうわけではないが、一つの方針をごらんにいれておきたいと思う。\n\n【例題四】 この問題を見ると、虫喰い穴が八箇所もある。こんなに穴だらけで、果して推理の力で解けるだろうかと不安になる。\n\n 97□\n× □8\n――――――\n □□□0\n 9□□\n――――――\n 175□0\n\n しかししばらくこの計算をながめていると、そのうちに有力なる手懸りが発見されるのだ。そこが興味津々たるところだ。\n すなわち、まず第一の手懸りは、乗数の十位の穴は、1であるということだ。なぜなれば、上から四段目を見ると、三桁の数であり、その百位は9に始まっている。しかるに被乗数を見ると、やはり三桁であり、百位の数字は9である。すると乗数の十位は1であらねばならぬことが分る。そうなると上から第一段目と第四段目とは同じ数である。そこで上のように穴を二つふさぐことができた。\n\n 97□\n× 18\n――――――\n □□□0\n 97□\n――――――\n 175□0\n\n 第二の手懸りは、乗数の一位の8を、被乗数の一位の□に掛けると、その答の一位は、8の字の下にあるとおり0となるのだ。そういう場合、□はどんな数字でもいいというわけには行かぬ。すなわち□は0か5かのどっちかであらねばならぬ。そうでないと第三段目の右端の数字は0とならない。\n では、0か5か、どっちであるか。それを判定する段取に移る。\n □は0ではない。なぜなら、第三段目は、7760 となり、第四段目は 970 でそれを加えると、第五段目のように 175 云々とはならず、174 云々となって勘定が足りない。そこで被乗数の一位の□は、5であらねばならぬと決定する。\n □を5として計算してみると、正しく右頁左下の如く、ちゃんと勘定が合うのである。\n\n 975\n× 18\n――――――\n 7800\n 975\n――――――\n 17550\n\n 次は、割り算である。割り算は虫喰い算としての面白さを十分に備えている。すぐれた虫喰い算は、たいてい割り算の形をとっている。次にあげたのは、やさしい割り算の虫喰い算である。\n\n【例題五】 この問題では、二桁の除数が穴になっているし、答も十位が穴だし、計算の中にも六箇所の穴があいている。\n\n □3\n ____\n□□)949\n □□\n ――――\n □□9\n □□9\n ――――\n 0\n\n なおよく見るのに、肝腎の除数が全然不明であり、またその答も半分しか判明しておらず、これではどうにも手のつけようがない――ように思われる。\n が、しばらく気を落着けて、じっとこの運算書を眺めていると、うまい手懸りがだんだんと見つかってくるのである。まず第一に除数の一位の穴が3であることに気がつく。そのわけはこうだ。除数に答の一位の数である3をかけたとき、その計算の一位の数は9となっている(上から五段目の右端)。つまり、3に或る数(除数の一位)をかけて、答の一位に9が出てくるためには、その或る数は3の外にないのだ。33が9であるからだ。そこで上のように、穴を一つうめることができた。\n\n □3\n ____\n□3)949\n □□\n ――――\n □□9\n □□9\n ――――\n 0\n\n さて次に、答の十位の数は、3よりも少い2か1かのどっちかであることに気がつく。なぜなれば、除数と答の一位をかけた計算は、上から五段目であって、三桁の数□□9 だ。ところが、上から三段目の、答の十位をかけた計算は□□となっていて二桁の数である。すなわち、答の十位の数は2か1かのどっちかに制限される。これで余程探求の範囲は狭くなった。\n 一方、除数の十位の□は、4か、4よりも大きい数でなければならぬことに気がつく。なぜなれば、上から五段目のところで、除数の□3に、答の一位の3をかけると、一位は9となる。次に除数の十位に答の一位の3をかけたものは、百位と十位との二桁ものとなるが、これは除数の十位の数が3以下では二桁とならない(つまり、33が9や23が6では二桁とならない。どうしても34の12以上でなければならぬ)。そこで除数の十位の穴は、4か、4よりも大きい数だと分る。\n そこで今度はもう一度、答の十位の計算、すなわち上から三段目へ戻る。前に述べたように、答の十位は1か2かの何れかである。ところが、これが2であっては、今しがた導き出したところの、「除数の十位の数は4以上」という関係がぶちこわされる。仮りにそれが最低数の4とすれば、答の十位の2をかけると 43×2=86 となるから、被除数の94からこれを引くと、残りは8となって一桁となる。すなわち上から第四段目は□□9 とはならずして□9 の形となり、桁があわぬ。従って答の十位は1か2かということであったが、これは1であらねばならぬと確定する。さあこれで、大体解けた。今まで解けたところを穴に入れて書いてみると上のとおりになる。\n\n 13\n ____\n□3)949\n □3\n ――――\n □19\n □19\n ――――"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一月一日 木曜日\n なかなか寒いと思ったらチラチラ雪がふって来た。終日雪。\n お雑煮はうち製なり。米より腹に入っての工合よろし。お雑煮をたべちゃってから、今日こそ仕事と二人とも机に向い、夕飯を間にはさんで『女芸』の日記のつづき十五枚書き終った。\n 夜なおなお寒い。\n はばかりの窓にたてつけの間からすっかり雪がふきこんでしまってる。北側の雨戸をゆすぶって吹雪の音がした。\n キクフジだったらどんなだろう! おそろし。\n\n一月二日 金曜日\n 雪がとけはじめてる。暖か。しかし室内でも息は白く見える。\n 雨だれの音。\n\n一月一日(木曜)\n これは元日に書いたのではなく、五月十六日に書いているのだが。\n この正月は二人きりで、クゲ沼のまんじゅう屋の借家でした。\n 暮の二十九日にYがまんじゅうやに越して来て、自分は東屋からその家へ行った。\n\n一月三日(土曜)晴 暖\n〔発信〕『大毎』、六回、七回、\n 今日、夕食、沼田より。お雑煮七つ食ってへばった。まだおもちうんとあり。\n\n 藤沢へ行った。郵便局、ハリ紙して\n\n電報\n電話のホカ休ミ\n\n やっとうけつけて貰った。\n ふじさわの町のアーチの板で、外套にひどいカギザキをこしらえてしまった。\n\n〔欄外に〕\n ゆきどけ、砂地ではちっともぬからず雪が消える。\n\n\n一月四日(日曜)\n 体の工合わるし。一日臥床。\n Y、ひとりで働いて、仕事して、今日から一人の三倍働くつもりだったのにねられて残念だが、まあ、これも一人分の働きかと云ってる。\n\n一月七日(水曜)\n〔発信〕八回九回「スモーリヌイ」四・五。\n\n一月八日(木曜)\n〔発信〕十回\n\n一月九日(金曜)\n〔発信〕十一回\n\n一月十日(土曜)\n〔発信〕十二回\n\n一月二十三日(金曜)\n 窪川、その他今夜京都へ立つ\n 自分送りに行った。\n 小林、その他に会う。不二やへ行って茶をのみのみスポーツの話した。\n\n 夜おそくまでかかって、「ソヴェートには何故失業がないか」四枚半・戦□を送る。\n\n一月二十四日(土曜)\n つばめで京都。\n 三條青年会館でナップの講演会。\n\n 夜中井さんのところへかえった。窪川さんと二人で。\n 夜十二時ごろお茶づけの夕飯\n\n京極で買ってったカレイで\n\n\n一月二十五日(日曜)\n 大阪。\n 雨。\n 窪川さん、中井さんの黒マントを着てぬれて歩いてる。\n 中止をくった。\n\n一月二十六日(月曜)\n 窪川さんをつばめで送って、徳直から旅費をもらった。\n お琴のところへより、遠藤さんのところへゆき、夕方六時カモへ行ったら、三味線の音がして、台所では花の木の若い衆が働いてる。\n 多勢おばさん連が来ていた。八十いくつかとかのお千代さんのおっかさんが、傘をもったり手拭をかぶったりして踊った。\n\n一月二十七日(火曜)\n 雪、鶯、おじいさん、えりまきをしてめがねかけてる。\n これは本ものの雪見だ。\n 夜、貞の家へゆく。書割の中で話してるみたいな、妙な、笑いたい気のする西洋間だった。\n あっちこっち歩き、夜、試写を一部分見た。林長二郎、テイノー面!\n\n一月二十八日(水曜)\n 中井さんへ行って、(午後五時頃から)筋をのばした。\n\n一月二十九日(木曜)\n 京都からかえる。\n タナベ君と偶然一緒だった。\n 午後一時三十九分、東京九時。\n 午後の九時間の方が、ずっとしのぎやすかった。ナターリャ・タルポヷをよみ終る。\n Y、ステーションに来ていた。三人でオリエンタルへ行って、自分大きな苺のショートケークをたべた。\n かえる。\n\n一月三十日(金曜)\n 鵠沼へ出かけた。\n 暖くていい心持。\n 上衣をすっかりぬぎ、裸体になって日光浴をした。\n 海岸へ出た。\n Y、今日は何だか淋しい海だな。\n 暖いけれど、もやがあるのだ。\n――胃がわるい故よ。\n\n一月三十一日(土曜)\n 鵠沼。\n\n「インガ」をよむ。\n\n二月一日(日曜)\n 雨。ひどいザーザーいう大雨。\n おふーちゃん、しけて、ふくれて、性慾内訌だ。\n\n「楽しいソヴェートの子供」十三枚\n\n 夕飯をたべてからかえる。この頃何だか少しボンヤリしてしまった。\n 林町で、M工合がひどくわるいと電話。\n\n二月二日(月曜)\n 晴。\n わださん、宍戸、改造の人、内外社。\n Yと出かけて、歩いて林町までゆく(Y高等学校まで)\n 一昨日、ひどいおなかの痛みで、口もきけないようだった由。つかれて、ぺっちゃりしている。カンゴフ婦\n 頬っぺたをたたいたら、うれしそうに細く目をあいて、自分を見た。まだ何だか、分らず。\n 夕飯後、スエ子と二人で、ベンキをさがし、見つけ4.30とはおどろいた!\n 自分温泉は修善寺ということになった。\n\n二月三日(火曜)\n 曇。新興教育の人、あんまりクルイギンみたいな顔しているので、びっくりした。\n お国はどこ?\n 福井かと思ったら岡山だった。\n「若い旗」という男来。鍵をなおしに来て三時間もことことやってる。\n Y、鉄塔書院のことで、朝九時すぎ、ガミさんのところへ出かけてった。\n 川島さん来。\n\n二月七日(土曜)\n クゲ沼からかえった。ひとり\n ひるすぎ、仕事するつもりだったら、眠くてさむくて、よこんなってしまった。\n ひどい、ひどい風。砂をまき上げて風が吹いた。\n 汽車こんでる。中学生で一杯。\n\n 夜食後、フロ、仕事にかかる。\n いい心持だ。ひとりはいい心持だ。\n 今度は自分のヒスのかげんか、三人でくらすの、うるさかった。\n\n二月八日(日曜)\n 朝「インガ」80枚おわった。\n 久しぶりで心持のいい徹夜をした。\n 夜中、まるでさむかった。\n 朝日が出ると、その朝日は、あったかい。\n 窓をあけても、さむくない。風がほんのすこしある。窓から見える樺の梢がヒラヒラゆれて、ひょっととまる。生きてる子供みたいだ、快活で。屋根に、雪が少しある。\n 日にてらされて、いい気持。\n\n二月十日(火曜)\n 十日までに、『新青年』ソヴェート大学生の男女交際法。\n「イワンと〔三字分空白〕」八枚\n\n二月十二日(木曜)\n ひる頃「ソヴェートの芝居」一部38枚かいて『改造』へわたした。\n\n 夕方から、□□さん来。\n 一緒に夕飯たべて、から\n\n 夜林町へ行った。m待ちかねていた。シクラメンの花をもって行った。つかれたでしょう? つかれやしないよ、その用意して精力たくわえておいたもの。\n 百合ちゃん見せようと思って、今日はおしゃれしといたんだよ、一寸あがりお見せ。\n m、たおれたきり、スエ子の部屋のゴタゴタの中にねている。肝ゾーにしては、変なところにかたいものがある由。\n\n〔欄外に〕\n 春秋座が猿之助を除名した。猿、わたりをつけといて(松竹と)若手が反抗するのを待ってたのだ。それがしれて遂にやられた。\n\n\n二月十三日(金曜)\n 今日は自分の誕生日でドンタクだ。\n とにかく13日だし、自分が地震こわがってるしするから、Y、一応クゲ沼に行くという。出かけるとひどい雪。自分の髪がのびて、冬の野馬だ。\n それを刈ってるひまもない。が、新橋で待つ間、小川によった。さっぱりしたら、いやにボンの凹がさむくなった。\n クゲ沼のステーションをおりたらひどい吹雪、沼田のベントーをたべた。美味しい。\n ゆたんぽ入れて、眠った。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 東京はまるでひどい雪で、デンシャがとまり、スキーヤーが大よろこびだったらしい。芝浦こんな日に争議はじめた。\n\n二月十四日(土曜)\n 体がいたくて、床からはがれない。\n やっと起きた。起きるともう平気なんだ。\n 自分達、藤沢から湯河原へ来た。やどやは天野屋新館。ひとりではいや。じゃ送りこんでやるというわけなり。\n フロ心持よし、きくらしい。\n 但、部屋ガラン堂で、いやにガッとしていて落付かず。\n\n 十一谷集(平凡の)をよむ。\n\n二月十五日(日曜)曇\n ○十一谷集、一名これを片恋集と申す。そういうものばっかりあつまっている。\n ○湯河原町の名物、椿油、きび餅、わさびづけ、みかん。狭い街を鳴動させて往復する自動車。町の中、ゆっくり歩くことは迚も出来ず。\n ○山の方に楽焼やがある。自分思いついた、一つロシア印象で、カシ皿を三枚やいてやれ、と。\n ○夜、部屋をかわった。こんどの室は東向、先より奥で落付く。\n\n〔欄外に〕\n ○水色に塗った橋がある。川がある。山セキレイがその岩の上をとぶ。山山、竹藪、紅梅がさいてる。そして後の山には雪があった。山峡に赤い旗がヒラヒラしていた。\n――あれ何?\n――風の工合見て居りますんだそうです。\n\n\n二月十六日(月曜)\n ○朝九時32分の汽車でYかえった。自分ひとり。室へテーブルを入れて貰い、椅子を入れて貰い。\n これで仕事しなければならぬが、さて......\n 大して、やかましくはない。\n ○障子あけて、下を見ていたら八百屋が車をひっぱって来た。シイタケ、ミツバ、トマト、サヤインゲン、南瓜、フキその他、ひよひよしてきれいな温室ものばっかり。反感がおこった。\n ○改造の文学全集のための年譜と序を書く。みんなで十枚。\n 林町へでんわ。\n\n〔欄外に〕\n 晴れた。が、すっかり上天気とはゆかず。\n ○こっちの部屋からは、かげになっていた風見の赤旗がすっかり見える。\n 杉、白い倉、ヒラヒラしてる赤い旗、わるくない風景だ。\n\n\n二月十七日(火曜)小雨\n 傘さして、ふらふら坂下の郵便局まで出かけ、手入れしたのを書留で出した。Yのところへ\n Yより電話、\n\n よんだり、考えたり。\n ○パリのメトロ\n\n植民地の黒人女をうつ、ひっかく、女がおろされる。\n\n\n二月十八日(水曜)\n なかなかさむい。『朝日』の小説ゆうべ、床の中で考えようとして、ねむく、眠っちまったので、今日はひる間一杯そのために、つぶれた。\n 大体、まとまった。\n それから、散歩に出て、20Sで竹のステッキ買って山の方へ山の方へ歩いてった。\n ひとりで、山の間を歩いたことなかったから、山がいやに活々して気味わるかった。何か机の上にさす葉っぱか花かないかと思ったが、ない。紅梅なんて、野生にはないものか。\n\n 仕事、書き出したがうまくゆかない。\n\n二月十九日(木曜)\n 中央公論へ、ナップの相談会で出かけた。\n 集るもの十四人。\n いろいろここで勉強した。\n\n ゆきに、フジ沢でYに会い、一寸家へ行っておひるをたべ、かえりに又よって泊った。\n\n二月二十日(金曜)\n ひるをたべて、かえる。\n\n 夜仕事(年譜の手入れ)\n\n 仕事又やり出して□□□いるうちにホンゼンとさとるところあり。\n\n二月二十一日(土曜)\n すっかり新しい形で書き出した。\n こんどはものになる。\n\n二月二十二日(日曜)\n 仕事\n\n二月二十三日(月曜)\n 仕事\n\n二月二十四日(火曜)\n 昨夜、肩がはって来て、たまらず、マッサージと称する半アンマをやらせた。七十銭なり。\n\n それから朝、すっかり今日はやっちまう気でかかったが、どうもそわついてそわついて湯の中にいても、現心なし。仕様がないから、思い切って出かけて行ったら、フジ沢でフー公に会い、東京へ行ってるって。キビ餅一円のをもたせ、一まずしかたがないから家へ行って、六時三十五分ので引っかえした。八時すぎ。かえったら来ていて、坐っていて、ドテラきて、笑っている。チョールト!〔くそっ!〕カーク、ラード!!〔何とうれしいことか!!〕\n Y、「プロレタリア芸術講座」のために、心配していろいろ教えてくれる。\n\n二月二十五日(水曜)\n 夕飯たべてYかえる。桜山へ散歩した。桜山のテッペンに茶屋がある。かけたら、女がいらっしゃいまし、ザブトンもって来た。Yふざけて、だからイヤだと云ったんだ。\n 自分、逃げちまおう! この間に逃げちまおう! Y、そんなこと出来ない! 紳士だもん。\n ニェダーロム、プラチュー!〔むだには払うな!〕\n Yかえってから、半徹夜で仕事しまった。\n\n二月二十六日(木曜)\n ひるすぎ原稿書いた、送った。\n 五十二枚あった、きっと多すぎただろう。多すぎると思う。四十五枚だと云ったら、十枚ちょっとですねと云ってた位だから。\n 但、かえって来ても万歳! 何かに出すから手を入れて。五十枚、むだではなかった。久しぶりで小説書いて心地よし。\n さて、と四時頃フロに入って、半日ブラブラと云っても、下らぬ吉川英治の小説をよむ。長谷川伸の方がずっとよろしい。\n\n二月二十七日(金曜)\n 朝ザットフロに入った。\n ひるまで楽焼して来た。\n ひる飯後、女人芸術研究をやったら、書きたくなって、時の問題の埋草十枚ばかり書いて、送った。\n 楽やき、面白い。ただ、やすくないな。\n 茶わん 三十銭\n かけ皿 九十銭\n もう一つ茶わん、三十銭\n フー、Yにしかられるぞ。\n でも、ここにでもいなければ、こんな道楽することもなし。ゆるせ、ゆるせ。\n 夜、ベンキョー。\n\n三月八日(日曜)\n 五十枚「プロレタリア芸術講座」\n\n三月二十六日(木曜)\n ○二つのメーデーについて。\n ポーランドとロシア。\n ポーランドでは鼻へ水、酢、Urine〔尿〕をつぎこみ、くるぶしへカギをさす。やけ鉄。つるしぶち。Sole\n\n七月二十五日(土曜)\n 夕方、アミノさんと御飯たべていたら、信吉来。旗の夕へ出なければならないというので出かけた。\n\n七月二十六日(日曜)\n 窪川来。\n おやじさんのおつき合いで雅叙園、隅田公園へ行った。\n 旗の方を失敬しているので、あんまり愉快ではなかった。\n\n七月二十七日(月曜)\n Yのおやじさんを東京駅へ送ってから、ジ務所の移動活動部会へ出て、五時頃かえった。\n\n 夕飯、アミノさんと。\n\n アミノさんとまる。\n\n七月二十八日(火曜)\n 関さんが、朝三人で茶をのんでいたとき来。\n\n 一日いて四人で九時頃出かけたら、途中で紅吉に会う。\n ひっかえす。市場でおカシ買ったら、あの人、くずもちが「迚もたまらない」んだそうだ。\n\n七月二十九日(水曜)\n 午後、林町の連中呼ぶ。三人\n\n 泊る。\n\n七月三十日(木曜)\n 暑い、暑い。\n 火の鳥へ三時から。出かけようとしていたところへ、マ来。\n 見た。\n 火の鳥四時から十一時頃まで。\n 先、「十日間」をよんで、五六時間演説したというのでびっくりしたが、ああいう場合には出来るものとわかった。\n\n八月一日(土曜)\n ゆうべ林町へとまる。\n 八時すぎ、電話で松田トキ子氏来という。\n まあ、いやだねえ、何とかならないのかい?\n やっとかえって来た。\n 秋田の山奥の自分の育った鉱山の話した。なかなか感情はつよいが。そういう感じの人だ。作家らしく、生活の中に情感を求めている。\n おいねさん来。三人で夕飯をたべ、金出来なかった。友達なんて因果だね、借金がとれないのにキモノとられて。――大笑い。\n 一村氏より手紙。\n\n〔欄外に〕\n ○今日『女芸』書きつけを出す日なのだがどうしたやら。\n\n\n八月二日(日曜)晴\n 久しく日記を中絶した。\n 理由は、日記日記ならずと思ったからだ。しかし、どんな下らない外面的なことだけでも書いておけば、又その面白さがある。\n 故にまたつけることにした。\n 今日はウンと暑い。朝八時すぎ、一旦おきたが、体がつかれてつかれてやりきれず、一日床にいた。\n 中江、引きあげた。ケンテイをうけるのだそうだ。又安ベエと三人。まことに心持よし。家の中がしっとりした。そして、みんなで手伝うからいい。\n Yと落合の方へ行って、机、三円十銭で買った。二十銭という。オヤ、だって、本日特売デーとあるじゃないの、マケちゃえマケちゃえ! それで、これを書いている。その位心持がいい。それに下だから心持がいい。二階、アツイし、砂カベがおちるし、イヤ。\n\n八月三日(月曜)晴。\n エジソンが暑気当りで重体だそうだ。人見絹枝が死んだ。二十五歳。ブルジュアスポーツで死んだようなものだ。が、しかし、何故彼女には可愛いところがなかったろうか。\n ○下の六畳に机をおいた工合なかなかよろしい。二階とは比べものにならぬ、落付く。\n ○午前十一時セミの声頻りなり。ヤルタで蝉が鳴くとよろこんだのや、黒いダッタン人の子、ネムの花、夾竹桃の花思い出す。松の生えた崖、下に見える海など。\n ○子宝幼稚園の消費組合の会へゆく。Tの細君曰ク「うちは消費組合運動に不賛成ですよ、小売商人がこまるからって――」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " そして世界が統一した後も内乱的戦争は絶滅しないだろうと考えらるるだろう。それには前に述べた信仰の統一が強い力であることが必要であるが、同時に武力が原始的で、何人も簡単にこれを所有し得た時は内乱は簡単に行なわれたのであるが、武器が高度に進歩する事が内乱を困難にして来た事も明らかに認めねばならない。刀や槍が主兵器であったならば、今日の思想信仰の状態でも世界の文明国と云われる国でさえ内乱の可能性は相当に多いのであるが、今日の武器に対しては軍隊が参加しない内乱は既に不可能である。\n しかし私は信仰の統一と武力の発達のほか、一般文明の進歩に依り全人類の公正なる生活を保証すべき物資が大体充足せらるる事が必要であると考える。すなわち人類の精神的生活が向上して無益なる浪費を自然に掣肘し、かつ科学の進歩が生活物資の生産能率を高むる事が必要であって、物欲のための争いを無限に放置されていた今日までの如き状態は解消せらるべきだと信ずる。これは信仰の統一、武力の発達の間に自然に行なわるる事であろう。\n\n第二節 戦争史の方向\n 戦争は人類文明の綜合的運用である。戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。\n 武力の発達すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐次拡大して来た。世界の完全なる統一すなわち戦争の絶滅は戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ。この見地よりする戦争の発達史および将来への予見が本研究の眼目である。\n 戦闘は軍事技術の進歩を基礎として変化して来た。また国軍が逐次増加し、それに伴ってその編制も大規模化されて来た。こういうものは一定方向に対し不断の進歩をして来ているのである。\n しかるにその国軍を戦場で運用する会戦(会戦とは国軍の主力をもってする戦闘を云う)はこれを運用する武将の性格や国民性に依って相当の特性を認めらるるけれども、軍隊発達の段階に依って戦闘に持久性の大小を生じ、自然会戦指揮は或る二つの傾向の間を交互に動いて来た。また武力の戦争に作用し得る力もまた歴史の進展過程に於て消極、積極の二傾向の間を交互し、決戦戦争、持久戦争はどうも時代的傾向を帯びている。\n 以上の見地から戦闘法や軍の編制等が最後的発達を遂げ、会戦指揮や戦争指導が戦争本来の目的に合する武力本来価値の発揮傾向に徹底する時、人類争闘力の最大限を発揮する時であって、これが世界統一の時期となり、永久平和の第一歩となる事と信ぜられる。\n\n第三節 西洋戦史に依る所以\n この研究は主として西洋近世戦史に依る。\n 第二篇に於て述べたように私の軍事学の研究範囲は極めて狭く、フリードリヒ大王、ナポレオンを大観しただけと云うべく、それもやっと素材の整理をした程度である。東洋の戦史については真に一般日本人の常識程度を越えていないために、この研究は主として西洋の近世史を中心として進められたのである。誠に不完全な方法であるが、しかし戦争はどうも西洋が本場らしく、私が誠に貧弱なる西洋戦史を基礎として推論する事にも若干言い分があると信ずる。\n 今日文明の王座は西洋人が占めており、世界歴史はすなわち西洋史のように信ぜられている。しかしこれは余りにも一方に偏した観察である。西洋文明は物質中心の文明で、この点に於て最近数世紀の間西洋文明が世界を風靡しつつあるは現実であるが、私どもは人類の綜合的文明はこれから大成せらるべくその中心は必ずしも西洋文明でないと確信する。\n 東洋文明は天意を尊重し、これに恭従である事をもって根本とする。すなわち道が文明の中心である。\n 西洋人も勿論道を尊んでおり、道は全人類の共通のものであり、古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざるものである。しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来たしたのであって、人類より深く感謝せらるべきである。しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、道徳は天地の大道に従わん事よりもその社会統制の手段として考えられるようになって来たのでないであろうか。彼らの社会道徳には我らの学ぶべき事が甚だ多い。しかし結局は功利的道徳であり、真に人類文明の中心たらしむるに足るものとは考えられぬ。\n 東洋が王道文明を理想として来たのに自然の環境は西洋をして覇道文明を進歩せしめたのである。覇道文明すなわち力の文明は今日誠に人目を驚かすものがあるが、次に来たるべき人類文明の綜合的大成の時には断じてその中心たらしむべきものではない。\n 戦争についてもその最も重大なる事すなわち「戦」の人生に於ける地位に関して王道文明の示すところは、私の知っている範囲では次のようなものである。\n\n1 三種神器に於ける剣。\n 国体を擁護し皇運を扶翼し奉る力、日本の武である。\n2 「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊を持すべし。」\n 「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし。」(涅槃経)\n3 「兵法剣形の大事もこの妙法より出たり。」(日蓮聖人)\n\n このような考え方は西洋にあるか無いかは知らないが、よしんばあっても今日の彼らの文明に対しては恐らく無力であろう。戦争の本義はどこまでも王道文明の指南に俟つべきである。しかし戦争の実行は主として力の問題であり、覇道文明の発達せる西洋が本場となったのは当然である。\n 近時の日本人は全力を傾注して西洋文明を学び取り摂取し、既にその能力を示した。しかし反面西洋覇道文明の影響甚だしく、今日の日本知識人は西洋人以上に功利主義に趨り、日本固有の道徳を放棄し、しかも西洋の社会道徳の体得すらも無く道徳的に最も危険なる状態にあるのではないか。世界各国、特に兄弟たるべき東亜の諸民族からも蛇蝎の如く嫌われておるのは必ずしも彼らの誤解のためのみでは無い。これは日本民族の大反省を要すべき問題であり、東亜大同を目標とすべき昭和維新のためよろしくこの混乱を整理して新しき道徳の確立が最も肝要である。\n しかしこれ程に西洋化した日本人も真底の本性を換える事は出来ない。外交について見れば最もよく示している。覇道文明に徹底せるソ連の外交は正確なる数学的外交である事は極めて明らかであるのに、日本人の一部は日本が南洋進出のため今日の如き対ソ国防不完全のままソ連と握手しようと主張している。誠に滑稽であるが、しかもこれは日本人の本質はお人好しである事を示しているのである。\n 日英同盟廃棄数年後になっても日本人は英国が日英同盟の好誼を忘れた事を批難し、つい最近まで第一次欧州大戦に於ける日本の協力を思い出させようとしているのに対し、あるドイツ人が「日本は離婚した女に未練を持っている有様だ」と冷笑した事があった。これらも日本人は根本に於ては、外交に於ても道義を守るべしとの考えが西洋人に比して遥かに強い事を示している一例とも考えられる。\n 日本の戦争は主として国内の戦争であり、かつまた民族性が大きな力をなして戦の内に和歌のやりとりとなったり、或いは那須与一の扇の的となったりして、戦やらスポーツやら見境いがつかなくなる事さえあった。"
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"role": "assistant",
"content": " 東亜大陸に於ても民族意識は到底西洋に於ける如く明瞭でなかった。もちろん漢民族は自ら中華をもって誇っておったものの、今日東亜の大陸に歴史上何民族か判明しない種族の多いのを見ても民族間の対立感情が到底西洋の如くでなかったことを示している。かく東洋は王道文明発育の素地が西洋に比し遥かに優れている。\n これに加うるに東洋に於ては強大民族の常時的対立が無く、かつ土地広大のため戦争の深刻さを緩和する事が出来た。欧州では強大民族が常に対立して相争いかつ地域も東亜の如く広くなく、戦争術の発展が時代文明との関連を表わすに自然に良い有様であった。\n 覇道文明のため戦争の本場であり、かつ優れたる選手が常時相対峙しており、戦場も手頃である関係上戦争の発達は西洋に於てより系統的に現われたのである。すなわち私の研究が西洋に偏していても「戦争」の問題である限り決して不当でないと信ずる。\n私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、一般文明が西洋中心であると云うのではない。\n\n第二章 戦争指導要領の変化\n\n第一節 戦争の二種類\n 国家の対立ある間戦争は絶えない。\n 国家の間は相協力を図るとともに不断に相争っている。その争いに国家の有するあらゆる力を用うるは当然である。平時の争いに於ても武力は隠然たる最も有力なる力である。外交は武力を背景として行なわれる。\n この国家間の争いの徹底が戦争である。戦争の特異さは武力をも直接に使用する事である。すなわち戦争を定義したならば「戦争とは武力をも直接使用する国家間の闘争」というべきである。\n 武力が戦争で最も重要な地位を占むる事は自然であり、武力で端的に勝敗を決するのが戦争の理想的状態である。しかし戦争となっても両国の闘争には武力以外の手段も遺憾なく使用せられる。故に戦争遂行の手段として武力および武力以外のものの二つに大別出来る。\n この戦争の手段としての武力価値の大小に依り戦争の性質が二つの傾向に分かれる。\n 武力の価値が大でありこれが絶対的である場合は戦争は活発猛烈であり、男性的、陽性であり、通常短期戦争となる。これを決戦戦争と名づける。\n 武力の価値が他の手段に対し絶対的地位を失い、逐次低下するに従い戦争は活気を失い、女性的、陰性となり、通常長期戦争となる。これを持久戦争と命名する。\n\n第二節 両戦争と政戦略の関係\n 戦争本来の真面目は武力をもって敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある。決戦戦争にあっては武力第一で外交内政等は第二義的価値を有するにすぎないけれども、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い外交、内政はその価値を高める。ナポレオンの「戦争は一に金、二にも金、三にも金」といった言葉はますますその意義を深くするのである。即ち決戦戦争では戦略は常に政略を超越するのであるが、持久戦争にあっては逐次政略の地位を高め、遂に政略が作戦を指導するまでにも至るのである。\n 戦争の目的は当然国策に依って決定せらるるのである。この意味に於てクラウゼウィッツのいわゆる「戦争は他の手段をもってする政治の継続に外ならぬ」、しかし戦争の目的達成のため政治、統帥の関係は一にその戦争の性質に依るものである。\n 政治と統帥は通常利害相反する場合が多い。その協調即ち戦争指導の適否が戦争の運命に絶大なる関係を有する。国家の主権者が将帥であり政戦略を完全に一身に抱いているのが理想である。軍事の専門化に伴い近世はかくの如き状態が至難となり、フリードリヒ大王、ナポレオン以来はほとんどこれを見る事が出来なかった。最近に於てはケマル・パシャとか蒋介石、フランコ将軍等は大体それであり、また第二次欧州大戦に於てはヒットラーがそれであるが如くドイツ側から放送されているが、それは将来戦史的に充分検討を要する。\n 政戦両略を一人格に於て占めていない場合は統帥権の問題が起って来る。\n 民主主義国家に於てはもちろん統帥は常に政治の支配下にある。決して最善の方式ではないが止むを得ない。ローマ共和国時代は、戦争の場合独裁者を臨時任命してこの不利を補わんとした事はなかなか興味ある事である。\n ドイツ、ロシヤ等の君主国に於ては政府の外に統帥府を設け、いわゆる統帥権の独立となっていた時が多かった。\n この二つの方式は各々利害があるが大体に於て決戦戦争に於ては統帥権の独立が有利であり、持久戦争に於てはその不利が多く現われる。これは統帥が戦争の手段の内に於て占むる地位の関係より生ずる自然の結果である。\n これを第一次欧州大戦に見るに、戦争初期決戦戦争的色彩の盛んであった時期には、統帥権の独立していたドイツは連合国に比し誠に鮮やかな戦争指導が行なわれ、あのまま戦争の決が着いたならば統帥権独立は最上の方式と称せられたであろうが、持久戦争に陥った後は統帥と政治の関係常に円満を欠き(カイゼルは政治は支配していたけれども統帥は制御する事が出来なかった)。これに反し、クレマンソー、ロイド・ジョージに依り支配せられその信任の下にフォッシュが統帥を専任せしめられた大戦末期の連合国側の方式が遂に勝を得、かくて大戦後ドイツ軍事界に於ても統帥権の独立を否定する論者が次第に勢いを得たのである。\n ドイツの統帥権の独立はこの事情を最もよく示している。\n フリードリヒ大王以後統帥事項は当時に於ける参謀総長に当る者より直接侍従武官を経て上奏していたのであるが、軍務二途に出づる弊害を除去するため陸軍大臣が総ての軍事を統一する事となっていた。大モルトケが参謀総長就任の時(一八五七年心得、一八五八年総長)はなお陸軍大臣の隷下に在って勢力極めて微々たるものであった。一八五九年の事件に依って信用を高めたのであったけれども、一八六四年デンマーク戦争には未だなかなかその意見が行なわれず、軍に対する命令は直接大臣より送付せられ、時としてモルトケは数日何らの通報を受けない事すらあったが、戦況困難となりモルトケが遂に出征軍の参謀長に栄転し、よく錯綜せる軍事、外交の問題を処理して大功を立てたのでその名望は高まった。国王の信任はますます加わり、一八六六年普墺戦争勃発するや六月二日「参謀総長は爾後諸命令を直接軍司令官に与え陸軍大臣には唯これを通報すべき」旨が国王より命令せられ、ここに参謀総長は軍令につき初めて陸軍大臣の束縛を離れたのである。しかも陸軍大臣ローン及びビスマークはこれに心よからず、普墺戦争中はもちろん一八七〇―七一年の普仏戦争中もビスマーク、モルトケ間は不和を生じ、ウィルヘルム一世の力に依り辛うじて協調を保っていたのである。\n しかしモルトケ作戦の大成功と決戦戦争に依る武力価値の絶対性向上は遂に統帥権の独立を完成したのであった。それでもこれが成文化されたのは普仏戦争後十年余を経た一八八三年五月二十四日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。\n その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、統帥権の独立は確固不抜のものとなった。しかもその根底をなすものは、当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。第一次欧州大戦勃発当時の如きは外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、また当時カイゼルは作戦計画を無視し(一九一三年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるがその年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。\n 持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、ついに両者の協調を見る事が出来なかった。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「だめです、今は」\n「なぜ、貴様は、ツベコベ拒むか」\n「でも、ただ今は、御本丸へ、秀吉様がお越しになって、紀伊どのも、三左どのも、御前でお話し中だといってるではありませんか」\n「だから、筑前どのの帰らぬうちに、三左に、云っておきたいのだ。......よし、そちが取次がんなら、おれが行く」\n 長可は、起きかけた。\n 満身を、繃帯している。頭も顔も、片腕も、白い布で、巻いているので、さしも鬼といわれた彼も、ままにならない。\n それが、鬼武蔵長可には、じれったいのである。\n しかも彼は、後月の十八日、功に逸って、小牧山の敵の堅塁へいどみかかり、惨憺たる敗北をうけている。――部下八百余を失ったあげく、かれ自身も、重傷をおい、からくも、味方の戸板にひろわれて、逃げ帰って来たほどなクロ星をとった。自己のみならず、舅の勝入の武名にまで、それは、ただでは拭うことのできない、不名誉を、ぬりつけてしまった。\n“鬼武蔵、死せり”\n と、敵は、凱歌をあげ、味方のうちでも、信じている者がある。――と聞くにつけ、\n(このまま死んでたまるか)\n と、長可は、日夜、無念のまなじりをあげ、傷の痛みよりは、心のいたみに、五体を炎にしているのだった。\n「だめですよ、兄上は」\n 仙千代は、兄の気もちに、泣きながら、背を抱きかかえて、怒ってみせた。\n「御用がすめば、三左どのを、およびして来ますから、それまで、待って下さいというのに、どうして兄上は、そんなに......」\n「筑前どのが、お帰りのあとでは、間にあわんから、急いておるのだ。それを貴様は」\n「じゃあ、紀伊どのまで、お願いして来ますから、お動きになってはいけませんよ」\n 兄を、そっと、もとの枕へ寝かせて、仙千代は、立って行った。\n ほどなく、三左が来た。\n 顔を見るとすぐ、長可は、\n「どうだ。舅どのは、あのことを、羽柴どのへ、献策したか」\n「いま、人を遠ざけて。おふたりで、密談中だが」\n「ではまだ、羽柴どのが、献策を容れるか、どうかは、分らないな」\n「ム。わからぬ」\n「もし、容れぬようだったら、すぐ、知らせてくれ。......わしは、筑前どのの足もとへしがみついても、お頼みする気だ。いいか三左」\n 一方――\n 以前の広間のほうでは、まだ人払いのまま、秀吉と勝入だけが、黙然と、対坐していた。\n いま。\n 次部屋の境から、子息の紀伊守が、ちょっとお顔......と父をよんで、何かささやいたが、聞き終ると勝入は、またすぐ、秀吉の前にもどっていた。そして、\n「岡崎へ“中入り”のこと、やれと、この場にて、御命令ねがわれぬものでおざろうか。――病床の長可までが、御諾否のほど、心配いたして、ただ今も、紀伊を通じて、伺いに来ておるような熱心さ。何とぞ、御決断を」\n と、さっきからの献策を、くり返して、やまないのであった。\n 勝入の戦略は、たしかに、奇想天外である。要心ぶかいことでは、石橋を叩いて渡る主義の家康も、まさかと気づかずにいる間隙にはちがいない。\n しかし秀吉の考えは、おのずからちがう。\n 秀吉の生来としては、奇略だの奇襲だのという手は、あまり好まないのだ。かれは戦術よりも外交、小局の快勝よりも、大局の制覇を――手のろくても、望んでいる。\n「ま。急くな」\n 秀吉は、気をほぐした。\n「明日までに、肚をきめておく。――明朝、楽田の本陣まで来い。否やを聞かすであろう」\n「では、明朝また」\n「むむ。もどるぞ」\n と、秀吉は、立った。\n「御帰陣」\n と、紀伊守が、諸〻の溜り溜りへ触れる。\n 近習たちは、大廊下に待って、秀吉の供についた。\n そして、本丸の出口までかかると、駒つなぎのわきに、一名の異様なる姿の武者が、下坐していた。\n 頭も、片腕も、繃帯で巻き、具足の上の陣羽織も、白地きんらんといういでたち。\n「や? そちは」\n 秀吉の向ける眼に、その重傷者は、顔の半分まで、白布で巻いた面をあげて、\n「勝入の聟、森長可めにござります。かような、醜いすがたを、お目にさらし、お不快を加えることとはぞんじまするが」\n「オオ、武蔵守か。――臥せっておると聞いたが、負傷は、どうじゃ」\n「きょうから、起き出ることに、きめました」\n「無茶をするなよ。体さえなおせば、いつでも、汚名はとりかえせる」\n 汚名――といわれたので、多感多血な長可は、ぽろりと、涙をこぼした。\n 陣羽織の襟うらから、かれは一書をとり出して、うやうやしく秀吉の手へ渡し、また平伏して云った。\n「御帰陣の後、御一読を得ますれば、ありがたい倖せにぞんじまする」\n 心根を、不愍と察したか、秀吉は、うなずいて、\n「よしよし、読んでやる。――くれぐれも、大事にいたせよ」\n いいすてて、城門を出た。\n\n陣中の一花\n\n 青鷺組の三蔵は、犬山から四里ほどの地、大留の城主、森川権右衛門のところへ、池田勝入の密書をもって、使いに行っていた。\n 青鷺組というのは、池田家の秘密隊――つまり隠密組の異名である。\n 三蔵は、犬山攻めの前にも、一役たてて、その賞として、池田勢の犬山入りと同時に、金ももらい、お暇ももらい、かれの夢が、実行できるつもりだったが、\n(戦は、これからだ)\n との理由で、褒美の金は、ふんだんに拝領したが、軍を抜けることは、ゆるされなかった。\n 三蔵の“夢”というのは。\n 於通と、都へ行って、暮らすことである。\n この、のら息子の母親というのは、小野政秀の旧臣の後家で、於通にとっても、育ての親――乳母のお沢なのである。\n 於通は、のら息子の三蔵を利用し――三蔵は於通をかどわかすつもりで――この二人が家出したのを、お沢は、あの小野の里のあばら屋で、後で、どんなに悲しんだことだろうか。\n とまれ、若い者の夢は、よくも悪くも、いまのような草深い田舎にすみ、戦争にはのべつおびやかされ、貧しい衣食に耐えてはいられないのが、ふつうだった。\n けれど、於通の夢と、三蔵の夢とでは、月とすっぽんほどちがう。\n 同舟異夢の家出だった。\n けれど三蔵は、色と慾のふた道を、盲目にあるいた。於通を、かねて約束の場所に待たせ、池田家から褒美の金と、お暇をもらったら、すぐ戻って、予定どおり、かの女と、手に手をとって、京都へ道行きするばかり――と、ひとり有頂天になっていたのだ。\n ところが、その虫のよい考えは、この大戦の直前に、まかりならぬとされたのである。\n 一時は、脱走しようかとおもったが、つかまれば、当然――首。\n 伊勢路、美濃路、いずこといえど、この大戦場の十里四方、柵門のないところはない。\n(於通は、どうしたやら)\n それのみ、思いながら、命も欲しさに、軍にとどまっているうちに――数日前、また、勝入父子によび出され、\n(この密書をもって、徳川家の森川権右衛門の城まで行って来い。返事は、わらじの緒の中へないこんで戻るがいい。もし徳川勢の者に捕まった場合とて、死しても敵に見つけられまいぞ)\n と、いいつけられた。\n 三蔵は、いまその大役を果たして来て、犬山城へ、帰って来たところだった。\n ちょうど、秀吉の帰るところで、城門の前は、兵馬で、混みあっていた。三蔵は、道ばたに、土下座して、通過を待っていた。\n 先駆――旗本――近習のなかに、秀吉の馬が通った。\n 三蔵は、あッと、驚いて、とび上がった。\n その中に、於通がいた。\n しかしすぐ、人ちがいか、とも疑った。似てはいたが、華やかな具足に陣羽織を着、白い馬にのって、秀吉のすぐあとから行ったものを――。\n 秀吉は、その日の、戦場視察を終って、夕方、楽田の本陣へ帰った。\n 楽田村のかれの本陣は、敵の小牧山のような高地ではない。"
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"role": "assistant",
"content": " しかし、附近の森、耕地、小川までを、完全に利用して、方二里余にわたる塹壕や柵のうちに、布陣は、鉄壁のまもりを誇っている。\n そして村社の鳥居から内の、ひろい境内と本殿とが、かれのいる所のように、偽装されていたが、敵の夜襲にそなえて、秀吉の身は、神社のうちにはいなかった。――そこの林より東の方に離れている一群の仮屋に起居していたのである。\n もっとも、敵の家康のほうから見た場合は、秀吉が、犬山にいるか、楽田にいるかも、疑問だった。――それほど、互いの陣形は、水ももらさぬ一線をへだてて、相互の偵察を、困難にしていた。\n「おれの湯好きが、大坂を立って以来、何度も風呂に入っていないぞ。きょうはひとつ、汗をながしたいものだ」\n 秀吉のために、仮屋の雑兵たちは、ただちに野戦風呂をわかした。\n 地上に穴を掘り、大きな油紙を、穴いっぱいに敷くのである。それに、水をたたえ、古金の焼いたのを、投げこむと、いいあんばいに沸いてくる。\n 流し場には、板をならべ、まわりにはまん幕を張ってしまう。\n「ああ、よい湯だ......」\n この簡素な野天風呂に、あまり立派でない肉体の持ち主は、肩まで、湯にひたして、飽かず、夕空の星を仰いでいた。\n「......天下の奢りだ」\n かれは、からだの垢をこすったり、ヘソの下を、かろくたたいたりしながら、真実、そう思った。\n 去年から、浪華の地をきりひらいて、大坂築城の大工事にかからせ、その規模、その結構の雄大なること、前古にないと、天下の耳目をおどろかせているものの、かれ自身の、人間的な愉楽は、そこの金殿玉楼よりも、案外、こんなところにあった。\n 小さい頃、叱られ叱られ、母に背なかを洗ってもらった尾張中村の故郷の家が、ふと、なつかしくなるのであろう。\n「おい。たれかおるか」\n 幕の外へ、声をかけると、湯浴みの間も、槍をならべて、外を守っている武者のひとりが、答えて、顔だけ中へ見せた。\n「何ぞ、御用ですか」\n「うム、いくらこすっても、垢が出るぞい。於通をよべ、於通を。――背なかを洗わすのじゃ」\n 小姓のする役であろうが、特に秀吉がいうので、於通は、やがて呼ばれて来た。\n「おお、於通か。背なかを流してくれい、こっちへ、はいって」\n いくらかの女がまだ何も知らない乙女でも、四十九歳の秀吉は、男ざかりの男である。――いいつけても、或いは、羞じらいして、ためらうかと思っていると、於通は、\n「はい」\n と、すぐ赤裸の秀吉のうしろへ廻って、かれの背をごしごしこすり始めた。秀吉は、体をまかせて、背といわず、腕といわず、足のさきまで洗わせた。\n 風呂を出る。体を拭かせる。腹巻、よろい下着、具足などを、すっかり着けおわるまで、於通は、女らしく、かしずいた。\n 殺伐な陣中のせいか、女武者の白い手は、よけいに美しく見えた。秀吉は、久しぶり、心までほぐれて、柔らかになった五体を、仮屋のうちへ運んだ。\n「やあ。もう揃うていたか」\n 座には、その夕、召しをうけた諸将が、居並んで、待っていた。\n 浅野長吉、杉原家次、黒田官兵衛、細川忠興、高山右近長房、蒲生氏郷、筒井順慶、羽柴秀長、堀尾茂助吉晴、蜂須賀小六家政、稲葉入道一鉄――など。\n それぞれ、一陣の首将である。\n「おう、お湯浴みで......」\n 諸将は、秀吉のてらてらした顔をながめて、まず、大きな安心をもった。\n だが、かれに従いて、小姓の端に坐った於通を見ると、具足こそ着けているが、女と、すぐわかった。そして、\n(これは少々、閑日月がありすぎる)\n とも思うのだった。\n「みな、飯はやって来たか」\n と、秀吉。\n「兵糧をしたためて伺いました」\n と、返辞は、一致する。\n「つかれたろう。長陣で」\n「いや、殿こそ」\n「なんの、大坂表にいるほうが、よほど忙しい。野天風呂にはいって、こうしておると、まるで保養じゃよ」\n 笑って。――無造作に、\n「これを見い」\n と、陣羽織の襟うらから抓み出した一通と、一面の地図とを、諸将のあいだへ、投げ出して、順に見せた。\n 書面は、病中の森武蔵守長可が、犬山の帰りがけに、直接、秀吉へさし出した血書の嘆願書。\n 地図は、池田勝入が、秘計を説いて献策した――例の、岡崎表を奇襲せんとする“中入り”の山道図なのである。\n「どうであろ? 勝入と武蔵守の望み出た作戦は。......忌憚なく、みなの意見も、ききたいのだ」\n しばらく、たれも無言。さあ? ......と考え沈む顔ばかりである。\n「妙計とぞんじます」\n 是となす者、半分。\n「奇略は、奇功を恃むもの。運を賭けるもの。――まだ一戦も交えぬうちに、お味方八万余の運命を、一挙に、賭けるのは、いかがかと思われる」\n 非となす者も、また半数。\n 議論は、もめた。\n 秀吉は、その間、にやにや聞いているだけだった。余りに、問題が大きいので、衆議はまとまらず、ただ、\n「御明断に、よるほかはございませぬ」\n として、諸将は、夜に入って、各、持ち場持ち場の、陣地へ帰った。\n「於通、木枕をかせ」\n 陣中の眠りには、彼も、具足を解かない。ごろりと、随時に、仮寝をとる。\n 小姓たちは、もちろん、武器を抱いて、交互に、寝ずの番に就いていた。於通は、備えつけの硯箱を寄せ、次の室で、何やら筆を走らせていた。\n 勝入の献策を、容れるか、容れないか。\n 秀吉の肚としては、実は、犬山から帰る途中で、すでに、きまっていたのである。\n 森長可の血書の献言書も、諸将に示すまえに、秀吉は帰り途の馬上でそれを読んでいた。\n いいかえれば。\n 肚をきめかねて、諸将をよんだわけでなく、肚をきめたので、諸将をまねき、\n(どうだろう?)\n と、一応、協議にかけてみたのである。そこにも、かれの肚芸があり、諸将は、\n(まず、行われまい)\n と、見て帰ったのだった。\n だが、秀吉の意中は、すでに決行を断じていた。\n もし、勝入父子の策を容れてやらないと、かれらの立場は、武門上、非常にまずいものになる。\n また、あれほど、思いこんでいる勝入父子の意気地は、ここで抑えても、ほかの場合で、何かの形をとって、あらわれるにちがいない。\n それは、統軍上の、大きな危険だ。――いや、それ以上にも、秀吉がおそれたのは、勝入父子に、不平をいだかせておくと、老獪な家康が、かならず手をまわして、寝返りの誘惑を、かれら父子に伸ばしてくるにちがいないと、思われることだった。\n さなきだに、勝入父子は、もともと、北畠信雄とは、乳兄弟であり、その信雄は、家康が、小牧の陣営に奉じて、\n(自分は、戦は好まぬが、故右大臣家(信長)の遺子たるこの御方のため、義に依って、戦うのである)\n と、徳川方のたたかいを、義戦であり、正義戦であり、私慾の軍でないことを、天下に称えさせている、唯一の、生き証人となって、この戦場に、臨んでいるのだ。\n もし、その信雄なり、家康なりから、この戦争名分をおもてに、利益を裏に、そっと、犬山へ誘惑の密使でもはいった場合――勝入父子に、不満、不平があるとすれば――彼とて、いつ寝返らないとも限らない。\n(若いときから、情に激しやすく、こうと思いこむと、やまれぬ男だ)\n 秀吉は、寝入りばなにも、そんな回想を、めぐらしていた。\n 人いちばい、寝つきのいい秀吉だが、その夜は、木枕につむりを当てても、なかなか寝入られなかった。\n 若年時代、清洲の城下で、勝三郎(勝入)や犬千代(前田)などと、飲み廻っては、夜遊びに更かした頃などをおもい出して――\n(当年の池田勝三郎が、いまでは自分の麾下につき、しかも、不名誉な取沙汰に、とり巻かれている気もちを察しれば......かれの焦りも、むりではない)\n こうも、考えられ、同時に、現在の状況は、まったく、千日手の対局になっているので、なんらかの変化を誘う積極的な一手は、どうしても、今や、打たねばならぬときに来ている。\n「そうだ、明朝、勝入がこれへ来るのを待つまでもなく、夜のうちに、黄母衣(使者)の者をやっておこう」\n 秀吉は、むっくり起きて、寝ずの番へ、料紙と硯をもって来い――と、どなった。\n 小姓たちが、硯箱をさがしている間に、於通は、秀吉のまえに、料紙をそろえて、\n「おことわりなく、お硯を拝借しておりました。おゆるし下さいませ」\n と、詫びながら、さし置いた。\n「そもじも、まだ寝ずにいたか」\n「はい」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": "「御主人からお便りはありませんか」\n 石子は打萎れた細君に幾分同情しながら聞いた。\n「はい、少しもございません」\n「御心配でしょう。然し私の方でも困っているのですよ。別に大した事ではないのですから、素直に御出頭下さると好いんですが、こう云う態度をお取りになると大変ご損ですよ」\n「はい、お上に御手数をかけまして申訳けございません」\n「何とか一日も早く出頭されるようにお奨め下さる訳に行きませんでしょうか」\n「はい、居ります所さえ分りますれば、仰せまでもございません。早速出頭致させるのでございますが、何分どこに居ります事やら少しも分りませんので、致方ございません」\n 彼女は澱みなく答えた。\n「ご尤もです」\n 女ながらも相当教養もあり、日曜学校の教師をしている位だし、夫の為云うまいと決心すれば、生優しい問い方では口を開く女ではないと見極めをつけた石子は、話題を別の目的の方へ転じた。\n「二、三年前とか、こちらの女中をしていた者が行方不明になった事があるそうですね」\n「はい」\n 細君は狼狽したように答えた。\n「その後行方は分りませんか」\n「はい、分りませんようです」\n「こちらで病気になったのだそうですね」\n「はい」\n 彼女は初めて少し顔を上げて、探るような眼付で石子を仰ぎ見た。眉の美しい女だな、石子はふとそんな事を思った。\n「病気は何でしたか」\n「はい」\n 彼女は再び首を垂れてじっとしていた。\n「花柳病だとか云う話を聞きましたが」\n 刑事は畳かけるように云った。\n「はい、あの」\n 彼女は哀願するように石子を見上げながら、\n「お聞き及びでもございましょうが、申さば夫の恥になる事でございますが、夫がつい悪戯を致しまして――」\n 彼女の声はそのまゝ消えて行った。\n「叔父とかゞ喧ましい事を云ったそうですね」\n「はい」\n 彼女は観念したように、\n「父と申すのは中学校の先生で誠に穏かな人でございますが、兄弟ながら叔父と云う人は随分訳の分らない人でございました」\n「その女中と云うのはどんな風でした」\n「大人しい子で、器量もよく、それに仲々よく働きまして重宝な子でございました。病気になりまして知合の家に下げられ、そこから病院に通う事になりましても、別に私共を恨んでいる様子もありませんでした。親が裕福でありませんので、外出着にはいつも年の割に地味な黒襦子の帯を締めて、牡丹の模様のメリンスの羽織を着て居りました。行方が知れずなりました日も、やはりその身装で病院へ行くと云って、いつものように元気よく出て行ったのだそうでございますが、その姿が眼に見えるようでございます」\n 彼女はそう云いながらそっと眼を拭った。\n\n\n 追跡\n\n 石子刑事が四、五日間支倉の前身を洗う為に奔走している間、根岸刑事の采配で渡辺始め多くの刑事が、支倉の所在を追跡して廻った。高飛をした形跡は更にないのであるが、刑事達の苦心は少しも報いられないで、杳として何の手懸りも掴むことが出来なかった。石子刑事へ当てた彼の嘲弄の手紙は相変らず毎日のように書留速達で署へ飛込んで来た。神楽坂署では署長始め署員一同がジリ〳〵していたのだった。\n「ちょっ、この上はあの怪しい写真屋に泥を吐かせる外はない。何か旨い工夫はないかなあ」\n 老練な根岸刑事もあぐね果てこんな事を考えながら腕を組んだ。\n 朧げながら支倉の旧悪を調べ上げた石子刑事は久々で署へ出勤した。刑事部屋には窓越しに快い朝日が差していた。\n「ふん」\n 逐一話を聞いた根岸刑事はじっと考えながら、\n「古い事だし放火の方は本人に口を開かせるよりほかはないね。女中の方は成程疑わしいには疑わしいが、何にしても死骸が出なくては手がつけられない。ひょっとすると生ているかも知れないからね」\n「然しね、根岸君」\n 石子は云った。\n「三度移転して三度ながら火事に遭っているとは可笑しいじゃないか」\n「うん、確に可笑しい。三度ともと云うのは偶然過ぎるからね。所がね石子君、困る事はそう云う偶然が絶対にないと云うことが出来ない事だ。何でも一度は疑って見る、之が所謂刑事眼で、又刑事たるものは当然、然あるべきなんだが、之が刑事が世間から爪弾きされる一つの原因になっているんだから困るよ。職業は神聖である。刑事も一つの職業である。刑事たるものは絶えず人を疑わねばならない、だから人を疑うのは刑事としては神聖な訳じゃないか。ハヽヽヽ」\n「君の云う通りだ。ハヽヽヽ。然しね君、支倉のような遣方では刑事ならずとも疑わざるを得んじゃないか」\n「全くだ」\n 根岸はうなずいた。\n「そこで一つその三度の火事についても一つ疑って見ようじゃないか」\n 根岸は腕を組んで考え込んだが暫くすると元気よく云った。\n「神田に居た時の火事には誰か支倉の隣の人を犯人だと云って密告したと云うじゃないか」\n「そうだ」\n「犯人は往々無辜の人を犯人だと云って指摘するものだよ。それがね時に嫌疑を避けるのに非常に有効なんだ。こんな他愛もない方法で、仲々胡魔化されるんだよ」\n「じゃ、密告した奴が怪しいと云う訳だね」\n「所でね。犯人と目指されている男を弁護する奴に往々真犯人があるのだ」\n「と云うと」\n 石子刑事は鳥渡分らなかった。\n「支倉はその密告された隣の男を貰い下げに行ったと云うじゃないか」\n「うん」\n「好いかね。保険金詐取の目的で自宅へ放火する。そして隣人を密告する。密告して置いて素知らぬ顔で、そんな事をする人ではありませんと云って貰い下げに行く。どうだい、嫌疑を避けるには巧妙な方法じゃないか」\n「成程、では支倉が――」\n 石子が云い続けようとすると、一人の刑事が顔色を変えて飛び込んで来た。\n「今支倉の隣家から電話で、支倉の家から荷物を積み出したそうです」\n「何っ!」\n 根岸刑事は飛び上がった。\n\n 支倉の家から荷物を積み出したと云う隣家からの報告を聞いて、根岸刑事は勇躍した。\n「君、兎に角運送店の名前をしっかり見といて貰うように云って呉れ給え」\n 電話を聞いた刑事にそう云うと、根岸は石子の方を向いて云った。\n「石子君、荷物の追跡だ。第一に運送店を突留めるのだ」\n 分り切った事まで指図がましく云う根岸の言葉は決して愉快ではなかったが、今の石子刑事にはそんな事を考えている余裕がなかった。彼は折好く居合した渡辺刑事と一緒に足取も軽く、今度こそは逃さないぞと云う意気込で三光町に出かけた。\n 隣家について聞いて見ると、出した荷物は支那鞄に柳行李合せて四、五個らしく、手荷車で引出したのだが、さて運送店の事になると少しも手懸りがない。引出す所を目撃していたと云う女中にいろ〳〵聞いて見たが、半纏の印さえ覚えていないのだ。只提灯は確になかったと云うから、そう遠くへは運び出したとは思われぬ。\n「何か覚えていませんか。一寸した事でも好いんですが」\n 石子は一生懸命に聞いた。\n「何でも好いんです。何か目印になるようなものはありませんでしたか」\n 女中は泣出しそうな顔になってじっと考えて居たが、やがて細い声で切々に答えた。\n「半纏の背中が字でなくって赤い絵のようなものが描いてありました。背の低いずんぐり肥った人でした」\n「どっちの方から来てどっちへ行きましたか」\n「来たのは大崎の方からでした。行ったのはあっちです」\n 女中は市内の方を指し示した。\n「仕方がない、大崎方面の運送屋を片端から調べよう。未だ帰っていないかも知れないが」\n 石子は渡辺刑事の方を向いて云った。\n 二人は別れ〳〵に運送店を物色し始めた。\n 大崎駅附近を受持った石子刑事は、取り敢ず一軒の大きな運送店に這入った。\n「僕はこう云うものですがね」\n 石子は肩書つきの名刺を出しながら、\n「今日三光町の方へ車を出さなかったかね」\n せっせと荷造りをしながらわい〳〵騒いでいた人夫達はピタリと話を止めると、ジロ〳〵と石子を眺めた。\n「宅じゃありませんね」\n やがて中の一人がブッキラ棒に答えた。\n「この辺の運送店で背の低い、ずんぐり肥えた人のいる所はありませんか」\n「知りませんね」\n 対手は相変らず素気なく答えた。人夫達は荷造りの手を止めると、思い〳〵に腰を下して、外方を向きながら煙草を吸い出した。\n「分らないかね」\n 石子は落胆したように、"
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"content": "「困ったなあ、少し調べたい事があるんだがね。まあ一服さして貰おうか」\n 独言のように云いながら、彼は土間の一隅に腰を下した。人夫達は、敵意のある眼で彼を盗み見た。\n「少いけれどもね、之で一つお茶菓子でも買って呉れないか」\n 石子刑事は一円紙幣を出した。薄給の刑事で限られた軽少な手当から、之だけの金を出すのは辛かったが、彼等に親しく口を開かせるのには有効な方法で、彼は度々この方法で成功したのだった。\n 車座となって番茶の出がらしを啜りながら、石子の御馳走の餠菓子を撮んで雑談に耽っているうちに彼等はだん〳〵打解けて来た。\n\n「背の低い肥った運送人、どうも知りませんね。お前どうだい」\n 人夫の一人は云った。\n「この辺にはどうもそんなのは居ないようだね」\n 一人が考え〳〵答えた。\n 石子刑事の御馳走と世間馴れた話振に、すっかり打解けた運送店の人夫は知っているだけの事は残らず話し、背の低い運送人についても考えて呉れたが、結局誰も知らない事になって、石子刑事は何一つ得る所なくその運送店を出ねばならなかった。\n 石子刑事はそれから丹念に運送店を一軒々々訪ね歩いたが、正午近くまで何の効果もなかった。\n 目黒駅から五反田駅の方にかけて尋ね歩いていた渡辺刑事も正午頃まで無駄足をしていた。\n が、この度は運は渡辺刑事にあった。\n 彼が落胆しながら重い足を引摺って五反田の方から引返して来ると、或る狭苦しい横丁に、うっかりしていると見落すような一軒の小さい運送店があった。彼は薄暗い店前を覗いた。\n「お宅じゃなかったですかね、背の低いがっしりした若い者のいたのは」\n 奥から主人らしい男が仏頂面をして出て来て、胡散臭そうに渡辺刑事を見た。\n「兼吉の事ですか」\n「そう〳〵、兼吉さんでしたね」\n「何かご用なんですか」\n「実はね」\n 渡辺刑事は声を潜めた。\n「支倉さんから頼まれて来たんですが」\n「あゝそうですか」\n 主人は急に愛想よくなった。\n「先程は沢山頂戴いたしまして有難うございました」\n「荷物は間違いなくついたでしょうね」\n しめたと心中雀躍しながら渡辺はさあらぬ体で云った。\n「えゝ、確かにお納めいたしました」\n「もう兼吉さんは帰っているんですか」\n「えゝ、何か御用でしょうか」\n「えゝ、ちょっと」\n「おい、兼吉」\n 主人は奥を覗いて呼んだ。\n 出て来たのは背の低い頑丈そうな男で、半纏の背中に真赤な胡蝶の形が染め出されていた。\n「何かご用ですか」\n「支倉の荷物はどこへ運んだか云って貰いたいのだ。僕はこう云う者だ」\n 忽ち態度を変えて渡辺は名刺を差出しながら、威嚇するように兼吉と云う若者を睨みつけた。\n 若者は、チラと渡辺のさし出した名刺を見ると、不機嫌な顔をして、口をへの字に結んで横を向いた。\n「おい」\n 対手の態度に少し狼狽した渡辺刑事は再び呶鳴った。\n「早く云わないか」\n「そんなに頭ごなしに云わなくっても好いじゃありませんか。悪い事をしたと云う訳じゃなし」\n 彼はぷん〳〵して答えた。\n もしや口止めでもされていると生優しい問方では云うまいと思って、高圧的に出て見たのだったが、対手にこう出られると渡辺刑事も返す言葉がない。\n「いや悪かった。つい癖が出てね」\n 渡辺刑事は苦笑しながら、\n「まあ、気を悪くしないで呉れ給え。すまないが荷物の送先を教えて呉れ給え」\n 若者の機嫌は少し治ったが、未だ容易に口を開こうとしなかった。\n「おい、兼吉、旦那もあゝ仰有るんだ。早く申上げたら好いじゃないか」\n 主人が口を添えた。\n「飯倉一丁目の高山と云う宅ですよ」\n 彼は漸く吐き出すように云った。\n\n 運送店を突留めてそこの若い者からどうやら荷物の届先を聞き出して渡辺刑事は、喜び勇んで支倉の家の附近に引返した。打合せてあった通り石子刑事は茫然待っていた。渡辺が成功した事を伝えると、彼は雀躍りして喜んだ。\n 二人は直ぐに帰署して司法主任に事の次第を報告した。\n「よし」\n 司法主任は上機嫌だった。\n「応援を五、六人連れて直ぐ逮捕して来給え」\n「さあ」\n 根岸刑事は落凹んだ眼をギロ〳〵させながら云った。\n「余り騒がん方が好いじゃないですかなあ。鳥は威かさない方が好いですからなあ」\n「そんな悠長な事が云ってられるものか」\n 司法主任は少し機嫌を損じた。\n「愚図々々していると又逃げて終うよ」\n「そうです」\n 石子は勢いよく云った。\n「運んだ荷物は中々少くないのですから、当分潜伏する積りと見て好いでしょう。大丈夫いますよ。一時も早く捕えたいものです」\n「うん、それも宜かろう」\n 根岸は皮肉な苦笑を浮かべながら、\n「然しね、君、自然に逃げた鳥は又巣に戻って来るが、威かした鳥はもう帰って来ないよ」\n「謎みたいな事を云うね」\n 石子は根岸の皮肉な笑に報いるべくニヤリとした。\n「謎じゃないさ。僕はどうもその高山と云う家へ踏込む事は賛成出来ないのだ」\n「どうして?」\n「支倉にしては手際が悪いからね」\n「何だって」\n 石子は聞咎めた。\n「そうすると詰り君は、支倉は僕達に潜伏場所を突留められる程ヘマではない。云い変えれば僕達には本当の潜伏場所などは突留められないと云うのだね」\n「そう曲解して貰っては困る」\n 根岸刑事は持前の調子で冷然と云った。\n「兎に角僕の考え通りやってみよう」\n「そうし給え」\n 横合から渡辺刑事が吐き出すように云った。彼はさっきから、自分が折角苦心して探し出した飯倉一丁目の家に、根岸刑事がケチをつけるような事を云うのでいら〳〵していたのだった。\n 根岸刑事はジロリと渡辺を見たが、何にも云わなかった。\n 石子、渡辺両刑事は五、六人の応援を得て、飯倉一丁目を目指して繰出した。\n 目的の家はT字路の一角に建った格子造りの二階家だった。裏口に二人、辻々の要所に一人宛同僚を立たせて、表口から石子、渡辺が這入る事に手筈を極めた。\n 日ざしの様子ではもう四時近いと思われた。寒は二、三日前に明けたけれども、朝から底冷えのするような寒さだった。日当りの悪い高山の家の前には、子供の悪戯であろう、溝石の上に溝から引上げて打ちつけた厚氷が二つ三つに砕けて散って居た。\n ふと上を仰ぐと二階の半面には鈍い西日がさして、屋根の庇に夏から置き忘られたのだろう、古びた風鈴が寒そうに吊下っていた。\n「ご免下さい」\n 石子は声をかけた。\n「はい」\n 奥から出て来たのは十五六の女中風の小娘だった。\n「芝の三光町から来ましたが、支倉の旦那に一寸お目にかゝりたいのです」\n「はい」\n 小娘はこっちの名も聞かずに引込んで行った。石子はしめたと思った。\n\n 返辞いかにと片唾を飲んでいる石子刑事の前へ現われたのは女中でなくて、四十近い品のある奥さん風の女だった。\n「あの、支倉さんのお使いですか」"
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"content": "\n 第八回\n\n はいお頼み申しやす。この家に、お園さんと仰しやるがお出での筈。私は深井の旦那から頼まれて、内証の御用に参つたもの。御取次下されませと。心得顔におとのふを。太田の下女が、うつかりと。はいはいさうでござんすか。あすこにお出でなされますると。お園が住居の裏口を、教ゆるままに、しめたりと、跡を、ぴつしやり、さし覗く。障子の影に、お園が一人、もの思ひやら、うつむいた、外には誰も居ぬ様子。ちやうどよかつた、はいこれは、お久し振りでと入来る。顔を見るより、ぎよつとして、逃げむとするを、どつこいと、走り上がつて、袂を捉え『これお園さん、どうしたもの。この吉蔵を、いつまでも、悪玉とのみ思ふて居るのか。先づ落着いて聞くがよい。生命に拘はる一条でも、この己れからは、聞かぬ気かと。嘘と思へぬ血色に。お園も、もしや奥様の、お身の上ではあるまいかと。心ならずも坐に就くに。さこそと吉蔵微笑みて『甘くやつたぜ、お園さん。とうとう正直正銘の、お妾さんと成済ました、お前に位が付いたやら。何だか遠慮な気がする』と。そこら一順見廻はして『かう見たところが、見越の松に、黒板塀は、外搆え。中はがらりと、明き屋の隅に、小さうなつて、屈んでゐるは、旦那に合はせて、お麁末千万。お前もあまり気が利かぬ。これで生命を亡くしたら、冥途でたんと、釣銭が取れ、鬼めに、纒頭が、はづまれよ』と。空嘯いて、冷笑ふ。顔を憎しと腹立ち声『何の御用か知りませぬが、用だけいふて貰ひましよ。お妾なぞと聞こえては、私の迷惑、旦那の外聞。ちとたしなんで下さんせ』と。いふに、ふふつと吹出して『その外聞なら、とうから、たんと、汚れてゐるのでおあいにく。この近所での噂は知らぬが、お邸の界隈では、専らの大評判。旦那の顔が汚れた代はり、お前は器量を上げてゐる。お園さんは腕者だと、行く先々の評判が、廻り廻つて、奥様の、耳へは、大きく聞こえてゐる。やれ孕んだの、辷つたと、どこから、噂が這入るやら。何でもそこらで、見たものが、あるとの手蔓を、手繰り寄せ。己れさへ知らぬ事までも、いつか知つての大腹立ち。己れは一度も供せぬと、いふても聞かぬ気の奥様。今日この頃では、全くの、気狂ひを見るやうに、そつちも、ぐるじやと、大不興。知らぬが定なら、これから行つて、どこなりと探し当て、お園をこれで殺してと。まあさ、そんなに、真青な顔をせぬがよい。何の己れがその様な、無暗な事をするものか。生命が二ツあつたら格別、一ツしかない身体では、そこまでは乗込まぬ。小使銭に困つた時、ちよつくら、御機嫌とつたのが、今で思へばこの身の仇。飛んだ事まで頼まれて、迷惑は己れ一人。否といふたら、自分の手で、探し出しても、殺してみせると、いはぬばかりの見幕を、知つてはお前が気遣はしさ。まづはいはいと請合つたも、お前の了簡聞いた上、二度と邸へ帰らぬつもり。まづその事は擱いて、奥様が頼んだ証拠これ見や』と。懐探つて取出すは、かねて見知りし、鹿子が懐刀。お園を威赫かす材料にと、鹿子を欺き、助三に、与へるものと偽つて、取出したるものぞとは、神ならぬ身の、お園は知らず。よもやと思へど、その事の、ないには限らぬ奥様の、気質はかねて知る上に。動かぬ証拠、もしひよつと。ても恐ろしの奥様と、身顫ひする顔。よいつけ目ぞと吉蔵が『何と違ひはなからふが。ところでお前はどうするつもり。さつぱり旦那と手を切らずば、ここで己れが見遁しても。どこぞで探し当てられて、執念深い奥様に、殺されるのは知れた事。それよりは、今の間に、逃げて助かる分別なら、及ばずながら、この己れが、引請けて世話しやう。憚りながら、かう見えても、仲間で兄いと立てられる、男一匹、何人前。梶棒とつては、気が利ねど、偶と半との、賽の目の、運が向いたら、一夜の隙に、お絹布着せて、奥様に、劣らぬ生活させてみる。えお園さん、どうしたもの。沈黙つてゐるは死にたいか。それとも己れに依頼つてみるか。了簡聞かふ』と詰掛くるに。さてはさうした下心。弱味を見せるところでないと。早速の思案、さりげなく『それはそれは、いつもながら、御深切は嬉しう受けておきまする。したが吉蔵さん、私がかうして、旦那のお世話になりますも、事情があつてといふではない。誓文奇麗な中なれど。かうしてここに居る限りは、疑はれても、詮方がない。この身に覚えのない事で、殺されるのは私の不運。覚悟は極めてゐまするほどに、いつなと殺して下さんせ。少しもお前は怨みませぬ。忠義を立てたが、よござんせう。よしない私をかばいだて、お前の身体を失策らせ、私は不義の名に墜ちる。それが何の互ひの利得。世には神様、仏様、それこそは、よう御存じ。どこぞで見ても下されやう。無理に死にともない代はり、生きたふも思ひませぬ。生命は、お前と奥様に、確かに預けておくほどに、御入用なら、いつなりと、受取りに来て下さんせ』と。動かぬ魂、坐つたまま、びくともせぬに、口あんぐり。どこまでしぶとい女子か知れぬ。さうと知りつつ、出て来たは、こつちの未練、馬鹿を見た。よしこの上は、そのつもりと、いふ顔色を顕はさず。わざと心を許さする、追従笑ひ、にやにやと『なるほどそれはよい覚悟、男の己も恥入つた。がお園さん、短気は損気といふ事を、お前も知つてゐやうから、ゆつくり思案するがよい。ここしばらくは、奥様に、在所が知れぬといふておく。確かに己れが預つて、滅多な事はささぬから、思案を仕替えて見るがよい。惚れた弱味は、いつの日に、頼みまするといはれても、その事ならば否とはいはぬ。殺す役目は真平御免。いつかのお前の台辞じやないが、外を尋ねて下さんせか。あい......、いやこれはお邪魔をした。いづれその内聞きに来る。色よい返事を頼んだ』と。始めの威勢に引替えて、手持不沙汰に帰りゆく。跡見送つて、張詰めし、心のゆるみ、当惑を、誰に語らむよしもない、疑ひ受けるも無理ならねど。それにしても、あんまりな。この間から旦那のお越を、心で拝んでゐながらも、ここが大事な人の道。踏み違えてはなるまいと、わざとつれなう待遇して、お帰し申すは誰の為。旦那のお為は、奥様の、為ともなつてゐるものを。それ御存じはないにせよ。殺せとは何の事。無慈悲にも程がある。それを、おとりに、吉蔵が、またしても、いやらしい。憎いは憎いが、奥様が、なほの事で怨めしい。とてもの事なら、この後は、嘘を真実にした上で、あくまでものを思はせて、死んだら私も本望か。いやそれが、何の本望、本望が、外にあるので邪魔になる。この母さんは、なぜ私に、たとへ賤しう育つても、心は高う持てとの事、教へておいて下さんした。知らずばともかく、知りつつも、横道へは外れられまい。この一ツでは、私が負ける。あんな奥様勝たして置くが、どうでも私の道かいなと、袂を噛んで泣き沈む。背後の障子の、すらりと開くに。ゑゑまたしても物騒な。誰ぞと見れば、澄なり。嬉しや旦那の御越か。今日は万事を御意のまま、さうさへすれば敵が取れると。胸の痞えはおろしても、またさしかかる思ひの種子。かうした様に、こんな身が。おお怖わや、恐ろしや、もうもう重ねては思ふまいと。我と我が、心を叱つてうつむく顔『また何ぞ心配か。かうして乃公が出て来るが、気に障つての事なれば、詮方がないが、その外の、苦労は何なりいふがよい。一人で思ふは、身体の毒。乃公も大きに悟つたゆゑ、昨日からの飲み続け。今日は気分が好くなつた。そちにも、少し、裾分けの、品は、何であらふと思ふ。あてて見やれ』と。小やかなる、箱取出して手に渡すを。どふやら指輪と受けかぬるに。わざと不興の舌打ちして『そちはそれゆゑ、誠に困る。同じ媼が育てても、乃公は仕入に出来て居る。そちばかりが時代では、乃公に対して不義理であろ。四角張つた挨拶は、もう止せ止せ』と取合はず『いつ来て見ても淋しいやうだが、これではなほさら気が塞がふ。それよりはこの家を、改めて借受けて、話し対手の下女でも置いたら、少しは気分が紛れて好からふ。しかしさうして気楽になれば、乃公がたびたび出て来るゆゑ、それもいやか』と顔見られ『何のまあ勿体ない。否か応かは、よう御存じ、申し訳は致しませねど。はいとお請けの申されぬ、この身の程を弁へましては、どうもかうして居られませぬ。御恩を仇に、こんな事、願ひまするは、恐れますれど。やはり似合つた、水仕の奉公、それが望みでござりまする。死にます筈の私が、かうして御恩に預りまするを、さぞ奥様のお腹立ち』と。いひかかるをば打消して『なにその事なら気遣ひすな。乃公もこれまで養父への、義理立てゆゑに、堪らえてゐたれど。もう堪らえるには及ばぬ一条。乃公が身体は自由になつた。一日二日のその内には、きつと処置を付ける筈。さうした上では、無妻の乃公、誰が何と怒らふぞ。来る正月には、大磯か、熱海へ、そちを連れて行く。奥と見られてよいだけの、支度を直ぐにして置きや』と。跡先ぽつと匂はする、微酔機嫌も、その実は、いふにいはれぬ、心外の、耻辱の耳に伝はりしに。心はかうと極めながら。恩ある人の娘とて、直ぐその日には出し難き、心の当惑、ここのみを、せめてもの気紛らし。紛らしていふ詞ぞと、知らぬお園は、はあはつと、その身が罪を冒せし心地。御離縁とまで仰しやるを、御酒機嫌とは聞かれまい。堪らえられぬと仰しやるも、奥様のお身に別事が何あらふ。おおかたいつものお悋気も、この身を殺せとまでの事。並大抵ではあるまいに、よくよくお怒りあそばしてか。それに御無理はないにせよ、事の起こりはこの身ゆゑ。あくまでお諫め申さではと。我が腹立ちはどこへやら、鹿子の上をかばひたき、心は急きに急き立てど。思へばこの身がいふほどの、事は疾くより、御存じの方様に、申し上げるは仏に説法。それよりは、この身に愛想を尽かせまするが、何よりの上分別と、打つて替はつた蓮葉風。わざと話を横道へ『それはまあお笑止や。今頃お気注きあそばしてか。私はとうから心待ち、今日は明日はと、御離縁を、お待ち申してをりました。今の奥様ああしておいであそばす限りは、私はどうでも日蔭もの。お妾様といはれまする。それが嫌さに今日までも、謹しみ深い顔を致してゐたを、ほほお笑ひなされて下さりますな。それではいよいよ奥様を、御離縁のその日から、奥様にして下さりますか。その御覚悟が聞きましたい。その場になつて、身分が違ふた。乳母風情の子のそなたとは、祝言出来ぬと仰しやつても、聞く事ではござりませぬ。この間からのお詞を、私は覚えてをりまする。よもや当座の慰みにと、仰しやつたのではござんすまい。もしもならぬと仰しやるなら、世間へぱつとさせまして。外様からの奥様なら、たとへ華族の姫様でも、きつとお邪魔をいたしまする。さうしたならば、あなた様の、お顔がたいてい汚れませう。それお覚悟ならいつなりと、奥様を離縁あそばしませ。直ぐにお跡へ直りまする』と。いつに似合はぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽くしか、不憫やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸に蟠れば。知つても知らぬ高笑ひ『ハハハたいそうむつかしい事をいふではないか。よしよしそれも聞いておく。それでは離縁のその日にも、五十荷百荷の荷を拵らえて、そちを迎える事にしよう。それなら異存のない事か』と。真面目に受けぬもどかしさ。これではやはり正面からの、御意見が好からふと、開き直つて手を支え『それでは、どうでも奥様を、御離縁あそばすお心か』『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。後妻にならふといふものが、その物忘れは、実がない。乃公は確と覚えてゐるぞ。その場になつて、否といふは、どうでもそちの方らしい』と。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園はなほも押返して『それ程までのお心には、何故におなりあそばしました』『さあ何故なつたか、乃公にも分らぬ。いづれその内知れやうから、子細の知れたその上で、聞くべき意見は聞きもせう。それまでは、何もいふな、正直者めが。そちの知つた事ではない。安心しやれ』と、笑ふてゐれど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もうこの上は詮方がない、せめて最后の御意見に、明日は御恩に背いてなり、ここを走らふ外はなし。さうした上は、これ限り、お目に懸かれぬ事もやと。虫が知らすか、その上の、名残さへに惜しまれて、自づと浮かぬその顔を。澄も憐れと見ながらに、それ程までの心とも、知らねば、いづれその内に、我々よりはいひ難き、噂のよそより伝はりて、思ひ合はする時あらむと。その一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半ばは自ら慰むる、心と知らで、白露の、情ありける言の葉を。無分別なる置き所と、賤が垣根に生出でし、その身をいとど怨みしなるべし。"
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"content": "\n 第九回\n\n もしお園様え、今日は浅草の年の市、まだ暮れたばかりでござんすほどに。私どももこれから下女を連れて参る筈、留守は主翁が致しまする。あなた様も、是非にお出でなされませぬかと。澄が帰りしその跡へ、太田の妻の入来るに。今日はわけてのもの思ひ、そこらではないものをと、いひたい顔を、色にも見せず。愛想よく出迎えて『それはそれは御深切さまに、有難うござりまする。お供をいたしたいはやまやまなれど。今日はちと、気分が勝れませぬゆゑ、せつかくながら、参られさうにもござりませぬ。それよりは、お帰りのその上で、お話を承るが、何よりの楽しみ。お留守は私が気を注けませう。御ゆつくりとお越しなされて』といふを押さえて『さあそれゆゑ、なほの事お誘ひ申すのでござりまする。御気分が悪いと仰しやるも、御病気といふではなし。お気が塞ぎまするからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れませう。ただ今も深井様、お帰りがけにお寄りあそばしまして。どうもあなたが、お気重さうに見えるゆゑ。お紛れになるやうに、して上げましてくれとのお詞。てうど幸ひの年の市、私どもは格別の買ものもござりませねど。あなたさまのお供がいたしたさの思ひ立ち。せめて半町でも、外へ出て御覧あそばしませ。きつとお気が替はりませう。その上でよくよくおいやな事ならば、どこからなりとも帰りませう。無理に浅草までとは申しませぬ。さあさあちやつとお拵らえ』と。この細君が勧め出しては、いつでもいやといはさぬ上手。引張るやうに連れ出して『いつお気が変はりませうも知れませぬゆゑ。ちと廻りでも、小川町の方へ出まして、賑やかな方から参りませう』と。先に立つての案内顔。三は後からいそいそと。お蔭で私もよい藪入が出来まする。実はこの間から、お正月に致しまする帯の片側を、買ひたい買ひたいと思ふてゐましたを、寝言にまで申して。奥様のお笑ひ受けた程の品。成らふ事なら失礼して、今晩買はせて戴きましたい。お二方様のお見立を、願ひました事ならば、それで私も大安心。在処の母が参つても、これが東京での流行の品と、たんと自慢が出来ますると。いふに、おほほほほと太田の妻が『まあ仰山な、お園様、あれをお聞きあそばしましたか。あの口振りでは、大方片側で、二三十円は、はづむつもりと見えました。それではとても外店の品では三が気に入りますまい。なふ三、それでは越後屋へでも行かうかや』と。何がなお園を笑はせたき、詞と機転の三が受け『はいはい越後屋でも、越前屋でも、そこらに構ひはござりませぬ。私が持つてをりまするは、大枚壱円と八拾銭。後はすつかり奥様が、お引受け下されませう。ねえ御新造様、あなた様も、お口添下されませ』『まあ呆れた、年の行かないその割には、鉄面しい女だよ』と。二人が笑ふに、お園まで、しばしは鬱さを忘れて行くに。いつしか、九段の下へ出たり。あれ御新造様、あの提燈が、美しいではござりませぬかと。三が詞に、義理一遍。なるほどさうでござんすと、お園も重たい頭を挙げて、勧工場の方を見遣りし顔を。横より、しつかと、照らし見て。まあ待ちねえと。大股に、お園が前へ立ちはたかる、男のあるに、ぎよつとして。三人一所に立止まり、見れば、何ぞや、この寒空に、素袷のごろつき風。一歩なりとも動いて見よと、いはぬばかりの面構え。かかり合ひてはなるまいと。年嵩だけに、太田の妻が、早速の目配ぜ、お園の手を取り、行かむとするを、どつこい、ならぬと、遮りて『お前はどこの、細君様か知らねえが、この女には用がある。行くなら一人で歩みねえ。この女だけ引止めた』と、お園の肩を鷲握み。はや人立のしかかるに。お園も今は二人の手前、耻を見せてはなるまいと。腹を据えての空笑ひ『ホホホホホ、どなたかと思ひましたら助三さんでござんしたか。全くお服装が替はつてゐるので、つい御見違ひ申してのこの失礼、お気に障えて下さりますな。御用があらば、どこでなり、承る事に致しませう。連れのお方に断る間、ちよつと待つて下されませ』と。物和らかなる挨拶に、男はおもわく違ひし様子。少しは肩肱寛めても、心は許さぬ目配りを、知つても知らぬ落着き顔。ちよつと太田の奥様えと、小暗き方に伴ふに。三は虎口を遁れし心地。あたふたと、追縋り『交番へ行ツて参りませうか』と、顫えながらの、強がりを。お園は、ほほと手を振りて『なんのそれに及びましよ。あれは私が、遁れぬ縁家の息子株。相応な身分の人でござんしたのなれど。放蕩が過ぎての勘当受け』と、いふ声、耳に狭んでや『なにの放蕩だと』といひかかるを『お前の事ではござんせぬ。こちらの話でござんす』と。なほも小声の談話を続け『何に致せ、ああいふ風俗に、落ちてをる人ゆゑ。当然の挨拶が、ちよつとしても喧嘩腰。さぞお驚きなされたでござんしよが。私は知つた人ゆゑに、お気遣ひ下されますな。おほかたいづれお金銭の無心か。さなくば親へ勘当の、詑びでも頼むまでの事。大丈夫でござんすほどに、私にお構ひなさらずとも、お女中と御一所に、お先へお出で下さりませ』と。いへどもどふやら不安心と、肯ひかぬるを、また押して『なんのそのお案じに及びましよ。気遣ひな位なら、私からでも願ひますれど。あの人の気は、よう分つてをりまする。途中で逢ふたが何より幸ひ、家で逢ふと申したら、たびたび来るかも知れませぬ。それよりは、どこぞそこらで、捌くのが、何よりの上分別。一度限りで済みまする。きつとお案じ下さりますな。早う済んだらお後から、もしも少し手間取りましたら、お先へ帰つてをりますほどに、御ゆるりお越なされて』と。心易げないひ立に。太田の妻も安心して。もともと進まぬお外出ゆゑ、これを機会のお帰りか。それとも外に子細があらば、なほさら、無理にといふでもなし。どの道、危険げ無い事ならと。念を押したる分れ道。見返りがちにゆく影を。ほつと見送る、安心の、刹那を破る大欠伸『いつまで己れを待たすんだ。早くこつちへ来ないか』と。引張りかかるに『何じやぞえ。私が逃げるものではなし。往来中での大声は、ちと嗜んで貰ひましよ。私に話はない筈ながら、あるといはんす事ならば、詮方がないゆゑ行きまする。人通りのない処で、尋常に話すが好ござんせう』と。いふはもとより望むところと『それは天晴れよい覚悟だ。それではそこの公園の、中へ這入つて話すとしやう。さあ歩行た』と、お園を先に、逃がすまいの顔付き鋭く。ちよつと背後を振向いても、ぐつと睨むに、怖気は立てど。心は冴えた、冬の夜の、月には障る隈もなき、木立の下を行き見れば。池の汀のむら蘆も、霜枯れはてて、しよんぼりと。二人が立つた影ぼしの、外には風の音もなし『おいここだ』と助三は、傍の床几に、腰かけて『こりやお園、手前はよく己れの顔へ、泥を塗つてくれたなあ。一体ならば、重ねておいて四つにすると、いふが天下の作法だが。そこは久しい馴染だけ、手前の方は許してやる。その代はりにやあこれから直ぐに、男を殺す手引きをしろ。さうして首尾よく仕遂げたうへは、一緒に高飛びして。どこのいづくの果てででも、もとの夫婦にならなきやならんぞ。それがいやなら、いやといへ。ここで立派に殺してやる。手前を殺したその刃物で、直ぐに男を殺したら、重ねておいて殺すも同様。どの道今夜は埓明ける。さあ死にたいか、生きたいか、返答せい』と、威しの出刃、右手にかざして、詰め掛くるに。不審ながらも、ぎよつとして『男とは何の事。事情をいはんせ、分らぬ事に、返事のしやうもないではないか』『へん、盗人たけだけしい。分らぬとはよくいつた。手前の腹に聞いて見ろ』『さあそれを知つてゐる位なら、何のお前に聞きませう。男呼ばはり合点が行かぬ。私はお前の女房じやないぞえ』と。いはれて、くわつと急き込みながら『なるほど今は女房じやない。離縁たのは覚えてゐる。が己れが離縁らないその内から、密通いてゐた男があらふ』『やあ何をいはんすやら。そんな事があるかないかは、お前も知つての筈ではないか。今になつてそんな事。誰ぞに何とかいはれたかえ』『知れた事だ。天にや眼もある、鼻もある。誰が何といはねえでも、曲つた事をしておいて、知れずに済むと思ふが間違ひ。証拠はちやんと挙がつてゐらあ。いつまで己れを欺せるもんけい。済まなかつたと、詫ぶれば格別。まだこの上に、しらばつくれりやあ、どうでも生かしちやおかねえぞ』と。無二無三に斬りかくる、刃の下を潜りぬけ『まあ待つて下さんせ。死ぬる生命は、どうでも一ツ、生きやうとは思ひませねど。ない名を付けられ、殺されては、私や成仏出来ぬぞえ。今は夫婦でないにせよ、従兄妹の縁は遁れぬ中。無理往生をさせるのが、お前の手柄じやござんすまい。事情を聞いたその上で、死ぬるものなら、死にませう。尋常に手を合はさせて、殺すがせめての功徳じやないか。ゑゑ気の短い人ではある』と。白刃持つ手に触られては、もともと未練充ち充ちし、身体は、ぐんにやり電気にでも、打たれし心地。べつたりと、腰をおろして、太息吐き『それ程事情が聞きたけりやあ、話すまいものでもないが。一体手前は、あの深井と、いつから懇したんだい』『知れた事を聞かしやんす。あれは私が母さんの』『そりやあいはずと知れてゐる。乳兄妹といふんだらふ。がその乳兄妹が、乳兄妹でなくなつたのは、いつからだといふ事だい』と。いはれて始めて心付き、やや安心の胸撫でて『それならたんといひませう。それではお前も、深井様と、私が中を疑ふての、この腹立ちでござんすか』『ざんすかもあるめえや。腹が立つのは当然だ』『さあそれが。真実の事ならもつとなれど。何の私が、あのお方と、どんな事を致しませう。なるほどお世話にやなつてゐる。それはお前も知つての通り、母さんの遺言ゆゑ』『ふむこれは面白い。それでは叔母貴が、己れが女房のその内から姦通せいと教えたかい』『なるほどこれは、よいいひ抜け。死人に口なし、死人こそ、よい迷惑だ』と冷笑ふ『またそんないひ掛り、しまいまで聞いたがよい。それでは何かえ、この私が、お前の家に居た時から。深井様と懇したといふのかえ』『知れた事だ。さうでなけりやあ、己れだつて、離縁つた女房に、姦通呼ばはりするもんけい。己れから暇を取つたのも、そこらからの寸尺と、遅幕ながら、気が注くからにやあ、どうでも捨ててはおかれない。これだけいつたらもう好からふ。さあどうする』と。再びもとの、怖い顔して詰め寄るに。さてはあの吉蔵めが、恋の叶はぬ意趣晴し、ある事ない事告げ口して。怒らしたものならむと、瞬く隙に見て取つて。もうこの上は詮方がない。弁解しても無益な事。それよりは、ここ一寸を遁れての、分別が肝要と。思案を極めて、調子を替え『あい、それで合点がゆきました。いひたい事は、たんとあれど。証拠のない事いふたとて、よもやうむとはいはんすまい。なるほど私が悪かつた。悪かつたとしておきまする。そこでお前はどうあつても、深井の旦那を殺す気かえ』『殺さいでどうするものか。今夜は昼から、お前の家に、遊んでゐるといふ事まで、己れはちやんと知つてるよ』『なるほどさうでござんせう。それなら私もお前に相談。手引をさせておくれかえ』『へんそんなお安直い手引なら、こちらからお断りだ。手引が何だか恠しいもんだ』と。いふ顔じつと、照る月に、雪より白い顔見せて。解けた眼もとに、男の膝。我からわざと身を寄せて『疑ひ深いは女子の性男子がさうではなるまいぞえ。かうして二人が居るところを、人が見たらば、真実の恋か、虚偽の恋かが知れやうに。お前がそれでは曲がない。元木に勝る、うら木なしと、世間でいふのは、ありや嘘かえ。お前は知つてでござんすまい。そりやもう私が別れてから、よい慰みが出来たであろ。たまたま逢ふた、この私を、斬るの、はつるといふてじやもの。それが分らふ筈がない。さあ斬らんせ、殺して下され。おおかたどこぞの可愛い人に、去つた女房の私でも。生かしておいたら、何ぞの拍子。邪魔になるまいものでもないと、いはれさんした心中立に、私を斬るのでござんせう。さうならさうと有り体に、いふてくれたらよいものを。私にばかり難僻付けて。手引をしやうといふものを。まだ疑ふてならぬといふ、お前は鬼か蛇でござんしよ。さうと知つても、この私は、顔見りや、やつぱり憎うはない、こんな心になつたのも、思へば天の罰であろ。さあ斬つて下され、殺して下され。罰が当つて死ぬると思へば、これで成仏出来まする』南無阿弥陀仏と合はす掌の、嘘か真実を試さむと。やつと声掛け、斬る真似しても。びくとも動かぬその身体は。お門違ひの義理の枷、なつても、ならぬ恋ゆゑに、身を捨鉢の破れてゆく、覚悟としらぬ助三が『心底見えた』と、手を取つて、頼む、喜ぶ顔見ては。さすが欺すも気の毒ながら、いづれ私も死にますると、心の詫びがさす素振。虚偽では出来ぬ優しさと、心解けたる助三が『それではきつと、今晩の、十二時を合図にして』『あいあい待つてをりまする。寝間は、門から這入つての、右の八畳、雨戸を細目に中は燈りを点けておく。充分酔はせて、寝さしたら、ついした音では眼は醒めまい。障子の紙を破つて置くゆゑそこから覗いて下さんせ。私が手水に行く振りで、きつと手引を致しませう。その代はりには、お前もここで、二人までは殺さぬといふ、誓言立てて貰ひたい』『うふふ、まア怖がつてゐるのかい。かうして己れに依頼つたからは、二人死なしてよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我はささぬ気だが。もし間違つて、爪でも斬つたら。おおさうだ、博奕冥利に尽きるとしよう』『ほほ博奕冥利もをかしなものだが、お前はそれが第一ゆゑ、そんならさうとしておかふ。きつと違えて下さんすな。もしもそれが嘘ならば、生き代はり死に代はり、たんとお前を怨むぞえ』『七くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍そこのけだ。かういふ事に、二言がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か証拠に立てよか』『なんのそれに及びましよ。それで私も安心しました。そんならもう行くぞえ』と。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物『ここに少しはお紙幣があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ十二時には三時間もあらふ。元気を付けたがよいわいな』と。渡すを、にいやり受取りて『さすがは女房だ、有難てえ。そこまでお気が注かれふとは、思はなんだに忝ねえ。じやあ行つて来るぞ。待つぞえ』と。離れ離れになる影を。その人ゆゑには惜しまねど。あちらへ行くだけ羨しい。これが自由になるならば、私もあつちの方角へつい一走り。かういふ訳で死にまする。それは嬉しい、忝ない。確かに生命は受取つたの、お詞聞いて死なふもの。これ程までに思ふ気が、後で知れるか、知れぬやら。一筆書いておくつもりも、片便りでは、たんのう出来ぬ。縁の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合はせて結ばれぬ、西片町のその名さへ、今はさながら恨めしやと。千々に砕くる、うき思ひ。身を八ツ裂の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、そこと見えるに、片町は、なぜに見えぬぞ。お邸が、せめて湯島の丘ならば、ここから名残惜しめうもの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏かる、神の御前の大鳥居。ここは恐れの、横道へ、たどり入るこそ不便なる。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": "\n 染料植物といっても中々沢山あります。これを一々ここに挙げることも出来ませんから、その一部分について申上げます。\n 藍という字は、今では誰でも、染物の原料にするアイだと思って居るし、またそういう習慣になって居るから無理もないが、実は藍という字は、アイの専有し得る名ではない。植物から採った材料、つまりインディゴ、あんなものを藍というのであって、植物の名ではない。ああいうものの採れる植物が幾つもあるので、上に形容詞を附けて植物の名として呼ぶ訳です。まず日本でアイといって居るものは蓼藍と書かなければアイにならぬ。アイは蓼の一種類です。蓼藍は日本では随分遠い昔に入ったもので元来は日本の植物ではない。それでは何処の植物かと言えば、支那の南方の安南とか交趾支那あたりが原産地注意らしい。その学問上の名は Polygonum tinctorium Lour. という植物であります。\n これは日本で重要な植物であった。この頃は外国から染料が沢山来て、前に比べればアイを作ることが少なくなって居りますが、徳島県などがアイの名産地で、吉野川の沿岸にアイを沢山作って居った。葉が丸いのがあったり長いのがあったり、あるいは水の無い処に作るのがあったり水の有る処に作るものが出来たりして、工業の上からはどういうものが宜いという優劣があるでしょうが兎に角、そういうように色々な変り品が出来た。そしてこれを日本で盛んに用いた。\n それから藍の中に菘藍という種類がある。これは染めた後の色はどういうものか私は知らない。従って工業的に価値があるかないか存じませんが、支那では専ら作って居って、大変実用に使って居る。日本では実用に作ったことは一つもないと思います。菘というのはこの頃ある白菜です。色が白いから白菜という。この頃結球白菜などと言うて来て居るのは菘の非常に改良された種類です。昔はああいう種類ではなかった。初めは支那でも、日本の小松菜のように、普通の菜っ葉であった。所が葉柄が大分大きい。支那人は作るのが中々上手ですから、葉柄の平たいものを段々作って、遂に今日の結球白菜のようなものが出来た訳です。\n 徳川時代に、まだ今のように白菜にならん前のものが長崎に来て、それが日本に拡まったのですが、それをその当時の日本人は、支那から来た菜というので唐菜といって居る。それで菘は、よく書物にトウナと仮名が振ってありますが、それが本当です。昔来た唐菜は今ではどうなったか。段々変って、最初の形のものは全く日本にないと言っても宜い程になって居る。蓼藍は蓼科に属するものですが、菘藍は大根や蕪のようなものと同じ十字花科に属し、葉が全く違い、蕪の葉のような形をして居る。日本には享保年間に初めて支那から来たのですが、支那に頼んだ所二ヶ所から来た。アイの原料植物として蓼藍、菘藍の二つが来た。それは菘藍の方を浙江大青という名で、菘藍の方は江南大青という名で寄越したが日本では江南大青を実用に用いずに、本草などをやって居る人が、珍しいというので単に花草のように作って居った。その為に実用の方に拡まらずに終った。私がここに持って来たのは本草図譜という本ですがこれには江南大青の絵が載って居る。蕪のように黄色い花が咲く。これを大青と書いたので日本では単に大青という名で呼んで来た。徳川時代に観賞用として作って、明治の始め頃まではあったようですが、種が絶えてしまって今日では日本にない。この学名は Isatis indigotica Fortune といい、藍が採れるのでインディゴチカ、そうしてフォーチューンという支那のことを研究した人がこの名を付けた。このフォーチューンの書いたものに依るとその時分支那人に聞いたら、この名前を Teinching と言ったということが書いてある。これを漢字に当てると靛青だろうと思う。これは支那では北支那や上海附近の大面積の土地に作って、六月頃に相当に生長するので、まだ花の咲かない前に葉を採って、それで藍玉を造って染料にするということになって居る。そういう風に支那では菘藍を実用に使ったものでありますが、日本ではそういう所まで進展しなかった。\n ところが面白い事には Isatis tinctoria というヨーロッパの種類がある。これは大青に比べると少し小柄です。それで日本人がホソバタイセイと名けた。北海道は前に牧草を入れたりしたのでその時に西洋の種が入って、それが北海道の海岸に野生した。今はどうか知りませんが前にはあった。それを間違えて認識して Isatis indigotica と言い、支那から来た大青を Isatis tinctoria だと思って居る人がある。そこで和名の方で面白い名が生じて居るのは、tinctoria の方をマタイセイと言って居る。マタイセイというのは真の大青と言うことです。つまり lsatis tinctoria も藍が採れるので、支那から来た大青と一緒のものと思ってマタイセイなどという馬鹿げた名前を付た訳であります。それで Isatis tinctoria と大青とは、属は同じであるけれども、全く別のもので、真大青どころではなく、似せ大青である。ニセタイセイならば聞えるけれどもマタイセイではしかたがない。\n 江南大青すなわち Isatis indigotica が藍として非常に値打ちがあるならば、支那から直に取寄せられる。これは種で播く越年生の植物で蕪大根と同じです。秋に播く。そうすると沢山生えるから、種を大いに取寄せて日本で作って藍の原料にすれば宜い訳です。しかし藍として使った色の具合揚げその他どうであるかは私は知りません。"
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"role": "assistant",
"content": " まず東洋の藍としては蓼藍と菘藍が両方の大関みたようなものです。和名としては、昔は単にアイとは言わなかった。蓼藍を訳したのでしょうがタデアイといって居った。しかしタデアイでは長いので、いつの間にかアイと短くなった。そういう例は他にも沢山ある。ハゼは九州の方に行くと随分沢山作って居りますが、あれは本物は日本の原産ではない。琉球の方を伝わって日本に入ったものであって、本当はリュウキュウハゼというのです。トウハゼとも言いますが、別にナンキンハゼという木があってそれと混雑するのでリュウキュウハゼという。しかし不断そんな長い名を言うのは面倒臭いので単にハゼと呼ぶようになった。日本の真のハゼというのがどの木を指すかということについては日本の学者でさえも恐ろしく認識不足です。日本のハゼは昔はハニシといって居った。ハニシがハゼとなった。今は植物学の方でヤマハゼといって居るのが本当の日本のハゼで山にある。あの黄色い心材で着物を染めたものが、上つ方の着物となる黄櫨染であります。あの属のものはその心材が皆黄色だからどれを用いても宜いでしょうが、黄櫨染というのは日本のハゼを用いた。リュウキュウハゼは後に来たものであって、今言うヤマハゼをその前にハゼとして用いた。今日の知識から見るとそういう間違いがどれ位あるか分らぬ。黄櫨もそうです。日本の以前の学者は黄櫨は日本のハゼだと思って居ったが、それは大変な間違です。黄櫨というのは、支那にはあるけれども、日本にはない。葉の丸こいもので、ハゼとは大変に違う。その黄と櫨と二つ言うのが面倒なので、櫨の字だけを採ってハゼにして居るけれども、櫨の字もハゼには当っていない。黄櫨という一つの植物の片方だからハゼではない。日本のハゼは野漆樹といわれる。今度新に出版された大槻さんの『大言海』などはやはり旧説を採って、新知識が少しも加わっていない。日本では植物について今日の新知識で書いたものを知ろうという便宜な書物が一つもない。昨日出来たばかりの百科辞書を見ても旧説ばかり書いてあって、迚も問題にならん。だから研究して居る人は知って居るが、そうでない人にはまるで分らぬ。\n それから今一つ Isatis japonica という学名がある。これは、日本に来た人ではないけれども、オランダのミルという人が付けた名です。それは実は indigotica という名のあることを知らずに付けたが Isatis japonica と Isatis indigotica とは同じものです。\n それから日本で現在用いて居るアイにリュウキュウアイと云うのがあります。これは今まで述べたものとは非常に科の違ったものです。これは西洋の本に書いてある図ですが、こんな綺麗な花が咲く。琉球でも花はあまり咲かんようですが、咲くとこんな綺麗な花が開く。植物学上ではキツネノマゴ科である。ところがよくこれまでの本にヤマアイと書いてあったので、日本のヤマアイと間違って混雑した記事をよく見る。だからこの頃は私等は、ヤマアイという言葉を用いずに、この植物をリュウキュウアイと申して居ります。そうするとハッキリする。私は琉球にはまだ行きませんから分りませんが先年南九州を旅行した時、大隅の鹿児島湾に面した伊坐敷の北の方の処を海岸伝いに歩いて居ると、山裾の際にヤマアイが沢山生えて居た。あの辺のは昔から野生であるが別に採って利用することはない。琉球辺のものがあの辺に来て段々繁殖したものかどうかよく判りませんが、とにかく大隅や琉球に行けばこの植物は得られる。学名は Strobilanthes flaccidifolius Nees というが「軟い葉」という名が付いて居り葉も茎も軟い。これがリュウキュウアイです。不案内ですから断言は出来ませんが、琉球では多分これを利用して居りましょう。\n 李時珍という支那の学者が、藍には五種類あるということを書いて居る。それは蓼藍・菘藍・馬藍・呉藍・木藍の五つのことです。これを今日の知識で出来るだけ研究してみると、蓼藍は普通のアイです。菘藍は大藍ともいって、前に述べた大青のことであります。馬藍は菘藍と同じものらしい。呉藍というのは、支那人が何をいったのか判らぬ。木藍というのは、日本にはないが、荳科のもので、Indigofera tinctoria という植物です。日本で野外に出るとコマツナギという植物が幾らもありますが、あれに非常に似て居る。すなわちこの図が本当の Indigofera tinctoria です。灌木のようになって居るから木藍という。木藍は漢名です。これを日本の植物学者はキアイとか或は荳科の類なのでマメアイともいって居る。初めは、日本のコマツナギも木藍と同じ種類だから、このコマツナギから藍分が採れると思っていたところが、コマツナギには藍分がない。何故コマツナギというかと言えば、他には能のない植物ですが、強いので馬を繋いで置いても引抜いて行く事が出来ぬ。夏暑い時に桃色の花が咲く。これは木藍と兄弟同士ではあるが、木藍とは違う。木藍は日本にはない。けれども台湾あたりには植えて居るかも知れません。植物をボーッと見て居ると、一つのものの中に幾つもの種類が入って居ることが随分ある。きっとこの木藍の中には、Indigofera tinctoria ともう一つは Indigofera anil というのが入って居りはせんかと想像します。anil は木藍と非常に似た兄弟同士です。この tinctoria の方は実が真直ですが、anil の方は実がゆがんで居る。台湾には私は一遍行っただけでその後行きませんからよく存じませんが、tinctoria も anil も作って居るだろうと思います。共に葉を採って醗酵さして藍の原料を造る。Indigofera tinctoria は熱帯地に広く分布する種類ですから、広東一帯にはこの木藍を沢山作って居るのではないかと思います。\n\n 次はアカネです。根が赤いのでアカネという名が出た。アカネで染めたものが陳列してありますからどうぞ御覧下さい。これが茜染です。仮にこれを着物と羽織にして町を歩くと大変損する。紫もそうです。秋田県の花輪という処の紺屋さんに私が紫染を頼んで、染賃や地代とも、その時分の値段で六十円か払いました。それを娘の着物にしてやった。所がそれを着て町に出ると、外国染料で染めた紫は色が鮮かですが、本当の紫は色が曇って居るので、あまり佳いものを着て居るように見えない。実際は中々凝ったもので、見る人が見れば真価が分るが、普通の人には分らないから、ちょっと損するところがある。古代の紫根染の知識が足りない。まあ他人が見てくれようがくれまいが自分さえ承知なれば宜い訳です。茜染もそうですがこれを見ると、まるで紅の色に染めたようなもので、少しオレンジ掛かって居る。これに他の色を加味すれば赤いものが出来る。私共の子供の時分には蚊帳の縁に赤い木綿が附いて居りましたが、あれを俗に茜の木綿と言って居った。あれは本当の茜ではない。スオウの煮出した汁で凧などが赤く染めてありますが、あのスオウで染めた木綿布をその時分はスオウとはいわずに茜染といって居った。だから私共小さい時には、茜染というのはあんな赤いものだと思って居ったところが、豈図らんやこういう色をして居る。これで御覧の通り茜の染物は悉く絞です。紫根染も悉く絞です。もっと研究したらこれに模様を置くことが出来るかも知れんが、今の所では絞にするより外仕方がないのであろうと思います。\n これを染めるには、私は詳しい事は知りませんが、紫根......といってもムラサキの根の皮が非常に染料を持って居る。その汁を一つ作り、別に灰汁を作る。東北地方ではサワフタギという木を灰として用いる。どういう訳でそういう木を選んだものか判りませんが、きっとあれは、昔京都辺で、紫を染める時にはサワフタギは用いないで、灰の木というものがある。焼くと灰が余計出るからそういうのですが、その灰の木というのは植物学者が今いって居るハイノキじゃない。昔の灰の木を今日の植物学者はトチシバとかクロバイとかいって居る。昔の人は、日本にない山礬という植物をこのクロバイだと思って居った。だから書物には山礬をクロバイとかトチシバなどと書いてあるけれども、それは間違って居る。とにかくトチシバを灰の木といって居ったので、それで灰に用いて居ったのではないかと思いますが、その灰汁の工合に依って色が違うようなことがないとも限らん。それは染料を専門にやって居る人はよく解って居るでしょう。ところで面白いことには、京都辺で用いるクロバイも、東北地方でのサワフタギも、同属で Symplocos です。だから Symplocos に属するものは灰として何か特別に宜いことがあるのではないかと思う。その灰汁の中に布を入れ、今度は紫の汁の中に布を入れる。それを引上げて乾かして、また灰汁の中に入れる。それを上げて乾かして紫の汁の方にまた入れる。両方に何度もやって居る間に色が段々濃くなって、こういう風に染まる。非常に時間の掛かるもので、上等に染めるにはほとんど一年ぐらいを費すと言って居りました。だからこういう絞ならば、漬けるだけですから宜い訳でしょう。今のところはまだ出来ませんがこれに模様が置けるように工夫すれば面白いものが出来る訳です。そういうことは今日の知識で研究すれば出来ないことはないと思う。茜も同様で、漬けるものですから絞だけです。しかし絞も中々雅味のあるもので、それだけでも中々面白い。\n この紫というものは誰も注意を惹くものです。この染物をウンと作って出そうと思うならば、やり方に依て何でもない。しかし今は原料を天然のままにしてあるから、まず原料を得るのに厄介ではないかと思う。そこでナンブムラサキ、これは昔南部といった盛岡附近から出るムラサキだからナンブムラサキというのですが、あの辺は山に原料が沢山あるものと見える。私が花輪で聞いたところでは、花輪の紺屋さんは原料を岩手県から仕入れるということでした。秋田県にはその原料が絶対にないかどうかそれは判りませんが、ともかく少ない。秋田一帯は、火山が噴出してそこを覆うた土地らしい。それであの辺は新しい土地であるから、植物が比較的、盛岡方面に比べると、単純でかつ種類が少ない。そういう訳で、ムラサキの原料植物が秋田県の方には少ないらしい。ムラサキは東京附近にも少しはある。例えば、高尾山の山脈とか、軽井沢の山地、籠坂峠あたりにある。だからムラサキは探し廻れば方々にある。あれを移植すれば、誠によく着いて花が咲いて実が出来る。その実を取って畑に播くと原料は沢山得られる。昔はそうしたものです。天然の原料ばかりでは足りないので、やはり播いて生やして用いた。あれは注意して播けば幾らでも生えて来る。百本や二百本のムラサキを作るのは何でもない。「むらさきの一本故に武蔵野の草は皆がら憐れとぞ見る」という歌があります。これはムラサキが一本ある為に草が皆なつかしいというのですが今日はムラサキは武蔵野に滅多にない。辺鄙な処にはあるがちょっと行っても中々ない。昔沢山あったものかどうかも怪しい。とにかくムラサキは武蔵野と関係はある。そういう関係のある草だから花が咲いたら嘸ゆかしい花だろうと誰でも想像するけれども、花が咲くと意外で、まるで雑草の花のようです。よくススキの間などに生えて居って、二尺位の高さになって枝を分って、白い花がボツボツと咲いて居る所は、少しは風情があるけれども、知らずに居れば雑草です。ムラサキは火山灰の沢山積ったような処に非常によく根が出来る。天然のものを採ろうと思えば骨が折れるが、作ろうと思えば世話はないから、そういうように作って紫染を造れば比較的楽に出来る。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "六月十八日。雨午後に晴る。夜月さへわたりて風秋の如し。\n六月二十日。久しく唖〻子と会はず。風月堂に招ぎて飲む。\n六月廿一日。夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。\n六月廿二日。大石国手を訪ふ。魚河岸の晩晴、広重の筆致を連想せしむ。\n六月廿三日。快晴。書斎の窗をあけ放ちて風を迎ふ。\n六月廿四日。書架を整理す。伊東橋塘、花笠文京等、明治十四五年頃の小説を閲読す。\n六月廿五日。梅雨中腹具合例によつてよろしからず。\n六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。\n六月廿八日。午前大日本私立衛生会委員筱崎氏といへる人来りて、七月三日丸の内なる衛生会楼上にて、徃年統計恊会に関係ありし人々の追善紀念会を執行するにつき、先考の写真遺墨のたぐひをも借受けて陳列したしと語らる。筱崎氏は徃年小石川の家にて幼きころの余をも見知りたりと言はる。午後雨中大石君を訪ふ。尿中糖分全く去りしといふ。始めて安堵の思をなす。\n六月二十九日。午後雨なきを幸に丸の内に徃き用件をすまし、有楽座に久米秀治を訪ふ。久保田萬太郎来合せ、談話興を催す。風月堂に赴くに恰も松莚子細君と共に在り。談笑更に興を添ふ。\n六月三十日。夕餉の後神田仏蘭西書院に徃く。帰途風雨来らむとす。此夜燈前筆を把るに、たま〳〵興あり。小品文をつくる。題して砂糖といふ。\n七月一日。滛雨晴る。風吹き出でゝ庭樹をうごかす。\n七月二日。松葉牡丹始めて花さく。\n七月三日。晴天。炎暑襲ひ来れり。\n七月四日。アンドレヱヂイドの小説パリユードを読む。感歎措く能はず。\n七月五日。快晴。涼風水の如し。\n七月六日。曇りて蒸暑し。毎日読書晩涼の来るを俟つ。身世淡々凡て興なし。\n七月七日。炎暑甚し。\n七月八日。夜雨ふる。涼味襲ふが如し。\n七月九日。雨ふりて風冷なり。\n七月十日。有楽座例年の如く文楽座人形芝居を興行す。古靭太夫が良辨杉の段を聴いて暗涙を催したり。母子の愛を題材となすもの、丸本には類例もとより尠しとせず。されどこの良辨杉の如く、直接深刻に母子再会の情を現せしものは稀なるべし。余故あつて日々慈顔を拝すること能はず。此の浄瑠璃をきいて感動措く能はざるなり。\n七月十二日。玉山子と銀座の草市を歩む。\n七月十三日。西風颯々涼気秋に似たり。窗を開いて書を曝す。\n七月十四日。有楽座人形芝居二ノ替を見る。平岡君に逢ひ、自働車を山の手の狭斜に走らす。\n七月十五日。炎熱日に日に盛なり。困憊甚し。\n七月十六日。帝国劇塲廊下にて葵山子に逢ふ。\n七月十七日。雑誌国粋の記者清果一籃を贈り来りて寄稿を請ふ。〔朱書〕(小品文砂糖を寄稿す)\n七月十八日。連夜人形芝居を看る。\n七月十九日。\n七月廿一日。驟雨雷鳴。\n七月廿二日。驟雨あり。\n七月廿三日。天候いよ〳〵穏ならず。両国川開中止となる。\n七月廿四日。降続きし雨深更に至り益〻甚し。明治四十三年秋隅田川暴漲の事を想出しぬ。翁家の富松も既になき人の数に入りぬ。\n七月廿五日。久振りにて清元会を聴く。夕陽明媚なりしが初更の頃より雨また沛然たり。\n七月廿六日。隂晴定まらず。時々微雨あり。虫声を聞く。\n七月廿七日。雨ふる。\n七月廿八日。木曜会に徃く。帰途始めて月を見る。\n七月廿九日。松莚子に招がれて風月堂に飲む。\n七月三十日。浅草散歩の途上古書肆浅倉屋を訪ひしが獲るところなし。\n七月卅一日。\n八月一日。帝国劇塲初日。帰途清潭子と南佐柄木町の弥生に飲む。\n八月二日。雨。\n八月三日。天気再び梅雨の如し。松莚子に招かれて末広に飲む。\n八月四日。雨なけれど風甚冷なり。\n八月五日。歌舞伎座初日なり。松莚子の村井長庵を見る。此の夜塲中炎暑忍難し。夜半家に帰るに虫の声俄に稠くなれり。窗を開いて眠る。\n八月六日。炎暑甚し。\n八月七日。午後机上の寒暑計九十度を示す。夜に入りて風涼しく虫の音次第に多し。\n八月八日。この日立秋なり。夕餉の後日比谷公園を歩む。繊月樹頭に懸かる。\n八月十日。新聞紙の報道によれば昨今の暑気華氏九十三四度に上るといふ。\n八月十一日。春陽堂拙著全集第五巻、および其他の印税、総計金九百六拾参円を送り来る。夕餉の後有楽座に徃き、新俳優花柳一座の演劇を看る。久保田萬太郎吉井勇の諸氏に逢ふ。秋風颯颯として残暑俄に退く。\n八月十三日。西久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり。\n八月十四日。\n八月十五日。風雨襲来の兆あり。風卻て沈静し、草の葉も動かず。溽蒸忍ふべからず。窗を開いて寝に就く。\n八月十六日。早朝驟雨の音に睡より覚む。終日雨来りては歇むこと幾回なるを知らず。夜電燈点ぜず。燭を点じて書を読むに、雨声虫語と相和し風情頗愛すべきものあり。\n八月十七日。曇る。\n八月十八日。曇りて蒸暑し。夜わづかに雨を得たり。\n八月十九日。天気前日の如し。夜涼を俟ちて机に凭る。去月脱稾せし小品文を訂正して国粋社に送る。\n八月二十日。高樹風を呼ばず、明月空しく中空にあり。炎熱限りなし。夕餉の後外濠の電車に乗りて涼を納る。\n八月廿一日。秋暑前日に劣らず。"
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"role": "assistant",
"content": "八月廿二日。夜に至るも風なし。\n八月廿三日。グルモンの詩集 Divertissements を読む。\n八月廿四日。夜に入り風を得たり。暑気少しく忍易し。\n八月廿五日。晩䬸の後有楽座に徃く。\n八月廿六日。昨夜より西南の風烈しく、雨を催せしが、是日午後に至り大雨車軸の如し。\n八月廿七日。雨後新涼肌を侵す。\n八月廿八日。松莚清潭の二子と風月堂に飲む。\n八月廿九日。秋雨霏々。虫声喞々。昼夜を分たず。\n八月三十日。鄰家の籬に木槿花ひらく。\n八月三十一日。門前の百日紅蟻つきて花開かず。\n九月朔。生田葵山君と帝国劇塲に赴く。演藝野卑陋劣観るに堪えず。\n九月二日。明治座初日。帰途驟雨に逢ふ。\n九月三日。東宮還御の当日なる由にて、花火花電車提灯行列等あり。市中雑遝甚し。夜清元会に徃く。会塲にて田村百合子に逢ふ。洋画を有嶋生馬氏に学び、また清元を好みて梅吉の門弟となれり。去年の夏帝国劇塲にて旧作三柏葉樹頭夜嵐興行中始めて相識りしなり。清元会終りて後雑沓の巷を歩み、有楽軒に入りて倶に茶を喫す。\n九月四日。薄暮大雨沛然たり。夜に至りて益〻降る。\n九月五日。薄暮雨来ること昨日の如し。風月堂にて偶然延寿太夫夫婦に逢ふ。庄司理髪店に立寄り、銀座通に出るに道普請にて泥濘踵を没す。商舗の燈火は黯澹として行人稀なり。余東京の市街近日の状况を見るや、時々何のいはれもなく亡国の悲愁を感ず。\n九月六日。綾部致軒愛児を喪ふとの報あり。午後唖々子の来るを待ち、倶に天現寺畔の寓居を訪ひ吊辞を陳ぶ。白金雷神山の麓を過ぎ、権之助阪を下り目黒不動祠の茶亭に憩ひ、浅酌黄昏に至る。\n九月七日。時々驟雨あり。隂湿の天気旬余に及ぶ。世上頻に米価の騰貴を伝ふ。徹宵豪雨歇まず。\n九月八日。正午の頃雨晴れたり。玄文社演劇合評会。市村座を見る。\n九月九日。日本橋若松家にて玄文社合評会あり。此夕寒冷火鉢ほしきほどなり。\n九月十日。与謝野寛氏雑誌明星の再刊を企つ。是夕四番町の居邸に石井柏亭、高村光太郎、平野萬里、竹友藻風の諸氏及び余を招ぎて胥議す。\n九月十一日。秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に徃き晩餐をなし、堀割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。冷露雨の如く忽にして衣襟の潤ふを知る。百合子の胸中問はざるも之を察するに難からず。落花流水の趣あり。余は唯後難を慮りて悠々として迫まらず。再び手を把つて水辺を歩み、烏森停車塲に至りて別れたり。百合子は鶴見の旅亭華山荘に寓する由なり。\n九月十二日。早朝百合子の手紙来る。午後母上来り訪はる。青山辺まで用事ありての帰り道なりと。夜小雨ふる。\n九月十三日。百合子を見むとて鶴見に徃き華山荘を訪ふ。不在なり。折から雨降り出したれば急ぎ停車場に戻り、家に帰る。夜芝田村町の青木を訪ふ。奇事あり。\n九月十四日。雨ふる。午後百合子来る。手を把つて長椅子に坐して語る。倶に出で〻虎の門に至り、余は別れて風月堂に徃き、独食事をなし有楽座に久米氏を訪ふ。松山画伯里見醇とプランタン酒亭に至る。花月画伯猿之助を伴ひて来るに逢ひ、笑語覚えず夜半に及ぶ。\n九月十五日。雨歇まず。蟋蟀いつか長椅子の下に潜み夜をも待たず幽かに鳴く音を立つ。平素書斎の塵を掃はざるもこの一徳あり。独居の幽趣亦棄つべきにあらず。明夜は中秋なりといへど思ふに月無かるべし。枕上クローデルの戯曲ペールユーミリヱーを読む。\n九月十六日。午後より空次第に晴来りて意外なる良夜となれり。不願醒客と風月堂に会し、月中漫歩、九段の妓窩に徃きて大に飲む。\n九月十七日。午後百合子来る。十六夜の月を観むとて相携へて愛宕山に登る。清光水の如く品海都市斎しく蒼然たり。芝山内の林間を歩み新橋停車塲に至りて手を分ちぬ。\n九月十八日。細雨糠の如し。書窗黯澹薄暮に似たり。雑誌明星第一号原稾〆切の日迫り来りし故、草稿をつくらむと筆をとりしが感興来らず。苦心惨澹たり。夜半豪雨嘈嘈として屋を撲つ。\n九月十九日。朝来大雨懸淙の如し。午後一天俄に晴れ風あたたく頭痛を催さしむ。晩間風月堂にて食事をなし、有楽座に長唄研精会を聴く。演奏凡て巧妙ならず。小三郎一派の長唄も追々盛りを過ぎて頽廃し行くものゝ如し。帰宅の後枕上マルセルブーランヂヱーの小説マルグリツトを読む。\n九月二十日。秋暑甚し。華氏八十度を越ゆ。晩間風月堂にて偶然鬼太郎君に逢ふ。\n九月廿一日。帝国劇塲、本日より十日間俄国人歌劇を興行す。一昨年来朝せし一座なり。\n九月廿二日。百合子と風月堂にて晩餐を共にし、送つて停車塲に至る。独帝国劇塲に立寄りカルメンを聴く。深更驟雨あり。\n九月廿三日。連宵帝国劇塲に歌劇を聴く。\n九月廿四日。日比谷の横町に俄国人の営めるカツフヱーウクライナといふ酒亭あり。平岡画伯と劇塲聴歌の帰途、入りて憩ふ。歌劇一座の俄国人男女数名来りて頻にウオトカ酒を飲む。画伯遠客を慰めむとて盛に三鞭酒を㧞いて盃を勧む。彼等其の好意を謝し、盃を挙げて一斎に故郷の歌を唱ふ。言語の通ぜざるを憾む。\n九月廿五日。雨ふる。蟋蟀昼夜屋内に啼く。\n九月廿六日。連宵オペラを聴く。聊か疲労を覚えたり。\n九月廿七日。秋陰の天気漫歩するによし。江戸川を歩み関口の滝に憩ひ、神楽阪に飯して帰る。\n九月廿九日。松莚子に招がれて風月堂に飲む。夜半雨声淋鈴。\n九月三十日。雨猶歇まず。宿痾再び発す。\n十月一日。有楽座に有嶋武郎の作死と其前後を看る。帰途松山画伯の酒亭に憩ひ、主人と款晤夜分に至る。\n十月二日。午後富士見町与謝野氏の家にて雑誌朙星編輯相談会あり。森先生も出席せらる。先生余を見て笑つて言ふ。我家の娘供近頃君の小説を読み江戸趣味に感染せりと。余恐縮して荅ふる所を知らず。帰途歌舞伎座に至り初日を看る。深更強震あり。\n十月三日。雨ふる。草稾を明星に送る。腹痛あり。終日湯婆子を懐中す。\n十月五日。正午、数寄屋橋歯科医山形氏の家に至らむとする途上、小山内氏に逢ふ。倶に風月堂に登りて食す。薄暮秋雨また霏〻たり。\n十月六日。雨夜に入りて歇む。百合子来る。\n十月七日。晩餐の後唖々子と銀座を歩み、新冨座の立見をなす。帰宅の後明星の草稾をつくり四更に至る。門外頻に犬の吠るを聞き戸を排いて庭に出づ。四鄰寂寞。虫声唯雨のごとし。\n十月八日。雨霏々たり。夜に入りて風次第に強し。\n十月九日。雨中百合子来る。吾家にて晩飯を倶にし、有楽座に徃きてオペラを聴く。ロメオジユリヱツトの曲なり。曲終りて劇場を出でむとするや、風雨甚しく自働車人力車共に出払ひて来らず。幸にして平岡画伯と廊下にて出遇ひ、其自働車に乗りて一まづ花月に徃く。久米松山の二氏も共に徃く。画伯越前の蟹を料理せしめ酒を暖めて語る。雨いよ〳〵甚しく遂に帰ること能はず。余と百合子と各室を異にして一宿することゝなる。久米松山の二氏は家近きを以て歩みて帰る。余一睡して後厠に徃かむとて廊下に出で、過つて百合子の臥したる室の襖を開くに、百合子は褥中に在りて新聞をよみ居たり。家人は眠りの最中にて楼内寂として音なし。この後の事はこゝに記しがたし。\n十月十日。朝十時頃花月を出で、百合子の帰るを送りて烏森の停車場に至り、再会を約して麻布の家に帰る。夜玄文社合評会に徃く。\n十月十一日。花壇の菊ひらく。紅蜀葵の葉の黄ばみたるさま花よりも却て趣あり。\n十月十二日。天候穏ならず。溽暑恰も温室に在るがごとし。\n十月十三日。石蕗花ひらく。\n十月十四日。北風吹きて寒し。七草会に出席す。\n十月十五日。空晴れしが風寒きこと十二月の如し。風邪の気味にて腹痛あり。\n十月十六日。百合子来りて病を問はる。\n十月十七日。病痊ゆ。小春の天気愛すべし。菊花満開なり。\n十月十八日。百合子草花一鉢を携へて来る。夕方松莚子より電話あり。百合子と共に風月堂に徃く。松莚子は歌舞伎座出勤中、幕間に楽屋を出で風月堂に来りて晩餐をなすなり。百合子と日比谷公園を歩み家に伴ひ帰る。百合子本名は智子と云ふ。洋画の制作には白鳩銀子の名を署す。故陸軍中将田村氏の女にて一たび人に嫁せしが離婚の後は別に一戸を搆へ好勝手なる生活をなし居れるなり。一時銀座出雲町のナシヨナルといふカツフヱーの女給となりゐたる事もあり。\n十月十九日。快晴。百合子正午の頃帰去る。花壇にチユリツプの球根を栽ゆ。\n十月二十日。百合子来る。倶に帝国劇塲に徃き池田大伍君の傑作名月八幡祭を看る。帰途雨ふり出したれば百合子余が家に来りて宿す。\n十月廿一日。百合子と白木屋に赴き、陳列の洋画を見る。帰途また雨。百合子又余の家に宿す。"
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"role": "user",
"content": " と、敵一千名だけ、さばを読んで、\n“――その怪物は、いずれも、重圧潜水服を着装せるところより推定するにいずれも海軍部隊なるものの如きも、ここに不可解なることは、彼等怪物はロケット爆弾の中にひそみて飛来したものであって、その結果より見れば、恰も空中に海がありて、そこより飛来したものと推定されるも、なぜ空中に海があるのか、わしにも分らない、中隊を率いるカモシカ中尉にも、おそらく分っちゃいないだろう......”\n カモシカ中尉は、おどろいて、また傍から、モグラ下士の横腹をついた。\n「おい、報告に、議論は不用だ。見て明かな事実だけを、簡潔に打電するのだ。――怪物どもが、こっちの方を透かして見ているぞ。早く無電を切り上げないと、危険だ」\n「はい、わかりました」\n モグラ下士は、また無電報告をはじめた。\n“さっきの続きだ。いいかね。――敵はいずれも全身から蛍烏賊の如き青白き燐光を放つ。わしは幽霊かと見ちがえて、カモシカ中尉から叱られた。敵は、その怪奇なる身体をうごかしてカモシカ中尉と余モグラ一等下士の死守する陣地に向い、いま果敢なる突撃を試みようとしている。この報告は、恐らくわが陣地よりの最後の報告となるべく、われらの壮烈なる戦死は数分のちに実現せん。金鷲勲章の価値ありと認定せらるるにおいては、戦死前に、電信をもってお知らせを乞う。スターベア大総督に、よろしくいってくれ。報告、おわり。どうだ、こっちの喋ったことは、分ったか”\n“......”\n 司令部の通信兵からは、何の応答もなかった。モグラ下士が、気がついてみると、いつの間にやら、背中の無電機から出しているはずの電波がとまっていた。\n(無駄なお喋りをしていたんだな)\n と、気がついて、幾度もスイッチを入れ直してみたが、機械はもう役に立たなかった。いつの間にやら、故障になっていたのである。\n「中尉どの。無電機が......」\n と、モグラ下士が、叫んだとき、その声を、おさえるようにカモシカ中尉が、彼の腕をつよくつかんだ。\n「おい、あれを見ろ。第一要塞は、とくの昔に敵に、占領されていたんだ」\n「えっ、占領されましたか」\n「ああ、あれを見ろ。要塞の上に、敵の旗が、ひらひらと、はためいているぞ」\n「どこです。闇夜に、要塞の上にたった旗が見えるのですか」\n「見えるじゃないか。もっと、こっちへ寄ってみろ」\n カモシカ中尉にいわれて、モグラ下士がその方へ頭を寄せてみると、なるほど、おどろいたことに、要塞のうえに、旗が見える。しかも、その旗には骸骨の印がついているのが、はっきり見えた。\n「あっ、骸骨の旗! あれは、アカグマ軍には見当らない旗印ですね。一体どこの国の旗ですかねえ」\n「さあ、おれにも分らない」\n と、中尉は、吐き出すようにいったが、\n「だが、あの旗が、怪物隊のものであることは、はっきりわかるじゃないか」\n「そうですかねえ。なぜですか、それは......」\n「なぜって、あの旗も、蛍光を放っているじゃないか。怪物の身体も、あのとおり、蛍光を放っている。だから、あの旗は、あの怪物どもの旗だということが、すぐ諒解できるじゃないか」\n「な、なるほど」\n そういっているとき、中尉は、おどろきの声をあげた。\n「あっ、怪物どもが、こっちへ向って歩きだした。おれたちを見つけたのかもしれんわい、早く、おれたちは死骸の真似をするんだ」\n 怪物隊は、何思ったかぞろぞろと、中尉の方へ歩いてくる。\n\n\n 女大使の身辺\n\n 第一岬要塞は、怪兵団のために占領せられてしまった!\n その飛報は、スターベア大総督を、椅子のうえから飛びあがらせるほどひどく愕かせた。\n 大総督は、直ちにエレベーターを利用して、地下二〇〇米の本営第〇号室に入った。\n そこは、ものすごいほど複雑な機械類にとり囲まれた密室だった。\n 潜水艦の司令塔を、もっと複雑に、そして五、六十倍も拡大したような部屋であった。電源もあれば、通信機も揃っているし、敵弾の防禦壁も完備していたし、地上及び地下における火器の照準や発射を司る操縦装置も、ここに集まっていた。通風機、食糧庫、弾薬庫も、その真下に、相当広い面積を占めていた。だから、万一、地上が悉く敵の手におちようとも、この地下本営一帯は、大要塞として独立し、侵入軍との間に、火の出るような攻防戦が出来ることは勿論、長期の籠城にも耐え、本国のレッド宮殿との連絡も取れ、ワシリンリン大帝とも電話で話ができるように構築されてあった。その昔のマジノ要塞にしても、ジークフリード要塞にしても、このアカグマ地下本営にくらべると、玩具のようなものだった。\n スターベア大総督のかけている椅子の前には、映画館の飾窓にスチール写真が縦横に三十枚も四十枚も貼りつけてあるように、さまざまな写真が貼り出してあった。\n いや、それは只の写真ではなかった。どの写真も、しきりに動いていた。多くは風景のようなものがうつっていたが、部屋の中の写真もあった。いずれも皆、映画のように動いていた。\n 映画ではない、テレビジョンである!\n 地上と地下とを問わず、戦場と味方の陣営とを問わず、重要な地点において現在どんな事件が起っているかは、すべてこのテレビジョンによって明かにされていた。\n 中には戦場を疾駆する戦車の中から、外をうつしているのもあって、ときどき、スクリーンが、ぱっと赤くなって、何にも見えなくなることがあったが、それは、そのテレビジョン送影機を積んだ戦車が、敵の爆弾か砲弾にやっつけられて、テレビジョンの機械もろとも、粉砕してしまうためだった。\n 赤外線を利用しているので、テレビジョンのスクリーンを通じて、夜の戦場が、昼間とまったく違わないほど明るく見えていた。\n そのテレビジョンは、同時に、無線電話装置も持っていて、スターベア大総督は、スクリーンの上の人物と話をすることも出来るのであった。\n いま大総督は、スクリーンにうつったZ軍司令官と、重大な会話をとりかわしている。\n「なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ」\n と大総督の機嫌は、はなはだ斜めであった。\n「はあ、はあ、はあ」\n Z軍団司令官は、ただもう恐れ入っている。\n「貴官を頼みにしていたばかりに、作戦計画は根柢から、ひっくりかえった。第一岬要塞が奪還できなければ、貴官は当然死刑だ。どうするつもりじゃ」\n「はあ、もう一戦、やってみます。が、なにしろ、敵は何国の軍隊ともしれず、それに中々手剛いのであります」\n「あの、骸骨の旗印からして、何国軍だか、見当がつかないのか」\n「はあ、骸骨軍という軍隊は、いかなる軍事年鑑にも出ていませんので......」\n「そりゃ分っとる。しかし、何かの節から、何処の軍隊ぐらいの推定はつくであろうが......」\n「はあ」\n と、スクリーンのうえのZ軍団司令官は、女のように、もじもじと身体をくねらせていたがやがて大決心をしたという顔付になって、\n「大総督閣下。では、小官から一つのお願いをいたします」\n「願い? 誰が今、貴官の願いなどを、聞いてやろうといったか」\n「いえ、いえ。閣下のおたずねの件を、小官のお願いの形式によって、申し述べます。でないと、万一、間違った意見を述べましたため、銃殺にあいましては、小官は迷惑をいたしますので......」\n「ふん、小心な奴じゃ。じゃあ、よろしい。貴官の希望するところを申し述べてみろ」\n「はい、ありがとうございます」\n と、司令官は、うれしそうに、スクリーンの中から、ぴょこんとお辞儀をして、\n「では、早速申上げます。小官のお願いの件は、こういうことでございます。どうか、閣下の御命令によりまして、キンギン国の女大使ゴールド女史の身辺を御探偵ねがいたいのであります」\n「なに、ゴールド大使の身辺を探れというのか。それはまた、妙なことをいい出したものじゃ」\n と、大総督は、太い髭を左右へ引張って、首をふったが、\n「よろしい、その願いは聞き届けた。早速しらべさせて貴官にも報告しよう。もう、下ってよろしい」\n スイッチは切られ、司令官の姿は、スクリーンから消えた。\n とたんに、別のスイッチが入れられ、秘密警察隊の司令官ハヤブサに、ゴールド大使の身辺調査の命令が与えられた。\n「ああ閣下。ゴールド大使の身辺は、只今、隊員をして監視中でございます。なにしろ、この前のお叱りもありましたので、あれから直ぐ、ゴールド大使に、わが腕利きの憲兵をつけてこざいます」"
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"role": "assistant",
"content": "「そうか、それは出来が悪くないぞ。では、すぐ報告ができるだろうな」\n「はい、それは勿論、出来ます。では、直ちに、かの憲兵の持っている携帯テレビジョンからの電流を、閣下の方へ切りかえます」\n「そうしてくれ。早くやるんだぞ」\n「はあ」\n 声の終るか終らないうちに、スターベア大総督の前の、別のスクリーンのうえに、キンギン国大使ゴールド女史の居間がうつりだした。\n 女史は、只一人居間にいて、テーブルのうえで、なにか丸いものを、しきりにいじくりまわしている。\n「おい、大使は、何をいじくりまわしているんだ」\n と、大総督が、スクリーンの中のハヤブサに訊いた。\n「えへへへ。女大使が手に持っていますのは、彼女の例の義眼でございますよ」\n「なに、義眼? ああ、そうか。義眼を手に持って何をしているのかね」\n\n\n 重大報告\n\n ここは、大洋を距てたキンギン民主国であった。\n「長官。では、幕僚会議の準備ができましたから、どうぞ」\n「おお、そうか」\n 戦争長官ラヂウム元帥は、自分の机のうえに足をあげて、動物漫画の本を読んでいたが、ここで、残念そうに、ぱたりと頁を閉じた。\n「一体、今は、何時かね」\n「ちょうど、十三時でございます」\n 声はするが、副官の姿は見えない。その声は、机の上においた水仙の花壜の中から、聞えてくるのであった。花壜の高声器だ。\n 十三時というと、午後一時のことであったが、ラヂウム元帥の自室はさんさんと白光があたって、春のような暖かさであった。\n「うむ、あと一時間すると、わしは家内と食事をすることになっているから、それまでに、会議を片づけてしまわないと困るんだ。じゃあ、早く階上へやってくれ」\n「はい、では会議のあります第十九階へ、移動いたします」\n「うむ、早くやれ!」\n 元帥は、椅子にふんぞりかえったまま、副官に対し、早く第十九階の会議室へやれと、いそがした。昔の人が、この会話をきいたら、元帥は気がちがっているのだと思うであろう。椅子に根の生えたように腰を下ろしながら、早くやれといっても、やりようがないではないか。\n いや、そうでもない。やりようはたしかにあるのだった。なぜなればとつぜん元帥の机上にある電気時計のような形をした段数計の指針が、二十四のところから、二十三、二十二と、数のすくない方へうごきだした。\n 階数が、だんだん減っていくのだ。ということは、元帥のいる部屋が、まるでエレベーターのように、上へのぼっていくのであった。もちろん、ここは地下建築なのであるから、上へいくほど、階数は減る。として、ついに第十九階へのぼった。\n すると、壁が、どしんと、下に落ちた。向うの部屋が、見とおしになった。\n 向うの部屋は、まるで幅の広い階段に、人間の首を植たように、二十近い首が並んで、こっちを向いていた。そして、一せいに、目をぱちぱちとやった。それは、元帥に対する敬礼であったのだ。\n「やあ」\n と、元帥は、ゆったりした言葉で、答礼をした。\n「では、諸君。会議をはじめる」\n と、元帥は、開会を宣した。階段に生えたたくさんの首と会議をはじめるなんて、変な光景であった。\n そのたくさんの首は、いずれも薄眼をひらいて、元帥の言葉を、しずかに待ちうけているようであった。\n そのとき、突然、また例の副官の声が、聞えた。\n「長官に申上げます。只今、第四参謀が盲腸炎で入院し、直ちに開腹手術をいたしますそうです」\n「なに、第四参謀が......」\n「そうであります。それで、第四参謀は会議を失礼したいと、申して参りましたがどういたしましょう」\n「盲腸炎なら、仕方がない。会議から退いてよろしいが、彼に、よくいって置け、盲腸などは、子供のとき取って置くものじゃ。つけて置くから、折角の重要会議に役に立たんじゃないかといっておけ」\n「はい。そう申します」\n「第四参謀は、下ってよろしい」\n 長官ラヂウム元帥が、そういうと、がたんという音がして階段に生えていた首の一つが、その場に前に倒れた。見るとその首は、本物の首ではなく、作り首だった。それは首からうえの作り物であった。そして、一種の電話機であったのだ。\n つまり首のその本人は、元帥の前にいないのである。遠くにいるのだった。ただ、彼を代表する電話機だけが、首の形をして、ラヂウム元帥の前に並んでいたのだ。昔は、会議をするときには、方々から参謀が参集したものである。今は、勝手な場所にいて、ただ、自分が背負っている携帯無電機のスイッチを入れると、今元帥の前の作り首が、むっくり起き上る。これが(はい、電話で、お話を聞いていますよ)という信号なのである。\n ラヂウム元帥は、そういう作り首に向って、会議を宣言したのだ。\n「......只今、イネ州駐在のゴールド大使より、非常警報が届いた。アカグマ国の軍隊は、続々集結している。また予備兵たちへは、動員令が発せられたそうである。彼等は、はりきって、すでに発砲している。第一岬附近は、戦場のようだ。国軍はしきりに東方へ向って、移動を開始し、イネ州の東海岸には、艦隊が出発命令を待っているそうじゃ」\n 元帥は、そういって、血の通っていない首の列に、ずーっと、目を走らせた。\n\n\n 殺人電気\n\n「元帥閣下。その情報は、もちろん、信ずべきでありましょうな」\n と、第七番の首が叫んだ。リウサン参謀の声だった。\n「もちろん、信じて、さしつかえない。ゴールド大使は、優秀なる外交官であり、且つスパイだ。彼女は、さっき、彼女の義眼に仕掛けてある精巧な小型無電機を用いて、こっちへ話しかけてきたが、間もなく、もう一度、諸君の前に、なにか報告をしてくる筈じゃ」\n ラヂウム元帥は、そこで言葉を切って、机の引出しをあけた。そして、箱の中から、チューインガムを引張り出すと、それを口の中に放りこんで、にちゃにちゃやりだした。\n「長官、ゴールド大使からの電話です」\n 副官の声だ。いよいよ、再び女史の小型無電機が、報告を伝えてくるらしい。\n「よし、こっちへ線をつなげ」\n と、ラヂウム元帥は、命令した。\n「はい、只今、つなぎます」\n 副官の声が引込むと、入れ替りに、ゴールド大使の、鼻にかかったなまめかしい声が聞えてきた。\n「ああ、もしもし。こっちは、ゴールド大使です。スターベア大総督は、ついに第一次から第十六次までの動員を完了しました。渡洋連合艦隊は、あと三時間たてば、軍港を離れるそうです......」\n「一体、彼奴らは、どこの国と戦うつもりなのですかね。本当に、われわれを対手にするつもりですかね」\n と、ラヂウム元帥は、問いかえした。\n「それは、もちろん、そうなのです。この無電は、秘密方式のものですから、なにをいっても大丈夫でしょうから、いいますが、この前もスターベア大総督は、太青洋の彼方――といいますと、わが祖国、キンギン国のことなんですが、その太青洋の彼方に、別荘を作りたい。そして、一週間はこっちで暮し、次の一週間は、そっちで暮し、太青洋を、わが植民地の湖水として、眺めたいなどと、申して居りましたわよ」\n「そうですか。そいつは、聞き捨てならぬ話ですわい。太青洋の伝統を無視して、湖水にするつもりだなんて、許しておけない暴言だ。よろしい。スターベアが、そういう気なら、戦争の責任は、悉く彼等にあるものというべきです。そういうことなら、こっちも遠慮なく、戦うことができて、勝手がよろしい」\n と、元帥は、憤慨して、\n「さあ、それではゴールド大使。キンギン国内における軍隊の動きについて、貴下の集められた情勢を、われわれに詳しく話していただきたい」\n「はい、では申上げましょう。まずわが密偵の一人は......」\n と、ゴールド女史は、長々しい報告を喋りはじめた。\n 元帥は、チューインガムを、くちゃくちゃ噛みつつ、女史の報告に耳を傾けていたが、それから間もなく、彼はどうしたものか、うんといって、両手で虚空をつかむと、その場に悶絶してしまった。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": " 戸外は大雪よ、貴方。\n ......あら、簪が揺れるわ、振落そうとするんじゃあなくって?......邪慳よ。そうしといて頂戴、後生だから。\n 一時、......無念、残念に張詰めた精もつきて、魂も抜けたように、ぐったりとなったのが、はッと気が着いて、暗い間の内を見なさいますとね、向う斜の古戸棚を劃った納戸境の柱に掛っていた、時計がないの。\n 時計がさ、御新造さんが、その振袖の時分に、お狂言か何かで、御守殿から頂戴なすッたって、......時間なんか、何時だか、もう分らないんだそうですけれど、打つと、それは何ともいえない、好い音がするんです。一つ残った記念だし、耳の遠い人だけに、迦陵頻伽の歌のように聞きなすったのが、まあ! ないんでしょう。目のせいか、と擦りながら、ドキドキする胸で、棒立ちに、仕事場を出て見なすったそうですがね、......盗まれたに違いない。\n ――そういえば何だか、黒い影が壁から棚前を伝った気がする、はッ盗まれた、とお思いなさると、上下一度にがッくりと歯が抜けた気と一所に、内がポカンと穴のように見えて、戸障子も、どんでん返し――ばたばたと、何ですかね、台所の板の間を隔ての、一枚破襖に描いた、芭蕉の葉の上に、むかしむかしから留まっていた蝸牛が、ころりと落ちて死んだように見えたんですとさ。......そこが真白な雪になりました......突抜けに格子戸が開いたんです、音も何も聞えやしない。」\n「もっともだね、ああ、もっともだとも。」\n と呻くように多津吉は応じた。\n「葉へも、白く降積ったような芭蕉の中から、頬被をした、おかしな首をぬっと出して、ずかずかと入った男があるんです。袴の股立を取っている。やあ、盗賊――と近常さんが、さがんなさると、台所から、お媼さんが。――\n 幕末ごろの推込じゃアあるまいし、袴の股立を取った盗賊もおかしいと、私も思ったんですけれどもさ。その股立が、きょろッとして、それが、慌てて頬被を取ると、へたへたと叩頭をしました。(やあ、大師匠、先生、お婆々様ッ。)さ、......お婆々様は気障だけれども、大層な奉りようなんですとさ。\n 柴山運八といって、近常さんと同業、錺屋さんだけれども、これは美術家で、そのお父さんというのが以前後藤彫で、近常さんのお師匠さんなんですって。――いまは、その子運八の代で、工場を持って、何とか閣で、大きな処を遣っている。そこの下職人が駆込んだ使いなんです。もっとも見知合いで、不断は、おい、とっさんか、せいぜい近小父、でも、名より、目の方へ、見当をつける若いものが、大師匠、先生は......ちょっと、尋常事ではないでしょう。\n 大切な事を頼みに来たの。\n あの、大博覧会の出品ね――県庁から、この錺職へお声がかりがある位ですもの。美術家の何とか閣が檜舞台へ糶出さない筈はないことよ。\n 作は大仕掛な、床の間の置物で、......唐草高蒔絵の両柄の車、――曳けばきりきりと動くんです。――それに朧銀台の太鼓に、七賢人を象嵌して載せた、その上へ銀の鶏を据えたんです。これが呼びものの細工ですとさ。\n 工芸も、何ですか、大層に気を配って、......世の泰平をかたどった、諫鼓――それも打つに及ばぬ意味で......と私に分るように、天狗様は言ったんですがね。苔深うして何とかは分りませんでしたわ。......塚に苔は生えていません。」\n と扇子の要で、軽く払うにつれて、弱腰に敷くこぼれ松葉は、日に紅く曼珠沙華の幻を描く時、打重ねた袖の、いずれ綿薄ければ、男の絣も、落葉に透くまで、薄の簪は静である。\n「......その諫鼓とかの出品は、東京の博覧会で感状とか、一等賞とか、県の名誉になったそうです。――ところでですわね、股立を取った趣は、羽にうつ石目一鏨も、残りなく出来上って、あとへ、銘を入れるばかり、二年の大仕事の仕上りで、職人も一同、羽織、袴で並んだ処、その鶏の目に、瞳を一点打つとなって、手が出ません、手が出ないんですとさ。(おいでを願って、......すぐにおいでを願って、願って、大師匠、先生に一鏨、是非とも、)と言うんだそうです。......城下でも評判だったと言いますし、師匠の家だし、近常さんも、時々仕事中に、まあね、見学といった形で、閣へ行きなすったものですから、鶏の工合は分っています。\n お媼さんは、七輪の焚落しを持っていらっしゃる、こちらへと、使者を火鉢に坐らせて、近常さんが向直って、(阿母、一番鶏が鳴きました。時計はのうても夜は明けます。......鶏の目を明けよ、と云うおおせ、しかも、師匠のお家から、職人冥加に叶いました。御辞退を申す筈なれども、謹んで承ります。)(おう、ようしてござれ。)お使者が、(やあ、難有い。)となりました。\n お年よりが、納戸の葛籠を、かさかさとお開けなさるのに心着けて、(いや、羽織だけ、職人はこれが礼服。)と仕事着の膝を軽くたたいて、羽織を着て、仕事場の神棚へ、拝をして、ただ一つ欅の如輪木で塵も置かず、拭込んで、あの黒水晶のような鏨箪笥、何千本か艶々と透通るような中から、抽斗を開けて取ろうとして――(片目じゃろうね。)――ッて天狗様が、うけ売のうけ売で話をする癖に、いきなり大な声をしたから、私吃驚した!......ちょっと、おまけに、大目玉八貫小僧のように、片目を指の輪で剥き出すんですもの。......\n 職人も吃驚しましたって、ええと聞くと、(片目は富さんが入れましたでござりましょう。)――この富さんとかいうのはね、多勢職人をつかった、諫鼓、いさめのつづみの......今度の棟梁で、近常さんには、弟分だけれど相弟子の、それは仕事の上手ですって。\n 近目と貧乏は馬鹿にしていても、職にたずさわる男だけに、道の覚悟はありました。使者の職人は、悚とするなり、ぐったりと手を支きましたとさ。言われる通り、たった今、富さんが、鶏の瞳を入れようとして、入れようとして幾たびか、鉄鎚を持ったんだそうです。(片目は見事に入れますが、座をかえて、もう一つの目は息が抜けます、精が続かない。こうではなかったと思うが、お恥かしい、)と、はたで何と勧めても、額から汗を流して、(兄哥を頼みましょう、お迎え申して、)という事だったのを、近常さんが、ちゃんと、......分っているんですもの――富に両方の目は荷に余る、しかし片目は入れたろう、とそれで、そう云って聞いたんですわね、......凄かったわ、私......聞いていて。......\n(いや、両方とも先生に、)というのを聞いて、しばらく熟と考えて、鏨を三本、細くって小さいんですとさ。鉄鎚を二挺、大きな紙入の底へ、内懐へしっかりと入れて、もやもや雲の蝋型には、鬱金の切を深く掛けた上、羽織の紐をきちんと結んで、――お供を。――\n 道は雪で明いが、わざと提灯、お仏壇の蝋燭を。......亡き父はじめ、恋女房。......」\n 振袖の声が曇ると、多津吉も面を伏せた。\n「御先祖へも面目に、夜の錦を飾りましょう。庭の砂は金銀の、雪は凍った、草履で可、......瑠璃の扉、と戸をあけて、硨磲のゆきげた瑪瑙の橋と、悠然と出掛けるのに、飛んで来たお使者は朴の木歯の高下駄、ちょっと化けた山伏が供をするようだわ。こうなると先生あつかい、わざと提灯も手に持ってさ。\n パッと燃え立つ毛氈に。」\n 夕日は言に色を添え、\n「鶏が銀に輝やいて、日の出の紅の漲るような、夜の雪の大広間、蒔絵の車がひとりでに廻るように、塗膳がずらりと並んで、細工場でも、運八美術閣だから立派なのよ。\n 鶏を真中にして、上座には運八、とそれに並んで、色の白い、少し病身らしいけれども、洋服を着た若い人で、髪を長くしたのが。」\n と、顔を斜に見越しながら、\n「貴方なんぞも遣りそうな柄だわね、髪を長く......ほほほ、遣った事があるんでしょう。似合うかも知れない事よ。」\n「まあ、可い。......その髪の長いのは。」"
