messages
listlengths 3
3
|
|---|
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 内貼りの紙ともセロファンとも付かぬ、例の物を丁寧に剥がして陽に透かして見、第三の函からこれもまた鋸屑とも鋼鉄屑とも見分けの付かぬ、例の詰物を取り出して、マクドナルド博士とともに掌で揉んでみたり、しかもその瞳は言わん方なき驚異を現して......今までこの二人の博士のごとく、この外装にすらこんなにも綿密な注意を払った人たちが、どこにあったであろうか? おそらく外装調べだけでも、二時間くらいの時は費やしてしまったであろう。博士の注意は二体の木乃伊そのものにはあまり多くが払われず、この方はさっさと済ませてむしろ例の鞣し皮の小袋を取り出してザラザラと金貨を卓上に並べた時に、まさにその絶頂に達したのであった。\n しかも、逸早くも博士の後を追って都から乗り込んできたのであろう、すでにウニベルサール紙、エル・コメルシオ紙、ラ・プレンサ紙、ラ・ナシオン紙等の自動車は役場前の広場に犇めき、各社の記者は手ぐすね引いて博士の調査を階下に待ち構えているのであった。\n「おお、セステルチア金貨だ! セステルチア!」と博士の態度は、まったく変ってきた。「しばらく誰もここに入れないで下さい。そこの扉をピッタリと閉めて」\n 柔和な博士の眼がまったく引き緊り切って、博士はもはや猟銃も鴫も鷭も、すっかり忘れ果てているかのようであった。\n「マクドナルド君、セステルチアだよ、正真正銘のセステルチア金貨だよ! これは」\n そして誰も大して問題にもしなかった、例の三枚の絵を取り出して、一枚一枚どんなにそれを入念に眺めていたことであったろうか。また思い出したように函の嵌め込みに視線を送ってみたり、......しかも尽きぬ興趣に燃えてまた恍惚と閉ずるその瞳! まったくそれは豊猟に北叟笑む猟師の眼、会心の研究に魂を奪われている学者の瞳というべきものであったろう。\n 傍らに村長をはじめ、村の有力者たちが固唾を呑んで控えているのも気付かぬかのごとく、博士の眼は、今三巻の巻物の上に凝乎と吸い付けられている。時々驚愕したように眼を離して、函の中に納められている木乃伊の方を振り返って見たり、手にした煙草に火を点けるのさえ忘れているのであった。\n そして、驚くべし海洋学のマクドナルド博士、博士もまたケネディ博士同様驚異をありありと面に現して、巻物の上に、吸い付けられたような瞳を走らせている。\n「おお、古羅馬だ......古羅馬!」\n 恍惚としたように、二人の学者が独語する。そして時が静かに流れてゆく。\n 学者の研究の何ものたるかを解せぬ村人たちも、この真摯にして厳粛なる二人の老博士の研究の前には、何かは知らず咳一つ遠慮しなければならぬような、学問の荘厳さを感ぜずにはいられなかったのであった。\n ......そして、それからまた数時間の後......。\n「先生、いかがなものでござりましょうな」と、村長は博士の前に小腰を屈めた。あれから無慮七時間! 読み終ってもまだ二人の学者は、放心したようにただ顔を見合せて沈思しているばかり、絶大な驚きに魂を奪われている様子であった。学者先生たちも腹が空いただろうが、こちとらも腹が減ってかなわねん、もうそろそろいい頃だろうじゃねえか、と村長は頃合いを見計らっていたのであった。\n「いかがなものでござりましょうな? これは一体どこからまいったものでござりましょうな? おわかりになりましたでしょうかな?」\n 博士は軽く頷いたまま、それには答えず額に手をやって、まだ眼前に散ら付いてくる幻影でも逐おうとするかのように、沈思を続けていた。\n「時に、付かぬことを伺うようだが」と、老博士に代ってマクドナルド博士が口を開いた。\n「お国では、国の宝とでも言ったような貴重な物品を指定したり保存したりする仕事は、何という役所でやっておりましょうかな?」\n「さあ、......それは財務管理局でやっとりましょうと思いまするですが」\n「では、お手数ですが、スグその役所へ電話なり電報なりを打って、お役人に出張してもらっていただけまいか?」\n 財務管理局役人の出張? ......ウヘえ! と、一同へたばってしまった。\n「それでは大体の目鼻も付きましたから、明朝九時頃からここでお目にかかると、階下の記者諸君に伝えて下さらんか?」と博士もやっと顔を挙げた。\n「そう致しまするというとこの金は......」と村長は堪りかねて、恐る恐る伺いを立てた。まったく金貨専門のような村長であった。「どうも村の物にもなりませんようですが、一体誰の物になりまするんで?」\n 疲れたように老博士は眼を閉じていたが、その村長の問いには直接の返事を与えないで、人に話すともなく独語つとも付かずこういうことを言い出した。\n「今から三十二、三年ばかり前......前の世界大戦中のことですが、太平洋南水域で大暴れをした独逸の駆逐艦がある。シャッガァ号というのですが、今私共の読んでいるこの巻物は、いずれもその駆逐艦に乗り組んでいたカアル・フォン・ワイゲルトという若い独逸の中尉によって書かれたものです......」と言いかけて、微笑して博士は語を切った。\n「......その中尉はそれそこにいる!」\n 一同愕然とした。博士の指さしたのは、古羅馬貴族の服装を着けた男の方の木乃伊であった。\n「呀っ! 先生! この木乃伊が!」\n「ほう! へえ! この木乃伊が独逸人だったのですか?」\n「そうです。それがワイゲルトという中尉なのですが、......それは純粋の木乃伊ではありません。特殊の薬剤を注入して......ま、そんなことはいずれ明日でも詳しく申し上げるが、......そのワイゲルトという中尉の姉がある貴族のところに縁付いて、独逸のケムニッツ市に住んでいる。その姉に渡すようにと書いてありますからもしその本人が生存していれば、まあ、その人のものになるのではないかと思われますな。私には、そういう方面のことはよくわからぬが」\n 博士は淡々としてごく無造作に話しているのであったが、聞いている一同は今度ばかりはへたばることも忘れて博士の顔を瞶めていた。\n「しかし、そういうことは私にはよくわからないから、お役人が出張して来られたら、よくお役人とも御相談になってみられたらいいでしょう。もしその中尉の姉が現存していないということになれば、あるいはこの村のものになるかも知れませんから」\n 眼を円くして聞いている一同の様子を、博士は面白そうに眺めていたが、\n「皆さんは大分この金貨に御執心のようだが」と、もう一度笑止そうに口許を綻ばせた。\n「もちろん金貨の値打ちも大したものでしょう。しかしそんなものは高々何十万か何百万ペソ、......まあそんなところでしょう。が、ほんとうの値打ちというものはむしろ、皆さんが洟も引っかけずにいられるそこにある函や、鋸屑のような詰物、絵やこの巻物なぞの方にあるのですよ」\n「と仰有いますると......?」\n「それらのものは何千万ペソと言っていいか何億ペソと言ってよろしいやら、到底金で換算することも何もできぬ莫大な価値を持っているのです。財務管理局と、言いましたかね......そのお役人を呼んでいただきたいと私共が申し上げているのも、決してそんな金貨なぞを問題にしているのではありませんよ。函、油絵、鋸屑、それからこの巻物......そうしたものを、大切に保存していただこうと思っているからお願いしたわけなのです」\n へへえ! とばかり一同性懲りもなく、またもやへたばってしまった。\n「先生、パトリーア新聞社の方がお眼にかかりたいと、見えていられますが」と、またもや新聞記者の来訪であった。\n「明日! 明日!」と苦笑して手を振りながら博士は老躯の腰を叩いて起ち上った。\n「では詳しいことはいずれ明日申し上げることとして......今日は疲れていますから、これくらいで」\n そして落胆した金貨の村長の案内で、村で一軒の宿屋へ両博士の引き揚げて行った後の扉を、一同は鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして、まだポカンと見送っていたのであった。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\n四 ピッケルン島の南\n\n エキセルシオール紙やウニベルサール紙、エル・コメルシオ紙、ラ・プレンサ紙やラ・ナシオン紙等の選り抜き記者連中が会場へ乗り込んできたのは翌朝の九時頃であった。しかも片や羅馬古代史、片や海洋学の世界的権威二人の碩学が、ボカス・デルトーロの辺陬から世界的な重大発表をするらしいという噂が、誰いうとなく拡まって新聞記者たちの神経を刺戟していたのであろうか。首都とこの僻村との間には、珍しくも前夜来電信電話が頻々と交わされて、居眠りばかりしていた村の小さな郵便局員は眼を廻してしまった。\n そして夜が明けると同時に、眠り不足の眼をこすりながら、役場の二階へ駆けつけてきたのは、首都から夜通し自動車をぶっ飛ばせてきたタス、アヴァス、エーピー、ユーピー等各通信社の特派員たち......おそらく在京各有力社の記者という記者たちは、ことごとく眼白押しをしてここに集っているといっても過言ではなかったであろう。それに、知らせを受けて飛んできた財務管理局のお役人たち、事の成行きに好奇心を起して、自分たちの仕事もおっ抛り出して最前列の席を占めている州立蛇毒研究所の若い所員たち、自分では何とも判定は下し得なかったが、ケネディ博士がいかなる断定を下すかと固唾を呑んで控えた例のバヒア・ブランカ大学史学科の教授ケーポ・デ・リアーノ大先生、狭い役場の二階はこれらの連中で、押すな押すなの盛観であった。\n その中を村長や村の有力者たちは、村始まって以来のお歴々の来訪に眼を廻しながら、金貨を村のものにし損なった恨みもわすれて、お茶や珈琲の接待に忙殺されていた。\n もちろん重大な世界的の発表と言ったからとて、日本のそれのように一同着席、座のザワメキが落ちついた頃を見計らって、両博士静々と登場、咳一咳オホン! と言ったような、そんな勿体ぶったものなぞでは決してなかった。\n 二体の木乃伊の納まった大函だけは室の一隅に安置されてあったが、油絵の金貨や例のセロファンとも鋸屑ともつかぬ詰物なぞを無造作に並べた卓子を挟んで、すでに座の真ん中ではケネディ博士とマクドナルド博士とを中心に、記者諸君が万年筆と手帳とを取り出しているところであった。\n「では、何ですな、先生! そのワイゲルトという中尉の書いた記録や書翰の内容を一応我々に読んで下さって」と、エル・コメルシオ紙の記者ローペ・デ・トウリァ君が聞く、「その上で、一問一答の形式で御説明下さろうと......こうおっしゃるわけですな?」\n「そう、......その方が諸君にも、手っ取り早くお飲み込めになれるだろうと思われるから」\n「いかがです、皆さん、ケネディ博士はこうおっしゃるのですがね、それで皆さんにも御異存はありませんか?」と、トウリァ君が座長格で、一同を見廻して決を採る。\n「結構ですな、結構です、結構です! どうぞそういうことにしていただきたいですな、先生!」と、座の一隅から三、四人の声がかかる。\n「では一つ。先生、そういう方法で......」\n「承知しました。......承知しましたが、私もマクドナルド君もね」と老博士は穏やかそうな眼を綻ばせた。「唯今も申し上げているとおり、ほんの講義に差し支えない程度の西班牙語なのですから、翻訳なぞという芸当はとても覚束ない。どなたか一人、読んで下さる方を諸君の中から選んで下さらないとね」\n「そうそう、......そうでしたな。では、ちょっとお待ち下さい」とここで記者諸君が、額を集めて凝議する。\n 老博士のいうのはつまり、独逸文で書かれたこの三巻の巻物を一通り読んでみれば木乃伊や金貨、油絵がどういう性質を帯びたものであり、どこからどういう風に漂着してきたものであるか、そして何故に世界を驚駭せしめるような、そんな莫大な値打ちに相応しいものであるかということなぞは、一目瞭然たるのであるが、それにはここにいる記者諸君の中で誰か、独逸語に堪能な人はいないだろうか? というのであった。そうすれば亜留然丁人なのであるから読みながらスグに西班牙語に訳せるだろうというのであった。\n ラ・プレンサ紙の記者ミゲル・ソオリヤ君が、すなわちその選に当る。この人ならば独逸系亜留然丁の市民であったから、うってつけの人物というべきであった。そこで三巻の巻物が、ことごとく同君の膝の上に集まる。西班牙語に直してこれを朗読すべく、同君は巻物の第一巻を解いて凝乎と眼を走らせている。そして記者諸君は、いよいよ万年筆を斜に構えたという段取りなのであったが、\n「では、記録類の解説を、ちょっとここで述べておくことにしましょう。この巻物の最初三分の一ばかりの部分は、そのワイゲルトという中尉がケムニッツ市にいる姉に宛てて書いた書翰です。次の三分の一ばかりが、中尉と同じ駆逐艦シャッガァ号に乗り組んでいた、航海長のヘラァ・ルドウィッヒという大尉と主計長のウィットマン・クルーゲルという中尉、機関長のマイエル・ブルメナウという大尉なぞが連名で、同じくワイゲルト中尉の姉に宛てて書いた書翰。最後の三分の一ばかりと残り二巻の巻物は、ワイゲルト中尉がライプチヒ大学の地理学教室、もしくは伯林の万国地学協会へ呈出する目的で認めた、乗艦シャッガァ号の航海記録とも称すべきものなのです。多少順序は顛倒するようですが、ソオリヤ君に、まずこの航海記録から始めてもらうことにしましょうか」\n そこで私のペンもまたこれから、各社の記者諸君と同じ動きを取って、まずシャッガァ号の航海記録から読者諸君に御紹介したいと思うのであるが、諸君はここで私が冒頭に抽出しておいた、南太平洋水域に踪跡を晦ませた海の狼を想い出していただく必要がある。殊に、英艦によって舵機を砕かれ、前部砲塔を白煙に包まれながら、薄暮に紛れて遁竄してしまったあたりの条を、今一度読み直しておいていただく必要がある。\n\n独逸ケムニッツ市\nラファエスタイン街\nエリザヴェート・ローゼンタール\n男爵夫人\n 男爵夫人\n 御身宛の我々の書翰中にも詳しく認めておきましたとおり、甚だお手数でもこの記録を何卒、伯林市ケオニッヒ街万国地学協会もしくばライプチヒ大学地理学教室へ御持参下さって、御身御自身の手により呈出して下さるよう願い上げます。これは御身の亡き令弟生前の熱き希望であり、同時にまた我ら一同の願いでもあります。\n 魔の海として十八世紀以来、世界の謎と目されていた南緯六十度ウニデス本流以南の全貌が、初めてこの記録によって独逸の学者を通じ、全世界の学界に闡明せらるることは、御身の令弟カアルの生前いかに大きな望みであったかを知って下さるならば、我らの喜びこれに優るものはありません。我らもはや再び帰り得ざる故国なりとは言えども、この機会に遥かに我らが祖国の隆盛と繁栄とを祈り、併せて願わくば上帝、何卒我らが亡き友カアル・フォン・ワイゲルト中尉の令姉夫人の上に、加護と祝福とを垂れたまわんことを!\n一九一六年十二月九日\nオストリニウム市において\n元駆逐艦シャッガァ号乗組\n機関長海軍機関大尉\nマイエル・ブルメナウ\n航海長海軍大尉\nヘラァ・ルドウィッヒ\n主計長海軍主計中尉\nウィットマン・クルーゲル\n\n 万国地学協会もしくばライプチヒ大学に呈出せらるべき、故カアル・フォン・ワイゲルト中尉の手記による、駆逐艦シャッガァ号の航海記録。\n\n 我々は、我々の秘密錨地である智利領ラパヌイ群島中のアーレマン島において、我々の同志なる独逸系智利人たちの手によって、充分なる燃料食糧等の補給を受けた。そして一九一五年十月二十日、再び好餌を求むべく、太平洋南水域へと出動したのであったが、しかしこの度は我々の求むる好餌を与えられず、かえって我々自身の方が敵の求むる好餌たるの悲運に、際会してしまったのである。\n すなわち、水域に游弋すること三日......その三日目も空しくまさに暮れなんとして、模糊たる夕靄の海上一面を掩わんとしている頃であった。我々は、突如濛気の一角を衝いて現れたる英国監視艦のために発見せられ、たちまちその集中猛火を浴びせ掛けられたのであった。すなわち英領ピッケルン島の真南約二百三十海里......我々が南海航路の犠牲を求むるに絶好の位置なりし、南緯三十二度三分、東経百三十度七分の洋上であったと記憶している。彼我の距離、六千八百メートル!"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 鶴見は姉と肩をならべながら、『新体詩歌』の中の自由の歌やハムレットの独白なんぞを誦じて、街頭を歌って歩いた。この『新体詩歌』は有名な『新体詩抄』の民間版ともいうべきもので、明治十六年にはその第五集を出している。鶴見が今持っているこの小冊子は奥附を見ると十九年二月の出版となっている。この書は岩野泡鳴から譲り受けたもので、その当時鶴見が手にした袖珍本と版式に変りはない。そうしてみれば、彼がその本を読んで感動した年代もほぼ明らかになる。今までに類のない新しい歌を歌って町を歩いたことがそう突飛とも思われなかったというのは時勢であろう。その時勢に応じて、いつとなく少年なるべき彼の心に、やがて意志の自由や個性の発現が望まれるようになっていたと解しても好かろう。新時代は確にこうした道をたどってその波動をひろめつつあったのである。\n\n 生母に別れた後の鶴見は、親身になって世話をやいてくれるものは誰一人なく、一旦棄てられた小供がまた拾われてかつがつ養われていたような気分に纏われていた。それにもかかわらず、時勢にふさわしい歌を朗かにうたって、鬱屈した精神を素直に伸してゆけたことは全く姉のおかげであった。\n しかるに継母が来て、干渉がはじまった。その干渉の裏には棘があった。\n 姉は好い時機に国へ立って行った。それと共に姉は好い時分に東京にいたともいえる。\n 毛糸の編みものがその頃流行していた。そういう手工にも姉は器用であった。あの鹿鳴館に貴婦人たちが集って、井上外交の華やかさを、その繊手と嬌笑とをもって飾った時代である。有名なのは夜会の舞踏であった。昼間はバザアが催された。姉は相当な官吏の女であるというので、勧められて編物も少しは出品したが、要するに売子に雇い上げられたのである。それはそれで好い。鶴見も絹の袴に紋附を着て、叔母に連れられて後から出掛けて行った。\n そこでは休憩室で、珈琲とカステイラを頂戴する。立派な椅子にも腰かけられる。バザアも覗く。姉も鶴見もいわゆる文明開化の誇示をまのあたりに見て、珍らしい経験を得て帰って来たことをおぼえている。忘れえぬ感銘の一つである。\n\n 明治十八年には官制の大変革があった。\n 父は許される限りの出世をして、文部書記官に昇進する。それは好いが、新官制によって定めたとおり、父も遽に大礼服というものを誂えて一着に及んだ。父には到底似合もせぬしろものである。御用商人の手で最上等に仕立てられた。肩や胸には金モオルがこてこてと光っている。それに外套の仰山さには一同びっくりした。こんな物を引掛けては小さい人力車などには乗れそうもない。是非馬車が必要になるといって、皆あきれて、あとでは笑いこけた。それほど偉大な怪物であったのである。父もたった一度身につけたなりで、またと再び大礼服に手を通すことはなかった。\n 父は出世するだけ出世して罷めさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。もちろんそれも四、五年の間であった。\n 姉は父の全盛を見て国へ帰って行ったのである。暫くの間であったが、風月の洋菓子などふんだんにあった。ボンボンといって一粒ごとにいろいろの銘酒を入れた球状の菓子もある。父はそんなものには目もくれず、カステイラなどはいつでも黴が生える。それでも手をつけさせなかった。家族のものは勿体ないといったが、どうにもならない。\n\n 官制の改革は多数の犠牲者を出した。安穏に眠を貪っていた官吏社会をはじめての恐慌が襲ったのである。維新当座どさくさまぎれに登用された武士階級中の老年者とか無能者とか、たいていそういう人々が淘汰された。そういう人々の家族は困り切って、寄るとさわると、窮乏の話をひそひそとしていた。今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、繰り言をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。\n 継母は継母で一家の経済を極端につましくした。\n これまでぼんやり育って来た鶴見にはまだ買物をする呼吸がわからない。いつでも同じ事であるが、その頃の商人はことにこすかった。こすいのはまだ好いがごまかしをやった。空缶を持って行って煎餅を買いにやられる。買って来ると、\n「何といって買ったの。」継母から意外な問が出る。\n「この缶にいくらだけ入れてくださいといいました。」鶴見にはまだ様子がわからないので、そういって正直なところを打あける。\n「そんな迂濶なことで好いのかね。これからは品物を缶に入れさせて置いて、これでいくらと聞いてみるのだね。ごまかされるよ。」\n 事ごとにこんな風にたしなめられて今までに覚えぬつらさを感じた。\n 鶴見はこうして、日々に鍛え上げられる。些細なことのようであるが、それでも効果はあった。鞭をあげているのは継母の手を借りた人生の世智辛さであるということが、追々に納得が出来るようになる。人心の機微を察するということも、こうしているうちに、見当がつくようになる。鶴見にはそれだけの変化が起った。\n 継母は継母らしく振舞ったのである。鶴見はそう思って、別段に悪感情も懐かずにじっとしていた。\n\n\n宿命的孤独と自由"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\n\n\n まだ中学に入らぬ少し前のころであった。多分明治十九年も押詰まった暮のことであったかと思う。その年ひどく流行した麻疹に感染して、一応はどうやら癒ったものの、病毒が廻って全身に吹出物を生じた。薬湯に連れて行くにもあまり見苦しいので家人も億劫がっていたところ、西岡という若い未亡人が来て、自分の遣らせている塩湯はどうだろうと勧めてくれた。家人のためには渡りに船であった。\n 塩湯というのは京橋木挽町河岸にあった。そんなわけで鶴見はさっそくそこへ遣られた。出養生である。幼少の鶴見にとっては、これが家庭以外の世間というものにはじめて触れて、未知の境界を少しずつ知る機縁となった。\n 鶴見はその塩湯に寝どまりすることになって、万事は西岡の若い未亡人がよいように取運んでくれた。朝早くまだ誰も入浴に来ないうちを見計らって、風呂の蓋を開けてもらい、湯気の盛んに立つ綺麗な湯につかるのである。鶴見ははからずも一番風呂の贅沢を独占する。その上にも一しょに入る未亡人からは、流し場で、一面に瘡になった体をたでてもらえる。そのおりのことを、彼はいつまでも忘れないでいる。かほどまでに親身になってかばわれたのは、彼にはかつてなかったためしである。\n\n 父とは同国の出身で、夙くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、少しは世に知られていた医家があった。西岡である。西岡は不幸にして志も達せずに歿したが生前の主張が一つの果実を結んで、それが未亡人の手に遺されていた。芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその遺業はつづけられた、塩湯の方はおいおい附帯のように成っていったが、芝浦館といえば東京では知らぬ人はまずなかったといって好かろう。\n 西岡未亡人の家にはそんなわけで、西岡医院開設当時に贈られた蒼海翁のあの雄勁な筆力を見せた大字の扁額を持ち伝えていた。鶴見が幼い観察から、急傾斜になっている海面にひっくり返りもせずに小蒸汽船の動いてゆくのを見たというのは、その塩湯でのことであった。木挽町の塩湯はいわばその分身のようなものである。越後長岡の出で、どういう因縁のあってのことか、左団次贔屓の婆さんが頭だって切り廻していた。場所柄でもあり、また婆さんの趣味も加わって、築地辺に住んでいる名うての俳優の家族などにもその宣伝がきいたと見えて、その連中が常連として入浴に出掛けて来る。そう聞かされて見れば、子供心にもなるほどとうなずかれる。流し場の隅に積み重ねてある留桶のなかで三升の紋などが光っていたからである。\n 西岡の若い未亡人はその塩湯の奥座敷を自分の部屋として占めていた。縁側寄りの中硝子の障子の前に文机がかたの如く据えてある。派手な卓布がかかっている。その一事のみがこの部屋の主人の若い女性であるのを思わせている。筆立には二、三本毛筆が挿してある外にペン軸が交って見える。その横にインキ壺が備えつけてある。朝日が射し込むとそのペン先が忽ち金色に輝き出す。インキ壺の切子の角が閃光を放つ。机上の左の方には二、三冊の洋書が無造作に置いてある。簡素で、たったそれだけの道具立てであるが、鶴見は朝々それらを目にするたびに、そこにどうやら身に迫ってくる時代の新鮮味をおぼえるのである。\n この部屋の主人公である若い未亡人はカトリックの尼さんたちと懇意にしていたが、そのころ発展の気運に向っていた女子教養のためのミッションスクウルが、麹町四ツ谷見附内に開設せられ、西岡未亡人がその学校の校長に推されているというようなことなども段々知らされた。この未亡人が鶴見の結婚の仲介もし、その前年の日露戦役の終った年の暮には、あわただしく病に倒れた鶴見の老父の葬儀にも彼は格別の世話を受けた。このたびの戦時中、八十幾歳で亡くなったが、鶴見は父の死後少しも変らずに長く附き合っていたのはこの夫人だけである。\n\n 鶴見はこんなことを思っている。――西岡夫人は実際特異の存在であった。時代を識り時代に順応して、八十幾歳の長い生涯に複雑な経歴を閲しつつ、しかも平凡に、そのために更に自由に身を処して、未亡人として思うままの享楽も為尽して、晩年は二、三の知名の士の夫人と同好の仲間を作って、観劇に老を忘れていた。世間のことなら何もかも知りぬいていながら、飽きて退屈するような素振は少しも表に現わさない。それだけに老いてもくずおれるということがなかった。そしていつも優雅な言葉つき、そうかと思えば随分と放胆な調子も厭わぬ言葉のあやと表情饒かな微妙な振舞とに溢れるばかりの才気を見せる。西岡未亡人にはそういうような、他に優れた特質の美が目立っていた。