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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一\n\n 巴里の警視総監であるアリステード・ヴァランタンは晩餐におくれた。そして来客達はもう彼より先きに来はじめていた。それで忠実な執事のイワンがお相手をしていた。イワンは顔に刀傷の痕のある、そして灰色の口髭と色別のつかないような顔色をした老人で、いつも玄関のテーブルに――そこには武器類がかかっている――に控えている。この家は主人のヴァランタンと同様に風変りで有名である。旧い家で、高い外塀と、セイヌ河の上に乗出しているヒョロ高いポプラの樹とを持っているがこの家の建築上の風変りな点は――そしておそらくはその警察的価値は――すなわち、この家には、イワンと武器とががん張ってる表の入口からするのでない以上は、はいっても出たというものがない事だ。庭は広くてよく手入れが行き届いていた。そして家の中からその庭への出口はたくさんあった。が庭から世の中への出口がないのだ。周囲は高くて滑々で登る事の出来ない塀にとりかこまれて、塀の上には盗難よけの釘が列をつくっている。この庭は、百人に近い犯罪家に首をつけ狙われている男にとっておそらく悪るい庭ではない。\n イワンが来客への申訳によると主人から先刻電話がかかって、十分ほど遅くなるからとの事であった。ヴァランタンは実は死刑執行やその他の厭わしい事務についての最初の手配りをしていたのだ。そうした仕事は腹の底から不快なことであったが彼はそれをテキパキと片づけるのが常であった。犯人の追跡には無慈悲な彼も刑罰には非常に寛大であった。彼が仏蘭西の――否、広く全欧羅巴にまたがっての――警察制度の支配者となって以来、彼の影響は、名誉にも刑罰の軽減、監獄の浄化等いう方面に及んだことである。彼はフランスの偉大な人道主義的自由思想家の一人であった。\n ヴァランタンが帰宅した時はもう燕尾服を着て胸に赤バラをかざしていた――上品な姿――黒い髯にはすでに白いものを交ぜていた。彼は家にはいると真直に、庭に面した自分の書斎へ通った。庭への出口が開いているので、彼は事務机の上の小函に注意深く鍵をかけて後、しばらくその戸口の所で庭を眺めた。鋭どい月が嵐の名残のちぎれ雲と戦っていた。ヴァランタンは科学者肌の人には珍ずらしい物想わし気な面持でそれを見つめた。たぶんこうした科学者的性格の人間には生活上に何か非常に恐畏すべき問題の起るような場合、心霊上の予感があるらしい。しかしそうした一種の神秘な気分から、少なくとも彼はたちまち我れにかえった。自分は遅れたこと、客がすでに来はじめている事をよく知っているので。彼は客間へはいってちょっと見渡したが、今夜の主賓が未だ来ていない事がわかった。外の主だった人は皆揃っていた。そこには英国大使のガロエイ卿がいた――林檎のような赤ら顔をした癇癪持らしい老人で、青いリボンのガーター勲章をつけている。ガロエイ夫人もいた。銀色の髪の毛を持ち、聡明らしい上品な面持をした鶴のような姿の女性だ。娘のマーガレット・ブレーアムという青白い可愛い、いたずらっ子らしい顔と銅色の髪の毛を持った少女もいた。また黒眼で豊まんな、モン・サン・ミシェル公爵夫人が、同じように黒眼で福々しい、二人の娘を連れて来ていた。眼鏡をかけ、褐色の髯をたくわえた、典型的のフランス式科学者シモン医学博士もいた。彼の額には太い皺が幾筋となく走っているが、これは博士が尊大で、絶えず眉毛をビクビクとつり上げるところから生じた報いだ。英国エセックス州コブホールの僧侶師父ブラウンもいた。主人が最近英国で近づきになった人であった。それからヴァランタンは――他の誰よりも多くの興味をもって――丈の高い一人の軍服姿の男を見た。この男は英国大使一家の人達に挨拶をしたのだが。あまり快い礼を返されなかったので、今度は主人の方へ敬意を表しにやって来た。彼は仏蘭西遣外駐屯軍の司令官のオブリアンという男である。痩せてはいるが、幾分威張って歩きたがる男で、黒い髪と碧い眼を持ち、髭には叮嚀に剃刀があてられている。敗戦に勝利を得、自殺に成功した有名な聯隊の将校としては自然であるように、彼は突貫的な、また幽欝な風ぼうを備えていた。生れは愛蘭土で、子供時代に英大使ガロエイ氏一家――ことに娘のマーガレット・ブレーアムと馴染だった。彼は借金を踏倒して国を逃出し、今では軍服、サーベル、拍車で歩きまわって、英吉利風の礼儀をすっかり忘れてしまっている。大使の家族に礼をした時、ガロエイ卿と夫人とは無愛想に首を曲げただけで、マーガレット嬢は傍を向いてしまったのである。\n しかし、昔馴染のこれらの人達がお互にどんなに興じ合っていようとも、主人のヴァランタンは彼等の特に興味をもったのではない。彼等のうちの一人だって、少なくとも今夜の客とはいえないのだ。ある特別な理由で、彼はかつて米国で堂々たる大探偵旅行を企てた時に知己になった世界的に有名な男を待っていた。彼はジュリアス・ケイ・ブレインと言う数百万弗の財産家の来るのを待っていたのだ。このブレインが群小宗教に寄附する金は人をアッといわせるほど巨大なもので、英米の諸新聞のいい噂の種となったものである。そのブレインが無神論者であるのか、モルモン宗徒であるのか、基督教信仰治療主義者であるのか、それは誰にもわからなかった。が、彼は新らしい知識的宣伝者と見れば、どんなものにも即座に金を注ぎ込んだ。彼の道楽の一つは、アメリカ沙翁の出現するのを待つことだった――魚釣よりも気の長い道楽だが。彼はワルト・ホイットマンを称讃した、しかしパリのタアナーはいつかはホイットマンよりももっと進歩的であったと考えた。彼は何によらず進歩的と考えられるものが好きであった。彼はヴァランタンを進歩的な男だと思った――それが恐るべき間違いの原因となった。\n そのブレインもまもなく姿を現わした。彼は巨大な、横にも竪にも大きな男で、黒の夜会服にすっかり身を包んでいた。白髪を、独逸人風に綺麗にうしろへ撫でつけていた。赤ら顔で、熱烈な中にも天使のような優しさがあって、下唇の下に一ふさの黒髯を蓄えている。これがなければ嬰児のように見えるであろう顔に、芝居風な、メフィストフェイス(「ファウスト」の中に出て来る悪魔)もどきの外観を与えるのであった。けれども、今客間の連中はこの有名な亜米利加人に見とれてばかりはおられなかった。彼の遅刻がすでに客間の問題になっていたのである。そこで彼はガロエイ夫人に腕をかしながら、大急ぎで、食堂へとせき立てられた。\n マーガレット嬢があの危険千万なオブリアンの腕を取らない限りは、彼女の父は全く満足されていた。しかも彼女はそうせずに、行儀よくシモン博士と這入って行った。それにもかかわらず、老ガロエイ卿は落つきがなく無作法であった。彼は食事中に充分に社交的であった、がしかし、喫煙が終って、若手の方の三人――シモン博士と、坊さんのブラウンと、外国の軍服に身を包んだ亡命客で危険なオブリアン司令官とは、温室の方で婦人達と話したり、煙草を喫んだりするために、いつの間にか消えてしまった時、それからというもの、英国外交官のガロエイ卿はすこぶる社交的でなくなった。彼は破落戸のオブリアンが、マーガレットに何か合図でもしはしないかと時々刻々そればかり気にしていた。彼は一切の宗教を信仰する白頭の米人なるブレインと、何ものをも信ぜぬ胡麻塩頭の仏人ヴァランタンと、たった三人取残されて珈琲をのんでいた。主人とブレインとは互に議論を戦わしたが、二人ともガロエイ卿に助けを乞うとはしなかった。しばらくするとその討論もひどくだれ始めた。ガロエイ卿もそこを立上って客間を目指した。が長い廊下で七八分間も道に迷った。やがてシモン博士の甲高い、学者ぶった声、次で坊さんの一向パッとしない声、最後に一同のドッと笑う声がきこえた。彼等もまたたぶん、「科学と宗教」の話しをしているのだろうと推量して、ガロエイ卿はにがにがしく思った。だが彼が客間の扉をあけると、彼はそこに司令官のオブリアンの居ない事を、また娘のマーガレットも居ない事を見てとった。\n 彼は食堂を出て来たように客間を去って、再び廊下を踏みならしながら歩いた。やくざ者のオブリアンの手から娘を護らなくてはならないという考えで、今にも頭が狂いそうな気がした。彼は主人の書斎のある裏手の方に行くと、娘のマーガレットが真青な、侮辱を受けたような顔をしてバタバタと駈出して来るのに出遭ってびっくりしてしまった。もし娘がオブリアンと一緒にいたのだとすれば、オブリアンの奴は今どこにいるのだろう? もし娘がオブリアンと一緒にいなかったとすれば、娘は今までどこにいたのだろうか? 彼は一種の狂的な疑惑の念にかられて、家の暗い奥の方へとはいって行くと、偶然、庭の方へ通じてる勝手口を発見した。半月刀のような月は嵐の名残の雲を払いつくして皎々たる光を庭中の隅々に投げていた。彼はその時青い服を着た丈の高い姿が芝生を横ぎって主人の書斎の方へ大股に歩いて行くのを見た。軍服の襟や袖に銀白色に輝く月光の一閃で、それは司令官のオブリアンであることがわかった。\n その人影は仏蘭西式の窓をくぐり抜けて、建物の中へ消え去った。ガロエイ卿を苦々しいような、または茫漠としたような、一種不思議な気分の中に取残して、劇場の場景のような銀青色の庭は何だか彼を嘲ってるように思われた。オブリアンの大股な洒落者らしい歩みぶり――ガロエイ卿は自分は父親ではなく、オブリアンの恋敵でもあるような気がして、腹が立った。月光は彼を狂わしくした。彼は魔術にかけられてワトオ(フランスの画家)の仙女の国に遊ぶような気がした。それで、そうした淫蕩な妄想を振落したいものと思って、彼は足早く敵の跡を追うた。すると草の中で木か石のようなものに足を引掛けた。つぎの瞬間、月と高いポプラの樹とがただならぬ光景を見下ろしていた――英国の老外交官が大声を張りあげて喚きながら走って行く姿を。\n 彼の嗄れた叫声をききつけて一つの青い顔が書斎の戸口に現われた、シモン博士の光った眼鏡と心配気な眉毛が、博士はガロエイ卿の叫声をききつけた最初の人であった。ガロエイ卿はこう叫んでいた。\n「草ッ原に死骸が――血みどろの死骸が!」オブリアンの事等は少なくとも、彼の心から全く消え去ってしまっていた。\n「ではヴァランタンに伝えなくてはなりますまい」と博士は相手が実見した事実を途ぎれ途ぎれに語った時、こういった。「しかし警視総監その人がここに居られるのは何より幸せです」\n 彼がこういっている時に、大探偵のヴァランタンが叫声を聞きつけて書斎へはいって来た。彼は来客中の誰か、あるいは召使が急病をでも起したのではないかと気遣って、一家の主人または一個の紳士の懸命をもって駈付けたのだ。戦慄すべき凶事のことをきかされて、彼の威厳はたちまちに職業柄の活気を呈して来た。なぜならばいかにそれが戦慄すべき突発事なりとも、これは彼の仕事であったから。"
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"role": "assistant",
"content": "「不思議ですなア、皆さん」一同が急いで庭へ下り立った時ヴァランタンは云った。「世界中至るところに犯罪を探り歩かねばならぬ私が、今それが自分の家の裏口から事件が起ったのですからな。だが場所はどこですか?」\n 一同は芝生を横ぎった。河から夜霧が淡々立ち始めていたので歩行はあまり楽ではなかった。けれどもブルブル慄えているガロエイ卿の先導で、彼等はやがて草地の中に横たわっている死体を見付け出した。――非常に丈の高い、肩幅の広い男の死体。彼は俯伏になっているので、大きな双の肩が黒い着物に包まれていることと、褐色の頭髪が、濡れた海草のようにほんの少しくっついている大きな禿頭のあることだけしか解らなかった。紅い血が突伏した顔の下から蛇のように流れていた。\n「とにかくこれは吾々の連中ではない」とシモン博士は深い、奇妙な調子でいった。\n「検めて下ださい、博士」とヴァランタンがやや鋭い声でいった。「まだ息があるかもしれませんからな」\n 博士は蹲がんだ。「まだいくらか温味があります、しかし息はもう絶えているようです。持上げますからちょっと手伝って下さいませんか」\n 一同は注意深く死体を地上からちょっとばかり起した、それで、生きているか死んでいるかの疑は直ちに怖ろしくも解決された。首がコロコロと転がって行った。首は胴からスパリときられていたのだ。さすがの総監さえもこれには思わずギクッとした。\n「加害者はゴリラのように馬鹿力があったに相違ない」彼は呟くようにいった。\n 解剖上の醜悪なものにはいかに慣れている博士さえも身顫いを禁じ得ずに、首を取上げてみた。頸部と前顎に滅多斬りにきりつけた痕があるだけで、顔面は大体無傷であった。顔は鈍重で黄色く肉が落ちこんでいてしかもむくんでいた。鷹の嘴のような鼻と部厚な唇とがついていた。古代ローマの虐帝の顔にも似ていれば、支那皇帝の顔にも少しは似ているようだった。その外に特に眼をひくものはなかったが、ただ皆んなで死体を起した時、赤い血にまみれた白いシャツの胸が見えた。この男はシモン博士のいったように、この晩餐会の客ではない。が、今晩出席するはずの客であったに相違ないことは服装が夜会服である事で解った。\n ヴァランタンは四つん匍になって、おそろしく細密な職業的な注意を払って、死体の附近二十碼四方の叢や地面を検べた。博士も下手ながら英大使もうろうろしながら手伝った。しかし、死体の近くにこまかに刻んだような木の小枝が二三本落ちているのを見つけたばかりで、外には何も見当らなかった。ヴァランタンは小枝をちょっと拾い上げてみたが、直きに放り出してしまった。\n「樹の枝と」彼はまじめ気にいった、「樹の枝とどこの者だか解らぬ首無しの男と、それがこの芝生の上にあるすべてのものですな」\n そこには身慄いの催されるような沈黙があった、とその時魂の抜けたようになっていたガロエイ大使は鋭く叫び出した。\n「誰だ? 塀のそばに立ってるのは誰だ?」\n 莫迦々々しく頭の大きい小男の姿が、月靄の中に立って、一同の方へフラフラと近づいて来た。最初は化物のように見えたが、よく見ると、一同が客間に置き去りにして来た無邪気な坊さんである事が解った。\n「この庭には門がないようだがな」と彼はおだやかに云った。\n ヴァランタンの濃い眉毛が意地悪る気に八字の皺をよせた。僧侶の服装を見ると八の字になるのがこの眉毛の癖なのだ。しかし彼は僧侶の適切な観察を否定するほどに不公平な人間ではなかった。「おっしゃる通りです」と彼は云った。「我々はこの被害者がどうして殺されるに至ったを探究する前に、我々はどうして彼がここにはいるに至ったかを探究しなくてはならんのです。まあおきき下ださい、皆さん。もし私の地位と職務とを信頼して下さるならば、我々は本件に関して、名士諸君の御名前を引合に出さんように処置するという事に考えが一致せんければならないと思うのですが。ここには淑女方も紳士諸君も居られるし、また外国の大使も居られます。もしこれを犯罪事件と見なさなくてはならんものとすれば、そのように捜査せねばならんのです。しかし、そこは私の裁断次第になります。私は警視総監です。私はこの事件を秘密にしておくことが出来るほどの公職にある男です。私が他を捜さくするために私の部下を呼び寄せる前に、私はまず来客諸君の一人一人が本件に無関係である事を立証したいと思います。諸君、諸君の御名誉にかけて、明日の正午まではお一人でも拙宅から御引取りにならないように、それに寝室も数だけありますし。それからシモン博士、あなたは執事のイワンが玄関に居るのを御存じでしょう、あれは信用のおける男ですから。どうかイワンに外の者を代りに置いてすぐにここへ来るようにおっしゃって下さらんですか。それからガロエイ卿あなたは御婦人方へ恐慌を起さんようにうまく事件のことをお話し下さるに最も適当な方だと思いますが。御婦人方にも残っていただかなくてはならんです。師父さんと私は死体の番をいたしましょう」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 尋ねる邸は知れないし、余りに夜も更けてしまって、伊織は、帰るにも帰れなかった。使いに来て、使いを果さずに帰ることは、子ども心にも、恥辱に思われた。\n「宿屋のおばあが、いい加減なことを教えたから悪いんだ」\n 彼は、自分が、堺町の芝居町で、さんざん道草をくって遅くなったことは、頭から忘れていた。\n ――もう訊く人もいない。このまま夜が明けてしまうのかと思うと伊織は、突然悲しくなって、木挽小屋の者でも起して、夜の明けないうちに、使いを果して帰らなければならないと、責任感に責められて来た。\n で――彼はまた、歩き出した。そして掘建小屋の灯を頼りに歩き出した。\n すると、一枚の菰を、番傘のように肩に巻いて、その掘建小屋を覗き歩いている女があった。\n 鼠鳴きして、小屋の中の者を、呼び出そうとしては、失望して、彷徨っている売笑婦であった。\n 伊織は、そういう種類の女が、何を目的にうろついているのか、元より知らないので、\n「おばさん」\n と、馴々しく声をかけた。\n 壁みたいな白い顔をしている女は、伊織をふり顧って、近くの酒屋の丁稚とでも見違えたのか、\n「てめえだろ、さっき、石をぶつけて逃げたのは」\n と、睨みつけた。\n 伊織は、ちょっと、驚いた眼をしたが、\n「知らないよ、おらは。――おらはこの辺の者じゃないもの」\n「............」\n 女は歩いて来て、ふいに、自分でおかしくなったように、げたげた笑いだした。\n「なんだい。何の用だえ」\n「あのね」\n「かあいい子だね、おまえ」\n「おら、使いに来たんだけど、お邸が分らないで困っているんだよ。おばさん、知らないか」\n「どこのお邸へゆくのさ」\n「柳生但馬守様」\n「何だって」\n 女は、何がおかしいのか、下品に笑い転けた。\n\n二\n\n「柳生様といえば、お大名だよおまえ」\n と女は、そんな大身の所へ用があって行くという伊織の小さな身なりを、見下してまた笑った。\n「――おまえなんぞが行ったって、御門を開けてくれるもんかね。将軍様の御指南番じゃないか。中のお長屋に、誰か知ってる人でもあるのかえ」\n「手紙を持って行くんだよ」\n「誰に」\n「木村助九郎という人に」\n「じゃあ、御家来かい。そんなら話は分ってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様を懇意みたいにいうからさ」\n「どこだい、そんなことはいいから、お邸を教えておくれよ」\n「堀の向う側さ。――あの橋を渡ると、紀伊様のおくら屋敷、そのお隣が、京極主膳様、その次が加藤喜介様、それから松平周防守様――」\n 女は、堀の向うに見える、浜倉だの、塀だのの棟を、指で数えて、\n「たしか、その次あたりのお屋敷がそうだよ」\n と、いう。\n「じゃあ、向う側も、木挽町っていうのかい」\n「そうさ」\n「なあんだ......」\n「人に教えてもらって、なあんだとは何さ。だけど、おまえは可愛い子だね。あたしが、柳生様の前まで、連れて行って上げるからおいで」\n 女は、先に歩き出した。\n 傘のお化けみたいに、菰をかぶっている姿が、橋の中ほどまでゆくとすれ交った酒くさい男が、\n「ちゅっ」\n と、鼠鳴きして、女の袂に戯れた。\n すると女は、連れている伊織のことなどは、すぐ忘れて、男のあとを追いかけて行き、\n「あら、知ってるよこの人は。――いけない、いけない、通すもんか」\n 男を捉えて、橋の下へ、引きずり込もうとすると、男は、\n「はなせよ」\n「いやだよ」\n「かねがないよ」\n「なくてもいいよ」\n 女は、モチみたいに男にねばりついたまま、ふと、伊織の呆ッ気にとられている顔を見て――\n「もう分ってるだろ。わたしはこの人と用があるんだから先へおいで」\n と、いった。\n だが伊織は、まだ不思議な顔して、大人の男と女が、むきになって争っている状を眺めていた。\n そのうちに、女の力が勝ったものか、男がわざと曳かれて行くのか、男女は橋の下へ、一緒に降りて行った。\n「......?」\n 伊織は、不審を覚えて、こんどは橋の欄干から、下の河原をのぞいた。浅い河原には雑草が萌えていた。\n ふと、上を見廻すと、女は、伊織が覗きこんでいるので、\n「ばかッ」と、怒った。そして、打ちかねない顔つきをして、河原の石を拾いながら、\n「ませてる餓鬼だね」\n と、投げつけた。\n 伊織は、胆をつぶして、橋の彼方へ、どんどん逃げだした。曠野の一ツ家に育った彼だが、今の女の白い顔ほど、恐いものを見たことはなかった。\n\n三\n\n 河を背なかにして、倉がある、塀がある。また、倉がつづく、塀がつづく。\n「あ、ここだ」\n 伊織は、独り言に、思わずそういった。\n 浜倉の白壁に、二階笠の紋が、夜目にもはっきり見えたからだ。柳生様は二階笠ということは、流行歌でよく唄うので、はっと思い出したのであろう。\n 倉のわきにある黒い門が、柳生家にちがいない。伊織は、そこに立って、閉まっている門をどんどん叩いた。\n「何者だっ」\n 叱るような声が、門の中から聞えた。\n 伊織も、声いっぱい、\n「わたくしは、宮本武蔵の門人でございます。手紙を持って、使いに参りました」\n と、呶鳴った。\n それからも、ふた言三言、門番は何かいったが、子供の声をいぶかりながら、やがて、門を少し開けて、\n「なんだ今時分」\n と、いった。\n その顔の先へ、伊織は、武蔵からの返事をつき出して、\n「これを、お取次して下さい。ご返事があるなら、貰って帰ります。なければ、置いて帰ります」\n 門番は、手に取って、\n「なんじゃ......? ......おいおい子ども、これは、御家中の木村助九郎様へ持って来た手紙じゃないか」\n「はいそうです」\n「木村様はここにはおらんよ」\n「では、どこですか」\n「日ヶ窪だよ」\n「へ。......みんな木挽町だって、教えてくれましたが」\n「よく世間でそういうが、こちらにあるお邸は、お住居ではない。お蔵やしきと、御普請お手伝いのためにある材木の御用所だけだ」\n「じゃあ、殿様も御家来方も日ヶ窪とやらにいるんですか」\n「うむ」\n「日ヶ窪って、遠いんですか」\n「だいぶあるぞ」\n「どこです」\n「もう御府外に近い山だ」\n「山って?」\n「麻布村だよ」\n「わからない」\n 伊織はため息をついた。\n だが、彼の責任感は、なおさら彼をこのままで帰る気持にはさせない。\n「門番さん、その日ヶ窪とやらの道を、絵図に書いてくれないか」\n「ばかをいえ。今から、麻布村まで行ったら、夜が明けてしまうぞ」\n「かまわないよ」\n「よせよせ、麻布ほど、狐のよく出る所はない。狐にでも化かされたらどうするか。――木村様を知ってるのかおまえは」\n「わたしの先生が、よく知っているんです」"
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{
"role": "assistant",
"content": "「どうせ、こう遅くなったんだから、米倉へでも行って、朝まで、寝てから行ったらどうだ」\n 伊織は、爪を噛んで、考えこんでしまった。\n そこへ蔵役人らしい男も来て、仔細を聞くと、\n「今から、子供一人で、麻布村へなど行けるものか。辻斬りも多いのに――よく博労町から一人で来たものだな」\n と、つぶやき、門番と共に、夜明けを待てとすすめてくれた。\n 伊織は、米倉の隅へ、鼠のように、寝かしてもらった。しかし彼は、余りに米が沢山にあるので、貧乏人の子が黄金の中へ寝かされたように、少しとろとろとすると魘れていた。\n\n四\n\n 寝るともう直ぐ、正体もない顔つきは、伊織も、まだやはり他愛のない少年でしかない。\n 蔵役人も、彼を忘れてしまい、門番からも忘れられて、米倉の中にぐっすり眠り込んだ伊織は、翌る日の午も過ぎた頃、\n「おや?」\n がばと、醒めるなり直ぐ、\n「たいへんだ」\n と、使いの任務を思い出して、狼狽した眼をこすりながら、藁と糠の中から飛び出して来た。\n 陽なたへ出ると、彼は、ぐらぐらと眼が眩った。ゆうべの門番は、小屋の中で、午の弁当を喰べていたが、\n「子ども。今起きたのかい」\n「おじさん、日ヶ窪へ行く道の絵図を書いておくれよ」\n「寝坊して、慌てたな。お腹はどうだ?」\n「ペコペコで、眼がまわりそうだよ」\n「ははは。ここに一つ、弁当が残っているから喰べてゆくがいい」\n ――その間に、門番は、麻布村へ行くまでの道すじと、柳生家のある日ヶ窪の地形を、絵図に書いてくれた。\n 伊織は、それを持って、道を急ぎだした。使いの大事なことは、頭に沁みているが、ゆうべから帰らないで、武蔵が心配しているだろうということは、少しも考えていなかった。\n 門番の書いてくれた通り、夥しい市街を歩き、その町を貫いている街道を横ぎって、やがて江戸城の下まで行った。\n この辺は、何処も彼処も、夥しい濠が掘られ、その埋土の上に侍屋敷だの、大名の豪壮な門ができていた。そして濠には、石や材木を積んだ船が、無数にはいっているし、遠くみえる城の石垣や曲輪には、朝顔を咲かせる助け竹のように、丸太足場が組まれてあった。\n 日比谷の原には鑿の音や、手斧のひびきが、新幕府の威勢を謳歌していた。――見るもの、耳に聞えるもの、伊織には、めずらしくない物はなかった。\n\n手折るべい\n武蔵の原の\nりんどう、桔梗\n花はとりどり\n迷うほどあるが\nあの娘思えば\n手折れぬ花よ\n露しとど\nただ裾が濡れべい\n\n 石曳き普請の石曳きたちは、おもしろそうに歌っているし、鑿や手斧が、木屑を飛ばしている仕事にも、彼は、足を止められて、思わず道草を喰っていた。\n 新しく、石垣を築く、物を建てる、創造する。そうした空気は少年の魂と、ぴったり合致して何となく、胸がおどる。空想が飛びひろがる。\n「ああ、早く、大人になって、おらも城を築きたいな」\n 彼は、そこらに監督して歩いている侍たちを見て、恍惚としていた。\n ――そのうちに、濠の水は、茜色にそまり、夕鴉の啼く声をふと耳にして、\n「あ。もう陽が暮れる」\n と、伊織はまた、急ぎ出した。\n 眼をさましたのが、午過ぎである。伊織は一日の時間を、きょうは勘違いしていた。気がつくと、彼の足は、地図をたよりに、あたふたと急ぎ出し、やがて、麻布村の山道へさしかかっていた。\n\n五\n\n 暗やみ坂とでも称いそうな、木下闇を登りきると、山の上には、まだ西陽があたっていた。\n 江戸の麻布の山まで来ると、人家は稀れで、わずかに、彼方此方の谷底に、田や畑や農家の屋根が、点々と見えるに過ぎない。\n 遠いむかし、この辺りは、麻生う里とも、麻布留山とも称ばれ、とにかく麻の産地であったそうだ。――天慶年中、平将門が、関八州にあばれた頃は、ここに源経基が対峙していたことがあり、またそれから八十年後の長元年間には、平忠恒が叛乱に際し、源頼信は征夷大将軍に補せられて、鬼丸の御剣を賜わり、討伐の旗をすすめて、ここ麻生う山に陣を張り、八州の兵をまねき集めたともいい伝えられている。\n「くたびれた......」\n 一息に上って来たので、伊織はつぶやきながら、芝の海や、渋谷、青山の山々、今井、飯倉、三田、あたりの里を、ぼんやり見廻していた。\n 彼のあたまには、歴史も何もなかったが、千年も生きて来たような木だの、山間を流れてゆく水だの、ここらの山や谷のたたずまいは、麻生う往古、平氏や源氏のつわもの輩が、野に生れた道の――武家発生の故郷だった時代の景色を――何とはなく感じさせるものが、まだ残っていた。\n どーん\n どん、どん、どーん\n「おや?」\n どこかで太鼓の音がする。\n 伊織は、山の下をのぞいた。\n 鬱蒼とした青葉の中に、神社の屋根の鰹木が見える。\n それは今、登って来る時に見て来た、飯倉の大神宮さまだった。\n この辺には、御所のお米を作る御田という名が残っていた。そして伊勢大神宮の御厨の土地でもあった。飯倉という地名も、そこから起ったのであろう。\n 大神宮さまとは、どなたを祀ったものであるか。これは伊織もよく知っていた。武蔵に就いて勉強しない前からだって、それだけは知っていた。\n ――だからこの頃急に、江戸の人たちが、\n(徳川様、徳川様)\n と、崇め奉るようにいうと、伊織はへんな気もちがした。\n 今も、たった今、江戸城の大規模な改修工事をながめ、大名小路の金碧さんらんたる門や構えを見て来た眼で――ここの暗やみ坂の青葉の底に、そこらの百姓家の屋根と変らない――ただ鰹木と注連だけが違う――佗しいお宮を見ると、猶々、へんな気もちがして、\n(徳川のほうが偉いのかしら)\n と、単純に不審った。\n(そうだ、こんど、武蔵さまに訊いてみよう)\n やっと、そのことは、それで頭にかたづけたが、肝腎な柳生家の屋敷は? ――さてここからどう行くのか。\n これはまだちっともはっきりしていないのである。そこで彼はまたふところから門番にもらった絵図を出し、ためつすがめつ、\n(はてな?)\n と、小首を傾げた。\n 何だか、自分のいる位置と絵図とが、ちっとも、符合しないのだ。絵図を見れば、道が分らなくなり、道を眺めると、絵図が分らなくなる。\n(変だなあ)\n よく陽のあたる障子の中にいるように、辺りは陽が暮れるほど反対に、明るくなって来る気がするが――それへ薄っすらと夕靄がかかって、眼をこすってもこすっても、睫毛の先に、虹みたいな光が遮ってならなかった。\n「けッ! こん畜生っ」\n 何を見つけたか。\n 伊織は、やにわに跳ね飛んで、いきなり後ろの草むらを目がけ、いつも差している野刀の小さいので抜き打ちに斬りつけた。\n ケーン!\n と、狐が躍った。\n 草と、血とが、虹いろの夕陽の靄に、ぱっと舞った。\n\n六\n\n 枯れ尾花のように、毛の光る狐だった。尾か脚かを、伊織に斬られて甲だかい啼き声を放ちながら征矢みたいに逃げ走った。\n「こん畜生」\n 伊織は、刀を持ったまま、やらじとばかり追いかける。狐も迅い、伊織も迅い。\n 傷負の狐は、すこし跛行をひく気味で、時々、前へのめる様子なので、しめたと思って、近づくと、やにわに神通力を出して、何間も先へ跳んでしまう。\n 野に育った伊織は、母の膝に抱かれていた頃から、狐は人を化かすものだという実話を沢山に聞かされていた。野猪の子でも兎でもむささびでも愛すことが出来たが、狐だけは憎かった、また、怖かった。\n ――だから今、草むらの中に居眠りしていた狐を見つけると、彼は、とたんに、道に迷っている自分が、偶然でない気がした。こいつに誑かされているのだと考えたのである。――否、すでに昨夜から、この狐が、自分のうしろに憑き纏っていたに違いないという気持さえ咄嗟に起った。\n 忌々しいやつ。\n 殺してしまわないとまた祟る。\n そう思ったから伊織はどこまでも追いかけたのであったが、狐の影は、忽ち、雑木の生い茂った崖へ跳びこんでしまった。\n ――だが伊織は、狡智に長けた狐のことだから、そう人間の眼には見せて、実は自分の後ろにかくれておりはしないかと、そこらの草むらを、足で蹴ちらしながら、詮議してみた。\n 草にはもう夕露があった。赤まんまとよぶ草にも、ほたる草の花にも露があった。伊織は、へなへなと坐りこんで、薄荷草の露を舐めた。口が渇いてたまらなかったのである。\n それから――彼はようやく肩で息をつきはじめた。とたんに滝のような汗がながれてくる。心臓が、どきどきと、あばれてうつ。\n「......アア、畜生、どこへ行ったろう?」\n 逃げたら逃げたでいいが、狐に傷を負わせたことが、不安になった。\n「きっと、何か、仇をするにちがいないぞ」\n という覚悟を、持たざるを得なかった。\n 果たせるかな。――すこし気が落着いたと思うと、彼の耳に、妖気のこもった音が聞えて来た。\n「......?」\n 伊織は、キョロキョロ眼をくばった。化かされまいと、心を固めた。\n 妖しい音は近づいて来る。それは笛の音に似ていた。\n「来たな......」\n 伊織は、眉に唾を塗りながら、用心して起ち上がった。\n 見ると、彼方から女の影が夕靄につつまれてくる。女は、羅衣の被衣をかぶり、螺鈿鞍を置いた駒へ横乗りに騎って、手綱を、鞍のあたりへただ寄せあつめていた。"
}
]
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "三九 佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。\n四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変りて行くものなり。\n四一 和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。向うの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。\n四二 六角牛山の麓にオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆の馬を襲うことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者あり。さて野に出でて見るに、雄の狼は遠くにおりて来たらず。雌狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて腕に巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを噛む。なお強く突き入れながら人を喚ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。\n\n\n○ワッポロは上羽織のことなり。\n\n\n四三 一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分してその跡を覔め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱えつき雪の上を転びて、谷へ下る。連の男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙に獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺れず、爪の傷は数ヶ所受けたれども命に障ることはなかりき。\n四四 六角牛の峯続きにて、橋野という村の上なる山に金坑あり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手にて、ある日昼の間小屋におり、仰向に寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰をかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方へ走り行きぬ。\n\n\n○上閉伊郡栗橋村大字橋野。\n\n\n四五 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上につけておる故、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず。\n四六 栃内村の林崎に住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを真の鹿なりと思いしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り来たれり。胆潰れて笛を吹きやめたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。\n\n\n○オキとは鹿笛のことなり。\n\n\n四七 この地方にて子供をおどす言葉に、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒挊の滝を見に行けば、崖の樹の梢にあまたおり、人を見れば遁げながら木の実などを擲ちて行くなり。\n四八 仙人峠にもあまた猿おりて行人に戯れ石を打ちつけなどす。\n四九 仙人峠は登り十五里降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁には旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き識すこと昔よりの習なり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髪を垂れたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという類なり。またこの所にて猿に悪戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも記せり。\n\n\n○この一里も小道なり。\n\n\n五〇 死助の山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥の啼くころ、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸漿の実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。\n五一 山にはさまざまの鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来たれば、遥に谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは夫のことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なり。\n五二 馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のようなる縞あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或る長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥里にきて啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。\n\n\n○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。\n\n\n五三 郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。\n"
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"role": "assistant",
"content": "\n○この芋は馬鈴薯のことなり。\n\n\n五四 閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井という村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所にあることを人にいうな。その礼としてはその方身上良くなり、奉公をせずともすむようにして遣らんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引などいう博奕に不思議に勝ち続けて金溜り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中ぐらいの農民になりたれど、この男は疾くに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴なえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。\n\n\n○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。\n\n\n五五 川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。\n五六 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とてはなけれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。\n\n\n○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分なり。\n\n\n五七 川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。\n五八 小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。\n\n\n○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。\n\n\n五九 外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赭きなり。佐々木氏の曾祖母、穉かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。\n六〇 和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐しばしば出でて雉子を追う。あまり憎ければこれを撃たんと思い狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。\n六一 同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢えり。白鹿は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。\n六二 また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンズ縄をおのれと木のめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を竪に抱えてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形の者赤き衣を羽のように羽ばたきして、その木の梢に蔽いかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空を飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭い、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓い、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人の業を棄つること能わずとよく人に語りたり。\n六三 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿いて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。\n\n\n○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。\n○ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。\n\n\n六四 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬雞の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。\n\n\n○上閉伊郡金沢村。\n\n\n六五 早池峯は御影石の山なり。この山の小国に向きたる側に安倍ヶ城という岩あり。険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任の母住めりと言い伝う。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆという。小国、附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんなどいう。"
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"role": "user",
"content": " で、尊氏も、今、\n「......。その儀は」\n とばかりで、いかにも苦しそうだった。\n「直義のとがは、尊氏の罪です。いつかは、なすべきことをなして、きっと、おわびをつかまつるほかはございませぬ」\n すると、廉子は、\n「いいえ」\n と、かえって、彼の苦憂をなだめるように。\n「過ぎ去ったこと、それも足利殿へ糺したとて、どうなりましょう。私がそれを申したのは、あなたを責めるの意味ではありませぬ。......思うところは、そうした左馬頭(直義)どのゆえ、ここの御警固は、余人に申しつけられて、左馬頭どのと、お上(後醍醐)とを、おちかづけにならぬ方が、およろしいのではないかと思うのです」\n「ははあ? 御所の守りは、直義ならぬ余人にやらすがよいとの御注意ですか」\n「お上のみこころを和らげて、仰っしゃるような、公武一和にまろく治めてゆきたいとのお考えが実ならば」\n「いや、ありがとうぞんじまする。直義の処置は、よくお胸をふくんで、いたしましょう」\n「女の差し出で口には似ますけれど。わらわは疾くより内裏にあって、足利殿へは、よそながらお肩入れしていたつもりではありまする。それも力およばず、むずかしい事態となって、敵味方となり別れ、お上にも、このようなかなしいお立場とはなられましたものの」\n「なにかと、以前のお誼みなど、忘れてはおりません。されば、こうなりましても、御一統をみじめにはいたしますまい。ご安心なされませ」\n「尊氏どの。......なにぶんとも、たのみますぞえ」\n と、廉子は、いちばん言いたい所の哀訴を、女の情にこめて言った。\n もう四十路にちかいはずの准后ではあるが、蠱惑ともいえる艶な美はどこにも褪せていなかった。こんな廃宮のうちにいて、囚われの主上に侍していながらも、彼女はその身だしなみをくずしていず、むしろあたりが荒れているだけに一そう妖しいまでの皮膚の白さとこの世の人とも見えぬ粧いとを、きらめかせて見せるのだった。\n 尊氏は、別れて、やがて花山院の廃宮から外へ出ていた。外の大気は明るく、武者陣の甲冑には、冬陽が虹色に陽炎していた。\n\n破局\n\n「なにっ?」\n 錦小路殿は言う。\n 昨今、ひとは直義のことを、そうよんでいる。\n 足利方で立てた光明院の朝廷は、さきごろ、押ノ小路室町の一劃を、里内裏とさだめられた。\n つづいて、尊氏も、その居を、東寺から移して、三条坊門ノ御池におき、高ノ師直は一条今出川に住みついた。\n ――そして直義は、錦小路に邸を持つなど、すべてこの室町一帯を中心に新しいひとつの“足利聚落”が造成されかけていたのであった。\n「師泰」\n「はっ」\n「後醍醐のお身まわりを、もっと、弛やかにせよとか、また給仕の公卿人をふやせの、朝夕の供御をよくせよなどとは、一体、誰が命じたか」\n「もとより、一存などではございません。さきごろ、大御所お直々に、花山院の旧御所を、そっとお見舞いなされました折の、おいいつけにござりまする」\n「なぜ、聞き流しておかないのだ。そちは兄者の命を重しとして、直義の命などはと、ないがしろにいたす気か」\n「めッそうもない。じつはその折、わが眼の前ですぐいたせとの大御所の仰せつけに、やむをえず、公卿三名と、舎人雑色など七、八名を囲から解いて、お座所の内へ入れたような次第でして」\n「もうよい。すんでしまったものはぜひもない。しかしだな、きさまも御所を見張っている警固頭なら知っていよう。いかに油断のならぬお方であるかは」\n「されば、昼夜をわかたず、花山院のまわりには、武士を立たせ、篝火屋を設け、おさおさ警固はゆるめておりませぬ」\n「にもかかわらず、先ごろは、囲いを破って、公卿の二、三や、菊池肥後守が脱走して逃げ、宇都宮も出家に化けて遁れ去ったとあるではないか。――それらはみな、外部の敵と、なにか結びをもっているにちがいないのだ」\n「二度とは、さような手落ちのなきようにいたしまする。――なれど、たくさんな押込め人のうちには、やぶれかぶれな不敵者もあって、警固の武士どもを顎で使い、われらの叱咤も、セセラ笑って、一こう始末におえぬ輩もおりましてなあ」\n「たれだ、そのような奴は」\n「たとえば、山徒の張本、道場坊宥覚のごとき者でございまするが」\n「宥覚か。這奴は、大塔ノ宮いらい、いつも山門の大衆をあげては後醍醐方へ走らせた張本人だ。見せしめに、斬ッてしまえ」\n 直義は、峻烈だった。\n 何事もおまえにまかせる。\n 将来は、まかせたい。\n といった尊氏のことばを、そのままうのみにしている彼の自己過信は、近ごろ、その兄をさえ凌ぐ増上慢になりだしていた。そして兄のような温情主義を以てしていたら、敵性勢力の再燃は必至とみていたのである。\n ――で、まず道場坊宥覚をひきだして、阿弥陀ヶ峰のふもとで斬り、また、本間孫四郎ほか数名を、三条河原で首斬らせた。――そのほか、解官停任の公卿ばらも、かたっぱしから、獄舎同様な囲いに抛り込んで監視するなど、粛清のあらしは、一時、満都をふるえあがらせた。\n 尊氏は、なるべく、一切を弟にまかせようとして、彼の御池殿へさしずを仰ぎにくる諸将にも、あらかたは、\n「直義に訊け。錦小路殿に従ってせい」\n と言い、すこしでも、直義の権威に、箔がつくようにしむけていた。\n が、時には、まかすにまかせておけぬ事態を見て、急遽、弟をよびつけていることもあった。\n「兄上、何か御用でしょうか。不在中に、錦小路へお使いがあったそうですが」\n「オ、直義か。近頃のそちのやりかたは、どうも、行きすぎではあるまいかな」\n「阿弥陀ヶ峰、また、三条河原などで、後醍醐のお附人らを、処刑いたしたことを仰っしゃるので?」\n「それのみでなく、御幽居には矢来をめぐらし、諸事のお扱いも、一倍きびしいままと今日も聞いた。......あれほど、師泰へも先日、お弛やかにいたせと申しおいたのに」\n「それは、師泰からもききましたが、以てのほかな御方針かとぞんじまする。なにも御存知ないゆえ、さようなお情けをもたれるのではありましょうが」\n「何も知らぬとは?」\n「後醍醐のお企てがいかに深いものかということをです」\n「知らぬことはない」\n「いや、御存知ないといえましょう。――さきに北陸へ落ちた義貞の軍へ、とくに皇太子恒良を付けてやられたなどの秘事は、お耳に入っておりましょうが、伊勢、吉野方面などの、けわしいうごきは、直義もつい昨夜知ったばかりですから」\n「......?」\n「北畠親房は、吉野で何かを策しており、四条隆資は、しきりと、和泉河内の残兵をかりあつめ、また親房の一子顕信も、伊勢で戦備をすすめているということです。そのほか、諸国にわたって、皇子なるものが、再起をはかっておりますのに、どうして、それらのうごきと後醍醐とが、無関係でありえましょうや」\n「それはあろう。だがの直義。末梢にかまっていては、政治はできぬ。要は、根本の君とおはなし合いをすすめるにある。そちのような覇力一方をもって臨んでは、せっかくな和議も無意義。また、尊氏が徐々にすすめようといたしておる君とのおはなしあいにも邪げとなる」\n「おはなしあい? それは、どんなことを」\n「さきに践祚はあらせられたが、新帝の光明院へは、まだ、神器のお譲りはおこなわれていない。何せ、神器の授受を見ねば、正しい天皇の御位が継承されたとは申し難い」\n「それは、後醍醐のお手もとにあるのでしょうが」\n「そうだ。さればこそ、内々、尊氏から切に、神器のお譲り渡しをおねがい申し出てあるのだ。さる折に、そちが事をこわしては困るではないか。......さっそくに、御待遇を、弛やかにあらためろ。......なお、それでもきかぬならぜひもない。そちを解任して、花山院の御警固は、他の者に申しつけよう。......いや、そういたしたくないのでいうのだ。直義、そちもはや三十男、わからぬことはあるまいがの」\n\n そのご、み心も和まれてきたものか、神器は、とまれ円滑に、後醍醐から、持明院統の新帝光明院へ、お譲り渡しになることときまった。\n それの正式な授受は、十一月二日におこなわれた。\n すなわち、剣璽(剣と鏡と天子の印)は、一条ノ右中将実益、揚梅ノ右少将資持らがささげて、御使にたち、沿道には、折ふし入京していた近江の佐々木道誉の兵が、例の、派手やかな軍装で立ちならんだ。\n ようやく――\n 焼けあとにも、庶民の小屋が目立ち、市も町屋も、戦前に返りかけていた。久しぶり平和な景色を人々は見たと思った。"
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"role": "assistant",
"content": " かくて、押小路室町内裏での、儀式がすむと、同日、後醍醐へは、\n 太上天皇\n の尊号が奉られ、以後、先帝ということになった。\n そしてここに、\n 光明天皇\n は、あきらかな皇位をつがれたわけだが、それについて、もちろん後日の話だが、奇怪な説がのこっている。\n 渡された神器は、偽器であったというのである。「太平記」だけでなく、北畠親房の「神皇正統記」もそういっているし、洞院ノ公賢の「園太暦」も偽器としているのだから、これを何とも疑いようがない。\n だがもし、これがほんとに偽器であったとしたら、直義が、あくまで、後醍醐を謀略の人としていたことは無理でなく、かえって尊氏は、余りにも後醍醐へ人間的な親近感をよせすぎていたことになる。\n しかし、このさいにおける尊氏は、偽器か本物か、そんな点には、いっこう頓着していなかったようである。\n ただしく、先帝から新天子へ、儀式をもって、譲位のしるしを、授受あらせられたからには、物が何であろうと、それは問うにおよばない。\n 譲位は、事実で示されたのだ。――それでよい、としていたものと思われる。\n しかも尊氏は、その直後に、後醍醐の一皇子、成良親王をあげて、\n“光明天皇の皇太子”\n と、なした。\n おそらく、これを以て、彼は、後醍醐への忠誠をあかしだてようとしたのであろう。そして後醍醐もまた、たいへん、およろこびであったと「園太暦」は記している。\n 事実、その通りであったろう。――旧来の慣例を破ったのは、ほかならぬ後醍醐自身であったのだから、破棄されても仕方がないところを、尊氏のほうからすすんで、両統交代の制をみとめ、将来の帝位継承は、ひとり持明院統の君だけでなく、大覚寺統――すなわち、後醍醐の子孫も――帝位につく資格があるものと、はっきり、示したわけなのだから、これが、およろこびでないはずはない。\n その立太子の式は、十一月十四日に挙げられた。――自然、花山院の御幽居もまた、一ト頃のきびしさを解かれ、ひいては、後醍醐と尊氏との仲も、次第に円満を加えてゆくかと思われた。――だが、天下の風浪はまだ高い。なかなか外界の世上は、そんな一小康もしていない雲行きだった。\n\n 十二月だった。\n まだ門松や竹こそ見えないが、町にも何となく年暮げしきが色めいて、\n「やれやれ、何とか、正月もできそうか」\n と、焦土に働く庶民たちにも、かすかな“生きの験”がよみがえりかけていた。\n 家を焼かれ、無けなしの財を失い、やっと疎開の山野から戻ってきた彼らには、これをたれに訴えるところもなく。「もう戦は、ふるふるだ」「内裏様がどちらであろうと、わしらには何のかかわりもない」「ひどい貢税や戦のない世でさえあるならば......」「それがわしらの氏神だよ。わしらによい氏神なら、どちらであろうと、ついて行くよ」と、まずはそんな声のみだった。それも庶民の旺盛な生態のつねとして、きのうの災厄などにはクヨクヨせず、もう懸命に働き働き、冗談まじりにさえ言ってることだが、じつは彼らの悲泣も悲願もそれにはこもっていたのだった。\n こんなさいに、尊氏が公布した政令十七条の\n 建武式目\n は、時をえていた。\n つまり憲法である。\n“足利幕府憲法”であって、これの公布と共に、\n 幕府ヲ京都ニ置ク\n という根本も、あわせて声明したものだった。\n おそらく、この十七条の制定には、尊氏も心をくだいたことだろう。僧の是円や幾多の智識をあつめて、評議連日におよび、彼は、それらの憲法の起草委員たちへ、註文をつけて、\n「法は、なるべく、単純がいい。そして法の要は、人の嘆きがなくなることだ。天下よく治まり、怨敵も不安をなくし、みな嘆きのない人の世となることを、立法の骨子、政治の主眼として、起草してくれい」\n と、とくに言ったという。\n 彼は、頼朝を慕ったが、頼朝の厳罰主義はとらず、これまでの怨敵も、なるべく助けよという主旨を取った。\n 一例でいえば。\n 元弘いらい、敗者の側になって、土地を没収された俄か浪人は、たいへんな数である。野望の謀反や悪行のすえ亡んだ主家はぜひもないが、その下に使われていた被官や家来の小領地は、どしどし、元の所有者へ返してやれと、尊氏はいう。\n また、式目の中には、“点定”という一条がある。\n これは、庶民がやっと建てた家を、官吏どもが、税金の未納や、ささいな違法をたてに、すぐ“検封”という処分に出たり、ぶち壊して追い立てるなどの苛烈な官権をいうものだったが、尊氏はこれも、貧民いじめの悪政として、かたく禁じた。\n 無尽(金融)を興せ。土倉(質屋)を早く再開させろ。そして訴訟はすべて、貧しい庶民の訴えから先に取上げてやれ。――などという制も、こんどの政令の特徴であった。\n 年暮の町では、これらの好影響もあり、また余りに抑圧された人間欲の反動からも、これまでにない活気と賑わいを見せていた。\n すると、ちょうど師走二十日の夕方だった。――どこからか来た一駄の酒商人の者と、花山院の警固小屋の番士らとが、そこの門前で、何やら物議をかもしていた。\n「へい。ですが、てまえは」\n と、酒商人は、ひたすら頭ばかりさげていう。\n「こちらがどんな御事情か、何も存じて来たわけではございません。ただ届けろと申されたまま、お届けに上がったまでで」\n 一斗入りの酒瓶五個、荷駄につんで、花山院のお台所まで届けておけと、かねも先払いで貰っているというのである。\n 警固の武士どもは、しきりに鼻をヒコつかせながら、その馬の背を巡ッてみたり、また酒商人の風態を下から見あげて。\n「きさまは、どこの者と言ったッけな。どこから来たんだ」\n「それは、さきほども」\n「ええい。訊いたら答えろ。よけいなこと申さずと」\n「石川からまいりましたンで」\n「河内のか」\n「へい」\n「散所民の多い所だな」\n「てまえは、散所民ではございません」\n「たれが散所民といったかよ。あのへんでは、寺でも大量に酒を造るそうだな。天野山金剛寺など」\n「てまえどもでも、その天野酒を頒けていただき、いってみれば、まあ、その下請けの販ぎ屋でございますが」\n「では、これは天野酒か」\n「へえ」\n「ふウム」\n と、ついまた、鼻を鳴らしあって、べつな一人がさらに質した。\n「して、これを、花山院の御幽居へ届けろと、頼んだ客というのは、何者なのだ」\n「それがつい、お名も伺っておりません。後からすぐ追いついて行くというお約束なんでして。......へい。そのお人の見えるまで、ひとつ......お邪魔でない裏御門のすみッこへでも、酒瓶をおろして、待たせておいては下さいませぬか」\n「まだ粘ッてやがる。わからん奴だな。おいッ、こらっ」\n「へい」\n「ここはな、とりこになった先の天皇さんが、おしこめられている御所なんだ。ならん、ならん、持って返れ」\n「どうも、それはよわりましたなあ。じつは御所へおいてゆくのは三瓶で、あとは市の小酒屋へ卸して帰るつもりでしたが、御警固さんたち、ひとつ、いかがなもんでしょうなあ。一ト瓶ぐらいは、お愛想に、そちらへお廻しいたしますが」\n「............」\n みな黙った。目と目だけで何か言っている。つまりは、酒商人のキリ札が、急に効きめをもったものらしい。\n 神器の御譲渡、立太子の挙式、つづいて建武式目の公布などがあってからこっちは、ここの警戒や扱いも、自然ずっと、緩和されていたときでもある。\n その晩、また。御所を訪ねてきた侍があった。\n ――自分はもと刑部省の一吏員で、大輔ノ景繁という者であるが、御所にかしずいている女房からの手紙によると、正月も近いというのに、余りにおわびしそうな先帝の御起居ぶりである。――で、酒などたずさえ、ご起居のお見舞に、所領地から出てきた次第。なにとぞ、そっと、御所内に入ることをゆるして欲しいと、番屋中一同の者へ、ぬかりなく賄賂をしての頼みであった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ――と瞬間、小次郎の頭には、そんな義侠と正義の念が、火花みたいに突きぬけたが、十歩も跳ぶと、\n「せ、先生っ」\n 道ばたに、苦悶していた人間が、彼の跫音に縋って、悲痛な声でさけんだ。\n「やっ、小六?」\n「......斬られた! ......や、斬られました......」\n「十郎は、どうした。......お菰は」\n「お菰も」\n「なにっ」\n 見れば、そこから五、六間離れたところに、もう虫の息となっているお菰の十郎の朱にまみれた体が見出された。\n 見えないのはお杉ばばの影である。\n だが、それを探す眼の遑もなかった。小次郎自身が、自身の警戒にそそけ立っているのだ。八方の闇がみな、武蔵のすがたである如く、彼の五体には構えを要した。\n「小六、小六」\n ことぎれかかるお稚児へ、彼は早口に呶鳴って、\n「武蔵は――武蔵はどこへ行ったか。武蔵は?」\n「ち、ちがう」\n 小六は、上がらない首を、地で振りながら、やっといった。\n「武蔵じゃねえ」\n「何」\n「......む、武蔵が、相手じゃねえのです」\n「な、なんだと?」\n「............」\n「小六っ、もういちどいえ。武蔵が相手ではないというのか」\n「............」\n お稚児はもう答えなかった。\n 小次郎の頭は、もんどり打ったように掻き乱れた。武蔵でなくて誰が、一瞬にこの二人を斬って捨てたか。\n 彼は、こんどは、菰の十郎の仆れているそばへ行って、血でびしょ濡れになっている襟がみをつかみ起した。\n「十郎っ、確乎りせいっ。――相手は誰だ、相手は、どっちへ行った?」\n すると、菰の十郎は、びくっと眼を開いたが、小次郎の訊ねたこととも、この場合の事件とも、まったく関聯のないことを、臨終の息で、泣くように呟いた。\n「おっ母あ、......おっ母あ......ふ、ふ、不孝を」\n きのう、彼の血の中に浸みこんだばかりの「父母恩重経」が、破れた傷口から噴きこぼれたのである。\n ――小次郎は知らず、\n「ちいっ、何をくだらぬ」\n と襟がみを突き放した。\n\n六\n\n ――と。何処かで、\n「小次郎どのか。小次郎どのかよ」\n と、お杉ばばの声がする。\n 声をあてに、駈け寄ってみると――これも無残な。\n 下水溜の中に、ばばは墜ち込んでいるのだった。髪や顔に、菜屑だの藁だのこびりつけて、\n「上げて下され。はやく、上げて下され」\n と、手を振っている。\n「ええ、この体は、いったい何としたことだ」\n むしろ腹立ち紛れである。力まかせに引ッぱり上げると、ばばは、雑巾のようにべたっと坐って、\n「今の男は、もう何処ぞへ走ってしもうたか」\n と、小次郎の問いたいことを、却って問う。\n「ばば! その男とはそも、何者なのだ」\n「わしには理が分らぬ――ただ先ほども、途中で誰か気づいたが、わし達の後を尾行て来たあの人影に違いない」\n「いきなり、菰とお稚児へ、斬りつけて来たのか」\n「そうじゃ、まるで疾風のようにな、何かいう間もない、陰から不意に出て来て、菰どのを先に仆し、稚児の小六が、驚いて抜き合わす弾みに、もう何処か斬られていたような」\n「して、どっちへ逃げたか」\n「わしも、傍杖くって、こんな汚い所へ墜ちてしまったので、見もせなんだが、跫音はたしかに、あっちへ遠のいて行った」\n「河の方へだな」\n 小次郎は宙を駈けた。\n よく馬市の立つ空地を駈けぬけ、柳原の堤まで出て見た。\n 伐った柳の材木が、原の一部に積んである。そこに人影と灯が見えた。近づいてみると四、五挺の駕を置いて、駕かきが屯しているのだった。\n「オオ、駕屋」\n「へい」\n「この横丁の往来に、連れの者がふたり斬られて仆れている。それに下水溜りへ墜ちた老婆とがいるから、駕にのせて、大工町の半瓦の家まで送り届けておいてくれい」\n「えっ、辻斬ですか」\n「辻斬が出るのか」\n「いやもう、物騒で、こちとらも、迂濶にゃ歩けやしません」\n「下手人はたった今、そこの横丁から逃げ走って来たはずだが、其方たちは、見かけなかったか」\n「......さあ、今ですか」\n「そうだ」\n「嫌だなあ」\n 駕かきは、空駕の三挺を、残らず舁いで、\n「旦那、駄賃はどちらで戴くんですえ?」\n「半瓦の家でもらえ」\n 小次郎はいい捨てて、また、そこらを駈け廻った。河べりを覗いてみたり、材木の陰を検めてみたりしたが、どこにも見当らなかった。\n(辻斬だろうか?)\n 少し戻ると火除地の桐の木畑がある。そこを通って、彼はもう半瓦の家へ戻ろうと考えていた。出鼻の不首尾ではあるし、お杉ばばがいないでは意味がない。また、こう乱れた気持で武蔵と剣のあいだに相見ることは、避けるほうが賢明で、当ってゆくのは愚であると考えたからである。\n すると。\n 桐林の道のわきから、ふいに刃らしい光がうごいた。ハッと眼を向ける間もなかった。頭の上の桐の葉が四、五枚ばさっと斬れて散りながら、その迅い光はすでに彼の頭へ臨んでいた。\n\n七\n\n「――卑怯ッ」\n と、小次郎はいった。\n「卑怯でない」\n と二の太刀は、ふたたび、彼の退いた影を追い――ばさっと青桐の木陰から、闇を破って、跳ね出した。\n 三転して、小次郎は、七尺も跳び退き、\n「武蔵ともあろう者が、なぜ尋常に――」\n と、いいかけたが、そのことばを途中から驚きの声に変えて、\n「やッ、誰だっ? ......。おのれは何者だ。人ちがいするな」\n と、いった。\n 三の太刀まで交わされた男の影は、はや肩で息をついていた。四の太刀はもう、自己の戦法の非を知って、中段にすえたまま、眼を刀の錺子に燃やし、じりじり迫り直して来るのである。\n「だまれ。人違いなどいたそうか。平河天神境内に住む小幡勘兵衛景憲が一弟子、北条新蔵とはわしがこと。こういったら、もう腹にこたえたであろうが」\n「あっ、小幡の弟子か」\n「ようもわが師を恥かしめ、また重ねて同門の友を、さんざんに討ったな」\n「武士の慣い、討たれて口惜しければ、いつでも来い。そういえば、佐々木小次郎、逃げかくれする侍ではない」\n「おおっ、討たいでおくか」\n「討てるか」\n「討たいでか」\n 尺――また二寸――三寸。"
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"role": "assistant",
"content": " 詰め寄って来るのを見つめながら、小次郎はしずかに、胸をひらき、右手を腰の大刀へ移して、\n「――来いっ」\n と誘う。\n はっと、その誘いに、相手の北条新蔵が、戒心を持ったせつなに、小次郎の体が――いや腰から上の上半身だけが――びゅっと折れて、肱の弦を切ったかと見えたが、\n ――ちりん!\n 次の瞬間に、彼の刀の鍔は、彼の鞘へ戻っていた。\n むろん、刃は鞘を脱し、そして鞘へ返っていたのであるが、肉眼で見える速度ではない。ただ、一線のほそい光が、相手の北条新蔵の首すじのあたりへ、キラと、届いたか、届かないかと、思えたくらいなものであった。\n だが――\n 新蔵の体は、まだ股を踏みひらいたまま立っているのだ。血らしいものは、どこにも流れてはいない。けれど、何かの打撃をうけたことは事実である。なぜなら、刀は中段に支えたまま持っているが、左の片手は、左の首すじを、無意識に抑えていた。\n ――と。その体を挟んで、\n「あっ? ......」\n これは、小次郎の声とも、後ろの闇でした声とも、どっちつかない所から起ったのである。小次郎もそれに依ってすこし慌て、闇の中から駈けて来た跫音も、それに依って、足を速めて来た。\n「おおっ、どうなされた」\n 駈けつけて来たのは、耕介であった。棒立ちの男の姿勢が、すこしおかしいと思ったので、抱き支えようとすると、とたんに北条新蔵の体は、どたっと朽木だおれに、あやうく大地へ仆れかけた。\n 耕介は、両の手に不意の重みをかけられて驚きながら、\n「やっ、斬られてるな。――誰か来てくれいっ。往来の衆でも、この近くのお人でも、誰か来てくれ。人が斬られているっ――」\n と、闇へ向ってどなった。\n その声と共に、新蔵の首すじから、ちょうど蛤の片貝ほど、肉を削ぎとられている傷口が、ぱくと赤い口をあいて、こんこんと温い液体を、耕介の腕から裾へそそぎかけた。\n\n心形無業\n\n一\n\n ぼとっ――と、時折、中庭の闇で青梅の実の落ちる音がする。武蔵は、一穂の灯に向って屈みこんだまま顔も上げない。\n 灯皿から燃えゆらぐ小さな燈火は、側近く俯向いている彼の蓬々とした月代を鮮らかに照らして余す所がない。彼の髪は毛の硬い性と見えた。そして油気がなくてやや赤っぽい。またよく見ると、その毛の根には、大きな灸の痕みたいな古傷がある。幼少の時に病んだ疔という腫物のあとで、\n(こんな育て難い子があろうか――)\n と、よく母を嘆かせたそのころの、きかない性分の痕は、まだ、まざまざと消えきらずにあった。\n ――彼は今、心のうちで、その母をふと思いうかべ、刀の先で彫り刻んでいる顔が、だんだん母に似てくるように思われた。\n「............」\n 先刻。\n いや、たった今し方。\n ここの中二階の障子の外から、この家の主の耕介が、はいるのを憚って、\n(まだ、御精が出ていらっしゃいますか。ただ今、店先へ佐々木小次郎とかいう者がみえ、お目にかかりたいようなことをいっていますが、お会いなさいますか、それとも、もうお寝みだと、ていよく断っておきましょうか......どうなさいますかな? ......どうにでも、お気のままに、返事をしておきますが)\n 二、三度、部屋の外でいったようには思ったが――武蔵はそれに返辞をしたかしないか――自分自身で弁えていない。\n そのうちに、耕介が、\n(あっ?)\n と、何か物音を聞きつけて、忽然と去ってしまったらしいが――それにもべつに気を惹かれず、武蔵はなお、依然として小刀の先を、八、九寸ほどな彫刻の木材に向けて、そこの小机から、膝から身のまわりまで、いっぱいな木屑にして屈み込んでいるのであった。\n 彼は、観音像を彫ろうとしていた。――耕介から申し受けた無銘の名刀のかわりに――観音様を彫ってやる約束をしたので、きのうの朝から、それにかかっているのである。\n ところで、その依頼について、凝り性な耕介には、特別な望みがあった。\n それは何かというと、\n(折角あなたに彫っていただくものなら、自分が、年来秘蔵している古材があるので、それをお用い下さいませんか)\n とて、恭しく取り出して来たのを見ると、なるほど、それは少なくも六、七百年の年数は枯らしてあったろうと思われる一尺ほどな枕形の角材。\n だが、こんな古材木の切れ端がなんで有難いのか、武蔵には怪訝であったが、彼の説明を口吻のままかりていうと、これなん河内石川郡東条磯長の霊廟に用いられてあった天平年代の古材で、年久しく荒れていた聖徳太子の御廟の修築に、その柱の取代えをなしていた心なき寺僧や工匠が、これを割って庫裡の竈へ薪として運んでいたのを見かけ、旅先ではあったが、勿体なさの余り、一尺ほど切ってもらって来たものだとある。\n 木目はよし、小刀の触りもよいが、武蔵は、彼が珍重して措かないのみでなく、失敗ると、懸け替えのない材で――と思うと、刀の刻みが、つい硬くなった。\n ――がたんと、庭の柴折を、夜風が外す。\n「......?」\n 武蔵は顔を上げた。\n そして、ふと、\n「伊織ではないかな?」\n と、呟いて、耳を澄ました。\n\n二\n\n 案じている伊織が戻って来たのではなかった。また裏の木戸が開いたのも風のせいではないらしい。\n 主の耕介が、呶鳴っていた。\n「はやくせい、女房。なにを呆っけにとられている。刻を争うほど、重い怪我人じゃ。手当次第で助かるかもしれぬ。寝床? ――どこでもよいわ、はやく静かな所へ」\n 耕介のほかに、その怪我人を担って、尾いて来た人々も、\n「傷口を洗う焼酎はあるか。なくば自宅から取って来るが」\n とか――\n「医者へは、わしが飛んで行ってくる」\n とか、ややしばらく、ごたごたしている気配であったが、やがてひと落着きすると、\n「ご近所の衆、どうも有難うございました。どうやら、お蔭様で命だけは、取り止めそうな様子でございますから、安心して、お寝みなすって下さいまし」\n 挨拶しているのを聞くと、どうやらここの主の家族でも、不慮な災難に出会ったかのように――武蔵には思われた。\n そこで、捨て置けない気がしたのであろう、武蔵は、膝の木屑を払って、中二階の箱段を降りて行った。そして廊下のいちばん隅から灯りが洩れているのでさし覗くと、そこに寝かしてある瀕死の負傷の枕元に、耕介夫婦が、顔を寄せていた。\n「......オオ、まだ起きておいでなされましたか」\n 振返って、耕介は、そっと席をひらく。\n 静かに、武蔵も、枕元へ坐って、\n「どなたでござるか」\n 燈下の蒼い寝顔をのぞきながら訊くと、\n「驚きました......」\n と、耕介はさも驚いたふうを示して、\n「知らずにお救けしたのでございますが、ここへ連れて来てみると、わたくしのお出入り先で、わたくしの最も尊敬している甲州流の軍学者、小幡先生の御門人ではございませんか」\n「ホ。この人が」\n「はい。北条新蔵と仰有いまして、北条安房守の御子息――兵学を御修行なさるために、小幡先生のお手許に、長年お仕えをしているお方でございます」\n「ふーム」\n 武蔵は、新蔵の首に巻いてある白い布をそっとめくってみた。今焼酎で洗ったばかりの傷口は赤貝の肉片ほど、見事に刀で抉り飛ばされていた。灯影は凹んだ傷口の底まで届き、淡紅色の頸動脈はありありと眼に見えるほど、露出していた。\n 髪一すじ――とよくいうが――この負傷の生命は、正に髪一すじの差で取りとめていた。それにしても、この凄い――冴え切った太刀の使い手は、いったい何者だろうか。\n 傷口に依って考えると、この太刀は、下からしゃくり上げて、しかも燕尾に刎ね返したものらしい。さもなければこう鮮やかに、頸動脈を狙って、貝の肉を削ぐように抉れている筈はない。\n ――燕斬り!\n ふと、武蔵は、佐々木小次郎が得意とする太刀の手を思いうかべ、とたんに先刻の、主の耕介が自分の室の外から、その訪れを告げた声を――今になってハッと思いあわせたのであった。\n「事情は、分っておるのか」\n「いえ、何もまだ」\n「そうであろう。――しかし、下手人は分った。いずれ、負傷が本復したうえで聞いてみるがよい。相手は佐々木小次郎と見えた」\n 武蔵はそういって、自身のことばに自身で頷くのであった。\n\n三\n\n 部屋へ戻ると、彼は手枕で、木屑の中へごろりと横になった。\n 夜具が展べてないわけではないが、夜具の中にはいる気持がしないのである。\n きょうで二日ふた晩。\n 伊織はまだ帰って来ない。\n 道に迷っているにしては永すぎる。もっとも使い先が柳生家であり、木村助九郎という知人もいるので、子供だし、まあ遊んで行けと、ひき止められて、いい気になっているのかも知れない――\n で、案じながらも、それについては、さして心を労してはいないが、きのうの朝から、刀を持って向っている観音像の彫りには、だいぶ心身のつかれを彼は覚えていた。\n 武蔵は、その彫りに向って、技巧を心得ている玄人ではない。また、賢い逃げ道や、上手らしい小刀の痕をつけて誤魔化してゆく方法を知らない。\n ただ彼の心のなかには、彼の描いている観音の象だけがある。彼は、無念になって、その心のなかの象を、木彫として現わそうとするだけに過ぎないが、その真摯な狙いどころが、手となり、小刀の先の動きにまでくるあいだに、種々な雑念が、狙うところの心形を散漫に乱してしまう。\n そこで彼は、折角、彫るところの物が、観音の形になりかけると、それを削って、また彫り直し、また乱れては、また彫り直し――何度もそれを繰り返しているうちに、ちょうど鰹魚節を費い削ってしまうように、与えられた天平の古材も、いつか八寸に縮み、五寸ほどに痩せ、もうわずかに、三寸角ぐらいまで、小さくしてしまっていた。"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n 昭和十六年の一月、即ちまる二年前、私はラジオを通じて「国防と文化」といふ題の講演をしました。\n その草稿がありますから、それをまづ初めに掲げます。\n\n\n いよいよ事態が切迫して来たやうであります。それに対して国を挙げての準備は整つてゐるでありませうか。\n 議会でも、質問を中止して、直ちに予算の審議にはひりました。\n 国家総力戦の真のすがたが、国民一人々々の眼にはつきりわかる時が近づきつゝあります。\n われわれはこゝで、国の力といふことを考へてみなければなりません。国の力、即ち国民の力であります。武力といひ、経済力といひ、外交の力といひ、すべてこれ、われわれ日本民族の現実の行為であり、その肉体と精神の火花であります。そして、それらすべてが、広い意味の文化をこゝに示すものであります。\n 先日、議場に於ける陸海軍大臣の声明が新聞に出てをりましたが、それは誠に意を強くするに足る言葉でありました。\n しかし、軍備はいかに充実しても、充実しすぎるといふことはありません。なぜなら、敵国は必ずその上に出ようとするからです。経済力はと申しますと、これまた御承知のとほり、日本はそれほど恵まれてゐるとは云へません。では外交は? 然し、外交の終るところから戦ひがはじまるのであります。\n それらに対し、高度国防国家体制の必要がとなへられ、いはゆる文化の部門がその一翼として動員されることになつた理由は、国の力が、まだ、そこにもあるといふことの証拠であります。\n そこにもあるどころではありません。私の考へでは、これこそ、国民の底力であり、それによつて明日何かができるといふことであり、それが、未来へのたしかな希望となるのであります。\n 去年の十一月、皇紀二千六百年を記念するため、宮城前でとり行はれた国民的祝典は、参列者悉く感動に胸をつまらせたと聞きますが、これこそ、現代日本文化の華といふべき盛儀であつたと信じます。儀式の精神は、もちろん、秩序ある集団をもつてする敬虔な道徳的感情の昂揚にあるのでありまして、その点、まさに儀式として絶対無二のありがたさを示した一例でありました。かつ、近代の設計と古典の彩色とが、あの清々しい芝生の緑の上を流れる光景を私も謹んで想像することができます。不幸にして私は参列の光栄に浴することはできませんでしたが、偶々友人の一人からその感動を語り聞かされ、実に髣髴として千古の偉観を拝する思ひがいたしまして、思はず頭がさがり、口がきけなくなりました。\n しかるに、それから後、またある人からかういふ話を聞かされました。あの祝典に参列した一外国人が、そばにゐた親しい友人に向つて訊ねたさうであります――「私はこんな立派な儀式を世界のどこでも見たことがない。ところで、こんな立派なことができる日本人が、なぜ平生はあんな風なことしかできないのだらう。実に不思議だ」と、かうであります。「あんな風なこと」とはいつたい何を指すのか、私は突つこんで訊きはしませんでしたけれども、およそ見当はつきました。残念ながら、われわれの日常生活、即ち、われわれの衣食住、お互のたしなみ、われわれの芝居と映画、われわれの停車場、公園、これはなんと申しても、われわれの輝かしい歴史と、その見かけがあまり距たりすぎてをります。\n それについて、ゲーテだつたと思ひますが、次のやうな言葉があります――「何事かを成さんとすれば、まづ何者かでなければならぬ」\n ところでわれわれ日本人は、そもそも何者でありませうか?\n 健全な文化、壮大な文化は、既にわれわれの精神のうちに宿つてゐるのでありますから、それは時を得れば忽ちその完璧な姿を天下に示すことができる筈であり、それでわれわれはまづもつて足れりとすべきであるかも知れません。\n が、私は、もう一度、ほんたうにこれでいゝのかとみなさんに伺ひたい。\n 今日たゞいま、われわれの日本のおかれてゐる運命は、まさにさし迫つた乾坤一擲の大勝負によつて決せられるのであります。\n われわれの営みは、かゝつて一人一人の腕に、頭に、情熱にあり、これによつて、国を富まし、政治を正し、軍備を整へ、生活に秩序を、勤労に生気を与へ、教育に魂を、学問に権威を、宗教に意志を、文学芸術に気品を与へなければならないのであります。\n さもなければ、日本は、踏み出した足をさらはれ、ひろげた両手を捉へられること必定であります。\n 東亜の指導民族をもつて自認するわれわれの現代文化が、真に指導性をもつか否かは、日本の歴史のみが保証することはできません。今日たゞいまの日本人は、職域の如何を問はず、老若男女を問はず、唯の一人と雖も、日本人の日本人たる所以、即ち、高い、豊かな、力強い文化の創造者たる責任を忘れてはならないのであります。\n それには何が必要かと申しますと、さしあたり、いはば「軍隊的なるもの」を先づわれわれは身につけなくてはなりません。正しい意味に於ける「軍隊的なもの」は、国防国家にとつて、欠くべからざるものであります。なぜなら、軍隊ほど、秩序の力と美しさを尊ぶものはないからであります。そしてそこには、厳然たる日本精神の上に、文化を形づくる要素が、偶然、三つとも具つてゐるのです。即ち、倫理性、科学性、それから芸術性がこれです。\n 国防国家といつても、必ずしも国全体を軍隊化することではありませんけれども、ある意味で「軍隊的に」組織づけ、秩序立て、訓練し、動かしていくことは、絶対に必要であります。\n 申すまでもなく、戦争と文化とは相容れないやうに考へるのは、戦争が侵畧のための戦争であり、文化が消費と装飾の面に結びつくと考へる旧い観念であります。\n 今日、日本が目指してゐる高度国防国家建設とは、兵備そのものを第一義とする侵畧的武装国家を理想とするものでは決してありません。飽くまでも道義的な国家目的を達成するに当つて、已むを得ず排除すべき障碍を予想しての軍備と、いはゆる東亜共栄圏を確立するための経済的基礎と、後進諸民族指導の実権を他に譲らないだけのすぐれた文化的能力とを完全に蓄積することに外ならぬのであります。\n こゝで、従来の、西洋流平和主義に対し、われわれ日本人として、厳しい批判を加へておかなければなりません。\n 元来、国家の存立といふものは、個人の存在と、その根本に於て意味が違ふことを、はつきりわれわれの道徳は教へてをります。個人は、その生命に自然の限界があり、生命の尊さにも亦おのづから制約があるのであります。人は数々の理由によつて、みづから死を択ぶことすらあります。然るに、わが国は、いかなることがあつても滅んではならず、また、いかなる困難があつても、栄えねばならぬ絶対無上の生命が籠つてゐるのであります。そのため「七生報国」は、日本国民の血液にひそむ大悲願なのであります。\n こゝに個人の倫理と、国家の倫理との微妙な相違が生じます。道義日本の正道は、饑ゑて死を待つところには断じてないのであります。\n さて、いま私が静かに過去、現在、未来を考へてみますと、わが日本のいろいろな姿が目に浮んで来ます。そのうち過去はともかく、未来もさておき、この現在について考へると、それはどこかで少し無理をしてゐるといふ気がしないではありません。といふ意味は、決して、実力以上のことをしてゐるといふのではなく、むしろ実力を発揮するためにどこか自由にならぬところがあると云へるものがあるのであります。さういふ事情がもとになつて、新体制の呼び声となり、国民再組織の運動となつたわけでありますが、その原因はいづれにあるかと云ひますと、私の考へでは、国民の一人々々が、わが国古来の「たしなみ」といふものを、つい、忘れかけたといふ一事に尽きるやうに思ひます。\n 国民に「たしなみ」が欠けてゐては、国の国風といふものは振ひません。\n 日本の歴史を通じて、時代時代に形の上の移り変りはありますが、あれほど人間的滋味を発揮した日本的な「たしなみ」が、この昭和の聖代に、なぜ、その影を消したかのやうに見えるのでありませう。\n それは西欧的教養が、未熟のまゝ採入れられたからであります。また、封建的な躾けが、一方そのまゝ若い時代へのしかゝつたからであります。この二つの現象は、明治末期から今日へかけて、すくよかに発展すべき日本文化を、混乱させ、荒廃させました。そんなわけですから、若し日本の近代化が先づ軍備より起り、民族の特質が先づ国軍の結成の上に集中し、国家活動の重点が、勢ひ武力の宣揚におかれなかつたならば、今日われわれは、恐らく、世界の半ばを敵とすることはできなかつたでありませう。\n ところで私は、一国の文化といふものは、まことに、何気ない生活の表情のなかにあるものだといふことを、常々感じてゐるのであります。\n こゝに、先年東北へ旅行をしました時、私が秋田の町で目撃した、ちよつとしたことを御紹介いたします。\n 場所は例の城跡の公園であります。"
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"role": "assistant",
"content": " 夏の終りでありました。まだ昼間は散歩に暑く、私は一軒の茶店に腰をおろして、氷水を註文いたしました。\n 六十をいくつか越したと思はれる人の好ささうなお婆さんが、ひとりで店をやつてゐるのです。\n ほかに若い男の客が一人、縁台に片膝をのせて、昼飯代りのうどんを食べてゐます。お燗も一本ついてゐるやうでした。若いといつてももう三十近くでありませうか、非常に落ちついた様子で、最後の杯をあけ、勘定をすまし、やがて外へ出て行きました。\n 私は氷水に咽喉をうるほしながら、店の中をあちこち眺めました。なにひとつ眼を引くもののない、あの平凡な、くすぶつた、どこにでもある住ひであります。\n 急に表で女の子の泣声が聞え、その泣声と一緒に、ずぶ濡れになつた六七歳の女の子が駈け込んで来ました。そのうしろから、知り合ひらしい中年過ぎの女がついて来て、たつた今、その女の子が池へ落ちて、手だけ水の上へ出してゐるのを引きあげてやつたのだといふ話をするのですが、私には、むろん、言葉がところどころしかわからず、やつとそれだけの意味を察したのであります。\n 茶店の婆さんは――多分孫娘でありませう――その女の子の着物を手早くぬがせながら、小声で二こと三こと小言を浴せ、助けてくれた女に礼を云ひ、盥を持ち出して釜の湯をあけ、女の子に行水を使はせるのでありますが、その、うろたへもせず、邪慳にもならず、手まめにひとつひとつ、なすべきことを処理して行く態度に、私は感服しながら見入つてをりました。\n 婆さんは、まだ泣きやまない女の子を裸のまゝ店の奥に起たせ、着物を箪笥から出してやります。\n その間、助けてくれた女と、平生通りの会話を続けてゐます。私はその調子の巧まない朗かさに興を覚え、耳をぢつとすましてゐました。\n 話は、さつきそこにゐた男の客のことらしく、なんでも、戦地から帰つたばかりで、今日、東京からわざわざ出かけて来て、戦死した中隊長の墓参りをしたのだといふやうなことでありました。それからまた、近頃、ラジオ体操ばやりで、年寄りまでが妙な恰好をして体操をするが、あれはちよつとどうかといふやうな話です。\n 相手の女は、娘の命を助けたご褒美に、氷水一杯を振舞はれ、これは、馴れないこととみえ、やゝ照れながら、もう一度、娘のあぶなかつた話を繰り返しました。\n これだけの話であります。\n たゞこれだけの話でありますが、この情景は、観るのと聞くのとではよほど違ひませうけれども、しかし、私のその場で感じ、今もなほ心のなかに刻みつけられてゐる印象は、まつたく、懐しく快いものであります。\n こゝには何ひとつ教訓らしいものはありません。おそらく頭の下るやうなところはどこにもありません。しかもなほこれらの人物一人々々のうちに、私は伝統と生活に根をおろした愛すべき人間のこゝろをしみじみと感じるのであります。かういふ例は、決して、珍しいといふのではありません。たゞ、これが、社会の目立たない部分にしか見当らないといふことであります。素朴な民衆の自然な「たしなみ」がそこにあるといふ意味です。そしてそれが一旅人たる私を知らず識らず抱き込むのだとすれば、祖先を異にする国民と国民との交りも、かういふ共感の上に立たなければ、ほんたうの親善に進み得ないのではないかと思はれます。\n 国と国とは、利害相反し、主張相容れなければ、結局に於て、戈を交へるでありませう。その国と国とが、利害を同じくし、主張を等しくしても、人間としての味ひに於て、相軽んじ、相疎んずるならば、永久に、真の味方となることはできません。\n われわれは先づ、国内に於て、同胞の一人と雖も、今日限り、赤の他人と見做したり、またさう呼ぶことをやめませう。\n われわれは次に一タス一ハ三といふ日本的原理を信じませう。といふのは、言ひ換へれば、日本人は、元来、外の国の人間のやうに一人なら一人の力、二人なら二人の力といふ風に、人の数と力の量とが比例せず、一人は一人の力ですが、二人になると三人分の力ができるといふ特質をもつてゐることをお互に信じようといふことです。ほんたうに力を合せればそれができるのです。その実例はいくらでもあります。\n 私は、現今日本文化の発揚は、高度国防国家の見地よりみて、以上の二つの決意とその実践以外にないと信じます。\n\n\n 二年後の今日と雖も、私の云ひたいことは少しも変つてゐません。\n そこで、この講演の主旨を、別の角度から、もつと詳しく敷衍してみようと思ひます。\n\n二\n\n 昭和十六年十二月八日といふ日をわれわれは忘れることはできません。\n 大東亜戦争は、真珠湾の嵐によつて曙を告げたのであります。\n 宣戦の大詔勅は、熱した国民の耳に、清々しく、厳かに伝へられ、一億草莽、感動に胸ふるはせて、ひとしく、忝けなき大御心にこたへ奉らんことを誓ひました。\n\n 陸海軍の赫々たる戦果に報ゆる国民の決意は、爾来一年の間に、どういふ形で現れて来たかといふと、それはここでいちいち数へあげる必要はありますまい。政府の施策に応じて、全国民は欣然、それぞれの立場に於て、全力を尽す態勢が整へられつゝあります。\n しかしながら、物事の改まるのには、おのづから順序があり、根本に触れなければ、いくら目前の急に間に合せようとしても、結局その成果が挙がらぬといふ問題もあります。\n 既にわれわれは、あの緒戦の目覚しい勝利を導いた陸海軍の、長年月に亘る準備と訓練とについて屡々語り聴かされたのでありますが、国民の一人々々は、果して、今後長期に及ぶべき総力消耗戦に適する資質を備へてゐるかといふと、まだまだ十分とは云へない点が多々あります。\n 私はこれを青年の立場から、特に文化の問題として取りあげてみたいと思ひます。\n\n三\n\n 先づ第一に、青年は男女を問はず、もつともつと心身を健康にするための努力を払ふべきです。\n 前にもちよつと触れたとほり、身体の健康については、その目標もはつきりわかり、健康のよろこびと必要とが身に沁みて感じられゝば、あとは、摂生と鍛錬の方法が残るだけです。しかし、精神の健康といふ問題は、軽く考へればなんでもないやうで、実は、極めて深い考察を加へなければ解決できない問題であります。なぜなら、それは、国民性並びに国民道徳の確乎たる基礎の上に樹てられた一つの方向でありまして、国家の理想、即ち国是そのものとも密接な関係があるからです。\n 例へば、「物の考へ方」にしても、それが健康であるかないかは、たゞ、西洋流に、「合理的」であるかないかといふやうな尺度だけでは、日本人の「物の考へ方」の健康如何をはかることはできません。それはつまり、「道理」といふ観念が、西洋と日本では既に違つてをり、西洋の道理は日本では「理窟」に過ぎぬこともあります。それと同時に、日本流の「道理」は、西洋では「純理を離れた感情問題」或は、「論理を無視した独断」と見做される場合がありませう。\n そこで、「物の考へ方」の健康であるといふことは、もちろん「正しい」といふ意味に相違ありませんが、たゞ「正確」であることに満足せず、そこにもつと潤ひと力とをもたせることが、日本人の「物の考へ方」の「正しさ」になるのだと思ひます。従つて、無用の論理を弄ばず、直観に従つて時には飛躍的な結論に到達するといふやうな傾向があるのです。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "(数枝)(驚愕して立ち上り)まあ、あなたは何という事をおっしゃるのです。まるでそれではごろつきです。何の純情なものですか。あなたのような人こそ、悪人というのです。帰って下さい。お帰りにならなければ、人を呼びます。\n(清蔵)(すっかり悪党らしく落ちつき)静かにしなさい。(出刃庖丁をちょっと持ち上げて見せて、軽く畳の上に投げ出し)これが見えませんか。今夜は、私も命がけです。いつまでも、そうそうあなたにからかわれていたくありません。イエスですか、ノオですか。\n(数枝) よして下さい、いやらしい。女が、そんな、子供の頃のささいな事で一生ひとから攻められなければならないのでしたら、女は、あんまり、みじめです。ああ、あたしはあなたを殺してやりたい。(清蔵のほうを向きながら二、三歩あとずさりして、突然、うしろ手で背後の襖をあける。襖の外は階段の上り口。そこに、あさが立っている。数枝、そこにあさが立っているのを先刻より承知の如く、やはり清蔵のほうを見ながら)お母さん! たのむわ。この男を、帰らせてよ。毛虫みたいな男だわ。あたしはもう、口をきくのもいや。殺してやりたい。\n(清蔵)(あさの立っているのを見て驚き)やあ、お母さん、あなたはそこにいたのですか。(急にはにかみ、畳の上の出刃庖丁をそそくさと懐にしまいこみ)失礼しました。帰りましょう。(立ち上り、二重廻しを着る)\n(あさ)(おどおど部屋にはいり、清蔵の傍に寄り、清蔵が二重廻しを着るのにちょっと手伝い、おだやかに)清蔵さん、早くお嫁をもらいなさい。数枝には、もう、......。\n(数枝)(小声で鋭く)お母さん! (言うなと眼つきで制する)\n(清蔵)(はっと気附いた様子で)そうですか。数枝さん、あなたもひどい女だ。(にやりと笑って)凄い腕だ。おそれいりましたよ。私が毛虫なら、あなたは蛇だ。淫乱だ。女郎だ。みんなに言ってやる。ようし、みんなに言ってやる。(身をひるがえして、背後の雨戸をあける。どっと雪が吹き込む)\n(あさ)(低く、きっぱりと)清蔵さん、お待ちなさい。(清蔵に抱きつくようにして、清蔵のふところをさぐり、出刃庖丁を取り出し、逆手に持って清蔵の胸を刺さんとする)\n(清蔵)(間一髪にその手をとらえ)何をなさる。気が狂ったか、糞婆め。(庖丁を取り上げ、あさを蹴倒し、外にのがれ出る。どさんと屋根から下へ飛び降りる音が聞える)\n(数枝)(あさに武者振りついて)お母さん! つらいわよう。(子供のように泣く)\n(あさ)(数枝を抱きかかえ)聞いていました。立聞きして悪いと思ったけど、お前の身が案じられて、それで、......(泣く)\n(数枝) 知っていたわよう。お母さんは、あの襖の蔭で泣いていらした。あたしには、すぐにわかった。だけどお母さん、あたしの事はもう、ほっといて。あたしはもう、だめなのよ。だめになるだけなのよ。一生、どうしたって、幸福が来ないのよ。お母さん、あたしを東京で待っているひとは、あたしよりも年がずっと下のひとだわ。\n(あさ)(おどろく様子)まあ、お前は。(数枝をひしと抱きかかえ)仕合せになれない子だよ。\n(数枝)(いよいよ泣き)仕様が無いわ。仕様が無いわ。あたしと睦子が生きて行くためには、そうしなければいけなかったのよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。\n\n\n\n雪が間断なく吹き込む。その辺の畳も、二人の髪、肩なども白くなって行く。\n\n――幕。\n\n 第三幕\n\n\n舞台は、伝兵衛宅の奥の間。正面は堂々たる床の間だが、屏風が立てられているので、なかば以上かくされている。屏風はひどく古い鼠色になった銀屏風。しかし、破れてはいない。上手は障子。その障子の外は、廊下の気持。廊下のガラス戸から朝日がさし込み、障子をあかるくしている。下手は襖。\n幕あくと、部屋の中央にあさの病床。あさは、障子のほうを頭にして仰向に寝ている。かなりの衰弱。眠っている。枕元には薬瓶、薬袋、吸呑み、その他。病床の手前には桐の火鉢が二つ。両方の火鉢にそれぞれ鉄瓶がかけられ、湯気が立っている。数枝、障子に向った小机の前に坐って、何か手紙らしいものを書いている。\n\n第二幕より、十日ほど経過。\n\n数枝、万年筆を置いて、机に頬杖をつき障子をぼんやり眺め、やがて声を立てずに泣く。\n間。\nあさ、眠りながら苦しげに呻く。呻きが、つづく。\n\n\n\n(数枝)(あさのほうを見て、机上の書きかけの手紙を畳んでふところにいれ、それから、立ってあさのほうへ行き、あさをゆり起し)お母さん、お母さん。\n(あさ) ああ、(と眼ざめて深い溜息をつく)ああ、お前かい。\n(数枝) どこか、お苦しい?\n(あさ) いいえ、(溜息)何だかいやな、おそろしい夢を見て、......(語調をかえて)睦子は?\n(数枝) けさ早く、おじいちゃんに連れられて弘前へまいりました。\n(あさ) 弘前へ? 何しに?\n(数枝) あら、ご存じ無かったの? きのう来ていただいたお医者さんは、弘前の鳴海内科の院長さんよ。それでね、お父さんがきょう、鳴海先生のとこへお薬をもらいに行ったの。"
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"role": "assistant",
"content": "(あさ) 睦子がいないと、淋しい。\n(数枝) 静かでかえっていいじゃないの。でも、子供ってずいぶん現金なものねえ。おばあちゃんが御病気になったら、もうちっともおばあちゃんの傍には寄りつかず、こんどはやたらにおじいちゃんにばかり甘えて、へばりついているのだもの。\n(あさ) そうじゃないよ。それはね、おじいちゃんが一生懸命に睦子のご機嫌をとったから、そうなったのさ。おじいちゃんにして見れば、ここは何としても睦子を傍に引寄せていたいところだろうからね。\n(数枝) あら、どうして? (火鉢に炭をついだり、鉄瓶に水をさしたり、あさの掛蒲団を直してやったり、いろいろしながら気軽い口調で話相手になってやっている)\n(あさ) だって、あたしがいなくなった後でも、睦子がおじいちゃんになついて居れば、お前だって、東京へ帰りにくくなるだろうからねえ。\n(数枝)(笑って)まあ、へんな事を言うわ。よしましょう、ばからしい。林檎でもむきましょうか。お医者さんはね、何でも食べさえすれば、よくなるとおっしゃっていたわよ。\n(あさ)(幽かに首を振り)食べたくない。なんにもいただきたくない。きのう来たお医者さんは、あたしの病気を、なんと言っていたの?\n(数枝)(すこし躊躇して、それから、はっきりと)胆嚢炎、かも知れないって。この病気は、お母さんのように何を食べてもすぐ吐くのでからだが衰弱してしまって、それで危険な事があるけれども、でも、いまに食べものがおなかにおさまるようになったら、一週間くらいでよくなると言っていました。\n(あさ)(薄笑いして)そうだといいがねえ。あたしは、もうだめなような気がするよ。その他にも何か病気があるんだろう? 手足がまるで動かない。\n(数枝) そりゃお医者に見せたら、達者な人でも、いろんな事を言われるんだもの、それをいちいち気にしていたら、きりが無いわ。\n(あさ) なんと言ったのだい。\n(数枝) いいえ、何でも無いのよ。ただね、軽い脳溢血の気味があるようだとか、それから、脈がどうだとか、こうだとか、何だかいろいろ言っていたけど忘れちゃったわ。(おどけた口調で)要するにね、食べたいものを何でも、たくさん召上ったらなおるのよ。数枝という女博士の診断なら、そうだわ。\n(あさ)(厳粛に)数枝、あたしはもう、なおりたくない。こうしてお前に看病してもらいながら早く死にたい。あたしには、それが一ばん仕合せなのです。\n\n\n\n茶の間の時計が、ゆっくり十時を打つのが聞える。\n\n\n\n(数枝)(あさの言う事に全く取り合わず、聞えぬ振りして)あら、もう十時よ。(立上り)葛湯でもこしらえて来ましょう。本当に、何か召し上らないと。(言いながら上手の障子をあけて)おお、きょうは珍らしくいいお天気。\n(あさ) 数枝、ここにいてくれ。何を食べても、すぐ吐きそうになって、かえって苦しむばかりだから。どこへも行かないで、あたしの傍にいてくれ。お前に、すこし言いたい事がある。\n(数枝)(障子を静かにしめて、また病床の傍に坐り、あかるく)どうしたの? ね、お母さん。\n(あさ) 数枝、お前はもう、東京へは帰らないだろうね。\n(数枝)(あっさり)帰るつもりだわ。お父さんはあたしに、出て行けと言ったじゃないの。そうして、あの日からもう、あたしにはろくに口もききやしないんだもの。帰るより他は無いじゃないの。\n(あさ) あたしがこんなに寝たきりになってもかい。\n(数枝) お母さんの病気なんか、すぐなおるわよ。そりゃ、なおるまでは、やっぱりあたし、お父さんがどんなに出て行けって言ったって、この家に頑張ってお母さんの看病をさせていただくつもりだけど。\n(あさ) 何年でもかい。\n(数枝) 何年でもって、(笑って)お母さん、すぐなおるわよ。\n(あさ)(首を振り)だめ、だめ。あたしには、わかっています。数枝、あたしにもしもの事があったら、お前は、お父さんひとりをこの家に残して東京へ行くのですか。\n(数枝) もう、いや。そんな話。(顔をそむけて泣く)もしも、そうなったら、もしも、そうなったら、数枝も死んでしまうから。\n(あさ)(溜息をついて)あたしはお前を、世界で一ばん仕合せな子にしたかったのだけど、逆になってしまった。\n(数枝) いいえ、あたしだけが不仕合せなんじゃないわ。いま日本で、ひとりでも、仕合せな人なんかあるかしら。あたしはね、お母さん、さっきこんな手紙を書いてみたのよ。(ふところから先刻書きかけの手紙を取り出し、小さくはしゃいで)ちょっと読んでみるわね。(小声で読む)拝啓。為替三百円たしかにいただきました。こちらへ来てから、お金の使い道がちっとも無くて、あなたからこれまで送っていただいたお金は、まだそっくりございます。あなたのほうこそ、いくらでもお金が要るでございましょうに、もうこれからは、お金をこちらへ送って寄こしてはいけません。そうして、もしそちらでお金が急に要るような事があったら、電報でお知らせ下さいまし。こちらでは、本当になんにも要らないのですから、いくらでもすぐにお送り申します。それまで、おあずかり致して置きましょう。さて、相変らずお仕事におはげみの御様子、ことしの展覧会は、もうすぐはじまるとか、お正月がすぎたばかりなのに、ずいぶん早いのね。展覧会にお出しになる絵も、それでは、もうそろそろ出来上った頃と思います。新しい現実を描かなければならぬと、こないだのお手紙でおっしゃって居られましたが、何をおかきになったの? 上野駅前の浮浪者の群ですか? あたしならば、広島の焼跡をかくんだがなあ。そうでなければ、東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔の雨。きっと、いい絵が出来るわよ。私のところでは、母が十日ほど前に、或るいやな事件のショックのために卒倒して、それからずっと寝込んで、あたしが看病してあげていますけど、久し振りであたしは、何だか張り合いを感じています。あたしはこの母を、あたしの命よりも愛しています。そうして母も、それと同じくらいあたしを愛しているのです。あたしの母は、立派な母です。そうして、それから、美しい母です。あたしがあの、ほとんど日本国中が空襲を受けているまっさいちゅうに、あなたたちのとめるのも振り切って、睦子を連れてまるで乞食みたいな半狂乱の恰好で青森行きの汽車に乗り、途中何度も何度も空襲に遭って、いろいろな駅でおろされて野宿し、しまいには食べるものが無くなって、睦子と二人で抱き合って泣いていたら、或る女学生がおにぎりと、きざみ昆布と、それから固パンをくれて、睦子はうれしさのあまり逆上したのか、そのおにぎりを女学生に向って怒って投げつけたりなどして、まあ、あさましい、みじめな乞食の親子になりさがり、それでもこの東北のはての生れた家へ帰りたくてならなかったのは、いま考えてみると、たしかにあたしは死ぬる前にいまいちどあたしの美しい母に逢いたい一念からだったのでした。あたしの母は、いい母です。こんどの母の病気も、もとはと言えば、あたしから起ったようなものなのです。あたしは、いまはこの母を少しでも仕合せにしてあげたい。その他の事は、いっさい考えない事にしました。母があたしにいつまでも、母の傍にいなさい、と言ったら、あたしは一生もう母の傍にいるつもりです。あなたのところへも帰らないつもりです。父は、世間に対する気がねやら、また母に対する義理やらで、早くあたしに東京へ帰れ、と言っていますが、しかし、母が病気で寝込んでしまったら、この父も、めっきり気弱く、我が折れて来たようです。あたしは、もう東京へ帰らないかも知れません。もし、あなたのほうで、あたしをこいしく思って下さるなら、絵をかくのをおやめになって、この田舎へ来て、あたしと一緒にお百姓になって下さい。出来ないでしょうね。でも、そんな気になった時には、きっとおいで下さいまし。いまにあたたかくなり、雪が溶けて、田圃の青草が見えて来るようになったら、あたしは毎日鍬をかついで田畑に出て、黙って働くつもりです。あたしは、ただの百姓女になります。あたしだけでなく、睦子をも、百姓女にしてしまうつもりです。あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう? そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆れるじゃないの。文化ってどんな事なの? 文のお化けと書いてあるわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。おそろしい事だわ。日本はこれからきっと、もっともっと駄目になると思うわ。若い人たちは勉強しなければいけないし、あたしたちは働かなければいけないのは、それは当りまえの事なのに、それを避けるために、いろいろと、もっともらしい理窟がつくのね。そうしてだんだん落ちるところまで落ちて行ってしまうのだわ。ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるような気がするわ。まずまあ、あたしがお百姓になって、自身でためしてみますからね。雪が消えたら、すぐあたしは、田圃に出て、(読むのをやめて、手紙を膝の上に置き、こわばった微笑を浮べて母のほうを見て)ここまで書いたのだけど、もうあたしは、この手紙が最後で鈴木さんとは、おわかれになるかも知れないわ。\n(あさ) 鈴木さんというの?\n(数枝) ええ、ずいぶんあたしたち、お世話になったわ。この方のおかげで、あたしと睦子は、あの戦争中もどうやら生きて行けたのだわ。でも、お母さん、あたしはもう、みんな忘れる。これからは一生、お母さんの傍にいるわ。考えてみると、お母さんだって、栄一が帰って来ないし、(言ってしまってから、どぎまぎして)でも、栄一は大丈夫よ。いまに、きっと元気で帰って来ると思うけど。\n(あさ) お前と睦子が、この家にいてくれたら、栄一は帰って来なくても、かまいません。あの子の事は、もうあきらめているのです。数枝、あたしは栄一よりも、お前と睦子がふびんでならない。(泣く)\n(数枝)(ハンケチであさの涙を拭いてやって)あたしは、あたしなんか、どうなったっていいのよ。本当にいつもそう思っているのよ。(うつむいて)悪い事ばかりして来たのだもの。\n(あさ) 数枝、(変った声で)女には皆、秘密がある。お前は、それを隠さなかっただけだよ。\n(数枝)(不思議そうにあさの顔を覗き込み)お母さん、いやだわ、そんな真面目な顔して。(はにかむような微笑)\n(あさ)(それに構わず)あれから何日になりますか。\n(数枝) いつから?\n(あさ) あの夜から。\n(数枝) さあ、もう十日くらい経つかしら。よしましょう、あの晩の話は。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n\n○東坡の詩は、和孔密州五絶の一で、東欄梨花と題するもの。杜牧之は世にいふ小杜、杜牧のこと。彼は晩唐の人である。\n\n (十)\n\n\n 柳子厚の詩に云ふ、海上尖山似剣鋩、秋来処処割愁腸と。東坡之を用ひて云ふ、割愁還有剣鋩山と。或は謂ふ、割愁腸と言ふべし、但だ割愁と言ふ可からずと。亡兄仲高云ふ、晋の張望の詩に曰ふ、愁来不可割と、此れ割愁二字の出処なりと。(老学庵筆記、巻二)\n\n\n○東坡の詩は白鶴峰新居欲成夜過西隣翟秀才二首と題せるものの一。問題の句は、繋悶豈無羅帯水、割愁還有剣鋩山といふ一聯を成せるもの。前の句は韓退之、後の句は柳子厚によることは、その自註に記してある。但し続国訳漢文大成では、自註に引く所の柳子厚の句が海上尖峰若剣鋩となつてゐる。放翁は記憶に従つて筆を執り、誤つて峰を山となし若を似となしたのであらうか。蔵書に乏しい私は、今これを審にし得ない。\n\n (十一)\n\n\n 夜涼疑有雨、院静似無僧。これ潘逍遥の詩なり。(老学庵筆記、巻五)\n\n\n○東坡の詩\n\n佛燈漸暗饑鼠出、 山雨忽來脩竹鳴\n知是何人舊詩句、 已應知我此時情\n\nといふ七絶の題には、「少年の時、嘗て一村院を過ぎり、壁上に詩あるを見る。云ふ、夜涼疑有雨、院静似無僧と。何人の詩なるやを知らざる也。黄州禅智寺に宿せしに、寺僧皆な在らず、夜半雨作り、尚ほ此の詩を記ゆ。故に一絶を作る」としてある。知是何人旧詩句の知るは、知らずの意であること、言ふまでもない。東坡の詩によつて伝へられた此の句は、私のやうなものでも記憶してゐるから、長生して書物ばかり読んでゐた放翁が、ふとこんな事を見付けて居るのは、何も不思議はない。潘逍遥は名を閬と云ふ。宋の太宗に召されて進士第を賜ひ、事に坐して中条山に遁れ、後収繋されしも、真宗その罪を釈し、滁州参軍となす。詩集及び詞集あり。日本では中野逍遥、坪内逍遥などいふ文学者が居た。これらの人はこの潘逍遥を知つて居たのであらうか。\n\n (十二)\n\n\n (跋淵明集) 吾年十三四の時、先少傅に侍し城南の小隠に居る。偶〻藤床上、淵明の詩あるを見、因て取りて之を読む。欣然会心、日且に暮れんとし、家人食に呼ぶも、詩を読む方に楽く、夜に至つて卒に食に就かず。今之を思ふに、数日前の事の如く也。慶元二年、歳在乙卯、九月二十九日。山陰陸某務観、書於三山亀堂、時年七十有一。(渭南文集、巻二十八)\n\n\n○放翁六十九歳の作に読陶詩と題するものあり、その冒頭に、「我が詩淵明を慕ふ、恨むらくは其の微に造らざることを」とあり、また八十三歳の作に自勉と題するものあり、その冒頭には、「詩を学べば当に陶を学ぶべく、書を学べば当に顔を学ぶべし」としてある。以て如何に彼が陶淵明に傾倒せしかを知るに足る。\n\n (十三)\n\n\n 茶山先生云ふ。徐師川、荊公の細数落花因坐久、緩尋芳草得帰遅に擬して云ふ、細落李花那可数、偶行芳草歩因遅と。初め其意を解せず、久くして乃ち之を得。蓋し師川は専ら陶淵明を師とせる者なり。淵明の詩、皆な適然寓意、物に留まらず。悠然見南山の如し。東坡の其の決して南山を望むに非ざるを知る所以なり。今、細数落花、緩尋芳草と云へば、留意甚し、故に之を易ふと。又云ふ。荊公多く淵明の語を用ひ而かも意異なる。柴門雖設要常関、雲尚無心能出岫の如き、要字能字皆な淵明の本意に非ざる也と。(老学庵筆記、巻四)\n\n\n○これは全部他人の説を引いただけのものだが、もちろん賛同の意を含めての引用である。文中にいふところの荊公とは王安石のこと。詩は北山と題する七絶で、全文を写し出せば次の如くである。北山輸緑漲横陂、直塹回塘灔灔時、細数落花因坐久、緩尋芳草得帰遅。\n○なほ文中に東坡の云々と言つてあるのは、東坡の次の説を指したものである。「采菊東籬下、悠然見南山。これは菊を采る次いでに偶然山を見るのである。初めより意を用ひずして、境と意と会ふ、故に喜ぶべき也。もし望南山となせば便ち興味索然たるを覚ゆ」。\n\n (十四)\n\n\n (跋王右丞集) 余年十七八の時、摩詰の詩を読む最も熟す。後、遂に之を置くもの幾んど六十年。今年七十七、永昼無事、再び取つて之を読む。旧師友を見るが如し、間闊の久きを恨む。(渭南文集、巻二十九)\n\n\n○王右丞、摩詰、共に王維のこと。この跋文は王維に対する放翁の関係を知るに足るもの。\n\n (十五)\n\n\n (跋花間集) 花間集は皆な唐末五代の時人の作。斯の時に方つて、天下岌岌、生民死を救うて暇あらず、士大夫乃ち流宕此の如し。歎ずべけんや。或は無聊の故に出づるか。(渭南文集、巻三十)\n\n\n (十六)\n\n\n (跋詩稿) これ予が丙戌以前の詩、二十の一なり。厳州に在るに及んで、再編、又た十の九を去る。然かも此の残稿終に亦た之を惜み、乃ち以て子聿に付す。紹煕改元立夏日書。(渭南文集、巻二十七)\n\n\n○丙戌は乾道二年、放翁四十二歳の時に当る。厳州にて再編すと云ふは、淳煕十四丁未年、放翁六十三歳の時に属す。この年始めて詩を刻せり。紹煕元年庚戌は六十六歳の時に当り。以後家居、この年また詩稿を刪訂せるなり。\n○趙翼の甌北詩話には、次の如く書いてある。「古来詩を作るの多き放翁に過ぎたるはなし。今その子、子※[「虚/八」、よみは「きょ」、498-15]が編する所の八十五巻に就いて之を計るに、已に九千二百二十首。然かも放翁六十三歳、厳州に在りて詩を刻し、已に旧稿を将つて痛く刪汰を加ふ。六十六歳、家居して又た詩稿を刪訂す。自跋に云ふ、これ予が丙戌以前の詩、十の一なり、厳州に在りて再編、又た十の九を去ると。然らば則ち丙戌以前の詩にして存する者は才に百の一のみ」。即ち私の見てゐる渭南文集には、丙戌以前詩二十之一としてあるのが、趙翼の引く所では十之一となつてゐる。私は今どちらが正しいかを確め得ない。\n\n (十七)\n\n\n 岑参の西安幕府に在るの詩に云ふ、那知故園月、也到鉄関西と。韋応物作郡の時亦た詩あり云ふ、寧知故園月、今夕在西楼と。語意悉く同じ、而かも豪邁間澹の趣、居然自ら異る。(老学庵筆記、巻三)\n\n\n (十八)\n\n\n 劉長卿の詩に曰く、千峰共夕陽と。佳句なり。近時僧癩可これを用ひて云ふ、乱山争落日と。工なりと雖も窘る。本句に迨ばず。(老学庵筆記、巻四)\n\n\n○放翁六十歳の時の詩に、「独り立つ柴荊の外、頽然たる一禿翁、乱山落日を呑み、野水寒空を倒にす」といふ句がある。\n\n (十九)\n\n 呂居仁の詩に云ふ、蝋燼堆盤酒過花と。世以て新となす。司馬温公、五字あり、云ふ、煙曲香尋篆、盃深酒過花と。居仁蓋し之を取れる也。(老学庵筆記、巻四)\n\n\n (二十)\n\n"
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"role": "assistant",
"content": " 唐の韓翃の詩に云ふ、門外碧潭春洗馬、楼前紅燭夜迎人と。近世、晏叔原の楽府詞に云ふ、門外緑楊春繋馬、床前紅燭夜呼盧と。気格乃ち本句に過ぐ、之を剽と謂はざるも可なり。(老学庵筆記、巻五)\n\n\n○呼盧とは賭博のことなり。 ○晏叔原、字は幾道、宋人なり。その詞の全文は次の如し。家近旗亭酒易酤、花時長得酔工夫、伴人歌扇懶妝梳。戸外緑楊春繋馬、牀頭紅燭夜呼盧、相逢還解有情無。(放翁の引くところでは、戸外が門外、牀頭が牀前となつてゐる。)\n○薛礪若の『宋詞通論』には、晏叔原の詞について、次の如く述べてある。「彼の詞、最も善く詩句を融化す。後期の周美成と正に復た遥々相映らす。例へば彼の浣渓沙「戸外緑楊春繋馬、牀頭紅燭夜呼盧」の二句の如きは、完全に唐の韓翃の詩句を用ひ、僅に原詩「牀前」の「前」字を将つて一個「頭」字に易へ、而かも用ひ来つて直ちに天衣無縫の如し、云々」。\n\n (二十一)\n\n\n 白楽天云ふ、微月初三夜、新蝉第一声と。晏元憲云ふ、緑樹新蝉第一声と。王荊公云ふ、去年今日青松路、憶似聞蝉第一声と。三たび用ひて愈〻工。詩の窮り無きを信ず。(老学庵筆記、巻十)\n\n\n○王荊公とは既に述べた如く王安石のこと。\n\n (二十二)\n\n\n 唐の王建の牡丹の詩に云ふ、可憐零落蕊、収取作香焼と。工なりと雖も格卑し。東坡その意を用ひて云ふ、未忍汚泥沙、牛酥煎落蕊と。超然同じからず。(老学庵筆記、巻十)\n\n\n (二十三)\n\n\n 水流天地外、山色有無中。王維の詩なり。権徳輿の晩渡揚子江の詩に云ふ、遠岫有無中、片帆烟水上と。已に是れ維語を用ふ。欧陽公の長短句に云ふ、平山闌檻倚晴空、山色有無中と。詩人是に至つて蓋し三たび用ふ。東坡先生乃ち云ふ、記取酔翁語、山色有無中と。則ち欧陽公この句を創為すと謂ふに似たるは何ぞや。(老学庵筆記、巻六)\n\n\n (二十四)\n\n\n 欧陽公、夷陵に謫せられし時、詩に云ふ、江上孤峰蔽緑蘿、県楼終日対嵯峨と。蓋し夷陵の県治、下は峡江に臨む、緑蘿渓と名づく。此より上に泝れば、即ち上牢下牢関、皆な山水清絶の処なり。孤峰は即ち甘泉寺山、孝女泉及び祠ありて万竹の間に在り、亦た幽邃喜ぶ可し。峡人歳時遊観頗る盛。予、蜀に入る、往来皆な之を過ぎる。韓子蒼舎人、泰興県道中の詩に云ふ、県郭連青竹、人家蔽緑蘿と。欧公の句に因めるに似て而かも之を失す。此の詩蓋し子蒼の少作、故に云ふところを審かにせず。(老学庵筆記、巻七)\n\n\n (二十五)\n\n\n 荊公の詩に云ふ、閉戸欲推愁、愁終不肯去と。劉賓客の詩に云ふ、与老無期約、到来何等閑と。韓舎人子蒼、取りて一聯と作して云ふ、推愁不去還相覓、与老無期稍見侵と。古句に比して蓋し益〻工なり。(老学庵筆記、巻八)\n\n\n (二十六)\n\n\n 杜詩の夜闌更秉燭、意は夜の已に深きを謂ふなり。睡るべくして而かも復た燭を秉る、以て久客帰るを喜ぶの意を見る。僧徳洪妄云ふ、更は当に平声に読むべしと。なんぞ是あらんや。(老学庵筆記、巻六)\n\n\n○杜甫の詩は羌村(村の名、当時杜甫の妻子の寓せし地)と題するもので、その全文は次の如し。\n\n崢嶸赤雲西、 日脚下平地\n柴門鳥雀噪、 歸客千里至\n妻孥怪我在、 驚定還拭涙\n世亂遭飄蕩、 生還偶然遂\n鄰人滿墻頭、 感歎亦歔欷\n夜闌更秉燭、 相對如夢寐\n\n 徳洪妄は更字をさらにの意に読まずに、こもごもの意に読まさうとしたものと思はれる。\n\n (二十七)\n\n\n 老杜の哀江頭に云ふ、黄昏胡騎塵満城、欲往城南忘城北と。言ふこころは方に皇惑、死を避くるの際、城南に往かんと欲して、乃ち孰が南北なるやを記する能はざる也。然るに荊公集句両篇、皆な欲往城南望城北と作す。或は以て舛誤となし、或は以て改定となす、皆な非なり。蓋し伝ふる所の本、偶〻同じからず、而かも意は則ち一なり。北人は向を謂ひて望となす。城南に往かんと欲して乃ち城北に向ふと謂ふは、亦た皇惑、死を避け、南北を記する能はざるの意なり。(老学庵筆記、巻七)\n\n\n○問題とされてゐる句は、少陵の野老声を呑んで哭す、春日潜かに行く曲江の曲といふ句で始まる七言古詩の結句である。岩波文庫版には欲往城南忘南北とし、脚註に「一本に南北を城北に作れるあり」としてあるが、私は城北を南北としては全く駄目だと思ふ。\n○荊公集句とは王荊公唐百家詩選のことか。\n\n (二十八)\n\n\n 今人杜詩を解する、但だ出処を尋ね、少陵の意初めより是の如くならざるを知らず。且つ岳陽楼の詩の如き、昔聞洞庭水、今上岳陽楼、呉楚東南坼、乾坤日夜浮、親朋無一字、老病有孤舟、戎馬関山北、憑軒涕泗流、此れ豈に出処を以て求む可けんや。縦ひ字字出処を尋ね得しむるも、少陵の意を去る益〻遠し。蓋し後人元と杜詩の古今に妙絶なる所以のもの何処に在るやを知らず、但だ一字も亦た出処あるを以て工と為すも、西崑酬倡集中の詩の如き、何ぞ曾て一字の出処なき者あらん、便ち以て少陵に追配せんとする、可ならんや。且つ今人の作詩、亦た未だ嘗て出処なきはあらざるも、渠自ら知らざるのみ、若し之が箋注を為さば、亦た字字出処あらん、但だ其の悪詩なるを妨げざるのみ。(老学庵筆記、巻七)\n\n\n (二十九)\n\n\n 老杜の薛三郎中に寄す詩に云ふ、上馬不用扶、毎扶必怒瞋と。東坡の喬仝を送る詩に云ふ、上山如飛瞋人扶と。皆な老人を言ふ也。蓋し老人は老を諱むが故のみ。若し少壮なる者ならば、扶けらるるも扶けられざるも与に可、何の瞋ることか有らん。(老学庵筆記、巻八)\n\n\n (三十)\n\n\n 欧陽公、梅宛陵、王文恭の集、皆な小桃の詩あり。欧詩に云ふ、雪裏花開人未知、摘来相顧共驚疑、便須索酒花前酔、初見今年第一枝と。初め但だ桃花に一種早く開ける者あるのみと謂へり。成都に遊ぶに及んで、始めて所謂小桃なる者は、上元前後即ち花を著け、状は垂糸の海棠の如くなるを識る。曾子固の雑識に云ふ、正月二十開、天章閣賞小桃と。正に此を謂ふなり。(老学庵筆記、巻四)\n\n\n○上元は旧暦正月十五日。即ち小桃と云ふのは、百花に先だちて正月匆々に咲く海棠に似た花なのである。東坡の陳述古に答ふと題する詩に\n\n小桃破萼未勝春、 羅綺叢中第一人\n聞道使君歸去後、 舞衫歌扇總成塵\n\nといふのがあるが、放翁の説明によつて起承二句の意味がよく分かる。ところで続国訳漢文大成の蘇東坡詩集を見ると、岩垂憲徳氏は、之に対して次のやうな講釈を加へて居られる。「春風が柳を吹いて、緑は糸の如く、晴れた日は、紅を蒸して小桃を出すと云ふが、小桃が紅萼を発いたので、却て春に勝へられない風情がある。そして綾錦羅綺の中に、解語の第一人がある」。凡そ此の種の講釈本をたよりに、漢詩を味ふことの如何に難きかは、之によつて愈〻悟るべきである。"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"content": " 何故に道庵が生活に空虚を感じ、人生の悲観に落ちかかっているかといえば、その内容は複雑怪奇で、一概には言えないけれども、連合いを亡くしたということも、その有力な原因の一つには相違ないのです。\n 連合いといっても、俗に枕添のことではない。吾人は道庵先生に親炙すること多年、まだ先生に糟糠の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。連合いということは、この場合に於ては、同行者の意味に過ぎないのであって、彼はこの木曾道中の長い間、ドンキホーテ氏のサンチョー氏に於けるが如く、栃面屋氏の北八氏に於けるが如く、影の形に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。あの男を胆吹山へ取られてしまっているが、その後の死生のほどもわからない。米友公を捨て、悍馬の女将軍女軽業興行師のパリパリに乗替えたが、こいつが意外に道草を食いはじめて、自分よりは藤原の伊太夫なにがしという財閥へ附きっきりで、てんで道庵の方などへは見向きもしない今日この頃の形勢である。道庵先生としては、それをひがんでいるわけではない。誰にしても、十八文の貧乏医者を取持つよりは、当時きっての分限の御機嫌を取ることの有利なるに走るのは人情だから、いまさら道庵が、そんなことにひがみを起しているほどの野暮ではないはずだから、特にそれを悲観しているとも思われません。\n 道庵先生が、生活の空虚を感じて、人生を悲観している最大なる理由としては、現在の自分が、徒手遊食の徒に堕しきっているという点にあるらしいのです。前途の旅を急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きもならずしているうちに、本来そうあり余るという身代ではないから、懐中が少しずつ寒くなる。懐ろが寒くなると同時に心細くなる。その経済上の理由も一つはあるのです。しかし、その辺は、まかり間違えば金策の大家なるお角さんが附いており、お角さんの背後には、一大財閥が控えているのだから、ずいぶん心丈夫であってしかるべきだが、そこは痩せても枯れても道庵である、財閥にすがるというような卑劣心が兆してはならない。御粗末ながら自分の旅は、自分の財布でまかなうよと、意地を張っている。その意地が怪しくなった時は、すなわち心弱くなった時で、これでは旨い酒も飲めねえが、なんどと感じて来た時に、いささか悲観するかも知れないが、そんなことは今に始まったことではない。いまさら物質的の貧乏を以て生活の空虚なりと、この先生が考えるわけがない。何となれば、貧乏が即ち道庵、道庵が即ち貧乏と、それを一枚看板に今日まで生きて来た先生ですもの。\n 江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の自分は、徒手遊食の民である、人生に貢献する何事もしていないで、そうして人生から食物を貪っている。食だけではない、酒まで貪って飲んでいる。これでいいだろうかと深刻(?)に自省を発し出したことが、この先生の生活の空虚を感じ出した最大の理由なのです。\n 長者町の本業を、高弟の道六に引渡して、身軽に旅に出て今日まで来たのはいいが、旅そのものを味わっていれば、日々の心がおのずから緊張もするが、こんなふうにして、進みもならず、退きもならず遊食していることは、この先生の良心に於て甚だやましいものがあるのです。日頃の主義主張としても、一日作さざれば一日食せずという気概の下に働いて来たこの先生が、このごろでは一日中、何も作さずに、のんべんだらりと、食ったり飲んだりしている日が多い。こんなはずではなかったのだ。\n そこで道庵先生は、こう毎日、のんべんだらりとして宿屋の飯を食っていることに生活の空虚を感じ、これでは天道様に対して相済まないと自省してから、こういう無意識空虚な生活から一日も早く脱却向上しなければならぬと義憤を発したのです。\n しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるのです。\n というのは、道庵先生には敵が多いということがその理由の一つなのです。丁馬、安直、デモ倉、プロ亀、どぶ川、金茶、大根おろし、かき下ろし、よた頓、それらの輩は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの誤り)弥次郎兵衛、喜多八でさえも荒胆をひしがれたので、この一派は江戸者に対して常に一種の敵愾心を蓄えている。一くせある江戸者が来たと聞くと、早速奇正の術を弄してそのドテっ腹をえぐり、これに一泡吹かせて快なりとする悪い癖がある。その一味が、道庵来れりという内報を早くも受取って、用意おさおさ怠りがないらしいから、うっかり乗込もうものなら、忽ちわなにかかって、十八文の金看板に泥を塗られるにきまっている。\n それからまた大阪には、緒方洪庵塾などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵西上ということを伝え聞いて、手ぐすね引いている。この派の者共は、河太郎式の草双紙本と違って、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なるものが、こんど京大阪へ乗込んで来るそうだ。来たら袋叩き――と待ちかまえているという風聞が、かねて道庵の耳に伝わっている。\n その中へ一人では乗込めない――内心を聞くと、道庵も鼻っぱりに似合わず弱気なもので、そういう理由から危うきに近よるには、近よるようにして近寄らなければならないのだが、用心棒としての精悍無比なグロテスクは行方不明だし――女流興行師の大御所は、財閥に胡麻をすることに急にして、自分の方はかまってくれない、頼む味方というものがない――それを心細がっている道庵は、我を折って、お角さんの用のすむのを待ちわびて、これが同行を離れまいとしているところは、女にすがる意気地なしの骨頂のようでもあり、道庵の風上へも置けない醜態のようでもあるが、実のところは、あのたんかの切れる江戸前の鉄火者を陣頭へ押っ立て、自分は蔭にいて、ちびりちびりとやりながら、女弟子でさえあの通り――うっかり親分にさわるまいぞ、という威力を見せて鴨振しようというズルい考えがあるのです。つまり、面倒臭いことはお角にぽんぽんとやらせて、ごまかしてしまい、自分は隠れて一杯もよけいに飲みたいという腹なのですからズルいです。しかし、また一方、お角さんの方から言うと、自分もこれから京大阪の本場へ乗込むについて、この先生から離れたくない、この先生を手放したくない、という浅からぬ底意もあるのです。\n というのは、お角さんは、啖呵は切れて、鼻っぱしの強いことは無類であって、この点では贅六人種などに引けを取る女ではないが、悲しいことには字学の方がいけない。熱田神宮の門前の茶屋でも、小娘に向って、「姉さん、ここの神様は何の御信心に利くの」とたずねてテレてしまったことがある。ある時の如きは、皆々がよってたかって、舶来物が出来がよくて、和製はいけない、いけない、なんどとケナすのを聞いて、ムカッ腹を立て、「どうして、日本じゃ舶来が出来ないものかねえ」と口走って、一座の顔の色を変らせたことなんぞもある。そういう時に、お角さんの威勢に怖れて、明らかには笑ったり、そしったりしないけれども、この気色を見て取って、お角さん自身が、こいつは少し恥を掻いたかなと、なおやきもきする。人の掛合いや兼合いでは、京大阪へ出ようと、唐天竺へ出ようと、引けは取らないお角さんだが、字学の方にかけると、気が引けてどうにもならない。そこのところを埋合わせるには究竟な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学の出来ることは底が知れない。こういう先生を後楯に控えて行けば、ドコへ行こうと鬼に金棒だという観念がお角さんにはあるので、つまり、インテリ用心棒としての道庵先生を手放したくないのです。\n おたがいに、そこのところを利用し合って、うまく立廻ろうというズルい了見なのだが、それは双方とも甲羅を経ているから、勝負に優り劣りはありますまい。\n そういうわけで、道庵先生は、ここはどうしても、女親方の方の埒があくまで待つことを以て策の得たるものとする。それも、そう永い時日を要せずして埒があくに相違ないと思っているが、たとえ二日三日の間にしてからが、何か仕事をしたい、何か利用厚生の仕事にたずさわらなければ、自分の生存が徒手遊食ということになり、なおむつかしく言えば、尸位素餐ということになる。徒手遊食だの、尸位素餐だのということは本来、貴族社会のすることで、道庵の極力排斥し来ったことであるから、たとえ二日でも三日でも、その生活をやっているということは、多年の敵の軍門に降るようなものである。何か仕事をしなくちゃあならねえ、何か稼ぎをして飯を食わなくっちゃあ天道様に申しわけがない、と言って退屈して、生活の空虚を感じているところへ、話があったのは、\n「どうです、先生、旅籠生活も御退屈でございましょうし、太夫元さんの方も、ここのところ、乗りかかった船で、なお二三日は引くに引けないんだそうでございますから、どうか、もうあと二三日の御辛抱が願いたいのです、何でしたら、この上の小町塚の閑静な庵に、ついこの間まで女のお方が御逗留でいらっしゃいましたが、そのお方が大谷風呂の方におうつりになって空きましたそうで、関寺小町の跡でございまして閑静でもございますし、ながめが至極よろしうございます、それに、便もまたよろしうございまして、お酒の通いなども、ちょこちょことございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら......」\n 伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、\n「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」\n「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」\n「実は、こうしている間に、そこで本草の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」\n「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから......酒の通いもちょこちょこ」\n「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこというやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者でうれしいよ」\n「あ、は、は、はっ、はっ」\n そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居――小町塚の庵なのでありました。\n"
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"content": " 三十五\n\n 道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木筮竹も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取外されて、別に何か墨蹟がつっかかって、その下には、松が一枝活けてあるばっかり。\n 床の間へ摺り寄って見た道庵先生は、このかけ替えられた軸物を、皮肉らしい面をしてつくづくと見つめると、\n\n鼠入銭筩伎已窮\n\nと、いけぞんざいに書きなぐってある。その下の落款を見ると、「一休純」と読める。そこで道庵先生が、\n「一休め、皮肉な文句を書きやがったな」\nと一謔を発しただけで座につきました。座につくと、座蒲団も、机も、煙草盆も、普通一通りのものが備わっていて、お銀様の時のとは品は変るが、万端抜かりないことは同じで、ただ坐り込んで召使を呼びさえすれば事が足るように出来ている。\n そこで、一ぷくしてから、先生が御自慢の本草学にとりかかりました。\n つまり、宿からここへ送らせた旅嚢を、すっかり座敷へブチまけて、植物と押葉の分類をはじめたのです。それをはじめ出すと熱心なもので、さすがに心がけある先生だけに、つとめるところは、きっとつとめる。或るものはそれを改めて押葉とし、すでに押しのきいたものは取り出して台紙にはる。旅中では扱い兼ねる代物は写生にとって、図解と註釈とを記入する。牧野富太郎はだしの熱心を以て、道中、ことに胆吹の薬草の整理に取りかかっているのであります。\n こういうことをさせて置けば、生活の空虚なんぞは決して寄せつけない。仕事に対する興味そのものもあるが、それが道庵先生の主義主張に合して、利用厚生の道に叶うと信ずればこそなのであります。すなわち、薬草を整理することは、本業の医学に忠実なる所以であって、医学こそは自分の生存の使命である。直接には病人の脈こそ取らないが、この薬草を整理することに於て、間接には救世済民の業にたずさわっているのである、徒手遊食しているのではない、尸位素餐に生を貪っているのではないという自信を道庵先生に持たせることが、つまり、その生活を空虚から救って充実せしめる所以でありました。\n「こうして、一日作している以上は、一日食う権利があるんだぜ、大口をあいて、この世の穀を食いつぶしても恥かしくねえ」\nと力みました。\n 実際、人は一心になると怖ろしいもので、道庵先生に於てすら、今日は朝の迎え酒だけで、それからはわきめもふらず本草学に熱中している。昼になっても、夕方になっても、飯の一つも食おうということを言わないし、酒の通いのちょこちょこなどはおくびにも出ないで、一心不乱になっている。この体を見ると真に寝食を忘れている。まず、この分なら安心である。この人が生活の空虚を感じて、人生の悲観に暮れるということになったら、もう天下はおしまいです。\n かくして一日が暮れる。一日作した後の、一日の充実せる疲労を以て、ぐっすりとこの庵室に快眠を貪ることによって、天下泰平の兆があります。\n 無論、その夜の夢に、小町も出て来なければ、お豊真三郎も出て来ない。第一、出て来る方でも、道庵先生のところへ出て来たって、出て来栄えがしない、張合いがないと思って、それで出て来ないのです。翌朝、眼がさめると、おきまりの迎え酒一献、それからまた側目もふらず昨日のつづき、本草学の研究に一心不乱なる道庵先生を見出しました。\n\n 三十六\n\n その翌日も、異常な興味を以て本草学の研究と整理に熱中していた道庵先生が、お正午頃になると、急に大きなあくびとのびを一緒にして、カラリと筆を投げ捨てるが早いか、座右の一瓢を取り上げて、そそくさと下駄をつっかけてしまいました。どこへ行くかと見ると、早くも長安寺の石段をカタリカタリと上りつめて、それから尾蔵寺の方へ抜ける細い山道を、松の根方をわけながら、ゆらりゆらりと登って行くのです。\n ほどなく山腹の平らなところへ出て見ると、ここに、一風変った十三重の塔みたようなのがある。高さ一丈ばかり、とても十三重はないけれども、その塔の様式が少し変っているものですから、道庵先生は立ちよって、ためつ、すがめつ、石ぶりをながめていましたが、石刻の文字が磨滅してよく読み抜けないでいました。"
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"content": " そういう話ばかりが多い。\n 中には、\n「もう内地では、うまい儲けはありっこない。呂宋助左衛門とか、茶屋助次郎といった人のように、乗るか反るかで海の外へ出かけなければ」\n と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、\n「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と革を鎧って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ」\n「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」\n「かぎりますとも、気ままでね」\n「頭さえ下げていればすみますからな。――その鬱憤はいくらでもまた、金のほうで埋め合せがつくし」\n「ぞんぶんこの世を楽しむにかぎりまさあね」\n「何のために生れて来たんだ――といってあげたいのがいますからね」\n 商人でもこの辺は、中以上のところとみえる。舶載の毛氈をひろく敷きこんで、一階級を示しているのだ。\n のぞいてみると、なるほど、桃山の豪奢は今、太閤が亡き後は、武家になくて、町人の中へ移っているかと思われる。酒器のぜいたくさ、旅具旅装の絢爛なること、持物の凝っていること、ケチな一商人でも、侍の千石取などは及びもない。\n「ちと、飽きましたな」\n「退屈しのぎに、始めましょうか」\n「やりましょう。そこの幕をひとつ懸け廻して」\n と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、妾や手代に酒をつがせて、南蛮船が近ごろ日本へ齎した「うんすん骨牌」というものを始める。\n そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の飢餓が救われるであろうほどの物を、まるで、冗戯みたいに、遣り取りしていた。\n こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、\n(いったいなんのために生きているんだ)\n と借問される部類のほうで、みんな荷梱の蔭に、ぽつねんと味気ない顔して、冬の海をながめているのだった。\n\n二\n\n それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が交じっていた。\n「これ、じっとしておれ」\n 荷梱に倚り懸って、冬日の海に向いながら、膝の上に何やら丸っこい毛だらけな物を抱いている。\n「ホ。可愛い小猿を」\n と、そばの者がさしのぞいて、\n「よく馴れてござるの」\n「は」\n「永くお飼いになっているのであろうな」\n「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」\n「捕まえられたのか」\n「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」\n 話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。小猿を膝の間に挟んで、蚤を見つけているのだった。\n 前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纒っているので、少年とは見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼に当てはまるかどうか、保証のかぎりでない。\n 煙管にまで、太閤張というのが出来て、一頃は流行ったように、こういう派手派手しい風俗も、桃山全盛の遺風であって、二十歳をこえても元服をせず、二十五、六を過ぎても、まだ童子髪を結って金糸をかけ、さながらまだ清童であるかのような見栄を持つ習いが、いまに至ってもかなり遺っているからである。\n だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる丹唇明眸であるが、眉毛が濃くて、眉端は眼じりから開いて上へ刎ねている。なかなかきつい顔なのだ。\n けれどまた――\n「これ、なぜうごく」\n と、小猿の頭を打って、猿の蚤とりに他念のない様子などは、なかなかあどけなくもある。何もそう年齢の詮索ばかり気にやむこともないが、あれこれ綜合してその中庸をとって推定すれば、まず十九か、二十歳というところでなかろうかと思われる。\n さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、革足袋にわらじ穿きだし、どこといって抑えどころもないが、歴乎とした藩臣でなく、牢人の境界であることは、こういう船旅において、ほかの山伏だの傀儡師だの、乞食のようなボロ侍だの、垢くさい庶民の中に交じって、気軽にごろごろしている態をみても、およそ想像はつく。\n だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。それは、緋羽織の背なかへ、革紐で斜めに負っている陣刀づくりの大太刀である。反りがなくて、竿のように長い。\n ものが大きいし、拵えが見事なので、その少年のそばへ寄った者は、すぐ少年の肩ごしに柄の聳えているその刀に目がつくのだった。\n「――いい刀を持っている」\n そこから少し離れたところから、祇園藤次も、さっきから見恍れていた一人であった。\n「京洛でもちょっと見ない」\n と思う。\n 刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。\n 祇園藤次は、機があったら、その美少年へ、話しかけてみたいと思っていた。\n ――冬の昼靄にうすずいて、よく陽のあたっている島の淡路は、艫のかなたに、だんだん遠くなってゆく。\n はたはたと、大きな百反帆は、生きもののように、船客たちの頭の上で潮鳴りを切って鳴っていた。\n\n三\n\n 藤次は旅に倦んでいた。\n なま欠伸が出る――\n 飽きのきた旅ほど他人の世界を感じるものはない。祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。\n「――飛脚が間にあったかしらて? ......間にあえば、大坂の船着場まで、迎えに来ているにちがいないが」\n と、お甲の顔を思い浮かべて、せめてもの無聊をなぐさめてみる。\n さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、放縦な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた。四条の道場まで、抵当に入っているので、この年暮には、町人の手へ取られるかも知れないという内ふところ。\n 年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち退いても、なお、足らないくらいな実情に堕ち入っていた。\n(どうしたものか)\n という清十郎の相談である。この若先生をおだてて、さんざん費わせた責任の一半は藤次にもあるので、\n(おまかせなさい、うまく整理をつけてお目にかけましょう)\n 狡智をしぼって、彼の案出したのが、西洞院の西の空地へ、吉岡流兵法の振武閣というものを建築するという案で――社会の実態を鑑みるに、いよいよ武術は旺になり、諸侯は武術家を要望している。この際、多くの後進を養成するために、従来の道場をさらに拡大して、流祖の遺業をして、もっと天下にあまねからしめなければならぬ――それはまた、われわれ遺弟の当然なさなければならない義務でもある。\n そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを携えて、中国、九州、四国などに散在している吉岡拳法門下の出身者を、歴訪して来たのである。もちろん振武閣建築の寄附金を勧進するために。\n 先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。\n けれど、そういう勧説を持って行っても、藤次が予算していたように、おいそれと寄進帳へ筆をつけてくれるのはすくない。\n(いずれ書面をもって)\n とか、\n(いずれ、上洛の折に)\n とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。\n だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと多寡をくくって、先刻から、師の清十郎の顔より、久しく会わないお甲の顔のほうを、努めて、想像にのぼせていたが、それにも限度があるので、また、生欠伸に襲われて、退屈なからだを、船のうえに持てあましていた。\n うらやましいのは、先刻から小猿の蚤をとっている美少年だった。いい退屈しのぎを持っている。藤次は、そばへ寄って、とうとう話しかけ出した。\n「若衆。――大坂表までお渡りか」\n 小猿の頭を抑えながら、美少年は大きな眼をじろりと彼の顔へあげた。\n「はあ、大坂へ行きます」\n「ご家族は大坂にお住まいかの」"
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"role": "assistant",
"content": "「いえ、べつに」\n「では阿波のご住人か」\n「そうでもありません」\n 膠のない若衆である。そういってまた他念なく、小猿の毛を指で掻き分けているのであった。\n\n四\n\n ちょっと話のつぎ穂がない。\n 藤次は、黙ったが、また、\n「よいお刀だな」\n と、こんどは彼の背にある大太刀を賞めた。すると美少年は、\n「はあ、家に伝来のもので」\n 急に藤次のほうへ膝を向け、賞められたのを欣しそうに、\n「これは陣太刀に出来ていますから、大坂の良い刀師へあずけ、差し料に拵えを直そうと思っているのです」\n「差し料には、ちと長すぎるようだが」\n「されば、三尺です」\n「長剣だな」\n「これくらいなものが差せなければ――」\n 自信がある――というように美少年は笑靨をうごかす。\n「それは差せないことはない――三尺が四尺でも。――けれども実際に用うる場合、これが自由にあつかえたら偉いが」\n と、藤次は、美少年の衒気をたしなめるようにいう。\n「大太刀を、かんぬきに横たえて、りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。――失礼だが、貴公は、何流を学ばれたか」\n 剣術のことになると、自然、藤次はこの乳臭児を見下げずにいられなかった。\n 美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、\n「富田流を」\n と、いった。\n「富田流なら、小太刀のはずだが」\n「小太刀です。――けれども何、富田流を学んだから小太刀をつかわなければならないという法はありません。私は、人真似がきらいです。そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」\n「若いうちは、えて、そういう叛骨を誇りたがるものだ。そして」\n「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を創てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました」\n「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」\n「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。――で私も、何とかして、印可をうけたいものと、臥薪嘗胆の苦行をしのんでいるうち、故郷もとの母が死去したので、功を半ばに帰国しました」\n「お国は」\n「周防岩国の産です。――で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。――母が亡くなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれましたこの長光の刀をもって」\n「ほ、長光か」\n「銘はありませんが、そういい伝えています。国許では、知られている刀で、物干竿という名があるくらいです」\n 無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。\n そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。\n\n五\n\n ちょっと、言葉をきって、美少年はその眸に、雲のかげを映し、何か感慨に耽っていたが、\n「――けれどその鐘巻先生も、昨年、大寿を全うして、ご病死なされてしまった」\n 呟くようにいい、\n「私は、周防にあって、同門の草薙天鬼から、その報らせをうけた時、師恩に感泣しました――師の病床についていた草薙天鬼、それは私よりもずっと先輩だし、また、師の自斎とは叔父甥の血縁でもあるのですが、その者には、印可を与えずに、遠く離れている私を思ってくれて、生前に、印可目録を書き遺して、一目会って、手ずから私に与えたいと申されたそうであります」\n 眸がうるんで来て、今にも涙のこぼれそうな眼になる。\n 祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。\n だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、\n「ふム、なるほど」\n 熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、鬱懐をもらすように、\n「その時、すぐ行けばよかったのです。けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。折わるく、私の母も、その前後に歿したので、遂に、師の死に目に会えませんでした」\n ――船がすこし揺れだした。冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、舷に飛沫が寒く立つ。\n 美少年はなお話をやめない。多感な語気をもって語る。――それから先のことを綜合すると、彼の境遇は今、故郷の周防の家屋敷をたたみ、師の甥でもあり同門の友でもある草薙天鬼という者と、どこかで落ち合おうというために、この旅行をつづけているものと見られる。\n「師の自斎には、何の身寄りもありません。で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を遺してゆかれました。天鬼は、私のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の彼岸の中日には、上州と周防とのちょうど中ほどの道程にあたる三河の鳳来寺山へ、双方からのぼって、対面しようという約束を書面で交わしてあります。そこで私は天鬼から師のおかたみを受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを悠々と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです」\n ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、\n「あなたは、大坂ですか」\n「いや京都」\n それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、\n「すると其許はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気か」\n 藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今もうんざりしたようにいう。この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、小賢しく聞えてならない。\n そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに殖えてたまるものか。第一自分などさえ、吉岡門に二十年近くもいて、やっとこれくらいなところであるのに――と身にひきくらべ、\n(こんなのが、将来に皆、どういう飯を食ってゆくのか)\n と、思うのだった。\n 膝をかかえて、灰色の海をじっと見ていたと思うと、美少年はまた、\n「――京都?」\n と、つぶやいて、藤次のほうへ眸を向け直した。\n「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」\n\n六\n\n よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。気に食わない前髪めがと藤次は小癪に思う。\n けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。\n 退屈しのぎが昂じて、ひとつ揶揄ってやろうと、藤次はそこで、\n「――されば、四条の吉岡道場も、相かわらず盛大にやっておるらしいが、其許は、あの道場を訪れてみたことがあるか」\n「京都へのぼったら、ぜひ一度はどの程度か、吉岡清十郎と立合ってみたいと存じていますが、まだ訪ねてみたことはありません」\n「ふッ......」\n 笑いたくなった。藤次は顔を歪めた後から、軽蔑をみなぎらして、\n「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」\n「なんの!」\n 美少年は突っ返すようにいった。――その言葉こそおかしけれ――とばかり笑い出すのだった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n 土蔵破りで江戸中を騒がし長い草鞋を穿いていた卍の富五郎という荒事の稼人、相州鎌倉は扇が谷在の刀鍛冶不動坊祐貞方へ押し入って召捕られ、伝馬町へ差立てということになったのが、それが鶴見の夜泊りで獄口を蹴って軍鶏籠抜けという早業を見せ、宿役人の三人も殺めた後、どうやらまたぞろお膝下へ舞い戻ったらしいとの噂とりどり。\n その風評がいよいよ事実となって現れ、八百八町に散らばる御用の者が縁に潜り屋根を剥がさんばかりの探索を始めてからまる一月、天を翔けるか地に這うか、たしかに江戸の水を使っているとの目安以外、富五郎の所在はそれこそ天狗の巣のように皆目当が立たなかった。\n 人心噪然としてたださえ物議の多い世の様、あらぬ流言蜚語を逞うする者の尾に随いて脅迫押込家尻切が市井を横行する今日このごろ、卍の富五郎の突留めにはいっそうの力を致すようにと、八丁堀合点長屋へも吟味与力後藤達馬から特に差状が廻っていた、それかあらぬか、ここしばらくは、釘抜藤吉も角の海老床の足すら抜いて、勘次彦兵衛の二人を放ち刻々拾ってくるその聞込みを台に一つの推量をつけようと、例になく焦る日が続いていたが――。\n 夕陽を避けて壁際に大の字形に仰臥した藤吉、傍に畏る葬式彦と緒に、いささか出鼻を挫かれた心持ちで、に組の頭常吉の言葉に先刻から耳を傾けている。\n 家路を急ぐ鳥追いの破れ三味線、早い夕餉の支度でもあろうか、くさや焼く香がどこからともなく漂っていた。\n 三川島の浄正寺門前、田圃の中の俗に言う竹屋敷に卍の富五郎が女房と一緒に潜んでいることを嗅ぎ出したのが浅草馬道の目明し影法師の三吉、昨夜子の刻から丑へかけて、足拵えも厳重に同勢七人、鬨を作って踏み込んだまではいいが、奥の一間に、富五郎の屍骸に折り重なってよよとばかりに哭き崩れる女房を見出しては、さすがに気の立った三吉一味もこのところ尠からず拍子抜けの体だったという。\n 実もって容易ならぬ常吉の又聞き話。三吉が捕方に向う六時も前、午過ぎの九つ半に、富五郎は卒中ですでに鬼籍に入っていたのだとのこと。その十畳には死人の首途が早や万端調って、三吉が御用の声もろとも襖を蹴倒した時には、線香の煙りが縷々として流れるなかに、女房一人が身も世もなく涙に咽んでいるばかり、肝心の富五郎は氷のように冷く石のように固くなって、北を枕に息を引き取った後だった。\n 捕吏の中には三吉始め富五郎の顔を見知った者も多かったから、紛れもなくお探ね者の卍の遺骸とは皆が一眼で看て取ったものの、残念ながら天命とあっては致し方がない。いろいろと身体を調べたがたしかに死んでいる。いくら生前が兇状持ちでも仏を罪するわけには行かない。それに夜明けにも間がないので、富五郎の屍体はひとまずそのまま女房へ預けておき、朝、係役人を案内して表向き首実検に供えた後、今日の内にも小塚原あたりに打捨になり、江戸お構いの女房の拾いでも遅くも夕方までには隠亡小屋の煙りになろうという手筈――だったのが、それがどうだ!\n「ささ、ここだて親分。」常吉は一人ではしゃいで、「これで鳧がつきゃあ、三尺高え木の空がお繩知らずに眼え瞑ったんだからお天道様あねえも同然。ところがそれ、古いやつだがよくしたもんで、そうは問屋じゃ卸さねえ。」\n 今朝、旦那衆の伴をして改めて富五郎の死顔を見届けに出向いた影法師三吉は、昨夜の家が藻脱けの空、がらんどう、入れておいた早桶ぐるみ死人も女房も影を消しているのに、二度びっくり蒸返しを味わった。住人は素より何一つ遺っていず、綺麗に掃除してあったとのこと。\n「仏を背負って風食ったのか。」\n 藤吉はむっくり起き上った。\n「へえ、死んでもお上にゃあ渡さねえてんで。」\n「なるほどな、ありそうなこった。」\n つくねんと腕組した藤吉、\n「だがしかし家財道具まで引っ浚えてのどろんたあ――?」\n「ちと腑に落ちやせんね。」彦兵衛が引き取る。「なんぼ朱総が嫌えだっていわば蝉の脱殻だ、そいつを担いで突っ走るがものもあるめえに。」\n「のう常さん。」藤吉はにやりと笑って、「死んだと見せて実のところ、なんて寸法じゃあるめえのう、え、おう?」\n が、相応巧者な三吉が腕利きの乾児を励まして裏返したり小突いたり、長いこと心の臓に耳を当てたりしたあげく、とど遺骸と見極めたのだから、よもやそこらに抜かりはあるまい、常吉はこう言い張った。\n「姐御ってのが食わせ物さね。しかし親分、いい女だったってますぜ。」と見て来たように、「お前さんの前だが、沈魚落雁閉月羞花、へっへ、卍って野郎も考えて見りゃあ悪党冥利の果報者――ほい、えらく油あ売りやした。」\n しゃべるだけしゃべってしまうと、何ぞ用事でも思い出したか、ぴょこりと一つおじぎをしてに組はさっさと座を立った。\n 後に残った藤吉、彦兵衛と顔が会うと苦り切って呟いた。\n「死っても世話の焼ける畜生だのう。」\n 何か彦兵衛が言おうとする時、紅葉湯へ行っていた勘弁勘次が、常吉と入れ違いに濡手拭を提げてはいって来た。\n「親分え。」\n と立ったままで、\n「変なことがありやすぜ。」\n「何だ?」\n「今日は十一日でがしょう。」\n「うん。」\n「明日は王子の槍祭。」\n「それがどうした?」\n「あっしの友達に小太郎ってえ小物師がいてね――。」\n「まあさ、据われよ、勘。」\n 勘次は坐った。すぐに続ける。\n「神田の伯母んとこでの相識だから親分も彦も知るめえが、今そこでその小太郎に遭ったんだ。」\n「なにも異なこたあねえじゃねえか。小物師だろとぼくだろと、二本脚がありゃあ出て歩かあな。」\n ちょっと膨れた勘次はあわてて説明にかかった。この先の五丁目次郎兵衛店に同じく小物渡世で与惣次という四二近い男鰥が住んでいて、たいして別懇でこそなけれ、藤吉も彦兵衛も勘次も朝夕顔を見れば天気の挨拶位は交す仲だった。\n 土地から蝋燭代を貰って景気を助けに出る棟梁株の縁日商人に五種あって、これを小物、三寸、転び、ぼく、引張とする。小物とは大傘を拡げかけてその下で駄菓子飴細工の類を売る者、三寸とは組立屋台を引いて来て帰りには畳んで行く者、転びとは大道へ蓙を敷いて商品を並べるもの、ぼくというのは植木屋、引張とあるは香具師のことである。与惣次はこの小物師であった。\n 今のさき、湯帰りの勘次がこの与惣次の家の前を通ると、神田の小太郎がしきりに雨戸を叩いている。立話しながら訊いてみると、明日の王子神社の槍祭を当て込み、今日の暮方に発足して夜通し徒歩ろうという約束があって、仲間同士のよしみから廻り道して誘いに寄ったという。見ると板戸は閉切ってあるものの内側から心張がかかっている様子がまんざら無人とは思われない。朝ならともかく午下りも老いたころ、ついぞないことなばかりか、用意洩れなく準えて待ち受けていべきはずの与惣次が――? 小太郎は首を捻って、勘次ともどもまた激しく戸を打ったが、何の応えもない。業を煮やした小太郎は舌打ちして行ってしまった。ただこれだけの事件ではあるが、いそうで開けないのを不審と白眼めば臭くもある。\n「ついそこだ、親分、ちょっと出張って検てやっておくんなせえ。あっしゃやに気になってね、どういうもんだかいても立ってもいられねえんだ。」\n「莫迦っ。」藤吉が呶鳴った。「寝込んででもいるべえさ。が、奴、待てよ。」と思い返したらしく、\n「どこでも叩きゃあちったあ埃りが立とうというもの。なにも胸晴しだ、勘の字、われも来るか。」\n 勘弁勘次と並んでぶらりと合点小路を立出でた釘抜藤吉、先日来の富五郎捜しで元乾児の影法師三吉に今度ばかりは先手を打たれたこと、おまけに途端場へ来て死人に足でも生えたかしてまたしても御用筋が思わぬどじを踏んだこと、これらが種となって、一脈の穏やかならぬものがその胸底を往来していたのも無理ではなかった。\n 稲荷の小橋を右手に見て先が幸い水谷町、その手前の八丁堀五丁目を河岸縁へ切れて次郎兵衛店、小物師与惣次の家の前に立つと、ちゃあんと格子が開いて人の居る気勢。藤吉が振り返ると勘次は眼をぱちくりさせて頭をかいた。\n 来たものだから念のため、\n「御免なせえ、与惣さん宅かえ?」\n「――――」\n「与惣さん。」\n「は、はい。」\n という籠った返事。藤吉は勘次を白眼む。"
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"role": "assistant",
"content": "「そら見ろ。」\n 勘次はまた頭をかいた。と、\n「どなたですい?」と家内から。\n「あっしだ、合点長屋だ。どうしたえ?」\n「へ? へえ。」\n「瘧か。」\n「へえ、いえ、その、なんです――。」\n「何だ。上るぜ。」\n「さ、ま、なにとぞ。」\n ずいと通った藤吉、見廻すまでもなく一間きりの部屋に、油染みた煎餅蒲団を被って与惣次が寝ている。\n「おうっ、この暑さになんだってそう潜ってるんだ?」\n 近寄って見下ろす枕もと、夜着の下からちらと覗いたは、これはまた青々とした坊主頭!\n「ややっ、与惣、丸めたな、お前。」\n 聞くより早く掻巻を蹴って起き上った小物師与惣次、床の上から乗り出して藤吉の膝を抱かんばかりに、\n「だ、旦那、聞いて下せえ!」\n「なななんだ、何だよう。」\n「聞いて下せえ。」\n と叫びざま、眼の色変えた与惣次は押えるような手付きをした。\n「落ち着け。何だ。」\n 戸外を背にして早口に話し出す与惣次、その前面に胡坐をかいた藤吉親分、暮れやらぬ表の色を眺めながら、上り框に腰掛けた勘弁勘次は、掌へ吹いた火玉を無心一心に転がしていた。\n\n 二\n\n 成田の祇園会を八日で切上げ九日を大手住の宿の親類方で遊び呆けた小物師の与惣次が、商売道具を振分にして掃部の宿へかかったのは昨十日そぼそぼ暮れ、丑紅のような夕焼けが見渡すかぎりの田の面に映えて、くっきりと黒い影を投げる往還筋の松の梢に、油蝉の音が白雨のようだった。\n 朝までには八丁堀へ帰り着き中一日骨を休め、十一日にはまた家を出て十二日の王子の槍祭になんとしても一儲けしなくてはと、与惣次はひたすら路を急いでいた。\n 河原を過ぎて大川、山王権現の森を左に望むころから、一人の若い女が後になり前になり自分を尾けているのに、与惣次は気が付いたのである。町家の新造のような、それでいて寺侍の内所のようなちょっと為体の知れない風俗だったが、どっちにしてもあまり裕福な生活の者とは踏めなかった。それが、さして気にも留めずに歩いていた与惣次も、中村町へはいろうとする月桂寺の前で背後から呼ぶ声に振り向いた時には、世にも稀なその女の美貌にまず驚いたのだった。\n 女は道に迷っていた。三川島へ出る道を中腰を屈めて訊く白い襟足、軽い浮気心も手伝ってか、与惣次はきさくに呑み込んで、\n「ようがす。送って進ぜやしょう。」\n とばかり、天王の生垣に沿うて金杉下町、真光寺の横から町屋村の方へ、彼は女を伴れて九十九折に曲って行った。\n 水田続きに寮まがいの控屋敷が多い。石川日向様は横に長くて、この一構が通りを距てて宗対馬守と大関信濃守の二棟に当る。出外れると加藤大蔵、それから先は畦のような一本路が観音浄正の二山へ走って、三川島村の空遠く道灌山の杉が夜の幕にこんもりと――。\n 野菊、夏菊、月見草、足にかかる早露を踏みしだいて、二人は黙って歩を拾った。\n こうして肩を並べて行くところ、落人めいた芝居気に与惣次はいい心持にしんみりしてしまったが、掃部へ用達しに行った帰途だとのほか、女は口を緘して語らなかった。内気らしいその横顔見れば見るほどぞっとするような美しさに、独身の与惣次、われにもなく身顫いを禁じ得なかった。\n 浄正寺門前へ出ていた。\n「三川島はこの裏でさあ。」\n 与惣次は女を返り見た。影も形もない。今の今までそこにいた女が、掻き消すように失くなったのである。\n「おや!」\n 何かを落しでもしたように、与惣次は足許を見廻した。が、ぶるっと一つ身体を振って、\n「狐か、悪戯をしやあがる。」\n ともと来た道へ取って返そうとした。その時、霧を通して見るようなほの赤い江戸の夜空に、大砲のように鳴り渡る遠雷の響を聞いたことだけを与惣次ははっきり記憶えている。\n 気を喪った与惣次の身柄は覆面の男と先刻の女の手に依って、竹藪深く一軒家の奥座敷へと運び込まれた。\n くどくどと述べる女の言葉で与惣次はわれに返った。古びた十畳の間に、汚れてはいるが本麻の夜具を着て寝ている。枕元の鉄網行燈の灯影にほかならないあの女、道案内の礼事やら、悪漢に襲われて倒れたところを折よく良人が来合せてこの家へ助け入れた仔細をくり返しくり返し語り続ける。その良人というのも出て来てなにくれと懇切に見てくれた。たしかにどこかで見たような顔、そんなような気がするだけで、どこの誰か、果して真個に会ったことのある仁か、与惣次はいっこう思い出せなかった。咽喉が痙攣って物を言おうにも口が開かなかった。口は開いても声をだす術を忘れ果てていた。身体は鉛のように重かった。手の指一本が、とても与惣次には動かせないほどだった。\n 今夜は泊ってゆっくり休んで行くようにと、男も女も口を揃えて言っているらしかったが、その声音がまるで水の底からでも聞こえて来るようだった。こう大儀じゃ夜道どころか寝返り一つ打てやしめえし、と与惣次は肚を据えた。まあ何家でもいいや、今晩はここに厄介になれ――。\n「儂はいささか薬事の心得があります。今、水薬を調じて上げるほどに、そいつを服してまずお気を鎮められい。よっく眠れることでござろう。」\n 主人は変な言葉遣いをした。どこかで見覚えのある顔、与惣次はしきりに考えたが、漸次にその力がなくなった。譬えば雪が解けるように、頭脳の働きが鈍くなってくるのである。それでも、主人の手が自分の口を割って冷茶のような水物を流し込んでくれたまでは、ぼんやりながら薄眼で見ていた。\n 与惣次は眠った。夏の夜の更け行くままに、昏々として彼は眠り続けた、底無しの泥沼へ沈むような、自力ではどうすることもできない熟睡であった。\n 暗黒の中にじいっとしているような心持だった。ときどき人声がした。枕頭を歩き廻る跫音も聞こえた。眼も少しは見えるようだった。と、そのうちに、泡が浮んで破れるように、与惣次はぽっかりと気がついた。\n 真夜中である。\n 油を吸う燈心の音、与惣次は首を廻らした。身の自由も今は幾らか返ったらしい。が、起き上ることはできなかった。枕から見渡す畳の上、羽虫の影が点々としている下に、倒屏風が立ててあるのが、第一に与惣次の眼に入った。寝ている敷物はいつしか荒筵に変っている。瞳を凝らしてなおも窺えば、枕に近い小机に樒が立ち、香を焚き、傍には守刀さえ置いてあり、すこし離れて、これは真新しい早桶、紙で作った六道銭形まで揃っている工合い。\n「こりゃあひょっとすると知らねえ中に俺あ死んだのかな。」\n 与惣次は思った。「それにしてもいやに手廻しが早えこったが――。」\n 唐紙が開いて女がはいって来た。与惣次を見て驚いている。手を上げて何かの合図。続いて主人が現れた。湯呑を持っている。そしていきなり、馬乗りに股がったかと思うと、手早く煎薬のような物を与惣次の口へ注ぎ込んだ。\n 氷である。\n 氷の山、氷の原、氷の谷、空々漠々たる氷の野を、与惣次は目的てなく漂泊い出した。時として多勢の人声がした。荒々しい物音もした。簀巻きのように転がされている感じがした。穴へはいるような感じもした。ただそれだけだった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " もう少し近い空を飛んでいたなら、口笛を吹いてでも呼びとめてみようものを、あの高さでは、自分の魅力も及ばないものと思いあきらめたらしく、\n「アルバトロスに違いない」\n うらめしそうに、夕暮の空に消えて行く大きな鳥の、白い翼を見送っています。\n その見慣れない鳥を、アルバトロスというような名で呼びかけた茂太郎の知識は、駒井甚三郎から出たのではあるまい。多分、例のマドロスが、折に触れては航海話をして聞かせているうち、幾度かその名が出るものだから、海の上を飛ぶ大きな鳥さえ見れば、この子はこのごろ、アルバトロスと呼んでみたくなるのらしい。\n 事実上、海洋と、孤島とを棲処として、群棲を常とする信天翁が今時分ひとりで、こんなところをうろついているというのも変ですから、或いはオホツク海あたりから来た大鷲が、浦賀海峡を股にかけて、天城山へでも羽をのばしたかも知れません。\n 見ているうちに、その姿も消えてしまいました。\n そこで、茂太郎は、急に手持無沙汰の感じで、さいぜんの続きであろうところのたわごとをうたい出しました、\n「諸君、フムベールはイカサマですぞ。かれは権力を得ることができなかったために、民衆に結ぼうとしました。その民衆も生え抜きの民衆ではなく、民衆の中の泡です、民衆を代表すると名乗って、実は民衆のカス、民衆の屑、民衆のあぶれ者の、浅薄なる寄集りを民衆と称して、それに近寄って御機嫌を取ったために、最も浅薄な、そのくせイヤに性質の悪い勢力を作ってしまいました。今でも、あのゴマカシ者を、不世出の偉人かの如く信ずる者があるから、滑稽ではありませんか」\n 茂太郎とても、興に乗じてはあえて弁信に譲らない饒舌を弄することがある。\n しかしながら、いくら長く喋っても、弁信のは条理整然として、引証的確なるものがあるが、茂公のは無茶苦茶です。論より証拠、引きつづいての前記の文句を突然うたい出されて、面食わないものがありますか。\n だが、こうして、聞く人もないところの空気を、茂太郎がしきりにかき廻しているのを、不意に惑乱せしめた動物があるのも皮肉じゃありませんか。\n 一時、びっくりした茂太郎が、見るとそれはホルスタイン種と覚しい仔牛が一頭、なれなれしくやって来て、その首を茂太郎にこすりつけているのでありました。\n「やあ、牛――お前、いつのまに来ていたの」\n 茂太郎は一時びっくりしてみただけで、その後はあえて驚きません。尋常ならば、たとえ牛であっても、こんな際に、房総第一の高山の上で、人っ子ひとりいないと信じていたところへ、不意にのっそりと現われて、体をこすりつけられるようなことをされては、大抵の子供は驚愕のあまり、悲鳴を上げて逃げ出すのがあたりまえですけれども、茂太郎は驚きません。\n こすりつける牛の首筋を、可愛がって撫でてやりました。\n そうすると、今までは多少遠慮の気味でこすりつけていた牛が、もう公けに許された気になって、全身をあげて、茂太郎にこすりついて来たその懐っこさといったらありません。\n 物と物との間には、どうしても、身も魂も入れ上げて好きになれるものもあれば、虫唾の走るほど嫌われながら、それでもついて廻らねばならぬ運命もある。\n 清澄の茂太郎が、物に好かれる性質を、先天的に、極めて多量に持ち合わせて生れたことは申すまでもありません。ただそれを多量に持ち過ぎていることが、彼を苦しめたこと幾度か知れません。\n 都会にあって、見世物に出されて、人気を占めていた時は、多くの婦人が、貴婦人といわるべきものまでが、彼の身にこすりつくことを好んでいなかったか――あらゆる動物が彼を慕うて来る、毒蛇でさえも、狼でさえも――いわんや動物のうちの最も順良なる牛が、こうして、なついて来るのは、茂太郎にとっては少しも不思議なことではありませんでしたけれども、そのなつかしがりようが、あまりに濃厚なものですから、\n「おや、お前はチュガ公じゃないか、ああ、チュガ公だね、チュガ公......」\n 茂太郎に驚喜の色があります。\n\n 九\n\n チュガ公と呼ばれて仔牛は、前足をトントンと二つばかり鳴らし、クフンクフンと甘えるような息づかいをする。\n「ああ、ほんとうにチュガ公だ。お前、久しく逢わなかったね、お父さんも、お母さんも達者かい」\n そう聞かれて牛は、またクフンクフンと鼻を鳴らし、涎を垂らしはじめました。\n「お父さんも、お母さんも達者だろう、なぜ、お前、今時分、ひとりで、こんなところへ来たの、みんなが心配するだろう、お父さんやお母さんも心配するだろう、牧場の番兵さんも心配するよ――ひとり歩きをするものじゃない」\n 茂太郎は、この場合、仔牛に向って大人びた意見を試みたが、父母在す時は遠く遊ばず、という観念を、仔牛に向って吹き込もうとして、かえってくすぐったく思いました。それは他に向って言うことではない、自己に対して責めることなのだ。\n 父母在しても、いまさなくても、幼き身で無断に遠く遊んで悪いことは、昨今の自分の身がかえって殷鑑だと思いました。\n 駒井甚三郎も、田山白雲も、マドロス君も出て行ったあとの洲崎の陣屋から、いい気になって出て来た自分は、興に乗じてこんなところまで上って来てしまった。\n ここを房総第一の高山だと思って上って来たわけではないが、もうこれより上へのぼるところはないからここで止まったのだ。上へのぼるところがありさえすれば、雲の上へでも、空の上へでも、登ってしまったかも知れない。しかし、ここまででさえ上って来て見れば、鹿野山よりも、鋸山よりも、清澄よりも、まだ高いらしい。\n 本来、こんな高い所へ登ろうと企てて来たのでもなんでもなく、今もいう通り、誰もとがめる人がないから、興に乗じて、ついここまで来てしまったのだ。今になってはじめて、洲崎の陣屋をかなり遠く離れて来ていることと、日というものが全く暮れてしまっていることを悟りました。\n 牛に向って教訓を試みたことによって、はじめて我が身に反省することを知り、わが身に反省してみると、\n「ああ、そうだ、そうだ、お嬢さんが待っている、あたしも早く帰らないと悪い――」\n 茂太郎に父母はいないらしいが、彼の身を心配する人が無いというはずはない。\n 兵部の娘が心配する。そこで茂太郎は、\n「さあ帰ろう、牧場では、きっとお前を探している、あたいだって、誰か探しているかも知れないが、あたいの方は、今日はじめてじゃないんだから......」\n 全く茂太郎の脱走は、今にはじまったことではないから、心配する方にも覚えがある。仔牛の方はそうはゆくまい。熊か、狼にでも食われたか、牛盗者か、後生者にか――血眼になって騒いでいるに相違ない。\n「お前を柱木の牧場まで送ってって上げる」\n 茂太郎は、仔牛の頭を撫でながら、房総第一の高山を下りにかかりました。\n 房総第一の高山を下ると、そこに柱木の牧場があります。\n 柱木の牧場は、嶺岡の牧場の一部で、その嶺岡の牧場というのは、嶺岡山脈の大半を占める牧牛場――周囲は十七里十町余、反別としては千七百五十八町余、里見氏より以来、徳川八代の時に最も力を入れ、南部仙台の種馬、和蘭進献の種馬、及び、天竺国雪山の白牛というのを放ったことがある。\n 仔牛を送って、柱木の牧場まで来た清澄の茂太郎、\n「番兵さん、チュガ公を連れて来たぜ」\n「チュガ公を......そういうお前は、芳浜の茂坊じゃねえか」\n 牧場は、軍隊組織になっているわけではないが、この番人は、陸軍の古服でも払い下げたものか、いつも古い軍服を着ているものだから、茂太郎は、番兵さんの名を以て呼んで、その本名を知らない。\n その番兵さんは、チュガ公の帰来を喜ぶよりは、茂太郎の現出に少なからぬ驚異を感じているもののようです。\n「番兵さん、チュガ公もずいぶん大きくなったものだねえ、まるで見違えてしまったよ、それでも直ぐわかったよ」\n「茂坊、お前もずいぶん珍しいことじゃないか、今までどこに何をしていたえ」\n「三年目だねえ」\n「そうだなあ、三年目だなあ」\n「三年前の夜這星が出る晩だったよ、チュガ公の生れたのは」\nといって、茂太郎は牛小屋の中を、まぶしそうに見入ります。\n 三年前の夜這星の出る晩というのは、何日のことだか、その夜這星とは、何の星のことだかわからない。茂太郎独特の暦法によるのだから、明白な時間と、位置はわからないが、この牛の誕生のその時に、まさに清澄の茂太郎がここに立会っていたことは事実らしい。\n 番兵さんが産婆役をして、茂太郎が介添役となって、かくて安々と玉のような牛の子が、夜這星の下に生れ出たのである。そのチュガ公という名の名附親が誰あろう、この清澄の茂太郎御本人ではないか。チュガ公という名になんらのよりどころと、つかまえどころがあろうとは思われない。生れ落ちると同時に、\n「番兵さん、名前を何とつけてやろうか知ら。チュガ公はどうだね、チュガ公とつけたらどんなもんだろう」\n「よかろうね、なんでも名は、呼びいいのがいい」\n そこで即座に、チュガ公の名が選定されてしまいました。\n その後、茂太郎去って後も、多分その名で呼ばれ通して来たのでしょう。畜生の身としても、その産婆役と、名附親とを忘れてよいものか。\n「チュガ公が、このごろお前、だまって出歩きをするようになっていけねえんだ」"
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"role": "assistant",
"content": "「どうして」\n「どうしてったって、お前、お母あが亡くなってからというもの、出歩きをしたがっていけねえ」\n「え、チュガ公のお母あは死んだのかい、番兵さん」\n「ああ、惜しいことをしたよ、この春ね」\n「ええ、だから、お父さんも、お母さんも達者かと聞いてみたんだのに、どうして死んだの、病気でかい」\n「いや、病気で死んだんじゃねえんだ、乳を取られに江戸へ連れて行かれて、それっきり帰って来ねえんだ、いや帰してくれねえんだから、多分......」\n「そんならチュガ公のお母さんは江戸にいるだろう、江戸にいれば死んだときまりはしまい」\n「ところがね、江戸へ連れて行かれて帰されなけりゃ、たいてい運命の程はきまっているよ」\n「どうきまっているの」\n「つぶされて、食べられたのさ」\n「誰に......」\n「誰に食べられたか知れねえが、人間に食べられてしまったのさ」\n「憎い人間だなあ、誰があの牛を食やがったんだ」\n「御用だから、仕方がないよ」\n チュガ公の母親が、乳を取られに江戸へ引いて行かれて、そのまま帰されないのは、乳だけの御用では済まなかった証拠である、と言って、その他の多くを語らない。\n それと同時にこのチュガ公が、フラフラ歩きをするようになったのだ、と語り聞かされました。\n\n 十\n\n 夕飯前、茂太郎は、番兵さんについて、牧場の中を一めぐりして歩きました。\n 茂太郎のおなじみは、チュガ公のみではありません。\n チュガ公は、名附親としての浅からぬ因縁があるにはあるが、その当時からここで茂太郎と知合いになっている動物は――茂太郎が来なくなってから後に生れた動物はいざ知らず、その以前からの馴染は、早くも茂太郎の訪れを見て宙を飛んで集まって来ました。あるものは多少遠慮して遠くから、しげしげと茂太郎の姿をながめ、ある者は無遠慮に、最初チュガ公のした如く、なれなれしく身をこすりつけます。\n 茂太郎は、そのいずれに対しても、これをいたわり、愛するの意志を示しました。人間ならば歓呼の声を挙げ、挨拶と、握手とに忙殺されるところでしょう。\n かく、牧場の牛と馬とに愛せられたのみならず、数頭の番犬までが、祝砲でも放つかの如く、高く吠えて走って来ました。そうして茂太郎が去ってからのち生れた犬どもは、小首をかしげて、仔細はわからないが、事の体の容易ならぬのに感動を催しつつあるもののようです。\n その中で、茂太郎が特別の興味を以て見たことの一つは、牛が、鹿の子に乳を飲ませて養っていることであります。\n 番兵さんの話によると、多分猟師に追われたものだろう、一頭の子鹿がこの牧場へ逃げこんだのを、そのまま一頭の乳牛にあてがって置くと、それがわが子と同様に乳を与え、鹿の子もまた、牛を母としてあえてあやしまないで毎日暮しているとのこと。\n それを聞いて茂太郎が、不意に妙なことを、番兵さんに向ってたずねました。それは、\n「番兵さん、ここへオットセイは来ないかい、オットセイは」\n 番兵さんが唖然として、暫く口をあけていましたが、\n「オットセイは来ないよ、オットセイの来べきところでもなかりそうだ」\n「そんならいいが番兵さん、もしオットセイが来たら、殺さないようにして帰しておやり、子供がかわいそうだから」\n 番兵さんは、茂太郎の申し出を奇怪なりと感じないわけにはゆきません。\n この際、特にオットセイを持ち出して来るのが意外なのに、そのオットセイに親類でもあるかの如く、懇ろに、その訪れた時の待遇を頼むのがオカしいと感じないわけにはゆきません。しかし、オットセイなるものに就ては、この番兵さんも、名前こそ聞いているが、その知識はあんまり深くないものだから、\n「鹿の子でも、オットセイでも、来れば大切にしてやるが――茂坊、オットセイは魚だろう、山にいるものじゃなかろう、北の方の海にいるお魚のことだろう、だからオットセイが、牧場へ逃げて来るなんてことは、有り得べからざることだよ」\n「いいえ、違います」\n 茂太郎は、オットセイの知識については、何か相当の権威を持っていると見えて、首を左右に振って、番兵さんの言葉をうけがわず、\n「違いますよ、オットセイはお魚じゃありません、獣ですからね」\n「そうか知ら」\n オットセイについて、茂太郎よりも知識の薄弱らしい番兵さんは、勢い、茂太郎のいうところに追従しないわけにはゆきません。事実、オットセイは海にいるということは聞いているが、それが魚類であるか、獣類であるかを、決定的に回答のできるほどの知識を持っていないからです。\n やや得意になった茂太郎は、\n「海にいたって、オットセイは魚じゃないんだ。鯨だってお前、番兵さん、鯨だってありゃお魚じゃないんだよ、山にすむ獣と同じ種類の動物なんですから」\n「え......」\n 番兵さんが眼をまるくして、今度はうけがいませんでした。\n「御冗談でしょう......鯨が魚でないなんて、木曾の山の中で、鯨がつかまったなんて話がありますか」\n オットセイについては、自分の知識の不明な点から、圧倒的に茂太郎の言い分に追従せしめられた形でしたが、鯨が魚でないなんぞと言い出された時に、番兵さんがうけがいません。のみならず冷笑気分になって、\n「熊の浦で、鯨の捕れたなんて話はあるが、木曾の山の中に、鯨が泳いでいたなんという話は聞かねえ」\n 木曾の山を二度まで引合いに出しました。そこで茂太郎も応酬しないわけにはゆきません。\n「でも、学者がそいったよ」\n この場合、茂太郎は、自分を当面に出さないで、学者を矢面に立たせました。\n「学者? ドコの学者が、鯨が魚でないなんていう学者は、唐人の寝言だろう」\n「でも、立派な学者がそいったよ」\n 茂太郎は、どこまでも学者を楯に取る。これは名は現わさないが、多分、駒井甚三郎のことではなかろうかと思う。\n「ばかばかしいよ、学者が言おうと、誰が言おうと、そんなことを本当にする奴があるものか、論より証拠、まだ鯨の本物を見ないんだろう」\n「ああ、見ないけれど、立派な学者がそう言うから」\n「立派な学者もヘチマもあるものか、本物を一目見りゃわかることだよ、百聞は一見に如かずだあな」\n 今度は番兵さんが得意になりました。\n 茂太郎がいかに大学者を引合いに出そうとも、現に見ていることより強味はない。自分は幾度も鯨の本物を本場で見ている――という確乎たる自信があるから、番兵さんの主張は、さすがの茂太郎も、如何ともすることはできない。しかしまだ、どうしてもあきらめきれないものがあると見えて、\n「マドロス君もそいったよ、鯨は魚じゃないんだって」\n「お前がだまされてるんだよ、からかわれてるんだよ。もう、そんな話はおよし、鹿の子もそんな話は聞くのはイヤだといって、ああして親牛の腹へもぐりこんで寝てしまったあ」\n 茂太郎は、まだまだ、あきらめきれないものがあるけれど、相手が受けつけないのだからやむを得ない。\n そこで鹿の子が、親ならぬ親を親として、その懐ろに安んじて眠り、牛の親が、子ならぬ子を子として、二心なく育てる微妙な光景を見ていると、この分では、狼の子が来ても、牛はそれを憎まずに愛し得るだろうと思われる。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"content": " 私は観光事業に関しては全くの素人で、殊にこの問題は非常に広汎な領域を含んで居りますので、私の申上げることが或は肯綮に当らないかも知れませんが、併し只今この時局下において日本全文化領域のことが考へられて居る際でありますから、観光事業も文化問題として取上げて我々の仕事の一部としたいと思つて居るのであります。これから又此の事業に直接お携はりになつておいでになる専門の方々から教を受けなければなりませんが、只今は不用意でありますが、些か気の付いた点を申上げて見たいと思ふのであります。\n 私も平生旅行は割合にする方で、内地のみならず、古いことでありますがヨーロツパにも出掛けたし、ヨーロツパへの行き方も少し変つた行き方をしまして、普通ならば横浜乃至神戸から乗船して直接ヨーロツパ大陸へ行く、或はアメリカを通り、ロシヤを通るといつたやうなコースが色々あります。私はフランスのパリーを目指して参る積りでありましたが、先づ台湾へ行き、台湾から香港に渡り、香港から印度支那、それから馬来、馬来からマルセーユといふ風に、其の間約半年かゝつて行つて居ります。これは別に道楽でさういふコースを選んだ訳ではありませんが、さういふ旅行の仕方を致しました経験から旅行といふものに就て、殊に外国人である私の目に映るそれ〴〵の土地の風物或は生活といふものは今日まだ鮮かに残つて居りまして、さういふ風物なり生活なりを通じて今日日本の文化といふものを考へる上に多少役に立つて居る点があるかと思ふのであります。\n 元来国内に居て国内の文化といふ問題を考へる場合、勿論これは研究の浅さ深さにも依りますが、文化といふ問題を取上げる場合にはどうしても外国との比較が重要だと思ふのであります。今日に限りませんが、欧米から日本に来て居る人達で日本の文化を研究して居る連中の話を折に触れて聞きますと、日本の文化について話をする場合必ず其の引合に色々の国の文化を出す。さうしてそれ等の問題が常に其の人の観察力といふものに依つて支配されて居る。非常に観察の鋭い人、或は観察の浅い平凡な人に依つて日本といふ国が如何に映つて居るかといふことを私は絶えず教へられて居ります。最近にも或ドイツ人と話をして、日本の現代文化、特に日本人の現代生活といふ問題に触れたのでありますが、そのドイツ人は有名な教育学者であつて相当教養のある人ですが、日本の現代生活に対して非常に辛辣な観察を下して居ります。さうしてこの辛辣な観察の中に我々は矢張り多くの反省しなければならぬ点を発見すると同時に、又さういふ辛辣な観察に対して十分私共日本人としてこれに一つの別な方向を与へるだけの自信と用意がなければならないと思ふのであります。\n 必ずしも日本人であるから日本人の弁護をしてそれで義務を果すといふだけのことではないのでありまして、辛辣な観察が動もすると矢張り一方的になつて、そこに見逃して居る点があるといふことも争へない。外国の場合もさうでありますし、特に国内に於て日本人が日本の国を見るといふことは一つの惰性になつて居る関係から日本を正しく視るといふことがなか〳〵難しいので、日本人が日本の事情なり生活なりを見て一つの発見をするといふやうなことはなか〳〵難しいばかりでなく、その日本人の生活に対して正しい判断を下すといふことは是亦非常に困難であります。多くの場合は自分の国は斯ういふ国なのだと頭から鵜呑みにして、それに対して普段は全く考へることもしないといふ状態だと思ふ。\n 観光といふ事業はその事業の本質としまして非常に重要な使命を持つて居ることは申す迄もございませんが、併し我々の考へます所ではこれは一つの教育であるといふこと、日本人に日本を真に愛するといふ気持を起させる一つの大きな教育である。外国人に対しても日本の真髄を知らしめる。これ亦一つの啓蒙であります。従つて今日までの観光事業に斯ういふ教育乃至啓蒙といふ半面が折込まれてゐるといふことは私も信じて疑はないのでありますが、さういふ意味が折込まれて居るだけにこの時局下に於きまして観光事業に携つて居る方の任務が非常に重いといふことを感じますし、同時に又今日までの観光事業が此処で何か新しい出発を促されて居るのではないかと思ふのであります。\n そこで、それを国内と国際の二つの面に分けて考へて見ましても、殊に国際観光といふ点から考へますと、只今は防諜関係などで非常にこの種の事業に制約が伴ひまして窮屈になつてきたことゝ思はれます。これ亦、今までの国際観光事業といふ面も強調されながら、その教育的面に主力が注がれたなれば、防諜関係といふやうな制約を超えて新しい一つの国策宣伝の目的に副ふやうな仕事が出来るのではないだらうかと思ひまして、その点を期待する次第であります。その国策宣伝に副ふやうに観光事業を持つて行くにはどうしたらいゝかといふ点、これは恐らくこの会議を通じて色々議題に上つたことゝ存じます。\n 私は此処で具体的のことを申上げるのは大変僭越でありますが、素人はさういふ考へ方をするのだといふ意味で御参考になるかと思ふので一二申上げて見ますが、今旅行をしても、ホテルに泊つても、外国から来たお客の種類が非常に違つて居ります。それは直ぐ気が付く。帝国ホテルなどで夕飯を食つて居りましても、周囲で話される外国語は、これは正確には知りませんが、私の気の付いた所でも半年位の間に非常に変つて居る。英語が非常に少くなつてドイツ語、イタリー語が非常に殖えて居るやうに思ひます。詰り枢軸国の旅行者が可なり殖えて居る。又其の枢軸国の旅行者は色々経済的の目的で来て居る人もあらうと思ひますが、公けの目的を帯びた人もあり、又自分だけで或研究をして居る人もあらうと思ひます。かういふ枢軸国の人々に対する新しい日本認識の基礎を観光事業に携つて居る方々が与へて下されば結構だと思ひます。具体的な一例と致しましては、今まで大体英語国民を中心として色々文書等が刊行されて居る。英語国民を対象として居るといふことは必ずしも英語で書かれて居るといふことだけではなかつたと思ふ。\n 詰り英語国民の心理なり英語国民の好尚に対して十分の理解の上に立つた宣伝だつたと思ひますが、英語国民と独伊の国民との間には非常に大きな心理的な相違があり、好みの上でも独伊はそれ〴〵違ひますけれども、今日まで日本人が接触した欧米人の中で特色を持つた民族だと思ひます。"
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"role": "assistant",