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"role": "assistant",
"content": "「東京の工芸学校へ行っている運八の息子なの......正月やすみで帰っていて、ここで鶏に目が入り次第、車を手舁で床の正面へ据えて、すぐに荷拵えをして、その宰領をしながら、東京へ帰ろう手筈だったそうですわ。......仕上りと、その出発祝を兼ねた御馳走の席なのよ。\n 末座で挨拶をして、近常さんは、すぐに毛氈の上をずッと、鶏のわきへ出なさると、運八の次に居た、その富さんが座を立って出て、双方でお辞儀をして、目を見合って、しばらくして、近常さんが二度ばかり黙って頷くと、懐中の鏨を出したんです。\n 髪の長い、ネクタイの気取ったのが、ずかずかとそこへ出て来て、\n ――やあ、親仁。――\n ――これは若旦那様。――\n ――僕の学校の教授がね、教授、教授がね、親仁の作を見て感心をしていたよ。どこかで何か見たんだって。――\n ――東京の大先生が、はッ恐れ多い事で。――\n ――鏨を見せたまえ。――\n ――いや、くるいが出るとなりません。――\n ――ふウむ、何かね、鳩の目と、雀の目と、鳩......たとえばだな、鳩の目と、鶏の目と、使う鏨が違うかね。――\n ――はあ、鈴虫と松虫とでも違いますわ。――\n 一座が二十六七人、揃って顔を見合わせると、それまで、鼻の隆い、長頤を撫でていた運八が、袴のひだへ手を入れて目礼をしたんですって。\n 鉄鎚をお持ちの時、手をついていた富棟梁が、つッとあとへ引きました。\n その時に近常さんは、羽織の紐を解いて......脱がないで、そして気構えましたッて。......」\n\n 振袖は扇子を胸に持据えて、\n「......片膝を軽く......こうね、近常さんが一方へお引きなさると。」\n 簪は袖とともに揺れつつも、\n「鏨を取った片肱を、ぴったりと太鼓に矯めて、銀の鶏を見据えなすった、右の手の鉄鎚とかね合いに、向うへ......打つんじゃあなく手許へ弦を絞るように、まるで名人の弓ですわね、トンと矢音に、瞳が入ると、大勢が呼吸を詰めて唾をのんでいる、その大広間の天井へ、高く響いて......」\n ハッと多津吉が胸を窪ませ、身を引くのと、振袖が屹と扇子を上げたのと同時であった。――袖がしなって、両つに分れた両方の袂の間が、爪さき深く、谷に見えるまで、簪の薄の穂のひらひらと散って落つる処を、引しめたままの扇子で、さそくに掬ったのが、かえって悠揚たる状で、一度上へはずまして、突羽子のようについて、飜る処を袂の端で整然と受けた。\n「色気はちょっと預りましょうね。大切な処ですから。......おお、あつい。......私は肌が脱ぎたくなった。......これが、燃立つようなお定まりの緋縮緬、緋鹿子というんだと引立つんですけれどもね、半襟の引きはぎなんぞ短冊形に、枕屏風の張交ぜじゃあお座がさめるわね。」\n と擦るように袖を撫でた。その透切した衣の背に肩に、一城下をかけて、海に沈む日の余波の朱を注ぐのに、なお意気は徹って、血が冴える。\n「でも、一生懸命ですわ。――ここを話して聞かせた時のウイスキイ天狗の顔色を御覧なさい。目がキラキラと光ったんです。......近常さんが、その鏨で、トンと軽く打って、トンと打つと――給仕に来ていた職人の女房たち、懇意の娘たちまで、気を凝らして、ひっそりした天井に、大きく谺するように響くのに、鶏は、寂と据って、毛一つも揺れなかったそうなんですよ。鏨をきめて、熟と視ていなさるうちに、鉄鎚が柔かに膝におりると、(可。)とその膝を傍へ直して、片側へ廻って、同じように左の目を入れたんですとさ。......天狗の目がまた光るのよ。......\n 一時、何となく陰々とした広間が、ぱッとまた明くなりますとね、鶏がくるりと目を覚まして、莞爾笑ったように見えたんですって。――天狗が、同じように笑ったから不気味でしたの。\n そこへ、運八美術閣をはじめ、髪の長いのはもとよりですわね、残らず職人が、一束ねに顔を出す......寒の中でしょう、鼻息が白く立って、頭が黒いの。......輝く鶏の目のまわりに。\n 近常さんと、富さんは、その間に、双方手をつき合って挨拶をなさいました。それから、また直ぐに、近常さんが、人の顔と頭の間で、ぐっと鶏の蹴爪を圧えたんですってね、場合が場合だもんだから、何ですか......台の車が五六尺、ひとりでにきりきりと動出すのに連れられて、世に生れて、瞳の輝く第一番に、羽搏き打って、宙へ飛ぼうとする処を、しっかり引留めたようでしたとさ。\n それはね、近常さんが、もう一本の鏨で、――時を造る処ですから、翼を開いていましょう。――左の翼の端裏へ、刻印を切ろうとなすったんです。絵ならば落欵なんですわね。(老夫! 何をする?)運八がね、鉄鎚の手の揚る処を、......ぎょっとする間もなかったものだから、いきなりドンと近常さんの肩を突いて、何をする、と怒鳴りました。これに吃驚して、何の事とも知らないで、気の弱い方だから、もう、わびをして欲しそうに、夥間の職人たちを、うろうろと眗しながら、(な、なんぞ粗忽でも。)お師匠筋へ手をつくと、運八がしゃりしゃりと、袴の膝で詰寄って、(汝というものは、老夫、大それた、これ、ものも積って程に見ろ。一県二三ヶ国を代表して大博覧会へ出品をしようという、俺の作に向って、汝の銘を入れる法があるか。退れ、推参な、無礼千万。これ、悪く取れば仕事を盗む、盗賊も同然だぞ。余りの大ものに見驚きして、気が違いかけたものであろう。しかし、詫びるとあれば仔細ない。一杯たらそう。)いやな言だわね、この土地じゃあ、目下に、ものを馳走などする事を(たらす)ッて言うんですって、(さ、さ、さ、皆、膳につけ、膳につけ。)(いや、あの状でも名誉心があるかなあ。活きとるわけだ。)と毛の長い若旦那は、一番に膳について、焼ものの大鯛から横むしりにむしりかけて、(やあ、素晴しい鯛だなあ。)場違ですもの、安いんだわ。\n 沈み切っていた、職人頭の富さんが、運八に推遣られて坐に返ると、一同も、お神輿の警護が解けたように、飲みがまえで、ずらりとお並びさ、貴方。\n 近常さんは、驚いたのと、口惜いのと、落胆したのと、ただ何よりも恥かしさに、鏨と鉄鎚を持ったなりで......そうでしょうね――俯向いていなさいましたって、もうね、半分は、気もぼうとしたんでしょうのに、運八の方では、まだそうでもない、隙を見て飛ついて、一鏨、――そこへ掛けては手錬だから――一息に銘を入れはしまいかと、袴の膝に、拳を握って睨んでいる。\n 私なんぞ、よくは分りはしませんけれど、目はその細工の生命です。それを彫ったものの、作人と一所に銘を入れるのは、お職人の習慣だと言いますもの。――近常さんのおもいでは、せめて一生に一度――お国のため、とまで言って下すった、県庁の課長さんへの義理、中絶はしても、資本を出した人への恩返し。......御先祖がたへの面目と、それよりも何よりも、恋女房の御新造さんへ見せたさに、わざと仏壇の蝋燭を提灯に、がたくり格子も瑠璃の扉、夜の雪の凍てた道さえ、瑪瑙の橋で出なすったのに......ほんとうにその時のお胸のうちが察しられます。\n 運八の女房さん――美術閣だから、奥さん――が、一人前、別にお膳を持って、自分で出ました。......ちょっと話があるんです......この奥さんは、もと藩の立派な武家のお嬢さんで、......近常さんの、若くて美男だった頃、そちらから縁談のあった事があるんですとさ、――土地の按摩はくわしいんですわね――(見染められたんだ、怪しからん。)――そう云って、お天狗は、それまでの気組も忘れて、肩を大揺りに、ぐたぐたしたのよ。\n もっとも、横合から、運八のものになった事はお話しするまでもないでしょう。姿も、なよやか、気の優しい奥さんですって。膳をね、富さんの次へ置こうとするのを、富さんが、次へ引いて、上の席へ据えました。そして二人で立って来て、富さんは膝を支いて手を挙げる。(さあ、ね、近常さん。)と奥さんが背中を擦るようにして言われたので、ハッとする。鶏の涙、銀の露、睫毛の雫。――腰を立てても力のない、杖にしたそうな鉄鎚など、道具を懐にして、そこで膳にはついたんだそうですけれど、御酒一合が、それも三日め五日めの貧の楽みの、その杯にも咽せるんですもの。猪口に二つか、三つか、とお思いなすったのが、沈んでばかり飲むせいか、......やがて、近常さんの立ちなすった時は、一座大乱れでもって、もうね、素裸の額へ、お平の蓋を顱巻で留めて、――お酌の娘の器用な三味線で――(蟷螂や、ちょうらいや、蠅を取って見さいな)――でね、畳の引合せへ箸を立てて突刺した蒲鉾を狙って踊っている。......中座だし、師匠家だし、台所口から帰る時、二度の吸ものの差図をしていなすった奥さんが、(まあ、......そうでございますか。――お媼さんにお土産は、明朝、こちらから。......前に悪い川があります、河太郎が出ますから気をつけてね。)お嬢さんらしいわね、むかアしの......何となく様子を知って、心あっての言でしょう。河太郎の出る、悪い川。――その台所まで、もう水の音が聞えるんですって、じゃぶじゃぶと。......美術閣の門の、すぐ向うが高台の町の崖つづきで、その下をお城の用水が瀬を立てて流れます。片側の屋敷町で、川と一筋、どこまでも、古い土塀が続いて、土塀の切目は畠だったり、水田だったり。......"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "「――――」\n「わるく思ってくれるなよ、お筆さん、......親類会議をひらいておまえさんに死んでもらうことにとりきめたんだ――なアみなの衆」\n 庄兵衛は冷たい顔をねじむけて、親類たちの顔をみわたしました。\n「――――」\n が相手の親類たちは、答えるものもなく、顔を見合せてだまっております。\n「このとおり、ひとりも異はないようだ。あすという日は、お上からどんなお達しがあるかわからない、善はいそげだ。このとおり用意までしてあるが――」\n 庄兵衛はそういいながら用意の三宝のうえの白い布をとりはらいました。その下からあらわれたのは、細身の女持短刀がひとふり、なみいる親類方も、さすがにかたずをのみますが、店の外にあかあかと燃えるカガリ火や、役人小者のザワめく声をきくと、すすんでお筆の自害をとめる勇気もくじけます。\n「では、みなさま、私は、母上、姉上のおそばにまいります。ごめんくださいまし」\n この期にのぞんでも、中老出雲のお筆は、わるびれたいろもありません。しずかに手をさしのべて短刀をとると、右の肩から袷の袖をぬいで、純白の下着のたもとに、キリキリと抜身の短刀の柄のあたりを巻き、肌おしぬいだ覚悟の胸もとへ、\n「あッ、待った」\n 雨戸が一枚、外からの体当りでパッとひらくと、つづいてつぶてが一つ、闇をきって、出雲のこぶしをハタとうちます。\n「アッ」\n 短刀はポロリと落ちました。\n「なんだ、なんだ」\n たちさわぐ主人庄兵衛と七人の親類たち。そのまえへカッと紅蓮のほのおが渦をまくのです。\n「アッ、火事」\n おどろきあわてたのもむりはありません。どこから入ってきたか、地獄変相図にあるような大火焔車が一台、縁がわから座敷へはいるとみるや、六尺あまりの赤鬼、青鬼、鉄棒をつきならして飛びこみ、やおら主人庄兵衛のえりがみとってその火焔車にほうりあげ、座敷から座敷へ、縁がわから縁がわへと、ほのおをあげて走りまわるのです。\n「ア、あッ、助けてくれッ」\n 主人庄兵衛は、巴になってもえさかるほのおの中に、必死に悲鳴をあげますが、七人の親類たちはじめ、店じゅうの番頭小僧、あまりのおそろしさにちかづく者もなく、ただ、あれよあれよとたちさわぐばかりです。\n「どうした、さわがしいぞッ」\n 警備の役人小者、あまりのさわがしさに、庭からドッと飛びこんできましたが、その時はもう、火焔車のほのおもおさまり、どこへ失せたか、赤鬼青鬼のすがたも見えません。\n「火の車が、火の車が」\n とゆびさす人びと、その指の先をみると、縁がわの上になんのへんてつもないただの大八車を引きあげその車のうえに大の字に縛りつけられた主人庄兵衛、気をうしなって泡をふいているではありませんか。\n「出雲どのは――見えないではないか」\n 役人の頭ははじめて気がつきました。増田屋の奥の八畳――この部屋におしこめられていたはずの中老出雲ことお筆は、どこへどうして消えてしまったか、そこには影も形もなく、ただ抜身の短刀だけ、ざぶとんの上に冷たく光っているのでした。\n\n怨は彦左ヱ門\n\n 天魔太郎と小僧の虎吉と、野州の熊五郎の三人は、増田屋から中老出雲のお筆をすくいだして、仮の足場の鎌倉河岸のかくれ家にかえると、そこに待っていた月子とお千代にむかえられました。\n「熊五郎、おまえの赤鬼はうまかったぞ」\n 天魔太郎はめいめいの仮装をとかせながら、野州の熊五郎の活躍ぶりをほめております。\n「おれはどうでした、ずいぶんうまくやったつもりだが――」\n 虎吉は、ほめられないのが不足のようです。\n「うまかったよ。でも、少しからだが小さくて、青鬼の赤ん坊のようだったよ。おや、まだ額の角なんかつけているのか」\n「ヘッ、熊五郎ぐらいの年になりゃ、おれだってノッポになりますよ」\n 虎吉は負けおしみをいって、みんなに笑われております。\n「ところで、お筆をいつまでも江戸へおくわけにはゆくまい。虎吉は丹沢山のみんなのいるところまで、送ってやってくれないか」\n「お安いご用だが、もう少し江戸であばれさせてくださいよ。精いっぱい働きますよ」\n 増田屋の火の車さわぎがおもしろかったので、こればかりは天魔太郎のいうことをきこうともしません。\n「いえ、いいのよ。私には相州厚木生れのしんせつな腰元がありますから、道さえ教えていただけば、それに送ってもらいますから」\n 出雲のお筆は虎吉の気のすすまないようすを見ると、こういいだすのでした。お筆の腰元というのは、大奥からさがって、このきんじょの叔父さんのところにいる、お兼という十八の娘、その晩のうちに呼んでくると、もとの主人出雲のお筆にあって、手をとりあって泣いてよろこびました。\n それから二、三日たつと、お筆とお兼を丹沢山の山塞におくってやり、天魔太郎はあらためて妹の月子、泉田筑後の娘お千代、小僧の虎吉、野州の熊五郎をあつめて、これからさきの活動のことを相談しました。\n「父上、駿河大納言忠長卿のこころざしをついで、将軍家光に思いしらせるためには、八重の守りをうちやぶり、千代田の奥に忍びこんで、本懐をとげるまでに、心外道人の教えにしたがって、百人のひとを助けて徳をつまなければならぬ」\n「――――」\n それはしずかな夏の夜でした。八畳敷をピタリとしめきって、天魔太郎は声をひそめます。\n「百人のひとを助けるといっても、はじを知らない非道の悪人を助けてはなんにもならない。さいわい父うえ駿河大納言のけらいで、将軍家光ににくまれはばかられ、伝馬町で永牢をおおせつけられたとらわれの者や、徳川に弓ひいて、ひとしれず土の牢屋にいれられている者の数もすくなくはなく、そのうえ、大阪城の残党や、天草のキリシタン宗徒で、いのちのつづくかぎり、逃げまわっている者もずいぶんあることだろう」\n「――――」\n「その徳川にそむいた人々をかたっぱしからすくいだせば、百人にも二百人にものぼることだろうが、おれはその仕事をはじめる前に、もっと痛快で、もっともっと胸のすく仕事を考えているのだよ」\n「なんですそれは、教えてくださいよ」\n ものずきでは人におくれをとらぬ虎吉が、一番さきに膝をのりだしました。\n「将軍家光をたすけて、父上駿河大納言につめ腹をきらせた将軍家のゴマすり老中や、お茶坊主のような家来に、一人ひとりつらい目を見せてやりたいのだ」\n「たとえば?」\n「松平伊豆守、酒井左ヱ門尉、ならべると数かぎりもないが、第一番にシャクにさわるのは、国松君といわれた幼少のころから、父上を目の敵にして、とうとう死地においこんだ大久保彦左ヱ門」\n「えッ」\n きくものはみんなキモをつぶしました。\n 大久保彦左ヱ門忠教といえば、徳川家康以来の名臣で、十六歳のときから戦場の功名数しれず、大名にも取りたてられるはずのところを、みずから八千石の旗本にあまんじ着坐席ご免の将軍ご意見番として、江戸じゅうにも人気ある老武士です。\n その人気者の老人を、親の敵とねらう天魔太郎にも、またそれだけの理由がありました。家光を将軍のあととりにおしたてて、駿河大納言忠長をしりぞけたのは、私心はなかったにしても、大久保彦左ヱ門と春日局のたくらみで、忠長の子の天魔太郎からいえば、まさにこれはふぐたいてんの親の敵です。\n このいきさつを、こまごまと天魔太郎に説明されて、月子もお千代も、虎吉も熊五郎もようやくなっとくしました。\n「なるほど、そうきけばもっともしごくだ。また火焔車でもけしかけましょうか」\n 虎吉も、もう太くもない腕などをさすっております。\n「いや、こんどは別の術だ。おもしろいぞ、虎吉」\n 天魔太郎は胸中なにを秘めたか、まんまんたる自信です。\n\n 大久保彦左ヱ門は、その夜机にむかって、思いでの戦記を書いておりました。白髪の小さいマゲ、大きいベッコウの老眼鏡をかけて、五十年もの昔のことを思いだし思いだし、自分のことはともかく、徳川家のこと、いまはなき戦友たちのことを、せっせとつづっているのでした。\n 彦左ヱ門は、がんこ一徹な武人でしたが、思いのほかに文筆にすぐれ、「三河物語」という本は、彦左ヱ門が書いたのだという説もあります。\n 彦左ヱ門は筆をやすめて、ポンポンと手をたたきました。\n この屋敷には、腰元も女もいるはずはなく、おなじ老用人の笹屋喜内をよんで、熱い茶を一ぱいもらおうと思ったのです。\n まもなくうしろの唐紙がスーッと開いて、まだ注文しないお茶をもってきて、\n「召しあがりませ」"
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"content": " そっと膝のそばへ茶わんをすべらせたのは、かわいらしい女の子のこえです。\n ハッとおどろいてふりむくと、なんとそれは、髪を切りさげて、むらさき色の単衣、赤い帯はしめておりますが、顔をみると、目も鼻も口もなく、お白粉をぬったしゃもじに、着物をきせたようなノッペラ坊です。\n「な、何者だ、おまえは」\n 大久保彦左ヱ門、さすがにおどろきはしませんが、膝をたてなおしてどなりつけました。天下三大音とうたわれた大きな声、たいがいの者ならたったそれだけで目をまわすのですが、ノッペラ坊の少女は、\n「お化けよ」\n と、どこから声がでるのか、口も目も鼻もない少女が、かわいらしい声で答えるのです。\n「おのれ、妖怪。大久保彦左ヱ門をみそこなったかッ」\n 手をのばすとノッペラ坊のむなぐらをつかみ、引きよせざま、パッと投りました。年はとってもさすがに非凡の腕まえ、まともにゆくと、唐紙をつきやぶって、縁がわに叩きつけられたことでしょう。\n が、ノッペラ坊は投げられながら二つばかり宙がえりして、たたみの上にヒョイと立ちます。よく見ると、それはちがい棚においてあった、銀の香炉ではありませんか。\n「おじいさん、勇ましいぜ」\n 見ると反対がわから、ケシ坊主の三ツ目小僧がひとり、彦左ヱ門のまえへ来て、ペロリと赤い舌をはくのです。\n「おのれッ」\n と、いうしたから、\n「肩でももんでやろうか。じまん話をかいていると、つかれるぜ」\n ふりかえると、カッパ小僧、大天狗、小天狗、官女、ロクロッ首、見越の入道、さながら相馬の古御所の妖怪変化が、うしろから、横から、もりあがるように重なりあって、八畳の部屋いっぱいに、ひしめくのです。\n「や、でたな、化物ども。大久保彦左ヱ門の手なみを見ろ」\n 彦左ヱ門は、もはやこれまでと思って、左がわにおいた、寸のびの一刀を引きぬきざま、左から右へ、サッとひとなぎ、必殺の太刀をふるのです。\n「ハッハッハッハ、ハッハッハッ」\n と部屋じゅうにとどろく笑いの大合唱、彦左ヱ門の一刀は手ごたえもなく右にながれて、部屋のなかはパッと明るくなり、妖怪変化はおろか、気のきいた猫の子もおりません。\n「ハッ、ハッ、ハッ、彦左ヱ門おこったか」\n 笑いの合唱はあきらかに縁がわから庭にうつりました。\n 一刀をうしろに引いて、障子をサッと開くと、どこからさすのか、明るい光のなかに、藤色のふりそでに精好の袴、気品すぐれた少年がひとり、灯籠の上につったって、何やら印をむすんでいるのです。\n「や、おのれか。曲者ッ」\n 彦左ヱ門はとびだして一刀に切ってすてようと思いましたが、なんとしたこと、部屋一ぱいに氷かビードロをはりつめたようで手を動かすことも、足をはこぶこともできません。\n「ぶれいだぞ、彦左」\n 灯籠のうえの少年はいうまでもなく天魔太郎、ここで大久保彦左ヱ門にうらみを果たしにきたのですが、このがんこ一徹の老武士を見ると、心のそこからしたしみがわいてきて、死期のちかいものを殺す気にもなりません。\n「おまえはなんだ」\n「そのほうには主人すじ、駿河大納言の一子、天魔太郎だ」\n「な、なんと......」\n 彦左ヱ門もさすがにキモをつぶしたようです。\n「あのじじいをやっつけましょうか」\n 石灯籠の下から、天魔太郎のすそを引いたのは、小僧の虎吉でした。\n「いや、ほっておけ。にくいおやじだが、徳川家のためには無二の忠臣だ」\n 天魔太郎はすそをかえして、サッととびおりました。\n「まて、まて」\n「彦左、しばらくその白髪首をあずけたぞ」\n 天魔太郎は、目ばかりパチパチやっている彦左ヱ門をうしろにのこして、夏の夜の闇のなかにすがたをかくしてしまいました。\n\n智恵伊豆と人魚\n\n 大久保彦左ヱ門は、徳川家のためには無類の忠臣でしたが、徳川の家を思うあまり、国松君の駿河大納言をしりぞけ、その兄弟の家光を守りたてて三代将軍を継がせたので、もとよりなんの私心もあったわけでもありません。\n でも、人間はまことにがんこで強情で、負けずぎらいをねりかためたようなおやじでした。あんまりしゃくにさわるから、天魔太郎の幻術でキリキリまいをさせられたことなどは、もとよりおくびにも出しません。\n 世間がなんにも知らずにいると、つぎのおはちはとうじ老中第一の利口もの、さくねん島原の乱を平定して武勇のほまれ日本じゅうになりひびいたばかりでなく、後年由井正雪一味のむほんのくわだてまで見やぶって、智恵伊豆という異名をとった――参州吉田の城主七万石、松平伊豆守信綱の方へとまわっていったのです。\n それは五月になったばかりのある夜、伊豆守信綱は、寝所のなかで、天下の政治のことなどを、あれや、これやと考えておりました。青だたみが目にしみるようで、絹の吊夜具がフンワリとからだをつつむ中に、伊豆守は目をつぶって、しずかに思いをこらしております。\n「お、おや?」\n にわかに雨が降ってきたようすです。さっきまで星の降るような、うつくしい夜だったが、と、思いながら目をひらくと、有明の絹あんどんがスーツと暗くなって、ひさしをたたく雨の音がますますはげしく、それがやがて、数千万挺の鉄砲をうちこむような、おそろしい音になります。\n「これはたまらぬ」\n と思って、宿直の家来をよぼうとしましたが、どうしたことか、少しも声がでません。そのうちに、寝所の屋根がポカリと開いて、月がなかったはずの夜の空が、銀ネズミ色に見えたとおもうと、シノをつくような大雨が、伊豆守の頭のうえから、えんりょえしゃくもなくたたきつけるのでした。\n「あッ」\n と思う間に、寝所のたたみの上いっぱいに水はたまって、伊豆守をのせた床も、枕もとのあんどんも、刀かけの刀までが、フワフワと浮くのです。\n 起きあがろうとしましたが、どうしたことか、からだが自由になりません。そのうちに、どしゃ降りの雨はますますひどくなって、たたみの上の水は、三尺から五尺になり、ついには一丈にもなります。\n 気がついて見ると、床をめぐって左右前後に、コイやらフナやらナマズやら、おびただしい魚が、銀鱗をひらめかし、ゆうゆうと泳いでおります。\n「殿さま、お召しでござりますか」\n 銀のスズをならすようなかわいらしい声、ふりかえると右手の方、枕にちかく、魚群をかきわけて、一匹の人魚が、桃色しんじゅの肩を水のうえにだして、みごとな黒髪をサッと水の上にただよわせるのでした。\n「なにものッ?」\n 伊豆守は、五臓六腑をふりしぼるような心持で、ようやく口をききました。\n「ごらんのとおり、この世のものではございません。殿さまの宿業のおそろしさにご殿もご家来も、一しゅんにして水のそこに沈んでしまいました。が、松平伊豆守さまおひとりは、つぐないのこした罪のざんげのため、しばらく水の上に浮んでいるのでございます」\n「なんと申す。予になんの罪があるというのだ」\n 伊豆守はぼう然と、床の上におきなおりました。ふしぎに床は、筏のごとく水に浮いて夜の水はヒタヒタと伊豆守の白ムクの寝巻の膝をひたします。\n「いうな、島原で十万のキリシタン宗徒を殺し、駿河大納言忠長さまを、上州高崎に窮死せしめたは、ことごとくその方――伊豆守信綱のさしがねではないか」\n もう一匹の人魚が、黒髪をさっと水になびかせて、反対がわの左から肩をだします。\n「ぶれいッ」\n 智恵伊豆も、さすがに腹をすえかねました。プカプカと水に浮いている刀かけに手をのばして、それを引きよせざま引きぬこうとすると、\n「まア、殿さま、おはらだち」\n 明るい嘲笑をあびせて、二匹の人魚は、水のうえにとびあがりざま、伊豆守の左右の腕をピタリとおさえたのです。腹から下は、銀色のうつくしい魚体、それが、月子とお千代の仮装したかわいらしい人魚すがたとは知るよしもありません。伊豆守信綱は、ただ、人魚の体温が、あたたかいのにキモをつぶしただけです。\n「頭が高いぞ、信綱ッ」\n その伊豆守の頭のうえから叱咤の声、ハッとふりあおぐと、二匹の怪魚をともなった白衣金冠の荒々しい海神が伊豆守を見おろしてサッと鉾をふるのです。\n「なにもの?」\n「名のってやろう、大納言忠長の一子駿河太郎ならびにその妹の月子、なんじをひっ捕えて、龍宮城の白州に頭をうずめさせるはたやすいことながら、しばらくは命を助けてつかわす。"
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"content": " この知事留任の希望は終に具体的の騒動となって、その先発は城下から七里離れた山分の久万山であった。この久万山は浮穴郡の一部分であるにかかわらず従来一郡として取扱われていた位広い地域であるが、その全部が互に申合って、竹槍蓆旗で城下へ強訴するという事になった。かような騒ぎが起っては、第一朝廷に対しても済まぬというので、当局はいずれも心配した。就中久万山租税課出張所の権大属藤野漸氏は種々説諭もしたが、なかなか聞き入れぬ。そこでこの上は兵力を以て鎮圧してもらう外はないといって、単身藩庁へ駈け着けた。けれども大参事鈴木重遠氏は剛胆であったから、未だ兵力を借るには及ばん、自分で説諭するといって、少参事長屋忠明氏を具して数人の属官と共に久万山へ赴いた。そうして、租税課出張所において二、三の頭立つ者を呼んで説諭しようとしたが、誰れも出て来ない。かえって総勢はその出張所の門前を吶喊して過ぎ行きいよいよ城下の方へ向う様子となった。そこでやむをえず鈴木氏も長屋氏と偕に藩庁へ引揚げたが、さすがにまだこの両氏の一行に危害を加える者はなかった。しかるに租税課の少属重松約氏は、いらぬ事だに一人洋服を着ていたから、暗夜の事といい群衆中に、それ西洋人が来たと叫ぶ者があるや否や数人が竹槍を持って重松氏を馬から突落して、かなり重傷を負わせた。既に大少参事は引取るし、藩の官吏に重傷を負わせるという事になったから、一揆はその勢で久万山を下り、浮穴郡の他の部分や久米郡伊予郡へも同様に蜂起の煽動をした。そうして出て来ねば家屋を焼くと威かしたのでいずれも久万山の一揆に加勢することになった。もとより知事公留任の希望というは、藩地全般にそうなのであるから、多くは待っていたといわぬばかりに一揆に加わったのである。そうして手始めに久万山以外の浮穴郡を管轄している租税課出張所を焼いた。そこでここにいた権大属石原樸氏も藩庁へ来て、この上は是非といって出兵を求めた。\n この一揆の起った事を旧知事の久松家にも聞き込まれ、このまま捨て置かれぬといって、まず旧家老あたりの者やその他藩の元老顔をしている者に説諭を托された。従って私の父櫨陰もこの仲間に加って、彼方此方と奔走して説諭をしたのであった。がなかなかそれらの説諭には承服せない、一揆の与党には温泉郡、和気郡、風早郡、野間郡等も加わって、残る処は周布郡桑村郡のみであった。この両郡を管轄している租税課出張所の権大属白井守人氏は殆ど身を挺して熱心な説諭をしたので纔に防ぎ止めたのであった。しかのみならず、城下に居る士族や解放された卒なども、改革に遭って門閥家禄を失い、あるいは平民に落されたという怨恨もあるから、何か事あれがしと思う矢先にこの一揆が起ったのだから、いよいよそれが城下に繰り込む時は、共に力を協せて藩庁を攻めて、大少参事を殺戮してしまおうという考えの者も尠くなかった。そこで藩庁はかつてもいった如く、三の丸が焼けたので、二の丸に設けられていたが、一揆の起った頃から、大少参事その他属官等も藩庁に詰め切って頻りに鎮圧の評議を凝した。そうしてこの二の丸の高台から眺望すると、城下近くまで諸郡の一揆は押し寄せていて吶喊の声雷の如く起り、また租税課の出張所はその後久米郡も焼かれたので、それらの焔が天を焦がしている。夜に入ってはいよいよ物凄い光景で、藩庁は全く敵国の中に陥っている姿になった。そこで私もいよいよ死を決したが、百姓の竹槍に突かれて嬲り殺しにされるのもつらいから、どうかして敵前に進み出て彼の銃丸に中りたいと思った。勿論彼も猟銃位は沢山持っていたのである。しかし素手でも向われぬから、兼て親の時分に買っていたカラビンという短銃を宅から取寄せて、弾のある限り、それを打ってその後は刀を振りかざして駆け込むという考えであった。\n こうなって来ては遉の鈴木大参事も兵力を用いるのやむをえないという事になって、一大隊ばかりもあった藩兵を東条少佐に率いしめて、一揆の主力が居る久米村方面へ向けて出陣せしめ新立の橋を渡って石手川の堤に防禦線を張った。そうして一里ばかりも隔った敵陣へ大砲を発したが、そのため一揆の中に二、三名は弾に当って即死した。しかも旧砲術家の用いた火矢というものも放したので、それが敵陣へ飛んで行って地上に立ってシュウシュウと火を吹く。こんな事で一揆は大分荒胆を取られて、そこは百姓の事とて意気地なく忽ちに崩れ立った。こうなると各郡民は己がじしコソコソ引取って、竹槍などもどこかへ隠して、何知らぬ顔で家に居る。そうして主唱者であった久万山の百姓さえもいつの間にかまた山中へ帰ってしまった。思ったよりも脆かったので、私どももほっと息を吐き少しは張り合いのない気もした。それから東条少佐は隊兵を率いて久米浮穴両郡から終に久万山の山中までを廻って示威をした。\n この一揆打払いの少し以前に前知事も自ら家職を率いて一揆に対して説諭をされた。その詞には自分に留任をさせたいという事は辱けないが、それでは朝廷に対して嫌疑を受けて、結局自分の罪となる。この点を考えてどうか鎮静してもらいたいといわれたのだが、騒ぎたった一揆はなかなか静まらない。知事の一行が、進んで行かるればその方は後へ後へと退くが、他の一方の途から一揆の別隊が城下へ向って進む、どうする事もならぬから、前知事も持あぐんで引取られて、終に藩兵の攻撃するに任されたのであった。\n いよいよ一揆が治まった上は、前知事一家は朝廷の御沙汰に従って東京へ移住されねばならぬ。しかるに、その出発に当ってはきっとお止め申すといって再び一揆が起るという噂であったから、そこで藩庁においては各郡の総代たるべき者をよび寄せて大少参事列席の上説諭をした。それには鈴木重遠氏が主としていい聞かされたが、威重あり弁もあったから、意志は充分に徹底した。この頃は最う竹槍蓆旗では抵抗出来ぬと諦めた百姓ばらだから別に抗論もせないが、また承服もせない。一先一般に申し聞せて考えさせようという位な処でいずれも引取った。その後諸郡では、この上は各総代を上京させて、朝廷へ直接に知事の留任を願おうという事に申し合った。これは松山町でも同様で、町人の総代数人を上京せしむる事になった。\n この知事留任の一揆騒動は他の藩にも多くあったので、既に南隣の大洲藩でもなかなかの騒ぎであった。一揆の全部は既に藩庁を取囲むに至ったので、権大参事の山本某というもっぱら藩政の枢軸に当っていた人が、自ら割腹して一揆の反抗心を暫く鎮めたという報にも接した。\n しかしいずれの藩も一揆の気焔は間もなく鎮静して前知事はいずれも上京せらるる事になったので、私の藩の知事久松定昭公もいよいよ上京せらるる事になった。少し前に遡っての話しだが、定昭公は最前もいった如く、年壮気鋭の方であったので、既に王政となった上は、またこの下に充分尽力して、かつては幕府に効した力を以てこれからは朝廷に効したいと思われ、養父勝成公に代って藩政に臨まるるに至っては、われわれ大少参事を率いて充分に藩屏の任を揚げんと欲せられたのである。ついては近傍の藩々の知事も同僚であるから互に藩治上の打合せをするため、まず同姓である北隣の今治藩へその事を申し込まれ、彼の藩の知事は大少参事を従えて松山へ来られ、また定昭公も大少参事を従えて今治へ赴かれた事もあった。その他文武その他の藩政も充分にあげらるるつもりでいられたから、廃藩置県の御沙汰にはちょっと出し抜けを喰われたのであるが、時世に着眼の早い公の事であるから、何らの躊躇もなく屑く出発せらるる事になったのだ。そこでその当日は、万一の騒動も起ろうかというので、久松家を始め藩庁でも随分心配したが、幸に何の故障もなく、三津浜へ下って乗船せらるる事になったのは少し意外であった。\n 前知事の去られてからの藩庁は大少参事で暫く藩政の残務を扱って、新に命ぜられる、県官の赴任を待ち引続きを為すという運びになった。けれどもそれは翌五年にならねば実際の運びは出来そうもない、そこで私はこの上藩庁に居た所で、残務を扱う外何の用もなく、学校の改革は可笑しいながら、してしまった、別に手を着ける事もない。手を着けた所で、やはり人に引継がねばならぬ、頗るつまらんような気になったと共に、往年藩より命ぜられた洋学の修業を祖母達に止められ、また自分も気弱くて止めたのを残念に思っていた際だから、この機会に、先はともあれ藩庁の存している間に再び洋学修学の命を受けて東京へ出ようと思い付いた。この事を親友のこれまで庶務課の権大属でいた由井清氏に謀って、同氏も同行しようといったから、終に大参事始めに内意述べて、いよいよ望み通りに藩費を以て洋学の修業をせよとの命を受けた。これは四年の年末であったが、私と由井氏と二人の外に、父の里方の従弟に当る菱田中行という少年も洋学修業としてこれは自費で出京する事になった。海路は別に滞りもなく大阪へ着いて、それから東海道を東上した。勿論いずれも書生の身分だから日々徒歩と定め、よくよく足が疲れると荷馬の空鞍に乗った。その頃珍らしかったのは、三河地方の平坦な土地では、人が曳いて土石などを運ぶ、板で囲った小さな荷車に、旅客をも賃銭を取って乗せてたので、私どもも三人一緒にそれに乗った事がある。今日の如く、バネがないから、車輪から立つ砂埃は用捨なく、乗客を襲うので、これには随分閉口した。川口は幕府の時と違って船渡しの手当も充分であるし、また冬の季節でもあったから、別に川止めにも出会わず無事に東京へ着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京ではもっぱら流行していた人力車というものがあったので、三人ながらそれに乗った。実に早いものだと驚いた事であった。"
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"content": " 東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松家の住わるる私有邸となっていた。私どもはまず藩の出張所へ到着を届けて、そこへ一、二泊させてもらった。その内従弟の中行は三田の慶応義塾へ入塾した。私と由井氏とは芝の新銭座の或る人の坐敷を借りて寓居した。三度の食事はその頃始まっていた、常平舎というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が煮炊の煩累を避けてこの常平弁当を喰べる者もあるとさえ聞いた。この新銭座に居た頃忘れもせぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の席も真闇となる、そこでその真闇が明るくなった際、気が付いて見ると私の懐中がない。今しがた、布団代を払ってそのまま懐中を傍へ置いたのだが、右の真闇に乗じて誰かが盗んだのらしい。席亭へも話して見たが捜索の道がない。やむをえずそのまま帰寓したが、この懐中は最近二分で新らしく買ったのである。金はたった二分残っていたのだから、それらはさほど惜しくもないが、この懐中には実印が入っていた。もしもそれを他人に使用されては如何なる迷惑が来るかも知れぬから、それのみが懸念で堪らぬ。今日なら印形の遺失とか盗難とかの届をするのだが、その頃はそんな道もないから、せめてもの申訳でもあるし、また入用でもあるので、新たに実印を彫刻せしめた。私はかつてもいった通り、母方の伯母聟の中島翁に師克という実名を貰ったが、師克の師は憎まれ者の師直の師と同じなのが厭なので、自分で永貞と改めた。これも易の坤卦から取ったので、そうしてこの度失った実印も永貞と彫っていた。しかしそれを今後名乗るのも気がかりなので、更に素行と改めてそれを実印に彫刻せしめた。これは中庸の文言から取ったのである。しかるに後年何事も成行きに任すという事の当て字で鳴雪と俳号を付けた関係から、この素行までを、ナリユキと読む人があるが、これは元来モトユキと読ませているのである。\n 一事言い落したが、私の上京した際、かつてもいった弟の薬丸大之丞は大学南校の貢進生で居たのがこの頃はかような生徒の廃止せられたので、従って藩費も貰えぬ事になっていた。けれどもその頃の生ま意気書生などにおだてられてどうかして他に学費を得てそのまま修行を続けるつもりだといっていた。藩地の父は頗るそれを心配して私の上京を幸に、大之丞は是非とも郷地へ帰すようにと命じたけれども彼は容易にそれを承諾せなかったが、終に叱り付けて帰してしまった。この際餞別として例の猿若の芝居を見せて遣った。この他にも由井氏と同行したりあるいは自分一人で芝居の見物は随分したのである。\n\n\n十五\n\n 今回の出京は、英学の修業が目的であるのだから、その手順を求めたのであるが、私といい由井氏といい、書生としては老書生であるので、まさか少年輩と同じ級で、ABCを習うのも間が悪い。といって自分の都合のよい学校もないから、或る日同郷の先輩藤野正啓氏に相談すると、それは私が、親しくしている岡鹿門の塾へ行くがよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学とを二つながら教授しているからその洋学の方を学ぶといって入門するがよい、私が紹介しようと肯われた。そこで私は由井氏と共にその頃愛宕下町にあった岡塾へ行って、まず岡先生に面謁し、それから塾長をしている河野氏にも逢った。兼て藤野翁からの依頼もあり、私どもはもともと漢学生であるという事を知って居られたので、岡先生も漢学話などをせられて、数時間も居て辞し去った。しかし二人ともサア今日から行こうという気にならず、なんだか横文字の書を開くのがオックウな感じがして、一日一日と遅らした。そのうち或る都合から由井氏とは同寓する事をやめて、私は藤野翁の宅へ頼んで同居させてもらった。そこでいよいよ岡塾へ行く機会を失ったが、この宅にも塾を開かれて、漢学を教授して居られ、塾長は会津人の斎藤一馬氏といって、この人は漢文が巧かった。そんな事から私は持って生れた漢学の嗜好の関係よりこの塾中の人々と交際をして、詩の応酬なども始めた。\n この藤野宅に寓居している時であった。ある日大火だと人が騒ぎ出したから、塾生らと共に行って見ると、今しも和田倉門内の旧大名邸が燃え落ちて、飛火が堀を越して某邸へ移って盛んに燃え揚る所であった。そこでこの火の燃え行くのを見物しつつ段々と歩いて、即ち火事と同行をなしつつ築地まで行った。けれども余りに風が強く砂が眼に入るので遂に堪え切れずして帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。\n そうこうするうち、明治五年となって、いよいよ旧藩庁が新設石鐵県へ事務を引継ぐ事となり、従って私どもの学資も出所がなくなった。藤野翁はこちらで修業がしたいなら、その学資位はどうかして周旋しようともいわれたが、私は郷里の父が彼の平均禄位では生計が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは初一念とは違うのだが、小胆な私はこう思い出すと、矢も楯も耐らず、藤野翁の好意には反くけれど、終に帰郷する事に決した。由井氏も同様に帰郷するはずであったが、都合に依り私は一人旅行で東海道を行く事になった。旅贅は未だ旧藩の出張所員からくれたので、豊かでもないが、それで東海道の名所位は少しの廻り道をしても見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何の滞りもなかったのである。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を艀へ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからといって、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。その夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 多門老人は飄々、仙骨を帯びてアッサリくれるけれども、十八カラットのダイヤといえば、たいへんな金目のものなのだろう。いささか薄気味わるい始末、もっとも、八大山人の小品とても、天下の稀品に相違ない。可愛がった昔の女を今は娘のように慈しむあたたかさが、私たちにも自然の安堵と温情をわきたたせた。\n そのとき私は気がついた。この部屋の書棚には色々の書物がある。主として歴史の書物だが、いくらかある小説類の半分ぐらいが探偵小説の翻訳本だ。涙香もある。ヴァン・ダインもある。小説本も、モンテクリストとか、レ・ミゼラブルとか、風と共に去りぬ、というような翻訳本が主であった。\n「探偵小説がお好きなようですが」\n と私がたずねると、多門はうなずいて、\n「若いころから涙香などを愛読しておったが、外遊の折、つれづれに探偵小説の趣味を覚えたのです。岡倉天心が探偵小説の愛読者で、家族のものが病体をおもんぱかって思うように晩酌をくれないものだから、ドイルなどの探偵小説を一席、半分だけ語ってきかせる。佳境に入ったところで口をつぐんで、それからどうなったのですかときくと、いやいや本日はこれまでと、じらしておいて、どうじゃ、あとが聞きたければモウ一本もってきなさい。ドイルなどは、晩酌用の策戦に、ちょうど手ごろの一席になるね。近ごろの推理小説は、小味で、微妙で、いりくんでいるから、読むには確かに面白いが、晩酌の策戦には適しない」\n「私も探偵小説は至って好きな方ですが、どんなものがお好きですか」\n「私はイギリスの女流のアガサ・クリスチイというのが好きです。ヴァン・ダインとかクイーンとか、無役に衒学で、いやらしくジラシたり、モッタイぶったりするから、気持よく読みつづけられない。私がむかし丸善へ足を運んだのは、もっぱらこの探偵小説のためで」\n 老人は書架の隅から積み重ねた洋書をとりだしてみせた。みんな探偵小説だった。クロフツもあれば、「赤毛のレドメン」「ジゴマ」フリイマン、なんでもある。\n「それでしたら、このたびの事件についても、御感想があることでしょう」\n 老人はしばらく口をつぐんでいたが、\n「望月さんの犯人と珠緒の犯人は同じ人間かね? 同じ人間なら......」\n 又、口をつぐんだが、\n「然しなんだね。矢代さん。あなたは、どう思うね。人間はどいつもこいつも、人殺しぐらいはできるのだ。どの人間も、あらゆる犯罪の可能性をもっている。どいつも、こいつも、やりかねない」\n 多門の目が急にギラギラ光った。そして、その光を隠そうともせず、私たちをジッと見つめた。そして、また何か言いそうに、口がふるえたが、やがて思いかえして、喋るのをやめてしまった。\n\n八 アリバイはただ一人\n\n 多門の部屋を辞して洋館へもどるために珠緒さんの殺された部屋の廊下を通りかかると、その部屋から洋装のスラリとした三十女がよびとめて、\n「モシモシ、ちょっと。あなた方、お名前は?」\n「なぜ? あなたは何者ですか」\n「私は警察の者です。皆さんのお顔を覚えておきたいから、お名前をきいているのです」\n「ああ、なるほど」\n 私は思わずふきだした。\n「すると、あなたは、アタピン先生!」\n「マア、失敬な!」\n アタピン女史、柳眉を逆だてて、\n「何ですか、あなた方は。分ってますよ。ここへきている男も女も、ロクな人間はいないのだから。文士だの女優だの、ホレタ、ハレタ、イヤらしい。年百年中オカミの手数を煩わして、アゲクの果に、このザマじゃないの」\n「イヤ、ゴモットモ。御説の通りです。そこで、どうですか。さっそくアタマへピンスケと来ましたか。犯人はどこのドイツですか」\n「おだまり」\n「ヤア、失礼失礼」\n 行き過ぎようとすると、グイと手首をにぎって引きもどして、\n「名乗りませんか。失礼な」\n「まアさ。あなたのアタピンで私たちの名前ぐらいは当てて下さい。名乗りを脅迫するのは憲法違反だから、アッハッハ」\n 私はアタピン女史を怒らせておいて、逃げだした。\n 私が巨勢博士や一馬夫妻と、一馬の部屋に落着いて、ユックリ話し合うことのできたのは、午後三時。\n 王仁の遺骨を迎えに、彼の全集の出版元の社長と出版部長、若い社員と王仁の弟子が一人、午まえに到着したが、解剖した王仁の屍体がまだ本署から戻らない。戻り次第ダビに附すはずで、この村には隠坊はいるが火葬場はなく、野天へ薪をつんで焼く。まる一晩かかるのである。\n 私ども実務にうとい者の集りへ事務家が加わるとにわかに火のついた如く別天地の段どりが起って、王仁の遺骸を迎える部屋の支度、坊主の交渉、火葬場とのレンラク、どこからどうして来たのだか、ちゃんと黒幕などが運ばれてくる。またたくうちに表座敷に葬場らしいものが出来上ってしまった。\n 私は然し巨勢博士に秘密に話したいことがあった。ようやくその機会がきたので、\n「実は君たちにだけ報告しておきたいことがあるんだが、私は昨夜、自分の部屋へ戻ったが、寝つかれないので散歩にでた。時間はハッキリしないが十一時ぐらいじゃなかったかな。京子はもう寝んでいたから、知らなかったと思うが」\n「ええ、でもお帰りになったのはウスボンヤリ覚えているわ」\n「食堂の戸口から出て、ブナの森へ行くつもりだったが、裏木戸まで行くと気が変って、庭へ廻った。池をまわって、中腹の夢殿のところへ行ったのだ。そこからアズマヤの方へ行くつもりで滝壺の上へでると、下に釣殿が見えて灯がもれている。そのとき一瞬チラリと闇へ消える女の姿が目にうつった。出て行くところは見ていなかったわけだが、たしかに釣殿から出て、御尊父の寝間の外をまわって勝手口の方へ帰る途中の姿だろうと思われるのです。女だとは分ったけれども、誰だかまったく見当がつかない。ところが、しばらくたつと、今度は釣殿から男が出てきた。先ず池の水で手を洗う。これは海老塚医師です。半ソデシャツにズボンをはいていた。ハンケチで手をふいて、庭の山の方へ登りかけたが、ふりむいて、女の消えた方へ去って行った。私の見たのはそれだけだが、私はそれから十分ぐらいそこにいて、戻ってきたから」\n 夢殿というのは、多門老人が聖徳太子の夢殿に模して小型にちぢめてつくらせたもの、釣殿というのも大和のなにかの堂を模してつくらせた茶室で、中には畳のしかれた部屋と支那風の卓とイスをおいた部屋と二つあった。\n「そう。それじゃア、海老塚さんは昨日も釣殿へ泊ったのだね。近ごろは殆んど毎晩泊ってるんじゃないかな。僕は気にかけた事がないから、村の誰かがウチのどこかへ泊っていても分らない。別に一々主人の許可をうけるというような堅苦しいことはこのウチの習慣にはないことで、主人側と召使側と二つの生活が独立しているのだ。海老塚さんはこのウチでは家族の一員のようなものだから、夜ぶん遊びに来たときは先ず大概は泊って行く。医院まで山道で一里もあるうえビッコだからムリもない。ウチも戦争まえまでは自動車があったが、戦争以来は自動車どころか、村全体に一台の人力車すらもない。海老塚さんは変り者だから、母屋へは寝たがらずに、いつごろからか、釣殿専門に寝泊りするようになったのだ。時々急患がきて、医院から電話のくることがある。ゆうべも何かそんなことがあったのだろう」\n「じゃア、八重にきいてみましょうか」\n あやかさんは室内電話で女中の八重をよんだが、八重は用たしに村へ出ており、やってきたのは諸井看護婦であった。\n「諸井さんは医院へ行らっしゃらなかったの?」\n「ええ、今日は警察の御用で午ちかくまでかかったうえに、南雲さんが今朝から腹痛で、注射しているのです」\n「お由良様が?」\n「いいえ、南雲おじいさん」\n「ゆうべ、医院に急患がありませんでしたか」\n「ございません」\n 諸井看護婦は冷くジロリと一馬をみつめて返事をした。\n「じゃア、あなたは医院の用か何かで、ゆうべ海老塚さんに会うようなことはなかったわけですね」\n「ある筈がないと思いますが」\n「海老塚さんは、ゆうべも釣殿へ泊ったのですか」\n「今朝はこのウチにいらっしゃいましたわね。ゆうべのことは存じませんが」\n 諸井女史は冷たく横を向いてうそぶいた。"
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"role": "assistant",
"content": "「もう、御用はよろしゅうございますか」\n「ええ、御足労でした。へんな質問で、気を悪くしないで下さい」\n「もしや何か、海老塚先生と御婦人との問題でしたら、たぶん、千草さまにおききになると分るでしょう。先生が釣殿へお泊りの夜は、夜中に一度はたいがい釣殿へおでかけになりますから。皆さまは御存知ないかも知れませんが、下の者たちの間では知らない者がございません。千草さまは、コソコソ忍んで行かれるわけではございませんで、かえって何か御名誉の御様子ですから」\n ジロリと私たちに目をくれて、キチンと四十五度ぐらいに頭を下げて、ふりむいて立ち去った。\n「とりすましたヒネクレ女め、体温まで冷いのじゃないか」\n「イヤア、案外モチハダか何かで、ポチャポチャあったかいかも知れませんや」\n と巨勢博士が処女趣味に似合わしからぬ言辞を弄して、御婦人連をビックリさせた。\n「どうだい、博士、誰か容疑者らしいものがあるのかね」\n「いいえ、一向に」\n「警察の人たちは何か証拠を握ったのじゃありませんか」\n 一馬がこう訊いたが、博士は両手をうしろ頭へ組んで髪の毛をゴシゴシこすりながら間の悪そうな笑い方をして、\n「いえ、一向に。警察の人たち、まったくどうも根気よく調べていますが、益々雲をつかむぐあいだろうと思います。第一、怨恨だか、情痴だか、てんで動機も分りませんや」\n「然し、君、風来坊の物盗りの偶然の兇行と違って、ともかく謀殺だろう。しかも、君、非常に微妙な事実の食い違いが現れているじゃないか」\n「ハア、それは、何ですか」\n「大博士が拙者にきくとは意地が悪いな。まア、笑わずに素人探偵の意見をきいて貰おうか。珠緒さんが王仁の寝室から立ち去ったのが十一時十五分。このとき僕はまだ起きていて、珠緒さんがシャンソンを唄いながら階段を駈け降りて行くのをきいていた。それをキッカケに、時計を見て、電燈を消したのだ。このとき珠緒さんは王仁の部屋に鍵をかけずに去ったという。ところが、それから二時間ほどのち、宇津木秋子女史が王仁の部屋へ行った時には、鍵がかかっていた。鍵をとってきて室内へはいると、王仁はまだ生きていた。イビキをかいて寝ていた。ゆすっても目を覚さなかったというのだな。秋子さんはワザとライターを置き残して、鍵をかけて立ち去った。翌朝、珠緒さんが王仁の屍体を発見した時には、鍵がかかっていなかった。これは、いったい、どういうことを意味していますか。え? 博士」\n「ええ、僕も珠緒さんがシャンソンを唄いながら立ち去るときは、まだ起きて、きいていましたよ。それで、先生は、どういうことを意味していると思いますか」\n「僕に分るものか。ただ分るのは、犯人は鍵を持っていること。まだ王仁の生きているうちに、一度鍵をしめた。殺してから、鍵をかけずに立ち去った。ねえ、君、宇津木さんが鍵をあけて室内へはいってきたとき、犯人は室内にいたんじゃないかね」\n「ええ、たぶん、いましたね」\n 博士はアッサリ答えた。一馬とあやかさん、京子は一時に顔色を変えた。私も思わず緊張して、\n「え? 本当かい? 僕のは深い根拠があるわけじゃないんだが。犯人は、どこにいたんだ?」\n「ええ、それはまア、宇津木さんの言葉に偽りがなければ、たぶん、そこに居るよりほかに仕方がなかろうと思いますが。王仁さんの寝台の下に。そこ以外には隠れ場所がありませんや。カングリ警部、八丁鼻、ヨミスギ刑事、みなさん、その見込みです。いくらか見込みという奴が立っているのは、まだ、それぐらいのものでしょう」\n 御婦人連は緊張のタメイキをもらした。\n「なぜ、そこに、いたの?」\n あやかさんが叫んだ。\n「さア。そのナゼに説明を与えてしまうと、犯人にバカされるかも知れません。まだまだ何も仮定してはいけないのです。案外、犯人は、そのとき室内にいなかったかも知れませんや」\n「いなかったという仮定が成立する根拠もありますか」\n と、一馬。\n「有りますとも。実に、彼、犯人氏はテクニシャンでさ。かねてモロモロのテクニックを御用意の様子もあります。尤も、そう考えてもいけないのかも知れません。つまり、彼氏、案外、無用意なのかも知れませんや。万事始めのうちは当らず、さわらず、ヌキサシならぬ奴だけ信じる以外に手がないですよ。目下ヌキサシならぬことと云えば、王仁さんと珠緒さんが殺されたということだけでさア」\n すると一馬がふと思いつめたような顔をあげて、\n「僕も、おとといの、王仁の殺された夜は、暁方の三時ごろまで起きて仕事をしていたのだ。あやかが僕の部屋へ逃げこんできて、僕の寝台へねてしまってから、僕はふと起きて仕事をはじめた。去年からフランス象徴詩についてエッセイを書いているが、却々はかどらないのでね。すると、たぶん、一時ごろだと思うけれども、隣室へ鍵をさしこむ音がきこえた。ねしずまった夜更けと云っても、この滝の音だから、相当な音でなければ聴えやしない。人の跫音はきこえなかったから、出る音だか、入る音だが、分りゃしなかったが」\n 博士はうなずいて、\n「なるほどね。犯人氏なら手荒な鍵音はさせんでしょう。宇津木さんでしょうかね。じゃア、奥様はズッとここに寝んでいらしたのですね」\n 思いがけない質問に一馬はビックリして、\n「ええ。おとといも、ゆうべも」\n「そして、歌川先生は暁方の三時まで仕事をしていらしたのですね」\n「そうです。然し、おとといのことですよ。ゆうべは、もっと早くねました」\n「暁方の三時まで、奥様はズッとやすんでいらしたのでしょうね」\n「全然、ねむり通しです」\n「やれやれ。すると、ここに、ようやく一人、アリバイの成立つ御方が現れたのです。そのほかの方には、どなたにも犯人でない証拠はない。珠緒さんに至っては、まるでもう、殺されるには誂え向きの特別席に寝ていたようなものですもの。場所と云い、条件と云い、殺してくれと云うようなものでさ。歌川先生のお母様の御命日はいつでしたか」\n この最後の一言に一馬は顔色を変えて、当惑しきって暫しは言葉を失っていたが、\n「来月の九日。やっぱり、何か、その日、ありますか」\n「いえ、でも、分りゃしませんや。あの脅迫状と今度の殺人事件とレンラクがあるのかどうか、まったく見当はつきませんや。王仁さん殺しと珠緒さん殺しが同じ犯人だか、それも分りゃしませんもの。然し、脅迫状については、要心の必要はあるかも知れません」\n そのとき王仁の屍体が到着したという知らせがきた。\n\n九 火葬の帰り道\n\n 表座敷へもうけた葬場で読経と焼香が終ると、用意の大八車に棺をつんで、ただちに火葬に出発した。\n 来客の男子はそろって火葬場まで行くことになり、一馬、木ベエ、人見小六、丹後弓彦、博士もピカ一も、神山東洋に至るまで、棺につづいてゾロゾロと出てくる。セムシ詩人が森の妖婆の杖みたいなものに縋って玄関から出てくると、外に勢ぞろいの見送りの娘子軍の中から、あやかさんが、\n「内海さんはムリじゃありませんこと。半みちぐらいあるそうよ。失礼させていただきなさいな」\n「ええ、ほんと。私たち女だけ残されると、なんだか、さみしいわね」\n と秋子さん。\n「アラ、もてるわね。カジモドさん」\n と、千草さんが大きな声で冷笑をあびせて、\n「行っといで。まさか、図にのって麗人方のオモチャになりたがる程、鈍感じゃないわね」\n まったく、どうも、デリカシイのない人だ。不美人というものは自然にひねくれて下品になるものか、どうも然し、論外きわまる下品な言葉で、然し又、セムシの奴は変り者だ。彼はむしろ異彩を放って無智無学下品粗雑な千草さんに、それだからオレは好きなんだというような、内々奇妙なところがあり、彼は機嫌よくヘラヘラ笑って、\n「ああ、行ってくるよ。ボクが引導渡してやらなきゃ、王仁のヤツも、めでたくお骨になれないだろうからな」\n 誰よりも一人おくれて、コツコツ歩きだす。それと並んで、あやかさんが門の外まで見送ってきた。\n 火葬場はブナの森を通りこして、山の奥底、人の通らぬ裏山の密林の中にあった。百米四方ほどの平らな草原をかこんで、スリバチ型に山がかぶさり、森に山鳩がないている。すでに火葬の薪がつみあげられ、かたわらに隠坊の夜番小屋があった。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": "一\n\n 秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。\n 私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想像し、その人々のために大きい愛を祈りました。ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。\n 私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもない小さい出来事ですが、しかし私の心を打ち砕くには十分でした。\n 私は妻と子と三人で食卓を囲んでいました。私の心には前の続きでなおさまざまの姿や考えが流れていました。で、自分では気がつきませんでしたが、私はいつも考えにふける時のように人を寄せつけないムズかしい顔をしていたのです。私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはできないので、自然無口になって、いくらか私の気ムズかしい表情に感染します。親たちの顔に現われたこういう気持ちはすぐ子供に影響しました。初めおとなしく食事を取っていた子供は、何ゆえともわからない不満足のために、だんだん不機嫌になって、とうとうツマラない事を言い立ててぐずり出しました。こういう事になると子供は露骨に意地を張り通します。もちろん私は子供のわがままを何でも押えようとは思いませんが、しかし時々は自分の我のどうしても通らない障壁を経験させてやらなければ、子供の「意志」の成長のためによろしくないと考えています。で、この時にも私は子供を叱ってそのわがままを押しつぶそうとしました。――いつのまにか私は子供のわがままに対して自分の意地を通そうとしていました。私は涙ぐみながら子供の泣くのを叱っていました。おしまいには私も子供といっしょに大声をあげて泣きたくなりました。――何というばかな無慈悲な父親でしょう。子供の不機嫌は自分が原因をなしていたのです。子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この小さい透明な心をさえも暖めてやることができませんでした。\n 私は自分を呪いました。食事の時ぐらいはなぜ他の者といっしょの気持ちにならなかったのでしょう。なぜ子供に対してまで「自分の内に閉じこもること」を続けたのでしょう。私がすべての人を愛でもって抱きたいと思ったことはほんとうです。それに関係していろいろ「いい事」を考え続けていたこともほんとうです。しかしすぐその場で自分に最も近い者をさえも十分愛してやれないくせに、そんな事を考え続けたって何になるでしょう。しかもそれが、その運命に対しては無限の責任と恐ろしさとを感じている自分の子供なのです。不断に涙をもって接吻しつづけても愛したりない自分の子供なのです。極度に敬虔なるべき者に対して私は極度に軽率にふるまいました。羞ずかしいどころではありません。\n 私はこの事によって自分のもっと重大ないろいろな欠点を示唆されたように思いました。\n\n二\n\n 私は自分のイゴイズムと戦っています。イゴイズムそのものは絶滅は望まれないまでも、イゴイズムをして絶対に私の愛を濁さしめないことは、私の日常の理想でありまた私の不断の鞭です。この志向だけについて言えば別に問題はありません。これが真の自己を生かせる道ですから。\n しかし私は自己を育てようとする努力に際して、この努力そのものがイゴイズムと同じく愛を傷うことのあるのを知りました。私は仕事に力を集中する時愛する者たちを顧みない事があります。私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤ります。私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。\n ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいられないほど弱くはありません。しかし人の前でそれを少しも顔に出さないでいられるほど強くもありません。私は暗い沈んだ顔をして黙り込んでいます。そうしてこの表情のために愛するものたちを不幸にします。こういう時に私は彼らをいたわってやることも、彼らを喜ばせる事も、彼らとともに喜ぶこともできないのです。私の心は石のように固まって、ただ温められ融かされる事を望むばかりです。私にとっては一つの憂愁を切り抜ける事はいくらかの成長になります。しかしそのために私はある時の間冷たい人間になっています。\n 実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあります。そういう時に人が、そんなにノラクラしているくらいなら、と思うのも無理はないと思います。自分でさえそう感じる事が時にはあるのですから。私は私たちの心持ちに同情のない要求にすぐ従おうとは思いませんが、しかしなお自分をどうにかしなければならない事を切に感じます。日常の生活は実に貴いのです。言い訳が立つからといって、なすべき事をしないのはやはりいい事ではありません。たとえ仕事に全精力を集中する時でも「人」としてふるまうことを忘れてはならない。それができないのは弱いからです。愛が足りないからです。\n 私は自分の仕事のために愛する者の生活をいくらかでも犠牲にすることを恥じます。この犠牲を甘んじて受けるのは、取りもなおさず、自分の弱さを是認するのです。私は弱さに安んじたくありません。自分の弱さのために他の運命を傷つけ犠牲にするなどは、あまりに恐ろしい。\n\n三\n\n また、私は人を責めることの恐ろしさをもしみじみと感じました。私はある思想に拠って行為を非難する事があります。そうして時には自分の行為もまた同じように非難せられなければならない事を忘れています。\n ある時私は友人と話している内に、だんだん他の人の悪口を言い出した事がありました。対象になったのは道徳的の無知無反省と教養の欠乏とのために、自分のしている恐ろしい悪事に気づかない人でした。彼は自分の手である人間を腐敗させておきながら、自分の罪の結果をその人のせいにして、ただその人のみを責めました。彼は物的価値以外を知らないためにすべてをこの価値によって律しようとし、最も厳粛な生の問題をさえもそういう心情の方へ押しつけて行きました。そういう罪過はいろいろな形で彼に報いに来ました。がしかし、彼はその苦悩の真の原因を悟る事ができないのでした。私はその人の人格に同感すればするほど不愉快を感じます。そうしてその苦悩に同情するよりもその無知と卑劣が腹立たしくなります。――で、私は友人と二人でヒドイ言葉を使って彼を罵りました。私の妻は初めから黙って側で編物をしていました。やがて(いつも悪口をいう時にそうであるように)私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。\n 私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければならない。私はあの人を少しでもよくしなければならない立場にありながら、あの人に対する自分の悪感のみを表わしたのです。私の悪感は彼をますます悪くしようとも、善くするはずはありません。すでにこれまでにも彼を圧迫する事によって彼の自暴自棄を手伝ったのは、私であったかも知れません。私もまた彼の頽廃について責めを負うべき位置にあるのです。ことに私は(物的価値に重きをおかないと信じている私は)彼のためにどれだけ物的の犠牲を払ってやりましたか。物的価値に執する彼の態度への悪感から私はむしろそういう尽力を避けていました。そうしてこの私の冷淡は彼の態度をますます浅ましくしました。ここでもまた私は責めを脱れる事ができないのです。畢竟私の非難が私自身に返って来ます。\n 私は自分の思想感情がいかに浮ついているかを知りました。私が立派な言葉を口にするなどは実におおけない業です。罵っても罵っても罵り足りないのはやはり自分の事でした。\n"
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"role": "assistant",
"content": "四\n\n 私は道徳をただ内面的の意義についてのみ見ようとしています。そうして他人の不道徳を罵る時にはその内面的の穢なさを指摘しようとします。\n しかし自分の心はどれほど清らかになっているか。恥ずべき行為をしないと自信している私は、心の中ではなおあらゆる悪事を行なっているのです。最も狂暴なタイラントや最も放恣な遊蕩児のしそうなことまでも。もちろん私は気づくとともにそれを恥じ自分を責めます。しかし一度心に起こった事はいかに恥じようとも全然消え去るという事がありません。時には私は自分の心が穢ないものでいっぱいになっている事を感じます。私たちはこの穢ないものを恥じるゆえに、抑圧し征服し得るゆえに、安んじていていいものでしょうか。私は自分に親しい者たちの心の内に同じような穢ないものがある事を想像するのはとてもたまらない。それと同じく他の人も私の心の暗い影を想像するのは非常に不愉快だろうと思います。私はどうしても心を清浄にしたい。たとえそのために人間性質のある点に関する興味が涸渇しようとも。私が他人を罵るのは畢竟自分を罵ることでした。他人の内に穢ないもののある事を見いだすのは、要するに自分の内にも同じもののある証拠に過ぎませんでした。\n\n五\n\n あまりジメジメした事ばかりを書いてすみません。しかしあなたに訴えれば私の胸はいくらか軽くなるのです。\n 私たちが今矮小だという事実は、実際私たちを苦しくさせます。けれども苦しいからといってこの事実を認めないわけには行きません。私よりも聡明な人は私よりももっとよくこの事実を呑み込んでいると思います。自分の小ささを知らない青年はとても大きく成長する事はできますまい。\n しかしこの事実の認識はただ「愚痴」という形にのみ現わるべきものでないと思います。愚痴をこぼすのは相手から力と愛を求めることです。相手にそれだけ力と愛とが横溢していない時には、勢い愚痴は相手を弱め陰気にします。我々から愛を求めている者に対して我々の愚痴を聞かせるのはあまりに心なき業だと思います。\n 私たちは未来を知らない。未来に希望をかける事が不都合なら未来に失望する事も同じように不都合です。しかし私たちはただ一つ、生が開展である事を知っています。私たちはただ未来を信じて、現在に努力すればいいのです。努力のための勇気と快活とを奮い起こせばいいのです。現在の小ささを悟れば悟るほど努力の熱は高まって来ます。自分の運命を信じて、今に見ろ今に見ろと言いながら努力する事は、自分に対していいのみならず、自分の愛する人々を力づけ幸福にする意味で、他人のためにもいい事です。どこまで行けるかなどという事はこの場合問題ではありません。\n ただ私はこの運命の信仰が現在の無力の自覚から生まれている事を忘れたくないと思います。ここに誇大妄想と真実の自己運命の信仰との別があるのです。成長しないものと不断に力強く成長するものとの別があるのです。前者は自己を誇示して他人の前に優越を誇ります。後者は自己を鼓舞し激励するとともに、多くの悩み疲れた同胞を鼓舞し激励します。\n あなたに愚痴をこぼしたあとでこんな事をいうのは少しおかしいかも知れません。しかし私はあなたに愚痴をこぼしている内に自然こういう事を言いたい気持ちになって来たのです。\n\n六\n\n 私はどんなに自分に失望している時でも、やはり心の底の底で自分を信じているようです。眼が鈍い、頭が悪い、心臓が狭い、腕がカジカンでいる、どの性質にも才能にも優れたものはない、――しかも私は何事をか人類のためになし得る事を深く固く信じています。もう二十年! そう思うとぐッたりしていた体に力がみなぎって来る事もあります。\n 運命と自己。この問題は久しく私を悩ませました。今でもよくわかりません。しかしこれまで経て来た自分の道を振り返って見ると、重大な事はすべて予期を絶していました。これから起こる事も恐らく予期をはずれた事が多いでしょう。私はいろいろな事を考えたあとでいつも「明日の事を思い煩うな」という聖語を思い出し、すべてを委せてしまう気になります。そうしてどんな事が起ころうとも勇ましく堪えようと決心します。\n しかし私はすでに与えられたものに対してはのんきである事ができません。運命が自分をいかに変化しようとも自分が他人になる事は決してありますまい。私の個性は性格は私の宿命です。どういう樹になるかは知らないが、芽はすでに出ているのです、伸びつつあるのです。芽の内に花や実の想像はつかないとしても、その花や実がすでに今準備されつつある事は確かです。今はただできるだけ根を張りできるだけ多く養分を吸い取る事のほかになすべき事はないのです。いよいよ果実が熟した時それがいい味を持っていなくても、私は精いっぱいいい実をならそうと努めたことで満足しようと思います。\n とはいえ、自分の才能のことは繰り返し繰り返し問題になります。そうして才能を重大視するなといういろいろの人の言葉が、私の底冷えのしている心に温かい慰めを与えてくれます。天才は勉強だ、彼らの才能はさほど特殊なものではない(ニイチェのような人ですら三十四の年にこう言いました)、才能少なくして偉大な人間になった人はあらゆる方面にある、彼らはただごまかしをしない、堅実な、辛抱強い Handwerker-Ernst があったのだ。――こういう言葉が私に力をつけてくれます。まことに英雄的生活が試練と苦悩と精力と勤労とにおいておもに偉大であったことは、私たちの勇気を鼓舞し私たちをふるい立たせます。憐れなる悩める者も誠実な勇気と努力とをもってすればついには何者かになり得るのです。偉大な人々の悲劇的生活は私たちの慰藉でありまた鞭であります。彼らが小さい一冊の本を書くためにも、その心血を絞り永年の刻苦と奮闘とを通り抜けなければならなかった事を思えば、私たちが生ぬるい心で少しも早く何事かを仕上げようなどと考えるのは、あまりにのんきで薄ッぺらすぎます。\n\n七\n\n 私は才能乏しくしてしかも善良なる人が、宿命として自分に押しつけられている自分の性質を、呪い苦しんでいるのに出逢うごとに、わけもなく涙ぐましい心持ちになります。ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じっとしていられないような、飛びついて抱いてやりたいような心持ちになります。一つには身にツマされるせいもあるでしょう。しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して、ともに泣き互いに励まし合うのは、私にとっては最も人間的な気のする事です。私はこういう人に対していかなる場合にも高慢である事はできません。特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は、恐ろしい冷酷として、むしろ憎むべき事に思います。才能の乏しいのは確かにいい事ではないでしょう。しかし才能が人間のすべてではありません。才能の乏しい者にも愛すべき者があり才能の豊かな者にも卑しむべき者があります。才能を重んずる現代の社会から、特に才能に富んだ人を集めた特殊の場所からは、あまり偉大な人が生まれて来ないという事実は、いかにも反語らしく私たちの心に響きます。私は才能を誇りながらついに何の仕事をも成し遂げない高慢な人よりも、才能の乏しい謙遜な人の方をはるかに愛しなつかしみます。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " (一)\n\n 冬枯の恐ろしく長い東北の小村は、四国あたりの其れにくらべると幾層倍か、貧しい哀れなものだと云う事は其の気候の事を思ってもじき分る事であるが、此の二年ほど、それどころかもっと長い間うるさくつきまとうて居る不作と、それにともなった身を切る様な不景気が此等みじめな村々を今一層はげしい生活難に陥れた。\n 企業的な性質に富んで居た此家の先代が後半世を、非常に熱心に尽して居た極く小さな農村がこの東北の、かなり位置の好い処にある。\n かなり高くて姿の美くしい山々――三春富士、安達太良山などに四方をかこまれて、三春だの、島だのと云う村々と隣り合い只一つこの附近の町へ通じる里道は此村のはずれ近く、長々と、白いとりとめのない姿を夏は暑くるしく、冬はひやびやと横わって居る。\n 町のステーションから、軒の低い町筋をすぎて、両方が田畑になってからの道は小半里、つきあたりに、有るかなしの、あまり見だてもない村役場は建って居る。和洋折衷の三階建で、役場と云うよりは「三階」と云う方が分りやすい。\n この「三階」につく前少しの処に三つ並んで大池がある。並んで居る順に一番池二番池と呼ばれ、三番池は近頃まで三つの中で、一番美くしい、清げな池であった。四五年前から、この村と町との間に水道を設ける事の計画が一番池が有るために起って居た。\n 町方から小半里の間かなりの傾斜を持って此村は高味にあるのでその一番池から水を引くと云う事は比較的費用も少しですみ、容易でも有ろうと云うのでその話はかなりの速力で進んで、男女の土方の「トロッコ」で散々囲りの若草はふみにじられ、池の周囲に堤を築かれ堤の内面はコンクリートでかためられ、外面には芝を植えられて「この池の魚釣る事無用」「みだりに入るべからず」と云う立札が立ち、役人のいる処や、標示板の立ったはもう二年ほど前の事である。\n そのために、湖の様に、澄んで広々と、彼方の青や紫の山々の裾までひろがって居る様にはてしなかった池も、にわかに取り澄まして、近づき難い、可愛げのない様子になって仕舞った。\n その頃、かなり一番池とは、はなれて、その岸辺は葦でみたされ堤は見えない処で崩れ落ちて、思いもかけぬ処から水田に、はてしなく続いて居る。\n この池の堤の裏を町に行く里道の道とも云うべきのが通じて居る。\n 何の人工も加えられず、有りのまま、なり行きのままにまかせられて居るので、池は、何時とはなし泥が増して今は、随分遠浅になって居る。\n けれ共、その中央の深さは、その土地のものでさえ、馬鹿にはされないほどで、長い年月の間に茂り合った水草は小舟の櫂にすがりついて、行こうとする船足を引き止める。\n 粘土の浅黒い泥の上に水色の襞が静かにひたひたと打ちかかる。葦に混じって咲く月見草の、淡い黄の色はほのかにかすんで行く夕暮の中に、類もない美くしさを持って輝くのである。\n 堤に植えられた桜の枝々は濃く重なりあって深い影をつくり、夏、村から村へと旅をする商人はこの木影の道を喜ぶのである。\n 二番池の堤は即ち三番池の堤である。二番池の崩れた堤は、はるか遠く水田の中にかくれて完全に道のついて居る一方はいつとはなしに三番池の堤の一方を補って気のつかない間に、彼方に離れて仕舞う。\n 三番池は美くしい水草の白く咲く、青草の濃いのどやかな池であった。\n この池に落ち込む、小川のせせらぎが絶えずその入口の浅瀬めいた処に小魚を呼び集めて、銀色の背の、素ばしこい魚等は、自由に楽しく藻の間を泳いで居た。この池は、この村唯一の慰場となって居た。\n 池の囲りを競馬場に仕たてて春と秋とは馬ばかりではなく、町々の、自転車乗が此処で勝負を決するのが常である。\n 夏は、若い者共の泳場となり、冬は、諏訪の湖にあこがれる青年が、かなり厚く張る氷を滑るのであった。此等の池の美くしいのも只夏ばかりの僅かの間である。山々が緑になって、白雲は様々の形に舞う。\n 池の水は深く深くなだらかにゆらいで、小川と池の堺の浅瀬に小魚の銀の背が輝く。こうした生々した様子になると、赤茶色の水気多い長々と素なおな茎を持った菱はその真白いささやかな花を、形の良い葉の間にのぞかせてただよう。\n 夕方は又ことに驚くべき美くしさを池の面と、山々、空の広いはてが表わす。\n 暑い日がやや沈みかけて、涼風立つ頃、今まで只一色大海の様に白い泡をたぎらせて居た空はにわかに一変する。\n 細かに細かに千絶れた雲の一つ一つが夕映の光を真面に浴びて、紅に紫に青に輝き、その中に、黄金、白銀の糸をさえまじえて、思いもかけぬ、尊い、綾が織りなされるのである。\n 微風は、尊い色に輝く雲の片を運び始める。\n 紅と、紫はスラスラとすれ違って藤色となり、真紅と黄はまじって焔と輝く。\n 暗の中に輝くダイアモンドの様に、鋭く青いキラメキをなげるものがあれば、静かに、おだやかに、夢の花の様に流れる。\n 一瞬の間も止まる事なく、上品に、優美に雲の群は微風に運ばれて、無窮の変化に身をまかせるのである。けれ共、紅の日輪が全く山の影に、姿をかくした時、川面から、夕もやは立ちのぼって、うす紫の色に四辺をとざす間もなく、真黒に浮出す連山のはざまから黄金の月輪は団々と差しのぼるのである。この時、無窮と見えた雲の運動は止まって、踏むさえ惜しい黄金の土地の上を、銀色の川が横ぎって、池の菱の花は、静かに、その瞼を閉ざすのである。\n 池の最も美わしい時、この池の尊さの染々と身にしみる時、それは只、真夏の夕べの、景色にばかり、池の真の価値は表われるのである。\n 此の村に置くには、あまりに美くしい池である。\n 山々の峰が白んで、それが次第に下へ下へと流れて来る毎に冬は近づくのである。\n 寒い――只寒いばかりの此の村の冬は只池にはる氷に若い者がなぐさめられるばかりである。\n けれ共、三月四月と、春の早い都に花が咲く頃になると、山々は雪解の又変った美くしさを表わす。\n 快く晴れ渡った日、四方を取り巻いた山々の姿を見た時、誰でもその特長ある、目覚しさを讚美しないものはないのである。\n 雪の皆流れ落ちた処、まだ少し残った処、少しも消えない処、等によって皆異った色彩を持って居る。\n 皆雪の流れた処は、まだ少しもとけない処が雪独特の白さで輝くのに反して、濃い濃い紫色ににおうて居る。雪がまだらに、淡く残っている処は、いぶし銀の様に、くすんだ、たとえ様もない光を放して居る。始めて一眼見た時は、ただそれだけの色である。"
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"role": "assistant",
"content": " けれ共、その、まばゆい色になれてなおよくその山々を見つめると、雲の厚味により、山自身の凹凸により、又は山々の重なり工合によってその一部分一部分の細かい色が一つとして同じのは無いのを見出すのである。\n この様に、東北にはまれな、しなやかな自然の美は此村に沢山与えられたけれ共、物質の満足、精神的の美と云うものは、此村には十分与えられてない。絶えず、不自由に追い掛けられて、みじめな、苦しい生活をしなければならない理由。それは、その村人自身にならなければ分らないけれ共、気候が悪いし、冬の恐ろしく長い事、諸国人の寄合って居る事、豊饒な畑地の少ない事、機械農業の行われない事、などは、他国者でも分ることである。\n 明治の初年、この村が始めて開墾されてから、変った生活を求めて諸国から集ったあまり富んでいない幾組かの家族は、あまり良いめぐり合わせにも会わないで、今に至って居るのである。\n 米沢人はその中での勢力のある部に属して居る。日常の事はさほどの事はないけれ共、少し重立った事になると生国の違いと云う感じが都の者ほどさっぱりとは行かず、とけがたいわだかまりになってお互の一致を欠くのであった。\n 土地の大抵は粘土めいたもので赤土と石ころが多く、乾いた処は眼も鼻も埋めて仕舞いそうな塵となって舞いのぼり、湿った処はいつまでも、水を吸収する事なくて不愉快な臭いを発したり、昆虫の住居になったりする。長年耕された土地でさえも肥料の入るわりに良い結果は表れない様な地質である、その上に耕すのも、ならすのも、収獲するにも、工業的の機械を用うる事はなく、鍬、鋤、鎌などが彼等唯一の用具であくまでもそれを保守して、新らしい機械などには見向きもしない有様で、それだから機械などはほとんど村に入り込んでは居ない様子である。\n 地質がよくないとは云え、機械農業が発達さえすれば、今までより少しは多く収獲が有るのは定まった事だろうのに、農民は、発明される機械を試用する気にならず、又其を十分利用するだけ、序的な頭脳は無いものの方が多いのでもあろう。\n 斯うして、荒れやすい土を耕し、意地の悪い冬枯と戦うにも只、昔からの伝習だの、自分の小さい経験などを頼む事ほかしない。此処いらの純農民は、随分と貧しい生活をして居る。\n 養蚕は比較的一般に行われて、随って桑畑も多い。けれ共、大業にするのではなく、副業にしているのだからその利益もしれたものである。\n 一年の間、春、夏、秋、と三度蚕を飼ってあがる利益と、自分の畑のものを売った利益などで純農民は生計を立てて行かなければならない。\n 表面上は立派に自由の権利を持って居る様では有るけれ共、内実は、まるでロシアの農奴の少し良い位で地主の畑地を耕作して、身内からしぼり出した血と膏は大抵地主に吸いとられ、年貢に納め残した米、麦、又は甘藷、馬鈴薯、蕎麦粉などを主要な食料にして居るのである。\n 小半里離れた町方に彼等は主に地主を持って居た。この町はこの頃になって急に目覚ましい活動をはじめた町で、金銭の活動はにわかに、せわしくなって来ても依然として、それ等金銭をあつかうものの頭は、金銭につかわれる方なので、驚くほど物質的な、金にきたない町になって来た。\n そのためこの四五年と云うもの只金ばかりに気を取られて居る町の地主等は、年貢米の一斤一合の事までひどくせめたてて、元、半俵位の事ならそうひどい事も云わず来年の分に廻しその補いに、野菜や麦を持って来させて居た自分等の心をあやしんでいるらしい様になって来たのである。\n 四五年つづく不作と、地主等の悲しい心変りによって苦しむ小作人は自分が小作人である事をつくづくと悲しがって居た。\n 独立する資力がないばっかりに、地主の思うがままにみじめな生活をさせられて子供の教育も出来ず、二度とない一生を地主に操られて、働きへらして飼殺し同様にさせられて仕舞う。\n 小作をしないで暮すと云う事は農民皆が皆の希望だろうけれ共、地主に飼殺しにされた親達は又それと同様の運命を子供に遺して、その苦しい境遇から脱し得るだけの能力は与えなかった。\n 彼等、哀れな農民の上に運命の神は絶大の権威を持って居るのである。\n 泣く泣く堪えきれない不満を心に抱きながらも、暗い運命に随うよりほか仕方はないのである。\n 追いかけ追いかけの貧から逃れられない哀れな老爺が、夏の八月、テラテラとした太陽に背を焼かれながら小石のまじったやせた畑地をカチリカチリと耕して居る。其のやせた細腕が疲れるとどこともかまわず身をなげして骨だらけの胸を拡げたり、せばめたりして寝入って仕舞う、そのわきから掘り返された土は白くホコホコに乾いて行く様子は都会の生活をするものの想像できないみじめな有様で、又東北のやせた地に耕作する小作男を見ないものには味われない、哀れな、見る者の胸さえ迫って来る様な痛々しいものである。\n 斯う云う農民の住居は多く北から南へかけ東から西へと通って居るやせ馬の背の様な形の石ころ道をはさんで両側に並んで居る。\n 里道の中央が高いので雨降りの水は皆両側の住居の方へ流れ下るので、家の前の、広場めいた場所の窪い所だの日光のあまり差さない様な処は、いつでも、カラカラになる事はなく、飼猫の足はいつでもこんな処で泥まびれになるのである。\n 小作人でも少し世襲的の財産めいたものが有るものなんかは、馬なども、たまには持って居るけれ共、その馬小屋と云うのは、四方は荒壁で馬の出入りに少しばかりをあけて菰を下げ、立つ事と眠る事の出来るだけのひろさほか与えられて居ないものである。\n 空気の流通と、日光の直射を受ける事がないから、土面にじかに敷いた「寝わら」だのきたないものから、「あぶ」や「蠅」は目覚ましい勢でひろがって、飛び出そうにも出処のない昆虫はつかれて小屋に戻って来る馬を見るとすぐその身を黒く包み去るのである。\n 昼は悪い道に行きなやみ、夜は、虫共に攻められる馬は、なみよりも早く老いさらぼいて仕舞うのである。もし斯う云う生活さえさせられなかったなら、この種の良い、三春馬や相馬馬はそんなに早く、みぐるしい様子にはならないだろうのに、馬までが主の小作人同様、幸でない運命を持って居る様に思われるのである。動物をつかって耕作をする事のない此村には馬の数は非常に少ない。\n 往還で行き会う荷馬も、大方は、用事をすませれば、町方へ帰るものか、又は、村から村へと行きずりの馬である。\n 往還から垣もなく、見堺もなく並んで居る低い屋根は勿論「草ぶき」で性悪の烏がらちもなくついばんだり、長い月日の間にいつとはなし崩れたりした妙な処から茅がスベリ出して居て陰気に重い梁の上に乗って居る。外囲いは都会の様に気は用いない、茶黄色い荒壁のままで落ちた処へ乾草のまるめたのを「つめ込んで」なんかある。\n こんな家に二階建のはまれで皆平屋である。家の前には広場の様な処が有って、野生の草花が咲いたり、家禽などが群れて居る。\n この村人の育うものは、鳥では一番に鶏、次が七面鳥、家鴨などはまれに見るもので、一軒の家に二三匹ずつ居る大小の猫は、此等の家禽を追いまわし、自分自身は犬と云う大敵を持って居るのである。\n 人通りのない往還の中央に五六人きたない子がかたまって、尾をあげ爪を磨いでうなる猫と、腹立たしそうにクワンクワンと叫ぶ犬を取り巻いて居る事がよくある。向いの家の猫が自家の鶏を取った事から、気づくなった家なんかも有った。\n 家畜と云うほどの事もない、犬や猫に入り混って叫んだり、罵ったりして暮す子供等は、夏は、女の子は短っかい布を腰に巻いたっきり、男の子は丸のはだかで暮すのである。けれ共十四五から上のにもなれば、まさか、手拭で作った胴ぎりの袖なしだの、黒い単衣を着てなんか居る。\n 冬は、母親のを縫いちぢめた、じみいなじみいな着物を着て、はげしい寒さに、鼻を毒われない子供はなく皆だらしない二本棒をさげて居る。\n 髪は大抵、銀杏返しか桃割れだけれ共、たまに見る束髪は、東京の女の、想像以外のものである。\n 暗い、きたない、ごみごみした家に沢山の大小の肉塊がころがって居るのである。\n 実際、肉塊が生きて居て地主のために労働して居ると云うばかりで、智的には、何の存在もみとめられて居ないのである。\n けれ共此村には、彼等農民の上に立って居ると云っても良い半農民的な生活をして居る或る一っかたまりの人達が居る。\n それは、村役場と小学校と、めずらしくも、この村にある中学校に関係ある人達の群で有る。その他、神官と、僧侶と、この村の開墾当時から移り住んで居た、牛乳屋の家族、などは、実際の村のすべての事を処理して行く上には実力が有った。\n こんな人達の勢力は、実に「井の中の蛙」と云うのに適当なものである。\n 中学校がこんな村にある! 一寸妙な気のする事だけれ共、それは県庁が、比較的景色の好い精神的と肉体的とを兼ねたこの健康地を選らんだと云うばかりだけれ共、その生徒の中から此村に落される金ばかりは割合に労働なくて得られる金の唯一なものであった。遠い村に家のある生徒は、半農民の小ざっぱりした家へ下宿し、そのために二軒の下宿屋さえ有るのである。夏季講習が折々この村の中学で行われる時は、村中が急に、さざめき渡るのである。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 見れば作る者も疲れている。作りたくないと希いながら、作ることを強いられている。どうして器の運命等を省みる暇があろう。働かなければ一日の糧を得ることができない。情愛が器の母となるのではない。生活への恐怖が彼の手を働かせるにすぎない。よき器を作るとても、利得を得るものは貧しいそれらの人々ではない。自らでは働かず、彼らをつかっている富んだ少数の人々である。作る者は苦しいのだ。その働きには傭う者への憎しみが含まれているのだ。そこには苦痛のほかほとんど何ものもないのだ。だが一日でも手を休めるなら、なお大きな苦痛が生活に迫る。彼らは苦痛に起き出でては苦痛に眠る。かかる日々の生活から、どうして安らかな器物が作られるであろう。彼らには何を作るかの自由はない。作るものにどうして興味が感じられるであろう。彼らは自らが用いたきものを作るのではない。否、もつことすら許されない多くのものを作っているのだ。喜悦があり創造が許された者といかに異なる事情であろう。すべての器は愛なく作られることを強いられている。その醜さは虐げられた心の現れである。\n これは古い器が住んだ社会ではない。驚くべき変化が社会の上に来たのだ。かつては生活が相愛の糸に結ばれてあった。互いは互いを助けてこの世の幸福を守った。そこには敬念が見え礼節が保たれてあった。社会は秩序を守り、組合は固く守護せられた。利潤は富める個人に帰したのではない。それは協団を富ませ、働く者を貧しさから救った。師匠は弟子を愛し、弟子は師匠を敬した。そこにはよき順次が保たれ、生活は整頓し、価格は支持され、経済は保証せられた。人々は力を協せて作業に対し商業に対し道徳を支えた。働く者には創造の自由があり、仕事への愛着があった。何よりも正しく作ることに心が注がれてあった。利得はこれに伴う穏やかな報いに過ぎない。営む者と作る者とは多く同一人であった。そうして作る者と鬻ぐ者とはしばしば同じであった。そうして作る者は、その器を用いる一員であった。彼らは自ら用いたき品を人々に贈ることができた。かくて作る者は協団の名誉のもとに責任を負うた。品質は選ばれ、健康は保たれ、よき奉仕のためにすべてが準備せられた。かかる事情から、誤った工藝が生れるであろうか。器の正しさは制度の正しさを要求する。\n 器の美に破綻が来たのは、社会に破綻が来たからである。労働は協団の組織を去って、労銀の制度に転じた。営む者は工匠自らではなく、働くを欲しない富者である。利潤に浴する者は、作者としての民衆ではない、それは少数の金権を握る個人である。ここに平等の理想は敗れ、相愛の否定が起った。上下に階級は分たれ、相互の反目は日に強められた。この傲慢と屈辱との対峙から、どうして労働への喜悦があり、作物への愛情が起ろう。そうしてこの冷たさの中から、どうして正しい工藝を期待することができよう。美しさは惜しみなく器から奪われて行った。静けさは永えに葬り去られた。あの着実とか健康とか、それらの徳はかえって罪と呼ばれる。利とは係わるところがないからである。それは用のための器ではない、まして美のための器ではない。利の前にはすべてが従である。醜い器の陰には社会の醜さが潜む。私たちは器を咎める前に、誰がかくさせたかを咎めねばならぬ。腐った根から、美しい花が開き得ようか。良きも悪しきも、器は世を映す鏡である。器が病むなら、それを生む社会もまた病いにある。\n 人々は器の短命をどう想うであろうか。それは一時の需用や一時の注意を集めるために作られたに過ぎない。品質の粗悪や、装いの俗化は長き奉仕を許さないであろう。まして美しさの故に、永く顧みられることはあり得ないであろう。行く末工藝の美術館を訪う人があるなら、この現代から作が絶えているのを知るであろう。そうしてその堕落史を繙く人があるなら、それは近代から筆が起され、現代において絶頂に近づいてきたのを知るであろう。いかなる弁明があるにせよ、資本制度が工藝の歴史に貴重な遺産を加えなかっただけは明確である。\n この粗悪につれて、公衆もまた器への愛着を見失ってしまった。今の世に母が纏うた着物を感謝をもって着る娘があろうか。物がそれを許さず、心がそれを許さない。誰か愛なくして作られたものに、愛を感ずる機縁をもち得よう。人々はそれを棄てることに躊いを感じない。「もったいない」と云う声は、まもなく消えるであろう。事情をかくまでに不幸にさせたのは、誰の罪によるのであろうか。器自身でもなく、器を作る手でもない。利慾の刃が器を殺し美を殺し、世を殺し心を殺しているのである。\n いかに虐げられたそれらのものが、さらに世を毒しているであろう。人々は彼らが放った矢によって、自らを傷つける愚かさに落ちる。世を温めるべき器は、心をいら立たせる器となった。荒む人の心が、いかに醜い器から導かれるかを気づいている者は少ない。何も知らない公衆は、俗悪を華麗であると解している。そうして刺戟を求める社会は、繊弱を文化であると見做している。醜い工藝なくしては今の文化はあり得なくさえなった。人々にはあの病いあるものが相応しい。この事実より恐るべきことがあろうか。誤れる工藝、今はそれのみが是認される工藝である。\n 渋さよりも刺戟が新しい近代美であると考えられるかも知れぬ。ある人々は進んでこう云うように見える。「頑丈とか誠実とかは原始的作品の道徳に過ぎない。私たちは感覚的作品へと進まねばならない。耐久に美があるのではなく、変化に美があるのである」と。感覚的な美が一つの美であることを誰か否む者があろう。しかし私はそれを美の大道だと考えることができぬ。またかかる美に人類の幸福が安定されると考えることもできない。そうしてかかる美が常に繊弱と廃頽とを伴うことは否定することができない。そうして刺戟が俗悪に陥らなかった場合がどれだけあろう。私は美へのかかる要求を過渡期のものと考える。それは一時的現象に過ぎない。個人主義的社会を離れて、かかる変態な文化があり得ようか。人々は、ついに正しい美を見失ってしまった。否、むしろ醜さを選ぶようにさえ見える。器に降りかかった不幸のうち、これより致命的な不幸があろうか。そうしてまた社会の上に降りかかった不幸のうち、これより暗黒な不幸があろうか。誰がこの腐爛した状態から工藝を救い起すであろう。\n 器はこう訴えているのだ、「活きたい志を封じてくれるな。昔の兄弟たちのように、なすべき務めを果したいのだ。健康な美しさと誠実の徳とを保ちたいのだ。何の意味があってかくまでも虐げようとするのか。天然の怒りが来ないであろうか。美を屠るものは、その刃で自らを屠る時があるであろう。その悲劇がすでに迫っているのを気づかないであろうか」。\n 私はこの声に耳を欹てないわけにはゆかぬ。そうして誰一人醜い世から起るこの不幸について、弁明の資格をもつ者はない。しかも罪の物語はここに終るのではない。私はさらに多くの訴えについて、筆を続けてゆかねばならぬ。\n\n二\n\n ここに記すことは、来るべき工藝の上に被いかかる暗い勢いについてである。特に器の美を愛する者は、このことに想い及ばないわけにゆかぬ。\n 工藝の運命が協団の組織を離れて、資本制度に移された時、著しい激変がこれに伴って起った。かつては手工に工藝が托されてあったが、機械がその位を奪う時は迫った。天然の手が造り主であった時代は過ぎて、人為的動力が作物を支配するに至った。しかしこの変化からいかなる結果が導かれたであろうか。そこには二つの事実が数えられる。一つは仕事から創造の自由が奪われてしまった。そうしてそれは労働に情愛を許さなくなった。二つには器から美しさを取り去ってしまった。そうしてそれは美に対する社会の心を冷たくしてしまった。しかし美の創造が封じられる時、社会は正しい社会であり得るであろうか。美の下降は文化の下降を告げる。正しい工藝がない所に、正しい文化はあり得ない。機械は多量と廉価とを保証すると人は云う。しかし現代において多量が粗悪に陥らなかった場合があろうか。廉価とはいうも、作る者はそれを購い得ないほど貧困に沈んで来たではないか。機械の無制限な使用が、現代に幸福を約束しなかっただけは確かである。もし工藝の美を未来にも守護しようとするなら、機械に向って明確な智慧がなければならぬ。さもなくば二度と美しさは工藝に戻らないであろう。そうして美を見失う時、文化はついに正しい文化たることができないであろう。善が沈む時、世には乱れが来るではないか。信が失せる時、心の平和は破れるではないか。もし機械が美を殺すなら、世をも殺しているのだと悟らねばならぬ。"
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"role": "assistant",
"content": " しかしかく云う時、次のような批評が私に集る。「手工に帰るのは時代を戻す企てに過ぎない。あの道具の時代は去ったのである。私たちは機械製品に美を盛って行かねばならぬ。発展せられた機械を見棄てるのは、愚かに帰れという声に過ぎない。人口の増大は機械をさらに要求する。経済の前に美は二義である。美を救うより生活を救わねばならない。もし社会の制度が資本家から離れるならば、機械も必然に美しい作を産み得るであろう。機械の発達はいつか美を保証するであろう。そうして自然に対する人工の捷利に、大なる文化が樹立される」と。\n しかし私は躊躇なくこう尋ねよう。手工は過去の道であろうか、何かそこに永遠な力が含まれてはいまいか。誤った現代から見て、過去のものと呼ぶまでではないか。そこには工藝の公道がありはしまいか。私たちは「美しさ」や「正しさ」を放棄してまで、機械を選ぶべきであろうか。機械の発達は今の制度がそれを要求したまでではなかろうか。資本制度なくして機械がかくまでに要求されたろうか。この制度は継続するであろうか、また継続してよいであろうか。もし社会の組織に一転換が来るなら、手工藝は甦りはしまいか。それが必要として迎えられはしまいか。それは今の時代と相容れないに過ぎなくはないか。手工の道に誤りがあるのではなく、現代に誤りがあるのではないか。手工藝を棄てるよりも前に、今の制度を棄てるべきではないか。どうして美しさにおいて今の工藝が貧しくなったか。何の事情がかくはさせたか。そうしてその醜さからいかなる幸福を社会が得たか。道は二つよりない。今の制度を肯定して、美しさを見棄てるか、今の制度を棄てて美しさを甦らすか。今の社会制度と美とを調和さす道は断じてない。資本制度それ自身が美を駆逐するからである。何故なら利慾は美を犠牲にすることを少しも躊躇してはいないからである。そうしてかかる制度の許に美への認識は衰頽する一途だからである。かかる社会を正しい社会と云い得ようか。もとより機械はなんらかの幸福を齎らしたであろうが、手工藝を失うことによって得た不幸に比べることはできない。\n ここに手工藝というのは、機械を排する道という意味ではない。また手工と機械とに調和がないという意味でもない。否、機械の助けなくしては手工はその働きを全くすることができないともいえよう。だが機械は補佐であるが故に、どこまでも人間の従でなければならぬ。なぜ今日の作がかくも冷やかになったか、この上下の位置が顛倒したのが一つの起因である。機械そのものには何の悪もないであろう。だが機械主義に転じる時、それが酵す醜悪について、なんの弁護があるであろう。手工は機械を排してはいない。しかし機械が手工を退けてしまった。この叛逆から機械の罪業は開始せられた。手工に帰れとは人を主の位置に戻せよという謂である。機械を棄てよという謂ではない。機械に蹂躙された人を救い起せよとの意味である。\n 美よりも生活を救えよと人は云う、美は二義であると人は思う。だが美なき生活を生活と呼ぶべきであろうか。まして美を保証し得ない文化を、正しい文化と云えるであろうか、生活が美に悖るなら、真の生活にも悖るのである。美は娯楽ではない。生活をして、真の生活たらしめる大きな基礎である。善に冷やかな社会から、正しい生活が出ないように、美を無視する制度から、よき文化を期待することはできぬ。\n ある者はまたこう詰るであろう。手工に帰れとは、発達せる機械を棄てて、原始に戻れというに過ぎないと。しかし人智の適用が人類を不幸に導く場合がある時、それを放棄する勇気をもつことは愚かであろうか。私たちは極めて発達したあの武器が、無用となる日を嘆ずべきであろうか。人類の幸福のために、その捨棄を議することは愚かであろうか。あの盲腸の手術は、人間を猿猴に戻したであろうか。私たちは「発達した」という事実に捕われて、そこから導かれる不幸を阻止しないでよいであろうか。人智の向上は常に善である。だが一度方向を過つなら悪に転じるであろう。私たちは美を犠牲にしてまで、機械を謳歌してよいであろうか。\n 機械への弁護は、常に人口の増大を語る。そうして機械が与える多量生産と廉価とを説こうとする。しかし今日示された結果を見れば、機械は競争を生み、競争は生産の過剰を来し、かくて失業者を増加したではないか。しかも多量は品質の粗悪を伴い、富は個人にのみ集中したではないか。民衆はますます貧苦に陥り、社会は全く俗悪に染まったではないか。増大される人類の人口に幸福を約束する機械の制度は、果してその意志を実現したであろうか。機械の偏重から得たものは、新たな深刻な生活の不安に過ぎない。\n 国家ギルド社会主義者は云う、「機械の悪は資本制度の余悪に過ぎない。もしそれが倒れてギルドがこれに代るなら、生産は調節され、過剰は去り、価格は安定し、民衆はその利得に浴するであろう」と。しかし国家と国家との対立は新たな機械の競争を酵すであろう。制度が資本家から離れるとも、作がただちに美しくなると誰が云い得るであろう。機械が与うる不幸は癒されることなくして続くであろう。私たちは機械そのものの限界をいかにすべきであろう。機械が工藝の基礎となる時、そうして手工が追放の悲運に逢う時、美は二度と甦ることなく終るであろう。ギルドへの復興は手工への復興を意味する。否、手工への復帰のためにギルドが切要されるとも云えるであろう。\n 私は再び云おう。現代の機械工藝は資本制度の招いた結果である。もし制度に一転換が来るなら、社会は機械を無制限に要求することはなくなるであろう。これに反し今日よりもなお手工の必要が求められるであろう。手工それ自身は過去のものではなく、今の制度がそれを殺したに過ぎぬ。そうして工藝に対する機械の捷利は永遠なものではなく、今の制度の改変と共にその捷利は過去のものとなるであろう。そうして人が機械の主たる時は再び来るであろう。その時こそ労働には喜悦を伴い、器物には美が伴うであろう。社会はかかる将来を求める。手工とは機械の排除ではない。機械の統御を云うのである。\n 人々は自然を越えて、人知の捷利を得ようと求める。そうしてその征御に文化の誇りを謳おうとする。だが自然に叛くものに悠久なものがあろうか。自然に従順なものは自然の加護を受ける。エックハルトは云う、「完き霊は神の欲する以外のことを欲しない。それは奴隷たるの謂ではなく、自由を得るの意味である」と。自然への叛逆は自己への徒らな拘束に過ぎない。自然に即するものは、自然の自由に活きるであろう。自然の岩に築かかる文化、それをこそ正しい文化と呼ばねばならぬ。\n 機械を無視する文化は成り立ち得ない。同時に機械に奴隷となる文化も成り立ち得ない。まして手工を排除する文化が成り立つであろうか。\n\n三\n\n 無学な工人に何の罪があろう。沈黙する器に何の咎めがあろう。彼らに苦しさや醜さを強いたのは制度の罪である。傾く時勢を見る時、すべては暗く見える。悪の勢いは、もう世界のほとんどすべてに行き渡ってしまった。人々はなんら顧みるところなく祖先が遺したものを日に日に毀しつつあるのだ。建築から、器物から、衣服から、そうしてあの橋梁や石垣に至るまで。そうしてさらに美しきものを代え得る資格なくしてすべてを葬って行くのだ。そうして貴重なすべての伝統も惜しみなくすたれてゆくのだ。罪なき民衆はまた顧みることなくして悪作を生み続けているのだ。この新しい社会の制度のもとに、何ものもまだ美しいものはなく、また美しいものがあり得る望みはない。事情が変らないなら、美の世界は決して甦ることがないであろう。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 白南風というのは近年白秋氏が歌集に名づけたりしたので、比較的人の耳目に熟しているかと思うが、黒南風と並んで梅雨中の天象の一となっている。古来いろいろな解釈があるらしいけれども、梅雨に入って吹くのをクロハエ、梅雨半に吹くのをアラハエ、梅雨晴るる頃より吹く南風をシラハエという『物類称呼』の説に従って置く。いずれにしても空の明るさを伴う梅雨時の現象であることは間違ない。\n 船まで送って来て別を惜む。漸く晴に向わんとする梅雨の空から来る風が、頻に紗の羽織を吹く。「吹もどす」の一語に惜別の情が含まれていることは勿論である。海の空は薄明るくなって、自ら季節の移るべきを示しているのであろう。比較的大きな光景を前にして、小さな紗の羽織を描き、陰鬱の雲を散ずべき白南風に惜別の情を寓している。「下のかたより青鷺のこゑ」という助然の脇も、折からの景物と思われる。普通に景中情ありなどという平凡なものではない。実景実感の直に読者の胸に迫る句である。\n\nうたゝねのかほのゆがみや五月雨 釣壺\n\n 五月雨に降りこめられたつれづれにうたたねをしている人がある。ふとその顔を見ると、どういうものか歪んで見える。そこに或寂しさを感じた、というのである。\n 病人などでなしに、うたたねの人であるところがこの句の面白味である。少し老いた人のような気がするが、必ずしもそう限定せねばならぬというわけではない。\n\n蜀魂啼や琴引御簾の奥 吾仲\n\n 作者はこの場合、御簾の外にいるものと思われる。ほととぎすが啼き渡る、御簾の奥では今琴を弾きつつある、という情景である。\n 必ずしも平安朝の物語を連想する必要はないが、奥深い、大きな屋形であることは疑を容れぬ。琴を弾ずる人は恐らくほととぎすの声が耳に入らぬのであろう。『虞美人草』の文句にある通り、「ころりんと掻き鳴らし、またころりんと掻き乱」しつつある。\n 音に音を配合するのは、一句の効果を弱めるという人があるかも知れない。しかしそれは御互に即き過ぎて、相殺作用を起す場合の話であろう。この場合のほととぎすは琴を妨げず、琴もまたほととぎすを妨げない。作者は御簾の外にあって、両の耳に二つの声を収めるとすれば、その辺の心配はないわけである。\n\n網打やとればものいふ五月闇 雪芝\n\n 舟か陸かわからぬが、とにかく投網を打っている男がある。ざぶんと打つ網の音が闇を破って聞えるが、人は黙々として打続けるらしく、五月の闇は濃くその姿をつつんでいる。ただ若干の獲物があった時だけ、「しめた」とか「今度は捕れた」とかいうのであろう。何も捕れなければ、黙りこくったまま、またざぶんと投網を打つのである。\n 独り言か、誰か側にいるのか、それはわからぬ。何か捕れればその結果としてものをいい、獲物がなければ黙って網打つ動作を繰返しつつある。網の間に時々閃く銀鱗は、この場合さのみ問題でない。一句の中心をなすものは、闇中に動く黒い男の影だけである。「とればものいふ」の語は、後の太祇の句などに見るような使い方で、頗る働いているのみならず、これによって周囲の闇を一層深からしめている。他の如何なるものを持って来ても、この七字以上の妙を発揮出来そうもない。異色ある句というべきであろう。\n\nみじか夜を皆風呂敷に鼾かな 除風\n\n「浪花より船にのりて明石にわたる乗合あまたにて」という前書がついている。そういう船中の様子を句にしたのである。\n 混雑した船の中で、ともかくも眠ろうとする。「風呂敷に」という言葉が多少不明瞭であるが、風呂敷を顔に当てて眠るか、風呂敷包を枕にするか、眠るに際して風呂敷を用いるという意味らしい。風呂敷包とすれば、やはり包の字が必要であろうから、ここは風呂敷を被って寝ると見た方がいいかも知れぬ。風呂敷に隠れた顔から鼾の声が聞えるなどは、短夜にふさわしい趣であろう。\n 現代の夜汽車の中でも、往々これに似た光景に逢著することがある。昔の船は今の汽車ほど仕切がないから、「皆」という言葉を用いるのに都合がいいように思う。\n\n世は広し十畳釣の蚊屋の月 怒風\n\n この上五字は今の人の気に入らぬかも知れない。しかし作者の主眼はむしろここにあるのであろう。\n 世の観じようはいろいろある。人間の真に所有し得る面積は、坐って半畳、寝て一畳に過ぎぬという説を聞かされたことがあったが、そういう見方からすれば、十畳釣の蚊帳も大分広いことになる。いわんやそこに月がさして、のびのびと手足を伸して寝られる以上、「左右広ければさはらず」の感あることはいうまでもない。「十畳釣の蚊屋」というような、やや説明的な材料を活かすためには、時に「世は広し」の如き主観語を必要とする場合もあるのである。\n 作者はこの蚊帳について月の外に何も点じておらぬが、いくら十畳釣の蚊帳だからといって、中に大勢人が寝ているのでは面白くない。仮令一人と限定せぬまでも、「世は広し」と観ぜしむるだけの条件は具えていなければならぬ。蚊帳の広さ即世の広さだなどといって来ると、何だか少し理窟臭くなるけれども、作者がこの蚊帳の中に一の楽地を見出していることは事実である。この句を味うためには、どうしても蚊帳の中に楽寝をしている作者の姿を念頭に浮べる必要がある。\n\n吹おろす風にたわむや蝉の声 如行\n\n 句の上に場所は現れておらぬが、先ず山がかったところと想像する。上からサーッと風が吹きおろすと、山の木が一斉に靡いて、鳴きしきっていた蝉の声が、一瞬吹き撓められるように感ぜられる、というのである。\n この風は烈風とか、強風とかいう種類のものではないが、一山の木々が葉裏を見せて翻る程度の風でなければならぬ。蝉は風によって鳴声を弱めるわけではない。風声によって蝉声が減殺されるようになる。それを「たわむ」という言葉で現したのが、作者の技巧であろう。「吹落す」となっている本もあるが、「落す」では前のような光景は浮んで来ない。「吹おろす」でなければなるまいと思う。\n\n野はづれや扇かざして立どまる 利牛\n\n 元禄七年五月、芭蕉が最後の旅行に出た時、東武の門人たちが川崎まで送って行った。芭蕉が別れるに臨んで「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」と詠んだ、その時の餞別の句の一である。\n 芭蕉の姿はだんだん小さくなって行く。立って行く芭蕉も、見送る門弟も、これが最後の別になろうとは思いもよらなかったに相違ない。じっと姿の見えるまでは立って目送する。今ならハンケチを振るところであろうが、元禄人にはそんな習慣がない。立止ってかざす扇の白さが目に入る。別離の情はこの一点の白に集っているような気がする。\n 芭蕉翁餞別という背景がなかったら、この句はそう注意を惹く性質のものではないかも知れぬ。俳人が別離の情を叙するに当って妄に悲しまず、必ずしも相手の健康を祈らず、不即不離の裡に或情味を寓するの妙は、この句からも十分受取ることが出来る。\n\n蚊遣火や道より低き軒の妻 百里\n\n 路傍に道より低い家があって、蚊遣を焚いている。単に「道より低き」といっただけでは、概念的であることを免れぬが、軒の端が道より低いというによって、その印象が明瞭になると共に、相当低い地盤に建った家であることがわかる。例えば土手の下にある家の如く、道を行く人は到底その内を窺い得ぬ程度のものであろう。\n そういう低い家から濛々たる蚊遣の煙が立騰る。庇の深い、薄暗い地盤の低い家が、この趣を大に助けているから面白い。\n"
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"role": "assistant",
"content": "箒木の倒れふみ立すゞめかな 配力\n\n この箒木は歌人がしばしば伝統的に用い、其角あたりも句中に取入れて読者を煙に巻いた「その原やふせやに生ふる箒木」の類ではない。草箒の材料になる、ありふれた箒草のことである。\n 風に吹折られたか、人に踏折られたかして倒れている箒木がある。それを雀が踏むまではわかっているが、「立つ」という言葉は二様に解せられる。雀がその倒れた箒木を踏えて立ったというのか、踏んで飛立ったというのか、二つのうちであろう。踏えて立つということにすると、雀の身体も小さいし、足も細過ぎて少々工合が悪いが、飛立つ場合なら特に「ふみ立」というのが念入のようである。ここは雀も小さい代りに、箒木も大きなものではないから、倒れた箒木に雀がとまっているのを、「ふみ立」といったものと解して置く。勿論雀の性質として、そう長くじっとしているはずはない。一度踏えて立ったにしろ、やがてパッと飛立つことは明であるが、それはこの句としては余意と見るのである。\n 眼前の写生で、しかも相当こまかいところを捉えている。雀も箒草も平凡な材料であるにかかわらず、この観察は必ずしも平凡ではない。\n\n川風や橋に先置蛍籠 陽和\n\n 現代の風景とすると、蛍売が荷をおろしたような感じがするけれども、元禄の句だから、そんなこともあるまい。蛍狩に行った者が川端へ出て、夜風の涼しい中に佇みながら、手に持った蛍籠をちょっと橋の上に置いた、というのであろう。\n 方々蛍を捕って歩いた挙句、橋のところへ来かかったものとすると、この籠の中には蛍の光が点々として明滅していなければならぬ。これから出かける途中ならば、まだ獲物は入っていないわけである。その辺は作者が明示していないのだから、読者の連想に任せて差支ないが、籠は蛍用のものであるにしても、全然入っていなくては寂し過ぎる。少しは蛍が入っている籠を点ずることにしたい。但橋に出たのは蛍狩の目的でないので、偶然そこへ来たら川風が涼しいため、蛍籠を橋の上に置いて暫く佇んでいるものとすればいいのである。\n\nくらがりに目明てさびしなく水雞 万乎\n\n ふっと目がさめた。あたりは真暗である。何時頃かわからぬが、どうも夜半らしい。今と違って時計の刻む音も何も聞えず、天地は真暗であるのみならず、極めて闃寂としてしずまり返っている。\n その暗い、ひっそりした中に水雞の声が聞えた。戸をたたくという形容を持込んで、誰かがたずねて来たかというような連想を働かす必要はない。ただ真暗な夜の中に目をさました人が、闃寂たる天地の間に水雞の声を耳にしたまでである。「さびし」という言葉は、四隣闃寂たるだけでなしに、これを聞く人の心の問題でもなければならぬ。\n\n行馬の水にいなゝく夏野かな 游刀\n\n 炎天下を馬に乗って行く場合と思われる。鞍上の人も固より咽喉が渇いているであろうが、馬も烈日の威に堪えず、喘ぎ喘ぎ歩みつつある。広漠たる夏野にさしかかって、どこで水に逢著するかわからぬ。そのうちに馬は前途に水あることに勘づいたと見えて、急に元気よく嘶いた。鞍上の人もホッとして馬を急がせる、という風にも解することが出来る。\n しかし再案するに、この馬は鞍上の人となった場合に限る必要はない。馬を曳いて共に夏野を歩みつつあるのでもよさそうである。「水にいなゝく」という言葉も、前途に水あることを馬が直覚したというほど、特別な場合と見ないで、現在水に逢著して嬉しげに嘶いたとしても差支ない。ただこの句に必要なのは、炎天に渇し夏野に喘ぐ人と馬との間の親しい心持である。路傍の人として馬を見送る態度でさえなければ、他は爾く限定するに当らぬであろう。\n\n夕がほにあぶせて捨る釣瓶かな 臥高\n\n ちょっと見ると釣瓶を捨てたようであるが、如何に物資不足の世の中でないにしろ、そうやたらに釣瓶を捨てるはずがない。釣瓶の中の水を捨てたのである。\n 釣瓶から水を飲むような場合であろう。汲上げた水がまだ大分釣瓶に残っている。その水を井戸のほとりの夕顔に、ざぶりと浴せて捨てたというのである。一杯の水もむだに捨てず、植木の根にやるという峨山和尚の話は、結構であるに相違ないが、下手に俳句の中へ持込んだりすると、かえってその妙を発揮しなくなる。井戸流しへぶちまけてしまわずに夕顔に浴せれば、一味の涼はそこに生れる。俳人はこの程度の効果を以て足れりとすべきであるかも知れぬ。\n\nほとゝぎすなくや夜鰹はつ鰹 孟遠\n\n ほととぎすに鰹の配合というと、必ず素堂の「目には青葉山時鳥初松魚」が持出される。あまり判で捺したようだから、一つこういうのを持出して見た。\n 素堂の句は視覚、聴覚、味覚を併せて、首夏の爽な感じを尽しているので、解釈するのに便宜であるが、この孟遠の句はそれほどはっきりしてはいない。ほととぎすが啼く頃夜鰹が来る、その夜鰹即初鰹だという風にも解せられる。それほど狭く限定しないで、「夜鰹はつ鰹」は「富士の霧笠時雨笠」というような、一種の調子を取った言葉と見ても差支ない。いずれにしても「夜」がほととぎすの啼く夜であるだけは慥である。\n この二句を対照して見ると、素堂の方は三つの官覚を併せているだけに、首夏の趣は十分であるが、一句から受ける印象は、感じの上にぴたりと灼きつくというよりも、事実の上でなるほどと合点するところがある。ほととぎす啼く夜の鰹は、その場所とか、背景とかいうものが一切塗潰されているにかかわらず、やはり実感に訴えて来るものを持っている。\n しかしこの句から直に新場の夜鰹などを持出して、むやみに江戸ッ子仕立にすることは、恐らく見当違におわるであろう。孟遠は肩書に僧とあるからである。但初鰹の作者は必ずしも鰹の賞味者ばかりに限らぬ。この一句によって直に孟遠を腥坊主にする必要もなさそうに思う。\n\n雨に折れて穂麦にせばき径かな 尺艸\n\n 雨の降る日に穂麦畑に沿うた径を通る。麦の穂先が地に折れ伏しているため、径の幅が狭くなっている。その狭い径を雨にそぼ濡れながら行くというのである。\n「雨に折れて」というと、雨のために穂麦が折れたもののように聞えるけれども、実際は雨中の径に穂麦の先が折れ伏している、という意味であろうと思う。穂麦に雨を点じて、こういう小景を描いているのが面白い。折れ伏した穂麦を踏むまじとして、雨に濡れながら径を行く足のうすら寒さまで、この句から窺い得るような気がする。\n\n葉桜のうへに赤しや塔二重 唯人\n\n 印象的な句である。\n 葉桜の緑と、丹塗の塔との配合が、色彩の上からはっきり頭に残るというだけではない。樹木の緑と建築物の赤との対照は、日本においてはむしろ平凡な景色に属する。この句において特筆すべきものとも思われぬ。\n 五重塔か、三重塔かわからぬが、多分前者であろう。丹塗の塔の上二重だけが、葉桜の上に見えている。この句が平凡を脱するのは「塔二重」の一語あるためである。近代の句ならば、こういう観察も敢て珍しくないかも知れぬが、元禄期の句としては注目に値する。「塔二重」をもう少し平凡な語に置換えて見れば、その差は自ら明瞭であろう。\n 満目の葉桜の上に丹塗の塔が姿を現しているのを、やや遠くから望んだ景色と見ても悪くはないが、葉桜の茂った下に来て、梢に近く丹塗の塔を仰ぎ見た場合とも解することが出来る。新緑や青葉若葉でなしに、特に葉桜と限ったところを見ると、あまり遠望でない方がいいかも知れぬ。\n\n若竹に晴たる月のしろさかな 魯九\n\n この句には前の「葉桜」のような、こまかい観察はない。特に「晴たる」と断ったのは、今まで降っていた雨が晴れて、すがすがしい月が出たという意味であろうか。三日月や半月では、どうもこの景色に調和しない。磨きたてたような円い月でありたいように思う。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " この言葉をきいて、二人の奉行をはじめ一座の人々一様に哀れと思つた様子であつた。\n 白石はこれを見て、この者は見かけによらぬ偽り者ぢや、と言つた。\n 婦女子風の感覚を嫌ひ、誠実の押売りを厭ふ日本式の儒教論理は過去の外人神父達がいづれも応接に一苦労した難物で、これに就いては、多くの報告がもたらされてをり、このへんの概念は漠然ながらシローテも懐いてゐたであらうと思ふが、事実に当つてぶつかつては誰でも驚く。\n シローテは恨みをこめた顔色で白石を視凝めてゐたが、人にまことがないほどの恥辱がありませうか。まして私共の教では妄語を戒しめてをりますものを。私が事の情をわきまへてこのかた一言の偽りを申した覚えがありませぬ。何故殿は私を偽り者と仰せられますか、と言つた。\n 白石はこの詰問に押しかぶせて、おまへは年の終りも近づき寒気のきびしい折から番卒共が昼夜を分たず守りについてくれるのが見るに忍びぬと申すのであるな、と訊く。いかにも、それに相違ございませぬ、と答へた。\n「さて、それならばこそ、おまへの申す言葉には偽りがあると申すのぢや。番卒がおまへを守るのは奉行の命令を重んじてのことであり、又、奉行は公家の仰せを受けておまへを守つてをられるゆゑ、おまへの身に事故なきやうにと思ひはかられ、寒からうとの御配慮から衣服を与へようと仰せられる。もしもおまへの申す言葉がまことの情であるなら、奉行がおまへの身を案ぜられての御心配をなぜ安んじてあげないのか。異教徒の配慮を受けることが出来ないといふなら、番卒の配慮も亦こだはるに及ばないではないか。それゆゑ、おまへの先程の言葉がまことなら、今の言葉は偽りの筈ぢや。又、今の言葉がまことならば、先程の言葉は偽りの筈ぢや。申しびらきもあるまい」\n 感情自体の真偽を無視して屁理窟一点張りの日本風の論法であるが、白石は又このやうな非情の理窟を自らの生活として誠実に生きぬいてきた傑人である。奉行達の感動に反撥して、紅毛人ごときにといふ強情で意地の悪い向ふ意気もあるけれども、牢固たる信条とその信条に一貫せられた誠実も亦疑ひ得ない。\n シローテはこれをきいて成程と思ふ様子であつたが、やゝあつてのち、まことに私のあやまりでございました。いかにも衣服をいたゞきまして御奉行の御心を安んじたいと存じます、と言つた。\n 好人物の御奉行はすつかり喜んでしまつて、よくぞ仰有つて下すつたと大いに白石を賞讃、感謝したとある。\n やゝあつてのち、重ねてシローテは通詞に向ひ、同じやうなことではありますが、絹類では私の心が安らかではありませぬので、木綿の衣服を給はるやうにお願ひ致します、とつけくはへた。\n\n 第二回審問は三日目の十一月二十五日で、午前十時頃から始められ、専ら欧洲事情をきゝたゞした。シローテはすでに与へられた木綿の衣服をかさねてゐた。\n 白石はこの日から宗門奉行所に保存されてゐた万国地図を携へて行つた。シローテはこれを見て、七十余年前和蘭でつくられた地図であるが、今ではあの国でも得易からぬ品物で、こゝかしこ破れてゐるのは惜しむべきであるから、修補して後々まで伝へられるが宜しからうと言つた。\n さて、この日白石が感嘆久しふしたことは、シローテがまことに博聞強記、天文地理をはじめとして多学にわたり、企て及ぶべしとも見えぬ学才をあらはしたことであつた。\n 日がすでに傾いたので白石が奉行に向ひ、何時だらうかと尋ねたところ、このあたりには時を打つ鐘もないので何時頃とも分らないと奉行が答へた。\n するとシローテは頭をめぐらし、日のある所を見て、次に地下の影を見て、指を折りまげて数へてゐたが、自分の国では丁度何月何日だから何時何分頃に当りませうと言つた。\n 白石は驚いたが、然しこの程度のことなら、その方法を覚えこみさへすればまだ易しからうといふ推察はついた。\n ところが例の和蘭版地図を取出して、ローマはどのへんだと訊ねたところが、シローテは通詞に向てチルチヌスはありませぬかと先づきいた。通詞がないと答へたので、白石がなんのことだと問ふてみると、和蘭語ではパッスルといふもの、ローマの言葉ではコンパスといふものゝことであると言ふ。ところが驚いたことには流石に白石で、かねてコンパスを用意してをり、その物ならこゝにあると懐中から取出してみせた。\n シローテは之を受取つて暫く工夫してゐたが、このコンパスはネヂが弛んでゐて用に立たないが無いよりはましであらうと言ひ、地図の目盛に合せて測つてゐたが、やがてコンパスを立てゝ此処ですと言ふ。そこを見ると成程西洋の文字でローマと記してある。その他和蘭であれ江戸であれコンパスで測つて、さし違へたといふことがない。\n 白石は甚大の驚愕を喫し、悉く敬服してしまつた。感嘆のあまりシローテに向つて、おまへは全てこれらのことを学び覚えたのかと尋ねた。いかにも習ひ覚えたのだが、これしきのことは至極易しいことだとシローテは答へる。いかにも尤もな答である。けれども白石はこの時つく〴〵長大息して、自分は数学に拙いからとても之だけのことは学ぶことが出来まい、と、之は又とんだ所で数学を引合ひにだして大きく嘆いたものである。これではシローテが慌てざるを得ない。否々、これぐらゐのことに数学など微塵も必要ではなく、殿ごとき方であるなら極めて容易に覚えこまれる筈であると言つて白石を慰めた。\n 三百年前の和蘭版万国地図といふものがどういふ仕掛けの物だか知らないが、コンパスで目盛を測つてさし当てるとはどういふことであらう。コンパスで目盛を測るぐらゐなら緯度経度或ひは里程を正確に暗記してゐる筈である。そんなら何もコンパスで測らなくつても地図を一見してそれと指摘できないことがなさゝうだ。太陽とその影を見て時間を判断するにしても一々指など折りまげなくとも良さゝうで、どうもシローテのやることには白石の気質を見込んだ芝居気がありさうだ。\n 白石も亦白石で、これぐらゐのことで数学を引合ひにだしてまで驚くほどなら、なんのためにネヂの弛んだコンパスなど懐中に入れてゐたのか分らない。\n 然しながら、シローテはかういふ具合に茶羅化すやうな人ではなかつた。\n 和蘭の戦艦には多くの窓があり、上中下の三層があつて各大砲をだしてゐるさうだがと云ふことを訊きたかつたが、言葉だけでは通ぜず、手真似でも表はしにくいことであつたが、仕方がないので、白石はその左の手を横に立てゝ四本の指をだし、その間から右手の指頭を三本だして見せた。シローテは之を見て、打ち頷き、如何にもその通りであると答へ、通詞に向つて、殿は敏捷であらせられると言つて賞讃した。\n 又、通詞達がシローテのラテン語を和蘭風に訛つて発音するたびに、繰返し〳〵教へ、遂に習ひ覚えて正確に発音すると大いに賞美するのが例であつた。\n 欧羅巴なら小学校の子供でも出来ることに数学を引合ひにして長大息する白石であつたが、シローテはその人物、その識見を決して見誤りはしなかつた。\n と云ふのも、白石自体が実にすぐれて偉大であつたせゐもあらう。彼の質問は常に適切で要をつくし、しかもその主旨は一貫して欧羅巴文明の本質をつき、隙もなく弛みもなかつた。"
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"role": "assistant",
"content": " 白石はこの審問の後に十一月晦日に三度目の審問をひらき、この時も亦宗門のことにはふれず、専ら欧羅巴の事情のみを尋ねたがわづかに前後三回の審問だけでローマの何処たるかすら知らなかつた白石が、欧羅巴各国のみならず東洋各地、南北アメリカ等にわたつて、その各の地理歴史国情風俗等について殆んど余す所なく、又殆んど誤る所なく記録を残した。\n 審問時間の総計から考へては想像に絶する記録であるが、ひとつには白石の知識慾に最も敏感に応じることのできたシローテの偉大さも計算に入れなければならないであらう。\n「まのあたり見しにもあらぬ事どもは」しるさず、又信じないのが白石の生涯を一貫した学的精神で、シローテ審問の要領も亦もとよりこの軌道の上にあり、科学的訓練のない当時にあつて真に異例の精神であつたが、之に応じたシローテが又その知識に於てその誠実真摯な信仰に於て遜る所のない人物であつた。\n あるとき白石がヲヽランデヤノーワ(オーストラリヤ)は日本からどのぐらゐ離れてゐるかと尋ねたところ、その時までは問へば飽くまで熱心に答へてゐたシローテが、どういふわけだか口を噤んで答へない。\n 重ねて問ひたゞしたところ、シローテは通詞の者に向つて、切支丹宗門の戒めでは人を殺すより悪事はないと言はれてゐる。それであるのに人に教へてよその国をうかゞはせるやうなことがどうして出来ませうや、と答へた。\n 白石は不審に思つて、そのわけを問はせたところ、思ふことがあつて、この地方のことは申上げることが出来ない、と言つて、それ以上答へたがらぬ風である。\n 尚も追究したところが、さらばといふ風をして、この殿を見受けまするに、日本に於てはどのやうな地位におはす方か知らないが、もし私の国に生れ遊ばしたとしたならば必ずや大きな事業を残さずに終られるといふ方ではない。ヲヽランデヤノーワは日本を距ること遠くもないので、この殿が侵略されることを怖れて、その旅程を詳には申上げないのである、と言つた。\n 白石の短所かどうかは言ふべき限りではないけれども、彼は元来自ら恃むこと恂に逞しく、その不羈独立の精神から由来した自慢癖を持つてゐた。\n 太閤そこのけの大人物に見立てられて、気のいゝ御両人の御奉行が度胆をぬかれて讃嘆したに相違なく、白石はてれたふりをして、御奉行にきかれるのも片腹痛い限りで失笑したなどゝ書いてゐるが、大いに気を良くしたに相違ない。\n どこまでシローテの本音であるかは知り難いが、又白石の気質を見込んでの権謀術数もたしかに有つたと思はれる。\n 元来日本の切支丹禁教令は宗教をだしに使つて国を奪ふ魂胆であるといふ理由のもとに発せられたものであつた。徳川家康は喰へない親爺で、彼の識見はもつと大きく深い所にあり、軍事上ばかりでなく経済上その他のことでも鎖国を救国の策と看破し、一応の口実を見つけて切支丹を国禁したが、案外彼自身は切支丹を道具にしての軍事的侵略などといふことを信じてはゐなかつたといふ見方もできる。\n 然しながら大御所の魂胆はとにかくとして、切支丹は国を奪ふ手段であるといふことは日本の上下に信じられ、又切支丹もそれを信じて、切支丹は人民救済の宗教であつて何等一国の政策とは関係のないものであるといふ申開きが彼等の最大の念願であつた。この念願が達成して日本政府の理解を得れば、切支丹は再び日本に行はれるに相違ないといふことが彼等の希望であつた。\n シローテの希望も元よりそれであつて後日白石に向つて、日本が切支丹を禁令したのは和蘭人が日本の為政者を動かして国を奪ふ手段であると信じさせた為である。然るに我ローマの国は国がひらかれてこのかた千三百八十余年寸土尺地といへども他国を侵略したことがなく、むしろ和蘭の如きは侵略の常習犯でいつ何をやりだすか計りがたい国であると切言してゐる。\n 又、自分が教皇の命を受けて日本潜入の決意をかためたとき、同時に三つの志を立てた。その一つは望み請ふところを許されて再び日本に切支丹が行はれるやうになるなら元よりこれにまさる喜びはない。二つには、望み請ふところが許されず日本の国法によつて処刑される場合は、もとより宗門のため又師のため自分の骨肉形骸の如きはどうならうと構ひはしないが、唯、国をうかゞふ間諜のやうに沙汰されるなら、之以上の遺恨はない。三つには、師命を達し得ず、万里の行をむなしくして、生きて本国へ還されるほどの恥辱はないといふ、以上三つのことであつたと白石に言つた。\n かうして彼は折にふれ、機を見るたびに、切支丹は国を奪ふ手段でないといふことを信じさせようと努力した。彼とても亦、禁令の根本理由がそこにあると思ひこんでゐたからであつた。\n たま〳〵ヲヽランデヤノーワのことに行き当り、ヲヽランデヤノーワといふからには第一仇敵和蘭が侵略した土地であり、それを更に白石の侵略に引つかけて逆効果をねらひ、切支丹は決して他国を侵略しないと言ふことを暗に呑みこませようとした――さういふ風に考へて、必ずしも不自然ではないと思ふ。\n ところがシローテのこの術策はてんで白石に通じなかつた。\n 白石がもしシローテの想像通り切支丹は国を奪ふ手段であると信じてゐて、特にその点を意識して切支丹を危険視してゐる人であつたら、彼程聡明敏活の人が、よしんば如何ほど自慢癖に憑かれてゐても、シローテのおだてに乗つて気を良くして、裏のことには気がつかないといふことが有り得ようとは思はれない。さてはと忽ち気がついて、食へない奴だと思ひついたに相違ない。\n ところが奇妙な因縁で、白石は審問にかゝる前から、切支丹は国を奪ふ手段でないといふことだけは、あらかじめ心得てゐたのであつた。\n 不思議な因縁で――まさに然り。彼は審問の始まる前に、切支丹の特殊な用語の飜訳が知りたいと思ひ、宗門奉行から三冊の本を貸してもらつた。これは背教者岡本三右衛門(彼はシローテとその国籍を同じくし、のみならず、ふるさとも亦同じシシリヤであつた)が背教後書き残したもので、切支丹の教義要略ともいふべきものであつたが、彼がこの一書の中で最も力説してゐることはと言へば、切支丹は国を奪ふ手段にあらずといふ一事であつた。人の悲しい弱さによつて力つき背教したとはいへ、彼も亦その志の一分だけは、神に背いてのちに秘かに果しておいたのだ。とはいへ同じふるさとの剛毅誠実な後輩の取調べに利用されようとは、もとより知らう筈がない。\n 白石はこの三冊の書物を精読して、取調べにかゝる前から、切支丹は国を奪ふ手段にあらずといふことだけは否応なく分らせられてゐたのであつた。それゆゑシローテが常に最も意識してゐたことに、白石の方ではてんでこだはりを持たなかつた。\n 尤もシローテのこの術策の深い言葉には案外本気も含まれてゐて、実際白石が侵略も致しかねない人物だと思つてゐたかも知れなかつた。\n といふのは、シローテが日本潜入に当つて持参して来た十六冊の書物の中には、タイカフサメ(西洋では秀吉をかういふ風に訛つてよぶ)の事蹟を書いた書物もあつたといふことで、タイカフサメは切支丹国禁の張本人になつてをり(シローテは決して家康のことを言はない)明ばかりでなくマニラ遠征を企てゝゐた――企てもしなかつたが、マニラの方では企てゝゐると思つてゐた――典型的な侵略家であつた。\n さういふわけでシローテはタイカフサメの侵略精神に充分の概念を持つてをり、白石の探究精神によつて根掘り葉掘り国々の事情を問ひつめられては、多少白石の魂胆を疑ふ気持にもなつたであらう。\n ひところの外人宣教師が日本の文化や国民の知能を高く評価してゐたことは非常なもので、当時の宣教師の報告がそれを充分に語つてをり、西教史の序文などでも、日本人は支那人などゝは比較にならぬ高級な国民だと言ひ、西洋最高の文明国はローマだが、日本の文化のみは蓋し之にも劣る所がないなどゝ途方もない大讃辞が呈してある。\n あるとき白石がシローテに向つて、同じ東洋のうちには日本の外にチイナがあり、その文物声教は古より中土と称するほどであるがその実状はどうであらうかと尋ねた。\n この時シローテは答へて、日本人はまるい物を見るが如くであり、チイナの人は角ある物を見るが如くである。日本人の温和なことはこのやうだと言つて自分の衣服を掴んでみせ、チイナの人の固く渋つてゐる様は又このやうだと言つて榻をなでゝみせた。さうして、近きを賤しんで、遠きを尊ぶべきではないと言つた。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": "私は数年来、知らぬ奥在所の人々からは、気の知れぬと思はれるばかり、春の初めを幾度か、三・遠二州の山間に暮しました。其処で見た田楽や田楽系統の神事舞の中にも、やはり正式には、家内・田園の凶悪を叱る言ひ立てを見出しました。此が大抵、翁或は其変形したものゝ発する祭文或は宣命といふものになつて居りました。\n\n 一四 菩薩練道\n\n牛祭りの祭文を見たばかりでは、こんな放漫な詞章がと驚かれる事ですが、邪悪を除却する宣命の所謂ことほぎのみだりがはしきに趨く径路を知つて居れば、不思議はない事です。あれは、人身及び屋敷の垣内・垣外の庶物の中に棲む精霊に宣下し、慴伏せしめる詞なのです。\n大昔には、海の彼方の常世の国から来るまれびとの為事であつたのが、後には、地霊の代表者なる山の神の為事になり、更に山の神としての資格に於ける地主神の役目になつたものでした。さうして、其地主神が、山の鬼から天狗と言ふ形を分化し、天部の護法神から諸菩薩・夜叉・羅刹神に変化して行く一方に、村との関係を血筋で考へた方面には、老翁又は尉と姥の形が固定してまゐりました。\nだから、此等の山の神の姿に扮する山の神人たちの、宣命・告白を目的とした群行の中心が鬼であり、翁であり、又変じて、唯の神人の尉殿、或は乞士としての太夫であつたのは、当然であります。翁及び翁の分化した役人が、此宣命を主とする理由は訣りませう。仮りに翁の為事を分けて見ますと、\n\n語り\n宣命\n家・村ほめ\n\n此三つになります。さうして、其中心は、勿論宣命にあるのです。でも、此三つは皆一つ宣命から分化した姿に過ぎないのです。\n\n 一五 翁の宣命\n\n宣命と名のつく物、宣命としての神事の順番に陳べられるものは、其詞章がたとひ、埒もない子守り唄の様に壊れて了うてゐるのでも、庶物の精霊に対する効果は、恐ろしい鎮圧の威力を持つものでした。中世以後、祝詞・祭文以外に、宣命といふ種類が、陰陽師流の神道家の間に行はれてゐました。続日本紀以降の天子の宣命と、外形は違つてゐて、本質を一つにするものでした。私の考へでは、此宮廷の宣命が、古代ののりとの原形を正しく伝へてゐるものなのです。神の宣命なるのりとを人神の天子ののりとなる宣命としたゞけの事です。常世神ののりとにおきましては、神自身及び精霊の来歴・種姓を明らかにして、相互の過去の誓約を新たに想起せしめる事が、主になつてゐました。此精霊服従の誓約の本縁を言ふ物語が、呪詞でもあり、叙事詩でもあつた姿の、最古ののりとなのです。其が岐れて、呪詞の方は、神主ののりとと固定し、叙事詩の側は、語部の物語となつて行つたのです。だから、呪詞を宣する神の姿をとる者の唱へる文言が、語りをも宣命をも備へてゐる理由はわかります。「家・村ほめ」の方は、呪詞が更に、鎮護詞化した時代に発達したものなのです。広く言へば、ことほぎと称すべきもので、多くは山人発生以後の職分です。\n翁の語りは次第に、教訓や諷諭に傾いて来ましたが、尚、語りの中にすら、宣命式の効果は含まれてゐたのです。家・村ほめの形にも、勿論、土地鎮静の義あることは言ふまでもありません。\n\n 一六 松ばやし\n\n高野博士は、昔から鏡板の松を以て、奈良の御祭の中心になる――寧、田楽の中門口の如く、出発点として重要な――一の松をうつしたものだ、とせられてゐました。当時、微かながら「標の山」の考へを出してゐた私の意見と根本に於て、暗合してゐましたので、一も二もなく賛成を感じてゐました。\n処が、近頃の私は、もつと細かく考へて見る必要を感じ出して居ります。其は、鏡板の松が松ばやしの松と一つ物だといふ事です。謂はゞ一の松の更に分裂した形と見るのであります。松をはやすといふ事が、赤松氏・松平氏を囃すなどゝ言ふ合理解を伴ふやうになつたのは、大和猿楽の擁護者が固定しましてからです。初春の為に、山の松の木の枝がおろされて来る事は、今もある事で、松迎へといふ行事は、いづれの山間でも、年の暮れの敬虔な慣例として守られて居ます。おろすというてきると言はない処に縁起がある如く、はやすと言ふのも、伐る事なのです。はなす・はがす(がは鼻濁音)などゝ一類の語で、分裂させる義で、ふゆ・ふやすと同じく、霊魂の分裂を意味してゐるらしいのです。此は、万葉集の東歌から証拠になる三つばかりの例歌を挙げる事が出来ます。\n囃すと宛て字するはやすは、常に、語原の栄やすから来た一類と混同せられてゐます。山の木をはやして来るといふ事は、神霊の寓る木を分割して来る事なのです。さうして、其を搬ぶ事も、其を屋敷に立てゝ祷る事も、皆、はやすといふ語の含む過程となるのです。大和猿楽其他の村々から、京の檀那衆なる寺社・貴族・武家に、この分霊木を搬んで来る曳き物の行列の器・声楽や、其を廻つての行進舞踊は勿論、檀那家の屋敷に立てゝの神事までをも込めて、はやす・はやしと称する様になつたのだと、言ふ事が出来ると思ひます。畢竟、室町・戦国以後、京都辺で称へた「松ばやし」は、家ほめに来る能役者の、屋敷内での行事及び路次の道行きぶり(風流)を総称したものと言へまして、元、田楽法師の間にも此が行はれて居たのであります。其はやしの中心になる木は、何の木であつたか知れません。が、田楽林・林田楽など言ふ語のあつた事は事実で、此「林」を「村」や「材」などゝするのは、誤写から出た考へ方であります。\n此が、後世色々な分流を生んだ祇園囃しの起原です。元、祇園林を曳くに伴うた音楽・風流なる故の名でしたのが、夏祭りの曳き山・地車の、謂はゞ木遣り囃しと感ぜられる様になつたのでした。だから、祇園林を一方、八阪の神の林と感じた事さへあるのです。勿論、祇陀園林の訳語ではありません。此林田楽などは、恐らく、近江猿楽の人々が、田楽能の脇方として成長してゐた時代に、出来たものではないのでせうか。\n此松ばやしは、猿楽能独立以後も、久しく、最大の行事とせられてゐたものではありますまいか。此事も恐らくは、翁が中心になつて、其宣命・語り・家ほめが行はれてゐたものと考へられるのですが、唯今、其証拠と見るべきものはありません。が、唯暦法の考へを異にする事から生じた初春の前晩の行事が、尠くとも二つあります。即、社では、春日若宮祭りの一の松以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能です。此等は皆翁や風流を伴つてゐました。其ばかりか、脇能も行はれてゐたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであつたらしいし、御祭りは全く、松ばやしの典型的のものであつたものと言へます。此場合に、松は、山からはやして来たものでなく、立ち木を以て、直ちに、神影向の木――事実にも影向の松と言つた――と見たのです。翁は御祭りから始まつたのではなく、其一の松行事が、翁の一つの古い姿だつた事を示すものです。二つながら、神影向の木或は分霊の木の信仰から出てゐます。薪能の起りは、恐らく翁一類の山人が、山から携へて来る山づとなる木を、門前に立てゝ行く処にあつたのであらうと思ふのです。かうして見ると、八瀬童子が献つた八瀬の黒木の由来も、山づとにして、分霊献上を意味する木なる事が、推測せられるではありませんか。此が更に、年木・竈木の起りになるのです。"