引きつづいてカトリックに信仰を持っていたとは言えなかったが、その薫染がどこやらに残っていて、未亡人に接するたびにその匂いをかぐように感ぜられた。とにもかくにも未亡人はこの宗教と死ぬまでも縁を切らないでいたのである。\n 西岡夫人はすでに他界したが、鶴見には夫人は第三者としてではなくて、もっと身近にいつまでもいてくれる。鶴見はふと気がついてそんな風な考にはまり込む時がある。夫人の生涯を鶴見は自個の生涯の上にも見たのである。\n「おれの生涯は敏慧で親切で寛容な夫人の優雅な言葉を縫糸にしてはじめて仕立てられた一領の衣である。おれにはそう思われて仕方がない。清新と自主と自由とが縫い目縫い目に現われている。野性に圧された重たい麻衣の上に少しばかりの柔靭さが加わったとすれば、あの不思議な縫糸と自然な運針とを仔細にあらためて見ねばならない。そこにはあの奥深い情味のこもった宗教の香味がそこはかとなく匂っているのである。\n 冥々の化ということがある。夫人の長い生涯の間の感化がそれである。いつとは知れず、その感化がおれの体に浸み込んだのだ。そしてそれが冥々の裡におれの思想を支配していたのでもあったかのように反省される。この夫人ならおれの生母のいきさつをも熟知していたかも知れない。おれはおりおり聞いて見ようとしたが、口には出せなかった。おれにはつまらぬ片意地がある。それでいつも損ばかりしている。夫人は不幸なおれの境遇をよく知っていたので、余計に孤児としてのおれを憐んでいたのかも知れない。」鶴見はそう思って、この夫人に特に感謝の念を致しているのである。\n\n 鶴見は明治二十年に府立の中学に入校した。中学の校舎は木挽町の歌舞伎座の前を通り過ぎて橋を渡ると直ぐ右角の地所を占めていた。かれが出養生をしていた塩湯とは堀割を隔てて筋向いになっている。\n 鶴見はもう幼年期を終って立派に少年時代に入る。独楽や凧や竹馬や根っ木やらは棄てられねばならない。鶴見はそのなかでも独楽は得意で、近所の町屋の子や貧民の子らと共に天下取りをやった。その外にめんこもやった。とんぼも追いかけ廻した。殊にとんぼには興味をもっていた。どうしてそんなに沢山いたかと思われるほど、とんぼが飛んでいた。種類も多かった。しおからやむぎわらは問題にならない。虎やんまもいたし、車やんまもいた。そしてそれを珍重がっていた。虎やんまは往来を低く飛んできて、たちまちのうちにもち竿の陣を突破してしまう。虎やんまの出るのは主に日盛りの時分である。なかなか手におえぬところに次の機会が期待される。車やんまというのは虎やんまに似ていたが尾の先に車の半輪のような格好をした鰭がついている。特性としては、物干の柱に立てた丸太のてっぺんなどに羽を休めることである。さてその日も暮れかかってくると、普通のやんまが夥しく集まってくる。それが町の四辻に渦を巻いて飛び交わしている。そのやんまの両性をおんちょ・めんちょといって呼び別けていた。交尾のために集まったやんまに違いないのである。\n 子供たちはそこを目がけて竿でめった打ちにするものもあれば、趣向を変えて、とんぼ釣をすることもある。とんぼ釣といっても、これは計略で、あながちに釣り落すのである。計略とはいえ至極簡単なもので、女の髪の毛一筋あれば事足りるのである。その髪の毛の両端に小石を反故紙にくるんで結びつける。仕掛けはそれだけで済む。それを手早く拵えて、持っていって、あてもなくやんまのかがいの中に放り上げる。引っかかったやんまこそ災難である。やんまは首筋を髪の毛にはさまれて、その両端につけた小石の重みに圧されて落ちてくる。それによっても推量されるようにやんまは一箇所に押合っている。二、三百は飛んでいたろうかと思う。取れた獲物は籠に入れたり、手の指の股に挿んだりする。\n およそとんぼのことといえば夢中になっていたのである。取ったとんぼは鈴虫のように好い音を聞かせるでもない。ただそれだけのなぐさみに過ぎなかったが、それでも籠に入れ持って歩いた。子供仲間でとんぼ草と呼んでいたものが、乾いた溝の縁なんどに生えている。紫褐色の肉の厚い葉を平たく伸している雑草である。莧の種類でもあろうか。その草を摘んで籠の中のとんぼにやったりする。果してとんぼがその草の葉を食べるものか、それはどうでも好かった。ただそういうことをするのが、何というわけもなしに、面白かったのである。\n しかるに昨年の秋になって、転出先から疲れ切った翼を休めにもとの古巣に戻って来て、さて今年の夏になって見ると、裏庭を畑におこしたそのあとの土に、この久しく忘れていたとんぼ草が一面にはびこり出したのを発見した。それを見ると、幼時の日常が思い出されるといって、鶴見はつくづくと懐かしがっているのである。\n 幼年期のこうした回想もいよいよとんぼ釣で終末を告げる。鶴見は中学に入って急に大人びて来たからである。世間もそれと同時にめまぐるしく変っていった。二十二年、二十三年には憲法が発布され、議会が開設される。万事が改まって新しく明るくはなったが、また騒がしくもなった。その騒しさが少年の心を弥が上にも刺戟した。まだ社会の裏面を渾沌として動きつつあった思想が、時としては激情の形で迸り出ようとすることがある。\n 憲法発布の日には、時の文相森有礼が暴漢のために刺殺された。事実の痛ましさはめでたい記念日の賑いに浮き立っていた誰しもの胸を打った。しかしその惨事が国運にどれだけの意義を持っていたかは、当時の少年などに分ろうはずもなかった。ひとり少年とはいわず、然るべき識者にしても恐らくそうであったと思われる。一口にいえば文明開化と国粋思想の相剋である。それが将来に如何なる展開を示すものか、その意義を正しく認識し批判し得るものは恐らく稀であったろうと思う。世間では大部分雷同して森文相の自由主義を攻撃していた。それでも外国文化の移入は国粋思想の抵抗によってそれほどの影響も受けずに、むしろ両々相待って進んで行った。国学の再興にしても、その根蔕には文化に対する新しい見解が含まれていた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 下女はまた、「しばらく、どうか......」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。\n すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の情緒によく合った。不意に天から二、三粒落ちて来た、でたらめの雹のようである。\n 三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。\n「いらっしゃい」\n 女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。\n「とうとういらしった」\n 同じような親しい調子である。三四郎にはこの一言が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作に近い。\n「佐々木が」\n「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、じつはなんだかわからない。この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。\n「佐々木が来ました」\n「なんと言っていらっしゃいました」\n「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」\n「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。\n「ええ」と言って少し躊躇した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面をながめだした。\n「曇りましたね。寒いでしょう、戸外は」\n「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」\n「そう」と言いながら席へ帰って来た。\n「じつは佐々木が金を......」と三四郎から言いだした。\n「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると\n「どうしておなくしになったの」と聞いた。\n「馬券を買ったのです」\n 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。\n「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」\n「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」\n「あら。だれが買ったの」\n「佐々木が買ったのです」\n 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。\n「じゃ、あなたがお金がお入用じゃなかったのね。ばかばかしい」\n「いることはぼくがいるのです」\n「ほんとうに?」\n「ほんとうに」\n「だってそれじゃおかしいわね」\n「だから借りなくってもいいんです」\n「なぜ。おいやなの?」\n「いやじゃないが、お兄いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」\n「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」\n「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」\n「御迷惑なら、しいて......」\n 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、\n「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。\n「降らなければ、私ちょっと出て来ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。\n「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱へ降りて、靴をはいていると、上から美禰子が、\n「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。\n 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。\n そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。\n「どこへいらっしゃるの」\n「あなたはどこへ行くんです」\n 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。\n「いっしょにいらっしゃい」\n 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、\n「お願い」と言った。\n「なんですか」\n「これでお金を取ってちょうだい」\n 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座預金通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「三十円」と女が金高を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、\n「丹青会の展覧会を御覧になって」と聞いた。\n「まだ見ません」\n「招待券を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」\n「行ってもいいです」\n「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」\n「原口さんが招待券をくれたんですか」\n「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」\n「広田先生の所で一度会いました」\n「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」\n「このあいだは鼓をならいたいと言っていました。それから――」\n「それから?」\n「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」\n「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。\n 三四郎はまた隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、\n「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。\n「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。\n 学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池の端へ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の周囲についている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しかし熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである。三四郎の目にはただ油絵と水彩画の区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。\n それでも好悪はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。\n 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。\n 長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。\n「ベニスでしょう」\n これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、\n「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。\n「兄さんとは......」\n「この絵は兄さんのほうでしょう」\n「だれの?」\n 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。\n「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」\n 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。\n「違うんですか」\n「一人と思っていらしったの」\n「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、\n「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。\n「里見さん」\n だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。\n 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、\n「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、\n「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。\n「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。\n「その代りここん所へかけるつもりです」\n 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。\n「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。\n「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。\n「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」\n 原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。\n「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。\n「まだ」\n「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」\n 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。\n「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」\n 三四郎はええと言った。\n「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」\n「ありがとう」\n「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「声を出せば聞えさうだね」\n 後ろで、誰かが云つた。すると、だしぬけに、\n「ばんざアい......」\n と、大声に呶鳴つたものがある。それは、神谷であつた。続いて、また、\n「ばんざアい......」\n 彼のあとに続いて、一斉に、人々は「万歳」を唱へた。\n「さあ、あなたも云はなけれや」\n 手を取つて無理に高く挙げさせようとする神谷を、彼女は、やさしく睨んだ。\n 手摺の上へ、二人の手は重つたままおかれてゐた。\n 夕食の銅鑼が鳴つてゐる。人々は散つて行つた。一筋の澪を長く引いて、艦隊は南下した。\n 神谷は、口笛で「守るも攻むるも」を吹きだした。子供のやうであつた。千種は、うつむいたまま笑つてゐた。波に顔がうつるかしら、などと、心の中で独言を言つた。\n「僕は、どうしてかう楽しいんだらう? 何をみても楽しいな。軍艦はもちろん勇壮だ。ごらんなさい、もうあんなに小さくなりましたよ。想ひ出は澪の如く泡だち......か。大海の、霞に消ゆる、ふね四艘......と」\n「なに、それ?」\n「新体詩......」\n「誰の?」\n「ははは、僕の......」\n「いやだ......真面目くさつて......。旧いの!」\n「ああ、どうせかういふ気持はふるいですよ。だつて、僕は、そいつをなくしたら最後、新しい代りは、もう手にはいらない年なんだもの。何処までも、こいつで押し通しますよ。寒いの?」\n「いいえ......。手、おはなしになつて」\n 彼女は、自分の手を引つ込めようとしたが、神谷の手がそれを放さないのである。\n「ふり放してもよくつて?」\n「やつてごらんなさい」\n 千種は、決して神谷の顔を見ようとしなかつた。不思議に慌ててはゐないのである。かういふことがあつていいのだらうか? ただ、さう思つた刹那、全身が硬ばつて、眼がくらむやうな気がした。\n と、その時、手首にちくりとしたものを感じた。神谷が唇をそこに押しあてたのである。あつと思ふひまもなかつた。彼女は、力まかせに手を振り切つて、その場を逃れようとした。が、彼はさうさせない。\n「お待ちなさい、僕は、鬼頭少佐と決闘をしてもよろしい。あなたは、彼を裏切りたくないといふだけでせう。決して裏切ることにはなりません。あなたは、もう自由です。立派に彼の手をはなれ、心のつながりさへ、ないと云つていいぢやありませんか。僕は、そのことを確めたかつたんです。僕は、堂々とあなたに近づけ、あなたは、素直に僕の気持を受けいれて下さつたまでです。何を憚るところがありますか?」\n\n六\n\n 神谷の眼をぢつと見据ゑた千種は、急に眩しさうに瞬きをした。もう自分の力ではどうにもならぬといふ気が、ふとしたのである。それは、怖れにも似た精神の動揺であつたが、それはまた同時に、天の声を聞いたとも云へるやうな不思議な麻痺状態に違ひなかつた。彼女は、とられた手に力をいれて握り返さうとした。が、指が自由にならない。\n「痛いわ、そんな風になすつちや......」\n そこで、赦しを乞ふやうに、低く呟いた。彼の手が緩むと、彼の眼も和やかに微笑んだ。\n「痛かつた? ごめんなさい。しかし、元気がついたでせう。どら、もう一度、あなたの眼を見せて下さい。僕は、今、たしかに希望を読んだんだがなあ。また、後ずさりをしちやいけませんよ。さあ、飯を食ひに行きませう」\n さう云つて、神谷は、彼女の顔をのぞき込んだ。\n 彼女は、唇を噛んで横を向いた。しかし、ほんのりと紅をさした瞼が、夢想をたたへて美しく張つてゐた。\n「あたし、あとから行くわ。お先へいらしつて......」\n「いいぢやありませんか、一緒に行つたつて......」\n「いやなの。さ、いらしつてよ」\n「変だなあ、今日に限つて......。大丈夫なんですか?」\n「............」\n 大丈夫といふ言葉に自分ではツとして、神谷は、しばらく、そこに立ちすくんでゐた。\n「とにかく、ここは暗くなると、足もとが危いですよ、いろんな道具があつて......。あつちの広い甲板へ出ませう」\n 彼はもう、馴れ馴れしく、彼女の肩へ手をかけた。それをまた、別にとがめる気持もなく、千種はゆるゆると歩き出した。\n「さつき、ふつと、あたし、海へ飛び込まうかと思つたのよ。それ、おわかりになつた?」\n 彼女は、わざと平気な顔をしてそんなことを云つた。神谷は、なんと返事のしやうもなく、ただ苦笑してゐると、\n「あなたが、大丈夫かつておつしやつた時、丁度、あん時だつたの。人間つて、妙ね、考へがさういふところへ落ち込んで行く瞬間があるのね。生れてはじめて、こんなこと......」\n「度々あつちや困るですよ」\n と、神谷は、とぼけてみせた。\n その晩、急に天候が変り、海はそれほど荒れなかつたが、霧雨が次第に本降りとなり、甲板には出られさうもないので、みんな早目にキャビンへ引きあげた。\n「なんか、読む本、一冊貸して下さらない? 寝つけさうもないから......」\n 千種が、しばらくして神谷の船室をのぞきに来た。\n「本つて、どんな本? 小説なんかもつてませんよ」\n「雑誌は?」\n「雑誌も、みんな島へおいて来ちやつた。図書室になんかあつたやうだな。探して来てあげませうか?」\n「あら、自分で行くからいいわ。今、なにしてらつしやるの?」\n「え? ちよつと、面白いことをはじめてるんです。まあ、はいりませんか」\n「雨は止んだかしら......」\n「こつち側ぢやわからないなあ。風は西風でせう。海は真つ暗だし......。さうしてるならおはいりなさいよ。おんなじこつた。剃刀の修繕はぢきすみますから......」\n\n七\n\n 千種はいつとき躊つて、たうとう神谷のキャビンへはひつた。ベッドの端へ腰をおろして、彼のすることをみてゐた。安全剃刀のどこかが工合が悪くなつたのをなほしてゐるのである。\n「さあ、これでよし。明日はいよいよ門司著と......上つてみませうね」\n 千種は黙つてゐた。\n「ねえ、覚えてますか、旧いことだけれど......、あなたが十か十一ぐらゐだつたかなあ......僕の家へ遊びに来た時のこと......」\n さう云ひながら、彼は千種の傍らへ歩み寄つた。彼女は、上眼づかひに、彼の顔をちらとみた。\n「久馬君と、たしか、千里君も一緒でしたね、あれはどういふんだつたかなあ......。僕はあなたと仔猫を追つかけたことしか覚えてないんだ。夕方になつて、千里君だつたかが、もうご飯だから帰らうつて云ひ出すと、あなたは、いやだいやだつて泣き出すのさ」\n「あら、うそばつかり......」\n と、千種は、はぐらかされたやうに、むきになつた。\n「うそ? ぢや僕の思ひ違ひかしら? 今でも眼に見えるやうなのは、あなたの、あの生毛の多い頬つぺたさ。それがもう、こんなに頬紅なんかつけて......ええい、生意気だ......」\n 横へ坐つたと思ふと、彼は、いきなりその顔を近づけてきた。彼女が軽く除けようとして首を縮めるのを、今度は、正面からのしかかるやうに、両肩をぐいとつかんで後ろへ押し倒した。不意を喰つて、千種は、危く声を立てようとした。が、神谷の健康な笑顔が、危急切迫の感じを与へず、却つて、それが戯談でもあるかのやうな印象を与へた。\n「随分、野蕃ね、あなた」\n と、仰向けに倒れたまま、彼女は、かすれた声で云つた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「ははは、野蕃か......野蕃に違ひないや。だつて、どうすればいいんです、あなたみたいに反響がないなら......」\n 彼もまた、餌物を抑へた獅子のやうな身構へでこれに応じた。\n 二人はさうしてしばらく睨めつくらをしてゐた。どつちが早く笑ひ出すか?\n が、どつちも笑はなかつた。\n 彼女は、つひに、悲しげに口を開いた。\n「ちやんとお話をするから、どいて頂戴!......ご自分のことばかりおつしやつて、あたしにはなんにも云はして下さらないんですもの......。あたしだつて、云ひたいことがあるわ......」\n「ぢや、一度だけ、キスしてもいいでせう」\n 彼女は大きく首を振つた。\n「お預けですか? 女の戦法はお預けの一手と来てるんだからなあ。その間に、いつたい、何を考へるんです? 待たしておくと、どんな利益があるんです? 後で逃げを打つとき、ああ、あん時許さないでよかつたなんて、胸を撫でおろすためでせう? ただ、それだけのためなら、許しといて逃げるのも面白いぢやありませんか。あん時はあん時つていふ弁解は、十分成り立ちますよ。今は、今の気持に従つて、決して間違ひはありません、少くとも僕が相手である以上......」\n「ええ、それやわかつてますわ。ただ、いまの気持が、ちやんとすわつてお話しがしたいんだつたら?」\n 神谷は、そこで、からだを起すといつしよに、声をたてて笑ひだした。\n\n八\n\n 千種は、崩れた帯の形を気にしながら鏡の前に立つた。