"content": " 斯ういふ意味で独伊国民に対する日本人の接触の仕方、或は日本認識のさせ方には一つの心構と技術が必要のやうに思ふのであります。先程例に引いたドイツの人と話をして居る時にかういふ話をきいたのであります。それは自分は日本人が如何にして創られつゝあるかを一年半日本にゐて見て研究したが、主として田舎を見た。どうも大都会では自分の観察が非常に散漫になつて考を纏めるのに困難なばかりでなく、どうも大都会には日本人の本当の姿が映つて居ないやうなので主として地方を廻つて居る、殊に地方の農民の生活を見て居るといふのです。かういふ観察の仕方は今日までの欧米人は比較的しなかつたと思ひます。中には勿論素朴な民衆生活に興味を持つた人もありましたし、ラフカディオ・ハーンのやうな人もあつて日本の民衆の生活に徹しようと興味を持つた人もありますが、これは主として芸術的センスに富んだ芸術家的な傾向でありまして、特に政治的な意味で日本を研究しやうといふ場合に、日本の民衆に接触して日本民衆の生活の中から何かを掴まうといふやうなさういふ方針を以て日本に来て居た人は非常に少なかつたと思ふ。これは申す迄もなくドイツ人一流の物の考へ方で、其の人に限らず、ドイツから来て居る所謂文化方面の人達は総てさういふ研究の仕方をして居ると私は直感致しました。さういふ風な場合に今日まで外来客に対して日本が採つて居た啓蒙宣伝の仕方といふものが果して通用するかどうか、日本を今さういふやり方で研究しつゝある人に通用するかどうかといふ点を私は非常に疑ふのであります。現に其の人の話でも、今日までの日本人の日本紹介、外来客に対する日本紹介といふものに対して、其の人自身も不満であると同時に、日本人にとつても非常に得策でないといふことを強調して居りました。これは盟邦の一人として、我々の友人としてさういふ忠告を与へたのだらうと考へる一方、私はもつと何か重大な問題がそこに潜んで居るやうに思ふ。といふのは日本人の宣伝力、或は宣伝能力といふものに対して兎角国内でも色々問題になつて居りますし、特に外国人の方でこれに対して多少軽侮の念を抱いて居るといふことを聞いて居ります。\n さういふ風な真剣な或は非常に科学的な日本研究者に対する日本人の迂闊な態度がどうかすると其の問題に限らず、日本の現代文化といふものに対する一つの弱点を暴露する結果になりはしないかと思ひます。これから特にさういふ外来客が多くなる傾向がありと致しますと、今日まで外国人が喜んだやうなさういふ面以外の日本人の本当の姿をもつと見せてやらなければならぬ。それには先程申した案内書、日本紹介の色々の文書といふ以外に、日本人が通訳として或は案内者としてこれに接する場合の心掛け乃至は教養といふものも今日までの標準では困難ではないか。それは唯単に案内の目的を達しない、向ふを満足させないといふばかりでなくもつと危険な問題即ち日本を非常に誤解させる、日本の本当の姿を伝へない為に、どうかすると日本にある本当に良いものが伝はらないで其の反対になる虞が非常にあるのではないか。ドイツ人に限らず日本を本当に研究する、興味本位でなく、本当に日本を研究しやうとする人達が最も興味の対象としますものは申す迄もなく日本の伝統として今日まで残つて居る部分、而もそれが国民生活の中に根を下して居る部分で、国民の中に根を下して居ない伝統的なものといふのは所謂骨董です。\n 国民生活の中に根を下した伝統的なものはどういふものかといふと日本人の風俗、現代まで伝はつて居る日本人の風俗である。而も其の風俗が欧米の模倣でない所の風俗、さういふものに対して最も興味を持つ。又さういふものゝ中から日本の本当の姿が伝へられると思ふ。日本人の姿、風俗といふものは必ずしも田舎の農家の生活といふものに限らぬと思ひます。洋服を着て居る男女でも、其の男女の言語、態度、さういふものゝ中に洗煉された日本人の姿が残つて居ることを多くの明敏な外国人は観察して居ります。さうしてさういふ者がどの位の割合で日本の中に居るか、之に反して所謂日本人の姿といふものを発見出来ない一部は全く欧米模倣の傾向、一部は欧米模倣でもなく又過去の伝統をも持つて居ない一種の風俗或は文化の空白状態、この空白状態を彼等ははつきり観察して居ります。其の空白状態、伝統を見失つて根こぎにされた日本人の姿が今日非常に多く目につくといふことに依つて、彼等が日本に対する信用を落して居るといふことも事実だと思ひます。これが観光事業といふものと一体どう関係があるかといふことは、私は特に此の事業に携はつて居られる有力なる方々に申上げたいのであります。\n 今日まで此の観光事業の一つの目的と致しましては、詰り日本の中に幾つかの観光目的地を拵へて、其の観光目的地に連れて行つて其処を見せるといふことに一つの重点が置かれて居つたと思ひます。併しこれからはこれでは非常に心細いと思ひます。或所まで連れて行く其の道中といふものが非常に重大な意義を持つて来ると思ひます。例へば東京から日光を見せる時、其の間の汽車の中の日本人の風俗及び生活振りによつて、仮令、日光が如何に壮大で外国人の目を奪ふに足るものでありましても、其の途中の日本人の汽車の中の風俗に依つて日光の値打はゼロになり或はマイナスになるといふことを私共は深く胆に銘じなければならぬと思ひます。\n 今度は国内の問題であります。此の方は私共が唯漠然と見て居りましても、現に相当旅行者の数も殖えて居る。旅行者が用事の為に移動して居るばかりでなく、矢張り色々な所に物見遊山に行く者或は温泉に出掛ける者、又中には体育を目的として山登りをする者といふやうに非常に旅行者が多い。さういふ意味では或は皆さん方の、旅客を誘引するといふ必要は今おありにならないかも知れない。相当温泉場なども賑はつて居りますし、又これから夏に向つて避暑地なども相当の人出だらうと思ひます。又名所旧蹟といふやうな所を訪問する人達も私共最近の旅行の経験から見ても決して衰へては居ないと思ひます。\n 斯ういふ風に矢張り観光といふ立場から見ますと、観光事業其の者は決して悲観すべき状態でないと思つて居ます。唯この観光といふものを指導なさる、或は観光の意義を十分強調なさる立場から申しますと唯現在の儘旅行者の気の向いた儘、気の向いた所へ行つて、そこで唯単に無駄な時間を過すといふだけでは不十分だと思ひます。旅行の目的、観光といふものゝ意義を新しく此処で考へ直さなければならないと思ひます。今色々な所に相当殺到して居るこれ等の旅行者に対して我々が痛切に感じますことは、その土地に於ける施設なり、或は又其の土地の方々が旅行者に対してどういふ待遇をして居られるかといふ問題であります。その土地へ行つて唯旅館に泊る或は名所旧蹟を見て歩くといふことに対して今日非常にこれを有意義に導く方法がある、それは今日までよりも今が一番好い時期だとさへ考へる一つの点があるのであります。それは御承知の方もあると思ひますが、大政翼賛運動が始つて地方の文化運動が只今盛んになつて居ります。各地方ではそれ〴〵新しい文化団体が簇生して居りまして、それ等の文化団体が自主的に出来て居るのもありますが、又翼賛会の文化部と致しましてはそれを自主的に出来たからと言つて抛つて置かないで、日本全体の文化向上の為に最も適当な機構を造るやうに色々連絡を取つて居るのであります。\n その地方文化運動といふものの一翼に此の観光事業といふものを結び着けて戴きたい。地方文化運動の目的と致します所は、第一にその地方の伝統的な文化といふものを十分研究して、その伝統的な文化の最も健全な要素を残して、これが健全な要素の上に新しい日本の文化を築き上げるといふ所に一番大きな目標を置く。と申しますのは都会の文化は表面的には非常に華やかなやうでありまして、都会には文化が集中して居るといふやうな印象さへ与へるのでありますが、事実は都会の文化は外国文化の模倣乃至影響が主でありまして、その中には機械文明乃至は物質文明として十分採入れていゝものもありますけれども、併しそのために日本本来の健康な文化的要素といふものが非常に稀薄になつて居ります。此の稀薄になつて居るといふことが都会文化の頽廃といふことを招いて居る。\n 今日健全な文化の育成といふことが問題になつて居る以上、どうしても日本にある根強い民族文化を此処でもう一度見直すと、その民族文化は必ず日本の土に根を下し、日本人の生活の中に根を張つて居る。これを土台にして新時代の文化を其の上に築いて行かなければならぬ。それにはどうしても都会よりも寧ろ都会を離れた地方、特に大都会よりも地方の小都会といふ所に残つて居る伝統を十分尊重して行かなければならぬ。従つてさういふ所にある地方独得の文化といふものを十分検討してその中にある健全な芽を伸ばして行く、といふことが地方文化運動の一つの目標であります。それと同時にさういふ土台の上に築かれた文化がその地方の一般民衆の生活に良い一つの文化的の栄養を与へる。これが第二の目的であります。唯地方の文化の遺産を特殊な人が独占して、特殊な人がそれを誇りにして居るといふことではいけないので、さういふものがあればその地方の人達がさういふ文化を自分の身に附けて、さういふ文化を十分誇りとし得るやうな、さういふ一つの方法が講ぜられなければならぬと思つて居ります。地方の文化団体はさういふ意味に於て、所謂地方の文化人が唯自慰的に其の地方に残つて居るものを掘出して、金持が骨董を弄ぶやうにそれを自分の書斎なり座敷なりに飾つて置くといふやうなことでなく、さういふものを基礎としてその地方の民衆一般の自信と活動力とを与へて行くといふことを考へねばならぬ。"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「莫迦申せ!」\n と、総司は、眼を怒らせて呶鳴った。\n「お千代はそんな女ではない! お千代は、失望して、恋いこがれて、病気になっているのじゃ!......と、わしは思う。......病気になってのう」\n 総司は膝へ眼を落とし、しばらくは顔を上げなかった。部屋の中は静かで、何時の間に舞込んで来たものか、母指ほどの蛾が行燈の周囲を飛巡り、時々紙へあたる音が、音といえば音であった。総司は、まだ顔を上げなかった。お力は、その様子を見守りながら、(何んて初心な、何んて生一本な、それにしても、こんな人に、そう迄想われているお千代という娘は、どんな女であろう?......幸福な!)と思った。と共に、自分の心の奥へ、嫉妬の情の起こるのを、何うすることも出来なかった。\n\n 親友は討ったが\n\n「あのう」\n と、ややあってからお力は、探るような声で云った。\n「細木永之丞というお方は、どういうお方なのでございますの?」\n「ナニ、細木永之丞!? どうしてそのような名をご存知か」\n と、総司は、さも驚いたように云った。\n「矢張りお眠ったままで『済まん、細木永之丞君、命令だったからじゃ、済まん』と、仰有ったじゃアありませんか」\n「ふうん」\n と総司は、いよいよ驚いたように、\n「さようなこと申しましたかな。ふうん。......いや、心に蟠となっていることは、つい眠った時などに出るものと見えますのう。......細木永之丞というのは、わしの親友でな、同じ新選組の隊士なのじゃが、故あって、わしが討取った男じゃ」\n「まア、どうして?......ご親友の上に、同じ新選組の同士を?」\n「近藤殿の命令だったので......」\n「近藤様にしてからが、同士の方を......」\n「いや、規律に反けば、同士であろうと隊士であろうと、斬って捨てねば......細木ばかりでなく、同じ隊士でも、幾人となく斬られたものじゃ。......近藤殿の以前の隊長、芹沢鴨殿でさえ――尤もこれは、何者に殺されたか不明ということにはなっているが、真実は、土方殿が、近藤先生の命令によって、壬生の営所で、深夜寝首を掻かれたくらいで。......だがわしは細木を斬るのは厭だったよ。永之丞は可い男でのう、気象もさっぱりしていたし、美男だったし......尤も夫れだから女に愛されて、その為め再々規律に反き、池田屋斬込みの大事の際にも、とうとう参加しなかった。これが斬られる原因なのだが、その上に彼が溺れていた女が、どうやら敵方――つまり、長州の隠密らしいというので......」\n「まあ、隠密?」\n「うむ。それで、味方の動静が敵方に筒抜けになっては堪らぬと、近藤殿が涙を呑んで、わしに斬ってくれというのだ。しかし私は『細木を斬ることばかりは出来ません。あれは私の親友ですから。......もし何うしても斬ると仰せられるなら、余人にお申付け下さい』と拒絶たのじゃ。すると近藤殿は『親友に斬られて死んでこそ、細木も成仏出来るであろうから』と仰せられるのじゃ。そこで私も観念し、一夜、彼を、加茂河原へ連出し、先ず事情を話し『その女と別れろ、別れさえしたら、私が何んとか近藤殿にとりなして......』と云ったところ......」\n ここで総司は眼をしばたたいた。\n お力は唾を飲んだが、\n「何と仰有いました?」\n「別れられないと云うのだ」\n「............」\n「そこで私は、では逃げてくれ、逃げて江戸へなり何処へなり行って、姿をかくしてくれと云うと、俺を卑怯者にするのかと云うのだ。......もう為方がないから、では此処で腹を切ってくれ、私が介錯するからと云うと、それでは、近藤殿から、斬れと云われたお前の役目が立つまいと云うのだ。私は当惑して、では何うしたらよいのかというと、お前と斬合ったでは、私に勝目は無いし、斬合おうとも思わない、私は向うを向いて歩いて行くから、背後から斬ってくれと云い、ズンズン歩いて行くのだ。月の光で、白く見える河原をなア。背後から何んと声をかけても、もう返辞をしないのだ。......そこで私は、......背後から只一刀で......首を!......綺麗に討たれてくれたよ」\n 息を詰めて聞いていたお力は(それじゃア永之丞さんは、話合いの上でお討たれなされたのか。......では総司さんを怨むことはないわねえ)と思いながらも、矢張り涙は流れた。その涙を隠そうとして、窓の方を向いた。すると、その窓へ、小石のあたる音がした。お力はハッとしたようであったが、\n「蒸し蒸しするのね」\n と独言のように云い、立って窓際へ行き、窓を開けた。暈をかむった月に照らされて、身長の高い肩幅の広い男が、窓の外に立っていた。\n お力は窃っと首を振ってみせ、すぐに窓を閉め、元の座へ帰って来た。\n 総司は俯向いていた。自分が斬った、不幸な友のことを追想しているらしい。\n「沖田様」\n とお力は、総司のそういう様子を見詰めながら、\n「妾を何う覚召して?」\n「何うとは?」\n「嫌いだとか、好きだとか?」\n「怖い」\n「怖い? まあ」\n「親切な人とは思うが......何んとなく怖い!......それにわしにはお千代というものがあるのだから......」\n「お切れなされたくせに」\n「強いられたからじゃ。......心では......」\n「心では?」\n「女房と思っておる。......それでもうお力殿には今後......」\n「来ないように」\n「済まぬが......」\n「妾は参ります。......貴郎様はお嫌いなさいましても、妾は、あなた様が好きでございますから。......それがお力という女の性でございます」\n(おや?)とお力は聞耳を立てた。\n 池へ落ちている滝の音が、その音色を変えたからであった。\n(誰かが滝に打たれているようだよ)\n 然う、単調に聞えていた水音が、時々滞って聞えるのであった。\n(可笑しいねえ)\n\n 良人を慕って\n\n お力が、総司の為の薬を貰って、浅草今戸の、松本良順の邸を出たのは、それから数日後の、午後のことであった。門の外に、八重桜の老木があって、ふっくりとした総のような花を揉付けるようにつけていた。お力がその下まで来た時、\n「松本良順先生のお邸はこちらでございましょうか」\n という、女の声が聞えた。見れば、自分の前に、旅姿の娘が立っていた。\n「左様で」\n とお力は答えた。\n「新選組の方々が、こちらさまに、お居でと承りましたが......」\n「はい、近藤様や土方様や、新選組の方々が、最近までこちらで療治をお受けになっておられましたが、先日、皆様打揃って甲府の方へ――甲州鎮撫隊となられて、ご出立なさいました」\n「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も!?」\n 悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹の脚袢には、塵埃が滲んでいた。\n「失礼ですが」\n とお力は云った。\n「あのう、お前様は?」\n「はい、千代と申す者でございますが、京都から沖田様を訪ねて......」\n「まあ、お前様がお千代さん......」\n「ご存知で?」\n「いえ」\n と、あわてて打消したが、お力は(これが、総司さんが、眠った間も忘れないお千代という女なのか。......総司さんは、お千代は、恋患いで寝込んでいるだろうと仰有ったが、寝込んでいるどころか、東海道の長の道中を、清姫より執念深く追って来たよ。......どっちもどっちだねえ)と思うと同時に、ムラムラと嫉妬の情が湧いて来た。それで、"
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"role": "assistant",
"content": "「はい、沖田様も新選組の隊士、それも助勤というご身分、近藤様などとご一緒に、甲府へご出発なさいましたとも」\n と云い切ると、お千代を掻遣るようにして歩き出した。しかし五六間歩いた時、気になるので、振返って見た。お千代が、放心したような姿で、尚、松本家の門前に佇んでいるのが見えた。(態ア見やがれ)と呟きながら、お力は歩き出した。でも矢張り気になるので、又振返って見た。一時に痩せたように見えるお千代が、松本家から離れて、向うへトボトボと歩いて行く姿が見えた。(京都へ帰るなり、甲府へ追って行くなり、勝手にしやがれ。総司さんは妾一人の手で、介抱し通すってことさ)と呟くと、足早に歩き出した。\n 浅草から千駄ヶ谷までは遠く、お力が、植甚の家付近へ迄帰って来た時には、夜になっていた。\n「お力」\n と呼びながら、身長の高い肩幅の広い男が、大榎の裾の、藪の蔭から、ノッソリと現われて来た。その声で解ったと見え、\n「嘉十さんかえ」\n と云ってお力は足を止めた。\n「うん。......お力、何を愚図愚図しているのだ」\n「あせるもんじゃアないよ」\n「ゆっくり過ぎらア」\n「それで窓へ石なんか投げたんだね」\n「悪いか」\n「物には順序ってものがあるよ」\n「惚れるにもか」\n「何んだって!」\n「お前の身分は何なんだい」\n「長州の桂小五郎様に頼まれた......」\n「隠密だろう」\n「あい」\n「そこで細木永之丞へ取入った」\n「新選組の奴等の様子さぐるためにさ」\n「ところが永之丞にオッ惚れやがった」\n「莫迦お云い。......彼奴の口から新選組の内情聞いたばかりさ......池田屋の斬込へも、彼奴だけは行かせなかったよ」\n「手柄なものか。......彼奴の方でも手前にオッ惚れて、ウダウダしていて、機会を誤ったというだけさ」\n「そのため永之丞さん斬られたじゃないか。......新選組の奴等を一人でも減らしたなア妾の手柄さ」\n「ところが手前、今度は永之丞を斬った沖田総司を殺すんだと云い出した」\n「池田屋で人一倍長州のお武士さんを斬った総司、こいつを討ったら百両の褒美だと......」\n「懸賞の金を目宛てにして、総司を討ちにかかったというのかい。体裁のいいことを云うな。そいつア俺の云うことだ。手前は、可愛い永之丞の敵を討とうと、それで総司を討ちにかかったのさ。......そんなことは何うでもいいとして、その手前が何処がよくて惚れたのか、総司に惚れて、討つは愚、介抱にかかっているからにゃア、埒があかねえ。......お力、総司は俺が今夜斬るぜ!」\n と、佐幕方の、目明文吉に対抗させるため、長州藩が利用している目明の、縄手の嘉十郎は云って、植甚の方へ歩きかけた。\n\n 女夜叉の本性\n\n(この男ならやりかねない)\n こう思ったお力は、嘉十郎の袂を掴んだ。\n(剣技にかけちゃア、新選組一だといわれている沖田さんだけれど、あの病気で衰弱している体で、嘉十郎に斬りかけられては敵う筈はない。......総司さんを討たれてなるものか!......いっそ妾が此奴を!)\n と、肚を決め、\n「嘉十郎さん、まア待っておくれ、お前が然うまで云うなら妾も決心して、今夜沖田さんの息の音とめるよ。......お前さんにしてからが然うじゃアないか、あの晩、二人でここへ来てさ、通りかかった脱走武士たちへ喧嘩を売りつけ、一人を叩っ斬ったのを見て、妾は植甚の庭へ駆込み、喧嘩の側杖から避けたと云って、沖田さんに隠匿われ、そいつを縁に沖田さんへ接近いたのも、お前と最初からの相談ずく、そこ迄二人で仕組んで来たものを、今になってお前さんに沖田さんを殺され、功を奪われたんじゃア、妾にしては立瀬が無く、お前さんにしたって、後口が悪かろう。......ねえ、沖田さんを仕止めるの、妾に譲っておくれよ。そうして懸賞の金は山分けにしようじゃアないか」\n 憎くない婦からのこの仕向けであった。四十五歳の、分別のある嘉十郎ではあったが、\n「そりゃアお前がその気なら......」\n「委せておくれかえ。それじゃア妾は今夜沖田さんを、こんな塩梅に......」\n と、右の手を懐中へ入れ、いつも持っている匕首を抜き\n「グッと一突きに!」\n と嘉十郎の脾腹へ突込み......\n「わッ」\n「殺すのさ!」\n と、嘉十郎を蹴仆し、地面をノタウツのを足で抑え、止めを刺し、\n「厭だよ、血だらけになったよ。これじゃア総司さんの側へ行けやアしない」\n と呟いたが、庭へ駆込むと、池の端へ行き、手足を洗出した。途端に滝の中から腕が現われ、グッとお力の腕を掴み、\n「矢張りお前も然うだったのか。お力坊、眼が高いなア」\n と、水を分けて、留吉が、姿を現わした。\n「只者じゃアねえと思ったが、矢っ張り滝壺の中の小判を狙っていたのかい。俺も然うさ。植甚へ住込んだのも、植甚は大金持、そればかりでなく、徳川様のお歴々にご贔屓を受け、松本良順なんていう御殿医にまで、お引立てを受けていて、然ういう人達の金を預って隠しているという噂、ようしきた、そいつを盗み出してやろうとの目算からだったが、植甚の爺、うまい所へ隠したものよ、滝のかかっている岩組の背後を洞にこしらえ、そこへ隠して置くんだからなア。これじゃア脱走武士が徴発に来ようと、薩長の奴等が江戸へ征込んで来て、焼打ちにかけようと安全だ。......と思っている植甚の鼻をあかせ、俺アこれ迄にちょいちょい此処へ潜込んで、今日までに千両近い小判を揚げたからにゃア、俺の方が上手だろう――と思っているとお前が現われた。偉え! 眼が高え! 小判の隠場ア此処と眼をつけたんだからなア。...よし来た、そうなりゃアお互い相棒で行こう。......が相棒になるからにゃア......」\n お力は、(然うだったのかい。滝の背後に金が隠してあるのかい、妾が、体の血粘洗おうと来たのを、そんなように独合点しやがったのかい。......然うと聞いちゃ、まんざら慾の無い妾じゃアなし......ようし、その意で。......)\n 例の匕首でグッと!\n「ウ、ウ、ウ――」\n 動かなくなった留吉の体を、池の中へ転がし込んだが、\n(人二人殺したからにゃア、いくら何んでも此処にはいられない。行きがけの駄賃に、......云うことを諾かない総司さんを......そうして、矢っ張り懸賞の金にありつこうよ)と、\n 離座敷の方へ小走って行き、雨戸を窃っと開け、座敷へ這入った。総司は、やや健康を恢復し、艶も出た美貌を行燈に照らし、子供のように無邪気に眠っていた。\n お力は、行燈の灯を吹消した。\n\n 片がついた\n\n 鎮撫隊より一日早く、甲府城まで這入った、板垣退助の率いた東山道軍は、勝沼まで来ていた近藤勇たちの、甲州鎮撫隊を、大砲や小銃で攻撃し、笹子峠を越えて逃げる隊土たちを追撃した。三月六日のことである。\n 沖田総司を尋ねて、ここまで来たお千代は、峠の道側の、草むらの中に立って、呆然としていた。あちこちから、鉄砲の音や、鬨の声が聞え、谷や山の斜面や、林の中から、煙硝の煙が立昇ったり、眼前の木立の幹や葉へ、小銃の弾があたったりしていた。そうして、鎮撫隊士が、逃下る姿が見えた。隊士たちは、口々に云っていた。\n「敵わん、飛道具には敵わん!――精鋭の飛道具には」と。――\n 一人の隊士が肩に負傷し、よろめきよろめき逃げて来た。お千代は走寄り、取縋るようにして訊いた。\n「沖田総司様は、......討死にしましたか?......それとも......」\n「ナニ、沖田総司?」\n と、その隊士は、不審そうにお千代を見たが、\n「いや、沖田総司なら......」\n しかしその時、流弾が、隊士の胸を貫いた。隊士は斃れた。お千代は仰天し、走寄って介抱したが、もう絶命れていた。\n(妾ア何処までも総司様の生死を確める)\n と、お千代は、疲労と不安とで、今にも気絶しそうな心持の中で思った。\n(そうして、総司様の前で、総司様から下された、縁切りのお手紙をズタズタに裂いて、妾は云ってあげる「いいえ、妾は、総司様の女房でございます」って)\n そのお千代が、下総流山の、近藤勇たちの屯所の門前へ姿を現わしたのは、四月三日のことであった。近藤勇や土方歳三などが、脱走兵鎮撫の命を受け、幕府から、この地へ派遣されたと聞き、恋人の総司もその中にいるものと思い、訪ねて来たのであった。しばらく門前に躊躇していると、門内から、二人の供を従え騎馬で、近藤勇が現われた。"
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"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n十二\n\n「それや一体、どういふわけですか」\n と、楯雅一が喰つてかかつた。\n「さうぢやないか。俗に捨白といふのがそれだ。その捨白は、明かに敗北者の自己満足なんだ。まともに物を言はず、相手の攻勢から楽に身をかはすために、ことさら強く見せかけたずるい逃避の一種だよ。敢て言へば、青年としてあるまじき卑屈な行為だ。矜りを棄てたも同然ぢやないか」\n そこまでは勢にまかせておつかぶせるやうに云ひ放つたが、急に田丸は、笑顔になり、\n「まあ、これだけのことを云つておいて、問題の本筋にはいらう。僕が今、問題にしたいことはね。どつちが善い、どつちが悪いぢやないんだ。まして、どつちが勝ち、どつちが負けといふやうなことぢやない。要するに、どうしてああいふつまらない空気が生じたか、なにが故に、双方で云はば不必要な言葉のやりとりをしなければならなかつたか、といふことさ。僕は飽くまでもこれを個人の問題にしたくない。若し久保さんを引合ひに出すとしたら、それは、久保さんのやうな調子で物を言ふえらいひとが存外多いからだし、君たちにしても、君たちは、むしろ今の青年のある種の型みたいなものだからさ。一口に云へば、君たちの表現を久保さんは青年の言葉として理解しないし、君たちはまた、久保さんの表現を、あまりに久保さん自身の言葉として受け取りすぎてゐるのだ。少しわかりにくいかな。別の云ひ方をしよう......」\n 田丸はちよつと口を喋んだ。すると、楯雅一がまた口を出した。\n「いや、わかるにはわかります。しかし、そんなら、僕たちに過ちはないのだし、久保さんの方にだけ、青年を識らんといふ罪があるんぢやないですか」\n「馬鹿なことを云ひたまへ。君たちは、どんな場合でも、先づ、今日の時代、もつと日本人を信用してかからなけれやいけないんだ。――この桜、やつぱり伐りますか、そんな問ひは第一どこから出るんだい。実際は気軽に口から出た言葉だらう。しかし、こいつは、全体に眼を配る責任者がゐる以上、余計な念の押し方だ。善意にとつても、責任者がうつかり桜を伐らせてしまふんぢやないかといふ心配からだらう。僭越この上もない心配だ、と云はれても、君たちは文句は云へないんだ。あの桜を伐るのは惜しいぐらゐのことは日本人なら誰でも考へる。それは十分考へた上での裁決だ、と、君たちには信じてほしい。さう信じられたら、黙つてやれんこともないだらう。また、仮に、惜しいといふ嘆声を漏らすにしても、その言ひ方が違つて来る。久保さんの胸には、少くとも、違つて響く。すると、久保さんの同じ返事が、君たちになんの反撥も感じさせないんだ。素直な激励の調子、お互の決断を促す明朗な語勢を帯びて来る」\n\n十三\n\n さつきから、田丸の言葉に聴き入りながら、しきりにうなづいてゐた大西が、この時、唸るやうな溜息をついた。\n「それでわかつた。久保さんの表現を久保さん自身の言葉として受け取りすぎる、といふ意味は、そこにあるんだなあ」\n 独言である。\n 田丸は、それにかまはず、言葉をつづけた。\n「ここまでは、君たちの立場からの反省だ。いいかい。しかし、問題はそれだけで解決はできない。なぜなら、君たちの感じ易い心は君たち独特のもので、指導者を信じる信じないに拘らず、少しの自由を与へられさへすれば、それがどういふこととも知らず、従つて、なんの躊躇もなく、単純に、生な感情をぶちまけるやうなことがある。この、恐ろしく個人的な表現を、公式の尺度ではかると、こいつは事が面倒になる。どうかすると、指導者と云はれる人物のなかには、被指導者の一面の心理を無視して、いつでも公式の表現ばかりを要求する非常識も、現在やや流行してゐるやうだ。それが自分にとつて一番安全な道だと思つてゐる小心な人物が多いんだ。例へば戦ふ国民の心構へとか、日本精神の発揚とかいふ点で、なるほど一所懸命にだけはなつてゐても、最初から相手を信用せず、どうにでも取れる言葉や動作を、わざわざ好ましからぬ意味にとつて、頭ごなしにやつつけようとする態度、この態度は、本来の精神が却つて相手に通じないで、単に不躾な威嚇と見えるやうなことも往々あり得るんだ。これも、僕としては、誰それといふ個人を責めようとは思はない。国民互に相信じる道が失はれ、信じようにも信じるきつかけが容易に作れないところから来てゐる。垣根と云ふか、溝と云ふか、或はまた殻と云ふか、とにかく、われわれが接し合ふのに、何時でも自分でないものがその間に立ち塞つて、直接心と心とが触れ合ふ邪魔をしてゐる場合が非常に多い。しかもそれは、双方、無意識にだ。邪魔とさへ感じなくなつてゐる。今の日本人は、すべてさういふ風に育てられ、それが道徳だとさへ教へ込まれてゐるんだ。しかしだ、それが当り前のことになつてゐながら、実は、なんといふことなしに、つきあひは淋しい。どことなくお互に物足らん。始めのうちは、誰に会つても、探り合ふやうなところがある。さうかと思ふと、きつと、しまひにどつちかが相手の気を腐らせるんだ。ねえ、諸君、これぢやいかん。なんとかしようぢやないか」\n さう云つて、田丸は、やつと明るく眉をひきあげた。すると、その時、大西が、こんどは独り言でなく、田丸の方へ考へ深さうな眼を据ゑながら云ひかけた。\n「その、相手の気を腐らせる原因はただ傲慢といふことにあるんぢやないですか」\n\n十四\n\n「それさ、傲慢乃至無反省だ。いはゆる独善といふやつだ。それがたしかにある。だが、こいつはお互日本人同士の間ではまだそれですませるが、他民族相手には、さうはいかんぞ。判で押したやうなことばかり云つてゐたり、自分自身を棚にあげた議論を吹つかけたりしてゐると、どうもしまひに信用を墜すにきまつてるな。第一、人間としての面白味がない。こんなことで大和民族が損をしちや、つまらん話だ。ほんたうの日本人の姿は、どんなところにでもあるんだが、どつちかと云へば目立たないところにある。だから、見せたい相手にはなかなか見えないといふもどかしさもあるな。その意味では、直接、戦場で日本の兵隊にまみえた奴等の印象を訊きたいな」\n いつになく、頭の疲れをおぼえて、田丸は頸のつけ根をぎゆつと片手で押へた。\n かうして、わざわざ自分の話を聴きに来た青年たちの顔を眺めてゐると、田丸は、実は、なにも云ふべきことはないといふ気が一方ではするのだ。彼等は、晩かれ早かれ、武器をとつて起ち上らねばならぬ。その決意を胸に秘めて、しかも、静かに順番を待つてゐるのである。前途洋々といふ言葉は、この時代の青年にとつて、まつたく新しい意味と響きとをもつものである。生死を超えた境に描き得る唯一の夢を、田丸は、これらの人々と共に想ひ描くことの如何に難いかを、今、つくづくと感じた。己れを恥ぢるといふことに若し真実があるとすれば、これをこそ、いくら恥ぢても恥ぢ足りないのではないか。\n と、この時、だしぬけに、\n「田丸さんは農科の方を出られたつていふのはほんとですか?」\n と、楯雅一が訊ねた。ヒヨウキンな調子で、いくぶん知識青年の好奇心を含んだものである。\n「うん。それがどうしたんだい?」\n 田丸もそれに応じた答へ方をした。\n「いや別に......。ただ、さうだとすると、うちの共同菜園は大したもんだつて、父なんかが話してましたから......」\n「さう?」\n と、とぼけながら、彼は苦笑しないわけにいかなかつた。\n「まあ、専門家がゐるゐないに拘らず、あれだけはしつかりやらうぢやないか。君たちが飽くまでも中心になつてくれたまへ。いろんな家風をもつた一軒一軒の寄り集りが、共通の新しい希望を生みだしていく最も単純な形式があれなんだ。象徴はいつでも若い生命を必要とする。ちよつと子供臭いところもなくちやならんのだ。今日の作業第一日は、いろんな点で、ものの始めらしい、秩序と混沌の面白い対照だつた。僕はなかなか楽しみにしてるんだ」\n 青年たちは、一斉に、美しい瞬きをしてみせた。\n\n\n\n\n家風\n\n\n一\n\n 矢代初瀬の傷は心配するほどのこともなく、その年の暮れには、手の甲の繃帯もとれ、正月には頸筋に当てたガーゼもぐつと小さいものになつた。しかし、腰骨の痛みがなかなかひかず、温泉にでもしばらく漬かつたらと年寄りなどはしきりに勧めるのだけれど、彼女は、そんなのんびりした気分にはなれぬと云つて笑つてゐる。\n 三月にはいり、少し無理をして自転車にも乗つてみた。用達の時間がそれでよほど縮まるわけだが、なんとしても行列を造る暇が惜しい。買物袋には、それゆゑ、いつも文庫本を一冊入れておくことにした。今日は豆腐の配給である。夫の好物を買ひ損ねてはと、急いで駈けつけてみると、もう二十人余りも店先に並んでゐて、しかも、豆腐屋は奥で神さんと口喧嘩をしてゐる。初瀬はこの様子を見て、ご亭主の物を叩きつけるやうな荒つぽい言葉の調子に、売る品物が品物だけに、ふと可笑しさがこみあげて来た。が、それにはかまはず、彼女は自転車を横において、本の頁を繰りはじめると、いきなりうしろから、\n「いやだ、ひとが呼んでも知らん顔して......」\n と、肩を叩かれ、振り向いて、\n「あら、さう? ちつとも知らなかつたわ。今日は早いのね、お宅......」\n 同じ組の伊吹未亡人の借家に住んでゐる大西の細君が、六つになる男の子の手を引いて、口いつぱいの金歯で笑つてゐる。初瀬と丁度同年の三十、しかし、どういふものかぐつと世間馴れてみえる。まことにとぼけた、その代り少しばかり「云ひたいことを云ふ」といふ評判の主婦である。\n「お宅の旦那さまを今日は珍らしくお見かけしたわ。自転車で颯爽とおでかけになるあなたの後ろ姿を、つくづくと門のところで見送つてらしつたわ、たつた今......」"
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"role": "assistant",
"content": " 片眼を細くして相手の反応をうかがふといふ映画もどきの表情が、どうも不似合なものに思はれ、初瀬は、「またはじまつた」と思つたきりで、別にそれには乗らうとしなかつた。\n すると、今度は、初瀬の手から書物を引つたくるやうにして、表紙へ眼をおとし、\n「これ、なにさ......? むづかしいもの読んでるのねえ」\n それが「アンデルセン童話集」なので、初瀬もなにがなんだかわからない。さうかと思ふと、急に、しんみりした科で、初瀬の毛糸のヂヤケツをつまんでみながら、黙り込んでしまつた。\n 行列が動きだした。\n すべての女たちが、子供や主人の旺盛な食慾を想ひ出す瞬間である。めいめいの手に提げたアルミ鍋や大鉢小鉢が、貪婪な胃の腑のやうに彼女らを支配しはじめる。\n 春の日射しの、もう麗らかと云つてもよいこの一つ時を、初瀬も、戦ふ主婦らしく、ほんの心もちではあるが、人並に眼を血走らせてゐた。\n\n二\n\n「どこの家でも今夜は豆腐を食つてると思ふと、ちよつと可笑しいね」\n と、夫の正身は、夕食の膳に向ひながら云つた。\n「よくお昆布があつたね」\n 湯豆腐の鍋をのぞき込んで、姑のふでが感心してみせる。\n「その代り、おシヤウガがどうしても手にはいらなくつて......我慢なすつてね、お義母さま......」\n「ええええ、そんな贅沢はもう云ひませんよ」\n「なんだ、シヤウガなしの湯豆腐か!」\n 言葉は洒落のつもりかどうか、夫が、ひどく不機嫌に顔をしかめるのを、初瀬は軽く受け流して、さつさと子供の分を皿によそつた。母の気に入らないこととみると、夫はいつでも、母にそれを云はせず、自分が代りに小言を云ひ、母が却つてそばからなだめずにゐられなくさせるといふ流儀をとつてゐた。夫の心遣ひはなみなみでないと知りながら、しかも、初瀬には、それがどうもわざとらしく思はれてしかたがない。実際、夫は、食べものにはさうむつかしい方ではなく、母とまるで好みが違ふのである。例へばこの湯豆腐にしても、母さへゐなければ、彼は、ただ醤油をかけてむしやむしや喰ひ、どうかすると、砂糖を振りかけるといふ乱暴さへしかねないのである。\n 母の方は母の方で、もう近頃は、あまり、食べもののことであれこれと注文は出さなくなつた。時節がら、物の不自由を察してでもあらうが、それより、若いものの時代だといふ諦めに似た気持からであることは、すべて見て見ぬ振りをしてゐる様子からでもわかるのである。\n 食卓の空気は、どちらかと云へば賑やかとは云へず、貫太を中心に、たまに笑ひ声を立てるぐらゐで、みんな、口数少く箸を動かすと云ふ風だから、自然、初瀬も、余計なお喋りは慎まなければならなかつた。実家の習慣と、その点まるで違ひ、彼女の父はもちろん、死んだ母なども、きまつて食事の時間になるとはしやぎ出すのを、子供心に、食事とはさういふものと思ひ込んでゐたのである。\n それでゐて、かうして一つの食卓を囲みながら、誰一人、陰気な顔をしてゐるわけではない。初瀬自身にしても、最初は多少窮屈で肩が張るやうにも思つたが、慣れてくると、むしろこの時間が、一番落ちついた時間――家の営みが静かにひと処で営まれる平和な楽しい時間に違ひなかつた。\n 娘時代に、家庭生活といふやうな問題に関心をもちだした仲間同士が、やれ団欒の一つ時がどうの、食卓の話題がどうのと、ただなんとなくざわめいた、夜の光の下で笑ひ興じる親子夫婦のすがたを、互に頭のなかに描いて頬を熱くした記憶を手繰つてみると、そこには、まつたく別個の、今の自分には縁のない世界が、希望そのもののやうに存在してゐたのである。\n\n三\n\n 姑のふでと小姑の梅代は、茶を飲み終ると、静かに「ご馳走さま」と云つて座を起つ。\n すると、後に残つた三人、夫の正身と、妻の初瀬と、息子の貫太とは、別にどうといふ変つた風を見せるわけではないが、ただ、めいめいが、起ち去つた二人の隙間を自然に埋めるやうな気持のひろがりを感じだすのである。\n 貫太は母の肩にもたれかかる。夫の正身は、煙草を大きく輪に吹く。初瀬は、食器の後始末をちよつと延ばさうといふ気分になる。\n「葡萄酒はもうないか?」\n と、夫が、思ひ出したやうに訊ねる。\n「まだとつときが二三本ありますわ」\n「一本開けろよ」\n「白? 赤?」\n「白はなんだつけ?」\n「さあ、持つて来てみませうか」\n 壜のレツテルを見比べながら、どれにしようかと首をひねつてゐる夫の、いかにも呑気さうな様子をみながら、初瀬は一種云ふべからざる淋しさを感じた。実は、ただそれだけのことなら、なんでもないのである。しかし、近頃の夫の日常には、アトリエで何をしてゐるかは別として、彼女の知り得る範囲で、およそ世間と足並を揃へるといふやうなところがない。世間との足並は揃はなくてもよい。せめて、時代の向ふ方向を、自分なりにはつきり見定めてゐるといふ態度を示してほしい。たとへば、朝夕の新聞に目を通しながら、激しく調子を張つた戦況の報道に、眉ひとつ動かさず、彼女が時折、地名などについて質問をしても、ろくに返事をしないで、ほかへ話をもつて行つてしまふ。無関心を装つてゐるなら、その理由をはつきり知りたいと、彼女はつい心が焦ら立つのをどうしやうもなくなる。\n「一杯だけにしてお置きになつたら? ほら、またあとが......」\n と、初瀬は、穏やかに注意をする。しかし、夫は、平気で二杯目を飲み干し、自分で栓を固く押し込んだ壜を彼女の前へどかりと置いて、\n「さ、しまつとけ」\n さういふ夫の科は、しかし、初瀬にとつて、いつも駄々ツ子のやうにみえ、妙に分別臭い時よりはずつとよかつた。\n それをしほに、彼女は起ち上らうとした。すると、貫太が、\n「加寿子さんとこへ遊びに行つていい?」\n「駄目よ、今日は......。それよりお父さまに算数の宿題をみていただきなさい」\n 彼女は、食卓の上を片づけながら云つた。\n「だつて、約束したんだもの、ねえ、お母さん」\n と、貫太はぐづりはじめる。\n「勝手に約束なんかする法ないわ」\n「いやだあ、約束を守らなきや、なほわるいや。僕、行くよ、どうしても......」\n 初瀬は、わざと夫の方を見まいと努めた。\n\n四\n\n 玄関で呼鈴が鳴つた。\n 主人の弟の貞爾が、散歩かたがた、ぶらりとやつて来たのである。同じ渋谷でもずつと省線の駅に近いところで、父親の遺産の分け前を資本に、美術出版をやつてゐる。兄貴と三つ違ひの三十四、晩婚のせいか、まだ書生つぽ風のところが多分にある。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 人間と分って安心した小使さん達が、再び怪物に近づいて行った。よく調べて見ると、蠍の胸の所が割れるようになっている。そこを押し開いてみると、黒い背広服が現われて来た。\n「やっぱり人間だ。若い男だ」\n やっとの事で虫の衣裳を脱がせると、病人のように元気のない一人の洋服青年が、ペーヴメントの上にグッタリとなった。いくら呼びかけても、まだ返事をする気力がなかった。\n「病人だぜ。早く医者へつれて行かなきゃ」\n「それよりもお巡りさんに引渡した方がいいぜ」\n 呼びに行くまでもなく、騒ぎを聞きつけて、そのお巡りさんがやって来た。\n「オイッ、しっかりし給え。どこが悪いんだ。君は一体どこからやって来たんだ」\n 警官に背中をぶちのめされると、若者はやっと目を見開いて、不安らしくあたりを眺めた。\n「君はどこのもんだ」\n 再び訊ねると、若者はモグモグと口を動かして、幽に答えた。\n「相川守っていうんです。......赤蠍にやられたんです」\n「エッ? じゃあんたは、あの相川操一さんの、......」\n「そうです。......珠子の兄です」\n 立並ぶ人々は、それを聞くと、ハッとして思わず目と目を見合わないではいられなかった。\n 相川珠子と云えば、殺人鬼「赤い蠍」の第二の犠牲者として、無残にもその死体を銀座街頭に曝された娘さんではなかったか。今日又、その兄さんが、怪犯人の紋章と云われる、赤い蠍の衣裳を着せられて、丸の内の真中に行き倒れていようとは。\n「詳しいことはあとで聞きます。兎も角、あなたのお宅へ電話をかけて、この事をお知らせしましょう」\n 警官はひどく緊張した面持で、小使を案内に立てて、電話を借りる為に、Sビルディングの中へ駈け込んで行った。\n\n蛻脱の殻\n\n 同じ日の午前十時頃、四谷の桜井品子の家には、又別の椿事が突発していた。\n 品子を初め桜井家の人達は、その朝の丸の内の怪事件をまだ耳にしていなかった。又前夜同家の庭園内で行われた相川青年と曲者との挌闘のことも、少しも気附かないでいた。\n 品子は、昨夜は少しばかりいやな夢に悩まされはしたけれど、一昨夜のように、窓から覗く恐ろしいものの姿を見ないで済んだことを、喜んでいた。\n やっぱりあれは気のせいだったに違いない。皆に話をしなくっていいことをしたと、ホッと胸なでおろす気持だった。\n 午前九時半には、新しい家庭教師の殿村夫人がやって来た。\n「今日は大変お顔色がよござんすわね」\n 殿村夫人は昨日に変る品子の顔色を見て云った。\n「エエ、昨夜はよく眠れましたのよ」\n 品子もほがらかに答えた。たった半時間あとに、どのような恐ろしい運命が、待ち構えているかも知らないで。\n 暫く話している内に、女中が朝のお風呂が沸いたことを知らせて来た。\n「先生、一寸失礼しますわ」\n「エエ、どうか御ゆっくり、わたくし階下でお母さまとお話していますから」\n そうして、品子は湯殿へおりて行ったが、風呂をすませて、手早くお化粧をすると、元の二階の居間へ帰る為に、裏階段を上って、そこにある大広間の前の廊下を歩いていた時、彼女はふと、障子の嵌込みガラスの向うに、異様な物の姿を認めて、思わず立止った。\n そこは二十畳程の大広間なのだが、滅多に使わない座敷だものだから、北側の窓などは両方をしめたままになっていて、部屋の中は陰気に薄暗かった。その薄暗い床の間の前に、何かしら見なれぬ大きなものが置いてあるのだ。\n「マア、あんなもの、いつの間に、誰が持込んだのでしょう」\n 品子さんは、いぶかしさの余り、障子を開けて、二足三足、その床の間の方へ近づいて行った。\n 近づいて行ったかと思うと、彼女は電気にでも打たれたように、ハッと立ちすくんでしまった。飛出すばかり見開かれた両眼が、釘づけになったように、その物体に注がれたまま動かなかった。\n 突如として、絹を裂くような悲鳴が、彼女の口をほとばしった。そして、身体は水母のように力なく、クナクナとくずおれて行った。\n 悪夢とばかり極めていたものが、まざまざとした現実となって、彼女の前に現われたのだ。そこの床の間の前には、あの人間程の真赤な大蠍が、品子さんを睨みつけるようにして、今にも飛びかからん姿勢で蹲まっていたのだ。\n 悲鳴を聞きつけて真先に駈けつけたのは、殿村夫人であった。\n「みなさん、お嬢さまが大変です。早くいらしって下さい」\n 夫人の金切声が、家中の人々を大広間に呼び集めた。折よく居合せた父栄之丞氏を初め、母夫人、書生達から女中までが、先を争うようにして、集まって来た。\n 人々はそこに、世にも異様なすさまじい光景を目撃しなければならなかった。\n 床の間の前には、嘗て見たこともない怪しいものが、醜怪極まる姿勢で蹲まっていた。そして、その畳二枚程手前には、品子さんが歯を喰いしばって気絶していたのだ。\n ここにも亦、今朝の丸の内の場合と同じような事が繰返された。最初の内は、生けるが如き怪物の形相に、誰一人そこへ近づくものはなかったが、やがて、それが恐るるに足らぬ拵えものに過ぎないことが分って来た。\n 手に取って検べて見ると、大蠍の正体は、薄い金属を芯にして、布を張り絵の具を塗った、鎧のような感じのものであった。\n 頭と尻尾とを持って押えつけると、小さく折り畳むことも出来るようになっていた。\n この大蠍は皮ばかりで中は空っぽであった。按うに賊はこの異様な衣裳を二つ以上用意して、一つは相川青年に被せて丸の内へ、一つは空っぽのまま桜井家の広間へ運んで置いたものに相違ない。\n「オヤ、蠍の螯の間から、こんなものが出て来ました」\n 書生の一人が、白い一物を発見して、栄之丞氏に差出した。それは小さく畳んだ一枚の紙片であったが、開いて見ると左のような恐ろしい文言が認めてあった。\n\n我々は本日中に品子さんを頂戴に上る予定だ。随分用心なさるがよろしい。だが、貴下はやがて、如何なる警戒も我々の前には全く無力であることを悟られるであろう。我々は一度思い立った事は必ず為しとげる習慣である。\n\n 文の末に例の赤い蠍の紋章が鮮かに描かれていた。\n 品子さんは直ちに寝室に運ばれたが、殿村夫人の事に慣れた甲斐甲斐しい介抱で、やがて彼女は正気づいた。ただ驚きの余り気を失ったまでの事、安静にさえしていれば、別に心配する程の容態ではない。\n 云うまでもなく、この出来事は、直ちに警視庁に報告された。栄之丞氏自身電話口に出て、知合の蓑浦捜査係長を呼び出し、不気味な予告文のことも詳しく伝えて、至急適当の処置を執って頂きたいと依頼した。\n 蓑浦警部はこの電話を聞くと、非常に驚いている様であったが、すぐ様捜査課のものを四人程さし向ける、蓑浦氏自身も少しおくれてお伺いするという返事であった。\n 待つ間程なく、門前にけたたましい警笛の音がして、自動車を駆ってかけつけた二人の制服警官と二人の私服刑事とが、ドカドカと入って来た。"
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"role": "assistant",
"content": " 彼等は主人から委細を聞取ると、大蠍の衣裳を綿密に取調べた上、目ざましい邸内捜索を開始した。忽ちにして、庭園の足跡、挌闘の痕跡、品子さんの寝室の下の梯子の跡などが発見された。だが、それらの痕跡が何を語るものであるかは、流石の警官達にも、明瞭な判断を下すことが出来なかった。\n 次に家中の人々の個別訊問が行われた。主人から召使の末まで、階下の応接室に呼集められ、一人一人質問を受けた。\n「これでお宅の方は全部ですか。ここへ来ていない人はありませんか」\n 警部補の肩章をつけた制服の一人が訊ねると、主人の桜井氏が答えた。\n「イヤ、この外に娘の家庭教師と女中がいるのですが、二人は今娘の寝室に附添っていますので」\n「アア、そうですか。よろしい、こちらから出向いて訊ねる事にしましょう。どうせお嬢さんからも伺い度いことがあるのですから」\n 警部補はそう云って、二人の刑事に目くばせすると、刑事達は急いで二階へ上って行った。\n 間もなく取調べは終ったが、これという発見もないらしく見えた。\n「女中さんが、今朝大広間を掃除した時には、何もなかったというのですから、その掃除の終った七時半頃から、お嬢さんがあれを発見なさる十時頃までの二時間半の間に、何者かがあれを広間へ運び込んだということになります。恐らくそいつは庭から梯子をかけて忍び込んだのでしょう。その頃お嬢さんの寝室には誰もいなかった上に、窓は明けはなしてあったのだから、多分賊はそこから入って、廊下伝いに広間へ行ったものと思われます。庭にちゃんと梯子を立てた跡があるんですから、この推定は間違いありますまい」\n 警部補はそんな風に判断した。だが、それ以上の事は何も分らなかった。\n そうしている所へ、品子さんの寝室へ取調べに行った二人の刑事が、広間に残してあった例の大蠍を抱きかかえて降りて来た。\n「お嬢さんの話では、一昨日の夜更けに、寝室の窓から、この蠍が覗いたって云うんです。夢を見たんだと思って、誰にも云わなかったのだそうです。そういう事があったあとだものだから、今日こいつを見られた時、一層驚きがひどかったのだろうと思います」\n 刑事が報告した。\n「ホウ、そんなことがあったのですか。わたしはちっとも知らなかった」\n 栄之丞氏も初耳であった。\n「いずれにしても、相手が並々の奴じゃないのだから、余程用心しないといけません。......これでお宅の調べは終りました。我々は今度はお庭の塀の外や隣近所の人達を調べて見たいと思います。なお僕の方も警戒は厳重にする積りですが、あなたの方でも、十分注意して下さい。何よりもお嬢さんを絶対に一人ぼっちにしないことが肝要ですね」\n 警部補は注意を与えて置いて、\n「では外を調べますから」\n と三人の部下を従えて、邸内を立去って行った。例の作り物の大蠍は、賊の予告状と共に、証拠物件として警察に保管する為に、そのまま二人の刑事が抱きかかえて、門前に待っていた自動車へ運び込んだ。\n「あなた大丈夫でしょうか。相川さんのお嬢さんのことを考えると、あたしもう、生きた心地が致しませんわ。それに、あなた、あの賊の予告はいつも間違いなく実行されると申すじゃございませんか」\n 夫人は泣き出さんばかりのオロオロ声であった。\n「ナアニ、そんな取越苦労をして見たって始まらんよ。用心さえすればいいのだ。これからは三人の書生を夜昼絶え間なく品子の側へつけて置くことにしよう」\n「あたし達もあの子の側で寝ることに致しましょう」\n「ウン、それもいいだろう。......じゃ、一つ品子を見に行ってやろうじゃないか。警察のお蔭で、肝腎の病人の方がお留守になってしまった」\n そこで、桜井氏夫妻は、可哀相な品子さんを慰める為に、階段を上って、その寝室へ入って行ったのだが、......\n ドアを開けるや否や、流石の桜井氏も、「アッ」とのけぞらんばかりに驚かないではいられなかった。\n 女中が気を失って倒れている。殿村夫人は猿轡をはめられ、手足を縛られて転がっている。ベッドはと見ると、これはまあどうしたことだ。品子さんの姿は煙の様に消えてなくなっていたではないか。\n 夫人は余りの事にそこの椅子にヨロヨロと腰かけたまま、茫然として物を云う力もない。\n「オーイ、誰か来てくれ。早く早く」\n 桜井氏は廊下に飛び出して大声に怒鳴った。\n バタバタと書生共が階段を上って来る。\n「今の警官達がまだその辺にいる筈だ。早く呼び戻してくれ。お嬢さんが見えなくなりましたと云って」\n 書生達が駈け出すあとについて、桜井氏も階段を降り、電話室に飛び込むと、受話器をガチャガチャ云わせて、性急に交換手を呼んだ。\n だが、いくら待っても交換手は出て来なかった。どうも変だ。受話器の中は死んだ様に静まり返って、電流が遮断されているとしか思えなかった。時も時、電話に支障が起るとは。\n 電話を諦めて玄関へ飛び出して行くと、外から帰って来た書生達とぶッつかった。\n「どうだ。さっきの人達はまだいたか」\n「どこを探してもいないんです。第一あの自動車が見えません。警視庁へ帰ったのじゃありませんか」\n「そうか。仕方がない。君、お隣の電話を借りてね、(家の電話は故障らしいんだ)この事を警視庁へそう云ってくれ給え。早くし給え」\n 一人の書生がお隣りの門内へ駈け込んで行く。桜井氏はそれを待つのももどかしく、\n「イヤ、俺がかけよう」と口走りながら、書生のあとを追って行った。\n\n大魔術師\n\n「アア、モシモシ、蓑浦捜査係長は居られませんか。僕は桜井というもんです。桜井と云えば分ります」\n そこの家の電話室へ飛び込んで、警視庁を呼び出すと、彼は送話口にしがみつくようにして呶鳴った。\n「アア、蓑浦君ですか、僕桜井。大変なことが起ったんだ。君がよこしてくれた人達が取調べを済ませて帰ったすぐあとでね、娘が見えなくなったんだ。ベッドに寝させてあったのだがね。そのベッドが空っぽになっちまったんだ」\n すると先方は妙なことを云い出した。\n「アア、モシモシ、あなた桜井栄之丞さんですね。なんだか話が喰い違っているようですが。私からだと云って誰かがそちらへ行ったんですか」\n「何を云ってるんだ。今から三十分程前に、君に電話をかけたじゃないか。その結果君が四人の警官をよこしてくれたんじゃないか」\n「待って下さい。それゃ変ですね。私はあなたから電話を頂いた覚えはありませんよ。一寸待って下さい。尋ねて見ますから。......アア、モシモシ、今尋ねて見ましたがね、捜査課からは誰もあなたの方へ出張したものはありませんよ。確かに警察のものだったのですか」\n「そうですよ。制服が二人に私服が二人だった。中に警部補がいてね、斎藤という名刺をくれましたよ」\n「エ、斎藤? 斎藤ですか。桜井さん、こりゃ困ったことになりましたね。僕の方には斎藤なんて警部補は一人もいないんですよ。その警官というのが賊の変装だったかも知れん。兎も角大急ぎでお邪魔します。詳しいことは、そちらで伺いましょう」\n そして、ガチャンと受話器をかける音がして電話が切れた。\n 桜井氏は、この途方もない錯誤の意味をどう解いていいのか、全く昏迷に陥ってしまった。\n 先程電話は確かに警視庁へ通じたのだ。そして蓑浦氏らしい声が電話口へ出たことも間違いない。いかな赤蠍の怪腕でも、電話局のつなぐ相手を、外部からどうすることが出来よう。全く不可能な話だ。\n それが第一の不思議。第二の不思議はいつの間に品子を誘拐したかという点だ。四人の者は、衆人環視の中を、堂々と退出したではないか。そこには何等トリックを弄する余地はなかった。とすると、彼等の外に別働隊があって、裏庭から例の梯子を利用して、品子の寝室の窓によじ登ったとしか考えられない。そして殿村夫人と女中とをやッつけて置いて、同じ梯子によって、品子を担ぎ出したとしか考えられない。\n だが果してそんな余裕があっただろうか。刑事達が寝室の取調べを終って降りて来てから、桜井氏夫妻が上って行くまで、精々長く見て十分しかなかった。\n たった十分の間に、梯子をかけ、それを登り、窓から闖入して、女中を殴打昏倒せしめ、殿村夫人を縛り上げて猿轡をはめ、それから品子を無抵抗にして置いて窓を担ぎ出し、梯子をどこかへ隠した上、裏の塀を越えて逃げる。それが品子という重い荷物を担ぎながらだ。仮令二人三人力を合せたとしても、十分で出来る仕事ではない。殊に塀の外には、往来の人もあり、その目をさける為には更に一層の時間を要する訳だ。これも亦全然不可能な話ではないか。\n だが、いかに不可能ばかり重なっていようとも、品子を奪い去られたという事実は、厳として存するのだ。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 私が子供の時に見たり聞いたりしたことを雑然とお話しようが、秩序も何もありませんよ。その上子供の時の事ですから、年代などは忘れてしまってる。元治慶応明治の初年から十五、六年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国馬喰町辺の事ですか――さようさね、何から話して好いか――見世物ですな、こういう時代があった。何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境内に、大人形といって、海女の立姿の興行物があった。凡そ十丈もあろうかと思うほどの、裸体の人形で、腰には赤の唐縮緬の腰巻をさして下からだんだん海女の胎内に入るのです。入って見ると彼地此地に、十ヶ月の胎児の見世物がありましたよ。私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺めましたっけ。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。この大人形が当ったので、回向院で江の島の弁天か何かの開帳があった時に、回向院の地内に、朝比奈三郎の大人形が出来た。五丈ほどありまして、これは中へ入るのではなく、島台が割れると、小人島の人形が出て踊るというような趣向でした。それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの〳〵と目がけてた。可笑かったのは、花時に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませんでした。今の浅草の十二階などは、この大きいものの流行の最後に出来た遺物です。これは明治前でしたが、当時の両国橋の繁華といったら、大したもので、弁天の開帳の時などは、万燈が夥しく出て、朝詣の有様ったらありませんでしたよ。松本喜三郎の西国三十三番観音の御利益を人形にして、浅草で見世物にしたのなど流行った。何時だったか忘れたが、両国の川の中で、水神祭というのがあった。これには、の組仕事師中の泳ぎの名人の思付きで、六間ばかりの油紙で張った蛇体の中に火を燈し、蛇身の所々に棒が付いてあるのを持って立泳ぎをやる。見物がいくばくとも数知れず出たのでしたから、ちょっと見られぬ有様でして、終いには柳橋の芸者が、乙姫になってこの水神祭に出るという騒ぎでした。確か言問団子が隅田川で燈籠流しをした後で、その趣向の変形したもののようでした。当時の両国は、江戸錦絵などに残っているように大したもので、当時今の両国公園になっている辺は西両国といって、ここに村右衛門という役者が芝居をしていた。私の思うのには、村右衛門が河原物といわれた役者の階級打破に先鞭を附けたものです。というのは、この村右衛門は初め歌舞伎役者でしたのが、一方からいえば堕落して、小屋ものとなって西両国の小屋掛で芝居をしていた。一方では真実の役者がそれぞれ立派に三座に拠っていたが、西両国という眼抜きの地に村右衛門が立籠ったので素破らしい大入です。これがその後一座を率いて、人形町の横にあった中島座となりまた東両国の阪東三八の小屋、今の明治座の前身の千歳座のなお前身である喜昇座の根底を為したので、まず第一歌舞伎役者と小屋ものとの彼らの仲間内の階級を打ち破ったのが、この阪東(後改め)大村村右衛門でした。その外の見世物では、東両国の橋袂には「蛇使」か「ヤレ突けそれ突け」があった。「蛇使」というのは蛇を首へ巻いたり、腕へ巻いたりするのです。「ヤレ突けそれ突け」というのは、――この時代の事ですから、今から考えると随分思い切った乱暴な猥雑なものですが――小屋の表には後姿の女が裲襠を着て、背を見せている。木戸番は声を限りに木戸札を叩いて「ヤレ突けそれ突け八文じゃあ安いものじゃ」と怒鳴っている。八文払って入って見ると、看板の裲襠を着けている女が腰をかけている、その傍には三尺ばかりの竹の棒の先きが桃色の絹で包んであるのがある。「ヤレ突けそれ突け」というのは、その棒で突けというのです。乱暴なものだ。また最も流行ったのは油壺に胡麻油か何かを入れて、中に大判小判を沈ましてあって、いくばくか金を出して塗箸で大判小判を取上げるので、取上げる事が出来れば、大判小判が貰えるという興行物がありました。また戊辰戦争の後には、世の中が惨忍な事を好んだから、仕掛物と称した怪談見世物が大流行で、小屋の内へ入ると薄暗くしてあって、人が俯向いてる。見物が前を通ると仕掛けで首を上げる、怨めしそうな顔をして、片手には短刀を以って咽喉を突いてる、血がポタポタ滴れそうな仕掛になっている。この種のものは色々の際物――当時の出来事などが仕組まれてありました。が、私の記憶しているのでは、何でも心中ものが多かった。こんなのを薄暗い処を通って段々見て行くと、最後に人形が引抜きになって、人間が人形の胴の内に入って目出たく踊って終になるというのが多かったようです。この怪談仕掛物の劇しいのになると真の闇の内からヌーと手が出て、見物の袖を掴んだり、蛇が下りて来て首筋へ触ったりします。こんなのを通り抜けて出ることが出来れば、反物を景物に出すなどが大いに流行ったもので、怪談師の眼吉などいうのが最も名高かった。戦争の後ですから惨忍な殺伐なものが流行り、人に喜ばれたので、芳年の絵に漆や膠で血の色を出して、見るからネバネバしているような血だらけのがある。この芳年の絵などが、当時の社会状態の表徴でした。\n 見世物はそれ位にして、今から考えると馬鹿々々しいようなのは、郵便ということが初めて出来た時は、官憲の仕事ではあり、官吏の権威の重々しかった時の事ですから、配達夫が一葉の端書を持って「何の某とはその方どもの事か――」といったような体裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が残ってあった頃で、この時分までは木戸を閉さなかったのが、戦争の前後は世の中が物騒なので、町々の木戸を閉したのでしたが、木戸番は番太郎といって木戸傍の小屋で、荒物や糊など売っていたのが、御維新後番兵というものが出来て、番太郎が出世して番兵となって、木の棒を持って町々を巡廻し出して、やたらに威張り散し、大いに迷惑がられたものでしたが、これは暫時で廃されてしまった。その番兵の前からポリスというものがあって、これが邏卒となり、巡邏となり、巡査となったので、初めはポリスって原語で呼んでいた訳ですな。こういうように巡査が出来る前は世の中は乱妨で新徴組だとか、龍虎隊だとかいうのが乱妨をして、市中を荒らしたので、難儀の趣を訴えて、昼夜の見廻りが出来、その大取締が庄内の酒井左右衛門尉で、今の警視総監という処なのです。このポリスが出来るまでは、江戸中は無警察のようでした。今商家などに大戸の前の軒下に、格子の嵌めてある家の残っているのは、この時に格子を用心のために作ったので、それまでは軒下の格子などはなかったものだ。\n 世の中がこんなに動乱を極めている明治元年の頃は、寄席などに行くものがない。ぺいぺい役者や、落語家やこの種の芸人が食うに困り、また士族などが商売を初める者が多く、皆々まず大道商人となって、馬喰町四丁内にギッシリと露店の道具屋が出ました。今考えると立派なものが夜店にあったものです。その大道商人の盛んに出たことは、こういうことで当時の夜店の様が察しられる。夕方に商人が出る時分に「おはよ〳〵」の蝋燭屋の歌公というのが、薩摩蝋燭を大道商人に売り歩いて、一廉の儲があった位だということでした。「おはよ〳〵」とは、歌公が「おはよ〳〵の蝋燭で御座いかな」と節を附けて歌い、変な身ぶりで踊りながら売歩いたので、「おはよ〳〵の歌公」ッて馬喰町辺では有名な男で、「おはよ〳〵の――で御座いかな」という言葉が流行った位だ。\n 売声で今一つ明治前に名高かったのは、十軒店の治郎公というのが、稲荷鮨を夜売り歩いた。この治郎公は爺でしたが、声が馬鹿に好い、粋な喉でしたので大流行を極めた。この男の売声というのは、初めに「十軒店の治郎公」とまず名乗りを上げて、次にそれは〳〵猥褻な歌を、何ともいえぬ好い喉で歌うのですが、歌は猥褻な露骨なもので、例を出すことも出来ないほどです。鮨売の粋な売声では、例の江鰶の鮨売などは、生粋の江戸前でしたろう。この系統を引いてるものですが、治郎公のは声が好いというだけです。この治郎公の息子か何かが、この間まで本石町の人形屋光月の傍に鮨屋を出していましたっけ。市区改正後はどうなりましたか。\n この時分、町を歩いて見てやたらに眼に付いて、商売家になければならぬように思われたのは、三泣車というのです。小僧が泣き、車力が泣き、車が泣くというので、三泣車といったので、車輪は極く小くして、轅を両腋の辺に持って、押して行く車で、今でも田舎の呉服屋などで見受ける押車です。この車が大いに流行ったもので、三泣車がないと商家の体面にかかわるという位なのでした。それから明治三、四年までは、夏氷などいうものは滅多に飲まれない、町では「ひやっこい〳〵」といって、水を売ったものです。水道の水は生温いというので、掘井戸の水を売ったので、荷の前には、白玉と三盆白砂糖とを出してある。今の氷屋のような荷です。それはズット昔からある水売りで、売子は白地の浴衣、水玉の藍模様かなんかで、十字の襷掛け、荷の軒には風鈴が吊ってあって、チリン〳〵の間に「ひやっこい〳〵」という威勢の好いのです。砂糖のが文久一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附があって、人の立止るを許さない。ちょっとでも止ると「通れ」と怒鳴った頃で、その見附のズット手前に、治郎公(鮨やの治郎公ではない)という水売が名高かった。これは「ひやっこい〳〵」の水売で、処々にあった水茶屋というのは別なもの、今の待合です。また貸席を兼ねたものです。当時水茶屋で名高かったのは、薬研堀の初鷹、仲通りの寒菊、両国では森本、馬喰町四丁目の松本、まだ沢山ありましたが、多くは廃業しましたね。"
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"content": " この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、生馬の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――薬種屋の虎屋の横町の俗称――今の有名な泥鰌屋の横町辺が中心です。西両国、今の公園地の前の大川縁に、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、長左衛門という寄席がありましたっけ。有名な羽衣せんべいも、加賀屋横町にあったので、この辺はゴッタ返しのてんやわんやの騒でした。東両国では、あわ雪、西で五色茶漬は名代でした。朝は青物の朝市がある。午からは各種の露店が出る、銀流し、矢場、賭博がある、大道講釈やまめ蔵が出る――という有様で、その上狭い処に溢れかかった小便桶が並んであるなど、乱暴なものだ。また並び床といって、三十軒も床屋があって、鬢盥を控えてやっているのは、江戸絵にある通りです。この辺の、のでん賭博というのは、数人寄って賽を転がしている鼻ッ張が、田舎者を釣りよせては巻き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです。この辺では屋台店がまた盛んで、卯之花鮨とか、おでんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。踵をちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。それから露店のイカサマ道具屋の罪の深いやり方のには、こういうのがある。これはちょっと淋しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、小さい菰座を拡げて、珊瑚珠、銀簪、銀煙管なんかを、一つ二つずつ置いて、羊羹色した紋付を羽織って、ちょっと容体ぶったのがチョコンと坐っている。女や田舎ものらが通りかかると、先に男がいくばくかに値をつけて、わざと立去ってしまうと、後で紋付のが「時が時ならこんな珠を二円や三円で売るのじゃないにアア〳〵」とか何とか述懐して、溜呼吸をついている。女客は立止って珠を見て、幾分かで買うと、イカサマ師はそのまま一つ処にはいない、という風に、維新の際の武家高家の零落流行に連れて、零落者と見せかけてのイカモノ師が多かったなどは、他の時代には見られぬ詐偽商人です。また「アラボシ」といって、新らしいものばかりの露店がある。これは性が悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際素通りの聞放しをさせない、袂を握って客が値をつけるまで離さない。買うつもりで価を聞いたのだろうから、いくばくか値を附けろ、といったような剣幕で、二円も三円もとの云価を二十銭三十銭にも附けられないという処を見込んだ悪商人が多く「アラボシ」にあった。今夜店の植木屋などの、法外な事をいうのは、これらアラボシ商人の余風なのでしょう。一体がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切っていた。江戸ッ子でないものは人でないような扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙せられた、本来江戸児とは比較にもならない頓馬な地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心が、江戸ッ子の考えに瞑々の中にあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。\n 散髪になり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘を髷の上に冠ったのなどがありますし、当時の床屋の表には、切った髷を幾つも吊してあったのは奇観だった。\n また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子の筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作ものなどを附け、竹では撓まって保てなくなると、屋の棟に飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧の大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚げるのは浅草とか、夜鷹の出た大根河岸などでした。秩父屋というのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町へ引移して、飾提灯即ち盆提灯や鬼灯提燈を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋の、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸りから考えた凧が流行らなくなると、鯨屋になって、今でも鯨屋をしています。\n それから東京市の街燈を請負って、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒の松本でした。燈はランプで、底の方の拡がった葉鉄の四角なのでした。また今パールとか何とかいって、白粉下のような美顔水というような化粧の水が沢山ありますが、昔では例の式亭三馬が作った「江戸の水」があるばかりなのが、明治になって早くこの種のものを売出したのが「小町水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社の紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居に、ドロドロの火薬係をやった人でして、その化粧水をポマドンヌールと命けていた。どういう意味か珍な名のものだ。とにかく売れたものでしたね。この翁屋の主人は、紅葉さんなんかと友人で、文墨の交がある位で、ちょっと変った面白い人で、第三回の博覧会の時でしたかに、会場内の厠の下掃除を引受けて、御手前の防臭剤かなんかを撒かしていましたが、終には防臭剤を博覧会へ出かけちゃ、自分で撒いていたので可笑しかった。その人も故人になったそうですが、若くって惜しいことでしたね。\n(明治四十二年八月『趣味』第四巻第八号)"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 私は土間へ引っくり返ってワンワン泣き出しました。何をいうにも今年十五の色男だすケに根っから他愛がありませぬ。そこへ奥から母親が出て来まして、\n『何事、泣きよるとナ』\n と心配して聞きましたから、\n『指環の無うなったあ。ウワア――』\n と一層、高音を揚げて精一パいに泣出しますと、母親は私の坊主頭を撫でながら、\n『ヨカヨカ。指環ぐらい其中、買うちゃる』\n と慰めてくれました。私は腹立ち紛れに、\n『アンタに買うてもろうたチャ詰まらん』\n と怒鳴ってメチャメチャに泣出しましたが、あん時はダイブ失恋しておりましたナア。\n\n 鰒も、ずいぶん喰いましたなあ。\n 私の口から云うのも何で御座いますが、親父は市場でも相当顔の利いた禿頭で御座いましただけに、その頃はまだ警察から禁められておりましたフクを平気で自宅の副食物にしておりました。まあだ乳離れしたバッカリの私の口へ、雄精なぞを箸で挟んで入れてくれますので母親がビックリして、\n『馬鹿な事ばしなさんな。年端も行かん児供が中毒って死んだならどうしなさるな』\n と押止めますと、親父は眼を剥いて母親を怒鳴付けたそうです。\n『......甘いこと云うな。鰒をば喰い能らんような奴は、博多の町では育ち能らんぞ。今から慣らしておかにゃ、詰まらんぞ。中毒って死ぬなら今の中じゃないか』\n そげな調子で、いつから喰い初めたか判然りませんが、鰒では随分、無茶をやりました。\n 最初は一番毒の少ないカナトウ鰒をば喰いましたが、だんだん免疫て来ますと虎鰒、北枕ナンチいうものを喰わんとフク喰うたような気持になりまっせん。北枕なぞを喰うた後で、外へ出て太陽光に当ると、眼が眩うてフラフラと足が止まらぬ位シビレます。その気持の良え事というものは......。\n それでもダンダンと毒に免疫て来ると見えて、後日には何とものうなって来ます。北枕を喰うた奴も一町内に三人や五人は居るような事でトント自慢になりまっせんケニ、一番恐ろしいナメラという奴を喰うてみました。\n ナメラというのは小さい鰒で、全身が真黒でヌラッとした見るからに気味の悪い恰好をしておりますが大抵の鰒好が『鰒は洗いよう一つで中毒らん。しかしナメラだけはそう行かん』と申します。そうかと思うと沖から来る漁夫なぞは『甘い事云いなさんな。ナメラが最極上利く』と云う者も居ります。\n そこで私共の放蕩仲間が三四人申合わせてそのナメラを丸のままブツ切りにして味噌汁に打込んで一杯飲る事にしましたが、それでも最初はヤッパリ生命が惜しいので、そのナメラの味噌汁をば浜外れの蒲鉾小舎に寝ている非人に遣ってみました。\n『ホラ......余り物ば遣るぞ』\n と云うて蒲鉾小舎の入口に乾いて在る面桶に半分ばかり入れてやりましたので、非人はシキリに押頂いておりましたが、暫くしてから行ってみますと、喰うたと見えて面桶が無い。本人もまだ生きて煙草を吸うている様子です。そこで安心して皆で喰べましたが、美味う御座いましたなあ。ソレは......トテモ良え気持に酒が廻わってしまいました。\n それから帰り途にその非人の処を通りかかりましたが、酔うたマギレの上機嫌で、\n『最前の味噌チリ喰うたか』\n と尋ねてみますと老人の躄の非人が入口に這い出して来てペコペコ拝み上げました。\n『ヘイヘイ。ありがとう様で御座ります。アナタ方も召上りましたか』\n と爛れた瞳をショボショボさせました。\n『ウン。喰うた。トテモ美味かったぞ』\n と正直に答えますと、暫く私どもの顔を見上げておりました非人は、先刻、呉れてやった味噌チリの面桶を筵の蔭から取出しました。\n『ヘイ。それなら私も頂戴きまっしょう』\n とモウ一ペン面桶を拝み上げてツルツル喰い始めたのには驚きました。非人で試験してみるつもりが、正反対に非人から試験された訳で......。\n これはマア一つ話ですがそげな来歴で、後日にはそのナメラでも満足せんようになって、そのナメラの中でも一番、毒の強い赤肝を雁皮のように薄く切ります。それから大きな褌盥に極上井戸水を一パイ張りまして、その中でその赤肝の薄切りを両手で丸めて揉みますと、盥一面に山のごと泡が浮きます。まるで洗濯石鹸を揉むようで......その水を汲み換え汲み換え泡の影が無うなるまで揉みました奴の三杯酢を肴にして一杯飲もうモノナラその美味さというものは天上界だすなあ。喰い残りを掃溜へ捨てた奴を、鶏が拾いますとコロリコロリ死んでしまいますがなあ。\n ......ヘエ。私は四度死んで四度とも生き返りました。四度目にはもう絶望ちいうて棺桶へ入れられかけた事もあります。私の兄貴分の大惣ナンチいう奴は棺の中でお経を聞きながらビックリして、ウウ――ンと声を揚げて助かりました位で......イエイエ。作りごとじゃ御座いまっせん。この理窟ばっかりは大学の博士さんでもわからん。ヘエ。西洋の小説にもそのような話がある......墓の下から生上った......ヘエ。それは小説だっしょうが、これは小説と違います。正直正銘シラ真剣のお話で......。\n\n 御承知か知りませんが、鰒に中毒ると何もかも痲痺てしもうて、一番しまい間際に聴覚だけが生き残ります。\n 最初、唇の周囲がムズ痒いような気持で、サテは少と中毒ったかナ......と思ううちに指の尖端から不自由になって来ます。立とうにも腰が抜けているし、物云おうにも声が出ん。その中に眼がボウ――ッとなって来て、これは大変が出来たと思うた時にはモウ横に寝ているやら、座っているやら自分でも判然んようになっております。ただ左右の耳だけがハッキリ聞こえておりますので、それをタヨリに部屋の中の動静を考えておりますところへ、聞慣れた近所の連中の声がガヤガヤと聞こえて来ます。気の早い連中で、モウ棺箱を担い込んで来ている模様です。\n『馬鹿共が。又三人も死んでケツカル。ほかに喰う品物が無いじゃあるまいし』\n『知らぬ菌蕈喰うて死んだ奴と鰒喰うて死んだ奴が一番、見ともないナア』\n『駐在所にゃ届けといたか』\n『ウン。警察では又かチウて笑いよった。いま警察から医師が来て診察するち云いよった』\n『診察するチウて脈の上った人間はドウなるもんかい』\n『棺の中へ入れとけ。ドッチにしても形式ばっかりの診察じゃろうケニ』\n『蓋だけせずに置けや。親兄弟が会いげに来るケニ......』"
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"role": "assistant",
"content": "『親兄弟も喜ぼうバイ、此輩どもが死んだと聞いたならホッとしよろう』\n『可哀相に......泣いてやる奴も居らんか......電信柱の蝉ばっかりか。ヤ......ドッコイショ......』\n『重たいナア。死んだ奴は......』\n『結構な死態タイ。良え了簡バイ。鰒に喰われよる夢でも見よろう』\n『ハハハ。鰒の方が中毒ろうバイ』\n『しかしこの死態をば情婦い見せたナラ、大概の奴が愛想尽かすばい。眼球をばデングリ返いて、鼻汁垂れカブって、涎流っとる面相あドウかいナ』\n『アハハハ。腐った鰒に似とる。因果覿面バイ』\n『オイオイ。ここは湊屋の仁三郎が長うなっとる。誰か両脚の方ば抱えやい』\n『待て待て。その仁三郎は待て。今俺が胸の処をば触って見たれあ、まだどことのう温い様ある。まあだ生きとるかも知れん』\n『ナニ。生きとるかも知れん。馬鹿吐け。見てんやい。眼球ア白うなっとるし、睾丸も真黒う固まっとる。浅蜊貝の腐ったゴト口開けとる奴ばドウするケエ』\n『まあまあ。そう云うな。一人息子じゃけに、念入れとこう』\n この時ぐらい親の恩を有難いと思うた事は御座いません。親というものが無かったならこの時に私は、ほかの連中と一所に棺箱へ入れられて、それなりけりの千秋楽になっておりました訳で......。\n『その通りその通り。助けてくれい助けてくれい』\n と呼ぼうにも叫ぼうにも声は出ず、手も合わせられませぬ。耳を澄まして運を天に任かせておるその恐ろしさ。エレベータの中で借金取りに出会うたようなもので......ヘエ......。\n それでもお蔭様で生き上りますと又、現金なもので、折角、思い知った親の恩も何も忘れて博奕は打つ......××はする......。\n\n ......ヘエ。その××ですか。これはどうも商売の奥の手で、この手を使わぬ奴は人気が立たず。魚類が売れません。まあ云うてみればこの奥の手を持たん奴は魚売の仲間に這入らんようなもので......ヘヘヘ。\n その頃、私はまあだ問屋の糶台に座らせられません。禿頭の親爺がピンピンして頑張っておりましたので......その親父が引いてくれた魚類の荷籠に天秤棒を突込んで、母親が洗濯してくれた袢纏一枚、草鞋一足、赤褌一本で、雨風を蹴破ってワアッと飛出します。どこの町でも魚類売りは行商人の花形役者で......早乙女が採った早苗のように頭の天頂に手拭をチョット捲き付けて、\n『ウワ――イ。ナマカイランソ(鰯の事)、ウワ――アアイイ......』\n と横筋違に往来ば突抜けて行きます。号外と同じ事で、この触声の調子一つで売れ工合が違いますし、情婦の出来工合が違いますケニ一生懸命の死物狂いで青天井を向いて叫びます。そこが若い者のネウチで......。\n しかも呼込まれる先々が大抵レコが留守だすケニ間違いの起り放題で、又、間違うてやりますと片身の約束の鯖が一本で売れたりします。おかげでレコも帰って来てから美味いものが喰えるという一挙両得になるワケで......。\n それでも五六軒も大持てに持てて高価い魚がアラカタ片付く頃になりますと、もうヘトヘトになって、息が切れて、走ろうにも腰がフラ付きます。太陽様が黄色く見えて、生汗が背中を流れて、ツクツク魚売人の商売が情無うなります。何の因果でこげな人間に生れ付いたか知らん。孫子の代まで生物は売らせまいと思い思い空になった荷籠を担いで帰って来ます。\n それでも若い中は有難いもので、その晩一寝入りしますと又、翌る朝は何とのう生魚を売りに行きとうなります。\n\n バクチは親父が生きとる中は遣りませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から初めまして、三年経たぬ中に身代をスッテンテレスコにして終いました。それを苦に病んで母親も死ぬる......というような事で、親不孝者の標本は私で御座います。ヘイ。\n 今では身寄タヨリが在りませぬので、イクラ働いても張合いが御座いまっせん。それでも世界中が親類と思うて、西洋人の世話までしてみましたが、誰でも金の話だけが親類で、他事は途中で擦違うても知らん顔です。\n『道楽はイクラしても構わん。貴様が儲けて貴様が遊ぶ事じゃケニ文句は云わんが、赤の他人でも親類になる......見ず知らずの他人の娘でも蹴倒おす金の威光だけは見覚えておけよ』\n というのが死んだ親父の口癖で御座いましたが、全くその通りの懸価なしで、五十幾歳のこの年になって、ようようの事、世間が見えて来ましたがチット遅う御座いましたナア。人間万事身から出た錆と思うて......親不孝の申訳と思うて、誰でも彼でも親切にしてやる片手間には、イツモ親父の石塔に頭を下げておりますが、お蔭で恩知らずや義理知らずに出会うても格別腹も立ちまっせん。両親の墓に線香を上げるとスウーッとしてしまいます。\n バクチの失敗談ですか。バクチの方はアンマリ面白い事は御座いまっせんばい。資金に詰まって友達の生胆を売って大間違いを仕出かしたのを幕切にして、立派にやめてしまいましたが、考えてみると私輩の一生は南京花火のようなもので......シュシュシュシュポンポンポン......ウワアーイというただけの話で......。\n ......ヘエ......その生胆売りの話ですか。どうも困りますなあ。アンマリ立派な話じゃ御座いませんので......あの時のような遣切ない事はありまっせんじゃった。今まで誰にも云わずにおりましたが......懲役に遣られるかも知れませんので......。決して悪気でした事では御座いませんじゃったが、人間の生胆と枕草紙は警察が八釜しゅう御座いますケニなあ......。\n もっとも友達の生胆を売ったチウたて、ビックリする程の事じゃ御座いません。生胆の廃物利用をやって見た迄の事だす。前のバクチの一件の続きですが......私が二十三か四かの年の十二月の末じゃったと思いますケニ、明治二十年前後の事だしつろうか。\n 前にも申しました通りバクチは親父の生きとる中は大幅で遣れませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から枕経の代りに松切坊主を初めましたので、三年経たぬ中に身代がガラ崩れのビケになってしもうた。それを苦にした母親が瘠せ細って死ぬる。折角来てくれた女房までもが見損のうたと吐いて着のみ着のままで逃げてしもうた。その二十三か四の年の暮が仙崖さんの絵の通り『サルの年祝うた』になってしもうた。\n 借金で首がまわらぬと申しますが、あの味わいバッカリは借金した者でないと理解りまっせん。博多の町中、行く先々、右も左も虱の卵生み付けたゴト不義理な借銭ばっかり。真正面の青天井に見当を附けて兵隊さん式にオチニオチニと歩まぬと、虱の卵を生み附けられた顔がイクラでも眼に付きます。その虱の卵が一つ一つに孵化て、利が利を生みよる事を考えると、トテモ博多の町に居られた沙汰では御座いませぬ。こげな事にかけますと私はドウモ気の小さい方と見えまして......ヘイ。\n 私の女郎買とバクチの先達で大和屋惣兵衛、又の名を大惣という男が居りました。最前チョットお話ししました棺の中でお経を聞いてビックリした豪傑で、お寺の天井に居る羅漢様と生き写しの面相で、商売の古道具屋に座って、煙草を吸うております中に蜘蛛が間違えて巣を掛けよるのを知らずにおったという大胆者で御座います。\n 平生から私の事をドウ考えているか判然りませんでしたが、イヨイヨ押詰まった師走の二十日頃にこの男の処へ身の上相談に行きますと、相変らず煤け返った面で古道具の中に座っておりましたが、私の顔をジイッと見ながら、黙って左の掌を出せと申します。何を云うかわからん、気味の悪いところがこの男のネウチで、啣え煙管のまま私の掌を見ておりましたが、\n『これはナカナカ運のいい手相じゃ。長崎へ行けばキット運が開けると手筋に書いてある』\n と云います。私は呆れました。\n『馬鹿吐け。長崎へ行く旅費がある位なら貴様の処へ相談に来はせぬ』\n『まあ待て。そこが貴様の運のええところじゃ。運気のお神様は貴様の来るのを待って御座った』\n と云ううちにチョット出て行きますと、瞬く間に五十両の金を作って来たのには驚きました。\n『実は俺も生れてから四十五年、ここへ坐っ居ったが、イヨイヨこの家へ居ると四十六の年が取れん位、借金の下積になっとる。ちょうど女房と子供が、実家の餅搗の加勢に行とるけに、この店をば慾しがっとる奴の処へ行て委任状と引換えに五十両貰うて来た。序に俺のバクチの弟子で女房の弟に当るチットばかり耳の遠い常吉という奴も、長崎へ行きたがっとるけに、今寄って誘うて来た。三人連れで長崎へ行て一旗揚げてみよう。異人相手の古道具は儲かる理窟を知っとるけに、大船に乗った気で随いて来い』\n と云います。日本一アブナイ運の神様ですが、迷うておりました私は大喜びで、そこへボンヤリ這入って来た、今の話のツン州という若者と三人で久し振りに前祝を一パイ遣って、夜汽車に乗って長崎へ来ました。\n\n ところで途中、湯町にも武雄(いずれも女の居る温泉場)にも引っかからず長崎へ着いて、稲佐という処の木賃宿へ着いた迄は上出来でしたが、その頃の五十両というと今の五百円ぐらいには掛合いましたもので、三人とも長崎見物の途中から丸山の遊廓に引っかかって、チョットのつもりがツイ長くなり、毎日毎日チャンチャンチャンチャンと花魁船を流している中に五十両の金が、溝鼠のように逃げ散らかってしもうた。仕方なしにモトの木賃宿に帰って来ると泣面に蜂という文句通りに、大惣が大熱を出いて、煎餅布団をハネ除けハネ除け苦しがる。今で云う急性肺炎じゃったろうと人は云いますが、お医者に見せる銭なぞ一文も在りませんけに、濡手拭で冷やいてやるばっかり。そのうちに大惣がクタビレて来たらしく、気味の悪いくらい静かになって来た。半分開いた眼が硝子のゴト光って、頬ベタが古新聞のゴト折れ曲って、唇の周囲が青黒う変って、水を遣っても口を塞ぎます。洗濯板のようになった肋骨を露出いてヒョックリヒョックリと呼吸をするアンバイが、どうやら尋常事じゃないように思われて来ました。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " こないだ電車の中で新国劇の「大菩薩峠」上演の広告ビラを見かけた。中里介山居士追善興行としてあった。この芝居の上演も久し振りな気がする。介山居士は戦争中、生れ在所の西多摩郡の羽村で急逝された。あれは何年のことであったろうか。救世軍の秋元巳太郎氏が葬儀委員長をされたという簡単な新聞記事を読んだ記憶がある。逝くなられた月日のことを私は覚えていない。また今年は何回忌に当るのか、それも知らない。\n 私は嘗て介山居士の「千年樫の下にて」という随筆集を愛蔵していた。見返に居士の筆で「質直意柔軟」と書いてある。私の愛読書の一つであったが、手許不如意の折に、鳴尾正太郎君がくれたフランシス・ド・サールの書簡集と一しょに、ほかの本とまとめて売り払ってしまった。私には介山居士という人はなんとなく忘れ難い人である。そうして居士のことを憶うときにはまたいつも鳴尾君のことを憶う。\n 最早十余年の昔になるが、私は一時、介山居士の経営になる羽村の西隣塾にいたことがある。早春から秋ぐちにかけての半歳ほどの間であった。私はすでに二十五歳にもなっていて、最早親の臑を齧っているのも工合が悪くまた家庭の事情もいつまでも私を養うわけにはゆかなくなっていた。羽村にゆく前日本橋の本町にあった大菩薩峠刊行会の事務所で初めて会った時、介山居士は云った。「瞑想したり、近隣の山野を散歩したりし給え。」\n 三月の上旬であった。立川で青梅線に乗り換えて羽村で下りた。生えはじめたばかりの麦畑や枝の芽吹いていない桑畑が見えて、まだ雪の消えずに残っている武甲の山脈が眼に迫ってくる感じだった。土地の人が「記念館」と呼んでいる西隣塾の文化瓦の赤い屋根が突き当りに見える、桑畑の間の一本道を歩いてゆくと、前方から自転車が走ってきたが、私を見かけると飛び下りた。\n「小山さんですか?」\n「そうです。」\n「中里先生から通知がありました。待っていました。右手に建物が見えますね。あれは印刷所ですが、あそこに皆さんいますから。」\n それが鳴尾君だった。鳴尾君はそこまで買物にゆくがすぐ帰ると云って、また身軽に自転車に飛び乗った。十七八の少年に見えた。黒の、ボタンも黒のだぶだぶな詰襟服を著ていて、眼のクリクリした、熊の子のような可愛い顔つきをしている。私は振り返って走ってゆく自転車の後姿を見送った。鳴尾君の微笑がとてもよかったからである。「クオレ」の中に出てくる少年のような印象を受けた。\n 印刷所の戸を開けると上端にストーブがあって、二人の人がちょうど一服しているところであった。介山居士の甥御さんに当る村木さんと田中澄徹さんであった。私は村木さんの顔を見てなんだか見覚えがあると思った。すぐ思い当った。聖徳太子に似ているのだ。国定教科書の挿絵にある太子像によく似ているのだ。あの肖像はばかに頸長に描いてあるが、村木さんの頸が丁度あんな工合であった。村木さんもいまは子供さんの三四人はある家庭のいいパパに成り澄ましていることであろうから、私が頸長などと云っても、まさか縁起を担がれるようなことはあるまいと思う。私はまた田中さんの顔を見て、子供の時分家の違棚に飾ってあった木彫の鬼の念仏を思い出した。\n「すぐわかりましたか?」と村木さん。\n 私が頷いて、そこで鳴尾君に逢ったことを話すと、そのさい私が口にした若い人という言葉をきいて、\n「若い人には違いないんですが、いくつだと思います?」\n「さあ? 十七八じゃないんですか。」\n「二十三ですよ。」\n「若いなあ。」\n そこへ鳴尾君が帰ってきた。鳴尾君はお茶請を買いに行ったのであった。鳴尾君の買ってきた饅頭を食べながら、\n「いま、小山さんがね、そこで鳴尾君という可愛い少年に逢ったって話をしていたところだ。」と田中さん。\n 鳴尾君はまた子供のような微笑を見せて、\n「小山さんはおいくつ? 検査はすんだの?」\n 私も笑いながら、"
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"role": "assistant",
"content": "「ええ、検査はすみました。二十五です。」\n「それじゃあ、僕よりお兄さんですね。若いなあ。」\n 私達は顔を見合せて笑った。私もふだん人から年少に見られる方ではあるが、鳴尾君の飛び抜けた若さには一驚を喫した。村木さんはまた私より二つ上の二十七であったが、私達が幼いせいか、ぐっと老けて見えた。この西隣塾のいわば留守居役であり、また印刷所の主任であった。田中さんはもう三十を越していて子供もある人で、近くの多摩河畔にある小山の麓に住んでいて、毎日自転車に乗って塾へ通ってきているのであった。\n 夕刻オート三輪車に乗って東京から介山居士が到着した。その頃介山居士は東京に十日羽村に七日という風に、居士の言葉を借用するならば、水陸両棲動物のような生活をしていた。東京羽村間の往復には最初オート三輪車を使用していたが、まもなく当時流行しはじめたダットサンを購入された。運転手は大竹さんと云って私達と同年配の人で東京の居士の家に夫婦で住み込んでいた。村木さんは器用な人で小型の運転が出来るので、居士が羽村へやってくると、大竹さんが東京へ帰るまでの時間を、私達はあちこちダットサンを乗り廻したものである。介山居士は大竹さんのことを「重兵衛、重兵衛」と呼んでいた。けだし先代貞山の読物に出てくる大竹重兵衛を連想されての愛称である。私は大竹さんに頼んで、駅留になっている私の夜具布団を、三輪車に乗せてもらって塾まで運んだ。介山居士はうどんを食べようと云って、五十銭銀貨を鳴尾君に渡した。鳴尾君は自転車を走らせた。東京の相場しか知らない私は、五十銭でいくらうどんが食えるものかと思い、あるいは介山居士という人は吝嗇なのであるまいかとひそかに心配したりしたが、やがて鳴尾君が帰ってきて、さて食べはじめてみて驚いた。一枚の五十銭銀貨は六人の大人がバンドをゆるめてかかっても食いきれないほどの大量のうどんに化けていて、鳴尾君と私は翌朝の食事もそれで済ましたほどであった。\n その頃西隣塾には五棟の建物があった。文化瓦の赤い大きなのが本館で、ここには「大菩薩峠」に関するいろんな記念品が飾ってあった。記念館の称のある所以である。本館に向って右手に印刷所。ここで介山居士の著書や機関誌「隣人之友」の活字を組んだ。輪転機がないので印刷は東京の印刷屋でやってもらった。本館の裏手に草葺の家がある。この家は武州高尾山の妙音谷にあった居士の草庵をそっくりそのままこの地に移したもので、当時村木さんが住んでいた。耕書堂というのがあった。これは図書蔵で本館から渡り廊下が附いていた。その奥に居士が羽村に来た時に寝起する瓦葺の小庵があった。居士は羽村へ来るとこの小庵で自炊の生活をした。自分で畑の葱など抜いてきて汁をつくったりしていた。私達は居士は居士、村木さんは村木さん、そうして鳴尾君と私という風にめいめい勝手にやっていた。鳴尾君と私は始は二人かわりばんこに飯を焚いたが、そのうち私は横著を極め込んで、いつのまにか鳴尾君ひとり女房役に廻るようになった。鳴尾君は前年の十一月の末にここへ来たので、私より三月先輩というわけであった。\n 鳴尾君と私は本館の三階と云うと体裁はいいが、実は屋根裏に寝た。「ひどいとこですよ。」と鳴尾君は幾分気づかわしげに私の顔色を窺ったが、私がさらに辟易した様子を見せぬので安心したようだった。私は衣食住には無関心な方なので、野蛮な生活様式はむしろ望むところである。私は細長い屋根裏のまんなかへんに柔道用の畳を三畳がとこ敷いて、そこを塒にした。鳴尾君はまた窓際に陣取っていた。「寒くないですか?」と訊いたら、「星が見えるから。」と風流なことを云った。窓の外を凩が吹く音をききながら寝ていると、自分が非常な高処に巣をつくっているような気がしてきて妙だそうである。また樹上に坐禅を組んだという栂尾の明恵上人のことが偲ばれるという。私はまた当時流行していたジャングル映画に出てきたなんとか族の土人が樹上に住居を営んでいたことを思い出したりした。私はこれから始まる自分の生活のことよりも、鳴尾君のような人がよくも鼠にも曳かれずにこんなところに独り暮してこられたものだと思った。\n 話し合ってみると鳴尾君と私にはふしぎな縁故があった。私は十八の年に故高倉徳太郎先生から洗礼を受けた。当時の私にとっては基督教イコール高倉であった。それほどに私は一時先生に傾倒した。が、二十の年にはもう教会から離籍して浪人してしまった。私はズボンのポケットに無造作に突込んであった金を散歩の途上で落してしまったように、いつのまにか信仰を失くしてしまっていた。鳴尾君もまた二十の年に高倉先生から洗礼を受けた。そうしてその頃は高倉先生が校長をしていた東京神学社の学生であった。大竹重兵衛氏の説によれば失恋に由来する神経衰弱で一時休学しているのだということであったが、しかし失恋のことは措いて、鳴尾君のわだかまりのない微笑は、神経衰弱なんかとは縁のないものに見えた。「いいえ、わがままなんです。」と鳴尾君は言葉少に云うだけだった。高倉先生の消息を尋ねると、いまは郷里の綾部で病を養って居られるということだった。そうしてこの方はほんとの神経衰弱らしかった。鳴尾君は高倉先生のことが心にかかる風で「掛替のない人だから。」と云った。私はそういう鳴尾君にいきなり心が寄せられた。\n 私達はすぐに隔のない仲になった。鳴尾君は私のことを「案山居士」などと云った。山田の中の一本足の案山子のことである。勿論鳴尾君は口から出まかせを云ったのでなんの意味もないのだが、しかし私はそんなものに似ているわけはなかった。彼は頓馬で、哀れで、笑止千万な奴ではあるが、それでも少くとも雀威しの用には立つ。私には自分がなんによらず物の役に立とうなどとは思えなかった。私は自分を一本の焼木杙だと思っていた。誰だか知らないが白い衣を著たへんな人が丑の刻参りをして、私に象った人形に呪いと共に瞋恚の釘を打ち込んでいるのではあるまいかという妄想に襲われたりした。私にはしばらく前から睡眠中にギリギリ歯軋を噛むいやな癖がついてしまっていた。私こそ神経衰弱かも知れなかった。私は鳴尾君のことを「贋牧師」と呼んだりした。鳴尾君は黒の色が好きらしかった。小柄な躯にいつも黒のだぶだぶな服を著ていたが、そのだぶだぶなところがまた気に入っているらしかった。「僕は窮屈なのは嫌いなんです。」と云っていた。鳴尾君の外套というのがまたひどく特徴のあるものであった。やはり黒い色の、丈は恐ろしく短いが、身幅はまた恐ろしくたっぷりしている、外套というよりもマントに近い感じのものであった。そのうえ帽子がまたふるっていた。ウェイクフィルドかステパンチコヴォの村長さんでも被りそうな黒の小型の山高帽子というよりは、お椀シャッポに短い縁をくっつけたようなへんてこな代物であった。穿く靴がまたよかった。ボタンで止めるのでもなければ、紐で括るのでもない、ゴムの帯が附いていて、すぽっと足の入るやつ、あれであった。頭の天辺から足の爪先まで黒一色、宛然牧師の卵の如きものが出来上ったが、それが決して滑稽でなかった。偶然に寄せ集められたのではなくそこに鳴尾君の好尚がはたらいていたからではあろうが、なにか人柄にぴったり嵌っていて一分の隙もなかった。詩人の身嗜と云ったようなものさえ感じられた。私は鳴尾君におしゃれの天稟のあるのを察知した。恐らく年頃の娘さんはこういう可愛い牧師さんから祝福を授けてもらいたくなるのではなかろうか。鳴尾君はときたまそんな扮装でいそいそと青梅の町などに出かけたりしていた。私はそういう鳴尾君を「贋牧師」と呼んだ。鳴尾君はいつも持前の柔和な微笑で応じた。鳴尾君の意識に厭味な文学趣味など毛ほどもなかったことは云うまでもない。私はまた鳴尾君のことを時に「讃美歌牧師」と云ったりした。鳴尾君の声は純粋のバスだった。印刷所で文選をしながら詩吟をしたり讃美歌をうたうことがあったが、そういう時私達は思わずきき惚れた。そういう人を惑わす技倆を持っているからにはいよいよ贋牧師の資格があると云ったら、鳴尾君は真面目に「ええ、神学社の寄宿舎では僕が一番讃美歌が巧いんです。」と答えた。恐らく鳴尾君の讃美歌は天上のエホバの御座にまでとどいたことであろう。私は時に鳴尾君の祈祷の姿を瞥見することがあった。鳴尾君は私達の眼につかぬようにつとめて気をつけていたようではあるが、そういう時私は自分が大事なものを失くしてしまったような気持になった。隠れたるに見給う神に祈を捧げている鳴尾君の姿には、使徒トマスとかアンデレとかを彷彿させるものがあって、私はひどく心をそそられたのである。バンカラな不良学生がお行儀のいい優等生にふと感ずる郷愁のようなものかも知れなかった。\n 私達塾生の日課は主として印刷所で介山居士の著書や雑誌「隣人之友」を組むことであった。輪転機がないため印刷することが出来ないので、植字したやつをその都度大竹さんが東京羽村間を往復して印刷屋へ運搬した。植字は専ら村木さんがこれに当り、鳴尾君と私の二人が文選を受け持ち、田中さんは近眼だったので主に解版の仕事をやってもらった。私は日ならずして文選の仕事に熟達した。旬日を出ずして一日に九ポで八箱は拾えるようになった。自分でも意外であったがはたの人も驚いた。この仕事はあるいは自分の性に適するかも知れないと思ったが、しかし私の能率はそれ以上は決して上らなかった。一月立っても二月立っても同じであった。私の遣口にはどことなくもたもたした覚束ないところがあって、鳴尾君と比較すると、どうしても正確さや敏速さに欠けていた。二人で何度か競争もやったが、いつも負けた。自分のやることはいつもこれだ、決して番狂わせはないんだ、自分はやっぱり駄目な奴だ、焼木杙だと思った。\n「僕は駄目なんだ。わかっているんだ。」\n「そんなことはない。」\n「誰かが丑の刻参りをして僕を呪っているんだ。」\n 鳴尾君は噴きだして、\n「まさか、そんな、机竜之助ではあるまいし。小山さんのようないい人を呪う人なんかいるものですか。」\n「そうかしら、僕はいい人かね。僕は買物をしても嘗て一度も有難うって礼を云われた験がないんだ。僻まざるを得ないね。」\n 鳴尾君はまた笑って、\n「それはひどいな。ほんとですか。しかしそういう受難は聖者の生涯には附きものですね。人に賤しめられ擯けられてこそ聖者でしょ。まあ癩病人みたいなものだな。誰もその毫光には気がつかない。」\n「なんだ。そんな子供みたいな顔をしていて、それでもお世辞の一つ位は云えるんだね。贋牧師の本性紛れもないな。」\n「いいえ、僕はほんとうにそう思っているんです。小山さんは生涯の終にはきっとこういう風になりますよ。」\n 鳴尾君は眼をクリクリさせながら、指で頭の後に円を描いて見せた。\n 日曜日が来る毎に私達は印刷屋から日曜学校の先生に早変りした。本館の二階の大広間を開放して教場に使った。生徒は村の子供達だった。たいして面白いものでもなかったのだが、それでも大勢やって来た。介山居士は子供達のために毎週短い感話を書いた。私達はそれをカードに印刷して子供達に配った。多くそのときの季節や月日に因んだ話であった。彼岸のことや屈原についての小話があったのを覚えている。私を除いた三人の先生が話をした。私にはとても有象無象を前に控えて話など出来なかった。カードの文章を読んでそれを子供達に読ませるのがやっとだった。私はいまはそれほどでもないが、昔はひどいはにかみやでなにかと云えばすぐ処女の如くはにかんでしまったものだ。たまには介山居士が話をすることがあった。居士は子供達に多摩の河原からめいめいの好みの石を拾ってこさせてそれの品評をしたりした。居士は掌に一つ一つ石をのせて、この石は大へん奇抜な形をしていて面白いようではあるが、こういうものはすぐ飽きてしまって長くは私達の心を惹かない、この石は見た目は平凡でつまらないもののようではあるが、よく見るとこの素直な形には汲めども尽きない味わいがある。そんな風に話した。鳴尾君は話が巧かった。多く聖書の話をした。ノアの方舟の話、イエスの誕生の日の厩小屋の話、エマオの途上の話など記憶に残っている。ノアの方舟の話は傑作だった。鳴尾君は大混雑の方舟に乗り合せているいろんな動物の心理描写をやってのけたのだが、そのユウモラスな話し振りには子供達は大喜びであった。私は鳴尾君に文学の才能があると思った。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 荒浪に\n船は覆りて\n 渦ぞ卷く\n\n渦卷く中に\n 漂ふは\n最後の影か\n 泡沫か\n\n朝巖手の山の上に\n蕪菁虹立つを夢にして\n夕、鹿島の沖合に\n根浪の湧くを見つらんに\n\n花もて飾る墳墓の\n小さきを野べに遺さずして\n水づく屍は紅の\n珊瑚の礁に沈みたり\n\n八洲を環る大瀛の\n浪に生れし男の子とて\n秋風渡る伊豆の海に\nはしき骸をさらしたりけむ\n\n\n\n\n彌生子に\n (醉茗がいとし兒に)\n\n\n\n\n煙に似たる花咲いて\n土橋に白き烏瓜\n匂へる花を彌生子の\n産毛の髮にかざゝまし\n\n山の西よりおく霜に\nやがては瓜の染まる時\n紅きを割りて彌生子の\n櫻色なる頬にぬらむ\n\n種子を常陸の野にとりて\n都に移せ烏瓜\n春に生れし彌生子の\n花なる袖に纏ふべく\n ~~~~~~~\n\n\n\n\n沈める星\n (子を失ひし人に)\n\n\n\n\n花は根になる春の暮\nかへらぬ吾子の魂を\n櫻が下の墓に\n呼びし涙は乾かじな\n\n朝明の名殘みだれたる\nちぬの浦曲の虚舟\n沈める星の光見れば\n思ひよ空にさわぐらむ\n\n靜かにそゝぐ水にすら\n地ぬらさじと心して\n葬りにけむ春くれて\n山時鳥鳴かんとす\n\n白露しげき秋の夜は\n軒の褄なる燈籠の\n淡き光に誘はれて\nおもかげにして歸らんに\n\nなれし添寢の手枕に\n生けりと見しは夢にして\n柔肌凍る地の下の\n暗きに吾子はかくれたり\n ~~~~~~~\n\n\n\n\nやまめとり\n (女)\n\n\n\n\n曉の夢を落して\n白雲の衾被きて\n一夜さは關路に睡れ\n旅ながら君も少女の\n\n玉匣箱根の谷に\n鯇捕るわれは賤の子\n早川の水上遠く\n木賀にこそ秋はたけたれ\n\n白玉の沈く淺瀬に\nかゝぐれど褄はぬれつゝ\n春風に散るや前髮\nわきばさむ畚の重きに\n\n相摸の海月は通ふも\n高殿に琴なしらべそ\n夢にして偸みも聽かば\n君により睫しめらむ\n\n水色の袖の長きを\n飜へす手に指輪きらめき\n胸高に帶を結べば\n歩むにも花のこぼれむ\n\n行く水に散浮く花の\n悲きは花の行方か\nそよわれと都大路に\n銀の鞭も振りしを\n\n行く水に散浮花の\nいつまでか面輝く\nうすものに伽羅を炷きしめ\n唇に紅はさせども\n\n行く水に散浮花の\n花なれや匂むなしき\n\n溺れんか淵に水あり\n碎けんか河原の石に\n\n辛かりし夢よりさめて\n幻の雲にかくれん\n\n葦の海に影さす月も\n秋よりや光澄むらむ\n\n春日野の白き葉は\nさながらに君の色なれ\n\n湖の小舟棹さし\n曉を星に泣くとも\n\n山桃の花咲く頃は\n新月の眉を剃るらむ\n\n足柄の山をめぐりて\n行く水にわれは散る花\n\n行く水にわれは花とぞ散りぬべき\n足柄山の春の夕ぐれ\n\n\n\n\n星のまびき\n (辱められし少女あり)\n\n\n\n\n矢獨蜜の花の緋に咲きて\n鐘樓朽ちたる山寺に\n肩に亂れし髮剃りて\n耻しや尼となりにけり\n\n鏡の下の刷毛をとり\n今はた色は粧らねど\n枕に殘る曉の\n雲の俤寒きかな\n\n春雨纖き𢌞廊に\n檜扇あげてさしまねき\n散りかふ花にまがひたる\n胡蝶の魂をかへすとも\n\n額にかゝる前髮の\n丸がれたるもかゝげねば\n秋の風吹く中空に\n迷へる夢はかへらじ\n\n星の凶光のあらはれて\n根浪轟く淡路島\n舟通ふ由良の戸の\n跡無き浪も追はなくに\n\n洲本松原中絶えて\n虹かゝれる白濱の\n滿潮に溺れて蘇へり\nわれから爲りし新尼の\n\n白雪降れる宮中に\n簾を掲げし女嬬は\n南の海に沈み入りて\n憂き名を磯に流したり\n\n月の入方に漂ひて\n潮と落ちし竺志舟\n面影光りし姫君の\n形見も浪も葬りて\n\n思へばわれは璞の\n石に碎けし片なり\n涙を花の振袖に\n藏みて遠く嫁ぐとも\n\n杯含む唇の\n褪せなん程の紅は不知\n胸にうつらふ幻を\nいかなる色につくろはむ\n\n鴛鴦縫ひし蒸衾\nなごやが下に帶解くと\n戰く指を握られなば\n夢にや死なんうつゝなの\n\n伽羅立ち馨る閨の戸に\n背向に臥して懶く\n亂るゝ衣をおさへつゝ\n泣くとも知らん涙かは\n\n霞に迷ふ\n雁が音の\n鳴門の迫門に\n聞ゆるは\n藻汐の煙\nなつかしき\n撫養の浦曲に\n渡るらん\n\n内海照らす\n月代の\n光めぐれる\n島なれば\n巖が根まどふ\n浪の音は\n島の奧にも\n聞えつゝ\n\n樒の露に\nしほたれて\n影衰へし\n新尼を\n野守の鏡\nいくそたび\n淺き山べに\n泣かすとか\n\n紅もるゝ\nうすぎぬに\nおほひし乳も\n傷つきぬ\n忘れがたきも\n忘れては\n涙のなかに\n死にもせで\n\n\n破れし築地\n\n\n蕾ふくるゝ曉は\n玉なす露の色添へば\n花を踏みゆくよきひとの\n長き裳裾もみだれけり\n\n嫩草青き「こりんず」の\n野に入相の露罩めて\nはつかに暮れし花の上に\n月の光のほのめけど\n\n刺は花より刺多き\n北咲きめぐる高殿の\n窓もうばらに閉されて\n野はたゞ花となりぬかな\n\n破れし築地にみだれたる\nくれなゐの下は栗鼠啼きて\n白日の花に飛びまどふ\n胡蝶の羽の懈げなる\n\n大理石の扉も埋れては\n花の扉となりぬれば\n迷ひの宮か花の扉を\n入りて歸りし人ぞ無き\n\n栗毛の駒を乘りすてゝ\n門をくゞりし武士も\nかへらずなりて銀の\n鞭は野末に錆びたりき\n\n五月雨髮をときいろの\nりぼんにとめし未通女子の\n籃を腕にして垣の中に\n入りにし跡は花に問へ\n\n花のやかたと名に立ちて\n匂へるばらのおのづから\n裡にいませる姫君の\nまもりと築きし城なれば\n\n瑤の臺に咲き纏ふ\n花や栞をおほふらん\n池の八つ橋渡り來る\n人をも薔薇の埋みつゝ\n\n裁たまくをしき唐綾の\nふすま襲ぬる姫君の\n夢驚かす風の音は\n閨のほとりに騷がねば\n\n紅匂ふ唇に\nやさしき息のかよへりや\n花ぐしおちしまへ髮に\n光を投げん灯は消えぬ\n\n錦の帳奧ふかく\nまろねの袖をかたしきて\n月はさせども身じろがず\n花は散れどもさめずして\n\n若紫の房ながき\n籠の鸚鵡も餌を呼ばで\n苑に對へる渡殿の\n褄はうばらにおほはれぬ\n\n湯殿に懸けし姿見の\n鏡に花の這ひよるまで\n荒たる館の花妻の\n夢よ醉ふらん薔薇の香に\n\n南の空に秋立ちて\n常世の雁はかへれども\nまぼろしなれやうたゝねの\n夢にも魂のかへらざる\n\n南の空に\nあきたちて\n常世のかりは\n歸れども\n ~~~~~~~\n\n\nかたち\n\n\n浮べる雲の一綫は\n碧きが中にたゆたひて\n覆輪着けし銀の\n天の島とも見ゆるかな\n\n潮の底より月出でゝ\n影、中空に盈ち來れば\n浪靜かなる大和田の\n月は舟とも見ゆるかな\n\n舟か水門の舟ならば\nせめては長き秋の夜を\n際なき水に流されて\n灼る枕を浸さんに\n\n毒ある鏃足に受けて\n野べに嘯くことをすら\n停められたる我なれば\n唯舟こそは戀しけれ\n\n負ひたる傷の深ければ\n物に觸るゝを厭へども\n寢ぬに綾無き幻の\n花の象の眼に見えて\n\n緑、紫、紅の\n花は、電、空の虹\n環りて、消えて、美しの\n人の顏さへ浮き來るを\n\n千草に渡る金風の\n露吹きこぼす朝ぼらけ\n花の苑生を眺むれば\n長しとも思ふ命かな"
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"content": "\n今日も落ちたる花片の\nしめれる地に香を留めて\n * *\n * *\n香取の海は川となりて\n浪逆の浪はよも逆らじ\n行かんか旅に病みぬとも\n今は悲む夢も無し\n ~~~~~~~\n\n\n旅にして\n\n\n山秀でたる吾妻路の\n平野の水をあつめ來て\n南に落つる利根川の\n浪は寂に翻るかな\n\n行くともわかぬ白雲の\nかゝりて長き眞砂地や\n蘆邊に立ちて眺むれば\n浪逆の浦は雨晴れて\n\n日光あまねき湖の上を\n遙に渡る尾長鳥\nま白き翼は搖かさで\n鳴く音は空の秋の風\n\n鏡に映ふ花ならば\n異なる影にも慰まむ\n思へば旅の果にして\n新たに戀ふる人は無きを\n\n蝦捕り舟の漕ぎなづむ\n八十の水門はへだつれど\n霧に浮べる月波根の\n眉なす根ろは北に在り\n ~~~~~~~\n\n\n野の花\n\n\n\n東白の\n 野べに生れて\n朝露を\n 頬の上に置き\n夕されば\n 地球の腕に\n抱かれて\n 眠る野の花\n\n唇に\n 誰かふれけむ\n接吻の痕\n 微かにとめて\n夕榮の\n うつらふ丘に\n紅を\n 含みて立てり\n\n彷徊ひし\n 羊の群は\n薄霧の\n 遠に歸りぬ\n口笛の\n 鳴りしやいづら\n花の野は\n やゝに暮れけり\n\n\n秀峰めぐる薄雲の\n靜かに岫に歸る見て\nわれ露原に立ちし時\n紫尾野の秋はつらかりし\n\n汀に散らふ浪の花\n白帆上げたる瀬越し舟\n國府津の浦にわが立ちし\n旅の情を忘れねば\n\n星かすかなる中空に\nあこがれたりしわが魂も\nやさしき花を地に見て\n新たに灑ぐ涙あり\n\n北の光の野をかけて\n輝きかへる雪の上に\n凍りし花を春解かば\n痩せたる巖も馨るらん\n\n橋反らせけむ高樓の\n甍くづれしバビロンの\n大城の跡に咲き殘る\n花の色こそさだかならね\n\n珊瑚洋の島人も\n花の環をつくりては\nあからさまなる乳のしたに\n錦の帶をまとひたり\n\nビヱンの湖の朝凪に\n槎あやつる美人の\n腕に佩べる珠鳴りて\n匂へる花は胸の上に\n\n咲きて散り、散りて咲く\n野末の花のなつかしく\n\n露にぬれたる秋の花を\n渡殿朽ちし西の壺に\n人の贈りし春の花を\n蝦夷菊枯れたる池の畔に\n\n褄紅の撫子は\n露霜降りてめげたれど\n名よ脆かりし虞美人草の\nやがて媚ある花咲かん\n\n眉秀でたる妹あらば\nりぼんに揷すを惜まねど\n紫菫、白薔薇\n酷くは摘まじ苑にして\n\n新たに歸ぐ町の子の\n車に花は投ぐるとも\n小坪に吊す花籠に\n切りてさゝんはあたらなり\n\n明星が岳に立ち迷ふ\n雲に思ひの馳する時\n曉くらく園に降りて\n幽かに花の香を齅げば\n\n深山の奧にひとりのみ\n立つに似たる悲みは\n忘るゝからにわりなくも\n落る涙のとゞまらで\n\n\n\n\n常陸より\n (人の武藏に居るに)\n\n\n\n\n玉藻被ぎて美人の\n狐と化ける篠原や\n奈須野の南石裂けて\n常陸に落つる小貝川\n\n物皆沈む誰彼の\n霞の底を流れては\nほの〴〵明くる東雲の\n柳の蔭に渦きて\n\n翠の山を山比女の\n帶と𢌞れる川なれば\n葦茅萠えて芹秀きて\n川にも春の光あれ\n\n朽木の洞に隱れたる\n蝴蝶の夢は長うして\n羽拔けかへし連雀\n翔るも舞ふも雲の上\n\n菜種の花に圍まれて\n寂けき森の北南\n村と村とは長橋の\n橋を隔てゝ望めども\n\n南の村にわれ生れ\n北の村より君出でゝ\n額に垂れし放髮の\n髮の端にも觸れずして\n\nわれまだ君の眉を見ず\n見しは堤の花すゝき\n君亦われの顏相らず\n知るは堤の木瓜の花\n\nあゝ幾年青き草濡れて\n堤を花の飾るらむ\n雨はしづかにそゝげども\n人は歸らぬ故郷に\n\n櫟の林分け入りて\nわれ山繭を採りし時\n萱野の末にうそぶきて\n君はとがみを飛ばしけむ\n\nぬすめる芋を野に燒いて\n醶きに吻を腫らしては\n七日の月の影踏んで\n小篠の笛も鳴らしゝか\n\nおもかげに見る\n あげまきの\n友と呼ばんは\n うらみなり\n世にはぐれたる\n 一人子の\n君は悲しき\n 弟よ\n\nさもあれ空の\n 雲すらも\nやがては洞に\n 歸るもの\n歸れ月波の\n ふところに\n君ゆゑ泣かむ\n 人もあり\n\nはとがみ、草の名、形通草の實に似たり、みのりて莢裂くれば中におびたゞしき有毛痩果あり、試みに之を吹けば、風に乘り森を越え林を過りて、漂々として終にゆくところを知らず\n\n ~~~~~~~\n\n\n\n\n征矢の光\n 『無弦弓』を讀む\n\n\n\n\n鳥鳴き過ぐる\n 巖の上に\n黄金の弓を\n 携へて\n征矢の行方を\n 見送れば\n光はそれか\n 入相の\n\n西に聚まる\n 紫の\n霞の底に\n 潛みては\n白羽の影を\n 中天に\n漂ふ雲の\n 縁に投げ\n\n浪靜かなる\n 大和田の\n八重の潮路に\n 煌めけば\n沖行船も\n 紅の\n流れし中に\n 隱れけり\n\n鏃は天に\n とゞまりて\n新たに星と\n 生りにけむ\nおぼめかしくも\n 北の方に\n落る光の\n 弱きかな\n\n野火により來る\n 小牡鹿の\n外山に啼くは\n 聞ゆれど\n鴎下り居し\n 白濱の\n潮に朝の\n 聲絶えて\n\n貴艶なる嫦娥の\n 顏は\nさし出づる月の\n 色に見えて\n露置きそめし\n 秋の野に\n夕の聲の\n かすかなり\n\n\n哀歌\n\n\n羅綾の裳裾かへしては\n春を驕りし儷人の\n腰に佩びたる珠鳴りて\n秋燕京にたけてけり\n\n霜こそ置かね天津の\n橋に見馴れぬ旗立ちて\n紫深き九重の\n雲もかへるか峽西に\n\n陽明園に炬入りては\n玉の宮居も燒けつらん\n蓮葉枯れし夕暮の\n池に舟行る人もなし\n\n金房垂れし鞦韆に\nみだせし髮はをさめじな\n西に流るゝ天の川\n曉浪の驚けば\n\n永安門の階段に\n落ちたる花は誰が妻か\n脛も血潮に染めなして\n劒ぞ胸に刺されたる\n ~~~~~~~\n\n\n五月雨髮\n\n\n見しはたゞ\n\n淀の川瀬の水車\n淀の川舟のりもせず\n峰の白雲ふみわけて\n終に吉野の花も見ず\n\n見しは青葉の嵐山\n保津の流に筏して\n岸つたひ行く舞姫に\nしぶきかけたる川をとこ\n\n知恩院\n\n春酣にして大輪の\n牡丹咲いたる欄干や\n徃き來の人も紅の\n花には泥む知恩院\n\n石と化りぬる楠の橋\n越えがてにして振袖の\n長きは肩に袺りて\n躊躇ふ君よ、こちら向け\n\n春日\n\n軒の褄なる蝉燈籠の\n蝉の羽くらき若葉蔭\nまだ角も出ぬ小牡鹿に\n驚かされし儷人よ\n\n苔緑なる石の上に\n右手なる菓子を投げたまへ\n戀はせじものふたゝびは\n君が袂もひかざらむ\n\n夕\n\n眉をひらいて歸れとや\n君、己が上を知らずして\n夕ぐれ一人荒磯の\n暗きに立つを危むか\n\n心やすかれ、引汐に\n沈むとすれど立ちかへる\n浪は仇なる白濱の\n砂は終の墓ならず\n\nやちまた\n\n芒を亂す原の風\n小霧に濕る丘の草\n騷しかりし青山の\n秋は今はや暮れぬかな\n\n光にうとき夕顏の\n花と見えしに孤兒の\n空しき骸を歛めたる\n柩は穴に落されぬ\n\n風の通へる八千俣に\n涙の顏を吹かれけむ\n斯の子前髮黒くして\n瞳の色の澄めりしが"
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"content": " 今日は懐古の夕だそうですから思いきり古い話をすることにしますが、私の古い山旅はただぶらぶら歩いていたのみで日記さえもつけない、ですから忘れてしまった方が多いのは残念ですが、しかし何といっても、見て面白いし、登って面白いし、読んで面白く、聞いても考えても亦おもしろい山のことですから、随分古い思い出はあります。そのうちで一番よく頭に残っているのは、初めて木曾の御岳へ登った時のことです。その話はいつか前にもしたことがあったかと思いますけれども、また一つ今夜お話して見たいと思います。\n なにしろその頃は中央線の汽車がまだ八王子までしか通じていないし、碓氷トンネルがやっと出来て汽車が通じて間もない明治二十六年、丁度私が二十でございました。何故御岳へ行ったかといいますと、その頃私の家は御岳講に入っていましたからその講中の者が参詣するというのでそれについて行ったわけです。しかし講中と同じ行をすることは御免を蒙りました。あれは毎日水ばかり浴びているのですから、もっとも夏のことですから別に苦にもならないでしょう。朝起きると水を浴びる。夕方宿に着くと早速また水を浴びる。それがこの講のお勤めなのです。その連中と一緒に碓氷峠を越えて岩村田から長久保へ出て行ったのですが、その辺はあまり記憶に残っていません。ただ和田峠の頂上で客をのせる馬が多いのと、馬子が賃銭を受取るとすぐ側の林の中で賭博をやるのには驚きました。その時あの餅屋の餅を食ったが、どんな味だったかすっかり忘れてしまいました。\n それから下諏訪の亀屋へ泊ったとき、入口の土間の揚げ板をあげてさあ足をお洗い下さいという、勿論草鞋ばきです、見ると湯がどんどん流れている。なるほどこれは重宝だなと思った。足を洗うとすぐそばに湯殿があってそれに飛び込む、そして水行を済してからゆっくり晩飯という段取は、講中には誂向きに出来ているがお相伴の私には、千松ほどでなくとも可なりつらい辛抱でありました。\n 翌日は塩尻峠を越して洗馬に出てそれから木曾街道を下りました。途中なんでも奈良井の日野屋だったと思う、そこに泊った時、この家は白味噌の味噌汁が自慢なので、朱塗りの大椀に盛って出す、何杯お代りしてもいい。いいどころじゃない。椀がからになるとすぐお代りを持って来る。これには随分閉口しましたが、中には勇敢な奴があって十二杯ぐらい平げた。今はあるかどうか知りません。外にも御岳講の講中が幾組も泊っているので、給仕の女達がもう沢山だという客の手からお椀をひったくる、もういらない、もっとおあがりなどと飯時には大騒ぎでした。\n それから鳥居峠を越えて藪原へ下ってそこへ泊ったのです。夜になると小娘が花漬を売りに来る。丸、四角、扇形などさまざまの形をしたちいさい曲げ物に、紅、淡紅、白と、主に梅、桃、李などの花や蕾を巧に按配して入れたもので、木曾の宿では大抵売りに来ました。見た目には誠に綺麗なものです。それからお六櫛というのがありまして、これも今はないかも知れませんが、それを売りに来ました、それがどういうわけでお六櫛というのか謂れは聞きませんでしたが、とにかく本物の黄楊で作った特有な形をした櫛でした。鳥居峠には頂上に茶屋がありまして、そうめんを売っている。冷たい水に浸してあるのでそれが非常にうまい。真正面に御岳が見える。鳥居が立っていてそれに落首が書いてあった。\n\n\nお鳥居のやうに両足ふんばつて 山をにらんで拝むつらつき\n\n"
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"role": "assistant",
"content": "というのです、ちょっとおもしろいと思いました。\n 峠を下れば本当の木曾街道で、その頃は今とちがって木曾街道もなかなか風情があったように憶えています。それは田部君も言ったけれども、われわれはどうも昔のことをひどくいいように覚えているのです。木なんかでも実際はそれ程でもなかったろうと思うが非常に大きかったように覚えている。どうもそういう傾向――癖がある。その頃私は『太平記』を愛読しておりましたが、「山路雨無うして空翠常に衣をうるほす」という文句があるのを思い出して、うまいことをいったもんだとつくづく感心しました。それは藪原から先へ行きますと宮越までの間は、両側が迫って来て大きな木が立ちならび、水楢や橡などもあったように思うが、繁り合った葉がそよふく風に揺れて、其間から洩れる日の光が翠の竪縞を織りなしている。その並木の間を通るとひやりと涼しく、しっとりした感じはいい気持ちで、これが空翠というのだなとおもいました。\n それから福島の蔦屋に一泊して翌日王滝へはいった。福島から木曾川を渡ると間もなくかなり大きな黒木の林が続いて、下を流れている川は見ようと思っても見られなかった。一と所脚の下に川を瞰る場所があって矢張り木曾川と思っていたら、それは王滝川で、いつの間にか右へ廻り込んでいたのでした。其後に行った時はもうそんな林はどこへけし飛んでしまったか少しも見られませんでしたが、その当時はそこに黒木の林が茂っておった。動物園に行くと沢山飼ってあるあの縞栗鼠、私はそれを単に木鼠だと思っておりましたが、それが沢山おりました。それに高い枝から可なり太い蔓が下っておった。それにつかまれば上へ登れそうな太い蔓です。それを私は霧藻だとばかり思っていました。後で武田君にそれはシラクチヅルだと嗤われたけれども、木深い木曾の方では霧藻でもだんだん伸びて地へとどくと、地中へ根をはって大きくなるのだろうと考えていました。それがまたなかなか沢山ある。それを木鼠がさかんに上ったり下ったりしている。人を恐れる気配もなく、余り近く跳び歩くので終いにはそれを一匹捕ってやろうという気になって追いかけましたが、のろいようでも素早いので手捕りなどに出来る筈もありません。なにしろ黒木の林の中に栗鼠が沢山戯れていて、余り人を恐れないというような光景は、今では容易に見られないでしょう。われわれが山へはいる頃には何処にも森林が非常に茂っておって、殊に黒木の森林であると、その中へはいるのが楽しみでもありまたなんだか恐ろしいようでもあった。そんな林の中では少しの物音――がさっと音がしてもすぐぞっとする程緊張していたものです。そういう森林が福島に近い木曾川や王滝川の岸にずっと続いておったのですが、その後三年経って行った時にはもうだいぶ伐られておりました。御岳は五度ばかり行っておりますけれども、行く度に木がなくなって、終にはすっかり昔の面影が見られなくなってしまいました。\n 常盤橋から今では沢渡峠を越えて行きますが、私共はクズシロ峠というのを越えていきなり田嶋へ下り、すぐ釣橋を渡って王滝に着いたように覚えています。五万の地図で見てもどうもよくわからないのですが、尾羽林を通り崩越への峠の上から尾根伝いに一四三二米の三角点附近に至り、そこから西に下ったのかも知れません。長い峠路で大雷雨に遇い、それが霽れると正面に御岳を仰いだことを覚えています。次に通った二十九年にはまだ其儘でしたが、四回目のたしか明治三十三年の時にはその道がなくて、ずっと下の方の峠を通りました。これは田部君が言ったように峠の解消とでもいうんでしょうか。鞍馬橋を渡ったのは更にその次の登山の時でありました。\n\n 王滝では松原彦右衛門という人の家へ泊りました。今その家があるかどうか、大きな家だったから多分あるだろうと思います。そこへ泊ると御岳講の連中が二、三十組も泊っておりましたろうか。いよいよ明日はお山へかかる。今日は特にたびたび水を浴びなくちゃいけないというので、盛に行が始まる。水を浴びるといっても、御岳教の教文を唱えながら、流し又は行場へつくばって絶えず両手で頭へ水をかけ、四、五分経ってから最後に大きく胸から体へ懸るようにする。それを二、三遍繰返してやる。もっとも傍に湯が立っていて、寒くなれば湯にはいってまたやるのです。そうして車座をつくって、まん中に中座を勤める人が御幣を持って坐ると、先達がその中座の前に坐る。そうして教文を読みはじめる、そうすると早ければ四、五十分、遅くも一時間過ぎには中座に御岳さんがのり移るのです。教文は神仏混合で、いろいろのお経や祝詞やお祓いを読む、高天ヶ原の祝詞からはじまって不動様のお経までやる。ことに『般若心経』をよくやる、それは中座の人によく利くお経やお祓をやるので、ある中座の人は『般若心経』を最後に読まなければ神様がのりうつらない。ある人は六根清浄の祓でないといけないという工合で、このことをお座をたてるといいますが、このお座が幾つも立つので、こっちでは『般若心経』を繰返す。あっちでは「高天ヶ原」を繰返す。いずれも真剣だから笑われもしない。そのうちに中座の人が両手で持っている御幣をすうと頭上に上げて強く急に振り動かす、即ち神がのりうつったのです。そこで先達がいろいろ伺いをたてる。たとえば、エー御前様、明日のお天気は如何でしょうという類である。すると中座は御幣を頭の上でパッと振る。其時の御幣の紙のかえり工合を見て先達が判断するのですが気のきいた人は実によく当てる。なかなかおもしろいものです。中には水の浴び方が足りないといって叱られるものもある。内所で何かよくないことをしたものは、大抵ここで泥を吐いてしまう。さもないと頂上まで登れないで必ず途中でへたばるということです。それから皆な自分の家のことを心配して何か変りはないかと伺って見る、大概ないといいます。時とすると誰の家に急変が起ったと云うので非常に騒ぎ立てる組もあるそうで、それがだいぶ当るらしいのです。訊ねて見ると易と同じように御幣の十三枚の紙の裏表の組合いの工合によって判断する規定があるらしく、それをその場合に応じてうまく判断しなければならぬから、先達はなかなかむずかしい役だろうと思いました。ですから気の利いた先達がいるとその講中はなかなか繁昌するそうです。中座は物を言わない場合の方が多いようですが、中にはおごそかな句調で神意を告るものもある。私などには抑揚の強い含み声なので何を言ったのか少しも分らないが、先達は慣れているので気持よくてきぱきと処理してしまう。それから明日のお山が無事に済ませるようにと皆中座の前に放射状に足を投げ出して御幣でお加持をして貰う。これは足の疲れを癒す為で、私も一緒にやって貰いました。夫が済むとまた一しきり教文を合唱する。そして先達は其間に臨兵闘者皆陣列在前と唱えながら九字を切り、中座の肩から腕のあたりを撫でるのです、そして握り緊めている指の硬直が弛むと、先ず御幣を取って自分の衿にさし、更に何処か急所をうんと押すと、神は離れて中座は平素の吾にかえり、皆と一緒に読経して、お座は終りとなるのであります。\n お山をかける朝の出立は早い、大抵午前三時か三時半、遅くも四時には銘々が松明を持って出掛ける、昔の絵によく描いてある通りです。麓のものは遠くから見られませんが、田ノ原から上ですと、もう偃松帯で邪魔な木立がないから、一列の松明が蛇のようにうねりながら山を登って行くのがよく見える訳です。途中に清滝というのがあります。そこへ寄ってまた滝に打たれる、水量は少ないが高さは三、四丈もありましょうか、それに叩かれるとなかなか痛い、滝壺はなく平な一枚岩なので、『般若心経』を口誦しながら其下を往復すると、経の終る頃には十遍位も往復することになって、背中は真赤になってしまいます。私も打たれて見ましたが冷たいのと痛いのとで五、六遍で飛び出しました。随分頑張っても八、九遍やるともう参ってしまいます。慣れている先達などは十五へんも二十ぺんもやる。今度お出かけになったらおやりになるのも一興でしょう。\n それから俗称神王原を通り過ぎて昼も薄暗い黒木立の中を登りました、例の太いシラクチ蔓があったことを覚えています。三笠山に参詣して田ノ原の小屋に休み、雲の去来する中を六根清浄を唱えながら王滝口の頂上に着いたのは夕方でした。何にせお宮や石碑があれば一々杖を止めて拝みを上げるので非常に時間を潰すから道は捗りません。ここで私は一行と別れて二の池の小屋へ行って泊りました。そして翌日は山を一廻りする積りで小屋の主人によく道すじを聞きただしますと、なにしろ講中の登山者ばかりいるのですから、迂闊な真似をして、お山を荒すというので殴られでもしては大変だというので、いろいろ注意を受けました。御岳講では御神符ということをいいます。それは頂上に一の池、二の池、三の池、四の池、五の池というて五の池があるのです。もっとも一の池には水のあることは稀で、四の池は水は流れているが池にはなっていません。是等の池の水に半紙を浸してそれを乾かして貯え置き、病人があると夫を小さく切って汲みたての清水に入れて飲ませる。それが薬になる。とにかく御神符は奥の池の水に浸したもの程利き目が著しい。二の池よりは三の池、三の池よりは四の池、四の池よりは五の池の方がいいのだそうです。後には池の水を竹筒や瓶に入れて持ち返る人があるようになりました。ところが三の池から奥へは余程行を積んだ先達でないと行かれない。たいがい三の池でお終いです。二の池では余り近いし三の池なら丁度よい。四の池となると恐ろしくて近寄る人は殆んどない。\n 三度目の登山の時でしたか二の池の小屋の主人が、昨日東京から来た人でこの池で泳いだ者がある、勿体ないことをしたものだ、よく罰が当らないと話したことを覚えている。後でその話を梅沢君にしたところがその当人が梅沢君だったのには驚いた。梅沢君が早く亡くなられたのは其の所為かも知れぬ、といったら同君は地下で「何を馬鹿な」と例の腹を突き出してワッハッハと大笑いすることでしょう。ともあれ山を神聖なものと崇めている講中の前で、目に余ると思われるような行為をせぬようくれぐれも注意されたのでした。\n 二の池で泊って、私は翌日起きて驚いた。あんなに沢山の高い山があるのを一目に見たのは初めてです。先ず東の方を見ると、鼻につかえる位の近くに目八分の高さに長い山がある。其上には更に高い山があり、どこまで続いているのか、先の方は棚引く横雲に隠れているので分らない、何山だか小屋の主人に聞いてもよく知らぬ。側に居た駒草採りの男が甲州の山で白峰というのだと教えてくれました。賽の河原を過ぎて三の池まで来ますと、火口壁の上では幾組もの先達が池に向って盛に九字を切っていました。見ると幾人かが池の水へ御神符の紙を浸している所でした。其人達の居なくなるのを待って池の畔に下り、東側の偃松の中を辿って継母岳の頂上に出て振り返ると、梵天のようなものを押し立てた四十人余りの白衣の信徒達が池に向って高声に祈祷しながら九字を切っていました。下は真青な池です。私は何だか恐ろしくなって急いで四の池の火口壁内へ下りて、冷たい水の流れている草原に腰を卸して暫く休んでから継子岳を上下し、高天ヶ原の最高点に立ったのでした。この附近までは駒草採りも稀にしか入り込まないと見えて、十も二十も花の咲いている大きな株があっちにもこっちにもありました。私も五つ六つ採集して紙に包み、小屋に帰ってから主人に見せたら、ヤア旦那、二両がとこ仕事をしましたネと言われて吃驚したのでした。ここまで来ると北の方の雲がいいあんばいに晴れて、いきなり鼻の先へ頭が小さくて恐ろしく根張りの大きい山が現われる。それが乗鞍でした。おまけに乗鞍の南の斜面には大きな残雪があった。御岳では二の池の西側に僅かしかなかったのですが、乗鞍には沢山雪が残っていたので、これは御岳より高い山ではないかと思って残念なような気がしたのでした。\n 更に後の方を見ると三つ穂の槍のような山が見える、支那人の所謂一柄三尖の槍に似ている。つまり槍と奥穂高と前穂高の三つが三叉の槍のように見えたのです。あれが小屋の主人から聞いた槍ヶ岳であろう。私はこの三尖が一個の槍ヶ岳だと思ったのです。穂高なんて名は知りもしなければ聞いたこともない。そのために穂高へ登りそこなったのでした。私は四方の山を見ている中にぼうとなってしまって、殆ど夢中で五の池から摩利支天、一の池の三十六童子を廻って小屋に帰り、其日の中に下山して宮ノ越に泊ったのですが、意識的に日本アルプスの山々を大観したのは此時が始めてでありました。二度目に行った時は、ちょうど二十九年で『日本風景論』を読んでいましたから御岳はつけたりで、立山を振り出しにどうしても槍へ登りたいと思って行ったのですけれども、案内者を傭って登るなんてことは知らなかったものですから、なんでも山へは一人で登るもののように思っていたのです。それで『風景論』を読んでみると三千五百三十一メートルと書いてある。富士山のほかにも高い山があるものだ、これはどうしても登らずんばあるべからずと思って行ったのですが、註のところに時に雷鳥、熊、かもしかを見ると書いてあるので熊に恐をなして断念しました。その時島々で穂高へ登ったらよかろうといわれたのですが、そんな名も知らない山へ登ったところがしようがないというのでとうとう登らなかったのは今から考えると甚だ残念です。兎に角御岳へ初めて登った時が、日本にもこんなに高い山が沢山あるぞということをまざまざと見せつけられたので、一番よく記憶に残って居ります。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 然し首の習作のモデルとして見る場合には又別種の面白味がある。ロダンの「泣く女」のやうな表情は罕ならず遭遇する所である。若し夫れ皮肉なるドガアの畫題を搜し出すと云ふ事は既に予の領分外である。それはもつと深い透徹を要する。予は君の短篇の類集に待たねばなるまい。\n 此間に予は突然濁つた太い聲に驚かされたのである。「竹ちやん、竹ちやん、待つてましたあり――」といふ言葉が其瞬間に理會せられた。人はみな忽ち其方へ視線を轉じた。蓋し豫定喝采者の類であつたらう。餘りに年の寄つた銅色の顏の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬやうに俯いてゐた。其對照が既に滑稽以上であつたからして、轉じられた視線は豫期に反した弛緩の感じを以て再び舊に戻るやうに見えた。\n 予は藝術を△Illusion+△Connaissance といふものの極限として觀相しようと常々思つてゐるのである。舊の美學は唯藝術の假感の極限の場合をのみ論じて居るやうに見える。肉聲が織る曲節、曲節の底を漂ふ肉聲――たとへば斯くの如き二つの軸の間を動搖する所に藝術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる――人を幻影の境に引いてゆく藝術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡〻東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。\n 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜る實の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ......」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此は全く愼といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。\n 道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開かなかつた。開いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。\n「まあまあ高麗屋が一でせうな。」\n「左團次もようがつせ。」\n「どつちとも云へまへんな。」\nと云ふやうな會話を聞きながら――。ここの出方は紋付の縞の着物を着た女だつた。これらの女に使用せらるる大阪言葉は揮發的で、その語勢は油の流れるやうだつた。\n 昨日午後道頓堀の通りを何か化粧品の廣告の囃が通つた。それが柳か何かの佐和利の節を鐘や太鼓でちんからころりとやつて行く所は、流石は大阪と大に感心した。萌葱の短い前垂の女中が後ろを振り返つてそれを見入り、銕丹染の風呂敷の番頭はんも足を停め、茶屋の前で二三人の女中が手を組み合はせて眺める所は、宛然として浪華風俗畫卷の題目であつた。\n 肩衣を賣る店を市中で屡見出したが、その際予は未だ嘗つて知らなかつたところの「市中漫歩者の情調」に襲はれた。唯それ丈でも大阪は好である。況んや汽車に乘り合はせる人、煙草の火を借せる人が、みんな藝事の話の分らないのがないに於てをや。(四月二日、大阪圖書館にて。)\n\n 今日の午過ぎ大阪の圖書館へ入つて見た。借りようと思つた本は皆、ちやうど特別の陳列の爲めに出てゐるので見られないのは遺憾であつた。それから「松の落葉」といふのも元祿の小唄を集めたのではなくて、例もの藤井何とかいふ人の隨筆集であつた。\n 後に無理に陳列室の内へ入れて貰つたら、手に觸るる事の出來ない玻璃の陳列棚の中に「浪華歳時鏡」「新板豐年拔參宮」「道頓堀出がはり姿なにはのみそ(?)いせのおしろい」「新町根里毛農姿番組」「なにはぶり」「浪華青樓志」「大阪新町細見圖」「淀川兩岸勝景圖會」「畫本四季の友」といふやうな風俗畫の畫本が並べられてあつた。かかる種類の本は、安永天明から天保の頃にかけて江戸には汗牛充棟も啻ならざる程あるが、京阪には比較的少いやうである。元祿時分のは多少あるかも知れぬ。\n この暗い部屋の中で偶然上方の粹といふ言葉と江戸の意氣といふ言葉とに考へ付いて、前者が心理的なるに對して後者の著しく外形的(形態的)であると云ふ事に氣がついた。西鶴、近松の類と洒落本、草雙紙の類と比較して兩都のそのかみの文明を推論したならば面白い事だらう。(四月二日夜神戸行電車中。)\n\n 昨日の午飯は兼ねて人に聞いて置いたから梅月とかいふ天麩羅屋で食つた。いつもなら純粹の大阪人をここに見られるさうであるが、今日は時が午より遙かに遲れて居たから「だす」「おます」の言葉で相場の噂も聞く事が出來なかつた。\n それからもう遲かつたが文樂へ行つて見た。君の印象記での覺えもあり、一年有半で讀んだ事もあり、何かしら大へんの所だと思つて居たが、あまり予の胸にはしつくりと來なかつた。はじめの「釋迦誕生會」などは近松の作だと云ふが愚なものである。實は予は東京では間に合はなかつたから印度王の原稿を今度一緒に持つて來たが比芝居を見て燒いてしまひたくなつた。然し二番目の攝津大掾の阿波鳴門の出語りは予に一種の「整復の音の感味」を味はしめたやうに思はれた。然し予のこの感じがどれ丈までトラヂシオンによつて來て居り、どれ丈まで自家の理會及び感情投入から來てゐるかは定かに云ふ事が出來ぬ。予は予の音樂の「耳」をあまり信頼して居ない。故に呂昇の壺坂を感心したのが本當に感心す可き所にしたのか、將た今また攝津の藝術にやや窮屈な壓迫を感じたのが予の耳の罪であるのかも分かつ事が出來ぬ。\n 唯攝津の年齡と優雅なる其容貌及び絃の廣助の顏などが、予に一種のロマンチツクな崇敬の心をこの藝術家に對して抱かせたと云ふ事は事實である。眉毛の長い七十の翁の温藉なあの表情はそれまでの長い間の藝術的生活が刻んだものだと思ふ毎に一種のサンチマンタアルな情操の動くのを感ずるのであつた。この際予が爲した二つの首のスケツチは幸ひに隣席の客の賞讚を買ひ得た。\n 予の隣の桝は東京の客だつた。一人は五十に近い、町家の主婦らしく、道徳的な而もやや意氣な顏付をしている女であつた。予はその人から大阪見物の感想を聞くことを得たが、大阪へ來ると自分はもう隱居しようと云ふ氣は全く無くなつて、人は死ぬまで働かなければならないと思ふやうになると云つて居たには妙な感じを抱かさせられた。意外な、處にも似付かはぬ、いやに道徳的な感想であるが、その連れの三十過ぎの同じく商人體の男がその註解をしてくれたので會得する事ができた。東京から大阪へ來ると東京の商業はまるで子供の惡戲だと云ふやうな氣がするといふ事から説き起して、大阪の人の時を愛しみ、金を崇ぶ事を語り、(不幸にして折角の名を逸したが)或大阪の(恐らく日本一だらうと云はれてゐる)一老株屋の店の印象を語つた。予の今覺えて居る處は、そんな大きい店なのにも拘らず家は狹く汚く、主人も粗服だと云ふ事を賞讚したことである。東京では隨分大きい仲買所でも仕拂を多少づつ遲れさす、即ちそれ丈人の金を融通しておくのである。大阪に至つては厘錢の微もきちんきちんと始末し盡くすと云ふ事である。若し東京の人が大阪へ出て商賣するやうな時には極めて正直にしなければならぬ。少しでもずるい事があつたなら、その點には鷹のやうに鋭い眼を持つて居る大阪人は直ぐ觀破して決して相手にしない。而もさう云ふ事にかけての團體力は支那人のやうに強いからどうにもならないと云ふやうな事を語つてをつた。\n「あれですからねえ」と前の棧敷に指さして、「御覽なさい。かう云ふ所へもああやつて家から瓶に入れて酒を持つて來るんです。そして火を取つて自分で暖めて飮むんです。貴方、あの座蒲團なんぞも風呂敷へ入れて家から運んで來たんですよ。」と云つた。"
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"role": "assistant",
"content": " 予は、大阪の演藝類の見物の廉價であると云ふ事を以て之に應じた。現に文樂などでも、後ろの方は十二錢出せば一日聽いて居られるのである。又劇場には東京の如く一幕見といふものが無く、東京の大入場にあたる所がその代り十錢か十五錢である。\n「大阪人はまた實にのんきなものですな。あんな所で一日幕合の長い芝居を不服もなく見物してゐるんですね。」とその男が云つた。\n 其間舞臺では、強く誇張された人相を刻まれたので、其爲めに一方には頗る漫畫的に見えるが、同時に、巧みなる人形遣の爲めに隙間なく動かされるので、却つて其不安定な動的の表情が運動の眩惑を助ける所の人形が怒つたやうな顏で泣いて居た。\n 何處の所だつたか、攝津が「お前と手分して尋ねようと思うて云々」と語ると、棧敷のそこここで忽ち多くの手帕が眼にあてられたのであつた。黄ろい貧血的の、やや老女に似る顏容の印象を呈してゐる絃の廣助までも、泣き顏になつて一生懸命に三味線をかぢくつて居た。予は此時近くの人の「廣助はんの絃ぢや到底追ひ付けまへんな」といふやうな批評を聞いて、本當にさうなのかなどと思ひながら例の Illusion と Désillusion との世界を彷徨して居たが、唯予の前の棧敷に居た六七歳の男の子は、何と思つたか、ずつと背伸びをして、惘然と不可思議の眼を睜つて、かの未だ知らざる情緒海のあなたを眺め入るやうに見えた。\n「アイ、笈摺もな、兩親のある子やゆゑ兩方は茜染......」の一段になつて、予も始めて、はつと幻想の世界に落ち込んだやうな心持がした。今迄概念的に味はつて居た十郎兵衞住家の悲劇も、兩親があるから笈摺の兩縁が茜染だといふ特殊の事實の描寫が、阿片のやうに瞬間的に予の自覺を濁らしたと見える。手づから本物に觸るやうな藝術的實感を味はふ事が出來たのである。それから「からげも解かず、笈摺も掛けたなり」と云ふ處で、また小さいシヨツクを感じた。再びありありと、勞れ切つた小さい順禮のむすめが眠るといふ有樣が想像せられたのである。\n 折角の處だつたが時間の制限があるから外へ出たが、何か自分でも支配する事の出來ないやうな腹立たしさが湧いて居たのに氣が付いた。\n その夜神戸に歸つて床に就いた後に、久し振で聽官の幻覺に襲はれた。つひぞ、かういふ事は十四五歳の後には味はつた事が無かつたのに、暗く交睫みつつある心の表に突然三味線が鳴り出したり御詠歌が聞えたりするのを、半ば無意識に聞くといふ事は、然し兎に角愉快な事であつた。(四月三日京都にて。)\n\n 急用が出來て今夜の急行で東京へ歸らねばならぬやうになつたのは尠からず殘念である。せめて今夜までの時間を京都で暮さうと思つて今朝この市に入つた。奈良、堺などはどうでも可いがもつと深く大阪を味はひたかつた。少くとも鴈治郎の藝を東京座の花道や猿之助との一座などでなく、大阪のあの舊式な劇場の空氣の中で見物したいものであつた。東京の芝居で見られない何者かをそこで搜しうるに相違ない。なんといつたつて上方の文明は三百年の江戸の都會教育よりずつと根柢が深いのであるから、大阪人は江戸東京人よりももつと人生といふことを知つてゐる筈だ、粹といふやうな言葉が江戸でなく上方で作られたのは偶然の事ではないだらう。\n 京都へ入つては先づ第一に停車場で坊主にあつた事を異樣に感じた。そこから四條へ出るまでに眞鍮の蝋燭臺を賣る暗い店、大牛、河の柳、數多き旅館及び古風の橋などが視感を動かした。是等の景物に寺、塔、舞子のだらり及び人力車上の西洋婦人などを加へれば、略京都の情景を想像することが出來る。\n 黒田清輝氏の「小督物語」は偶然路上に遭遇した人群から暗示を受けたといふが、僧侶、藝子及び舞子、嫖客、草刈の少女等は眞に京都的の Eléments である。而も其布局が昔の繪卷物の風俗畫を思はしめ、その思付が謠曲によくある物語の風(たとへば道成寺の前のシテの白拍子の後のシテなる――事實上は時間的に以前の――蛇を暗示するといふが如き)で直接歴史的風俗畫を避けて尚或情趣を添へるといふ點で更に意味あるものとしたのである。而も其純繪畫的觀相がまだ西洋臭いといふ對照があの繪をまた一層面白くしたのだと思ふ。\n 今の京都の生活から、然し一枚の風俗畫を作り出さうとする場合には西洋人は缺く可からざる一要素であるといはねばならぬ。横濱神戸はさる事ながら、京都と異人とは、今はもう切つても切れない中となつたのである。\n 三十三間堂の暗い中に數多き金色の觀音が立ち並んでゐる。天井の大きい燈籠がそこに定かならぬ光明の輪を畫いてゐる。『人皇は七十七代後白河天皇御建立、......千一體のうちに三萬三千三百三十三體の觀音樣が拜まれます』......と唄ふ案内の小僧のねむたい曲節の中にも、色斑らな女異人の一行があまり似付かはしくもなく見えるのである。\n 博物館で鎌倉から信長の時代へかけての色々の縁起物の繪卷物を見た。浮世繪に次いでは是等の風俗畫が大に予の心を喜ばしめる。如何なる時代でも平民の生活及びその藝術化ほど予の心を惹くものはない。\n 大谷光瑞師の寄贈にかかるといふ、支那トルキスタン庫車内トングスバス發掘の塑像佛頭といふ土の首は予の心臟を破らむほどに美しかつた。(四月三日朝京都にて。)\n\n 今、人と四條橋畔のレストオランに居る。都踊の始まるまでの時間を消す爲めに、一つには自ら動く勞なくして、向ふで動いて呉れる京都を觀る爲である。\n 中には始めから二人の西洋人が居た。直ちに獨逸人であるといふ事のわかる重い發音で會話してゐる。それからその連れらしいのが二人來た。\n この背景としての窓の下の四條橋下の河原では、例のコバルト色に見える人の群が、ずらりと並べ干された友禪ムスリンを取込むのに忙殺せられて居る。\n 面の平でない玻璃の爲めに、水淺葱に金茶の模樣が陽炎を透かしての如くきらきらといかにも氣持よく見える。一列の布の上に、遙かに黒き、其輪郭は廣重的に正しい梅村(?)橋が横はつて居る。草はもう不愉快に日本的に黄ばんでるが、その側に、明紫灰色の小石の上に干された黄や紫や淺葱の模樣の幾列かの布との間に、一種の快き色彩の諧調を作り出して居る。河原の水際には澁紙で貼つた行李が二三箇積まれてある。そのそばで話しながら二三の人が仕事をして居る。或者は何かしらん齒車仕掛のものを頻りと𢌞して居る。或者は黒いズボンのままで川へはひつて樺色の長い布を引摺出してくる。或者はまた懸け弔るした淺葱の友禪を外して二人で引張つては、それから互に相近づき、更に元より近く相離れ、更に復近づいて、かくて二つに疊まれたものは四つに、四つのものは八つに疊まれ十六に疊まれて石の上に置かれる。そして竿の間に張られた綱に隙間が生じて來ると川からの人が、更に色の變つたムスリンをだらりと弔るすのである。\n 京都や大阪の町、及びそこの形態的生活は友禪的に色斑らに、ちやうど抱一が畫いた菊の花瓣のやうに綺麗である。然しここの生活だけは乳金、代赭、群青の外にエメロオド、ロオズマツダア等を納れ得るのである。あの布を干す二三人の群を目の粗いカンヷスに取つたら嘸愉快の事だらう。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「貴様の知ってる通り、吾家じゃこれまでどのくらい書生を置いて見たか解らないが、何時でも是方の親切が仇になる――貴様くらい長く世話したものも無い――それだけの徳が貴様には具わっているというものだ」\n こういう主人とお婆さんとの話を細君は側で静かに聞いていたが、やがて捨吉の方を見て言うだけのことを言って聞かせて置こうという風に、\n「一時はもうお前さんを御断りしようかと思う位だったよ......」\n その言葉の調子は優しくも急所に打込む細い針のような鋭さが有った。捨吉は紅くなったり蒼くなったりした。\n\n\n「兄さん」\n と広い勝手の上り口から捨吉を見つけて呼んで入って来たのは、田辺の家の一人子息だ。弘と言って、捨吉とはあだかも兄弟のようにして育てられて来た少年だ。\n「このまあ暑いのに帽子も冠らないで、何処へ遊びに行ってるんだねえ」\n と細君は母親らしい調子で言った。この弱かった細君にどうしてこんな男の児が授かったろうと言われているのが弘だ。一頃は弘もよく引付けたりなどしたが、お婆さん始め皆の丹精でずんずん成長って、めっきりと強壮そうに成った。おまけに、末頼もしい賢さを見せている。\n お婆さんは茶戸棚のところに行って、小饅頭などを取出し、孫と捨吉とに分けてくれた。\n「弘、写真を持って来て兄さんにお目にお掛けな」\n と細君は弘を側に呼んで、解けかかった水浅黄色の帯を締直して遣った。弘が持って来て捨吉に見せた写真は、父と一緒に取ったのと、一人のとある。界隈の子供と同じように弘もいくらか袖の長い着物で写真に映っていたが、その都会の風俗がいかにもよく似合って可愛らしく見えた。\n「実によく撮れましたネ」\n と捨吉に言われて、お婆さんから細君へ、細君から主人へと、三人はもう一度その写真を順に廻して見た。主人は眼を細めて、可愛いくて成らないかのようにその写真に見入っていた。\n「弘さん、いらっしゃい」\n と捨吉が呼んだ。やがて彼は弘を自分の背中に乗せ、部屋々々を見に行った。夏らしく唐紙なぞも取除してあって、台所から玄関、茶の間の方まで見透される。茶の間は応接室がわりに成っていて、仕切場だとか大札だとか芝居茶屋の女将だとかそういう座付の連中ばかりでなくその他の客が入れ替り立ち替り訪ねて来る度に、よく捨吉が茶を運ぶところだ。彼は弘を背中に乗せたまま、茶の間から庭へ下りて見た。青桐が濃い葉影を落しているあたりに添うて一廻りすると、庭から奥座敷が見える。土蔵の上り口まで見透される。\n 細君は捨吉の背にある弘の方を見て、\n「おや可笑しい。大きなナリをして」\n と奥座敷に居て言った。\n 奥座敷では、午後の慰みに花骨牌が始まった。お婆さんと主人が細君の相手に成って、病後を慰め顔に一緒に小さな札を並べていた。\n「弘の幼少い時分にはよくああして兄さんに負さって歩いた。一度なんか深川の方までも――」\n とお婆さんが札を取上げながら、庭の方を眺めて、「でも、二人とも大きく成ったものだ」\n「さあ、今度は誰の番です」と主人が笑いながら言出した。\n「あたいだ」とお婆さんは手に持った札とそこに置並べてあるのとを見比べた。\n「弘は母さんの傍へお出」\n と細君が呼んだので、捨吉は背中に乗せていた弘を縁側のところへ行って下した。弘はまだ子供らしい眼付をして母親の側に坐った。そして種々な模様のついた花骨牌を見比べていた。\n「桐と出ろ」と主人は積重ねてある札を捲って打ち下した。「おやおや、雨坊主だ」\n 細君の番に廻って行った。「どうも御気の毒さま。菅原が出来ました」と細君は揃いの札を並べて見せた。それを見た主人は額に手を宛てて笑った。\n 間もなく捨吉は庭下駄を脱ぎ捨てて勝手口に近い井戸へ水汲みに行った。まだ水道というものは無い頃だった。素足に尻端折で手桶を提げて表門の内にある木戸から茶の間の横を通り、平らな庭石のあるところへ出た。庭の垣根には長春が燃えるように紅い色の花を垂れている。捨吉が水を打つ度に、奥座敷に居る人達は皆庭の方へ眼を移した。葉蘭なぞはバラバラ音がした。濡れた庭の土や石は饑え渇いた水を吸うように見る間に乾いた。\n 捨吉は茶の間の方へも手桶を向けて、低い築山風に出来た庭の中にある楓の枝へも水を送った。幹を伝う打水は根元の土の上を流れて、細い流にかたどってある小石の中へ浸みて行った。茶の間の前を蔽う深く明るい楓の葉蔭は捨吉の好きな場所だ。その幹の一つ一つは彼に取っては親しみの深いものだ。楓の奥には一本の楠の若木も隠れている。素足のまま捨吉は静かな緑葉からポタポタ涼しそうに落ちる打水の雫を眺めた。\n 復た捨吉は庭土を踏んで井戸の方から水の入った手桶を提げて来た。茶の間の小障子の側には乙女椿などもある。その乾いた葉にも水をくれ、表門の内にある竹の根にも灑ぎかけた。彼はまた門の外へも水を運んで行った。熱い、楽しい汗が彼の額を流れて来た。最後に、客の出入する格子を開けて庭のタタキをも洗った。そこには白い滑かな方形の寒水石がある。その冷い石の上へ足を預けて上框のところに腰掛けながら休んだ。玄関の片隅の方を眺めると、壁によせて本箱や机などが彼を待受け顔に見えた。\n\n\n 花骨牌にも倦んだ頃、細君は奥座敷の縁側の方から玄関の通い口へ来て佇立んだ。まだ捨吉は上り框へ腰掛けたなり素足のままでいて、自分の本箱から取出した愛読の書籍を膝の上に載せ、しきりとそれに読み耽っていた。見ると細君が来て背後に立っていたので、捨吉はきまり悪げに書籍を閉じ、すこし顔を紅めた。\n 病後の細君が腰を延ばし気味に玄関から茶の間と静かに家の内を歩いているその後姿を捨吉はめずらしいことのように思い眺めた。やがて格子戸の外に置いた手桶を提げて井戸の方へ行こうとした。ふと、樽屋の内儀さんが娘を連れながら、表門の戸を開けて入って来るのに逢った。\n「捨さん、何時御帰んなすったの。学校はもう御休みなんですか」\n と河岸の内儀さんは言葉を掛けた。女ながらに芝居道の方では可成幅を利かせている人だ。娘も捨吉に会釈して、母親の後から、勝手口の方へ通った。一度捨吉は田辺の細君の口から、「捨さんは養子には貰えない方なんですか」と樽屋の内儀さんが尋ねたという話を聞いてから、妙にこの人達に逢うのが気に成った。\n 捨吉は井戸端で足を拭いてから、手桶の水を提げ、台所から奥座敷と土蔵の間を廂間の方へ通り抜けた。田辺の屋敷に附いた裏の空地が木戸の外にある。そこが一寸花畠のように成っている。中央には以前に住んだ人が野菜でも造ったらしい僅かの畠の跡があって、その一部に捨吉は高輪の方から持って来た苺を植えて置いた。同窓の学友で労働会というものへ入って百姓しながら勉強している青年がその苺の種を分けてくれた。それを捨吉は見に行った。\n 幾株かの苺は素晴らしい勢で四方八方へ蔓を延ばしていた。長い蔓の土に着いた部分は直ぐそこに根を生した。可憐な繁殖はそこでもここでも始っていた。\n「ホ。何物もくれなくても可いんだ」"
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"content": " と捨吉は眼を円くして言って見て、青々とした威勢の好い葉、何処まで延びて行くか分らないような蔓の間などに、自分の手を突込むと、そこから言うに言われぬ快感を覚える。手桶に入れて持って来た水を振舞顔に撒いていると、丁度そこへ主人も肥満した胸のあたりを涼しそうにひろげ、蜘蛛の巣の中形のついた軽い浴衣で歩きに来た。\n「小父さん、御覧なさい――こんなに苺が殖えましたよ」\n と捨吉が声を掛けた。\n 主人は大人らしい威厳を帯びた容子で捨吉の立っている側を彼方是方と歩いた。どうかすると向うの花畠の隅まで歩いて行って、そこから母屋の方を振返って見て、復た捨吉の方へ戻って来た。行く行くはこの空地へ新しい座敷を建増そうと思うという計画などを捨吉に話して聞かせた。それからまた自分の事業の話などもして、大勝の大将と共同で遠からず横浜の方にある商店を経営しようとしていることなどを話した。\n 何かにつけて主人は捨吉の若い心を引立てようとするように見えた。この「小父さん」が好い時代に向いつつあることは捨吉の身にとっても何より心強い。八年以来煩い煩いしていた細君が快くなったというだけでも大したことであるのに、家はますます隆盛な方だし、出入するものも多くなって来たし、好い事だらけだ。主人の眼は得意に輝いて見える時だ。その眼はまたいろいろな物を言った。「小父さんが苦しかった時代のことに比べて見よ。捨吉、貴様はこういう家屋と庭園を自分のものとして住むということを何とも思わないか。書生を置き、女中を使い、人は『田辺さん、田辺さん』と言って頼って来るし、髪結の娘で芸を商売にするものまで出入することを誉のようにして小父さんが脱いだ着物まで畳んでくれるということを何とも思わないか。小父さんの指に光る金と宝石の輝きを見ても何とも思わないか。捨吉、捨吉、どうして貴様はそうだ――何故小父さんの後へ随いて来ないか」それを主人は種々なことで教えて見せていた。\n\n\n 細君が床揚げの祝いの日には、主人も早く起きて東の空に登る太陽を拝んだ。竈河岸の名高い菓子屋へ注文した強飯が午前のうちに届いた。「行徳!」と呼ばって入って来て勝手口へ荷をおろす出入の魚屋の声も、井戸端で壮んに魚の水をかえる音も、平素に勝って勇ましく聞えた。奥座敷の神棚の下には大勝始め諸方からの祝いの品々が水引の掛ったままで積重ねてあった。\n 強飯を配るために捨吉は諸方へと飛んで歩いた。勝手に続いて長火鉢の置いてあるところで、お婆さんが房州出の女中を指図しながら急しそうに立働いた。菓子屋から運んで来た高い黒塗の器の前には細君まで来て坐って、強飯をつめる手伝いをしようとした。\n「米、何だねえ。お前がそんなことをしなくっても可いよ」\n とお婆さんは叱るように言って見せて、大きな重箱を細君の手から引取った。南天の実の模様のついた胡摩塩の包紙、重たい縮緬の袱紗、それをお婆さんの詰めてくれた重箱の上に載せ、風呂敷包にして、復た捨吉は河岸の樽屋まで配りに行って来た。\n その日は捨吉の兄も大川端の下宿の方から呼ばれて来た。宿は近し、それに大勝の大将は田辺の主人の旦那でもあればこの民助兄に取っての旦那でもあって、そんな関係からよく訪ねて来る。田辺の主人と民助とは同郷の好みも有るのである。\n「民助さん、まあ見て遣って下さいよ。捨さんの足はこういうものですよ」とお婆さんは捨吉の兄に茶をすすめながら話した。\n「捨さん、一寸そこへ出して兄さんにお目にお掛けな」と細君は捨吉を見て言った。「この節は十文半の足袋が嵌りません。莫迦に甲高と来てるんですからねえ」\n「どうだ。俺の足は」と主人はセルの単衣を捲って、太い腰の割合に小さく締った足を捨吉の方へ出して見せた。\n「父さんの足と来たら、これはまた人並外れて小さい」と細君が言った。\n 民助は奥座敷の縁先に近く主人と対い合って坐っていた。こんこん咳払いするのが癖で、「自分等の年をとったことはさ程にも思いませんが、弘さんや捨吉の大きく成ったのを見ると驚きますよ」と言って復た咳いた。\n「なにしろ、『お婆さん、霜焼が痛い』なんて泣いた捨吉が最早これだからねえ」と主人は肥満した身体を揺るようにして笑った。\n 内輪のものだけの祝いがあった。昔を忘れないお婆さんも隠居らしい薄羽織を着て、まだ切下げたばかりの髪の後部を気にしながら皆と一緒に膳に就いた。\n「弘は兄さんの側へ御坐りなさい」\n と母親に言われて、弘は自分の膳を捨吉の隣へ持って来る。捨吉もかしこまりながら好きな強飯を頂戴した。\n 食事が終って楽しげな雑談が始まる頃には、そろそろ主人の仮白などが出る。芝居の方に関係し始めてから、それが一つの癖のように成っている。主人のは成田屋張で、どうかすると仮白を真似た後で、「成田屋」という声を自分で掛けた。それが出る時は主人の機嫌の好い時であった。\n「弘、何か一つ遣れ」\n 主人は意気の昂った面持で子息にも仮白を催促した。\n「お止しなさいよ」と細君は手にした団扇で夫を制する真似して、「父さんのように仮白ばかり仕込んで、困っちまうじゃ有りませんか。今に弘はお芝居の方の人にでも成って了いますよ」\n「これがまた巧いんだからねえ」と主人は子息の自慢を民助に聞かせた。\n「民助さん、貴方の前ですが」とお婆さんも引取って、「どうもあたしはこの児のあんまり記憶の好いのが心配で成りません。米もそう言って心配してるんです。まあ百人一首なぞを教えましょう、すると二度か三度も教えるともうその歌を暗で覚えてしまいます......貴方の前ですが、恐しいほど記憶の好い児なんですよ......」\n「弘さんはなかなか悧巧ですから」と民助が言った。\n「しかし、あんまり記憶の好いのも心配です」と細君が言った。「私の兄の幼少い時が丁度これだったそうですからねえ」\n「彼女の兄というのは二十二か三ぐらいで亡くなりましたろう。学問は好く出来る人でしたがねえ」と主人は民助に言って聞かせた。「実は、私もお婆さんや米のように思わないでも有りません。どうかすると私は弘の顔を見てるうちに、この児にはあんまり勉強させない方が好い、田舎へでも遣って育てた方が好い、そう思うことも有りますよ」\n「そのくせ、父さんは一番物を教えたがってるくせに――一番甘やかすくせに」と言って細君は笑った。\n 夭死した細君の兄の話から、学問に凝ったと言われた人達のことが皆の間に引出されて行った。田辺の親戚で、田舎に埋れている年とった漢学者の噂も出た。平田派の国学に心酔した捨吉等の父の話も出た。\n「捨吉、そんなところにかしこまって、何を考えてる」と主人が励すように言った。\n「皆これでどういう人に成って行きますかサ」と細君は吾児と捨吉の顔を見比べた。\n お婆さんは首を振って、「捨さんの学校は耶蘇だって言うが、それが少し気に入らない。どうもあたしは、アーメンは嫌いだ」\n「お婆さん、そう貴女のように心配したら際限が有りませんよ。今日英学でも遣らせようと言うには他に好い学校が無いんですもの。捨吉の行ってるところなぞは先生が皆亜米利加人です。朝から晩まで英語だそうです」と言って主人は捨吉の兄の方を見て、「どうかして、捨吉にも洋行でもさして遣りたいものですな――御店の大将もそう言ってるんです――」\n 民助は物を言うかわりに咳いたり笑ったりした。\n 記念すべき細君の床揚の祝いにつけても、どうかして主人は捨吉を喜ばそうとしているように見えた。行く行くは自分の片腕とも、事業の相続者ともしたいと思うその望みを遠い将来にかけて。\n\n三\n\n 楽しい田辺の家へ帰っても捨吉の心は楽まなかった。「貴様はそんなところで何を考えてる」と田辺の小父さんに問われることがあっても、彼は自分の考えることの何であるやを明かに他に答えることが出来なかった。しかし、彼は考え始めた。彼が再び近づくまいと堅く心に誓っていた繁子に図らず途中で邂逅った時のことは、仮令誰にも話さずにはあるが、深い感動として彼の胸に残っていた。それが彼から離れなかった。避けよう避けようとして遂に避けられなかったあの瞬間の心の狼狽と、そして名状しがたい悲哀とは......あの品川の停車場手前から高輪の方へ通う細い人通りの少い抜け路、その路傍の草の色、まだ彼はありありとそれらのものを見ることが出来た。あの白い肩掛に身を包んで俯向き勝ちに乗って行った車上の人までもありありと見ることが出来た。あの一度親しくした年長の婦人が無言で通り過ぎて行った姿は、何を見るにも勝り何を聞くにも勝って、あだかも心の壁の画のように過去った日のはかなさ味気なさを深思せしめずには置かなかった。"
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"role": "user",
"content": " あの檻にちがいない。気を失う前に見せられた、あの若い男のとじこめてあった檻にちがいない。では、ここには彼女一人ではないのだ。若い美しい男が、彼もまたまっぱだかにされて、どこかそのへんにいるはずだ。\n 早苗さんは、そこまで思い出すと、顔を上げて、あたりを見廻す勇気が失せてしまった。ああ、どうすればいいのだ。彼女は身に一糸もまとってはいないのだ。その恥かしい有様で、若くて美しい、そのうえ、はだかの男の前に横たわっているのだ。\n 彼女は赤くなるどころか、もうまっ青になって、サッと身を起こすと、くくり猿みたいにちぢこまって、隅っこの方へあとずさりをして行った。そして、眼をそらすように、そらすようにしていても、なにぶん狭い檻の中だ、自然に眼界にはいってくるのを防ぐわけにはいかない。彼女はとうとうそれを見てしまった。まっぱだかの男を見てしまった。\n エデンの園のアダムとイヴみたいな二人が、地底の牢獄で、いま眼と眼を見かわしたのだ。どうすればいいのだ。何を言えばいいのだ。恥かしさの極、早苗さんの両眼には子供のような涙が一ぱいあふれていた。その涙のギラギラする後光が男の白いからだを包んで、チロチロといびつに輝いている。\n「お嬢さん、ご気分はどうですか?」\n 突如として、朗々としたバスの声が響いた。青年が物をいっているのだ。\n 早苗さんは、ハッとして、涙をはらうために眼をしばたたいて、青年の顔を眺めた。\n すぐ眼の前に、油で拭いたようになめらかな白い顔があった。高くて広い額、ふさふさとした黒髪、二重瞼のすき通るような眼、ギリシャ型の高い鼻、赤くて引きしまった唇。その青年が美男であればあるだけ、しかし、早苗さんは恐ろしかった。\n「黒トカゲ」は彼女をこの青年の花嫁になぞらえたではないか。青年はそういうつもりでいるのではないかしら。と考えると、その相手が、そして、自分までが、けだもののようにまっぱだかで、逃げようにも逃げられぬ檻の中に、とじこめられている有様を、からだじゅうの血の気が失せるほどあさましいことに思わないではいられなかった。\n「いや、お嬢さん、決してご心配なさることはありません。僕はこんなふうをしていても野蛮人じゃないのですから」\n 青年は言いにくそうに、どもりながらそんなことをいった。彼の方でもひどく恥かしがっているのだ。早苗さんはそれを聞いて、ホッと胸をなでおろす気持だった。\n やがて、彼らは、だんだんお互いの気心がわかっていくにつれて、身の上話をはじめたり、女賊の気違いめいた所業を呪ったり、よそ眼には仲のよい雌雄の白い動物ででもあるように寄りそって、ヒソヒソ話をつづけるのであった。\n そうしているあいだに、いつか夜が明けたと見えて、穴蔵の底にも、人のざわめくけはいが感じられ、やがて「黒トカゲ」の部下の荒くれ男どもが、つながるようにして、檻の中の新来の客を見物に押しよせてきた。\n 早苗さんが、この不作法な見物たちに、どのような恥かしい思いをさせられたか、青年がいかに野獣のように怒号したか、賊の男どもがどんな烈しい侮辱の言葉を口にしたか、それは読者諸君のご想像にまかせるとして、そうして地下室に泊っている四、五人の部下のものが、ガヤガヤやっているところへ、例のモールス信号みたいな合図の音がかすかに聞こえて、やがて一人の船員風の男が、何かただならぬ気色で穴蔵の中へはいって来た。\n\n人形異変\n\n その船員風の男は「黒トカゲ」の部下のうち、沖の汽船の中に寝泊りをしている一人であったが、彼は地下道の奥にある首領「黒トカゲ」の私室の前に近づくと、やっぱり暗号めいた叩き方で、そこのドアをノックした。\n「おはいり」\n 女賊の権威を以て、荒くれ男ばかりの中にいても、ドアに鍵をかけるなんて不見識なことはしない。夜中であろうが、「おはいり」の一ことで、ドアはいつでもひらくようになっている。\n「まあ、どうしたのさ、朝っぱらから。まだ六時じゃないの?」\n「黒トカゲ」は白いベッドの上に、白絹のパジャマ一枚で、不行儀な腹ばいになったまま、はいってきた男を横眼で見ながら、巻煙草に火をつける。ムクムクと豊かな肉が、すべっこい白絹の表にまる出しだ。おかしらがそういう恰好でいる時ほど、部下の男どもが困ることはない。\n「ちょっと、へんなことがあったんです。だもんだから、急いでお知らせにきたんですが」\n 男はなるべくベッドの方を見ないようにしながら、モジモジして言った。\n「へんなことって、何?」\n「船の火夫をやらせてある松公ですね。あいつが、ゆうべのうちにいなくなっちゃったんです。船じゅう探してみましたけれど、どこにもいねえ。まさかズラカルはずはねえんだから、もしや、陸で捕まったんじゃないかと思いましてね。それが心配だものだから」\n「フーン、じゃ松公を上陸させたのかい」\n「いや、決してそうじゃねえんで。ゆうべ一度船へ帰った潤ちゃんが、もう一度こちらへもどってきたでしょう。その時のボートの漕手の中に、松公がまじっていたんですが、ボートが本船へ帰ってみると松公だけいねえんです。みんなの思い違いじゃないかと船じゅうを探した上、こっちへきてたずねてみると、松公なんかきていねえというじゃありませんか。やつはどっかそのへんの町をウロウロしてて、おまわりにでもとっ捕まったんじゃねえでしょうか」\n「そいつは困ったねえ。松公はいやに薄のろで、これという役に立たないもんだから、火夫なんかやらせておいたんだが、あいつのこった、捕まりでもしたら、どうせヘマをいうにきまっているわねえ」\n「黒トカゲ」も、思わずベッドの上に起きなおって、眉をしかめながら、取るべき処置を考えたのであるが、ちょうどそうしているところへ、又してもへんてこな知らせが飛びこんできた。\n 突然ドアがひらいて、三人の部下が顔を出すと、一人が早口にしゃべり立てた。\n「マダム、ちょっときてごらんなさい。へんなことがあるんだから。人形がね、着物を着てるんですぜ。それから、からだじゅうが宝石でもって、ギラギラ光りかがやいているんですぜ。一体だれがあんなふざけたまねをしやがったんだと、仲間しらべをしてみたんですが、だあれも知らねえっていうんです。まさかマダムじゃねえんでしょうね」\n「ほんとうかい」\n「ほんとうですとも、潤ちゃんなんか、びっくりしちゃって、まだボンヤリとあすこに立っているくらいです」\n 何かしら想像もできないへんなことが起こっているのだ。松公の行方不明とこれとのあいだに、どんな関係があるのか知らぬが、時も時、二つの事変が同じように起こるとは。地底王国の女王も、もう落ちついてはいられなかった。彼女は一同をそとに出しておいて、手早くいつもの黒ずくめの洋装になって、剥製人形陳列の現場へ急いだ。\n 行ってみると、いかにも狐にでもつままれたような、へんてこな事が起こっていた。仁王立ちの黒人青年が、ルンペンみたいなカーキ服を着て、その胸に例の大宝石「エジプトの星」を、まるで功一級の勲章のように得意然と光らかせているかと思うと、膝の上に頬杖をついた金髪娘が、日本娘の袂の長い着物を着て、両の手首と足首とに、ダイヤの胸飾り、真珠の首飾りを、手かせ足かせの形ではめてすましている。寝そべった日本娘は、胴中に古毛布を巻きつけて、ふさふさとした黒髪の上から、さまざまの宝石を瓔珞みたいに下げて、ニヤニヤ笑っているかと思うと、円盤投げの日本青年はまっ黒によごれたメリヤスのシャツを着て、これも宝石の首飾り、腕環をはめて、光りかがやいているといったあんばいなのだ。\n 黒衣婦人は、そこに立っていた雨宮青年と顔を見合わせたまま、急には言葉も出ないほどびっくりしてしまった。\n これはまあなんという人を喰ったいたずらだろう。剥製人形の奇妙な衣裳の袂の長い着物は、早苗さんがゆうべまで着ていたもの。そのほかのは、みな「黒トカゲ」の部下の男たちの持ち物であった。寝室の戸棚の中や行李にしまってあったのを、何者かが取り出して、人形に着せたのだ。それから宝石類は、むろん宝石陳列室のガラス箱の中から持ってきたもので、そこのガラス箱は、ほとんど空っぽになっているという始末だった。\n「だれがこんなばかばかしいまねしたんでしょう」\n「それがまるでわからないのですよ。今ここには、男は僕のほかに五人きゃいないんですが、みんな信用のおけるやつばかりですからね。一人一人聞いてみたんだけれど、だれも全くおぼえがないというんです」\n「入り口の寝ずの番は大丈夫だったの?」\n「ええ、へんなことは少しもなかったそうです。それに、仲間以外のものがはいろうとしたって、あすこの揚げ蓋は中からでなきゃ、ひらかないんですからね。いたずら者が外部から侵入することは、まったく不可能ですよ」\n そんなことをボソボソささやき合ったあと、二人は、まただまって顔を見合わせていたが、やがて、黒衣婦人はふと気づいたように、「あっ、そうかもしれない」とつぶやきながら、顔色を変えてあの人間檻の前へ走って行った。だが、その檻の小さな出入り口を調べてみても、別に錠前をこわした跡もない。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「君たち、ここをどうかしたんじゃないのかい。ほんとうのことをいってくれたまえね。あんないたずらしたの、君たちなんだろう」\n 黒衣婦人が、かん高い声で呼びかけた。そこには檻の中のアダムとイヴとが、仲よく向かい合って、何かしきりとささやき交わしていたのだが、突然女賊の襲来にあって、たちまちそれぞれの身構えをした。早苗さんは隅っこの方で、またくくり猿の形になるし、青年はやにわに立ち上がって、拳を振りながら黒衣婦人の方へ近づいて行く。\n「なぜ、返事をしないの。お前だろう人形に着物を着せたのは」\n「ばかなことをいえ、おれは檻の中にとじこめられているんじゃないか、貴様は気でも違ったのか」\n 青年が満身に怒気をふくんでどなり返した。\n「ホホホホホ、まだいばっているのね。君でなけりゃそれでいいのよ。僕の方にも考えがあるんだから。時に、そのお嫁さんお気に召したかい」\n 黒衣婦人はなぜか別のことを言い出した。青年がだまっているので、再びいう。\n「お気に召したかって聞いているのよ」\n 青年は隅っこの早苗さんと、チラッと眼を見かわしたが、\n「ウン、気に入った。気に入ったから、この人だけは、おれが保護するんだ。貴様なんかに指一本だって差させはしないぞ」\n と叫んだ。\n「ホホホホホ、多分そんなことだろうと思った。それじゃせいぜい保護してやるがいい」\n 黒衣婦人はあざ笑いながら、ちょうどそこへやってきた職工服の雨宮青年を振り返った。\n「潤ちゃん、あの娘さんを引きずり出してね、タンクへぶちこんでおしまい」\n 烈しく命じて、檻の鍵を青年に手渡しした。\n「少し早過ぎやしませんか。まだ一と晩たったきりですぜ」\n 雨宮青年は顔一ぱいのモジャモジャの付けひげの中から、眼をみはって聞き返した。\n「いいのよ。あたしの気まぐれは今はじまったことじゃない。すぐやっつけておしまい......いいかい、あたしは部屋で食事をしているからね。そのあいだにちゃんと用意をしておくのよ。それから、あの宝石なんかを、陳列箱へ元通り返しておくように言いつけといてください。頼んでよ」\n 黒衣婦人はそう言い捨てたまま、振り向きもしないで、自分の部屋へ引き上げて行った。\n 彼女は激怒していたのだ。えたいの知れぬ人形の異変が、彼女を極度に不快にした上に、いままた、檻の中の男女がさもむつまじく話し合っている有様を見せつけられて、かんしゃくが破裂したのだ。\n 女賊は決して、早苗さんをほんとうにお嫁入りさせるつもりはなかった。ただ、彼女を怖がらせ恥かしめ、おびえ悲しむ様子を見て楽しもうとしたのだ。それが全く当てがはずれて、男は身を以て早苗さんを守ろうとし、早苗さんは早苗さんで、それをさも嬉しげに、感謝にたえぬまなざしで見上げていたではないか。黒衣婦人が、嫉妬にも似たはげしい不快を感じたのは無理ではなかった。\n 難儀な仕事をおおせつかった潤一青年は、迷惑らしく、しばらくためらっていたが、やがて仕方なく檻の出入口に近づいて行った。\n「貴様、この娘さんをどうしようというのだ」\n 檻の中の青年は、恐ろしい形相でどなりながら、はいってきたらつかみ殺すぞといわぬばかりの身構えで、入り口の前に立ちはだかった。だが、さすがは拳闘青年、雨宮は別に恐れる様子もなく、錠前に鍵を入れてガチャガチャいわせたかと思うと、サッと戸をひらいて檻の中へ飛びこんでいった。\n ひげモジャの職工服と、全裸の美青年とが、互いの腕をつかみ合いながら、恐ろしい権幕でにらみ合った。\n「どっこい、そうはいかぬぞ。おれが生きてるあいだは、娘さんに指も差させない。連れ出せるものなら連れ出してみろ。だが、その前に、貴様しめ殺されない用心をするがいい」\n 青年の死にもの狂いの両腕が、雨宮潤一の首へ、気味わるくからんできた。\n すると、不思議なことに、雨宮はいっこう抵抗する様子もなく、腕をからまれたまま、首をグッと前へ突き出して、青年の耳元へ口を持って行ったかと思うと、何かしらヒソヒソとささやきはじめた。\n 青年は、最初のあいだは、首を振って聞こうともしなかったが、やがて、彼の顔になんともいえぬ驚きの色が浮かんできた。それと同時に、彼はうって変ったようにおとなしくなり、相手の首に巻きつけていた両腕を、ダラリとたれてしまった。\n\n離魂病\n\n 雨宮潤一は、檻の中の青年を、一体どんな口実でだましおおせたのか、それからしばらくすると、気を失ったようにグッタリとした全裸の乙女を、小脇にかかえて、例のガラス張りの大水槽の前へやってきた。水槽の横に垂直の梯子がかかっている。彼は早苗さんを抱いたままそれを登って、上部の足だまりに立つと、鉄板でできた水槽の蓋をひらいて彼女のからだを水中へ投げこんだ。それから、蓋を元通り閉めて、梯子を降り、「黒トカゲ」の私室のドアを細目にひらいて、そのすき間から声をかけた。\n「マダム、お命じの通り運びましたよ。早苗さんは今、タンクの中で泳いでいる最中ですぜ。早く見てやってください」\n それから彼は職工服のポケットから、小さくたたんだ一枚の新聞紙を取り出すと、それをひろげ、タンクの横の椅子の上へソッと置いて、なぜか急ぎ足で、廊下の向こうへ立ち去って行った。\n それと行きちがいに、ドアがひらいて黒衣婦人が現われ、ツカツカと水槽の前に近づいて行った。\n 水槽の蒼味がかった水は、ガラス板の向こう側で、ひどく動揺していた。底には大小さまざまの海藻が無数の蛇のように鎌首をもたげて、あわただしくゆれ動いていた。\n そして、その中を泳ぎもがく裸女の姿......前夜早苗さんが幻想した光景が、そっくりそのまま実現したのであった。\n 黒衣婦人の両眼は残虐にかがやき、青ざめた頬は昂奮のために異様にふるえて、両のこぶしをかたくにぎりしめ、歯を喰いしばりながら、水槽に見入っていたが、彼女はふと、裸女の様子がいつものように活溌でないことに気づいた。活溌でないどころか、実はもがきもなんにもしていないのだ。そんなふうに見えたのは、動揺する水のためで、娘の白いからだは、ただ水のまにまにゆらめいていたにすぎないことがわかってきた。\n 気の弱い早苗さんは、水槽にはいる前に、すでに失神していたので、水中の苦悶を味わわなくてすんだのであろうか。だが、どうもそれだけではないらしい。見ていると、水中の娘のからだが徐々に廻転して、今まで向こう側にあった顔が、正面のガラス板に現われた。おや、これが早苗さんの顔だろうか。いやいや、いくら水の中だといって、こんな相好に変るはずはない。ああ、わかった、わかった。これは早苗さんではなくて、あの人形陳列所に飾ってあった剥製の日本娘ではないか。だが一体全体どうしてこんな間違いが起こったのであろう。\n「だれか、だれかいないかい。潤ちゃんはどこへ行ったの」\n 黒衣婦人はわれを忘れて大声に叫び立てた。すると、部下の男たちが、剥製人形陳列所の方から、ドヤドヤとやってきたが、彼らの方にも何か異変があったのか。一同顔色が変っている。\n「マダム、またへんなことがおっぱじまったのですよ。人形が一人足りねえんだ。さっき着物を脱がせたり、宝石をかたづけたりした時にはちゃんとあったんですが、今見ると、ほら、あの寝そべっている娘さんね、あれが一人だけ行方不明なんです」"
}
]
|
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹は大概楓であったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想から呼息を吹き返した人のように立ち上がった。\n「もう、そろそろ帰りましょう。大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」\n 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向きに寝た痕がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。\n「ありがとう。脂がこびり着いてやしませんか」\n「綺麗に落ちました」\n「この羽織はつい此間拵えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻に叱られるからね。有難う」\n 二人はまただらだら坂の中途にある家の前へ来た。はいる時には誰もいる気色の見えなかった縁に、お上さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔をしました」と挨拶した。お上さんは「いいえお構い申しも致しませんで」と礼を返した後、先刻小供にやった白銅の礼を述べた。\n 門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。\n「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」\n「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」\n「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」\n 先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。\n「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」\n 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。\n「そら見たまえ」\n「何をですか」\n「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」\n 待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。\n\n三十\n\n その時の私は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。\n「先生」\n「何ですか」\n「先生はさっき少し昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」\n 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応えのあったようにも思った。また的が外れたようにも感じた。仕方がないから後はいわない事にした。すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。そうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。\n「やあ失敬」\n 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々賑やかになった。今までちらほらと見えた広い畠の斜面や平地が、全く眼に入らないように左右の家並が揃ってきた。それでも所々宅地の隅などに、豌豆の蔓を竹にからませたり、金網で鶏を囲い飼いにしたりするのが閑静に眺められた。市中から帰る駄馬が仕切りなく擦れ違って行った。こんなものに始終気を奪られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。\n「私は先刻そんなに昂奮したように見えたんですか」\n「そんなにというほどでもありませんが、少し......」\n「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」\n 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。\n「私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」\n 私は慰藉の言葉さえ口へ出せなかった。\n\n三十一\n\n その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私はむしろ先生の態度に畏縮して、先へ進む気が起らなかったのである。\n 二人は市の外れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑った。その眼、その口、どこにも厭世的の影は射していなかった。\n 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々あったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏に残った。\n 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。\n「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」\n「私は何にも隠してやしません」\n「隠していらっしゃいます」\n「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」\n「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」\n 先生はあきれたといった風に、私の顔を見た。巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。"
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{
"role": "assistant",
"content": "「あなたは大胆だ」\n「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」\n「私の過去を訐いてもですか」\n 訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。\n「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」\n「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」\n 私の声は顫えた。\n「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り......。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」\n 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。\n\n三十二\n\n 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭くなった古い冬服を行李の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身体を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。\n 私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。\n 私はその晩先生の家へ御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。\n 食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊の硬い卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を射返していた。先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。\n「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層始めから色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ」\n こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然と片付いていた。無頓着な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。\n「先生は癇性ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解らなかった。奥さんにも能く通じないらしかった。\n その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。奥さんは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にして席を占めた。\n「お目出とう」といって、先生が私のために杯を上げてくれた。私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆る浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。\n 奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。\n「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。\n「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。\n「ええ、たしかしまってあるはずですが」\n 卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。\n\n三十三\n\n 飯になった時、奥さんは傍に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来りらしかった。始めの一、二回は私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。\n「お茶? ご飯? ずいぶんよく食べるのね」\n 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯われるほど食欲が進まなかった。\n「もうおしまい。あなた近頃大変小食になったのね」\n「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」\n 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。\n「これは宅で拵えたのよ」\n 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更えてもらった。\n「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際で背中を障子に靠たせていた。\n 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。\n「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解らないんだから、選択に困る訳だと思います」\n「それもそうね。けれどもあなたは必竟財産があるからそんな呑気な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」\n 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。\n「少し先生にかぶれたんでしょう」\n「碌なかぶれ方をして下さらないのね」\n 先生は苦笑した。\n「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」\n 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途に、先生が昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。"
}
]
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " という制止に、ようやく動揺をしずめて、元の冷静に返ったらしく、やがて、今後の役割を振分けるべく用意した「暗殺の籤」を順々に引き初めました。\n ――夜光の短刀の捜索が、ようやく、その曙光を見出して来るとともに、日本左衛門中心の一味にとって、事ごとに邪魔になるものは、その短刀を廻ッて同じ猟奇心に動く人間と、その秘密を一層世間へ流布するおそれのある人間の存在です。\n そこで、彼の果断は残忍をいとわぬ事になって来ました。すなわち、自分を別にして、手下の者を五ツの組に分け、数えあげたその邪魔ものを、疾風迅雷に手分けをして刈り尽くそうという考え。\n そこで、各〻が引当てた「暗殺の籖」の結果は?\n 紙縒の端を順にひろげて見ました上、役割はこうと極まりました。\n\n雲霧の仁三の組............徳川万太郎を暗殺する。\n尺取の十太郎の組.........目明しの釘勘を暗殺する。\n千束の稲吉の組............丹頂のお粂を暗殺する。\n四ツ目屋の新助の組......道中師の伊兵衛と馬春堂の二人を暗殺する。\n秦野屋九兵衛の組.........相良金吾を暗殺する。\n\n そして最後に親引きとして残った日本左衛門の籖は、もう見るまでもありません。――切支丹屋敷のお蝶。\n\n 暗殺の籤を引いて、各〻の決行する仕事をさだめた後、夜光の短刀のことについてもいろいろ打合せを済まして、\n「さて、つぎの寄合は土用の辰の日とする。場所は河岸をかえて上総の鹿野山、場所は上総の鹿野山」\n と、日本左衛門が一同の耳へもれなく届くように、こうくりかえして――\n「いいか、日は土用の初めの辰の日、時刻は宵の六ツ半から七刻の間、鹿野山の額堂に集まることだぜ。忘れねえようによく耳へとめておけ」\n と言い渡すと、千束の稲吉が、\n「親分、おたずねするまでもなく、あっし達が受け持った仕事も、それまでの間に、首尾よくやッてのけなければなりますまいが、万一の場合があって、もし土用の辰までに、目ざす奴を殺すことが出来なかったら、その時は、どうしたもんでございましょう」\n「いや、次の土用の寄合は、お互いの首尾や報告、また、先の仕事の手順を諜し合せるつもりだから、それまでに、今夜籖できめた暗殺の仕事を、首尾よくやッて済ました者も、巧く行かずにいる者も、不面目を思わずに、必ず顔出しをしてもらいたい。なお念のために言っておくが、この事は、稲吉のほかの者も、よく胸にたたみ込んでおいてくれ」\n「承知いたしました。じゃ親分、土用の辰に、上総の鹿野山で、またお目に懸ることと致します」\n「ウム、それまでは、もう寄合うことはねえだろう、お互にこれから先は東西南北、どこへでも気ままに散らかッて行くがいい」\n 立ちかけましたが、日本左衛門は、ふと傍らの九兵衛を振顧って、\n「おお秦野屋、おめえにも嫌応なしに、一役振り当てたが、異存はねえか」\n「元よりおれから望んで仲間にはいッたこと、なんで異存があるものか」\n「おめえの受持ちは相良金吾、あの籖の中では一番手強い侍だから、ずいぶん抜かりのねえように頼む」\n「一番骨ッぽいのを引受けたのは、秦野屋として面目をほどこしたわけ、兄貴、どうか心配しねえでくれ」\n「じゃあ、今夜の寄合はこれで済んだな」\n と、編笠を被る親分の尾について、一同が人影を織りながらゾロゾロと水車場の間を歩み出しましたが、そこの小屋の蔭を出た途端に、目の前の草原が、夕焼けのように、カーッと赤い光になすられているのに、\n「オオ」\n と、思わず一同が立ちすくみました。\n それと共に、静かな夜気と相模川の水に反響して、カ――ン、カ――ン、カ――ンと、河向うの厚木の宿で、熾に鳴っている三ツ鐘の音がたれの耳にも気づかれます。\n 風がある。西らしい。\n 土手に若葉をゆす振ッている血櫧の木立を楯にして、顔を焼きそうな対岸を眺めますに、燃え熾ッている火の手はちょうど宿の上町辺で、炎は人家の建てこんでいる、下へ下へと延びている。\n その炎の色を映して、幾条にも裂けている相模川の水は、あたかも坩堝の溶液が砂利の間を煮え流れているよう。\n 風向きのせいかパチパチと焔のハゼる音までが、広い河原の距離を越えて聞こえ、それに交じる人声までが、陰々たる空を煙に送られて来ます。\n「どこだ、どこだ火事は」\n 土手を駆けて行く人と人が、たれに聞くでもなく、これに答えるでもなく、\n「上町の芝居小屋だ――岩井染之助の楽屋から出たんだとよ!」\n 声を投げ合ッて走って行く。\n 岩井染之助一座。\n なるほど、そんな幟が、宿場の辻にハタハタしていたのを見かけたことがある。\n ――と、四ツ目屋、雲霧、尺取などは、面白そうにそれを対岸の火災視しておりましたが、ひとり秦野屋九兵衛は、\n「ウーム、この風じゃ......」\n 黙然と腕ぐみをして、炎をにらみながら呟やきました。\n「秦野屋、どうやらあの火の手じゃ、おめえの店は一舐めになりそうだな」\n と、日本左衛門が側へ寄ってささやくと、九兵衛は結んでいた口をニヤリと歪めて、\n「――とすると、千両ばかり煙になる勘定だが、楽に積んだ身代は、やッぱり、楽に灰になりゃアがる」\n「あはははは。諦めねえ」\n と、日本左衛門も、これが堅気の秦野屋なら、慰めなければならないところを、かえって妙に可笑くなって、九兵衛の肩をたたきながら、\n「――おい、盗ッ人の目ざまし草だな」\n おのれの身にもありそうな、この皮肉に自嘲をおぼえて、愉快そうに哄笑しました。\n\n 火をもてあそぶ風は血を見た人間のように、いよいよ猛り出してくる。\n 宿場の火事は加速度に燃えひろがりました。\n 一度西から東へ転じていた風が、また俄に方角を変えてきたので、火の手は二手にも三手にも分れた様子で、もう秦野屋の店あたりも、完全に助からない位置にあるようです。\n 九兵衛は遠い炎に赤く照らされている顔を笑いくずして、\n「こうなってみりゃ、結句おれも気楽にお仲間入りができるというもの。どれ、焼け出されの秦野屋から、お先に御免こうむろうか」\n サバサバとした顔つきで、日本左衛門や他の者と、上総での再会を誓って、ぷいとそこから影を消す。\n「では親分、土用の辰に」\n「いずれいい吉左右をお土産に」\n「あっしもこれで」\n「手前もここで」\n 雲霧の仁三、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、千束の稲吉達も、各〻その組の手下を六、七人ずつ連れて、ちょうど今夜の廻り風のように、そして四方に散らばる火の子のように、思い思いな方角へ、騒ぎにまぎれて立ち去りました。\n その頃――\n 相良金吾は行杖をかかえて、まっしぐらに上流の渡船場へ向って駆けている。\n たれを追いかけたわけでもない。ただ、向うへわたる渡船を求めるために。\n 自分がひそかに宿を取っていた、宿端れのわびしい安旅籠には、足の不自由な石尊詣りや、業病の願がけに来た老人や、また宿の家族にも子供や老婆などが多いのを思い起して、一樹の縁の人々の災難を、ジッと見ていられない気持でした。\n と、息をきって、渡船場へ駆けつけて来るなり、向うへ渡る舟はないかと見廻しますに、それどころではない、ここは瀬がいいので、対岸の火中から逃げのびて来る人々が、荷物や女子供を舟に託して、われ先にと混み合ってくる一筋路。\n 火の子に泣く幼い者の声、何か高声でわめく男、荷物を流して身を忘れる女など――金吾は思わず目を覆いました。\n 所詮、空いている捨て舟などはないので、向うへ越えることは諦めねばなりませんが、その惨めな雑沓を見るや否、金吾は夢中で働いている。\n どこの家族という見境なく、荷物や老人に手を貸して、夢中になって働き出している。\n そのうちに、意気地のない悲鳴をあげて、二、三艘の小舟に乗って逃げて来た一組がありましたが、その葛籠や荷物がおそろしく嵩張っている上に、この騒ぎの中だというのに、ある者は金糸銀糸の衣裳を着、ある者は毛脛に白粉をなすりつけており、気をつけて見ると、一人も満足な形でありません。\n 葛籠の紋やふろしきの染め抜きを見ると、これは、今夜の火事を出した火元とか噂をされていた田舎廻りの旅役者、岩井染之助一座の河原者と思われる。\n すると、今。\n 岸に着いてゴッタ返しながら、荷物をあばき合っていた河原者の舟で、"