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"content": "\n 一七 もどきの所作\n\n私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てゝ見れば、狂言方に当るものです。だが、元々、神と精霊と――其々のつれ――の対立からなつてゐる処に、日本古代の神事演芸の単位があります。だからして方に対して、単に、わき方――或はあどと称する――に相当する者があつたゞけです。其中、わき方が分裂して、わき及び狂言となつたのです。訣り易く言はうなら、もどき役から脇・狂言が分化したといふ方がよい様であります。\nもどきは田楽の上に栄えた役名で、今も、神楽の中には、ひよつとこ面を被る役わり及び面自体の称へとなつて、残つてゐます。もどき役は、後ほど、狂言方と一つのものと考へられて来ましたが、古くは、脇・狂言を綜合した役名でありました。私は前に猿楽のもどき的素地を言ひました。今、其を再説する機会に遇うた事を感じます。\nもどくと言ふ動詞は、反対する・逆に出る・批難するなど言ふ用語例ばかりを持つものゝ様に考へられます。併し古くは、もつと広いものゝ様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。「人のもどき負ふ」など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、批難の義が出発しましたので、やはり「ものまねする」の意だつたのでせう。\n田楽に於けるもどきは、猿楽役者の役処であつたらしく、のみならず、其他の先輩芸にも、もどきとしてついてゐたものと思ひます。其中、最関係の深かつた田楽能から分離する機会を捉へたものが、猿楽能なる分派を開いたのでせう。ちようど、万歳太夫に附属する才蔵が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た游離が行はれて、自立といふ程のきはやかな運動はなく、自然の中に、一派を立てたのと同様だと思ひます。此点は、世阿弥十六部集を読む人々に特に御注意を願はねばならぬ処で、田楽・曲舞などに対する穏かな理会のある態度は、かうして始めてわかるのです。呪師猿楽と並称せられた呪師の本芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを重にうけ持つ様になつて行つたのです。だから、総括して、田楽法師と見られてゐる者の中にも、正確には、猿楽師も含まれてゐた事は考へてよいと思ひます。林田楽など言ひました曳き物も、ひよつとすれば、田楽師のもどき方なる猿楽師(近江)の方から出たもので、松ばやしと一つ物と言ふ事はさしつかへないかも知れませぬ。\n猿楽はもどき役として、久しい歴史の記憶から、存外、脇方を重んじてゐるのかも知れません。柳営の慶賀に行はれた開口は、脇方の為事で、能役者名誉の役目でありました。而も、田楽の方にも、此があつて、奈良の御祭りには行はれました。高野博士が採集して居られる比擬開口といふのが此です。だから、開口に、まじめなのと戯れたのと二つがあつた、と見る人もありさうですが、私はさうは思ひません。開口がもどき・脇方の役目だつたものです。恐らくは、猿楽の游離以前の姿を止めてゐるものと思はれます。\n\n 一八 翁のもどき\n\n遠州や三州の北部山間に残つてゐる田楽や、其系統に属する念仏踊りや、唱門師風の舞踏の複合した神楽、花祭りの類の演出を見まして、もどきなる役の本義が、愈明らかになつて来た様に感じました。説明役であることもあり、をこつき役である場合もあり、脇役を意味する時もあるのでした。翁に絡んで出るもどきには、此等が皆備つてゐるのでした。まづ正面からもどきと言はれるのは、翁と共に出て、翁より一間遅れて――此が正しいのだが、今は同時に――文言を、稍大きな声でくり返す役の名になつてゐます。此は陰陽師又は修験者としての正式の姿をしてゐるのです。説明役と同時に脇方に当ります。此は重い役になつてゐる鬼の出場する場合にも出ます。此時は、鬼との問答を幾番かするのです。鬼に対するもどきは、脇役です。\n翁の形式が幾通りにもくり返されます。ねぎとか、なかと祓――中臣祓を行ふ役の意らしい――とか海道下りとか称へてゐるのは、皆、翁の役を複演するもので、一種の異訳演出に過ぎないのです。即、翁を演ずる役者なるねぎの、其の村に下つた由来と経歴とを語るのでした。だから、此は翁のもどきなのです。処が、翁にも此番にも、多くのをこつきのもどきが出て、荒れ廻ります。而も、此外に必、翁に対して、今一つ、黒尉が出ます。此を三番叟といふ処もあり、しようじっきりと言ふ地もあります。又猿楽とも言ひます事は、前に述べました。此は大抵、翁の為事を平俗化し、敷衍して説明する様な役です。が、其に特殊な演出を持つてゐます。前者の言ふ所を、異訳的に、ある事実におし宛てゝ説明する、と言ふ役まはりなのです。翁よりは早間で、滑稽で、世話に砕けたところがあり、大体にみだりがはしい傾向を持つたものです。\n信州新野の雪祭りに出るしようじっきりと言ふ黒尉は、其上更に、もどきと言ふ役と其からさいほうと称する役方とを派生してゐます。此は、多分才の男系統のものなる事を意味する役名なのでせうが、もどきの上に、更に、さいほうを重ねてゐるなどは、どこまでもどきが重なるのか知れぬ程です。畢竟、古代の演芸には、一つの役毎に、一つ宛のもどき役を伴ふ習慣があつたからなのです。\nつい此頃も、旧正月の観音の御縁日に、遠州奥山村(今は水窪町)の西浦所能の田楽祭りを見学しました。まづ、近年私の見聞しました田楽の中では、断篇化はしてゐますが、演芸種目が田楽として古風を、最完全に近く、伝へてゐるものなることを知りました。\n\n 一九 もどき猿楽狂言\n\n西浦田楽のとりわけ暗示に富んだ点は、他の地方の田楽・花祭り・神楽などよりも、もつともどきの豊富な点でありました。外々のは、もどきと言ふ名をすら忘れて、幾つかの重なりを行うてゐますが、こゝのは、勿論さうしたものもありますが、其上に、重要なものには、番毎にもどきの手といふのが、くり返されてゐることです。さうして更に、注意すべき事は、手とあることです。舞ひぶり――もつと適切に申しますと、踏みしづめのふりなのです――を主とするものなることが、察せられます。\n大抵、まじめな一番がすむと、装束や持ち物も、稍、壊れた風で出て来て、前の舞を極めて早間にくり返し、世話式とでも謂つた風に舞ひ和らげ、おどけぶりを変へて、勿論、時間も早くきりあげて、引き込むのです。\n此で考へると、もどき方は大体、通訳風の役まはりにあるものと見てよさゝうです。其中から分化して、詞章の通俗的飜訳をするものに、猿楽旧来の用語を転用する様になつて行つたのではありますまいか。して見れば、言ひ立てを主とする翁のもどきなる三番叟を、猿楽といふのも、理由のあつた事です。\n此猿楽を専門とした猿楽能では、其役を脇方と分立させて、わかり易く狂言と称へてゐ、又をかしとも言ひます。此は、をかしがらせる為の役を意味するのではなく、もどき同様、犯しであつたものと考へられます。こゝに、猿楽が「言」と「能」との二つに岐れて行く理由があるのです。能は脇方としての立ち場から発達したもの、狂言は言ひ立て・説明の側から出た名称と見られませう。\nかうして見ますと、狂言方から出る三番叟が、実は翁のもどき役である事が知れませう。さうして、其が猿楽能の方では、舞が主になつて、言ひ立ての方が疎かになつて行つたものと見る事が出来ます。\nかう申せば、翁は実に神聖な役の様に見えますし、して方元来の役目の様に見えますが、私はそこに問題を持つてゐるのです。一体、白式・黒式両様の尉面では、私に言はせると、黒式が古くて、白式は其神聖観の加はつて来た時代の純化だ、とするのです。\n役から見ると「翁のもどき」として、三番叟が出来たのですが、面から言ふと、逆になります。白式の翁も元は、黒尉を被つて出たものであつたのを、採桑老風の面で表さねばならぬ程、聖化したのです。さうして、其もどき役の方に黒面を残したものと見られるのです。\n此黒面は、私は山人のしるしだと思ふのであります。譬へば、踏歌節会の高巾子のことほぎ一行の顔は、正しくはのっぺらぽうの物だつたらしいのです。即、安摩・蘇利古に近いものだつたのです。白式尉が採桑老らしくなると共に、山人面も次第に変化して、其を唯黒くしたゞけが違ふ尉面と言ふやうになつたのでありませう。古代の山人の顔は、今から知るよしもありませんが、黒といふ点では一致して居ても、黒式尉のやうな、顔面筋まで表した細やかな彫刻ではなかつたはずです。"
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"role": "user",
"content": " きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。でも、あんまり固くならない事にしよう。主人の批評に依れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。本当に私は、幼少の頃から礼儀にばかりこだわって、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしゃくして、無邪気にはしゃいで甘える事も出来ず、損ばかりしている。慾が深すぎるせいかも知れない。なおよく、反省をして見ましょう。\n 紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いて噴き出した。\n「どうも、この、紀元二千七百年のお祭りの時には、二千七百年と言うか、あるいは二千七百年と言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。僕は煩悶しているのだ。君は、気にならんかね。」\n と伊馬さん。\n「ううむ。」と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。」\n「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。なんだか、そんな気がするんだ。だけど僕の希望をいうなら、しちひゃくねん、と言ってもらいたいんだね。どうも、ななひゃく、では困る。いやらしいじゃないか。電話の番号じゃあるまいし、ちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。何とかして、その時は、しちひゃく、と言ってもらいたいのだがねえ。」\n と伊馬さんは本当に、心配そうな口調である。\n「しかしまた、」主人は、ひどくもったい振って意見を述べる。「もう百年あとには、しちひゃくでもないし、ななひゃくでもないし、全く別な読みかたも出来ているかも知れない。たとえば、ぬぬひゃく、とでもいう――。」\n 私は噴き出した。本当に馬鹿らしい。主人は、いつでも、こんな、どうだっていいような事を、まじめにお客さまと話合っているのです。センチメントのあるおかたは、ちがったものだ。私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。どんなものを書いているのか、私は、主人の書いた小説は読まない事にしているので、想像もつきません。あまり上手でないようです。\n おや、脱線している。こんな出鱈目な調子では、とても紀元二千七百年まで残るような佳い記録を書き綴る事は出来ぬ。出直そう。\n 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。\n「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」\n しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。\n 隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、\n「知ってるよ。知ってるよ。」\n と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。芸術家というものは、勘の強いものだそうだから、何か虫の知らせとでもいうものがあったのかも知れない。すこし感心する。けれども、それからたいへんまずい事をおっしゃったので、マイナスになった。\n「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」\n 私はがっかりした。主人は、どういうものだか地理の知識は皆無なのである。西も東も、わからないのではないか、とさえ思われる時がある。つい先日まで、南極が一ばん暑くて、北極が一ばん寒いと覚えていたのだそうで、その告白を聞いた時には、私は主人の人格を疑いさえしたのである。去年、佐渡へ御旅行なされて、その土産話に、佐渡の島影を汽船から望見して、満洲だと思ったそうで、実に滅茶苦茶だ。これでよく、大学なんかへ入学できたものだ。ただ、呆れるばかりである。\n「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう。」\n と私が言うと、\n「そうか。」と不機嫌そうに言い、しばらく考えて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」\n おっしゃる事みな変である。主人の愛国心は、どうも極端すぎる。先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹の塩辛ばかりは嘗める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。\n 主人の変な呟きの相手にはならず、さっさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端に干して置いたおむつも凍り、庭には霜が降りている。山茶花が凛と咲いている。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまっているのに、と不思議な気がした。日本の国の有難さが身にしみた。\n 井戸端へ出て顔を洗い、それから園子のおむつの洗濯にとりかかっていたら、お隣りの奥さんも出て来られた。朝の御挨拶をして、それから私が、\n「これからは大変ですわねえ。」\n と戦争の事を言いかけたら、お隣りの奥さんは、つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、\n「いいえ、何も出来ませんのでねえ。」\n と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。\n お隣りの奥さんだって、戦争の事を思わぬわけではなかったろうけれど、それよりも隣組長の重い責任に緊張して居られるのにちがいない。なんだかお隣りの奥さんにすまないような気がして来た。本当に、之からは、隣組長もたいへんでしょう。演習の時と違うのだから、いざ空襲という時などには、その指揮の責任は重大だ。私は園子を背負って田舎に避難するような事になるかも知れない。すると主人は、あとひとり居残って、家を守るという事になるのだろうが、何も出来ない人なのだから心細い。ちっとも役に立たないかも知れない。本当に、前から私があんなに言っているのに、主人は国民服も何も、こしらえていないのだ。まさかの時には困るのじゃないかしら。不精なお方だから、私が黙って揃えて置けば、なんだこんなもの、とおっしゃりながらも、心の中ではほっとして着て下さるのだろうが、どうも寸法が特大だから、出来合いのものを買って来ても駄目でしょう。むずかしい。"
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"role": "assistant",
"content": " 主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、\n「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」\n と私が思わず言ったら、\n「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」\n と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。\n 台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。\n ラジオは、けさから軍歌の連続だ。一生懸命だ。つぎからつぎと、いろんな軍歌を放送して、とうとう種切れになったか、敵は幾万ありとても、などという古い古い軍歌まで飛び出して来る仕末なので、ひとりで噴き出した。放送局の無邪気さに好感を持った。私の家では、主人がひどくラジオをきらいなので、いちども設備した事はない。また私も、いままでは、そんなにラジオを欲しいと思った事は無かったのだが、でも、こんな時には、ラジオがあったらいいなあと思う。ニュウスをたくさん、たくさん聞きたい。主人に相談してみましょう。買ってもらえそうな気がする。\n おひる近くなって、重大なニュウスが次々と聞えて来るので、たまらなくなって、園子を抱いて外に出て、お隣りの紅葉の木の下に立って、お隣りのラジオに耳をすました。マレー半島に奇襲上陸、香港攻撃、宣戦の大詔、園子を抱きながら、涙が出て困った。家へ入って、お仕事最中の主人に、いま聞いて来たニュウスをみんなお伝えする。主人は全部、聞きとってから、\n「そうか。」\n と言って笑った。それから、立ち上って、また坐った。落ちつかない御様子である。\n お昼少しすぎた頃、主人は、どうやら一つお仕事をまとめたようで、その原稿をお持ちになって、そそくさと外出してしまった。雑誌社に原稿を届けに行ったのだが、あの御様子では、またお帰りがおそくなるかも知れない。どうも、あんなに、そそくさと逃げるように外出した時には、たいてい御帰宅がおそいようだ。どんなにおそくても、外泊さえなさらなかったら、私は平気なんだけど。\n 主人をお見送りしてから、目刺を焼いて簡単な昼食をすませて、それから園子をおんぶして駅へ買い物に出かけた。途中、亀井さんのお宅に立ち寄る。主人の田舎から林檎をたくさん送っていただいたので、亀井さんの悠乃ちゃん(五歳の可愛いお嬢さん)に差し上げようと思って、少し包んで持って行ったのだ。門のところに悠乃ちゃんが立っていた。私を見つけると、すぐにばたばたと玄関に駈け込んで、園子ちゃんが来たわよう、お母ちゃま、と呼んで下さった。園子は私の背中で、奥様や御主人に向って大いに愛想笑いをしたらしい。奥様に、可愛い可愛いと、ひどくほめられた。御主人は、ジャンパーなど召して、何やらいさましい恰好で玄関に出て来られたが、いままで縁の下に蓆を敷いて居られたのだそうで、\n「どうも、縁の下を這いまわるのは敵前上陸に劣らぬ苦しみです。こんな汚い恰好で、失礼。」\n とおっしゃる。縁の下に蓆などを敷いて一体、どうなさるのだろう。いざ空襲という時、這い込もうというのかしら。不思議だ。\n でも亀井さんの御主人は、うちの主人と違って、本当に御家庭を愛していらっしゃるから、うらやましい。以前は、もっと愛していらっしゃったのだそうだけれど、うちの主人が近所に引越して来てからお酒を呑む事を教えたりして、少しいけなくしたらしい。奥様も、きっと、うちの主人を恨んでいらっしゃる事だろう。すまないと思う。\n 亀井さんの門の前には、火叩きやら、なんだか奇怪な熊手のようなものやら、すっかりととのえて用意されてある。私の家には何も無い。主人が不精だから仕様が無いのだ。\n「まあ、よく御用意が出来て。」\n と私が言うと、御主人は、\n「ええ、なにせ隣組長ですから。」\n と元気よくおっしゃる。\n 本当は副組長なのだけれど、組長のお方がお年寄りなので、組長の仕事を代りにやってあげているのです、と奥様が小声で訂正して下さった。亀井さんの御主人は、本当にまめで、うちの主人とは雲泥の差だ。\n お菓子をいただいて玄関先で失礼した。\n それから郵便局に行き、「新潮」の原稿料六十五円を受け取って、市場に行ってみた。相変らず、品が乏しい。やっぱり、また、烏賊と目刺を買うより他は無い。烏賊二はい、四十銭。目刺、二十銭。市場で、またラジオ。\n 重大なニュウスが続々と発表せられている。比島、グワム空襲。ハワイ大爆撃。米国艦隊全滅す。帝国政府声明。全身が震えて恥ずかしい程だった。みんなに感謝したかった。私が市場のラジオの前に、じっと立ちつくしていたら、二、三人の女のひとが、聞いて行きましょうと言いながら私のまわりに集って来た。二、三人が、四、五人になり、十人ちかくなった。\n 市場を出て主人の煙草を買いに駅の売店に行く。町の様子は、少しも変っていない。ただ、八百屋さんの前に、ラジオニュウスを書き上げた紙が貼られているだけ。店先の様子も、人の会話も、平生とあまり変っていない。この静粛が、たのもしいのだ。きょうは、お金も、すこしあるから、思い切って私の履物を買う。こんなものにも、今月からは三円以上二割の税が附くという事、ちっとも知らなかった。先月末、買えばよかった。でも、買い溜めは、あさましくて、いやだ。履物、六円六十銭。ほかにクリイム、三十五銭。封筒、三十一銭などの買い物をして帰った。\n 帰って暫くすると、早大の佐藤さんが、こんど卒業と同時に入営と決定したそうで、その挨拶においでになったが、生憎、主人がいないのでお気の毒だった。お大事に、と私は心の底からのお辞儀をした。佐藤さんが帰られてから、すぐ、帝大の堤さんも見えられた。堤さんも、めでたく卒業なさって、徴兵検査を受けられたのだそうだが、第三乙とやらで、残念でしたと言って居られた。佐藤さんも、堤さんも、いままで髪を長く伸ばして居られたのに、綺麗さっぱりと坊主頭になって、まあほんとに学生のお方も大変なのだ、と感慨が深かった。\n 夕方、久し振りで今さんも、ステッキを振りながらおいで下さったが、主人が不在なので、じつにお気の毒に思った。本当に、三鷹のこんな奥まで、わざわざおいで下さるのに、主人が不在なので、またそのままお帰りにならなければならないのだ。お帰りの途々、どんなに、いやなお気持だろう。それを思えば、私まで暗い気持になるのだ。\n 夕飯の仕度にとりかかっていたら、お隣りの奥さんがおいでになって、十二月の清酒の配給券が来ましたけど、隣組九軒で一升券六枚しか無い、どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが、九軒みんな欲しいという事で、とうとう六升を九分する事にきめて、早速、瓶を集めて伊勢元に買いに行く。私はご飯を仕掛けていたので、ゆるしてもらった。でも、ひと片附きしたので、園子をおんぶして行ってみると、向うから、隣組のお方たちが、てんでに一本二本と瓶をかかえてお帰りのところであった。私も、さっそく一本、かかえさせてもらって一緒に帰った。それからお隣りの組長さんの玄関で、酒の九等分がはじまった。九本の一升瓶をずらりと一列に並べて、よくよく分量を見較べ、同じ高さずつ分け合うのである。六升を九等分するのは、なかなか、むずかしい。\n 夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。\n ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。園子のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴム鞠のように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花の様なおへそが附いている。足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になってしまう。どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「ここなら、汚してもかまわぬ。自分で腹を切るか、斬ってやろうか」\n「斬......斬って......」\n ここまで歩いてくるうちに、三斗の血でもこぼして来たように、露八はげっそりしてしまった。渇いた口は、完全に、舌を縺れさせている。\n 病人のように、へたっと、土蔵部屋の湿っぽい畳の上に、腰をつく。\n 恐怖にみちた白い眼が闇にぽかっとしている。榊原は一度土蔵の外へ出て行った。雪洞を取って来たのである。\n「遺言があるなら聞いてやるが......」\n「あ......ありません......」\n 歯が鳴る、骨がガタガタ鳴る、落ち着かない眼が、この世の物の影を拾ってきょろきょろと意志なく見まわしてばかりいる。\n 榊原はいやな顔をした。\n 人斬り健吉でもこういう小胆者は斬りにくいとみえる。と云って、この容子では所詮自分で腹を切るだけの勇気はないに極まっている。いっそ助けてやろうかとも思うのであったが、\n(いや、弟思いな奴だから――)\n やはり目的のためにはと、眼をつぶる気になった。\n「いいか」\n 念を押すと、\n「ひえい」\n 笛みたいに嗄れた返辞が露八の喉の奥でした。\n「露八、どうしても、手引はできぬのだな」\n もういちど云うと、彼は、もう横に振る力もない首をかすかに動かした。\n「やむを得ん」\n「............」\n「もっと、首をぐっと伸ばすのだ。それじゃあ、頭の後ろ骨に入るから痛いぞ」\n 云いながら抜いた。\n 露八は、途端に、\n「おやっ?」\n「............」\n「オヤオヤ」\n 手先で、指踊りをやりながら、起ち出したのである。\n 榊原は、ゾッとした。\n 露八の眸は真ン中へ寄ってしまった。脳中枢の破壊で顔の皮は引ッつれている。金槌でたたいても開きそうもなく歯は歯を咬んでいるのだった。\n(オヤ?)\n と云いたいのはむしろ榊原の方である。思わず刀を退いて無気味さに後ろへ避けた。避けると、露八は、狐でも憑いたように足を縮めて突然跳び上がった。\n「ピッ!」\n 横笛を吹く形である。片足でくるりと廻った。\n「テン、テレツク、テン、テレツク」\n 酢を舐めたようなひょっとこ顔が馬鹿踊りに熱している。足拍子も口囃子と一緒に、だんだん荒くなって来て、\n「チャンチキ、ドン。――チャンチキ、ドン」\n 倒れた雪洞が燃えかけている。榊原はあわてて拾い取って、土蔵の外へとびだした。\n「仲居、仲居」\n 手をたたいて、そして云った。\n「流しの奴が、気が狂った。河原へ抛りだしてくれ」\n もう、踊りながら土蔵の外へ出て来ている。時々、げたげたと笑うのだった。河原へ抓み出されると、早速、水をばちゃばちゃさせて、また笑っていた。\n「お里、窓の戸を閉めろ」\n 健吉は、風邪薬をのんで、蒲団を被った。\n\n四\n\n 危険だから一人で外出はするなと固く注意されている八十三郎だった。しかし、表の取次から、兄だと聞かされて、半信半疑ではあったが、長屋門を出て行った。\n いま、この長州屋敷には、長藩以外の浪士も、何十人か蟄伏している。すでに禁門衛兵として、また京都守護職として、会津の前駆が乗りこんで来ている折でもあるので、門鑑は厳重をきわめていた。\n「面会人は、どこにいます」\n「土肥氏か。中へは、入らんで外に立っとる」\n「ちょっと、外出します」\n 通用門の外へ出る。\n 左右を、見廻していると、物蔭から走って来た露八が、\n「弟っ」\n「おお」\n 二人は、しがみついた。\n「あっちへ行こう――」\n 濡れた眼を、肱でこすりながら、露八は、八十三郎の手を引っぱった。街の松並木を、横切って、何かの堂閣が透いてみえる冬木立の雑木落葉を敷いて坐った。\n「おいっ」\n「兄上」\n 二人はまた、そこで、手と手を握り合ったまましばらく言葉もなく嗚咽した。\n 思い出したように、露八は、落葉の上に畏まって坐り直した。手をついて、\n「おまえに、謝ることがある」\n「何ですか」\n「浜中屋の船でおまえが江戸を脱した晩、おれは、同じ船にいた。酒をのんだので、馬鹿ふざけをして」\n「そんなこと!」\n 打ち消して、\n「それよりは、父上の死をご存じですか」\n「聞いた」\n「父を殺したのは拙者です。拙者こそ、兄上に、蹴られても打たれても、お詫びの償いのない不孝者です」\n「ばか云え。父の死は、俺の身を持ちくずした道楽が因だ」\n「いや、拙者の罪です。そのかわりに、八十三郎の身命は、国事にささげる覚悟です」\n「気をつけろ。弟。――俺は、それについて、おまえに知らせに来たんだ。叔父の友人、人斬り健吉が、京都へ来ている」\n「ほ」\n「逃げろっ。ここにいては、あぶない」\n「はははは」\n 露八が張合い抜けするほど八十三郎はあたり前な顔をしていた。\n「大丈夫ですよ。兄上」\n「ばかをいえ。あれの無鉄砲と、腕前を、おまえはまだ、知らないのだ」\n「直心影流の達人です。けれど、そんなものをいちいち恐れていては、吾々は、何もできぬ。またこの京都にも一日だっていられはしません」\n どう彼が動かそうとしてみても、弟は、顔いろすら変えるのではなかった。\n\nかんぬき差し\n\n\n一\n\n 数日の後。\n 河原町の薬師堂に下宿している渋沢栄一を、露八は、訪ねて行った。\n「土肥君か」\n あまり浮かない顔だった。\n 露八は、訪ねて来たことをすぐ後悔しながらも、弟のためにはと、頭を下げた。\n「じつは、お頼みがあって、来たのですが」\n「まあ、向うの部屋へ行こう」\n 話の先を折って、渋沢は立った。なるほど、その一室には、彼のほかに三人も一ツ橋家の小役人らしいのが机を並べていて、書類に埋もれながら忙しげに書き物をしているのだった。\n「ここなら、暖かいし......」\n と渋沢は、薬師如来の内陣が見える本堂の隅柱に倚りかかった。春さきの陽が、露八の背と渋沢の横顔へ、波紋のように明るく射した。\n「その後、君は、何をやっているのかね?」\n「流しをやっています」\n「三味線弾き?」\n「へい」\n「ふふむ......。町人になりきったね」\n「なりきれないんで、困っていますよ」\n 畳の陽だまりに、冬を生きて越した蠅が一匹、顔をこすっている。露八は、それを見ていた。\n「じつは、今日ちと、忙しいのだ。......ところで、君の用向きは」\n「弟のことですが」"
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"role": "assistant",
"content": "「八十三郎君は、長州屋敷にいるそうだが」\n「へい」\n「さかんに暗躍しているらしいな。正月下旬、千種有文の家来賀川肇を襲撃した中にもいたというし、つい先頃の足利尊氏の木像梟首事件にも、関わっていたという風説がある。学問好きで、そんな実行家じゃないと思ったが」\n「............」\n 話が反れがちである。\n 露八はまた、蠅を見まもっている。蠅は、寒そうに、どこかへ行ってしまった。\n「ところで? ......」\n 渋沢は自分で話を反らせながらまた思い出したように催促する。\n 露八は、弟が、人斬り健吉に狙われて、危険な事態にある場合を忠告してやっても、自分の言をきかないので、渋沢から一つ身を隠すように意見してもらおうと思って実は訪ねて来たのであるが、渋沢の顔を見ると、性があわないというのか、妙に気がこじれて、何か恩でも着るような重い気がしてくる。\n 渋沢はそんな男ではないことを、万々胸では承知しているのだが、ともに、入江道場の模範生と並び称されていたことが、変に、わだかまって、心の隅で、ともすると、下げる頭をあべこべに突っ張って来る。\n「忙しいんでしょう」\n「弱っているのさ」\n「じゃ、また来ましょう」\n ぷいと、露八は、迅い足で、本堂を降りて草履をはいてしまった。\n\n二\n\n 呆っ気にとられた顔をして、渋沢は、廻廊から、\n「いいじゃないか、君」\n「でも」\n「せっかく、訪ねてくれたのに。......忙しそうにして、追い立てたようだが、気にしてくれるな」\n「なあに、そんなことはない。こっちは、閑人だ」\n「じつは、恩人の平岡円四郎殿が、志士たちの誤解をうけて、暗殺されたり、そのため、後の事務の処理を、藩から頼まれたりしているものだから」\n「へエ。平岡さんも、殺されましたか」\n「どうも、ちと、勤王派もやりすぎる。......俺も一ツ橋家の手伝いなどしているから、狙われているかも知れん。......しかし、慶喜公の知遇や、恩人の死や、いろいろ義理ずくめの事情で、近いうちに、正式に、藩へお召抱えになることに決まった。幕臣になったから皇室へご奉公ができんという理屈はないから、おひきうけ申したよ。......君も、藩へ帰ってはどうだな」\n「ありがと」\n「また、来てくれ。八十三郎君のことなら、どんな骨でも折る」\n 鳩が、足の先から立つ。露八は、見すぼらしい自分の背を見送る渋沢の眼を感じながら、薬師の外へ出た。\n(......もう来ない)\n と、肚の底で云った。\n 二月もあと幾日もない。京都もどこかぽかぽかと陽なたのにおいがしはじめている。安宿までの間を、露八は、ぶらぶらと歩いてゆく。\n「江戸はいいな」\n 露八にはどうしても馴じめないここの空気だった。\n 土佐侍、長州侍、薩州弁が、ここでは肩をいからし、大きな刀を、かんぬき差しに歩いている。\n 江戸者といえば芸妓でも時勢おくれの人間のようにいうし、こまちゃくれた舞妓や仲居までが、攘夷とか、幕府がどうとか、将軍家を批判にかける。ご用聞きや町の童は、さかんに、葵は枯れる――と流行節を唄っていた。\n 江戸者の露八には、そうした声や世態が、本能的に、むかむかして来る。いちいち、面当てをされてるように思えてならなかった。\n\n三\n\n 三条大橋詰の旅舎の前にも、志士とよぶ閂ざしが五、六名かたまって、旅舎の立て札に、何かぶつぶつ云っていた。\n「クヮイズ藩とは何じゃ」\n 指さして、一人がいう。\n「何、クヮイズ藩、そんな藩が、わが国にあったか」\n「ここにある。――クヮイズ藩御役方御宿所、とあるではないか」\n「会津だろう」\n「会津藩か、はははは。しからば、今度京都守護職とかいって、公方方の尻押しに、上洛った者の家臣が泊まっているとみえるな。壬生浪のごとき、無教養ではあるまい。一議論、試みようではないか」\n「よせよせ、今は、議論の時代じゃない。何もかも、力行実践の時だ」\n「しかし、クヮイズ侍が、どれほど陳腐な頭なりや、西瓜ではないが、叩いて中実を試みるのも一興だぞ」\n「何の、東北の熊襲に、味噌も見識もあるものか。彼らも、力行実践でやって来たのだろう、そのときに、吾々も、一剣をもって酬えば足る」\n ほお歯の下駄を踏み鳴らして、町も狭しと歩いて行くのである。\n それを、旅舎の二階から、会津の家臣らしい首が四ツ五ツ歯ぎしりして見送っている。――ふと立ちどまって眺めていた露八ですら、胸がむかついて、ゆるせない気もちがした、追いかけて行って、撫斬りにしてやったら、さだめし、生姜で冷酒を飲んだように、さっぱりするだろうにと空想した。\n(弟にゃ、こんな気持はしねえのかしら)\n 露八は、ふしぎに思った。\n 八十三郎も、江戸で生まれ、江戸で育ち、自分と同じ環境の中から出たのに、その弟が、やはり今のような連中の仲間かと思うと、理屈はどうあっても、嫌な気がした。\n のみならず、父の死を聞いても、一向それによって動ずる容子もなく、冷然としていたこの間の顔つきなども、気にくわないものであった。所詮、自分とは、ひとつ腹から出ても、名は兄弟でも、根本的に違う人間なのだ。\n「もう、間違いがあってもしかたがねえ。抛っておけ」\n 露八は、諦めた。\n そして夕方、安宿へ帰って来ると、宿の亭主と老婆が、彼の姿を見るとすぐ、\n「どこへお出でたのじゃ。お客様が訪ねて来て、半日も、二階に、待ちしびれてござらっしゃるのに」\n と口を揃えて、告げた。\n\n照り降り雨\n\n\n一\n\n「いくら面の皮が厚い女とはいえ、まさか、おめえとは、思わなかった」\n うす暗い安宿の四畳半に、半日も待っていたという客を見て、露八は、そう一言云ったきり、唖のように、むッつりしていた。\n それ以外何もいうことはない――というように。\n お蔦は、旅汚れのした櫛巻に、唐桟縞の襟つきを着て、黒繻子の帯を蓮ッ葉むすびに、畳へ片手を落として、ぺたんと横坐りにすわっている。\n 古壁に貼ってある芝居番附だの、懸想文だの、反物の商標などを、顔向けのできない顔のてれ隠しに、眺めているのであった。\n ポンと、露八は吐月峰へ煙管の首をつよく当てる。\n 睨んでいる眼と、反向けている横顔とがいつまでも黙りあっていた。\n 階下の老婆が、渋茶を汲んできて、金米糖をすすめて、障子をしめ、のろい跫音を梯子段に消して、それから裏の方で、干衣をしまいながら息子を呼んでいる声が聞こえてからも、まだ、ややしばらくは、男女のあいだに、しいんと解けないものが氷のように張っていた。\n「............」\n 露八は、うしろへ手をのばして、煤黒い行燈を膝へよせた。カチッ、カチッと燧石の青い火がとぶたびに、お蔦の白い横顔が眸に入る。\n「......俺は、何もおめえに云うことはねえぜ」\n 露八は、やっぱり、根負けして、そんなことを云った。しかし、お蔦はまだ黙りつづけていた。――その気持が露八にはわからない。\n わからないと云えば、どうして、突然、京都へなどやって来たのか、また、自分の居所を知ったのか。\n(浮気女め。もう、てめえなどの甘手にのるか。てめえのためには......)\n と露八は胸のうちで、いつぞや、お里からさんざんに云われた皮肉を思いだしていた。そして、ひとつの苦行にかかっているように、むッつり顔を作っていた。\n だが、半刻も、黙り合っている間に、彼の云いたい恨みも、お蔦の詫びたいことばも、ひとりでに声なく云い合ってしまって、顔を見た途端の憤りは、燃え殻のように、心の隅で冷めてくる。半歳でも、ひとつ衾に寝た女というものには、どうにもならない強味が向うにあるような気持さえ、その後では起こってくるのであった。\n くすりと、ふいに、お蔦が笑った。\n 彼女が、笑ったのすら露八には意外だったのに、くの字形にしていた体を、ついと、側へ摺り寄せてきたのである。あわてて、むずかしい顔をもっとむずかしくしてみても何の効もなく、お蔦は、彼の膝へ手をかけて、\n「驚いた?」\n と、まるで、こうした感情を遊戯するように云う。\n と――もう後は男にしゃべらせなかった。\n「かんにんして下さい、え、あなた。腹の癒えるまで、わたしを打ってもかまわない、殺しても――ええ殺してもかまわない」\n 露八が、口をうごかしかけると、胸へ迫って、彼の肩を、揺すぶった。\n「だけど、あなただって、よくないことがあるんだもの。妹のお喜代に、惚れてたでしょう。わたしゃあ、前から、ちゃんと知ってはいたけれど、じっと、胸で抑えていたんですよ。......だが、やっぱり女だから」\n「ば、ばかを云え」\n「だめ、わたしの眼は、そんな凡くらじゃありませんよ。だけど、よそう、私だって、あんなことしたのは、重々悪い。しみじみと、別れてから、分かった。......やっぱりあなたのことを忘れられないのだもの」\n「よしてくれっ、うるせえ」\n からむ手を、振り離して、\n「去った女に、用はねえ、帰れっ」\n\n二\n\n ゆうべは、二階の四畳半で、どたんばたん、呶鳴り声がしたり、すすり泣きが聞こえたり、だいぶ厄介事と階下で案じていたら、朝、ふさ楊枝を咥えて下りてきた露八は、このごろ、やっと結えるくらいに伸びた頭の毛を撫でながら、\n「あ。いい天気だ」\n いつもなら、風呂桶の側へくるのに、そこに老婆がいると、てれた顔をして、裏の井戸端へ出て行った。\n「露八さん、今朝は、遅いね」\n 物置の中から、亭主がいった。\n 露八は、顔をあかくして、\n「へい、昨晩は、どうも......」\n「奢んなさい。おやすくないぜ」"
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "盗まれた祖母の実話\n\n『ね、お祖母さん、うちぢや、Aにも親類があるのでせう?』\n 私は、祖母から彼方此方の親戚との関係を聞かされた時、ふと思ひ出してかう尋ねました。\n『ないよ、何故ね?』\n 祖母は妙な顔をしてさう答へました。\n『だつて私のちひさい時分に、よくAの叔母さんつて人が俥に乗つて来た事を覚えてゐますもの』\n『あゝさうかい、あれはお前の本当の伯母さんさ、よく覚えてるね。もう死んでしまつてゐないよ』\n『ぢや矢張り、お父さんの妹?』\n『お父さんより上だよ、だけど、あれは此処のうちの子ではないよ。お祖母さんが前にお嫁に行つて産んだ子さ』\n『ぢや、お祖母さんは、うちに来る前に、何処かに行つたの』\n『あゝ、Aに盗まれて行つたのだよ』\n『へえ、お祖母さんが?』\n 私は思はずさう云つてお祖母さんの大きな眼鏡をかけた、皺だらけな顔をながめました、もう少しでふき出しさうになりながら。でも考へて見れば、そんな事は別に、をかしがらずにはゐられない事でも何でもありませんでした、何故なら、私達は子供の時分からよく、何処其処のお母さんは盗まれて来たのだとか、何処の娘が盗まれたとか、何処の娘を盗み出してゆくのだとか云ふ話は聞き馴れてゐるのですから。しかし、私の祖母が盗まれた――などゝ云ふ事は私にはどう考へても、あまりに突飛な事のやうにしか思へませんでした。けれど、祖母はその盗まれた当時のことをポツポツ思ひ出すやうにして私に話して聞かせました。\n\n寺詣りの帰途に盗まる\n\n 祖母が、十六とか七とかの頃の事ださうです。或る晩、お寺に説教を聞きに出かけました。夜、家をあける事の出来ない祖母の母は、一緒にゆく隣りのかみさんに祖母の事をよく〳〵頼んで出してやりました。やがて説教がすんで大勢がゾロゾロ寺の門を出て来た時には、町はもう森としてゐて、寺から三四町も離れると、一緒に寺を出た人もちり〴〵になつてしまひました。すると、いきなり暗闇から四五人の男が出て来て、連れのかみさんを突き飛ばしておいて、驚いて逃げやうとする祖母の手取り足取り、ひつかついで駆け出してゆきました。祖母はびつくりして声を出さうとしても、幾人もにかつがれてドン〳〵駆けられるので身体の自由がきかないのと、息苦しいので、どうしても声が出せずにもがいてゐるうちに町外れの橋の傍まで来ますと、駕が用意してあつて否応なしにその中におしこまれてしまひました。やつと駕の中に腰をおちつけるや否や、また一散に走り出しました。\n 駕の中で祖母は、自分が何処かの者に盗まれてゆくのだと云ふ事だけは承知してゐました。けれども、行く先きも、何もかも分らないのですから、たゞ気味わるく恐しくて、どうかして逃げなければならないとばかり考へてゐました。何処へ連れてゆかれるかは分りませんけれど、西に向つて走つてゐる事だけはたしかに解つてゐましたけれど、どうして逃げやうかと云ふやうな具体的な事などは、とても考へられませんでした。そのうちにふと外の様子を見ますと、何うも其処は、町から十五六町もはなれたIの松原の中の道らしく思はれました。其の松原は一里あまりも続いてゐるのです、『この松原の中で、逃げなければとても逃げる道はない』\n 祖母は真暗な松原の中の恐さなどは忘れて、たゞもう、その松原を、滅茶々々に、逃げさへすればいいと云ふ考へでさう極めました。\n\n嫁泥棒は酒造家の息子\n\n『はゞかりにゆきたいから』\nさう云つて、やつと駕から出して貰ひました。其処は、松原の中にある、たつた一つの村で、村と云つても、街道の両側に十軒位づゝの家が並んでゐるばかりなのです。祖母のつもりでは、その何処かの家を起して便所を借りて、隙を見て逃げる気なのでした。しかし、男共は、夜中、見もしらぬ家を叩き起して便所を借りる訳にはゆかないから、其処の松原の中ででも用を足せと云つて聞きませんので、祖母はソロ〳〵松原の中に這入つてゆきました。もとより、はゞかりにゆきたいのでも何でもありませんから、どうかして隙を見て逃げやうとして暫く暗い中にしやがんで、様子を覗つてゐました。しかし、三四人の男が厳重に見張りをしてゐるのを見ますと、とても駄目だと思つてしを〳〵駕の中にはいりました。それでもまだ逃げることを断念する訳にゆきませんでした。\n『水が欲しい』\n『はゞかり』\n さう云つては幾度も駕から出ました。しかし、どうしても隙がありません。とう〳〵夜明けまでにAと云ふ、祖母の家からは西に六七里離れた処まで連れて来られて仕舞ひました。\n 連れ込まれた家は生家と同じ、其の土地の酒造家でした。其の家の息子の嫁として盗まれて来たのでした。盗んで来た男共はその家の蔵の男共だつたのです。\n 私が祖母から聞いたのは、それ丈けの話です。祖母がどの位、其処にゐたのか、どうして実家に帰つて私の家に来たかそんな事は聞き洩しました。けれど、その盗まれた先きで出来た一人の子供が、死ぬまで尋ねて来た、私達のAの叔母だつたのです。祖母はもう八十に近い年寄りです。その十六七の頃と云へば、私の生れた処のやうな田舎で、さうした、野蛮な、人間の掠奪が、ありふれた事実として一般に認められてゐた事に、それ程の不思議は感じなくとも済みますが、その野蛮な風習が、今も私共の地方では、依然として保存されてゐるのです。然しそれが結婚に伴ふ種々な障碍を超えるのに、一番造作のない、有利な手段として利用される為めにのみ保存されて来た事は云ふ迄もありません。\n\n恋人を盗み出す\n\n 最近に、私の耳に入つたその掠奪の話は、SとKと云ふ二人の間に恋愛関係の成立した事に始まります。SもKも二人とも、私共の地方では中流の暮らしをしてゐる家の子なのです。で普通ならば二人の結婚は、割り合に容易に許されるのでありませうが、Sと云ふ男の家は、私共の地方では誰しらぬ者もない悪血統の家なのです。それ故、Kの家やその親類の誰彼が不承知なのは云ふ迄もありません。しかし、二人はどうかして結婚しようとしSの親達も、どうかしてSの望みを叶へてやりたいと思ひました。そのうちにKは、とう〳〵家をぬけ出して、Sの家に連れ込まれました。半月ばかりたつてからKの家から厳重な談判があつたので、SはどうしてもKを返さねばなりませんでした。帰るとKは厳しい看視を受けるやうになつて、まるで外へなどは出されないやうになりました。しかし、とうとう或る晩、毎晩のやうに外から家の者の隙をねらつてゐたSの為めにKは盗まれました。しかし二人が五六町も来た頃に、直ぐに追手がかゝつて、Sは散々な目に遇はされて、Kはまた家に連れ帰られました。Kの看視は一層厳重になりましたけれど、Sはそれでも思ひ切ることが出来ないで、此度は四五人の若者をかたらつて、出かけました。此度はもう家の人に感づかれても何でもよいと云ふ気で、家の裏手にまはつて様子を覗つてゐました。運よく下女に提灯をもたせたKが、物置きの方に出かけて来ました。皆は飛び出してKをひつかついで逃げ出しました。下女の知らせで、家の物は後をおつかけまはしましたけれども、四五人もの屈強な男達にはとても向へないのでそのまゝになつて了ひました。\n Sは、前にこりて、家には連れてゆかずに二里ばかり山奥に二人で隠れました。Kの家では躍起となつてさがしましたけれど、遂々一年あまりも、二人のありかは分りませんでした。それでも、二年目には遂々見出されました。此度はKはうつかり、弟の口にだまされて、家に連れ帰られました。けれども夜になるとKはどうかして逃げやうとそはついて来ますし、SはSで友達をつれては、すきをねらつてゐるのを見ますと家の人もとう〳〵断念しました。そして、わざと油断を見せて、Kがぬすまれてゆく事を許しました。"
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"role": "assistant",
"content": "『うつちやつたのを拾つて行つたんだ』\nKの家ではさう云つて、もうどんな事をしても、再び家の敷居をまたがせないと云ふ事を親戚に誓つたと云ひます。\n\n島に囲はれて狂死す\n\n 盗むとか、盗まれるとか云ふ話は、今でも始終さう云う風に、聞きますけれども大抵は、SとKのやうに当人同志の合意の上の事が多いやうです。私の祖母の場合のやうに、全く見も知らぬ、遠くの土地に盗まれてゆくと云ふやうな事は此の頃では、あまりないやうです。けれど、祖母よりはもつと惨めな盗まれ方をした人が、私の母の若い時分にあるさうです。私の母も、盗まれかけた事はあるさうですが、幸運にも助け出されたのださうです。もし先方まで行つたら否応なしに、不具者の妻にされる処だつたのだと脅かされたと云ひます。\n その母の友達と云ふのは、その両親と、盗まうとする者が合意の上の事なのださうです。最初に、其処へ結婚の話があつたときに、その娘は拒絶したのださうです。しかし、直ぐに盗まれて、其処へゆきましたけれども、どうしても厭やで仕方がないので彼女は幾度も逃げかけましたけれど、其処は、私の方からは海上一里ばかり隔てた島なので、村の家敷まで、晴れた日には見ながら、どうしても、逃げる訳にはゆきませんでした。そのうちに、遂々、気が狂ひ出して、毎日海辺に出ては泣いてゐたさうですが、仕舞ひには井戸に身を投げて死んだのです。\n この妙な風習は、私共には不思議でたまらない、しかし、多くの興味をそゝるものであります。しかも、これは、私共の狭い一地方に限られた風習ではなく、原始時代に始まつて、全世界を覆ふものであるとすれば、必ず、彼方此方に、より以上に種々な形式で保存されてゐることゝ思はれます。\n\n嫁泥棒は蛮族共通の風習\n\n シヤルル、ルトウルノの『男女関係の進化』中には、それについての興味深い多くの事実が集められてあります。氏によれば、掠奪婚姻と云ふ言葉はあつても、本当には婚姻の様式ではなく、妻を得る一つの方法に過ぎないと云ひます。\n その『男女関係の進化』の中の掠奪婚姻の例として各地に拡がつたその掠奪の風習が挙げられてあります。\n『メラニシアでは、此の掠奪は女房共、即ち絶対的に掠奪者の意のまゝになる、あらゆる労働の女奴隷を得る、原始的一方法であつた。又タスマニアでは、随つて又濠洲では、此の掠奪と云ふのが、屡々ほんの真似事に過ぎなくなつて、男と女との間の、予めの合意から行はれる。けれども、此の掠奪の行はれる、乱暴な方法を見れば、斯くの如き親密な合意と云ふのも例外的の事である事が十分に証拠だてられる。他の部落に属する女を奪ひ取らうとする濠洲人は、先づ敵陣の周囲をうろつきまはる。そして保護者のついてゐない女を見つければ、直ぐさま飛びかゝつて棍棒で打ちのめして、其の髪をつかんで近所の森の中に引きづつてゆく。やがて女が息を吹き返すと、自分の部落に連れて行つて、皆んなの面前で侵して見せる。女は男の所有物家畜となつたのだ。斯くして掠奪された女は一般に、苦もなく云はれるまゝになる。女にとつては実は、一般には只だ其の主人を代へただけの事で、其の地位には何んのかはりもない。\n\n二人がかりで嫁泥棒\n\n 時としては又、二人の男が此の掠奪に協力する事がある。二人して夜窃に隣部落へはいり込む。一人が眠つてゐる女の髪を、鉤のついた槍に捲きつける。一人は自分の槍を女の胸につきつける。女は眼をさましても、声を出す事が出来ない。二人は女を連れて行つて樹に縛りつけて置く。そして再び同じやうな方法で、第二の掠奪をしにゆく。斯くして二人は凱歌をあげて、自分の部落に帰る。女は滅多に反抗する事がない。女は此の掠奪と云ふ事に随分慣らされてゐるのだ。先づ子供の時分から自分を待つてゐる運命に慣らされてゐる。掠奪の真似事をするのが濠洲人の子供の遊戯の一つになつてゐる。やがて、美しい娘の生涯は幾度かの掠奪の計画と、実際の掠奪との連続である。幾人かの手から手に移され、争闘の際の負傷を受け、又捕はれて行つた部落の他の女共の虐待にも遇ふ、時としては又、其の生れた土地から幾百哩の遠い所に連れられて行く。\n かう云ふ掠奪は、亜弗利加の黒人の間でも亜米利加の土人の間でも、極く普通に今でも行はれて居るのださうです。それ等の土人の争闘は、大抵女の掠奪と、その復讐が原因になつてゐると云ひます。\n\n平和な結婚にも掠奪の儀式\n\n 更らに、平和な結婚の儀式に、掠奪の真似事をすると云ふ多くの例が、矢張り、ルトウルノによつて集められてあります。その儀式と云ふ事に就てはルトウルノは次のやうに云つてゐます。\n『掠奪を真似た儀式があると云つた処で其平和な男女の結合が、女を掠奪する事から出たと云ふ意味ではない。たゞ遠い時代、即ち暴力が非常に尊ばれた、そして有らゆる種類の労働の奴隷を武器の力で得る事が名誉とされた時代からの伝習、心の中での遺物だと云ふに過ぎない。そして彼等は平和な結婚をするやうになつても其の昔日の掠奪を儀式の中に入れたがるのに過ぎない。従つてその掠奪行為には、他の何等の意味も含まれてゐない。たゞ、両親から買はれて来た花嫁が其の夫たる主人に絶対の服従をしなければならない事と、その家の中での最も卑しい地位に就かなければならない事を意味するに過ぎない』\n しかし、此の儀式は、ニユウジーランド辺の土人の間では、婚姻の儀式の一番重大なものになつて居ります。結婚の約束が成立すると、男は女を掠めてゆきます。女は極力それに抵抗する事になつて居りますので、着物が、ボロ〳〵に切れ裂けるまで抵抗して引きづられてゆきます。またシナイのペドウイン族では、男は二人の友人を連れて、女を奪ひにゆきます。女は石を投げて反抗します。そして遂に男達は女をその父親の内まで連れて行つて其処で許される事になつて居ります。\n\n欧洲諸国にも掠奪の儀式あり\n\n 多くの欧洲人もやはり此の掠奪の儀式を行つたものであります。羅馬では此の儀式は永い間平民の婚姻に行はれました。矢張り他と同様に、掠奪の真似事をするのであります。しかし、身分のある人の婚姻にも、その真似事は重大な事としてありますが、しかたは、ずつと簡単になつてゐます。その他シルカシアでも、ウエルスでも同様の儀式が行はれてゐました。リヴオニアでは婚姻には必ず騎士の闘がつきものになつてゐたり、ポオランドや露西亜でも、結婚する前に一度娘を掠めると云ふやうな風習があるのも、矢張りその掠奪を意味するものだと云ふ事です。\n 私共の地方でも、さうして、本当に盗むとか、盗まれるとか云ふ露骨な方法の他に、結婚の儀式のつきものとして、花嫁の行列を邪魔するとか其の他それに類似したやうな村の若者等のいたづらがさう云ふ掠奪の真似事から転じたのかと思はれるやうな事があります。其の他結婚の儀式は、地方々々によつて随分奇妙な事が沢山ありますが、さうした、古い伝説や、慣習から来たものが随分あるに相違ないと思はれます。\n それが本当の意味の強奪であるにしろ、さう云ふ形式を利用する合意的のものであるにしろ、或はまた、全然儀式としての真似事であるにしても、兎に角、暴力で、女を掠奪すると云ふ風習が、全世界の何処の隅にまでも一様に保存されてあると云ふ事は、女がどう云ふ風に扱はれて来たかと云ふ事を考へるには種々な暗示を与へ得る興味深い事実であらうと思はれます。\n\n女を物品扱ひする遺風\n\n 朦昧人が女を掠めとつたと云ふ事には、大きな一つの理由があります。それは、それ等の朦昧人の部落では、女が高価な財物であるからです。女が普通の財物と同一視されて、その所有者の意志のままに女は売られたり、交換されたり、賃貸をされたりしてゐます。しかしそれは決して朦昧人や、野蛮人ばかりではありません。私達は、現在の私達の周囲にさへさう云ふ事実が沢山あることを否む訳にはゆきません。朦昧の間では、男が女をゆづり渡して貰ふには、女の両親に、金を払ふと云ふ負担がある為めに、それをのがれる一つの方法として掠めて来るのであります。この事実は、私共には甚だ奇怪な事実としか思へませんが、しかし振り返つて、現在の結婚制度に就いて考へて見ますと女に対する根本の観念にはそれ等の朦昧人とは幾許の相違もありません。『貰ふ』とか『遣る』とか云ふ言葉がすでに充分それを説明して居ります。『売る』『買ふ』と云ふ事と『貰ふ』『遣る』と云ふ事との差異は、その受け渡しに、金銭の取引きがついてゐるかゐないの差異だけにすぎないのです。私共の地方での娘の掠奪にしても、女の親への金銭の負担から逃れる為めに掠奪する朦昧人の掠奪といくらの差異がありませう、彼等はたゞ、金銭の負担の代りに、色々な面倒な難題を負ひ切れないので、それをのがれる為めに掠奪するのであります。かうして男の暴力によつて、保護されたり、掠奪されたり、物品と同格にあつかはれる女の生活中には何があるのでせうか。私は朦昧人によりて示された、魂のない女の生涯が、如何にみぢめなものであるかに驚くと同時に、今も私の近い周囲に、同様な女の為めに用意されたやうな風習を見出しますと、何とも云へない気がするのであります。私共の地方にはまだ〳〵いろ〳〵なさうした風習の利用された話が沢山あります。恐らく斯うした例は、到る処にあることゝ思ひます。それ等の事実に暗示された種々な問題に就いて持つ私の考へは此処には書きません。しかし、私は私達の気づかずにゐる、手近かな事実からもさうした意味ある暗示を受け得ると云ふ事に、深い興味を感じたと云ふ事を特に附記して置きます。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 四月号の寄贈雑誌大小十六種のうちから、創作戯曲二十五種を選び出し、昨日(四日)まで暇を盗んで読んだ。その結果がこの一文になるわけであるが、僕は決してこの仕事を自分に適した仕事だとは思はない。たゞ書く方で愉快にならないやうな文章は、読む方でもつまらないにきまつてゐるから、努めてじう面はつくらないことにする。そのかはり、多少の戯談は許してもらひたい。\n\n 第一断つて置かなければならないのは、チヨンまげが出て来る芝居は、そのチヨンまげが武士であらうと町人であらうと、一切、批評することを断念した。(但し長与善郎氏の「武蔵と卜伝」だけはこの限りに非ず)\n 第二には、どれも一回しか読まなかつた。暇もなし、根気もなし、殊に......これは後でいふことにする。だから、もちろん、読みそこなひ、解り損ひ、時に感じ損ひが多からうと思ふ。僕は常に、佳い脚本なら五度くらゐ読まなければほんとの味が出て来ないものと思つてゐる。もつともさういふ脚本は、一度読んだ時に、はゝあ、こいつはたゞものでないといふことだけはかぎだせる。\n 第三に、一二ペーヂ読んで、付いて行けないと思つたものは――さういふ経験をだれでも有つてゐるだらうと思ふ――一ペーヂづゝ、時には四ペーヂづゝ飛ばして読んだ。それで解ることだけは解るのである。もつともそれだけで、その作品がどれほど悪いかなんていふことはいはない方がいゝ。\n そこで結局、僕のきまぐれな印象記はいはゆる批評家の批評にはならずとも、一読者の声として、同じ作品を読んだ人達の「話相手」になればそれでいゝのである。\n 先づ創刊の「演劇新潮」では藤井真澄氏の「雷雨」を読んだ。仲々芝居をやつてゐる。昔の壮士芝居を思ひださせる場面がありますね。これが大衆劇といふんでせう。なるほど大衆には受けさうだ。また「人をのろへば穴二つ」といふ教訓も含んでゐて、カフエーなどに出入する不良青年少女を戒めるに足るものである。藤井氏年来の主張を裏切らない作品である。従つて同氏のものとしては佳作に属すべきものでせう。\n つぎに高田保氏の苦心になる新劇雑誌「テアトル」――これでは金子洋文氏作「牝鶏」を拝見した。例によつて「はつらつたる野趣」に富む戯曲である。たゞ、人物の心理的発展がやゝ機械的で、しかも、その機械的なことが割合に喜劇的効果を助けてゐない憾みがある。恐らく観察の狂ひであらう。最後に、娘の方にまで卵をこしらへさせる、とはちとあくどくはないか。これは必ずしも趣味の問題ではあるまいと思ふが、金子君、どうです。これを読み終つた時、ふと同君の名作「盗電」の美しい場面を思ひだした。\n 鈴木善太郎氏の雑誌「劇場」は、同氏の作「東京の眠る町」を掲載してゐる。これはたしかに新時代の生活だ。少くとも、戯曲に取りいれられたある新時代の生活だ。但し、作者が比較的その新時代を軽く取扱つてゐるやうに見えるのはどうしたものか。軽く取扱つてゐるといふ意味は、もう一歩先にもう少し「精神的な事件」がある、それを作者は顧みないでゐるやうに思はれることである。しかし、この作者の住んでゐる世界は、「新しい演劇」を生む一つの世界に違ひない。それを何よりも尊く思ふ。\n\n 井東憲氏の「貞操を」――同じ雑誌に載つてゐるのだが、今日までついうつかりしてゐて読まなかつた。佳いものかも知れない。\n 同人雑誌「青空」では飯島正氏の「海浜挿話」を読んだが、活字が悪いので印象をめちや〳〵にされた。作中の人物が、あの活字のやうな形に見えてしやうがなかつた。それが若し作者の好むらしいマリヴオーダアジユと一致するものでなければ結構である。\n 同じく小冊子「街」の一角に見た「トロイの木馬」は注目すべき作品である。作者坪田勝氏が、たゞ形式上の新味を見せようとしたのなら、必ずしも感服はできないが、全篇をあの独白で貫ぬくために、人物の心理的リズムに適度のテンポを与へ、感情の飛躍を鮮やかにコントロールしてゐる手並は、たしかに非凡である。殊に、この特殊な形式が要求する文体の上に、十分の用意を加へて、立派な劇的効果を収め得たことは正に推賞に値ひする。この人は劇作家である。しかも有望な劇作家である。\n 幕切に女が箱の中から何を探さうとしてゐるのか、はつきりわからせないところ大いによし。\n「主潮」同人樋口正文氏の戯曲批評はこれまでちよいちよい読んだ。作品を読むのはたしか今度が始めてゞある。「開演中」はなるほど、批評家の作品らしいところがある。まづくはない、殊に、そつがない。これも「新時代の犠牲」をゑがいてゐる。が、危いかな、作者自身もその一人にならうとしてゐる。\n「塔」の本庄桂介氏は即興曲「小春日和」においてある夫婦の生活を描き、才筆侮るべからず、たゞこの種の題材を生かすための観察の鋭さがない。そして殊に心境の清らかさに欠けてゐる。\n「錬金道士」の岩瀬虎治氏は「生きる日」において、文科大学生気質の一面を描いてゐる。文科大学生ならばたれでも書ける程度のもの。これは侮つていふのではない、何かしら光つたものを特にこの作者に求める。\n ぼくは高田保氏に期待するところが大である。「虚無思想」といふ気味の悪い雑誌にアレゴリイの一幕「人生」を見だしたが、この高田氏の五分間喜劇は僕を一寸考へさせた。即ち、この題材なら、大概の人は二三十枚に書く。それを四五枚に圧さくした所、さすが高田氏だと思ふが、「人生」といふ標題の手前、より大なる哲学的勇気をもつて、これを一篇のソンネに縮めて欲しかつた。"
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"role": "assistant",
"content": "\n「文芸春秋」唯一の戯曲、長与善郎氏作「武蔵と卜伝」は僕の興味をひいた唯一のチヨンまげ劇である。この作、必ずしも面白いわけではないが、かういふ題材はとかく常識的興味の持ち方に陥るものであるのに、この作者は、これに作者の朗らかな主観を与へてゐる。作者が、この作品に与へようとした「意味」は、さほど僕の感興をそゝるものではないが、一見、大まかに見える手法のうちに武者小路氏などと違つて、十分芸術家らしい神経を働かせ、常に完成に向つて謙虚な努力を続けてゐる作者に、僕は敬意を捧げる。\n「新小説」には秋田雨雀氏の「先生抹殺」と題するフアルスがある。かういふものは、読む時次第で、をかしくもあり、をかしくもない。僕が読んだ時は、をかしくなかつた。「をかしくないといふ気持」は、変な気持である。「笑へない気持」とも違ふ。この作者は喜劇を書くべくあまりに何かを信じ過ぎてゐると思ふ。\n が、これとはまた違つた意味で「中央公論」所載長谷川如是閑氏の「根管充填」といふ喜劇も「をかしくない喜劇」の一つである。この方は、をかしくないのみならず、読むのにやゝ苦痛を覚えた。変な芸術家気取りがないだけに、その苦痛も倉田百三氏の「赤い霊魂」(改造)を読む時ほど堪へ難いものではない。殊に前者の道楽気は後者の真剣味よりも僕には親しみが持てる。前者はともかく読了し、後者は中途で失敬した所以である。「赤い霊魂」の作者は真面目に何かを考へてゐる人かも知れない。しかし、その考へてゐることを人に伝へるためには、もつと便利な方法がありはしないか。\n 武者小路実篤氏もやゝこれに似た作家である。この種の作家は概して筆を惜しむことを知らない。「女性」に「夢の国」を、「改造」に「ある物語」を、「中央公論」に「出鱈目」を発表してゐる。この人はたしかに不思議な存在だ。みんなが、みんなのためになるやうな社会を夢想してゐる時に、この人は、自分だけの気にいるやうな世界を夢想してゐる。「夢の国」は何とキザな人間の寄り集まりだらう。負けても腹を立てないといふことを見せるためにのみ角力を取る男達がゐる。そこへまた「殺されるのは沢山」で「死ぬのは困る」男が、「うぬぼれもないことはないが、あまり見よいものではない」から、けんそんして見たりする。王様と呼ばれる男の、貴族的平民振りはまあいゝとして、かう、めい〳〵が、自分の上に加へられてゐる人の注意を始終意識してゐることはやりきれない。自分のいふことは何でも人が感心して聴くと思つてゐるらしい人物それ〴〵の思ひ上り方も鼻につく。さて、これらの人物を、作者は、如何なる眼をもつて視てゐるか。友情とせん望の眼をもつて見てゐる。そこには作者の、単純にして寛大な批評がある。この寛大さは、たしかに人を打つものである。作中の人物は、何れも人間の醜さを覆ふために、同じく醜い人間となつてはゐるが、それは丁度、さるが盗んだ果物を後へかくして逃げるやうな罪の無さによつて、人の心を和げる。たゞこの効果は、憾むらくは作者の企図したものではない。それだけに、われわれの興味は、常に作品を離れて作者にのみ向はうとする。\n「ある物語」と「出鱈目」は取り立てゝいふべきほどのものではない。\n 序にいつて置くが、この作家はもつとも芸術家的な魂を持つてゐる作家の一人である。それと同時にこの作家は、もつとも芸術家的ならざる感覚をもつてゐる作家の一人である。\n\n 里見弴氏は「女性」に「白扇の下に」を書き、「改造」に「たのむ」を書いてゐる。里見氏の戯曲を読むと、何よりも、里見氏から芝居の話を聞いてゐるやうな気がする。手に取るやうに舞台を見せてくれる。読者は少しの想像力をも働かせる余地がない。といふことは、結局戯曲の読者に取つては少々有難迷惑ではあるが、戯曲の読めない読者に取つてはこの上もない幸ひであらう。「白扇の下に」は思ひつきだけの面白さだが、「たのむ」の方は、それ以上に、ふんゐ気から来る面白さがある。どちらも、短いものでありながら、準備説明が長すぎるが、その説明の終るところから、急に、場面が緊張しはじめる。登場人物は、何れも型通りの白をしやべりつゝ、それが活々と動いてゐるのはどうしたわけか。表現の確かさはこの作者の強味である。せめてこの描写力に、応はしい心理解剖の鋭さがあればと思ふ。会話の「いき」は流石手にいつたものだが、それだけでは戯曲の文体として上乗なものだとはいへないやうに思ふ。なぜなら、その言葉には陰影が乏しい。従つて暗示力が希薄である。読者をひきずつては行くが、読者の眼は、作者の忙しい指先を追つて、次から次へと物の象を見るばかりである。あれも見た、これも見た、あれも面白かつた、これも面白かつた、そして、......? それだけだ――といふ旅をしたやうである。一体どこへ行つた? ――あ、それや、気がつかなかつた――といふ旅である。熱い国か寒い国か? ――忘れたといふ旅である。一寸変つた旅ではあるが、なんと話にならぬ旅ではないか。夢なら夢でまた話のしやうもあるものを......。\n「助次郎、すぐ身を起し、流しもとから、菜切ばう丁をぬき持たうとするが、刑事に、ぐいと腰なはを引かれて取り落す。」あたり、思はず読者の方で浮腰になる。しかし、この時、作者の眼が、割合に物を言つてゐない。それがさびしい。これに反して、為吉が徳利の酒を湯のみに注いで、助次郎の方に差だすあたりから、今度は、作者が、のそ〳〵と出しや張つて来るのが眼ざはりだ。要するに、名小説家里見弴氏は、主人公助次郎の如く、舞台という腰なはをつけられて、足は動いても手がだせない状態である。それにつけても、同氏の小説を読んで御覧なさい。僅五六行の会話の一節でさへ陰影と暗示に富む好個の劇的場面を見せてゐるではないか。あれがあのまゝ、なぜ戯曲にならないものか。\n「改造」は新進池谷信三郎氏の「帰りを待つ人々」を紹介した。相当の期待をもつて読んだが、果してコンポジシヨンの上に大胆な新味を見せてゐる。と、思ひながら読んでゐるうちに、部分部分の技巧は寧ろ一種のマンネリズムに堕してゐるのに気がついた。各種の人物を対立させて、断片的な幻象の交錯を企図し、そこからコンチエルトに見る効果を心理的に誘致しようとした作者の野心は、僕の尊敬おく能はざるところであるが、その幻象の、その心理的ノートの不統一と不確かさとが、惜むらくは、全篇の印象を支離滅裂なものにしてゐるやうである。僕の見るところでは、作者は、第一に言葉の選択を誤つてゐる。その言ひ方がわるければ、言葉そのものの好悪にとらはれ過ぎて魂の声に耳を傾けることを忘れたらしい。それがために、人物それ〴〵の色彩から「絵画的リズム」をさへ引だすことができなかつた。この種の舞台に、それを欠くことは致命的な痛手である。作者は、恐らく、人物の幾人かをして故らに空虚な、大げさな言葉を語らせて、その言葉の裏から、間から「あるもの」を感じさせようとしたのだらう。その「あるもの」を、作者は、一体、はつきり見てゐるのだらうか。僕の疑問はそこにある。芸術的危機に立つこの作者の再考を求めたい。\n\n 色調と時代的意識の差こそあれ、つとに「帰りを待つ人々」の手法をさりげなく取りいれて、見事成功してゐる作家に久保田万太郎氏がある。曾て「月夜」を書き、今また「通り雨」を書いていつもながらの腕のさえを示してゐる。久保田氏は、何よりも「あいさつの詩人」である。\n\n......(急に)おさきへ失礼いたします。――(不意を食つたかたちに)おかへりですか? ――へえ。――いゝぢやありませんか、まア。――もう少し......。――へえ、有難うございます。――一寸これから、わきへ一けん寄つてまゐりますから......。――さうですか。――どうも有難うございました。――いづれ改めてうかゞひます。――どうぞお宅へよろしく被仰つて下さい。――おそれ入ります。――いえ、もう、子供のことでございますから、......。――(しみじみ)さぞ、しかし、お内儀さんがお力落しでせう。――......。――ちやうど、いま、可愛さざかりで......。――(しみじみ)全く死ぬ子眉目よしだ。(間)――では、御免下さいまし。(榎本と岩井屋に)どうぞごゆつくり......。――どうもこれは......。――そのうち、また、御邪魔に出ます。――どうぞ......。ぢやア御免なさい。――御免を......。\n\n これが、――もちろんこれだけ読んだのではわかるまいが――決してあいさつのためのあいさつではないのである。今頃、こんなことに感心してゐると、作者に叱られるかも知れないが、久保田氏でなければ弾けない一種のハルプを、僕は昔から聴くのが好きだ。同じものばかり弾いてゐるといふ非難は非難にならない。同じハルプでも弾くたびに曲が違ふ。たゞ久保田氏は、三味線で「汽笛一声」を弾く芸者ではないのである。まして、大正琴で......おつと、これは余計なことである。\n なるほど、久保田氏の好んで取扱ふ主題は、滅び行く世紀の相と、それにまつはる特殊な文化の名残である。その態度が勢ひ懐古的になるのは当然である。さういふ作家もあつていゝではないか。しかも、あわたゞしい流行の推移をよそに静かな(少くとも表面は)過去のロマンスを歌ひ続けてゐるかのやうに見える作者――この作者こそ、現代日本の劇作家中、もつとも、歌舞伎劇の伝統から離れて本質的に西欧の戯曲美を摂取した劇作家の一人であることは、寧ろ皮肉といふべきではないか。\n 佐藤春夫氏の発表される戯曲を、僕は待ちわびてゐるものゝ一人である。今日まで、特に佐藤氏が優れた戯曲作家であることを証明した作品は一二に過ぎないけれど、僕は早晩同氏の手から、現代日本のもつとも光輝ある劇的作品が生れるであらうことを期待してゐる。「中央公論」の「巣父犢に飲ふ」は、遺憾ながら、戯曲としては未完成作品である。殊に作者が若しこれをもつて、東洋流の隠とん的哲学を賛美するものと解するならば、僕は、青年作家佐藤氏のために、やゝ心暗きを覚える。しかしながら、これは、あくまでも絶対的見地からである。「巣父犢に飲ふ」の一幕は、片々たる世上の商品的小説戯曲の類と同列に置くべきものではない。創作の動機は、よし、多少楽屋落的であらうとも。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「出來星の金持ですよ。米相場で儲けたとか言つて、大變な景氣で、その妹のお辰はまた、小格子から引つこ拔いて來て、裝束を直したやうな恐ろしい女ですせ」\n「いづれそいつは後で當つて見よう。ところで、俺の方は大變なものを見付けたよ」\n「何んです、親分」\n「これだ」\n 平次は昨夜染吉の死骸から持つて來た、金唐革の煙草入を出して、中から二枚の小判をつまみ上げます。\n「小判がどうかしたんで」\n「こいつは銅物だよ」\n「えツ」\n「近頃江戸中を騷がせてゐる銅脈さ。一寸見は眞物の小判と少しも違はない。――尤もこちとらは、滅多に小判を見ることもないが、――兩換屋へ持つて行つて、丁寧に見て貰ふと、こいつは良く出來てゐるが全くの贋物だ」\n「へエ――」\n「殺された染吉が、惡事から身を退いて、俺のところへ來ると言つて居たさうだな」\n「勇太郎はそんな事を言ひましたね」\n「その途中で殺されたのかも知れない。――ありさうな事だ。殺した奴は染吉の財布ばかり覗いた。その中の物を皆んな奪つたのは、小粒や、青錢まで欲しかつたわけぢやあるまい。下手人は、染吉の持つて居るこの贋物の小判を奪るつもりだつたかも知れない」\n「――」\n 飛躍する平次の天才、その推理の塔の積み重なるのを、八五郎は呆氣に取られて聽き入るばかりです。\n「ところが、染吉は用心して、大事の小判を煙草入の中へ入れた。――羅紗の結構な紙入を持つてゐる人間が、腰にブラ下げる煙草入などに小判を入れる筈はない。その煙草入は三兩や五兩で買へるやうな品ぢやないんだから、不用心ばかりでなく煙草入もいたむ」\n「――」\n「八、こいつは面白くなつたぞ」\n「何が面白いんで? 親分」\n 八五郎は四方をキヨロキヨロ見廻します。二月の陽は縁側にクワツと射して、貧しい平次の住居を隈なく照らし出しますが、別に八五郎の眼には、面白くなるやうなものもありません。\n「染吉は贋金造りか、贋金遣ひの仲間を知つて居たのかも知れない。――縫箔屋を止してノラクラ者になつた染吉が、こんな贅澤な暮しをして居るところを見ると、どうかしたら、染吉もその贋金遣ひに關係を持つて居たのかも知れないよ」\n「――」\n「近頃何にかのわけがあつて、贋金遣ひの仲間が恐ろしくなり、自首して出て、自分の罪だけでも許して貰はうとして居る矢先、仲間の者に嗅ぎ付けられて、一と思ひに殺されたんぢやあるまいか。――俺にはどうもそんな匂ひがしてならない」\n「――」\n「染吉を殺した下手人は、餘つ程染吉と眤懇な奴だ。――染吉の後をつけて來て、妻戀稻荷で勇太郎と話すのを盜み聞きしたんだらう。染吉が自首するに違ひないと見て取つて、勇太郎の姿が見えなくなると直ぐ染吉のところへ姿を現はし、馴々しく話しかけ乍ら、勇太郎の忘れて行つた秤で力任せに毆つたんだらう。秤に分銅を縛つてあつたといふから、こいつは恐ろしい得物だ、手もなく寶山流の振り杖さ」\n「――」\n「そこへ勇太郎が歸つて來たので、秤を藪に投り込んで、下手人は逃げ出した、恐ろしい奴だ」\n「誰でせう。その下手人は?」\n「解らない。まるつ切り解らない。兎に角、染吉の繁々出入りする家を探すことだ」\n「差當り丸山町の直助はどうです」\n「行つて見よう。無駄かも知れないが」\n 平次とガラツ八は、其處から眞つ直ぐに、丸山町に飛んだことは言ふまでもありません。\n\n五\n\n 丸山町の直助の家は、崖の上に建つた立派な家で、構へも木口も相當、後ろに竹林があつて、前には五六軒の長屋を並べ、その家賃だけでも呑氣に暮せさうな樣子です。\n 不意に訪ねると、幸ひ主人の直助も、妹のお辰も顏を揃へて居りました。直助は三十を越した、愛嬌のある好い男、少しばかり上方訛があるのも、上手な商賣人らしい印象を與へます。\n「錢形の親分さんでしたか、それはどうもお見それ申しました。私は御當地へ參つてまだ三年と經ちませんので、土地の方にも馴染が薄う御座います。――染吉さんが殺されたさうで、へエ、へエ、人から聞かされてびつくりいたしました。私も湯島のお宅へ顏だけ出して參りましたが氣の毒なことで御座います。氣持の好い方でしたが、――近頃はよく此處へも見えました。現に昨日もおいでで、晝過ぎまで話して歸りましたが――」\n さう言つた滑らかな調子。\n 染吉との關係は商賣のことから懇意になり親しく往來してゐるうちに、妹のお辰を嫁に欲しいといふ話になり、本人も大方承知してゐたが、具體的な話を進める前にあんな事になつて、お辰も力を落して居る――といふのです。\n 話の中に、妹のお辰も出て來ました。二十三の年増盛りで、お芳の野暮つたい樣子に比べると、お月樣と鼈ほどの違ひ。身の廻りの贅は兎も角、厚化粧で、媚澤山で、話をしてゐても愛嬌がこぼれさう。\n「まア、本當に、染吉さんは、お可哀さうに。私はもう、死んでしまひ度いと思ひました」\n そんな事を言ひ乍ら、涙を拭いたり、兄の直助の身の廻りの世話をしたり、所作澤山にして居るのです。\n「昨夜は外へ出なかつたらうな」\n 平次は委細構はず調べを續けました。\n「妹と二人、一杯飮んで、好きな小唄の稽古をして、早寢をしてしまひました。――尤も、私の出入りは必ず前のお長屋の中を通りますから、其邊で訊いて下さればよく解ります。外に道は御座いません」\n さう言はれるとそれつ切りの事です。\n それにしても調度の見事さ、暮しの豐かさ、此處の生暖かい空氣に包まれて居ると、平次も八五郎も何にかうつとりした心持になります。\n「江戸には滅多に見られない家だが、ちよいと家の中を見せて貰へまいか」\n「へエ、どうぞ、親分方が御覽になるやうな家ではございませんが」\n 直助は氣輕に立つて、平次と八五郎に家の中を見せてくれました。中は贅を盡して居りますが、至つて簡單で明るくて、贋金等を造る場所があらうとも思へず、そんなものを貯へて置く樣子もありません。\n「二階は?」\n「富士山の見えるのが自慢で御座いますが、あの通り孟宗竹が伸びて、折角の眺めを臺なしにしてしまひました。いづれ竹を切つて了ふつもりですが――」\n 指差すと、小石川一帶の町を眼下に眺めて、その上に富士も見える景色ですが、崖の竹林がひどく繁つて、すつかりその眺望を隱して居ります。\n 其處を出た平次とガラツ八は、前の長屋で一と通り直助兄妹のことを訊いて、それから湯島を廻つて、殺された染吉の家へ立寄り、線香を上げて樣子を見ました。集まつたのは近所の衆と、昔染吉の先代が使つた縫箔の職人だけ。耳の遠い婆さんと染吉とたつた二人の世帶は、主人が死ぬと火の消えた淋しさです。\n 近所でいろ〳〵噂を集めましたが、贅澤で人を人臭いとも思はない染吉には、相當に反感があり、突つ込んだことは誰も知りません。\n「親分、下手人は誰でせう」\n ガラツ八は到頭考へ草臥れました。\n「まだ解らないよ」\n「勇太郎ぢやなしお芳でないとすると、矢張り直助ぢやありませんか」\n「どうして、そんな見當をつけたんだ。――直助は昨夜外へ出なかつたんだぜ」\n「でも、あの男は油斷がなりませんよ」\n「前の長屋で、直助兄姉は昨日の晝過ぎから外へ出ないと言つてるぢやないか。それも五人や三人の口が揃つたのぢやない、――三味線と小唄も聽えて居たといふし」\n「でも、變ぢやありませんか、親分」\n「何が變なんだ」\n「何んとなく變ですよ」\n 八五郎はキナ臭いものを嗅ぎ出すやうに鼻の穴を大きくしました。\n「それは斯うさ、あの直助とお辰は、兄妹ぢやないんだ。俺には初めからよく判つた」\n「へエ――」\n 平次の言葉は豫想外です。\n「お前の眼にも變に映つたらしいが、兄妹でないと見破ることは出來なかつた。たゞ、兄といふ直助と、その妹といふお辰の取廻しが變に見えたんだ。――川柳にはうまいのがあるよ。『それでなくてあの所置振りがなるものか――』つてね。妹があんなに兄の世話が燒けるものか。吸ひ付け煙草などは兄妹の中ですることぢやないよ」\n「すると」\n「二人は夫婦さ」\n「染吉がお辰に夢中になつたのは?」\n「直助が承知で釣つたんだらう。――兎に角、あの男の稼業をもつとよく知り度い。氣の毒だが下つ引を四五人狩り出して、直助の身許と身上と商賣のことを、もつとよく調べ拔いてくれ」"
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"role": "assistant",
"content": "「へエ」\n ガラツ八は拳を放れた鷹の樣に、何處ともなく飛んでしまひました。\n\n六\n\n それから三日目。\n「大變ツ、親分」\n「サア、來やがつた。何處で大變を拾つて來たんだ」\n あわてて飛込んで來る八五郎を迎へて、平次は何やら期待にニヤリニヤリして居ります。\n「三輪の親分が乘込んで來て、丸山町の直助の家を根氣よく家探ししましたぜ」\n「何にか出たかい」\n「何んにも出ないから不思議で、――出たのは眞物の小判が三百兩ばかり」\n「それから」\n「三輪の親分もすご〳〵と引揚げましたよ。床下も天井も剥し、井戸を覗いて庭まで掘つたが、口惜しさうでしたよ、三輪の親分の顏が」\n「それつ切りか」\n「それつ切りです。でも三輪の親分が目をつけるやうぢや油斷がなりませんね」\n「お前の調べはどうだ」\n「直助は米相場のコの字も知りませんよ。上方で儲けたやうな事を言つてゐるが、三年前江戸へ來た時は裸一貫で、それから何をするでもなく金が出來て、妹といふのを呼寄せてあの豪勢な暮しが始まつたさうで」\n「フーム」\n「あのお辰といふのは恐ろしい腕で、今まであの女に釣られて出入りした男が幾人あつたかわからないが、それが順々に來なくなつて、近頃は染吉ともう一人、中年者の男がちよい〳〵來るさうですよ」\n「そんな事だらうよ」\n「早くあの野郎を縛つて下さいよ、親分。三輪の親分に先手を打たれちや業腹ぢやありませんか」\n ガラツ八は一生懸命に説き立てました。\n「證據は一つもない。贋金が一つでもあの家にあれば縛れるが、――でなきや、あの晩、直助が外へ出たと判れば――」\n「行つて見ませう、親分。此處で考へたつて何んにもなりませんよ」\n「さうしようか」\n 平次は到頭出かけました。甚だ自信のない姿です。\n 丸山町へ行つて崖の下の方から見ると、直助の家は竹林の上に屋根だけ見せますが、竹林の中には人間の歩いた樣子はなく、第一、竹林の外の枳殼垣は、見事に繁つて猫の子ももぐれさうにはありません。枳殼垣の外には椎の樹が二三本、それは近所の洗濯物の干場に利用されてあります。表へ廻ると、直助とお辰はけろりとして迎へました。\n「度々御苦勞樣で――、二階から今日はよく富士が見えます。邪魔な竹の芯を止めて、よく眺めのきくやうにしました。どうぞ」\n 直助兄妹が先に立つて二階へ案内します。成程障子を開けると、庇に冠さるやうに繁つた竹を十本ばかり、楷の方二三間打つてしまつて、下枝は青々と殘したまゝ、その上から小石川の高臺も富士も見えるやうにしてあります。\n「この通り良い眺めになりました」\n 直助は縁側から、彼方此方を指します。\n「此間三輪の親分が來たさうだな」\n「へエ――、家搜しには驚きました。何んにもあるわけは御座いませんが」\n 直助は酢つぱい顏をするのです。\n その間にお辰は茶を入れて、厚切の羊羹とこぼれるばかりの愛嬌とを一緒に持つて來ました。\n「親分さん、どうぞ」\n 品をつくつて七三に平次とガラツ八を眺めると、背筋をゾクツと無氣味なものが走ります。\n「八、昨夜の風はひどかつたなア」\n 平次はいきなり不思議なことを言ひ出しました。\n「へエ――」\n「主人にお願ひしてあの先を切つた竹を二三本頂戴したい。風でひどく痛められたやうだから、――お前は近所の植木屋へ行つて、親方を引つ張つて來てくれ」\n「へエー」\n 何が何やら、わけも解らずに立上がる八五郎、それを追つて、階子段のところで、平次は何やら囁きました。\n やゝ暫らく、直助と平次の、氣まづい對立は續きます。一度下へ行つたお辰は、此時そつと登つて來て、直助の後ろに寄り添ひます。\n 下の方へは八五郎の手が廻つて、間もなく町内の植木屋が來た樣子。\n「どの竹を切るんですか」\n そんな大きな聲が聞えます。\n「芯を止めた竹を切るんだ」\n 上から平次、\n「いや、切つちやならねエ、主人の俺が不承知だ」\n 何時の間にやら脇差を左手に持つた直助は平次の横手から狙ひ寄つて居るではありませんか。振り返ると梯子段の上には、雌猫の樣なお辰が、これも匕首を逆手に不氣味な薄笑ひを浮べて立つて居ります。\n「氣が付いたか、直助」\n 平次は平然として、十手も出しません。\n「野郎ツ」\n サツと切りかける直助、引外して、平次の手から、二三枚の投げ錢が飛びます。\n「あツ」\n と、たじろぐ直助。それを見ると、後ろからお辰は雌豹のやうに飛付きます。\n 爭ひは一瞬にして決しました。平次がお辰を膝の下に敷いた時、直助は二階の縁側から竹に飛び付いて、眞に猿のやうに、竹から竹を傳はつて枳殼垣を越え、椎の樹を滑降りて、下の往來に立つたのは、思ひも寄らぬ見事な體術です。\n 併し、直助にも違算がありました。往來へ飛降りる同時に、身體の備もきまらぬところへ、\n「御用ツ」\n 何處に隱れてゐたか八五郎のガラツ八、一世一代の糞力を出して、むんずと組み付いたのです。\n × × ×\n 植木屋の鋸に從つて切倒される竹からは、贋造の小判がゾロゾロと出て來ました。平次に睨まれ、三輪の萬七に脅かされた直助は、手元に證據の僞小判を置く危險を覺りましたが、その時はもう持出す機會を失してしまつたので、二階からの眺望の爲と言ひ觸して、太い孟宗を十本あまりも途中から切り、上から鐵の棒で節を拔いて、大地に生えた儘の生竹に、實に八千兩といふ贋造小判を隱したのです。三輪の萬七はそれを見付け兼ねましたが、竹の切りやうの異常なのと、昨夜の風で、梢のない葉の少い竹が反つて吹き歪められてゐるのを見て、平次は咄嗟に僞小判の隱し場所を發見したのです。\n 直助兄妹が極刑に處せられ、その相棒で、小判を贋造して居た飾り屋の安といふのも捕はれて後\n「今度はお前にもよく判るだらう、繪解きにも及ぶまい」\n といふと、八五郎は、\n「僞金の方はそれでわかるとして、直助が染吉殺しの下手人と解つたのは?」\n と訊きました。\n「お辰が直助の妹でないと判つた時から怪しいと思つたよ。それから、長屋の衆は三味線と小唄は聽いたが、それが直助やら、お辰やらはつきりした事は判らなかつた。――もう一つ、直助の腕と身體を見て、此男なら、竹から竹に傳はつて、枳殼垣が越せると思つたんだ。――染吉を殺したのは、極く懇意な男だ、勇太郎か直助の外にはない」\n「――」\n「お辰を囮に染吉を騙して僞金使ひの手先にしたが、段々うるさくなつて、變な樣子を見せたので、染吉は寢返る氣になつたんだらう。――夫婦者が何時までも兄妹の眞似は出來るものぢやない、今までもその手で散々使はれた上二三人は殺されたらしい」\n「お芳は?」\n「あの娘は勇太郎と一緒になるだらうよ、似合の夫婦ぢやないか。――儲けるより溜める方が早い――と言つたね、良いことを聽いたよ、俺も少し溜める氣にでもならうか。ハハ、ハツハツハツ、尤も贋金使いを縛つた褒美の金は、八五郎が貰ふことになつて居るよ。今度はバラ撒かずに溜めて置くが宜いぜ」\n 平次は女房のお靜を顧みて蟠りもなく笑ひました。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 小ツルに肩をならべ、\n「へえ、まけた。でもしようがない、小石先生だもんね」\n みんな笑った。\n「あんたらが小石先生といったもんで、いつまでたっても大石先生になれないじゃないの」\n また笑った。笑いはするが、だれもまだ、なんともいわない。\n「いやに、おとなしいのね。五年生になったら、こんな、おとなしくなったの」\n それでもにこにこしているだけなのは、小石先生が、なんだかまえと少しかわって見えたからだった。色も白くなっているし、そばにくると、スミレの花のようにいいにおいがした。それは嫁さんのにおいだというのを、みんなは知っていた。\n「せんせ」\n マスノがやっと口をきった。\n「先生、唱歌おしえてくれるん?」\n「そう。唱歌だけじゃないわ。あんたたちの受けもちよ、こんど」\n わあっと歓声があがり、きゅうにうちとけてしゃべりだした。先生、先生とだれかが呼びつづける。呼びつづけながら岬の村のいろんなできごとが、その海の色や風の音までつたわってくるようにわかった。コトエのうちでは最近、おばあさんが卒中でなくなり、ソンキのお母さんはリョウマチで寝こんでいるという。早苗のおでこのかすりきずは、ついこないだ、ミサ子と二人で肩をくんでスキップで走っていて、道路から浜におちたときの怪我だとわかったし、キッチンの家では豚が三匹も豚コレラで死んでしまい、お母さんが寝こんだ、などと話はつきなかった。\n 小ツルは、先生のからだをつかまえて、ゆすぶり、\n「先生、仁太、どうしてこなんだか?」\n「あ、それ聞こう聞こうと思ってたの。どうしたの。病気?」\n すぐには答えず、みんな顔見あわせて笑っている。先生もつられて笑いながら、これはきっと仁太が、とっぴょうしもないことをしでかしたにちがいないと、ふと思った。\n「どうしたのよ。病気じゃないの?」\n 早苗の顔を見ていうと、早苗はだまってかぶりをふり、目を伏せた。\n「らくだい」\n ミサ子が答えた。\n「あら、ほんと?」\n おどろいている先生を、笑わせようとでもするように小ツルは、\n「いつも、はな、たらしとるさかい」\n みんなは笑ったが、先生は笑わなかった。\n「そんなことうそよ。はなたらして落第なら、みんな一年生のとき落第したわ。病気かなんかで、たくさん休んだんでしょ」\n「でも、男先生がそういうた。はなたれもしだいおくりというのに、仁太は四年生になってもはなたれがなおらんから、も一ぺん四年生だって」\n 小ツルの話に、みんながツンツンはなをすすった。それには先生もちょっと笑ったが、すぐ、心配そうな顔になった。始業のかねが鳴ったので、みんなと別れた先生は、職員室にもどりながら、仁太のこときり考えていなかった。かわいそうにとつぶやいた。落第した仁太が、弟の三吉と同級生になってもう一度やりなおす四年生を思うと、気持がくもってきた。はなたれもしだいおくりと、ほんとに男先生がいったとしたら、仁太を四年生にとどめることこそ、はなをたれっぱなしにさせておくことのように思ったのだ。あのからだの大きな仁太のむじゃきさが、それで失われるとしたら、仁太の一生についてまわる不幸のように思えて、今日、ひとりとり残された仁太のさびしさが、ひしひしとせまってきて、またくりかえした。\n\n\nはなたれも しだいおくり\nはなたれも しだいおくり\n\n\n 仁太はどうしてとり残されたろう。\n それを竹一にでももういちど聞こうと思った大石先生は、お昼休みの時間をまって、そとへ出た。運動場の見わたせる土手の柳の下に立つと、竹一は見あたらず、まっさきにとらえたのは松江だった。松江はなぜかひとり校舎の壁にもたれてしょんぼりしていた。まねくと土手の下まで走ってきて、そっくりそのまま母親に通じる目で笑った。手をのばすと、ますます母親似の顔をして、きまりわるそうに引っぱりあげられた。仁太のことをきこうとする先生ともしらず、松江は、じぶんひとりの気づまりさからのがれようとでもするように、せっぱつまった声で呼びかけた。\n「せんせ」\n「なあに」\n「あの、あの、うちのお母さん、女の子うんだ」\n「あらそう、おめでとう。なんて名前?」\n「あの、まだ名前ないん。おとつい生まれたんじゃもん。あした、あさって、しあさって」\n と、松江は三本の指をゆっくりと折り、\n「六日ざり(名付日)。こんど、わたしがすきな名前、考えるん」\n「そう、もう考えついたの?」\n「まだ。さっき考えよったん」\n 松江はうれしそうにふっと笑い、\n「せんせ」\n と、いかにもこんどは別の話だというふうによびかけた。\n「はいはい。なんだかうれしそうね。なあに」\n「あの、お母さんが起きられるようになったら、アルマイトの弁当箱、買ってくれるん。ふたに百合の花の絵がついとる、べんと箱」\n すうっとかすかな音をさせていきを吸い、松江は顔いっぱいによろこびをみなぎらせた。\n「あーら、いいこと。百合の花の絵がついとるの。ああ、赤ちゃんの名前もそれなの?」\n すると松江は、恥らいとよろこびを、こんどはからだじゅうで示すかのように肩をくねらせて、\n「まだ、わからんの」\n「ふーん。わかりなさいよ。ユリちゃんにしなさい。ユリコ? ユリエ? 先生、ユリエのほうがすきだわ。ユリコはこのごろたくさんあるから」\n 松江はこっくりうなずいて、うれしそうに先生の顔を見あげた。松江の目がこんなにもやさしいのを、はじめて見たような気がして、先生はその長いまつ毛におおわれた黒い目に、じぶんの感情をそそいだ。仁太のことはもう、ひとまず流して、心はいつかなごんでいた。松江にとってもまた、その数倍のよろこびだった。先生にいわなかったけれど、お昼の弁当のとき、松江は大きな父の弁当箱を、小ツルやミサ子から笑われたのである。それで、彼女はひとりみんなからはなれていたのだ。しかし今は、そのしょげた気持も朝露をうけた夏草のように、元気をもりかえした。じぶんだけが、とくべつに先生にかまわれたようなうれしさで、これはないしょにしておこうと思った。だのにその日、帰り道で彼女はつい口に出してしまった。\n「うちのねね、ユリエって名前つけるん」\n「ユリエ? ふうん、ユリコのほうが気がきいとら」\n はねかえすように小ツルがいった。松江は胸をはって、\n「それでも、小石先生、ユリエのほうがめずらして、ええっていうた」\n 小ツルはわざととびあがって、\n「へえ、なんで小石先生が。へえ!」\n なにかをさぐりあてようとでもするような目で松江の顔をのぞきこみ、\n「あ、わかった」\n ならんでいたミサ子をうしろの方へ引っぱっていって、こそこそささやいた。富士子、早苗、コトエとじゅんじゅんにその耳に口をよせ、"
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"content": "「なあ、そうじゃな」\n おとなし組の三人は小ツルの言い分にさんせいできないことを、気弱な無言であらわすばかりで、松江を孤立させようとした小ツルのたくらみはくずれてしまった。よく気のあうマスノが、今日は母の店によって、ここにいないのが小ツルの弱さになっていた。彼女はみんなに、松江がひいきしてもらうために、ひとりで小石先生にへつらったといったのである。そのためにかえってじぶんから孤立した小ツルは、ひとりふきげんにだまりこんで、とっとと先を歩いていった。みんなもそのあとからだまってついていった。\n 一つはなをまがったときである。前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。小ツルが歩きだすとまた歩く。やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。\n はじめから小ツルは知っていたのであろうか。それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。もうけんかどころでなかった。\n なんじゃろ?\n だれのうちのできごとじゃろう?\n みんな目を見あわした。消え去りつつ新らしくひかれてゆく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。急病人にちがいない。船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでいる人の判別もつかなかった。まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。一年に一度か二年に一度、急病人を町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、さかのぼって子どもたちは考えていた。かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。怪我をしたか、急性の盲腸炎か。\n なんじゃろう?\n だれぞ盲腸の人、おったかいや?\n あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、その結び目のところの額によっていた、もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。\n「松江を休ませりゃ、ええ」\n 父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、\n「学校、はじめてなのになァ。だけんど、遊ばんともどってくれなあ」\n 思いだして松江はどきどきしてきた。するといつのまにか足は、みんなの先を走りだしていた。ほかの子どももついて走った。足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並を見たときには、松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、安心したのである。しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。母はいなかった。\n「お母さん......」\n ひっそりとしていた。\n「おかあ、さん」\n 泣き声になった。よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞こえた。\n「うわあ、わあ、おかあさーん」\n 力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、空にも海にもひびけとばかりひろがっていった。\n\n六 月夜の蟹\n\n 五年生の教室は川っぷちに新らしく建った校舎のとっつきであった。川にむかった窓からのぞくと、衽のような形の、せまい三角地をはさんで、高い石垣は川床まで直角に築かれていた。危険防止の土手は地面から三尺ほどの高さでめぐらしてあったが、土手はあまり用をなさず、子どもらはわずかな遊び時間をもかってに石垣をつたって、川の中へおりていった。おもに男の子だった。川上に家は一軒もなく、ちろちろの水はきれいだった。山から流れてきてはじめて、ここで人の肌にふれる水は、おどろくほど、つめたく澄みきっていた。子どもらにとっては、ただ手足をふれているだけで、じゅうぶん満足のできる、こころよい感触であった。水はここではじめて人の手にふれ、せきとめられて濁った。だれがいいだしたのか鰻がいるという噂がたってから、子どもたちの熱意は川底に集まり、毎日土手の見物と川の漁師とのあいだで時ならぬやりとりがつづいた。川床の石をめくっては、まだ一度もとれたことのない鰻をさがしているのだが、出てくるのは蟹ばかりである。それでもけっこうおもしろいらしく、漁師も見物もふえるばかりだった。くるぶしをかくしかねるほどの水量は、遊び場としても危険はなく、だから小石先生もだまって眺めていた。\n「せんせ、ズガニ あげよか」\n 保護色なのか泥色をして、足にあらい毛のある蟹をつかまえて、うで一ぱいさし出したのは森岡正だった。\n「いらん、そんなもん」\n「たべられるのに、せんせ」\n「いやだ、そんなもんたべたら、足や手にヒゲがはえるもの」\n 川底と土手からどっと笑い声がおこった。窓ぎわの先生ももちろん笑いころげたのだが、ついさっきまでの先生は、そんな笑いとは遠い気持で、窓の外にくりひろげられた風景を眺めていたのであった。川の中でも土手の上でも、岬の子どもらは知らずしらずかたまっていた。だが、そこに松江の姿は見ることができない。その目に見えぬ姿が、ときどき先生の心を占領してしまうのだ。\n 母親がなくなってから、松江は一度もこの教室に姿をあらわさなかった。窓ぎわの、前から三番目の松江の席は、もう二か月もからっぽのままである。入学の日のことを思いだして、百合の花の絵のついた弁当箱をみやげに松江の家をたずねたのは、彼女の母親がなくなってからひと月ぐらいたっていた。ちょうど川本大工も家にいて、男泣きに泣きながら、赤ん坊が死なないかぎり、松江を学校にはやれぬといった。あまりに事情が明白なので、それでも松江を学校によこせとはいえず、だまって松江の顔をみた。小さな赤ん坊をおぶったまま、父親のわきにちょこんとすわって松江もだまっていた。へんにまぶたのはれて見える顔は、頭のはたらきを失ったようにぼんやりしていた。その膝の上へ、\n「マッちゃん、これ、百合の花の弁当箱よ。あんたが学校にこられるようになったら、つかいなさいね」\n あまりうれしそうにもせず、松江はこっくりをした。\n「早く、学校へこられるといいわね」\n いってしまって、はっとした。それは赤ん坊に早く死ねということになるのだ。思わず赤くなったが、松江たち父子には、はっきりひびかなかったらしく、ただ感謝のまなざしでうけとられた。\n まもなく、赤ん坊がなくなったと聞き、松江のためにほっとしたのだが、松江はなかなか姿を見せなかった。マスノやコトエたちにようすをきいてもらちがあかず、先生はとうとう手紙をかいた。十日ほどまえになる。\n\n\n――松江さん、赤ちゃんのユリエちゃんは、ほんとに かわいそうなことをしましたね。でももう それはしかたがありませんから、心の中でかわいがってあげることにして、あなたは元気をだしなさいね。学校へは、いつからこられますか。先生は、まい日マッちゃんのからっぽのせきを見ては、マッちゃんのことを考えています。\n早くこい こい マッちゃん。早くきて みんなといっしょに、べんきょうしましょう。――\n\n\n 手紙は松江の家といちばん近いコトエにことづけた。しかしこの手紙が、松江にとってどれほど無理な注文であるかを先生は知っていた。赤ん坊のユリエはいなくなっても、松江にはまだ弟妹が二人あった。五年生になったばかりの彼女は、幼い頭脳と小さなからだで、むりやり一家の主婦の役をうけもたされているのだ。どんなにそれがいやでも、ぬけだすことはできない。父親をはたらきに出すためには、小さな松江がかまどの下をたき、すすぎせんたくもせねばならぬ。ひよこのようにきょうだい三人よりあって、父親の帰りをまっているだろうあわれな姿が目の前にちらつく。法律はこの幼い子どもを学校にかよわせることを義務づけてはいるが、そのために子どもを守る制度はないのだ。\n 翌日、コトエは先生の顔を見るなり報告した。\n「先生、きのうマッちゃん家へ手紙をもっていったら、知らんよその小母さんがきとった。マッちゃんおりますか、いうたら、おりませんいうたん。しかたがないから、これマッちゃんにわたして、いうて、その小母さんにたのんできたん」\n「そう、どうもありがとう。マッちゃんのお父さんは?」\n「知らん。見えなんだ。――その小母さん、おしろいつけて、きれい着物きとった。マッちゃん家へ嫁にきたんとちがうかって、小ツルさんがいうんで」\n コトエはちょっとはにかみ笑いをした。\n「そうだと、マッちゃんも学校へこられていいけどね」\n それからまた十日以上たったが、松江は姿を見せない。手紙はよんだろうかと、ふと心にかげのさす思いで、窓の下を見ていたのだった。ズガニを三匹とった正は、それをあき缶にいれて得々として石垣をのぼってきた。三角形の空地にある杏の木は夏にむかって青々としげり、黒いかげを土手の上におとしている。そのま下にかたまって、岬組の女生徒たちはズガニの勇士を迎え、われがちにいった。\n「タンコ、一ぴきくれなァ」\n「うちにも、くれなァ」\n「わたしにもな」\n「やくそくど」\n 蟹は三匹なのに希望者は四人なのだ。正は考えながらあがってきて、\n「食うか、食わんのか」\n みんなの顔を見まわした。食うものにやろうと思ったのだ。いち早く小ツルが、\n「食う食う。月夜の蟹は、うまいもん」\n それをきくと、正はにやりとし、\n「うそつけえ、蟹がうまいんは、やみ夜のこっちゃ」\n「うそつけえ、月夜じゃないか」\n「ああ聞いた、あ聞いた。月夜の蟹はやせて、うも(うまく)ないのに」\n 正が確信をもっていうと、小ツルもまけようとしない。同じように正の口まねで、\n「ああ聞いた、あ聞いた。月夜の蟹がうまいのに。ためしに食うてみる、みんなくれ」"
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"role": "user",
"content": " 蟻田博士の様子が、すっかり変ってしまった。\n 博士は、今まで怪しい人物だとばかり思っていたが、本心を明かせば、実にえらい人物であった。博士は、ほんとうに地球人類のことをしんぱいし、そうして火星人を追いはらうことを研究していたのだ。\n「博士。今度みごとに出来あがった博士の或る研究とは、どんなものですか。ぜひ、私にも教えて下さい」\n と、新田先生が言えば、博士はひげの中から口をもぐもぐと動かして、\n「その研究のことは、ぜったい秘密にしておかなければならないのだが、ここだけの話として、お前にも話をしておこう」\n と、博士は先生のそばに、すり寄って、\n「いいかね。わしは火星人の着ている殻をうちやぶる毒ガスを発明したのだ。この毒ガスを十号ガスと名附けた。十号ガスを火星人に浴びせかけると、火星人が着ているあのかたい殻が、見る見る中に蒸発して、影も形もなくなってしまうのだ」\n それが十号ガスの偉力であった。たいへんな力を持った毒ガスである。新田先生はこれを聞いて舌を巻いた。\n「十号ガスというのですか。なかなかすごいものですねえ。その十号ガスのため、火星人の殻が蒸発して、なくなってしまうと、それから火星人はどうなります」\n「どうなると言うのか。それはわかっているではないか。火星人は、はだかになってしまう。地球の上で、火星人がはだかになれば、彼等は、すぐに死んでしまわにゃならん。なぜって、地球の上では大気の圧力が強すぎて、火星人の体はもたないのだ。火星人の体を、地球の強い圧力の大気から守るために、火星人は殻をつけているのだからねえ。それを取られりゃ、一たまりもなく、火星人は死んでしまうはずじゃ」\n 十号ガスのすばらしい力!\n 蟻田博士は、たいへんなものを発明したものだ。これなら火星人は、かなり苦戦に陥るであろう。\n「全く、驚きました。何というりっぱな発明でしょう。怪人丸木が、この十号ガスをあびてふうふうするところを、今から想像すると、とても嬉しいですな」\n 新田先生は、嬉しさのあまり、子供のように手を叩いたり笑ったり。\n それを見ていた博士も、すこぶる満足らしかったが、\n「そこで、新田。わしはこれからしばらくお前にもあわないよ」\n と、博士は、とつぜん妙なことを言いだした。\n「えっ、私にあわないとおっしゃると......。博士はどこへ行かれるのですか」\n 先生は意外に思った。\n「わしは、これからひとりで閉籠って、十号ガスをうんとつくらにゃならんのじゃ。火星兵団をやっつけるには、十号ガスをよほど多量にもっていなければならんのでのう」\n 博士は、研究を完成した十号ガスを、これから製造にかかるというのだ。\n「博士、私にお手つだいをさせて下さい」\n「いや、それは困る。これはわしひとりが、たましいをうちこんで、作らんことには、いいものが出来ないのだ。誰かがそばにいると、気が散っていいものが出来ない」\n「しかし博士、地球最期の日は、もうあと一週間そこそこですよ。十号ガスの製造に、あまり長く日がかかると、もう間にあいませんよ」\n「それは大丈夫だ。あと三日あればいいのだ。じゃ、あとを頼んでおくよ」\n「ああ博士、どこへ行かれるのですか」\n 博士は、それには答えず、出て行った。\n\n\n52 矢ヶ島天文台\n\n\n 日毎夜毎に、モロー彗星のすがたは怪しさを加えていった。\n 今では、彗星の大きさは月をはるかにしのいでしまった。空を見上げると、まるで大きな光る飛行船を天に張りつけたようであった。\n モロー彗星の距離は、地球から月までの距離の何十倍ぐらいかのところまで近づいたのであった。あのすばらしい速さでもって、モロー彗星は間もなく月の側を通り越し、地球の正面へどうんとぶっつかるはずだった。\n 人々は、もう殆ど全部が、おかしくなってしまった。もうあと七日足らずの生命だというので、変な遊びに熱中しているあさましい人間が町にあふれていた。そうかと思うと、中にはせっせと働いている者もあった。庭に一生けんめいに朝顔の種をまいている者があったり、町から投売の安い品物を買って来て、一生けんめいに納屋へしまいこんでいる者もあった。彼らはたいへん落着いて働いているようでありながら、その実は、やっぱりおかしくなっていたのだ。なぜと言って、朝顔の種をまいてみても、その花が咲くのは夏時分になる。夏までこの地球がもてばいいが、あと数日で崩壊してしまうのだから、彼のやっていることはどうもおかしい。安い品物を買集めている人にしても、やはり同じように、気がどうかしているのであった。\n たまに、まじめなことを言出す人があっても、誰もそれを本気で耳にとめる者はいなかった。モロー彗星は日毎夜毎にぐんぐんと大きくなり、それを見ていると、誰に説明を受けなくても、地球と正面衝突するであろうということが、誰にもわかりすぎるほど、わかったのである。\n(もはや、さけることの出来ない悲しい運命だ!)\n 誰も彼も、そう信じていた。\n 天文台では、一日二十四時間、近づくモロー彗星の観測と記録とに、かかりきりであった。\n 台員の数は、前に比べると五分の一に減ってしまった。非常に熱心な台員だけが、やがて自分の死も忘れ、それから今とっている記録もやがて灰になることさえ、あまり気にとめないで、手不足の中に観測をつづけていたのであった。\n 天文台はじまって以来、これほどすばらしい観測材料がころがりこんだことは、前例がなかった。\n 各国の天文台におけるモロー彗星観測の結果の中で、重要なものや、ひどく興味のあるものは、ラジオやテレビジョンでもって、ただちに天文台の名とともに放送された。\n しかし、その放送を聞いている者は、ほとんどなかった。どこの天文台でも台員は放送するばかりで、他人の放送を聞こうともしなかったし、また人手が足りないため聞いているひまもなかった。かえって、天文学者でもない素人の方が熱心に聞いていたのであった。その素人も、さっき言ったように、そのほとんど全部が気の毒なおかしくなった人であったわけだが......。\n「矢ヶ島天文台発表」\n ぼそぼそした声で放送している者があった。\n「矢ヶ島天文台? 聞いたことのない天文台だなあ」\n この放送を聞いていた病人が、にやり、気味の悪い笑いをうかべた。\n「わが天文台は、一昨日から月に関する天文放送を始めていますから、今日以後の放送を、よく御注意下さい」\n「なんじゃ、この放送者は、どうも頭がおかしいぞ。気がへんになったのじゃないかな」\n と、放送を聞いている病人が言った。モロー彗星のことで、世界は、ひっくりかえるような騒ぎをやっているのに、ひとり矢ヶ島天文台からは、月に関する観測を放送すると言うのであるから......。\n だが、月の南中の早い遅いは、果してばかばかしいことであろうか。\n 矢ヶ島天文台では、それについて、こんなことを放送した。\n「皆さん、月が怪しい運動を始めていますから、どうか御注意下さい。月がどうかしているのです。今は、たった百分の一秒とか、百分の二秒とかですが、この先、この異常運動がどういう風に変って行くか、注意していただきたいのです。もっと申し上げたいのですが、今は、このくらいにしておきます」\n 矢ヶ島天文台は、たった百分の一秒の程度ながら、月が怪しい運動をしているから、注意をしてくれというのだ。\n(モロー彗星・地球・火星と、この三つのものを考えなければならない地球人類にとって、この上、月のことまで心配させられてたまるものか)\n と、あざわらう人もあれば、おこる人もあった。\n 人々のそういう声は、矢ヶ島天文台にも聞えぬはずはなかったが、この天文台長たる素人研究家の矢ヶ島君は、悪口には平気の平左で、月のことを熱心に研究して、人々の注意をうながしているのであった。\n また或る時、矢ヶ島天文台は、こんなことを言出した。\n「皆さん、いよいよ月に注意していただきとうございます。月は、一日のうちに二度、異常運動をしていることがわかりました。そうして、異常運動はごくわずかですが、はげしくなって行くようです。明晩の月に特にご注意下さい。望遠鏡で月の面をごらん下さい。その時、月の面に、何か変ったことがあらわれるかも知れません。どうぞ、明晩の月を御注意下さい」\n 矢ヶ島天文台は、すこぶる内気で、人々にこう呼びかけるのであった。\n 明晩の月? 果してどういう月が眺められたであろうか。\n いくら矢ヶ島天文台の台長がおかしいにしろ、こう度々月のことばかりを言出すものだから、一度、その放送を聞いて気になり出した人は、そのあとも矢ヶ島天文台の放送を聞かないではおられなくなった。\n さて『明晩の月』と、昨日の放送で注意のあった月が、いよいよ夕刻から空に出たのであった。もういよいよ満月に近い明かるい月だった。\n 空は雲もなかった。いやなモロー彗星の光の尾が、水平線から斜にぼうっと明かるく空を染めているが、これさえなければ、今宵は静かな美しい月の出よと、人々は楽しんだにちがいない。とにかく、その月が上ったのである。\n 気にしていた連中は窓に寄ったり、屋根に上ったり、または望遠鏡を持出して、その月の面を眺めたのであった。\n「なあんだ。別に、あのお月さまは少しもちがっていないじゃないか」\n いつも見る月と、月の面は少しもかわったことがない――と、そう思った人々は腹立たしさを感じた。いよいよ矢ヶ島天文台の台長のため、一ぱい食わされたかと思ったからである。\n ところがその中に、\n「おやおや、どうもおかしいぞ!」\n と、首をひねった熱心な素人天文家が二、三いた。"
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"role": "assistant",
"content": "「どうもおかしい。スミスの海が、すっかり見えなくなった。おやおや、これは今まで地球からは見えなかった月の面が、あそこのところへ見え出したぞ。そうだ、あの山なんか始めてお目にかかる山だ! これは不思議だ」\n 不思議なことである。これがほんとうなら、月はこのところ急に地球に対して、少し軸をかえたらしいのである。\n 果してそれにまちがいなければ、たしかに月は異常運動を始めたのである。一体それは、これからどんな影響を我が地球の上におよぼすのであろうか。\n 矢ヶ島運動――と、後になって、この変な月の運動のことを呼ぶようになった。\n(妖星モローが、一たび地球に襲いかかると、月さえ怪しげな運動を始める。何という歎かわしいことか!)\n そんな風に、矢ヶ島運動のことを歎く人もあった。\n さすがの蟻田博士も、このことには気がつかなかった。ちょうど博士は、地底深くはいって、例の十号ガスの製造に一生懸命になっていて、その他のことは、一切打棄ててあったのである。矢ヶ島運動が発見されたのは、その間の出来ごとであったのだ。素人天文家の大手がらであったのだが、その時は、誰もそれが大手がらであることに気がつかなかった。何しろ、もうあと数日後に地球が崩壊するという時のことだから、皆、かあっとのぼせていて、そんなことを静かに考えてみる人もなかったし、矢ヶ島その人は、ある予想はしていたものの、たいへん内気な人で、自分のような素人が言いだして、もしも間違っていたら申訳がないと、つまらぬ遠慮をしていたわけであった。\n 矢ヶ島運動が、後にいかなる重大な事件をおこすか、それについては、今しばらく書くことをとどめていなければならない。\n 新田先生も、この時は少しぼんやりしていたと言える。しかし、それも仕方がないことだった。先生は、蟻田博士が、人類のために断然立って、火星人と戦うと言ったので、嬉しさのあまり先生も、のぼせあがっていたきらいが、ないでもなかったのだ。\n それで先生は、その間何をしていたかと言うと、しきりに食料品を集めていたのである。これから宇宙へ飛出して、火星兵団と戦うことになれば、ずいぶん地球を離れることになろうから、その間、博士におなかをすかさせては、一大事だと思ったからである。......ある朝、突然、蟻田博士は部屋へ戻って来た。約束どおり、三日の後のことであった。\n\n\n53 ガスピストル\n\n\n 蟻田博士が帰って来た。\n それは、約束にたがわず、ちょうど三日目のことであった。\n「あ、博士。うまくいきましたか」\n 新田先生は、何よりもまず、そのことを聞かずにはおられなかった。\n「ああ、まずうまくいったつもりだ。これから毎日、十トンずつの十号ガスの原液を作り出せることとなった。これだけあれば、火星人と戦っても、まず大丈夫だろう」\n「ほう、そんなにたくさん出来ますか」\n と、新田先生は目を円くした。\n 一体、どこまで蟻田博士はえらいのだか、そのえらさ加減は、底が知れない。知らない者から見れば、博士はまるで魔術師のように見える。しかし博士は魔術師ではない。六十年近くというものを、研究にささげたそのとうとい努力の結果である。\n「その十号ガスの原液は、どこにあるのですか」\n「水道のように、管から出るようになっているよ。原液製造機械が動くと原液が出来る。それを地下タンクにためる仕掛になっている。そのタンクには、別に圧搾空気を使うポンプがとりつけてあるから、管の栓をひねると、その原液は水のように、いくらでも出て来るのだ」\n 博士は事もなげに言う。\n「ははあ、驚きましたねえ。ところで、その原液は、私たち人間にかかるとどうなりますか。やっぱり体が蒸発してしまいますか」\n「いや、そんなことはない。人間の体を蒸発させるような、そんなものではない。しかし、何か作用があると思われるが、そのことは試験をしているひまがなかった。何分にも、早くこれを使わないと、火星兵団のため、崩壊前の地球を、すっかり占領されてしまうことになるからのう」\n と、博士はささやくように低い声で言って、持っていた荷物を開くと、中からピストルに似たへんな器具を取出した。\n「博士、それは何ですか。変った型のピストルみたいに見えますが......」\n と、新田先生は言った。博士が荷をといて取出したのは、まさにピストルとしか見えないものだった。ピストルの胴を、うんとふくらませて、ひだをつけ、握ると、こぶしをすっかりかくしてしまうようなものだった。\n「これかな。一挺お前にわたしておく。これは十号ガスを発射するガスピストルだ。あまり遠くへはとばないよ。まず百メートルが関の山だ」\n「百メートル? 百メートルなら使いものになりますよ」\n 新田先生は嬉しそうな顔で、博士からもらったガスピストルを握って、しきりに胸のところへ持って行ったりして、早く一発撃ってみたそうである。\n それを見て博士は言った。\n「だめだめ。こんなところで、そのピストルを撃ってみても、こわれるものは一つもありはしない。それよりも、これからわしと二人で、火星兵団の奴を追いかけて、ためしてみようではないか。支度をしたまえ」\n「えっ、ためしに火星人を撃ってみるのですか」\n 先生は、嬉しいような、こわいような気持になった。\n 博士の方は、そんなことには一向お構いなしに見えた。\n「さあ、すぐ出かけよう。ついて来たまえ」\n\n と言ったかと思うと、はや部屋をずんずんと出て行ってしまった。先生は驚いてその後を追いかけたが、博士の姿は見えない。地下から地上へ出る階段をかけ上って見たが、博士はどこに行ったか見えない。\n そこで先生は、もう一度階段を下りて、もとの部屋へ引返そうと後へふり向いた。とたんに「あっ」と叫んだ。\n 驚くのも道理、いつの間に忍び寄ったか、そこには、黒装束の火星人が立っていたのだった。\n 先生はぎょっとした。いつの間に、火星人がこんなところまで、はいって来たのであろうか。全く、ゆだんもすきもあったものではない。\n「博士、火星人がここにいます」\n 先生は、ぱっと身をひるがえして駈出しながら、博士のうしろを追いかけた。\n「わ、は、は、は、は」\n と、火星人は大声で笑った。\n 先生は、もうだめだと思った。そこで、博士からあずかった十号ガスのピストルを、火星人の方へ向けて、\n「さあ、これを食って往生しろ!」\n と言うなり、引金を引いた。\n ぱさっと音がして、ガスピストルはガスを撃出した。\n 黄いろい煙があたりに広がった。\n「わ、は、は、は、は」\n 火星人は煙の中から笑う。\n「しまった!」\n 先生は、もう一度、ガスピストルの引金を引いた。\n ガスは、またばさっと音がして、火星人の方へ飛んで行って、もうもうと広がった。\n「もうよせ、もうよいよ。わ、は、は、は、は」\n と、十号ガスの中で、火星人は苦しそうに笑いながら叫んだ。\n\n 十号ガスでまいらない火星人だ!\n これではせっかく蟻田博士の発明した十号ガスも、さっぱり威力がないのだとわかると、先生はがっかりしてしまった。\n「おい新田、お前はひどいことをするじゃないか」\n と、ガスの中から、火星人はおかしそうに言った。その声を聞いて、先生はおやっと思った。その声は、たしかに聞きぼおえがある!\n「はてな?」\n と、先生は言った。\n「はてなも何もないよ。わしじゃないか」\n と、黄いろいガスの中から出て来たのは、外ならぬ蟻田博士の顔だった。\n「ああ、博士。やっぱり博士だったのですか」\n「そうだ、わしだよ」"
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " そして、軍令の変更を告げ、ひとたび彼にさずけた印綬を取上げた。龐徳は、仰天して、\n「いったい、どういうわけですか。大王の命を奉じて、明朝は打ち立たんと、今も今とて、一族や部下を集合し、馬や甲鎧をととのえて、勇躍、準備中なのに、このお沙汰は」\n と、面色を変えて訴えた。\n「されば――予としては毫も汝を疑ったこともないが、汝を先手の大将に持つことには、総軍から反対がでた。理由は、そちの故主馬超は、蜀にあって、五虎の栄官についておる。――おそらく汝とも何か脈絡を通じているであろう――と申すにある。つまり二心の疑いをかけておるわけだな」\n\n二\n\n さもさも心外でたまらないような面持をたたえて、龐徳は凝然と口を緘していた。それをなだめるため、曹操はまた云い足した。\n「汝に二心ないことは、予においては、充分わかっておるが、衆口はなんとも防ぎようがない。悪く思うな」\n「............」\n 龐徳は冠を解いて床に坐し、頓首して自己の不徳を詫び、かつ告げた。\n「それがし漢中以来、大王のご厚恩をうけて、平常、いつか一身を以て、ご恩に報ぜんことのみを思っておりました。しかるに今日、かえって、衆口の疑いを起し、お心をわずらわし奉るとは、何たる不忠、何たる武運の拙さ......。ご推察くださいまし」\n 巌のような巨きな体をふるわして嘆くのだった。彼はなお激しく語りつづけた。いま蜀にいる兄の龐柔とは多年義絶している仲であること。また馬超とは、別離以来一片の音信も通じていないこと。ことに馬超のほうから自分をすてて単独、蜀へ降ったものであるから、今日その人に義を立てて、蜀軍に弓を引けないような筋合いはまったくないのである。――と言々吐くたびに面へ血をそそいでいる。\n ――と。曹操は、みずから手を伸ばして彼の身を扶け起し、いと懇ろにその苦悶をなだめた。\n「もうよい。もうよい。汝の忠義は誰よりもこの曹操がよく知っておる。一応、諸人の声を取上げたのも、わざとそちに真実の言を吐かせて、諸人にそれを知らせんためにほかならぬ。いまの言明を聞けば、于禁の部下も、七手組の諸将も、釈然として疑いを消すであろう。――さあ征け。心おきなく征地に立って、人いちばいの功を立てよ」\n 印綬はかくて龐徳の手にまた戻された。龐徳は感涙にむせび、誓ってこの大恩にお応えせん、と百拝して退出した。\n 彼の家には、出陣の餞別を呈するため、知己朋友が集まっていた。帰るとすぐ、龐徳は召使いを走らせて、死人を納める柩を買いにやった。\n そして、女房の李氏を呼び、\n「お客はみな賑やかに飲んでいるか」\n「宵から大勢集まって、あのようにあなたのお帰りを待っていらっしゃいます」\n「そうか、ではすぐ席へ参るから、その前に、この柩を、酒席の正面に飾っておいてくれ」\n「ま、縁起でもない。これは葬式に用いるものではありませんか」\n「そうだよ。女の知ったことじゃない。おれの云うとおりにしておけばよい」\n 龐徳は衣服を着かえ、やがて後から客間へのぞんだ。客はみな正面の柩をいぶかって、主人の意をあやしみ、お通夜のようにひそまり返っていた。\n「やあ、失礼いたした。――実は、明朝の出陣をひかえて、突然、魏王からお召しがあったので、何事かと伺ってみると、実に思いもよらぬおことばで――」と、逐一こよいの顛末を話し、なお魏王の大恩に感泣して帰ってきた心事を一同へ告げたうえ、\n「――明日、樊川へ向って立つからには、敵の関羽と勝負を決し、大きくは君恩にこたえ、一身にとって、武門の潔白を証し立てんと存ずるのである。所詮、このたびの出陣こそは、生還を期しては立てぬ、それ故、生前の親しみを、一夜に尽して、お別れ申しておきたいと思う。どうか、夜の明けるまで、賑やかに飲んでもらいたい」\n それから、女房の李氏へは、\n「われもし関羽を討ち得なければ、われかならず関羽のため討ち果されん。われ亡きのちは子を護り、父に勝る者を育てて、父の遺恨をすすがせよ。よいか、たのむぞ」と、云いのこした。\n 悲壮な主の決心を知って、満座みな袖をぬらしたが、妻の李氏は、かいがいしく侍女や僕をさしずして、夜の白むまで主人や客の酒間に立ち働き、ついに涙を見せなかった。\n\n三\n\n 夜が白むと、鄴都の街には、鉦太鼓の音がやかましかった。于禁一族や七手の大将が、それぞれ出陣する触れである。\n 貝の音もする、銅鑼も聞える。龐徳の邸でも、はや門を開かせ、掃き浄めた道を、やがて主人が郎党を従えてきた。\n 見れば、彼の兵は、列の真っ先に、白錦襴で蔽いをした柩を高々と担っている。門外に堵列していた五百余人の部将や士卒はびっくりした。葬式が出てきたと思ったからである。\n「一同、怪しむをやめい」\n 馬上ゆたかな姿をそこに現した龐徳は、鞍の上から部下へ告げた。生きて還らぬ今度の決心と、そして魏王の大恩とを。\n 語をつづけてさらに陳べた。\n「日頃、その方どもの心根にも、おれは深く感じておる。もしこの龐徳が、関羽に討たれ、空しき屍となったときは、この柩に亡骸を収め、かえって魏王の見参に入れてくれい。――とはいえおれも一代武勇に鍛えた龐徳だ、むざとは討たれん。ただかくの如く、生死を天に帰して、今朝の出陣をいたすまでである」\n 思い極めた大将の覚悟は、部下の心にも映らずにいない。かくて龐徳の出陣ぶりは、すぐ曹操の耳へ入った。\n「うム、そうか、よし、よし」\n 曹操は聞くと、喜悦をあらわした。賈詡が、側にあって、\n「大王、何をお歓びですか」と、いった。曹操は、問うも野暮といわぬばかりに、われ龐徳の出陣の壮んなるを悦ぶなり――と云った。\n すると、賈詡は、\n「おそれながら、大王には、ちとご推測を過っておられるようです。関羽は世の常の武将ではありません。すでに天下に彼の名が轟いてから三十年、未だいちどの不覚を聞かず、不信の沙汰なく、無謀のうわさを知りません。いま、その武勇にかけて、関羽と対立し、よく互角の勝負をする者は、おそらく驍勇無比なる龐徳をおいては、ほかに人物はおりますまい。この点は大王のお眼鑑に、私も心服しておるものでございます。さりながらそれは武勇だけの問題です。智略は如何となると、これはとうてい、関羽の巧者には及ばないことあきらかです。――それを龐徳が悲痛なる決意と血気にまかせて、あのようにして出て行ったのは、実に、敵を知らざるもの、暴虎の勇、私には、危なくて見ていられませんでした。――諺にも、両剛闘えば一傷ありで、魏にとっては、又なき大将を、むざむざ死なせにやるようなことは、国家のため、決して良計とは思われません。いまのうちに、少し彼の気持を、弱めたほうが、将来の計かと思われますが......」\n「や。実にそうだ」\n 曹操はすぐ使いを派した。――龐徳の途中を追いかけさせてである。\n 使者は、追いついて、告げた。\n「王命です。――戦場に着いても、かならず軽々しく仕懸るな、敵を浅く見るな。敵将関羽は、智勇兼備の聞えある者。くれぐれも大事をとって仕損じるなかれ――とのおことばでありまする」\n「かしこまって候う」\n 謹んで答えたが、使者が帰ったあとで、龐徳は非常に笑った。\n「何をお笑いになるので?」と、諸人が訊くと、\n「いや、大王のご入念が余りにも過ぎると、かえって、この龐徳の心を弱め給うようなことになる。それ故、われはわざと一笑して、この意志を弱めずと、誓い直しているのである」\n と、いった。\n 于禁は元来が弱気なので、それを聞くや、眉をひそめ、\n「概すでに敵を呑む将軍の意気は大いによろしいが、魏王の戒めも忘れ給うな。中道によく敵を見て戦われよ」と、忠告した。\n「三軍すでに征旅に立つ。何の顧みやあらん。関羽関羽と、まるで呪符のように唱えるが、彼とてよも鬼神ではあるまい」\n 龐徳はあくまで淋漓たる戦気を帯びて、三軍の先鋒に立ち、一路樊川へ猛進した。\n\n関平\n\n一\n\n 樊城の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽はその中軍に坐し、夜中ひんぴんと報じてくる注進を聞いていた。\n 曰く、\n 魏の援軍数万騎と。"
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"role": "assistant",
"content": " 曰く、\n 大将于禁、副将龐徳、さらに魏王直属の七手組七人の大将も、各〻その士馬精鋭をひっさげ、旋風のごとく、進軍中と。\n またいう。\n 先鋒の龐徳は、関羽の首をあげずんば還らずと、白き旗に、「必殺関羽」と書き、軍卒には柩をかつがせ、すでにここから三十里余の地に陣し、螺鼓銅鉦を鳴らして、気勢ものすごきばかりにて候う――と。\n この報告を聞くと、関羽は、勃然と面色を変じ、その長い髯に風を呼んで云った。\n「匹夫、われを辱めるか、よしその儀なれば、まず龐徳の望みにまかせ、彼を持参の柩に納めてやろう」\n 直ちに、駒を寄せてまたがり、また養子の関平を呼んで云った。\n「父が、龐徳と戦うあいだ、汝は油断なく、樊城を衝け、魏の援軍、城外三十余里のあなたに来れりと知れば、城兵の気はとみに昂まり、油断していると反撃してくるぞ」\n 関平は、父の乗馬の口輪をつかんだ。そしてその前に立ちふさがり、\n「こは父上らしくもないことです。たとえ龐徳がどんな豪語を放とうと、珠を以て雀に抛ち、剣を以て蠅を追うような、もったいないことはなさらないでください。彼が如き鼠輩を追うには、私でたくさんです。私をおつかわし下さい」\n「うむ。......まず試みに、おまえが行って当ってみるか」\n 関羽は子の忠言に、よろこびを示した。父をいさめるようにまで、わが子関平も成人したかと思うのであろう。\n「行ってきます。吉左右をお待ち下さい」\n 若い関平は、たちまち馬上の人となり、部下一隊を白刃でさしまねくと、凛々、先に立って駈けだした。\n やがて前方に、雲か霞をひいたように、敵の第一陣線が望まれた。手をかざして見れば、皀い旗には「南安之龐徳」と印し、白い旗には「必殺関羽」と書いてあるのが見える。\n 関平は、駒をとどめて、\n「西羗の匹夫、節操なき職業的武将。これへ出て、真の武将たるものに面接せよ」\n と、大音で呼んだ。\n 遠く眺めていた龐徳は、\n「あの青二才は何者か」と、左右にたずねた。\n 誰も知る者はいなかった。\n けれど、云っていることは、一人前以上である。ついに怒気を発したか、\n「小僧、一ひねりにしてくれん」\n と、陣列を開かせて、颯々、関平の前にあらわれた。\n「小輩、小輩、いったい汝はどこのちんぴらなるか」\n 龐徳がいうと、関平は、\n「知らないか。われこそは五虎大将軍の首席関羽の養子、関平という者だ」\n「あはははは。道理で乳くさい小せがれと遠目にも見ていたが、関羽の養子関平か。――帰れ帰れ。われはこれ、魏王の命をうけて、汝の父の首を取りにきた者で、汝のようなまだ襁褓のにおいがするような疥癩の小児を、馘りに来たのではない。――われ汝を殺さず、汝この旨を父に伝え、父の卑怯をいさめて、父をこれへ出してこい」\n「――なッ、なにを!」\n 関平は馬もろとも、いきなり龐徳へ跳びかかった。\n 閃々、刀を舞わし、龐徳に迫って、よく戦ったが、勝負はつかない。\n ついに相引きの形で引きわかれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら、満身に湯気をたてていた。\n 関羽は合戦の様子を聞いて、次にはかならず関平が負けると思ったらしく、にわかに、その翌朝、部下の廖化に城攻めの方をあずけ、自分は、関平の陣へ来てしまった。\n そして、きょうは自分が、龐徳を誘うから、父の戦いぶりを見物しておれと告げて、愛馬赤兎を、悠々両軍のあいだへ進めた。\n\n二\n\n 戦場の微風は、関羽の髯をそよそよとなでていた。\n「龐徳はなきか」\n と一声敵陣へ向って、彼が呼ばわると、はるかに、月を望んで谷底から吼える虎のように、\n「おうっ」\n という答えが聞え、それを機に、わあっという喊声、そして陣鼓戦鉦など、一時に喧しく、鳴り騒いだ。\n 渦巻く味方の物々しい声援に送られて、ただ一騎、龐徳はこなたへ馬を向けてきた。その姿が関羽の前にぴたと止ると、魏の陣も蜀の陣も、水を打ったようにひそまり返ってしまった。\n まず龐徳が大音をあげた。\n「われはこれ、天子の詔をうけ、魏の直命を奉じて、汝を征伐に来た者である。汝、わが威を恐れてか、卑劣にも、養子の弱輩を出して、部下の非難をのがれんとするも、天道豈この期になって、兇乱の罪をゆるすべきか、それほど命が惜しくば、馬を下って、降人となるがいい」\n 関羽は苦笑してそれに答えた。\n「西羗の鼠賊が、権者の鎧甲を借りて、人に似たる言葉を吐くものかな。われはただ今日を嘆く。いかなれば汝のごとき北辺の胡族の血を、わが年来の晃刀に汚さねばならぬか――と。やよ龐徳、はや棺桶をここへ運ばせずや」\n「なにをっ」\n 馬蹄の下からぱっと黄塵が煙った。旋風のなかに龐徳の得物と関羽の打ち振る偃月刀とが閃々と光の襷を交わしている。両雄の阿呍ばかりでなくその馬と馬とも相闘う如く、いななき合い躍り合い、いつ勝負がつくとも見えなかった。\n 戦えば戦うほど、両雄とも精気を加えるほどなので、双方の陣営にある将士はみな酔えるが如く手に汗をにぎっていたが、猛戦百余合をかぞえた頃、突然、蜀の陣で金鼓を鳴らすと、それを機に、魏のほうでも引揚げの鼓を叩き、龐徳も関羽も、同時に矛を収めて、各〻の営所へ引き退いた。\n これは養子の関平が、いかに英豪でも年とった父のこと、長戦になっては万一の事もあろうか――と急に退き鉦を打たせたのであった。\n 関羽は、本陣へ引いて、休息をすると、諸将や関平に向って、話していた。\n「なるほど龐徳という者は、相当な豪傑だ。彼の武芸力量は尋常なものではない。わが相手として決して恥かしくない敵だ」\n「父上。諺にも、犢はかえって虎を恐れずとか申します。あなたが夷国の小卒を斬ったところでご名誉にはなりません。反対にもし怪我でもあったら漢中王の御心を傷ましめましょう。もう一騎打ちには出ないで下さい」\n 関平は諫めたが、関羽は笑っているのみである。彼もはや老齢にちがいないが、自身では年齢を忘れている。\n 一方の龐徳も、魏の味方のうちへ帰ると、口を極めて、関羽の勇を正直にたたえていた。\n「今日までは、人がみな関羽と聞くと、怯じ怖れるのを、何故かと嗤っていたが、真に、彼こそ稀代の英傑であろう。人のことばは、実にもと、つくづく感じ入った。死すにせよ、生きるにせよ、思えばおれは武門の果報者、この世にまたとない好い敵に出会ったものだ」\n 于禁が陣中見舞に来て、そのはなしを聞き、とうてい、関羽に勝つことは尋常では難しい、生命を粗末にし給うな、と諫めた。\n けれど、龐徳は、\n「これほどの敵に会って、晴れの決戦を避けるくらいなら、初めから、武人にならないほうがましだ。明日こそ、さらにこころよく一戦して、いずれが勝つか斃れるか、生死を一決するから見物していたまえ」と、耳にもかけなかった。\n あくる日、龐徳はふたたび、中原へ馬を乗りだして、\n「関羽、出でよ」\n と、敵へ挑みかけた。\n\n三\n\n きょうは龐徳から先に出て呼ばわっている。もとより関羽も待ちかまえていた所だ。直ちに駒をすすめ、賊将うごくなかれと喚きながら駈け合せた。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ある田舎に、阮という豪族の一家がありました。\n 阮家の一人息子の阮東は、志を立てて、都に出ました。そして学問をしながら、長官の周家に、書生として暮すことになりました。\n その翌年の春さき、阮東は周家の令嬢素英と親しくなり、いつしか愛を語らう仲になりました。けれども、それも一ヶ月ばかりの間で、素英から急に疎んぜられるようになりました。\n 阮東は、頭髪を乱し、悲しみに胸をふくらまして、何事も手につきませんでした。そしてよく裏庭へ出てゆきました。その片隅に、竹藪があり、竹藪のそばに四五本の李の木があって、白い花が咲いていました。阮東はその花の下で、熱い涙を流して泣きました。\n 夜通し一睡も出来なかった日の、朝早く、阮東はまた李の花の下に来て、泣き悲しんでいました。\n すると、爽かな細い歌声が聞え、やがて、空色の化粧着をつけた素英の姿が、まるで幻のように現われてきました。\n 阮東ははっとして、息がつまり、血の循りがとまり、ただ眼を大きく見張りました。そして暫く見ない彼女の姿を、じっと見つめていましたが、次には、かっと逆上して、そこに走り出で、彼女の足もとに跪きました。\n「ああ、お嬢さん、よく来て下さいました、よく来て下さいました。私は毎日、毎夜、ここにこうして、あなたをお待ちしておりました。」\n けれど、何の返事もありませんでした。素英は一足とびしざって、棒のようにつっ立ち、じっと阮東を見すえてるきりでした。\n 阮東は涙声で訴えました。\n「私はもう、あなたと離れては生きてゆけません。あなたと一緒なら、死んでもかまいません。死んで下さい、一緒に死んで下さい。」\n 凍りついたような素英の眉が、ぴくりと動きました。そして風のようなすげない声がしました。\n「そこをどいて下さい。私は髪にさすために、李の花を取りに来たのです。」\n「おお、李の花......。」と阮東は叫びました。「あなたの髪のために、私に取らして下さい。一番美しい花を......蕾から咲きだしたばかりで、まだ蜂も虻もとまったことのない綺麗な花を、私が取ってあげます。」\n「いけません。」と風のようにすげない声がいいました。\n「私はあなたとお話することを、母から厳重にとめられております。あなたに御用をたのむことを、父から厳重にとめられております。こうしてお目にかかるのも、私は、心が咎めてなりません。」\n「それは間違いです。いえ、それならば......向うをむいていて下さい。私の方を見ないで、そこに待っていて下さい。一番きれいな花を、私の心をこめた花を、取ってあげます。」\n 阮東は直ちに、李の木の大きなのに駆けより、その幹をよじのぼり、高い梢を引きたわめて、目につく一枝――蕾から咲き出たばかりでまだ蜂も虻もとまったことのない美しい花の一枝を、折り取りました。そして飛び降りてきますと、もう、素英の姿はどこにも見えませんでした。\n 幻を見たのでしょうか。幻と話をしたのでしょうか。――阮東は頭を振りました。手にしてる李の花を眺めました......。\n やがて、彼は幻にでもひかれるように、李の花を持ったまま、ふらふらと歩きだしました。\n 土塀の小門をくぐって来ると、広い中庭で、池を中心に、太湖石が奇怪な形につみ重ねてあります。\n「お嬢さん......素英さん......。」\n 阮東は口の中で胸いっぱい叫びながら、池のほとりまで来ましたが、池の澆水のつきるところ、高廊の朱の柱が眼にしみると、もう先へは進みかねて、そこの、飛竜の形の岩に身をなげかけ、さめざめと泣きました。\n 時たって、高廊の上に、周家の主人が立現われ、朱の柱に左手をかけ、右手を握りしめ、のびあがってじっと阮東の方を睨まえました。\n「阮東......不埓者、阮東。」\n 怒りに震えた雷のような声でした。\n「書生の分際で、お前は、周家の娘を何と心得ているのだ。そういう不埓者は、もう邸に置くことは出来ない。出て行け。即刻立ち退け。」\n その言葉を阮東は胸の真中に受けて、仰向けにひっくり返りそうになりました。そこを持ちこたえようとしたはずみに、足がよろけて、池の中にざぶりと落ちこんでしまいました。\n 水は胸の下までの深さでしたが、横倒しに落ちこみましたので、彼は一度水に沈んで、それから慌て騒ぎ、夢中にあばれて、漸くはい上がり、そのまま、裏庭の方へ駆け出しました。\n 池の中には、李の花の一枝が、花弁を幾つか散らして、ゆらゆらと浮いていました。そのそばに、阮東の黒い沓が片方、ぽかりと浮いていました。\n 阮東は、裏庭から書生部屋の方へかけこみ、床の上に身を投げ出して、死んだように横たわっていました。もう眼も開かず、泣く力もありませんでした。\n 長い間たちました。誰も見舞ってくれる者もありませんでした。阮東は身体中つめたくなったのに気付いて、ぼんやり起き上りました。そしてそこに坐ったまま、また長い間じっとしていました。\n 万事窮した、面目もすべてつぶれた、と彼は思いました。\n その午後、彼は黒い絹の晴着をつけ、片足によごれた沓をはき、片足ははだしのまま、街に出て、百貨店に行き、上等の沓を買ってはきました。そして六階の塔の上にのぼりました。\n 塔の上から眺めると、都会の煤け黒ずんだ屋根並が、いろいろな勾配をなして、無心にごたごたと並んでいます。狭い深い街路には、蟻のような人通りです。\n そうだ、ここから......と彼は何かに促されたようで、ぞっとしました。眼の下の深いところへと、強い力が渦巻きこんで、その中に自分も巻きこまれる気持でした。\n その、巻きこまれる前に、彼はふと眼をあげて、うつろな瞳を空に向けました。鳥が一羽、宙に浮いていました。その映像が次第に生きてきて、力強い悠長な鳶となり、鳶は空高く、両の翼を張って、大きな圏を描いて舞っています。\n 彼の瞳は鳶に囚えられました。囚えられながら輝いてきました。身内からあらゆる悲しみという悲しみがわき出し、それが大きな憤りと変ってきました。自分自身に対する、また世の中に対する、大きな憤りでした。\n 彼の全身は震えおののいて、そこに屈みこんでしまいました。そして彼は両膝に顔を埋めて泣きました。泣きながら、歯をくいしばり、両手の拳を握りしめました。\n 久しくたって、彼はその塔からおりてゆきました。憤りに燃え立った恐ろしい顔をしていました。\n\n それから四年ほどたった秋のことです。阮家の近くの、海岸寄りの湖水のほとりで、阮家に出人りをしている老船頭の張達が、煙草をふかしながら、湖水に小舟を浮べて網の寄せ打ちをやっている漁夫たちを、笑顔で眺めていました。\n その湖水の渚を、馬上でやってくる二人の男がありました。いずれも逞しい若者で、粗末ながら乗馬用の服装をし、腰には拳銃らしい革袋をさげ、鞍には大きな荷をつけていました。\n その二人は、時々なにか語りあいながら、渚づたいにゆっくり馬を進めて来ましたが、張達の前まで来ると、一人がぴたりと馬を止めて、声をかけました。\n「お前は、張達ではないか。」\n 張達はとびあがらんばかりに驚いた様子で、それからもう頭をさげて、はいはい......とお辞儀ばかりしています。\n 若者は馬からおりて、張達の肩を叩いていました。\n「何をしてるのだ、張達、僕が分らないのか。」\n「はあ、あなた様は......。」\n 張達は上眼使いに、若者の顔を見ていましたが、ふいに、わっと大きな声を立てて、両手を差出しました。\n「おう、阮の若者でいらっしゃいましたか。私はまた、匪賊......なにかと思って、びっくり致しました。若様で、......よくまあ無事に帰っておいでになりました。」\n「ああ、御無沙汰をした。御両親とも達者かね。」\n「はい、それはもう......。」\n 張達は涙の眼をしばたたいて、袖で鼻を拭きました。"