\n「こんなになつちやつたぢやないの。ちよつとなほして来るわ。あたし......」\n さう云ひ云ひ、彼女が出て行かうとするのを、神谷は、止めようとしなかつた。\n「すぐいらつしやいよ。寝ないで待つてるから......」\n 自分のキャビンにはひると、千種は、ぐつたりと椅子に倚りかかつた。が、急にまた起ちあがつて、帯をぐるぐる解きはじめた。刺繍の花模様が大きく足もとに流れた。と、思ひ出したやうに、扉の鍵をおろしに行つた。それから、下著まできちんと著なほした。帯は結ばずに、伊達巻のまま、いつ時、窓から外を眺めてゐた。表情が目まぐるしい移り変りをみせた。波の音に耳を澄ましてゐるのかと思ふと、なにかの幻影を払ひのけるやうに眼をつぶつて両手で顔を押へた。さうかと思ふと、鏡に顔を近づけて眉をぴくぴく動かしてみたりした。\n やがて、散らかしたものを手早く片づけ終ると、抜き足差し足で扉に近づいた。音を立てないやうにハンドルをまはした。部屋から出ると、そのまま、まつすぐに上甲板の方へ歩いて行つた。雨はもう降り止んで、密雲にとざされた空はところどころ微光をのぞかせ、黒一色の海上は不気味な静けさを漂はしてゐた。\n 彼女はいま、なによりも、自分の生命をいたはる気持になつてゐる。まづ、何ものをも怖れない勇気が欲しい。なんでもやればできるといふ自信をもちたい。さういふ風に、心は弾むだけ弾んでゐるのだが、どういふものか、なにひとつ、ぢつくり考へるといふことができないのである。判断はすべて、頭の中できりきり舞ひをするだけである。\n 彼女は、甲板の上の水溜りをよけながら、右へ左へと歩きまはつた。梯子を伝つて、二等船室の甲板へも降りた。それから、足の向くままに、歩けるところは何処でも歩いた。\n ――死ぬなんて、いやなこつた。生涯に二人の男を愛したといふことが、ただそれだけのことが、どうしていけないんだ! ふと、心の中でさう呟いた時、すぐ後ろに、跫音が聞えたので、彼女は、ぎよツとして振り返つた。\n「なにしてるんです、今頃......。人を待たしといて......」\n 神谷の声である。\n すると、彼女は、笑ひを含んで、\n「若しかしたら、あなたも散歩に出てらつしやりやしないかと思つて......お部屋より、ここの方がずつといいわ」\n\n九\n\n 二人はそれから遅くまで、そこで語り合つた。そして、彼の激しい情熱の前に、彼女はもう一切を拒むことができなかつた。\n 彼女は、いま、幸福であり、羞恥にふるへ、自分の大胆さにあきれてゐた。が、神谷の胸に、顔を押しつけて、ぢつと波の音を聴いてゐると、急に、深い谷底へ落ち込んで行くやうな気がした。と、その時、耳もとで神谷の囁く声がした。\n「なんにも考へないで......ね。僕と一緒に何処へでも行く気でいらつしやい。僕だつて、どうなるかわかりません。しかし、あなた一人を苦しませるやうなことはしないから、それだけは安心して下さい。周囲をすべて敵にするやうなことがあつても、あなただけは僕を信じてくれると思つてます。ああ、かういふ時にこんなことしか云へないのかなあ。ねえ、千種さん、この船でもう一度台湾へ行かうか?」\n すると、千種は、静かにからだを起しながら、\n「ええ、ほんとにさうして......」\n と云つて、相手の顔を見上げた。\n やがて、もう一時になる。船が門司に著くまでにひと眠りしておかうといふので、二人は船室の前で別れた。神谷の跫音が遠ざかると、千種は船暈の用心に持つて来たアダリンを、極量の半分だけ飲んでベッドにはひつた。\n 翌朝、早く、船は門司に入港した。\n「どう、上陸してみない? 時間はたつぷりあるから......」\n 神谷は朝食に彼女を誘ひながら、かう提議した。\n「あたしね、やつぱり、先へ福岡へ行つてみるわ。一度帰らないと、兄さんにもわるいし......」\n「ぢや、僕も行かう。兄さんにも会つて、先々の話をしといた方がいいでせう」\n「さあ、それやどうかと思ふわ。まあ、そのことはあたしに委しといて下さらない?」\n「さうか。で、幾日ぐらゐの予定? すぐ東京へ出て来られるでせう?」\n「ええ、できるだけ早くつていふことにするわ。あなたの方さへよければ......」\n「僕の方は、今からでもいいさ。形式的なことは急ぎやしないんだから......。荷物なんかなんにもいりませんよ。なにもかにも新しくやり直しだ」\n 駅で切符を買ふ時、神谷はまたかう云つた。\n「福岡まで一緒に乗つて行かうか?」\n「いいのよ、一人で行つた方が......」\n「休暇は一週間以内ですよ。東京へ出て来たら、まつさきに僕んとこへ来ますね。それ約束して下さい。前もつて、電報を打つてくれるといいな」\n 汽車が出ると、千種は、ほつと溜息をついた。プラット・フォームへ残した神谷の姿がいつまでも眼を去らなかつたが、やがて、工場地帯を抜け、蕭条と枯れ果てた野づらが左右に展けると、彼女の胸に、ふと、今までにない悲しみがこみ上げて来た。\n 鬼頭を去つて神谷についた自分を、一方で是認し、力づけ、光明のなかにおいて見ながら、これでいよいよ鬼頭との間もおしまひだと思ふと、そのことが、こんなにまで淋しいことなのだ。\n 彼女は、決して、後悔はしてゐないつもりである。これが過ちだとしたら、自分はもう台なしな女である。そんな筈はない、と、そこで彼女は心のなかで叫んだ。この時、ふと、今迄気がつかなかつたひとつの考へが頭の一隅をかすめた。\n ――さうだ、あたしは、ひよつとしたら、復讐をしたのかも知れない。あの人にではなく、あの人の何処かに......。\n 博多湾が松林の間に見えだした。線路に沿つた白い砂浜のそこかしこに旋風が舞つてゐる。\n 彼女は、はじめて訪れる北風の街をせつなく心に描いた......。\n\n\n\n\n決断\n\n\n一\n\n やうやく伴直人の日誌を読み了つた鬼頭は、六十年にあまる生涯が築き上げた、複雑な心の世界を、隅々まで知りつくしたやうな気がすると同時に、自由に物を考へるといふことが、如何に頼りないことであるかを、今更ながら痛感した。伴直人の、社会人として、また家庭の父としての不遇は、彼みづから誇りとするところの無方針から来てゐるのである。政治を論じ、教育を論じ、文明を論じ、職業を論じ、民族性を論じ、武士道を論じ、殊に、現代の軍人とか、日本の指導精神とかを論じてるあたりも、そこには、西洋風の分析と論理があるばかりだ。たまたま、感動に類するものがあるとすれば、それは、彼の「誠実」である証拠を示すぐらゐのもので、どうかすると文章の綾がそれさへをも誇張してゐる場合がすくなくないのである。彼の個人生活には、別に一般の模範となるやうなところもなく、三十年の育英事業は、その功績よりも寧ろ労苦を多とすべきであり、この日誌の出版はさなきだに混乱を極め、無気力に傾きつつある現代青年の思想と性格に、何等、好影響を与へるものでないのみならず、自分一個としても、かかる人物の薫陶を受けたといふことは聊かも名誉にはならぬ、まして......。\n 丁度そこへ、番茶と塩せんべいとを持つてはひつて来た母が、何時もならそのままそつと部屋を出て行くのを、今日に限つて、ぺつたりと彼の横に坐つた。\n「千種さんからは、その後お便りはないの?」\n「台東から電報を打つてよこしたのは、あれは何時でしたかね? もう一週間になりますかね。ぢやとつくに内地に著いてる筈ですね。福岡の兄さんのところへ帰つてるに違ひないんですが......」\n「疲れとりなさるぢやらう。見舞の手紙でもあげたらどう?」\n「ええ、まあ、いろいろ僕にも考へがありますから、お母さんは黙つてて下さい」\n「黙つてろちうたて、あんた、急ぐものは急がにやならんし......。はやう、家へ呼んであげるわけに行かんの?」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "釈尊の手をマルクスはかけめぐり\n陽はおのが錯覚の夜追ひ続け\n落る実の空へ落つべき実はなきか\n墓石を刻む男がこわかった\n剃刀の刃の冷たさの上に踊れ\n熟し落つ文明の実と種子と土\nめらめらと燃ゆは焔か空間か\n地は噛まん夜の海海の白き歯よ\n空は射む矢壺空しくなり果てし\n濁煙の街の星なる聖者かな\n恋ざめて過去の背中に夢を彫る\n秋の海――一人の男――海の精か\n音楽家がつんぼになった\n鐘の音のひろごり二つ遂に触れ\n月雲に失せしと人の小主観\n尺蠖のあゆみは時をさしはかり\n眼を閉ぢて月のあゆめる音をきく\n宿命の軌道を汽車は煙吐きつ\n銭呉れと出した掌は黙って大きい\n雪片の土に吸はれる音をきく\n星空へキリストの眼と望遠鏡\n\n\n◆三月二十四日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 一二\n熟し落つ文明の実の種子と土\n\n◆三月二十五日夕刊「北国柳壇」\nめらめらと燃ゆは焔か空間か\n\n◆三月三十日夕刊「北国柳壇」\n瞑想の聖者の膝を飢えた蟻\n\n◆三月三十一日夕刊「北国柳壇」\n人街にうごめく蟻となる哀れ\n\n◆三月三十一日発行『氷原』二十五号\n(高松)喜多 一二\n\n金銀の鍵さんらんと闇を食ふ\n陽を孕むクレオンとなり紙にふれ\n病みの殻半身ぬけば秋澄めり\nこけむせる巌の無念無想かな\n不妊症の妻のかたへの卵かな\n腕時計刻みとまって人の脈\n草の根の吐息にふるゝ骨の壷\n哀れ金なくて解脱の書みを見ず\n筍の苦悶むざんや固き岩\n地球儀にうづ高かりし塵を吹く\nうづ高き著書を残して秋に死す\n灼熱の時やゝさめて鉄を観し\n波おこる一点四季の海の音\n\n\n◆五月五日発行『影像』更生一号\n(石川)一二\n\n酔ひ狂ふ世紀の齢二十歳\n監獄の壁にどれい史書きあまり\nペシミストただ黙々と飯を食ふ\n蟻つひに象牙の塔をくつがへし\nあな尊ふと聖書を売れば明日のパン\n陽の冷ゆる頃に無産の世紀かな\n人あふれ火星の使ひ未だ来ず\n地のほろぶ今宵地上に恋ぞ満つ\n恋! ピエロ! 機械! どれい! 地獄絵ぞ!\n飢え果てん聖者の脈をとる博士\n一握の金ぞ不思議や脈を打つ\n空気からパン経済論第一章\n明日の世の古典とならん鞭、鎖\n鞭うてど不死身のどれいばかりなり\n地球儀にうづ高かりし塵を吹く\n相抱けるままポンペイの夫婦かな\n筍の苦悶むざんや岩固く\n\n\n◆五月六日夕刊「北国柳壇」\n(金澤)喜多 一二\n\n働けど食へず盗んで縛られる\n文明の地下室「貞操売買所」\n夜の底鎮のはしに三味を弾く\n\n\n◆六月二十三日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 一二\n\n宗教欄瞳を転ずれば求職欄\n人溢れ火星の使ひ未だ来ず\n明日の世の古典とならん鞭鎖\n怒りける犬は鎖の限り出る\n星すめどサンヂカリズムの地の濁り\n肺を病む女工故郷へ死に来る\n地球儀にうづ高かりし塵を吹き\n\n\n◆六月三十日夕刊「北国柳壇」\n(金澤)喜多 一二\n\n踏みたるは釈迦とは知ず蟻の死よ\n内閣の替る日種子をまきに鳧\n灼熱の時ややさめて鉄を見し\n一握りサラリー不思議や脈を打\n\n\n◆七月一日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 一二\n\n恋ピエロ機械! 奴隷の地獄絵ぞ\n地の滅ぶ今宵地上に恋ぞ充つ\n眼の見えぬ小犬光へ這出る\n哲学の本読む窓の雀の恋\n 宮島兄逝く\n土深く潜るみみずとなりに鳧\n\n\n◆九月十七日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 一二\n\n五寸と延びず桑の芽摘れたり\n短銃を握りカクテル見詰めたり\n鍬ダコにあわやペンダコ敗んとす\n海に充つ野に満つ街にみつ鎖\n溺死者のつづく思想の激流よ\n生き難き世紀の闇に散る火花\n\n\n◆「川柳沈鐘会寄せ書」中の作品(九月二十五日消印の官製はがきによる)\n溺死者の続く思想の激流よ一二\n\n◆十月二十五日発行『おほと里』六号(復活創作号)\n(東京)喜多 一二\n\n飢と言ふ影に追れて反旗を伏す\n王子おのが王者になるを疑はず\n高く積む資金に迫る蟻となれ\n君見ずや牛乳繰る男の掌\n\n\n◆十一月十二日渡辺尺蠖あて書簡中の作品\n\n貧民ふえて王様万歳!\n君よ見ろ、兵器工場の職工募集\n夜業の時間、舞踏会の時間――\n米つくる人人、粟、ひえ、食べて\n\n\n◆十一月二十五日夕刊「北国柳壇」\n(東京)喜多 一二\n\n都会から帰る女工と見れば病む\n高く積む資本に迫る蟻となれ\nマルクスの銅像の立つ日は何時ぞ\n\n\n◆十二月六日夕刊「北国柳壇」\n(東京)喜多 一二\n\n飢といふ影に追れて反旗を伏\n太陽の黒点、軍備、資本主義\n君見ずや牛乳搾る男の掌\n\n\n◆十二月十四日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 多喜夫\n\n都に去りし弟を憶ふ\n張切た糸の切れたる雄凧の尾\n紙屑に残した弟の憂鬱\n\n\n◆十二月十六日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 高尾\n\n社会面見入る大臣と泥棒と\n解剖を契約された人の呼吸\n\n\n◆十二月二十四日夕刊「北国柳壇」\n(高松)喜多 多寡夫\n\n病室の時計は人に死を指して\n生と死の境界線にたぢろいで\nセコンドは一秒毎に身を刻む\n恋風の身にしむ頃の月冴えて\n\n\n\n\n\n\n昭和三年篇 一九二八年(十九歳)\n\n\n◆二月一日発行『川柳人』一八四号\n一二\n\n柵の中に枷あり枷に生命あり\n\n\n◆二月十日発行『氷原』二十六号復活号\n(東京)喜多 一二\n\n踏みたるは釈迦とは知らず蟻の死よ\n鍬だこにあはやペンだこ敗けんとす\n人遂に己れに似たる神を彫る\n菜っ葉服着れば甲冑に似たるかな\n文明とは何骸骨のピラミツト\n聖者入る深山にありき「所有権」\n生き難き世紀の闇に散る火華\n君見ずや牛乳搾る男の掌\n都会から帰る女工と見れば病む\n街に住む奴隷となれば野の声す\n餌まいて網張る中に飢えし群\n\n\n◆三月十日発行『氷原』二十七号\n(東京)喜多 一二\n\n夕方の電車弁当殻のシンフォニー\n文明のたそがれよ性慾の美学\n高く積み危く揺るゝ資本主義かな\n工場のひびきに仏像ゆらぐ\n明日説けど世に容れられず夜を悩む\n陽は赤み地は冷え切って子が生れ\n思索半ば飢えたる聖者街に入る\n\n\n◆三月二十三日『北国新聞』夕刊\n「高松川柳研究会」記事より\n一二\n\n搾られる生活白痴の子が殖る\n灼熱の群衆、鉄の門を破り\n干鰯の如く民衆眼を貫かれ\n\n\n◆四月八日『北陸毎日新聞』夕刊\n「高松プロレタリア川柳研究会抄」記事\n\n 今や芸術は特殊階級の遊戯的所産ではない。不断なる歴史の輪転は、遂に芸術をして、自覚せる被抑圧大衆の生活苦悶の血肉的闘争的表現にまで進展せしめた。\n 我々は斯る認識の旗の下に我国唯一の社会的短詩たる川柳を以って、君ら被抑圧大衆が常に求慾飢餓するところの簡明、尖鋭なる曝露的短詩として宏化すると共に、亦、諸君らの血みどろなる内生命の武器的表現管たらしめんとして、茲に我々同志の研究討論の集合をなすものである。(喜多一二)\n――金山陽階上――三十一[三十]日夜\n森田 一二\n\nセメントと一しょに神を塗り潰す\n喜多 一二\n仏像の封印切れば犬の骨\n金谷 喜八\n搾るとは知らず阿片に酔ひ狂ふ\n由井由太郎\n千切られた腕が掴んだ搾取官\n喜多 一二"
},
{
"role": "assistant",
"content": "遂にストライキ踏みにじる兵隊である\n森田 一二\nてっぺんへ登って資本縊められる\n福村無一路\n動きを待つ囚人の壁をうつ\n喜多 一二\nロボットをふやし全部を馘首する\n岡田ノボル\n糧道を断って鎖でつなぎとめ\n森田 一二\n搾るなら搾って見ろとベルト切れ\n喜多 一二\n人見ずや奴隷のミイラ舌なきを\n\n\n◆四月十日発行『氷原』二十八号\n(高松)喜多 一児\n\nめかくしをされて阿片を与へられ\n灼熱の群衆――鉄の門を破る\n搾取した血に噴水の管をあて\n奴隷ども集め兵器をこさへさせ\n墨を磨る如き世紀の闇を見よ\n干鰮の如く群衆眼をぬかれ\n重税に追はれ漁村に魚尽きる\n窓の無い獄壁を叩いて三千年\n飢えにける舌――火を吐かんとして抜かれ\n仏像の封印切れば犬の骨\n搾られる生活白痴の子が殖える\n\n\n◆五月一日発行『川柳人』一八七号\n(石川)喜多 一児\n\n社長に逢へど帽ぬがなかった失業の秋\n支那出兵兵工廠に働らく支那人\nバナナ食べる釈尊の性慾\nストライキ夕陽血走って居る\n\n\n◆五月十日発行『氷原』二十九号\n(高松)喜多 一二\n\n人見ずや奴隷のミイラ舌なきを\nロボットを殖やし全部を馘首する\n遂にストライキ踏みにじる兵隊である\nさなぎからこさへた肥を高く売り\n全身を売って胃の腑の死に切れず\n食道を絞めて爆弾握らせる\n大空に神の絵像を撒く仕掛け\n\n\n◆五月十五日発行新興川柳詩集『鳳』第拾編第一輯\n\n △久遠のドーム▽\n高く積む資金に迫る蟻となれ喜多 一二\n △プリズムの解▽\n人遂に己れに似たる神を彫る喜多 一二\n\n\n◆六月一日発行『川柳人』一八八号\n(石川)喜多 一児\n\nパンと妻奪るスイッチに手がとどき\n肺を病む女工小作争議の村へ\n\n\n◆七月十日発行『氷原』三十一号\n(高松)山下 秀\n\n大砲をくわへ肥った資本主義\n背き出る力! 鎖をすりへらし\n餌さ少しくれて卵を山と積み\n\n\n◆十一月一日発行『川柳人』一九三号\n(東京)鶴 彬\n\n屍みなパンをくれよと手をひろげ\n毒蜘蛛の網を乗っ取る蟻の群れ\n血を流す歴史のあした晴れ渡る\n海こえて世界の仲間手をつなぎ\n大衆の手に翻へる一頁\n鎚と鎌くまれてパンの山動く\nプロレタリア生む陣痛に気が狂ひ\n獄壁を叩きつづけて遂に破り\n\n\n●同誌掲載[島田雅楽王送別句会]\n鶴 彬\n\nパンの山まもる兵士も飢えて来る\n群衆のなだれ屍を超えて燃ゆ\n資本論やけど飢えたる群の声\n教壇の裏に金持どもの秘議\n退けば飢ゆるばかりなり前へ出る\n裏切りに争議捷たれず冬の風\n胃を満すべく北南なる君と僕\n\n\n◆十一月十日発行『氷原』三十五号\n(東京)鶴 彬\n\n資本論やけど飢えたる群の声\n退けば飢えるばかりなり前へ出る\n群衆のなだれ屍を超えて燃ゆ\n腕を組む仲間に鎖ぶち切れる\n兵隊をつれて坊主が牢へ来る\nパンの山まもる兵士も飢えて来る\n島田雅楽王氏送別\n胃を満すべく北南なる君と僕\n\n\n◆十二月一日発行『川柳人』一九四号\n(東京)鶴 彬\n\n毒瓦斯が霽れて占領地の屍\n仏像に供米が絶える小作争議\nひもじさに堪えず食ひ飽くやつを縊め\nブルジョアの夜会夜刈をする夜なり\n勝どきをあげる屍のバリケード\n搾取機をくだくハンマにしたたる血\n指のない手に組合旗握りしめ\n\n\n\n註・「夜刈」は小作争議でロックアウトされた小作人達が、立入禁止を破って深夜刈入れを行うこと。よがり。\n\n\n\n◆十二月三十日発行『氷原』三十六号新年号\n(東京)鶴 彬\n\n一滴の血も搾らせるなと腕を組み\n鞭のふるたびに熱して来る爆弾\n横奪りをされる領土を獲って死ぬ\n銃口が叛いてどてっ腹をうち\n俺達の血にいろどった世界地図\n飢迫る蟻米倉をくつがへし\n裏切りに争議捷たれず冬の風\n軍神の像の真下の失業者\n\n\n\n\n\n\n昭和四年篇 一九二九年(二十歳)\n\n\n◆昭和四年一月一日発行『川柳人』一九五号\n(東京)鶴 彬\n\n「創作」\n\nつるはしが掘らせて奪ふやつに向き\nどてっ腹割れば俺いらのものばかり\n獄壁を塗るたび「死んでもあいつらが憎い」\n十五日経ったら死ねと言ふ手当\n血を咯いて坑をあがれば首を馘り\n(シキは坑、坑道―編者)\n追いこんだ飢餓の底から引っかへし\n平台を輪転機にして束に馘り\n捷つことを恐れ裏切らせるダラ幹\n絞め殺すたびに仲間の手がくまれ\nつけ込んで小作の娘買ひに来る\nみんな馘切れば機械のサボタアジュ\n今にとりかへすビルディングに追はれ\nしもやけがわれて夜業の革命歌\n白粉も買へぬくらしに叛き出し\n昼業と夜業夫婦きりはなし\n重役の賞与になった深夜業\n\n\n●同誌掲載、昭和三年十二月一日の柳樽寺芝の会記事より\n\n「互選作品」\n圧死せる奴隷のうらみ子に続き鶴 彬\n俺達の手でこしらへた物ばかり〃\n虐使した揚句に病めば首を馘り〃\n軍神の像の真下の立ン坊〃\n虐[殺の]血汐に鎖腐りかけ〃\n搾取した血へど吐かせばぶっ倒れ〃\nたこのある手と手が握る闇の中〃\n\n\n◆二月一日発行『川柳人』一九六号\n(東京)鶴 彬\n\n「創作」\n\nさあみんなかへせとゼネラルストライキ\n銃口に立つ大衆の中の父\n病んでゐる子を殺しても裏切れず\n淫売も出来ず馘られた老女工\n月経が狂ってしまふ深夜業\n恋をした罰で工場を叩き出し\n元旦の休みひもじい立ン坊\n\n\n●同誌掲載、新春川柳研究の会(一月五日)における作品\n\n席題「無所畏」\nかまきりの斧をみくびる蟻の群\n鶴 彬\n三光 一人絞め殺せば十人が「ひもじい」\n鶴 彬\n互選 飢えさせておいて盗みの陥し穴(九点)\n鶴 彬\n〃 全集全集幾百万の羊の死\n鶴 彬\n\n\n◆三月一日発行『川柳人』一九七号\n(東京)鶴 彬\n\n「創作」\n\n三月のうらみに涸れた乳をのみ\n(編者註・「三月」は一九二八年の三・一五事件にかかわる)\n法難のたびに意識が鍛へられ\nしもやけのクリーム買って飯を抜き\n大臣の予算霜夜の深夜業\n君が追はれても組合がふえると故郷のレポ\nバット買ふ金を救援袋へ入れる\n肺を病む乳房にプロレタリアの子\n仇に着す縮緬織って散るいのち\n青春を買ふ紡績の募集員\n\n\n◆四月一日発行『川柳人』一九八号\n(東京)鶴 彬\n\n千円の自動車社長の子のおもちゃ\nいつしかに鉄の流れとなるメーデー\n一人の犠牲にみんな立ちあがり\n惨敗の血にいろどった組合旗\n搾取した金を貰ふてゐるダラ幹\nくたばれとばかり操業短縮化\n自動車で錦紗で貧民街視察\n待合で大衆を売る奴は無事\n\n\n◆四月二十五日発行\n『新川柳大観―昭和・明治・大正』川上三太郎編\n\n〔ブルジョア〕ポンチ畫になってブルジョア残される一二\n\n◆六月一日発行『川柳人』二〇〇号\n「石響集」\n(東京)鶴 彬\n\n食堂があっても食へぬ失業者"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一\n\n このたびのアメリカ大統領選挙は、まったく世界の広場のまんなかで、世界じゅうの注目をあつめて、たたかわれた。どこの国でも日本のように共和党の候補者デューイの当選が確実だと、あれほど宣伝されていたのだろうか。日本での宣伝はひどかった。十一月三日の開票日の前日、日本の代表的な新聞はデューイ氏当選確実、共和党早くも祝賀会準備と、まるで丸の内あたりでその前景気をみてでもきたように書きたてた。\n ところが、開票の結果は予想がうらぎられた。民主党のトルーマン大統領が再選した。トルーマン大統領の再選は世界各国の一部の人々には大番くるわせであったらしい。各新聞は、最大の形容のことばをつかって、その番くるわせについて書きたてた。けれどもそれらの記事は、おちついて読むわたしたちに滑稽な、またいくらか腹だたしい感じをあたえた。なぜといえば、トルーマン再選を奇蹟的だの意外だのと書きながら、一方でその新聞は、トルーマンは彼の困難な選挙活動のはじまりから、非民主的だった第八十議会の実状を率直に訴えれば、アメリカ市民は彼に協力するにちがいないという十分の確信にたっていた、といっているのだから。それほど、前から、たとえ主観的なものであるにもしろ政治家としてのトルーマンの確信がはっきりわかっていたのなら、日本の公器であるはずの日本の新聞が、どうして公平に記事を選ばず、デューイ当選を、まるで既定の至上事実のようにわたしたちに宣伝しなければならなかったのだろう。\n こういう悲惨で滑稽な現象のチャンピオンとして、某婦人雑誌が、トルーマン当選の公表された翌日の新聞に、「デューイ夫妻会見記」という特別記事入りの十二月号の広告を出した。ここにも奇蹟的という文字がつかってあった。この雑誌の特派記者が、アメリカの人でもなかなか会えないデューイ夫妻に会見してとった記事ということであった。\n 某誌数万の婦人読者は、編集者のこんな先ばしりのみっともなさについても、どんなこころもちも動かされないというのだろうか。戦争中、一頁ごとに米鬼を殺せと刷りこんだ血なまぐさい雑誌だったことを、すべての日本の婦人が忘れてしまったとでもいうのだろうか。そう簡単には考えられない。某誌が軍部御用の先頭に立っていた時分、良人や息子や兄弟を戦地に送り出したあとのさびしい夜の灯の下であの雑誌を読み、せめてそこから日本軍の勝利を信じるきっかけをみつけ出そうとしていた日本の数十万の婦人たちは、なにも軍部の侵略計画に賛成していたからでもなければ、某誌の軍国調を讚美していたからでもないであろう。あのころ、数十万の婦人は、自分たちのふところから出ていった良人や父や恋人たちが、生きてかえってくることをこそのぞんでいたのだ。生きてかえる可能性が、敗戦のなかにあろうとはおもえなかったから、某誌の勇しぶりに、せめてものこころゆかせをつないだ。大本営発表のほとんどすべてがうそであったとわかった八月十五日からあとしばらくは、さすがの某誌も沈黙した。さっそく話をかえて読者にまみえるには、うそへの協力があまりにあらわだった。\n トルーマン再選にからんで、これだけのことをくりかえすことは、意地のわるい詮議だてともおもえるかもしれない。しかし、日本の婦人であるわたしたちの未来の運命についておもいひそめたとき、こういう詮議だてはあながち女の意地わるさから出発しているのでないことが了解されるだろうとおもう。二度とこの世界にあのおそろしい戦争がおこらないように、ところきらわず天から焔が降りそそいでくるあのおそろしさにあわないですむようにとおもっている日本のすべての男女は、ドイツやフランスやその他のあらゆる国々の人民とおなじに、世界を動かす強国の権力者たちが、それぞれのそろばん勘定はしばらくおいて、人類のためという見地から聰明に慎重に行動して、世界平和の確保にたいして誠意ある行動をしてほしいと考えている。