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"role": "assistant",
"content": "「あれッ、あれッ、どなた様か、そこへ流されてゆく者を助けて下さいませ」\n と、鬘下地の女形らしいのが、金切声を上げました。\n 見ると、折わるく一番瀬の早い淵へ、誤ッて落ちた者があるらしく、あれよというまに、水に巻かれた人らしいものが、渡船場の杭を外れて下流へ押し流されてゆく。\n 岩井一座の小屋が火元だという土地のうわさが、初めからパッと広がっているので、自然と憎しみを持つものか、それとも自分達のことで他を顧みている気持が起きないのか、たれもそれへ手を出す者がない様子。\n ひとり、駆け出したのは金吾です。\n 急流とはいえ、陸を駆ける足どりは、すぐに流されてゆく者を追い越します。彼は、蛇籠の崖縁から川洲へ飛び降りて、瀬の狭くなる流れ口に足を踏み込み、いきなり、そこへ見えた黒いものをつかみました。\n「ああッ......」\n と、水の中から、人魚の泣くような声。\n かれが掴んだのは女の黒髪と衿元で――まだ正気のあったらしいその女は、無我夢中になって、ビッショリとぬれた両腕をあげて、金吾の足へすがりついて来る。\n「しっかりいたせ! これ女中」\n 水を吐かせようとするのと、気を張らせようとする用意で、わざと邪慳に胴中をすくい上げてから呼びました刹那、\n「おっ、相良さん――」\n なんという不意でしょう。こう言った女の声です。\n「えっ......」と金吾。\n 抱きかけた黒髪のベットリついた女の顔を、空明りによくよく見ると、それは思いがけないというよりは、彼にとって、むしろ怨霊のように見えたかも知れません――あのお粂です、丹頂のお粂です。\n「あっ! ......」\n と金吾が驚きを投げた途端に、そこでザッと水しぶきが上がりました。そして、彼の白い影が、逃ぐるが如く、川洲から崖へ駆け上がった時、それと反対な川下へ、黒い水巴が渦巻いて行きました......\n 一度救われかけたお粂は、金吾に救いの手を放されて、また十数間水に押されてゆきましたが、幸い、浅瀬の柵に体が引ッかかったので、身ぶるいしながら這い上がり、そこでばッたりと、気を失って倒れていました。\n と、やがてのこと。\n 前の岩井染之助一座の者でしょう、人手をかりて駆け出して来たのが、提灯の明りを翳して口々に、\n「おお、あすこにだれか倒れている」\n「あれだ、あれだ」\n と呼び騒ぎながら、土手を降りて川床の草地へ集まって来る。\n こういう場合に経験のつんでいる土地の船頭らしい男が、\n「美い女だなあ、すごいような美い女だ」\n 生きるか死ぬかと、はたの者が心配している最中に、のん気なことをいいながら、みずおちを押して見て、\n「大丈夫、大丈夫。ろくに水をのんでいねえから、気がつけば確かなものさ」\n ゆうゆうと手当をしてくれるのが、かえって頼母しく思われて、周囲の者をホッとさせます。\n ところが、一座の御難はこれに止まらず、またぞろ、そこへばらばらと駆けて来た朱文字の提灯があって、\n「その方たちは、岩井染之助一座の者であるか」\n と、権柄な声。\n 見ると厚木の天領役人と四、五人の手先です。何よりはその手にある十手の光にハッとして、\n「左様でございます。手前どもは上町の小屋に興行のお免許を願っておりました染之助一座の楽屋者に相違ございません」\n「その染之助はこれにおるか」\n「へい」\n と、うしろの方にふるえ上がっていた眉のない男が、衣裳下の襦袢の衿前を合せながらオズオズと前へ出て、\n「手前が座頭の染之助でございますが......」\n「太夫元の長吉もこれへ出い!」\n「ええ、その太夫元というのは名前だけで、一座と一緒に歩いているわけではございません。御覧の通りな、頭数の少ない一座、手前が名前人やら奥役やら座頭やら、すべてを兼ねてやっておりますので」\n「しからば申し聞かすが、今夜、その方たちの小屋より失火を出しておりながら、お上のお許しもまたず逃亡せんとするは不届き至極な奴、一座の重立った者三、四名、天領御役所まで引ッ立てるから左様心得ろッ。いや、言い訳ならん、ならん! 立てッ」\n と、郡代同心が、いかにも田舎役人らしい権柄で顎をすくう。\n 待ちかまえていた手先は、有無をいわさず、座頭の染之助、中軸の市川姉蔵、女形の袖崎市弥の三名をねじおさえて、数珠つなぎに引ッくくる。\n その間に、ふと、ぬれ鼠になって倒れているお粂に目をつけた同心は、胡散くさそうに顔をのぞき込んで、\n「この女は何者じゃ」\n と、染之助に問いつめて来ました。\n「......ええ、そのお方は、一座の者ではございません故、どうかこの事にはお見逃しの程を」\n「だまれ、何者かとたずねるのじゃ」\n「江戸表におりました頃、度々、御贔屓になりましたお客筋で、芝居の方とは、何の関わりもないお方でございます」\n「それがどうして、その方たちの楽屋におるのか」\n「ちょうど手前達が、三島の小屋を打っております時、突然たずねておいでになり、事情があってしばらく旅に居たい身の上だから、楽屋においてくれないかというお話、以前御贔屓になった御縁もあるので、何とはなしに、そのまま私達の仲間と一緒に、田舎を歩いてまいったわけでござります」\n「ふむ......しからば引ッ立ててまいっても仕方があるまい」\n 同心は目くばせして、数珠つなぎの三名を先に立たせ、なおあとの者に何か心得を言い聞かせて、土手を遠く立ち去って行く。\n 赤い空も、いつかどす黒く沈んでいました。\n その翌日。\n 焼け出された岩井一座の小屋者は、衣裳つづらと一ツの籠を取り巻いて、旅回りの惨めさをかこちながら、八王子街道を落武者のように元気なく辿っていました。\n\n迷路の迷人\n\n 今日もまた武蔵野の原をさまよう一ツの編笠がありました。\n「はてな......」\n と。幾つもの岐路に立つごとに、行き迷っている様子。\n 時折、笠のつばを上げて、四方の碧落を見廻す瞳は、疲れながらも、何かの希望に燃えている。\n 編笠につつまれた顔をのぞくと、それは徳川万太郎でした。――かの不思議な女駕に乗せられて、武蔵野の暗を夜ッぴて疾駆した揚句、郷士どもの嘲笑と共に、駕ぐるみグルグルグルグル廻されて窪地の底へ抛り込まれた万太郎。\n 彼です。\n 彼はあの晩、阿佐ヶ谷神楽の連中が、野舞をしているかがり火を見ました。\n また、その連中のなかに、道中師の伊兵衛が交じッていたのも見ました。\n ところが、いつもながら、例の懸引知らずな若殿気質。\n いきなり躍り出して、彼等の胆を冷やしたものですから、百姓神楽の者どもは、\n(素破、鳴物停止をとがめに来た村役人!)\n と驚いて、かがりを踏み消して八方へ逃げ散り、伊兵衛も共に影をくらましましたから、万太郎はまた元の暗黒に一人取り残されて、夜もすがら迷うのほかなき結果を招いたのです。\n そしてその後、数日の間。\n 彼は、見知らぬ百姓家に宿を借りて、その晩の疲労をいやしておりましたが、ようよう体の痛みも癒えたので、昨日から教えられた高麗村の方角へ向って歩いているところ。\n ですが――自分ではその方角が誤らないつもりなのが、どうもだんだん妙な道に踏みこんで、少し頭も混迷してきた形です。\n 一方。\n 伊兵衛の方は、疾うの昔に、高麗村へ紛れこんで、あんな器用な芸当をやッてのけた上、ともかく、馬春堂を助け出して、物騒なお屋敷におさらばを告げているというのに、彼は、まだこんな所に遅々としている。\n 気性が勝っているようでも、やはり若殿は若殿、日本左衛門がお坊っちゃん扱いをするが如く、どこか悠長なところがあるのでしょう。\n「――どうしたのじゃ、この道は、昨日もたしかに歩いたように覚えられるが?」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "「それでは御免」と立ち上った。\n「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば......」\n 気の毒そうに長吉が云った。\n「いやいや何の、心配は御無用」\n「それでは、ただ今のお住居は?」\n「神田神保町の若菜屋でござる」\n 云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。\n そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。\n「妾には解る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」\n フラフラと立つと眼を抑えた。\n「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」\n フラフラと部屋から外へ出た。\n 水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。\n 足許さだまらず歩いて行く。\n やがて襖をスルリと開けた。\n「宇和島様!」と不意に呼んだ。\n「綺麗な綺麗なお武家様!」\n それからまたも甲高く、\n「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」\n また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。\n その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。\n「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。\n「乳母!」と呼んだが縋り付いた。\n「お嬢様お嬢様! ......もう不可ない! ......気が狂われた! お可哀そうに!」\n「乳母!」と縋ったがうっとりとなった。\n「献金しておくれよ! たくさんにねえ」\n「どこへ?」と乳母は眼を見張った。\n「お久美様へだよ。......ねえたくさんに。......」\n すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、\n「はいはいよろしゅうございますとも」\n だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄痘痕のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。\n「蔵番の東三だが、変だねえ」\n 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋の辺りを歩いていた。\n\n\n18\n\n 本多中務大輔の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。\n ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。\n「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」\n 心中でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方を向いたからである。そうしてお互いに間隔を置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。\n「怪しい」と鉄之進は呟いた。\n「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係って、もしものことがあろうものなら、使命を全うすることが出来ぬ。......そうだ、あいつらをマイてやろう」\n そこで鉄之進は足を早めた。\n 旅籠町の方へ曲がったのである。\n そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士が従いて来る。\n「これは不可ない」と南へ反れた。\n 出た所が森田町である。\n でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。\n また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。\n「いよいよこの俺を尾行ているらしい。間違いはない、間違いはない」\n そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。\n「よし」と鉄之進は呟いた。\n「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」\n なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。\n 飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。飜めく暖簾に招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。\n「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」\n 群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後を振り返って見た。\n いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺を領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。――どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。\n「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああもハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」\n こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、\n「駕籠へ付いておいでなさりませ」\n 艶めかしい女の声がした。\n 見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。\n\n\n19\n\n「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。\n「誰に云ったのだろう? この俺にか?」\n するとまた駕籠から声がした。\n「轡の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」\n「うむ、違いない、俺に云ったのだ」\n ――いずれ理由があるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。\n 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。\n「御心配には及びませんよ」\n 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。\n「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾の恋しい人さ。......だから虐めちゃアいけないよ。......お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。......何をぼんやりしているんだよ。日中狐につままれもしまいし。......早くお帰り早くお帰り!」\n 鉄之進の方へ身を寄せたが、\n「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」\n 裏舞台へ入り込んだ。\n 楽屋入りをする道程に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。\n その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく然として坐っていた。\n ここは隅田の土手下である。\n「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」\n 丁寧松事松吉である。\n 背後に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。\n 丁寧松は考え込んだ。\n\n\n20\n\n「さあどこから手を出したものか、からきし俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ......二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃっては置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。......三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ......もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。――四ツ事件が紛糾ったってものさ。......ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」"
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{
"role": "assistant",
"content": " 事件を寄せ集めて考え込んだ。\n「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」\n そんなようにも思われた。\n「とすると大変な事件だがなあ」\n 関係がないようにも思われた。\n「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。......日本全体に関わることだ。......」\n 藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。\n つくねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。\n と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり込んだ。人の世と関係がなさそうである。\n「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。......鈴を振る音、祈祷の声、......その祈祷だったが大変物だった。......それからドンと首を落とした音! ......いや全く凄かったよ」\n 思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。\n「そいつの一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」\n こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。\n「いやいい所へ逃げ込んだものさ」\n 女役者の扇女の家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座して、追手をあやなしている間に、二階の窓から屋根を伝い、裏町の露地へヒラリと下り、それからクルクル走り廻り、ここ迄辿り着いた一件を、心の中で思い出したのである。\n「あれが普通のお神さんだったら、驚いて大きな声を上げ、俺を追手の連中へ、きっと突き出したに相違ない。世間に人気のある人間は、度胸も大きいというものさ。扇女ならこそ助けてくれたんだ。お礼をしなければならないなあ」\n するとその時藪の中で、物の蠢く気勢がした。\n「おや」と思って振り返って見たが、枝葉が繁っているために、隙かして見ることは出来なかった。\n「さあこれからどうしたものだ?」\n 丁寧松は考え出した。\n「よし来た、今度は方針を変えて、鮫島大学の方を探って見よう。旅籠屋の柏屋とも近いからなあ。かたがた都合がいいかも知れない。......が。一人じゃア不安心だなあ。......そうしてどっちみち夜が来なけりゃア駄目だ」\n するとまたもや藪の中で、ゴソリと蠢く音がした。\n「おかしいなあ」と振り向いた時、\n「これは連雀町の親分で、変な所でお目にかかりますなあ」\n 藪から這い出した男があった。\n「どいつだ手前は?」\n「へい私で」\n「よ、今朝方のお菰さんか」\n「お金にお飯にお酒を戴き、今朝方は有難うございました」\n 襤褸を引っ張り杖を突っ張り、垢だらけの手足に髯ぼうぼうの顔、そういう乞食が現われた。\n\n\n21\n\n「今まで藪の中にいたのかい?」\n「ここが私の別荘で」\n「いや豪勢な別荘だ」\n「少し藪蚊は居りますがね」\n「人間の藪蚊よりは我慢出来る」\n「いや全くでございますよ」\n 乞食の上州はニヤリとしたが、\n「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」\n 云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。\n「こいつどうにも怪しいなあ」\n ――そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。\n と、ソロソロと懐中の内へ、右の片手を突っ込んだが、\n「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」\n「え?」と乞食は眼を据えたが、\n「この私が由緒のある。......」\n「おい!」\n「へい」\n「正体を出せ!」\n「何で?」と立とうとするところを、\n「狢め!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! ......\n「あぶねえ」と左へ開いたが、\n「御冗談物で、親分さん」\n「まだか!」\n 懐中の縄を飛ばせた。\n「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、\n「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」\n 乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。\n だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、\n「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。\n「青竹仕込みの。......」\n「偽物で。......」\n「何を!」\n「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。\n「どう致しまして......そんな古風な......敵討ちの身分じゃアございませんよ。......ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。......玩具でござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、\n「呼吸さえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんなもので」\n その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。\n 立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、\nその切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。\n「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座を掻くと、\n「ゆっくり話をいたしましょう」\n「へい、それでは」と上州という乞食も、並んで側へ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。\n 二人ながら黙っているのである。\n いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。\n と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。\n 都――わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。\n 砂塵が上っているのだろう。\n 乞食はそっちを見ていたが、ふっとばかりに呟いた。\n「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」\n「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。\n「何が起こると有仰るので!」\n 丁寧な言葉で訊き出した。\n「私は乞食でございますよ」\n「まあね、そりゃア、そうかも知れない。......それがどうしたと仰有るので?」\n「で、江戸中をほっついています」\n「私の商売と似ていまさあ」\n「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」\n「そうして私にゃア悪党がね」\n「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」\n「正に! そうだよ! 違いないなあ」\n「親分!」と乞食は意味あり気に云った。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": "\n さて沒揷評と沒却理想との二つを基として、詩の全域を組立つるときは、そのさまおほよそ左の如くなるべし。\n\n 右の表を見るときは、逍遙子が「ドラマ」の旨なりとする沒却理想と逍遙子が「ドラマ」の體なりとする沒揷評とは並び存することゝ並び存ぜざることゝありて一樣ならず。旨としての「ドラマ」(沒却理想詩)はすべての詩體を通じて、その大なるもの、その傑なるもの、その度量優りたるものを統べたり。體としての「ドラマ」(沒揷評詩)は叙事詩、戲曲、小説の三體に通じて、叙情詩に通ぜず、大小、傑不傑、度量の優劣に至りては、その問ふところにあらず。\n われ是に至りて「ドラマ」と戲曲との、逍遙子が用語上に大差別あるを明にすることを得しが、逍遙子が猶ほ戲曲と書して「ドラマ」と傍訓することある所以は、遂にこれを明にするに由なし。或は思ふに逍遙子は「ドラマ」といふ語を三義に分ち用ゐるものか。\n\n 若しこの數節の分解にして、甚しき過謬なきものとするときは、逍遙子が用語の變通自在にして逍遙子が立言の殆端倪すべからざりしを知るに足らむ。\n 逍遙子のいはく。われ「ドラマ」の例に鬼貫が俳句と宗吾が實傳と引きしことあり。沒揷評即沒却理想と解せられしはこれがためならむと。\n 逍遙子が「ドラマ」主義の例に俳句と實傳とを引くべくば、その所屬は左の如くなるべし。\n\n わが當初沒理想の語に沒揷評の義を含ませたる逍遙子が言を疑ひしは、沒理想の義、後に沒却理想の義と改まりて、別に沒揷評の義を生じ、遂には沒却理想にして沒揷評にあらざるもの(詩にては大叙情詩)と沒却理想にあらずして沒揷評なるもの(詩にては小叙事詩、小戲曲、小小説)とを生ずべきを預知するに由なかりければなり。われはまことに沒理想の語に沒揷評の義を含ませたるを疑ひき、されど沒理想即沒揷評とあやまり解せしにあらず。故わが當時の言にいはく。沒理想は沒理想にあらずして沒揷評なることあるを見たりと。\n 逍遙子のいはく。叙情詩人の極大なるは預言者なり。「ドラマチスト」の極大なるは不言の救世主なり。彼も此も沒却理想なり。さるを我叙情詩に薄くして、「ドラマ」に厚しとやうにいふものあるは違へりと。\n こゝに「ドラマ」といひ、「ドラマチスト」といへるは、沒揷評詩、沒揷評詩人にして、沒却理想詩、沒却理想詩人にあらず。この用語例をいまだ示さゞる間は、「ドラマ」即沒理想詩の義を沒揷評詩とも無理想詩とも解すべく、「ドラマチスト」即沒理想詩家の義を沒揷評詩家とも無理想詩家とも解すべかりしなり。\n 逍遙子のいはく。叙事詩の沒理想を取らざるかと怪まれたるは、沒理想をわが好尚の唯一點とおもはれしためならむ。こは人の誤解なるべしと。\n 逍遙子が叙事詩の沒理想を取らざるかと疑はれしは、その沒理想の義と「ドラマ」の義とのさだかならざりしためなれば、これを歒智の誤解といはむよりは、立言の失當といふべきならむ。沒却理想は唯一點にあらずして、一面相なりといへども、歒智の判斷に變易なきことは上に辨じたる如し。\n 逍遙子は烏有先生に向ひて四問をなしていはく。\n\n第一問、先生が戲曲を評して理想見たりといふは、人物の上に理想あらはるといふこゝろなるか。\n第二問、押並ての戲曲の上をかくいふか。\n第三問、シエクスピイヤが理想はその傑作の全局にあらはれたりといふか。ミルトン、バイロン等が叙情詩の如くに。\n第四問、シエクスピイヤが理想はその傑作の全局にあらはれたりといふか。衆戲曲家の作の如くに。\n\n 烏有先生の四答は必ず皆一向記を作さむ。\n\n第一答、然り。\n第二答、然り。\n第三答、然り。\n第四答、然り。\n\n さらば烏有先生が皆然りといふは何故ぞ。答へていはく。逍遙子は美の主觀情のみを指して想とし、美の客觀相を指して非想とすれども、ハルトマンは主客兩觀想を立つ。されば哲學者の比量より生じ來るべき美の義は即ち是れ美の主觀想なり。美の主觀想と共に美の客觀想立てばこそ、抽象美(類想)を本尊にしたる舊理想家を排して、結象美(個想)を極致にしたる新理想家にはなりぬるなれ。(審美學第二卷、序九及一〇面)\n 逍遙子は詩に理想あらはれたるもの(非沒却理想詩、小詩)と理想あらはれざるもの(沒却理想詩、大詩)とを分てり。その理想あらはれざるところには、何物かあらはれたる。逍遙子はこれを活差別相及活平等相なりといふ。彼は個物的にして此は因果的なり。個物的にして個想ならざるものは、若し個物の實ならずば、個物の實の模造なるべし。因果的にして目的なきものは、若し物力の實ならずば、物力の實の模作なるべし。\n ハルトマンは藝術を模倣の低級に蹴落すに忍びず。故藝術の上に個物の實の模造を立てずして個想を立て、物力の實の模作を立てずして小天地想を立つ。"
},
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"role": "assistant",
"content": " 逍遙子が非沒却理想詩即小詩はハルトマンが類想の詩なり、抽象美の詩なり。逍遙子が沒却理想詩即大詩はハルトマンが個想、小天地想の詩なり、結象美の詩なり。\n ハルトマンが美は皆想にして、實にもあらず、實の模倣にもあらず。實相實相と追ひゆくときは、聲も聲にあらず、色も色にあらずといふ極微の論は先に示しつ。實相既にかくの如くんば、これを模倣したるもの、はた何の聲をかなし、何の色をかなさむ。これをハルトマンが穉く實を立てたる論を破する段とす。(卷二、一乃至三面)\n 美既に實にあらずといはゞ、美は主觀にありといふ説必ず起らむ。詩人の詩を空想裏より得來たるや、(内美術品)これを言葉となして、主觀より客觀に移さで止まむや。(外美術品)若し美は主觀にありといはゞ、是の如く外美術品の成る所以、遂に解すべからず。今一歩を進めて、かゝる外美術品の吟者讀者に主觀の美を感得せしむる所以を問はゞ、美を主觀にありとする論いよいよ窮せむ。また作者は歳を閲して一詩を成したるに、これを吟じ、これを讀むものは、皆一齊におなじ主觀をなすこと一瞬間を出でずとせむか。作者の難と吟者讀者の易との分るゝ所以は、到底美を主觀にありとするものゝ得て解するところにあらず。これを主觀想に偏りたる論を破する段とす。(卷二、三乃至四面)\n 美既に實にあらず、又實の模倣にあらず、又主觀想にあらずといはゞ、かの穉く實を立てたる論にもあらず、この主觀想に偏りたる論にもあらざる第三論必ず起らむ。蓋し主觀の美を生ずるは作者の上に限れり。吟者讀者はおのが官能によりて、客觀實なる字形若くは聲波を受く。この時に當りて、客觀想なる詩の美は、かの客觀實なる字形若くは聲波に即きて、吟者讀者を侵すなり。外美術品は客觀實なるを以て、自ら美なるにあらず。されど作者のその主觀より生じたる美を、外美術品に移しおきたるために、外美術品は吟者讀者に美なる空想圖を現ぜしむべき因縁となれり。美は實にあらず。然れども實に即くにあらでは、主觀に入ること能はず。その實に即いたる美の主觀に入るに當りて、實より離れたるを美の映象といふ。これを先天によりて實を立てたる論となす。(卷二、五面以下)\n 譬喩を以ていふときは、穉き立實論は阿含の如く、偏りたる主觀想論は般若の如く、先天立實論は法華涅槃の如し。されど造化の上に於いて、阿含の有と般若の空とを法華涅槃の非有非空の裏に收め入るゝには、聖教量に待つことあり。我が審美學の美世界の上に於いては、ハルトマンの烏有先生が比量猶ほ能く穉き立實論と偏りたる主觀想論とを調和するに餘あり。これを我評論の立脚點とす。\n われ我が立脚點にありて逍遙子が四問を聽かむに、その第一問にて人物の上にあらはるといふ理想は個想を指したるなり。個想のあらはれたるをば、いかでか理想あらはれたりといふべからざらむ。故われは烏有先生をして答へしめていはく。然り。\n 第二問に押並ての戲曲の上の理想といふは、類想をも個想をも兼ねていふなり。こゝにてもわれは烏有先生をして答へしめていはく。然り。\n 第三問にてシエクスピイヤが傑作の全局に理想現れたること、バイロン、スヰフト等が叙情詩の上にあらはれたるが如くなりやといへるは、叙情詩に見ゆること多き能感の情のシエクスピイヤが作にて見ゆること少く、叙情詩に見ゆること少き能觀の相のシエクスピイヤが作にて見ゆることを擧げて、情を想とし、相を非想とする見解より、シエクスピイヤが傑作をば想あらはれたりとし難からむと問ひ究めたるなり。されど我が立脚點よりみるときは、感情は主觀の理想にして、觀相は客觀の理想なり。故われは烏有先生をして答へしめていはく。然り。\n 第四問にてシエクスピイヤが傑作の全局にあらはれたる理想を、衆戲曲家の作の上にあらはれたる理想におなじきかといへるは、類想を想とし、個想を非想とする見解より出でたる言に過ぎず。故われは烏有先生をして答へしめていはく。然り。\n 逍遙子は第一及第二問に逢ひて、烏有先生をして然りといはしむるを怪まず。逍遙子は唯烏有先生が第三及第四問に逢ひて、然りといふを怪むべきのみ。\n われ逍遙子に從ひて能觀の相を理想にあらずとせむか。われは乃ちこれを實とするに至らむ。能觀の相を實とする時は、詩は模實の言語となりて、詩人は模實の器械とならむ。これ我が忍びざるところなり。逍遙子が論法は能く非想非實をも立つべけれど、(聖教量)わが論法は想と實との間に第三者を容るゝこと能はず。(比量)是を以てわれはいふ、能觀の相は實にあらずして想なりと。\n われ逍遙子に從ひて個想を理想にあらずとせむか。わがこれを實とするに至るべきこと亦た復た是の如し。是を以てわれはいふ、個想は實にあらずして想なりと。\n 夫れ非想とは何ぞや。吾人比量の見を以てするときは非想は即ち實なり。かるが故に吾人比量の見を以て逍遙子が非想論即沒却理想論をみるときは、是れ現實主義のみ、自然主義のみ。圖らざりき、逍遙子は覆面したるゾラならむとは。\n さるに逍遙子は現實自然といふ表詮比量の我をも立てず、非理想無理想といふ遮詮比量の我をも立てずして、沒却理想即大理想、衆理想皆是皆非といふ聖教量の我を立てたり。何ぞ其見地の高くして遠きや。さる見地にありながら、猶烏有先生に告げていはく。我は漸く學に志せり。今より修行門に入りて素材を蒐めむと。圖らざりき、我が早稻田文壇にこの微行の釋迦を見むとは。\n 逍遙子のいはく。相對の象の絶對の體より生ずる究竟の目的は何ぞと。\n ハルトマンの烏有先生これを聞かば、唯わが無意識の哲學を讀めといはむ。われは唯反問して、衆理想の象の沒却理想の體より出沒する究竟の目的は何ぞといはんのみ。嗚呼、我と逍遙子とはいづれか學に志すものぞ、いづれか修行地にあるものぞ。\n 因にいふ。逍遙子の沒理想の語を沒主觀、沒歒智を以てこれに對せむか。われは唯隨處に立者が自語相違の過に陷りたるを示しゝならむ。さるをわれ一歩を立者に讓りて、われ其意を取りて、其言を取らずといひき。こはわが逍遙子を敬するこゝろより出でしなり。されば一語數義の沒理想はみづから違ひたり。(自違)是れ立者の似能立ならむのみ。一語數義の沒理想をばわが違へたるにあらず。(非他違)是れ歒智の眞能破にはあらざるか。\n(明治二十五年三月)\n\n早稻田文學の後沒理想\n\n 逍遙子おほいに後沒理想の論を説き、説き畢りて書をわれにおくりていはく。沒理想に關する論辨はこれにて一旦止むべし。されど汝はわがこたびの論のうちにて難駁を蒙りたるものなれば、正當なる防禦せよといふ。\n 逍遙子まことにこれのみにて其論辨を止めたらむに、われこれに對して言ふところあらむか。最終の言葉は我口より出づべし。若しわれこれに對して言ふところなからむか。最終の言葉は彼の口より出でし儘なるべし。\n 最終の言葉を出だすものには、必ず多少の影護きところあり。奈何といふにその敵手の復た言はざるは、言ふべき理なきがためにあらずして、理あれども敢て言はざるがためにはあらずやと疑ふものもあるべければなり。\n われ若し逍遙子が書(所謂矢ぶみ)にいへるところに隨ひて、その後沒理想論を駁せむか。これ逍遙子を影護き地位より救ひ出して、却りてみづからおなじ地位に陷るに似たるべし。この謀はわがためにいと拙からむ。\n 勿論逍遙子はわれに防禦せよといひて、われに逆寄せよといはず。わが防がむことをば彼望めども、攻めむことをばかれ望まざるなるべし。然はあれど筆戰墨鬪の間にては、防ぐことと攻むることとの別をなさむこと甚難し。防ぐとは我言の非ならざるを示すなり。攻むとは彼の言の非なるを示すなり。我言の非ならざるを示さむとするときは、勢かれの言の非なるを示さゞること能はず。彼の言の非なるを示さむとするときは、勢わが言の非ならざるを示さゞるべからず。\n われ縱令逍遙子が言に從ひて、攻めずして防がむとすといへども、防禦のために放つ矢石の敵を傷ること、攻戰のために放てるものに殊ならざるべし。\n 逍遙子既に復た出でゝ戰ふこゝろなしといふを、われ若し猶矢石を放ちてこれを傷ることあらば、たとひ我擧は我より出でたるにあらずといへども、たとひ我擧はかれの矢ぶみもて促し挑みたるところなりといへども、わが最終の言葉にはおそらくは影護きところあることを免れずして、我謀は到底太だ拙しとせらるゝに至らむ。\n 今までは逍遙子の時文評論と我山房論文と、まことに戰爭をなし居たるものとせむか。わがために謀るときは、最終の言葉を逍遙子に讓りおきて、わが軍を旋らすに若くものなからむ。\n 然はあれど我が早稻田文學に對して出しゝ言を顧みるに、おほよそ三つあり、曰早稻田文學の沒理想、曰早稻田文學の沒却理想、曰逍遙子と烏有先生と。就中初の文と中の文とは到底戰爭の文といはむよりは平和の文といふべく覺ゆれば、まことに筆鋒をかなたに向けそめたるは、おそらくは後の一文ならむ。今われ若し逍遙子の書のいふところに從ひて、最後に逍遙子が言の非なるを嗚らして止まむとせば、われは影護き地位に陷る如しといへども、われ嚴に批評の區域を守らむことをつとめて、逍遙子が後沒理想論を評すること、嘗てその沒理想を評し、その沒却理想を評せしときの如くならむか。世間おそらくは能くこれを以て我を累するものなからむ。\n 夫れ古人は九原より起たしむべきものにあらず。されど吾人は敢て古人の言を評することあり。逍遙子まことに口を噤みて、復た沒理想を説かずといへども、われこれを評すること古人の文を評するが如くならば、又何ぞ病とすべけむ。矧や逍遙子は古人にあらざるを以て、その一旦擲ちたる椽大の筆を、再びとり上ぐることを得べきをや。\n われ今この文に題して早稻田文學の後沒理想といふ。われは此題の逍遙子に嫌はるべきを知れり。然れどもわれは又此題の逍遙子が論を指して善く中れるを知れり。\n 逍遙子の始て沒理想を説くや、われこれを評するに當りて、其用語を襲用して沒理想といひき。沒理想は字のまゝに解して無理想なり。逍遙子がそれまでに公にせし文は、我が斯く解することを妨げざりき。あらず、世人の斯く解することを妨げざりき。あらず、世人も我も斯く解するより外に解すべきやうなかりき。後逍遙子は沒字に附するに埋沒若くは沒却の義を以てして、これを無の義に解せしを誤解なりといひき。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n 亀背で小男の愚楽老人、この上様のお風呂番は、垢すり旗下と呼ばれて、たいへんな学者で、かつ人格者だった。\n 将軍の垢はするが、胡麻は摺らない。\n 隠密の総帥で、みずから称して地獄耳、いながらにしてなんでも知っている。八代吉宗、最高秘密の政機は、すべて入浴の際、このせむしの愚楽にはかって決めたものだそうだ。\n「来年の日光造営の奉行は、誰に?」\n との御下問に、愚楽、答えて、\n「伊賀の柳生対馬守へ――小藩だが、だいぶ埋蔵しておりますようで」\n 柳生対馬守は、源三郎の兄だ。この愚楽の進言の結果、莫大な費用を要する日光修復は、撃剣と貧乏で日本中に有名な、柳生へ落ちることになった。\n その、いよいよ柳生を当てるにも、です。\n 昔はまわりくどいことをやったもので......金魚籤。\n お城の大広間に、将軍家出御、諸大名ズラリといならび、その前に一つずつ、水をたたえた硝子の鉢をおいて、愚楽さんが一匹ずつ金魚を入れて歩くんです。その金魚の死んだ者に、東照宮様の神意があるというんだが、ナアニ、これと思うやつのまえに、前もって湯の鉢をすえとくんだから、金魚こそいい迷惑だ。\n こうして、人のいやがる日光修繕をしょわされちまった柳生藩、剣なら柳生一刀流でお手のものだが、これには殿様はじめ重役連中、額をあつめて、\n「よわった! こまった! どうしよう――」\n の連発......青いき吐息。\n この日光祖廟おなおしの件は、やがて本講談の大筋の一つとなります。\n しかるに。\n その柳生藩に、百歳あまりの一風宗匠という、活きた藩史みたいな人物があった。この人によって、柳生の先祖が、かかる場合の用にもと、どこかの山間にとほうもない大金を埋め隠してあると知れて、一藩は蘇生の色に、どよめき渡った。\n あの愚楽老人の言ったことは、やっぱり嘘じゃあなかったんです。其金さえさがしあてれば、柳生は貧乏どころか、日本一の富裕な藩になるだろう。\n が、その大金の埋蔵個所は、ただ一枚の秘密の地図に描き示してあるだけで、誰も知らない。\n では、その密図は――?\n「こけ猿の茶壺に封じこめあるもの也」\n 口のきけない一風宗匠、筆談で答えた。\n さあ、たいへん! よろこんだのも束の間、問題のこけ猿の茶壺は、弟源三郎の婿引出に持たしてやって江戸で行方不明......\n「名器は名器にしろ、あの薄ぎたない茶壺が、柳生家門外不出の逸品と伝えられていたのは、さては、そういう宝の山の鍵がおさめられてあったのか。そうとも知らず――」\n と、地団駄踏んでも、あとの祭。さっそく、藩士の一隊が決死の勢いで、壺探索に江戸へ立ち向かう。\n 妻恋坂、司馬道場の峰丹波はこのこけ猿の秘密を知っているに相違ない。お婿さんの源三郎には来てもらいたくないが、壺には来てもらいたいので、ああして鼓の与吉を使って盗みださせたのも道理こそ......。\n 幾百万、幾千万という大財産の在所を、そのお腹ン中に心得てる壺だ。\n そろそろ、四方八方からの眼の光り出したこけ猿......それは今、どこにある?\n 浅草は駒形の兄哥、つづみの与吉とともに、彼の仲間の大姐御、尺取り横町の櫛巻お藤の意気な住居に、こけ猿、くだらないがらくたのように、ごろんところがっているんです。\n 口あれど、壺に声なく――。\n\n俺あ丹下左膳てえ者だ(発端篇)\n\n ヒュードロドロドロ......青いお江戸の空に、鳶が輪を描いています。\n ばかにいいお天気。\n「姐御、もうでえぶほとぼりの冷めたころだから、あっしアこれから、品川であの柳生源三郎の一行から盗みだしたこの壺を、妻恋坂の峰丹波様へ納めてくるぜ」\n「チョイト、張り板が裃を着たような、ヤに突ッぱった田舎のお侍さんたちが、眼の色かえて江戸じゅう、そいつを探しているっていうじゃないか。与の公、大丈夫かえ」\n「止めてくれるな、出足がにぶるってんだ。思いついたが吉日でえ」\n 勢いよく壺の箱を抱えて、とびだした与吉だったが、途中で与の公、壺の中が見たくなった。\n「源三郎には用はないが、その持っておるこけ猿の壺には、当方において大いに用があるのだっ! 必ずともに壺を盗みだしてこいヨ。よいかナ」\n そう、峰の殿様はすごい顔で、厳命したっけ。よウし! なにが入ってるか、一つ見てやれ――と与吉は、本郷への途中、壺を開きかけると、あ! いけねえ!\n 言わないこっちゃアない。ちょうど向うを通りかかっていた、柳生の侍の一団が、この時与吉を見つけて、ドッ! と雪崩をうって迫ってきました。\n あわてた与吉、かたわらに荷を出していたところてん屋の小僧、チョビ安という八つばかりの少年に壺を預けて、お尻に帆上げて逃げだした。イヤ、その早いこと、早いこと! グルッとそこらを一まわりして、伊賀の連中を晦いてから、ノホホンと元のところへ来てみると、与の公、二度びっくり!\n 今度はそのところてん屋の小僧チョビ安が、壺をかかえてドンドン逃げていくではないか。\n「小僧! 待てエッ! 待てエッ!」\n 与吉は必死に追っかける。チョビ安少年は、その壺の包みに、何か素晴らしいものでもはいっていると勘違いしているらしく、一生懸命にすっ飛んでいきます。\n 逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。三味線堀は佐竹右京太夫様のお上屋敷、あれからいたしまして、吾妻橋の袂といいますから、かなりの長丁場。\n チョビ安、どんどん駈けながら、\n「泥棒だアッ、助けてくれえ!」\n 大声をはりあげる。これにはさすがの与の公も、子供ながら上には上があると、あきれている。\n とたんに、チョビ安の姿がふっと消えた。橋下の河原へとびおりたんです。つづいて与吉も、橋桁の下へもぐりこんでみると、そこに、浮き世をよその蒲鉾建ての乞食小屋。\n チョビ安、えらいところへ逃げこんだもので......筵の垂れをはぐって、与吉が顔をさし入れて見ると!\n 薄暗い中にむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがバラリ額にかかって、隻眼片腕の痩せさらばえた浪人姿――。\n 箒のような赤茶けた頭髪。一眼はうつろにくぼみ、その眉から口尻へかけて、溝のごとく深い一線の刀痕――黒襟かけた白着に、大きく髑髏の紋を染めて、下には女物の派手な長襦袢が、竹ン棒みたいなやせ脛にからまっている。\n「アッハッハッハ、おれか? 俺あ丹下左膳てえ人斬り病......」\n その背後に、チョビ安め、お小姓然と控えているんで。イヤ、与吉の野郎、おどろきました。\n\nくるりくるりと走馬燈(発端篇)\n\n こうして偶然にも、この万人のつけねらうこけ猿の茶壺は、巷の放浪児チョビ安の手から、人もあろうに隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳の手に納まることとはなった。まことに厄介な次第になったもので。\n このチョビ安という小僧は。伊賀の国は柳生の郷の生れとだけで、両親の顔も名も知らない、まったくの親なし千鳥。\n 当時、浅草の竜泉寺のとんがり長屋、羅宇屋の作爺さんの隣家に住んでいるが、その作爺に、お美夜ちゃんという七つになる孫娘があって、これがチョビ安と筒井筒の幼同士、まア、子供の恋仲てえのも変だけれど、相手が化け物みたいにませたチョビ安だから、わけもわからずに、末は夫婦よ、てなことを言いあっているんです。とにかく、おっそろしく仲がいい遊び友達のチョビ安とお美夜ちゃん。\n そのチョビ安が、ある日ふらっと、例によってところてん売りにでかけたきり、とんがり長屋へ帰ってまいりませんから、お美夜ちゃんはたいへんな悲観と心配。\n これは安公、長屋へ帰らないわけで、\n「向うの辻のお地蔵さん、涎くり進上、お饅頭進上、ちょいときくから教えておくれ、あたいの父はどこへ行た、あたいのお母どこにいる、ええじれったいお地蔵さん、石では口がきけないね――」\n この、チョビ安自作の、父母を慕いさがす唄を耳にした左膳、同情のあまり彼を手もとにとどめおいて、"
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"role": "assistant",
"content": "「うむ。これからはおれが、仮りの父親になってやろう。どこへも行くな。その曰くありげな壺はこのにわか拵えの父が、預かってやる。父と子と、仲よく河原の二人暮しだ。親なし千鳥の其方と、浮き世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」\n というわけ。変な父子ができちまったが......それからほどなく。\n 河原の小屋に壺を置いたのでは、夜な夜なねらう者の多いところから、左膳はチョビ安に、人眼につきやすい侍姿をさせて、壺の箱を持たして竜泉寺のとんがり長屋、作爺さんのもとへ預けにやったのです。\n 子供が、おとなもおとな、浪人の装をして街を行くのだから、眼にたつ。はたしてこの後をつけて、壺が作爺さんの家へ納まるところを見きわめたのが、日夜左膳の掘立小屋を見張っていた鼓の与吉だ。チョビ安、それを知ってか知らずにか、壺の箱を作爺さんにあずけ、お美夜ちゃんともしばしの対面を惜んで、帰ってゆく。\n この作爺さん、実は作阿弥というたいへんな彫刻の名人で、当時故あって江戸の陋巷にかくれすまい、その娘、つまりお美夜ちゃんの母なる人は、腰元からなおって、今はさる御大家の後添いにおさまり、お美夜ちゃんなど見向きもしないということです。\n 話かわって......。\n 本郷妻恋坂、司馬十方斎の道場では。\n 老先生は病あらたまって、死の床。きょうあすをも知れない身でしきりに、剣をもって相識る柳生対馬守の弟を、娘萩乃の入り婿に乞い請けた。その柳生源三郎の到着を、枕の上に首を長くして待っている。\n ところで――かんじんの萩乃は、伊賀の暴れン坊と唄にもあるくらいだから、強いばかりが能の、山猿みたいな醜男に相違ないと、頭からきめて、まだ見たこともない源三郎を、はや嫌い抜いている。\n この時です。妻恋坂の司馬の屋敷へ雇われてきた、若いいなせな植木屋がございました。\n 色白な、滅法界いい男。\n\n罪ですネ源ちゃんは(発端篇)\n\n 瀕死の司馬十方斎先生は、同じ剣家、柳生一刀流の大御所対馬守との間に話のきまった、その弟伊賀の源三郎の江戸入りを、きょうかあすかと待って、死ぬにも死ねないでいます。\n 源ちゃん、品川まで来たのはいいが、婿引出のこけ猿の茶壺を失って、目下大騒ぎをしてさがしていることは、一同ひた隠しにして先生の耳へ入れないでいる。\n「源三郎の顔を見て、萩乃と祝言させ、この道場を譲らぬうちは、行くところへも行けぬわい」\n というのが、死の床での司馬先生の口癖。\n ところが。\n 当の萩乃は、恋不知火のむすめ十九、京ちりめんのお振袖も、袂重い年ごろですなア。\n「源三郎様なんて、馬が紋つきを着たような、みっともない男にきまってるわ」\n ひどいことを考えている。\n「おお嫌だ! 伊賀の山奥から、猿が一匹来ると思えばいい」\n まだ品物を見ないうちから、身ぶるいするほど怖毛をふるっている。\n すると......。\n 紺の香のにおう法被の上から、棕櫚縄を横ちょにむすんで、それへ鋏をさした植木屋の兄イ――見なれない職人が、四、五日前から、この不知火御殿といわれた壮麗な司馬の屋敷へはいって、さかんにチョキチョキやっていましたが。\n「触るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」\n 口の中で、いやに気になる鼻唄をうたっている。こいつが萩乃に、変に馴れなれしく口をきいているのを見て、怒ったのが師範代峰丹波だ。\n 短気丹波といわれた男......。\n「植木屋風情が、この奥庭まで入りこむとは何事ッ! 誰に許しを得て――無礼者めがッ!」\n 発止! 投げた小柄を、植木屋、肘を楯に、ツーイと横にそらしてしまった。柳生流秘伝銀杏返しの一手......銀杏返しといったって、なまめかしいんじゃアない。ひどくなまめかしくない剣術のほうだが、峰丹波はサッ! と顔色をかえ、ドサリ縁にすわって――指を折りはじめた。\n「ハテナ、柳生流をこれだけ使う方は、まず第一に、対馬守殿、これはむろん、つぎに、代稽古安積玄心斎先生、高大之進......ややっ! これは迂闊! その前に、兄か弟かと言わるる柳生源三――おおウッ!」\n 傲岸、丹波の顔は汗だ。そのうめき声を後に......触るまいぞえ手を出しゃ痛い――唄声が、植えこみを縫って遠ざかっていく。\n 根岸の植留の若えもンで、渡り職人の金公てエ半チク野郎――こういう名で入りこんではいるが。\n これが、実は、伊賀の若様源三郎その人なんだ。\n こういうところが、源三郎の源三郎たるゆえん。\n 供の連中は品川を根城に、眼の色変えてこけ猿の行方を、探索している。その間に自分は、ちょっと退屈しのぎに、かくは植木屋に化けて、この婿入りさき司馬道場のようすをさぐるべく、みずからスパイに――そんなこととは知らない萩乃は、この美男の植木屋に、ひそかに、熱烈なる恋ごころを抱くにいたりました。\n「あんなしがない植木屋などを、こんなに想うなんて、あたしはいったいどうしたというのだろう......あアあ、それにつけても源三郎さまが、あの植木屋の半分も、きれいであってくれればいいけれど――」\n 娘島田もガックリ垂れて、小さな胸にあまる大きな思案。\n 罪ですネ、源ちゃんは。\n\n相模大進坊濡れ燕(発端篇)\n\n せっかく盗みだしたこけ猿の壺を、チョビ安てえ余計者がとびだしたばっかりに、丹下左膳という化け物ざむらいにおさえられてしまった鼓の与吉。\n なんといって、妻恋坂の峰丹波様に言いわけしたらいいか。\n いつまで黙ってるわけにもいかないから、ことによったら、この首はないものと、おっかなびっくりの身には、軽い裏木戸も鉄の扉の心地......与吉のやつ、司馬道場へやって来た。\n とたんに。\n 出あい頭に会った若い植木屋を、一眼見るより与の公、イヤおどろいたのなんのって、あたまの素ッてんぺんから、汽笛みたいな音をあげましたね。\n「うわアッ! あなた様は、や、柳生の、げん、げん、源三郎さまッ!――」\n こいつあ驚かずにはいられない。これから起こった、あの深夜の乱陣です。与吉の口から、柳生源三郎とわかった以上、もはや捨ててはおけない。峰丹波、今宵ここで、伊賀の暴れン坊に斬られて死ぬ気で、立ち向かいました。\n「源三郎どの、斬られにまいりました」\n「まあ、ソ、ソ、そう早くから、あきらめるにもおよぶまい」\n 法被姿の源三、庭石に腰かけて、含み笑い......素手です。\n 星の降るような晩でした。\n これより先、伊賀の若殿に刃向かう者は、一人しかない。それは、もうひとりの源三郎が現われねばならぬと――いう丹波の言葉に、与吉はふっと思いついて、こっそり屋敷を抜け出るが早いか、夜道を一散走り。\n 吾妻橋下の河原の小屋へ。\n かの、隻眼隻腕の刃妖、丹下左膳を迎えに。\n 思いきり人が斬られる......と聞いて、おどりあがってよろこんだのは、左膳だ。しばらく人血を浴びないで、腕がうずうずしているところへ、しかも相手は、西国にさる者ありと聞いた伊賀の若様、柳生源三郎!\n「イヤ、おもしれえことになったぞ」\n 相模大進坊、濡れ燕の豪刀を、一つきりない左腕ににぎった丹下左膳、与吉のさわぎたてるまま辻駕籠に打ち乗って――。\n ホイ、駕籠! ホイ!\n 棒鼻におどる提灯......まっしぐらに妻恋坂へかけつけました。この時の左膳は、理由なんかどうでもよい、ただ柳生流第一の使い手と、一度刃を合わせてみたいという、熱火のような欲望に駆られて。\n 行ってみると、おどろいた!\n 丹波と源三郎は、まだ二本の棒のように、向かいあって立ったままだ。丹波は正眼、源三郎は無手。と! すっかり気おされて、精根がつきはてたものか、峰丹波、朽ち木が倒れるように堂ッと地にのけぞってしまった。\n 刀痕の影をきざませて、ニッと微笑った左膳。\n「なかなかやるのう。かわりあって、おれが相手だ」\n もとより、なんの恨みもない。斬りつ斬られつすべき仔細は、すこしもないのだ。ただ、剣を執る身の、やむにやまれぬ興味だけで、左膳と源三郎、ここに初めて真剣の手合せ――まるで初対面の挨拶のように。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ひろ子は、自分がここにいて、目下の事情の中で、しのこされていることはないだろうかと思いめぐらした。重吉の予審と公判の行われていた数年の間、法律を知らないひろ子は、誰でもが持ち合わせている常識と小説をかくものの自然な洞察、想像力、構成の能力とでもいうようなものだけをたよりに、判断し、行動して来た。いくつもの粗忽をし、手ちがいをし、重吉に不便をかけた。\n\n 八畳の室に、ひろ子一人がねていた。二三日で十月になるのに、ここでは蚊帳がいった。おそい月が出た。大名竹の黒い影がガラス越しに縁側の障子にさしている。\n 昔、田端に、天然自笑軒という茶料理があった。そこの中庭の白壁に、酔余に大観が描いたという竹の墨絵があった。\n 自笑軒で、芥川龍之介の年忌の句会が毎年もよおされた。重吉が、はじめて発表した労作は、芥川龍之介の文学とその死とが語る日本の知識人の一つの歴史的転換についての究明であった。\n ひろ子が、重吉のその論文の出ている雑誌を読んだのは、遠い外国の質素なホテルのテーブルの上であった。その時分のひろ子は、どんな気持で暮していただろう。そのようにして名だけを知った重吉が、こんなにとけこんで自分の生涯にない合わされて来ようと、思ってもいたろうか。重吉自身、若々しい精根をきざみこんでそれらの論文をかいていたとき、僅か三年後に牢獄の生活がはじまり、やがて無期懲役というような宣告が与えられようと、想像もしなかったであろう。\n だが、もしかしたら、重吉は、あらゆる可能に向って用意されたこころもちで生きて働き、ひろ子を妻としていたとも思える。\n かすかな風で葉のそよぐ大名竹の影絵を眺めながら、枕の上で大きく眼をあいているひろ子に、四月下旬の昼ごろの日光に照し出されたほこりっぽい公判廷の光景がよみがえって来た。\n 判決言渡しが予定されていたその日、午前十時頃から東京は小型機の編隊におどかされた。定刻までに裁判所へ行っていた永田さんから、中止の電話がかかった。ひろ子は、持てあつかっていた鉄兜を肩からおろし、もんぺをはきかえた。そのうち、空襲警報が警戒警報にかわった。すると、またベルが鳴って、裁判所では、急に開廷することにきめたからいそいで来るようにと知らせて来た。\n「何と意地わるなんでしょう。家族が間に合わないと知れているのに――」\n「私の方で出来るだけ時間をはかっていますから、ともかく早くおいで下さい」\n ひろ子の住居から裁判所までは一時間かかった。歩いて、それから都電にのって、また歩いて、その間にかかる時間は、ちぢめようにもほかにてだてはないのであった。ひろ子は、本当に息をきらして、裁判所の三階にある公判廷に入って行った。\n 開廷されていて、ほそおもての裁判長が何かを読み上げていた。最前列に重吉がかけていた。いつもは離れたところにいる二人の看守が、きょうは左右について同じベンチにいる。ひろ子は、永田さんのうしろにかけた。ガランとした公判廷にいるのは、それぎりの人数であった。\n 裁判長が読み上げているのは、判決言渡しの理由をのべた文章であった。きいていて、ひろ子は、奇怪な気がした。数年にわたる予審や公判は何のために行われたのであったろう。重吉や同志たちが事理をつくし、客観的状況を明らかにして抗争した事件の本質や、現象の内容は、その文章の中では、十二年前に書かれた一方的な告訴の理由とほとんど変更されていなかった。わずかにあくどい形容詞がとりのぞかれ、故意に計画的に行われた殺傷のように説明されていた部分が、偶発の事実として認められているばかりであった。重吉の努力や陳述がどうであろうと、よしんばそれがどんなに条理のとおったものであろうとも、この事件はこちらとしてこう扱うときめているのだ。そう云う頑固さが文章にみちている。\n ひろ子は、それを素朴としりながら、あらたに驚歎を感じた。仮にも大学を卒業し一個の良人であり父親でもある五十がらみの男が、こうも非条理の文章を読みあげ、それを妻子に見せられた姿であろうか、と。\n 裁判長は、理由をよみ終った。主文と、区切って、声を高め、無期懲役に処す、と読んだ。つづけてすぐ事務的に、この判決に不服ならば一週間以内に控訴するように、と早口に云い添えて、裁判所関係のものは一斉に並んだ椅子から立ち上った。重吉も立った。ひろ子は、自分の知らないうちに起立して、こちらをふりかえった永田さんの実直な色白い顔がひどく紅潮しているのを見た。\n 裁判長を先頭にして、一同ぞろぞろ控室に入って行く。その間に、重吉がふりかえってひろ子を見て、笑った。それはいつもの重吉の笑いかたであった。快活に、口元をゆるめその唇の隅にすこし皮肉な皺をよせ、それは重吉のいつもの笑顔であった。それに誘われて、ひろ子も笑顔になった。が、ひろ子の笑顔は一瞬だけのものであった。ひろ子は、つかつかとベンチをよけて、重吉に近づいた。左右からはさんでいる看守は、せき立てるように歩きかけている。ひろ子の身ごなしとその顔つきが、全体で示している感情を重吉はうけとり、理解し、それを鎮めるような、もう一つの笑顔をした。そして、弁護士へともひろ子へともとれる云いかたで、\n「じゃ、あさって、又」\nと云い、大きな手錠のはめられている手で編笠を頭へのっけて出て行った。その日は、土曜日であった。\n そのとき、ひろ子はどんな眼色になっていただろう。それは見えなかったけれども、正直な永田さんの顔が、あんなにもぱっと赤くなったのと、重吉が、永年の病気と日光不足の生活とで、滑らかな蒼い顔をしながら、黒く柔かく、しかも屈することのない眼ざしで、ほとんど滑稽を感じているような笑顔をしたのとは、生涯忘れることはないだろう。\n その重吉の眼と笑顔とが、その夜更け、大名竹の影のうつっている広い秋の蚊帳のなかにあった。白い覆いのかけられた小さい枕のところにあり、ひろ子の二つのてのひらの間にあった。重吉のまだ短く刈られていない髪は、すこし長く額の上に乱れかかって、それをかきあげるとき、指に軽かった。その髪に、ひろ子の指がふれてから、何年が過ぎたことだろう。\n 無慚、という言葉がある。そして、無慚な事実、というものもある。もし、今度、治安維持法撤廃によって思想犯が解放されるとき、重吉やその同志が、ほかに罪名をつけられているのを理由に出獄させられないとしたら、それは、無慚である。無慚すぎる。\n 無慚すぎるそのことを、決してあり得ないことだと考えられない権力の発動のしかたの無慚さこそ、無慚そのものではなかろうか。\n 重吉にひかれ、あこがれる情感のふかいはげしい濤のうねりと、無慚な権力の重さにあらがう思いとで、ひろ子は、もえる床の上におき上った。\n これまで十二年の間、面会に行った五分か十分の間、重吉の顔の上に混乱や苦悩があらわれていたことは一遍もなかった。その顔をうちみれば、ひろ子は苦しさを忘れるすがすがしさがあった。腸結核をわずらって、やっと接見室まで出て来た夏の日、重吉は、椅子にちゃんとかけている体の力さえまだ無かった。ねまきを着て、ずり落ちたように椅子にもたれこんでいる重吉の髪がすっかり脱けおちて、テーブル一つをへだてたひろ子のところから見ると、生え際がポーとすいて見えた。それは、絵にかく幽霊の髪の生えかたそっくりであった。ああ、これはお化けの絵にある髪だ。ひろ子は目を見開いてそれを見つめた。そんなに、死にかかったとき、重吉は、やはりひろ子の救いとなる笑顔をもっていた。そして、その笑顔をみれば、おのずからそれにこたえて、ひろ子の丸い顔も、いつしか爽やかな、さざなみのようなこころがうつった。\n けれども、ひろ子は、時々自分にどんな夜があるかを知っていた。おのずから、重吉にもそういう夜が、或はそういう永い昼間があることを感じていた。様々な夜と昼をとおして、自分たちが不思議な一艘の船であることを感じて来た。夜と昼とは、あてどもなく繰りかえされる海の波のようなものではなく、進む船にとってはそこにあと戻りすることのない時間の経過があり、歴史の推移があるのであった。\n 月が西にまわって、蚊帳の上に大名竹の影が少し移った。どこか遠くの山よりで、故郷へかえる朝鮮人の酒盛りがあり、かすかに謡う声や手拍子の音が風に運ばれて来た。\n\n 十五\n\n 重吉のうちへ来たとき、リュックを背負って、女学生靴をはいたひろ子は、やせて、色も黒くやつれていた。\n 田原へ来て、笑うこともふえて、ひろ子はいくらか、ふくよかになった。朝起きて、鏡を見て、\n「ほら、又すこし美人になった」\nと冗談を云った。\n しかし、今眠られない夜がはじまった。ひろ子は、眠った夜については、話したが、その夜々が眠りを失ったとき、決して誰にも訴えなかった。眠れない夜をもたないで生きて来ている人々というものが此の世の中にあるだろうか。まして、戦争がはじまってから。――ましてや、戦争は終ったが、幾百万のかえらぬ人々があって、その母や妻たちが、すっかり相貌の変じた彼女たちの人生について、不安をもって思いめぐらしているとき。――\n 重吉が獄中生活をはじめた初めの間、ひろ子と同じ立場の留守の妻たちは、少くなかった。思想犯の妻たちは、良人の入れられている拘置所の待合室でいつの間にか知り合い、事件について話し合い、互に元気を与え合った。\n 数年たつうちに、待合室に来る女たちの顔ぶれが変化した。次第に、思想犯の妻や母の姿がまばらになった。その変化は、日本の侵略戦争の進度に応じるものであった。そしてだんだん贅沢な身なりをして、傲然としながら動きのない瞳をした商人の妻たちがふえた。"
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"role": "assistant",
"content": " 思想犯の妻として、留守暮しをするひろ子のやや特殊であった妻としての生活は、いつともなく極めて微妙な相似性で、日本じゅうの、数千数百万の妻たちの思いと共通なものとなりはじめた。その妻たちの良人は、みんな外からの力で、いや応なし軍隊に入れられた。どこに進むのか本人にさえ知らされない輸送船につめられて、海峡をこえたり、太平洋をわたって赤道を通ったりさせられた。重吉を、うちからつれて行った力も、それと全く同じ強権であった。自分ののせられた自動車の行先について、説明を与えるものはいなかった。銃を与えられ、背嚢を負わされてそれらの良人たちは運ばれた。重吉は鉄の手錠をかけられ、編笠をかぶせられ、そして運ばれた。自分の意志や希望で行先が選べないことも同じであったし、行ったら自由に帰れないことも本当にそっくりそのままであった。思うままの心もちを披瀝し、話したい日常の経験についてあからさまな手紙をかくことが許されないことも、そっくりそのままである。そこには、素人に分らない規則があった。外界から遮断された独特の官僚主義と情実。不正腐敗のあることも同じであった。つよく生きぬくものしか、まともに生きにくい。その境遇の荒々しさも同様である。\n 自分たちの心痛さえ思うようには伝えられず、その能力が与えられていようと、いなかろうと、妻が一家の支柱とならざるを得ない事情を、ひろ子は自分ばかりか日本じゅうの妻たちの上に発見したのであった。\n ひろ子が小説に描きたいと思う女のこころもちは、いわば日本のあらゆる女性の感情のテーマとなって来たのであった。\n ところが、たった一点、ひろ子の小説が、どうしても禁止されなければならないわけがあった。ひろ子の人間として、女としての訴えが真実であり、その表現が万人の女性のものであればあるほど、禁止されなければならない理由があった。それは、ひろ子が、天皇と愛国心と幸福の建設のためにと称して行われている戦争に対して、信頼できないこころをもっている女であるということであった。侵略戦争と民衆生活の上に加えられる破壊に対して抵抗している思想犯の妻である、ということであった。\n ひろ子の文学が、最も真実に恋愛を失った若い娘たち、生活の柱を失った妻たちのものとなろうとしたとき、ひろ子が書くあらゆるものは発表を許されなくなった。ひろ子のすべての熱意、すべての表現の欲望は、ひたすら重吉への手紙へばかり注ぎつくされた。\n そういう明暮になってみて、ひろ子は、自分が一人の妻として、今の日本にあふれている数千万の妻たち愛人たちよりも、むしろ幸福な者であることを痛感した。ひろ子は、重吉の居どころをはっきり知っていることが出来た。規則が許す範囲の面会が出来た。未決のうちは、自分で心をくばった衣類をきせておくことが出来た。そして、何よりも重大なことは、ひろ子には手紙が書けることであった。重吉もひろ子に手紙の書けることであった。\n 数万の妻たちの条件はそれとはちがっていた。彼女たちの良人は何処にいるのだろう。妻たちにそれさえはっきりとは知ることが出来なかった。今来たこの手紙をよんでいる、この瞬間、良人のいのちは果して安全であるかどうか。誰が知っていよう。\n その心配に焦点さえ与えられない。絶対なそのへだたりの感覚さえ、遙かにぼやかされてしまっているはかない別離。ひろ子はその現実のむごたらしさを想うと耐えがたかった。そして、たとえその妻たちの留守居はまだ二三年であり、或は四五年であり、自分の独りぐらしは十余年であるにしろ、ひろ子は自身の苦痛において謙遜になった。\n 何かの意味で眠れない夜々をもたない女は、日本にいないのであった。\n\n 四日ばかりたった日、ひろ子をひとしお衝き動かす記事が出た。外人記者が府中刑務所の一部にこしらえられているナチスまがいの予防拘禁所へ行って、徳田球一、志賀義雄その他の思想犯と対談したニュースである。\n ひろ子は、くりかえし、くりかえし、その記事をよんだ。冷静な報道のかげに、はやまり高まっている獄中の人々の鼓動が脈うっていた。大なる精力をもってほとばしる談話。殺されなかった人間性の奔流が感じられた。鉄格子の際の際までひしめき出てその間から外を見、待っている人間の群がある。その眼の光がある。ひろ子は、涙が流れて、とどまらなかった。\n たしかにこれらの人々の声は、きこえはじめた。――だが、あの一つの声は? そして、遠くにあるあの眼は?\n 縫子が、となりの座敷で、ひっそりと縫物をしていた。うしろに、叔母の古風な大箪笥が置かれて、側面に、ひなびたかけ鏡がかかっている。ひろ子は立って行って、涙のおさまった自分の顔をつくづくとその上に眺めた。そして、縫子に声をかけた。\n「ねえ、縫ちゃん」\n「なんでありますか」\n「どうも、この調子だと、わたしは一番綺麗でいたいとき、一番みっともなくなってしまいそうだわ」\n「あら」\n「だってそうじゃないの。もし、かりに重吉さんが帰るときまったら――かりに、そうときまったらよ」\n ひろ子は、その仮定をしつこく繰返した。\n「わたしは歩いたって東京へゆくわ。そうでなくたって、もうこの四五日で大分あやしくなってしまったんだもの――へこたれねえ」縫子は、年かさの娘のものわかりのよさで優しく力づけた。\n「心配はいりませんよ。汽車もそろそろ通じているし――大丈夫でありますよ」\n\n 十月六日、例によって正午近く新聞がくばられた。縫子と叔母とは、ドーナッツを御馳走すると云って、台所の七輪のところにいた。\n ひろ子は新聞をもって来て机の前へ坐った。見出しを先ずたどって行って、紙面の中ごろへかかったとき、ひろ子の顔つきが突然変った。そこに思想犯解放の予告が示されていた。連合軍の命令によって十月十日までに解放さるべき思想犯の氏名が列記されている。(府中)と拘置されている地名の上に、先日外人記者とインタービューした徳田球一の名が筆頭に明記されている。ひろ子の視線はつき刺さる矢のように、それに続くたくさんの姓名の上を飛んだ。石田重吉(網走)と出ている。出ている。出ている。網走、石田重吉と出た。これで、重吉は帰る、ひとりでに呼び声となった。\n「縫ちゃん! 縫ちゃん!」\n 廊下の途中で、手をふきふき来る縫子の腕をつかみしめた。\n「縫ちゃん、これ見て!」\n「おお! 出ちょる、出ちょる!」\n「さあ、もうたしかよ」\n ひろ子は、\n「ああ、たすかった」\n 心からうめいて、目に涙を浮べながら笑顔になった。声をききつけて、白い粉にまびれた手のまま、叔母もかけて来た。\n「どうでありますか? 出ちょってでありますか」\n「ほれ、こんに」\n 縫子がその記事をさした。\n「どれ、どれ」\n さし出された新聞を、都合のよいところまでもう一遍はなして叔母は読んだ。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 平次は両掌を揉み合せて喜んでおります。\n「そう言われると俺も器量がよくなるが、実はここの入口に立った時は、穴へでも入りたかったよ」\n「八の野郎がとんでもない事を言やがるからだ。――気を悪くしないでくれ、後でうんと油を取っておくから」\n 平次の話を聴くと、ガラッ八は向うの方でピョイピョイとお辞儀をしております。膝小僧がハミ出した狭い袷、髷の刷毛先の、神田っ子らしく、左へ曲っているのも間が抜けます。\n「八兄哥に悪いことは少しもない。――ところで兄哥、町内の若いのを、虱潰しにしらべたが、お駒と引っかかりのあるのは、新吉の外には一人もねえ。泥棒にしては無くなった物がないし、――」\n 喜三郎はもう用談の方へ入っておりました。\n「お駒は入口へ背を向けていたろうか」\n と平次。\n「いや、入口の方へ顔を向けて、刺された背中はお勝手を向いていた」\n「お勝手の戸は?」\n「内から締めて、輪鍵が掛っていたはずだ」\n「お駒に気が付かないように、下手人は後ろへ廻れないわけだね」\n「そのとおりだ。――下手人はお駒のよく知ってる者とまでは俺も見込みを付けた」\n 喜三郎もこの時ばかりは得意そうでした。\n「お駒が長火鉢の前へ来て坐る前に入り込んで、押入かどこかへ隠れていたとしたら?」\n「さア、そこまでは――」\n 平次の疑いはもっともでした。これは決して考えられないことではありません。\n「お駒の死体を見た時、新吉はなんて言ったろう」\n と平次。\n「それはよく判っているはずだ。死体を見ると新吉はいきなり。あッとうとう――と言ったように思う」\n「それで沢山だ。新吉は下手人じゃない、が、誰かを庇っている。とにかく、行ってみるとしようか」\n こうして平次はいよいよこの事件に乗出す気になったのです。\n\n六\n\n その日の夕刻、新吉の義兄の岩松は番所に呼出されました。\n 事件が重大と見たのか、与力笹野新三郎出役、真砂町の喜三郎と銭形平次が腰縄を打たれた新吉を調べております。\n「岩松、隠しちゃ為にならねえよ。弟分だと思って、庇い立てをすると、かえって不都合なことになるよ」\n 釘を一本刺した上、いろいろ新吉とお駒の関係を問い訊しました。\n「新吉はそんな大それた事の出来る人間じゃございません」\n 岩松は一生懸命弟のために弁解しましたが、結局、弟の上にかかる疑いは、容易に霽れるものでない事を呑込まされただけの事でした。\n「岩松、気の毒だが、新吉は免れようはねえ。自分でお駒を殺しましたと、白状しているんだ」\n「そんな事が、親分」\n 岩松は百方弁解しましたが、本所に亥刻近くまで居たという、新吉の不在証明を知らなかったので、この上は救う道も尽きてしまったと思ったのでしょう。\n「帰れ。もうよい」\n 喜三郎に冷たく言われると、思い定めた様子で、最後の切札を投げてしまいました。\n「親分、聴いておくんなさい。――出来ることなら隠しおおせようと思いましたが、弟の新吉が処刑になるのを見ちゃいられません。何を隠しましょう、お駒を殺したのは、この私で――」\n「何だと?」\n「何べんでも申します。お駒を殺したのは、この岩松に相違ございません、――お駒の父の房五郎は、私に罪を背負わせて四年前島へ送らせた上、御赦免になって江戸へ帰るのを邪魔し、一人で好い児になろうとしたほどの悪党でございます。打ち殺すのはわけもないが、一と思いに殺しちゃ、苦しめようが足りないから、眼の玉のように大事にしている、房五郎の娘を殺してやりました。――弟の仕事場から、切出しを持って行ったのが大縮尻で、何にも知らない弟に罪を被せちゃ、見ているわけに参りません。弟がお駒殺しを白状したなら、それはこの兄を庇うためで、――気の弱いあの野郎にしちゃ、一代の大出来でございます」\n 岩松の白状は予想外でした。いや、予想外であるべきはずですが、平次も、喜三郎も、笹野新三郎も少しも驚く色のなかったのは何としたことでしょう。\n「嘘を吐けッ」\n「へッ」\n 平次の声は辛辣に岩松の口を緘しました。\n「お前はどうせ島帰りだから、世間の人に白い眼で見られるよりはと、弟の罪を背負って行く積りだろう」\n「とんでもない、親分」\n「それじゃ聞くが、切出しは弟の仕事場から持出して、どんな具合にして持って行ったんだ」\n と平次。\n「手拭に包んで、懐中へ入れて行きました」\n 岩松はスラスラと言って退けます。\n「その手拭の模様は?」\n「白と浅黄の染分けで、真ん中に橘の模様があります」\n「フーム」\n 平次は思わず唸りました。\n「それに違いないでしょう、親分」\n 岩松は番所の隅に小さくなっている弟の新吉を顧みながら、なんとなく重荷でもおろしたような顔をしております。\n「その手拭はどこへやった」\n 平次は追及の手をゆるめません。\n「血が付いたので、どこかへ捨ててしまいました」\n「ところで、もう一つ訊くが、お前が入った時、お駒はどこにどうしていたんだ」\n「長火鉢に凭れておりました」\n「声を掛けたか」\n「いえ、そんな事をしちゃ声を出されて失策ります。格子戸から飛込むと、障子を開けて、いきなり長火鉢に凭れているのを、後ろから突いてしまいました」\n「格子を開けた時気が付かない様子だったのか」\n「定ちゃんかい――と言いました」\n 岩松の話は、疑う余地のないほど判然しておりますが、平次は喜三郎と笹野新三郎を顧みて、何やらうなずき合いました。\n「岩松、お前はとんでもねえ野郎だ」\n「ヘエ、――相済みません」\n「お駒は入口の方へ向いていたぞ。声を掛けずに後ろから刺せるわけはない」\n「へッ」\n「お前のように物騒な人間が入って行けば、第一若い娘は声を立てる。近所はあのとおり近いが、誰もお駒の声を聴いた者もない」\n「............」\n 平次の話は予想外なことばかりでした。\n「それから、お前の手拭――橘の模様のある染分けの手拭は、血も何にも付かずに、お駒の殺された隣の部屋の押入に投り込んであったよ。これはどういうわけだ」\n「............」\n「新吉を庇い立てするのもいいが、ウソはもう少し器用に吐くものだ」\n 平次の明察には、一言の抗いようもありません。\n「恐れ入りました、――」\n 岩松はしたたか者らしい頭を垂れて、しばらく唇を噛みます。\n「それみろ。――ところで、本当の事を聴かして貰おうじゃないか。岩松、お前はお駒を殺す気で、弟の細工部屋から切出しを持出し、橘の模様の手拭に包んで、お駒の家の前まで行った事は本当だろう。それからどうした」\n あまりによく知り過ぎている平次の言葉に、岩松は飽気に取られてその顔を眺めておりましたが、思い直した様子で、こう続け出しました。\n「恐れ入りました。それに相違ございません。房五郎への怨み、弟の歎き、お駒を殺して胸を晴そうと、あの格子まで開けましたが、障子一重というところでお駒に声を掛けられ、急に気が変ったのでございます。――一生島で朽ち果てる積りなのが、たった三年で江戸へ帰ったのも何かの運、このまま安穏に暮せるものを、つまらない怨みや意気張りで、若い女一人を殺せば、今度は私も命がありません。恥かしい事ですが、急に命が惜しくなって、後をも見ずに逃げ帰り、友達の家で夜更けまで飲んだようなわけでございます。翌る日、弟が縛られたと聞いて、私の腑甲斐ないのに腹を立てて、新吉がやったのかしらと、一応は思いましたが、この男は生れ付きの善人で、気の弱い事この上なしですから、人を殺せるはずはありません。これには何か、深い仔細がございましょう。親分、旦那、どうぞ、もう一度調べ直して弟を許してやって下さいまし」\n 岩松の言葉には、もう掛引も偽もあろうとは思われません。それを聞いて一番驚いたのは、隅の方に蹲まっていた、縄付の新吉でした。\n「兄さん、有難い。――兄さんのした事とばかり思い込んで、身に覚えのない罪を引受けたが、兄さんが潔白と判れば、もう心配することはない。親分、私は何にも存じません。あの晩兄の見幕が恐ろしかったので、私は臆病なようだが、兄に言われたとおり、本所へ逃げて行って、亥刻までは家へ帰るまいと思ったのでございます」\n 気の弱い新吉は、自分の臆病さを責めながらも、不在証明を拵えずにはいられなかったのでしょう。\n 後で兄に疑いが掛りそうなのをみて、急にお駒殺しが自分の仕業だと言い張ったのは、兄に対する自分の腑甲斐なさの申訳でもあったのです。\n「............」\n 平次も喜三郎も、笹野新三郎も、何にも言いませんでした。この様子では、新吉はまだ許されるか許されないか、見当も付かなかったのです。\n\n七\n\n 疑いは当然継母のお仙の方に向いました。\n 恐ろしく丁寧な家探しを繰り返しましたが、しかし、何にも新しい証拠は出てきたわけではありません。\n お仙は思いのほか心掛けの良い女だという証拠と、お仙の連れ子の定吉が、妹分のお駒に懸想して、蚯蚓ののたくったような手紙を書いて、人の悪いお駒に翻弄されていたことが判ったくらいのものでした。\n「お神さん、明神様へは、定吉と一緒に行ったんだね」"
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"content": "「ハイ」\n 番所に呼出されたお仙は、何の思い煩う様子もなく神妙に答えます。\n「時刻は?」\n これは喜三郎でした。\n「家を出たのは戌刻(八時)頃、近いところですからブラブラ行って、亥刻(十時)ぎりぎりに帰って参りました」\n「定吉と離れたことはなかったのか」\n と喜三郎。\n「明神様へお詣りをしてから、定吉は境内にある見世物が見たいと申しましたが、私は頭痛持で、あんなものを見ると、眠られなくて困りますので定吉だけを入れて、私は一人外に待っておりました」\n「時刻にして、どれほどだ」\n「半刻ともかかりません」\n「見世物はなんだい」\n「竹田人形でございます、暮からズーッと掛っております」\n「フーム」\n 喜三郎は唸りました。定吉と半刻でも離れていたとすれば、その間に三組町まで飛んで来て、お駒を殺して、また元の場所へ帰られないものでもない――と思ったのでしょう。\n 平次はお仙の顔と、喜三郎の顔を等分に見比べておりましたが、\n「真砂町の、済まないが、俺にちょいと任せては貰えないか、少し訊いておきたいことがあるが」\n 変なことを言い出します。\n「いいとも」\n 喜三郎は素直に身を引きました。お仙に関わる疑いが濃厚になると、平次に任せて、もう少し証拠固めをしておこうと思ったのでしょう。\n「お神さん、――つかぬ事を訊くようだが、平常お前さんとお駒との間は、どうだったろう?」\n「ハイ」\n「正直に言って貰いたいが――」\n「表向きは何にもございませんでしたが、やはり生さぬ仲で、お互に辛いことも、泣くこともございました」\n お仙の言葉は思いの外でした。\n「喧嘩をするような事もあったろうな」\n「お恥かしいことでございます」\n「お駒が死ねば、房五郎の跡取は定吉ということになるだろうな」\n 平次の問はいよいよ突っ込んだものでした。\n「そんな事になりましょうか」\n「房五郎の身上はどんなものだろう」\n「あのとおりの渡世で、何ほどのものもございません」\n「房五郎はお駒を大層可愛がっていたそうだが、お神さんは良い心持ではなかったろうな」\n「何とか良い心持になろうと骨を折りました、みんな私の至らぬからで」\n お仙は涙ぐんでいる様子です。\n「定吉とお駒と一緒にするような話はなかったろうな」\n と平次。\n「一つ違いで、兄妹と言っても、赤の他人ですから、本人同士がその気なら、一緒にして一生側で暮したいと思いましたが、こればかりは親の儘にもなりません、定吉はあのとおりで――」\n「定吉はお駒のことをどう思っているだろう」\n「それはもう、お駒は綺麗ですし、定吉も年頃の事で――」\n ここまで行くとお仙ははっと言葉を切りました、うっかり倅の定吉――あの智恵の足りない定吉に、あらぬ疑いが行ってはならぬと思ったのでしょう。\n「それで?」\n 平次は素知らぬ顔で次を促しました。\n「親分さん、定吉は私と一緒に出かけて、私と一緒に帰っております。ほんの四半刻ばかり、見世物の中へ入ったきり」\n「解った解った、心配することはないよ、お神さん」\n 平次はそう言ってこの調べを打切りました。\n\n八\n\n「銭形の兄哥、あのお神さんを縛ったものだろうか」\n 自分の家の方へ帰って行くお仙の後ろ姿を見送って真砂町の喜三郎は言いました。\n「いや、あのお神さんはこの上もない善人だ、決して人を殺す女じゃない」\n 平次は何やら考えております。\n「だが、お神さんより外に、お駒を殺す者はないことになるぜ」\n 喜三郎はなかなか諦めません。\n「襦袢二枚と、薄綿入を着ている人間を、後ろからたった一と突きで殺せる女があるだろうか」\n と平次。\n「フーム」\n「お駒は声を立てず、苦しみもせずに死んでいる。あれだけの業をするのは、男でもよほど力のある者だ。お仙のような華奢な人間では、綿入を通すだけでも六つかしい」\n「――が、下手人はどうしてもあの家の者か、あの家へ自分の家のように出入する者だ」\n 喜三郎も屈してはいません。\n「房五郎か、でなければ定吉か――ということになる」\n「房五郎は浅草に居た、――これは新吉よりももっと多勢の人が証人になっている」\n「定吉は竹田人形の小屋の中に居た、――お仙は嘘を吐くはずはない」\n これで事件はハタと壁に突き当ってしまいました。\n「とにかく、明神様まで行ってみるとしよう」\n 平次と喜三郎とガラッ八は立上がりました。事件が容易に目鼻が付きそうもないので、与力の笹野新三郎は、とうに八丁堀へ引揚げてしまったのです。\n「ここから明神様の境内まで、女の足で、四半刻足らずで行って来られるかどうか、一つ試してみるんだね」\n 八五郎は寒空に毛脛を出し駆け出しそうにしております。\n「お仙が駆けたというのかい、――毛脛を出して」\n と平次。\n「へッ、正に一言もねえ」\n 無駄を言いながら明神様の境内に着いた時は、もう陽が落かけておりました。\n 裏へ廻って、その頃評判を取った竹田人形の木戸を入ると、寒い時分で、さすがに見物がチラリホラリと居るだけ、人形の生けるが如き姿態が、夕陽を受けて、無気味な艶めかしさで人に迫るのでした。\n 小屋を一と廻り。\n「節分の晩はどうだったえ」\n 平次は小屋の者らしいのを捉まえて訊くと、\n「あの晩は峠でしたよ、よく入ったもので」\n そんな事を言って大して忙しそうもなく、裏の方へ消えてしまいました。\n 竹田人形は小栗判官照手姫十二段返し、わけても照手姫の松葉燻しが良い出来で、梁に吊られた照手姫の、苦痛に歪む姿態の悩ましさ、白い脛と赤い裳に、メラメラと絡みそうになる仕掛の焔の凄まじさ、乱れ乱れた髪、蒼白い――が妙に人を牽付ける顔、乳の上で縛った荒縄など、極めて変態的ながら、たとえようもない艶美なものだったのです。\n「なるほど、これは良い出来だ」\n そんな事を言いながら、小屋の後ろの方、見物人のために作った、葭簾張の便所の側まで行くと、平次は黙って突立ったまま、しばらくは動こうともしません。\n「あれを押してくれ、八」\n「ヘエ」\n ガラッ八は少し這い加減に葭簾の下の方を押すと、そこだけは、杭と縁が切れて、手に従って、かなり大きい穴が開いて行くのです。\n「ここから人間が潜って出て、そっと入られない事はあるまい」\n 平次の静かな言葉は何もかも解決してしまいました。\n「やはり、あのばかか」\n と喜三郎。恐ろしい失望とも屈辱ともつかぬ感情が、三人の顔を硬張らせます。定吉にうまうまと担がれた馬鹿馬鹿しさを、つくづく感じ入ったのでしょう。\n「さア、引返そう」\n「無駄だ」\n 平次は黙って夕靄の中を眺めております。\n「どうした、銭形の」\n「先刻は気が付かなかったが、定吉はもう生きてはいまい」\n「えッ」\n「とにかく、行ってみよう」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": "関羽千里行\n\n一\n\n 時刻ごとに見廻りにくる巡邏の一隊であろう。\n 明け方、まだ白い残月がある頃、いつものように府城、官衙の辻々をめぐって、やがて大きな溝渠に沿い、内院の前までかかってくると、ふいに巡邏のひとりが大声でいった。\n「ひどく早いなあ。もう内院の門が開いとるが」\n すると、ほかの一名がまた、\n「はて。今朝はまた、いやにくまなく箒目立てて、きれいに掃ききよめてあるじゃないか」\n「いぶかしいぞ」\n「なにが」\n「奥の中門も開いている。番小屋には誰もいない。どこにもまるで人気がない」\n つかつか門内へ入っていったのが、手を振って呶鳴った。\n「これやあ変だ! まるで空家だよ!」\n それから騒ぎだして、巡邏たちは奥まった苑内まで立ち入ってみた。\n するとそこに、十人の美人が唖のように立っていた。\n「どうしたのだ? ここの二夫人や召使いたちは」\n 巡邏がたずねると、美姫のひとりが、黙って北のほうを指さした。\n この十美人は、いつか曹操から関羽へ贈り、関羽はそれをすぐ二夫人の側仕えに献上してしまい、以来、そのまま内院に召使われていた者たちであった。\n 関羽は曹操から贈られた珍貴財宝は、一物も手に触れなかったが、この十美人もまたほかの金銀緞匹と同視して、置き残して去ったものである。\n ――その朝、曹操は、虫が知らせたか、常より早目に起きて、諸将を閣へ招き、何事か凝議していた。\n そこへ、巡邏からの注進が聞えたのである。\n「――寿亭侯の印をはじめ、金銀緞匹の類、すべてを庫内に封じて留めおき、内室には十美人をのこし、その余の召使い二十余人、すべて関羽と共に、二夫人を車へのせて、夜明け前に、北門より立退いた由でございます」\n こう聞いて、満座、早朝から興をさました。猿臂将軍蔡陽はいった。\n「追手の役、それがしが承らん。関羽とて、何ほどのことやあろう。兵三千を賜らば、即刻、召捕えて参りまする」\n 曹操は、侍臣のさし出した関羽の遺書をひらいて、黙然と読んでいたが、\n「いや待て。――われにこそ無情いが、やはり関羽は真の大丈夫である。来ること明白、去ることも明白。まことに天下の義士らしい進退だ。――其方どもも、良い手本にせよ」\n 蔡陽は、赤面して、列後に沈黙した。\n すると程昱は、彼に代って、\n「関羽には三つの罪があります。丞相のご寛大は、却って味方の諸将に不平をいだかせましょう」\n と、面を冒して云った。\n「程昱。なぜ、関羽の罪とは何をさすか」\n「一、忘恩の罪。二、無断退去の罪。三、河北の使いとひそかに密書を交わせる罪――」\n「いやいや、関羽は初めから予に、三ヵ条の約束を求めておる。それを約しながら強いて履行を避けたのは、かくいう曹操であって、彼ではない」\n「でも今――みすみす彼が河北へ走るのを見のがしては、後日の大患、虎を野へ放つも同様ではありませぬか」\n「さりとて、追討ちかけて、彼を殺せば、天下の人みな曹操の不信を鳴らすであろう。――如かず! 如かず! 人おのおのその主ありだ。このうえは彼の心のおもむくまま故主のもとへ帰らせてやろう......。追うな、追うな。追討ちかけてはならんぞ」\n 最後のことばは、曹操が曹操自身へ戒めているように聞えた。彼のひとみは、そういうあいだも、北面したままじっと北の空を見つめていた。\n\n二\n\n ついに関羽は去った!\n 自分をすてて玄徳のもとへ帰った!\n 辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。\n「......ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」\n 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。\n 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。\n「............」\n けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛は、胸中の苦悶をしばだたいた。\n 諸臣みな、彼の面を仰ぎ得なかった。しかし程昱、蔡陽の輩は、\n「いま関羽を無事に国外へ出しては、後日、かならず悔い悩むことが起るに相違ない。殺すのは今のうちだ。今の一刻を逸しては......」\n と、ひそかに腕を扼し、足ずりして、曹操の寛大をもどかしがっていた。\n 曹操はやがて立ち上がった。\n そして、あたりの諸大将に云った。\n「関羽の出奔は、あくまで義にそむいてはいない。彼は七度も暇を乞いに府門を訪れているが、予が避客牌をかけて門を閉じていたため、ついに書をのこして立ち去ったのだ。大方の非礼はかえって曹操にある。生涯、彼の心底に、曹操は気心の小さいものよと嗤われているのは心苦しい。......まだ、途も遠くへはへだたるまい。追いついて、彼にも我にも、後々までの思い出のよい信義の別れを告げよう。――張遼供をせい!」\n やにわに彼は閣を降り、駒をよび寄せて、府門から馳けだした。\n 張遼は、曹操から早口にいいつけられて路用の金銀と、一襲の袍衣とを、あわただしく持って、すぐ後から鞭を打った。\n「......わからん。......実にあのお方の心理はわからん」\n 閣上にとり残された諸臣はみな呆っ気にとられていたが、程昱、蔡陽の輩はわけても茫然、つぶやいていた。\n × × ×\n 山はところどころ紅葉して、郊外の水や道には、翻々、枯葉が舞っていた。\n 赤兎馬はよく肥えていた。秋はまさに更けている。\n「......はて。呼ぶものは誰か?」\n 関羽は、駒をとめた。\n「......おおういっ」\n という声――。秋風のあいだに。\n「さては! 追手の勢」\n 関羽は、かねて期したることと、あわてもせず、すぐ二夫人の車のそばへ行った。\n「扈従の人々。おのおのは御車をおして先へ落ちよ。関羽一人はここにあって路傍の妨げを取り除いたうえ、悠々と、後から参れば――」\n と、二夫人を愕かさぬように、わざとことば柔らかにいって駒を返した。\n 遠くから彼を呼びながら馳けてきたのは、張遼であった。張遼はひっ返してくる関羽の姿を見ると、\n「雲長。待ちたまえ」と、さらに駒を寄せた。\n 関羽はにこと笑って、\n「わが字を呼ぶ人は、其許のほかにないと思っていたが、やはり其許であった。待つことかくの如く神妙であるが、いかにご辺を向けられても、関羽はまだご辺の手にかかって生捕られるわけには参らん。さてさてつらき御命をうけて来られたもの哉――」\n と、はや小脇の偃月刀を持ち直して身がまえた。\n「否、否、疑うをやめ給え」と、張遼はあわてて弁明した。"
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"role": "assistant",
"content": "「身に甲を着ず、手に武具をたずさえず――拙者のこれへ参ったのは、決して、あなたを召捕らんがためではない。やがて後より丞相がご自身でこれに来られるゆえ、その前触れにきたのでござる。曹丞相の見えられるまで、しばしこれにてお待ちねがいたい」\n\n三\n\n「なに。曹丞相みずからこれへ参るといわれるか」\n「いかにも、追ッつけこれへお見えになろう」\n「はて、大仰な」\n 関羽は、何思ったか、駒をひっ返して覇陵橋の中ほどに突っ立った。\n 張遼は、それを見て、関羽が自分のことばを信じないのを知った。\n 彼が、狭い橋上のまン中に立ちふさがったのは、大勢を防ごうとする構えである。――道路では四面から囲まれるおそれがあるからだ。\n「いや。やがて分ろう」\n 張遼は、あえて、彼の誤解に弁明をつとめなかった。まもなく、すぐあとから曹操はわずか六、七騎の腹心のみを従えて馳けてきた。\n それは、許褚、徐晃、于禁、李典なんどの錚々たる将星ばかりだったが、すべて甲冑をつけず、佩剣のほかは、ものものしい武器をたずさえず、きわめて、平和な装いを揃えていた。\n 関羽は、覇陵橋のうえからそれをながめて、\n「――さては、われを召捕らんためではなかったか。張遼の言は、真実だったか」\n と、やや面の色をやわらげたが、それにしても、曹操自身が、何故にこれへ来たのか、なお怪しみは解けない容子であった。\n ――と、曹操は。\n はやくも駒を橋畔まで馳け寄せてきて、しずかに声をかけた。\n「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」\n 関羽は、聞くと、馬上のまま慇懃に一礼して、\n「その以前、それがしと丞相との間には三つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」\n「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して昔日の約束を違えんなどとは考えていない。......しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」\n「鴻恩、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく......ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各〻とざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」\n「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、牌をかけおいたのは予の科である。――否、自分の小心のなせる業と明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」\n「なんの、なんの、丞相の寛濶な度量は、何ものにも、較べるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」\n「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も潔い。......おお、張遼、あれを」\n と、彼はうしろを顧みて、かねて用意させてきた路用の金銀を、餞別として、関羽に贈った。が関羽は、容易にうけとらなかった。\n「滞府中には、あなたから充分な、お賄いをいただいておるし、この後といえども、流寓落魄貧しきには馴れています。どうかそれは諸軍の兵にわけてやってください」\n しかし曹操も、また、\n「それでは、折角の予の志もすべて空しい気がされる。今さら、わずかな路銀などが、君の節操を傷つけもしまい。君自身はどんな困窮にも耐えられようが、君の仕える二夫人に衣食の困苦をかけるのはいたましい。曹操の情として忍びがたいところである。君が受けるのを潔しとしないならば、二夫人へ路用の餞別として、献じてもらいたい」と強って云った。\n\n四\n\n 関羽は、ふと、眼をしばだたいた。二夫人の境遇に考え及ぶと、すぐ断腸の思いがわくらしいのである。\n「ご芳志のもの、二夫人へと仰せあるなら、ありがたく収めて、お取次ぎいたそう。――長々お世話にあずかった上、些少の功労をのこして、いま流別の日に会う。......他日、萍水ふたたび巡りあう日くれば、べつにかならず、余恩をお報い申すでござろう」\n 彼のことばに、曹操も満足を面にあらわして、\n「いや、いや、君のような純忠の士を、幾月か都へ留めておいただけでも、都の士風はたしかに良化された。また曹操も、どれほど君から学ぶところが多かったか知れぬ。――ただ君と予との因縁薄うして、いま人生の中道に袂をわかつ。――これは淋しいことにちがいないが、考え方によっては、人生のおもしろさもまたこの不如意のうちにある」\n と、まず張遼の手から路銀を贈らせ、なお後の一将を顧みて、持たせてきた一領の錦の袍衣を取寄せ、それを関羽に餞別せん――とこういった。\n「秋も深いし、これからの山道や渡河の旅も、いとど寒く相成ろう。......これは曹操が、君の芳魂をつつんでもらいたいため、わざわざ携えてきた粗衣に過ぎんが、どうか旅衣として、雨露のしのぎに着てもらいたい。これくらいのことは君がうけても誰も君の節操を疑いもいたすまい」\n 錦の抱を持った大将は、直ちに馬を下りて、つかつかと覇陵橋の中ほどへすすみ、関羽の駒のまえにひざまずいて、うやうやしく錦袍を捧げた。\n「かたじけない」\n 関羽はそこから目礼を送ったが、その眼ざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかとなお充分警戒しているふうが見えた。\n「――せっかくのご餞別、さらば賜袍の恩をこうむるでござろう」\n そういうと、関羽は、小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべてその薙刀形の刃さきに、錦の袍を引っかけ、ひらりと肩に打ちかけると、\n「おさらば」と、ただ一声のこして、たちまち北の方へ駿足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。\n「見よ。あの武者ぶりの良さを――」\n と、曹操は、ほれぼれと見送っていたが、つき従う李典、于禁、許褚などは、口を極めて、怒りながら、\n「なんたる傲慢」\n「恩賜の袍を刀のさきで受けるとは」\n「丞相のご恩につけあがって、すきな真似をしちらしておる」\n「今だっ。――あれあれ、まだ彼方に姿は見える。追いかけて! ......」\n と、あわや駒首をそろえて、馳けだそうとした。\n 曹操は、一同をなだめて、\n「むりもない事だ。関羽の身になってみれば、――いかに武装はしていなくとも、こちらはわが麾下の錚々たる者のみ二十人もいるのに、彼は単騎、ただひとりではないか。あれくらいな要心はゆるしてやるべきである」\n そしてすぐ許都へ帰って行ったが、その途々も左右の諸大将にむかって、\n「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫しい心操に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう。其方たちも、この世でよき人物に会ったことを徳として、彼の心根に見ならい、おのおの末代にいたるまで芳き名をのこせよ」と、訓戒したということである。\n このことばから深くうかがうと、曹操はよく武将の本分を知っていたし、また自己の性格のうちにある善性と悪性をもわきまえていたということができる。そして努めて、善将にならんと心がけていたこともたしかだと云いえよう。\n\n五\n\n 思いのほか手間どったので、関羽は二夫人の車を慕って、二十里余り急いで来たが、どこでどう迷ったか、先に行った車の影は見えなかった。\n「......はて。いかが遊ばしたか」と、とある沢のほとりに駒をとめて、四方の山を見まわしていると、一水の渓流を隔てた彼方の山から、\n「羽将軍、しばらくそこにお停りあれ」と、呼ばわる声がした。\n 何者かと眸をこらしていると、やがて百人ばかり歩卒をしたがえ、まっ先に立ってくる一名の大将があった。\n 打ち眺めれば、その人、まだ年歯二十歳がらみの弱冠で、頭は黄巾で結び、身に青錦の袍を着て、たちまち山を馳けおり、渓河をこえて、関羽の前に迫った。\n 関羽は青龍刀をとり直して、\n「何者ぞ、何者ぞ。はやく名字を申さぬと、一颯のもとに、素首を払い落すぞ」\n と、まず一圧を加えてみた。\n すると、壮士はひらりと馬の背をおりて、\n「それがしはもと襄陽の生れ、廖化と称し、字は元倹という者です。決して将軍に害意をふくむ者ではありませんから、ご安心ください」\n「して、何のために、卒をひきいて、わが行く道をはばめるか」\n「まず、私の素志を聞いていただきたい。実は私は、少年の客気、早くも天下の乱に郷を離れて、江湖のあいだを流浪し、五百余人のあぶれ者を語らい、この地方を中心として山賊を業としている者です。ところが、同類の者に、杜遠という男がいます。これがつい今しがた、街道へ働きにでて、二夫人の車を見かけ、よい獲物を得たりと、劫掠して山中へ引き連れてきたわけです」\n「なに。――では二夫人の御車は汝らの山寨へ持ち運ばれて行ったのか」\n すぐにも、そこへと、関羽が気色ばむのを止めて、\n「が、お身には、何のお障りもありません。まず、私の申すことを、少しお聞き下さい。......私は簾中の御方を見て、これは仔細ありげなと感じましたので、ひそかに、車についた従者の一名に、いかなるわけのお人かとたずねたところ、なんぞ知らん、漢の劉皇叔の夫人なりと伺って、愕然といたしました。......で早速、仲間の杜遠に迫り、かかるお人を拉し来って何とするぞ、すぐもとの街道へ送って放し還そうではないかと、切にすすめましたが杜遠は、頑としてきき入れません。のみならず、怪しからぬ野心すらほのめかしましたから、不意に、剣を払って、杜遠を刺し殺し、その首を取って、将軍に献ぜんために、これにてお待ちしていた次第でございます」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 私は昨年の秋から少し静養の意味で、伊豆のI温泉に仮りの住居を定めることにした。今まで北国の生活ばかりしていた私達には、初めて見る南国の冬が色々珍しい経験を沢山齎してくれた。高畑の蜜柑畠に日が映えて、雑木林が紫色に光るのも珍しかったし、冬の海に陽光が燦々と降っている景色も愉しかった。何だか周囲が天恵で満ち満ちているような気がして、半年を灰色の空の下で雪に埋れながら暮す人達の生活が遠い国のことのように思い浮べられた。\n それらの天恵の中でも、この伊豆海岸の生活で自分に一番嬉しいことは、いつも鮮しい魚が得られしかもその種類が極めて多いということであった。この町は温泉地として有名であるにもかかわらず、実は今でも町全体の収入を見ると、温泉地としてよりも漁港としての方が多いという話である。それだけに町の姿にも全くの温泉街とは成り切れぬ処があって、微かに残っているその漁村の匂いが、落付いて住もうとする私達に何となく暮しやすいという感じを与えてくれるのであった。\n 私がここにしばらく滞在しようとした時に、医師の人から新鮮な魚を沢山喰べるようにと勧められた。もともと私は子供の時から北国の荒海近い田舎に育って、色々の磯の小魚に親しみを持って育ってきたのであるが、その後都会の生活をするようになってから久しくそのような自然の饗宴から遠ざけられていたのである。それで医師に勧められるまでもなく、私は大変喜んでこの南国の海の生活を十分に楽しみたいと思っていたのであった。\n ここでは町の魚屋が、朝早く船から上った魚を真直に持ってきてくれるので、強い魚などは台所へきてもまだ盛んに口を動かしている位であった。それで魚屋によく頼んでおくと、いくらでも新鮮な珍しい魚が手に入るのであった。ここに移って初めての朝、まず温泉に浸ってそれからしばらく机に向っていると、魚屋が来ましたという知らせがあった。軽い好奇心からちょっと裏口へ出てみると、小さい盤台の上に色々な珍しい魚が一杯に並んでいた。それを見た時私は何よりもまずその色彩の美しさに思わず驚きの眼を見張ったのであった。この海で有名な室鰺の水から揚ったばかりの姿は初めて見たのであるが、力一杯張り切るように肥った皮膚が鮮緑色に輝いているのがいかにも美しかった。そして黒鯛とか鱸とかいう有りふれた魚までもここでは皆燦爛たる光彩を放っているのであった。その外色々な形も色彩も著しく異っている磯の雑魚が沢山並べられていた。それら雑魚達の名前と料理法とを一々魚屋から教わって、これから毎日その一つ一つの味を調べてみようということになった。魚屋の方も妙に乗気になって、「これはまだ召し上らない魚です」などといって妙な魚を持ってきてくれるようになったので、一月位したらこの海で獲れる磯の魚を一通り喰べてみたことになってしまった。\n これらの雑魚は私に今まで持っていた魚の種類という概念をすっかり変えさせてくれた。魚の形といえば鯛のような形とか、鰯や鯖のような細長いものとかいう風に分類出来るものと思っていたのは大変な間違いであったことが分った。例えば鰺の一種でしま鰺というのは菱形であり、まとうの頭には化石年代の魚の面影があり、いとひきは五辺形の平板の形をしているのである。模様にもまたほとんど無限の変化があって、子供の絵のように勝手な所に勝手な色の斑痕をつけた魚があるかと思うと、全身が小紋縮緬で蔽われたようなものがおり、全く規則正しい縞模様の魚もあった。その縞にもまた水平なもの、垂直なもの、斜のもの、あるいは上から見ると丁度鷹の羽のように見えるものなどいくらでも種類があった。この最後のものには、たかっぱという名が付いているのも極めて簡明で面白かった。その上色彩がまた非常に豊富で、プリズムで分けたスペクトル光のように恐ろしく純粋な色があるかと思うと、西洋の古い名画のように思い切って燻んだ色彩のものもいた。これは後に絵に描いてみて分ったことであるが、これらの色彩は変化が速くて、水から揚って半日も経つとまるでその生彩を失ってしまって極めて平凡な色になってしまうのである。まず都会で見る魚の色にはもはや旧の面影がないといっても差支えない位である。これらの雑魚の種類の豊富さは、まあ極端にいえば、普通に想像し得る任意の形を描いてそれに勝手な色を付けてみてもそのような魚は一匹位は必ずいるといって差支えない位である。\n このような雑魚が都に近い海で、全体としてはかなり多数に獲れているにもかかわらず、都会地へは余り送り出されないというのも面白いことである。これらの雑魚の中には形からいっても味からいっても、一流とされている魚達に決して劣らぬものが多いのであるが、現在の経済組織の下では、実用的の商品となり得るために必須な条件は、ある程度まで「数が揃う」ということであるらしい。この点今の教育制度と経済組織との間には共通した所があるようである。最もそれは当然のことであろう。しかしその御蔭で漁村に住む人達にこれらの自然の饗応が存分に恵まれるのは有難いことである。\n これらの雑魚は丁度雑草のようなものである。雑草の豊富な種類とその各々が持つ特殊の美しさとは十分に説かれている。雑魚の世界は雑草の世界よりも単に地域的に広いばかりでなく、生存の範囲が立体的になっているために、その種類と変化とがさらに著しく豊富になるのは当然なのであろう。もっともここでの雑魚というのは、地図にも載らぬ位の小さい一つの湾の中でしかも磯に近い所で普通に獲れる極めてありふれた魚のことをいっているのであるが、それでも初めて漁村に近い土地の生活をする者の眼を驚かすには十分であった。前に「海底九百何十メートル」というような題の独逸の本を見せて貰ったことがあるが、特殊な金属球を作ってその中へ這入って海底の動物達の生活を見ると、まるで想像を絶した奇怪な姿のものがいくらでも蠢いているのである。深海魚の話は勿論専門外の私などの立ち入るべき筋ではないが、海といっても魚の棲息する所は海面に近い所か、海の底と決っているように聞いていたのであるが、実際金属球で沈んで行くと各層で色々不思議な魚に遭うようである。千メートルの海底といえば、水圧は百気圧を越えているはずで、そして日光もほとんど届かぬ永遠の闇の世界である。そのような所にある怪物の世界の姿を想像してみることも、この頃のような世情の下に生活している人々には幾分の清涼感を与えるかも知れない。"
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"role": "assistant",
"content": " 磯の魚には磯の匂いがあるということはよく聞く話であるが実際判然とした匂いがある。その良い例はかさごであろう。この魚が身体に不相応に大きいあの顎を脹らませて忿ったような顔をしているのはちょっと滑稽である。肉はかなり強靭でそれに脂が濃いために少しばかり口の中で滑べるような感じがする。この機械的の感触は鯛や鱸などの名流の魚にはないもので、これもいわゆる磯の匂いの一つの要素になっているのではないかと思われる。不思議なことには、この魚を喰べると私は妙に日本海の年々に目立ってさびれて行く漁村を思い出すのである。中学時代に一夏をそのような寒村に送ったことがある。難船騒ぎと砂丘の後退とトロール船とに傷めつけられながら、国勢調査の度ごとに何割という人口の減って行く村の中で、よくこの魚を喰べたものである。その時の記憶がよほど深く脳裏に彫みこまれているためらしいのである。\n トロール船といえば、この頃のように漁獲の方法が一般に進歩してくると、一度にあまり沢山獲れて困ることがあるらしい。実際問題としては、なかなか漁獲の調節などということは出来ないものだそうである。獲れるだけ沢山獲って、値段を下げたり腐らしたりして、いつでも収支の最後の所では、散々苦労して必要以上の労力を費した揚句、手一杯の経営をして行くのが人間の仕事であるらしい。もっともそれは経済的な事業に限らず精神的とされている仕事にでも同じようなことがいえそうである。北海道では烏賊が沢山獲れる時期があるが、烏賊の値段というものは、烏賊の本質で決まるものではなくてその日の天候で決まるものであるという話を聞いて驚いたことがある。似たようなことはどの魚にでもあるのであるが、烏賊は特に腐敗しやすいので著しいのである。天気が良くて鯣に出来る日に比較すると、雨の日の烏賊は値段が十分の一位に下ってしまうそうである。先年北海道の水産の学校へ物理の教授になって行ったI理学士が、この問題に手を付けてみたいといってきたことがあった。こういう問題の物理的研究というとよく誤解されることがある。何か巧い方法を見付けて手品のように烏賊を鯣にする仕掛けを考えてでもいるようにとられるか、あるいは結局役には立たないがそんなことをいい立てて研究費でもとるのだろうという風に解釈されがちである。しかし私達の採る方法はこの場合ならば次のようにするのである。まず烏賊の肉の一片を皿に載せてそれをゼンマイで吊すのである。肉が乾くと蒸発した水分だけ目方が軽くなるので、ゼンマイが極めてわずかばかり縮む。それを適当に拡大してみると、烏賊の肉が乾いて行く情況を見ることが出来るのである。I君がこのようにして採った乾燥曲線を見せて貰ったが、肉に含まれている水分に二種あってそれが段々に取れて行く有様がよく見えて面白かった。次には全装置を容器に入れて、温度と空気の乾燥度と風の速さとをそれぞれ変えて、この乾燥曲線がどのように変化して行くかを見るのである。最近知らせて貰ったその結果を見ていると、色々なことがちゃんと現われているので面白かった。例えば温度が大変利いて五十度にもすると常温の時の倍以上も早く乾くのに、湿度の方はそれほど利かず、ある程度以上乾いた空気を送るとかえって悪いというようなことが出ているのである。それは表面だけが急に乾いて固まってしまうためであるらしい。結局常識で大体見当の付くことが多いのであるが、科学的の研究というものは第一歩としては常識の整理であることはいうまでもないことである。そしてそれが実用に役立つかどうかという問題もこの場合ならば、差し当り腐敗を防止し得る程度まで乾燥するのに最も有利な条件を選び出せば良いのであって、それでもなお経済的に引き合わなければ肥料にしてしまえば良いのである。その場合この仕事の価値は事柄をはっきりさせたという点にあるのであって、実際のところ、事柄をはっきりさせるということはそう容易しいことではないのである。\n\n この土地の雑魚も一通り喰べ終って大分親しみが出てくると、何だかそれだけでは惜しいような気がしてきた。それで永らく放っておいた絵具箱を取り出してきて、一つこれらの雑魚を油絵に描いてみようという気を起した。勿論この考えはかなり大それたものであることは描きかけてみたら直ぐ分った。最初にまず容易しそうなものと思っていしだいを買ってきた。この魚は鯛のような形で縦に太い縞があるのである。外の魚は例えば鰺や鯖のようなものはどうもあの金属的な光沢がとても歯が立ちそうもないので、まずいしだいを選んだのであったが、それでもよく見ると色が非常に困難である。地肌が既に複雑な色をしている上に、模様がまた簡単な色ではなく、その上蔭の色が重り、さらに厄介なことには表面での反射がある。その反射が妙にぬめりとした感じを与えるものらしいのであるが、よく見るとどうも表面が粘液で蔽われていて、その液層の表面からは周囲の色がそのまま反射してきて、それに粘液層の底から反射してくる少し色の違った光が加わっているらしい。どうもこれでは魚を描くことはまず絶望のようである。それでもやりかけた以上はと良い加減な色をあたりかまわず上へ上へと塗って行ってみると、何だか少し魚らしくなって行くようである。困ることにはこのような鮮魚は直ぐ表面が乾いて行くので二時間もするとまるで最初の時とは似もつかぬ色になってしまうのである。仕方なく少し投遣り気味にバックを塗ってまず仕上げてしまった。そして魚はその晩煮て喰ってしまったが流石にあまり美味いとは思わなかった。翌日起きて直ぐ昨日のいしだいを眺めてみると、案外良い出来に見える。魚が側にある時はまるで贋物のように見えていた絵の中の魚が、今朝はちょっと本物らしく見えるのだから愉快である。昨夜一晩中贋物に眺め入っていたので、頭の中にそのような像が出来てしまったものらしい。案外一般の人の頭の中にある色々な事物の像は皆贋物であるのかも知れないという気がした。よく考えてみると吾々が色々な自然の事物について持っている像は絵とか写真とかいうものを通じて作ったものが多いようである。その贋物に馴れてしまうと本物を見た時でも自分の持っている像をその上に投影して見るようになって、かなり大事な点を見落すようにならぬとも限らない。俳句のようなものがあの短い詩形でちゃんとした芸術になるのもそのような大事な点を捕えるためかも知れない。もっともそのようなことは十分いい古されていることであろう。\n どうも芸術品としての雑魚図譜には閉口したので、珍しい魚の図譜を作って見ようと魚屋に頼んでおいたら、早速妙な魚を持ってきてくれた。全身が赤い魚で、頭は猿のような顔をしていて、背鰭が非常に長い針になっているのである。この針は激しい毒を持っているので、死んでからもこれに刺されると二日位は苛い疼痛に悩まされるそうである。それで普通は獲ると直ぐこの針を切り落してしまうのですと魚屋は説明してくれた。一番の特徴は胸鰭で、全身を蔽う位の大きさの鰭が孔雀の尾のような形をしていて、その上豹のような斑点があるという念の入ったものなのである。名前を聞いたら、やまのかみという魚ですという。本名はと聞いたらそれが本名ですと魚屋は澄ましていた。魚もこれ位変っていると描くのもかえって楽なような気がした。どうせ滅多に見た人もないのだから色なんか少々どうでも、ただ毒々しく見えるようにという気があったのかも知れない。しかし描き上ったところを見ると、どうも嘘の魚のように見えて仕方がない。非常に変った物を、見たこともない人に、こんなものが実際いるのだと納得させるように描くのはやはり一層難かしいものらしいということが分ってちょっと面白かった。「魑魅を画くは易し」などと嘯いていた支那の昔の画家は、相手が素人だと思って勝手な熱を揚げていたのかも知れない。魑魅だって内界までも入れた広い意味での自然界には実在の動物なのである。まあそういうことに独り決めをしておいて、この絵は早々に失敬してしまった。\n 次にはまとうを描いてみた。これはかわはぎに似た形の魚で、味噌汁の実にするとなかなか美味いものである。この魚は光沢はそれほど難しくはなかったが、その代り色が厄介で妙に燻んで暗緑色をしていた。そしてその下に基調をなす紫色があって、その紫が所々に顔を出しているのに、ちょっと手を焼いた。もっとも身体の真中に天保銭型の暗紫色の斑点があるので、それを描けばまとうだということは分るはずであるが、その環がまた妙に難かしい。皮膚の一部がそのように染っているのか、何か黒い環が載っているのかその区別がなかなか出来ない。よく見るとその環の周囲に余色らしい緑がかった黄色の隈取がある。この余色の隈取は色の対照からくる網膜の錯覚からも起る現象であるが、この場合にはそれではなくちゃんとまとうの皮の上に着いている色なのである。もっともこの二ツの現象には何か関係があるのかも知れないという気もする。冬彦先生だったらここで何か一つセオリーが出るところだろうがなと描きながらふと思ってみた。\n まとうの次にはめばるを描いてみたが、これも大した傑作にもならず片付けてしまった。それから二、三日したら今度は魚屋が大変な難物を持ち込んできた。それはいとひきである。この魚は全体が平たくて、直線から成る五辺形をしている。頭と尾とが左右の角に当り、それを連ねる線から上に二辺、下に三辺がある。そして背鰭と腹の鰭の一部が伸びて身長の三倍近くも長い糸を曳いているのである。もっとも普通店先に出る時にはこの糸が邪魔になるので切ってしまってあることが多いそうである。ところでこの魚が難物である所以は形よりもその色にあった。全体が銀白色でそれが赤、黄、コバルトなどにきらきらと輝いているのである。その色がまた非常に純粋でほとんど完全な単色のように見えるのである。それを白い皿に載せて窓際に置いてさてよく見ると益々大変である。ちょっと眼の位置を変えると今までコバルト色に光っていた所が真赤に輝いたりするのだからこれはどうしても薄膜による光の干渉の色に違いない。その上に頭の部分に意外に強い鮮かな青色があるのが妙だと思ってよく見ると、それは澄み切った冬の空の色が鏡面反射で映っているのだということが分った。そう思って身体の全体を見直すと、前の干渉の色に混ってこの種の反射の光も所々に見える。これを皆描くとなるとどうも只事ではないのだが、まあ試しの心算で根気よく一々の色を拾って少し大胆に純粋な色を思い切って塗り始めてみた。個々の色はかなり似たような色が出るのでそれに力を得て、一気に大体描き上げてしまった。案外巧く行ったかなと思いながら、内心少し得意になってちょっと離れて見直して見ると、まるで何のことはない、下手な千代紙細工のようなものになっているのですっかり落胆してしまった。それにしてもあまり可笑しいので今一度魚と絵とをよく見較べてみると理由は極めて簡単に分った。それは陽差しの方向が刻々に変って行くにつれて魚の各部分の色がまるで変ってしまうのに気が付かなかったためである。この時間的の変化におかまいなしに、次々と違った部分を「忠実」に似せて塗って行ったのではどうしても嘘になるより仕方がないのである。それにしても死んだ魚がこのように刻々に色を変えて行くのは少々薄気味悪い位である。もっともそれは当り前のことには違いないのだが、自分で絵に描いてみなくてはなかなか分らないことであろう。子規が「草花を写生していると造化の神秘が分ってくるような気がする」といった意味を私はこのように解釈してみた。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n第二百四十一 冷肉料理\n\n お登和嬢が料理に対する才覚は源々として竭くる事なし「ハイ、ありますとも。まだまだ風の変ったサンドウィッチを幾色も拵えられますけれども、今のがサンドウィッチのお料理ですからその次は立食風の冷肉料理がようございましょう。冷肉料理はお弁当に限らず暑い時分には家庭の食事に用いてもお客への御馳走にしてもようございます。先ずその献立を致してみましょうか。第一がコールポークと申して豚の冷肉に致しましょう。それには豚のロース肉を三斤買ってそのままテンパン即ちブリキ皿へ載せて塩胡椒を振かけてテンピの中へ入れてロースのように焼きますが、十分間ばかり過ぎたらテンピの戸を明けて引出して肉の上へ大匙一杯のバターを塗って肉から出た汁を匙で掬って肉の上へかけてまた焼きます。それから十分間も過ぎたらまた戸を明けて汁を肉の上へかけて幾度もその通りにしますと、バターや塩胡椒の味がよく肉へ浸みます。沢山の肉を焼く時にはその味を浸込ませるため鉄串か箸でポツポツと肉へ孔を明けてもようございます。最初から一時間と二十分位焼けば豚のロースが出来ます。それを冷しておいて薄く二十人前に截ればコールポークが出来ます」小山「なるほどね。豚のロースが一斤二十二銭と見て三斤で六十六銭、それに塩と胡椒とバターが五銭と積もれば沢山ですね。合せて七十一銭ですが、時にお登和さんロースを焼には火は強い方がいいのでしょうね」お登和嬢「ハイ強い方です。途中で炭が減って火が弱くなりましたら脇の七輪で火を起して折々継ぎ足さなければなりません」小山「テンピに使う炭は何がいいのです」お登和嬢「土釜の上等がようございますね。立消のしない上等の土釜を起してテンピの上へ載せておきますが二、三十分過ぎると灰が沢山出来て火力を弱くしますから折々団扇で強く煽いでその灰を払わなければなりません。灰のある時とない時とでは火の利き方が大層違います」小山「そうでございましょう。宅なんぞではテンピへ火を載せた切りで打捨っておきますから灰は溜まる、火は弱くなる、何分間で出来ると伺ったものもなかなかその通りに出来ません。全く火加減のためですね」お登和嬢「そうでございます。カステラのようなお菓子を焼く時には火加減が一番大切ですから最初テンピの中へ手を入れてこの位な熱度と極めておいて、その時外から指の先でテンピの中ほどをちょいと触ってみて指へ感じる熱度を測っておきます。途中では幾度も戸を明けて中の熱度を見ることが出来ませんから十分間ごと位にテンピの横へ外からちょいと触ってみて指への感じで火が利いているかいないかという事を知ります。火を載せたまま灰も取らず打捨ておくようではとてもむずかしいお菓子は出来ません。肉のロースなんぞはお菓子より楽ですけれどもそれでも打捨ておくと火が弱くなっていけません。段々慣て来てこの位な火なら何分間位持っていて中の熱度がどの位になると解りますけれどもその加減を覚え込むまでは幾度も丁寧に測って見なければなりません。焼くものばかりでなく煮る物でも何でもその通り、習うよりも慣れるので慣れてしまえば楽なものですが初めて試験する時は容易い事を大層面倒に思うものです。西洋料理を面倒がる人はつまり慣れないからでしょう。慣れれば決して面倒のものでありません。そのつもりでこういうお弁当料理を皆んなお家でお拵えなすって御覧なさい。豚の次は牛の舌の寄せ物に致しましょう」\n\n\n○テンピの炭に堅炭を用いて差支はなけれどもそれは肉類を焼く時に限る。菓子を焼く時は土釜の如き柔き火力を良しとす。\n\n\n\n第二百四十二 寄せ物\n\n 小山「牛の舌の寄せ物はどういう風に致します」お登和嬢「それはソールタンと申して塩にした牛の舌を牛肉屋から買います。あるいは生のでも構いません。しかし生のはある時とない時があります。塩にしたのなら大概ありますけれどもよくその品物を検めて買わないと折々古くなり過ぎた悪い品を押付けられます。塩にしたものでも何でも食物はちょうど食べ頃という時がありますから食べ頃を外すと良い物でも美味しくありません。野菜でも菓物でも肉でも何でもお料理に使うものは品物の善悪をよく鑑別けた上にその食べ頃を知らなければ折角の美味しいものが不味くなります。西洋の食品屋では客が黙っていても向うで責任を負って上等の品物をちょうど食べ頃に持って来るそうです。亜米利加で鶏を買った人がこう申しました。向うでは食用にするから上等の鶏を持って来いというと、前の日から絶食をさせた鶏を殺して持って来て明日が食べ頃ですとか明後日が食べ頃ですとか断って行くそうです。実に親切なもので再びその店から買う気になるといいます。我邦では食用にする鶏だと申すとドウセ殺すのだから何をしても構わんと無理に食物を喉へ押し込んで甚しいのは砂を割り込みます。胸の骨が出ていると鉄槌で叩いて押し込んだり、喉の切口から空気を吹込んで膨らませたりします。食物が胃や腸に沢山ある鶏を殺すと肉の味が大層悪いばかりでなく早く腐敗して三日も四日も置けません。実に不親切です。牛肉や舌を買ってもその通り商人に親切気のある者が滅多にありませんから一々よく検査しないと高い代価を払って悪い品物ばかり押付けられます。或る華族さんは毎日牛のヒレ肉を配達させていた処功者な人に見せたらヒレ肉でなくって極く悪い肩の肉だったそうです。一年間ばかりヒレ肉の代価を払って毎日肩の下等肉を押し付けられたのです。よく調べたらそんな事が外にも沢山ありましょう。何を買うのでも一々検査しないといけません。小言位申したって無責任な商人は平気なものです。一々突戻して取かえさせなければ切がありません。牛の舌なんぞもよく上等の品物を調べて六十銭位な処が一本あれば二十人前のお弁当に間に合いましょう。それを四時間ばかり水からよく湯煮てザラザラした皮を剥いて小さく拍子木形に切っておきます。別に一斤十八銭位な牛の脛二斤を買ってスープを五合ばかり取っておいてゼラチンを一合に五枚の割即ち五合に二十五枚水へ漬けて柔くしてそのスープへ入れて少し煮ます。スープの方へは美味しく味をつけておきます。それが煮えたら火から卸して少し冷まして小さいコップ位なブリキのカップという型がありますからその中へ最初は少しばかり今のゼリーを注いで前の舌をよい加減に入れて、鑵詰の仏蘭西豆と湯煮玉子を小さく切って舌の上へ飾りに載せますが玉子が三つもあれば二十人前に沢山ですし、豆は一人前に六粒位で沢山です。それからまた今のゼリーをその上へ注ぎ込んで氷で凍し固めるのです。そのまま持って行って食べる時に熱い湯へ今の型をちょいとつけて少し振ってポンと抜き出せば楽に出ますから一つ一つ二十人へお進げなさい」小山「それは美味しいでしょう、宅では先日教えて戴いた万年スープが何時でも出来ていますから手数が半分かかりません。それで何ほどの代価になりましょう」お登和嬢「タンが六十銭で外の材料を六十銭と見れば沢山ですから先ず一円二十銭位でしょう」小山「その次は何です」"
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"content": "\n第二百四十三 手軽な菓子\n\n お登和嬢「その次はレモンのゼリーに致しましょう。上等にすると生レモンを絞り込まなければなりませんが、代価が高くなりますから軽便法にして、二十人前なら一升のお湯へ枸櫞酸の結晶したのを大匙軽く一杯位入れて、砂糖を半斤とゼラチンばかりなら四十枚要りますけれども代価が高いからゼラチン十枚に寒天三本位使いましょう。それを皆んな混て一旦沸立たせて布巾で漉てレモン油を小匙に軽く一杯加えて大きなブリキ鉢かあるいはゼリー型へ入て氷で凍し固めます。それを持って行って型から抜て食べる時に皆さんがナイフでお切なさい、これが先ず七十銭ほどかかります。その次はパン代りの手軽なビスケットに致しましょう。二十人前ですから砂糖を大匙軽く八杯にバターを大匙四杯に塩を中匙軽く一杯へ牛乳五勺水五勺とを入れてよく煉って別にメリケン粉二斤と焼粉大匙四杯とを篩っておいて今の物へザット混ぜて軽く捏ねて二分位な厚さに展して、ビスケットの型がなければ茶筒の蓋でポンポンと抜いて、テンパンへバターを敷いて並べてテンピの中で十分間ほど焼きます。これは四十銭位かかりましょう」小山「お待ちなさい、それで何ほどになりました。豚のロースが七十一銭、牛の舌が一円二十銭、レモンゼリーが七十銭、ビスケが四十銭でちょうど三円一銭ですね。まだ沢山余りますから何に致しましょう」お登和嬢「前の時が珈琲ですから今度は紅茶位がよいでしょう、紅茶半斤へ砂糖と牛乳を交ぜて四十銭位です。それにお菓子を何か添えましょう。前の時のカップケーキの通りな原料を拵えて小さな型へ入れる代りにテンパンへ油の引いた紙を敷いてカステラのように焼いて、横から薄く三段に切ってその間へチョコレートを挟みます。チョコレートの削ったのなら上等ですけれども代価が高くなりますからココアを半斤に砂糖半斤へ少し水を加えて暫らく煮詰めて、ドロドロになった処を火から卸して今のケーキの間へ塗って二十人前に小さく切ります。これは切りよう次第で一人前を大きくも小さくも出来ますが小さく切るとすれば原料は前のカップケーキよりも寡くって済みます。それにココアや砂糖の代を加えても五十五銭位で出来ましょう。しかし皆んな寄せると参円九十六銭になりますから炭代がございませんね」小山「ナニ炭代位は持出しても構いません。二十銭の会費で豚のロースに牛の舌の寄せ物にレモンのゼリーにビスケットに手軽なチョコレートケーキに紅茶が飲めるという事を広く世人に知らしめれば忽ち世間の流行となって茶話会の弁当はサンドウィッチか冷肉料理になりましょう。婦人たちの会合でもこの料理で結構ですし、娘さんたちの会合にもこれで間に合ます。殊に娘さんたちが学校の同窓会でも開く時には五、六人でこの弁当料理を分担して誰はサンドウィッチを拵えて来る、誰はゼリーの寄せ物を受持つという風に大勢の持寄りにしたら料理法の研究も出来て一層好結果を得ましょう。暑い時分は料理の間へアイスクリームなんぞを挟んでもさぞ一同が悦びましょうがアイスクリームを手軽に製造する方法がありますか」\n\n第二百四十四 アイスクリーム\n\n お登和嬢は全く料理談に惹入れられてまた胸中の愁を忘れたり「そうでございますね。アイスクリームを製するので一番手軽な方法はアイスクリームの原料を氷の中へ埋めておくのです。原料と申しますと極く手軽なのがコンデンスミルク大匙二杯を二合のお湯で淡く溶きます。別に玉子二つへ砂糖大匙二杯加えてよくよく攪き混ぜて少しずつ今のミルクを混ぜながら注して行って、コルンスタッチ即ち玉蜀黍の粉を小匙二杯水で溶いてそれへ加えて鍋をお湯の中へ入れてドロドロになるまで湯煎にします。ドロドロになった時火から卸してアイスクリームの器械がなければ半斤入位の茶筒へ入れて蓋をピタリとして、米磨桶のような深い桶の中央へ置いて、その周囲へ氷の砕いたのを先ず一側詰めてその上へ塩を沢山詰めて、また氷を入れて塩を詰めて三段か四段位にして茶筒の頭だけ少し出しておきます。それから厚い毛布かフランネルを二枚に畳んでも三枚に畳んでもようございますから今の桶の上へ悉皆蒙せて氷の速く融けないようにします。十分間ほど過ぎてその毛布を退けて茶筒の蓋を明けて見ると中の物が端の方だけ凍りかけて真中がドロドロでいますから、杓子でよく攪き混ぜてまた蓋をして毛布をかけておきます。十分間ごとにこうして中を攪き廻すと一時間以上過ぎた時分大概は中が固まってアイスクリームになっています。勿論上等のアイスクリームではありませんがこれでも食られない事はありません。氷と塩は沢山あるほどよく出来ます。氷が十斤なら塩を八合位使わなければなりません。お医者の家や化学品を取扱う家では塩の代りにエーテルを氷へ混ぜると大層早くアイスクリームが出来ると申しますけれども激薬ですから素人には使えません。素人でも今の通りなアイスクリームをモット早くモット上等に拵えようと思もえば毛布を蒙せないで茶筒の頭を片手ででも両手ででもグルグルと根気よく廻転すのです。つまり氷と摩擦させるのですから左と右へ互い違いに廻しても構いません。そうして五分間ごとに茶筒の蓋を明けて今の通りに中を攪き混ぜていると三十分間位で出来上ります」小山「なるほどね、器械がなくっても出来るものですな。その方法ならどんな田舎でも山の中でも出来ますね。コルンスタッチの代りに葛を入れても出来ましょうか」お登和嬢「葛でも出来ます。しかし葛やコルンスタッチを入ないでもミルクを少し濃く溶けば出来ます。何を入れても好き自由に出来ます」小山「そこで器械があるとしたらどうします」お登和嬢「今の物をブリキ型のアイスフレーザへ入れて桶へ今の通りに氷と塩を詰て二十分間もグルグルと廻せば出来ます」小山「器械は何ほど致します」お登和嬢「小さいのが三円位です」小山「宅でも一つ器械を買ましょう。そこでモット上等のアイスクリームにするのはどう致します」お登和嬢「そうですね。まだ上等とは申されませんが玉子の黄身二つへ砂糖を大匙二杯よく混ぜてツブツブのないようにして二合の牛乳を少しずつ注いで行ってそれを湯煎にします。ドロドロになったら火から卸してレモン油を小匙に軽く一杯加えて器械へかけます。しかしこれでもまだアイスクリームとは申されません」小山「オヤオヤ」\n\n\n第二百四十五 上等の品物\n\n お登和嬢「アイスクリームと申すからには新鮮なクリームが入らなければならんのです。先ず普通の処では玉子の黄身二つと砂糖二杯と一合の牛乳とを混ぜて湯煎にして火から卸した時一合のクリームとレモン油か何か外の香料を加えて固めます。それを上等にしますと二合のクリームばかりへ粉砂糖大匙三杯混ぜて別段湯煎にしないでもザット沸立たせて香料を加えて固めます。これには玉子も牛乳も入れません」小山「なるほど、それが則ちアイスクリームと称する所以ですね。世間にあるのはアイスクリームでなくってアイスミルクですな、アハハ。時にお登和さん、私はこういう話を聞ました。東京のある氷店の主人が大層アイスクリームを上手に拵て平生客に自慢するそうです。その家へ洋行帰りの紳士が来て和郎の家のアイスクリームは大層上等だそうだが土産にするから五人前ほど紙へ包でくれとこういったのです。主人は妙な顔をして、エ、何へ包みます、紙へ包めとおっしゃるのですか、串談言ってはいけません、紙へ包めばアイスクリームが融けてしまいますと笑っている。紳士も妙な顔をして、オヤオヤ上等のアイスクリームが出来るというから買いに来た、紙へ包めないような下等のアイスクリームなら要らないといって帰ったそうです。私は一場の茶話だと思っていましたが上等のアイスクリームは全く紙へ包めるものでしょうか」お登和嬢「オホホ紙へ包むどころでありません。焼き鏝を当てて上へ黒い焦がした模様を附けてお客の前へ出します。もっともそれは料理人が腕前を現わす処で素人には真似も出来ませんが、多くの場合にはアイスクリームを大根のように五分位の厚さにナイフで截ってブリキの型でポンと打抜いてパインナプルの形ちなんぞにして出す位です。そんなアイスクリームなら西洋紙へ包んで近い処を持って歩いても直に流れ出すような事はありません」小山「ヘー、驚きますな。それもやっぱり今のような製法ですか」お登和嬢「イイエ二重の手間をかけます。先ず一通り今の順序で器械へ入れてよく固めておいて一旦氷の中からブリキのフレーザを出して中のアイスクリームを外のアイスクリーム型へ詰め込みます。今度はその型を氷と塩の中央へ入れて毛布かあるいは布巾で空気の入らないように桶へ蓋をして一時間以上置きますと型の中のアイスクリームは叩いても割れない位な固さになります。それを型から出して焼鏝を当てるのですがクリームでなければ焦げた痕が付きません。クリームは焦げやすいものですから焼鏝で好き自由な模様を描けるのです。アイスミルクの方ではとてもそんな事が出来ません。クリームばかりのは色が真白で綺麗でございます。そこへ焼鏝の黒い模様が付きますから一層美事になります」小山「してみると西洋人なぞにうっかり上等のアイスクリームがあると自慢が出来ませんな。アイスクリームでなくってアイスミルクだと笑われましょう。アイスクリームには色々の香料を入れたのがありますね。あれは皆な同じような製法ですか」お登和嬢「イイエ随分製法の違うのもあります。今のようにレモン油を入れたのがレモンアイスクリーム、バニラを入れればバニラアイスクリーム、外の香料を入れてもその通りですが桃とか牡丹杏とか苺とかパインナプルとかいうような菓物は一旦煮たものを裏漉しにしてその肉と液とを一所に混ぜます。バナナは生のまま裏漉しにしても出来ます。あるいは菓物のシロップを混ぜても構いません。アイスクリームを出す時には歯へ浸みたりお腹へ浸みたりしないために必ずウェーフハースというお菓子を添えて一緒に食べます」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 墳墓はどこにあっても凄惨なものであるが、下水道の中では醜悪なものとなる。\n 崩壊孔の深さは一定でなく、またその長さや密度も場所によって異なり、地層の粗悪さに比例する。時とすると、三、四尺の深さのこともあれば、八尺から十尺にもおよぶことがあり、あるいは底がわからぬこともある。その泥土はほとんど固くなってる所もあれば、ほとんど水のように柔らかい所もある。リュニエールの崩壊孔では、ひとりの人が没するに一日くらいかかるが、フェリポーの泥濘では五分間くらいですむ。泥土の密度いかんに従ってその支持力にも多少がある。大人が没しても子供なら助かる所がある。安全の第一要件は、あらゆる荷物を捨ててしまうことにある。足下の地面が撓うのを感ずる下水夫らは、いつもまず第一に、その道具袋や負い籠や泥桶を投げ捨てるのであった。\n 崩壊孔のできる原因は種々である。地質の脆弱、人の達し得ないほど深い所に起こる地すべり、夏の豪雨、絶え間ない冬の雨、長く続く霖雨など。また時とすると、泥灰岩や砂質の地面に立ち並んでる周囲の人家の重みのため、地廊の丸天井が押しやられてゆがむか、あるいは、その圧力のために底部が破裂して割れ目ができることもある。パンテオンの低下は、一世紀以前に、サント・ジュヌヴィエーヴ山の隧道の一部をそういうふうにしてふさいでしまった。人家の重みのために下水道がくずれる時、ある場合にはその変動は、舗石の間が鋸形に開いて上部の街路に現われた。その裂け目は亀裂した丸天井の長さだけうねうねと続いていて、損害は明らかに目に見えるので、すぐに修復することができた。けれどもまた、内部の惨害が少しも外部に痕跡を現わさないこともしばしばあった。そういう場合こそ下水夫は災いである。底のぬけた下水道に不用意にはいって、そのままになった者も往々ある。古い記録は、そのようにして崩壊孔の中に埋没した下水夫を列挙している。幾多の名前が出ている。そのうちには、ブレーズ・プートランという男があるが、カレーム・プルナン街の広場の下の崩壊孔に埋没した下水夫である。彼はニコラ・プートランの兄弟であって、このニコラ・プートランは、一七八五年に嬰児の墓地と言われていた墓地の最後の墓掘り人であった。その年にこの墓地は廃せられてしまったのである。\n またその中には、上にちょっとあげた愉快な青年子爵エスクーブローもいる。彼は絹の靴下をはきバイオリンをささげて襲撃が行なわれたレリダ市の攻囲のおりの勇士のひとりだった。エスクーブローはある夜、従妹たるスールディ公爵夫人のもとにいた所を不意に見つけられ、公爵の剣をのがれるためにボートレイ下水道の中に逃げ込んだが、その崩壊孔の中に溺死してしまった。スールディ夫人はその死を聞いた時、薬壜を取り寄せて塩剤を嗅ぎ、嘆くのを忘れた。そういう場合には恋も続くものではない。汚水だめは恋の炎を消してしまう。ヘロはレアドロスの溺死体を洗うのを拒み、チスベはピラムスの前に鼻をつまんで「おお臭い!」と言う。(訳者注 古代の物語中の話)\n\n六 崩壊孔\n\n ジャン・ヴァルジャンは一つの崩壊孔に出会ったのである。\n かかる崩壊は、当時シャン・ゼリゼーの地下にしばしば起こったことで、非常に流動性のものだったから、水中工事を困難ならしめ地下構造を脆弱ならしめていた。その流動性は、サン・ジョルジュ街区の砂よりもいっそう不安定なものであり、マルティール街区のガスを含んだ粘土層よりもいっそう不安定なものだった。しかも、サン・ジョルジュの砂地は、コンクリートの上に石堤を作ってようやく食い止められたものであり、マルティールの粘土層は、マルティール修道院の回廊の下では鋳鉄の管でようやく通路が穿たれたほど柔らかいものであった。一八三六年に、今ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだその石造の古い下水道を改造するために、サン・トノレ郭外の下がこわされた時、シャン・ゼリゼーからセーヌ川まで地下に横たわってた流砂は非常な障害となって、工事は六カ月近くも続き、付近の住民、ことに旅館や馬車を所有してる人々の、ひどい不平の声を受けたものである。工事は困難なばかりでなく、また至って危険なものだった。実際、雨が四カ月半も続き、セーヌ川の溢水が三度も起こった。\n ジャン・ヴァルジャンが出会った崩壊孔は前日の驟雨のためにできたものであった。下の砂土にようやくささえられていた舗石はゆがんで、雨水をふさぎ止め、水が中にしみ込んで、地くずれが起こっていた。底部はゆるんで、泥土の中にはいり込んでいた。どれほどの長さに及んでいたか、それはわからない。やみは他の所よりもずっと濃くなっていた。それは暗夜の洞窟の中にある泥土の穴だった。\n ジャン・ヴァルジャンは足下の舗石が逃げてゆくのを感じた。彼は泥濘の中にはいった。表面は水であり、底は泥であった。けれどもそれを通り越さなければならなかった。あとに引き返すことは不可能だった。マリユスは死にかかっており、ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。それにまたどこにも他に行くべき道はなかった。ジャン・ヴァルジャンは前進した。その上、初めの二、三歩ではその窪地はさまで深くなさそうだった。しかし進むに従って、足はしだいに深く没していった。やがては、泥が脛の半ばにおよび水が膝の上におよんだ。彼は両腕でできるだけマリユスを水の上に高く上げながら、進んでいった。今や泥は膝におよび、水は帯の所におよんだ。もう退くことはできなかった。ますます深く沈んでいった。底の泥土は、ひとりの重さにはたえ得るくらい濃密だったが、明らかにふたりを支えることはできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとは、もし別々に分かれたらあるいは無事ですむかも知れなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくはもう死骸になってるかも知れない瀕死のマリユスをにないながら、続けて前進した。\n 水は腋まできた。彼は今にも沈み込むような気がした。その深い泥土の中で歩を運ぶのも辛うじてであった。ささえとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ち上げ、非常な力を費やして前進した。しかしますます沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスをささえてる両腕と頭とだけだった。洪水の古い絵には、そういうふうに子供を差し上げてる母親が見らるる。\n 彼はなお沈んでいった。水を避けて呼吸を続けるために、頭をうしろに倒して顔を上向けた。もしその暗黒の中で彼を見た者があったら、影の上に漂ってる仮面かと思ったかも知れない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と蒼白な顔とを、ぼんやり見分けた。彼は死に物狂いの努力をして、足を前方に進めた。足は何か固いものに触れた。一つの足場である。ちょうどいい時だった。\n 彼は身を伸ばし、身をひねり、夢中になってその足場に乗った。あたかも生命のうちに上ってゆく階段の第一段のように思えた。\n 危急の際に底の泥の中で出会ったその足場は、底部の向こうの一端だった。それは曲がったままこわれないでいて、板のようにまた一枚でできてるかのように、水の下に撓っていた。よく築かれた石畳工事は、迫持になっていてかくまでに丈夫なものである。その一片の底部は、半ば沈没しながらなお強固で、まったく一つの坂道となっていた。一度その坂に足を置けば、もう安全だった。ジャン・ヴァルジャンはその斜面を上って、泥濘孔の彼岸に着いた。\n 彼は水から出て、一つの石に出会い、そこにひざまずいた。彼は自然にそういう心地になって、しばらくそこにひざまずいたまま、全心を投げ出して言い知れぬ祈念を神にささげた。\n 彼は身を震わし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死の者をになって背をかがめ、泥濘をしたたらし、魂は異様な光明に満たされながら、立ち上がった。\n\n七 上陸の間ぎわに座礁することあり\n\n ジャン・ヴァルジャンは再び進み出した。\n けれども、崩壊孔の中に生命は落としてこなかったとするも、力はそこに落としてきたがようだった。極度の努力に彼は疲憊しつくしていた。今は身体に力がなくて、三、四歩進んでは息をつき、壁によりかかって休んだ。ある時は、マリユスの位置を変えるために段の所にすわらなければならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力はなくなっていたとするも、元気は消えうせていなかった。彼はまた立ち上がった。\n 彼はほとんど足早に絶望的に歩き出して、頭も上げず、息もろくにつかないで、百歩ばかり進んだ。すると突然壁にぶつかった。下水道の曲がり角に達し、頭を下げて歩いていたので、その壁に行き当たったのである。目を上げてみると、隧道の先端に、前方の遠いごくはるかな彼方に、一つの光が見えた。今度は前のように恐ろしい光ではなかった。それは楽しい白い光だった。日の光であった。\n ジャン・ヴァルジャンは出口を認めたのである。\n 永劫の罰を被って焦熱地獄の中にありながら突然出口を認めた魂にして始めて、その時ジャン・ヴァルジャンが感じた心地を知り得るだろう。その魂は、焼け残りの翼をひろげて、光り輝く出口の方へ、狂気のごとく飛んでゆくに違いない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みをも感じなかった。足は再び鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりもむしろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿形の迫持で、しだいに低くなってる隧道の丸天井よりも更に低く、丸天井が下がるにしたがってしだいに狭まってる隧道よりも更に狭かった。隧道は漏斗の内部のようになっていた。かくしだいにつぼんでる不都合な形は、重罪監獄の側門を模したもので、監獄では理に合っているが、下水道では理に合わないので、その後改造されてしまった。\n ジャン・ヴァルジャンはその出口に達した。\n そこで彼は立ち止まった。\n まさしく出口ではあったが、出ることはできなかった。\n 丸い門は丈夫な鉄格子で閉ざされていた。そして鉄格子は、酸化した肱金の上にめったに開閉された様子も見えず、石の框に厚い錠前で固定してあり、錠前は赤く錆びて、大きな煉瓦のようになっていた。鍵穴も見え頑丈な閂子が鉄の受座に深くはいってるのも見えていた。錠前は明らかに二重錠がおろされていた。それは昔パリーがやたらに用いていた牢獄の錠前の一つだった。\n 鉄格子の向こうには、大気、川、昼の光、狭くはあるが立ち去るには足りる汀、遠い川岸通り、容易に姿を隠し得らるる深淵たるパリー、広い眼界、自由、などがあった。右手には下流の方にイエナ橋が見え、左手には上流の方にアンヴァリード橋が見えていた。夜を待って逃走するには好都合な場所だった。パリーの最も寂しい地点の一つだった。グロ・カイユーに向き合ってる汀だった。蠅は鉄格子の間から出入していた。"
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"role": "assistant",
"content": " 午後の八時半ごろだったろう。日は暮れかかっていた。\n ジャン・ヴァルジャンは底部のかわいた所に壁に沿ってマリユスをおろし、それから鉄格子に進んでいって、その鉄棒を両手につかんだ。そして狂気のごとく揺すったが、少しも動かなかった。鉄格子はびくともしなかった。弱い鉄棒を引きぬいて槓杆とし扉をこじあけるか錠前をこわすかするつもりで、彼は鉄棒を一本一本つかんだが、どれも小揺るぎさえしなかった。虎の牙もおよばないほど固く植わっていた。一つの槓杆もなく、一つの力になる物もなかった。障害は人力のおよぶべくもなかった。扉を開くべき方法は何もなかった。\n それでは彼は、そこで終わらなければならなかったのか。どうしたらいいか。どうなるのか。引き返して、既に通ってきた恐ろしい道程を繰り返すには、その力がなかった。それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあの泥濘の孔を、どうして再び通ることができよう。更にその泥濘の後には、あの警官の巡邏隊があるではないか。確かに二度とそれからのがれられるものではない。そしてまた、どこへ行ったらいいか。どの方向を取ったらいいか。傾斜について進んでも、目的を達せられるものではない。他の出口にたどりついた所で、必ずやそれも石の蓋か鉄の格子かでふさがれているだろう。あらゆる口がそういうふうに閉ざされてることは疑いない。彼がはいってきた鉄格子は偶然にもゆるんでいたが、しかし下水道の他の口がすべて閉ざされてることは明らかである。彼はただ牢獄の中に逃げ込み得たに過ぎなかった。\n 万事終わりであった。ジャン・ヴァルジャンがなしてきたすべては徒労に帰した。神はそれを受け入れなかったのである。\n かれらは二人とも、死の大きな暗い網に捕えられてしまった。そしてジャン・ヴァルジャンは、暗黒の中に震え動くまっ黒な網の糸の上に恐るべき蜘蛛が走り回るのを感じた。\n 彼は鉄格子に背を向け、やはり身動きもしないでいるマリユスのそばに、舗石の上に、すわるというよりもむしろ打ち倒れるように身を落とした。その頭は両膝の間にたれた。出口はない。それが苦悶の最後の一滴であった。\n その深い重圧の苦しみのうちに、だれのことを彼は考えていたか。それは自分のことでもなく、またマリユスのことでもなかった。彼はコゼットのことを思っていたのである。\n\n八 裂き取られたる上衣の一片\n\n その喪心の最中に、一つの手が彼の肩に置かれ、一つの声が低く彼に話しかけた。\n「山分けにしよう。」\n その闇の中にだれがいたのであろうか。絶望ほど夢に似たものはない。ジャン・ヴァルジャンは夢をみてるのだと思った。少しも足音は聞こえなかったのである。現実にそんなことがあり得るだろうか。彼は目をあげた。\n 一人の男が彼の前にいた。\n 男は労働服を着、足には何にもはかず、靴を左手に持っていた。明らかに彼は、足音を立てないでジャン・ヴァルジャンの所まで来るために、靴をぬいだのだった。\n ジャン・ヴァルジャンはその男がだれであるかを少しも惑わなかった。いかにも意外な邂逅ではあったが、見覚えがあった。テナルディエだった。\n 言わば突然目をさましたようなものだったが、ジャン・ヴァルジャンは危急になれており、意外の打撃をも瞬間に受け止めるように鍛えられていたので、直ちに冷静に返ることができた。それに第一、事情は更に険悪になり得るはずはなかった。困却もある程度におよべば、もはやそれ以上に大きくなり得ないものである。テナルディエが出てきたとて、その闇夜をいっそう暗くすることはできなかった。\n しばし探り合いの時間が続いた。\n テナルディエは右手を額の所まで上げて目庇を作り、それから目をまたたきながら眉根を寄せたが、それは口を軽くとがらしたのとともに、相手がだれであるかを見て取ろうとする鋭い注意を示すものだった。しかし彼はそれに成功しなかった。ジャン・ヴァルジャンは前に言ったとおり、光の方に背を向けていたし、またま昼間の光でさえも見分け難いほど泥にまみれ血に染まって姿が変わっていた。それに反してテナルディエは、窖の中のようなほの白い明りではあるがそのほの白さの中にも妙にはっきりしてる鉄格子から来る光を、まっ正面に受けていたので、通俗な力強い比喩で言うとおり、すぐにジャン・ヴァルジャンの目の中に飛び込んできたのである。この条件の違いは、今や二つの位置と二人の男との間に行なわれんとする不思議な対決において、確かにジャン・ヴァルジャンの方にある有利さを与えるに足りた。会戦は、覆面をしたジャン・ヴァルジャンと仮面をぬいだテナルディエとの間に行なわれた。\n ジャン・ヴァルジャンはテナルディエが自分を見て取っていないのをすぐに気づいた。\n ふたりはその薄暗い中で、互いに身長をはかり合ってるように、しばらくじろじろながめ合った。テナルディエが先に沈黙を破った。\n「お前はどうして出るつもりだ。」\n ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。\n テナルディエは続けて言った。\n「扉をこじあけることはできねえ。だがここから出なけりゃならねえんだろう。」\n「そのとおりだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。\n「じゃあ山分けだ。」\n「いったい何のことだ?」\n「お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺の方に鍵があるんだ。」\n テナルディエはマリユスをさし示した。彼は続けて言った。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": " 私は、またソーンフィールドに這入つてゆくのが、いとはしかつた。その閾を跨ぐことは沈滯に返ることであつた。しんとした廣間をよぎつて、暗い階段を昇り、人氣のない自分の小さな室に行き、次には靜かなフェアファックス夫人に會つて、長い冬の夜を彼女と一緒に、しかも彼女とのみ過すといふことは、歩くことによつて起された微かながらの刺㦸をまつたく壓しつけてしまふことであつた――私の才能に、單調な目に見えない生活の械をはめることであつた。靜寂と安易の特典を有つた生活は、もう私には尊重し得ないものとなりつゝあつた。不安な苦しみの多い人生の嵐にもまれたことや、今は不平を言つてはゐるが平和を得る爲めの困難な苦しい經驗に教へられたことは、そのとき、私にどんなに利益になつたことだらう? さうだ、ちやうど「安樂すぎる椅子」にじつと腰かけて飽々してゐる人に、遠くまで散歩させると同じ程のいゝことをしてくれたのだ。そして、その人の場合とおなじく、今、私の場合にも動き出したいと願ふのは當然のことであつた。\n 私は門のところに躊らひ、芝生の上に躊らつた。鋪石道を往き復りした。硝子戸の鎧戸は閉つてゐて内部を見ることは出來なかつた。そして私の目も心も陰鬱な建物――明りのとほらぬ小室ばかりの、灰色の洞窟と私には思はれる――から、私の前に擴がつてゐる大空、雲の染みもない青い海へ引き寄せられるやうに思はれた。月はその空へ嚴かな行進をつゞけて昇りつゝあつた。出離れた丘の頂きを遠く遙かに下に見て、測り知れぬ深みと距りにある深夜の暗黒――天心を仰ぎめざすがごとく。月の歩みに從ふまたゝく星の群は見上げる私の心をふるはせた。彼らをながめて私の血は燃えた。ちよいとしたことが我々を地上に呼び戻す。廣間で柱時計が打つた。それで十分だつた。私は月や星を後にして潜戸を開け中に這入つた。\n 廣間は暗くはなかつた。高く吊した青銅の洋燈の外には灯はまだ點けてはなかつたけれど。別に暖かみのある光が廣間と檞の階段の下の方の段を覆つてゐた。この紅を帶びた輝きは大食堂から洩れて來るのであつた。二枚折の戸は開け放しになつてゐて、爐格子の中には勢よく火が燃え、快い光で大理石の灰皿や眞鍮の火箸や十能に輝き、紫の掛布や磨きをかけた家具類を照し出すのが見えた。それから爐棚の近くには人の集りが同じやうに照し出された。が、私には殆んどその集りが誰だか見分けることが出來るか出來ぬ中に、また、快活な聲が縺れ合つてゐるのを聞きとることが出來るか出來ぬ中に(その間にアデェルの聲を聞きわけたやうに思ふ)、扉は閉つてしまつた。\n 私はフェアファックス夫人の部屋へ急いだ。こゝにも火はあつたが、蝋燭もなければ夫人もゐなかつた。その代りにたゞ獨り敷物の上に眞直に坐つて、嚴然と燃える火をみつめてゐる犬、ちやうど、あの小徑で見た、ガイトラッシュと同じやうな逞しい黒白の、毛の長い犬がゐる。あまりそつくりなので私は前に進んで「パイロット」と云つてみた。すると起き上つて私の方にやつて來て私を齅いだ。撫でゝやると、大きな尻尾を振つた。だがどうも獨りぽつちのお相手には氣味のよくない動物のやうな氣がするし、何處からやつて來たのかもわからないので私は呼鈴をならした。蝋燭を欲しいのと、これはどうしたお客さまだかを訊かうと思つたのである。レアが這入つて來た。\n「これはどうした犬ですの?」\n「旦那さまがお連れになりましたの。」\n「誰方ですつて?」\n「旦那さま――あのロチスターさんですわ。先刻お着きになつたばかしです。」\n「あゝさう。で、フェアファックス夫人は御一緒?」\n「え、アデェルさまも御一緒ですの。皆さま御食堂にゐらつしやいます。それから、ジョンは外科のお醫者さまへ參りました。旦那さまがお怪我をなすつたもので。馬が轉んで踝をお挫きになつたのでございますつて。」\n「馬はヘイ・レインで轉んだの?」\n「え、丘を下りようとして、氷の上で滑つたのでございます。」\n「あゝ、蝋燭を持つて來て下さらない、レア?」\n レアは蝋燭を持つて來てくれた。後からフェアファックス夫人も來て、今の話を繰り返し、外科醫のカーターさんが來て、今ロチスター氏の所にゐると云ひ足した。それから、彼女はお茶の指圖をする爲めに急いで行つてしまひ、私は着更へをしに二階へ上つた。\n\n十三\n\n ロチスター氏は、外科醫の命によつて、その晩は早く床に入つた容子であつたが、翌朝になつても却々起きては來なかつた。彼が階下へ下りて來たのは、事務を執る爲めであつた。彼の代理人や小作人達が來てゐて、彼と話をしようと待つてゐた。\n アデェルと私は、その時書齋を立退かなければならなかつた。そこは訪問者の爲めの應接間に毎日使はれてゐたから。二階の室に火が焚かれてゐたので、私はそこへ書物を運んで、以後そこを勉強部屋にするやうに整頓した。朝の時間がたつてゆくうちに、私はソーンフィールド莊が變化してゐることを認めた。もう教會のやうな靜けさはなく、一時間ごとか二時間ごとに、扉を叩く音や、呼鈴を鳴らす音が家中に響いた。廣間を横ぎる跫音も度々すれば、階下では聞き馴れない聲が樣々な調子で話をしてゐるのも聞えた。外の世界から來た流がこの家の中を通つて流れてゐるのであつた。主人がゐるのだ。私としてはその方がずつと好ましかつた。\n その日アデェルを教へるのは容易なことではなかつた。彼女は勉強に身を入れることが出來なかつた。彼女は始終入口の所へ駈けて行つては手摺の上から、一寸でもロチスター氏をひと目でも見れはしまいかと覗いた。かと思ふと私はすぐに見ぬいたのだが、書齋へ行く爲めに口實を作つて階下へ下りて行かうとしたりした。行けば邪魔になるのは私にもわかつてゐた。そこで私が少し怒つて見せておとなしく坐らせると、今度はしつきりなしに、彼女の稱號に從へば、彼女の友達ムシュウ・エドアルド・フェルファックス・ド・ロチスター(私は今迄彼のクリスチヤンネェムは聞いてゐなかつた)に就いて話しつゞけるのであつた。そして、彼がどんなお土産を持つて來たか當てゝみたりした。何故といふのに、前の晩ロチスター氏の荷物がミルコオトから着いた時、その中に彼女を喜ばせるやうな物の入つた小さな箱が一つあると彼が仄めかしておいたらしかつた。\n「“Et cela doit signifier,”」と彼女は云つた。「“qu'il y aura là dedans un cadeau pour moi, et peut être pour vous aussi, mademoiselle. Monsieur a parlé de vous: il m'a demandé le nom de ma gouvernante, et si elle n'était pas une petite personne, assez mince et un peu pâle. J'ai dit qu'oui: car c'est vrai, n'est-ce pas, mademoiselle?”(ですからね、あの中には、あたしに下さる贈物があるのよ、そして多分あなたにもね、先生。小父さまは、先生のことを仰しやつたわ。あたしの先生のお名前を訊いたわ。そして、小ちやな、可成り痩せて蒼白い方ぢやないかつて。あたし、さうですつて云つたの。だつてさうなんですもの。ね、先生、さうぢやない?)」\n 私も私の生徒も、いつものやうに、フェアファックス夫人の居間で食事をした。お晝過ぎからは暴れ模樣で、雪も降り出した。私たちはずつと勉強部屋で過した。暗くなつて、私はアデェルに本とお稽古をしまつて階下へ行つてもいゝと云つた。割合に階下が靜かになつたことや、入口の呼鈴の響が杜絶えたことから推して、もうロチスター氏も暇になつたのだと思つたからである。獨りになると私は窓際へいつた。だが何も見えなかつた。黄昏と雪片に空氣は曇り、芝生の灌木さへ見えなくなつてゐた。私は窓掛を下して火の傍へ戻つた。\n 明るい餘燼を見つめながら、私は前に見たやうな氣のするライン河の岸のハイデルベルクの城の繪に似た景色を想つてゐると、そこへフェアファックス夫人が這入つて來た。それで、私が火を眺めて描いてゐた剪嵌細工はすつかり壞されて、それと一緒に獨りぽつちの寂しさを襲ひはじめてゐた、なんとなく重い嫌な氣もまた散つて了つた。\n「ロチスター氏が、今晩、あなたもあなたの生徒さんも、お客間で御一緒に、お茶を召し上つて下さらないかと云はれます。」と彼女は云つた。「あの方は一日中暇なしでゐらしたものですから、今まであなたにお目にかゝることもお出來にならなかつたのです。」"
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"role": "assistant",
"content": "「お茶の時間は何時でせう?」と私は訊いた。\n「六時ですの、田舍にゐらつしやると、いつも早寢早起をなさるものですから。もうお召換へをなすつた方がようござんすよ。私も御一緒に行つてお手傳ひをしませう。蝋燭はこゝにあります。」\n「着物を着換へなくてはいけませんの?」\n「え、さうなすつた方がようござんす。ロチスターさんがゐらつしやるときには、私も夕方にはいつも着換へますのですよ。」\n この禮儀の追加は少しもの〳〵しい氣がしたが、とにかく私は自分の部屋に行つてフェアファックス夫人に手傳はれながら、黒い毛織の服を黒の絹のに更へた――銀鼠のをのけると、私の持つてゐるものでは最上のそして、たつた一つ餘分に私が持つてゐる晴着なのだ。銀鼠の方は、みじまひについての私のローウッド仕込みの考へでは、第一の場合でなくては立派すぎて着られないと思ふのであつた。\n「襟止めが要りますね。」とフェアファックス夫人が云つた。私はテムプル先生がお別れの形見に下さつた小さな眞珠の飾を持つてゐた。それを附けて、私たちは階下に下りて行つた。世慣れない私には、かうして改まつて、ロチスター氏の前に呼び出されることが何だか厄介のやうに思はれた。私はフェアファックス夫人に先に立つて貰つて食堂へ這入り、部屋を過ぎるときもずつと彼女の蔭になつて、その時にはもう垂布を下ろしてある例のアアチを通つて、その向うの優雅な奧まつた方へ這入つた。\n 卓子の上には蝋燭が二本、爐棚の上にも二本點されて立てゝあつた。明るい爐の火と光と熱に温まり乍ら、パイロットが寢そべり、傍にはアデェルが坐つてゐる。ロチスター氏は少しよりかゝりぎみに長椅子にかけ、足をクッションの上に載せてゐた。彼はアデェルと犬を眺めてゐる、その顏一杯にあか〳〵と火が輝いた。太く黒い眉、黒い毛を横に梳かしてあるので益々角ばつて見える嚴つい額、それでもつて私は彼をあの旅人だと知つた。美しさよりは性格を表はしてゐる點で眼立つきつぱりした鼻、癇癪もちらしい開いた鼻孔、怖ろしい口元、頤、顎――さうだ、みんな隨分怖さうで、そして間違ひはなかつた。今、外套を脱いだ彼の姿はその顏と調和よくまつ四角だつた。多分體育の方の意味から云へば立派な容姿なのであらう――胸が廣くて腰が細く、脊もあまり高くなくすらりとしてもゐなかつたが。\n ロチスター氏は、フェアファックス夫人と私とが這入つて來たことに氣がついた筈だ。けれども私たちが近づいても頭をあげようともしないのをみると、彼は私たちに眼を向ける氣持になつてゐないらしかつた。\n「エア孃をお連れいたしましたが。」とフェアファックス夫人はいつものやうに物靜かに云つた。彼は會釋した、しかしその眼は犬と子供の方から離さないまゝであつた。\n「エア孃にお掛けになるやうに。」と彼は云つた。その強ひてしたやうなぎごちないお辭儀にも、氣短かなそれでゐて固苦しい言葉の調子にも、何かその上にかう云つてゐるやうに思はれるものがあつた。「エア孃がゐようとゐまいと、それが俺にとつてどうなんだ。今俺は彼女に物を云ひかけるやうな氣持ぢやない。」\n 私は氣やすくなつて腰かけた。到れりつくせりの挨拶をうけたなら、私は多分困つたことだらう。私はその挨拶に應じるやうな、淑かさも優雅さも返すことが出來なかつたらうから。しかしひどい氣紛れであつかはれたので、私もお義理な氣持に縛られなくて濟むのであつた。却つてこの氣紛れなふるまひに相應しく、靜かに沈默をつゞけてゐることは、私を都合のいゝ位置に置いた。それにこの振舞の突飛さには、ちよいと味ひがあつた。彼がどういふ風に後をつづけて行くかと思つて、私は興味を感じた。\n 彼のやり方は、石像と異ならなかつた――つまり彼は物も云はなければ、身動きもしなかつたのだ。フェアファックス夫人は誰かゞ愛想よくしなくてはいけないと思つたらしく話しはじめた。いつものやうに優しく――またいつものやうにどちらかと云へば平凡に――彼が終日たづさはつてゐた仕事の忙しさのことや、挫傷の痛みが彼を苦しめてゐるに違ひないなどゝ彼を慰めたり、彼が仕事を根氣よく運んでゆくと云つて賞讃した。\n「マダム、お茶が欲しいんだが。」彼女の得た答は、この一言であつた。彼女は慌てゝ呼鈴を鳴らした。そしてお盆が來ると、彼女は甲斐々々しく、手早く茶碗や匙などの用意をはじめた。私とアデェルとは卓子の方へ行つた。しかし御主人は長椅子を離れようともしなかつた。\n「あなた、ロチスターさんのを差上げて下さいませんか。」とフェアファックス夫人が私に云つた。「アデェルは、きつと零すかも知れませんから。」\n 私は命じられたやうにした。彼が私の手から茶碗を受け取つた時、アデェルは私の爲めにねだるのに都合のいゝ時だと思つたか、聲を上げた――\n「“N'est-ce pas, monsieur, qu'il y a un cadeau pour Mademoiselle Eyre dans votre petit coffre?”(小父樣、あの小箱にエア先生に上げる贈物もあるんぢやなくて?)」\n「誰が贈物のことを云つたのだ?」と彼は聲荒く云つた。「あなたは贈物をあてにしてゐたのですか、エア孃。あなたは贈物が好きですか。」そして彼は私の顏を探るやうに見た、その眼は暗く腹立たしげで、突き通すやうだつた。\n「私よく存じません。私にはそんな經驗が殆んどございませんでしたから。一般には嬉しいものと考へられてゐるやうでございますが。」\n「一般には考へられてゐるつて? だが、あなたはどう思ひます。」\n「理解つて戴けるやうな御返辭を申上げますのには私少し手間どりさうでございます。贈物にはいろんな意味があるのぢやあございませんかしら。ですからそれに就いて意見を云ふ前にみんなを査べて見なくてはなりませんでせう。」\n「エア孃、あなたはアデェルのやうに、無邪氣ぢやありませんね。あの子は私を見るや否や、やかましく贈物をねだつたが、あなたのは、遠まはしに探りを入れてみるのだから。」\n「でも、私はアデェルのやうに御褒美をいたゞいていゝといふ確信がございませんもの。あのお子は昔からのお知合といふ主張をなすつていゝのですし、それから今迄の習慣として權利を持つてゐらつしやいます。あなたがいつも玩具を下さるのがならはしだつたと仰しやいますもの。でも私がお土産をいたゞく人の一人になるといたしますと、私、困つてしまひます。私は他から來たものでございますし、それにあなたからお禮を頂戴してもよいと思つていたゞくやうなことは何もしてをりませんから。」\n「まあ、さう謙遜しすぎるもんぢやありません。私はアデェルを試驗してみたのですよ、そしてあなたがあの子では隨分骨を折つてゐて下さつたことがわかりました。あの子は怜悧でもなければ、才能を持つてゐるのでもない、しかし一寸の間に大した進歩をしたものです。」\n「あの、今こそ私の贈物を下さいましたわ。私お禮を申上げます。生徒が進歩したと褒めていたゞくことが、先生にとつては一等有難い御褒美なのでございますもの。」\n「ふむ。」とロチスターは云つて、默つてお茶を取り上げた。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"content": "安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。\n柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?\n安重根 ここまで来て、伊藤を殺さなければならない理由が解らなくなってしまった――。(自嘲的に)祖国の恨みを霽らして独立を計るため――ふふん、第一、国家より先に、まずこの安重根という存在を考えてみる。(ゆっくりと)ところで、おれ個人として、伊藤を殺して何の得るところがあるんだ。\n柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今になってそんな――あたしそんな安さんじゃないと思って――。\n安重根 (思いついたように)おい、こっそりどこかへ逃げよう。そっして二人で暮らそう!\n柳麗玉 (強く)嫌です! こんな意気地のない人とは知らなかったわ。なんなの、伊藤ひとり殺っつけるぐらい――。\n安重根 (急き込む)ポグラニチナヤへ引っ返すか、さもなければチタあたりの、朝鮮人の多いところへ紛れ込むんだ。学校にでも勤めて、君一人ぐらい楽に食べさせていけるよ。僕あこれでも小学教員の免状があるんだからな。(懸命に)おい、そうしよう。天下だとか国家だとか、そんなことは人に任せておけばいいじゃないか。おれたちは俺たちきりで、小さく楽しく生活するんだ。自分のことばかり考えて、周囲に自分だけの城を築いて暢気に世の中を送るやつが――思いきってそういうことのできるやつが、結局一番利口なんじゃないかな。\n柳麗玉 (起ち上る)ははははは、馬鹿を見たような気がするわ。今に人をあっと言わせる安さんだと思ったから、あたし、こんなことになったんだわ。\n安重根 (笑って)冗談だよ。今のは冗談だよ。そんなことほんとにするやつがあるかい。\n\n沈思する。間。\n\n\n安重根 (苦しそうに)しかし、おれは今まで、一心に伊藤を恨み、伊藤を憎んで生きて来た。伊藤に対する憎悪と怨恨にのみ、おれはおれの生き甲斐を感じていたんだ。が、考えてみると、それも伊藤が生きていればこそだ。ははははは、ねえ、柳さん、君は伊藤という人間を見たことがあるか。\n柳麗玉 いいえ。写真でなら何度も見たわ。\n安重根 (急に少年のように快活に)ちょっと下品なところもあるけれど、こう髯を生やして、立派な老人だろう?\n柳麗玉 (微笑)ええ、まあそうね。偉そうな人だわ。でも、あたしあんな顔大嫌い。\n安重根 僕は三年間、あの顔をしっかり心に持っているうちに――さあ、何と言ったらいいか、個人的に親しみを感じ出したんだ。\n柳麗玉 (かすかに口を動かして)まあ!\n安重根 ははははは、やり方は憎らしいが、人間的に面白いところもあるよ。決して好きな性格じゃないが――。\n\n柳麗玉は無言を続けている。\n\n\n安重根 (下の道路に注意を払いつつ)僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う(間、しんみりと)なにしろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視め続けてきたんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らしてきたようなものさ。他人とは思えないよ。(弱々しく笑う)このごろでは、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか――。\n柳麗玉 解るわ、その気持ち。\n安重根 白状する。僕は伊藤というおやじが嫌いじゃないらしいんだ。きっとあいつのいいところも悪いところも、多少僕に移っているに相違ない。顔まで似て来たんじゃないかという気がする。\n柳麗玉 (気を引き立てるように噴飯す)ぷっ、嫌よ、あんなやつに似ちゃあ――。で、どうしようっていうの?\n安重根 (間、独語的にゆっくりと)伊藤は現実に僕の頭の中に住んでいる。こうしていても僕は、伊藤のにおいを嗅ぎ、伊藤の声を聞くことができるんだ。いや、おれには伊藤が見える。はっきり伊藤が感じられる!\n柳麗玉 (気味悪そうに)安さん! あたし情けなくなるわ。\n安重根 (虚ろに)伊藤がおれを占領するか、おれが伊藤を抹殺するか――自衛だ! 自衛手段だ! が、右の半身が左の半身を殺すんだからなあ、こりゃあどのみち自殺行為だよ。\n柳麗玉 (うっとりと顔を見上げて)そうやって一生懸命に何か言っている時、安さんは一番綺麗に見えるわね。\n安重根 もう駄目だ。ハルビンへ来て四日、日本とロシアのスパイが間断なく尾けている。(ぎょっとして起ち上る)今この家の周りだって、すっかりスパイで固まってるじゃないか。\n柳麗玉 (びっくり取り縋って)そんなことないわ。そんなことあるもんですか。みんな安さんの錯覚よ。強迫観念よ。ほら、(手摺りから下の露路を覗いて)ね、誰もいないじゃないの。\n\nニイナ・ラファロヴナが物乾しの台の上り口に現れる。\n\n\nニイナ まあ、お二人ともこんなところで何をしているの? 寒かないこと?\n柳麗玉 (安重根から離れて)あら、うっかり話しこんでいましたのよ。\n安重根 何か用ですか。曹君はどうしました。\nニイナ いいえね、今夜でなくてもいいんでしょうと思いましたけれど、これを持って来ましたの。\n\n手に持っている鏡を差し出す。\n\n\n安重根 あ、鏡ですね。\nニイナ 鏡ですねは心細いわ。さっきあなたが鏡がほしいようなことを言ってらしったから、これでも、家じゅう探して見つけて来たんですの。でも、こんな暗いところへ鏡を持って来てもしようがありませんわね。\n安重根 いいんです。ここでいいんです。\n\nと鏡を受け取ろうとする。\n\n\nニイナ (驚いて)まあ、安さん、その手はどうしたんですの。\n安重根 手? 僕の手がどうかしていますか。\nニイナ どうかしていますかって、顫えてるじゃないの、そんなに。\n\n安重根はニイナへ背中を向けて、自分の手を凝視める。自嘲的に爆笑する。\n\n\n安重根 (手を見ながら)そうですかねえ。そんなに、そんなに顫えていますかねえ。はっはっは、こいつあお笑い草だ。\nニイナ 笑いごっちゃありませんわ。まるで中気病みですわ。水の容物を持たしたら、すっかりこぼしてしまいますわ。\n\n安重根はふっと沈思する。\n\n\nニイナ (何事も知らぬ気に)あたしなんかにはいっこう解りませんけれど、それでも、いま安さんが立役者だということは、女の感というもので知れますわ。うちの曹道先なども、この間じゅうから、今日か明日かと安重根さんの来るのを待ったことと言ったら、そりゃあおかしいようでしたわ。\n\n安重根は手摺りに倚って空を仰いでいる。\n\n\nニイナ そんなに持てている安さんじゃあないの。何をくよくよしているんでしょう。ねえ、安さん、そんなことでは――。\n安重根 (どきりとして顔を上げて、鋭く)何です。\nニイナ まあ、なんて怖い顔! そんなことでは柳さんに逃げられてしまうって言うのよ。ねえ、柳さん。\n安重根 (ほっとして)あ、柳ですか。柳に逃げられますか。そうですねえ。\nニイナ 何を言ってるのよ。妙にぼうっとしているわね。冗談一つ言えやしない。\n\nニイナは降りて行く。安重根は片手に鏡、片手にカンテラを取り上げて黙って顔を映して見る。長い間。\n\n\n柳麗玉 その鏡どうなさるの?\n安重根 屋下へ降りて、もう一度最後にあの変装をして鏡に映してみようと思って――。\n\nあわただしい跫音とともに昂奮した禹徳淳が物乾し台へ駈け上って来る。\n\n\n禹徳淳 (安重根の腕を取る)おい! いま東夏のやつが調べて来た。とうとう決まったぞ。明日の晩か明後日の朝、出迎えの特別列車がハルビンから長春へ向って出発する。\n安重根 (禹徳淳の手を振り放して、ぼんやりと)そうか――。\n禹徳淳 (いらいらして)どうしたんだ君あ! (どなる)こんな素晴しいレポがはいったのに何をぽかんとしている。\n安重根 (間。禹徳淳と白眼み合って立つ。急に眼が覚めたように)徳淳! それはたしかか。すると、その汽車で来るんだな。(考えて)途中でやろうか。\n禹徳淳 (勢い込んで)これからすぐ南へ発って――。\n安重根 (別人のように活気を呈している)そうだ! 三夾河まで行こう! ハルビンで決行する方が都合がいいか、他の停車場へ行ってやるのがいいか、単に視察のつもりでも無意味じゃないぞ。\n禹徳淳 どうせ明日一日ここにぶらぶらしていたってしようがない。\n安重根 それにハルビンは軍隊が多いし、いざとなると近づけないかもしれない。ことにココフツォフも来ている。警戒は倍に厳重なわけだ。\n 曹道先を案内に劉東夏が駈け上って来る。\n劉東夏 (息を切らして)蔡家溝で三十分停車するそうです! はっきりわかりました。この先の蔡家溝です。あすこだけ複線になっているので、臨時列車なんか三十分以上停車するかもしれないと言うんです!\n安重根 (きびきびした口調)護照のほうはどうだ。大丈夫か。\n禹徳淳 東夏君にすっかりやってもらってある。"
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"role": "assistant",
"content": "安重根 汽車はまだあるな。\n劉東夏 急げば間に合います。\n禹徳淳 蔡家溝までか。\n安重根 馬鹿言え。どうなるかわからない。三夾河まで買わせろ。\n\nと先に立って急ぎ物乾しを降りかける。\n\n\n禹徳淳 (続いて)写真を撮しておけばよかったなあ、君と僕と――。\n安重根 写真なんか、まだ撮せるよ、明日蔡家溝ででも。\n\n金成白が駈け上って来て、上り口で衝突しそうになる。\n\n\n金成白 (安重根へ)先生、いよいよ――。\n\n安重根は無言で、力強く金成白と握手する。「三夾河行き」、「いや、蔡家溝で下車」、「三人で停車場まで走るんだ」など安重根、禹徳淳、劉東夏の三人、口ぐちに大声に言いながら勢いよく屋根を降りて行く。柳麗玉も勇躍して、見送りに走り下りる。曹道先と金成白は手摺りに駈け寄って下を覗く。\n\n\n 12\n\n\n翌二十四日、深夜。蔡家溝駅前、チチハル・ホテル。\n\n木賃宿の如きホテルの階上の一室。灰色の壁、低い天井、裸かの床、正面に廊下に通ずる扉、ドアの傍に椅子一つ。窓はなし。片隅に毀れかかった鉄製の寝台が二つあるのみ、他に家具はない。\n\n安重根、禹徳淳、劉東夏、蔡家溝駅長オグネフ、同駅駐在中隊長オルダコフ大尉、同隊付セミン軍曹、チチハル・ホテル主人ヤアフネンコ、支那人ボウイ、兵卒、ロシア人の売春婦三人、相手の男達。\n\n隅に二つ並んだ寝台に、安重根と禹徳淳が寝ている。禹徳淳は鼾を立てて熟睡し、安重根はしきりに寝返りを打つ。寝台の裾に二人の衣類が脱ぎ懸けられ、安重根のベッドの下には、ウラジオから持って来た行李が押し込んである。扉の傍の椅子に、大きな外套を着て劉東夏が居眠りしている。薄暗い電燈。廊下の時計が二時を打つ。長い間。ドアが細目にあいて、ロシア人の女が覗き込む。劉東夏の眠っているのを見すまし、そっと手を伸ばして鼻を摘もうとする。劉東夏は口の中で何か呟いて払う。\n\n\n\n女 (低く笑って)門番さん! ちょいと門番さんてば! 何だってそんなところに頑張ってんのさ。寒いわ。わたしんとこへ来ない? はいってもいい?\n\n劉東夏は眼を覚ます。\n\n\n女 (小声に)まあ、あんた子供じゃないの? 可愛がって上げるわ。いらっしゃいよ。あたしの部屋へさ。廊下の突き当りよ。\n劉東夏 いけないよ、そんなところから顔を出しちゃあ。叱られるぞ。\n\n禹徳淳が寝台に起き上る。女はあわててドアを閉めて去る。\n\n\n禹徳淳 また淫売かい。\n劉東夏 (笑って)ええ、あいつとてもうるさいんです。\n禹徳淳 何時だい。\n劉東夏 さあ――今三時打ったようですよ。\n禹徳淳 かわろうか。\n劉東夏 いいんです。もう少ししたら――。\n禹徳淳 起したまえ。かわるから。\n\n禹徳淳が再び寝台に横になると同時に、弾かれたように安重根が起き上る。\n\n\n安重根 ひどい汗だ。(腋の下へ手をやって)こんなに寝汗をかいている。\n禹徳淳 (ベッドから)よく眠っていたよ。君は朝までぐっすり眠らなくちゃあ。僕と劉君が代り番こに起きているから大丈夫だ。\n\n安重根もふたたび枕に就き、劉東夏は戸口の椅子で居眠りを続け、しんとなる。長い間。\n\n\n安重根 (独り言のように、突然)徳淳、君は黄海道のほうはあんまり知らないようだねえ。(間。禹徳淳は答えない)僕のおやじは安泰勲と言って、黄海道海州の生れさ。科挙に及第して進士なんだ。(長い間。次第に述懐的に)そうだ、僕の家に塾があってねえ、あのポグラニチナヤの趙康英や、ハルビンの金成白、それに僕の弟の安定根と安恭根など、みんな一緒に漢文を習ったものさ。童蒙先習、通鑑、それから四書か。はっはっは、勉強したよ。(間)その後僕は、信川で、天主教の坊さんで洪神文と言ったフランス人に就いてフランス語を教わったこともある。僕の家はみんな天主教だが、僕が洗礼を受けたのはたしか十七の春だった。うむ、洪神文というんだ。君は識らないかなあ。\n\n禹徳淳は空寝入りをして鼾をかいている。長い間がつづく。\n\n\n安重根 おやじの安泰勲が倹約家で、少しばかり不動産があってねえ、鎮南浦に残して来た僕の家族は、それで居食いしているわけだが、それも、今では二三百石のものだろう。故里を出たきり補助するどころではないから、さぞ困っているだろうと思うよ。\n\n叩戸といっしょにドアを蹴り開けて、蔡家溝駅駐在セミン軍曹と部下四五人が、支那人ボウイを案内に荒々しく踏み込んで来る。\n\n\n軍曹 (大喝)起きろ! 検査だ!\n\n安重根と禹徳淳は起き上る。劉東夏は椅子を離れて直立する。兵卒たちは早くも室内を歩き廻って、衣類や手廻品に触れてみている。\n\n\n安重根 何だ。夜中に他人の部屋へどなり込んで来るやつがあるか。何の検査だ。\n軍曹 (大声に)何だと? 生意気言うな。何の検査でもよいっ! 日本の高官が当駅を御通過になるので失礼のないように固めているんだ。(安重根へ進んで)貴様は何者か。\n禹徳淳 (急いで寝台を下りて)済みません。わたくしどもは飴屋でございます。こいつは宵の口に一杯呑って酔っておりますんで、とんだ失礼を申し上げました。(懸命に安重根へ眼配せする)\n軍曹 飴屋か。道具はどこにある、道具は。\n禹徳淳 はい。道具は、預けてございます。\n軍曹 どこに預けてあるのか。\n禹徳淳 この町の親方のところに預けてございます。\n軍曹 たしかにそうだな。嘘をつくと承知せんぞ。儲かるか。\n禹徳淳 へ?\n軍曹 飴屋は儲かるかと訊いているんだ。\n\n軍曹は安重根を白眼みつけて、部下を纏めてさっさと出て行く。支那人のボウイが、その背ろ姿に顔をしかめながら扉を閉めて続く。\n\n\n禹徳淳 笑わせやがらあ。あんでえ! 威張りくさりやがって。まるで日本人みてえな野郎だ。(劉東夏へ)驚いたろう。\n安重根 (寝台に腰掛けて)僕は徳淳が羨しいよ。明日にも、世界中がびっくりするようなことをやろうというのに、とっさに上手に飴屋に成り済ましたりなんか――神経が太いぞ。\n禹徳淳 (勢いよく寝台に滑り込んで、大声に)そうだ! いよいよおれたちがやっつけたとなると、騒ぎになるぜ。××戦争の戦端を切るんだ。愉快だなあ!\n安重根 ××戦争? 不思議なことを言うねえ。誰が戦争をするんだ。\n禹徳淳 何を言ってるんだ。おれたちが敢然と起ったのを見て、鶏林八道から露領、満洲にかけての同志が安閑としていると思うか。大戦争だよ。これは、大戦争になる。\n安重根 (哄笑)笑わせないでくれ。だから僕は、君が羨しいと言うんだ。\n禹徳淳 (むっくり起き上って)何? じゃあ、安君、君は、同志が僕らを見殺しにするとでも考えているのか。\n安重根 (話題を外らすように、劉東夏へ)十二時ごろに汽車の音がしたねえ。夢心地に聞いていた。\n禹徳淳 (激しく)安君! 君は同志を信じないのか。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 禮嚴法師歌集の初にしるしおく文。\n\n\n一、今年八月十七日は父の十三囘忌辰なれば、かねて兄達に謀りて、父の歌集一巻を刷物とし、紀念のため、有縁の人人に供養せんは如何にと言へば、皆よしと言ひつ。さてその歌は寛に編めよと兄達の命じければ、父が若き頃より壮年に到る草稿を京都なる兄大圓より、晩年の詠草を周防なる兄照幢より乞ひうけて、読みもてゆくに、歌の数は長き短き打まじへて三万首に近からし。こは偶ま残りける詠草なれば、この外、旅中などにて詠み捨てられつる、又は反古となりて失はれつるも多かりけん。二十ばかりにて江戸に遊び諸国を行脚せられける頃の作、維新前十年がほど国事にいたづかれし頃の作、その後薩摩大隅の間に布教せられし頃の作、それらのほとほと伝はらぬも口惜し。"
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"role": "assistant",