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"content": "「お前に逢って丁度よかった。」と阮東はいいました。\n「邸まで案内してくれないか。そしてお前から、御無沙汰のお詫びを御両親にしてくれないかね。いきなり馬を乗りつけるのも、ちょっと気が咎めるからね。あの男は、僕の伴をしてくれた友人で仔細ないのだ。」\n 阮東は、友の范志清を呼んで、張達に紹介し、それから、家郷のことをいろいろ尋ねました。\n 張達のいうところに依りますと、四年前、阮東が失踪したことは、周家から阮家へも知らせがありました。何か阮東に不始末なことがあって、周大人がこらしめのためにひどく叱りつけ、あとで詫びに来たら懇々と説諭してやるつもりでいたところ、阮東はそのまま失踪してしまったとの由で、阮家の人たちは歎き悲しみ、朝に夕に、消息を待ちあぐみ、はては人を遣って探らせたが、其の後のことは更に手掛りもなく、悲しい遺品だけが周家から届いたに過ぎませんでした。それから一年たち、二年たち、三年たつうちに、阮大人は阮東のことを口にするのを禁じてしまいました。けれど、口にしないだけに、想いは胸に深まっていったようで、めっきり老けてきました。それだけのことで、阮一家には、他に何の変りもありませんでした。ただ、近頃、その辺にも匪賊が侵入してきて、三ヶ月ほど前、数千金を奪ってゆかれた上、また、多額の金を、明晩までに要求されてるとのことでありました。そして阮大人は、何と思ってか、今晩、一家中で盛宴を催すとかで、そのために、張達は漁夫たちを指図して、湖水の美魚を捕えているのでありました。\n「よいところへ帰っておいでになりました。天の思召しに依るのでございましょう。」と張達は涙ぐんだ眼を輝かせました。\n そして張達の案内で、二人の騎士は、大きな阮家の門をくぐりました。\n 邸内にはいると、張達は俄に老年を忘れたかのように、駆け廻り、喚き立て、前後の筋途もなく饒舌り立てました。\n 豪族阮家の大勢の人たちが、急いで飛び出してきて、阮東と范志清とを取巻きました。阮東はその一人一人に向って、ただ黙って頭をさげました。それから、母親の胸には顔を埋め、父親の前には跪きました。\n「遠くから来たようだ、少し休息させなさい。」と阮大人は誰にともなくいいました。\n その言葉が、阮東の胸にしみました。\n けれど、阮東はゆっくり休息するひまがありませんでした。準備されていた盛宴は、阮東を迎えるためのものと変って、早くから初められました。\n 両親をはじめ一家の人たち二十人ばかり、みな顔を輝かしていました。阮東だけはなんだか沈痛な顔色でした。范志清はにこにこして、自分の家にでも来たように落着きはらっていました。\n 阮東は、一同から尋ねられても、これまでの四年間のことをあまり、話しませんでした。概略のところ、周家を出てから、知人を頼って、西方遠くの或る都市の匪賊討伐隊に加わったこと、そして時折戦闘もしたが、それよりはおもに、隊の医務をやっていた老人から、本草の学をまなんだこと、そしてその老師が亡くなったので、休暇をもらって帰省したこと、大体そんなことだけでした。\n「この范君は、僕以上によく知っています。」と彼は口を噤んで苦笑するのでした。\n「ははは、阮君のことなら、阮君自身よりもよく知っていますが。皆さんに御披露するほどよくは知りませんよ。」と范志清は快活に笑うのでした。\n 二人の友人の間には何か秘密な了解があるようでした。\n 食卓には、田舎で出来る限りの料理が、次々に持出されました。犢の肉や臓物、豚の肉、まるのままの鶏、湖水のいろいろな魚や蝦、葱や大蒜や茴香、栗や筍、それからまた、百年もたったという老酒の甕も取出されていました。\n ところが、料理が食べ荒され、酒が汲み交されるにつれて、賑かになるべき一座の空気は、却って沈んでゆくばかりでした。酔った范志清の高笑いが、へんに浮き上って耳につくようになりました。\n 阮東は、側に坐ってる父親に、声をひそめて尋ねました。\n「匪賊の要求は、いかほどですか。」\n「明晩までに八千金というのだ。」と平然たる調子でした。\n「それだけの金が、うちにありますか。」\n「この前やられたのでね、半分もあるまい。」\n「では、どうなさるのですか。」\n「どうにか、なるようになるだろう。家の者は皆、蔵の奥に隠れることになっている。わしは、人質になるかも知れない。」\n「それでよいのですか。」\n「よいもわるいもないのだ。そのため、今晩ゆっくり、御馳走を食べることにした。お前が帰って来たので丁度よかった。ただ残念だが、お前たちは、明日の朝出かけなさい。」\n「本気でそう仰言るのですか。」\n「どうも仕方がない。」\n「お父さん。」\n「お前はまだ若い。世の中のことが分るものではない。」\n 父親の落着いた平気な調子は、阮東の血を却って湧き立たせました。\n 彼はいきなりつっ立って、范志清に叫びました。\n「おい、土産物を持出そう。あれが途中で役立たなくて、家に帰って役立つとは、僕は夢にも思わなかった。」\n「よろしい、僕が引受けた。」\n 范志清は、杯を高く差上げ、一息にぐっと飲みほして、ふらふらした足どりで、室から出て行きました。阮東も出て行きました。\n 暫くすると、二人は、小銃を二挺ずつかついで戻って来、それを音高く食卓の上に投げ出しました。\n「僕たちの土産物です。」\n 女たちは声を立てました。男たちは立上りました。\n 阮大人は静かにいいました。\n「今晩だけは許すから、賑かにやって、そして、お前たち二人は、明日の朝、ここをたちなさい。」\n それももう、二人の耳にははいりませんでした。若い人たちが集ってきて、乾杯の音がしきりに起りました。\n 酒杯のうちに、匪賊に対する計画は進められました。小銃が四挺に拳銃が二挺あります。弾薬も充分にあります。なお家の中には、いろいろ武器もあります。動員出来る若い農夫や漁夫も、近くに大勢いる筈でした。\n そのうちに阮東と范志清とは、長旅の疲れも出て、長椅子の上にうとうと眠りました。\n 阮東が眼をさました時は、もう太陽が高く昇っていました。范志清が万事の指揮をして、忙しく動き廻っていました。\n 阮東は、長年ぶりの生家に、而も戦闘を目前にひかえて、なにか涙ぐましい気持で、ぶらりと庭の方へ出て行きました。数本の灌木が紅葉し、叢のなかに咲いてる小さな花の白と紫が、眼にしみました。少し剥げおちた白壁には、昔のままの汚点がついていました。\n その白壁の向う側の、高い木の梢にかかってる小鳥の巣が、子供の頃とそっくりな記憶をよびさましましたので、彼はその方へ足を向けると、はっと立止りました。\n 秋の陽を受けて、木の根本に屈みこんで、阮大人がじっと頭を傾けているのです、もう髪の毛はなかば白くなっています。なんとなく肌寒そうにも見えます。そして膝の上に、両袖で蔽うようにして、何かを大事そうに抱えています。\n 阮東には、それが何だかすぐに分りました。古くから伝わってる小さな壺で、手垢で黒ずんでいますが、貴重な品だと聞かされたことがありました。父はその中に、蟋蟀を入れて、鳴き声に耳をすましているのです。\n そうした父の姿が、阮東の涙ぐましい気持を、急に深くかきたてました。瞼にいっぱい涙がにじんできました。その涙を自分で感ずると、彼は唇をかみしめました。とたんに、今夜に迫った危急な情況がぱっと頭に映りました。彼は嗚咽に似たものが胸にこみあげてくるのを感じました。それが胸にあふれて、激しい憤りとなりました。\n 彼はつかつかと父の側に歩み寄り、その小壺を手荒くひったくって、木の根本に叩きつけました。壺は砕け散りました。\n 父は飛び立って、呆然と彼を見つめました。\n 彼は足は棒のようで、上半身をわなわな震わしていましたが、その震えがやむと、そこに跪いていいました。\n「お父さん、許して下さい。然し、私は、四年間も持ち続けた憤りの火が、次第に消えかかったので、家に帰って来ましたが、家に来て、また憤りの火が燃えだしました。大事な壺を壊した代りに、私は私自身を生かします。匪賊のことも、私に任して下さい。」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " と、さかんに気焔をあげていた。\n「――日本の文学がすこしも進歩しないのは、文壇進歩党がはびこってるおかげですよ」\n 小田はすかさず、例によってまずい洒落を飛ばしながら、あいた椅子に腰を掛けた。\n「文壇進歩党の文学は俳句の写実と、短歌の抒情以外に一歩も出ないんだよ。もっとも文壇社会党には便乗的民主主義が多くていかん。昨日までの戦争便乗者が、頬かむりして、いえ、もともと私は左翼でしてと、文壇社会へ仲間入りしている」\n「ところで、小田君」\n と、吉井正太郎が小田の気焔をさえ切った。\n「君、こんな話知ってる」\n「知りません」\n「知りませんって、まだ何にも話してないよ。あはは......」\n 小田の分類によると、三高出身者には、軽佻浮薄派(さしずめ小田がその代表)と、重厚派の二種類あるが、吉井は、「重厚派と見られることを最もいやがっている所の重厚派」であるだけに、ねちねちした口調で、ポツリポツリ語りだした。\n「亀がね、――三匹おったんだ」\n「四匹でも構わんのでしょう」\n「べつに差しつかえはない。四匹ということにしよう。四匹の亀がね、咽喉が乾いたな。なんぞ飲みに行こうやないかと言ってね、喫茶店へ珈琲を飲みに行ったんだよ。ボーイが四人分の珈琲を持って来て、いざ飲もうとすると、雨が降って来た。そこで、三匹の大きい方の亀が一番小さい大人しい亀に、お前一走り行って傘を取って来いと言うと、小さい亀が言うのには、おれが傘を取りに行ってる間、おれの珈琲飲んでしまう積りやろ。――いや、大丈夫だ。お前が帰るまで残して置いてやるから行って来い。じゃ、行って来ると、小さい方の亀は傘を取りに出て行ったんだね。ところが、一週間たっても帰って来ないんだ。おかしいな、あの男どうしたんだろう、いっそこの珈琲のんでしもてやろか、三匹の亀が言った途端、喫茶店の入口にじっとかくれてなかの様子を見ていた小さい方の亀が、いきなり、こらッ、飲んだらあかんぞ――と言ったというんだ。中の連中が珈琲をどうするか見てやろうと思って、一週間入口で待機しとったんや。一寸面白いやろ。あはは......」\n その話が終った時、鶴雄はその小さい亀のように、いきなり、\n「山吹先生!」\n と呼びかけた。\n「――この間お願いしました......」\n「ああ、家庭教師のこと......?」\n 顔は美少年のように可愛いいが、頭のてっぺんが少し薄くなっている山吹教授は、その薄くなっている箇所を撫でながら、\n「――あることはあるんだが、どうも君は家庭教師になるには美少年すぎるのが一寸心配だね」\n「............」\n 鶴雄がぼうっと赧くなったのを山吹教授は眼鏡ごしに見ながら、\n「下鴨の小郷という家から頼まれているんだが、あそこじゃ出戻り娘がいるんでね。おまけにマダムが綺麗すぎる」\n 小郷ときいて鶴雄はきいたような名だなと、首をかしげた。\n\n下鴨\n\n一\n\n 出町柳の停留所で市電を降りて物憂い、何かけだるそうな足取りで葵橋の上まで来ると、\n「ああ、いい風......」\n と、小郷宮子は頬を撫でる川風に、うっとりと眼を細めた。\n 四条から満員の電車に押されながら乗って来て、じっとりと汗ばんだ体に、加茂の流れを吹き渡って来た風は、さすがに気持がよかった。\n しかし、ただ気持がよいだけではない。川風も生暖く春めいて、ふと悩ましい。\n もっとも、その悩ましさは、社交ダンスのレッスン場からの帰りというせいかも知れなかった。\n 宮子は今、煽情的な音楽のリズムに合わせて、胸と腰をぐっと引き寄せられながら、二時間立てつづけに踊って来たばかしなのだ。\n その軽い疲労が、しかし二十七歳の彼女の体の中に、何か満たされぬ後味となってやるせなく残っていた。\n しかし、これは、一旦結婚してから、夫と別れてしまったいわゆる出戻り女の、二十七という年齢から来るやるせなさであろうか。\n 宮子は二十二の歳に、女専を卒業すると西洞院の骨董商へ嫁いだが、生れつき我儘なのと、新しい教育を受けていたために、古い因習の殻に閉じこもっている余りにも京都風の家風にいたたまれず、一年たたぬうちに、到頭婚家を飛び出して、実兄の小郷虎吉の下鴨の家へ、出戻り娘となって転がり込んだのである。\n ちょうど戦争中だったので、宮子は兄に似て淫蕩的な血をじっと閉じこめて、おとなしくして来たが、しかし、やがて戦争が済み、京の町々が軽薄な色彩に彩られて男女の風紀がみだれて来るようになると、そんな京都の変り方に強い反感を抱きながらも、内心ひそかに享楽を求めるようになった。\n「あたしだって、まだ若いのだ」\n しかし、夜の町角に佇んで、誰かれの見境なしに、男に話し掛けて行って、円山公園の暗がりの芝生の上に転って、抱き合いながら妖しく蠢いている小娘のような、はしたない真似は、自尊心から言っても出来なかった。だから宮子はまず彼女の享楽の第一手段として、社交ダンスを習うことにした。\n「姉さん、どう、ダンス習わない......?」\n 兄の小郷虎吉の妻で、宮子には兄よめに当る真紀子を誘うと、\n「いいわね。女だってホールへ行けるんだもの踊れないと損だわ」\n と、真紀子も夫の毎夜の外泊のせいか、年増ざかりの肉躰を持て余していた矢先だったから、すぐ応じた。\n 二人は毎日四条のもと交潤社という酒場のあった地下室のレッスン場へ通い出した。\n そして、今日も二人は午すぎから家を出て来たのだが、真紀子は町で望月三郎の名を見つけると、何思ったのか急に、\n「あたし、一寸用事を思い出したから、今日はあんた一人で行ってよ」\n と、言って、そわそわと別れてしまった。\n だから、今日は宮子一人でレッスン場へ出掛けた――その帰りだった。\n 一人ではつまらないので、町も歩かずに帰って来たのだが、宮子は、\n「今日は姉さんがいないんだからどんな事でも自由に出来たのに......」\n と、思うと、寄道せずに帰って来たことが一寸後悔されて、満たされぬ享楽欲のはけ口を求めてもう一度町へ引き返そうかと、ふと振り向いた途端、橋を渡って来る若い学生の顔が眼にはいった。\n 鶴雄だった。宮子は思わず眼を輝かせた。\n\n二\n\n 宮子は急に立ち停って、橋の欄干に凭れる真似をしながら、鶴雄の行き過ぎるのを待った。\n そして、横眼を使いながら鶴雄の顔をじっと見つめた。\n 美しい。\n 宮子はふっと溜息が出るくらいの悩ましさに、胸がしめつけられた。\n「町へ引きかえすのはよそう」\n 宮子は鶴雄が橋を渡って、撮影所のある通りへ折れて行くのを見ると、そう呟いて鶴雄のあとをつけて行った。\n「――あの学生、もしかしたら、下鴨に下宿しているのかも知れない」\n 下宿をつき止めようと思ったのだ。\n 下宿さえつき止めて置けば、あとは同じ下鴨だから、近づいて行く手段はいくらでもある。\n 宮子がそう思ったのは、実は、彼女は昔下鴨から女専へ通っていた頃、やはり同じ下鴨の下宿から三高へ通っている学生に、彼女の方から話しかけて親しくなったあげく、その学生の下宿でありきたりの関係に陥ったことがある。\n いわば、宮子は結婚する時にはもう処女を失っていたのである。\n 宮子が結婚する頃には、その学生は東京の大学へはいっていたので、既にどちらからともなく関係が切れており、宮子もその男のことはいつか忘れてしまった。\n ところが今、鶴雄を見た途端宮子はいきなりその学生のことを思い出した。\n 三高生で、色が白く、背が高いというところが似ているのだった。\n「しかし、この三高生の方がずっと可愛いい」\n 宮子はにわかに青春が甦って来た想いで随いて行くと、果して鶴雄は撮影所の前を真っ直ぐ歩いて行った。\n やがて鶴雄は急に歩度をゆるめて標札を見上げながら歩いた。\n「なんだ、下鴨に下宿してるのじゃなかったのか」\n と、宮子はふとがっかりした。\n しかし、宮子はすっかりは失望しなかった。鶴雄がどこか訪ねる家を探しているらしいのは、もっけの倖いだと、宮子は思った。\n 宮子はいきなり寄って行って、\n「どこのお家を、探してらっしゃるの」\n と声を掛けた。\n「はあ」\n と、鶴雄は帽子をとって、\n「――小郷さんというお宅なんですが......」\n「小郷......?」\n「ええ」\n「じゃ、あなたは小郷という人をこれから訪ねて行くの......?」\n 宮子は思わずキンキンと弾んだ声になった。\n「そうです」\n「小郷はあたしの家よ。そこ曲ったところ。うふふ......。いやでも御一緒ってわけね。うふふ......」\n 宮子は意味ありげな笑いを、蓮ッ葉に笑いながら、鶴雄を誘って曲り角を折れて行った。\n やがて、大きな門構えの家の前まで来ると、\n「ここよ。さア、どうぞ」\n 宮子はくぐり戸をあけて、先にはいったが、鶴雄はふと突っ立って、\n「小郷虎吉」\n という標札をじっと挑み掛るように見上げていた。\n「何をぼんやりなすってるの。どうぞ」\n 宮子はじれったそうに言った。\n\n三\n\n 宮子にうながされて、鶴雄は思い切って中へはいった。\n「これがあの弓子の姉をひどい目に合わせた小郷虎吉の家か」\n と、思うと、中へはいるのは何か不潔なような気がして、ふとためらったが、しかし、とにかく山吹教授の紹介状を貰ってここまで来たのだし、それに宮子に案内されてついて来た以上、まさかはいらぬわけにもいかなかった。"
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"role": "assistant",
"content": " 白い椿の咲いている庭を通って、やがて鶴雄は応接室へ通された。\n「一寸待ってね」\n 宮子は親しそうな口を利いて、出て行くと自分の部屋にはいり、三面鏡の前に坐って、化粧をなおしながら女中を呼んだ。\n 女中が来ると、\n「お客様に紅茶とチョコレートを差し上げて頂戴! ――兄さんは......?」\n「お留守どす」\n「姉さんもまだでしょう......?」\n「はい」\n「幹男は......?」\n 幹男というのは虎吉の一人息子で、中学校四年生である。\n「坊っちゃまは......」\n と、女中はなぜか赧くなって、\n「お出掛けどす」\n「ふーん。じゃ、誰もいないのね」\n 宮子は鏡の中でにやりと薄気味わるく笑って、そして笑ったままの唇へ紅を塗りながら、\n「――お風呂沸かして頂戴!」\n「はい」\n「大急ぎで......」\n「はい」\n 女中が去ろうとすると、宮子は、\n「ちょっと!」\n と鋭く呼びとめて、\n「――あんた、お腹大きいんじゃない......?」\n と、じっと女中の腹へ視線を注いだ。\n「はあ、いいえ......」\n 女中は眼の中まで赧くなった。\n「だったらいいけど......」\n「............」\n 女中は何か言いたそうにもじもじしていたが、やがてだまって出て行った。\n 宮子は念入りに化粧を済ませると、鏡台の抽出から、とって置きのコティの香水を取出して、胸や耳のうしろへ振りかけて、そして再び応接室へ戻って来た。\n「お待たせしました」\n そう言いながら、椅子に腰を掛けると、宮子はいきなり両手を頭のうしろで組んで、両足をすっと伸ばした、二の腕が白い。\n「――今日は誰もいないのよ。ゆっくりしてらっしゃい」\n 用件もきかぬうちから、宮子は言った。\n 鶴雄はそんな宮子のみだらな姿勢から、ふと眼をそらしながら、\n「ご主人はお留守ですか。じゃ、またお伺いすることにします」\n と起ち上ろうとすると、\n「帰さないわよ」\n 宮子はずばりと言った。\n\n四\n\n 鶴雄は思わず宮子の顔を見た。\n「帰さない――って一体どういう意味だろう......?」\n 宮子の眼は情欲的に輝いていた。\n 酒に酔っぱらった男が、理性を失って本能的に女を求めるように、ダンスのあとの悩ましいやるせなさを持て余していた宮子の淫蕩の血は、物狂おしく男を求めていた。\n「とにかくお坐りになったら、どう......?」\n 宮子が言うと、鶴雄は、\n「じゃとにかく坐りましょう」\n と、苦笑しながら坐った。\n「チョコレート召し上らない......?」\n「いや結構です」\n 鶴雄はぶっ切ら棒な声を出した。甘いものに餓えているような顔で、\n「やあ......これは珍しいですな」\n などと、やに下って手を出すのは、醜態だと思ったのだ。\n「ご用件は......? あたし代りに伺ってもいいでしょう」\n「はあ、実は......」\n 山吹教授の紹介で来たのだと、鶴雄は紹介状をポケットから出して、宮子に渡した。\n「拝見してもいい......?」\n「どうぞ」\n 宮子は封を切った。\n\n ――梶鶴雄君は小生の教え子にて、学力優秀、品行方正にて家庭教師として最適の人物と愚考仕り候わば、宜しく御引見の上御採用下され度く願い上げ候......。\n「じゃ、あんた、幹男の家庭教師になりにいらしたのね」\n「ええ」\n「幹男、来年三高を受けるんだけれど、あの子ちっとも出来ないのよ、たぶん落第だと思うわ」\n 宮子はそう言って笑ったが、ふと狼狽したように、あわててつけ加えた。\n「――でも、あんたが教えてやって下されば、何とかなるかも知れないわよ。よく教えてやってね」\n「はあ、でも......」\n「今日から教えてやって下さる......?」\n「はあ」\n「じゃ、幹男が帰るまで待っていて頂戴ね」\n 宮子はうむを言わさず、鶴雄を引きとめる手段に成功したと思うと、思わずにやりとした。\n「あんた、品行方正って本当......?」\n 赧くなっていると、女中が風呂が沸いたと知らせて来た。\n「あんた、お風呂にはいらない......?」\n「いや、結構です」\n「でも、あんた首筋が垢だらけよ、折角の美少年が台なしよ」\n「構いません」\n 鶴雄はむっとした。\n「あんたは構わないけど、あたしが構うわ。今日からうちへ来て下さるんだから、毎日お風呂へはいっていただかないと困るわ」\n 鶴雄はそう言われると、もう断り切れず、女中に案内されて、しぶしぶ浴室へ行った。\n そして、タイル張りの湯槽に浸っていると、ふと脱衣場の戸があいて、誰か着物を脱ぎはじめたらしい気配がした。\n\n五\n\n「おやっ、誰だろう......?」\n 鶴雄は脱衣場の人影を見て、湯槽の中で思わず固唾をのんだ。\n 男のいる浴室へ、女がはいって来る筈もないと思ったが、しかしサラサラと聴えて来る衣ずれの音の柔さは、ふと女のようであった。\n 鶴雄は湯槽の中ではっと身を固くした。\n その時、いきなり浴室の硝子戸があいてはいって来たのは宮子であった。\n「あッ!」\n と、鶴雄は声を立てそうになった。\n 宮子は一糸もまとわぬ全裸の豊満な、白い肉体をくの字にくねらせながら、湯槽へ近づいて来ると、\n「お加減はいかが......?」\n にイッとした笑いを浮べた。\n 鶴雄は口も利けぬくらい驚きながら、山吹教授の言葉をふと想い出した。\n「――あの家には出戻り娘がいるからね」\n だから、美少年の鶴雄を家庭教師に推薦するのは、躊躇されるね――と山吹教授が言うと、スタンダールの「赤と黒」の訳者の桑山竹夫が、\n「つまり、ジュリアン・ソレルかね。いいじゃないか。ジュリアン・ソレルにしてみるのも......」\n と言った。\n ジュリアン・ソレルというのは、「赤と黒」の主人公で、美貌の少年である。貧しい家に育ったが、天才的に記憶力がよく、ラテン語を自由自在に操る点を買われて、町長のレナール家に家庭教師として住み込んだところ、レナール夫人と恋愛関係に陥ったので、追われて神学校にはいり、のち伯爵家の秘書に雇われると、伯爵の令嬢のマチルドを誘惑し、最後に嫉妬からレナール夫人をピストルで射ったために、死刑になったという男である。\n その生涯を表面的に観察すればいかにも芳しくない人物だが、しかし、貧しく卑しい育ちでありながら、比類なき自尊心の強さと、精神の高貴さと、つねに自分以外の何ものをも頼らず信ぜず、ギリギリ一杯に生きるという情熱の激しさで、いかなる青年も真似ることの出来ない第一級の人物であったから、かえって多くの模倣者即ちソレリアンを生んだ。\n それほど、この「赤と黒」の主人公は影響力の強い人物であった。\n 鶴雄もジュリアン・ソレルを自分に擬し、ジュリアンのような生き方に憧れることにかけては、人後に落ちなかった。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "我が顫へしは恐ろしきあるものの面、「色のいの字の」\n白き道化がひと踊............\n\n乳母の背なかに目を伏せて\n恐れながらにさし覗き、\n淫らがましき身振をば幽かにこころ疑ひぬ、\nなんとなけれどおもしろく。\n\n「お松さんにお竹さん、椎葺さんに干瓢さんと............手練手管」が何ごとか知らぬその日の赤頭巾、\n惡玉踊の變化もの。\n\n雪のふる夜の倉見れば\n願人坊を思ひ出す。\n雪のふる夜に、戲けしは\n酒屋男の尻かろの踊り上手のそれならで、\n最も醜く美しく饑ゑてひそめる仇敵、\nおのが身の淫ごころと知るや知らずや。\n\nあかんぼ\n\n昨日うまれたあかんぼを、\nその眼を、指を、ちんぼこを、\n眞夏眞晝の醜さに\n憎さも憎く睨む時。\n\n何かうしろに來る音に\nはつと恐れてわななきぬ。\n『そのあかんぼを食べたし。』と\n黒い女猫がそつと寄る。\n\nロンドン\n\n夏の日向にしをれゆく\nロンドン草の花見れば\n暑き砂地にはねかへる\n蟲のさけびの厭はしや。\n\nかつはさみしき唇に\nカステラの粉をあつるとき、\nひとりとくとく乳ねぶる\nあかんぼの頭にくらしや。\n\n夏の日向にしをれゆく\nロンドン草よ、わがうれひ。\n\n松葉牡丹のことをわが地方にてロンドンと呼びならはしぬ。その韻いまもわすれず。\n\n\n接吻\n\n臭のふかき女きて\n身體も熱くすりよりぬ。\nそのときそばの車百合\n赤く逆上せて、きらきらと\n蜻蛉動かず、風吹かず。\n後退ざりしつつ恐るれば\n汗ばみし手はまた強く\nつと抱きあげて接吻けぬ。\nくるしさ、つらさ、なつかしさ、\n草は萎れて、きりぎりす\n暑き夕日にはねかへる。\n\n汽車のにほひ\n\n汽車が來た、――釣鐘草のそばに、\n何時も羽蟻が飛び、\n黄色い日があたる。\nJOHN は母上と人力車に。――\n頭のうへのシグナルがカタリと下る。面白いな。\n\nもうと啼く牛のこゑ、\n停車場の方に白い夏服が光り、\n激しい大麥の臭のなかを、\n汽車が來る............眞黒な鐵の汗の\n靜まらぬとどろき、とどろき、とどろき............\n\n汽車が奔る............眞面目な兩の眼玉から\n向日葵見たいに夕日を照りかへし、\n焦れつたいやうな、泣くやうな、變に熱い噎を吹きつける。\n油じみた皮膚のお化の\n西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき............\n\n汽車が消ゆる............ほつと息をして\n釣鐘草が汗をたらし、\n生れ變つたやうな日光のなかに、\n停つた人力車が動き出すと、\n赤い手をしたシグナルがカタリと上る。面白いな。\n\nどんぐり\n\nどんぐりの實の夜もすがら\n落ちて音するしをらしさ、\n君が乳房に耳あてて\n一夜ねむればかの池に。\n\nどんぐりの實はかずしれず\n水の面に唇つけぬ\nお銀小銀のはなしより\nどんぐりの實はわがゆめに。\n\nどんぐりの實のおのづから\n熟れてなげくや、めづらしく、\n祭物見の前の夜を\n二人ねむれば、その胸に。\n\nどんぐりの實のなつかしく\n落ちてなげけば薄あかり、\nかをる寢息のひまびまや、\nどんぐりの實は池水に。\n\n赤い木太刀\n\n赤い木太刀をかつぎつつ、\nJOHN はしくしく泣いてゆく。\n水天宮のお祭が\nなぜにこんなにかなしかろ。\n\n悲しいことはなけれども、\n行儀ただしく、人なみに\n御輿のあとに從へば、\n金の小鳥のヒラヒラが\nなぜか、こころをそそのかす。\n\n街は五月の入日どき、\n覗き眼鏡がとりどりに\n店をひろぐるそのなかを、\n赤い木太刀をかつぎつつ、\nJOHN はしくしく泣いてゆく。\n\n糸車\n\n糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ\nその糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。\n金と赤との南瓜のふたつ轉がる板の間に、\n「共同醫館」の板の間に、\nひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ。\n\n耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、\n微かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。\n硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、\n水路のほとり月光の斜に射すもしをらしや。\n糸車、糸車、しづかに默す手の紡ぎ、\nその物思やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。\n\n水面\n\nゆふべとなればちりかかる\n柳の花粉のうすあかり、\nそのかげに透く水面こそ\nけふも *Ongo の眼つきすれ。\n\nまたなく病めるおももちの\n君がこころにあまゆれば、\n渦のひとつは色變えて\n生膽取の眼を見せつ。\n\n恐れてまたも凝視むれば\n銀の *Benjo のいろとなり、\nハーモニカとなり、櫂となり、\nまたもかの兒の眼となりぬ。\n\n柳の花のちりかかる\n樋のほとりのやんま釣り、\nひとりつかれて水面に\n薄くあまゆるわがこころ。\n\nOngo. 良家の娘、小さき令孃。柳河語。\nBenjo. 肌薄く、紅く青き銀光を放つ魚、小さし。同上。\n\n\n毛蟲\n\n毛蟲、毛蟲、青い毛蟲、\nそなたは何處へ匍ふてゆく、\n夏の日くれの磨硝子\n薄く曇れる冷たさに\n幽に幽にその腹部の透いて傳はる美しさ。\n外の光のさみしいか、\n内の小笛のこひしいか、\n毛蟲、毛蟲、青い毛蟲、\nそなたはひとり何處へゆく。\n\nかりそめのなやみ\n\nゆく春のかりそめのなやみゆゑ\nびいどろの薄き罎に\n肉桂水を入れて欲し、\nカステラの欲し。\n\n鉛の汽車の玩具は\n紫の目に痛し。\n銀紙を透かせば黒し、\nわが乳母の乳くびも汚なし。\n\n硝子戸に日の射せば\nザボンの白い花ちりかかり、\nなんとなう温かうして心空腹じ。\n\nカステラをふくみつつ、その黄いろなる、\nわれはかの君をぞ思ふ、\n柔かき手のひらのなつかし。\n小さきその肩のなつかし。\n\nかかる日に、かかる日に、\nからし菜の果をとりて泣く人の\nその肩に手を置きて、\n手を置きて、ただ何となく寄り添ひてまし。\n\n道ぐさ\n\n芝くさのにほひに\n夏の日光り、\n幼年のこころに\n*Wasiwasi 啼く。\n\n伴にはぐれて\nうつとりと、\n雪駄ひきずる\n眞晝どき。\n\n汗ばみし手に\n羽蟲きて、\n赤き腹部すり、また、消ゆる\n藍色の眼の美くしや。\n\nつかず離れぬ\nその恐怖、\nたらたら坂を\nまたのぼる。\n\n芝くさのにほひに\n夏の日光り、\n幼年のこころに\nWasiwasi 啼く。\n* 油蝉の方言\n\n螢\n\n夏の日なかのヂキタリス、\n釣鐘状に汗つけて\n光るこころもいとほしや。\nまたその陰影にひそみゆく\n螢のむしのしをらしや。\n\nそなたの首は骨牌の\n赤いヂヤツクの帽子かな、\n光るともなきその尻は\n感冒のここちにほの青し、\nしをれはてたる幽靈か。\n\nほんに内氣な螢むし、\n嗅げば不思議にむしあつく、\n甘い藥液の香も濕る、\n晝のつかれのしをらしや。\n白い日なかのヂキタリス。\n\n青いとんぼ\n\n青いとんぼの眼を見れば\n緑の、銀の、エメロウド、\n青いとんぼの薄き翅\n燈心草の穗に光る。\n\n青いとんぼの飛びゆくは\n魔法つかひの手練かな。\n青いとんぼを捕ふれば\n女役者の肌ざはり。\n\n青いとんぼの奇麗さは\n手に觸るすら恐ろしく、\n青いとんぼの落つきは\n眼にねたきまで憎々し。\n\n青いとんぼをきりきりと\n夏の雪駄で蹈みつぶす。\n\n猫\n\n夏の日なかに青き猫\nかろく擁けば手はかゆく、\n毛の動げはわがこころ\n感冒のここちに身も熱る。\n\n魔法つかひか、金の眼の\nふかく息する恐ろしさ、\n投げて落せばふうわりと、\n汗の緑のただ光る。\n\nかかる日なかにあるものの\n見えぬけはひぞひそむなれ。\n皮膚のすべてを耳にして\n大麥の香になに狙ふ。\n\n夏の日なかの青き猫\n頬にすりつけて、美くしき、\nふかく、ゆかしく、おそろしき――\nむしろ死ぬまで抱きしむる。\n\nおたまじやくし\n\nおたまじやくしがちろちろと、\n粘りついたり、もつれたり、\n青い針めく藻のなかに\n黒く、かなしく、生いきと。\n\n死んだ蛙が生じろく"
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{
"role": "assistant",
"content": "仰向きて浮く水の上、\n銀の光が一面に\n鐘の「刹那」の音のごとく。\n\nおたまじやくしの泣き笑ひ\nこゑも得立てね、ちろちろと、\nけふも痛そに尾を彈く、\n黒く、かなしく、生いきと。\n\nおたまじやくしか、わがこころ。\n\n銀のやんま\n\n二人ある日はやうもなき\n銀のやんまも飛び去らず。\n君の歩みて去りしとき\n銀のやんまもまた去りぬ。\n銀のやんまのろくでなし。\n\nにくしみ\n\n青く黄の斑のうつくしき\nやはらかき翅の蝶を、\nピンか、紅玉か、ただひとつ、\n肩に星ある蝶を\n強ひてその手に渡せども\n取らぬ君ゆゑ目もうちぬ。\n夏の日なかのにくしみに、\n泣かぬ君ゆゑその唇に\n青く、黄の粉の恐ろしき\nにくらしき翅をすりつくる。\n\n白粉花\n\nおしろひ花の黒きたね\n爪を入るれば粉のちりぬ。\n幼なごころのにくしみは\n君の來たらぬつかのまか。\nおしろひ花の黄と赤、\n爪を入るれば粉のちりぬ。\n\n水蟲の列\n\n朽ちた小舟の舟べりに\n赤う列ゆく水蟲よ、\nそつと觸ればかつ消えて、\nまたも放せば光りゆく。\n\nいさかひのあと\n\n紅いシヤツ着てたたずめる\nTONKA JOHN こそかなしけれ。\n白鳳仙花のはなさける\n夏の日なかにただひとり。\n\n手にて觸ればそのたねは\n莢をはぢきて飛び去りぬ。\n毛蟲に針をつき刺せば\n青い液出て地ににじむ。\n\n源四郎爺は、目のうすき\n魚かついでゆき過ぎぬ、\n彼の禿げたる頭より\nわれを笑へるものぞあれ。\n\n憎き街かな、風の來て\n合歡の木をば吹くときは、\nさあれ、かなしく身をそそる。\n君にそむきしわがこころ。\n\n爪紅\n\nいさかひしたるその日より\n爪紅の花さきにけり、\nTINKA ONGO の指さきに\nさびしと夏のにじむべく。\n Tinka Ongo. 小さき令孃。柳河語。\n\n夕日\n\n赤い夕日、――\nまるで葡萄酒のやうに。\n漁師原に鷄頭が咲き、\n街には虎列拉が流行つてゐる。\n\n濁つた水に\n土臭い鮒がふよつき、\n酒倉へは巫女が來た、\n腐敗止のまじなひに。\n\nこんな日がつづいて\n從姉は氣が狂つた、\n片おもひの鷄頭、\nあれ、歌ふ聲がきこえる。\n\n恐ろしい午後、\nなにかしら畑で泣いてると、\n毛のついた紫蘇までが\nいらいらと眼に痛い。............\n\n赤い夕日、――\nまるで葡萄酒のやうに。\n何かの蟲がちろりんと\n鳴いたと思つたら死んでゐた。\n\n紙きり蟲\n\n紙きり蟲よ、きりきりと、\n薄い薄葉をひとすぢに。\n何時も冷たい指さきの\n青い疵さへ、その身さへ、\n遊びつかれて見て泣かす、\n君が狂氣のしをらしや。\n紙きり蟲よ、きりきりと\n薄い薄葉をひとすぢに。\n\nわが部屋\n\nわが部屋に、わが部屋に\n長崎の繪はかかりたり、――\n路のべに尿する和蘭人の――\n金紙の鎧もあり、\n赤き赤きアラビヤンナイトもあり。\n\nわが部屋に、わが部屋に\nはづかしき幼兒の\nゆめもあり、\nかなしみもあり、\nかつはかの小さき君の\nなつかしき足音もあり。\n\nわが部屋に、わが部屋に\n奇異なる事ありき、\nかなしきはそれのみか、\nその日より戸はあかず、............\nせんなしや、わが夢も、足音も、赤き版古も。\n\nわが部屋に、わが部屋に\n弊私的里の從姉きて\n蒼白く泣けるあり。\n誰なれば誰なればかの頭\n醫者のごと寄り添ひて眠るやらむ。\n\nわが部屋に、わが部屋に、\nほこらしく、さは二人。\n\n監獄のあと\n\n廢れたる監獄に\n鷄頭さけり、\n夕日の照ればかなしげに\n頸を顫はす。\n\nそのなかにきのふまで\n白痴の乞食、\n髮くさき女の甘き恐怖もて\n虱とりつる。\n\nある日、血は鷄頭の\n半開の花にちり、\n毛の黄なる病犬の\nひとり光ぬ。\n\nそののちはなにも見ず、\nかの犬も殺されて\nしどけなき長雨の\nふりつづく月はきぬ。\n\n廢れたる監獄に\n鷄頭咲けり、\n夕日のてればかなしげに\n頸を顫はす。\n\n午後\n\nわが友よ、\nけふもまた骨牌の遊びにや耽らまし、\nかの轉がされし酒桶のなかに入りて、\n風味よき日光を浴び、\n絶えず白きザボンの花のちるをながめ、\n肌さはりよきかの酒の木香のなかに日くるるまで、\nわが友よ、\nけふもまた舶來のリイダアをわれらひらき、\n珍らしき節つけて『鵞鳥はガツグガツグ』とぞ、そぞろにも讀み入りてまし。\n\nアラビアンナイト物語\n\n鳴いそな鳴いそ春の鳥。\n菱の咲く夏のはじめの水路から\n銀が、みどりが.........顫へ來て、\n本の活字が目に沁みる。\n\n鳴いそな鳴いそ春の鳥。\n赤い表紙の手ざはりが\n狂氣するほどなつかしく、\nけふも寢てゆく舟の上。\n\n鳴いそな鳴いそ春の鳥。\n葡萄色した酒ぶくろ、\n干しにゆく日の午後に\nしんみりと鳴る、櫓の音が.........\n\n鳴いそな鳴いそ春の鳥。\nネルのにほひか、酒の香か、\n舟はゆくゆく、TONKA JOHN\n魔法つかひが金の夢。\n\n 註 酒を搾り了れるあとの濕りたる酒の袋を干しにとて、日ごとにわが家の小舟は街の水路を上りて柳河の公園の芝生へとゆく。わが幼時の空想はまたこの小舟の上にて思ふさまその可憐なる翅をばかいひろげたり。\n\n\n敵\n\nいづこにか敵のゐて、\n敵のゐてかくるるごとし。\n酒倉のかげをゆく日も、\n街の問屋に\n銀紙買ひに行くときも、\nうつし繪を手の甲に押し、\n手の甲に押し、\n夕日の水路見るときも、\nただひとりさまよふ街の\nいづこにか敵のゐて\nつけねらふ、つけねらふ、靜こころなく。\n\nたそがれどき\n\nたそがれどきはけうとやな、\n傀儡師の手に踊る\n華魁の首生じろく、\nかつくかつくと目が動く............\n\nたそがれどきはけうとやな、\n瀉に墮した黒猫の\n足音もなく歸るころ、\n人靈もゆく、家の上を。\n\nたそがれどきはけうとやな、\n馬に載せたる鮪の腹\n薄く光つて滅え去れば、\n店の時計がチンと鳴る。\n\nたそがれどきはけうとやな、\n日さへ暮るれば、そつと來て\n生膽取の青き眼が\n泣く兒欲しやと戸を覗く............\n\nたそがれどきはけうとしやな。\n\n赤き椿\n\nわが眼に赤き藪椿。\n外の空氣にあかあかと、\n音なく光り、はた、落つる。\nいま死にのぞむわが乳母の\nかなしき眼つき............藪椿。\n\n醜き面をゆがめつつ\n家畜のごとく、はた泣くは、\nわが手を執るは、吸ひつくは、\n憎く、汚なく恐ろしき\n最愛の手か、たましひか。\n\nかの眼に赤き藪椿。\n小さき頭惱にあかあかと、\n音なく光り、はた、落つる。\n\n二人\n\n夏の日の午後............\n瓦には紫の\n薊ひとりかゞやき、\nそことなしに雲が浮ぶ。\n\n酒倉の壁は\n二階の女部屋にてりかへし、\n痛いやうに針が動く、\n印度更紗のざくろの實。\n\n暑い日だつた。\n默つて縫ふ女の髮が、\nその汗が、溜息が、\n奇異な切なさが............\n\n惱ましいひるすぎ、\n人形の首はころがり、\n黒い蝶の斷れた翅、\nその粉の光る美くしさ、怪しさ。\n\nたつた二人、............\n何か知らぬこころに\n九歳の兒が顫へて\nそつと閉めた部屋の戸。\n\nたはむれ\n\n菖蒲の花の紫は\nわが見物のこころかな。\nかつは家鴨の尻がろに\n水へ滑るは戲けたる\n道化芝居の女かな。\n軍鷄のにくきは定九郎か、\n與一兵衛には何よけむ。\nカステラいろの雛らは\nかの由良さんのとりまきか、\nぴよぴよぴよとよく歌ふ。\n禿げた金茶の南瓜は"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " さらにより大きな誤謬は、日本人の武士道に対する偏見である。確かに日本人の武士道は、社会の或る一部である、少数の武人の中に発達した。それは確かに著るしく、世界的に異常のものであるかも知れない。けれども一般の民衆は、この点の教養から除外され、全然武士道的な精神をもっていない。そしてまたこの点でも、日本人は世界的に著るしく、特殊な例外に属している。なぜならば西洋では、今日尚民衆がその「紳士道」を有している。そして紳士道は、正しく騎士道の変化であって、言わば資本主義の下に近代化した武士道であるからだ。然るに日本に於ては明治の変革と共に武士が廃り、同時に武士道そのものが消えてしまった。なぜなら日本の民衆は、この点での教養を過去に全く持たなかったから。日本の武士道は、少数の武士にのみ特権されて、西洋に於ける如く、平民の間に普遍してはいなかったのだ。\n 何故に日本では、武士道が普遍しなかったろうか。これ日本に於ける戦争が、古来すべて内乱であり、人種と人種との衝突でなく、少数武士の権力争いにすぎなかったからだ。これに反して外国では、戦争がすべて異人種との争いであり、負ければ市民全体が虐殺されたり、奴隷に売られたりされねばならなかった。故に支那や西洋では、都市がすべて城壁に囲まれており、市民は避けがたく戦争に参加した。のみならず一般の農民や民衆やも、常に外征に徴発され、兵士として戦場に送られねばならなかった。\n 故に西洋に於ては、武人的精神が早くから民衆の間に普及していた。農民や市民ですらも、その必然の経験からして、何等か武士道的な精神に触覚していた。これによって西洋では、封建社会の亡びた後にも、尚その騎士道の精神が、新しき紳士道の様式で遺伝された。実に西洋の文明は、近代のあらゆるデモクラシイと女性化主義にもかかわらず、その紳士道を尊ぶ精神からして、本質上でいかに貴族主義のものかが解る。これに反して日本は、封建と共に武士道廃り、平民の時代に入って全く貴族主義の精神を失喪した。今日の日本が言う「紳士」とは、気概なく品性なき、成金的醜劣の人物の称呼であって、西洋のゼントルマンと根本的に別種である。かくの如く西洋では、民衆一般が武士道的で、権力感的なるエピカルの精神を気質している。故にその文明の特色は、本質上に於て著るしく貴族主義である。試みに日本の音楽と西洋の音楽と、日本の歌舞伎劇と西洋の古典劇とを比較してみよ。音楽でも劇でも、すべての西洋のものは上品であり、気位が高く、権威感があり、何等か心を高く上に引きあげ、或るエピカルな、高翔感的なものを感じさせる。これに対して日本の音曲や演劇やは、どこか本質上に於て賤しく、平民的にくだけており、卑俗で親しみ易い感がする。特に日本に於ても、江戸時代の平民芸術はそうであり、卑俗感が特別に著るしい。中世以前に於ける武家文化や公卿文化の芸術は、その貴族的なことに於て、高翔感的なことに於て、西洋現代のものとやや一致している。\n 西洋文明の特色たる、この貴族主義的の精神は、必ずしも芸術ばかりでなくして、他のあらゆる文化一般に本質している。第一その科学、哲学、宗教、芸術等に於ける、西洋流の言語感そのものからして、何となく或る威厳的な、勿体ぶった、歴々のものを感じさせ、或る崇高な権威の方へ、意志を高く飛翔させる。そして古来の日本文化には、殆どこうした貴族感がないのである。特に江戸時代に於ては、芸術家が芸人の名で呼ばれたほど、文明の本質が非貴族感的となり、デモクラチックのものに沈下していた。今日西洋人の中にあっては、アメリカ人が最もデモクラチックである。――したがって日本人に最も接近させられる――であるけれども、彼等の極端なるジャズバンドの音楽でさえ、日本俗謡の八木節や安来節の類に比し、尚遙かに貴族感的で、どこかに*シルクハットや燕尾服を着たところの、儀礼正しき紳士道を聯想させる。\n こうした西洋の文化や文芸やが、日本に移植された場合に於ては、いつもその本質が変ってしまって、根本に於ける叙事詩的の精神を無くしてしまう。特に就中、文学はそうであって、明治以来、外国から移植された一切の文芸思潮は、一も日本に於て正解されないばかりでなく、文学そのものが変質して、全く精神の異ったものになってしまう。元来明治の文壇と称したものは、江戸末期に於ける軟派文学の継続であり、純然たる国粋的戯作風のものであったが、これが延長なる今日の文壇も、本質に於て昔と少しも変っていない。そこには何等叙事詩的の精神がなく、日本的のデモクラシイと、俳句趣味とがあるのみである。\n 一般の場合を通じて、西洋人は青年期に抒情詩を書き、中年期に入って叙事詩人となる。一方に日本人は、若い年の時代に歌人であり、やや年を取って俳人となる。然るに和歌と抒情詩とは本質に於てやや通ずるところがあり、等しく感傷主義のものであるから、日本人も和歌の作者である年齢には、大概世界的に進出するコスモポリタンであるけれども、これが後に俳句に入ると、純粋に島国的な日本人になってしまう。明治から最近に至るまで、一として文壇に変化がなく、少しく西洋に触れては日本にもどり、無限に同じことを反復しているのは、実にこの一事のためである。日本人がもし「俳句」を捨て「叙事詩」を取らない以上には、永遠に我々は伝統の日本人で、洋服をきた風流人にすぎないだろう。\n\n4\n\n 今や吾人は、最後の決定的な問題にかかっている。島国日本か? 世界日本か? である。前者だったら言うところはない。万事は今ある通りで好いだろう。だが後者に行こうとするのだったら、もっと旺盛な詩的精神――それは現在しないものを欲情し、所有しないものを憧憬する。――を高調し、**明治維新の溌剌たる精神を一貫せねばならないのだ。何よりも根本的に、西洋文明そのものの本質を理解するのだ。皮相は学ぶ必要はない。本質に於て、彼の精神するものが何であるかを理解するのだ。それも頭脳で理解するのでなく、感情によって主観的に知り、西洋が持っているものを、日本の中に「詩」として移さねばならないのだ。\n 何よりも我々は、すべての外国文明が立脚している、一つの同じ線の上に進出せねばならないのだ。そしてこの一つの線こそ、主観を高調する叙事詩的の精神であり、日本人が欠陥している貴族感の情操である。すべてに於て、我々は先ずこの文明情操の根柢を学んでしまおう。そしてこの同じ線の上から、あらゆる反対する二つのもの――個人主義と社会主義、貴族主義と民衆主義、理想主義と現実主義――とを向き合わせ、同一軌道の上で衝突させよう。実に吾人の最大急務は、西洋のどんな近代思潮を追うことでもなく、第一に先ず吾人の車を、彼等の軌道の上に持って行き、文明の線路を移すことだ。もしそうでない限り、日本にどんな新しい文芸も、どんな新しい社会思潮も生れはしない。なぜなら我々の居るところは、始めから文明の線がちがっているから。そして別の軌道を走る車は、永久に触れ合う機会がないのだから。\n いかに久しい間、この真実が人々に理解されず、徒労が繰返されたことであろうか。我々のあまりに日本人的な、あまりに気質的にデモクラチックな、あまりに先天的にレアリスチックな民族が、外国とはまるで軌道のちがった線路の上で、空しく他のものを追おうとして、目的のない労力をしたことだろうか。明治以来、我々の文壇や文明やは、その慌しい力行にかかわらず、一も外国の精神に追いついてはいなかった。逆に益々、彼我の行きちがった線路の上で、走れば走るほど遠ざかった。何という喜劇だろう! 実にこの無益にして馬鹿気た事実を、近時の文壇と社会相から、至るところに指摘することができるのだ。\n 吾人はこれを警戒しよう。あらゆる日本の文明は、軌道をまちがえたジャーナリズムから、逆に後もどりをしてしまうということを。例えばあの自然主義がそうである。我々の若い文壇は、これによって欧洲の近代思潮に接触し、世界的に進出しようと考えた。然るに何が現実されたか? あああまりに日本的に、あまりにレアリスチックに解釈された自然派の文壇は、外国的なる一切の思潮を排斥し、すべての主観を斥け、純粋に伝統的なる鎖国日本に納まってしまったのだ。もし日本に自然主義が渡来せず、過去の浪漫主義がそのまま延びて行ったら、すくなくとも、最近では、今少し世界的に進出していたであろう。我々は世界的に出ようとして、却って島国的に逆転された。\n 日本に於ては、いつもあらゆる事情がこの通りである。例えば西洋のデモクラシイが輸入されれば、一番先にこの運動に乗り出すものは、日本人の中での最も伝統的な、最も反進歩的な文学者である。なぜなら彼等はそれによって、自分自身に於ける国粋的な、伝統的な、あまりに日本人的な卑俗感やデモクラシイやを、新思潮のジャーナリズムで色付け得るから。最近の無産派文学や社会主義やも、多分これと同様のものであるだろう。彼等の中の幾人が、果して西洋の近代思潮や資本主義を卒業しているのだろうか。思うにその大部分の連中は、彼等自身に於ける、あまりに日本人的な卑俗感とデモクラシイとで、西洋文明そのものが本質している、資本主義の貴族感を嫌っているのか。\n かくの如くして日本の文化は、過去に一つの進歩もなく発展もない。あらゆる外国からの新思潮は、却って国粋的な反動思想家に利用され、文明を前に進めずして後に引き返す。されば日本に於ては、一の新しいジャーナリズムが興る毎に、折角出来かけた新文化は破壊されて、跡には再度鎖国日本の旧文化が、続々として菌のように繁殖する。そして永久に、いつまでたってもこの状態は同じことだ。いかに? 諸君はこの退屈に我慢ができるか。これをしも腹立しく思わないのか?\n あらゆる決定的の手段は一つしかない。文明の軌道を換えることだ。吾人の車を、吾人自身の線から外ずして、先方の軌道の上に持って行くのだ。換言すれば、吾人のあまりに日本人的なレアリズムやデモクラシイやを、断然として廃棄してしまうのだ。そして同じレアリズムやデモクラシイやを、西洋文明の軌道に於ける、相対上の観念に移して行くのだ。今、何よりも我々は詩人になり、生れたる貴族にならねばならない。先ず人間として、文明情操の根柢を作っておくのだ。そして後、この一つの線路の上に、あらゆる反対矛盾する近代思潮を走らせよう。自然主義も、民衆主義も、社会主義も、またこれに衝突する他方の思潮も、かくて始めて我々の内地を走り、日本が世界的の交通に出てくるだろう。今日の事態に於けるものは、すべて島国鎖国の迷夢であり、空の空たるでたらめの妄想にすぎないのだ。\n\n5\n\n 新日本の世界的創造は、決してこれより他にあり得ない。もし人々がそれを意欲し、自覚に於て進むならば、すくなくとも吾人の文化と芸術とを、新しき方向に向けることができるだろう。そしてこの時、日本の文壇も世界と同じく、詩人を尊敬して見るようになるであろう。なぜならば詩の本質は主観であり、かつ元来貴族的のものである故に、西洋文明の精神が潮流するところでは、詩は必然に先導に立ち、文学の一切を越えて崇敬される。然るに今日の我が文壇では、そのあまりに日本的なレアリズムから、主観が一切排斥され、そのあまりに日本的なデモクラシイから、貴族感的なるすべての精神が嫌われるため、詩は全く地位を得ることができないのだ。\n 吾人はかかる文壇を軽蔑しよう。詩人から文壇の方に降り、彼等に巻き込まれて行くのでなく、逆に文壇を吾人の方に、詩的精神の方に高く引きあげて教育しよう。でなければ永久に、我々の文化を世界的にすることはできないだろう。そして日本が世界的に進出した時、始めて我々の国語に於て、新日本の美や音律が生れるだろう。そこでこそ、始めて我々の「芸術」が創作され、真の意味での「詩」が出来てくる。今日ある事態のものは、未だ何等の意味での文明でもなく、芸術前派の日本にすぎない。況んや文明の花であり、国語の精華であるべき詩が、日本に現在すべき道理がない。我々はその道を造って行こう。\n"
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"role": "assistant",
"content": "我れは踏まれたる石なり\n家はその上に建つべし\n\n「詩人」という言葉は、我々の混沌たる過渡期にあっては、実の芸術家を指示しないで、むしろ文明の先導に立つ、時代の勇敢なる水先案内――航海への冒険者――を指示している。新体詩の当初以来、すべての詩壇が一貫してきた道はそうであった。彼等は夢と希望に充ち、異国にあこがれ、所有しないものへの欲情から、無限の好奇心によって進出して来た。彼等は太平洋の岸辺に立って、大陸からの潮風が吹き送る新日本の文明を、いつも時代の尖鋭に於て触覚していた。そしてこの島国をあの大陸へ、潮流に乗って導こうと考えていたところの、真の夢想的なる、青春に充ちたロマンチストの一群だった。\n しかしながらこのロマンチストは、我々のあまりに現実主義的なる、あまりに夢を持たない俗物の文壇から、常に冷笑の眼で眺められ、一々侮辱されねばならなかった。実に新体詩の昔から、我々はこれを忍んできた。そして恐らく、今後も尚忍ばねばならないだろう。けれども時がくる時、いつかは文壇にもイデヤが生れ、さすがに現実家なる日本人も、何かの夢を欲情する日が来るであろう。我々はその日を待とう。そしてこの新しい希望の故に、尚かつ我々の未熟な詩を書いているのだ。もしそうでなかったら、今日のような国語による、西洋まがいの無理な自由詩など作らないで、芸術としてずっと遙かに完成されたる、伝統詩形の和歌や俳句を作るだろう。我々はだれも、今日の詩が芸術としての完成さで、和歌俳句に及ばないことを知りきっている。しかし我々の求めるものは、美の完成でなくして創造であり、そして実に「芸術」よりも「詩」なのである。\n 詩! 我々はこの言葉の中に響く、無限に人間的な意味を知っている。そこには情熱の渇があり、遠く音楽のように聴えてくる、或る倫理感への陶酔がある。然り、詩は人間性の命令者で、情慾の底に燃えているヒューマニチイだ。我々はそれを欲しても欲しないでも、意志によって駆り立てられ、何かに突進せねばならなくなる。詩が導いて行くところへ直行しよう。\n\n\n\n* 活動写真を見る時、いつも西洋について面白く思うことは、一方に絹帽や礼服をきた紳士が居り、一方に破れ服の貧民や労働者が居ることだ。日本にはこの対照がなく、どれを見ても大同小異の階級者が、デモクラチックに均一して銀座通りを歩いている。こんな単調でつまらない社会は、おそらく世界のどこにもあるまい。\n** 明治初年の日本――それは進歩思想を有する武士階級の青年によって統治された――は、近代に最も光彩ある、最も大胆自由の社会だった。彼等のロマンチックな為政者等は、一時仏蘭西の共和政体を日本に布こうとさえ考えた。\n\n 所謂プロレタリア文芸の運動は、そのあらゆる稚態と愚劣にかかわらず、本質に於て日本の文壇を正導すべき、一の純潔なヒューマニチイを有している。著者はこの点だけを彼等に買ってる。過去の白樺派の人道主義が、やはりこれと同様だった。すべてこれ等の文学は、未だ自然主義の懐疑時代を通過していない。無産派も白樺派も、無邪気な楽天的感激主義の文学であり、遠く浪漫主義発生前派の者に属する。しかも日本にあっては、何よりもこの「浪漫派前派の精神」が必要なのだ。一切の文明と芸術とは、このアルファベットの第一音から、改めて建設されねばならないのだ。\n\n\n\n\n『詩の原理』の出版に際して\n\n\n 誤解ということは、どんな場合にも避けがたいことである。だが僕の詩論のように、一般からひどく誤解され、見当違いの反駁や抗議を受けたのはすくなかろう。ずっと先年来から、僕は旧「日本詩人」及び「近代風景」誌上で、自分の自由詩論を発表して来た。もとより断片のものであり、体系ある論文ではないけれども、自分としては常に一貫して、主旨のあるところを略説したつもりであった。\n ところが僕の自由詩論は、諸方でいろいろな人から反駁と抗議を受けた。今記憶している限りでも、すくなくとも五人の詩人が、公開の紙上で僕の詩論に挑戦している。僕は常に注意して、これ等の人の議論を読んでる。にもかかわらず、かつて一度もこれに対し、自ら弁明したことがない。僕の論敵に対する態度は、常に一貫して沈黙――黙殺とは言わない――である。何故だろうか? すべての挑戦者等が、思想の立脚する根本点で、僕をまるきり誤解しているからである。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "是れは實驗の結果ではなくして、唯、學究的の觀察に過ぎぬのであります。\n\n\n\n 一 苦に對する三種の態度\n\n 苦を脱するために苦に對する我々の態度に大凡三種の別があるだらうと思はれます。第一は苦をあきらめるのである。第二は苦と健鬪するのである。第三は苦を樂觀するのである。\n 途中で不意に風雨に遭ふ。傘はなし。雨宿りすべき家もない。立寄るべき樹陰もない。かういふ場合に、先づ、切りに愚痴をこぼして、恨んで甲斐もない天を恨むなどは到底苦を脱する所以ではないのであるが、其外に、一旦は、これは困つたことになつたと思ひながら、又忽ちに思かへして、まあまあ𢌞り合せが惡るかつたのだから仕方がないといふ風にあきらめて、濡れながらぽつぽつ歩くといふのは第一に屬するものであります。併しながら、我々は又、時としては、殊更に困難と健鬪して見たいといふ樣な氣を起して、履物でも脱いで、尻でも高く端折つて、強て風雨を衝て駈出して大に痛快を覺ゆるといふ樣なこともある、是れは第二に屬するのであります。又、在り合せの蓮の葉でもちぎつて頭にかぶり、自ら畫中、詩中の人となつて、是れも風流だといふ風に、苦の根本たる風雨を美化し、樂觀するのは第三に屬するのでありませう。\n 非常の貧苦に迫るとか、非常の不幸に遭遇するとか、非常の迫害に出遭ふとかいふ場合に當て、一旦は神の正義を疑ひ、佛の慈悲、聖母の愛を疑ひ、天道の是非を疑ふて、人を怨み天地を恨むといふ樣なことは、時に人情避くべからざることではありますが、併しながら、是れは到底苦を脱する所以ではない。夫れで、我々は是れを因縁事とあきらめる、是れは第一である。一つ大奮發をやつて、息の續く限り、此貧苦、此不幸、此迫害と健鬪して見んとする、是れは第二である。尤も此場合では、苦と健鬪して苦の原因を絶つた時にも勿論苦を脱することが出來るのでありますけれども、此第二の場合は决して之を指すのではなくして、其健鬪の瞬間に於ける脱苦の状態を指すのであります。又、疏食を食ひ、水を飮み、肱を曲げて枕にす、樂亦其中に在りといふ風に、貧苦を美化し、或は、若し我配處に赴かずんば何を以てか邊鄙の群類を化せんと言つて、迫害を樂觀し、或は其中に一種の意義を認むる樣なのは第三である。\n 第一も第二も、畢竟、苦の避くべからざること、已むを得ざることを觀ずるといふ點に於ては同一であるけれども、前者は受動的であつて、後者は能動的である。前者は苦を因果と觀じ、後者は之を義務と觀ずる。尤も、此因果の觀念と義務の觀念とは、人により、場合により、明亮に意識上に現はれて居ることもあり、又は現はれて居らぬこともあるけれども。第一は、苦を因果と觀じ、自己は徹頭徹尾受動的の態度を取つて、全然苦に服從するのである。苦に服從するといへば、未だ苦を脱して居らぬ樣にも聞ゆるけれども、左樣ではない。苦なるものはもと精神の攪擾、不均衡に基くのであるから、此絶對的服從によつて我々の精神は平和と均衡とを囘復し、以て苦を脱することが出來るのであります。第二は、苦を義務と觀じ、自己は徹頭徹尾能動的の態度を取つて、思切つて此何れ果さゞるべからざる義務たる苦を果し、此苦と健鬪するのである。苦と健鬪するのであるから、未だ苦を脱し得ぬのである樣にも思はるゝが、决して左樣でない。凡ての活動には快樂を伴ふものであるから、此自己の能動的活動によつて起る快樂によつて苦に打勝ち、苦を征服することが出來、之に依て苦を脱することが出來るのである。第三に到ては、斯る受動若くは能動の道行きを經ずして、直接に苦若くは苦の對象其物を樂觀して苦を忘るゝのである。勿論此場合とても、其苦に逢着した刹那に於ては、苦であるには相違ない、けれども、上に述べた樣な手段によらずして其次の刹那には直ちに此苦若くは其對象を樂化してしまふのである。第一と第三とは、共に第二の樣に動的でなくして靜的であるといふ點に於ては同一であるけれども、前者は苦或は苦の對象其物には毫も美や、樂や、意義を認めぬのである。後者は、苦若くは苦の對象其物に、美や、樂や、意義を認むるのである。であるから、前者の樂は消極的であつて、後者の樂は積極的である。又、第二と第三とは、第一の樣に受動的でなく服從的でないといふ點に於ては一致して居るけれども、前者は排他的の態度を以て苦に對し、後者は包容的の態度を以て之に對するのである。前者は苦に對して戰鬪の姿勢を取り、後者は之に對して平和の姿勢を取る。而かも其平和は决して第一の樣に服從的の平和ではない。\n 勿論、此三者は、唯、抽象の結果、類型的の形を示したものに過ぎませんから、個々の具象的の塲合に於ては此中間の形があつて、三者中の孰れに屬するか分らぬものが多く、又一人の人で、場合によつて、甲の類型に依ることもあれば、乙の類型に依ることもあるといふ樣なことは必ずあるに相違ありませんが、併しながら、個々の具象的の塲合に於て、何れの要素かゞ多量を占め居るとか、又は、人によつて重もに何れかの類型によるといふ樣なことは必ず言ひ得るに違ひないと思ひます。\n 又、あきらむるにせよ、健鬪するにせよ、樂觀するにせよ、已にあきらめ、健鬪し、樂觀することゝなつた以上は夫れは最早苦ではないのであるから、其結果から言へば三者共に樂觀するといふことになるかも知れませんけれども、併しながら、其苦に逢着した刹那に於ける精神の状態と、其結果に到着するまでの道行きとは隨分ちがつて居ります。尚又一歩を進めて言へば、其所謂結果と稱するものにても、嚴密に言へば决して純粹に快樂の感情のみではなくして、苦と樂とが律動的に交替起伏して居るのでありますから、此苦樂の律動の交替の間に於ても、尚ほ、前に擧げたる三個の類型中の孰れかゞ、全くか、若くは重もにか、働いて居るには相違ないのでありますから、結果其物も亦三樣の類型に區別さるゝのであります。\n\n 二 惡に對する三種の態度"
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"role": "assistant",
"content": "\n 大そうヘーゲル流になりますが、惡或は罪に對する我々の態度も亦、上に述べた處と同樣、三種の類型がある樣に思はれます。第一は、どうせ罪惡は不完全の人生に避くべからざるものであるから致方がない、不滿足ではあるが、先づ〳〵大目に看て置くより外はないといふのである。第二は、自分の主義と相容れぬものに對しては飽くまでも嚴肅の態度を取り、罪惡と健鬪するのである。第三は罪惡其物に一種の意義を認め、ユーモア的に罪惡を視るのである。\n 第一と第二とは、共に、惡は厭くまでも惡として視るのであつて、毫も之に意義を認むるものではない。此點に於ては兩者共に一致するのであります。併しながら、前者は受動的で後者は能動的である。前者は罪惡を看過し、後者は之を打破せんとするのであります。第一と第三とは、共に、惡に對して寛容の態度を取つて居る點に於ては同一であるけれども、前者は冷淡に寛容の態度を取り、後者は好意的に寛容の態度を取るのである。前者は reluctantly に罪惡を許し、後者は willingly に罪惡を許す。前者は罪惡に何等の意義をも認めて居らぬけれども、後者は之に何等かの意義を認めて居る。又、第二と第三とは、罪惡に對して無頓着の態度を取らぬといふ點に於ては一致して居るけれども、前者は敵愾心を以て之に對し、後者は同情を以て之に對する。前者は戰士として罪惡に對し、後者は慈母として之に對する。\n 偖て、苦及び惡(兩者を兼ねたる語を用うれば、禍惡、evil 或は Übel)に對する態度に上に擧げた樣な三種の類型があることを許しまして、此處に、宗教上哲學上などの偉人の性格や思想に矢張り各此類型を代表するものがあると思ふのであります。\n\n 三 三種の禍惡に該當する宇宙觀\n\n 前に述べたる禍惡に對する三種の態度を我々は、便宜上、順次に知的、意的、情的と呼んでよかろうと思ひます。\n 第一の禍惡觀は重もに學理的の徑路だけを履んで到達することが出來る。樂であれ、苦であれ、善であれ、惡であれ、一切の事象は避くべからざることであること、必然の理法によつて起るのであつて、悶へても、祈つても詮ないことであるといふことを悟れば足るのであります。此苦とか、樂とか、善とか、惡とかゞ、皆な何等かの意義を有して居るものであるといふ觀念と、從つて、我々は自ら進んで禍惡と戰ひ、苦を冒し(第二の禍惡觀)若くは、歡喜の情を以て禍惡其物を美觀樂觀せねばならぬ(第三の禍惡觀)といふ樣な觀念は無いのである。第一の禍惡觀は、宇宙秩序に目的といふものを認めずとも成立つものである、換言すれば純粹の非目的論的宇宙觀、機械論的宇宙觀の上に於ても成立つものである。乍併、第二、第三の禍惡觀は非目的論的宇宙觀の上には决して成立つものではない、宇宙秩序に、何かの目的、何かの意義を認めた上でなければ决して成立つものではない。宇宙秩序に目的、意義を認むるは知性の仕事でなくして情性(Gemüt)の仕事である、頭腦の仕事でなくして心胸の仕事である、從つて學理上の要求でなくして倫理上若くば宗教上の要求である。\n 古來、目的論を否定しながら、第二、第三の禍惡觀を立てた哲學者はあるが、是れは論理的には决して成立つものではない。哲學上の非目的論的宇宙觀と、倫理上、宗教上の目的論的禍惡觀との間には論理的の連鎖は到底ないのであります。\n 今之を上古の哲學者中に求むれば、原子論者の始祖たるデーモクリトスは其適例でありませう。デーモクリトスは先づ機械論的非目的論的宇宙觀の主唱者の好代表者であると言つて宜しい。彼れは、當時の目的論者、否な目的論的世界觀の始祖と言はるべきアナキサゴラスが「ヌース」の原理を立て、宇宙秩序を以て『目的』『設計』に基いて成立つて居るとしたのに徹頭徹尾反對して、原子の瞽盲的、機械的の運動によつて一切を説明したるものである。是れが即ち彼れの宇宙觀であります。然るに其禍惡觀はどうであるかといふに、彼れは斯ういふことを言つて居る。天地を支配するものは、必然の法則、至上、非人格的、無偏頗の必然の法則である。等しく一切の事物を支配する此法則に我々は歡喜の情を以て服從せねばならぬと言つて居ります。\n 乍併、一切の事象は必然の法則に據つて起るといふことゝ、歡喜の情を以て之に服從せねばならぬといふことゝの間には决して論理上の關係はない。必然の法則であるといふ前提のみにて、必ずしも、歡喜の情を以て之に服從せねばならぬといふ歸結は出て來ません。已むを得ぬことであるから之に服從するは已むを得ぬことであるとは言ふことが出來るけれども、歡喜の情を以て服從せねばならぬとは論理上よりは言へぬ。\n 尤も、第一の禍惡觀にしても、其一旦禍惡に服從し、禍惡をあきらめたる結果として、精神の均衡平和を得、或は歡喜の情を起すことあるべきは前にも述べた通りでありますけれども、歡喜の情を以て禍惡に對すると、受動的に禍惡をあきらめたる結果として歡喜の情を起すとは大に趣きを異にして居ると言はねばなりません。\n スピノーザも亦徹頭徹尾目的論を否定した學者であつて、而かも一方に於ては第三の禍惡觀を取つた人であります。氏の本体は徹頭徹尾無規定のものであつて、毫も『善』といふ着色を帶びて居らぬものでありますが、而かも結末に行くといふと、所謂『神の知的愛』といふことを言つて居る。但し、氏は、其所謂『知的の愛』といふものは通常の愛とは異なるものであつて、唯、一切の事象は神の必然の變態として起るものであるといふことを明むるにあるといふことを、再三、再四、反復して言つては居りますけれども、單に知的の面よりして一切の事象の已むべからざることを知つたからといつて、歡喜の情を以て之に服從することが出來るや否やは疑問である。少くとも其間に論理上の關係のないことは前に述べた通りであります。已むを得ざることなれば必ず willingly に服從せねばならぬといふ理窟はない。等しく服從するとしても、willingly に服從することもあれば、reluctantly に服從することもある。スピノーザの本体の觀念と『神の知的愛』との間には矛盾はないとしたところが、乍併又論理上の必然の關係もないと言はねばなりません。勿論『愛』といふ語を、唯、云々の事を知り明めるといふ意に使つたとすれば、差支はないが、乍併、此の如き『愛』は所詮非心理的であることを免れません。若し之を以て『神の知的愛』と言ふことが出來るとすれば、今日の自然科學者は悉く此境界に到達して居ると言つても差支ないのであります。而して言論の上のみのスピノーザを見ずして其全人格を見る時は、氏が体達して居つた『知的愛』も亦决して此の如きものではありません。氏が其哲學上の汎神論の立脚地よりして、成立宗教の人格神の觀念を排斥し、成立宗教の所謂『神の愛』を否定し、祈祷を聽き因果律を左右するといふ樣な擬人神の觀念を打破したのは非常の効績と言はねばなりません。是れ即ち氏が知の方面の偉大なるを示すものであります。乍併、此汎神論と『神の知的愛』との間には論理的の必然の關係は無い。氏は純粹なる學理の一方よりして、其本体を何等の規定も着色もなきものとしながら、而かも一方に於ては情性の要求よりしては、不知不識の間に『善』といふ着色を與へて居るものと言はねばなりません。少くとも、本体に『善』といふ着色を與へなければ、其本体論の後件として氏の禍惡觀は出て來ぬと言つて宜しいのであります。而かも、此論理的の關係の無い處に『神の知的愛』を唱ふるところが又氏の人格の偉大なる所以であります。若し是れが無つたならば、氏は單に一個の學者としてえらいのみであつて、完全な人としてえらいとは言はれません。此點は實に、氏が單に知性の人として卓越な學者であるのみならず、情性の人として卓越して居ることを示すものであらうと思ふのであります。\n 以上は、單に宇宙觀の性質上より言へば論理上决して第一の禍惡觀以上に出ることの出來ぬものが、不知不識の裡に第三の禍惡觀を取れるものゝ例でありますが、又其宇宙觀の性質上より言つて第三の禍惡觀とよく契合して居るものもあります。是れは即ち、知の要求に基ける實在の觀念と情性の要求に基ける『善』の觀念とを一緒にしたものであつて、プラトーンの世界觀などは即ち其一例であります(但しプラトーン自身は現實界と實在界とを峻別した結果として第三の禍惡觀を取つては居らぬけれども)。一切の事象は『善』の觀念に規定されて居るといつて初めて歡喜の念を以て之に服從せねばならぬといふことが起るのである。此塲合に於ては、實在其物が、デーモクリトスの原子の樣に瞽盲的のものでなく、又スピノーザの本体の樣に無色無規定のものでなく、『善』といふ目的論的の着色を帶びて居るのであるから、我々と實在との間に人格的の關係(但し、前に述べた成立宗教の所謂人格的の關係とは異なる)が成立つて、一切の事象を歡喜の情を以て迎へねばならぬといふことが起るのであります。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " それだけで、又六からも、お吉からも、小坊主からも、なんとも音沙汰がないのに、夜はようやく更けてゆき、主膳はいよいよ眼が冴えかえって眠ることができません。\n まよなかとおぼしい時分に、障子と廊下をへだてた雨戸がホトホトと鳴る。\n「神尾の殿様」\n 呼ぶ声で、主膳がハッと驚かされる。空耳ではなかったかと疑いながら、音のした方へ眼をつけて、\n「誰じゃ」\n「殿様、百蔵でございます。ちょっとここをおあけなすって」\n 図々しい奴、しつこい奴、会いたくもない奴。しかし、こうして寝込みを襲われてみれば、主膳もだまってはおられない。\n「何しに来た」\n「殿様、お迎えに上りました。といいましても今晩のことではございません、どのみち、殿様に再び世に出ていただかなければならない時節になりましたから、そのお知らせかたがた......ちょっと、ここをおあけなすっていただけますまいか」\n\n 二十八\n\n 房州の洲崎で船の建造に一心を打込んでいた駒井甚三郎――その船は、いつぞや柳橋の船宿へ、そのころ日本唯一の西洋型船大工といわれた豆州戸田の上田寅吉を招いて相談した通り、シコナと千代田型を参考にして、これに駒井自身の意匠を加えた西洋型。長さ十七間余、幅は二間半、馬力は六十。仕事は連れて来た寅吉の弟子二人と、附近の漁師の若い者が手伝う。\n 終日、工事の監督に身を委ねていた駒井能登守――ではない、もう疾の昔に殿様の籍を抜かれた駒井甚三郎。夜は例によって遠見の番所の一室に籠って、動力の研究に耽っている。\n 八畳と六畳の二間。六畳の方の一間が南に向いて、窓を推しさえすれば海をながめることができるようになっている。床の間に三挺の鉄砲、刀架に刀、脇差、柱にかかっている外套の着替、一隅には測量器械の類。机腰掛に陣取っている駒井甚三郎の髪を分けたハイカラな姿が、好んで用うる白くて光の強い西洋蝋燭の光とよくうつり合っていることも、以前に変りません。\n 駒井甚三郎は、いつもするように研究に頭が熱してくると、手をさしのべて、窓を推し、海の風に疲れた頭を吹かせる。\n 番所の目の下は海で、この洲崎の鼻から見ると、内海と外洋の二つの海を見ることができる。風凪ぎたる日、遠く外洋の方をながめると、物凄き一条の潮が渦巻き流れて伊豆の方へ走る。漁師がそれを「潮の路」と名づけて畏れる。外の洋で非業の死を遂げた幾多の亡霊が、この世の人に会いたさに、はるばると波路をたどってここまで来ると、右の「潮の路」が行手を遮って、ここより内へは一寸も入れない。さりとて元の大洋へ戻すこともようしない。その意地悪い抑留を蒙った亡霊共は、この洲崎のほとりに集まって、昼は消えつ夜は燃え出して、港へ帰る船でも見つけようものならば、恨めしい声を出して、それを呼びとめるから、海に慣れた船頭漁師もおぞけをふるって、一斉に櫓を急がせて逃げて帰るという話。\n そのころの最新知識者であり、科学者である駒井甚三郎が、今宵はその亡霊に悩まされているというのは不思議なことです。駒井は今日このごろ頭が重く、何かの憂いに堪ゆることができない。憂いが悲しみとなって、心がしきりに沈んで行くのに堪えることができない。窓を推して見ると、亡霊の海波が悲愁の色を含んで、層々として来り迫るもののようです。潮流は地の理に従って流るべき方向へ流れているに過ぎないし、詩人でない駒井は、「そぞろに覚ゆ蒼茫万古の意、遠く荒煙落日の間より来る」と歌うことも知らないから、\n「おれは今、何を憂えているのだろう、何が今のわが身にとって、この憂いの心をもたらす所以となっているのだ、わからない」\n 人間と交渉を断って、科学と建造に他目もふらぬ今の生涯には、過去は知らないが、少なくとも今の生涯には、自分として多くの満足を見出せばとて、悔いを残してはいないはずだ。悔いのないところに憂いのあるべきはずはなかろう。今、不意にこうして骨髄をゆすりはじめた憂愁の心は、その出づるところがわからない。\n ただ一つ、ここへ来て以来、時あってか駒井の心を憂えしむるものは、最初につれて来た船大工の清吉の死があるばかりだ。無口で朴直なあの男、寝食を共にしていたあの男の行方が、今以て不明である――女軽業のお角という女を平沙の浦から救い出して、ここの生活に一点の色彩を加え出したと同時に、清吉の行方が不明になった。\n その事が、時あって駒井甚三郎の心を、いたく曇らすのだが、今宵の淋しさはそれとはまた違う。\n 人間のたまらない淋しい心は、その拠るところから切り離された瞬間に起る。その魂が暫し足場を失って、無限の空間へ抛り出された時に起る悲鳴が、即ち淋しい心である。よしそれほどでないにしても、憂悶は詩人のことで、悔恨は求道者の段階で、現実と未来に執着の強い科学者が、瞬間に起伏する感情の波に揺ぶられるのは恥辱である。\n 駒井甚三郎は、自覚しないうちに、そういうふうに感情を軽蔑したがる癖がないとは言えない。今、自分の心のうちに起っている骨髄に徹る淋しい心。その湧いて出づるところをたずねて茫然として何の当りもつかない。地震と海嘯は人間に予告を与えずして来るが、ただ人間がその予告を覚知するまでに進歩していない分のことで、地殻の欠陥がおのずから、地の表面へそういう結果をもたらすに過ぎない、といったように、駒井甚三郎は、おのずから湧き起った心をよそからながめて、批判の態度を取ろうとする。\n 心の屈托を医するためには、駒井はいつも遠く深く海をながめるのを例とする。海をながめているうちに、この人の頭に湧き起る感情は、未来と前途というところから与えられる爽快な気分です。それと共に、現在の「船を造る」という仕事が、勢いづけられて、すべての過去と現在とを圧倒してしまうのを常とする。わが手で、わが船を造り出して、この涯りなき大洋を横ぎって、まだ知られざる国に渡り、その風土と文物とを究め尽したいという欲望。今や国内の人が、その封土の間に相争っている時に、この封土以外の無限の広大な天地に、無究の努力を揮うことの愉快。それを想うと駒井は、自分というものに翼を与えて、天空の間を舞い、海闊の間を踊り、過去と境遇の立場を、すっかり振い落してしまう。\n そこでこの人は、物の力の絶大なることに驚喜する。物の力を極度まで利用することを知っている西洋人の脳の力に驚嘆する。西洋文明の粋を知ること漸く深くなって、好学の念がいよいよ強くなる。学べば学ぶほどに、彼我の文明の相違の著しいことがわかる。将来の文明は機械の文明であって、当分の日本の仕事は、まず以てその機械の文明を吸い取ることだ。これより以上の急務はない――そうしてこの自分の「船を造る」という仕事が、一歩一歩とその理想に近づくことにおいて、今の日本の誰もが気のついていない仕事、気がついていても進んでこれに着手している人のない仕事、それがただ自分の手によってなされつつあるという自負心が、どのくらい駒井の心を高めるか知れない。\n しかし、今宵だけは、どうしてもその前途と未来の空想に浸りきって、我を忘れることができない。\n「金椎、金椎」\n 駒井は何と思ったか、珍しい人の名を呼んでみましたが、返事がないので気がついた様子で、「そうか」と苦笑いをしながら立って、廊下伝いに足を運んで行きました。\n 事務室とも、小使室ともいうべき板張りの床、同じように机、腰掛で蝋燭の火に向い、しきりに書を読んでいる少年。それは頭を芥子坊主にして支那服を着ている。駒井が扉をあけて入って来ても、この少年はいっこう驚かず、うしろをも向かずに、机に向って書を読み耽っている。\n「金椎」\n 後ろから肩を叩いて名を呼んだので、はじめて少年はびっくりして、駒井の面を見上げました。\n 駒井は、相変らずやっているな、という表情で少年に向い、有合わせのペンを取って紙片に「紅茶」と記すと、少年は頷いて、今まで繙いていた一巻の冊子をポケットの中に納めながら、椅子を立ち上ります。\n その時に、駒井は同じ紙の一端にペンを走らせて、「ソノ本ヲ少シ貸シナサイ」――ポケットの中に納めかけた一巻の書を、少年はぜひなく引き出して駒井の前に提出すると、それを受取った駒井は、\n「有難う」\n これは言葉で挨拶する。少年はそのまま勝手元へ行ってしまい、同時に駒井もその部屋を立って自分の部屋へ帰って、少年の手から借りて来た書物を二三頁読み返していると、以前の少年が温かい紅茶を捧げてやって来ました。"
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"role": "assistant",
"content": "「君もそこへ坐り給え」\n これも同じく口でいって、椅子の一つを少年に指さし示すと、卓の上に紅茶をさしおいた少年は、心得て椅子に腰を卸しました。つまり二人はここで相対坐の形となりました。\n「君も一つ」\n 紅茶の一杯を少年に与えて、自分はその一杯を啜りながら、この少年を相手に閑談を試みんとする。少年は、すすめられるままに推戴いて、その紅茶の一杯に口を触れ、神妙に主人の眼を見ていると、駒井甚三郎は以前の一巻の書物を取り出して、左の片手に持ち、右の手は鉛筆を取って卓の上のノートに置くと、少年はその鉛筆に向って熱心に眼を注ぎます。その時、駒井は鉛筆をノートの上に走らせて、\n「基督ハ何国ノ人?」\nと書き記すと少年は眼をすまして、\n「ユダヤいう国、ベツレヘムいうところでお生れになりました」\n これは訛りのある日本語です。駒井は続いて紙の上に、\n「生レタノハ何年ホド昔」\n「千八百――年、西洋の国では、その年が年号の初めです」\n「ソレデハ基督ハ西洋ノ王様カ」\n「いいえ」\n「ソレデハ猶太ノ王様カ」\n「いいえ」\n「ソレデハ基督ハ何者ノ子ダ」\n「大工さんの子であります」\n「大工ノ子。ソレデハ西洋デハ、大工ノ子ノ生レタ年ヲ、年号ノ初メニスルノカ」\n「左様でございます」\n「基督トイウ人ハ、ソンナニ豪イ大工デアッタノカ」\n「大工さんの子としてお生れになりましたけれども、基督様は救世主でございました、神様の一人子でございました」\n「神様ノ一人子トハ?」\n「神様が人間の罪をお憐みになって、その一人子を天からお降しになって、人間の罪の贖いをなされました。それ故、基督様は十字架につけられて、人間の罪の代りに殺されておしまいになりました救世主でございます。この救世主によらなければ、人間の罪は救われませぬ。救世主のお生れになった年ですから、この世の年号の初めとするのがあたりまえでございます」\n 駒井が鉛筆で問うことを、少年は口で明瞭に答えるところを見ると、この少年の耳は用を為さず、口だけが自由を有する少年、つまり唖ではないが、聾でありました。\n 駒井は次に何を問わんかとして、鉛筆を控えて、その問い方に窮したのです。そのころ第一流の新知識としての駒井が、西洋諸国がことごとく耶蘇紀元を用いていることを、事新しくこの少年に向って問わねばならぬ必要はない。といって、知っているようで知らないのは自分の知識である。いちいち明瞭に答えられてみると、閑談のつもりで相手にしていた相手から、かえって自分が苦しめられるような結果になる――つまり、赫々たる功業もなく、帝王の家にも生れなかった、大工の子の生れた時から、西洋の歴史が始まるという、この単純な事実の解釈が、どうしても駒井の頭で消化しきれなくなったのです。\n 駒井甚三郎が金椎を手許に置くようになった因縁をいえば、過ぐる月、駒井はひとりで鳥銃を荷って、房州の山々をめぐり、はしなく清澄の裏山へ出て、そこで一羽の雉を撃ちとめたところから、寺の坊主の怒りを買い、烈しく責められてもてあましているところへ、山下の鴨川出身の大六の主人が参詣に来合わせて、駒井のために謝罪してことなくすんで後、駒井は大六の持船天神丸に同乗して、小湊からこちらへ送り届けられたことがあります。その時の船の中で、はしなく眼に留まったのが、右の支那少年の金椎でありました。\n 大六というのは、房州鴨川の町の出身で、最初日本橋富沢町の大又という質屋へ奉公し、後、日本橋新泉町に一本立ちの質屋を出して大黒屋六兵衛と名乗り、ようやく発展して西洋織物生糸貿易にまで手を延ばし、ついに三井、三野村、井善、大六と並び称せらるるほどの豪商となり、文久三年、伊藤俊輔、井上聞多、井上勝、山尾庸三らの洋行には、この人の力与って多きに居るという話です。\n 大六は、当時失意の境遇にあるこの人材、駒井能登守を自分の顧問に引きつけたならば、大した手柄だと思いましたけれど、別に志すところのある駒井はその話には乗らずに、同じ船の一隅でマドロスの服を着けて、帆柱の蔭で福音書を繙いている異様な支那少年の挙動に目を留めました。物を問いかけてみて、この少年が聾であることを知り、筆談によって、その名の「金椎」であることを知り、なお筆談を進めて行って、ウイリアム先生というのから受洗した耶蘇の信者であることを知り、本来の支那語と、多少の英語と日本語とを解することを知り、それを奇とするの念から、大六に請うて貰い受け、自分の助手として使っているわけです。\n 駒井と同居することになって後のこの少年の挙動は、船の時と同じことで、命ぜられた仕事の合間には、手ずれきった一巻の福音書を離すことなく、繰り返し繰り返ししている。日本の武士が刀剣に愛着すると同じように、この一巻の福音書に打込んでいる少年の挙動を、駒井は笑いながら見ていました。\n「私が耶蘇になったといって、私を憎んで殺そうとしましたから、私、海を泳いで日本の船へ逃げ込んで、ようやく助かりました、その時、海の水で本がこの通りいたんでしまいました」\n 手ずれきった革表紙を繙いて、頁のしみだらけになったところを駒井に見せて金椎が説明する。\n 明けても暮れても一巻の福音書にうちこんでいる体を見て、駒井はそぞろに微笑を禁ずることができなかったけれども、その微笑は冷笑ではありません。\n 別に、駒井自身は、科学者としての立派な見識を持っている。その見識によって迷信屋を憐れむだけの雅量をも備えているつもりである。あらゆる信心は、みな迷信の一種に過ぎないものとの観察を持っている。法華経を読めといわれて読んでみたこともあるし、耶蘇の聖書も、その以前、一通りは頁を翻えしてみたこともあるにはあるが、全然、空想と誇張の産物で、現実を救うに夢を以てするようなもの――要するに、過去と無智とが産んだ正直な空想の産物と見ておりました。\n 物と力を極度に利用する西洋の学問に触れてから、一層その念が強くなって、神仏の信仰は文明と共に消滅すべきもの、消滅すべからざるまでも識者の問題にはならないはずのものと信じていたところ、その西洋諸国が一斉に、耶蘇というエタイの知れぬ神様の生誕を紀元とするという矛盾に、なんとなく、足許から鳥が立った思いです。\n 駒井甚三郎が、耶蘇の教えを、もう少しまじめに研究してみようとの心を起したのは、この時からはじまります。\n 翌朝、例によって金椎の給仕で――この少年は支那料理のほかに、多少西洋料理の心得もあります――朝餉の膳に向うと、造船小屋の方でしきりに犬の吠える声。造船小屋には常に二頭の犬を飼って置いて、駒井は警戒と遊猟との用にあてているが、滅多にはない外来客がある時は、まずこの犬が吠え出しますから、隔たった番所にいて、駒井は犬の声によってまず、珍客のこの里へ訪れたことを知るのであります。\n 今日は早朝から珍客、箸を取りながら窓の外をながめると、激しく吠えていた犬の声が、急に弱音を立てて逃避するもののように聞えます。最初には珍客に向っての警戒と威嚇の調子で吠えていたのが、急に恐怖の調子に変ってきましたから、駒井は「敵が来たな」と思いました。敵というのは自分に対する敵ではない、犬共にとっての強敵が現われたのだということを、駒井は経験の上から覚って、直ちに他郷から彼等の同類の強敵が、ここへ入り込んだのだなと、箸を上げながら外を見ると、まもなく、二頭の飼犬が、後になり先になり、或いは吠え、或いは唸り、見慣れない一頭の巨犬を遠巻きにして、こちらへ進んで来るのを見受けます。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「............」お粂は返辞をしなかったが、頤をささえていた両の手を下ろすと、卓袱台の上を無意識にこすった。思い惑っているようすといえよう。何かいおうかいうまいかと思って、思案にあまっているようすでもあった。と、にわかに横を向いたが、「恋しているからでござりましょうよ。......恋されている殿方というものは、恋している女をあつかましい者にも、付け込む人間にも見なさいますもので」こういってお粂は柄にも似合わず、台の上で指をもてあそび出した。\n「誰が誰を恋しておりますのやら」今度はいささか気の毒そうに、そうして真相を知っていながら、わざと知るまいと努めるかのように、余事のようないいまわし方をしたが、「触れたくないものでござりますな。恋というような言葉などには」――で、盃を取り上げたが、濡れている縁を蝋燭の火に光らせ、つと口まで持って行って、すぐと紋也は一息に干した。\n しばらく四辺は静かであった。二人とも黙っているからである。\n 嫖客の群れの往来する姿が、出入り口の暖簾の隙から見える。と、時々チュッチュッという艶めかしい私娼の口を鳴らす音が、嫖客の駄洒落や鼻唄もまじって、二人の耳へまで届いて来た。\n だがここの土間はしずかであった。と、その静けさを破壊しない程度の、悩ましいようなつぶやきの声が、こうお粂の口から出た。\n「ずっと以前からでございますよ、一度しみじみとしたお話などを、いたしたいものと存じまして、変ないいまわし方ではございますが、あなた様の後を今日が日まで、どのように追いかけたことでしょう。するとどうでしょうあなた様には妾が悪女ででもあるかのように、逢うまい逢うまい、話をしまいと、そういうごようすをお見せになられて、避けてばっかりおいでなされた。......」怨情とでもいうのであろう。眼には痛々しい光をたたえて、お粂は紋也をみつめたのであった。\n そういうお粂のようすを見ては、恬淡で磊落な紋也といえども、釣り込まれて優しい言葉ぐらいは掛けてやらなければならないだろう。しかるに紋也は逆に出た。\n「しみじみとしたお話などを、あなたと取りかわせておりましょうものなら、あのいつぞやの晩のように、印籠をすられるでござりましょうよ」それから笑い声を高く立てた。\n\n愛してはいるが\n\n なぜそのように山県紋也は、しおらしいお粂の言葉に対して、まるでお粂を冷かすかのような返辞と笑い声とを立てたのであろうか?\n 紋也はお粂を嫌っているのであろうか? それともそのほかに訳があるのであろうか? それは今のところわからなかった。\n そんなような挨拶を紋也にされて、お粂はしおれてしまったであろうか? それとも怒って席を立ったであろうか? いやいや結果は反対であった。そういう紋也の挨拶ぶりが、お粂の心をして自由にさせ、また軽快にさせたらしい。同じように笑い声を高く立てたが、「あの印籠のことでござりますか。でもすり取りはいたしましたものの、お返ししたはずでございますよ。......そうして印籠をすり取りましたわけは、もうあの晩にあなた様に、申し上げたはずでござりますよ。妾という女のあるということと、佐久間町二丁目の土塀のあるお屋敷を、あなた様へ強くお知らせしたい。――というのがわけでありましたはずで」\n こういってはお粂はもう一度笑ったが、急に真面目な表情を作って、教えるかのようにいい継いだ。\n「同志のはずでございますよ。はいはいあなた様とこの妾とは。......同じ一つの目的へ向かって、進んでいる同志でございますよ」\n で、紋也の返辞を待った。と、紋也はうなずいて見せたが、すぐに次のように意外のことをいった。\n「同じ一つの目的に向かって、進んで行く同志ではありましょう。――しかしお互いにたのうだお方は、別々のはずでございますよ」――で、盃へ酒をついだが、今度はすぐに飲もうとはせずに、盃中の酒に映っている燈火の影を凝視した。\n「たのうだお方?」と紋也の言葉を、お粂は口へ出してなぞるようにしたが、やがて意味がわかったものと見える。雌蕊のようにも白い頸を、抜けるほど前へ伸ばすようにしたが、\n「ええええ、さようでございますとも。妾のほうのたのうだお方は、徳大寺様でござります」\n「私のほうのたのうだお方は、正親町様にござりますか」こういって紋也は意味ありそうに、お粂の近々と迫っている情熱的の美しい顔へ、鋭く視線をぶっつけた。「目的が同じでありましょうとも、たとえ同志でありましょうとも、たのうだお方が別であってみれば、やはり我々二人の者は、やはり別々に別れ別れに、働くのが本当でござりますよ」\n「そのようなことがござりますものか」どうしたのかこういったお粂の声には、叱りつけるような響きがあった。「たのうだお方が別々であろうと、目的は同じでござります。一心同体になりまして、力を合わせて働くのが、本当でもあれば強くもあります」\n しかし紋也はうけがわなかった。フト横を向いて眼をつむった。燈火のほうへ向けられた顔は、一杯に燈火の光を浴びて、明るく華やかに見られたが、つむっている両眼の下の眼瞼が、目立つほどにも痙攣を起こしているので、不安気な顔ともいうことができた。不意に紋也は眼をあけたが、その眼でお粂を睨むように見た。\n「本当のことを申し上げましょう」紋也の声には情熱があった。「みんな嘘だったのでございますよ。これまで私があなたに対して、申し上げたことも振る舞って来たことも、みんな嘘だったのでござりますよ。本当のことを申し上げましょう」ここで紋也はためらうようにしたが、たたきつけるように一句いった。「私には毒なのでござります! そのあなたの美しい姿が!」\n これはお粂の身にとっては、嬉しくもあれば苦しくもあり、魘されるような言葉でもあった。なんといって応じたらよいだろうかお粂には咄嗟にはわからなかった。で黙って紋也をみつめた。\n と、今度は紋也の口から、お粂にとっては恐ろしい言葉が、たたきつけるように洩らされた。\n「私にはあるのでござりますよ。あなたの美しさに捉えられたり、あなたの情熱に溺れたりしては、申し訳のない一人の女が!」\n「恋人!?」とお粂は上気していった。\n「京師方の娘! 私の許婚!」――するとお粂は狂人のように、胸の前で両手を叩き合わせたが、憑かれた女のように口説き出した。\n"
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"role": "assistant",
"content": "女煙術師の嘆き\n\n「あなたに許婚がありましょうとも、よしんば恋人がありましょうとも、なんで妾がそのようなことで、あなたを断念いたしましょう。妾はかえって勇気づきます。妾はきっとあなたの許婚を、この妾の燃えるような心で、あなたから離してお目にかけます。この妾という人間は、そういう性質なのでございます。競争相手が一人でもあると、勇気づくのでございますよ。......そうして一旦思い込んだことは、よしんば悪い事でもありましょうとも、いつかはきっとやりとげて見せます。ええええ妾という人間は、そういう性質なのでございますよ。......妾はあなたを愛しております。ですからどのような邪魔があろうと、きっとあなたを手の中へ入れて、妾のものにしてお目にかけます。......さああなたの許婚とやらはどのようにお美しく、おしとやかで、どのようにお利口かは存じませぬが、そのようなこととて妾にとりましては怖くも恐ろしくもございません。競争相手が優れている、苦手であれば苦手であるほど、妾には力がはいりますし、勇気づいても参ります。......いずれはあなたの許婚ゆえ、お上品でお人柄でお嬢様でご身分もよろしゅうございましょう。でも妾にはそのようなことも、怖くも恐ろしくもございません。......こう思うのでございますよ。そういうお上品なお嬢様ならば、かえって妾にはよい幸いだと! 苦労などなすってはおりますまい。ねんねえ様でございましょう。策もなければ手管もない、箱入り人形でございましょう。......妾は反対でございます。上品でもなければ人柄でもなく、箱入り人形でもありませねば、ねんねえ様でもありません。苦労をした人間でございます。......掏摸で芸人でございます。浮世の垢をなめております。......ねんねえのあなたのお許婚などを、虐めておさえつけて追い出すことぐらいは朝飯前の仕事でございます。......あなたを必ず捉えて見せます! あなたをきっと溺らせて見せます!」\n すわっていた床几から腰を上げて、赤い手甲を甲斐甲斐しくはめた、両の手を台の上へしっかりと突いて、肩を前のめりに前へ傾けて顔を紋也の顔へ差しつけ、物をいうごとに頬の後れ毛を、耳の後ろまでひるがえして、こう口説き立てたお粂のようすは、毒婦とも見れば妖婦とも見え、淫婦にさえも見えるのであった。\n しかるにそういうお粂と対して、向かい合って腰をかけている、山県紋也の態度というものは冷然として静かであった。みつめている眼にもこれといって、怒りを宿しているのでもなければ、閉じている心にも表情がなく、先刻方眼瞼に現われていた痙攣さえも今はなかった。がもし誰かが注意をして紋也の膝の上を見やったならば、その膝の上で両の手の指を、握ったり放したり揉んだりして、心の内の烈しい動揺を、押さえつけているということを、見のがすことはできなかったであろう。紋也はお粂の言葉によって、事実は感情を嵐のように、掻き立てられ乱され荒らされたのであった。そうしてそれを見せまいとして、強い意志でおさえつけているのであった。\n で、二人は黙っている。顔と顔とを突き合わせて、怨み合ってでもいるように、憎み合ってでもいるように、喰らい付きそうにして見合っている。\n で、四辺は静かであった。戸外を人の通る足音がする。音締めの悪い三味線の音が、座敷のほうから聞こえても来た。\n\n〽葵は枯れても\n ああ、ああ、\n 菊は栄える\n\n 唄って通る声がしたが、門口でフッと消えてしまった。と、一人の職人ふうの男が、暖簾を分けて顔を出したが、皮肉めいたことをいったかと思うと、顔を引っ込ませて行ってしまった。\n 土間を設けて卓袱台を置いて、裸蝋燭をあかりとして、陰惨とした暗い中で、酒を飲ませるというやり方は、水戸様石置き場の空屋敷の、私娼宿でやるやり方なのであった。ここだけで女を相手にして酒を飲むだけで帰って行く――といったような客もあれば、奥の座敷へ女と一緒に寝に行くというようなお客もあった。そうかと思うとよその女を、こっそりとここへ引っ張って来て、ここの私娼をまじえないで、媾曳をして帰るという、そういったような客もあった。紋也とお粂との関係などは、最後のものに当たるらしい。で、私娼もやって来なければ、他の客も避けて行くのであった。――と、咽び泣く声がした。お粂が突っ伏して泣き出したのである。\n\n不安の一時\n\n 鬱金色の縮緬の襷をかけて、派手やかな模様の振り袖を着て、深紅の手甲と脚絆とをつけた、妖艶な女の煙術師姿の、若いお粂が台へ突っ伏して、髪の簪の銀のビラビラを、後れ毛と一緒に顫わせて、咽び泣いている向こう側に、美男で若くて凛々しい風貌の、山県紋也が冷然として、時々盃をなめながら、無言でお粂を見守っているようすは、水戸様石置き場の空屋敷という、特殊の私娼窟であるがために何となく凄味に眺められた。土間の中は陰森として薄暗い。蝋燭の火が揺らめいて、土間の上の男女の二つの影を物の怪のように顫わしている。気象の勝った男勝りのお粂が何ゆえにそのように弱々しそうに咽び泣きなどをはじめたのであろう? 磊落で豪放で親切な紋也が、何ゆえに冷然としているのであろう?\n とまれお粂は咽び泣いているし紋也は冷然として無言でいる。でこの土間の中は物寂しくて、鬼気にこめられているようにさえ見えたが、もし紋也にしろお粂にしろ、戸外のほうへ注意をむけて戸外のようすをうかがったならば、歩いている人々の足の音が、にわかにせわしく乱れて聞こえ、口々に何事かをいい合いながら、すれ違ったりぶつかったりして、露路のほうへ走って行く者もあれば、水戸様石置き場の空屋敷という、この一画から遠のく者もあって、混雑を呈していることにきっと感づいたに相違ない。\n「喧嘩!」「人殺しか!」「賭場の手入れ?」「......いや変な奴が歩きまわっているのだ」「うそうそ家のまわりをまわっている」「あそこの露路には五人いた」「あそこの空地には十人いた」――などといったようなささやき声などが、ささやかれてもいるのであった。「捕り物かな?」「そうかもしれない」「だが風態がそれらしくないよ」――などという声も聞こえなされた。「なんだか知らないが気味が悪いよ」「よくないことが起こりそうだ」「怪我をしないうちに引き上げよう」――という声なども聞こえるのであった。\n 何が戸外では起こっているのであろう?\n あの目明しの代官松が、兄弟分と乾分とを率いて、水戸様石置き場の空屋敷へ、焼き討ちをかけて、混乱させて、ドサクサまぎれに山県紋也や、同志の者を片付けようとして、入り込んで来たに過ぎないのであった。\n 水戸様石置き場の空屋敷というのは、一方は隅田の川に面し、反対の側は寺院通りに面し、いうところの鰻の寝所のような、南北に長い空地であって、北のはずれには一ツ目橋があって、渡れば相生町や尾上河岸へ出られ、南のはずれを少し行けば、有名な幕府のお舟蔵となる。そういう空地へ貧民窟のような、穢らしい小家がゴチャゴチャと立ち、狭い露路が無数に通っているかと思うと、草の生えた小広い空地などが、随所にできていたりした。そうしてそういう草の空地には、おでん燗酒の屋台店だの、天幕張りや菰張りの食物店などが群れをなして建っていたり、ポツポツと離れて建っていたりした。官許を得ての盛り場ではないので、燈火などは乏しく灯ってようやく人の顔の見える程度の、明るさを保っているばかりであった。\n でもし誰かが高い所へ上がって、夜この一画を見下ろしたならば、異形なものに見えたことであろう。大地にへばり付いている小さい家々は、――ある一所には数をなしてかたまり、ある一所にはバラバラに立って無秩序をなしている小さい家は、――襤褸でもかたまっているように見え、その家々の集合によって、無数に織られている露路という露路を、ウネウネと歩いている嫖客たちの列は、虫けらのように見えることであろう。ところどころからあるかなしかの、薄明るい光が茫と立って、それが四辺を明るめているようすは、全然光のないよりも、かえって気味悪く見えるかもしれない。一ツ目橋のほうへやや近く、家のない空地がひらけていたが、そこに比較的に明るい燈火が、四方菰張りの小屋の隙を通して、幾筋となく漏れ出て見えたが、それは賭博小屋の火の光であった。その賭博小屋から隅田川のほうへ寄った、土地の低い一所に木立ちがあったが、そこに三人の人の影がささやきもせずに立っていた。と、一つの人の影が、賭博小屋の前をすべるようにして、三人の人影へ走り寄ってきた。\n「親分、とうとう目付け出しました。紋也は笹家におりますので」\n「そうか」という声がすぐ応じたが、三人の中の一人であって、代官松の声であった。\n\n代官松の指図\n\n「そうか」というと代官松は、知らせに来た乾児の猪吉という男を、迎え取るがように一足出たが、\n「そうか、紋也は笹家にいたか。いいことをした、よく目付けた。この界隈を焼き討ちにかけても、肝腎の紋也をのがしてしまっては、何の役にも立たないのだからな。で、まあ手を分けて探したんだが、おり場所がわかって安心した。......え、なんだって? ふうんそうか! お粂も一緒にいるというのか? いやそいつは好都合だ、一緒にやっつけることができるのだからな。......構うものか、さあ押し出せ、そうして四方から火を掛けろ! 官許を得ていない盛り場だ、焼き払ったところで咎にはならない。その上に渡りがついている、美作様や左近将監様から、それとなくお町奉行の依田様のほうへ、ご内意が行っているはずだ。何をやろうと後難は受けない。笹家を中心にして四方八方へ、構わないから火をつけてしまえ! さぞマア私娼やお客野郎などが、泡を食って逃げ出すことだろう。そこがこっちの付け目なのだ! ドサクサまぎれに紋也の野郎を、みんなでめちゃめちゃに叩き殺してしまえ! さあ行け行け早く行け! ......いけない、いけない、ちょっと待ってくれ! 紋也の野郎をねむらせるはいいが、お粂の阿魔を殺してはいけない。どうともして引っかついで連れて来るがいい。というのは桃ノ井兵馬様が、そういって俺に頼んだからさ。それにあの女は美作様から、大事な物をすっているはずだ。あいつをたたいて口を割って、あり場所をいわせて取り返さなけりゃアならない。だからよお粂は殺しちゃアいけない。さあ行け行け、早く行け! ......おッといけない待った待った。兄弟分に知らせなけりゃアいけない! ......これこれ文三前へ出な。お前は東へ飛んで行くがいい。橋場の卯之さんが野郎どもをつれて、そっちを固めていなさるはずだ。で、大将にこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。――これこれ勘八前へ出な。お前は西へ飛んで行くがいい。河岸の源さんが野郎どもを連れて、そっちを固めていなさるはずだ。で、源さんにこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。......さあこれでいい早く行け! いや待て待て、いうことがある。紋也は素晴らしい手利きなのだ。そのうえおそらくあいつの贔屓が、この界隈にはたくさんいよう。で、うっかりして下手なことをすると、こっちに怪我人ができるかもしれない。だからよ。十分に用心してかかりな。......さあこれでいい早く行け! いや待て待ていうことがある。揃えて隠してある捕り物道具だ! あいつをうまく使うようにしな。......今度こそいい、早く行きな。......おっとおっとまだいけない。そうだもう一言いうことがある。正規の召し捕りじゃアないのだから、『御用』の声も『神妙』の声も、かけないようにするがいい。そうしてなんだ、紋也の贔屓が紋也に贔屓をしてかかって来たら、遠慮はいらないから叩きのめしてしまえ! 喧嘩でございますといってしまえば、後難もなければ咎めも受けまい。......さあ行け、行け、今度こそいい!」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " あとになって、きいたことなのであるが、ずっと前にそこに住んでいたうちの娘さんが、毒をのんで便所のなかで死んでいたという噂のある家なのである。近所のおかみさんの話によると、この家に引っ越してくる人は、みんな、四五日も居たか居ないかのうちに、すぐにまたどこかへ引っ越して行くんだそうで、\n「お宅が一番ながいんですよ」と云った。云われてみれば、この家にぼくらが来てから、もう半年も過ぎようとしていたのである。そして、住み心地も、おかみさんの話と、まったく辻褄があっているのであった。そんなわけの家なので、居候のくせにと自分でおもいながらも、ぼくはひとりで留守番をすることが出来ず、波里さんが出掛ける時には、いつもいっしょについて出掛けて、いっしょに帰ってくるのである。それでも、用足しによっては、ぼくがいっしょでは都合のわるい時もあって、そういう時には波里さんの帰りの時間をきいておいて、その間をぼくはあてもなく街をさまよい、駒込の橋の上で波里さんの帰りを待ち合わせて、いっしょに帰ってくることにしたのである。\n ぼくは、一日も早く郷里へ帰りたかった。父からの仕送りを前提にして、上京はしてみたものの、上京早々から父との約束はあてが外れてしまって、早稲田の戸塚から本郷の湯島新花町、そして、台町から駒込の片町、それからこの中里の家に来て、その日その日をぼくはお化けの気配におびえながら、友人の須南君が貸して呉れる筈の旅費を待ちあぐんでいたのである。\n そこへ、関東の大地震なのであった。波里さんはすっかり絶望してしまって、もう東京にいても仕方がないから郷里へ帰るんだと云い出したのである。汽車が駄目でしょうと云うと、波里さんは一応、従兄の家に引揚げていて、汽車の復旧次第郷里へ帰るのだと云ってぼくの顔を探るみたいに、\n「君はどうする?」と来たのである。\n こう云われてみれば、これまでのように、波里さんのあとにくっついて行くわけにもいかず、とにかく、ぼくは、九段まで行ってみることにしますと答えた。九段には、同郷の某侯爵邸があって、そこには、友人の胡城君というのが書生をしていたからである。ぼくは、三脚椅子を肩に、ズックの鞄をぶら提げて、駒込中里のお化けの家を出たのである。街は、大変な騒ぎなのであった。江の島が海底に沈んでしまったとか、鎌倉が津浪にさらわれてしまったとか、社会主義者は片っ端から警察に引っ張られたとか、または荒川方面から朝鮮人の大群が東京をめざして攻めて来つつあるとか、井戸という井戸には、毒が投じられているので、井戸水を呑んではいけないとかと、そのようなことが次から次へと、途々、ぼくの耳に這入って来た。人々は、みんな右往左往の状態で、棒片のようなものを手にしていたり、日本刀など片手にしているものもあったりして、またたく間に、巷は殺気立っていたのである。\n 白山上にさしかかると、\n「君々」と、うしろの方から声をかけられた。振り返ると、巡査なのである。生れてはじめて巡査に呼び止められたのであるが、場合が場合なだけに、ぼくはおどおどした。\n「社会主義者ではないんですがね」\n ぼくは、とっさにそう云って、自分のよごれ切った霜降りの身装や、摺り切れている片ちんばの下駄や、何日も洗ったことのないぼうぼうとした長髪や、何日も放ったらかしになって髯のなかに埋まっているこの自分の、キリストを悪人に仕立てたみたいな風貌などを意識させられてしまったのである。\n「どこから来たんだね」\n「駒込からです」\n「どこまで行くんだね」\n「友人を訪ねて九段まで行くんです」\n 巡査は、それだけのことを、ぼくにきいたのであるが、それだけのことでは割り切れないものがぼくの人相には漂っていたものか、こちらが素直に答えているにもかかわらず、警察まで同行しろということになってしまったのである。\n「ちょいと主義者みたいだからね」\n 巡査は、取り調べの結果、主義者でないことがわかったらしく、テーブルの上に展げて見せたぼくの詩稿をまとめて返しながらそのように云った。そして、\n「詩人もこのごろ頭の毛を伸ばすのか?」\n と巡査は云って、いかにも主義者ばかりが頭の毛を長くしているかのような眼つきをしながら、\n「主義者と間違えられては損だよ」と忠告めいた口振りまでしたのである。警察を出ると、巡査の云ったその忠告の言葉が、妙に、ぼくは気になって来た。そこで、ぼくは、また警察へ引っ返したのである。\n「なんだい?」\n 先程の巡査がそう云った。\n「すみませんが一寸お願いがあるんです」\n「なんだい?」\n「途中、どうも心配ですから一筆証明していただけないでしょうか」"
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{
"role": "assistant",
"content": "「証明?」\n「そうです。つまり私が主義者でないということの」\n「そんな証明は出したことがないね」\n 巡査は、当惑しているらしかったが、ぼくも弱ったのである。\n「詩人だという証明でもいいんですが」\n「そんなのも出したことがないね」\n「でも、いま調べてもらったばっかしですから、御面倒でもお願いしたいんですが」\n「そんなの要らんよ君」\n しかし、ぼくは懸命なのであった。いま、調べられたばかりなのであるから、その巡査の云い分が、しらばっくれているもののように感じられたので、腹の底では、腹立ちまぎれに、しつこく、なんとかお願いしますと繰り返した。すると、巡査は、むっとした顔になったが、むっとしたまま、あらためて、ぼくの住所と、生年月日をきいた。\n「これでいいだろう!」\n 巡査は、ペンをおいて、名刺よりは一まわり大きいかに見えるその日本紙の切れっ端をぼくに寄越したのである。それには、「右ノ者社会主義者ニアラザルコトヲ証明ス」とあって、駒込警察署の角印まであざやかなのであった。\n 九段上の侯爵邸に辿りつくまで、結局、この証明書を必要とすることが襲いかかって来たことはなかった。侯爵邸の裏口から這入って、友人の胡城君を訪ねると、袴をはいた彼が出て来た。彼は、ぼくに、髯ぐらいは剃れよと云いながら、ぼくの頼みを受入れて呉れたので、当分、侯爵邸にぼくは泊めてもらうことになったのである。\n 人々は被服廠をはじめ、市内の方々を見て歩いたりしているらしかったが、ぼくはそういうことには一向に興味もなく、何日振りかで、九段の坂上のところまで出て見た。神田一帯が焼野原になってしまって、あちらこちらには、焦げた金庫が残り、その上には、銃劒の兵士の立っている姿が見受けられた。\n まもなく、東海道線の復旧で、ぼくも、罹災民の一人として、沿線の、おにぎりや林檎や味噌汁などの恩恵をこうむりながら、無賃乗車、無賃乗船で、郷里へ辿りついたのであるが、おもえば、上京以来、帰郷までの一年間を、よくも無銭の状態で過ごして来たものだ。\n ところが、郷里の那覇に帰ってみると、ぼくの帰りを、悲劇が待っていたのである。母は泣きながら、その後の家の様子を、こまごまと話しながら、実はこの家も人手に渡さなくてはならなくなっているのだと云った。むろんそれは父の失敗なのであった。父は、三十年近くも、第百四十七銀行に勤めていたのであるが、その退職金を持って八重山に渡り、質屋を開業しながら祖父の面倒を見てやりたいとかねがね口にしていた。ところが、銀行を退職すると、それをききつけて、どうせ八重山へ行くのならついでのことではないかと、こんどは、産業銀行からその八重山支店長にと頼まれたので、父はそれを断わり切れず、承諾してしまったのである。それは、ぼくの上京前のことなので、ぼくも知っていたのであるが、さて、母の話によると、父は、支店長の椅子に腰をおろした途端に、慾を出してしまったのだと云った。というのは、毎日、銀行に札束を運んでくる業者は、どれもこれも殆どが、鰹節製造業者なので、父は質屋のことなどは忘れてしまって、ついに、一隻の漁船を買って鰹節製造に手を出したというのである。しかし、事業は興してみたものの、不漁つづきのために、家まで手放さなくてはならなくなったと母は云った。\n やがて、ぼくらは、知人の家の離れを借りた。六畳ひとまに、母とぼくと弟と妹の四人の雑居は、そのまま、家の没落の実感となったのである。母は、なんどもなんども、物かげで涙を拭き拭きした。冬の休みが来て、中学二年の弟と、女学校一年の妹と、そして、ぼくと母とが、八重山へ行った。午後の四時頃、那覇の港を出ると、翌日の朝が宮古島で、その翌日の昼過ぎ頃は八重山なのである。八重山には港がなかった。船は沖に碇泊して、浜の方から石油発動機船が乗客を迎えにくるのである。浜へおりて、まっすぐの道を行くと、一丁程の左側には郵便局があって、その一寸先の突き当りには石垣に囲まれた島司の社宅がある。その右手の角が産業銀行の支店なのである。銀行とは一つ屋根で、裏手の半分が支店長の社宅にあてられていた。\n ある日、素足の、ずんぐりした男が来て、なにごとか父と話していたが、父の差し出した半紙に印を押すと、拾円紙幣の束を受取ってその男は帰った。あれが、船頭さんだよと母はぼくにいった。そして、船頭さんに限らず、船の人達はあのようにして貸してやらなければ、むくれて他の業者へ鞍替えしてしまうのだと母は云った。\n「そんなに貸す金があるんですか」ときくと、母はまた涙ぐんでしまって、そのたびに父が、銀行の金を持ち出しているのだと云うのである。父は、銀行のその日の仕事が済むと、黙々として、双眼鏡を片手に浜辺へ出た。そして、暮れるまで、浜辺の白砂の上に立ちつくして、水平線の彼方に双眼鏡を向けつづけているのである。しかし、父の船は、毎日手ぶらで帰って来た。あるときのこと、珍らしく父に誘われて、ぼくはその鰹節製造工場を見に行った。半途程先の海辺の砂地の上に、藁葺の工場が、陽に照りつけられて立っていた。父の船は父の名を名づけて重珍丸なのである。いま、漁から帰ったばかりのところで、二、三十本の鰹が重珍丸から運ばれた。まもなく船頭さんのおかみさんが、大きな皿に刺身を盛って持って来た。刺身は新鮮と云っただけでは云いたりないほど新鮮すぎていて、ところどころに、まだひくひくと動いているのが見受けられて、すぐには箸を持つ気になれなかった。\n ぼくが、重珍丸の漁を見たのは、後にも先にもその時だけなのである。父は、相変らず毎日、双眼鏡を片手に海辺に立ちつくしたのであるが、重珍丸は手ぶらで帰って来た。父は、余程まいって来たらしく、ついに、半紙を二枚、ぼくの鼻先に差し出して、弟と妹の退校願を書けと命じたのである。それとは知らずに、弟と妹は、トランクのなかなど整理したりして、那覇への帰り仕度をしていたのであるが、事情がわかると、かれらはふたりともその場に泣きくずれてしまったのである。そのうちに、親類のある者から、三男の三郎を寄越せといって、父と母とが迫まられているところをぼくは見たのだ。三男の三郎というのは、つまりぼくのことなのであって、ぼくのことを寄越せと云っているその親類の者は、父にとっての債鬼なのである。ぼくのことを父の借金の身替りにして取って、東京へでも留学をさせて未来の大芸術家にでもするというのなら、ぼくにもわからないことはなかろうが、山奥の炭焼小屋で、ぼくのことを使いたいからとの申し入れなのである。彼は、横目でぼくを見ながら、\n「親のためだとおもえばなんでも出来ないことはないさ」と云ったりした。そのような話がなんども持ちあがって来た頃、父は、たまらなくなって来たのであろう。親類間の借金、知人友人の借金、そして、銀行の金庫からの使い込みなどに対しては、刑によらなければ処理のつかないような口振りを示しながら、だからおまえも絵かきになろうが詩人になろうが、これから先はそのつもりで自分でやれとぼくに云ったのである。ぼくは、父のことが気の毒になって、いっそのこと父を助けるつもりで炭焼男になろうかとおもわないこともなかったのであるが、炭焼男になったところで、たかが、ぼくのことを孝行者みたいに仕立てるだけのことなのではないかと、ぼくは、なまいきにもそう思ったのである。事実、父の失敗は、ぼくが炭焼男になったぐらいのことで救われそうなものなのではなかった。というのも、父の借金は、なにもその親類のものだけに止まっているのではないからなのである。\n そこで、ぼくはひそかに、再度の上京を企立てたのであるが、こんどこそはどんな目に会っても、逆戻りしてはなるまいと決心して、どうやら那覇までは出て来ることが出来たのである。しかし、那覇の家は、すでに人手に渡してしまったのであるし、那覇にある親類という親類のことごとくが、父の債鬼でないものはなかったし、いきなり、るんぺん生活へと、ぼくはその第一歩を踏みいれるより外はなかったのである。ぼくは、友人知人を訪ね廻わった。そのうちに、世間から敬遠されるようになって来て、しまいには、波の上海岸の芝生で夜を明かしたり、港のまんなかの奥の山公園に寝泊りをするようになったり、いつのまにやら、松葉などかじったりして空腹をまぎらわしたりするようなことが出来るようになったのである。そんな時、中学時代の親しい友人であった亀重君というのが現われて、殊勝な相談をぼくに持ちかけて来た。東京まで連れてってもらえないかというのである。亀重君は、那覇の街外れの質屋の次男坊なのであった。彼も、矢張り、詩や絵などをやってる男なのであるが、ふたりとも、厭世的な気分の上で共鳴し合ったりしているうちに、彼は、家出を試みたくなったらしく、ぼくが、東京まで案内して呉れるならば、旅費を負担したいとぼくに申し出たのである。しかし、亀重君の金策は彼の思う通りにはいかなかったが、それでも、ふたりは船に乗って鹿児島までは出ることが出来たのである。ぼくらは、港近くに、旅館を見つけて、桜島を眺めながら、金の来る日を待ち佗びた。それは、亀重君の家に打電して、金を請求してあったからなのである。翌朝のこと、ふたりの膳に、一個ずつの卵が添えられていた。亀重君はその卵を、茶碗の縁にコツコツやったまではよかったが、なかみを茶碗にあけようとしてはずみに、ぐっしゃりと卵を潰してしまったのである。そして、卵は、かれの両手と膳の上を汚してしまった。その時、亀重君が、耳まで紅く染めたことを、ぼくは見逃がすことが出来ず、なんだか、頼りなく気の毒なおもいをさせられたのである。まもなく、六拾円也の電報為替が届いた。亀重君の家では、大騒ぎをしているに違いないとおもいながら、ぼくらは、早速、汽車に乗った。\n 東京駅に降りたのは夜なのであった。ぼくは、かねて、亀重君の兄さんが物理学校在学中であることや、富士見町に下宿しているということを亀重君にきいて知っていた。そこで、彼のことをその兄さんの下宿へ届けたいとおもって、そうするようにとすすめるのだが、家出をして来たのであるからと云って、亀重君はかぶりを強く振ったのである。ぼくは困ったのだ。\n「ではどうするつもり?」\n「どこでもいいからいっしょに連れてってくれまいか」\n 亀重君は、なさけないことを云って、ぼくを手古摺らしはじめたのである。とは云っても、断るわけにもいかず、ぼくも腹をきめて、まず、ふたりの手荷物を構内の一時預所に預けた。バスケット一個ずつなのである。ぼくは、牛込見附までの切符を買った。亀重君のうえに、万一のことがあってはと心配なので、一応、彼のことを富士見町へ案内し、彼の兄さんの下宿の所在を見せておきたかったからなのである。兄さんの下宿はすぐに発見することが出来た。ぼくは、そこで、もういちど、寄るようにすすめてみたのだが、亀重君は頑としてかぶりを振った。仕方なしに、ぼくは彼を連れてあてもなく、神楽坂の夜店をぶらつき出した。ふたりが、歩き疲れて、汽車の疲れと折り重なりながら、土手のようなところに来た頃は、人影ひとつも見えなくなっていた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 彼は激昂しながら同胞の殺されたことや、圧迫するものが英国官憲に変って来たことを叫んでいるうちに、突然脳貧血を起して石の上へ卒倒した。群衆はどよめき立った。宣単が人々の肩の隙間を、激しい言葉のままで飛び歩いた。幟が群衆の上で振り廻された。続いて一人の工人が建物の窓へ飛び上ると、また同じように英国の官憲を罵り叫んだ。すると、近かづいた官憲が、彼の足を持って引き摺り降ろした。群衆の先端で濡れていた幟の群れが、官憲の身体に巻きついた。\n その勢いに乗じて再び動き始めた群衆は、口々に叫びながら工部局へ向って殺到した。ホースの筒口から射られる水が、群衆をひき裂くと、八方に吹き倒した。人の波の中から街路の切石が一直線に現れた。礫の渦巻が巡羅官の頭の上で唸り飛んだ。高く並んだ建物の窓々から、河のようなガラスの層が青く輝きながら、墜落した。\n もはや群衆は中央部の煽動に完全に乗り上げた。そうして口々に外人を倒せと叫びながら、再び警察へ向って肉迫した。爆ける水の中で、群衆の先端と巡羅とが転がった。しかし、大廈の崩れるように四方から押し寄せた数万の群衆は、忽ち格闘する人の群れを押し流した。街区の空間は今や巨大な熱情のために、膨れ上った。その澎湃とした群衆の膨脹力はうす黒い街路のガラスを押し潰しながら、関門へと駈け上ろうとした。と、一斉に関門の銃口が、火蓋を切った。群衆の上を、電流のような数条の戦慄が駈け廻った。瞬間、声を潜めた群衆の頭は、突如として悲鳴を上げると、両側の壁へ向って捻じ込んだ。再び壁から跳ね返された。彼らは弾動する激流のように、巻き返しながら、関門めがけて襲いかかった。このとき参木は商店の凹んだ入口に押しつめられたまま、水平に高く開いた頭の上の廻転窓より見えなかった。その窓のガラスには、動乱する群衆が総て逆様に映っていた。それは空を失った海底のようであった。無数の頭が肩の下になり、肩が足の下にあった。彼らは今にも墜落しそうな奇怪な懸垂形の天蓋を描きながら、流れては引き返し、引き返しては廻る海草のように揺れていた。参木はそれらの廻りながら垂れ下った群衆の中から、芳秋蘭の顔を捜し続けていたのである。すると、彼は銃声を聞きつけた。彼は震動を感じた。彼は跳ね起るように、地上の群衆の中へ延び上ろうとした。が、ふと彼は、その外界の混乱に浮き上った自身の重心を軽蔑する気になった。いつもむらむらと起る外界との闘争慾が、突然持病のように起り出したのだ。彼は逆に、落ちつきを奪い返す努力に緊張すると、弾丸の飛ぶ速力を見ようとした。彼の前を人波の川が疾走した。川と川との間で、飛沫のように跳ね上った群衆が、衝突した。旗が人波の上へ、倒れかかった。その旗の布切れが流れる群衆の足にひっかかったまま、建物の中へ吸い込まれようとした。そのとき、彼は秋蘭の姿をちらりと見た。彼女は旗の傍で、工部局属の支那の羅卒に腕を持たれて引かれていった。しかし、忽ち流れる群衆は、参木の視線を妨害した。彼はその波の中を突き抜けると、建物の傍へ駈け寄った。秋蘭は巡羅の腕に身をまかせたまま、彼の眼前で静に周囲の動乱を眺めていた。すると、彼女は彼を見た。彼女は笑った。彼は胸がごそりと落ち込むように俄に冷たい死を感じた。彼は一刀の刃のように躍り上ると、その羅卒の腕の間へ身をぶち当てた。彼は倒れた。秋蘭の駈け出す足が――彼は襲いかかった肉塊を蹴りつけると跳ね起きた。彼は銃の台尻に突き衝った。が、彼は新しく流れて来た群衆の中へ飛び込むと、再びその人波と一緒に流れていった。――\n それはほとんど鮮かな一閃の断片にすぎなかった。小銃の反響する街区では、群衆の巨大な渦巻きが、分裂しながら、建物と建物の間を、交錯する梭のように駈けていた。\n 参木は自身が何をしたかを忘れていた。駈け廻る群衆を眺めながら、彼は秋蘭の笑顔の釘に打ちつけられているのである。彼は激昂しているように、茫然としている自分を感じた。同時に彼は自身の無感動な胸の中の洞穴を意識した。――遠くの窓からガラスがちらちら滝のように落ちていた。彼は足元で弾丸を拾う乞食の頭を跨いだ。すると、彼は初めて、現実が視野の中で、強烈な活動を続けているのを感じ出した。しかし、依然として襲う淵のような空虚さが、ますます明瞭に彼の心を沈めていった。彼はもはや、為すべき自身の何事もないのを感じた。彼は一切が馬鹿げた踊りのように見え始めて来るのであった。すると、幾度となく襲っては退いた死への魅力が、煌めくように彼の胸へ満ちて来た。彼はうろうろ周囲を見廻していると、死人の靴を奪っていた乞食が、ホースの水に眼を打たれて飛び上った。参木は銅貨を掴んで遠くの死骸の上へ投げつけた。乞食は敏捷な鼬のように、ぴょんぴょん死骸や負傷者を飛び越えながら、散らばった銅貨の上を這い廻った。参木は死と戯れている二人の距離を眼で計った。彼は外界に抵抗している自身の力に朗らかな勝利を感じた。同時に、彼は死が錐のような鋭さをもって迫めよるのを皮膚に感じると、再び銅貨を掴んで滅茶苦茶に投げ続けた。乞食は彼との距離を半径にして死体の中を廻り出した。彼は拡がる彼の意志の円周を、動乱する街路の底から感じた。すると、初めて未経験なすさまじい快感にしびれて来た。彼は今は自身の最後の瞬間へと辷り込みつつある速力を感じた。彼は眩惑する円光の中で、次第にきりきり舞い上る透明な戦慄に打たれながら、にやにや笑い出した。すると、不意に彼の身体は、後ろの群衆の中へ引き摺られた。彼は振り返った。\n「ああ。」と彼は叫んだ。\n 彼は秋蘭の腕に引き摺られていたのである。\n「さア、早くお逃げになって。」\n 参木は秋蘭の後に従って駈け出した。彼女は建物の中へ彼を導くと、エレベーターで五階まで駈け昇った。二人はボーイに示された一室へ這入った。秋蘭は彼をかかえると、いきなり激しい呼吸を迫らせてぴったりと接吻した。\n「ありがとうございましたわ。あたくし、あれから、もう一度あなたにお眼にかかれるにちがいないと思っておりましたの。でも、こんなに早く、お眼にかかろうとは思いませんでした。」\n 参木は次から次へと爆発する眼まぐるしい感情の音響を、ただ恍惚として聞いていたにすぎなかった。秋蘭は忙しそうに窓を開けると下の街路を見降ろした。\n「まア、あんなに官憲が。――御覧なさいまし、あたくし、あそこであなたにお助けしていただいたんでございますわ。あなたを狙っていたものが発砲したのも、あそこですの。」\n 参木は秋蘭と並んで下を見た。壁を伝って昇って来る硝煙の匂いの下で、群衆はもはや最後の一団を街の一角へ吸い込ませていた。真赤な装甲車の背中が、血痕やガラスの破片を踏みにじりながら、穴を開けて静まってしまった街区の底をごそごそと怠るそうに辷っていった。\n 参木は彼の闘争していたものが、ただその真下で冷然としている街区にすぎなかったことに気がついた。彼は自身の痛ましい愚かさに打たれると、悪感を感じて身が慄えた。\n 参木は弾力の消え尽した眼で、秋蘭の顔を見た。それは曙のようであった。彼は彼女が彼に与えた接吻のしめやかさを思い出した。しかし、それは何かの間違いのように空虚な感覚を投げ捨てて飛び去ると、彼はいった。\n「もう、どうぞ、僕にはかまわないで、あなたのお急ぎになる所へいらっして下さい。」\n「ええ、有りがとうございます。あたくし、今は忙がしくってなりませんの。でも、もう、あたくしたちの集る所は、今日は定っておりますわ。それより、あなたは今日はどうしてこんな所へお見えになったんでございますの。」と秋蘭はいって参木の肩へ胸をつけた。\n「いや、ただ僕は、今日はぶらりと来てみただけです。しかし、あなたのお顔の見える所は、もうたいてい僕には想像が出来るんです。」\n「まア、そんなことをなさいましては、お危うございましてよ。これからは、なるだけどうぞ、お家にいらして下さいまし。今はあたくしたちの仲間の者は、あなた方には何をするかしれませんわ。でも、今日の工務局の発砲は、日本の方にとっては、幸福だったと思いますの。明日からは、きっと中国人の反抗心が英国人に向っていくにちがいありませんわ。それにもうすぐ、工務局は納税特別会議を召集するでございましょう。工部局提案の関税引上げの一項は、中国商人の死活問題と同様です。あたくしたちは極力これを妨害して流会させなければなりませんの。」\n「では、もう、日本工場の方の問題は、このままになるんですか。」と参木は訊ねた。\n「ええ、もうあたくしたちにとっては、罷業より英国の方が問題です。今日の工部局の発砲を黙認していては、中国の国辱だと思いますの。武器を持たない群衆に発砲したということは、発砲理由がどんなに完全に作られましても英国人の敗北に定っています。御覧なさいまし、まア、あんなに血が流されたんでございますもの。今日はこの下で、幾人中国人が殺害されたか知れませんわ。」\n 秋蘭は窓そのものに憎しみを投げつけるように、窓を突くと部屋を歩いた。参木は秋蘭の切れ上った眦から、遠く隔絶した激情を感じると、同時にますます冷たさの極北へ移動していく自分を感じた。すると、一瞬の間、急に秋蘭の興奮した顔が、屈折する爽やかなスポーツマンの皮膚のように、美しく見え始めた。彼は今は秋蘭の猛々しい激情に感染することを願った。彼は窓の下を覗いてみた。――なるほど、血は流れたままに溜っていた。しかし、誰が彼らを殺したのであろうか。彼は支那人を狙った支那警官の銃口を思い出した。それは、確に工部局の命令したものに違いなかった。だが、それ故に支那を侮辱した怪漢が、支那人でないと、どうしていうことが出来るであろう。参木はいった。\n「僕は、今日の中国の人々には御同情申し上げるより仕方がありませんが、しかし、それにしたって、工部局官憲の狡さには、――」\n 彼はそういったまま黙った。彼は支那人をして支那人を銃殺せしめた工部局の意志の深さを嗅ぎつけたのだ。"
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{
"role": "assistant",
"content": "「そうです、工部局の老獪さは、今に始ったことじゃございませんわ。数え立てれば、近代の東洋史はあの国の罪悪の満載で、動きがとれなくなってしまいます。幾千万という印度人に飢餓を与えて殺したのも、あたくしたち中国に阿片を流し込んで不具にしたのも、あの国の経済政策がしたのです。ペルシャも印度もアフガニスタンも馬来も、中国を毒殺するために使用されているのと同様です。あたくしたち中国人は今日こそ本当に反抗しなければなりませんわ。」\n 憤激の頂点で、独楽のように廻っている秋蘭を見ていると、参木は自分の面上を撫で上げられる逆風を感じて横を見た。しかし、今は、彼は彼女を落ちつかすためにも、何事かを饒舌らずにはいられなかった。彼は落ちつき払っていった。\n「僕は先日、中国新聞のある記者から聞いたのですが、ここの英国陸戦隊を弱めるために、最近ロシアから一番有毒な婦人が数百人輸送されたということですよ。この話の真偽はともかく、このロシアの老獪さはなかなか注意すべきことだと思いますね。」参木はこういいつつも、何をいおうと思っているのか少しも自分に分らなかった。しかし、彼はまたいった。「僕は今日のあなたの御立腹を妨害するためにいうんじゃありませんが、僕はただどんなに老獪なことも、その老獪さを無用にするような鍛錬といいますか。――いや、こんなことは、もうよしましょう。僕のいうことは、何もありませんよ、あなたはもう僕を饒舌らさずに帰って下さるといいんですがね。これ以上僕が饒舌れば、何をいい出すか知れない不安を感じるのです。どうぞ、もしあなたが僕に何か好意を持っていて下さるなら、帰って下さい。そうでなければ、必ずあなたは無事でこのままいられるはずがありませんよ。どうぞ。」\n 唖然としている秋蘭の顔の中で、流れる秋波が微妙な細かさで分裂した。彼女の均衡を失った唇の片端は、過去の愛慾の片鱗を浮べながら痙攣した。秋蘭は彼に近づいた。すると、また彼女はその睫に苦悶を伏せて接吻した。彼は秋蘭の唇から彼女の愛情よりも、軽蔑を感じた。\n「さア、もう、僕をそんなにせずに帰って下さい。あなたはお国をお愛しにならなければいけません。」と参木は冷くいった。\n「あなたはニヒリストでいらっしゃいますのね。あたくしたちが、もしあなたのお考えになっているようなことに頭を使い始めましたら、もう何事も出来ませんわ。あたくし、これから、まだまだいろいろな仕事をしなければなりませんのに。」\n 秋蘭は何かこのとき悲しげな表情で参木の胸に手をかけた。\n「いや、誤解なさらんように。僕はあなたを引き摺り降ろそうと企らんでいるんじゃありませんよ。ただどうしたことか、こういう所であなたと御一緒になってしまったというだけです。これはあなたにとっては御不幸かもしれませんが、僕には、何よりこれで、もう幸福なんです。ただ僕には、もう希望がないだけです。どうぞ。」\n 参木はドアーを開けた。\n「では今日はあたくし、このまま帰らせていただきますわ。でも、もう、これであたくしあなたにお逢い出来ないと思いますの。」秋蘭はしばらく、出て行くことに躊躇しながら参木を仰いでいった。\n「さようなら。」\n「あたくし、失礼でございますが、お別れする前に、一度お名前をお聞きしたいんでございますけど。まだあなたはあたくしに、お名前も仰言って下すったことがございませんのよ。」\n「いや、これは。」\n と参木はいうと曇った顔をして黙っていた。\n「僕は甚だ失礼なことをしていましたが、しかし、それは、もうこのままにさせといて下さい。名前なんかは、僕があなたのお名前さえ知っていれば結構です。どうぞ、もうそのまま、――」\n「でも、それではあたくし、帰れませんわ。明日になれば、きっとまた市街戦が始まります。そのときになれば、あたくしたちはどんな眼に合わされるか知れませんし、あたくし、亡くなる前には、あなたのお名前も思い出してお礼をしたいと思いますの。」\n 参木は突然襲って来た悲しみを受けとめかねた。が、彼はぴしゃりと跳ね返す扇子のように立ち直ると、黙って秋蘭の肩をドアーの外へ押し出した。\n「では、さようなら。」\n「では、あたくし、特別会議の日の夜、もう一度ここへ参りますわ。さようなら。」\n 部屋の中で、参木はいつ秋蘭の足音が遠のくかと耳を聳てている自身に気がつくと、ああ、また自分はここで、今まで何をしてたのだろうと、ただぐったりと力がぬけていくのを感じるだけであった。\n\n三五\n\n 市街戦のあったその日から流言が海港の中に渦巻いた。殺戮される外人の家の柱に白墨のマークが附いた。工務局では発砲のために大挙して襲うであろう群衆を予想して、各国義勇団に出動準備を命令した。市街の要路は警官隊に固められた。抜剣したまま駈け違う騎馬隊の間を、装甲車が辷っていった。義勇隊を乗せた自動車、それを運転する外国婦人、機関銃隊の間を飛ぶ伝令。――市街は全く総動員の状態に変化し始めた。警官はピストルのサックを脱して騒ぐ群衆の中へ潜入した。すると、核をくり抜くように中からロシアの共産党員が引き出された。辻々の街路に立って排外演説をする者が続出した。群衆は警官隊の抜剣の間からはみ出してその周囲を取り包んだ。警官は鞭を振り上げて群衆を追い散らそうとした。しかし、群衆はただげらげら笑ってますます増加して来るばかりであった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 山岸中尉と帆村が、最後の爆弾をかついで艇を出発するとき、少年は竜造寺兵曹長をつれてもどってきた。\n「あ、山岸中尉......」\n 竜造寺兵曹長は、山岸中尉の姿を見ると、感きわまって、足をひきずりながら駆けよろうとする。それを中尉は、叱るようにして押しとどめ、帆村をうながして爆弾をかついで走りだした。\n 爆裂の時限をちゃんとあわせた。あと一分五十秒で爆裂するのだ。\n 一分二十秒で駆けもどって機内にはいり、十秒で扉をとじ、エンジンの燃料に点火する。あと二十秒でエンジンは全速力を出してもいいようになる。と、爆裂が起る。すぐ出発だ。穴の中をくぐりぬけるまでに、時間は二秒とかからないであろう。これが計画だった。\n「それ、急げ」\n 山岸中尉は、帆村の腕をひっぱるようにして、艇の方へ駆けだした。\n 艇の入口には、山岸少年の心配そうな顔がのぞいていた。帆村を先へはいらせて、最後に中尉が梯子をのぼる。梯子はぽんと外へ蹴とばし、扉をぴたりと閉める。気密扉だから、全部を閉めるまでに十秒かかるのだ。\n「そら、燃料点火だ」\n 帆村は、時計を見ていて、一秒ちがわず点火する。エンジンは働きだした。\n 艇ははげしく震動し、尾部からは濛気が吹きだす。この三十秒が、命の瀬戸際だ。どうぞミミ族よ、気がつかないように......。\n だが、それは無理だった。このような爆音、このような震動、そして濛気だ。どうしてミミ族に知られないでいるだろうか。\n 早くも十秒後には、こっちへ駆けてくる緑鬼ミミ族の姿が見られた。\n「ちえっ、見つかったか。どうします、機長」\n 帆村はピストルを握って、山岸中尉の方へ向いた。操縦席の中尉は泰然自若として、\n「かまわん。ほっておけ」\n これがほっておけるだろうか。帆村は気が気でない。二十秒たった。あと十秒だ。\n ミミ族は、扉をあけようと、艇を外からがんがんたたいている。翼の上にはいあがった者もいる。艇にぶらさがっている者もある。\n しかし山岸中尉は平気な顔で、計器盤にはめこんである、時計の秒針の動きを見つめている。\n そのときだった。前方に一大閃光が起った。と、その爆風で、艇はうしろへ押しもどされた。\n「出発――」\n たたきつけるような山岸中尉の声。がくんとハンドルは引かれ、スロット(飛行機の両翼にある墜落をふせぐ仕掛)は変えられた。気をうしなうほどのはげしい衝動。艇は矢のように飛びだした。一大閃光の中心部へ向かって......。\n\n 奈落へ\n\n 自爆か、「魔の空間」から離脱か。\n 不幸と幸運とが、紙一枚の差で背中あわせになっているのだ。\n 彗星二号艇にのっている四人の勇士たちは、艇が全速力で一大閃光の中にとびこんだまではおぼえているが、それにつづいて起ったことを知っている者はひとりもなかった。\n それでいて、山岸中尉は、ちゃんと操縦桿を握りしめていた。帆村荘六は、気密室から空気が外へもれだしはしまいかと、計器をにらみつけていた。\n 山岸少年は、いつでも命令一下、地上の本隊へ無電連絡ができるようにと、左手で無電装置の目盛板を、本隊の波長のところへぴったり固定し、右手の指で電鍵を軽くおさえていた。\n 重傷の竜造寺兵曹長は、むりに起きあがって、窓外の光景へ見張の目を光らせていた。\n だが、この四人が四人とも、この姿勢のままで人事不省におちいっていたのだ。\n そのことは四人のうちの誰もが知らなかった。そして艇は人事不省の四人の体をのせたまま、闇黒の成層圏を流星のように光の尾をひき、大地にむかって隕石のような速さで落ちていくのであった。「魔の空間」を出発するときの初速があまり大きかったので、四人とも脳をおされて、気がとおくなってしまったのである。\n 艇は重力のために、おそろしく落下の加速度を加えつつ、身ぶるいするほど速く落ちていく。空気の摩擦がはげしくなって、艇の外側はだんだん熱をおびてきた。このいきおいで落下がつづけば艇はぱっと燃えだし、燐寸箱に火がついたように、一団の火の塊となるであろう。\n だが、まだ四人とも、誰もそれに気がつかない。\n 艇の危険は、刻々にましていった。\n どこからともなく、しゅうしゅうという音が聞えはじめた。それは気密室から艇外にもれはじめた空気が、艇の外廓の、破れ穴を通るときに発する音だった。\n 室内の気圧はだんだん下っていき、がっくりとたれた帆村の頭の前で、気圧計の針はぐるぐると廻っていった。ああ、この有様がつづけば、四人とも呼吸困難になって、死んでしまわなければならない。\n「魔の空間」から、幸いにものがれることができたが、このままでは、彗星二号艇は、刻々と最後に近づくばかりであった。\n こういう戦慄すべき状態が、あと十五分間もつづいたら、もうとり返しのつかない破局にまでたどりついたであろう。\n だが、そうなる少し前に、――くわしくいえば十三分たった後のこと、この艇内において、一人だけがわれにかえったのである。\n「うむ、酸素だ。酸素マスクはどこか......」\n うなるようにいったのは、重傷の竜造寺兵曹長であった。さすがは海軍軍人として、ながい間鍛えてきただけのことはあって、誰よりも早くわれにかえったのである。\n「あっ、これはいかん。おう、たいへんだ」\n 兵曹長は、艇が危険の中にあることに気がついた。起上ろうとしたが、体に力がはいらなかった。\n「おい、起きろ、起きろ。たいへんだぞ」\n 兵曹長は手をのばして、手のとどくところにいた山岸少年をゆり起した。\n「ああっ......」\n 少年は、うっすりと目を開いた。\n「おいっ、おれの体を起してくれ。操縦席へいくんだ。早くいって、処置をやらにゃ、本艇は空中分解するぞ」\n「ええっ、それは......」\n 山岸少年は、若いだけに身も軽く、また悲観することも知らず、兵曹長にいわれたとおり彼を助け起した。\n 二人は、もつれながら操縦席へいった。兵曹長は片手をのばして操縦桿をつかんだ。それから力をこめて、ぐっ、ぐぐっと桿を手前へひっぱった。\n 艇は妙なうなりをあげはじめた。すると速力計の針は逆に廻りだした。速力がだんだん落ちてきたのである。それとともに、竜造寺兵曹長も、山岸少年も気持がよくなった。艇は水平にもどったのである。\n「しっかり、しっかり。気をしっかり......」\n 兵曹長は、山岸中尉と帆村とを起した。二人とも、ようやくわれにかえった。\n「機長。いま、水平に起しました。それまでは艇は急落下しておりました」\n「ああ......」\n「どこかに穴があいているようです。室内の気圧がどんどん下っていきます」\n「ああ、そうか。これはすまん」\n 帆村が横合から声をだした。彼は計器のスイッチをぱちぱちと切りかえて、指針の動きに気をつけた。その結果、空気のもれているのは、尾部に近い左下の部分だとわかった。\n「機長。空気の漏洩箇所は尾部左下です。いま調べてなおします」\n「よし、了解。おちついて頼むぞ」\n「大丈夫です。さっきはちょっと失敗しました。でも、ちゃんと『魔の空間』から離脱できたじゃないですか。われわれは大冒険に成功したわけですよ」\n 尾部の方へはいっていきながら、帆村は元気な声で言った。\n「竜造寺兵曹長。見張につけ。敵の追跡に注意して......」\n そうだ。ミミ族はどうしたろう。ゆだんはならない。\n「はい」\n 兵曹長は、山岸少年に助けられながら、のぞき窓の前の席についた。\n「兵曹長。苦しいですか」\n と、少年は聞いた。"
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"role": "assistant",
"content": "「いや、体が思うように動かぬだけだ。目はよく見える。心配はいらん」\n だが兵曹長は、よほど苦しいらしく、歯をくいしばって、額を窓におしあてた。\n\n かがやく大地\n\n 艇の尾部へもぐりこんで、空気のもれるところをさがしにいった帆村は、なかなかもどってこなかったし、報告もしてこなかった。\n 艇を操縦している山岸中尉は、弟に命じて連絡にやらせた。\n「機長」\n 兵曹長が叫んだ。\n「おい」\n「見張報告。右舷上下水平、異状なし。左舷上に小さな火光あり。追跡隊かとも思う。そのほか異状なし」\n「了解。その小さい火光に警戒をつづけよ」\n「はい」\n 山岸中尉は、暗視器をその方へむけて、倍率を大きくしてみた。まだはっきりと形は見えなかった。が、とにかく星の光ではなく、別の光源であった。あのあたりが、さっき脱出した「魔の空間」のある場所かもしれない。方位角と仰角とではかってみると、だいたいその見当である。\n 山岸少年が、報告にもどってきた。\n「機長。尾部の漏洩箇所は、大小六箇であります。大きいのは、径五十ミリ、小さいのは十三ミリ。帆村班員は、瓦斯溶接で穴をうめております。もうすぐ完成します」\n「うむ」\n この方は、うまくいきそうである。山岸中尉は、ほっと一息ついた。\n しばらくすると、帆村がもどってきた。\n「機長、もどりました」\n「おう、ご苦労。どうした」\n「見つけた穴は、ぜんぶ溶接でふさぎました。しかし、思うほど効果がありません」\n「なに、思うほど効果がない......」\n 中尉は室内気圧計へ目をやった。なるほど、穴はぜんぶふさいだのにもかかわらず、まだすこしずつ気圧が下がっていく。目につかない穴がどこかに残っているのだろう。\n「どうしたのか」\n 中尉は、たずねた。\n「はい」\n と、帆村は言いにくそうにしていたが、やがて言った。\n「艇の外廓に、ひびがはいっているように思うのです」\n「外廓にひびが......」\n 中尉はおどろいた。もしそうだとすると、修繕の方法がないのだ。どうして外廓にひびがはいったのだろうか。やはり、あのときにちがいない。\n 艇が「魔の空間」を爆破して、その爆破孔をとおりぬけるとき、やっぱり自分の仕掛けた爆発物のため、外廓にひびをはいらせたのにちがいない。\n「もちろん、それはいまのところ、わずかな隙間を作っているだけですが、注意していますと、ひびはだんだん長く伸びていくようです。ですから、着陸までに本艇が無事にいるかどうかわかりません」\n 帆村の心配しているのは、この点であった。この調子でいけば、ひびがだんだん大きくなっていくだろう。噴射をつづけているかぎり、その震動が伝わって、ひびはだんだんひろがっていく理窟である。といって、噴射をやめると墜落のほかない。\n しかもこの調子では、まだそうとうの高度のときに、艇内の空気はうすくなって、呼吸困難、または窒息のおそれがある。\n 思わざる危難がふりかかった。しかもその危険は刻々に大きくなろうとしているのだ。\n なんという気持のわるいことだろうか。\n「よし、わかった。あとはおれにまかしてもらおう」\n と、山岸中尉は、歯切れのいいことばで言った。それにつづいて、中尉は胸の中で叫んだ。\n(空中勤務に、予期しない困難が、あとからあとへと起るのは、有りがちのことだ。これくらいのことに、腰をぬかしてたまるか。危険よ、困難よ、不幸よ、さあくるならいくらでもこいだ。われら大和民族は、きさまたちにとっては少々手ごわいぞ)\n 空中勤務者は、あくまで冷静沈着でなければならない。空中で、これを失えば、自分で死神を招くようなものだ。\n その場合の死神は、ルーズベルトのおやじみたいなもので、こっちが死ねば、その死神といっしょに、ルーズベルトまでがよろこぶのだ。そんな死神を招いてたまるものか。冷静と沈着とを失ってならないわけは、ここにある。\n それから機長山岸中尉の、あざやかな指揮がはじまった。\n 山岸少年に命じて、地上の本隊との間に無電連絡をとらせた。そして帆村に命じて、「魔の空間」へ突入してから後のことを、こまごまと地上へ報告させた。\n これは万一、この艇が空中分解をするとも、わが偵察隊の調べてきたところは本隊へ通じ、これから後の参考資料となるにちがいないからだった。\n 竜造寺兵曹長には、見張をつづけさせた。兵曹長の目と判断は、百練をへたものであるから、ぜったいに信用がおけるのだった。\n そうしておいて、山岸中尉自身は、操縦桿をすこし前へ押しやって、艇を緩降下の状態においた。\n 両翼は、浮力をつけるために、せい一ぱいひろげた。そして噴射の速度をできるだけおそくして、その震動を小さくし、ひびが大きくなっていくのをできるだけふせぐことにした。\n また容器に残っている酸素の量をくわしく調べ、もっとも倹約して、生きていられるだけの酸素をすって、何時間呼吸をつづけられるかを計算した。その結果は、安心できる程度ではなかった。最悪のときは、三十分間にわたって、酸素なしで半気圧の空間を下りなければならないのだ。しかしほかに処置とてなかった。あとは運命である。「人事をつくして天命をまつ」のほかないのであった。\n 中尉の頭脳の中は、きちんと整頓せられていた。これから先、どんなことが起っても、そのときはこうするという処置が考えられてあった。ただし処置なき出来事が起った場合は、運命にまかせることとしてあった。\n 山岸中尉の処置よろしかったために、彗星二号艇の乗組員は、さしもの難関を突破して、ふしぎに白昼の地上に着いた。しかし艇は着陸にあたって大破炎上した。\n 山岸電信員が、あらかじめ連絡をしてあったために、彗星二号艇の不時着の場所には、すぐさま本隊員がかけつけて火災を消し、艇の破れ目から四名の勇士を救いだした。\n それから四名は、本隊に帰還した。\n 班長左倉少佐は、ただちに山岸中尉からはじまって、順々に隊員の報告を受けた。すべて愕くことばかりだった。中でも帆村荘六の怪鬼ミミ族についての報告は、班長をたいへんびっくりさせた。\n「うむ、そうか。ミミ族の地球攻撃が、そこまで進んでいるとは知らなかった。この上は一日もむだにできない。ただちにミミ族をわが上空から追い払わねばならぬ」\n そう言って、班長左倉少佐は、山岸中尉と帆村とを連れ、あわただしく隊の飛行機にのって、いずれかへ出かけた。\n\n ストロボ鏡の発明\n\n いつの間にか、地球をうかがっていた、不逞の宇宙魔ミミ族のことは、放送電波にのって全世界へひびきわたった。そして世界中の人間は、はじめて耳にする怪魔ミミ族の来襲に色を失う者が多かった。\n「もうだめだ。ミミ族というやつは、地球人類より何級も高等な生物なんだから、戦えばわれら人類が負けるにきまっているよ。こうとしったら、穴倉でもこしらえて、食料品をうんとたくわえておくんだった」\n「どこか逃げだすところはないかなあ、噴射艇にのって、ミミ族のおいかけてこない星へ移住する手はないだろうか」\n などと、あいかわらず弱音をはく人間が、いわゆる文化国民の間に少くなかった。\n そうかと思うと、てんでミミ族を甘く見ているのんきな連中もいた。\n「ミミ族だって、地球人類をすぐ殺すつもりでやってきたわけじゃあるまい。なにか物資をとりかえっこしたいというんだろう。そんならこっちもミミ族のほしい物をだしてやって、交易をやったらいいじゃないか。喧嘩腰はよして、まずミミ族の招待会を開いて、酒でものませてやったらどうだ」\n「そうだ、そうだ。ミミ族だって、地球人類だって同じ生物だ。話せばわかるにちがいない。ひとつ訪問団をこしらえて、ミミ族の代表者を迎えにいってはどうか」\n「それがいいなあ。とりあえず僕は、ミミ族におくる土産物を用意するよ」\n こんな連中も、多くではないが、のさばりでた。だが、こののんきな連中は、まもなく大きな失望に見舞われた。\n それはミミ族の一隊が突然カナダのある町にあらわれて、その町を、住民ごとすっかり天空へさらっていってしまったという、驚くべき事件が起ったからであった。\n もちろん警察飛行隊はすぐ出動して、嵐にまう紙屑のように、天空に吸いあげられていく町の人々や、木や、家や、牛や、馬や、犬などのあとをおいかけた。しかし一時間ばかりすると、どの飛行機ももどってきた。\n 彼らの報告は、きまって同じだった。あの奇妙な竜巻をおいかけていったが、そのうちどこへ消えたか、彼らの姿が全然見えなくなったそうである。そして晴れわたった青い空に、太陽だけがかがやいていたという。\n こんな騒動が、世界のあちらこちらで起り、それはあとからあとへ世界中へ放送され、人々の恐怖は日とともにつのっていった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "うまい酒だつた、枯木までよう燃える、感泣々々。\n\n 今日の買物\n一金八十三銭 切手四十枚と一枚\n一金十二銭 ハガキ八枚\n一金十八銭 酒二合\n一金五銭 醤油二合\n一金七銭 バツト一ツ\n一金二十三銭 米一升\n 〆金壱円四十八銭\n\n本日敬坊から送金壱円五十銭\n差引残金二銭!\n\n\n 一月廿五日\n\nよい朝、よい朝、このよろこび、うれしいな、とても、とても。\n△酒も滓もみんな飲む心。\n敬坊から約の如くうれしい手紙(それは同時にかなしい手紙でもあつたが)。\n郵便局まで大急ぎ、三八九発送第一回、帰りみち、冬村君を訪ねて、厚司とレーンコートとを押売する、おかげで、インチキカフヱーのマイナスが払へて、めいろ君に申訳が立つといふ訳。\n雪となつた藪かげで、椿の花を見つけた。\n今日の御馳走はどうだ! 酒がある、飯がある、肉がある、大根、ちしや、ほうれんさう、柚子。......\n△右の手の物を失ふまいとして、左の手の物を失ふ、これは考へなければならない問題である。\n△酒と貧乏とは質に於て反比例し、量に於て正比例する。\n雪の畑にこやしをやつた(肥料も自給自足)、これは昨夜、樹明君に教へられたのだ。\n夕方、樹明君がせか〳〵とやつてきた、生れたといふ、安産とは何より、このさい大によき夫ぶりを発揮して下さいと頼んだ。\n子がうまれたから句もうまれるといふ、万歳々々。\n吉野さんが三八九会費を樹明君に托して下さつたので、それを持つてまた街へ、三八九第二回発送。\nけふはほんとうにうれしい日だつた、涙がでるほどうまい酒を飲んだ、かういふ一日が一生のうちに幾日あらうか。\nおだやかな私と焚火だつた。\n△年をとると、いやなもの、きたないものがないやうになる、肯定勝になるからか、妥協的になるからか、それとも諦めて意気地なくなるからか、とにかく与へられたものを快く受け入れて、それをしんみりと味ふ心持は悪くないと思ふ。\n句が出来すぎて困つた、おちついて、うれしかつたからだらう。\nかういふ場合には、句のよしあしは問題ぢやない、句が出来すぎるほどの心にウソはないかを省みるべきである。\n\n・待人来ない焚火がはじく\n・雪あかり餅がふくれて\n 焚火へどさりと落ちてきた虫で\n・寒さ、落ちてきた虫の生きてゐる\n・ふけて山かげの、あれはうちの灯\n・冴えかえる夜の酒も貰うてもどる\n・つまづいて徳利はこわさない枯草\n 樹明君に\n・燗は焚火でふたりの夜\n・雪ふる其中一人として火を燃やす\n・雪ふるポストへ出したくない手紙\n 仕事すまして雪をかぶつて山の家まで\n 晴れて雪ふる里に入る\n・雪がつみさうな藪椿の三つ四つ\n 一人にして罄の音澄む\n・のどがつまつてひとり風ふく\n・ふるよりつむは杉の葉の雪\n 雪のふるかなあんまりしづかに\n・雪、雪、雪の一人\n・雪はかぶるままの私と枯草\n・小雪ちほら麦田うつふたりはふうふ\n 雪かぶる畑のものにこやしやる\n・からみあうて雪のほうれんさうは\n・雪となつたが生れたさうな(樹明君さうですか)\n・安産のよろこびの冴えかえる(樹明君さうでしたか)\n・もう暮れたか火でも焚かうか\n 恋猫がトタン屋根で暗い音\n・夜ふけの薬罐がわいてこぼれてゐた\n 雪の夜は酒はおだやかに身ぬちをめぐり\n・雪がふるしみじみ顔を洗ふ\n たれかきたらしい夜の犬がほえて\n 火鉢に火がなくひとりごというて寝る\n\n\n 一月廿六日 旧正月元日。\n\nすこし早目に起きた、今朝、どこからも送金がないやうならば、三八九送料の不足をかせぐために山口へ行乞に出かけるつもりで。\nところが、雪だ、このあたりには珍らしい雪だ、冷えることもずゐぶん冷える、何もかも凍つてゐる。\nまづ雪見で一杯といふところだらう、誰か雪見酒を持つてこないかな。\nけさは驚嘆すべき事があつた、朝魔羅が立つたのである、この活気があるからこそ句も出来るといふものだ、スケベイオヤヂとけなすべからずぢや。\nあんまり寒いから、餅粥をこしらへて腹いつぱい詰めこんだら、すつかりあたゝかくなつた。\n雪景色はまことにうつくしい、枝や葉につもつた雪、ことに茶の木、松の木、南天の雪、とりわけて柿の裸木にところ〴〵つもつた雪、柿がよみがへり、雪がいき〳〵とする、草の芽がすこし雪の下からのぞいてゐるのはいぢらしい。\n△雪の風情は雪を通して観る自分の風姿である。\n樹明君から来信、子がうまれ句がうまれる、祝祷々々。\n地下足袋はいて雪風にふかれて、駅のポストまで、樹明君へよろこびのはがきをだすために。\n帰途、風邪をひきさうなので、例の店に寄つて一杯ひつかける、むろんカケで。\n雪見に酒がないのは、かへつて雪をよく見ることができる、料理にダシや味の素をいれないとき、その物のうまさがわかるやうに。\n午後、態人が樹明君の手紙を持つて来た、これは意外な好消息だつた、待つものは来ないで待たないものが来た、何はともあれ、ぜひはやくいらつしやい、一升さげてよ、待つてる〳〵。\n△雪のしづけさ(雪のさびしさではない)、雪のしゞまを感じる、それは自己観照である。\nわらやつもる雪(庵もさうだ)はよいなあと思ふ、私の短冊掛には井師の句がはさんである、『和羅也布流遊支津毛留』\n雪の大根をぬいてきて、豚の汁で煮る、火吹竹でふう〳〵やつてゐるところへ、樹明君がひよつこり、やあ、ありがたいな。\n樹明君は苦労人である、よい意味での、――だから、今、彼がさげてきた包が、木炭とソーセージであつても、ちつとも不自然でない、わざとらしくない、ちやんとイタについてゐる。\nふたりの財布をはたいて一升買ふ、最後の一滴まで飲んでしまつてから、送つたのやら送られたのやら、Yへ、彼氏彼女等としばらく話して、樹明君をわかれ道まで送つて、そしてKへ、そこでまた一杯、戻つてきたのは二時近かつたらう。\n\n くらがりへふみだした足のさむい私で\n・雪の夜の大根をきざむ\n 樹明君に八句\n よろこびを持つてきたあんたと空を仰ぎ\n あんたのよろこびの水音もきこえる\n・雪あしたやす〳〵うまれたといふか\n 雪ふるけさは君の子のうまれた日\n・産湯すてる雪のとける\n・雪や山茶花やむすめがうまれた\n 雪のなか産声のたかしも\n 雪をふんでよろこびの言葉をおくる\n 寝ざめしん〳〵雪ふりしきる\n お正月の雪がつみました\n 雪の鴉のなが〴〵ないて\n 雪のまぶしくひとりあるけば\n・茶の木の雪をたべる\n わが庵は雪のあしあとひとすぢ\n 雪ふかうふんで水わくところまで\n 雪あしたくみあげる水の澄みきつて\n・わらやしたしくつららをつらね\n 雪の晴れてうれしい手紙うけとつた\n・よう燃える火でわたしひとりで\n・雪から大根ぬいた\n 雪風、大またであるく\n 大根うまい夜のふけた\n また樹明君に\n・産後おだやかな山茶花さいてたか\n\n\n 一月廿七日\n\nよい朝、つめたい朝、すこし胃がわるくて、すこしにがい茶のうまい朝(きのふの破戒――シヨウチユウをのみ、ウイスキーをのんだタタリ)。\n何もかもポロ〳〵だ、飯まで凍てゝポロ〳〵。\nけふも雪、ちらりほらり。\nさすがの私も今日ばかりは、サケのサの字も嫌だ、天罰てきめん、酒毒おそるべし〳〵、でも、雪見酒はうまかつた〳〵。\nまた、米がなくなつた、しかし今日食べるだけの飯はある、明日は明日の風が吹かう、明日の事は明日に任せてをけ――と、のんきにかまへてゐる、あまりよくない癖だが、なほらない癖だ。\n自製塩辛がうまかつた。\n午後はだいぶあたゝかくなつた、とけてゆく雪はよごれて嫌だ。\n△満目白皚々、銀盌盛雪、好雪片々不落別処(すこし、禅坊主くさくなるが)、などゝおもひだす雪がよい。\n遺書をいつぞや書きかへてをいたが、あれがあると何だか今にも死にさうな気がするので(まだ死にたくはない、死ぬるなら仕方もないが)、焼き捨てゝしまつた、これで安心、死後の事なんかどうだつてよいではないか、死後の事は死前にとやかくいはない方がよからう。\n原稿も書き換へることにした、どうも薄つぺらなヨタリズムがまじつて困る、読みかへして見て、自分ながら嫌になつた、感興のうごくまゝに書いてゆくのはよいが、上調子になつては駄目だ。"