\n\n 二\n\n アメリカ大統領選挙の結果が発表され、トルーマンの当選が知らされたと時をおなじくして、東京の市ヶ谷では、極東軍事裁判の最終段階の法廷が再開された。トルーマンが政策として、平和のための強国間の協力、アメリカの公務員法案であるタフト・ハートレー法の撤廃、物価の引下げ、人種的差別の撤廃その他を主張して当選したとき、日本では全人民の生活を破壊したさきの侵略戦争共同謀議者二十五名の判決公判が開かれたのであった。荒木をはじめとしてABC順にならべられた二十五名の名は、わたしたち日本の男女が、馬よりも安価な戦争資材として扱われなければならなかった過ぎし日のことをまざまざとおもいおこさせた。あの日の命令者は、人類の平和にたいする罪悪的命令者であったということを、彼らの有罪訴因として読みあげられた十数年間にわたる彼らの行為のかずかずからあらためてこころにうちこまれた。\n 人類にたいして犯された侵略的な謀議の罪はさばかれた。けれどもそれではすまないものがのこっている。それは、彼らのひきおこした戦争によって生活の道をこわされ、生きてきていた道を失わさせられた数十万の人々のかたわにされた人生である。手足をもがれた人々の運命がある。孤児と寡婦の人生がある。戦争の惨禍というものの人間的な深刻さは、侵略謀議者がどのように罰せられようとも、それでつぐないきれない人民生活の傷がのこされるからだ。人が人の命をうばうというおそろしい行為でその罪を罰したところで、東條英機の家族は、あしたのたつきにこまりはしない。三十余万の寡婦と十余万の戦傷不具者の苦しみと孤児の人生は、彼らのところにはない。とくに日本では、あれらの人々の生活は、わたしたちにみえないところにある力によってかばわれるだろう。すでにその一つのきざしはあらわれている。作家の石川達三が、侵略戦争共同謀議者二十五名への判決の行われた翌日、新聞記者に語ったことばはつぎのような意味だった。東條たちにたいしていい気味だとおもうのはまちがっている。日本人みんなに責任がある。将来に期待するしかない、と。\n たしかに、いい気味だとおもってすむ程度のなまやさしい犠牲を人民ははらったのではなかった。しかし、日本のみんなが、彼らとおなじようにわるいというのはよくわからない。それは事実でもない。人民は共同謀議によって奴隷のように狩りたてられこそしたが、その謀議に参加するだけの自由さえもっていなかったのだから。さらに石川達三の将来に期待するということばの内容は、もっとはっきりいうとどういうことになるのだろう。作家石川達三は、文学者の戦争協力についての責任が追及されたとき、日本がもしふたたびあやまちを犯すことがあれば、自分もまたあやまちを犯すだろうと公言した作家であった。石川達三という人のこころのなかで、そのことばとこのことばとのあいだには、どういうつながりがあるのだろうか。かつてそのようにいいきった一人の作家が、いままた将来に期するというとき、戦争についてのこのような考えかた、感じかたは、まだ日本に海のなかの氷山のようにそのかくれた底を大きく存在させているということの証左である。石川達三の表現はその日本の氷山の小さいいただきのひらめきにすぎない。そのかげに、世界平和の裂けめをうかがい、日本人民の平和と民主化の裂けめをうかがっている少くない人々が存在していることは明白である。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 二十五名の侵略戦争謀議者たちが、その心境を書いたという色紙の文句が新聞につたえられた。「公明日月の如し」とか、「我が身命を愛さず唯惜しむ無上道」とか、「得意淡然失意泰然」とかいう辞句は時利あらず、いかような羽目にたちいたろうともわがこころに愧じるところなく、確信ゆるがずという文句である。「あら尊と音なく散りし桜花」という東條英機の芭蕉もじりの発句には、彼の変ることない英雄首領のジェスチュアがうかがわれる。二十五種類の辞句のうちに、ただの一枚も、こころから日本の未来によびかけて、その平和と平安のために美しい、現実的な祝福をあたえたものがない。このことについて、わたしたちは感じるところがないだろうか。これらの人々のような立場になったとき、こういう感懐を書くのは日本の伝統的風格であるという意見もあろう。そういう見解にたっていうならば、またおのずからつぎの事実が理解されてくる。こんにち、色紙の辞句にあらわれたような観念的でまた独善的な、いわば神がかりの主観にたって、これらの人々は世界の現実をあやまり、戦争を狩りたて、わたしたち全日本人民の生活を破滅させたのだという事実が、いっそうあからさまに示されていることなのである。\n 侵略戦争謀議者たちにたいする判決の結果について、減刑運動が許されている。きのうのNHKは、警視庁の役人をマイクに立たせて、減刑運動をとりしまる規則はないし、減刑運動の背後にある思想も言論の自由の立場からとりしまることができない。減刑運動は全国的にひろがってゆく模様だが、国民の冷静な判断にまつよりしかたがない、という意味を話させた。これはみかたによっては、減刑運動を一つのファシズム示威に応用しようとかまえている人々への無取締り通告である。その背後にある思想というのは、五・一五事件、二・二六事件と、暴力で侵略戦争遂行の可能な軍部独裁にまで推進させてきた超国家主義、軍国主義その他、極東軍事裁判の法廷が、それをこそ共同謀議の思想として、有罪を宣告したファシズムの思想である。あるいは、侵略主義の主体としての民族主義思想であろう。\n 国際裁判によって有罪とされたそういう思想は言論の自由だからとりしまれないときくと、わたしたちのおどろきは深く大きい。警察でとりしまりたいとおもってとりしまれなかったどんなストライキがあったろう。文化的な仕事しかしていない東宝という映画製作所の闘争で、数千の武装警官と機銃をのせた甲虫が登場した光景は、フィルムにもおさめられた。言論の自由が民主的発言にたいしても、百パーセントの実効をあたえているだろうか。減刑運動という名のもとに、日本のまちがった民族主義の思想がふたたびうごめき出し、戦争挑発が拡大するような事態を許すならば、わたしたち人民の譲歩は、度をこしている。満州侵略に着手した田中義一の内閣に外交官であった吉田茂が、この減刑運動を、国内の民主勢力にたいする一つの均衡物として利用しようとするなら、それは一つの国際的な民主主義にたいする罪悪であるとおもう。\n\n 三\n\n こういう問題ともにらみあわして、ふたたびアメリカ大統領選挙の話題が浮びあがってくる。あれほど共和党デューイ当選確実とおもいこまれた一つの原因は、アメリカの世論調査所がどこの調査もデューイ優勢を告げたからだった。半官的なギャラップ博士の米国世論調査所の示したこのたびの失敗は、世界の世論調査法に大きい教訓となった。ギャラップの世論調査所員の大多数は女子で、アンケートの送りさきは彼女たちの任意とされていた。彼女たちが労働者や下層民をさけたために、民主党を支持する人民層の意見が反映しなかったのだろうと、東京新聞で小山栄三が書いている。\n ギャラップの世論調査所に働いているのが女子だったから、アンケートの送りさきが限定されたのではなかった。彼女たちが、資本主義の社会のなかで働いて生きる婦人として、はっきり自分たちの存在の意義や生活の本質を理解していなかったからにほかならない。彼女たちの職場と個人個人の生活の雰囲気が、タフト・ハートレー法案にたいしてなんの反対も感じず、アメリカ人口の二パーセントを益するにすぎない所得税法に無関心であり、彼女たちの感情が非アメリカ委員会の活動ぶりに民主的市民としての疑問をいだいていなかった結果であった。\n なぜならば、ギャラップの権威を失墜させ、日本はじめ世界の大資本新聞をとまどいさせて、こんどの選挙にトルーマンが当選したのはアメリカの正直な男女の市民が、身につけているアメリカの民主主義社会生活の訓練と、働く市民としての生活事実に立脚した具体的な判断から、第八十議会で共和党の押しきった政策を批判したからであった。第三党として出馬したウォーレスの進歩党が、率直明白なその綱領によって、民主アメリカの幸福と世界の人民の民主化のためにタフト・ハートレー法や非アメリカ委員会の活動は廃止さるべきものであり、鉄のカーテンはとけうるものであり、またとかせるべきものであり、利潤を追うあまりに戦争挑発のとびこみ台となる基本産業は国有にされたほうがよいと、誰にでもその道理がうなずける綱領を示したからであった。日独にたいする講和促進と中国から手をひくがよいという主張、植民地住民の自立権の確立なども、ウォーレスの政策の一部にふくまれている。\n アメリカ国内の民主的なすべての人々は、政権争いをこえて世界をあかるくするための誠意の披瀝されたウォーレスの綱領を好意的に迎えた。共和党と根本においては大差のない民主党が、トルーマンを当選させるためには、その政策をかけひきなしに民主的人民の見解を代表しようとする進歩党の主張に近づけなければならなかった。タフト・ハートレー法に賛成し、非アメリカ委員会のゆきすぎの活動を放任した代議士がそのなかにふくまれている民主党が、タフト・ハートレー法の撤廃を第一にかかげて労働組合員の投票をあつめ、進歩的な男女の票をあつめなければならなかったところにこそ、このたびの選挙の歴史的な意味があった。トルーマンの当選はまぐれあたりでも奇蹟でもない。当選しようとすれば、アメリカ人民の要求を理解し、それに応える決心をしなければならないということについて、トルーマンがデューイよりも分別をもっていたからであった。ことばをかえていえば、アメリカの分別ある人々が、自分たちの要求をはっきり示すことで、アメリカの民主政治に民主的な方向をあたえたといえるとおもう。下院でタフト・ハートレー法に賛成した七十名の議員が落選し、上院で八名ほどの議員がおなじ理由で落選したことが、NHKの放送でも語られた。\n アメリカ本国の人口比率では婦人が四十六万人少い。労働人口の二八パーセントを婦人が占めて、五百種類以上の職業分野に活動している。家庭の主婦たちにしても、いろいろな婦人団体やクラブの仕事をしている人の率が多い。世界民主主義婦人連盟、反ファシスト同盟、人権擁護同盟そのほかに属している婦人たちの数も少くない。これらの婦人たちが切実に要求しているのは平和であり、民主的であってゆたかな生活の安定であった。その事実を選挙によって表現し、政策をその方向に動かした。そして、トルーマンの公約が選挙のゼスチュアに終らないことを監視している。慣例的な二大政党制はアメリカでうちやぶられた。民主的な人民は、事情によっては彼らの票を集中するウォーレスの党をもっているのであるから。\n わたしたちは、こういう事実からなにを学ぶだろう。まずさしあたり、日本の首相吉田が、再開の国会において、一般施政方針の演説もしないで、日本のタフト・ハートレー法を通過させようとしていることは、妙だ、ということである。政治一般の方針を示さず、検討せず、どうして公務員法案だけは通してよい法案であることが納得されるだろう。政策のはっきりしない政党を支持しようがない、という現実がアメリカの大統領選挙においても示された。いま政権をもっているということが将来を決定する条件ではない。\n わたしたちの一票は、おととし以来、わたしたちの生活のなんのたそくになったろう。わたしたちの一票は、おとぎばなしの欲深爺の背負ったつづらのふたをあける役にだけたったようでさえある。まさかとおもい、どうやらこれならとおもって一票を入れた社会党、民主党、民自党、びっくりばこのようにそのふたがはねあがったら昭和電工、相つぐ涜職事件で日本の民主化は、瓦石をかぶった。ゆうべ、花束をもって国会を訪問した全逓の婦人たちの話が放送された。公務員法案に賛成の議員はこのつぎに選挙しないため、目じるしの花を非賛成の側にある議員の胸のボタンにつけるためであった。日本でも、ボタン・ホールの花が、働く人民の意志の表示につながりはじめたことはおもしろく、うれしい。〔一九四九年一月〕"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一\n\n「......アレは、つまり、言ってみれば、コウいうわけあいがあるンで......」\n 戦地から来た忰の手紙に、思いきって、いままで忰へ話さずにいたことを余儀なく書き送ろうと、こたつ櫓の上に板片を載せ、忰が使い残して行った便箋に鉛筆ではじめたが、儀作は最初の意気込みにも拘らず、いよいよ本筋へかかろうとするところで、はたと行詰ってしまった。......あれをどんな風に説明したら、うまく、納得がゆくものであろうか。\n 人手がなくて困るとか、肥料が不足でどうとか、かれこれ言われながらも、事変がはじまっていつか足かけ三年、二度目の収穫が片づく頃になると、心配していたほど、それほど米がとれなくもなかったし、人手不足もどうやら馴れっこになってしまった。事実、野良仕事など、やりよう一つでどうにでもなったし、肥料などに至っては、幾キロ施したから、それで幾キロの米の収穫があると決まっているものではなく、いくら過不足なく施したにせよ、その年の天候いかんによってはなんらの甲斐もないことさえあったのだ。\n それはなるほど思う存分に施して、これで安心というまでに手を尽して秋をまつにしくはない。しかしながらそれでも結局は例の運符天符......そこに落ちつくのが百姓の常道で、まず曲りなりにでも月日が過ごせれば、それで文句は言えなかった。\n 家のことを心配して、時々小為替券の入った封書などをよこすのは、かえって百姓に経験の浅い忰の正吾の方だった。......あの借は払ったかとか、どれくらい米がとれたかとか、たといどんなに手ッ張ったにせよ、俺のかえるまで、作り田は決して減らすなとか、あの畑へは何と何を播けとか、そんなことまで細かに、よく忘れないでいたと思われるほどあれこれと書いてくるのだ。黙っていると何回でも、返事をきくまでは繰返して書いてくるので、儀作の方で参ってしまい、前後の考えもなく、洗いざらい、そのやりくり算段を報告した。\n ところでそこに問題が孕んでいたのだった。それと言うのは、事変二年目の決算についてだが、忰の思うとおりにはどうしても行きかねたのである。しかもそのことを正直に書いてしまったものだから、早速、忰から「なんでソノ古谷さんの方だけ出来なかったのか、やろうと思えばやれたのではなかったか。それに俺としては、そんな大口のやつがあるとは実は知らなかった......」と詰られる結果に陥ってしまった。儀作は、それを弁解かたがたふかい理由を書き送ろうと、鉛筆の芯をなめていたのである。実際、それは彼にとって深い、いや、それ以上に、解りにくい問題だった。\n「アノ金は、ナルホドお前には、これまで、きかせずに置いたが......アレは、その、関東大震災のときだったから、コトシで......」\n ようやくのことでそんな風にはじめたものの、再び彼は、鉛筆の尖を半白のいが粟頭へ突き差すように持って行ってごしごしやり出した。どうもやはり駄目だ。\n それというのが、村のもの誰一人の例外もなく、それまで、田のあぜであり、畑のふちであると考えて、それ以上のことはてんで詮索しようとしなかった山腹や川沿いの荒地(それなしには傾斜地のことで田の用水は保たず、畑地にあっては、耕土の流亡を免れない場所)それが実は官有地であって、『荒蕪地』という名目のもとに大蔵省の所管に属していたとかで、そしてそれだけなら何も問題はなかったのであるが、そこが改めて民間に払下げられることになったという、......もう十七八年も前の話に遡らなければならぬいきさつなのだ。\n 当時、それと聞いて、誰一人、頭を横ざまに振らぬものはなかったが、儀作にとっても同様、どんなに拳骨で自分の素天辺をなぐってみても、そういう理窟は、いっかな、さらりとはいかなかった。例えば、五十度の傾斜のある地面に水田を拓くとして、もしそれを半畝歩ずつに区切らなければならぬ場合、どうしたって一枚々々の境界に相当の斜面を残さない限り、その半畝歩の平面は拓けないではないか。だからその斜面......拓き残しの部分は、どんなことがあろうと水田や畑の耕作に対して欠くべからざる条件というものであろう。だのに、そいつがいまさら改めて民間に払下げられる?\n「もっとも、あすこは田や畑の畝歩へは入っていめえから」とやがて雀の小便のごとく考えをひねり出すものが出てきた。「もともと、官有、いや、昔、殿様か何かの所有だったところを、ぼつぼつ開墾して、その開墾面積だけ登記しておいたもンだろうから......」\n そう聞けばどうやら理窟だけは解った。が、いぜんとして分らないのは、やはりそれらの残存面積を除いて田畑そのものが成立せず、ちょっとした雨降りにさえ耕土が押し流されてしまうだろうということ......その一事だった。それともう一つ、なんでそれが今頃、田畑が民間の私有になって六七十年も過ぎた今日、改めて民間に払下げられることになったのかということだった。\n 人の話では、このほど例の大震災で焼野原と化してしまった東京市を復興するについて、早速、臨時議会が召集され、そして六億近い巨大なる復興予算が議員たちによって可決されたばかりか、さらに大蔵省は市民に対して莫大な低利資金を貸出す準備を早急にしなければならぬことになって、そのため、この地方のような山間農村にいまなお多く散在して、不税のまま放置されている『荒蕪地』なるものを民間に払下げる案をたて、帝都復興院総裁後藤新平はそれによってお得意の大風呂敷を拡げ、「大東京計画」なるものをでっち上げて、向う七ヵ年間に諸君の東京を世界的な文化都市にして見せると豪語して、やんやの喝采を博したとのこと。\n それはとにかく、税務署でさっそく議会の決議に応じたものと見え、この村の不毛地に対し、畦地は熟田の時価の半額見当に、畑ざかいの荒地は隣接の畑地の約半額と言ったふうに『査定』し、急遽払下げの通告を村役場へよこしたものである。\n その頃、儀作はいまでもはっきり覚えているが、村ではちょうど秋の収納が大方終って、儀作自身のような小作階級のものは、例によって地主へ年貢米や利子払いを殆んど済ましていたし、その他、肥料屋の払いや、村の商い店――油屋からの半期間の細々した帳面買いも、とにかくどうにか片をつけて、旧正月も貧しいながら待っているというような時期で、村には余分の金など、地主たちを除いては一文もなかったのである。ところで儀作自身は三反歩の自作地を山の傾斜面に持っていたし、それに隣ってほぼ同じほどの面積の小作田も持っていた。そしてその一隅の耕地は役場からの通知によると三畝歩ほどの『荒蕪地』を含み、さらに彼は川沿いの畑地を二三ヵ所に飛び飛びに耕作していたが、そこには五畝歩ほどの不毛地――恐らく年々の洪水のために蚕食されて川床になっている部分でも勘定に入れない限り、誰が見てもそんなにあるとは思えなかったほどのものが存在していたのである。実測してもらわなくては......と抗議してみたが、いまはそんな暇はない。あとで繩を入れて見て、それだけなければ『買い上げ』てやると突っぱねられ、結局、田と畑の持つそれらの不毛地を、彼は五十円ほどに査定せられなければならなかった。\n 村人の中には百円以上の査定を突きつけられて不平をこぼすものもあった.................................................................................................................................................................................。......だが、よくよく考えてみると、それは他人ごとではなかった。もし他村の金持、いや自分の村の金持にしても同様だが、そういう訳の分らぬ連中に落札されてしまって、その畦や畑境へ無茶な植林でもされた日には......何となれば連中とて今度は租税が出るのだから、ただ放置するはずがない。しかしそれこそ取りかえしのつかぬことだった。それでなくてさえ日光に恵まれないこの地方である。半歳を雪の下に埋もれて過ごす耕地のことで、ただ一本のひょろひょろ松のかげでも、直ちにその秋の収穫に影響した。いきおい、借金しても落札しなければならぬ運命におかれていたのだ。小作地でさえそれは免れられぬ。もし地主に一任しておくなら、つまりは小作料の騰貴でなければならず、でなければ、それこそ杉や桑や、その他ここに適当と思われる樹木の恐れが......。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 要するに永久に不毛地に対して小作料を支払うか、あるいは日光を遮られなければならぬか、それとも一時借金してもそこを自分のものにして収穫高を確保するか、この三つに一つである。借金なら何時か返しも出来るであろう。少くとも四五年前のような......あれほど農産物の値上りは望めないまでも、多少なりとも景気が回復すれば、年賦にしてもらって十ヵ年もすれば皆済しうるであろう。\n 儀作をはじめ、これが一般村民の、結局の到達点だった。.......................................................................................................................................................................................年一割から一割五分の利のつくやつをどうにか工面して、それらの全く思いがけない荒蕪地を払下げて貰わざるを得なかった。それにしても一面、儀作はまだその頃年も若く、ありあまるエネルギーが体内にこもっていた。で、まだ山仕事の出来るくらいだった亡父と話し合った。\n「東京の方では、この寒さにまだ寝るところも出来なくて、バラックとかちうものへ入っているんだそうだからよ、それを思うと五十円やそこら寄付でもしたつもりになるさ。なアに、たった五十円だい、四五年みっちり働けば、それできれいに抜けっちまア......」\n だが、抜けるどころか、一年ならずして親父には死なれ、待望の米価は、ことに浜口緊縮内閣の出現によって一俵七円に下り、繭のごときは一貫二円という大下落で、この地方の重要産物である木炭のごときも四貫俵三十銭、二十五銭になってしまい、かつて儀作の副業......農閑期の馬車挽など、賃銀は下るばかりでなく、どんなに探し廻っても仕事の得られない日さえあるようになった。\n その上彼一家には不幸が連続した。前述のように、親父の中風、死に続いて、おふくろが気がおかしくなって前の谷川の淵に落ちて半死のまま引き上げられたり、次には女房が四番目の子を産んで以来、まるで青瓢箪のようにふくれてしまい、ずっとぶらぶらのしつづけである。それらの出来事のために唯一の自作地であった三反の水田も抵当に入ってしまい、たとえその後、米穀法の施行などによって十二三円がらみにまで米価が上ったとはいえ、諸物価......都市工業の製産品はそれにつれてあくまでも騰貴するので追いつく沙汰ではなかったのだ。\n このようにして儀作は、ようやく一人前になった忰の岩夫を相手に、この数年間なんとかして世帯をきり廻してはきたものの、さて、かの『荒蕪地』......田んぼの畦や畑境いの不毛地、税金だけはかかってくるが、一文の利用価値もないように思えるその草ッ原を見れば見るほど、考えれば考えるほど、ことに家計の方の苦しみが増大するにつれて、こんどは借金そのものが馬鹿くさいものに思われてならず、つい利を入れようと思っても入れずにしまい、まして忰にそのことを話してきかせるのなど阿呆の限りと、そのまますっぽかしてしまう年が多かった。お蔭でいまでは随分の元利合計になっているであろう。が、いい具合に(?)当の古谷さんでは大してきつく催促しなかった。儀作はその昔からの酒造家......この地方きっての財産家である古谷傅兵衛へはは若い頃から馬車の挽子として出入りしていた関係もあって、言わば特別扱いを受けてきたのでもある。\n さて、儀作には、いくら鉛筆の芯で半白の頭を掻いてみても突いて見ても、結局、以上のようなことは書けないと分った。で、彼は書きかけの部分を少し消して、あのホウは心配するな、こんど財政をやることになった古谷の若旦那どのは『東京もン』で大学教育を受けた人物であるから、物分りがいいに決まっている。というようなことを書いてそれで打ちきることにした。\n\n 二\n\n 時局の波は、この東北の山間の村々にも、ひたひたと押しよせつつあった。\n 幾つかの谷川がK川と名がついて、山あいの細長い耕地を流れ、それがさらにS川に合流しようという地点......M盆地の最も肥沃と称せられる一角に位置する約百二十戸ばかりの部落の、いわばこの地方の物資の小集散地であった中郷にもその波頭は用捨なくやって来て、ことにこの部落の、それこそ旧幕時代から経済の中心をなしていた古谷傅兵衛など、その大きな波濤を全身で浴びて立っている一つだった。\n 傅兵衛の店舗は、周囲五里余の山腹の村々から、海原にうかぶ一つの白い小さい島のように、不規則に散在する田んぼの中の村々の木立を越えて美しく眺められた。棟を並べた酒倉、白亜塗りの土蔵、石造のがっしりした穀倉、物置、その他雑多な建物の一方に、往還に向って構えられた大きな母家......槻や欅や、裏山に繁る杉の古木に囲まれて、このM盆地の開拓者の誇りを、それは今もって十分に示しているもののようであった。\n 当主傅介は東京方面で、親父とは少しく違った方面の建築材料商をはじめたとかで、これまであまり村へは姿を見せなかったのであるが、父傅兵衛の他界......と言ってもこの半年以前だが、それ以来、しばしば将来を約束された少壮実業家らしいかっぷくで、狭い往還に自家用自動車をとばすのが見られるようになった。人の噂によると、東京での商売があまりうまくいかず、先祖代々の家業の方も、先代の放漫政策のたたりやら、この事変のための生産制限やらで、洗ってみれば殆んど何も残らず、今のうちの建て直しという意図からか、何かの軍需工業を興すについて、まずその資金の調達、すなわち貸金の取立てに着手したとのことだった。\n 噂はやがて事実となって現れはじめた。