"content": "一、さて一わたりは辛うじて読み終へつれど、さばかり大数の歌を二たび三たび繰返して撰びなんこと、わが暇の許さざりければ、今は専ら晩年の詠草のみを読み返して、そが中より撰びたるを本とし、壮年の頃の歌をも少しばかり加へて、ここに六百参拾首を輯め、禮嚴法師歌集とは名づけつ。父が一生の歌の零砕に過ぎざるいささけきひと巻に斯かる名をしも負はするは、我等はらからのえ忍びぬ所なれど、さしあたりて全集を刷物とする余裕なければいかがはせん。\n一、父は世の長人にて七十六歳まで在りければ、生前にすら若き頃の友の残りゐ給へるは稀なりしを、まして歿後十三年を経つる今には、父が若き日を知り給へる人ほとほと無かるべく、はた晩年に風雅の交りを与にし、歌を問ひて教へ子となられし人人も、おほかた鬢上に一茎の霜をや点し給ふらんとぞ覚ゆる。あはれ世は斯かるさまに移ろひゆくならひとは云へ、旧りしものの次次に忘られゆくは憂痛きかな。我等おろかなれども、年ごろ子としていかで父母が名を顕さであるべきと思へるに、このささやかなる一巻とても、おのづから父が歌の片端を世に出すよすがとはならざらんや。はた、すくよかに世にいませる父が晩年の友垣教へ子なりし人人の、そのかみをしぬび給ふ助縁ともなりなんかし。\n一、寛ひそかに思へるは、父が歌の今日まで世に聞ゆる所なきは如何にぞや。こは父の性格が、老年期の初までは新思想の人にして、進取の気概に富まれたるにかかはらず、その後は反りて世外に独処し、念仏風雅の閑適を楽みて、一生の行事のすべて世の耳目に触るるを避けられしに因るならん。さはれ、晩年に詠まれたる述懐の諸作を覗けば、おのづから世を恨み己を果敢なみ給ふ声の、惻惻として霜夜のこほろぎにもたぐへつべきが打まじれり。身は老いかがみて、比叡の麓の清水に漱ぎ、歌の中山の松風を枕とし給ひながらも、終に寒岩枯木の人とはなりおほせ給はず、一片の壮心掩はんとして掩ひ難くやありけん。「折にあへば如何なる花か厭はれん時ならぬこそ見劣りはすれ」、「憂きことよ猶身に積れ老いてさへまだ世に飽かぬこころ知るべく」、かかるは如何でか無為空寂をよろこぶ世捨人の歌ならんや。寛はそこに父が人としての閃光を認め、一味の哀みの身にせまるを覚ゆ。父は古事記、万葉集、古今集などの学者なりければ、技巧に於ては古典に累せられたる所すくなからねど、叙情にも叙景にも折にふれたる素直なる感情を主題とするに力められ、とりわき述懐の歌に煩悩起伏の醜き自己をあからさまに披瀝せられたるなど、花鳥風月の旧株を守れる近世の歌人以外に立ちて異色を放つと謂ひつべし。但し一生の作を通じて恬澹なる気味あるは、父が一面の性癖に本づき、且つ幼きより父母の感化を受けて心を内典に傾けられたるにも由るべし。祖父母の二男に生れて鐘愛ことに深く、十三歳の冬早くも産を分たれて新宅の工を終らんとする頃、脱塵の志止みがたく、強ひて父母に乞ひて出家せられしを初とし、後年、王政維新のため、宗門のため、社会公益のために、幾多の辛労を重ねながら、その功はすべて他人に譲られたる謙虚の態度に至るまで、この恬澹なる一面の性癖に由れることならん。\n一、父が伝記は寛別に詳しく一冊に編したるものあり。ここにはその概略を言はんとす。父は文政六年九月十三日、丹後国与謝郡加悦村の里正細見氏の二男に生れき。十三歳加悦村浄福寺に養はれて住職禮道の二男となる。弘化二年四月京都に上りて西本願寺の学林に懸席し、同年五月西本願寺に於て得度す。京都に学ぶこと数年、偶江戸の国学者八木立禮大人の来りて、摂津国多田の荘に帷を下し給ふと聞き、行きて師事し、国書歌文の教を受く。八木大人は幕臣の二男にして本居春庭翁の門を出づ。其妻敏子刀自また歌と書とを善くせり。翌年師夫妻を奉じて丹後国に帰り、与謝郡清滝村に暫く師を留めて講筵に侍す。次いで京に上り、畿内を漫遊して、伊勢の神宮を詣で、東海道を行脚して江戸に出づ。この旅行によりて見聞を広むる所多く、又時勢の推移に就いて深く憂ふる所あり、慨然として君国の為に微力を致さんことを思ひぬ。それより丹後国に帰りしに、仲立するものありて若狭国大飯郡高浜の専能寺に養はれて住職す。そこにても師八木大人夫妻を屈請して講莚に侍す。居ること二年、故ありて寺を去り、京都に出でて本願寺の役僧となり、兼ねて畿内附近の地に説教す。安政四年五月十五日山城国愛宕郡岡崎村の願成寺に入り、同年八月六日住職す。其年、京都新車屋町二条下る山崎惣兵衞の長女初枝を娶れり。当時攘夷論と共に幕府の外交を批難し、勤王討幕を唱ふるなど、世諭鼎沸して、諸藩の志士京都に集る者日日に繁く、幕吏の頻りに之を物色するあり、うれたき事ども多かりし中に、父は窃に其れ等の志士と往来して画策する所ありしが、わきて薩摩藩には八田友紀、村山松根、黒田嘉右衞門、高崎正風の諸歌人を通じて交友多く、小松帶刀、土師吉兵衞、椎原小彌太、内田政風、西郷吉之助、大久保一藏、吉井幸輔、伊地知正治の諸氏と交るに至り、常に薩摩の藩邸に出入して京都の形勢、諸藩の動静を内報し、その他細事に亘りて薩藩の為めに幾多の便宜を計りぬ。例へば相国寺に交渉して立所に薩兵三千人の陣所をしつらひたる、伏見鳥羽の戦ひ初まれる中に、一夜にして参万金の軍資を調達したるたぐひ、一一に挙ぐべくもあらず。父の意は薩藩を通じて微力を王事に致さんとするにありしなり。また父は薩藩を経て種種の建言を朝廷に奉りしが、明治元年一月四日の夜、おなじく薩藩を経て参与所に奉りつる三箇条の建言の如きは、二日を出でずして実施せられき。その一に曰く。急遽の際兵力に乏しければ、臨機の策として西本願寺に命じ、近国の寺院より僧兵を召さば、千五百人乃至二千人を集むるを得べし。そをもて皇居の御警衛に当て給はんことを。この事立所に行れて、西本願寺の法嗣光威上人みづから法衣の上に帯刀せる僧兵を率ゐ、正信偈を唱へつつ皇居の四方を練りありきぬ。世の人之を帰命無量寿隊と言へりき。二に曰く。方今の形勢にて最も急要なるものは軍資なり。目前の欠乏を救ふ一策としては、町民にして皇居の諸門を衛る法内と謂ふ者四家あり。その四家に命じて、町家の富裕なる者、就中呉服商などより御用金の貸上げを謀らしむる事。三に曰く。京都に御朱印寺と称するもの百余箇寺あり。彼等に献金を命じ給ふも又一策なりと。是等もまた直ちに参与所の納るる所となりしかば、翌五日父は先づ西本願寺に赴きて寺臣島田左兵衞、松井中務の二人と謀り、立所に五千金を献ぜしめ、更に西本願寺の信徒譽田屋、柏屋その他を勧誘して三日を出でずして更に参万金を納めしめき。猶かの法内より町家に勧誘し、朝廷より御朱印寺にも命ぜられしかば、白木の箱に献金の札を立て競うて参与所に集るもの、同月十五六日頃に亘り陸続として絶えざりき。父はまた年頃、西本願寺をして王事に力を致さしむることを計るは、仏恩に報ずる所以なるを思ひ、然かするには先づ豐臣氏以来杆格を来せる薩藩と和し、又長州藩と往来し、両藩を輔けて朝廷に報効せしむるに如くなしと思ひければ、前の年既に両藩と西本願寺との間に周旋して和親を結びたりき。又しばしば法主光澤上人に謁して天下の形勢を説き、一意王事に尽し給ふことの緊要なるを述べたれば、東本願寺の佐幕に傾きたるに反し、西本願寺は終始順逆をあやまつこと無かりき。さてまた父が其後の建言を納れて、一月十九日参与所より、北陸道鎮撫の勅使高倉三位、四條大輔二卿の随従として使僧七人を出だすべき由を西本願寺に命ぜらる。即ち父は六人の使僧を選び、参与所及び法主の特命によりそれに主となりて同二十三日京都を出立す。若狭国小浜に至れば勅使より命あり。北陸道諸藩の情勢未だ一定せず、民心もまた恟恟たり。加ふるに北越の反勢日を追ひて猖獗ならんとす。北陸道は西本願寺の信徒多き土地なれば、使僧等は常に先発して社寺奉行及び各宗の寺院を集め、王政維新の御趣旨、幕府の罪状等を演達し太政官の大号令を諭示して、更に之を諸民に伝へしむべし。また行先ごとに国情を探りて報告し、兼ねて軍資の献納を勧誘すべしと。即ち各地に於て日夜前条の御趣旨を演説し、また諸藩の重臣と会して朝旨を誤解せざると共に王事に奮励すべきことを勧めしが、加賀国大聖寺に到る間に於て、寺院及び民家より軍資を献納したるもの参万金に達せり。越中高岡に到りて敵勢のために前途を阻止せられ進みがたければ、勅使の一行は江戸に向ひて出発し、父の一行は太政官へ復命のため四月十九日帰京の途に就く。京に帰れば播州姫路藩より西本願寺の連枝本徳寺を経て依嘱する所あり、即ち西郷大久保の両参与に議り、かの藩のために佐幕の嫌疑を救解せり。同年六月、岩倉卿の邸に到り建言して云ふ。北越地方の敵勢今猶熾んなるは、太政官より発布せられたる神仏判然の趣旨を農民等に於て誤解し、神道を揚げて排仏毀釈の挙に出づるとなせるもの、その一因なり。この誤解を融和して農民の後援を断たば叛徒の保ちがたきこと想ふべし。農民の誤解を融和するは、真宗の信者多き地方なれば、西本願寺に勅書を賜り、門末の僧侶をして御趣旨を諭示せしむるを上策とすと。即ち数日を出でずして西本願寺に勅書を賜りしかば、再び父は西本願寺使僧として勅書を奉じ、七月中旬京都を出発し、北越の各地に於て神官僧侶を集め、神仏判然の御趣旨、王政維新の宏謨、民心の一統に就いて演説す。長岡城の潰滅するに及び民政局を越後三条に置かれければ、父はまたその局に出仕を命ぜられ、西本願寺の諭達と共に窮民を賑はすことに力を尽し、翌明治二年十一月に至りて帰京復命す。翌年二月、伊地知正治氏東京より書を送り、北陸道某県、東山道某県、両地何れかの大参事に推挙すべき由を言ふ。父は、天下の大変に際し尊王報仏の心止みがたくして聊か国事に微力を致したるのみ、桑門の身固より仕官に意なしと言ひて之を辞せり。此に於て父の思ひけるは、王政維新の実を挙ぐるは一面に人智を開発し、一面に産業を興すに在り。また民心を和げ、安んじて業に就かしめんとするには、窮民に新業を授け、はた医薬を裕かにして疾病の憂なからしむるに在りと。即ち奈良朝に於て種芸、種智、悲田、施療の諸院を開きたる例に則り、諸種の新しき施設を先づわが京都府より試みんとし、府の大参事植村正直氏を初め、友人金閣寺住職伊藤貫宗、銀閣寺住職佐佐間雲巖諸氏に議りて、その協賛を得つ。由つて父は先づ市内各区及び各郡を巡囘して小学校の必要を演述し、著著その創設を見るに到りしかば、はては滋賀県大参事松田氏の招請に応じ、その県下をも遊説し、大津小学校を初め二三の小学校を開始するに到れり。之より先き人智を開発するは古道にのみ由るべからず、宜しく西洋の新智識を布くべしとなし、率先して洋服を著け、神戸居留の外人に交りて舎密(物理、化学)の学を研究せしが、明石博高氏と共に京都府庁に舎密局を設くるに尽力し、局の嘱托となり、府下の諸鉱山を巡囘zして鉱石の分析を試みぬ。また四男巖をしてフルベツキ博士に就き洋語を学ばしめ、神戸の外人某に就きて西洋の染色術をも学ばしめつ。また窮民をして巻煙草を巻かしめ、鹿子絞りを纈らしめ、また各郡を遊説して養蚕と製茶とを奨励せり。是等の事、父の性癖として必ず自ら実験するを常とせしかば、わが願成寺の宅地二町歩を開いて桑樹と茶とを栽培し、母と共に傭役の男女を督して養蚕製茶の事に従へり。また母及び兄達が暇あれば煙草を巻き、鹿子を纈り、或は京人形の製造に従へるさま、わが六七歳頃の記憶に存せり。父はまた明治四年より病院の創立に志し、伊藤貫宗、稻葉宙方、佐佐間雲巖諸氏と共に、京都府下に於る各宗の寺院を勧誘して出資せしめ、明治六年十一月一日に到りて英国の医師を主任とし開業式を行へり。現に存する所の府立療病院是なり。療病院の名もまた父の命ずる所なりと言ふ。明治四年の春、姫路藩に於て神葬祭を行ふ布達を出だしけるに、両本願寺の信徒数万蜂起して騒擾せしかば、藩庁の乞により、父は西本願寺の使僧として出張し、四月より七月に亘りて各地を巡演し、民心を鎮定すると共に、藩庁と協議して神葬祭を延期せしめたり。明治五年一月、病院の出資勧誘のため南山城を経て丹波に入りしに、各所の穢多ども新たに平民に編入せられたるに驕気を生じ、良民に対し粗暴のふるまひ多かりければ、府庁の依嘱により、彼等を集めて平民に編入せられたる朝恩の広大なるを訓諭し、報効の手初として国中三箇所の険道を平坦にすべき旨を勧めたるに、彼等悦服して立所に三千人を出して修治せり。また父は、大坂の長與専齋、大井卜新二氏、神戸の外人ボオドイン氏寺の後援を得て、京都市内に一店を設け、洋薬を主として石油、洋酒等をも鬻ぎ「ポン水」と称して今の所謂ゆる「ラムネ」をも製造して販売せり。また府知事植村氏其他諸有志に勧めて博覧会を仙洞御所に開き、またボオドイン氏の設計により、円山に鉱泉場を開きて諸人の衛生に資せり。以上舎密局、小学校、病院、博覧会、鉱泉場等は、全国に於て京都府の率先して施設する所、また京都府下に養蚕、製茶を奨励し、洋薬、石油等を販売せるは、実に父を以て嚆矢とする所なり。而も是等のこと一として容易に好果を収め得たるは無かりき。目を著くる所独早くして時運は未だ到らず、常に保守姑息の徒の多数を頼みて嫉視妨害するあり。また無能にして漫罵詆笑を事とする徒の頻りに投機者流を以て父及び父の同志者を呼ぶあり。此間に処するの苦心は如何ばかりぞ。寺は寺格の高きにかかはらず、無檀の古刹なれば、些の資財あるにあらず、清廉無欲にして極端に公益をのみ思ふ急進空想の人なる父は、万余の債を負ひて、明治十二年堂宇地所を挙げて競売に附せられつ。年頃経営せる所も概ね失敗に終りぬ。ただ円山の鉱泉場のみは今も面かげを残せど、早く他人の手に移りて、その実質も父が営める初とはいたく異れり。さはれ父が京都に於ける公共事業に絶縁しつる後も、新思想の有力者つぎつぎに起りて、我国の新事業は常に京都府民によりて先鞭を著けらるるの観ありしは、時運の到ると共に他人に由りて父の志の大成せられつるとも謂ふべきか。明治十三年、再び法衣を著けて西本願寺の役僧となり、同四月、鹿児島本願寺出張所の顧問として派遣せられ、県下の布教に従事す。翌年県知事渡邊千秋氏と謀り、戦後の窮困せる士族に新業を授けんとし、基金として西本願寺より参万円を寄附せしめ、翌十六年鹿児島興業館を創設するに到りしが、そは今も現存せり。十四年以後、大隅国加治木説教場主任を兼ね、布教の傍、鉱業、養蚕業、西洋葡萄及び楮の栽培等を奨励し、楮と葡萄とは苗木を東京より取寄せて寺内に移植し、無料を以て需要者に頒てり。また士族の子弟の為に儒書及び舎密学を講じ、各村の公共事業費を作る為に頼母子講を設くるなど、施設する所すくなからず。十七年夏、医の薬物の分量を誤りしに由りて大患を得、京都にある子大圓の来り迎へて切に東帰を勧むるに遇ひ、少しく癒えて後、職を辞して京都に帰れり。翌十八年、本願寺の支院、愛宕郡一乗寺村養源寺に隠栖し、爾後また世事に与らず、念仏と詠歌とを以て優遊自適し、稀に後進の為に国典を講ずるのみ。明治二十七年、寺務を見るを厭ひて愛宕郡高野村に僑居し、同二十九年の冬、洛東歌の中山なる清閑寺の幽静を愛でて、そこに移れり。同三十年の冬、周防徳山なる子照幢のもとに遊び、翌三十一年六月より病を得、八月十七日午前三時に身まかり給ひき。享年七十六。遺骨は京都西大谷なる妻初枝の墓に合せて葬れり。"
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"role": "user",
"content": "“生類おんあわれみ”は結果的に“人民虐待令”であった。\n 法令は、年ごとに、微に入り細に入って、小やかましい箇条を加え、鷹匠、鳥見組の同心は、ことごとく御犬奉行や犬目付へ転職になり、市中には、犬医者のかんばんが急にふえた。\n 石を投げた子供が、自身番へしょッ引かれて、その親が、犬目付の告発にあい、手錠、所払いになるような小事件は、一町内にも、毎日あった。\n 日常、牛馬をつかう稼業の者からは、特に多くの違犯者があげられた。牛馬に鞭を振ったとか、病馬を捨てたとかいうだけの理由で、死罪、遠島になった者も少なくない。\n 幕府の主旨は、すべて人民は、将軍家のみならず畜生にも仕え、もし畜生の病み傷つくときには、人間の子に喰わせる糧はなくとも、女房に着せる衣はとぼしくとも、質をおいてでも、犬医者をむかえ、薬療手当をしてやらなければ、掟に問われ、厳科に処せられるぞ――といわぬばかりである。\n ――犬になりたい。犬がうらやましい。\n 疾苦の民は、心からいった。\n 死罪、遠島、重追放などの、家を失った数々の人間の子は、必然、浮浪者のなかまに入り、また、良家の子弟ではあっても、世のばからしさ、あほらしさから、犬になりたい仲間も殖え、両々相俟って、糜爛した時粧風俗とともに、天下不良化の観をつくった。\n 深夜。中野の原のお犬小屋をうかがい、揚団子を撒いて、木の上に夜を明かしていた大亀や阿能十なども、いずれは、こうした時代の子にはちがいない。\n\n溜飲\n\n お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。\n 犬は仔を産むし、多産だし、しかも十数年来、太鼓の製皮も禁ぜられてきた程なので、その繁殖率は、たいへんなものになっている。\n 世上の違犯数も、当然、それに準じて増すばかりなので、さすがの幕府も、犬目付も、法の厳励を期すには、いまや悲鳴をあげないでいられない。\n そこで、市中の飼い主のない犬は(官に媚びる者でもない限り犬を飼う物好きもなくなったが)――見つけ次第、これをお犬小屋にあつめて、官費で飼育する案をたて、もと鷹匠番の尾関甚左衛門を支配に、犬与力、犬同心などの役職をおき、その下に、お犬仲間百余名を使役して、この中野に一大犬舎を新設し、数千頭を飼育しているのである。\n このため、勘定奉行の荻原近江守は、八州の代官に下知して、高百石について一石ずつの犬扶持を課し、江戸の町民へは、一町ごとに、玄米五斗六升の割で、徴発を令した。\n 犬一疋、一日の供食には、白米三合、味噌五十目、干鰯一升ずつ――日によって物はちがうがこの程度である。だから中野より規模が狭かった大久保小屋の消費高でも、犬に喰わせる一日料の米、三百三十石、味噌十樽、鰯十俵、薪五十六束という記録がある。その大久保の所用地面積は、二万五千坪で、中野は十六万坪もあったというから、ここでの犬の消費料は知るべきである。\n 家なき人間の子は、市井にも山野にもみちているが、もし一頭の犬でも病んだらものものしい。「時世風土記」の記事など見ると、\n ――犬、病ムアレバ、冬ナレバ、夜着蒲団ヲ厚ウシ、犬医者ヲ呼ブ也。犬医者ト申スハ、御用医者ニテ、典薬ノゴトク、六人肩ニシテ、若党、草履取、薬箱持チ、召シツレテ来ル。脈ヲ見、薬ヲ処方シテ帰ル。マタ御徒士目付、御小人目付、二日オキニ御検分ナリ。カヤウノ事故、町方モ、ソレニ準ジ、物入リオビタダシケレド、モシ犬ヲ痛メバ、牢ヘマヰル者、縁類ニモ一町内ニモ及ビ、何百人トイフコトヲ知ラズ。通リスガリニモ、ワント云ヘバ、身ノ毛モヨダチ、食ヒ付カレテモ、叱ルコトナラズ、逃グルホカハナカリケリ。科人、毎日五十人、三十人ヅツアリ、打首ニナルモアリ、血マブレナル首ヲ俵ヘ入レ、三十荷モ持チ出シテ、大坑ヘ打捨テタリトモ聞エタリ。\n 悪政にたいする世間沙汰をあげたら限りがない。――とまれこれは、人間が人間を苦しめていることだったが、一介の浮浪人、大岡亀次郎にも、阿能十蔵にも、その人間に抗議する力はない。意気もない。\n(ひとつ、お犬小屋を、ひッくり返すような目にあわせて、犬公方や犬役人どもに、泡をふかせてやろうじゃねえか)\n と、いうのが、今夜の目的であり、そこらが精いッぱいの義憤だった。\n これは阿能十――阿能十蔵のいい出しである。かれの父、阿能静山は、朱子学派の一儒者だったが、あるとき聖堂の石段で、いきなりワンと噛みついてきた赤犬を、意識的にか、思わずか、蹴とばしたので、家に帰るやいな、捕手を迎えぬうちに、切腹してしまった。息子の十蔵は、出先で捕まり、遠島送りになったが、途中、夜に乗じて、遠島船から海へとびこみ、江戸へ舞いもどって以来、自暴自棄な野性の生活力を逞うしている男だった。\n 大亀の――大岡亀次郎のほうは、ちと身の上もちがうが、いまの境遇と気もちとは、まったく同じだし、どうせかれも、何をやってもやらなくても、ひとたび捕吏の手にかかれば重罪は知れきっている体なので、\n(おもしろい。――知らアん顔して、あとの騒ぎを見てやろう)\n と、すぐ相談は、まとまったのだ。\n 親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の隠匿で闕所になり、浮浪の仲間入りしている味噌久を、口のかたい男と見て、鼠捕り薬を入れた揚団子を背負わせ、人目につかぬ道まで苦労して、はるばるその決行に来たのだった。\n ......チチ。チチ。チチ――\n「おい。大亀、大亀」\n「なんだい、阿能」\n「見や。うッすら、東の方が、明るくなりかけて来たぜ」\n「明けたか。おれはとろりと、寝ていたらしい」\n「いい度胸だの。......あっ、おい。出て来た、出て来た」\n「えっ、何が」\n「何がって、犬の群れがよ」\n「おお......。ふふん、来る来る」\n 樹上のふたりは、一望に見える囲い内へ、そこから眼をこらしていた。\n 十六万坪の原には、数多い犬舎も、点々と、朝霧の海の小舟みたいでしかない。\n ――と、官舎から出て来た膝行袴ばきの犬役人や犬仲間が、諸所の犬舎を開け放った。驚くべき犬の大群は、朝の運動に堰を切ッて流れ出し、やがて戯れ狂いながら、朝霧の土を嗅ぎまわりつつ散らかった。\n「あっ、食った。大亀、見ろ、見ろ」\n「叱ッ」\n「あ。ほんとだ。食ってる。食ってる」\n「阿能、静かにしろよ。あんまり伸びあがると、おめえの松の木がゆさゆさ揺れて、遠くからでも気どられるぞ」\n かれらが夜のうちに撒いた揚団子は、あっちでもこっちでも、犬どもの嗅覚に争われ、むさぼり合う闘争の吠え声がつんざいた。\n そのうちに、けんッ! と異様な啼き声とともに、二、三頭がくるくると狂い廻って、あらぬ方角へ、矢のようにすッ飛んで行ったかと思うと、バタ、バタとつづいて仆れた。\n「やっ。やっ?」\n 犬同心も、何か、絶叫し出した。\n「阿能っ。――逃げろ」\n「ええっ、畜生。胸がすうとした。――大亀、逃げッこだぞ」\n ふたりは、猿のように、辷り下りた。\n もうことばを交わしてなどいる暇はない。どこをどう駈けたかもわからない。\n 大亀は、練馬へ出てしまっていた。板橋街道から本郷森川口の方へ向ってくる所で、初めて阿能は? ――と見まわしたが、どこでわかれてしまったか、かれの姿は前にも後にも見えなかった。\n\n若すぎる母\n\n 久しい殺生禁断で、河岸すじの稼業はあがったりである。魚鳥の禁令は、犬ほどではないが、川魚までが、美味なのはたいがい禁制項目に入っている。漁師、漁具屋、釣舟屋など、みな商売にならない。\n が、裏には裏があり、闇舟屋も闇漁師もいるらしい。屋敷すじへもそっと入るし、料亭はみな精進を看板にしているが、すずき、鯛、ひらめなどの鮮魚を欠かせる家はない。\n で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では、また、たそがれれば裏の川面へ、かぼそい灯のもる家もぼつぼつふえていた。\n「久助さんてば、嘘ばかりおいいだね。ふたりとも、影も形も見せやしないじゃないか」\n お袖は、行燈へ灯を入れながら、ふと、朝からそこにおいてある蝿除けをかけたままの膳を見て、味噌久へ、舌打ちしていった。\n 味噌久は、三ツになるお袖の子のお燕をあいてに遊び相手になりながら、物干し台で川風にふかれていた。\n「ほんとに、どうしたんだろう。もう、日が暮れるっていうに」\n ゆうべ別れた大亀と阿能のあれからを想像して、味噌久はふと夕雲に、不安な眼をあげた。\n「さ、お燕ちゃん、お行水を浴びようね。いいお子だから。......ネ。ネ。おしろいつけてきれいきれいに、お化粧しましょ」"
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"role": "assistant",
"content": " お袖は、子どもを抱きに来た。そして台所の軒下に、雨戸を横にして囲った盥の湯へ、自分も帯を解いて白い肌をかくした。\n 夕闇にこぼれる、湯の音にまぎらして、\n「オオ、きれいにおなりだこと。こんなよいお子になったのに、お燕ちゃんのお父さまは、なぜこんな可愛いお顔を見に来ないんでしょ、お燕ちゃんも、お父さんに会いたかろうにね」\n 聞く人もなしと思ってか、若い母親は、無心なこと神のような肉塊をあいてに、心のうちのものを、戯れのようにいいぬいていた。\n 物干しのてすりに暮れ沈んでいた味噌久は、小耳にはさんで、身につまされ、\n「......むりもねえ。そうだろうなあ」\n と、口のうちで呟いた。\n「十七で、あの子を産んで、あの子がいま三ツ、お袖さんは、まだ十九歳。――かわいそうだなあ、母親になるのは、若すぎらあ」\n 膝の蚊を、ぴしゃっと叩いて、かれはまた、やかましい禁令のことを思った。もしや、ゆうべの二人は、やり損なって、捕まったのではないかとおもい、じっとしていられなくなった。\n「オヤ、久助さん、どこへ出て行くのさ」\n「ちょっと、見て来ようと思って」\n「行水が空いたよ。ざっと、ひと浴びはいらない?」\n「それどころじゃねえ」\n 久助が出て行ったので、彼女は夕化粧をし、お燕の額にも、天花粉をたたいてやっていた。\n そのとき、門口で、コツコツと、杖の音がした。\n「あ。お父さん、お帰んなさい」\n「帰ったよ。暑かったのう、きょうも」\n 導引の梅賀は、頭巾をとって、お袖にわたした。六十にはとどくまいが、年のわりに、頑健な骨ぐみをしている。とくい先から帰って来たつかれも見せず、すぐ行水の盥に身を浸け、ああ極楽――と、ひとりごとを洩らしていた。\n「お袖さん。ちょっと、もういちど耳を」\n 小声だが、あわただしげに、外から戻って来た味噌久が、土間の暗がりに、身をすくめてさし招いていた。\n「なにさ。顔いろを変えて」\n「なんとなく、気になるので、その辺まで、ちょっと出てみたら、いやもう町はえらい騒ぎなんで」\n「なにがさ。よく落ちついて話しておくれな」\n「だから......今朝、あっしが、極密に、お袖さんだけにはと、そっと話したじゃありませんか」\n と、うしろの戸口をキョトキョト見て――\n「お犬小屋の一件さ」\n「あ。あのふたりのことかい」\n「やったらしいんで。......もう町じゃ、その噂やら落首やらで、あっちでもこっちでも、近頃にない気味のいいことだ、やったのは、町奴か、旗本か。イヤ、ふだん空威張りばかりしている奴らにそんな気のきいたまねができるもんか、これは天狗業だろうなんて、町の衆は溜飲をさげてみんなその話で、持ちッきりに沸いているのさ」\n「そうだろうね」と、お袖も、ニコと笑った。\n「じゃあ、この春殿中で、浅野様が吉良上野介を刃傷したときのような騒ぎかえ」\n「まさか、それほどでもありませんがね。しかし、腹ん中じゃ、あの時よりも、こん夜のほうが、誰でも胸をスウとさせていましょうよ。――だが、戌年の犬公方も、戌年の柳沢吉保も、面当てを喰ったようなもので、どんなに怒ったかもしれますまい。そのせいか、町はどこの番所も、犬目付や町奉行の手が総出で、往来を睨んでいるし、川口はどこの川筋も、夜明けまで、船止めだといっている。――あっしも、足元の明るいうちに、堺町の盛り場へ行き、楽屋者の中へまぎれこんでいますから、もし二人がここへ来たら、そういっといておくんなさい」\n「アア、いいよ。......だが、そんなに手配が廻っては、あの人たちも当分、ここへは寄りつけまい」\n「梅賀さんにも、耳打ちしておいておくんなさい。じゃあ、そのうちまた」\n いちど飛び出したが、味噌久は、また、あたふた戻って来て、\n「お袖さんお袖さん。なんだか町調べの役人や手先が、こん夜は、川筋の軒並みを洗ってあるいているそうだ。気をつけねえといけないぜ」\n 早口に注意して、どこともなく、宵闇のうちへ掻き消えた。\n\n市十郎の恋\n\n 導引の梅賀は、湯から上がった体を拭き、浴衣、渋団扇のすがたになって、\n「お袖、阿能と大亀が、とうとう馬鹿を、やったらしいな」\n「いまのを、聞いていたんですか」\n「なあに、客先の茶屋で療治をしているうちにもう、噂は聞いていたのよ」\n「捕まったら、獄門でしょうね」\n「油煎りになるかもしれねえ。金にもならねえことを。粋狂なやつらだ。――お袖、飯をくれ」\n 飯茶碗を持ちながら、梅賀は、ちらと、そこにうたた寝しているお燕のあどけない寝顔を見て、\n「こいつの父親というやつも、気のしれねえ男のひとりだ。今どきの若いやつらは、お犬様にかぶれて、生ませッ放しをあたり前にしていやがる」\n「ま。そんな、ひどいこといわないでも」\n「ふ、ふ、ふ。......お袖。こんなに薄情にされても、てめえはまだ市十郎を待っている気なのかい」\n「だって、しようがありませんもの。あちらはやかましいお屋敷の部屋住みという御身分だし」\n「笑わせやがる。市十郎は養子だぜ。きまった家つきの娘もある」\n「でも、わたしとは子を生した仲。わたしに誓って下すったことばもあります。五年でも、十年でも......」\n「待つというのかい。おそれ入った貞女だなあ」\n「大亀さんとは、従兄同士、きっと今に、連れて来てやる、会わせてやるともいってくれていますから」\n「そいつあ、当てになるまいよ。なるほど、大亀と市十郎とは、親戚かもしれねえが、身寄りはおろか、どこへだって、拙者は以前大岡亀次郎と申した者でござるとは、名乗って歩けねえ日蔭者だ。......といやあ、お袖もおれも、同じ日蔭の人間だが」\n 畳に落ちた涙の音が、ふと耳を打ったので、梅賀も、箸と悪たれを措いてしまった。\n 近所の者でも、梅賀は盲とたれも信じているが箸のさき、またさっきお燕の寝顔を見た眼ざし――少しは見えるらしいのである。\n ふたりの話しぶりも、どこかほんとの親子らしくない水くささがあった。これは近所でも感づいているが、養女と聞いているだけで、深い事情を知っている者はない。\n お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。お袖がまだ五ツの年、大病して、医者にも見離された折、その病の薬には、燕がよく奇効を奏すと人から教えられ、吹矢で燕を射たことが発覚し、あいにくその日が、将軍家の忌辰にもあたっていたので、夫婦ともに、斬罪という憂き目にあった人だった。\n 縁につながる身寄りもみな、それぞれ罪に問われて、世を去り、離散して果てたが、お袖はかえって人の手に病も癒え、その代り、身は転々と世路のつらさを舐めて、早くから水茶屋の茶汲み女に売られたりした。\n 十七。かの女は、恋を知った。\n その頃、よく水茶屋へ通って来た、若い武家息子たちのうちの一人に。\n 赤坂辺にやしきのある大岡市十郎と名も初めてのときから覚えた。\n その市十郎を連れて来たのは、従兄の大岡亀次郎で、亀次郎の方が、二つ三つ年上でもあり遊蕩も先輩だった。\n(とり持ってやる)\n と、亀次郎が、あの夜ついに、導引の梅賀の家を借りて、灯もない一間へ、若い男女を置き放しにして帰ってしまった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "(上)顕れたる事実\n\n またしても明智小五郎の手柄話です。\n それは、私が明智と知合になってから一年程たった時分の出来事なのですが、事件に一種劇的な色彩があって中々面白かったばかりでなく、それが私の身内のものの家庭を中心にして行われたという点で、私には一層忘れ難いのです。\n この事件で、私は、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味の為に、彼の解いた暗号文というのを先ず冒頭に掲げて置きましょうか。\n\n一度お伺いしたい〳〵と存じながらつい\n好い折がなく失礼ばかり致して居ります\n割合にお暖かな日がつゞきますのね是非\n此頃にお邪魔させていただきますわ扨日\n外はつまらぬ品物をお贈りしました処御\n叮嚀なお礼を頂き痛み入りますあの手提\n袋は実はわたくしがつれ〴〵のすさびに\n自から拙い刺繍をしました物で却ってお\n叱りを受けるかと心配したほどですのよ\n歌の方は近頃はいかが?時節柄御身お大\n切に遊ばして下さいましさよなら\n\n これはある葉書の文面です。忠実に原文通り記して置きました。文字を抹消したところから各行の字詰に至るまで凡て原文のままです。\n\n さてお話ですが、当時私は避寒旁々少し仕事を持って、熱海温泉のある旅館に逗留していました。毎日幾度となく湯につかったり、散歩したり、寝転んだり、そしてその暇々に筆を執ったりして至極暢気に日を送っていたのです、ある日のことでした。又しても一風呂あびて好い気持に暖まった身体を、日当りのいい縁側の籐椅子に投げかけ、何気なくその日の新聞を見ていますと、ふと大変な記事が眼につきました。\n 当時都には「黒手組」と自称する賊徒の一団が人もなげに跳梁していまして、警察のあらゆる努力もその甲斐なく、昨日は某の富豪がやられた。今日は某の貴族が襲われたと、噂は噂を産んで、都の人心は兢々として安き日もなかったのです。従って新聞の社会面なども、毎日毎日その事で賑っていましたが、今日とても「神出鬼没の怪賊云々」という様な三段抜きの大見出しで相も変らず書立てています。併し私はそうした記事にはもう慣れっこになっていて別に興味を惹かれませんでしたが、その記事の下の方に、色々と黒手組の被害者の消息を並べた中に、小さい見出しで「××××氏襲わる」という十二三行の記事を発見して非常に驚きました。といいますのは、その××××氏はかく云う私の伯父だったからです。記事が簡単でよく分りませんけれど、何でも娘の富美子が賊に誘拐され、その身代金として一万円を奪われたということらしいのです。\n 私の実家は極く貧乏で、私自身もこうして温泉場に来てまで筆稼ぎをしなければならぬ程ですが、伯父はどうして中々金持なのです。二三の相当な会社の重役なども勤めていますし、十分「黒手組」の目標になる資格はありました。日頃なにかと世話になっている伯父のことですから、私は何を措いても見舞に帰らなければなりません。身代金をとられて了うまで知らずにいたのは迂濶千万です。きっと伯父の方では私の下宿へ電話位はかけていたのでしょうが、今度の旅行はどこへも知らせずに来ていましたので、新聞の記事になってから始めてこの不祥事を知った訳なのです。\n そこで、私は早速行李を纏めて帰京しました。そして旅装を解くやいなや伯父の邸へ出掛けました。行って見ますと、どうしたというのでしょう。伯父夫婦が仏壇の前で一心不乱に団扇太鼓や拍子木を叩いて御題目を唱えているではありませんか。一体彼等の一家は狂的な日蓮宗の信者で、一にも二にも御祖師様なんです。ひどいのは、一寸した商人でさえも、先ず宗旨を確めた上でなければ出入を許さないという始末でした。併しそれにしても、いつも御勤めをする時間ではないのにおかしなこともあるものだと思い、様子を聞きますと、驚いたことには、事件はまだ解決していないのでした。身代金は賊の要求通り渡したにも拘らず、肝心の娘が未だに帰って来ないというのです。彼等が御題目を唱えていたのは、所謂苦しい時の神頼みで、御祖師様の御袖に縋って娘を取戻して貰おうという訳だったのでしょう。\n ここで一寸当時の「黒手組」の遣り口を説明して置く必要がある様です。あれからまだ数年にしかなりませんから、読者諸君の内には当時の模様を御記憶の方もあるでしょうが、彼等は極った様に、先ず犠牲者の子女を誘拐し、それを人質にして巨額の身代金を要求するのです。脅迫状には、いつ何日の何時にどこそこへ金何円を持参せよと詳しく指定があって、その場所には「黒手組」の首領がちゃんと待構えています。つまり身代金は被害者から直接賊の手に渡されるのです。何と大胆なやり方ではありませんか。而もそれでいて彼等には寸分の油断もありません。誘拐にしろ、脅迫にしろ、金円の受授にしろ、少しの手掛りも残さない様にやってのけるのです。又被害者が予め警察に届出て、身代金を手渡す場所に刑事などを張込ませて置きますと、どうして察知するのか彼等は決してそこへやって来ません。そして後になってその被害者の人質は手ひどい目にあわされるのです。惟うに今度の黒手組事件は、よくある不良青年の気まぐれなどではなくて、非常に頭の鋭い而も極めて豪胆な連中の仕業に相違ありません。\n さてこの兇賊の御見舞を受けた伯父の一家では、今も云います様に、伯父夫妻を始め蒼くなってうろたえていました。一万円の身代金はとられる、娘は返して貰えないというのでは、流石実業界では古狸とまで云われている策士の伯父も、手のつけ様がないのでしょう。いつになく私の様な青二才を手頼りにして何かと相談をする始末です。従妹の富美子は当時十九の而も非常な美人でしたから、身代金を与えても戻さぬ所を見ると、ひょっとしたら無慚にも賊の毒手に弄ばれているのかも知れません。そうでなかったら、賊は伯父を組し易しと見て、一度では慊たらず二度三度身代金を脅喝しようとしているのでしょう。何れにしても伯父としてはこんな心配な事はありません。\n 伯父には富美子の外に一人の息子がありましたが、まだ中学へ入った許りで力にはなりません。で、さしずめ私が、伯父の助言者という格で色々と相談したことですが、よく聞いて見ますと、賊のやり方は噂にたがわず実に巧妙を極めていて、何となく妖怪じみた凄い所さえあるのです。私も犯罪とか探偵とかいうことには人並以上の興味があり、「D坂の殺人事件」でも御承知の様に、時には自ら素人探偵を気取る程の稚気も持合せているのですから、出来ることなら一つ本職の探偵の向うを張ってやろうと、様々に頭を絞って見ましたものの、これは迚も駄目です。てんで手懸りというものがないのですからね。警察へは勿論伯父から届け出てありましたけれど、果して警察の手でこれが解決出来ましょうか。少くとも今日までの成績で見ると、まず覚束ないものです。\n そこで、当然私は友達の明智小五郎のことを想出しました。彼なればこの事件にも何とか眼鼻をつけて呉れるかも知れません。そう考えますと、私は早速それを伯父に相談して見ました。伯父は一人でも余計に相談相手の欲しい際ではあり、それに私が日頃明智の探偵的手腕についてよく話をしていたものですから、尤も伯父としては大して彼の才能を信用してはいなかった様ですけれど、兎も角呼んで来て呉れということになりました。\n 私は御承知の煙草屋へ車を飛ばせました。そして、色々の書物を山と積上げた例の二階の四畳半で明智に逢いました。都合のよかったことには、彼は数日来「黒手組」についてあらゆる材料を蒐集し、丁度得意の推理を組立てつつある所でした。而も彼の口ぶりではどうやら何か端緒を掴んでいる様子なのです。で、私が伯父のことを話しますと、そういう実例にぶッつかるのは願ってもないことだという訳で早速承諾して呉れ、時を移さず連立って伯父の家へ帰ることが出来ました。"
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"role": "assistant",
"content": " 間もなく、明智と私とは伯父の邸の数寄を凝した応接間で伯父と対座していました。伯母や書生の牧田なども出て来て話に加わりました。この牧田というのは身代金手交の当日伯父の護衛役として現場へ同行した男なので、参考の為に伯父に呼ばれたのでした。\n 取込みの中で紅茶だ菓子だと色々のものが運ばれました。明智は舶来の接待煙草を一本つまんで、つつましやかに煙を吐いていましたっけ。伯父は如何にも実業界の古狸といった形で、生来大男の処へ美食と運動不足の為にデブデブ肥っていますので、こんな場合にも、多分に相手を威圧する様な所を失いません。その伯父の両隣に伯母と牧田が坐っているのですが、これが又二人共痩形で、殊に牧田は人並はずれた小男ですから、一層伯父の恰幅が引立って見えます。一通り挨拶がすみますと、事情は已に私からざっと話してあったのですけれど、もう一度詳しく聞き度いという明智の希望で、伯父が説明を初めました。\n「事の起りは、左様、今日から六日前、つまり十三日でした。その日の丁度昼頃、娘の富美が一寸友達の所までといって、着換えをして家を出たまま晩になっても帰らない。我々始め『黒手組』の噂に脅されている際でしたから、先ずこの家内が心配を始めましてね、その友達の家へ電話で問合せた処が、娘は今日は一度も行っていないという返事です。さあ驚いてね。判っている丈の友達の所へはすっかり電話をかけさせて見たが、どこへも寄っていない。それから、書生や出入りの車夫などを狩集めて八方捜索に尽しました。その晩はとうとう我々始め一睡もせずでしたよ」\n「一寸御話中ですが、その時、お嬢さんがお出ましになる所を実際に見られた方がありましたでしょうか」\n 明智が尋ねますと、伯母が代って答えました。\n「はあ、それはもう女共や書生などが確かに見たのだそうで御座います。殊に梅と申す女中などは、あれが門を出る後姿を見送ってよく覚えていると申して居りますので......」\n「それから後は一切不明なのですね。御近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を見かけたものもないのですね」\n「そうです」と伯父が答えます。「娘は車にも乗らないで行ったのだから、若し知った人に行会えば十分顔を見られる筈ですが、ここは御存じの通り淋しい屋敷町で、近所の人といってもそう出歩かない様だし、それは随分尋ね廻って見たのですが、誰一人娘を見かけたものがないのです。そういう訳で警察へ届けたものかどうだろうと迷っている所へ、その翌日の昼過ぎでした。心配していた『黒手組』の脅迫状が舞込んだのです。若しやと思っていたものの、実に驚かされました。家内などは手ばなしで泣き出す始末でね。脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人限りで来ること、若し警察へ訴えたりすれば人質の生命はないものと思え......娘は身代金を受取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」\n T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所に一寸した灌木林があって、一本松はその真中に立っているのです。練兵場とはいい条、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、殊に今は冬のことですから一層淋しく、秘密の会合場所には持って来いなのです。\n「その脅迫状を警察で検べた結果、何か手懸りでも見つかりませんでしたか」とこれは明智です。\n「それがね、まるで手懸りがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色の一重の安物で、目印もなにもない。刑事は、手跡なども一向特徴がないといっていました」\n「警視庁にはそういう事を検べる設備はよく整っていますから、先ず間違いはありますまい。で、消印はどこの局になっていましたでしょう」\n「いや、消印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、誰かが表の郵便受函へ投込んで行ったらしいのです」\n「それを函から御出しになったのはどなたでしょう」\n「私です」書生の牧田が頓狂な調子で答えた。「郵便物は凡て私が取纏めて奥様の所へ差出しますんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取出した中に、その脅迫状が混って居りました」\n「何者がそれを投込んだかという点も」伯父がつけ加えました。「附近の交番の巡査などにも尋ねて見たり、色々取調べたがさっぱり判らないのです」\n 明智はここで暫く考え込みました。彼はこれらの意味のない問答の中から、何物かを発見しようとして苦しんでいる様子でした。\n「で、それからどうなさいました」やがて顔を上げた明智が話の先を促しました。\n「わしは余程警察沙汰にしてやろうかと思いましたが、仮令一片のおどし文句にもせよ、娘の生命をとると云われては、そうもなり兼ねる。そこへ、家内もたって止めるものですから、可愛い娘には替えられぬと観念して、残念だが一万円出すことにしました。\n 脅迫状の指定は今も云う通り、十五日の午後十一時、T原の一本松までということで、わしは少し早目に用意をして、百円札で一万円白紙に包んだのを懐中し、脅迫状には必ず一人で来る様にとありましたが、家内が馬鹿に心配して勧めますし、それに書生の一人位連れて行ったって、まさか賊の邪魔にもなるまいと思ったので、若しもの場合の護衛役としてこの牧田をつれて、あの淋しい場所へ出掛けました。笑って下さい。わしはこの年になって始めてピストルというものを買いましたよ。そしてそれを牧田に持たせて置いたのです」\n 伯父はそういって苦笑いをしました。私は当夜の物々しい光景を想像して思わずふき出しそうになったのを、やっとこらえました。この大男の伯父が、世にもみすぼらしい小男の而も幾分愚鈍な牧田を従えて、暗夜の中をおずおずと現場へ進んで行った珍妙な様子が目に見えるようです。\n「あのT原の四五町手前で自動車を降りると、わしは懐中電燈で道を照しながらやっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく樹蔭を伝う様にして、五六間の間隔でわしのあとからついて来ました。御承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやら判らぬので、可也気味が悪い。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあの間どうしていたっけかなあ」\n「はあ、御主人の所から十間位もありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっと御主人の懐中電燈の光を見詰めて居りました。随分長うございました。私は二三時間も待った様な気がいたします」\n「で、賊はどの方角から参りました」\n 明智が熱心に訊ねました。彼は少からず興奮している様子です。といいますのは、ソラ、例の頭の毛をモジャモジャと指でかき廻す癖が始ったので解ります。\n「賊は原っぱの方から来た様です。つまり我々が通って行った路とは反対の側から現れたのです」\n「どんな風をしていました」\n「よくは判らなかったが、何でも真黒な着物を着ていた様です。頭から足の先まで真黒で、ただ顔の一部分丈が、闇の中にほの白く見えていました。それというのが、わしはその時賊に遠慮して懐中電燈を消して了ったのでね。だが、非常に背の高い男だったこと丈けは間違いない。わしはこれで五尺五寸あるのですが、その男はわしよりも二三寸も高かった様です」\n「何か云いましたか」\n「だんまりですよ。わしの前まで来ると、一方の手にピストルをさしむけながら、もう一方の手をぐっと突出したもんです。で、わしも無言で金の包みを手渡ししました。そして、娘の事を云おうとして、口をききかけると、賊の奴矢庭に人差指を口の前に立てて、底力の籠った声でシッと云うのです。わしは黙ってろという合図だと思って何も云いませんでした」"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"content": " そこへまた私のこの「日本人畸形説」である。まことになくもがなの伴奏のやうにも思はれるが、しかし、私はあへてこれを今こそ云ふべきだと信じるのは、断じて人の尻馬にのるのが便利だと考へるからではない。むしろ、この際、如何に条理は整然としてゐても、自己批判のもう一歩といふなまぬるさは、百害あつて一利なく、解剖のメスは渋面の前にひるんではならぬと自らを励ますものがあるからである。\n *\n そもそも、「畸形」といふ名称は、医学的に云ふと、広義の不具者(盲者、聾唖者、肢体不自由者、精神病者)に対して、特に身体の一部が異常な相貌を呈するものを指し、その原因は胚種基原欠陥にありとされてゐる。また畸形に類するものに「変形」があり、これも、先天的なものは異常強制位及び胎児の疾患に由来し、後天性変形は骨疾患、関節疾患、麻痺、荷重、損傷に原因するものと考へられてゐる。そこで、私のいふ精神的「畸形」とは、精神のひろい意味に於ける機能障礙であつて、その病理は、あたかも肉体的な「畸形」或は「変形」に似て、これを治療し得るとしても、普通の精神病の病理とはほとんど関係がなく、一種の「人間学的」診断による症状の発見が必要であり、強ひて云へば、精神の領域に於ける「整形外科的」な理論と技術とに俟つべき種類の心理現象及び、その影響を指すのである。\n 心理学、性格学の立場からこの問題を取扱ふこともある程度できるかも知れぬが、私はさういふ専門に精しくないし、極めて常識的ではあるが、ひろく人間の性情、知能、風俗習慣、時代色といふやうなものを含めて、そこに現代日本、及び日本人の、いはゆる「精神的畸形」を診断するいくつかのカルテを作つてみようと思ふ。\n *\n まづ「精神の畸形」と云はれるやうな現象について、一般的なイメージを決定しておく必要があらう。\n やはり便宜上、「生理的畸形(厳密には「変形」を含む)」との対照において考へてみる。均衡を失した肢体一部の発達或は未発達、筋肉の突然隆起又は陥没、骨格の異常彎曲、欠失、贅増、生理機関の転位、膨脹、萎縮、その一部の死滅、運動の機械的反復、関節操作の不随又は反対屈折、皮膚面の変質硬化等、要するに人体の標準に照らして、著しい不均整乃至不調和を示す先天性或は慢性的異常相貌を、一般に畸形(後天的のものは「変形」)と呼ぶのであるが、精神的畸形も右の例にならつてそのケースを分類してみることもできようと思ふ。しかしそれはいたづらに概念の羅列に終るおそれがあるから、むしろ、手つとり早く、具体的な解説にはいることにする。\n 順序として、この問題を説くために極めて示唆に富む一つの事実をあげておきたい。それは眼科医学のある書物をみると、「ヒステリイ性弱視」といふ病名が出て来る。これには「外傷性神経症」といふ別名がついてゐるが、要するに、その症状にはいろいろあつて、その中で特に興味のあるのは、「視野狭窄」である。これにも、求心性視野狭窄、円筒状視野狭窄、螺旋状視野狭窄、などといふ様々な症状がある。これは、一見普通の眼でありながら、普通の視野のなかにはいつてゐるものがどうかすると見えない。見えなければならない筈のものが見えないといふ一種の視力変調をいふのであつて、求心性は一定距離に於ける左右上下の視野が交互にその一方中心に向つて狭められること、円筒状は、遠くはなれても視野の幅がおなじだといふもの、螺旋状は一定距離に於ける視野が視力試験中だんだん狭まつていくもの、である。\n そこで、この「眼科」でいふ「ヒステリイ性弱視」であるが、これはまづ「畸形的」と名づけることができるらしい。そこで、もう一歩進んで、一般精神機能、殊に、例へば、思考法とか、感受性とか、注意力とか、さういふ「心のはたらき」の上でも、「ヒステリイ性弱視」なる病名がぴつたりあてはまる一つの「畸形的」症状が考へ得られるのである。\n 普通よく人物評などで「視野」が広いとか狭いとか云ふが、これも時によると、その「狭さ」の性質、程度によつては、この症状のあらはれかもしれぬが、それとはまた別個に、例へばすべてのことを自己中心、自分本位にしか考へられぬとか、一事をもつて万事を律したがるとか、あることに気をとられるとほかのことはまつたくお留守になるとか、は、明らかにこの「ヒステリイ」の徴候とよく似てゐる。少くとも、「ヒステリイ性心理的弱視」と呼ぶにふさはしい畸形的現象に相違ないのである。\n さて、かういふ都合のいゝ比較は多くの場合できさうにはないが、私がこれから述べようとするわれわれ同胞の特異な性情は、これを単に「弊風」とか「短所」とか云つただけではすまされない、云はば精神機能の厳密な意味での障礙を指すものであり、風俗としてはグロテスクな、従つて、多かれ少なかれひとに嫌悪感あるひは滑稽感を催させるやうな習性となつてゐるのである。従つて、これをおほざつぱに「畸形」と称する場合、いちいち以上のやうな対照はできなくても、ほゞ私の意図するところは察してもらへると思ふ。\n 問題の根本はわれわれ日本人の「幸不幸」にあるのである。そして、われわれを今日の不幸に導いた病根のなんたるかをまづ知ることにあるのである。「畸形」なる自己宣伝は、いたづらに諧謔を弄することではない。他の如何なる反省語――例へば、封建的、島国的、形式主義的、非科学的、利己的、成り上り者的、小児病的、野蛮等々――よりも、なにか一層慄然とするもの、いかんとも自ら慰めがたきもの、ひとごととは思へぬもの、を感じさせはせぬか、との、最後の切札のやうなものである。\n *\n こゝで断つておきたいことは、俗に奇人、変人などと称せられる一種独特な性格、趣味の持主は、これは必ずしも「畸形」の部類にはいらないことである。常識人の眼からすればその言動はおよそ軌道をはづれた、突拍子もないもののやうに見られるけれども、それは時として、ある種の「哲学者」であり、「自然児」であり、「革命家」でさへもあり、凡俗の風習に対して戦ひを挑む孤独な勇者である場合もすくなくなく、かの、天才に往々みられる放心、偏執、矯激の傾向が、かへつてその精神の平衡を保つアクセントのやうなものである場合と同様、「畸形」の概念にはあてはまらない。若しそこに「病的」なものが認められるとしても、前に挙げた「ヒステリイ」を除いては、それは、あくまでも、精神機能の局部的昂進または衰弱を語るにすぎず、その程度により、性格破綻、または変質として精神病の系列にはいるだけである。つまり「エクサントリック」といふことは、それだけでは「畸形」に属するとは限らないのであつて、その本質に於て常に病理学的な症状の区別ができるやうに思ふ。この点をはつきりさせておかなければ、私のこの説は、たゞ表現の誇張にすぎぬものとみなされるおそれがある。\n しかしながら、いかなる「エクサントリック」にもせよ、それが「エクサントリック」としておほかたあやしまれず、最大級のもののほかはさほどのこともないやうに見過されてゐる場合、殊に、人間生活の常態のなかで、「エクサントリック」の百種百様がうようよと真面目くさつて横行し、時に互に迂散な眼を交し合ふ有様を想像すれば、その風俗はまさに「コミック」の一要素たる「畸形的破調」以外のなにものでもないのである。\n 私は今こゝで「コミック」といふ言葉を使つた。これまた、「畸形」は常にコミックな印象を伴ふものでないことを注意しなければならない。宿命的不幸ともいふべき「不具」の一種である「畸形」がなぜ「可笑しい」か? どんな「畸形」もその在り方によつては決して可笑しくない。また、見かたによつては、心を痛ましめるだけである。その意味で、「畸形」そのものはむしろ悲劇であるが、「畸形」の表情が時とすると喜劇味を帯びるのである。私のこれからの叙述に若しも滑稽をあばくやうな気味あひがあるとしたら、それは自画像を描く画家の筆は却つて容赦なきものだといふことである。更にもう一つあらかじめ注意したいことは、限られた個人またはある少数の者がさうである場合、それはなほ例外的存在と云へるやうなことでも、程度を越えた多数乃至全部がさうである場合は、もはや社会そのものとしては「病的」乃至「畸形的」と断ぜざるを得ない、といふやうな事実があることである。例へば普通は「可笑しい」とは云へないやうな場合に、談話中にやにや笑ふ人間があるとする。その原因はともかく、さういふ人間がごく稀にゐたところで、そのこと自身「畸形的」とまでは考へられまいが、若しそれが一社会、一民族のほゞ共通の傾向とみられる場合、そこには著しく不気味な印象を生じる。かゝる傾向はこれを「畸形的」と名づけなければならなくなるのである。(米国前国務長官ハルの回想録中にみられる日本外交官の表情の印象にその特徴的な傾向が指示されてゐる)\n *\n 最初に、次の三人の人物を例にあげて、それぞれの人物が日本人の「畸形ぶり」を発揮する一場面を紹介し、それが決して当代に於て例外とは云へない所以を述べることにする。\n 甲は総理大臣である。ある日、官立某大学の講堂で全校の学生に訓示だか講演だかをすることになつた。それは型の如き内容のものであつたが、そのなかで、戦時の要求から学年短縮をしなければならぬことに言及し、「これは学生諸君には誠に気の毒であるが、しかし決して失望することはない。かく申す自分も、かつて日露戦役当時、学業半ばにして戦場に向ひ、しかも、今日、諸君の面前に、このとほり、一国の総理! として立つてゐるではないか」と見得を切つた。満堂の――ではなかつたかもしれぬが、心あるものの顰蹙を買つたことは想像に難くない。(その演説の要旨は当時の新聞に載つてゐる)"
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"content": " 乙は地方の某高等学校長である。文部省の指令で科外に文化講座といふものを設けることになり、講師の一人としていくらか名の知れた一作家を招いた。この人選は何人の手によつてなされたかは詳かでないが、ともかく、校長は当日演壇に上つて、まづ講師の紹介をしたのである。すると、そのあまり長くもない紹介は初めから終りまで、聴講者たる全校生徒の、実に傍若無人な嘲笑によつて迎へられ、その哄笑が何に原因するかを察知し得ない校長は、まことにしどろもどろな態度で紹介を切上げざるを得なかつたのである。(筆者自身、これを目撃した)\n 丙は外交官である。彼はある重要な任務をおびて某大国へ乗り込むことになつた。公式に日本を代表する単独使節としての華やかな役割である。某国に於ては、官民をあげての大歓迎で、首都の駅前から国賓のために宛てられた宿舎まで、沿道をうづめる群集である。彼は接伴役の外相と同乗でオープンの高級車におさまり、湧きあがる歓声と日の丸の旗の波のなかを、左右に会釈をなげながら進む。ところが、宿舎へ着く頃は、群集の歓声はたちまち怒号にかはる。彼等は云ふ――なんだ、あれは! 毎日こんな歓迎は受けてゐるぞ、と云はんばかりの態度ぢやないか! けしからん! 群集のこの不穏な空気を鎮めるのに、当局はずゐぶん骨を折つたといふ話。(当時わが国に駐在してゐた某国大使館員の直話)\n 以上三人の人物の、どこが「をかしい」かといふことは誰にでもすぐにわかる。たまたま最もそれがわかり易い場面に登場したからであり、かゝる地位にある人物にしてこのことあるのが更に「をかしい」のに輪をかけてゐるからである。しかし、この「をかしさ」は、日本以外の国、日本人以外の国民には、さうもち合せのない「をかしさ」であり、人に注意されゝば自分でも気のつくことに違ひないが、しかし、またいつか無意識にそれと似たことを繰り返す。自分ではどうにもならぬ、瘤のやうにかくしきれないもの、理窟ぬきに自然にさうならざるを得ぬ一種の「調子ッ外れ」のやうなものである。結果だけをみれば、原因の説明は簡単にできる。しかし、原因と結果との間に、一種不可解な跳躍があり、原因がそのまゝ、結果になつてゐるとでも云ひたい露出症的な風景である。そして、これをもし、困つたことと考へるならば、これほど困つた病ひはなく、この種類の病ひがいろいろの形で、いろいろな場合に、多くの同胞の間にみられるといふことは、従つて、この病ひは、個人の精神を冒してゐるばかりでなく、われわれの社会の組織、動向、感覚にそれが浸潤し、異常なることが常態とさへなつてゐるといふことは、もはや、覆ふべからざる事実なのである。\n *\n すこしくどくなるかもわからないけれども、これから、この病ひが「どんな形」でひろくわれわれの間に行きわたり、それぞれが、どんな症状を示してゐるかを、いろいろな場合にのぞんで診断を下してみることにする。\n\n 例へば電車の中で人の足を踏んだり、人に足を踏まれたりする経験のない日本人はまづ珍らしい。しかし、人の足を踏んだ時は事情やむを得ぬことにするが、人に足を踏まれた時は、実に相手は気にくわぬ存在である。それはそれでよろしいとして、実は、人に足を踏まれることと、人の足を踏むことは、そんなに違つたことではなく、よく人に足を踏まれるやうな人間が、よく人の足を踏むのである。云はば同じ精神の状態から生れる偶然の異つた結果なのである。極端な場合を云へば、人に足を踏まれまいと気をつけるあまり、つい人の足を踏んでしまふことさへある。\n「痛えなあ、気をつけろ!」\n 耳のそばで声がする。――が、それでもまだ、気をつけねばならぬのは自分だといふことに気がつかぬ場合がある。なぜなら、自分は、こんなに足を踏まれまいと気をつけてゐるからである。\n この精神の状態が、慢性疾患の如く、日常の生活のなかで、時をきらはず頭をもたげるとすれば、これを精神的畸形と名づけるよりほかはないではないか。\n *\n 私はこの信州の山村に移り住んで、いろいろ新しい見聞をしつゝあるが、日本人のこの種の畸形ぶりは、大都会も地方の山村も変りはない。\n 家のものが小豆をすこしほしいと云つて近所の農家へ相談に行く。一升ぐらゐならといふので、それではと値段をたづねると、いくらでもいゝと云ふ。しかし、いくらでもいゝ筈はないので、強ひて云はせようとすると、ほかではどのくらゐだらうかと逆に問うてくる。それから、先日町から来た衆が何十円とかならいくらでも買ふと云つたが、そんなに高くとる気はないと云ふ。どうしても、これくらゐとは云はぬので、その町から来た衆のつけた値を払ふ。けつきよく、いらぬといふものを無理に受けとらされたかつかうがしたいのである。\n「頭かくして尻かくさず」のこれほどぴつたりした例はないのであるが、これもまた、われわれ日本人の痛ましいすがたである。\n\n このへんでは、今でも、夫婦はいつしよに外へ出ないことになつてゐて、たまたま肩をならべて道を歩きでもすると、人がわらふと云ふ。\n ほんとに人がわらふかどうか、わらはれるやうに思ふはうが強いのであらう。\n 男女青年の集りが時々ある。夜おそくなどなると家のものから抗議が出るらしい。さういふ抗議に反撥する気分がだいぶ出て来てゐる。それにも拘らず、その集りの帰りをみてゐると、男は男、女は女でかたまつてゐる。どうかすると、少しおくれて、二人の男女が話しながら歩いてゐることがある。しかし、その二人は道のはしとはしとを選んで歩いてゐる。つまり、手を伸ばしても決してとゞかない距りをおいてゐるのである。\n さうかと思ふと、この正月に、男女青年合同の新年宴会なるものが催され、飲めや歌への騒ぎを演じたさうであるが、ある人の話によると、集会場の中から漏れる歌は、まつたく大人たちの普通の乱れた酒席のそれと同じで、女子青年がよく黙つて聴いてゐられたものだ、といふことである。"
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"content": " 大和守が設けの座につくと、亀谷清左衛門が披露しようとした。大和守はそれを遮り、よしわかっていると云って、甲斐を見た。\n「久びさの対面だな、原田」\n「おそれながら」と甲斐が云った、「お取次まで申上げましたとおり、私は八十島主計と申す浪人者でございます」\n 大和守は微笑した。すると、眼尻と唇の脇に皺がより、それが年だけの老いを証明するかのようにみえた。\n「そうであった」と大和守は云った、「うん、いつぞやどこかで会ったことがある、いやたしかに、たびたび会ったことがあると思うが、今日はまたなんの用があってまいったのか」\n「些か珍らしい物が手にはいりましたので、お笑いぐさに献上かたがた、世間ばなしなどお耳にいれたいと存じまして」\n「世間ばなし」\n「御身分高き方がたには思いもよらぬような、桁外れな話しが世間にはいろいろとございます、お骨休めにもなればと存じまして、二三御披露つかまつりたいのですが」\n「よかろう、が、まず土産を見ようかな」\n 亀谷が立っていった。そしてすぐに、二つの箱をのせた蒔絵の台を、若侍に持たせて戻り、座敷へはいると自分が持って、大和守の前へ進み出た。清左衛門が箱の蓋をあけ、甲斐がもういちど説明し、よろしければ自分が毒見をするから、一と口召し上ってはどうかと云った。大和守は興を唆られたとみえ、味わってみようと云った。そこで甲斐は洋杯と酒壜を受取り、一杯注いで飲んだ。酒は透明な赤い色をしていて、杯に注ぐとこくのある芳香を放った。そのあいだに亀谷が、廊下に控えている(その箱を持って来た)若侍を呼びいれた。おそらく毒見をさせるためだろう、しかし大和守はそれを制して、自分も飲んでみようと云った。\n「おれに毒を盛るような者もあるまい」と大和守は杯を取りながら云った、「また、葡萄牙の美酒をあたら毒見役などに飲まれては惜しい、さあ注いでくれ」\n 葡萄酒そのものはさして珍らしくはなかったが、その酒のやわらかくこなれた甘味と、こもったような香りとは、大和守の舌を陶酔させたようであった。\n「浪人の身で」と大和守は云った、「かように高価なものが自由になるとは、よほど内福のうえによき手蔓があることだろうな」\n「おそれいります、内福どころか家政は火の車、いまにも所帯じまいをしかねないありさまでございます」\n「所帯じまい、――」\n「もちろん御存じはございますまい、これは下世話の申す言葉で、家計がゆき詰まり家主に追いたてられまして、一家親子がちりぢりに駆け落ち夜逃げなどをすることでこざいます」\n「しかも、かようなものを土産にくれるというのか」\n「おそれながら大和守さまは、当代十善人のお一人と世評にかくれもございません」と甲斐は云った、「御威勢なみならぬ厩橋さまはじめ、閣老諸侯多きなかにも、この美酒を差上げ、味と香を篤と味わって頂きたいのは、大和守さまごいちにんでこざいます」\n 甲斐は両手を膝に置いて、静かに大和守の眼をみつめた。大和守広之はその眼を見返した。甲斐の眼は静かだったが、大和守の視線には、相手の心を読み取ろうとするような、一種の力がこもっていた。\n「うん」とやがて大和守は云った、「この酒の味と香りは珍重だ、これを味わいながら話しを聞くとしようか」\n「おそれながら、お側衆の耳には聞き苦しいこともあるかと存ぜられますが」\n「人払いが所望か」\n「私は構いませぬ、けれども、話しの中にはお側から好ましくないと、お差止めの出るようなものもございますので」\n 亀谷が咳をした。\n「清左衛門、さがっておれ」と大和守が云った、「呼ぶまで来てはならんぞ」\n 亀谷はためらったが、大和守は「さがっておれ」といってきかなかった。\n 亀谷清左衛門は甲斐を見た。甲斐は差していた脇差をとって、清左衛門に渡し、清左衛門は立って、廊下に控えていた若侍とともに去った。――庭のほうからかすかに風が吹き入って来、燭台の火がゆらめいた。甲斐は半ば残っている杯の酒を、火にかざして眺めていたが、その眼をあげてふと、大和守のうしろに佩刀を捧げている小姓に向けた。\n「聞こう」と大和守が云った。\n「まず御覧を願いたいものがございます」と会釈して、甲斐はふところから、奉書に包んだ書状を取出し、小姓に向かって、「これを、御前へ――」と云った。\n「それには及ばぬ、そのまま寄れ」と大和守が云った。\n 甲斐は膝ですり寄って、その書状を差出したが、大和守が受取るとすぐに、元の座までさがった。\n「これはどういうものだ」\n「まず御披見を願います」\n 大和守は杯を置いて、包んである奉書紙をひらき、中から四つにたたんだ書状を出した。そうして、燭台のほうへ向けて、書状を眼からやや遠ざけながら読んだ。甲斐の眼はするどくなり、大和守の表情の、どんな変化もみのがすまいとするように、じっと眸子を凝らしていた。――大和守の顔はゆっくりと硬ばってゆき、下唇がさがった。書状を見る眼は動かなくなり、その表情には激しい驚きと、怯えたような色があらわれた。\n 大和守はその書状を、急に両手でぴたりと合わせた。その文面を自分の眼から隠そうとするような動作で、強く合わせた両手に挾まれて、紙の音が高く聞えた。\n「それは写しだということです」と甲斐がものやわらかに云った、「実の証文はべつにあるとのことですが、その文面に御記憶はございませんでしょうか」\n 大和守は書状を下へ置き、懐紙を出して唾を吐いた。そして、その紙を小姓のほうへ投げると、屹とした眼で甲斐を見た。\n「おれに覚えがあるとはどういうことだ」\n「これは世間ばなしでございますが」と甲斐が云った、「ただいまから数えて十年ほどまえの夏、小石川でさる大名の堀普請がございました。そのとき普請奉行を勤めていました者が、公儀お側衆であられた某侯からひそかに召され、いま御覧にいれました証文と同じ意味のことを告げられたうえ、――一家一門にもこころゆるせぬ者がいる、よくよく用心をせよと注意されたと申すことです」\n 大和守がなにか云おうとしたが、甲斐はごく穏やかに、そのまま言葉を続けた。\n「もちろん、将軍家御側衆であられた某侯は、ただ御好意から忠告されたことでしょう、その普請奉行はじめ、主家のお為をおもう家臣どもは深く感銘し、御注意に添って家中の安定につとめました、けれども、その証文の主である一人は、おのれの職権を悪用して、人を煽動し、無法に事を起こし、ついには公儀の御裁決を受けなければならぬ、という状態にまでたち到りました」\n「さてこの世間ばなしをよく考えてみますと」甲斐は片手をゆらりと振った。その手には杯を持っていて、残っている赤い酒が、杯の中でこぼれそうに揺れた、「――その証文は三十万石分与ということが目的ではなく、さる大名の家中を紛争におとしいれて公儀の御評定にかけ、仕置かた不取締りという御裁決で、六十万石改易にもってゆく」\n「待て原田、待て」と大和守が云った。\n 甲斐は低頭して、「八十島主計でございます」と微笑した。\n「いまの一言、ゆるがせならぬことだぞ」と大和守は云った、「たとえ世間ばなしにことよせたにせよ、六十万石改易が真の目的であったとは、酒井侯ばかりでなく幕府ぜんたいを誹謗するものだ」\n「ではうかがいます、その証文はどういう意味でございましょうか」甲斐は杯を置いて、静かに大和守を見まもった、「十年以前、御側衆であられた某侯が、ひそかに同じ趣意の忠告を与えられました、僕は三十万石分与という密約のあることを知って忠告をなされた、もちろんその証文の他のお一人は、天下に並ぶものなき御威勢のある方です、しかし、――いかに御威勢並ぶものなき方でも、六十万石を分割し、御自分の縁辺に当る者に三十万石を分与する、などということができるものでしょうか」\n 大和守は屹と歯を噛みしめた。すると両の頬の筋肉が動き、唇が白くなった。\n「改めてうかがいます」甲斐は低く静かに云った、「いまでも某侯は、三十万石分与の密約がはたされるとお考えでしょうか」\n 大和守は呼吸を荒くし、暫くなにも云わなかったが、やがて振返ると、小姓に向かって、「さがっておれ」と云い、佩刀を取って脇に置いた。小姓は入側から去った。大和守は両手を膝にして、やや仰向きになりながら、眼をつむった。\n「存念を申せ」と眼をつむったままで大和守が云った、「遠慮はいらぬ、言葉を飾る必要もない、云いたいだけのことを存分に云え」\n 甲斐は座をすべって、両手を突いた。\n「川越の侍従(松平信綱)が亡くなられたのは万治二年でございました」と甲斐は囁くように云った、「そのとき厩橋侯は御老中、――待従の御意志を継ぐにはもっとも適したお人柄です」\n 大和守は唾をのんだ、「仙台六十万石の取潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」甲斐はそこで叫ぶように囁いた、「――その証文は六十万石改易にかけられた罠です、その罠は目的どおりにはたらき、老中御評定は目前に迫っております、私どもはこういう事態にならぬよう、忍耐のうえにも忍耐してまいりました、罪なくして罰せられる者、無法に刑殺される者、闇討ち、置毒――、幾十人となく血をながし斃れてゆくさまを、ただ主家大切という一義のために耐え忍んでまいったのです、しかしそのかいもなく、老中御評定ということになりました、それも数日うちにとうけたまわりました」\n 甲斐はそこで言葉を切った。昂ぶってくる感情をしずめるためだろう、両手を突いたまま、暫く息をととのえていたが、やがて躯を起こし、両手をそっと膝に置いた。\n「御評定の裁決によっては、一門一家諸館を合わせて、八千余に及ぶ人数が郷土を追われ家を失い、生きる方途に迷わなければなりません」甲斐は殆んど眠たそうな眼つきで、大和守を見た、「――おそれながら大和守さまは、十年まえ、伊達家のために御好意をお示し下さいました、このたびの御評定にも、また御好意を願えると信じてよろしゅうございましょうか、それともこのたびは、かないませんでしょうか」\n 甲斐はぴたっと口をつぐんだ。まるで弾じていた琴の絃が切れでもしたように、言葉の中途でぴたりと口をつぐみ、そのままじっと大和守の眼をみつめた。大和守は写しの証文をひろげ、皺をのばして、緩慢な動作で元のように、それを四つにたたんだ。\n「評定は二十七日、――」と大和守は甲斐を見ずに云った、「月番の板倉邸で開かれる筈だ、そのとき、この証文の実のほうを持って来ることができるか」\n「そのほうがよろしければ」\n「実のものに紛れはあるまいな」\n「御助力が願えるのですか」\n「わからぬ、いまはなんと云いようもない」と大和守は自制するように云った、「だがおれにできることはやってみよう、いま思い返すと」そこで急に声をおとした、「――万治のおりに忠告したということは、おれ自身、知らずして一と役買ったという結果になるかもしれない、むろん、幕府にそんな意図がある筈はなし、ここで六十万石を取潰すなどということができるわけもないが、またそのほうの懸念にも一理はあるようだ」\n「御助力が願えるのですか」\n「評定の席で会おう」と云って大和守は、誰ぞいるか、と呼びかけ、小姓が来ると佩刀を持たせて立ちあがった。甲斐はまだ見あげてい、大和守は振返って、甲斐の眼をみつめた、「――世間ばなしは面白かった、土産の酒もたのしみにしよう、またまいれ」\n 甲斐は静かに両手を突いた。\n\n断章(十五)"
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"role": "assistant",
"content": "\n「不味い、この酒はなんだ、不味いぞ」\n ――ただいま、ただいますぐに。\n「内膳はまだか、只野はまだ帰らないのか」\n ――もはや戻るじぶんでございます、どうぞいま暫く。\n ――申上げます。\n「助左か、なんだ」\n ――津田玄蕃どのがおめどおりを願っております。\n「よし、とおせ」\n「ずっと寄れ、玄蕃、辞儀は無用だ、ずっと寄れ、一つ遣わそう」\n ――頂戴するまえに申上げたいことがございます。\n「聞こう、なんだ」\n ――おそれながら、お人払いを。\n「構わぬ、隼人に隠すことはない、遠慮なく申せ」\n ――老中評定の日取が決まりました。\n「いつだ」\n ――明後二十七日、月番老中板倉侯の屋敷でございます。\n「列座の顔ぶれは」\n ――老中は酒井侯はじめ、久世侯、土屋侯、板倉侯、稲葉侯、申次として町奉行の島田出雲守、作事奉行の大井新右衛門、大目付は大岡佐渡守、目付は宮崎助右衛門、以上の由にございます。\n「召されるのは誰と誰だ」\n ――涌谷さま、柴田外記、原田甲斐、古内志摩の四名に、聞役は蜂谷六左衛門でございます。\n「うん、それで」\n ――初めに涌谷さまは境論をもちだし、続いて家中の政治紊乱を訴えられるとのことです。\n「老中はどう扱うようすだ」\n ――板倉侯が涌谷さまを召されましたとき、涌谷さまは陸奥守お為筋について述べるよう、また、原田甲斐は一ノ関さまについて弁護するがよかろう、との内意をもらされたとうかがいました。\n「原田におれの弁護だと」\n ――そのように承知いたしました。\n「すると、政治問題はとりあげられるのだな、うん、原田か、悪くはあるまい、原田なら悪くはあるまい、うん、隼人」\n ――はっ。\n「原田を呼びにやれ、いそぐぞ」\n ――お待ち下さい、それは御無用かと存じます。\n「どうして無用だ」\n ――船岡はいま家中からにらまれており、いかなる動静もその注目から逭れることはできません、また、一ノ関さまについてどう陳弁するかは、船岡がよく心得ていると存じます。\n「玄蕃はそう思うか」\n ――私のみならず家中一般、世上の評にまで明らかでございます。\n「うん、それはおれも聞いている」\n ――おそれながら、万々一にも一ノ関さまが非分となれば、すなわち船岡の破滅でございます、お召しになれば家中の疑惑を招くばかり、ここは船岡にお任せあそばすほうがお為であろうと存じます。\n「わかった、ではそうするとしようが、念のため玄蕃から原田に伝えてくれ」\n ――かしこまりました。\n「おれが原田を頼みにしておる、いや待て、うん、隼人、酌をしろ」\n ――ただいま酒が替わります。\n「それには及ばぬ、注げ」\n「うん、玄蕃、こうだ、おれは原田がぬかりなくやるだろう、と安堵している、そう申し伝えてくれ」\n ――承知つかまつりました。\n「それだけか」\n ――会津の中将(保科正之)さまが、このたびの件につきまして。\n「ああたくさんだ、その噂は聞いている、保科侯は厩橋侯を妬んでいるのだ、厩橋侯が大老となり、下馬将軍とまでいわれて、天下第一の威勢を張っておられるのが気にいらぬのだ、なに会津の中将どのがいかに歯がみをしても、将軍家でさえ遠慮をなさるほどの厩橋侯に、盾を突くことなどができるものではない、そんな噂は気にかけるな」\n ――それをうかがって心丈夫になりました。\n「盃をやろう、一つまいれ」\n ――申上げます。\n「助左か、なんだ」\n ――只野内膳がたち戻りました。\n「待ちかねた、すぐに呼べ」\n ――私はこれでおいとまを頂きます。\n「うん、よく来てくれた玄蕃、落着したらゆっくり祝宴を張ろうぞ」\n ――御首尾よろしく。\n「大儀であった」\n ――内膳ただいま戻りました。\n「おそいぞ、内膳、おそいぞ、もはや三刻にもなるではないか、なにをしていた」\n ――おそれながら、どうしてもおめどおりがかなわなかったのです。\n「めどおりが、かなわぬと」\n ――言葉を尽して願ったのですが。\n「ばかな、ばかな、そんなばかな話しがあるか、三度も五たびも伺ったうえ、今日なら会おうと云われた筈ではないか」\n ――仰せのとおりでございます。\n「そのほうが聞いて来たのだぞ」\n ――御意のとおりでございます。\n「おれはこんど出府して以来、酒井侯とはまだいちども会う機会がなかった、しかし涌谷の訴訟が切迫しているいま、どうしてもいちど対面しなければならない、それは酒井侯にとっても必要であろうし、今日は会って都合の打合せがある筈だった」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "(一)\n\n池に咲く菖蒲かきつばたの鏡に映る花二本ゆかりの色の薄むらさきか濃むらさきならぬ白元結きつて放せし文金の高髷も好みは同じ丈長の櫻もやう淡泊として色を含む姿に高下なく心に隔てなく墻にせめぐ同胞はづかしきまで思へば思はるゝ水と魚の君さま無くは我れ何とせんイヤ汝こそは大事なれと頼みにしつ頼まれつ松の梢の藤の花房かゝる主從の中またと有りや梨本何某といふ富家の娘に優子と呼ばるゝ容貌よし色白の細おもてにして眉は※(「霞」の「コ」に代えて「マ」)の遠山がた花といはゞと比喩を引くもこぢたけれど二月ばかりの薄紅梅あわ雪といふか何か知らねど濃からぬほどの白粉に玉虫いろの口紅を品よしと喜こぶ人ありけり十九といへど深窓の育ちは室咲きも同じこと世の風知らねど松風の響きは通ふ瓜琴のしらべに長き春日を短かしと暮す心は如何ばかり長閑けかるらん頃は落花の三月盡ちればぞ誘ふ朝あらしに庭は吹雪のしろ妙も流石に袖は寒からで蝶の羽うらの麗朗とせし雨あがり露椽先に飼猫のたま輕く抱きて首玉の絞り放し結ひ換ゆるものは侍女のお八重とて歳は優子に一劣れど劣らず負けぬ愛敬の片靨誰れゆゑ寄する目元のしほの莞爾として手を放しつ不圖見返りて眉を寄せしが又故にホヽと笑つて孃さま一寸と御覽遊ばせ此マア樣子の可笑しいことよと面白げに誘はれて何ぞとばかり立出る優子お八重は何故に其樣なことが可笑しいぞ私しには何とも無きをと惱ましげにて子猫のヂヤレるは見もやらで庭を眺めて茫然たり孃さま今日もお不快御坐いますか否や左樣も無けれど何うも此處がと押して見する胸の中には何がありや思ふ思ひを知られじとか詞をかへて八重やお前に問ふことがある春につきての花鳥で比べて見て何が好きぞ扨も變つたお尋ね夫は心々でも御坐いませうが歸鴈が憐れに存じられます左りとては異なことぞ都の春を見捨てゝ行く情なしがお前は好きか憐れといへば深山がくれの花の心が嘸かしと察しられる世にも知られず人にも知られず咲て散るが本意であらうか同じ嵐に誘はれても思ふ人の宿に咲きて思ふ人に思はれたら散るとも恨みは有るまいもの谷間の水の便りがなくは流れて知られる頼みもなしマアどの位悲しからうと入らぬ事ながら苦勞ぞかしとて流石に笑へばテモ孃さまは花の心を宜く御存じ私しが歸鴈を好きと云ふは我身ながら何故か知らねど花の山の曉月夜さては春雨の夜半の床に鳴て過ぎる聲の別れがしみ〴〵と身にしみて悲しい樣な淋しいやうな又來る秋の契りを思へば頼母しいやうにもあり故郷へ歸るといふからして亡き親の事が思はれますと打しほるれば夫は道理わたしでさへも乳母の事は少しも忘れず今も在世なら甘へるものをと何ぞにつけて戀しければ子の身では如何ばかり心ぼそくも悲しくも有らうなれど及ばずながら私しは力になる心姉と思ふてよと頼むは可笑しけれど歳上なれば其約束ぞ何時も〳〵云ふことながら私しは眞實の同胞と思ひますと慰められて嬉しげに御縁あればこそ親どもばかりか私しまでめぐり廻つて又の御恩海とも山とも口には如何も申されねどお前さまのお優さしさは身にしみて忘れませぬ勿躰なけれどお主樣といふ遠慮もなく新參の身のほども忘れて云ひたいまゝの我儘ばかり兩親の傍なればとて此上は御座いませぬ左りながら悔しきは生來の鈍きゆゑ到底も御相談の相手にはなされて下さる筈もなし別ものに遊ばすと知りながらお恨みも申されぬ身の不束が恨めしう存じますとホロリとこぼす膝の露を優子不審しげに打まもりて八重は何が氣に障つてか思ひもよらぬ怨み言つもりて見よかし何の隔てゞ隱しだてをするものぞ母さまにさへ申さぬことも遂ひに話さぬ時はなきを今日に限つて其やうな事いはれる覺えは何もなけれどマア何と思ふてぞといふ顏じつと打仰ぎて夫々それが矢張りお隔て何故その樣にお藏くし遊ばす兄弟と仰しやつたはお僞りか、僞りでは無けれど隱くすとは何を、デハ私しから申しませう深山がくれの花のお心と云ひさして莞爾とすれば、アレ笑ふては云はぬぞよ\n\n(二)\n\n思ひ入る路は一筋なれと夏引きの手引きの糸の乱れぐるしきは戀なるかや優子元來才はじけならず柔和しけれど悧發にて物の道理あきらかに分別ながら闇らきは晴れぬ胸の雲にうつ〳〵として日を暮らすをお八重しかぞと見て取りぬ我れも思ひの無き身ならねば他人ごとなりとも悲しきを假初ならぬ三世の縁おなじ乳房の寄りし身なり山川遠く隔たりし故郷に在りし其の日さへ東の方に足な向けそ受けし御恩は斯々此々母の世にては送りもあえぬに和女わすれてなるまいぞと寐もの語に云ひ聞かされ幼な心の最初より胸に刻みしお主の事ましてや續く不仕合に寄る方もなき浮草の我れ孤子の流浪の身の力と頼むは外になし女子だてらに心太く都會の地へと志ざし其目的には譯もあれど思ひはいすかのはしも無く尋ぬる人を引かへて尋ねぬならねど身に恥づれば我れとは訪はれぬお主のもとへ又見出されて二度の恩あるが中にも取分けて孃さまの御慈愛は山の中の峯たかきが上も高く海の中の沖深きが上も深しお可愛や誰れ人を彼のやうに思しめして御苦勞なき身の御苦勞やら我身新參の勝手も知らずお手もと用のみ勤めれば出入のお人多くも見知らず想像には此人かと見ゆるも無けれど好みは人の心々何がお氣に染しやら云はで思ふは山吹の下ゆく水のわき返りて胸ぐるしさも嘸なるべしお愼み深さはさることなれど御病氣にでも萬一ならば取かへしのなるべきならず主は誰人えぞ知らねど此戀なんとしても叶へ參らせたし孃さまほどの御身ならば世界に苦もなく憂ひもなく御心安くあるべき筈をさりとては又苦の世の中やと我身に比べて最憐がり心の限り慰められ優子眞實たのもしく深くぞ染めし初花ごろも色には出じとつゝみしは和女への隔心ならず有樣は打明てと幾たびも口元までは出しものゝ恥かしさにツイ云ひそゝくれぬ和女はまだ昨日今日とて見參らせし事も無きならんが婢女どもは蔭口にお名は呼ばずて光氏さまといふとかやお姿は察せよかし夫に引かれてゞは無けれど彼の人は父さま無二の御懇意とて恥かしき手前に薄茶一服參らせ初しが中々の物思ひにて帛紗さばきの靜こゝろなく成りぬるなり扨もお姿に似ぬ物がたき御氣象とや今の代の若者に珍らしとて父樣のお褒め遊ばす毎に我ことならねど面て赤みて其坐にも得堪ねど慕はしさの數は増りぬ左りながら和女にすら云ふは始めて云はぬ心は描かぬ畫もおなじ事御覽じ知る筈もあらねば萬一やの頼みも無きぞかし笑はるゝか知らねども思ひ初し最初より此願ひ叶はずは一生一人で過ぐす心憂きに送る月日のほどに思ひこがれて死ねばよし命が若しも無情くて如何に美るはしき夫人むかへ給ひぬとも愛らしき兒生れ給ふとも聞く身のつらさが思るゝぞとてほろ〳〵と打泣けばお八重かなしく身を寄せてお前さまは何故そのやうに御心よわい事仰せられるぞ八重は元來愚鈍なり相談してからが甲斐なしと思しめしてか馴れぬ御使ひも一心は一心先方さまどの樣な御情しらずで有らうとも貫かぬといふ事ある樣なし何ともしてお望み屹度叶へさせますものを御内端すぎてのお物思ひくよ〳〵斗り遊ばせばこそ昨日今日は御顏色もわるし御病ひでも遊ばしたら御兩親さまは更なる事なり申すも慮外ながら妹と思ぞとての御慈愛に身は姉上をもうけし心お前さま大切なほどお案じ申さずには居りませぬを忌はしや何ごとぞ一生一人で世を送るの死んで思ひを遁がれたしのと突きつめた御心に必らずお成り遊ばすなと宥める身さへ眼はうるみぬ、堪忍せよかし和女にまで苦をかけてあらぬ思ひに心を盡くすが我が身ながら口惜しきなり左りとても彼の人の事斷念がたきは何ゆゑぞ云はで止まんの决心なりしが親切な詞きくにつけて日頃の愼みも失なりぬと漸々せまりくる娘氣に涙に咽びて良時ありしが、八重さぞ打つけなと惘れもせんが一生の願ひぞよ此心傳へては給はるまじや嬉しき御返事聞きたしとは努々思はねど誰れ故みじかき命ぞとも知られて果てなば本望ぞかしと打しほるれば、又しても其樣なこと御前さま此々とお傳へ申さば好きお返事は知れた事なり最早くよ〳〵とは思しめすな、否や〳〵それは八重が知らねばぞ杉原さまは其やうな柔弱な放垨なお人で無ければ申出してからが心配なり不埒者いたづら者と御怒りにならば何とせん、夫は餘りのお取こし苦勞岩木の中にも思ひのなきかは無情き仰せの有る筈なし扨も御戀人は杉原さまとやお名は何とぞ、三郎さまと申のなり此頃來給ひしは和女が丁度不在の時よ一足違ひに御歸宅ゆゑ知らぬのは道理と云ひかけてお八重の顏さしのぞき此願ひ若し叶はゞ生涯の大恩ぞかし諄うは云はぬ心は是よと合はす手に嬉しき色はあらはれたり"
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"role": "assistant",
"content": "\n(三)\n\n雲雀のあがる麥生なゝめに見渡しながら岡のすみれを摘あらそひし昔しは何の苦か有りし野河の岸に菊の花手折とて流れ一筋かち渡りし給ふ時我はるかに歳下の身のコマシヤクレにも君さまの袂ぬれるとて袖襻かけて參らせしを如何に人にも笑はれけん思へば其頃が浦山し君さま東京へ歸給ひし後さま〴〵續く不仕合に身代は亂離骨廢あるが上に二親引つゞきての病死といひ憂きこと重なる神無月袖にもかゝる時雨空に心のしめる我れを取らへて郡長の忰づらが些少の恩鼻にかけての無理難題やり返して遣りたけれど女子の身は左樣もならず柳にうけるを宜きことにして金やらん妾になれ行々は妻にもせんと口惜しき事の限り聞くにつけても君さまのことが懷かしく或る夜にまぎれて國を出でつ漸々東京へは着きし物の當處なければ御行衛更に知るよしなく樣々の憂き艱難も御目にかゝる折の褒められ種にと且つは心に樂しみつゝ賤しい仕業も身は清し行ひさへ汚がれずばと都乙女の錦の中へ木綿衣類に管笠脚袢はづかしや女子の身不似合の菓もの賣りも一重に活計の爲のみならず便りもがな尋ねたやの一心なりしが縁しあやしく引く方ありて不圖呼び入れられし黒塗塀お勝手もとに商ひせし時後にて聞けば御稽古がへりとや孃さまの乘したる車勢ひよく御門内へ引入るゝとて出でんとする我と行違ひしが何に觸れけん我がさしたる櫛車の前にはたと落しを知らず曵しかばなど堪るべき微塵になりて恨みを地に殘しぬ孃さま御覽じつけて氣の毒がり給ひ此そこねたるは我身に取らせよ代りには新らしきのを取らすべしとの給ひしかど元來落せしは我が粗忽なり曵かれしも道理破損しとて恨みもあらず况てや代りをとの望みもなし是れは亡母が紀念のなれば他人に奉るべき物ならずとて拾ひ納めて懷にせしをいとゞしく御不愍がり扨は親も無き人か憐れのことや先庭口より我が部屋まで來よ身の上も聞きたしとて連れ給ひぬ今こそ目馴れたれ御座敷の結搆お庭のたゝずまひ華族さまにやと疑がひしは一に孃さまの御言語容姿にも依りし物か其お美くしき孃さま御親切にも女子同志は互ひぞとて御優しき御詞我もしきりに嬉しくて尋ぬる人ありとこそ明さゞりしが種々との物語に和女の母御は斯々の人ならずやと思ひ寄らぬ御問ひ誠に若かぞ何として御存じと云へば忘れて成るべきか和女と我れとは兄弟ぞかし我れは梨本の優なるをとて手を取りての御喜び扨は母が乳を參らせたる君なりしか御目にかゝりし嬉しさに添へて落ぶれし身はづかしと打泣きしに榮枯は時なるものを歎く事かは萬は我れに委せよかし惡るき樣にはなすまじければ今日より此處に身を落つけずや母樣には我れ願はんとて放し給はず夫樣も又くれ〴〵の仰せに其まゝの御奉公都會なれぬ身とて何ごとも不束なるを彼は彼此は此と陰になりてのお指圖に古參の婢女も侮どらず明日の我れ忘れし樣な樂な身になりたるは孃さまの御情一なり此御恩何として送るべき彼の君さまに廻り逢はゞ二人共々心を合せてお話し相手に成るべきをと何につけても忍ばるゝは又彼の人の事なりしが思ひきや孃さま明日今日のお物思ひ命にかけてお慕ひなさるゝ主はと問へば杉原三郎どのとや三輪の山本しるしは無けれど尋ぬる人ぞと知る悲しさ御存じ無ければこそ召使ひの我れふし拜みてのお頼み孃さま不憫やと思はぬならねど彼の人何として取持たるべき受合ては立ちし物の此文には何の文言どういふ風に書きて有るにや表書きの常盤木のきみまゐるとは無情ひとへといふ事か岩間の清水と心細げには書き給へど扨も〳〵御手のうるはしさお姿は申すも更なり御心だてと云ひお學問と云ひ欠け處なき御方さまに思はれて嫌やとはよもや仰せられまじ我れ深山育ちの身として比べ物になる心はなけれど今日までの憂き苦勞は何ゆゑぞ逢はんと思ふ夫一に萬の願ひをかけ置きしに今目の前に逢ふ日は來ても逢ふが悲しき事義に成りぬ孃さまの御恩は泰山の高きも物の數かはよしや蒼海に珠を探れと仰せらるゝとも夫に違背はすまじけれど我が戀人周旋んことどう斷念めてもなる事ならず御恩は御恩これは是なり寧そお文取次いだる体にして此まゝになすべきか否や〳〵夫にては道がたゝず實は斯々の中なりとて打明けなば孃さま御得心の行くべきか我こそは夫で宜けれど彼れほどまでに思しめし入れたもの左らばと云ひて斷念のつく筈なし我身の願ひが叶へばとて現在お心知りながら夫もつらし是れも憂しと迷ひに心も夕暮の空お八重つく〴〵詠むれば明日も晴日か西の方のみ紅ゐの雲たな引きぬ\n\n(四)\n\n男も女も法師も童も容貌よきが好きぞとは誰れ色好みの言の葉なりけん杉原三郎と呼ばるゝ人面ざし清らかに擧止優雅たが目に見ても美男ぞと見ゆればこそは罪つくりなれ我ゆゑに人二人まで同じ思ひにくるしむ共いざやしら樫の若葉の露かぜに散る夕ぐれの散歩がてら梨本の娘病氣にて別莊に出養生とや見舞てやらんとて柴の戸おとづれしにお八重はじめて對面したり逢はゞ云はんの千言百言うさもつらさも胸に呑みて恩とも言はず義理とも言はず沸かへる涙も人事にして御不憫や孃さま此程よりのお煩ひのもとはと云はゞ何ゆゑならず柔和しき御生質とて口へとては出し給はぬほど猶さらに御いとほしお心は中々我が云ふやうな物にはあらず此お文御覽ぜばお分りになるべけれど御前さま無情お返事もし遊ばされなば彼のまゝに居給ふまじき御决心ぞと見る目は如何につらからぬ事か久し振にて御目にかゝりし我身の願ひ是れ一なり叶へさせ給はゞ嬉しかるべきをとて取次ぐ文の思ひ切りても涙ほろほろ膝に落ちぬ義理といふもの世に無かりせば云ひたきこといと多し別れしよりの辛苦は如何に或る時はあらぬ人に迫まられて身の遁ればの無かりし時操はおもし命は鵞毛の雪の夜に刄手に取りしことも有けり或時はお行衛たづね詫て恨みは長し大河の水に沈む覺悟も極めしかど引れし後ろ髮の千筋にはあらで一筋に逢ふといふ日を頼みにして今日までも過せし身なりと云ひたけれど孃さまの戀も我が戀にも淺さ深さのあるべきならず我れまだ其事を口にせねば入譯御存じなきこそよけれ御恩がへしにはお望み叶へさせまして悦び給ふを見るが樂しみぞと我れを捨ての周旋なるを他しごとは思ふまじ左るにても君さまのお心氣づかはしと仰ぎ見れば端なくも男はじつと直視ゐたりハツと俯向く櫨紅葉のかげ美るはしき秋の山里に茸がりして遊びし昔しは蝶々髷の夢とたちて姿やさしき都風たれに劣らん色なるかは愁ひを含めど愛らしき雨の撫子しほれて床し三郎の心何と知らねど優子の文を手にとりつ淺からぬお心辱けなしとて三郎喜こびしと傳たへ給へ外ならぬ人の取次こと更に嬉しければ此文は賜はりて歸宅すべしとて懷中に押いれつゝ又こそと坐を立つに扨は孃さまの心汲とり給ひてかと嬉しきにも心ぽそく立上る男の顏そと窺ひてホロリとこぼす涕を藏くし孃さまにも嘸ぞお喜び我身とても其通りなり御返事屹度まちますと云えば點頭ながら立出る廻り椽のきばの橘そでに薫りて何時か月に中垣のほとり吹のぼる若竹の葉風さら〳〵として初ほとゝぎす待べき夜なりとやをら降たつ後姿見送る物はお八重のみならず優子も部屋の障子細目に明けて言はれぬ心〻を三郎一人すゞしげに行々吟ずる詩きゝたし"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": " 栄二は持っている盃をみつめていたが、急に眉をしかめ、与平から徳利を取って、「もう一つだけ」と云って、酌をした。与平はしぶしぶ盃を持ち、毒でも飲むように、そっと口をつけた。\n「こんなお説教めいたことは、柄でもないからもうよすがね」と与平は片手で口を撫でながら云った、「――栄さんはきっと一流の職人になるだろうし、そういう人柄だからね、尤も、栄さんだけじゃあない、世の中には生れつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生れつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ、ここをよく考えておくれ、栄さん」\n 年寄りになるとこういう口をきくから嫌われるんだね、と云って与平は笑った。\n ――さぶ、と栄二は心の中で叫んだ。ああさぶ、もういちどおまえに会いたかった。\n\n十四の一\n\n「もういちどあるいてみてよ」とおのぶが云った、「もったいぶらないでさ、あたし見ていなかったんですもの、いいでしょ」\n 栄二は小座敷へあがろうとしたのをやめ、狭い土間の中を二、三歩あるいてみせた。\n「あら、まるっきり平左じゃないの」\n「平左ってなんだ」\n「平気の平左衛門、知らないの」\n 先に小座敷へあがっていたさぶが笑い、おすえも口へ手を当てて笑った。\n「平左なもんか」と栄二は云った、「よく見てみろよ」\n 彼はまた二、三歩あるいてみせた。注意して見ると、彼の右足は少しひきずるようであるが、そう云われなければ殆んど眼につかない程度であった。おのぶはそのようすを、うっとりしたような眼で見ていて、粋なもんじゃないのと云った。\n「そのくらいに片足を曳いてあるくなんて、粋なもんだわ」\n「そういう褒めかたもあるか」\n「嘘じゃない、ほんとよ、ねえおすえちゃん、あんたもそう思うでしょ」\n「そうね」急に呼びかけられておすえはどぎまぎし、ちょっと首をかしげてから云った、「――あたし粋でなくってもいいから、ちゃんと治ってもらいたいわ」\n「あらいやだ、もうおかみさんぶってる」と云っておのぶは睨んだ、「うちの人をよその女に、粋だなんて見られたくないんでしょ」\n「いやだわ、うちの人だなんて」\n「いやだわ、うちの人だなんて」おのぶは口まねをし、それからまたおすえを睨んで云った、「――頬っぺたが火事よ」\n その日は四月七日。北町奉行の仮牢から出された栄二を、さぶとおすえが引き取って来たところであった。栄二は仮牢に七日いた。石川島からは「再吟味」ということで差し戻されたが、吟味らしいことはなにもなく、五日のあいだ仮牢に入れられたあと、与力の青木又左衛門に呼出されて、自宅へ帰る気があるかときかれた。\n ――下谷坂本二丁目の家主源助とさぶがいっしょに来て、そのほうを引き取りたいと願い出た、住居も借り、しょうばいの手掛りもついたという、奉行所としても、そのほうは帰宅すべきだと思うが、どうか。\n 又左衛門はそう云った。自分がこの町奉行所にいることを、さぶがどうして知ったかは疑うまでもない。さぶは栄二のゆくえを捜すうちに、町廻りの青木功之進と会い、助力を頼んだという。又左衛門は功之進の一族であり、栄二のことではつねに功之進と連絡があったようだ。しぜん石川島から町奉行へ移されたことも、さぶにはすぐ知らせがいったに相違ない。――それにしても、寄場の出来事についての再吟味はどうなるのか、どんなに岡安喜兵衛が奔走しても、あの傷害の現場は部屋の者たちが見ていたのだから、このまま沙汰なしで済ませるわけにはいかないだろう。自分の気持だってそれではさっぱりしない、そう思って栄二は又左衛門に問い返した。すると又左衛門は静かに首を振り、そのことは忘れてしまえ、と云った。\n ――寄場の人足たち百余人から、そのほうを放免するようにと嘆願書が出ている、こちらの調べでも、そのほうを罰する事実はないということが明白になった。\n いまそのほうにとって大事なことは、過去の出来事をいっさい忘れ、まじめな職人になるという気持で帰宅できるかどうか、ということだけなのだ、と又左衛門は云った。栄二は少し待ってもらいたいと頼み、仮牢へ戻って一日考えてみた。芳古堂のことを思い、綿文のことを思い、目明しのことを思った。まえにはそれだけでも、血が煮えたつような怒りにおそわれたものだ。けれども、いまはもうさして心も騒がず、怒りは小さな残り火のように、記憶の底のほうに消えかかっていた。彼は念を押すように、幾たびも同じことを回想してみた。そうして、かつてはあれほど誓った復讐の決意も、殆んどかたちを失っていることを知った。慥かだろうか、と彼は自分に問いかけた。人間のことだから、この気持が絶対なものだとはいえないが、いまは慥かだ。おそらくこのままおさまっていくだろう、そう思ったから、栄二は青木又左衛門にそのことを申出たのであった。\n 奉行所では預かっておいた栄二の衣類のほかに、寄場で稼いでためた賃銀を渡してくれた。それは五両二分と少しあり、栄二が心づもりにしていた額よりは多かった。彼はそれを二つに分け、半分を寄場へ送ってくれるようにと頼んだ。――長屋はまもなく建て直されると聞いたのでその費用の中へ加えてもらいたいのだ。栄二がそう云うと、又左衛門はじっと彼の眼を見ていてから、黙って頷いた。\n 引取りに来たのはさぶとおすえで、坂本町の家主というのはいなかった。返された着物や帯はよごれていたし、おすえが仕立ておろしの品を持って来ていたので、下からすっかり新しいのに着替えた。そのときおすえが、着替えに手を貸しながら、すみよしへ寄ってゆこうと云いだしたのであった。\n「今日はほんのまねだけよ」おのぶは三人のために膳拵えをしながら云った、「このつぎにゆっくりお祝いをするわね」\n 女主人は銭湯へいったそうで、お松という小女がおのぶの手伝いをした。女中は三人いるが、みんなかよいで、四時にならなければ来ないという。膳が揃うと、おのぶも襷や前掛をとって三人の前に坐った。\n「先に断わっておくが」と栄二が云った、「おれも礼は云わないから、みんなもおめでとうは云わないでくれ、本当のところ、おれはまだめでたくはないんだから、頼むよ」\n そして彼は頭をさげた。さぶとおすえの顔がちょっと緊張し、おのぶはその緊張をほぐすように、徳利を持って栄二に酌をした。\n「栄さんは人が変ったわ」とおのぶはそう云っておすえを見た、「あたしがついさっき、もういちどあるいてみせてって云ったでしょ、もとの栄さんならうるせえなって、どなりつけるにきまってたわ、だのにいまはいやな顔もしないし、云われるとおりあるいてみせてくれたわ、せんの栄さんには逆立ちをしたってできることじゃなかったわ」\n「いくらおれだって」と栄二が云った、「逆立ちであるくようなきようなまねはできやしないさ、それよりのぶ公、いつかの縁談のことはどうなってるんだ」\n「その話はこのつぎにするわ」\n「片がついたのかどうか、それだけでも聞かせてくれないか」\n「そう」と云っておのぶは徳利を置き、袂から紅絹の切に包んだ剃刀を出してみせた、「――これよ、これを出してみせるの」\n おすえが歯の音をさせて息を吸った。\n「するとその男」と栄二がきいた、「たしか徳とかいったが、まだ諦めないんだな」\n「根比べ、ってところね、あたしは負けやしないから」そう云っておのぶは包んだ紅絹の切を解き、剃刀を右の手に持ち直した、「――あの人は酔わなければなんにもできないの、酔って絡み始めたら、これを喉へこう当ててみせるのよ、さあ手出しをしてごらんなさい、あんたになにかされるくらいなら、自分で死んでみせるからって」\n「あぶないからしまえよ」と栄二は剃刀を指さした、「そんなことで、いつまでも押しとおせると思うのかい」\n おのぶは剃刀を切で巻き、左の袂へしまいながら云った、「あたしがこのうちから逃げてみても、あの男の手から逃げきることはできやしないわ、姉さんたちが女衒の六から逃げきれなかったようにね、――逃げるのはそれだけで負けたのと同じことよ、あたしは負けやしないから」\n「強いのねえ」とおすえが嘆息するように云った。\n「ありがと」おのぶは微笑した、「あんたには栄さんがいるからいいわ、おすえちゃんはあたしのような女にならないでね」\n「のぶ公も持てよ」と栄二が徳利を持ちながら云った、「一つだけ酌をしよう」\n おのぶは急に坐り直して、温和しく盃を取った。そして、栄二に酌をされた盃を両手で大事そうに支え、眼をつむって、口の中でなにか呟いてから、静かに飲んだ。呟いた言葉は誰にも聞えなかったけれども、三人はそれぞれその意味がわかったのか、ほんの短い時間ながら、三人とも、しんと息をひそめたようであった。"
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"content": " おすえはまだ奉公先から暇を取っていないそうで、すみよしを出ると、駿河台下にあるというお屋敷へ帰り、栄二とさぶの二人だけ下谷へ向った。\n「おら心配だが」あるきだすとすぐにさぶが云った、「のぶちゃん、あれで大丈夫だろうか」\n「大丈夫でなくったって、どうしようもないさ」\n「おら思うんだが、その徳っていう男を、なんとかできねえもんかな」\n「おれのことが片ついたら、こんどはのぶ公の心配か」栄二はそう云ってから、励ますような眼でさぶを見た、「ひとのことで苦労するのはもうたくさんだ、のぶ公はのぶ公でやってゆくさ、これからはもっと自分のことを考えろよ」\n そうだな、とさぶは頷いたが、そうだと同意したような顔つきではなかった。ついでだからというので、御徒町の経師屋へまわり、主人の茂三郎に会った。五十がらみの貧相な男で、癇性というのだろうか、首が少し左へ曲っていて、早くちに話しながら、その首を絶えず振る癖があった。\n「栄二っていうそうだな、いい眼だ、その眼はいい、気にいった」と茂三郎はせかせかと云った、「仕事がつかえてるのに手がたりなくって困ってるんだ、しっかり頼むよ」\n こっちもよろしく、と栄二は頭をさげた。\n\n十四の二\n\n 下谷の家は、坂本二丁目の横丁にある二戸建てで、隣りには増六という、中年の夫婦が住んでいた。間取りは六帖ふた間に、八帖ほどの板の間。勝手に厠が付いていた。井戸はすぐ裏で、勝手には造りつけのへっついがあり、手桶から水瓶、鍋釜まで揃っていた。――さぶは戸納をあけて、新しいふた組の蒲団をみせ、ひと組はおすえが作って来たものだと説明した。そのふた組は唐草の油単に包んであり、べつのところに、もうひと組の蒲団があった。\n「これがおらのさ」とさぶは云った、「栄さんたちのには手もつけなかったよ、おすえちゃんが来たら、おらあべつになるからな」\n「べつになるって」\n「この間取りで三人はむりだ、そう思ったから金杉町のもとの長屋に手が打ってあるんだ」\n なぜそんなむだなことをした、これで充分じゃあないか、そう云おうとしたが、栄二は口には出さなかった。奥の六帖には長火鉢、箪笥、茶箪笥、衣桁、鏡架などが並んでい、板の間には仕事道具が揃えてあった。\n「これだけを独りでやったのか」\n「そうじゃねえ、奥のほうはおすえちゃんと二人で揃えたんだ」\n「よくそんな金があったな」\n「怒られるかもしれねえが」とさぶがあやまるように云った、「見てもらいてえものがあるんだ」\n 栄二は火のない長火鉢の脇に坐り、おちつかないようすで、その長火鉢のふちや、猫板などを撫でた。さぶは箪笥の小物入れの抽出から、半紙三枚を折った書付けを取出して来て、栄二の前に坐り、それを手渡した。\n「栄ちゃんから預かった金で、これだけの物を揃えた、断わりなしに勝手なまねをして済まなかったが、品物の値段はそれにちゃんとつけておいたよ」とさぶは云った、「――たぶん間違いはねえと思うが、念のために見ておいてくれないか」\n 栄二は三枚の書付けにざっと眼をとおしたが、もちろん帳尻を見るようなつもりはまったくない、彼はふところから財布を出すと、それを書付けといっしょに、さぶの前へ押しやった。\n「おめえになにもかもやってもらって、済まないというのはこっちのことだ、この財布の中には石川島で稼いだものがはいってる。僅かなもんで恥ずかしいが取っといてくれ、埋め合せはあとでするから」\n「埋め合せだって」さぶは訝しげな眼つきをした、「なんのことだい」\n「まあいい」と栄二は云った、「晩めしに二人で、なにかうまい物でも取るとしようか」\n 書付けをしらべるまでもなく、栄二の預けた金だけで、この家具什器が買えるわけはない、さぶの金が加わっていることは疑う余地がなかった。脚気を病んで帰郷しているあいだ、葛西の家でも相当な食い扶持を取られたであろう、そのうえこれだけの世帯道具を買い揃えたのだから、おそらくさぶは財布の底をはたいたに違いない。そう思ったけれども、これまた礼を云って済むことではないから、彼は話をそらしたのであった。\n 家主の源助と隣りの増六の家、そしてまた通りを隔てた、向う三軒へ挨拶にいってから、二人で晩めしを喰べた。めしだけはさぶが炊き、表通りの「魚喜久」という仕出し屋から、汁と焼物、刺身、酢の物などを取り、酒も二本つけた。これまでの習慣どおり、二人は徳利も盃もべつべつで、酌をしあったり盃のやりとりをするようなことはなかった。\n「これはおれたちの店だ」栄二は初めの盃を啜ってから、ぐるっと家の中を見まわした、「――この店から、おれたちは始めるんだ、さぶ、しっかりやろうぜ」\n「できるだけお荷物にならねえようにするから」と云ってさぶは頭をさげた、「よろしく頼むよ、栄ちゃん」\n ばかなことを云うな、と叱りつけようとしたが、栄二は自分を制して云った、「――お互いさまだ、おれもよろしく頼むぜ」\n「ようやくここまできた」さぶは酒を啜って云った、「そのうちに二人で店を持とうって、いつか栄ちゃんに云われてから、おら夢にまでみたけれども、それが本当のことになろうとは思わなかった、おらあいま嬉しいような、おっかねえような心持だよ」\n「おれだって同じこった、世の中はあまくあねえ、せっかくこうして店を持っても、うまくやってゆけるかどうかはわからねえからな、考えてみればおれだっておっかなくなるぜ」\n さぶは怯えでもしたように、眼をみはって栄二を見た。\n「そんなことがあるもんか」さぶはむきになって云い返した、「栄ちゃんだけの腕があれば、どこへ出たって押しも押されもしやしねえ、そんな弱気なことを云うなんて、てんで栄ちゃんらしくもねえや」\n「そう思ってくれるのはおめえだけだ」と栄二はまじめに云った、「おれはあしかけ三年も仕事をしなかった、以前のような腕にいつ戻れるか、正直に云って自分でも見当がつかない、ただ、――いまのおれにとっては、おめえが側にいてくれるというだけが大きな頼みだ、これだけは忘れないでくれな、さぶ」\n「そんなことを云われる柄じゃあねえ、おらあいまでも頓馬でぐずで能なしなんだ、けれども」とさぶは屹と眼をあげて云った、「もし栄ちゃんの役に立つんなら、おらどんなことでもするよ」\n\n十四の三\n\n「いきり立っちゃったな」栄二は苦笑いをして、その場の空気をほぐすように、箸を取りながら明るい調子で云った、「――二人だけで食う初めてのめしだ、肩の張るような話はやめて、賑やかにやろうぜ」\n「酒をもう一本ずつやるか」\n「これでよそう、仕事のめどがつくまでは、飲みたくっても一本、できることなら飲まずにとおすつもりなんだ」そう云ってから、彼はてれたように額の脇を指でこすった、「――またいきまいちゃうな、どうもいけねえ、しゃばへ出て来たんですっかり戸惑っちゃったようだぜ」\n「すぐにおちつくよ」とさぶが心配そうに云った、「二、三日はしようがねえさ」\n 明くる日、栄二はさぶに伴れられて、金杉三丁目へゆき、おすえの父親に会った。筆屋は小さな店で、小僧が一人、平蔵は妻を亡くして長いこと独りぐらしだという。おすえとは顔も躯つきもまったく似ていないが、口の重い、温厚そうな人柄で、もう五十を越したように老けてみえるのに、としは四十五歳だと云った。\n「ええ、ひとり娘ですよ」と平蔵は休みなしに煙草をふかしながら云った、「ひとり娘ですがご心配はいりません、私は私でやってゆきます、女っていうものは、としごろになるとたんに、親からはなれちまうもんです、親の側にいるうちは、いちにんまえの女にはなれないようです」\n おすえが十三になった年、平蔵が彼女を呼んで叱ろうとした。そのころは妻女もまだ生きていて、ひとり娘のおすえを大事にし、わがままいっぱいに育てた。だが十三にもなれば、そろそろ躾もしなければならないと思い、なにが原因だったか忘れたけれども、小言を云おうとして呼んだ。するとおすえは「はい」と云って立って来た。はいと云うその声と調子とは、昨日までのおすえのものではなかった。"
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"role": "user",
"content": " 芝田さんの家の門は、ちょっと風変りです。その辺は屋敷町で、コンクリートの塀や、鉄格子の門扉や、御影石の門柱などが多く、至って近代的なのですが、そのなかに、道路より少しひっこんで、高さ一間半ほど、太さ二抱えほどの丸木が、二本立ち並び、木の格子がとりつけてあります。それが芝田さんの家の門です。丸木の門柱の方は、郊外の植木屋さんにでもありそうなもので、古く朽ちかけていますが、木の格子扉の方は、新らしく白々としています。昼間は、その格子扉が左右に開かれていて、中は砂利を敷いた表庭、竹垣で囲ってあり、檜葉の植込が数本、左手が、玄関になっています。\n 或る時、その門柱のそばに、乞食風な男が、小さな風呂敷包みを地面において、じっと屈みこんでいました。すると、外出する芝田さんが、そこを通りかかって、じろりと男の方を一瞥したまま、なんとも云わずに、出ていってしまいました。――そういう風な門ですし、そういう風な芝田さんです。\n その門を、正夫はすたすたとはいっていきました。陰欝に曇った無風状態の天気のせいか、門柱の黝ずんだのと格子扉の白々しいのとが、殊に目立っていますが、正夫は通りなれているのです。ところが、門をはいってから、少し足をゆるめ、小首をかしげて、あたりを見廻しました。そしてふと、檜葉の茂みに黒猫が一匹のぼっているのが、目につきました。\n おや! といった様子で、正夫は黒猫をながめました。黒猫はじっとしていましたが、やがて、頭を振り、口に手をあてました。何かの合図のようです。そうだ、黒猫ではありません。チビです。小さなおかしな奴で、小悪魔なんかと呼ばれてる奴です。\n ――なあんだ、チビか。\n 正夫はそう云いすてて、軽蔑したように、そのまま向きをかえ、内玄関の方へやって行きました。\n\n 正夫は茶の間の縁側に腰をかけて、煙草をふかしました。今日は、銘仙の袂の着物をきています。中学生にしては、銘仙の袂の着物は少し早すぎますが、それは中根のおばさんがきせてくれたのです。煙草は少し生意気ですが、袂の着物のてまえ、いたずらにふかしてみてるのです。\n それでも、なんだか落着きませんでした。今日、珍らしいことには、芝田さんから電話で、遊びに来いとのことでしたが、来てみると、芝田さんは不在なんです。書生の丹野もいません。そんな時、いつもすぐ出迎えてくれる駒井菊子さんも、奥の室にひっこんでいます。表の檜葉にチビがのぼっていたのも、こうなると少し気にかかります。\n 正夫は立ちあがって、裏の梅の木のところへ行ってみました。梅の実がたくさんなっています。それを一つ取ってかじりましたが、すっぱくて顔をしかめました。\n 梅の木の向うに、五六坪の狭い畑があります。畑といっても、何にもつくってありません。芝田さんが時々、襯衣一つになって、汗を流しながら耕してる、ただそれだけの地面です。\n「僕はほかに運動をしないから、こんなことをしてるんだが、然し、土いじりをすることは、何よりも身体にいいし、随って、何よりも頭にいいし、随ってまた、身体にいいよ。」\n そんなことを云いながら、芝田さんは、落葉を堆く持ちこんで、それを土に埋めたり、また掘り返したりしていました。この頃はそれにも倦きてか、ほうってあるとみえて、青い草の芽が、あちこちに針のように出ています。\n 正夫はその畑地を、微笑んで眺めながら、また、梅の実を一つ取りました。\n「正夫さん......。」\n 凉しい声で呼ばれました。駒井さんだということは分っています。駒井さんの声はいつも凉しく感ぜられるのです。\n「まあ、方々探したのに......。毒ですよ、青梅は......。」\n 振向いてみると、向うの窓から覗いてる駒井さんの顔が、光につつまれてるように眩しく思われました。\n けれど、近づいてゆくと、どうしたのでしょう、顔の色は蒼ざめ、眼はくぼみ、髪の毛だけが目立ってきれいにかきあげてあります。微笑んでみせたのが、泣顔のように見えました。\n\n 駒井菊子さんの室は、八畳ですが、へんにちぐはぐな感じです。衣裳箪笥とその上にある貰い物らしい京人形と、箪笥の横の鏡台とだけが、女らしいもので、そのほかは、粗末な本箱や机や灰皿やインク壺や柱掛の暦など、男の下宿部屋みたいです。\n もっとも、芝田さんの家には、どの室にも、用を便ずるに足りるだけの道具きりありません。だいぶ前の話ですが、或る方面から家財道具の差押を受けた時、執達吏と芝田さんとの間に、明快な問答がなされました。――「軸物の類は、お待ちではありませんか。」「ありませんね。」――「なにかほかに、書画骨董の類は......。」「ありませんね。」――「何かありませんか。」「僕の家には、不用な物は一つもありませんよ。」――この最後の言葉を、チビは、ひどく感心していましたが、それも、正夫のところの中根のおばさんに云わせると、不用な物が一つもないというのは、趣味がないことであり、趣味がないのは、人間としての、一つの欠点となるのだそうです。\n そういう芝田さんの家のことです。駒井さんの室だって、中根のおばさんの室みたいに、いろんな物がごたごた並べたて飾りたててはありません。\n それでも、駒井さんの室にはいると、正夫は、柔かな芳香に包まれるような気持がします。正夫は駒井さんが好きなんです。ちっとも瞬きをしないような眼と、弾力性のある口付と、顔を埋めたら息がつまりそうな胸とが、とても好きなんです。\n 今日は、その眼がおちくぼんでおり、その唇が乾いており、その胸が堅くなっています。\n「病気ですか。」と正夫はやっとのことで云いました。\n お茶をついでいた駒井さんは、「え?」と声をだして、顔をあげましたが、正夫の云った意味が分ると、「いいえ、」と頭を振りました。そして、ふいに、ちらと光が眼に浮いてきました。涙ぐんだのでしょうか。下を向いてた正夫は、上目で、それを見てしまいました。\n ――なにか、心配なことがあるのだろう。\n そう思うと、もう口が利けないんです。\n 駒井さんも黙っています。黙ったまま、お茶やお菓子をすすめてくれます。\n 正夫は次第に、不安とも不満ともつかない気持になって、投げだすように云いました。\n「おじさんはどうしたんでしょう。わざわざ電話をくれといて......。」\n「電話......あなたに......いつ......?」\n「今朝だって。中根のおばさんと、ほかの用かも知れないけれど、話をして、その時、お午すぎには帰ってるから、ゆっくり遊びに来るようにって、僕にことづけがあったそうです。」\n「そう。どうなすったんでしょうね。」\n 駒井さんも、なにか、芝田さんの帰りを待ってるようなんです。もう五時すぎになっています。駒井さんはしばらく考えていましたが、ふいに別なことを云いだしました。\n「あなたは、何の花がいちばんお好きなの。」\n だしぬけの問いなので、正夫はちょっと返事に困りました。\n そこへ、来客でした。年とった女のひとで、御主人が不在なら、どなたかお留守の人に......とそう女中の取次です。\n「待ってて下さいよ。」と駒井さんは正夫に云いました。「あとで、お話があるから。先生も、じきにお帰りになりますよ。」\n そして駒井さんは、女中から受取った名刺を手に持ったまま、出て行きました。\n\n 正夫はそこに寝そべりました。駒井さんが出してくれた二三冊の書物も、手にとりません。なんだかつまらないんです。\n「なにをしてるんだい。」\n 囁くような声で、チビがひょっこり出てきました。\n 正夫は黙っていました。\n「いいことがあるよ。今晩、うまい果物がたくさん食べられるよ。女のひとが来たろう。あの人が持って来てるんだよ。」\n「誰のところへさ。」\n「もちろん、おじさんとこへだ。けれど、君が食べていいのさ。就職運動のお遣物なんだ。」\n「そんなもの、受取っちゃいけないんだろう。」\n「ばかだな。君のおじさんは、そんなちっぽけな量見じゃないんだ。持って来た物なら、何でも受取るよ。そこはおっとり出来てる。僕は好きさ。だが......。」"
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"role": "assistant",
"content": " チビは耳をかきました。\n「なんだい。」\n「実は、就職運動なんかより、もっと大変なことを待ち受けていたんだが......さっき、そら、表の木の上でね......。」\n それが、へんに不吉に響きます。正夫は身をのりだしました。チビは得意げに眼をぱちくりさして、そして話しました。\n 芝田さんが、表面は調査課長として、内実は幹部の一人として関係してる、某塗料株式会社があります。以前のことですが、ここでも、芝田さんらしい話題が残っています。この会社の株券が、百株ほどまとまって売物に出た時、芝田さんは借金をしてそれを買い取りました。そして後に、社員多数の会合の席で公言しました。「僕は本社の株を百株買うことによって、七千円余りの借金が出来た。然し、社の株券はなるべく社員が所有すべしという原則に忠実であることによって、それを自ら誇りとしている。云々。」――そういうことは、変った人だという印象を与える以外の効果はありませんでしたし、社内に勢力を得ることにはなりませんでした。然し芝田さんの真意がどういうところにあったかは、誰にも分りません。その上、芝田さんは実際、変った人でした。一方では、塗料会社の調査課長でありますが、他方では、芝田理一郎といえば、相当有名な評論家であります。文芸方面に関心を持つ社会批評家として、新聞雑誌の上に時折活動しているのです。\n ところで、その会社の内部に、紛擾が起って、二派に分れて勢力争いとなりました。そうなると、評論家として社会的に名を知られてる芝田さんが、目につきますし、両派とも芝田さん引込策を講じました。芝田さんはどちらに対しても、「先ず会社全体の立前から......。」という答弁で、更に要領を得ません。それになお、芝田さんは内々、会社の金を多少流用してる疑いもあるようです。いろいろなことで、探索やら勧誘やらに、今日、両派の人がそれぞれやってくる筈なんです。\n「どっちが先に来るか、それが重大なんだよ。」とチビは云いました。\n「どっちが先だっていいじゃないか。おじさんはいないよ。」と正夫は云いました。\n「知ってるよ。だが、先に来た方に、おじさんはきっと味方するよ。」\n ばかげたことで、チビらしい考え方です。けれど、必ずそうだとチビは断言します。先に来た方に味方する......そこには何か秘密な匂いがあります。「おじさんはそういう人だよ、」とだけチビは云いましたが、そうすると、芝田さんはチビの暗示でも受けてるのでしょうか。\n 正夫がなお尋ねようとすると、「あ、いけない、」とチビは頭をひっこめて、逃げていきました。駒井さんが戻って来たのです。\n\n 駒井さんは、ちょっと元気づいてるようです。頬にも赤みがさしています。\n「一人で、退屈だったでしょう。今来たひと、金子さんのお母さんですよ。金子さんを、ご存じですか。」\n 正夫はそんな人を知りません。\n「お話をきいてみると、感心なかたですよ。」\n 金子というのは、今年、大学の法科を出た青年です。時々芝田さんのところへも来たことがあり、就職の世話をたのんであったのです。そのお母さんというのが感心で、或るデパートの裁縫部に監督助手として出勤していて、僅かの遺産でこれまで生活をしてきました。でもこれからは、息子の力にたよらなければならない状態です。息子のことをお頼みしますと、くれぐれも云って帰りましたそうです。\n そういう話をしながら、駒井さん自身、いやにしんみりしています。昔のことを思い出してるのでしょうか。\n 駒井菊子さんが、女学校の四年生の終り頃のことです。父親が亡くなって、一家は郷里の金沢へ引上げることになりました。小さな弟や妹はとにかく、菊子さんが、あちらの女学校の五年に転校できるかどうか、それが問題になりました。東京の女学校では、五年生の転校は殆んど受付けないのです。どの方面に頼んだらよいか、思案にくれてるところに、父の友人の芝田さんが、助けの手を差伸べてくれました。そして菊子さん一人、芝田さんの家に寄食し、学費も支給してもらって、東京に残りました。学業の出来がよいので、そのまま芝田さんの家に居続けて、女子大学の英文科まで卒えました。芝田さんの奥さんが病身で、葉山の小さな家に転地してる今では、菊子さんは芝田さんの秘書みたいな地位に立ち、かたわら、芝田さんから求められるまま、英語のいろんな書物の梗概などを拵えてあげています。\n そうした梗概が、甚だあやしげなものでありますと同様に、秘書の役目も、甚だあぶなっかしいものですが、芝田さんはそれで満足しているようです。男の書生も一人いるのですが、芝田さんの言葉をかりますと、秘書的な役目を忠実に従順に果す者は、女に限るのだそうです。\n「金子さんが就職なすったら、あのお母さん、どんなにかお喜びなさるでしょう。」\n そう云って駒井さんは、心で自分の境遇を味ってるのでしょうか、空虚な眼付で、でもしみじみと、正夫の顔を見ていましたが、ふと、にっこり笑いました。\n「そうそう、今日はあなたに御馳走してあげるわ、ね。」\n\n 食卓の上には、正夫が眼をまるくしたほど、いろいろ御馳走がならんでいます。鮎の塩焼や、赤い刺身や、白い水貝などは、殊に目をひきます。ただ、違い棚の上には、大きな果物籠がのっていて、それは包み紙のまま、そっとしてあります。その代り、葡萄酒の瓶が出ています。\n 芝田さんが不在の折に、そんなことは珍らしいのです。\n「おじさんは、まだかしら。」と正夫はへんに落着かず、云いました。\n「どこかで、食べていらっしゃるんでしょう。」と駒井さんは云いました。でもやはり気になるとみえて、女中の方へ、「お電話でもありそうなものですね。」\n それをまた自分でうち消すように、正夫へ葡萄酒などすすめます。\n 芝田さんがいないだけでなく、駒井さんと二人で食事をするのが、正夫は極まり悪く、また嬉しく、そのてれかくしに葡萄酒をのみました。頬がほてってきました。\n「ねえ、正夫さん、」と駒井さんはじっと眼を据えて云いました、「あなた、先生に叱られたことがありますの。」\n「先生って......。」\n「ここの......。」\n「ああおじさんですか。」\n 芝田さんに叱られたことなんか、正夫には覚えがありません。\n「そうねえ、あなたは別だから......。でも、あたしも、先生には叱られたことがないんですの。怒られたこともないようですの。それで、少しも叱られも怒られもしないのは、じつは、全く無視されてるんじゃないかと、そんな気もするんですが、ひがみでしょうか。」\n へんに真面目な話です。だが、そんなことは、正夫には分りません。\n「おじさんは、きっと、怒ることや叱ることを知らないんでしょう。」\n ごまかすつもりでそう云うと、駒井さんはそれをまともにとって、考えこんでしまいました。\n へんに黙りがちな、沈みこんだ食事です。たしかに、駒井さんは、ふだんのにこやかさを失っています。\n それに、食事の間に、三度ばかり電話がかかりました。「ご主人はいつ頃お帰りでしょうか、どこに行ってらっしゃるのでしょうか......。」そういう電話で、先方の名前は仰言いません、と女中が取次ぎます。だから、秘書格の駒井さんは、そのつど、立ってゆきます。電話室から戻ってくると、苛立ってるのを無理に押し隠してる様子なのです。そして葡萄酒を、自分でものみ、正夫にもすすめます。\n\n 九時頃でしょうか、思いがけなく、ざあーっと雨がきました。\n 駒井さんの室で、二人はトランプをしてあそんでいました。占いめくりのやりっこや、子供らしいゲームです。\n 雨はますますはげしくなります。時々稲光りがぱっときます。何もかも押し潰すような雨音と、何もかも貫き通すような閃光とは、人の心を躍らせます。正夫と駒井さんとは、顔を見合わせながら、戸外に気をとられました。\n もうこれ以上ひどくはなれそうもない、その絶頂の豪雨が、そのまま勢をもち続けています。縁側に立っていって、硝子戸をあけて眺めると、一面にまっ白なしぶきです。その水とも霧ともつかない水気が、室の中まで押しこんできます。\n そこへまた、電話でした。\n「分りませんと云っといて下さい。」と駒井さんは強い調子で云いました。\n「でも、本村町の旦那様でございますが......。」\n 本村町というのは、芝田さんの弟の康平さんです。それをきくと、駒井さんはびっくりしたようで、あわてて出てゆきました。\n 正夫は一人で雨を眺め、稲光りを眺めました。初め躍りたってた心が、大きな力に押し拉がれて、しいんと静まり返り、その上を、遠い雷鳴の音がころがってゆきます。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"content": " 私はもう一つ例をとってこの事実を明かにしましょう。日本の陶工の中で、作からいって一番傑出している一人は穎川です。私は彼の赤絵の素敵な美しさに心を引かれます。個人陶であり在銘陶でありますから、必然上手物なのです。だがどうして彼の作が美しいか。実に明清の下手な赤絵が彼の美の標的でした。そうして彼の驚くべき才能がよくその真髄を捕え得たからと云わねばならないのです。彼が見、愛し、摸したのは支那の民器で、当時の貿易品たる安ものでした。もし穎川がこれに代るにあの華美な官窯の五彩を摸していたら、私は彼を愛する何等の因縁をも持つことなく終ったでしょう。あの光悦が捕えたいと腐心したのも、南方朝鮮の下手な茶碗に潜む美でした。あの木米が、鋭くねらった煎茶茶碗の美も、明清の下手な蒔絵に宿る風格でした。\n これを想い彼を想うと、「民藝の美」と「工藝の美」とは、ほとんど同意義になってくるのです。美しい「上手物」に限り、その所産心が民藝品と同じであるとは何を語っているか。あの個人的天才すら下手の美を追い求めたとは何を語っているか。工藝の美の焦点が民藝品の中に発見されてくるのです。私達は民藝への理解なくして、正当に工藝を理解することはできないのです。ここに民器の世界を「民藝」と呼ぶなら、民藝を理解することと、工藝を理解することとには密接な関係が生じます。このことは実に新しく提出せられる公理なのです。私達は美しい「上手物」を民藝の心から説明することはできます。ですが「民藝」の美を「上手物」の心で説くことはできません。私達は工藝美の法則を「民藝」に求めねばならないのです。この驚くべき真理は、今日まで一般の人々から充分に認識されずに過ぎてきました。私が工藝を論ずるに当って、何故「民藝」を重要視し、あえて批評家の注意を喚起しようとするかの充全の理由をここに発見せられるでしょう。\n 工藝史家は今日までほとんど貴族的なものにのみ過重な注意を払うことによって、工藝そのものへの理解を喪失してしまいました。彼等には全く美の標的がないのです。いかにしばしば等しい讃辞を、美しいものと醜いものとに平等に献げてきたでしょう。これほど不平等な歴史観がありましょうか。就中個人的在銘の作に彼等の注意が集っています。しかしそれは工藝史を極めて狭い一隅に追いやるのと同じなのです。それも工藝史の一部を占めるでしょうが、むしろ傍系に属すべきものと云っていいのです。民藝が公道なのです。工藝の正史は民藝史なのです。\n ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも無心な信仰に在るのと同じなのです。信仰史が宗教の正史なのです。信仰の前に神学は二次なのです。同じように無心な民藝の美に対して、個人の意識的な作は二次なのです。なぜなら無心は意識よりも、もっと深いものを捕えるからです。民器の美に向って官器の美は二次なのです。民衆より生れ民衆に役立つ雑具にこそ工藝の正道があり大道があるのです。それ故、民藝の問題が工藝の根本問題なのです。工藝論は新しく出発せねばなりません。工藝美の歴史は書き改められねばなりません。私達は工藝の正史を綴るべき任務を帯びているのです。\n\n三 誰が民藝の美を最初に認めたか\n\n 事新しく民藝の意義を今日述べねばならないほど、その美が少しより認められてはいないのです。たまにあってもただ「面白さ」程度の鑑賞を出ないでいます。しかし過去をふり返ると、その美が深く味われていた一時期があったのを気附かないわけにはゆきませぬ。それは今から三百年ほど前に帰ってゆきます。私は今初代の茶人達を想い回しているのです。私は民器の美をはっきりと最初に見届けた人々が、日本人だということに、抑え得ぬ誇りと悦びとを感じます。彼等には工藝の美に対する真に稀有な直観と、卓越した鑑賞とがありました。\n あえて「初代の茶人達」と云います。私は紹鴎とか利休とかを指して云うのです。ややおくれては光悦の如き例外を多少は挙げ得るでしょう。中期以後、特に遠州あたりから茶道は下落する一方です。ただ形骸を抱いて習慣に枯死する今日の茶人達を見る時、真に末世の観を禁ずることができませぬ。\n 私が初代の茶人達を引き合いに出すのは、民藝の意義が充分に了得されていないこの啓蒙期には、その例が一番読者を納得させるに有効であると考えられるからです。人々は私の見解を信用しない場合でも、初代の茶人達を信用してくれると思えるからです。私の主張を主観と評し去っても、茶道には客観的に価値を認めてくれると思うからです。\n 私は民藝の美を最初に見つめた人として、初代の茶人達を偉大な先駆者と呼びたいのです。もっとも私の考えと彼等との間には、外面的に何等の史的連絡はありません。私は茶道によって美への見方を教わったのではないからです。否、もし私が今の茶道に捕えられていたら、今の茶人達のように、何一つ民藝の美が分らなくなっていたでしょう。見方に自由な開拓がなくして終ったでしょう。私は省みて誇るべき先駆者を、日本の歴史に見出したというまでなのです。\n さて、私は云いましょう、「茶」の美は「下手」の美であると。因襲に捕われた今日の茶人達には、この平易な真理すら不思議な言葉に聞こえるでしょう。ですがこれは被い得ない事実なのです。茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。茶器は今万金を要し、茶室は数寄をこらし、茶料理は珍味をととのえています。かくなった時すでに茶の道があるでしょうか、あり得るでしょうか。\n 元来あの茶入は、支那から渡った薬壺であったと云われます。そうして茶碗は多く南朝鮮の貧しい人々がつかう飯碗でした。あの水指や花瓶も、もとはあるいは塩壺とかあるいは種壺とかであったのです。\n それ等のことごとくが元来は実用品で、全くの民藝品でした。何一つ美術品として工風せられたものではないのです。ですが初代の茶人達は鋭くもそれ等のものの美に打たれました。その美の中に「道」をすら建てたのです。人々は今それ等の器を呼んで「名器」とあがめます。だがもしそれ等のものが民器でなかったら、決して「名器」とはならなかったでしょう。民器なるが故に彼等の眼から逃れることがなかったのです。民藝品あっての茶道なのです。私は彼等の並ならぬ眼と心とを慕わしく感じます。\n もし器の作者に、今それ等のものが「名物」と称えられて、金襴の衣を着、幾重の箱に納められていると聞かせたら、どこにその言葉を信ずる者があるでしょう。それはあの一番安いたくさんある民藝品ではありませんか。誰でも作り得た簡単な品物ではありませんか。"
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"role": "assistant",
"content": " 私がかく云う時、今の茶人達はこう詰るかも知れません。それは雑器であるかも知れないが、たくさんの中から選び出したごく珍らしい少い貴重なものだと。しかし選ばれたものも要するに民器たることに何の変りもありません。たくさんできた雑品でなくば、選ぶということすらできないでしょう。まして元の産地にはいかにまだ、選ばれていない幾多のものがあったでしょう。茶人は茶碗を眺めて「七つの見処」があると云います。そうまでに美しい個所を数えてくれた最初の人を私はあがめます。だがもし作者が「七つの見処」を意識して作っていたら、その「見処」はたちまち消えていたでしょう。そうして初代の茶人達はこれには一つの見処もないと云って棄てたでしょう。後代この「見処」に捕えられてわざわざできた茶器に一つとして美しいものがないのは無理はないのです。それはもう民藝品ではなくして、病いに罹った贅沢品になっているからです。「七つの見処」は見る方にあるので、作る方にあるのではないのです。「楽」と銘打たれる茶碗の如きは民器を手本としながら、心はすでに「上手」なのです。もうあの「井戸」の茶碗に見らるる如き無心さはどこにもありません。もし紹鴎等がそれを見たら速刻に棄て去るでしょう。どこにも茶道の美がないからです。どこにも民器の美しさがないからです。初期のものだけが比較的いいのは、心がまだ素朴であり素直だったからです。あの「楽」を大事がる時、茶人達は茶祖の真意を涜しているのです。\n さすがに「大名物」は美しい器物です。すべてが真の民器だからです。かつて茶人達はあの華美な、技巧の複雑な貴族的なものを、茶器に選んだことがあったでしょうか。あの雅致とか渋さとかは、民藝品の有つ特有の美なのです。茶人は高台の美に眼を止めましたが、かつて意識的な作為の品にどれだけ美しく確かな高台があったでしょうか、そうしてかつて民器の無心な品に弱い不確な高台があったでしょうか。私達は、ほとんど安全にその高台の美しさで、民器かそうでないかを分類することさえできるのです。\n 茶室の美も云わば「下手」の美です。それは元来贅沢な建物ではなく、範を民家にとったのです。それも小さな貧しい粗末な室なのです。今も古格を保つ田舎家は美しい。あの納屋や、水肥小屋や、または井桁の小窓があけてある便所すらも、形が美しいではありませんか。私は特に朝鮮を旅する毎に、あの民家に茶室の美を見ない場合とてはないのです。あのきたないとか、むさくるしいとか、暗いとか、見すぼらしいとか云われる小さな田舎家こそ茶室の美の手本でした。初代の茶人達はあり合せの木や竹や土で心ゆくばかりの茶室を建てる力があったのです。「茶」の美は清貧の美なのです。今のように金に頼って数寄をこらす時、もう茶室は死んでしまいます。私は新しい茶室によいのを見たことがありません。鷹ヶ峰を訪うてみてください。あの思い出深い丘に、無遠慮に建てたたくさんな新立ちの茶室を見て、地下の光悦は嘆息しているでしょう。冒涜でないと誰が云い得るでしょう。\n 茶料理とても同じなのです。今は山海の珍味を旨とし、強て季節はずれのものを誇ります。したがって価は極めて高いのです。だが真の茶料理はそうではないはずです。その土地のもので季節の品を選ぶのが本筋なはずです。それも田舎の手料理がよく、そこには土地の香りがあり、自然の健康な味いがあります。京に入らば茶料理で名高い瓢亭を訪うて見てください。今も民家を装い、旅の人に売ろうとて掛けた草鞋を見るでしょう。風情には古格がよく残っています。だが今の料理にもう正格はありません。すでに都びて富者の客を待つばかりなのです。草鞋は飾りとしてのみ淋しく残っています。用いる器とても全く民衆の品から離れました。\n 茶道の深さは清貧の深さなのです。茶器の美しさは雑器の美しさなのです。読者はあの「大名物」の美を信じてくださるでしょう。そうして渋さを美の最後と解してくださるでしょう。それならその信頼は民藝品への信頼だと考え直してくださらないでしょうか。もし茶人達の、世にも優れた眼を慕われるなら、民藝品への眼をこそ愛されていいはずです。私の直観が民器に美を見出したのを、なおも独断だと思われるでしょうか。茶人への信頼はすべての疑惑を解いてくれるでしょう。幸いにも読者の敬慕する初代の茶人達がその並ならぬ茶道において、民器の深さを説いてくれているのです。私は安心して次の章に移ろうと思います。\n\n四 私達は民藝の美に盲目であっていいか\n\n もし民藝品たる「大名物」に、美しい器という烙印が押されているなら、なぜ他の多くの民藝品にも大名物格の美を認めないのであるか、私はこの問い方を極めて合法的であると思うのです。\n 茶器だから美があるのではないのです。まして美が茶器に限られているのではないのです。茶器と同じ所産心から生れたものがいかにまだたくさんあるでしょう。たまたま初代の茶人達の眼に触れたものは、外来の民藝品のわずかな種類に過ぎないのです。残る幾多のものが彼等の眼に入る折なくして終ったのです。これは茶祖が他の民器の美を認め得なかったからではありません。想うに諸般の工藝が栄えてきた後代に彼等がいたら、いかに豊富な材料を茶器として取り入れたでしょう。だが独創と自由とのない後代の茶人達は、茶祖が見ることを得なかった幾多の美しい民器が、彼等の周囲にあったにもかかわらず、定められた茶器以外に茶器はないと誤認するに至ったのです。ついには全く形式化して、「茶」の精神を忘れ、ただ古い型のみを襲踏するに至りました。\n だが私達はそれでいいでしょうか。かくも豊かにそれ以後にできた美しい民器に取り囲まれながら、いつまでもそれ等のものに盲目であっていいでしょうか。「大名物」だから崇めて、無銘のものだから省みないその不見識と不自由とを、恥じないでいいでしょうか。そもそも茶祖は在銘のものを茶器に選んだことがあったでしょうか。彼等が私達に与える一つの驚異は、彼等が茶器を定めたということにあるのではないのです。省みられぬ民器に、茶器の美を見出したその自由さにあるのです。あの貧しい質素な器の中に、限りない深い美を見ぬいた点にあるのです。そうしてその清貧と静寂との内に、任運無碍の三昧境を味い得たことにあるのです。その真意を忘れ、形式に枯死する今の茶道と、心において何の連絡があるでしょう。もし茶祖が今甦ったら、あの禅林で説かれる「婆子焼庵」の物語りのように、早速茶室に火を放って茶人達を外に追いやるでしょう。禅が文字に堕した時、大慧は憤って「碧巌録」を焼き棄てたと云います。\n もし茶入や茶碗が美の玉座に就いているなら、同じ所産心でできた各種の民藝品の中にも、「大名物格」の美があると、安全に断定していいでしょう。「大名物」が美しいのは茶器だから美しいのではないのです。美しいから茶器になり得たのです。茶器でないために他の民器を見忘れる如きは、見方に力がないしるしなのです。茶祖は全く茶器でないものから、茶器を選んだではありませんか。あの「井戸」の茶碗を茶器だから褒めるのは、見方がまだ表面的です。私達はそれをかつて貧しい者が使った飯碗として一層讃えねばならないのです。「大名物」となるより前に、彼等は雑器であったのです。否、先にも云ったように民藝品であったからこそ「大名物」になり得たのです。いかに多くの見棄てられた民藝品に、来るべき茶器が匿れているでしょう。私達は何等の躊躇を感ずることなく、それ等のものの随所に、茶器の美を発見することができるわけです。そうして茶器として最初から作られた品物には、ほとんど茶器としての美を見る場合がないのです。あの茶道の初期におけると同じように、私達は来るべき真の茶器を、茶器ならざるものの中から見出しましょう。かくして私達は何等の困難なく「大名物」の数を限りなくふやすことができるのです。私はこの福音を多くの人々に伝える悦ばしい任務を感じるのです。\n 在来の「大名物」を崇めて、他の民器を愛さないのは、彼等が美をじかに観ていない証拠なのです。もし美をじかに感じているなら、歴史家は今日のように不見識ではあり得ないはずです。鑑賞家はかくまでに鈍重ではあり得ないはずです。「型」とか「極め」とか「銘」とか、かかるものは美の本質的な標準とはなりません。それ等のものなくしても器の美に変異はないのです。例えば「茶」に用いる鉢は何寸でなければならぬという如きは、あまりに不自由な考えです。それは茶室の大きさに準じて変えていいはずです。短くとも長くとも美しきものはこれを活かしたいのです。また活かす道が限りなく残っているのです。真の茶道は無限の形式と内容とに展開するものであっていいはずです。かかる自由さにこそ茶道の真の古格があると云えないでしょうか。茶祖はかくなしたではありませんか。否、それ以外に茶道の正格はないはずです。\n 省みられない世界から、私が集めてきた多くの民器、私はそれ等を顧みて、ことごとくが茶器だと云いたいほどなのです。人はそれ等のものを最も適宜な場所において、最も有効に用いる自由を許されているのです。私はその自由を躊躇なく受けようと思うのです。私は今それ等のものを誰に見せるよりも、初代の茶人達に見せたいのです。どんなにか悦んでくれるでしょう。工藝の美が存する所、どこにも茶道が存すると、そう云えないでしょうか。何も在来の茶器と茶室とにそれが封じられているのではないのです。今日の生活の中に、「茶」を活かす余地は限りなく残っています。かくすることにこそ茶祖の真意があったでしょう。\n 一般に見る者も作る者も民藝品たる茶器の理解に対し二重の錯誤に落ちています。それが「大名物」と称えられ貴重視せらるる結果、あたかも特別な品物の如くそれを感じ、本来の性質が見失われてしまったのです。実際後代茶器として作られるものは、ほとんど皆意識の過ぎた作であって、全く民藝の分野から離れてしまいました。あの初代の茶人達が決して選ばなかった作為された器を作ったのです。そうしてそれを風雅な器だと信じるほどに盲目となりました。だがそれは民器であった大名物と同列の格に置かるべきものではありません。形は似るとも所産心は全く相反しています。そもそも無想から出る民衆の器物を離れて、雅致とか渋さとかが器にあり得るでしょうか。有想の作が玄の世界にまで高まることがあるでしょうか。後代の茶器に美しいものがないのも無理はないのです。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「といふと?」\n「御主人はどういふわけで、千駄木の淋しいところに引込んだか――御内儀だかお妾だつたか知らないが、どうしてお葉さんを出されたか」\n「?」\n 平次は一座の顏を讀みながら言葉を續けました。\n「世間の惡い評判にも構はず、何んだつて佐野松さんや杵太郎さんを飼つてゐられたか。下男の猪之松に、何んの義理があつて、不都合だらけなのを承知で家に置くか。そんなことを皆んな打ちあけて頂きたいので」\n 平次はかう、思ひきつて問ひかけるのです。\n\n曲者の正體は\n\n一\n「そんな事を話さなきや、人殺しの下手人は縛れないといふのか」\n 鈴川主水は相變らず、冷たい顏を硬ばらせて、思ひきつたことをいふのです。\n「いたし方がありません。盲滅法に探しちや、嚢の中の物だつて出せはしません。曲者はこの後何をやり出すかわからないが、曲者の狙ひがわからなきやあつしは手を引いて、高見の見物をするほかはありません」\n 錢形平次も、なか〳〵に思ひきつたことを言ふのです。\n「それでは手を引いて貰はう、――錢形とか何んとか、大層らしい評判だけれど、たつたこれだけのことがわからなくて、尻尾を卷いて逃げ出すとは――」\n 鈴川主水の言葉には、恐ろしい毒を含んでをります。顏立ちが立派で、態度が莊重で、謠で鍛へた聲が堂々としてゐるだけに、この男の調子は、いかにも暴慢で尊大で、冷酷無殘にさへ響くのです。\n「親分、あんなことを言はせて默つてゐるんですか」\n 腹を据ゑ兼ねたのは八五郎でした。腕まくりなんかして、いざと言はばの、喧嘩構へにさへなるのです。\n「默つてゐろ、お前の知つたことぢやない」\n「でも、あんなことを言はれて引込んぢや、町方一統の耻になりますぜ」\n「――」\n「明日から千駄木界隈へ足も踏み込めなくなつたら、何んとします、親分」\n「馬鹿ツ」\n「親分、何んとか言つて下さい。曲者の尻尾もつかめないとは、癪にさはる言ひ草ぢやありませんか親分」\n 八五郎はすつかり興奮して、泣き出しさうに詰め寄るのです。平次は靜かに受けて、\n「曲者がわからないとは言はないよ」\n「それね、親分には、下手人がちやんとわかつてゐるんでせう。それを言つて、あの小高い鼻柱を叩き折つて下さい。このまゝ引込んぢや、あつしは二、三日寢つかれませんよ」\n「嘘をつけ、そんな事で寢つかれないお前ぢやあるまい」\n「頼むから親分」\n「五月蠅いな、――曲者はわかつてゐるよ。だが、まだ早い、その名前を言ふには言ふまでの段取りがある」\n 平次はなか〳〵口を開かうともしないのです。が、八五郎よりも鈴川主水がその言葉を聽きとがめました。\n「曲者がわかつてゐると言ふのか、面白いな。さすがは錢形と言ひたいが、そいつは嘘だらうよ」\n「いや、平次は嘘は言はない」\n「では聽かうか、佐野松を殺し離屋を燒いたのは誰だ」\n 鈴川主水は、平次の智惠を見くびつたか、嵩にかゝつて詰め寄るのです。\n「それでは言はう、――が御主人、物が後先きになるけれど、曲者の名を言つたら、先刻あつしが訊ねたこと、皆んな話して下さることでせうな」\n 平次は僅かに妥協しました。靜かながら屹とした調子です。\n「よし、何んなりと、訊かれるだけ話さう。が、その前に曲者の正體だ。それを聽かう」\n 鈴川主水は最早、一寸も引かぬ氣色です。\n二\n 鈴川主水と錢形平次は、引くに引かれぬ勢ひでした。下手人の名前を言ふか、お辭儀をするか、平次の途はこの二つを選ぶほかはなく、主水もまた、此處まで追ひつめられると、耻も外聞も、その口實にはならなかつたのです。\n「さア、聽かうか――、錢形の親分、――佐野松を殺して、離屋に火をつけたのは、誰だといふのだ」\n 平次が言ひ澁るのを見ると、鈴川主水はなほも嵩にかゝるのです、良い男の中年者、たしなみがよくて、物腰が格にはまつてゐるだけに、この男の攻撃はなか〳〵に猛烈です。\n「言ひませう、――八、お前は入口を固めろ。逃げ出す奴があつたら、用捨なく縛るのだ」\n「へエ」\n 八五郎は横つ飛びに入口を固めました。この男が頑張つてゐれば大概の曲者も、通れることではありません。\n「あつしの口から言はせるまでもなく、本人に名乘つて貰ひたかつたが、どうしても言へと言ふなら、仕方がない、――曲者はその男だ」\n 平次の指はピタリと、下男の猪之松の胸のあたりを指すのです。\n「あツ」\n 指された猪之松は、鐵砲で打ち拔かれたやうに飛び上がりました。が、四方をキヨトキヨト見まはしたところで、入口を八五郎に固められて、咄嗟の間に逃げ出す隙もありません。\n「何を言ふのだ、途方もない」\n 鈴川主水は眞つ蒼になつて、頬のあたりがピリピリ顫へてをります。恐ろしい激怒に、ハツと自制心を取はづした樣子です。\n「いや、動かぬ證據があつて言ふのだ。間違ひもなく、下手人は猪之松」\n「何を證據にそんな事を言ふ、――次第によつては、錢形とは言はさんぞ」\n 鈴川主人は、膝を浮かしました。能役者くづれと言つても、大藩のお抱へ、苗字まで名乘つて士分に準ずる待遇を受けたには間違ひありません。\n「證據のないことを言ひませうか」\n 平次は反つて落着きました。主水の興奮に對して、これは冷靜過ぎるほど冷靜な態度です。\n「それを聽かう」\n「佐野松が殺された晩は、あの通りの大雨、お葉さんは一足も外へ出なかつた。最初はあつしも、お葉さんを疑つたが、三崎町には八五郎が頑張つてゐた上に、あの雨だ」\n「――」\n「それにもう、一つ大事なことはその二、三日前に猪之松が三崎町の茶店へ行つて、お葉さんが夜中にそつと出られないやうに、格子に釘を打つてしまつた。猪之松はお葉さんが夜中に忍び出して、佐野松に逢ふのが氣に入らなかつた――お葉さんはまた、猪之松が怖かつた。何をやり出すかわからないと思つたので、八五郎を引ずり込んで三日も泊めた」\n 平次の話は廻りくどいやうですが、事件の外廓をピシピシときめて行かうとする樣子です。\n「そんな事は、猪之松が下手人といふ證據にはなるまい」\n 鈴川主水の額には激しい癇癖が走ります。恐怖とも、焦躁とも言へる、五體の震へは去つて、潮のやうな興奮に、蒼い顏がサツと紅くなるのです。\n三\n「ま、靜かに聽いて下さい。佐野松の死んだ翌る日、あつしがあの邊を調べてゐると、猪之松は庭で拾つたといふ、牡丹刷毛を、自分の腹掛の丼から出して見せた、――二日も三日も前に拾つた牡丹刷毛、その柄に『えふ』と書いてあるのを、それまで隱して置いて、あつしに見せたのは念入りだ。牡丹刷毛は紙に包んで、お護符のやうに大事にしてゐた」\n「そんな馬鹿なことが、人殺しの證據か」\n 主水はもう一度激しく突つかゝるのです。\n「まだありますよ、――佐野松を殺した剃刀は、此處にゐる杵太郎に疑ひをかけるやうに出來てゐたが、どんな馬鹿でも、自分の持物と――皆んなに知られてゐる刄物で人を殺し、それをその場に置いて來る者はない筈だ」\n「――」"
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"role": "assistant",
"content": "「その剃刀が、庭石の側に突き差し半分頭を出して『見てくれ』と言つたやうになつてゐたが、その石の裏側には剃刀が隱れるほどの深い穴があつた、――實を言ふと私が素知らぬ顏で見てゐると、その深い穴の中に、隱れてゐた剃刀を拔き出して、同じ石の裏側に半分ほど差し込み、あつしに見せてくれたのは、ほかならぬ猪之松だ」\n「――」\n「まだある。猪之松の言つたことは、皆んな違つてゐたばかりでなく、その樣子にも變なことが多かつた。あつしと八五郎が三崎町の茶屋の裏で、お葉さんと杵太郎さんが話してゐるのを立聽きしたとき、表の方にも一人、それを聞いてゐた男があつた。その男といふのは、ほかならぬ猪之松だつた。あつしと八五郎が螢澤へ來ると、一と足先に歸つて、身扮まで變へてすましてゐたが、私の眼に狂ひはない。猪之松は、お葉さんと杵太郎さんを見張つてゐたのだ」\n「もう止さう、平次。そんなことが、人殺しの證據になるだらうか、馬鹿々々しい」\n 鈴川主水は、平次の持札を讀むと、すつかり安心したものか、頭ごなしに平次をやつつけるのです。\n「いや、もう一つある――、昨夜の火事は、杵太郎さんとお葉さんを燒き殺さうとした放火だが、あの離屋には、外から心張棒をかつて、内からは開けられないやうに仕掛けてあつた」\n「えツ」\n 鈴川主水もさすがに、平次の慧眼に驚いた樣子です。\n「人の住んでゐる家の雨戸へ、外から心張を當てるのは容易のことではない。外から當てた心張棒は、すぐはづれるからだ。ところがあの雨戸には、誰の細工か、外から鑿で深い刻みを入れてあつた。一昨日までは、そんな細工はなかつた筈だから、昨日のうちに誰かが雨戸の框に心張を噛ませる細工をしたに違ひない」\n「――」\n「昨日、あつしはその細工を見たから、杵太郎さんの代りに八五郎を入れた。そして、雨戸はそのまゝにして、内から窓の格子を三本まではづさせ、いざと言へば、窓から飛出せるやうにして置いた」\n 八五郎が火事の最中、窓格子を蹴飛ばすと、格子は要のこはれた扇のやうにバラバラになつて口をあいたのはそのためであつたのです。\n\n親と子\n\n一\n「もう澤山だ、馬鹿々々しい」\n 鈴川主水はなほも抗議しますが、平次の論告に言ひ負かされて、さすがに激しくも突つかゝつては來ません。\n「前の日、雨戸を直したのは猪之松だ。――これでもまだ、たしかな證據は一つもないと言ふならもう一つ、動きの取れない證據を教へてやらう。――昨夜この平次は、離屋に火をつける男の姿を、向うの森の下で見てゐたのだ。その男は、離屋の三方に積んだ枯柴に火をつけて、離屋の四方を廻りながら、氣狂ひのやうに踊り狂つてゐた、――あつしは直ぐ飛込んで來た。いや、飛込むつもりだつたが、途中にお屋敷の塀があり、大きな池もあつた。近いやうでも、大廻りに廻つて來る間に、火は燃え上がつてどうすることも出來なかつた」\n「――」\n「その男は踊り狂ふうちに、物に躓いて倒れた筈だ。膝頭をひどく打つて、暫らくは起き上がれなかつた。その男の膝頭には、間違ひもなく打ち身の傷が殘つてゐるに違ひない」\n「――」\n「八、何を愚圖々々してゐる。お前の鼻先に、火附け人殺しの大罪人がゐるぢやないか、それツ」\n 平次の手が擧がると、八五郎が動くのと、猪之松が逃げ出すのと一緒でした。まことにそれは、咄嗟の出來事です。\n 身體がよくて敏捷な猪之松は、一歩先に庭へ飛出すと、生垣を一と跳に、千駄木の往來に逃出します。\n「野郎ツ」\n 八五郎はそれを追ひました。\n「御主人、あの通り、千駄木には八方に網が張りめぐらされてゐる。猪之松が縛られるのは、もう間違ひはない、――この邊で、本當のことを話されてはどうだ」\n「――」\n「御主人、猪之松が逃げ了せると思つたら、大變な間違ひですぜ。あの通り」\n 指さすあたり、木立を縫ひ、田圃を横ぎり、猪之松一人を追つて思ひも寄らぬ捕物陣が、千駄木を舞臺に發展して行くのです。\n「もう宜い、平次親分」\n 鈴川主水の顏は、苦澁の色が漲り、その端正な額は歪むのです。\n「あつしにも、大方の見當はついてをります。御主人はどうしてあんなに猪之松を庇はなきやならなかつたか」\n「――」\n「思ひきつて申しませうか、――御主人と猪之松は、切つても切れぬ、親と子」\n「もう宜い、平次親分、――私は皆んな白状する。佐野松を殺し、離屋を燒いたのは、この私、鈴川主水のやつたことだ。猪之松をいぢめるのは止してくれ。この通り、私はもう覺悟をしてゐる」\n 主水は脇差を後ろに押しやると兩手を後ろに廻して、靜かに眉を垂れるのです。\n「御白州でも、さう言はれるでせうな」\n「それは、言ふまでもない」\n「や、八の野郎、また縮尻りやがつたかな。おや、おや」\n 平次は縁側に出て伸び上がりました。千駄木の森の上に、バラバラと集つた、七、八人の捕り方、八五郎を中心に、ザワザワと此方へ引揚げて來る樣子です。\n二\n「歸らうか、八」\n 八五郎が戻つて來ると、平次はもう立ち上がつて、歸りの仕度をしてゐるのです。その前に坐つた鈴川主水は、膝に手を置いて、地頭でも勤めるやうに、謹しみ愼しんで差控へます。もう先刻までの、高ぶつた氣色などは微塵もありません。\n「曲者はどうしたものでせう、――何處へ潜つたかわかりませんが、この家の八方へ張らせて置けば、どうせ出て來るにきまつてゐますがね。生き物は、因果と腹も減れば、喉も渇く」\n 八五郎にして見れは、突然消えてなくなつた猪之松は、あまり遠くないところに隱れてゐるに違ひないと思ひ込んで、少々主人の主水に當てつけたのです。あまり賢こくないやうでも、八五郎には、長い間の經驗で體得した、一つの鋭どい勘があります。\n「もう宜いよ、俺は下手人を搜せば氣が濟むんだ。縛るか縛らないかは、その日の出來心さ」\n「呆れたものですね、だから笹野の旦那もさう言ひましたよ。平次の勘は恐ろしいが、モノに依つては、あの男に任されないこともある――とね。親分が氣が進まなきや、あつしが縛つてしまひます。猪之松は確かに下手人でせうね、親分」\n 八五郎にしては、此處まで追ひ込んだ曲者を逃す、平次の押しの弱さが齒痒くてならなかつたのでせう。\n「佐野松殺しの曲者は、猪之松ぢやないよ――そんなに驚くことはない。下手人はわかつてゐる、火の燃えあがるのを見て、踊り狂つて、膝小僧を怪我した筈だ。お前がどうしても下手人を縛りたかつたら、千駄木中の湯屋の番頭に頼んで、膝の下に怪我をしてゐる達者な男を搜すが宜い。――尤もお前見たいに、湯の嫌ひな奴もあるといふのか、そいつは大笑ひだ。町の入口出口に關を構へて、通るほどの男の膝をまくり上げて見るか」\n 平次はそんなことを言つて、草履を突つかけるのです。其處にはもう杵太郎も、お葉も、間が惡かつたのか、姿を隱して顏も見せません。\n「錢形の親分」\n 鈴川主水は後を追つて、庭木戸のところまで來ました。\n「まだ御用事で、――あつしの方にはもう用事はないのだが。あ、さう、さう。猪之松が戻つて來たら、暫らく上方へでも行つて修業して來いと言つて下さいよ」\n「親分、この通り」\n 鈴川主水はこの時初めて、庭苔の上へヘタヘタと坐り込んで、平次を拜むのです。あの高慢な男がそれさへも、お能の仕草の一と齣のやうで、平次は兎も角、八五郎はたまらずに、プーと吹き出すのです。\n「親分、――私といふ人間は、藝道に打ち込み過ぎました」\n「そして、女といふものの心持がわからなかつたのですね」\n「一言もない、平次親分」\n「世の中には、女の心を知り過ぎて、藝事と言へば、鼻へ紙捻を入れてクシヤミをする藝當しか知らない奴もゐますよ、――この八五郎見たいに」\n「何んのことです、それは親分」\n 何が何やらわからずに、八五郎は訊き返すのです。\n三\n「これはどうしたことなんです、親分。あつしには見當もつかないが」\n 千駄木から戻つて來ると、女房のお靜を走らせて、三合ばかり買はせた平次は、乾物か何んか噛りながら、陶然としたところで、八五郎に問ひかけられました。\n 酒は二人とも強くはなく、三合くみ交すと、八五郎などはもう、宜い加減目出度くなります。が、醉は發しましたが、この間から惱ませられた螢澤の件が、頭の底にこびり付いて離れなかつたのです。\n「お前は口だけは固いな、八」\n「へエ、ゆるいのは財布の紐だけで、毎々叔母さんに小言を言はれますよ」\n 八五郎はさう言つて、自分の懷中を覗いて、財布の紐の存在を確かめると、兩手を宙に泳がせながら、得意氣な顏をするのです。"
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"role": "user",
"content": "『それから』と、彼はいつた。『或る一つの峽江の内の、岸の上に、丁度こゝらにあると同じやうな小さな墓地があるんだ。それはパンポルの近所から出た者で、漁時に死んだり、海でなくなつた者を埋める處なんだ。其處は、ポル・ヱヴァンの墓場のやうに、やはり穢れの無い場處にあるんだ。そして死んだ者には此處らののと同じやうに木の十字架を立てて、それに名を彫みつけてあるだけだ。ブルバラネクから出た者ではゴアディウの二人が其處に埋めてある。それに、シルヹストルの祖父のギュイヨオム・モアンもさうだ。』\n 彼女は荒涼たる岬の麓に、その果てしない日の青白い薔薇色がゝつた光りに照らされてゐる小さな共同墓地をまざ〳〵見るやうな氣がした。それから冬と同じそれ等の長い夜々の黒い殮衣と氷との下に包まれてゐるそれ等死者のことを思ひやつた。\n『いつも、いつも漁をしてゐらつしやるの?』と、彼女が訊いた。『少しも休みもしないで?』\n『のべつにやつてるさ。それから、船を動かさなきやならないんだ。海はいつも凪いでばかりはゐないからね、あつちは。まつたくの話、夜になると、俺達はぐつたりしてしまふんだ。そして夕食にはがつ〳〵するんだ。それから幾日もむしやうに喰べるんだ」\n『さうしてゐて厭にならないの?』\n『厭になんかなるものか』と、彼はきつぱりした風で言つた。それが彼女を苦しめた。『船に乘つてゐりや、海に出てゐりや、俺は時のたつのも忘れてゐるんだ。まつたく』\n 彼女は、一層悲しくなつて、一層海に打ち負かされて、うなだれてしまつた。\n\n\n第五編\n\n一\n\n ....彼等が共に送つたこの春の一日が暮れかゝると、夕闇が冬の感じを持ち歸つて來た。彼等は榾火の前で、夕食をするために家へ歸つた。\n 二人が共にする最後の食事!....けれど二人にはまだ相擁して眠る一夜があつた。そしてこの期待がまだ彼等を全く悲しませはしなかつた。\n 食後、彼等がポル・ヱヴァンへの路へ出た時は、また幾分春らしい樂しい心持を感じた。空氣は穩かで、殆ど暖かいくらゐであつた。そして薄明りのなごりがまだ四邊にたゆたつてゐた。\n 彼等はヤンの兩親へ別れを告げに訪ねて行つたが、早めに歸つて來て、床についた、朝早く起きる手筈になつてゐたので。\n\n二\n\n 翌朝、パンポルの埠頭は人で充たされた。氷島人等の出發は二日前から初まつてゐた。潮時毎に、新らしい群が出帆した。今朝は、十五艘の船が「レオポルデイヌ」と一緒に行くことになつてゐた。そしてそれ等の水夫の女房共や母親達が、みな出港準備に其處へ來てゐた――ゴオドは自分も今は氷島人の妻になつて、その人達に立ちまじつて、この同じ悲しい思ひをしに其處へ來てゐるのを我ながら不思議に感じた。彼女の運命はこの五六日間に、あはたゞしく過ぎて、事物の眞相をはつきり捕へさせる暇も與へなかつた。坂路を抗し難い速さで滑り落ちて、彼女はもうどうにもならないこの大詰まで來てゐた。今はもうそのまゝになつてゐるより仕方なかつた。――こんな事に馴れてゐる他の人達のやうに....\n 彼女はこれまでかうした光景に、かうした別れの場に、親しく臨んだことはなかつた。總てが新しく、不思議であつた。それ等の女達の中には、自分と同じやうな者はなかつた。獨りぼつちにされて、別にされてゐる氣がした。お孃さんとしての彼女の過去は、やつぱりまだつき纏つてゐて、彼女を皆から引き離させた。\n 天候は別離のこの日もやはり美しく晴れたまゝであつた。たゞ沖には大きな重い動波が西の方から寄せて來て、風を豫告してゐた。そして遠くの方には、それ等の人々を待ち受けてゐて、外へ碎ける海が見られた。\n ....ゴオドの周圍には、彼女と同じやうに、いかにも愛くるしい、またいかにもいぢらしげな女達が、眼に涙を一ぱい溜めてゐた。また面白さうに、高笑ひを立ててゐて、心ないのか、それとも今は何も愛するものがないかのやうな女達もゐた。年取つた女達は、死の嚇しを身に感じて、子供達の別れを泣いてゐた。戀人同士は長い間脣の上にキツスしてゐた。そして醉つ拂つた水夫等が、氣を紛らすために唄つてゐるのが聞かれた。また一方にはカルヴェルへでも行くやうに、陰氣な樣子をして船に乘る者もゐた。\n そしてまた酷い事件が演ぜられてもゐた。何日か居酒屋やなぞで巧く掛けられて、契約書へ署名させられた運の惡い男共が、今となつて無理やり船へ乘り組ませられた。それ等の者は女房や巡査などに押し𢌞されてゐた。また非常な腕力で抵抗の恐れのある者は、前から工風して醉ひ潰すやうにした。彼等は擔架へ載せて運ばれて、死んだ者かなにかのやうに、船艙へ擔ぎ込まれた。\n ゴオドはそれ等が通り過ぎるのを見て身が縮まるやうであつた。何といふ人達と一緒に彼は生活するのだらう、彼女のヤンは? これ程な騷ぎを引き起し、そして男達にでもこれ程の恐ろしい思ひをさせるからには、どんなに恐ろしい事であるだらうか、氷島の仕事といつたら?....\n それでも、またにこ〳〵してゐる漁夫達もゐた。さういふ人達は、きつと、ヤンのやうに洋上の生活や、大仕掛の漁業が好きに違ひない。それ等は人の善ささうな連中であつた、氣高い立派な顏つきをしてゐた。それ等が未婚であれば、呑氣さうに最後に、ちらつと娘達の方へ眼をくれて出て行つた。既婚者共なら、女房や子供達に、いとしさうに悲しさうに、そして一層金持になつて歸つて來る希望を持つてキツスしてゐた。ゴオドはそれ等の者は、みな選り拔きの水夫等を載せた「レオポルデイヌ」の乘組だと知つて、幾分元氣づけられた。\n 船は二艘づゝ、また四艘づつ曵き船に引かれて出て行つた。それ等が動き出すと、水夫達は帽子を取つて、一齊に聲高く、聖母への讚歌「さらば、海の星よ!」を歌つた。阜頭の上では、女達の手は最後の別れを空中で振つた、そして涙は頭布の綿紗の上を流れた。\n"
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"role": "assistant",
"content": "「レオポルデイヌ」が出て行くと、ゴオドは急ぎ足で、ガオの人々の家の方へ歩みだした。ブルバラネクからの通ひ馴れた小徑を、岸づたひ、一時間半ばかり歩くと、彼女は區の出端れに在る、その新たな家族の家へ着いた。\n「レオポルデイヌ」はこのポル・エヴァンの前方の繋留場に停舶して、夕方までは出帆しないことになつてゐた。それ故、その家で二人は最後の會見をすることになつてゐた。約束通り彼はその船の短艇で歸つて來た。三時間だけ、彼女に別れをしにとて歸つて來た。\n 波のうねりを感じない陸の上では、やはり前と同じ美しい春の天候がつゞいてゐた、同じ穩かな空がつゞいてゐた。彼等は暫くの間腕を組んで路へ出た。これが彼等に前日の散歩を思ひ出させた。たゞ今夜はもう二人を一緒にさせはしない。彼等は當てもなく、パンポルの方へ歩みを返しながら、ぶら〳〵歩いて行つた。やがて、いつか知ら、別に考へてもゐなかつたが、自分等の家の近くまで來てゐた。で、二人は最後の名殘に内へはいつた。祖母イヴォンヌは二人が連れ立つて歸つて來たのを見ると驚いて飛び立つた。\n ヤンは衣裳棚のなかに入れて置いた細々した色々な物についてゴオドに注意をした。殊に彼の婚禮の晴着について。それを時々は擴げて、日光に當てるやうにと。――水夫達は軍艦ではこんな注意をも教へられる――そしてゴオドは彼がこんなことまで知つてゐるのを見て微笑した。けれど、彼は彼の持物は何でも好く保存せられ、心を籠めて世話せられることに安心してゐられた。\n それに、こんな心遣ひは彼等にとつては附け足しの事であつた。彼等はたゞ話の繼ぎ穗に、自分等を欺くためにのみ、そんな事を話してゐただけであつた....\n ヤンは彼女に「レオポルデイヌ」で、みんなが漁場の抽籤を引いた話をした。そして彼は最も好い抽籤を引き當てて滿足だと告げた。ゴオドはまたそれを説明して貰つた、氷島の事は殆ど何も知らなかつたので。\n『ねえ、ゴオド』と、彼はいつた。『俺達の船の船舷に、定まつた場處に、幾つもの孔が開いてゐるんだ。それを trous de mecques と俺達はいつてるんだがね、其處に滑車のついた小さな支架が据ゑつけてあるんだ、それから釣絲を繰りをろすんだがね。それで、出發する前にみんながそれ等の孔の持場を定めるために、骰子を振つたり、時には見習水夫の帽子のなかで番號を振り出したりするんだ。それで各自の持場が定まると、漁のすむまで他の場處へ釣糸を据ゑる事は出來ねえ、場處を變へることは出來ねえんだ。で、今度の俺の場處は船尾の方にあるんだ。此處はおまへ、魚が一番どつさり獲れる場處なんだ。それに其處は大帆綱の直ぐ近くで、その帆綱に帆布の片だの、油衣だのを結はひつけて置けるんだ、それがまあ、つまり、ちよつとした防ぎになるんで、雪や霰がやつて來ても、顏へあたらないといふもんだ。――こりや大事な事なんだ、ねえ解つたらう。皮膚は甚い暴風が吹いても荒れないし、それに眼ははつきり遠くまで見通せるんだよ。』\n ....彼等は、自分等に殘つてゐる瞬間を驚かすのを氣遣ひ、時の逃げ脚を速めるのを心配でもするやうに、低い低い聲で話してゐた。彼等の會話は是非とも終局を告げなければならないものと異つた性質をもつてゐた。彼等が語り合ふほんの取留めもない言葉も、其の時は、不思議な、異常なものになるやうに思はれた。\n いよ〳〵別れるといふ瞬間に、ヤンは兩腕で妻を抱き寄せた、そしてもう何も言はないで、長い默つた抱擁のなかで、彼等はぴつたり身を寄せ合つてゐた。\n 彼は船へ乘り込んだ。灰色の帆が擴げられて、西から吹き起つた輕い風を孕んだ。彼を彼女はまだ認めることが出來た、彼は約束どほりに帽子を振つてゐた。いつまでもいつまでも彼女は見詰めてゐた、海の上に影像のやうになつて遠ざかつて行く彼女のヤンを、――それはまだ彼であつた。海の灰色がゝつた青い上に、ぽつんと黒く立つてゐる小さな人間の形は、――それがもうぼんやりして、やがて遠くへ消えてしまふ、ぢつとその方へ執念く注がれてゐた眼が、ぐら〳〵して、もう何も見られない....\n ....「レオポルデイヌ」が動き出すにつれて、ゴオドは磁石に吸ひ寄せられるやうに、崖に沿うて追つて行つた。\n 彼女はすぐに止まらなければならなかつた。陸地が盡きたからだ。で、彼女はえにしだや岩やのなかに立ててある、最端の大きな十字架の根元に坐つた。其處は高まつた突つ鼻なので、其處から見る海は遠くで盛り上つてゐるやうに見えた。そして「レオポルデイヌ」は遠ざかるにつれて、この廣大な圓周の傾斜の上を、ぽつツとした一點となつて、次ぎ次ぎに登つて行くやうであつた。波は大きな緩いうねりを立ててゐた、――水平線の遙か彼方で起つたらしい或る怖ろしい嵐の最後の餘波のやうに。けれど眼路の及ぶ限りでは、まだヤンのゐる邊では、何もかも穩かな姿をしてゐた。\n ゴオドはまだぢつと見守つてゐた、その船の姿を、その帆やその綱具の形をはつきり記憶に彫みつけて置かうとしてゐた、やがてその船を、此の同じ場處で待ちに來る時、遠くからでも、はつきり見とめることの出來るやうに。\n 恐ろしい巨きな波のうねりは規則正しく西の方から寄せて來て、一つまた一つ、休みなく、小止みなく、その無益な努力を新たにして、同じ岩の上に打つかり、同じ場處で泡沫となつて碎け、そして同じ水際を洗つてゐた。そしてそれが長く續いてゐるので、この水の重苦しい攪亂は、空氣と空の平靜なのに對して異樣であつた。海床が溢れて、岸を浸し、蠶食しようと努めてゐるやうでもあつた。\n そのうちに、「レオポルデイヌ」は次第々々に小さくなり、遠くなり、おぼろげになつた。疑ひもなく潮流がそれを運んで行つたのだ、その夕方は風が弱く、船は速かに走つて行つた。もうそれは灰色をした小さな一點に、殆ど一つの尖點になつてしまつた、間もなく視界の果てへ達して、もう暗くなりかけて來た無限の彼方へ消えてしまはふとしてゐた。\n 七時になつた時、夜が來た、船は限界から沒してしまつた。ゴオドは家へ歸つた。涙はたえず眼に湧いてゐたけれど、とにかく強く氣を張つてゐた。これが若しこの二年間のやうに、彼が一語の別れもせず發つて行つたのであつたら、今とはどんなに異つた、またその頼りなさは、一層どんなに侘しいものであつたらう! けれど今は總てが變つてゐた、樂しくなつてゐた。彼は彼女のものになつてゐた、あのヤンが。彼は行つてしまひはしたけれど、彼女は自分が十分に愛せられてゐることを感じた。それで寂しく一人で家へ歸つても、慰めはあつた、二人がこの秋にと言ひ交はしたそのオ・ルヴォアルの愉しい期待があつた。\n\n三\n\n 夏は過ぎ去つた、悲しく、暑く、穩かに。彼女は初めての黄葉に、初めての燕の群に、菊花の咲き出すのに、目をつけてゐた。\n レエカウイックからの郵便船や、巡航船やに托して彼女は彼に度々手紙を送つた。けれどもそれ等の手紙が屈くかどうかは何人にも判らなかつた。\n 七月の末に、彼女は一通彼から受け取つた。彼はその手紙の日附の頃、月の十日頃は健康で、漁期も調子よく初まつたし、それにもう自分の分として千五百尾からの魚を獲つたと告げた。初めから終りまで、氷島人等が家族へ送るあらゆる手紙の定まり切つた型通りの極く素直な調子で認めてあつた。ヤンのやうに育てられた男達は、自分等の考へる事や、感じる事や、想像する事を、何から何まで書くといふやうな事は少しも知つてゐなかつた。彼よりはずつと教育を受けてゐたので、彼女はそれを斟酌をする事も、現はれてゐない深い愛情を行の間に讀む事も知つてゐた。四ページの手紙の中で、彼は幾度となく妻といふ名で彼女に呼び掛けた、それを繰り返すのが悦しいやうに、そして、たゞ、ブルバラネクにて、モアン方、マダム、マルグリイト、とある宛名だけでも、彼女には悦んで繰り返して讀ませるものがあつた。彼女はまだマダム、マルグリイト・ガオ! と呼ばれるやうになつて、幾らも日數が經つてゐなかつた....\n\n四\n\n 彼女は夏の間ぢう根氣よく働いた。パンポルの女達は、最初のうちは、彼女がお孃さんのやうな綺麗すぎる手をしてゐるとか言つて、俄か仕立の働き女としての彼女の腕を疑つてゐたが、それどころか、立派な腕で、體に着榮えのある仕立物をすることが判つて來た。で、彼女は殆ど名のある裁縫師のやうになつた。\n 彼女が働いて得た金は家を整へる方へ向けられた――彼の歸りをまつために。衣裳棚や、舊い寢箱やは手を入れ、磨き立てて、金具でぴか〳〵してゐた。彼女は海に望んだ彼等の窓を直して、ガラスを篏め、カーテンをつけた、冬のために新らしい毛布や、食卓や、椅子も買つた。\n これ等の事をするのに、ヤンが發つて行く時に置いて行つた金には手をつけなかつた。彼女はそれを彼が歸つて來た時に見せようと思つて、小さな支那箱の中へ其のまゝしまつて置いた。\n 夏の夕方毎に、日の名殘のなかで、暖かい間は、頭も考へもめつきり好くなつて來る祖母イヴォンヌと戸口の前に腰をおろして、彼女はヤンのために美しい漁夫用の青毛の襯衣を編んでゐた。襟先と袖口の縁には驚くばかりの手細やかな、透かし細工の縫目があつた。祖母イヴォンヌもむかしは上手な編手であつたので、少しづゝ自分の若い頃の編模樣を思ひ出して、それを彼女に教へたりした。ヤンのは非常に大きな襯衣だつたので、その仕事には澤山の絲が入用だつた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 初めに断わっておくが、私はごく最近社会大衆党に這入った一党員である。その限り一応党是に服し党の指導方針を尊重すべきであるのは、常識である。と共に党内に於ける党批判の自由は、そのデモクラシーの建前によって、又私の権利である。だが今私は党内に於ける批判をやるのではない。本誌は党と無関係であるから、ここで述べることは党内的な意見ではない。\n 併し社会大衆党は、大衆の政党である。云って見れば、一切の日本国民が之に参加出来る筈のものであり、形式的にはそういう可能性を排除出来ない理屈だ。従ってその党員は、特別に党内の特定部署を代表する者でない限り、常に一介の市民としての平均的な資格を、党内外に於て保持し得るものであることを、私は信じる。一介の党員である私が、党外に立って、即ち本誌に於て、一市民としての見解を述べることに、意義のある所以だ。\n 社大党は「ファッショ化」したと往々云われている。併しそれは何を指すのであるか、又何を意味するのであるか。思うに、社会大衆党が一般民衆の政治的に覚醒した部分から多大の期待を持たれているという事情に鑑みると、それの所謂「ファッショ化」という特色づけは、或いはこの期待に対する裏切りの的確な指摘の心算であり、或いは少なくともファッショという合言葉によってこの裏切りを象徴せしめようという心算であろう。いずれにしても社大党に対する不満の声であることは勿論である。政治的に覚醒した民衆の意識的な支持を以て最後の生命としている社大党にとっては、この「ファッショ化」という合言葉(或いは寧ろ出来合いの便宜的用語)によって示される不満は、その言葉の正否に関係なく、重大問題でなくてはならぬ。現に私も亦、社大党の綱要の大きな一つである「ファシズム反対」の建前の故に、この党を支持する決心をしたのである。\n 社大党ファッショ化の証拠として挙げられているものは、之を外部から見る限り麻生書記長の言論の処々に散見して何となくその雰囲気を感じさせる民族主義風の定石に近いものや、議会に於ける膨大な軍事予算への積極的な協賛や、又亀井貫一郎氏の所謂「全体主義的」議会演説や、最後に最近の(第三回)中央委員会に於ける「革新政策」の大綱決定や、それ等一切のものに付いて見られる時局追随的な態度と軍部や政府への媚態や、これと関係あるらしく見える政府の各種委員会への欣然たる参加や、等々であろう。かつて近衛首相が各大政党の領袖を招いた挙国一致政策の支持を求めた際、安倍党首が唯々諾々として引き下ったということも、少なからずファッショ化の名を高からしめたようだ。つまり、社大党が時局に際して節を屈したという弱腰がすでにそのファッショ化であり、更にそれが居直ってその革新的積極政策に乗り出そうというのが又、そのファッショ化である、というのである。\n 私も亦、この不満とかけ離れた心境にあるとは云うことが出来ない。不満に理由のあること、尤もなことは、深く知っている。だがそうだからと云って、凡そ右に述べたような論拠だけから、この不満が正当なものだと結論することには反対せざるを得ない。第一そのような所謂「ファッショ化」の指摘は、その言葉が出来合いの合い言葉であると同様に、実は案外単純な現象的な見方に立っているのであり、単に外部的なやや無責任な処から来る皮相な印象に他ならないかも知れないからである。こうした「ファッショ化」の現象(それはとに角表面上疑い得ない現象なのだ)が、果して同時に社大党そのものの本質的な「ファッショ化」を意味し得るのかどうか、そういうことを約束しているのかどうか、それは社大党の現下の社会情勢下に於ける客観的な存在理由そのものを、根柢的に検討してかかった上でなければ、判断を下し得ないことだ。\n 尤も本質の変化を診断するには、まず以て現象として現われる徴候によるのでなければならない。だからこの徴候は、社大党の反ファシズム活動を期待するものにとっては、決して喜ぶべき性質のものでないことは云うまでもない。だがこの喜ぶべからざる徴候は、社大党の現下に於ける客観的存在意義、そういう意味での社大党の本質そのものの、喜ぶべからざる変質から発生した、とばかり決めてかかることは、やや思い切りの良すぎるペシミズムだろう。現下の時局に於て与えられた与件が、元来の社大党の同一本質から、この喜ぶべからざる徴候を発せしめたのだと見る方が、或いはもっと自然であるかも知れない。だが、この時局的与件の下に於ても依然として従来通りの態度を表明しつづけることこそ社大党の本質に忠実な所以ではないかと云うなら、その社大党の本質なるものが今日客観的に抑々何を意味するかを、いささか述べなくてはならぬ。\n 私はさきに、社会大衆党入党の動機を説明して、夫が反ファシズム綱領をかかげているからと云った。だが反ファシズム綱領を掲げる政党は決して社会大衆党だけではない。日本無産党もそうだ。そうだというだけでなく、寧ろこの方がもっと尖鋭な反ファッショ的気概を現に今でも有っているだろう。だからその前身である農労無産協議会という労働組合を私は政治的な形で支持したのである。後に之が政党に変質することによって社大党との対立を招くことを恐れて支持を止めたのであるが、その運動の形態はとに角として、その観念上の方針については賛意を表するに吝かではない。だがそれにも拘らずなぜ私が社大党支持に決心したかというと、要するに之が無産勤労大衆の政治的要求を最大公約数的に代表し得る唯一の政党だと信じたからだ。日本の大衆が支配者の各種の政策にも拘らず根本に於て民主主義への要望を身から離さず、それが反ファシズムの情意ともなって現われるのだが、之を大量的に即ち大衆的に、そして最も実際的に代表する唯一の政治活動形態は、この政党を通じてでしかない、と考えたからだ。でつまり、私の社大党入党の最後の根拠は、それの持つ大衆的地盤(それは現実に形をもった目に見える地盤であることを必要とする)にある。質よりもまず量を、ということも、その際重大な問題なのである。まず民衆の大衆的獲得である、そうすれば日本のその民衆は、おのずから反ファシズム的力を産み出すだろうというのだ。私はイデオロギーやスローガンよりも、現実の地盤と、その地盤の政治的な含有肥料とを問題にするのである。\n 私の入党理由の説明などはどうでもいい。私はこの問題に関して実際的には何等の大した意味を有っている人物ではない。だが今云いたいことは、一人の市民である私を動機づけて入党させた、社大党の持っているこの客観的な存在意義についてである。社大党は何よりも先に、民衆自身の手による最も大衆的な組織を意味する。仮に社大党自身がその幹部のあるものかが、そういう意味づけはこの際危険だから御免蒙る(人民戦線などとにらまれてはつまらぬ)と考えた処で、そういう主観的「ファッショ化」(?)の如何に拘らず、こういう大衆の大量的組織者の意義を、客観条件によって客観的に押しつけられている、だから又、そういうものを意味せざるを得ないのでもある。"
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"role": "assistant",
"content": " して見るとそのイデオロギーを尖鋭化するだけのエネルギーがあるなら、寧ろ之を民衆のより大衆的な結合に使う方が、この客観的存在意義によりよく応える所以となる。とに角、何はさておいても民衆を結びつけねばならぬ。その結びつきを妨害しない限りそのイデオロギーには屈伸性を与えねばならぬ。もし現在の社大党のイデオロギー現象が、すでにこの民衆結合の妨害になるほど「ファッショ化」したと云うなら、その「ファッショ化」を社大党に向かって(と云うのは民衆を前にしてだ)非難することは、益々結合の妨害を助長することでしかない。実際的な大衆的批判は、寧ろ社大党の民衆の結合点としての意義をまず第一に強調することでなくてはならぬ。そうした上で初めてその所謂「ファッショ化」の現象の根本的検討に向かわねばならぬ。\n 処でその所謂ファッショ化現象であるが、その可なりの部分が、実は却って社大党の大衆結合の方針を実際化するに際しての、やむを得ない結論であるということに、注目しなければならない。私は決して所謂「ファッショ化」の凡ての内容が真に大衆政治的な正道から出ているなどとは云わない。その相当の部分が、例えば幹部の政治的抱負の小ささや人間的自信の低さや、機会主義的打算から、発していないとは云わない。大衆結合という大衆政治の正道でさえ、単なる選挙地盤の拡大のことや、大衆の「利用」のことと考えている者もいなくはないだろう。だがそれは後にして、今とに角民衆を結成するためになし得るこの政党の方針はどういうものでなければならぬか。日本の民衆は官憲的な圧力を最も無条件にうけねばならぬ処の民衆だ。そこには絶対的な力が臨むのである。之は今日の民衆の実際勢力を計算してみて、誰でも認めないわけには行かぬ力関係だ。かかる民衆をなおかつ自主的に、民主的に、結合結成するには、どういう実際方針が取られねばならぬか。\n 民衆の既成常識や卑俗常識に媚びるという手もあるだろう。だがそんなことが大衆政治の正道であり得ないことは、言を俟たぬ。単にインチキだとか下等だとかいうのではない。そういうやり方では民衆の自主的政治活動など、決して結果として望むことが出来ない、要するに目的に応ったような形に民衆を結合することは出来ないと云うのだ。元来日本の民衆の卑俗な常識は、デモクラシーの未発達のために、長いものには巻かれろ主義なのだから、そういう原則の下に結合したものは、何等の自主的民主的な政治主体にもなれない筈だ。\n 民衆の既成常識や卑俗常識に媚びることによって、ひそかに之を或る目的地に持って行くという手もある。民衆をだます手である。だが之は勿論民衆の自主的政治へ行くものではあり得ない。何等民主的なものではないのは当然だ。――だがもし社大党の政治的方針が日本の民衆の世界史的発達の中に根を生やしたものであるなら、そんな色々の手を使う必要はない筈で、民衆は云わばおのずから結成されて行くに相違ない。社大党が何等か単にみずからの存在理由をハッキリと標榜すれば、それだけで大衆はおのずから結成される底の資格がある筈だ。実際にそんな理想的な力量が今日の社大党にないことは、云うまでもないが、併し社会大衆党と日本の無産勤労大衆とを隔てたり両者の接近を妨げたりするものは、社大党自身の何等かの欠陥のある特徴ではなくて、根本的には全く、日本に於ける反民衆的な勢力そのものだということを、忘れてはなるまい。この反民衆的な勢力は、民衆の自意結合を好まないが故に、之を多少とも実力ある大衆政党の手に渡すことを好まず、従って、却ってみずからこの民衆の一種の結合、云わば非民衆的な結合を企てざるを得ない。而もこの勢力の大きさと強さとは、ごく物理的に考えて、到底社大党やその他当分想像出来る日本の大衆政党の力の比ではないから、民衆牽引力は明らかにこの勢力の勝だ。之が現下の日本の実情である。こういう実情の下に、なおかつ民衆を自主的に結合させねばならぬ社大党の政策は、どうしなければならないか。\n ボヤボヤしていると民衆は攫われて行くのである。一旦攫われたら当分帰って来る望は、まずない。かの勢力の強力な牽引力に打ち勝つことの出来ない民衆をして、その牽引力の一応の支配下にも拘らずなおかつ自主的な結合のプログラムを進め得させるために、社大党は一定のお膳立てをしなければならぬだろう。そうでなければ、民衆は、心ならずも、大衆政党を断念しなければならなくなる。だから重ねて云うと、今日唯一の可能な実際方針は、一面に於て民衆牽引勢力によって牽引される民衆に足場を提供することであり、他面に於て、この足場そのものから民衆結合のプログラムを打ち立てることだ。之を悪意に解釈すれば、一面追随他面対抗という「擬装」だと批評することが出来るが、併しこの擬装が現代に於て大きな真実を持っていることを認めない民衆は、ないだろう。「社大党ファッショ化」の現象は、この根本的なそして客観的な存在意義に基いて、発生する諸徴候だったのである。その真実性のあるものと愚劣極まるものとを含めて。\n 愚劣な徴候に数えていいものは、恐らく亀井貫一郎氏の全体主義的議会演説の類であるかも知れない。但し今私は議事録を見ていないから確定的なことは云えないが、社大党内部で之が問題になってその結果が議事録訂正となり、それが又議会での問題になったというのが或る程度嘘でないなら、この演説は恐らく脱線物であったと推測してよかろう。それが党内で問題になったとすれば、それは党内の二派対立や何かを意味するよりも、党の政策がみずから産んだ弊害を訂正したことを意味する筈である。書記長麻生久氏の所説(例えば『社会大衆新聞』十月三十一日付に於ける「政治情勢報告」の如き)もまた、処々愚劣な色彩を有たぬでもない。特に無産勤労階級の利害と民族国民の問題との間の、有機的な必然関係がボヤかされている点など、ファッショ的定石からの借り物の感があって、甚だ感心出来ない。その他こういう色々の愚劣さはこうした実際的な動きにはつきものだろう。之を目して「ファッショ化」と呼ぶなら、それは大変痛快な批評であると同時に、又大して本質的な問題に食い入るものではないだろう。まして之と同じ筆法を以て、社大党の所謂「ファッショ化」の全体の現象を一概に批評し去ることは出来ない。\n 社大政策の本質は、勿論みずから称する処の「革新政策」なるものにあるのである。革新政策なる言葉は軍部や或いは民間日本ファシスト団体からの借り物だが、その内容になると、大変複雑であることを免れない。或いは動揺し或いは茫漠としている。だが実際にどういう「革新」政策を取るかを見ねばならぬ。例えば前に述べた第三回中央委員会に提出された「戦時革新政策大綱」なるものは現下の戦時革新政策の基調として戦時体制の堅実化、国民経済の計画化、挙国一致の積極化、を挙げている。どれも支配当局が書き取らせた言葉によって出来上っているが、それに対する独自の(多分民衆の利害をなるべく代表すべき)解釈に立脚しようという心掛けが全くないとは云えない。\n「戦時体制の堅実化」(厚生政策)とは、物価騰貴の抑制や、労働生産性の向上、農業生産性の向上、中小商工業の調整、税制改革(国民所得の調整)、科学的文化的水準の向上(義務教育年限延長其の他)、社会保険制度の拡充、を含んでいる。「国民経済の計画化」(日満北支一体)は、基礎産業の国営、輸入国営、輸出奨励、為替管理、軍需工業国営、中央銀行及び保険国営、工業商業農業各金融の調整、運輸産業の総合的改革、配給統制(専売制度の拡充)、政治機構の能率的改革、総合的国力発展計画、を含む。「挙国一致の積極化」(内外革新への国民協力)は、精神動員運動、新生活運動、産業協力運動、不当利潤制限、軍事扶助の徹底、独善主義打破、人材登庸徹底、建設的言論の尊重、を含んでいる。\n 之はプログラムである。実際に実施しているものでない。又実行出来るかどうかも保証の限りではない。併しプログラムによって一応の政治的実質を診断することは世間の習慣だから、これを社大党本質の一表現と見ていいだろう。処で之は一見して明らかに玉石混淆であり、又之を平均して考えて見ると、大体社会ファシスト的色彩を持っている。だがこの最後の点は、まだ必ずしも日本型ファシズムの典型的なものを示すということは出来ない。そういうイデオロギーは必ずしも出ていない。社会ファシズムとして問題になるのは、「国民経済の計画化」の項を以て随一とするだろう。ここには国営という観念の特殊な響きがある。ただ無条件に国営を提唱することは、それだけでは結局は日本型ファシズムの結論とも一致するものでしかない。だがわずかに之を救っているのは、他の二項であって、多分の社会政策を盛った「挙国一致の積極化」と「戦時体制の堅実化」とである。之とても個々の細目の一つ一つには依然として又は愈々以て社会ファシストの典型を示すものがあるが、併し今日の日本に於て、例えば軍事扶助の徹底や社会保健の拡張が実際に何を意味しているかを知るものは、あながち之を社会ファシスト的社会政策の言葉としてばかり片づけることは出来ない。まして日本型ファッショ化への拍車でないことも推論していいだろう。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "一\n\n「親分、お早やう」\n 飛込んで來たのは、お玉ヶ池の玉吉といふ中年者の下つ引でした。八五郎を少し老けさせて、一とまはりボカしたやうな男、八五郎の長んがい顏に比べると、半分位しか無い、まん圓な顏が特色的でした。\n「玉吉兄哥か、どうしたんだ、大層あわてゝ居るぢやないか」\n 明神下の平次の家、障子の隙間からヌツと出したのは、その八五郎の長んがい顎だつたのです。\n「錢形の親分は?」\n お玉ヶ池の玉吉は、氣拔けがしたやうに、ぼんやり立つて居ります。\n「留守だよ、笹野樣のお供で、急の京上りだ」\n 與力筆頭笹野新三郎は、公用で急に京都へ行くことになり、名指しで錢形平次をつれて行つたのは、つい二、三日前のことだつたのです。\n「そいつは弱つたな、歸りは?」\n「早くて一と月先、遲くなれば來月の末だとよ、その間俺の叔母は、此處へ留守番に泊り込みだから、叔母の家に厄介になつて居る俺は、日に三度店屋物を取るわけに行かねえ、口だけは此處へ預けて、向う柳原から通つて居る始末さ」\n「弱つたなア」\n「何を弱つて居るんだ、錢形の親分の留守中は、憚り乍ら俺は城代家老さ、困ることがあるなら遠慮なく言ふが宜い、金が欲しいなら欲しいと――」\n 大きなことを言つて、八五郎はそつと懷中を押へました。その中にある大一番の紙入には、穴のあいたのが少々入つてゐるだけだつたのです。\n「そんな話ぢやないよ、矢の倉で殺しがあつたんだぜ、八五郎兄哥」\n「そいつは大變ぢやないか、錢形の親分程には行かないが、大概のことは俺で裁ける積りだ。さア、案内してくれ」\n「さうかなア、大丈夫かなア」\n 玉吉はひどく覺束ながりますが、八五郎では嫌とも言ひ兼ねて、ヒヨコヒヨコと先に立ちます。\n「大丈夫かなアは心細いぜ、おい、玉吉兄哥、斯う見えたつて、錢形平次の片腕と言はれた、小判形の八五郎だ」\n 胸をドンと叩きますが、くたびれた單衣の裾を端折ると、叔母が丹精して繼を當てた、淺葱の股引がハミ出して、あまり威勢の良い恰好ではありません。\n 事件のあつたのは、矢の倉の稻葉屋勘十郎。\n「内儀のお角が、昨夜風呂場で、障子越しに刺され、その場で息を引取つたよ」\n 道々お玉ヶ池の玉吉は説明してくれました。稻葉屋勘十郎といふのは、何處から流れて來たともわからぬ浪人者で、稻葉屋に用心棒代りの居候で入り込んで居るうち、主人が死ぬとその儘ズルズルと後家のお角の婿になり、僅か四、五年の間に、日本橋から神田へかけても、指折りの良い顏になつた男でした。\n「すると内儀は、金の怨でなきア、色戀沙汰ぢやないか」\n「金の怨なら、主人の勘十郎がやられる筈さ、殺された内儀は、三十八の大あばたで、色戀とは縁が遠いぜ」\n「兎も角も、現場を見ての上だ」\n 二人は矢の倉の稻葉屋へ着いたのは晝少し前、見廻り同心が町役人を立ち會はせて、檢死が濟んだばかりといふ時でした。\n「向柳原の八五郎親分? それは御苦勞、錢形の親分は留守だつてね」\n 主人の勘十郎は甚だ無愛想でした。平次の留守を何處で聽いたか、兎も角も、八五郎風情が來たのでは、と言つた語氣が、妙に皮肉に聽えます。\n 年の頃、四十二、三、面ずれも竹刀だこもある立派な男で、稻葉屋の身上のお蔭であつたにしても、僅かの間に町人達に立てられて、立派に顏のきける男になつたのも無理のないことでした。押出しも辯舌もまことに申分のない旦那衆です。\n「兎も角も、見せて貰ひませう」\n 八五郎は思はず肩肘を張りました。\n「あ、宜いとも、どうぞ、此方へ」\n 主人勘十郎は先に立つて案内します。\n 佛樣は階下の南向八疊に、近所の衆や親類の人達に護られて、しめやかに納棺を待つて居り、八五郎と玉吉の姿を見ると、人々は言ひ合はせたやうに席を開きました。\n 死骸は、評判の通り四十近い醜い女――と言つても眼鼻立が惡いのではなく、松皮疱瘡で見る影もなくなつて居り、その上横肥りのちんちくりんでまことに散々です。\n 傷は後ろから肩胛骨の下を一と突き、餘程狙ひ定めたものでせう。\n\n二\n\n やがて八五郎は、主人の案内で、風呂場を見せて貰ひました。町家に内湯は珍らしかつた頃で、さすがに稻葉屋の豪勢さですが、それでも形ばかりの狹いもので、鐵砲風呂を据ゑると、あとは三尺の狹い流し、少し身體を動かすと、格子窓の油障子に背中が觸ります。\n「この障子に、身體の影の映つたところを、外から一と突きにやられたものらしい、中は灯が點いて居たから、見當に間違ひは無かつた筈だ」\n 勘十郎は油障子を指すのです。成程さう言へば、一箇所刀を突つ込んだらしい穴があいて、穴のあたりに、血の飛沫いてゐるのも無氣味です。\n「刄物は?」\n 八五郎は親分讓りの調子で訊ねました。\n「無かつたよ、格子の外から突いたに相違ないから、刀は相當長いものだ、曲者は鞘に納めて、悠々と引揚げたものだらう」\n「灯が點いて居たのですね、確かに」\n「間違ひもなく點いて居たよ、――最初悲鳴に驚いて飛込んだのは、ツイ隣の部屋で、家内が湯から上がつたら、直ぐ續いて入る積りで着物を脱ぎかけて居た妹で、その妹の聲で、お勝手の下女と、二階に居る私が飛んで來たのだ、私は一と足先に湯から上がつて、二階で風を入れて居るところであつたよ。下帶一つで曲者を追つかけて外へ飛出すわけにも行かず、飛出したところで刄物も何んにも無し、こんな困つたことは無かつたよ」\n「曲者の姿を見た人はありませんか」\n「二階は一パイに開けて、私は格子窓に腰掛けて居たが、チラと人の姿を見たやうな氣がする」\n「男でせうね?」\n「間違ひもなく男だつたよ」\n「お心當りでも」\n 八五郎は押して訊ねました。主人勘十郎の言葉には、何やら含みがあるのです。\n「滿更心當りが無いわけでも無い」\n「と、言ふのは?」\n「私は、五年前まで、さる大藩に仕へたが、人と爭ふことがあつて浪人したのだ、その相手といふのは」\n 勘十郎は言つたものかどうか、ひどく思ひ惑つて居る樣子です。\n「その相手は?」\n「打ち明けても差支はあるまい、阿星源之丞と言つたよ、私と同年輩で、腕の達者な大男だ」\n「何方の御藩で?」\n「それは訊かないでくれ――尤も阿星源之丞も、その後浪人して、江戸で細々と暮して居るといふことだが、何處に住んでゐるか、家は知らない」\n「その阿星といふ浪人者が、何んの怨みで御内儀を殺したんでせう」\n いしくも八五郎は、この大切な疑ひにたどり着いたのです。\n「左樣、私にも、それがわからない、が、阿星源之丞は、私と間違へて、家内を刺したのではないかな」\n「へエ?」\n 八五郎は驚いて、少しノツポでさへある、主人勘十郎の身體を見上げました。\n「私は背が高くて、家内は背が低い、それを間違へる筈も無いやうに思ふが、段々考へると、妙なことに氣が付いた」\n「へエ?」\n「風呂場には灯が一つ、手燭に立てた裸蝋燭を、入口の敷居の内、狹い板敷に置いてある、それが家内を照すと、窓の油障子には、思ひの外大きい影法師になつて映りはしないか」"