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"role": "assistant",
"content": "△奇績を信じないで、しかも奇績を待つてゐる心は救はれない、救はれたら、それこそ奇績だらう。\n自己陶酔――自己耽溺――自己中毒の傾向があるではないかと自己を叱つてをく。\nいちにち、敬坊を待つた(今明日中来庵の通知があつたから)。\n焚火するので、手が黒く荒れてきた、恐らくは鼻の穴も燻ぶつてゐることだらう、色男台なしになつちやつた。\n酒の下物はちよつとしたものがよい、西洋料理などは、うますぎて酒の味を奪ふ、そして腹にもたれる。\n樹明さんは、来庵者が少い――殆んど無いといふことを憤慨してゐるが、私としては、古い文句だけれど、来るものは拒まず去るもの追はず、で何の関心もない、理解のない人間に会ふよりも、山を見、樹を眺め、鳥を聞き、空を仰ぐ方が、どのぐらいうれしいかは、知る人は知つてゐる。\n敬治さんは、炬燵がなくては困るだらうと心配してくれる、しかし、私はまだ、炬燵なしにこの冬を凌ぐだけの活気を残されてゐる、炬燵といふものは日本趣味的で、興あるものであるが、とかくなまけものにさせられて困る、あつて困る方が、なくて困る場合よりも多い、だが、かういう場合の炬燵――親友会飲の時には、炬燵がほしいな。\n私の寝仕度もおかしいものですよ、――利久帽をかぶつて襟巻をして、そして、持つてるだけの着物をかける、何しろ掛蒲団一枚ではやりきれないから。\n亀の子のやうにちゞこまらないで、蚯蚓のやうにのび〳〵と寝るんですな!\n\n・雪へ雪ふるしづけさにをる\n・雪にふかくあとつけて来てくれた\n・雪のなかの水がはつきり\n・なにもかも凍つてしまつて啼く鴉\n 樹明君に\n・雪のゆふべの腹をへらして待つてゐる\n・雪も晴れ伸びた芽にぬくいひざし\n・火を燃やしては考へ事してゐる\n・雪ふるひとりひとりゆく\n・水のいろのわいてくる\n・雪折れの水仙のつぼみおこしてやる\n 改作一句\n・この柿の木が庵らしくするあるじとなつて\n 遠く遠く鳥渡る山山の雪\n 雪晴れの煙突からけむりまつすぐ\n 小鳥が枝の雪をちらして遊んでくれる\n 今夜も雪が積みさうなみそさゞい\n 暮れはやくみそつちよが啼く底冷えのして\n 電燈きえて雪あかりで食べる\n・いそいでくる足音の冴えかえる\n・雪あした、あるだけの米を粥にしてをく\n 山の水の張りつめて氷\n・雪の山路の、もう誰か通つた\n・雪のあしあとのあとをふんでゆく\n・霜ばしら踏みくだきつゝくらしのみちへ\n・雪どけみちの兵隊さんなんぼでもやつてくる\n・大きな雪がふりだして一人\n・おぢいさんは唄をうたうて雪を掃く\n・朝の墓場へもう雪が掃いてある\n\n\n 一月廿八日\n\nゆつくり朝寝、けふもまた雪か。\nお茶はうまいが食べる物がない、あまり食慾もない、お仏飯をさげていたゞく(十粒ぐらいしかないけれど、それで十分だつた)。\n古新聞と襤褸を屑屋へ売つて、少しばかり金が出来た。\n米一升、酒屋へ、肴屋へ二十四銭払ふ。\n彼――某酒店の主人――の心をあはれむ、いやしい人間だ。\n待つてゐた敬坊が来た、県庁へ出張する彼を駅まで見送つて行く、そしてちよつぴりやる。\nそれから、冬村君の仕事場に立ち寄つて、いつぞや押売してをいた厚司の代金を受取る、それで払へるだけマイナスを払ふ、だいぶさつぱりした。\n夕方、樹明来、鰯で一杯やる、今夜こそは私が奢つたのだ、のう〳〵した気持だ。\n敬坊が木炭を買うてくれたのはありがたかつた。\n鰯、鰯、鰯ほどやすくてうまい魚はない、感謝する。\n例によつて、樹と山と二人はインチキバーでホツトウイスキー、こゝろよく酔うてこゝろよく別れた。\n『鉄鉢の句』\nこゝまでくれば、もう推敲といふやうなものからは離れる、私はしゆくぜんとして、因縁の熟するのを待つばかりである。\n『ひとり』を契機として孤独趣味、貧乏臭、独りよがりを清算する、身心整理の一端として。\n\n 押しつぶされて片隅の冬鴨のしづか\n ひとり雪みる酒のこぼれる\n 樹明夫人に\n・お産かるかつた山茶花のうつくしさ\n 樹明赤ちやんに\n・雪ふるあしたのをんなとしうまれてきた\n 競つて売られる大魚小魚寒い風\n・林となり雪の一しほおちついて\n・ゆふやみの恋猫のこゑはきこえる\n・冴えかえる水音をのぼれば我が家\n 赤いものが捨てゝある朝の寒い道\n 林のなか、おちついて雪と私\n・ほいなく別れてきて雪の藪柑子\n・つららぶらさがらせてやすらけく生きて\n 大根みんなぬかれてしまつた霜\n・けふも鴉はなく寒いくもり\n・ハガキを一枚ぬかるみのポスト\n\n\n 一月廿九日\n\n雪、あたまはよいが胃がわるい。\nあれこれと用事がないやうでなか〳〵ある、けふは街まで五度も出かけた。\n夜、敬坊来、街でほどよく飲んで、街はづれまで送つた。\n酒あり、炭あり、ほうれんさうあり。\n私もすつかり落ちついた、落ちつき払つては困るけれど。\n\n 一月三十日\n\n毎日毎日お天気の悪いことはどうだ。\n氷柱の落ちる音はわるくない。\n今夜も、敬君が帰宅の途中に寄つてくれた、いつしよに街へ出かけて小ワヤ。\n\n・さそひあうて雪の婦人会へゆく顔で\n ふうふの家鴨がつめたい地べた\n・雪もよひ雪となる肥料壺のふたする\n・日向の枯草をやいてゐる人一人\n・この家にも娘さんがあつてきりぼしきざんでゐる\n・紙反古もほつたらかして寒う住んでゐる\n・みぎひだりさむいさむいあいさつ\n・やうやうにして水仙のつぼみ\n 寒うきて子の自慢していつた\n 雪ふる大木に鋸をいれやうとして\n\n\n 一月三十一日\n\n日々好日、事々好事。\n朝、敬坊来、県庁行を見送る、樹明来、珍品を持つて、そして早く出勤。\n粕汁はうまかつた、山頭火も料理人たるを失はない!\n大根の始末をする、同じ種で、同じ土で、同じ肥料で、しかも大小短長さま〴〵はどうだらう。\n△切り捨てた葱がそのまゝ伸びてゆく力には驚いた。\n今日から麦飯にした。\n何か煮える音、うまさうな匂ひ、すべてよろし。\n千客万来、――薬やさん、花もらひさん、電気やさん、悪友善人、とり〴〵さま〴〵。\n夕方、また三人があつまつて飲みはじめた、よい酒だつた、近来にないうまい酒だつた(酒そのものはあまりよくなかつたが、うまかつた)、三人でまた街で飲みつゞけた、樹君を自動車で送り、敬君を停車場まで送つて、ききとして戻つた、よう寝られた。\n落ちついた、ではなくて落ちつけた、であらう。\n「ぢいさま」と或る女給が呼びかけたのにはびつくりさせられた。\nこれで一月が終つた、長かつたやうでもあり、短かつたやうでもある、この一ヶ月はまことに意味深かつた。\n△所詮、人生は純化によつて正しくされる、復雑を通しての単純が人生の実相だ、こゝから菩薩の遊びが生れる、物そのものに還生して、そして新生がある。\n\n とう〳〵雪がふりだした裏藪のしづもり\n・まづ枇杷の葉のさら〳〵みぞれして\n・けふいちにちはものいふこともなかつたみぞれ\n・けさから麦飯にしてみぞれになつて\n・雪晴れ、落ちる日としてしばしかゞやく\n・あんたに逢ひたい粉炭はじく\n・霜をふんでくる音のふとそれた\n・右は酒屋へみちびくみちで枯すゝき\n・いつも尿するあとが霜ばしら\n・何だか死にさうな遠山の雪\n 障子に冬日影の、郵便屋さんを待つてゐる"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": "「おゆるしなさいますか。」\n とお傍に居合せた相州さまが、軽く無雑作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、将軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが変つた御様子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。\n「なにしろ、」と広元入道さまは、将軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御様子で、つるりとお顔を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この広元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな真似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四囲の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも歯がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大将家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同様に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと虫がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。広元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、将軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顔で、\n「それでは私が申渡してまゐりませう。」と気軽くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、将軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」\n 将軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御様子でございまして、黙つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで広元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平気でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顔をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有様を、私はお奥に居りましたので拝見出来ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は当然の、それこそ「正しい」御処置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて来るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騒擾が、ここに端を発したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、\n「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衛門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の両人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの両人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して声もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に厳重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奥へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に対する正しい御処置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷静で生真面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな気が致しましたほどでございますから、当の和田左衛門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出来るやうな気がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奥国岩瀬郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。胤長さまの六つになるおむすめが、父君とのながのお別れを悲しみ、そのおあとをお慕ひのあまり御病気になつて、その月の二十一日には全く危篤に陥り、それでもなほ、苦しい息の下から父君をお呼びする始末なので御一族のお方々も見るに忍びず、御一族の新兵衛尉朝盛さまの御様子が、胤長さまにちよつと似て居りましたので、一つその朝盛さまに父君の振りをしていただかうといふ事になり、もともとこの朝盛さまは武家のお生れに似合はぬほどにお気持が優しく、さうして将軍家のお覚えも殊にめでたかつたお方でございまして、こころよくその悲しいお役をお引受けになつて、危篤のおむすめの枕頭にお坐りになり、心配なさるな、父はこのとほり無事に帰つてまゐりました、と涙をのんでおつしやつたところが、おむすめは、あ、と言つて少し頭をもたげて幽かにお笑ひになり、それつきり息をお引取りになつたさうで、当時二十七歳のお若い母君もその場に於いて御剃髪なされ、その話を聞いて御ところの人々も御同情申さぬは無く、さうしてひそかに、相州さまのあまりの御仕打をお憎み申し上げたものでございました。和田左衛門尉義盛さまは、あの九日の御一族の歎願も意外の結果になり、御長老たる御面目を失ひましたので、その日から御ところへも出仕なさらず、鬱々と籠居の御様子でございましたが、ここにまた一つ、相州さまと火の発するほどに強い御衝突が起りまして、つひに争端必至のどうにもならぬ険悪の雲行きになつてしまひました。和田平太胤長さまの御屋敷は荏柄の聖廟の真向ひにございまして、それは胤長さまの御配流と共に没収せられ、なにしろ御ところのすぐ近くの土地でございまして御ところへ伺候するのに便利なものでございますから、皆がそのお屋敷を内々お望みの御様子でございましたけれども、左衛門尉義盛さまは、いまはせめて最後の一つの願ひとして、そのお屋敷を拝領いたしたいと、五条のお局さまを通して将軍家にこつそり御申入れなさつたのでございます。その時、将軍家は、お局さまのお言葉をみなまで聞かず、つづけて二、三度せはしげに御首肯なされて、即座に御聴許のお手続きをなされ、それからぼんやり全く他の事をお考への御様子で、しばらく黙つてうなだれて居られました。あのやうにお力無い将軍家を拝したのは、私にとつて、御奉公以来まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顔をなさつて居られたのでございます。それから四、五日経つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、\n「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、\nアレハ和田ニ\n とうつむいたまま低くおつしやいました。\n 相州さまは真面目になつて、\n「それだけはお取消しを願ひます。ひどく悪い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお声をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」"
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"content": "和田ガ喜ンデヰルサウデス\n 将軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。\n「お心の程は拝察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」\nソレホド大キナ事トモ思ヘヌ\n「大事です。反逆の徒輩の処置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。将軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」\n 将軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。\n 胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御気色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辞、思へばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御ところの南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞するがゆゑなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に両奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切歯扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。\n\n\n同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衛門尉、筑後四郎兵衛尉等、屏の中門の砌に徘徊す、将軍家簾中より御覧じ、両人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、各怖畏の気有りて、盃を懐中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、将軍家年来の御素願なり、今日京畿内の御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衛尉公氏、将軍家の御使として、和田左衛門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依りて、其実否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と為し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所なり、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、彼国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。\n同年。五月小。二日、壬刁、陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新羈の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦場を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。"
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"role": "user",
"content": "「私は六段格で。ヘッヘ」\n と、甚八はさッさと白をとった。神田の甚八といえば江戸名題の賭碁のアンチャン。本職は大工だが、碁石を握ると素人無敵、本因坊にも二目なら絶対、先なら打ち分けぐらいでしょうなとウヌボレのいたって強い男。川越くんだりへ来て、手を隠すことはない。\n 武州川越在の千頭津右衛門といえば、碁打の間には全国的に名の知れた打ち手。名人上手に先二なら歩があるという評判であった。礼を厚うして各家元の専門棋士を招き、棋力は進んで五段格を許されていた。諸国の碁天狗どもが参覲交替で上京の折に盛名をきいて手合いに訪問すると、大そうなモテナシをうけるのはいいが、みんなコロコロ負かされてしまう。とうてい敵ではない。津右衛門の棋力は旦那芸にあらず、実力五段充分と諸国の碁打に折紙づきの評判が二十年もつづいて、各家元の打手をのぞいて、田舎棋士の筆頭に押されている達人であった。しかし甚八は怖れない。江戸の素人天狗なら三目置かせて総ナメにしてみせらアと猪のように鼻息の荒い奴だが、棋力はたしかに素人抜群、専門棋士の二段ぐらいの腕はあった。\n 金にあかして家元の棋士にチヤホヤと買いとった五段格。所詮は田舎の旦那芸。田舎侍がコロコロ負かされるのは当り前だ。田舎侍の碁天狗などに碁の本筋が分る奴は一人だって居やしない。千頭津右衛門などと名前だけは大そうだが、こちとらは金持ちとちがって一文無しで叩き上げた筋金入りの腕前。生馬の目玉をぬく江戸の天狗連を総ナメのアンチャンだ。二目はおろか三目でも負かしてみせらア。アッハッハ。という肚の中。ひとつ田舎天狗の大将をオモチャにしてやろうというので、はるばる川越くんだりへ御足労とシャレた次第であった。甚八に遠慮なく白をとられても、津右衛門には蚊のとまったほども応えないらしく、クスリと笑って、\n「私の耳には江戸の噂も稀にしか届かないが、六段格の甚八さんという名はついぞ聞いたことがないな。むやみに白を握りたがる人に強い人はいないものだが、血気のころは私も覚えのあることだ。せっかく御光来のことだから、お気に召すように打ってあげよう。その代り、いいかね、一番手直りだよ。お前が負ければ私が白。また負ければ、お前さんが二目。また負ければお前さんが三目。また負ければお前さんが四目。また負ければお前さんが五目。また負ければお前......」\n 怒るかと思いのほか、こう呟きながら黒石をとる。子供のように軽くあしらわれて、この野郎め、ふざけやがるな、黒石を皆殺しにしてやるぞ、といきり立ってしまった。\n 腕が違うところへ、いきりたって突ッかかるから、問題にならない。アベコベに甚八が皆殺されにちかい大惨敗。やむなく黒を握って、手合い違いだ、面白くもねえ。うそぶきながら、これも惨敗。二目ならちょうど良い手合いの筈だが、いきりたっているから、これも問題なく惨敗。三目も惨敗。とうとう四目に打ちこまれた。さすがに四目となれば、のぼせていても甚八とても豪の者、白の地はいくらもつかない。今度こそ黒の勝と見えた。白はシャニムニ隅の黒石を攻めたててきた。そこは生き筋のある石だ。\n「フン。負け碁ときて、のぼせたか」\n 甚八は鼻の先で苦笑。そこへお茶を持って現れたのは、津右衛門の妻女、千代。\n 津右衛門は五年前に先妻を失い、千代はその後にめとった後妻で、まだ二十一。美人ではないが利巧者で、結婚後、良人に碁を習い覚えてめきめき上達し、田舎天狗を打ちまかすぐらいの手並になっていた。千代は盤側に坐って盤面を見つめていたが、\n「どんな手合い?」\n「四目だ」\n これが甚八にグッときた。なにが四目だ。四目の手合か、どうか、盤面を見るがいいや。生き石をムリに攻めたてて、それが四目うてる碁か。手合ちがいも甚し。白を持つのはオレじゃアないか。\n「フン。バカな。オレに四目おかせる人が、そんなムリな、生き石を攻めたてるようなバカをするかい。冗談じゃアない。生き死にも分らなくって、よく白が握れるじゃねえか」\n 鼻先であしらいながら、考えもせず石をおく。考える必要はないのだ。ちゃんと生きのある石だ。しかし、妙なムダ石を一ツおかれて、甚八は顔色を変えた。\n「アッ! ナ、なんだと?」\n 甚八は飛上るように身を起して、盤をにらんだ。生きだとばッかり思っていた。なんたることだ。田舎碁打じゃアあるまいし、賭け碁で江戸の天狗連を総ナメの甚八が、この筋を見落すとは! 黒石は死んでいるのだ。\n 津右衛門は甚八が顔色を変えて坐り直したのを見て、ほほえみ、\n「夜もだいぶ更けたようだから、このへんで寝ようではないか。お前さんも目が血走って兎の目のようだよ。身体に毒だな」\n「目の赤いのは生れつきだ。江戸ッ子は徹夜でなくちゃア碁は打てねえ」\n「そうかい。それじゃア、夜食でもこしらえてもらいましょう」\n どこの碁打の家庭でも夜更けの夜食には馴れている。かねて用意の手打ウドンがポッポッと湯気をたてて運ばれる。\n「甚八さん。おあがり」\n「どうぞ、あついうちに召上れ」\n と千代にも言われても、それらの声が耳につかないらしい。甚八は尚執念さりがたく、殺気走った目をこらして盤上を睨みつづけている。その隅が死んでは、とうてい足らないようだ。しかし、ほかに勝筋はないのか。津右衛門はすでに黒の勝筋なしと見極めているらしいが、それが口惜しくて投げられない。\n 津右衛門はドンブリをとりあげたが、そのドンブリを膝の上へ下し、一箸もつけずにだんだんうなだれた。次第に顔色が蒼ざめてきた。ジッとすくむように見えたが、ポロリとドンブリを落した。\n「ウッ!」にわかに胸をかきむしり、前へつんのめると、エビ型にまるまって、虚空をつかみ、タタミをかきむしった。その場に、千代も女中も居合わしたので、甚八に毒殺のケンギがかからずにすんだようなものだ。こういう急変になると、当時の医学では、病死か毒死か見当がつかない。その場の状況、毒殺の原因の有無で、どっちかに定まるような怪しい医学だ。まだドンブリに一箸もつけない時だから、タタミ一面ドンブリの海だが、甚八はケンギをまぬかれたようなもの。狭心症とか脳溢血というような急変であったろう。\n「............」\n 津右衛門はのたうちながら、妻をさがしているようだ。何か言いたいことがあるが、もう声がでないらしい。彼の右手は何か異様な運動をした。何か意味のあることをしようとするらしいが、ケイレンや、苦しみもがくことに妨げられて、瞬間的な持続しかないので、意味を完成することができないのである。\n 彼は碁盤の方に向って、時々手をのばすのだ。と、苦しみのために、もがかねばならなくなる。また、同じ方向へ手をあげる。手をのばす。幾たび目かに気がついたが、指が一つの方向を指しているのだ。千代はその指を見つめて考えた。何かを指さすのでなければ、あのように手を握り、一本の人差指だけを突きだしはしないであろう。津右衛門は尚もいくたびか同じことをくりかえした。\n 人の執念は怖しいもので最後に碁盤を指したとき、はげしくケイレンして、その儘の姿勢で息をひきとったのである。苦しみだして十分間ほどの短時間であった。野辺の送りも滞りなくすんだ。参会の人々が退去して近親だけ残ってから、千代の実父の安倍兆久とその長男、千代の兄の天鬼は千代をよんで、\n「先晩きいた話では、津右衛門殿は息をひきとるまで同じ方向を指さそうとされたそうだが、ひとつ、その部屋へ案内して、その方向を見せてもらいたいものだ」\n「ごらんになっても、その方向には何もございませんよ」\n「江戸の碁打の甚八とやらを指し示していたのとは違うか」\n「いえ、そうではございません。のたうつうちに、にじりすすんで方向が変りましたが、お苦しみのうちにも、もがき、もがきして、いつも碁盤の方を指さそうとなさるようでしたから」\n「それはフシギだな」\n 父と兄は千代の案内で座敷へ赴き、碁盤をおき、先日通りに物を配置した。配置が終って津右衛門が倒れてもがきつづけた方角から指の示す方を見ると、隣り座敷との間の唐紙から次第に庭園の方を指すようになる。庭園といっても、かなり広いが、そう手数のかかった庭園ではなく、別に死者が指し示すにふさわしい何物もない。兄の天鬼はしきりに庭を眺めていたが、訝しそうに、首をうちふった。\n「どうも、フシギだな」"
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"role": "assistant",
"content": " 彼は碁盤にちょッと手をかけて持ち上げてみたが、\n「フシギだなア。ここで、こう倒れたのだな。こんなものかな」\n 彼は死者の姿を再現した。\n「オイ。これでいいのか」\n「ええ。そう」\n「オイ。いい加減を云うな。まちがっていたらそう云え。この場所へ、こんなカッコウか」\n 千代は呆れて兄を見つめた。なんて真剣な顔だろう。もどかしさに、噛みつくようだ。目は殺気立ってギラギラ狂気めいた光りをたたえている。そして、死にかけた人間のもがく様子を本当に再現しようとしているのだ。\n「およしなさいよ。そんなバカなマネ」\n「バカッ!」\n 天鬼はたまりかねて爆発した。なんという焦躁だろう。もどかしさに狂い立っているのだ。千代は呆れて、無言のまま兄の姿勢をエビ型に曲げてやった。わざと邪険に手足を折るように押しまげても、彼は妹の手の位置を必死にはかって、余念なく、ただ死者の正しい姿勢を再現するに夢中であった。\n 天鬼はもがきつつ、うごめいた。虚空をつかみ、タタミをむしりつつ、一寸二寸、うごめき進んだ。時々、碁盤の方向を指そうとして、苦しさに虚空をつかんだ。\n「こんなか!」\n「そう」千代は呆れ果てて、いい加減に返事した。必死の天鬼は妹の返事の寸分のユルミも見のがさなかった。\n「コラ。ハッキリ、本当のことを云え。本当にこんなか」\n「ほんとに、そうよ」\n 千代の驚きは絶大であった。必死の一念とは云え、天鬼はまるで津右衛門の死を見ていたように同じ死の苦悶を再現しているではないか。津右衛門には言葉がなかったが、天鬼にはもどかしさに狂ったような言葉があった。そして張り裂けるような狂気の喚きが、それ自体、まさに死なんとしつつある人の叫喚でなくてなんだろう。まさに天鬼その人の、もがき、のたうつ断末魔の姿であった。\n しかし千代は気がついて、ゾッとした。天鬼は憑かれたように津右衛門の断末魔を模倣しつつ、チラと碁盤を指さす瞬間に、実に全部の魂魄を目にこめて指の方向をはかっているのだ。その先に何があるか。彼の全ての精魂がそこにかかっているのである。\n 兄と父はそれからの二日間、庭園を、庭園の外の山の中をブラブラ歩いていたが、三日目に秩父の自宅へ戻って行った。\n\n ★\n\n ちょうどその頃は薩長軍が江戸をさして攻めのぼってきた時であった。山ちかい辺地とても、流言のざわめき、軍靴の恐怖はたちこめている。農民とても、安閑としてはいられない気持であるが、特に金持の豪農は掠奪の恐怖に苦しんだ。津右衛門が死んで一ヶ月ほどたって、上野寛永寺にたてこもった幕府軍が敗走し、戦火が次第に関東から奥州へと延びる気配になったころ、父の兆久と兄の天鬼が三十五日の回向かたがた現れて、\n「どうだ。ここも迫ッつけ戦場になるかも知れんし、よしんば戦場にならなくとも、敗走する兵隊や押込み強盗の群れが入りこんでくるにきまっている。そのときになって慌てて逃げても、もうはじまらぬ。津右衛門殿なきあとは、女手と幼児ばかり。屈強な豪の男がいなくては、このドサクサに、人の目をつけやすい土蔵の金箱や品物を無事守り通せるものではない。私が一日のうちに二百人三百人の人足を集めて、この家の品物全部たった一夜で荷造りしてやるから、今のうちに私のところへ引移ってくるがよい。あの山奥の秩父だけはたった一ツの安全地帯だから。この家はいずれ泥棒どもに住み荒され跡形もなくこわされてしまうだろうが、ただ捨てるのが心残りならば、秩父の私の別邸とこの屋敷を取換えてやろうと思うが」\n 言葉巧みにこうすすめる。千代とても戦禍の不安がないではない。津右衛門なきあと、使用人を別にして、この家族には全く男手がなかった。彼の先妻には二子があったが、いずれも女で、先妻がそうであったように二人の娘も肺病であった。姉の生乃は病気を承知でムリに嫁してすぐ死んだ。妹の玉乃は今年十九。寝たきりではないが、寝つくことが多く、痩せ細り、蒼ざめもつつブラブラしている。\n 千代には東太という一男が生れ、津右衛門の喜びは殊のほかであったが、東太はまだ三ツ、手足まといにはなっても、男手の中に数えることはできやしない。\n こういう頼りない家族であるから、千代とても避けうるならば難を避けたいのは山々であるが、今や、こうして父の説得をきくうちに、ふと思いついたことがあった。ハハア、さては、と気がついた。\n 千頭家には妙な家憲があるのだ。この家憲は世間の人々にも知られているが、世間の噂は元々当にならないものだ。けれども、千代は千頭家に嫁して、津右衛門から、世間の噂が正しいことをたしかめていた。\n 千頭家では息子の成人に当って、先祖伝来門外不出の言い伝えを語りつぐことになっている。その語り伝えられるものが何事であるかは、父と息子以外の誰にも分らない。息子の母も弟も知ることができないのである。そしてその語り伝えられるものは決して文字に記してはいけないとされていた。\n 千頭家は元々この土地の人ではなかった。徳川初期のころ、三代家光の頃と云われるが、いずこよりかこの地へ移住し、莫大な山林原野を買い、人足をあつめて開墾し、今日の元をひらいたのである。莫大な土地を買ったほどであるから、元々お金持であったには相違ない。平家の落武者の子孫だの、豊臣家の血縁の者ではないかというような田舎らしい風聞があったのである。\n 今でも土地の人々が信じていることは、千頭家の祖先が何者かは知れないが、高貴の出で、祖先伝来の山の如き金箱をつんでこの地へ移ってきたが、移り住むと、盗難を怖れて、車に何台という金箱をいずこへか埋め隠したのである。父が息子に語りつぐのはその金箱の隠し場所だ。その証拠には、ほかのことなら、文字に書き残して悪かろう筈がない。あやまって人目にふれると大変だから、文字にすることができないのだ。即ち金箱の隠し場所に相違ない、と。\n しかし、また人々は云う。文字に記して人目にふれて困るのは金箱の隠し場所とは限らない。もしも豊臣の子孫なら、その系図を文字に記して残すのも不安であろう。\n そして一部の人々が信じていることは、千頭家は決して高貴というのではないが、実は切支丹の残党である、と。千頭家の祖先が隠したのは、金箱ではなくて、切支丹の品物を地下に埋めたものだ、と云うのだ。どういう証拠でそんな噂が残っているのか分らないが、なるほど三代家光のころは切支丹断圧最後の時、その絶滅の時であるから、単なる風聞にしては時代がよく合っている。あるいは土民の先祖に切支丹の品々を目利きし得る人がいて、千頭家の持参した荷物の中に秘密の祭具を見かけたのかも知れなかった。\n 津右衛門は千代に語って、\n「世間の人は色々のことを云うが、オレのうちはそのような大それたものではない。まア多少はある一人のちょッとした曰くづきの人物に関係があるが、この家の者がその血筋ではないのだ。わが家の血筋などはとるにも足らぬものさ。関係があるという血筋の人については、ちょッと先祖は言外をはばかる事情があったが、今ではさしたることもない。そこで私のオジイサンの代からそれを系図に書き入れてあるよ。東太が成人して家督をついだら、東太にたのんで見せてもらうがいいさ」\n「では、父から息子へ語り伝える必要はもうなくなったのですか」\n「イヤ。それはまだある。これだけは文字に記するわけにはいかないのだよ」\n と津右衛門は笑ったものだ。\n 千代は今までそういうことを気にかけなかったので、この家に関係ありという人物が誰であるか、それを知ることなどは津右衛門の死後も忘れていた。\n しかし、今、こうして実父と実兄が、言葉巧みな方法で、この家を我が手に収めようとするのに気付くと、ここに何かがあるナと気がついた。即ち、父と兄は見破ったのだ。東太はまだ幼少であるから、云うまでもなく父の語り伝えをうけていない。とすれば、瀕死の父は、その語り伝えを残さなければ、死んでも死にきれなかったろう。彼があの断末魔ののたうちまわる苦悶の中で、右手を必死に動かしていたのは、その語り伝えの内容を暗示しようとしていたのだ。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「未完成」のレコードのうちから、たったひと組だけ採るとしたならば、私はウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮した、ワルターのコロムビア・レコードを選ぶだろう(J八六四二―四)。それはいささかの芝居気もなく、平明枯淡な演奏ではあるが、柔らかな愛情と、ロマンティックな夢のうちに、そっと我らの心を押し包んでくれるからである。それに続いて私はさらに甘美で、さらに感傷的なテレフンケンのクライバー指揮を挙げるだろう。\n「交響曲ハ長調」は長いシンフォニーとして知られているが、今日の常識から見れば、それほど長いわけではなく、かえって私はこのシンフォニーの美しさから言えば、短か過ぎるようにさえ感ずるのである。レコードはワルターがロンドン交響楽団を指揮したのがコロムビアに入っている(JS一〇七―一二)。他に四、五種入っているが、あるいは古く、あるいは面白くない。\n\n序曲と間奏曲と舞曲\n\n「ロザムンデ」の序曲や間奏曲や舞曲は、シューベルトらしい簡素な魅力を湛えたものだが、レコードではどういうものかあまり良いのがない。少し古いがポリドールのベルリン・フィルハーモニーを指揮したフルトヴェングラーのもの(S四〇四一、フルトヴェングラー名盤集)と、新しいのではコロムビアにワルターがロンドン交響楽団を指揮したのがある(JS一一五)。「ドイツ舞曲」はビクターのブレッヒ指揮の以外に良いのを記憶しない(JD二〇二)。\n\n室内楽\n\n「ピアノ三重奏曲」は二つ、そのうち「三重奏曲変ロ長調作品九九」の方が美しく、レコードも四、五種入っている。カサルス、ティボー、コルトーの三名手を組合せたビクター・レコード(八〇七〇―三)は、電気初期のものできわめて古い吹込みにかかわらず、依然としてこの曲の王座を貧乏ゆるぎもしない。ほかにポリドールにナイ三重奏団、コロムビアにヘス三重奏団のが入っている。\n「変ホ長調作品一〇〇」の方はビクターのブッシュ(ヴァイオリン)、ゼルキン(ピアノ)三重奏団のが入っている(JD七四五―九)。\n\n 弦楽四重奏曲では「死と乙女」の四重奏曲と言われる「弦楽四重奏曲ニ短調」にレコードは集中されている。第二楽章に歌曲「死と乙女」が採り入れられ、美しいがこの上もなく物悲しい変奏曲となっているためで、弦楽四重奏曲ではベートーヴェンを除けば、これほど美しくこれほど人を打つ曲を作った人はない。レコードは甚だ古いが依然としてコロムビアのカペエ四重奏団の繊細な気品の高いのを第一とし(カペエ協会第八集S一一〇三―六)、ビクターのブッシュ四重奏団の重厚な良さがそれに次ぐだろう(JD一〇三一―四)。\n もう一つ四重奏曲で「弦楽四重奏曲イ短調作品二九」のコーリッシュ四重奏団を挙げて良いと思う(コロムビアJ八四一三―六)。\n 五重奏曲は「ピアノ五重奏曲イ長調(鱒)作品一一四」一つでも充分シューベルトを代表する。第四楽章の歌曲「フォレルレ」を主題として作った変奏曲が美しいからでもある。レコードはビクターのシュナーベル(ピアノ)とプロ・アルテ四重奏団の明朗寛達なのを第一とし(JD七八六―九〇)、テレフンケンのルップ(ピアノ)とシュトロッス四重奏団のを第二とするだろう。\n「弦楽五重奏曲ハ長調作品一六三」は第二チェロを加えた五重奏曲で、スケールの大きい、厚壮な五重奏曲である。ビクターにプロ・アルテのがある(JD六一五―九)。\n\nピアノ曲\n\n「ピアノ・ソナタ=イ長調(遺作)」はシューベルトのピアノ・ソナタ中の傑出したもので、その晩年の深さが、華麗な形式のうちに秘められている。レコードはビクターにシュナーベルの名盤がある(JD一〇八七―九一)。\n「幻想曲(さすらい人)ハ長調作品一五」は、第二楽章に歌曲「さすらい人」から採った主題と変奏を持っている、シューベルトらしい良い情熱を持った曲で、レコードはビクターにフィッシャーのがある。素直な良い演奏であると思う(JD六〇六―八)。\n\n「即興曲」はシューベルトの無邪気さと奔逸する天才の現れで興味が深い。ビクターにはフィッシャーの演奏で二集入っている。「即興曲作品九〇」(JD一四二四―六)と「即興曲作品一四二」(JD一四二七―九)で、この演奏は古典弾きのプロフェッサーらしい素直さと情熱があってうれしい。\n「楽興の時(作品九四)」には、シュナーベルの名盤がある(ビクターJD一五八四―六)。これもまたシューベルトの天才の一面を語るもので、邪念のない美しさにほほ笑ませるだろう。「行進曲」は、ビクターにシュナーベル親子の連奏で五曲入っている。楽しくも爽快なものだ(VD八〇二一―三)。\n 以上三つのピアノ曲、「即興曲」と「楽興の時」と「行進曲」はいろいろのレコードがあり、ヴァイオリンやチェロや管弦楽に編曲したものもあるが、フィッシャーとシュナーベルと、同父子のレコードで充分だと思う。わずかに行進曲のうちの「軍隊行進曲」をタウジッヒが独奏用に編曲したのが、ポリドールにブライロフスキーの佳作がある(四〇五〇八)。\n\nヴァイオリン、チェロ曲\n\n ヴァイオリン・ピアノ・ソナタも幾つかレコードされているが、結局「大幻想曲ハ長調作品一五九」以外には大したものはない。この曲はシューベルトのもののうちでも、きわめて幽幻な第一楽章と、それに対比して歌曲「挨拶」と同じ旋律を用いた軽やかな第二楽章を持ったもので、ビクターに入っている唯一のレコード、ブッシュ(ヴァイオリン)、ゼルキン(ピアノ)は吹込みは古いが優雅な良いレコードである(VD八二〇三―五)。\n\n チェロのソナタには「イ短調(アルペジオ)」がある。今は亡びたアルペジオという楽器のために書いたもので、コロムビアにはチェロの協奏曲に編曲したのもあるが、どちらも面白い。がここでは前者のヘルシャー(チェロ)、ナイ(ピアノ)のビクター・レコード(JH二二―三)、フォイアマン(チェロ)、ムーア(ピアノ)のコロムビア・レコード(JW七五―七)を挙げておく。甘美な面白い曲だ。\n\n歌曲\n\n シューベルトの良さはやはり歌であり、その天才の輝きは、リードを通して千古の魅力となるであろう。\n 三大歌曲のうち「美しい水車小屋の乙女」は絶対的に私はビクターのバリトン歌手ゲルハルト・ヒュッシュを推す(JD七二四―三一)。この二十曲一連のロマンティックな歌を、これほど巧みに、しかも正直に歌って、平坦なうちに繊細な美しさと、深沈たる悲しみを出し得る人はない。\n「冬の旅」二十四曲は「美しき水車小屋の乙女」以上に歌も優れているが、これを歌っているヒュッシュの出来栄はさらにすばらしい。この歌はシューベルトの死の暗示であったと言われるきわめて陰惨なものであるが、ヒュッシュの演奏はリードの約束に厳格に相応したものでありながら、しかもその表現は限りなく深々として、身につまされる美しきを持っている。ビクターはこの一集九枚の大物を三度までプレスして出しているのは、日本人のドイツ・リードに対する理解のお陰であると思う(シューベルト歌曲集JD三五七―六二、JF五〇―二)。\n「冬の旅」の中で一、二曲ヒュッシュと並んで推賞すべきレコードがある。それは後の条に。\n\n「白鳥の歌」は「冬の旅」よりも陰惨だ。そのうち「憩いの地」や「影法師」や「海辺にて」は聴くに堪えないものがあるが、歌の良さもまた格別である。悲劇的な芸術の美しさとして、これに匹敵するものは決して沢山ない。この十四曲の歌にはヒュッシュのがなく、ビクターに入っているバリトンのハンス・ドゥハンのが唯一の全曲レコードである(JE一一四―七、JD一〇五七―九)。ドゥハンは決して巧者な人ではないが、素直で端的で、「憩いの地」のようなものは非常に良い。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 一枚物のレコードでは、歌手の方から分類すると、ポリドールの名テナー歌手スレザークでは電気の初期に入ったものほどよく、わけても「菩提樹」と「セレナード」と「海辺にて」と「君こそ安らいなれ」と「焦燥」が絶品である(ポリドール、スレザーク愛唱曲集)。これほど行届いた愛情と、巧みな技巧で歌われたシューベルトはない。\n 同じポリドールのバリトン歌手シュルスヌスは、派手な調子で陶酔的な心持で歌う歌が良い。「魔王」「セレナード」「さすらい人」などは代表的なレコードだろう(ポリドール、シュルスヌス愛唱曲集)。\n\n 女流ではメゾ・ソプラノのエレナ・ゲルハルトが傑出している。わけてもこの人のまだ若い頃吹込んだ電気のきわめて初期のシューベルトには、さすがに名品と称すべきものがあると思う。理解の深さと、深沈たる声と、きわめて特異な表現である。ビクターに入っている「辻音楽師」「春の夢」「鱒」「水に寄せて歌える」はその最も傑出したもので、「道しるべ」「お休み」「菩提樹」「駅逓」はこれに次ぐだろう。\n\n ビクターのソプラノ歌手エリザベト・シューマンは可愛らしい清澄な声で日本のファンに喜ばれる。「野薔薇」「アヴェ・マリア」「聴け雲雀」といった可愛らしいものが良い。\n\n ロッテ・レーマンはコロムビアに入っている「魔王」や「死と乙女」が聴かれる。ビクターのギンスターにも幾枚かあり、シュナーベル夫人にもあるが、それは省略する。\n アルト歌手では黒人と混血児で近頃有名になったビクターのアンダーソンがある。私はあまり好まないが「死と乙女」などが代表作だろう。ビクターのオネーギンは老巧無比で、「君こそ我が憩い」が非常にうまい。シューマン‐ハインクの「魔王」もここに掲げてよかろう。あとはさしたるリード歌手はないように思う。\n\n\n\n\n純情の奇才ベルリオーズ\n\n\n\n\n小児の心\n\n 世にも不思議な音楽家はエクトル・ベルリオーズである。\n 作曲家としての彼の業績は、山の頂上から頂上への超人的大飛躍であり、芸術家としての気宇は、英雄的でさえあったにかかわらず、人間ベルリオーズは、小児の如く純情で、乙女の如く感傷的で、彼自身の制御さえ覚束なく、心の弱さをことごとに暴露して憚らなかったのである。\n 六十五歳まで山登りを止さなかったベルリオーズ、激情に駆られると、雨中の散歩も、雪中の睡眠さえも平気でやった、鉄の如き肉体を持ったベルリオーズが、十二歳のとき自分より六つ年上の少女――大きな眼をして薔薇色の靴をはいた――エステルに寄せた憧憬を、五十年後の六十一歳まで忘れ兼ねて、七十歳近い老婆エステルの、皺だらけの顔から、十八歳の昔を見出そうと、必死になっていたのである。彼は彼女の住む寒村に生命を集中し、「この秋は、彼女の傍で一か月暮そう。もし彼女から手紙が来なかったら、僕はパリのこの地獄の中で死ぬことだろう」と言うベルリオーズであった。\n 彼はパリの往来の石の上に坐って泣いた。が、老女エステルにこの狂人沙汰が理解されるはずもない。「今さらそれが何になろう」と彼に書くのが精々であった。だが、老いたるベルリオーズは、それにもかかわらず、彼女の傍で死ぬことばかり夢見ていた。「お前の足下に坐り、お前の膝に頭をのせ、お前の手を握って――」と、そう書くのが六十歳の少年ベルリオーズの心意気だったのである。\n この小児の心の持主が、音楽上においては、最も革新的なる仕事を、大胆率直にやり遂げる闘士だったのである。傑作「ファウストの劫罰」はベートーヴェンの死の翌年には着手され、その翌々年―一八三〇年には、早くも標題楽の最初の傑作「幻想交響曲」に着手し、近代音楽の𦮯棘の途を開きつつあったのである。\n その頃はリストはもちろんのこと、ワーグナーの「リエンツィ」さえ現れてはおらず、世はまだ古典音楽の形式の拘束のうちに、明日の黎明も知らずに、太平の夢を貪っていたことは言うまでもない。ロマン・ローランはベルリオーズを指して「唯一のフランス音楽家」と言い、ワインガルトナーは「ベルリオーズがいなかったならば、ワーグナーやリストの存在にかかわらず、我々は今日いるところにいなかったであろう」と言ったのはまことに至言と言わなければならぬ。\n\n窮乏と純情\n\n ベルリオーズ(Hector Berlioz)は一八〇三年フランスのグルノーブル近郊に生まれた。医師であった父親は、家庭でその子を教育し、音楽の手ほどきまでもしてやったが、ベルリオーズの興味が次第に音楽に傾き、やがて音楽に対して異常な情熱を持つようになると、世間並の親達のように、その子が音楽家になることに厳重に反対した。\n 最初医学校に入れられたベルリオーズは、解剖室の空気に辛抱が出来なくなって、ついに学校を飛び出し、音楽の修業に専念することになった。――辛抱の出来ないのは、一生ベルリオーズにつきまとった病癖であったが――そのため父親の怒りを買って、学費の途を絶たれ、ベルリオーズの惨澹たる生活は、早くもこの時から始まったのである。\n ベルリオーズの精進は涙ぐましきまでに見事であった。欠乏と闘いながらの七年間の苦学は英雄的であったと言っても差しつかえはない。パリ音楽院の正規の課程はそうしておえたが、彼の抱懐するロマンティシズムの新傾向――わけても従来の常規を逸脱し、古臭い伝統を無視する態度は、世の反感と攻撃を受けずには済まなかったのである。\n ベルリオーズは一番勇敢な形式の破壊者であった。いや、破壊がベルリオーズの形式であったと言ってもよい。彼は自分の心の要求に応えるためには、少しも美しくない音楽をさえ書こうとした。因襲に依存して、思想の貧困に甘んずるよりは、最も大胆な反逆者となって新しい生命を燃やす一片の薪になろうとしたのである。\n ベルリオーズは師にも友人にも見離されて、生活のために場末の劇場の合唱団に入り、細々とその日を歌い暮らさなければならなかったが、その弱い心の底に根を張る不退転の英雄魂は、そんなことではひるまなかった。\n 一八三〇年幸い交声曲「サルダナパール」がローマ賞を獲、三年間ローマに遊学する幸運を掴んだが、ここでもベルリオーズは辛抱が出来ず、とうとう二年足らずでパリに帰ってしまった。そして生活を支えるために、嫌々ながら音楽批評の筆も取らなければならなかった。\n ベルリオーズの飛び離れた奇矯さは、ヘンリエッタ・スミスソンとの関係で絶頂に達した。この女優は英国生まれの美人であったが、ベルリオーズはたったひと眼彼女のシェークスピア劇を見ると、もう忘れることの出来ないものになってしまった。当時人気の頂点に押し上げられた女優が貧乏な作曲家の申し出を、ニベもなく拒絶したことは言うまでもない。激情家のベルリオーズは狂人のようにあてもなく彷徨した。夜となく、昼となく、「一夜は町に近い野原に、一日はソオの近郊の牧場に、またある時はセーヌ河畔の雪の中に、時には彼を死んだと思い込んだボーイを驚かしながら、カフェーのテーブルの上に――」と伝えられている。\n 彼は眠くなるまで歩き回った。そして彼女を軽蔑し、彼女を呪った。ベルリオーズの傑作「幻想交響曲」は青年音楽家の病的な幻想を描いたもので、「夢」「情熱」「舞踏会」「野の風景」「断頭台への行進曲」「悪魔会議の夜の夢」とある標題の示す如く、明らかにヘンリエッタ・スミスソンに対する激情と呪とを書いたものである。\n その後幾年か経った。再びベルリオーズの前に現れたスミスソンは、もはや以前の彼女ではなかった。彼女はその魅力をすっかり銷磨した上、シェークスピア劇は大失敗におわり、巨額な借財まで背負って、かっては振り向いても見なかったベルリオーズの懐に飛び込んで来たのである。純情家ベルリオーズは、大手を拡げて彼女を受けいれたことは言うまでもない。\n 彼女の背負込んで来た一万四千フランの借財がどんなにベルリオーズを苦しめたかは言うまでもない。ベルリオーズはパリの聴衆に愛妻スミスソンのために復讐すると言ったが、そんなことは夢であった。「ファウストの劫罰」が大きな期待の下に上演されたときも、誰一人金を払って見に行くものはなく、ベルリオーズは完全に破滅したのである。\n 新妻スミスソンは結婚してみると、常識的で忠実ではあったが、きわめて平凡な英国女であった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "『うき様。――そちら』\n 内蔵助は、白痴のように、口を開いて、\n『暗や。暗や』\n すると、大勢が、\n『オオ暗や』\n『お手々のほうへ』\n『うき様。こちら――』\n 手拍子は、だんだん遠くなって行った。この間に、為かけている用事へ抜け出す仲居もある。他の者に囁いて、そっと他の座敷へかくれる妓もあった。\n『暗や......暗や......』\n 内蔵助は、壁を撫でた。いつのまにか、部屋を出て、長い畳廊下を探っているのだった。\n ふと、冷たい絹に触った。捕った相手は、呼吸をしのんで、わざと体を撫でさせているのだったが、内蔵助の手が何ものかを感じて、恟っと引くと、\n『この阿呆浪人めっ!』\n 人違いをされたその侍は、不意に、こう大喝して、内蔵助の体をつよく突き飛ばし、\n『あきれた馬鹿者っ』\n と、うしろ向きに一瞥を投げて、大股に立ち去った。\n\n\n叛骨\n\n\n 窓の女竹にぱらぱらと夜半の雨がこぼれた。もう梅雨を過ぎて六月に入っているので、うたた寝の畳もさして冷たくはないが、深酒の後の五体は、何となく骨の髄から身ぶるいが出る。\n ――どこの子か。\n 内証の奥で、嬰児が泣く。\n 虫気を起しているとみえ、よほど遠くではあるが、耳についた。――内蔵助は、酔いつぶれて寝た儘の暗い畳のうえに、いつか、凝と、眼をあいて、天井を見ていた。\n(母乳が出ぬのか)\n そう思う。\n 色街の深夜は、妙に陰気なものだった。――歓楽の後の何ともいえない哀寂が、しいんと、墓場のように沈んでいる。\n ――地の底から、啾々と泣く声に似ている。どこの嬰児だろう? 内蔵助はすっかり醒めていた。\n 但馬の実家へ帰した妻のお陸――今年生れの大三郎――。又、るり女は何うしているか? 吉千代は無事だろうか。\n(......彼妻も、母乳が)\n と、思うともなく思いやられる。\n ――誰か、その時、密やかに、襖をひいた者がある、内蔵助は、そのまま眼を閉じていた。衣ずれもせず、人の気配が寄ってきた。そっと、肩に手をおく。\n『もし......。うき様......うき様......。もうお眼ざめなされませ、浮橋さまのお部屋へ』\n 仲居という事を彼は知っていたが、うーむと、うめいて寝返りをわざと打った。窓の女竹がさやさやと風でもあるように戦いだのも感じていた。仲居の手は、自分を起すとみせ、実は、袂を探っているのである。何か、すばやく抜いたらしい。\n『徳西さん』\n 仲居は、もう窓際へ行っていた。しっ......と誰か外で云った。内蔵助は、そっと、見てしまった。女竹の葉の中に忍んでいた辻咄の徳西の坊主頭を。\n 何を抜かれようとさしつかえない物しか、内蔵助は身につけていなかった。おかしいものを感じながら、その儘、何も知らぬ顔して、もう一度寝がえりを打った。\n 白い足は、忍びやかに、部屋の外へ、出て行った。――怖い! と内蔵助はつくづく思う。どうして遊蕩の世界だからといって、気がゆるせたものではない。\n 吉良、上杉の両家には、金と人手に不足がないのだ。金がものをいう廓などは、最も先方の働きよい場所である。\n ――そういう中に自分は居るのだ、いわば敵の真ッ只中に。\n(あぶない)\n 白刃の衾に寝ている身だった。\n しかし――\n こうならなくても、武士の身は、何時でもがそれなのだ。五十年、六十年の生涯が、白刃の上なのだ。又白刃の下なのだ。\n 無事、無為に、赤穂の片田舎に、暮してしまえば、こういう緊り詰めた生涯の一瞬は、思えばなかった筈である。――何の不幸か幸か、事変以来の一年とわずか三月の間の人生は、人間を味わったことで百年、いや、千年生きたにもまさる味があった。\n『............』\n 内蔵助は、足にからんでいる絹夜具をのけて起き直った。\n 嬰児の夜泣きが、まだ時々する。\n 父として。\n さむらいとして。\n 又、一個のただの人間として。\n 彼は、複雑な自分の身を、凝と、他人のように、噛みしめてみた。おもしろいと思う。実に、世の中は、又人間は、おもしろいと思う。何を今、悲しむことがあろう。――何もない。\n 人間と生れたればこそ、この複雑な生を味わうことができる。生れなかったらそれまでのことだ。生れ徳とも思えないことはない。"
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"role": "assistant",
"content": " いやしむべき色廓だと人は云う。然し、彼には、少しも、そういう狭い癖潔は感じられなかった。\n ここも世の中。みな、あたたかい人間たち。\n 生きているうちに感じられるもの、味わえるもの、娯しめるもの、たとえば、今の一瞬でも、あるがままに、在るところに、娯しむのに何の不自然――何の不徳。\n『ただ......散り際じゃ......為すか、為さぬか』\n それを思うと、ひしと肉が緊まる。\n もし、為すことを為さずに終ったら、伏見がよいも、祇園遊蕩も、すべて、蕩児の極道事に帰するのだ。今日までのあらゆる事々、皆、虚偽と醜行の履歴でないものはなくなるのだ。\n ――然し、内蔵助には、うっすらと、先の峠は見えて来ている、ここまでが、難事といえば難事であった。もう、確信がある。――憂いといえば、敵よりは、内輪の者の心のうごきである。\n 更に、怖いのは、自分であった。――日々、確信は固まってゆくようであっても、ふと、その確信をゆるがしそうになる自分の虚が怖い。\n 心の虚には、無という思想が棲んでいた。それが、隙を見ると、頭を擡げ、\n(ばかな!)\n と自分の正面から嘲笑う。\n(名が何だ。死後に何がある。一時の現象だ。現象は、時が運び、時が持ち去ってゆく。春が来、夏が来、秋が去り冬がくる。それだけの繰り返しでしかない。楽しまずして、何の人生)\n と、囁く。\n(子は母乳が出ないで泣いている。妻は、孤愁に痩せている。そういう犠牲をつくってまで、自分の本分を満足させる。それでよいか、父として、人間として)\n 更に又、\n(娯しめ、娯しめ、今だけでなく、永くこの人生を。――二度とは生れ難い人間と生れて、勿体ないぞ)\n 大野九郎兵衛の行った道を、内蔵助だけは道理と、心のうちで時々うなずくのであった。ああ行く気持はよく分る。自分にもそれに似た性格がまったくないとは思わない。――明かにある。――だが、そう気軽に曲ってゆけない素質が自分につよいだけだ――と、複雑な自己を他人のように内蔵助は今も見ている。\n だが――だが――散り際が、いとおしい。\n どっちにしても、短い生涯とおもう。可惜、醜いものにする迄もない。考えれば自分というものも、ぽつんと、生れて消えるだけの一個ではないはずだ。先祖もある、これからの子孫もある。いわば、自分は、鎖の中の一つの鐶だ、ここで、錆びてはならないと思う。\n『いや、それは小さい』\n ――目をとじて、彼は心の隅々までを、総ざらいしていた。すると、忽然、彼自身にすら驚かれるような本心が、大きく彼の意識にのぼった。なるほど、おれには元々、そういう叛骨があったのだと思う。それがおれを、こうさせている。――叛骨は、叛骨も無さそうな人間のうちに、かえって図太くひそんでいるものらしい。\n 素朴な武士の家庭に生れ、ただ武士道に生きてゆく。それを彼は不幸とはしていない、不合理、不自然なる社会の介在とも思わない。けれど、ほとほと、この元禄の世代と、一般の世のあり方には、不満と欝屈を禁じ得なかった。人間として、無関心でいられない「非人道」を余りにも見せられている。その多くは、幕府の悪政である。権力の中に巣くうあくどい官閥共の謳う「わが世の春」である。――この世をばわが世とぞ思う――と露骨に歌った藤原氏の栄華の方が、まだ夢を夢として追っている人々の稚気と詩があった。現代の綱吉将軍や大奥や佞臣閥や妖僧などのむらがりのように、下層社会を犠牲にはしていない。下等な贅沢や飽なき消費だけを能にはしていない。庶民の自由を今のように迄は奪っていない。\n 何としても、内蔵助の純正な武士性に、常々、肚にすえかねていたのは、現幕府のやっている――良民の良貨を引きあげて、新鋳の悪貨とスリ換えている経過からくりと、もう一つは、人間を畜生以下のものに規定した――生類おんあわれみ令――と称するお犬様あつかいの二大悪政である。\n 悪貨濫発が、いかに正直な細民生活を、底の底までへ、みじめに、突き落しているか、幕府の一部大官たちのみに、いよいよ飽慾享楽の資をゆたかにさせているか、赤穂の田舎にいても、それは分るし、波紋は遠くても、江戸の状態と、ちがわないものが、地方の諸所にも、結果している。\n 殊に、お犬様令では、地方にも、あっちこっちで、問題を起していた。中央よりは、むしろ、極端になるのが、こんな禁令厳行の場合というと、有りがちな状態である。お犬様に馴つかれたら、貧乏人は、立ち所に、一家困窮に見まわれる。お犬様には、白米を食わせ、家族は飢えを忍ばねばならない。わが子の病気に薬はやれなくとも、お犬様が病めば、犬医者を迎え、死ねば、家主長屋の連名で役所へ届け、葬儀は鄭重をきわめねばならないのだ。もし、怠れば、追放、百叩き、長牢、遠島、わるくすれば、死罪がいい渡される。\n これは、各藩とも、同じであった。お犬様令は、国法なのだ。領主により、地方により、手加減はやっているが、隣藩のざん訴が恐いので、むしろ競って、人間は犬以下であるこの法律を厳行しあっていた。現将軍の名が綱吉ということは知らない百姓の子でも「犬公方」といえば何だか知っている。野良犬の歩いて来るのを見れば――こういう動物をそのまま人間の形にした途方もなく偉い存在――が、それだと思うのであった。そして、辻や空き地でキャンキャンいっている野良犬は、みな犬公方の眷族であるから、この地上では自分たち人間は皆、その犬よりも下の動物なのだというあきらめの中に住んでいた。\n ――かりに、大石内蔵助良雄という人間にとっても、いまの制度の下に、生きている以上、その例外な人間ではあり得ない。ただ、自意識のうちで、畜生以下のものでないとしているだけである。\n 曾つて、内蔵助は、時の儒者、太宰春台の著書「三王外記」の評判をきいて、大阪の書肆からとりよせてみた。その一節に、こういう文字を見、ひとり現世の人間のために、燈下に痛涙を催したことがある。\n\n ――王(将軍綱吉のこと)先ニ太子(将軍の世子)ヲ喪ウテ、後宮マタ子ヲ産ムナシ。護持院ノ僧隆光、進言シテ云ウ。人ノ嗣ニ乏シキハ、生前ミナ、多ク殺生ノ報イナリ。王(将軍)マコト嗣ヲ得ント欲セバ、ナンゾ殺生ヲ禁ゼザル。\n 且ツ、王ハ、丙戌ノ年ヲモッテ生マル。戌ハ犬ニ属ス。最モ犬ヲ愛スルノ信ナカルベカラズト。王、コレヲ然リトス。\n 太后(生母桂昌院)マタ隆光ニ帰依甚ダ深シ。共ニコレヲ説イテ政令ヲ乞ウテ止マズ。王、スナワチ閣吏ニ命ジ、ココニ殺生ノ禁ヲ立テ、即日、天下ニ愛犬令ヲ下ス。\n\n「三王外記」の記す、この生類御憐愍令が、法律として、発令されたのは、貞享四年の正月であった。以来、ことし元禄十四年にいたるまで――足かけ十五年間にわたって、今なお、人間は畜生以下に規定され、その間、お犬様令の違犯にかかって、死罪、遠島、追放の厄にかかった人間共の数は、河原の石ころみたいに数えきれない。\n この稀代な法令が出たとき、世上の人間共は、身を疑って、まごついた。然し、やがて違犯第一に挙げられた事実が、赤穂地方にまできこえてきた。幕府の持筒頭、水野藤右衛門なる者が、配下の与力同心と共に、遠島、蟄居を命ぜられ、御膳番の天野なにがしは、切腹。秋田淡路守の家中でも、重罪に処せられた者がある。――等、々、々、の噂に人々はちぢみ上った。\n 犬医者、犬目付、犬奉行などの、新しい職制ができ、街道すじでも、犬が往来に遊んでいれば、諸大名の行列も、しばしお犬様を憚って、行きなやんだ程だった。天下、犬の喧々に満ち、犬としいえば、犬の糞でも、その処理には鄭重を極めた。――うそのような世の中が、ほんとに人間へ押しつけられ、人間は次第次第に、畜生以下の観念に馴れて行った。馴れなければ一日とても生きてゆけない世の中なのだ。\n 人間が、その自意識に、畜生以下のものという規定を、平気で、常識にもち得るようになると共に、人間はさらに一歩すすんで、犬とも別物でない人間になろうと努め出した。犬公方の下にふさわしい犬老中、犬側用人、犬町人、犬浪人、犬色子、犬何々と、顔や姿は、畜生に変り得なくとも、似られるだけそれに似ようと心がけた。金、虚名、貪慾、無節操、乱倫、阿諛、奸争、佞策、何でも、利にしたがって、嗅覚の漁りに奔り、ばかばかしい人間の理想などというものを、極端にまで、軽蔑し合った。\n\n\n人間主張\n\n\n だが、もちろん、以上のそれが、人間の全部ではない。\n やはり、人間は人間であろうとして、依然、畜生以上を矜持している人間もある。当然、ふたいろの人種が、二潮流をここに作った。寒潮魚と、暖潮魚のように、それは一つ海に棲んでも、一つには交り得ないものだった。\n たとえば。――と、内蔵助は、こんどの事件を、まったく、他人の事として思う。\n 浅野内匠頭と、吉良上野介との、違いなども、その不幸は、この時潮が、いつか招くべきものを、たまたま二人が、与えられた舞台と機会をもって、しかも曠の式日に、曠の扮装をもって、演じてしまった宿命にすぎない。内匠頭ならずとも、いつかは一度、誰かが、やらずには済まなかったであろう。\n 上野介が、主人への仕方や、彼の日常だの、彼の生活信条も、内蔵助には、よくわかる。決して、それは、世間外ずれな非常識というほどなものではない。むしろ彼の考え方には、彼と同意の味方がずいぶん多いであろう。いや、現世の大部分は、その方だと観て狂いはない。――まして、高家筆頭などという職名は、いわゆる位仆れ、見得仆れで、禄高は、気のどくな程、低いものである。ああでもしなければ、都会に住み、門戸も張り社交も人いちばい派手にして、暮してゆけるものではない。\n ましてや、彼は、江戸の中央にあってこそ、その職権や、時折の式典などを利用して、ずいぶん荒稼ぎもしたり、また、間にも、零細な利殖まで心がけて、収入に汲々たるものはあるが、ひとたび自分が、領主として、その知行所たる郷里の三州横須賀や吉良地方などへ臨むときは、よく領民を愛し、治水開耕の公共事業に心をつかい、よい殿様であり、よい御領主と崇められることを楽しみとしているような好人物の半面もある者だという。\n まさに、そこには、彼にも正しい人間がある。しかし、犬公方の膝下で、犬宰相や犬大名たちとつきあう時には、上野介も、犬高家となるに如くはなかった。それでなければ、彼がえがいているような家門の繁栄と生活は成り立たないからである。しかも、彼には人後に陥ちない狡才があり、高家の職能は、時により、老中も大名も、ちぢみ上がらすことのできる犬牙にもなるのだ。\n 一年に一度の勅使下向。これは、彼の書入れ時だ。こういう機会に、高家が稼いでおかなくて、何を、高家の役得としよう。上野介が口腔いっぱいに、慾望の唾をためて、それに臨んだのは、けだし彼として、当然すぎるほど、当然なことだった。\n ひるがえって、内匠頭の心態はといえば。\n これは、まったく、対蹠的である。時相を知らないし、人間生活の底流が分っていない。元和以来の武門のしきたりを、真ッ向に信奉して、稀〻、曠の大命拝受に、いよいよ日頃の武門精神のみがきを、この秋に示すような、逆な考えと、緊張をもった。ひとり内匠頭だけでなく、一般の士が、そうだった。\n 何ぞ知らん、世の中とは、そう純正なものではない。\n 下向の勅使たちにしてからが、典礼、権式、おごそかに迎えられても、内実の一個人としては、みな、莫大なる幕府みやげが、何よりの楽しみなのである。随行の諸員も、同じことだ。迎える方の、柳営の全員、またみな式典のおこぼれを、余得、役得として、待つものに極っている――ひとりの高家の吉良ばかりでなく、そうして、浮世は、持ち合い、持たせ合い、朝廷や将軍の名分を飾りあい、ひとつの生活祭典になるのであり、ふところを賑わし合えるものだという常識は、暗黙に、世間一般のものとなっている。"
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"role": "user",
"content": " そういって、ソーンダイクは鉗子で死人の唇をもちあげて、その粘膜や歯並をのぞきこんでいたが、\n「ジャーヴィス君、レンズをかしてくれたまえ。」\n 私が自分の二重レンズを彼にわたすと、警部はいっそうカンテラをちかづけて死人の顔をてらした。\n いつもの規則ただしい順序をふんで、彼はやや乱れた鋭い歯を一本ずつ見てゆき、最後に上顎の前歯を、しばらく見つめたあとで、上顎の前歯と前歯とのあいだにピンセットを突込んで、小さい物をとってレンズで覗きこんだ。彼のいつもの手順をしっている私は、箱のなかから解剖用の針と顕微鏡用のスライドをとって渡した。彼がその小さい物をスライドにのせ、針でその位置をなおしているあいだに、私は棚の上で顕微鏡の用意をした。\n「ジャーヴィス君、ファラントを一滴と、スライドの上につけるガラスをたのむ。」そう彼はいった。\n 私が壜をだして渡すと、彼はその一滴をスライドの上にたらし、ガラスをその上に当てて、顕微鏡にさしこんで、熱心にのぞきこんだ。\n 警部はにやにや笑っていたが、なにかの拍子で私と視線があうと、急に笑うのをやめて弁解がましい口調で、\n「夕食になにをたべたか、そんなことを調べる必要があるでしょうか? 中毒のために死んだのじゃないと思うんですが。」\n にっこり笑って、ソーンダイクは顔をおこし、\n「こんな事件では、あらゆることを調べなくちゃなりません。どんな事実でも、なにかの関係をもっているわけですから。」\n「しかし、首をちょん切られた人間の食べた物を調べたって、なんにもならんように思いますが。」警部は反対した。\n「そう思いますか?」ソーンダイクはいった。「殺された人間が、最後に食べた食物に、興味がもてませんか? この死人のチョッキの上に、菓子屑の粉のようなものが散らかっていますが、あなたはそんな物に興味がもてないんですか?」\n「そんなものを調べたって、なんにもならんでしょう?」\n ソーンダイクは、菓子屑のようなものを、ピンセットで一つずつひろい、それをスライドにのせてレンズで覗き、つぎにそれを顕微鏡にさしこんだ。\n「この人は死ぬちょっと前に、オートミールのはいった粗麦粉でつくったビスケットのような物を食べたな。」\n「そんなことはどうだっていいですよ。」警部はいった。「問題はこの男が死ぬまえになにを食べたかということでなく、死の原因はなんであるかということなんです。すなわち、自殺であるか? 過失の死であるか? 他殺であるか? この三つです。」\n「他殺ということは分っているのです。」ソーンダイクはいった。「残っている問題は、誰が、どんな理由で殺したかいうこと。私はそのほかの問題は、すでに解決されていると思う。」\n 自分の耳を疑うように、警部はいぶかしげにソーンダイクを見つめていたが、\n「それは速断じゃありませんかね。」といった。\n「いや他殺であることは間違いなしです。殺人の動機は、この人が宝石商だから、持っていた宝石を狙われたんでしょう。いちおうポケットをお調べになったらいかがです?」\n 死人のポケットと聞くと警部は気味わるそうな顔をし、「なるほど、宝石商で宝石を持っていたから、それで殺されたとおっしゃるんですか。」不平そうな目つきで、ちょっとソーンダイクをみて、「むろん、死体のポケットはしらべますよ。しらべるために私はきたのですからね。しかし、いっときますが、これは刑事上の問題ですよ、安っぽい新聞の懸賞問題じゃありませんよ。」\n 私たちのほうへ尻をむけて、彼は死人のポケットを順々にさがして、なかにある物を、鞄や傘のおいてある木箱の上にならべはじめた。\n 警部がそんなことをしているあいだに、ソーンダイクは死人の体全体を調べ、靴の裏をレンズで覗いたりしたが、それをみた警部はにやにや笑って、\n「靴の裏は大きすぎて、肉眼じゃ見えないでしょう。」仔細らしい目を駅長にくれて、「それとも近眼ですかな。」\n ソーンダイクは怒りもしないで笑っていた。警部がポケットから出した物を箱の上におくと、彼は順々にそれを見ていった。財布や手帳は警部以外の者が手を触れることはできないと思ったので、ソーンダイクは見ようとしなかった。ただ読書用の眼鏡、ナイフ、名刺入れ、その他の小さい物を注意して見た。警部は時々尻目でソーンダイクを見ながら、彼のすることにひそかな興味を感じている様子だった。ソーンダイクは眼鏡の度をしらべ、煙草入れのなかをのぞき、煙草を巻く紙の透かし模様をみ、銀のマッチ箱のなかのマッチまでしらべた。\n「煙草入れのなかに、なにがあると思いました?」警部は鍵束を死人のポケットから出しながらきいた。\n「煙草があると思いました。」ソーンダイクは平気だった。「しかし、ラタキーアの刻みが入っているとは思わなかった。私はまだラタキーアの刻みを巻いてすう人にはお目にかかったことがない。」\n「妙なことに興味をお持ちになるんですね」いいながら、警部はむっつり顔の駅長に目をくれた。\n「ええ、興味を持ちますよ。ダイアは出てこないらしいですな。」ソーンダイクはいった。\n「ことによると、最初から持っていなかったのかもしれない。ここに鎖のついた金時計と、スカーフどめのダイアのピンと、財布がある。」財布のなかのものを片手のてのひらにうつしながら、「金貨で十二ポンドある。これは窃盗が目的じゃないらしいですな。あなたどう思います?」\n「私の意見は前と同じです。」ソーンダイクはいった。「死体発見の場所を見たいもんですな。機関車は調べたんですか?」駅長にきいた。\n「調べるよう、ブラドフィールド駅に打電しときました。もう返事がきているかもしれません。現場へ行くまえに、返事がきているかどうかきいてみましょう。」\n 一同がランプ室をでると、ドアの外に駅員が、電報をもって立っていた。駅長はそれを手にとって読んだ。\n「機関車点検した。左前の車に血痕、次の車にかすかな血痕をみとむ。そのた異状なし。」\n 読み終ると、さぐるような目つきでソーンダイクを見た。\n ソーンダイクはうなずいて、「線路へ行ってみても、これとおなじかしら。」\n 駅長はいぶかしげな顔で、なにかきこうとしたが、すでに死人の持物を大切に包んで自分のポケットにしまっていた警部は、彼をせきたててすたすたと歩きだした。ソーンダイクは自分から申しでてカンテラをもち、私は彼の緑色の鞄をもって、一同プラットフォームをおりて、線路づたいに歩きだした。\n「ぼくにはちっとも見当がつかん。」警部や駅長から、ずっとおくれて歩きながら、私は低い声でいった。「君は案外早く決論をだしたじゃないか。自殺でなくて他殺であるということが、どうしてそんなに早く分ったの?」"
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"role": "assistant",
"content": "「それはなんでもないことだ。そしてまちがいなしだ。左のこめかみのへんに擦過傷があったのは、君も見ただろう? あのくらいの傷は汽車にひかれたってできるわけだが、しかしあの傷からは血が出ている。かなり長いあいだ出血したらしい。その血の線は二つ残っていて、どちらも半ば乾いて固まっているが、ここで考えなくちゃならんことは、首を切断されているということなんだ。もしこの傷が機関車に触れてできたものなら、それは首を切断された後ということになる。なぜというに、汽車が右からきたのに、傷が左がわのこめかみにできているからだ。ところが、切断されている首からは出血していない。だから、このこめかみの傷は、汽車にひかれる前にできたものであるということになる。」\n「だが、その傷は出血しているというだけでなく、二つの血の線がたがいに直角になるように流れている。血の量をみれば、二つの血の線のうちの、どちらが最初にできた線であるということが分るが、その最初の線は、まっすぐに頬をつたって頸のほうへ流れ、第二の線は後頭部にむかって流れている。地球の引力には例外がないんだから、ジャーヴィス君、この二つの線をみたら、君にもたいてい想像できるだろう。血が頬をつたって頸に流れていたら、その時その男は立っていたのだし、血が後に流れていたら、この男は上向きに倒れていたのだ。ところが、汽車がひくまえに見た機関士の報告によると、その男は下向きにはいふさっていたという。だから、当然こんな決論になる、すなわち、その男は傷を受ける時には、立っていたか坐っていたか分らないが、とにかく体を起していた。そして、そのあとで、まだ生きているうちに、血が後頭部に流れるほどのかなり長い時間、あおむけに寝ていた。」\n「なるほど。それに気づかなかったぼくはうかつだった。」私は口惜しげにいった。\n「早く観察して、早く決論をえるのは、熟練のおかげだよ。あの顔をみたら、君もあることに気づいただろう?」ソーンダイクはいった。\n「窒息の症状だろう?」\n「そう。」ソーンダイクはうなずいた。「あれは窒息のために死んだ人間の顔だ。それからまた、君も見ただろうが、舌が恐ろしくふくれあがって、上唇の内がわに歯のあとが残り、一つ二つ、歯のためにできた傷もついていたが、これはなにかで力一杯口を抑えた証拠なのだ。ところで、これらの事実を頭の傷と結びあわせて考えてみたまえ、ぴったりあうから。もしある男が頭を殴られ、殴った男と格闘して、最後に押しつけられて、窒息させられたとしたら、いままで見てきたことがぴったり符合するのだ。」\n「それはそうと、君が歯のあいだから、ピンセットで取ったのはなんだい、ぼくは顕微鏡を覗く機会がなかったのだが?」\n「あれか!」ソーンダイクはいった。「あれはある仮定を確実にしてくれたのみでなく、さらに新しい事実を知らしてくれた。あれはなにか織物のようなものの繊維なのだ。顕微鏡でみたら、いろんな変った色に染めた、いろんな変った繊維だった。大部分は赤く染めた羊毛で、それに青い木綿、ごくわずかの黄色く染めたジュート麻の繊維が混っていた。だから、いろんな色を織りまぜた、婦人服かとも思われるが、しかし、ジュート麻が入っているところから判断すると、むしろ粗末なカーテンや敷物と考えたほうが当っているように思われる。」\n「それにどんな意味があるの?」\n「もし衣類の繊維でないとすれば、家具の一部の繊維ということになり、したがって住宅を意味することになる。」\n「どうも、それだけでは――」私は反対の色をみせた。\n「それだけでは不確実なようだが、ほかの事実と組み合せると、確実なものとなる。」\n「なに?」\n「死人の靴の裏と組み合せるんだよ。ぼくは靴の裏を丁寧にみたけれど、あの付近の荒地を歩いたはずであるのに、砂も小石も土もついていない。ついているのは、煙草の灰と、葉巻か巻煙草を踏みつけたような黒いしみと、ビスケットの屑を踏みつぶした跡と、それから靴の裏の鋲のそばに、絨毯の繊維のようなものがついているだけだった。それだけ証拠がそろえば、その男が繊維をしいた家の中で殺され、そこから死体となって、線路まで運ばれたものであることは明らかだと思う。」\n しばらく私は黙っていた。ソーンダイクの人となりをよく知ってはいたが、いまさらのように彼の筋道の通った理論に驚かずにいられなかった。彼と調査にでるごとに、私はいつもこの驚きを新たに経験する。一見無意味に思われる小さいことを巧みに順序よく配列して、合理的な一つの決論をくみたてる驚くべき手腕は、私にはまったく不思議なことで、そんなことにでくわすごとに、私はいつも驚かずにいられないのである。\n「君のその推理が当っているとすれば、この事件の謎はとけたようなもんだ。家の中に踏みこんでみれば、もっとたくさんの証拠が残っているはずだ。ただ厄介なのは、どの家かということだ。」\n「その通り、」と、ソーンダイクはいった。「それがただ一つの問題、そしてとても厄介な問題なのだ。家の中にはいって一目見さえすればすぐ分るのだが、その家の中にはいる方法がない。殺人の行われた家かどうか、当てずっぽで人の家にはいるわけにはいかんからね。ここでわれわれは急に道を遮断されたわけなんだ。遮断された道のむこうには、殺人の行われた未知の家がある。この二つの道をつながないことには、いつまでたっても問題は解決されない。なぜというに、オスカー・ブロズキーを殺したのは誰かというのが、窮極の問題なのだから。」\n「では、どうするつもり?」私はきいた。\n「これからやることは、ある特殊の家とこの犯罪を結びつけるのだ。それをやるには、あらゆる小さい事実を掻き集めて、そのおのおのの意味を考えてみなくちゃならん。その特殊の家と犯罪を結びつけることができないなら、それはこの調査が失敗したわけだから、ばんじ新規まきなおしだ――こんどはアムステルダムへんから調査をはじめるんだね、ブロズキーが宝石を持っていたとすればね、持っていたことは間違いなしと思うんだが。」\n 目的の地点についたので話をやめた。駅長は立ちどまり、警部は自分のもっているカンテラで、左がわの線路を調べだした。\n「血は案外すくないようですな。いままでときどきこんなことがあったんですが、そんな場合たいてい機関車にも線路にもたくさん血がつくんですが、これは妙にすくない。」駅長がいった。\n すでに血の問題に関心をもたなくなっているソーンダイクは、線路ははじめから見ようともしなかった。彼がカンテラで照しながら見てまわったのは、小石や白堊のまじった線路ぎわの柔らかい土地だった。線路のそばにしゃがんでいる警部の靴裏を指さして、\n「ジャーヴィス君、これをみたまえ、」と彼は小声でいった。\n 私はうなずいた。その靴の裏には、小石の粒や白堊が、いちめんについているのだった。\n ソーンダイクは、線路ぎわから短かい一本の紐をひろいあげ、\n「まだ帽子はでてこないんですか?」ときいた。\n「まだです。そのうち、どこからか出てきますよ。あなた、また手掛りをお見つけになりましたな?」警部は紐をひろったソーンダイクを見て笑った。\n「手掛りになるかどうか分らんですが、後で参考になるかも知れんと思うので、大切にしまっとくことにします。これは緑色のよりの混った麻紐の切れはしのようです。」ソーンダイクはポケットから小さいブリキの箱を出し、そのなかから草花の種でも入れるような封筒をだして、それに紐をいれて表に鉛筆でなにか書きこんだ。にこにこ笑いながら、それを見ていた警部は、また線路に注意をむけた。ソーンダイクも彼といっしょに線路をしらべた。\n 警部は眼鏡の破片を指さして、\n「この男は近眼だったんだな。だから線路に迷いこんだのだ。」\n「そうかもしれません。」ソーンダイクはいった。すでにこの時の彼は、枕木や砂利の上に散乱しているガラスの破片に目をつけていた。彼はまたブリキの箱から別の封筒をとりだし、「ジャーヴィス君、ピンセットを一つかしてくれ。君もピンセットで、この眼鏡のこわれたのをひろってくれないか。」\n 私がいわれた通り、ピンセットでひろおうとすると、警部は不思議そうに、\n「それが死んだ男の眼鏡ということは、もう分っているんですよ。あの男が眼鏡をかけていたことは確かです。鼻の上に眼鏡のあとがついていた。」\n「それでもね、やっぱり確実に調べたいのです。」ソーンダイクはそういったあとで私にむかい、「目に見える破片は、どんな小さいのでも、全部ひろってくれ。大切なことなんだから。」\n「どうして大切なの?」カンテラの光でこまかい破片をひろいながら私はきいた。\n「分らない? この破片をよく見てくれ。大きいのもあるが、枕木の上に落ちているのはみじんにくだけている。ずいぶんたくさんの数にくだけているじゃないか。こんな眼鏡が、こんなこわれかたをするもんじゃないよ。これは凹面レンズだけれど、こんなにこまかくくだけるはずはない。いったい、いつこわれたんだ? 目からはずれ落ちてこわれたのじゃない。落ちたのなら、大きい破片が二つか三つできるだけだ。それかといって、車輪にひかれたのでもない。車輪にひかれたのなら、ガラスが粉になって、線路のうえに残るはずだ。それに、君も見ただろうが、眼鏡のふちについても同じことがいえるわけで、ただ落ちただけなら、あんなにふちが変形するはずはないし、また汽車の車輪にひかれたのなら、ふちだってぺちゃんこになる。」\n「そんなら、どうしたんだろう?」私はきいた。\n「どうも眼鏡の様子から判断すると、踏みつぶしてこわしたものらしい。だから、もし死体をどこからか運んできたのなら、その前からこわれていたのだ。なぜというに、踏みつぶしたものとすれば、ここで踏みつぶされたと考えるより、二人が格闘中に踏みつぶしたと考えるほうが、本当らしいからだ。だからこのガラスは一粒も残らずひろわなくちゃならん。」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 秀吉が関白となったのは、北国出征の直前であった。北陸へ立つ、つい一ヵ月前に、すでに、関白職の栄についたのであるが、戦陣中は、格式に頓着なく、従来どおり一介の武将羽柴筑前で通していたのである。\n かれが、関白になり、豊臣姓を創てたのにも、かれらしい挿話がある。\n 秀吉の望みは、初めは、平凡だった。征夷大将軍――つまり将軍家という在来のものを、至上の職として、ひそかに、希望していたらしい。\n ところが、将軍職名は、頼朝このかた、源系の者に限るような慣例になっている。秀吉は信長の家臣として、平氏を称えていたので工合が悪い。そこでかれは、いま落ちぶれている前将軍の足利義昭を思い出した。\n「義昭どのは、その後、どこに何をしておられるか?」\n 調べさせてみると、亡命からまた亡命をやって、時代の外へ、ぽかんと、置き忘れられていたこの人物は、依然達者で、今では西国の毛利家に寄食し、頭をまろめて、名も入道昌山といっていることが分った。\n「いやとはいうまい。ひとつ、彼に会って、篤と、話しこんでみい」\n 秀吉はさっそく使いを立てた。要旨は、足利家の義子名目を求めるにあった。これは義昭にとってもいい話にちがいない。秀吉を養子ということにする以上、自身の生涯は、亡命生活から解かれて、都の中でも、立派に邸宅を構えることができるわけだ。\n けれど、義昭の返辞は、案外だった。\n「――お断りする」\n 義昭は久しぶりに、自己の誇りを満足させて答えた。\n そして、秀吉の使いを、返したあとで、毛利家の人々に、その心事を、なお誇って語った。\n「いかに、落魄しても、足利家数世にわたる重職を、氏も姓もない下賤の成り上がり者に、売るわけには参らぬからの。......この昌山も、御当家の食客はいたしておるが、まだ先祖の栄誉を売り食いするほどには落ちぶれ果てもせんよ」\n おもしろい人情である。一個の生活自立さえ持たない身なのに、過去の古着にひとしい空位空名を持って、あわれなる今は昔の虚栄心の名残を満たしているのである。\n だが、その義昭にも負けない愚を、秀吉もやはり持っていたのだ。いや、人間共通の愚といってもよいかも知れぬ。特に、衣冠、官階の尊貴が、絶対に、人心のうえに大きな作用をもつその当時にあっては、秀吉なども、ただ自己の凡情を満足させるだけでなく、天下収攬の具として、ひとつの必要事にはちがいない。\n「ははは。だめか」\n 義昭の返辞をきいて、秀吉は笑った。その小心な面子を保つために、義昭が払った痩せ我慢が何と高価についたことかと思って、おかしくなった。\n しかし彼は、義昭のその拒絶を、むしろ愛すべき小心者とあわれみ、この後とも、毛利家が隠居料を与えておく分には、まず大した禍いの火ダネにもなる気遣いはないと安心した。\n「いちど、菊亭どのに、御意中を、さりげなくお話しになってみてはどうでしょう」\n たれか、秀吉に、こう智恵づけた者がある。秀吉の左右に人間は多い。遺憾ながら、何者がそんな智恵をさずけたのかは明らかでない。とにかく、相当な賢者がいて、両者の会合を劃策したことは確かである。\n 菊亭右大臣晴季は、政治家肌の公卿だった。\n 朝廷のかたちはあるが、ここには武力も、物財もない。あるのは、精神的な尊崇の象徴だけである。\n 実際の力も物もない、その尊厳を、守るためだけに、無数の雲上人は、衣冠を正し、位階勲職の古制度だけをやかましく詮議していた。\n この宿命的な無能の仲間にあって、いささかでも、時勢に関心をもち、多少の野望でも抱くとすれば、当然、武門の武と権と財とに結びつかなければ、何もできない。\n「菊亭どのは策士じゃよ」\n かれがこういわれるのも、それに起因していた。\n 朝に呉将を送り、夕べに越将を迎うるの媚態を――遊女のように、これ努めて、貧しき朝廷生活をうるおし、弱き雲上の存在をたもち、そして、武田、上杉、織田、明智、羽柴――と、上洛者のたれかれを問わず、これを奏聞に達して、それらの武門が望む叙爵栄職の名を聴許し、武家の音物や黄白を収入とするのが、ともあれ、この人々の唯一な生きる道ではあった。\n ひとり菊亭晴季だけではない。遠く、藤原氏の凋落期を境として、武門独裁の世となってからは、朝臣の策士はみな似たり寄ったりな者だった。それらのうちでも、菊亭晴季は、武門の棟梁と取引するにしても、なかなか人を喰ったところがあり、徒らに、安目は売らず、充分、朝廷のためにも、私腹のためにも、利を収めて、しかも威厳を損なわないという線の太い特質があったというだけの人材だった。\n「なに。わしに一度、大坂へ遊びに出て来ぬかと? ......。それは行ってもよいが」\n 晴季は秀吉の使いに、色気を見せた。――来たなと、すでに合点の顔いろである。\n 日を約して、かれは早速、大坂城へ、公用の名目を作って出向いた。そして秀吉と会った。\n 型どおりの饗応のあとは、例の、茶である。秀吉が茶をたて、千宗易と、もひとり、妙な男がいて、晴季を主客に、もてなした。\n 近ごろ、武人の間に、茶は非常な流行をみせていたが、公卿仲間では、晴季はじめ、とんと、こういう“佗び”とか、“閑寂”とかいうものに、興味をもっている者はない。\n なぜならば、公卿たちの極端な貧乏生活には、あらためて“佗び”や“閑”を取り入れるほど日常が豪奢でも繁忙でもないからだった。\n むしろ、ありのままな、貧乏ぐらしそのものが、佗び過ぎているくらい、貧しい、乏しい、暮しであった。\n もっと重要な原因は、武家たちのように、何ら、生活の緊張というものがない。朝あって夕べの知れぬ、そんな生命観もない。――それが自然、風貌にも、感覚にも、のッぺりと現われているのが公卿だったが、晴季には、もっと俗気があった。\n 宗易は、茶が終ると、姿をかくしたが、もう一名の妙な男だけは、秀吉のそばにいて、主客のはなしを、にやにや聞いていた。\n 晴季は、その男が、気になるので、つい肚のうちを、云い出しかねていると、秀吉はそれと察したか、笑いながらこういった。\n「菊亭どの。これは堺のそろりと申し、毒にも薬にもならん男。お気づかいなく、お考えを、聞かせられい」\n 秀吉は、さきに腹蔵を打ちあけていた。足利義昭に養子を断られたことなども、不面目だからといって、隠し立てなどはしなかった。\n 晴季は、膝をすすめた。\n「では、忌憚のないところを申しあげるがの。将軍職のお望みは、まず御断念がよいとおもう」\n「見込みはないか」\n「あっても、つまらんではございませんか」\n「ふーむ、そうかな」\n と、秀吉は小鼻に皺をよせて横を向いた。\n うしろに坐っていたそろりが秀吉と眼を見あわせて、にやりと笑った。近頃、このそろりという猫背の老人は、秀吉の腰巾着といわれるほど、気に入りで、いつも彼のそばにいた。しかし、秀吉の虫の居どころによっては、時々、眼うるさくなる場合もあるし、今も急に、云い出した。\n「新左衛門」\n「はあ」\n「おまえも、退がっておれ。あとで呼ぶ」\n「はい、はい」\n 聞き分けのいい猫のように、そろりは、茶室を出て行った。\n「妙な老人ではあるが、あれも、茶人とかいう者でおざるか」\n 菊亭晴季は、気になる猫背が去ったので、やっと、主と二人きりの、水入らずという気やすさを、顔に見せて、訊ねた。\n「いやいや堺の塗師で、杉本新左衛門という剽気た男でおざる。刀の塗り鞘をよう致すので、人呼んで、そろり鞘といい、いつか、それが姓のようになって、曾呂利新左衛門と、みなが申しおる」"
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"role": "assistant",
"content": "「塗師をそばにお置きになるとは、あなたも、物好きでいらっしゃる」\n「物好きといわれれば、将軍職の称号を欲しがるなどは、それ以上な物好きではあるまいか。あの猫背の歯抜け爺を、堺から召し呼んで、伽の衆に加えおく物好きと、将軍家になりたいというわしの物好きと、いずれ劣らぬ愚とはおもうが――菊亭どの、笑うてくれい、秀吉は、是が非でも、成りたいのじゃ。思案はないか、何とか思案は」\n「おやめなされい、将軍家なぞは。――それよりは、あなたともあろうお方が、なぜより以上の、職位をお望みなさらぬのか」\n「なに、将軍以上の職位をとな。......ほう、征夷大将軍の上にも、まだ何か、えらい称号があったであろうか」\n「関白です。いっそ、関白にお就きになったらよいではありませんか」\n「関白。なるほど」\n 子どもが、欲しる物を、鼻さきに見たように、秀吉の顔に、ぱっと、意欲の血が赤くさした。\n「......だが待て、菊亭どの。その関白職はいまふさがっているではないか。二条関白昭実と申す、現職の者がおるぞ」\n「折もよしです......」\n と、晴季は人のわるい微笑を見せて、しばらく秀吉をにたにた見まもった。当今、大坂城の主の声といえば、公卿百官はもちろん、天下の諸侯もみな慴伏せぬはないが、晴季から見ると、まるで児童のように他愛もないのだ。自分の手の上に置いたようなものだった。――こういう快味を、晴季はしばらく心のなかで愉しんだ後、\n「実は、その関白の位は、二条どのから近衛信輔どのへ、もう疾くに、譲るべき順位になっているのです。ところが一方は、現職に恋々として、いっかな、辞任の色もありません。為に、近衛派と二条派との間に、先頃からいろいろ暗闘沙汰が生じておる。......何と、乗ずべき機ではございませんか。横から、漁夫の何とかをお占めになる。これは、あなたなら易々としてお出来になるはずでしょう」\n 菊亭晴季が京都へ帰ってから約一ヵ月後だった。突として、朝廷から秀吉にたいし、関白の宣下があった。\n 前関白の二条昭実に代って、爾今、関白たるべしとの大命である。\n 晴季の暗躍によることはいうまでもない。由来、禁中雲裡の政治的なうごきは、武門のそれ以上、秘密が保たれやすかった。朝野の人々は茫然とした。この発表は、たれもが、意外としたのである。\n「有史以来の異例じゃ」\n「平の清盛が、太政大臣となったのを、古今の異例といわれたそうだが、清盛はまだ平氏の帝系をひいた者。......氏素姓もない、一匹夫とはちがう」\n 当然、公卿の中に、物議が起った。紛々たる不平がたかい。\n しかし、程なく、議論も不平も、掻き消えてしまった。秀吉の人心懐柔は、すぐ功を奏した。一群の空論家が、しかも古い故典旧慣を唱えてみても、それが何の力であるはずもない。世は実力の時代だ。実力のみが人をうごかし世を処理してゆく。七月十三日、秀吉は、拝命の御礼として、南殿に猿楽を催し、叡覧に供えんと称して、天皇、皇子、五摂家、清華、その他の公卿、諸大夫、諸侍までを、こぞって招待した。\n 演舞は、午前から午後にわたった。そのうちに、夕立が来て、舞台も観衆も、ズブ濡れになったが、正親町天皇も、秀吉も、座をうごかないので、舞人も見物も、そのまま興をつづけていた。\n 夕立はすぐあがって、松や梧葉に夕陽が染まり、東山の空には、夕虹がかかった。\n\n昨日は、参内候て、ことに申し沙汰、一しほ忘れがたく思ひ給ひ候。終日、みこころを慰まれ候事、つくし難く候。上洛候折りふしは、再々、待ち思し召候。\n 関白どのへ\n\n これは次の日、勧修寺大納言を通じて、秀吉へ達しられた内勅であった。\n 秀吉はまず朝廷の疲弊しきった経済面に貢献をはかり、貧しい公卿を救恤するに努めた。\n 旱天に慈雨――猿楽の日の夕立のように――雲上人たちは、息をついた。\n こうしておいて、彼は、例の佐々退治を目的とする北征の途にのぼったのであった。\n そして、九月中旬。\n 北国から帰るとすぐ、また菊亭晴季と諮って、豊臣という新姓氏をたて、朝廷に請うて、以後、豊臣秀吉と称することになった。\n 関白は、氏の長者といわれ、参内には、内覧、兵仗、牛車をゆるされる人臣至上の職であるが、尾張中村の一百姓の子には、もともと、はっきりした氏も家系もない。\n 古くから文武の士の間には、源平藤橘の四姓があるが、源氏も平氏も藤原氏も橘氏も、みなその用と功によって、朝廷から命ぜられたもので、何も、末代まで四姓に限る必要はない。古姓をつがなければならないというのはおかしい。新たな時代に、新たな使命をもつ、新たなる人間が現われた以上は、新たな姓を賜わりたいものである。――というのが、秀吉の、奏請の理由であった。\n 何につけても、故典、格式、旧例をたてにとって、ひと理論、ひねくらなければ得心しない公卿たちも、この四姓打破論には、何の異議をいう余地もなかった。\n 姓氏ばかりでなく、故実、旧制はみな、公卿たちの、観念だけにあって、秀吉の眼には、ひとつも、絶対的には見えなかった。その点で、彼も、すべての新時代の具現者とひとしく、自己の創意と建設のみが、つねに自己を励ます興味だった。\n\n忍の人\n\n もし、秀吉の座右に暦をそなえて、その月々に、彼がここ一年に仕遂げて来た事業項目を表にしてみたら、顧みて、秀吉自身すらも、\n(一年足らずに、よくもこう幾多の難が、片づいて来たものではある。一体、これは何の力か?)\n を怪しまないではいられなかったであろう。\n ひと頃は、小牧の凝滞を見て、天下の耳目は、あわや図に乗りすぎた秀吉が、ここで大つまずきをやるのではないかと危ぶんでいたが、それも、彼の奇想天外の策に出た信雄との単独講和を一転機として――さしもの家康をしてまったく茫然と策なき孤立に追いこんでしまい――以後、その徳川家をしり目に、徳川系の与国たる紀州、熊野を攻略し、四国の長曾我部を降し、内海一帯を鎮め、転じて、宿題の佐々征伐を敢行し、北陸平定の基盤を前田利家にさずけ、また上杉景勝と一会の盟をかためるなど、その構想の大きいことと、南走北馳の迅速さとは、まさに、天正十三年の日本の偉観であり、同時に、秀吉出でて、日本は急に小さく狭くなったような気もちすら世人に与えた。\n しかも、そうした夜も日もない軍務征令のほんの余暇のまに、彼は、関白職になり、豊臣の姓をたて、また母には、大政所の称位を請い、妻の寧子を政所として、内にも、内事の調えを、着々とすすませていた。\n かれが、関白に就くや、かれの股肱もみな任官や叙爵をうけた。石田、大谷、古田、生駒、稲葉など十二人も諸大夫に任ぜられ、特に、内政の一刷新として、人材五人が選抜され、新たに、五奉行の文官制ができた。\n 前田玄以。増田長盛。浅野長政。石田三成。長束正家。\n こう五名の奉行が分担する職掌の範囲は、次のようにさだめた。\n 前田玄以は、京都の所司代をかね、禁裡、寺社の一切を奉行し、洛中洛外の諸事を裁判する。\n 長束正家は、知行、勘定方の歳出入、物資の購入、徴税などの経済面一切を裁決する。\n 石田、浅野、増田の三名は、自余の一般内務を奉行し、重要問題は、五奉行の合議によって、分別を一決し、諸政、簡潔と敏活を旨とする。\n ――そしてこの五奉行にたいして、べつに三ヵ条の誓約が掲げられた。\n\n第一、威権をふるい、えこ贔屓のないこと。\n第二、宿怨、私謀をいだかぬこと。\n第三、金銀を蓄え過ぎ、酒宴、遊興、女色、美食、すべて過ぎぬこと。\n\n 職掌も、誓約も、実に単純である。が、多分に、その使命の重要性は、一にその人間への信頼に委ねられているものだった。\n 後の、醍醐、桃山、慶長にわたる一世代のらんまんたる文化の興隆に、これら五奉行の文官的な功績が、他の武将の武勲に劣るものでなかったことはいうまでもない。――短くはあったが、かの信長の一生には、その緒も見られなかった文治文化面の施策を秀吉は経綸の一歩として、この忙しい天正十三年のまっただ中で、すでに着手していたのであった。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "私は大凡そ三十分ぐらいそうして黙ってすわっていました。笠の蔭から明るい方へはみ出している彼女の手は、甲を下に、掌を上に、綻びかけた花びらのように柔かに握られて、その手頸には静かな脈の打っているのがハッキリと分りました。\n「いつ帰ったの?.........」\nすう、すう、すう、と、安らかに繰り返されていた寝息が少し乱れたかと思うと、やがて彼女は眼を開きました。その憂鬱な表情をまだ何処やらに残しながら、.........\n「今、.........もう少し前」\n「なぜあたしを起さなかった?」\n「呼んだんだけれど起きなかったから、そうッとして置いたんだよ」\n「そこにすわって、何をしてたの?―――寝顔を見ていた?」\n「ああ」\n「ふッ、可笑しな人!」\nそう云って彼女は、子供のようにあどけなく笑って、伸ばしていた手を私の膝に載せました。\n「あたし今夜は独りぽっちでつまらなかったわ。誰か来るかと思ったら、誰も遊びに来ないんだもの。.........ねえ、パパさん、もう寝ない?」\n「寝てもいいけれど、.........」\n「よう、寝てよう!.........ごろ寝しちゃったもんだから、方々蚊に喰われちゃったわ。ほら、こんなよ! ここん所を少うし掻いて!―――」\n云われるままに、私は彼女の腕だの背中だのを暫く掻いてやりました。\n「ああ、ありがと、痒くって痒くって仕様がないわ。―――済まないけれど、そこにある寝間着を取ってくれない? そうしてあたしに着せてくれない?」\n私はガウンを持って来て、大の字なりに倒れている彼女の体を抱き掬いました。そして私が帯を解き、着物を着換えさせてやる間、ナオミはわざとぐったりとして、屍骸のように手足をぐにゃぐにゃさせていました。\n「蚊帳を吊って、それからパパさんも早く寝てよう。―――」\n\n十四\n\nその夜の二人の寝物語は、別にくだくだしく書くまでもありません。ナオミは私から精養軒での話を聞くと、「まあ、失敬な! 何て云う物を知らない奴等だろう!」と口汚く罵って一笑に附してしまいました。要するにまだ世間ではソシアル・ダンスと云うものの意義を諒解していない。男と女が手を組み合って踊りさえすれば、何かその間に良くない関係があるもののように臆測して、直ぐそう云う評判を立てる。新時代の流行に反感を持つ新聞などが、又いい加減な記事を書いては中傷するので、一般の人はダンスと云えば不健全なものだと極めてしまっている。だから私たちは、どうせそのくらいな事は云われる覚悟でいなければならない。―――\n「それにあたしは、譲治さんより外の男と二人ッきりで居たことなんか一度もないのよ。―――ねえ、そうじゃなくって?」\nダンスに行く時も私と一緒、内で遊ぶ時も私と一緒、万一私が留守であっても、客は一人と云うことはない。一人で来ても「今日は此方も一人だから」と云えば、大概遠慮して帰ってしまう。彼女の友達にはそんな不作法な男は居ない。―――ナオミはそう云って、\n「あたしがいくら我が儘だって、いいことと悪いことぐらいは分っているわよ。そりゃ譲治さんを欺そうと思えば欺せるけれど、あたし決してそんな事はしやしないわ。ほんとに公明正大よ、何一つとして譲治さんに隠したことなんかありゃしないのよ」\nと云うのでした。\n「それは僕だって分っているんだよ、ただあんな事を云われたのが、気持が悪かったと云うだけなんだよ」\n「悪かったら、どうするって云うの? もうダンスなんか止めるって云うの?」\n「止めなくってもいいけれど、成るべく誤解されないように、用心した方がいいと云うのさ」\n「あたし、今も云うように用心して附き合っているじゃないの」\n「だから、僕は誤解していやあしないよ」\n「譲治さんさえ誤解していなけりゃ、世間の奴等が何て云おうと、恐くはないわ。どうせあたしは、乱暴で口が悪くって、みんなに憎まれるんだから。―――」\nそして彼女は、ただ私が信じてくれ、愛してくれれば沢山だとか、自分は女のようでないから自然男の友達が出来、男の方がサッパリしていて自分も好きだものだから、彼等とばかり遊ぶのだけれど、色の恋のと云うようなイヤらしい気持は少しもないとか、センチメンタルな、甘ったるい口調で繰り返して、最後には例の「十五の歳から育てて貰った恩を忘れたことはない」とか「譲治さんを親とも思い夫とも思っています」とか、極まり文句を云いながら、さめざめと涙を流したり、又その涙を私に拭かせたり、矢継ぎ早に接吻の雨を降らせたりするのでした。\nが、そんなに長く話をしながら浜田と熊谷の名前だけは、故意にか、偶然にか、不思議に彼女は云いませんでした。私も実はこの二つの名を云って、彼女の顔に現れる反応を見たいと思っていたのに、とうとう云いそびれてしまいました。勿論私は彼女の言葉を一から十まで信じた訳ではありませんが、しかし疑えばどんな事でも疑えますし、強いて過ぎ去った事までも詮議立てする必要はない、これから先を注意して監督すればいいのだと、.........いや、始めはもっと強硬に出るつもりでいたにも拘わらず、次第にそう云う曖昧な態度にさせられました。そして涙と接吻の中から、すすり泣きの音に交って囁かれる声を聞いていると、嘘ではないかと二の足を蹈みながら、やっぱりそれが本当のように思われて来るのでした。\nこんな事があってから後、私はそれとなくナオミの様子に気をつけましたが、彼女は少しずつ、あまり不自然でない程度に、在来の態度を改めつつあるようでした。ダンスにも行くことは行きますけれど、今までのように頻繁ではなく、行っても余り沢山は踊らずに、程よいところで切り上げて来る。客もうるさくはやって来ない。私が会社から帰って来ると、独りで大人しく留守番して、小説を読むとか、編物をするとか、静かに蓄音器を聴いているとか、花壇に花を植えるとかしている。\n「今日も独りで留守番かね?」\n「ええ、独りよ、誰も遊びに来なかったわ」\n「じゃ、淋しくはなかったかね?」\n「始めから独りときまっていれば、淋しいことなんかありゃしないわ、あたし平気よ」\nそう云って、\n「あたし、賑やかなのも好きだけれど、淋しいのも嫌いじゃないわ。子供の時分にはお友達なんかちっともなくって、いつも独りで遊んでいたのよ」\n「ああ、そう云えばそんな風だったね。ダイヤモンド・カフエエにいた時分なんか、仲間の者ともあんまり口を利かないで、少し陰鬱なくらいだったね」\n「ええ、そう、あたしはお転婆なようだけれど、ほんとうの性質は陰鬱なのよ。―――陰鬱じゃいけない?」\n「大人しいのは結構だけれど、陰鬱になられても困るなア」\n「でもこの間じゅうのように、暴れるよりはよくはなくって?」\n「そりゃいくらいいか知れやしないよ」\n「あたし、好い児になったでしょ」\nそしていきなり私に飛び着いて、両手で首ッ玉を抱きしめながら、眼が晦むほど切なく激しく、接吻したりするのでした。\n「どうだね、暫くダンスに行かないから、今夜あたり行って見ようか」\nと、私の方から誘いをかけても、\n「どうでも―――譲治さんが行きたいなら、―――」\nと、浮かぬ顔つきで生返辞をしたり、\n「それより活動へ行きましょうよ、今夜はダンスは気が進まないわ」\nと云うようなこともよくありました。\n又あの、四五年前の、純な楽しい生活が、二人の間に戻って来ました。私とナオミとは水入らずの二人きりで、毎晩のように浅草へ出かけ、活動小屋を覗いたり帰りには何処かの料理屋で晩飯をたべながら、「あの時分はこうだった」とか「ああだった」とか、互になつかしい昔のことを語り合って、思い出に耽る。「お前はなりが小さかったものだから、帝国館の横木の上へ腰をかけて、私の肩に掴まりながら絵を見たんだよ」と私が云えば、「譲治さんが始めてカフエエへ来た時分には、イヤにむッつりと黙り込んで、遠くの方からジロジロ私の顔ばかり見て、気味が悪かった」とナオミが云う。\n「そう云えばパパさんは、この頃あたしをお湯に入れてくれないのね、あの時分にはあたしの体を始終洗ってくれたじゃないの」\n「ああそうそう、そんな事もあったっけね」\n「あったっけじゃないわ、もう洗ってくれないの? こんなにあたしが大きくなっちゃ、洗うのは厭?」\n「厭なことがあるもんか、今でも洗ってやりたいんだけれど、実は遠慮していたんだよ」\n「そう? じゃ、洗って頂戴よ、あたし又ベビーさんになるわ」\nこんな会話があってから、ちょうど幸い行水の季節になって来たので、私は再び、物置きの隅に捨ててあった西洋風呂をアトリエに運び、彼女の体を洗ってやるようになりました。「大きなベビさん」―――と、嘗てはそう云ったものですけれど、あれから四年の月日が過ぎた今のナオミは、そのたっぷりした身長を湯船の中へ横たえて見ると、もはや立派に成人し切って完全な「大人」になっていました。ほどけば夕立雲のように、一杯にひろがる豊満な髪、ところどころの関節に、えくぼの出来ているまろやかな肉づき。そしてその肩は更に一層の厚みを増し、胸と臀とはいやが上にも弾力を帯びて、堆く波うち、優雅な脚はいよいよ長くなったように思われました。\n「譲治さん、あたしいくらかせいが伸びた?」\n「ああ、伸びたとも。もうこの頃じゃ僕とあんまり違わないようだね」\n「今にあたし、譲治さんより高くなるわよ。この間目方を計ったら十四貫二百あったわ」"
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"role": "assistant",
"content": "「驚いたね、僕だってやっと十六貫足らずだよ」\n「でも譲治さんはあたしより重いの? ちびの癖に」\n「そりゃ重いさ、いくらちびでも男は骨組が頑丈だからな」\n「じゃ、今でも譲治さんは馬になって、あたしを乗せる勇気がある?―――来たての時分にはよくそんなことをやったじゃないの。ほら、あたしが背中へ跨って、手拭いを手綱にして、ハイハイドウドウって云いながら、部屋の中を廻ったりして、―――」\n「うん、あの時分には軽かったね、十二貫ぐらいなもんだったろうよ」\n「今だったらば譲治さんは潰れちまうわよ」\n「潰れるもんかよ。嘘だと思うなら乗って御覧」\n二人は冗談を云った末に、昔のように又馬ごっこをやったことがありました。\n「さ、馬になったよ」\nと、そう云って、私が四つん這いになると、ナオミはどしんと背中の上へ、その十四貫二百の重みでのしかかって、手拭いの手綱を私の口に咬えさせ、\n「まあ、何て云う小さなよたよた馬だろう! もっとしッかり! ハイハイ、ドウドウ!」\nと叫びながら、面白そうに脚で私の腹を締めつけ、手綱をグイグイとしごきます。私は彼女に潰されまいと一生懸命に力み返って、汗を掻き掻き部屋を廻ります。そして彼女は、私がへたばってしまうまではそのいたずらを止めないのでした。\n「譲治さん、今年の夏は久振りで鎌倉へ行かない?」\n八月になると、彼女は云いました。\n「あたし、あれッきり行かないんだから行って見たいわ」\n「成る程、そう云えばあれッきりだったかね」\n「そうよ、だから今年は鎌倉にしましょうよ、あたしたちの記念の土地じゃないの」\nナオミのこの言葉は、どんなに私を喜ばしたことでしょう。ナオミの云う通り、私たちが新婚旅行?―――まあ云って見れば新婚旅行に出かけたのは鎌倉でした。鎌倉ぐらいわれわれに取って記念になる土地はない筈でした。あれから後も毎年何処かへ避暑に行きながら、すっかり鎌倉を忘れていたのに、ナオミがそれを云い出してくれたのは、全く素晴らしい思いつきでした。\n「行こう、是非行こう!」\n私はそう云って、一も二もなく賛成しました。\n相談が極まるとそこそこに、会社の方は十日間の休暇を貰い、大森の家に戸じまりをして、月の初めに二人は鎌倉へ出かけました。宿は長谷の通りから御用邸の方へ行く道の、植惣と云う植木屋の離れ座敷を借りました。\n私は最初、今度はまさか金波楼でもあるまいから、少し気の利いた旅館へ泊るつもりでしたが、それが図らずも間借りをするようになったのは、「大変都合のいいことを杉崎女史から聞いた」と云って、この植木屋の離れの話をナオミが持って来たからでした。ナオミの云うには、旅館は不経済でもあり、あたり近所に気がねもあるから、間借りが出来れば一番いい。で、仕合わせなことに、女史の親戚の東洋石油の重役の人が、借りたままで使わずにいる貸間があって、それを此方へ譲って貰えるそうだから、いっそその方がいいじゃないか。その重役は、六、七、八、と三カ月間五百円の約束で借り、七月一杯は居たのだけれど、もう鎌倉も飽きて来たから誰でも借りたい人があるなら喜んで貸す。杉崎女史の周旋とあれば家賃などはどうでもいいと云っているから、.........と云うのでした。\n「ね、こんな旨い話はないからそうしましょうよ。それならお金もかからないから、今月一杯行っていられるわ」\nと、ナオミは云いました。\n「だってお前、会社があるからそんなに長くは遊べないよ」\n「だけど鎌倉なら、毎日汽車で通えるじゃないの、ね、そうしない?」\n「しかし、そこがお前の気に入るかどうか見て来ないじゃあ、.........」\n「ええ、あたし明日でも行って見て来るわ、そしてあたしの気に入ったら極めてもいい?」\n「極めてもいいけれど、ただと云うのも気持が悪いから、そこを何とか話をつけて置かなけりゃあ、.........」\n「そりゃ分ってるわ。譲治さんは忙しいだろうから、いいとなったら杉崎先生の所へ行って、お金を取ってくれるように頼んで来るわ。まあ百円か百五十円は払わなくっちゃ。.........」\nこんな調子で、ナオミは独りでぱたぱたと進行させて、家賃は百円と云うことに折れ合い、金の取引も彼女がすっかり済ませて来ました。\n私はどうかと案じていましたが、行って見ると思ったより好い家でした。貸間とは云うものの、母屋から独立した平家建ての一棟で、八畳と四畳半の座敷の外に、玄関と湯殿と台所があり、出入口も別になっていて、庭から直ぐと往来へ出ることが出来、植木屋の家族とも顔を合わせる必要はなく、これなら成る程、二人が此処で新世帯を構えたようなものでした。私は久振りで、純日本式の新しい畳の上に腰をおろし、長火鉢の前にあぐらを掻いて、伸び伸びとしました。\n「や、これはいい、非常に気分がゆったりするね」\n「いい家でしょう? 大森と孰方がよくって?」\n「ずっとこの方が落ち着くね、これなら幾らでも居られそうだよ」\n「それ御覧なさい、だからあたしが此処にしようって云ったんだわ」\nそう云ってナオミは得意でした。\n或る日―――此処へ来てから三日ぐらい立った時だったでしょうか、午から水を浴びに行って、一時間ばかり泳いだ後、二人が沙浜にころがっていると、\n「ナオミさん!」\nと、不意に私たちの顔の上で、そう呼んだ者がありました。\n見ると、それは熊谷でした。たった今海から上ったらしく、濡れた海水着がべったりと胸に吸い着き、その毛むくじゃらな脛を伝わって、ぼたぼた潮水が滴れていました。\n「おや、まアちゃん、いつ来たの?」\n「今日来たんだよ、―――てっきりお前にちげえねえと思ったら、やっぱりそうだった」\nそして熊谷は海に向って手を挙げながら、\n「おーい」\nと呼ぶと、沖の方でも、\n「おーい」\nと誰かが返辞をしました。\n「誰? 彼処に泳いでいるのは?」\n「浜田だよ、―――浜田と関と中村と、四人で今日やって来たんだ」\n「まあ、そりゃ大分賑やかだわね、何処の宿屋に泊っているの?」\n「ヘッ、そんな景気のいいんじゃねえんだ。あんまり暑くって仕様がねえから、ちょっと日帰りでやって来たのよ」\nナオミと彼とがしゃべっている所へ、やがて浜田が上って来ました。\n「やあ、暫く! 大へん御無沙汰しちまって、―――どうです河合さん、近頃さっぱりダンスにお見えになりませんね」\n「そう云う訳でもないんですが、ナオミが飽きたと云うもんだから」\n「そうですか、そりゃ怪しからんな。―――あなた方はいつから此方へ?」\n「つい二三日前からですよ、長谷の植木屋の離れ座敷を借りているんです」\n「そりゃほんとにいい所よ、杉崎先生のお世話でもって今月一杯の約束で借りたの」\n「乙う洒落てるね」\nと、熊谷が云いました。\n「じゃ、当分此処に居るんですか」\nと浜田は云って、\n「だけど鎌倉にもダンスはありますよ。今夜も実は海浜ホテルにあるんだけれど、相手があれば行きたいところなんだがなア」"
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"content": " 黎明(一八六〇―一九〇〇)\n\n 一八六八年、フランス資本主義に後援されていた徳川幕府の最後の抵抗がやぶれた。そして翌一八六九年、日本全土にしかれていた封建的統一はそのままとして、その上に維新政権が樹立された。\n 福沢諭吉の「窮理図解」(一八六八)「世界国尽」(一八六九)「学問のすゝめ」(一八七一)などが、新しい日本の文化をめざます鐘としてひびきはじめた。\n 徳川の三百年を通じて文化・文学の上で婦人の発言は全くしめ出されていた状態だった。江戸文学は数人の女流俳人、歌人を有し、歴史文学の荒木田麗女の「池の藻屑」「月の行方」などが、源氏物語を模した文体でかかれた歴史物語としてつたえられているだけである。いわゆる維新の女傑たちの文学的表現は、「尊王」の短歌の範囲であった。これらの姉たちは、尊王攘夷というスローガンの実体が、王政復古といいながら実は天皇を絶対権力者とする半封建的資本主義社会体制への移行であることを知っていなかった。\n「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という人権のめざめにたって動き出した明治初期の積極的な婦人たちは、キリスト教教育による封建社会への批判と習慣の改良をその中心とした。そして文学よりはまず「実学」を必要とした当時の気運にしたがって婦人の活動は新生活運動の形をとった。夫人同伴会、婦人束髪会、婦人編物会、矯風会をはじめとして、日本各地に生れた各種各様の婦人会は、男女同権の思想を基礎にして、ピューリタン的な「家庭の純潔」をめざした。婦人の自主的なこれらの動きは、一八七二年の人身売買禁止法、男子に等しい義務教育令の制定や、福沢諭吉の一夫一婦論、廃娼論とならんで、森有礼が『明六雑誌』に「妻妾論」を書いて当時のいわゆる「権妻」の風習に反対したことにも通じている。しかし婦人の半奴隷的な境遇はつづいて、全人民による選挙と国会開設を求める自由民権運動に参加した十九歳の岸田俊子(のち自由党首領中島信行・長城の夫人。号湘煙・中島飛行機製作所長中島知久平の母)や、小学校の代用教員であった影山英子(のち福田英子『妾の半生涯』改造文庫)などがその政談演説の中で主張したのは、「天賦人権自由平等の説」と「女子古来の陋習を破る」べきことであった。\n 当時の婦人民権運動家の活動は、一般の女の生活の底にまでふれてゆく条件を欠いていた。岸田俊子が『女学雑誌』などに書いた感想小品の文体をみてもあきらかである。ふりがなをつけても意味のよくのみこめないような漢文調で書かれた感想の間に、英詩が原文のまま引用されているという風で、一種の婦人政客であった彼女には、婦人大衆の日々の現実におり入ってその自覚に訴えかけてゆくような真実の社会性はめざめていなかった。\n 一八八八年、田辺龍子(三宅花圃)が発表した「藪の鶯」が、婦人によって生まれたやや文学らしい文学の第一歩をしめした。明治初期には「実利実学」の気風と、徳川時代から小説を軟文学としてかろしめてきた伝統とがからみあっていて、岸田俊子なども台所や茶の間に手帖をおいても書いてゆけるものという理由で、文学の仕事は女にふさわしいといった。「淑徳才藻のほまれたかい」女子が「学びの窓の筆ずさみ」に小説を書くというように考えられ、いわれていた時代であった。\n「藪の鶯」は、坪内逍遙の「当世書生気質」(一八八五)の影響と模倣によって書かれた。「藪の鶯」は当時二十一歳であった彼女の生活環境である上流官吏の家庭・社交の雰囲気を、まざまざと反映している。洋服で夜会にゆく上流の令嬢は、明治二十三年の国会開会をひかえて自由民権運動が抑圧され、五七〇名が「宮城三里外」に追放され、保安条令によって集会一切が禁止されるという当時の支配階級の反動政策について、何も理解していなかった。女同士の話よりも「紳士がたの話から啓発されるところが多かった」龍子は、それらの紳士がたが語る支配階級の社会観、女性観をそのまま「藪の鶯」の中に反映させている。男子を扶けて、家庭を治めそのかたわら女子にふさわしい専門の業をもしてゆくことがのぞましいという、半ば独立し、半ば屈従の範囲での女子の向上が、「藪の鶯」のかしこい女主人公の語る理想である。龍子の時代の若い上流子女はもはや民権時代の婦人が抱いた「天賦人権」の観念への道は封じられていた。その時代については「たいそう女の気風がわるくなった時代」として、軽蔑をもって見るように教育されはじめたのであった。\n「藪の鶯」が封建的な尾をひいている「当世書生気質」の影響のもとに書かれて、その前年に発表され、近代小説の本質に迫った二葉亭四迷の「浮雲」とは、全く無縁の作品の世界をもっていることは注目すべきである。また、花圃とおない年であった北村透谷が激しい青年の心に当時の社会矛盾を苦しんで、「当世書生気質」の半封建的な人生態度の卑屈さと無思想性に強く反撥しながら、人間の精神の高貴さを求めていた思想の動きに対しても、花圃の環境が全く無感覚に生きられていたということにも関心をひかれる。はじめて婦人によって書かれた小説という意味で、文学史に記録されている「藪の鶯」は、文学の本質において決して近代精神の先頭にたって闘うものではなかった。筆のすさびとして当時の教育ある婦人の妥協的常識の水準をしめしたものである。\n「藪の鶯」の本質はそのようなものであったが、この一作が世間の注目をひいたことは、他のいくたりかの文才のある婦人たちに文学活動の可能を与えることとなった。木村曙「婦女の鑑」が読売新聞に連載され、清水紫琴「こわれ指輪」、北田薄氷、田沢稲舟、大塚楠緒子、小金井喜美子(鴎外妹)の翻訳、レルモントフの「浴泉記」、ヒンデルマン「名誉夫人」、若松賤子のすぐれた翻訳「小公子」などがもたれた。\n これらの婦人文学者たちの教養は、花圃の内面世界よりも数歩前進してヨーロッパ文学の影響のもとにあったであろう。しかし、生活の現実において、彼女たちの文学は女としての日常のおもしの下にひしがれた。この人びとの文学への志は根気強い、いちずなものがあったにしろ、当時の社会環境の中で女の文学の仕事は、やはり余技の範囲にとどめられた。このことは、少くない作品をかいた大塚楠緒子の死後、作品集がのこされていないことにも語られている。田沢稲舟が山田美妙との恋愛事件に対して世間から蒙った非難に耐えなくて、自殺したことにもあらわれている。\n 生活のために職業として小説の創作に入った最初の婦人作家は、樋口一葉であった。一葉の苦しかった生活のいきさつは、ひろく知られている。「にごりえ」「たけくらべ」などは、古典として、今日に生命をつたえている。これらの独特な趣をもって完成されている抒情作品は、明治文学が自然主義の移入によって大きい変化をおこす直前、すでに過去のものになろうとしていた紅葉・露伴の硯友社文学のある面と、透谷・藤村などの『文学界』のロマンティシズムとが、一葉という一人の才能豊かな婦人作家の上にこって玉をむすばせたともいうべきものであった。\n 一葉は、一方に封建的なしきたり、人情をひきずりながら、急速に資本主義化してゆく当時の日本の社会層で、下づみにおかれている人々の男女関係、親子関係、稚な心の葛藤などを、紅葉・露伴の文脈をうけついだ雅俗折衷の文章で描き出した。曲線的な彼女の文体はままならぬ浮世に苦しみ反逆しながら、それをくちおしさとしうらみとして燃やす女のこころと生活の焔によって照らされ、それまでの婦人作家の誰も描き出すことのできなかった文学の世界をつくった。一葉の世界は旧く、しかしあたらしく、また旧さにたちかえって、そこに終結した。このことは彼女の全作品を通じてみられる興味ふかい歴史的要素である。彼女と半井桃水との、恋であって恋でなかったようないきさつに処した一葉の態度にも、この特徴はあらわれている。一葉の文学に独特なニュアンスとなって響いている旧いものは、とりもなおさず当時の庶民生活のあらゆるすみずみに生きて流れていた人民の真実であった。彼女の作中の人物たちは、心と身をうちかけてそのしがらみの中にもがいた。その意味で一葉の作品は、雅俗折衷の文体そのものによって旧い情感を支えながら、こんにちに生きのびる実感を保っているのである。\n\n 短い翼(一九〇〇―一九一六)\n"
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"content": "『明星』が発刊されたのは、一九〇〇年のことであった。黒田清輝、岡田三郎助、青木繁、石井柏亭など日本の洋画の先駆をなした画家たちが、与謝野鉄幹を中心として「新詩社」を結成した。二年前に『文学界』が廃刊された。鉄幹は透谷、藤村などのロマンティック時代を、芸術至上主義の気よわなロマンティシズムであるとして、『明星』を彼のいわゆる「荒男神」のロマンティシズムに方向づけた。鉄幹のこのロマンティシズムの本質は、「支配する者のロマンティシズム」として認められている樗牛のロマンティシズムと同質のものであった。日本のロマンティシズムのこのような変貌のかげには、一八九四―一八九五の日清戦争で、日本が台湾・朝鮮の植民地所有者となり、賠償金三億円を得て産業革命が躍進させられたという社会事情がひそんでいる。\n 一八九七年に鉄幹の詩集『天地玄黄』が、アジアにおける侵略者としての、日本の最初の勝利のうたい手としてあらわれた。堺の菓子屋の娘として、『文学界』をよみ、やがて『明星』にひかれて、『みだれ髪』をあらわした(一九〇一)与謝野晶子は、女として人間として彼女のうちに燃えはじめたロマンティシズムの性格が、鉄幹の「荒男神」ロマンティシズムと、どのようにちがうかということは自覚するよしもなかった。二十三歳であった晶子は、『明星』にひかれ、やがて鉄幹を愛するようになり、その妻となったのであったが、その時代に生れた『みだれ髪』一巻は、前期のロマンティストたちが歩み出すことのできなかった率直大胆な境地で、心と肉体の恋愛を解放した。『みだれ髪』は当時の日本に衝撃を与えて、恋愛における人間の心とともに肉体の美を主張したのであった。\n「当世書生気質」には遊廓が描かれていた。「藪の鶯」の中では、いわゆる男女交際と、互いにえらびあった男女の結婚が限界となっていた。一葉の生活と作品の世界で「恋」は切なく、おそろしいものであった。紅葉は作家が自身の恋愛問題を作品として扱うことを「人前に恥をさらす」と考えた。藤村の「お小夜」「つげの小櫛」の境地は、『みだれ髪』にうたわれた女の、身をうちかける積極性と、何とちがった抒情の世界であるだろう。『みだれ髪』は現代文学の中に、はじめて女性が自身の肉体への肯定をもってたちあらわれた姿であった。\n 晶子のこのような生命の焔、詩の命が、みじかい数年の後に次第に色あせてゆき、官能の自然発生的なきらめきを、その作歌の中で成長させ高めてゆくことが出来なかったのは遺憾である。一九四二年にその長い生涯をとじるまで、晶子は文学活動においても母としても実に多産であった。『みだれ髪』から『春泥集』(一九一一)に移ってゆく過程には\n\nあはれなる胸よ十とせの中十日おもひ出づるに高く鳴るかな\nいつしかとえせ幸ひになづさひてあらむ心とわれ思はねど\n人妻は七年六とせいとなまみ一字もつけずわが思ふこと\n\nなど深い暗示をもつ歌も生れた。\n つぎつぎにうまれる多くの子供らを育て、年毎に気むずかしくなる良人鉄幹との生活を、母として妻として破綻なくいとなんでゆくためには、経済的な面でも晶子の全力がふりしぼられた。短歌の他に随筆も書くようになって行った。随筆で、晶子は不如意な主婦・母親としての日常を率直に語って、生活的であった。晶子が書く政治的な論文は、当時の婦人には珍しい社会的・政治的発言としてよまれた。しかし、彼女の短歌の世界は、現実のそういう面に接近させられなかった。与謝野晶子の歌として、世人が期待するになれた象徴と自然鑑賞のうちに止まりとおしたことは注目されなければならない。様々の理由がそこにあったろう。晶子が、自身の創作上の方法論をもたなかったこと、それも、彼女の発展を困難にしたことはたしかである。\n 一九〇四年、晶子が「旅順港包囲軍の中に在る弟を歎きて」つくった新体詩「君死にたまうこと勿れ」は、「ああ弟よ、君を泣く」という第一句からはじまって深い歎きのうちに「君死に給うこと勿れ」と結んでいる。「親は刃をにぎらせて、人を殺せと教えしや、人を殺して死ねよとて、二十四までも育てしや。」「君死に給うことなかれ。すめらみことは戦に、おおみずからは出でまさね。かたみに人の血を流し、獣のみちに死ねよとは。」「十月もそわでわかれたる少女心をおもいみよ。」\n\n この詩は『明星』に発表された当時、愛国詩人大町桂月一派から激しい攻撃をうけた。その後、この詩は晶子の作品集からけずられて、四十数年を経た。「すめらみことは」いでまさぬ太平洋戦争の敗北によって、日本の権力が武装解除されたとき(一九四五年)この「君死にたまうこと勿れ」は、新しい感動をもって紹介されよみがえらされた。この作品は、当時の晶子が、侵略戦争の本質については深くふれず、「旧家を誇るあるじにて、親の名をつぐ君なれば、君死に給うことなかれ」という親のなげきの面から、また、「のれんのかげに伏して泣く、あえかに若き新妻」の「この世ひとりの君ならで、ああまた誰にたのむべき、君死にたまうことなかれ」と「家」の感情にたって訴えている。天皇は戦争を命令し、人民は獣の道に死ぬことを名誉としなければならなかった一九三一年からのちの十四年間、かつて「君死にたまうこと勿れ」を歌ったこの女詩人はどのような抗議の歌を歌ったろう。晶子は彼女を歓迎する各地の門人、知友の別荘などにあそんで装飾的な三十一文字をつらねていた。\n 自然主義のさかんであった時代に花袋門下として生まれでた婦人作家水野仙子が、その着実な資質によって努力をつづけながら、人道主義文学の擡頭した時期に「神楽坂の半襟」「道」「酔いたる商人」などを書いたことは、意味ふかく観察される。『ホトトギス』の写生文から出発した野上彌生子も、やはりあとの時代に「二人の小さいヴァガボンド」などによって、婦人作家の文学にヒューマニスティックな新しい面をひらいた。\n 自然主義の「露骨なる描写」の方法は、小市民としての作家が経済政治面からしめ出されつづけてきた日本の社会的環境では、フランスでのように、社会小説として、その露骨さへ発展させてゆくことができなかった。藤村の「破戒」から「家」への移りは、この現実を語っている。「家」はそこをしめつけている封建的な、家長的な圧力に耐えかねて、「家」を否定した当時の若い世代が、個人の内部へ向けるしかなかった自己剔抉となって「私小説」の源としての役割をおびた。\n 婦人作家の境遇は、まだまだ男に隷属を強いられる女としての抗議にみちていた。したがって彼女たちにとっては初期の自然主義作家の肉慾描写をまねようとするよりも、むしろ、そのように醜いものとして描写されている肉慾の対象とされていなければならない女性の受動的立場と、それを肯定している習俗への人間的抗議が、より強く感じられたのは自然であった。小寺菊子は自然主義的な手法で婦人科医とその患者との間におこる肉感的ないきさつを描いたりもしたが、この作家でも、「肉塊」としての女は描けなかった。この現象は、案外に深く文学そのものの人間性につながる意味をもっているものではなかろうか。婦人の芸術的能力が客観性をもたず弱いから、男の作家の描くような女が描けず男がかけないという解釈だけでは、不充分なものがある。資本主義の社会体制は婦人を人間的にあらせることが不可能な条件の上に保たれている。資本主義社会内に対して、新しい歴史の力が闘いをいどみはじめた第一歩である自然主義の時代、特に日本のように、近代化がおくれて女の抑圧されている社会で、少くともものを書く婦人が、封建的な小市民道徳に抗議する男自身、女に対してもっている封建性への抗議をとびこさなかったのは一必然であった。"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」\n と頭巾を解き、颯と顕われた島田の銀の丈長が指尖とともに揺れると、思わず傘を落した。\n「気味の悪い。」\n 降りしきったのが小留をした、春の雪だから、それほどの気色でも、霽れると迅い。西空の根津一帯、藍染川の上あたり、一筋の藍を引いた。池の水はまだ暗い。\n「気味の悪い?......気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。......そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」\n「私どうしましょう。」\n「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああ鬢の中へ。」\n と、相傘するまで、つと寄添う。\n「私どうしましょう。」\n と、乳のあたりへ袖を緊めつつ、\n「空から降って来やしないんでしょうか。」\n「......空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」\n\n 二十\n\n「でも、私、小説が上手に出来ますように――笑わないで頂戴......そういって拝んだんですのに。」\n「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」\n「半分切ってあげましょうか。」\n「驚いた......誰方にさ。」\n「三浜さんに。」\n「まあ。」\n「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」\n「まあ、慾のおあんなさらない、可愛い、それだから私に抱かれようって......ほんとに抱きますよ。」\n「あれ、人が居ます、ほほほ。」\n「ええ、そう。――もうあそこまで行きました。」\n ――斉しく見遣った。\n 富士颪というのであろう。西の空はわずかに晴間を見せた。が、池の端を内へ、柵に添って、まだ濛々と、雪烟する中を、スイと一人、スイと、もう一人。やや高いのと低いのと、海月が泳ぐような二人づれが、足はただようのに、向ううつむけに沈んで行く。......\n 脊の高い方は、それでも外套一着で、すっぽりと中折帽を被っている。が、寸の短い方は、黒の羽織に袴なし、蓑もなしで、見っともない、その上紋着。やがて渚に聞けば、しかも五つ紋で。――これは外套の頭巾ばかりを木菟に被って、藻抜けたか、辷落ちたか、その魂魄のようなものを、片手にふらふらと提げている。渚に聞けば、竹の皮包だ――そうであった。\n「――あれ、辻町さんよ、ちょいと。」\n「辻......町」\n「糸七さんですってば。――つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま......」\n「今......」\n「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。立停ってしばらく見ていましたんですよ、二人とも。頭巾を被っておいでだし、横吹きに吹掛けていましたから、お気がつかなかったんです。もっともね、すぐその前、あすこで――私はお約束の大時計より、大変な後れ方ですから、俥をおりると、早廻りに、すぐ池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳して来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋りに、あの二人に。\n おや......帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂の方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」\n「どうしたんでしょう、こんな朝......雪見とでもいうのかしら。」\n「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」\n「いやです、きまりの悪いこと。......親類に連れられて、浅草から燈籠を見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀ですわね。」\n「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者......極っていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あの情ない様子ったら。おや、立停りましたよ、また――それ、こっちを見ています。挨拶――およしなさい、連がありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口を記いたじゃありませんか。」\n「よくご存じですこと。」\n 簪を挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、熟と、糸七とその連を視た。\n\n 二十一\n\n「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)......何とかいったっけ、そうだ(......まだしも、ふ憫だ。)」\n「あわれ、憫然というやつかい。」\n「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾をいうと(妙。)――と歯を喰切って、骨董が負惜しみに受ける処だ。\n またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは確に婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さては越の国にありちゅう雪女なるべし、)傭お針か、産婆だろう、とある処へ。......聞いたら怒るだろう、......バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは――(奇絶、奇絶。)妙......とお言いよ。」\n「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして......馬鹿々々しいよ。」\n「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって......女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行くと三馬だ。お馴染がいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」\n「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」\n と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限に依って職を求むれば、速に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合わず、砕いて言えば収入が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野弦光で、対手とは四つ五つ長者である。\n さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌る、飜訳者からすれば、不埒ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居の釘に剥取られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫の干ない足袋は、ぬれ草鞋のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚れて、且つその......言い憎いけれど、少し臭う。遊女に嫌われる、と昨宵行きがけに合乗俥の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤の刺青もなしに放り出した。後悔をしても追附かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿広袖に包まって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。\n が、幸に窓は明い。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日も紅を解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍の池の風情が思われる。\n 上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉に湧き動揺いて、都大路を八方へ溢れる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近な汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋も、褄も、春の色にやや緩けたであろう。"
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"role": "assistant",