祖父、曾祖父以来というような古い証文までどこからか探し出され、しかも一銭一厘の細かい計算の下に、一々しかつめらしい『××法律事務所、弁護士、法学博士、元東京地方裁判所判事、代理人、何某』と印刷された文書に、大きな、眼玉の飛び出しそうな朱印をきちんと捺した督促状が、付近の債務者のもとへ届けられるようになったのである。\n もっともこれらは何千という大口らしく、百や十の単位の小口に対してではなかったのであるが、やがてそれが次第に百や十の、全く忘れられているような小口に対してさえ、同様に物々しい文書が届けられはじめた。それはまるで予期しない恐慌を雪ふかい村々に捲き起した。それに人々はかつてこのような借金の取立て法に遇ったことがなかったので何層倍もびっくりする反面、ただちに反発して『若造』のやり方を詈りはじめもした。古来の抜きがたい習慣を無視してその法律一点張りの、呪われたる督促......それが正月早々からなので、ことに彼らをいきり立たせたのでもあった。\n いかにこの新式の方法に対抗したものであるか。無論、その対抗方法はにわかに解決がつかなかった。ある者は昔式に直接出かけて行って若旦那様に面会を申込んだ。が、肝心のその若旦那様は何時も『不在』。たとい広い邸宅の奥の方に姿が見えたにしても、決して店先へなど現れず、依然として『不在』なのである。先代時分には何憚るところなく、奥の方へまでのし込めたような人たちでさえ、事、借金に関する限り、「それは弁護士に一任してあるのだから、俺は知らない」の一言をきくに尽きていた。\n ところで、栗林儀作も、とうとうその始末にいけない朱印の文書を受取らされた一人であった。彼は北支で鉄道の警備に任じている忰へ古谷からの借金についてのあの手紙を出して間もなく、その配達に接したのであった。先代同様に、いや、先代よりはとにかく東京という文化都市――....................................................................................後藤新平の言ったとおり、世界で何番目かの大都にこの十年間に見ンごと盛り上ったそこで、長い間教育され、そこの華やかな空気を吸って来ているだけ、当主傅介氏は、忰にも書いてやったように物分りがいいであろうと考えていた事実は、今になってあべこべのように思えてきた。だが、彼は人の多くとは違い、もと、挽子として出入りしていて、若旦那のことも子供の時分から知っていた。若旦那の方でも俺のことは知らぬはずがないと彼は考え直した。そこで、他の村人が何回足を運んでも弁護士云々の一語によって手もなく追っ払われるときいても、彼は自分だけはそんなことはないに決まっているという自信のもとに、わざと若旦那の暇そうな正午頃を見計らって出かけたのであったが、やはり見知り越しの手代が出て来て、「あ、そこのことなら......」との挨拶。しかし儀作は、あくまでも若旦那の好意を信じて疑わなかった。三度目に手代に突っぱねられた時、彼は邸宅の門前の雪堆の傍らに待ちかまえていて、若旦那が自動車に乗り出したところを「今日は――」と言ってつかまえた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 老人は舟べりや舳先を、大事そうに撫でたり叩いたりした。私はそれを眺めながら、老人が舟をひき起こすときのすばやい動作には二つの意図があった、ということに気づいた。一つは私を捉えること、他の一つは去年の枯れ草が覗いていた舟底の穴を私から隠そうとしたのだ、ということである。――もう一つ、これを書いては人が信じなくなるだろうと思って、書かないことにするつもりであるが、老人が舳先を掴んでゆすぶったとき、舳先の尖ったところが折れてしまった。すると老人は自分の手にある折れた舳先の、折れたところへ唾をつけて、元の部分と合わせ、そこを片手で押えたまま、いっそう高ごえになって喚きたてるのであった。事実はこのとおりだったのだが、これを文字にすると、おそらく人は筆者が調子づいてふざけていると思うにちがいない。「事実を書く」ということがいかに困難なしごとであるかは、こんな些細な点でも思い知らされるのである。\n「よし、そんなら三と五十にすべえ」と老人は云った、「これ以上は鐚一文負からねえだ、三と五十、これで話はきまっただ」\n 私はちょっと質問した。\n「そんなこたあ屁でもねえさ」と老人は云った、「いかずちの船大工に頼めばすぐ繕ってくれるだ、いいとも、おらが持ってって頼んでやるだよ」\n「それから」と老人はいそいで付け加えた、「こういう売り買いには、買い手のほうでなにか物を付けるのがしきたりになってるだ、豚肉の百匁でもいいし、夏なら西瓜の三つくれえかな、うう、おめえよく舶来のタバコを吸ってるようだが」\n 私は豚肉を届けると答えた。\n こうして私は「青べか」の持ち主になった。どんなに小さく、そしてぶっくれ舟であるにもせよ、一ぱいの舟の所有者になったのだが、私はうれしくもなかったし、誇りがましい気持にもなれなかった。長をはじめとする少年たちの軽侮の眼や、嘲笑の声を考えるだけで、むしろ急に肩身のせまくなったような鬱陶しい、沈んだ気分にとらわれたのであった。\n「いいさ、あんな舟」と私は帰る道で自分に云った、「乗らなければいいんだ」\n 私は明くる日、老人のところへ舟の代金と、豚肉を百匁だけ届け、なお青べかについて、二三のことを頼んだ。老人はこころよく受け合い、そのとおりにすると約束した。\n\n\n\n蜜柑の木\n\n 助なあこ(あにいというほどの意味)はお兼に恋をした。助なあこは大蝶丸の水夫であり、お兼は「大蝶」の缶詰工場へ貝を剥きにかよう雇い女で、亭主があった。\n この土地で恋といえば、沖の百万坪にある海苔漉き小屋へいって寝ることであった。そんなてまをかける暇がなければ、裏の空地の枯れ芦の中でもいいし、夏なら根戸川の堤でも、妙見堂の境内でも、消防のポンプ小屋でも用は足りた。実際のところ、海苔漉き小屋まで寝にゆくのは、よほど二人がのぼせあがっているか、ゆきすぎた声を抑えることのできない女との場合、――土地の人たちのあいだで、そういう癖のある五人の女性の名が公然と話題になっていたが、――などで、かれらの意見によれば、「そんなにてま暇をかけるほど珍しいことでもあんめえじゃあ」というのが常識であった。\n 助なあこはそうではなかった。彼は中学生が女学生を恋するように、純粋に、初心に恋していた。大蝶丸で沖へ貝を積みにいっているあいだ、彼の胸はつねにお兼を想うことで痛み、その眼にはお兼の姿、――工場の古びた建物の前で、大勢の女や老婆たちと並んで、巧みに貝を剥いている姿が、絶えずあらわれたり消えたりするのであった。\n 大蝶丸の水夫は三人で、船長の荒木さんはべつに家庭を持っていたが、エンジさんの正山さんと水夫たちは、工場の中にある小屋に住んでいた。助なあこは自分の恋を秘し隠しにし、誰にも気どられないように、最高の抑制を保ち続けていたが、或る夜半、ねごとにお兼の名を呼んだのを、隣りに寝ていた二人の水夫に聞かれて、せっかくの努力がむだになってしまった。\n「ゆんべが初めてじゃねえぞ」と水夫の一人が云った、「おんだらあ何遍も聞いているだ、なあ」\n「おうよ」と他の水夫が云った、「名めえをはっきり云ったなあ、ゆんべが初めてだっけ。ずっとめえから何遍も好きだあ好きだってねごとう云ってたっけだ」\n「お、か、ね、さん」と先の水夫が両手で自分の肩を抱きしめ、身もだえしながら作り声で云った、「おら、おめえが、好きだ、死ぬほど好きだ、よう」\n 助なあこは硬ばった顔でそっぽを向き、手の甲で眼を拭いた。彼は死んでしまいたいと思った。もしできることなら、その場で二人を半殺しのめにあわせてやりたかった。しかし彼は痩せているし、背丈も五尺とちょっとしかない。他の二人はどちらも彼より肉付きがよく、はるかに力も強かった。それは沖で貝を積むときや、工場へ戻って積みおろしをするときなどでよくわかっていた。\n 彼は死んでしまいたいと思った。\n 助なあこは固い決心をし、お兼のほうへは眼も向けず、貝を剥いている彼女の前を通るときには、まっすぐに向うを見たままいそぎ足で、殆んど走るように通りぬけた。彼はやがて機関士になるつもりで、仕事が終ったあとは、エンジンに関する本にしがみついて、熱心に独学を続けていた。それらの本の大部分は荒木船長に借りたものであるが、中の幾冊かは、――ディーゼル・エンジンに関する本は、自分で東京の神田へいって買ったものであった。\n 彼は夜の十二時まえに寝たことはなかった。他の水夫やエンジさんは、毎晩のように飲みにでかけ、帰ってくると「一厘ばな」か賽ころ博奕で夜更しをした。ごったくやの女たちを伴れこんで、わるふざけをしたり、博奕や女のことでとっ組みあいの喧嘩をしたりした。そういう騒ぎの中で、助なあこは小屋の隅のほうに机を移し、両手で耳を塞いで本を読んだり、ノートを取ったりするのであった。その十坪ほどの、細長い、箱のような小屋には、燭光の弱い裸の電球が、天床から一つぶらさがっているだけである。隅のほうへ届く光は極めて微弱だったが、それでも助なあこは本にしがみつき、帳面に眼を押しつけるようにしてノートを取った。\n 周囲の人たちにとって、この独学はばかげたことであった。そのくらいのエンジナーになるには、五六年も船に乗って、実地にエンジさんのすることを見ていれば、それだけで立派にエンジナーになれるし、現に二つの通船会社のエンジさんたちでさえ、多くはそのようにして機関士になったのである。\n お兼のことでからかわれてから、助なあこはすっかり人嫌いになり、ますます独学に熱中した。ねごとの話はたちまちひろまったが、そのまますぐに忘れられた。この土地では、どこのかみさんが誰と寝た、などという話は家常茶飯のことで、たとえばおめえのおっかあが誰それと寝たぞと云われたような場合でも、その亭主はべつに驚きもしない、おっかあだってたまにゃあ味の変ったのが欲しかんべえじゃあ、とか、おらのお古でよかったら使うがいいべさ、と云うくらいのものであった。――もちろんこれら亭主たち自身も「変った味」をせしめているのであるし、また、全部の人たちがそんなに脱俗しているというのでもない。「浦粕では娘も女房も野放しだ」と、はっきり土地の人たちは云っているが、それでも嫉妬ぶかい人間もたまにはいて、ときに凄いような騒ぎの起こることも幾たびかあった。\n 助なあこの場合には、ねごとで恋の告白をしたというだけだったから、ほんのお笑いぐさとして忘れられてしまったが、傷ついた助なあことお兼とは、それぞれの立場で忘れることができなかったようだ。\n 初夏の或る午後、二人は根戸川の土堤で初めて話をした。その日は工場が休みで、助なあこは午めしのあと、本を二冊持って土堤へゆき、若草の伸びた斜面に腰をおろして、本をひらいた。読んでゆき、頁を繰るが、なんにも頭にはいらない。活字の列はただ素通りするだけで、一行読むごとにきれいに消えてしまう。彼は音読もしてみた、一句ずつ指で押えながらやってみたが、やっぱり同じことで、いくら繰返し読んでみても、なに一つ頭に残らないのであった。\n そこへお兼が来た。彼女は助なあこのあとを跟けて来たのだ、まえから彼のようすを見ていて、自分のほうからきっかけをつけなければならないと悟り、その日ようやく機会をつかんだのである。\n「あら、助さんじゃないの」とお兼はいかにも意外そうに呼びかけた、「こんなところでなにしてるの、あら、勉強ね」\n 助なあこは本を閉じ、振り向きもせずに、じっと固くなっていた。彼は全身が火のように熱く、心臓が喉までとびだして来るように感じた。お兼は斜面へおりて来て、彼と並んで草の上に腰をおろした。すると、あま酸っぱいような女の躰臭と、白粉の匂いとが入り混った、なまあたたかい空気が彼を包み、彼は頭がくらくらするように思った。\n「もう春もおしまいだねえ」お兼はその言葉の品のよさに自分でうっとりとなりながら云った、「水の流れと人の身はって、はかないもんだわねえ」\n 陽の傾いた空にはうすい靄があって、根戸川の広い水面は波もなく、まるで眠っているように静かだった。あたためられた土の香や、若草の匂いがあたりに漂ってい、対岸の若い芦の茂みでは、ときどきけたたましく小鳥の騒ぐ声が聞えた。\n「けけちかしら」とお兼が云った、「まだけけちにしては早いかしら」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 見ると助なあこはふるえていた。蒼く硬ばった顔を俯向け、膝を抱えた両手の指を揉みしだき、下唇を噛みしめながら、躯ぜんたいでふるえていた。お兼はふしぎなよろこびを感じた。これまで一度も感じたことのない、ぞっと総毛立つような、快楽の戦慄が突きぬけるように思った。\n「あたしあんたが好きよ」とお兼は彼の耳に囁いた、「あんた、芳野の海苔漉き小屋、知ってるでしょ、知ってるわね」\n 助なあこは黙って頷いた。\n「あたしあんたに話したいことがあるの」とお兼は続けた、「今夜ね、七時ごろあそこへ来てちょうだい、来てくれる、ねえ」\n お兼はそっと助なあこの手に触れた。彼はぴくっとなり、躯をいっそう固くし、そしてお兼の手に伝わるほど激しくふるえた。お兼はまた、あのふしぎなよろこびの感覚におそわれ、助なあこの手首をぎゅっと握ってから、それを放した。\n「もうみんなが沖から帰ってくるじぶんだわ」とお兼は云って溜息をついた、「みつかると口がうるさいからあたし帰るわ、世の中ってままならないもんね」\n お兼はもういちど夜の約束をし、鼻唄をうたいながら去っていった。\n 助なあこは時間を計っていて、やがてそっと振り向いてみた。あまり長いこと同じ姿勢でいたため、首の骨がきくんと鳴り、頸の筋がつった。お兼はもうずっと遠く、白い煙に包まれている石灰工場の近くまでいっていた。\n「あんたが好きよ」助なあこは頸の筋を揉みながら、お兼の云った言葉をまねてみた、「あたしあんたが好きよ」\n 彼の顔が歪み、眼から涙がこぼれ落ちた。\n もう春も終りだ、世の中はままならない、あたしあんたが好きよ、水の流れと人の身は、はかないもんね。それらの言葉が彼の頭の中で、一つ一つはっきりと、この世のものとは思えないほど美しく聞えた。それは殆んど純金の価値を持ち、純金の光を放つように思えた。\n「おら一生、忘れねえ」助なあこはそっと呟いた、「どんなに年をとっても、死ぬまでも、きっと忘れねえ、きっとだ」\n 美しいものは毀れやすい、毀れやすいからこそ美しい、などと云うつもりはない。ここには美しいものはないのだ、逆に、美しい感情がもてあそばれ、汚されるのであるが、助なあこの受けた感動だけは美しく、清らかに純粋であった。\n 彼はその夜、約束の時間に約束の場所へいった。芳野は堀南の釣舟屋であるが、季節には海苔もやるので、弁天社のうしろに漉き小屋と干し場を持っていた。そこは沖の百万坪のとば口にあり、畑と荒地に囲まれ、隣りの漉き小屋とは二百メートルもはなれていた。――日の永くなる季節ではあったが、もうすっかり昏れてしまい、あたたかい宵闇のどこかから、みみずの鳴く声が聞えて来た。お兼はもうそこにいて、暗い小屋の前から彼を呼んだ。助なあこは膝ががくがくするので、転ばないように用心しながらそっちへいった。\n「待たせるのね、あんた」お兼はじれったそうに云った、「女を待たせるなんて罪よ、にくらしい」\n お兼は衝動的に助なあこの手を握った。彼は狼狽して、ぶきようにしりごみをし、握られた手を放そうとしながら、云った、「なにか話すことがあるって」\n その声は喉でかすれ、言葉ははっきりしなかった。お兼は含み笑いをしながら、握った手をもっと引きよせた。土堤のときよりも強く、白粉と女の匂いが彼を包み、彼は眼がくらみそうになった。\n「そうよ、大事な話があるの」とお兼は囁いた、「中でゆっくり聞いてもらうわ、ね、ここへはいりましょう」\n「おら、――」と云って彼は足を踏ん張った。\n「世話をやかせないで」\n「それでも、おら」と彼は口ごもった。\n「いいから」とお兼は荒い息をしながら、おどろくほどの力で彼を引きよせた、「なにもおっかないことするわけじゃないじゃないの、たまには男らしくするもんよ」\n 助なあこの歯ががちがちと鳴った。\n お兼は彼を小屋の中へ伴れこみ、入口の戸を閉めた。この種の漉き小屋は、入口の三尺の引戸に南京錠が掛けてある。しかしその多くはぐらぐらで、鍵の必要はなく、ちょっと引張れば錠前ごと抜けてしまい、出てゆくときには元のように挿し込んでおけばいいのであった。\n「あんた、まだふるえているの」小屋の中からお兼の声が聞えた、「さあ、そんなにしてちゃ窮屈じゃないの、この手をこうしなってば」\n ついで彼女の含み笑いが聞えた。\n「助さん」とあまえた鼻声でお兼が云った、「あんた幾つ、――そう、十九なの、若いのね、うれしい」\n お兼はそのとき三十五歳であった。亭主のしっつぁんは呑んだくれの怠け者で、ときたま思いだしたように、なにかの雇われ仕事にでかけるが、「まる一日働いたことがねえ」といわれていた。博奕を打つでもなく、女にちょっかいを出すわけでもない。ただ酒を飲んで寝ころがるか、ぶらぶら歩きまわってむだ話をするだけである。云うまでもないだろうが、家計は稼ぎ手のお兼がにぎっていて、しっつぁんは与えられる小遣いでやっているのだが、そんなものが長くある筈はなく、彼はもっぱら奢ってくれそうな相手を求めてぶらつき、またしばしばお兼の男のところへいってねだった。\n お兼は子を産まないためか、肌の艶もよく、浮気性の女に共通の嬌めかしさ、誘惑的な声と身ぶり、言葉よりずっと明確に意志を伝える眼つき、などをもっていた。それは洗練されたものではなく、生れつき身についたものであるし、実際にはこの土地ではそんな武器を使う必要は少しもなかった。\n ――お兼あまにどれだけ男がいるか、本当に知っているのは亭主のしっつぁんだけだ。\n 土地の人たちはそう云っていた。真偽のほどはわからないが、お兼と寝た男は、きまってしっつぁんの訪問を受ける。べつに文句をつけに来るのではない、相手の男を呼び出すと、ぐあい悪そうにもじもじして、「一杯飲ましてくれねえかね」と云う。相手が幾らか出せば貰うし、ないよと云えば温和しく帰るだけであった。\n 助なあこの恋は、一と月ばかり続いただけで、無慚にうち砕かれた。或る夜、芳野の漉き小屋の中で、彼は怒りのためにふるえながらお兼をなじった。彼はお兼がほかの男たちとも寝る、ということを聞いたのである。\n「そんなこといいじゃないの」と云ってお兼は助なあこを抱きよせようとした、「あたしが本当に好きなのはあんた一人だもの、浮世はままならないもんなのよ」\n 助なあこはお兼の手をふり放した。\n「そうじゃねえ、そうじゃねえ」彼はふるえながら云った、「男と女の仲は蜜柑の木を育てるようなもんだ、二人でいっしん同躰になって育てるから蜜柑が生るんだ、お兼さんのようにあっちの男と寝たりこっちの男と寝たりすれば、せっかくの木になすびが生ったりかぼちゃが生ったり、さつまいもが生ったりするようになっちまう、おらそんなこたあいやだ」\n「ばかなこと云わないで」そう云ってからお兼は急に怒りだした、「えらそうなこと云うんじゃねえよ、おめえだっておらのこと、おらの亭主から横どりしてるんじゃねえか、なにがなすびだえ、かぼちゃがどうしたってのさ、ふざけちゃいけないよ」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「おやおや、中身だけ持出して咽喉を突いたのか」\n たしなみのよくない自害――平次はそういった心持で、もういちど死骸を改めました。\n「戸締りには何の変りもなかったのだね」\n「ヘエ、みんな内から締っていたそうで。これは朝、雨戸を開けたお山が、よく知っております」\n と文六。\n「おや、――盆栽があるね」\n 平次は障子を開けると、庭の盆栽棚を眺めております。こんな緊張した空気の中でも、しばらくは好きな道を思い出して、フト眼の保養をする気になったのでしょう。\n「お好きなのは先代の総兵衛旦那様でございました。二年前先代様が亡くなられてからは誰も世話をいたしませんので、あの通り荒れ放題でございます」\n「なるほどな、楓林が雑草畑になって、槙柏は伸び放題、――まるで箒だ。おやおや惜しい松を枯らしているね、二三百年も経った樹だろうが」\n 平次は自分のことのように眉を顰めました。が、フト思い出したように、\n「白紙の手紙が十二本も来たそうだが、どこかに二本でも三本でもないだろうか」\n こんなことを訊くのでした。\n「御主人の手箱に十本くらいありますが、ひどく汚れておりますよ」\n「どれ、見せて貰おうか」\n「ヘエ、これでございます」\n 文六の持って来たのを見ると、同じ封筒、同じ文字の手紙が十本。比べて見ると、下手ながら恐ろしいほどよく似た字で、十本が十本、判こで捺したように、一点一画の違いもなく、点の距離、棒の長さまで、全く同一です。\n「ひどく下手な字だが、形と崩し方だけは本当だね」\n 中から白紙を引出して見ると、これはまたなんという汚れようでしょう。ある物は皺だらけになり、ある物は焼け焦げて半分以上も千切れ、見る蔭もない惨憺たる有様です。\n「恐ろしく汚くなったものですね、親分」\n ガラッ八はいつの間にやら帰って来て、後ろから覗いておりました。\n「焙ってみたり、水に濡らしてみたり、薬を塗ってみたり、いろいろ工夫をしたんだろう。白紙に明礬とか南瓜の汁とかニガリとか、灰汁とかいうもので、何か書いてあるんじゃないかと思ったんだろうよ。が、やはりただの白紙だ、隠し文字も何にもなかったらしい」\n「............」\n 主人がどんなにこの白紙の脅迫状に悩まされたか、ガラッ八も文六も、ツイ暗い心持になります。\n それから八五郎の集めて来た家中の者の筆跡を調べましたが、白紙脅迫状の封書に似たのは一つもありません。番頭の文六は唐様の達筆、手代の幸吉は職業的な器用な字で封筒の稚拙味は真似てもできそうもなく、娘の幾代の仮名文字の美しさも、下女のお道の金釘流も、小僧の鶴吉のたどたどしい筆跡も、およそ白紙脅迫状の封筒の文字とはかけ離れたものだったのです。そのうちで飯炊きのお山だけは一文不通で、いろはのいの字も書けないとわかって、これは全く疑いから除外されました。\n\n四\n\n それからざっと家の内外を調べました。白紙の手紙を抛り込んであったという店の格子は、お勝手から廻って家の者でも抛り込めるでしょうし、店の中からそっと置いて外から抛り込んだと見せられないこともありません。\n 土地の御用聞たちは、主人徳次郎は、先代の義弟といっても何の血統関係はなく、先代の娘の幾代を差置いて、浅田屋の身上を継いだ形になるのですから、幾代には充分徳次郎を怨む理由があったわけで、幾代の部屋の前を通らずには、主人の寝間へは行けないことなど考え合せて、下手人はどうしても幾代の外にはないという意見に一致し、平次が手を下す前に、縛ってしまえと犇めきましたが、手代の幸吉は一生懸命幾代を庇って、いよいよという場合には、自分が名乗って出ようとする様子さえ見せるのでした。\n その緊張した空気の中に、平次の調べは着々と進行しました。こんどは娘も雇人も、銘々の部屋へ入れて、一人一人下っ引を監視につけたまま、まず娘の幾代から始めました。\n「お前は、たいそう悪い立場になっているが、承知だろうな」\n「え」\n 美しい娘は何のこだわりもなくうなずきます。\n「ゆうべ何か物音か人声が聞えたはずだが――」\n「私はよく寝る方で、夜半には滅多に眼を覚しません。でも昨夜はまだ宵のうちに、隣の部屋で、何か唸るような声がしたようにも思います」\n そう言うのは、幾代には精一杯でした。\n「ところで、主人の徳次郎を、お前さんはあんまりよくは思っていなかったろうな」\n 平次の問いはかなり突っ込んだものでしたが、幾代はそれを肯定も否定もせず、黙って豊かな顎を襟に埋めました。\n「八、小僧の鶴吉を呼んで来てくれ。誰もいないところで訊きたいことがある」\n「ヘエー」\n 八五郎が帰って来るまで、平次はもういちど念入りに庭のあたりから戸締りの様子を見ました。外から主人の部屋の戸をこじ開けた様子は絶対にありません。\n「なんです、親分」\n 鶴吉はこまちゃくれた顔を挙げて、平次の側に立っております。\n「お前が今朝主人の死骸を見付けた時、刃物は見なかったか?」\n「びっくりして逃げ出したんで、何にも見ませんが、――何しろひどい血でしょう」\n「いや、そのびっくりして逃げ出す前に、何か見たはずだ。キラリと眼に映ったものがあったはずだと思う」\n 小僧はそう言われると、しばらく首を傾けておりましたが、\n「そういえば、右手のあたりに何か光るものがあったように思いますよ」\n おぼろげな記憶が、平次の問いに誘導されて復活して来るのでした。\n「もう一つ、この家に両刃のよく切れる刃物があったはずだが――」\n 平次の問いは予想外です。\n「ありましたよ。旦那が大事にしていた、刃先五寸くらいな槍の穂が」\n「どこにあったか知っているかい」\n「その用箪笥の中ですよ。一番下の抽斗の奥で」\n「これか」\n 死骸の横にあった、古いが細工の良い用箪笥を開けて見ましたが、上にも下にもそんなものはありません。\n「変だなア、――昨日まで確かにあったんだが」\n「お前は開けて見たのか」\n「用事があってここへ入って来ると、旦那はあわててその抽斗の中に隠しましたよ」\n「この布に包んであっただろう」\n「............」\n 鶴吉は黙ってうなずきました。平次はいつどこから持って来たか、二尺ばかりの鬱金の布の畳んだのを出して見せました。夥しく血が付いております。\n「死骸の側に落ちていたのさ。手品を使って取出したわけじゃない」\n ガラッ八の不思議そうな顔を見ると、平次は一向無技巧に種を明かしてくれます。\n 次に番頭の文六、これは別に訊ねることもありません。浅田屋の世帯が決して楽でなかったことと、外からは決して怨みを受けるはずのないことなどを確かめただけで、四人目に手代の幸吉のところへ行ってみました。\n「親分、お嬢さんは何にも御存じじゃありません。お願いですから、お嬢さんを縛るなんて、虐たらしいことを言わないで下さい。そうでなくてさえお嬢さんは――」\n 激情にかられて幸吉は、見境もなく平次に喰ってかかるのでした。\n「よしよし、お前の言うことはよく解っている。それほどお嬢さんを大事に思うなら、なんだって箪笥から切れそうもない、脇差なんか出して、血をつけて箪笥の裏へ抛り込むようなことをしたんだ」\n「えッ」\n この素っ破抜きには、聴いているガラッ八の方が驚きました。