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"content": "「――」\n「窓の障子には隙間も穴も無かつたから、曲者は中を覗かなかつたことは確かだ。窓の油障子に映つた影法師目あてに、長いのを刀任せに刺した――としたらどうだ」\n「成程ね」\n 八五郎は悉く感に堪へてしまひました。何んとなく高慢なところがあつて、主人勘十郎、甚だ人づきは良くありませんが、智惠の方は、八五郎などとは比較にならぬ程逞ましい樣子です。\n「外に考へやうは無い、阿星源之丞といふのは、西國訛のある大男で、髯の濃い、眼の大きい、足が少し惡く、心持びつこを引いて居る筈だ、江戸の町の人間の海の中に入つても、何時かは必ず見付かるだらう」\n 成程その人相なら、すぐにもつかまり相です。\n「外に怨を受けることは無かつたでせうか」\n 八五郎はもう一歩踏込みました。\n「それはわからない、私は金を貸すのが商賣だ、金を借りた者は、借りる時の心持を忘れて、ツイ貸し主を怨むものだ、ことに、家内はやかましかつたから、隨分人に怨を買つたかも知れぬて」\n「例へば、――その心當りはありませんか」\n「一々は覺えてゐない。ポン〳〵言つても大した根に持たない人間もあり、默つて居ても煮えくり返るほど怨んでゐる者が無いとも限らない」\n 勘十郎の話からは、何んにも得るところはありません。\n\n三\n\n 風呂場の隣は廊下を隔てた二疊の部屋で、内儀の妹のお君といふのが、姉が風呂場から出て來るのを、此處で待つて居たことでせう。この部屋は窓も何んにも無い盲目二疊で、風呂場に通ずる廊下以外には、出入する口もありません。從つて此處に居た筈の妹のお君の目を逃れて曲者が風呂場に入る工夫はなく、同時に風呂場の外から刺された、姉のお角の死は、この部屋に居たお君とは、全く關係の無いことも明かです。\n その二疊の横手には、廊下の板敷から二階へ登る十三段の急な梯子があり、晝でも眞暗で、馴れない者には無氣味な感じです。妹お君の悲鳴に驚いて、下帶一つの主人勘十郎が、二階から驅け降りたといふのは、あの梯子段でせう。\n 梯子段の先には思ひの外廣いお勝手があり、そのお勝手の先に、下女のお直の四疊半の部屋があります。これがざつと北側の部屋割で、南側には、店と居間兼帶の佛間と、お角の死骸を置いてある八疊の客間と、それから妹のお君の部屋が並び、二階には主人夫婦の部屋とその次の間があり、兎も角も一と通りの構へです。\n 八五郎は玉吉と一緒に、下の部屋々々を見廻つて、それから二階へ登つて見ました。大川まで一と眼に見渡して中々の眺めですが、金持らしい用心堅固さで、窓といふ窓には全部格子がはめてあり、その格子が取外しの出來ないやうに、一々釘で留めてあるのは念の入つたことです。その上釘は古く錆付いて、格子を動かした位では外れさうもなく、主人は下帶一つの姿で、海を眺め乍ら、格子の内の張出し窓で安心して凉んでゐたといふのもうなづけます。\n 二階から降りると、下女のお直といふのが、お勝手にうろ〳〵して居りました。二十歳前後ですが、これは念入の不器量、『妬く女房千人並の下女を置き』と言つた、川柳が連想させるやうに、内儀の醜くさが反影して苦笑させられます。\n その内儀が殺された時のことを、\n「お君さんの聲でびつくりして風呂場へ飛んで行くと内儀さんはもう虫の息でした、『苦しい』と言つたやうでしたが、それもはつきりしません、それつきり息を引取つてしまひました、旦那樣も私の後から、下帶一つで二階を降りていらつしやいましたが、もう手のつけやうも無かつたのです。下男の九郎助は使に出てまだ歸らず、私は若松町までお醫者を呼びに行きましたが」\n 下女お直の話はそんなことで盡きました。\n「内儀さんを怨んでる者は無かつたのか」\n 八五郎はまた定石通りの頭の良くない問をくり返します。\n「口やかましい人でしたけれども、氣前の良い人でしたから、別に」\n お直には見當もつかない樣子です。\n「主人との仲は?」\n「妬もちはひどい方でした、でも、そんなに仲が惡いとも思ひません、大抵のことは、旦那の方で折れて居たやうですから」\n お直から訊き出せるのは、そんなことが全部でした。その時、\n「あ、お客樣?」\n 場所柄らしくない艶やかな聲がして、お勝手がクワツと明る〳〵なりました、二十歳前後と見える成熟しきつた美しい娘が、外から不意に入つて來たのです。\n「内儀の妹のお君さんだよ」\n 玉吉は、自分のもの見たいな、得意らしい顏で、そつと八五郎に教へました。\n「お君さん、どこへ行つて來たんだ」\n 八五郎は漸く陣を立て直しました。どうも綺麗過ぎて、八五郎に取つては、容易ならぬ相手です。\n「あら、八五郎親分ねえ、よく知つてるわ、向柳原へお稽古に行つて、毎日親分の家の前を通つたんですもの」\n お君はうるんだやうな大きい眼を見開いて、なつかしさうに八五郎を見上げるのです。\n「へエ、そいつはちつとも知らなかつたぜ」\n 江戸一番のフエミニストが、身近を往來して居た、こんな綺麗な娘を知らなかつたといふのは、何んたる迂遠さでせう。\n「でも、親分は、そりやえらい人なんですツてね、顏を見られるのが怖かつたわ」\n「へエ、それは驚いたね」\n エライ男にされたのは有難いが、娘に怖がられて居たとわかると、八五郎此時ほど十手捕繩が怨めしかつたことはありません。\n「で、私に何んか御用?」\n お君の眼が大きく瞬きました。姉の死んだといふ翌る日で、日本一の眞面目な顏ですが、その生眞面目さが、いつほぐれるかもわからない、朝顏や月見草の、張りきつた蕾を見るやうで、たとへやうも無い魅力です。\n「何處へ行つて來たんだ?」\n「小網町の淺野屋――叔父さんなんです、不斷は往き來もしてゐないけれど、斯んなときは、矢張り相談しなきや」\n それは深い仔細がありさうでした。殺された内儀のお角と、その妹のお君に取つては、本當の叔父に當る淺野屋惣吉は、入婿の勘十郎と仲が惡くて、義絶同樣になつて居るけれども、姉のお角が非業の死を遂げると、殘された妹のお君は、一應は相談もして見なければならなかつたのでせう。\n「叔父さんは何んと言つた」\n 八五郎は、わけを一と通り聽くと、もう一と息突つ込んで見る氣になりました。\n「劍もほろゝでした、叔父さんの言ふには、『たつた一人の姉に死なれたお前は可哀想だけれど、稻葉屋へは足踏みし度くない、高利の金を貸して儲けた身上に、目でもつけると思はれちや正直な商人の耻だ、今度勘十郎でも死んだら、その時は顏を出す』と斯うですもの、取りつくしまもありません」\n お君も口惜しさうでした、何んか非常に複雜な心持に惱まされてゐる樣子です。姉と違つてスラリと背が高く、小麥色の肌はあまり白粉も紅も知らないらしく、やゝブロークンな眼鼻立ちも、表情が流動的で、反つて美しさを強調して居ります。\n この娘の持つ魅力は、燃え上る精神力の美しさとでも言ふべきものでせうか。\n「ところで、昨夜のことを、詳しく聽き度いが」\n「何んにも申し上げることなんかありません、私は二疊の部屋で帶を解きかけて、姉が湯からあがるのを待つて居ると、いきなり氣味の惡い唸り聲でせう、續いて姉が流しに倒れる音でした、驚いて飛んで行つた時は、もうお仕舞ひで」\n「何んか言はなかつたのか」\n「言つたやうでした、でも、窓越しに突かれたのでは、殺された姉にも下手人がわからなかつたかも知れません、わかつて居れば、名前位は言へた筈です」\n「苦しい――と言つた相ぢやないか」\n「さう言つたかも知れません、私には、『口惜しい』と聽えましたが」\n 苦しいと口惜しい、よく似た言葉ですが、意味は大變な違ひです。\n「ひどく姉を怨んでる者は無かつたのか」\n「そんなものはあるわけもありません」\n「姉が死ねば、この身上はどうなるのだ」\n「?」\n お君は默つてしまひました。\n「外に氣のついたことは無いのか」\n「裏木戸は閉つて居たし、お隣は永井樣のお屋敷でせう、表に自身番もあり、まだ宵のうちで、人の往き來も多かつた筈です、姉を殺した人は、何處から入つて、何處から逃げたんでせう」\n「――」\n「窓の外から突いた刀は、隨分長い筈です、お武家でも無ければ、そんな長いものは持つて歩けません」\n「――」\n「刀を何處かへ隱してはないでせうか」\n お君の言葉は、暗示に富んだものでしたが、八五郎はそれを、漫然と聽き逃してしまひました。"
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"content": " 主君といい、君側といい、出入する諸将といい、みな若々しく、なにか、希望にはちきれているのがわかる。光秀はひそかに、\n「かくてこそ」\n と、うなずいた。\n そして、朝倉家を思い、遠くは亡家斎藤時代の、美濃を思いあわせて、\n「こんどこそ、死を捧げても惜しくない御主君に出会った」\n と、機縁に感謝していた。\n 明け暮、居心地のよい奉公だった。光秀は、一日ごとに、織田の家臣として、奉公の日が重なってゆくのが楽しみだった。家中の者とも、たいがい顔も見知り合い、新参として特に視る者もいつかなくなった。\n 明けて、永禄十年。\n 伊勢からの早打ちがつづいた。\n それは、二月下旬。\n「光秀。――桑名の滝川一益より、頻々、援軍の催促である。そちも、出向いて、ひと手勲いたして来い」\n 彼は召されて、信長からそういう恩命をうけた。\n ――恩命。\n まったく、随身してまだ一年と経たない彼に、伊勢陣に参加せよというのは、特別な恩命であった。\n 平日十年の城内勤めよりも、一日の戦場の働きを、武士は誰でも希っているのである。そういう家中も多い中から、\n「征け」\n と、命じたのは、信長としても、思いきった抜擢であった。\n 光秀は、勇躍して、伊勢路へ向った。もちろんまだ大部隊の将ではない。約百五十騎ほどの士頭としてである。\n 途中、洲股川を南へ渉ると、一城が眼についた。木下藤吉郎の洲股城である。その一軍は、船を降りると、城内の味方から、湯茶兵糧などの接待をうけた。\n 戦野はまだ遠い。\n 兵たちは、のどかな大河を前に、兵糧を楽しんで喰べた。\n 馬にも、若草を喰ませ、河原へひいて、水を飼ったりしていた。\n「池田はどこにおらるるか」\n その中へ、小柄な侍が、にこにこ微笑みながら歩いて来た。誰もそれが、洲股城の守将藤吉郎とは思わないので、\n「池田とは誰か」\n と、かえってその無礼を咎めるように、ぞんざいに云った。\n「これは、池田勝三郎の隊ではなかったのか」\n 勝三郎信輝は、隊の主将である。それを呼び捨てにするので、兵は、彼の顔を見まもった。\n どこかで見た気がする。\n 木下殿――と囁いた者があって、初めて気づいたらしく、あわてて一人が駈けて行った。\n 河原を上がって来た武将がある。旧友の池田勝三郎だった。\n「やあ」\n と、まずいう。\n 藤吉郎も、同じく、\n「やあ」\n で、済まし合う。\n「城内から、湯茶兵糧のお手当、かたじけない」\n「日がゆるせば、一夜は、当城へ泊ってもらいたいが」\n「いや、そうもならぬ。滝川一益から援軍の催促で、にわかに、伊勢路への発足だ」\n「御苦労にぞんずる。――が、大したこともあるまい」\n 藤吉郎は軽くいう。\n「そうでもない。あの智者――武勇もある一益が、桑名、蟹江の二城の兵力で、伊勢の北八郡、南五郡の北畠の大軍と対峙するので、もう支えきれぬと、悲鳴をあげての矢の催促だ」\n「ははは。あの方面も、だいぶ長陣だしなあ」\n「それに、何といっても、敵は、伊勢の国司として、顕家以来の旧い名族だ。――今の大納言具教という当主も、長袖の家の子とは侮れぬ。衣冠を脱した甲冑の英雄だ。国中の名望もあるらしいし」\n「たいへん敵に感心しておるのう。名族の子が偉かったら、藤吉郎など、何者ということになるな」\n「いや、おぬしへいっているのではない。大納言具教の眼からすれば、斯波家の一被官、織田家のごとき、また、その一家人にすぎぬ滝川一益のごとき、相手にとるも、汚れというだろう」\n「いや、きのうをまだ今日だと思っている、そんなのは、天下になお、たくさんいる。頼もしいな」\n「......そうだ」\n 勝三郎は、振り向いて、\n「頼もしいといえば、こんどの陣に、一士隊長として、信長公から特に出陣を命じられて、おれの隊に伴って来た男がある。......これも、名家の子だが、いちど落魄れて出直した男だから、少々、骨ぐみができておる。会ってみるか」\n「誰だ」\n「姓は明智、名は十兵衛光秀という。......ずっと以前には、明智ノ庄の城主で、斎藤道三山城に与していたものだが、義龍に亡ぼされて、諸州を流浪し、先年、将軍義昭の密書をたずさえて、信長様を頼って参った者だが」\n「あ。その人か」\n 勝三郎が呼びにやった兵が帰って来て、その後から、光秀は歩いて来た。\n 武人らしい姿勢である。きりッとして、主将の勝三郎の傍らに立った。\n「明智どの」\n「はッ」\n「お紹介わせしておこう。これにおらるるのが、洲股の守将、木下藤吉郎どのだ」\n「あ。そうですか」\n 光秀は、一歩前へ出た。\n 藤吉郎も、すこし動いて出た。初めて、お互いに、相見えたのである。\n 光秀と、藤吉郎とは、ふた言三言の、雑談をかわしたに過ぎなかった。時間もなかった。\n 勝三郎はすぐ、\n「出発しよう。命令を伝えてくれい」\n 光秀へいった。\n 光秀は、藤吉郎へ、\n「では、御免」\n 会釈して駈け去った。\n 堤上へ立って、組々の小頭へ、出立の用意を伝えているその声、その行動、いかにも敏速に、よい将校に見られた。\n「......お気に入ったろう、信長様には」\n 藤吉郎は、此方から、その姿を見ながら云った。勝三郎はうなずいて、\n「御家中も、いよいよ多士済々だ。尾濃二国に御領土も拡まって、今では、織田全軍を挙げるとなれば、二万はうごかせよう」\n「小さいな」\n 藤吉郎の返辞に池田勝三郎は、かえって会心な笑みをもらした。そして、馬上に移り、また会おうと別れ去った。\n 街道を蜿蜒と、南へつづいてゆく軍馬のうえに、春風がながれていた。勝三郎は、洲股の領下を出離れるまで、沿道の百姓老幼が、歓呼して軍を送る熱意に驚いた。通過する領地によっては、畑の遠くに鍬を持ったまま百姓は百姓、兵隊は兵隊といったふうに、知らぬ顔して働いている地方もある。いや、明けても暮れても戦乱が多く、戦争に麻痺している土民の神経としては、そうにでもならなければ、悠々、土に鍬を把って、春の仕事を秋のみのりに待ってなどいられないのもむりではなかったのである。――で、彼はなおさら、藤吉郎の領土下が、そうでないのに一驚を喫したのである。\n ここでは、城主と領民と、甲冑の人間と鍬をもっている人間とが、正しく一つ血につながっている相だった。\n「やりおるなあ。彼も」\n 馬上でつぶやいた。\n 光秀も、それを眼に見た。\n そして、さっき城下で会った、風采のあがらない一人物を思いうかべていた。\n 伊勢境の戦雲は、その援軍が着いた頃から、俄然、戦況は激しくなった。\n しかし、北畠一族の抗戦力には侮り難いものがあった。池田勝三郎の考えていたとおり、彼の力に底のふかい根強さがあった。\n 二月ほどは過ぎた。\n その間も、援軍は南下したが、四月の半ばとなると、信長から洲股へ書が飛んで、\n ――伊勢に赴け。\n との命が、彼にも下った。"
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"role": "assistant",
"content": " 計らずも、先に行った旧友や新参の明智などと伍して、彼も、伊勢に戦うこととはなったのである。\n「母上。――行って参ります」\n 出陣の朝、彼は、鎧い立った自分のすがたを、老母の室へ見せに行った。\n「お健やかに」\n 老母も、寧子と共に、本丸の端れまで、彼を送った。\n 一族――もうそういえるだけの者が、彼を城門に、ひしひし待っていた。\n 馬上、ゆらりと、城門を離れつつ、彼は本丸を振り仰いだ。\n 母は、築山へのぼっていた。妻もいた。女たちはみんなそこに一かたまりとなって、花のごとく群れていた。\n「自信がある。わしが征けば、伊勢は三月か四月で片づこう。夏はまた、ここへ戻ってみえる。なに、死なん。......戦なんてそういと易く死ねるものじゃない。母上をたのむよ」\n 見送りのため、城下端れまで、駒を並べつつ従いて来た義弟の小十郎に、彼は、平時のように話しかけていた。\n 一瓢――まだ一瓢の馬じるしは、彼の馬前に燦としていた。\n\n伊勢軍功帳\n\n いつまでも、燃え限れない籾殻の煙や米の焼ける匂いが野をつつんでいた。ゆうべから夜明けにかけてようやく占領した部落に、織田軍の本部はもう移っていた。\n 真っ紅な桃畑も黒く見える。負傷者の群れがそこに呻きあっていた。負傷した将兵は半分気が狂っているように、\n「何だとッ。逆襲せが来たッ?」\n「おれを起たせろ」\n「これしきに、斃れて堪るか。もういちど行って、一働きせねば」\n 天を向いて喚いていた。\n 莚を敷きならべ、何十人となく、朱になって寝かされているのである。もとより身動きもできない深傷ばかりだが、気が立っているので、口だけは、各〻、今も戦っているように、怒号もすれば、歯ぎしりもする。そして、どの眼も、刮と大きく、真昼の雲をにらんでいる。\n 桃畑の端れに、庄屋の家がある。家は大半焼け落ち、焼け跡の井戸のそばには牝牛が焼け死んでいた。悲しげにうろついている仔牛の声が耳につく。すぐ側の陣幕から顔を出した将が、\n「うるさいな。おいッ、この仔牛をどうかしろ」\n と、呶鳴ると、足軽の一人が、槍の柄で仔牛のしりを力まかせに打った。仔牛は、菜種畑へいっさんに駈けたが、畦の小川に落ちて、なお悲しげに啼きぬいていた。\n 幕の外に立っている歩哨の兵が、それを見て笑った。――が、急に、厳粛な顔へ戻って、内から聞える声に耳を欹てた。\n 楯や陣幕を繞らしたそこの本部の中では、さっきから激論が交わされていた。夜明け方、轡をならべてこの村へはいった各部隊の将星たちが、端なくも、これからの作戦上に、意見の相違を来して、互いに譲らないためらしい。\n 滝川一益は、桑名、蟹江の二城を指揮して、早くから伊勢と対峙していたこの方面の主将であるから、彼の決裁に待っていいはずであるが、さて、\n「いずれにも一理はある」\n と、のみで、敢えて彼はそのどっちへも、賛否を明らかにしなかった。\n 論争は、ここ二十日ほどの間に、前後して、伊勢の戦野に参加した新鋭の援軍の将たちの間に闘わされて、一部は、\n「伊勢の南を先に席巻して高岡の城は、後にすべし」\n と、いう意見であり、一方は、\n「いや、敵が難攻不落と恃む高岡の城こそ、先へ懸って攻め落すべきである」\n と、いう二者の対立だった。\n 前者の意見を抱く人々には、\n 熱田の加藤図書、愛知郡の飯尾隠岐守、岐阜城の物頭早川大膳、篠田右近、春日井郡から馳せ加わった下方左近将監――などがある。\n「やすき地を先に攻めて、至難の地を後にまわすのは、遠征の策ではない。北伊勢の嶮、高岡の城だに墜してしまえば、恃みの中心をうしなって、余の北畠一族は、四散滅裂すること、火を見るよりも瞭かである」\n との説をもって、それらの人の意見に反対しているのは、つい四、五日前から参戦した木下藤吉郎であった。\n 最も遅く参戦したものが、最も強硬に自説を云い張るので、それも多少、前者の部将たちの感情を刺戟していた。\n「智略の聞えある木下殿のお説とも覚えられぬ。高岡の城は、北畠随一といわれる豪将山路弾正がこれを守り、その兵は強く、地勢は嶮、いかで口先で貴公がいわるるように簡単に陥ろうか。――味方の全軍が、わずか一城に懸って、日を過すうちに、神戸、一色の敵軍が、退路を断って、包囲して来たら何と召さるか」\n 飯尾隠岐、下方左近将監などの老練の将は、藤吉郎の策を若い逸り気として、叱るが如く云った。\n「いや、それがしは、木下殿のお説を至極と思う」\n とて、彼を支持する者も一部にはあった。\n 池田勝三郎信輝。\n その他二、三の将である。明智光秀も、その中にいた。けれど新参だし、わけてまだ一士隊長にすぎない光秀は、当然、作戦の議に、嘴をいれる資格はない。池田隊附の一将校として、信輝のうしろに黙然と立っていただけである。\n 議論は、果てしがない。\n といって問題は、重大である。全軍の死活は、この二つの方針を、右するか左するかにかかっていた。\n 滝川一益は、思慮ふかい男である。この上は信長の意見を仰いで決するほかあるまいという。\n 岐阜城まで、早馬をとばせば、日数とても幾らもかかるまい。高岡へ攻めかかるにしても、南伊勢へ進路をとるにしても、この附近の敵を掃蕩するには、なお幾日かはかかる。\n「――その間に、御返辞もつくし、なお、熟慮の暇もあれば」\n こう一益が、中庸を取ったので、論議は熄んだ。\n そして急使の馬が、岐阜へ数騎急いだ。\n ところがその晩。\n 一度、退いた敵軍は、闇と地の利を計って、逆襲してきた。滝川一益の隊は、その中軍を衝かれて、二里も退いた。\n その他、飯尾、加藤、下方などの織田軍は、聯絡を失って、支離滅裂した。――夜が明けてみると、死者、傷者、夥しい数にのぼったのみか、ここ七日ほどで、せっかく有利に進んで来た全線の体形が、まったく乱れてしまった。\n「木下隊と、池田隊が見えぬ。――全滅したのではないか」\n 敗色の濃い織田軍のうえに、さらにこんな聞えが高まった。\n 一益は驚いて、調べさせていると、飯尾隠岐守と下方左近将監のふたりが、陣地から伝令をよこして、\n「――昨夜、乱軍中、木下、池田の二隊のみ、敵の右翼を突破して、敵の北地へふかく進んでしまった。察するところ、我説を曲げず、君命を待たず、高岡の城へかかる考えと思われる。――如何すべきや?」\n と計ってきた。\n やむなく、一益は、\n「この上は、彼らを先鋒とし、われわれは後巻して、進むほかあるまい。さもなくば、戦いの後、木下、池田を見殺しにしたといわれよう」\n 不平もあったが、ために、織田方はひきずられた形で、木下、池田の先鋒に従って、午後から動き出した。\n そして、敵の高岡城へ、もう四、五里という辺りまで来てみると、いちめん空は黒けむりに塞がっていた。\n 物見をやって、\n「合戦か。何の火か」\n 見せにやると、その物見が見届けて来たはなしには、\n「木下殿の隊は、高岡城下の町屋へ火を放ち、池田隊は、手分けして、田や畑をふみあらし、穀倉を封じ、城内への通路へ柵を結い、すべて高岡城を繞るものを取払って、孤立にする作戦の下に働いています」\n とのことだった。\n「敵は」\n と、問えば、\n「城兵は、しばしば出て、それと戦ってはいますが、この風に、火の手のまわり早く、町屋や部落のみか、野も山へも、燃え拡がって来たので、城門を閉じ、飛火の防ぎに、手も廻らぬ様子に見えます」\n と、物見は答えた。\n 夜に入ると、風はやんだが、火はなお燃えやまず、数里の後方に陣していても、兵馬の影が赤く見える程だった。\n 六昼夜も燃えつづいた火に、高岡城はまったくの裸城となった。城外の田野民屋、みな焼け野原と化してしまった。\n 藤吉郎の軍三千は、遠く退いて、後はただ城内との交通を固く遮断しているだけに過ぎなかった。\n 北伊勢八郡の兵は、みな城主山路弾正の手足だったが、城内との聯絡が取れないため、その力は区々に分裂されてしまった。\n「潰滅の兆が見えてきた。その方面の敵は、不肖池田勝三郎が当って蹴ちらしてみせる」\n 藤吉郎と行動を共にした池田隊は、その機に乗じて、北八郡の大兵へ、敢然、軍を進めて行った。\n 後陣の滝川、加藤、早川、下方などの諸隊は、先鋒軍の木下、池田の二隊が、今に全滅の傷手を負って退くだろうと、味方ながら、むしろ冷やかに見ていたが、そのうちに、岐阜本城から早打ちが戻って来て、\n「高岡の城を先に攻め陥すこそ上策なれ。猶予あるな」\n との指令であった。\n 同時に、\n「一挙、伊勢を併合せん」\n という意気ごみで、信長自身、約五千の軍旅を整え、伊勢へ向って、出陣してくるとの報もあった。\n 一益たちは、自分らの意見とは案に相違した信長の指令に、にわかにあわてだして、木下、池田の二隊に協力し始めたが、こんどは藤吉郎が、\n「味方より手出しあるな。敵より弓、鉄砲など射かけてきても、退くはよいが、相手に出るな」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"content": "\n2\n 私は子供の時分から退屈をすると、よく戸棚やひき出しや本箱を掃除する癖がある、そして古めかしい煙管のがんくびや昔のかんざしの玉、古物の箱などを探し出して悦ぶのだ。時には思わぬ掘り出しものをすることがある。\n 近頃でも私は退屈すると物置へ入って、私の大型のトランクを開けてみる。そのトランクの中には私がパリから持ち帰ったあらゆるものがなるべくそのままつめ込んである。蓋を開けるとナフタリンと何か毛織物の持つ特殊な外国風の匂いとが交ってパリの下宿にいた時の空気が今なおなつかしく立ち昇って来るのを感じる。\n 私はトランクの中へ頭を突込んでこの匂いを嗅いでみる。するとインド洋からポートサイド、マルセイユ、パリ、ベルリンが鮮やかに私の鼻から甦ってくるのである。\n トランクには三段の仕切りがある。それを一段ずつ開けて行くといろいろのものが現れて来る。だがしかしあまり立派なものはさらに出てはこない。まずワイシャツ、襟巻、靴下、それからマガザンプランタンやルーブル辺りで買ったシュミーズやパジャマ、年末の売出しで買った赤や青の美しい小切れの類、あるいはノエルの夜店で漁った古道具、モンマルトル辺りで買った人形や古時計、荒物屋のカンテラ、カンヌの宿でつかっていたランプ、ニースのカーニバルで使うマスク類、レース、ガラス玉、煙草入れ、三つ揃い八〇フランという仕入れ洋服、その他、シネマのプログラム、電車やメトロの切符、絵ハガキ、手紙その他雑然とつまっているのである。私はそれを一つ一つ取り出しては眺め、しかる後元の如く丁寧に収めてしまう。そして蓋をするのであるが、蓋をするとまた間もなく開けて見たくなるのである、幾度開けて見ても同じものが現れてくるのにきまっているにかかわらず私はついこのトランクの前へ立ちたがるのである。\n こうして雨と退屈と、金のない半日などを暮すことは、真に安全にして適当な楽しみだと称してよろしいかと考える。\n\n3\n パリのトランクでふと思い出したことであるが大体において泥酔者というものは、ねえ君、俺はちっとも酔ってはいないだろうと弁解したりわけのわからないことを幾度も喋るものである。ヒステリーの女は自分が今ヒステリーを起こしているとは考えないし、気狂いは正気だと主張するし、怒っているものには君は怒っているというとなおさら怒るし、まったく厄介なものである。\n 私は今となって私の短い滞欧中のことを考えると、私は日本を出てから日本へ帰るまで殆ど狐か天狗にでもつままれた如く、私の心は妙なところへ引懸っていたように思えてならないのである。\n\n4\n それは私の滞欧中の手紙をみても、その間に考えたことについて考えてみても、今思うとそんな馬鹿なことがあるものか、それは少しおかしいぞと思えることばかり多く書いているようだ。それでまったく自分自身もはなはだ頼りにならないものだと思い、信用の出来ないものだとつくづく考えられる。まったく私は何かにつままれていたらしいようでもある、心細い限りである。だから今洋行中の手紙などをみると恥しくて身の毛がよだつ思いがする。\n そのくせ私はいったん旅に出たその日から私は私自身の精神状態については、大丈夫か、つままれてはいないか、正気か、逆上していないか、帰郷病に罹ってはいないかと常に調べていたものだった。私は大丈夫だと答えていたが、それがやはりどうやら間違っていたらしい。いったん船に乗り込むと同時に私はもはや常の心ではなかったものらしい。\n それはまったく私が旅馴れないのと私の洋行以前の日常生活があまりに旧日本的であったためその生活の急激な変化が一つの原因でもあったかも知れないと思う。私のそれまでの生活は不精髭を蓄えて懐手をして、四畳半の座敷で火鉢を抱いて坐った切りの日常であったものだ。洋服はネクタイの結び方も知らなかったのであった。\n それが直ぐに欧州航路の船客として、西洋人と同じ起居をすることになったのである。そして自分と連絡のある、あらゆるものから離れて海と空と、ペンキとマストとエンジンの音と、他人と外国語と遠方という世界へ投出されたのだから、多少気が転倒したのも無理のないことであるかも知れない。転倒したきり、変なところへ精神が引懸ってしまったものだろうと思う。\n ところでかくの如く変な精神状態になるのは必ずしも私だけではないようだ、外遊中の誰しもが多少ともこの傾向を帯びているように私には思える。誰も彼もが一種のヒステリー症に罹るのだといってもいいかと思う。\n 一種の昂奮状態に陥るのである。いったんこの状態になるとなかなか回復しない。私は天狗につままれたる昂奮のままでパリやベルリンを歩いていたに違いない。\n この昂奮状態も人によっては憂鬱性となって現れる人と、躁狂性となる人とがある。私などは憂鬱性であったらしい。\n 憂鬱の方は妙に日本が恋しくなり日本が世界一番だといい出す癖がある。躁狂性の方は反対に日本の悪口をいって心を養う。何といっても西洋だ、パリだといって騒ぐのだ。\n 欧洲からの帰途船中でのことだったが、ある紳士は日本人の体面を見せてやるんだと、朝からライスカレーの素晴らしい山盛を平らげてから甲板へ出て、何かデッキにつき出ている金物をぐんぐん引張っていた。何をしているのですかと訊くと、俺はこの船を空中へ引き上げるんだと威張っていたが、ずいぶん馬鹿気た話のようだが、どうもこれに似た心持ちが常に僕自身にも、あるいは誰の心にも多少働いているように思えた。私はなるほどと感心してその力業を眺めていたものだった。\n 船は紳士の力に応じて、多少引き上がって行くようだったがまた反対に落ちて行くようでもあった。\n それは下から波が船を持ち上げているのである。とうとういつまで見ていても船は空中へは上がらなかった。\n\n5\n 私のパリの下宿屋とその付近には、ずいぶん日本の画家や画学生が滞在していたものだが、集まって来ると、すぐこの憂鬱性と躁狂性のヒステリーが喧嘩をするのであった。一方はなあに、フランスなどつまらないものだよ、くだらないところだよ、思ったほどでもない、と主張すると一方は、日本など貧しいものですよ、あんなけちなところへは永久に帰りたくありませんよ、私はフランスの地面に立っているとそれ自身が私の幸福なのですよという。この喧嘩は常に水かけ合いに終わって少しも収まらなかった。\n 結局、一方はパリを憧れている日本の奴らにろくなものはいないといって日本人を避けようとするし、一方ではあまり日本人同士集まっていては、言葉だって決して上達はしないし、けちでうるさくて堪らないといって日本人を避けようとする。両方から避け合って、やがて遠ざかる傾向がある。集まれば喧嘩するといったふうが多いようだった。\n しかしながらこうして日本人を避け合って、自分一人は、天晴れのフランス人になり切れるかというと、それは何ともいえない。内地を朝鮮人が和服を着用して歩いているよりも、も少しおかしいかも知れないが、私はフランス人でないから何ともそれは申し上げる資格はない。\n ところが左様に外国にいて日本だ、パリだ、と喧嘩したものが、いつどうせ日本へ帰ってくることになるが、日本でもやはり左様な喧嘩をつづけるのかと思うと、決して左様でもない。お互いにあの時は、どうせ心がいびつになっていましたからねと、口でこそはいわないが、よろしく推察してしまう。\n それは自転車が衝突して二人とも転んだ時の如く、勝手に起き上がって埃をはたいてちょっと目礼してさっさと走って行くようなものだと考える。\n だから大体、西洋からの新帰朝者の感想や言葉などいうものほど信用のならないものはないと私は思う。皆いろいろのつきものや昂奮の飛沫を喋ることも多いのである。まず一、二年間は静養させてやる必要があるかも知れない。私なども日本へ帰ってからだんだんと西洋の味がわかって来たように思えてならない。\n 私が今度、再び渡欧出来る機会があったとしたら、その時こそはまったくの正気でゆっくりと長閑に味わいたいものだと考えるが、これには確信が持てないようだ。私はちょっとした旅をしても、落着いた心で制作することさえ出来ない性質であるから、またすぐさま天狗につままれてしまうかも知れない。怖るべきは天狗の仕業である。\n だが、時々人間は何かにつままれたくなるものだ。つままれた昂奮状態というものはかなり淋しくない、いい気持でもあるのだ。\n 私は近頃何かにつままれてみたくて困っている。\n"
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"role": "assistant",
"content": "6\n トランクから妙に西洋の話になってしまったからついでにもう一つ書いてしまう。\n 私はある冬、ベルリンに一カ月あまり滞在していたことがあった。その時はちょうど戦後で、マルクが非常に下がり始めた頃だった。日本人は妙な運勢から皆大変な金持になったのだ。そこへまぎれ込んだ私達貧乏書生も、ちょっとした金持にはなれたのだ。たちまちあさましくも友人H君とともに洋服を作ろうではないかと考えた。\n 下宿の娘がそれではといって私達を懇意な洋服屋へ案内してくれた。洋服屋はモッツストラッセにあった。\n 約束の二週間の後、私はその洋服を受取りに一人で出かけたものだが、ところがどうしてもモッツストラッセへ出られないのだ。私はくたびれてしまって辻馬車を呼んだ。そしてモッツストラッセ55と命じた。馭者はヤアヤアと合点して動き出し道を向かい側へ横切ったかと思うと急に馬車は止まってしまった。馭者がここだここだというので、よく見るとなるほど、そこに洋服屋があった。壁にモッツストラッセ55と書いてあった。ガラス戸の中にはおやじの白い頭も輝いていた。そして私は馬車代をちゃんと支払ったものである。\n\n洋画ではなぜ裸体画をかくか\n\n 私の考えでは、人間はお互い同士の人間の相貌に対してことのほか美しさを感じ、興味を覚え強い執着を持ち、その心を詳らかに理解するものであると思うのです。\n それは何しろわれわれは同類でありますから、私達が犬や馬や虎や牡丹やメロンやコップや花瓶や猫の心を理解し、その形相を認めることが出来るより以上によく認め理解し得るものであると思うのであります。\n よく判り、よく理解出来、その相貌の美しさを詳細に知ることが出来、強く執着するが故にその美を現そうとする心もしたがって強く、その表現も簡単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。\n 要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。\n したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。\n 春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。\n すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。\n しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。\n その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。\n それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それはきわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。\n(「美術新論」昭和四年六月)\n\n亀の随筆\n\n 近代の看板は、主としてペンキ塗りである。それは変色しやすく、剥げやすい、しかしそれで構わないので、剥げたらまた塗るだけの事である。この目まぐるしい近代の街景にあっては地味にしてお上品なものは人の目には止らない。特に円タクの窓からの走りながらでは、よほどのものでない限り人目をひかない。何かなしに近ごろは、人の頭を撲りつける位いの看板を必要とする。電燈の明滅の如きはちかちかとして小きざみに通行人の神経を撲っているのである。\n 最近のドイツあたりから来る新しいポスターにしてもがさようである。あの表現派風の円や棒、立体、縞等を配置する処の一見驚くべき大柄である処のものは皆、人の頭を撲る役目を勤めているのである。\n ちらと見た瞬間に了解出来る看板は近代における重要な看板である。\n ところで、昔の看板はさようではなかった。子守や丁稚が、あるいは車屋さんが車上の客と話しながら、珍らしい看板にはゆったりと見惚れているという有様であった。\n 従って、ゆっくり観賞出来るだけの手数のかかった看板が多かった。\n ペンキのなかった昔は、看板は立派な木材が用られ、そして彫刻師によって、書家によって、あるいは蒔絵師の手によって工夫されているものが多い。\n 今の大阪では古風な家は改築され、取払われ消滅しつつあるが故に、三十年前の旧態をそのまま止めている商家もまた少くなり、面白い看板もだんだん姿を消して行くようである。しかしまだ、高津の黒焼屋の前を通ると、私は私自身の生れた家を思い出す。それから船場方面や靱あたりには、私の幼少を偲ばしめる家々がまだ相当にのこっている。\n 現在の堺筋は殆ど上海の如くであるがその島之内に私の生れる以前からぶら下っている足袋の看板が一つ、そしてその家は昔のままの姿で一軒残っている。\n それから、私は町名を忘れたが今もなお木彫である処の古めかしい河童が屋根からぶら下っているのを見たことがある。グロテスクで気味悪いくせにちょっと見たい気のするものである。\n 私の生れた家は堺筋にあって、十年以前まで存在していた。先祖代々が古めかしい薬屋であるがために、家の店頭はあらゆる看板によって埋まっていた。今でも記憶にあるものでは急活丸という舌出し薬の看板である。藪医者のような男の半身像が赤い舌をペロリと出しているのである。それからライフという当時ハイカラな名の薬の看板はガラス絵だった。痩せた男が臓腑を見せて指ざしている絵だった。その他、様々の中で最も手数のかかった大作は、何んといっても、私自身の家の膏薬天水香の亀の看板であった。\n それは屋根の上に飾られてあった。殆ど一坪を要する木彫の大亀であった。用材は楠である。それは地車の唐獅子の如く、眼をむいて波の上にどっしり坐り、口を開いて往来をにらんでいるのであった。\n そして、私の店には、一畳敷あまりの板看板が黒い天井から下っていた。それには三社御夢想、神位妙伝方と記されてあった。\n その中で生れた私は、人間というものは、誰でも生れると、何かなしに、頭の上に亀がいるもので看板の中に住んでいるものだと考えていた。そして、人間は膏薬を売っているものだと思っていた。ところが少しもの心づいて来るに従って亀は私の家の看板で、薬屋は自分の家の商売だということがわかって来た。しかしその膏薬は何に効験あるものかという事は全く、十七、八歳に至るまで、私は本当によく知りもしなかった。\n ただ私の店へ毎日参ってくる大勢の客はすべて腫物の出来た人であり、あるいは妙な処へ負傷した人のみであった。とにかく私は私の家が何屋さんで父は何をしているのか、屋根の亀は何んのまじないであるかについても永い間全く無意識だった。"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " パルヴィン博士は、\n「ヴィザ、じきおりるでしょう」\n そういいながらなぜかちょっと、傍の小さい夫人の方をみた。夫人は、にこやかな表情のまま、大きい良人の方は見ないでうなずいた。\n「一週間もたったら出来るでしょう。そう思います。そのときおいで下さい」\n 博士の住んでいる茶色の別館を出た伸子と素子とは、互にひとことも口をきかず、ゆっくり大使館の門外へ出た。ろくな街路樹もない歩道をしばらく歩いて一軒の文房具屋の前へ来たとき、\n「ぶこちゃん、ちょっとまってくれ」\n 素子が立ちどまって、たてしぼの単衣羽織をきた袂からタバコ入れを出した。\n「ともかく一服しなくちゃ!」\n あんまりそれは実感に迫ったいいかただった。\n「まったくね! あなたは、こういうとき、そういうものがあるから本当にいいわ」\n そういいながら、伸子は商店の並んだその街上を見まわした。\n「でも、歩きながらじゃ変だから......」\n 正午近い電車どおりのむこう側で、坂の下りかかりに色のあせた藍縞の日よけを出した一軒の喫茶店があった。\n「あすこへ行きましょう、どんなとこでもいいわ。かけられさえしたら――」\n 素子は、まちきれないように、白ペンキをぬったその喫茶店のドアの内へ入るなり、マッチをすって、タバコへ火をつけた。\n\n 旅券の裏書ができれば、だいたい一ヵ月ぐらいのうちに出発しなければならない規定だった。伸子たちの旅行準備は、トランクを買うことから旅行のための服装の仕度まで俄に現実のこととしてせわしくなりはじめた。毎土曜日の午後やっていたロシア語勉強も、二人が大使館へ行った翌日で、おしまいにすることになった。素子は、課業をはじめる前いつもどおり帳面と本とを並べている浅原蕗子に、\n「浅原さんいよいよきょうでおしまいですよ。ヴィザが一週間位のうちに出来るらしいから」\nといった。\n「ほんとですか」\n 蕗子は、いつものおとなしい声はそのまま、眼を大きくするような表情をした。そしてもう一度、\n「ほんとですか」\nと、念をおすように、同じ長椅子に並んでかけている伸子をかえりみた。\n「こんどは、たしかそうよ」\n 伸子は、きのう自分たち二人がパルヴィン博士のところでどんなにのどのかわくような思いをしたか、ということを珍しい夫婦のくみあわせと一緒に話した。\n「そうですか、では、たしかでしょうね」\n 蕗子は分別らしくきいていた表情を次第にゆるめて、もちまえのゆったりした善良な顔になり、\n「いいこと!」\n 十分の羨望をあらわして、伸子の肩へ自分の肩をうちあてるようにした。\n「でも――どういうことになるのかしら」\n 伸子は、うれしさとあてどなさのまじった顔つきでいった。\n「なにしろ、これじゃあね」\n 草色の表紙を開かれているベルリッツの「外国人のためのロシア語」は、そこに「停車場で」という見出しの頁をあけ、われわれは、赤帽をよばなければなりません、というような単純なことを教えているのであった。\n「ともかく、いっていらっしゃいませ」\n 首をかしげた蕗子の、ぽってりとして若い顔の上を、ほほ笑みと涙とが瞬間に交錯して走りすぎた。\n「二三年でしょう?――そのうちには、わたしもしっかり勉強して、役に立つようになっていますからね」\n 蕗子は、素子が勉強した大学の露文科へ入学することにきまっていた。\n「あなたは心配ないさ。それだけ真面目にやっていれば、大丈夫ものになりますよ、ワーリャさんも熱心だってほめているもの」\n「............」\n 蕗子は、伸子たちがいなくなってからの自分の生活の思いにとらえられたように、細い青桐の葉が茶色になっている隣家の生垣の方へ目をやっていたが、小声のひとりごとのように、\n「ロシア語ばかりじゃあなくね」\nとつぶやいた。うっとりした唇からもれたようなその言葉の調子に伸子の心がひかされた。\n「なにをしようというの? ロシア語のほかに――」\n 蕗子は急に目をさまされたような様子でしばらく伸子をみつめた。そして、また人なつこい小声で、\n「いろいろあるでしょう?」\n 小首をかしげてそういった。しかしそれぎり、気をかえたらしく蕗子ははっきり坐り直した口調になって、\n「わたしにどんなお手伝いができるでしょうか」\n 素子にきいた。\n「おっしゃって下さい。出来ることでしたらなんでもよろこんでいたしますから」\n 伸子たちはすぐにも、家の始末にとりかからなければならなかった。それには、まず本のかたづけが一仕事であった。\n「こんどは、ごく信用の出来る人だけにたのみますよ。この前ここへこして来るときみたいに、あんな大切な本とられたりしちゃたまりゃしない」\n 老松町からこの郊外の家へ越して来るとき、一二度遊びに来た学生が手伝った。その青年がかたづけながらひろげて見ていたモスクワ芸術座の立派な写真帖が、あとからどうさがしても見えなくなっていた。そして、その学生は、もうそれきり素子のところへ出入りしなくなった。\n 課業が終ってから、素子は、\n「いそがないんなら、夕飯をたべていらっしゃい」\nと蕗子をさそった。\n「あなたが使うようにのこしておく本なんか、そろそろ選んでおかなけれゃ。こんなときは、あとへゆくほどごたつきますからね」\n 夕飯のできるまでと、伸子は、いつも電話をかけている停留場わきの酒屋へ出かけた。そして、本をつめて、動坂のうちの土蔵にあずかって貰うためのビールのあき箱を、十個ぐらい註文して来た。帰ってみると、ロシア語関係の辞典類をすっかりひとまとめにして積み上げた卓の前に、素子と蕗子が一服していた。入ってゆく伸子を見上げて、\n「こまっちゃったよ、ぶこちゃん」\n 素子が、辞典のつみ重ねを目でさした。\n「――これだけで一荷物だ」\n「ダーリのようなものは、かえってむこうではいらないんじゃないでしょうか」\n そういう蕗子の注意で、素子は大判の幾冊もある百科辞典風の大辞書をとりのけた。\n「ぶこちゃんの本は、どの位になるかい」\n「さあ」\n 伸子は、まだ揃えてなかった。歴史の年表。日本の辞典。簡単な日本と世界の文学史。そんなものの必要はすぐわかった。けれども、\n「小説、なにもって行こうかしら......」\n 一冊の小説もなしで、外国へ行って何年も暮す。それは、伸子にとってたよりなくまた寂しく思えた。この間まで長い小説をかいていたとき、伸子がずっと机の上にのせていたのは「暗夜行路」であった。仕事をすまして休んでいるとき、また、書こうとすることがらが、はっきり心にまとまって来ないようなとき、伸子は、その小説を開いて一頁二頁とよんだ。断続して、いわば手あたりばったりに開かれる頁は、そのときどき、なにかの意味で伸子の伴侶となった。そうして、伸子は、自分の小説をかき終ったのであった。しかし、これからさき、幾年かの間のために是非もってゆきたい小説――それは何だろう。伸子は、躊躇なく自分の手がそこへのびる小説集を思い浮べることが困難だった。「暗夜行路」を思ってみても、その作品の世界は、伸子のいまの生活感情にとって、前方にはなくて、後方にあった。伸子が、ぼんやり息苦しい生活のせまさを感じ、そこを突破したいうずきを感じている、その限界が、「暗夜行路」にも感じられるのであった。もってゆきたい小説がわからない。伸子とすれば、このことで、一層切実に外国へもゆく気になっている自分のこころの状態を思いしらされるようだった。\n「じゃ、ぶこちゃんのは、あとのこととして――浅原さん、あなたは、ロシア語関係の連絡係になって下さい。たのみますよ」\n 素子が、蕗子にたのんだ。\n「日本語の方のことは、河野さんにたのむから......ねえ、ぶこちゃん、その方がいいだろう。まだあなたの校正だって見て貰わなくちゃならないんだから......」\n\n 二三日おいて河野ウメ子に会い、三人で相談した結果、家の始末をつけたら、素子だけ先へ京都へゆき、あとから伸子が出かけてウメ子も京都で落ち会うことにきまった。京都には三人にとって共通な幾人かの友達がいた。それにウメ子の文学上の指導者である須田猶吉はそのころ奈良に住んでいた。"
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"role": "assistant",
"content": "「丁度よござんすわ、奈良へもよれますし......」\nとウメ子がいうのも本当だった。\n 京都で落ちあったら、ある女歌人のやっている地味な宿にとまることにした。\n「いいところですよ。鴨川のすぐそばで――座敷から流れが見える」\n そこは、先へゆく素子が手はずしておくことになった。伸子はウメ子に最後の校正がのこっている小説のことをたのんだ。\n「わたし下手でわるいんですけれど、本当に一生懸命にやりますから」\n ウメ子は、美しい上まぶたをつり上げるようにして真実こめていった。\n「本が出たら、すぐお送りします。わたしのロシア語なんてあやしいんですけれど、宛名ぐらいかけるでしょうから、思いがけない役に立つわけです」\n 諧謔的にそういって、ウメ子は小さい金歯をみせながら、ちょっと舌を出すように笑った。\n 引越しのトラックが来る日がきまったとき、伸子は重い気もちで動坂へ行った。駒沢の家かたづけの第一日は動坂へ荷物を送り、第二日は日本橋の素子の従弟の倉庫へ。そう順序だてられた。多計代は、きっといつもの調子で、そのビール箱の中のいくつが、素子の本かときいたりするのだろう。そう思って伸子は気のはずみの失われた顔でその話をきりだした。\n「そのビール箱っていうのはいくつぐらいあるの?」\n 何となく、多計代のうけ答えは軽快であった。\n「全部で、十ばかりなの」\n 土蔵の空きまを一寸考えてみる風だったが、\n「そのくらいなら大丈夫だよ、もっといで」\n 多計代は淡白に承知した。\n「災難はいつおこるかわからないから、第一土蔵が落ちるような火事でもあったらそのときのことだけれど――そしたらまあ、お互にあきらめて貰うことさね」\n あらためて多計代は、\n「伸ちゃん、いつからこっちへ来るのかい」\nときいた。\n「駒沢をひきあげるならひきあげるでいい加減にこっちへ来てくれなくちゃ。電話のとりつぎだけでも、困っちまうのさ。いつ伸子さんはお立ちですかってきかれたって、おりません、わかりませんだもの。それに、お父様もいらっしゃるとき、せめて一枚家じゅうの写真ぐらいとっておきたいし......」\n 素子と伸子との旅行の噂がひろまって、問い合わせが電話のある動坂のうちの方へ来るらしかった。そういう外の空気の動きは、多計代の気持に影響した。多計代流に派手にうけとっている外国ゆきということのなかで、素子だけ差別をつけきれなくなっている。しかし、伸子は動坂の家には最少限しか逗留しないですむように日程を立てていた。\n うち合せをすまして伸子が帰りかけているところへ、六尺近い体と、つき出た腹と、ブランデーやけのした顔色とで、日本人というよりいくらかジョン・ブルめいた砂場嘉訓が訪ねて来た。\n「こんにちは、奥さん」\n 砂場は、さきごろまで二十年近くイギリスに暮して、イギリス人を妻にしている洋画家であった。しなれない日本流の立礼を、特にこの夫人には丁寧にするという風で、膝を少しかがめて辞儀をした。\n「佐々先生、まだかえられないですか?」\n「まだですよ、あなた、事務所へ電話をかけていらっしゃいましたか」\n「ええかけました。じきかえられるということでした。伸子さん、しばらく」\n ひらいた長い二つの脚の間に腹をおとすような姿勢で煖炉まえのベンチにかけた砂場嘉訓は、伸子に向って大きい右手をさし出した。\n 伸子が小さかったとき、砂場嘉訓は山陰の奥から上京した日本画の画学生であった。袂のある絣のきものを着て小倉の袴をつけた砂場嘉訓は、伸子のうちの客間の真中に文晁の懸物をひろげ、わきに唐紙をのべて、それをうやうやしく模写をしていた。小さかった伸子は時々廊下づたいに客間へ行って、どこか子供をおとなしくさせるような雰囲気のあるその場の光景をのぞいた。\n それからほどなく、どういういきさつをへたのであったか嘉訓はロンドンへ行った。パン、ミルク。たったそれだけの言葉しか知らなかった嘉訓は、不自由なところは得意の絵物語でおぎないながら、ロンドンの美術学校を卒業し、やがて日本の文展に純英国流の婦人像を送って特選となり、つづいてイギリスでローヤル・アカデミーの会員になった。そして、一流の洋画家として永年暮していたイギリスをひき上げて、先頃帰朝したのであった。嘉訓は帰って来ると昔なじみの佐々のうちへしばしば出入りした。\n「奥さん、あなたののどの線は、美しいです。日本の女には滅多にない。ヴィクトーリア女王ね、あのひとは、そういう美しいのどの線をもっていました。是非、描かして下さい。佐々先生の肖像も。きっと描きましょう。お二人はわたしの恩人だからね」\n 砂場嘉訓は、永年画架に向って仕事をしているうちにそういう姿勢になったのか。どこにかけても、開いた脚の間に腹をおとして尻をうしろに引いた姿勢となり、ものをいいながらいつもほろ酔いのように、変に柔らかく手頸をふった。そして、上まぶたをほそめた真直な視線で、それも大画家の風貌という風に、ふた息、三息する時間だけ余計にじっとあい手を見た。伸子の幼い記憶のなかにぼんやり浮ぶ若かったときの砂場嘉訓はもっとからだも小さく、無骨で、かたい若者のようだった。今日老大家として現れている嘉訓は伸子に妙に落ちつかない印象を与えた。\n 嘉訓が帰って間もない頃佐々泰造が、おどろいたように、\n「砂場嘉訓という男は、一風変っているね、金勘定をしらないらしいよ」\nといったことがあった。\n「まさか」\n 多計代が、否定した。\n「あれだけ苦学までした人間じゃありませんか」\n「若いときは、それゃ苦労したろうが、とにかく、日本の金の勘定はよくわからないらしい」\n 泰造と一緒に出かけて、食事の支払いにけたちがいの金を出し、それを注意したら、金の勘定は不得手だからたのむと、札入れを泰造にまかした、というのであった。誰と歩いても、砂場と歩いたひとは、みんなそういうことを云った。\n 日本金の勘定を覚えない砂場嘉訓は、佐々夫婦の肖像を描くこともなかなか実現しなかった。\n「砂場嘉訓て、ああいう人間だったと見える」\n そういって、多計代は、砂場が、佐々に紹介される知名の実業家や富豪などの肖像を、どんな高い画料で描いているかというようなことばかり話す、と伸子に告げた。\n「あてにする方がばかなんだろう。なにがなんだかわかりゃしない」\n 砂場嘉訓は日本へ帰ってからはいわゆる画壇というものには余り接近せず、じかに、上流の依頼者へ結びついて行った。フランス絵画の影響のつよい日本の洋画の若い世代は、アカデミックな嘉訓が日本に帰ろうと帰るまいと無頓著らしかった。彼は渋谷の方の、二階に浴室の設備まである洋館に住んでいた。\n 多計代はこの前会ったときからだの工合がわるかった嘉訓の細君の安否をきき、\n「お宅のジョージさん、やっぱりドアのハンドルをみがいていますか」\nときいた。\n「みがいています」\n 砂場嘉訓は重々しく首をうなずけると一緒に、右手を自分の前でふらりとふった。\n「いまは、子供部屋のハンドルですハハハ」\n「お母さんのお手伝いにもなって、いい道楽をおしこみになったこと!」\n 砂場嘉訓は、多計代のその言葉に答えず、ちょっとだまっていたが、上まぶたをひき上げるように伸子の方を見て、\n「伸子さん、外国へはいつ立ちますか?」\nといきなりきいた。今度の計画を砂場が知っていようとは思いがけなかった。伸子は、\n「どうして御存じ?」\n 素朴に意外さをあらわしてきいた。\n「わたしのところへは毎日、新聞記者が来ます。いろいろな人がどっさり来ますからね」\n「立つのは十一月です」\n「きょう何日? 十月二十日ですね、もうじきだ」\n 泰造が帰るまで、と多計代は砂場嘉訓が来るときまって出しかけられるリキュールのコップを煖炉前のテーブルの上においた。\n「どうぞ御自由に――ちょっと失礼いたします」\n つづいて伸子もその室を出ようとすると、砂場嘉訓が、\n「伸子さん、ちょっと」\nとよびとめた。立ちどまって、ふりかえった伸子を手まねきして、自分のいる煖炉前のところへ来させた。\n「あなた外国へゆくのは大変いいです。――非常にいいです」\n 実感のこもった真面目な低い声で、首をふりながら砂場はそういった。\n「大きいところで大きく育つこと。これが大切だからね。――これお祝です」\n 砂場嘉訓は、いつの間に出したのか百円の札をむき出しのまま伸子にさしつけた。\n「ありがとう、お祝は頂くけれど――お金はいらないわ」\n「そうじゃない。伸子さん、金というものはいるものです」\n やっぱり低いしらふの声で砂場は手をひっこめている伸子を説得する調子でいった。"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n\n女中奉公\n\n\n\n 秋原さんの世話で私は、浅草聖天町の仲木という砂糖屋に奉公することとなった。\n この家には五十四、五になる夫婦と、若夫婦と、若夫婦の子供が二人に、弟が二人のほかに、店員と女中とが各々一人ずつ、それに私を混ぜて都合十一人の家族が住んでいた。\n 老主人というのは店を息子に譲って自分は家のことは何一つせず、いつも家を空けて外にいたが五日に一度ぐらいしか戻って来なかった。これは後で知ったことであるが、この老主人は何でも浅草公園附近の待合に入りびたって、似寄った連中と夜昼ぶっ通しに賭博をしたり飲んだりして日を送っているらしかった。しかも、公園近くに妾をかこっているとかで、大抵の時はその方で日を暮すようになっているのだった。\n 私がこの家に行ってから一月ばかり経ったある日、「久し振りに聖天さまへお詣に参りましたのでちょっとお寄りしました」と言って来た二十五、六の女があったが、後で奥さんから私に「あれはお父さんの妾なのよ」と教えられたことがある。疎い縞お召の羽織を引っ掛けて、束髪に巻いていたが、玄人染みた粋な女だった。\n 大奥さんというのは病的なまでに潔癖家で、部屋の中の畳の上をさえスリッパを穿かねば歩けないといった方であったが、それでいておかしいことには、そのスリッパで便所の板の間をじかに踏む矛盾を平気でやるのであった。若い時にはちょっと好かっただろうと思われるほど、今もなお色艶のいい女で、風呂に行っても二時間はたっぷりかかるほどのおめかし屋であった。\n たまに大旦那が帰って来ると、火鉢を中に向い合わせに座って、ひっきりなし何か愚痴をこぼしているのだったが、何でもそれは妾のことについてらしかった。\n「うるさいなあ、好い加減におし......」と、大旦那が怒って帰って来たばかりなのにまたも飛び出して行ってしまうのを、私は時々みとめた。\n 若主人は別にこれという特徴を持たぬ平凡なそして品行方正な男であったが、奥さんはなかなかの器量よしであった。夫婦仲も決してわるい方ではなく、むしろ並以上の睦さであった。\n が、姑と嫁との間は余り面白くないらしく、嫁はいつもおどおどと小さくなっていた。それを夫が、陰になり日和になりして庇っているのは誰の眼にもわかった。で、大奥さんはいつも、それが気に喰わぬといった風にぶつぶつと言っていたが、時にはじっと長火鉢の上におっかぶさったまま、ヒステリカルに泣いたりなんかしていた。\n 弟の銀ちゃんは二十四、五だったが、家じゅうで一番几帳面なしかしけちな男だった。まだ独身で、家でぶらぶらしていたが、人のいないところでは嫂に抱きついたりキスをしたりして、小心な奥さんを困らしていた。妻にはどうしても嫂以上の美人を貰うのだと言って、まだいつ、誰を、という当もないのに、女持ちの雨傘を買って来たり金縁の小型の名刺にただ「仲木」とだけ刷らしたのを、用箪笥の抽斗に蔵い込んでおいては楽しんでいた。\n 末の伸ちゃんは神田の私立中学に通っていたが、兄達とはちょっと毛色の違った男であった。やせて背が高くて無口で、苦味走った顔を持っていた、どちらかといえば暗い重苦しい感じを人に与える男だった。あまり勉強家の方ではなく、店員の内緒話によると受持教師の宅へ砂糖を俵で贈ったが、それでもなお落第したとかいう話であった。\n この家にはどのくらいの財産があったのか知らないが、財産はみんなに分配されているとかで、ただその日その日の食事だけを一緒にしているだけのことであった。\n\n さてこの家に来てはみたものの、東京に出て来た唯一の目的である学校をやめて女中奉公なんかすることの寂しさがひしひしと身に沁みて感じられるし、第一この家の空気が何だか私の膚に合わぬといった感じもして、何とはなしに私は憂鬱であった。で、私は、別にどうという考えはなかったのだが、ただこの寂しい心を訴えたいばっかりに、この家に来てから間もなく、私は、河田さんのところに手紙を出した。すると河田さんはすぐ、その翌る日私を訪ねて来てくれた。\n 来てくれただけで私はもう飛び立つような嬉しさを感じた。しばらくひまをもらって私達は街をぶらぶら歩きながら話した。\n 手紙では書けなかった事情を私は河田さんに話した。河田さんはその事情をきいて一層私に同情してくれた。そして私に言った。\n「あのね、私の兄が近いうちに市内へ出て印刷屋を始めることになっているのよ。で、どう? あなたそこへ来て働いてみては。そうするとあなたは学校に行けるようになると思うけれど......」\n 無論、私は、できるならそうしたいと思った。ただ、そうすることは、私が社会主義者の仲間に入るということを意味するので、今まで世話になった伊藤にすまないと思った。\n「ありがとうございます。私にとっては、それに越したことありません。けれど」と私は、この伊藤のことを話して「そうすると伊藤さんに叛くこととなるのが心苦しいんで......」と渋った。\n「そうね」と河田さんはしばらく考えていたが、やがて晴やかな顔をあげて言った。\n「いいじゃないの? その伊藤っていう人には、今までの恩恵を――恩恵といったところでその心の恩恵までもというわけには行かないけれど、せめてあなたに施してくれた物質上の恩恵をでもすっかりお返しして行きさえすれば......そのくらいのことなら、私の方で何とか都合がつきそうに思いますけど......」\n 私はもう、耶蘇教から離れたいと思っていた時だった。それに河田さんのこの提案はまたと得られない機会だとさえ私は思った。で、少し図々しいとは思ったけれど、万事河田さんにお頼みすることにした。\n 翌々日河田さんから二十五円の為替が来た。河田さんの親切に感謝しながら、私はそれを郵便局から受け取って来た。そして、せっかくだがお暇をいただきたいと大奥さんに願い出た。ところが、手に腫物が出来て切開したばかりの大奥さんは、繃帯でぐるぐる捲きにした手を眺めながら困った顔をして、むしろ頼むように私に言った。\n「ねえ、おふみさん。今あなたに出られてはうちはどうにもならなくなるんだよ。何しろ、嫁はあの通り体が弱い上に身重だし、肝腎のきよ(女中の名)はぐずで間に合わないし、おまけに私の手はこんなのだからねえ......」\n そう言われると私も困ったが、同時にまた、河田さんにすまないと思った。\n「ええ、それは私も存じていますのですけれど......私にはまたとこんないい工合の仕事が見つかりそうもありませんので......」\n 大奥さんはしかしどうしても私を放そうとはしなかった。「せめて私の手が癒るまで、助けると思っていて下さいよ」とまで私に言った。\n それをすらも振り放して出るということは私にはできなかった。で、止むを得ずすべてを諦めて、その年一ぱいはいるということを承知してしまった。\n 河田さんの親切を無にしたことを私は心苦しく思った。けれど、どうにも仕様がなかったのでせめてこの金だけでも返そうと思った。けれど、河田さんはその金をさえ受け取らなかった。\n 伊藤は三日にあげず店に来て、信仰友だちである店員の山本や家人の誰彼に、宗教上の話をして帰って行くのであった。が、その頃は試験が近づいているのにパンに追われて勉強も碌にできないことをかなり苦痛に病んでいるらしい様子であった。そこで私は、河田さんから貰った金を、恩返しだの何だのと鹿爪らしいことを言わずに、ただ彼に、少し落ち着いて勉強のできるようにと、すっかりそのまま、伊藤にやりたいと思った。ところが、そう思って待っていると、伊藤はなかなかやって来なかった。\n 私はもう待って待って待ちくたびれた。そこでそれを、為替にして伊藤に送った。\n「わけは後でお話ししますが、私にちょうど要らない金がありますのでお送りします。これだけあれば一ヶ月やそこいらは間に合うと思います。どうぞ、当分の間、仕事を休んで、しっかり勉強して試験を受けて下さい」こういった意味の手紙を書いて、為替を同封して送った。封筒にはもちろん男のように「金子生」と書いた。\n 二、三日して伊藤が来た。私はいつものように、彼を電車停留所のところまで送って行った。\n 二人になると伊藤は言った。\n「お金ありがとう。だが、あれにはちょっとびっくりしましたねえ。用事があれば僕の来た時話してくれるとして、これからは決して手紙なんか寄越さないで下さい。女から来た手紙だなんてことがわかったら、僕の信用がなくなりますからねえ......」\n「ええ、でも待ちきれなかったんですもの。それに、だからと思って字も名前も男のように書いたつもりだけど......」\n「いや、そのお志はありがたいんです。ただ、手紙なんか寄越さないで......」"
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"role": "assistant",
"content": "「すみませんでした」と私は寂しい気持ちで答えた。そして別れた。\n とはいえ、私は決して伊藤を恨んだのではなかった。それどころか、私の心のうちにはますます深く伊藤への信頼が喰い入っていた。で、伊藤が来るたびごとに私は、伊藤を送って出た。夜などは、「あの電灯の下まで」とか、「あの柱のところまで」とか、ついかなり遠いところまでも話しながら歩いて行くのであった。が、家の人たちは、伊藤をも私をも信じていたから、決して私達を怪しみはしなかった。\n\n その頃の私は、学校という重荷をちょっと肩からおろして置いただけに、生活には割合楽であった。で、今までとは反対に、私が伊藤を助けることの方が多くなった。\n 心づけなどに貰ったお金が一円でも二円でも溜まると私はそれを伊藤にやった。そうでない時には、何かしら伊藤にやるものを考えていた。そして、別に用もないのに十二時一時まで起きているこの家の習慣から、その間に生れて来る自分の時間を利用して、何かしら伊藤のために造っていた。\n ある夜私は、例によって伊藤を送り出して行った。ちょっと嵩のある風呂敷包を抱えて、裏口から私は伊藤の後を追って行った。と、それを伊藤が見つけて、\n「一体、それ何です?」と怪訝そうに訊ねた。\n「これ? これね、もう大分寒くなったでしょう。で、あなたに座蒲団こしらえて上げたの。それから枕もね」と私が答えて「ねえ、あなたは座蒲団もなし、枕が汚れてるでしょう?」と言うと、\n 伊藤はびっくりして、\n「どうしてあなたは僕の枕の汚れてることまで知ってるのです」と訊き返した。\n「どうして知ってるって? それはねえ、この間あなたのところへ、うちの番頭さんが寄って昼寝したでしょう。山本さんは帰って来て、あなたの枕が豚小屋の敷藁よりも汚いって言ってたからよ。座蒲団のないこともその時きいたの」\n「それで拵えてくれたんですか」\n「そうです。ほんとうは、私の襦絆の袖ならメリンスでいいと思ったのですけど、紅い色が這入っているのでいけないと思って、よくないけれど更紗を買って来てつくったのよ。でも、座りよいように、普通の寸法よりはずっと大きくそして厚くしておきましたわ。枕の方は、あなたの好きな大きさがわからないからいい加減にしておきましたけれど、気に入らなかったら直しますからそう言って下さい」\n「ありがとう」と伊藤は幾度も礼を言った。私も何となく晴やかな喜びを感じた。\n\n 十一月三十日、忘れもしない、その日の晩だった。\n しばらく顔を見せなかった伊藤が、ひょっくりやって来た。がいつもに似ず、伊藤の顔色がわるく元気もなかった。どうしたのだろうと心配しながら、私は急いで家の用をすました。そしていつものようにまた、主家に断って送って行った。\n 七、八町も歩く間、伊藤は黙っていた。ただ、私の話すことに応答するばかりであった。が、そのうちふと、あまり人通りのない暗いところに来ついた時、伊藤はひょいと立ち止って、\n「金子さん、僕は懺悔しなきゃならない」としんみりとした口調で話し始めた。\n「僕はあなたを見違えていました。というのは、僕は実は、あなたを不良少女だと思っていたのです。ところが、近頃やっとわかりました。あなたは本当の愛の人だということをです。僕は小隊長とも永らくつき合いましたが、その他にもかなりたくさんの女の信者仲間をもっています。けれどあなたのように、温かいやさしい女らしい気もちをもった人は初めてです。僕はあなたの前に自分の不明を謝します」\n この言葉は私を吃驚させた。私はそう言っている伊藤の顔を見た。伊藤は真剣な顔をしていた。だから、無論彼は嘘を言っているはずはなかった。\n 不良少女! その言葉をきいたとき、私は鋭い針でちくりとさされた気持ちがした。が、すぐその後で言った「初めて見た温かい女」という言葉には何とも言えぬ恥かしさを感じた。嬉しいような悲しいような、妙な気持ちであった。\n 私は黙って話をきいた。私は何も言わなかった。が、ふと気がついて見ると、今はもう雷門もすぎて菊屋橋まで来ていた。しかも私は、停留所の柱時計が十一時をすぎているし、あたりの店もそろそろ片づけ始めているのを見た。\n 私は驚いて立ち止まった。\n「もう十一時すぎですわ。この辺でおわかれしましょう」\n「そうですねえ、大分遅くなりましたねえ」と伊藤はしかし落ち着いた調子で言った。そしていつもは自分から帰れ帰れと言うのに、今日に限ってなかなか別れようとはしなかった。\n「実は僕はもう少し話したいことがあるんです。上野のあたりまで歩きませんか。帰りは電車に乗ることにして」\n「ええ。じゃ、もっと歩きましょう」と私の心の奥にあるものが、私の理性を押しのけて突嗟の間に答えてしまった。\n 黙然として、思い思いのことを考えながら、私達はまた歩き出した。そして、上野の不忍の池の畔に来たときに自然と二人の足は停まった。\n 静かな晩だった。あたりにはもう人影はなかった。池の端の柳の木の下に蹲って、落ちた木片で地に何か字を書きながら、伊藤は続けた。\n「今も話したように、あなたが湯島にいた頃から、僕は自分を抑えに抑えていたのです......だが近頃はもうどうにもならなくなってしまったのです。あなたを隣人として見ることだけでは満足出来なくなったのです......この意味おわかりですね。......うちで本を読んでいてもいつの間にか思いはあなたの上に飛んでいるのです。一日逢わないでいると寂しくて仕様がないんです。そんなわけで、勉強は少しも捗どらないし、信仰がぐらつき始めるし、僕はここ一ヶ月ばかり死ぬほど苦しんだのです......」\n それはひそかに私の待ち望んでいたものであったに相違ない。私は躍る胸を抑えて黙って聞いていた。\n 伊藤はまた続けた。\n「で、僕はいろいろ考えてみたんですが、結局僕はあなたを忘れて以前の僕に立ちかえらねばならぬと考えたのです......そう決心したのです。それがお互いのためだと思ったからです......最後まで一緒に生活が出来るという目当もつかないのに、迂闊なことをするのは大きな罪です。お互いの運命を損ねます。ね、そうでしょう、たしかにそれはよくありません......」\n どうしてこんなことを考えるのだろう、と、私はやや失望した。けれど、伊藤はなおつづけた。言葉を強めて、自分で自分を励ますように言いきった。\n「それで僕は今晩をかぎって断然あなたと訣れようと決心しました。そうです、これからは決してあなたを見もしなければ考えもしますまい。今日は十一月も最後の日です。この日を記念としてお訣れするためにあなたに逢いに来たのです、僕の心持ち、わかって下さったでしょうね......これからは僕、決してあなたの家へは参りません。僕は自分に勝って見せます。......では、これで訣れましょう。あなたの幸福を祈ります......」\n 言い終るとすぐ、伊藤は立ち上った。\n 私は内心不満であった。何という臆病な愛の使徒だろうと思った。私は何か言いたかった。けれど伊藤はもう立ち去ろうとしているような風だったので、私も仕方なく答えた。\n「そうですか、ではさようなら......」\n 追い縋る何ものかを払いのけようとでもするように、伊藤は後をも振り向かずに、すたすたと歩いて行った。\n 寂しい、悲しい、それでいて、何となく微笑ましい、そんな気持ちで私はしばらく、彼の後姿を見まもった。彼の姿が見えなくなるまで......。\n\n 仲木砂糖店の生活振りはかなりだらしのないものだった。学校に通う伸ちゃんが朝の七時に家を出なければならないので、私達は朝の五時から起きてその用意をしなければならなかったが、伸ちゃんが学校に行って小一時間も経った頃若夫婦が起きて来る、十時頃に銀ちゃんが起きる、最後に十一時頃に大奥さんが起きて顔洗いに狭い台所を小半時間もふさいでしまう。味噌汁が冷えるので三、四度も温めなければならぬ。大奥さんが朝食をすまして大根一本もって聖天さまへお詣りに出かけると、ちゃぶ台をたたむ間もなく若夫婦たちの昼食の仕度をする。こんな風で、私達は、まったく台所仕事ばかりで一日を終るのであった。いや、そればかりではない。朝やおひるはそれほどでもなかったが、夜になるとは洋食だの、丼類だの、鮨だの、鍋類だのを取り寄せるのであるが、朝起きが遅いだけに夜食は九時十時から、ことによると十一時十二時頃になってもまだそうしたものを注文に行かねばならないのである。そしてそうしたものを食べながら家人は一時二時までも喋舌って夜をふかすので、私達の寝る時間とては多くてやっと四、五時間しかないのであった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " そして、これらをひっくるめて、伊達六十万石を分割し、兵部に三十万石を与えるとか、片倉小十郎にしかじか、立花大助にこれこれなどと、密約したというのはなぜか。\n「私は繰り返し考えてみた」と甲斐は静かに云った、「そして、ふと、川越侍従(松平信綱)の死去ということが頭にうかんだ」\n おくみがはいって来たので、甲斐は口をつぐんだ。おくみは周防に挨拶をし、茶をすすめて、甲斐の顔をもの問いたげに見た。甲斐は頷いて、「支度しておいで」と云った。おくみは会釈をして出ていった。\n「伊豆守信綱が、去年三月に死んだことを思いだしたときに、こんどの事がすべて計画されたものだ、ということに気がついたのだ」\n「もらった手紙には、豆州侯の遺産だと書いてあった」\n「伊豆守が計画し、雅楽頭がひき継いだものだ」\n「もう少し聞こう」\n「まず、伊達六十万石を寸断する密約がある、ということを聞かされたのは松山だ」\n「いかにも、私が聞いた」\n「知らせたのは誰だ」\n「久世(大和守広之)侯だ」と周防は甲斐の眼を見つめながら云った、「小石川の普請小屋へ、久世侯から密使が来て私が呼ばれ、侯自身からしかじかと聞かされたのだ」\n「侯は将軍家側衆であった」\n 甲斐の声は低く、水のように静かであった。周防は訝しそうな顔で、じっと彼の眼を見まもっていた。\n「そのとき侯は、早く陸奥守さまの隠居願いを出すこと、亀千代ぎみ相続の願いを出すことをすすめ、なお、白石(片倉小十郎)は六十万石分割の密約で、直参大名になることを承知しているかもしれないから、彼にはすべて内密にするように、と注意されたと聞いたように思う」\n「そのとおりだ」\n「さて、そこで考えてみよう、将軍家側衆である侯が、どこで、どうして、雅楽頭と一ノ関との密約を知ったか」\n「話しの途中だが」と周防が遮った、「久世侯は当代十善人の一に数えられている人だ」\n「誰によってだ」と甲斐は周防を見、すぐに、まあいいと云った、「徳川幕府という機構のなかで、十善人の一に数えられていることは認めよう、だが、侯はどこまでも徳川氏の譜代であり、幕府閣僚の一人だ、外様諸侯の代弁者でもなければ、もとより伊達家の庇護者でもない」\n「では久世侯も雅楽頭と同腹だというのか」\n「いや、そうは云わない、私はただ事実を検討してみたまでだ」と甲斐が続けた、「雅楽頭と一ノ関の密約を、どうして侯が知ったか、ということ、どうしてそれを伊達家に伝える気になったか、ということ、――なぜなら、侯と伊達家とは、侯が雅楽頭の裏を掻くほど、深い関係ではないからだ」\n「また」と甲斐は続けた、「密約によって利分を受ける人々のなかに、白石の名を加え、白石には内密にするように、と忠告したことは、重職のあいだに疑心を生じさせ、互いに離反させる原因となった」\n「私には信じられない、私は久世侯をかなりよく知っている、侯の人と為りからみて、そこまで企むことができるとは思われない」\n「私も侯が企んだと云ってはいない、侯はただ石を投じただけだ、仮に、それが好意から出たにもせよ、石が投げられたこと、それがどんな波紋を起こし、どのようにひろがりつつあるかは、松山も現に見ているだろう、繰り返して云うが、侯は石を投じた、侯は将軍家側衆であった、これが事実だ、この事実は動かすことができない」\n「すると、久世侯は使嗾されたというのか」\n「侯は十善人の一人だという」\n「背後に豆州侯がいたというのだな」\n「否というより、然りと云うほうが自然だろう、元和このかた、大名取潰しは幕府の根本政策の一つであり、その主脳は伊豆守であった」\n「しかし伊達家には、東照公から永代不易の安堵状が渡っている」\n「安芸の福島(正則)はそうではなかったろうか、芸州も同じように永代不易の安堵状が渡されていた、しかし、幕府の権威と実力を確立するためには、一枚の紙きれなど反故に等しい、芸州はひと揉みに潰されている」\n 周防は自分の膝へ眼をおとし、両手の指を組み合わせた。\n「伊達家はいま三大雄藩の一だ」と甲斐は続けて云った。\n「もしうまく伊達家を潰すことができれば、加賀の前田や薩摩の島津へも手が付けられるかもしれない」\n「そこまで考えるのは、ゆきすぎではないか」\n「かもしれない、というのだ」と甲斐は云った、「従来の例では、幕府が外から揉み潰した、しかしこんどは内部から崩壊させる、という手を打っている、六十万石寸断の密約という一石から始まった動揺は、明らかにそれを示しているし、今後もその方向に動いてゆくだろう、そう思えないか」\n 周防は茶をすすった。それはすでに冷えていたが、周防は殆んど無意識にすすり、それから太息をついた。\n「内部から崩壊させる、というこの手が、もし成功するとすれば、幕府は加賀、薩摩にも手をつけるだろう、そんなことは不可能だという証明はどこにもない、むしろ、ありうると考えるほうが自然だ」\n「それで」と周防は眼をあげた、「前田家と連絡をとるというのだな」\n 甲斐は頷いて云った、「加費藩の留守役で奥村藤兵衛という人に、おくみの兄の雁屋信助から糸を付けた、知ってのとおり、信助は唐船をやっているので、加賀藩の抜荷船とかかわりがある、それを手掛りに、引寄せようと思う」\n「涌谷さまはそれを待てといっておられた」\n「なんのために」\n「船岡のことだからぬかりはあるまいが、いまはなにごとも大事のうえに大事をとらなければならぬ、帰国のおりじかに会って、よく話しも聞き自分の意見も述べたい、加賀へ呼びかけることはそれまで待つように、と念を押しておられた」\n「私の帰国は春になる」\n「それなら僅か半年だ」\n「僅か半年」と甲斐は云った。僅か半年と口の中で呟き、周防を見てゆっくりと頭を振った、「いや、この件については、任せてもらうことになる」\n「涌谷さまになんと伝えよう」\n「ありのままでいい」と甲斐は云った、「私からも手紙を出す、御趣意はたしかにうけたまわりましたと申そう、松山からは、御意見をたしかに申し伝えた、とだけいってもらいたいが、不承知だったといってもいい、私が軽率なことをするかどうか、松山は知っている筈だ」\n「それは慥からしいな」と周防は苦笑した、「里見十左はともかく、伊東七十郎まで怒らせたには驚いた」\n「彼に会ったのか」\n「小野の留守を預かるのだそうで、仙台の屋敷へ訪ねて来た」\n「彼を怒らせるのは辛かった」\n「しかし効果は一倍だ」\n「彼だけは怒らせたくなかった」\n「だがほかの誰よりも効果はあった、七十郎は家臣でもないのに、家中の者に深く信頼され、好かれている、そのうえ、彼が船岡に心からうちこんでいたことを、知らない者はなかったからな」\n 甲斐は雪洞のほうを見た。額に深い皺が刻まれ、その口から、かすかに溜息がもれた。\n「小野と会ったか」と周防は訊いた。\n「いや、面会の申しこみはあるが、まだ会わない」\n「三カ条は取ったそうだな」\n「そういうことだ、吉岡の罷免も近いし、小野は国老になるだろう」\n そう云って甲斐は小窓のほうへ振向き、「明けたようだな」と呟いた。\n「ときに、帯刀どのとの縁談のことだが」\n と周防が話しを変えた。だが、甲斐は立ちあがって、その話しはまたのことにしよう、と云い、「いるか」と襖の向うへ呼びかけた。\n そのとき裏庭で、けたたましい物音と、人の喚く声が聞えた。裏の喚き声は、「くせ者」とか「逃がすな」と云っているように聞えた。\n 甲斐は周防を見た。周防は首を振って、「大丈夫、決して跟けられはしなかった」と云った。そこへ襖をあけて、おくみが顔を見せた。甲斐はおくみに、「支度が出来たか」と訊き、松山を案内しておいてくれ、と云った。\n 彼は小座敷から出て、廊下を曲ってゆき、杉戸をあけて、裏庭を見やった。すっかり夜は明けたが、外は濃い霧で、板塀も木戸もおぼろげにしか見えなかった。その霧の中で、村山喜兵衛と辻村平六のどなるのが聞え、その間合に、「怪しい者ではない、原田どのに面会したいだけだ」と叫んでいる声が聞えた。\n「おめにかかればわかる」とその声は云っていた、「まえにもいちどこの家でおめにかかった、私は柿崎六郎兵衛という者だ」"
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"role": "assistant",
"content": " 甲斐は黙って聞いていて、それから、「喜兵衛」とそちらへ呼びかけ、ここへお伴れ申せ、なんの用か聞こう、と云った。\n 喜兵衛と平六に左右を挾まれて、柿崎六郎兵衛がこっちへ近づいて来た。甲斐は廊下に立ったまま、上から静かに見おろした。六郎兵衛はほつれた髪を撫で、衿や袖の歪んだのを直しながら、「暫くでございました」と甲斐を見あげた。\n「御意を得たいと、しばしば申し出ましたがお返辞がない、やむなくかような不作法を致したのです」\n「用件を聞きましょう」と甲斐が云った。\n「他聞を憚るのです」六郎兵衛は左右の二人を見て云った、「このまえすでに申上げましたから、他聞を憚るということはおわかりでしょう、どうかお人払いを願います」\n「その話しなら無用です」と甲斐は穏やかに云った、「私には縁もなし、聞く興味もない、どうか引取って下さい」\n「原田どの」\n 六郎兵衛の声には哀願のひびきがあった。しかし、甲斐は向き直ってそこを去った。うしろで、原田どの、と六郎兵衛の呼びかける声が聞えた、「貴方は後悔しますぞ」\n だが甲斐はまっすぐに前を見たまま、静かな足どりで去っていった。\n 洗面をしたあと、鏡の前に坐った甲斐は、鏡面に写っている自分の顔を、じっと見つめた。両の耳のところに、白髪がふえ、額の皺が深くなった。額の深くなった皺と、両の鬢に眼立ってきた白髪とで、すっかり面がわりがしたように見えた。\n「ひどい荷を、背負ったものだ」と甲斐は呟いた。\n ひどい荷を、と口の中で繰り返したとき、おくみがはいって来た。甲斐は着替えをしようと云って、立ちあがった。\n\n秋ぐもり\n\n おみやが駿河台下の家へ帰ったとき、兄の六郎兵衛は酒を飲んでいた。時刻は午後五時すぎ、――道場ではまだ稽古の音がして、門人を教える野中又五郎の、よくとおる、甲の高い声が聞えていた。\n おみやはさきに新八の部屋へいった。もううす暗くなった部屋の中で、宮本新八は仰向きに寝ころがり、手足を投げだして、だらしなく眠っていた。それまで読書でもしていたものか、傍の小机の上に、一冊の本がひらいたまま置いてある。それでも勉強するような気持になったのね、おみやはこう思って、そっと覗いてみると、それはなにかの浄瑠璃本であった。\n「新さん」おみやは彼をゆり起こした、「起きてちょうだい、新さん、あたしよ」\n 新八は眼をさました。ぼんやりと眼をさまし、そこにいるのがおみやだとわかると、寝たまま手を伸ばして、おみやを抱こうとした。\n「だめよ、起きてちょうだい」おみやは彼の手を押し返した。\n 新八は訝しそうに女を見、足をぼりぼり掻きながら、大きな欠伸をした。それから、もの憂げに起きあがったが、ふいにとびかかっておみやをとらえ、暴あらしく抱いて、そこへ押し倒そうとした。\n「よして」とおみやは激しく拒んだ、「人を呼ぶわよ」\n「どうしたんだ」\n「放してちょうだい」\n「どうしたんだ」\n「痛いから放してよ」\n 冷たく固い声であった。新八は手を放し、さらに訝しそうな眼つきで、おみやを眺めやった。どうしたのだ、おみやが拒む筈はない。いつもおみやのほうから求めるし、どんなに求めても飽きるということがなかった。\n「兄のところへ来たの」とおみやは云った、「兄に話しがあるのよ、あなたにも話すことがあるの、あとで来るわね」\n「どっちでもいいさ」新八はまた欠伸をしたが、こんどはそら欠伸のようであった、「おれのほうには、べつに用はないぜ」\n「怒らないで」とおみやは低い声で云った、「いろいろ話して、わかってもらいたいことがあるのよ、怒らないで待っていてね」\n「どうせ檻の中のけものさ、云われなくってもここにいるよ」\n「すぐに来るわね」とおみやは云った。\n 新八はまたごろっと横になった。\n 柿崎六郎兵衛は酔っていた。\n 湯島の家へ、原田甲斐を訪ねたのは、二、三日まえのことであるが、帰って来ると飲みはじめたまま、寝るときのほか、ずっと飲み続けであった。\n そばには女が二人いた。おきの、志保、といって、おきのが二十歳、志保が十九になる。まえにいた三人は出てゆき、この二人は三月に雇いいれたものである。まえの三人は、六郎兵衛の酒癖と乱暴に耐えかね、いとまも取らずに、逃げだしたのであった。いまいる二人も、六郎兵衛の癖には馴れようとはしない。もう五カ月にもなるが、彼の異常な性向には、どうしても応じなかったし、むりに命じでもすれば、すぐにでも出てゆくようすを示した。\n ――こいつらも長くはないな。\n 六郎兵衛はそう思いながら、ぎらぎらした眼でおきのを見、志保を見た。上品ぶった面はしているが、ひと皮剥けばこいつらは牝だ、色と欲で固まった牝にすぎない。彼はこれまでに知った女たちの、幾人かを思いだした。色情と物欲のほかには、なにものにも、些かの価値も認めない女たち。六郎兵衛はそういう女たちが好きであった。はっきり色と欲に割切っているほうが、「女」としても扱いやすく、かつ面白かった。\n 彼はまじめで上品ぶった女を見ると、そのかぶっている皮を剥いで、正躰をあらわしてやりたいという、衝動を強く感じた。あらゆる「女」は女であった。みんな底なしにいろ好みで、嘘つきで、欲が深い。女というやつは、自分がみた夢の話しさえ、正直には云わないものだ。しかし、彼はそれを非難するのではなかった。彼にとっては、それが「女」というものであり、それでこそ愛することができるので、それ以外の女がいるということは、考えもしなかったし、信じられないことであった。\n 縁側も窓も雨戸を閉め、燭台を三つ脇に置き、片肌ぬぎになって、彼は酒を飲んでいた。三日まえから戸を閉めたままなので、座敷の中は暑く、人いきれと酒の匂いとで、空気は泥水のように重く、濁っていた。声をかけて、その座敷へはいって来たおみやは、暑いのと息苦しいのとで、むっと胸がつかえるように思った。\n「お月見の宴が終ったので、二日おいとまが出ました」とおみやは云った。\n 六郎兵衛はふきげんに妹を見た。その眼は酔のために、どろんと充血していた。\n「それで帰ったのか」\n「お話しもございます」\n「あの件でか――」\n 六郎兵衛の眼が細くなった。おみやは頷いて、はいといった。\n「よし聞こう、おまえたちは座を外せ」と六郎兵衛が云った。\n 女たち二人が去り、おみやは話した。少しも風がはいらないので、暑さもひどいし息苦しく、おみやは団扇を取って、兄と自分を代る代るあおぎながら、話した。\n「それだけか」\n 聞き終った六郎兵衛は、たしかめるように妹を見た。彼は殆んど泥酔していたが、聞いているあいだに酔がさめたようすで、表情もはっきりしてきたし、充血した眼にも、するどい光があらわれた。\n「十一月十日といったな」\n「若ぎみのお袴祝いがあるのだそうです」\n「十一月十日、間違いないな」\n「わたくしはそう聞きました」\n 六郎兵衛は口の中で、もういちど、十一月十日、と呟き、独りで頷いてから、また妹の顔を見た。\n「ほかにはないか」\n「はい、ほかにはなにも」\n「証文の件はどうだ、一ノ関と証文を取交わしたようだと云ったが、本当に取交わしたようすか」\n「それはまだはっきりわかりません」\n「ばか者、なんのためにあの邸へはいったか忘れたのか」\n「その後あの話しは出ないのです、もしかすると聞きはぐったかもしれませんけれど」とおみやは兄を見て云った。\n「わたくしはまだ新参のほうですし、勤めには順がありますから、いくら殿さまの御贔屓でも、絶えずお側にいるわけにはまいりませんわ」\n「そんな云い訳は三文の役にも立たん、おれが眼と耳をはなすなと云ったら、云われたとおりにすればいいんだ」\n「これまでは、そうして来たつもりです」\n「褒めろとでも云うのか」\n「いいえ、もうこれ限りわたくしの役は堪忍して頂きたいのです」"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 或会社の技師をしている工学士某氏の妻が自分に対する苛酷を極めた処置に堪えかねて姑を刺したという故殺未遂犯が近頃公判に附せられたので、その事件の真相が諸新聞に現れた。嫁が姑を刃傷したということは稀有な事件である。無教育な階級の婦人間においてさえ類例を見出しがたいことであるのに、工学士の妻として多少の教育もあり、女優として立とうと決心していたほど新代の芸術に対する渇仰もある婦人が、こういう惨事を引起すに至ったについては何か特別な理由がなくてはならない。私は諸新聞の態度が初めから一概に被告を憎んで掛らずに、力めて細かに事件の真実を伝えようとし、その結果『東京朝日』記者のように特に被告に対して同情のある報道をされたことを、被告と同じ女性の一人として感謝する者である。\n 新聞紙の伝うる所に由れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躙し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵と、あてこすりとを以て嫁を苛めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい。私は幼い時から私の郷里などにそういう無智な姑の少くない事を見聞しており、また一般に温厚な嫁ほどそういう姑の下にあって人の知らない多大の苦痛を忍んでいることを知っているので、姑に対する新聞紙の報道を誇張だとは思わない。\n また妻という人は新聞紙に由れば普通の教育もあり、常識もあり、良人との仲も睦まじく、所帯持も好く、快濶ではないが優しい中に熱烈な所のある婦人で、芸術上の希望を満たしたいために女優として立つに至ったのも良人との相談の上であって、夫婦の間に決してそれが突飛な問題でもお転婆な行為でもなかったのである。これは今日の女子教育の程度から見て工学士の妻として恥しからぬ婦人であることは誰も同意するであろう。普通ならば学士の妻となったことに甘んじて尋常な一生を送る若い婦人が多い世の中に、更に物議の多い女優となって新しい芸術に何ほどかの貢献をしようとする熱心と勇気とを思うと、むしろ多数の学士の妻の中にあって得やすからぬ健気な婦人の一人であるといってもよい。\n 若い夫婦は良人の任地である横浜に住み、老父母たちは神戸に住んでいたが、姑はおりおり夫婦の家に来て滞在しながら良人の留守に嫁に小言をいい、良人に対しても嫁について讒訴とも見るべきことを言うのであった。それについて若い妻は日本の一般の女性が姑に捧げる限りのあらゆる忍従の態度を取って、少しもそれに反抗する言動を示さなかった。新旧思想の過渡期に生れたあわれな若い妻は、姑の無情非理を知りつつ出来るだけ忍従の態度を取る外に賢い孝養の法がなかった。\n ここに私の遺憾に思うのは――むしろ攻撃したく思うのは――その良人たる工学士某氏の思慮の足りないことである。なぜに一人前の教育ある紳士がその母の旧思想を説破し、その苛酷な干渉を諫止して、夫婦の間の生活は専ら夫婦の間で決すべきものであることを宣明しなかったのであろう。母を尊敬し併せて妻を愛重する文明男子がこの際に取るべき手段は、誠意ある諫諍を敢てして、母を時代錯誤から救い出し、現代に適した賢い母たり新しい母たらしめる外にないではないか。子としても良人としても確かなかつ周到な思慮を欠いて甚だ煮え切らぬ態度を取っていたために、母の恥を世に曝し、妻を罪人たらしめ、自分自身を不幸に導くような悲惨な結果になってしまった。私は良人たる人さえ首鼠両端でなかったら、この悲劇の運命は多分避け得られたのではないかと思って返すがえすも惜まれるのである。\n さて嫁が姑を刺すという悲劇の突発した時には姑が夫婦の家に滞在していた。それは良人の不同意にかかわらず家風に合わぬ嫁は姑の権威で離縁させるといってその離縁を実行するためにわざわざ神戸から出掛けて来たのであった。そして良人の留守に姑は散々の悪態を吐いて乱暴にも肺を病んでいる嫁をいびり出そうとした。恐ろしい権幕で今から直ぐに出て行けといい放った。今日まで如何なる難題にも、邪推にも、悪罵にも、あてこすりにも十二分に堪えていた温良な嫁も、むざむざ良人との愛を割かれるこの不法と苛酷に対して、思わず自制の箍を逸してかッと逆上した。たとい嫁の血族に精神病の系統のあることが後に公判廷で立証されたにしても、姑の不法な言いがかりが専擅苛酷な夫婦の離別に及ばなかったならなおこの逆上はしなかったであろう。またあるいは無情な離別を強いられたにしても、嫁の体質が平生の生理状態であったなら恐らくなおこの逆上はしなかったであろう。しかし不幸にも若い嫁は病身である上に月経時であった。逆上すると同時に偶ま手近にあった刃物を取って姑に投げ附けた。積極的に斬ろうとするのでなく、勿論殺意があるのでなく、手当り次第に投げ附けた。それは猛烈なヒステリイの発作であった。姑は微かなかすり疵を負って逃げ出した。こうして意外な悲劇が突発し、嫁が姑を刺したという稀有な故殺未遂犯が成り立った。\n ヒステリイは今日までの所、多数の婦人の或時期(月経時、妊娠時、分娩後、子宮病時)や或境遇(久しい間の独身、異常な災厄)に伴う共通の発作症である。それに強烈なのと微弱なのとあり、また遺伝から来るのと特発するのとあるが、それが或事を誘因として遽かに迫って来る時には、人は意識の統一を失って自分で自分が制し切れなくなるものである。私は自身に精神病者の血を引いているし、父が卒中で斃れたほどの大酒家であったので、自然に病的な素質を持っていて、或時期に往往はげしいヒステリイに襲われることがあるから、その若い妻が逆上して刃物を投げ附けたという心理を十分に想像することが出来るのである。投げた物が偶ま刃物であったために大それた刃傷沙汰になったが、ヒステリイの不可抗力に襲われたその時の気分は、何でもいいから手当り次第に投げ散して鬱積した心の蒸汽を狂的に洩さずにはいられないのである。そしてその不可抗力に襲われて無茶苦茶なことをしてしまった後の甚しい悔恨と不快さはこれを経験しない人に到底理解の出来そうにないことである。意識の自制を失った際とはいえ、姑に刃物を投げ附けて負傷させたような結果を作ったのであるから、その瞬時の後に自己に返った若い妻が教育ある婦人だけにその悔恨が心を噛んだことも異常であったに違いない。法廷において被告が誠心誠意懺悔の涙に咽んだというのは同情されることである。\n その動機に情状の酌量すべき所があっても、その事実が法文に触れているのであるから犯罪人として処刑されるのはやむをえない。殊に在来の道徳や習慣をその不用な部分までも背景にしている日本の法律では、嫁が姑を刺したという表面の大それた事実を重く見るので情状酌量の余地がない。それでこの犯罪は八年の懲役に処せられ、執行猶予の沙汰もなかったが、宣告の際に物優しい判事は獄則を恪守して刑期の半を過したなら仮出獄の恩典に浴することも出来るということを告げたということである。私はこの刑罰の裁量が妥当であるかどうかを知らない。とにかくこうして某工学士一家の傷ましい悲劇は一段落が附こうとしているのである。しかし私はこの事件を切掛にして更にいろいろの感想が胸に浮ぶ。\n\n 同じ悲劇の種は、姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外であって、「あなたは善い姑をお持ちになってお仕合せです」と嫁の友人から祝を述べるほどのことである。固より姑根性には種種あって某工学士の母の実際はどうであるか知らないが、最も極端な例に引かれる残忍な姑さえ決して世間に珍しくはないのであるから、それ以外の、あるいは悪性、あるいは不良な程度の姑は無数に散在している。官吏や被傭人となって他郷に生活している若夫婦の中には父母と別居している者が多く、それらは直接に姑の干渉を受けないであろうが、しかし某工学士夫婦のように横浜と神戸とに別居していてすら前述のような惨事を引起したのであるから、如何に遠く離れて住んでいても聡明な愛情を欠いた姑に対する嫁の気兼苦労は多少にかかわらず附帯しているのである。まして姑と一所に定住している大多数の嫁がそれらの姑の下にあるいは干渉され、あるいは苛められ、あるいは意地悪く一分だめしに精神的に虐殺されつつあるのは言うまでもない。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 私は自分の息子のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想的の姑が甚だ稀に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たちについて、私は一概に憎悪のみを以て対しようとは思わない。これは私が姑という者を持たない境遇にいて、姑に対する気兼苦労の実感を経験しないからでもあろうが、私は憎悪の外に気の毒なと思う感が附随している。なぜなら彼らの大多数の姑たちは一方には教えられざる婦人であり、一方には老後の索寞、月経閉鎖期前後の悲哀、その他種種の事情から精神の平衡を欠き、もしくはヒステリイ症に罹っている婦人だからである。\n 数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干びている。社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通しなければ社会は順調に進歩しない訳である。年齢の差などがあって少しは疏通しにくい部分があるのは免れないにしても、青年と共に現代の思想に浸ることを怠りさえしなければ、すべての老人が青年の思想を大部分理解することが出来て、同じ基調の上に呼応し協力して人生の音楽が合奏されるに到るであろう。しかるに日本の老人の多数は私のこの理想と全く背馳している。殊に老婦人の階級はその若い時に教育らしい教育も受けていない人が多く、男子側の老人でさえ内外の新書に親むことは稀なのであるから、それらの老婦人たちが現代について精神的に何物も教えられていないのは言うまでもない。それで過去の思想に停滞している老婦人は万事を過去の標準で是非し、若い嫁のする事が凡て気に入らない所から、一一それに世話を焼きたくなる。世話や忠告の程度に留っていればよいが、親切が過ぎては干渉となり、加之に在来の姑と嫁とは殆ど専制時代の君臣の関係であることが正しいとせられているから、干渉が一転すれば強制となり威圧とならずには置かない。\n それに老婦人の中には早く良人に別れたり、また良人があっても愛情が亡くなっていたりして心寂しい生活を送っている人がある。そういう婦人は子供の愛だけがせめての慰安であり生活の力であったのに、子供に嫁が出来れば嫁は子供に対する愛の競争者である。そして結婚以後の子供の心理が母に対して幾分疎縁になるのも、またそれについて母が孤独の寂しさと嫁に対する一種の嫉妬とを感じるのも自然の人情であろうと想われる。\n また月経閉鎖期前後の婦人の心理というものがヒステリイ的にいろいろの症状を呈するのは顕著な事実であって、そういう症状に罹った老婦人は嫁のする事なら針ほどの事も憎くなったり、嫁が好意でした事も反対に僻んで解釈したり、酒精中毒者が杯を放さないように、またしてはあくどく嫁苛りをして嫁の苦痛を楽まずにはいられないのである。そういう老婦人は子供を多く生まないようにという口実の下に、しばしば若夫婦と室を同じくして臥し閨房を監視する残忍をさえ敢てするということである。\n こういう種種の理由の下に悪性になり、不良になっている多数の姑根性というものを私は一概に憎むことが出来ない。たとい姑根性は憎んでも、こういう後天的理由で畸人化され病人化された姑その人はむしろ気の毒に感ぜられる。\n\n 読書欲の全く欠けている多数の老婦人たちが今更他の勧めに従って無為の時間を多少でも新書の研究に善用しようとは考えられない。しかし老婦人たちを在来の姑根性から脱して明るく快濶な性情の人と改造するには現代の思想を何かの方法で理解させることが必要である。若い男女を教育する設備はいくらもあるが、専ら老婦人を教育する会合はまだ何処にも起っていない。老婦人の多く集る諸種の会合はあっても、それは凡て物見遊山の変形で、老婦人同志の奢侈と自慢の競進場たるに過ぎない。多数の老婦人が寺院や教会へ集ることがあっても、既成宗教は最早彼らに現代を教える場所ではない。僧侶や牧師は非現代的な迷信の鼓吹者であり、そして最も彼ら老婦人に受のよい僧侶や牧師は一種の幇間に堕落している。そしてそれらの老婦人の多数は寺院を嫁の悪口の交換所とし、嫁に食べさせる物を吝んで蓄めた金を寄附して、早晩滅亡する運命を持っている両本願寺のような迷信の府を愚かにも支持しようとするに過ぎない。\n 私は何とかして老婦人の思想を現代的に近づける方法を識者に工夫して欲しい。もし現代の思想に対し少しずつでも理解が出来たら、多数の老婦人は嫁苛りに心を労するような時代遅れの生活に甘んじまい。欧米の老婦人たちが若い婦人と協力して諸種の社会事業や婦人問題に努力するように、日本の老婦人も何かの有用な事業に活動しようとするかも知れない。活動は人を若返らせる回春薬の最上の物である。そうなれば境遇から得た孤独の悲哀や、僻みや、老婦人の生理的変化から得た病的心理なども大に減少され緩和されるであろう。\n しかしこれは私の空想かも知れない。政界に元老という物があって、精神も体質も変兆を来していながら、老人の親切から政府当局者の施設に干渉してかえって国民を迷惑がらせている。そして元老の頭というものは到底国民の自由思想と一致する見込のないものである。家庭における現在の姑と若夫婦との思想も元老と国民とのそれのように全く相容れないものかも知れない。\n\n 現在の姑たちについて私の考は右のように希望と悲観と半しているが、しかし未来の姑については全く新しい紀元の開かれることを期待している。今日の教育ある若い妻はその程度に差があっても、概して幾分ずつか皆新しい妻である。私は出来るだけ自治独立の生活を送ろうとしていると共に、他の自治独立の生活をも尊重したいと思っている。結婚して一家を営むに至った我子夫婦は既に分封した自治独立の一団であるから、私は全然その生活に干渉したくない。在来の父母舅姑は我子夫婦から財養し孝養されることを望んだのであるが、私は我子が独立し得るまでの教育にはあくまでも力を竭す覚悟でいる代りに、我子からその報償を得ようとは毛頭考えていない。まだ私は家系、家風などという物も少しも尊重すべき物と思っていないのであるから、子供らが何処へ行って自治の生活を始めてもそれを祝福する外に何の註文もない。独立するに至った我子には絶対に干渉しないつもりであるから親の名を以て威圧がましいことをしないのは勿論である。私は今から幼い子供たちに各自の意見を親の前で大胆に述べる習慣を附けている。それは私と子供たちとの思想が他日相反する時があっても互に気兼せずに研究し合って理解することの出来るようにと思うからである。夫婦、親子、朋友の愛も初めの中は感情一偏の愛であるが、少し年齢が長けて行った後に誠実と知性との理解が伴わない愛は危い。感情と知性と誠実がすっきり透き徹るように融け合えば夫婦親子は勿論、我子の嫁とも一切の他人とも愛し得られるものであろうと私は思っている。既に新しい妻である私は他日こういう思想の上に立って新しい姑ともなるつもりである。しかし我子夫婦に対するこういう意味の生活は最早母と子、姑と嫁という関係でなくて、年齢の違った一種特別の親友という関係に近いであろう。親友の間には威圧も、屈従も、僻みも、排擠もない。そして世には思想の合った親友も相反した親友もあり得る。また快濶な競争の上に成立つ親友もあり得る。私は命の限り、はた天分の尽きない限り、他人とするように我子夫婦とも愛と誠実と思想との快濶な競争を続けたいと考えている。(一九一五年八月)"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「けれどついに、今もって荊州はお返しして下さらないではありませんか」\n「あはははは」\n「笑いごとではありません。ために、呉侯からこの問題について使いを命じられたものはみな実に面目を欠いています。――やがて蜀四十一州を取ったら返すなどと宣いながら、いま蜀をお手に入れても実行なさらず、わずかに荊州の内三郡だけを返すといわれたかと思えば、羽将軍が妨げて、故意にそれすらお返しなさらない」\n「考えてもごらんなさい。わが皇叔以下、われわれ臣下は、かの烏林の激戦に、みな命をなげうち矢石を冒して、血をもって奪った地ではないか。地下の白骨に対してもそうおいそれと他国へ譲れるものかどうか。――もし足下がわれらの立場としたらどうでしょう」\n「待って下さい。......過去をいうならば、この当陽の戦に、将軍たちをはじめ皇叔一族も、惨澹たる敗北をとげ、帰るに国もなく、拠るに味方もなく、百計尽き果てたところを助けてあげたのは、どこの誰でしたろう、呉の恩ではなかったでしょうか」\n\n四\n\n 魯粛も呉の大才である。こう口を開いて、この会談の目的にふれてくると、その舌鋒は、相手の急所をつかんで離さなかった。\n「いや、恩着せがましく申しては、ご不快かも知れぬが、あの折、敗亡遁竄の果て、ご一身を容るる所もなき皇叔に、愍れみをかけた御方は、天下わが主おひとりであった。後なお、莫大な国費と軍馬を賭して、曹操を赤壁に破ったればこそ、皇叔にも、ふたたび時に遭うことができたというもの。――しかるに、蜀も取りながら、まだ荊州をお返しなきは、いわゆる飽くなき貪慾、凡下だに恥ずる所業といわれても仕方がありますまい。ましてや人の師表に立つ御方ではないか。将軍はどうお考えになりますか」\n「............」\n 理の当然に、関羽も答えにつまって、頭を垂れていたが、なお、急所を押されると、苦しまぎれに、\n「家兄の皇叔には、べつに正当なご意見があることでしょう。それがしの与り知ることではない」\n と、云いのがれた。\n 魯粛はすかさず、なお語気に攻勢をとって、\n「皇叔とあなたは、むかし桃園に義をむすんで、心もひとつぞ、生死も共にと、お誓い合った仲と承る。なんで、与り知らぬで世間が通しましょうぞ」と、たたみかけた。\n すると、関羽の側に立っていた周倉が、主人の旗色悪しとみたので、突然、\n「天上地下、ただ徳ある者が、これを保ち、これを政するは当然、豈、荊州を領する者、汝の主孫権でなくてはならぬという法があろうかっ」\n 家鳴りするような声でどなった。\n はっと、色を変じながら、関羽は席から突っ立った。そして周倉に持たせておいた偃月の青龍刀を引ったくるように取ると、\n「周倉、だまれっ。これは国家の重大事である。汝ごときが、みだりに舌をうごかすところではない!」と、叱りつけた。\n 騒然と、亭中は色めき立った。関羽がやにわに巨腕を伸ばして、魯粛の臂をつかんで歩きだしたのみでなく、周倉が亭の欄まで走って、そこから江上へ向って、しきりに、赤い旗を振ったのを見たからである。\n「さあ、来給え」\n 関羽は、大酔したふうを装いながら、次第に大股を加え、\n「すくなくも一国の大事を、軽々と酒間に談じるのは、よろしくない。かつは甚だしく久濶の情をやぶり、せっかくの酒興を傷つける。ご返礼には、他日また、それがしが湖南に一会を設けてご招待するが、きょうはひとまずお別れとしよう。酔客のために、江岸の舟まで送って来給え」\n 人々が、あれよと立ちさわぐ間に、もう亭を降り、園を抜け、門外へ出ていた。魯粛の肥えた体も、関羽の手にはまるで小児を提げて行くようであった。\n 魯粛は、酒もさめ果て、生きた空もない。耳のそばを、ぶんぶん風が鳴ったと思うと、たちまち、江岸の波打ちぎわが見えた。\n ここには呂蒙と甘寧とが、大兵を伏せて、関羽を討ち漏らさじと鉄桶の構えを備えていたのであるが、関羽の右手に、見る眼もくらむばかりな大反の偃月刀が持たれていることと、また片手に魯粛がつかまれているのを見て、\n「待て」\n「迂濶に出るな」\n と、制し合っていた。\n そのまに、周倉が寄せた小舟へ、関羽はひらりと飛び乗ってしまった。そして初めて、魯粛を岸へ突っ放し、\n「おさらば」\n と、一語、岸を離れてしまった。\n 甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射ったが、一舟は悠々帆を張って、順風を負いながら、対岸から出迎えにきた数十艘の快舟のうちへ伍して去った。\n 交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。\n 魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の秣陵へ急ぎに急ぐ。\n 呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、魏の曹操が、三十万の大軍をもって、南下しつつあるという飛報が入っていた。\n\n冬葉啾々\n\n一\n\n 魏の大軍が呉へ押襲せてくるとの飛報は、噂だけにとどまった。\n 嘘でもなかったが、早耳の誤報だったのである。\n この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将の任命も内々決定していたのであるが、参軍の傅幹という者が、長文の上書をして、\n 一、今はその時でない事\n 一、漢中の張魯、蜀の玄徳などの動向の重大性\n 一、呉の新城秣陵の堅固と長江戦の至難\n 一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備\n 等の項目にわたって諫言したので、曹操も思い直して出動を見あわせ、しばらくはなお、内政文治にもっぱら意をそそぐこととした。\n 新たに、文部の制を設け、諸所に学校を建てて、教学振興を計った。\n 彼がこうして少し、善政を布くと、すぐそれを誇大にたたえて、お太鼓をたたく連中もできてくる。\n 宮中の侍郎王粲、和洽、杜襲などという軽薄輩で、\n「曹丞相はもう魏王の位に即かるべきだ。魏王になられたところで、何のふしぎもない」\n と、運動をしはじめた。\n うわさを聞いて、荀攸が固く止めた。さすがに曹操を扶けてきた賢臣である。お太鼓連をたしなめてこういった。\n「さきに九錫の栄をうけて、魏公の金璽を持たれたのは、いわゆる人臣の位を極めたというもの。その上なお、魏王の位に進まれたら、俗にいう、天井を衝いて、人心の反映は、決して、曹丞相によい結果はもたらさないでしょう。あなた方にしても、それでは贔屓のひき倒しということになろう」\n これが人伝てに、曹操の耳へ入ったのである。もちろんその間に、為にする者の肚も入っているから、曹操は非常な不快を感じた。\n「荀攸もまた、荀彧に倣おうとするのか。ばかなやつだ」\n 非常に立腹して、そう罵ったと聞えたから、それをまた、人伝てに耳にした筍攸は、いたく気に病んで、門を閉じて自ら謹慎したまま遂に、その冬、病死してしまった。\n「五十八歳で世を去ったか。......彼も功臣のひとりだったが」\n 死んでみると、曹操は、痛惜にたえないように呟いて、盛んな葬祭をとり行った。\n で、魏王に即く問題は、しばらく沙汰止みになっていたが、このことは、宮廷の諫議郎趙儼から、帝のお耳へも入っていた。\n「......趙儼が、市へひきだされて、斬られたそうです。おそろしい曹操」\n 玉座へこう告げにきた。\n 帝も、玉体を震わせ給うて、\n「つい今朝までも、禁裡に仕えていたものが、夕べにはもう市で命を失うていたか。朕も后も、いつかは同じ運命に遭うであろう。曹操の増上慢が極まることを知らない限りは」\n 幽宮の秘窓に、おふたりの涙は渇かなかった。事実曹操の威と、許都の強大が、旺になればなるほど、朝廷の式微は、反比例に衰えを増し、ここに献帝のおわすことすら魏の官民は忘れているようだった。\n「こうして朝夕、針の莚にあえなく生きているよりは、わたくしの父伏完に、ご決意のほどを、そっとお降しあれば、父はきっと、曹操を刺す謀をめぐらしましょう......。穆順なれば確かです。あれをおつかわし遊ばしませ」\n 伏皇后は、ついに思いきって帝の御意をこう動かした。"
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"role": "assistant",
"content": " もとより献帝のご隠忍は年久しいことだったので、胸中の埋み火は、たちまち、理性の灰を除いてしまった。きびしい監視の眼をしのんで秘勅の一文をしたためられた。\n これを穆順という一朝臣にあずけて、そっと、伏皇后の父君にあたる伏完のやしきへ持たせてやったのである。忠節無二な穆順は、御詔書を、髻の中にかくして、この命がけの使いに、一夜禁門から出て行った。\n\n二\n\n 朝臣のうちにも、曹操のまわし者たるいわゆる「視る目嗅ぐ鼻」はたくさんいる。\n すぐ密告して、曹操の耳へこう伝えた者がある。\n「何かそそくさした様子で、穆順が内裏を出て、伏完の宅へ使いに行ったようです」\n 勘のよい曹操には、すぐ何かぴんと響くものがあったに違いない。彼は、わずかな武士をつれて、自身、内裏の門にたたずみ、穆順がもどって来るのを待っていた。\n もう深更だった。\n 穆順は何も知らずに、帰ってきた。門の衛士には、出るとき賄賂をやってある。あたりに人影はない。すたすたと内裏の門へさしかかった。\n「待て待て」\n ふいに物蔭から呼び止める声がした。ふと横を見れば、曹操が立っているのだ。穆順はゾッとして毛孔をよだてた。\n「何処へ参った」\n「は。......はい」\n「はいではない。返辞を求めるのだ。今頃、何処へ使いに出たか」\n「実はその、お后さまが、夕刻からにわかにご腹痛をお催しあそばしたので、てまえに医師をつれてこいとの仰せに、医師を求めに参りました」\n「うそをつけ」\n「いえ。ほ、ほんとです」\n「宮中にも典医はおる。なにしに市へ医を捜しにゆく要があろう。ほかの医者だろう、汝が、求めに行ったのは」\n 闇のほうへさしまねいて、武士達を呼び、「こいつの体を検めろ」と、曹操は命じた。\n 武士達は、穆順の衣服を剥いで、足の先まで調べたが、一物も出ないので、科めるかどもなく、遂に、彼を放した。\n 虎の口をのがれたように、穆順は衣服を着直すとすぐ走りかけた。\n すると、頭にかぶっていた帽子が、夜風に落ちた。\n あわてて拾いかけると、\n「こらっ、待て」\n 曹操は、自分でその帽子を取って、仔細に検めた。\n 帽子の中からも、何も出なかった。汚い物を捨てるように、\n「行け」\n と、投げ返してやると、穆順は、両手に受けて、真蒼になった顔の上に、それをかぶった。\n「いやいや、まだ行くな」\n 曹操は、三度呼びとめた。そして今度は、穆順がかぶり直した帽子を引きちぎって、その下の髻を、髪の根まで掻きわけた。\n「果たして!」\n 曹操は舌を鳴らした。一通の紙片があらわれたのだ。細字で綿密に書いてある。伏完の筆蹟で、むすめの伏皇后にあてたものであった。\n ――こよい秘かな内詔を拝して涙にくれた。何事も時節であるから、もうしばらく時を待つがよい。自分には期するところがある。遠き慮りを以て、蜀の玄徳と語らい、漢中の張魯を誘い、魏へ侵略の鉾を向けしむれば、曹操はかならず国外へ出て、兵事政策もすべて一方へ傾く。その虚を計って、内に密々同志を結び、一挙に大義を唱えて大事をなすならば、きっと成功を見るは疑いもない。帝のご宸襟もそのときには安んじ奉ることができよう。それまではかならず人に色を気どられ給うな。\n 文意はあらまし右のようなものだった。怒りの極度というものはかえって氷塊の如く冷やかである。曹操は一笑をたたえて、伏完の返簡を袖に納めると、\n「そいつを拷問にかけろ」と、命じて、府へ立ち帰った。\n 夜明け頃、獄吏が、階下にひざまずいて、\n「穆順を拷問にかけて、夜どおし責めましたが、一言も吐きません」\n と、吟味に疲れた態で云った。\n 一方、伏完の宅を襲った兵達は、帝の内詔を発見して持ってきた。曹操は冷然と、武将に命をさずけた。\n「伏完以下、彼の三族を召し捕って、獄につなげ。縁故の者は一名も余すな」\n さらに、御林将軍の郗慮に命じては、内裏へ入って、皇后の璽綬を奪りあげ、平人に落して罪をあきらかにせよといった。\n\n三\n\n「魏公の命だ――」\n ということは彼らにとって絶対だった。世はまさに逆しまである。鎧うた御林の兵(近衛軍)は大将の郗慮を先頭に禁園犯すべからざる所まで、無造作になだれこんで行った。\n 折ふし、帝は外殿に出御しておられたが、物音におどろかれて、\n「何事ぞ」と、侍従たちを顧みられた。\n 郗慮が、ずかずかとそこへ来た。そして無礼極まる態度をもって、\n「仔細これあり、今日、魏公曹操のお旨により、皇后の璽綬を奪り収めらる。さようお心得ください」と、いった。\n 愕然、帝は色を失われた。\n「さては」と、早くもお胸のうちに、穆順の捕われたことを覚られたからである。\n すでに内裏のほうではただならぬ震動のうちに女官たちの悲鳴がながれていた。土足で後宮を馳けまわる暴兵たちは、口々に、\n「皇后はどこへ隠れたか」と、罵り罵り捜していた。\n 伏皇后は、いちはやく、宮女に扶けられて、内裏の朱庫の内へかくれておられた。ここには二重壁があって、壁の中へ身を塗りかくしてしまう仕掛けがしてあった。\n 郗慮も来て、\n「この中が怪しい。尚書令の華歆を呼んでこい」\n と、協力をうながし、共に朱庫の扉を破って、内部へおどりこんだ。\n けれどもここにも見えなかった。郗慮は外へ戻ろうとしたが、尚書令はその職掌がらこの構造を知っているので、剣を抜いて壁を切り開いた。たちまち壁は鮮血を噴き、その中から伏皇后には悲鳴をあげて転び出られた。\n 忌むべし、眼をおおうべし。朝廷とか臣道とかの文字はあっても、自ら「道の国」と称しても、ひとたび覇者の自我が振うときはこの国にはこんな非道が平然と行われたのであった。華歆は、后の黒髪をつかんでひきすえ、后が、\n「助けよ」と、呼ばると、華歆は、\n「直接、魏公に会って哭け」とばかり取り合わなかった。そして素足のまま引っ立てて、曹操のまえに連れてゆくと、曹操は、はッたと后を睨みつけて、\n「われかつて、汝を殺さざるに、かえって、汝われを殺さんと謀る。この結果は、いまに思い知らしてやる」と、いった。そして、武士に命じて、鞭や棒で乱打を加えたから、皇后はもだえ苦しみながら遂に息絶えてしまった。\n その悲鳴や曹操の罵る声は、外殿の廊まで聞えてきたほどだった。帝はお髪をつかみ、身を慄わせて、天へ叫び、地へ昏絶された。\n「こんなことが、天日の下に、あってもいいものか、この地上は、人間の世か、獣の世か」\n 血も吐かんばかりな有様に、郗慮は武士の手を借りて、むりやりに帝を抱えまいらせ、秘宮のうちへ閉じこめた。\n 曹操は、毒に酔える人みたいに、もうどんなことでも平然とやってのけた。伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人という男女老幼を、この日たった半日のまに残らず捕えて、宮衙門の街辻で、首斬ってしまった。\n とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の啾々と御林に哭いて、幾日も幾日も衙門の冷霜は解けなかった。\n「陛下。承れば供御の物も、連日おあがりにならない由ですが、どうかもう宸襟を安んじていただきたい。臣も、なにとてこれ以上、情けのない業をしましょう。本来、無情は曹操の好んですることではないのですが、ああいう問題が表面化しては、捨ておくわけには参らないではありませんか」"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 演題は「創作家の態度」と云うのであります。態度と云うのは心の持ち方、物の観方くらいに解釈しておいて下されば宜しい。この、心の持ち方、物の観方で十人、十色さまざまの世界ができまたさまざまの世界観が成り立つのは申すまでもない。一例を上げて申すと、もし諸君が私に向って月の形はどんなだと聞かれれば、私はすぐに丸いと答える。諸君も定めし御異存はなかろうと思う。ところがこの間ある西洋人の書いたものを見たら、我々は普通月を半円形のものと解しているとあったのみか、なぜまんまるなものと思っていぬかと云う訳までが二三行つけ加えてあったんで、少し驚いたくらいであります。我々は教育の結果、習慣の結果、ある眼識で外界を観、ある態度で世相を眺め、そうしてそれが真の外界で、また真の世相と思っている。ところが何かの拍子で全然種類の違った人――商人でも、政事家でもあるいは宗教家でも何でもよろしい。なるべく縁の遠い関係の薄い先生方に逢って、その人々の意見を聞いて見ると驚ろく事があります。それらの人の世界観に誤謬があるので驚くと云うよりも、世の中はこうも観られるものかと感心する方の驚ろき方であります。ちょうど前に述べた我々が月の恰好に対する考えの差と同じであります。こう云うと人間がばらばらになって、相互の心に統一がない、極めて不安な心持になりますが、その代り、誰がどう見ても変らない立場におって、申し合せたように一致した態度に出る事もたくさんあるから、そう苦になるほどの混雑も起らないのであります。(少なくとも実際上)ジェームスと云う人が吾人の意識するところの現象は皆撰択を経たものだと云う事を論じているうちに、こんな例を挙げています。――撰択の議論はとにかく、その例がここの説明にはもっとも適切だと思いますから、ちょっと借用して弁じます。今ここに四角があるとする。するとこの四角を見る立場はいろいろである。横からも、竪からも、筋違からも、眼の位置と、角度を少し変えれば千差万別に見る事ができる。そうしてそのたびたびに四角の恰好が違う。けれども我々が四角に対する考は申し合せたように一致している。あらゆる見方、あらゆる恰好のうちで、たった一つ。――すなわち吾人の視線が四角形の面に直角に落ちる時に映じた形を正当な四角形だと心得ている。これを私の都合の好いように言い換えると、吾人は四角形を観る態度においてことごとく一致しているのであります。また別の例を申しますと彫刻などで云う foreshortening と云う事があります。誰でも心得ている事でありますが、人が手でも足でも前の方に出している姿勢を、こちらから眺めると、実際の手や足よりも短かく見えます。けれども本来はあれより長いものだと思って見ています。だから画心のない吾々が手や足を描こうとすると本来そのままの足や手を、方向のいかんにかかわらず、紙の上にあらわしたくなる。あらわして見るとどうも釣合がわるい。悪いけれども腹が承知をしないで妙な矛盾を感ずる。小供のかいた画を見るとこの心持ちが思い切って正直に出ています。これもこの際都合のいいように翻訳して云いますと、吾々が手や足の長さに対する態度はちゃんと申し合せたように一致していると云う事になります。\n してみると世界は観様でいろいろに見られる。極端に云えば人々個々別々の世界を持っていると云っても差支ない。同時にその世界のある部分は誰が見ても一様である。始めから相談して、こう見ようじゃありませんかと、規約の束縛を冥々のうちに受けている。そこで人間の頭が複雑になればなるほど、観察される事物も複雑になって来る。複雑になるんではないが、単純なものを複雑な頭でいろいろに見るから、つまりは物自身が複雑に変化すると同様の結果に陥るのであります。これを前の言葉に戻して云うと、世が進むに従って、複雑な世界と複雑な世界観ができて、そうして一方ではこの複雑なものが統一される区域も拡がって来るのであります。\n そこで創作家も一種の人間でありますから各々勝手な世界観を持って、勝手な世界を眺めているに違ない。しかしながらすでに創作家と云う名を受けて、官吏とか商人とか、法律家とかから区別される以上は、この名称は単に鈴木とか、山田とか云う空名と見る訳には行かない。内実においてそれ相当の特性があって他の職業と区別されているのかも知れない。だから、この人々の立場を研究して見たらば、多少の御参考になりはすまいかと思ってこの演題を掲げた訳であります。\n そこで、この問題を研究するの方法について述べますと、第一には歴史的の研究があります。これは創作家の世界観の纏ってあらわれた著作そのものを比較して、その特性を綜合した上で、これに一種の名称(自然派とか浪漫派とか)を与えて、それから年代を追ってその発展を迹づけるのであります。いわゆる文学史であります。この間中からして、日本で大分自然派の論が盛になりましていろいろの雑誌にその説明などがたくさん出て、私なども大分利益を受けました。我々日本人が仏蘭西の自然派はこう発達したの、独乙の自然派は今こんな具合だのという事を承知したのは、全くこの歴史研究の御蔭で至極結構な事と思います。"
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"role": "assistant",
"content": " ただこの種の研究について私の飽き足らないところを云うと、あるいは下のような弊がありはすまいかと思われます。\n (一) 歴史の研究によって、自家を律せんとすると、相当の根拠を見出す前に、現在すなわち新という事と、価値という事を同一視する傾が生じやすくはないかと思われます。すべての心的現象は過程であるからして、Bという現象は、Aという現象に次いで起るのはもちろんであります。したがってBの価値はBの性質のみによって定まらない、Bの前に起ったAと云う現象のために支配せられている事ももちろんであります。腹が減るという現象が心に起ればこそ飯が旨いという現象が次いで起るので、必ずしも料理が上等だから旨かったとばかりは断言できにくいのであります。そこで吾々はAと云う現象を心裡に認めると、これに次いで起るべきBについては、その性質やら、強度やら、いろいろな条件について出来得る限りの撰択をする、またせねばならぬ訳であります。ちょうど車を引いて坂を下りかけたようなもので前の一歩は後の一歩を支配する。後の一歩は前の一歩の趨勢に応ずるような調子で出て行かなければ旨く行かない。人間の歴史はこう云う連鎖で結びつけられているのだから、けっして切り放して見てもその価値は分りません。仰山に言うと一時間の意識はその人の生涯の意識を包含していると云っても不条理ではありません。したがって人には現在が一番価値があるように思われる。一番意味があるごとく感ぜられる。現在がすべての標準として適当だと信じられる。だから明日になると何だ馬鹿馬鹿しい、どうして、あんな気になれたかと思う事がよくあります。昔し恋をした女を十年たって考えると、なぜまあ、あれほど逆上られたものかなあと感心するが、当時はその逆上がもっともで、理の当然で、実に自然で、絶対に価値のある事としか思われなかったのであります。一国の歴史で申しても、一国内の文学だけの歴史で申してもこれと同様の因果に束縛されているのはもちろんであります。現代の仏蘭西人が革命当時の事を考えたら無茶だと思うかも知れず。また浪漫派の勝利を奏したエルナニ事件を想像しても、ああ熱中しないでもよかろうくらいには感ずるだろうと思います。がこれが因果であって見れば致し方がない。ただ気をつけてしかるべき事は、自分の心的状態がまだそんな廻り合せにならないのに、人の因果を身に引き受けて、やきもき焦るのは、多少他の疝気を頭痛に病むの傾きがあるように思います。ところが歴史的研究だけを根本義として自己の立脚地を定めようとすると、わるくするとこの弊に陥り安いようであります。というものは現に研究している事が自分の歴史なら善かろうが人の歴史である。人はそれぞれ勝手な因を蒔いて果を得て、現在を標準として得意である。それを遠くから研究して、彼の現在が、こうだから自分の現在もそうしなければならないとなると、少し無理ができます。自己の傾向がそこへ向いていないのに、向いていると同様の仕事をしなければならなくなる。云わば御付合になる。酷評を加えると自分から出た行為動作もしくは立場でなくって、模傚になる。物真似に帰着する。もとより我々は物真似が好きに出来上っているから、しても構わない。時と場合によると物真似をする方がその間の手数と手続と、煩瑣な過程を抜きにして、すぐさま結局だけを応用する事ができるから非常に調法で便利であります。現に電信、電話、汽車、汽船を始めとして、およそ我国に行われるいわゆる文明の利器というものはことごとく物真似から出来上ったものであります。至極よろしい。人に餅を搗かして、自分が寝ながらにしてこれを平げるの観があって、すこぶる痛快であります。がこの現象をすぐ応用して、文学などにも持って行ける、また持って行かなければならないと結論しては、少し寸法が違ってるように思います。と云うものは理学工学その他の科学もしくはその応用は研究の年代を重ねるに従って、一定の方向に向って発達するもので、どの国民がやり出しても、同程度の頭で同程度の勉強をする以上は一日早くやれば早くやった方が勝になるような学問で、しかも一日後れたものは、必ず、一日早く進んだものの後を(一筋道である)通過しなければならない性質のものであります。歩く道が一筋で、さきが進んでいる以上は、こっちの到着点も明らかに分っているんだから、できるだけ早く甲を脱いで降参する方が得策であります。真似をすると云うと人聞が悪いが骨を折らないで、旨い汁を吸うほど結構な事はない。この点において私は模傚に至極賛成である。しかし人間の内部の歴史になると、またその内部の歴史が外面にあらわれた現象になると、そう簡単には行きませんようです。風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらわれたものだけが風俗と習慣と情操であって、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。また西洋人が自己の歴史で幾多の変遷を経て今日に至った最後の到着点が必ずしも標準にはならない。(彼らには標準であろうが)ことに文学に在ってはそうは参りません。多くの人は日本の文学を幼稚だと云います。情けない事に私もそう思っています。しかしながら、自国の文学が幼稚だと自白するのは、今日の西洋文学が標準だと云う意味とは違います。幼稚なる今日の日本文学が発達すれば必ず現代の露西亜文学にならねばならぬものだとは断言できないと信じます。または必ずユーゴーからバルザック、バルザックからゾラと云う順序を経て今日の仏蘭西文学と一様な性質のものに発展しなければならないと云う理由も認められないのであります。幼稚な文学が発達するのは必ず一本道で、そうして落ちつく先は必ず一点であると云う事を理論的に証明しない以上は現代の西洋文学の傾向が、幼稚なる日本文学の傾向とならねばならんとは速断であります。またこの傾向が絶体に正しいとも論結はできにくいと思います。一本道の科学では新すなわち正と云う事が、ある程度において言われるかも知れませんが、発展の道が入り組んでいろいろ分れる以上はまた分れ得る以上は西洋人の新が必ずしも日本人に正しいとは申しようがない。しかしてその文学が一本道に発達しないものであると云う事は、理窟はさておいて、現に当代各国の文学――もっとも進歩している文学――を比較して見たら一番よく分るだろうと思います。近頃のように交通機関の備った時代ですら、露西亜文学は依然として露西亜風で、仏蘭西文学はやはり仏蘭西流で、独乙、英吉利もまたそれぞれに独乙英吉利的な特長があるだろうと思います。したがって文学は汽車や電車と違って、現今の西洋の真似をしたって、さほど痛快な事はないと思います。それよりも自分の心的状態に相当して、自然と無理をしないで胸中に起って来る現象を表現する方がかえって、自分のものらしくって生命があるかも知れません。\n もっとも日本だって孤立して生存している国柄ではない。やっぱり西洋と御付合をして大分ばた臭くなりつつある際だから、西洋の現代文学を研究して、その歴史的の由来を視て、ははあ西洋人は、今こんな立場で書いてるなくらいは心得ておかなくっちゃなりません。たとえ夢中に真似をするのが悪いと云っても、先方の立場その他を参考にするのはもちろん必要であります。文学は前申したような特色のものではありますが、その特色の中には一本調子に発達する科学の影響がたくさん流れ込んで来ますから、定数として動かすべからざるこの要素が、いかに科学の進歩に連れて文学の各局部を冒しているかを見るのは、科学思想の発達しない日本人が、いたずらに自己の傾向ばかりふり廻していては、分らないので、そう頑張っていてはついには正宗の名刀で速射砲と立合をするような奇観を呈出するかも知れません。\n して見ると歴史的研究は前のような弊もあるが、けっして閑却すべからざるものでありますから、私の希望を云うと、歴史を研究するならばその研究の結果して、綜合的に現代精神とはこんなもので、この精神がないものはほとんど文学として通用しないものだと云う事を指摘して事実の上に証明したいのであります。私の現代精神と云うのは、今月もしくは先月新らしくできた作物そのものについて、この作物は現代精神をあらわしている云々というような論じ方ではありません。過去一二世紀に渡って、(もしくはもっと溯っても、よろしい)、人の心を動かした有名な傑作を通覧してその特性(一つでなくてもよろしい。また矛盾併立していても差支ない)を見出して行く事であります。そうすると一年や十年の流行以上に比較的永久な創作の要素がざっと明暸になるだろうと思います。少なくとも吾々の子もしくは孫時代までは変らない特性が出てくるだろうと思います。もし標準が必要とあるならば、これでこそ多少の標準ができるとも云い得るでしょう。こう云う手数をして現代精神を極めたからと云って、それより以前に出たものには現代精神がないと云う訳にはならない。たとえばダンテの神曲に見えるような考を持っている人は今の世にはたくさんない。また神曲の真似をした作物を出そうと云う男もありますまい。しかしあの神曲のうちから、現代精神を引き出せばいくらでも出て来るにきまっている。今の人の心に訴える箇所はすなわち現代精神であります。デカメロンそのままを春陽堂から出版したって読み手はないにきまっている。しかしあの中に現代精神すなわち種々な点において吾人を動かす自然派のような所はいくらでもあります。ずっと昔に溯ってホーマーはどうです。全体から云うとむしろ馬鹿気ている。誰もイリアッドが書いて見たいと云う人もあるまいが、そのイリアッドがやはり現代の人に読み得るところ、読んで面白いところ、読んで拍案の概があるところ、浪漫的なところ、が少なくはなかろうと思う。こう考えて見ると作物は時代の新旧ばかりで評をするよりも現代精神にリファーして評価すべき事となります。そうしてこの現代精神は実を云うと、読者がめいめい胸の中にもっている。ただ茫乎漠然たるある標準になって這入っているのだから、私の申出しはこの茫乎漠然たるものを歴史的の研究で、もっと明暸に、もっと一般に通用するものにしたいと云う動議にほかならんのであります。諸君の御存じのブランデスと云う人の書いた十九世紀文学の潮流という書物があります。読んで見るとなかなか面白い。独乙の浪漫派だとか、英吉利の自然派だとか表題をつけて、その表題の下に、いくたりも人間の頭数を並べて論じてあります。これで面白いのでありますが、私が読んで妙に思ったのは、こう一題目の下に括られてしまっては括られた本人が押し込められたなり出る事ができないような気がした事です。英吉利の自然派はけっして独乙の浪漫派と一致する事は許さぬ。一点も共通なところがあってはならぬと云わぬばかりの書き方のように感じられました。無論ブランデスの評した作家はかくのごとく水と油のように区別のあったものかも知れない。しかしながら、こう書かれると自然派へ属するものは浪漫派を覗いちゃならない。浪漫派へ押し込めたものは自然派へ足を出しちゃ駄目だと、あたかも先天的にこんな区別のあるごとく感ぜられて、後世の筆を執って文壇に立つものも截然とどっちかに片づけなければならんかのごとき心持がしますからして、ちょっと誤解を生じやすくなります。さればといってこの二派が先天的に哲理上こう違うから微塵も一致するものでないという理窟も書いてなし、また理論上文芸の流派は是非こう分化するものだとも教えてくれない。ただ著者が諸家の詩歌文章を説明する条りを、そうですかそうですかと聞いているようなものでありました。しかしこれは少し困る。例えば学派を分けてあれは早稲田派だ、これは大学派だとしてすましているようなものであります。それほど判然たる区別があるかないか分らないが、よしあったにしても早稲田派と大学派は或る点において同じ説を吐いてはならないと圧しつけるのみか、たとい実際は同じ説でも、なに違ってるよ。早稲田だもの、大学だものとただ名前だけできめてしまう弊が起りやすい。私の現代精神の綜合と云うのは、この弊を救うためで、一方ではこの窮窟な束縛を解くと同時に、名に叶うたる実を有する主義主張を並立せしめようとするためであります。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "九一―九三\n〔六をえて〕不正所得を求むること(即ちその三分一または二分一を善用する條件にて)\n〔最初に〕空くべき僧職を求めて己まづこれに就かんとすること\n〔什一〕什一を私用に供すること。人々所得の十分一を獻じ、これを貧者の用に供する例あり、モーゼの律法にもとづく(申命、一四・二八以下參照)、これを什一といふ\n以上は皆當時の僧侶の貪り求めし物なれば特に記して彼等の非を擧げしなり\n九四―九六\n〔二十四本の草木〕二個の輪を作りてダンテとベアトリーチェとを圍める二十四の靈\n〔種〕信仰。聖徒は信仰の善果なり\n〔迷へる世〕眞の信仰を離れて踏迷へる異端の徒、特にフランスのアルビジョンより起れるアルビジョアの異端\n九七―九九\n〔使徒の任務〕法王(インノケンティウス三世)の彼に與へし權\nドミニクスは異端者と戰はんため、プレディカトリ派を起しこれが准許を法王インノケンティウス三世に乞ひ辛うじてその口頭の許を得たり(正式の准許を得たるは一二一六年にて、時の法王ホノリウス三世よりなりき)\n一〇〇―一〇二\n〔處〕アルビジョアの勢力最盛なりしトロサ(フランスの南部にあり)地方\n一〇三―一〇五\n〔さま〴〵の流れ〕種々の分派(プレディカトリ、ヴェルディーニ・モナスチーケ、テルチアーリ)\n一〇六―一〇八\n〔内亂〕同宗間の爭ひ、即ち異端\n〔一の輪〕聖ドミニクス\n一〇九―一一一\n〔殘の輪〕聖フランチェスコ\n〔トムマ〕聖トマス\n一一二―一一四\nされどフランチェスコ派の僧侶等その祖師の歩める道を踏み行かず、さきに善ありし所に今惡あり\n〔良酒〕gromma 樽に附着する洒のかたまり。良酒を貯ふればこのかたまり生じ、惡酒を容れおけば黴生ず\n一一五―一一七\n〔家族〕フランチェスコ派の僧侶等\n〔指を踵の〕フランチェスコが踵を踏めるところに彼等指を置く、即ち祖師の歩める道を逆行す\n一一八―一二〇\n〔莠は穀倉を〕多くの悖れる僧侶は寺院より逐はるべけれはなり。一三〇二年法王ボニファキウス八世が精神派(一二四―六行註參照)を異端視し、彼等をしてフランチェスコ派のみならずまた寺院より分離するにいたらしめしことを指せり\n一二一―一二三\nフランチェスコ派に屬する者をひとり〴〵調べなば、今も昔の如く此派の戒律を正しく守る者あるを見む\n一二四―一二六\nかく優良なる人々はフランチェスコ派の中の過激派にも緩和派にも屬せじ、この兩派のその宗律に處するや、一(後者)はこれを和げ、他(前者)はこれを嚴くす\n〔カザール〕ピエモンテの町。こゝよりウベルティーノ・ダ・カサーレ(一三三八年死)出づ、過激派(所謂精神派 Spirituali)の首領にて宗規を極度に嚴守せり\n〔アクアスパルタ〕ウムブリアの町。こゝよりマッテオ・ダクアスパルタ(一三〇二年死)出づ、一二八七年フランチェスコ派の長となりて規約の緩和を是認せり\n〔文書〕フランチェスコ派の宗規\n一二七―一二九\n〔ボナヴェントゥラ・ダ・バーニオレジオ〕名をジョヴァンニ・フィダンツァといふ、ボナヴェントゥラ(幸運)はその異名なり、一二二一年ボルセーナ湖附近のバーニオレジオ(今バーニオレア)に生れ、一二五六年フランチェスコ派の長となり、一二七四年リオンに死す、神學上の著作多し、また聖フランチェスコの傳を著はす、前曲に見ゆるフランチェスコの物語多くこの傳に據れり\n〔世の〕原文、「左の」。註釋者の引用せる『神學要論』(トマスの)に曰く、知識及びその他の靈的財寶は右に屬し、一時の營養は左に屬すと\n一三〇―一三二\n〔イルルミナートとアウグスティン〕ともにフランチェスコの最初の弟子なれば最初の素足の貧者といへり\n〔紐〕この派の僧の帶とせる細紐(地、二七・九一―三註參照)\n一三三―一三五\n〔ウーゴ・ダ・サン・ヴィットレ〕ユーグ・ド・サン・ヴィクトル。名高き神秘派の神學者、パリなる「聖ヴィクトル」僧院に入り、一一四一年に死す、著作多し、十曲に見ゆるリシャール(一三一行)及びペトルス・ロムバルドゥス(一〇七行)は彼を師とせりと傳へらる\n〔ピエートロ・マンジァドレ〕ペトルス・コメステル。(マンジァドレ――多食者――は異名なり、書を嗜むによりてこの名ありといふ)フランスの神學者、十二世紀の始めイロワイエに生れ、一一六四年パリ大學に長たり、後、「聖ヴィクトル」僧院に退き一一七九年に死す、著書數卷あり、就中寺院史(Historiascholastica)最もあらはる\n〔ピエートロ・イスパーノ〕ペドロ・ユリアーニといふ、リスボン(ポルトガルの)の人なり、一二七六年ハドリアヌス五世の後を承けて法王となりヨハンネス二十一世と稱す、翌七年ヴィテルポなる法王宮の一部崩潰しペドロ爲に壓死す、その著作に論理綱要十二卷あり\n一三六―一三八\n〔ナタン〕王ダヴィデの罪を責めしヘブライの豫言者(サムエル後、一二―一以下)\n〔クリソストモ〕ヨハンネス・クリソストムスといふ、クリソストモ(黄金の口)はその能辯を表はせる異名なり、三四七年の頃アンテオケアに生れ、三九八年コンスタンティノポリスの大僧正となり、後廢せられて流竄の中に死す(四〇七年)\n註釋者曰く。クリソストムスが皇帝アルカディウスの罪を責めしことナタンがダヴィデを責めしに似たればこゝにこの兩者を配せるなりと\n〔アンセルモ〕聖アンセルムス。一〇三三年の頃ピエモンテのアオスタに生れ、一〇九三年イギリス王の知遇をえてカンターベリーの大僧正となり、一一〇九年に死す、著作多し\n〔ドナート〕アエリウス・ドナートゥス。ローマの文法學者、四世紀の人にてテレンチオ及びウェルギリウスの註疏の外ローマの文法書を編纂す、この書長く教科書として世に用ゐられきといふ。第一の學術とは三文四數(地、四・一〇六――八註參照)の中の第一にあるもの即ち文法の義\n一三九―一四一\n〔ラバーノ〕ラバヌス・マウルス・マグネンティウス。ドイツのマインツの人、八四七年この地の大僧正となり、八五六年に死す、神學特に聖書に關する著作多し\n〔ジョヴァッキーノ〕カラブリア州チェリコの人、フローラの僧院(コセンツァの附近にあり)の院主たり、一二〇二年に死す、豫言の靈云々は當時豫言者として知られたればかく言へるなり\n一四二―一四四\n〔フラア・トムマーゾ〕トマス・アクイナスが聖列に入れるはダンテの死後(一三二三年)の事なれば、「サン」といはずして「フラア」といへり\n〔武士を競ひ讚め〕ドミニクス派のトマスが聖フランチェスコを激稱せるを聞き、フランチェスコ派の我またこれに劣らず聖ドミニクスを稀讚せんとの念を起し\n一四五\n〔侶を〕わが十一の侶を動かしてかつ舞ひかつ歌はしめたり\n\n\n第十三曲\n\nトマス・アクイナス再び語りいで、ソロモン王の智とアダム及びキリストの智との關係を論ず\n一―三\n以下一八行まで、讀者もしかの二十四人の聖徒の靈が二個の圓をつくり光を放ちて舞ひめぐるさまを知らんと欲せば、天の諸處に現はるゝ光強き十五の星と大熊星の七星及び小熊星の二星と、合せて二十四個の星が二の圓形の星座を造り大小二重の圓をゑがきつゝ相共にめぐりゆく状を想像せよとの意\n四―六\n〔勝つ〕濃厚なる大氣を貫いてその光を放つをいふ\n七―九\n〔われらの天〕北半球の天。その懷をもて足れりとするは常に北半球の天にありて沒せざるなり\n〔轅をめぐらし〕囘轉し\n一〇―一二\n小熊星における諸星の按排はその状曲れる角の如し、故に角笛といふ。車軸は諸天運行の軸にてその端は即ち天極なり\n〔第一の輪〕諸天運行の本なるプリーモ・モービレの天\n〔端より起る〕角の尖端極めて北極に近きが故にかく\n〔口〕他の一端、即ち角笛にたとふれば聲の出づるところ。小熊星七個の中の二個の星を指す\n一三―一五\n以上の二十四星相集りて二個の圓形の星宿となり\n〔ミノスの女〕アリアドネ。テセウス(地、一二・一六――八註參照)に棄てられし後バッカスの憐みをうく、その死するやバッカスこれが冠を天に送り化して星宿(徴號)となす(オウィディウスの『メタモルフォセス』八・一七四以下參照)。\n一六―一八\n〔一は先に〕一導き一從ふ、即ち歩調を合せて同じ方向に\n一九―二一\n〔眞の星宿〕二十四の靈\n二二―二四\n前聯の意を承けて、明かに認むる能はざる理をあぐ\n〔最疾きもの〕プリーモ・モービレ\n〔キアーナ〕アレッツオ地方の河。沼澤多き地を過ぐるが故にダンテの時代にてはその水の流るゝこと甚だ遲かりきといふ(地、二九・四六―五一註參照)\n但し、舞の早さをいへるに非ず、諸靈の光や美が人の想像以上なるをあらはせるのみ\n二五―二七\n〔バッコに〕異教徒がバッカスやアポロンの如き昔の神々を讚美せるに對して\n〔ペアーナ〕アポロン神を稱へし歌\n〔一となれる〕キリストにおいて\n二八―三〇"
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"content": "〔思ひを移す〕歌や舞より心を轉じてダンテの願ひをかなへんとすること\n三一―三三\n〔光〕聖フランチェスコの物語をなせるトマス\n〔聖徒〕numi 元來神々の義、神の如き二十四の靈\n三四―三六\nわが言葉によりて汝の疑ひの一(迷はずば云々についての)は解け、汝よくその理をさとりたれば、我今こゝに他の疑ひ(これと並ぶべき者云々についての)を解くべし\n三七―三九\nアダムの胸にも\n〔女〕エヴァ。禁斷の果をくらへるため禍ひを全世界に遺せり(淨、二九・二二以下參照)\n〔肋骨を〕神がアダムより取りたる一本の肋骨をもてエヴァを造り給へるをいふ(創世、二・二一―二)\n四〇―四二\nキリストの胸にも\n〔槍に刺され〕ヨハネ、一九・三四\n〔あとさきに〕あとは槍に刺されし後、換言すればその死によりて、さきは刺されざりし先、換言すればその苦しみ多き生涯によりて\n四三―四五\n〔威能〕神の\n〔光〕知識の\n四六―四八\n〔さきに〕天、一〇・一四二―四\n〔福〕福なるソロモンの靈\n〔異しむ〕アダム、キリストを措き、ひとりソロモンの智をもて古今に絶すとなすをあやしむなり\n四九―五一\n〔わが言〕即ちさきに言へること\n五二―五四\n一切の被造物は皆三一の神より出づる觀念(神の語)の顯現なり\n五五―五七\n〔活光〕子\n〔源の光〕父\n〔愛〕聖靈\n子なるキリストは父なる神及び聖靈とともに萬物を造り給へり\n五八―六〇\n〔自ら永遠に〕子の作用わかれて諸の物に及べど、子そのものは永遠に一なり(天、二・一三六――八參照)\n〔九の物〕原文、「九の實在」。九個の天を司る九級の天使\n三一の神のはたらき神の語より諸天を司る者に及び、さらに諸天を通じて諸種の物質に及び、次第に下るに從つて次第に劣れる物を生ず\n六一―六三\n〔最も劣れる物〕ultime potenze(最後の勢能)、potenza は現に在るに非ず、たゞ在りうべき物\n〔業より業〕子の作用上なる物にはじまりて次第に下なる物に移ること\n〔苟且の物〕contingenze 在ることをえ在らざることをうる物即ち滅び失すべき被造物\n六四―六六\n〔種により〕動植物等。種によらざるものは礦物の類\n六七―六九\nかゝる産物の原料と、この原料を用ゐて諸物を形成する諸天の力とはいづれも一定不變ならざるが故に、物として神の光(觀念の光)を受けざるはなけれど、その受けて輝く光に多少あり(天、一・一―三並びに註參照)\n七三―七五\n材料もし凡ての點において備はり、かつこれに及ぼす天の影響極めて強くば、神の觀念の光皆顯はれむ(その物完全ならむ)\n七六―七八\n〔自然〕飼造の機關たる自然(諸天)\n〔乏しき〕神の光を完全に傳ふる能はざるなり\n七九―八一\nされど三一の神直接にその作用を及ぼし給ふ時は被造物皆完全なるべし\n〔熱愛〕聖靈。とゝのふるは印をうくるに適はしからしむるなり\n〔第一の力〕父\n〔燦かなる視力〕(智)即ち子\n註釋者曰く。五二―四行にては父を主とし、五五行以下にては子を主とし、こゝにては聖靈を主として創造の働を言現はせり、是三者の働に過不足なきを示せるなりと\n八二―八四\nかく直接なる神の働により、土(即ちアダムの肉體となれる)は生物(即ち人)を極めて完全ならしむるに適はしき材となり、また同じ働により處女マリアはキリストを身に宿したり\n八五―八七\n〔如くに〕如く完全に\n八八―九〇\n〔かの者〕ソロモン\n九一―九三\n〔求めよといはれし〕神に(列王上、三・五)。神夢にソロモンに現はれ給ひ、その求むる所を問へるに、ソロモンこれに明君たるの資格をえさせ給へと乞ふ、神は彼が自己一身の爲に長壽富貴を求むることをせず、たゞひたすら父ダヴィデの位を辱めざらんと希ふにより、その願ひを嘉し給へり(同三・五――一二)\n九四―九六\n〔わがいへる〕我明らかにソロモンの名をいはざりしかど、猶わが言葉と聖書の記事とを照らし合せて\n九七―九九\n神學や論理に通ぜん爲にあらず\n〔動者〕諸天の運行を司る天使\n〔必然と偶然〕二前提の中、一必然にして一偶然ならばその結論必然なるを得るや否や\n一〇〇―一〇二\n哲學や數學に達せん爲にもあらず\n〔第一の動〕他の動より生ぜざる動\n一〇三―一〇五\n〔わが謂ふところの〕原文、「わが思の矢の中る」\n一〇六―一〇八\n〔興りし〕Surse この動詞(sorgere)には、出る、生る、の意の外、立上るの意あれば王者が臣民の上に立つを現はすといへるなり\n一〇九―一一一\n〔別ちて〕ソロモンの智は王者の智を指し、その智即ち古今の王者に卓越せるの意なること、またアダムとキリストの智はかゝる制限を有せざること\n〔信仰〕アダム(第一の父)並びにキリスト(われらの愛する者)の智の完全なるを信ずる(三七行以下)\n一一二―一一四\n汝この轍に鑑みてこの後また輕々しく事を斷ずる勿れ\n〔足の鉛〕andar có piè di piombo(鉛の足にて行く、即ち警戒して徐かに歩む)等の句あるを思ふべし\n一一八―一二〇\n〔情また〕自説にかたよるの情、智を妨げて眞理を見るにいたらざらしむ\n一二一―一二三\nその備なくして眞理を求むるは寧ろ求めざるの優れるに若かず、そはその人、求むる所の眞理を得ざるのみならず、求めざる所の誤謬を得るにいたればなり\n〔出立つ時と〕魚を捕へんとして而して技を有せざれは、その人たゞ手を空うしてわが家に歸るのみならず、出立つ時と異なり、疲勞と失望を感ずるにいたる、眞理を求むる者またかくの如し\n一二四―一二六\n以下一二九行まで、眞を求めて誤を得し人々の例を擧ぐ\n〔パルメニーデ〕パルメニデス。名高きギリシアの哲人、エレア學派に屬す、前五世紀\n〔メリッソ〕メリッソス。同エレア學派の哲人にてパルメニデスの弟子なりといふ、前五世紀\n〔ブリッソ〕ブリュソン。古代ギリシアの哲人\nこれらはいづれもアリストテレスの難じゝ人々なればこゝにあげたり、前二者の事『デ・モナルキア』(三・四・二六以下)にも見ゆ\n一二七―一二九\n〔サベルリオ〕サルベリウス。神の三一を否定せる三世紀の異端者(アフリカのペンタポリスに生る)\n〔アルリオ〕アリウス。三―四世紀の人(リビアに生る)にてキリストの神性を否定せる異端者\n〔聖書を〕聖書を誤解してその眞義(直き顏)を枉ぐることあたかも劒がその刄に映る人の顏を歪みて見えしむる如し"
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"role": "user",
"content": "\n四\n\n 原始時代における人間の生活状態は、今日から調べてもなかなか確かなことは解らぬが、まず下等の野蛮人やある猿類に見るごとくに数多くの小さな団体を造り、団体と団体とが絶えず争いながら生活していると仮定する。もっとも絶えず争いというても争わぬ時が一刻もなかったものという意味ではない。ちょうど、日本には絶えず地震があるというても実際に揺りつづけてはいないのと同じに、烈しい戦いは恐らく何年目に一回かあった位であろう。しかし、その時にはずいぶん争いが激烈でとくに飢饉でもあれば負けた方は皆食われてしもうたかも知れぬ。長い年月の間にかようなことが何回となく繰り返され、毎回勝った団体が生き残り敗けた団体が死に亡びたとすると、自然淘汰の結果として、勝った団体をして勝たしめた性質が次第に発達したに違いない。個体と個体との戦いには優った方の個体が勝ち、団体と団体との戦いには優った方の団体が勝つは当然であるが、いかなる団体が優って勝つかと尋ねると、もしも他の条件がことごとく対等である場合には、相手の団体に比べて少しでも、よりよく協力一致の実を挙げ得たものの方が勝つに定まっている。しかして協力一致の実を挙げるには自身のことは捨ておいて、まず団体のために働かずには居られぬという本能が、生れながらに各個人に備わってあることが必要である。この本能を社会本能と名づける。人間のすることは、意志によって、するかせぬかを決し、智力によってその方法を工夫するように見えるものが多いから、団体内の協力一致のごときもただ決心一つで行なわれ得ると思う人があるかも知れぬが、それはけっして実行のできるものでない。人間のすることを総括して考えてみると、意志はただ本能の許す範囲内においてのみ自由で、その以外には出で得ない。智力の方も、それと同じく途中の理窟は何とこじ付けても結論だけは初めから本能によってきまっている。畢竟智力なるものは無意識的に本能の命令を受け、意識的にその方法を研究するもので、結局、本能の実行機関に過ぎぬ。団体的精神というと、何となく、当人の意識している部分が大いに加わっているように聞えるが、自然淘汰によって、発達するのは、ただ基礎となる社会本能だけであって、けっして外に現われた意識的の精神ではない。さて社会本能が次第に進歩して終に完全の域に達すると、その団体はいかなる状態になるかというに、それは今日の蟻や蜂の社会に見るごとくに、各自はまったく社会奉仕の念に満たされ、そのなすことはことごとく社会にとって有利なことばかりである。誰も彼もがただ社会の利益をはかり皆同一の目的を狙うて行動すれば、その間に矛盾の起るべき理由は少しもない。\n 蟻や蜂の社会では社会本能だけが発達すれば、それで、完全な社会生活を営むことができるが、人間の蕃社では相手の蕃社と競争するにあたってなお一つ必要なことがある。蟻や蜂が習うことも覚えることもなしに誰も生れながらに、一疋だけの仕事ができるのと違い、人間は幼いときには力も弱く知慧も足らず、とうてい一人前の働きはできぬのが、成長するにしたがい、他人の真似をして経験の積るとともに力も強く利巧にもなり、初めて完成した戦闘員の資格を備えるに至るのである。そのうえ、生れ付きによって、武勇抜群のものもできれば、一生陣笠で終るものもあろう。かように戦闘力のさまざまに違うものが大勢集まって敵なる蕃社と戦う場合には、たとい、社会本能が発達してめいめいは自分の蕃社のために討死する覚悟であっても、一人一人が随意の行動を取っては、全体としての統一が保てず、したがって能率が上がらぬは明らかである。かような場合に、全体の統一をはかり、各員の力をできるだけ有効に用いしめるには、蕃社中のもっとも力が強く、もっとも知慧があり、もっとも経験に富んでもっとも戦争に巧みな一人を大将と仰ぎ、皆の者がその指図に従うのが一番得策である。仮に、ここに二つの蕃社があって、一方の蕃社では、めいめいが随意の行動をとり、他の蕃社では一人の大将があって残りの者はことごとくその指図に従うて進退するとしたならば、戦争していずれが勝つかはいわずとも知れている。少しく蕃社が大きくなると一人の大将では全部を直接に指図することができぬから、部下の中からもっとも適任と認める者を数名選び出して、これに補佐の役を命じ、蕃社がさらに大きくなると、大将の補佐だけでは手が足らぬゆえ、さらに補佐の補佐を任命し、かくして命令を下す側にも若干の階級ができるが、かように蕃社内の制度がやや複雑になっても各自がおのれの目上の者に服従していさえすれば、蕃社はりっぱに統一せられ、戦争の場合にはもっとも有効に戦うことができる。しかしてこのことが行なわれるには、各自が生れながらに目上の者には服従せずにはいられぬという本能を備えていることが必要である。この本能を階級本能と名づける。蕃社と蕃社とが相戦うていたような時代が長くつづき、その間に、階級本能の少しでも多く発達した蕃社がいつも勝って栄えたとすれば、自然淘汰の結果として、この本能は次第に進歩し、初めは模倣、次には服従、終りには崇拝として現われるに至ったであろう。\n 前に社会本能についても述べたとおり、人間の意志は本能の許す範囲内においてのみ自由で、当人はいかに自分の勝手に考えたり行なうたりしているつもりでも、やはり無意識に本能の命令には服従している。それゆえ、階級本能の発達した社会では、哲学でも道徳でも、宗教でも教育でも目上の者に服従することを人生における最上の善とみなし、目上の者を極度に崇拝して、その者にほめられるのを何よりも名誉、その者に叱られるのを何よりの恥辱と考える。目上の者からほめたしるしの物を貰えば有難くて堪らずつねにこれを帯びて人に誇り、貰えなかった連中は、これを見て非常に羨しがる。幾人か集まればいつも話の題は階級のことにきまっている。階級本能が発達すると、人間の頭は生れながらに、全く階級の観念に司配せられ、目上の者には服従せずにはいられず、子は親に服従し妻は夫に服従し、幼者は老人を敬い、弟子は師匠の影を踏まぬ。団体間の競争の結果として社会本能が発達すれば各人は一点の私心をも挾まず、ことごとく、蕃社全体の利益のためのみに行動し、またそれと同時に階級本能が発達すれば、蕃社内の上下の区別が判然と定り、下は上を敬うて忠勤をつくすから、その間になんら矛盾の起るべき道理がない。その当時の蕃人らは何とも思わずに暮していたであろうが、後の世から振り返って見ると、実に黄金時代ともいうべき状態であった。もしも団体間の自然淘汰がいつまでもつづいたならば、さらに完全な黄金時代に到着したでもあろうが、人間の団体は、そのようにはならなかった。\n\n五"
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{
"role": "assistant",
"content": "\n 人間がすべての動物に打ち勝ったのは脳と手との働きによって道具を作り用いたからであるが、人間同士が相戦うにあたっても無論道具を用いた。他の条件がことごとく同じである場合には少しでも精巧な道具を用いる団体の方が勝つ見込が多いわけであるゆえ、長い間には道具はますます精巧なものとならざるを得なかったが、道具が精巧になるにつれて、人間の団体と他の動物の団体との間に、大いに趣きを異にする点が生じた。それは人間の団体だけは他の動物の団体と違いどこまでも大きくなり得たことである。およそ動物の団体には種々の理由のために大きさは一定の際限があって、それを超えて、大きくはなり得ない。蜜蜂の団体が大きくなるとすぐに分封を始めて、いくつにも分れるのは、その例である。人間も原始時代にはあまり大きくなることができず、いつまでも、小さいままに止まっている。野蛮人の蕃社が大きくならぬのは、あまり大きくなり過ぎると、全体としてまとまりがつかず進退に統一を欠き、かえって不利益なことが起るからであろう。しかして、その際、統一の保てぬ主な原因は、通信と運輸との不便である。しかるに道具が次第に進歩し、精巧な器機が発明せられ、終には電信や電話で命令を伝え、汽車や自動車で兵粮を運ぶようになると、いくら団体が大きくなっても、統一にはなはだしい困難を感じない。ところで、昔から衆寡敵せずという文句のとおり、他の条件がすべて同じであるとすれば、一人でも人数の多い方が強くて勝つにきまっているゆえ、団体は、次第に大きくなり、通信や運輸の便が開けるとともに、その大きさが増して、終に今日の文明国に見るごとき、数千万人または数億人を数うるほどの大団体となった。\n さて団体がある程度以上に大きくなると、団体間に争いが絶えずあったとしても、その勝負は団体が小さかったときのごとくに徹底的ではあり得なくなり、たとえ負けても、ただ一部分の者が命を落すだけで、大多数の者は平気で生存しつづける。勝った者も敗けた者も同様に生存しては、自然淘汰は行なわれぬが、自然淘汰が止めば、その時まで、自然淘汰によって養われ来った性質が退化し始めるのが、生物界に通じた自然の法則である。人間も団体の大きさが、ある程度を超してからは、団体間の自然淘汰が行なわれなくなり、その時まで、自然淘汰のために発達し来った社会本能や階級本能は、その時から退化し始め、その後は次第に退化の度を増して、終に今日までに達したのである。以上述べたとおりであるから社会本能や階級本能の発達の程度を標準として測ると、人間の過去の歴史は、初めは上り坂で後には下り坂になり、その中間にはいくぶんか、やや平らな所があって、全体の形はほぼパラボラに似ていたろうと思われる。今日の人間は遺伝によって、上り坂時代の性質をなお相応に備えて居りながらも、下り坂時代の新しい性質を重ね備えているゆえ、同一人が考えること、なすことの中にも、互いに矛盾する分子が含まれてあるを免れぬ。また、初め発達した本能が後に退化する程度は、変異性によって、一人一人に違うから、これらの人々がめいめいに考えること、なすことの間にははなはだしい矛盾が生ずるのは当然である。上り坂の頃には社会本能や階級本能が発達したために、人間の考えることも、行なうこともすべて、それに基づいていたが、下り坂になってからは、これらの本能が退化して、その反対の自己を中心とする本能や、自分の頭の上に他人を戴くことを潔しとせぬ本能が芽を出し、そのために、人間の物の考え方がいちじるしく変って来た。ただし、誰もの考えが歩調を揃えて変化して行くわけではなく、方向だけは同じであっても遅速には非常な相違があって、今日でもなお、階級本能を多量に備えている人もあれば、これを大分失うた人もある。これらの人々がめいめい勝手に物を考えれば、その考え方が大いに相違するのはもとより当然であって、そのため、ここにもかしこにも意見の衝突が起る。現代の人間生活に現われている矛盾は皆かくのごとき理由で生じたものである。かように素性が分ってみると、毎日の新聞に出て来る無数の紛擾も、その基づくところが明瞭になり、いずれもけっして偶然に発したものではなく、避けようとしても避けることができぬ生物学上の深い根底のあることが知れる。今日の社会の組織は社会本能や階級本能が未だ退化しなかった頃にできたもののそのままの引きつづきであるから、これらの本能があまり退化していない人間がその中に住めばあたかも魚が水の中に住むごとくに、少しの無理をも感ぜぬであろうが、社会本能が退化すれば、上に位する者はかならずその地位を悪用して下の者を圧制し始め、階級本能が退化すれば、下にある者はかならず上の者を戴くことを嫌うてこれに反抗し始める。今日到る所に見られる新旧思想の衝突とはすなわちこれである。社会本能の退化に基づく損失は、全団体が一様にこれをこうむるゆえ、誰もとくにかれこれとはいわぬが、階級本能の退化によって直接に損失をこうむるものは、無論上に位する者だけであるゆえ、これらは極力、旧制度の維持を計り、その城廓に立て籠って、下の者の侵略を防ぎ止めようとする。どこの国でも、現に権力を握っている者は旧思想を尊重し、圧迫を受けて苦しんでいる階級の者は新思想を歓迎し、往々極端なことを考えたり、実行したりする者が出て来るが、これは階級本能がすでに余程まで退化してからでなければ夢にも思いつかぬことである。\n\n六\n\n 今日の世の中で第一に気のつくのは形式と精神との矛盾である。「人間万事嘘ばかり」という古い本を読んだことがあるが、社会本能が退化してからの社会では精神がすでに変っているから、いかなる形式もすべて嘘とならざるを得ない。例えば代議士制度のごときも、本来ならば、選挙人が自分でこの人をと思う人を選び、その人に頼んで代りを務めて貰うべきはずであるのに、今では誰からも頼まれもせぬ人間が自分で勝手に候補者と名乗り、なにとぞ私を選んでくださいと有権者の家を戸別に訪問して、平身低頭して頼んで歩く。また有権者の方では、この人をと思うような人がなかったり、たといあっても、とうてい出てくれそうもなかったりして、止むを得ず気に入らぬ人間に投票するか、棄権するかのいずれかにする。これが何で代議制と名づけられようか。しかも税を取りに来るときには、これは君らの選んだ代議士が可決したことであるから、君ら自身が可決したのも同じである、ぐずぐずいわずに早く出せというて請求する。運動費に何万円も費すところを見れば、当選してからかならずその何倍かの儲けがあるものと思われるが、かような自己本位的の行為は、社会本能がよほど退化した後でなければとうてい誰にもできぬことである。\n 社会本能が未だ退化しなかった頃には、一国内は真に挙国一致で愛国心が充満していたろうが、この本能が退化し始めてからは、愛国心も次第に変化して、本能に基づいた無意識的のものからだんだん智力に造られた意識的のものに移って来た。つねには容易に持ち上らぬ箪笥が火事のときには楽々と運べるごとく、非常の際には思いがけぬ力が出るもので、戦争でも始まると、今まで隠れていた社会本能がにわかに働いて、国家のためには身命を擲つ特志家が幾人も続出するが、かようなときでさえ、大多数の人々は、わが国が敗けては自分が困る、それゆえ是非ともわが国を勝たせねばならぬと、心の中で意識的に理窟を考えた結論の愛国心より外は持たぬ。しかして平時には、社会本能の退化につれて頭を擡げ出した自己本位の本能が、無意識ながら有力に働くゆえ、めいめいが意識的に考えることも、皆この本能の命ずるところに従うてことごとく自己本位になり、その結果として、口に唱えることと身に行なうこととが全く矛盾するに至る。とくに車夫が車賃を貰うて車を引くように、愛国賃を貰うて愛国する者や、愛国を売り物にして強請って歩いたり無銭飲食をしたりする輩に至っては、言行不一致もまたすこぶるはなはだしい。しかして、これらは皆社会本能の退化したために生じた人間生活の矛盾である。\n 社会本能が充分に発達すると、国内は完全に協力一致するが、その代りに国と国とはことごとく敵同士となる。蟻や蜂の団体では実際そのとおりになっている。人間も小さな団体を造って相戦うていた頃には、やはり、そのとおりであったろうが、国が大きくなり、社会本能が退化して、国内の人々の間に種々の矛盾や衝突が生じてからは、国の勢力の大部分は国内で消費せられ、それだけ外国と戦う気分が薄らいだ。国としては相変らず敵愾心を備えていても、個人と個人とが出遇うたときにかならず相殺し合わねばならぬという必要がなくなり、境を接したところでは、そろそろ平気で交際し始めるに至った。これはすなわち社会本能の退化のために、国の箍が緩んだのである。その後、交通の便が開けるにしたがい、国と国との関係が密接になり、汽車や汽船が到着するごとに多数の外国人が入り込んで来るようになると、人々の考え方にもだんだんと変化が生じ、初め何ごとにも自国本位であったのが、少しずつ国際関係をも尊重するようになり、終には、国などという面倒なものは廃して、誰も彼もが単に世界人となった方がよろしくはなかろうかなどと考える者までが生ずる。しかしながら、現在の世の中には、未だ民族の区別もあり、国の区別もあって、強い国から侮辱や圧迫をこうむることも絶えずあるから、世界人では安心ができず、やはり国を強くして置かねばならぬとも考える。この点においても思想が二派に分れて互いに衝突するを免れぬ。"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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{
"role": "user",
"content": " それと暫く問答をかわしていたが、訪ねて来たのは上へあがらず、面を出した邸内の壮士二人が下り立って、都合四人づれで市中へ出ました。\n 付け加えてこの日は、黄昏時になると、ようやく風が強く吹き出し、四人づれが両国橋を渡りきって矢の倉方面に出た時分には、バラバラと砂塵が面に舞いかかるほどの強さとなります。\n「強い風じゃ、火をつけたらよく燃えるだろう」\n「でも、江戸を焼き払うほどの火にはなるまい」\n「それは地の利を計らなければ......先年、大楽源太郎と、地の利ではない、火の利を見て歩いたが、彼奴、人の聞く前をも憚らず、今夜はここから火を放けてやろうと、大声で噪がれたのには弱った」\n「あれは、そそっかしい男だが、感心に詩吟が旨かった」\n「どうだ、ひとつ放けてみようか」\n「しかし、つまらん、江戸城の本丸まで届く火でなければ、放けても放け甲斐がごわせぬ、徒らに町人泣かせの火は、放けても放け甲斐がないのみならず、有害無益の火じゃ」\n「有害無益の火――世に無害有益の放火というのもあるまいが」\n「では、通りがかりの道草に、いたずらをしてみようか」\n「地の利と、風の方向を考え、且つ、なるべくは貧民の住居に遠く、富豪の軒を並べたところをえらんで......」\n「面白かろう」\n さても物騒千万ないたずらごと。この四人の壮士が傍若無人に試みた火つけの相談は、冗談ではなくて本当でありました。それからまもなく、風が強くなるに乗じて、この連中の行手にあたって、日本橋の呉服町のある町家の軒から火の手があがって大騒ぎとなりましたが、それは発見されることが早くて、まもなく揉み消したかと思うと、山下町あたりのある旗本屋敷が、またしても、それ火事よと騒ぎ立てて、これはほとんど大事となり、一軒を丸焼けにしておさまりました。\n 次に、やや時間を置いて芝口のある商家、これも大事に至らず消し止めましたが、それから程経て、神明の前の火の見櫓が焼け出したのは皮肉千万であります。\n 筋を引いて見れば、ちょうどこの四人の壮士の過ぐるところ、四カ所で火が起ったわけです。これはまた途方もないいたずらで、いやしくも武夫の姿をした者共の為すべからざる、いたずらであるに拘らず、このいたずらは、誰にも発見されず、その残したいたずらの脱け殻だけが人騒がせをして、当の本人たちは悠々として芝の三田の四国町まで来ると、そこに薩摩、大隅、日向三国主、兼ねて琉球国を領する鹿児島の城主、七拾七万八百石の島津家の門内へ乗込もうとする。音に聞く島津の家の門番は、この途方もないいたずら者を、どう処分するかと見れば、案外にも易々と表門を素通りさせて、彼等をこの屋敷の中に吸い込んでしまいました。\n しかし薩摩の士の風俗をしているからとて、必ず薩摩のさむらいだと限ったわけはありますまい。この薩州屋敷では、このごろ、ずいぶん人見知りをしないで人を入れる。\n まず玄関には非常に大きな帳簿が備えてあります。それの巻頭には誰の筆とも知らず、達筆に尊王攘夷の主意が認められてあって、その主意に賛成の者は来るを拒まず、ということになっている。諸国の尊王攘夷の志士は、肩を聳やかし、踵をついで、集まり来って、この帳簿へ記名誓約をする。紹介者あって来るものもあれば、自身直接に来るものもある。薩州邸ではそのいずれでも拒むということをしない。\n 五百人内外の人は、いつでも転がっているが、これらの食客連の日中の仕事は、武芸をやること、馬に乗ること、感心に読書学問をやっている者。為すことも気儘勝手、出入りも自由。けれどもその自由放任が、ある時は、無制限になって、ここから夜な夜な市中へ向けてきりとり強盗に出かけたものまでが黙認される。\n 火放け強盗はおろかなこと、この屋敷から或る時は甲州へ向けて一手の人数が繰出される。或る時は下総、或る時は野州あたりへ繰出して、そこで大仕掛な一揆の陰謀が持ち上る。\n その主謀者の方針は、江戸の市中はなんといっても相応に警戒が届いている。ことにこのごろ、募集した歩兵隊――一名茶袋は烏合の寄せ集めで、市民をいやがらせながらも、ともかくも新式の武器を持って、新式の調練を受けているから、それを相手には仕事がしにくい。近国へ手を廻して騒がせておけば、自然お膝元の歩兵隊が繰出す。その空虚に乗じて江戸の城下へ火をつけ、富豪の金穀を奪うて、大事を挙げる時の準備にしようという方針らしい。\n 斯様な方針を立てている主謀者は何者か。どうかすると西郷吉之助の名前が出ることもあるが、西郷はここにいないで、益満休之助と伊牟田なにがしと小島なにがしと、このあたりが主謀者ということである。\n 益満は長沼流の撃剣家で、山岡鉄太郎などとも懇意であり、この益満の後ろに西郷がいて糸を引いているという説もあるが、益満それ自身もただ糸を引かれている人形ではあるまい。\n さいぜん、大手を振って門内に通過した四人の壮士、この席へ来ても無遠慮に一座の中へ、むんずと坐り込み、まず見て来たところの西洋の大魔術の披露、普通弁と薩摩弁でしかたばなしまでしての土産話は無難であったが、無難でないのはそれに続く自慢話であります。\n この四人の壮士どもは、今しも、大得意になって、本所の相生町から三田の四国町までの間の彼等の道草、その途方もない、いたずら話を憚る色なく並べ立てたことです。四カ所に放火して、ある所は大事に至らしめ、ある所は小事で終らしめたが、ともかくも人心を騒がして来たことを手柄顔に説明すると、それを興ありげに聞いていたものと、不足顔に聞いていた者とあって、\n「ナーンだ、くだらぬ人騒がせ、つまらぬいたずら、そうして下っ端をおどかしてみたところが何だ。トテモやるなら、あの将軍の本丸まで届くほどの火を出せ。本丸から火を出して、グラついた江戸城の礎を立て直すほどの火を出してみろ。小盗賊のやるようないたずらはよせ」\nと言ったものがあると、四人のなかの一人が抜からず、\n「いずれそれをやって見せるが、今はその手習いじゃ」\n そこで、この一座の対話が、江戸城の本丸へ火を放ける、その実際の手段方法にまで進んで行ったのは怖るべきことです。この怖るべき相談が事実となって現われたのも、それから幾らも経たない後のことであります。それから彼等の巣窟たるこの四国町の薩摩屋敷が焼打ちになって、江戸を追われたことも、いくらもたたない後のことであります。\n\n 五\n\n それはそれとして、再び前に戻って、ここにまだ疑問として残されているのが、両国の女軽業の親方お角の、このたびの、旗揚げの金主となり、黒幕となった者の誰であるかということで、これはその道の者の専らの評判となり、またお角の知っている限りの人では、これを問題にせぬ者はなかったが、誰もその根拠を確と突留めたものがありません。\n 神尾主膳や、福村一派の現在は到底、逆さにふるっても融通がつこうはずはなし、以前、柳橋に逗留していた時代の駒井甚三郎のところへは、お角はしげしげ出入りして、あの当座、多少の融通黙会はあったかも知れないが、今の他人行儀を見れば、このたびの興行に駒井の力は加わっていなかったことは、がんりきの百蔵といえども疑う余地はないところであります。\n 高利の金を借りた場合には、玄人筋は当人の手にその金が入るより先に、その噂を受取るに違いないが、さっぱりそのことがない。\n だから、玄人は興行の腕よりも、お角の金策の腕に舌を捲いている。\n 初日の評判を後にして、その日いっぱいの上り高のしめくくりをしたお角は、払い渡すべきものは即座に払い渡し、大入袋の割振りまできびきびとやっつけて、残った金を両替にすると、それを恭しく紙に包んで男衆を呼びました。\n「庄さん、ちょっとそこまで一緒に御苦労しておくれ」\n やはり風の吹いた同じ日の晩。\n 一人の男衆を連れたお角は、両国橋の宿を立ち出でました。\n その行先が疑問、それを突き留めさえすれば、金策の問題もおのずから氷釈するに違いありません。通俗に考えれば、これは、てっきり、柳橋の遊船宿に駒井甚三郎を訪ねて出かけたものに相違ない――お角ほどの女が、その時分に息をはずませて柳橋を渡り渡りした時は、がんりきの百蔵をひとかたならず嫉かせたものです。\n ところが、今はこの通俗な予想も、まるっきり違って、お角が訪ねて行く足どりもおちついたもので、足を踏み入れたところは通人の通う柳橋ではなく、諸国のお客様の定宿の多い馬喰町の通りであります。\n そこで、一二といわれる大城屋良助の前へ来ると、お角は丁寧に宿の者に申し入れました、\n「有野村のお大尽様に、両国橋から参りましたとお伝え下さいまし」\n「はい、畏まりました」\n ほどなく、お角は男衆の手から包みを取って、案内につれて通る。男衆は店頭に腰をかけて待っている。\n お角の通された一間、そこには丸頭巾をかぶったお金持らしい老人が一人、眼鏡をかけてしきりに本を読んでいる。そこへお角が通されて、\n「お大尽様、お邪魔に上りました」\n「おお、お角どの、まあずっとこれへお入りなさい」\nといって老人は本を伏せ、眼鏡を外して、座をすすめると、お角はしおらしく、\n「御免下さいまし」\n 座へ通って再び老人に頭を下げ、\n「おかげさまで、すっかり当ってしまいました。これで、わたしの胸も、すっかり透いてしまいました。就きましては早速、心ばかりのお初穂を差上げまするつもりで......」\nといって風呂敷を解きかけたその中は、確かにお金の包みであります。\n いわゆるお大尽の前へ、お金の包みを積み上げますと、お大尽は、莞爾と笑い、"
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{
"role": "assistant",
"content": "「いやもう、それはお固いことだ、娘もああしてお世話になっているし、そう急ぐというつもりもないのだが、せっかくだから......」\n ここで初めてお角の金主元が知れた次第です。つまりお角は、このお大尽から金を引き出している。しからばこのお大尽なるものは何者。\n 王朝時代からの旧家といわれた甲州有野村の長者藤原家、その当主の伊太夫。それがすなわちこのお大尽で、ただいま、お角の家に厄介になっているお銀様のまことの父がこの人であります。\n さればこそ、測り知られぬ山と、田と、畑と、祖先以来の金銀と、比類のない馬の数を持っているこの富豪をつかまえたことが、興行界の玄人筋の機敏な目先にも見抜き切れなかったことになる。\n 大尽は、金の包みを前に置いたままで、\n「どうだね、お角さん、あれはどうしても帰るとはいいませんか」\n「そればっかりはいけません、いくら申し上げましても......」\n「そうだろう、どうも仕方がない。よし帰るといってもらったところで、また難儀じゃ。いっそのこと、どこまでもお前さんに面倒を見てもらいたいと、わしは思っているのだが」\n「どう致しまして、わたくしなんぞは御面倒を見ていただけばといって、お力になれるわけのものではございません」\n「いや、あの通りの我儘者だから、お前さんのような、しっかりした者が付いていてくれると、わしも安心じゃ」\n「痛み入ったお言葉でございます、そのお言葉だけを勿体なく頂戴して、一生の宝に致したいと存じます」\n「そういうわけだから、ドコかしかるべき地面家作のようなものがあったら、ひとつお世話をしていただきたい、あれの暮して行けるだけのことはしておいて帰りたいと思いますからね」\n「そうしてお上げ申した方がお嬢様のお為めならば、ずいぶん御周旋を致しましょう」\n「無論、その方があれのためになる、それでは万事よろしく頼みますぞ」\n「畏まりました、早速、そのつもりで明日からでも、恰好なところを探しにかかりましょう。それと、お大尽様、くどいようでございますが、あなた様にもぜひひとつ、今度の興行を見ていただきとうございます」\n「いいや、わしがような山家者、それにこう頭が古くなっては、根っから新しいものを見て楽しもうと思いませぬ」\n「それでも、せっかくでございますから」\n「まあ、勘弁して下さい、これが、わしの性分なのだから」\n「ほんとうに残念でございます」\n 肝腎の金主元が、事業の出来栄えを見てくれないのをお角は残念がると、伊太夫は、\n「そういうわけだから、悪く取って下さるな。それから、この金は、せっかくのこと故、わしが一旦は受納を致したことにして、改めてお前さんの方へお廻しをしたいのじゃ、この後の分ともに、それを、今お頼みした娘の方のかかりに廻してもらいたいのじゃ。娘へ手渡しをしても受取るまい、受取ったところでうまく処分ができ兼ねるだろうから、そこはお前さんが預かっておいて、都合よくやってもらいたいのじゃ。なお、国許から月々なり、或いは相当の時分に為替を組んでよこすか、または人を遣わす故、何かについて不足があらば申し越してもらいたい......証文? 左様なものは要らぬ。わしはこれで、いったん人を信用すると、最後までしたい方の人間でね、肌合いは違うけれども、お前さんなら大丈夫だと、まあ見込んでお頼みをしているわけなのだ。それに第一、娘というものが、この上もない生きた証文ではないか」\n お角はこの時、さすが大家の主人だけあると思いました。\n\n 六\n\n そのお角の留守中、裏両国のしもたやへ、\n「今晩は、御免下さいまし」\n「どなたでございます」\n「親方は、おいででございますか」\n「どなたでございます」\n「金助でございます......」\n「金助さんですか」\n 娘分のお梅が駈け出すと同時に、格子戸をカラカラとあけて、\n「え、金助でございますが、親方はお宅でございましょうな」\n「まあ、お入りなさいまし、母さんは今留守ですけれど」\n「エ、お留守ですって?」\n「いいえ、留守でもかまいません、もし金助さんが見えたら、待たせておいて下さいといわれていましたから」\n「左様でゲスか、左様ならば御免を蒙ると致しまして」\n そこへ腰をかけて、草鞋を解きはじめたのは、金助というおっちょこちょいで、今、旅の戻りと見える気取ったいでたちです。\n「草鞋ばきなんですか、ずいぶんお忙がしそうですね」\n「どう致しやして、忙がしいのなんの......これも誰ゆえ、みんな忠義のためでございます」\n くだらない軽口をいって草鞋脚絆を取っていると、お梅は早くも水を汲んで来て、\n「金助さん、お洗足」\n「これはこれは、痛み入谷の金盥でございますな」\n「さあ、お上りなさいまし、母さんはじきに帰って来るといいおいて出ましたから」\n「左様でゲスか......いやどうも、これでわっしも性分でしてね、頼まれるといやといえないのみならず、身銭を切ってまで突留めるところは突留めないと、寝覚めの悪い性分でゲスから、随分、骨を折りましてな。それでも骨折り甲斐も、まんざらなかったという次第でもございませんから、取る物も取りあえずにこうして伺ったわけなんですよ」\n「御苦労さまでしたね」\n「早速御注進と出かけて見れば、頼うだお方はお留守......少々業が煮えないでもございませんが、お梅ちゃんからこうしてお茶を頂いたり、お菓子をいただいたり、御苦労さまなんていわれてみると、悪い気持もしませんのさ」\n「ほんとうに、お気の毒でしたね。でも母さんが、もう帰って来ますから、なんならお風呂にでもおいでなすったら、いかがです」\n「そのこと、そのこと、よいところへお気がつかれました、旅の疲れは風呂に限ったものでゲス。では、ひとつ、御免を蒙って......」\n「金助さん、お召替えをなさいましな」\n「お召替え? それには及びませんよ」\n「まあ、そうおっしゃらずに」\n「どうも恐縮でゲス。おやおや、昔模様謎染の新形浴衣とおいでなすったね。こんなのを肌につけると、金助身に余って身体が溶けっちまいます。すべて銭湯に五常の道あり、男湯孤ならず、女湯必ず隣りにあり、男女風呂を同じうせず、夫婦別ありといってね......」\n このおっちょこちょいが歯の浮くような空口をはたいて、しきりにそわそわしているのは、この家としては近ごろ異例の待遇で、本来ここの住居は、お角のためには隠れたる休養所で、懇意な人でも滅多には寄せつけないのに、このおっちょこちょいに限って、少々もてなされ過ぎている。"
}
]
|
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 人々の眸も一斉に、\n(それが知りたい!)\n と射るように、内蔵助の方を見た。\n 内蔵助は、閉じていた眼をあいて、その眼で、無言の答えを示した。すると、側にいた九郎兵衛が、その不明瞭な態度を補うように、袖口にふかく入れていた腕を解いて、\n『今朝着いた早水、萱野の一番早打につづいて、次々に、飛脚が江戸表を発っておる筈じゃ、追ッつけ、二番早打が見えよう。――何分にも遠い江戸の空、待つよりほかに、知る術もないで』\n ――語尾の終らぬうちに、衆座は、騒々と私語の声で掻きみだれてしまった。この場合に、静粛で居れとか、じっと次の報告を待てとか云っても、それは感情と血液のある人間に無理なことであるとするように、九郎兵衛も、内蔵助も、黙る者や、囁く者や、悲憤する者や、うろうろと眼をうごかす者や、沈鬱に呻く者や、個々さまざまの心にまかせて、しばらくは、全藩士がうけた大きな驚愕の浪のなかに、自身というものを、巌のように据えていた。\n 台所方の小役なので、この席にはいなかった三村次郎左衛門が、その時、畳廊下から次部屋をのぞいたが、誰もいないので、\n『御城代! 御城代っ』\n と大きく呼びたてていた。\n 九郎兵衛は、皺首を振り向けて、すぐ起ち上った。もう弓腰に曲がっているが、常に養生のいい老人で健康が自慢であった。つつつと次部屋を越えて、\n『三村か、なんじゃ』\n と云った。\n 次郎左衛門は、膝まずいて、\n『御城下の騒ぎ、一方ではございません。御櫓から御覧なされませ』\n『騒ぎとは、なんの騒ぎ? ――。町人共には、関わりもないことじゃに』\n 彼が櫓の狭間に顔をだした時、誰からともなく伝えられたとみえ、広間を出て来た藩士たちが、四五人ずつかたまって、城下の方を凝視していた。\n 町には、黄ろい埃があがっていた。蟻のような群集の列が、辻々にみえる。札座屋敷の門を中心に、塀を囲んで騒いでいるのだ。それを遮ろうとする町年寄や、会所の者との間に、小競り合いが始まっているらしく、暴動的な殺気さえ漲って見えた。\n『あれや、町人共が、お家の凶変を早耳に聞いて、藩札を引き換えよと騒いでいるのじゃな。――不都合な!』\n 九郎兵衛だけではない、それを見て広間へもどって来た藩士の幾人かは、苦汁をのんだように不快な眉をしかめて、\n『多年、領主の御庇護によって、安穏に生業を立てて参ったのに、御恩も忘れ、殿の凶事に際して、すぐ損徳を考え、藩札の取付けに押し襲けるなどとは憎い行為だ』\n『誰か行って取り抑えねばなるまい。あの様子では、町年寄や会所者では、制止がつかん』\n『町人とは申せ、許しがたい。きっと、首謀者があろう。こういう時には、そいつらを五六名引っ縛ってしまえば自ら鎮まるものだ』\n と藩の立場と、自分たちの興奮から、こう云い放つものもある。\n 百七十里彼方の江戸表で、突忽として、地殻の一部面が崩れたと思うと、もうその波及は、江戸表以上の狂相をあらわして、赤穂の大地へ湧き上がってきたのであった。\n 江戸の驚きは、制度の震動であったが、ここの実相は、生活の戦慄だった。領主が切腹すれば、城地は官収され、藩士は離散する。そして浅野家の発行している藩札は値を失って、反古紙になるかもしれない。\n まずい物を食い、汗して働き、利のためには百遍でも頭をさげ、爪に灯をともすようにして蓄めた金だの、親や女房や子を養うための唯一の小資本だのが、ただの紙になったら、町人は、発狂するかもしれない。当然、この火は、暴動になる性質のものである。\n 内蔵助は、はっとしたように、座中の顔を見まわしていたが、\n『岡島! 勝田! 杉野!』\n つづけさまに呼んで、その人々の顔が立つのを見て、\n『前原っ』\n と、さらに呼んだ。\n 四人は、彼の前へ出て、彼のきびしい眉の緊り方を見つめた。もう吩咐けられる使命を察したもののように、\n『御家老、御城下へ参りますか』\n と、前原伊助が云う。\n『それもあるが――』\n 内蔵助は、四名を見て、どれもすこし若いと考えたらしかった。呼びよせた人々をその儘にして、顔を横に向けると、すぐ近くに、千葉三郎兵衛が坐っていた。\n『三郎兵衛がよい。御城下の騒擾、殿の御信威にかかわる。すぐ馳せ参って、取り鎮められい』\n『はいっ』\n『不破も行け』\n と、彼のうしろにいる数右衛門をも指名し、\n『――町人共の喧騒は、むりもない。当然、彼らを先に安堵させてやらねばならぬ、騒ぎを見てから馳せつけるは、すでに、此方共の手ぬかりであった。十分、得心いたすように――くれぐれも威圧するな。明日中には、必ず藩札引換えをいたすであろうと、よう諭して帰すように』\n『畏まりました』\n 千葉三郎兵衛は五十ぢかい分別者であるし、不破数右衛門は浜辺奉行の役柄にあるので民情に詳しく、町人たちと親しみもある男である。その二人を遣れば――と、先ず安心したように見送ってから、\n『四人とも、御用部屋まで、参ってくれい』\n と促して、席を立った。\n\n\n両家老\n\n\n 藩札台帳だの、御金蔵台帳だの、また浜方御貸金の控えだの、無数の帳簿が、内蔵助のまえに積まれた。\n『大野氏にも、お立会いを願いたい』\n 九郎兵衛は、黙然と、帳簿の山を、見ていたが、\n『あわただしく、何を召されようというのか』\n『一刻も捨て措かれますまい。藩札の引換を行います』\n『ふ......藩札だけの額の金があろうかしらて』\n『あろうはずはない』\n 札座横目の勝田新左衛門が、机をすえて、厚ぼったい帳面を繰り、要所に折目を入れては、内蔵助のわきへ積んでいた。\n 勘定奉行の岡島八十右衛門は、杉野、前原の二人を連れて、台帳を手に、金蔵へ入って行ったが、やがて、用部屋へもどって来て、\n『書きあげて参りました』\n と調べ書を見ながら、\n『藩の御在金は、すべてで七千両ほどにござります。――そして藩札の出札高は、今日までに一万二千余両にのぼって居ります故、およそ、この差額、五千両の見当にあたりまする』\n『ふウむ......』\n 九郎兵衛はそばから呻いて――\n『一万二千両の出札高に、在金は七千両、それでは、何うにも相なるまい』\n 投げ出すように云って、内蔵助の顔をみたが、内蔵助は、新左衛門が弾いている算盤へ眼をやりながら、やがて、それに示された数字を読んで、\n『六歩換えにはできる』\n と、やや愁眉をひらいて云った。\n『六歩換え?』\n 九郎兵衛は、聞き咎めて、\n『――それでは、藩の御在金は、一両も残らぬことになるが、この後の一藩の進退、諸入費、いかがなさるおつもりじゃ』\n『後は後のこと。そう考えるよりほか、この場合はいたし方ない。あわれな彼らの生活こそ、何事よりも、先に見てやらねば......のう』\n『滅多なこと成されては困る』\n 上席家老ではあっても若い内蔵助へ対しての彼の態度は、常に、年上として高く臨んでいた。人間的には、両方とも、好きでも嫌いでもない程度につきあっているし、藩務も円滑に行っているが、九郎兵衛の眼から見ると、どこやら内蔵助はまだ乳くさい気がしてならない。平常の仕事ぶりも切れ味がわるいし、物腰はどことなく鈍重で家柄なればこそ上席と立てているものの、自分がなければ五万三千石の締めくくりができる男ではないがとは、いつも彼が内蔵助を見る常識であった。\n その内蔵助が、感情の昂ぶっているせいもあろうが、ひどく独断的で、ものをいうにも、相手に反対を云わさぬような力を語尾にこめているので、九郎兵衛は、大人気ないと思いながらも、彼に対して初めて、反感らしい反感をもって、"
},
{
"role": "assistant",
"content": "『大石殿、平常とは違いますぞ。後でというて、後で何う召さる。藩の整理、家中の退料、何もかも金じゃ。しかも、後の利かない凶変に際して、そんな、無謀なまねしたら、動きがつくまい』\n 老人のことば癖として、激すと、いかにも若輩を叱るようになる。けれど内蔵助は、その一句ごとに頷いて、\n『おことばは御尤もでござる。しかし、此方一存ではござらぬ。殿のお心をもって、殿の為さるであろうように、計らう迄のことでござる』\n『――何時、殿が左様な儀を、云い置かれた。詭弁を吐かっしゃる!』\n『............』\n『笑い事ではござらぬぞよ! 大石殿、こういう時こそ、家老たるおん身やわしは、平常の重任にこたえねばならぬ』\n『もとよりです』\n『前後の思慮もなく、御在庫の現金を、みな払い出すのが、殿のお心をもて為る事だなどとは、頭が、ちと何うかして居られはせぬか』\n『熟慮のうえでござります。失礼じゃが、大野氏には、先大殿の御代より、また内匠頭様の御幼少より今日まで、補佐の重職にあって、殿の御気質もよくご存じのはずなるに、この場合、もし殿がここにお在したら、何うせいと仰せらるるか、お心が、わかりませぬかな』\n『殿がいたら? ......。殿がいたら、かような事の起るはずはないではないか』\n 杉野、前原、岡島など周囲の者は、だまって、両家老の横顔を見つめていたが、殿の心をもて為るという内蔵助と、ここにいない殿の声がわかる筈はないとなじる大野九郎兵衛との間に、大きな人間的な差を、今はっきりと見せつけられた。\n ふだんは至って円満に行っているこの両家老は、実は、まったく懸隔てた性格の持主であったことを知って、人々は、思わず眼を瞠ってしまう。\n けれど一般的には、内蔵助の方が常々不評であって、大野に心服しない若侍でも、彼に対して、\n(煮えきらない人だ)\n と云うし、ひどいのは、昼行燈などとさえ云う者もある位なので、この場合も、九郎兵衛の意見に押されて、\n(それでは、御意に)\n と、自己の主張を引っこめてしまうかと思っていると、めずらしく、\n『いや!』\n と、ねばり強く、反撥した。\n 然し、顔いろ迄は変えてはいない。先刻、九郎兵衛に叱られた微笑を又ちらと見せて、\n『後々の儀も、心得ぬではございませぬ。内蔵助に、おまかせねがいたい』\n と云い張った。\n 相手の異議が出ない間に、\n『新左衛門、辻々へ、板を立てるのじゃ。大工共へ、十枚ほど削らせい』\n 筆を執って、藩札六歩換えの布令書の文案を認め、それを岡島八十右衛門の手へわたして、\n『立札へはこのように書いて、各所へ打て。――早くじゃぞ』\n 一刻をも急くように吩咐けた。\n 板が削れたと知らせてくる。\n 岡島や、組の者が、あわただしく立ってゆくと、入れちがいに、城下から離れた土地にいた為に、遅ればせに馬で駈けつけてきた加東郡の郡奉行吉田忠左衛門が、汗まみれな額に埃をつけたまま、用部屋の入口に姿を見せ、\n『おうっ......』\n と、内蔵助の振向いた顔へ云った。\n『おお......吉田氏か』\n それまでは忘れていたかのような一個の感情が、忠左衛門の姿を見ると、急に胸から揺りうごかされて来て、内蔵助の眼がしらに、熱いものがつきあげた。\n\n\n暮色の底\n\n\n 六十歳とは見えない吉田忠左衛門の骨ぐみであった。腰も曲がっていないし、いまだに背は六尺もあるという、脣が大きくて、老人のくせに甚だ朱い。髪は白髪になりきらず玉蜀黍の毛のようだし、田舎にばかり役勤めをしているせいか、皮膚の黒いことは百姓に劣らない。容貌どことなく魁偉なのである。\n けれど、気は女のように優しい。任地の百姓は、慈父のようになついていた。城下へ出てくる時には、いつも陣笠に馬乗りで、馬の背には、自分の菜園で作った芋や人参牛蒡をくくりつけて来て、それはいつも泊ると極めている内蔵助の家への土産物とする。\n 彼が泊る夜は、二人は、役柄を脱いでよく話した。内蔵助も酒をたしなむし、忠左衛門も好ける口である。べつにこうと云って改まって心を打明けたというではないが、内蔵助の性格を或る程度まで覗いているのは忠左衛門であったし、忠左衛門が加東郡の田舎代官だけの人物か否か、その奥行をかなり深く見ている者は、内蔵助よりほかになかった。\n いわゆる、許し合っている心友であった。\n 内蔵助が今、彼の姿を見たとたんに、何かほろりと弱い感情に揺すりあげられたのは、そのせいであろう。\n『待っていた......』\n そう云って、忠左衛門と対した時には、すでに、この大危局を肩にのせて、巌か人間かのように坐っている国家老の内蔵助ではあったが――。\n『何もいえん......。何もいえん......』\n 忠左衛門はそう云ったきりで、後は凝と、畳のひと所を睨んでいた。\n『何よりは、お家の禍を領民の禍にまでしとうないと存じて、たった今、藩札引換えの急策を立てたばかりのところでござる』\n『ようなされた。――加東郡より浜方御城下と、途々に見かけ申した百姓町人の顔つきでも、真っ先に胸につかえたはそれでおざった。――殿のお旨にもかのうた御処置』\n 忠左衛門と内蔵助と、何方も、ことば数の少い者同士が、二言三言に、万感を語りあっていると、九郎兵衛は用ありげに、その間に広間の方へ立ち去っていた。\n その広間には、もう暮色がこめていた。台所方の小役は夜を見越して、其処此処に、一群れずつかたまったまま動こうともしない人々の間へ、鮨桶へ握った飯を配ってあるいたが、誰も手をふれようともしない。\n お坊主が、網雪洞を灯ける、紙燭を広間へくばる。――だが、それすら今日に限って、なんとなく薄暗い気がしてならない。\n 為す事もなく、各〻が各〻の臆測やら前後の対策に、大なり小なり必死に考えこんで、沼のように濁す黒く沈澱しているここの空気とひきかえて、御用部屋の方では、内蔵助を中心に、算盤の音だの、帳簿を繰る音だの、そして緊張しきった勘定方の顔が蝋燭に赤く揺らいで、夜になったのも忘れている。――\n『よろしい』\n やがて内蔵助が、ほっとしたように云ったのは、漸く、未収納の年貢金や、浜方の製塩業者たちへ廻してある貸金高や、藩の蔵米現存高などが、一応調べ上った時であろう。\n ぬる茶を一口ふくんで、\n『大野氏は』\n と、訊く。\n『諸士の中に居られます』\n 内蔵助は、自分で立って行った。そして、九郎兵衛を誘って、別室に入ったが、暫く出て来ない。人々は、両家老が何か重大な相談をしているにちがいないと、そこの杉戸を見まもっていた。\n『外村殿、御家老が、呼んで居られる』\n 誰か、注意した。\n 組頭の外村源左衛門は、広間の隅から、あわてて杉戸へ入った。程なく出てくると、何か、火急な用を吩咐かったらしく、表方へ迅足に退出した。\n 広島の浅野芸州侯へすがって、金子四千五百両の無心を願いに行かせたのであった。\n その一方に、領下の年貢未進や御貸金を取りたてる――と云う内蔵助が半日の間に立てた解決策を、数字によって、細かに示されたので、九郎兵衛も、\n『それなら、六分換で、藩札の引替を始めても苦しゅうはござるまい』\n と、初めて同意した。\n すると、戌の下刻(九時過)墨のように広間で沈んでいた諸士の顔に、ぼっと、灯の色がさわいで、\n『二番早打が着いた!』\n と、表方の知らせにざわめきだした。\n 大石、大野の両家老が、早足にその人々の前を通って行った。\n 殿の即日切腹という第一報にも、藩士たちは、まだまだ一縷の望みをつないでいるのであった。\n 勅使に対しては、当然そうなければならない幕府の裁断は裁断として、他にまた、何等かの活路をつけて、御一命だけは、真際にお救いがあるかも知れない――。\n(そんな事はあり得るわけがない。御助命の余地があるくらいなら、即日切腹などという異例な裁断が下される筈もないのだ)\n と云うことは、誰にもまたすぐ考えられて来るのであったが、そうと口に出す者はなかったし、各〻も、自分で自分の常識を打ち消して迄、唯、\n(もしや? ......)"