"content": " 先刻に氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時経っている。\n 崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も廂もまだ雫をしないから、狭いのに寂然とした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気が立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立というと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆さんの突掛けの膳で、安ものの中皿に、葱と菎蒻ばかりが、堆く、狩野派末法の山水を見せると、傍に竹の皮の突張った、牛の並肉の朱く溢出た処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。\n\n 二十二\n\n「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――先刻のあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女が、その帯で引張るか、階子段の下り口で、遁げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛に、頬辺を押着けて、大きな結綿の紫が垂れ掛っているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」\n「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。......まずお酌だ。」\n いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方から一升徳利を通帳という不思議な通力で取寄せたからで。......これさえあれば、むかしも今も、狸だって酒は呑める。\n 二人とも冷酒で呷った。\n やがて、小形の長火鉢で、燗もつき、鍋も掛ったのである。\n「あれはね、いいかい、這般の瑣事はだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。――除の二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。――望む処は、ひけ過ぎの情夫の三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった......といううちにも、何しろ昨夜は出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女も化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸を潜って、迎も待たず、......それ、女中が来ると、祝儀が危い......。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴は、と申すと、外套なし。」\n「そいつは打殺したのを知ってる癖に。」\n「萌した悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている......いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」\n「春着に辛うじて算段した、苦生の一張羅さ。」\n「苦生?......」\n「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」\n「好い、好い。」\n「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名して――久須利、苦生。」\n「ああ、そう、久須利か。」\n「くせえというようで悪いから、皆で、苦生、苦生だよ。」\n「さてまたさぞ苦る事だろう、ほうしょは折目摺れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れに藍が兀げて出た処は、まるで、藍瓶の雪解だぜ。」\n「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」\n「妙でないよ、また三馬か。」\n「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」\n「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら情ない寂しい声だな。――懺悔をするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。――「お傘を」――家来どもが居並んだ処だと、この言は殿様に通ずるんだ、それ、麻裃か、黒羽二重お袴で、すっと翳す、姿は好いね。処をだよ。......呼べば軒下まで俥の自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中を見透かした、俥賃なし、と睨んだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」\n「私は、すぼめた。」\n「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕の亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだ鼾で居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷で、脛も白やかに起きてよ、達手巻ばかり、引掛けた羽織の裏にも起居の膝にも、浅黄縮緬がちらちらしているんだ。」......\n\n 二十三\n\n つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、盃を置き息をついて、\n「しかも件の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」\n「そこで、雪の落人となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして被せてくれたのには感謝した、烏帽子をつけたようで景気が直った。」\n「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」\n「静といえば。」\n「乗出すなよ。こいつ、昨夜の遊女か。」\n「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」\n「自棄をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女に、馴染をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。......もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」\n「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜それ引前を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈の傍で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて......」\n「写実、写実。」\n「目の凜とした、一の字眉の、瓜実顔の、裳を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田の。」\n「うむ、それだ。それは婀娜なり......それに似て、これは素研清楚なり、というのを不忍の池で。......」\n と、半ば口で消して、\n「さあ、お酌だ。重ねたり。」\n「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」\n「よくない、よくない量見だ。」\n と、法師は大きく手を振って、\n「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料不如傘二本か。一本だと寺を退く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切れない。」\n と握拳で、猫板ドンとやって、\n「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」\n と、喟然として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ肘をつく。\n「へい、へい、遅わりましてござります。」\n 爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸へ垢手拭を巻いたのが、乾びた葡萄豆を、小皿にして、兀げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様穿換えの古足袋を握っている。\n「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。\n この傭にさえ、弦光法師は配慮した。......俥賃には足りなくても、安肉四半斤......二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、廓から空腹だ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。粮と温石と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉、緑宝玉、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた香を放って、手を懐中に暖めたとあっては、蕎麦屋の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って斥けた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「旗を出す竿が、これまでのは短うてせむなというて、竹林に兼吉が近所のもんと連うて行きよった。そしたら、その人がびっくりして、これははや初めて来て見たが愈々見事なものじゃ、一の森じゅうにこれ程のものはない、これだけのこして貰うただけでも大した金目や、と云うたげな。それで、少々考えが違うてきよったふうじゃ」\n ハハハハと重蔵は再びお縫の耳をひく笑いかたで高く笑った。おさやは、落付いた慰さめをこめた口調で何か云っている。けれども、十八のお縫は、重蔵の心に鬼が住んでいると思った。養子夫婦と自分たち年寄との毎日毎晩の些細なことを、一つ一つ金に換算して、あの親切はなんぼ分、この丁寧もあすこからと、銭に引きあてて見せる鬼が重蔵の心に巣をくっている。その鬼は重蔵を決して安心させないだろう。幸福にもさせないだろう。何万あるのか知らないが、そのためばかりに、重蔵は自分の一番近い筈のものへ自分の心の一番冷たい憎悪と打算とを向けているのである。そう思って、負けずぎらいな重蔵が瀬戸ものの歯の間から響かせる高笑いを聞いているだけでもお縫は胸苦しいような気がした。年頃のお縫には、こういう家庭の紛糾もまんざらよその話とばかりは聞けなかった。いつか自分の身の上にもはじまらなければならない嫁舅姑の田舎らしくせまい日常の底にかくされているうすら気味わるいものの影が計らずもそこに見えがくれしているようで、遠いようで近いような現実的な圧迫を感じさせられるのであった。\n お縫は、やがて下駄を突かけて、ゆうべの浅蜊の殼をもって裏へまわった。古い無花果の木の下に手造りの鶏小舎がある。お縫はトウトトとよびながら、先ず玉蜀黍の実をまいてやり、どこかへ運ぶ塩俵のつんであるねこぐるまの置いてあるわきの丸っこ石の上で貝殼を叩き砕いては、小舎の中へなげた。\n 裏から見ると、庄平の店と住居とは、麦畑と表の往来との間に、まるで切り出しの刃のように片そげになった狭い地べたの上に随分無理をして建て並べられている。片側は往来のすぐ裏がもう線路で、やっと一側の家が並んでいるだけだし、その向い側はすぐ畑や田圃につづく松山にさえぎられて、村全体が奥ゆきない埃っぽいかまえであった。何年か昔、ここへステーションが出来るというので、何か一つ新しいたつきをと求めて集った家々である。\n 村じゅうがひっそり閑として夕方近い西日に照らされているこういうひととき、停車場で汽車の汽笛が一声鳴ると、その音は西日のすきとおる明るさのなかに谺して、あっちからこっちの山へとまわって響いた。それは変に淋しかった。つづいてギギーと貨車か何かが軋る音がしてガチャンと接続のぶつかり合う音がしてまたあとはしーんとしてしまうようなとき、お縫は胸のなかをしぼられるように我家をなつかしく思った。\n お縫のうちの方は、こことはちがって、海辺に近い半農半漁の村暮しで、寺の山にのぼると、小笠島というめばるのよくとれる島のまわりからずーっと瀬戸内海が見渡せた。村の浜は風景が美しいので有名な海浜で、昔ながらの村落は、海辺をかこむ松林のこちらから、背戸に枝もたわわに黄色くみのっている夏蜜柑の樹を茂らせて麦畑や田の間に散らばっている。田をつくるに水不足で、どこの農家でも井戸を掘りぬいて灌漑した。\n この村から一里ばかり先に大きい湾に面した港町があって、鉄道がしけるまでは東北から出まわる北米は一旦すべてこの港に集められ、そこから九州や山陰へ回漕されている。庄平兄弟の母親は、そういう商売を大きくやっている回漕問屋の娘であった。そんな関係から、代々油屋だった国広屋が、米へ手を出すようになった。\n ところが、この地方に汽車が開通すると一緒に、港はさびれ、従ってその港の活気でひき立てられていた村の暮しが年々深い眠りの中へとりのこされてゆくようになった。国広屋が落ちめになったのはこれも一つの理由であったが、庄平に云わせると、没落は又別の理由で早められたことになった。\n 明治時代には十年おきぐらいに日本として初めての大戦争や事変があって、庄平は、三十を越すまで三度戦に従軍した。兄貴が兵士ぐらしをしている間に、弟の順平は、おのずから家代々の鰭を一人の身につけて、金使いも覚え、汽車が開通したときは、米を運ぶより頻繁に白足袋をはいた順平が、半時間でゆける小都会の夜の明るさへ運搬されるようなことになった。その借財もある。そこへ大正七八年の大恐慌が最後の破綻を与えた。庄平はその時分、今順平のいる村の本家に商売していたのだったが、その破滅から国広屋を立て直そうと勢猛に、弟と入れかわって停車場の村へのり出した。\n 順平が選挙運動にかかわりあったり、土地の仲介をしたり、一定の職業のない村での旦那暮しをはじめたのはそれからのことである。順平に云わせれば、こんな眠った村で、することがないのであった。そういう順平を庄平は、働く堅気な心がないからだと判断した。そして、互に気ごころの喰いちがったまずい衝突が捲きおこされて、それには自然どちらの一家も家じゅうが影響されるのであったが、順平はそういうとき、ほっとした口元で華奢な指にはさんだ敷島の煙をふきながら、妻や息子娘たちを自分のまわりにあつめて云った。\n「どだい、お母はんと兄貴とは十八のときからわしをどう扱った。宮の森に養子に行かせて、戻したと思えば、折角一旗あげようと大阪まで出ているところを、わいわい云うてもどしよる。そらどこへ使にゆけ、ここへゆけ。困ると、わしを呼んですきなほど使いよるって来て、一遍でもこちらの身を思うてじゃったか。いいかげん面白うなくなるは当り前じゃ」\n お縫は、娘の感情で父親の述懐を忘れ得なかった。その忘れ得ない感情のままで、庄平のまるで反対の解釈から出る様々の仕うちを見ているというこみ入った伯父姪のいきさつにおかれているのであった。\n 海沿いの村の暖い春の日光は、ほしいままに繁っている雑草の中に、建ちぐされかかった三棟の大鶏舎をゆったりと永い日がな一日照していた。台所の裏の三和土のところには、埃をかぶって大きな孵卵器が放りこんだままにある。こちらの村住居ときまったとき、順平は広い屋敷の地面から思いついてこの近隣では類のない大仕掛けの養鶏を思い立った。名古屋へ上の息子を講習にやったり、名古屋の方から専門家を招んだりして暫く最新式な養鶏に熱中したが、眠っている村では採算がとれなくて、しまいには雇い男がこっそり鶏を抱え出して飲んだくれたりする始末となってやめた。\n 順平の思惑は、いつも村に流れて来る時勢より三四年は先を行く塩梅になった。そのために大損をして兄庄平と大揉めしたバス会社の経営にしろ、順平がすっかり損をして信用も傷つけた揚句やめてから、僅か四五年あとにやりはじめた佐伯は、同じ事業で今では一財産をつくった。\n 屋敷は荒廃して、昔代々そこで油を搾っていた作業場は、元のところにがらんとした壁と屋根とをのこして建っている。別棟の二階には油製造につかった麻袋を織る機台が組立てられたまま蜘蛛の巣が張られている。いくらか織りかけの布が挾まれているままでもう何年そうやってうっちゃらかされているだろう。お縫は小さい時分から、それを見ながら雨の降る日はそのよこでままごと遊びをした覚えがある。\n 収拾のつかない破綻が落ちている倉の外壁や青草にまで滲み出ているようなのに、順平は、町から買って来る繻子足袋をはいて、そこだけはしっかりしている新建ちの座敷で、小さい急須から小さい茶碗にとろとろと茶を注いでのんでいた。そこから見える中庭だけは丹念に手入れされていて、苔は美しく日をうけて緑色であった。池に金魚が泳いでいた。厠に床の間がついていてそこに刷りものの松園の美人画と香炉とがおいてある。その新建ちの座敷の縁側には都会風な硝子戸が入っているが、床の間や欄間の壁は今に中塗りのままで何年かを経た。そこまでやりくりがきかなくなったのだけれど、順平は、そうは云わず、壁はよく乾かして上塗りせにゃと、壁土についての一見識を快活に披瀝するのであった。\n 国広屋の一つの気風でもあるのだが順平は、いつも先へゆきすぎ早すぎる自分の思惑を、土地柄にあわせてゆこうとはせず、同じ損でも、思い付きが進みすぎていてする損は男のすたれではないと云った。そして、絶えず何か一攫千金の思い付きがありそうに、或はそれが実現するときでもありそうな気配が順平の立居振舞からにおっていて、家のもの皆がそれにつられ、常に半信半疑ながらもその間に益々茂って行く屋敷の雑草に、痛切な傷心も誘われずお縫も育って来た。\n\n 無花果の木の下の小舎から出た白い七八羽の鶏たちは、さもうれしそうに半ば羽ばたきながらかけ出して、溝流れのふちで草を啄みはじめた。隣りのハワイがえりの爺さんがこしらえている麦畑を荒さないように、短い棒切れを片手に鶏どもを見張りながら、お縫は、この伯父の一家と自分のうちの生活とは、何という気分のちがいだろうと思った。順平が今度儲けたら、というときは、きっと息子や娘たちに向って、お前らにもと何か買ってくれそうな楽しい話をするのが癖である。そして実行されるのはその万が一だけにしろ、生活には現実と空想のいれまじった不安な期待がそよいでいる。\n 庄平は、稼がにゃならん、お前らも儲けてもらわにゃ、と二人の若い息子を励まし追い立てるようにして、装ふりかまわぬ暮しである。一文の損もしない才覚で通すかと云えば、そこはやはり庄平も国広屋の一族で、使っている男にこれまでも幾度か金をつかいこまれた。庄平は、商売上にも伍長の口癖で「作戦アリ」という気象であった。金を使いこまれたりすると店の前に人だかりのするほど荒れた。それでいて、その男が頃合いを計って前へ出て、庄平のいわゆる潔い謝りかたをすると、忽ち機嫌を直して、飯を振舞った上酒まで呑ました。\n 五年前倒れて床につくようになってから、庄平は次第に無くちになった。いつとなし店のきりもりはおさやが主にした。庄平の床は家の中心のようなところにとってあって、そこから左の襖越しに店が見わたせるし、右の襖越しには裏が見わたせた。その店さきから裏までを一日のうち何十度か休む間もなく梭のように働くおさやの紺上っぱりの姿を、庄平はどんよりしながら意地のぬけきらない眼差しで追って暮しているのである。\n この間、順平の次男が土地周旋のちょっとした行きちがいから問題がむずかしくなりかかって、示談金の工面に順平が来たことがあった。初めは、何心なく例のとおりフェルト草履をはいて茶紬の羽織をきた父親のわきに坐っていたお縫は、話がだんだんそういう方へ向いて来たので、遠慮して今のように背戸へ出ていた。庄平の床の前で、おさやと順平とが互に早口に声高に喋っているのが裏まできこえる。おさやのしっかりした早口が熱を帯びて高まって切れて暫くすると、思いがけなく庄平が、力の弱った声帯に必死の力をこめた変に疳高い尻あがりの声で、\n「い、いけん! こっちが先や」\n ひとこと、ひとこと全身をふるわせて云うのが、はっきりちしゃの葉の虫をつまんでいるお縫の耳に入った。何ということなし切ない気持がしめつけてきて、お縫の頬を涙がころがり落ちた。"
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"content": " 思い出すと、そのときの涙が今も胸のなかを流れるような気がする。お縫は、気をかえようとするように急な元気を出して、風呂へ水を汲みこんだ。大きく長い火掻きで松枝をたいて大分水がぬくまった頃、おさやが庄平の濡らしたものを抱えて出て来た。\n 大盥へザアザア湯をくみ出して、その中へかさばる洗物をつけ、ギッギッと押えつけた。ほんの暫くそうやっておくと、おさやはすぐ丸い棒をふりあげて、しぶきが顔にはねかかるのをかまわず力一杯バンバン、バンバンたたき、もう一つかえしてこっちを叩きつけ、もうそれですんだことにして、お縫にゆすがせる。おさやは上気した顔でせっかちにバンバンやりながら、\n「大きいもんはこれが一番ええ。朝鮮人からも習うことはあるもんじゃ」\n お縫はおかしくなって、しずくのたれる古ぎれを竿にひろげてかけながら思わず笑った。おさやは本気な相好で、まるでバンと一つくらわせさえすれば、洗い物の方でよごれはさっと吐き出すという約束でも出来ているように、確信をもって、簡単にくらわして安心している。それはいかにも活気横溢の気短かいおさやらしい愛嬌である。\n クスクス笑いながら竿をかけ代えようとしたら、物干竿をかける棒の二又のそれに荒繩でくくりつけられている松の枝に、小さい青い松ぼっくりが一つくっついているのが可愛らしくお縫の目にとまった。そしたら丁度その真上の明るい夕空に金色の星が出ているのにも気がついた。どちらも小さく綺麗なその二つの天のものと地上のものとを眺めていると、お縫は潤いのかけた日暮しのなかにいる自分の心に優しくふれて来るもののあるのを感じた。自分だけのそういう一刻を大切に心にふくんで味おうとするように、お縫はゆっくりと丁寧に重い黒い洗濯ものを竿にひろげて行った。\n\n 二年ばかり前、おさやは息子たちにせめては借金のほかにものこしてやるものをと、生命保険に入ることを思い立った。近所にタバコ屋をしながら片手間にそういう世話をしている家がある。入ればそこが分をとるから、早速三停車場ばかり汽車で行って手続きして医者が来た。別に故障のない体であったが、二の腕にまきつけてしめる妙な道具を出した結果、血圧が高すぎておさやの保険は駄目ということになった。\n そういう体に熱い湯はいけないと云われたし、おさやにしても庄平を見送らないうちは大事な自分の体と知りながら、五十年来の習慣はやめられない。湯の音がしたかと思うともうあがって、濡れて光る鬢を鏡もみず掻きつけながら、おさやは店先の神棚の前へ行った。マッチをすって右と左と御燈明をつけた。そして、その前へ立ったなり神社でするとおりパンパンと力のこもったせわしない手ばたきを二つした。それは、おがむというより神様の目をぱっちりさまさせる音のようにはきはきしている。\n「あーッあ」\n ひとりでに抑揚のある声が出るほどきっかり頭を下げておいてから、足早に庄平のねている中の間をぬけ、台所前の六畳へ来て勢よく戸棚の唐紙を引あけた。手のはずみで左側の唐紙をあけたりするときもあって、そうすると戸棚の中から古い経木の海水帽だの、とじめがきれてモミがこぼれるまま放りこんである枕だのが現れる。おさやは、物も云わずぴしりとそっちを閉め、右手の唐紙をあけ直した。そこに仏壇があった。仏壇の内には吊り燈明があるが、火の用心のためにふだんはそれをつかわず、電燈から豆電燈がひきこんである。それをねじって、今度はともかくその前に坐り、同じように活気のあるせわしさで鐘を二つ鳴らした。数珠を左手の先にかけて、南無南無と称え、ここでも、\n「あーッあ」\nと抑揚をつけて頭を下げる。\n おさやは台所の土間の方へ向って、そこで水仕事をしているお縫に声をかけた。\n「まだ帰っちゃこまい?」\n「まだです」\n「あ。――ちごうたか? 正らすぐききわけてどこの車か当てよるが、私にゃてんと分らん」\n「さア......ちがうようにもあるが......」\n 遠くの角で聞えたクラクソンにつられて、お縫が店先へ見に出た時、一台の乗用がもう暗くて見えない砂塵を捲きあげながら村道を走りすぎた。\n「まアええ。きょうはどうで八時じゃろ」\n 夕飯の仕度はすっかり出来あがって、土間は六畳から射す鈍い光に照らし出されている。トラックを運転して働きに出ている二人の息子達が戻らないうちは、晩飯にしなかった。二人より先にお縫に湯に入れというものもないのである。\n 待たれていたトラックが表で止ったのは、八時も少しまわった刻限であった。\n「かえった!」\n おさやは、片ひざ立ちかけながら声を大きくして庄平に告げた。\n「お父はん、車が戻りましたで」\n 庄平は、低くおろした電燈の前で、先刻から落付かない眼くばりを表の気配に向けていたのであったが、おさやがそういうと、深々と首をうなずけ、いかにも嬉しそうに声を出さずに笑顔になった。大きく口をあけ、顔を仰向けるようにして笑うのであったが、笑いの輝やいているのは瞳だけで、その口元は泣くようにも見えるのであった。"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "昭和二十三年 一二〇句\n\n陳氏来て家去れといふクリスマス\nクリスマス馬小屋ありて馬が住む\nクリスマス藷一片を夜食とす\n除夜眠れぬ仏人の猫露人の犬\n猫が鶏殺すを除夜の月照らす\n蝋涙の冷えゆく除夜の闇に寝る\n切らざりし二十の爪と除夜眠る\n朝の琴唄路に鼠が破裂して\nうづたかき馬糞湯気立つ朝の力\n寒の夕焼雄鶏雌の上に乗る\n老婆来て赤子を覗く寒の暮\n木枯の真下に赤子眼を見張る\n百舌鳥に顔切られて今日が始まるか\n誰も見る焚火火柱直立つを\n犬の蚤寒き砂丘に跳び出せり\n北風に重たき雄牛一歩一歩\n北風に牛角を低くして進む\n静臥せり木枯に追ひすがりつつ\n木枯過ぎ日暮れの赤き木となれり\n燈火なき寒の夜顔を動かさず\n寒の闇ほめくや赤子泣く度に\n朝若し馬の鼻息二本白し\n寒の地に太き鶏鳴林立す\n寒の昼雄鶏いどみ許すなし\n電柱の上下寒し工夫登る\n寒の夕焼架線工夫に翼なし\n電工が独り罵る寒の空\n寒星の辷るたちまち汝あり\n数限りなき藁塚の一と化す\n酔ひてぐらぐら枯野の道を父帰る\n汽車全く雪原に入り人黙る\n雪原を山まで誰かのしのし行け\n波郷居\n焼原の横飛ぶ雪の中に病む\nマスク洩る愛の言葉の白き息\n巨大なる蜂の巣割られ晦日午後\n友搗きし異形の餅が腹中へ\n女呉れし餅火の上に膨脹す\n膝そろへ伸びる餅食ふ女の前\n餅食へば山の七星明瞭に\n餅を食ひ出でて深雪に脚を揷す\n暗闇に藁塚何を行ふや\n春山を削りトロツコもて搬ぶ\n雨の雲雀次ぎ次ぎわれを受渡す\n祝福を雨の雲雀に返上す\n雨の中雲雀ぶるぶる昇天す\n梢には寒日輪根元伐られつつ\n弁当を啖ひ居り寒木を伐り倒し\n横たはる樹のそばにその枝を焚く\n蓮池にて骨のごときを掴み出す\n蓮池より入日の道へ這ひ上る\n春の昼樹液したたり地を濡らす\n麦の丘馬は輝き没入す\n暗闇に海あり桜咲きつつあり\n真昼の湯子の陰毛の光るかな\n靴の足濡れて大学生と父\n不和の父母胸板厚き子の前に\n体内に機銃弾あり卒業す\n野遊びの皆伏し彼等兵たりき\n青年皆手をポケツトに桜曇る\n岩山に生れて岩の蝶黒し\n岩山の蟻に運ばれ蝶うごく\n粉黛を娯しむ蝌蚪の水の上\n春に飽き真黒き蝌蚪に飽き〳〵す\n天に鳴る春の烈風鶏よろめく\n烈風の電柱に咲き春の星\n冷血と思へおぼろ野犬吠ゆる\n蝌蚪曇るまなこ見ひらき見ひらけど\n蝌蚪の上キユーン〳〵と戦闘機\n一石を投じて蝌蚪をかへりみず\nくらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり\n黒き蝶ひたすら昇る蝕の日へ\n日蝕や鶏は内輪に足そろへ\n日蝕下だましだまされ草の上に\n塩田や働く事は俯向く事\n塩田のかげろふ黒し蝶いそぐ\n塩田の足跡夜もそのままに\n塩田の黒砂光らし音なき雷\n蚊の細声牛の太声誕生日\n誕生日正午蛇行の跡またぐ\n麦熟れてあたたかき闇充満す\n蟹が眼を立てて集る雷の下\n梅雨の窓狂女跳び下りたるままに\n梅雨の山立ち見る度に囚徒めく\nベコベコの三味線梅雨の月のぼる\nワルツ止み瓢箪光る黴の家\n黴の家泥酔漢が泣き出だす\n黴の家去るや濡れたる靴をはき\n悪霊とありこがね虫すがらしめ\n滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し\n蟹と居て宙に切れたる虹仰ぐ\n雲立てり水に死にゐて蟹赤し\n深夜の歯白し青梅落ちつづく\nかくさざる農夫が沖へ沖へあるく\n海を出で鍬をかつぎて農夫去る\n狂女死ぬを待たれ南瓜の花盛り\n晩婚の友や氷菓をしたたらし\nごんごんと梅雨のトンネル闇屋の唄\n枝豆の真白き塩に愁眉ひらく\n枝豆やモーゼの戒に拘泥し\n月の出の生々しさや湧き立つ蝗\nこほろぎが女あるじの黒き侍童\n仮寓\n甘藷を掘る一家の端にわれも掘る\n炎天やけがれてよりの影が濃し\n青年に長く短く星飛ぶ空\n炎天の墓原独り子が通る\nモナリザに仮死いつまでもこがね虫\n秋雨の水の底なり蟹あゆむ\n悼石橋辰之助 二句\n友の死の東の方へ歩き出す\n涙出づ眼鏡のままに死にしかと\n紅茸を怖れてわれを怖れずや\n紅茸を打ちしステツキ街に振る\n踏切に秋の氷塊ひびきて待つ\n天井に大蛾張りつき仮の家\n耕せり大秋天を鏡とし\n父と子の形同じく秋耕す\n老農の鎌に切られて曼珠沙華\n稲孕みつつあり夜間飛行の灯\n赤蜻蛉分けて農夫の胸進む\n豊年や松を輪切にして戻る\n豊年や牛のごときは後肢跳ね\n\n昭和二十四年 八四句\n\n照る沖へ馬にまたがり枯野進む\n人が焚く火の色や野の隅々に\n枯原を奔るや天使図脇ばさみ\nそのあたり明るく君が枯野来る\n西赤し支離滅裂の枯蓮に\n蜜柑地に落ちて腐りて友の恋\n赤き肉煮て食ふ蜜柑山の上\n姉の墓枯野明りに抱き起す\n三輪車のみ枯原に日は雲に\n寒林が開きよごれし犬を入る\n柩車ならず枯野を行くはわが移転\n枯野行く貧しき移転にも日洩れ\n火の玉の日が落つ凍る田を残し\n枯野の木人の歯を抜くわが能事\nかじかみて貧しき人の義歯作る\n氷の月公病院の畑照らす\nモナリザ常に硝子の中や冬つづく\n掘り出され裸の根株雪が降る\n煙突の煙あたらし乱舞の雪\n過去そのまま氷柱直下に突刺さる\n供華もなし故郷の霰額打つ\n雪山に雪降り友の妻も老ゆ\n垂れ髪に雪をちりばめ卒業す\n崖下のかじかむ家に釘を打つ\n枝鳴らす枯木の家に倒れ寝る\nいつまで冬母子病棟の硝子鳴り\n屋上に草も木もなし病者と蝶\n日曜日わが来て惚るる大樹の根\n遠く来てハンカチ大の芝火つくる\n跳ねくだる坂の林檎や日向めざし\n電柱が今建ち春の雲集ふ\n春泥に影濡れ〳〵て深夜の木\n仰ぎ飲むラムネが天露さくら散る\n一斉に土掘る虹が消えてより\n頭悪き日やげんげ田に牛暴れ\nメーデーの明るき河に何か落つ\n新樹に鴉手術室より血が流れ\n首太くなりし夜明の栗の花\n犬も唸る新樹みなぎる闇の夜は\nほくろ美し青大将はためらはず\n女医の恋梅雨の太陽見えず落つ\n塔に眼を定めて黒き焼野ゆく\n胸いづる口笛牛の流し目に\nやはらかき紅毛の子に蛇くねる\nわが家より旅へ雑草の花つづく\n黄麦や悪夢背骨にとどこほり\n喬木にやはらかき藤梟けられし\n手を碗に孤児が水飲む新樹の下\n身に貯へん全山の蝉の声\n西日中肩で押す貨車動き出す\n濁流や重き手を上げ藪蚊打つ\n鉄棒に逆立つ裸雲走り\n夕焼けの牛の全身息はづむ\n爪立ちに雄鶏叫ぶひでり雲\n大旱の田に百姓の青不動\n炎天の坂や怒を力とし\n緑蔭にゲートル巻きし大き昼寝\n小児科の窓の蜂の巣蜂赤し\n生創に蠅を集めて馬帰る\n翼あるもの先んじて誘蛾燈\nきりぎりす夜中の崖のさむけ立つ"
},
{
"role": "assistant",
"content": "わが家の蠅野に出でゆけり朝のパン\n颱風の最後の夜雲蛙の唄\n横すべる浮塵子を前に死を前に\n松の花粉吸ひて先生胡桃割る\n鉄塊の疲れを白き蚊帳つつむ\n耶蘇ならず青田の海を踏み来るは\n颱風の崖分けのぼる犬の体\n山削る裸の唄に雷加はる\n唄一節晩夏の蠅を家族とし\n青葡萄つまむわが指と死者の指\n眠おそろし急調の虫の唄\n海坂に日照るやここに孤絶の茸\n仕事重し高木々々と百舌鳥移り\n雲厚し自信を持ちて案山子立つ\n汗のシヤツ夜も重たく体軽し\n抱き寝る外の土中に芋太る\n饅頭を夜霧が濡らす孤児の通夜\n初蝶や波郷に代り死にもせで\n坂上の芋屋を過ぎて脱落す\n大枯野壁なす前に歯をうがつ\n女医の手に抜かれし臓腑湯気を立つ\n死後も貧し人なき通夜の柿とがる\n孤児孤老手を打ち遊ぶ柿の種\n\n昭和二十五年 一〇〇句\n\n冬の山虹に踏まれて彫深し\n種痘かゆし枯木に赤きもの干され\n電柱も枯木の仲間低日射す\n滅びざる土やぎらりと柿の種\n波郷へ\n焼酎のつめたき酔や枯れゆく松\n大いなる枯木を背に父吃る\n寒き田へ馳くる地響牛と農夫\n男の祈り夜明けの百舌鳥が錐をもむ\n真夜中の枯野つらぬく貨車一本\n冬かぶさる家に目覚時計狂ひ鳴る\n屋上に双手はばたき医師寒し\n鯨食つて始まる孤児と医師の野球\n飴赤しコンクリートの女医私室\n書を読まず搗き立ての餅家にあれば\n冬雲と電柱の他なきも罰\n夜の雪ひとの愛人くちすすぐ\n年新し狂院鉄の門ひらき\n霜柱立つ音明日のため眠る\n教師俳人かじかみライスカレーの膜\n穴掘りの脳天が見え雪ちらつく\n寒明けの街や雄牛が声押し出す\n餅搗きし父の鼾声家に満つ\n麦の芽が光る厚雲割れて直ぐ\n雄鶏に寒の石ころ寒の土くれ\n北陸 一〇句\nわが汽笛一寒燈を呼びて過ぐ\nみどり児も北ゆく冬の夜汽車にて\n北国の地表のたうつ樹々の根よ\n冬青きからたちの雨学生濡れ\n日本海の青風桐の実を鳴らす\n黙々北の農婦よ鱈の頭買ふ\n目守る雪嶺遊ぶ噴水母子のごと\n雪嶺やマラソン選手一人走る\n冷灰の果雪嶺に雪降れり\n雪国や女を買はず菓子買はず\nいつまでも笑ふ枯野の遠くにて\n寒の狂院両眼黒く窓々に\n人を焼く薪どさ〳〵地に落す\n修徳学院 六句\nみかへりの塔涸川の底乾反り\n院児の糧大根土を躍り出し\n菊咲かせどの孤児も云ふコンニチハ\n少年院の北風芋の山乾く\n寒い教室盗児自画像黒一色\n孤児の園枯れたり汽車と顔過ぐる\n春暁へ貧しき時計時きざむ\n坂上に現じて春の馬高し\n病者起ち冬が汚せる硝子拭く\n病者の手窓より出でて春日受く\nわらわらと日暮れの病者桜満つ\n病廊にわれを呼び止め妊み猫\n病廊を蜜柑馳けくる孤児馳けくる\nボート同じ男女同じ春の河濁り\n法隆寺出て苜蓿に苦の鼾\n狂院の向日葵の種握りしめ\n崖下に向日葵播きて何つぶやく\n五月の地面犬はいよいよ犬臭く\nコンクリート割れ目の草や雷の下\n雷の雲生まれし卵直ぐ呑まれ\n種痘のメス看護婦を刺し医師を刺す\n診療着干せば嘲る麦の風\nうつくしき眼と会ふ次の雷待つ間\n黄麦や渦巻く胸毛授けられ\n梅雨の卵なまあたたかし手醜し\n崖下へ帰る夕焼頭より脱ぎ\n荒繩や梅雨の雄山羊の声切に\n飛行音かぶさり夜の蠅狂ふ\n肺強き夜の蛙の歌充ち満つ\n向日葵を降り来て蟻の黒さ増す\n星中に向日葵が炎ゆ老い難し\n日本の神信ぜず南瓜交配す\n梅雨荒れの地に石多し種を播く\n梅雨の坂人なきときは水流る\n飴をなめまなこ見ひらく梅雨の家\n音立てて蠅打つ虹を壁の外に\n梅雨晴れたり蜂身をもつて硝子打つ\n朝すでに砂にのたうつ蚯蚓またぐ\n汗すべる黒衣聖母の歯うがてば\n炎天の犬捕り低く唄ひ出す\n昼寝の国蠅取りリボンぶら下り\n夜となる大暑や豚肉も食はざりし\nがつくりと祈る向日葵星曇る\n唄きれぎれ裸の雲を雷照らす\n敗戦日の水飲む犬よわれも飲む\n歩く蟻飛ぶ蟻われは食事待つ\n貧なる父玉葱噛んで気を鎮む\n無花果をむくや病者の相対し\n秋来たれ病院出づる肥車\nかゆき夏果てぬすつくと曼珠沙華\n満月のかぼちやの花の悪霊達\n落ちざりし青柿躍る颱風後\n脱糞して屋根に働く颱風後\n颱風が折りし向日葵伐り倒す\n卵白し天を仰ぎて羽抜鶏\n何処へ行かむ地べたの大蛾つまみ上げ\n病孤児の輪がぐるぐると天高し\n木犀一枝暗き病廊通るなり\n秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ\n石の上に踊るかまきり風もなし\n赤蜻蛉来て死の近き肩つかむ\n聖姉妹より抜き取りし歯の乾きたり\nわが悪しき犬なり女医の股噛めり\n\n昭和二十六年七月まで 六〇句\n\n頭覚めよ崖にまざまざ冬木の根\n歩くのみの冬蠅ナイフあれば舐め\n煉炭の臭き火税の紙焦す\n屋上を煤かけめぐる医師の冬\n冬耕をめぐり幼な子跳ね光る\n冬日見え鴉かたまり首伸ばす\n硝子戸が鳴り出す林檎食はれ消え\n父掘るや芋以上のもの現れず\n声太き牛の訴へ寒青空\n対岸の人と寒風もてつながる\n寒の重さ戦の重さ肢曲げ寝る\n静塔カトリツク使徒となる 四句\n脳天に霰を溜めて耶蘇名ルカ\n洗礼経し頭を垂れて炭火吹く\nルカの箸わが箸鍋の肉一片\n同根の白菜食らひ友は使徒\nわが天使なりやをののく寒雀\n鳶とわが相見うなづく寒の昼\n遠く来し飛雪に額烙かれたり\n寒中の金のたんぽぽ家人に見す\n下界を吹くごとし火鉢を鷲掴み\n恋猫の毛皮つめたし聖家族\n寒入日背負ひて赤き崖削る\n孤児の独楽立つ大寒の硬き地に\n吹雪を行くこのため生れ来し如く\n水飲みて激しき雪へ出で去れり\n犬眠る深雪に骨をかくし来て\n野を焼く火身の内側を焼き初む\nたんぽぽ地に張りつき咲けり飛行音\n血ぬれし手洗ふや朝の桜幽か\n夜の桜満ちて暗くて犬噛み合ふ\n春が来て電柱の体鳴りこもる\n空中に電工が咳く朝の桜\n電工や雲雀の空に身を縛し\n青芽赤芽を煙硝臭き雨つつむ\n菜種星をんなの眠り底知れず\nボートの腹真赤に塗るは愉快ならむ\n鉄路打つ工夫に菜種炎え上り\n斑猫が光りゴム長靴乾く\n九州 一三句\n若き蛇跨ぎかへりみ旅はじまる\n黒く黙り旅のここにも泥田の牛\nラムネ瓶太し九州の崖赤し\n清光園療養所 一句\n肺癒えよ松の芯見て花粉吸ひて\n鉄あさる母子沖には黄砂の壁\n沈みゆく炭田地帯雷わたる\n風白き石灰台地蠅飛び立つ\n炭坑の蠅大々と地に交む\n真黒き汗帽燈の下塗りつぶす\n塊炭をぶち割る女午後長し\n神が火を放つ五月の硬山に\n何か叫ぶ初夏硬山のてつぺんに\n生きものの蜥蜴が光る硬山に\n五月雨の泥炭池に墜ちるなよ\n若者の頭が走る麦熟れゆく\n麦藁の若き火の音水立ち飲む\n胸毛の渦ラムネの瓶に玉躍る"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " その姿はあまりにも遠くて近づきがたいので、いかなる尺度でもってしても大きさを測ることはできなかった。しかし同時に、異様に近くも感じられて、厳粛で悲しげなひどく凹凸の多い顔から射す灰色の輝きが、悪霊の力をそなえた秘密の星から波動してくるかのように彼の魂を打ちのめすと、彼はそばに立っている兄弟たちよりも遠い顔に見入っているような気がしなかった。\n それから部屋の中は、もうハリスにも十分にわかっている声がみちて、激しく顫えた。それは過去何十年かをつうじて、彼よりも先に生贄にされた者たちの、消え入るようなかすれ声だった。まず、息がつまって最後の苦悶にあえぎながら、礼拝する名前を――それを聞いて狂喜する邪悪な存在の名を低く呼ばわる男の、はっきりした甲高い叫び声が聞えた。首を締められる者の叫び声、窒息する者のみじかい、くっくという喘ぎ、締めつけられた咽喉の、おしころされたごぼごぼという音などが、いま彼が囚われて生贄として立っている四つの壁の間を往き来して、わあんわあんと反響した。叫び声は殺された肉体が発するそれであるだけでなく――なお一層わるいことに――うちのめされ、破滅させられた魂のそれだった。幽鬼の合唱が高まったのち低くなるにつれて、声の持主である亡びた不幸な人間の顔があらわれた。うす青い灰色の光のカーテンを背景にして、蒼ざめた悲しげな人間の顔が勢ぞろいして、ハリスも既にその仲間入りをしているかのように彼に向かって頷いたり、わけのわからないことを早口で話しかけたりしながら、空中をふわりふわりと浮いて過ぎてゆくのがみえた。\n 叫び声が高まり、蒼ざめた連中が消えてゆくと、灰色の巨人の姿が、ゆっくりと空から降りてきて、礼拝者たちと囚われびとがいる部屋へ近づいてきた。彼はまわりの暗がりの中で手が上下して、自分のものではない別の衣裳がかぶせられるのを感じた。頭には氷のように冷たい頭飾りがはめられ、腰は縛りあげた両手もろともに、帯で強く締めつけられたようだった。とうとう肝心の咽喉に、柔かい絹のようなものがさっと触れた。もし照明があかるくて、顔を映す鏡でもあったなら、彼にはそれが生贄の紐――そして死の紐であることが、もっとよく分ったであろう。\n その瞬間に、兄弟たちが床にひれ伏したまま、悲しげな、熱烈な詠唱を再びはじめた。すると、異様なことが起こった。みたところ動いたとも位置を変えたとも思われないのに、巨人の姿がとつぜん部屋の中に立ったのである。巨人は彼のすぐそばにいて、ほかのみんなを押しのけて、彼のまわりの空間をぜんぶ占めていた。\n もはや通常の恐怖感など通りこして、死の感覚がわずかばかり――魂の死のそれが――胸の中でおののいているだけだった。彼はもうむだに空間を求めようとも思わなかった。最後は迫っている、彼はそれをよく知っていた。おそろしく単調な詠唱の声が、彼のまわりで波のようにもりあがった。「われらは礼拝す! われらは崇めたてまつる! われらは生贄を捧ぐ!」響きが彼の耳をみたし、ほとんど意味もなく脳を乱打した。\n 威厳のある灰色の顔がゆっくりと下を向いて彼をみつめると、魂が肉体から抜け出して、その苦悩にみちた目の海に吸いこまれてゆくような気がした。それと同時に、一ダースもの手が無理に彼を跪かせた。目の前の宙に、カルクマンの両手が高くあげられるのがみえ、頸のまわりの圧力が強まるのが感じられた。\n 不思議なことが起こったのは、彼がすべての希望を捨て、神や人間の救いなぞ問題にならないと思われた、この怖ろしい瞬間であった。怯えあがって薄れゆく彼の視力の前に、あたかも白昼夢のように――わけも理由もなく――まったく突然に、なんの説明もなく――駅の宿屋の夕食の席にいたもう一人の男の顔が、忍びよるようにあらわれたのである。たとえ心の目でみたものにせよ、その力強い建全で生気にあふれた英国人の顔を見ると、突然新しい勇気が湧いてきた。\n それは彼が暗く怖ろしい死の中に沈みこむ直前に閃いたおぼろげな幻像にすぎなかったが、なぜか説明できないけれども、彼の胸の中に、不屈の希望と、かならず救出されるという自信をかきたてた。あれは力のこもった顔だ、あれはガラリアの岸辺に古老たちが見たという人(イエス・キリスト)のような気どらない、徳をそなえた顔だ、と彼は感じとった。あの顔なら、誓って、異界の悪魔どもを退治することができるだろう。\n こうして彼は、絶望と自暴自棄のさなかにありながら、その顔に向かって呼びかけた。迷いのない、断乎とした語勢で呼びかけた。じっさいに使った言葉はドイツ語か英語か全く思い出せなかったが、彼は自分の声が、この怖ろしい瞬間でも、かなりの効を奏したのを知った。効果は覿面だった。兄弟たちはその意味を悟り、あの灰色をした邪悪の姿も悟った。\n 一瞬、ひどい混乱が起こった。ものがこなごなに砕けちるような、大きな音がした。大地そのものが震動したのかと思われた。が、あとでハリスが思い出したのは、怯えあがった恐怖の叫び声にまじって起こった、別の声の合唱だけだった。\n「力ある人ぞきたれり! 神の遣わされしひとこそ!」\n あの大きな音が――巨大な投射体が空間をつんざいて飛んでゆく音が――また繰り返されて、彼は意識を失い、部屋の床に突っ伏した。さっきまでの場面は、百姓家の屋根の煙が風が吹くと消えるように、すっかり消えてなくなってしまった。\n そして彼のそばには、ドイツ人でない瘠形の姿が腰をおろしていた――宿屋にいた見知らぬ男の姿――あの「不思議な目」を持った男であった。\n\n 気がついてみると、ハリスは寒けがした。彼はひろびろとした空の下に横たわっており、野原と森林の冷たい空気が顔に吹きつけていた。彼は起きあがって、あたりを見まわした。さっきまでの情景が、まだぞっとするほど頭にこびりついていたが、建物の痕跡は少しも残っていなかった。彼を閉じこめていた壁も、天井もなかった。彼はもはや、部屋の中にいるのではなかった。下向けられたランプも、葉巻の煙も、うす気味わるい礼拝者たちの黒い姿も、窓の向こうにあらわれた巨大な灰色の姿もなかった。\n 周囲はひろびろとした空間で、彼は煉瓦とモルタルが積みかさなった上に横たわっており、彼は夜露にびしょ濡れで、頭上では優しい星がきらきらと輝いていた。彼は打傷をこしらえ、ぐったり弱って、荒廃した建物の破片の山の間に横たわっていた。\n 立ちあがって、あたりをみまわした。遠くの暗い影に、周囲をとりまく森が横たわっており、すぐ近くには、村の建物の輪廓がみえた。だが、足もとにあるのは、建物がとっくの昔に塵と化したことを示す砕かれた石の堆積だけだった。それから彼は、石が黒ずんでいて、なかば焼けなかば腐った大きな木の梁が、廃墟全体を区分けしているのを見た、やがて焼かれて打ち砕かれた建物の残骸の中に立ってみると、雑草や蕁麻が、廃墟がかなり以前からのものであることを教えてくれた。\n 月は既に周囲の森林の向うに沈んでいたが、天にちりばめた星々が十分に明るいので、彼は自分の見たものを信じることができた。絹商人のハリスは、砕けて焼けた石の間に立って、ぞっと身顫いした。\n それから突然、暗がりから人の姿が起きあがって、自分のそばに立ったのに気づいた。彼はその姿をつくづくと見て、駅の宿屋にいた見知らぬ男を認めた。\n「あなたはほんものですか?」彼は自分のだとはほとんど思えないような声で訊いた。\n「ほんものどころか――私は友だちですよ」見知らぬ男は答えた。「宿屋からここまで、あなたのあとを追ってきたのです」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " ハリスは立ったまま、なにひとつつけ加えずに数分間もみつめていた。歯の根が合わずがちがちと鳴った。どんな小さな物音でも、彼をぎょっとさせた。が、自国語による簡単な二、三の言葉と、それを喋る口調が、信じられないほど彼を慰めてくれた。\n「あなたも英国人なんですね。やれ有難い」彼は見当はずれなことを言った。「あのドイツ人の悪魔めら――」彼は言いやめて手を目にあてた。「しかし、彼らはみんなどうなりましたか――それに、部屋も――それから――それから――」手が咽喉へおりて、頭のまわりをおずおずと撫でた。彼はほっとして長い長い息を吐いてから、「ぜんぶ、私が見た夢だったんでしょうか――ぜんぶが?」と狂ったように訊いた。\n 彼があたりを狂ったように見まわしていると、見知らぬ男が進み出て、腕をとり、「さあ」と、なだめるように言った。が、声には命令口調があった。「ここから離れましょう。本街道か、森林が、あなたの好みに合うでしょう。いま、私たちが立っているところは、世界中で最も化物の出る――最もひどいのが出る場所ですからね」\n 男は連れのよろめきがちな足どりを助けながら、崩れた煉瓦組みの山を越えて、小道の方へ行った、蕁麻が手をちくちく刺し、ハリスは夢の中にいるような気分で道をたどった。折れ曲った鉄の柵を抜けて小道へ出てからは、夜目にも白くみえる本街道へ向かった。やっと安全に廃墟から出てしまうと、ハリスは勇気を出して、後ろをふり返った。\n「しかし、どうしてこんな?」彼はまだ顫える声で叫んだ。「どうして、こんなことが、ありうるんでしょう? 私はここへきたとき、月の光で建物を見ました。彼らが扉をあけてくれました。私は彼らの姿を見、声を聞き、ものに触れ、ええ、彼らの手にも触れたし、彼らの呪われた黒い目を、今こうしてあなたを見ているよりも、ずっとはっきり見たんですよ」彼は途方にくれていた。目はまだ、正常な生活のそれよりももっと濃い現実性をともなった魔力に迷わされていた。「私はことごとく幻惑されていたんでしょうか?」\n と突然、さっきうわのそらで聞いて分ったつもりだった見知らぬ男の言葉が、ひょいと思いうかんだ。\n「化物が出るんですって?」彼は見知らぬ男をじっとみつめて訊いた。「化物が出る、とおっしゃいましたね?」\n 彼は道に立ちどまって、母校の建物が最初にみえたあたりの暗がりに見入った。が、見知らぬ男は、帰途を急がせながら、\n「もっと先へ行けば、安全に話をすることができますよ」と、言った。「私はあなたの行先に気づいたとき、すぐ宿を出て、あとを追いました。あなたをみつけたのは、十一時でした――」\n「十一時ですって」ハリスは思い出して、慄然とした。\n「――あなたが倒れるのがみえました。あなたがひとりでに意識を回復するまで、私はかがみ込んで見守っていました。そして今――今こうして、あなたを安全に宿へ連れもどすところなのです。私は呪術を破りました――悪魔の術を――」\n「これはたいへんな御迷惑をおかけしました」ハリスは見知らぬ男の親切さを理解しはじめながら、また話を中断した。「しかし、どうもよく分らないのです。私は目がくらんで、からだに力がありません」まだ歯の鳴るのがとまらず、頭のてっぺんから、足の爪先まで、またひとしきり悪寒が走った。彼は見知らぬ男の腕にしがみついている自分に気がついた。こうして二人は、犬の仔一匹いない崩れかかった村を通って、森を抜ける街道に辿り着いた。\n「あの学校の建物は、久しい以前から。廃墟になっています」やっと、そばの男が言った。「少なくとも十年前に、村の長老たちの命令で焼きはらわれたのです。それ以来、村に住む者はありません。しかし、昔あの屋根の下でおこなわれた怖るべき行事のまぼろしは、いまだに続いております。そして主だった関係者の『抜け殻』が、いまだにあすこで、最終の破壊をもたらし、開拓地全体の放棄をもたらすような怖るべき役割を演じています。彼らは悪魔崇拝者だったのです!」\n ハリスはひんやりする夜気の中をゆっくり歩くだけでは出るはずのない汗を、額に玉のようにうかべて聞き入っていた。この人物とはたった一度しか会ってなく、ほんのわずか言葉をかわしただけだったけれども、そばにいてくれるということだけで非常に心強く、一種とらえがたい安全と幸福のきもちがした。彼はたいへんな経験をしたあとなので、こういうきもちが最もよく心を癒してくれるのだった。それにもかかわらず、彼はまだ夢の中を歩いているようで、連れの口からもれる言葉はぜんぶ聞きとったものの、その意味がはっきり分ったのは、翌る日になってからだった。この落着いた見知らぬ男、今は単にみえるというよりはひしひしと感じられる「不思議な目」をもった男の存在は、彼のうちのめされた心を和らげる鎮痛剤のような働きをして、だんだんと気分を回復してくれるのだった。そして、すぐそばの黒い姿からにじみでるこの活癒力は、まず彼のいちばんの苦しみを和らげてくれたので、そもそもこの男が現場に居合わせたその不思議さ、間のよさについては、彼はまるで考えることを忘れていた。\n なぜか彼は、男の名前を訊くことを思いつかず、また、単なる行きずりの旅人のためにこれほど労をいとわないのは普通でない、と考えることにも思いいたらなかった。彼は男の静かな言葉に耳を傾け、さきほどの苦しい体験のあとの救い出され、力づけられ、清められたすばらしい気分を味わいながら、一緒に歩くだけだった。一度だけ、ずっと昔に本で読んだことを漠然と思い出し、そばの男をふり向いて、あまり尋常でないことを二、三喋ってから、ほとんど何気なしにふいとこんな質問をしてしまった、「あなたは薔薇十字会員(十七、八世紀に欧州にあった秘密結社員。のちに十九世紀に英米、欧州に復活した神秘主義者)でしょうか?」が、見知らぬ男はこの言葉を無視したのか、あるいはそもそも聞えなかったのかまるで話を中断されたのに気づかないかのように、自分の考えを喋りつづけた。ハリスはならんで森の冷気の中を歩いて抜けながら、また別のかなり異常な想像にとり憑かれたのに気がついた。彼の想像に、天使と格闘するヤコブについての少年時代の記憶が、とつぜん結びついた――優れた相手と一晩じゅう格闘して、結局、その力を自分のものにしてしまったあのヤコブの話が。\n「私がこの驚くべき出来事に出会うようになった原因は、夕食であなたがとつぜん司祭とはじめた会話でした」ハリスは暗がりの中で隣を歩いている男の落着いた声を聞いた。「あなたが出て行ったあと、この素朴で信心ぶかい村のまんなかにひそかに根をおろした悪魔礼拝の話を聞いたのも、あの司祭からでした」\n「悪魔礼拝ですって! ここで――!」ハリスは愕然として、口ごもった。\n「ええ――ここででした――何年にもわたって、兄弟たちの一団によって秘密裡に行われていました。近在で説明のつかない失踪事件がいくつも起こったので、とうとう発覚したのです。彼らの怖るべき交霊と邪悪な力にとって、このあたりほど安全な場所は、世界のどこにもありません――徳と清らかな生活のかげに隠れていたわけですからね」\n「怖ろしい、怖ろしい」絹商人は囁いた。「それで、彼らが使った言葉を、私があなたに申しあげたとき――」\n「私は全部知っております」見知らぬ男は静かに言った。「私は何もかも見、そして聞きました。初め私は、終りまで待って、それから彼らを破滅させる行動を起こすつもりでしたが、あなた自身の安全を考えて」――彼はこの上もない落着きと確信をもって話した――「あなたの魂の安全を考えて結末までゆく前に姿を現わしたのです――」\n「私の安全! では、やはり危険は、ほんものだったんですね。彼らは生きていて、そして――」言葉が出てこなかった。彼は通路に立ちどまり、連れの方に向いた。男のきらきら輝く目だけを、暗がりの中で見分けることができた。\n「あれは狂暴な男たち。精神的には程度が高いが、不道徳で不自然な自己の生命を延ばすために、死を――肉体の死を――求めた邪悪な男たちの『抜け殻』の集団でした。もし彼らが目的を達していれば、今度はあなたの方が、肉体の死とともに彼らの手に渡って、生贄をふやすという怖るべき目的のために協力したことでしょう」"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": " 偶々さうした噂話で婆さん連が井戸端会議を開いてゐるところへ、牛飼のトゥイミーシュ・コロスチャーウイといふ男が来合はせたことがあつた。彼はすかさずこんな話を持ちだした。なんでも夏のことで、*聖彼得斎節の前だつたが、彼が牛小舎の中で一と眠りしようと思つて、藁を掻き寄せたのを枕にして横になつてゐると、現在その眼にまざまざと、䯻を振り乱した、肌着ひとつの妖女が牛の乳を搾りだしたのが見えるのだけれど、彼は身動き一つすることも出来ない――呪術にかけられてしまつてゐたのだ。そして何か、いやに胸の悪くなるやうな物を口に塗りたくられたので、その後で一日ぢゆう、唾ばかり吐いてゐたといふのだ。だが、どうもかういふ話はどれもこれも信用が置けさうにない。何しろ、妖女を見ることの出来るのは、ソロチンツイの陪審官より他にはない筈だから。そんなわけで、名うての哥薩克連は誰も彼もさういふ噂話を耳にすると、手を振つた。『牝犬どもめが、つべこべと嘘八百を並べやがつて!』さういふのがいつもきまつて彼等の応酬であつた。\n\n聖彼得斎節 使徒ペテロ及びパウロの祭礼に先だつ精進期、復活祭後第九週より六月二十九日(旧露暦)までの期間をいふ。\n\n それはさて、煖炉から這ひ出して身繕ひをしたソローハは、殊勝な女主人のやうに物をとり片づけたり、在るべき場所へ置きなほしたりし始めたが、家の中におつぽり出されてゐた袋には手も触れなかつた。⦅これはワクーラが持つて来をつたのだから、あれが自分で片附けるがいい!⦆また一方、くだんの悪魔は、さつき、まだ煙突めがけて飛行しながら、チューブが教父と腕をくみあつて、もうかなり家から遠く離れてゐるのを見てとつたので、彼は瞬く暇に煖炉から舞ひあがつて、二人の先𢌞りをして、カチカチに凍てた積雪を四方八方へ掻き立て始めた。すると忽ち吹雪が捲き起つて、空中は真白になつた。雪は前後に網を引いたやうに飛びかひ、歩行者の眼といはず、口といはず、耳といはず、容赦なく貼り塞いでしまふほどであつた。そこで悪魔は、かうしておけば、チューブが教父といつしよに後へ引つかへして、てつきり鍛冶屋と鉢合せをして、彼をこつぴどい目に合はせるだらう、さうすれば、さすがのワクーラも当分は絵筆をとつて、忌々しい戯画など描くことは出来なくなるに違ひない、さう思ひこんで、再びもとの煙突をさして引つかへした。\n\n * * *\n\n 事実、チューブは吹雪が捲きおこつて、風が正面から吹きつけ始めると、はやくも後悔の色を浮かべて、帽子の鍔をぐつとまぶかに引きさげながら、ぶつぶつと自身や、悪魔や、教父に向つて小言を浴びせかけた。とはいへこの忿懣はうはべだけのものであつた。チューブには吹雪の起つたのが結句うれしかつたのだ。補祭の家まではまだ、二人がそれまでに辿つて来た道のりの八倍もあつた。歩行者たちは後ろへ方向をかへた。風が項へ吹きつけるばかりで、渦巻く吹雪をとほしては何ひとつ見わけることも出来なかつた。\n「待ちなよ、教父つあん? どうも見当が違つてるやうだよ。」と、少し後へ遅れてチューブが言つた。「おいらにやあ家が一軒も見えねえ。ちえつ、なんちふ吹雪だ! ちつと脇へそれて道を探してみて呉んなよ、俺らはその間にこつちをさぐつて見るべえからよ。こねえに吹雪の中をうろうろさせられるちふのも、てつきり悪魔の仕業に違えねえだよ! 道が目つかつたら忘れずに呼んで呉んろ。ちえつ、悪魔めが、なんちふ雪塊を吹きつけて、目潰しを喰らはしやあがるこつた!」\n だが、道は分らなかつた。脇へそれた教父は、深い長靴ばきの足で前へ行つたり後へ戻つたりしてゐたが、最後にひよつこりと酒場の前へ出た。酒場を見つけてすつかり有頂天になつた彼は何もかも忘れてしまつて、からだにこびりついた雪を払ひ落しながら、往来に残した仲間のことなどは、てんで心にもとめず、表口から中へ入つて行つた。一方、チューブには道が分つたやうに思はれたので、立ちどまつて声を限りに呼び立ててみたが、教父がさつぱり姿を見せないので、自分だけひとりで帰ることにした。少し先きへ進むと、彼の眼には自分の家が見えだした。家のぐるりにも屋根の上にも雪が堆かく積つてゐた。彼は寒さに凍えた手をあげて、トントンと戸を叩きながら、娘に向つて戸を開けろといかつく呶鳴つた。\n「此処にいつたい何の用があるんだ?」と、そこへ出て来た鍛冶屋が、威猛だかに呶鳴りかへした。\n チューブは、鍛冶屋の声を耳にして、少し後へさがつた。⦅おやおや、これあおれの家ぢやなかつたわい。⦆と、彼は口の中でつぶやいた。⦅鍛冶屋めがおれの家へ立ち寄る訳はないからな。待てよ、よく見れば鍛冶屋の家でもないわい。いつたい、これあ誰の家だらう? なあるほど! さつぱり見当がつかねえと思つたら、なあんだ! これあ、あの、近ごろ新嫁を貰つたばかりの、跛のレヴチェンコの家ぢやねえか。おれのうちに似た家は奴さんの家より他にやあねえ筈だ。なるほど、さういへば、かう早く家へ帰りついたのが最初から少し変だと思つたわい。それはさうと、レヴチェンコは今ごろ、補祭の家へ行つとる時分ぢやて、それはちやんとおれが知つてをる。それに、なんだつて鍛冶屋めが?......てへつ、へつ、へつ! 彼奴あ若い新嫁のところへ、こつそり忍んで来てやがるのぢやな。なあるほど! ようし!......もうおれには、すつかり何もかも読めたぞ。⦆\n「いつたい何奴だ、それに何だつて戸口になんぞうろついてやがるんだ?」と、鍛冶屋は前より一段と荒々しく呶鳴りながら、少し間近く詰めよつた。\n⦅いや、おれが誰だか名乗らぬことにしよう。⦆と、チューブは考へた。⦅この忌々しい出来そこなひ野郎に擲られるくらゐがおちぢやから!⦆そこで彼は作り声をして、「わしだよ、お前さん! お慰みに一つ、こちらの窓下で流しをやらせて貰はうと思つたんでさ。」と答へた。\n「その流しと一緒にとつとと悪魔のとこへでも出て失せやがれ!」と、腹立たしげにワクーラが喚いた。「何を手前はいつまでも突つ立つてやがるんだ? 聞えたらうが! とっとと出て失せろつちふに!」\n チューブの方でもとうに立ち去るのが賢明だとは考へてゐたが、どうも、この鍛冶屋の指図に否応なしに従ふといふことが業腹でならなかつた。彼はまるで悪魔に小突かれでもしたやうに、何かひとこと逆らつて見ないでは済まされなかつた。\n「何だつてお前さん、さうがみがみ言ひなさるだね?」と、彼は前と同じ作り声で言つた。「おらはハア、一つ流させて貰ふべえと思つただけのこんでねえか!」\n「ふん! それぢやあ、口で言つただけぢやあ、分らねえつてんだな!」\n さういふ言葉に次いで、チューブは肩先きに手酷い打撃を感じた。\n「それぢやあ何だね、腕づくでかかつて来なさるだね!」彼は少し後へさがつて、さう言つた。\n「出て失せやがれ、とつとと出て失せやがれといふのに!」かう喚きながら、鍛冶屋は又もやチューブをどやしつけた。\n「何をしなさるだ!」と、チューブは痛みと怨みと怖気を含んだ声で叫んだ。「お前さん、本気でぶつたね、さつきよりひどくぶつたね!」\n「出て失せろ、出て失せろ!」さう呶鳴りながら、鍛冶屋は戸をぴつたりと閉めきつてしまつた。\n⦅見ろ、何ちふ威張り方だ!⦆と、往来に一人とり残されたチューブがつぶやいた。⦅こんど傍へでも寄つて見ろ! 飛んでもねえ! 太い野郎めが! 手前を裁判へ突き出すことの出来ねえおいらだとでも思つてやがるのか? いんにや、おれは訴へてやる、直かに警察部長のとこへ告訴してやるぞ。今に思ひ知るがええ! 手前が鍛冶屋だらうと塗職だらうと、かまふこつちやねえ。それはさうと、背中と肩を見たら、きつと青痣が出来とることだらう。畜生め、恐ろしくひどく打ちやあがつて。だが、この寒空ぢやあ、裘衣を脱ぐ訳にもゆくまいて。待つてろよ、畜生鍛冶屋め、悪魔が貴様と貴様の鍛冶場をぶちこはしてしまへばええ。今に思ひ知らせてやるぞ! くそつ、忌々しい首くくり野郎めが! だが、ちやうど今、奴あ家にゐないんだな。さうするとソローハが独りでぼんやりしてをる筈ぢやて、ふん!......ここからは道も遠くなし――行つてやるかな! こんな時刻だから誰に見つかる心配もなし、ひよつとすれあ、嬉しい首尾にならねえにも限らんて......。ほんに、あの忌々しいど鍛冶屋め、おつそろしく酷く打ちやあがつて!⦆"
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"content": " そこでチューブは、背中をさすりさすり、別の方角へと歩きだした。眼の前に自分を待つてゐるソローハとのあひびきの楽しさに、いくらか痛みも忘れて、吹雪の唸りにも負けず往来ぢゆうにピシピシ音をたててゐる酷い凍てをさへ身に感じなかつた。口髭といはず顎鬚といはず、お客の鼻を容赦なくつまみあげて石鹸を塗りたくるどんな理髪師よりも素早く、吹雪のために真白にされてしまつた彼の顔には、ともすれば、くすぐつたいやうな表情が浮かんだ。だが、卍巴と降りしきる吹雪が視界を遮ぎつてしまつたため、なほも長い間、ときどき立ちどまつては背中を撫で撫で、『忌々しい鍛冶屋めが、こつぴどく打ちやあがつて!』と、ブツブツ呟やきながら道を辿るチューブの姿は、もはや見ることができなかつた。\n\n * * *\n\n さて、あの長い尻尾と山羊髯をもつたくだんの敏捷な洒落者が、いつたん煙突から飛び出して行つて、再び煙突へ戻つて来た時、彼が盗んだ月を入れて帯皮の脇に釣つてゐた胴籃が、どうかしたはずみで煖炉の内側にひつかかつて口をあいた。そのすきに月は得たりとばかりに、ソローハの家の煙突を通りぬけて、するすると空へ舞ひあがつた。下界は一時にぱつと明るくなつて、吹雪などはまるで無かつたもののやうに、あたりは鎮まりかへり、雪は広々とした銀の野と輝やき、さながら一面に水晶の星でも撒いたやうに見えた。寒気も幾らか緩んだやうにさへ思はれた。若者や娘たちの群れが、袋を担いで現はれた。歌声が響き出して、流しの群れの集らぬ家は稀れであつた。\n 麗らかに月が輝やいてゐる! こんな夜、キャツキャツと笑つたり歌をうたつたりする娘たちや、賑やかに笑ひさざめく夜にだけしか思ひつくことのできない諧謔や駄洒落を、やたらに連発する若い衆たちの間へ割りこんで揉まれる面白さは、ちよつと口では説明が難かしいくらゐだ。ぴつたり躯をくるんだ裘衣はあつたかく、寒気のために頬の色もひときは生き生きと冴えて、悪巫山戯に至つては、まるで後ろから悪魔に尻押でもされてゐるやうだ。\n 袋を手に持つた娘たちの群れはチューブの家へ押しかけて、オクサーナをとりまいた。わめき声や高笑ひやおしやべりで、鍛冶屋の耳は聾になつてしまひさうだつた。一同はわれ勝ちに何か彼かオクサーナに珍談を語つて聞かせたり、背中の袋をおろして、もうかなり流しで貰ひ集めた白麺麭や腸詰や団子などの品さだめをしたりした。オクサーナはすつかり上機嫌で、にこにこしながら、誰彼なしに相手にしては無駄口を叩いて、ひつきりなく笑ひころげた。\n 一種の忌々しさと妬ましさを覚えながら、鍛冶屋はさうしたはしやぎを眺めてゐた。そして自分も大好きな流しが、この時ばかりは呪はしいものに思はれた。\n「あら、オダールカさん!」と、陽気な美女が娘たちの中の一人に向つて叫んだ。「あんた、新らしい靴を穿いてるわね。まあ、なんて素晴らしい靴でせう! 金絲の刺繍がしてあつてさ。あたしなんかには、誰あれもこんな素敵な靴なんて買つて呉れやしないわ。」\n「悲観することあないよ、おれのだいじなオクサーナ!」と、鍛冶屋が口を出した。「おれがお前に高貴な令嬢方も滅多にはいてゐないやうな靴を手に入れてやるから。」\n「あんたが?」さう、横柄にチラと彼を眺めて、オクサーナが言つた。「あんたが、あたしの足にはけるやうな靴を何処で手に入れるか、ひとつ見てゐてあげるわ。ふん、あんたが女帝のおはきになる靴でも持つて来てくれたらねえ。」\n「まあ、ずゐぶん注文が大きいのね!」と、娘たちの群れが笑ひながら叫んだ。\n「ええ、さうよ!」と美女は誇りかに語を継いだ。「ね、皆さん、証人になつて頂戴な。もし鍛冶屋のワクーラさんが女帝のおはきになる靴を持つて来て呉れたら、あたし屹度、その場でこの人のお嫁になることよ。」\n 娘たちは、このやんちやな美女を伴つて出かけて行つてしまつた。\n⦅笑へ! 笑へ!⦆と、一同の後から外へ出ながら鍛冶屋はつぶやいた。⦅おれは自分で自分を笑つてるんだ! 考へれば考へるほど、おれの頭はまつたくどうかしてゐる。あいつはおれを好いてゐないんだが――ままよ、勝手にしやがれだ! 女といへばまるで世界ぢゆうにオクサーナよりほかにはないとでもいふのかい。あの女でなくつたつて、お蔭さまなことに、村にやあ好い娘が、ざらにあらあな。オクサーナがなんだい? あんな女は主婦にやあむかないさ。あいつはおめかしの名人といふだけのことぢやないか。ううん、もう沢山だ! もういいかげん、馬鹿な真似はよさう。⦆\n しかし、鍛冶屋がかうきれいさつぱり諦らめようとしたその刹那、ある意地の悪い精霊が、⦅女帝の靴を持つといで、さうしたらお嫁にいつてあげるよ!⦆とからかふやうに言ひながら笑つてゐるオクサーナの面影をまざまざと彼の眼前へ浮かびあがらせた。すると遽かに彼の魂は騒ぎ立つて、オクサーナのことよりほかには何ひとつ考へられなくなつてしまつた。\n 流しの群れは、若い衆は若い衆、娘つこは娘つこと、てんでに往来から往来へと先きを急いだ。しかし鍛冶屋は歩きながらも何ひとつ眼にもとまらず、前には誰よりも好きだつたこのお祭り騒ぎに仲間入りする気にもなれなかつた。\n\n * * *\n\n 話かはつて、その間に、悪魔はソローハの傍らですつかり現つを抜かしてゐた。彼はちやうど陪審官が補祭の娘に向つてするやうな鹿爪らしい顔で女の手に接吻して、自分の胸に手を当ててホッと吐息をつきながら、もしも彼女がうんと言つて自分の欲望を叶へ、然るべく犒らつて呉れない暁には、何をしでかすか分つたものぢやない。恐らく水中へ身投げをして、魂だけは焦熱地獄へまつさかさまに落ちて行くだらうなどと、ぬけぬけと切りだしたものだ。ところでソローハはさほど情ない女でもなかつたし、第一、悪魔と彼女が共謀になつてゐたことも明らかだ。それに、もともと彼女は、自分の尻を追ひまはす連中をあやなすのが大好きで、さういふ手合を引き入れてゐないことは稀らしかつた。しかし今夜だけはこの村の主だつた連中はみな補祭の家の蜜飯に招ばれてゐるから、どうせ誰ひとり忍んで来るものはあるまいと思つてゐた。ところがまんまと予想がはづれて、悪魔がやつと想ひのたけを打ち明けたばかりのところで、だしぬけに表の戸を叩く音がして、それといつしよに、がつちりした村長の声が聞えたのだ。ソローハは急いで戸をあけに駈けだした。咄嗟に、敏捷な悪魔はそこにあつた袋の中へ潜りこんだ。\n 村長は帽子についた雪を払ひ落すと、ソローハの手づから火酒を一杯のみほして、さて、吹雪になつたので補祭のところへ行くのは見あはせたが、彼女の家の灯りを見ると、急に今夜は一つこちらで暇つぶしをしようと思ひたつて、やつて来たのだと告げた。\n 村長がかう言ひきるかきらないのに、また戸を叩く音といつしよに補祭の声が戸口で聞えた。\n「わしをどつかへ隠まつて呉れ。」と、村長が小声で言つた。「今ここで補祭と顔を合はせちやあ、ちと具合が悪いから。」\n ソローハは、こんな大兵なお客をいつたい何処へ隠したものかと、暫らく思案に迷つたが、最後に一番大きい炭袋を選んで、中の炭を桶へぶちまけた。すると、髭を生やした堂々たる村長が頭に帽子をかぶつたまま、その袋の中へ這ひずりこんだ。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ある日、彼は思い切って中にはいった。チョッキのボタンがいると言った。彼女はそれを捜し始めた。しかし見つからなかった。あらゆるボタンがごっちゃになっていた、一々見分けることができないほど。彼女はその乱雑さを見られるのを少し当惑した。彼はそれを面白がって、なおよく見るために珍しそうにのぞき込んだ。\n「厭ですよ!」と彼女は言いながら、両手で引き出しを隠そうとした。「のぞいちゃいけません。ごちゃごちゃですもの......。」\n 彼女は捜し始めた。しかしクリストフは彼女をじらした。彼女は癇癪を起して、引き出しをしめてしまった。\n「見つからないわ。」と彼女は言った。「次の街路のリージさんのところへいらっしゃいな。きっとありますわ。あすこならなんでもありますよ。」\n 彼はその商売ぶりを笑った。\n「あなたはそんなふうに、客をみんな向うへやってしまうんですか。」\n「ええ、これが初めてのことじゃありませんわ。」と彼女は快活に答えた。\n しかし彼女は多少きまりが悪かった。\n「片付けるのはほんとに厭ですもの。」と彼女は言った。「一日一日と片付けるのを延ばして......でも明日はきっとしますわ。」\n「手伝ってあげましょうか。」とクリストフは言った。\n 彼女は断った。承知したくはあったが、人から悪口を言われそうなので承知しかねた。それにまた、面目なかった。\n 二人は話しつづけた。\n「そしてボタンは?」と彼女はやがてクリストフに言った。「リージさんのところへいらっしゃらないんですか。」\n「行くもんですか。」とクリストフは言った。「あなたが片付けるのを待っています。」\n「あら、」とザビーネは今言ったことをもう忘れて言った、「そんなにいつまでも待っちゃいけません!」\n その心からの叫びが、二人を快活になした。\n クリストフは彼女がしめた引き出しに近づいた。\n「僕に捜さしてください。」\n 彼女はそれを止めようとして、駆け寄った。\n「いえ、いえ、どうぞ。確かにありませんのよ......。」\n「ありますとも、きっと。」\n すぐに彼は、得意然としてほしいボタンを引き出した。なお他にも要るボタンがあった。彼はつづけて捜そうとした。しかし彼女はその手から箱をひったくって、自負心から自分で捜し始めた。\n 日は傾いていた。彼女は窓に近寄った。クリストフは数歩離れて腰をおろした。娘がその膝に上ってきた。彼は娘のおしゃべりを聞いてるふうをし、気のない返辞をしながら、ザビーネをながめていた。彼女も見られてるのを知っていた。彼女は箱の上にかがみ込んでいた。その頸筋と頬が少し彼の眼にはいった。――そして彼女をながめているうちに、彼女が赤くなってるのに気づいた。彼も赤くなった。\n 子供はしきりにしゃべっていた。だれもそれに答えなかった。ザビーネはもう身動きもしなかった。クリストフは彼女が何をしてるかを見なかった。彼には、彼女が何にもしていないことが、手にもってる箱をもながめていないことが、よくわかっていた。沈黙が長くつづいた。小娘は心配になって、クリストフの膝からすべりおりた。\n「なぜ何にも言わないの?」\n ザビーネはにわかにふりむいて、娘を両腕に抱きしめた。箱は下に落ちた。娘は喜びの声をあげて、家具の下にころがってゆくボタンを、四つばいになって追っかけた。ザビーネは窓のそばにもどって、窓ガラスに顔を押しあてた。外の景色に見とれてるふうをした。\n「さよなら。」とクリストフは途方にくれて言った。\n 彼女は頭も動かさなかった。そしてごく低く言った。\n「さよなら。」\n\n 日曜の午後は、家の中ががらんとしていた。皆が教会堂へ行って、晩課を聞いていた。ザビーネは少しも行かなかった。ある時、美しい鐘の音がしきりに呼びたてるのに、彼女は小さな庭の戸の前にすわっていたが、それを見つけたクリストフは、冗談に彼女を責めてやった。彼女は同じ冗談の調子で、ミサだけが義務的なものであると答えた。晩課はそうではなかった。それであまり熱心になりすぎるのは無駄なことだし、不謹慎なことでさえあった。そして神は自分を恨むどころかかえってありがたがっていられるだろうと、彼女は好んで考えていた。\n「あなたは自分にかたどって神をこしらえてるんです。」とクリストフは言った。\n「神様になったら、私はさぞ退屈するでしょう。」と彼女は思い込んだ調子で言った。\n「あなたが神になったら、あまり世間のことにはかかわらないでしょうね。」\n「私が神様にお願いしたいことは、私を構ってくださらないようにということだけですわ。」\n「そんならいくら願ったって悪いことになりようはないでしょう。」とクリストフは言った。\n「しッ!」とザビーネは叫んだ、「不信心なことを言っていますわ。」\n「神があなたに似ていると言っても、それが不信心なことだとは私は思いません。神はきっと喜ばれるに違いありません。」\n「もうよしてくださいよ!」とザビーネは言った。半ば笑い半ば気にしていた。神様が怒りはすまいかと気づかい始めていた。彼女は急いで話題を変えた。\n「それに、」と彼女は言った、「気楽に庭をながめることができるのも、一週間のうちに今だけですわ。」\n「そうです。」とクリストフは言った。「あの人たちがいませんから。」\n 二人は顔を見合った。\n「ほんとに静かですこと!」とザビーネは言った。「めったにないことですわ......なんだか変な気分がしますわ......。」"
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{
"role": "assistant",
"content": "「ああ、」とにわかにクリストフは憤然と叫んだ、「あいつを絞め殺してやりたいと幾度思ったかしれない!」\n だれのことを言ってるのか説明するに及ばなかった。\n「そして他の人は?」とザビーネは快活に尋ねた。\n「なるほど、」とクリストフはがっかりして言った、「ローザもいる。」\n「かわいそうな娘さんだこと!」とザビーネは言った。\n 二人は黙った。\n「ああ、いつも今のようだったら!......」とクリストフは溜息をついた。\n 彼女はにこやかな眼で彼の方を見上げたが、また眼を伏せた。彼は彼女が仕事をしてるのに気づいた。\n「何をしているんです?」と彼は尋ねた。\n (二人は、両方の庭の間に張られた蔦の帷で隔てられていた。)\n「おわかりでしょう。」と彼女は言いながら、膝の上の皿をもち上げた。「豌豆の莢をむいていますの。」\n 彼女は大きな溜息をもらした。\n「でもそれは厭な仕事じゃありません!」と彼は笑いながら言った。\n「あらたまりませんわ、」と彼女は答えた、「いつも食べ物のことにかかりあってるのは!」\n「きっとあなたは、」彼は言った、「もしできることなら、厭な思いをして食べ物をこしらえるより、食べないですます方の人ですね。」\n「ほんとにそうですわ!」と彼女は叫んだ。\n「お待ちなさい。手伝ってあげます。」\n 彼は垣根をまたぎ越して、彼女のそばに来た。\n 彼女は家の入口のところで椅子に腰かけていた。彼は彼女の足下の踏段にすわった。腹のところにたくねてある彼女の長衣の皺の中から、彼は青い豌豆の莢をつかみ取った。そして彼女の膝にはさまれてる皿の中に、丸い小さな豆を入れた。彼は下を見つめていた。ザビーネの黒い靴下が見えていて、踝や足先の形を示していた。彼は彼女を見上げられなかった。\n 空気は重かった。空は白ばんでごく低くたれ、そよとの風もなかった。一枚の木の葉も動かなかった。庭は大きな壁で仕切られ、世界はそこで終っていた。\n 子供は隣の女と出かけていた。二人きりだった。二人は物を言わなかった。もう何にも言うことができなかった。眼をあげないで彼は、ザビーネの膝から、なお豌豆をつかみ取った。その指先は彼女に触れると震えた。瑞々しいなめらかな莢の中で、ザビーネの指先に出会った。彼女の指も震えていた。二人はもうつづけることができなかった。たがいに眼をそらしてじっとしていた。彼女は椅子に身をそらし、口を半ば開き、両腕をたれていた。彼はその足下にすわり、彼女に背をもたしていた。肩と腕とに沿って、ザビーネの膝の温みを感じた。二人とも息をはずましていた。クリストフは手のほてりを冷すために石に押しあてた。その片方の手が、靴から出てるザビーネの足先に触れた。そして引離すことができなくてその上を押えた。二人ともぞっと身を震わした。茫として気を失いかけた。クリストフの片手はザビーネの小さな足の細い指先を握りしめていた。ザビーネは汗ばみまた冷たくなって、クリストフの方へ身をかがめてきた......。\n 聞き慣れた人声が、その陶酔から二人を呼びさました。二人は震え上った。クリストフは一挙に飛び立ち、また垣根を越えた。ザビーネは長衣の中に莢を拾い集めて、家へはいった。中庭から彼はふり向いた。彼女は戸口に立っていた。二人は顔を見合った、雨の細かな粒が木の葉に音をたて始めていた......。彼女は戸を閉ざした。フォーゲル夫人とローザとがもどってきた......。彼は自分の室にはいった......。\n 黄色っぽい昼の光が、激しい雨におぼれて消えかかったころ、彼は抗しがたい衝動に駆られてテーブルから立上った。しまってる窓のところへかけつけて、向うの窓の方へ両腕を差出した。同時に、向うの窓に、しまってる窓ガラスの後ろに、室の薄暗がりの中に、両腕をこちらに差出してるザビーネの姿を、彼は見た――見たと思った。\n 彼は室から駆け出した。階段を降りて行った。庭の垣根に駆け寄った。人に見られるのも構わずに、それを乗り越そうとした。しかし、彼女の姿が見えた窓をながめると、雨戸がすっかりしめ切ってあった。家の中は寝静まってるかと思われた。彼は行くのを躊躇した。窖へ行こうとしていたオイレル老人が、彼を見て呼びかけた。彼は足を返した。夢をみたような気がした。\n\n ローザはどういうことが起こってるか、長く気づかないではいなかった。元来彼女には狐疑心がなかったし、嫉妬の感情とはどんなものだかまだ知らなかった。彼女はすべてを与えるつもりでい、また代わりに何かを求めようとはしなかった。しかし、クリストフから少しも愛してもらえないことを悲しげにあきらめてはいたものの、クリストフが他の女を愛するようなことがあろうとは、かつて思ってもみなかった。\n ある晩、食事のあとに、彼女は数か月来のめんどうな刺繍をなし終えた。うれしい心地がした。一度クリストフと話をしに行って、いくらか心を晴らしたかった。母が背を向けてるのに乗じて、室からぬけ出した。悪戯をする小学生徒のように、家の外に忍び出た。いつまでたってもその仕事が終えるものかと軽蔑的な口をきいたクリストフを、少しやりこめてやるのが楽しみだった。この憐れな娘は、自分にたいするクリストフの感情がどんなものだか、いたずらに知ってるばかりだった。自分で人に会うのがうれしいものだから、他人も自分に会えばうれしいものだといつも考えがちであった。\n 彼女は表に出た。家の前にはクリストフとザビーネとが腰かけていた。ローザの心は悲しくなった。けれども彼女は、その不穏当な印象を受けてもやめなかった。彼女は快活にクリストフを呼びかけた。その鋭い声音を静かな夜の中に聞いて、クリストフは誤った音符を聞いたような気がした。彼は椅子の上でぞっとし、怒りに顔をしかめた。ローザは彼の鼻の先に、得意然として刺繍を振ってみせた。クリストフは苛立ってそれを押しのけた。\n「できあがったわ、できあがったわ!」と彼女は言い張っていた。\n「ではも一つ始めたらいいでしょう。」とクリストフは冷淡に言った。\n ローザはまごついた。喜びはすべて消えてしまった。\n クリストフは意地悪く言いつづけた。\n「そしてあなたがそれを三十もこしらえたら、すっかりお婆さんにでもなったら、生涯を無駄にはしなかったと自分で考えることぐらいはできるでしょう。」\n ローザは泣きたくなっていた。\n「まあ意地悪だこと!」と彼女は言った。\n クリストフは恥ずかしくなった。そして二、三言親切な言葉をかけてやった。彼女はごくわずかなことにも満足しがちだったので、すぐにまた信頼してしまった。そして盛んに騒々しいおしゃべりをやりだした。家の中での習慣のために、低い声で話すことができずに、大声にわめきたてた。クリストフはいくら我慢をしても、不機嫌さを隠すことができなかった。初めは苛立った簡単な言葉を返してやったが、次にはもうなんとも返辞をせず、背中を向けて、彼女のがらがらしたおしゃべりのままに歯ぎしりをしながら椅子の上にやきもきした。ローザは彼がじりじりしてるのを見、黙らなければいけないことを知っていた。それでもなお激しくしゃべりつづけるばかりだった。ザビーネは数歩先の暗がりの中で黙って、皮肉な平静さでその光景を見ていた。それから飽きてきて、その晩はもう駄目になったと感じながら、立上って家にはいった。クリストフは彼女がいなくなってからようやく、彼女の立去ったことに気づいた。そして自分もすぐ立上り、言い訳もしないで、冷やかな挨拶を言い捨てて、ふいと行ってしまった。\n ローザは街路に一人残って、彼がはいって行った戸をがっかりしながらながめていた。涙が出て来た。彼女は急いで家にはいり、母と口をきかないで済むようにと、足音をたてないで自分の室に上ってゆき、大急ぎで着物をぬぎ、一度寝床にはいって蒲団をかぶると、そのまますすり泣き始めた。彼女は今起こったことを考えてみようとはしなかった。クリストフがザビーネを愛してるかどうか、クリストフとザビーネとが自分を辛抱することができないかどうか、それをみずから尋ねてみなかった。彼女は知っていた、万事終ったことを、もはや生活には意義がなくなったことを、ただ死ぬより外はないことを。\n 翌朝になると、また考慮の力が永久のいたずらな希望を伴って彼女に帰ってきた。前夜の出来事を一々思い起しながら、それをあれほど重大に考えたのは間違いだったと思い込んだ。もちろんクリストフは彼女を愛していなかった。がそれは、こちらから愛してるのでついには向うからも愛されるだろうという、ひそかな考えを心の底に秘めて、あきらめていた。しかしザビーネと彼との間に何かあるということを、どの点で見て取られたのか。あんなに賢い人が、だれの目にも下らなく平凡に見える女などを、どうして愛することができようか。彼女は安心を覚えた。――がやはり、クリストフを監視し始めた。その日は何にも眼に止らなかった、なぜなら、眼に止るようなことが何にもなかったから。しかしクリストフの方では、彼女が終日自分のまわりをうろうろしてるのを見て、なぜとなく妙な苛立ちを覚えた。晩に彼女がまた往来へ出て来て、思い切って、二人の横に腰をおろすと、彼の苛立ちはさらに激しくなった。それは前夜の光景の反復であった。ローザが一人でしゃべった。しかしザビーネは前夜ほど長く待たないで、間もなく家へはいった。クリストフもそれに倣った。ローザはもはや、自分のいるのが邪魔になってることを、みずから隠すわけにゆかなかった。しかしこの不幸な娘は自分を欺こうとつとめた。自分の心をごまかそうとするのは、最もいけないことだとは気づかなかった。そしていつもの頓馬さで、その後毎日同じことをやった。\n 翌日クリストフは、ローザを傍らに控えながら、ザビーネが出て来るのをむなしく待った。\n その次の日には、ローザ一人きりだった。二人は彼女と争うのをやめていた。しかし彼女がかち得たものは、クリストフの恨みだけだった。クリストフは唯一の幸福たる大事な晩の楽しみを奪われたのを、非常に憤った。自分の感情にばかりふけって、かつてローザの感情を察してやろうともしなかっただけに、彼女をいっそう許しがたく思った。\n かなり以前からザビーネは、ローザの意中を知っていた、自分の方で愛してるかどうかを知る前に、すでに彼女はローザが嫉妬を感じてるのを知っていた。しかし彼女はそれについてなんとも言わなかった。そして勝利を確信してる美しい女にありがちの残忍さをもって、彼女は黙って嘲弄半分に、拙劣な敵の徒労をながめていた。\n\n ローザは戦場を自分の手に収めながらも、自分の戦術の結果を憐れにもうちながめた。彼女にとって最善の策は、強情を張り通さないことであり、クリストフを平穏にさしておくことであった、少なくとも当分のうちは。ところが彼女はそうしなかった。そして最悪の策は彼にザビーネのことを話すことだったが、彼女はまさしくそれをした。"
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": " 捜査はそこでピタリと足止めになったが、事件は停ってくれず、独りで勝手に動いて、新しい事態の中へ辷りこんだ。モニエ夫人を目撃したという情況提供者が、二人現れたのである。\n 捜査は休業中だともいえないから、二人に逢って聴取した。レオン・ブゥクレという男と、ルネ・ピロンという男。どちらも株式の仲買人で、取引所の近くに小さな店を持っている。\n ブゥクレの話。\n ブゥクレはその日の午後二時頃、大変動のあった取引所へ駆けつけるので、地下鉄へ飛びこんだ。印度の綿花株が大幅に昂騰し、ウェストファリヤの礦山株が大暴落した日で、ブゥクレは血眼になって商況新聞の株の高低表を睨みつけていた。\n 発駅から四つ目の駅で、二十六、七の美しい婦人が乗ってきて、反対側の前部の座席へ落ちついた。ほかに乗客はなく、車内にはブゥクレとその婦人と二人だけだった。そこから四つ目の駅で、やっと一人乗ってきた。軍服まがいの空色の猟服を着、格子縞の鳥打帽をかぶった三十七、八の紳士で、婦人の知合いなのだとみえて、そっちへ行って向き合う座席に掛けた。婦人は意外だったという風に眼を見張り、それから快活に笑った。二人はしきりにしゃべっていたが、殊に婦人のほうが熱心に話し、時々、笑っているのが印象に残ったが、それはそれだけのことで、どんな話をしていたのか、全然、聞いていない。高低表の数字に憑かれたようになっていたので、それどころの騒ぎではなかったのである。\n 取引所前駅に着いたので、ブゥクレが立ちあがると、その紳士も席から立って、\n「では、また今晩。約束を忘れないで」\n といったようなことを言い、扉の開くのを待ちかねるようにして車から出た。ブゥクレは後についてホームへ降りると、仲間(共同出資者)のピロンと鉢合せをした。青い猟服を着た紳士は、その間に改札口から出て行った。\n ピロンの話。\n ピロンは二時まで店でブゥクレを待っていたが、やって来ないので、やむを得ず店を出た。今日の変動の件で、取引先の了解をつけなければならない用件があったのである。\n 地下鉄を待っていると、空色の猟服を着た紳士の後から、いい具合にブゥクレが降りてきたので、ホームの立話で仕事の引継ぎをすませ、前部の席へ行きかけたが、婦人が一人いるので、反対側の席に掛けた。ピロンもまた一秒の時間も惜しいところだった。取引先へ行く前に、うるさい数字を整理しておく必要があったので、気を散らしたくなかったのである。ピロンは手帳をだして計算をしはじめたが、婦人のほかには乗客はなく、その婦人も、眠っているのか、窓ガラスに頭を凭せたまま、身動きもしない。そういうわけで、目的の駅に着くまで、邪魔をされずに計算に没頭することができた。\n 取引所前から四つ目の駅で、ピロンが降りた。ホームへ出る前、チラと婦人のほうを見ると、依然として、おなじ姿勢を保っている。後で思いかえすと、車に乗ったとき、最初に一瞥したときの恰好を、最後までもちつづけていたわけであった。\n 青い猟服の紳士だが、二人の認識はほとんど一致している。ピロンのほうは、紳士が車から降りるところを何気なく触目しただけだったが、かなり正確な印象を伝えている。やや長身、しかし図抜けて背の高いほうではない。口髭は茶褐色、髪は栗色。動作は軽快で、しかも整然としている。身振りに、社交界に出入りしている人によく見馴れた調子があったという。\n ブゥクレは、「青い猟服の紳士」が乗って来たところから降りるところまで見ているが、その間、紳士は夫人にたいして、粗暴な振舞いや強迫がましい態度をしめしたことは一度もなかった。それどころか、紳士が席を立つまで、絶えず愉快そうに話しあっていたのだから、この間の時間は、自殺にも、他殺にも、なんの関係もなかったと見ていい。\n ピロンは、発車間際に車に飛び乗るなり、まっすぐ前部の席へ行き、夫人が掛けているのを認めたが、そのときから降りるまでの間、夫人は微動もしない静止状態をつづけていた。いかにホスゲン瓦斯でも、吸入時には、瞬間、劇しいショックを起すものだから、すぐ傍にいるピロンの注意をひかずにはすまなかったろう。\n 詮じつめたところ、夫人の死因はやはり自殺だったので、ホームに停車している一分ほどの間に、ほかに誰もいない車室の中でひっそりと行なわれたものだろうが、いままで上機嫌だった夫人がどういう心境の変化によってそんな不自然な環境で、突発的に自殺を決行しなければならなかったのか?\n 青い猟服の紳士の素性が知れれば、その辺の隠れた事情がわかるかもしれない。それで、まず手はじめに、モニエ氏の家へ行って、小間使に夫人の当日のようすを聞いてみた。\n 小間使の話。\n 夫人は快活なひとで、時にはずいぶんはしゃぐこともある。その日も、ちょうどそんなふうで、機嫌よく一人で午食し、オペラ座の近くにある「レックス」という婦人服店で仮縫いをするといって家を出た。実は、午前中に行くはずだったが、レーノォ氏がやってきたので、午後になった。お二人はその晩、芝居を観に行く相談をしていた。レーノォ氏が帰るとき、夫人は玄関で、「じゃ、また今夜ね」と挨拶していた。\n ブゥクレは、青い猟服の紳士が夫人に、「今夜の約束を忘れないで」と言っていたと申述している。そういう事実だけを取上げれば、青服の紳士はだんだんレーノォらしくなり、自殺だと思われていた夫人の死因にも、微妙な影がさしてくる。たとえばレーノォが、\n「こういう香水を手に入れた。進呈しようと思っていた」\n というようなことで夫人に渡し、すぐ車から降りる。夫人は手提の口をあけてしまいながら、ちょっと瓶の栓を捻って鼻にあてる。瞬間、ショックに襲われ、手から離す。香水の瓶はそのまま手提の中へ落ちこむ。夫人は猛烈な内窒息をおこし、窓ガラスに頭を凭せたまま絶命する。そこへピロンが入ってくる......こういう仮定が成立てば、これは自殺でなくて、自殺に変装した巧妙な殺人事件になる。\n レーノォは熱心な科学の徒弟だが、同時に、すごい浪費をやる道楽者でもあって、女友達関係の紛れで、絶えず問題を起しているような男だった。十万株に及ぶ、亡父から譲られた『仏国化学工業』の株も、わずかの間に他人の手に渡り、監査役という名義で、お情けの配当を受けていた。最近、さる百万長者の娘と婚約したが、いままで関係のあった女友達に、洩れなく同文の絶交状を送りつけるという奇行を演じたという。レーノォとしては是が非でも、この婚約をものにしなければならぬ、必死の場なので、モニエ夫人の始末に窮して、あんな思い切ったことをやったのだろう、というのが、われわれの見込みだった。\n 事件後、三週間も経ってから、捜査にたいする軍と警視庁の交渉法が成立したので、拘引状を持って逮捕に行くと、レーノォは降誕祭の前夜に家を出たきり、どこかへ姿を隠している。二十四日といえば、夫人の写真が新聞に大きく載った日である。家宅捜査をすると、衣裳戸棚から空色の猟服と、荒い格子縞の鳥打帽が出てきた。ブゥクレとピロンに見せると、「たしかに、この服だったように思う」と証言した。\n レーノォは、南米行の汽船に乗ろうとする前に、ボルドォで逮捕された。レーノォは結婚する前に過去の因縁の手を切るため、二、三年南米で暮らすつもりだったのだと言うが、われわれには逃亡予備としか思えなかった。たしかな不在証明でもあればのことだが、レーノォは、\n「あの日の午前十一時に、夫人を訪問したきり、午後は逢っておりません」\n と繰返すだけである。\n「では、兇行のあった、午後二時五十分から三時十分までの「二十分」の間、君はどこに居たか、証明して見たまえ」\n と言うと、それが出来ない。これは一種の天罰のようなもので、レーノォのように、毎日、巴里の市中をフラフラ泳ぎまわっている男には、三週間前の午後の「二十分間」自分はどこにいたのか、証明したいにも、どうしても思い出せないのであった。\n すべての条件から見て、レーノォが加害者だったことは明白で、二人の目撃者と対質させれば、それで否応なく罪状が確定してしまう。もしレーノォが「機密兵器拐帯」に関係していれば、軍機保持法に照し、銃殺はまずまぬかれないところであった。\n レーノォにとっても、われわれにとっても、実にあぶないところだったが、罪状確定の寸前に、真相が暴露された。レーノォはこの事件になんの関係もなかった。「青い猟服の紳士」などは、はじめから存在しなかった。ブゥクレとピロンの合作になる、まったくの架空の人物だったのである。\n モニエ夫人は、こんどのレーノォの婚約は、持参金が目的であることを知っていたので、友情からか、恋情からか、レーノォの経済の後見をして、心にもない結婚を破棄させたいと思い、その道の練達である友人の指示を受けながら、モニエ氏には内緒で、ブゥクレの店で大胆な投機を試みていたのである。"
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{
"role": "assistant",
"content": " 十二月の中旬まで、大体、過不足なしの成績を保っていたが、事件の三日前、つまり、十八日の朝、あるところから確実なニュースを聞きこんだので、ウェストファリアの礦山株を放して、印度の綿花株を手一杯に買付けるようにと、ブゥクレは電話で依頼しておいた。\n 二十一日の朝、礦山株が暴落して、綿花株が暴騰した。この一日で、夫人の財産は二倍以上になり、自分のものを別にして、猶、百万フランに近いものを、レーノォに融通できることになった。\n 夫人は午前中、上機嫌ではしゃぎまわり、午後二時に家を出て、地下鉄で取引所へ行こうとする途中、偶然、ブゥクレとピロンが同じ車へ乗ってきた。夫人は、\n「大勝利ね。お骨折でした」\n と握手を求めたが、二人は汗をかいて後に退った。夫人の依頼があったにもかかわらず、ブゥクレとピロンは、自分らだけの思惑をやって、礦山株をしっかりと握っていたばかりに、千載一遇の綿花の上潮に乗りそこない、持株の大暴落で、元も子もなくしてしまったのである。\n ブゥクレとピロンは、低身叩頭して弁解につとめたが、夫人は石のような表情で、返事もしない。そのうちに、手提から香水瓶のようなものを出して、鼻にあてがったと思うと、顔面を痙攣させて、あッという間に絶命した。二人は仰天し、次にとまった駅で、夫人の死体を残したまま、後も見ずに逃げてしまった。\n 青服の紳士などという、ありもしない人物を登場させたのは、そうでもしなければ、損金の補填に窮し、夫人を殺したのだろうという嫌疑がかかるかと、ひたすらそれを恐れたためであった。二人の見込みでは、もともと空想の産物なのだから、いかに警察でも、風か空気のようなものを掴まえることはできない。捜査の方針をごたつかせ、うやむやに胡魔化してしまうことができると思っていた。\n 二人はレーノォなる人物を知らず、その人を加害者に仮託しようなどと、夢にも思っていなかった。只々臆病から思いついたことだったので、レーノォが死刑になるかも知れないというところで、驚いて、一切を自供した。香水瓶のホスゲンは、どういう方法で持出したものか、われわれは全然、聞かされていない。あれから二十年経ち、その間に、二度の大戦があった。当時の関係者は、多分、みな戦死してしまったことだろうから、永久の秘密として残されるのであろう。\n\n長い旅路の終り\n\n 変装殺人としては、これはもっとも単純な型で、試みとしても底が浅く、智能の程度が知れるような、気の利かない犯行だったが、偶然という運命の神の庇護によって、一種、神秘的な事件に成上っている。「偶然」が捜査の手助けになったり、思わぬ障害になったりする例は少なくないが、このときほど「偶然」が微妙に押重なり、事件を昏迷させたようなことは、後にも先にもなかった。\n 一九〇一年の四月のはじめ、十六区の警察から強盗殺人の通報があった。\n パッシイ十八番の贅沢な住宅アパートに住んでいる、ベリションという未亡人と、イザベルという住込みの女中が、肉切庖丁で斬り刻まれ、金庫の中にあった二万フランの現金と、装身具の入った宝石箱が盗まれている。現場は大風でも吸き荒れたように、なにもかも引繰返され、床には血みどろの靴跡が、壁には血だらけの掌の痕が、まるで模様のようについている。そのほか、煖炉棚の上に糊付の固いカフス(ワイシャツの袖、その頃のカフスは、着けたり外したりできるようになっていた)が二つ、キチンと並べて置いてあり、女中の死体のそばに、ジョルジュ・グランヴィル(George Granville)という名入り革帯が落ちている。\n 加害者は、固いカフスが邪魔になり、犯行をはじめる前に、外ずしてそこへ置いた。革帯のほうは、女中を縛ってすますつもりだったのが、あまり暴れるので、面倒臭くなって斬殺してしまった、といったことだったのだろう。それはわかるが、こういうものを平気で残して行くのは、いくらなんでも無造作すぎる。狼狽てたにしろ、大胆にかまえたにしろ、どちらにしても度外れで、われわれの常識をまごつかせるに十分だった。\n そのうちに、夫人の書物机の引出しから、\n「伸び伸びになったが、近日、お伺いする」\n という意味のことを三行ばかり書きつけた、グランヴィルという署名のある手紙が出てきた。これによると、グランヴィルは夫人と親しい間柄の男で夫人を訪問した夜、兇行を演じたことがほぼ確実になった。\n ところで、翌日の午後、十区の警察から、北停車場前のホテルに泊った、ルイ・グランヴィルという男が、事件のあった日の朝、鞄を置いて出たきり、今日になっても帰らないが、指名手配の該当人物らしいから、お知らせすると言ってきた。\n グランヴィルの人相は、くわしくわかった。二十七、八の痩型の男。金髪、髭はない。軽い斜視があって、上顎の門歯が二本欠けている。人相書を作製するのに、これ以上のことは望めないというような、しっかりした特徴をもっている。\n 部屋に残してあったのは、布製の安鞄で、内容は次のようなものであった。\n 一、独逸と墺太利の主要な都市に支店をもっている「ミュラー」という煙草会社の見本表。\n 一、G・Gの頭文字が入ったワイシャツが二枚。\n 一、白耳義ブラッセルの「レルモンド襯衣会社」製のカラーが三本。\n 一、六十歳位の老婦人の写真が一葉。\n 一、加奈陀モントリオール市の選挙人名簿が一冊。\n これに兇行の現場にあった、カフスと、革帯と、手紙の署名を加えると、証拠はこれで少なすぎるということはない。人相書に被害品の目録を添えて配布すると間もなく、贜品の一部がマルセーユの市営質屋から出た。入質したのは、シニョレと名乗るスペイン人で、造作なく逮捕され、身柄が捜査局へ送られてきた。\n マルセーユの警察では、グランヴィルを掴まえたと言っていたが、当の男を見ると、人相がちがう。長身だが、肩巾の広いガッシリとした中年者で、欠歯もなければ斜視もない。しかし、ベリション夫人の宝石類を持っている以上、無関係の筈はないから、精一杯の取調べをしたが、\n「鞄のまま公園に捨ててあったのを拾ったので、ベリションなどという婦人は知らない」\n と頑強に口を割らない。\n マルセーユの警察当局は、シニョレがベリション夫人の加害者だという見解を捨てない。北停車場前のホテルから失踪したG・Gは、偶然、同じ名をもった無関係者で、シニョレが当の犯人でなかったら、嫌疑を避けるためにも、グランヴィルの名を出すべきだし、身柄を拘束した夜、留置場で自殺を企てたのが、なによりの証拠だというのである。\n シニョレが当の犯人かどうかは、事件のあった朝、北停車場前ホテルから失踪した、グランヴィルという男を捕まえてみないことにはわからない。私は当時、捜査局の警部に成上ったばかりの時だったが、どういう廻り合せか、この事件を担当することになった。\n 話が後先になったが、ベリション夫人の叔父のシャロン侯爵が、不幸な姪の霊を慰めるために、思いきった賞金を投げだした。犯人を逮捕したものには十万フラン。犯人の居所を通報したものには、三万フランの賞金を出すという、夫人の写真入りの広告を、欧州全都市の主要新聞に洩れなく出したものだが、六月のはじめになって、スペインのヴァレンシア市から有力な情報の提供があった。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「これはぼくの伯父さんだぞ、疑う余地はない」と、カルルは自分に言い聞かせ、耳を傾けていた。「おそらく名前を変えたのだろう」\n「私の甥は今では両親から――事の真相を示す言葉を使うことにしましょう――あっさり捨てられたのです。ちょうど、猫がしゃくにさわると、ドアの前に投げ出されるようにです。私の甥が何をやってこんなふうに罰を受けたのか、私はとりつくろって申すつもりはありません。しかし、甥のあやまちは、それを申しただけですでに十分弁解になる理由を含んでいるようなたぐいのものなのです」\n「これは聞く価値があるぞ」と、カルルは考えた。「でも、伯父さんがあれをみんなに話すのは困るぞ。ところで、伯父さんはあれを知っているはずはないんだが。いったい、どこから聞いたんだろう?」\n「つまり」と、伯父は語りつづけ、ちょっと身体を傾けて前に踏んばっている竹のステッキにもたれた。それによって実際、この件から不必要ないかめしさを取り除くことに成功した。そうでなければこの件はきっとそんな不必要にまじめな調子を帯びたことだろう。「つまり、甥はヨハンナ・ブルマーという女中に誘惑されたのです。これはおよそ三十五歳ほどの女です。この〈誘惑された〉という言葉で甥の気を悪くさせたくはないのですが、ほかの同じようにぴったりした言葉を見つけ出すことは困難なのです」\n すでに伯父のかなり近くへ歩みよっていたカルルは、この話の与えた印象をこの場にいる人びとの顔から読み取ろうとして、このとき振り向いてみた。だれも笑う者はなく、みんな忍耐強く、まじめそうに聞いていた。結局のところ、最初の機会が生じたというときに、上院議員の甥のことを笑うわけにはいかないのだ。むしろ、火夫がほんのちょっとではあるがカルルにほほえみかけたといえたかもしれない。だが、これは第一に彼が新しい生気を取りもどしたしるしとしてよろこばしいことであり、第二にはもっともなことでもあった。なぜなら、実際カルルはあの船室で、今ではこんなにもひろまってしまったこの件を極秘にしておこうとしたからだった。\n「ところでこのブルマーが」と、伯父は語りつづけた、「甥の子供を生みました。じょうぶな男の児で、洗礼のときヤーコプという名をつけられました。疑いもなく不肖この私を頭においてのことであります。この私のことは、甥がきっとただまったくさりげなく話しただけだと思われますが、それでさえその女の子に少なからぬ感銘を与えたにちがいありません。幸いなことに、と私はいわないわけにまいりません。というのは、両親は養育費の支払いとか自分たちの身にまで及ぶそのほかのスキャンダルとかを避けるために――私は強調しておかねばなりませんが、あちらの法律も、また両親のそのほかの事情も知りません――、で、養育費の支払いとスキャンダルとを避けるために、彼らの息子、つまり私の甥をアメリカへ運ばせたのです。ごらんのとおり、こんな無責任きわまる不十分な支度しかしてやらずにです。それゆえ、この子は、もしこのアメリカにかろうじて生き残っている神意のしるしと奇蹟とがなかったならば、自分の身ひとつをたよりにしなければならず、きっとたちまちのうちにニューヨーク港の裏町のどこかで零落したことでしょう。もしその女中が私宛ての手紙、しかもそれは長いことあちらこちらとさまよっておとといやっと私の手に入ったのですが、その手紙のなかで一部始終を知らせ、それに甥の人相のことや賢明にも船の名前も添えて書いてよこさなかったならば、そんなことになったかもしれません。もしみなさんを面白がらせるつもりならば、その手紙の二、三の箇所を」――といって、伯父はこまかな字で書かれた大きな二枚のレターペーパーをポケットから取り出し、それを振って見せた――「ここで朗読することもできるでしょう。この手紙はきっと効果があるでしょう。つねに善意からではあるが、いくらか単純なずるさと、子供の父親である甥に対する大きな愛情とをもって書かれているからです。だが、事情を説明するために必要である以上にみなさんを面白がらせるつもりはありませんし、また甥を迎えるにあたって、おそらくまだ残っている甥のいろいろな感情を傷つけるようなことをやりたくもありません。甥は、もしそうしたいなら、すでに彼を待っている部屋の静けさのなかでこの手紙を読んで、それを知ればいいのですから」\n だが、カルルはその女中に対してなんらの感情も抱いてはいなかった。いよいよ遠くへ退いていく過去の、ひしめき合う思い出のなかで、その女は台所で戸棚のそばに坐っている。その棚の板の上に両肘をついている。彼が父親のために水を飲むコップを取りにとか、母親に頼まれたことをやるためにとかでときどき台所へいくと、女は彼をじっと見るのだった。ときどきは台所の戸棚のわきで変な姿勢で手紙を書いており、カルルの顔を見て霊感を引き出すのだった。ときどきは片手で両眼を被っていた。そういうときは、いくら彼女に呼びかけても、彼女の耳にはとどかなかった。ときどきは台所のわきの自分の小さな部屋でひざまずいて、木の十字架に祈っていた。そういうときには、カルルはただおずおずしながら、通りすがりに少し開いているドアのすきまを通して女の姿を見るのだった。ときどきは、台所で走り廻って、カルルが彼女の道をふさぐと、魔女のように高笑いしながら、跳び下がった。ときどきは、カルルが入っていくと、台所のドアを閉めて、カルルがどいてくれと要求するまで手でドアの取手を押えていた。ときどきは、カルルが全然欲しくもない品物をもってきて、無言でそれを彼の両手のなかに押しつけるのだった。ところが、あるとき、「カルル」といって、思いがけないその呼びかけにまだ驚いている彼を、しかめ面をして溜息をもらしながら自分の小さな部屋へつれこみ、部屋に鍵をかけた。\n 女は絞め殺さんばかりにカルルの首に抱きつき、服を脱がせてくれと頼みながら、自分のほうでも実際に彼の服を脱がせ、ベッドの上に寝かせた。まるで今からは彼をだれの手にもやらず、この世の終りまで、なでいつくしみたいといわんばかりだった。「カルル、おお、あたしのカルル!」と、女は叫び、彼をながめて、彼を所有していることをたしかめようとするかのようだ。一方、彼のほうは何一つ眼に入らず、女が特別彼のために積み重ねたらしいたくさんの暖かいかけぶとんのなかで不快に感じていた。それから女は彼により添って寝て、彼の秘密を何か聞きたいといったが、彼が何もいうことができないので、冗談でなのか本気なのかわからないが怒って、彼の身体をゆすり、耳をあてて心臓の鼓動を聞き、同じように聞いてみろといって自分の胸をさし出した。ところが、女はカルルにそうさせることができないと、自分の裸の腹を彼の身体に押しつけ、手で彼の両脚のあいだを探った。あんまりいやらしいので、カルルは頭と首とを枕から振りはずしてしまった。それから女は、腹を二、三度彼に向って押しつけた。――カルルには、まるで女が自分自身の一部であるような気がした。おそらくこの理由から恐ろしくみじめな気持に襲われたのだろう。女のほうから何度も何度もまたのあいびきをせがまれたあとで、カルルは泣きながら自分のベッドへもどった。これだけのことだったが、伯父はそれから大きな物語をつくり出すことを心得ていた。で、その女中が伯父のことを考えて、伯父に彼の到着を知らせたというわけだった。じつにいいことをやってくれた。自分としてもきっとその女にいつかむくいてやるだろう、と伯父はいった。\n「で今、私がお前の伯父かそうでないか、お前の口からはっきり聞こう」と、上院議員は叫んだ。\n「あなたはぼくの伯父さんです」と、カルルはいって、彼の手に接吻し、そのかわりに額に接吻してもらった。「あなたに会って、ぼくはとてもうれしいです。でも、ぼくの両親が伯父さんについて悪いことだけ話していると思うなら、まちがいです。でも、それは別問題としても、あなたの話にはいくらかのまちがいが入っていました。つまり、実際には万事がそんなふうに起ったのではありません。けれども、伯父さんはほんとうにこのアメリカからでは事柄に十分な判断を下すことは無理です。それに、このみなさんにあまり関係はない件のこまかな点で少しばかりまちがったことを教えられても、そうたいして害にはならないと思います」\n「よくいった」と、上院議員はいって、明らかに同感を示している船長の前にカルルをつれていき、たずねた。「私はすばらしい甥をもっているでしょう?」\n「甥御さんとお知合いになれまして、私は大いによろこんでいます」と、船長はただ軍隊の訓練を受けた人たちだけがやるようなお辞儀をしながらいった。「こうしためぐり合いの場所を提供できましたことは、本船の光栄とするところです。しかし、三等船客としての航海はきっとひどかったことでしょう。しかし、どなたが乗船しておられるかわかりませんのでね。ところで、われわれは三等の人たちの航海をできるだけ楽にしてあげるように、ありとあらゆることをやっています。たとえば、アメリカ船よりもずっと多くのことをやっております。けれども三等の航海をたのしみにするということまでには、なんといってもまだいたっていません」\n「ぼくにはちっとも悪いことなんかありませんでした」\n「甥にはちっとも悪いことなんかなかったそうですぞ」と、上院議員は大きな声で笑いながらいった。\n「ただトランクだけはどうも失くして――」と、いいかけて、起ったこと、まだやることで残っていることをみんな思い出しながら、あたりを見廻し、この場にいる人たちがみな黙って尊敬と驚きとのために彼に視線を注いでいるのをながめた。ただ港務局の役人たちの様子には、彼らの自己満足しているきびしい顔から見抜くことができる限りでは、こんなに工合の悪いときに自分たちがやってきたと残念がっているのが見られた。そして、今自分たちの前に置いてある懐中時計のほうが、彼らにはどうもこの部屋のなかで起っていること、そしておそらくこれからなお起こるかもしれないことよりも重要であるらしかった。\n 船長のあとで自分の関心を表わした最初の人物は、奇妙なことに火夫だった。"
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"role": "assistant",
"content": "「心からお祝いを言いますぜ」と、彼はいって、カルルの手をにぎった。それによって相手をみとめているというようなことを言い表わそうとしたのだった。つぎに同じ言葉で上院議員に向かおうとしたとき、上院議員は火夫がそれによって自分の分を超えたことをやろうとしているといわんばかりに、あとしざりした。火夫もすぐにやめてしまった。\n ところが、ほかの人びとも今はやるべきことがわかったとみえて、たちまちカルルと上院議員とのまわりにさわぎを起こした。そこで、カルルはシューバルからさえ祝いの言葉をかけられ、それを受け、その礼を述べた。ふたたび静けさが立ちもどったなかで、最後の番で港務局の役人たちがやってきて、英語で二語だけいったが、これが滑稽な印象を与えた。\n 上院議員はすっかり上機嫌で、よろこびを完全に味わいつくすため、どうでもいいようなことを思い出し、ほかの人びとにも思い出させようという気になっていたが、それはむろんすべての人びとによって我慢して聞かれただけではなく、関心をもって受け入れられた。そこで彼は、女中の手紙のなかに書いてあったもっともいちじるしいカルルの人相の特徴を、きっとあとでちょっと使うことになるだろうと思ってメモ帳に書き入れていたのだ、といってみんなの注意を喚起した。ところで、彼はさっきの火夫の我慢できないおしゃべりのあいだに、ただ気をそらすためだけの目的でメモ帳を取り出し、むろん探偵式にいえば正しくはない女中の観察点をカルルの外見と遊び半分に結び合わせようとしたというのだった。\n「私の甥はこんなふうに見られているんですよ!」と、彼はもう一度祝いの言葉を受けたいと思っているかのような調子で話を結んだ。\n「火夫はこれでどうなるでしょう?」と、カルルは伯父の最後の話がすむと、たずねた。彼は、自分の新しい立場では、なんでも思ったことをいってもいいのだと考えた。\n「火夫はあれにふさわしいようになるだろう」と、上院議員はいった。「それに、船長さんがよいと思われるようになるだろうよ。もう火夫のことは十分だし、十分すぎると私は思うね。ここにおられるみなさんもきっと私のこの意見に賛成されるだろう」\n「正義に関する件においては、そんなことは問題じゃありません」と、カルルはいった。彼は伯父と船長とのあいだに立っていたが、おそらくこのような位置に立っていることに影響されて、決定を自分の手中ににぎっているように思った。\n それにもかかわらず、火夫はもう自分のために何も望んでいないらしかった。両手を半分ズボンのバンドに突っこんでいた。彼が興奮して動いたためにそのバンドは模様のついたシャツの片はじといっしょに外へ見えていた。そんなことは少しも彼の気にはならない。彼は自分の悩みをすっかり訴えてしまったのだから、自分が身につけている一つ二つのぼろを見られたってかまわないし、追い出されたってかまわないのだ。ここでは階級のいちばん下の給仕とシューバルとの二人が、自分を追い出すというこの最後の好意を果たしてくれるものと、彼はすっかり思いこんでいた。そうすればシューバルは気が落ちつくだろうし、もう会計主任がいったように絶望なんかすることはないだろう。船長はルーマニア人ばかりを雇うことができるだろう。船じゅうどこででもルーマニア語が話されることになるだろう。そうすればおそらくいっさいがもっとよくなるだろう。火夫が会計課でおしゃべりすることはもうないだろう。ただ自分の最後のおしゃべりだけをかなりなつかしい思い出のうちにとどめることだろう。なぜなら、上院議員がはっきりと断言したように、自分のおしゃべりが甥を認知する間接のきっかけとなったからだ。ところでこの甥はさっき何度も自分のために役に立ってくれようとした。だから、伯父との再会に際して自分が役立ったことに対する礼はもうずっと前にあらかじめすませてあったようなものだ。そこで火夫には、今何かをカルルから要求するなどということは全然思いつかなかった。それに、カルルが上院議員の甥であろうと、とうてい船長ではないのだ。ところで、船長の口からは最後にひどい言葉が吐き出されるだろう――こんな自分の考えを追って、火夫は実際にもカルルのほうを見ないように努めていたが、残念ながら自分の敵だけがいるこの部屋では、カルル以外に彼の眼を休める場所がなかった。\n「事態を誤解してはいけないね」と、上院議員はカルルに向っていった。「おそらく正義に関する問題であろうが、同時に規律の問題でもあるのだ。両方とも、そしてことに後者はここでは船長さんの判断にまかされているのだ」\n「そうだ」と、火夫がつぶやいた。それに気づき、それがわかった者は、奇妙な微笑をもらした。\n「だが、船長さんはその上、ちょうどニューヨークに到着したばかりで、信じられないくらいたまっているにちがいない公務をもっていられるのだよ。だから、もう私たちが船を去る潮時だ。余計なことをしてまだ何かまったく不必要な首の突っこみかたをやって、二人の機関士のつまらぬけんかを大事件にしないためにだな。ともかくお前のやりかたはすっかりわかる。だがそれだからこそ、急いでお前をここからつれ去る権利が私にあるというものだ」\n「すぐあなたがたのためにボートを下ろさせましょう」と、船長はいった。カルルが驚いたことに、疑いもなく伯父の自己謙遜と見られる言葉にほんの少しでも異を立てることをやらないのだ。会計主任はあわてて書きもの机のところへいき、船長の命令をボート係に電話で伝えた。\n「時間が迫っているんだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。「でも、みんなを侮辱することなしでは、ぼくは何もすることができないぞ。だが今は、伯父がやっとぼくを見つけたんだから、伯父を見捨てるわけにはいかない。船長はなるほど礼儀正しいけれど、でもそれだけのことだ。規律のこととなると、船長の礼儀正しさも忘れられてしまう。伯父はたしかに心からああ船長に話したんだ。シューバルとは話したくない。あの男に握手の手を渡したことも残念なくらいだ。そして、ここにいるそのほかの連中はみんなくずだ」\n そして、こんなことを考えながらゆっくりと火夫のほうへ歩いていき、その右手をバンドから取って、自分の手のなかにもてあそびながらおさめていた。\n「どうしてあんたは何もいわないんです?」と、彼はたずねた。「どうしてみんな黙って受け入れているんです?」\n 火夫は、いうべきことをどう言い表わしたらいいのか探しているように、額にしわをよせた。それからカルルの手と自分の手の上に眼を落していた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一 餓鬼\n\n世の中は推し移つて、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなつた。子どもの頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度は必見かけたのが、小栗物の絵看板であつた。ところの若い衆の祭文と言へば、きまつて「照手車引き近江八景」の段がかたられたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げて居た。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写して居なかつた。私どもゝ、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想ひ浮べる標準をば持たなかつたのである。合巻類には、二三、餓鬼阿弥の姿を描いたのもあるけれど、此も時々の、作者々々の創意のまじつてゐた事と思はれる。\nだから私どもは、餓鬼阿弥と言ふ称へすら、久しく知らずに居た。現に祭文語りの持つ稽古本や、大阪板の寄せ本などを見ても、大抵はがきやみと書いて居る。「阿弥」から「病み」に、民間語原の移つて来た事が見える。私の根問ひに弱らされた家の母などは「かつたいや。疳やみやろ」など言うて居た。勿論、母たちにわかる筈はなかつたのである。熊野本宮に湯治に行く病人と言ふ点、おなじく毒酒から出た病ひの俊徳丸に聯想せられる点から、癩病と考へもし、餓鬼と言ふ名から、疳に思ひ寄せた事と思はれる。\n其程「がきやみ」で通つて居たのであつた。此は一つは、此不思議な阿弥号の由来を説く「うわのが原」の段のかたられる事が稀になつた為と思はれる。陰惨な奇蹟劇の気分の陳い纏はりから、朗らかで闊達な新浄瑠璃や芝居に移つて行つたのが、元禄の「人寄せ芸」の特徴であつた。主題としては、本地物からいぶせい因縁物を展開して行つても、態度として段々明るさを増して行つた。此が餓鬼阿弥の具体的な表現を避けた原因である。\n小栗判官主従十一人、横山父子に毒を飼はれて、小栗一人は土葬、家来はすべて屍を焚かれた。この小栗の浄瑠璃の定本とも言ふべきものは、説経正本「をぐり判官」〔享保七年正月板行〕であらうと思ふが、此方は、水谷氏の浄瑠璃の筋書以外に、まだ見て居ない。国書刊行会本の「をぐりの判官」はやゝ遅れて居るらしいが、説経本と筋立ての変りのないものである。或は一つ本の再板か、別な説経座或は其他の浄瑠璃座で刊行した正本なのかも知れない。\nとにかく、国書刊行会本に従うて筋をつぐ。「さても其後、閻魔の庁では」家来十人は娑婆へ戻つてもよいが、小栗は修羅道へ堕さうと言ふ事になる。家来の愁訴で、小栗も十人のものどもと共に、蘇生を許される。魂魄を寓すべき前の世の骸を求めさせると、十一人とも荼毘して屍は残らぬと言ふ。それではと言ふので、十人に懇望して脇立の十王と定めて、小栗一人を蘇生させる事になる。そして其手の平に\n\nこの者を熊野本宮の湯につけてたべ。こなたより薬の湯を出すべし。藤沢の上人へ参る。王宮判。\n\nと書いて、人間界に戻した。藤沢の上人「うわのが原」の塚を過ぎると、塚が二つに割れて、中から餓鬼が一体現れた。物を問うても答へない。手のひらを見ると、閻魔の消息が記してある。それで藤沢寺へ連れ戻つて、餓鬼阿弥陀仏と時衆名をつけて、此を札に書きつけ、土車にうち乗せて「此車を牽く者は、一ひき輓けば千僧供養万僧供養になるべし」と書いた木札を首にかけさせて、擁護人の出来るまでと言ふので、小法師に引かせて、海道を上らせた。此続きがすぐに、照手姫車引きになるのである。\n国書刊行会本の「をぐりの判官」は、此段が著しくもつれてゐるやうである。古い語り物の正本としては、此位の粗漏矛盾はありがちの事ではあるが、肝腎の屍の顛末の前後不揃なのはをかしい。これは、小栗土葬、家来火葬ときめてよい。十王の本縁も其でよくわかるのである。唯、骸がどうなつて居たのか、判然せぬ点がある。\n正本によると\n\n此は扨措き、藤沢の上人は、うわのが原に、鳶鴉かわらふ比立ちよつて見給ふに、古のをぐりの塚二つに割れ......\n\nとあるのだから、小栗の屍が残つて居たと見えるが、鳶鴉に目をつけて見ると「鳶鴉が騒ぐ故」位の意味で、元の屍は収拾する事の出来ぬ程に、四散して居たものとも見られる理由がある。古の小栗の塚と言ふよりも、古の塚の他人の骸を仮りて、魂魄を入れた話を合理化したものと見てもよい。\n其は、小栗の蘇生が尋常の形でなく、魂魄とからだとが融合するまでに回復するのに手間どつてゐる点、おなじ説経正本の「愛護若」でも、愛護若の亡き母が娑婆へ来るのに、骸が残つて居ないので、鼬のむくろを仮りて来る段がある。此他人の骸を仮る点の脱落したらしいのが、小栗の蘇生を複雑に考へさせる。私は小栗説経の古い形は、此であつたのであらうとは思ふが、姑らく正本に従うて説明して行かう。\n四五年前にも一度、小栗判官伝説の解説を書かうとして、柳田先生に餓鬼つきの材料を頂いた事があつて、企ては其まゝになつて居た。前号に先生のお書きになつた「ひだる神の話」を見て、今一度稿を起して見る気になつた。\n私自身も実は、たに(た清音)に憑かれたのではないかと思ふ経験がある。大台个原の東南、宮川の上流加茂助谷での事である。米の字を手の平へ書けば、何でもなかつたのにと、後で木樵りから教へられた。\n「ひだる神の話」に先生は、名義に就て二つの暗示を含めて置かれた様に思ふ。一つはだるがひだるから出てゐると言ふ考へ、今一つは、だにを本義として、虫のだにと一つものとする考へ方とである。此後とも此種の報告が集つて来て、先生の結論を、どう言ふ方面にお誘ひ申すかわからないが、私も此物語に絡んでゐる点だけの小口をほぐさせて頂く。あの室生山の入り口、赤埴仏隆寺のひだる神の事は知らないで居たが、あれを読んで、自分一人思ひ合せる事がある。中学生で居た頃、十八の春の夕、とつぷり暮れてから一人、あの山路を上つて室生へ下りた事がある。腹がすいて居たけれども、あるけなかつた程ではない。室生の村の灯を見かける様になつてから、棚田の脇にかけた水車の落し水を呑んだ。其水の光りはいまだに目に残つてゐる。あの報告を読んでぞつとした。其感銘を辿りながら書いて行く。\n私は餓鬼についての想像を、前提せなければならぬ。餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。\n餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。而も幽霊の腰から下は、一本足を原形とした事を示して居るのではなからうかと思はれる。さうすればやはり、山林を本拠とする精霊なるが故に、おなじ山の妖怪なる一本だゝら或は、片方だけにきまつて草鞋を供へて居る山の神などゝ共通する処があるのではあるまいか。\n餓鬼と言ふと、先入主に囚はれ勝ちになるから、だるの名に沿うて話を進めて行く。私は山野に居る精霊類似のものに、山に入つて還らなくなつた人々の、死霊の畏れが含まれて居るのを認める。だるが憑くと立てなくなるのは、友引きであり、たとひ一粒の食物乃至は米の名を聞かせるだけでも、怨念退散するのは、一種のぬさに当つて居るからである。\n\n 二 ぬさと米と"
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"role": "assistant",
"content": "\n聖徳太子が、傍丘に飢人を見て、着物を脱ぎかけて通られたといふ話は、奈良朝以前既に、実際の民俗と、その伝説化した説話とが並び行はれてゐた事を見せてゐる。而も其信仰は、今尚山村には持ち続けられてゐる。此太子伝の一部は明らかに、後世の袖もぎ神の信仰と一筋のものであると言ふことは知れる。行路死人の屍は、衢・橋つめ、或は家の竈近く埋めた時代もあつた、と思うてよい根拠がある。山野に死んだ屍は、その儘うち棄てゝ置くのであらうが、万葉びとの時代にも、此等の屍に行き触れると、祓へをして通つた痕が、幾多の長歌の上に残つて居る。歌を謡うて慰めた事だけは訣るが、其外の形は知れない。唯太子と同じ方法で着物を蔽うて通り、形式化しては、袖を与へるだけに止めて置いた事もあらうと思ふ。\nみてぐらとぬさとの違ひは此点にある。絵巻物の時代になると、みてぐら・ぬさを混同して、道の神にまでたむけて居る。ぬさは着物を供へる形の固定したものであらう。着物が袖だけになり、更に布になり、布のきれはしになると言ふ風に替つて、段々ぬさ袋の内容は簡単になつて行つたものと思はれる。山の神の手向けとして袖を截つた事もあつたのは「たむけには、つゞりの袖も截るべきに」と言ふ素性法師の歌(古今集)からでも知られる。而も、かうした精霊が自分から衣や袖を欲して請求するものと考へられる様になつて来る。此が袖もぎ神である。道行く人の俄かに躓き、仆れることに由つて、其処に神のあつて、袖を求めて居るものと言ふ風に判ぜられる様になる。壱岐の島などでは、袖とり神の外に草履とり神と言うて、草履を欲する神さへある。袖もぎ神は、形もなく祠もない。目に見えぬものと考へられて来た様である。\nぬさが布帛の方にばかり傾いて来たのは、恐らく古人の布帛を珍重する心が、みてぐらを供へる対象とぬさを献るべき神とを混同させる様にしたからであらう。ぬさの系統には布でないものもあつたのである。植物の枝や、食物までも使はれた。\n植物の枝は着物同様、屍を蔽ふ為に投げかけられたのである。其が花の枝に替つた地方もある。此が柴立て場・花折り阪などの起りである。沖縄の国頭郡にある二个処の恥蔽阪の伝説は、明らかに其を説明して居る。恥処を蔽ふ為ばかりでなく、屍を完全に掩ふために、柴を与へて通つたのが、後世特定の場処に、柴や花をたむける風に固定したのである。\n食物としては、米が多く用ゐられて居るけれども、菓物を投げ与へる事もあつたらしい。桃の実や、櫛・縵の化成した筍・野葡萄の類が悪霊を逐うた神話などは、或種の植物に呪力があると見る以外に、精霊を満悦せしめる食物としての意味を、考へに入れて見ねばならぬ。散飯を呪力あるものとしてばかり考へてゐるが、やはり食物としてゞある。大殿祭にもぬさと米とがうち撒かれるのは、宮殿の精霊に与へるのが本意で、呪力を考へるのは、後の事であらう。すべての精霊のたむけにはぬさと米とを与へる様になつた。其も亦、我々の想像を超越した昔の事であらう。\n野山の精霊が米を悦ぶと言ふ信仰と、現にとり斂められずに在る行路死人とを一続きに考へると、其死因が専ら飢渇の為であり、此原因に迫つて行くのが、其魂魄を和める最上の手段とする事になる訣である。\n天龍の中流と藁科の上流とに挟まれた駿遠の山地を歩いて知つた事は、山中に柴捨て場の多い事で、其が大抵道に沿うた谷の隈と言つた場所にあり、其処で曾て行き斃れるか、すべり落ちて死ぬかした人の供養の為にして通るのだ。さもないと、其怨念が友引きをするからとの説明を聞いたのであつた。\n馬頭観音や、三界万霊塔の類は、皆友引きを防ぐ為に、浮ばれぬ人馬の霊を鎮めたのである。彼等の友引きする理由はどこに在るか。自身陥つた悪い状態に他の者をもひき込んで、心ゆかしにすると見るのは、後世の事であるらしい。さうした畏怖を起す原の姿は、精霊の憑くと言ふ点にある様である。野山の精霊の憑き易い事実を、拠るべき肉体を求める浮ばれぬ魂魄の在るもの、と考へて来るのが順道であらう。一方、非業に斃れた行路の死人を、其骸を欲して入り替つたものと見た。其が更に転じて、友引きと言ふ考へを導いたのであらう。総じてかゝる・つくなど言ふ信仰は、必、其根柢に肉体のない霊魂の観念を横へて居る。此考へ方が熟した結果、永久或は一時游離した霊魂の他の肉体にかゝると言ふ考へを導く。\n小栗の場合は、他人の屍を仮りたとも、自分の不完全になつた骸に拠つて蘇つたとも、どちらにもとれる事は、前に言うたとほりである。\n\n 三 餓鬼つき\n\n正本自体、火葬土葬を問題にしてゐるから、此事も言ひ添へて置きたい。所謂蚩尤伝説は、巨人の遺骸を分割して、復活を防ぐ型のものである。日本では古く、捕鳥部万が屍を分割して梟せられてゐる。平将門は、此までから既に、此型に入るものと見られて来てゐる。此と樹精伝説と謂はれてゐるものとは、一つの原因から出たとは言はれないまでも、考への基礎になつたものは同じである。霊魂或は精霊の拠つて復活すべき身がらを、一つは分けて揃はない様にし、一つは焼いて根だやしにして了ふのである。日本の風葬も奈良以前のものは、必しも火葬の後、灰を撒いたともきまらぬ様である。「まく」と言ふ語は、灰を撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷らせる意であつたものが(任くの一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義をも含む事になつたのであらう。\n\n秋津野を人のかくれば、朝蒔君が思ほえて、歎きはやまず(万葉巻七)\nたまづさの妹は珠かも。あしびきの清き山辺に 蒔散染(?)\n\nなどは、風葬とも限られない。\n\n鏡なすわが見し君を。あばの野の花橘の珠に、拾ひつ(万葉巻七)\n\nなども、火葬の骨あげとはきまらない。「ひろふ」と言ふ語に、解体して更に其骨を集める事を含んで居るのかと思ふ。勿論火葬は、既に一部では行はれて居たであらう。が、私はわが国の殯の風を洗骨に由来するものと考へて居る。今も佐賀県鹿島町の辺に、洗骨を行ふ村がある位である。南島と筋を引く古代人の間に、此風がなかつたものとも思はれない。併し、洗骨の事実を「珠に拾ひつ」と言うたと考へられないであらう。洗骨はやはり、復活を防ぐ手段なのであつた。何にしても日本の蚩尤伝説は、其が固定して後までも、実際民俗は解体散葬の方法を伝へて居たものと考へるのが、ほんとうであらう。\n家来は火葬で蘇生の途を失ひ、小栗は土葬の為に、復活して来た。が、此物語の中には、肝腎の部分なる屍の不揃であつた、と言ふ点を落して居るらしい。斂葬に当つて、必体のある一部を抜きとつて置いたのが、散葬によらぬ場合の秘法であつて、其が Life-index の伝説形式を形づくる一部の原因になつたものらしい。小栗の、耳も聞かず、口も働かず、現し心もない間の「餓鬼阿弥」の生活は、此側から見ねば訣らないと思ふ。\n鬼に、姿見えぬ人にせられた男が、不動火界呪によつて、再、形を顕したと言ふ六角堂霊験を伝へた今昔物語の話は、我が国には珍らしい型であるが、飜訳種とばかりはきまらない。よしさうであつたにしても、小栗の場合の今一つ残つた部分の説明には、役に立ち相である。\n蘇生の条件の不備であつた屍の説明から、もう一歩踏み込んで見なければならぬのは、元来屍を持たない精霊の、肉身を獲る場合である。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"content": " それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らはまだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書が京都から届いた。それは陸奥陽之助が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来日置帯刀に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認めてある。宇和島少将(伊達宗城)の花押まである。\n その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、\n「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」\n パアクスも大きく出た。\n その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷を打ち懲らしたものとして、むしろお褒めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期に及んでもなお助命の沙汰を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。\n 四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎りが日々両三名ずつ問屋場へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂天保山の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。\n どうやら二月半ばの海も凪だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行山口駿河が老中松平伯耆を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。\n\n\n 大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言(忠順)は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城)はその副総督として。\n 次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。\n その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆尻込みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。\n 人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。\n そのうちに、公使らの安治川着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。\n\n\n 各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子を着けた子坊主は高坏で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。\n 寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶があった。それは日本の政体の復古した事、帝自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。\n 通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟いを立てようとの思し召しである。不日上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁することがかなわないならすみやかに浪華の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。\n ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。\n「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」\n\n\n 滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。"
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"content": " これには通禧も驚かされた。早速京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思し召すがいいと申し上げた。\n もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。\n\n\n 東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州の御隠居や越前の松平春嶽を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸東叡山の寛永寺にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。\n 大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。\n やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事醍醐忠順、宇和島伊予守、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。\n その晩、通禧らは何よりの土産を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。\n 中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、\n「さあ、これです。」\n と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。\n「ボン。」\n ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。\n 晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖を引いて、\n「東久世さん、わたしはこういうところで馳走になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」\n「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」\n 通禧の挨拶だ。\n 配膳の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴のように動かせる箸のかわりに、獣の爪のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙と、きれいに磨いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口拭きを折り畳んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯の代わりだ。\n カションはもてなし顔に言った。\n「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」\n 給仕人が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。\n しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人立ち、二人立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。\n\n\n 泉州、堺港の旭茶屋に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐の家中のものに襲われたとの報知である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"content": "「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」\n 千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。\n「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法だからな。しかし、そう心配したもんでもないでしょう。」\n「まア、いやな方。」\n 千鶴子の顔の染まるのをいくらか嫉妬めく心で久慈は見ていた。彼には誰が誰とどんなになろうと、そうなればなっただけパリ生活の深まりを見る思いに染まっていたときとて、千鶴子のとやこうと気遣う気持ちも、渦中に吸い込まれる花弁を見るようにまたそれも楽しみの一つだと思った。しかし、今日は千鶴子はどういうものかいつもより久慈には美しく見えてならなかった。\n「久慈さんはほんとにお変りになったのね。何んだかあなたは、いけない変り方をなすったように思うわ。」\n「矢代だってそうだよ。あんなに変えたのは君の責任も大いにあるね。このパリに来ていながらわざわざファッショになるというのは、だんだん日本人の君ばかりが眼について来たからだよ。世界が千鶴子さんばかりに見えて来てるんだね。早くもう矢代をつれて、あなた帰ってしまいなさいよ。あの男は堕落した。」\n 千鶴子の喜びそうな一点を見つけてそこへ捻じ込むような無理な久慈の攻撃も、千鶴子にはもう戯れのように見えるらしかった。\n「ファッショだなんて、そんな――立派な方が真面目に考えてらっしゃることを、そんな不真面目な言葉で片附けておしまいになるもんじゃないわ。もし間違いにしたって、それや苦しんでらっしゃるにちがいないんですもの。あなたの方があたし、よほどファッショに見えてよ。」\n「何んだ。君はもうそんなに溺れてるのか。」\n と久慈は云うと突然空を仰いで笑った。\n「何んでもあなたはそういう風儀に、物を解釈なさるのね。ほんとに意地悪よ。」\n しかし、久慈は千鶴子が矢代をファッショと云うことに同意せず、却って自分の方をファッショに見たということには、無下に彼女を無知として排斥するわけにはいかなかった。たとい自分が冗談に云ったとしても、千鶴子にたしなめられたことは、考えれば久慈も痛さを感じるのだった。\n「僕の方がファッショか。まア、それは一応よく僕も考えよう。」\n 久慈は窓から引っ込み寝台の上へ仰向きに手枕のまま天井を眺めた。\n「だってそうじゃありませんか。矢代さんのような知識のある方が、ファッショになんかなれば、日本へ帰れば誰も相手にしなくなること定ってるんですもの。そんな損なことだとはっきり分っていることでも、どうしてもその方が正しいと思われたのなら、あたしそれで美しいと思うわ。誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」\n 久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。\n「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」\n こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。\n「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」\n「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」\n「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」\n と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。\n\n\n 久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ強い光線に久慈は眼を閉じた。鼻さきの小窓の中に組合わされた刃物の巧緻な花の静まっているのを、わけもなくじっと眺めている千鶴子に近づき、久慈はもう何んの感動もしない自分の若い心の老い込みを、これはどうしたものだろうとふと思った。\n「もう君は日本へ帰ったって君の考えは通用しない。」\n と先夜東野に云われたことを急にまた久慈は思い出した。そうだ、これはもう通用しないぞと久慈は突然冷水を打たれたような寒さであたりの街を眺めた。停っているトラックのタイヤの凹んだ部分にめり傾いている車体が、均衡ある風景の中から意味ありげに久慈の視線を牽きつけて放さなかった。\n「こんなに静かな街の中でも、人の頭の中には暴風が吹きまくっているんだから、おかしなものだなア。」"
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"role": "assistant",