\n「鞘をそのまま抽斗に残しておいて、中身だけを出して自害をする人間があるものか。自害してから刀を抛るのも可怪しいし、それにこいつは一番大事なことだが、主人の咽喉の傷は、両刃の刃物で突いたんだぜ。あんな錆脇差なんかで、人間一人滅多に死ねるものじゃねえ。自害をするにしても、殺すにしても、同じ手近にあるなら、よく切れる刃物を選ぶのが人情だよ。どうだ、幸吉」\n「相済みません。私が悪うございました。主人の死骸の側に刃物が無いと、殺されたに決められてしまいます。あの部屋に入って主人を殺すのを、隣の部屋のお嬢さんが知らないはずはないと、土地の親分衆がおっしゃるのを聴いて、誰もいないところを見極めて、私が細工をいたしました。どうぞ、御勘弁を願います。決して悪気でしたことではございません」\n 幸吉は板敷の上に額を埋めて、泣かぬばかりに詫び入るのです。\n「そんな余計な事をするから、かえって事柄が面倒になるじゃないか――ことによれば二年前に死んだもとの主人やお前の父親の仇も討てるかも知れない。――物事を隠さずに素直に言うがいい」\n「ハイ」\n まさに一言もない幸吉です。\n「二年前、曙井戸の茶碗が無くなって、いちばん儲かったのは誰だ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 平次は妙なことを訊くのでした。\n「儲かった人なんかありません。損をした人ばかりでございます。先代の総兵衛旦那様と番頭の利八郎は自害をいたしましたし、私の父親は行方知れずになりました。それから浅田屋はこの通り左前になって、奉公人達も昔のようなことはございません」\n「いや、その中で儲かった人間は一人や二人はあったはずだ。よく考えてみるがいい。――ゆうべ死んだ主人の徳次郎などはいちばん儲かった人間じゃないか、左前でも何でも浅田屋の身上が転げ込んで来たんだ。――その主人――徳次郎を怨んでいた者は誰だ」\n「誰も――」\n「いや、きっとあるはずだ。たとえばお前だ」\n「えッ」\n「死んだ一番番頭の利八郎の身寄りの者も、幾代も怨んでいないとは言えまい」\n「いえ、お嬢さんは人を怨むような方じゃございません。それに利八郎さんは天にも地にも一人者で、身寄りも何にもなかったはずです」\n「もう一つ訊くが、曙井戸の茶碗が出て来たら、今でも金森様から二万両の金は返して貰えるのだな」\n「それはもう、親分」\n 幸吉はけげんな顔を挙げました。\n\n五\n\n 次に下女のお山とお道、――長四畳にかしこまっている二人のところへ、平次とガラッ八は入って行きました。\n「お道、お前の荷物を見せて貰うよ」\n「ヘエッ」\n お道は仰天した様子です。二十四にしてはひどく老けておりますが、足が少し悪いという外には、何の非の打ちどころもない女で、容貌も満更でなく、働きも充分、家中の褒めものになっているお道でした。\n「これか」\n 八五郎が押入をあけてズルズルと葛籠を引出すと、\n「あ、それは私のだよ」\n お山は飛び付くように引ったくります。\n「それじゃこれか」\n 竹行李を引出して、ポンと蓋を払うと、中には思いの外の贅沢な着物。下女や端女の持物らしくないのが、幾枚も出て来るのです。\n「これはみんなお前のか」\n「お道さんは着物持ちだよ」\n お山は横から口を出して、ガラッ八にグイと睨まれました。\n「親分、これですか」\n「そうだ。この紙と筆と硯と、封筒と、あ、もう一つ、字を書いた古封筒があったはずだ、――本銀町浅田屋徳次郎殿――と」\n「ありましたよ、親分」\n「それだよ。その封筒を透き写して、十二枚も封筒を書いたんだ。恐ろしく下手なくせに、字配りと崩し方が本当だと思ったのはそのためさ」\n と平次。\n「十二枚の封筒が一分一厘の違いもなく同じ字だったのは透き写したせいですね」\n ガラッ八も開いた口が塞がりません。\n「さア、お道、このうえ言い分はあるまい。何の怨みでお前は白紙の手紙を十二本も主人に出したんだ」\n お道は黙って俯きます。金輪際物を言うまいとしている様子――女が一番反抗的になった態度です。\n「言わなきゃいい。その代りお前には主殺しの疑いがかかるよ」\n「とんでもない親分」\n お道は顔を挙げました。サッと恐怖がその眼を横ぎります。\n「言うか」\n「言いますよ、私は親の敵を討ちたかったんです」\n「親の敵?」\n「私の親は、二年前に自害した、番頭の利八郎ですもの」\n「何?」\n 平次も驚きました、こればかりは想像しなかったのです。\n 泣きながらのお道の話を聴くと、番頭の利八郎は若い時放埒で、隣町の師匠に隠し子をこしらえ、だいぶ金を注ぎ込みましたが、厳格な主人を憚ってツイそれを打明け兼ねているうち、師匠は死んで娘のお道は孤児になり、千葉の知合いへやって二十歳までは育てましたが、親一人子一人の間柄で、年と共に離して置くのが心配になり、江戸へ呼寄せて主人の家に下女に住込ませ、それとはなしに朝夕顔を見合って暮していたというのです。\n「どうして主人に打明けなかったんだ」\n そんな生活は平次の常識にはない方法でした。\n「でも、そのうちに折を見て打ちあける心算でいたんです」\n 娘も親も、そんな罪のない秘密を楽しんで、主人に打ちあけて驚かせる日を待っているうちに、曙井戸の茶碗の紛失から、主人と番頭が、一夜のうちに自害するようなことになったのでしょう。\n「死んだ番頭の娘が、主人の徳次郎を親の敵と狙ったのはどういうわけだ」\n 平次はようやく問題の核心に触れました。\n「なんとかの茶碗を隠したのは、あの人達だったんです」\n「何?」\n「先の総兵衛旦那様や、私の父さんが死んだ後で、旦那(徳次郎)と番頭の文六さんが、――茶碗をいつ取出したものだろう、って話しているのを私は聴きました」\n「それは本当か」\n「嘘で、こんな苦労をするものですか。刃物を持って向って行ったって返り討ちにされるに決っているし、怨みの文句を書いても始まらないし、訴えて出たって誰も相手にはしてくれないだろうと思って、私は帳場から旦那へ来た古い手紙を一枚持って来て、それを透き写しにして封筒を書き、中へ白紙を入れて、父さんと旦那様の命日に店へ抛り込みました。初めは使い屋に頼んだけれど、そうすると、かえって足が付きそうだから二度目から自分で格子から抛り込んだんです。その白紙の手紙に責められて、気狂いのようになって死んだのは、自分の心にやましいことがあるためじゃありませんか。親分、私は敵を討って、こんなに嬉しいことはありませんよ」\n お道の方法は、尤もであり、当然であり、同情すべきことに違いありませんが、白紙の手紙の思い付きの異常さに、平次は何か褒めてやりたくないような気もするのです。\n「親分ッ、た、大変ッ」\n 遥かの方からガラッ八の声が高鳴ります。\n 飛んで行ってみると、番頭の文六と組んずほぐれつの大格闘中、ともすれば逃げられそうになって援けを呼んだのです。\n「野郎ッ、神妙にせい」\n 平次は飛び込んで文六を押えました。元は武家の出か何かでしょう。恐ろしい腕っ節です。\n\n六\n\n「俺が何をしたというのだ、縛られる覚えはないぞ」\n 八五郎に縄尻を取られながら、文六は縁側の上の平次に悪罵の限りを浴びせるのでした。\n「曙井戸の茶碗を隠して主人と一番番頭に自害をさせても何にもしないと言う心算か」\n と平次。\n「それっきりか」\n 文六は悪党らしく肩を聳やかします。\n「二度目の主人の徳次郎を殺したとは言わない。あれは前から槍の穂で突いた傷が二つ、――その間黙っているはずはないし、咽喉を突く時槍の穂を包んだ鬱金の布が出て来たから、自害に相違あるまい。白紙の手紙に心を痛めて、フラフラと死ぬ気になったのだろう。が、翌る日、小僧の鶴吉の次にあの部屋へ行ったお前は、槍の穂を隠して、幾代に疑いを向けようとした。幾代はお前と一緒になるのを嫌っていたし、それに幾代が下手人になれば、――まことは親の敵討でも、名目は親殺しになるから、重い処刑は免れない。するとお前に浅田屋の身上が自由になる」\n「嘘だ」\n「いや、槍の穂がもう井戸から上がって来るはずだ。騒ぎの後でお前が井戸のところにうろうろしていたのを、二人も三人もの眼で見ている」\n 平次の論告の確実性は、間もなく井戸からあげて来た槍の穂で裏付けられました。\n「勝手にしやがれ、俺はどうせ悪党だ。が、槍の穂を隠したくらいじゃ命に係わるほどの罪じゃねエ。幾代と幸吉が好きなようになったって浅田屋は暖簾だけだ。今年の盆までにはきっと身代限りをするぜ、ざまア見やがれ」\n 文六は幾代を幸吉に取られる口惜しさに取逆上て、歯を剥いて二人を呪うのです。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「お助け。――」\n 波がどぶん。\n 目も口も鼻も一時にまた汐を嘗めた。\n「お助け――」\n 濤がどぶーん。\n「お助け――」\n 耳は聾だ。\n「助けてくれ――」\n 川の方へ、引こう引こうとしていた、そのうつくしい女の、優い眉が屹としまると、蓑を入れちがいに砂堤に乗って、海の方から御坊の背中を力一杯どんと圧した。ずるずるずると、可心は川の方へ摺落ちて、丘の中途で留まった。この分なら、川へ落ちたって水を飲むまでで生命には別条はないのに。ああ、入替った、うつくしい人の雪なす足は、たちまち砂へ深く埋ったんです。......\n 吻と一息つく間もない、吹煽らるる北海の荒浪が、どーん、どーんと、ただ一処のごとく打上げる。......歌麿の絵の蜑でも、かくのごとくんば溺れます。二打ち三打ち、頽るる潮の黒髪を洗うたびに、顔の色が、しだいに蒼白にあせて、いまかえって雲を破った朝日の光に、濡蓑は、颯と朱鷺色に薄く燃えながら――昨日坊さんを払ったように、目口に灌ぐ浪を払い払いする手が、乱れた乳のあたりに萎々となると、ひとつ寝の枕に、つんと拗ねたように、砂の衾に肩をかえて、包みたそうに蓑の片袖を横顔に衝と引いた姿態で、羽衣の翼は折れたんです。\n 可心は、川の方の砂堤の腹にへばりついて、美しい人の棄てた小笠を頭陀袋の胸に敷き、おのが檜木笠を頸窪にへし潰して、手足を張り縋ったまま、ただあれあれ、あっと云う間だった、と言うのです。\n\n ――三年経って、顔色は憔悴し、形容は脱落した、今度はまったくの墨染の聾坊主が、金沢の町人たちに送られながら、新しい筵の縦に長い、箱包を背負って、高浜へ入って来ました。......川口に船を揃えて出迎えた人数の中には、穴水の大庄屋、林水。黒島の正右衛門。......病気が治って、その弟の正之助。その他、俳友知縁が挙ったのです。可心法師の大願によって、当時、北国の名工が丹精をぬきんでた、それが明神の神像でした。美しい人の面影です。――\n 村へ、はじめて女神像を据えたのは、あの草団子のまわり縁で。......その家の吉之助というのの女房、すなわち女神の妹は、勿論、姉が遭難の時、真さきに跣足で駈けつけたそうですが、\n(あれ、あれ、お祝の口紅を。身がきれいになって。)\n と、云って泣いたそうです。\n 姉が日雇に雇われるとは知らなかった。......中たがいをしたのでも何でもない。選んだ夫の貧しい境遇に、安処して、妹の嫁入さきから所帯の補助は肯じなかった。あの時、――橋で中よく遊んでいた男子たち、かえって、その弟の方が、姉さんの子だったそうです。\n この妹が、凜としていた。土地の便宜上、米町川の上流、大笹に地を選んで、とにかく、在家を土蔵ぐるみ、白壁づくりに、仮屋を合せて、女神像をそこへ祭って、可心は一生堂守で身を終る覚悟であった処。......\n(お心はお察し申しますが、一つ棟にお住いの事は、姉がどう思うか、分りかねます。御僧をお好き申して助けましたか。可厭で助けましたか。私には分りませんから。)\n 妹がきっぱり云った。\n 可心は、ワッと声を上げて泣いたそうです。\n そこで、可心一代は、ずッと川下へ庵を結んで、そこから、朝夕、堂に通って、かしずいて果てた、と言います。\n この庵のあとはありません。\n 時に不思議な縁で、その妹の子が、十七の年、川尻で――同じ場所です――釣をしていて、不意に波に浚われました。泳は出来たが、川水の落口で、激浪に揉まれて、まさに溺れようとした時、大な魚に抱かれたと思って、浅瀬へ刎出されて助かった。その時、艶麗、竜女のごとき、おばさんの姿を幻に視たために、大笹の可心寺へ駈込んで出家した。これが二代の堂守です。ところが、さいわい、なお子があったのに、世を譲って、あの妹も、おなじ寺へ籠って、やがて世を捨てました。\n 川裳明神の像は、浪を開いた大魚に乗った立像だそうです。\n 寺は日蓮宗です。ですが、女神の供物は精進ではない。その折の蓑にちなんだのが、ばらみの、横みの、鬢みの、髢の類、活毛さえまじって、女が備える、黒髪が取りつつんで凄いようです。船、錨、――纜がそのまま竜の形になったのなど、絵馬が掛かっていて、中にも多いのは、むかしの燈台、大ハイカラな燈明台のも交っています。\n ――これは、翌日、大笹の宿で、主人を呼んで、それから聞いた事をある処は補いましたし、......後とはいわず、私が見た事も交りました。」......\n\n五\n\n「......この女神の信仰は、いつ頃か、北国に大分流布して、......越前の方はどうか知りませんが、加賀越中には、処々法華宗の寺に祭ってあります。いずれも端麗な女体です。\n 多くは、川裳を、すぐに獺にして、河の神だとも思っていて、――実は、私が、むしろその方だったのです。――恐縮しなければなりません。\n 魔女だと言う。――実は私の魂のあり所だと思う、......加賀、金石街道の並木にあります叢祠の像なぞは、この女神が、真夏の月夜に、近いあたりの瓜畠――甜瓜のです――露の畠へ、十七ばかりの綺麗な娘で涼みに出なすった。それを、村のあぶれものの悪少狡児六人というのがやにわに瓜番の小屋へ担ぎあげて無礼をした、――三年と経たず六人とも、ばたばたと死んだために、懺悔滅罪抜苦功徳のためとして、小さな石地蔵が六体、......ちょうど、義経の――北国落の時、足弱の卿の君が後れたのを、のびあがりのびあがりここで待ったという――(人待石)の土手下に......」\n 小山夏吉の顔は暗かった。\n「海の方を斜に向いて立っています。私はここで、生死の境の事を言わねばならなくなりました――一杯下さい......」\n 炬燵は巌のように見えた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " はじめよりして、判官殿の北国の浦づたいの探訪のたびに、色の変るまでだった、夏吉の心が頷かれた。\n「――能登路の可心は、僻みで心得違いをしたにしろ、憎いと思った女の、過って生命を失ったのにさえ、半生を香華の料に捧げました。......\n(――これは縁起に話しましたが――)\n 私なんぞ、まったく、この身体を溝石にして、這面へ、一鑿、目鼻も口も、削りかけの地蔵にして、その六地蔵の下座の端へ、もう一個、真桑瓜を横噛りにした処を、曝しものにされて可いのです。――事実、また、瓜を食って渇命をつないでいるのですから。」\n と自棄に笑った。が、酔もさめ行く、面の色とともに澄切った瞳すずしく、深く思情を沈めた裡に、高き哲人の風格がある。\n ここは渠について言うべき機会らしい。小山夏吉は工人にして、飾職の上手である。金属の彫工、細工人。この業は、絵画、彫刻のごとく、はしけやけき芸術ほど人に知られない。鋳金家、蒔絵師などこそ、且つ世に聞こゆれ。しかも仕事の上では、美術家たちの知らぬはない、小山夏吉は、飾職の名家である。しかも、その細工になる瓜の製作は、ほとんど一種の奇蹟である。\n 自ら渠が嘲った。\n「――瓜を食って生きている――」\n いま芸術を論ずる場合ではないのだから、渠の手腕についてはあえて話すまい。が、その作品のうちで、瓜――甜瓜が讃美される。露骨に言えば、しきりに註文され、よく売れる。思うままの地金を使って、実物の大さ、姫瓜、烏瓜ぐらいなのから、小さなのは蚕豆なるまで、品には、床の置もの、香炉、香合、釣香炉、手奩の類。黄金の無垢で、簪の玉を彫んだのもある。地金は多くは銀だが、青銅も、朧銀も、烏金も......真黒な瓜も面白い。皆、甜瓜を二つに割って、印籠づくりの立上り霊妙に、その実と、蓋とが、すっと風を吸って、ぴたりと合って、むくりと一個、瓜が据る。肉取り、平象嵌、毛彫、浮彫、筋彫、石め、鏨は自由だから、蔓も、葉も、あるいは花もこれに添う。玉の露も鏤む。\n いずれも打出しもので、中はつぎのないくりぬきを、表の金質に好配して、黄金また銀の薄金を覆輪に取って、しっくりと張るのだが、朱肉入、驕った印章入、宝玉の手奩にも、また巻煙草入にも、使う人の勝手で異議はない。灰皿にも用いよう。が希くば、竜涎、蘆薈、留奇の名香。緑玉、真珠、紅玉を装らせたい。某国――公使の、その一品を贈ものに使ってから、相伝えて、外国の註文が少くない。\n ただ、ここに不思議な事がある。一度手に入れた顧客、また持ぬしが、人づてに、あるいは自分に、一度必ず品を返す。――返して、礼を厚うして、蓋と実のいずれか、瓜のうつろの処へ、ただもう一鏨、何ものにても、手が欲いと言うのである。ほかの芸術における美術家の見識は知らない。小山夏吉は快くこれを諾して、情景品に適し、景に応じ、時々の心のままに、水草、藻の花、薄の葉、桔梗の花。鈴虫松虫もちょっと留まろうし、ささ蟹も遊ばせる。あるいは単に署名する。客はいずれも大満足をするのである。\n 外国へ渡ったのは、仏蘭西からと、伊太利、それから白耳義と西班牙から、公私おのおのその持ぬしから、おなじ事を求めて、一度ずつ瓜を返したのには、小山夏吉も舌をまいて一驚を吃したそうである。妙に白耳義が贔屓で、西班牙が好な男だから、瓜のうつろへ、一つには蛍を、頸の銅に色を凝らして、烏金の烏羽玉の羽を開き、黄金と青金で光の影をぼかした。一つには、銀象嵌の吉丁虫を、と言っていた。\n こう陳列すると、一並べ並べただけでも、工賃作料したたかにして、堂々たる玄関構の先生らしいが、そうでない。挙げたのは二十幾年かの間の折にふれた作なのである。第一、一家を構えていない。妻子も何も持たぬ。仕事は子がいから仕込まれた、――これは名だたる師匠の細工場に籠ってして、懐中のある間は諸国旅行ばかりして漂泊い歩行く。\n 一向に美術家でない。錺屋、錺職をもって安んじているのだから、丼に蝦蟇口を突込んで、印半纏で可さそうな処を、この男にして妙な事には、古背広にゲエトルをしめ、草鞋穿で、鏨、鉄鎚の幾挺か、安革鞄で斜にかけ、どうかするとヘルメット帽などを頂き、繻子の大洋傘をついて山野を渡る。土木の小官吏、山林見廻りの役人か、何省お傭の技師という風采で、お役人あつかいには苦笑するまでも、技師と間違えられると、先生、陰気にひそひそと嬉しがって、茶代を発奮む。曰く、技師と云える職は、端的に数字に斉しい。世をいつわらざるものだ、と信ずるからである、と云うのである。\n(――夜話の唯今なども、玄関の方には件のヘルメットと、大洋傘があるかも知れない。)\n が、甜瓜は――「瓜を食って活きている。」――渠の言とともに、唐草の炬燵の上に、黄に熟したると、半ば青きと、葉とともに転がった。\n\n六\n\n 小山夏吉は更めて言を継いだ。――\n「あの、金石街道の、――(人待石)に、私は――その一日、昼と夜と、二度ぐったりとなって、休みました。八月の半ば、暑さの絶頂で、畠には瓜が盛の時だったんです。年は十七です。\n 昼の時は、まだ私という少年も、その生命も日南で、暑さに苦しい中に、陽気も元気もありました。身の上の事について、金石に他家の部屋借をして、避暑かたがた勉強をしている、小学校から兄弟のように仲よくした年上の友だちに相談をして行ったんですから。あるいは希望が達しられるかも知れないと思ったので。\n つまり、友だちが暑中休暇後に上京する――貧乏な大学生で――その旅費の幾分を割いて、一所に連れて出てもらいたかったので。......\n ――父のなくなった翌年、祖母と二人、その日の糧にも困んでいた折から。\n 何、ところが、大学生も、御多分に洩れず、窮迫していて、暑中休暇は、いい間の体裁。東京の下宿に居るより、故郷の海岸で自炊をした方が一夏だけも幾干か蹴出せようという苦しがりで、とても相談の成立ちっこはありません。友だちは自炊をしている......だから、茄子を煮て晩飯を食わしてくれたんですが、いや、下地が黒い処へ、海水で色揚げをしたから、その色といったら茄子のようで、ですから、これだって身の皮を剥いでくれたほどの深切です。何しろ、ひどい空腹の処へ、素的に旨味そうだから、ふうふう蒸気の上る処を、がつがつして、加減なしに、突然頬張ると、アチチも何もない、吐出せばまだ可いのに、渇えているので、ほとんど本能の勢、といった工合で、呑込むと、焼火箸を突込むように、咽喉を貫いて、ぐいぐいと胃壁を刺して下って行く。......打倒れました。息も吐けません。きりきりと腹が疼出して止りません。友だちが、笑いながら、心配して、冷飯を粥に煮てくれました。けれども、それも、もう通らない。......酷い目に逢いました。\n 横腹を抱えて、しょんぼりと家へ帰るのに、送って来た友だちと別れてから、町はずれで、卵塔場の破垣の竹を拾って、松並木を――少年でも、こうなると、杖に縋らないと歩行けません。きりきり激しく疼みます。松によっかかったり、薄の根へ踞んだり......杖を力にして、その(人待石)の処へ来て、堪らなくなって、どたりと腰を落しました。幹が横に、大く枝を張った、一里塚のような松の古木の下に、いい月夜でしたが、松葉ほどの色艶もない、藁すべ同然になって休みました。ああ、そこいらに落散っている馬の草鞋の方が、余程勢がよく見えます。\n 道を挟で、入口に清水の湧く、藤棚の架った茶店があって、(六地蔵は、後に直ぐその傍に立ったのですが、)――低く草の蔭に硝子の簾が透いて、二つ三つ藍色の浪を描いた提灯が点れて、賑かなような、陰気なような、化けるような、時々高笑をする村の若衆の声もしていたのが、やがて、寂然として、月ばかり、田畑が薄く光って来ました。\n あとまだ一里余、この身体を引摺って帰った処で、井戸の水さえ近頃は濁って悪臭し......七十を越えた祖母さんが、血を吸う蚊の中に蚊帳もなしに倒れて、と思うと、疼む腹から絞るようにひとりでに涙が出て、人影もないから、しくしくと両手を顔にあてて泣いていました。\n(どうなすったの。)\n 花の咲くのに音はしません。......いつの間にか、つい耳許に、若い、やさしい声が聞こえて、\n(お腹が疼いんですか。)\n 少年たち、病気を見舞うのに、別に、ほかに言葉はないので......こう云ってくれたのを、夢か、と顔を上げて見ると、浅葱の切で、結綿に結った、すずしい、色の白い......私とおなじ年紀ごろの、ああ、それも夢のような――この日、午後四時頃のまだ日盛に――往きにここで休んだ時――一足おくれて、金沢の城下の方から、女たち七人ばかりを、頭痛膏を貼った邪慳らしい大年増と、でっくり肥った膏親爺と、軽薄らしい若いものと、誰が見ても、人買が買出した様子なのが、この炎天だから、白鵞も鴨も、豚も羊も、一度水を打って、活をよくし、ここの清水で、息を継がせて、更に港へ追立てた......\n ......更に追って行く。その時、金石の海から、河北潟へ、瞬く間に立蔽う、黒漆の屏風一万枚、電光を開いて、風に流す竜巻が馳掛けた、その余波が、松並木へも、大粒な雨と諸ともに、ばらばらと、鮒、沙魚などを降らせました。\n 竜巻がまだ真暗な、雲の下へ、浴衣の袖、裾、消々に、冥土のように追立てられる女たちの、これはひとり、白鷺の雛かとも見紛うた、世にも美しい娘なんです。」\n 彫玉の技師は一息した。\n「......出稼の娼妓の一群が竜巻の下に松並木を追われて行く。......これだけの事は、今までにも、話した事がありましたから、一度、もう、......貴下の耳に入れたかも知れません。」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " なんのためにイワン・フョードロヴィッチがそのとき帰って来たのか――自分は当時すでにほとんど不安に近い気持で、この疑問を心にいだいたことを覚えている。あのような恐ろしい事件の端緒となったこの宿命的な帰郷は、自分にとって、その後長いあいだ、ほとんど常に不可解な謎として残っていた。だいたい、あれほど学問があり、あれほど見識が高くて、あれほど体面を慮る青年が、――一生自分の存在を無視して、自分を知りもしなければ覚えてもいず、もちろん、たといわが子の願いであろうとも、いついかなる場合にも金などを出す心配は絶対にないくせに、それでいて、やはりイワンとアレクセイがいつか帰って来て、金をねだりはしないかと、一生涯そればかりを恐れているような、こんな父親の乱脈きわまる家庭へ突然やって来たのは、不思議なことである。ところが、そんな父親の家へ戻って来てこの青年はもう二月ばかりもいっしょに暮らしているばかりでなく、両者のあいだはこのうえもなく折り合いが好いのである。これには単に私ばかりではなく、多くの人たちが特に驚かされた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフ――この人はすでに前にも述べたとおり、先妻とのつながりでフョードル・パーヴロヴィッチの遠い親戚に当たる人であるが、ちょうどそのころ、すっかり住み慣れたパリから帰って来て、再び当市に隣接した領地に居合わせた。この人が誰にもまして特に驚いていたように記憶する。\n 彼は異常なる興味を覚えてこの青年と相識のあいだになったが、ともすれば内心の苦痛を感じながら、知識の張り合いをすることがあった。『あの男は気位は高いし』と彼はそのころ、われわれに向かってイワンのことをこんな風に話していた。『いつでも小銭はもうけるし、それに今でも外国へ行くだけの金は持っているのだから、何もいまさらこんなところへやって来る必要はなさそうなものだが? 父親に金をもらうためにやって来たのでないことは、誰の眼にも明らかなことだ。なんにしても金を出す父親ではないのだから。あの男は酒を飲んだり、放埒なまねをしたりするのは、大嫌いなんだが、それだのに父親はあの男でなければ、夜も日も明けないありさまだ!』それは全く事実であった。イワンは父親に対して明らかに一種の勢力を持っていた。父は非常にわがままで、ときにはひどく片意地なこともあったが、しかも、時おりは彼の言うことを聞くらしかった。そればかりではなく、どうかすると、身持ちが幾らかなおったかと思われることさえもあった......。