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"role": "user",
"content": "\n 二十六\n\n ほどなく大中寺の門前までやって来た時分に、がんりきの百蔵は、急に主膳にお暇乞いをして、明日にも改めてお伺い致しますと言って別れてしまいました。\n いかにも泊り込みそうな気合で来て、ふいに外れてしまったから、主膳も、拍子抜けの気味で、そうかといって、泊り込まれるよりは世話がないから、そのまま門前で、がんりきと別れてしまいました。\n そこで主膳がもてあましたのは、隠居からおみやげに贈られた美酒一樽。僕の手から、がんりきの手へ、がんりきの手からいま改めて主膳に返されてみると、主膳はそれを持扱いの体です。\n これは山門の中へは持ち込めない。そうかといって、ここへ無下に打捨らかしてしまうのも冥利である。そこで、主膳は門番の戸を叩きました。\n「どなたでございます」\nというのは門番又六の女房お吉の声です。\n「神尾じゃ、又六はおらぬか」\n「まあ、殿様でございましたか」\n お吉が驚いて戸をあけて迎える。主膳は中へ入って、\n「又六はおらぬか」\n「皆川の方へ参りまして、まだ戻りませんでございます」\n「左様か。お吉、迷惑だが、これを預かってもらいたい。いや預かるのではない、門前の誰かに欲しいものがあったら遣ってしまってもよろしい」\n「何でございますか。おや、これは結構な御酒ではございませんか」\n「うむ、大平山の隠居から貰って来たのじゃ。又六は飲けぬ口であったな」\n「こんな結構なお酒を、ここいらの者に飲ませては勿体のうございます、殿様のお召料になさいませ」\n「そうはいかない」\n「それではこちらでお預かり申しておきましょう。ああ、ちょうどよろしうございます、鉄瓶があんなに沸いておりますから、少々ばかりここでお燗を致して差上げましょう、お一人では御不自由でございましょうから」\n「それには及ばぬ」\n「どうぞ、殿様、せっかく、隠居様のお心持でございますから、そうあそばして一口お召上りなさいませ」\n お吉は甲斐甲斐しく、この酒を受取ってお燗の仕度にかかろうとします。\n 主膳は、さきほどがんりきに焚きつけられて、もだもだといやな気がさしたのが、お吉のこの愛想で、また前のようにいい気持になりかけました。\n 又六の女房お吉は、さして好い女というではないが、愛嬌があって、親切者で、日頃よく主膳の面倒を見てくれるから、主膳も好意をもっていたところへ、こうして下へも置かぬようにされると、つい、「それでは」という気になりました。\n「まあ、こんなむさくるしいところへ、どうぞ殿様、これへお上りくださいませ」\n お吉は蓙などを持って来て、すすめるものだから、主膳もついそこへ上り込んでしまいました。\n「隠居のところで、御馳走になって、久しぶりで酩酊の有様、少し休ませてもらおうかな」\n「ええ、どうぞ、何もございませんが」\n お吉はいそいそとして、酒の燗、有合わせの肴を集めてもてなそうとする親切気、まだ醒めやらぬ酔眼で、その親切気を見ていると主膳は嬉しくなり、そのもてなしを受けてみたい気になってゆきます。\n お吉の方では、こうして旧主に当る人をもてなすのを光栄とし、取急いで膳立てをして、\n「さあ、失礼でございますが」\n 温かい酒の一献を主膳にすすめました。\n 今日に限って、すべての環境が、主膳を温かい方へ、温かい方へ、とそそって行くようです。お吉のもてなしを受けてその温かい酒の盃が唇に触れた時の心持は、隠居の時の苦々しいのとは違います。\n みこしを据えて飲む気になってみると、酒の味が一層うまい。そろそろと酔いが廻ってゆくと、半ば忠義気取りでもてなすお吉の親切が、あだ者に見える。\n そこで、さいぜんのがんりきのいい廻しを思い返してみると、たまらない気になる。先代の愛妾お絹と福村とは夫婦気取りで暮しているそうな。女も女なら、福村の奴も福村の奴だ。おれがこうして殊勝に引込んでいる気も知らないで、人もあろうに度し難い畜生共だ。江戸へ押しかけて、福村の奴を取って押えて泥を吐かしてやろうか。\n しかし、仕方があるまい。どのみち、おれも今までの仕来りを考えてみれば、そう立派なこともいえないのだ。だが、いまいましい奴等だ。お絹の身持は言語道断、福村の奴もこれまで、どのくらい眼をかけてやったか知れないのに、ふざけた真似をする、外に女がないではあるまいに――年をとるほど油が乗るという淫婦の肉体ほど厄介なものはない。殺してしまわなければその油が抜けない。いまいましい話だ。それを思うと甘かった盃が急に苦くなります。\n「殿様には、よくまあ御不自由の中に御辛抱をなさいます。世が世ならば、私共なんぞは、お傍へも寄ることはできませんのに、こんなところへお越し下さいまして、ほんとうに勿体ないことでございます」\n「いや、お吉、お前には何から何まで世話になるばかりで本当に済まぬ、主膳もこのまま朽ち果てるとも限るまいから、何かまた世に出づる時があらば、この恩報じは致すつもりだからな、又六にも悪くなくいっておいてくれよ」\n「殿様、恐れ多いことでございます。宿も、殿様がお気の毒だ、お前はよくして上げなければならないと、いつでも申しておりますでございます」\n「又六もなかなか心がけのよい者だ、主膳が世に出れば、このままでは置かないつもりだ」\n 神尾主膳は、どうしたものか今夜に限って、しきりに世に出れば、世に出れば、が口の端に出る。このごろはともかくも今の境遇に安んじて、それを楽しむ心さえ起りかけていたのに、今夜は急に、これを不足とするらしい。\n「どう致しまして、殿様、私共はいつまでも殿様がこうしてこちらにおいであそばす方が、忠義ができて有難いと申しておりますのでございます。殿様が、以前の御身分にお戻りなされば、とてもお傍へも寄ることはできません、殿様のおためには、御出世がようございますか存じませんが、私たちのためには、こうしてお身軽くしておいでなさるのが何より有難いのでございます」\n「いや、お吉、お前方の親切はほんとうに嬉しいぞ。それが本当だ、今まで拙者が交際していたやつらは、羽振りのよい時だけに限ったものだが、お前たちにはそれがないのが嬉しい、嬉しい。お吉、ほんの志じゃ、これをお前に取らせるぞ」\nといって神尾主膳は差していた脇差を抜き取って、お吉の前に置きましたから、お吉がびっくりして、\n「まあ、こんな結構なお差料を、わたくしに......」\n「取って置きやれ。ああ、いい心持になった。もう夜もかなり遅いことだろう、又六は今夜は帰るまいかな。あまり夜ふかしをしてもならん、ドレ、拙者もお暇と致そうか」\n こういって主膳は立ち上ると、腰がよろよろとしました。\n「お危のうございます」\n「帰る、帰る、どうしても帰る」\n 主膳は外を見ると、月がもう落ちてしまって闇です。お吉は提灯をつけて主膳を送りに出ました。\n 千鳥足で外へ出た神尾主膳を、提灯をつけて送り出したお吉。山門を入ると両側は巨大なる杉の木。宏大なる本堂の建物を左にして、書院の方へ進んで行くと、神尾はむらむらと何かに刺戟されました。\n この男には、烈しい酒乱の癖がある。ひとたびそれが兆した時は、われと人とをかえりみるの余地のないことをお吉は知りません。そうして油坂の石段の下まで来ると、そこから急に右へまわり出しましたから、お吉が、\n「殿様、どちらへおいでになりますか」\n「お前の知ったことではない」\n ずんずん横へ外れて行く神尾主膳。お吉は見ていられないから、追っかけるようにして、"
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"role": "assistant",
"content": "「お危のうございます」\n「お前の知ったことではない」\n どこへ行くかと思うと、神尾は勝手を知った庭を通って、大中寺名代の七不思議の一つ、「開かずの雪隠」の前へいって、その戸の桟へ手をかけて、それを引開けようとする様子ですから、お吉が、あなやと驚きました。\n「殿様、何をなさいます」\n「お前の知ったことではない」\n「殿様、それをおあけになってはいけませんでございます」\n お吉は神尾主膳の前に立ち塞がって、その手を抑えようとしました。\n ここにいう大中寺七不思議の一つ「開かずの雪隠」というのは、昔、佐竹の太郎が皆川山城守に攻められて、この寺へ逃げ込んで住職に救いを求めたが、住職が不在で留守の者が、これを聞き入れなかった。佐竹はその無情を憤って、乗って来た馬の首を寺の井戸の中に斬り落し、自分は大平山の上にのぼって自殺して果てた。その後、佐竹の奥方が夫君はこの寺に隠れているものと信じて、密かにたずねて来て見ると、右の始末で敢なき最期を遂げてしまったということが明瞭になると、そのままこの雪隠の中へ入って自害を遂げてしまった。その後、どうもこの雪隠に怨霊が残ってならぬ。何かと祟りがあって不祥のあまり、錠を卸して人の出入りを禁ずること数百年。よって「開かずの雪隠」の名で今も大中寺七不思議の一つに残っている。それ以来、何人もその禁を犯したものがない――それを今、神尾主膳が、故意か間違いか、手をかけて引開けようとしている有様だから、お吉の驚いたのも無理がありません。\n「殿様、御存じでもございましょうが、これは開かずの雪隠と申しまして、これへお入りになると祟りがございますから、幾百年の間も、こうして錠を卸しておくのでございます、あちらへ御案内致しますから」\n お吉が立ち塞がって、主膳の手をとって外に案内をしようとすると、それをふりきった主膳が、\n「知っている、知っている、祟りを怖れる人には開かずの雪隠、祟りを怖れぬ人にはあけっぱなし......」\n 知って無理を通そうとするから、お吉はこれこそ酒のせいと初めて気がつきました。\n「殿様、そういうことをあそばすものではございませぬ、佐竹様の奥方がお恨みになりますよ」\n「うむ、佐竹の奥方が恨む、その奥方の怨霊とやらが残っているなら、こんなところに閉じ籠めておいてはなお悪い、明け開いて綺麗に済度してやるがよろしい。お吉、邪魔をするな」\n 神尾は、力を極めてお吉を押しのけようとする。お吉は一生懸命でその禁制を護ろうとする。そこで、ほとんど二人が組打ちの有様です。こうなるとまさしく神尾の怖るべき酒乱が兆して来たもので、その兇暴な力が溢れ出すと、お吉も禁制を破らせては済まないという奉公心も手伝って、なお一生懸命に支えると、提灯はハネ飛ばされて闇となり、闇のうちに組んずほぐれつの体。\n「誰か来て下さい」\n お吉が叫びを立てたその口を、神尾はしっかりと押えてしまいました。\n\n 二十七\n\n 神尾主膳はその翌日、頭痛で頭が上りませんでした。終日小坊主の介抱を受けていたが、こういう時に、早速見舞に出てくるはずの門番の又六の女房のお吉が出て来ません。\n 酔いはもうさめてしまっているが、従来、酔いに次ぐに酔いを以てして、酔いからさめた時の悔恨を医する例になっていたのが、この時にかぎってそれをする術がないものですから、したがって、今までに味わわなかった悔恨の苦痛が、酔いのさめると共に、めぐり来るのを如何ともすることができないらしい。\n 夕方になると、お吉が見舞に来ないで、又六がやって来ました。\n「殿様、お加減がお悪いそうですが、どんなでございます」\n「ああ、又六か」\n「嚊あの奴も、頭が痛いなんぞといって、今朝から寝込んでしまいました」\n「お吉も頭が痛い?」\n「どうもお天気具合が悪いせいでございましょうよ」\n 主膳はこの時気の毒だという感じがしました。せっかく、十分の好意を以てもてなしてくれたお吉の好意を蹂躙して、枕の上らないようにしてしまった昨夜の罪。それをお天気具合に帰している又六の無邪気。それを思うと主膳は、かわいそうだとも済まないとも、慚じ入るような気分になったのは、主膳としては珍しいことですが、これはむしろ主膳そのものの本性で、いつもそういう悔恨の時に、良心を酔わせる材料がないせいかも知れません。\n「お吉も病み出したか、それはかわいそうだなあ」\n「なあーに、たいしたことはございませんよ、根ががんじょうな奴ですから」\n 又六は、昨夜、主膳が酒を飲んだことを知らないらしい。お吉が、それを又六には話していないらしい。してみれば無論、開かずの雪隠以後の、乱暴を働いたことも、いっさい告げ口がましいことをしないから、又六は仕事から帰って早々、ただ病気だと信じて、主膳を見舞に来たのみであることは紛うべくもない。\n「時候のせいかも知れない、大事にしてやってくれ」\n「有難うございます......それからあの、殿様、ただいま、お客様が、わたしン処まで、おいでなすったでございます」\n「ナニ、客が?」\n「エエ、殿様にお目にかかりたいんだが、こちらへ伺っては少々都合が悪いから、わたしン処でお目にかかりたいって、殿様に申し上げてくれと頼まれて参りました」\n「うむ、それは誰だ」\n「見慣れない旅のお方でございます、あの、お名前は百蔵さんとかおっしゃいました」\n「うむ、がんりきか」\n 主膳は寝ながら、向き直って天井をながめ、ホッと息をつきました。\n 憎い奴、がんりきの百蔵。あのロクでなしが来なければ、こんなことはなかったのだ。ただ隠居のところから微酔い機嫌で出て来た分には、こんなにまではならなかったのだ。あいつが途中でいやに気を持たせてそそのかしたために、お吉のところで毒気が廻ってしまったのだ。それに心を乱されたのはこっちの落度といわばいえ、あのロクでなしが、わざわざこのところを突留めて出向いて来たのは、そもそもこの神尾を、何かのダシに遣おうとの魂胆でなければ何だ。癪にさわる小悪党め、憎むには足らない奴だが、見たくもない。主膳はこう思って、がんりきの百蔵という奴が癪にさわってたまらないから、\n「会えない、当分会えないから帰れといってくれ」\n 主膳は、又六に向って、素気なくいいました。又六は、とりつく島がないから、\n「はい」\nといって、腰を浮かすだけです。\n 又六が帰ると、行燈を点して来た小坊主の面を、主膳はすごい眼をして睨みつけたから、小坊主が怯えました。\n「あのな、お前、用が済んだら門番のところまで頼まれてくれ。お吉が病気になったそうだが、加減はどうか、悪くなければ、お吉にちょっと来てくれるようにいってくれ」\n「畏まりました」\n 小坊主はおびえながら、承知して行ってしまいます。\n しかし、暫く待ってもお吉はやって参りません。主膳はその時焦れてもみましたが、またかわいそうだとも思いました。しかしまた、来なければ来ないように言いわけがありそうなものを、小坊主はその返事をすら齎さない。忘れたのか、ズルけたのか。\n その時分、庭で、けたたましい人の声。\n「え、油坂で転んだ? それは誰だエ。気をつけなくちゃいけねえ。エ、誰が転んだのだエ?」\n「又六さんが転んだんですよ」\n「エ、又六がかい。何たらそそっかしいことだ、慣れているくせに」\n 噪ぎ立てた問題は、単に、又六が油坂で転んだというだけのこと。\n 主膳は、そこでまたカッとしました。油坂は転んではならないところ。そこは、やはり大中寺七不思議の一つ。\n 本堂から学寮への通路に当る油坂。昔は、そこを廊下で通っていた。いつの頃か、学寮に篤学な雛僧があって、好学の念やみ難く、夜な夜な同僚のねしずまるを待って、ひそかに本尊の油を盗んで来て、それをわが机の上に点して書を学んだ。本尊の油の減りかげんが著しいので、早くも番僧の問題となった。これは必定、狐狸のいたずらに紛れもない、以後の見せしめに懲らしてくれんずと、ある夜更けて、二三の番僧が、棒を構えてこの廊下に待受けていた。今宵も例によって人定まるを待ち、本尊の油を盗んで、この廊下を戻る篤学の雛僧。それとは知らぬ番僧どもは、有無もいわさず、叩き伏せ叩きのめしてしまうと、脆くも敢なき最期を遂げた。年経る狐狸の類にやあらん、正体見届けんと燈をさしつけて見ればこれは意外、日頃、同学の間に誉れ高き篤学の雛僧であったので、下手人らは青くなって怖れ、かつ哀しんだけれども、もう如何ともする由がない。その後、この廊下には雛僧のこぼした油の痕が、拭うても拭うても生々しく、その油に辷って倒れたほどの人が、やがて死ぬ。幾多の人命がそうして、油のために奪われたので、寺では怖れて、廊下をこぼって石段に換えてしまった。その石段を油坂というのであって、ここに住むほどの人で、その因縁を知らぬというはないはず。おぞましくも今、門番の又六がその因縁つきの油坂で転んだという。時も時で、主膳はいやな気持がして、またいらいらとしてきました。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n 史的唯物論によれば、道徳の本質はその社会的性質に存する。理論的社会科学では人間は、個々の個人として理解されるのではなくて、社会に於て社会的生活をなす個人をしか意味してならぬのは云うまでもない。個人とは社会的個人だ。ブルジョア倫理学の多くのものは処が、この個人を社会から切り離して了って単なる個人と見做し得るという想定に立っている。従ってそれに基く倫理学的な道徳とは、その材料となる内容は何であるにせよ、その様式から云えば、全く個人自身の内にしか根拠を有たないもののことだ。人格の自律とか自由とか責任とか良心とかいうものは、個人に於ける道徳のこの倫理学的根拠を云い表わすために選び出された言葉に他ならない。その意味で、多くの倫理学は、道徳を個人道徳と考えている。道徳の本質はその個人的性質にあると考える。ブルジョア社会は個人のアトミスティックであったから、最高の哲学的原則は何によらず個人の内に求められる他はない、そうしなければ全く外面的な機械的な尤もらしからぬ説明になるからだ。道徳も亦そこでは、専ら内面的なものとなる。処で社会科学的道徳観念によると、道徳は社会的本質のものだというのである。尤も之は道徳の歴史的発達の事情を少し考えて見ればすぐ判ることだし、又原始社会で現に行なわれている事実を見ればすぐ気のつくことだ。処が倫理学は、倫理的な価値の問題がこうした事実の問題とは関りなく成り立たねばならぬという風に考える処から、この事実に対して充分に倫理学的な尊敬を払おうとしない。事実の理論的分析を因果的に果そうとする史的唯物論が、この事実を正当に尊重し得る最初のものであると共に、この事実が持つ処の倫理的意義自身を初めて見出し得るものも亦、史的唯物論でなければならぬ。\n かくて道徳とは、要するに社会に於ける制度と夫が社会人の意識に課する処の社会規範とになる。尤もこの際、社会科学的な道徳観念はなお通俗常識を仮定しているので、制度という習俗的「実体」自身を道徳に数えることを、多少躊躇するだろう。道徳なる領域・イデオロギーは、単に習俗という客観的に横たわる制度のことではない、それならば一つの社会機構であってまだその上層建築としてのイデオロギーではないかも知れぬ。この習俗が社会人の意識に対してゾルレンの意味を有つ時初めて、そこに道徳というイデオロギーの一領域がなり立つのだ、と考える。で道徳とは、つまり社会規範だ、ということに大体落ちつくのである(なお、倫理的「実体」を発見したヘーゲルがカント倫理学によるゾルレンを最も軽蔑したのは、今の場合興味のないことではない)。\n この社会規範なるものが俗に「道徳」と呼ばれる処の、或いは神来の或いは先天的の、或いは永遠な理性に基く神聖な、価値物の実質だと考えられる。云うまでもなく社会規範とは社会生活が円滑に進行出来るための行為の標尺になるもののことだが、処が社会生活そのものの本質はその物質的根柢から理解される他はない。処が社会機構の本質、終局的な要因は、社会の生産機構(物質的生産力と生産関係)である。従ってこの社会規範は社会の生産機構乃至生産関係からの、云わば物質的な歴史的所産に他ならない。一切の生産様式は、社会規範となることによって初めて、人間の社会生活を、人間の社会に於ける生産生活を観念的に統制し得る。社会規範は社会の生産様式の反映だ。――例えば殺人行為について考えて見てもよい。古代奴隷制以前の社会では、捕虜は皆殺されることになっていたらしい。処が奴隷労働力が社会の生産力として充用されるような生産様式即ち(奴隷制)になると、捕虜を奴隷にする代りに殺して了うことは、禁じられる。殉死は往々最高の道義的殉情の発露だと説明されるが、之は家臣という奴隷が一つの私有財産であったという所有関係(生産関係の直接の表現)を示すに他ならぬ。姨捨山は不生産的な労働力を維持するだけの労働営養(食物)の過剰のない生産組織の或る時期に起きる。それから、帝国主義戦争に於ける敵の殺戮は倫理的命法にぞくするだろう、等々。\n 道徳は併し権威を有っていると云うだろう。処がその権威は実は単に権力が神秘化されたものに過ぎぬ。道徳の権威とは、権力としての社会規範に過ぎぬ。而もその権力自身が生産関係から生じることは又、見易い道理だ。家父長の権力は彼が家族を扶養し得るという経済的実力から来る。この一人前の男は社会の生産機構に与っているが故に(実際には社会の生産的な要素でなくて社会の穀つぶしであっても)、一人前の男として妻子を所有し養っている。之に反して妻や子供達は単に社会的生産に於て穀つぶしであるだけではなく、元来社会の生産機構そのものに殆んど全く与っていない。彼等は経済的に夫に依存する処の、社会的に見た限り単なる消費者なのだ。たとい家内労働に於て何か生産的であっても、そういう内助は社会的には不生産的なものとしか見做されない。で、こうした夫の一般的な(例外はいくつあってもよい)経済的優越が、今日の家父長の権力を成り立たせ又保持していることを、知らぬ者はあるまい(夫は所天と書くが天は古代支那で扶養者を意味する)。この権力を承認することがこの社会の経済的秩序を維持するために必要で、そこに生じるものが一連の家族主義的道徳観念や道徳律なのだ(F・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』はこの場合依然として古典的意義を持っている。――家族感情の科学的説明としては、R・ブリフォールト「家族感情」――青山訳『国家及家族感情の起原』の内――や、コロンタイ前出書などが参考となる)。\n 社会秩序・身分関係は、つまる処権力関係として現われるが、そこに一定の尊敬の体系が、そういう礼俗が、発生する。人格に就いての現実的な観念も(人格はカントも云う通り尊敬の対象目的物だが)ここに初めて成立するのである。処がこの夫々の時代に一般普通の世間に通用する筈の礼儀風俗が、実は社会の生産関係や之に依存する家庭経済の直接の反映であることは、特別な場合に、例えば家庭経済上の破綻などに際して、著しく身に応えて判るのであって、つまり妻を養うことの出来ない夫が威張るというようなことほど、立派に道徳的で而も滑稽に見えることはない、というようなわけである。わが国の封建的武士階級支配の権力を反映する社会規範が、忠義であり武士道であり、又孝行であったことも有名である(赤穂義士の歌舞伎的道徳へのアッピールはこれを特徴的に物語っている。而もこの快挙の最後の原因はこの浪士達を産み出した「お家断絶」の件であるが、倫理的理由に基くこのお家断絶が亦、幕府の領有拡大を目的としたものだった)。其の他其の他。\n かくて社会的権威を有っている一切の道徳、道徳律、徳目・善悪の標準が、社会的権力を、社会的身分関係を、社会的秩序を、つまり結局に於て社会的生産関係を、反映している処の、社会規範の他ではなかったと云わねばならぬ。つまり一定の支配的な社会生産関係の維持乃至発展にとって有益なものが道徳的であり、それにとって有害なものが不道徳的なものだというわけだ。通俗常識が道徳について何より先に考えつく処の、例の善悪の対立は全く之に他ならない。単に銘々の個人々々にとって有益な好ましいものが道徳的で善だというのでもなく、又ベンサム風の単なる数量上の最大多数者の最大幸福が道徳的善だというのでもない。問題は個人々々にあるのではなくて社会にあるのであり、そしてその社会の意義もその単なる人頭関係ではなくてその生産関係という質の内にあるのである。社会規範が道徳だということは、そういう意味に於てなのである。\n だがこういうと、倫理学的常識は必ず反発と不満とを禁じ得ないだろう。それでは道徳に特有な道徳的感情・道徳的情緒――道徳的な満足感乃至後悔・義務感・正義感・良心・等々――が見逃されて了うではないか、而もそこにこそ道徳の道徳たる所以があった筈ではないか、と云うに違いない。だが、史的唯物論に従って道徳をイデオロギーとして見る吾々は、何もこの道徳感という一つの明瞭な事実を見ないのでも忘れているのでもない。之こそ実は初めからの問題に他ならぬ。ただ吾々の問題は、この道徳感情をその社会的成立過程から科学的に説明することにあったのである。然るに倫理学者は逆に道徳感情を以て社会的道徳現象や一般社会現象を解釈しようとする。ただ夫だけの差なのだ。だがその差の意義は絶大である。\n 道徳を社会規範として社会的に説明することは、道徳を単なる社会関係そのものに還元して了うことではない。もし之を単なる社会関係に還元して了ってよいなら、初めからイデオロギーなどというもので道徳を云い表わす必要はなかった筈だ。イデオロギーは下部構造としての単なる社会関係に還元出来ない上部構造であったればこそ、特にイデオロギーだったわけだ。"
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"role": "assistant",
"content": " だから道徳には道徳に固有なものが存するのである。之がなければ道徳は道徳にならぬ。そしてその固有なものと云うのが社会規範ということだ。道徳に固有なものと云っても、夫が何か道徳という一定の封鎖された埒内だけで独自に孤立的に片づくものだと考えるならば、そういう封鎖国家のような倫理的アウタルキーが、例の倫理学でいう「道徳」の世界だったのだ。そんなものは道徳の固有性を倫理学的に誇張した偏見に過ぎない。決して固有なものがないというのではない、その固有なものをこういう風に理解することが根本的に誤っているというのである。――道徳には善悪の価値対立というような固有なものがある。それは一つの事実だ。少なくとも人々が自分も他人もそういう価値感を以て行動しているという一つの心理的事実だ。意志の自由が一つの心理的事実であると同じに事実だ。だから夫は否定出来ないと同時に、証明を要するものでもなければ証明が出来るものでもない。自由意志や価値感情という事実を証明しようとした如何なる観念論者も理想主義者も私は知らない。と同時に彼等はこうしたものを説明しようともしないのが特色である。彼等は単にこれを事実として認めることを人に求める。而もそうすることを何かその証明か説明かと思い違いをしているので、唯物論者に向かっても、出来るものならこの事実を証明して見たらどうか、と試みて来る。だが史的唯物論者は事実の証明などを必要とはしない、事実は認定されさえすればよい、必要なのはこの事実の成立の「説明」なのだ。\n 未だかつて、道徳という一つの事実を説明し得た観念論的倫理学を私は知らない。史的唯物論のイデオロギー論による道徳理論が、初めて道徳の事実を正当に説明しようと企て、又事実之を説明しつつあるのである。史的唯物論は価値の発生を事実から説明するのである、之に反して観念論や倫理学は、価値によって事実を説明するか、それとも単に価値と事実とを区別して見るだけだ。――で道徳は、社会規範として説明される。\n 倫理学は倫理的価値という一つの感情上の事実を単に主張するだけだ、社会科学的道徳理論は、倫理的価値感を現実的に陶冶する。倫理学は単に意志の自由の否定に抗議を申し出るだけだ、社会科学は自由一般の獲得とその現実的な形態の規定とを志す。倫理学は理想を単に想定として愛好する、社会科学的道徳理論は、一定の理想を現実的に割り出し之を現実的に追求することを志す。――この相違は凡て、道徳を社会規範として説明しないかするか、の相違から来るものに他ならないだろう。\n\n 道徳が一つのイデオロギーとして社会規範として説明される時、当然なことながら、道徳の発生・変遷・消滅等々の歴史的変化が結論される。一定の社会規範の物質的原因であった社会に於ける生産関係は、その内に含まれている矛盾の関係に推されて、変化せざるを得ない。従ってその結果、道徳も亦必然的に変化せざるを得ないのである。ただ、原因の変化に較べて結果の変化の方は、大体時間的に後れるもので、道徳と現実とはその意味でいつも或る種の矛盾撞着を免れない。そういう意味で又、道徳はそれ独自の運動法則を有っているかのような現象を呈するのである(イデオロギーは凡てそうだ)。道徳の世界の絶対的な自律独立を認めようとするのも、この関係を誇張する結果からだ。\n だから道徳(道徳律・善悪・其の他等々)は決して絶対真理ではない。それが事実上道徳的価値を云い表わす言葉である以上、道徳とは一種の真理のことだろう。だが一般に真理には決して絶対的なものはない、真理は客観的なものだ、主観的な真理などはない、客観性を有つが故に真理なのだ。だが絶対的な真理はないのだ。もし絶対的真理があると云うなら、そういう神聖な真理は必ず何かの必要に答えている虚偽のことだろう。法皇やツァールの真理はそういう神聖な「絶対」真理であり、即ち虚偽を蔽い匿すために神聖というベールをかけた、まやかし物に他ならない。――之は史的唯物論と唯物論的認識論との公式だが、道徳に就いても亦全くその通りなのである。\n だが道徳が、その実質であるイデオロギー・社会規範、としてではなく、絶対的真理として持ち出されるのを常とすることには、一つの事情があるのである。社会の支配者がその社会の規範をあくまでも保持しようとする処に、道徳という言葉の御利益が必要なのである。つまり道徳が現実にそうした階級規範(もはや単なる社会規範ではない)として機能していればいる程、益々社会規範は単に社会規範としてではなくて正に道徳として神聖化され絶対化される必要があるわけで、ただの社会規範ならば、道徳がそういう社会規範だという説明を、そんなに恐れる必要はなかっただろう。\n それでこういう結論になる。社会が階級社会である限り、道徳とは階級規範に他ならない。之が階級道徳乃至道徳の階級性ということである。そして社会の階級的変動(社会の凡ての根本的変動は階級的変動に原因する)は、この階級規範たる道徳の変革を必然的に結果する、という結論だ。――ここでは階級的に有益なものが道徳的で、階級的に有害なものが不道徳的だ。処が階級はいつも階級対立に於てしかあり得ないのだから、道徳は今や二つの体系に分裂する。ここにブルジョア道徳(そこからブルジョア通俗常識的道徳観念やブルジョア倫理学的道徳観念も生じたのである)と所謂プロレタリア道徳との対立が起こる。道徳の闘争がそこに横たわる。旧道徳は歴史的必然の理法によって、新道徳に道を譲らざるを得なくなる。勝利する道徳が新道徳となる。そしてこの推移の過程の内に、多くの道徳的混乱やアナーキーが、道徳的犠牲の様々が、織り出されるのである。――こういう根本的な而も眼前の事実を認めまいとするために、恰も倫理学というブルジョア理論が、今日存在理由を有っているのである。\n この道徳の歴史的推移、旧道徳の殆んど完全なる根絶、全く新しい、否同じく道徳という言葉を以て云い表わしていいかどうか判らない程に新しい道徳の漸次的形成と定着、こうしたものの生きた実例を吾々の眼の前に見せているものが、ソヴェート・ロシアの最近の事情だろうと思う。今までブルジョア諸国に於て道徳自体の問題としては解くことが絶対に絶望だと思われたような問題が、社会科学的に次第に根本的に解かれつつあるのである。特に宿命的に考えられる道徳問題は性道徳の夫だろうが、ソヴェートの道徳的実験はここでも見事に成功した。ここではただ、旧い「道徳」なるものを忘れさえすれば、真に道徳的になれるというような具合である(コロンタイ『新婦人論』やS・ヴォリフソン『結婚及び家族の社会学――マルクス主義的現象学入門』などが、この点の参照となる)。"
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"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 雑談に余念のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。\n しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑そうに居眠りをつづけ出した。\n\n2\n 何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。\n そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。\n 尾張家の重臣諌早勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。\n 秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。\n 最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。\n そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。\n 夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。\n と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白な顔をして帰って来た。\n「どうしたどうした」\n「顔色が悪いぞ」\n「今までどこへ行っていたのだ」\n と若侍たちは口々に訊いた。\n「面目次第もないことを仕出来しまして」\n 右内は震える口で云った。\n「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶りまする」\n「なに乞食に金田一氏が......」\n 若侍たちは森然としてしまった。\n それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。\n「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが......」と古巣右内は面目なさそうに云った。\n 一同は何とも云わなかった。\n 同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。\n で黙っているのであった。\n この時要介はヒョイと立った。\n そうして部屋を出て行った。\n\n 満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。\n まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。\n\n疑い合う兄妹\n\n1\n この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。\n 主水とそうして澄江とであった。\n 馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。\n それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。\n その中に澄江もいたのであった。\n そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。\n その時の二人の喜びは!\n 互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿へ来た。\n そこで陣十郎の消息を尋ねた。\n 名古屋の城下へ行ったらしかった。\n で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠に逗留して、陣十郎の行方を尋ねた。\n が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。\n それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。\n 静養しなければならなかった。\n それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。\n 鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。\n「お兄様ご気分はいかがですか?」\n 心配そうに澄江は訊いた。\n「うむ、どうもよくないよ」\n 主水はこの頃病気なのであった。\n と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった。\n(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)\n このことが気鬱の原因であった。\n 互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。\n 艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。\n が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。\n 二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚であった。\n そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。\n その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!\n 主水は苦悶せざるを得なかった。\n\n2\n 主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。\n(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)\n 苦悶せざるを得ないのであった。\n そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。\n ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。\n「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。\n「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ......将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず......知れず終いになろうもしれませぬ......わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう......アッハッハッよいともよいとも!」\n「............」\n 澄江は返事をもせず首垂れていた。\n(また皮肉を仰有ると見える。......わたしはもう何にも云うまい)\n こう思って黙っているのであった。\n「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。\n「わしには不思議でなりませぬよ......お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」\n「............」\n「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ......それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと......」\n「............」\n「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。\n「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」"
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"role": "assistant",
"content": "「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。\n「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで......恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや......道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます......それにいたしましても貴方様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」\n いきなり刀を取って抜いた。\n\n3\n 主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。\n 澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。\n 抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。\n(地獄の苦しみだ)とそう思った。\n(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)\n またここへ考えが落ちて行った。\n(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)\n(旅用の金も残り少なになった)\n このことも随分辛いのであった。\n 胸は苦しく頭痛さえして来た。\n 不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。\n 一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。\n でも一方右手の方には、逸見三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。\n(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)\n ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。\n\n 秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。\n 尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。\n そして大曾根に辿りついた。\n 飛々に農家があるばかりで、後は一面の耕地であり、ただ一所に宏大極まる名古屋逸見家の大屋敷が、この辺り一体を支配するかのように、月光の中に黒く高く、厳しく立っているばかりであった。\n 土塀を四方に厳重に巡らし、土塀の内側へ植込を茂らせ、夜鳥を宿らせているらしく、時々啼音が落ちて来た。\n その屋敷の横を通り、要介は先へ進んで行った。\n と、遥かの行手にあたって、掘っ建て小屋が点々と、みすぼらしい形に並んでいるのが見えた。\n その方へ要介は進んで行った。\n しかしにわかに足を止め、\n「はてな」と呟いて凝視した。\n 小屋から十数人の人影が、バッタのように飛び出して来て、それが一団にかたまって、こっちへ歩いて来るからであった。\n なんとなく異様に思われたので、積藁の陰へ身をかくし、要介はしばらく待っていた。\n 編笠をかぶり、撞木杖をついた、浪人を先頭に立てながら、乞食の一団が近寄って来た。\n\n撞木杖の武士\n\n1\n 乞食の一団は話し合いながら、逸見屋敷の方へ歩いて行った。\n「試し切りに来たらしい尾張藩の武士を、菰垂の裾からただ一刀に、足をお斬りになった先生の腕前、まったく凄いものでございましたよ」と、一人の乞食が感嘆したように云うと、\n「あれなどは小供だましさ」と撞木杖の武士は事も無げに、\n「足が満足であった頃には、五人であろうと、十人であろうと、撫斬りにしたものだったが」と、感慨深そうにそう云った。\n 要介は黙って積藁の陰で、そういう話を聞いていたが、彼らがその前を行き過ぎると、その後から付いて行った。\n(撞木杖をついている片脚の武士が、尾張家の武士を菰垂の裾から、一刀に斬った奴なのだな)\n こう思ったからである。\n 乞食の一団は逸見屋敷の裏門の前で足を止めた。\n\n 逸見屋敷の巨大な内土蔵の中に、二人の人間が話していた。\n 一人は馬大尽の井上嘉門であり、もう一人は逸見多四郎であった。\n 二人の眼前にあるものといえば、鋲や鉄環で鎧われたところの、巨大ないくつかの唐櫃であり、その中に充ちている物といえば、黄金の延棒や銀の板や、その他貴金属の器具や武具であった。\n 昭和年間の価値に換算したら、何百萬両になろうとも知れなかった。\n「なるほど」と多四郎は溜息をしながら云った。\n「伝説以上の莫大な財産で」\n「さようで」と嘉門は頷いて云った。\n「名古屋逸見家にある分だけが、これだけなのでございます......。この他に知多の逸見家にも、また犬山の逸見家にも、これほどの財宝が蔵してありますので」\n「その三家を支配している者が、貴殿井上嘉門殿なので」\n「はい代々井上嘉門が支配いたして居りました。......で、この秘密を保つために、逸見三家は家憲として、外界との交際を避けて居りました」\n「それは聡明なやり口ではござるが、しかしこれほど莫大な財宝を、死蔵いたすということは......」\n「さようさよう」と嘉門は云った。\n「今後これまでのような保存のやり方では、よろしくないように存ぜられまする......それにこのように貴方様へ財宝の在り場所お知らせした以上、今後ともお力添えをいただいて、この財宝の使用方につき、研究いたしたく存じまする」\n「結構、何なりとお力になりましょう」\n それにしてもどうしてこの二人が、こんな逸見家などにいるのであろう?\n それは例の騒動から嘉門や多四郎たちは木曽福島に遁れ、そこから共に名古屋の地へ来、逸見三家の実際の主人が、井上嘉門その人だったので、まず名古屋逸見家の屋敷へ、一同入ったのにすぎないのであった。\n\n2\n この時主家の方角から、喧騒の声が聞こえてきた。\n 嘉門と多四郎とは眼を見合せたが、内蔵を出ると扉をとじ、主家の方へ走って行った。\n 見れば、一大事が起こっていた。\n 得物を持った多数の乞食が、撞木杖をついた浪人に指揮され、家財を奪おうとしているのを、家の者が防いでいるのであった。\n 編笠を刎ねのけた撞木杖の武士は、ほかならぬ水品陣十郎であった。\n その陣十郎は右の片手で、お妻の襟がみを掴んでいた。\n 井上嘉門の領地内で、一騒動を起こしたが、自分も負傷して不具となった。左の片足を傷つけたのである。\n 福島へ出、名古屋へ出た。\n 生活の道がなかったので、とうとう乞食にまでおちぶれてしまった。\n 乞食仲間を煽動し、今宵逸見家を襲ったのは、金銭を得ようためだったのである。さて逸見家へ乱入して見れば昔の情婦で自分を裏切ったお妻が、意外にも姿を現わした。\n「おのれ!」とばかり引っとらえたのである。\n と、そこへ駈け込んで来たのが、嘉門とそうして多四郎とであった。\n「陣十郎オーッ」\n「あッ、逸見先生!」\n 陣十郎は仰天し、片手でお妻を小脇に抱くと、撞木杖を飛ばして走り出した。\n「待て! 陣十郎オーッ」と追う多四郎を、乞食どもは遮った。\n「邪魔するか汝!」と怒った多四郎が、刀を抜いた瞬間に、乞食を背後から斬り仆す者があった。\n それは秋山要介であった。\n「や、貴殿は秋山氏!」\n「おおこれは逸見先生で」"
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"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "日本譯の序\n\n この日本譯は、最初、第三章を除いて、週刊『平民新聞』第五十三號(明治三十七年十一月十三日發行)に載せられたところ、忽ち秩序壞亂として起訴され、裁判の結果、關係者はそれぞれ罰金に處せられた。しかしその裁判の判決文には、『古の文書はいかにその記載事項が不穩の文字なりとするも、......單に歴史上の事實とし、または學術研究の資料として新聞雜誌に掲載するは、......社會の秩序を壞亂するといふ能はざるのみならず、むしろ正當なる行爲といふべし』とあつた。そこで私は次にその譯文に多少の修正を加へ、および第三章を譯し添へて、今度は『單に歴史上の事實』として、また『學術研究の資料』として、『社會主義研究』第一號(明治三十九年三月十五日發行)に載せた。(その時には、前の共譯者幸徳はアメリカに行つてゐたので、第三章は私ひとりで譯した。)\n しかるに、その『社會主義研究』も程へて後(大逆事件當時)發賣を禁止され、その後今日に至るまで、『共産黨宣言』日本譯の公刊は不可能の状態になつてゐるが、いかに日本が野蠻國で、いかに保守的反動が強いにしても、もう遠からずして、言論自由の範圍が、せめて明治三十九年當時くらゐに復舊する時節は來るだらうと思はれる。その時には、私はぜひともこの『學術研究の資料』を出來るだけ早く世に出したいと思つてゐる。ところが、近ごろその古い譯文を讀み返してみると、第一、文體の古くさいことが厭で堪らない。それにあの時は、單にイギリス譯から重譯したのでもあり、また譯し方の拙いところや、不正確なところや、間違つたところも大ぶんある。そこで私は今度、その古い譯文をドイツ語の原文と引合せ、また部分的には河上肇氏および櫛田民藏氏の譯文をも參照し、出來るだけ精密に訂正を加へて、口語體に書き直すことにした。幸徳が生きてゐたら何といふか知らんが、私はやはりこの新譯に彼と二人の名を署しておく。\n ドイツ語の新版には、一八七二年のマルクス、エンゲルスの序文のほか、一八八三年のと一八九〇年のと、エンゲルスの序文が二つ載つてゐる。しかしその内容は次に記したイギリス譯の序に盡されてゐる。\n大正十年五月\n堺利彦\n\n\n\n(日本では、その後、この私の譯文が何人かの手により、祕密出版として數回發行された。また昨年、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する四百ページの大册が發行され、禁止にはなつたが、それ以前、少からぬ部數が頒布された。この大册には『宣言』の本文のほか、リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、二百ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』――實は『宣言』の草案――等が附録されてゐる。一九三〇年七月追記。堺)\n\n\n\n\nイギリス譯の序\n\n この『宣言』は、『共産主義同盟』の綱領として發表されたものである。『同盟』は勞働者の團體で、初めはドイツ人に限られ、後、國際的となり、一八四八年以前のヨーロッパ大陸の政治状態の下において、やむなく祕密結社であつた。一八四七年十一月、ロンドンに開かれた『同盟』の大會において、理論上および實踐上の、完備した綱領を發表するため、マルクスとエンゲルスとが起草委員に選ばれた。一八四八年一月、その草稿はまづドイツ文で起草され、二月二十四日のフランス革命の數週前、ロンドンの活版所に送られた。そして一八四八年六月の一揆のすぐ前に、そのフランス譯がパリにあらはれ、一八五〇年、ヘレン・マクファーレン孃の手になつた第一英譯が、ロンドンの雜誌『レッド・レパブリカン』に現はれた。オランダ譯とポーランド譯もまた次いで刊行された。\n プロレタリヤとブルジョアとの最初の大合戰たる、一八四八年六月のパリ一揆が敗北した時、ヨーロッパ勞働階級の社會的および政治的活動は、また暫く後方に押しこまれてしまつた。その後、權勢の爭奪は、二月革命以前とおなじく、また有産階級の諸黨派の間にのみ行はれ、勞働階級は僅かに政治的自由のために戰ふこととなり、中流階級急進派の左翼たる地位に引下げられた。そして獨立のプロレタリヤ運動がなほ多少の生氣を示してゐるところでは、容赦もなく叩き伏せられてしまつた。かくてプロシャの警察は、當時ケルンにおかれてあつた『共産主義同盟』の本部を搜し出した。それで、本部員はみな捕縛され、十八箇月の監禁の後、一八五二年十月、初めて公判に付された。この有名な『ケルン共産黨裁判』は十月四日から十一月十二日まで繼續し、被告のうち、七名は三年から六年まで、それぞれの刑期をもつてある要塞に禁錮する旨を宣告された。この宣告の後まもなく、『同盟』は殘餘の黨員によつて形式的に解散された。從つて『宣言』もそれきり埋沒されたもののごとくであつた。\n ヨーロッパの勞働階級が、更にその權力階級に向つて一撃を加ふべき十分の鋭氣を回復した時、かの『國際勞働者同盟』が勃興した。けれどもこの『同盟』は、もつぱら歐米全體の戰鬪的プロレタリヤを打つて一丸とする目的であつたので、『共産黨宣言』に掲げられた趣旨をとつて、直ちにそれを標榜するわけには行かなかつた。すなはちこの同盟は、イギリスの勞働組合、フランス、ベルギー、イタリー、スペインにおけるプルードン派、およびドイツにおけるラサール派(1)に容認さるべき、漠然たる綱領をもつものでなければならなかつた。マルクスはその綱領を起草して右の諸黨派に滿足を與へたが、彼としては全く、この協同の運動と、相互の討究とから必ず生ずべきはずであるところの、勞働階級の智力的發展に信頼してゐたのであつた。資本に對する戰鬪の事實、およびその戰況の變遷は、殊に敗戰の場合においては勝利の場合よりも甚だしく、種々なる家傳祕法の不十分が感知され、從つてまた、勞働階級解放の眞正の條件について、一そう深奧なる見解に到達させないではおかないはずである。マルクスの見るところはまさに當つてゐた。一八七四年、『インタナショナル』が解散した時、それを創立當時の一八六四年に比べると、勞働者はまるで別人のやうになつてゐた。フランスのプルードン派、ドイツのラサール派はみな既に死滅に瀕し、保守的なイギリスの勞働組合も(その大部分は疾くにインタナショナルと分離してはゐたが)、なほよく漸次にその歩みを進め、去年スワンシーでその會長が、組合の名において、『大陸の社會主義ももはや我々に恐怖を感ぜしめぬ』といつたほどになつて來た。すなはち實際上、『宣言』の趣旨は著るしく各國勞働者の間に侵入してゐたのであつた。\n\n\n\n(1)ラサールは個人として我々に對する時には、常にマルクスの弟子たることを承認し、從つてまた、『宣言』の論據の上に立つてゐた。しかし一八六〇年から六四年までの公の運動においては、彼は、國家の保護を受ける組合工場の要求以上に進まなかつた。\n\n\n\n かくて『宣言』そのものも再び表面に現はれた。ドイツの原文は一八五〇年以後、スヰス、イギリス、およびアメリカで幾度も飜刻され、一八七二年にはニューヨークで英文に譯されて、『ウードハル・エンド・クラフリン週報』に掲載され、そのイギリス譯からして同地の佛文雜誌『社會主義者』にフランス譯が現はれた。その後アメリカで發表された英文の抄譯が少くとも二種あつて、しかもその一種はイギリスで再版された。また、第一のロシヤ譯はバクーニンの手になり、一八六三年頃、ジェネバなるヘルチェンの雜誌『コロコロ』の發行所から出版され、第二は女丈夫ウエラ・サスリッチの手になり(2)、一八八二年、同じくジェネバで出版された。また一八八五年、コペンハーゲン發行の『社會民主主義文庫』の中に、一つの新しいデンマーク譯がある。一八八六年、パリの『社會主義者』にまた一つ新しいフランス譯が出た。そのフランス譯からしてスペイン譯がつくられ、一八八六年マドリッドで出版された。ドイツにおける飜刻は數へきれないほどで、少くとも十二種はあつた。アルメニヤ譯は數月前、コンスタンチノープルで出版されるはずであつたが、發行者はマルクスの名を冠した書籍を出すことを恐れ、譯者はまたそれを自分の著述とすることを拒んだので、たうとう世に出ることが出來なかつたといふ。以上のほか、更に他の國語に譯されたものもあると聞いてゐるが、私はまだ見たことがない。かくてこの『宣言』の歴史は、大體において、近世勞働運動の歴史を反映してゐる。そして今日においては、この『宣言』こそ疑ひもなく、あらゆる社會主義の文書中、最も廣く世に行はれた、最も國際的な産物であつて、シベリヤからカリフォルニヤまでの幾百萬の勞働者によつて承認された共通の綱領である。\n\n"
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"role": "assistant",
"content": "\n(2)ウエラ・サスリッチ云々はエンゲルスの間違ひで、實はプレハーノフによつてロシヤ文に飜譯されたのである。\n\n\n\n しかるにこの『宣言』の起草された時、我々はこれを『社會黨宣言』と呼ぶことが出來なかつた。一八四七年の當時では、社會主義者といへば、一方において種々なる空想的諸制度の信者、すなはちイギリスのオーエン派、フランスのフーリエー派などを意味し、その兩派とも既に單なる『おかたまり』の地位に下り、次第に死滅に瀕してゐた。また一方において、社會主義者といふ名は種々雜多なエセ改良家を意味し、その連中はあらゆる切張りの術を説いて、資本と利潤とには何らの危害をも加へないで、よく社會一切の害惡を除去すると稱してゐた。そしてこの兩者とも、勞働階級以外の運動であつて、むしろいはゆる教育ある人士に向つてその支持を求めてゐた。これらの間に立つて、單純な政治革命の無力を悟り、社會の根本的變革の必要を宣言したものが、勞働階級中のどれだけの部分であつたかは分らないが、その部分だけは自ら共産主義者と稱してゐた。それはもとより粗雜な、荒削りの、純然たる本能的共産主義ではあつたが、それでもその主張はよく急所に當つて、勞働階級の間に有力となり、フランスのカベー、ドイツのワイトリングのやうな、空想的共産主義を産出してゐた。そこで一八四七年においては、社會主義は中流階級の運動であり、共産主義は勞働階級の運動であつた。また少くとも大陸においては、社會主義は『品のよいもの』であり、共産主義は全くそれに反してゐた。そして我々の意見は最初から、『勞働階級の解放は、勞働階級自身の行動でなければならぬ』といふのであつたから、この二つの名稱のいづれを選ぶべきかについて、疑ひの起るはずがなかつた。それに我々は、その後といへども、かつてこの名を排斥したことはないのである。\n この『宣言』は二人の合作であるけれども、その核子を形成する根本の提案が、マルクスに屬することを明言する義務があると私は思ふ。すなはちその提案とは、歴史の各時代において、經濟上、生産および交換の慣行方式があり、また必然にそれから生じてくる社會組織があり、その時代の政治および文明の歴史はこの基礎の上に建設され、またこの基礎によつてのみ説明されるといふこと。故に人類の全歴史は(土地を共有してゐた原始的氏族社會が消滅した以後)階級鬪爭の歴史であり、搾取者と被搾取者、壓伏階級と被壓伏階級の對抗の歴史であること。そしてこれらの階級鬪爭の歴史が進化の諸段階を形成し、それが今日ではまた一つの新しい段階に到達し、この段階では、被搾取被壓伏の階級(すなはちプロレタリヤ)が、搾取壓伏の階級(すなはちブルジョア)の權勢から解放されようとするには、それと同時に、今後永久に一切の搾取、壓伏、階級差別、および階級鬪爭から、社會全體を解放するよりほかに道がないといふこと、である。\n 私の見るところでは、この提案は、ちやうどダーヰンの進化説が生物學に與へたと同樣の效果を、史學のうへに與ふべきもので、マルクスと私と二人ともに、一八四五年以前において、漸次それに近づきつつあつたのである。最初、私がひとり、いかなる程度までそれに向つて進んでゐたかは、私の著『一八四四年における英國勞働階級の状態』において、最もよく見ることが出來る。しかるに一八四五年の春、私が再びブリュッセルでマルクスと會つた時、彼は既にそれを完成して、殆んど私が今ここに記してゐるやうな明晰な字句で、それを私に提示したのであつた。\n 私はここに、一八七二年のドイツ版に付した我々の合作の序文の中から、左の一節を引用する。\n『最近二十五年間において、社會の状態は大いに變化してゐるけれども、この「宣言」の中に開陳されてある根本の趣旨は、大體において今もなほ正確である。細目には所々訂正すべき點もあるだらう。またこの趣旨の實際の適用は、「宣言」中にもいつてあるとほり、すべての處、すべての時において、その現存せる歴史的状態によつて決せらるべきものであるから、第二章の終りに提出されてゐる革命的諸政策には、必ずしも重きをおくに足りない。あの一段は、多くの點において、今日ならばずつと違つた文句で書き現はされるであらう。一八四八年以後における近世産業の長足の進歩、およびそれに伴つて進歩し擴大した勞働階級の團結から見る時、また第一にはフランスの二月革命における實際の經驗、第二にはプロレタリヤが初めて二箇月間、政權を握つたパリ・コンミュンの一層よい經驗から見る時、この「宣言」中の綱領は、ある細目において既に廢物に歸してゐる。特にパリ・コンミュンによつて立證された一事がある。すなはち「勞働階級は單に出來合ひの國家機關を握つて、それを自分の目的に使用することは出來ない」(「フランスにおける内亂」を參照。それにはこの點が一そう敷衍されてゐる)といふことである。またこの「宣言」の、社會主義文書に對する批評は、一八四七年以前に限られてゐるのだから、現時に關して多くの缺點があることは自明である。また共産主義者と種々の反對黨との關係についての評語(第四章)は、その趣旨はやはり正確であるけれども、實際の適用上には既に廢物になつてゐる。今では政治界の形勢が全く變化し、歴史の進歩が、あそこに數へあげてある諸政黨の大部分を、地上から一掃してゐるからである。\n しかしこの「宣言」は、今ではもう歴史的文書になつてゐるので、我々はもはやそれに變更を加へる權利がない。』\n このイギリス譯は、マルクスの『資本論』の大部分を譯したサミュエル・ムーア氏の手になり、氏と私と一緒に校訂をなし、私は更に、歴史的用語を説明する二三の註釋をつけ加へた。\n\n一八八八年一月三十日、ロンドンにて\nフリードリヒ・エンゲルス\n\n\n\n共産黨宣言 (堺利彦 幸徳秋水)共譯\n\n\n 一個の怪物がヨーロッパを徘徊してゐる。すなはち共産主義の怪物である。古いヨーロッパのあらゆる權力は、この怪物を退治するために、神聖同盟を結んでゐる。ローマ法皇もツァールも、メッテルニヒもギゾウも、フランスの急進黨もドイツの探偵も。\n\n\n〔譯者註〕メッテルニヒはオーストリーの宰相、ギゾウはフランスの首相。\n\n\n 見よ。在野の政黨で、在朝の政敵から、共産主義的だといつて誹毀されないものがあるか。また見よ、在野の政黨で、他の一そう急進的な反對諸黨派に對して、ならびにその保守的な政敵に對して、共産主義の燒印をつけた詰責を投げ返さないものがあるか。\n この事實から二つのことがわかる。\n 共産主義はあらゆるヨーロッパの權力者から、既に一個の勢力として認識されてゐること。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " さて、ユタの事を了解するに必要なることと思いまして政教一致のことをかなりくわしく申上げましたが、これからいよいよ本論に這入って琉球史上におけるユタの位地を観察してみようと思います。\n 御承知の通りいずれの宗教にも神秘的の分子は含まれているが、沖縄の民族宗教にもまた神秘的の分子(悪くいえば迷信)が含まれているのであります。いったい小氏の神人より大氏の神人に至るまで、古くは神秘的な力を有っていて神託を宣伝するものであると信ぜられていたのでありますが、なかにはそういう力を有っていない名義ばかりの神人もいたのでありますから、これらに代って神託を宣伝する連中が民間に出で、そうしてとうとうこれをもって職業とするようになったのであります。これがすなわちトキまたはユタと称するものであります(そして後には神人にしてこれを職業とするものも出るようになりました)。彼等の職掌は神託(琉球古語ではミスズリまたはミセセルといいます)を宣伝するのでありますが、後には生霊死霊の口寄(死者の魂を招いて己が口に藉りてその意を述べることで、今日の沖縄語ではカカイモンと申します)をも兼ねるようになりました。こういうように神の霊または生霊死霊を身に憑らしめて言出すことをウジャシュンと申します。こういうところから考えてみると、ユタという語とユンタ(しゃべる)という語との間には内容上の関係があるかもしれません。そのほか彼等は時の吉凶を占ったり人の運命を占ったりするようなこともするので一名物知りともいっています。ユタという語はやや日本語のミコまたは女カンナギに当るから巫という漢字を当てはめたらよいかもしれません。このユタという言葉は『オモロ双紙』や『女官御双紙』のような古い本の中にも一向見当らない言葉で、『混効験集』には「時とりや、占方をするもの、巫女の類也、ゑかとりや、返しの詞、いづれもありきゑとの神歌御双紙に見ゆ」とあります。今日の沖縄語でウラナヒのことをトキウラカタまたはトキハンジといいますが、そのトキということは男カンナギすなわち覡のことであります。この言葉は本県の田舎には今なおのこっています。私はかつてウラナヒの上手な老翁をさしてあの人はコマトキであるというのを聞いたことがあります。しかし今日では、首里・那覇ではトキユタ(巫覡)という熟語を聞くのみでトキという言葉はほとんど死語となってしまいました。巫覡を時とりや(時を取る人)または、えかとりや(日を取る人)というところから見るときは日や時の吉凶を占うところから来たようでもあるが、日本語に夢解きという言葉のあるのを見るとまた解くという動詞の名詞形「解き」から出たようでもある。とにかく今日の人がトキという言葉を忘れてしまって覡をイケガユタ(男ユタ)といっているのは、近代になってユタ(巫)が増加するにつれてトキが減少したためでありましょう。文献に現われているだけで判断してみると、昔はユタの勢力よりもトキの勢力が強かったようであります。『オモロ双紙』の八の巻の二にこういうことがある。\n\nおもろねやがりぎや\n時とたるまさしや\nおふれ よそわてちよわれ\nせるむ ねやがりぎや\nきやのうち ぬきまるが\n時とたるまさしや\nぐすく二ぐすく時とたる\nおどん二おどの時とたる\n\n おもろねやがりは尚真王時代の人で日の吉凶を占うに妙を得た人であった。一名きやのうち(御城京のうちのこと)ぬきまるとも言われたこの人は、城二カ所を造る日を占った人だ、御城二カ所を造る時を占った人だというのであります。また同じ八の巻の十三に、\n\nおもろとのばらよ\nすゑのくちまさしや\n\nということがありますが、これは「オモロの詩人よ、汝の予言はよく適中す」の意であります。以上二つの例をもって見ると当時は詩人と予言者とは一致していたようであります。『混効験集』に、「きやのうぬきまる、時取の名人也、もくだよのかね、是も時取の名人也」ということが見えていますが、もくだよのかねは有名な武久田大時のことで、きやのうぬきまる(俗にチャヌチといってその墓も浦添辺にある)その高弟であります。二者の関係は後で細しく申上げることにします。とにかくこのオモロを見てもこれらの覡が当時宮中にまで出入していたことがわかります。また羽地王子向象賢の『仕置』を見ても、向象賢以前には時之大屋子という覡がいて政府の御用を務めていたことがわかります。政治家が神託を伺って政治を行った時代は巫覡の得意時代であったに相違ありませぬ。\n 今の尚家の大祖の尚円王(伊平王)が即位された時の有様を『王代記』または口碑によって調べてみると、当時沖縄に革命が起って尚巴志の王朝が亡ぶとさっそく首里城の京の中で国王選挙の大会が開かれたとのことでありますが、群衆の中から白髪の老人安里の比屋が声を放って、\n\n虎の子や虎、犬の児や犬、食与ゆ者ど我御主、内間御鎖ど我御主\n\nという風に謡ったところが、衆皆これに和してここに一国の君主は選挙されたとのことであります。これがいわゆる世謡というもので、琉球の上古にあってはいわゆる世替(革命)がある場合にはおおかたこの形式によって国王の選挙は行われたとのことであります。世謡ということは「国家の大事件を謡う」の意で、予言者と詩人とを兼ねた社会の先覚者が神の命を承けて詩歌の形でこれを民衆に告げることであります。近代的の言葉を用いていえば、その社会の公然の秘密――雲のごとく煙のごとくたなびける社会情調――を民衆が意識せざるに先だちあるいは意識していても発表し切れない時に、見識なり勇気ある人がこれを看破し表明することであります。もっと手短にいえば時代精神を具体化することであります。カーライルの『英雄崇拝論』を繙いてみると、ある古代のヨーロッパ語ではポエット(詩人)とプロフェット(予言者)とは同義語であって二者を表わすべきヴァーテスという語は別にあるとのことでありますが、前に申上げたおもろねやがりもきやのうちぬきまるも詩人・予言者を兼ねたヴァーテスの類であったろうと思われます。そしてわが安里の比屋もまたこういう種類の人間であって時代精神を具体化した警醒者であったろうと思います。悪くいえばいくらか覡のような性質を有っていた者でありました。この世謡という選挙の形式は今から見るとほとんど信ずることも出来ないほど妙なものでありますが、人文の未だ開けなかった時代にはいずれの民族の間にも行われた形式であります。琉球の上古は世替の時代でありました。英雄の時代でありました。そして相互の人格・才幹・技倆・能力・体力に非常なる懸隔があって、ある一人の偉大なる強者の下に衆者平伏して文句なしにその命に屈服した時代でありました(後世になって発達した多数決という選挙の形式と比較して研究するのはいたって趣味あることでありますが、こはまたいつかお話することに致します)。それから『遺老説伝』に国王の即位についての面白い記事がありますから、引用することに致しましょう。\n\n往古之礼、聖上即位、必択吉旦、召群臣於禁中、且聚会国中男女於獄(平等所)而覡巫呪詛而焼灰宇呂武、和水而飲焉、中古而来、王已即位、必択吉日、偏召群臣於護国寺、令飲霊社神文之水、且遣使者、往至諸郡諸島、而飲神水於庶民、永守君臣之義、不敢有弐心也。\n\n すでに世謡があって国王が立つと吉日を択んで官吏を禁中に集め、それから国中の男女を平等所(警察と裁判と監獄とを兼ねた所)に集めてトキ(覡)ユタ(巫)が呪いをして灰を焼き、これを水に解かして飲ませる儀式がありました(中古以後すなわち尚真王以後は官吏のみを護国寺に集めてそういう宣誓式を行うようになりました。そして田舎や離島には別に官吏を派遣してこれを飲ませ、永く君臣の義を守って弐心のないようにとの宣誓式を行わせました)。これを見ても、当時トキユタの連中が幅をきかしていたことがわかります。こういう風に政府の御用まで勤めるようになっては民間におけるその勢力は一層大なるものとなったでありましょう。そこで尚真王の頃であったか、時の政治家がトキユタの跋扈を憂いこれを抑えようとしてやりそこなって一層跋扈させたという口碑があります。『東汀随筆』の二の九にこういうことがあります。\n"
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"role": "assistant",
"content": "国王の御墓を玉御殿といふ。書に筆するには玉陵と書す。綾門の路傍に在り。三箇相並て居る中の御墓は初め薨御せらるゝ時葬り奉る所なり。東の御墓は、御洗骨の後御夫婦の美骨を一厨子に納め奉る所なり。西の御墓は、御子部を葬り奉る所なり。中の御墓内に一の石厨子あり。銘書もあらず何人たるを知らず。世に是れ武久田大時の髑髏なりと伝ふ。昔何王の時代なるを知らず、巫道盛んに流行し、妖術を以て人を眩迷せしむるものとて痛く厳禁せらる。其時武久田其魁となりたるを以て其術を試んと欲し、匣内に鼠一頭を納れ、武久田を召して幾箇あるやと占はしむ。武久田占て三ヶありと云ふ。王以て験あらずとて之を誅せらる。蓋を開けて見るに、果して子を産して三ヶあり。王悔みて玉陵に葬らせ玉ふと伝へらる。\n\n(知花区長も尚泰侯が薨御になった時、この不思議な厨子を見られたとのことであります)。口碑によると武久田大時(『混効験集』に「もくだよのかね是も時取の名人也」とあり)の高弟のきやのち(前に御話いたしましたきやのちぬきまるのこと)と東方カニーという二人がこういう神通力をもっている、人を殺しては大変であると言って騒いだところが、政府の方ではうろたえたあげく、とうとう武久田大時を玉陵に葬ったということであります。さてこの教祖の犠牲によってトキユタはますます盛んになったとのことであります。そして今日に至るまで沖縄のユタは武久田大時をその開祖のように思っています。とにかくある主義または運動が主唱者の死刑によって大活動を始めたことは古今東西の歴史にその例が少くないのであります。この辺は経世家のおおいに注意せねばならぬところであります。\n 私は、これから沖縄以外の記録によって当時の沖縄を観察してみようと思います。新井白石の『南島志』の風俗の条に沖縄の宗教のことがかなりくわしくあるが、その注にこういうことがあります。\n\n按使琉球録及閩書云、俗信鬼畏神神以婦人不経二夫者為尸。降則数著霊異能使愚民悚懼。王及世子陪臣莫不稽首下拝。国人凡謀不善神輙告王。王就擒之惟其守‐護斯土。是以国王敬之而国人畏之也。尸婦名女君首従動至三五百人。各頂草圏樹枝、有乗騎者有徒‐行者、入王宮中以遊戯一唱百和音声凄‐惨、倏忽往来莫可踪跡。袋中所録略相同而尤為詳悉。凡其神異鬼怪不可挙数而已。甲午使人曰本国旧俗詳見袋中書百年以来民風大変神怪之事今則絶矣云々。\n\n 国王以下国民の尊敬を受けた三百人以上ののろくもいが、きのまき(すなわち、さみせんづる)という草で八巻をして馬に乗りオモロなど謡う有様が、まのあたり見えるようであります。これは政教一致のところで御話する積りでありましたが、ちょっと忘れましたからここで申上げることに致します。『使琉球録』という本は、明の嘉靖七年(今から三百八十六年前)尚清王(尚真王の子)の時、琉球に使した冊封使陳侃という人が書いたのであるが、沖縄の民族的宗教全盛代の有様を写すことがこのように詳細であります。それから慶長年間の琉球征伐の頃に琉球を見舞った日本僧袋中が『琉球神道記』にもほぼこれと同様なことが書いてあるとのことであるが、その時から百年も経つと、琉球の風俗習慣が著しく変化して以前のような迷信はほとんどなくなったということであります。民族的宗教が衰えるにつれて巫道も衰えたのでありましょう。\n 私考えまするに、沖縄の民族的宗教の衰えた源因は二つあります。第一は島津氏の琉球入りで、第二は儒教が盛んになったことであります。前にも申上げた通り、この宗教は昔は三十六島を統一するために欠くべからざる要具でありました。しかし幾多の氏族が合して一民族となり、相互に神を同じうし血を同じうすることを自覚した時には、最早その使命をおおかた全うしたのであります。しかのみならず島津氏に征服されて以来、尚家は政治上の自由は失ったがその王位はひとしお安固な位地に置かれたから、民族的宗教の必要はますますなくなったのであります。これから古来沖縄では男子にのみ学問をさせて女子には学問をさせなかったために、儒教が盛んになっても男子はこれによって開発されたが女子はこれとはまったく没交渉でありました。それゆえに男子はようやく迷信を脱することが出来たが、女子は少しもこれを脱することが出来なかったのであります。したがって男子は民族的宗教を記念祭的のものとし、女子は相変わらずこれを宗教的のものといたしました。ここにおいてか政治家はこれを政治以外に放逐しようとしてここに政教の分離が始まるようになりました。これはじつに代々の政治家を悩ました大問題であったが、有名なる羽地王子向象賢が国相となった時に断行するようになりました。『女官御双紙』に、\n\n聞得大君、此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座しゝに大清康熙六年丁未王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり。\n\nとあるのを見ても民族的宗教衰微の有様が想像されるのであります。向象賢は同じ年に民族的宗教の附属物なる巫道に向って大打撃を与えています。これは彼の『仕置』の中に、\n\n前々より時之大屋子とて文字の一字も不存者を百姓中より立置、日の吉凶を撰、万事用候得共、此前より唐日本の暦用可申由申達相済候事。\n\nとあるのを見ても明白であります。これじつに今から二百四十七年前のことである。前にも申上げた通り、時之大屋子という覡は民間において勢力を有していたばかりでなく政府の御用をも務めたのであるから、当時の社会においてはかなり枢要な位地を占めていて劇文学の材料にまでなったくらいであります。余計な事とは思いますが、昔□時之大屋子のことを想像する便りにもと思って「孝行の巻」という組踊を紹介することに致しましょう。御参考にもなることと思いますから原文のままを御覧に入れようと思います。最初に頭が出て来て、\n\n出様来る者や、伊祖の大主の御万人の中に頭取聞ちゆる者どやゆる、お万人のまぢり誠よ聞留めれ、ムルチてる池に大蛇住で居とて、風の根も絶らぬ、雨の根も絶らぬ、屋蔵吹くづち、原の物作も、根葉からち置けば、昨年今年なてや、首里納めならぬ、那覇納めならぬ、御百姓のまじりかつ死に及で、御願てる御願、祈べてるたかべ、肝揃て立てゝ、肝揃て願げは、時のうらかたも神のみすゞりも、十四五なるわらべ、蛇の餌餝て、おたかべのあらば、お祭りのあらば、うにきやらや誇て、又からや誇て、作る物作りも時々に出来て、御祝事ばかり、百果報のあんで、みすゞりのあもの、心ある者や、御主加那志御為、御万人の為に、命うしやげらば、産し親やだによ、引はらうぢ迄もおのそだて召いる、仰せ事拝で、高札に記ち、道側に立てゝ、道々に置ゆん、心ある者や、心づくものや、肝揃て拝め、肝留めて拝め、高札よ〳〵立てやうれ〳〵\n\nといって広告を出す。そうするとある孝女がそれを見て、家内の困難を救うために老母のとめるのも聞かないで自ら進んで今度の犠牲になろうと申出る。そこでムルチのほとりに祭壇を設けていよいよ人身御供をやるという段になる。時之大屋子がこの可憐なる孝女を列れて来て、\n\nたう〳〵わらべ、祭り時なたん、果報時のなたん、急ぢ立ち登れ、御祭よすらに\n\nといって孝女を祭壇に坐らせ、さて、\n\n今日のよかる日に、今日のまさる日に、我のとき我の物知りの御祭りよしゆものおたかべよしゆもの、このわらべ得て誇れ、このわらべ取て誇れ、うんちやらや又からや、風の業するな、雨のわざするな、あゝたうと〳〵\n\nと唱えると蛇が口から火を吐きつつ出て来て、この犠牲を受取ろうとするその一刹那に天から神降りて来て孝女を救うこの奇蹟を見て、頭取がびっくりして、"
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"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
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"content": "中川の皐月の水に人似たりかたればむ\nせびよればわななく (晶子)\n\n 光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年であった。その上恋愛という一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交渉をずいぶん内輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間がおしゃべりであるからなのだ。自重してまじめなふうの源氏は恋愛風流などには遠かった。好色小説の中の交野の少将などには笑われていたであろうと思われる。\n 中将時代にはおもに宮中の宿直所に暮らして、時たまにしか舅の左大臣家へ行かないので、別に恋人を持っているかのような疑いを受けていたが、この人は世間にざらにあるような好色男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする欠点はあった。\n 梅雨のころ、帝の御謹慎日が幾日かあって、近臣は家へも帰らずに皆宿直する、こんな日が続いて、例のとおりに源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢を尽くした新調品を御所の桐壺へ運ぶのに倦むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤めのほうが大事なふうだった。そのうちでも宮様腹の中将は最も源氏と親しくなっていて、遊戯をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。結婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、敬意を表することも忘れるほどぴったりと仲よしになっていた。\n 五月雨がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壺も平生より静かな気のする時に、灯を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した置き棚にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻の内容を頭中将は見たがった。\n「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」\n と源氏は言っていた。\n「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の手紙なら、私には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。特色のある手紙ですね、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしそうに書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもしろいだろうと思うのです」\n と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか知れない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は見てもよいと許した。中将は少しずつ読んで見て言う。\n「いろんなのがありますね」\n 自身の想像だけで、だれとか彼とか筆者を当てようとするのであった。上手に言い当てるのもある、全然見当違いのことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源氏はおかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から取り返してしまった。\n「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。少し見せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部見せてもいい」\n「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」\n こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。\n「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと気がつきました。ただ上っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの言うことに理解を持っているような利巧らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと合格点にはいるという者はなかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、ほかの人を軽蔑することのできる厭味な女が多いんですよ。親がついていて、大事にして、深窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像で十分補って恋をすることになるというようなこともあるのですね。顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して言わないものですから、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って結婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」\n 中将がこう言って歎息した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心にうなずかれることがあるか微笑をしていた。\n「あなたが今言った、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人があるだろうか」"
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"content": "「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、何もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどに少ないものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目だたないで済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれはあざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから一段下の階級にはどんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」\n こう言って、通を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を語らせたく思った。\n「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。上、中、下を何で決めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上がっていて、それが得意で贅沢な生活をして、初めからの貴族に負けないふうでいる家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」\n こんな質問をしている所へ、左馬頭と藤式部丞とが、源氏の謹慎日を共にしようとして出て来た。風流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左馬頭を問題の中へ引き入れた。不謹慎な言葉もそれから多く出た。\n「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世間の思わくだってやはり違う。またもとはいい家でも逆境に落ちて、何の昔の面影もないことになってみれば、貴族的な品のいいやり方で押し通せるものではなし、見苦しいことも人から見られるわけだから、それはどちらも中の品ですよ。受領といって地方の政治にばかり関係している連中の中にもまたいろいろ階級がありましてね、いわゆる中の品として恥ずかしくないのがありますよ。また高官の部類へやっとはいれたくらいの家よりも、参議にならない四位の役人で、世間からも認められていて、もとの家柄もよく、富んでのんきな生活のできている所などはかえって朗らかなものですよ。不足のない暮らしができるのですから、倹約もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑のできないものがたくさんあるでしょう。宮仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多いのですよ」\n 左馬頭がこう言う。\n「それではまあ何でも金持ちでなければならないんだね」\n と源氏は笑っていた。\n「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」\n 中将はたしなめるように言った。左馬頭はなお話し続けた。\n「家柄も現在の境遇も一致している高貴な家のお嬢さんが凡庸であった場合、どうしてこんな人ができたのかと情けないことだろうと思います。そうじゃなくて地位に相応なすぐれたお嬢さんであったら、それはたいして驚きませんね。当然ですもの。私らにはよくわからない社会のことですから上の品は省くことにしましょう。こんなこともあります。世間からはそんな家のあることなども無視されているような寂しい家に、思いがけない娘が育てられていたとしたら、発見者は非常にうれしいでしょう。意外であったということは十分に男の心を引く力になります。父親がもういいかげん年寄りで、醜く肥った男で、風采のよくない兄を見ても、娘は知れたものだと軽蔑している家庭に、思い上がった娘がいて、歌も上手であったりなどしたら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん興味が持てるでしょう。完全な女の選にははいりにくいでしょうがね」\n と言いながら、同意を促すように式部丞のほうを見ると、自身の妹たちが若い男の中で相当な評判になっていることを思って、それを暗に言っているのだと取って、式部丞は何も言わなかった。そんなに男の心を引く女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだって、そんな女はなかなか少ないものだと自分にはわかっているがと源氏は思っているらしい。柔らかい白い着物を重ねた上に、袴は着けずに直衣だけをおおように掛けて、からだを横にしている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われた。この人の相手には上の上の品の中から選んでも飽き足りないことであろうと見えた。\n「ただ世間の人として見れば無難でも、実際自分の妻にしようとすると、合格するものは見つからないものですよ。男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれもできますが、実際適所へ適材が行くということはむずかしいものですからね。しかしどんなに聡明な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚に助けられ、下僚は上に従って、多数の力で役所の仕事は済みますが、一家の主婦にする人を選ぶのには、ぜひ備えさせねばならぬ資格がいろいろと幾つも必要なのです。これがよくてもそれには適しない。少しは譲歩してもまだなかなか思うような人はない。世間の多数の男も、いろいろな女の関係を作るのが趣味ではなくても、生涯の妻を捜す心で、できるなら一所懸命になって自分で妻の教育のやり直しをしたりなどする必要のない女はないかとだれも思うのでしょう。必ずしも理想に近い女ではなくても、結ばれた縁に引かれて、それと一生を共にする、そんなのはまじめな男に見え、また捨てられない女も世間体がよいことになります。しかし世間を見ると、そう都合よくはいっていませんよ。お二方のような貴公子にはまして対象になる女があるものですか。私などの気楽な階級の者の中にでも、これと打ち込んでいいのはありませんからね。見苦しくもない娘で、それ相応な自重心を持っていて、手紙を書く時には蘆手のような簡単な文章を上手に書き、墨色のほのかな文字で相手を引きつけて置いて、もっと確かな手紙を書かせたいと男をあせらせて、声が聞かれる程度に接近して行って話そうとしても、息よりも低い声で少ししかものを言わないというようなのが、男の正しい判断を誤らせるのですよ。なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方で、なりふりもかまわないで、額髪をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、ただ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、それは他人には言えません。理解のある妻に話さないではつまりません。この話を早く聞かせたい、妻の意見も聞いて見たい、こんなことを思っているとそとででも独笑が出ますし、一人で涙ぐまれもします。また自分のことでないことに公憤を起こしまして、自分の心にだけ置いておくことに我慢のできぬような時、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言を言うようになります。そんな時に何なんですかと突っ慳貪に言って自分の顔を見る細君などはたまらないではありませんか。ただ一概に子供らしくておとなしい妻を持った男はだれでもよく仕込むことに苦心するものです。たよりなくは見えても次第に養成されていく妻に多少の満足を感じるものです。一緒にいる時は可憐さが不足を補って、それでも済むでしょうが、家を離れている時に用事を言ってやりましても何ができましょう。遊戯も風流も主婦としてすることも自発的には何もできない、教えられただけの芸を見せるにすぎないような女に、妻としての信頼を持つことはできません。ですからそんなのもまただめです。平生はしっくりといかぬ夫婦仲で、淡い憎しみも持たれる女で、何かの場合によい妻であることが痛感されるのもあります」\n こんなふうな通な左馬頭にも決定的なことは言えないと見えて、深い歎息をした。\n「ですからもう階級も何も言いません。容貌もどうでもいいとします。片よった性質でさえなければ、まじめで素直な人を妻にすべきだと思います。その上に少し見識でもあれば、満足して少しの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育などはあとからできるものですよ。上品ぶって、恨みを言わなければならぬ時も知らぬ顔で済ませて、表面は賢女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句や身にしませる歌などを書いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、遠い郊外とか、まったく世間と離れた海岸とかへ行ってしまいます。子供の時に女房などが小説を読んでいるのを聞いて、そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな態度だと涙までもこぼしたものです。今思うとそんな女のやり方は軽佻で、わざとらしい。自分を愛していた男を捨てて置いて、その際にちょっとした恨めしいことがあっても、男の愛を信じないように家を出たりなどして、無用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちに取り返しのならぬはめに至ります。いやなことです。りっぱな態度だなどとほめたてられると、図に乗ってどうかすると尼なんかにもなります。その時はきたない未練は持たずに、すっかり恋愛を清算した気でいますが、まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が訪問して言い、真底から憎くはなっていない男が、それを聞いて泣いたという話などが聞こえてくると、召使や古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼になどしておしまいになって惜しい。こんなことを言われる時、短くして後ろ梳きにしてしまった額髪に手が行って、心細い気になると自然に物思いをするようになります。忍んでももう涙を一度流せばあとは始終泣くことになります。御弟子になった上でこんなことでは仏様も未練をお憎みになるでしょう。俗であった時よりもそんな罪は深くて、かえって地獄へも落ちるように思われます。また夫婦の縁が切れずに、尼にはならずに、良人に連れもどされて来ても、自分を捨てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむずかしいでしょう。悪くてもよくてもいっしょにいて、どんな時もこんな時も許し合って暮らすのがほんとうの夫婦でしょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫婦愛がかえってこないものです。また男の愛がほんとうにさめている場合に家出をしたりすることは愚かですよ。恋はなくなっていても妻であるからと思っていっしょにいてくれた男から、これを機会に離縁を断行されることにもなります。なんでも穏やかに見て、男にほかの恋人ができた時にも、全然知らぬ顔はせずに感情を傷つけない程度の怨みを見せれば、それでまた愛を取り返すことにもなるものです。浮気な習慣は妻次第でなおっていくものです。あまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては気楽で、その細君の心がけがかわいく思われそうでありますが、しかしそれもですね、ほんとうは感心のできかねる妻の態度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありませんか、ねえ」\n 中将はうなずいた。\n「現在の恋人で、深い愛着を覚えていながらその女の愛に信用が持てないということはよくない。自身の愛さえ深ければ女のあやふやな心持ちも直して見せることができるはずだが、どうだろうかね。方法はほかにありませんよ。長い心で見ていくだけですね」\n と頭中将は言って、自分の妹と源氏の中はこれに当たっているはずだと思うのに、源氏が目を閉じたままで何も言わぬのを、物足らずも口惜しくも思った。左馬頭は女の品定めの審判者であるというような得意な顔をしていた。中将は左馬頭にもっと語らせたい心があってしきりに相槌を打っているのであった。\n「まあほかのことにして考えてごらんなさい。指物師がいろいろな製作をしましても、一時的な飾り物で、決まった形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、これはおもしろいと思わせられて、いろいろなものが、次から次へ新しい物がいいように思われますが、ほんとうにそれがなければならない道具というような物を上手にこしらえ上げるのは名人でなければできないことです。また絵所に幾人も画家がいますが、席上の絵の描き手に選ばれておおぜいで出ます時は、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な蓬莱山とか、荒海の大魚とか、唐にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、勝手ほうだいに誇張したもので人を驚かせて、それは実際に遠くてもそれで通ります。普通の山の姿とか、水の流れとか、自分たちが日常見ている美しい家や何かの図を写生的におもしろく混ぜて描き、われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あるいは人の住む邸の中を忠実に描くような時に上手と下手の差がよくわかるものです。字でもそうです。深味がなくて、あちこちの線を長く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっと見がおもしろいようでも、それと比べてまじめに丁寧に書いた字で見栄えのせぬものも、二度目によく比べて見れば技巧だけで書いた字よりもよく見えるものです。ちょっとしたことでもそうなんです、まして人間の問題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の愛が持てないと私は決めています。好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、以前のことを少しお話しいたしましょう」"
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"role": "user",
"content": " 満身の血が、毒のように頭にだけ逆上っていたのである。――彼はそこへ耳をつけた。\n 寝息が聞える......\n 黒髪と、やわ肌の、蒸れた丁字のような異性のにおいがする。\n ズ、ズ、ズ......と二、三寸ほど石念の手がそこを開けたのである。――と、その刹那に、白い電のような光が、彼の眼をさっと射た。\n 鈴野の寝すがただけあるとのみ思っていた暗い部屋の中に、そんな顕然たる光があったのである、仏陀の光のように石念は心を打ちのめされてしまった。\n「あッ――」と、思わず眼を抑えたのである――。次にわれ知らず口から走った慚愧のことばは、\n「南無阿弥陀仏!」という無意識のさけびだった。物音に、眼をさまして、\n「誰です! 誰ですかっ」鈴野が起きた様子。\n あわてて、どどどと、廊下の壁へぶつかりながら逃げてくると、\n「なんじゃ」\n「なんの音......」同房の友だちも、みな、夜具を刎ねて、突っ立っていた。\n「......あっ、石念」人々は、板敷のうえに雑巾のように平べたくなっている彼のすがたを見つけて、太いため息をつくばかりだった。\n「こ、こ、この馬鹿めっ」いちばん年上の教順が、怒りに引ッつれた顔をふるわせて、思わず拳をかためながら彼の側へせまった。\n「呆れ果てた外道。......ウム、外道の夢、醒ましてやる」むずと、襟がみを引き寄せて、打ちすえようとすると、なに思ったか、石念はパッと起って、厨の戸を突き破るようにして外へ逃げ出してしまった。\n ――その朝は、朝から重い不愉快なものに人々の顔色はつつまれていた。鈴野はなにもいわなかった。けれど、その小さな胸が、不気味な、なんともいえない恐怖と懐疑につつまれていることは、誰の眼にも読めた。\n「......申し上げてしまおうか」\n「いや、こんなことを、どうして、師の房のお耳に入れられるものか」\n「どこへ行ったか、あいつめ」\n「抛っておいたがよい」人々は、囁き合っていたが、やがてさり気なく、それぞれ日課としている托鉢へ出て行った。\n 親鸞は、きょうは奥に籠っていた。べっして、体のわるいようなせいではない――。鈴野はなにかしら秘密を抱いたようで、独りで胸が傷んでならなかった。\n ――蝉の音が、午の窓へすずやかに啼いていた。芭蕉の葉が、時折大きく風に揺れる。\n その蔭へ、石念は、いつの間にか来ていて、じっとかがみこんでいた。\n\n四\n\n「――誰じゃ」ふと窓の外へ眼をやった時、親鸞が静かに芭蕉の蔭へ訊ねた。\n「石念ではないか」\n「は......はい」\n「何しておる」\n「......私は......お師さま! ......御庵室の床に上がれない不浄な人間でございます、外道へ落ちた人間です」\n「何をいう」ほほ笑みが親鸞の顔に泛かんだ。他愛ないことでも聞くように、\n「お上がりなさい」と、それだけいった。\n「............」石念はなおそこにじっとかがまり込んでいたが、やがて思い切ったように、\n「よろしゅうございましょうか」おそるおそる立った。\n そしてやがて、縁から科人のような卑屈な眼を俯せて、親鸞の室へ坐り、自分の頭に下るであろう罪の鉄槌を待っていた。\n「......なんじゃ、どうしたのか」親鸞はまだ何も知らないらしいのである。だが、それはかえって石念の苦痛であった。\n 何も知らない師の房へ、新しく口を切り出すのが辛かった。――だが、石念は思い切って、事実を告げた。\n「私は幾たびも、自分で自分の心をいやしみ、一心に、念仏をもって、邪心を退けようとして、幾日もたたかいました。――けれど、一度、鈴野様の美しさに囚われた煩悩は、何としても去らないのでございます」親鸞は眼を閉じていた。――じっと聞き入って、次のことばを静かに待っていた。\n「それで――」\n「昼間は、炎天を、教化して歩いているので、かえって胸の苦しみはわすれました。けれど、夜のすず風に、わが身にかえってくつろぐと、身内の炎は、昼間の炎天どころではありません」\n「むム......」\n「いけない! そんなことで、どう修行がなろうぞ! そう我を叱って、水を浴びたり、竹林の中で、夜もすがら念仏したり、岩に伏したりしましたが、克つことができません。――とうとう私は、犯してならない垣を踏み越えてしまいました。――鈴野様の部屋へ忍んで行ったのでございました」\n「............」\n「その時の心は、自分ではわかりません......われながら、まったく夢中の仕業でありました」\n「石念、待ちなさい」\n「はい」\n「おことの声に、真実がある、嘘のないその声を、鈴野にも聞かそう」\n「え、鈴野どのへ」\n「......誰ぞおりませぬか、鈴野をよんで下さい、ここへ」後ろの部屋へ向って、こういうと、誰かが鈴野を呼びに行ったらしい。――そこに石念と師の房との対坐しているすがたを見ると、鈴野はさっと顔を紅めてしまった。\n「お師さま、何か御用事でございますか」\n「そこへ坐っていて下さい。......石念のいう言葉を聞いておればよい。......わしも聞こう、石念、話しなされ」\n「はい」といったが、さすがに、そこに鈴野がいては、穴にも消え入りたい気がするのであろう、石念は硬くなって、しばらく両手を膝についたまま沈黙していた。\n\n五\n\n「――なにもかも懺悔いたしまする」と、こう石念はまた、素直にことばを継ぐと、もう邪げるもののない気持で、いおうとすることがすらすらいえた。\n「その時の私は、情火の獣でした。もし鈴野どのが私の愛を拒んだら力ずくでもという気持でした。戸に手をかけました。そして二、三寸ばかりそこを開けたのです。すると同時に、ハッと私は眼が眩んで両眼を抑えたまま俯伏してしまったのです。なぜならば鈴野どのの部屋に、一道の白い光が、仏光のように映して見えたからでした」沈痛な声である。\n 筧の水の音がどこかでして、鈴野も親鸞も、そこになく、彼一人が独りで口走っているかのように静かであった。\n「――後でよく考えて見ますと、その光というのは、鈴野どのの部屋の窓が隙いていたので、夜明けの光が射し込んでいただけのことだったのです。......けれど夜もすがら、熱病のように悶々としていた私は、夜が明けていたとも考えておりません。真っ暗な部屋の中とばかり思っていた眸を、不意に、怖ろしい光明で射られたので、そのまま、うッ伏してしまうと、思わず、念仏をさけんでしまいました。次には、しまったと思う悔いと涙とでうろたえながら、逃げ出しました。身の置きどころもないように」\n「............」\n「どうぞ、お師さま、私を今日かぎり、破門して下さいませ、私は、外道に落ちました、改めて修行をし直した上、ふたたびお膝下へお詫びしに参ります」親鸞は瞑目していた眸をうすく開いて、そういう石念のすがたを愛し子のように見入った、彼はまだ道念の至らないこの若僧の悔いに打ちのめされて慚愧している有様を見ると、あだかも二十歳だいのころの自分を見ているような気がするのであった。\n「石念」\n「は......はい」\n「泣かでもよい、さてさておことはまたとない不思議な仏陀の示顕にお会いなされたの」\n「えっ、示顕とは」\n「おことが、罪の戸に手をかけたとたんに、その眸を射た光こそ、弥陀本体の御光でのうてなんとするぞ」\n「......?」\n「わからぬか、おことはそれをもって窓にさしていた夜明けの光というたが、おことはそのせつなに念仏をさけんだというではないか。窓の明りではない、それこそ弥陀本体の御光じゃ、尊い弥陀の示顕に試されたのじゃ、その折に出た念仏こそ、真の念仏、生涯忘れまいぞ」\n「わかりました、お師さま!」と、石念は合掌して、"
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"role": "assistant",
"content": "「私は、なんたる、果報者でしょう、この眼で御仏を見ました」と、狂喜した。親鸞は、ことばをかさね、\n「そなたはまた、この草庵を出て、修行し直すというたが、それにも及ばぬ、他力易行の行者は、ありのままこそ尊い、配所の囚人であれば囚人のままで、在家にあれば在家のままで、ただいつも、本体の弥陀のすがたを、しかと見て、見失わずに――」\n 慈父のような教えだった。石念の心の傷は洗われた、いや大きな欣びにさえなった。\n それからまもなく、石念と鈴野とは、師の媒介で添うことになった。親鸞の寛大と英断に驚く者もあったが、それからの石念の道行はたしかに一歩も二歩も進んでいた。同房の法友たちは、彼のために、また念仏門のために、この一組の若い夫婦を心から祝福した。\n\n蝉脱\n\n\n一\n\n 夕餉の煙が露草に這う。万野は、厨の竈に火を焚き、鈴野はもうほの暗い流れで野菜を洗っていた。\n もう初秋である。暮れると急に、この山間は陽かげになって、寒かった。\n「......はての?」里人に道を教えられて、一途にこの小丸山へ来たらしいのであったが、旅の老武士は、そこに働いている卑しくない女性をながめて、ここが配所であり僧の住居とは考えられないようにいぶかって佇ずんでいた。\n 狩衣のすそを旅支度にくくり、襟の下には鎧の小実が煌めいていた、長やかな銀作りの太刀を、革紐で横佩きにし、それでいて烏帽子をいただいた髪の毛は真っ白なのである、年齢はもう六十がらみに違いないのだ、けれど足もとも身体も、壮者のようにがっしりしていた。\n「ちと、もの承りたいが――」こういって、鈴野のそばへ老武士は寄って行った。めずらしくその言葉は、上方の語音である。鈴野はハッと思って、濡れ手のまま立った。\n「はい......何ぞ」\n「つかぬことを承るが、親鸞上人のご配所は」\n「こちらでございますが」\n「オ......やはり」と、老武士は安堵したように、\n「上人は、ご在宅かの」\n「おいでなされます」\n「あれが、お入口か」\n「いえ、厨でございます、どうぞこちらへお越しなさいませ」小走りに、鈴野は先へ駈けてゆく。――駈けつつも、\n(どなたであろうか)不審でならなかった。\n 玄関を教えると、老武士は、裾を解き、塵を払って、烏帽子のゆがみをも正しながら、\n「たのむ」おごそかに訪れた。いあわせた教順房が、\n「どなた様でいらっしゃいますか」と、眼をみはった。\n 老武士は慇懃な――どこやらに卑しくない教養と世に練れたものごしで、\n「突然おたずねして参って、ご不審に思し召そうが、それがしは近江の住人佐々木三郎盛綱とよぶ者――折入って上人に御意得とう存じて、はるばるこれまで身ひとつで参った者でござる。――おつとめの折とあらば、他の室にてお待ち申すも苦しゅうござらぬ、お取次だけを」と、行きとどいている会釈。\n はっ――と教順は胸に大きなものをぶつけられた気がした。近江の佐々木盛綱といえばこの辺土にも知れ渡っている源家方の豪族である。\n あわただしく、奥へ告げに行くと、ちょうど廊下でぶつかった西仏房がそれと聞いて、\n「なに、佐々木殿が見えたと」つかつかと彼は玄関へ出てきたのである、そしてほの明るい夕暗の軒端に、その人の影を透かして見て、\n「やあ」と、なつかしげにいった。\n「三郎盛綱どのか。珍らしい珍らしい、元の木曾の幕下太夫房覚明じゃ」\n「えっ?」と、盛綱は、意外な旧知を見出して驚きながら、\n「木曾の覚明じゃと。......オオなるほど、世も変ったが、おぬしがかような所におろうとは、さてさて時の流れは、思いがけないことになるのう」\n\n二\n\n「まず上がれ」と、西仏は遠来の旧友に、昔の武者言葉を出して、\n「師の上人もご在室、ゆるりと昔語りもしよう」先に立って、いそいそ奥の室へ案内して行く。三郎盛綱は、太刀の緒を解いて、左手に提げ、\n「さらば」と、彼の後に従いた。\n 広くはないが、配所とも見えぬほど閑寂な幾室かがある、短い二間ほどの橋廊架を越えると、そこには何か非凡人のいるものの気配が尊く感じられて、三郎盛綱は、いわれぬうちから、\n(ここが上人のお住居であるな――)と感じて、おのずから襟を正しめられて控えていた。\n 西仏は、妻戸の外にひざまずいて、両手をつかえ、\n「師の房様。おさしつかえござりませぬか」くんくんと何かのにおうそこの室の内から、親鸞の声がすぐ答えた。\n「どなたか」\n「西仏です。――じつは只今、私の旧友で、師の房にもとくご存じでおわしましょうが、近江佐々木の庄の住人、佐々木三郎盛綱が、なにか親しくご拝眉を得たうえで、お願いのすじがあると申し、はるばるこれまで訪ねてござりましたので、お会い下さるなれば、有難う存じますが」\n「............」何か黙考しているらしくもあるしまた、机のうえでも片づけているのか、しばらく返辞がなかったが、やがて――\n「どうぞ」と、いうのが聞えた。\n 西仏は振向いて、三郎盛綱のうれしげなうなずきを見た。そして、静かに妻戸を引いてそこを窺うと、朽葉色の法衣のすそがすぐ盛綱の眼に映った。\n(ああ多年、会いたいとお慕い申していたおん方、今こそ会えるか)と、盛綱は若者のような胸のときめきを覚えて、屈み腰に、そっと進む。\n ――すぐ後ろから、鈴野が短檠を持ってきて、主客のあいだへ、静かに明りを配る。――そしてこの老武者が有名な源氏のさむらいであるかと、尊敬と物めずらな眼を客に向けて、退がって行った。\n 時の流れはあわただしかった。治承、寿永という風雲乱世は、つい昨日のようであったが、今はもう鎌倉幕府という言葉さえ、民衆には新しいひびきが失くなっている。鎌倉幕府自体にさえ、種々な弊政やら、葛藤やら、同族の相剋やら、醜いものの発生が醸し出されて、そろそろ自壊作用の芽をふきだしていた。\n その源氏が、隆々と興って、治承、寿永の世にわたって、平家を剿滅して行ったころには、源平両軍が戟を交えるところに、佐々木三郎盛綱の名が功名帳に輝かないところはなかった。\n ――だが、そうした武運のめでたい男も、鳥坂城に城資盛を討った老後の一戦から、ふッつりと、明けても暮れても血の中の武士生活に無常を感じて、\n(何がゆえに?)と大きな悩みと迷いを生じ、子のある親を討ち、親のある子を討って、それを兜の八幡座のかがやきと誇る武者のこころが忌わしくなり、武具馬具打物などのすべてのそうした血なまぐさい物に囲まれている日常が、耐えられない苦痛になっていた。\n\n三\n\n 武者の生涯ほど、一刻一刻が、真剣で血まみれなものはない。\n 五十余年は夢の間だった。なんであんな血なまぐさい生涯を、獣のように働いてきたか。――人を斬っておのれが生きる道としてきたか。\n 果たしてそれが、国家のため、民くさのためだったろうか。\n 主君はそう受け取ってくれたろうか。平家が亡んだ後の源家の政治は、果たして国民の幸福を増してきたろうか。三郎盛綱はもだえた。\n(怖ろしい、浅ましい。人は知らず、自分の肚の奥底を割ってみれば、そこには華やかな武者の道があって、ひたぶるに、君家のおんためという気持もあったが、何よりも自分を猛く雄々しくさせたものは、領地や位階であった、出世の欲望だった)こう考えつくと、彼はたまらなくなった。そしてついに、\n(せめて、老後の一日だけでも、阿鼻叫喚の中からのがれて、こころのどかに、人らしく生きてみたいものだが――)そう気づいてから先の三郎盛綱は、往年の烈しい気性を、急角度に向きかえて、ひたぶるにそれを望み出した。――実に、多年のあいだの宿望だった。\n(領地が何か? 位階が何か。――あさましやおれはこれで釣られて、一生を屠殺で送ってきた)\n 館も財宝も、もう彼の眼には、芥としか見えなかった。――だがすでに、彼の身は由々しき所領の大名となっていた、一族門葉も少なくはない、鎌倉との交渉も、簡単には参らない。彼はそれを捨てることに、どんなに長い腐心を費やしたか知れない。\n ――すると、すでに鎌倉では、彼のそうした憂悶のあらわれを、敏感に知っていた。三郎盛綱は、鎌倉に対して近ごろ不満をいだいているらしいと沙汰する者があったり、それに尾ひれを付け加えて、彼こそは油断のならぬ男で、今のうちに処置をせねば乱をなす者であろうと流言する者がある。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " この時その役勤し後、渠はまた再び場に上らざるよし。蛇責の釜に入りしより心地悪くなりて、はじめはただ引籠りしが、俳優厭になりぬとて罷めたるなり。やや物狂わしくなりしよしなど、伯母上のうわさしたまう。\n 何地行きけむ。久しくその名聞えざりしが、この一座に交りて、再び市人の眼に留りつ。かの時の俤は、露ばかりも残りおらで、色も蒼からず、天窓兀げたり。大声に笑い調子高にものいい、身軽く小屋の中を馳せ廻りて独快げなる、わが眼にもこのおじが、かの恐しき事したりとは見えず。赤き顱巻向うざまにしめて、裾を括げ、片肌脱ぎて、手にせる菓子の箱高く捧げたるがその銀六よ。\n\n五\n\n「人気だい、人気だい。や、すてきな人気じゃ。お菓子、おこし、小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。お菓子はよしか。」\n いまの能の品評やする、ごうごうと鳴る客の中を、勢いよく売ありきて、やがてわが居たる桟敷に来りて、\n「はい、これを。」\n と大きく言いて、紙包にしたる菓子をわが手に渡しつ。\n「楽屋から差上げます。や、も、皆大喜び、数ならぬ私まで、はははは。何てッてこれ坊ちゃんのようなお小いのが毎晩見て下さる。当興行大当、滅茶々々に面白い。すてきに面白い。おもしろ狸のきぬた巻でも、あんころ餅でも、鹿子餅でも、何でもございじゃ、はい、何でもござい、人気おこし、お菓子はよしか。小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。」と呼びかけて前の桟敷を跨ぎ越ゆる。\n ここに居て見物したるは、西洋手品の一群なりし。顔あかく、眼つぶらにて、頤を髯に埋めたる男、銀六の衣の裾むずと取りて、\n「何を!」と言いさま、三ツ紋つきたる羽織の片袖まくし揚げつつ、\n「何だ、小六さん、小六さんの人気おこしたあ何だ。」\n「へい。」\n「へいじゃあない、小六さんたあ何だ。客の前を何と心得てるんだ。獣め、乞食芸人の癖に様づけに呼ぶ奴があるもんか。汝あ何だい、馬鹿め!」\n と言うより早く拳をあげて、その胸のあたりをハタと撲ちぬ。背後に蹌踉けて渋面せしが、たちまち笑顔になりて、\n「許させられい、許させられい。」\n と身を返して遁げ行きぬ。\n この時、人声静まりて、橋がかりを摺足して、膏薬練ぞ出で来れる。その顔は前にわれを引留めて、ここに伴いたるかの女に肖たるに、ふと背後を見れば、別なるうつくしき女、いつか来て坐りたり。黒髪を束ねて肩に懸けたるのみ、それかと見れば、俤は舞台なりし牛若の凜々しげなるには肖で、いと優しきが、涼しき目もて、振向きたるわが顔をば見し。打微笑みしまま未だものいわざるにソト頬摺す。われは舞台に見向きぬ。\n 背後見らるる心地もしつ。\n ややありて吸競べたる膏薬練の、西なる方吸寄せられて、ぶざまに転けかかりたる状いと可笑きに、われ思わず笑いぬ。\n「おもしろうござんすか。」\n と肩に手をかけて潜めき問いぬ。\n「よく来て下さいますね。ちょいと、あの、これを。」\n 渠は先にわが投げ棄てし銀貨入を手にしつつ、\n「私これ頂いときますよ。ね、頂戴。可うござんすか。」\n「ああ。」\n また頷けば軽く頂き、帯の間に挟みしが、\n「木戸のがね、お気に入りませんだったら叱ッてもらってあげますから、腹を立てないで毎晩、毎晩、いらっしゃいましな、ね。ちゃんとここを取って、私のこのお蒲団敷いてあげますわ。そうしてお前さんの好きなことをして見せましょう。何が可いの、狂言がおもしろいの。」\n「いいえ。」\n「じゃあ、お能の方なの。」\n「牛若が可いんだ、刀持って立派で可いんだ。」\n「そう。」と言いかけて莞爾とせしが、見物は皆舞台を向いたり。人知れずこそ、また一ツ、ここにも野衾居たりしよ。\n\n\n狂言\n\n一\n\n 見物みな立ちたればわれも立ちぬ。小親が与えし緋鹿子の蒲団の上に、広き桟敷の中に、小さき体一ツまたこそこの時突立ちたれ。さていかにせむ。前なるも、後なるも、左も右も、人波打ちつつどやどやと動揺み出づる、土間桟敷に五三人、ここかしこに出後れしが、頭巾被るあり、毛布纏うあり、下駄の包提げたるあり、仕切の板飛び飛びに越えて行く。木戸の方は一団になりて、数百の人声推合えり。われはただ茫然としてせむ術を知らざりき。\n「おい、帰らないか。」\n と声を掛け、仕切の板に手を支きて、われを呼びたるは国麿なり。釦三ツばかり見ゆるまで、胸を広く掻広げて、袖をも肱まで捲し上げたる、燃立つごとき紅の襯衣着たり。尻さがりに結べる帯、その色この時は紫にて、\n「どうした、一所に帰ろうな。」\n「後から。」と低く答えぬ。\n 国麿は不満の色して、\n「だって皆帰るじゃあないか。一人ぼッちで何しに残るんだ。」\n「だって、まだ、何だもの。」\n となお猶予いぬ。女来て帰れと言わず、座蒲団このままにして、いかで、われ行かるべき。\n 国麿はものあり顔に、\n「可いじゃあないか、一所に帰ったって可いじゃあないか。」\n「だって何だから......どうしたんだなあ。」\n ひたすら楽屋の方打見やる。国麿は冷かなる笑を含み、\n「用があるんか。誰か待ってるか、おい。」\n「誰も待ってやしないんだ。」\n「嘘を吐け。いまに誰か来るんだろう。云ったって可いじゃないか。」\n「誰も来るんじゃあないや。そうだけれど......困るなあ。」\n「何を困るんだ。え、どうしたんだ。」\n「どうもしないさ。」\n「じゃあ困る事はないじゃあないか。な、一所に帰ろうと云うに。」\n 顔の色変りたれば恐しくなりぬ。ともかくも成らば成れ、ともに帰らむか。鳥居前のあたりにて、いかなる事せむも計られずと思いて逡巡するに、国麿は早や肩を揚げぬ。\n「疾くしないかい、おい。」\n「だって何だから。」\n「何が何だ、おかしいじゃあないか。」\n「この座蒲団が......」\n 国麿はいま見着けし顔にて、\n「や、すばらしい蒲団だなあ。すばらしいものだな、どうしたんだ。この蒲団はどうしたんだ。」\n「敷いてくれたの。」\n「誰が、と聞くんだ、敷いてくれたのは分ってらい。」\n「お能のね、お能の女。」\n「ふむ、あんな奴の敷いたものに乗っかる奴が有るもんか。彼奴等、おい、皆乞食だぜ。踊ってな、謡唄ってな、人に銭よウ貰ってる乞食なんだ。内の父様なんかな、能も演るぜ。む、謡も唄わあ。そうして上手なんだ。そうしてそういってるんだ。ほんとのな、お能というのは男がするもんだ。男の能はほんとうの能だけれど、女のは乞食だ。そんなものが敷いて寄越した蒲団に乗るとな、汚れるぜ。身が汚れらあ。しちりけっぱいだ、退け!」\n 踏みこたえて、\n「何をする。」\n「何でえ、おりゃ士族だぜ。退け!」\n\n二\n\n 国麿は擬勢を示して、\n「汝平民じゃあないか、平民の癖に、何だ。」\n「平民だって可いや。」"
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"role": "assistant",
"content": "「ふむ、豪勢なことを言わあ。平民も平民、汝の内ゃ芸妓屋じゃあないか。芸妓も乞食も同一だい。だから乞食の蒲団になんか坐るんだ。」\n われは恥かしからざりき。娼家の児よと言わるるごとに、不断は面を背けたれど、こういわれしこの時のみ、われは恥しと思わざりき。見よ、見よ、一たび舞台に立たむか。小親が軽き身の働、躍れば地に褄を着けず、舞の袖の飜るは、宙に羽衣懸ると見ゆ。長刀かつぎてゆらりと出づれば、手に抗つ敵の有りとも見えず。足拍子踏んで大手を拡げ、颯と退いて、衝と進む、疾きこと電のごとき時あり、見物は喝采しき。軽きこと鵞毛のごとき時あり、見物は喝采しき。重きこと山のごとき時あり、見物は襟を正しき。うつくしきこと神のごとき時あり、見物は恍惚たりき。かくても見てなお乞食と罵る、さは乞食の蒲団に坐して、何等疚しきことあらむ。われは傲然として答えたり。\n「可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ。」\n「何でえ。」\n 国麿は眼を円にしつ。\n「何でえ、乞食だな、汝乞食だな、む、乞食がそんな、そんな縮緬の蒲団に坐るもんか。」\n「可いよ、可いよ、私、私はね、こんなうつくしい蒲団に坐る乞食なの。国ちゃん、お菰敷いてるんじゃないや。うつくしい蒲団に坐る乞食だからね。」\n 国麿は赤くなりて、\n「何よウ言ってんだい。おい貢、汝そんなこと言って可いのかな、帰途があるぜ。」\n 威されてわれはその顔を見たり。舞台は暗くなりぬ。人大方は立出ぬ。寒き風場に満ちて、釣洋燈三ツ四ツ薄暗き明映すに心細くこそなりけれ。\n「帰途があるって、帰途がどうしたの、国ちゃん。」\n 国麿は嘲笑えり。\n「知ってるだろう。鳥居前の俺が関を知ってるだろう。」\n 手下四五人、稲葉太郎荒象園の鬼門彼処に有りて威を恣にす。われは黙して俯向きぬ。国麿はじりりと寄りて、\n「皆知ってるぜ、おい、皆見ていたぜ。汝婦人とばかり仲好くして、先刻もおれを見て知らない顔して談話してたじゃあないか。そうするが可いや、うむ、たんとそうするさ。」\n「国ちゃん、堪忍おし。」\n「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可いや。じゃあ可いから、な、その座蒲団にちょっと己をのッけてくれないか、そこを退いて。さあ、」\n 国麿はヌト立ちつつ、褄取りからげて、足を、小親がわれに座を設けし緋鹿子に乗せんとす。止むなく、少しく身を退きしが、と見れば足袋を穿きもせで、そこら跣足にてあるく男の、足の裏太く汚れて見ゆ。ここに乗せなばあとつけなむ、土足にこの優しきもの踏ますべきや。\n「いけないよ。」\n「何だ......」\n 覚悟したれば身を交して、案のごとく踵をあげたる、彼が足蹴をば外してやりたり。蒲団持ちながら座を立ちたれば、拳の楯に差翳して。\n\n三\n\n「あら。」\n 国麿の手は弛みぬ。われは摺抜けて傍に寄りぬ。\n「いやです、いやです、あなたはいやです。」\n 緋鹿子の片隅に手を添えて、小親われを庇うて立ちぬ。国麿は目を怒らしたり。その帯は紫なり、その襯衣は紅なり。緋鹿子の座蒲団は、われと小親片手ずつ掛けて、右左に立護りぬ。小親この時は楽屋着の裾長く緋縮緬の下着踏みしだきて、胸高に水色の扱帯まといたり。髪をばいま引束ねつ。優しき目の裡凜として、\n「もし、旦那様、あの、乞食の蒲団は、いやです、私が貴方にゃ敷かせないの。私の蒲団です。渡すことはなりません。」\n と声いとすずしくいい放てり。\n「よく敷かせないで下さいました。お前さん、どこも何ともないかい。酷いよ、乱暴ッちゃあない。よくねえ、よく庇って下すッたのね。楽屋で皆がせりあって、ようよう私が、あの私のを上げたんですもの。他人に敷かれて堪るものかね、お帰りよ、お帰り遊ばせよ。あなた!」\n「何でえ、乞食の癖に、失敬な、失敬じゃあないか。お客に向ッて帰れたあ何だい。」\n「おからだの汚になります。ねえ。」\n とわが顔に頬をあてて、瞳は流れるるごとく国麿を流眄に掛く。国麿は眉を動かし、\n「馬鹿、年増の癖に、ふむ、赤ン坊に惚れやがったい。」\n「え、」\n と顔を赧らめしが、\n「何ですねえ、存じません。何の、贔屓になすって下さるお客様を大事にしたって、何が、何が、おかしゅうござんすえ。」\n「おかしいや、そんな小ッぽけなお客様があるもんか。」\n「あら、私ばッかりじゃありません。姉さんだッて、そういいました。そりゃ御贔屓になすッて下さるお客も多いけれど、何の気なしにただおもしろがって見て下さるのはこのお児ばかり。あなた御存じないんでしょう。当座ではじめてから毎晩、毎晩来て下すって、あの可愛らしい顔をして傍見もしないで見ていて下さるじゃありませんか。このお年紀で、お一人で、行儀よく終番まで御覧なすって、欠伸一ツ遊ばさない。\n 手品じゃアありません、独楽廻しじゃ有りません。球乗でも、猿芝居でも、山雀の芸でもないの。狂言なの、お能なの、謡をうたうの、母様に連れられて、お乳をあがっていらっしゃる方よりほか、こんな罪のない小児衆のお客様がもウ一人ござんすか。\n 目につきました、目立ちました。他のお客様にはどうであろうと、この坊ちゃんだけにゃ飽かしたくない。退屈をさしたくない、三十日なり、四十日なり、打ち通すあいだ来ていただきたい、おもしろう見せてあげたいと、そう思ったがどうしました。......\n ほんとうに芸人冥利、こういう御贔屓を大事にするは当前でござんせんか。しのぶも、小稲も、小幾も、重子も、みんな弟子分だから控えさして、姉さんのをと思ったけれど、私の方が少いからお対手に似合うというので、私の座蒲団をあげたんですわ。何も年増だの、何のって、貴方に、そ、そんなことを言われる覚えはない!」\n と太く気色ばみ言い開きし。声高なりしを怪みけむ。小稲、小幾、重子など、狂言囃子の女ども、楽屋口より出で来りて、はらりと舞台に立ちならべる、大方あかり消したれば、手に手に白と赤との小提灯、「て」「り」「は」と書けるを提げたり。\n\n四\n\n 舞台なりし装束を脱替えたるあり、まだなるあり、烏帽子直垂着けたるもの、太郎冠者あり、大名あり、長上下を着たるもの、髪結いたるあり、垂れたるあり、十八九を頭にて七歳ばかりのしのぶまで、七八人ぞ立ならべる。\n「どうしたの、どうしたの。」\n と赤き小提灯さしかざし、浮足してソト近寄りたる。国麿の傍に、しのぶの何心なく来かかりしが、\n「あれ。」\n 恐しき顔して睨めつけながら、鼻の前にフフと笑いて、\n「何か言ってらい、おたふくめ。」\n と言棄てに身を返すとて、国麿は太き声して、\n「貢!」\n「牛若だねえ。」\n とて小親、両袖をもてわが背蔽いぬ。\n「覚えておれ、鳥居前は安宅の関だ。」\n と肩を揺りて嘲笑える、渠は少しく背屈みながら、紅の襯衣の袖二ツ、むらさきの帯に突挿しつつ、腰を振りてのさりと去りぬ。\n「済まなかったね、みつぎさん、お前さん、貢さんて言うの?」\n「ああ。」\n「楽屋に少し取込みが有ったものだから、一人にしておいて飛んだめに逢わせたこと。気が着いて、悪いことをしたと思って、急いで来て見るとああだもの。よくねえ、そして、あの方はお友達?」\n「友達になれッていうのよ。」\n「おや、そう。しない方が可いよ。可厭な人っちゃあない。それでもよく蒲団を敷かせないで下すッた。それは私ゃ嬉しいけれど、もしお前さん疵でも着けられちゃ大変だのに、どうして、なぜ敷かせてやらなかったの。」\n「だッて、あんな汚い足をつけられると、この蒲団が可哀そうだもの。きれいだね、きれいな座蒲団、可愛んだねえ。」\n 真中を絞りて、胸に抱き、斜に頬を押当つるを、小親見て、慌しく、\n「あら、そんな事をなすッちゃ、お前さんの顔に。まあ、勿体ない。」\n とて白き掌もて拭う真似せり。\n「あのほんとに、毎晩いらっしゃいよ。私もついあんな事を云ったんだから、あの人につけても、お前さんが毎晩来てくれなくッちゃ極が悪いわ。後生ですよ。その代り、この蒲団は、誰の手も触らせないでこうやって、」\n 二隅を折りて襟をば掻あけ、胸のあたりいと白きにその紅を推入れながら、\n「こうやって、お守にしておくの。そうしちゃ暖めておいて、いらっしゃる時敷かせますからね、きっとよ。」\n「ああ。」\n「ほんとうかい。」\n「きっと!」\n「嬉しいねえ。」と莞爾として、\n「じゃあね、晩くなりましたから今夜はお帰んなさいな。母様がお案じだろうから。」\n 母はあらず。\n「母様じゃあないの。伯母さんなの。」\n「おや、母様ないの。」\n「亡くなったの、またいらっしゃるんだッて、皆そう云うけれど、嘘なの。もうお帰りじゃない、亡くなってしまったんだ。」"
}
]
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "\n だから、相対的空間(又時間)の概念は、普通想像されるように絶対的空間(又時間)の概念と、無媒介に、機械的に、対立しているのでは決してない。この場合の空間(又時間)の相対性とは、その絶対性と相対性との統一を意味している。かかる相対性を吾々は一般に弁証法性と名づける。空間(又時間)は、であるから、今や相対性理論によって、弁証法的なものとして理解されたのである。\n この特色が、空間と時間との間の関係に於ても、同様に見出されねばならぬことは云うまでもない。実際、相対性理論によれば、先に云った通り、二つのものは夫々の独立に於ては理解されることが出来ず、ただ両者の統一に於てしか把握されなかった。而もここで統一される空間と時間とは云うまでもなく混同されたり合一されたりすることを許さない、時間と空間はあくまで二つの対立物として残されている、――空間と時間との間の相対性とは、両者の間の弁証法である。\n\n 空間乃至時間の弁証法的把握は、空間と時間とを統一する概念としての運動の弁証法を結果しなくてはならない。相対性理論はそして、恰もこの要求を充している。――相対性理論は元来、運動の絶対性の否定から、歴史上出発している。甲に対して乙が運動していることは、乙に対して甲が運動していることと同一でなくてはならないということがその要請なのであった。甲の運動も乙の運動もだから相対的な優先権をしか持たない。両者はいずれも相対的である。だがそれだけではない、もはや甲の運動とか乙の運動とかいう、孤立した独立の運動は意味がない、運動とは或る意味に於て甲と乙との間の運動でしかない。甲の運動と乙の運動とは、甲と乙との運動として、統一される。この統一を現わすものが座標変換系――空間(又時間)座標の変換によって、甲の運動が乙の運動にまで融通される処の体系――なのである。\n 運動が或る意味で甲と乙との間の運動だとは云ったが、それは併し、甲とか乙とかという運動の主体がなくなると云うのではない。そういう現象論的な純粋運動――フィヒテによって提出されマッハ主義によって物理学的となった――の概念を要求しているのではない。運動するのはあくまで甲か乙かでなければならない。ただそのどれかで是非なければならないということがない、と云うまでである。甲でなくて乙が運動していると考えられる限り、運動は甲の性質ではなくてあくまで乙の性質でなくてはならぬ。絶対運動のモメントはここに救済されている。相対運動なるものは、実は絶対運動と之に対立する相対運動との統一概念に外ならない。\n このことは、運動の相対性が、特殊相対性理論に於てのように等速運動の場合を踏み越えて、一般相対性理論によって、等加速度運動乃至運動一般にまで拡張された場合、愈々明らかとなる。例えば重力による等加速度運動は、ニュートンによれば物質――物体(甲乃至乙)――の固有な性質であったが、それは甲なら甲という物体から離れることの出来ない性質と考えられる。夫が絶対運動である。処が一般相対性理論によれば、之が相対化されるというのである。――だが一般相対性理論によった処で、物質が物質でないものに変換される――消滅する――ことが出来ない限り、重力の場は変換し去られることが出来ないのだから、その意味ではこの運動はあくまでその絶対性を失わない。それにも拘らず、之は相対化される。即ち夫は空間の高度の歪みとして相対化されるのである。運動の相対性が、その絶対性を自分のモメントとして止揚していることが茲に見られないか。\n かくて相対性理論によれば相対的運動とは相対運動と絶対運動との対立に於ける統一として理解される(その形式は空間乃至時間の場合と全く同じである)。運動の相対性とは運動の弁証法性のことなのである。\n\n 運動の相対性の拡張徹底したものが一般相対性理論であることを云ったが、一般相対性理論によって物質の問題が最も中心の日程に登って来る(尤もすでに特殊相対性理論に於ても、物質の質量は相対化された)。先に重力の問題が這入って来ると云ったが、重力はニュートンによれば物質の固有な性質であった。夫が物質の問題に帰着する所以である。だが問題は、物質と空間(乃至時間)との関係として展開する。\n 仮にニュートン風の形而上学的な考え方を仮定すれば、物質はその周囲に重力の作用をたえず発散している。近世の物理学で云えばそこには重力の場が張られている。そこで一般相対性理論は、力の場の存在を空間時間の曲率の存在と同価物と見做す。そして物質自身の存在を、更に高度に複雑に曲率を有った空間域と見做すのである。物質の存在と之に直接に基くと考えられる重力は、要するに空間(時間)の曲率と等置される。物質も重力も特殊な空間(時間)――非ユークリッド空間――に外ならない。――だからもはや、何か空間があって、その中に孤立した物質が位置を占めているのではない、同じ空間(時間)が部分々々によって異った歪みを有っているに外ならない。空間と物質とは単純に救い難いように対立しているのではなくて、曲率の変換を媒介として統一的に連関しているのである。吾々はこのように媒介された統一物を、改めて場と呼ぶ。空間と物質とは場の概念に帰着する、場は空間と物質との統一物なのである。従来人々がエーテルと呼んだ存在――それは一切の物質らしい性質を欠いた物質という矛盾そのものであった――も、かかる場の概念によって初めて積極的な意味を得ることが出来る。――場の概念は空間と物質との弁証法的統一を意味する。無論之によって、物質が物質のない虚空間にまで消滅するのではない、物質を含む実空間はあくまで虚空間ではない。場の概念は一つの実空間の概念であるが、この実空間が実は虚空間と実空間との統一物に外ならない。――空間はこの点でも亦相対性理論によって弁証法的にしか理解されない。物質は従って弁証法的なものであらざるを得なくなる*。\n\n* 場の概念は独り重力に就いてばかりではなく、当然、一切の力に就いて成り立つ。電磁気の場に就いても吾々は同じことを繰り返すことが出来る。――処で一方力は一般にエネルギーに帰着するから物質乃至空間はエネルギーと相対的―弁証法的である。電子という物質の空間的存在は、エネルギーの電磁的存在に外ならない。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n このようにして人々は、相対性理論による所謂相対性が、実は吾々の言葉によれば弁証法に外ならないことを見ただろう。物理学者が之を弁証法と呼ばなかった理由は、単に彼等が、そういう哲学的範疇を知らないか、又はそういう範疇を用いることによって如何に普遍的で統一的な観点に立つことが出来るかを知らなかった、ために過ぎない。元来所謂相対性とは決してひたすらな相対性ではない、もしそうならば物理学は相対主義に陥る外はなかったろう。処が実は物理学が相対主義に陥らないためにこそ、相対性が取り上げられたのだということを忘れてはならない。と云うのは、空間・時間・運動等々の相対性は、外でもない、物理学的法則の絶対性を成り立たせるために必要だったのである。相対性理論は元来絶対主義――客観主義――を目指している、そして而も一遍に絶対主義に立て籠って了う代りに――そうすれば一切の相対的な見方は永久に放擲される――、相対主義を採用することによって、実践的にこの目標に逼まろうとする企てである。相対主義と絶対主義とのこの(実践的・過程的)総合・統一こそ、相対性原理の精神であった。――相対性理論は全く弁証法理論である。\n 物理学は相対性理論によって、一定の非弁証法的――吾々は夫を形而上学的と呼ぼう――段階から、弁証法的段階に推し進められた。その際之がどういう範疇の下で事実上意識されたかは今は問題でない。物理学に於ける根本概念――就中空間・時間・物質等々――がその際危機に臨んだかのように思われたのは、形而上学的思惟から弁証法的思惟への転換の、保守的苦痛の表現でしか無かった。弁証法的思惟によればこの危機はすでに乗り越えられた。意識すると否とに拘らず、之に依らない限り、物理学のこの進歩は、進歩として理解されない筈である。\n 併しながら吾々はこの結論に到着しながら、この結論が既成の物理学者や哲学者の好意と賛同を得るものだとは思っていない。第一に彼等はこう云って反対するだろう。相対性理論の何よりの功績は、夫が物理学を数学化・幾何学化したことである。物理学は之によって愈々方法的となり理論的となり、精密となることが出来た。処で――そう彼等は主張する――物理学が今や夫に帰赴して行く処のこの幾何学的・数学的方法は、決して弁証法的方法ではない。それ処ではなく之こそ最も内容のある形式論理学に依るものではないか。そして形式論理学は弁証法の正反対物ではないのか、と。だが吾々の答えは簡単で明白である。弁証法的思惟――弁証法的論理――は形式的論理と対立するが、決して之を無媒介に排斥しはしない、却って夫は形式的論理をその一つのモメントとして止揚している。ただ形式的論理の無条件な適用を排斥するに過ぎない。だから相対性理論によって物理学が数学的――形式論理学的――方法を愈々著しく活用するということは、何も夫が弁証法をそれだけ排斥することにはならない。却って実は、数学(幾何学)がこういう風に著しく活用されるということが、物理学が著しく弁証法的になることを、事実上結果するのである。形式論理学的な数学の適用は、それだけ弁証法を具体的にこそする*。――もしこういっても人々が承知しないならば、そういう人達は、科学の方法というものを、科学的研究を進歩させる動的な根本因子と見る代りに、科学の何か固定した抽象的な図式と考えているに違いない――前を見よ。\n\n* 数学化すということは云うまでもなく量化のことであるが、科学の方法が弁証法的でなければならないと公式的に飲み込んだ余り、科学の進歩は科学の方法を質化すことによって到達されると主張する者があるとしたら、夫は全く観念的な弁証家である。物理学の現実的進歩はそのような観念と何の交渉もなく行なわれて行くだろう。それはこういう「弁証家」は方法という概念を却ってかの物理学者や哲学者と同じに、全く非弁証法的――非歴史的にしか理解していないためである。\n\n 人々はなおまだ云うだろう。相対性理論が弁証法に外ならないと云った処で、夫で相対性理論が新しく展開するのではあるまい。だから之を弁証法と名づけようが名づけまいが一向事物には変りがない。弁証法は全く形式的な無内容な言葉に過ぎないではないか、と。――吾々はこう答える。弁証法は決して単なる言葉ではない。否単なる言葉であってはならない。そして――今の場合であるなら――物理学者がこの言葉を嫌悪する限り、それは言葉以上のものにはなれないだろう。弁証法を単なる言葉に終らせるかそれ以上のものとして役立て得るかは――併し弁証法は本当は科学の研究方法として積極的に役立つ筈のものである――、物理学者がこの言葉に嫌悪を感じるか好意を感じるかに依るということに、事実上なるだろう。問題の解決の責任は物理学者自身にあるのである。――だが物理学者は夫にも拘らず何故この言葉を嫌悪するのか。何故相対性理論を弁証法として性格づけては悪いか。少なくともこう性格づけなければ、物理学はその歴史的発展に於て、又其の他の諸科学との連関に於て、決して統一的に普遍的に把握されないにも拘らず。\n\n 併し科学者の背後には必ず哲学者が潜んでいる。優れた物理学者の背後には大抵拙劣な哲学者が匿れている。科学者や理論家は、こと哲学的範疇の使用となれば、いつもの統一と厳正との肩の凝りを下す習慣である。そこで彼等は全く悠々と併し途方に暮れて了う。そしてこういう気分に丁度相応したものが、多少与し易い限りの観念論的哲学である。\n あり振れた観念論によれば、相対性理論は物理学的世界を幾何学化す。それは即ち物質を空間化すことである。物質はかくて消滅する、だから唯物論の根拠そのものが消滅する。相対性理論は観念論の勝利である。――こういう単純で皮相な推理は全く愚である。吾々は云った、相対性理論によって物質は弁証法化した。物質が消滅したのではなかった。物質が消滅しない限り、彼等に従えば、唯物論は消滅しないということになるわけである。それに、弁証法が観念論に正当には結び付き得ないものだということは、ヘーゲル弁証法の批判を茲に適用すれば充分だろう。\n 併し物質の危機――唯物論の危機・観念論の名誉――のため、「近代物理学」はもう一つの証拠を加えたように見える。――相対性理論の問題と並んで、そして無論之と密接に結合して、原子構造の問題が従来から物理学者の関心の中心をなしている。ボールの原子構造のモデル――夫によれば原子は原子核を焦点として電子が回転する処の小宇宙的太陽系である――によって、この問題は一応落ち付いたように見える。之はプランクの熱力学に於けるエネルギー量子の説に対応する。処で物質は、相対性理論によればエネルギーと等値物であった。だからエネルギー量子の思想は当然に物質の量子の思想を支持することになるわけである。元来、原子とか電子とかいう最後の不可分の物質―― Atom とは之を意味する言葉である――を仮定することは、物質に就いての量子論的思想に帰着すると云って好い。処が問題は、同じく相対性理論によれば物質とは他方力の場にまで止揚されるべきものであった。そして場は元来、連続的なものでなければならないということである。で今や物質は一方に於て量子的――不連続的――性質を有ち、又他方では連続的な性質を有たねばならぬ、という矛盾に陥るのである。――吾々はこの矛盾を解くことの出来るような、より一般的な新しい量子論を必要とすることになる。\n 矛盾の解決の鍵は光の理論に関係して見出される。物質は古来(例えば原子説に於てのように)粒子説によって理解された。之に反して光は(ホイヘンスの理論によって)波動説によって説明されねばならぬということに落ち付いたように見える(之に先立ってニュートンは光の粒子説を採った)。前者は云わば不連続観に立ち後者は連続観に立っている。――処がアインシュタイン(乃至プランク)によって、この光(エネルギー)も亦光量子(エネルギー量子)を持つことが証明された。だからここでは光――夫は連続的であるべき波動である――は、何か不連続的なものでなくてはならない。光の理論に於けるこの矛盾を解くためには、そこで不連続的な波動という概念を導き入れる外はない。この新しい波動の概念によって、連続性と不連続性との矛盾は解消する。――さてそうならば、物質の概念に於て先程見た、かの連続性と不連続性との矛盾も、物質を一つの今云った新しい意味での波動現象と見做すことによって、解消されるわけである。で、ド・ブロイ(de Broglie)やシュレーディンガー(Schrödinger)は、その新しい波動力学に於て、物質を物質波だと考える*。実際物質波は、丁度光の波動と同様な殆んど凡ゆる諸性質を備えていることが、実験上たしかめられつつある。之が、新しい量子理論の取るべき形態だったのである。\n\n* ド・ブロイの画期的な仮説によれば、物質の固有エネルギーは、波動現象を成り立たせる振動のエネルギー要素と等値物である。かくて物質と波動現象とが等置される。――物質波は超光速度を持つ波動現象で、物体のもつ力学的な速度はこの物質波に於ける群速度に相当する(A. Haas, Materiewellen und Quantenmechanik, 3 Aufl., S. 24)。なおオリジナルなテキストとしては、L. de Broglie, Einführung in die Wellenmechanik(独訳), 1929; E. Schrödinger, Abhandlungen zur Wellenmechanik, 1927. を見よ。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n\nクーベリック Jan Kubelik\n\n クーベリックが日本を訪ねた頃は、もはや衰退期に入ってからで、その演奏は、若かりし頃の華やかさを偲ぶ程度のものに過ぎなかった。\n 今から二十年前のクーベリックは、全く鬼神のような大業師で、その名声は欧米楽壇を圧し、レコードの方でも、イザイエと並んで、あるいはそれ以上の人気を保ったことさえあるが、単なる技巧家であっただけに、その衰えも早く、一方私的生活のことから楽壇的生命にまでも禍を及ぼして、この五、六年間は、ほとんど消息を断ってしまったようである。\n レコードは旧グラモフォンとビクターに十数枚、イタリーのレコードに数枚入っているが、取り立てて言うほどのことはない。片面物の『ツィゴイネルワイゼン』や、『ザパティアド』などが、クーベリックの技巧を偲ぶによかろう。これは幾度も入れ直しているが、最後のものはコロムビアの歴史的記念レコードにあるから、興味を持つ人は聴くもよかろう。しかし決して正統的な興味の対象になるものではない。\n\n\n\n\n\nピアノ\n\n\n\nコルトー Alfred Cortot\n\n\n\n\n ピアニストのうちで、コルトーほど我々に親しみを感じさせる人はない。その演奏が適度にロマンティックで心に食い入る良さを持っているばかりでなく、我々長い間レコードをやっているものは、この二十年間、コルトーのために浮身をやつしたという思い出から来るなつかしさでもあろうかと思う。\n パデレフスキーを別格として、当代の現役的な大ピアニスト中、最も傑れた人を選んだならば、十人の九人まで、シュナーベルとコルトーを挙げることであろう。ドイツ風の手堅い技巧に、ユダヤ人の鋭敏な芸術感を持つシュナーベルと、フランス風の、少しロマンティックで、そして新時代の空気にふさわしい趣味と叡知を持って、典雅な線を感じさせるコルトーは、まことに面白い対照というべきである。\n 今でこそ、コルトーは大家中の大家であり、ピアノ・レコード中、最も興味の深い優れた作品の提供者であるが、震災以前のコルトーは、僅かにビクター・カタログの一隅に出現したばかりで、その数枚のレコードも、ほんの好事家たちの、通な蒐集の目的たるに過ぎなかったものである。\n それにもかかわらず、コルトーの魅力は強大であった。そのショパンの一、二枚、リストの『第二ハンガリアン・ラプソディ』、それから、ラヴェルの『ジュ・ドオウ』などは、我らの蒐集の王座を飾ったもので、その鮮麗なタッチと、豊かにして聡明な情緒の処理は、我らの耳には全くユニークな感激を齎したものであった。\n 当時、我らのあこがれは、一にも二にもコルトーであった。そのために判官贔屓に陥って、パデレフスキーを無視したり、ラフマニノフを憎んだりしたことさえあった。これらの大家たちは、コルトーと、あまりにも傾向が違っていたからである。コルトーのピアノの精練された趣味と、フランス風の鮮かな叡知に触れることは、我らの限りない喜びでもあった。同時に、コルトーの十数枚のレコードは、ピアノ音楽に対する我らの趣味を、どれだけ引き上げてくれたか解らない。当時の日本では、第一流のピアニストの演奏に接することなどは、全く夢のような望みであったからである。\n たどたどしいリストや、胸の悪くなるほど甘美なショパンや、呂律の廻らないシューマンに飽き飽きした我らが、コルトーの明皙鮮麗な演奏に接して、随喜し渇仰し、立ちどころにレコード万能主義者になったのもまた已むを得ないことである。この意味において、コルトーが我らに教えたことは、どんなアーティストより大きく、その感化が厳然として抜くべからざるものがあった。今日の中年ファンに、コルトーでなければ夜も日も明けないのが、――少数ながら残っているのはそのためである。\n\n 電気の直前に、ドビュッシーの『チルドレンス・コーナー』の入った時は、全く文字通り驚倒した。この演奏の見事さ、――ドビュッシーに対する理解の深さは、かつて我々の想像したあらゆる種類の演奏を、遙かに超えていたのである。この曲の一部分、例えば『ゴリウォークのケーキウォーク』などは、それ以前にもいろいろの人がレコードしているが、コルトーの演奏に比べると、あまりにも粗雑で、非芸術的でさえあった。\n 我らのコルトーに対する期待は白熱した。一九二五年頃、世は電気レコード時代になると同時に、コルトーの名曲、大曲が、相次いで入って来た。\n 第一番に入ったのは、ショパンの『二十四の前奏曲』(ビクター六七一五―八、名曲集二〇)であった。有名なレコード研究者の中村氏(NKM氏)がHMVの走りを輸入して、当時雑司ヶ谷に住んでいた私のところへ飛び込んで来たのは、昭和二年(一九二七年)の秋であったろう。二人は電気スタンドの下で、心耳を澄まして聴いた。第一番のハ長調の前奏曲の、溌剌とした美しさが、完全に私どもを魅了してしまった。第二番の怪奇なイ短調の前奏曲では、もう息詰まらせていた。三番、四番、五番と進むにつれて、あるいは妖艶に、あるいは清楚に、あるいは豪快に、あるいは優美に、一擒一縦、我らの心は曲とともに踊った。かつて、誰が一体こんなすばらしい前奏曲を表現し得たであろう――。\n 第十五番の『雨垂れ』、あの単調で不気味な前奏曲に至って、私たちは全く胆を潰していた。コルトーの演奏は従来のショパン学者の解釈とは全く違った観点に立ったもので、コルトーに従えば、この曲の意味は、病児を護る母親の悩みであり、死の手に対する恐怖である――が、とにもかくにも、その単純にして劇的な、一種不思議な恐怖は、惻々として背に迫り、一面一曲を聴き了って、私は額に滲み出した冷たい汗を拭くばかりであった。こんなつまらぬ(?)小曲を、あんなに効果的に弾き得る魔術は一体なんであろう。\n 大きな悲劇を終了した時のような、軽い疲労をさえ感じて、私と中村氏はただ顔を見合せるばかりだったのである。「これは驚いた」、「このエチュードの傑れていることは解っているが、こんな演奏が出来るものとは思わなかった」、二人はそんなことを言うよりほかに、纏まった考えも浮ばなかったのである。\n コルトーは必ずしもテクニシアンではないと野村光一氏は言う。それは本当かも知れない。単純なテクニシアンに、ショパンやシューマンが、そんな具合に弾ける道理はないからである。コルトーの演奏はテクニック以上だ。このすばらしい表現は、優れた芸術家の全人格と、聡明さと、そして優れた気稟との賜物でなくてなんであろう。\n コルトーは新たなる驚異を齎したのである。私どものかつて聴いたショパンは、あまりにも脆弱で甘美であった。それは病的でなければ稚拙で粗笨であった。しかしコルトーは違う。健康で優美で、線がくっきりと通って、時々豪壮でさえある。そのタッチは鮮麗だし、その旋律は言いようもなく美しい。理解と技巧と趣味と、三拍子揃った演奏でなければこれは望まれない。\n コルトーは若い時、指揮者として立つのが希望であった。十九世紀の末頃、当時世界を風靡したワグネリアンの運動に加わり、大志を抱いてドイツに遊んだことさえあったのである。コルトーが二十世紀の初頭ピアニストとしてより、むしろ指揮者として雄飛したことは、むしろ当然のことで、理論家として、幾種の音楽研究論文を発表しているのもまた偶然ではない。\n この経歴が、コルトーを偏狭なる一ピアニストとして満足せしめなかったのであろう。その見聞は広く、その抱懐は高い。フランス人の臭味を去り、偏狭を洗い落し、その見識の上に、その演奏の上に、明るさと自由さを、そして何より聡明さを添えたのは、コルトーの青年時代の修業の賜物であったと見るべきである。\n『二十四の前奏曲』と前後して、ショパンの『譚詩曲=ト短調』やウェーバーの『舞蹈への勧誘』やリストの『ハンガリー狂詩曲第二番』が出た。ショパンの『揺籃歌』や『円舞曲=嬰ハ短調』もその頃であるが、いずれも恐るべき吹込みで、今日のレコードに比較すべくもない。しかし、その演奏にはコルトーの黄金時代の若さが、得も言われず匂っているのをなつかしむ人も少くあるまい。\n 続いて入ったのは、ドビュッシーの『子供の領分』(ビクター七一四七―八)の入れ直しであった。この演奏の見事さは、『二十四の前奏曲』の時の驚きをまた新たにしたほどである。ドビュッシーをこれだけ美しく、これだけ上品に弾ける人は、当代ピアニスト多しといえども、断じてあり得ない。これこそ珠玉を並べて弾ずる天女の音楽にたとえてもいい。ドビュッシーのピアノ音楽の美しさは、コルトーの演奏によって満喫させられると言っても差支えはない。寒々と身に沁む雪片の踊り、おどけたようなゴリウォークの踊り、すべてが詩であり、活きた絵画であった。\n\n その後のコルトーの飛躍は世にも目ざましいものであった。ことごとくのレコードが、ピアノ音楽好きを夢中にさせるに充分であったと言ってもいい。その中で最も優れたものを、挙げて見るとしよう。(コルトーのレコードは全部ビクターから出ている)\n まずシューマンの作品からは、\n\n『交響的練習曲』(作品一三及び遺作)\n(七四九三―五、名曲集一二二)\n『謝肉祭』(作品九)\n(JD七五一―三、名曲集六一〇)\n『ピアノ協奏曲=イ短調』(作品五七)\nロナルド指揮、倫敦フィルハーモニック管弦団\n(JD三四七―五〇、名曲集五三二)\n『幼き日の思い出』(作品一五)\n(JD八四〇―一)\n『クライスレリアーナ』(作品一六)"
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"content": "(JD九五一―四、名曲集六四五)\n『胡蝶の舞』(作品二)\n(JE九七―八)\n\n コルトーは青年時代の一部をドイツで過し、ドイツ音楽の研究に没頭したことは前にも書いた。コルトーのシューマンは、その頃の研究の賜物で、コルトー自身「若い時の仕込み」を誇ってもいるということであった。\n コルトーのレパートリーは、狭いのを以て有名だが、そのかわり、自分の十八番物に対しては、ぎりぎりのどん底まで突き詰めた研究をし、常に新しい生命を盛ることを心掛けているらしい。コルトーのシューマンが、そのショパン、フランク、ドビュッシーと共に、他の追随を許さざる境地を持っていることは、大方の知っている通りだ。\n コルトーのシューマンは、気むずかしいシューマンでも、気狂いじみたシューマンでもない。そのスタイルは明快で、その気分は常に明るい。多くのピアニストのような、シューマンをこね廻すことは、コルトーの気質や趣味が許さないのであろう。\n『交響的練習曲』は厄介なむずかしい曲だ。レコードにもいろいろの人のが入っているが、結局こね廻して薄暗くして、――ちょうど下手な絵描きが、絵具をこね廻して、画面を真暗にするように――手のつけようのない面白くないものにする場合が多かった。が、コルトーは違う。このレコードは、相当古い吹込みではあるが、いわゆる小股の切れ上った、鮮麗なくせに、説明のよく届いた表現で、私の知っている限りでは、肩を並べるものもない出来である。\n『ピアノ協奏曲』は、英国吹込みというハンディキャップを持っているにかかわらず、壮麗極まる演奏である。この曲の演奏におけるコルトーの頭のよさは、管弦楽との関係において、随所に指摘されるだろう。\n『幼き日の思い出』はシューマンの全作品中でも愛すべきものである。この簡素な技巧と邪念のない趣味は、シューマンを憎む人でもほほえまずにはいられないだろう。レコードにはいろいろの人が入っているが、誰でも弾けるくせに、コルトーのを聴くと、ほかにうまいものは一つもないような気がしてしようがない。驚くべき童心の詩である。大人が子役の声色を使うような、畸形的な作品は一つもない。清透明朗な、そのくせ含蓄の深い、物悲しいほどの美しさである。\n『クライスレリアーナ』は『幼き日の思い出』に対照すれば、まさに大人の劇詩とも言うべき曲だろう。原曲は幾分皮肉で晦渋ではあるが、コルトーの演奏は、征服的で世にも美しい。『胡蝶の舞』はシューマンの初期の作品で、面白いものではあるが、さして重要なレコードでない。\n 右のうち、私は『謝肉祭』と『幼き日の思い出』を一般の人にすすめよう。『ピアノ協奏曲』と『交響的練習曲』は非常に優れたものだが、特別の興味に訴える点が少くない。以上四曲、いずれも吹込みは新しくないが、コルトーとしては代表的なものだ。\n ショパンのものでは、\n\n\n\n『二十四の前奏曲』(作品二八)\n(六七一五―八、名曲集二〇)\n『二十四の前奏曲』(作品二八)入れ直しの分\n(JD三八七―九〇、名曲集五四〇)\n『バラード曲集』\n(七三三三―六、名曲集九四)\n『練習曲』(作品一〇)\n(JD二九九―三〇一、名曲集五二四)\n『練習曲』(作品二五)\n(JD四三一―三、名曲集五四八)\n『円舞曲』\n(JD四三四―九、名曲集五四九)\n『ピアノ協奏曲第二番=ヘ短調』(作品二一)\n(JD七九四―七、名曲集六二〇)\n『幻想曲=ヘ短調』(作品四九)\n(JD三三〇―一)\n『ピアノ奏鳴曲=ロ短調』(作品五八)\n(DA一二〇九―一二)\n『ピアノ奏鳴曲=変ロ短調』(作品三五)葬送ソナタ\n(JD三〇六―七)\n『即興曲第一番=変イ長調、第二番=嬰ヘ長調、第三番=変ト長調、即興幻想曲=嬰ハ短調』\n(JD二六四―五)\n『バルカロール=嬰ヘ長調』(作品六〇)\n(JD五〇九)\n『ポロネーズ=変イ長調』(作品五三)\n(JD五五三)\n『ヴァルス=変イ調』(作品六九ノ一)\n『タランテラ』(作品四三)\n(DA一二一三)\n\n\n ほかに前掲『円舞曲=嬰ハ短調』『揺籃歌』『バラード=ト短調』等が入っているが、これは電気の初期のもので、吹込みがいかにも古い。\n『二十四の前奏曲』は二度レコードされた。その間約七、八年の距たりがあり、コルトーの演奏態度や、解釈の変化推移を窺うためには、極めて重要にして興味の深いレコードとされている。\n 前に吹き込んだ『二十四の前奏曲』は、当然録音技術が幼稚で、そのレコード効果が甚だしく妨げられているが、コルトーがまだ五十歳そこそこの演奏で、若さと弾力と、そして覇気と芝居気との生々しさが興味である。あの演奏だけを聴くと、コルトーのピアノは全く満点的である。これ以上は吹込技術を良くするより外に問題はあるまいと思われるほどだが、その後に入った同じ曲を聴くと、コルトーは華やかな表現を捨て、劇的な盛り上げを嫌って、甚だしく思索的に、苦渋の趣をさえ添えている。\n 多くの人はあれを聴いて、「コルトー老いたり」と歎じた。それも一面の真理である。コルトーはこの時、六十歳近くなっていたのである。しかしコルトーともあろうものが、自分の老衰を意識しない筈もなく、それを意識しつつ、吹込料を稼ぐために、同じ曲を、見す見す下手に演奏して吹き込むものとは断じて思われない。演奏会の一回こっきりの演奏と違って、これは直ちに比較されるものである。比較しない方がよっぽどどうかしている演奏である。\n こう常識論を振り廻すまでもなく、コルトーが二度同じ曲をレコードする以上は、そこに何か恃むところがあり、前のものより後のものが、当然優れていなければならぬ筈ではないだろうか。\n が、議論はどうであろうと、多くの人たちは、素人のファンばかりでなく、専門的な音楽の批評家でさえ、しばしば前の吹込みの方に団扇をあげるのはなんのためであろう。そのロマンティックな誇張、劇的な盛り上げ、そして、若々しい弾力、歯切れの良い技巧、そういったものの総計が、内面的に掘り下げて、やや苦渋の色濃くなった、後の『二十四の前奏曲』以上に興味と魅力を感じさせるのであろう。私はその両方に重要性を認めるが、一方だけどうしても捨てなければならないと決った場合は、恐らく古い吹込みの方を蒐集に残して、新しい方を割愛するだろう。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一時ごろ、横浜の興行師が来たので、座長、夢之助、彼の三人で料理屋へ招いて、興行を打ち合せ、三時ごろ小屋へ戻ると、荷造りは全く終っていた。彼は一度ヒサを見て抱きついただけで、その後は全く見ていない。\n 彼は荷造りの座員をねぎらうため、酒を買わせて楽屋で酒宴をひらき、明るいうちに大虎になって、みんなと寝こんでしまった。目がさめた時は夜の十時ごろで、彼だけそッとぬけだしてわが家へ戻ったのである。尚、彼は劇団からは一文も受けとらず、かえって金を持ちだしているほど劇団につくしているのである。以上が小山田の陳述であった。\n 彼の陳述は座員によって証明された。彼はたしかに一同と酒宴をひらき酔いつぶれて楽屋にねこんでしまった。しかし、酒宴の一同も相前後して酔いつぶれ、後のことは分らない。尚、大部屋の連中は年中楽屋に寝泊りしていた。彼らには定まる家がないのである。\n 新十郎は死体を入れた行李を示して、\n「これは君の劇団の物と違いますか」\n「これは古い行李ですなア。僕のところでは、はじめての旅興行で、大方新品、こんなのは無かったようです。しかし、この型の行李は芝居小屋ではよく使う物ですから、近所の小屋のものかも知れませんなア」\n「中橋が芸人あがりであることや、夢之助が倶に渡米した芸人の娘だということは、本当ですか」\n「結城新十郎ともあろう物識りが、それを御存知ないとは恐れ入りましたなア。芸人雑記という本の『川富三与吉』の項目を読んでごらんなさい。この警察署の前の貸本屋にもあるでしょうよ」\n そこで新十郎は貸本屋からその本をとりよせた。行方不明の中橋英太郎について知る必要があったからである。そこに誌された記事は又もや甚だ意外きわまるものであった。その記事は次の通りである。\n\n 川富三与吉。軽跳。明治四年米人ハリマンに招かれて渡米す。一行次の如し。\n 軽跳。三与吉。妻ハナ。\n コマ廻し。松井金次。妻小まん。娘フク八歳(コマの中に入る)ツネ五歳。倅良一当歳。\n 軽跳。梅之介。手妻。同人妻柳川小蝶。連れ子ヤス五歳。\n 綱渡。浜作。三味線。妹カツ。カツの娘スミ四歳。\n 曲持足芸。慶吉。右上乗。三次。後見三太郎。妻ミツ。倅参次三歳。上乗又吉。笛吹。当松。妻ロク。娘アキ六歳。倅国太郎二歳。太鼓打。正一。妻ボン。倅馬吉当歳。\n 手妻。柳川蝶八。手妻。同人妻金蝶。娘ラク三歳。\n 四月十一日横浜出帆。追々各地を廻り、同年暮サンフランシスコ興行中、銀主三与吉の家族多勢なるを好まず、演芸に必要なる者を残し、他を船にのせて送り返さんとす。三与吉怒りて銀主を殺害せんとして大負傷を負わしめ彼の地の警官に捕縛せられたるに自殺して果てたり。一同途方にくれたるに、軽跳の梅之介は心ききたる者なれば、新に蝶八を長として一団をくましめ、己れは彼の地の商社に入りて実業を学ばんとす。時に妻柳川小蝶を離別し、かねて懸想せる三与吉の後家をめとりて一団を離る。浜作の妹カツも情を通ぜる仲なれば梅之介を恨み自殺して果てんとして遂げざりしという。梅之介、本名、英太郎、今日中橋商事の社長にして貿易界の一巨材たり。蝶八は一団を率いて南米北米を打ち廻りあまた艱難を重ねたるのちブラジルの地に客死せり。時に明治七年なり。取り残されたる一団は解散し、金次、慶吉らは本国に帰着せるも、彼の地に窮死せる者、行方知れざるもの多し。小蝶は黒人と結婚して曲馬団に加わり七八年がほど欧米を巡業せるも、のち失明して黒人にも捨てられ、娘ヤスにまもられて悄然帰国せりという。カツは梅之介の尽力により娘スミと共に他に先立ちてすみやかに帰国のかないたるは梅之介の罪ほろぼしにや。されど難路の疲れなるべし。帰国まもなく病を得て死せり。スミは叔母梅沢梅子に育てられ今日梅沢夢之助を名乗りて女剣劇の名花たり。\n\n まことに異常な記録である。夢之助の母カツは中橋の芸人時代に情婦の一人であり無情を恨んで自殺未遂の経歴があるわけだ。それにも増して意外なのは、黒人と結婚して曲馬団に入り失明して捨てられたという柳川小蝶である。これぞヒサの召使いヤスの実母であろう。中橋がわずかの仕送りを与えて細々と暮しをたててやったも道理、一度は彼の妻たりし小蝶、連れ子のヤスは中橋を父とよんだ幼い時期もあったわけだ。\n 新十郎はしばし感慨に打ち沈んだが、ヤスをよんで、\n「お前はいくつの年にアメリカから帰ってきたのかね」\n と、だしぬけに問うと、ヤスは吃驚したが、\n「十三の年でございます」\n 蚊のなくような声で答えた。\n「お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね」\n「覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!」\n「そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか」\n ヤスは呆然、目を皿にしたが、\n「いいえ。気がつきませんでした。そういえば面差しが残っています。一しょに遊んだのは六ツ七ツの頃ですけど」\n 夢之助をよんで、ヤスを記憶しているかと問うと、夢之助は首をふって否定した。彼女は当時、あまりに幼かったのであろう。\n\n ★\n\n 常見キミエが連行されてきた。その陳述は次の通りである。\n 彼女は中食後本郷の宿舎をでた。六区へ着いたのは一時ごろ。二時ごろ荒巻の姿を見かけて飛龍座へ追ってはいり、夢中で硫酸をなげつけて逃げた。探偵が自分の跡を追っているような気がして寸時も心の休まる時がなく、宿舎へ戻ればそこに探偵が待ちぶせているように思われ、彼方へ歩き此方へ曲りして、どこを歩き、どこをさまよったか、よくも記憶していないが、最後にどこかよく知らない寄席で時間をつぶして、深夜宿舎へ戻ってきた。キミエの陳述は以上の如く、てんで雲をつかむようであるが、罪を犯して逃げる者の心理としては、甚だ当然なことでもあった。\n 新十郎は再び荒巻をよんで、\n「君は先刻、ヒサと結婚することを夢之助が了解しているように言ったが、夢之助はそうではないと言っているよ。夢之助の語るところでは、結婚の相手は自分で、君はヒサに愛想づかしをされていると云うではないか」\n「いえ。そんなことはありません。ヒサは私を追って四国へくることに話がきまっていました。ただ、時期と方法の問題をあれこれ相談していたのです」\n「それはおかしいねえ。君は三十日の夕方にも夢之助と酒をくみ交しつつ結婚の時期と方法を相談したと夢之助は言っているが、同時に二人の女と同じことを相談していたのかね。ここへ夢之助をよんでくるが、君は今の言葉を復誦するだろうね」\n「いえ。ちょッと待って下さい。たしかに二人じの女と同じことを相談していたのです。ですが、夢之助と語る場合は本気ではありません。一時のがれなのです。なんとかしてヒサが先に四国へ来るように、夢之助がおくれるようにと、そこに苦心していたのです。一足先にヒサと結婚してしまえば、キミエのような嫉妬深い女とちがって、夢之助は案外アッサリあきらめるような女なのです。ですが、これはナイショですから、夢之助の前で、こうは言いたくないのです」\n「ヒサが死んだから、今度は夢之助にかかりきるというわけかね」\n と、新十郎は珍しく苦々しげに皮肉を云った。\n 連行した容疑者一同は署に泊めおくことにして、新十郎がでかけたところは、根岸の夢之助の妾宅であった。召使いをよんで、\n「十一月三十日に、夢之助と荒巻の両名が揃って戻ってきた筈だが、それは何時ごろだったね。楽の翌日の荷造りの日だよ」\n「ハッキリとは覚えていませんが、夕方ちかいころでしたね。これで一段落、忙しい用がすんだ、と、すぐお酒盛でした。まだ日のあるうちに、疲れた、疲れた、とおやすみでしたよ」\n「寝室は二階だね」\n「旦那がお見えになると二階が寝室ですが、荒巻さんと御一緒の時は、そこの離れのような小部屋でございます。玄関からはどこよりも離れていますし、雨戸をあけると、誰にも見られず裏木戸へ抜けられます。荒巻さんは帽子も靴も荷物も一切合切この離れへ持ちこんで、イザと云えば逃げだす用意をととのえて、おやすみになるんですよ」\n「二人はグッスリねていたかね」"
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"role": "assistant",
"content": "「そんなことは知りやしません。ただ夜の十時ごろ水をと仰有ったので、お届けしましたが、荒巻さんの方は眠っていました」\n「その晩、中橋さんはたしかに来なかったのだね」\n「たしかにお見えになりません」\n 最後に新十郎は浅草六区の地に立った。飛龍座をはじめ、小屋の一ツ一ツをメンミツに見て廻る。全部見て廻ってから、飛龍座の隣りの休業中の小屋へもう一度戻ってきた。飛龍座の楽屋口から、こっちの楽屋口へ細い路を距ててすぐ渡れるような構造であった。\n 彼は番人をよんで、\n「この小屋はズッと休んでいるのかね」\n「ヘイ。とりこわして、新しい小屋をたてるとかでね。常盤座とかいう浅草一の立派な小屋をつくるとかいうことで」\n「留守番はお前だけか」\n「ヘイ。ほかに女が一人いますが、こんな何もない小屋のことですから、留守番なんぞいらないようなもので。お天気の日はあッしも女房も日中はたいがい働きにでて、帰ってくるのは夜の八時ごろでさア」\n「小屋の戸は鍵をかけるのか」\n「いえ、鍵なんざ、ありません。内側からカンヌキはかかりますが、それは夜だけのことで。自分の部屋の戸の鍵をしめるだけでタクサンさね。盗られるものは何もありやしませんや」\n 新十郎は大道具の材木がつんであるところへきて、その片隅に五ツ六ツならんでいる古ぼけた大行李を指した。\n「この行李の数が一ツ減ってやしないか」\n「そうですねえ。そう云えば、なるほど、以前は七ツあったかね。するてえと、一ツ減ったかも知れないね。なに、空ッポで、中には何もはいってやしませんので」\n 新十郎は下を見廻して、\n「フム。一寸釘が至るところに散らばっているなア」\n 独り言をもらしたが、彼の目は一点ももらさぬようなきびしさで、小屋の中を隅から隅まで見て廻った。\n 彼は一点を指した。\n「ここに何かをひきずッた跡がある。出口へ向って三間ほども。何がひきずられたか」\n 彼は人々の顔を見廻して笑った。そして叫んだ。\n「死体をつめた行李!」\n\n ★\n\n その晩、花廼屋と虎之介が新十郎の書斎へ遊びに行くと、彼は机上の白紙に図面をひいて、先客のお梨江と二人考えこんでいた。見ると、上野だの本郷だの浅草だのと書きこんだ図面であった。\n 新十郎は図面を四人の真ン中へひろげて、説明をはじめた。\n「ヒサが自宅を出たのが午前十時半。飛龍座へ到着したのは十一時ごろでしょう。飛龍座へ到着匆々小山田に抱きすくめられて夢之助の部屋へ逃げこみ、ちょッと伏せったのですが、ヤスが主人の姿が見えないと云って騒ぎだしたのが午後一時ごろ。してみると、十一時から一時までの二時間の間に、ヒサは殺されて行李詰めにされたようです。これは先ず確実と思われます」\n 一同に異議がないらしいので、新十郎は語りつづけた。\n「一人の女、もしくは女装した男のいずれかが、その日の夕方六時ごろ、とっぷり日のくれた上野の山下で音次という車夫をよびとめました。帝大裏と不忍池の間の淋しい道で音次にクロロホルムをかがせて昏倒させ、女装をぬいで男の車夫に変装して車をひいて走りだすまでに、三十分はかかりますまい。犯人は車夫の姿で車をひいて一散に駈け戻ります。行く先は浅草。飛龍座の隣りの小屋です。一時間なら楽々到着できます。行李をつんで再び同じ道を戻ります。まだ七時半にはならなかったでしょう。かくて約一時間。八時半ごろ、本郷真砂町の中橋別邸へ到着しました。その玄関へ行李を下すと、帝大構内の淋しいところへ車をすてて、車夫の服装をぬぎ、持参の紳士服をきて外套をつけ、ハットをかぶり、忽ち青年紳士に変りました。さて、出発当時の女装一式を包みにしてたずさえた彼もしくは彼女は、急ぎ足に切り通しを降り、九時ちょッと廻ったころに上野広小路でモーロー車夫の捨吉によびかけました。捨吉は彼の奇妙な命令を体して真砂町の中橋別邸へと急ぎ去る。これで犯人のその日の行動は終りをつげたのです」\n 虎之介はクビをふって、\n「音次をよびとめた女と、捨音をよんだ男とは、別の人間さね。ただし一心同体ではあるが、な。失礼ながら、あなたはまだお若い。男女の道に心得がなくては正しい推理をあやまりますぞ。なア、お梨江嬢。結城さんを名探偵に仕込むためにヨメを探してあげたいと思うが、どうだろう」\n そこへ古田老巡査が慌ただしく駈けこんできた。\n「只今警視庁から急報がありましてな。中橋英太郎が腐爛した死体となって隅田川の言問のあたりへあがりましたぞ。水死ではなくて、クビをしめられて死んでおったそうです」\n 新十郎はガク然色を失って立ち上った。\n「シマッタ! 推理が狂ったか! イヤ。待て、しばし」\n 彼は直ちに冷静をとりもどした。すばやく服装をととのえ、一同は馬を急がせて現場へ急行する。新十郎は火を吐くような目で、中橋の死体を睨みつづけていた。\n 彼は怒り声で叫んだ。\n「この犯人はヒサを殺した犯人と同一人です。ごらんなさい。二人は同じように死んでいます。そう苦しくもなかったように。殆ど抵抗した様子もなく。つまり、二人ともクロロホルムをかがされてから絞殺されているのです」\n 彼はすぐふりむいた。\n「さて一夜、ゆっくり考えてみましょう。明日の午後、犯人を捉まえようではありませんか」\n 一同をうながして帰途についた。神楽坂へ戻りついて、門前で虎之介と別れるとき、ニッコリ笑って、ささやいた。\n「音次がのせた女と、捨吉に用を云いつけた男は、たった一ツですが重要な点で類似しているのです。二人とも、カサばってはいるが、そう重くはないような包みを持っていたのです。では、おやすみ」\n\n ★\n\n 氷川の勝邸で海舟の前にかしこまっているのは云うまでもなく虎之介。太陽もあがらぬころから、勝邸の門があくのを待っていたという慌ただしい駈け込み訴えである。\n 日毎々々の報告を連日怠りなく講じておいたから、ちょうど読みきり講釈のデンで、ただ今最終回をつとめ終ったところ。まだ日はそう高くはない。奴め握り飯を腰にぶらさげてきて海舟の朝食に御相伴したらしく、彼のお膳の横には竹の皮がちらかっている。\n 海舟は食後の茶を味わい、再び砥石に水をしめしてナイフをといだ。静かにとぎ終って、薄い刃に吸いこまれるように眺めふけっていたが、チョイと蚊でも払うような軽さで小手を後にまわしたと思うと、後頭をきり、懐紙で血をふいた。それを数回くりかえしたが、やがて、おもむろに謎をといてきかせた。\n「新十郎の説の如くに、この犯人はただ一人、共犯はないぜ。上野山下と広小路に出没した男女二人いずれも同じような大きな荷物を持っていたのが同一人の証拠だよ。この犯人は、夢之助さ。女剣劇の立役者、車夫にも美男子にも化けるのは自由自在というものだ。かほどの苦心を重ね術をつくして死体詰めの行李を運びだしたのは、殺した場所と時間を狂わせるため。又、犯人を男と見せかけるため。本郷を中心に行李が往復している如くに見せかけたのは、大方小山田の犯行と思わしめるコンタンでやったのだろう。かくの如くに術を施しおかなくちゃア、ヒサは夢之助の楽屋部屋で行方知れずなったのだから、まず第一に疑られるにきまってらアな。そこを見てのカラクリだ。夢之助は幼少より芸人の中に育ち、軽業手妻を見つけて育っているから、指先の捌きはコツをわきまえ、クロロホルムをあやつるぐらいは器用にやってのけたろうさね。夢之助は午後の三時すぎに荒巻をともなってわが家へ帰り、時ならぬ昼酒を飲んだのは早寝と見せてぬけだすため。ねむると見せて荒巻にはクロロホルムをかがせたのち、裏木戸から忍びでたのさ。広小路で捨吉に命じて中橋別邸へ行李をとりに走らせ、予定の仕事を無事完了したのが九時ちょッとすぎたころ。再びわが家へ忍びもどって元のネマキ姿となり、女中に水を命じたのは芸の細いところで、ズッとねていたと見せるためだ。ここに哀れをとどめたのは、中橋英太郎さね。ヒサの妾宅を車のくるのを待ちきれずとびだしたのが十一時ちかいころ、根岸の夢之助の妾宅へたどりついたのが、かれこれ十二時ちかい刻限であったろう。中橋の不意の訪れに仰天したのは夢之助だ。荒巻にはクロロホルムをかがせてあるから、かねて用意の如くに裏から逃がす術がねえや。これは仰天するだろうさね。女中がグッスリ寝入りばなで目を覚さないのを幸いに、毒くらわば皿までと表へまわってクロロホルムでねむらせて絞殺したが、この死体は縁の下かなんぞへ一時隠しておいて、その翌る夜、ゆっくり処理したものだろう。憎いヒサを片づけ、あつらえむきに中橋の始末もつけて、これで天下晴れて荒巻と添いとげたい夢之助の方寸だろうが、中橋がヒサの母に夢之助の妾宅へ参るとハッキリ言明しているのは天の声、実に不正はおのずから破れるものだ。いかに万全を施しても、一人の智恵は所詮知れたものだよ」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "報告(ウルトラマリン第一)\n\nソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時\n外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ\nソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ\nソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ\n\n≪血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル\n\n北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――≫\n\n暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ舌ヲダシテ\nヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト アトハ\nサガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク\n凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ\n馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ\n風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ \n野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鉄柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ\n絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ\n苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ\nアラユル地点カラ標的ニサレタオレダ\nアノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覚デアツタラウカ\n弾創ハスデニ弾創トシテ生キテユクノカ\nオレノ肉体ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ\nアア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル\nタダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ\nソノ時オレハ歩イテヰタ\nソノ時オレハ歯ヲ剥キダシテヰタ\n愛情ニカカルコトナク 㳽漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ\nオレノヤリキレナイ\nイツサイノ中ニ オレハ見タ\n悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ\nアゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ\nスベテ痩セタ肉体ノ影ニ潜ンデルモノ\nツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ\n\n≪ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付\n\nウルトラマリンノ底ノ方ヘ――≫\n\nイカナル真理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ\n今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ\n\n\n兇牙利的(ウルトラマリン第二)\n\nレイタンナ風ガ渡リ\nミダレタ髪毛ニ苦シク眠ル人ガアリ\nシバラク太陽ヲ見ナイ\n何処カノ隅デ饒舌ルノハ気配ダケカ\n毀ワレタ椅子ヲタタイテ\nオレノ充血シタ眼ニイツタイ何ガ残ル\nサビシクハナイカ君 君モオレヲ対手ニシナイ\n窓カラ見ル野末ニ喚イテル人ガアリ\nソノ人ハ顔ダケニナツテ生キテユキ ハツハ\nオレハ不逞々々シクヨゴレタ外套ヲ着テル\n酔フタメニ何ガ在ル\n暴力ガ在ル 冬ガ在ル 売淫ガ在ル\nミンナ悪シキ絶望ヲ投ゲルモノニ限リ\n悪シク呼ビカケルモノニ限リ\nアア レイタンナ風ガ渡リ\nオレノ肉体ハイマ非常ニ決闘ヲ映シテヰル\n\n\n死ト現象(ウルトラマリン第三)\n\n雲母ノ下ノ天末線\n曝サレテヰル骨ノ自暴\nソコニ死ノヤウナモノガアル\nヤミガタイ息ヅマル堅勒ノ胸盤ガアル\n ≪硝子ノ翼・硝子ノ血 コノ感情ニナダレコム冬≫\n透明ノ底ニ拡ガルモノ 滲ミ入ルモノ\n機械ノ一点ニ恒ニレイゼント狙ハレテアルモノ\nアア世界ヲ充顛スル非情ノ眼ヨ\n君ハ見ルカ 君自身ノ狂遇ヲ蹴落スコトガ出来ルカ\n君ノ内部ニ氾濫スルマラリアノ愛 ソレスラモナホ季節ハ残シテユク\nウルトラマリンノ風ガ堕チ\nウルトラマリンノ激シイ熱ノ勃ルトコロ\nヤガテハ燃焼スル\n彼処荒茫タル風物ノ奥デ ソノスルドキ怒リニ倒レテアルモノハ何カ\n俺ハ感ジル 石炭ノヤウニツライ純潔ヲ ソノ火力ヲ\n俺ハ知ル 海豹ノヤウニ歯向フ方角ヲ ソシテ今\n冬ハアレラ傷メル河河ニ額ヲヌラシテヰルノダ\n北地ノバリバリシタ気圏ノナカ ソノキビシイ肩ヲスベリ\n際涯トホク沈ム汽車ノ隅カラ俺ハ遙ルカナ雲ヲ測ロウ\n\n ★\n\n凄イ暴力ハナイカ\n自分ヲ視ルコノ瞬間ハ恐ロシイ\nソレハ苦痛ヨリモ絶体デアル 風ニ靡ヒテ何処ヘ往ク\n原因ノアル処ニ生キテ逆転セザル妄想ヲ深メテ生ノ荒々シイ殺倒ノ底ヘ\n\n ★\n\nタトエナキ抛物線ノ挺転 流レ去ル粗悪ノ地理・停車場\nコノ重々シイ空間ニ懸垂スルモノ 充血スル顔ヨ\nナントイフ極度ノ貧困デアラウカ\n傾ムク黒イ汽車ノ一隅 ソコニハナンノ夢モナイノダ\n俺ハ君ヘ語リカケ 君ハ横ヲ見テ微笑スルバカリデアラウカ\n十二月・雲母ノ下ノ天末線鉄ノヤウニソレハ\n背ヲ向ケル無表情 天来ノ酷薄\n\n\n曝ラサレタ歌\n\n殷賑タレ\n歯モ露ハニ眠ルモノ\n死ノヤウニ跨ガル コノ大街道ノ屋根ニ沍エテ\n告ゲルコトナク家ヲ奔リ 告ゲルコトナク奔リユケヨ\n精神稀薄ノモノ 憂欝デ扁平ノモノ 情操ナク可憐ノモノ ソノ哀情ノ毒ヲ払ヘヨ\n煌メク狂妄ノ全身ニ 足ヲ踏ミ外ストコロ 無辺ノ愚行ヲ拍手サレヨ\nイツサイハ其ノ中ニ在ル 経験ト認識ヲ超エテ 彼等ハツネニ饒舌ヲ極メル\n大街道ノ屋根ヲ周ツテ 翼ナク飛行スルモノソノ堪ラヌ負荷ヲ投下セヨ\n海ハ遮ラレテ一枚ノ紙ノムカフ 激動セヨ オレノ脾腹ニ笑ヒヲ索メヨ\n錆ビ荒レタ鉄ノ橋梁カラ 海燕ノ隕チルソノ飜エル非情ノ態ヲ究メヨ\n鉤ニナリ肉体ノ反映ヲ隈ドル 反抗ノ 虚栄ノ 怖ロシキ寡黙ヲ許セヨ\nツラナル大街道ノ諸道具ヲ駆ツテ君ノ飛行ヨ自在ナレ\n星ハ還ルデアラウカ星ハ 地平ヲ画ル視野ヲ刪ツテ\n時限ノ燃エサカル一瞬ニ燃エヨ\n何処ニモナイ君ノヨロコビノ為ニ元原ノ表出 彼ノ大樹ノ裂カレタ幹ニ 君ノ光栄アル胸ヲ飾レ\nイノチ有ルモノニ歌ハシメヨ 歯モ露ハニ眠ルモノ\n君ノ眼窩ニ千年ヲ飼ヘヨ\nアア 吹キ捲ル風ニ撓ンデ 殷賑タレ\n\n\n曝ラサレタ歌\n\n毟ラレテ防風林\n沿河ニ錯落スル鴉共\n狙タレタ冬ノ街衢カラ獣血ニソマル\nソコノスルドイ傷痕カラ擾然トシテオレト君\n杳カ対岸ニ横タフ一沫ノ苛薄ニサヘドキドキスル\n鑢ノヤウナ幻覚ノ破片ガ 飛バサレテ来ルデハナイカ\n沸キカヘル 岩漿ノニホヒニ噎セテ コノ道ハ忽チ\nオレタチノ胸ニマデ切リ墜チテ来ルノダ\nサカシマノ防風林 鴉共\n擦リキレタ風ヲ孕ンデ 水ニ鎖シテ コノ沍エタ\n風物ヲ 一線ノ攪キミダス非望ノ指示ヲ 誰ガ知ラウ\n気圏ヲメグル 縦横ノ驕リ ギシギシト凍ル\nウルトラマリン・デイプノ驕リ\n兇牙利非情ノマン中ノ誰ダ\n喇叭ヲ吹キナラス誰ダ\n\n ★\n\n奪フバカリノ愛シイ問ヒニ\nナニガ其処カラ君ヲ看ルノカ ツネニ"
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"content": "殺到スルインヘルノ 地上ノ露ハナル無際限\n生キルトハ ソレヲ無尽ノ網目ヲ破ツテ 出発スル\n出発スルノダ――\n曠茫トシテ 立ツトコロ\nモノヲ言ハズ 焔硝ノ腮ヲ銜ム冷血ノ末輩\n火ノ雑草ノ 飽クナキオレノ額ニココロ触レテ スデニ\n夏秋モムザンニ断タレ\n天ニ流失スル 夢ナキ季節ノ歌ヲ堰イテハ\nナントイフコノ身ノ激シイ 蹂躙デアラウコトカ\n\n ★\n\n絶望ニユズルモノ無シ\nヂカノ背後ニ傷ツケル糧ヲ曝シテ\nナホ 生涯ノ迂曲ト離反ニ吹キ荒サブ北北西 罕ニハ気流ノ行方ノミ深ク明滅スル コノ全身ノグルリニ潜ンデ\n断崖ノイザナヒ 渦巻クモノヲオレハ知ル\nオオ ハルカ犇メク樹々ノ淵ニ 火ヲ放ツテ\n荒々シク捲キアゲテユク地底ノ落暉 ソノ肋\n憤ルオレノ頸ニハ渇キ燦トシテ牽カレル 非望ノ一線\n冬ノ吃水ガイマ獣血ニ蒙ク 暴々ト泡立ツテユクノダ\n\n\n檻\n\n鞭ヲ振ル\n岩床ニ蔦葛ノ灼ケテ\n目ヲ据エルトコロ 獣ヲ走ラス\n日日ノ 年々ノ 身ヲ引キ縛ル騒擾\n落葉松ニ絡ム砂ハ苛立チ オレヲ蹴起ツテ\n遠イ気圏ノ底 彼ノ滞流ノ悪ニマデ墜チユクノカ\n\n ★\n\n舌ヲ噛ム日々ニ\n吹キサラス髪毛ニ\n檻ヲ攀ヂル ソノ檻ノ涯ニ凍リツク 昏イヴイスタ\n悲シミノ草々ニ獣ヲ喚ンデ オオ 裂ケマヂル\n鉄条ノ裡 自ラノ四肢ニ 噎セカヘル獣血ヲ藉イテ\nインザンニ轍ハ深ク 自爆ノカギリヲ募ツテユクノダ\n何ヲ待チ構ヘテ 背後ニ不快ナ峡江ヲ負ヒ\n何ヲ迎ヘテ フタタビ鞭ヲ自ラニ加ヘヤウカ\nイキマク肺腑ニ煙ツテ 蒼ク\n何トイフ巻積雲ノ崩潰\n未ダ背骨ニ沈ム非望ノ歌ニ 冬ヲ眠ラズ\n冬ヲ眠ラズ スサマジキ笑ヒノ央ニ 横タハルオレ\n\n ★\n\n北ノ北カラ北ヘ\n地平ヲ屠ル\n落葉松ノ\n逆毛ニ瀕シテ アツハ\n貴様 虚耗ムゲンノ店晒シ オノレ\n眼底ヲ穿ツテ擾レ 太陽コソ恒ニ北ニ在ルノダ\n\n\n厲シイ天幕\n\n冬ヲ荒ラス微塵ノ\n天河ニ牙ヲタテル岩碓ノ\n磅礴スル 惧レノ旋渦 盲ヒタル眩耀ノガンヂガラメ\nアア コップ一杯ノ空気ニスラ放電スル死ノ生々シク\n一筋黒ク硫末ヲヒク 暴戻ノ季節ヨ\n千年ニ重ナル刹那ノ弛ミナク オレタチノ展望ハ\n恒ニコノ 厲シイ天幕カラ 露ハナ足ヲ突キ出シテヰル\n臨海屈折ヲ犯シテヰルノダ 熾ンナル風陣ヲ劈イテ\n刀背ノヤウナ眩暈ガメグリ\nソノ煌ク探究ノ底ヲ ジツニ 生キルモノノガントシタ所在\n世界ハ恐ルベキモノニ充チテヰル コノ世界ノ\n隅々カラ 何ガ腕ヲモツテ オレタチニ呼ビカケルノカ\n息マザル悪熱ヨ オオ君コソハ生キル\n\n\n≪ドス黒イ咽喉ノオクカラ\n唐突ナ笑ヒヲ叫ンデヰルギブスナドガ スベテ\n剥裂シテ投ゲダサレ 両腕ヲダラリト喇叭ノヤウニ\n醜ク欠ケテヰル コレハマタ何トイフ愚カシイ反覆――\n錆ビタル車輪ノ空転ヨ\n雲ヲ斑スル戦慄ノ羊歯ヨ\n耐エガタイコノ沸キタツ風物カラ ワヅカ 非常ノ爆鳴ガシレテ\n唯一ナル生ノ切リ口ニ 鋼ノゴトク手触レルデアラウ≫\n\n\nヂリヂリト兇猛ナモノガ血脈ニ逆巻キ\n頸ヲソグ飢餓ノ飾リナク 無為ノ脳漿ニ翼折ラレ オレハ自ラノ\n腹立タシイ重量ヲ負ツテ コノ厲シイ天幕カラ 遠望ノ限リヲ翔ケテユカウ\n暴々タル視野ヲ踏ミコエ 雷ニ撃タレタ兇牙利ノ 水ノヤウナ跳梁\n夢ハソレ以外ノ何デアラウカ\n群レユク不明ノ季候鳥 流レル冷タイ騒擾ノ翳リ\nイツサイノ狂妄ハ点火サレ 墜落ニヨツテノミ 激シク燃焼スルノダ\nトホク歪曲スル方向ノ深サ ソノ息ヲノム陥没カラ\n逆ニ吹キ上ゲテクルウルトラマリン\n目眦ヲ裂ク 親愛ニ昂ル オレハ荒擾タル現象ノ背骨ヲ\nアクマデ無慚ニ押シ分ケテユクマデダ\n見ヨシジマナル狼藉ノ所在ニ イチメン澱ミナク氾流スル天ノ砂州\n冬ヲ荒ス微塵ノ\n偏奇スル透明ノ\n自ラノ笑ヒノナカニ オレハ最後ノ放擲ヲ受ケル\n\n\n\n\nベエリング\n ――親愛の人G・Bニ――\n\n\n\n霙フル\nドツト傾ク\n屋根ノムカフ 白楡ノ叫ビニ耳ヲタテテヰル昏イ\n憂愁ノヒト時ヲ 荊棘ノヤウニ悪ク酔ツテルノダオレハ\n灰ノヤウナヒカリガ立チ罩メ 君ハモウ酒杯ヲ\nトラウトシナイ 起チアガル オレヲ看ル\nオレタチヲ冒シテル蒼褪メタベエリング\n憎シミハモウ形ヲトラナイ\n扉ヲアケハナテ≪無意味ナル警笛ヨ≫\n撃テ≪霙フルナカノ永遠ノ明日≫\nオレノ悲シイ懶怠カラ タダ\n純粋ニ血ヲ流ス日ノ ヴイジョンヲ遮ギル氷海ガ\n総身ヲ削ツテドンランニ 頽レコムノダ\nアア コノ夕暮ノケハシイ思ヒ\n冷タイ明眸ニブキミナ微笑ヲタタエル君ノ\nスルドク額ヲ刳ルモノ 何トイフソノ邪悪デアラウカ\n椅子ノモツレタ位置カラ遠ク 鉄ノ滲ミイル屈折カラ\n塩ノムゲンナ様子ガシレテ 今コソ\nベエリングハ真向カラノ封鎖ダ\n霙フリヤマズ 夜トナル\n\n\nナマ\n\n徹夜の大道はゆるやかに異様にうねり、うねるままに暗暈の、氷る伽藍のはてに沈まうとする。道は遠くこの一筋に尽きて、地と海との霾然たる、また人間の灰神楽。飛び交ひなだれ堕ちる星晨や殺気のむらむらや、それら撃発する火のやうな寂しさのなかに、己は十字火に爛れた生まをつき放さうとするのだ。おお、集積の眼! 不眠の河となつて己を奪つたすゑは、むざんに溷濁の干潟に曝し、滄々たる季節の下にいまとはなつたが、挑みかからうと己みづからが空をつく。何者へ対つてか、嗤へ、長年漂泊にあらび千切れた胸の底に捉へやうとする、生きがたい、夢の燔祭。埓もない見てくれの意匠も旧い日のことになつた。\n神々といふあの手から離れてここに麻のやうな疲れが横たはる。\n\nあたらしひ希ひを言へと、誰がみ近く呼ばふのだ。\n氷霧に蝕む北方の屋根に校倉風の憂愁を焚きあげて、屠られた身の影ともない安手の虚妄をみてとつたいま、なんと恐ろしいものだけだらうか。原罪の逞い映像にうち貫かれた両の眼に、みじろぎもなく、氷雪いちめんの深い歪みをたたえて秘かに空しくあれば、清浄といふ、己はもうあの心にも還る事はできないのだ。沍寒の夢はつららを砥いで、風は陣々と滲みいるやうにあたりを廻りはじめてゐる。内から吹きあげる血の苦がい、灼けるやうな飛沫が叫ぶ、とうてい身はかわしきれないと。善哉!\n人の闘ひはまだつづく。\n\n\n牙のある肖像\n\nI\n\n嘗ての日、彼等こそ何事を経て来たであらうか強烈の飲料をその傷口に燃やし、行方なく逆毛の野牛を放つては、薪のやうに苛薄の妄想をたち割つた彼等。こころに苦い移住を告げて、内側から凍りつく鰊のたぐひを啖ひ、日毎無頼の街衢から出はづれては歌もなく、鉄のやうな杳かの湾流がもたらす風の、勒々とした酔ひのひと時を怖れた彼等。到るところしどろな悪草の茎を噛み、あらくれの蔦葛を満身に浴びて耕地から裡の台地へと。また深夜のど強い落暉にうたれて、犁のたぐひを棄て去つた彼等。≪雲と羅針とを嘲りわらふ、その朦昧の顔の冷たさ。≫ひとたび扉口は手荒く閉ざされ、傾く展望はために天末線を重沛のやうに沈澱したのだ。佯りの花と糧秣はぶち撒かれ、床板に虚しく歯車の痕が錆びてゐる。いま襤褸をづらし、十指を組み、ヂザニイの干乾らびた穂束に琥珀を添へて、純潔の死と親愛とを祈る彼等だ。野生の卓に水が流れる。\n水が流れる。\n一途に貪婪なる収穫の果がこれであらうか。\n\nいよいよ下降する石畳から、壊はされた黒い楔の扉口からだ。ざんざんと頽れこむ躁擾からそれら卑少の歴史から、虜はれの血肉をみづから引き剥して、己は三歳の嬰児だ。絶えまない不吉の稲妻と、襞もない亜麻の敷布が繋がれて、この無様な揺籃の底に目覚めてゐるとは誰が知らう。"
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"role": "user",