"content": " と久慈は呟きながらリラの方へまた歩いた。\n「もう戦争さえ起らなければどんなことにでも賛成するって、ホテルのお婆さんあたしに云ってたわ。そのお婆さんは面白いのよ。あたし何も訊きもしないのに、あなたはここをパリだと思っちゃ間違いだ。こんなパリはない。もうパリは無くなったっていうのよ。よほど前は良かったらしいのね。何んでもヨーロッパ大戦のとき、アメリカの軍隊がここへ駐屯してから、すっかりもうパリは駄目になったっていうの。どうしてでしょう。」\n「それや、老人は思い出だけで生きているからだ。これはこれでまた充分に意義はあると思うな。」\n 突然一本の煙突から吹きあがって来た雀の群れを眺めて久慈は云った。リラの前の広場へ来たとき、彼はそこで買った二枚の新聞を丸め、ある建物を指差した。\n「去年だか、あそこの建物の会館へゴルキイが来て講演をしたことがあるんだが、群衆がこの広場いっぱいに集ったら、突然警官隊が騎馬で殺到して来て群衆を蹴散らして、一人も講演を聴かせなかったというね。そのときは恐かったそうだ。今年の巴里祭はもう一層凄いということだが、あなたもそれまでいなさいよ。何事が起るかこの様子じゃもう分んない。昨日は罷業の会社がもう三百になっているんだもの。重要な会社が三百も閉鎖したなら、それやもう革命も同じだからな、右翼の火の十字団はもう決死だ。何んでもドイツの右翼と手を握り出したというから、もう僕らには訳が分らない。」\n「じゃ、もうここは国と国との戦争は起らないのね。」\n 何ぜそんなになるのだと問いたげな千鶴子の視線に、久慈は黙ってリラのテラスの椅子に腰かけると買った新聞を開けてみた。すると、「あッ。」とかすかに云って、彼は紙面に首を突っ込んだまま一心に新聞のトップを読み始めた。そこには大きく、「日華の戦争起る。」と題して一面に書かれていた。「蒙古と広東で日華戦争が起ってるんだが、大げさに書いてあるにしても、こんなに新聞のトップ一面ということは今までになかった。」\n 久慈はまた別のを見ると、その新聞にも日華戦争と題してトップを大きく占めていた。二人は頒けた新聞を黙って読んだ。今までとて日本と中国の危機を報じた見出しが毎日のようにあっても、いつも片隅の事件として小さな取扱いを受けていた。虚報や臆測の多い記事に馴れているとはいえ、二つの新聞の主調色をなして片隅から競りのぼって来ているこの紙上の事件は、事実の誇張としても誇張せられるだけの何事かあるに相違ない。\n「しかし、これはこっちのストライキを鎮める手段か、それとも本当かまだ怪しいね。明日あたり分るだろう。」\n と久慈は云った。戦争が起ればすぐ帰らねばならぬ。帰って何をするか分らぬながらも、帰らねばならぬことだけは確かなことだった。ルクサンブールの公園から続いて来ているマロニエの並木が、広場の左方の建物の間に青葉を揃えて自然の色を見せている。岩石の峡谷の底に湛えられた水を見る思いで、久慈はその樹の流れを見ていると、ふと前に見たトラックの車体の重力が凹んだ一輪のタイヤに向って傾いた風景を思い出した。張力の一番薄弱な部分に戦争が起るという戦争の原理が事実なら、あるいは中国で遠からず戦争が起るだろう。\n「あたし、今夜塩野さんに訊ねとくわ。あの方外務省のお仕事してらっしゃるから、一番そんなことよく御存知だと思うの。去年だったかしら、ユーゴスラビアの皇帝がマルセーユで暗殺なされた事があったでしょう。あのときも大使館で書記官が調べ物をしてたんですって、そうしたところが、そこへ電話がかかって来たものだから、いきなり調べ物の大きな書類を床の上へ叩きつけて、いよいよヨーロッパ大戦だ。もうこんな物なんかいらんッ、と呶鳴ったんですって。何んかそれで皆さん大笑いしてらしたことあってよ。」\n「今日もこれでだいぶ書類を叩きつけた者がいるだろうな。」\n と久慈は云って、自分も確に周章者のその一人だったとひそかに苦笑をもらすのだった。すると、戦争が起ったということなど全く嘘のようにまた彼は落ちつけた。\n ボーイがテラスへ来たので千鶴子はショコラを註文した。二十年前に藤村が毎日ここへ来ていたというので千鶴子はこのリラが好きだった。ここのカフェーはどこよりもボーイの廻りがのろくさとして遅かったが、それが一つはむかしの全盛をしのぶよすがとなり旅人にのどかな気持ちを与えた。海老茶色の革で室内をめぐらせてあるソファーもすでに弾力がゆるんでいたが、それでもまだ質の良い革やバネは、べこべこの日本のカフェーのものとは比較にならなかった。来ている客も老人が多くコーヒーに入れた砂糖の溶ける音までよく聞えた。しかし、何んと云ってもここはもう衰えるばかりだった。\n「文明は西へ西へと行くという学説があるけれども、もう文明は大西洋を渡ったのかもしれないね。あるいは今ごろはアメリカを通り越して、太平洋の真ん中でうろついている最中かもしれないぞ。幽霊は海の中だ。」\n 罷業がつづいてからというもの、外国銀行へ流れ出す急激な金の速度にうろたえたフランス政府の顔色を憶い、久慈はそう云ったのだが、千鶴子も丁度『幽霊西へ行く』という映画で、ヨーロッパの精神が幽霊となり、物質文明とともに大西洋の海を渡ってゆく諷刺劇をサンゼリゼで観た後だった。\n「じゃ、幽霊が空虚になっていなくなったからストライキ起って来たのかしら。何んでもお砂糖も明日から買えないってことよ。水道と発電所とを軍隊が守っているので、それだけはどうやら無事なんですって。」\n ボーイがショコラを持って傍へ来たとき、砂糖はまだ買うことが出来るのかと久慈が訊ねてみると、自分の家は買溜がしてあるから当分は大丈夫だと答えた。\n 久慈はここでの先ず何よりの自分の勉強は、この完璧な伝統の美を持つ都会に働きかける左翼の思想が、どれほど日本と違う作用と結果を齎すものか、フラスコの中へ滴り落ちる酸液を舐めるように見詰めることだと思った。すると、そのボーイの無愛相なのろさまで、今に自分たちもここの家の火を消すのだと云っている顔に見えて来た。組合の発達しているフランスであるから、労働者はみなそれぞれどこかの組合に這入っている。その組合のあらゆる層が漸次に連繋をとって動き出し、賃金の値上げと休日の増加と、労働時間の短縮の三つをかかげて要求を迫り始めた罷業である。農民を除いたこの全面的な生産部門の活動の結果が、街にあらわれた休業状態の姿であるから、僅かな利子のやりくりでその日をつないでいる多くの会社はばたばたと潰れていく。その会社に属している労働者は失業していく。生産品が無くなりつつあるから物価があがる一方である。労働者が賃金を増加してもらっても物価がそれを追い越して高まるうえに、莫大な金銭を落していく外国からの旅行者はみな逃げていく。危険と見てとった自国の資本家も外国銀行へ預金を変えるに随い、フランの値段が均衡を失って下落していく。\n しかし、そのような悪結果は総て初めから分っていたのだと久慈は思った。その分っていたことをやり出さねばいられぬもの、その正体はいったい何んだろう。自分の行為の結果の予想を一つ間違えば、すべてが悪結果の連続になってゆくという現実の将棊で、今やフランスという文明の盤面上の駒はその悪結果を知りつつ、駒自身が盤面もろとも自滅してゆく目的に向って急ごうとしている、ある意志に似た傾斜を久慈は感じるのだった。\n しかし、それもいったい何んのためだ。\n\n\n 久慈は千鶴子と別れた後でいつも行きつけのカフェーへ行った。そこへは矢代と真紀子とが来ている筈だったがまだ二人は見えなかった。顔馴染の外人らは久慈にみな日華の戦争の起っていることを報らせ、どうだ少し日本が負けているようだが大丈夫かと心配そうに訊ねた。\n「いや、あれはみな嘘だ。」\n と久慈は答えた。しかし日華の日ごろの関係も知らぬ外人の心にさえ、そんなにこの日のニュースは大きく響いているのかと思うと、事実の当否以外に、響きの方が事実となって、何事か次の芝居の人心を動かしていく瞬間の偽りを久慈は感じた。そして、それがつまりは歴史となって世の中の表面に氾濫しつつ進んでいくということも。――\n 外人たちの中に混りいつもテラスに来ている李成栄という中国の画家は、特別にこの日は誰よりも大きく久慈の視線の中で幅を占めて見えた。李も久慈と視線を合す度びに視界に一点邪魔者がいるという顔つきで、煙そうに横を見て、先夜柳田国男の日本伝説集を読んでいたドイツの青年と話した。久慈と李はどちらも悪意を持つ理由がなくとも、ただ単に視線を合したことで、悪意に似た抵抗が頭の中に生じるある微妙な事実は争われず二人の間で起っていた。すると、そのとき二台連って疾走して来た無蓋自動車から、罷業の委員たちであろう、皆それぞれ熱した顔で固めた拳を空に上げ、「フロンポピュレール」(人民戦線)とこんなにテラスの前で叫びながら過ぎ去った。日日変らずに起っているこのようなことも、今日は云い合したような眼まぐるしい渦巻きを久慈の胸中に呼び醒した。\n「今夜は支那飯店へ乗り込んで見よう。どういう気持ちでいるものか一つ見よう。」\n とこう久慈は考えると、出来るなら李とも話して彼らの意見を訊いてみたいと思った。しかし、それにしても、何んと考えることの多過ぎる時代になって来たものだろう。それにも拘らず自分はまだ何も知らぬ。このパリ一つでさえが、眼に触れるもののすべての面に底知れぬ伝統の深さが連なりわたって静まっている。それも必死に苦しんだ人間の脳の襞が、法則を積み重ねた頁岩のように層層として視線のゆく所にあった。過去を知ることが現在を知ることにちがいないなら、およそ自分は現在さえも知らぬのだ。それなら、ここの未来はどんなにして知ることが出来るだろう。――"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"content": " せつ子は長平のように浮いた気持にはなれなかった。\n「お供はつらいのよ。社でアクセクしてるときは、なんとでもしてお金が欲しいと思うけど、ダメなのね。でも、つとめるのよ。今日までは、おッぽりだして来たことなんかなかったのだけど、ふらふら、とびだしちゃった。もっと娼婦になりきれる方が、立派なんでしょうね」\n「そんなことは、クヨクヨ考えることじゃアないね」\n「そう。立派だなんて、おかしいわね。誰かに、ほめられたいみたい。でも、そんな気持も、あるのよ」\n「社長だものな」\n「そうなのよ。社長でなければ、乞食になるのよ。そして、生きてるわ。今日は乞食の方の気持よ。微風の訪れでもなかったの」\n せつ子は胃が悪いから、酒をのむといけないのだと云いながら、かなり飲んだ。そしてテキメンに苦しみはじめた。長平が知人の医者へつれこむと、医者は顔をくもらせて、酒をのむと、ひどいことになるかも知れない、とせつ子を叱責するようにつぶやいた。\n せつ子は黙って、医者を見つめていた。顔色を微動もさせずに。そして、自動車をよんで大阪へ戻った。\n\n 五\n\n 長平は上京した。\n その日の夜中に長平の住む茶室の戸をたたいたのは青木であった。\n「そろそろ隠れ家を変えなきゃいけないぜ。ここは拙者につきとめられているんだから、アイビキなぞには不都合だし、第一、タカリが怖しいやね」\n 青木は遠慮なく上りこんで、\n「とんだ合邦さね。やってきたのは娘じゃなくて、ジジイなんだとさ。ヤ、コンバンハ」\n いくらか酔っているようであった。どっかとアグラをかいて、\n「いずれ呼びだしをうけて、お叱りを蒙るんだろうから、手間を省きにきたのさ。え?」\n 長平の顔をのぞきこんだ。\n 長平はウイスキーをとりだした。彼は夜中や暁方にウイスキーをのんで、うたたねする習慣であった。一日に何回もうたたねするが、まとめてねむるのは一週に一回ぐらいのものであった。\n「君に会う必要もないと思っていたのだが」\n 青木にウイスキーをつぎ、自分ものんでから、言った。その落付きが癪にさわったらしく、青木はジリジリして、\n「ハア。そうですか。何等親だか知らないが、君の何かに当ろうというこのオジサンにね。会いたくないのかい?」\n 青木は自分の言葉に含まれた毒気に興奮して、目をギラギラ光らせた。長平はそれをそらして、\n「君は何かぼくに言いたいことがあるのじゃないか。言うだけ、言ってしまえよ」\n「言うだけ言ったら、どうするのさ」\n「ねむるよ」\n「相変らず、自分の都合だけ考えている人だね。なんと言ったら、気がすむのかね。ワタクシが記代子嬢を誘惑しました、と言ったらいいのかい?」\n「おい、よせよ。法廷とちがうのだ。だから、なにも、きいてやしないじゃないか。言いたいことだけ、言うがいいや。さもなきゃ、帰りたまえ」\n「なア、長さんや。君は、ぼくがどうしたらいいと思う。子供が生れるんだぜ。ぼくは、どうしたら、いいのさ」\n「君はどうしたいのだ」\n「それが分らないんだよ。なア、長さん。オレをあわれんでくれよ。どうしていいのか、わからん男を。なア。いい年をして」\n 記代子が青木にニンシンをうちあけたのは、伊豆の温泉宿だった。\n「あなた、まだ、本当に、子供なかったの」\n「本当になかったよ」\n「子供、ほしい?」\n 青木は答えることができなかった。自分の都合は問題ではない。自分のために子を生む記代子をあわれんだのだ。\n「君は、欲しいのかい?」\n「あなたは?」\n 青木は記代子が後悔していないことを知った。どこに拠りどころがあるのだろうか。人生の敗残者、五十のおいぼれの子を宿して。その無邪気さが、あわれであった。\n しかし、青木が答えに窮していると、記代子は青木の顔を見つめて、\n「殺しちゃう?」\n 彼は記代子の目に追いつめられて、うろたえたのだ。あの目を青木は忘れることができないのだ。何を語っている目だろうか。\n 子を殺す、生む、それだけのことではないのだ。暗い一生をあゆむたった一つの小さい窓。あんな目にさせたのが自分だと思うと、たまらなかった。\n\n 六\n\n「なア、長さんや。恋愛だの、結婚だのッて、太平楽なもんだと思うよ。記代子さんて人は、その太平楽な身分に似合った人なんだね。ところが、ぼくとのことで、そうじゃない立場に落ちたわけだね。それを記代子さんは知ってるんだよ。本能的にね。恋愛だの結婚だのという太平楽なものと戦争状態の立場になってしまったという現実をさ。彼女は襟首をつかまえられているよ。運命というものにね。そして、ただ決意を要求されているんだ。それがあの人の目にでているのさ。ほかにでやしないや。だって、どこにもギリギリの決意なんて、ありゃしないものな。あるのは特攻隊みたいな切なさだけなんだ。それを見るぼくは、うろたえますよ。ねえ。だって、悲しくなるじゃないか」\n「気分的なことは、どうだって、いいじゃないか。もっと実際的にさばく手段をさがしたらどうだろうね」\n「大人ぶったことを言いなさんな。実際的にさばくッたって、根は気分が心棒じゃないか」\n「ほんとかい? とつぜん行動するとき、気分をふりすてるもんじゃないのか。まるで気分と似つかぬことをやるもんじゃないのか。気分屋は、特にそうだぜ」\n「それは、まるで、愛情にひきずられるな、というみたいだね。あわれんでも、いとしがっても、ムダなのかな」\n 青木はつぶやいた。そして、全身に敵意がこもった。\n「わかったよ。長平さん。そして、ぼくは安心したよ。大庭長平という人は、自分勝手すぎるぜ。あなたは、自分の姪が、どうなっても構わない自分だけの人なんだ。たとえば、子をだいて、男にすてられようと、どうなろうとね。ねえ、長平さんや。ぼくはあなたにヒケメを感じていたんだ。記代子さんのようなウブで世間知らずの可愛い娘を、ぼくのようなオイボレ敗残者がいつまでも自分のものにしておくというイタマシサについてね。しかし、今はそうじゃない。あなたのような冷めたい人にくらべれば、ぼくの方がどれぐらいあの人の親身の友であるか知れないんだ。ぼくはもう、安心して、あの人を誰の手にもやらないよ。愛すことも、すてることも、ぼくの自由だ。いずれにせよあなたにくらべて、ぼくの胸に愛情がこもっているのだから」\n 長平は返事をしなかった。ウイスキーを青木にさした。\n「まア、のめよ」\n「そろそろ、帰るとしよう」\n「オレがどういう人間であろうと、オレのことが記代子を愛す愛さないの標準になるてえのは、どういうわけだね。君は、まるで落付いていないな」\n「だからさ。全然、とりみだしでいるんだよ」\n「オレは、まったく、記代子がどうなろうと構わないと思っているよ。君にすてられようと、愛されようと、それで記代子の一生が終るわけではなしね。どっちへどうなろうと、その又次にも、何かがあるものだよ。事がなければ幸せだというわけでもなしさ。亭主が立身しようと、貧乏しようと、そこに女の幸福の鍵があるわけでもなし、さ。幸福の鍵なんてものは、もし有るとすれば、一つしかないものだ。いつも現実の傷を手当てしろ。傷口をできるだけ小さく食いとめ、痛みを早く治せ。それだけの対症療法があるだけさ。君は、何か、手当てについて、考えたり、やってみたり、したかい?」\n\n 七\n\n「君は太平楽な人さ」\n 青木はしみじみ呟いた。\n「対症療法だって、人間はみんな患者さ。すくなくとも、ぼくたちは、そうだぜ。みんな、とりみだしているだけなんだ。医者じゃないんだから、手当の仕様が分りゃしないじゃないか。この夜更けに君に会いにきたのだって、いわば手当の法を教えてもらいたいと思ったからだぜ。自分流儀じゃ、化膿してゆくばかりだからな」\n 青木は涙をまぎらすような力のない笑い声をたてた。\n 青木は今度のことについて、事の起りはどうあろうとも、責任を感じていた。それは年齢を考えてみれば、当然のことだ。\n 一つにはヤケクソの気持があった。自分と長平との行きがかりから、こッちだって構うものかという気持がはたらいていたことは否めない。それをつとめて自制してきたことに多少の誇りはあるけれども、結局それがはたらいているのである。\n 長平がそこを怒っているだろうと青木は考えていたのである。そこを怒られるのは、つらくもあるし、いくらか気のはれることでもあった。そして、怒られることによって、心が洗われ、二人の魂がふれ合うこともできるような、ひそかな愛情を感じてもいたのだ。恩讐の彼方に、という甘い友情に飢えていたのである。\n 長年の仇敵がすべてを忘れて粗茶をくみ交し、四方山話にひたる。いかにも世捨人の慾のない交情を空想しているような甘さもあった。\n すべての空想は当て外れだ。長平は内々怒っているかも知れないが、彼が怒られるだろうと思ったところは、問題にしていないのだ。それは淡々として心が枯れているから、というようなせいではないのだ。\n なんて毒々しい男だろうと青木は思った。人間の毒気という毒気をすべて身につけているための、そして、あらゆる毒の上にアグラをかいているための落付きであり無上の寛容さであった。\n 世捨人などとは以ての外の話である。およそ慾念のかたまりで、人生を毒と見ている鬼畜なのだ。\n 青木は自分と長平との余り大きな距りに組み伏せられたようであった。共に通じ合う余地はなかった。避けて遠ざかるか、縋って甘えるか、どちらかしかないようだ。\n なんて傲慢な悪党だろう。青木はそう思う一方に、わが罪の切なさに、涙があふれてくるのであった。\n「ねえ、長さんよ。どうしたら、いいのよ」\n 青木はむせる涙に苦しんで、ころがって、頭をかかえた。涙のかわくのを待って、身を起して、\n「ぼくは野たれ死んでも構わないし、自殺すりゃ、すむことなんだ。記代子さんを助けてやってくれよ。オレなんか、どうなったって、いいんだから。な。たのむよ」\n「助かるッて、どうなることなんだい」"
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"content": " 静かな返事に、青木は目をまるくしたが、はげしい絶望に盲いて、\n「なに言ってるんだ、君は! 君はハラワタからの悪党だね!」\n「君の善意は分るんだよ。ぼくが悪党であることも、まちがいはないね。ただ、泣くのは止した方がいいぜ。涙から結論をかりてくるのも良くない。もっと静かな方がいいぜ。他人のことを処理するように、自分のことだって処理できるものだよ」\n\n 八\n\n 青木はしばらく考えていたが、首を横にふって、\n「いや、ダメだ。ぼくは、いつも、それでやられるんだ。君はいかにも、ぼくの心を言い当てたり、それに同感してみせるようなことを言うね。それは易者が妄者の迷いを言い当てるのに良く似ているね。迷いの最大公約数みたいなものを、言いきるわけさ。そして輪をちゞめていくんだ。もっとも、易者との相似は君だけじゃアないがね。日本のインテリ一般の会話のコツかも知れないな。まるで謎々の遊戯みたいなものさね。ねえ。長さんや。易者ごッこはよしましょうや。なア。あなた。ハッキリ、答えてくれたまえよ。ぼくは記代子さんと結婚するぜ。それで、いいのかね」\n「ぼくの返答をかりて、やる必要はなかろうさ」\n「そうかい。わかった」\n「まア、のみたまえ」\n「もう、帰るよ」\n「乗物がないぜ」\n「夏はどこででも野宿ができるものさ」\n「記代子も変な子だね。なんだって、君なんかが好きになったんだろうね。変な夢を見る奴さ」\n「ふん。夢を、ね」\n「ぼくは、ねるぜ。君、勝手にのんで、勝手に、ねたまえ」\n 長平はタタミの上へころがって枕を当てた。\n「君はフトンをしかないのか」\n「そう。夏はね。たまに、グッスリねむるときだけ、フトンをしくのさ」\n「じゃア、失敬するよ」\n「そうかい」\n「君とねたかアないからな。目がさめて、大坊主のねぼけ顔を見るなんざア、やりきれやしないからな。君は、今日、記代子さんに会ったろうね」\n「会わん」\n「なぜ」\n「ぼくが上京するてんで、会社を休んだそうじゃないか」\n「......」\n 青木は顔色を変えた。思い直して、\n「じゃア、帰ろう。このウイスキー、くれないかね。夜明けまで、どこかの焼跡でのんでるんだよ」\n「もってきたまえ」\n「記代子さんもオレみたいなことをやってるんじゃないかね。会社を休んで、行くところなんか、ありゃしないと思うんだがな」\n「心配することはないだろう」\n「そうかい。じゃア、失敬」\n 青木はウイスキーのビンをぶらさげて、茶室をはなれた。\n その日、記代子が会社を休んだことは知っていた。長平の上京の日だから、迎えに行ったのだろうと思っていたのだ。\n どこをさまよっているのだろう。\n しかし、みんなバカげていると青木は思い直した。長平なんかが、もっともらしく悪党ぶるのは滑稽でもある。オレの本心は全然動揺してやしないのだ。ただオレの影がゆれているだけ。甘えてみせたり、苦しんでみせたり。みんな影法師の念仏踊りのようなものだ。\n まさしく演技者には相違ないが、そう考えてみたところで、とりわけユトリがあるわけでもなし、優越を納得することができるわけでもない。\n「今に、なんとかなる。何かに、ぶつかるだろう。そして、ぶちのめされてみたいのさ」\n 彼は苦笑して自分に言いきかせた。\n\n\n 失踪\n\n\n 一\n\n 記代子は長平の上京した金曜日から、会社にも姿を見せなかったし、下宿している遠縁の人の家にも戻らなかった。\n 失踪がハッキリしたのは月曜日である。すねるのも程々だと、せつ子が宿先へ使いの者をやってみると、金曜以来、宿にも戻らぬことがわかった。\n 記代子の外泊がめッきりふえて、宿先ではなれていたし、ちょうど土日曜にかかっていたので、不審を起さなかったのである。\n 放二は社長室へよびつけられて、せつ子から記代子の失踪をしらされた。長平が部屋に来合わせていた。\n「あなたの独力で、かならず探しだしていらッしゃい。誰に負けてもいけません。たとえ、警察にも、探偵にも。かならず、あなたが見つけなければいけないのよ」\n と、せつ子は命令した。\n「このことは私たちのほかに、穂積さん、青木さんが知ってるだけです。ですから、行方を探すにしても、記代子さんの行方不明を人に気付かせてはいけません。たとえば、記代子さんのお友だちのところへ訊きに行ったとしますね。記代子さんが行方不明ですけど、なんて言っちゃダメなのよ。記代子さんに急用ができたんですけど、記代子さんがあいにく会社をサボッてとか、定休日でとか、そんな風に言うのよ。わかりましたね」\n かんで、ふくめるようである。\n「それから」\n と、せつ子は放二をジッと見つめて、\n「なぜ記代子さんが失踪したか、それを考えてはいけません。あなたの役目は記代子さんを探しだすことなんです。失踪の原因を探索するのは、あなたの役目ではないのです。妙な噂がありましたから、あなたも薄々きき知って、いろいろ推量していらッしゃるかも知れませんが、あなたの推量は、全部まちがいよ。噂は全部デタラメなんです。あなたは人の噂など気にかけませんね?」\n 放二はかるくうなずいた。\n「人間て、どうして人のことを、あれこれと、憶測したがるのでしょうね。自分のことだけ考えていればいいのに」\n せつ子は退屈しきった様子で、そう呟いたが、机上から一通の封書をとりあげて、\n「これは大庭先生が記代さんの下宿の人に差上げるお手紙。この中には、あなたのことが書いてあるのです。記代子さんのお部屋の捜査をあなたに命じたから、部屋へあげて自由に探させてあげて下さい、ということが書いてあります。あなたは記代子さんのお部屋に行先を知らせるような何かゞないか探すのです。又、お友だちの住所とか、捜査の手がかりになりそうなものを見つけてらッしゃい。意外な事実を発見しても、捜査がすんだら、忘れなくてはいけません。記代子さんが失踪したことも、忘れなくてはいけません」\n 放二はアッサリうなずいた。長平は笑いだした。\n「ずいぶん器用なことを命令したり、ひきうけたりするもんじゃないか」\n 放二も笑ったが、\n「むしろ、いっと簡単なことなんです」\n「ふ。君はそんな器用な特技があるのかい」\n 放二はそれには答えなかった。\n「では、行って参ります」\n「手がかりになりそうなものがあったら、明日、会社へ持ってらしてね。記代子さんが見つかるまでは、会社の仕事はよろしいのです。穂積さんに言ってありますから。記代子さんを探すのが、あなたのお仕事よ」\n 放二はうなずいて去った。\n\n 二\n\n 放二は記代子の部屋をさがした。\n 室内を一目見たとき、記代子の覚悟のようなものが感じられでハッとした。部屋がキレイに整頓されていたからである。\n「イエ、私がお掃除しましたの」\n と、下宿の人は、事もなげに云った。\n「おでかけのあとは、毎日々々、それは大変な散らかしようですよ。おフトンだけは自分で押入へ投げこんでいらッしゃいますけどね。ホラ」\n 押入をあけてみせた。くずれて下へ落ちそうだ。よくたたみもせずに投げこんである。放二は自分の万年床を思いだして、男女の差の尺度はこの程度かと、おかしくなった。"
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"role": "user",
"content": "「淋しくつて不可ないから、又来て頂戴」と云つた。下女はまだ裏で張物をしてゐた。\n 表へ出た代助は、ふら〳〵と一丁程歩いた。好い所で切り上げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼の心にはさう云ふ満足が些とも無かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命ずるが儘に、話し尽して帰れば可かつたといふ後悔もなかつた。彼は、彼所で切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、此前逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出した。代助は二人の過去を順次に溯ぼつて見て、いづれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其重量の為に、足がふらついた。家に帰つた時、門野が、\n「大変顔の色が悪い様ですね、何うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行つて、蒼い額から奇麗に汗を拭き取つた。さうして、長く延び過ぎた髪を冷水に浸した。\n それから二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乗つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の為に充分話をする決心であつた。給仕に名刺を渡して、埃だらけの受付に待つてゐる間、彼はしばしば袂から手帛を出して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接間へ案内された。其所は風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であつた。代助は此所で烟草を一本吹かした。編輯室と書いた戸口が始終開いて、人が出たり這入つたりした。代助の逢ひに来た平岡も其戸口から現はれた。先達て見た夏服を着て、相変らず奇麗な襟とカフスを掛けてゐた。忙しさうに、\n「やあ、暫く」と云つて代助の前に立つた。代助も相手に唆かされた様に立ち上がつた。二人は立ちながら一寸話をした。丁度編輯のいそがしい時で緩くり何うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出して見て、\n「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、夫でも涼しい風が吹いた。\n 代助はあてもなく、其所いらを逍遥いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話を切り出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為に外ならなかつた。けれども、夫が為に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はなかつた。代助は三千代と相対づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を有たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風に捲き込まれた冒険の働きであつた。其所に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫に気が付いてゐなかつた。一時間の後彼は又編輯室の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。\n\n十三の六\n\n 裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立つて或家に這入つた。座敷の軒に釣忍が懸つて、狭い庭が水で一面に濡れてゐた。平岡は上衣を脱いで、すぐ胡坐をかいた。代助は左程暑いとも思はなかつた。団扇は手にした丈で済んだ。\n 会話は新聞社内の有様から始まつた。平岡は忙しい様で却つて楽な商買で好いと云つた。其語気には別に負惜みの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、今日の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な頭を要するものはないと云ふ理由を説明した。\n「成程たゞ筆が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は斯う云つた。\n「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が挙がつてゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」\n 代助は自分の平生の観察から、斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。\n「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。\n「無論嘘は書かない積だ」\n「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」\n 平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、\n「日糖事件丈ぢや物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日何頭かづつ、納めて置いては、夜になると、そつと行つて偸み出して来た。さうして、知らぬ顔をして、翌日同じ牛を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又偸み出した。のみならず、それを平気に翌日連れて行つたので、とう〳〵露見して仕舞つたのださうである。\n 代助は此話を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。\n 是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。\n「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。先刻平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為であつた。\n「実は君に話したい事があるんだが」と代助は遂に云ひ出した。すると、平岡は急に様子を変へて、落ち付かない眼を代助の上に注いだが、卒然として、\n「そりや、僕も疾うから、何うかする積なんだけれども、今の所ぢや仕方がない。もう少し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄さんや御父さんの事も、斯うして書かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした。代助は馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の憎悪を感じた。\n「君も大分変つたね」と冷かに云つた。\n「君の変つた如く変つちまつた。斯う摺れちや仕方がない。だから、もう少し待つて呉れ給へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑ひ方をした。\n\n十三の七\n\n 代助は平岡の言語の如何に拘はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極めた。なまじい、借金の催促に来たんぢやない抔と弁明すると、又平岡が其裏を行くのが癪だから、向ふの疳違は、疳違で構はないとして置いて、此方は此方の歩を進める態度に出た。けれども第一に困つたのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴へによつて知つたと切り出しては、三千代に迷惑が掛るかも知れない。と云つて、問題が其所に触れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方なしに迂回した。\n「君は近来斯う云ふ所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて、家のものとは、みんな御馴染だね」\n「君の様に金回りが好くないから、さう豪遊も出来ないが、交際だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付をして猪口を口へ着けた。\n「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支償なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。\n「うん。まあ、好い加減にやつてるさ」\n 斯う云つた平岡は、急に調子を落して、極めて気のない返事をした。代助は夫限食ひ込めなくなつた。已を得ず、\n「不断は今頃もう家へ帰つてゐるんだらう。此間僕が訪ねた時は大分遅かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は矢張問題を回避する様な語気で、"
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"role": "assistant",
"content": "「まあ帰つたり、帰らなかつたりだ。職業が斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。\n「三千代さんは淋しいだらう」\n「なに大丈夫だ。彼奴も大分変つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其眸の内に危しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は元に戻せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧で割き限に割かれるとすると、自分の運命は取り帰しの付かない未来を眼の前に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は即座の衝動の如くに云つた。――\n「そんな事が、あらう筈がない。いくら、変つたつて、そりや唯年を取つた丈の変化だ。成るべく帰つて三千代さんに安慰を与へて遣れ」\n「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、\n「思ふかつて、誰だつて左様思はざるを得んぢやないか」と半ば口から出任せに答へた。\n「君は三千代を三年前の三千代と思つてるか。大分変つたよ。あゝ、大分変つたよ」と平岡は又ぐいと飲んだ。代助は覚えず胸の動悸を感じた。\n「同なじだ、僕の見る所では全く同じだ。少しも変つてゐやしない」\n「だつて、僕は家へ帰つても面白くないから仕方がないぢやないか」\n「そんな筈はない」\n 平岡は眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼つた。けれども、罪あるものが雷火に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便に、自分を三千代から永く振り放さうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠す為の、糊塗策とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動を敢てするには、余りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰つた。\n「だつて、君がさう外へ許出てゐれば、自然金も要る。従つて家の経済も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」\n 平岡は、白襯衣の袖を腕の中途迄捲り上げて、\n「家庭か。家庭もあまり下さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」と云つた。\n\n十三の八\n\n 此言葉を聞いたとき、代助は平岡が悪くなつた。あからさまに自分の腹の中を云ふと、そんなに家庭が嫌なら、嫌でよし、其代り細君を奪つちまふぞと判然知らせたかつた。けれども二人の問答は、其所迄行くには、まだ中中間があつた。代助はもう一遍外の方面から平岡の内部に触れて見た。\n「君が東京へ着たてに、僕は君から説教されたね。何か遣れつて」\n「うん。さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」\n 代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹つた人間の如く行為に渇いてゐた。彼は行為の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。夫でなければ、活動としての行為其物を求めてゐたか。それは代助にも分らなかつた。\n「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元来意見があつて、人がそれに則るのぢやない。人があつて、其人に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、何うしやうの斯うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰ひたい」\n「無論大いに遣る積だ」\n 平岡の答はたゞ此一句限であつた。代助は腹の中で首を傾けた。\n「新聞で遣る積かね」\n 平岡は一寸蹰躇した。が、やがて、判然云ひ放つた。――\n「新聞にゐるうちは、新聞で遣る積だ」\n「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」\n「出来る積だ」と平岡は簡明な挨拶をした。\n 話は此所迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は些とも出来なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃れたため、当時の人から偶像視されて、とう〳〵軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄の流行廃はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。だから、斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は英雄なぞに担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になつた方が長持がする。新聞は其方面の代表的事業である。\n 代助は此所迄述べて見たが、元来が御世辞の上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、\n「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、些とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。\n 代助は少々平岡を低く見過ぎたのに恥ぢ入つた。実は此側から、彼の心を動かして、旨く油の乗つた所を、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計画であつた。代助は此迂遠で、又尤も困難の方法の出立点から、程遠からぬ所で、蹉跌して仕舞つた。\n\n十三の九\n\n 其夜代助は平岡と遂に愚図々々で分れた。会見の結果から云ふと、何の為に平岡を新聞社に訪ねたのだか、自分にも分らなかつた。平岡の方から見れば、猶更左様であつた。代助は必竟何しに新聞社迄出掛て来たのか、帰る迄ついに問ひ詰めづに済んで仕舞つた。\n 代助は翌日になつて独り書斎で、昨夕の有様を何遍となく頭の中で繰り返した。二時間も一所に話してゐるうちに、自分が平岡に対して、比較的真面目であつたのは、三千代を弁護した時丈であつた。けれども其真面目は、単に動機の真面目で、口にした言葉は矢張好加減な出任せに過ぎなかつた。厳酷に云へば、嘘許と云つても可かつた。自分で真面目だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未来を救ふ手段である。平岡から見れば、固より真摯なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落し込まうと、たくらんで掛つた、打算的のものであつた。従つて平岡を何うする事も出来なかつた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "第一部\n\n\n\n一 リリー・レーマンに憧れて\n\n ドイツへ行ってリリー・レーマンについて歌の勉強をしようと思って三浦政太郎と一緒に横浜を出帆したのは、一九一四年(大正三年)五月二十日のことでした。\n 私は非常に船に弱いので船の中ではずっと寝通しでしたから、香港に着きました時はほっと致しました。それにイルミネーションが綺麗でしたので、余計に明るい気持ちになりましたが、ここでお船は一晩お休みしたのでやっと元気を取りもどしました。\n お船が香港に着く前の晩のことでした。私は生まれて始めて洋服を着ようと思って三浦に話しましたら、\n「日本の婦人が洋服を着ると、胴が長くて足は練馬大根のように短く、まことにみっともない。船中では着物を着ていて、向こうへ着いて、どうしても洋服を着なくてはならなくなるまで洋服を着るのはお待ちなさい」\n「だって私は、まだ一度も洋服を着たことがありませんから、向こうへ着いてから始めて着るのではよけいみっともないと思いますの、だからお船の中で着馴らして少しでも着かっこうの良いようにしておきたいのよ」\n「向こうに着いてから、西洋の婦人の着方をよく見習った方が良い。船中で妙な癖でもつくとその方がよけいみっともない」\n「いいえ、妙な癖なぞつけません。一日でも着馴らした方が良いと思いますのよ」\n 私は洋服を着ることを強く主張いたしましたところ、\n「今から夫にさからうようでは、末恐ろしい」\nと三浦はおこりました。私はそんな気で申したのではありませんでしたが、この船中の洋服事件が生まれて始めての夫婦喧嘩でした。\n さて香港に着きましたところ、ペストが流行いたしておりましたので、同船の児玉さん、あの有名な児玉大将の息子さんはじめみなさん上陸なさいましたが、三浦も私もペストが恐いので上陸せず、広い食堂で二人きりで食事をいたしました。淋しい晩餐でした。\n ポートサイドに着きますと、オーストリアの皇太子様が、セルビアの青年に殺されたというニュースを聞かされてびっくりいたしました。この前の大戦の前奏曲だったのです。ポートサイドでは、有名な鱈のお料理を御馳走になりましたがそのうまかったこと、鱈をトマトとオリーブオイルで煮たものですが、今でもそのおいしかったのが忘られません。\n 七月九日マルセイユに着き上陸しました。大きな馬が車を曵いて何台も何台も、とても数え切れないほど通ったのが強く印象に残っておりますが、その沢山な数よりも馬が大きいのでびっくりいたしました。私たちはマルセイユから汽車に乗って、リヨンを通って憧れの都ベルリンへ着いたのが七月十一日でした。\n ベルリンでは、シャーロッテンベルグのフラウ・ドクター・スミスさんのお宅に下宿して、三浦はカイゼル・インスティテュートへ入って勉強を始めました。ここには田丸博士が働いていらっしゃいました。\n 私も早速リリー・レーマンに歌を教えて頂こうと思ってお訪ねしましたところ、ちょうど夏のお休みでリリー・レーマンは田舎へ避暑に行っていてお留守なので、秋にお帰りになるまで待つことにして、下宿で自分でピアノを弾きながら歌の勉強をしておりましたが、このお宅にお茶に来るお客様たちが、あなたの声は非常に美しい、と褒めてくれますし、また、道を歩いているととても素晴らしい歌が聴こえて来るので、窓ぎわへ行って立ち止って聴き惚れたが、その声の持主はフラウ・ミウラ、あなただったのか、と褒めて下さる方もあって、外国へ来て、まだ先生について勉強をしない前から、大勢の方に褒められて本当に嬉しゅうございました。\n こうしている間にも戦争がだんだん身近に迫って来ましたが、とうとう開戦になりました。すると私の下宿の前には消防署がありましたが、そこの消防夫が全部兵隊に代ってしまったし、私が逢う女の方はみんな泣きながら、「とうとう戦争になってしまった、ドイツは敵に囲まれているから大変だ」といったり、「私の夫は出征するが戦死をするのが心配だ」とか、大騒ぎでした。そして毎日毎日、往来を沢山な兵隊が行軍していましたが、足を揃えてパッパッと歩くのを見ると非常に強そうに見えました。\n 私が往来を歩いていると、見ず知ずのドイツ人が「あなたは日本人だろう。日本は国はちっちゃいがロシアを負かした大変強い国だ、世界で指折りに強い日本はきっとドイツの味方になってくれるに違いない。日本がドイツの味方になってくれたらドイツはきっと勝つ」といって、なかには抱きついてキッスをする人さえありました。けれど私は、日本がイギリスと同盟を結んでいるので、もしもイギリスがドイツと戦争をするようになったら、日本はイギリスの味方をしてドイツと戦争をしなければならなくなるだろう、そうしたら私達はどうしたらいいのかしらと、心配で心配で、夜もおちおち眠れませんでした。\n この心配はすぐ本当になりました。イギリスがドイツに戦争を始めました。ドイツ人が私ども日本人を見る眼が違って来ました。殊に子供の敵愾心が強く現われて来たので、私は往来を歩いていて子供が石を投げやあしまいかと心配でたまりませんでした。\n こうした心配の最中に、ドイツの社交界で羽振りのいいある夫人から、ドイツの戦争に費うお金を寄附するために赤十字社の音楽会に日本を代表して出演して下さい、という依頼を受けました。日本を代表して、というので、これは私の意見だけでは御返事が出来ませんので、大使館の御意見をうかがおうと思って大使館に参りましたところ、貼出しがしてありまして、ベルリンにいる日本人はきょうのうちにベルリンから逃げておしまいなさい、それもドイツ人に知れないように逃げなさい。日本とドイツの戦争は今日明日中に迫っているというのでびっくりしてしまいました。これは赤十字社の音楽会どころの騒ぎではないと思って下宿にとんで帰って三浦に話をしますと、三浦は落ちつき払って、たとえ日本とドイツの戦争になっても、科学の研究には変りがない筈だから、ベルリンに止って勉強を続けると申します。私は戦争になったら音楽の勉強などとても出来ないからイギリスへ行きたいと、夢中になって三浦をかき口説き、やっと一緒にイギリスに逃げることに決めました。そして田丸博士も一緒にお逃げになるといいと思いまして電話をかけましたが、当時電話はドイツ語だけに制限されて、日本語は勿論外国語のお話は許されませんでした。だから大使館の命令でドイツ人に知れないようにきょうすぐ逃げ出すことを、何といってお伝えしてよいか非常に困ってしまって、三浦といろいろあれこれと考えた末、田丸博士を電話に呼び出して、ドイツ語で、「私達は今夜バンホッフのステーションから汽車に乗りますからあなたも御一緒に汽車にお乗りなさい」と、それだけお話をして大急ぎで荷物をトランクに詰め込んで、下宿のフラウ・ドクター・スミスには急に音楽の勉強のため旅行をいたしますから、といってステーションに駈けつけました。"
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"role": "assistant",
"content": " ステーションに田丸博士は見えましたが、自分はドイツに残っているといわれるので、私たちは田丸博士に見送られてベルリンを出発いたしました。それは私たちがベルリンに着いてから一ヶ月のちの八月十四日でした。この汽車には前田侯爵、こないだ南方で戦死された前田大将ですが、前田侯爵や林銑十郎大将なぞ日本人が百名ほど乗っていて、後で判りましたがドイツから逃げ出した最後の日本人だったのでした。汽車は非常に混雑して便所まですし詰めの有様で、私ども日本人は全部三等車に乗せられました。一等と二等にはドイツの兵隊がぎっしり乗っていました。\n オランダの国境を越えたのは夜中の十二時でしたが、うす暗いステーションに降りた時にはほっと致しました。これで助かったとは思いましたが、それでも日本がドイツと戦争をすることをドイツ人に感づかれては大変だと、お互に話をするのも声を低めてひそひそ話をするといった有様で、ステーションのうす暗いのも手伝ってなかなか緊張した、薄気味の悪い気持ちで一杯でした。けれどいい塩梅にドイツ人に感づかれないでドイツから逃げ出すことが出来ました。\n やっとのことでロンドンに着きましたのが八月十六日で、スコットランド人のおかみさんの下宿に落ち着きました。\n ロンドンも戦争でひっくり返るような騒ぎです。学生はみんな志願して兵隊になりました。私の下宿の息子も大学生でしたが兵隊を志願して出征しました。ロンドンの往来も兵隊の行進で一杯でしたが、ドイツの兵隊が大きな、がっしりした体格で、グーステップでタッタッタッと歩調をとっているのに較べて、ロンドンの兵隊はひょろひょろしていて、歩き方もドイツの兵隊より元気がないので、こりゃあイギリスの方が敗けるんじゃあないか、と思いました。本当にその時はそんな気持ちがしたのでした。\n\n\n二 サー・ヘンリー・ウッドのテスト\n\n 私はドイツへ行って、教わろうと憧れていたリリー・レーマンに逢えないで、戦争のためドイツを逃げ出してイギリスへ来たものの、さて誰に歌を教えて頂こうかといろいろ考えた挙句、イギリスの生んだ世界的な大指揮者ヘンリー・ウッド卿にコーチをして頂こうと考えまして、ヘンリー・ウッド卿に手紙を出しました。\n「私は日本の婦人でございます。歌を勉強したいと思いましてロンドンに参りました。私は日本で政府のつくりました東京音楽学校を卒業しています。どうぞ歌を教えて下さいますようお願い申し上げます」\nという意味の手紙を書きました。\n 手紙を出して返事がきょうは来るか、明日は来るかと待っていましたが、なかなか参りません。一ト月待ちましたが返事がないので、ひょっとしたら手紙が途中で紛失したんじゃないかと思って、もう一度手紙を書きましたが、それでも返事が来ないのでがっかりしました。情けなくなりました。実はサー・ヘンリー・ウッドに歌を教わることは、テストを受けて落第したらみっともないので、日本大使館の大使井上勝之助侯爵にも、大使の奥様にも内緒にしていました。三浦にさえ内緒で誰にも相談もしなければ打明けもせず、自分一人でやったことなのですが、二度も手紙を出したのに梨の礫で返事が来ない、もう自分だけでは考えあぐねたので、実はこうこうしかじかなのですが、と三浦にだけは打明けました。\n そしてもう一度手紙を出して、それでも返事がなかったら歌の勉強はあきらめて、お料理を勉強して、それをお土産に日本へ帰ろうかと悲壮な決心をしました。それといっしょに、イギリス人は非常に保守的な人種である上に、いろいろと格式がやかましく、紹介状もない見ず知らずの者、殊に日本人などには逢わないだろうと考えつきました。でも大使の紹介状を頂くことはテストに落第したら恥かしいので、紹介状の代りに出来るだけ詳しく自分の経歴を書いてみようと考えまして、今度の手紙には、私は明治天皇の皇后様の前で御前演奏をしたことが御座います。コンノート殿下が日本においでになった時も御前演奏をいたしました。またドイツのカール・アントン・フォン・フォーフェンゾルレン殿下の御前演奏をした経歴をもつ日本の声楽家でございますが、はるばる日本から参りましたから、どうぞ歌を教えて下さいまし、と詳しい履歴を書いた手紙を出しました。\n すると今度はすぐ返事が参りました。ちょうどそれは金曜日のことでしたが、来週の火曜日に伴奏者をつれてクインス・ホールで歌をうたってお聴かせなさい、というお手紙が来たのでした。私は夢かとばかり躍りあがって、その手紙を読み終るや否や、手紙を持ったまま下宿のお内儀さんの部屋へとび込みました。\n「私は来週の火曜日に、サー・ヘンリー・ウッドの前で歌をうたうことになりました」\n「なんですって、サー・ヘンリー・ウッドの前で歌をうたうのですって? あの世界で一番偉い指揮者の前であなたがうたうんですか、そりゃ大変なことですが、一体どんな歌をうたうんですか」\n「もう二タ月も前から何をうたおうか考えているんですが、私は一番自信のあるのはオペラ『リゴレット』の中でヒロインのジルダがうたう『慕わしき御名』ですから、それをうたおうかと思っています」\n「オペラの詠唱をうたうんですって、駄目々々。そんな古臭い歌なんかうたっても誰も喜びませんよ。うたうんなら『ギブ・ミー・ユア・キッス』をおうたいなさい」\nといってさっさとピアノの蓋をあけ、「接吻してよ」という流行歌を自分で弾きながらうたい出す始末なんです。私はこんなお内儀さんに話をしても、とうてい音楽の相談相手にはならないと、あきれてしまって黙ってしまいました。それでも伴奏者をつれて来いということですが、伴奏者の知り合いがないので、止むを得ずお内儀さんに相談すると、伴奏者なら立派な音楽家を知っているからと、下宿につれて来たので、ピアノを弾いてもらったら、まるで小学校の唱歌の先生程度なのでがっかりしてしまいました。そして良い伴奏者がいないために、歌のテストに落第したらどうしようかと、今度はそれが心配になってしまいました。\n その翌日の土曜日に、社交界の花形のスエスリング夫人のお宅でお茶の会があり、私も招待されていたので参りました。このお茶の会にはメリー内親王様がおいでになるというので、ホステスのスエスリング夫人は長い立派な緑色のお召物の上に錦襴の裲襠を着て、それはそれは鮮やかな姿でお待ちしているところへ、プリンセス・メリーがレースのお召をめしておいでになりました。最初にスエスリング夫人が膝まずいてお手を頂いてキッスをする、そして招待されたお客様が順々にお手にキッスをする、私も生まれてはじめて、お手を頂いてキッスをして御挨拶申上げましたが、そのおごそかで、きらびやかで、風雅なことは絵に描いたようで、この素晴らしい有様は日本の皆さん、殊にたった一人でお留守をしている私のお母さんにお見せしたいと、つくづく思いました。\n このお茶の会に、昔ドイツで活躍した、オペラシンガーのアンナ・レクナーという有名な音楽家が招待されて来ていましたので、私はアンナ・レクナーに、来週の火曜日にクインス・ホールでサー・ヘンリー・ウッドに歌のテストをして頂くことになっていますが、ピアノの伴奏者がなくて困っています、という私の最大の悩みをお話しましたところ、曲目は何をうたうのですか、という質問、歌劇「リゴレット」のアリア「慕わしき御名」をうたいます、とお返事したら、それなら伴奏は私がしてあげましょう、と気軽におっしゃって下さったので、有名なアンナ・レクナーが伴奏をして下さる、地獄で仏とはこのことではないかと私は有頂天になって喜んでしまいました。\n ヘンリー・ウッド卿から指定された火曜日の午後一時、私はピアノ伴奏を引受けて下さいましたアンナ・レクナーと二人でクインス・ホールへ参りました。ロンドンの代表的な、いいえ世界的に有名なこの演奏会場の午後は、夜の豪奢な装いが余りにもきらびやかであるだけに、妙に寂しいものでございました。客席には誰もいず、電灯もついていないので変にうす暗く、ただステージのピアノのあるところだけが電灯で明かるいのです。\n 私は次の瞬間に私の運命が決まるのだ。世界的に有名な大指揮者に歌のコーチをして頂けるかどうかが、これからうたう歌によって決定するのだと考えますと、胸がどきどきいたしました。しかし祖国を遠く離れて、日本の、しかも女の身で、この大音楽家の前でうたうということは、単に私一人だけの問題ではなく、日本の音楽界の、もっと大きくいえば世界の一等国の仲間入りをした日本ではありましたが、文化の方面では何一つとして一等国の資格を持っていなかった日本の面目のためにも、このテストにはどうしても及第しなければならない、とこう考えましたので、気持ちを落ちつけてステージに立ちました。\n「あなたの支度が出来たらうたって御覧なさい。曲目は『慕わしき御名』でしたね」\n ウッド卿のこの言葉を待って、私は精一杯の力を出してうたい始めました。ウッド卿は客席の向こうの方のうす暗い所で私のうたうのを聴いていらっしゃいましたが、私の歌が進むにつれてだんだんステージの方に近づいて来られ、とうとうステージに上って私のすぐ傍でじっと聴いて下さいました。そして私がうたい終わりますと、\n「マダム三浦、あなたの歌は素晴らしいものです。世界的なプリマドンナであるメルバと同様の素質を持っています。カルベに較べても決してひけを取らない。完全なそして美しい素質と音楽の技術を持っています。私にはあなたのように、ほとんど完成した声楽家に歌を教える力はありません。あなたはこれから自分自身で勉強して、あなたの芸術のオリジナリティを発揮して下さい。もう一度いいますが、マダム三浦、あなたは本当に素晴らしい音楽家です。実に見事な『リゴレット』を聴かせて下さって有難う」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 僕がまだフランスに来る途中の船にいた頃、共産党の首領カシエン以下十数名のものが、ルール問題の勃発とともに拘禁された。そしてその中には、ドイツの共産党代議士何とかというのと、もう一人のやはり何とかいうドイツの共産主義者とがいた。みんなやはり僕と同じこのラ・サンテの牢やにいたのだ。\n ところが僕がはいってから、カシエン以下のフランスの共産主義者は保釈で釈放されたが、ドイツの二人だけは残された。二人ともフランスの法律に触れる理由は何にもなく、ただその政治上の都合でおしこめられていたので、たださえ二人は大ぶ憤慨していたのだが、ほかのものがみんな出されて自分等だけ残ったとなると、すぐ釈放を要求してハンガー・ストライキを始めた。そして、それを知った同じ牢やの政治監にいる既決囚の無政府主義者四、五名も、それに同情のやはりハンガー・ストライキを始めた。\n ドイツの二人は十幾日間頑強に飲まず食わずに過ごした。そしてほとんど死んだようになって病院に移されて、僕が放免になった二、三日後にようやくのことで釈放の命令が出た。\n「僕も知っていれば......」\n と、僕は自分の太平楽を恥じかつくやんだ。\n――一九二三年七月十一日、箱根丸にて――\n\n\n入獄から追放まで\n\n一\n\n どうせどこかの牢やを見物するだろうということは、出かける時のプログラムの中にもあったんだが、とうとうそれをパリでやっちゃった。\n\n 実は、大ぶうかつではあったが、このパリでということは、最初はあまり予期していなかったのだ。\n 日本では最近にヨーロッパへ行ったことのある誰とも話はしなかったが、支那ではほやほやのフランス帰りの幾人かの人達と会った。\n「なあに、フランスへあがりさえすれば、もう大丈夫ですよ。」\n その人達はみな同じようにそう言った。そして旅券なぞも、途中はもとより、マルセイユ上陸の時ですら、なければなしで通れるほどに世話がない、という話だった。\n もっとも、とにかく僕は、国籍と名だけはごまかしたが、しかし正真正銘の僕の、しかもその時の着のみ着のままの風の写真をはりつけた、立派な旅券を持っていた。その旅券からばれるというようなことはまずないものと安心していた。現にフランスの領事館でも、またイギリスの領事館でも、僕自身が出かけて行って、何のこともなくヴィザを貰って来たのだ。その旅券を、わざわざ余計な手数をかけてまで、見せずに通すほどのこともあるまいと思った。\n 途中での僕の心配はもっとほかのことだったのだ。そしてそれはあらかじめ何ともすることのできないことなので、もし間違ったら仕方がないとあきらめるよりほかに仕方がなかった。\n しかし、それが無事に行って、フランスにはいりさえすればまず大丈夫だということは、僕も日本にいた時から思わないではなかった。ことにフランスの領事館へヴィザを貰いに行った時に、受付の男が僕の旅券を受取ったままちょっと引っこんだかと思うと、すぐにまたそれを持って出て来て、幾らかの手数料と引換えに渡してくれたのなぞは、その官憲の無造作にむしろ驚かされた程だった。\n このフランスの自由については、その後、船の中ででも大ぶ聞かされた。\n「まあフランスへ行って御覧なさい。自由というものがどんなものか本当によく分りますよ。」\n モスクワ大学出身の女で、かつてパリに幾年か留学したことがあり、その兄が社会革命党に関係していたことから彼女までもツァーの官憲から危険人物扱いされたことがあるという、マダムNが何かの話から話しだした。彼女はしばらく日本にいて、今僕と同じようにやはりフランスへ行くのだった。\n「まずどこかのホテルへ着いてですね。一番気持のいいのは、うその名刺でも本当の名刺でもとにかく名刺を一枚出しただけで、それっきり何一つ尋ねられることはないんでしょう。日本やロシアではとてもそんな訳には行きませんからね。」\n\n しかるに、このマダムNと一緒にマルセイユに上陸して、あるホテルに着いた時、フランスのこの自由はすぐさま幻滅させられてしまった。受付の男が活版刷の紙きれを持ちだして、そこへ何か書き入れろと言う。見れば立派な宿帳だ。しかも日本の宿帳なんかよりよっぽどうるさい宿帳だ。マダムと僕とは顔を見合した。そして二人で一々書き入れて行ったが、最後のカルト・ディダンティテ(身元証明書)の項で二人とも行きづまった。\n「これは何でしょうね。」\n 僕はマダムに尋ねた。\n「さあ、何ですかね。」\n マダムもちょうどそこでペンを休めて考えていたのだ。\n「いや、もしカルト・ディダンティテをお持ちでなければ、パスポオルでもいいんです。」\n 二人は番頭にこう注意されながら、まだその「パスポオルでもいいんです」というのが何のことかよく分らなかった。が、ただそう書き入れればいいのだと分って、二人は二階の一室へ案内されて行った。\n マダムはそれだけのことでもういい加減その顔をくもらしていた。が、二人ともまだ、そのカルト・ディダンティテがどんなものかということはちっとも知らなかったのだ。\n(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時にはまだどこをどうしてフランスにはいったかをその筋に知られたくなかったので、わざとああ書いたのだった。)\n その翌日(これも今となってはその日にちを明らかにしてもいいのだが、僕は一月五日にフランス船のアンドレ・ルボンというのに乗って上海を出て、二月十三日にマルセイユへ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。そこには僕の仮り国籍の同志が数名いて、僕はそれらの人達にあてた上海の同志からの紹介状を持っていたのだ。そしてヨーロッパにいる間その国籍の人間として通って行くには、まずそこの同志のいろんな厄介にならなければならなかったのだ。\n 僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来るとしても、こんどは一晩か二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。\n「ここには大勢僕等がいて、いろいろと便宜があるんだから、ここを君の居住地ときめて置いて、まずカルト・ディダンティテを貰って、それからどこへでも行くといい。」\n と言うんだ。僕は支那からフランスに来るという旅券しか持っていないので、さらにフランスからヨーロッパ諸国へ廻る旅券を貰う必要があった。そしてそれには何よりもまずこのカルト・ディダンティテが必要なのだ。それに、フランスに二週間以上滞在する外国人は、すべてその居住地の警察のカルト・ディダンティテを持っていなければならないのだ。そしてどこへ行くんでも、いつでも、必ずそれを身につけていなければならないのだ。それがなければ、すぐ警察へ引っぱって行かれて、もし申し訳が立たなければ、すぐさま罰金か牢だ。そしてその上になお追放と来る。"
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"content": "「まあ、犬の首輪と同じようなものさ。」\n と、同志のAは説明して聞かせながら、ポケットから自分のカルト・ディダンティテを出して見せた。写真もはりつけてある。両親の生年月日までもはいっている。そしてそれにフランス人が二人と同国人が二人保証人に立っている。\n このカルト・ディダンティテを貰うのに一週間ほどかかった。そしてその間に僕は、ある日、新聞で見たその晩のフランス人の同志の集会に案内してくれないかと頼んだ。が、それもやはりA等に許されなかった。そんなところへ行こうものなら、すぐあとをつけられて、カルト・ディダンティテはもとより、ヨーロッパ歴遊のパスポオルも、また僕自身のからだも、どうなるか分らんとおどされた。\n\n ここにおいて、初めて僕は、戦後のフランスの反動主義がどんなものかということが本当に分った。そしてこのフランスにはいればもう大丈夫どころではなく、かえって危険がすぐ目の前にちらついているように感じた。\n\n二\n\n 手帳のようなものになっているカルト・ディダンティテの終りの幾ページかは、出発、到着、帰還の二字ずつを幾つも重ねた表で埋まっている。要するに、その居住地からどこかへ旅行するには、一々それを警察へ届け出て、その判を押して貰わなければならないのだ。\n が、僕はそんな面倒はよして、すぐパリへ出かけた。そしてベルヴィルのフランス無政府主義同盟へ行くと、そこは「日本脱出記」に書いたような警戒ぶりなのだ。\n さらにまた、同盟の事務所からごく近くのホテルに泊ると、そこでは普通に宿帳を書かした上に、カルト・ディダンティテの本物を見せろとまで言うのだ。\n 僕はいよいよあぶないと思った。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいるやはり支那の同志等を訪ね廻って、四、五日して帰って来ると、僕等をその宿へ案内した、そして自分もそこに下宿していたイタリアの若い女の同志が、急いで引越し仕度をしていた。警察がうるさくするので逐い出されるのだと言う。\n リヨンの同志はすぐ帰った。僕はその女と相談して、どこかもっと安全な宿を探して貰うことにきめた。そしてその晩は一緒に同盟の機関『ル・リベルテエル』の催しの民衆音楽会へ行った。会場のC・G・T・U(統一労働総同盟)事務所の入口の前は、十名ばかりの制服の憲兵が突っ立っていた。\n その翌日、ル・リベルテエル社へ行っていると、痩せこけて、髪の毛や鬚をぼうぼうのばして、今にも倒れそうになってはいって来た男があった。口もろくにはきけない。よく聞いて見ると、ハンガリイの同志で非軍備運動のために六カ月牢に入れられて、出るとすぐひそかにフランスに逃げこんだのだが、パスポオルのないためにまた捕まって三カ月牢に入れられて、今日放免とともに追放になったんだと言う。\n その晩は前から会う筈になっていたロシアの若い同志を訪ねた。いくら室の戸をノックしても返事がない。いないのかなと思いながらまた念のためノックしたら、ちょっと待ってくれという慄え声の声がする。やがて戸が開いてその同志は僕の顔を見るといきなり飛びついて来てだきしめた。どうしたんだと聞くと、いや、実は、いよいよ来たんだなと思って捕まる準備をしていたんだと言って笑いだした。この男も旅券なしで、ロシアからドイツに、そしてまたドイツからフランスに逃げて来ていたのだ。\n このロシアの同志もすぐまたドイツへ逃げ帰ろうと言うし、僕もこんなフランスに逃げかくれているんじゃ仕方がないと思って、それよりは大ぶましらしいドイツへ早く行こうときめた。僕の目的の国際無政府主義大会は、四月一日に、ベルリンで開かれることになっていたのだ。そこでは、本名を名乗らなければならないし、そこで捕まるのは仕方がないとしても、それまでにお上の手にあげられるのは少々癪だと思った。\n そこへ日本人の友人のSが訪ねて来た。日本を出て以来、日本人はいっさい禁物として絶対に会わない方針にしていたのだが、このSにだけはごく内々で僕の来たことと宿とを知らしてあったのであった。\n Sは、それじゃすぐ引越ししようと言って、新しい宿を探しに行った。そしてその日のうちに引越した。Sもしばらく田舎へ行っていたのをまた出て来たので、僕と一緒にそこへ宿をとった。\n「集会にも出れなければ、ろくに人を訪ねることもできないんじゃ、仕方がない、せめてはパリ第一の遊び場に陣取ってうんと遊ぶんだね。」\n 二人はそう相談をきめて、モンマルトルの真ん中に宿をとったのだ。そして予定通り昼夜兼行で遊び暮しながら僕はリヨンからのたよりを待っていた。ヨーロッパ歴遊の新しい旅券が手にはいれば、すぐ知らしてよこす筈になっていたのだ。そして僕はその知らせとともにリヨンに帰って、すぐまたドイツへ出発する手続きにかかる筈だったのだ。\n 一週間ばかりしてその知らせが来た。まだ遊び足りないことははなはだ足りない。それにようやくまずこれならと思うお馴染ができかかっていたところなのだ。が、その知らせと同時に、僕にとっては容易ならん重大事がそっと耳にはいった。それは、日本の政府からパリの大使館にあてて、Sの素行を至急調べろという訓電が来たということだ。僕はこれはてっきり、Sを調べさえすれば僕の所在も分るという見当に違いない、と思った。\n(これはあとで、メーデーの日の前々日かに、パリでそっと耳にした話だが、実はその時すでに、日本政府からドイツの大使館に僕の捜索命令が来て、そしてその同文電報がドイツの大使館からさらにヨーロッパ各国の大使館や公使館に来ていたのだそうだ。)\n 僕もSも持っていた金はもう全部費いはたしていた。が、ようやく借金して、大急ぎで二人でパリを逃げ出した。\n\n Sはもとの田舎に帰った。僕はリヨンの古巣に帰った。そして、あちこち歩き廻って来たことなぞは知らん顔をして警察本部へ行ってドイツ行きを願い出た。その許可がなければ、ドイツ領事にヴィザを願い出ても無駄なのだ。\n 警察本部とはちょっと離れている裁判所の建物の中に、外事課の一部の旅券係というのがあった。そこへ行くと、四、五日中に書類を外事課へ廻して置くから、来週のきょうあたり外事課へ行けば間違いなくできていると言う。で、僕は出立の日まできめて、すっかり準備して、その日を待っていた。ドイツに関する最近出版の四、五冊の本も読んだ。ドイツ語の会話の本の暗誦もした。おまけに、帰りにはオーストリア、スイス、イタリアと廻るつもりで、イタリア語の会話の本までも買った。\n ところで、その日になって警察本部の外事課へ行って見ると、またもとの裁判所の方の旅券係へ廻してあると言う。そしてその旅券係では、同じ建物の中のセルビス・ド・シュウルテという密偵局へ廻したから、そこへ行けと言う。そしてまた、その密偵局では、二、三日中に通知を出すから、そしたら改めて出頭しろと言う。うんざりはしたが、仕方がないから、帰ってその通知を待つことにした。\n 二、三日待ったが来ない。四日目にとうとうしびれを切らして行って見ると、きょう通知を出して置いたから、あしたそれを持って来いと言う。\n そのあしたは密偵局でいろいろと取調べられた。旅券や身元証明書は願書と一緒にさし出してあるんだが、それを見ればすぐ分ることを始め、フランスに来てからの行動や、ドイツ行きの目的や、その他根ほり葉ほり尋ねられた。大がいのことはいい加減に辻褄の合うように返事していれば済むんだが、一番困ったのは身元証明書の中に書き入れてあることの調べだ。親爺の名とか母の名とかその生年月日とかは、国での二人の保証人のそれと同じように、みなまったく出たらめのものだった。その出たらめを一々ちゃんと覚えているのは容易なことじゃない。が、それもまず難なく済んだ。\n ただ済まないのは、目的の許可証がいつ貰えるかだ。その日には、あさってと言われたので、あさって行って見ると、またあさって来いと言う。こんどこそはと思って、そのあさって行って見ると、こんどはあしただと言う。そしてそのあしたがまたあさってになり、そのまたあしたになりあさってになりして一向らちがあかない。\n その間に僕の宿の主人も三、四度調べられた。そして一晩そこに泊ったSのことも、いろんな方面から取調べているようだった。\n 僕はだんだん不安になりだした。そしていっそのことそんな合法の手続きはいっさいうっちゃって、パリで会ったロシアの同志のようにそっと国境を脱け出ようかと思った。この合法か非合法かの問題は、僕がフランスに来た最初から、僕とリヨンの同志との間に闘わされた議論だった。そんな七面倒臭いカルト・ディダンティテなどは貰わずに、勝手に駈け廻る方がよくはあるまいか、というのが僕の最初からの主張だった。が、もし何かの間違いがあれば、当然その責任は僕の世話をしてくれたそれらの人達の上にも及ぶのだからと思うと、僕はいつもその人達の合法論にふしょうぶしょうながら従うほかはなかった。こんどもまたそうだ。\n そして僕は、こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一カ月半ばかりを暮した。\n\n三\n\n 実際いやになっちゃった。\n 四月一日の大会はまたまた延期となって、こんどは八月という大体の見当ではあるが、それもはたしてやれるかどうか分らない。ドイツの同志からは、とてもベルリンでは不可能だ、と言って来ている。するとヨーロッパのどこに、その可能性のあるところがあるんだろう。ウィーンという一説もあるが、それもどうやらあぶないらしい。\n 愚図愚図している間に、金はなくなる。風をひいて、おまけに売薬のために腹をこわす。無一文のまま、一週間ばかり断食して、寝て暮した。\n ようやく起きれるようになって思いがけなく家から金が来たと思うと、こんどはまた例の日参だ。あした、あさってと言われるのにも飽きて、少々理窟を並べると、フランス人の癖の両方の肩を少しあげて、「俺あそんなことは何にも知らねえ」と言ったまま相手にならない。その肩のあげかたと、にやにやした笑顔の癪に触るったらない。行くたびにむしゃくしゃしながら帰って来る。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 暗欝な空が低く垂れていて家の中はどことなく薄暗かった。父親の嘉三郎は鏡と剃刀とをもって縁側へ出て行った。併し、縁側にも、暗い空の影が動いていて、植え込みの緑が板敷の上一面に溶けているのであった。\n「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」\n 嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ直かに尻を据えて、すぐ頬の無精髭を剃りにかかった。\n「お父さん! 序に、鼻の下の方も、剃ってしまいなせえよ。」\n 障子の中から母親の松代がそう声をかけた。\n「余計な口出しをするな!」\n 嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。\n「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて......」\n「笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」\n「お父さんがその気だから、美津なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は現在なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が(お嬢さんお嬢さんて!)言われていた時の気で髭ばかり捻っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。」\n「馬鹿っ! 貧乏はしても嘉三郎だぞ! そこえらの水呑百姓と縁組が出来ると思うのか! 痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ! 何百人という人間を髭を捻り稔り顎で使って来てる大請負師だぞ。何は無くっても家柄ってものだけは残っているんだ。」\n「家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。俊三郎なんかも、家柄のために、なんぼ苦労しているだか。自分じゃあ気楽に百姓していたがるものを、お父さんが(俺家の伜も東京へ勉強に出ていますがな!)って言って髭を稔っていてえばかりに、銭の一文も送れねえのに無理に苦学になど出してやって......」\n 松代はそう涙声になりながら続けた。\n「馬鹿! 俊や美津のことなど言うなっ! 黙っていろ!」\n 嘉三郎は又そう怒鳴った。それで二人の間の争いはぷっつりと消えた。重い沈黙がそして拡がって来た。\n そこへ庭から郵便配達が這入って来て、嘉三郎の膝のところへ、一通の封書をぽんと投げて行った。嘉三郎は髭を剃るのをやめて封書を取り上げた。そして、嘉三郎は、驚異の眼を睜りながら、大急ぎで封を切った。\n\n 二\n\n 嘉三郎は手紙を読みながら、咽喉をごくりごくりと鳴らして、何度も唾を嚥み下した。そのうちに両手がわなわなと顫え出して来た。そして彼の眼頭には、ちかちかと涙さえ光って来た。\n「郵便が来たんじゃねえかね?」\n 松代がそう言いながらそこへ出て来た。\n「美津の畜生め!」\n 嘉三郎は突然そう怒鳴って、手にしていた手紙を滅茶滅茶に引き裂いた。\n「何をするんだね? お父さんは! それで美津は、どこにいるんだね?」\n「美津の畜生め? 俺の顔に泥を塗りやがって、いくらなんでも鼻の先にいべえとあ思わなかった。」\n「美津はどこにいるんだね?」\n「忠太郎の野郎と一緒に高清水にいやがるで、忠太の恩知らず野郎め! 泥足で俺の顔を踏みつけやがって。」\n「忠太郎と一緒にいるのかね? 最初からそんなような気がしていたよ。忠太郎ならいいじゃねえかね?」\n「馬鹿!」\n 嘉三郎はまたそう怒鳴った。そして髭を剃るのをやめて、黙々と、炉端へ行って坐った。松代は怖々と、炉端へ寄って行った。そしてお互いにしばらく凝っと黙っていた。嘉三郎は眼を伏せるようにして、溜め息をつきながら炉の上に屈み込んでいたが、灰の上にぽとりと涙が落ちた。嘉三郎は、涙をそっと押し隠すようにしながら静かに顔を上げた。\n「松! 着物を出せ!」\n 嘉三郎は厳粛な調子で言って、固く唇を結んだ。\n「着物をね? 忠太郎と一緒なら、行かねえで、構わねえで置いたらいいじゃねえかね。美津が好きで一緒になっているものなら。」\n「投げて置けるか? 早く着物を出せ! 畜生共め!」\n「好きで一緒になって、どうやら暮らしているのなら、構わねえで置けばいいものを......」\n 松代はそう独り言のように呟きながら着物を出して来た。\n「暮らしがつかねえでるのだ。忠太は何も仕事がねえのに、美津は美津で、病気をして寝てるってんだ。畜生共め!いっそのこと死んでしめえばいいんだ。俺の顔さ泥を塗りやがって。」\n 嘉三郎はそう言ってもう一度そこへ坐った。\n「そんなに困ってるどこさ、空手で行ったって、仕方があんめえがね。金を都合して行くとか......」\n「なんで金など?」\n 嘉三郎は追い被せるように言って、またぐっと口を噤んだ。再び重い沈黙が割り込んで来た。そして嘉三郎は暫くしてから、松代をぐっと睨みつけるようにして言った。\n「松! 兼元を出して来う。刀をさ。」\n「刀をね? 刀なんか何するんだね? お父さんは!」\n「畜生どもめ! 叩き切ってやる。先祖の面を汚しやがって。」\n「何を言うんだね? お父さんは! 狂人のようなことを言ったりして......」\n「なんでもいいから早く出して来う。俺家は、代々、駆落者なんか出したことのねえ家だ。犬共め!」\n「それはそうかも知んねえが、代々、こんなに零落れたこともあんめえから。」\n「出して来ねえのか? そんなら自分で出して来るからいいで。貴様まで精神が腐りやがった。」\n 嘉三郎は叫ぶように言って座敷へ這入って行った。\n「お父さんてば!」\n 松代は泣きそうにして嘉三郎の手に縋った。併し嘉三郎は、ぐんぐんと箪笥の前へ寄って行って曳き出しを開けた。同時に、どこから飛び出して来たのか、次女の嘉津子も父親の腕に縋った。\n「お父さん! お父さんたら! お父さん!」\n 併し、嘉三郎は、左手に刀を握りながら、右手でぐっと、松代と嘉津子とを払い除けた。\n「男のすることにあ、例えどんなことにもしろ、女どもが口出しをするもんじゃねえ。」\n 嘉三郎は二人を睨みつけるようにして言った。その眼はぎらぎらと涙で濡れていた。頬にまで涙は流れて来ていた。\n「嘉津! お前もよく覚えて置けよ。」\n 父親の嘉三郎はそう言って出て行った。松代は、遣る瀬なさそうに、嘉津子の頭を自分の胸へぐっと抱えた。嘉津子は母親の胸の中で静かに歔欷を始めた。\n「殺すようなことまでしねえよ。威すだけさ。お父さんの気持ちになれば無理のねえことだし......」\n 松代は漸くそれだけを言った。\n\n 三\n\n 暗くなるまでには四時間あまりもあった。高清水は、歩いて行っても、三時間で行けるところだった。汽車もあるにはあるが、小牛田で東北本線に乗り換え、瀬峯まで行ってから軽便鉄道で築館まで行き、そから高清水まで歩くとなると、乗り換え時間の都合や何かで、三時間ぐらいで行けるかどうかわからなかった。それに、嘉三郎は、蟇口をもたずに家を出て来てしまったのだ。併し、汽車のあるところを、てくてく歩いて行くなどということは、嘉三郎の気持ちの、どうしても許さないことだった。そればかりではなく、例えどこまでにもしろ、無一文で旅をするということは、嘉三郎にはどうしても出来なかった。\n 嘉三郎は、途中、しばらく躊躇してから、米問屋に這入った。ちょうど折よく主人は家にいた。そして嘉三郎はすぐ茶の間へ通された。\n「嘉三郎さん! それはいつかの兼元じゃねえかねえ?」\n 細長い風呂敷包みに眼をやりながら、米問屋の主人は、微笑を含んで言った。\n「兼元でがすよ。これだけは手放すめえと思ってたんでがすが、東京へ勉強に行っている伜から、金を送れって言って来たんで、とにかく、持って来たわけなんですがな。いつかの話を思い出して......」\n 嘉三郎は坐りながら挨拶代わりにそう言った。\n「そりゃあ、もちろん、送って上げなくちゃなんねえね。私が売ってもらいますべえよ。いつか私が言った値でいいかね?」\n「それがですね。私の気持ちでは、出来るなら、売り切りにしたくねえんでね。先祖から伝わってるもので、どうせ私から伜へ伝わって行くものだし、伜の学資のために売ったとなれば、伜も何も文句はねえと思うんですが、伜が成功でもしたとき、またそれが欲しくなるかも知れねえですからね。それでですね。今は、あの半分だけ借りて置いて、一応は伜と相談してから売り切りにしたいんですがね。」\n 嘉三郎は髭を捻りながら言った。\n「そりゃあ承知です。半分でなくたって、元金に利子せえ添えて下さりゃあ、私あいつでも返しますよ。それなら相談するまでもありますめえで。」\n「それなら伜になど相談しねえんでいいんですがね。併し、沢山借りるのも気になりますから、それじゃあ、百円だけ......」\n「百円。百円でいいかね。」\n「売り切りじゃねえですよ。」\n「承知です。」\n 頭をさげるようにしながら米問屋の主人は店の方へ立って行った。"
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"role": "assistant",
"content": "「伜を一人、東京へ勉強に出して置くと、金がかかりますでね。私もそのためにあ、先祖から伝わっている刀まで手放さねえなんねえんでね。今はこうして半分だけ借りて行っても、すぐ又はあ、伜から金が要るって言って来れば、残りの半分を借りて、売り切りになるかも知れませんで。」\n 嘉三郎は髭を捻りながらそう米問屋の主人の背後に語りかけた。\n「そりゃあ、東京へなど勉強に出して置いたら、随分とかかりましょうなあ。」\n そんな風に言いながら、米問屋の主人は幾枚かの紙幣を握って、すぐ戻って来た。そしてその紙幣を、嘉三郎の前へ置いて序にその横から細長い包みを取った。嘉三郎は、自分の前に置かれた何枚かの紙幣を、数えても見ずに袂の中へ押し込んだ。\n「立派なものだなあ。」\n 鞘を払って刀身を凝っと眺めながら米問屋の主人は言った。\n「何ぶんにも大業物ですからな。」\n「嘉三郎さん! 今日中に送るのなら、早く行かないと、郵便局が閉まりますで。待っていなさるんだべが......」\n「それさね。」\n 嘉三郎はそう言いながらも、悠長に立ち上がって、泥濘の往来へ出たが、何故かもう、汽車で行く気にはなれなくなっていた。\n\n 四\n\n 高清水へ着いたときにはもう薄暗くなっていた。嘉三郎は、以前、商用で何度も来たことがあったが、詳しくは知らなかった。それに、素面で会うのも、何となく厭な気がした。嘉三郎は町外れの居酒屋に這入った。\n「冷てえのを茶碗でくんねえかね。」\n 嘉三郎はぽっそりと言った。同時に、二三人の客の眼が、嘉三郎の方へ一斉に集まって来た。嘉三郎は手で髭を隠すようにした。\n「あの、高橋治平さんという人の家は、どの辺だね?」\n 嘉三郎は、そう酒を運んで来た茶屋女に、髭を隠すようにしながら訊いた。\n「すぐこの先でがす。三軒、四軒、五軒、六軒目の家でがす。饂飩屋ですぐ判ります。」\n「その家には、離室でも、別にあるのかね?」\n「離室って、前に、馬車宿をしてたもんだから、そん時の待合所を奥さ引っ込んで、どうにか人が寝泊まり出来るように拵えたのがあるにはあんのでがすけど、今のどころ、他所者の若夫婦が借りてるようでがす。」\n「お! 一栗の嘉三郎旦那じゃねえかね?」\n 突然、そう誰かが、薄暗い土間から立ちあがった。\n「私かね? 私は古川の者ですよ。古川の繭商人ですよ。」\n 嘉三郎はぎょっとしながら、髭を隠して、声色を使ってそう言った。\n「併し、よく似た人だがなあ。」\n 印半纏の土工風の男は首を傾げながら言った。\n 併し、嘉三郎は、そのまま何も言わずに、残っている冷酒を一息にあおると、忙しく勘定をして、梅雨の暗い往来へ出て行った。\n\n 五\n\n 饂飩屋の横を、嘉三郎は、黙って奥へ這入って行った。庭に栗の木が一本あって、濡れ葉がばらばらと、顔に触れた。そして、栗の花の香が鼻に泌みた。\n ちょうどそこへ、忠太郎がどこかへ出るのらしく、立て付けの悪い板戸を開けたので、薄い光が、幅広い縞になつて流れ出して来た。\n「忠太郎!」\n 嘉三郎はそう声をかけた。\n「あれ! お父さんだぞ。美津! お父さんが来た。起きろ。」\n 忠太郎は狼狽しながら言った。\n「美津の病気はどういう具合だ?」\n 嘉三郎はそう言いながら中へ這入った。\n「お父さん!」\n 美津子は寝床の上へ起き上がって凝っと父親の顔を視詰めた。\n「寝てろ! お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ?起きてでいいのか?」\n「風邪を少し引いて......」\n 横から忠太郎がそう言った。\n「今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。母親が心配してたぞ。」\n「お父さん!」\n 美津子はそう遣る瀬ないように叫びながら、布団に顔を押し当てて、静かに歔欷いた。\n「美津! 俺が来たのに泣いたりするなあ。泣くなら帰るで。」\n 併し、嘉三郎の頬にも、涙が伝わって来ていた。\n「そこに栗の木があるな? 這入って来るどき、葉の雨滴が顔さかかって......」\n 嘉三郎はそう言って眼のあたりを拭った。\n「お父さん! 今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして......」\n「何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか? こんなどこで俺の恥まで晒すより、東京さでも行けばいいじゃねえか? 馬鹿な奴等だっ! 東京さでも行って立派になって来う! 忠太郎!」\n「それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も稼ぎ手がいなくなるごと考えたりして......」\n「馬鹿なっ! 稼がせるために忠太郎を美津の聟にしたとなると、それこそ、世間さ顔向けが出来なくなる。何も心配しねえで、自分達だけ、立派になって来う。」\n「それより、お父さんさ、酒でも買って来たら?」\n 美津子は漸く顔を上げて言った。\n「酒か? 酒なら呑んで来たばかりだ。酒より話でもする方がいいで。」\n 嘉三郎はそう言ってとめたが、忠太郎は黙って、そそくさと出て行った。\n「お父さん? 本当に悪いことして。」\n 美津子は又そう言って布団に顔を当てた。\n「何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに違えねえが、お前がこんな豚小屋のようなところにいてあ、俺だって気持ちがよくねえからなあ。お前の病気が癒ったらすぐ東京の方さでも行くさ。」\n「ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも......」\n「旅費を稼ぎ溜めるって、何か、仕事があんのか、金なら、百円は少し欠けるけども、持って来てやった。これで、どこへでも、落ち着くんだな。」\n 父親の嘉三郎はそう言って袂からそこへ金を掴み出した。美津子はぎらぎらと濡れた眼に驚異の表情を含んで凝っと父親の顔を見た。二人ともそして何も言うことが出来なかった。\n「美津! お前は少し痩せたでねえか?」\n 嘉三郎は、しばらくしてから娘の手を握った。\n\n 六\n\n 雨の中を、嘉三郎は、朝飯前に自分の家へ帰って、炉端へ坐ったまま黙っていた。\n「美津はどうしていたかね?」\n 松代は不安そうにして聞いた。\n「何も心配しねえでいいだ。」\n 嘉三郎はそう言ったきりで、また黙りつづけた。\n そこへ、近所の百姓女が来て、上り框へ腰をおろした。\n「美津ちゃんは、近頃、どこかへ行ってますか?」\n 百姓女はそう突然に聞いた。\n「東京へ勉強にやりましたよ。今時は、女でも、学問がないと馬鹿にされますでなあ。兄妹で行ってるんですあ。」\n 嘉三郎はそう髭を稔りながら言った。そのとき、ふと嘉三郎は、昨日、頬髭の逆剃をしていないのに気がついた。彼は髭を捻りながら立ち上がった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " と、号令した。艦は直ちに潜航作業にうつった。\n 艦長が一声叫べば、あとは日頃の猛訓練の賜で、作業は水ぎわだってきびきびとはかどるのであった。\n 僅か三十秒後、艦はもうしずしずと波間に沈下しつつあった。\n それから一分の後、艦橋もなにも、すっかり海面から消え去った。あとにはほんのすこしの水泡が浮いているだけ――その水泡もまたたく間に、波浪にのまれて、見えなくなった。\n なんというすばらしい潜水艦であろう。\n 闇の中には柳下機の爆音も聞えず、吹きつのる烈風の声、波浪の音のみすごかった。ああわが艦載機の行方はいずこ?\n × × ×\n こちらは、飛行島であった。\n 恐るべきスパイ川上機関大尉は、今は冷たい骸となって横たわっているし、もう一人の杉田二等水兵は重傷で、病室に監禁してある。まずこれで連日の心配の種は、すっかりなくなった。今夜は枕を高くしてねむられるわいと、飛行島の建設団長リット少将以下、賓客のハバノフ氏にいたるまで、いずれもいい気持になってぐっすり寝こんでいたところであった。そこへ俄かに空襲警報、寝耳に水とは、まさにこのことであったろう。\n それは飛行島はじまってはじめての空襲警報だった。\n しかし、まさかここまで日本の飛行機はやって来まい。万一来るようなことがあっても、途中には幾段にも防空監視哨をこしらえてあるから、それに見つかって、香港あたりの空軍が渡り合うだろうくらいに考え、防空訓練は実は大して身を入れてやっていなかったのであった。\n だから、さあ怪しい潜水艦隊と渡洋爆撃隊が飛行島へ攻めてきたということが、島内各部へ伝わると、上を下への大騒ぎとなった。灯火管制班が出動して電灯を次から次と消させてゆくが、なかなかうまくゆかない。\n それでも兵員がついているところはあらまし消し終え、大事なところだけは、ほぼ闇の中につつまれた。\n この報告は直ちにリット少将のところへもたらされた。少将はさすがに英海軍の猛将だけに狼狽の色も見せず、昼間と同じくきちんと服装をととのえ、「鋼鉄の宮殿」の階上を占める司令塔から、じっと外の様子を眺めていた。\n\n\n 無線室の怪\n\n\n「リット団長閣下、飛行島の主要部は、すっかり灯火管制下にあります」\n と、担任士官が報告をすると、少将はにこりともせず、窓の外を指さし、\n「あれが完全管制だとは、なんという情ないことだ」と、檣の上などにまだ消しのこされた灯火を指さした。\n「わしは目が見えないことはないぞ。いいから配電盤のところで、電灯線へ流れこむ電流は全部切ってしまえ」\n「はっ、だが、それは危険であります。閣下」\n と担任士官は、顔色をかえてリット少将の言葉をさえぎった。\n「なんじゃ、危険じゃと? 一たいなにが危険なのじゃ」\n リット少将はけわしくいいかえした。\n「つまりその、そうやれば灯火管制の方は完全でありましょうが、要所要所を固めている者達の活動が出来なくなるばかりでなく、悪性の労働者が、暗闇を幸い、どんな悪いことをはじめるかわかりません。私の心配なのは、この点であります」\n「ばか奴!」とリット少将は、あらあらしく叱りとばした。\n「それが灯火管制の最中に、責任ある者のいうことか。なんでもよい。敵機に、この飛行島の梁一本でも壊されてたまるものか。命令じゃ。電灯線への送電を即時中止せい」\n「ははっ、――」\n 一言もなかった。担任士官は、すごすごと少将の前を退いた。\n それから数分ののち、電灯線への電流はすべて止められた。ここにはじめて飛行島は、完全に闇の中に包まれてしまった。\n 不意うちの送電中止に、飛行島のあちこちでは大まごつきであった。\n 臆病な白人の細君たちの中には、暗黒と敵襲との二重の恐しさに悲鳴をあげて泣き叫び、寝床の中にもぐりこむやら、ぶるぶる慄えながらかけまわるやら、大騒がはじまった。\n「日本の潜水艦が、すっかり飛行島のまわりをとりまいてしまったってよ」\n「それよりも大変なことが起きたのよ。海底牢獄に閉じこめてあった囚人を、誰かが行って解放してしまったそうよ」\n「あっ、皆さん、しずかに! 爆音がきこえる。日本の飛行隊がいよいよ攻めてきた。ああどうしよう。あなたあ、――」\n そういう騒の最中に、真暗な無線室の外を、どどどっと靴音をひびかせて通りすぎる一団がある。なにかわめいているが、暴徒だか監視隊だか、さっぱりわからない。その中に、\n「無線室はどこだあ」\n と、呶鳴って歩いている者がある。\n「無線室はここだが、お前は誰だあ」\n と応じた声があった。と同時にさっと懐中電灯がいきなり照らしつけられた。\n その光の中に現れたのは、あまり背の高くない下士官であった。どうしたのか、制帽を耳のところまで被り、服の上にひっかけている雨合羽は襟を立てていた。\n「飛行班のゴルドン兵曹だ。班長からの至急電報を頼みにきた。早くとおしてくれ」\n「なんだゴルドンだって? そんな名前の兵曹がいたかなあ」\n「うむ」とゴルドンはうなったが、「貴様、俺をからかう気か。よし、そんなら貴様のことを班長に報告してやる」\n「ちょっ、気の短い奴だ。別に疑ったわけじゃない。さあ、早くこっちへ入ればいいじゃないか」\n と、番兵は折れて出る外はなかった。\n ゴルドンと名乗る兵曹は、急足で無線室へとびこんだ。\n そのあとを見送った番兵同志の話――\n「鼻息のあらい野郎じゃないか」\n「うん、失敬千万な奴だ。雨合羽など着こんで、雨なんかちっとも降っていないじゃないか」\n 全くそのとおりであった。飛行島付近は、風は強く雲は早かったが、雨はすこしも降っていなかったのである。\n「考えてみると、あいつはどうも、変な野郎だぜ」\n といっているところへ、ゴルドン兵曹のはいって行った奥の方から、ぱんぱんぱんと、銃声が聞えた。\n「あっ、――」\n と、いいざま電灯をその方へ向けた途端に、ひゅーっと唸を生じてとんできた銃丸が、電灯に命中した。がちゃんという響。と同時に番兵はあっといってその場へひっくりかえった。そこへ奥から駈けてきた何者ともしれぬ人物が、番兵の頭をとびこえて、風のように立ち去ってしまった。\n「な、なにごとじゃ」\n と、もう一人の番兵が、暗闇の中でわめいた。\n それに少し遅れて、奥の方からどやどやとびだしてきた手提電灯のいくつ。\n「おい、雨合羽を着た男がこっちへ逃げたのだろう」\n 番兵は眼をぱちくりさせながらいった。\n「ええ、今一人誰か出てゆきました。なに、あれは曲者ですか。でも、ゴルドン兵曹だといっていましたよ、飛行班の......」\n「ばか、何をいっちょる。ゴルドンなんて兵曹が飛行島のどこにいる。あいつのために危く無線機械をこわされるところだった。いや、こっちが気がつかなければ、その前に俺たちは皆、ぱんぱんぱんとやられちまうところだった」\n「すると、今の曲者は、一たい何者だ。あの川上とか杉田とかいう日本軍人はうまく捕まったというじゃないか」\n「あのほかに、まだ日本人スパイがはいりこんだのだな」\n「そんな筈はないよ。ここで働いている奴は、国籍を厳重に洗ってある筈だ。――それにしても変だね。おお、誰か早くいって、団長閣下へ報告をしてこい」\n 突如、怪人物現る。無線室を狙ったゴルドン兵曹とは一たい何者か。\n これぞ余人でない。われ等の川上機関大尉が、ふたたび姿をあらわしたのであった。\n 杉田二等水兵が信じた如く、機関大尉は果して生きていたのだ。そうして飛行島の耳ともいうべき、通信連絡の大元である無線室を襲撃したのだ。\n 無線室襲撃には失敗したけれども、今や祖国のために何か大仕事を企てつつあることは、疑う余地はない。"
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"role": "assistant",
"content": " それにしても、死んだ筈の機関大尉が、どうして生きていたのだろう。\n 実に不思議だ。不思議だが事実である。\n これは諸君の最も知りたいところであろうが、その前に私は、まず飛行島の各所に起った奇々怪々の事件を紹介しなければならない。\n\n\n 決死の偵察\n\n\n「ああ、ひどい目にあわせやがった」\n と、倉庫係の事務員でケリーというのが、暗がりの中を、しきりに自分の頬をさすりながら、仲間の溜り場所へ帰ってきた。それは事務所につづいた休憩室兼娯楽室であった。\n「一たいどうしたんだ」\n と、仲間が、ケリーのまわりへよってきて聞く。\n「とにかく驚いたぜ。僕だから、こうして元気にかえってきたものの、君達だったら今頃は冷たくなっていたかも知れない」\n「勝手な熱をふくのは後からにせい。一たいどんな目にあってきたのだい」\n というわけで、事務員ケリーが顔をしかめながら説明したところによると、こういうことであった。\n 先ほど発せられた空襲警報により、ケリーは、倉庫にしまってある火をひきやすい薬品類にもしものことがあってはと思い、勇敢にもひとりで見まわりにでかけたのであった。\n 倉庫は一つ一つ錠をはずし、中にはいって危い薬品の上にはズックをかけたり、下の棚にうつしかえたりして、安全なように直していった。ところが第六倉庫の前へ来てみると、外そうと思った錠前がすでにはずれているではないか。いや、錠前は、なにか金鎚みたいなもので叩きつぶされていたではないか。\n「変だな、――」\n と思って、扉に手をかけようとした途端に、扉は内側からさっと開いて、中から出たたくましい手が、ぴしゃりと顔をうった。あっ、なんという乱暴なやつだと、思う間もなかった。\n 倉庫の中からとびだした黒い影は、まずケリーの手提電灯を叩き落し、かたい拳で頤を突き上げたのだ。ケリーはそのまま後へひっくりかえり、しばらく気を失っていたのであった。\n あとでようやく気がついて、頤をなでながら起きあがったときには、もはや乱暴者の姿も見えず、倉庫の扉が開きっぱなしになっているばかりだった。\n「あいつは、この倉庫でなにをしていたのだろう」\n と、ケリーは痛さをこらえ、手提電灯を持ちなおすと、倉庫の中に入ってみた。\n ところが倉庫の中は別になんの変ったところもない。妙なこともあればあるものだと思った。始終を聞いた仲間の者達は、ケリーの間抜さ加減を笑いながら、\n「――しかしケリーよ。なにか盗まれたものがあるにちがいないぜ。いまにきっと貴様は出し入れ帖の上で団長閣下にあやまることになるぜ。ふふふふ」\n「何だって――」\n とケリーが頤をおさえながら、その方へつめよると、一座はまたどっと爆笑した。\n × × ×\n その頃であった。飛行島の「鋼鉄の宮殿」に近いところから、突然ぱっと火が燃えあがった。それが一箇所ではなく、三角形に三箇所も一度に燃えあがったのだ。そのため上甲板は大騒ぎとなった。\n 警鐘が乱打される。消火班は、日本の飛行機が焼夷弾を落したのかと勘ちがいして、かけつける。\n ところが近よってみると、そこら一面に、石油がまいてあって、それが炎々と燃えあがっているのであった。\n「誰だい、こんなところに油なんかこぼしていったのは」\n と消しにかかった。するとまた別なところに、三箇所、同じように三角形に燃えだしたのであった。\n「あれ、変だぞ」\n「これじゃ、日本の飛行機に飛行島の所在を知らせるようなものじゃないか」\n「ひょっとすると、スパイの仕業かもしれないぞ」\n「なに、スパイ?」\n スパイという声に、騒ぎはいよいよ大きくなっていった。\n その最中に、突然、飛行島上から、数条の照空灯が、暗い大空に向け、ぱぱーっと竜のようにのぼっていった。\n「あっ、敵機だ」\n「どこだ」\n「あれあれ、あそこだ」\n「おや、なにか黒いものを落したぞ」\n その時、\n だだだーん、だだん、だだだーん。\n 突如として鼓膜をつんざくような烈しい砲声が起った。高射砲が飛行機めがけて火蓋を切ったのだ。\n だだだん、がんがんがん。\n あっちからもこっちからも、高射砲は砲弾を撃ちあげた。そのため約千五百メートルから二千メートルのあたりが、まるで両国の大川開きの花火のようだった。\n ところが、その次の瞬間であった。甲板のすぐ真上に、ぱらぱらぱらと弾けるような音がして、眼もくらむようなマグネシウムの大光団が現れた。その光団はしずしずと風にあおられて流れる様子だ。飛行甲板の上は、真昼のように照らし出された。日本の飛行機が、光弾を放ったのだった。\n 照空灯は、幾条も幾条も一つところへ集ってきた。二千メートル以上の上空をとんでいる日本機の翼に、照空灯が二重三重四重に釘づけになっている。\n「誰かあれを飛行機で追いかける者はいないか」\n と、司令塔の上ではリット少将がせきこんで叫んでいた。が、誰もこれに応ずる者はなかった。無理もない。味方の砲撃の間を縫って、日本機を追いかけるのは、自殺行為と選ぶところがないではないか。\n 日本機は、癪にさわるほど悠々と二千メートルの高空をぐるぐるまわっていた。高射砲弾はぱっぱっと花傘をひらいたように、日本機の前後左右に炸裂する。こんどこそは砲弾が命中して、機体はばらばらにとび散ったかと思われる。がしばらくすると煙の横から、日本機は悠々と白い腹をくっきりと現すのであった。\n 一方飛行島上の怪しい火事騒ぎは、ともかくもおさまった。高射砲弾の炸裂する数も、なんだかすくなくなってきた。なぜか日本機は、光弾を落したきりで、ほかに一発の爆弾も落さなかったのだ。\n 一所に釘づけされたようになっていた照空灯が、右に左に活溌に首をふりうごかしはじめた。監視中の日本機はどこへ行ったか、急に姿を隠してしまったのである。\n\n\n 怪しき記号\n\n\n 日本機の姿が見えなくなってしまうと、飛行島の人々は、ほっと息をついて、おたがいの顔を見合わせた。\n「あれはやはり日本の飛行機だったのかなあ」\n「もちろん、日本の飛行機でなければ、どこの国の飛行機があんな風に大胆にやってくるものか」\n「そうだ、やっぱり日本の飛行機だよ。あのとき、怪しい男が無線室を襲ったり、それから数箇所に火の手があがったりしたではないか。この飛行島に日本のスパイが忍びこんでいて、あの飛行機と何か連絡があったのではないだろうか」\n 全くそのとおりであった。無線室を襲って失敗したのも川上機関大尉であったし、最上甲板に油を流して火をつけたのもまた川上機関大尉の仕業だったのだ。\n 川上機関大尉は、空襲と聞くより早く、油類倉庫に忍びこみ、石油の入った缶とペンキの缶を持ちだしていたのだ。油を流して火をつけたことは、飛行島の人々をさわがせた。しかし人さわがせのためだけではなかったとは、後になってはじめて分かった。\n それにしても川上機関大尉はあの夜監視隊員に追跡された時、どうして危難をまぬかれたのだろう。そして、どうして、又いつのまに、似てもつかぬ半裸体の中国人と入れ替ったのだろう。\n それは一応不思議に思えるが、実はなんでもないことだったのだ。諸君は彼が監視隊に追いつめられ、やむなく中甲板の高い塀を越して舷に出たとき、そこに寝ていた半裸体の中国人労働者があわてて起きあがったことを覚えているだろう。彼の労働者は暑くるしい夜をそこに寝ころんで涼んでいたのだ。そこへ川上機関大尉が頭の上から降ってきたのでびっくりして、立ちあがったのだ。その拍子に足をふみはずして海中に墜ちていったのが運のつきであった。下の暗い海面にドボーンという水音を聞いた川上機関大尉は、とっさに身をひるがえして、傍に積みあげてある鉄材のかげにかくれたのである。\n とは知らぬ監視隊員は、泡立つ水面の中心に向かって機関銃を乱射した。彼の中国人労働者は哀れにも川上機関大尉の身替となってあえない最期を遂げたのである。\n この機転が、それからどんなに監視隊員の眼をくらましたか、又杉田二等水兵がリット少将の面前で首実検した屍が、誰のものであったかは、最早語るまでもないであろう。\n それにしても一身を国に捧げて正しい道を歩く者には、こうした天の助があることを思わぬわけにはゆかない。\n × × ×"
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 彼はどっしり掩いかぶっている雨催いの空を気に病みながらもゆっくりと路を歩いていた。そうして水溜のように淡く耀いている街燈の下に立止るたびに、靴の上へ積った砂埃を気にするのであったが、彼自身の影さえ映らない真暗な路へさしかかると、またしても妙に落着きを装うて歩きつづけるのであった。\n 彼がようやく辿り着いたこの路は、常に歩きつけているなじみの場所である。そうしてたった今、彼の歩いている左手には、二軒の葬儀社が店を構えている。しかしいまはそこが見えない。そうしてその一軒の大きい方の店頭には、いつも一匹の黒斑の猫が頸も動かさずに、通りの人人を細目に眺めながら腹這って寝ている。彼はその猫の鳴き声を聞いたことがただの一度もない。若しかしたなら彼女は瘖かも知れない。たとい彼が路傍の一人の男としても、そうたびたび歩き合わせているうちには、一度ぐらい彼女の鳴き声を耳にしてもいい筈である。そうして必ず日に一度、彼はその店の筋向いの三角卓子のあるカフェのレコードに聞き惚れて、そこに立ちつくすこともあるからには、その猫の声を味わっていなければならない。\n 彼は常に思い惑うていることを、またしても気に病むまま想い浮べているうちに、一軒の古本屋の前を通り過ぎていた。赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、歪んだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のように疼いている。その標的は交番所である。彼は急に足早に歩調を刻んだ。この時突然、彼には二間とは間隔のない路巾が、彼自身の躯を圧しつぶすように、同じ速度を踏んで、左右から盛り上り盛り上り逼って来るように感じられた。彼は右へ曲ろうとするはずみに、ちらりと交番所のなかを窃み見した。鬚のない若い警官が、手にペンを握ったまま入口へ乗り出して、彼の様子をじっと※(目+嬪のつくり)めていた。彼の瞳には、開かれたままの白い帖簿が映った。彼は瞬間に心持ち歩み悩んで、その足並みを崩さず、交番所に隣接した郵便局へ心を向けていた。\n「金......金......金......」\n 彼は胸のうちで呟いて、後ろを振り返ってみた。警官の土龍のような眼は、突き出る首とともに彼の後姿を追うていた。彼は自分が踏み早める靴音に驚いていた。そうして彼はまっしぐらに路地から路地を潜り抜けながら、墨色の深い杉森の寺院のなかを縫うて、ようやく煙草店のある路地へ忍び込み、そこから宿の前へ跫音を止めた。\n この宿の戸は夜中でも錠の必要がないほどやかましくがたつくので、彼はその開閉のたびに宿の人人へ大へん気の毒な思いをする。それにいまは決して必要もなさそうな振鈴が、軋む戸とともにその倍以上も鳴り響くので一層気がひけていらいらとさせられる――しかしいまはそんな臆病な気持に捉われていてはいけない。絶対絶命の時ではないか。どんな種類の犯人でも、一度は逃げのびられるだけは逃げのびたいと願うものである。たったいまの彼の心もそれと少しの変りもない。交番所に隣接した郵便局には、女事務員が四人も働いている。そうして彼女等に雑って一人の老人がいるに過ぎない。そこで、彼は夜中こっそりとこの郵便局へ忍び込んで、金庫をねじあける、そうしてそこにある金銭をみな持ち出す。これがうまうまと成就すれば、彼はこの金銭を自分の部屋の火鉢の灰の底へ掩蔽してしまう。この思いつきは、彼にとっては一つの誇りであるとさえ思える。そうして彼はそしらないふうを装うて小金から費い出す。彼が先日以来気まぐれに考えていたことを、あの鬚のない若い警官がちゃんと飲み込んでいる。彼の胸のなかを伝心的に見破っている。警官は彼の考えをすっかりと胸のなかに感じている。彼は怕しいと思った。\n 彼は狼狽てない態度で部屋のなかを見廻した。部屋のなかの疲れたような静寂は、急に室内の壁の表面へ喧噪な響を波打ちはじめた。彼は歩き廻っていた。\n 彼は捕えられて法廷へ引き出される。彼は考え続けた。そうしてその裁判の結果、彼は七年ぐらいの刑を受ける。こんな凡俗な智慧を誰が彼へくれたのか。こんな放肆な精神を誰が彼へ授けたか。こんなものと無二の仲間になるように誰がしたのか。この不幸な考えは、彼を三倍も四倍もの苦みに悩ませる。しかし彼はこの親密な関係から離れることが出来ないのである。彼の人生へ対する役割は、こうした薄命な悲惨と煩悶との桎梏であろうか。彼はしばしの慰安もこの世に持てない。彼は文字通り本当に棄てられて途方に暮れている。否、彼は人生から放逐されてしまった。それというのも、彼自身の艀が大船に寄りそこねたその反動で、彼は艀のまま押し流されている。戻るに戻れない羽目に彷徨うている。嘗て彼は神のような心を持っていたが、捉えるべき機会を捉え損ねた。そうして彼は自分自身にすら予想されずにいたその割当てられた役を、後生大事に演ずる機会を永久に失ってしまった。それともこうなったことが、彼自身の役割であったのであろうか。果してどうであろうか。\n それに彼が貧乏に見舞われてからは、一層外部との調子が不和になりはじめた。そうして彼の一人の親友を除いた他の債権者は、彼をあらゆることで侮辱した。彼はあらゆる誘惑の罠に嵌って呪われてしまった。彼自身は不義者であり、悪徳の保持者でもあるかのように言いふらされた。心ある人間であったなら、疾うの昔に自殺していた筈であるとさえ言われた。\n「自殺!」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 彼はこの言葉を幾度か彼自身の胸のなかへ叫び返した。そうしてこの精神の力を実感に求めようと藻掻いた。彼には自分で無限の力と信じていた、このことが出来かねた。しかし彼は他の人人が毒薬や兇器で自殺したように毎秒毎分、時という輪廓のないもので自殺していた。――否、自殺した。そうして彼のこの考えは、友人を訪問している最中とか、散歩の折とかに、奇妙にも失恋の反撃のように飜ってしまうのであった。\n 彼はこの自殺の考えから連想される彼自身の本能が、直ちに一種の熱情に変えられることを感じた。これは彼が人間生活へ対して知り得た最初の熱情であった。彼はこの熱情のために自分の躯が、希望で心から顫えるのを知った。しかし彼自身の周囲には、一種の羨望と卑屈と冷淡と臆病とで組合せられた多角型の隠謀が散在していた。彼は自分の息を吐くにいい生活のなかに、かくも重苦しい重荷の存在のあることを知った時、溜息の生活に過ぎない彼自身の生活を充すものは何一つなくなってしまったと思った。彼の熱情は、一瞬の閃きすら耀かさずに消えようとしていた。彼は神のような心を抱きながら、或機会をとり逃がそうとしていた。しかし彼は自分の内心を疑えなかった。そうして彼は何らの懸念も危険もなくなるに違いないと知った。彼は宗教を知らない、思想を知らない、これらの相手になれる彼自身ではない――\n「おれが相手として望む者はおれ自身に外ならないではないか!」\n 彼は血の滲み出るように叫んだ。この時、彼自身の内心は決定した。彼は自分の胸を平手打ちして悦んだ。しかしこの悦びとても、瞬間にしてその小波を曳き去ってしまった。同時に彼は自分で自分を揶揄しているのではないかと疑った。そうして彼には自分の考えと感情とが、毒悪と憎怨とに制限されているのではないかと、呪わしく思われないこともなかった。そうして彼は虚無的な憤恨を抱いているかたわら不正型な意志を持っていることを知った。\n「とうとう遂行した?」\n 彼は他人の言動のことのように自分自身を振り返ってみた。そうして彼は徐ろに巻煙草へ火をつけて喫みはじめた。彼の考えは吐き出される煙草の烟のように渦巻いた――彼は刑事に尾行されている――彼は郵便局の現金を盗み出したのであろうか。否、決してそのようなことは全然ない筈である。それにしても彼は自分自身が怕しいと思った。彼は妙な気持からこっそりと部屋じゅうを歩いた。そうしてかなり苛立つ気持が落着いたと思った時、彼は服を脱ぎはじめた。彼はワイシャツを脱ごうとして、右の方のカフスボタンが紛失しているのを知った。きょう、彼は他人と喧嘩はしなかったし、また酒を飲みもしなかった――こんなものの相手になれる彼自身ではない――それなのに、どうしてこのボタン一つだけが見えなくなったのであろうか。けさ、ちゃんと嵌め込んだカフスボタンを失ったと思えばいやな気持になった。部屋じゅうを見たところで落ちてはいない。それとも途中でおとしてしまったのであろうか。それにしては余りに物足りない。こう考えたからと言って自慢になるものではないが、若しかしたなら彼は疾うにあの郵便局へ闖入していたのかも知れない。彼は自分の心にはそんなことのなかったように肯定させて置いたにも拘らず――それとも若しかしたなら彼自身ではない別の人が、彼の胸のなかをすっかり読み知っていて、彼が決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。そのためにその人は、彼のカフスボタンをいつの間にかこっそりと盗み取ったのかも知れない。そのボタンがその人に必要なことは疑いもないことである。その人は彼自身が考えた盗みをするために彼のカフスボタンを盗んだ。そうしてその人はカフスボタンを故意に犯罪の現場へ捨てる心であろう。すでにその人はその盗みをしてしまったかも知れない。その人とは誰であろう? あの若い警官であるかも知れない。警官であろうと、盗みをしないとは限らない。警官などはうまい口実を見つけるにいい境遇にある。それとも彼自身の第二体が、彼の決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。その時、そのドッペルゲンゲルは彼自身である本体には知れないようにと、余り急ぎ過ぎたので、カフスボタンをうっかりしているうちに、現場へ取りおとしたのかも知れない。それとも彼等は彼のこうまで落魄している境遇へつけこんで、同盟して彼一人を奈落の底へ突きおとすのであるかも知れない。そうして彼はたった一つのカフスボタンのために、冤罪の悲運に陥るのであろう。それにしても先刻、あの警官の睨んだ眼はなんと怕しいことであろう。その眼光は、或確さを持っているのみでなく、更に人の心を射るような或もので輝いていた。それは警官を注意してみる者にとっては、或不安であると同時に冷淡の表示でもある。あの眼は、単に夜中ただ一人、路傍を歩き廻る者を穿鑿吟味するだけのものではない。あの眼の底には、隠れた意味が含まれている。警官とそれを見る者の相手との外には、解らない謎が含まれている。その説明は、事実が暴露しない以上第三者の誰にも解らないのである。しかしその二人だけなる者は、一人の警官を中心にして幾十人幾百人おるか知れない。そうして彼は、恥かしいながら、そのうちの一人であると思ってみてもいいのであるが、すでに行われてしまったかも知れないその犯罪には、何らの関係もない。否、しかし虚空のなかへ徐ろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。彼は自分で盗みを考えたが、何者かはっきりと解らない者が、それをものの見事に盗み取った。その人は彼の考えを横領してしまった。その人は彼の盗心を盗み去った。そうして彼は二重に苦しまなければならなくなった。何故であろう? その人は彼自身のカフスボタンを竊取してしまったから。\n この苦悩は、彼の脳裡のなかへ黒雲の旋風を捲き起した。彼が予想するすべては、彼自身の最期を感じさせる。電燈などは点っていても消えていても一向差支えなくなった。そうして怕しい静さは室内に溢れはじめた。その静寂のうちに彼を見張っている何者かが潜んでいそうである。その者は彼の心臓の動悸を数えている。彼は自分がもう堪えられなくなった。\n 彼は立ち上ると蹣跚いて行って、北窓をがらりと開けた。その刹那、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのように掠められた。彼は眼が眩んだように感じた。その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。彼がこう思えば当然であると会得出来る。しかしこれは莫迦莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇である。この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博者は、素人である相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。これは兎も角として、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するために外ならない。人間は一種のマニアのポーズを持っている。そのために彼等は人間らしく見えるのである。そうして彼等は人生の矛盾を中和して行く技巧家である。彼は何か纏めてみようと企てていたが、それは全く無益のことであった。それどころではない。彼は自分の陰謀者のたましいを見た。この怕しさ、この苦しさ、この快さは、彼自身を悲しませなかった。そうしてその陰謀者が逃げて行ったということは愉快に感じられた。こんな思いに耽りながら彼はひょっくりと、十間とは離れていない杉森の間を透して、北向いにある墓地の最初の列の石塔が、部屋から洩れる電燈に、その半面を鈍く輝かしているのを見た時、自分のたましいがひやりと慄いたのを感じた。そうして彼は日毎に見馴れすぎているこの墓地が、常と違って振向いても見たくなかったので、直ぐカーテンを引いた。カーテンの環はかすかに軋んで、その響を消したと同時に、セピア色の染のはいったカーテンは、彼の眼を外界から遮ってしまった。カーテン自身がひとりでそんな作用をしたかのように。\n 彼は自分の耳朶の暑く燃えるように火照るのを感じた。誰かが――確かに彼の陰謀者であるに違いない者が、彼の悪い噂をしているに相違ない。これは彼にとって、彼自身が殺されることよりもつらいのである。そうして実際、真実の出来事は、そうしてまた真実の出来事になり得る可能性のあるものは、弾けるような力強さで、こうした観念を無意のうちにすら呼び起さしめるものである。これは一種の体流的の作用であるに違いはない。彼はどうしてもそう信じない訳には行かない。それともそれは、彼自身のように、たましいの影さえ抱かないようになった者が、常に心を苛立たせて、神経過敏になっているその役にも立たなくなった焦噪の証拠を、何か別の事物へなすりつけようとする僻み根性であろうか。たといそれが僻み根性であろうとも、彼は自分でひととおりは考えてみなければならない。――\n「世には軽蔑というものがある!」\n 彼はペンで書きつけるように、心へ言った。彼の躯を掩うものは、全くその軽蔑に外ならなかった。何ものとも名ざされない者が、彼を軽蔑し侮辱しているというこの無作法な事実があればこそ、彼はそれを感じて気を腐らし、最後には自分へ向ってさえ怒り出すのである。否、その軽蔑その物は、それ自身の価値を持っているのだからそれでもいいが、彼自身に堪えられないことは、この軽蔑をもって、人を踏んだり蹴ったりするように、寄り集って来ては慰みものにして痛快がっていることであった。その侮辱と嘲弄とは、彼にしてもどうして感じない訳には行かない。それは彼自身の敵である。それともそれは、彼自身の幻影であろうか。彼はこの明るい日の下に自己欺瞞に陥っているのであろうか。そうすればそれは、二重の欺瞞に変えられないとも限らない。彼は単にその幻覚に酔いつぶれているのであろうか。彼は自分の不幸に惑いながらも、「不幸と鉄の三解韻格」を謳った人の真似をしようとしているのであろうか。しかしそれを謳ったジョン・カーターその人は、泣ごとや不平をこぼしたことすらなかったではないか。その人は笑い声一つさえたてなかったではないか。紙屑とボール紙との貼り合せであると思っていたこの世が、その人には神の烙印と見えたのであろうか。それにしても、彼は泣きごとや不平をこぼしたことが、果してあったであろうか。それが若しもあったとするなら、馬鹿気たことではあるまいか。二重の欺瞞に魅せられて憤恨を蹴散らすとすれば、彼は本当の道化者と何らの変りもないではないか。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「やっぱり、男は、男の事業慾というものに同情するの」\n と訊くと、逸作は苦しみに締めつけられたように少し狂乱の態とも見えるほどあたり関わず切ない声を振り絞った。\n「いや、そうじゃない。そうじゃない」\n そして、わたくしの肩をぐさと掴み、生唾を土手の若草の上に吐いて喘ぎながら言った。\n「おやじが背負い残した家霊の奴め、この橋くらいでは満足しないで、大きな図体の癖に今度はまるで手も足もない赤児のようなお前によろよろと倚りかかろうとしている。今俺にそれが現実に感じられ出したのだ。その家霊も可哀そうならおまえも可哀そうだ。それを思うと、俺は切なくてやり切れなくなるのだ」\n ここで、逸作は橋詰の茶店に向って水を呼んで置いてから、喘ぎを続けた。\n「俺が手の中の珠にして、世界で一番の幸福な女に仕立ててみようと思ったお前を、おまえの家の家霊は取戻そうとしているのだ。畜生ッ。生ける女によって描こうとした美しい人生のまんだらをついに引裂こうとしている。畜生ッ。畜生ッ。家霊の奴め」\n わたくしの肩は逸作の両手までがかかって力強く揺るのを感じた。\n「だが、ここに、ただ一筋の道はある。おまえは、決して臆してはならない。負けてはならないぞ。そしてこの重荷を届けるべきところにまで驀地に届けることだ。わき見をしては却って重荷に押し潰されて危ないぞ。家霊は言ってるのだ――わたくしを若しわたくしの望む程度まで表現して下さったなら、わたくしは三つ指突いてあなた方にお叩頭します。あとは永くあなた方の実家をもあなた方の御子孫をも護りましょう――と。いいか。苦悩はどうせこの作業には附ものだ。俺も出来るだけ分担してやるけれどお前自身決して逃れてはならないぞ。苦悩を突き詰めた先こそ疑いもない美だ。そしてお前の一族の家霊くらいおしゃれで、美しいものの好きな奴はないのだから――」\n 読書もそう好きでなし、思索も面倒臭がりやの逸作にどうして、こんないのちの作略に関する言葉が閃めき出るのであろうか。うつろの人には却っていのちの素振りが感じられるものなのだろうか。わたくしはそれにも少し怖れを感じたけれども、眼の前の現実に襲って来た無形の大磐石のような圧迫にはなお恐怖を覚えて慄え上った。思わず逸作に取縋って家の中で逸作を呼び慣わしの言葉の、\n「パパウ! パパウ!」\n と泣き喚く顔を懸命に逸作の懐へにじり込ませていた。\n「コップを探してましたもんでね、どうも遅くなりました」と、言って盆に水を運んで来た茶店の老婆は、逸作が水を飲み干す間、二人の姿をと見こう見しながら、\n「そうですとも、娘さんとお婿さんとでたんと泣いてお上げなさいましよ。それが何よりの親御さんへのお供養ですよ」\n と、さもしたり顔に言った。\n 他のときと場合ならわたくしたちの所作は芝居染みていて、随分妙なものに受取られただろうが、しかし場合が場合なので、棺輿の担ぎ手も、親戚も、葬列の人も、みな茶店の老婆と同じ心らしく、子供たち以外は遠慮勝ちにわたくしたちの傍を離れていて呉れて、わたくしたちの悲歌劇の一所作が滞りなく演じ終るまで待っていて呉れた。そして逸作が水を飲み終えてコップを盆に返すのをきっかけに葬列は寺へ向って動き出した。\n 菩提寺の寺は、町の本陣の位置に在るわたくしの実家の殆ど筋向うである。あまり近い距離なので、葬列は町を一巡りしたという理由もあるが、兎に角、わたくしたちは寺の葬儀場へ辿りついた。\n わたくしは葬儀場の光景なぞ今更、珍らしそうに書くまい。ただ、葬儀が営まれ行く間に久し振りに眺めた本尊の厨子の脇段に幾つか並べられている実家の代々の位牌に就いて、こどものときから目上の人たちに聞かされつけた由緒の興味あるものだけを少しく述べて置こうと思う。\n 権之丞というのは近世、実家の中興の祖である。その財力と才幹は江戸諸大名の藩政を動かすに足りる力があったけれども身分は帯刀御免の士分に過ぎない。それすら彼は抑下して一生、草鞋穿きで駕籠へも乗らなかった。\n その娘二人の位牌がある。絶世の美人だったが姉妹とも躄だった。権之丞は、構内奥深く別構へを作り、秘かに姉妹を茲に隠して朝夕あわれな娘たちの身の上を果敢なみに訪れた。\n 伊太郎という三四代前の当主がある。幕末に際し、実家に遁入して匿まわれた多くの幕士の中の一人だが、美男なので実家の娘に想われ、結婚して当主に直った人であった。生来気の弱い人らしく、畢生の望みはどうかして一度、声を出して唄を謡ってみたいということであった。或る人が彼に、多摩川の河原へ出て人のいないところで謡いなさいと進言した。伊太郎は勧めに従ってひとり河原に出てはみたものの、ついに口からよう謡い出ずに戻って来た。\n 蔵はいろは四十八蔵あり、三四里の間にわが土地を踏まずには他出できなかったという。天保銭は置き剰って縄に繋いで棟々の床下に埋めた。こういう逞しい物質力を持ちながら、何とその持主の人間たちに憐れにも蝕まれた影の多いことよ。そしてその蝕まれるものの、また何と美しいものに縁があることよ。\n 逸作はいみじくも指摘した「おまえの家の家霊はおしゃれで美しいもの好きだ」と。そしてまた言った。「その美なるものは、苦悩を突き詰めることによってのみその本体は掴み得られるのだ」と。ああ、わたくしは果してそれに堪え得る女であろうか。\n ここに一つ、おかのさんと呼ばれている位牌がある。わたくしたちのいま葬儀しつつある父と、その先代との間に家系も絶えんとし、家運も傾きかけた間一髪の際に、族中より選み出されて危きを既倒に廻し止めた女丈夫だという。わたくしの名のかの子は、この女丈夫を記念する為めにつけたのだという。しかも何と、その女丈夫を記念するには、相応わしからぬわたくしの性格の非女丈夫的なことよ。わたくしは物心づいてからこの位牌をみると、いつもこの名を愛しその人を尊敬しつつも、わたくし自らを苦笑しなければならなかった。\n\n\n 読経は進んで行った。会葬者は、座敷にも椽にも並み余り、本堂の周囲の土に立っている。わたくしは会葬者中の親族席を見廻す。そしてわたくしは茲にも表現されずして鬱屈している一族の家霊を実物証明によって見出すのであった。\n 北は東京近郊の板橋かけて、南は相模厚木辺まで蔓延していて、その土地土地では旧家であり豪家である実家の親族の代表者は悉く集っている。\n その中には年々巨万の地代を挙げながら、代々の慣習によって中学卒業程度で家督を護らせられている壮年者もある。\n 横浜開港時代に土地開発に力を尽し、儒学と俳諧にも深い造詣を持ちながら一向世に知られず、その子としてただ老獪の一手だけを処世の金科玉条として資産を増殖さしている老爺もある。\n 蓄妾に精力をスポイルして家産の安全を図っている地方紳士もある。\n だが、やはり、ここにも美に関るものは附いて離れなかった。在々所々のそれ等の家に何々小町とか何々乙姫とか呼ばれる娘は随分生れた。しかし、それが縁付くとなると、草莽の中に鄙び、多産に疲れ、ただどこそこのお婆さんの名に於ていつの間にか生を消して行く。それはいかに、美しいもの好きの家霊をして力を落させ歎かしめたことであろう。\n\n\n 葬儀は済んだ。父に身近かの肉親親類たちだけが棺に付添うて墓地に向った。わたくしはここの場面をも悉しい説明することを省く。わたくしは、ただ父の遺骸を埋め終ってから、逸作がわたくしの母の墓前に永い間額づき合掌して何事かを語るが如く祈るが如くしつつあるのを見て胸が熱くなるのを感じたことを記す。\n 母はわたくしを十四五の歳になるまで、この子はいじらしいところが退かぬ子だといって抱き寝をして呉れた。そして逸作はこの母により逸早く許しを与えられることによってわたくしを懐にし得た。放蕩児の名を冒しても母がその最愛の長女を与えたことを逸作はどんなに徳としたことであろう。わたくしはただ裸子のように世の中のたつきも知らず懐より懐へ乳房を探るようにして移って来た。その生みの母と、育ての父のような逸作と、二人はいまわたくしに就て何事を語りつつあるのであろうか。\n わたくしはその間に、妹のわたくしを偏愛して男の気ならば友人の手紙さえ取上げて見せなかった文学熱心の兄の墓に詣で、一人の弟と一人の妹の墓にも花と香花をわけた。\n その弟は、学校を出て船に努めるようになり、乗船中、海の色の恍惚に牽かれて、海の底に趨った。"
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"role": "assistant",
"content": " その妹は、たまさか姉に遇うても涙よりしか懐かしさを語り得ないような内気な娘であった。生よりも死の床を幾倍か身に相応わしいものに思い做して、うれしそうに病み死んだ。\n 風は止んだ。多摩川の川づらには狭霧が立ち籠め生あたたかくたそがれて来た。ほろほろと散る墓畔の桜。わたくしは逸作の腕に支えられながら、弟の医者にちょっと脈を検められ、「生きの身の」と、歌の頭字の五文字を胸に思い泛べただけで急いで帰宅の俥に乗り込んだだけを記して、早くこの苦渋で憂鬱な場面の記述を切上げよう。\n\n\n「奥さまのかの子さーん」\n 夏もさ中にかかりながらわたくしは何となく気鬱加減で書斎に床は敷かず枕だけつけて横になっていた。わたくしにしては珍らしいことであった。その枕の耳へ玄関からこの声が聞えて来た。お雛妓のかの子であることが直ぐ思い出された。わたくしは起き上って、急いで玄関へ下りてみた。お雛妓のかの子は、わたくしを見ると老婢に、\n「それ、ごらんなさい。奥さまはいらっしゃるじゃありませんか。嘘つき」\n と、小さい顎を出し、老婢がこれに対し何かあらがう様子を尻眼にかけながら、\n「あがってもいいでしょう。ちょっと寄ったのよ」\n とわたくしに言った。\n わたくしは老婢が見ず知らずの客を断るのは家の慣わしで咎め立てするものではありませんと雛妓を軽くたしなめてから、「さあさあ」といってかの子を二階のわたくしの書斎へ導いた。\n 雛妓は席へつくと、お土産といって折箱入りの新橋小萩堂の粟餅を差し出した。\n「もっとも、これ、園遊会の貰いものなんだけれど、お土産に融通しちまうわ」\n そういって、まずわたくしの笑いを誘い出した。わたくしが、まあ綺麗ねと言って例の女の癖の雛妓の着物の袖を手に取ってうち見返す間に雛妓はきょう、ここから直ぐ斜裏のK――伯爵家に園遊会があって、その家へ出入りの谷中住いの画家に頼まれて、姐さん株や同僚七八名と手伝いに行ったことを述べ、帰りにその門前で訊くと奥さまの家はすぐ近くだというので、急に来たくなり、仲間に訣れて寄ったのだと話した。\n「夏の最中の園遊会なんて野暮でしょう。けど、何かの記念日なんだから仕方ないんですって。幹事さんの中には冬のモーニングを着て、汗だくでふうふう言いながらビールを飲んでた方もあったわ」\n お雛妓らしい観察を縷々述べ始めた。わたくしがかの女に何か御馳走の望みはないかと訊くと、\n「では、あの、ざくざく掻いた氷水を。ただ水というのよ。もし、ご近所にあったら、ほんとに済みません」\n と俄に小心になってねだった。\n わたくしの実家の父が歿くなってから四月は経つ。わたくしのこころは、葬儀以後、三十五日、四十九日、百ヶ日と過ぐるにつれ、薄らぐともなく歎きは薄らいで行った。何といっても七十二という高齢は、訣れを諦め易くしたし、それと、生前、わたくしが多少なりとも世間に現している歌の業績を父は無意識にもせよ家霊の表現の一つに数えて、わたくしは知らなかったにもせよ日頃慰んでいて呉れたということは、いよいよわたくしをして気持を諦め易くした。勿論わたくしに取ってはそういう性質の仕事の歌ではなかったのだけれども。それでも、まあ無いよりはいい。\n で、その方は気がたいへん軽くなった。それ故にこそ百ヶ日が済むと、嘗て父の通夜過ぎの晩に不忍池の中之島の蓮中庵で、お雛妓かの子に番えた言葉を思い出し、わたくしの方から逸作を誘い出すようにして、かの女を聘げてやりに行った。「そんな約束にまで、お前の馬鹿正直を出すもんじゃない」と逸作は一応はわたくしをとめてみたが、わたくしが「そればかりでもなさそうなのよ」と言うと、怪訝な顔をして「そうか」と言ったきり、一しょについて行って呉れた。息子の一郎は「どうも不良マダムになったね」と言いながら、わたくしの芸術家にしては窮屈過ぎるためにどのくらい生きるに不如意であるかわからぬ性質の一部が、こんなことで捌けでもするように、好感の眼で見送って呉れた。\n 蓮中庵では約束通りかの女を聘んで、言葉で番えたようにかの女のうちで遊んでいる姐さんを一人ならず聘んでやった。それ等の姐さんの三味線でかの女は踊りを二つ三つ踊った。それは小娘ながら水際立って鮮やかなものであった。わたくしが褒めると、「なにせ、この子の実父というのが少しは名の知れた舞踊家ですから」と姐さん芸妓は洩した。すると、かの女は自分の口へ指を当てて「しっ」といって姐さんにまず沈黙を求めた。それから芝居の仕草も混ぜて「これ、こえが高い、ふなが安い」と月並な台詞の洒落を言った。\n 姐さんたちは、自分たちをお客に聘ばせて呉れた恩人のお雛妓の顔を立てて、ばつを合せるようにきゃあきゃあと癇高く笑った。しかし、雛妓のその止め方には、その巫山戯方の中に何か本気なものをわたくしは感じた。\n その夜は雛妓は、貰われるお座敷があって、わたくしたちより先へ帰った。夏のことなので、障子を開けひろげた窓により、わたくしは中之島が池畔へ続いている参詣道に気をつけていた。松影を透して、女中の箱屋を連れた雛妓は木履を踏石に宛て鳴らして帰って行くのが見えた。わたくしのいる窓に声の届きそうな恰好の位置へ来ると、かの女は始めた。\n「奥さまのかの子さーん」\n わたくしは答える。\n「お雛妓さんのかの子さーん」\n そして嘗ての夜の通り、\n「かの子さーん」\n「かの子さーん」\n こう呼び交うところまでに至ったとき、かの女の白い姿が月光の下に突き飛ばされ、女中の箱屋に罵られているのが聞えた。\n「なにを、ぼやぼやしてるのよ、この子は。それ裾が引ずって、だらしがないじゃありませんか」\n はっきり判らぬが、多分そんなことを言って罵ったらしく、雛妓は声はなくして、裾を高々と捲り上げ、腰から下は醜い姿となり、なおも、女中の箱屋に背中をせつかれせつかれして行く姿がやがて丈高い蓮の葉の葉群れの蔭で見えなくなった。\n その事が気になってわたくしは一週間ほど経つと堪え切れず、また逸作にねだって蓮中庵へ連れて行って貰った。\n「少しお雛妓マニヤにかかったね」\n 苦笑しながら逸作はそう言ったが、わたくしが近頃、歌も詠めずに鬱しているのを知ってるものだから、庇ってついて来て呉れた。\n 風もなく蒸暑い夜だった。わたくしたち二人と雛妓はオレンジエードをジョッキーで取り寄せたものを飲みながら頻りに扇風器に当った。逸作がまた、おまえのうちのお茶ひき連を聘んでやろうかというと、雛妓は今夜は暑くって踊るの嫌だからたくさんと言った。\n わたくしが臆しながら、先夜の女中の箱屋がかの女に惨たらしくした顛末に就て遠廻しに訊ねかけると、雛妓は察して「あんなこと、しょっちゅうよ。その代り、こっちだって、ときどき絞ってやるから、負けちゃいないわ」\n と言下にわたくしの懸念を解いた。\n わたくしが安心もし、張合抜けもしたような様子を見て取り、雛妓は、ここが言出すによき機会か、ただしは未だしきかと、大きい袂の袖口を荒掴みにして尋常科の女生徒の運針の稽古のようなことをしながら考え廻らしていたらしいが、次にこれだけ言った。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "一\n\n「親分、世の中はだんだん悪くなって来ますね」\n ガラッ八の八五郎は妙なことを言い出しました。鼻毛を抜いて、手の甲に一本ずつ植えて、それを、畳の上でプーッと吹くといった、太くて粗い神経の持主の言葉ですから、この――世の中が悪くなった――と言ったところで、大した真剣味はありません。\n「たいそう考えちゃったね。何が一体悪くなったんだ」\n 平次は日本一の機嫌でした。手掛けた事件は全部片が付いたし、女房のお静は若くて綺麗だし、秋の陽は申分なく晴れたし、一年三百六十五日、こんな好い心持の日は滅多にあるものではありません。\n「第一に米が高え」\n ガラッ八は不器用らしく指を折りました。\n「可笑しなことを言うぜ。米の高えのを気にするようになれば、人間も一人前だ――手前なんざ、たった一人口で、下の婆さんに炊いて貰っている身体だ。どんなに暴れ食いをやったって一日一升とは食う道理はねえ」\n「仰せの通りだが、湯へ入っても、髪結床へ行っても、米の高え話を聴かされると、あっしのような不自由を知らねえ人間も、ツイ人付き合いに、同じせりふが言ってみたくなるじゃありませんか。――憚りながら米なんざ、両に一升したって驚く八五郎じゃねえ」\n「水ばかり呑んでいる積りなら気が強い――とね」\n「交ぜっ返しちゃいけねえ。親分、ところで次の一つは」\n「女房の来てのねえことじゃあるまいね。この節は女の子の相場も高くなったよ」\n「そんな間抜けなものは要らねえ――憚りながら、女房と心張棒には当分用事のねえ世帯だ」\n「合の手が多過ぎるよ。その――世の中が悪くなったという、もう一つの証拠は何だ」\n 銭形平次も少し真剣でした。\n「ろくな御用がねえ事ですよ。ね親分、十手の錆なんざ、小唄にもならねえ」\n「馬鹿野郎。世の中が良くなればこそ、こちとらに仕事がなくなる道理じゃないか。罰の当った言い草だ」\n「だがね、親分。世間に悪人が根絶やしになる道理はねえから、銘々、人の目に付かないところで、そっと悪事を働いてるんじゃありませんか」\n「たいそう考え深くなったじゃないか。――だが、そんな事を言った日にゃ、この世の中が恐ろしくて、一日も暢気な顔をしちゃいられなくなるよ」\n 平次は事もなげに言いましたが、八五郎の言うことが、長い間の経験で、間違っているとは言い切れません。平次は名御用聞と言われているだけに、この世の中には、どんなに悪事を企んでいる奴が多いことか、その中のほんの一部が実行され、そして、またその一部分だけが露顕することをよく知っていたのです。\n ちょうどそんな話をしている時、この世にも不思議な事件が、向うから飛び込んで来たのでした。\n「おや、八、どうやら世直しが飛び込んで来たらしいぜ。朝っぱらから女の声だ。明神様にかこつけて、御用聞の家へ来る客は、きっと面白いネタを持込んで来るよ」\n そんな事を言っている平次は、やがてお静の案内した、四十前後の女――三崎町の桶屋、久兵衛の女房お夏というのを迎え入れました。\n「銭形の親分さん。お上の御用の多いところへ、こんな事を持込んじゃお気の毒ですが、どうぞ聴いてやって下さい――実は」\n お夏は不安そうに四方を見廻しました。縁側に近く八五郎のガラッ八が、まだ鼻毛を気にしているのです。\n「あれですかえ。お神さん」\n「............」\n「御存じの八五郎で、一本立の御用聞には違いありませんが、何を聞かしたって大丈夫ですよ」\n「親分さん、変なことがあるんですよ。――主人のへ言ったって、取り合ってくれませんから、明神様へお詣りをすると言って、出て来たんですが」\n「............」\n 平次はガラッ八と顔を見合せました。ツイ今しがた話していた、同じ文句が、お夏の口から不用意に飛出したのが可笑しかったのです。\n「変なことにもいろいろあるが、どんなことがあったんで、お神さん」\n 促し顔の平次。人の話を引出したり、堅い唇をほぐすことにかけては、稼業柄のうまさがあります。\n\n二\n\n 桶屋の女房の話は雲をつかむようでした。が、とにかく、恐ろしい呪いが、桶屋一家の上を、黒雲のように覆っていることは疑いもありません。\n「一と月ほど前から、変なことが続きます。最初は、井戸の中へ蛇や蛙の死骸を投り込む者があって弱りましたが、近所の子供の悪戯だろうと、腹を立てながらも我慢をしていると、二十日ばかり前、主人が怪我をして来ました。もっとも、ひどい闇の晩で、下水へ突っ転んだとは言っていましたが、後ろから斬られた傷で、転がって出来た傷じゃありません。袷の肩先が、斜っかけに裂けて、背中へ二三寸浅傷を受けたんですもの、勘平さんだって間違いっこありません」\n 桶屋の女房は真顔で洒落を言っております。\n「それから」\n 平次はその先を促しました。\n「隣町の外科に頼んで、塗り薬か何かで誤魔化し、幸い傷は癒りましたが、今度は――」\n「............」\n お夏はゴクリと固唾を呑みました。\n「一昨日の晩は、もう少しのところで一家焼き殺されるところでしたよ。――夜中過ぎになって、妙にキナ臭いと思って、起きてみると、庇の下に積んである、木っ葉や鉋屑に火がついて燃え上がりかけてるじゃありませんか。飛出そうとすると表もお勝手も、外から薪で心張がして、動きゃアしません。便所の窓から這い出して、稼業柄汲み置きの水をブッ掛けてようやく消しましたが、宵に一と雨来て、鉋屑が湿っていなきゃア、間違いもなく焼き殺されるところでしたよ」\n「それをどうして放っておいたんだ」\n「主人のへお届けするように言いましたが、後が面倒だから――って聴きやしません」\n「............」\n「三度目の正直で、今度は寝首でも掻かれるんでしょう。お願いですから、親分さん、主人には内証で、私ども一家に祟る人間を捜し、処刑をしないまでも、これからそんな事のないように、うんとおどかしてやって下さい」\n 世帯摺れのした四十女は、遠慮のない調子で、こう言うのでした。\n「素人のような事を訊くが――お前さんの家をうんと怨んでいる者は誰だい」\n「数え切れないほどありますよ。主人があの通りだし」\n お夏は淋しそうでした。桶屋の久兵衛は、神田では人に知られた強か者で、お上の厄介にはなりませんが、ずいぶん諸方をいやがらせて歩くたちの男だったのです。\n「そのうちでも一番、睨み合ってるのは」\n「千三つ屋の佐七ですよ。あの人は、娘のお染を滅茶滅茶にされたって、ひどく怨んでいるそうですが、それは無理ですよ。出羽屋の若旦那が、佐七の娘のお染より、私のお民坊が好きなら、仕方がないじゃありませんか」\n「なるほど」\n 三崎町の佐七と言う、野幇間のような千三つ屋が、とんだ良い娘を持っていることや、その娘が、同じ町内の千両分限、米屋では神田でも屈指と言われた、出羽屋伝右衛門の倅伝次郎に見初められたとか、捨てられたとかいう話は薄々聞いております。\n「ところで、一番親しいのは、――」\n「主人と仲が善いと言っちゃ変ですが、何事も相談に乗って下さるのは、出羽屋の旦那ですよ。向うはあの大身代、こっちは店こそ持っていますが、いわば職人で、釣合わない事この上なしですが、妙に主人のとは気が合うものか、やれ来いそれ来いと言っちゃ、三日にあげず呼出されて、時々は世帯の方まで面倒を見て下さいます」\n お夏は少し得意そうでした。\n「............」\n 平次は黙って先を促しました。お夏にとっては、物質的な援助までしてくれる出羽屋の伝右衛門は、神仏の次に有難い人だったのでしょう。\n「現に、背中を斬られた時は、分に過ぎた見舞を下すったし、昨日も主人が相談に行くと、焦がした羽目板を直せと言って、頂いたお金が五両――」\n「............」\n「もっとも、娘のお民は出羽屋さんでお世話になって、奉公人と言っても、お客分同様、近いうちに、若旦那と娶合せて下さるという、内々の話もあります。あの通り、歌舞伎役者のような若旦那ですから、娘はとんだ仕合せものですよ」\n 平次はうなずきました。この女の口裏から察すると、よほど重大な秘密が、この事件の裏に潜んでいるような気がしたのです。\n「お神さん。とにかく、後であっしが行ってみよう。久兵衛さんには、何にも言わない方がいい。お節介をして、お前さんが叱言を言われても気の毒だから」\n こう言ってお夏を帰すと、平次は八五郎に何やら囁いて、その後から出してやりました。\n\n三\n\n「親方、小火か何かあったそうだね。町内で聞込んで来たが」"
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"role": "assistant",