\n 後になってわかったことであるが、イワン・フョードロヴィッチが帰って来た一半の理由は、兄ドミトリイ・フョードロヴィッチの頼みとその用件のためであった。そのころ、生まれてはじめて兄のことを知り、顔を見たのもほとんどこの帰郷のときがはじめてであったが、しかし、ある重大な事件――といっても、主としてドミトリイ・フョードロヴィッチに関したことである――のために、モスクワから帰郷する前から文通は始めていた。それがいかなる事件であるかは、やがて読者に詳しくわかってくるはずである。とにかく、後日その特別な事情を聞き知った後でさえも、私にはイワン・フョードロヴィッチという人がやはり謎のように感ぜられ、その帰郷の理由も依然として不可解に思われた。\n つけ加えて言っておくが、イワン・フョードロヴィッチはそのころ、父と大喧嘩をして、正式裁判にまでも訴えようとしていた兄のドミトリイ・フョードロヴィッチと父との間に挾まって、仲裁役といったような立場に立っていた。\n この一家族は、くり返して言うが、このときはじめていっしょに落ち合ったのであって、ある者は生まれてはじめて互いに顔を見知ったのである。ただ末の子のアレクセイ・フョードロヴィッチだけは、一年ほど前から、こちらで暮らしていた。つまり兄弟じゅうで最も早く、われわれのところへ姿を現わしたわけである。さて、このアレクセイについて、小説の本舞台へ登場させるに先立って、こうした序説的な物語の中で説明することは、何よりも自分にとってはむずかしいことである。しかし、彼についても、やはり前書きを書かなければならぬ。少なくとも、ある非常に奇妙な点、すなわち、この未来の主人公を、小説の第一幕から新発意の法衣姿で、読者に紹介しなければならぬので、その点だけでもあらかじめ説明しておく必要があるのである。事実、彼がこちらの修道院に住みこんでからすでに一年近くになるが、どうやら彼は一生涯その中に閉じこもる覚悟でいるらしかった。\n\n四 三男アリョーシャ"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 彼はその時まだやっと満二十歳であった(中の兄のイワンは当時二十四、長兄のドミトリイは二十八であった)。まず最初に言っておかなければならないのは、この青年アリョーシャが、けっして狂信者でもなければ、また、少なくとも自分の考えでは、けっして神秘主義者でさえなかったことである。前もって遠慮のない意見を述べるならば、彼はわずかに若き博愛家にすぎず、修道院の生活にはいったのも、ただその生活が彼の心をうち、いわば世界悪の闇から愛の光明を願い求める彼の魂の究極の理想として、そのころの彼の心に映じたからである。またこの修道院の生活が彼の驚異の念を呼びさましたのも、その中に、そのころ、彼の目してなみなみならぬ人物とする、有名な長老ゾシマを、発見したからであった。彼はやむにやまれぬ心の初恋のような熱情を捧げつくして、この長老に傾倒した。もっとも、彼はすでに揺籃時代から非常に変わった人間であったことは争われない事実である。ついでながら、彼がわずか四つで母に別れながら、その後一生を通じて、母の面影やその慈愛を、『あたかも自分の眼の前に母親が生きて立っているかのように』まざまざと覚えていたことはすでに述べたとおりである。こうした思い出はずっとずっと幼い――二つくらいのころからさえ、よく記憶に残るもので(それは誰でも知っていることであるが)、それは闇の中に浮かび出た明るい点のように、――また、それ以上は跡形もなく消え失せた大きな絵から切り抜かれた小さい断片のように、一生を通じて心のなかに浮かんでくるものである。アリョーシャの場合も全くそのとおりであった。彼はある夏の静かな夕暮を覚えていた。窓があいていた、夕日が斜めにさしこんでいた(この斜めにさしこむ光を彼は最もよく覚えていた)、部屋の片隅には聖像があり、その前には燈明がともされていた。聖像の前に母がひざまずいて、ヒステリイのようにすすり泣きしながら不意に金切声をあげてわめきだすと共に、彼を両の手で痛いほど固く抱きしめて、わが子の身の上を聖母マリヤに祈り、また聖母の被衣の陰に隠そうとでもするかのように、彼を両手に抱き上げて聖像の方へ差し伸べたりしていた......すると、不意に乳母が駆けこんで来て、おびえながら彼を母親の手からもぎ取ってしまった、これがそのときの光景であった! アリョーシャはその刹那の母の顔まで覚えていた。その顔は、彼が記憶している限りでは、取り乱してはいたが、美しいものであった。しかし、彼はこの記憶を人に打ち明けることをあまり好まなかった。幼年期にも、少年期にも、彼はあまり感情を面に現わさなかったばかりか、むしろ口数の少ないほうであった。それはけっして臆病のためとか、無愛想で人づきが悪いためではなかった。それどころか、かえって、原因は何か他にある。つまり、きわめて個人的な、他人にはなんの関係もない、自分だけの内心の屈託といったようなものであるが、それが彼にとっては非常に重大なものなので、このために他人のことは忘れるともなく忘れがちになるのであった。しかも彼は人を愛した。そして一生涯、人を信じきって暮らしたらしいが、かつて誰ひとりとして彼をばかというものもなければ、お人好しと考える者もなかった。彼の内部には、自分は他人の裁判官になるのはいやだ、そして他人を非難するのも好かないから、どんなことがあっても人を咎めない、とでも言っているようなところがあった(それはその後、一生を通じてそうであった)、事実、彼は少しもとがめ立てをせずに、ときには深い悲哀を感ずることもたびたびあったが、いっさいのことを許しているらしかった。この意味で、何びとも彼を驚かしたりおびやかしたりすることができないほどになっていた。二十歳の年に、まぎれもなく、けがらわしき淫蕩の巣窟たる父親の家に身を寄せてからも、童貞純潔な彼は、見るに忍びないときに、黙々としてその場をはずすばかりで相手が誰であろうとも、いささかの軽蔑をも非難をも見せなかった。かつてよその居候であったところから、侮辱に対しては敏感で繊細な神経を持っていた父親は、最初は、腑に落ちないような、気むずかしい態度で、『黙り者の腹はさまざま』といった風で彼を迎えたが、結局は、まだ二週間ともたたないうちに、絶えず彼を抱きしめて、接吻するようになった。もっとも、それは泣き上戸の感傷の涙まじりにではあったが、しかも彼のような人間には、ほかの何びとにも感ずることのないような、深い真実な愛情がありありと見えていた......。\n それに、この青年はどこへ行っても人に好かれた。それはまだ幼い子供のときからそうであった。自分の恩人で養育者たるエフィム・ペトローヴィッチ・ポレーノフの家へ引き取られると、彼はこの家のあらゆる人たちをすっかり引きつけてしまって、全く本当の子供と同様に見なされたものであった。それにしても、彼がこの家庭へはいったのは、まだきわめて幼少のころで、こんな子供に打算的な悪知恵や、機嫌を取って人に好かれようとする術策や技巧や、自分を可愛がらせようとする手腕などといったものを期待することは、絶対にできないことである。したがって、おのれに対する特別な愛情を人の心に呼びさます能力は、なんら技巧を弄することなく、端的に自然から賦与された本性だったわけである。学校においてもやはり同じことであった。もっとも、彼は仲間から疑いや、時として嘲笑や、あるいはことによると、憎悪さえも受けそうな子供に見えたかもしれない。たとえば、彼はよく物思いに沈んで、人を避けるようなことがあった。ごく幼少のころから彼は隅のほうに引っこんで、読書にふけることを好んだ。それにもかかわらず、彼は学校にいる間じゅう、全くみんなの寵児といってもいいほど、仲間から可愛がられた。彼はめったにふざけたり、はしゃいだりはしなかったが、しかし、誰でも一目彼を見ると、それはけっして気むずかしさのためではなく、反対に、落ち着いてさっぱりした性質のためである、ということをすぐに悟るのであった。同じ年ごろの子供に伍しても、彼はけっして頭角を現わそうなどとは考えたことはなかった。そのせいであろうか、彼はついぞ何一つ恐れたことがなかった。それでいて仲間の子供たちは、彼が自分の勇気を鼻にかけているのでなく、かえって、自分が大胆で勇敢なことを、いっこう知らないようなありさまであることを、すぐに了解した。彼は侮辱を覚えていたことなどは一度としてなかった。侮辱を受けてから一時間ほどすると、当の侮辱者に返事をしたり、自分のほうからそれに話しかけたりすることがよくあった。そんなときには、まるで二人のあいだには何事もなかったかのように相手を信じきったような、晴れ晴れした顔をしている。それはうっかり、その侮辱を忘れたとか、またはことさらに許したとかいうような様子ではなく、そんなことは侮辱でもなんでもないといった顔つきなので、この点がすっかり子供たちの心を擒にし、征服したのであった。ただ一つ彼には人と変わった性質があって、それが下級生から上級生に至るまで、中学の全学級にわたって、彼をからかってやろう、という望みを友だちに起こさせたものである。もっとも、それは腹の黒い嘲笑ではなくただ皆にとってそれが楽しいからであった。この変わった性質というのは、野性的な、夢中になるほどの羞恥心と潔癖とであった。彼は女に関するある種のことばやある種の会話を、はたで聞いていることすらできなかった。ところが、不幸にも、こうした『ある種』のことばや会話は、いずれの学校においても絶やすことはできないものである。まだほんの子供で、心も魂も清浄潔白な少年たちが、時によっては兵隊でさえ口にするのを憚るような事柄や、場面や、方法などを、教室の中で、仲間同士大きな声で口外する。かえって兵隊などは、教育のある上流社会の年少の子弟が疾うの昔に知っているような、この方面のことを、あまり知りもしなければ、心得てもいないものである。まだ、そこにはおそらく、道徳的堕落というようなものはないであろう。厚顔無恥はあっても、やはり本当の意味での放縦な、内面的なものではなくて、ただ外面的なものにすぎないが、しかもこれがしばしば彼らのあいだでは、何かデリケートで、微妙で、男らしい、模倣に価するもののように考えられるのである。『アリョーシャ・カラマゾフ』が、『そのこと』について話の出るたびに、あわてて指で耳を塞ぐのを見て、時おり一同はことさらぐるりに集まって、むりやりにその手を払いのけながら、両の耳を向けて大声で忌まわしいことをわめくのであった。すると相手は、それを振り払って、床の上に倒れ、すっかり顔を隠してしまって、その際、何も言わなければ、乱暴な口ひとつきかず、無言のまま、じっと侮辱を忍ぶのであった。ついには誰も彼を構わなくなって、『女っ児』とからかうのさえもよしてしまったばかりではなく、この意味で彼に同情をもって見るようになった。ついでながら、級中、学課において彼はいつも優等生の一人であったが、一度も首席になったことはなかった。\n エフィム・ペトローヴィッチが死んでからも、アリョーシャはなお二年のあいだ、県立の中学校にとどまっていた。エフィム・ペトローヴィッチの夫人は悲嘆に暮れて、良人の亡きあと、すぐに、女ばかりの家族をまとめて、永逗留の予定でイタリアへ旅立ってしまったので、アリョーシャはエフィム・ペトローヴィッチの遠縁に当たる、これまで一度も顔を見たこともない二人の婦人の家へ移ることになったが、いかなる条件のもとに引き取られたものか、それは自分でも知らなかった。もう一つ、彼の、非常にといっていいくらいの変わった性質は、自分はそもそも、誰の費用で生活をしているのか、ということを、これまで一度も心に留めたことのない点であった。この点において、兄のイワン・フョードロヴィッチが大学で初めの二年間、自分で働いて身すぎをしながら苦労をしたり、またほんの子供のころから、自分の恩人の家で他人のやっかいになっている、ということを感じてつらい思いをしていたのに比べると、全く正反対であった。\n しかし、アリョーシャのこうした奇妙な性格も、あまり深くとがめるわけにはいくまいと思われる。というのは、彼を少しでも知っている者は誰でも、この問題にぶつかると、アレクセイはたとえ一時に多額の金がはいったところで、最初に出会った無心者に施してしまうか、なにかの慈善事業に寄付をするか、または単に巧妙な詐欺師にひっかかって巻きあげられるかして、苦もなく使い果たしてしまう宗教的キ印に類する青年の一人に違いないと、すぐに気づくからであった。概して彼は金の値打ちというものをよく知らなかった。もとより、それは文字どおりの意味ではない。彼はけっして自分から頼んだのではないが、時おり小遣い銭をもらうことがあったが、それも、時によると、幾週間もその使途に困ってもてあますかと思えば、また時にはおそろしく無雑作に扱って、またたく間になくしてしまうのであった。フョードル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフは、金やブルジョアらしい廉恥心にかけては、少なからず神経過敏なほうであったが、のちに、アレクセイを見慣れてしまってから、あるとき、彼について一つの名句を吐いたことがあった。\n『この男はおそらく、世界じゅうにただ一人の、類のない人間かもしれない。あれはたとい人口百万ほどの不案内な都会の大広場へ、いきなりただ一人で、一文なしで打っちゃられても、けっして飢え死にをしたり、凍え死にをしたりすることはないだろう。すぐに人が食べものをくれたり、仕事の世話をしてくれたりするから。人がしてくれなくとも、自分ですぐどこかに職を見つける。しかもそれはあの人間にとって、骨の折れることでもなければ、屈辱でもなく、また世話をしてくれる人もそれを少しも苦にしないどころか、かえって満足に思うだろう』\n 彼は中学の全課程を終えなかった。まだ卒業までにはまる一年あるのに、彼はいきなり、やっかいになっていた二人の婦人に向かって、ふとある用事が頭に浮かんできたので、父のもとへ帰るつもりだと申し出た。婦人たちはひとかたならず彼を惜しんで、放そうとはしなかった。旅費はあまりたいした額でもなかったので、彼は恩人の遺族から、外国出発のおりに贈られた時計を質に入れようとしたが、二人の婦人はそれをも止めて、十分に旅費をつくってくれ、新しい着物や肌着類までも調えてくれた。しかし、彼はぜひ三等車に乗りたいからと言って、その金も半分は返してしまった。この町へ着いた時、『なんだって学校を卒業もしないで来たんだ?』という父親の最初の質問に対して、彼は何も答えなかった。そしていつものように物思いに沈んでいたという噂である。その後まもなく、彼が母の墓を捜していることがわかった。それが帰郷の唯一の目的であると、帰って来たとき自分でも打ち明けかかっていた。しかし、それだけで帰郷の理由の全部が尽きていたかどうかは疑わしい。不意に彼の心のうちにわきあがって、どこかよくわからないが、しかも避けがたい新しい道へ、いやおうなしにぐんぐんと彼を引っぱっていったのは、はたして何であったか、それはそのころ、彼自身にさえもわからず、なんら説明のしようがなかったのだと解釈するのが最も妥当なことであろう。フョードル・パーヴロヴィッチは自分の第二の妻をどこに葬ったか、わが子に教えることができなかった。棺へ土をかぶせてこのかた、一度も墓参りをしたことがないので、長い年月がたつうちに、そのときどこへ葬ったのか、全く忘れ果ててしまったからである......。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「幼き合唱」は濫費されている字数にかかわらず何故に薄手な、貧弱な作品を結果したか? 作者は日本の封建的ブルジョア教育との闘争を、プロレタリアート解放のための具体的一部としてつかみ、芸術による闘いとして主題を深めていないからである。書く材料をペン先で扱っているからである。もし作者が一小学教師の煩悶、反逆を、野蛮な封建的絶対主義的抑圧と闘う労働者農民の立場に立って把握したならば、当然天使的な無邪気な子供というブルジョア的観念化からも救われ、佐田のイデオロギー的飛躍と実践とは、もっと質実な、納得のゆけるものとして描かれたであろう。現実の日本において、文化反動との闘争の問題は今日広汎に教育労働者を包括してきている。作者が主題をそこまで積極的にプロレタリアの課題とするところまで高めたなら、佐田の実践はよしんばあの形態において書かれたにしろ、その個人的な非組織性――小ブルジョア的なアナーキー性に対し、作者は目的を貫徹するための執拗な周密な行動を、集注し指導し更に一層合目的たらしめる可能を理解するプロレタリアの観点から正しい批判をもって描き得たであろう。\n 同じ作者の「樹のない村」は「幼き合唱」の創作態度において感知することのできた作者の「作家」というものについての理解が、作品中にはっきり姿をあらわしている点、特に多くの注意を喚起した。\n 農村のはてしない収奪と資本主義の高利貸搾取と二重の重圧によって祖先伝来の樹木さえ失い「樹のない村」となった山間のK部落の自作農らが、更に戦争の軍事費負担を加重される。軍部がその部落に二百円の強制献金を割り当てた。自作農らはついに共同墓地の松の木を伐ってそれを出すことに決議したが、昭和二年の鉱山閉鎖以来共同植付苅入れをしている「やま連」と呼ばれる農村の集団的な労働者がそれをきっかけに、未組織のK部落における闘争に率先して立つことになった。そのオルグ的役割は僕というプロレタリア作家によってされた。この小説はその作家の手紙からなっているのである。\n「樹のない村」において、主題は「幼き合唱」よりはるかに積極的である。手紙の筆者である僕というプロレタリア作家は、闘争の激化した現段階で帝国主義日本の革命的勤労大衆の前衛に課せられている任務は、広汎で具体的な帝国主義戦争反対の闘いであり、帝国主義戦争によって生じるあらゆる矛盾のモメントを内国的にはプロレタリア解放のために有利に強力に転化せしめることであり、そのためにプロレタリアートの共力者として農民との結合が急務であることなどを理解している。\n 久しぶりで彼を故郷へ呼びかえした点呼。強制献金。それ等の機会を、彼は階級的方向に転用しようとするのである。\n K部落の土着で、「ふん、自家用か、お前も役場の衆みたいなことをいう! これ以上、どうして芋が食える。朝食うて、昼食うて晩食うて......。お前に食わさんのが慈悲じゃと思え」という兄について彼は部落を歩きまわり、ことごとに部落の荒廃を目撃する。盆の十四日が百姓平次郎に鉈をふるわせる厄日であり、室三次の命の綱である馬が軍隊に徴発され、その八十円を肥料屋と高利貸に役場で押えられた室三次の女房は絶望して発狂した等々。それらを部落の一般経済事情の分析とともに、僕なるプロレタリア作家とは組織上どういう連関にあるのかまるで示されていない同志Tに、彼は細々と報告する。観察報告を書くとなると、彼はいわゆる作家的手腕を示す欲望にとらわれ、芥川龍之介がよく文章の中で使ったような調子までを使い、なかなか多弁に、詠嘆的に、味をたっぷりつけるのである。\n 目撃したK部落の窮迫の現象から、彼は、猛然と「畑へ」「種子」をおろそうと決心した。部落は自作農ばかりだから、闘争組織は農民委員会であると規定し、「僕はいよいよ実行運動に入ろう」「時はあたかもウンカ問題で村会とこじれている」「やさしくなくとも僕はやる。我々の故郷に革命の詩をもたらすための開墾を」と、プロレタリア作家の農村における闘争的活動が開始される。\n 読者はこの作家の実行運動において最も拙劣な、機械的なオルグを見るのである。強制献金のための村の衆の集りに出て、アジ・プロしようという機会そのものの積極的なとらえかたは、間違った方法によって失敗に帰したのだが、僕というプロレタリア作家は、手紙のこの部分になると、階級的先進分子としてオルグ的活動と作家的活動とを、完全に分裂した実践として行っている。\n 失敗した宣伝教育の自己批判を通して、彼の口惜しさ、悲しみが読者の胸に浸み込むような真実さで手紙は書かれていない。第一信と同じ饒舌な文調で、書くために書かれている。オルグはオルグ、作家は作家、そして手紙を書くにあたって、まさに僕は作家なのであるという分裂を行っている。「どうでも書かずに居れぬ」と切迫した実感において自己の失敗を書くとき、誰が「いや――こんな描写を重ねていては君を退屈させる。僕はいい加減にペンをはし折らねばならぬ。ども小説書きというやつはどんな場合でも呑気でいかん」などといりもしない断り書きをするほど、そんな不必要なお喋りをするであろうか! そういう作家であるからこそかんじんの村の集りで自分だけいい心持ちになって喋り、やがて「あたりを見廻して」みなが自分のまわりを離れ、区長や雑貨屋の方へかたまって彼をぬすみ見ているのに、「驚いた」りするのである。活々した階級的人間的生活の種々雑多の具象性に対し最も感受性が鋭く、個々の具象性の分析、綜合から客観的現実への総括を、あるいはその逆の作用をみずみずしく営み得るはずのプロレタリア作家ともあるものが、自分のしゃべる言葉に対する大衆的反応を刻々感得することなく、自身を「排斥された異端者」と文学的に詠嘆するに至っては、一箇の腹立たしい漫画である。\n なるほど、村についた最初から彼プロレタリア作家は、K部落の窮乏がどんな外見をとって現れているかということは、こまかに書きとめている。外から部落へ入って来たものとして観ている。しかしそれらさまざまの外見をとって起る事件が、部落民の世界観をいかにかえつつあるかという大切な要因については、その重大さに必要なだけ細心で執拗な関心を払っていない。\n 作家は「悲劇が来た」と報じている。馬をとられた三次の女房の発狂にしろ、気が違った女房が役場に日参しているという現実の報告で終っている。現実の非惨事のこれだけの現象主義的把握は一応大衆作家でもやるのである。われわれに必要なのは、そのようにして女房まで発狂させられた三次が、戦争に対し、政府に対し、どんなにこれまでと違う心持を抱くようになって来たか。三次のその不幸はまた部落民の心にどんな影響を与えたか、そのことこそ必要なのである。この三次に強制献金は何と響くであろう。彼プロレタリア作家は暗い納戸で寓話化されたソヴェト同盟を幻想に描くよりさきに、三次の事件を想起すべきであった。しかし彼は村の神社の集りへ出て、鉈をふった平次郎は念頭においたが、三次が集りに来ているかいないかさえ問題にしていない。\n 同時に、その部落と彼との関係はどこまでも、「僕」「彼ら」あるいは「百姓たち」という関係におかれ、しかも「実行運動」に当って「僕」なるものが、部落の大衆にどんな感情でうけ入れられているかという、大切な計画をぬかしている。部落へついた第一日に「味噌又」のおやじに「点呼で? そうかそうか。そしてもう社会主義たらいうもんやめて?」云々といわれている彼にしてみれば、「川上の弟じゃ、菊坊じゃ!」というだけではすまさぬ複雑な部落民の先入観によって迎えられていることは明らかである。\n 村の社での演説の失敗は、これら数多の必要な情勢分析の不確実さから生じた当然の帰結であった。彼が戦闘的唯物論者らしく部落内の現象の分析綜合をなし得たら、「彼女(部落)の古い精神がいかに社会変革をきらっていようとも彼女のからだ――生活はこれを熾烈に要求しているのだ。要求せざるを得なくなっているのだ。」という二元論は成り立たぬであろう。古い伝統がそれを嫌っていようとも生活が社会の合理的発展を熾烈に要求せざるを得ない状態に立ち至っていたとすれば、その要求によって必然的にかえられる古い精神が、そっくり元のままの古い精神であることは絶対にあり得ないのである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " プロレタリア的実践力の欠如によって起るさまざまの破綻を、僕というプロレタリア作家は「無力な小説家的詠嘆だというなかれ! 実際僕は悩んだのだ」と、さながら小説家というものの本質は無力なるもので「どんな場合にでも呑気でいかん」ものなのだが、マア堪えてくれろといわんばかりに書いている。\n 彼の失敗した演説にもかかわらず、農村における力の高揚はむこうから組織をとらえに来る。「やま連」のグループが北村清吉を代表として部落委員会らしいものを組織する話をもち出してくるのであるが、この月夜の晩、彼プロレタリア作家の心は「この一言でまるで満月のようにふくれてしまった。」そしてただちに「同志Tよ。僕の煩悶は無駄であった」と安心し、大衆の実生活が内包する革命性の豊富さに対するオルグとしての自己の実践の貧弱さ、誤謬はそれなりに飛び越えてしまっている。きわめて非マルキシスト的な態度である。\n「樹のない村」の検討において特に作家とオルグ的活動についての分裂的認識の点を強調したのは、今日われわれプロレタリア作家に課せられている階級的課題の実践的理解と連関をもっているからである。今日プロレタリア作家に課せられている任務は、あらゆる芸術的技術を統一し練磨し、階級性の集注的表現=プロレタリアートの組織の基本的線に従属させ、その独特で鋭利な武器となるべき時にあるからである。\n「樹のない村」で読者は直接農民委員会、または部落委員会の組織を試みたプロレタリア作家を見たのであるが、プロレタリア作家のオルグ的活動の面はさらに多面であり、作家としての技術を組織的活動に直接活用し得る面も数多くある。それはサークル活動である。「樹のない村」について見ても、このプロレタリア作家は、新しく「やま連」を中心とする部落の闘争組織ができようとするにあたり「明日の夜になると我々の故郷にも赤い旗が立つ」と抽象的表現で結び、「どうだ、この蚊のひどいこと!」と手紙を終っている。蚊よりも同志Tに語るべきことがあったはずだ。オルグ的役割をつとめる作家であるならば、その新しい革命力の影響を大衆化するために当然、「部落新聞」の発行について考え、その具体的な指導が「ひどい蚊」に代って彼の注意を占めたはずではなかったろうか。\n 以上三つの作品、特に「樹のない村」の検討は、われわれの関心、反省を、自身のプロレタリア作家としての活動の吟味に導いて来る。作家同盟で目下とり上げられている組織活動と創作活動の統一の問題にふれて来るのである。\n 十月号『プロレタリア文学』に鈴木清がこの問題について「一歩前進か二歩退却か」という論文を書いている。この論文はいうべきことのまわりをまわりつつ、ついにかんじんの環をつかみそこねた論文である。筆者は、繰返し説得している、組織活動と創作活動との統一はプロレタリア作家の実践によってのみ解決されるものであると。