"content": "\n 醜聞\n\n 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――\n「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」\n グルモンの答は中っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど......」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。\n\n 又\n\n 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。\n\n 輿論\n\n 輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。\n\n 又\n\n 輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。\n\n 敵意\n\n 敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。\n\n ユウトピア\n\n 完全なるユウトピアの生れない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽ち不完全に感ぜられてしまう。\n\n 危険思想\n\n 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。\n\n 悪\n\n 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。\n\n 二宮尊徳\n\n わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、大人のように働きながら、健気にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。......\n けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育に寸毫の便宜をも与えなかった。いや、寧ろ与えたものは障碍ばかりだった位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云わなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでも或は又博奕打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云う艱難辛苦をしても独学を廃さなかった尊徳である。我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。\n わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。丁度鎖に繋がれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように。\n\n 奴隷\n\n 奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。\n\n 又\n\n 暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。\n\n 悲劇\n\n 悲劇とはみずから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。\n\n 強弱\n\n 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。\n 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。\n\n S・Mの智慧\n\n これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。\n 弁証法の功績。――所詮何ものも莫迦げていると云う結論に到達せしめたこと。\n 少女。――どこまで行っても清冽な浅瀬。\n 早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にいるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。\n 追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。\n 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来ているものらしい。\n 年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に対する驕慢である。\n 艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。\n 我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し残して置くこと。\n\n 社交\n\n あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古えの管鮑の交りと雖も破綻を生ぜずにはいなかったであろう。管鮑の交りは少時問わず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎悪し或は軽蔑している。が、憎悪も利害の前には鋭鋒を収めるのに相違ない。且又軽蔑は多々益々恬然と虚偽を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る為めには、互に利害と軽蔑とを最も完全に具えなければならぬ。これは勿論何びとにも甚だ困難なる条件である。さもなければ我我はとうの昔に礼譲に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黄金時代の平和を現出したであろう。\n\n 瑣事\n\n 人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。\n 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。\n 人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。\n\n 神\n\n あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。\n\n 又\n\n 我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。\n\n 民衆\n\n 民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 又\n\n 民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎も角も誇るに足ることである。\n\n 又\n\n 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。\n\n チエホフの言葉\n\n チエホフはその手記の中に男女の差別を論じている。――「女は年をとると共に、益々女の事に従うものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」\n しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのずから異性との交渉に立ち入らないと云うのも同じことである。これは三歳の童児と雖もとうに知っていることと云わなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示しているものと云わなければならぬ。\n\n 服装\n\n 少くとも女人の服装は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陥らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしている。もし借着をしていなかったとすれば、啓吉もさほど楽々とは誘惑の外に出られなかったかも知れない。\n 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。\n\n 処女崇拝\n\n 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。\n\n 又\n\n 処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者と云わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのも或は偶然ではないかも知れない。\n\n 又\n\n 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。\n\n 礼法\n\n 或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。\n「一体接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」\n あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。\n\n 貝原益軒\n\n わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒は嘗て乗合船の中に一人の書生と一しょになった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。\n 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは僅かに下のように考えるからである。――\n 一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めていたか!\n 二 書生の恥じるのを欣んだ同船の客の喝采は如何に俗悪を極めていたか!\n 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂と鼓動していたか!\n\n 或弁護\n\n 或新時代の評論家は「蝟集する」と云う意味に「門前雀羅を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い筈である。\n もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich-Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これは勿論独逸人の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。\n すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。唯聊か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。\n\n 制限\n\n 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にか却って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知ったように。\n\n 火星\n\n 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出来る条件を具えるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。\n\n Blanqui の夢\n\n 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在している筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙っているかも知れない。......\n これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯ブランキは牢獄の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄えている。夢は既に地上から去った。我我も慰めを求める為には何万億哩の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。\n\n 庸才\n\n 庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。\n\n 機智\n\n 機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を欠いた三段論法である。\n\n 又\n\n 機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。\n\n 政治家\n\n 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。\n\n 又\n\n 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若し夫れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。\n\n 事実\n\n しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。\n\n 武者修業\n\n わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"content": "「このサラダは愛ねえさんがお醋とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」\n 愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、\n「貞ちゃんはひどい」\n といった。貞世は平気だった。\n「その代わりわたしがまたお醋をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉も入れればよかってねえ、愛ねえさん」\n みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。\n やがて古藤が突然箸をおいた。\n「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」\n 葉子はあわてて、\n「まあそんな事はちっともありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」\n ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっと見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。\n「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」\n そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ張った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利の上に靴の音を立てながら、夕闇の催した杉森の下道のほうへと消えて行った。\n 見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。\n\n三五\n\n 葉子と倉地とは竹柴館以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑しないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。\n しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶な無頓着なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などは木っ葉みじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。\n 葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず知らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫を受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り回して、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてそのあとに続く死滅と同然の倦怠疲労。人間が有する生命力をどん底からためし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてそのあとでは倉地の心はきっと野獣のようにさらにすさんでいた。葉子は不快きわまる病理的の憂鬱に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うんと力任せに反り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかとあやぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、......こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑を激しくした。\n 有頂天の溺楽のあとに襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨てばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてそのあとにはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽を逐うほかはなかった。気分のすさんだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じ事を求めていた。こうして二人は底止する所のないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。\n ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり目は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。頬の傷々しくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与える笑くぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎の輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄な精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。\n 葉子は紅のまじった紅粉をほとんど使わずに化粧をした。顎の両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。枕を入れずに前髪を取って、束髪の髷を思いきり下げて結ってみた。鬢だけを少しふくらましたので顎の張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味な一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋に車を走らせた。\n 昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分を傷めちぎった芸術家のようにへとへとに疲れきっていた。\n 帰りついた玄関の靴脱ぎ石の上には岡の細長い華車な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋に行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子からそっと登って行った。そして襖をあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。\n 岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄から庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段に足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。\n 突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっと寛がせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝をついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。\n「貞ちゃんは」\n と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。\n「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」\n そう愛子が少し下を向いて髷だけを葉子に見えるようにして素直に答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっと岡の目を見つめながら、\n「何? 読んでいらしったのは」"
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"role": "assistant",
"content": " といって、そこにある四六細型の美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子の詩集だった。そこには「明星」という文芸雑誌だの、春雨の「無花果」だの、兆民居士の「一年有半」だのという新刊の書物も散らばっていた。\n「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」\n と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、\n「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」\n「これは」\n といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。\n「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」\n 愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。\n「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」\n 葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。\n「なんだかわたしとはすっかり違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで......わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども......」\n「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのような方にはちょっと不似合いですわ」\n「そうでしょうか」\n 岡は何とはなく今にでも腫れ物にさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先を向けた。\n「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」\n といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、\n「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」\n といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに......。葉子は少し激しい言葉になった。\n「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」\n「えゝ、......くださいましたから」\n「どんなお手紙を」\n 愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさを葉子はよく知っていた。葉子の神経はびりびりと緊張して来た。\n「持って来てお見せ」\n そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつと立ち上がって部屋を出て行った。\n 葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢童貞の青年が不思議な戦慄を胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視つづけた。岡は唾を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。\n「岡さん」\n そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。\n そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪えられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。\n「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手くそなぬたでもお見せ申したんでしょう......いい気なものね......この御本と一緒にもお手紙が来たはずね」\n 愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。\n「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。......日が暮れるといえばもう暗くなったわ。貞ちゃんはまた何をしているだろう......あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」\n 愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重になる頤で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきりと感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々しい猜疑のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖にするまでにその情炎は嵩じていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入れを取り出してゆっくり煙を吹いた。煙管の先が端なく火鉢にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ......若さ......。\n そこには二人の間にしばらくぎごちない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放埒な醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏頗な愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中風な圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷ややかな、さびしい表現法で、そして息気づまるような若さと若さとの共鳴の中に......。"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " まだその頃も、空の何処かで忘れられたやうに雲雀は鳴いてゐる。しかし雲雀の声も、もう人々の耳に珍しくはなくなつて、人々は雲雀といふものも、あんまり長く鳴きすぎると思ふ。\n 雲雀にくらべると子供達はかしこい。子供達が麦畑から黒穂をぬいて、麦笛の平和な音を流してゆくのは、麦畑の緑のうちばかりだ。麦がまぶしい黄色になる頃には、子供達はもう吹かない。\n 麦は熟れると、百姓達は大変忙しくなる。早く麦を刈りとつて、そのあと田植をしなきやならない。田植が遅れると、お米がたくさんとれないのだ。\n 朝早くから百姓達は、麦を刈るだけの力のあるものは、みんなひきつれて、野に出ていつてしまふ。あとに家に残るのは、眼の見えない婆さんか、ゆりかごの中の赤ん坊か、日向で金の眼を細くしてゐる猫ばかりである。その婆さんだつて、何処の家にもゐるわけぢやない。だから百姓ばかりの村では、日中に誰もゐないことが多い。\n 陽ばつかり、かんかん照つて、ひつそりしてゐるところへ、遠い蛙の声が寂しく流れて来る。\n こんなときを空巣狙は、大層好むのである。\n 何しろ、お婆さんは眼にやにが一ぱい詰つてゐるので、垣根の向かふを誰が歩いてゐるのか、さつぱり見えないし、猫は見て知つてゐたつて、犬ぢやないから、吠えることが出来ない。赤ん坊と来ては、てんでお話にならない。泥棒とお父さんの区別がつかないのだから。出てゆきがけに泥棒がお愛嬌に、べろべろべろといつてあやすと、手足をばたばたやつて喜んでゐる始末だ。茶釜と一緒に泥棒に持つていつてしまはれないのが、せめて、お慰みといつたわけである。\n それで昨日も一昨日もその前も、百姓達は夕方くたびれて家へ帰つて見ると、不在中に泥棒が訪ねて来たことを知つた。茶釜がなくなつてゐたり、米櫃の蓋があいてゐたり、仏壇の下の抽出が、ひき出したままになつてゐたり、――さういふことで泥棒が訪ねて来たことはわかるのである。\n 誰だつて泥棒は嫌だけれども、それは泥棒が物を持つてゆくからといふのではない。誰もゐないときを狙つて、黙つてはいつて来るから嫌なのである。だから、草履を一足とられただけで、反対に泥棒が立派な煙草入を忘れていつたので、さしひきすると得をしてしまつた勘又さんでも、真鍮のぴかぴか光つた茶釜と牝鶏を一羽盗まれた弥助さんと同じやうに、かんかんになつて怒つた。「めつけたら、首をねぢ折つてくれるだ。」と、何度もいきまいて、翌日畑へ出かけたのである。\n 一畝麦を刈つてしまふと、ちやうど腰が痛くなるので、その時百姓達は腰をのばす。そのついでに小手をかざして、村の方を見張るのだから、大層工合はいい。\n すると、とうとう正午頃、勘又さんがそれらしいものを見つけた。\n 饅頭型の笠を深くかむつた、乞食みたいな坊さんがひとり、手に鉢の子をもつて北の方からやつて来た。そして右も左も見ないで、すつと村の中へはいつていつた。\n ああいふ風で村に、はいつてゆくのは、まことにふてぶてしい奴だと、勘又さんはもう腹が立つて来た。\n「おォい、弥助ェ、今の奴、見たかよォ。」\nと勘又さんは、向かふの麦畑にゐる弥助さんに呼びかけた。\n「おォ、見たぞォ。」\nと弥助さんが答へた。\n「とつつかめに行かうかよォ。」\n 勘又さんは鎌を握つたまま、弥助さんの方へ歩き出した。\n「でも、ありやァ、坊さんぢやねえかァ。」\n 弥助さんは、頬かむりをとつてはたいた。\n「坊主だつて泥棒をしねェとは限るめェ。河内山宗俊だつて大泥棒だァなァ。」\n「ほうだかなァ。」\n そこで弥助さんも、兎も角一ぺん家へいつて見る気になつた。\n 二人は二人きりでは心細かつたので、途々働いてゐる百姓達をさそつていつた。しまひには全部で十人位になつた。みんなは手に手に鎌や縄や天秤棒などを持つて来た。\n\n 良寛さんは朝から寂しくて、やりきれなかつた。ちやうど秋の末、葉をすつかり払ひ落されて丘の上に、うそ寒い風に吹かれて立つてゐる一本の木のやうに、自分の心が何のよるべもなく、ぽつんとこの世界に取残されてゐるやうな感じであつた。涙も出て来ないほどの、しんからの寂しさであつた。\n この頃は、こんなことが度々、良寛さんにはあつた。去年お母さんが、なくなつたことが、やはりもとになつてゐるらしい。あとを弔ひに故郷の出雲崎に帰つたときには、弟妹達も大きくなつてゐたので、それほどお母さんの死を、ひどく感じはしなかつたのに。\n 何しろ良寛さんは、もうほんたうに一人ぼつちだ。お母さんが生きてる間は、なあに誰も可愛がつてくれなければ、お母さんの所へ帰つてゆけばいいのだ、さうすればお母さんは、いつものやうに温かく優しく、迎へてくれるのだといふ気持が、心の何処かに隠れてゐた。それで安心してゐることが出来たのだ。ところがそのお母さんは、もう何処にもゐないのである。弟や妹が大きくなつてゐるとて、どうして長男の良寛さんが、頼つてゆくことが出来よう。お父さんはまだ達者だ。しかし、そのお父さんも、この頃では殆ど行方不明同然で、何処にどうしてゐるのか解らないのだ。\n ほんたうに一人ぼつちだと思ふとき、人は何といふ寂しいことだらう。寂しいからとて泣く気も起きない。泣いたつて誰もどうしてくれるわけでもない。又人が慰めてくれたつて、それでなほつてしまふやうな、浅い寂しさではないのだ。\n しかし、良寛さんは思つた。昔の偉かつた坊さん達は、きつとかういふ一人ぼつちの寂しさに耐へていつて、とうとうその寂しさを、寂しさとも思はないやうになつたのだらう。蝸牛が背中に自分の殻を背負つてゐるやうに、自分の心一つに、自分の寂しさを背負つて、その寂しさを怺へていくことが、きつと立派な修行なんだらう。そして始めて、人は自分の魂を、上等品に磨きあげることが出来るのだらう。\n そこで良寛さんも、どこまでも、今日は自分を一人ぼつちにしてやらうと決心して、鉢の子を一つ持つて外に出たのであつた。\n 足にまかせて良寛さんは歩いていつた。もつと寂しくなれ、もつと一人ぼつちになれ、と心の中でいひながら。\n 自分の心ばかり見つめてゐると、人は眼を開いてゐながら、自分が何処を歩いてるのか知らないでゐることが多い。ふと気附くと良寛さんは、一つの村の中を歩いてゐた。\n どうやら自分は少々疲れたらしい。足が重い。そこで良寛さんは、辻堂の傍に腰をおろして憩んだ。\n 胸のところに何か固いものが触る。何だらうと思つて手をやつて見ると、寺を出るとき懐中に入れて来た手毬だつた。何処かで子守達にゆき合つたら、一緒について遊ばうと思つて持つて来たのだつた。\n 百姓達はみんな麦刈に出てしまつて、あたりには誰も人はゐない。これなら大丈夫と思つて、良寛さんは一人で手毬をつきはじめた。\n 玉島へ来てから、よく子守の少女達と手毬をついたり、おはじきをはじいたりして遊ぶので、良寛さんは、もう大分女の子の遊戯が上手になつてゐた。良寛さんのすんなりした手と、乾いた地べたの間を、色の糸でかがつた美しい手毬はよい調子で往復した。\n すると良寛さんの口には、自然に女の子達がうたふ手毬唄がのぼつて来た。\n\n\n麦ィついてェよォ麦ついてェ\n御ォ手にまァめが九つゥ\n九つゥの豆を見ればァ\nおォやの里がこォひしやァ.........\n\n\n もう少しで一貫貸すところであつた。突然手毬が、ぽォんと向かふへとんで行つた。誰かの足が蹴とばしたのだ。\n「こいつだ。」\n「縛つちまへッ。」\nとすぐ頭の上で声がした。そして良寛さんは、何の苦もなく、縛りあげられてしまつた。\n「図太い乞食坊主だ。泥棒に来て、人がゐねえと思つて毬ついて遊んでゐやがる。」\n この人達は、自分を泥棒と間違へてゐるのだ、と良寛さんは思つた。しかし「わしは泥棒ではない。」と弁解する気が起きて来ないのであつた。もつと一人ぼつちになれ、一人ぼつちがどうなるか見てゐてやれと、良寛さんは思つた。\n 百姓達から悪罵を浴びせられ、うしろから小突かれながら、良寛さんは村役人の家にひつぱられて来た。その間、百姓が何を訊いても良寛さんは唖のやうに黙つてゐた。\n「申しあげますだ。この間からの昼とんびをとつ掴まへましただ。」\nと勘又さんが、まだ家の中へはいらないうちに、井戸のこちらから大声でいつた。\n「何、昼とんびッ。」\n 書物をしてゐた役人はびつくりした。\n「庭へひつ据ゑておけ。今すぐ調べに出る。」\nと外に向かつて命じ、すぐ袴をつけ、刀を掴んで縁端に出て来た。\n 昼とんびといふから、赫ら顔の、口のあたりに、もぢやもぢやと無精ひげの生えた、眼のぎよろりとした、屈強の男かと思つて出て来た役人は、庭にちよこんと坐つてゐる痩せぎすの、悲しいばかりに柔和な坊さんを見て拍子ぬけがした。\n「何だ、僧侶ではないか。」\nと役人は、裁をするときの姿勢に坐つていつた。\n「坊主だつて油断ならねえですだ。河内山宗俊て坊主は、お前さんも芝居で見て御存じだらうけが、えらい大騙でしただ。」\nと勘又さんがいつた。\n それから審問が始つた。ところがそれは、始つたばかりで、いつまでたつても進んでゆかなかつた。役人は調べの帳面を開いたままで、何も書くことが無かつた。といふのは、坊さんが一切合財、ものをいはなかつたからである。\n 嚇したり、すかしたりして、問ひかけて見たが無駄であつた。しまひには役人は声が嗄れて来た。そこではじめて、これは石燈籠に向かつて物をいつてるのと、同じだといふことがわかつた。\n 百姓達も業を煮やしてゐた。勘又さんは、泥棒が置きわすれていつた。煙草入を突きつけて、\n「これに見覚えがあらうがッ。お主の物だらうッ。いくら地蔵さまみてェに澄ましてをつたとて、つまりはお主は、煙草吸ひの昼とんびに違ェなからう。」\nといつた。そしてそれでも坊さんが返事をしないと、「てッ、ふてぶてしい煙草吸ひの昼とんびだッ。」といひながら、煙草入で坊さんの鼻を叩いた。\n ――もつと一人ぼつちになれ、どうともなれ、と良寛さんは、心の中でいひ続けてゐた。\n"
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{
"role": "assistant",
"content": " とうとう良寛さんは、村はづれの松林の中へつれて来られた。みんなはそこへ、この「昼とんびに違ひない坊主」を、生き埋めにしてしまふといふのであつた。\n「そげなことをして、ええだかよ。」\nと、来る道で何度も弥助さんが、びくびくしながらいつた。\n「ええも悪いもあるめェ。こいつは人に迷惑かけただ。人の物を無断で盗んだだ。」\nと勘又さんは、口をとがらせてわめいた。\n「俺あ、茶釜と鶏一羽くれェ、くれてやつとくだ。あんなもなァ欲しくねェだ。」\nと弥助さんはいつた。\n「今更、何をいふだ。お前が許したつて俺が許さねェよッ。」\n「ンでも勘又さ、お前はさう怒ることあるめェが。古草履一足盗られたきりぢやねェか。そして上等の煙草入を置いてつて貰つたぢやねェか。かへつてお前の方からお礼申しあげなきやなるめェ。」\n「何をいふか、この阿保ッ。あの草履はそんな安いもんぢやねェ。金巾の緒がすがつてただ。」\n「争ふな。」\nと役人はいつた。「わしがこの盗人を生き埋めにせよと命ずるのだ。」\n 役人は、いくら声を嗄らして訊問しても、相手がまるでこちらを馬鹿にしてるやうに、返事をしないので、威厳を損はれたと思ひ、腹を立ててゐたのである。\n「ここを掘れ。」\nと役人は命じた。\n 鍬をかついで来た勘又さんが、掘りはじめた。みんなはその周囲に立つて見てゐた。良寛さんも見てゐた。まるで他人のことのやうに平気で見てゐた。だんだん穴が深くなるにつれて、百姓達の方がかへつてはらはらしはじめた。こんなところへ来るのではなかつた、とみんなは思ひはじめた。\n「ごめんなせェ。俺あちよつくら家いつて来るだ。」\nと弥助さんは向かふへいきかけた。みんなは心細くなつてゐたので、\n「な、何しに?」\nととがめた。\n「あのゥ、鶏に正午の餌をやつてくるだ。」\n「いかん。」\nと役人はとめた。「お前らは全部立会人だ。一足も動いてはならん。」\n 弥助さんは泣き顔をして、またみんなのところに戻つて来た。\n「もうええだらう。」\nといつて、胸の深さまで掘つた勘又さんが、穴から出て来た。\n「罪人を突き落せ。」\nと役人は命じた。\n そこでちよつと動揺が起つた。みんながしりごみしたのである。\n ――一人ぼつちだ、一人ぼつちだ、一人ぼつちもこれでおしまひだ、と良寛さんは、静かに思つてゐた。\n その時、誰かが林の中へ走りこんで来た。身装のよい、齢とつた百姓だつた。「おお、吉三郎さん。」と百姓達は、救はれたやうに、ほつとして呟いた。\n「坊さんを生き埋めにするといふことをきいて、飛んで来ましただ。」\nと吉三郎さんはいつた。「まァ、待ちなせェ。埋めるのはいつでも埋められるだ。」\n それから、しばらく吉三郎さんは、良寛さんの眼をじつと見てゐた。良寛さんもその齢とつた百姓の眼を見てゐると、それは大層やさしい温い心を奥に湛へてゐた。\n「この方が昼とんび? どうも信じられぬ。」\nと吉三郎さんは呟いた。\n ――これは物の解つた、静かな心の持主だ、と良寛さんは思つた。\n「ひよつとしたらお前さんは、玉島の円通寺にゐなさる坊さんぢやないか。何でも越後の方から修行に来てゐる坊さんで、一風変つた偉い人がゐるといふことをうかがつたが。」\n 良寛さんは、ふつと嬉しさのこみあげるのをとめられなかつた。\n「さうです。私です。ちつとも偉くはありませんけれども。」\n「やつぱりさうだつた。」\n それから吉三郎さんは、みんなや役人に、良寛さんの心の清純なことを説明した。みんなも良寛さんのことならきいて知つてゐた。\n「知らずに悪いことをしましただ。」\nとみんなはあやまつた。\n「辻堂のとこで手毬をついてゐられたで、こりやどうも可怪しい。昼とんびが手毬をつくやうなしをらしいことはすまいと、あの時思つただけど、何しろ俺達や南瓜みてェな馬鹿ばかりだで。」\nと一人はいつた。\n「俺あ、お前さんの鼻をひつぱたいて相済まんだ。俺の鼻をぶつ叩いて気を晴らしてくだせェ。ぺちやんこ鼻だで、叩いても甲斐のねェことだらうけど。」\nと勘又さんもあやまつた。\n「なあに、なあに。」\nと良寛さんはいつた。\n 帰る途で吉三郎さんが、\n「それにしても良寛さんは、生き埋めにされるといふのに、どうして一言もいひわけを仰有らなかつたのです。」\nときいた。\n 良寛さんは答へていつた。\n「何もかも因縁だと思つてあきらめてをりました。こんなめにあふのは、いつか私が何処かで悪いことをしたのだらう、その報いなのだらうと思つてゐたのです。」\n「ぢや、わしらを怨んぢやゐなかつただね。」\nと勘又さんはいつた。\n 百姓達の多くの眼に涙が浮かんで来た。――こげな人もあるだ、こげな心のいい人も、とみんなは思つたのだつた。\n さつきの辻堂の傍を通りかかつたとき、良寛さんは、きよろきよろと、あたりを眺めまはした。\n「お銭でも落しましただかね。」\nと百姓達はきいた。\n「何の、何の。」\n さういひながらも良寛さんは、そちこち探してゐた。\n そして向かふの茱萸の根方に、ころがつてゐる手毬を見つけると、急いでいつて、こつそり懐中の中へ拾ひこんだ。みんなに見られたくなかつたのである。\n しかしみんなは、それが何であるかを見てしまつた。そしてお互に顔を見合つた。\n「何といふ心の純真な人なのだらう。まるで子供のやうに。」\n みんなの眼は、さう語り合つてゐた。\n\n\n十一 漂泊\n\n「坊さん、疲れてゐなさるだね。」\nと良寛さんは、うしろから声をかけられた。肥前長崎から、東の方へゆく街道の上だつた。よく晴れた秋の正午近くで、畑のそちこちには、蕎麦の白い花が清々しく見え、ときどき空を横切りながら、細い澄んだ声を落してゆくのは鶸であつた。"
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"role": "user",
"content": "一の一\n\n\nやぐら峠は七曲り\n 谷間七つは底知れず\n峰の茶屋まで霧がまく......。\n\n うっとりするような美しい声がどこからかきこえてくる。\n 夜はとうにあけているが、両方から切立った峰のせまっているこの山峡は、まだかすかに朝の光が動きはじめたばかりで、底知れぬ谷間から湧きあがる乳色の濃い霧は、断崖の肌を濡らし、たかい檜の葉や落葉松の小枝に珠をつらね、渦巻き、ただよいつつ峠路の上まではいのぼっては流れて行く......。ここは出羽の国最上の郡から、牡鹿の郡へぬける裏山道のうち、もっとも嶮しいといわれるやぐら峠である。酢川岳の山々が北に走っていくつかにわかれ、その谿谷が深く切込んだところに雄物川の上流が白い飛沫をあげている。峠道はその谿流にそって、断崖の上を曲り曲り南北に走っているのだ。\n\nお馬が七疋駕籠七丁\n あれは姫さまお国入り\n七峰のこらず晴れました......。\n\n 霧の中を唄声が近づいて来たと思うと、やがて院内のほうから、旅人を乗せた馬の口を取って、十四、五になる馬子が登って来た、――五郎吉馬子と呼ばれて、この裏山道では名物のようにいわれている少年である。\n「これこれ、馬子さん」\n 馬上の旅人は唄のくぎりをまって、\n「いま唄ったのは新庄あたりの武家屋敷で手毬唄によく聞いたものだが、この辺では馬子唄に唄うのか」\n と話しかけた。五郎吉ははしこそうな眼をふりむけながら、\n「おっしゃるとおりこれは手毬唄ですよお客さん、峰の茶店のおゆきさんがいつも唄っているんで、おいらもいつか覚えてしまったんだよ」\n「そうだろう、どうも馬子唄にしてはすこしへんだと思ったよ。――けれど、それにしてもこんな山奥の峠茶屋で、武家屋敷の手毬唄を聞くというのは、何かわけがありそうだな」\n「そりゃあわけがあるさ」\n 五郎吉はひとつうなずいていった。\n「その茶店のおゆきさんの家は、もと新庄の在で古くからある大きな郷士だったんだ。旦那は伝堂久右衛門といって、新庄のお殿さまから槍を頂戴したくらい威勢のある人だったよ」\n「ほう、それがどうしてまた峠茶屋などへ出るようになったのだね」\n「久右衛門の旦那にはおゆきさんのほかに、その兄さんで甲太郎という跡取がいたんでさ、ところが今から五年まえ、その甲太郎さんが十八の年に酢川岳へ猪射に出たままゆくえ知れずになってしまったんです。谷川へ落ちて死んだともいうし、江戸へ上って浪人隊に加ったともいうし。......ほんとうのことは誰にもわからずじまいでしたが、旦那はそれからすっかり世の中がいやになったといって、屋敷や田地を手離したうえ、おゆきさんと二人でこの峰の峠茶屋をはじめたというわけですよ。――だが、おいらが思うには」\n と五郎吉は話をつづけた。「旦那がこの茶屋をはじめたのは、ゆくえ知れずになった甲太郎さんをさがすためじゃないかと思うんだ。上り下りの旅人のなかにもしや甲太郎さんがいやあしないかってね」\n「そうかも知れないな」\n 馬上の旅人はいくどもうなずいた。\n「いや、ほんとうにそうかも知れない、......なんにしてもお気の毒な話だ、私もそこで茶をよばれて行くとしようか」\n「そら、もうあすこへ見えてますよ」\n 霧がうすれて、峰のあいだから朝日の光がまぶしいばかりにさしつける峠道の頂上、断崖のほうに五、六本の櫟林があって、その中に一軒の茶店がたっていた。――五郎吉が馬を曳いて近よりながら、\n「おゆきさん、お客さまだよ」\n というと、十五、六になる美しい娘が走り出て来て、\n「おつかれでございましょう、どうぞお休みなさいまし、五郎さん御苦労さまねえ」\n と愛想よくまねきいれた。――さかしげな眼をした色白の少女で、いかにも由緒ある郷士の末らしく、貧しげな姿こそしているが身ごなし、かっこうには争えぬ気品がそなわっていた。\n「今日はいいお日和でございます」\n「よく晴れたね」\n「御道中もこれならお楽でございましょう。ただ今お茶をいれまする、――五郎さん遠くまでお供かえ」\n 娘はまめまめしく茶釜の前で働きながら少年のほうへ笑顔を向けた。\n「ああ岩崎までお送り申すんだよ」\n「おやそう、では湯沢を通ったら帰りにまた蕗餅を買って来ておくれな、父さまの好物が切れて困っていたところなの」\n「いいとも、買ってきてあげるよ」\n このとき茶店の裏を、すんだ声で叫びながら一羽の鳥が飛び過ぎた、――旅人がおやという眼つきでふり返ると、娘は茶を運んできながら、\n「郭公でございます」\n といった。\n\n一の二\n\n 五郎吉の曳いた馬が、峠を下りて見えなくなるまで見送っていたおゆきは、\n「――おゆき、おゆき」\n と呼ぶ声に気づいて、\n「はい、ただ今」\n あわてて茶盆を手にしながら中へ入った。――奥はふた間の、粗末ながら掃除のいきとどいた居間で、父の久右衛門は床の上に半身を起し、碁盤を脇へ置いてひとり石をならべていたが、娘がくるとあらぬほうを見ながら、\n「いまのお客は上りかな」\n「いえ岩崎へお下りですって、三十ぐらいのお商人ふうのかたでしたわ」\n「......そうか」\n「それより、ねえ、父さま」\n さびしげな父の横顔を見て、おゆきはわざと元気な声をあげながら、\n「いま五郎さんに頼みましたから、今夜は蕗餅が召上れますわよ」\n そういって店先へ出て行った。\n 兄のゆくえが知れなくなって五年、ここへきてからすでに三年、口ではあきらめたといいながら、やっぱり父も兄の帰りを待っているのだ、......そう思うとおゆきの胸はかなしさにしめつけられるようだった。\n 久右衛門ははじめから甲太郎は酢川岳の谷へ落ちて死んだものときめていた。そして現にさがしに行った人たちは、谷川の底にしずんでいた甲太郎の鉄砲をみつけて帰ったのである。同時にまた一方では、じつは江戸へ上って浪人隊に加ったのだという妙な噂もあった。――けれどおゆきは両方とも信じなかった。山に馴れた兄が酢川岳などで過をするはずはない、兄は生きている、きっと生きているのだ。それも噂のように江戸で浪人隊に加っているのではなく、ほんとうは京へ上って勤王党の人々と一緒に働いているに違いない、おゆきはかたくそう信じていた。\n 兄は日頃から王政復活ということを口にしていた。\n 新庄藩は佐幕派の勢力が強かったから、友達にも父にももらしはしなかったが、おゆきにはよく話した。\n ――おまえにはまだわかるまいが。\n と兄は幼いおゆきにいった。\n ――日本はいま危い瀬戸際にいるのだぞ、いろいろ悪いたくらみを持った外国人が、四方八方から日本を狙っているのだ。しかも徳川幕府にはこれを防ぐ力がない、ただ一つの方法は、天子様をいただいて日本中の人間がひとつになり、力をあわせてこれにあたるほかはないんだ。\n ――日本中がひとつになるんだ、幕府も大名もない。全部の日本人が天子様をいただいてひとつになり、力をあわせて御国をまもるんだ。\n 面を正していった兄の、火のような語気が今でもおゆきの耳にありありと残っている。......兄がゆくえ知れずになった時、おゆきはまだ十歳でしかなかったが、お兄さまは死んだのではない、京へいらしったのだとすぐに思った。そして久右衛門も口ではあきらめながら、心ではやっぱり生きていることを信じているのであろう。ことにこの頃では、通りかかる旅人があるたびに弱くなった老の眼を光らせながらそれとなく見送っているのであった。\n ――お気の毒な父さま。\n おゆきはそっとつぶやいた。おゆきにはわかっている、兄はもどりはしないのだ、王政復活のために命を投出した兄だ、新しい日本ができあがるまでは帰るはずはない。けれど、それをいったら父はどんなに落胆するであろう。\n ――おかわいそうな父さま。おゆきがもういちどそうつぶやいた時である。新庄のほうからすさまじいひづめの音が聞えてきたと思うと、馬をあおって二人の武士が店先へ現れた、――馬上の一人が手綱をしぼりながら、\n「これ娘、――」\n と呼びかけた、「今朝この道を武士が一人通りはしなかったか」\n「あの、お侍さま......」\n「いや姿はかえているかも知れぬ。見馴れぬ男が通ったかどうだ」\n「今しがた一人」\n とおゆきは軒先へ出て、「五郎吉馬子の馬でお商人ふうのかたが岩崎へお下りなされました、まだ杉坂までは行くまいと存じます」\n「――それだ!」\n とつれの者が叫んだ。\n「おくれてはならぬ、追おう」\n「心得た」\n 二人は馬首をめぐらせると、鞭をあげてまっしぐらに峠を下って行った。\n\n二の一\n\n 日はすでに高くあがって、深い谷底を流れる谿流の音が、断崖に反響しながらさわやかに聞えてくる、森から森へなきうつる郭公の声は、それでなくてさえさびしい山中の静けさを、いっそうものわびしくするばかりであった。"
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"role": "assistant",
"content": " ――何があったのかしら。\n 駆け去った二騎のあとを見送って、おゆきは妙な胸騒を感じた。\n「おゆき、今のはなんだ」\n「新庄のお侍さんらしいかたたちよ、襷がけで汗止をして、袴の股立を取っていました、誰かを追いかけて......」\n おゆきはぴたりと黙った。――道をへだてた眼の前の雑木林の斜面から、旅支度をした一人の武士がずるずるとすべり降りて来たのだ。\n ――あっ!\n 驚いておゆきが奥へ入ろうとすると、その武士は脱兎のようににげこんで来て、\n「お願いです、こ、これを」\n と、いきなり持っている物をおゆきの手に押しつけた。\n「これをお預かりください、命にかえても守るべきたいせつな品ですが、前後を追手にかこまれて絶体絶命です、決してあやしい物ではありませんからどうかお預かりください」\n 笠をかぶっているのでよくわからないが、まだ年若な武士である。\n 衣服は無残に引裂け、肩から土を浴びている。――必死の声音に胸をうたれて、おゆきは思わず、その品を受取った。それは螺鈿ぢらしの立派な文匣であった。\n「――かたじけない」\n 若い武士は笠へ手をかけて、「七生かけて御恩は忘れません。もしまた明朝までに拙者が参らなかったら、湯沢の柏屋と申す宿に、沖田伊兵衛という――あッ」\n 若い武士は身をひるがえして、\n「追手がまいった、お願い申すぞ!」\n いいざま道へ走り出た。\n いま若い武士がすべり降りて来た斜面から、四、五人の追手の武士が現れたのである。おゆきは見るより早く、茶釜とならんでいる空の甘酒釜の中へ、その文匣を入れて蓋をした。\n 若い武士は湯沢のほうへ飛礫のように走って行ったが、追手はすぐに追いついたらしい。\n「えいッ」\n「やあーッ」\n というはげしい気合がきこえてきた。\n おゆきは裸で水を浴びたように、爪さきからぞっと総毛立った、父がなにかいったらしい、けれどそれも耳に入らず、ただすさまじい斬合いの気配に全身をしばりつけられていたが、――なかば夢中でふらふらと軒先へ出て行った。\n 晴れあがった暖かい日差の中で、白虹のように刃が閃いた。人影がさっと入乱れ、鋭い叫声がきこえたと思うと、追手の一人が道の上に倒れ、若い武士は断崖のほうへ身をしりぞいた。四、五人いた追手が今は二人になっている。しかし若い武士のほうも手傷を受けたらしく、正眼にかまえた体がふらふらと揺れていた。――と、その時、湯沢のほうからかっかっと蹄の音がして、さっき五郎吉の馬を追って行った馬上の武士が二人、何か大声にわめきながら乗りつけて来るのが見えた。\n ――ああいけない。\n 思わずおゆきが心に叫ぶ、\n「えいッ、とう!」\n 絶叫が起って、追手の一人が体ごと叩きつけるように斬込んだ。若い武士は危くかわしたが、体をひねった刹那、右足を断崖から踏外したので、あっ! と声をあげながら、毬のように谷底へ――。\n おゆきははっと両の袖で面を蔽ったが、一時に体中の力がぬけてよろよろとよろめいた、――もしそのとき走り出て来た久右衛門が支えてやらなかったら、おゆきは気絶して倒れたに違いない。\n「おゆき! 入れというのがわからぬか」\n「......父さま」\n「しっかりせい、家へ入るのだ」\n 久右衛門がおゆきをかかえるようにして家の中へ入ろうとすると、馬上の武士二人と、追手の者二人が足早に近寄って来て、\n「待て待て、その娘待て」\n と呼止めた。――おゆきはふり返って、父の手から静かに身を放しながら、\n「......はい」と臆したふうもなく相手を見た。\n「いま谷底へ落ちた若者が、ここへ立寄って何か預けたそうだな、その品を出せ」\n「なんでございますか」\n おゆきは色もかえずにいった。\n「いまのお侍さまはたしかにお寄りになりましたけれど、湯沢へ行く道をおたずねなさいましたばかりで、べつになにもお預かりしたようなものは」\n「ないとはいわさぬぞ」\n 馬上の一人がひらりと馬を下り、鞭を片手にづかづかとおゆきの前へ立塞がった。\n「――でもわたくし何も」\n「黙れ、今おまえは湯沢へ行く道をきかれたといったな」\n「はい」\n「たしかに湯沢への道をきいたか」\n「......はい、たしかに」\n「嘘だッ」相手はぴしッと鞭で地面をうちながら叫んだ。\n\n二の二\n\n「嘘だ、嘘の証拠を聞かせてやろうか、いまの男は新庄藩の家中でこの付近の地理はよく知っているのだ、なにを戸惑って湯沢へ行く道などをきくわけがある!」\n「――――」\n「何か預かったのであろう、おとなしく出せばよし、かくしだてをすると」\n いいながらぐいとおゆきの腕を掴もうとする、その手をぱっと払いながら、\n「待たれい」\n と久右衛門が割って出た。\n「貴公らは新庄の御藩士と見受けるが、年少の娘をとらえて乱暴をなさるのはもっての外であろう、今こそ茶店をいたしておるが、わしもかつてはお目見以上のお扱いを受けていた、伝堂久右衛門という名ぐらいはお聞きおよびであろう」\n「伝堂......あ! 待て鹿島」\n その時まで馬上にいた一人が、あわてて飛下りざま近よって来た。\n「お許しください、失礼仕った」\n 慇懃に会釈して、「いずれも存ぜぬことでござる。ひらにおゆるし願いたい、拙者は新庄藩の家中にて渡部金蔵、これは鹿島源四郎と申します。じつは――お家に不忠を働いて脱走した者を追詰め、その者はただいま谷底へ蹴落しましたが、持って逃げたたいせつな品が見あたらず、追手の者の申すにはこの家へお預けするのを見たとのことで、失礼をも顧みずおたずねいたしたしだいでござる」\n「......不忠とは、どのような不忠をいたしたのか、してまたその品とは何でござる」\n「それらのことはお答えがなりかねます。もし事実お預かりになったものなら、ぜひともお差出しが願いたい」\n「おゆき――」\n 久右衛門はふりかえって、\n「おまえ何か預かったのか」\n「......はい!」\n おゆきは恐れ気もなく眼をあげていった。\n「たしかにお預かりいたしました」\n「――――」\n「父さまのお名が出ましたからは、もう嘘は申せませぬ、たしかにお預かりいたしました......けれど、あなたがたにお渡し申すことはできませぬ」\n「それは、どうして――」\n「お武家さまがわたくしに頼むと仰せられた品です。伝堂久右衛門の娘として、いちどお約束をした以上はどんなことがあってもそれを反古にすることはできませぬ」\n 断乎たる態度であった。――鹿島源四郎はぎらりと眼を光らせ、大股に一歩進みながら、\n「失礼だが、それでは賊臣の同類ともなることを御承知なのだな」\n「お言葉が過ぎまする」\n おゆきはきっぱりといった。「わたくしを賊臣の同類とおっしゃるまえに、あなたがたが御忠臣であるという証拠をお見せくださいまし。そのうえで御挨拶をいたしましょう、――もしまたそれが御不服で、力づくでも受取ると仰せられるなら」\n「どうするというのだ」\n おゆきは身をひるがえして家の中へとびこんだが、すぐに真槍の鞘を払って現れた。\n「これは新庄のお殿さまから拝領のお槍、かなわぬながらお相手を致しますゆえ、わたくしを斬伏せてから家さがしをあそばせ」\n「うぬ、――無礼なことを」\n 源四郎が思わずふみ出すのを、\n「待て、待て鹿島」\n と渡部金蔵が押し止めた。「殿よりいただいたお槍だ。無礼があってはならぬ、待て」\n「だがあの品を」\n「よいから待てというに」\n おさえておいてふり返り、\n「いまいわれた賊臣でない証拠を見せろというお言葉、いかにも道理でござる。その証拠を見せたらお渡し願えましょうな!」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " この、おの〳〵の位置によつて生える樹木の種類と森林の形とが異つてゐるあり樣を名づけて、『森林帶』または『森林植物帶』と言ひます。わかりやすく言へば、地球上の部分部分が、赤道に沿うて帶のように細長くわかれてをり、その一つ〳〵に、それ〴〵ちがつた植物がそだつてゐることをいふのです。\n(イ)水平的森林帶。 同じ平地でも臺灣と本州と北海道とでは樹木が違つてゐるように地球上の緯度の差につれて、言ひかへると赤道から南と北とへ向つて平にすゝんでいくとすれば、𤍠いところから寒い地方へ行くにつれて、そこに生育してゐる樹木の種類及び森林の形が各々異つてゐる、とは今はお話しました。この森林のそれ〴〵異つた状態にある幾條もの帶を『水平的森林帶』といひます。\n ですから地球が、かりに山がなくて一面の平地であつたならば、それらの緑の地帶は、赤道を中心にこれに並行して、北と南とへ美しい環をえがいて、地球を取り卷いてゐるはずですが、しかし實際は、海や山が不規則に入り亂れてゐますから、その水平的森林帶も、ところ〴〵で中斷し、また氣候にも影響されて不規則な帶となつてゐます。\n(ロ)垂直的森林帶。 次ぎに森林帶はまた垂直的にも見ることが出來るのです。海岸からだん〳〵に山地へかゝり高山へ登つていくにつれ、だん〳〵と温度が低くなるのは、ちょうど緯度の南から北へ進むにしたがつて寒さがますのと同じです。緯度は一度進むごとに攝氏の約一度づゝ温度が下りますが、高山ではおよそ百五十めーとるから二百めーとる登るたびに攝氏の一度ぐらゐ、温度が低くなり、登れば登るほど寒さを加へます。ですからさういふ山に生えてゐる樹木は、寒暖の差や、そのほか氣候の變化によつて、山麓から頂上までの間にいろ〳〵模樣の變つた幾つかの森林帶がかさなつてゐるわけです このように土地の高低によつて現れる森林帶のことを『垂直的森林帶』といひます。\n(二)日本の森林帶\n これから日本の森林帶についてお話しませう。\n 御承知のように日本は、北は北緯五十度三十分の千島の果てから、南は二十二度の臺灣にわたる細長い島國で、地理上臺灣の南部は𤍠帶に、本州、北海道は温帶に、千島、樺太は寒帶近くになつてゐます。從つてところによる氣候や土質の變化も甚だしく、そこに育つ樹木や、森林も、おのづと、いろ〳〵ちがつてゐます。それをわけると、一、『𤍠帶林』二、「暖帶林」三、『温帶林』四、『寒帶林』の四つになります。\n(イ)𤍠帶林(又は、榕樹帶)。 日本で𤍠帶林にはひるものは、臺灣の平均一千五百尺以下の平地、琉球本島の南半分、小笠原群島、新領土のマーシャル、カロリン、マリアナ列島等、一年中の平均温度攝氏二十一度以上の土地です。この帶の特徴として、一年中霜や雪が降らないので、植物の生長が全然休止する時がありません。\n 樹林には榕樹、赤榕樹その他蒲葵やたこのきといつたものが盛んに育つて空をおほうてゐますが、中でも榕樹はこの帶の代表的なものですから、𤍠帶林のことを榕樹帶ともいひます。なほ、珈琲、椰子の木、護謨樹、船材にする麻栗等、非常に有用な木も大抵この帶に栽培することが出來ます。\n\n熱帶林(ひるぎ林)\n\n(ロ)暖帶林(又は、櫧帶)。 この帶に屬する區域は、沖繩縣の中央以北から、四國九州の全部と本州の南部で、平均北緯三十六度以南の地です。温度でいへば、同温度の地方をつなぎあはせた線、すなはち同温線の攝氏十三度以上、二十一度以下の地です。この帶の樹木は、櫧帶といふほどかし、しひ等の常緑濶葉樹がおもにそだち、海岸の潮風の強い砂地には、よくくろまつが生え、南部にはくすのきが多く生えて暖國的な氣分をたゞよはせてゐます。\n\nしひのきの實と小枝\n\n\nしらかしの實と小枝\n\n 元來この帶の樹木はすべて常緑濶葉樹で、こなら、くぬぎ等の落葉濶葉樹がその間に點々と混つてゐる筈なのですが、常緑濶葉樹は昔からたび〳〵伐られたり、又は野火の害に會つたため、數が減り、反對に落葉樹や松林などがふえて來ました。なほこの帶は氣候が温和で人の居住にも適當し、また高山の中腹以下の地なのですから、土地が早くから開け人口が多く、物産の出るのも、ほかの帶よりずつと多量です。\n 今日、ひのき、すぎ等の林をこの帶の中に見るのは、人が移し植ゑたもので、もと〳〵ひのき、すぎ等は温帶林に生育してゐたものです。\n(ハ)温帶林(又は、椈帶)。 この帶は暖帶林のつぎにつくもので、本州の北部から北海道大半の西南、及び朝鮮の大部分にもあり、同温線六度以上十三度以下の土地です。垂直的の森林帶でいひますとこの帶の下部界が、暖帶林の上部界にあたり、この帶の上部界は臺灣では中央で一萬尺の高山に達してゐます。九州や山陰、山陽地方、畿内諸國も山が低いので暖帶林の上部界の上部はすべて頂上までこの帶に屬し、四國では六千五百尺のところを境とし、奧羽地方では更に下つて四千七百尺から三千五百尺の高さまでになり、北海道の南部では一千五百尺に下り、その中央では遂に海水面と一致してゐます。この温帶林にはどんな樹木が生育してゐるかといふと、一番いちじるしいのがぶなの木です。本帶を一名『椈帶』といふのもぶなが、その代表樹種であるからです。しかしこの帶に屬する土地でも、その南部では、自然のまゝに育つた林が少く、人がどん〳〵伐つてはその跡へすぎ、ひのき等を植林して育てた林が多いので、今日ではぶなの林を見ることが出來なくなつた場所も少くありません。けれども暖帶によく生育してゐるかしの類が、こゝでは自然に消えてなくなつてゐることや、もと〳〵温帶林にぞくする老樹が殘つてゐるのを見るとそこが温帶林であることがわかります。\n\n暖帶林(樟などの常緑樹林)\n\n かく、その帶の特徴樹種はぶなですが、その外におほなら、みづなら、とち等の落葉濶葉樹を混じてゐることもあり、地方によつてはひのき、さわら、ひば、すぎ等の針葉樹をまじへてるところもあります。木曾や秋田その他の地方で、特別に針葉樹を保護してゐる土地を除けば、あとはほとんど落葉樹で、冬になつて木の葉が落ちると、まるで枯れ木が遠く天に連なつてゐるように寂しい景色になります。\n\n温帶林(ぶなの林)\n\n\nぶなのき"
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"role": "assistant",
"content": "\n(ニ)寒帶林(又は白檜、椴松帶)。 この帶は水平的には北海道の中央以北、つまり温帶林の北部で、同温線攝氏六度以下の地方と、千島、樺太の全部を占めてゐます。これを垂直的に見れば、平地では𤍠帶に屬する臺灣でも、新高山のように高さ一萬三千尺にもあまる高山があるので、前の温帶林の上部にこの寒帶があります。\n しかし九州にはこの帶にはひる土地がなく、四國の六千五百尺以上の高山(石槌山、劍山)に、僅にこの帶の下部界を見ることが出來ます。本州では中部の諸高山の六千尺から九千尺までのところが、この帶にはひり、北海道の中央では三千五百尺、樺太の日本領地では二千尺から二千五百尺の高さまでがそれです。\n この帶には主として、白檜、とゞまつ、えぞまつ、あをもりとゞまつといつた常緑針葉樹林でなり立つてゐますが、本州では高山の頂き近くにしらべやあをもりとゞまつが多く、臺灣の高山にはにひたかとゞまつが生えてゐます。\n\nしらべ 鱗果をつけた小枝\n\n\n寒帶林(臺灣新高とゞまつの林)\n\n 以上お話したのは、つゞめていふと暑い𤍠帶から暖、温、寒といふ風にその各地方に適してよく育つ森林の區域と、その帶の特徴とでした。こゝまで來ますと最後の寒帶林の上部はどうなつてるかといふ疑問が出て來るでせう。\n(ホ)灌木帶(偃松帶)。 えぞまつやとゞまつの針葉樹林を出てその先へ移ると、急に光が強く、あたりはぱっと明るくなつたような氣がします。即、そこは灌木帶といふところで、殊に偃松が目につくので、偃松帶ともいつてゐます。偃松は地上二三尺のところに腕を伸ばし、肘を張つたように、枝を四方にひろげてゐます。葉は五葉で裏が白く、普通の松とはずっとちがつてゐます。またこの偃松がなくて、そのかはりに灌木状の落葉樹が茂つてゐるところもありますが、かように偃松や灌木状の落葉樹が生育してゐるのは、そこが高山で氣候が極めて寒冷であり、風も強いので、しぜんと、木も低く小さくなつたのです。\n 本州の木曾や甲州、信州等の高山に登つた方はよくご存じでせうが、日光の白根山、男體山やまた富士山などでは偃松を見ません。この帶には偃松のかはりに、いはやなぎ、しゃくなげ、なゝかまど、やまはんのき、べにばないちご等が生育し、特にしゃくなげはつや〳〵した厚い葉、硬い枝、美しい花が目立つので、他の木とすぐに見分けがつきます。花は普通紅い色ですが、中には黄や白の美しいものもあります。\n 以上のすべての木は、みんな幹や莖が小さく低くて、多くは一つところに群生してゐます。またそここゝの灌木の下には、次ぎにいふ高山植物が可愛く生えてゐます。山によつてこの灌木帶の幅は大變狹いところもあります。この帶の間に、高山植物の草本帶が混つたり、時には偃松が草本帶の中を通り越して、山頂近くまで伸びてゐることもあるので、各帶をはっきりと區別することは出來にくいのです。\n(ヘ)草本帶(高山植物)。 人々がお花畠といひ山上の花園としてめづらしがり、あこがれてゐるのがこの草本帶です。前の偃松帶の上部が徐々にこの草本帶に移つて行きます。この帶は日本の諸高山では大概山の頂きに近いところに現れてゐて、高さは八九千尺から一萬尺に及んでゐます。草本帶には、乾燥したところに生える植物、すなはち『乾生』のものと、濕氣のあるところに生える『濕生』のものとの區別があつて、前者は岩石や砂地の乾燥した場所に生え、後者は濕氣のある中凹みのあるところに生えるのです。\n 高山にはよくさういふ凹地に水を湛へて、時には沼地を形づくり、附近の岩の間に雪をためてゐたりするところがあります。沼地にはこの雪が溶け流れこむので、その沼水の温度は非常に低く、ひどく冷たいわけになります。\n 乾燥地すなはち岩地、砂地の水分の少いところでは、植物も澤山群つて生えることが出來なくてそここゝと岩石地に根をおろし、風が強いので葉は地にへばりついてをり、根は莖に比べて非常に太く長くなり、岩の裂け目などに深くもぐりこんでゐます。この植物のうち岩の碎けて積つた上に生えるものには花が赤くて紅緑の葉をもつた優美なこまぐさや、鋸葉の四出した莖のさきに赤い唇形の花がむらがつてゐるみやましほがま、梅に似た黄色い花をひらき鋸齒のある圓い葉を三つづゝ、絲のような莖につけたみやまきんばい、小さい芝のようなみやまつめくさ、たかねつめくさ等があります。\n また岩の隙き間には、青紫のちしまぎきょう、いはぎきょう、花は白梅に似て、葉は豆のように厚ぼつたいいはうめ、鋸齒のある腎臟形の葉を根元に出して、莖の上に黄色の五瓣の花をつけるみやまだいこんや、はゝこぐさに似て白ふらんねるのような葉を持つてゐるみやまうすゆきそう等が生えます。\n 次ぎに草原の濕地は『腐植土』といつて、植物が枯れて、根や枝や葉が腐つた肥料になつてゐるような土に富み、水分も多いので、植物の生育には大變都合がよいため、こゝではいろんなものが伸び〳〵と群つて茂り、美しいさま〴〵な花が咲き誇ります。こゝに生えるものは、葉も花も乾燥地に生えてるものより大きく、色も綺麗なものが多いのです。黄金色のものではしなのきんばい、みやまきんぽうげ、白くて大きな、梅の花に似たものにははくさんいちげ、淡紅色のいはかゞみ、かわいらしいみやまをだまき等澤山な種類があります。\n これらの多くの高山植物に色どられてゐる、いはゆるお花畠は、日本では本州中部の日本アルプスの諸高山に多く、中にも白馬山のは有名です。年中雪に閉されてゐた山頂に夏が來て、雪が溶けると、すぐその下には可憐な草が目も覺めるばかりに咲き出でます。眞白な雪溪に隣り合せて、このお花畠を見るときの感じは、なんとも言へず、貴く、かわゆく、美しいものです。\n(ト)地衣帶。 地衣帶は草本帶の上部に接してをり、兩帶の區別ははっきりとしませんが、ともかく一萬尺もの高さのところでは、きびしい寒さと、激しい風とでほとんど草も生えることが出來ず、たゞ裸の岩の上に地衣が固着してゐるきりです。この地衣のために、岩はいろ〳〵美しい模樣や紋を現してゐます。日本では木曾の御嶽や駒が嶽はこの帶の位置がよくわかります。この帶の上部はそれこそ地衣もない裸のまゝの岩石です。\n(三)富士山の森林植物帶\n 以上で日本の森林植物帶を水平的にも垂直的にも見て來たわけです。つぎには、どなたにも名前のしたしい富士山への登山と、その森林帶とのお話をして、森林植物帶のお話を、なほよくわかるようにしておきませう。\n 富士へ登るには、普通吉田口、御殿場口、大宮口と三つの登山道がありますが、森林帶を見ながら登るには吉田口か、大宮口を選んだ方がいゝと思ひます。こゝではかりに大宮口から登るものとしてお話します。\n あの廣々とした富士の裾野には、普通の登山期よりも少し遲れて八九月の頃には、殊に美しい秋草がたくさん咲きます。そこには春とちがつて新しい緑の色は少いですが、春の野よりも色どりには變化があつて綺麗です。われもこう、ききょう、かるかや、おみなへし、すゝき、ふぢばかま、はぎの秋の七草をはじめ、いろ〳〵の草が野原一面に咲いてゐます。しかしこの裾野は大昔からこんな草原だつたのではありません。\n 古い〳〵昔は、この一帶は暖帶林の上部から温帶林の下部に屬する樹木、すなはち常緑の濶葉樹や落葉樹でおほはれてゐたのです。ところが、それが古くから火事で燒かれたり、斧で伐られたりして、天然にあつたそれ等の樹木が大抵消えてなくなつてしまひ、つひに今日見るような茫々として、はてしもないような草原になつたのです。今、ところ〴〵にすぎやひのきやあかまつの林が見えるのは、人が新しく植ゑたのです。\n この裾野の景色を眺めながら、だん〳〵上つて一合目をも過ぎ、海拔三千五百尺あたりのところへ來ますと、いつしか草原も、人が植林した林などもなくなつて、ずっと奧ゆかしい、ちがつた林間にはひります。\n つまり温帶林の上部にはひつたわけで、喬木のぶな、おほなら、はしばみ、もみぢ、けやき、かつら、ほゝのき、きはだ、みづき、かば、くり等の落葉濶葉樹が、うっそうとしてをり、ところ〴〵に温帶林の特徴樹であるぶなの巨木が茂り、木の下には種々な灌木、草本、蔓生植物が盛んに生えてゐるのを見ることが出來ます。さらに二合目を過ぎて海拔五千七百尺のあたりへ來ますと、林は一變して今までの濶葉樹は急に少くなり、常緑針葉樹ことにもみ類こみつが、ひのきに似たとうひやしらべ等の巨木が聳えてゐます。前の落葉濶葉樹の葉が淡緑色で美しいのに反して、こゝでは針葉樹は暗緑色で、林の中は濕氣が多く、また木の下には蔭に耐へる木が生えてゐるほかに蘚苔類も澤山生えてゐます。\n\n富士山の森林帶\n\n こゝは、つまり、寒帶林で、いはゆる常緑針葉樹帶です。それから海拔八千尺の四合目まで登れば、林は三度その姿を變へて、常緑針葉樹の林は落葉針葉樹のからまつ林となつて來ます。そこへ來ると最早寒帶林の終りに近づいたことがわかります。すなはち落葉松林の幅はごく狹くなつてをり、木も小さくなつてゐます。そこから上は再び落葉濶葉樹のかば類とかはんのき類とか、美しい花が咲くしゃくなげ等の小さく低い植物が生育してゐます。"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧が立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。\n 次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美しい流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。\n 真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野性味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。\n 有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の画や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿がぶら下っていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に積み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、図668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、宮島の村は、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。\n\n図‐666\n\n\n図‐667\n\n\n図‐668\n\n 門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘が下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。\n\n図‐669\n\n 宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。\n 私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截り立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角のようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。\n 風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我々を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐ったりした。\n 我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矯小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命〔「汝の神エホバの名を、妄に口にあぐべからず」〕を破った。\n 我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時々止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も棚寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語道断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。\n 神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病にする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。\n ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。\n\n\n\n第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 我々の瀬戸内海に於る経験は珍しいものであり、また汽船を除いては、この上もないものであった。今や我々は、紀伊の国の都会へ向けて出発せんとしつつある。それから奈良と京都とへ行くのであるから、私の紀行の覚書や写生図は、順序正しく書く機会無しに、どんどん集って行く。私はまた、陶器紀要に関する資料を沢山手に入れたが、これは情無い程遅れている。\n 朝鮮で恐るべき暴動が起り、数名の日本人が虐殺されてから、まだ一月にならぬ。日本の新聞がこの報道を受けた時、私は京都にいたが、この事件に関する興奮は、私に、南北戦争が勃発した後の数日を連想させた。大阪は兵士三連隊を徴募し、百万ドルを醵金することになり、北西海岸はるか遠くに位置する新潟は、兵士半個連隊を徴募し、十万ドルを寄附することになった。私は以下に述べる出来ごとの真価が、充分了解される為に、かかる詳細をかかげるのである。\n 国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲に供して二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼等を取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲弄するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮べ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。\n 六兵衛の製陶所にいた時、この老人は、数年前つくった水差しを見せながら、私にとっては新しい身振をした。それは二つの拳を、前後にならべて鼻の上に置いたことである。彼が何を意味するのか、私は不思議に思ったが、これは誇りを示すものだと教わった。天狗と呼ばれる聡明な老人が、面でも絵でも、並々ならず長い鼻を持っている人として表現されているので、知識又は褒めてよい誇りを現す時には、このように二つの拳を鼻の先へ持って行くのである。\n 神戸では窓から数名の労働者が𣏾を打ち込んでいるのを見た。その方法は、この日記のはじめの方で、すでに述べた。我々は今、彼等の歌の意味を知った。図670は足代の上で、重い長い槌を持ち上げる人々を示している。下にいる二人は、打ち込まるべき𣏾を支え、その方向をきめる。その一人が短い歌を歌うと、足代の上にいる者達は僅に身体を振り動し、槌をすこし持ち上げることによって、一種の振れるような拍手を取り、次に合唄に加り、それが終ると三、四回𣏾を叩き、次で下にいる男がまた歌を始める。歌は「何故こんなに固いのか」「もうすこし打てば𣏾が入る」「もうすぐだ」というような、質問、あるいは元気をつけるような文句で出来ている。この時数回続けて、素速く叩き下す。上にいる男達は屡々、独唱家の変な言葉に哄笑し、一同愉快そうに、ニコニコしながら働く。彼等は一日に、かなりな量の仕事を仕上げるらしいが、如何にもノロノロと、考え深そうに働くのを見ては、失笑を禁じ得ない。\n\n図‐670\n\n 神戸で三日滞在した後、我々は大阪へ行き、そこから紀伊の国の和歌浦へ向った。私は田原氏と先発し、あらゆる町で陶器を求めて骨董店をあさった。大阪平野を横断して、向うの山まで行く路は、単調ではあったが、いろいろ興味があった。全地域にわたって、絵画的な四、五の群をなす、大きな藁の稲叢がある。これは高さの違う高い棒の周囲に集められ、各々その中心をなす棒の先端である所の、小さな尖塔を持っている。これ等の稲叢の多くには、瓢箪や南瓜がからまり、又農夫達が休み場所にする小さな小舎をかけたのもある。図671はそれ等の外見である。近い距離をおいて、この土地の灌漑に使用する単式或は複式のはねつるべがある。重い方の端には円盤に似た形で、中央に穴のある荒削りの石があり、この穴の中に棒の末端がさし込んである。これ等が何千となく広い平原に散在し、その多くは使用されつつあった。灌漑が行われつつある範囲の広汎さは、恐らく支那を除いては他にあるまい。私はやがて支那へ行き度いと思っている。そこでは、はねつるべは、二千年も前からある。\n\n図‐671\n\n 川の流れを動力とする、非常に巧妙な水車(図672)があった。これは支那人が考えたもので、東京及びその以北には稀だが、南方諸国ではよく見受ける。車輪は径八フィート、あるいはそれ以上で、その外面の横側に、大きな竹の管が斜に取りつけてある。水流によって車が回転させられると、竹の管に水が充ち、それ等の管が上へ来ると水は流れ出して、車輪の中心に並行して置かれる深い箱型の水槽へ落ち込む。水はこの水槽から又別の水槽へ流れ込み、そこから灌漑溝へ行く。各々の竹が順番に水で充ち、車軸の上方へ来てはその水を水槽へこぼす、規則正しいやり方を見ていると、中々面白い。時に河岸に添うて、二、三個の水車が相接してあることもあり、一日中には多量の水が水田を灌漑する為に揚げられる。\n\n図‐672\n\n 紀伊のある所で、私は稲田の草を取るのに使用する、奇妙な道具を見た。それは底の無い箱で、その内側には二本の棒が横に渡してあり、それに木の留釘が打ってある。この箱から長い柄が出ていて、それで稲の列の間を押して行くのである。図673を見れば、その形がたいていは判るであろう。これは我々がそれを見た村の住人が発明したものである。\n\n図‐673\n\n 和泉と紀伊の国境をなす山脈を越える峠は、道路が完全で、見事な石の橋もあり、実に愉快だった。\n 人はいたる所で、山の洪水から道路を保護するために、念入りの努力が払われていることに気がつく。渓流の河床でさえも、激流が何等の害をしないように、道路同様に鋪石してある。図674を見る人は、朧気ながら、橋の迫持受と河床とを保護する方法を知るであろう。水があまりに早く流れることを防ぐために、橋の下方には大きな堰が出来ている。ここに出した橋は、和泉を去って紀伊に入った所の峠にあるものの一つである。\n\n図‐674\n\n 私は和泉で、屋根が奇妙な方法に処理してあるのを見た。先ず杮板を薄く並べた上に、泥を薄く敷きつめ、その上から大きな木の槌で綿の種子を一層叩き込む。種子は油をしぼり取った残物であるが、油気があるので、泥が固くなり、太陽で焼かれる迄、防水上塗になるのである。\n 街道のある場所で休んだ時、よくある種の吸物に入っている、一種の変った食物を製造していた。これは艶々した黄色で、紙のように薄く、味とては別に無い。大豆から奇妙な、且つ簡単な方法でつくり出す。先ず豆を非常にやわらかくなる迄、大きな釜で煮、臼にかけて細かく挽いて糊状になし、水をまぜ、外国から輸入する、ある種の染料で色をつける(図675)。そこでこれを四角く仕切られた浅い水槽へ入れるが、その下には炭火があり、常にとろとろと煮立て続ける。するとその表面が煮た牛乳か、ココアの一杯に於るが如く凝結するので、かくて構成される薄膜を、細い竹の箸で巧みに取り上げ、ひっかけて乾燥させる(図676)。別の薄膜も、出来るに従って、忙しく働きつつある娘に、すばやく取り上げられる。"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 九月一日来の関東の大震については、自分の親しく見聞関知したところをいささか書きとめて、その混乱の最も烈しかった六日までの分を「震災日誌」と題して『社会史研究』拾壱月号〔(第一〇巻第三号)〕に掲載したのであったが、七日以後にもかなりひどい余震が繰り返され、世間はそわそわとして震災気分は相変らず濃厚だ。崩壊した古土蔵の土塊のために荒らされた書斎その他はまだもとのままで、事実学窓は閉塞の有様だ。この有様がいつまで続くか見当がつかぬ。すなわちここに爾後なお数日間の記事を「学窓日誌」から切り離して「震災後記」と題し、別に収めて後の記念とする。\n\n\n九月七日(金)\n 今日から東京で市内電車の一部が始めて動き出した。宅の附近では大塚終点から春日町まで、わずか九停留場の間だけだが、それでもどれだけ通行人が便利を得るか知れぬ。しかし罹災者を無料で乗せるというので、罹災者ならぬ有象無象までがそれにお相伴して、車掌台はもとより、窓の外側まで透き間なし鈴なりの乗客だ。いな、ぶら下り客で一ぱいだ。とても自分らごとき気の弱いものには乗れそうもない。相変らず昔慣れた自転車が役に立つ。\n 午後から水道の水が出だした。もっとも低い場所だけらしいが、どんなに嬉しく思ったか知れぬ。初めから水道のない国だったら、この嬉しさは味わえず、またこんなに不自由をしなかったのだ。\n 植木屋の人足がやっと四人来てくれて、振り落された瓦の破片や土塊の取り片つけに着手する。\n 北埼玉郡国納なる妻の従弟日下部彦太君が、はるばる自転車で白米二升を持って見舞に来てくれた。大阪を始め各地から白米多額輸送の評判のみ高くてもまだ市場には売り出さず、麦飯や玄米飯を補充に用いているさいのこの賜は何よりも嬉しかった(追記。彦太君は帝大生で、前途に嘱望せられた青年であったが、この日雨を冒して東京の親戚まわりをした後に間もなく病気にかかって、十月三十一日帝大病院でついになくなられた。何という気の毒なことであろう)。夜十二時ごろかなりビックリさせるほどの強い奴がやって来た。\n 夜警は依然として続く。夜九時より後は往来を禁止するとのことが新聞記事に出た。焼け残った『報知』や『東京日日』が出だしたので、いくぶん正確な様子もわかり、人気はだんだん落ち付いて来たとは言うものの、なかなか戦時気分を脱しそうにもない。郵便も来ねば地方の新聞も来ぬ。見るもの聞くもの、気の毒なこと、気味の悪いこと、恐ろしいことばかりで、風声鶴唳とでもいおうか、真を置きがたい巷説がまだやまぬ。\n九月八日(土)\n 今日は植木屋が五人来てくれて、昨日の続きをやる。室内の掃除もだいたい済んで、始めて畳の上で坐ることが出来た。始めて家に落ちついた気がする。実は一日以来そわそわのみしていて、舞い込んだ土煙りの掃除も出来ず、汚された座敷の上は草履ばきで歩行いていたのだ。\n 富士紡在勤の久堅町の甥が、職工らに供給する食糧やら、差当りて必需品の買い出しにと軍艦に便乗して大阪へ行く。\n九月九日(日)\n 今日も植木屋が五人。延べ都合十四人がかりでやっと家の外まわりの片つけだけが出来た。土塊や廃瓦は幾分邸内の低地の地上げに用いたが、それでもなかなか納まり切れず、空地の一隅にうずたかく積み上げて、震災記念の小山が出来た。山形県庄内の阿部正己君が、わざわざ震災見舞に東京へ来られたとて立ち寄られた(市内の方々の御来訪は一々ここに書き留めぬ)。\n九月十日(月)\n 一日の激震の際小田原御用邸で薨去になった閑院宮寛子女王殿下の御仮葬(?)が、宅の前の豊島岡御墓地で行われた。時節がらきわめて御質素でお伴の自動車がわずかに五、六台続いたばかり。町内の人も知らぬものが多いほどだった。返す返すも御痛わしい限りである。\n九月十一日(火)\n 自転車で見舞かたがた市内の状況視察に焼け跡を見てまわる。サンカの小屋のようなものが到る処に出来て、やっと雨露を凌いでいる気の毒な人が多い。中には早くも体裁のよいバラック建に着手しているのも少くないが、まだ焼跡に埋もれたままの屍体もあるらしく、屍臭のひどい場所にしばしば出合わす。\n 郷里の呉郷文庫主石原六郎君の息育市郎君が、東京在学の令弟の安否を気づかわれて出京されたついでだとて、自分の宅へも訪れられた。いつもながらの石原君の御厚志は感謝にたえぬ。郷里へ通信杜絶の今日定めて実家にも心配しているであろうにと、視察のままの事情の報告を御頼みした。\n 今夜から当番を定めて交代に町内の夜警に当ることになる。\n九月十二日(水)\n 今日から暴利取締令がいよいよ励行されて、宅の近所で商店や露店の売品の値が高いと言って巡査に殴られたり、蹴られたりしたものがあった。非常のさいには非常の取締の必要もあるものと見える。\n 博文館の工場に勤めておられたという、鬚を生やした罹災者某君が、夫人とその門前に「社会奉仕スイトン一杯五銭」の店を出したが、一向売れなかったようだ。旦那さんはズボンにシャツ一枚、奥さんは肌繻袢に湯もじばかり。だいたいお化粧したり盛装したりした婦人などは一日以来一人も見かけたことがない。年ごろの娘でもお尻ばしょりに足袋跣足という方が幅がきく。\n九月十三日(木)\n 京都の宅から助手の山本〔(桝蔵)〕生が、震災跡始末の応援にとはるばる来てくれた。警察や府庁がなかなか証明をしてくれず、それを貰うにはなはだしく苦心されたものだという。やっと七日分の食糧携帯という条件で許されて昨日中央線で出かけたのだが、途中の困難も一と通りではなかったらしい。差当りの入用にと三百円だけ工面して来てくれた。実は昨日あたりからボツボツ銀行も開店しかけてはいるが、一日百円を限って払い出されるので、それも込みあって容易に受け取れなかったのだ。これで大いに心丈夫になる。ことに震災以来京都の宅へ到着した三十通ばかりの書信を持参してくれたので、久しくどちらからも音信を受けなかった自分には言い知れぬ嬉しさを感じた。地方では東京行の書信一切郵便局で扱わぬので、念のために重ねて京都の宅へ出したなど書いた親切なのが数通あった。\n九月十四日(金)"
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"role": "assistant",
"content": " 豪雨襲来。かりに蔽うたばかりの不完全な屋根はこれを防ぎ切れず、到るところ雨漏りがはなはだしいので悲観させられる。午後三時半ごろ地震のかなり強い奴がまたやって来た。次男と山本生とを、弁当持で焼跡の情況視察につかわす。被服廠跡に累々たる屍体の絵はがきなど買って来る。\n 今日始めて郵便配達に接手する。一日または二日の消印附のもののみだ。三日以後は震災地行きの郵便物を受け付けなくなったので一つも来ぬ。\n九月十五日(土)\n 驟雨なお続く。地震もおりおり繰り返す。山本生の応援で、書庫内の整頓に着手する。\n九月十六日(日)\n 各地から見舞状がボツボツ配達される。四頁、五頁ぐらいでもよいから、『社会史研究』をぜひ続けるようにと奨励される熱心な読者もある。雨風なおつづく。今日大工二人、植木屋一人来てくれて、さしあたり損処に応急の手当を加える。なかなか間にあいそうにもない。\n 午後雨がやんだので、巣鴨から日暮里方面へ見舞に行く。自転車が大いに役に立つ。\n九月十七日(月)\n ブリキ屋が二人、有り合せの古材料で壊れた屋根の応急手当に着手する。\n 京大の講義は疾くに始まっているはずだ。大体の応急手当も職人に委しておいて、今日いよいよ京都へ行く予定であったが、やっと徒歩連絡で通じていたはずの東海道線は、両三日来の豪雨で馬入川の仮橋を流されて、再び不通になったという。中央線の方も笹子隧道が崩れて塞がったという。とても行けそうにもない。\n 十時ごろから焼け残った帝大の史料編纂掛や人類学教室、さては上野の博物館などの見物に行く。博物館はかなり被害があったようだが、前両者はほとんど損害がないといってもよいくらいだ。大学は火事にだに遭わなかったならば、ほとんど無事であったのだ。残念なことをした。だいたい東京の地震は横浜や鎌倉、小田原方面のごとくひどくはなく、これを『安政見聞誌』などと比較してみても、その当時の江戸の地震ほどにはなかったらしい。ただこの度のは大火の惨害によってはなはだしく傷められたのだ。そして被服廠跡の惨状のごとく、一ヵ所に三万何千という多数の人々が、折り重なって焼死するというような、千古未曾有の大悲惨事をも生じたのだ。これが昔の江戸の町であったならば、また少くも水道の防火に依頼し過ぎることがなかったならば、かくまでにはならなかったはずであったと思うと、またしても近ごろの文明を恨まざるを得ぬ。\n 大学職員は多く山の手方面におられるので、割合に罹災者は少いようだったが、その中にかねて心配していた和田英松博士は、あの沢山の蔵書も皆丸焼けになって、今は中野へ避難しておられるという。今日は出勤がないので、親しく慰問の辞を呈することも出来なかった(追記。後に聞けば中村勝麻呂君も焼き出されたという。お気の毒なことだ)。\n 上野公園内には、平素は禁足地の芝生にまで避難者の小屋が至る所に建っている。警視庁建築のはずのバラックは、敷地の指定だけでまだ着手に及んでいない。見晴らしから眺めた下町一帯の焼野の原には、はやくもバラックがだんだん見え出したが、すぐ下のかの広い停車場はまだそのままだ。博物館内には、事務所の縁側や廊下にまで気の毒な人々が一パイに詰まっている。見かけたところ、たいていは浴衣一枚の着のみ着のままだ。喰べ物だけはともかく配給を受けているであろうが、夜分をどうして凌いでいるであろうと気の毒でならぬ。これからだんだん朝夕の寒空に向って、この末果してどう落ちつくことであろう。\n 歴史部を訪うて懇意な部員諸君の安否や、あの震災の日に東京へ来られたはずの京大梅原〔(末治)〕君の安否を尋ねた。おりから部長高橋健自君は不在だったが、後藤〔(守一)〕君から承ると、心配していた通りに黒川真道君累代の蔵書や遺稿はたいてい焼けたという。残念なことをしたものだ。梅原君は予定通り一日に来るには来たが、あの地震でどうもならず、ことに風采がちょっと朝鮮人に似通っているのであぶなくて外出も出来ず、保護を加えて三日に無事東北へ送り出した、今ごろは京都へ帰っているであろうという。これでまず安心して、あの細高い人が自警団から竹槍を突きつけられた時の様子などを想像してみた。新総長大島義脩君は新任以来始めて登庁して、館員を集めて就任の挨拶をしておられるなかばにあのグヮラグヮラだったのだという。\n九月十八日(火)\n 信越線一本限りの往来では汽車の混雑が恐ろしく、今日も西下を見合せ、その代りにかねて気にかかっていた横浜、鎌倉方面へ見舞に行く。山の手線大塚駅から品川へ、品川から東海道線へと、ともかく乗るには乗ったが、汽車の混雑は非常なもので、とても婦人、小児や老人では乗られそうにもない。出入口はどれもどれもギッシリ詰まって、窓口が今なお普通の昇降口となっている有様だ。\n 横浜、鎌倉方面の震災のはなはだしかったことはかねがね承知してはいたが、来てみればさらに想像よりも以上のひどさで、やっと大船で乗りかえて鎌倉に近づくと、まず円覚寺附近の民家のたいてい倒れているのに驚かされた。鎌倉駅は焼け残ってはいるが惨憺たるものだ。駅前見渡す限り焼けている。有名な鶴岡八幡宮も無残に倒壊し、石橋や石鳥居も崩れ落ち、門前の大通りには左り角の八百屋とほか一戸を除いては、完いものは一つもない。そしてそれが大半焼けているのだ。そのほかたいていの社寺は倒壊を免れなかったらしい。七百年来歴史的のこの名蹟も、これでは復旧は容易であるまいと思われた。ことにこの地方は偏鄙なだけに東京よりは万事の手当が後れて、今なお食物の供給が十分でないらしい。二階堂谷に西川〔(龍治)〕君の仮寓を訪う。この辺の被害は割合に少いが、西川君は病児や婦人連のみを連れておられるので、帰るにも帰られず、今なお配給米を受けて飛んだ避暑をやっておられる。覚園寺を訪う。本堂は幸いに外形無事だが、中の半丈六薬師如来ならびに両脇侍菩薩の木像は須弥壇から投げ出されて、勿体なくも無残に破砕している。国宝黒地蔵尊の堂は押し潰されて、本尊菩薩は下敷となり給い、今にその負傷の程度すらわからぬ。ただ庫裏と、庫裏に続けて先年自分の建て添えた小座敷とのみはまず無事だ。住職大野秀文君は震災当時令息の入院に附き添って、横浜の病院におられたそうで、崩壊とともにやっと病人を担ぎ出して、逐い来る火焔を避けつつ、ともかくも無事引き揚げられたのだという。危ういことだった。\n この夜は晩くなったから覚園寺で一泊。\n九月十九日(水)\n 七月末に始めて踏査した厚木町方面震害は最もはなはだしく、そのうえ火災に罹ったというので、その節世話になった人々の見舞かたがた、視察に行きたいと思ったが、馬入川も困難だし、厚木・平塚間の道路は亀裂がはなはだしく、自動車も通うていなかろうというので見合わして、直ちに横浜へ引き返す。\n 横浜の惨状は全く東京以上だ。焼け跡をあちらこちら視察しつつ、まず市役所仮事務所に堀田〔(璋左右)〕君を尋ねたがおられない。転じて西戸部町に深沢〔(鏸吉)〕君を訪う。同君はもと日本歴史地理学会幹事で、ついで久しく神宮皇学館教授を奉職せられたが、その後学者を廃業して実業界に鞍替せられ、昨年ここに宏壮なる邸宅を構えられたのであった。しかるにその新邸宅も今度の震災にことごとく崩壊するの運命を免れなかったのだ。\n おりから深沢君は会社の重役会議とかで川崎へ行かれて不在。崩れた門の側に六畳敷くらいのバラックを作って、夫人は七人の子供さん方とともにそこに起き臥ししておられる。誰にも怪我はなく、火災をも免れられたのは何よりもっておめでたいが、もちろん今しばしの間のことであろうとはいえ、昨日までの金殿玉楼の生活に引きかえてのこの不自由極まる有様に、思わず涙ぐまずにはおられなかった。しかしこれはひとり深沢君ばかりではない。知る知らぬの罹災者のすべてが皆これなのだ。いやさらにこれよりも数倍、数十倍ひどいのが多いのだ。「奥さん本当に御不自由でしょうが、世の中には何不足のない立派な家を持ちながらも、わざわざテント村などといって海岸や山上の窮屈な仮りの住居に、変った気分を味わいたがる人も多い今日です。あなたがたは求めずしてその境遇を体験するの機会を得られたのだ。まあそのくらいの気分で御辛抱なさい」\n これはあえてからかいのつもりでいったのではなかったが、後で思うと先方では果してどんな意味で受け取られたかと、ひとり苦笑せざるを得なかった。\n 間に合せのバラックや焼け亜鉛板を寄せかけたサンカ小屋のようなものは大方出来ているが、東京から見ればよほど後れている。戸部線の大通りや、停車場前など人通りの多い所には、飲食物や日用雑貨の露店が沢山に出ている。野菜が安く、茄子は三十個十銭という札が立っていた。なるほど野菜は地震にも被害はなく、しかも需用者は大いに減じたのだ。\n 品川行の汽車は相変らず鮨づめだ。\n 昨日も今日も汽車の中では乗り合客の対話が罹災のことばかりだ。そしてそれがいずれも気の毒なことばかりだ。相当身分のある商人らしい一紳士が、十五、六の令嬢風の娘の足に繃帯をかけたのを背負うて鎌倉から一所に乗り込んだ。聞けば日本橋にかなり手広く営業していた太物屋さんじゃそうで、店はむろん全焼して在京の家族店員は幸いに無事だったが、鎌倉の別荘が潰れたので、おりから行っていた家族や親戚のもののうち二人死んで六人負傷したということであった。どうにかこうにか東京の落ち付き先もきまったので、生き残ったものを引き取ろうとは思うが、この汽車の混雑ではどうも出来ず、やっとこのころになってこうして毎日一人ずつ自分で連れて帰っているのだとのことであった。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " とひとりごと。\n ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の血糊を草の葉にぬぐいながら、弥生と二剣は? と、そこらを眺めまわすと、いまのさわぎのうちに、いつの間にかまぎれさったものであろう。弥生も、夜泣きの刀も近くに影がない。\n 深閑として、陽の高い森の奥。\n 雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に映ろうのが、どうかすると雑草の花のように、七色のきらめきを見せて左膳の独眼を射る。\n ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!\n かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。\n すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。\n「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ......」\n ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。\n 走り出す左膳。\n 弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。\n 追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。\n\n 雲竜二刀を確と抱きしめて子恋の森を走り出た弥生、ゆくてを見ると、四つの駕籠がおりているので、さては得印門下の四人が、何かの用で森の家へ帰って来たのか、やれ助かった! となおも足を早めて近づくと、\n「おうい! そこへ行ったぞウッ!」\n といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、\n 一難去って二難三難!\n 月輪の援隊、三十一人が三人に減ったその残剣一同、首領月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎......これが左膳とともに駕籠を駆って来ていた。その網のまん中へ、われから飛びこんだ小魚のような弥生の立場!\n「あれイ......ッ!」\n と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!\n ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。\n 右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。\n その一刻に!\n これもゆうべ。\n 多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。\n そして!\n 諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を打ッ! とひるがえして、左膳へ斬りこむ。\n「来たなッ!」\n 大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、\n「月輪氏、かまわず先へやってくれッ! 落ちあう場所はかねての手はずどおり......あとは拙者が引きうけたから、娘と刀をシカとお預け申したぞ......! サ拙者を残して、一ッ飛ばしにやってくれいッ......」\n わめき立てた。\n 同時に。\n「ハイッ! いくぜ相棒!」\n「合点だッ!」\n と駕籠屋の威勢。\n「しからば丹下殿、あとを――」\n「心得申した、一時も早く!」\n 駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。\n 二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに飛沫をあげて、たちまち道のはずれに見えずなった。\n チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。\n「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々......はッはッはは、ありがたく頂戴いたすとしよう」\n 栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。\n「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」\n「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために......」\n「ウム! いいおったナ」\n 泰軒は一歩すすみ出た。\n「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの蒐刀のために――はははは、越前もそう申しておった......」\n キラリ眼を光らせた左膳、\n「越前......とは、かの南の奉行か?」\n「そうよ! 越前に二つはあるまい!」\n と、聞くより左膳、\n「チェッ! その件に越州が首を突っこんでおるのか......ウウム! それではまだ、てめえのいうとおり、おれも安心が早すぎたかも知れねえ! や! こりゃアこうしちゃあいられねえぞ」\n 声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。\n 左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一鞭、したたかに奔馬をあおりたてたのと、これらすべてが同瞬の出来事だった。\n 鞍上人なく、鞍下馬なし矣。\n 左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。\n その時だった。\n 唖然としていた泰軒と栄三郎が耳ちかく悍馬のいななきを聞いたのは。\n 時にとって何よりの助けの神!\n と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!\n 覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。\n ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、\n「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」\n「かたじけない!」\n 泰軒は低頭して、\n「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」\n「いかにも! すべて殿の命でござる。いたるところに疾に手配してあるによって、安堵して追いつめられい!」\n という意外な情けの言葉に、\n「殿......とは?」\n 泰軒が問い返すと、\n「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」\n 終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。\n 汐留の海である。\n 見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の伝馬船へ乗り移ったかと思うとブツリ......綱を切り、沖をさして漕ぎ出した。\n 船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。\n さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで地団駄をふんだとき。\n スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!\n ふたりには頓着なく、\n「これへ!」\n とさし招くと、艪の音も勇ましく船べりを寄せてきた一隻の大伝馬がある。\n「乗られい!」\n 侍がいった。\n その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、\n「オ! 貴公は大......!」\n いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。\n「わかった! すべて、貴公の胆いり――かくまで手配がとどいていたのか。ありがたい! さすが南の......オッと......何にもいわぬ! これだッ!」\n と泰軒、手を合わせて件の侍を拝むと、侍は頭巾の裏で莞爾としているものとみえて、しきりにうなずきながら、早く乗り移れ! と手真似をする。そして!\n「前々から彼奴ら一派の動静は細大洩らさず探ってあって、きょうの手はずもとうにできておった。それからナ彼奴にはもう何人の呼吸もかかっておらぬぞ。よいか、外桜田に相馬の上屋敷がある。そこの江戸家老を呼んでいささかおどかしたのじゃ。ついに、刀を集める左腕独眼の剣士、そんなものは知らぬといわせてやった。はっはっは、これならばもう彼は相馬の士ではない。いわば野良犬......な、斬ろうと張ろうと、北の方角から文句の出るおそれはないわい。存分に......」\n「そうかッ! よしッ」\n「奉行いたずらに賢人ぶるにおいては――ではないが、わしにも眼がある。黙っておってもやるだけのことはやるよ。江戸の始末はわしに任せておいて、どこまでもあの船を追ってゆくがよい。早ういけ! あんなに小そうなったぞ!」"
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"role": "assistant",
"content": " 黙ってこの侍に頭を下げた泰軒、栄三郎を促して、差しまわしの船に飛び乗った。\n 屈強の船方がそろっている。\n すぐに櫓なみをはずませて、左膳の船のあとを追い出した。\n しおどめ。\n 左に仙気稲荷。\n 一望、ただ水。\n 広やかな眺めである。\n ギイギイと櫓べそのきしむ音。\n 二艘の船は、こうして江戸を船出したのだった。\n 藍いろの海。\n うす青い連山。\n かえり見ると、磯に下り立つ覆面のさむらいの姿は、針の先となって視界のそとに没し去ろうとしていた。\n ......水と空のみが、船と船のゆくてにあった。\n\n夕陽の辻\n\n 似よりの船あし。\n 風のない昼夜。\n 油を流したような入り海に、おなじ隔たりがふたつの船のあいだに何日となくつづいた。\n 白い水尾を引く左膳の船のあとに乗って、栄三郎、泰軒の船があきもせずについてゆくばかり......。\n 敵意も戦意も失せそうな、だるい航海のあけくれだった。\n その間、左膳の船では。\n むりやりに担ぎこみはしたものの、いざそばに見るとその気高い処女の威におされて、さすがの左膳も弥生には手が出せず、今はただ雲竜双刀のみを守って弥生は大切に取り扱い、ひたすら一路相馬中村に近い松川浦へ船の入る日を待っているのだった。\n 月輪の三士、軍之助、各務房之丞、山東平七郎とても同じこと。\n 血筆帳の旅で江戸へ出たとき、かれらのうち誰がこんにちのさびしさを思ったものがあろう!\n 三十一人わずか三人に減じられて、落人のごとく胴の間にさらされているのだ。\n 栄枯盛衰――そうした言葉が、軍之助の胸を去来してやまなかった。\n 板子一枚下は地獄。\n 海の旅は、同船のものをしたしくする。\n 追う船も、追われる船も、おなじ天候の支配を受けて、ただ追い、ただ追われているのみだった。\n 先の船には弥生。\n あとの船には栄三郎。\n どんな思いで、たがいの帆を望み、綱のうなりを聞き、鴎のむれを見たことであろう。\n 昼は、雲の峰。\n 夜は月のしずく。\n そうして。\n 八幡の宿。\n 王井。\n 畦戸の浜。\n 大貫。佐貫の村々。\n 富田岬をかわして、安房の勝山、走水。\n 観音崎から、那古、舟形。\n 三崎......城ヶ島。\n このあたりのたびたびの通り雨、両船にて、茶碗、盥等、あらゆる凹器を持ち出し、あま水を受く。飲料なり。\n それより北条の町の灯。\n 九重安信神社の杉森。\n 野島崎。しらはま。和田の浦。江見。安房鴨川。東浪見――。\n そと海に出て、九十九里浜。\n 松尾。千潟。外川。\n 屏風ヶ浦より犬吠。\n 飯沼観音のながめ。\n 大利根を左、海鹿島を右に、鹿島灘へ出て銚子、矢田部。\n 北上して――。\n 大洗から磯浜、平磯、磯崎......磯前神社あり。\n つぎに阿漕、松川磯の小木津。\n 関本。勿来。小名浜。江名。草野。四ツ倉。竜田。夜の森。浪江。\n このへんより松川浦にかかって小高、原の町、日立木の漁村つづき。\n 仙台湾。\n 名にし負う塩釜神社に近く、右手の沖は、鮎川のながれを受ける金華山。\n 怒濤......。\n 江戸を出て九日目の夕ぐれだった。\n 午すぎからあやぶまれていた空模様は、夜とともに大粒な雨をおとして、それに風さえくわわり、二つの船は見るみる金華山沖へ流れていったが!\n やがて。\n 真夜中ごろであろうか、一大音響をたてて船が衝突すると、あらしをついて栄三郎、泰軒が、左膳の船中へ乗り入り、まもなく月輪の三士をことごとく斬りふせたとき! かなわぬと見た左膳。\n ただちに手にした夜泣きの大小を海中へ投じたが、すかさず! 栄三郎が水へもぐって、沈まんとして流れてきた二刀を拾い上げ、船へ泳ぎ戻った。\n そして!\n その二剣を、船中に倒れていた弥生の手に握らせた時、ニッコリした弥生は、それを改めて栄三郎へ返してただひとこと。\n「どうぞお艶さまと......」\n かすかに洩らしたのが最期。\n さびしい――けれども、いい知れぬ平和な満足が、金華山洋上あらしの夜、弥生の死顔のうえにかがやいたのだった。\n 泪をぬぐった栄三郎が、泰軒の指す方を見やると、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、丹下左膳の長身が、生けるとも死んでともなく、遠く遠くただよい去りつつあった。\n 遠く遠く、やがて白むであろう東の沖へ......。\n なんという長い月日であったろう!\n\n かくしてここに、乾雲坤竜の二剣、再び諏訪栄三郎の手に返ったのだった。\n 青葉若葉......。\n 六月のなかばの江戸である。\n すっかり素人ふうになったお艶が、身重のからだを帯にかくして、常盤橋の袂にたたずんでいた。\n 青あらしは、柳の枝も吹けば、道ゆく女の裾もなぶる。\n かろやかな初夏の街。\n すべてが、陰にあって、よかれと糸を引いてくだすった南町奉行大岡越前守忠相さまのたまものである。\n お艶は、大岡様の手によってまつ川から受け出されて羽織の足を洗い、おさよは、これも大岡様から家主喜左衛門へ急使が立って喜左衛門が鈴川源十郎方へ掛けあいにいって救われた。\n そうして今。\n 母娘ふたりは、あさくさ田原町三丁目喜左衛門の家に厄介になっているのだが、同じく大岡様のおことばで、鳥越の大久保藤次郎も、留守中の弟栄三郎に勘当を許し、栄三郎は江戸へ帰りしだい、和田家へ入夫してお艶と正式に夫婦となり、おさよとともに三人、いや、お艶の腹の子をいれて四人づれで、和田宗右衛門の遺志どおり、相馬中村へ帰藩して和田家を継ぐことになっているのだ。\n そして、もし栄三郎さまが、夜泣きの刀を入手してくれば、帰藩と同時に其刀を献上におよび、左膳のものとなるべきはずだったあらゆる賞美と栄誉は、すべてこれ和田栄三郎の有に帰する......と、お艶はいま、あけても暮れても海へ行った栄三郎の帰府と、かれが持ちかえるであろう関の孫六の両剣とを、神仏に念じて、一日も早かれ! と祈っているのだった。\n その、栄三郎の船の入江も近い。\n きょうは十五日――。\n 麹町永田馬場の日吉山王、江城の産土神として氏子もっとも多く、六月十五日はその祭礼である。\n 江都第一の大祭。\n 別当勧理院、神主は樹下民部。\n 神輿の通りすじは往来を禁じ、町屋に桟敷がかかる。幕毛氈きらびやかにして、脇小路小路は矢来にて仕切り、桜田辺の大名方より神馬をひかれ、あるいは長柄の供奉、御町与力同心のお供あり、神輿三社、獅子二かしら。法師武者とてよろいを着したる馬上の衆徒十騎。出し屋台、ねり物。番数四十六番。町かずおよそ百三十余町。一の鳥居のまえへ詰め、お通り筋は、星野山より半蔵御門へ入り、吹上竹橋御門、大下馬より常盤橋、本町、十間店本石町、鉄砲町、小船町、小網町、れいがん橋を過ぎ、茅場町お旅所にて奉幣のことあり、それより日本橋通町すじ、姫御門を抜けて霞ヶ関お山に還御也。隔年、丑卯巳未酉亥。"
}
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[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んと云う顔付をして聞く。\n「行きたかったが四時を過ぎちゃ、這入れないと云う細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」\n 語り了った主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと云う気かも知れん。\n 寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と云う。\n 迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫を持った妻君は実に仕合せだな」と独り言のようにいう。障子の蔭でエヘンと云う細君の咳払いが聞える。\n 吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通のごとく、文切り形の厭味を帯びてないのはいささかの取り得でもあろう。\n こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来ようかと二絃琴の御師匠さんの庭口へ廻る。門松注目飾りはすでに取り払われて正月も早や十日となったが、うららかな春日は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面も元日の曙光を受けた時より鮮かな活気を呈している。椽側に座蒲団が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の気合もしないから、泥足のまま椽側へ上って座蒲団の真中へ寝転ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。\n「御苦労だった。出来たかえ」御師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。\n「はい遅くなりまして、仏師屋へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで三毛も浮かばれましょう。金は剥げる事はあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌よりも持つと申しておりました。......それから猫誉信女の誉の字は崩した方が恰好がいいから少し劃を易えたと申しました」「どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう」\n 三毛子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン南無猫誉信女、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御師匠さんの声がする。\n「御前も回向をしておやりなさい」\n チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急に動悸がして来た。座蒲団の上に立ったまま、木彫の猫のように眼も動かさない。\n「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪を引いたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛を馬鹿にし過ぎまさあね」「そう人様の事を悪く云うものではない。これも寿命だから」\n 三毛子も甘木先生に診察して貰ったものと見える。\n「つまるところ表通りの教師のうちの野良猫が無暗に誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの畜生が三毛のかたきでございますよ」\n 少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾を呑んで聞いている。話しはしばし途切れる。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「世の中は自由にならん者でのう。三毛のような器量よしは早死をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし......」「その通りでございますよ。三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人とはおりませんからね」\n 二匹と云う代りに二たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう云えばこの下女の顔は吾等猫属とはなはだ類似している。\n「出来るものなら三毛の代りに......」「あの教師の所の野良が死ぬと御誂え通りに参ったんでございますがねえ」\n 御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。\n「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺さんは、ええ利目のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ......しかしあの野良なんかは......」\n 吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。\n「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」\n 吾輩はその後野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震いをした。その後二絃琴の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向を受けているだろう。\n 近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫となった。主人が書斎にのみ閉じ籠っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。\n 鼠はまだ取った事がないので、一時は御三から放逐論さえ呈出された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家に起臥している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼に対して敬服の意を表するに躊躇しないつもりである。御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎が出て来て、吾輩の肖像を楼門の柱に刻み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描くようになったら、彼等鈍瞎漢は始めて自己の不明を恥ずるであろう。\n\n三\n\n 三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞の感はあるが、幸い人間に知己が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許へ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産吉備団子をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合して二本足の先生と雌雄を決しようなどと云う量見は昨今のところ毛頭ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄して人を罵詈するものに限って融通の利かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子や黒の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位で彼等の思想、言行を評隲したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児の毛の生えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備団子をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮って送らぬ容子だ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免蒙る事に致そう。\n 今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の傍へ筆硯と原稿用紙を並べて腹這になって、しきりに何か唸っている。大方草稿を書き卸す序開きとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太に「香一炷」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一炷とは、主人にしては少し洒落過ぎているがと思う間もなく、彼は香一炷を書き放しにして、新たに行を改めて「さっきから天然居士の事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想が尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何かになるだろうとただ宛もなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁を垂らすのは、ちと酷だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線を描く、線がほかの行まで食み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭を捻って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼を叩くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが......」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭を御食べになったり、ジャムを御舐めになるものですから」「元来ジャムは幾缶舐めたのかい」「今月は八つ入りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いて見る。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大に不平な気色を両頬に漲らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士に取り懸る。\n 鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦る体であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足だ、割愛しよう」とついにこの句も抹殺する。「香一炷もあまり唐突だから已めろ」と惜気もなく筆誅する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と意味不明な語を連ねているところへ例のごとく迷亭が這入って来る。迷亭は人の家も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。\n「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰しているところなんだ」と大袈裟な事を云う。「天然居士と云うなあやはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭は不相変出鱈目を云う。「偶然童子と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当だろうと思っていらあね」「偶然童子と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ......空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と大きな声で読み上る。「なるほどこりゃあ善い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘を沢庵石へ彫り付けて本堂の裏手へ力石のように抛り出して置くんだね。雅でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然と出て行く。"
}
]
|
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "勇「丈助さん、イヤ何うも私は何んだか手の内の玉を取られたと云うのは此の事かと思うよ、お少さい時分からお守をしただけに別れが辛うございました」\n丈「然うだろうね、オイ船頭さん船を矢切へ遣っておくれな、船頭さん」\n百「船頭は居ましねえよ」\n勇「居なくっちゃア困るな」\n百「イヤ丈助さん」\n丈「イヤ、これは喜代松さん、船頭は何処へ往っただな」\n喜「船頭は曲金へ馬鹿囃子の稽古に往っただアよ」\n丈「それは困ったが、お前船を漕ぐ事が出来るかえ」\n喜「対岸へ往くぐらいは知ってるだが、一人で往くのも勿体ねえと思って人の来るのを待っていた処だ、丁度宜いからお乗んなせえな」\n丈「じゃア勇助さん乗ろう」\n と是から船に乗ると、百姓が繋縄を解いて棹を揚げて、上手の方へ押出し、艪杭を沾してだん〳〵と漕ぎ初めたが、田舎の渡船ぐらい気の永いものは有りません。\n喜「宜い塩梅に天気イ能く続くね」\n丈「お前は何時までも若いね」\n喜「モウ年を老っちまって仕様がねえだ、若え時分に一緒に松戸の樋の口へ通う時分にゃア一晩でも女郎買をしねえと気が済まねえで、一度などは雨が降った時に簔を着て往った事が有ったが、まるで門訴でもするような姿で、お女郎買に往ったッけが、若え時分というものは仕様がねえもんだね、今じゃアお前の婆さんが悦んでるぜ、忰は固く成って私が仕合せだって、無えもんとした忰が帰って来て儲かりましたってよ、正直な婆さまだからね」\n丈「ハア、若エ時分には散々お母に苦労をさせました...勇助さん此の水を御覧なさい、能く澄んでるでしょう、透通って底が見えるぐらいだのに、旦那さまのお死骸が何処を探しても知れねえというのは不思議で、其の癖出なくっても宜い百姓の清助の死骸ばかり揚ったから、私は何うも何んだか水を見ると心持が悪くなりますよ」\n勇「然うだろうね、成程澄んでるね」\n丈「アヽヽあんな大きな鯉が泳いでる」\n勇「ドレ何処に」\n とうっかり水を見る油断を見済し、後から丈助が勇助の腰をドント打って川の中へ突落す。勇助は\n「アッ」\n と云いながら水中へ落入りました。一刀流の剣術遣いの家に旧く勤め免許をも取った腕前ゆえ、討合では敵わんが邪魔になるのは此の勇助、泳ぎを知って居るかと聞くと泳ぎは徳利の仮声でブク〴〵だというから、何んでも水で殺すよりほかに仕方が無いと決心して、矢切の渡場で喜代松という船頭と共謀になっているとも知らず、迂濶乗った勇助を、川中でドブリを極めたのでございます。\n喜「エー、うめえな、斯う云う事でなければ銭儲けはねえな」\n丈「早く急いで漕ぎねえ」\n と向岸へ急ぎますと、勇助は泳ぎを知らん処では有りません至って上手で、抜手を切って泳ぎながら、\n勇「己を欺いて水中へ落し入れやアがッて、此の大悪人め、船を返せ〳〵」\n と追掛けてまいるのを見て、船頭の喜代松は真青に成り、\n喜「泳ぎを知んねえ処か......これは大変だ、上って来りゃア殺されるかも知んねえ、お前能く聞いてから遣れば宜かったのに」\n丈「こん畜生、ナニ汝助けて置くものか」\n といううち勇助は遂に船まで泳ぎ附け舷へ手を掛けて船を上ろうとしましたが、上ってまいれば忽ちに勇助のために斬殺されますので、丈助が錆た一刀を引抜き、勇助の頭脳へ割附ける。\n「アッ」\n と云いさま手を放し沈みましたが、船底を潜ってまた此方の舷へ手を掛け上りに掛るから、今は丈助も死物狂いでございますゆえ、喜代松の持って居た水棹を取って勇助の面部を望み、ピューと殴る。其の内船は漸々向河岸へ着きましたが、勇助はまた泳ぎ付き、舷へ手を掛け、船の中へ飛上ろうとする処を、喜代松に水棹を以て横に払われ、バタリと倒れたが、また丈助を狙って上って参りまする処を、丈助が狙い打に切つけ、たゝみかけて禿たる頭の脳膸を力に任せて割附ける。\n勇「アッ......アヽおのれ丈助、能くも己を欺いて斯る処へ突入れたな」\n と云いながら死物狂に成って上る処を、水棹で払われ、また続いて斬り掛けました事ゆえ、勇助も年が年なり、数ヶ所の手傷に身体自由ならず、其の儘船の中へ転り込み、身を震わし、それなりに成る、上へ乗しかゝり無茶苦茶に止めを差しました。折から朧月夜ゆえ向河岸まで能く見えます。\n丈「オヤ喜代松、気が利かねえじゃアねえか、サッサと手伝って殴れば宜いのに、茫然して居やアがって間抜だなア」\n喜「己だってハア魂消た、泳ぎを知んねえどこじゃアねえ、あのくれえ泳ぐものは此の村にも沢山ねえ程上手だから、上って来ればお前も己も打っ斬られると思ったら、魂消ちまって棹を取ることも何も知んねえだよ」\n丈「えゝ、大きな声で喋るな、此の血だらけの死骸は他に仕方がねえから、河中へ漕出して深水へ沈めにかけるより仕様は有るめえが、何か重い物を身体に巻附けたいと思うが、あの団子を売る葮簀張の処に力持をする石が有るから、縄も一緒に探して持って来や」\n喜「えゝホウ、実におッかねえたって何うすべえかと思ってたよ」\n丈「愚図々々喋らねえでも宜いから早くあがれよ」\n喜「おゝ」\n と喜代松が岸へ上りますと、先程から此の葮簀張の処にノソリと立って居たのは金重の弟子の恭太郎という馬鹿な男で、と見て喜代松は恟り致し、\n喜「誰だ、エ、誰だ、そこに居るは誰だ」\n恭「おいらだよ」\n喜「丈助どん〴〵」\n丈「えゝ」"
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{
"role": "assistant",
"content": "喜「おめえら宅の恭太兄いが彼処に立ってるだアよ」\n丈「ナニ恭太が、何うして来やアがったか知ら、恭太」\n恭「えゝ」\n丈「手前何うして此処へ来た」\n恭「己らはあの草団子を喰いてえと思って叔母さんに銭を貰ったから買に来たら、日が暮れて夜はねえッてえから塩煎餅買って、先刻から喰いながら此処に立ってたのよ」\n丈「手前何か見やアしねえか、此の伯父さんと己と種々船の中で訳が有ったんだが、手前そんな事は気が附くめえのう、何も見たんじゃアなかろうなア」\n恭「何だか己ア知らねえけんど、勇助さんという老爺さんを殺した事は知ってる」\n丈「馬鹿だって油断はならねえなア」\n喜「だから己が云わねえこッちゃアねえ」\n\n二十四\n\n安「御免下さい......御免下さい」\nしの「はい誰方」\n安「御免下さい」\n と上り端に両手を突き丁寧に辞儀をいたし、\n安「先達て一寸おたずね申しましたが、春木町の紀伊國屋の手代安兵衞でございまする」\nしの「おゝ然うだっけや、誠にお見それ申しましたよマア、構わず此方へお上んなせえましよ」\n と云われても前に怖気が附いて居りまするから、怖々台所口から上ってまいり、\n安「先達は御立腹が解けませんで私は何ういたそうかと存じました処、お寺さまのお名前だけ承わりましたから、直に法泉寺さまへまいりまして、私が主人の代に御法事をいたしましたが、それで仏さまの御立腹が解けましたか解けませんか存じませんけれども、主人の心だけの御法事御供養をいたしました事は、定めてお聞及びでもございましょうが、何うかこれで一つ御勘弁を願いたいのでございまする」\nしの「はい、村の者が江戸の大尽だか知んねえけんど、豪えもんだ、田舎には沢山ねえ法事だっけッて、村の若えもんや子供を招ばって餅い撒えたり、銭い撒えたりして、坊さまを夥多呼んで、大した法事だって、それから二度めに法事いした時には、中山のお上人さまを招ばって御祈祷をしたてえから、紀伊國屋でも魂消て若草の法事いするような心に成ったかえと思えば、私も少しは胸が晴れやしたよ」\n安「誠に有難うございます、就きましては段々と伊之助の足も痛みますので、お医者が何んでも足を切らんければ癒らんと申しまするゆえ、主人も心配致しておりまするが、男のことゆえ大主人は諦めましても、只た一人の忰の事ゆえ、母親が諦めませんで、叔母さんのお心持が解け、怨みが晴れなけりゃア仏さまの怨みの晴れようはないわけだと申しまするので、ヘイ、何うか一つ叔母さまのお怨みをお晴し下されば誠に有難いことゆえ、実は叔母さまが私の方へでも入らしって、病人に会って下さるようなお思召になれば、病気も全快致しましょうかと存じまして、続いてお詫ことに出ましたのでございまするが、御勘弁に相成りまするならば何うか一つ願いたいもので」\nしの「ナニ、そんなに謝らなくっても宜えよ、先達はお前さんにえれえ事を云いましたが、若草は私のためには一人の姪で、実は私の兄は鋏鍛冶をして江戸の湯島に居やしたが、離れてるから私も近しく往きもしねえけんど、其の兄の一人娘で、死ぬ時に私へ遺言して、汝の娘にしろってえから、私も彼にかゝって、死水を取って貰うべえと思ってる只た一人の若草に、あゝ云う死に様をさせたは伊之助ゆえと思うから、私も煮えるように肝が焦れてなんねえだが、お前さんから段々の話で私いだけは勘弁もしようけんど、死んだ若草は勤めの中で伊之助さんより他に男はねえと思え詰め、夫婦約束の書付まで取交せ、末は必ず斯うというわけになってたのに、伊之助が無沙汰で女房を持って、其の上手紙一本よこさねえで、吉原のよの字も、若草のわの字も厭だというような不人情な心なら、己が死ねば三日経たねえ内に伊之助を取殺すって、身を振って口惜しがったよ、その苦しい中で伊之助さんの胤の赤子を産んだが、そういう中で産れた赤子だから育つわけはねえから、二声三声泣いて直ぐにおッ死んでしまった、それを見ると若草は血が上っておッ死んだから、死んだ若草に死んだ赤ン坊を抱かして早桶へ入れて、此の矢切村へ持って来るまでと云うものは、私がハア船の中へぶッ転がって泣くほど口惜かったから、実は私も祈りましたが、おまえの方で法事供養をするくれえに思わば、私は勘弁もしようが、若草は成仏が出来めえから、若草に詫いするだらば他に仕様は無えが、若草の浮ぶようにして遣ってくんなさい」\n安「へゝ何ういうことに致しましたらば浮ぶようになりましょう」\nしの「夫婦約束を反古にして、起請というのは己ア知んねえが、熊野の権現さまへ誓を立てると烏ウ三羽死ぬとかいう話を聞いてるが、それだから死んだ若草を生きて居る心で、伊之助さんと若草の位牌と婚礼して、若草に沙汰なしで持った嫁子を離縁してくんなせえまし、影も形もねえけんども、口惜いと云う執念は残ってるだから、私から若草の執念を晴らすようにしべえから、若草の位牌と婚礼の盃をしてくれたらば、私も勘弁をしましょうよ」\n安「ハイ、お位牌と婚礼を致しますかナ......成程、如何にも御尤さまでございますから、何うか工風を致しましょう、兎に角、主人へ話して見ましょう」\nしの「兎に角と仰しゃっても、また何時あなたがおいでなせえますか知んねえから、私は今でも宜いんでがんすが......」\n安「それは誠に恐れ入ります、斯ういう事は早い方が宜しい、実は明日か明後日是非とも足を切らなけりゃアならなくなって居りまする事ゆえ......左様ならば直においでを願いましょう」\n と是から田舎気質の律義な婆アゆえ、若草の位牌を脊負って安兵衞の跡に従いて堀切の別荘へ参りました。安兵衞は直に宅へ連れ込もうかと思いましたが、お雪の兄の岡本政七が来て居りまするので、極りが悪いから、おしのを隣の家へ預けて置き、安兵衞だけ這入りました。\n主人「おや〳〵安兵衞御苦労、明日のういよ〳〵先生が伊之助の足を切るんだが、親類立合でなければ切らんと云うので、傍で見るのは厭だけれども、仕方がないから船で出掛けて来たが、お前若草のお墓参りにでも往ったのか」\n安「へえ、先達てあなたも彼ア云う怖い夢を御覧なさり、また何処で伺っても、御鬮を取っても死霊と生霊という処は怖いように中ってますナ」\n主人「本当に怖いようだ」\n安「私は現に其の婆さんの怖い姿を見た上に、薪割を打付けるとまで立腹したんですが、その婆さんを一目見たので祈ってる事が解りましたよ、婆さんの怨みも死んだ花魁の恨みも晴れさえすれば、若旦那の御病気は御全快になりましょうと思い、御足を切らぬようにと種々考えまして、怖々ながら今日婆さんの処へまいりますると、先達ての大した法事の様子も婆さんの耳に這入って居りまして、大きに心もちが解けた様子ゆえ、段々と話を致しました処が、己は勘弁もするが、死んだ若草の怨みは晴れないから、若草が生きている積りで位牌と婚礼をして貰いたい、それから若草花魁と若旦那とは夫婦約束の書付まで取交せた仲だのに、書付を反故にし、若草に無沙汰で他より嫁を貰ったのが立腹で死んだのだから、其の嫁を離縁してしまって、花魁の位牌と杯をしてくれたらば、若草が成仏するだろう、私の怨も晴れるというのですが、是は田舎気質の婆さんだから屹度晴れるかも知れませんよ、お呪咀さえ利きますから、実はその婆さんを一緒に連れてまいりました処、万年町さんが来て居らっしゃいますから隣の彌兵衞さんの宅へ婆さんを預けて置きましたが、御嫁子を離縁なすって、お実家へお帰しになりますれば、若旦那の御足を切らずとも御全快になりましょうと思いますが、如何でしょう」\n と云うと、主人宗十郎は気色を変えて怒りまして、\n主「コウ、安兵衞どん、お前は何歳におなりだ、え、何歳になるよ」\n安「へえ、私は四十五歳」\n主「ふざけなさんナ、おまえは十露盤を取ったり帳面を扱ったりさせれば一廉の人間だけれども、人を馬鹿にするも程が有るじゃないか、位牌と婚礼をしろって馬鹿〳〵しい、そんな事を真に受けて此処まで連れて来る奴もねえもんだ、そんな事はいかねえから矢切の婆さんを帰してくんなよ」\n安「へえ......どうもそれが帰すと云うわけにはまいりません」\n主人「なにが参りません、安兵衞どん能く考えて見な、万年町のお雪は子供の時分から私の方へ嫁に貰う約束をして置いたものだ、それを忰が自分の勝手に女郎と夫婦約束をしたのだから、お雪の方で怨んで宜い筋だ、殊に去年の秋から来て居て、彼の通り親切に忰の看病をするのは何うだえ、まだ年もいかないのに塩物断をしたり、断食をして座敷の内でお百度を踏んで祈念を凝す貞信の心を、神さまも守って下さるかして、あれがお百度をあげる内は伊之助がトロ〳〵寝られるという、あんな結構な嫁を何咎も無いのに離縁して、影も形も無い位牌と婚礼をするような馬鹿々々しいことを、婆さんに云われたとて、真に受けて帰って来るとは余程間抜な男だ、なりませんから帰してくんなさい」\n安「重々御尤もでございますけれども、先達て貴方も夢を御覧なすったでしょう」\n主人「酷く疲れた時にゃア夢を見ます、怖いと思うから夢などを見るのだ、なりませんよ」\n安「只今に成って婆さんに帰ってくれろと申しますると何んなに怒るか知れません、私の喉笛へ喰い付きそうな権幕ですから」\n主人「婆さんに喰い殺されてしまいなさいよ」\n安「これはどうも......私も悪気で致しましたわけではありません、ねえお母さま」\n母「申し旦那え、安兵衞だって悪気でお婆さんを連れて来たのではありません、先達のお伺もあゝいう事に出たし、斯うじゃないかと私も思って居りますくらいですし、禁厭も有りまするから、義理をいえば貴方の云う事は御尤もでございまするが、禁厭同様の積りで験しに雪の処を仮に離縁として、禁厭に遣って御覧なさいませんか」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「白妙さんのお客様が、御急病でいらっしゃいます」\n「ナニ、藤原が急病?」\n 神尾主膳は、その急報をきいて煙管を投げ捨てて立ち上りました。新造を先に立てて、白妙の部屋へ駈けつけて、\n「藤原、どうした」\n 神尾は人をかきのけて中へ入って見ると、夜具の上に俯伏しに倒れているのは机竜之助であります。そうして蒲団の敷布の上には夥しい血汐のあとがありました。\n 神尾はそれを見ると、ああ、この男はここで自殺したのかと思いました。\n「これ、気を確かに持て」\n 近寄ってその背に手をかけた時に、それは決して自殺したものでないことを知りました。そこに迸っている夥しい血汐は、その鼻口から吐いたものであって、刃を己れの身に当てて切って出したものでないことは直ぐにわかりました。\n「うむ、神尾殿」\n「病気か、苦しいか」\n 竜之助の横面を見ると、死人のように蒼ざめていました。\n「水を飲ましてくれ」\n「うむ、水か、そら、水を飲め、しっかりと気を持たなくてはいかん」\n「いや、もう大丈夫」\n 竜之助は落着いたらしいが、神尾は焦立って、\n「これ、貴様たちは何をしているのだ、早く医者を呼ばんか、医者を呼べ」\n「医者はよろしい、医者を呼ぶには及ばない」\nと苦しい中から竜之助は、医者を呼ぶことを断わります。\n「しかし......」\n「医者は要らぬ、ただ、静かなところで暫く休ませてもらいたい、誰も来ないところへ入れて置いてくれさえすれば、やがて癒る」\n 竜之助の望む通り静かな一室へうつされ、医者も固く断わるから、強いて呼ぶこともしませんでした。花魁も禿も誰も来ない中に、ゆっくりと休みたいということであったから、これもその意に任せました。\n 部屋の者を差図して、竜之助を介抱させた神尾主膳は、自分の部屋へ引返したが、浮かぬ面色であります。親の敵呼ばわりをする者が来ていると言って、自分に不快の思いをさせた金助の告げ口といい、この場の急報といい、なんとなく不安の思いが満ちて、部屋へ帰っても四方が白けてなりません。\n やむなく酒をあおりはじめました。多く酒を飲めば酒乱に落ちることを知っておりながら、なんとなしに酒を飲みたくなりました。\n「白妙も一座へ招いて、芸者を呼んで、もう一騒ぎしよう、そして今夜はほどよく切り上げて拙者は帰る」\n 酒が進むと主膳は、陽気に一騒ぎしたくなりました。\n 兵馬と東雲の第二局目の碁は、危ないところで兵馬が五目の勝ちとなりました。その時分に、\n「白妙さんの部屋で心中」\nという噂がここまで伝わって来る。\n「心中? まあいやな」\nと言って東雲は、眉をひそめました。\n「心中ではございません、白妙さんのお客様が御急病なのでございます」\n そこへ新造が報告に来てくれたから、東雲の胸も鎮まりました。\n「今度は勝負でございますね、もうお一手合せ、お願い致しましょう」\n 東雲は惜しいところで負けたのが、思いきれないようであります。\n 兵馬は、それどころではない。碁のお相手は、もう御免を蒙りたいのであります。けれども東雲はいよいよ熱くなって、\n「どうぞ、もう一石」\n 東雲は、兵馬の心持も知らないで戦いを挑むから、兵馬も詮方なしに、\n「今度は負ける」\n やむを得ず、碁笥の蓋を取りました。\n この時に、万字楼の表通りが遽に噪がしい人声であります。第三局の碁を打ちはじめようとした兵馬も、東雲も、新造も、その噪がしいので驚きました。新造が立って表の障子を細目にあけて、楼上から見下ろしてハタと締め切り、\n「茶袋が参りましたよ、茶袋が」\n「おや、歩兵さんがおいでになったの、まあ悪い時に」\nと言って、東雲の美しい眉根に再び雲がかかりました。\n「茶袋とは何だ」\n 兵馬が新造にたずねると、\n「歩兵さんのことでございます」\n「ああ、このごろ公儀で募った歩兵のことか、あの仲間には乱暴者が多いそうじゃ」\n「どうも困ります、あの歩兵さんたちは弱い者いじめで困ります、わたくしどもの方や、芝居町の者は、みんな弱らされてしまいます」\n 兵馬は往来に面するところの障子を開いて見下ろすと、なるほど、かなり酔っているらしい一隊の茶袋が、この万字楼の店前に群がっている様子であります。様子を聞いていると、どうやらこの楼へ直接談判をして、この一隊が登楼しようとする。店ではなんとか言葉を設けて、それを謝絶しようとしているものらしく聞えます。\n「我々共を何と心得る、神田三崎町、土屋殿の邸に陣を置く歩兵隊じゃ、ほかに客があるなら断わってしまえ、部屋が無ければ行燈部屋でも苦しくない」\n「どう致しまして」\n 茶袋は執念く談じつける。店の者はそれを謝絶るに困じているらしくあります。\n\n十一\n\n 宇治山田の米友が吉原へ入り込んだのは、ちょうどこの時分のことであります。\n 米友は頬冠りをして、例の梯子くずしを背中に背負って、跛足を引き引き大門を潜りました。土手の茶屋で腹はこしらえて来ているし、懐ろには、さきほど浅草広小路で集めた銭が充分に入れてあるから、さのみ貧しいというわけではありません。\n 米友が吉原の大門を潜ったのは、申すまでもなく今宵が初めてであります。その見るもの聞くものが、異様な刺戟を与え、その刺戟がまたいちいち米友流の驚異となり、咏歎となり、憤慨となるのは、また申すまでもないことであります。米友が眼を円くして進んで行くと、ふと自分の前を、尖った編笠を被って肩に手拭をかけて、襟に小提灯をつるした三人一組の読売りが通ります。\n「エエ、これはこのたび、世にも珍らしき京都は三条小橋縄手池田屋の騒動」\n「おや、池田屋騒動って何でしょう」\n「稲荷町に池田屋という呉服屋さんがあってよ」\n「呉服屋さん? その呉服屋さんがどうしたの」\n「どうしたんですか、縄付になったんでしょう」\n「縛られてしまったの」\n「そうでしょう、縄で縛られたと言っているじゃありませんか」\n「エエ、これはこのたび、世にも珍らしい京都は三条小橋縄手の池田屋騒動......」\n「稲荷町の呉服屋さんじゃありませんよ、京都三条と言ってるじゃありませんか」\n「そうですね、三条小橋縄手というところなんでしょう、縄付ではなかったのね」\n「京都の池田屋さんというのでしょう、京都の騒動をどうしてここまで売りに来るんでしょうね」\n「どうしてでしょう、きっとその池田屋さんに悪い番頭があって、お駒さんのような綺麗なお嬢さんがあって、それから騒動が起ったといったような筋なんでしょう」\n「わたしもそう思ってよ、お駒さんはかわいそうね」\n「ほんとにお駒さんはかわいそうよ、言うに言われぬ訳あって、夫殺しの咎人と、死恥曝す身の因果、ふびんと思し一片の、御回向願い上げまする、世上の娘御様方は、この駒を見せしめと、親の許さぬいたずらなど、必ず必ずあそばすな......」\n「よう、よう」"
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"role": "assistant",
"content": "「買ってみましょうか」\n「エエ、新撰組の隊長で、鬼と呼ばれた近藤勇が、京都は三条小橋縄手の池田屋へ斬り込んで、長曾根入道興里虎徹の一刀を揮い、三十余人を右と左に斬って落した前代未聞の大騒動、池田屋の顛末が詳しくわかる」\n「おやおや、お駒さんじゃありませんよ、京都へ鬼が出て三十人も人を食ったんですとさ」\n「これこれ、読売り」\n「へえ、へえ」\n「一枚くれ」\n「はい、有難うございます」\n 覆面した浪士体の二人連れの侍が、読売りを呼び留めてその一枚を買いました。\n「エエ、これはこのたび、京都は三条小橋縄手池田屋の騒動、新選組の隊長で、鬼と呼ばれた近藤勇が、京都は三条小橋縄手の池田屋へ斬り込んで、長曾根入道興里虎徹の一刀を揮い、三十余人を右と左に斬って落した前代未聞の大騒動、池田屋騒動の顛末が委しくわかる......」\n「ははあ、こりゃ手紙のうつしだ、通常の読売りとは違って、手紙そのままを摺ったものじゃ。手紙というのは近藤勇が、池田屋騒動の顛末を父の周斎に送った手紙じゃ。こりゃかえって面白い」\n 浪士体の二人は、かえってその手紙の摺物を喜びました。\n せっかく買おうと思った娘たちは、鬼だの人を食ったのということで怖気が立って、手を引いてしまいました。\n それを聞いていた米友の好奇心は、かなり右の読売りの能書で刺戟されました。米友は新撰組だの近藤勇だのということは、よく知ってはいませんでした。しかし、この時代において、到るところで相当の噂になるほどのことが、まるっきり米友の耳に入らないというはずもありません。近藤勇という人は、人を斬ることが名人だという評判も耳にしないではありませんでした。それを今ここで、「京都は三条小橋縄手の池田屋へきりこんで長曾根入道興里虎徹の一刀を揮い、三十余人を右と左にきって落した前代未聞の大騒動」\nとこんなに誇張されてみると、米友もまた武芸の人であります。一枚買ってみようと思った時に、右の浪士体の二人に先を越されてしまいました。\n「おい、お武士さん」\n いま、読売りを買った浪士体の男を、米友が呼びかけると、\n「何だ」\n「その池田屋騒動の読売りというやつを、読んで聞かしておくんなさいな」\n「ナニ、これを呼んで聞かしてくれと言うのか」\n 子供かと見れば子供ではなし、炭薪の御用聞でもあるかと見れば、そうでもなかりそうだし、豆絞りの頬かぶりをしたままで人に物をこうとは、大胆なような、無邪気なような米友を、二人はしばらく熟視して、\n「これが聞きたいか、よし、読んで聞かせてやろう」\n それから水道尻の秋葉山の常燈明の下の腰掛に、二人の浪士体の男は腰をかけて、米友はそれから少し離れたところに、崩し梯子と尻を卸して蹲っていました。\n\n「京都お手薄と心配致し居り候折柄、長州藩士等追々入京致し、都に近々放火砲発の手筈に事定まり、其虚に乗じ朝廷を本国へ奪ひたく候手筈、予て治定致し候処、かねて局中も右等の次第之れ有るべきやと、人を用ひ間者三人差出し置き、五日早朝怪しきもの一人召捕り篤と取調べ候処、豈図らんや右徒党一味の者故、それより最早時日を移し難く、速かに御守護職所司代にこの旨御届申上げ候処、速かにお手配に相成り、その夜五ツ時と相触れ候処、すべて御人数御繰出し延引に相成り移り候間、局中手勢のものばかりにて、右徒党の者三条小橋縄手に二箇屯いたし居り候処へ、二分に別れ、夜四ツ時頃打入り候処、一ヶ所は一人も居り申さず、一ヶ所は多勢潜伏いたし居り、かねて覚悟の徒党のやから手向ひ、戦闘一時余の間に御座候......」\n\n「なるほど」\n この二人の浪士もまた、米友並みに、何かわざわざ時間を潰す目的のためにここへ入り込んだものとしか思われません。そうでなければ、いくら物好きだからといって、米友を相手にこうして、摺物を読んで聞かせるはずがありません。\n\n「......折悪く局中病人多く、僅々三十人、二ヶ所の屯所に分れ、一ヶ所、土方歳三を頭として遣はし、人数多く候処、其方には居り合ひ申さず、下拙僅々人数引連れ出で、出口を固めさせ、打入り候もの、拙者初め沖田、永倉、藤堂、倅周平、右五人に御座候、かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候......」\n\n「なるほど」\n\n「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候、先づは御安心下さるべく候......」\n\n「なるほど」\n 米友はしきりに感心して、近藤勇がはるばる京都から、江戸にいる養父周斎の許へ宛てたという手紙のうつしを、読んでもらって聞いてしまいました。\n その途端に、江戸町一丁目あたりで、つづけざまに二発の鉄砲が起りました。\n 米友も驚いたが、二人の浪士も驚いて立ち上ります。\n この時分、万字楼の前で、十余人の茶袋がみんな刀を抜いて振り廻し、多数の弥次馬がそれを遠巻きにして、一人残さずやっつけろと叫んでいる光景は、かなりものすさまじいものでありました。\n その最中、取巻いた群集の後ろで不意に二発の鉄砲が響きました。それと共に哄の声を上げて一隊の歩兵が――どこに隠れていたものか知らん、刀を抜いて群衆の後ろから無二無三にきり込んで来たので、吉原の廓内が戦場になりました。\n 酒宴半ばにこの騒ぎを聞いた神尾主膳は、さすがに安からぬことに思いました。\n そこへ、主人が飛んで来て、\n「ごらんの通りの始末でございます、お客様に万一のお怪我がありましては、申しわけのないことでございます、何卒、この間にお引取り下さいますよう、御案内を申し上げまする。あれは歩兵さん方でございます、はじめに参りましたのが土屋様のお邸の歩兵さん、あとから鉄砲を持って参りましたのが西丸の歩兵さん、今にもこれへ押上って参ることと思います、お腰の物、お懐中物、残らず次へ持参致させました」\n「小癪にさわる奴共」\nとおこったけれども、彼等を相手に争う気にもなれません。\n こうして避難させられたお客は神尾主膳だけではなく、この夜、万字楼に登った客は、いちいちこうして避難させられました。\n 相当に身分のあるものもあり、相当に勇気のあるものもあったろうけれど、誰ひとり残って、歩兵を相手に取ると頑張るものはありません。すすめられるままに、裏手や非常口から避難してしまいました。宇津木兵馬も無論その一人です。\n「金助」\n 非常口で兵馬は、金助を見かけたから呼びかけると、\n「宇津木様、驚きましたな」\n「神尾殿はどうした」\n「へえ、神尾の殿様は、もう茶屋へお引取りになってしまいました」\n「その茶屋へ案内しろ」\n「よろしうございます」\n 金助は兵馬の先に立って走る。\n「茶屋はどこだ」\n「たしかこの辺でございましたっけ」\n「ナニ、たしかこの辺、貴様はその茶屋を知らんのか」\n「茶屋から送られて参りますまでの途中で、お目にかかったんですから......」\n「では、確としたことはわからんのじゃな」\n「何しろこの通りの騒ぎでございますから、顛倒してしまいました」\n「この騒ぎはいま始まったことだ、神尾殿を見逃さぬよう、用心を頼んでおいたのはそれより前のことじゃ」\n「それは、お頼まれ申したに違いございません、いまお知らせ申そうか、少し後にした方が都合がよいだろうかと思っているうちに、この騒ぎでございましたから」\n「金助、貴様は頼み甲斐のない奴だ」\n「そういうわけではございませんけれど、何しろこの通りの騒ぎで......」\n「何のために拙者をここまで連れて来たのじゃ」\n「どうもまことにあいすみません」\n「金助、とぼけるな」\n 襟を取ってトンと突くと、金助は一たまりもなくひっくり返ってしまいました。\n「まあ、お待ちなすって下さいまし、乱暴をなすっちゃいけません、そんな乱暴をなさると、茶袋といっしょにされてしまいますから」\n やっと起き上ったのを兵馬が再びトンと突くと、金助はまたひっくり返ってしまいました。\n「ようございます、それでは、わたくしが内密でその茶屋をお知らせ致します。お知らせ致しますけれども、決して私が申し上げたように神尾の殿様へおっしゃっては困ります、私が恨まれますからな。さあ御案内を致しましょう。御案内は致しますけれども、多分その茶屋だろうと思いますので......そこにおいでなさるかどうか、もし、そこにおいでなさらなくても私のせいではございませんから、それで御勘弁なすって下さいまし」\n「早く行け」\n「あれでございます、たしかあの相模屋というのからおいでになったようでございます、あれを尋ねてごらんなさいまし、私はこの天水桶の蔭に隠れておりますから、どうぞ私の名前はお出しなさらないように、そっと当ってみておくんなさいまし」"
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"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 陽は山のかなたに隠れたが、空はまだ明るく、対岸の武家屋敷のうち重なった屋根や白壁が、いかにも残暑にうだっているように眺められた。\n「父は私に遺書をのこしました」と主水が静かに云った、「それでいちどおめにかかりたいと思っていたのです」\n「会えと書いてありましたか」\n「そうではありません」主水はそこでちょっと口ごもった、「あなたに悪評が立ち、不審と思えるようなことがあっても、あなたを信じておれ、そして、もしもあなたからなにか頼まれたら、一命を賭してやれ、というような意味でした」\n 甲斐はゆっくりと首を振り、暫くのあいだ黙って歩いた。主水はそっと甲斐を見た。上背のある、筋肉質の逞しい躯。肩から背へかけての、かっちりとひき緊った線。それらは殆んど魅惑的なほど精悍さに溢れ、しかも、たとえようのないほど温かく、ゆったりと静かにみえた。\n「父の遺書はどういう意味なのでしょうか」と主水が訊いた、「父が云っていることの意味を教えていただけませんか」\n「話しましょう」と甲斐は頷いた、「そのつもりで千本杉へ案内を頼んだのです、まだよほどありますか」\n「小道で二里たらずです」\n 仙台では六町一里を小道といった。二人は虚空蔵の脇をまっすぐにゆき、愛宕社の山つきをまわって、丘ひとつ越した向うへおりていった。小高い丘と丘にはさまれて、かなり広い草原がひらけ、北側に深い杉の林がある。草原の中を一と筋の細い小川が流れてい、そのあたりで蛙の声が聞えた。――黄ばんだ葉の見える雑草は、腰を没するほど伸びて、薄い夕霧の立ちはじめたなかに、昼顔の花が白く、点々と、にじんだように白く点々と浮いてみえた。\n「誰かおります」\n 主水がそう云って、片方を指さした。すると、それを待っていたかのように、三十歩ばかり向うの草むらの中から、一人の老人がすっと立ちあがった。もうかなり暗くなった杉林をうしろに、音もなく立ちあがった老人の姿は、生きている人間のようではなく、まるであの世から迷い出て来た幽鬼という感じであった。躯は骨ばかりのように痩せて、落ちくぼんだ眼ばかりが大きく、月代の伸びた灰色の髪はまばらで、まくれあがった上唇の下に、大きな乱杭歯がむきだされていた。\n「誰だ」と老人がこちらへ呼びかけた。\n 甲斐は老人のほうへ歩み寄った。\n「ここは無用の者の来るところではない」と老人はまた云った、「なに者だ」\n 老人は持っている杖で身を支え、顔を仰向きにして、じっとこちらのようすをうかがった。落ちくぼんだ眼は大きくみひらいているが、視力はまったく失っているらしい。甲斐は近よりながら、穏やかな声で云った。\n「久方ぶりだな、十左衛門、私だ」\n 老人は大きく口をあけた。杖を持った手がおののき、枯木のように痩せた躯が、ふらふらと揺れた。\n「船岡どのか」とその老人、里見十左衛門が云った。彼はもっと歯をむきだしたので、その顔は骸骨のようにみえた、「待っていた」と十左衛門は云った、「いつかは来られると思っていた、いつかはここで会えると思っていた、原田どの、とうとう来られましたな」\n 甲斐は振り返って主水を見た。主水は二間ほどはなれたところに立って、不快そうにこっちを眺めていた。\n「よくごらんなされ、ここが――」と十左衛門は杖で地面を打った、「ここが七十郎の死躰を捨てたところです、七十郎はここで、野晒しになったのですぞ」\n 草むらの中のそこだけ、約一坪ばかり、裸の地面があらわれてい、十左衛門はそこへ杖を突き立てたまま、見えない眼で甲斐をにらんだ。\n「七十郎がなにをしようとしたか、原田どのはご存じであろう、彼は御家臣ではなかった、一粒の扶持をも頂いてはいない、しかし御家を毒する悪人があり、それを除かぬ限り六十余万石は安泰でないとみて、無禄の身ながらこれを誅殺しようとした」と十左衛門は声をふるわせて云った、「――御家を毒する悪人が誰であるかということも、その人間を除かぬ限り六十余万石が安泰でないということも、家中で知らぬ者はなかった、心ある者はみな知っていて、しかも誰ひとり手をくだそうとしなかった事を、処士である七十郎が決行しようとしたのだ、それが、小野の家従に裏切られて繩にかかり、獄に繋がれ、吟味らしい吟味もされずに打首となった、打首のうえ死躰をここへ捨てられたのだ」\n 十左衛門の濡れた頬が、黄昏の片明りを映して光った、「七十郎は繩目の恥を受け、獄に囚われ、打首となって、死躰をここへ捨てられた」と十左衛門は云った、「――この非道な仕置は国老の名においてなされた、原田どの、貴方は国老だ、この、酷薄無残な処刑の責任は貴方にもある、いや貴方にこそ、あれほど七十郎に信頼されていた貴方にこそ、もっとも大きい責任がある筈だ」\n「それで気が済むなら、存分に私を責めるがいい」\n「その口だ」と十左衛門は歯をむきだして叫んだ、「そのとりすました殊勝げな口ぶりで、人を籠絡し瞞着してこられた、だが私はもう騙されはせぬ、盲人は顔色音声によって真偽を眩まされることはない、貴方がいつかここへ来られることもわかっていたし、どういう気持で来られるかということもわかっていたのだ、原田どの、この場だけでもよい、偽わりのない本心をうかがおうではないか」\n「松山の主水どのがいっしょだ」と甲斐は主水を眼で招きながら云った、「ここで話したいことがあって案内を頼んだのだが、ちょうどいいおりだ、十左衛門にも聞いてもらうとしよう」\n「御本心でしょうな」\n「自分のことではなく、万治以来の出来事がどういう意味をもっているか、いまそれがどう動いているか、ということを知ってもらいたいのだ」\n 主水がこっちへ来た。\n 草を踏みわける音で、主水の近づいて来たことはわかった筈だが、里見十左衛門は会釈もせず、骨ばった肩をいからせ、挑むような硬い表情で、甲斐の話しだすのを待っていた。ようやく黄昏の色が濃くなり、夕霧に掩われた草原では、虫の声が聞えはじめた。――甲斐は低い静かな声で、ゆっくりと語りだした。二人に話すというよりも、自分で自分に話しかけるという調子で、要点のところだけやや声を強めるほかは、殆んど独白にちかい口ぶりで語っていた。主水は釣竿を地面に立て、足もとを見たまま聞いていたが、甲斐の話すことの重大さに圧倒されたのだろう、顔色はしだいに蒼ざめてき、その額には汗のにじみ出てくるのが見えた。十左衛門も非常なおどろきにうたれたらしい。杖に支えている躯が硬直したように動かなくなり、下唇がさがって、半ばあいた口から、激しく深い呼吸のもれるのが聞えた。\n 甲斐が語り終ると、十左衛門は杖を片手に持ち替え、躯を屹と立て直した。\n「私にはそのままは信じられません」と十左衛門が喘ぐように云った、「これまで幕府が、多くの大名を取潰してきたことは知っております、しかしそれはすでに終ったことであって、いまなおそのような策謀があり、ことに仙台という由緒ある大藩に手をつける、などということがあるでしょうか」\n 甲斐は答えるまえに、深く息を吸いこみ、空を見あげながら、静かにそれを吐きだした。\n「涌谷さまも初めはそう云われた」と甲斐は穏やかに頷いた、「十左衛門が納得しかねるのもむりではない、だが、事の起こりからを考えてみればわかる、まず、綱宗さまに対する殆んど無根拠な譴責と、跡目をきめるについての難題だ、そして同時に、二方面に手が打たれた、一は酒井侯が一ノ関に与えた三十万石分与の密約であり、一は幕府閣老の某侯が、松山を呼んでひそかにその密約を告げたことだ」\n「一ノ関に三十万石分与、――」十左衛門が頭を傾げながら反問した、「そんなことが、事実あったのですか」\n「あったのだ」\n「よもや風聞ではございますまいな」\n「酒井侯と一ノ関とで取交わした証文があり、仔細あってその一通を私が持っている」\n「紛れのないものですか」\n「紛れのないものだ」と甲斐が答えた、「もちろん一枚の紙きれだから、動かぬ証拠とはいえないだろうし、酒井侯にはたやすく否定することができるだろう、ここが眼目なのだ、いいか、――この密約が交わされると同時に、幕府閣老の某侯がひそかに松山を呼んで、そういう密約のあることを告げたのだ」\n 甲斐は主水を見た。主水は大きく眼をみはったまま、黙って話しのあとを待った。"
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"role": "assistant",
"content": "「某侯とは誰びとです」\n「名は云えない」\n「いや聞かせて下さい」と十左衛門は遮って云った、「ここまで話してそれだけを隠す必要はないでしょう、誰ですか」\n「名は云えないが、そのころは将軍家お側衆で、当代十善人のひとりと評された人だ」\n 十左衛門は俯向いたが、すぐに「久世大和守、――」と口の中で呟き、顔をあげて、問い詰めるように訊いた、「久世侯ですか」\n「名は云えない」と甲斐は繰り返した、「その人は松山を呼んで、酒井侯と一ノ関との密約を告げたうえ、残った三十万石のうち十万石を誰、五万石を誰と、伊達家の一門一家に属する数人の名をあげ、これらに分与される約束ができているようだから、その人たちにも警戒を怠らぬがよい、と忠告されたそうだ」\n「某侯が松山に伝えた忠告は、好意から出たものかもしれない」と甲斐は続けた、「しかし、その情報がどこから出たかということを考えてくれ、某侯は現に幕府の閣老であるし、その忠告は、伊達家一門一家のあいだに疑惑をいだかせ、互いに離反させるような意味をもっている、これは、仮に某侯は好意でしたことだとしても、その情報が巧みに仕組まれたものだ、ということは推察がつくだろう」\n 十左衛門は低く呻いた。\n「双方に打たれた手は、ほぼ予想どおりにはこんだ」と甲斐は云った、「一ノ関は三十万石の欲に釣られて、次つぎと家中に紛争を起こした、われわれは某侯の忠告に縛られていて、一門一家のうちどの人が加担しているかわからず、したがって根本的な対策がとれない、いつも後手、後手と追われるよりしかたがなかった」\n「しかしそれで」と十左衛門が乾いた声で問いかけた、「それでいったい、酒井侯はなにを得ようというのですか」\n「まえに云ったとおり、仙台六十余万石の改易だ」\n「この泰平の世にですか」\n「権力は貪婪なものだ」と甲斐は答えた、「必要があればもとより、たとえ必要がなくとも、手に入れることができると思えば容赦なく手に入れる、権力はどんなに肥え太っても、決して飽きるということはない、慶長以来、幕府がどういうふうに大名を取潰して来たか、いかに無条理で容赦がなかったか、ということを考えてみるがいい、――こんどの場合も、酒井侯ひとりの思案ではなく、首謀者はおそらく伊豆守信綱と思われる、酒井侯は亡き伊豆守の遺志を継いだものであろうし、ここでもし伊達家改易に成功すれば、加賀、薩摩にも手を付ける事に違いない、少なくとも、二大雄藩の頭を押えるだけの収穫は充分にある、そう思わないか」\n 主水は頭を垂れた。\n「それは、――」十左衛門は睡をのみ、見えない眼で甲斐をさぐり見ながら訊いた、「それは、原田どのが推察されたということでしょうな」\n「私は事実から眼をそむけないだけだ」\n「しかしそれが単なる推察でないとしたら、どうして早くその事実を告発しなかったのですか、もっと早くそれを告発していたら、これまでに払われた多くの犠牲は避けられたでしょう、七十郎とその一族の無残な最期も、避けられたのではありませんか」\n「そうかもしれない、だがそれなら、どこへどう告発したらいいか」甲斐は囁くような声で叫んだ、「どこへだ、十左衛門、どこの誰へ告発したらいいのだ」\n これまでに甲斐が、そんな声でものを云ったことは、いちどもなかった。十左衛門はながいあいだ親しく甲斐に接して来たが、そのようにするどい、そして悲痛な響きのこもった声を聞くのは初めてであった。杖を持った手をふるわせながら、細い首の折れるほど、十左衛門は低く頭を垂れた。\n「それは逭れることのできないものですか」と主水が初めて口をきった、「なにか逭れる方法はないのですか」\n「一つだけある」\n「うかがわせて下さい」\n「耐え忍び、耐えぬくことだ」\n「なにを、どう耐えぬくのです」\n「一ノ関の手をだ」甲斐はどこを見るともなく眼をあげ、静かな口ぶりで云った、「――涌谷さまと、周防と私とで、相談した、その結果、私は一ノ関のふところへはいって、かれらの企図をつぶさに探り、これを涌谷さまと周防に知らせたうえ、事を未然に防ごうということになった」\n「すると貴方は」十左衛門がぐいと顔をあげ、大きく息を吸いながら云った、「貴方はやはり七十郎や私を、いや、七十郎や私までも騙されたのですね」\n「誰とは限らない、人に話すのはこれが初めてだ」と甲斐が云った、「涌谷さまと周防と私と、この三人以外には話さない約束だった」\n「柴田(外記)どのは涌谷さまから、貴方が一ノ関の与党になったと、聞かされたそうですが」\n「十左衛門はどうだ、七十郎はどうだ」甲斐はゆっくり反問した、「家中でそう信じている者は少なくないだろう、それが役立ってきたのだ」\n 一ノ関は要所へ諜者を配っている。涌谷や松山や自分の身辺は、特にきびしく監視されていた。したがって、自分が涌谷や松山と疎遠になったことも、七十郎から絶交されたことも、十左衛門が去ったことなども詳しく報告された。私は一ノ関の諜者を逆に使ったのだ、と甲斐は云った。\n「こういうことは、私には厭わしい」甲斐は眉をひそめた、「――じつに厭わしい」\n 十左衛門は頷いた。了解と劬りをこめた頷きのようにみえた。\n「だが役には立った」と甲斐は続けた、「この年月のあいだに起こった紛争の多くが、表て沙汰になれば六十万石のいのち取りになりかねないものだった、一例だけあげれば鬼役三人の毒死だ、もちろん亀千代ぎみの召される膳部だから、置毒となれば大事ちゅうの大事だ、これは絶対に潰さなければならない、私は強引に押し切って、単純な食中毒ということにした、――置毒は入念に計画されたもので、一ノ関はすぐさま医師の河野道円とその子二人を打首に処した、したがって、食中毒とすることは極めて困難だったが、それでもどうやら押し切ることができたのだ」\n「席次の争いも、同じ手ですか」\n「うん、――」甲斐は低く呻き、それから疲れたような調子で云った、「あのとき席を知らせた目付役は、今村善太夫らだと聞いたが、善太夫は渡辺金兵衛や渡辺七兵衛らと共に、はやくから一ノ関に飼われていたも同然な人間だった、七十郎もそれは知っていた筈で、あれが紛争を起こすための罠だということをどうして見ぬけなかったか、私にはそのほうがむしろふしぎに見えたくらいだ」\n「ああ、――」と十左衛門がくいしばった歯のあいだから云った、「ああ、七十郎、七十郎」\n 甲斐は穏やかな、しかし苦痛をひそめた表情で、十左衛門に近より、そうして深い太息をついた。\n「耐え忍び、耐えぬくということを忘れないでくれ」と甲斐は云った、「もしも七十郎が、望みどおり一ノ関を仕止めたとしたらどうだ、一ノ関は伊達家の後見役というばかりではない、酒井侯の親族であるうえに、名目だけにせよ幕府直参の大名だ、――仕止めたとすれば七十郎は本望だろう、しかし伊達六十万石は無事には済まない、ことによると改易の口実を与えるかもしれないぞ」\n 甲斐はちょっと休んでから続けた、「念には及ばないだろうが、ここで話したことは忘れてくれ、これまでどおり、十左衛門も私に近よるな、松山とも往来はしない、すべて従来のまま、私を一ノ関の与党として扱ってもらう、わかったな」\n 主水はそっと頷いたが、十左衛門は黙って顔をそむけた。\n「主水どのに云っておく」と甲斐は主水を見て云った、「これからも一ノ関はいろいろと手を打つことだろう、だが決して、刃向かったり、対抗したりしてはいけない、それはかれらの思う壺にはまることだ、火を放たれたら手で揉み消そう、石を投げられたら躯で受けよう、斬られたら傷の手当てをするだけ、――どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない、ある限りの力で耐え忍び、耐えぬくのだ、これは亡き周防どのの遺志として、覚えていてもらいます」"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " まえがき(小稿の主旨)\n\n 私がアドルム中毒で病院を退院したのは、この四月二十日頃であったと記憶する。退院に際して担当の千谷さんから、秋までは仕事をしないように。転地してノンビリ遊んで暮しなさい、という忠告をうけた。私もなるべくこの忠告に従いたいと思ったが、私が鬱病の傾向を起したのは、昨年夏からのことで、それからズッと殆ど仕事をしていない。私は病気と闘った。旅行。覚醒剤。そして、睡るためのアドルム。\n 昨年夏から、この春の入院まで、私が精神の衰弱と闘いながら書きつゞけたのは「にっぽん物語」又は「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という妙な題で新潮に発表されたもの、並びに未発表の続稿、合せて千枚ちかいものがあるだけ。この未発表の部分は未定稿で、よほど手を入れなければ発表のできないものであった。しかし、未定稿の部分を加えても、私の意図している小説の三分の一にも達していない。\n この小説の妙な題名は、私が入院中に無断発表されたため起ったもので、この小説の主たる題名は今もって私の念頭に定まるものがない。私は題名などのことで考える意志がないからであった。\n つまり「にっぽん物語」というのは、この小説に主たる題名がないところから雑誌社が無断掲載に際して自ら作ったものであるが、それならばそれで押してくれゝば宜しいものを、気が咎めたのか、主たる題名を小さく、「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という題を大きくつけた。\n 私が雑誌社へ渡した部分は、この小説の第一章の「その一」だけで、せめて雑誌社としては、第一章の題をもって主たる題名に代えたかったであろうが、これまた不都合なことに「一九二八―」という未定の題名が第一章につけられており、使いものにならなかったのである。そこで、仕方なしに、第一章中の「その一」をもってきて、主たる題名の如くに大きく扱った。それが「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という妙なものなのである。第一章中の「その一」だけの題だから、こんな奇妙な題名もありうるが、さもなければ、こんな題をつけるバカがいる筈のものではない。この部分は、新潮の三、五、六、七月号に分載された。\n 私にとっては、題名は「にっぽん物語」でもよかったのである。それは雑誌社も承知しており、私は常々、よい題名がありさえすれば、なんとつけても宜しい、と云い云いしていたことであった。だから妙に遠慮せず、ハッキリと「にっぽん物語」と題をつけてくれた方がよかったのである。新潮社が遠慮すべき点は、ほかに在った。それは、私の承諾を得ずに、発表してはいけない、という一事であった。\n 私は今まで、全部の完成を見ぬうちに発表した長篇は、すべてが中絶という運命にあった。これは作者の個性的な性癖の一つで、仕方がないものであろうと思う。その反面、全部の完成を見るまで発表を控えたものは、二年三年の難航はあっても、それぞれ完成しているのである。私はその運命を怖れた。そして、新潮の社員に、題名などは何でもいゝが、全部の完成を見るまで発表を控えて欲しいという一事だけ、特別に言いつゞけていたのであった。借金のことなど、雑誌社にも言い分はあることだし、発表された今となっては、もう仕方がない。女々しく取乱すよりも、私として最も大切な一事は、従来の運命をくつがえして、すでに発表されたこの小説をあくまで完成しなければならない、ということであった。\n ところが困ったことに、私がなんと焦っても、私一個の焦りだけで、この小説を書きすゝめることが出来ない障碍が行く手にあった。それは京都の言葉であった。第一章の「その二」及び第二章の殆ど全部が、京都が舞台になっているからであった。私も十三年ほど以前に、「吹雪物語」を書いていたとき、京都に一年半滞在していた。それだけに多少の心得はあったが、反面、京都弁のむつかしさも心得ていた。特にこれを個性的に表現することがむつかしい。私の人物にモデルがあれば、言葉の癖をとらえることも易しいが、すべてが架空の人物であるから、それらの人々に京都弁を喋らせて、各自に言葉の個性をもたせることは容易の業ではない。\n 第一章の「その一」を書き終えたのは去年の十一月であったが、この定稿を新潮社へ渡して、「その二」を書きすゝめてゆくうちに、もどかしさに、たまらなくなった。京都弁を表現し得ないもどかしさに。\n 私は昨年の暮に東京をたち、この正月を京都で送った。すでにもう小説は「その二」を終って、第二章にはいっていたが、私が病状を決定的に悪化させたのは、この旅行に於いてであった。\n 私は東京で京都育ちの何人かを助手に雇えばよかったのである。ところが、当時は、そう考えてはいなかった。なまじいに助手を雇うと、仕事は容易であるが、助手の個性に左右されて、目的を逸しはしないか、と考えたからである。私は京都の標準語を習うことが目的でもないが、特に私流にアンバイして、作中の各人物に個性的な言葉を与えなければならないからであった。\n 私は助手を雇わずに、京都のまんなかへ潜在して、出来るかぎり多くの人物と語り合い、多様な言葉を観察して、その中から、私流に幾つかの言葉の個性を発明しようと考えた。そして私は京都へ向った。そして、この旅行が失敗に終った。言葉の発明に失敗したわけではないが、最も単純に、体力的に敗北してしまったのである。今年の元日以来スチームが通うようになったが、昨年の暮には、東海道線にはスチームが通じていなかった。車中の寒気にふるえ、絶え間なく流れでる洟汁と、こみあげる吐き気に苦しんだ。京都へついた私は、まったく船酔いに似て、寒気と吐き気に苦悶し、半死半生のていであった。京都の旅館へついて、そのまゝ正月の一週間をねこんでしまった。体力的に消耗しきって、落武者の如く東京へひきあげたが、この旅行への期待と希望が大きかっただけに、私の落胆は甚大であった。しかし私は勇気を落さず、不自由を忍び、京都弁につかえながら、第二章を書きすゝめた。だが、私の頭は、もう、うまく廻転してくれなかった。覚醒剤とアドルムを過度に服用しはじめたのは、この時からであった。東大神経科へ入院したのは二月十七八日ごろのことで、そのときは、喋ることも、歩行もできず、たゞ幻視と幻聴に苦しみつづけていた。すでに歩行も不可能であるから、兇暴期もすぎていたが、たゞ、私の忘れていないことは、一度も自殺を意志しなかったこと、たゞ生きること、そして、仕事の完成だけを考え、何よりも自殺の発作を怖れつゞけたことであった。千谷さんから、二ヶ月で必ず治してみせます、と云われたときに、私はたゞ恢復しうる感動で、胸がいっぱいであった。\n こうして、四月二十日ごろ恢復退院したが、千谷さんの忠告にも拘らず、生活費を得るために、多少の仕事をせざるを得ない。どうせ仕事をするくらいなら、私はむしろ、この小説に没入した方がよかった、と、今は思う。その方が、胸の虚しさも晴れ、むしろ精神の安定を得ることができたであろうと思う。私はしかし、なるべく疲れずに、仕事をすることを考えた。そういう中途半端なものが、芸術の世界で許されるものではなく、私はテキメンに自らの空虚さに自滅したようである。\n 千谷さんから呉々も云われたように、当時の私はまだ恢復が充分ではなかったところへ、暑気に当てられ、決して多くの催眠薬を服用したとは思わぬうちに、春の病状をくりかえしていた。私は春の七八分の一程度の服用量だからと安心しているうちに、すでに中毒症状に陥ちこんでいたのであった。\n まえに田中英光君が同じ中毒で愛人を刺した事件があったところへ、又、私の中毒再発であるから、ジャーナリズムが呆れたのはムリがない。意志薄弱とか、狂気の文学などと二三の批評を新聞でよんだが、果して、そういうものだろうか、私は抗議も言い訳もしないが、たゞ私の小説を読んで欲しいと言うだけである。\n 新潮に連載された「にっぽん物語」を読んでみたまえ。又、これから某誌に連載されるその続稿をよんでくれたまえ。この小説は、私が鬱病(精神病の一種であるが)と闘い、消耗する精神や体力の火を掻き起しつゝ、争い、そして、書きつゞけた小説で、すでに歩行も、喋ることも不可能な時に至っても、尚、精神病院の鉄格子の中でふるえる手で、時には自分にも得体の知れない文字によって書き綴りつゞけた小説なのだ。幻視と幻聴の中で書き綴った小説なのである。\n これ以上に健康な小説が、有ろうとも思われぬほど、健全ではないか。私の精神や肉体は異常であったかも知れないが、私の仕事は健全そのものであり、いさゝかも異常なところは見られない。私はたゞ、消耗する体力と闘いながら、一途に人間を追及しただけで、その人間像に異常なところが在るとすれば、それは私が異常なためではなくて、あらゆる人間が本来異常なものであるためだ。\n 私の精神が異常であるのは、私の作品が健全のせいだ、と言いきれないこともない。私の健康さの全部のものを作品に捧げつくして、その残りカスが私というグウタラな現身なのだよ、と誇示し得ないこともないのである。諸氏よ、精神異常者の文学だの、意志薄弱の文学などという前に、私の「にっぽん物語」を読んでみたまえ。そして、それから、君の言いたいことを言ってくれたまえ。(なお「にっぽん物語」という題名は、あらたに某誌へ続稿を連載する時には、私自身の新しく選んだ題名に変更するつもりである)\n 以上が本文の主旨であるが、以下、私は漫然と、私の精神の周囲を散歩してみようと思う。\n\n ★\n\n 伊豆の伊東へきて、もう九日になった。ちょうど一週間目に体重をはかったら、私は伊東へきて四キロふとり、六十七と八を上下する体重になっているのである。ここへ着いた翌日は六十四キロであった。六十七・五キロと云えば、ちょうど十八貫、私の生涯でこれほどふとったことはない。\n 私は京都で、たった二日のうちに、十五貫から十七貫五百になったことがある。これは脚気でむくんだせいである。むくむのも目方のうち、とは、その日まで気がつかなかったが、むくみにしても、にわかに二貫五百ふとると、我ながら堂々と、たのもしく、ズッシリとわが身の重みを感じるものである。モットモ脚気というものは、足が挙らなくなるものだから、そッちの方で甚大な重みを感じることも事実だが、鏡にうつしても堂々たるもの、但し、二日で二貫五百もふとると、人相まで一変してしまう。私の人相が、にわかに、出羽海に似ていたので、たいへん感服したものであった。但し脚気の薬をのんだら、たった三日で、もとのペシャンコになってしまった。その時以来、十七貫までふとったが、それ以上にふとったことはなかったのである。\n 私は十八貫という体重を発見して以来、その一日は、幻想的な思索にしずんだ。これは、まったく、異常である。しかし、どこかに理由がなければならないだろう。\n 私は温灸のせいかも知れないと考えた。この温灸は伊東へついた翌日、尾崎士郎の奥さんが教えてくれたのである。"
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"role": "assistant",
"content": " 私が二年前に伊東へ遊びに来たとき、尾崎士郎が妙なお灸をすすめた。\n「キミ、頭のテッペンへお灸をやってみないかね。跡なんか、つきやしないよ。ガーゼをしいて、その上へお灸をもすんだ。熱くもなんともないんだ。ホカホカするだけでね。頭の疲れがとれて、よく眠れるんだ」\n 今にして思えば、それがつまり温灸であった。私はお灸と温灸の区別どころか、お灸そのものすらも、当時は知らなかったのである。\n 私はさッそく、その翌日から、この温灸を試みた。さる婆さんが、やっているのである。四十前後の二人の中年婦人のお弟子を従えて現れるのである。\n 私の胃袋のあたりへ、ちょッと手をふれたと思うと、\n「これは肝臓。お酒はいくら飲んでもよろしい。私の温灸をやれば、一週間で治る。こゝへ当てる」\n と、温灸の場所を弟子に指図した。それから、女房のミズムシを発見すると、\n「あゝ、奥さん、ミズムシだね。このミズムシはタチがわるいが、私の温灸なら、三日で治る」\n 彼女は女房の年齢や身なりから判断して、私の女房ではなく、酒場の女とか、芸者とか、パンパンという性質の女だろうと見たようであった。\n「あなた、奥さんですか。お嬢さんでしょう?」\n つれてきた弟子がトンキョウな声できく。万事がこの伝でカケアイ漫才なのである。別な角度からサグリを入れるワケである。居合わした数人の人たちが笑いだして、\n「奥さんだよ、バカな」\n と云っても、半信半疑、むしろ、益々、女房に非ず、と判断したようである。\n 弟子は○○式温灸の来歴を書いた書物をとりだして、\n「この先生の温灸にかゝれば、万病が治るよ。肝臓でござれ、ミズムシでござれ、肺病なんか、特に三日から一週間で治ってしまうよ。それ以上にきくのが、性病。淋病、梅毒、あんなもの、この先生の温灸じゃ、病気のうちにはいっていないよ」\n ポンポンとタンカをきるこの弟子は、むかしは生長の家の信者であったという。師匠はこの弟子を「火の玉」とよんでいた。もう一人は温灸をやりながらアンマをとる婆さん弟子で、昔は日蓮の信者だという。この方はおとなしかった。\n 火の玉は居合わした人々の人柄から判断して、胸の病いと性病患者がいる筈だと判断したようである。万事がこの伝でカケアイ漫才をやりながら、サグリを入れたり、ミズをむけたりするのであった。\n 私は私の病気を案じて附き添ってきてくれた高橋正二という商船学校出身のイキのいゝ青年に、\n「君はジン臓が悪いそうだから、やってもらえよ」\n 高橋はお灸がすきなのである。むかしジン臓を病んだことも事実であった。\n「そうですね。じゃア、やってもらいましょう」\n しかし老婆は、見るからに健康児童の高橋を病人とは見なかった。ちょッと背へ手を当てて、\n「この人は、こゝにいる人たちの中では第一番に健康。私は診察せなんでも、一目見れば、アヽ、この人はどこが悪い、ピタリとわかる。この人は、こゝに弱点がある。この尾テイ骨、こゝのところへ温灸を当てなさい」\n 火の玉は灸をあてながら、\n「この先生のお灸も大したものだが、又、足でふむアンマが独特な技法なんだよ。急所急所を足でふみつけて行くんだけれど、それだけで病気が治る人もあるよ」\n「あとでサービスしてあげる。サービスしても、せなんでも、一人百円。人助けのためにしていることだから、難病が三日で治った、先生、ありがとう、こう云われゝば、胸がはれる。何百万円つんだとて、気のむかん時には、してはやらぬ。東京の人はひねくれておる。素直なところが欠けておる。これが何より治療にわるい。私の言う通り、される通り、ハイ、ハイ、云うとれば、どんな病気も治してあげる。あんたがどんな偉い人かは知らんが、この婆アに足で頭を踏みつけられた、腹が立つ、帰れ、ハア、帰りましょう、ハイ、サヨナラ、それだけのことじゃ」\n この婆さんの温灸というのは、由来書の通りに云えば、菅平高原から採取している十何種かの高山植物と、動物のホルモン等々をねり合せた黒色のウニのようなものをガーゼの上へ一センチぐらいの厚さにつみ、その上へモグサを山ともりあげて燃すのである。黒色のウニのようなものが多分に液汁を含んでいるから、それが燃えない限り、さのみ熱くはなく、熱くなると、やめるという仕掛けで、終るまでに一時間ぐらいはかゝるかも知れぬ。ここをやると眠くなる、と、頭のテッペンや頸筋へも温灸をやった。\n「これをやると赤血球白血球一万ふえる。何よりホルモンが貴重な薬を通じて移るから、これをやると、女が十人あってもまだ足らないというほど精力が溢れる。あんたの頭は毛が薄いが、ハゲは三日で、黒い毛が生えるようになる」\n 大きなことばかり云っている。どうせ医者の薬も治しゃせぬ、という病気に憑かれてのことであるから、これも余興、朝晩四日やった。一向に効き目がない。睡む気もさゝないのである。日蓮の婆さんは温灸をやりながらアンマをしてくれるし、師匠の婆さんは温灸が終ってから、足や背中やクビ筋などを足でふむ。いずれもツボをはずれていて、何をやっているのやら、バカバカしいものである。"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "「ひと足ちがいで帰った」\n「それについてふしぎはないと思うがな、彼女は青山家の遠縁に当るんだろう」\n「むろんその点にふしぎはないさ、そういう意味ならこれまでにも、三度ばかり来たことがある、今日のは違うんだ、云ってしまうがね」彼は膝へ手を置いて、「しほ女はおれのところへ、結婚の承諾に来たんだ」\n「――ほほう、......」\n「彼女は良人に死別して、女の子を二人つれて実家へ戻った、もうなにも二人の仲に障害はないから、貴方の結婚の申し込を承知する、という仰せだ」\n そこで主馬は渋い顔をした。世の中にこれより渋い顔はない、といいたいくらいの、第一級の渋い顔であった。\n「これには少しの誇張もない、彼女はすこぶる明朗で、無邪気で、塵ほどの汚れもない顔つきで、こんなふうな眼つきをして、しなやかに身をくねらせて云うんだ、自分は貴方ひとりが生涯の良人だと信じていた、死ぬまでそう信ずるであろう、男の子は婚家へ取られたが、女の子二人はどうしても離せない、まわりの反対を押し切って連れ戻った」\n「待って呉れ、あれは、嫁にいってからたしか、まだ四年そこそこじゃなかったのか」\n「連れ戻った女の子というのは双生児なんだ」\n「なんと、それは......」\n「その双生児のためにも、貴方は良き父親になって呉れるだろう、と彼女は云ったさ、そう信じて少しも疑わない、なぜなら、貴方は自分を誰よりも愛していて呉れるから......どんなに隠しても、自分にはそれがよくわかる、そう云って、あでやかに身をくねらせ、こんなふうな眼で、私のことを見ました」\n 主馬は憤然と叫んだ。\n「さあ笑って下さい、こんどこそどんな妙な笑いかたでも甘受しますよ、さあどうぞ」\n「――なんと、そこまではねえ」\n 半之助は溜息をついた。\n\n六\n\n「つまりそれで、青山としては、忍耐したわけなんだな」\n「どうすることができますか、相手は純情で無邪気で、やましい気持などは爪のさきほどもないんですから、しんそこ、結婚してやろう、というつもりなんだからね」\n 主馬は両方の手を前へ出して、片方ずつ、ぎゅっと握りながら云った。\n「私はまず、初めに喉へこみあげてきたやつを、この手でこう、ぐっと握りつぶし、次にこみあげてきたやつをこっちの手で、そのあとのやつを膝の下へ、満身の力でこう、ぐうっと握りつぶし、押えつけました、そうしておいて、感謝の意を表しました」\n「――すると、結婚するわけなのか」\n 主馬はもの凄いような眼をし、両方の握り拳をつきだし、猛犬の唸るような、けんのんな声で、しかしゆっくりと云った。\n「この手の中では、まだそいつが、暴れだそうとして、ぐいぐい身もだえをしている、手の平へ噛みつきもする、私はこいつを一生、この両手にぶら下げていなければならないと思う、そのくらいの気持なのに、安倍には私が結婚するように思えるのかね、それほど私は」\n「わかったよ、なにもそう眼を剥くことはないさ」\n「眼をどうしたって」\n「おれの薬園の仕事だって、それとさして違いはしない、さきにわかっていたら断わるんだが、主馬の忍耐につきあって」\n こう云いかけて、半之助はふり返った。\n おいそと正木の賑やかな声が聞え、階段をあがって来る足音がした。主馬は、すべて内密、という眼くばせをし、盃を取った。正木重兵衛と、松室泰助がはいって来た。\n「遅刻したですかね」\n 正木は汗まみれの顔で、せかせかと云った。\n「いそいで来たんだが、木挽橋のところで喧嘩があってね、侍と犬なんだが」\n「またばかなことを」\n「いや本当だよ」重兵衛は袴をぬぎながら、「犬が吠えついたんで、侍が怒ったらしい、癇持ちなんだろう、まっ赤になってね、自分は犬が好きで、迷子ののら犬にさえ自分の食物を分けてやっている、できものだらけで毛の剥げちょろけたような犬でさえ、自分はつい頭を撫でてやらずにはいられない、自分にとっては犬は友人以上のものである、にも拘らず、自分に対して吠えるというのは、なにごとであるか、自分のどこが悪いか、どこが怪しいかって、むきになってどなってる、犬のほうは聞いてやしません、ただもうわんわん、むやみにわんわんね」\n「御役替えだそうだが」\n 松室が半之助に云った。\n「今日はわれわれが招待するわけか、それとも安倍の招待か」\n「どっちでも同じことだろう、早く汗を拭いて坐るがいい」\n 主馬が答えた。\n 二人が浴衣になり、膳がはこばれ、ようやく盃がまわりだした。村田がおそいがどうしたろう、などと云っていると、なをがあがって来て、「青山さまにお客さまです」と云った。\n「お武家さまがお三人で、下まで来て頂きたいと仰しゃっています」\n「侍が三人、誰だろう」\n 主馬は首をかしげながら立ちあがった。\n 主馬が下へおりていって、まもなく、なをが彼の刀を取りに戻った。\n「どうしたんだ」\n「なんだかわかりませんけれど、いらしった方たちといっしょに、どこかへおでかけのようでございます」\n「でかけるって......」\n「はい、着替えも此処でしろ、刀も持って来させろって、お三人が青山さまを取巻いて」\n「ちょっとみて来る」\n 重兵衛が立とうとした。\n「いや待て、おれがゆこう」\n 半之助は彼をとめ、刀を右手に持って立ちあがった。\n ――身の破滅。\n そんな言葉が頭にひらめいたのである。階段をおりてゆくと、店先に主馬が立ち、その左右を三人の侍が、いきごんだ姿勢で、とり囲んでいた。\n 半之助はちょっと息をのんだ。主馬の右脇にいる小男は、見たことがある、やはり丸茂で会ったみじん流の剣術の達者だという、たしか次高来太という男にちがいない。\n「どうしたんだ、青山」\n「なんだかわからない、大目付へすぐ出頭しろというんだ」\n「用件はなんだ」\n「記録書類がどうとかいうんだが、詳しいことは此処では云えないそうだ」\n「おかしいじゃないか」\n こう半之助が云いかけると、次高来太という男が前へ出て来た。\n「貴方は黙っていたほうがいい、自分に関係のないことには口だしをしないことだ」\n「ではそっちはどうだ」\n 半之助は遮って云った。\n「いつか丸茂という家で、この顔を覚えておけと云った、みじん流の次高なにがしとかいうそうだが、大目付とどんな関係があるんだ」\n「それが気になるかね」\n 短くて太い眉が、ぴくっとあがり、色の黒い顔が醜く歪んだ。\n「よして呉れ、安倍」主馬が手を振った、「私はいって来るよ、大丈夫だ、いけばわかるだろうし、決して心配はない」\n「しかし大目付からの召状はあるのか」\n「特に口上で、ということなのです」前にいた一人が云った、「表沙汰にはしない、という意味らしいんですが」\n「それにしては、こんな場所からじかに呼出すなんて腑におちない、貴方がたはたしかに大目付の人ですか」"
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"role": "assistant",
"content": "「うるさいな」次高来太が云った、「いいかげんに黙らないと後悔するぞ、おれは酔興で介添に来たんじゃない、来るには来るだけの役目があるんだ、文句があるなら采女ヶ原へでもゆこうじゃないか」\n「たのむよ安倍、不必要だ」主馬は二人の間へはいって、半之助を階段のほうへ押しやり、「本当に心配することはないんだ、ゆけば済むことなんだから、どうか黙って」\n 大きな声で云いながら、三人から離れたとみて、すばやく囁いた。\n「村田に知らせて呉れ」\n 半之助は次高来太の(不愉快な)顔を、眉をひそめながら見ていた。\n\n 半之助は迷った。主馬は、村田に知らせろ、と云ったが、彼にとっては、主馬のことのほうが、さし当って気にかかった。\n 次高という男は、柳沢系の人間だ、と主馬から聞いた。現に次高自身の口ぶりでも、大目付には、正式になんの関係もないらしい。他の二人も、本当に大目付の役人であるかどうか、もしそうであったにしても、柳沢の糸を引いているに相違ないし、とすれば、どこへつれてゆかれるかわからない。\n ――ゆき先だけでもつき止めておくほうがいい、あとを跟けよう。いちどはこう思った。\n しかし次に、同じ危険が村田にも迫っている、ということを考えた。主馬はすでに捉まったのである。それはもうできた事だ。それよりも村田に知らせて、村田を危険から救うほうがいい、村田に主馬を助け出す法があるかもしれない。こう思いなおした。\n ――だがどうする、村田は此処へ来る筈である、家にはもういないだろう、といって、此処へ来れば、どこかに待伏せている者があるかもしれない。\n 主馬がつれてゆかれるのを、見送ってから、二階へあがるとすぐに、表のほうの窓へいって、外のようすを窺った。\n「どうしたんだ」重兵衛が不審そうに、「青山がどうかしたのか」\n こう云って立って来ようとした。半之助は手まねで抑え、そのままややしばらく、外を見ていた。すると、主馬がつれ去られてから、殆んどひと足ちがいで、木挽橋のほうから、村田平四郎の来るのが見えた。\n ――知らせに走るか。\n しかし浴衣ではとびだせないし、まにあわないかもしれない。\n ――無事に来て呉れ。\n 道の左右に眼をやりながら、半之助はそう祈った。前が休演している劇場だから、道は広く、人通りも稀である。待伏せがいるとすれば、すぐみつかるし、隠れようもなかった。\n だが案じたような事も起こらず、村田は無事に茶屋へはいって来た。\n「青山が捉まったよ」\n 階段口までいって、半之助がそう云った。暑さで少し痩せてみえる平四郎は、いつもの、少しも動じない眼つきで、半之助の話を頷きながら聞き、「すぐ手配をしよう」と低い声で云った。\n「心配しなくっていい、かれらには、なにもできやしないんだ」\n「しかし村田も帰るほうがいいんじゃないか、家へいってみていないと、かれらはまた此処へ来ると思うが」\n「大丈夫だよ」\n 背の高い平四郎は、ちょっと前跼みになるような歩きぶりで、座敷へはいりながら、重兵衛と松室に挨拶し、本のはいっているらしい、風呂敷包を、半之助に渡した。\n「これを参考に読んでおいて呉れないか、新井白石の書いたものの写本だがね、まだ板行されていないんだが、東雅という題の書物で、巻の十三から十六まである、穀類菜類から、草木の部まで、字解や類別だけだけれど、そのうち本草綱目をやるときに便宜だから」\n 半之助はふきげんに包を受取った。\n それから酒になったが、平四郎の云ったとおり、終るまでなにごともなかった。\n\nやまない雨\n\n\n一\n\n 八月にはいるとまもなく、予定より少し早かったが、半之助は駒場へ移った。\n 母はそれまでなにも知らなかったので、もう逢えなくなる別れでもあるかのように、黙っていたことを恨み、自分もいっしょにゆく、などと泣き声をあげるので、云いなだめるのに、かなり骨を折った。\n ――月に二度くらいは必ず帰って来ますよ。\n ――それなら荷物をそんなに持ってゆくことはないでしょう。\n ――荷物といってもおもに本ですよ。\n そんな問答もした。また、駒場ではおそらく退屈だろう、と考えたので、読みたいと思いながら読めずにいた本は、仏教関係のものまで包んだ。そのために、二日ばかり土蔵の中を掻きまわしたが、祖父の蔵書の入っている長持の中をみているうち、妙な物をみつけだした。\n 油紙でいやに丹念に包んだ、書類のような包で、表に「厳秘」と、父の手で書いてあった。\n ――なんだろう。\n しばらく見ていたが、厳秘と書いてあるところから、ことによると他人に見られたくない父の私物か、と思い、そのまま元へ返そうとして、そして、あっと声をあげた。\n ――あれだ。\n それは叔父の遺品であった。五番町の、遠藤兵庫が、ふしぎな失踪をしたあと、下僕が持って来たもので、中には、甲府勤番ちゅうの日記や、見聞記や、かんば沢に関する調書などが、ある筈である。\n 半之助は十余年まえ、いちどその包をあけて、それらの手記を見たことがあった。その後、父がどこかへ隠し、自分もすっかり忘れていたのである。彼は感動するほどの、なつかしさにおそわれ、その包も荷物のなかに加えた。\n 青山主馬は、山村座の茶屋からつれてゆかれた翌日、無事に家へ帰った。\n ――裁判記録を役所の外まで持ち出した、というお叱りさ。\n こう云っていたが、それだけでないことは、想像がついた。やはり反柳沢のごたごた、お互いの威しあいや、騙しあいの一つであろう。そして、主馬自身も、村田平四郎も、少しも動じなかったように、そこには半之助などにわからない、政治的なからくり、があったに相違ない。\n ――いやな話だ。心配しただけ、よけいに、半之助はうんざりした。\n 主馬が帰ってから、まもなく、村田がまた旅へ出た。例の植物分布の踏査で、信濃から越後の南部まで、まわるのだという。供を二人つれていったが、別れに来たとき、いつもの静かな口ぶりで、――頼むよ。と云い、じっとこちらの眼を見た。\n 薬用の苗根や種子を送るから、そのときは頼むという意味だろう、半之助は頷いたが、どうにもいい顔はできなかった。\n ――一年くらい帰れないかもしれない。\n 村田はそう云って、立っていった。\n\n「これでようやく、自分ひとりになれる」\n 駒場へ移った日に、半之助はほっとした気持で、そう呟いた。そして、退屈ではあるがしずかな、おちついた生活が、始まった。\n そこは上目黒も、北の端れに近く、赤坂御門から西へ、一里何十町かいった、大山街道の右がわにあった。宮益坂という処までは、とぎれとぎれながら、町家や武家屋敷もあるが、坂をおりて、赤羽川の上流に当る小さな川を越すと、もうまったく武蔵野のけしきになる。......どちらを眺めても、なだらかな丘の起伏が延び、雑木林や、草原や、耕地のあちらこちらに、防風林に囲まれた農家や、神社や寺の、こんもりと暗い森が、古めかしく、ひっそりと見えるばかりだった。\n 薬園は八千坪ばかりの広さで、街道から少し離れた処にあり、周囲に木の柵がめぐらせてあった。\n 新しいこけら葺きの建物が三棟、物置、厩などがあり、栽培地は、丘と、斜面と、沼でもあったらしい湿地と、そして建物の西がわの平地とに繩張りがされ、しきりに土を鋤き返しているところだった。\n 半之助の住居は「お小屋」という一棟で、松林と竹藪に囲まれ、北がわに迫っている丘の中腹から、筧でひいた水が、台所と縁先とに、絶えず爽やかに溢れていた。\n お小屋には、村野市造という、中年者の下役と、小者が三人いた。\n もう一棟には、小石川御薬園からまわされて来た、植木職人たち五人が住み、他の一棟には、二頭の馬の世話をする小者と、栽地の力仕事をする人足が五人いた。\n もともと此処は、小石川の分園として設けられたもので(やがては全部を移す筈であったが実現しなかった)、半之助は此処の支配であると同時に、薬園奉行所の「見廻り」という役名をも兼ねていた。尤もこれは、定期に小石川へ報告に出頭する責任を持つことであるが、まだじっさいに仕事が始まっていないので、当分はその必要がなかったわけである。\n 村野市造は四十五六であろう、吹上に御薬園のあった頃から、その仕事をしていたそうで、口かずは少ないが、その方面のことには詳しかった。日にやけた、顔の小さな、猫背の、年よりは老けてみえる人がらで、酒がなにより好物だと云った。\n「家内と子供が五人おりますので、こちらへまいると御役料を頂けるのですが、なかなか酒までは手が届きません」\n 夕食に酒をつけてやると、そんなふうに云いながら、さも貴重そうに、盃のふちを舐めるように啜るのであった。\n「なあに、私がすっかり引受けます、貴方に世話はかけません、ただ見ていて下さればようございます」\n 酔うと朴訥な調子で、よくそんなふうに云った。\n「草木などというやつも、人間の子供たちと同じでしてな、絶えず眼のたまをむいていなければならぬやつと、そっぽを向いて、知らん顔をしているほうがいいやつとあります、可愛いのもあれば、憎らしいのもあります、そこはまあ面白いもんですが、しかし、しょせん、お若い貴方などにはな、なんといっても......」\n 村野の酒は一合五勺がせいぜいで、殆んどその量を越すことはなかった。\n その年は、梅雨あけから照り続けで、秋の豊作はまちがいなし、といわれていた。天文方では早くから、秋ぐちに淋雨が来る、と予告していたそうであるが、その予告を証明するかのように、半之助が駒場へ移った翌日から、にわかに気温が下り、じめじめする陰気な雨が降りだして、それが三日五日と続き、いつあがるけしきもなかった。"