"content": " 平次がそう言って、ブラリと神田三崎町の桶屋の店先へ入ったのは、その日の昼過ぎでした。\n「おや、銭形の親分さん。好い塩梅に上がって、秋らしい陽気になりました。まアどうぞ」\n 日頃無愛想な久兵衛が、何を考えたか相好を崩して、上がり框の鉋屑を除けて座を作ります。\n「まアいい。店先へ御用聞が立ちはだかっちゃ悪かろうから小火の話さえ聴けばすぐ帰るとしよう」\n 小火の話を聴かなければ、店先から立ち退かないとも取れます。平次でも、相手が容易でないとみると、時々はこんな術を用いるのでした。\n「町内では何と言ってるか知りませんが、つまらないことですよ。宵の口の小雨を避けて逃げ込んだ乞食か何かが、煙草でも吸って、火の不始末をしたまま、どこかへ行ってしまったんでしょう。あの通り、羽目板を一と坪ばかり焼きましたが、なアに、親分方のお耳に入れるような事じゃありゃしません」\n 久兵衛は一向事もなげです。\n「裏も表も、外から心張がしてあったとかいうが――」\n「どこでそんな事を聞きましたえ。とんでもない、そうでなくてせえ、あっしにケチをつけたがる奴が多いんで、本当に困ってしまいますよ」\n 久兵衛は頸筋を掻いております。奥の方からはチラリと人影、たぶん女房のお夏が、二人の話に気をもんで立聴きしているのでしょう。\n「二十日ばかり前に、斬られたとか、突かれたとかいう噂もあるが」\n「御冗談で――、そんな怨みを買うあっしじゃありません。酔っ払って、下水へ転がり落ちるはずみに、雨樋の先の尖がったところで、ほんの少し引っ掻いただけなんで――」\n この調子では、何を聴いても素直には言いそうもありません。五十男の我の強そうな久兵衛を相手に、平次の戦術でも、これ以上の事を手繰れようはなかったのです。\n 家へ帰って来ると、ちょうどガラッ八も引揚げて来ました。\n「驚いたの何のって、親分」\n「どうしたんだ。八」\n「三崎町に何かあると、真っ先に飛出す佐七だ。旦那衆の機嫌を取結んで、碁も打てば将棋もさし、手踊りが器用で、祭の支度、法事、祝い事の献立、庖丁まで使えるというんだから大抵の幇間は跣足という佐七が――」\n「それに煙に巻かれて帰ったのか」\n「そんな事なら驚きゃアしませんがね。あんな陽気で口達者な男が、ろくに挨拶もしないんだから変っているでしょう」\n「ハテね」\n「佐七は、先月の末に自火を出して、五十日手錠の町内預けになっていますぜ」\n「あッ、そんな事もあったようだね」\n 平次もようやく思い出しました。千三つ屋の佐七が、自火を出し、物置一軒を焼いて、手錠をはめられたのは、もうかれこれ三十日も前のことだったのです。\n 消防機関の完備しない、保険というもののない江戸時代は、火事に対しては恐ろしく神経質で、放火は大抵火焙りか磔刑、軽くて獄門、遠島、自火でも時代によれば、たちの悪いのは入牢、闕所、極く手軽なので手錠の上町内預けぐらいにはされたのです。\n 佐七は三崎町の裏の、空地に建ててある物置を焼いただけで、人騒がせをした割には大したこともなく、幸い風のない晩で、外に過ちがなかったために五十日間手錠という、その頃の自火にしては、軽いおとがめで済みましたが、町内を泳ぎ廻って、飲むことを仕事にしている佐七にしてみれば、五十日間の手錠は、首を切られるよりもつらい処刑だったに相違ありません。\n「あっしが行くと、以ての外の機嫌で、ろくに茶も出しゃしません。佐七があんなに萎れているのを見ると、かえって可哀想になりましたよ」\n「娘は居たかい」\n「奥に寝ている様子でしたが、親父があんまり突っ慳貪なんで、気を揉んで起きて来ましたよ。少しやつれてはいたが、好い女ですね、あれは。親分の前だが――」\n「親分の前だけは余計だよ」\n「へッ、へッ」\n「話でもしたかい」\n「しましたよ」\n「どんな事を」\n「手錠の話から、磔刑の話、火焙りの話――」\n「馬鹿だな。そんな心掛だから、いつまで経っても小色一つ出来る当はねえ」\n「ヘエ――」\n「せめて芝居の話とか、着物の柄の話とか、娘に逢ったら、それ相応の話があるものだ」\n「だがね、親分。処刑の話ばかりしていると、あの佐七が怒りましたよ。――人の手錠を眺めながら、そんな話をするのは殺生だって」\n「そうだろうとも。呆れた奴だ」\n 口でそう言いながらも、平次はかなり面白そうでした。ガラッ八をやった目的は、案外その無法な調子を役立たせるためだったかも解りません。\n\n四\n\n その晩、久兵衛の娘お民は、親の家の前で殺されました。\n 出羽屋に奉公しているうち、主人伝右衛門と倅伝次郎の気に入り、近々祝言までさせようという話のあったお民です。\n 晩のお仕舞が済んだ後で、つまらない用事を思い出し、いつものように、ツイ五六軒先の町裏の、自分の家へ駆けて行ったのが、町角を曲った薄暗がりで、後ろから頸筋を斬られて打っ倒れたのです。\n 恐ろしい悲鳴に駆けつけた人達、血の海の中に、のた打ち廻る若い娘を見て、しばらくは手の下しようもありませんでした。気管から頸動脈へかけて掻き斬られ、親の久兵衛夫婦が駆けつけた時は、もう口をきくどころの沙汰ではなく、下手人の名も言わず、半狂乱の母のお夏の膝に抱かれて、そのままこと切れたのでした。\n 平次とガラッ八が駆けつけたのは、それから四半刻(三十分)ばかり経ってからで、取りあえず桶屋の奥へ担ぎ込んだお民の死体を見せて貰いました。\n 豊満な――むしろ妖艶にさえ見えたお民の顔は、すっかり血の気を失って、かえって美しく見えるくらい、母親のお夏は、線香を上げたり、涙を拭いたり、死体の髪を撫でてやったり、くどくど愚痴を言ったり、まるっきり他愛がありません。\n 父親の久兵衛は店の方で何かやっておりました。御用聞が来ても、顔を出そうともしないのは、何か仔細があるのか、それとも、大の男の泣き顔を見せるのが嫌だったのかもわかりません。\n 死体の傷は、後ろから出刃庖丁か何かで力任せにやっつけたもので、見るから凄まじい口を開いております。\n「刃物は落ちていなかったろうか」\n 平次はツイ、そんな事を言いました。傷口の恐ろしさに誘われたのでしょう。\n「出刃庖丁が死体の傍に落ちていましたよ。誰が取り込んだろう」\n お通夜に来ている近所の衆が、二人までこんな事を言います。\n 平次はガラッ八と一緒に、お民の斬られた場所へ出て見ましたが、そこには番所の提灯が一つ、番太が見張りをしておりますが、物凄い血潮の中にも、道の上にも出刃庖丁らしいものは見当りません。\n「出刃が一挺落ちていたはずだが――」\n 平次が訊くと、\n「知りませんよ、親分」\n「誰も拾ったはずはないね」\n「この通り多勢の眼がありますからね」\n 番太はそう言って四方を見廻します。なるほど夜中ながら、町内総出と言ってもいいほどで、右も左も野次馬で一杯。\n「この中に出羽屋の人は居ないだろうか」\n 平次はそっと囁くと、番太は今さら気がついたように、キョトキョト四方を見廻しながら、\n「不思議ですね。出羽屋の旦那や若旦那は顔を出さなきゃアならないはずなんだが、奉公人がチョイチョイ顔を出しても驚いたように逃げて帰りますよ」\n「有難う。それだけ解りゃいい」\n 平次はもう一度桶屋に取って返しました。\n「親分、何か証拠がないものでしょうか。煙草入とか、手拭とか、せめて足跡でも――」\n ガラッ八はそろそろ気を揉み始めます。\n「そんな気楽なわけには行かないよ。よっぽど混み入った理由がありそうだ」\n「ヘエ――」\n 二人が入って来ると、桶屋の久兵衛は相変らず店の中で、纏まりもつかぬ仕事をしておりました。娘が人手に掛って、非業の最期を遂げたと言うのに、これはまた何としたことでしょう。\n「つかぬ事を訊くようだが、死んだ娘は、親方の本当の子だったのかい」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ルゾン号の甲板からも、それが手にとるようにありありと見えた。\n「船長さん、たいへんですね」\n と、三千夫少年が、エバン船長のうでにとりすがると、\n「うむ、『鉄の水母』はおそるべき武器をもっているようじゃ」\n と、船長はうでぐみをして歯をかんだ。\n「えッ、『鉄の水母』はいまの爆撃で、沈んでしまったのではないのですか」\n「どうしてどうして、爆弾が落ちるのを待っているような『鉄の水母』ではないわい。かわいそうに、やられたかなと思った瞬間、ずぶりと水の中にもぐって、今はあのむらさきの光りが出ている海面下に爆弾をさけているのじゃ」\n と、ルゾン号の船長がいった。\n 爆撃機はつぎつぎに紫の光りのために視界をさまたげられて、爆撃を断念した。\n あまりのふしぎに、みるものは声もなく、この場の光景にのまれていた。\n\n\nスミス警部くさる\n\n\n「なにをやっているのです。ラスキン大尉」\n と、スミス警部はまっさおになって、マイクの中にどなりこんだ。\n「うむ。ざんねんながら断念のほかない」\n と、ラスキン大尉の声は悲壮だった。\n「海賊船は、わが戦隊のもっていない奇襲兵器でもって攻撃してきた。このままではだめだ。われわれは敵をあなどりすぎていた」\n「断念するというのですか。そんなことはない。まだ機関銃があるでしょう」\n「なにがあっても、もうだめだ。一たん本国に引き上げるよりほかはない」\n そういっているうちに、八機の爆撃機を撃退した「鉄の水母」は、ラスキン大尉らをあざ笑うかのように、また海面にぽっかりと浮きあがった。その小さい船体! どこからあのような恐ろしい防禦力が出るかと思うばかりである。\n「鉄の水母」の乗組員は、まったく見えない。ただ司令塔の眼から、れいの紫の光線を空にむけて放出し、さあ、これからそっちへ向けてやろうかといわぬばかりに、のこりの四機の偵察機隊の方にちらちらとおどかしをこころみている。\n「うむ、『鉄の水母』はいやに落ち着いている。ゆだんがならない」\n とルゾン号の船長は、ひとりごとをいう。\n スミスが無電室から出てきた。\n「スミス警部。あなたは偵察機に乗りうつるという話じゃったが、どうするね」\n 警部は、それが聞こえないようすをよそおって、船室の方に下りていった。それっきり、ルゾン号がフランス本国のルアーブル港につくまでというものは、一度も甲板の上に出てこなかった。\n もちろん四機の偵察機隊は、ラスキン大尉の号令一下、みごとな隊形をととのえて、英本国の空さして引き上げて行ったのであった。\n かくして、巨船クイーン・メリー号の沈んでいると思われる大西洋の波は、もとの静けさにかえった。\n 疑問のあやしい船「鉄の水母」も、いつしか夕陽にはえる美しい波まに、ずぶりと沈んでしまった。\n\n\n帰港\n\n\n ルゾン号は快速をだして、さっきもいったようにルアーブルの港に帰ってきた。それはメリー号の遭難現地をはなれてから五日のちのことであった。\n メリー号の捜索や、「鉄の水母」の怪行動や「鉄の水母」対英国空軍の戦闘などについて、その帰途、無電をもってくわしく報告しておいたので、フランス国民は、ひとりのこらずルゾン号の冒険を知っていた。だからルゾン号が入港したときには、ルゾン号を見ようという群衆が、波止場にも、ビルの屋上にも、また遊覧飛行機の上にも、いっぱいみちみちていて、さかんに旗をふったり、ハンカチをふったり、すばらしい歓迎ぶりであった。\n エバン船長以下、もとメリー号の乗組員の三千夫少年まで、全部の船員はひとまずそのすじのとりしらべをうけた。そして見たり聞いたりした、いちぶしじゅうは、部あつな記録となって、後にまで保存されることになった。\n それがすむと、こんどは、がらりとおもむきがかわって、盛大な歓迎会が開かれることになったが、それにさきだち、パリ大学からのとくべつなまねきがあって、人類世界の大問題である大西洋の怪について、ぜひともはやく知りたいということなので、まずその方に出席することにした。\n 海底超人族の研究会の席上には、その道の権威クープ博士をはじめ、れいの長良川博士の顔も見えた。\n まず、三千夫少年の、クイーン・メリー号遭難前後の話からはじまって、エバン船長の報告があり、それから更にすすんで三千夫少年を救いあげたことや、スミス警部の魚とりの大会や、英国空軍の活躍などについて、くわしく知っていることをのべたのであった。\n 博士たちは、この報告談にいちいち大きくうなずきながら、ひじょうな興味をもって聞き入っていたようである。\n 報告がすむと、クープ博士は一座をずっと見まわして、\n「どうです、皆さん。いまお聞きのように、三千夫君やエバン船長のお話は、われわれにとってじつにたとえようもない位、興味津々たるものです。ただどうも、『鉄の水母』という怪潜航艇――だと思いますが――それについては一こう心あたりがないが、大西洋の海底に超人族がすんでいることは、いまや一点のうたがいもなくなりましたぞ。これについては、もはや疑問に思う人は、ただのひとりもないことでしょう。わたしたちは三千夫君やルゾン号の方々に大いに感謝しなければならん」\n といって、博士は言葉をちょっととめ、\n「だが、ここに、海底超人族のすんでいることがたしかに証明されたということは、とりもなおさず、われわれ全人類が、いま噴火孔上に立っていることをしめすので、実にたいへんなことになりました。大噴火が起こって、われわれがはねとばされるのも、もう、まのないことでしょう。それまでに、われわれは、至急、てきとうな方法を考えて、海底超人族に対抗しなければ、手おくれになります。さあ、皆さん。ここをよく考えてください」\n\n\nメリー号の人たち\n\n\n 事務長クーパーの船室には、三人の男ががんばっていた。それは当のクーパーと、かれの秘書のマルラと、それからもうひとりは、船内でただひとり眼が見える一等運転士パイクソンであった。\n「どうも、SOSの手紙も、うまく本国へとどかなかったようだね」\n といったのはクーパー事務長だった。かれの発案でもって、「クイーン・メリー号はこの附近にいるから、たすけてくれ」という文句を、パイクソンに命じて紙や布の小ぎれに書かせ、そとにすてさせ、それをひろう船を待つことにしたのであった。それはルゾン号上のスミス警部によってひろいあげられ、世界中に報告されたのであったが、このあやしき場所にとじこめられたメリー号の乗組員たちには、そんなことがわからなかった。いつまでたってもたすけにきてくれないところを見ると、そのSOSの手紙は、誰の手にもはいらなかったものだと思いこんでいたのだった。\n「いや、まだ失望するのははやいよ。そのうちに、どこからか、たすけに来てくれるにちがいない。なにしろ、ぼくはたしかにあの手紙を五百つくって前後五回にわたって、船外に投げたんだから、そのうちのいくつかがとどかなければならんと思うんだが......」\n「うん、でも、あれからもう五日もたったからなあ」\n「悲観するのは、まだ早い」\n「悲観はしていないが、なんとかしてたすかる次ぎの方法を考え出さねば船客に申しわけない」\n 船客たちはさぞ不自由をしていることであろう。三度三度の食事も、このごろは貯蔵してあるパンとかんづめとを配給するだけだった。\n それも目の見えないボーイたちが、甲板や階段を手さぐりながら持って歩くのだから、配給するだけでも、なかなか困難なことだった。\n「本船は、ある不慮の災害にあっているものと思われますが、幹部において、力をつくして脱出方を考えていますので、船客のみなさまにおかせられましては、このさい、落ちつきをもって、われわれの努力に信頼していただきたいのでございます」\n というようなことを、くりかえし、ボーイたちにさけばせているのであった。\n 船員も船客も、さわぎたい気持をおさえて、かろうじて静かにしているという状態だった。なぜなれば、この汽船が今出あっている災難というのが、一通りや二通りの災難ではない、じつに前代未聞の稀有な出来ごとであることを感づいていたからであった。\n\n\n解毒剤\n\n\n 事務長クーパーは、じぶんひとりの心の中で、重い心配をせおっていた。\n まだ船内を十分に調べつくしてはいなかったけれど、どうやら本船の船長はどこへ行ったかゆくえが知れないようであった。船長についていた三千夫少年も、これまたどこにもすがたを見せない。もっとも三千夫については、クーパーは知らずとも、読者諸君はとくにごぞんじのはずである。しかし、三千夫がルゾン号に救われたことは、クーパーの知らないことだった。\n「おお、事務長。なんだか眼が、すこし見えてきたようですよ」\n と、秘書のマルラがとつぜん大きな声でさけんだ。\n「なに、眼が見えだしたって」\n クーパーは声のする方をふりかえった。すると、むこうに、うすぼんやりと人間の形が見えるではないか。それは久しぶりに見るマルラの姿であった。\n「おお、マルラ。見える見える。そこに、つったっているのはおまえじゃないか」\n「ああ、事務長。わたしも見えますよ。あなたはパイプをくわえておいでですね。ああ、ありがたい、眼が見えだすなんて」\n これを聞いていたパイクソンは、\n「おお、するとこれは、さっきモルフィス船医長の処方でこしらえた薬がききだしたんだな」\nと、うれしそうにいった。"
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"content": " モルフィス医師は、船内でただひとりの眼のきく男パイクソンのたすけをかりて、これぞと思う解毒剤を作ったのであった。もちろん、かれが口でいう処方どおりに、パイクソンが、たなから薬びんをさがし、はかりにかけて作ったものであった。\n その薬は、わずかに五十人分しか出来なかった。あとは薬がたりないのであった。\n クーパーの命令で、その五十人分の薬を、船を動かすに必要な船員にだけのませたのであった。お客さまの方は、あとまわしにするよりしかたがなかった。\n その薬が、いよいよききだしたのである。クーパーたちの喜びは非常なものであった。目さえいくらか見えるなら、この災難からなんとかして、逃げだす手段が見つかるだろうと思ったからであった。\n そのとき、電話のベルがチリチリチリンと鳴りだした。\n クーパーが出てみると、電気主任のエレソンの声だった。\n「おお、クーパーさん。眼がうっすら見えだしましたよ。だから、すぐ電気を起こします。まず船内の電灯からつけましょう」\n 電気主任の声も、喜びにみちみちていた。\n\n\n怪しき浮きドック\n\n\n 船内には、こうこうと電灯がかがやきだした。すると、今まで見えなかったものが、急にはっきり見えだした。モルフィス博士の薬でもって、やっと東の空が白みかけたくらいの明かるさになり、こんどは電気主任が発電機をまわして電灯をつけたので、太陽が地平線に落ちた直後くらいの、そうとうの明かるさになった。\n 光りほど、人間に元気をつけるものはない。\n たれもかれも、見ちがえるように元気づいてきた。\n クーパーは、眼の見えだした船員に命令をくだして、至急に船内をくまなく見てまわり、そして、故障か異状のあるところをしらべて報告するようにいった。\n そうしておいて、かれは一等運転士パイクソンや秘書マルラとつれだって、甲板へ出た。かれはなによりも、船のそとの風景を見たかったのである。\n ところが、舷へ出てみると、大きなおどろきが三人を待っていた。\n「おや、やっぱり海がないじゃないか」\n「えっ、海がないとは、――」\n 三人は舷ごしに、海のない空間を見た。\n 水準線から下の赤ペンキをぬった船腹がはっきりと見られた。まるで浮きドックにはいっているようなかっこうだった。\n「これはおどろいた。いったい、ここはどこだろう」\n と、マルラはぶるぶるふるえながら叫んだ。\n クーパーは双眼鏡をとって、ずっと前方を見ていたが、かれの顔色は、だんだんと青くなっていった。\n「うむ、奇怪なこともあればあるものだ。ねえ、パイクソン。ここから二百メートルほどむこうを双眼鏡でよくみてごらん。たしかにかべみたいなものが見える。もっともそのかべは透明なんだが、それでもかべであることにはまちがいない」\n「なに、透明のかべが見えるって。どれ、――」\n パイクソンも双眼鏡を眼にあててみて、同じように顔色をかえた。\n「おお、クーパー。ぼくたちはとんでもないところへ来ているぞ。海のない、透明なかべの中! ここは天国か地獄かのどっちかではないかね」\n「うむ、すくなくとも天国ではない。なぜって、こんなくさい天国があるとは、聖書に書いてなかったからね」\n この会話を聞いていたマルラは、急にふたりにしがみついた。\n「うあ、うへーっ。すると、わ、わしたちはもう死んでしまったんですかねえ。もう二度と生きかえれないものですかねえ。グラスゴーには、わしのにょうぼうと三人の子供が、おみやげをもってかえるのを待っているんです」\n クーパーは、このかわいそうな男の頭をしずかになでながら、\n「ああ、これが天国か地獄かのどっちかであった方が、どの位いいかしれないよ。もしもこれが、そのどっちでもなくて、やっぱり生きている世界のつづきだったとしたら、このあまりのふしぎさは、ぼくの気を変にしてしまうだろう」\n「......」\n\n\nうしろの怪敵\n\n\n そうはいったが、クーパーは口ほどあわてているわけではなかった。かれのまゆのあたりには、強いかくごのほどが見えてきた。\n「ねえ、パイクソン。ぼくたちは、しばらく、おどろくことをやめようじゃないか」\n「おどろくことをやめるって、どうするんだ」\n「うむ。われわれは、たいへんふしぎな場所へ来ているようだが、今いちいちおどろいたんでは、いつまでたっても、ここから生きかえる方法が見つからないだろう。もうこれからはおどろくのをやめて、何とかして抜けだす方法を考えることにしよう」\n「うむ、それはいいことをいってくれた。じゃぼくも、これからは何を見ようとおどろかないぞ」\n 事務長と一等運転士の間に、かたい申し合わせができた。マルラもふるえながら、それにさんせいした。\n「じゃあ、パイクソン。一つ考えてくれ。あの透明なかべは、いったいなんだろう」\n「さあ、なんだか一こうわからないが、とにかくわれわれはへんなところにとじこめられていることはたしかだ。よおし、あのかべがなんであるか、それをためすのにいい方法がある」\n「いい方法というと」\n「うん、ぼくがこれからやることを見ていたまえ」\n パイクソンは自分の室へいったが、やがて手に一ちょうの銃をもって引きかえしてきた。\n「おお、そんなものでどうするんだ」\n「これであの透明なかべをうってみるんだ。どんな手ごたえがあるか、それを見ようじゃないか」\n「おい、パイクソン。それはいい考えだとは思うが、すこし手あらすぎはしないかな」\n クーパーは、さすがに心配げである。\n「なあに、うまく行かなければ、どうせ、もともとだ。まあ見ておれ」\n パイクソンは銃をかまえると、その透明なかべをめがけて、どどん、どどんと銃丸を発射した。\n 銃声は、あたりにこだまして、うわーンとものすごいひびきを発した。\n 硝煙が晴れるのを待って、三人はいま射撃した透明のかべがどんなになったであろうかと、その方をながめた。\n「おや、どうもなっていないぜ」\n「ガラスまどのようにこわれるかと思ったのに、どこも、こわれてやしない」\n「なんと、はりあいのないこと!」\n と三人は声を合わせてさけんだが、それはすこし早計であった。\n なぜなら、そのとき三人の眼が、もしも、うしろがわの舷にそそがれていたなら、かれらはきっとその場にとびあがったかもしれない。ちょうどそのとき、舷のそとから、まるでクラゲに大きな二つの眼をつけたような前代未聞の怪物が、無慮四、五十ぴきも、そろりそろりと船の上にはいあがってきて、うしろ向きになっている三人の男の方へ、そっと近づいてきたのである。\n\n\n怪生物\n\n\n クラゲに眼玉をつけたような、前代未聞の怪物四、五十ぴきは、そろりそろりと三人のうしろにせまってくる。\n 第一番に、それに気がついたのは事務長クーパーであった。\n「あっ、くさい。――」\n たまらない臭気が、クーパーの鼻をついたのだった。遭難後、身辺にしきりにただようその異様な臭気だった。それがひとしきりはげしく風にのってきたのだ。\n クーパーは、はっとしてうしろをふりむいた。たちまちかれの眼にうつったのは、その異様な怪物群のすがただった。\n「あっ、怪物だ――」とかれはさけんでピストルをもちなおした。\n その声に、一等運転士パイクソンと秘書のマルラもうしろをふりむいて、はじめてこの怪物を見た。\n「うわわわわ、――」\n とマルラは、その場にこしをぬかしてしまった。\n「このばけものが!」\n パイクソンは豪勇だ。銃をかまえると、怪物群めがけて、どどどーンと引き金をひいた。\n 先頭の怪物がみごとにひっくりかえった。そのうしろの怪物が、どうと横たおしになった。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 最近自分の生活の上に起った重大な変動は、種々な点で自分の経験を深めて呉れたと同時に、心に触れる対象の範囲をも亦広めて呉れた。今までは或る知識として、頭で丈解っていた生活の内容が、多少なりとも体験された。自分の箇性の傾向から必然に成って来た或る運命に真正面から打ち当って見ると、又、全心全身でぶつかって行かずには済まされないような大きな力を感じて見ると、好い加減と云うに近い諸々の概念は、皆真実の熱火に焼き尽されてしまう。\n 自分の生活や、人々の生活を外から直接間接に圧包み、何等かの変型やこじつけを強いていた物が無く成ると、始めてその奥に在った箇々が現われて来る。一つとして同じものの無い箇々の生活が、ありの儘の色彩と傾向とで姿を現わすのである。\n 今日我々の理性はたとい如何に所謂実生活に対する自己の体験が貧弱でも、人類の箇性の存在を理論的に認め得る丈けの力は持っていると思う。従って、箇性の差異に連れて起る箇々の生活内容及び様式の相異を理解し、その価値を正当に批判すべきことは、もう公理なのだとも思われる。一方から云えば、解り切った事だと云えるだろう。けれども、自分は、そう雑作なく解り切った事だとは、自分に対して云い切れない。なかなか容易な事で、本当の処へは行けないものだと思う。少くとも自分は、小理屈や負惜しみ等で胡麻化し切れない本然な力の爆発に、或る部分の「我」を粉微塵に吹飛ばされて見て、始めて他人と自分とをその者本来の姿で見る事を幾分か習い始めたと云えるのである。\n こう云う自分の心持の変化は、今まで矢張り何かで被われていた女性全般に対する心の持方を何時とは無く変えさせて来た。\n 現在では女性の――生活の様式がどうしても単調で変化に乏しいと云う点、自分が女性としての性的生活を完全に営んでいなかった事又は、女性の一人として同性の裡に入っていると、自分達の特性に対して馴れ切って無自覚に成りがちであると一緒に、却って欠点が互に目に付くと云うような諸点から、今まで自分にとって女性の生活は、事実上、常に一種の幻滅を感じさせていた。\n かくあるべきもの、かくあり度いものとして彼方に予想する女性の生活は、遙に今日実際在るその物よりも自分の心を牽つけた。自分の裡に在る一部の傾向で理想化した女性の概念を直今日の事実に持って来て、それと符合しない処ばかりを強調して感じ失望したり、落胆したりしていたのである。\n 一口に云えば、自分は「人」から思想を抽象するのではなく、逆に、思想を人に割当て、或る概念の偶像を拵らえようとしていたのだとも云えるだろう。\n 女性に就て云っても、或る時には、感情的、理智的又は智的、無智等と云う大まかな、蕪雑な批評で安んじるような傾向が決して無いとは云われなかったのである。\n けれども、人は決してそんな単純な形容詞で一貫するような性格を持っているものでは無いのだ。\n 複雑に複雑を極めた箇性の内面の力が、圏境や過去の経験に打たれ、押し返し、揉み合って一歩ずつ、一歩ずつ今日まで歩み進んで来たのが、今日のその人でありその人の生活であるのだ。箇人の内的運命と外的運命とが、どんなに微妙に、且つ力強く働き合って人の生涯を右左するかと思うと、自分は新しい熱心と謙譲とで、新に自分の前に展開された、多くの仲間、道伴れの生活の奥の奥まで反省し合って見度く思う。自分が人及び女性として、漸々僅かながら立体的の円みをつけ始めると、同性の生活に対して、概念でない心そのもので対せずにはいられなく成って来た。所謂婦人問題の、題目を研究し理解しようとするのでは無い。種々の問題を起す、最も根本的原因である女性の心そのものを、心そのもので観、考え、批判して行き度く思うのである。\n\n 二\n\n 或る人の芸術は、その人の人格並に生活と密接な、切っても切れない関係を持っている。その点から見て、女性の手に成った文学的作品が、若し男性の手に成ったそれに比して常に第二流の芸術的価値ほか持ち得ないものとしたら、それはつまり女性が、人及び芸術家として、充分の創造をなし能う丈の人格も、生活をも持っていないと云う、一部の証言に成るのではないだろうか。而も、自分にとって、創作は冗談や余技の憂さ晴しではない、たといどんなに小さくても、自分から産み出された芸術の裡に、又は、創造しようとする努力の裡に、自分の生命の意味を認めずにはいられない力を、内から感じているのである。\n これはもう第一義務的のもので、総ての問題を超えた奥に一貫して自分を支配する力である。自分を生かせて呉れるものであると同時に自分を殺すものでもあるその力に働かされて、自分は止まれぬ渇望から、ささやかな努力と祈願とを、芸術の無辺際な創造的威力に捧げているのである。\n この間中、田舎に行っていたうち何かで、或る作家が、女性の作品はどうしても拵えもので、千代紙のようでなければ、直に或る既成の哲学的概念に順応して行こうとする傾向がある、と云うような意味の話をされた事を読んだ。\n これは新しい評言ではない。\n 女性の作家に対して、屡々繰返された批評である。\n 認識の範囲の狭さ、個性の独自性の乏しさ、妥協的で easy-going であると云うような忠言は、批評の一種の共有性であろう。\n 或る人は、そんな事はあるものか、男の人は負け惜みが強いからそんな事を云い度いのだと、云うかもしれない。けれども、この間、右のような言葉を見た時、自分はひとごとでない心持がした。\n 考えずにはいられない心持に成った。種々な偏見や、反抗を捨てて、凝っと自分の仕事を見詰めると、少くとも自分は、正直に、成っていない事を直覚せずにはいられない。その未熟な事は、勿論芸術的経験の乏しい事にも依る。然し、創作も、筆先の器用さでのみ決するのを正としない自分は、どうかしても、自分と云うその者の本体の裡に戻って考えずにはいられなく成るのである。\n 男性の中にも、下等な心情の人はある。従って、下等な心情の作家もあり得る。そこ許りを見て、私共にはあんな事を云いながら、とは云うべきでないだろう。\n 人類の文化の進展は、未来に私共の心も躍るような光明を予想させる。従って、自分は自分等人類の未来と共に、この僅かな一節である自分並に、他の多くの女性、女性の芸術家たらんと努力する人々の未来に就てここでは一言も触れようと思わない。\n 只、現在は、確に或る点まで肯定しなければならない女性の芸術家の貧弱さは、どう云う原因を内に蔵しているのだろうと云う事を、考えて見ずにはいられないのである。\n 女性の作家が妥協的で easy-going だと云う批評は加えられた。然しそれなら何故、そう云う傾向を持っているのだろう?\n 反省なしに、私共は総ての発達を予期する事は出来ない。\n\n 三\n"
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"role": "assistant",
"content": " 先ず、女性の作家に加えられた評言に就て反省して見る事は、即ち持つならば或る欠点や、羈絆から脱して、よりよい次の一歩を踏出す事に成るのではないだろうか。\n 自分はそれを詰らない事だとも、恥しい事だとも思わない。人類は、よき母、よき妻と共に、よき有難い芸術家をも、女性の中に待っているのではないだろうか。\n 種々な点から反省して見て、自分には、今日女性が作家としてまだ完全に近い発達を遂げていないのは、箇性の芸術的天分と、過去の文化的欠陥が遺伝的に女性の魂そのものに与えた、深い悲しむべき影響との間に起る、微細な、然し力強い矛盾に原因しているように思われる。\n 近代の文化は解放された人としての女性に、箇性の尊重と、人格完成の願望とを自覚させた。無論は、女性が昔の偏狭な、恥辱的な性的差別に支配、圧迫された生活から脱して、一箇の尊敬すべき独立的人格者として生活すべき事を他人にも我にも承認させた。\n 人として更たまった、身も震うような新鮮な意気と熱情とを以て人として生き抜こう為に、箇性の命ずる方向に進展して行こうとする女性の希望と理想とは、真実に深く激しいものである。\n 確かりと自分の足で、この大地を踏まえて行く生活! 今まで項垂れて、唖のような意趣に唇を噛んでいた女性は、彼女の頭を持ち上げた。深く息を吸い、力を込めて、新しい生活を創始しようとする渇仰は、あらゆる今日の女性の胸を貫いて流れているのである。刻々と推移して行く時は、生活の様式に種々の変動を与えて来ただろう。社会組織の一部は、女性を人として生活させる為に変更されようとしている。\n けれども、現代の一般社会には、女性の人としての生活、人としての発展を心から肯定し助力しようとする傾向と並んで、因襲的な過去の亡霊にしがみ付いて、飽までも女性を昔ながらの「女」にして置こうとする傾向とがあるように、女性の心そのものの裡にも、何か捨て切れない過去の残滓が遺っているのではないだろうか。\n 奴隷制度が、制度として社会規約から除かれた事丈で、万事が無かった時の状態に属せるものだとしたら、人間の心は単純である。私は、今日女性の心の中には、新たに目覚めた人としての燃えるような意図と共に、過去数百年の長い長い間、総ての生活を受動的、隷属的に営んで、人及び自分の運命に対しては、何等能動的な権威を持ち得なかった時代の無智、無反省、無責任の遺物が潜んでいると思うのである。\n 丁度胎内の盲腸のように平常はまるで自覚を伴わない、どうでもよいように、考えてなければ有るか無いかも知らずに過ごすようなものかも知れない。けれども、いざと云う時に、命を危くする丈のものではある。人として、自分の生活内容をあらゆる方面に伸展させて行こうとする願望と一緒に、同じ心の中から、この歩幅を縮めさせ、左顧右眄させて、終に或る処まで、見越をつけさせて仕舞うような何かの動機があるのである。\n\n 四\n\n 今日の女性は、事実に於て、その二様の力に引っ張られていると思う。ここに或る一人の女性を仮定しよう。先ず彼女は、若々しい希望に満ちた大望から、自分のよしと思う運命の方向に自分を拡大しようと決心して、人生の中に足を踏み入れる。種々雑多な苦痛や喜悦や、恍惚が、彼女の囲りを取囲むだろう。その中に、何か一つの重大な問題に面接しなければならない事に成ったとする。勿論彼女は驚く、疑う、解決を得ようとするだろう、大切な事は、この時彼女が終始自分を失わず、行くべき方向を遠望して、自らの決定と自らの意志でそれを体験して行く丈の力が有るかどうかと云う事なのである。\n この様な時大抵の場合には、何時か知らないうちに、過去が甦って来る。人として生活経験に薄弱な過去ほか有しない彼女は、今日も尚、人生の諸相に対して無智と不明とを持っていて、その問題を混乱させるだろう。面倒に成って来た人及び我を見るとひとりでに彼女は怖気付く。決して、今日根を絶してはいない「自分は女だ」と云う自意識が心を掠めた瞬間に、もう云うに云われない妥協が自分に向って付けられてしまう。自分の真正な判断に委せれば、それは理論では正しいかも知れない。然し今まで平穏に自分の囲を取捲いていた生活の調子は崩れてしまうだろう、自分はまるで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない――ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに遺っている過去の、殆ど習性にさえ成った日蔭の依頼主義の底力に押されて、非常に微細に、非常に滑っこく、自分の現状と外界の社会的事情との間に、何か連続をつけて、自己を不平のままに肯定しようとする。\n 或る場合には、総てを社会的欠陥に帰し、或る場合には、広い懐を持つ運命と云う言葉の中に投げこんで主観的感情的結末に落付こうとする。人として、偉大な人生の些やかな然し大切な一節を成す自分の運命として、四囲の関係の裡に在る我を通観する事に馴れない彼女は、自分の苦しむ苦、自分の笑う歓喜を、自分の胸一つの裡に帰納する事は出来ても、苦しむ自分、笑う自分を、自分でより普遍的な人類の前に連出して見る程、事実に於て万人の生活に直接な交通が乏しいのである。\n\n 五\n\n 一般の女性が人生の諸問題に対して持つ右のような傾向は、たといそれが理論で説明を加えられ、感興で彩られても、尚幾分かは或る女性が、作家として自分の芸術に向う場合にも起って来る事ではないだろうか。\n 女性の過去が如何に人として貧弱な社会的生活を営んでいたか、そして、現在の社会状態と自分の衷心に遺っているらしい昔の羈絆を顧みた時、それが根本の原因と成って、女性の芸術には種々の傾向が現われて来るように思われる。\n 或る人々は、所謂「女でなければ解らない境域」に強味を予想し、完成を希望して、自らの性の裡にのみ閉じ籠もった芸術を創造しようとするだろう。\n けれども過去現在の狭められた女性の生活、経験に満足しないで人としてもっと深く広く観、感じ味わうべき世界を求めて勇進しようとする者は箇性の内容の貧弱さから人生をその物本然の姿で見る丈の大きさが欠けている。複雑な箇々の関係や、恐るべき人性の奇蹟、悪業をガッと掴む事も見る事も出来かねる。単純な、適当な言葉で云えば非常な喜びで我を忘れる事も、深い懐疑に沈潜する事も、こわいのである。自分が失われるだろうと云う予感が先ず影で脅す、脅かされる丈の内容の力弱さが反射するのでもある。そこで、解らなく成りそうに成る人生に、何か統一を見出さずにはいられない慾求から、誰それはこう云ったと云う、哲学が呼び出されて来るのではないだろうか。\n 或る主義に依りて、それで纏まらない処は切り抜きてその人生を自分の中に築き上るのではないだろうか。\n そう云う傾向に向っても、反動が起る。それは自分の理想や、批判等と云うものの価値は如何に小さく力弱いものであるかと云う自省を第一に置いて、人生を完く相対的に観て行こうとする傾向である。\n 女性がとかく陥り易い空疎な主義や殉情的な甘さから脱して、人生をその儘 matter of fact として描いて行こうとする態度である。これ等三様の態度を反省して見て思う事は、先ず第一、各の傾向に intentional な選択が行われている事である。自分はこう云う風に遣って行こう、と思った場合、当然起る心のこだわりを、どうしたらよいのだろう。\n どうしても、偏狭や妥協、自己陶酔があると思う。一般的に気質の傾向が感情的だとされる女性にとって、これは有勝な事で、又恐ろしい事であると思わずにはいられない。\n ひとむきは決して悪くはないであろう。しとやかな謙譲は褒むべき事であろう。何物にも我を乱さない態度は立派である。けれども何より私共が忘れてはならない一つの事は、それ等のどれでもが、皆我もひとも無い、総てのものを突抜いた奥の奥から流れ出すものでなければならないと云う事である。\n 女性の作家が、生活の為に創作をする事の少い現在の状態は、動機も純粋になると同時に、一種よそ行きな、拵えると云う心持を創作の時に持たせる事がありはしまいかと思う。\n 拵える、見て貰う、と云う心持が抜け切らないと、昔からの出来るだけ見よく仕て見て貰うと云う女性特有な関心と affectation が動き出して来るのではないだろうか。\n 大掴みな反省ではあろうが、ここまで考えて来ると、自分は、本当に「人」に成り度く思う。一切の小さい装いや、好い気を捨てて本然に生度いと思う。生度いと思う。確かりと、正直に苦しみ、正直に有難がり、正直に悦んで、「人」を拡大して行き度いと思う。\n 自分や他の女性が嘗て持ち、今もその遺物として持っている「人」としての弱小さは、人と成ろうとする努力によってのみ救われるだろう。如何にして人と成るか、如何にして真実な芸術を創造し得る魂を持つかそれは、その人々に遺された問題であると思う。〔一九二〇年七月〕"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 警視庁では、K刑事の上役の捜査係長が取調を担当して、終日ゴリラ男と根比べをして見たが、結局何の得る所もなかった。\n ゴリラ男は、何を尋ねても、ろくろく返事もせず、返事をすれば出鱈目ばかり云っている。仕末におえぬのだ。\n 京子の死体をどこに隠したか。マネキン人形は何の目的でどこから盗み出したか。彼の首領の「恐怖王」とは一体何者であるか。其他様々の訊問に対して、何一つ満足な答えを得ることは出来なかった。\n イヤ、そればかりではない。段々訊問を続けている内に、実に恐ろしいことが起った。係長が業をにやして、賊の頬をなぐったのがいけなかった。それまでは、ろくな答えはせぬにもせよ、兎も角おとなしく応対していたゴリラ男が、その一撃に腹を立てて、俄かにあばれ出したのだ。\n 彼は、ギャッという様な、不思議な叫び声を発しながら、歯をむき出して、本物のゴリラそっくりの恐ろしい相好になって、係長に飛かかって来た。係長はすんでのことに、この猛獣の為に食い殺される所であった。イヤ、決して誇張ではない。あとになって、実際ゴリラ男の為に噛みつかれた巡査さえあったのだから。\n 彼の昂奮は仲々静まらなかった。数日の間あばれ続けた。警官達の折檻が加われば加わる程、彼の兇暴はつのって行った。そして、とうとう、一巡査が彼の牙にかかって、半死半生の目に逢う様な椿事を惹き起すことになった。\n 人々は、この男が、人類に属するか、獣類に属するかを疑わねばならなかった。猿にしては人間の肌を持ち人語を解するのが変であった。併し、人間にしては、余りにも力強く兇暴であった。\n 遂には、この超人の為に、警視庁の地下室に、動物園の檻が運び込まれた。猛獣はその檻にとじこめられ、その中で訊問を受けることになった。実に前代未聞の椿事と云わねばならぬ。\n だが、それは後のお話。我々はゴリラ男が捕縛された翌日、Dという大百貨店内に起った、奇々怪々の出来事について語らねばならぬ。\n\n百貨店内の結婚式\n\n ゴリラが捕縛された翌日の午後、アパートの書斎に考え込んでいた大江蘭堂の所へ、大型の西洋封筒に入った立派やかな招待状が舞込んだ。その文言は次の如くであった。\n\n何かとお骨折り下さいました私達の結婚式を、愈々本日午後五時、D百貨店に於て挙行することに致しました。万障御繰合せ御列席の程願上げます。\n恐怖王\n花園京子\n\n 果して、ゴリラ男は京子の死骸と結婚するのだ。イヤ、ゴリラ男ではない。この招待状には「恐怖王」となっている。いずれにもせよ、京子は賊の妻となって、死恥をさらさねばならぬのだ。\n だが、場所もあろうに、D百貨店とは、しかも午後五時とは。何という大胆不敵、賊はあの大群衆の中で、恐ろしい結婚式を挙行する積りであろうか。\n 蘭堂は早速このことを、警視庁と花園家とへ電話で報告した。警視庁では直様D百貨店へ刑事が出張するという答えであった。\n 丁度電話をかけ終った所へ、ヒョッコリ喜多川夏子が訪ねて来た。\n「大変なことになりましたわね。ゴリラの行衛はまだ分りませんの」\n 彼女は挨拶もしないで、そのことを云った。\n「昨夜つかまったのです。併し、京子さんの死骸をどこに隠したかは、少しも白状しないということです」\n 蘭堂は今朝花園家の書生から聞かされたゴリラ男逮捕の顛末を、手短に語った。\n「マア、人形に京子さんの服を着せて持歩いていたんですって。変ですわね。一体何の為にそんな真似をしたのでしょう」\n「それが誰にも分らないのです。ゴリラは何にも云わないのです。イヤ、不思議はそればかりではありません。ごらんなさい。今こんな招待状が舞込んだところです」\n 夏子は結婚式の招待状を一読して、暫く黙り込んでいたが、ハッと嬉し相な叫び声を立てた。\n「大江先生、あたし何だか分りかけて来た様な気がしますわ。エエ、きっとそうだわ。辻褄が合っているわ。あたし、名探偵になれ相な気がするわ」\n 蘭堂はこの若く美しき未亡人の、少々頓狂な性質を知っていたので、彼女の大袈裟な言葉にも、さして驚かなかった。\n「何が分ったとおっしゃるのです」\n「この招待状の意味がです。なぜD百貨店を式場に選んだのか、ゴリラ男がどうしてマネキン人形なんか持ち歩いていたのか、ということがですわ」\n「ホウ、あなたはそれが分ったとおっしゃるのですか」蘭堂は面喰って聞返した。「D百貨店を式場に選んだことと、例の京子さんの服を着せられていた人形との間に、何か関係でもあるのですか」\n「大ありよ」未亡人はさも自信ありげだ。「そこに謎を解く鍵が隠されているのですわ。一見して、何の関係もない様な、この二つの事柄に、凡ての秘密が伏在しているのですわ。オオ、嬉しい。先生にも解けない謎が、あたしに解けたんですもの」\n「女探偵ですね」蘭堂はあっけにとられた。「その秘密というのを僕に教えてくれませんか」\n「無論お教えしますわ」夏子は益々得意である。「でも、それよか、これから二人でD百貨店へ行って見ようじゃありませんか。そして、あたしの想像が当っているかどうか確めて見ようじゃありませんか」\n 蘭堂は何だか狐につままれた感じであったが、夏子の言葉が満更ら出鱈目とも思えぬので、兎も角自動車を命じて、この色っぽい未亡人と同乗した。\n「で、あなたは、賊がD百貨店で......あんな雑沓の場所で、この奇妙な婚礼式を挙げると思うのですか」\n 走る車中で、蘭堂はまるでドクトル・ワトスンの様な、間の抜けた質問をしなければならなかった。\n「エエ、そう思いますわ。雑沓すればする程、賊の思う壺なのよ。恐怖王のこれまでのやり方を見れば分りますわ。あいつは、悪事を見せびらかすのが大好きなんです。死人との結婚式を、大百貨店で挙行するなんて、如何にも恐怖王の思いつき相なことじゃありませんか」\n「それは僕も同感だけれど......」\n「先生、ゴリラ男がつかまったのは上野公園の近くでしたわね」\n「エエ、......そして、D百貨店も上野公園の近くだというのでしょう。そこまでは分るけれど」\n 蘭堂は一寸くやし相な表情をした。\n やがて車はD百貨店の玄関に到着した。\n 二人は、買物に来た夫婦の様に肩を並べて、店内に入って行った。\n「一体この華やかな店のどこの隅に、恐怖王が隠れているのです。あなたは僕をどこへ連れて行こうとおっしゃるのです」\n 蘭堂は夏子に一杯かつがれているのではないかと疑った。\n「六階よ。マア、あたしについて来てごらんなさいまし」\n 未亡人はすましてエレベーターの昇降口へ急いだ。\n そこで、エレベーターを待つ間に、ふと蘭堂の注意を惹いたものがある。昇降口の壁に貼られた、一枚の美しいポスターだ。\n「六階催し物」\n「婚礼儀式の生人形と婚礼衣裳の陳列会」\n 模様の様な字で、そんなことが大きく書いてある。\n「夏子さん、分りました。これでしょう。あなたはこの催しものがあることを、ちゃんと新聞か何かで知っていたのでしょう」\n 蘭堂は未亡人の耳の側で囁いた。\n「そうよ。すっかり当てられちゃった。流石は先生ね。どうお思いになって? あたしの想像は間違っているでしょうか」\n 夏子はニヤニヤしながら云った。\n「余り突飛の様ですね。併し、相手が恐怖王のことだから、或はあなたの空想が適中するかも知れませんよ。兎も角、急いで行って見ましょう」\n 二人はエレベーターにのって、六階へ上った。催し物場は黒山の人だかりだ。その人ごみを分ける様にして、婚礼人形の幾場面を見て行くと、最後に三々九度の盃の場面が飾りつけてあった。\n 竹の柵に押し並んだ見物の頭の上から、花婿人形と花嫁人形の、美わしく着飾った胸から上が見えていた。\n「あれよ。若しそうだとすれば、きっとあれよ。前へ出て見ましょうよ」\n 夏子は蘭堂の手をとって、見物を押し分けて行った。\n 婚礼の飾り物をした、広い床の間を背景に、新郎新婦、仲人、夫々の親達、待女郎などが、生けるが如く飾りつけてある。\n 如何にも華やかな、はれがましい結婚式だ。若しこの花婿人形が恐怖王その人であり、花嫁人形が京子の死骸であったとしたら、賊の計画は実に見事に成功したものと云わねばならぬ。\n だが、あのとりすました新郎新婦が、人形ではなくて、本物の人間だなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。\n「ねえ、先生、花嫁人形がすこしうつむき過ぎてやしないこと。顔が電燈の蔭になってますわね。人形師があんな下手な飾りつけをしたのでしょうか」\n 熱心に見つめていた夏子が、蘭堂の袖を引いて囁いた。"
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"role": "assistant",
"content": "「ウン、少しおかしいですね。それに、あの顔はどこやら見覚がある」\n「エエ、あたしもそう思うのよ。死顔に厚化粧ですもの、少しは相好が変る筈ですわ。一寸見たのでは京子さんに見えないけれど、でも、どっか似てやしないこと」\n「そうです。見ている内に段々京子さんの俤が出て来た。それに、あの姿勢が人形にしては少しおかしいですね。店員を呼んで検べさせて見ましょう」\n 蘭堂は群集を抜け出して、一人の店員を呼止め、何事か囁いた。店員は最初の間、取合おうともしなかったが、段々真面目な顔になって、遂には真青になって、どこかへ駈け出して行った。\n 間もなく、年配の店員が常傭の刑事探偵二人を従えて駈けつけて来た。\n 見物達は、婚礼式の場面の前から追いのけられた。二人の刑事と蘭堂とが舞台に上って行った。\n「やっぱりそうだ。これは人形じゃない」\n 一人の刑事が、近々と花嫁人形を覗き込んで叫んだ。\n「だが、この手は両方とも、コチコチ云うぜ、確に人形の手だぜ」\n 今一人の刑事は、花嫁の両手を叩き合わせながら、不思議そうに云った。\n「イヤ、この死人には両手がないのです。賊の為に切取られたのです。だから、手丈けは人形の手がつけてあるのです」\n 蘭堂はそう説明しながら、花嫁の顔に触って見た。木にしてはあまり冷い。その上、フカフカと弾力があるのだ。\n「ヤア、ひどい匂だ。どうしてこの匂に気がつかなかったのだろう。近寄って見たまえ、たまらない匂がする」\n 刑事の一人が無作法に怒鳴った。\n かくして、花園京子の死体は発見されたのである。\n 賊は確に彼の約束を実行した。衆人環視の百貨店内に於て、恐ろしき結婚式を挙行した。\n だが、発見されたのは花嫁ばかりだ。花婿は一体どうしたのだ。お嫁さんばかりの婚礼式なんてないことだ。\n すると、このとりすました花婿人形が、やっぱり本物の人間なのだろうか。若しやこれは、恐怖王その人の巧妙極まる変装姿ではあるまいか。\n そう思うと、蘭堂は一種異様の戦慄を感じないではいられなかった。\n 彼はツカツカとその人形に近づいて、いきなり肩の辺をつきとばした。\n すると、人形は、ガタンと音を立てて、坐ったままの形で、その場に転がってしまった。着附けがくずれて、半分しかない胸部があらわになった。\n「オヤ、この人形の胸になんだか書いてあるぜ」\n 刑事はそれに気づいて叫んだ。\n 人々は転がった花婿人形のまわりに集った。その胸を見ると、確に、墨黒々と、文字が書きつけてある。\n\n花婿恐怖王の役目を勤めたるこの人形、恐怖王の身替りとして逮捕なさるべく候\n\n 賊の余りと云えば傍若無人な冗談に、あっけにとられて、暫くは口を利くものもなかった。\n\n怪画家\n\n 大江蘭堂は、美しき未亡人喜多川夏子と共に、D百貨店花嫁人形の怪異をあばいた翌日、彼のアパートの寝台で、お昼頃まで朝寝坊をした。前夜花園家で京子のお通夜があったからだ。\n 顔を洗って着物を着換た所へ、書斎の方のドアをノックするものがあった。来客である。彼は寝室を出て、書斎のドアを開いた。\n「ごめん下さい、大江さんのお部屋はこちらですか」\n 廊下に見知らぬ男が立っていた。\n 黒の背広に黒のネクタイ、大きな黒眼鏡をかけて、黒天鵞絨のソフト帽を冠っている。イヤに色の黒い小柄な男だ、帽子の下にフサフサと長髪が垂れ、鼻の下に濃い口髭がある。洋画家とでも云った風体。\n「僕、大江ですが......」\n 蘭堂はこの男を全く見知らなかったので、変な顔をして答えた。\n だが、読者諸君はご存じだ。この小柄な長髪の男こそ、ゴリラ男の首領、――恐らくは「恐怖王」その人なのだ。\n このお話の初めの所で、ゴリラ男が運転手に化けて、布引照子の棺桶を盗んで来た時、例の空屋に待ち受けていて、死骸の顔に化粧をした不思議な人物、あの男だ。あの男が、大胆不敵にも大江蘭堂を訪ねて来たのだ。\n「初めてお目にかかります。僕黒瀬というものです。少しお話したいことがありまして」\n 怪人物が、優しい作り声で名を名乗った。無論出鱈目に極っている。\n「どういうご用でしょう」\n 蘭堂はうさんらしく相手を見上げ見おろしている。\n「アノ、実は恐怖王の一件について......」\n 黒瀬と名乗る小男は、声を低くして、物々しく云った。\n「恐怖王」と聞いては、逢わぬ訳には行かぬ。蘭堂は早速黒瀬を請じ入れた。\n「ゴリラは白状したでしょうか。新聞にはそのことが何も出ていませんが」\n 怪人物は椅子にかけると、何の前置きもなく初めた。\n「何も云わないのです。共犯者のことも云わないし、自分の名前さえ白状しないのです。ただ、野獣の様にあばれ廻るばかりで、手におえないのです。とうとう、警察でも持て余して、動物を入れる檻の中へとじこめたということです」\n 蘭堂は聞き知っているままを答えた。\n「そんなにあばれるんですか。あいつが」\n「本当のゴリラみたいに、食いついたり、引かいたりするんだそうです。巡査が腕に食いつかれて、ひどい怪我をしたということです」\n「そうですか、じゃ、やっぱりあいつかも知れない」\n 黒瀬は思わせぶりに云った。\n「エ、あいつとおっしゃると? あなたはあのゴリラについて何か御存じなのですか」\n 蘭堂は聞き返さないではいられなかった。\n「エエ、お話の様子では、どうも僕の知っている奴らしいのです。新聞の写真を見て、あんまり似ているものだから、若しやと思って、お伺いしたのです。あなたがこの事件に関係していらっしゃることはよく知っていましたし、それに僕はあなたの小説の愛読者だものですから、警察よりはこちらへ御伺いする気になったのです」\n そして、黒瀬は彼自身を手短に紹介した。それによると、彼は岡山県の田舎の者で、父から仕送りを受けて、絵の勉強に出て来ている、美術学生であった。\n「それはよくこそ。御承知の通り、僕はあいつにはひどい目に合っているのですから、恐怖王の正体をあばくのに参考になることでしたら、喜んで伺いますよ」\n「あなたは、あのゴリラ男の外に、恐怖王と名乗る元兇がいるのだとお考えですか」\n「無論そうだと思います。あの野獣みたいな男の智恵では、こんな真似は出来っこはありません」\n「そうでしょうね。僕もそう思うのです。ゴリラというのが僕の知っている奴だとすると、そいつは子供程の智恵もないのですからね」\n「あなたはどんな関係であいつを御存じなのです」\n「僕の親父が、香具師の手から買取ったのです。そして、十何年というもの、僕の家で飼っていたのです」\n「飼っていたんですって?」\n 蘭堂はびっくりして叫んだ。\n「エエ、飼っていたんだよ。あいつはね。どうも純粋の人間ではない様に思われるのです」\n 黒瀬は恐ろしい事を云い出した。\n「今度警察へとらえられても、檻の必要があるというのは、つまりあいつが人間ではないからです。香具師というものは、お金儲けの為には、どんな真似だってしますからね。あの半獣半人がこの世に生れて来たのには、何か恐ろしい秘密があるのではないかと思います。僕の親父はあいつの子供の時分、香具師があんまり残酷に扱うのを見兼ねて、物好半分に買取ったのですが、一年二年とたつに従って、後悔しはじめたのです。大人になるにつれて、あいつが恐ろしい野獣であることが分って来たからです。あいつは本当の猿の様に、どんな高い所へでも昇ります。天井をさかさまに這うことさえ出来ます。力は大人が三人でかかっても負ける程です。僕はあいつと一緒に育ったので、よく知っています。あいつが来てからというもの、僕の家は魔物のすみかになったのです。家中の者が気が違った様になってしまったのです」"
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 第七十五 菓物のシチュー とは菓物の煮た事を申すので、これも二様の煮方があります。一つは直ぐに食べたりあるいは外の料理に使うためです。林檎でも桃でもそれに似た物は皮を剥いて心を去って四つ位に切って直ぐ水の中へ放します。これはアクを抜くので色の赤くならないためです。アク出しをしないと煮てから色が赤くなります。それを水から出して外の水を好きほどに加えて砂糖を適宜に入れて弱い火で気長に柔くなるまで煮ますがアクが浮いたら掬い取らなければなりません。こうしたのは色が沢々としています。モー一つの法は長く保たせるように煮るので最初によく菓物の水気を拭き取って庖丁や手にも水気のないようにして菓物の皮を剥いて程好く切ってそのまま砂糖をかけて二、三時間置くと砂糖が溶けて菓物の液を呼び出します。それを弱い火にかけてアクを掬い取りながら気長に煮ます。つまり水気が混じると早く腐りますからそれを防ぐためです。こうしたのは夏でも四、五日ぐらい保ちます。この通り柔く煮た菓物は病人の種類によって大層悦びますがそれをブラマンジに添えて食べるとなお一層の御馳走になります。\n 第七十六 ブラマンジ は葛餅に似たようなもので先ず一合の牛乳を沸かして大匙二杯の砂糖を加えます。別にコルンスタッチを軽く大匙二杯ほど冷たい牛乳かあるいは水で葛を釈くように釈かしてその中へ注してよく掻き廻しながら五分間ばかり煮るとドロドロになります。ちょうど葛が返える通りですが葛よりも少し長くかかります。それをブリキの型かあるいは外の器へ入れて一時間も置くと葛餅のように固まります。病人次第で火から卸した時レモン油かワニラのような香料を加えると一層結構です。我邦の葛をコルンスタッチの代用にしても出来ます。これだけでもなかなか結構ですが菓物のシチューを添えて食べると酸味と甘味でいよいよ美味しくなります。\n 第七十七 玉子のブラマンジ は前の通り牛乳と砂糖と葛の原料が煮えた時玉子の黄身一つをダマにならないように掻き混ぜて固めます。もしそれをモー一層軽く上品にしたければ火から卸した時残った白身をよく泡立てて混ぜて固めます。\n 第七十八 米のブラマンジ はコルンスタッチを用いません。大匙二杯の米を二合の牛乳で火を弱くして気長に二時間余煮て砂糖を大匙三杯加えます。お粥の少し固い位にならなければいけません。それへ玉子の黄身を二つ入れてダマにならないように掻き混ぜて器へ入れて冷ましておくとそのままで固まります。\n 第七十九 米の粉のブラマンジ も前の通りですが分量は大匙二杯の米の粉を一合の牛乳で一時間煮て砂糖を大匙二杯と玉子の黄身一つを加えます。これにも前のにも白身を泡立てて跡から入れて構いません。\n 第八十 セーゴのブラマンジ は水で洗ったセーゴ大匙二杯を一合の牛乳へ入れて砂糖大匙二杯を加えて四十分間弱火で煮ます。煮えた時玉子の黄身一つを混ぜて前のように固めます。\n 第八十一 タピオカのブラマンジ はタピオカを四十分間水へ漬けて柔にしておきます。それを一合の牛乳へ入れて砂糖大匙二杯を加えて四十分間煮て玉子の黄身一つを加えます。\n 第八十二 アロルート同 これは分量も拵え方もコルンスタッチの通りです。\n 第八十三 カスタープデンの一 病人の食物にプデン類は多く用いられますがカスタープデンにも焼くのと蒸すのとがあります。焼く方は玉子の黄身二つへ砂糖大匙二杯入れてよく煉り混ぜます。色の白くなるほど煉らなければいけません。そこへ一合の牛乳を少しずつ幾度にも注してよく混ぜて香料を少し加えたのが原料です。この原料をベシン皿かあるいは丼鉢へ入れてテンパン即ちブリキ皿の中の湯の注いである処へ置いてテンピの中で二十分間焼きます。こうすると底の方は湯煎になって上の方から焼けますから底へ焦げ付きません。火加減は中位です。焼けたと思う時間に極く細い箸をプデンへ通してみると焼けない時には生々しいものが着いて来ます。箸が少しも汚れなければモー出来たのです。このまま食べてもよろし、モー一層美味しくするにはテンピから出した後上へ一面にジャムを塗ります。プデン類は温い処を食べてもよしあるいは翌日になって冷めたいのを食べても味が良いものです。\n 第八十四 カスタープデンの二 これは湯煎の方ですが前の通りな原料を深い茶碗へ入れて蓋をするかあるいは布巾を被せて広い鍋で三十分間湯煎にします。しかし火を強くして湯がコトコト沸立つようではいけません。そうするとプデンに孔が明きます。この原料には玉子の黄身ばかりとしてありますが白身を入れても悪い事はありませんけれどもプデンがズット固くなって味も劣ります。\n 第八十五 セーゴプデン はセーゴを大匙一杯よく洗って水に三十分間漬けておいてカスタープデンの原料の中へよく混ぜ込んで前の通りに焼くとも蒸すともします。\n 第八十六 タピオカプデン も前の通りですがこれは殖えますから中匙一杯を洗って一時間水に漬けて用います。\n 第八十七 米のプデンの一 これは極く略式にすると柔い御飯を大匙一杯位前の原料へ混ぜて焼きます。\n 第八十八 米のプデンの二 これは中等の製法で、先ず牛乳一合の中へ大匙二杯の御飯を入れて弱い火で一時間ほど煮るとお粥のようになります。それを火から卸して大匙二杯の砂糖を加えて玉子の黄身二つをよく混ぜて前の通りにテンピで焼きます。これも跡で上へジャムを塗ると結構です。このプデンは匙で掬って食べる位の柔かさがいいのです。\n 第八十九 米のプデンの三 これは蒸す方の製法ですが前の例より玉子を多くして玉子の黄身四つに大匙三杯の砂糖を煉り混ぜて一合の牛乳を注して大匙二杯の御飯を加えます。それを湯煎にすると固く出来ますからカスターソースや外のソースをかけて食べます。\n 第九十 米のプデンの四 これは上製で、先ず大匙一杯の米を大匙五杯の牛乳へ二時間漬けておいて大匙一杯の砂糖を加えて弱火にかけてお粥になるまで柔く煮ます。それからベシン皿へ移して前の通りの方法でテンピで焼きますがこれには玉子を入れるに及びません。\n 第九十一 米の粉のプデン は大匙一杯の米の粉を一合の牛乳で一時間半ほど煮て砂糖大匙二杯に玉子の黄身二つを加えて法の如くテンピで焼きます。これも蒸す時は玉子を多く入れます。\n 第九十二 ジャミヤプデン はカスタープデンの通りに玉子の黄身二つへ大匙二杯の砂糖を煉り混ぜて牛乳一合を注します。別にジャミヤを大匙一杯半ほどよく洗って二十分間水へ漬けておいてその水を絞って今の原料へ混ぜてカスタープデンの通りに焼きます。\n 第九十三 ジャミセージプデン これは西洋の素麺のようなものです。それを大匙三杯ほど三十分間も湯煮ますが最初水が沸立つ時よく掻き廻さないと底へ沈んで焦げ付きます。それがよく湯煮ったらば水を切ってカスターの原料へ混ぜて前のように焼きます。\n 第九十四 マカロニプデン これは西洋の孔明き饂飩です。長いのを四本ばかり一寸位ずつに折って焦げ付かせないように一時間ほど湯煮て前の通りカスターの中へ入れます。\n 第九十五 珈琲プデン は濃く煎じ出した珈琲を大匙二杯だけカスターの中へ入れます。\n 第九十六 チョコレートプデン はチョコレートの削ったもの大匙一杯ほどを一合の牛乳で煎じて一旦冷ましておきます。別に玉子の黄身二つと砂糖大匙一杯とをよく煉り混ぜてその中へ今のチョコレートを少しずつ幾度にも混ぜてカスターの通りに焼きます。チョコレートは甘いものですから砂糖が寡いのです。"
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"role": "assistant",
"content": " 第九十七 ビスケットプデン これはソーダビスケといって軽い煎餅のようなものです。それを四枚だけ一時間ほど牛乳一合の中へ漬けておきます。別に玉子の黄身二つと大匙二杯の砂糖を煉り混ぜて今の物を加えてカスターの通りに焼きます。これにはソーダビスケの屑を使ってもいいのです。\n 第九十八 トースプデン はパンを二分位の厚さに切ってそれを二片だけ端の固い処を切り捨ててまた二つずつに切ってベシン皿へ並べます。その上からカスタープデンの原料を注いで二十分間そのまま置いて例の通りに焼きます。\n 第九十九 パンのプデン はパン二片を水に十五分間漬けておいてそれを絞って水を切ってカスターの中へ手で揉み込んでよく混ぜて焼きます。これは病人の悦ぶもので上等にするとパンを牛乳へ漬けておきます。\n 第百 レモンプデン は生レモン一つの汁をカスターの中へ絞り込んでそれからレモンの皮を半分ほど山葵卸しで卸し込んで焼きます。\n 第百一 南瓜プデン は一片の南瓜を湯煮て水を切って裏漉しにしてそれを前のカスターの中へ混ぜて焼きます。\n 第百二 ジャガ芋プデン これも湯煮て裏漉しにして前の通りにします。\n 第百三 薩摩芋プデン 前の通りで出来ます。芋なぞは繊維が多くって外の料理では病人に向きませんがこうすると食べられます。\n 第百四 牛の挽肉 大概な病人は身体の営養を恢復するために肉類を食べる必要がありますけれども我邦の人の胃腸は穀食に慣れていて肉類に対する消化力の弱いため肉の料理はよほど注意して拵えなければなりません。病人料理には牛肉の中でも一番柔い部分即ち腰のランという処なぞが適当です。それも屠りたての新しい肉ではいけません。ちょうど好い食べ頃に弛んだ肉で脂や筋のない処を買ってそれを先ず肉挽器械へかけて一度挽きます。挽いて出た肉をまたその器械へかけてモー一度挽き、丁寧にすれば三度挽くと肉が極く細かになって殆ど舌へも歯へも障りません。よく世間では肉を俎板へ載せて庖丁でトントン叩いて細かくする人がありますけれどもあれは俎板の木屑が肉へ混って病人に良くありません。今のように肉挽器械で二度も三度も挽くのに限ります。さてこうした肉は色々な料理になりますからその製法を述べましょう。\n 第百五 挽肉のビフテキ は前の挽肉が一斤ほどありましたらばそれへ塩を振かけて玉葱の小さいのを一つ山葵卸しで擦り込んで別に薄く切ったパンを水へつけて絞って中身ばかりを揉み込みます。そこで肉と玉葱とパンをよく捏ね混ぜて五つ位に別けますが一つ一つ手で丸めて平たく押して饅頭のようなものを拵えます。それからフライ鍋へバターを敷いて今の物を狐色になるまで焼きます。こればかりで食べると少しポソ付きますから肉を出した跡で鍋の中へスープを大匙一杯注して塩で味をつけてそれをビフテキの上へかけます。\n 第百六 挽肉のカツレツ は前の通りにして丸めた肉へメリケン粉をマブして玉子の黄身をつけてパン粉でくるんでサラダ油で揚げます。これは上等にするとトマトソースを拵えてかけます。\n 第百七 挽肉のシチュー は前の通りに肉と玉葱とパンと混ぜたものを小さい団子に丸めて一度バターでいためておきます。それを鍋から出したら跡の鍋へバターを少し加えてメリケン粉を大匙一杯いためてスープを二合注します。この時もし壜詰のトマトソースがあればそれを大匙一杯加えるとなお良いのです。それへ塩味をつけて今の肉を入れて弱い火で気長に一時間煮ます。別にジャガ芋と西洋人参を柔く湯煮ておいてその中へ入れてまた三十分煮ますからつまり一時間半煮て食べるのです。\n 第百八 挽肉のアイルシチュー は前の通りな団子をフライせずに直ぐ深い鍋へ入れます。それへスープかあるいは水を三合ほど注して皮を剥いたジャガ芋六つばかりと中位な玉葱四つばかり入れて塩で味をつけて一時間ほど弱い火で煮ます。煮えた時ジャガ芋を半分即ち三つだけ出して裏漉しにして今の汁へ混ぜてまた五分間煮て出します。\n 第百九 挽肉のフーカデン は前のように肉と玉葱とパンを捏ねた中へ生玉子一つを加えてまた捏ねて小判形に押し付けてブリキ皿へ入れます。その周囲へ細かく刻んだ玉葱一つと西洋人参一つとをグルリと並べて肉の上にはバターを大匙一杯載せてテンピの中へ入れて強火で四十分間焼きます。その間は五分間ごとにブリキ皿を引出して肉から出た汁を匙で肉の上へかけないと肉の表面が硬くなって味がありません。この料理にはジャガ芋の湯煮たのを添えて出します。\n 第百十 挽肉のコロッケー はランの肉を半斤ほどそのままバターでよくいためます。それから肉挽器械でよく挽いておきます。今のフライパンへバターを少し加えて細かく刻んだ玉葱一つとメリケン粉大匙一杯とを入れてよく黒くなるまでいためてスープを一合注します。これにも壜詰のトマトソースを大匙一杯加えるとなお美味しくなります。その中へ前の肉を入れて弱い火で三十分間煮ると段々水を引いてドロドロになりますからそこへ玉子の黄身一つを入れてよく掻き混ぜて冷まします。冷めたらば手で八つ位に細長く丸めて例の通りメリケン粉をつけて玉子の黄身をつけてパン粉へくるんでコロッケーにフライします。\n 第百十一 挽肉と芋のコロッケー は前の通りにして煮た原料へジャガ芋を裏漉しにして芋三分肉七分の割で混ぜて塩味をつけて捏ねて前の通りにコロッケーに揚げます。玉子は要りません。\n 第百十二 挽肉と米のコロッケー は前の通りに拵えた原料へ御飯を加えて三十分間煮て玉子の黄身を混ぜて冷めたら十位に丸めてコロッケーに揚げます。\n 第百十三 メンチライス はコロッケーの原料のように半斤の肉を一度フライして肉挽器械で挽きます。そのフライ鍋へバターを加えて刻んだ玉葱一つとメリケン粉一杯とを黒くなるまでよくいためてスープを一合加えてそれへ今の肉を入れて三十分間弱火で煮ます。別に柔い御飯を炊いてその上へ今の肉を汁ともにかけて出します。\n 第百十四 メンチトース は前の通りに煮たものをトースパンへ沢山載せて出します。\n 第百十五 メンチポテト は湯煮て裏漉しにしたジャガ芋へ牛乳と塩を混ぜてマッシにしてその上へ前の通りに煮たメンチ肉を載せて出します。\n 第百十六 メンチボール は一度フライして挽いた肉へ裏漉しにしたジャガ芋を四分肉六分の割で混ぜて塩味をつけて玉子の黄身一つ入れてよく捏ねて六つ位の饅頭形に丸めてバターでよくフライして出します。\n 第百十七 ドライハイシ は前のような割合で芋と肉を混ぜた中へ牛乳を大匙二杯加えてよく混ぜてそれをフライパンのバターの敷いてある処へ一度にあけて色の付くまで焼いて出します。\n 第百十八 ボイルドチキン 病人には牛肉よりも鶏肉の方が消化も良くって味も軽いものですがしかしそれも鶏によるので三百目位の雛鶏でよく肥えた足の黄いのでなければいけません。その鶏を五つ位に捌いて五合の水で玉葱四つを加えて塩味をつけて一時間湯煮ます。最初沸立つ時アクの浮くのを掬い取らなければなりません。よく湯煮ったらば一旦鶏を出してその汁で米を五勺ほどお粥になるまで炊いて皿へ盛る時お粥の上へ鶏肉を載せ玉葱を添えて出します。上等にするとその上へ白ソースをかけますがそれはバター一杯でメリケン粉一杯を狐色にいためて牛乳を一合注して塩で味をつけたものです。\n 第百十九 ロースチキン これもやはり三百目位の雛鶏を丸のまま塩を振りかけてバターを載せて細かく刻んだ玉葱と人参を周囲へ置いてテンピの中へ入れて五分間ごとに汁をかけながら強火で四十分間焼きます。出来た時肉を出してテンパン皿へスープを大匙三杯注して塩味をつけて肉へかけます。"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": " こうした反省をつづけている間の彼は、さほど不幸ではなかった。考えの解決はつかなくても、やはり彼の心には、人間らしいある明るさがあった。少くとも、その間だけは、腐爛して行く自分の肉体を忘れることが出来た。しかし、からだを動かした拍子に、痛みで皮膚の感覚が、眼をさますと、彼はすぐ自分の手を見つめた。それから、その手をそっと顔にあてて、指先で、用心ぶかく眉や鼻のあたりを探った。そして、そのあとで彼の心を支配するものは、いつも戦慄と、萎縮と、猜疑と、呪詛とであった。\n どうしたわけか、今日はとりわけ朝から彼の心が落ちつかない。友人たちに対する邪推が、それからそれへと深まって行く。\n(3みんなが寄りつかないのは、きっと自分の病気を恐がっているからだ。そのくせ、病人の気持を察して、などと、いかにも思いやりのあるようなことを、お互に云いあっているのだろう。あいつらには、先生のいつも仰しやる「恕」とか、「己の欲せざるところを人に施してはならない」とかいうことが、恐らく、こんな時にだけ役に立つのだ。)\n そんな皮肉な考えが、自然に彼の頭に浮んで来る。そして、そのあげくには、孔子だって、本音を洗って見たら、どんなものだか知れたものではない、といったようなことまで考える。\n(そういえば、先生も、もうそろそろ一ヵ月ちかくも顔を見せられない。考えて見ると、自分の顔全体が変にくずれ出したのは、この前お会いしたころからのことだ。いよいよ先生も逃げ腰だな。――\n「4冬になって見ると、どれがほんとうの常磐樹だかわかる。ふだんは、どの木も一様に青い色をしているが。」\n などと、よく先生は鹿爪らしい顔をして云っておられたものだが、さて先生ご自身は、果してその常磐樹といえるかな。聖人と云われるほどの人の正体も、今度という今度は、はっきりわかるわけだ。それも、自分がこんな病気になったお蔭かも知れない。)\n 伯牛は、眉も睫毛もない、むくんだ顔を、気味わるくゆがめて、皮肉な笑いをもらしたが、笑ったあとで、たまらなく不愉快な気持になった。何だか、孔子という人間一人の化の皮をはぐために、自分が犠牲にでもなっているような気がしてならなかったのである。\n(孔子一人のために、これまでも、われわれはどれほど苦しんで来たことだろう。それに、こんな病気にまでなって、その正体を見究めなければならないのか。孔子という人間は、それほど人に犠牲を要求する価値のある人間なのか。)\n 彼は、そんな飛んでもないことまで考えて、まるで気でも狂ったようになっていた。\n「先生がお見舞い下さいました。」\n と、その時、だしぬけに召使いが戸口に立って云った。\n 伯牛はぎくりとした。そして、悪夢からさめたあとのように、しばらく天井を凝視した。それから、急にあわてて、一たんは臥床の上に起きあがったが、すぐまた横になって、頭からすっぽりと夜着をかぶってしまった。夜着は肩のあたりでかすかにふるえていた。\n「こちらにお通しいたしましても、よろしうございましょうか。」\n 召使いは、一歩臥床に近づきながら云った。\n 返事がない。\n 召使いは、しばらく首をかしげて思案していたが、独りで何かうなずきながら、そのまま部屋を出て、しずかに戸をしめた。\n 五六分が過ぎた。その間伯牛は、夜着の下でふるえつづけていた。すると、だしぬけに窓の外から孔子の声がきこえた。\n「伯牛、わしは強いてお前の顔を見ようとはいわぬ。せめて声だけでも聞きたいと思って、久々でやって来たのじゃ。」\n「............」\n「このごろ工合はどうじゃ。やはりすぐれないかの。だが、心だけは安らかに持つがいい。心が安らかでないのは、君子の恥じゃ。」\n「先生、お......お......お許しを願います。」\n 伯牛は、むせぶように夜着の中から云った。\n「いや、そのままで結構じゃ。お前の気持は、わしにもよくわかる。人に不快な思いをさせまいとするその気持は、正しいとさえ云えるのじゃ。しかし、......」\n と、孔子は一寸間をおいて、\n「5万一にも、お前がその病気を恥じて、顔をかくしているとすると、それは正しいとは云えない。お前の病気は天命じゃ。天命は天命のままに受取って、しずかに忍従するところに道がある。しかも、それこそ大きな道じゃ。そして、その道を歩む者のみが、真に、知仁勇の徳を完成して、惑いも、憂いも、懼れもない心境を開拓することが出来るのじゃ。」\n 伯牛は嗚咽した。その声は、窓のそとに立っている孔子の耳にも、はっきり聞えた。\n「伯牛、手をお出し。」\n 孔子は、そういって、自分の右手を、窓からぐっと突き入れた。彼の顔は、窓枠の上にかくれて、内側からはちっとも見えない。\n 伯牛の、象の皮膚のようにざらざらした手が、怯えるように、夜着の中からそろそろとのぞき出た。孔子の手は、いつの間にか、それをしっかりと握っていた。\n 夜着の中からは、ふたたび絶え入るような嗚咽の声がきこえた。\n「伯牛、おたがいに世を終るのも、そう遠くはあるまい。くれぐれも心を安らかに持ちたいものじゃ。」\n 孔子は、そういって、伯牛の手を放すと、しずかに歩をうつして門外に出た。そして、いくたびか従者をかえりみて嘆息した。\n「天命じゃ。天命じゃ。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、何というむごたらしいことだろう。」\n 伯牛が、雨にぬれた毒茸のような顔を、そっと夜着から出したのは、それから小半時もたってからのことであった。彼は、全身ににじんだ汗を、用心深く拭きとりながら、臥床の上に坐った。悔恨の心の底に、何か知ら、すがすがしいものが流れているのを、彼は感じていた。\n「6朝に道を聞けば夕に死んでも悔いない。」といった、曾ての孔子の意義ふかい言葉が、しみじみと思い出された。\n(永遠は現在の一瞬にある。刻下に道に生きる心こそ、生死を乗りこえて永遠に生きる心なのだ。)\n 彼はそう思った。\n(天命、――そうだ。一切は天命だ。病める者も、健やかなる者も、おしなべて一つの大いなる天命に抱かれて生きている。天は全一だ。天の心には自他の区別はない。況んや悪意をやだ。天はただその歩むべき道をひたすらに歩むのだ。そして、この天命を深く噛みしめる者のみが、刻下に道に生きることが出来るのだ。)\n 彼は、孔子の心を、今こそはっきりと知ることが出来た。そして、さっき孔子に握りしめられた自分の手を、いつまでもいつまでも、見つめていた。\n 彼の心は無限に静かで、明るかった。彼にはもう、自分の肉体の醜さを恥じる気持など、微塵も残っていなかった。彼は、いつ死んでもいいような気にすらなって、恍惚として褥の上に坐っていた。\n\n\n\n1 子曰く、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざるなり。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我(さいが)・子貢、政治には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、文学には子游・子夏と。(先進篇)"
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"role": "assistant",
"content": "2 子曰く、三軍も師を奪うべきなり。匹夫も志を奪うべからざるなりと。(子罕篇)\n3 子貢問いて曰く、一言にして終身これを行うべき者ありやと。子曰く、其れ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿れと。(衛靈公篇)\n4 子曰く、歳寒くして然る後に、松柏の後れて凋むを知るなりと。(子罕篇)\n5 子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れずと。(子罕篇)\n6 子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりと。(里仁篇)\n\n\n\n\n\n志を言う\n\n\n\n顔淵季路侍す。子曰く、盍ぞ各爾の志を言わざると。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝りて憾無からんと。顔淵曰く、願わくは善に伐ることなく、労を施いにすること無からんと。子路曰く、願わくは子の志を聞かんと。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けんと。――公冶長篇――\n\n\n ある日の夕方、孔子は、多くの門人たちが帰ったあとで、顔淵と子路の二人を相手に、うちくつろいで話していた。\n 孔子は顔淵をこの上もなく愛していた。それは、顔淵が、孔子の片言隻句からでも深い意味をさぐり出して、それを事上に錬磨することを怠らなかったからである。顔淵は、実に、一を聞いて十を知る明敏な頭脳の持主であった。だが、孔子の心をひきつけたのは、彼の頭脳ではなくて、その心の敬虔さであった。顔淵のこの心こそは、真に人生の宝玉である、と孔子はいつも思っていたのである。\n 子路もまた孔子の愛弟子の一人であった。彼は、孔子の門人の中での最年長者であり、孔子と年が僅か九つしかちがっていなかったが、心は誰よりも若かった。そして、その青年らしい、はち切れるような元気が、いつも孔子をほほ笑ましていた。けれども、その愛は、顔淵に対する愛とは、まるで趣のちがった愛であった。孔子は、顔淵に対しては、ほとんど真理そのものに対する愛、といったようなものを感じていたが、子路に対しては、そうは行かなかった。\n 孔子は、子路について、たえず深い憂いを抱いていた。それは、子路が、いつもその自負心のゆえに、浅っぽくものを見る癖があったからである。彼は、道を実行する勇猛心においては、門人たちの誰にも劣らなかったが、その実行しようとする道は、いつも、第二義、第三義的なものになりがちであった。そして、ややもすると、彼は、みずから正義を行っていると信じて、却ってまっしぐらに、反対の方向に進んで行くことすらあった。元気者であり、実行力が強いだけに、彼のそうした危険も、一層大きかったのである。こんなわけで、孔子は、子路の元気なところを見ていると、いつも微笑せずには居れなかったが、その微笑は、そう永くはつづかなかった。微笑のあとには、きまって、深い寂しさが彼の胸を一ぱいにするのだった。\n ことに、今日こうして、淡い夕暮の光のなかで、顔淵と子路の二人だけを相手にして坐っていると、顔淵の病弱なからだにくらべて、子路がいかにも豪壮な様子をしているにかかわらず、孔子の眼には、子路が見すぼらしく、空っぽに見えて仕方がなかった。で、今日は一つ、しんみりと子路を反省させるように仕向けて見たい、と思ったのである。\n 子路を反省させるには、実際、こんないい機会はめったに見つからなかった。自負心の強い子路は、沢山の門人たち、ことに彼が、学問において自分よりも後輩だ、と思っている門人たちのなかで、孔子に真正面から訓戒されることは、その堪えられないところであった。また、かりに遠まわしに諭されて、それが自分に対する諷刺だとわかったとしても、彼は恐らく、それは自分にかかわりのないことだ、といったような顔付をして、その場をごまかしてしまったであろう。それほど彼の自負心は強かったのである。\n けれども、彼のこの自負心も、顔淵に対してだけは、さほどに強くは働かなかった。顔淵は、誰に対してもそうであったが、年上の子路に対しては、特に徹底して謙遜であった。時としては、子路のいった言葉を、子路自身で考えていた以上に、深い意味に解して、こころから子路に頭を下げるようなこともあった。そんな時には、さすがの子路も、いくぶん面映ゆく感じたが、顔淵が自分を高く買ってくれるのを、心ひそかに悦ばずには居れなかった。こんな風で、子路は顔淵に対して、ふだんから一種の気安さと、親しみとを感じていたのである。で、顔淵の前だけでなら、孔子に少しぐらい何か云われても、さほどに苦痛には感じないらしかった。そこを孔子もよく呑みこんでいたのである。\n 孔子としては、子路のそうした心境を、悲しく思わないわけではなかったが、子路を諭す機会としては、やはりほかに人がいない方がいいと思ったのである。\n それでも孔子は、決して子路を真正面から叩きつけるようなことはしなかった。彼は子路だけにものをいう代りに、二人に向ってそれとなく話しかけた。\n「どうじゃ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを話しあって見たら。」\n この言葉を聞くと、子路は眼をかがやかし、からだを乗り出して、すぐに口を切ろうとした。孔子はそれに気がついたが、わざと眼をそらして、顔淵の方を見た。\n 顔淵は、ただしずかに眼をとじていた。彼は、自分の心の奥底に、何かを探り求めているかのようであった。\n 子路は、自分にものをいう機会を与えなかった孔子の心を解しかねた。そして、いささか不平らしく、\n「先生!」\n と呼びかけた。で、孔子も仕方なしに、また子路の方をふり向いた。\n「先生、私は、私が政治の要職につき、馬車に乗ったり、毛皮の着物を着たりする身分になっても、友人と共にそれに乗り、友人と共にそれを着て、たとい友人がそれらをいためても憾むことのないようにありたいものだと存じます。」\n 孔子は、子路が物欲に超越したようなことをいいながら、その前提に自分の立身出世を置き、友人を自分以下に見ている気持に、ひどく不満を感じた。そして、うながすように、再び顔淵の顔を見た。\n 顔淵は、いつものような謙遜な態度で、子路のいうことに耳を傾けていたが、もう一度、自分の心を探るかのように眼を閉じてから、しずかに口を開いた。\n「私は、善に誇らず、労を衒わず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやって見たいと思うだけです。」\n 孔子は、軽くうなずきながら顔淵の言葉を聴いていた。そして、それが子路にどう響いたかを見るために、もう一度子路を顧みた。\n 子路は、顔淵の言葉に、何か知ら深いところがあるように思った。そして自分の述べた理想は、それにくらべると、如何にも上すべりのしたものであることに気がついて、いささか恥かしくなった。が、悲しいことには、彼の自負心が、同時に首をもたげた。そして、彼はそっと顔淵の顔をのぞいて見た。\n 顔淵は、しかし、いつもと同じように、虔ましく坐っているだけで、子路が述べた理想を嘲っているような風など、微塵もなかった。子路はそれで一先ずほっとした。\n けれども、子路としては、孔子がどう思っているかが、もっと心配であった。そして、一種の気味悪さを感じながら、孔子の言葉を待った。孔子は、しかし、じっと彼の顔を見つめているだけで、何ともいわなかった。\n かなり永い間、沈默がつづいた。子路にとっては、それは息づまるような時間であった。彼は眼をおとして、孔子の膝のあたりを見たが、やはり孔子の視線が自分の額のあたりに落ちているのを感じないわけには行かなかった。彼は少しいらいらして来た。そして、顔淵までがおし默って、つつましく控えているのが、一層彼の神経を刺戟した。彼は顔淵に対して、これまでにない腹立たしさを感じたのである。で、とうとう彼は堪えきれなくなって、詰めよるように孔子にいった。\n「先生、どうか先生の御理想も承らしていただきたいと存じます。」\n 孔子は、子路が顔淵に対してすらも、その浅薄な自負心を捨てきらないのを見て、暗然となった。そして、深い憐憫の眼を子路に投げかけながら、答えた。\n「わしかい、わしは、老人たちの心を安らかにしたい、朋友とは信を以て交わりたい、年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのじゃ。」\n この言葉をきいて、子路は、そのあまりに平凡なのに、きょとんとした。そして、それにくらべると、自分のいったことも満更ではないぞ、と思った。彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。\n これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮して来た。彼は、これまでいく度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことが出来たぞ、と思った瞬間に、いつも、するりと身をかわされるような気がしていたが、この時もまたそうであった。彼は、自分が依然として自分というものに捉われていることに気がついた。先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制して行こうとされるのが先生の道だ。自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいう事は、要するに自分を中心にした考え方だ。しかもそれは頭でひねりまわした理窟ではないか。自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただなすべき事を為して行けばいいのだ。自分に捉われないところに、誇るも衒うもない。――彼はそう思って、孔子の前に首をたれた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「あたいばかり責めたッて、しようがないだろうじゃないか?」吉弥はそのまなじりをつるしあげた。それに、時々、かの女の口が歪む工合は、お袋さながらだと見えた。\n「まア、すんだことはいいとして、さ」と、お袋は娘をなだめるように、「これからしばらく大事だから、よく気をおつけなさい。――先生にも頼んでおきたいんです、の。如才はございますまいが、青木さんが、井筒屋の方を済ましてくれるまで、――今月の末には必らずその残りを渡すと言うんですから――この月一杯は大事な時でございます。お互いに、ね、向うへ感づかれないように――」と、僕と吉弥とを心配そうに見まわした様子には、さすが、親としての威厳があった。\n「そりゃアもちろんです」と、僕はまた答えた。僕は棄てッ鉢に飲んだ酒が十分まわって来たので、張りつめていた気も急にゆるみ、厭なにおいも身におぼえなくなり、年取った女がいるのは自分の母のごとく思われた。また、吉弥の坐っているのがふらふら動くように見えるので、あたかも遠いところの雲の上に、普賢菩薩が住しているようで、その酔いの出たために、頬の白粉の下から、ほんのり赤い色がさす様子など、いかにも美しくッて、可愛らしくッて、僕の十四、五年以前のことを思い出さしめた。\n 僕は十四、五年以前に、現在の妻を貰ったのだ。僕よりも少し年上だけに、不断はしッかりしたところのある女だが、結婚の席へ出た時の妻を思えば、一、二杯の祝盃に顔が赤くなって、その場にいたたまらなくなったほどの可愛らしい花嫁であった。僕は、今、目の前にその昔の妻のおもかげを見ていた。\n そのうちにランプがついたのに気がつかなかった。\n「先生はひどく考え込んでいらッしゃるの、ね」と、お袋の言葉に僕は楽しい夢を破られたような気がした。\n「大分酔ったんです」と、僕はからだを横に投げた。\n「きイちゃん」と、お袋は娘に目くばせをした。\n「しッかりなさいよ、先生」吉弥は立って来て、僕に酌をした。かの女は僕を、もう、手のうちにまるめていると思っていたのか、ただ気まま勝手に箸を取っていて、お酌はお袋にほとんどまかしッきりであったのだ。\n「きイちゃん、お弾きよ――先生、少し陽気に行きましょうじゃアございませんか?」\n 吉弥のじゃんじゃんが初まった。僕は聴きたくないので、\n「まア、お待ち」と、それを制し、「まだお前の踊りを見たことがないんだから、おッ母さんに弾いてもらって、一つ僕に見せてもらおう」\n「しばらく踊らないんですもの」と、吉弥は、僕を見て、膝に三味をのせたままでからだを横にひねった。\n「.........」僕は年の行かない娘が踊りのお稽古の行きや帰りにだだをこねる時のようすを連想しながら、\n「おぼえている物をやったらいいじゃないか?」\n「だッて」と、またからだを振ると同時に、左の手を天心の方に行かせて、しばらく言葉を切ったが、――「こんな大きななりじゃア踊れない、わ」\n「お酌のつもりになって、さ」とは、僕が、かの女のますます無邪気な様子に引き入れられて、思わず出した言葉だ。\n「そういう注文は困る、わ」吉弥は訴えるようにお袋をながめた。\n「じゃア」と、お袋は娘と僕とを半々に見て、「私に弾けなくッても困るから、やさしい物を一つやってごらん。――『わが物』がいい、傘を持ってることにして、さ」三味線を娘から受け取って、調子を締めた。\n「まるで子供のようだ、わ」吉弥ははにかんで立ち上り、身構えをした。\n お袋の糸はなかなかしッかりしている。\n「わがーアものーオと」の歌につれて、吉弥は踊り出したが、踊りながらも、\n「何だかきまりが悪い、わ」と言った。\n そのはにかんでいる様子は、今日まで多くの男をだまして来た女とは露ほども見えないで、清浄無垢の乙女がその衣物を一枚一枚剥がれて行くような優しさであった。僕が畜生とまで嗅ぎつけた女にそんな優しみがあるのかと、上手下手を見分ける余裕もなく、僕はただぼんやり見惚れているうちに、\n「待つウ身にイ、つらーアき、置きイごたーアつ」も通り抜けて、終りになり、踊り手は畳に手を突いて、しとやかにお辞儀をした。こうして踊って来た時代もあったのかと思うと、僕はその頸ッ玉に抱きついてやりたいほどであった。\n「もう、御免よ」吉弥は初めて年増にふさわしい発言をして自分自身の膳にもどり、猪口を拾って、\n「おッ母さん一杯お駄賃に頂戴よ」\n「さア、僕が注いでやろう」と、僕は手近の銚子を出した。\n「それでも」と、お袋は三味を横へおろして、\n「よく覚えているだけ感心だ、わ。――先生、この子がおッ師匠さんのところへ通う時ア、困りましたよ。自分の身に附くお稽古なんだに、人の仕事でもして来たようにお駄賃をくれいですもの。今もってその癖は直りません、わ。何だというと、すぐお金を送ってくれい――」\n「そうねだりゃアしない、わ」と、吉弥はほほえんだ。\n「.........」また金の話かと、僕はもうそんなことは聴きたくないから、すぐみんなで飯を喰った。\n\n 一五\n\n お袋は一足さきへ帰ったので、吉弥と僕とのさし向いだ。こうなると、こらえていた胸が急にみなぎって来た。\n「先生にこうおごらして済まない、わ、ねえ」と、可愛い目つきで吉弥が僕をながめたのに答えて、\n「馬鹿!」と一声、僕は強く重い欝忿をあびせかけた。\n「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にすり寄って来た。\n「ええッ、穢れる、わい!」僕はこれを押し除けて、にらみつけ、「知らないと思って、どこまで人を馬鹿にしゃアがるんだい? さッき、おれがここへ来るまでのここのざまッたら何だ?」\n 吉弥はちょっとぎゃふんとしたようであったが、いずまいを直して、"
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"role": "assistant",
"content": "「聴いてたの?」と、きまりが悪い様子。\n「聴いてたどころか、隣りの座敷で見ていたも同前だい!」\n「あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ」\n「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」\n「そんな物アとっくに直ってる、わ」\n「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」\n 言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛れが直ったり、出来たりするのは、僕の初めから気にしていたところであった。それに、時々、その活き活きした目がかすむのを井筒屋のお貞が悪口で、黴毒性のそこひが出るのだと聴いていたのが、今さら思い出されて、僕はぞッとした。\n「寛恕して頂戴よ」と、僕の胸に身を投げて来た吉弥をつき払い、僕はつッ立ちあがり、「おッ母さんにそう言ってもらおう、僕も男だから、おッ母さんに約束したことは、お前の方で筋道さえ踏んで来りゃア、必らず実行する。しかしお前の身の腐れはお前の魂から入れ変えなけりゃア、到底、直りッこはないんだ。――これは何も焼き餅から言うんじゃアない、お前のためを思って言うんだ」\n 怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を拭きながら座敷を出た。出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂の端を右の手で口へ持って行った。目は畳に向いていた。\n その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞いに来た。僕が吉弥をしかりつけた――これを吉弥はお袋に告げたか、どうか――に対する挨拶などは、別になかった。とにかく、僕は一種不愉快な圧迫を免れたような気がして、女優問題をもなるべく僕の心に思い浮べないようにしようときめた。かつ、これからは僕から弱く出てかれこれ言うには及ばない、吉弥に性根があったら、向うから何とか言って来るだろう、それを待っているにしくはないと考えた。\n「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。\n「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。\n そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく懐かしくなった。\n 仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。\n 心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。\n 一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の器に包み、一生の寂しみをうち籠めた恋をさえ言い現わし得ないで終ってしまった。その生涯はいかにも高尚である、典雅である、純潔である。僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締った半僧生活は、十数年前、すでに、僕は思想と実験との上で通り抜けて来たのだ。そんな初々しいことで、現在の僕が満足出来ないのは分りきっている。僕の神経はレオナドの神経より五倍も十倍も過敏になっているだろう。\n こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠いのをおぼえた。\n 僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち据わる力がなくなって、下へ下へと重みが加わったのだろう。堕落、荒廃、倦怠、疲労――僕は、デカダンという分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りとしようという気が起った。\n「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。\n かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた厭になって、僕は半ばからだを起した。そうすると、吉弥もまた僕の心眼を往来しなくなった。\n 暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、\n「寛恕して頂戴よ」という優しい声が聴える。しかしその声の主はまだ来ないのであった。\n\n 一六\n\n 僕が強く当ったので、向うは焼けになり、\n「じゃア勝手にしろ」という気になったのではあるまいか? それなら、僕から行かなければ永劫に会えるはずはない。会わないなら、会わない方が僕に取ってもいいのだが、まさか、向うはそうまで思いきりのいい女でもなかろう。あの馬鹿女郎め、今ごろはどこに何をしているか、一つ探偵をしてやろうと、うちわを持ったまま、散歩がてら、僕はそとへ出た。\n 井筒屋の店さきには、吉弥が見えなかった。\n 寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して腫れぼッたい。それに、近ごろは運動もしないで、家にばかり閉じ籠り、――机に向って考え込んでいたり――それでなければ、酒を飲んでいたり――ばかりするのであるから、足がひょろひょろしている。涼しく吹いて来る風に、僕はからだが浮きそうであった。\n でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。\n なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒通って見た。そこいらにもいそうもないような気がした。\n 青木の本陣とも言うべきは、二、三町さきの里見亭だ。かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少しかけ隔った別な店へ移るのだろう。はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、\n「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも謀叛されたりするのだ」と、男泣きに泣いたそうだ。\n ある時などかれは、思いものの心を試めそうとして、吉弥に、その同じ商売子で、ずッと年若なのを――吉弥の合い方に呼んでいたから――取り持って見よと命じた。吉弥は平気で命令通り向うの子を承知させ、青木をかげへ呼んでその旨を報告した。\n「姉さんさえ承知ならッて――大丈夫よ」\n「.........」青木は、しかしそう聴いてかえってこれを残念がり、実は本意でない、お前はそんなことをされても何ともないほどの薄情女かと、立っている吉弥の肩をしッかりいだき締めて、力一杯の誠意を見せようとしたこともあるそうだ。思いやると、この放蕩おやじでも実があって、可哀そうだ。吉弥こそそんな――馬鹿馬鹿しい手段だが――熱のある情けにも感じ得ない無神経者――不実者――。\n こういうことを考えながら、僕もまたその無神経者――不実者――を追って、里見亭の前へ来た。いつも不景気な家だが、相変らずひッそりしている。いそうにもない。しかしまたこッそり乳くり合っているのかも知れないと思えば、急に僕の血は逆上して、あたまが燃え出すように熱して来た。\n 僕は、数丈のうわばみがぺろぺろ赤い舌を出し、この家のうちを狙って巻きつくかのような思いをもって、裏手へまわった。\n 裏手は田圃である。ずッと遠くまで並び立った稲の穂は、風に靡いてきらきら光っている。僕は涼風のごとく軽くなり、月光のごとく形なく、里見亭の裏二階へ忍んで行きたかった。しかし、板壁に映った自分の黒い影が、どうも、邪魔になってたまらない。\n その影を取り去ってしまおうとするかのように、僕はこわごわ一まわりして、また街道へ出た。\n もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗幽照にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとから、全く別な世界が開らけた。\n 戸々に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。"
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"role": "user",
"content": " 自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内において動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格より独立せる意志という一の神秘力に由るものと考えている。即ち観念の結合の外にこれを支配する一の力があると考えている。これに反し、意志の必然論を主張する人は大概外界における事実の観察を本としてこれより推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者はない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因をもっている。この考は凡て学問と称するものの根本的思想であって、且つ科学の発達と共に益々この思想が確実となるのである。自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算ができるようにまで進んできた。今日の所でなお原因がないなどと思われているものは我々の意志くらいである。しかし意志といってもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うているのは、畢竟未だ科学の発達が幼稚であって、一々この原因を説明することができぬ故である。しかのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因がないようであるが、多数の人の動作を統計的に考えて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考は益々我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志は凡ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるる者で、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのである。\n さてこの二つの反対論の孰れが正当であろうか。極端なる自由意志論者は右にいったように、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるという。しかしかかる意義において意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなければならぬ。たとい、これが明瞭に意識の上に現われておらぬにしても、意識下において何か原因がなければならぬ。また若しこれらの論者のいうように、何らの理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、かえってこれを偶然の出来事として外より働いた者と考えるのである。従ってこれに対し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の経験を本として議論を立つるというが、内界の経験はかえって反対の事実を証明するのである。\n 次に必然論者の議論について少しく批評を下して見よう。この種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配せらるるから、意識現象もその通りでなければならぬというのであるが、元来この議論には意識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であって、同一の法則に由って支配せらるべきものであるという仮定が根拠となっている。しかしこの仮定は果して正しきものであろうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯の如き仮定の上に立つ議論は甚だ薄弱であるといわねばならぬ。たとい今日の生理的心理学が非常に進歩して、意識現象の基礎たる脳の作用が一々物理的および化学的に説明ができたとしても、これに由りて意識現象は機械的必然法に因って支配せらるべき者であると主張することができるだろうか。たとえば一銅像の材料たる銅は機械的必然法の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか。いわゆる精神上の意味なるものは見るべからず聞くべからず数うべからざるものであって、機械的必然法以外に超然たるものであるといわねばならぬ。\n これを要するに、自由意志論者のいうような全く原因も理由もない意志はどこにもない。かくの如き偶然の意志は決して自由と感ぜられないで、かえって強迫と感ぜらるるのである。我々が或理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である。しかしここにおいて次の如き問題が起ってくるであろう。自己の性質に従うて働くのが自由であるというならば、万物皆自己の性質に従って働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのである。然るに何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。\n いわゆる自然界においては、或一つの現象の起るのはその事情に由りて厳密に定められている。或定まった事情よりは、或定まった一の現象を生ずるのみであって、毫釐も他の可能性を許さない。自然現象は皆かくの如き盲目的必然の法則に従うて生ずるのである。然るに意識現象は単に生ずるのではなくして、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知しているのである。而してこの知るといい意識するということは即ち他の可能性を含むということである。我々が取ることを意識するということはその裏面に取らぬという可能性を含むというの意味である。更に詳言すれば、意識には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもっている。これでなければ意識ではない。而してこれらの性質があるということは、現実のかかる出来事の外更に他の可能性を有しているというのである。現実にして而も理想を含み、理想的にして而も現実を離れぬというのが意識の特性である。真実にいえば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配しているのである。故に我々の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々はこれを知るが故にこの行為の中に窘束せられておらぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を実現する一過程にすぎない。その行為は外より来たのではなく、内より出でたるのである。また斯の如く現実を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。\n それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚し」といっている。\n\n 意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。\n\n\n\n第四章 価値的研究"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 凡て現象或は出来事を見るに二つの点よりすることができる。一は如何にして起ったか、また何故にかくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、一は何の為に起ったかという目的の考究である。たとえばここに一個の花ありとせよ。こは如何にして出来たかといえば、植物と外囲の事情とにより、物理および化学の法則に因りて生じたものであるといわねばならず、何の為かといえば果実を結ぶ為であるということとなる。前者は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であって、後者は物の活動の法則を研究する実践的研究である。\n いわゆる無機界の現象にては、何故に起ったかという事はあるが、何の為ということはない、即ち目的がないといわねばならぬ。但この場合でも目的と原因とが同一となっているという事ができる。たとえば玉突台の上において玉を或力を以て或方向に突けば、必ず一定の方向に向って転るが、この時玉に何らの目的があるのではない。或はこれを突いた人には何か目的があるかも知れぬが、これは玉其者の内面的目的でない、玉は外界の原因よりして必然的に動かされるのである。しかしまた一方より考えれば、玉其物に斯の如き運動の力があればこそ玉は一定の方向に動くのである。玉其物の内面的力よりいえば、自己を実現する合目的作用とも見ることができる。更に進んで動植物に至ると、自己の内面的目的という者が明になると共に、原因と目的とが区別せらるるようになる。動植物に起る現象は物理および化学の必然的法則に従うて起ると共に、全然無意義の現象ではない。生物全体の生存および発達を目的とした現象である。かかる現象にありては或原因の結果として起った者が必ずしも合目的とはいわれない、全体の目的と一部の現象とは衝突を来す事がある。そこで我々は如何なる現象が最も目的に合うているか、現象の価値的研究をせねばならぬようになる。\n 生物の現象ではまだ、その統一的目的なる者が我々人間の外より加えた想像にすぎないとしてこれを除去することもできぬではない。即ち生物の現象は単に若干の力の集合に依りて成れる無意義の結合と見做すこともできるのである。独り我々の意識現象に至っては、決してかく見ることはできない、意識現象は始より無意義なる要素の結合ではなくして、統一せる一活動である。思惟、想像、意志の作用よりその統一的活動を除去したならば、これらの現象は消滅するのである。これらの作用については、如何にして起るかというよりも、如何に考え、如何に想像し、如何に為すべきかを論ずるのが、第一の問題である。ここにおいて論理、審美、倫理の研究が起って来る。\n 或学者の中には存在の法則よりして価値の法則を導き出そうとする人もある。しかし我々は単にこれよりこれが生ずるということから、物の価値的判断を導き出すことは出来ぬと思う。赤き花はかかる結果を生じ、または青き花はかかる結果を生ずという原因結果の法則からして、何故にこの花は美にしてかの花は醜であるか、何故に一は大なる価値を有し、一はこれを有せぬかを説明することはできぬ。これらの価値的判断には、これが標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志という如き者も、已に事実として起った上は、いかに誤った思惟でも、悪しき意志でも、また拙劣なる想像でも、尽くそれぞれ相当の原因に因って起るのである。人を殺すという意志も、人を助くるの意志も皆或必然の原因ありて起り、また必然の結果を生ずるのである。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望という如き標準があって、始めてこの両行為の間に大なる優劣の差異を生ずるのである。或論者は大なる快楽を与うる者が大なる価値を有するものであるというように説明して、これに由りて原因結果の法則より価値の法則を導き得たように考えている。併し何故に或結果が我々に快楽を与え、或結果が我々に快楽を与えぬか、こは単に因果の法則より説明はできまい。我々が如何なるものを好み、如何なるものを悪むかは、別に根拠を有する直接経験の事実である。心理学者は我々の生活力を増進する者は快楽であるという、しかし生活力を増進するのが何故に快楽であるか、厭世家はかえって生活が苦痛の源であるとも考えているではないか。また或論者は有力なる者が価値ある者であると考えている。しかし人心に対し如何なる者が最も有力であるか、物質的に有力なる者が必ずしも人心に対して有力なる者とはいえまい、人心に対して有力なる者は最も我々の欲望を動かす者、即ち我々に対して価値ある者である。有力に由りて価値が定まるのではない、かえって価値に由りて有力と否とが定まるのである。凡て我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である。我々は生きる為に食うという、しかしこの生きる為というのは後より加えたる説明である。我々の食欲はかかる理由より起ったのではない。小児が始めて乳をのむのもかかる理由の為ではない、ただ飲む為に飲むのである。我々の欲望或は要求は啻にかくの如き説明しうべからざる直接経験の事実であるのみならず、かえって我々がこれに由って実在の真意を理解する秘鑰である。実在の完全なる説明は、単に如何にして存在するかの説明のみではなく何の為に存在するかを説明せねばならぬ。\n\n\n第五章 倫理学の諸説 その一\n\n 已に価値的研究とは如何なる者なるかを論じたので、これより善とは如何なるものであるかの問題に移ることとしよう。我々は上にいったように我々の行為について価値的判断を下す、この価値的判断の標準は那辺にあるか、如何なる行為が善であって、如何なる行為が悪であるか、これらの倫理学的問題を論じようと思うのである。かかる倫理学の問題は我々に取りて最も大切なる問題である。いかなる人もこの問題を疎外することはできぬ。東洋においてもまた西洋においても、倫理学は最も古き学問の一であって、従って古来倫理学に種々の学説があるから、今先ずこの学における主なる学派の大綱をあげかつこれに批評を加えて、余が執らんとする倫理学説の立脚地を明かにしようと思う。\n 古来の倫理学説を大別すると、大体二つに別れる。一つは他律的倫理学説というので、善悪の標準を人性以外の権力に置こうとする者と、一つは自律的倫理学説といって、この標準を人性の中に求めようとするのである。外になお直覚説というのがある、この説の中には色々あって、或者は他律的倫理学説の中に入ることができるが、或者は自律的倫理学説の中に入らねばならぬものである。今先ず直覚説より始めて順次他に及ぼうと思う。\n この学説の中には種々あるが、その綱領とする所は我々の行為を律すべき道徳の法則は直覚的に明なる者であって、他に理由があるのではない、如何なる行為が善であり、如何なる行為が悪であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覚的に知ることができる、行為の善悪は行為その者の性質であって、説明すべき者でないというのである。なるほど我々の日常の経験について考えて見ると、行為の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考えるのではなく、大抵直覚的に判断するのである。いわゆる良心なる者があって、恰も眼が物の美醜を判ずるが如く、直に行為の善悪を判ずることができるのである。直覚説はこの事実を根拠とした者で、最も事実に近い学説である。しかのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さぬというのは、道徳の威厳を保つ上において頗る有効である。\n 直覚説は簡単であって実践上有効なるにも拘らず、これを倫理学説として如何ほどの価値があるであろうか。直覚説において直覚的に明であるというのは、人性の究竟的目的という如きものではなくて、行為の法則である。勿論直覚説の中にも、凡ての行為の善悪が個々の場合において直覚的に明であるというのと、個々の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるというのと二つあるが、いずれにしても或直接自明なる行為の法則があるというのが直覚説の生命である。しかし我々が日常行為について下す所の道徳的判断、即ちいわゆる良心の命令という如き者の中に、果して直覚論者のいう如き直接自明で、従って正確で矛盾のない道徳法なる者を見出しうるであろうか。先ず個々の場合について見るに、決してかくの如き明確なる判断のないことは明である。我々は個々の場合において善悪の判断に迷うこともあり、今は是と考えることも後には非と考えることもあり、また同一の場合でも、人に由りて大に善悪の判断を異にすることもある。個々の場合において明確なる道徳的判断があるなどとは少しく反省的精神を有する者の到底考えることができないことである。然らば一般の場合においては如何、果して論者のいう如き自明の原則なる者があるであろうか。第一にいわゆる直覚論者が自明の原則として掲げている所の者が人に由りて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべき程の自明の原則なる者がないことを証明している。しかのみならず、世人が自明の義務として承認しているものの中より、一もかかる原則を見出すことはできぬ。忠孝という如きことは固より当然の義務であるが、その間には種々衝突もあり、変遷もあり、さていかにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。また智勇仁義の意義について考えて見ても、いかなる智いかなる勇が真の智勇であるか、凡ての智勇が善とはいわれない、智勇がかえって悪の為に用いられることもある。仁と義とはその内で最も自明の原則に近いのであるが、仁はいつ如何なる場合においても、絶対的に善であるとはいわれない、不当の仁はかえって悪結果を生ずることもある。また正義といっても如何なる者が真の正義であるか、決して自明とはいわれない、たとえば人を待遇するにしても、如何にするのが正当であるか、単に各人の平等ということが正義でもない、かえって各人の価値に由るが正義である。然るにもし各人の価値に由るとするならば、これを定むる者は何であるか。要するに我々は我々の道徳的判断において、一も直覚論者のいう如き自明の原則をもっておらぬ。時に自明の原則と思われるものは、何らの内容なき単に同意義なる語を繰返せる命題にすぎないのである。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " なつかしいヴィクトル、こうして書いているうちは元気でしたが、書き終えるとまたふたたび不安になってまいります。手紙をください、ヴィクトル。――一行でも――一語でも、私たちにはありがたいのです。アンリの御親切、御厚情、再三のお手紙には、お礼のことばもこざいません。衷心から感謝いたします。さよなら! ヴィクトル、お体には気をつけて。お願いですからお手紙をください!\nエリザベート・ラヴェンザ\nジュネーヴ、一七××年三月十八日」\n この手紙を読んで私は叫んだ、「なつかしい、なつかしいエリザベート! さっそく手紙を書いて、みんなの感じている不安を一掃してあげなくちゃ......。」私は手紙を書いたが、ほねがおれてひどく疲れた。けれども私は、快方に向って順調に進んだ。二週間ほど経つと部屋の外に出ることができた。\n 治ってから最初にやらなければならなかったことは、クレルヴァルを、大学の教授数人に紹介することであった。それをしたのはいいが、そのために私は、ひどい目にあって、精神的に蒙った傷に負けない苦しみをおぼえた。自分の研究の終りであってまた不幸の始まりであったあの運命の夜からこのかた、私は、自然哲学という名に対してさえ激しい反感を抱いていたのだ。こうして、そのほかのことではすっかり健康を取り戻したのに、化学的装置を見ると、神経的な苦悶の症状が甦ってきた。アンリはこれを見て、私の眼につかない所へ器具頼をかたずけてしまい、アパートメントも変えてしまった。前に実験室にしていた部屋を嫌っているのを看て取ったからだ。しかし、こうしたクレルヴァルの心づかいも、教授たちを訪問するやいなや水泡に帰してしまった。ヴァルトマン氏が、親切な暖かい心で、私が驚くほど科学において進歩したことをほめたが、それが私を苦しめたのだ。教授はすぐ、私がその問題を嫌っているのに気がついたが、ほんとうの原因の察しがつかず、私が遠慮しているのだと考え、私にもはっきりわかったことだが、私にうちとけて話させようと思って、私の進歩したことから科学そのものに話題を変えた。私に何ができよう。教授は喜ばせようと思ったのに、かえって私を苦しめたのだ。私には、それが、あとで私を後々にむごたらしく死に至らしめるために使う道具類を、一つ一つ念入りに私の前に置いているかのように感じられた。私は、教授のことばを聞いては身もだえしたか、感じた苦しみをあえて表には出さなかった。いつもすばやく他人の感じていることを見ぬく眼と感情の持ちぬしであるクレルヴァルが、自分がまるきり知らないのを口実にして、その話題をそらしたので、話はもっと一般的なことに移っていった。私は心から友に感謝したが、口には出さなかった。アンリが意外に思ったことは、はっきりわかったけれども、私から秘密を引き出そうとはしなかった。私も、限りのない愛情と尊敬の入り混った気もちでこの友人を愛していたのに、あの出来事をうちあけて話す気にはとてもなれなかった。あの出来事は、私の思い出のなかにはすこぶる頻繁に現われるが、それにしても、他人がそれを詳しく知ったら、もっと深刻になまなましい印象を受けるだけだ、ということを怖れるのだ。\n クレンペ氏のほうは、こんなにおとなしく済むわけにはいかなかった。そのとき、ほとんど神経過敏の状態に陥っていた私には、その無遠慮な讃辞が、ヴァルトマン氏の慈愛にみちた称讃よりもかえって苦しかった。教授は叫んだ、「こいつめは、ね、クレルヴァル君、たしかにわしらを追いぬいてしまったんですよ。やれやれ、いくらでも眼を円くしなさいよ。しかし、これは事実なんだ。二、三年前にはコルネリウス・アグリッパを福音書同様に固く信じていた若者が、今ではこの大学の先頭に立っているんだ。この男を早くやっつけないことにゃ、わしらはみな顔色なしですよ――やれやれ。」私が苦しそうな顔つきをしでいるのを見て、教授は言いつづけた、「フランケンシュタイン君は控え目でね。若い人としてすぐれた性質をもっていますよ。若い人たちは遠慮がちがいいですなあ、クレルヴァル君。わしだって若いころはそうだったが、どうも永続きしなくてね。」\n グレンペ氏は今度は自慢話を始めたので、さいわいに私を苦しめる問題から話が逸れていった。\n クレルヴァルは自然科学に対する私の趣味に同感したことがなかったので、その文学的探究は、私が勉強したものとはまるで違っていた。東洋の諸国語にすっかり通暁することを企てて大学へ来たのであるが、それというのも、こんなふうに自分で目じるしをつけた生活設計の一領域を開くためであった。ただ、恥しくない道を歩もうと心に決め、自分の進取の気性にふさわしい活動領域として、東方に眼を向けたのであった。そこで、アンリが、ペルシア語やアラビア語やサンスクリット語に注意を奪われたので、私もつい誘われて同じ勉強を始めた。何もせずにぶらぶらしているのは、私には退屈なことだったし、ふりかえって考えてみるのを好まず以前の研究がいやになっている今では、友と同じ勉強をすることに大きな救いを感じ、また、東洋人の著作に教訓ばかりでなく慰藉までも見出した。私は、アンリのようにその人たちの方言の批判的知識を企てたりはしなかった。というのは、それを一時的な娯しみ以上のやくにたたせるつもりがなかったからだ。私はただその意味を解するために読んだのであって、ほねおりがいは十分にあった。ほかのどの国の著述家たちを研究した時にも経験したことのないぐらいに、この人たちの憂欝は心を慰めてくれ、その歓びは心を高めてくれる。そういう著作を読むと、人生は、暖かい太陽や薔薇の花園のなかにあり――美しい敵すなわち女性の、笑顔やしかめ顔、自分の心を焼きつくす火のなかにあるような気がする。ギリシアやローマの男らしい英雄的な詩とは、なんと違っていることだろう!\n こんなことに没頭しているうちに、夏が過ぎ、私がジュネーヴへ帰るのはこの秋の終りときまったのであったが、いろんな出来事のために、のびのびになっているうちに、冬と雪がやって来、道が通れなくなったらしいので、私の帰省は、さらにつぎの春まで延びることになった。こんなふうにのびのびになったことに、私はじつにつらい思いをした。ふるさとの町や愛する友だちを見たくてしょうがなかったからだ。クレルヴァルが誰とも土地の人たちに馴れないうちに、この見知らぬ所に置いていってしまうのがしのびなかっただけで、私の帰省が長びいたのであった。けれども、冬のあいだは愉快に過ごし、春の来るのがいつになく遅かったとはいえ、それが来ると、その美しいことは、遅かっただけのことがあった。\n 五月という月がもう始まっていたので、私は、出発の日取りを決めてよこす手紙を毎日待ちもうけたが、そのときアンリが、私が長いこと住んでいた国にじかにさよならを告げるために、インゴルシュタットの近郊の徒歩旅行に出かけてはどうかと言いだした。私は喜んでこの提案に同意した。私は運動が好きで、故国の山野をこんなふうにぶらつき歩いた時の気に入りの相棒が、いつもクレルヴァルであった。\n こうして歩き廻るのに二週間かかったが、私の健康と元気はずっと前から快復していて、呼吸した健康によい空気、行く先々の自然の出来事、友との会話などで、それがさらにいっそう強められた。以前は研究に閉じこもって学友の連中ともつきあわず、非社交的だったが、クレルヴァルが私の心のよい感情を呼びおこして、ふたたび自然の光景と子どもたちの快活な顔を愛することを教えてくれた。すぐれた友よ! どんなに君は、私を心から愛し、私の心を君自身の心の高さにまで引き上げてくれたことだろう! 自分かってな研究に耽って、私の心が束縛され狭くなっていたのに、君の温厚さと愛情がついに、私の意識を暖ためかつ開いたのだ。私は、二、三年前の、みんなに愛し愛されて悲しみも心配もなかったころと同じような、幸福な人間になった。幸福になってみると、生命のない自然がもっとも喜ばしい感覚を与える力をもっていた。晴れわたった空や青々とした野原が私をすっかり恍惚とさせた。この季節はじつにこの世のものと思えないくらいで、春の花が生垣に咲きこぼれ、一方で夏の花がもう蕾をつけていた。前の年、なんとかして投げ棄てようと努力したにもかかわらず、どうにもならぬ重荷として私を抑えつけていた考えには、悩まされなかった。\n アンリは、私が愉快にしているのを悦び、心から私の気もちに同感して、自分の魂を充たす感情を表わしながら、私を楽しませようと尽力してくれた。こういうばあいにおけるアンリの心の豊かさは、じつに驚くべきであって、その会話は想像力に充ち、しきりにペルシアやアラビアの著述家たちをまねて、すばらしい空想と情熱の物語を創作した。そうかとおもうと、私の好きな詩を暗誦したり、すこぶる巧妙に自分の主張する議論に私を捲きこんだりもするのだった。\n ある日曜日の午後に大学に帰ったが、ちょうど百姓たちが踊っているところで、私たちの出会った人はみな楽しく幸福そうに見えた。私自身も元気いっぱいで、抑えきれない歓びと上機嫌の感情をもって踊りまわった。\n\n\n7 暴風雨のなかで\n\n\n 帰ってみると、父からつぎのような手紙が来ていた、――"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「わたしの大事なヴィクトル、――おまえはたぶん、こちらへ帰る日取りを決める手紙を待ちこがれていたこととおもう。わたしも最初は、ほんの二、三行書いて、おまえに帰ってもらいたい日を言ってやるだけにするつもりでした。しかし、それも無慈悲なのて、そうもできかねました。おまえは幸福な嬉しい歓迎を期待しているのに、それに反して涙とみじめな状態を見たとしたら、おまえの驚きはどうでしょう。ああ、どうしてわれわれの不しあわせを語ることができよう。家に居なかったからといって、おまえがわれわれの喜びや悲しみに対して冷淡になっているわけはない。だから、長いこと家を留守にしてる息子にどうして苦痛を与えることができよう。不吉な知らせに対して覚悟しておいてもらいたかったのだが、それもできかねることははっきりしている。というのは、現におまえの眼が、怖ろしい消息を伝えることばを見つけようとして、この手紙を一気に飛ばし読みしてしまうからだ。\n「ウィリアムが死んだのだ! ――あの笑顔でわたしの心を明るくし、暖かくした、あんなにおとなしくて、しかもあんなに快活だった、あのかわいらしい子が! ヴィクトル、あの子は殺されたのだよ!\n「私はおまえを慰めようとはしない。ただ事態を述べるにとどめよう。\n「前の木曜日(五月七日)に、わたしと姪とおまえの弟二人で、プレンパレーへ散歩に行ったのだ。その夕方は暖かくておだやかだったので、われわれは散歩をいつもより遠くのばした。戻ろうと思ったころには、もう日が暮れていたが、そのとき、先に行ったウィリアムとエルネストの姿が見えないのに気がついた。そこでわれわれは、二人が戻ってくるまで腰を下ろして休んだ。やがてエルネストが戻って来て、弟を見かけなかったかと訊ねた。ウィリアムといっしょに遊んでいたが、弟は馳けだしていって隠れたので、探してみたが見つからない、ずいぶんしばらく待ったけれども、戻って来なかった、というのだ。\n「この話を聞いてわたしらはかなりびっくりし、夜になるまで探しつづけたが、そのうちエリザベートは、ウィリアムは家へ帰ったのかもしれないと言いだした。ウィリアムは家に見当らなかった。われわれは炬火を持ってひき返した。あのかわいい坊やが道に迷って、夜の湿気や露に濡れどおしだとおもうと、じっとしておれなかったからだ。エリザベートだって、心配で心配で居ても立ってもおられぬ思いだった。朝の五時ごろ、わたしはかわいい坊やを見つけたが、前の晩には咲き匂うばかりにいきいきと健康だったのを見ているのに、草の上にのびて、色蒼ざめ、動かなくなってしまって、頸には殺害者の指のあとがついているのだ。\n「死体は家へ運んで来たが、私の顔に苦悩の色が現われているのを見て、エリザベートに秘密がわかってしまった。エリザベートはしきりに死体を見たがった。はじめは引き留めようとしたが、どうしてもきかずに、それのよこたわっている部屋に入り、被害者の頸をさっそく調べ、手を叩いて叫んだ、『おお神さま! あたしがあのかわいい子を殺したんだわ!』\n「エリザベートは気絶してしまって、正気にかえるのにひどく難儀した。気がついても、ただもうすすり泣いて吐息をつくばかりなのだ。やっと私に話したところによると、その日の夕方、ウィリアムが、エリザベートの持っていたおまえの母のたいせつな小画像を自分が掛けたがって、エリザベートを困らせた。この画像がなくなっているから、殺害者は疑いもなくあれがほしくてやったのだという。そこで、その犯人を見つけようとする努力は続けているが、今のところその踪跡はわからないし、またわかったところで、あのかわいいウィリアムが生きかえるわけではない!\n「帰って来ておくれ、いとしいヴィクトル。エリザベートを慰めることができるのはおまえだけなのだよ。エリザベートは泣いてばかりいて、そうではないのにウィリアムの死の原因か自分だと言って自分を責めるのだが、そのことばがわたしの胸を突き刺すのだ。われわれはみな不幸だ。けれども、そのことは、おまえにとって、帰って来て、われわれを慰めてくれようとする動機を、もう一つ加えたことにならないだろうか。おまえのお母さん! ああヴィクトル! 今となっては言いますが、おまえのお母さんがあの小さな坊やのむごたらしいみじめな死に目に会うまで生きていなかったことを神さまに感謝します!\n「帰っておいで、ヴィクトル、暗殺者に対して復讐するという考えを抱いてでなく、われわれの心の傷を痛ませるかわりに医してくれる、穏かな、やさしい気もちで。敵に対する憎しみをもってでなく、おまえを愛する者に対する親切と愛情をもって、この哀しみの家においで。――おまえの悩める慈父\nアルフォンス・フランケンシュタイン\nジュネーヴ、一七××年五月十二日」\n この手紙を読むうち私の顔を見守っていたクレルヴァルは、はじめ手紙を受け取った時に表わした喜びが、絶望に変ったのを観て、驚いた。私は手紙を卓上に投げ出し、両手で頸を覆った。\n「君、フランケンシュタイン、」とアンリは、私がさめざめと泣いているのに気がついて叫んだ、「君はしじゅう不幸な目に会うんだね。ね、君、どうしたんだ?」\n 私は身ぶりで手紙を読んでくれとあいずしながら、興奮のあまり、部屋のなかをあちこち歩きまわった。手紙を読んで私の不運を知ると、アンリの眼からも涙が流れた。\n「なんとも慰めようがないよ。君の災難はとりかえしがつかない。で、君はどうするつもりだ?」\n「すぐジュネーヴへ帰る。だから、いっしょにそこまで行って馬を頼んでほしいんだ。」\n 歩きながらもクレルヴァルは、慰めのことばを少しでも言おうと努力したが、真心のこもった同情を表わすことしかできなかった。「かわいそうなウィリアム! いい子だったのに、今では、天使のようなお母さんといっしょに眠っているのだね! 若々しい美しさに包まれて明るく楽しそうにしていたあの子を見たことがある人なら、それが不時に亡くなったと聞いて、泣かずにいられないよ! そんなみじめな死に方をして、殺害者の掴んだ手のあとを、まざまざと見せたまま! ひどい人殺しもあるものだ、あの天真爛漫な、罪もない子を殺すなんて! かわいそうな坊や! 僕らの慰めはたった一つきり。親しい者が歎き哀しんで泣いてはいても、あの子は安らかになっているのだ。激しい苦痛が去り、あの子の苦しみは永久に終ってしまった。芝生にそのやさしい姿を蔽われて、苦痛を知らないでいるのだ。あの子はもう憐れみの対象ではなくなって、憐れまれるのはかえってあとに遺されたみじめな人たちなのだ。」\n 街を急いで歩きながらクレルヴァルはこう話したが、そのことばは、私の心に刻みつけられ、あとでひとりになった時に思い出された。しかし、もうそのとき馬が着いたので、私は大急ぎで馬車に乗り、友にさよならを告げた。\n 私の旅は、すこぶる憂欝だった。悲しんでいる親しい者たちを慰めて、悲しみを共にすることを願っていたので、最初のうちは急いで行きたかったが、ふるさとの町に近づくと、馬の歩みをゆるめた。万感の胸に迫るのを抑えかねたのだ。年少のころ親しんだ場面を通り過ぎていったが、それは六年近くも見なかったものなのだ。そのあいだに、何もかもなんと変ったことか! 一つのだしぬけな悲しむべき変化が起ったのだが、年数のささやかな事情が徐々にいろいろと変えていって、それが静かにおこなわれたとはいえ、少からず決定的に作用したのにちがいない。私は恐怖に圧倒された。なんだかわからないがとにかく私を慄えさせる名もない無数の悪魔たちを怖れて、私は進みかねた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 董承は、愕として、その面を見つめていたが、吉平の義心を見きわめると、今はこの人につつむ理由もないと、一切の秘事をうちあけた後、血詔の衣帯をとり出して示した。\n 吉平はそれを拝すると、共々、漢朝のために哭いて、やがて威儀を改めていうには、\n「ここに大奸曹操を一朝にして殺す妙策があります。しかも兵馬を用いず、庶民に兵燹の苦しみも及ぼさずに行えることですから、わたくしにお任せおき下さるまいか」\n「そんな妙計があろうか」\n「かれは健康ですが、ただ一つ頭風の持病をもっているので、その持疾が起ると、狂気のごとく骨髄の痛みを訴えます。それに投薬するものは、わたくし以外にありません」\n「あっ? ......では毒を」\n ふたりは、ひたと口をつぐんだ。その時、室の帳外に、風のないのに、何やら物の気配のうごく気がしたからであった。\n\n美童\n\n一\n\n 冬をこえて南枝の梅花のほころぶを見るとともに、董家の人々も眉をひらいた。近ごろ主人の董承はすっかり体も本復して、時おり後閣の春まだ浅い苑に逍遥する姿などを見かけるようになったからである。\n「......雁が帰る。燕が来る。春は歩いているのだ。やがて、吉平からも何かいい報らせがあろう」\n かれの皮膚には艶が出てきた。眉に希望があらわれている。\n(一服の毒を盛って、曹操の一命を!)\n 正月十五日の夜、吉平のささやいたことばがたえず耳の底にある。その実現こそ、彼の老いた血にも一脈の熱と若さを覚えさせてくる待望のものだった。天地の陽気はまさに大きくうごきつつあることを彼は特に感じる。\n こよいも彼は食後ひとり後苑へ出て疎梅のうえの宵月を見出していた。薫々たる微風が梅樹の林をしのんでくる。――彼の歩みはふと止まった。\n 一篇の詩となるような点景に出会ったからである。\n 男と女だった。\n ふたりは恋を語っている。\n 暗香疎影――ふたつの影もその中のものだし、董承の影と明暗の裡にたたずんでいるので――彼らはすこしも気がつかないらしい。\n「......一幅の絵だ」\n 董承は口のうちで呟きながら、恍惚と遠くから見まもっていた。\n 水々しい春月が、男女の影に薄絹をかけていた。男はうしろ向きに――羞恥んでいるのか、うつ向いて爪を噛んでいる。\n 背中あわせに、女はそこらの梅を見ていた。そのうちに、女から振向いて、何か、男に云いかけたが、男はいよいよ肩をすぼめ、かすかに顔を横に振った。\n「お嫌?」\n 女は、思いきったように、ひら――と寄ってのぞきこんだ。\n その刹那、老人の体のなかにもあった若い血は、とたんに赫怒となって、\n「不義者めッ」と、突如な大声が、董承の口を割ってでた。\n 男女はびっくりしてとびはなれた。もちろん董承のあたまにはもうそれを詩と見ていることなど許されない。――女性は後閣に住んでいる彼の秘妾であり、男はかれの病室に仕えていた慶童子とよぶ小さい奴僕だった。\n「この小輩め。不、不埓者めが!」\n 董承は逃げる慶童の襟がみをつかんで、さらに大声で彼方へどなった。\n「誰ぞ、杖を持ってこい、杖と縄を」\n その声に、家臣たちが、馳けつけてくると、董承は、身をふるわして杖で打てといいつけた。\n 秘妾は百打たれ、慶童は百以上叩かれた。\n それでもなお飽きたらないように、董承は、慶童子を木の幹に縛らせた。そして秘妾の身も後閣の一室に監禁させた。\n「疲れたから今夜は眠る」と、ふたりの処分を明日にして自分の室へかくれてしまった。\n ところが、その夜中、慶童は縄を噛み切って逃げてしまった。\n 高い石塀を躍りこえると、どこか的でもあるように深夜の闇を跳ぶがごとく馳けていた。\n「見ていやがれ、老いぼれめ」\n 美童に似あわない不敵な眼を主人の邸へふり向けていった。もとより幼少の時、金で買われてきた奴隷にすぎないから、主従の義もうすいに違いないが、生れつき容姿端麗な美童だったから、董承も身近くおいて可愛がり、家人もみな目をかけていた者だった。\n ――にも関わらず、慶童は、怨むことだけを怨んだ。その奴隷根性の一念から怖るべき仕返しをこころに企んで、彼はやがて盲目的に曹操のところへ密訴に馳け込んでいた。\n\n二\n\n 時ならぬ深夜、相府の門をたたいて、\n「天下の大変をお訴えに出ました。丞相を殺そうとしている謀叛人があります」\n と、駈け込んで来た一美童に、役人たちは寝耳に水の愕きをうけた。\n いやもっと愕いたのは、慶童の口から、董承一味の企てを、直接聞きとった曹操自身であった。\n「どうして其方は、そんな主人の大事を、つぶさに知っておるのか。そちも一味の端くれであろうが」\n とわざと脅しをかけてみると、慶童はあわてて顔を横に振って、\n「滅相もないことを仰っしゃいませ。私は何も存じませんが、正月十五日の夜、いつもくる典医の吉平と主人が、妙に湿ッぽく話しこんでいたり、慨嘆して哭いたりしていますので、次の間の垂帳のかげでぬすみ聞きしていましたところ、いま申しあげたように、丞相様に毒を盛って、他日きっと殺してみせると約束しているではございませんか......。怖ろしさのあまり身がふるえ、それからというもの、私は主人の顔を仰ぐのも何だか恐くなっておりました」\n 曹操は動じない面目を保とうとしていたが、明らかに、内心は静かとも見えなかった。\n 階下の家臣に向って、\n「事の明白となるまでその童僕は府内のどこかへ匿まっておけ。なお、この事件については、一切口外はまかりならぬぞ」と、云い渡し、また慶童に対しては、\n「他日、事実が明らかになったならば、其方にも恩賞をつかわすであろう」といって退けた。\n 次の日、また次の日。相府の奥には不気味な平常のままが続いていた。――と思うと、あれから四、五日目の明け方のことだった。にわかに一騎の使いが駈けて、典医吉平の薬寮を訪ね、\n「昨夜から丞相がまたいつもの持病の頭風をおこされ、今朝もまだしきりと苦しみを訴えておられまする。早暁お気のどくでござるが、すぐご来診ねがいたい」\n との、ことばであった。\n 吉平は心のうちでしめたと思ったが、さあらぬ態で、\n「すぐお後より――」と先に使いを帰しておき、さてひそかに、かねて用意の毒を薬籠の底にひそめ、供の者一名を召しつれ驢に乗って患家へ赴いた。\n 曹操は、横臥して、彼のくるのを待ちかねていた。\n 自分の顔を、拳で叩きながら、吉平の顔を見るなり、たまらないように叫んだ。\n「太医、太医。はやくいつもの薬を調合せてこの痛みをのぞいてくれい」\n「ははあ、またいつものご持病ですな。お脈にも変りはない」\n 次の間へさがると、彼はやがて器に熱い煎薬を捧げてきて、曹操の横たわっている病牀の下にひざまずいた。\n「丞相。お服みください」\n「......薬か」\n 片肱をついて、曹操は半身をもたげた。そして薬碗からのぼる湯気をのぞきながら、\n「いつもと違うようだな。......匂いが」と、つぶやいた。\n 吉平は、ぎょっとしたが、両手で捧げている薬碗にふるえも見せず、なごやかな目笑を仰向けて答えた。\n「丞相の病根を癒し奉ろうと心がけて、あらたに媚山の薬草を取寄せ、一味を加えましたから、その神薬の薫りでございましょう」\n「神薬。......嘘をいえ。毒薬だろう!」\n「えっ」\n「飲め。まず其方から飲んでみせい。......飲めまい」\n「............」\n「なんだ、その顔色は!」\n がばと、起つや否、曹操は足をあげて、煎薬の碗と共に、吉平の顎を蹴とばした。\n「この藪医者を召捕れっ」\n 次いで、彼の呶号がとどろいた。応っ――とばかり一団の壮丁は、声と共にとびこんできて、吉平を高手小手に縛りあげてしまった。\n"
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"role": "assistant",
"content": "三\n\n 吉平の縄じりをとって、相府の苑にひき出した武士獄卒たちは、\n「さあ、ぬかせ」\n「誰にたのまれて、丞相に毒をさしあげたか」\n と、打ち叩いたり、木の枝に逆しまに吊るしあげたりして拷問したが、\n「知らん。むだなことを訊くな」\n とばかりで、吉平は悲鳴一つあげなかった。\n 曹操は、侍臣を見せにやって、\n「容易に口をあくまい。こっちへひっぱって来い」と、命じた。\n 聴訴閣の一面に座を設け、やがて階下にひきすえられた吉平を、曹操は、くわっと睨めつけて云った。\n「老いぼれ、顔をあげろ。医者の身として、予に毒を盛るなど、ただごとの謀ではあるまい。汝をそそのかした背後の者をのこらず申せ。さすれば、そちの一命だけは助けてとらそう」\n「ははは」\n「汝、なにを笑うか」\n「おかしいゆえ、笑うのみじゃ。おん身を殺さんと念じる者、ひとりこの吉平や、わずかな数の人間と思うか。主上を僭し奉る憎ッくき逆賊、その肉を啖わんと欲するものは、天下に溢るるほどある。いちいちそんな大勢の名があげられようか」\n「口幅たいヘボ医者め。何としても申さぬな。きっといわんな」\n「益なき問答」\n「まだ拷問が足らんとみえる。もっと痛い目をみたいか」\n「事あらわれたからには、死ぬるばかりが望みじゃ。ひと思いに斬りたまえ」\n「いや、容易にはころさぬ。獄卒ども、この老医の毛髪がみな脱け落ちるまで責めつけろ。息の根の絶えぬほどに」\n 下知をうけると、獄卒たちは仮借をしない。あらゆる方法で吉平の肉身をいじめつけた。けれど吉平の容子は――その五体の皮肉こそ朱にまみれてはいたが――常の落着きとすこしも変るふうはなかった。\n むしろ見ている人々のほうが凄惨な気につつまれてしまった。曹操は余り度をこして、臣下の胸に自分を忌み厭うものの生じるのをおそれて、\n「獄に下げて、薬をのませておけ、毒薬でなくてもよろしいぞ」\n と、唾するように云った。\n それからも連日、苛責はかれに加えられたが、吉平はひと口も開かなかった。ただ次第に、乾魚のように肉体が枯れてゆくのが目に見えて来るだけである。\n「策を変えよう」\n 曹操は一計を按じて、近ごろ微恙であったが、快癒したと表へ触れさせた。そして、招宴の賀箋を知己に配った。\n その一夕、相府の宴には、踵をついでくる客の車馬が迎えられた。相府の群臣も陪席し、大堂の欄や歩廊の廂には、華燈のきらめきと龕の明りがかけ連ねられた。\n こよいの曹操はひどく機嫌よく、自身、酒間をあるいて賓客をもてなしなどしている風なので、客もみな心をゆるし、相府直属の楽士が奏する勇壮な音楽などに陶酔して、\n「宮中の古楽もよいが、さすがに相府の楽士の譜は新味があるし、哀調がありませんな。なんだか、心が濶くなって、酒をのむにも、大杯でいただきたくなる」\n「譜は、相府の楽士の手になったものでしょうが、今の詩は丞相が作られたものだそうです」\n「ほう。丞相は詩もお作りになられますか」\n「迂遠なことを仰っしゃるものではない。曹丞相の詩は夙に有名なものですよ。丞相はあれでなかなか詩人なんです」\n そんな雑話なども賑わって酒雲吟虹、宴の空気も今がたけなわと見えた折ふし、主人曹操はつと立って、\n「われわれ武骨者の武楽ばかりでも、興がありますまいから、各位のご一笑までに、ちょっと、変ったものをご覧に入れる。どうか、酒をお醒ましならぬように」\n と、断りつきの挨拶をして、傍らの侍臣へ、何か小声でいいつけた。\n\n四\n\n なにか余興でもあるのかと、来賓は曹操のあいさつに拍手を送り、いよいよ興じ合って待っていた。\n ところが。――やがてそこへ現れたのは、十名の獄卒と、荒縄でくくられた一名の罪人だった。\n「......?」\n 宴楽の堂は、一瞬に、墓場の坑みたいになった。曹操は声高らかに、\n「諸卿は、このあわれな人間をご承知であろう。医官たる身でありながら、悪人どもとむすんで、不逞な謀をしたため、自業自得ともいおうか、予の手に捕われて、このような醜態を、各〻のご酒興にそなえられる破目となりおったものである。......天網恢々、なんと小癪な、そして滑稽なる動物ではないか」\n「............」\n もう誰も拍手もしなかった。\n いや、咳一つする者さえない。\n ひとり、なお余息を保っている吉平は、毅然として、天地に恥じざるの面をあげ、曹操をにらんで云った。\n「情けを知らぬは大将の徳であるまい。曹賊。なぜわしを早く殺さぬか。――人は決してわしの死を汝に咎めはしまい。けれど人は、汝がかくの如く無情なることを見せれば、無言のうちに汝から心が離れてゆくぞ」\n「笑止な奴。そのような末路を身で示しながら、誰がそんな口賢いことばに耳をかそうか。獄の責苦がつらくて早く死にたければ、一味徒党の名を白状するがよい。――そうだ、各〻、吉平の白状を聞き給え」\n 彼は直ちに、獄吏に命じて、そこで拷問をひらき始めた。\n 肉をやぶる鞭の音。\n 骨を打つ棒のひびき。\n 吉平のからだは見るまに塩辛のように赤くくたくたになった。\n「............」\n 満座、酒をさまさぬ顔はひとつとしてなかった。\n わけてもがくがくと、ふるえおののいていたのは、王子服、呉子蘭、种輯、呉碩の四人だった。\n 曹操は、獄吏へ向って、\n「なに、気を失ったと。面に水をそそぎかけて、もっと打て、もっと打て」と、励ました。\n 満水をかぶると、吉平はまた息を吹きかえした。同時に、その凄い顔を振りながら、\n「ああ、わしはたッた一つ過った。――汝にむかって情を説くなど、木に魚を求めるよりも愚かなことだった。汝の悪は、王莽に超え、汝の姦佞なことは、董卓以上だ。いまに見よ。天下ことごとく汝をころして、その肉を啖わんと願うであろう」\n「いうてよいことはいわず、いえばいうほど苦しむことをまだ吐くか」\n 曹操は、沓をあげて、彼の横顔を蹴った。吉平は大きなうめき声をだして絶え入った。\n「殺すな。水をのませろ」\n 酒宴の客はみなこそこそと堂の四方から逃げだしていた。\n 王子服達の四人も、すきを見てぱっと扉のそばまで逃げかけたが、\n「あ、君達四人は、しばらく待ちたまえ」\n と、曹操の指が、するどく指して、その眼は、人の肺腑をさした。\n 王子服達のうしろには、すでに大勢の武士が墻をつくっていた。曹操は冷ややかに笑いながら四人の前へ近づいてきた。\n「各〻には、そう急ぐにもあたるまい。これから席をかえて、ごく小人数で夜宴を催そう。......おいっ、特別の賓客をあちらの閣へご案内しろ」\n「はっ。......歩け!」\n 一隊の兵は、四人の前後を、矛や槍でうずめたまま、一閣の口へながれこんだ。呉子蘭の足も王子服の足も明らかにふるえていた。四人の魂はもうどこかへ飛んでしまっている。\n\n五\n\n やがて後から曹操が大股に歩いて入ってきた。\n 胸におぼえのあることなので、王子服らの四人は、かれの眼を、正視できなかった。\n「君たちは、この曹操を殺したがっておるそうだな。董承の邸にあつまって、だいぶ相談したそうじゃないか」\n 激語になると、曹操は、白面の一書生だった頃の地金が出てくる。また彼はその洛陽時代には、宮門の警吏をしていたので、罪人に対する手ごころは巧みでことのほか峻烈だった。\n「い、いいえ。......丞相。......何かおまちがいではありませんか」\n 王子服が、空とぼけて、顔を振りかけると、その頬を、いやというほど平手で撲って、\n「ひとを愚にするな。そんな小役人へするような答えに甘んじる曹操ではない」\n「お怒りをしずめて下さい。董承の家に集まったのは、まったく平常の交わりにすぎません」"
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