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"content": " この小説は重吉が学校を卒業する前後五、六年の間、十以上も年のちがった未亡人と同棲していた時の事を、殆ど事実そのまま書きつらねたものであった。\n 未亡人は麹町平川町辺に玉突場を開いていた。そして玉突に来る学生四、五人を引きつれ、活動写真を見に行ったり銀座通や浅草公園を歩いたりする。重吉も欠かさずお供にさそわれる学生の中の一人であったが、毎年八月中未亡人が店を休んで鎌倉へ避暑に行く。その後を追いかけて行った時、ここに忽ち情交が結ばれ、涼しくなって東京に立戻ると間もなく女は玉突場を売払う、重吉は下宿を引上げる。そして二人は一軒家を借りた。丁度その頃、重吉は国元からこれまでのように学費を送ることのできなくなった事情を通知せられたが、未亡人と同棲しているために重吉は差閊なく学校を卒業したのみならず、その後職を失っても平気で遊んでいることが出来た。\n 重吉の家は新潟の旅館で、両親は早く死し兄が家督を取っていたが、経費ばかりかかって借財も年々嵩むばかりなので、いよいよ財産整理をした上家族をつれて朝鮮の京城へ移住し運だめしに一奮発するというのである。重吉は学生の身でも立派に自活して行く道があるから心配するには及ばないと返事をして、未亡人の家の厄介になっていた。\n 卒業後、商会に通勤していた時分である。いつも重吉の帰りを待っていた未亡人が、或日家を留守にしたまま、夜も十二時近くなって、しかも酒臭い息をして帰って来たことがあった。重吉は口惜しさのあまり涙ぐんだ声で責め詰ると、女は子供をなだめるような調子で、\n「重ちゃん。御免なさい。重ちゃんはお酒が飲めないから、わたし今日はお酒飲みのお友達とちょっと御飯をたべに行ったのよ。おそくなったのはわたしが悪かったんだから、ほんとにあやまるわ。重ちゃん、大丈夫よ。決して浮気なんぞしやしないから。」\n そして女は重吉がいかに疑ぐろうとしても疑ぐることの出来なくなるような情熱を見せて申訳の代りにした。\n 半歳ちかくたって、或日の朝重吉はいつものように寐坊な女を二階へ置いたまま、事務所への出がけ、独り上框で靴をはいていると、その鼻先へ郵便脚夫が雑誌のような印刷物二、三冊を投げ込んで行ったので、そのまま手にして電車に乗ってから、重吉は出版物の帯封を破りかけた時、重ねた郵便物の間に封書が一通はさまっていたのに心づいた。宛名は種子という未亡人の名で、差出人も女名前であったが、重吉はその瞬間一種の暗示を感じたまま、事務所へ往き着くが否や、巧みに封じ目の糊をはがして中の手紙を見た。外封の書体とはまるで異った男の手蹟で、一語一句、いずれも重吉の心を煮返らせるような文字ばかり並べてある中に、「ではまたこの次の水曜日を楽しみに。」「あなたもどうかその日をお忘れなさらないように。」「いつもの時間に。」というような語が殊に鋭く男の胸を刺した。\n「この次の水曜日」は暦を見れば分るが、「いつもの時間に。」とは何時のことであろう。重吉は一策を思いついた。未亡人種子の行動を探るには、その跡をつけたり何かするよりは、専業の秘密探偵に依頼してその身元から調べ上げてもらうのが一番捷径であろう。そう決心して重吉はその月の給料の遣い残りを傾けて探偵社への報酬に当てた。\n 種子は未亡人ではなかった。十年ほど前、背任罪で入獄中縊死した実業家某というものの妾で、その前身はかつてその実業家の家に出入りしていた家庭教師であった。現在種子の名義になっている動産並に不動産は犯人が検挙せられる以前合法的に隠匿した私財の一部であるのかも知れない。また種子が現在関係している男の中で、探偵社の調査したものは、筑前琵琶の師匠何某、新派俳優の何某、日本画家何某の三人であるという。\n しかしほどなく重吉は会社から解雇されて、一年ちかくたった時、種子自身の口から探偵社の調査報告書よりももっと委しい事情をば、包むところなく打明けられる機会に出遇った。種子はその身の不しだらを永く隠しおおせるものでないと思ったのか、あるいはまた男の心を引いて見るためか、大胆にもこんな事を語った。\n「重ちゃん。わたしは十九の時から三十まで十何年、いやでいやでたまらない人の玩弄物になっていたのよ。よく辛抱したでしょう。自分ながら感心だと思う位なのよ。その時分、今に自由な身になったらその時は思う存分な事をして、若い時の取返しをしようとそう思っていたのよ。だから、わたしの事をかわいそうだと思って同情してくれるのなら、少しくらい遊んで歩いてもそれは大目に見て頂戴。何ぼわたしが滅茶だって、今更重ちゃんをそっちのけにして外の男と一緒になろうなんてそんな事は夢にも考えたことはないわ。浮気は浮気で、本心から迷うなんてことは決してないわ。その証拠には彼の人も、それから彼の人も、みんな奥さんのある人じゃないの。どうの、こうのと後が面倒になるような人とは、重ちゃんが家にいるようになってから、一度だって遊び歩いたことはないでしょう。重ちゃんさえ安心してくれれば、わたしはどんな証文でも書いて見せるわ。」\n 重吉は種子の語ったことを冷静に考えて見た時、始て自分は淫蕩な妾上りの女に金で買われている男妾も同様なものである事に心づいた。女の言う所を言換えて見れば、お前さんは学生上りで悪気がないから、それでわたしは安心して同棲をしている。他の男はお前さんとはちがって世馴れているから、わたしの財産に目をつけないとも限らない。それ故家へは入れずに、距離を置いて、外で逢っているのだ。何も彼も承知でやっているのだから、お前さんは別に心配せずにおとなしくしていればいいのだ。という意味になる。重吉はかつて覚えたことのない侮辱を感じて決然として女の家を出ようと思いながら、また静にその身を省ると、勤先をしくじってから早くも一年ぢかく、怠気癖のついてしまった身には俄に駈け歩いて職を求める気力が薄くなっている。国元の家へ還ろうにもその家はとうに潰れてしまった。重吉は始めて身にしみじみ自活の道を求める事のいかに困難であるかを知ると共に、屈辱を忍んで現在の境遇に廿じてさえいれば、金と女とには不自由せずにいられるのだ、という事をもはっきりと意識した。\n 重吉はこのまま種子の世話になっていようと思えば、まず何より先に男の持っている廉耻の心を根こそぎ取り棄ててしまわなければならない。\n 世間には立身栄達の道を求めるために富豪の養子になったり権家の婿になったりするものがいくらもある。現在世に重ぜられている知名の人たちの中にもこの例は珍しくない。それに比較すれば重吉はさほどその身を耻るにも当るまい。女の厄介になって、のらくらしている位の事は役人が賄賂を取って贅沢をするのに比べれば何でもない話である。重吉は人の噂、世間の出来事、日常見聞する事にその例を取って、努めて良心を麻痺させ廉耻の心を押えるような方法を考えた。\n 重吉が自叙伝めいた小説をかいて見たのは、これらの煩悶を述べて、己の行為に対する弁疏にしたものであった。題をつけるのに苦しんだものと見えて、本文の始に書かれた文字は幾度か塗消されて読めないままに残されている。\n\n四\n\n 種子はその後も相変らず、一ト月の中に二、三回はきまって午後外出すると、そのまま夜もおそくならなければ帰って来ないことがあった。月初めには以前世話になって財産まで分けてもらった檀那のお墓参り、月の終には現金と証券とを預けた銀行への用事、その他は百貨店へ買物に行くというような事で。その頃はちょっとした処へ行くにも賃銀五円を取った自動車を呼寄せ門口から乗って出る。しかし重吉は既に馴れて初めほどにはやきもきしないようになっていた。事実種子の行動はその言う通り黙許して置いても重吉の生涯には何の利害もないことが月日の過ぎるにつれて次第に明瞭になった。それのみならず、重吉は種子が知人からの紹介で、或土地会社の宣伝係に雇われ、僅かばかりでも再び自力で給料を取る身となったので、以前にくらべるとよほど落ちついた心持でいられるようにもなっていた。\n 二人の生活は、最初家を借りた赤坂から芝公園へ引越した後、更に移って東中野へ落ちついた頃には、何も知らない人の目には羨しいほど平和に幸福に見られるようになっていた。\n 震災の年、種子は四十五、重吉は丁度三十三になった。年々若づくりになって行く種子と、二十代から白髪のあった色の黒い小男の重吉とは、二人並んでいても年のちがいが以前ほどには目に立たぬようになって来た。女の方は白粉や頬紅で化粧を凝し、髪はその頃流行の耳かくしに結い、飛模様の着物に錦襴のようなでこでこな刺繍の半襟をかけ甲高な調子で笑ったりしている側に、じみな蚊絣の大島紬に同じ羽織を襲ねた重吉が仔細らしく咳嗽払いでもして、そろそろ禿げ上りかけた額でも撫でている様子を見ると、案外真面目な夫婦らしく、十二、三も年のちがう仲だと思われない。\n 九月の朔日に地震の起った時、重吉は会社の客を案内して下目黒の分譲地を歩き回っていた最中だったので何の事もなかったが、種子は白木屋で買物をしていたので、狼狽えて外へ逃出し、群集に押しもまれながら駈け歩いている中、いつか足袋はだしになったため踏抜きをして、その日の暮れ近く人に扶けられてやっと家へ帰って来た。\n 足の疵はやがて痊えたが、その年の冬風邪から引きつづいて腹膜炎に罹り、赤十字病院に入ると間もなく危篤に陥った。医者の注意と患者の希望とによって、これまで重吉の一度も会ったことのない親戚が二人、その一人は水戸から、他の一人は仙台から病院へ呼寄せられた。その翌日の夜種子が息を引取ると、親戚二人の間には忽種子の遺産の処分について議論が持出された。水戸から出て来たのは中学校の教員で種子の兄だという。仙台からのはその地の弁護士で叔父だという。家中をさがしても故人の遺書が見当らないので、その遺産は二人の親戚が分配してその残りを重吉に贈ることに議決された。即ち銀行に預けてある現金五千円ばかりと、家具衣類などである。重吉は抗議したが、弁護士の叔父は法律上重吉には異議を言う権利がない事を説き、漢文の教師で柔道は三段だという水戸の兄は重吉が種子の家に入り込んだ来歴を詰問して、その答弁の如何によっては道徳上の制裁をも加えまじき勢を示した。重吉はしぶしぶ二人の為すがままに任すより仕様がなかった。かつて学生のころ、重吉は水戸出身の同級生と争って、白鞘の匕首でおどかされた事があってから、非常に水戸の人を恐れているのである。\n 葬式が済んで、親戚の二人が何やら意気揚々として立去ると、その後に残された重吉は唯一人、長い長い夢から覚めたような心持で、何をどうしていいのやら、物が手につかない。\n「檀那様御飯ができましたが。」と言う声に、びっくりしてあたりを見廻すと、日はいつか暮れかけたと見え、座敷の中は薄暗くなって、風が淋し気に庭の木を動している。立って電燈を点じる足元へ茶ぶ台を持ち運ぶ女の顔を見ると、それは不断使っていた小女ではなくて、通夜の前日手不足のため臨時に雇入れた派出婦であるのに気がついた。\n 年はちょっと見たところ二十五、六かとも思われる。別にいい女ではないが、円顔の非常に色の白いことと、眼のぱっちりして、目に立つほど睫毛の濃く長いことが、全体の顔立を生々と引立たせている。声柄も十六、七の娘のような、何処となくあど気ない事をも、重吉はこの時始めて心づいた。\n「御給仕をしてもらおうかね。」と言って茶碗を出すと、派出婦は別に気まりのわるい様子もせず、「お盆を忘れましたから御免下さい。」と飯をよそいながら、「召上れないかも知れません。何をこしらえていいか分りませんでしたから。」\n 障子の外では小女が縁側の雨戸を繰りはじめた。"
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"role": "assistant",
"content": "「いや結構だ。うまいよ。」と重吉は落し玉子の吸物を一息に半分ほど飲み干した。葬式の前後三、四日の間ゆっくり飯を食う暇もなかったので、今になってから一時に空腹を覚え初めて、実は物の味もよくは分らないのであった。派出婦は褒められていよいよ嬉しそうに、\n「沢山召上って置かないといけません。後で一度にお疲労が出ますから。」\n「お千代さんだッけね、名前は。お千代さんも御弔いをした経験があるらしいね。」\n「いいえ。自分の家では御在ませんけれど、方々へ出張いたしますから。」\n「長くやっているのかね。」\n「まだいくらにもなりません。地震前は前からなんで御在ますけれど、姑く休んで、先月からまた出始めましたんです。」\n「震災には無事だったのかね。父さんやお母さんは......。」\n「ええ。家は市外の......田舎ですから。」\n「まだ結婚したことはないのか。どうもありそうに見えるよ。」\n「そう見えますか。ほほほほほ。」\n「結婚してもうまく行かなかったのかね。」\n「ええ、もう懲り懲りしましたわ。それよりか人様のお内に働いている方が気楽で能う御在ます。」\n「しかしそういつまで人の家に働いていたって仕様がないじゃないか。まだそう悲観する年でもないし、捜せばいくらでもあるものだよ。」\n「そう仰有いますけど、縁というものはあるようでないもんですわ。」\n「ないようであるものさ。考えよう一ツだよ。」\n「では、いいとこが御在ましたら、御世話を願います。」\n「お千代さん、あなた、いくつです。二十五か六くらいかね。」\n「そう見て下されば結構です。実はもう八なんで御在ます。」\n 愛嬌好く笑いながら派出婦は膳を引いた後、すぐ飯櫃を取りに来てまた姑く話をして勝手へと立去った。\n 重吉は寐るより外に何もする事がない。心の中では、死んだ種子の衣類や貴金属品の仕末をつけると共に、この家も早く畳んで、これから先は自分の給料だけで暮らせるような処置を取らなければならないと、考えながら、何一ツ手をつける気が出ない。火鉢の火の灰になったのもそのままに重吉は懐手してぼんやり壁の上の影法師を眺めている。やがて小女が番茶を入れて持って来た。\n「お千代さんはどうした。もう寐てもいいと言っておくれ。」\n「はい。」と小女が立って行くと間もなく派出婦のお千代が湯婆子を持って襖を明け、\n「あら。お蒲団が引いてあると思ったら。どうも済みません。」\n「旦那様が何とも仰有らないんだもの。」と小女は始めて気がつくと共に顔をふくらして行ってしまった。お千代は押入から夜具を取り下し、シーツを敷き延べてから、枕を取出そうとして、二ツとも同じような坊主枕の、いずれが男のものだか分らぬところから、\n「旦那様、これはどちらが......。」と言いかけ、重吉が黙っているのを見て、急に気がつき、わるい事を言ったような気の毒な心持になって、すこし顔さえ赤くしながら、お千代は男のだか女のだか判明しない枕を取ってシーツの上に置こうと、両膝を畳の上につく。重吉はそれを待っていたように突然背後から抱きついた。\n「いけません、あなた。」と案外低い声で言いながらお千代は重吉の手を振りほどこうと身をもがき、「およし遊ばせ。女中さんが来ます......。」\n 重吉は小女のことを言われて始めて気がついたらしく抱きすくめた手を緩めてお千代の顔を見た。お千代は怒って何か言うかあるいは畳を蹴って逃げ去るかと思いの外、「いけませんよ。おからかい遊ばしちゃア。こんどなさると大きな声を立てますから。」と言いながら重吉の寝衣らしいものを押入から取出して枕元に置き、夜具の裾へ廻って湯婆子を入れる。この様子をじっと見て、重吉はお千代が派出婦にしてはすこし容貌が好すぎるので、度々こんな事には遇いつけているのだろう。それで案外落ちついているのだろう。ひょっとすると、後で面倒な事を言出さないとも限らぬが、そうなればその時にはその時のしようがあるとますます心が乱れて来る。\n「お休み遊ばせ。」畳に手をついて立ちかけるのを、重吉はあわてて呼止めた。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 一\n\n ゆらりとひと揺れ大きく灯ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯りが消えた。奇怪な消え方である。\n「......?」\n 対馬守は、咄嗟にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅から隅へ眼を放ち乍ら、静かに闇の中の気配を窺った。\n ――オランダ公使から贈られた短銃も、愛用の助広もすぐと手の届く座右にあったが、取ろうとしなかった。刺客だったら、とうに覚悟がついているのである。\n だが音はない。\n 呼吸のはずみも殺気の取きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。\n しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲しようとしているために、国賊と罵り、神州を穢す売国奴と憤って、折あらばとひそかに狙っている攘夷派の志士達は勿論その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮の御降嫁を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。\n「公使館を焼き払い、外人を害めて、国難を招くがごとき浪藉を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危うきに導くごとき妄動するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」\n そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。\n 対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。\n だがやはり音はない。\n「誰そあるか」\n 失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。\n「道弥はおらぬか。灯りが消えたぞ」\n「はっ。只今持参致しまするところで厶ります」\n 応じて時を移さずに新らしい短檠を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍道弥ならで、茶坊主の大無である。\n「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃?」\n「只今四ツを打ちまして厶ります」\n「もうそのような夜更けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」\n「......?」\n「首をひねっておるが、何としてじゃ」\n「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」\n「喃!......充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」\n「忍びの術に達した者めの仕業で厶ります」\n「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈じゃ。そう致すと少し――」\n「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」\n「............」\n「およろしくば?」\n「何じゃ」\n「さそくに宿居の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意は?」\n「............」\n「いかがで厶ります。およろしくば?」\n「騒ぐまい。行けい」\n「でも――」\n「国政多難の昨今、廟堂に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」\n 秋霜烈日とした声だった。\n 斥けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所に命じて訳述させた海外事情通覧である。\n しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。\n だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。\n「大無! 大無! また消えおったぞ」\n「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」\n「ちと腑におちぬ。油壷予に見せい」\n 覗いた対馬守の面は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽ちすべての謎が解けたからである。\n「粗忽者共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸の者共が粗相致して水を差したであろう。取り替えさせい」\n「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります」\n「しかし乍ら――」\n「はっ」\n「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎めるでないぞ」\n「はっ。心得まして厶ります。御諚伝えましたらいずれも感泣致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります」\n「うむ......」\n 大きくうむと言い乍ら対馬守は、突然何か胸のうちがすうと開けたように感じて、知らぬまにじわりと雫が目がしらに湧き上った。\n 安心! ――いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思わぬまに湧き上った涙だったに違いないのである。\n 銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机の左右に並べられた。\n 静かに端座して再び書見に向おうとしたとき、――不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然慌ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこに膝を折って言った。\n「御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!」\n「来おったか」\n「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由にて宿居の方々只今追うて参りまして厶ります!」\n さっと立ち上ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。\n 同時に庭先の向うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那――。\n「お見のがし下されませ! お許しなされませ! 後生で厶ります。お見のがし下されませ!」\n 必死に叫んだ声は女! ――まさしく女の声である。\n 対馬守の身体は、思わず御縁端から暗い庭先へ泳ぎ出した。\n 同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍らしい者も一緒の二人だった。\n「御、御座ります。ここに御灯りが厶ります」\n「......!?」\n 差し出した紙燭の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍って飛んだ。\n「よっ。そち達は、その方共は、道弥とお登代じゃな!」\n 見られまいとして懸命に面を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍の道弥だったのである。\n 不義!\n いや恋! ――この頃中から、ちらりほらりと入れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行に、対馬守の口辺には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。\n だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者としての冷厳な心を取り返して、荒々しく叱りつけた。\n「不埒者たちめがっ。引っ立てい!」\n「いえあの、そのような弄み心からでは厶りませぬ! 二人とも、......二人ともに......」\n 必死に道弥が言いわけしようとしたのを、\n「聞きとうない! 言いわけ聞く耳も持たぬ! みなの者をみい! 夜の目も眠らず予の身を思うておるのに、呑気らしゅう不義の戯れに遊びほうけておるとは何のことか! 見苦しい姿見とうもない! 早々に両名共追放せい!」\n ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々しい言葉で抑えつけるように手きびしく叱っておくと、傍らを顧みて対馬守はふいっと言った。\n「そろそろその時刻じゃ。微行の用意せい」\n ――九重の筑紫の真綿軽く入れた風よけの目深頭巾にすっぽり面をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。"
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"role": "assistant",
"content": "\n 二\n\n 警囲の従者はたった二人。\n しかし、居捕りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。\n ――危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行は雨でない限り毎夜の例なのである。\n 赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫って、風の冷たい濠ばた沿いを四谷見附の方へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店なのである。\n「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取られぬように致せよ」\n 見附前の通りに、夜なきそばと出ているわびしい灯り行灯を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭に佇むと、遠くから客の在否を窺った。\n しかし居ない。\n 刻限も丁度頃なら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿はひとりも見えないのである。暫く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。\n「館!」\n「はっ」\n「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」\n「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」\n「その前はどうであった」\n「三人で厶りました」\n「夜ごとに目立って客足が減るよう喃。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ」\n 忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。\n 牛込御門の前通りにやはり一軒屋台の灯が見える。\n 三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子を窺った。\n「どうじゃ。いるか」\n「はっ。おりまするが――」\n「何人じゃ」\n「たったひとりで厶ります」\n「僅かに喃。酒はどうか。用いておるか」\n「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります」\n「やはりここも次第に寂れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな」\n「はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました」\n「そう喃。――胸が詰って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」\n 濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川御門の方へ曲ろうとするところに、煮込みおでんと、鮨の屋台が二軒見えた。――しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々、客らしい客の姿もないのである。\n「館!」\n「はっ」\n「そち今日、浅草へ参った筈よ喃」\n「はっ。事の序にと存じまして、かえり道に両国河岸の模様もひと渡り見て参りまして厶ります」\n「見世物なぞの容子はどんなであった」\n「天保の饑饉の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶ります」\n「不平の声は耳にせざったか」\n「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります」\n ――まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非の紛々たる声に交って、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積している不安動揺の声なのである。\n 対馬守は黙然として、静かに歩いていった。\n 右は水を隔てて高い土手。左は御三家筆頭水戸徳川のお上屋敷である。――その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫に護らせんために、副将軍定府の権限と三十五万石を与えてここに葵柱石の屋敷をも構えさせたのに、今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川御連枝たる水藩が、率先勤王倒幕の大旆をふりかざし乍ら、葵宗家に弓を引こうとしているのだ。\n「館!」\n 対馬守は、いかめしい築地塀を打ち睨むようにし乍ら卒然として言った。\n「のう館!」\n「はっ」\n「人はな」\n「はっ」\n「首の座に直っておる覚悟を以て、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持の致すことはまたとないな。のう。どう思うか」\n「御諚よく分りかねまする。不意にまた何を仰せられまするので厶ります」\n「大丈夫の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃」\n「............」\n「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっ提て、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨やましい事よ喃」\n「申、申しようも厶りませぬ......」\n「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか」\n 足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手をさえ切ってきびしく言った。\n「まてっ。何者じゃっ」\n「まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!」\n 叱って、館、山村の従者両名がさっと身楯になって身構えたのを、\n「騒ぐでない」\n しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。\n「姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな」\n「......?」\n「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」\n「あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります」\n「早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」\n「御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――」\n 人形のように固くなって、勤王浪土取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯がまた六つ見えた。闇に咲く淫靡な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。\n しかし客足は反対にここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。\n 対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。――これ以上検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。\n 足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。\n 寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早く気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍ら手をつくと、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍ら、丹田に力の潜んだ声で言った。\n「さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?」\n「ききたいか」\n「殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります」\n「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」\n「ではやはり――」\n「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」\n「............」\n「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」"
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"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": "\n 五月廿九日 晴。\n\nNさん来訪、しばらく話してから、いつしよに米屋まで出かける、M店でちよいと一杯ひつかけました。\n身心沈静、落ちついて読む。\n投げだせ、投げだせ、投げだすより外に私の助かるみちはない。\n\n□枯淡な句と幼稚な句とは一見して同一なものゝやうに思はれる、その距離は紙一枚に過ぎないかも知れない、しかし、――しかしである、作者は幼稚を脱して枯淡に徹するまでに数十年の血みどろな精進をつゞけて来たのである。\n□自然に即して思想が現はれる、思想を現はすやうに自然を剪栽するのではない、――これが私の現在の句作的立場である。\n\n\n 五月三十日 晴。\n\n早起、身辺整理、久しぶりに身心明朗。\n暮羊君久々にて来庵、病気全快は何より、例の如く無駄話、ついていつて雑誌を借り酒を貰うて戻る(君はまだ飲んではいけないさうで)。\n十二時頃、樹明君来庵、旦へ行かうといふ、同行はSさんKさんたち(旦は、私の第二の故郷である、そこの鯛を食べ酒を飲むことは楽しい)、お仲間入したいけれど会費三円が出来ない、K店で借らうとしたが、月末でどうにもならないさうである、残念ながら参加中止、帰庵して、例の一本を傾けた、寂しかつたが、けつきよくは、よかつた、よかつた、酔ひました、ほろ〳〵とろ〳〵、そして湯田へまた参りました(Y店で壱円借りまして)、熱い湯、熱い湯、熱い湯に浸ると、身心が蕩けるやうに快い。\n\n哲学から句は生れないけれど、句には哲学があつてもかまはない。\n私は私の私であれ!\n\n\n 五月三十一日 曇。\n\n午前帰庵。\n留守に、樹明君が酔つぱらつて来たらしい。\nアルコールを止揚せよ、先づ焼酎を止めろ、酒は日本酒に限る、燗してちびり〳〵飲むべし、時としてぐい〳〵ビールを呷るもよからう。\n水がうまい、水を飲んで胃腸を洗ふ、いや身心を洗ふ。\n\n 六月一日 晴。\n\n更新第一歩。\n草のめざましさ、小鳥のほがらかさ。\nKからの酒を頂戴する。\n今日は今日のお天気、今日は今日の事をなせ。\n死線を越えて無我境を行く。\n身辺整理、発熱の気味で。――\n\n芸術的自信はなかるべからず、断じて自惚はあるべからず。\n\n自己矛盾――自己嫌忌――自己破壊――\n\n\n 六月二日 晴――曇。\n\n青い朝が動いてゐる、暁のすが〳〵しさ、みづ〳〵しさ、身心清澄、創作衝動を感じる。\n鶉衣を読む、うまいことはうまいが、あまりにうまい。\n洗濯、草苅、何といふ役に立たない肉体だらう!\n石油買ひに出かける、ついでに入浴。\nやるせない手紙をSに送る、あゝ。\n数日ぶりに新聞を見る、予期の如く林内閣は退却した、そして大命は近衛公に降下し、公は拝受した、これで行き詰つてゐる非常時も非常時として安定するだらうと誰もが予期してゐる。\n国家は国民の社会である。\n朝晩はまだ春だが、日中はまつたく夏だ。\nありがたくおいしく御飯をいたゞいた。\n旅、旅、旅に出たい、そしてワガママをたゝきつぶしたい(かなしいかな、私は行乞の旅をつゞける元気をなくしてしまつてゐる)。\n不眠、しようことなしの徹夜読書、アブラが切れたのだらう。\n東の空が白むのを待ちかねて起きる。――\n\n詩人は謙虚でなければならない、見よ慢心せる俳人のいかに多きことよ。\n増上慢はネコイラズみたいなものだ。\n\n『飯と酒と水』\n (父親の出奔、帰郷、家出)\n『半自叙伝』\n『うさきのころも』\n\n\n 六月三日 曇。\n\n沈静。――\n下の家の主人が来て草を刈つてゐる、朝風にそよぐ青草をさくり〳〵と刈りすゝむ心持は快いものであらうと思ふ。\n今日もまた、郵便も来ないのか!\n午後、ポストまで出かけたついでに、農学校の畜舎に寄つて新聞を読む、至るところ近衛内閣万歳である、誰もが暗さに労れてゐるのだ。\nけふも発熱の気味、からだのどこかに異変が起つてゐるらしい、それもよからう、仕方がないが、どうか痛まないやうに。......\n蒸暑い、柿の青い葉が時々落ちる。\n二夜分ねむれた、いやな夢を見たけれど。\n\n放てば手に満つ\n此語句に道元禅師の真骨頂が籠つてゐる、おのづから頭がさがる。\n\n昨日は昨日の夢。\n今日は今日の現実。\n明日は晴か曇か、それとも雨か。\n\n\n 六月四日 晴。\n\n好い季節だ(いつでも好季節といふのは観念としてゞある)。\n好すぎる季節だ。\nおいしい御飯そのものだ。\n句稿を整理しつゝ、自分の未熟なのに呆れ、懈怠がちであるのを恥ぢた、おい、山頭火、しつかりしろよ。\n午後は畑仕事、すぐ掌にマメが出来る、まことに〳〵情ない肉体ではある。\n夜は芭蕉を読む、芭蕉の物品は読めば読むほど味がふかい、と今更のやうに感じ入つたことである。\n――遂に無芸大食にして終る――自弔の一句である。\n卑しい夢を見た、私の内心には、人を疑ひ人を虐げる卑しさがあるのだ、恥づべし、鞭つべし。\n\n後記――\n\n□柿の葉のうつくさはないが――\n 柿の蔕、柿膓\n□ひとりの句二つについて――\n□旅の句、吟行句\n□「他人の午蒡で法事をする」\n 御礼申上げる\n\n\n 六月五日 曇――雨。\n\n梅雨近し。\n第五句集柿の葉、やうやく脱稿、さつそく大山君に送つてほつとする、パイ一やるところだが、銭がないし、借るところもないし、やつとY屋で一杯ひつかける、この一杯には千万無量の味があつた。\n割り切れない人生、どうやらかうやら、へゞれけ人生からほろゑひ人生へ。――\n大根を播く、時知らず大根といふ名はわるくない。\n私の生活態度はあまりに安易であつた、生活内容が貧弱になるのもあたりまへだ。\n今晩は一碗の御飯しかない、お茶を熱くして蕗を味はひつゝ食べた。\n夜になつて雨、落ちついて読書。\n\n私の立場としては、\n広くよりも深く\n新よりも真を求める。\n乞食することは、今の私として、詮方もないが、いはゆる乞食根性には落ちたくない、これは矛盾だらうか、否、否、否。\n\n\n 六月六日 雨、終日終夜降りつゞけた。\n\n梅雨らしく降る、雨もわるくないけれど、方々の雨漏りには困る。\n朝飯なし! 渋茶ですます。\nポストへ、I店で米を借りる、胡瓜も安くなつた、大五銭小二銭、小を二本買ふ。\n捨猫がしきりに鳴く、鳴いて鳴いて鳴きつくして死ぬるだらう、私はどうすることも出来ない。\n自然といふものについて考へる。......\nまたポストへ、ついでに入浴、そしてM屋に寄つて一杯ひつかける、K店で煙草を借る、なでしこが切れてはぎを借る、十三銭の浪費である。\n身辺を整理した気持好さで、アルコールのおかげでぐつすりと眠れた。\n\nこらへる、――私はこらへなければならない、こらへることのできない私を呪ふ。"
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"role": "assistant",
"content": "未熟と未完成とは別物だ。\n芸術に国境なし、しかし民族の血肉はある、そのどちらも真だ。\n感傷は反芻する――と、ルナアルは日記に書いてゐるが、私の感傷は反噬する。\n自信をなくした日、こんな寂しいことはない、そのときほど、自分をみじめと思ふことはない。\n\n\n 六月七日 雨、雨、雨。\n\n五時起床、熟睡の朝の軽快。\n――とかく功利的に動きたがる――省みて恥づかしい。\n落ちついて読書、生きてゐるよろこびを感じる、飛躍前の興奮を感じる、うつぼつとして句作衝動が沸き立つ。\n句が作れなくなつたとき、酒が飲めなくなつたとき、その時こそ私の命が終る時である。\n甘えるな、甘えるな――媚びるな、媚びるな――自分を甘やかすな、他人に媚びるなと自から戒める言葉である。\n日々の二つの幸福。――\n何でもおいしく食べられる、何を食べてもうまい。\n感情を偽らないこと、すなほに、ひたむきに感情を表白することが出来る(勿論、比較的に)。\n第二日曜六月号到来、はつらつたるものがある、さつそく牧句人へ手紙を書く。\n夕方、ポストへ、それから豆腐屋へ寄つて二丁借りてくる(酒屋へは寄れなかつた)。\n豆腐の味、――淡如水如飯。\n夜、心臓がしめつけられるやうに苦しくなつたので、いそいで句帖と日記とを書きつけたが何事もなかつた。\nいつも覚悟は持つてゐるけれど、かういふ場合の、孤独な老人はみじめなものだらう!\n昨夜は宵からあんなによく睡れたのに、今夜はいつまでも睡れない、うつら〳〵してゐるうちに、いつとなくみじか夜は明けてしまつた。......\n\n俳句は――自由律俳句はやさしくてそしてむつかしい。\n門を入るは易く、堂に上るは難く、そして室に入るはいよ〳〵ます〳〵難し。\n句はむつかしい、特に旅の句はむつかしい、と句稿を整理しながら、今更のやうに考へたことである。\n時代は移る、人間は動きつゞけてゐる、句に時代の匂ひ、色、響があらば、それはその時代の句ではない。\n貫き流るゝもの、――それは何か、問題はこゝによこたはる。\n○その花が何といふ名であるかは作者には問題ではない、作者は花そのものを感じるのである、しかし、その感動を俳句として表現するときには、それが何の花であるかをいはなければならない(特殊な場合をのぞいて)、こゝに季感の意義があると思ふ。\n○都会人にビルデイングがあるやうに田園人には藁塚がある、しかし、煎茶よりもコーヒーに心をひかれるのが、近代的人情であらう。\n○俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい(短歌も同様に)、一句一句に作者の顔が刻みこまれてある、その顔が解らなければその句はほんたう解らないのである。\n○把握即表現である、把握が正しく確かであれば表現はおのづからにして成る、さういふ句がホントウの句である。\n\n\n 六月八日 雨。\n\n降つた降つた、降る降る。\n武二君へ手紙を書く、層雲経営について。\nありがたし、多々君の手紙、ほんたうにありがたかつた、君の温情が私の身心にしみとほつた。\nポストへ、そして買物いろ〳〵、これだけあれば当分凌げる。......\n身辺整理、私の変質的発作は整理出来ないものだらうか、否、きつと整理してみせる。\nつゝましくすなほな日であつた。\n午後、またポストへ、ついでに入浴、髯を剃り爪を切り、さつぱりした。\n樹明来信、宿直だから来遊を待つ、おもしろいニユースがあるといふ。\n六時のサイレンを聞いてから出かける、ニユースといふのはKさんの事だつた(彼に幸福あれ)、いつものやうに夕飯をよばれ(無論、般若湯も!)十時頃帰庵。\n今日の新聞記事、――無想庵が巴里に於ける話は悲しかつた。\n今日は茄子と胡瓜とを植ゑた。\n人の短を説く勿れ、己の長を語る勿れ、合掌。\n\n層雲はましく第二期に入つた、今後の運動は若い人々のはたらきである、第一期の仕事に残つてゐるものがあるならば、それは老人たちのつとめである。\n層雲俳句に対していつも慊らなく感じることは、野性味のないことである(野心的な句はさうたう見うけるが)、小さいナイフのやうな句ばかりで大鉈のやうな句がない。\n\n\n 六月九日 曇――晴。\n\nやつと霽れた。\n天地荘厳――私は沈欝。\n――せめて、余生をなごやかに送りたいと思ふ。\n菜を漬ける、何といつても食料品として最も安価なのは塩だ(私は一年間に十五銭の塩を使ひきれない)。\n読書はよいな、今日も悠々として書を読んで暮らした。\n石油買ひがてら散歩、或る畠の畔からコスモスの苗を抜いて来て植ゑる、この秋は庵のまはりが美しいだらう。\n途上に句はいくらでも落ちてゐる、それを拾ひあげることが出来るのは俳句的姿勢だ。\n心いよ〳〵深うして表現ます〳〵直なり、――この境地は句に徹しようと不断に精進するものでないと、よく解るまい。\n\n塩鮭のあたま\n\nあのルンペンはどうしてゐるだらうか。\n\n\n飲みすぎることは自制しえないこともないが、さて食べすぎることは自然に任す外ない。\n私は日本人であることを喜ぶ、現代に生れたことを喜ぶ、俳句を解することを喜ぶ。\n老醜たへがたいものがある!\n二郎! お前は此一筋を持たない無能無才だつた、つながるものゝないお前は自殺するより外なかつたのだ! ああ。\n\n\n 六月十日 晴。\n\n時の記念日。\n早起、掃除も御飯も日記書入も何もかもすんでから、六時のサイレンが鳴つた。\nなか〳〵寒い、ドテラをかさねる。\n自然にぢかに触れること、――作者にとつては、その事が何よりも大切である。\n裏藪で今年最初の筍を見つけた。\nほんたうに日が長い、終日無言、読んで楽しむ。\n啄木鳥が来た、お前も寂しい鳥だ。\n\n 今日の買物\n一金五銭 菜葉一把\n一金三十四銭 ハガキと切手\n一金十六銭 醤油四合\n一金三銭 酢一合\n一金十銭 酒一杯\n一金九銭 花王石鹸\n一金十銭 塩鯖一尾\n一金十五銭 石油三合\n一金十三銭 若布五十匁\n一金九銭 味噌百匁\n\n\n 六月十一日 晴――曇、入梅。\n\n未明起床、身心清澄。\n――完全に私は私をとりもどした、山頭火はたしかに山頭火の山頭火となつたのである。――\n落ちついて読んだり書いたり。\n藪を探して小さい筍二本貰つた、さつそく煮て食べた、うまかつた。\n昼御飯をすましてからポストへ、ついでに学校に寄つて、樹明君に会ふ、新聞を読み、豚と豚の仔を観る。\n豚! 十匹近い仔! そこに自然の或る姿を発見する!\n小西さんからよい返事があつた、早く快くなりたまへ。\nあるだけの米――五合あまり――を炊く。\n――芸に遊ぶ――現在の私はこの境地にゐる。\nまことに嫌な夢を見た、私にはまだそんなに未練があり執着があるのか、そんなにも私は下劣醜悪な人間なのか、――悲しくも淋しい一夜であつた。\n\n┌自然\n│ 人間認識\n└歴史(社会)\n (時代)\n┌自然 ┌物 ┌有限 ┌存在\n└人間 └心 └無限 └実在\n観る――認識する――描く、詠ふ、奏でる\n\n\n 六月十二日 曇――少雨――晴。\n\n沈静。――\n午前、ポストへ、一杯ひつかける、味噌を買ふ、財布には一銭銅貨が二つしか残つてゐない。\n梅雨らしく晴曇さだまらず、それでよろしい。\n午後、晴れたので散歩、山越えして伊藤さんを訪ねる、幸にして在宅、二時間ばかり話して帰る、小さい壺と、そして白米一升を貰つて(米を無心したときは内心恥ぢ入つた)。\n伊藤さんは交れば交るほど味の出てくる人物らしい、私と意気投合するかも知れない(私と同様に独居生活で、そして息子自慢だ、君は外に働きかけんとし、私は内に潜みがちになるが)、とにかくうれしい訪問であつた。\n夕方、暮羊君来訪、しばらく話す。\n早く寝床に入つたが寝苦しかつた。\n\n私の場合では、貧乏はむしろ有難い、若し私が貧乏にならなかつたならば、一生、食物のうまさを知らなかつたらうし、また、飲んだくれて早死してしまつたらうから。......\n貧楽である。\n※(二重三角)私の生活態度を食物の場合で説明すると、――いふところのうまい食物でも食べる人間が健全でなければ、うまいと味ふことは出来ない、それと同様に、いはゆるまづい物、いや、うまくない食物でも身心が調うてゐれば、おいしく、ありがたく味ふことが出来る、――それが人生の味だ。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 丈太郎も最初はこの清らかな聞香の道に入って、正しい鼻観の大道を辿りましたが、生れ付き非常に嗅覚が発達して居たものか、遂に邪道に踏み入って、大変なものを嗅ぐ欲望に悩まされるようになったのです。\n 尤も足利時代の香木の蒐集家で有名な佐々木佐渡守道誉入道は、仏像を焚いて丹霞と称し、蓮座を炷いて仏座と名づけ、外に慈覚大師の念珠、足利義政の卓、楊貴妃の椅子、唐人の笠、石帯――などさえ焚いたと言うことですから、丈太郎の欲望も決して例の無いことではありません。\n 香というのは、支那、印度、南洋あたりに産する名木を材料にしたもので、栴檀の木が長い間水に沈んで居たのは沈香と言い――これは年数によっていろいろ名称があります。――昔は沈をはじめ各種の香木を材として、仏像を彫ったり、念珠を刻んだりしましたから、古い有名な仏像の中には、どうかすると、非常に高貴な香木があるわけです。現に推古天皇の三年四月、淡路島に長八尺の沈水香が漂着したのを、聖徳太子が仏像に刻まれたということが、日本書紀その他の本に伝えられて居ります。\n 名香六十一種、その内三十三種は勅銘で、第一は蘭奢待、これは東大寺に在る勅封の名香、昔は将軍一代に一寸四分切り取って下賜になる例でしたが、後世はその事さえ無くなりました。次で法隆寺にある太子、其の他香の数は、和香木を加えると数限りもありません。\n 香道は閑寂高雅な遊びで、まことに結構なものですが、丈太郎は一種の変質者で、正しい香道から、一種言いようも無い邪道に踏み込んでしまったのです。\n 一つは没落して、高価な香木を求める金が無くなった為、一つは佐々木道誉入道の亜流で、古い道具や仏像から、名香を見出そうとする誘惑に打ち負かされた為、最初は死んだ母親の形見の珠数を炷いて見ましたが、これは素晴らしい香木で、すっかり丈太郎の異常嗜好を満足させてしまいました。\n 続いて仏壇の奥に祀ってある仏像を取り出しました、これを焚くのは流石に躊躇しましたが、金が尽きて香木を求める事の出来ない苦し紛れ、到頭思い切って、その蓮座の後ろを削って焚くと、これも山形屋繁昌の時手に入れた品だけに、実に結構な香木、丈太郎今更ながら驚いてしまいました。\n 仏像が一つあると、小さくとも十日位は焚けます。もうこれ丈け味を占めると、止め度もない嗅覚地獄へ、真っ逆様に落ちて行くばかりです。\n 何んか良い香木は無いものかと、鵜の眼鷹の目で探して居ると、いろんな物が眼に付きます。硯箱、経机、文鎮、手筥――と手に従って削って焚きましたが、いずれも駄木で、ただキナ臭いだけの話、新しい香、佳い香と漁り抜く丈太郎は日と共に懊悩を重ぬるばかりでした。\n その煩悶が重なると、やがては有名な寺や堂の、時代の付いた仏像を狙うようになります。天禀の智恵と身の軽さを利用して、江戸から近郷へかけて、有名な仏像仏具を盗んで、片っ端から削っては焚きましたが、十中八九は檜や白檀、精々浅香などですが、中には思いもよらぬ素晴らしい名香があります。\n 斯うして丈太郎の異常嗜好が、気違い染みた熱心さで、際限も無い罪悪の淵へ陥ち込んで行ったのです。\n\n救いの道はたった一つ\n\n「お園、斯うしたわけだ、金さえあれば、まさか、此処までは落ちなかったろうが――いやいや――、今となっては、金があったところで、この仏像仏具を漁る楽しみは、思い止まられそうも無い――」\n「............」\n 丈太郎の恐ろしい懺悔話にお園は唯打ち顫うばかり、応えようもなく男の顔を見守りました。\n「信心深いお前の両親が、仏敵同様の俺にお前を添わせる筈もない、お園、こんな男を許嫁に持ったのが不仕合せとあきらめて、今のうちに身を退いてはくれまいか、いずれは知れずに済むことではない、山形屋の丈太郎が寺荒しの本人と判ってからでは、繋がるお前の一生も廃りものになる」\n「あれ、丈太郎様、何を仰しゃいます。仮令何のような事があろうと、私は、私は――」\n すがり付く事もならず、お園は涙を呑んで娘らしく俯向くばかりでした。\n「いやいやそうでない、俺はこの通り言いようも無い悪逆無道な人間、お前は親もあり主人もあり、それに、若くて美しくて――」\n「いえ、いえ、もうそんな事は聞かして下さいますな、それより丈太郎様、今からでも改心をするに遅い筈は御座いません、その仏像仏具を焚くことだけはフッツリ止して、元の丈太郎様に返って下さいまし、香木のお代は、お許し下さるなら、私が何んとか致しましょう」\n お園も必死の気組、思わずいざり寄って、男の膝に手を掛けてしまいました。\n「有難う、お園、その志は忘れないが、何んの因果か、俺はこの道楽が思い切れない」\n 丈太郎は思わずお園の手を取って、引き寄せるともなく、その泣き濡るる顔を差し覗きました。\n 娘の顔は一生懸命さに上気して、庭に咲いたばかりの八重桜のよう、涙に香ってたとえようもない美しさです。\n「丈太郎様、丈太郎様」\n「お園、堪忍してくれ」\n 二人は何時の間にやら、犇と抱き合って居りました。生れて初めて経験した、不思議な瞬間が、涙も、悔恨も、不安も、懊悩も洗い流して、残るものは、夢心地の陶酔ばかり、頬と頬と、唇と唇とが、二人の言葉にも、意志にも裏切って、慕い寄るように近付くのです。\n「いやいや、俺は何時繩目を受けるかも知れない身体だ、お園、退いておくれ、お園」\n 思い直して丈太郎が、娘の身体を突き退けましたが、\n「あれ、丈太郎様、どうぞ思い直して、元のお前の心になって下さい、仏像を焚く代りに、一寸刻み、五分刻みに、私の身体を焚いても構わない、丈太郎様、丈太郎様」\n 娘はその柔かい弾力的な肢体を揉んで、丈太郎の身体から離れようともしません。\n「たった一つ、俺を救う道がある」\n「え、それは何ういう?」\n「いや、言うだけ無駄だ、これは言わない方が宜い」\n うっかり口を滑らしたらしい丈太郎は、あわてて斯んな事を言い紛らしますが、藁にも縋る気のお園は、それを訊さずには措きません。\n「仰しゃって下さい、どんな事でも仕ましょう、お前の心を救う薬があるなら、地獄の火の中からでも、私は取って来て上げ度い」\n お園は男の肩にその華奢な手を投げ掛けて、子供のように身を顫わしました。\n「言ったところで何うもなるものではない、来年の念願だが、若し天下第一の名香『東大寺』を聞くことが出来たら、私の邪念が霽れるかも知れない」\n「え、え?」\n「東大寺と言うのは、下々では手に入れる由も無い、蘭奢待の名香だ、――若しそれを手に入れて、思いおく事なく焚くことが出来たら、鼻観邪道に踏み入った私も、迷いの雲を払い落して、元の丈太郎に還ることもあろう」\n 思い入った丈太郎の言葉を、暫らく黙って聴いて来たお園、この時男の身体を離れて、膝を直しました。\n「丈太郎様、それは本当で御座いましょうか」\n「天下第一の名香、十里の外に匂って、もろもろの邪気を払うと言う蘭奢待の威力は宏大だ、私の迷いを払うことなどは物の数でもない」\n「それならば、工夫も手段もありましょう」\n「何?」\n「私の主人英山公様が、蘭奢待をば秘蔵で御座います」\n「えッ」\n「織田信長公が東大寺の蘭奢待を一寸八分に切らせて頂いたのを、三分の二ほど諸侯に頒けたと申しますが、太田淡路守様御先祖も武功によってその中から頂いた相で、今に御隠居様御自慢のお物語が御座います」\n「フーム」\n「私の手で、何んとか致しましょう、御隠居様に御願申し上げて頂くか、でなければ――」\n「............」\n 思い耽る丈太郎を、懐かしそうに見送り乍ら、お園は部屋の外へ滑り出ました。\n「丈太郎様、さらばで御座います、蘭奢待を手に入れる為、私の身が何うなろうとも、決して決して見捨てては下さいますな」\n 小さい嗚咽を残して、お園は背を見せます。\n「待て待て」\n 丈太郎は立ち上って、追いすがりましたが、女は早くも門の外へ。\n 赤い夕陽が目黒の森に落ちて、春乍ら悲しい風物です。\n\n蘭奢待を盗んだ美しい曲者\n\n「これ、お女中」"
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"role": "assistant",
"content": "「ハッ」\n「それは何んで御座るな」\n 宝蔵に梅雨前の風入れを了って、やがて一と片付けしようと言う時、御隠居様の御用と名乗って入って来た英山公附の女中が、何やら袖に隠して、いそいそと出て行こうとしたのでした。\n 見とがめたのは、小堀平治、年は若いが宝蔵の鍵を預るほどの武士、眼にも心にも聊かの油断がありません。\n「砧青磁の香爐を持って参れ、当分手許に差し置く――と御隠居様の仰せで御座います」\n 小腰を屈めたのは、腰元のお園、宝蔵の陰気な空気の中にも、ほんのり匂うような美しさ、堅造の小堀平治も、聊かたじたじと来ましたが、気を取り直して、\n「もう一品、その袖の下にあるのは何んで御座るな」\n「............」\n「役目の手前、一度拙者が目を通した上でなければ持ち出しはなりませんぞ、お出しなさい」\n「............」\n お園は悚然と立ち淀みましたが、まだその懐の前に掻い抱く袖を開こうとはしません。\n「見せられなければ、調べようがある、――待て待て」\n 小堀平治はお園が探して居た唐櫃に近付きました、馴れた眼で一と通り眺めると、何れの品に手を触れたか直ぐ判ってしまいます。\n「お、これは?」\n 唐櫃から取り出したのは、紫色七尺の長紐を掛けた金蘭の袋、それを解くと、中から現れたのは、印籠蓋唐木の香箱です。\n 紐も崩れ、袋も歪み、中を開くまでもなく、見当は付きますが、念の為蓋を払って見ると、中に納めてある筈の、蘭奢待の名香がありません。\n「お、矢張りそうであった、蘭奢待の名香を盗んで、立ち去る積りであろう。小堀平治が在る限り、そうはさせぬぞ、――御隠居様に成敗して頂こう、来い、女」\n 帯際を取って、お園を引き立てました。うっかりすると腹切り道具ですから、小堀平治も全く気が気じゃありません。\n 御隠居英山公は、その時南陽の入る書斎で心静かに書見をして居りましたが、廊下を蹈みしだくあわただしい足音に、思わず眉をひそめて、\n「騒がしい何事じゃ」\n 静かに四方を顧みます。最早還暦もすませ、何も彼も当守淡路守に任せ切りで、風月を友に暮して居りますが、有髪の法体とも思えぬ案外の元気で、半白の鬢にも血色の良い顔にも何んとなく返り咲く若い血潮が漲って居ります。\n「ハッ」\n 近習の者が立ち上ろうとすると、\n「蘭奢待の名香を盗み出した曲者を召し捕って参りました、御成敗を願いまする」\n 一徹者の小堀平治の声、取次も待たずに、凛々と縁側から響きます。\n「うむ」\n 障子を開けさして、立ち出でる英山公の足元に、大輪の花のように崩折れたのは、日頃目を掛けて使って居る腰元のお園、\n「............」\n 英山公もさすがに驚きました。\n「信長公より御先租が拝領の御品、代々の殿にも、幾年に一度も御覧にならぬほどのものを、腰元風情が盗み出すとは容易ならぬこと、諸人への見せしめ、一刀の下にお斬り捨下さるよう、小堀平治確と御願申し上げます」\n 責任者だけに、恐ろしい鼻息、日頃この娘姿を可憐と見て居る英山公も、斯う大袈裟になっては、罪を宥める方法もありません。\n「これ、女、面を挙げえ、蘭奢待の名香に手を掛けるには仔細があろう、次第によっては助け取らせないものでもない、遠慮なく申して見よ」\n 身分柄乍ら老巧な英山公は、この美しい腰元を救う道もがなと、弁解の言葉を聴こうとしましたが、お園は涙に暮れ乍らも、縁側の板敷の上にひれ伏して、一言もありません、なまじ物を言えば、許嫁の夫、丈太郎の罪を発くことになると思ったのでしょう。\n「恐れ乍ら、此の様な不心得者にお言葉を下さるのも勿体ない事で御座います。早速御成敗を遊ばすよう」\n 小堀平治も、娘のあまりの美しさに、少し心配になったのでしょう、切りに英山公を促し立てて、一刻も早く埓を明けようとします。全く長く見詰めて居ると、この娘の首に刃は当てられなくなってしまいそうです。\n「致し方が無い、女、それに直れ」\n 英山公の最後の言葉を聞くと、小堀平治はハッとお園を縁の下に蹴落しました。\n 続いて沓脱の上に庭下駄を直すと、\n 早くも番手桶を一つ、砂利の上に居住いを直すお園の後ろへ据えます。\n 庭へ下り立った英山公の手には、つい近頃二つ胴を試したばかりの新身の一刀が、夕陽を受けて焼金の如く光りました。\n\n反魂香の煙の中から美しいお園の媚態\n\n お園がお手討になった――\n その日のうちに、親許から、許嫁の丈太郎にも知らせがありました。\n「ああ、失策った」\n いつぞやの約束を思い出して、丈太郎は歯噛みをしましたが、今更追い付くことではありません。\n 経緯は、何うやら丈太郎には判然読めそうです。可哀そうなお園は、多分自分を鼻観邪道から救う為に、十襲の蘭奢待に手をつけたものでしょう。\n 斯う思うと丈太郎は身も世もありません。暫らくは鼻観三昧に耽ることも忘れて、美しかったお園の事を思い続けて居りましたが、不思議なことに何時まで経っても、親許に死骸を下げ渡してくれません。強って聞けば、\n ――お取り捨になった――、\n とだけ、お葬いを出すことも、死顔を一と眼見ることも出来ない有様です。\n そのうちに日は経ちますが、丈太郎の嘆きは募るばかり、せめて邪道でも何んでも、好きな香でも焚いたら、紛れることもあろうと、盗み溜めた名木を削って、何くれと焚いて居ると、\n 誰やら閉したままの戸口に立ったものがあります。\n「御免下さい、通りすがり、思わず名香の匂いに引き寄せられました。お窘みの程も奥床しい、近頃不躾乍ら、いささか用意の香も御座います。お合せ下されば仕合せに存じます」\n 物馴れた調子で斯う言うのは、一人の尼、中年者の豊満な身体を、墨染の法衣に包んで、いとも慇懃に小腰を屈めます。\n「............」\n 丈太郎は玄関に立ったまま、暫らくはこの不思議な客を見詰めました。近頃は人に顔見られるさえ疎ましい気分ですから、香合せなどをする気は微塵もありませんが、相手の尼法師の調子が滑らか過ぎて、一寸咄嗟の間には断わり切れなかったのです。\n それに、手討にされたお園の事が気になって居る矢先き、仏像破壊を道楽にして居る悪魔的な丈太郎にも、後生気というものが蘇がえったのでしょう、尼さんを招じ入れて、せめて供養でもして貰ったらと言った心持で、\n「サアどうぞ」\n ツイ、そんな事を言ってしまったのでした。\n さて、座が定まると、お経を読むでもなく、念仏を称えるでもなく、尼法師がおもむろに取り出したのは、緞子の袋に入った紫檀の十炷香箱、一重口白磁の香爐に、流儀の炭団を入れ、銀葉を置いて、\n「............」\n 静かに一礼して、名木を炷きます。素より香合せという程ではありませんが、行摺りに好める道の窘みを見せてくれるのは、何んとなく奥床しいもの、丈太郎も会釈を返して聞香の形を改めます。\n 相手は墨染の法衣を着て、豊満な肉体と、醜い顔とを持った見る蔭もない比丘尼ですが、炷いた香は実に素晴らしいもの、白磁の香爐から立ち上る香煙を聞いて、丈太郎は思わず眼を見張りました。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " それを、たれかといえば、\n 少弐ノ入道妙恵(貞経)\n 大友ノ入道具簡貞宗\n の二人である。\n 以来、菊池党として、これこそ深い恨みでないはずはない。\n ところが、時勢は急転した。\n 鎌倉幕府、執権高時、すべて昨日の覇府は地上から消えた。\n 余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の北条英時も、たちまち、四面楚歌の包囲中におかれ、鎌倉滅亡の日からいくばくもない、当年の五月二十五日、館に火をかけ、自害して果てた。\n じつに、怪しいのは、こんなときにおける人のうごきで、先には、探題英時に与して、菊池寂阿を自滅させた少弐妙恵と大友の入道具簡も、こんどは、阿蘇、菊池の諸豪に伍して、共に、探題攻め包囲軍中にいたのである。――白楽天のことば――行路ノ難ハ山ニモアラズ水ニシモ非ズ、タダ人情反覆ノ間ニ在リ――という事実を人々は目のあたりに見たことだった。\n だが、市井の目が、そのまま真相を映すかといえば、これもそうとはかぎらない。\n 激動中の表裏には、怪奇複雑なかけひきやら、政治的な離合なども、さまざま、波の底にはおこなわれている。\n 一時、菊池党と結んだ少弐、大友の二党も、やがて建武新政の両三年を経て来るにしたがって、いつかまた、水と油の反目をみせだしていた。\n 元々、九州九ヵ国の諸豪は相譲らぬ対立を持していたし、またとくに、少弐、大友の二氏は、菊池党とはまったく違う時勢観と利害の上にも立っていた。\n それというのも、ひとつには尊氏の遠謀だった。少弐、大友などが、尊氏と密盟を持ったのは、きのうや今日のことではない。まだ尊氏が六波羅にいて、六波羅奉行の腕をふるっていた建武初年の頃からであった。\n 当時、都に在番の少弐、大友、島津らの子弟はみな、\n「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ」\n と、帰国の都度、郷党の者へ語りつたえる風だったのである。\n もちろん、遠謀に富む尊氏は、そのころから筑紫諸党へたいしては、かくべつ政治的便宜をはかり、またあらゆる好意を送っていた。で事々、筑紫の武族間には、\n「なるほど」\n と、こころよく受けとられ、同時に、\n「さすがは、赤橋殿の妹聟、うわさのごとく、なかなかな器量人か」\n と、衆望の観るところにもなっていた。\n ゆらい疑い深いのは武族間のつねだ。それが未見の尊氏へ、どうして、こうつよい信頼を九州では高めていたのか。\n もっとも、これまでに、彼らの尊氏観が固まってくる根底には、それとの結び付けとなった重要な前時代の前提がないではない。\n 何かといえば。\n その胚子は、すでにこの地で亡んでしまっている前の九州探題北条英時が蒔いておいた徳望だった。\n 英時は、探題十余年の在職中、治め難いこの九州諸豪のうえに在って、よくその平和を維持していたばかりでなく、庶民の評判もよく、その人柄はわけて皆から親しまれていた。\n が、それほどな英時も、大本の鎌倉幕府の倒壊に会してはぜひもない。保身的な豹変者、元来からの宮方勢の包囲のうちに、あえなく自刃をとげてしまった。が、菊池党のような正真正銘の宮方をのぞいては、\n「惜しい人をば」\n「あえないことに」\n と、後々ではみな悼みもし、英時の善政なども、今さら慕われていたことだった。\n とにかくそこへ尊氏の擡頭だった。彼の名がようやく武門の焦点となるにつれ、はしなくも尊氏という人物が、この九州では、特に大きく、彼らの意識にのぼって来た。\n なぜならば。\n 英時は、北条一族の赤橋守時の実弟だった。\n その守時は、いうまでもなく、尊氏の妻、登子の兄でもある。――で、尊氏にとれば、前の九州探題英時は他人でない。妻の兄だ。この九州と尊氏との宿縁もまた、浅くはない。\n「いつかは、この九州へ、お手をかける日もあるにちがいない」\n 少弐妙恵などは、夙に、こうした洞察をもっていた。大友、島津らの党も、ひそかに宮方から離れていた。\n 大友具簡の一子貞載が、中央にあって、箱根竹ノ下で寝返り、義貞を離れて尊氏の手へついてから、九州でもふたたび、宮方と足利方とは、真二つに割れ、ここは大揺れに揺れ返していた。――尊氏の九州下りは、じつにそんな時であったのである。\n 亡き菊池寂阿(武時)には、たくさんな子があり、元弘の博多合戦で、父寂阿と共に討死したのもあるが、みな父の遺志をついで、後醍醐の召に応じ、中央へ出て二心なき戦功をあげている。\n ――で、建武初頭の論功のさいには、\n 嫡男の菊池武重を、肥後の守護職、兼、左京大夫に。\n 四男武茂は、対馬守に。\n その弟武澄は肥前守。\n また、末弟の武敏は掃部助に。\n というふうに、一族みな任官、受賞の栄に浴した。\n 当然、これには亡き寂阿の忠死もあずかって勧賞の考慮にいれられたことではあろうが、およそ一家でこれほどな恩賞をうけた例はほかにない。同時に、九州における菊池党の位置もここへきてすばらしい勢威を増していた。――大宰の少弐家も、鎮西奉行の大友も、もののかずともみえなかった。\n まさに、九州九ヵ国の重鎮とは、この家のことであり、朝廷の意向も「――九州の抑えは菊池を要に」と恃むところにあったであろう。\n ――尊氏来る!\n とは、このような菊池家のうちに早くから反撃の奮起を呼びおこしていたのである。肥後の山河、阿蘇の噴煙が、ただならず揺るぎ出したのは、まだ尊氏が、芦屋ノ浦へも上陸ッて来ない前からのことだった。\n が、長兄の武重は、なお都にあって、国元ではない。\n そこで、末弟ながら武敏が一切の軍事にあたり、上の武茂は、あとの守りに残った。\n 武敏は、精悍な若さと、すぐれた膂力をもっていて、\n 寂阿の再来\n といわれ、その麾下には、いわゆる“菊池千本槍”の武名を持つ旗本の精鋭と、七千の兵があった。\n また。\n 隣郡の阿蘇一族も、変らない宮方だった。阿蘇ノ大宮司惟直、惟澄も、ともに兵をすすめたので、あわせると、すでに万余の大軍となる。\n この時からして、九州宮方の合い言葉は、\n「尊氏に筑紫を踏ますな。――遁亡の将尊氏ごときに、一歩でも九州を踏み荒させてなるものか」\n であった。\n また、\n「まずそれには、尊氏と通じている太宰府を陥せ」\n でもあった。\n 太宰府へ向う途上、諸所において、少弐一族の抵抗はみたが、穴川口の戦い、太田清水の一戦、水木の渡し、菊池勢は行くところ破竹の勢いでそれらに勝った。\n これへ、秋月寂心の兵数千も味方に参じ、日和見だった深堀、龍造寺、相良、杉、富光などの小武族も、ぞくぞく陣へ投じて来る。で、全兵力はたちまち二万をこえ、全九州も風靡するかのような勢いで、延元元年二月二十七日には、もうこの大兵力のため、少弐妙恵の守る太宰府――宝満山のふもと有智山の城――は十重二十重にとりかこまれていたものだった。\n ささえうるはずがない。\n 妙恵の子頼尚は、尊氏の迎えに赴いて遠くにあり、兵も連れて行ったので、ほとんど、ここは手薄だったのだ。\n しかし、少弐妙恵は、よく防戦した。\n 太宰府の居館を焼かれたので内山にたてこもり、一族の託磨、中村などの少数を督して、よく一日半ほどは、死力のふせぎに敵の大軍をてこずらせた。\n が、ここにもまた裏切り者があらわれた。しかもそれは少弐の娘婿、原田対馬守で、"
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"role": "assistant",
"content": "「存ずる所あって、われらは今よりは官軍へ味方する」\n と、俄に、とりでの高い所に、中黒の旗(新田方の印)を掲げ、妙恵の床几の前へ来て、\n「舅殿にも、いまはお覚悟のときでしょう。これまでの盟約などにとらわれているのは愚のいたりです。あの大軍、ここの小勢、守れるものではありません」\n と、降をすすめた。\n「そうか」\n 妙恵貞経は、うめいた。\n むき出しに見せられた人間の奥底のものに、わけて娘婿の豹変に、いいようのない顔いろではあったが、\n「ぜひもない、わしも臍をかためよう。が、託磨、中村などを諭すあいだ、お汝はやぐらの上へあがって、わしの合図を待て。合図を見てから敵を招き入れろ」\n と、言った。\n 原田は、急いでやぐらの上へ戻って行き、一時、降旗を巻いて、舅の合図を待っていた。\n 妙恵貞経が、先に尊氏の迎えに行った子の頼尚へあてて、あの悲壮な遺書を書いたのは、この瞬間のうちだった。\n したため終ると、それを侍童の井筒丸に持たせて、\n「そちはすぐ落ちろ」\n と、搦手から出し、屈強な兵十人ほどもつけてやって、さて、左右の一族へは、いまは最期のほかなしと告げ、\n「火を放けろ、まず、やぐら下から一面に、火をかけろ」\n と、凄まじい命を下した。\n こうして、彼は有智山寺へ駈け入り表の廻廊に坐りこんだ。一族郎党百数十人も共にそこへ居ながれた。とりでの炎は、みるまに、あたりを熱風にし、大廂の裏がわを舐め廻る。――するうちに、妙恵の顔がニタと笑っていた。――彼方のやぐらの上で、炎に巻かれながら躍り狂ッている娘婿の影をその目が見たからであった。やがて、煙の中の蚊のごとき人影はみな仆れ、やぐらも音をたてて轟然とその火の柱を燃えくずした。いちめん、火の塵と火の風が、有智山寺の縁を吹き巻いた。\n 妙恵以下、すべて、そのときもう自分の刃で、身を伏せていた。火も熱くなく、冷たくもない姿だった。\n 妙恵の末子、頼尚には弟にあたる宗応蔵主は、まだいと若い仏門の人だが、父に殉じて、おなじく自殺した。しかし沙門の人だけに、武士の列には並ばず、本堂の御厨子の前に、蔀の格子戸や薪を積んで、仏者らしい火定のかたちをとって死んだ。\n ――あくる日もまだ余燼は冷めきっていなかった。が、寄手の大将菊池武敏は、さっそく、ここへ来て、妙恵入道以下の黒焦げの死体を篤と実検して、そして言った。\n「南無......。これで先の年、博多において、少弐、大友らのため騙かられて無念の死をとげたわが父寂阿殿の仇を取ッた」\n これで仇をとった!\n 武敏が発した声のうちには生のままな人間が躍ッている。\n 時潮の人間は、大義名分だけでも去就していない。利害だけで向背するとも限ッていない。恩や恨みによってもままうごく。\n 乱雲の模様のように、地上の乱にうず巻く時の武族の離合集散ほど、はかり難いものはなかった。\n しかしいま、菊池武敏の若い眸には、毛頭、そんな顧慮などない。太宰府をふみやぶり、少弐妙恵一族を屠り去って、\n「あとはただ尊氏あるのみ。その尊氏とて、漂泊の一亡将だ、何する者ぞ」\n の気概だった。\n 内山の――まだ余燼濛々たるあとに立って、\n「勝鬨、勝鬨」\n と、三たびの凱歌を全軍にあげさせ、その二万余騎にのぼる味方にほこり、もう明日の大捷をも、確信していた。\n そして、思うには。\n「朝敵第一の賊尊氏が九州へやって来たのは、招かずして、わが菊池家の門へ、幸運の鳥が来て啼いたようなものだ。――尊氏を討たば、その軍功は当然、宇内随一の勲功。――いやでもこの全九州は菊池家の下風に服せざるをえまい」\n あながち、これは彼の夢とばかりは言い難い。\n 朝廷でもいまは、尊氏、直義の首には、何ヵ国の恩賞を附すもよいとしていることだし、ゆらい、九州の豪族間ではまた豪族同士で、この狭い領土を侵し合って、すきあらば寸土でも自家の勢力を伸ばそうと、互いに虎視眈々と境をせめぎあっていたのでもある。――たしかに今このとき足利尊氏を討てばだった。――一躍、武敏の夢も夢でない実現性は充分にあるといえる。\n「それにはまず、尊氏方の手足から先に一掃せよ」\n と、武敏の令で、全軍はその日、博多へ殺到した。\n 鎮西奉行大友具簡がその目標だったのである。ところが、大友はすでに見えず、この日ごろ博多附近にありとみられていた島津道鑑、大隅忠能、中原貞元らの兵も早やどこかへ引き払ッていた。――そして一部の宮方だけが、わずかに菊池党を待っていて、\n「風聞には、尊氏の一勢、およそ五、六百、少弐頼尚の案内にて、昨夕、芦屋へ上陸したとのことにございまする」\n と、口をそろえて告げた。\n 武敏は、動じない。すでに途上でそのことは、いくどとない早馬の報で知っていたからである。――けれどまた、まもないうちに、尊氏以下が、朳の一寺を出て、宗像へ急進中――と聞いたときには、やや意外そうな顔いろだった。\n「はてな。そんな無勢で、彼から行軍を急いでくるはずはないのだが?」と。\n 彼の胸算用では。\n まずは宗像一族も、ぜひなく尊氏へ味方と加算し、それに少弐頼尚、大友具簡、島津道鑑、大隅忠能、そのほか河田、渋谷の徒、つまり九州足利方のあらましが加わったとみても、たかだか千か千二、三百人。尊氏の手持ち勢と合せたところで、ほぼ二千にたらぬ兵力だ。笑うべき小勢にすぎない。\n 敵は小勢だ、わが十分の一以下だ。それに、太宰府や博多の要衝もこう抑えたからには、これ以上、尊氏方へ転ぶ馬鹿もあるまい。また地理的に行けもしない。\n「砂か......。これやひどい。風が強くなって来たな」\n 武敏は、そこの床几で、顔を払った。\n 附近で兵糧をとっていた将士もみな背をまげて、弁当を庇った。午頃から北風はいよいよ募り、時々浜砂を持った烈風が、痛いほど目鼻を撲ッてくる。\n そこへ、味方の一将、秋月寂心が、伝令にもよらず、自身、彼の床几を訪うて来て、\n「掃部助(武敏)どの。兵糧はおすましか。どうも心得ぬふしがみえるぞ」\n「心得ぬとは」\n「宗像にいた所縁の者が、逃げて来たが、それの話によれば、尊氏の一勢は、宗像ではつかのま休息しただけで、ひた急ぎに、西へ急いでいたと申す」\n「こなたへ向って」\n「いかにも」\n「それこそ、灯をみて飛びこんで来る虫よ。われから死所へ急いでくる敵なら、望むところではあるまいか」\n「いや、そうばかりもいえますまい。尊氏とて凡将でなし、直義には勇猛の聞えもある」\n「知れたものだ。彼らは筑紫武者の骨髄を知っていない。来れば思い知らせてやる」\n「が、先導には少弐頼尚、大友、島津、大隅らも加勢のこと」\n「何の、たかだか千か、千五百。味方は三万にちかい。鎧袖の一触だ」\n「にもかかわらず、その小勢は、ましぐらに前進中と聞えてくる。敵にも何ぞ目途するところがなくてはかないませぬ。何か、目あてが」\n「玉砕だろう。彼らとすれば」\n「それは恐いことではございますまいか。小敵といえど」\n「あなどらず、か」\n「おそらく必死を決した猛兵かとおもわれます」\n「それはそうだろう。この九州へ上がったものの、這奴らの運命は、自滅のほかはありえない」\n「けれどもし、小勢ながらその敵が、高地を占めて、地の利をとったら、ちと厄介ではありましょう。よろしくお味方もいまのうちに軍をすすめ、先鋒、本軍、遊軍などの布置に、抜かりなきを期しておかれてはいかがとぞんじますが」\n「抜かりがあろうか」と、武敏は笑って――「布置は今朝から武敏の胸には描けている。きょう、これより筥崎ノ宮に戦捷の報をささげ、なお尊氏討伐の祈願をこめる」\n「は」\n「去って、多々羅の浜へ出、さらに北へ一里、名島から松ヶ崎の高所を見たてて旗を立て、あの附近を本陣としよう。――そして武敏の床几場を中心に、蓮華坂から八田、土井方面へまで、わが二万余騎を扇なりに展開して待つ」\n「さすがは!」と、寂心は賞めそやした。「早やお胸にそこまでの御寸法があるものを、いらざることを申しあげました。仰せのごとく、鎧袖一触、もはや恐れるものはございませぬ」"
}
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{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 八等官はがっかりしてしまった。彼が新聞の下の方の欄へ、ふと目をおとすと、そこに芝居の広告が出ていて、美人として評判の、さる女優の名前に出っ喰わしたので、すんでのことに彼の顔はほころびかかり、その手は*青紙幣の持ち合せがあったかどうかと、かくしの中をまさぐっていた。というのは、コワリョーフの考えによれば、およそ佐官級の者は上等席におさまらなければならないからであった。しかし、鼻のことを考えると、何もかもがおじゃんであった。\n 広告係の方もコワリョーフの苦境にはつくづく心を打たれたものらしかった。相手の悲しみを幾分でも慰めてやろうと思い、せめて言葉にでも同情の意を表わすのが当然だと考えて、「まったく、飛んだ御災難で、ほんとにお気の毒です。嗅ぎ煙草でも一服いかがです? 頭痛や気鬱を吹き払いますし、おまけに痔疾にも大変よろしいんで。」こういいながら広告係は、コワリョーフの方へ煙草を差し出して、器用にくるりと蓋を下へ廻した。その蓋には、ボンネットをかぶった婦人の肖像がついていた。\n この不用意な仕草がコワリョーフをかっといきり立たせてしまった。「人をからかうにも場合があるでしょう。」と、彼は憤然として言った。「御覧のとおり、わたしには、ものを嗅ぐ器官がないのですよ! ちぇっ、君の煙草なんか、くそ喰えだ! もうもう、こんな下等な*ベレジナ煙草はもとより、*ラペーの飛びきりだって、見るのも厭だ!」こう言い棄てるなり、彼はかんかんになって新聞社を飛び出すと、そのまま分署長のところへ出かけて行った。\n コワリョーフがそこへやって行ったのは、ちょうど分署長が伸びをして、大きなあくびを一つして、【ええっ、ぐっすり二時間も寝てやるかな!】とつぶやいた時であった。だから、八等官の入来が時機を得ていなかったことは予測に難くない。この分署長は、あらゆる美術や工芸の大の奨励家であったが、何よりも政府の紙幣に愛着を持っていた。【これに限るよ。】そう言うのが彼の口ぐせだった。【これに優るものはまずない。餌もいらねば、場所塞ぎにもならず、いつもかくしにおさまっていて、おっことしたとて――壊れもせずさ。】\n 分署長ははなはだ冷淡にコワリョーフを迎えると、食事の後で審理をするのは適当でないとか、腹を満たしたら、すこし休息するのが自然の掟だ(こう言われて八等官は、この分署長は先哲の残した箴言になかなか詳しいんだなと見てとった。)とか、ちゃんとした人なら鼻を削ぎ取られるなどということはあり得ないと言った。\n まさに急所を突かれた形である! それにここでちょっと指摘しておきたいのは、コワリョーフがひどく怒りっぽい人間であったということである。自分自身のことならば、何を言われてもまだ我慢ができたけれど、地位や身分に関しては、断じて許すことができなかった。芝居の狂言などでも、尉官に関してなら、すべて大目に見て差し支えないが、いやしくも佐官級の人物に楯つくなどという場面は絶対にいけないという考えを持っていた。で、その分署長の応対ぶりにすっかり面喰った彼は、ブルッと首を震わせると同時に、少し両手を拡げながら、自負心をこめるようにして言った。「どうも、そう、あなたの方から侮辱がましいことをおっしゃられては、まったく二の句がつげませんよ......」そして外へ出てしまった。\n 彼は極度に疲れて我が家へ立ち帰った。もはや黄昏であった。こうしてさまざまに無駄骨を折ったあげくに見る我が宿は、世にも惨めな、きたならしいものに思われた。控室へ入って見ると、汚れきった革張りの長椅子に長々と仰向けに寝そべった下僕のイワンが、天井へ向けて唾を吐きかけていたが、それがまたじつに見事に同じ場所へ命中するのであった。その暢気さ加減には、コワリョーフもさすがにかっとなり、帽子でイワンの顔を殴って呶鳴りつけた。「この豚め、いつも馬鹿な真似ばかりしてやがって!」\n イワンはとっさにがばと起きざま、急いで後へまわって外套をぬがせた。\n 少佐は自分の部屋へ入ると、ぐったり疲れた惨めな我が身を安楽椅子へ落としたが、やがてのことに二つ三つ溜息を吐いてからこう呟やいた。\n【ああ、ああ! 何の因果でこんな災難にあうのだろう? 手がなくても、足がなくても、まだしもその方がましだ。だが、鼻のない人間なんて、えたいの知れぬ代物はない――鳥かと思えば鳥でもなし、人間かと思えば人間でもなし――そんな者は摘みあげて、ひと思いに窓から抛り出してしまうがいいんだ! これが戦争でとられたとか、決闘で斬られたとか、それとも何か俺自身が原因でこうなったのなら諦めもつくが、まるで何の理由もなしに消え失せてしまったのだ、ただ無くなってしまやがったのだ、一文にもならずに!......いや、どうもこんなことって、ある訳がない。】少し考えてから、彼はこうつけ足した。【どうも、鼻が無くなるなんて、おかしい、どう考えてもおかしい。これはきっと、夢をみているのか、それとも、ただ幻想を描いているだけに違いない。ひょっとしたら、顔を剃った後で鬚につけて拭くウォッカを、どうかして水と間違えて飲んだのかもしれないぞ。イワンの阿房が取り片づけておかなかったため、ついうっかり飲んだのかも知れないて。】そこで、酔っ払っているかいないかを、実際に確かめようとして、少佐は力まかせに我と我が身をつねったが、あまりの痛さに、思わずあっと悲鳴をあげたほどであった。この痛さによって、彼が現実に生きて行動していることが確実に証明された。彼はこっそり鏡の前へ忍びよって、ひょっとしたら鼻はちゃんとあるべき場所についているのかも知れないと思いながら、まず眼を細くして恐る恐るのぞいてみたが、その殺那、思わず【なんちう醜面だ!】そう口走って後へ飛びのいた。\n これはまったく合点のゆかないことだった。たとえばボタンだとか、銀の匙だとか、時計だとかが紛失したのならともかく――無くなるものにも事をかいて、どうしてこんなものが無くなったのだろう? それも、おまけに自分の家でと来ている!......コワリョーフ少佐はいろいろの事情を総合した結果、この一件の原因をなしているのは、正しく彼に自分の娘を押しつけようとしている佐官夫人ポドトチナに違いないという仮定が、もっとも真相に近いのではないかと考えた。なるほど彼の方でもその娘に、好んでちやほやしてはいたが、最終的な決定は避けていた。それで佐官夫人から明らさまに、娘を貰ってほしいと切り出された時にも、自分はまだ年も若いから、もう五年も役所勤めをした上でなければ、――そうすれば、ちょうど四十二歳になるしするからなどと言って、世辞でまるめて、やんわり体をかわしてしまったのである。それで佐官夫人が、てっきりその腹いせに彼の面相を台無しにしてくれようものと、わざわざそのために魔法使の女でも雇ったのに違いない。さもなければ、いくらなんでも鼻が削ぎ取られるなんてことは、夢にも考えられないことである。誰ひとり彼の部屋に入って来たものはなし、理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチが顔を剃ってくれたのはまだ水曜日のことで、その水曜日いっぱいはもちろん、つぎの木曜日もずっと一日じゅう、彼の鼻はちゃんと満足についていたのである――それははっきり記憶にあって、彼もよく知っている。それに第一、痛みが感じられねばならないはずだし、もちろん、傷口にしても、こんなに早くなおって、薄焼きのパン・ケーキみたいにつるつるになる訳がない。彼は表沙汰にして佐官夫人を法廷へ突き出してやろうか、それとも自ら彼女のところへ乗り込んで膝詰談判をしてやろうかなどととつおいつ頭の中でいろんな計画を立てていた。と、不意に扉のあらゆる隙間からパッと光りがさして彼の思案を中断してしまった。これによって、イワンがもう控室でろうそくをつけたことが知れた。間もなく、そのイワンがろうそくを前へ差し出して、部屋中をあかあかと照らしながら入って来た。とっさにコワリョーフのした動作は、急いでハンカチを掴みざま、昨日まで鼻のついていたところへ押しあてることであった。とにかく、愚かな下男などというものは、主人のこんな浅ましい顔を見ると、えて呆気にとられ勝だからである。\n イワンがきたない自分の部屋へ引きさがるよりも前に、控室で「八等官コワリョーフ氏のお宅はこちらですか?」という、聞きなれない声がした。\n「どうぞお入り下さい。少佐のコワリョーフは手前です。」そう言って、急いで跳びあがるなり、コワリョーフは扉をあけた。\n 入って来たのは、毛色のあまり淡くもなければ濃くもない頬髯を生やし、かなり頬ぺたの丸々した、風采のいい警察官で、それは、この物語のはじめに、イサーキエフスキイ橋のたもとに立っていた巡査である。\n「あなたは御自分の鼻を無くされはしませんか?」\n「ええ、無くしました。」\n「それが見つかりましたよ。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「な、何ですって?」と、コワリョーフ少佐は思わず大声で口走った。彼はあまりの嬉しさに、ろくろく口もきけなかった。彼は眼を皿のようにして、自分の前に立っている巡査の顔を見つめた。相手の厚ぼったい唇と頬の上にろうそくの灯がチラチラふるえていた。「ど、どうして見つかりましたか?」\n「変な機会からでしてね、あやうく高飛びをされる、きわどいところで取り押えたのです。奴はもう乗合馬車に乗り込んで、リガへ逃げようとしていました。旅行券もとっくに或る官吏の名前になっていましてね。不思議なことに、本官でさえ最初は奴を紳士だと思いこんでいたのです。が、幸い眼鏡を持っておりましたので、すぐさまそれを鼻だと見破ったのです。本官は近眼でしてね、あなたが鼻の先に立たれても、ぼんやりお顔はわかりますが、鼻も髯も、皆目、見分けがつきません。手前の姑、つまり愚妻の母ですなあ、これもやっぱり何も見えないのです。」\n コワリョーフはそれどころか、心もそぞろに「で、かやつはどこにいるのです? どこに? わたしはすぐにでも駆けつけますから。」とせきたてた。\n「その御心配には及びませんよ。御入用な品だと思いましたので、ちゃんとここへ持参いたしました。ところで奇態なことに、重要な本件の共犯者がウォズネセンスキイ通りのインチキ理髪師でしてね、現に留置所へぶちこんでありますよ。本官は大分まえから、どうも彼奴は飲んだくれで、窃盗もやりかねない奴だとにらんでいましたが、つい一昨日のこと、ある店からボタンを一揃いかっぱらいましてね。時に、あなたの鼻には全然異状がないようです。」そういいながら、巡査はかくしへ手を入れて、そこから紙にくるんだ鼻を取り出した。\n「あっ、これです!」と、コワリョーフは頓狂な声をあげて、「確かにこれです! まあ御一緒にお茶を一つ召上って下さい。」\n「いや、おおきに有難いですが、そうはしておられません。これから懲治監の方へ廻る用事があるのです......。時に日用品の騰貴はどうです......。手前のところには姑、つまり愚妻の母ですなあ、それもおりますし、子供がたくさんありましてね、特に長男は大いに見込みのある奴です、なかなか利巧な小伜でして。だが、養育費にはまったく手を焼きます......」\n 巡査の立ち去った後もなおしばらく、八等官は妙に漠然とした心持で、ぽかんとしていたが、ようやく二、三分たってから、初めて物を見たり感じたりすることができるようになった。あまりに思いがけない悦びが、彼をこのような放心状態に陥れたのであった。彼はやっと見つけることのできた鼻を、用心深く両手に受けて、もう一度それをしげしげと打ち眺めた。\n【うん、これだ! 確かにこれだ!】と、コワリョーフ少佐はつぶやいた。【ほら、この左側にあるのは、きのうできたにきびだ。】少佐はあまりの嬉しさに、げらげら笑い出さんばかりであった。\n しかし、何事も永続きのしないのが世の習いで、どんな喜びもつぎの瞬間にはもうそれほどではなくなり、更にそのつぎにはいっそう気がぬけて、やがて何時とはなしに平常の心持に還元してしまう。それはちょうど、小石が水に落ちてできた波紋が、ついには元の滑らかな水面に返るのと同じである。コワリョーフは分別顔に戻るとともに、まだ事は落着したのではないと気がついた。なるほど鼻は見つかったけれど、今度はこれをくっつけて、もとの座に据えなければならないのだ。\n【もし、くっつかなかったら、どうしよう?】\n こう我と我が胸に問いかけた時、少佐の顔はさっと蒼ざめてしまった。\n 名状し難い恐怖を覚えながら、彼はテーブルの傍へ走りよると、うっかり鼻を斜めにくっつけたりしてはならぬと、鏡を引きよせた。両手がブルブル震えた。彼は用心の上にも用心をしながら、鼻をそっと、もとのところへ当てがった。けれど、南無三! 鼻はくっつかないのだ!......彼はそれを口許へ持って行って、自分の息でちょっと暖めてから、ふたたび、頬と頬との中間の、つるつるしたところへ当てがった、が、鼻はどうしても喰っついていない。\n【さあ、これさ! ちゃんと喰っつかないのか、馬鹿野郎!】と、彼は躍起になってぼやいたが、鼻は木石のように無情く、まるでコルクみたいな奇妙な音をたててはテーブルの上へおっこちるのだった。少佐の顔はひきつるように歪んだ。【どうしてもくっつかないのかなあ!】と、彼はあわてて口走った。けれど、何度それを本来の場所へ当てがってみても、依然として、その躍起の努力も水泡に帰した。\n 彼はあわただしくイワンを呼んで、医者を迎えにやった。その医者は同じ建物の中二階にある、はるかに上等の部屋を領していた。堂々たる風采の男で、見事な漆黒の頬髯と、みずみずしくて健康な妻を持ち、毎朝、新鮮なりんごを食べ、四十五分もかかって含嗽をしたり、五通りものブラシで歯をみがいて、口の中をこの上もなく清潔に保っていた。医者はすぐさまやって来た。彼はまず、いったいこの災難はいつ頃起こったのだと訊ねてから、コワリョーフ少佐の顎に手をかけて、顔を持ちあげた。そして親指で、前に鼻のあった場所をぽんと叩いたので、少佐は思わず首を後へ引いたが、勢いあまって、壁に後頭部をぶっつけてしまった。医者は、なに、大丈夫と言って、もう少し壁からはなれたらいいと注意してから、まず首を右へ曲げさせて、前に鼻のあった場所を手でさわって見て、【ふうむ!】と言った。つぎに首を左へ曲げさせると、また【ふうむ!】と言った。そして最後に、また親指でぽんとやったので、コワリョーフ少佐はまるで歯をしらべられる時の馬のように、首をうしろへすっこめた。こんな風に試してみたあげく、医者は首をふりながら、こう言った。\n「いや、これあいけない。矢張りこのままにしておくんですなあ。下手にいじくれば、いっそういけなくなりますよ。それあ、無論、くっつけることはできますがね。何なら今すぐにだってつけてさしあげますが、しかし正直のところ、かえってお為めによくありませんよ。」\n「飛んでもない! どうして鼻なしでいられましょう!」と、コワリョーフは言った。「これ以上、悪くなりっこありませんよ。ちぇっ、まったく、こんな馬鹿な恰好ってあるもんじゃない! こんな変てこな面をしてどこへ出れましょう? わたしの知り合いは立派な家庭ばかりです。現に今晩も二個所の夜会に出席しなきゃなりません。何しろ交際が広いものですからね。五等官夫人チェフタリョワだの、佐官夫人ポドトチナだの......もっともこの夫人は、こんな酷い仕打をなされたかぎり、今後交渉をもつとすれば警察沙汰以外にはありませんがね。ほんとうに後生ですから、ひとつ、」と、コワリョーフは歎願するような声で言葉をつづけた。「何とかならないものでしょうか? とにかくどんな風にでもつけてみて下さい。よくても悪くても構いません、どうにか、くっついてさえいればいいんです。危なっかしい折には、そっと片手で押えていてもいいのです。それに、うっかりした動作でいためてはなりませんから、ダンスもしないことにします。御来診のお礼には、もう、資産の許すだけのことは必ずいたしますから......」\n「いや、手前はけっして、」と医者は、高くもなければ低くもない、が、懇々とした、非常に粘りづよい声で言った。「けっしてその、利慾のために治療を施しているのではありません。それは手前の抱懐する主義と医術とに反するからです。いかにも往診料はいただきます。しかしそれは拒絶してかえって気を悪くされてはと思えばこそです。無論、この鼻にしても、つけてつけられなくはありませんよ。しかし、それはかえって悪くするばかりだと申しあげているのです。これほど誠意をもって申しあげても、手前の言葉を信じていただかれませんのかね。まあ自然のなりゆきに任せるのが一番ですよ。そして冷たい水で精々洗うようになさいませ。なあに、鼻はなくても、あった時同様、健康で暮らせますよ。それに何ですよ、この鼻は壜へ入れてアルコール漬にしておくか、もっと手をかければ、それに強いウォッカと沸かした酢を大匙に二杯注ぎこんでおくのです――そうすれば、相当うまい金儲けができますよ。あまり高いことさえおっしゃらなければ、手前が頂戴してもいいんですがね。」"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ある機会で、予は下に掲げる二つの手紙を手に入れた。一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵税先払いで送られたものである。それをここへ掲げる理由は、手紙自身が説明するであろう。\n\n 第一の手紙\n\n ――警察署長閣下、\n 先ず何よりも先に、閣下は私の正気だと云う事を御信じ下さい。これ私があらゆる神聖なものに誓って、保証致します。ですから、どうか私の精神に異常がないと云う事を、御信じ下さい。さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になる惧があるのでございます。そのくらいなら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きましょう。\n 閣下、私はこれを書く前に、ずいぶん躊躇致しました。何故かと申しますと、これを書く以上、私は私一家の秘密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。勿論それは、私の名誉にとって、かなり大きな損害に相違ございません。しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛なほど、切迫して参りました。ここで私は、ついに断乎たる処置を執る事に、致したのでございます。\n そう云う必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱いをされて、黙って居られましょう。私はもう一度、ここに改めてお願い致します。閣下、どうか私の正気だと云う事を御信用下さい。そうして、この手紙を御面倒ながら、御一読下さい。これは私が、私と私の妻との名誉を賭して、書いたものでございますから。\n かような事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとって、余りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事実の性質上、閣下が私の正気だと云う事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。さもなければ、どうしてこの超自然な事実を、御承認になる事が出来ましょう。どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出来ましょう。それほど、私が閣下の御留意を請いたいと思う事実には不可思議な性質が加わっているのでございます。ですから、私は以上のお願いを敢て致しました。猶これから書く事も、あるいは冗漫の譏を免れないものかも知れません。しかし、これは一方では私の精神に異状がないと云う事を証明すると同時に、また一方ではこう云う事実も古来決して絶無ではなかったと云う事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思われるのでございます。\n 歴史上、最も著名な実例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございましょう。それからまた、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。が、これらは、余り人口に膾炙しすぎて居りますから、ここにはわざと申上げません。私は、それより二三の権威ある実例によって、出来るだけ手短に、この神秘の事実の性質を御説明申したいと思います。まず Dr. Werner の与えている実例から、始めましょう。彼によりますと、ルウドウィッヒスブルクの Ratzel と云う宝石商は、ある夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがわない男と、ばったり顔を合せたそうでございます。その男は、後間もなく、木樵りが檞の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に圧されて歿くなりました。これによく似ているのは、ロストックで数学の教授をしていた Becker に起った実例でございましょう。ベッカアはある夜五六人の友人と、神学上の議論をして、引用書が必要になったものでございますから、それをとりに独りで自分の書斎へ参りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子に腰をかけて、何か本を読んでいるではございませんか。ベッカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、読んでいる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云う章を指さして居ります。ベッカアは友人のいる部屋へ帰って来て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そうして、その語通り、翌日の午後六時に、静に息をひきとりました。\n これで見ると、Doppelgaenger の出現は、死を予告するように思われます。が、必ずしもそうばかりとは限りません。Dr. Werner は、ディレニウス夫人と云う女が、六歳になる自分の息子と夫の妹と三人で、黒い着物を着た第二の彼女自身を見た時に、何も変事の起らなかった事を記録しています。これはまた、そう云う現象が、第三者の眼にも映じると云う、実例になりましょう。Stilling 教授が挙げているトリップリンと云うワイマアルの役人の実例や、彼の知っている某M夫人の実例も、やはり、この部類に属すべきものではございませんか。\n 更に進んで、第三者のみに現れたドッペルゲンゲルの例を尋ねますと、これもまた決して稀ではございません。現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たそうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲッティンゲンにいる息子の姿を、自分の書斎で見たと云う事実に、確かな証明を与えて居ります。そのほか、「幽霊の性質に関する探究」の著者が挙げて居りますカムパアランドのカアクリントン教会区で、七歳の少女がその父の二重人格を見たと云う実例や「自然の暗黒面」の著者が挙げて居りますH某と云う科学者で芸術家だった男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云う実例などを数えましたら、恐らくそれは、夥しい数に上る事でございましょう。\n 私はさし当り、これ以上実例を列挙して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申そうとは致しますまい。ただ、閣下は、これらが皆疑う可らざる事実だと云う事を、御承知下さればよろしゅうございます。さもないと、あるいは私の申上げようとする事が、全然とりとめのない、馬鹿げた事のように思召すかも知れません。何故かと申しますと、私も、私自身のドッペルゲンゲルに苦しまされているものだからでございます。そうして、その事に関して、いささか閣下にお願いの筋があるからでございます。\n 私は私自身のドッペルゲンゲルと書きました。が、詳しく云えば、私及私の妻のドッペルゲンゲルと申さなくてはなりません。私は当区――町――丁目――番地居住、佐々木信一郎と申すものでございます。年齢は三十五歳、職業は東京帝国文科大学哲学科卒業後、引続き今日まで、私立――大学の倫理及英語の教師を致して居ります。妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。当年二十七歳になりますが、子供はまだ一人もございません。ここで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云う事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさえほとんど語を交えないほど、憂鬱になった事もございましたが、近年は発作も極めて稀になり、気象も以前に比べれば、余程快活になって参りました。所が、昨年の秋からまた精神に何か動揺が起ったらしく、この頃では何かと異常な言動を発して、私を窘める事も少くはございません。ただ、私が何故妻のヒステリイを力説するか、それはこの奇怪な現象に対する私自身の説明と、ある関係があるからで、その説明については、いずれ後で詳しく申上る事に致しましょう。"
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"role": "assistant",
"content": " さて、私及私の妻に現れたドッペルゲンゲルの事実は、どんなものかと申しますと、大体においてこれまでに三度ございました。今それを一つずつ私の日記を参考として、出来るだけ正確に、ここへ記載して御覧に入れましょう。\n 第一は、昨年十一月七日、時刻は略午後九時と九時三十分との間でございます。当日私は妻と二人で、有楽座の慈善演芸会へ参りました。打明けた御話をすれば、その会の切符は、それを売りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなったために、私たちの方へ親切にもまわしてくれたのです。演芸会そのものの事は、別にくだくだしく申上げる必要はございません。また実際音曲にも踊にも興味のない私は、云わば妻のために行ったようなものでございますから、プログラムの大半は徒に私の退屈を増させるばかりでございました。従って、申上げようと思ったと致しましても、全然その材料を欠いているような始末でございます。ただ、私の記憶によりますと、仲入りの前は、寛永御前仕合と申す講談でございました。当時の私の思量に、異常な何ものかを期待する、準備的な心もちがありはしないかと云う懸念は、寛永御前仕合の講談を聞いたと云うこの一事でも一掃されは致しますまいか。\n 私は、仲入りに廊下へ出ると、すぐに妻を一人残して、小用を足しに参りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう廻りの狭い廊下が、人で一ぱいになって居ります。私はその人の間を縫いながら、便所から帰って参りましたが、あの弧状になっている廊下が、玄関の前へ出る所で、予期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかかるようにして立っている、妻の姿に落ちました。妻は、明い電燈の光がまぶしいように、つつましく伏眼になりながら、私の方へ横顔を向けて、静に立っているのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覚の、同時にまた私の理性の主権を、ほとんど刹那に粉砕しようとする恐ろしい瞬間にぶつかったのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隠微な原因によって、その妻の傍に、こちらを後にして立っている、一人の男の姿に注がれた時でございました。\n 閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。\n 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。そうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を装って居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔もまた、私と同じだった事でございましょう。私はその時の私の心もちを、何と形容していいかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しっきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のような光を放って居ります。云わば私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が、備っていたとでも申しましょうか。そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹こうとした事でございましょう。\n しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝子に亀裂の入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。私は、夢遊病患者のように、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかったのでございましょう。私が側へ参りますと、妻はいつもの調子で、「長かったわね」と申しました。それから、私の顔を見て、今度はおずおず「どうかして」と尋ねました。私の顔色は確かに、灰のようになっていたのに相違ございません。私は冷汗を拭いながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷いました。が、心配そうな妻の顔を見ては、どうして、これが打明けられましょう。私はその時、この上妻に心配させないために、一切第二の私に関しては、口を噤もうと決心したのでございます。\n 閣下、もし妻が私を愛していなかったなら、そうしてまた私が妻を愛していなかったなら、どうして私にこう云う決心が出来ましょう。私は断言致します。私たちは、今日まで真底から、互に愛し合って居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛している事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥ずべき事でございます。私としては、私が妻を愛している事を否定されるより、どのくらい屈辱に価するかわかりません。しかも世間は、一歩を進めて、私の妻の貞操をさえ疑いつつあるのでございます。――\n 私は感情の激昂に駆られて、思わず筆を岐路に入れたようでございます。\n さて、私はその夜以来、一種の不安に襲われはじめました。それは前に掲げました実例通り、ドッペルゲンゲルの出現は、屡々当事者の死を予告するからでございます。しかし、その不安の中にも、一月ばかりの日数は、何事もなく過ぎてしまいました。そうして、その中に年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた訳ではございません。が、月日の経つのに従って、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて参りました。いや、時には、実際、すべてを幻覚と言う名で片づけてしまおうとした事さえございます。\n すると、恰も私のその油断を戒めでもするように、第二の私は、再び私の前に現れました。\n これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は学校に居りますと、突然旧友の一人が訪ねて参りましたので、幸い午後からは授業の時間もございませんから、一しょに学校を出て、駿河台下のあるカッフェへ飯を食いに参りました。駿河台下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指していたのに気がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもった、鉛のような空を後にして、じっと動かずにいるのが、何となく恐しいような気がしたのでございます。あるいは事によるとこれも、あの前兆だったかも知れません。私は突然この恐しさに襲われたので、大時計を見た眼を何気なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦じそうに立っていたではございませんか。\n 妻は黒いコオトに、焦茶の絹の襟巻をして居りました。そうして鼠色のオオヴァ・コオトに黒のソフトをかぶっている私に、第二の私に、何か話しかけているように見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴァ・コオトに、黒のソフトをかぶっていたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたろう。如何に憎悪に燃えた心で、眺めましたろう。殊に、妻の眼が第二の私の顔を、甘えるように見ているのを知った時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底当時の私の位置を、再現するだけの勇気がございません。私は思わず、友人の肘をとらえたなり、放心したように往来へ立ちすくんでしまいました。その時、外濠線の電車が、駿河台の方から、坂を下りて来て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云うものでございましょう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切ろうとしていた所なのでございます。\n 電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線を遮ったのは、ただ中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになった刹那に、どこかへ見えなくなってしまったのでございます。私は、妙な顔をしている友人を促して、可笑しくもない事を可笑しそうに笑いながら、わざと大股に歩き出しました。その友人が、後に私が発狂したと云う噂を立てたのも、当時の私の異常な行動を考えれば、満更無理な事ではございません。しかし、私の発狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至っては、好んで私を侮辱したものと思われます。私は、最近にその友人への絶交状を送りました。\n 私は、事実を記すのに忙しい余り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を証明致さなかったように思います。当時の正午前後、妻は確かに外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使っている下女も、そう申して居る事でございます。また、その前日から、頭痛がすると申して、とかくふさぎ勝ちでいた妻が、俄に外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドッペルゲンゲルでなくて、何でございましょう。私は、妻が私に外出の有無を問われて、眼を大きくしながら、「いいえ」と云った顔を、今でもありありと覚えて居ります。もし世間の云うように、妻が私を欺いているのなら、ああ云う、子供のような無邪気な顔は、決して出来るものではございません。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " それに、樋口一葉が、好い小説を書出したので、自分ももっと勉強しなければいけないと思っていることを、意地わるく、しつこく思いだしたりした。美妙に逢っていると、励まされるのでそんなに屈託しなかったが――\n「樋口夏子は苦労しているもの。だからって、あなたが、求めて、あの女とおんなじ苦労をしなくっても好い。あなたは、あなたのものが生れてくるさ。それに、僕がこんなに大事にしていれば、一葉は、かえって田沢錦子をうらやむかもしれない、いや、僕を好きなのではないが、あの女にも、恋はあろうさ。」\n そんなようにもいわれた。一葉は、あの細っこい体で、一文菓子の仕入れにも行くのだそうだが、客好きで、眉山などから聞くと不断は無口だが、文学談になると姐御のようになる。そうすると、青い顔の頬の上が真赤になって、顔が綺麗になるということだ。浅草の、大音寺前という吉原に近いところで荒物店を出すとかいうから、そのうちに吉原を素見しながら、あの辺を通って見ようといったりして、\n「そんな生計も、書くための、命をささえる代なのだろう。」\nと、それは、思いやりのある暗い眼つきをしたが――ああ、やっぱり、競べものにはならないのだ。好い気になって、のんきな気持ちで聴いていたが――\n(じゃあ、あたしは、何を目的に、一生懸命になったら好いのだ。)\n 自問自答すると、(恋愛)という答えしか出なかった。そしてまた、その目標は美妙斎だと思わないわけにはいかなかった。\n 錦子が神保町へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並といっていいほどあって、手すりに手拭がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。\n 書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。\n ヨカヨカ飴屋は二、三人連で、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。\n ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、\n ――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、\n ――恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。\n 二階から書生どもはワッと笑いたてた。\n 錦子はカッとして、どんどん寄宿している叔父の家へ帰ってくると、一層不機嫌になっていた。孝子のところから手紙が来ているといわれても、ちっとも嬉しくなかった。\n それでも手紙は気になった。急いであけて見ると、\n\n――先達ての「見立」の続きをお知らせいたします。あなたの好きな方のお名もありますから、早くお知らせいたしたく、お目にかかるまでとっておけないので手紙にしました。お礼をおっしゃい。\n「文壇女性見立」\n\n女教師鴎外、芸妓紅葉、女生徒漣、女壮士正太夫、権妻美妙、女役者水蔭、比丘尼露伴、後室逍遥、踊の師匠眉山、町家の女房柳浪。\n\nそれからね、衆議院議員見立には、山田美妙斎は改進党の島田しゃべ郎(三郎)よ。偉いのは田辺竜子と小金井貴美子と、若松賤子の三人が、女でも、その仲間にはいっていました。\n「当世作者忠臣蔵見立」というのでは、\n由良之助が春のや(逍遥)で、若狭之助が鴎外で、かおよ御前が柳浪、勘平が紅葉で、美妙はおかるよ。力弥が漣山人なの。定九郎が正太夫なのは好いわね。\n\n 錦子は、おかるが美妙というところで、クスンと鼻で笑ったが、嬉しくなくはないが、なんとなく浮きたたなかった。\n その晩の出来ごとで、もひとつ錦子を悲しませたことが出来た。\n 二、三年前から女の髪剪りがはやっていたが、最初は、黒い歯の鋭い虫が噛みきるのだといって下町の女たちは、極度に恐れて、呪文を書いた紙をしごいて、髪に結びつけたりしていたが、そのうちに、なんでもそれは、通り魔のようなもので、知らないうちに髷を切られたり、顔を斬られたりするのだといった。\n 美しい娘で、外に立っていたらば、突然、痛いと思うと、頬ぺたから血がにじみだしたというようなことは、眼につきやすい女に多かった。\n 錦子が、朝目ざめて見ると、唐人髷がころりと転がりおちた。\n ハッと唇の色を変えて、錦子は顫えあがったが、いたずらものが忍び込んだ形跡もないので家の者たちは神業だと、禍のせいにした。他分、表で斬られたのを、枕につくまで落ちずについていたのであったろう。だが錦子は、いやあな予感がしたのだった。\n\n 七面鳥の錦嬢という名を、近所の書生たちからつけられたのは、唐人髷を切られてからだった。\n 短かい髪を二ツに割けて、三ツ編のお下げにし、華やかな洋装となった錦子の学校通いは、神田、本郷の書生さんたちの血を沸騰させた。美妙斎の食指のムズムズしないわけはない。\n ――今日錦嬢と――\nという文字は、美妙斎の日記二十四年の末からはじまっている。二十五年にいたっては、ますます頻繁だ。\n ある時は、上野摺鉢山――あの、昼も小暗く大樹の鬱蒼としていた、首くくりのよくある場所――上野公園のなかでも、とくに摺鉢山。ある時は九段――これも、日中あまり人通りがなかった場所だ。ある時は根津の旗亭での食事。\n ここで、一言筆者が申したいのは現今、どなたの稲舟研究にも、十九で死んだことになっているが、わたしは二十三歳と信じていた。ずっと前に書いた小伝にも根拠があって二十三と書いたのだが、この稿をはじめる時、あまり他の年譜を信じすぎて、自分の思いあやまりかと諸説にしたがい、末年を十九にとったために、年に無理が出来て来た。で、美妙が錦子の肩上げを見たところは十七であったが十八にしていただきたい。もっとも、錦子の生れた地方も、他の、みちのくの国々とおなじに、丸年で――満幾歳で数えていたとすれば、こじつけられないこともない。\n 写真も古い『文芸倶楽部』に出ていたのは、何処やら野暮くさいが、二十三の春にうつした婚礼の丸髷のは、聡明で、しとやかで、柔らかみがあり、品のある顔と、しなやかな姿だった。\n さて、傍見をしないで、急ぎましょう。\n 十九になった錦子は、小暗い木蔭の道路での、美妙斎の肘の小突き工合や、指の握りかた、その他のあしらいの荒っぽさや、丁寧さが、女の心を掴むのに、活殺自在であることを、なんとなく感知した。\n 側にいても、身が縮まるような悦びは、それはもう、とうに過ぎさった日となった。今は、美妙が接する女は、自分ばかりでないのを知って悲しかった。\n ――あたしはこんなことを仕に来たのではない。\n そんなふうに、冷たく自分を叱ることもある。\n ――こんなことで、一葉に負けない小説が書けるか――\n 悦びといまいましさと、切なさが、幻燈の花輪車のように、赤く黄色く青く、くるくると廻る――そんな時に、国許へ帰れと呼びかえされた。\n「お父さんが、あんなに、お前の、書いたり読んだりするのを嫌がって、厳しくなさったのを、学校を勉強するからと出してあげたのだ。」\n それがまあ、とんでもない女になって――と、可愛がった祖母までが怒っているという。\n 七面鳥とは、派手に美しい錦子の洋服姿であり、昨日の優美な娘風と、一夜に変ったスタイルを、書生たちは言現したのであろうが、錦子は、たしかにその頃から、沈んだり、はしゃいだりすることが多くなった。"
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"role": "assistant",
"content": "「あたし、郷里へ帰らなきゃならないのよ。だけど、いいわ。あっちにいて、思いっきり勉強するの、好いもの書くわ。」\n そう言って泣かれた友達は、それも好いかも知れないと慰めて、\n「なにしろ、あんまりあなた、美妙斎が好きすぎるもの。『いらつ女』に書いてる女にも何かあるんだって? 困るわねえ、浅草にもだってね。」\n 自分の好きな男は、他女も好きなのだ――そんなふうに簡単に錦子に考えられたろうか?\n 錦子はこんなふうに思うこともある。阿古屋姫とは誰だろう――そもじは阿古屋の貝にもまさった宝と、何かに書いてあったが誰だろう。あたしかしら?\n ――甘いささやき――\n 銀蜂がブンブン言っているのでも、郷里へ帰った錦子は、ものごとが手につかなかった。\n だが、ふと、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、厭な思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆のはしり書きで、\n\n奈まじいにあひ見る事のつれなきに\nさりともあはで返されもせず\n\n 廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。\n しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんとも他からはっきりは定められないが、美妙斎はそのころから関係のあった、浅草公園の女、石井留女を、九月尽日に落籍して、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも書いているのだ。\n この女の人を、後におっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であって、一直から料理をとって祝った。茶碗もりや、鯛の頭附きの焼もので、赤の飯で囃したてたのだ。その後、この女のところへであろうが、別荘、別荘、と別荘行きを毎夜記しつけてある。もとより、錦嬢とあってることも、その他の女とのこともある。\n これは、稲舟にも入用なことだ。稲舟の田沢錦子は、今日までの記録では、不良少女のようにいわれているけれど、そうした留女のような莫連女と同棲したからこそ美妙は、錦子のモダンな性格が一層慕わしかったのかも知れない。\n 錦子はまた出京した。そしてまた帰った。どうしても郷里に凝としていられない気持ち――無論美妙斎からの手紙もある。それよりも彼女が出たいのだ。\n 錦子がそうしているうちに、郷里で、彼女を恋いしたうものが出来た。それに、東京に来てから、墨田川へ身を投げようとしたような、発作を起したこともあった。\n 錦子に思いを寄せた郷里の男のことは、いなぶねの死後に出た秘書――美しい水茎のあとで、改良半紙に書かれた「鏡花録」によって僅の人が知っているだけだ。墨田川投身も、知ってるものはすけない。\n その間に書いたものが、稲舟の文壇初舞台といってもよい小説「医学終業」だ。\n だが、錦子が煩悶に煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川――浅草花川戸の鰻屋――に行き、亀井戸の藤から本所四ツ目の植文の牡丹見物としゃれ、万梅――浅草公園伝法院わきの一流割烹店――で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広の鶏をたべるといったふうだった。\n 美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、袷の裏表になるのだが、紙数をとるから、そんな事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。\n とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門との情話で名高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭もなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料をはらって見て、そしてお留のところへいっている。\n\n 四\n\n 近いうちに、どうしても東京へも一度行くという音信が、孝子のところへ、錦子から届いた。\n 郷里の実家に、落附こうとすればするほどあたしはジリジリしてくる。どうして好いのか、笑って見たり、怒って見たり、疳癪をおこしてばかりいる。\n あたしは、こんな事をしていて好いのかと、自分の胸を掻き毮っている。郷里へ帰ったからって、好いものは書けやしない。やッぱりあたしは、美妙のそばにいなければいけないのだ。\n あなたは、美妙の評判がよくないと仰しゃるが、それは、あの人を女が好くので妬まれるのです。それにこのごろ、紅葉の方が小説を多く書いて、美妙が休みがちなので、そんな噂をするのでしょう。\n 実は、美妙からも出て来ないかといって下さるから、あたしはどうしても出京します。\n ――そんなふうな手紙が幾度か繰返されてくるうちに、ある日、錦子は、孝子の前へ笑って立った。\n「いけない娘になってしまって――自分でも、我儘だと思うけれど、なんだかジリジリして。」\nと、謝るように孝子を見る眼に、矯羞をうかべた。\n「あなたを、大層思っていた人が郷里に、あったというではないの。」\n「あんなの、なんでもないのよ。種々なこという人随分あったけれど、戯談半分なのよ。」\nと、錦子は友達の真面目なのを、ごまかしてしまおうとした。\n「でも、その人は、結婚を申込んだというのじゃないの。お父さんもお母さんも、御承知なのでしょ。」\n「でも、どうとでも、お前の心のままにしろというから、否だといったの。だから、それは何でもないのよ。もともと友達のつもりだったのだから。」\n そうはいったが錦子も、その男が、青くなったり、赤くなったりして涙ぐんだのを思い出すと気とがめもするのだった。\n「あたし、一生独立しようと心に誓って、はじめは、医者になろうかと思ったのですけれど、それもだめだったし、画師になろうかとも思ったのですけれど、それも駄目。やっぱり、もともと好きな文学でと思ってるのですの。けれど、それも下手の横好きというんでしょ。自分ながら才がないので、気をもんじゃって、それで始終むしゃくしゃしているのですの。だから、この頃は写真師にでもなろうかと考えていますからって断ったの。無理じゃあないでしょ。」\nと言いたした。その裏に、美妙にひかれるもののある事をさとられまいとして、雄弁だった。\n「色は白いけれど変なのよ、猫背なのよ、桜津っていうので、うちの女中なんか殿様だの御前だのってほど、華族の若様ぜんとしているのよ。桜津三位中将って渾名なの。」\n「それはあなたが附けたのでしょ。」\nと孝子もおかしいけれど叱るようにいった。\n「嘘よ、お正月の歌がるたをした時、負けたんで額に墨で黛を描かれたからよ。」\n いたずらっぽくはいったが、その男は漢学の造詣も深く、書家でもあった。錦子が、北斎の描いたという楊貴妃の幅が気に入って、父にねだって手に入れた時、それにあう文字を額にほしいと思って、『文選』や『卓氏藻林』や、『白氏文集』から経巻まで引摺りだして見たが、気に入った句が拾いだせないので、疳癪をおこし、取りちらかした書籍を、手あたり次第に引っつかんで投りだしたとき、ふとした動機で桜津が思いちがいをしたのだった。\n「あたしね、怒りっぽくなったり飽っぽくなったりするって言ったでしょ。その時も、欠伸しながら写真帳を枕にして、だらしなく寝ころんでいたの。そしてね、おっ放り出した本を引きよせて見ると、大好な長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句が、すぐあったじゃないの。だから、それ書いて頂戴って、桜津に頼んだの。それをね、すっかり思いちがいしてしまったのよ。」\nと、錦子は桜津という男が、何をたのんでも、はっきりしない男だから、一ヶ月もたたなければ書いて来まいと思っていたらば、すぐに書いて来て、嬉しそうにニタニタしながら、不出来ですがといったのは好いが、こんな珍本を見つけましたからって、おいていった和本のなかへ、艶書を入れて来たりして、それからは、一日に二度も来るようになったのだと、困ったというふうに話した。\n 孝子は、錦子が、随分変ったなあと、しげしげと見詰めていた。自分でも手紙に、我儘になったと書いてはよこしたが、東京へ出してもらいたいために、親たちに厭がられるようにしたのではないかとさえ思った。小説が書けないということと、恋心というものが、そんなに悪どい苦しみだとは、孝子には察しもつかなかったが、桜津が自分への思慕だと、思いちがいをした、長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句を選みだしたということには、そんなものかなあという、仄な、ほんのりとした、くゆりを、思いしみないでもなかった。"
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"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " 彼の遺作のうち、恐らく最も難のないのはケルムスコット Kelmscott 版の刊本であろう。彼は字体を再び中世紀から選び、首字の装飾を始め用紙から羊皮に至るまで古格を保とうと欲した。その当時のまた今日の無味な印刷法に比して、いかに優れているかは論ずるまでもない。むしろ古版本の模造であるその版に醜い点があるわけがない。だがその無難さは様式が多く伝統を負い、彼自身の個性の現れが少ないからである。だが過日私が中世代の本とそれとを同時に比べて見た時、いかに後者に引けめがあるかを眼の前に見ることができた。前者はその当時にはそれ以外に刷りようがないほど普通な工藝品であった。だが後者は最初からそれ以外には決してない僅少な美術品ではないか。前者の自由に比べて、後者がいかに不自由であるか。様式は似ても前者の美は一般品から発し、後者の美は特殊品に止まっているではないか。モリスの仕事は工藝とはなり得ずに終った美術である。\n その挿絵に至っては、モリスには全然勝算がない。古版画に見られる工藝的美は少しもなく、それは個人的な絵画に過ぎない。しかも致命的な傷は、彼の挿絵に全く創意がない一点である。彼は思想においてラスキンを出ることがなかったが、彼は絵画においてロセッティ D.G.Rossetti を出ることがなかった。だが工藝家として立とうとした彼が、ロセッティを師としたことは、運命の戯れであった。なぜならそれは彼を一層深くロマンティシズムに陥れたからである。そもそもロマンティシズムと、現実に即すべき工藝とに調和があり得るであろうか。このロマンティシズムが彼の作から一層深く工藝的要素を奪ってしまった。現実から遊離した夢幻の世界は美術とは成り得ても工藝の立場とは成りがたい。\n 彼らは「ラファエル前派」とはいうも、充分にゴシックの精神に帰っていたのではない。否、ゴシック精神とロマンティシズムの世界とは、明確に別箇の分野を示すではないか。しばしばモリスの模様はか弱いセンティメンタリズムにさえ落ちた。彼には美術と工藝との混雑があった。工藝の美術化と美術の工藝化と、その間における往来であった。工藝を純粋の相において見ることは、彼の注意の及ばないところであった。\n 彼の多分な絵画的要素は、彼が工藝家たるよりも一層厚く美術家たることを示している。彼は工藝家になり得たのではなく、畢竟一個の美術家に終ったに過ぎぬ。ついに個人作家であって、民衆に交わることなくして終った。否、すべての民衆とは交渉のない、彼自身の特殊な性情を示したに過ぎぬ。もし彼の作が正しい作とするなら、民衆はすべてロマンティストたることを余儀なくされるであろう。だがその時、あのすべての健実な民藝の要素は消滅するに至るであろう。彼は民衆に勧めることのできぬ作を民衆に示したに過ぎぬ。工藝を高めようとした彼の真摯な意志は、その作品においてなんら正しい方向を示すことなくして終った。\n 私たちは彼の如く贅沢な、美術的な、そうしてロマンティックな作に工藝の本道を托すことができず、また托してはならぬ。私たちは彼の作の如き貴重品や装飾品にではなく、質素の中に、雑器の中に、日常の生活の中に工藝を樹立せねばならぬ。ラスキンやモリスにはまだ民藝に対する明確な認識が存在しておらぬ。後に来る私たちは彼らの志を進めて、さらにこの認識へと入る任務を帯びる。\n\n六\n\n 思想の世界から鑑賞の世界に来る時、私はさらに一群の先覚者が私たちの前にあったことを気づいてくる。人々が呼んで大茶人と名づける人々、すなわち初代の茶人たちを私はそれらの先覚者として記念したい。処の東西を問わず、少なくとも彼ら以上に工藝の美を見つめ得た人々が他にあるかを疑う。私は彼らを私の故国たる日本に見出すことに、尽きぬ愉悦を感じる。\n 彼らによって選び出された作はいかなるものであったか。彼らが見て美しいと観じたものはいかなる種類のものであったか。それは実に美意識からできた名作ではなく、平凡な雑器の類であった。美術化された作ではなく、用のためにできた純工藝品であった。彼らの眼がここに注がれたことは、真に驚歎すべき事実ではないか。彼らは後にあの「大名物」と呼称せられるものを「下手物」と蔑まれる器の中に発見した。あの茶入も茶碗も元来は数銭に価しない雑器であった。だが茶人たちは鋭くもそれらのものの美に打たれた。そうしてその謙譲な器の中に最も深い美の法則を見、かくして「茶道」と云わるる一つの「道」をすら建てた。かくまでに工藝の美を見つめ、またかくまでにその美を深く感じた人が、かつてあったであろうか。私は彼らの直観と鑑賞とに尽きぬ敬念を感じる。\n 彼らの見方には真に異常なものがあった。一つの茶碗にすら「七つの見処」を数えた。彼らの眼から高台の美が見逃されることはなかった。彼らは傷にすら特殊な美を認めた。そうして歪みにすら一種の美を認めた。彼らの手はそれを温かく抱き、彼らの愛はその美をさらに育てた。この「茶」の味わいが万般の風物に影響を及ぼしたのは云うまでもない。「茶」はしばしば生活にまで入った。そうしてそれが東洋の静かな精神に適合したのは云うまでもない。それは美の宗教であった。あの「渋さ」の世界は、老子の言葉を使えば「玄」の世界と呼び得よう。「渋さ」は究竟な美の相である。そもそも「渋さ」という如き含蓄ある言葉が他国にあるであろうか。初代の茶人たちには、最高な工藝の美に関する明確な認識があった。\n あえて初代の茶人たちという。なぜなら中期以後、茶道の真意は全くすたれ、形式に化して、原始の精神は失われてしまった。後代に作られた茶器を見られよ、もはやそれは美のためにできた器であって、あの大茶人たちが決して選ばなかった器である。私たちは、「井戸」と呼ばるる「下手物」たる大名物と、「楽」と印された「上手物」たる茶碗との間に、本質的な区別があるのを見誤ってはならぬ。一つは無想に発し、一つは有想に滞った作物に過ぎない。あの大名物がもし「下手物」でなかったら、決して大名物とはならなかったであろう。\n あの茶器が民器であったように、あの茶室も民家にその風格をとったのである。今日数寄をこらし千金を投じて造る茶室の如きは、茶道の真意に悖ると云わねばならぬ。なぜなら茶祖が示した茶の美は「下手の美」であり、清貧の美だからである。\n あの民器に美を見出したこと、通常の世界に異常な美を観じたこと。そうしてかかる美に、究竟な美の相を見つめたこと。そこに法をすら見、道をすら観じたこと。そうしてかかる道に入って、生活を美三昧に深めたこと。私が初代の茶祖を目して工藝美に関する偉大な先覚者と名のることになんの不可思議があろうか。\n\n七\n\n だが私たちは二つの方向においてさらになお、彼らの志を発展せしむべき任務を帯びる。後に来る者は彼らの踏んだ道に終ってはならぬ。第一彼らが彼らの愛した工藝から選んだものは直接茶器として必要なもののみであった。だがその茶器と同じ所産心でできた無数の美しい器が存在する。もし前者が「大名物」たる美を持つなら、後者にも等しい大名物格の美がなければならぬ。これは極めて合法的な推論ではないか。茶器となるから美しいのではない。美しいから茶器になったのである。工藝の種が豊富になった今日、私たちはこの真理に盲目であってはならぬ。茶入や茶碗は民器のうちのごく一部のものに過ぎぬ。もしそれらのものに美の玉座が与えられているなら、同じ心から生れた幾多の兄弟姉妹にも同じ栄誉を献げてよいではないか。工藝の美の認識を、民藝全般に拡大せねばならぬ。私たちは「大名物」を数個の茶器に限ってはならぬ。無数の「大名物」が吾々を囲繞していることを悟らねばならぬ。「大名物」の「極め」を崇めて、他の無銘の雑器に冷やかなのは、真に「大名物」の美を知らないからだと云ってよい。それは美からものを見ない証である。雑器だからと云って棄て去るのは、見方に自由がなく見識がないことを告白する。あの大茶人は雑器から「大名物」を見出したではないか。在銘のものを選ばなかったではないか。あの「井戸」の茶碗を茶器だから賞めるのは、見方がまだ表面的である。さらに一歩深く入って、雑器としてのその美に驚いてよい。そうして私たちは眼を同じ他の雑器に転じてよい。そうしてそこから無数の未知な茶器を採り上げてよい。かかる創造的見方をこそ初代の茶人たちは私たちに教えてくれたではないか。人々には「大名物」の数を無限にふやす自由が与えられているのである。そうして私たちを囲繞する環境は、この自由を果す上において遥か大茶人たちの時代より恵まれている。拡大された領域における「下手物」の美の認識、これが今日の吾々に与えられた悦ばしい使命である。\n これに続いて時代は私たちを第二の方向へと転廻せしめる。大茶人たちが私たちに示した驚異はその鋭い直観である。深い鑑賞である。それは宗教的意義にまで高められた。茶道は静慮の世界であり禅定の領域である。鑑賞もここに達すれば余すところがない。だが私たちは知識の時代に活きる。彼らが鑑賞において味わい得た世界を真理の問題にまで進めねばならぬ。「味わう」とか「愛玩する」とかに止まらず、何がそれを美しくさせたか。いかなる領域からその美が発しているか。誰の手が作りなしたか。何がその資材であるか。どうしてかかる美が可能となったか。どういう社会から生産されたか。もしこれらの問題が解けたら、美は真の世界に結合するであろう。特に工藝が堕落してきた今日、私たちは反省の世界に入らねばならぬ。来るべき輝かしい一時代を産むために知的準備を整えねばならぬ。すでに意識の時代に活きる私たちはかかる任務をもつと云えないであろうか。\n 工藝美感は、工藝美論へと進む。そうしてこの両者の綜合のみが、未来の工藝を正しい方向に整理するであろう。何が美しきか、どこに美しきものがあるか、これらのことはすでに大茶人の指南するところである。私たちは、どうしてそれが美しくされたかの問題に入らねばならぬ。徒らに茶道を形式に枯死さすのは、私たちのなすべきことではない。彼らの衣鉢の真の継承は、その形式の反復にあるのではなく、その精神の進展にあるのである。近代茶人の無為を私は許すことができぬ。\n 工藝の問題は美の問題であると共に、真の問題である。特に社会に関聯する真理問題である。一つの器にも精神と物質との複合せる社会の縮図が見える。私たちは時代が私たちに要求する内省へと見方を深めねばならぬ。私たちは初代の茶人たちが触れ得なかった数多くの問題を解くべき任務を現代にもつのである。\n 私は省みてかかる先駆者たちを史上に記念せねばならぬ。そうして彼らの精神を継承し、しかも彼らを一歩ぬきん出る以外に、正しく彼らの大を記念する道はない。もし同じことを反復して彼らの域を出ないならば、それは彼らに酬いる所以とはならぬ。彼らへの正しい不満のみが、彼らへの篤い共鳴を裏書きするであろう。\n(昭和二年十月四日稿 増補)\n\n\n\n概要\n"
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"content": " 私は工藝の道を論じて長き叙述の終りに達した。ほとんど処女地として今日まで放置されたこの領域に関して、多くの人は新しい光景の展開に奇異な感を抱かれたであろう。見慣れないものに対してはすべての人は臆しやすく疑い深い。まして長い間ほとんど反対の物語を聞かされていた人々にとっては、了解に苦しむ個所が多いであろう。私は今日まで知れる人、知らざる人から共に幾多の疑義を受けた。それ故私はもう一度その要旨を捕えて、簡明に私の今まで述べた思想の骨子を再録しようと思う。それ故これは本論の概要となる。思い出すままに順を追って自らかく問いかく答える。\n\n問 工藝とは何か。\n答 工藝とは、実用品の世界を指して云うのである。この点全く美術と異なる。絵画は見るために画かれる美術品であるが、着物とか机とかは工藝品であって使用するために作られるのである。\n問 工藝美とは何か。\n答 用に即する美を云うのである。用に即するとは、用品たることという義であるから、その美は用たることから発するのである。用を離れて工藝美はない。したがって用に堪えぬ作品、または用を無視した作物は、自然工藝美を保ちがたい。\n問 用とはどういう意味か。\n答 ここに用とは単に唯物的意味にのみ解しているのではない。なぜなら、物心の二つは離して考えるべきものではないからである。それ故用とは物への用でもあり心への用でもある。器物はただ使うのではなく、見たり触れたりして使うのである。もし唯物的意味にのみとるなら、例えば模様というようなものは全然無意味となろう。しかしよき模様は用の働きを増してくるのである。かかる意味でそれもしばしば用のなくてはならぬ一部になる。これに反し心に醜さを感ぜしめるものは、いくら物への用とはなっても、用の働きを鈍らしてくる。ちょうど料理という時、ただ食物ということのほかに、美しく盛られ、味わいよく調理された食物を意味するのと同じである。そうしてこのことが食慾を助けてくれる。これと共に、心に対してのみの用というが如きも無意味である。それは料理の模形を食物と呼ぶことが意味のないのと同じである。用とは物へのみの(または心へのみの)用ではなく、不二なる「物心」への用である。\n問 工藝の美の特質は何か。\n答 工藝美の特質は「親しさ」の美である。器物は日々共に暮す性質をもつ故、自から親しさの美が要求される。したがってそこは「潤い」とか「趣き」とかの世界である。特に工藝品において人は「味わい」とか「雅致」とかを語るではないか。それ故崇高とか巨大とか高きに仰ぐ美たるよりも、近くに親しむ温かさの美である。このことに工藝と美術との目立った差異が見える。\n\n人々はあの絵画を高く壁に掲げるが、器物は近づけて手に抱くではないか。\n問 工藝にはいかなる種類があるか。\n答 大体から見て次のように類別することができる。\n\n ┌協団的(創造的工藝)\n ┌民藝(民衆的工藝)┤\n │ └資本的(機械的工藝)\n工藝┤\n │ ┌個人的(個性的工藝)\n └美藝(美術的工藝)┤\n └貴族的(技巧的工藝)\n\n一方を「民藝」と呼び、他方を「美藝」と呼ぼう。前者は民衆の手になり、民間で用いられる工藝品。後者は個人的作者から生れた少数の人々に購われるもの。一つは多く作られ安くできる日常品。一つは少しよりできず、価も高き装飾品。前者は無心に作られ、後者は意識より発する。あるいはこれを無銘の作、在銘の作と分けてもよい。しかし私たちはこの二つの流れをさらに各々二分して考える必要がある。民藝には協団制度より生れたものと、今日の如き資本制度より発したものとがある。前者は創造的な手工藝であるが、後者は決定的な機械生産である。また美藝にも二つの種類が数えられる。一つは個性の表現を旨とする個人的作品であり、一は官とか富豪とかの命による貴族的な上手の作である。私たちは大体に以上の如く分類して考えねばならぬ。\nあのゴシックの工藝品の如きは典型的な協団的民藝である。今日のアルミニュームの器物の如きは資本制度的機械工藝である。あのエッジウードとか木米とかの作は個性の出た個人的作を代表し、あの蒔絵とかお庭焼の如きは官僚の貴族的作品である。\n\n問 その中のいずれのものが、より豊かに工藝の本質を示すか。\n答 民藝、特に協団的作品に最も深く純工藝の意義が現れている。何故なら美術的工藝は用を二次にして美を主にする傾きに陥りやすく、したがって工藝たるの原則が破れるからである。それはむしろ工藝たることを離れて美術に近づいている。それ故工藝として見れば民藝の方が正脈である。「工藝」といわゆる「工藝美術」との間には、かくして明確な差異が生じる。私は今日資本制度的機械品が美に乏しく質に弱いことを、ここに書き添える必要はないであろう。"
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"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
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"role": "user",
"content": " ジョージ・サンバードは、ニューヨークのある大学で美術史の講義をしている。専門はギリシャの瓶絵である。といっても、実のところ、彼の関心はギリシャ文明やその幾何学的な雷文や植物文・動物文などにはなく、たんに瓶そのものにあった。\n これは、いささか理解されにくい趣味の一つかもしれない。が、もともと趣味とか道楽、好みとか情熱などというものは、多かれ少なかれ、他人には(そして、たぶん本人にも)理解したり説明したりすることのできぬ、神秘で不可思議な個人的な衝動を芯にしているのである。\n いま、彼の愛する陶製の瓶や壺の、その曲線や肌ざわりや色つやなどの魅力につき、またその形態のもつ形而上学的な暗示や意味について、いちいち彼の言葉を借りて説明する余裕のないのは残念だが、いずれにせよ、彼ジョージ・サンバードの書斎には、大は人間がすっぽり入ってしまうシナの大水甕から、小は掌にかくれる古代エジプトの香油入れまで、彼の好みにより集められた瓶・壺の類が所せましと並べられて、一種の壮観を呈していた。彼は、機会をとらえては好きな瓶や壺を蒐集して、それをながめ愛玩して飽きなかった。彼にいわせれば、それは彼の、たった一つの生甲斐なのであった。\n\n 彼の大学には、教授たちが隔月に一人ずつ主人役を交替して、自宅で小さなパーティを催すという伝統的な習慣があった。先人は、ややもすれば孤独に書斎に閉じこもりがちな学者たちに、こうして最小の社会的接触の義務を課していたのである。\n 彼がその壺をみつけたのは、民俗学のボーモン教授宅でのパーティの夜であった。手洗いに立ったかえり、何気なくサンバードは、不用意に開け放たれたままの扉のかげから、ボーモンの書斎らしい部屋の中をのぞいた。彼は立ちすくんだ。\n 白い壺が一つ、書棚に置かれていた。すばらしい壺であった。夢の中の聖霊のように、それは白くぼんやりとした光沢を放ちながら、彼を戦慄に似た恍惚のなかに釘づけにしていた。適度に高くひろい口唇部、力づよくくびれた頸、やや楕円形にふくらんだ豊満な胴部の線。高さ一呎ほどの片把手のその壺は、鋸歯文ふうの模様が横に刻みこまれている。素朴な、優雅な、いきいきとした力感にあふれた、見たこともない逸品の壺であった。\n 突然、中からパイプを片手に持ったボーモンが出てきた。ボーモンは彼の目つきを見て、急に血の気が引くように青くなった。あわてて、ぴしゃりと扉を閉めた。\n「なにをしてるんです? さ、向うで飲もうじゃありませんか、サンバード君」\n「......壺だ」と、彼は答えた。「すばらしい壺だ。ボーモン教授、いったいどこで手に入れられたのです?」\n「壺? そんなものは私は持ってないが」\n 小柄で色が白く、女のようなすべすべした肌をもったその民俗学の教授は、どぎまぎと目をそらせた。だが、もはやサンバードは夢中だった。\n「おかくしになっても無駄です。私はいま、この目で見てしまったんです」\n「いや、でも君、とにかく、私はいまちょっといそがしいので......」\n 落着かない態度で、ボーモンは一刻もはやくその場を逃れたいような様子だった。サンバードは、しかしがっちりと食い下った。\n「お願いです。ちょっとでいい、手に取って眺めさせて下さい。それまで私はここを動きません」\n「......ああ! こんなことになるとは!」ボーモンは呪詛するように両手を上げ、ヒステリックに叫んだ。「まったく、だから私は他人たちを家に呼ぶのはきらいなのだ。パーティをまわりもちしなきゃならんなんて、そんなルールなんか豚に食わしてやれ!」\n ボーモンは、三十八歳のサンバードより十は確実に年上の、独身で篤学の研究熱心な学者だったが、ひどく人づきあいの悪い男である。でも、たかが壺くらいのことでどうしてこうも不機嫌になるのか、サンバードには理解できなかった。――おそるおそる、彼はいった。\n「......中に、なにか大切なものでもおしまいになっているのですか? でも、私に関心があるのは壺だけです。あなたはご存知ないようだが、私は壺を扱うのには慣れています。けっして傷なんかつけない」\n「いや、いや」ボーモンは手を振った。「とにかく、あれはつまらん壺です。忘れて下さい。お願いする」\n「それは無理だ」サンバードは答えた。「ちらっと見ただけだが、もう私には忘れるのは不可能です。あれは、すばらしい美術品です。......いったい、どこの出土品です? あの形式は、すくなくとも十七世紀以前のものだと思いますが」\n 色白の教授は彼を仰ぎ、小肥りの身体をひねって皮肉に眉を上げた。\n「残念ながら、その鑑定は外れている。あれは私が風習を調査しに行ったある島で、土人たちが使っていた酒を入れる瓶です。そして、私の研究の私的な記念品にすぎない。――つまり私以外の人間には、まるっきり価値のないガラクタ同然の品です。とうてい君なんかにお見せできるようなものじゃないのですよ」\n サンバードは、ボーモンの目をのぞきこんだ。\n「でたらめにはだまされませんよ。教授」\n「でたらめだと?」\n ボーモンは、いきまくように真赤な顔になって、さも可笑しそうに失笑した。\n「でたらめは君だ、サンバード君。あれが十七世紀以前の美術品だと? バカをいっちゃいけない。それでも、君は美術史の教授なのかね? あれはトロブリアンド諸島では、どこにでもざらに見られる酒瓶の一つだ。嘘だというのなら、行ってみたまえ。あんな壺は軒なみにゴロゴロころげている」\n「......トロブリアンド諸島ですね?」\n サンバードはいった。しまった、という表情でいっそう顔に朱を注ぐと、ボーモンは彼の目を睨みつけた。やがて、仕方がない、というふうに手をひろげた。\n「......よろしい。見たまえ、好きなだけ」\n サンバードは、夢中で扉をひらき、書棚の白い壺に突進した。\n「すばらしい、すばらしい壺です!」\n 両手で撫でまわし、喰い入るようにみつめながら、彼は叫んだ。\n「そうかね、そんなにいい壺かね」書斎の入口で、ボーモンは無感動な声でいった。「じゃ、君にだけ、ときどきこの壺を見にくるのを許してあげることにしよう。そうでもしないと、君は盗みだしかねないようだからな」\n「手放す気はないのですか?」\n「まったくない」\n 言下に、ボーモンはいった。「......ただ、言っておくがね、サンバード君。私は、なにもその壺を、美的な関心や骨董品としての見地から持っていたいんじゃない。私にはそんな目や趣味はないし、さっき私のいったことはみんな本当なんだからね。しかし、私は絶対にそれは手放さんよ。君が地球と同じだけの金塊を積んできても無駄だ。私は、死んだら棺の中にその壺を入れて行くのだ。それは、私の権利なのだからね」\n\n ......まさかと思っていたことだったが、ボーモンはその言葉を実行した。三月後、彼は心臓麻痺で急死したが、遺言により白い壺は棺の中に入れられ、小肥りのその遺体とともに荼毘に付されてしまった。サンバードの手に数葉の写真だけを残して、壺は永久に手のとどかない場所へと運び去られたのである。\n ただ、もう一つボーモンの残したものがあった。それは「トロブリアンド諸島には、こんな壺はざらにころげている」という言葉である。――サンバードは地図をしらべ、太平洋の南、ニューギニアの東北方に、その名の群島をみつけた。彼は、くりかえしそこに無数のあの白い壺の幻影をながめた。あの力感にあふれた、しかも優美な白い壺の不在。その空虚が、やがてサンバードには次第に耐えられないものになりはじめた。たとえ嘘であったにせよ、ボーモンの言葉を、彼は身をもって確かめずにはいられなくなってきたのである。\n 翌年、サンバードは単身その群島に向けて出発した。そして、約二ヵ月間の航海のあと、彼の乗った貨物船は、トロブリアンド諸島中最大のキリウイナ島に接近した。島の中央に突起する火山が青空に一条の白い噴煙を吐いているのを眺めて、彼はこの島での下船を決心した。彼はあの白い壺の土質に、石英系の火山岩の細礫の混入を見ていたのである。\n 紺青の外洋から船が港に近づくにつれ、白味をおびた碧緑色の鹹湖を抱く島の形があらわになり、海底に菊の花のような珊瑚礁が透けて見えた。彼は、胸をわななかせて上陸した。\n\n ボーモンの言葉は、やはり、すべて真実であった。大型船の着くただ一つの港であり、島の首府であるオマラカナの町を歩きながら、たちまちサンバードは、ボーモンのあの壺にそっくりな形態・土質・焼き・彫文の白い壺を、いたるところに発見したのである。"
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"role": "assistant",
"content": " そこは、まさに夢の宝庫だった。......だが、我を忘れ、大小さまざまの壺を集めまわった一両日が過ぎると、さすがにサンバードに、壺の専門家としての目がもどってきた。彼のあつめてきた壺には、不思議とボーモンのそれのような溌溂とした生気と品位とがないのである。ボーモンの壺は、おそらく特定のだれかが、心をこめてつくったものに違いなかった。\n ――でも、ボーモンの調査旅行は、二十年近い昔である。彼はそれを、だれから買ったのか、貰ったのか。その相手を知っている者がいるだろうか。だれが、二十年まえの小柄な白人の旅行者を憶えているだろうか。\n トロブリアンド諸島の土民たちの言葉はポリネシア語である。彼は苦心してその言葉をあやつり、二十年まえのボーモンの行動をさぐった。幾度もあてはずれの落胆を味わいつつ、そして彼は、やっとイプワイガナという壺作りの老婆の名にめぐりあった。ボーモンは、しばしば彼女の小舎を訪ね、逗留したこともあったという。彼女は、かつてのキリウイナ一の巫女で、いまもオマラカナの郊外で一人暮しをしている。......しかし、それを教えてくれた古老も、また土民の若者も、だれ一人としてそこに彼を案内したがらない。巫女というものは、かれらの中でひどくおそろしく、孤立した存在であるのらしい。おぼろげながら、サンバードにもそれはわかった。\n 古老からそれを聞いた翌日、だから、彼はやむなく単独でイプワイガナの小舎に向った。オマラカナの南郊、火口原のような砂地とマングローブの樹林との境の道を三時間ほど歩くと、一つだけぽつんと立っているイプワイガナの小舎はすぐわかった。同じ檳榔樹の葉を壁代りに、椰子の葉骨で屋根を葺いた土民の家であっても、巫女のそれは屹立するように破風が高く、尖がっているのである。......暑熱に喘ぎながらその小舎に近づき、サンバードは、突然の歓喜に胸がしめつけられるような気がした。小舎の前に二つ三つ無造作に置かれている白い壺、それは、まさしく彼が探し求めていた品位と気力とにあふれた壺であった。\n 粗末な枯れた草の戸をひらいて、彼は中に入った。そこに一人の老婆が坐っていた。まるまると肥った穏やかな顔の土民の老婆である。目尻に皺が多く、福々しい茶褐色の童顔は、やさしく和やかな微笑をたたえていた。\n「あなたがイプワイガナか? あなたがあの壺をつくったのか?」\n ヘルメットを取り、汗を拭きながらサンバードは、おぼつかないポリネシア語でたずねた。老婆は、ニコニコしてこっくりした。\n「壺をゆずってもらえないか?」\n「......まあ、おすわり」老婆はしわがれた声でいった。\n「それで、なにがほしいのかね?」\n「壺だ。壺だけだ」\n 言葉の不自由にいら立ちながら、彼はいった。すると、老婆は白濁した老人特有の瞳を動かし、遠くをみつめるような目つきをした。\n「......ずいぶん前のことだ、やはりお前と同じような一人の白人が来た」と、やがて老婆はいった。「かれも、壺をくれといった」\n「ボーモン?」\n「さあ、そんな名だったかね」老婆は目を細めた。「でもその白人の望みは、本当は壺ではなかった。私からキリウイナの儀式のしきたりを聞き出すのが目的だった」\n「でも私は違う。私はその壺を見て、わざわざやってきたのだ。私の望みは壺だけだ」\n 早口にサンバードはいい、喉に言葉がひっかかった。一刻もはやく壺を自分のものにしたい気持ちで、彼はハラハラしていた。\n まあ落着け、というような手真似をすると、老婆は立上って戸棚の上から壺の一つを下した。それも同形の見事な壺だったが、ボーモンの言葉どおり、中には酒が入っていた。芳香のつよいその酒を器に注ぎ、老婆は彼にすすめた。乾いた喉に、よく冷えた椰子酒がさわやかに沁みていった。\n「ほんとに、壺だけでいいのかね?」老婆は笑顔のままでいった。「儀式の話はいらないのだね?」\n「いらない。それより一つでいい、あなたのつくった壺をわけてほしい。お金ならいくらでも出す」\n 老婆は、笑いながら二、三度たてに首を振った。\n「それなら簡単だ。どれでもいいものを持って行くがいい。お金はいらない」\n「本当か? いいのか?」\n サンバードは、天にも昇る気持だった。\n「ありがたい。いったい、なんでお礼をすればいいのだ? 私は、瓶や壺をあつめている。これで、私の蒐集はいよいよ見事なものになるのだ。ああ、こんな嬉しいことはない」\n 老婆はおだやかな目で彼をながめていた。しずかな声でいった。\n「どうして壺や瓶をあつめるんだね?」\n 厄介な質問だった。彼は黙った。\n「好きなのはわかっている。でも、どうして好きなんだね?」\n 真面目に答えるには、自分のポリネシア語の能力は不足すぎる、とサンバードは思った。笑って、彼は器の酒を喉にあけた。\n「つまり、......つまりだね、瓶や壺は物だ。物は人間をだまさない。だから、私は人間よりも物のほうがずっと好きだ。私をだまさない瓶や壺のような、美しい『物』のほうがね」\n われながら平凡な答えだった。――突然、けたたましく老婆は笑いだした。大きな鳥の声のような、よくひびく奇妙な笑いだった。\n「あなたはまだ若いよ」と、老婆はいった。\n「若い?」\n「そうだ、若い」笑いながら、老婆は立上った。「私もあつめているんだよ。でも、それは、それにだまされるのが好きだからさ。私をだましてくれないようなものなんかに、なんの値打ちがあるかね」\n 戸棚をひらくと、老婆はその奥から、一本の細い麻紐で繋げられた奇妙なものを出して、両手で糸の端を持った。干魚か糸を通された黒ずんだ干バナナのようなものの列が、音もなく彼の目の前で揺れ動いた。それは、しなびて古びた椎茸の茎の列そっくりに眺められた。\n「これだよ、私をだましてくれるものは」\n 淡々と、老婆はいった。\n「私も、はじめは私をだますものが憎かったよ。こいつがいけないんだ、こいつが私をだまし、ありもしない繋がりやばかげた夢の中に、私を引きずりこんでしまう根っこなんだ、こいつこそが、私にさまざまな幻影をみせる根っこなんだ。こいつさえなければ、って私はよく考えたものさ。それで、私はそれを片端から切り落して、男たちから貰ってしまうことにしたのさ。......でもね、今になると、だまされないということはつまらないもんだ。つらくて、退屈なものさ。そして、これも記念だ。......私はこれを見て、これにだまされていたころの自分を思い出して、いまじゃ一人でたのしんでいるのさ。いまはね、これをあつめるのが私の道楽だよ。ときどきこれを眺めては、私は、私をだましているのさ」\n 恐怖と驚愕に腰を抜かしたまま、彼は、干からびて縮んだキノコに似たものの列の中に、一つだけ褪せたように色の淡いのをみつけた。ふと、極端に人づきあいをきらい、独身のまま死んだ色白で小肥りのボーモン、女のようにすべすべしたその肌を、彼は思い出した。\n 重い風の音のような理解が彼を通りすぎた。\n「......私は、お金なんかいらないのさ」\n 色の黒い顔じゅうを皺で埋め、歯のない桃いろの唇をあけて老婆は笑いかけた。\n 毛穴という毛穴から汗がぶつぶつと吹き出し、しかし、サンバードは動くことができなかった。腰が抜けていたのではなかった。痺れは、もはや手脚の尖端にまで来ていた。\n「安心してるんだよ。生命には別条ないんだからね」\n やさしい声音でいい、老婆は腰をのばし、戸棚から小さな精巧な造りの瓶を出すと、ゆっくりと彼に近寄り、その顔を仰向かせて、黄金色の液体を、瓶から彼の唇のあいだに滴らせた。かすんでゆく視野のなかで、ジョージ・サンバードは、だが必死に目をこらした。そして、かろうじて声を出した。"
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
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"content": " ヒヤ〳〵、大ヒヤなど頓狂なる叫喚は他の一隅に湧き上がれり、\n 笑声ドツと四壁を動かしつ、\n\n十八の三\n\n 此の光景を看て取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」\n 憂色、面に現然たる議長が何やらん唇を開かんずる刹那「否ツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、看よ、菱川硬二郎は夜叉の如く口頭より焔を吐きつゝ突ツ起ちてあり、\n「君等は真面目に其様ことを言つとるのか――労働者は無智で軽忽で、離間者の一言で起こしも臥かしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――否な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」\n「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は疾呼大声す、「僕が其を答へる前に、松本君、君は尚ほ弁明の義務を負んどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」\n「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」\n 菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ず憎むべき探偵であるに相違ない」\n 松本は沸騰する怒気に口さへ利かぬばかり、\n 行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか如何か知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、加之諸君は之を称讃して麗はしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心焦慮して居らるゝことは、諸君も御承知の筈では無いか――」\n「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本は遮りぬ、\n「君等は猜疑心の為めに自殺するのか」流石に行徳も遂に赫怒せり、\n 頭を振りつゝ松本は躍り上つて叫ぶ「諸君は宜しく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」\n「労働者諸君、諸君は共和民主々義を棄てて擅制君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は号叫す、\n「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論に捲き込まれるものとは違ふのである、我々鍛工の多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居るものである」\n 松本は絶叫せり、拍手喝采の響は百雷落下と凝はれぬ、\n 今は議長も思ひ決めて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく軽率の様にも考へます、依て五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」\n 松本が周章て起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出して議長の意見を嘉納し了せり、\n「あゝ、大事去れり」と行徳は涙を揮つて長大息せり、\n 菱川は髪逆立てて怒号せり「我が労働者未だ自覚せず」\n\n * * *\n\n 階下の一室に兀座せる篠田は、俄に起る階上の拍手に沈思の眼を開きぬ、\n 隙洩る雪風に燈火明滅、\n\n十九\n\n 正午には尚ほ間のあり、\n 同胞新聞の楼上なる、編輯室の暖炉の辺には、四五の記者の立ちて新聞を猟さるあり、椅子に凭りて手帳を翻へすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、\n 足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが出来した」\n 其声は打ち顫へて、其面は色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、\n「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新聞を見居たる一人は眉を顰めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」\n「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は全然、篠田の泥靴に蹂躙されたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、\n「ナニ、篠田様が如何なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、\n 吾妻は目を閉ぢ、歯を噛締て、得堪へぬ悲憤を強ひて抑へつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――従来僕は篠田先生に阿媚するとか、諂諛するとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕は只だ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全く欺かれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼を蔽ひつ「僕が諸君の罵詈攻撃をさへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、疑もなき間諜であつた」\n「間諜ツ」と一人は吾妻を睨めり、\n「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、\n 一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然として落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、必竟僕が平素の不徳に依るですから、已むを得ないです、が、先生を間諜と認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある鍛工組合が調査の結果、昨夜の臨時総会に於て満場異存なかつた決議です――」\n「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言吐いちや承知せぬぞ」\n「騒いぢや可かん、――彼の松本が例の猜忌と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」\n 吾妻は目を挙げて「左様です、若し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、然るに彼の温良なる、寧ろ温柔の嫌ある浦和武平が、涙を揮つて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜は兎に角、調査委員を選で公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も昨夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕は斯かる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼は面を掩うて歔欷したり、\n 一同瞑目せり、拱手せり、沈思せり、疑団の雲霧は漸く彼等の心胸に往来し初めけるなり、\n 階子に足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の疑雲猜霧の裡に一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、\n 皆な眸を扉に集めぬ、\n 扉は開かれぬ、\n 篠田は入り来りぬ、\n 一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝ冷やかに目礼せり、\n\n * * *\n\n 翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、\n"
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"role": "assistant",
"content": "●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実奢侈放逸に耽れることは其筋に於て注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり\n\n「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て揶揄、冷評を加へしも少からず「基督教徒の非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる所以を痛論せる仏教主義の新聞もあり、\n\n二十\n\n 山木剛造の玄関には二輌の腕車、其の轅を揃へて、主人を待ちつゝあり、\n 化粧室なる大玻璃鏡の前には、今しも梅子の衣紋正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声湿ませつ「では、お嬢様、何でも行つしやるので御座いますか――斯様こと申したらば、老人の愚痴とお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく今日に限つて胸騒ぎが致しましてネ――」\n 梅子は玻璃鏡に映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、折角母様がお誘ひ下ださるのだから、御伴するんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」\n「いゝえ、お嬢様、上野浅草へ行しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途に大洞様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると仰しやるぢや御座いませんか」\n「左様よ」\n「サ、それが、お嬢様、何となく心懸りなので御座います」\n「何故――婆や」\n 老婆は垂頭て語なし、良久ありて「近頃、奥様の御容子が、何分不審なので御座いますよ、先日旦那様が御帰京になりました晩、伊藤侯が図らずも媒酌人に為つて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な御歓喜で在しつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ御断になつたもんですから......御両所の彼の御立腹は如何で御座いました、旦那様は随分他人には酷くお衝りになりましても、貴嬢ばかりには一目置いて居したのが、彼の晩の御剣幕たら何事で御座います、父子の縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも貴嬢を打擲なさるかと、お側に居る私さへ身が慄ひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、人非人の、何の角のと、兎ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへ彼の唇を引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、貴嬢能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間経つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての宮寺詣り――貴嬢をお伴れ遊ばして奥様の御遊山は、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草は託で、大洞様の御別荘が目的に相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――何やら永い訣別にでもなる様な気が致しまして――」\n 梅子はジツと瞑目してありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいとも忝ないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日死に行くと云ふぢやなし」\n 聊か躊躇せる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、婆や、お前が日常言ふ通り、老少不常なんだから、何時如何ことが起るまいとも知れないが、然かし左様心配した日には、家の中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、何卒先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」\n 老婆は歔欷して言語なし、\n 開きかゝりてありし襖の間より下女の丸き赭面現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」\n「オ、左様でせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆は縋りつ、「――お嬢様、――お慎深い貴嬢へ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」\n 仰ぎたる老婆の面は、滲々たる涙の雨に濡れぬ、\n 軽く首肯きたる梅子も、絹巾に眼を掩ひぬ、\n\n * * *\n\n 二輌の腕車は勇ましく走せ去れり、\n\n二十一の一\n\n 上野なる東照宮の境内を遠近話しながら歩を移す山木のお加女と梅子、\n「ネ、梅子、左様でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時までも花の盛で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、何かと言へば、最早見頃を過ぎた齢ですよ、まア、縹緻が可いから一ツや二ツ隠くしても居れようがネ――私にしてからが、只だお前さんの行末を思へばこそ、斯してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」\n「阿母さん、勿体ない、悪く取るなんてことあるものですか」\n「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」\n 樹間隠れに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、睦ましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、雛人形の様だよ――私も早くお前さんの彼した容子を見たいと、其ればつかりが、親の楽だアね、大きな娘を何時までも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の実母さんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、嬉しさうに笑つて、――男でも女でも彼が一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」\n ジロリと、お加女は横目に見やれり、\n 梅子は他方を眺めつゝあり、\n「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて独言しぬ、\n 二人は無言のまゝ長き舗石を、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の腕車を置き棄てたるまゝ、何処行きけん、車夫の影だも見えず、\n「何したつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、仕様があつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、的もなく当り散らしつゝあり、\n 通りかゝれる職人体の三人連、\n「イヨウ、素敵な別嬪が立つてるぢやねエか――池の端なら、弁天様の御散歩かと拝まれる所なんだ」\n「束髪で、眼鏡で、大分西洋がつたハイカラ式の弁天様だ、海老茶袴を穿いてねい所が有難い」\n「見ねイ、弁天様の御側に三途川原の婆さんも御座るぜ」\n「何れ一度は御厄介になりますが聞いて呆きれらア、ハヽヽヽヽ」「ハヽヽヽヽヽヽ」\n お加女は顔を顰めつ「車夫は何処へ行つて仕舞ツたらう」\n 日は既に森蔭に落ちたる博物舘前を、大きなる書籍の包、小脇に抱へて此方に来れるは、まがうべくもあらぬ篠田長二なり、図書舘よりの帰途にやあらん、\n 梅子は遙に其れと見るより、サと面を赧らめつ、\n 折柄竹の台の方より額の汗拭ひも敢へず、飛ぶが如くに走せ来れる二人の車夫を、お加女はガミ〳〵と頭から罵りつ、ヤヲら車に乗り移りしが、宛も其前に来れる篠田は、梅子と相見て慇懃に黙礼し、又たスタ〳〵と歩み去る、\n「梅子、早くおしなネ」と言ひつゝ、お加女のチヨイと振り向く時、篠田の横顔、其目に入りしにぞ、「悪党ツ」と口の裡にツブやきつ、恍然立てる梅子を、思ふさまグイと睨み付けぬ、\n\n二十一の二\n\n 都会の紅塵を離れ、隅田の青流に枕める橋場の里、数寄を凝らせる大洞利八が別荘の奥二階、春寒き河風を金屏に遮り、銀燭の華光燦爛たる一室に、火炉を擁して端坐せるは、山木梅子の母子なりけり、\n 珍客接待の役相勤むるは大洞の妻のお熊、黒く染めたる頭髪を脂滴るばかりに結びつ「加女さん、今年のやうに寒じますと、老婆の難渋ですよ、お互様にネ――梅子さんの時代が女性の花と云ふもんですねエ――」\n「でも姉さんは一寸も御変なさいませんがネ、私ツたら、カラ最早仕様が無いんですよ、芳子などに始終笑はれますの――何時の間に斯う年取つたかと、ほんとに驚いて仕舞ひますの」とお加女は目を細くして強ひて笑ひつ、\n「お客来の所へ参りまして、伯母さん、飛んだお邪魔致しましてネ」と梅子の気兼ねするに「ほんとにねエ」とお加女も相和す、\n「何の、貴女」と、お熊は刺しつ「日常来つしやるお客様でネ、家内同様の方なんですから、気兼も何もありやしませんよ、山木の御家内なら、寧そ同席に御馳走にならうつて仰しやるんですよ、梅子さん、磊落な方ですから、何卒御遠慮なくネ」"
}
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"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
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"role": "user",
"content": "プロローグ\n\n「皆さんのお話には、譬喩と諷刺が紛々として匂う癖に、どなたも口を揃えて、――私の話には譬喩も諷刺も無いと仰しゃる――それは一応賢いお言葉のようではありますが、甚だ卑怯なように思われてなりません。そこへ行くと、私のこれから申上げようと思う話は、譬喩と諷刺と当て込みと教訓で練り固めたようなもので、まことに早や恐縮千万ですが、よく噛みしめて、言外の意を味わって頂きたいと存じます」\n 話し手の戸田樹一は、こういった調子で始めました。若かりし頃はヴェルレエヌ風の詩を作って、一部の間からやんやと言われましたが、「喝采を止してくれ、私の思想は皆翻訳物に過ぎないのだから」などと憎々しい毒を言って詩壇から遠ざかり、その後実業界に泳ぎ出して、亡父の遺産と名声を資本に、かなりのところまで成功をしましたが、あの忌わしい大戦争が始まると、何を感じたか、実業界とも縁を絶ち、近頃では何とか映画会社の重役に納まり、プロデューサーとして再出発するのだと、少くとも本人は意気込んでいるという――それがこの話し手戸田樹一の正体であります。\n 小柄で少し粗野で、そのくせ存外に神経質な身扮をした四十を越した男、弁舌はなかなか達者で、口辺に不断の微笑を湛えながら、会心の皮肉や洒落が出ると、小さい眼をパチパチさせながら、少し仰向いて四方を睥睨する男――このカリカチュアで、戸田樹一の風丰を想像して下さい。\n「私の申上げようというお話は、まことに心無きわざながら、世にも贅沢な美食家の、凄まじくも不思議な生涯なのであります。経済のまずしい今の日本で、美食や贅沢食いの話などは、甚だ怪しからんと仰しゃる方があるかも知れません。が、待って下さい、私は決して美食や贅沢食いを讃美し謳歌し崇拝するわけでは無いのです――反対にわたしは粗食の主張者で、耐乏生活礼讃者で、かくの如く道徳的で、そして御覧の通り健康であります」\n 話し手戸田樹一は、小さい身体の胸を反らせて、三十幾人の奇談クラブの会員達の、煙に巻かれた表情を見渡しながら、小さい眼をパチパチさせてから話し続けるのでした。\n\n一\n\n 伯爵――その頃はまだこんな鬱陶しい肩書が存在して、それがまだ、人間そのものの値打でもあるかのように、法外に尊重されて居りましたが、――その伯爵海蔵寺三郎は、二十八歳で襲爵し、背負い切れないほどの夥しい財産と、物々しくも血腥い祖先の手柄によってかち獲た家名とを承けて、当座はこの上もなく神妙に、そして健康に暮して居りました。\n その頃の青年華族などは、適当にケチで、お品がよくて、個性が無くて、積極的な行動を慎しんで、自分の意見をさえ言わなければ、それで先ず同族間の評判は申分無かったのです。\n その上海蔵寺三郎は、外国を二三度廻って、一流ホテルの絶対に臭気の無い、磨き抜いたような便所にも入り、給仕にチップをやる骨も心得、テーブル・スピーチなども、極めて要領よく当らず触らずにこなす呼吸も呑込んで居りました。\n 従って同族間にも、娘をやりたいとか、是非妹を――という口も少なくなかったのですが、どうしたことか海蔵寺三郎は、そんな世間並の縁談には耳もかさず、唯もう謹直無事な日を送って、華族社会の悪党共――当時青竹の手摺と言われた人種を口惜しがらせて居りました。\n と申すと、典型的な青年伯爵の生活が一体何が面白いかと仰しゃる方があるかも知れません。が実は、海蔵寺三郎には、人に秘めたる、ひそやかな楽しみがあったのです。それは、世間並の若様のお道楽の、ゴルフやダンスや、映画や素人写真ではなく、なんと海蔵寺三郎伯爵は、自分で料理して、自分で御馳走を食うという、世にも徹底した美食主義者で、それが何よりの楽しみで、そして哲学で宗教で、海蔵寺三郎の生き方だったのです。\n「君子は庖厨に近づかず――」という言葉があります。私などもその帰依者で、お勝手へ闖入して、女房に煮物の味付けの小言をいうなどは、士君子の恥ずべきことだと信じて居りますが、海蔵寺三郎は身伯爵の栄位にありながら、浅ましくもお勝手に出張して、刺身庖丁の手さばきを誇ったり、ビフテキの火加減の通を言ったりするのが、何よりの楽しみで、それを賞味するのを、人生最大の悦楽と心得ていたのです。\n この道楽あるが故に、海蔵寺三郎は、時々はお客をしました。料理屋に人を招くなどは以ての外で、海蔵寺三郎伯爵のやり方は、三四人の料理に興味を有する友人を招待し、御自分の手で、或いは御自分監督の下に、お抱えのコックの腕を揮った御馳走を、一つ一つ講釈付で御馳走をするのでした。\n 中には失礼なものがあって、「あ、海蔵寺伯爵の御馳走もいいが、あの講釈が無ければなお有難いが」などと申す者もあります。が盲目滅法にパクついたのでは、タスカローラの深海魚のスチューも、裏の溝川の鰌の柳川鍋もあまり変りがなく、喰う方も喰わせる方も、まことに張合の無いことであります。\n\n二\n\n その運命的な晩、海蔵寺三郎は五人の親しい友人を招んで、自慢の饗宴を開いて居りました。昭和のはじめ、まだ世界は煙硝臭い風の吹く前の、晩秋のある静かな夜のことです。\n 海蔵寺三郎はその時三十八歳でした。伯爵らしさも板について、象牙色の東洋の貴族らしい顔には、ほのかに微笑を絶やさないといった、まことに申し分の無い主人振りです。\n 山の手の景勝の地を占めた伯爵邸は、見るからに爽やかなたたずまいでした。わざと豪華な日本風の玄関は、寺院などに見るような檜の丸柱を四方にがっちりと樹てて、古風な敷台、まいら戸、お客が入ってベルを押すと、美しい小間使が二人、紫矢絣に立やの字の扮装で、大きい島田を重々しく敷居にぬかずくのです。\n 青畳の廊下を踏んで、右へ曲ると大書院、昔風に武者隠しまで付いて、床には探幽の三幅対が、古丹波の凄い花瓶に活けた、秋草の匂の影からお客様を吟味して居ります。\n 左へ曲ると瀟洒とした西洋間、そこに案内されて、暫らくお茶と煙草と雑談に興じた五人の客は、やがて屏風開きになった境の扉を開けて、隣の食堂に案内されました。"
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"role": "assistant",
"content": " 広さは二十四畳ほど、モザイックの床、豪勢な飾電灯、壁はモーリス風の金唐草に、樫板の腰張り古色目出度く、ルノアールの水の垂れそうな果物の絵が、食卓の上の、世界の珍果を集めた、デザートの果物皿と対照した見事さというものはありません。\n 当夜の料理は豪華で珍奇で、あらゆる智力とそして努力とを傾注したものでした。メニューを一々申し上げるなどは私の行数が許さないばかりでなく、恐らく皆さんの御迷惑でしかないでしょうが、かりにその一例を挙げると、松江の鱸のフライ、北極熊の掌の焼肉、巴里の蝸牛、といった類で、最後に配った果物の皿には、なんと南洋から飛行機で取寄せたという、名果マンゴスチンさえうず高く盛ってあったのです。\n デザート・コースに入ると、香気の高い珈琲をすすりながら、\n「さて諸君、今夕はわざわざ御招き申上げましたが、なんのおもてなしも無く――と世間並の挨拶でも申上けるところですが、実は海蔵寺三郎、一生を賭けての食道楽の総仕舞に、人力の及ぶかぎり、世界の美味を集めて、日頃親しく御交際を賜っている、五人の方を限ってお招きした次第であります。約一年の準備を要した、苦心の饗宴もこれで終りました。食べてしまえば、世界の珍味も一向他愛もないもので、一椀の雑炊にも及ばないかも知れません。――それは兎も角として、今夕は五人の方々から料理に対する御感想を伺い、私の料理哲学の研究に資したいと思うのであります。お食後の腹ごなしのお積りで、美味とは何ぞやという題目について、私のお隣の江守君から順々にお話を願います」\n 伯爵海蔵寺三郎は、言い了って席に着くと、代ってその隣席の江守銀二は立ち上りました。三十五六の毛の長い青年で、その頃でも本当に珍しい羽織袴姿、青白い顔、強度の近眼鏡、すべてのものからくる印象は、甚だ怪奇でそして非事務的な美青年でした。\n それもその筈で、江守銀二といえば、その頃少しは知られた詩人で、甚だしく甘い印象派の詩を発表して、一部の女学生などに騒がれて居ります。\n「料理とか、美味の哲学とか、それは私には極めて縁の遠い題目ですが、伯爵の折角の御指名ですから、食物の魅力に就いて私の感じだけを申上げます。――何を隠しましょう、私は非常に鋭敏な感受性と、恐ろしく鈍感な舌を持った人間で、御主人苦心の御馳走も、ミルク・ホールで食べるトーストや、一品料理屋のトンカツと、あまり大した違いを感じないのであります。すべて食物に関する私の興味は、連想の美しさに引立てられる時だけ極めて活溌に私の注意を呼びさますので、その点まことに、御主人伯爵にはお気の毒な次第であります。――例えば」\n 江守銀二はこんな調子で続けました。\n「――明治の末年に、私は初めて東京へ出て来た頃、本郷のとある西洋料理屋で、生れて初めてライス・カレーというものを食べたのであります。あの黄色いトロリとした汁の、白い米の飯と交わり合う具合、脂の多い牛肉と、新しい馬鈴薯の舌ざわりなど、私はこの世の中になんといううまい物が存在することだろうと、涙ぐましい程の感激で、それを二た皿も食べたのであります」\n 江守銀二はその当時のことを回想するらしく、強い近視の眼をトロトロと細くしました。\n「それから私は、菊坂町の下宿屋から、毎日毎日その西洋料理屋に通って、毎日毎日ライス・カレーを食べました。雨が降っても、風が吹いても、雪が降っても、私はその西洋料理屋に通って、一と皿のライス・カレーを食べない日は無かったのであります」\n なんという馬鹿馬鹿しい事を話す男でしょう。主人と四人の客は、呆れ返って顔を見合わせるばかりです。\n「私の皮膚は黄色になって、私の財布は屡々空っぽになりました。が、私は辞書を売ったり、羽織を質に置いたり、友達から借金をしたり、あらゆる苦労を重ねながらも、馬鹿な深草の少将が百夜通いをする熱心さで、さる大学の文科を卒業するまで、実に三ヶ年の間、本郷の通りのさる小さい西洋料理屋のライス・カレーを食べ続けたのであります。その間に私の友人達は、私の迂愚と偏見を憐んで、名ある大西洋料理屋の、有名なライス・カレーを食わせてくれました。新宿の中村屋の印度風の肥育軍鶏のカレー・ライスなどは、その代表的なものでありましたが、悲しいことには私にとって、本郷通りの小さな西洋料理屋の水っぽいライス・カレーの方が、遥かに遥かに心引かれたのであります。――ところで、今でもそのライス・カレーを食べているかと仰しゃるのですか。いや飛んでもない、その小料理屋、亭主とお神さんと汚い娘と三人でやっていた西洋料理屋は、大正の初め頃には廃業してしまい、私のライス・カレーに対する情熱も、それっきり褪めてしまったのであります」\n 江守銀二はそう言って、ライス・カレーの詩でも作りそうに、斜に天を仰いで沈吟しました。\n\n三\n\n「私は草深い田舎で育って、二十歳近くになってから、初めて電灯や電話のある大都会に出て参りました。そのためか、私の舌は都会の食物に対して、すべて好奇心と情熱とに燃えました。私は二十歳近くになってから、初めてバナナというものを食べ、世の中にかくも美味な果物があったのかと、つくづく造化の神を讃美する心持になったことがあります。物の味と連想も、先程申上げた通り、私の興味を大きく支配して、キャラメルをしゃぶると、日本アルプスの遭難を思い出し、塩味のうどんかけを食べると、大和めぐりの貧乏旅行を思い出します」\n 江守銀二の奇抜で馬鹿馬鹿しい話は、五人の聴き手の興味に頓着なく、なおも傍若無人に続きます。\n「世の中には、聴覚型の人と視覚型の人とあり、或は眼の記憶や判断にすぐれ、或は耳のそれに偏すると言われますが、私をして言わしむれば、嗅覚型の人も、触覚型の人も、味覚型の人もあるわけで、かく申す私などは、まさに味覚型の特質を持った人間と申して宜しいのであります。現に私は、あの臭い納豆を五年間、盛夏の一二ヶ月休むだけで絶対に食べ通したことがあります。それは美しい呼売の声に釣られて下宿の窓に呼び寄せて納豆を買った可憐な少女が、測らずも感心な孝行娘であったことを、翌る日の新聞記事で知ってからのことでした。少女はその頃十二三でした。私は大学を出たばかりの文学青年で、写字と翻訳の下請負で細々と暮していた時ですが、窓の外に立った美声の少女の、雨に濡れた蒼白い顔が、十何年後の今でも忘れることが出来ません。私は三銭の納豆を一つ買って、少女がわけてくれたカラシをペン皿に入れて貰って食べました。納豆売の少女の、大きいが臆病らしい眼や、赤いがわななく唇や、木綿の汚れた袷や、人参のように赤くなった素足やは、私の記憶に鮮明に焼きつけられました。私は翌る日も、その翌る日も、同じ少女の通るのを待って、窓から三銭の納豆を買って食べたのです。\n 一ヶ月二ヶ月と経つうちに、時候が温かになって、納豆売の少女は来なくなりました。私はやるせない気持で待ちましたが、何時まで経っても、あの孝行娘の可憐な納豆売は来なかったのです。それから暑い夏が過ぎて、秋が深くなると、町々には又納豆売の姿が現われ始め、窓の外にも時々納豆屋が来ました。が、あの美しい声の孝行娘はもう、二度と姿を現わさなかったのです。私はその少女の家を捜すことに、幾日か没頭しました。古い新聞を取出したり、漸く一年前の孝行娘の納豆売の記事を見つけて、根津八重垣町のその娘の家へそっと訪ねて行きましたが、それはもう半年前に取払われて、工場になって居りました。近所のお神さんに聞くと、孝行娘の納豆売は、母親が死んだので金持の伯父に引取られ、人力車に乗って何処かへ連れて行かれたということでした。それから四年の間、私は毎朝納豆を買って食べたのです。英一蝶の島で作ったクサヤの乾物を捜した晋其角のような熱心さで、――がしかし、それっきり私は孝行娘のあの可愛らしくいじらしい納豆売にめぐり逢う機会を持たなかったのです。私はどうしてあの娘が姿を見せているうちに、その所番地を訊いて訪ねて行き、微力ながら引取れるものなら引取って芸術的な教育でもしてやらなかった事が、私の悔いは果てしもありません」\n 江守銀二は食物の話から脱線して、妙な回想談になってしまいました。五人の聴き手は今更茶化すわけにもいかず、神妙に、そして少し冷笑気味に聴いて居ります。\n「でも私は一つだけ良いことをしたと思っていることがあります。それは或る朝三銭の納豆代に、たった二銭しか無かったために、――その頃の私はそれほど貧乏だったのです。――財布から机の抽斗まで捜し抜いた揚句あげく、守り袋の中に、亡くなった母親が形見のつもりでいるようにと言ってくれた、二分金のあることを思い出し、それを一銭銅貨の代りに、娘の納豆籠に入れてやったことがあります。二分金を売れば、当町でも母子一ヶ月の生活費位にはなった筈ですから、それがせめても貧乏な文学青年の、十三歳の納豆売に寄せた、ささやかな好意でした、――いや調子に乗って、飛んだことを申上げて、赤面に堪えません」\n 詩人江守銀二は、そう言って漸く席に着いたのです。\n\n四"
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