そして、その実践とは「より一層の精力的な組織的活動と創作活動との交互関係において始めて解決されなけらばならず」これは「統一され得ない問題ではなく、統一されざるを得ない問題である」といっている。しかし、筆者はその実践の経験を真に「精力的な」「交互関係」において統一させ、われらの世界観を豊富ならしめ、前衛作家として発展せしめ得るものは、ただ一つそれら「精力的な」「相互関係」を通じてわれらに客観的真理の概括を与えるところの、明確な政治的把握あるのみであることに言及していない。この問題の具体的な、日常的な解決は、とりもなおさず、芸術における政治の優位性に対する正しい階級的理解なしにはあり得ないのである。鈴木清はこれを基本的環とせず、あれやこれやの必要条件の一つとして理解したため、論文は実践的な推進力を失ったのである。\n\n 今日、プロレタリア文学運動において、組織およびその組織活動を否定するプロレタリア作家はいないであろう。文学運動が文学運動としてあり得る鍵は組織活動にある。われわれの組織の内で、組織活動と創作活動の統一の問題がおこったのは、組織活動の否定からではなく、逆にその重要性の理解(しかし不十分な理解)から起ったのである。われわれは組織活動はもちろんやらねばならないし組織活動の旺盛化の要因として創作活動も高められなければならない。だが、何ともいそがしいではないか。同盟内の仕事はおのおのの部署にあり班会にあり実にうんと用事がある。サークル活動は更に多くの精力を要求する。体が一つではまわり切れない。朝出て家に帰るのは十二時であるとすれば、いつ創作ができよう。だが作品は書かねばならない。困ったものだというところから問題が生じている。当惑と一種の焦慮とをもって問題はおこっていて、一つこの矛盾を大いに克服しようではないか、そのためにはわれらの置かれている現実をまず分析しよう、討議しよう、さあ......諸君! という、気組みの引立ちが欠けている観がある。\n 特に率直にいえば、一九三二年の後半期に問題は一進している。林房雄や須井一などが一応プロレタリア文学の陣営に属すように見えつつ、実質においては非プロレタリア的な作品を量において多量生産し、しかもそれがブルジョア・ジャーナリズムにおいてもてはやされているのに対して、われわれが一々それを作品によって覆すような作品を書いていないという現象から、漠然たる圧力を感じる傾向があった。従前から、創作活動旺盛化の課題がわれらの前にあった折から、この気分は同盟内に新たな意識で創作活動と組織活動との統一の問題をまき起したのである。そして、この問題に対する同盟員の感情も微妙な複雑性を示した。\n 一方には、組織活動をしないでいいとは思わないが、今のままではやり切れない、何とかならないものか、という消極的な、他力本願的気分がある。一方には、現在の状勢でプロレタリア文学運動の確立のために組織活動なしでどうするものぞ、組織活動によってこそ、多数者獲得の課題に答え得るのだ、今書けないのは仕方がない、という左翼的日和見主義があり、他には、時間の問題とする部分もある。創作をする時間さえあればよいのだ、と。\n プロレタリア文化運動で組織問題の重要性が理解され、それが実践にうつされたことは一九三一年度における基本的発展であった。更に、そのプロレタリア文学組織としての発展を、組織の特殊性によって具体化するために創作活動旺盛化の課題が一九三二年の大会で決定されたことは、正しかった。われわれはわれわれの革命的作品によって反動文学を克服し、サークルその他同盟の組織活動によって敵の文化組織を撃破し得るはずであった。\n しかし、それはうまく行っていない。急速に変化した情勢は現在サークル活動の理解の立てなおしを要求している。創作においてもわれわれがプロレタリア作家として互に要求しているだけ雄大で高度で、かついきいきとしたプロレタリアートの生活描写において大衆をすいよせるような作品は出ておらぬ。\n だからといって作家同盟の方向が根本的に誤っているとか、または林房雄の憫然たるアナーキー性の爆発的言辞を引用すれば「鎌倉に引込んだ僕の方がプロレタリア的仕事をするから見ていろ」などというに至っては、すでに論外である。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n 十四五歳の頃、私は陸軍幼年学校の生徒であつたが、そういう学校へなぜはいつたか、その理由はここでは述べないことにして、とにかく、将来軍人として身を立てる覚悟で、おおむねドイツ式を採り入れたこの学校の寮生活をつづけていたのである。もちろん、中学校程度の学課のほかに、実課(或は術科か)と称せられる軍事的な初歩訓練が行われ、ことに、訓育と呼ばれる日常の生活規律は一般兵営のそれよりは細かく、かつ、厳しく、いくぶん「貴族的」とでも云うべき作法を主にしたものであつた。この訓育の任に当るのは生徒監で、尉官級の云わば先輩、自分らがかつて仕込まれたとおりに後輩を仕込もうという一念以外になにもない、単純律義な指導者であつた。\n それはそうと、私のいた時分には、生徒おのおのに毎日「反省録」というものを書かせることになつていて、一日の行為、想念を通じて、「将校生徒」たるに恥じるところはないかどうかを省み、自己此判を「正直」に記録しなければならないのである。\n かゝる強制が如何なる結果を生むかは、或る種の教育者を除いては、明かに想像し得るに違いない。しかも、肝腎なことは、これを誰に読ませるかと云えば、その単純律義な生徒監にであり、多少物わかりのいゝ兄貴風を吹かす半面、極めて先入見の囚となり易い頭脳の持主であることがわかつていた。かの信者のザンゲを聴聞するカトリック僧の風貌を私は知らぬけれども、わが生徒監の背後には、万能の神の代りに、立身出世の鬼が口をひろげているのである。\n 秀才は秀才らしく、鈍根は鈍根らしく、己れの反省の正しく、美しくみえんことを、これ努める風情は、まことにいじらしいものであつた。――今日は代数の時間につい計算に気をとられて姿勢がわるくなつた。一軍の将たらんとするもの、この悪習を一日も早く脱せねばならぬ、という風なのはまだ罪のないところだが、――余は本日、日曜の外出先に於て旧友と会し、たまたま彼が軍人を誹謗する言辞を弄するを聴き、痛憤に堪えず、遂にその頭上に鉄拳を加えたり。想うに、男子侮辱に報ゆるに侮辱を以てするは理の当然なりと雖も、苟も陛下の股肱として、一朝有事の秋、云々という式に、その腕力沙汰の如きを一方で吹聴し、一方で申訳的に「反省」してみせるというやり方が、そう珍らしくはなかつた。\n 或る日のこと、それは自習時間といつて、夕食後から寝に就くまで、自習室に籠つてそれぞれ学課の予習復習をしなければならぬ時間であつたが、私の少年の胸にかねがね鬱積していた疑問の爆発する機会が来た。\n もともとこの自習時間は、いわゆる勉強家にとつては大事な時間、怠けものにとつては厄介な時間であつた。なぜかと云えば、何時なんどき当直の生徒監が見廻りに来るかわからず、若し、その時、ちやんと「自習」をせず、無駄口を利いたり、居眠りをしたり、ストーヴにあたつたりしているのをみつかると、生徒監おのおのの流儀で油をしぼられるからであつた。ところが、ちようどその日の生徒監は、なかなか粋の利く新任中尉で、自習室へはいつて来る前から、佩剣の音をわざと高く立て、それは長靴のかゝとで指揮刀のさやを蹴りつゝ歩く一種の青年士官の気取りでもあるが、生徒たちは、あらかじめそれを知つていて、その日はみな安心して、やりたいことをやつていた。が、やがて、ガチャリガチャリと廊下をこちらへ近ずいて来る音が聞えだした。それツという警報にそれは似ていた。自習室は、すべてがそうあらねばならぬように整えられ、君子も小人も、一様に書見台を前にし、鉛筆をけずり、辞書をひろげ、計算棒をにらみ、そして、粛然と、週番生徒監の入来を待つたのである。私は、この時、ふと、ある好奇心のようなものが浮び、それまで別にわるいことをしていたわけでもなかつたが、突然、両肘を枕にしてぐつすり寝込んでいる風を装つてみたくなつた。私の隣席には、将来、士官学校を首席で出て、今度の戦争で某方面の軍司令官になつたSという温厚謹厳な生徒がいたが、私のその様子をみて、剣の音が聞えないからだと思い込み、なんども肱をつゝいてくれるのである。相すまぬが、おれは思うところあつてわざとこれをやつているのだと、口へは出さなかつたが、それとわかるようにただうなずいてみせた。\n 間もなく、生徒監の靴音が、私の席の横で止つた。べつに大事件とは言えぬまでも、ちよつと例のない事件のように私には思えた。もうよかろうと思い、私は顔をあげた。黙つてそこに立つている生徒監の方をちらと見あげた。彼は、笑いたいような、怒りたいような眼附をして、私をにらんでいる。――さあ、なにか云つてごらんなさい、と、私は待ちかまえていると、その彼は、無雑作に、――あとで生徒監室へ来い、と云つて、そのまゝ立ち去つた。私は元来、この学校の性質から云つても、決して同僚から英雄視されるようなものは持ち合せてもいず、また、私もそれを望んではいなかつたと思うが、しかし、多少天邪鬼という点で人目を惹くことを快としないわけではなかつたろう。さういう気持で、実際、同僚たちの眼を背後に感じながら、私は、間もなく生徒監室へ出かけて行つた。\n「お前はさつき眠つていたのか?」\n「いゝえ」\n「自分がはいつて行つたことは知つていたのだろう」\n「知つていました」\n「どうしてすぐに起きないんだ」\n「生徒監殿がはいつて来られるから起きていたような風をするということは偽善的な行為だと思います。それまで寝ていたなら、やつぱり寝ていて......」\n「馬鹿ツ!」と、生徒監は一喝した。\n「お前は生徒監が怖くないのか!」\n 私は、しかし、言いたいことがもううまく言えないような気がして黙つていた。私の言いたかつたことは、実は、生徒監が来たというので慌てゝ居ずまいを正す平凡な少年の恐怖を軽蔑するつもりはなかつた。むしろ、例の反省録へ、――余は本日自習時間に居眠りをなしたり。生徒監殿の巡視によつて眼を覚したるも、抑も貴重なるこの時間を......などと、さもそのことを神妙に後悔する如く書き綴つて自ら慰める風習に、なにか反撥してみたくなつたのである。\n ところで、大切なことは、この私の出方は、もうすでに、強いられた、或は、常習化した「反省」の逆な結果にすぎず、行為としても、思想としても不健全ななにものかを含み、少年の心理は既に甚しく蝕まれているということである。\n\n二\n\n さて、私がこんな例をわざわざ持ち出したのは、今更かつての日本の軍隊教育にけちをつけたいためではない。軍人勅諭が、軍人は政治に関与すべからずと厳に戒め、それを毎日諳誦して暮して来た所の軍人が、そのことを暗んじているというだけで、常に反省の実があがつたつもりになり、これだけは特別という自分免許を作つて、そこには、決して「反省」の鏡をあてなかつた過去数十年の歴史が、今日の不幸を導いたと同様、われわれの一般社会の風潮のなかにも、「反省」がただ「反省」として通用し、それがあだかも独立の行為として価値があるように考えられているところがありはせぬか、と、私は、近頃しみじみ感じるのである。\n そこへもつて来て、この「反省」は、また、敗戦後の日本の、一つの目立つた傾向であつて、心あるひとびとは、おそらくは、この「反省」組の一人でないと断言はできないほどである。しかし、また一方、その「反省」の考のあまりにもかまびすしいのに、やゝ業を煮やすという、もつともな現象もなくはない。「反省の過剰」という批判がどこからか生れて来たのはそのためであろう。\n 私のこの一文は、非常にあやうく、微妙なところに立つている。大小、色とりどりの「反省」の氾濫のなかで、「反省」はもう真ツ平という一部の空気を向うに廻して、なおも、「われわれのこれまでの反省は真の反省の名に値するや否やの反省」をしてみようというのだから。\n 云うまでもなく、自己解剖、自己批判は、時として知識人の好みにかなつた一種の精神的遊戯である。そして、この遊戯は、それが遊戯であるという自覚なしに行われ、苦悶の相を帯びて人を脅かし、真面目な表情で自分自身を佯る結果となる場合がある。ところで、問題は、この遊戯が何時の頃からか、必ずしも知識人の独占でなく、可なり広く大衆化したという特色がわが国にはみられるようである。つまり、国として、そういう教育を行つたからである。痛くも痒くもなく自己批判をしてみせる市井の男女は、それで自分の真のすがたをみているかと云えば、決してそうではなく、みているふりができればそれでいゝのである。\n この、云わば「儀礼的な反省」は、無意識に習性化するものであつて、日本人のやゝシニカルで流暢な露悪的自己表現のなかにもそれが現われている。手軽で陽気な自虐自嘲は、しばしば武器なき民衆の知的粉飾とさえみられるものである。\n この「日本人的反省」の型は、あたかも時流に投じたように、ジャーナリズムの紙面にあふれ、街頭を流れる癇高い声となつた。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "三\n\n「反省」が行動の出発点とならず、つまり、同じ過ちを再び繰り返さぬための力として役立つことが稀であるということは、まさしく、われわれの「反省」の特質にちかいものである。それは、つねに、過去の決算のようなもの、ある行為の一ととおりの結末を意味するものだからである。そして、「反省」はなによりも自己を客観視する知的なはたらきにすぎないのに、そのはたらきに必要な以上の道徳的価値を与え、自己を省ることそのことが、なにか、独立した立派な行いででもあるような小学修身的俗見に支配されているからである。\n 乗物の中でひとに席を譲るのを道徳的行為だと教えられると、楽に席を譲る気がしなくなると同様に、「反省」などということが、あまり崇高な意味をもたされると、それを公に口にするものは照れ、それを度々聴かされるものは、うるさくなる。\n\n四\n\n われわれの「反省」は、しばしば、日本人独特の「卑下」のかたちをとることがある。「反省」がある行為の陰でそれを支えるのでなく、「反省」がその行為の上に蔽いかぶさるからである。「反省」をむきだしにする悪趣味を、われわれはいつの間にか身につけたというよりほかはない。\n「卑下」の感情は、もちろん、被圧迫階級の持ち前であるとされる。しかし、われわれ日本人の場合は、さういう社会的な原因もないとは云えないが、それよりも、やはり、三百年来の道徳教育が、民衆の日常生活のなかへ、一つの簡易な作法の形式としてこれを植えつけたのである。\n その証拠に、われわれ日本人の「卑下」は、必ずしもつねに強者に向つて示されるとは云えない。いわゆる「目上」に対する必要以上の卑下は別として、われわれは、なんでもないときに、口癖のように、「卑下」を意味する表現を使うことは周知のとおりである。ところがそれとはまた違つた意味で、われわれは互に、神経質な「反省的辞令」を交換する場合が多い。そして、こういう場合こそ、われわれは、どうにもならぬ自尊心のふくらみに身をまかせ、最も自尊心の安否を気にかけているときである。即ち、かゝる「卑下」こそ、病的で横暴な自尊心を満足させる唯一の逃げ道なのである。「先き廻り」であり、「予防線」である。\n 意気昂然たる「卑下」と、内心得意な「反省」とは、かくて、われわれのうちでは、隣同士に棲むことが決して稀ではない。\n\n五\n\n もともと、道徳の上から云えば「反省」は言葉に表すべきではなく、行為のうちに織り込むべきものであろうと思う。\n そこで、個人々々の場合はそれでよいとして、今日私がこゝで問題にしたいのは、主として、われわれ日本人が、民族としての運命を切り拓くために必要な共通の「反省」についてである。\n そういう重大なことがらを、そして、それだけにまた複雑でもあり、微妙でもある課題が、国民一人一人の「反省」に委せられてあり、たまたま外部からの声によつて最も痛いところが突かれているという状態は、我々を愈々ますます神経質にするばかりである。\n 実際、日本人の「反省癖」のうちには、形式的教育の結果と、儀礼的ヂェスチェアの尊重とが著しい傾向としてみられるけれども、もう一つ、見逃がしてはならぬ性格があると思う。それは、われわれの多数が、ほとんど病的と云えるほど「神経質」だということ、つまり、神経衰弱の徴候を示しているものが、意外に圧倒的だということである。\n このことは、すべてが常に「反省癖」として現れるものでないことは云うまでもない。逆に、「無反省」が寧ろ表面的には目立つた現象であるかもしれぬ。事実、良心がないのではなく、また特別に鈍いわけでもないのに、時として、意識的に自己の良心に眼隠しをして平然としていられる奇怪な背徳行為というものは、これを無反省という言葉で片付るのには、少し複雑すぎるように思われる。我々の社会には、この例がどこよりも多いことは誰でも気づいている。\n 先日、笠信太郎氏の近著「新しき欧洲」を読んでいろいろ教えられるところがあつたが、そのなかで、日本人の性格として、「他人本位」ということをあげ、何事につけても周囲の思惑ばかり気にかけ、その影響に支配され易い傾向が指摘されているのを、私もその通りだと感じ、また、これは既に多くの同胞によつて「反省」されていることでもあると思つたが、このことについて、私は、同じ問題を別の面から考えてみたことがあるのに気がついた。\n それは「何事につけても周囲の思惑ばかり気にかける」ということは、たしかに、「他人本位」の物の考え方と云えるにはちがいないが、またそれは同時に、「自分本位」の物の考え方とも云えるのではなかろうか? つまり、「人が自分をなんと思うか」という懸念が先にたつのであるから、自分を人に従わせる結果にはなるが、これがそもそも神経衰弱の一つの徴候で、それは何よりも自分が大事だからであつて、自分にさえ損のいくところがなければ、それで気がすむというわけである。周囲が自分をゆるせば、誰の迷惑になつても、それはかまわず、また、周囲の誰かれが一様にやつてのけることなら、自分もまけずにそれをやらなければなにか損をするように思いこむことである。たしかに、これでは、「自分」がどこにいるかわからぬようではあるが、実は、「確乎とした自分」がいないだけの話で、「あやふやな自分」がつねに必要以上にのさばり返つているすがたなのである。\n 自分で自分をどうすることもできず、またどうしようとも思わぬような「自分」が、いくら自分を省みてみてもはじまらぬのは、まつたくきまりきつた話で、ただ、自分で自分のすることを「知つている」と信じることが、せめてもの慰めであるというような過ちの特質を、なんと名づけたらよいか。\n\n六\n\n この文章を綴りながら、私はますます窮地に陥つて来た。なぜなら、われわれの困つた「反省癖」を反省してみようとしながら、もう既に、その「困つた反省癖」の調子が出かゝつていはすまいかと危ぶまれるからである。\n しかし、乗りかゝつた船だから、無理にも押し切ることにするが、若し私のそういう調子を発見したら、どうか読者諸君は、嗤わずにゆるしてほしい。私はそれについて徒らな弁解をする代りに、私を好個の例として、この問題をもつと聡明で冷静な頭脳の批判に委ねたいのである。これは決して「予防線」を張るわけではない。\n そこで結論を急ぐことにするけれども、私は、「日本人の反省」が今後もつともつと続けられ、もつともつと鋭く深くなされることを希うものであるにも拘わらず、今日までのような「反省のしかた」では、それはなんの実も結ばぬような気がするばかりでなく、却つて、それは永久の「自慰」に類するものとなり、一方、本来の病状はますます悪化し、遂に救うべからざる致命的結果をもたらすであろうということを警告したいのである。\n「反省」だけはするが、それ以外のことはほとんどなにもしないという精神のはたらきは、個人としては、なるほど、ある種の興味ある知的存在であり、場所によつて使い道もあろうけれども、国民の大多数、ことに、知識層にその傾向が根深く植えつけられている現象は、断じて民衆の幸福を約束するものではないと思う。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "緒言\n\n 映画はその制作使用の目的によっていろいろに分類される。教育映画、宣伝映画、ニュース映画などの名称があり、またこれらのおのおのの中でもいろいろな細かな分類ができる。しかしこれらの特殊な目的で作られた映画でも、それが広義における芸術的価値のないものであれば、それは決してその目的を達することができない。そういう意味においてすべての種類の映画の制作はやはり広義における映画芸術の領域に属するものと思われるから、ここではそういう便宜上の種別を無視して概括的に考えることにする。\n 映画は芸術と科学との結婚によって生まれた麒麟児である。それで映画を論ずる場合に映画の技術に関する科学的の基礎と、その主要なテクニークについて一通りの解説をするのが順序であるが、この一編の限られた紙数の中にこれを述べている余地がないから、ここではいっさいこれらを省略する。しかし大多数の読者がこの点について一通りの予備知識を備えているものと仮定してもおそらくたいした不都合はあるまいと思う。\n ついでながら、自分のような門外漢がこの講座のこの特殊項目に筆を染めるという僣越をあえてするに至った因縁について一言しておきたいと思う。元来映画の芸術はまだ生まれてまもないものであってその可能性については、従来相当に多数な文献があるにもかかわらず、まだ無限に多くのものが隠され拾い残されているであろうと思われる。従って、かえってそういう文献などに精通しない門外漢の幼稚な考察の中からいくらかでも役に立つような若干の暗示が生まれうるプロバビリティーがあるかもしれないと思われる。また一方で自分は、従来自分の目にふれたわが国での映画芸術論には往々日本人ばなれのしたものが多いようであって、日本の歴史と国民性を通して見た映画の理論的考察が割合に少ないように思われるのを遺憾としていた。それで、もし多少でもそういう方面からの研究の端緒ともなるべきものに触れることができればしあわせだと思ったのである。\n もう一つ断わっておく必要のあるのは、発声映画の問題である。始めから発声映画を取って考えるのと、無声映画時代というものを経て来た後に現われた発声映画を考えるのとでは、考え方によほどな隔たりがある。しかしここでは実際の歴史に従ってまず無声映画を考えた後に、改めて別に発声映画の問題に立ち入りたいと思う。\n なお映画に関しては経済学上からまた社会学上から見たいろいろな問題がある。しかもそれらの問題は必ずしも映画芸術上の問題と切り離して考えることができないものである。しかしこれらの重要な点にもここでは立ち入るべき余裕もなく、またそれはおそらく自分の任でもないから、全然省略して触れないことにする。これは遺憾ながらやむを得ない次第である。これについてはベーロ・ボラージュの「映画の精神」(Béla Balázs : Der Geist des Films, 1930)を読むことをすすめたい。自分はこの書とプドーフキンの有名な「フィルムテクニーク」との二つから最も多くを教えられたものである。\n\n映画芸術の特異性\n\n 芸術としての映画が他のいろいろの芸術に対していかなる特異性をもっているかを考えてみよう。\n 大概の芸術は人類の黎明時代にその原型をもっている。文学は文字の発明以前から語りものとして伝わり、絵画彫刻は洞壁や発掘物の表面に跡をとどめている。音楽舞踊はいかなる野蛮民族の間にも現存する。建築や演劇でも、いずれもかなりな灰色の昔にまでその発達の径路をさかのぼる事ができるであろう。マグダレニアンの壁画とシャバンヌの壁画の間の距離はいかに大きくとも、それはただ一筋の道を長くたどって来た旅路の果ての必然の到達点であるとも言われなくはない。ダホメーの音楽とベートーヴェンの第九シンフォニーとの比較でもそうである。\n 映画についてはどうであるか。たとえば昔からわが国でも座興として行なわれる影人形や、もっと進んでハワイの影絵芝居のようなものも、それが光と影との遊戯であるというだけでは共通な点がなくはない。またたとえばわが国古来の絵巻物のようなものも、視覚的影像の連続系列であるという点では似た要素をもっていないとは言われない。それからまた、眼底網膜の視像の持続性を利用するという点ではゾートロープやソーマトロープのようなおもちゃと似た点もあるが、しかしこれらのものと現在の映画――無声映画だけ考えても――との間の差別は単なる進化段階の差だけでなくてかなり本質的な差であると考えられる。少なくもラジオやテレヴィジョンが昔は無かったというのと同じ意味で映画というものは昔は決して無かった新しいものであるということができよう。なんとなれば現代の精密科学は本質的に昔の自然哲学とちがった要素をもっているからである。そういう全く新しい科学的機械的の技術が在来の芸術といつのまにか自由結婚をしてその結果生まれた私生児がすなわち今日の映画芸術である。それが私生児であるがために始めのうちは、父親の芸術の世界でこれを自分の子供として認知する、しないの問題も起こったのである。しかし今ではこれを立派な嫡子として認めない人はおそらくないであろう。\n オペラが総合芸術だと言われた時代があった。しかし今日において最も総合的な芸術は映画の芸術である。絵画彫刻建築は空間的であるが時間的でなく、音楽は時間的であるが空間的でない。舞踊演劇楽劇は空間的で同時に時間的であるという点では映画と同様である。しからばこれらの在来の時空四次元的芸術と映画といかなる点でいかに相違するかという問題が起こって来る。\n まず最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間的関係の差別である。舞踊や劇は一定容積の舞台の上で演ぜられ、観客は自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一その舞台が室内にでも戸外にでも海上にでも砂漠にでも自由に選ばれる。そうしてカメラの対物鏡は観客の目の代理者となって自由自在に空間中を移動し、任意な距離から任意な視角で、なおその上に任意な視野の広さの制限を加えて対象を観察しこれを再現する。従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。それで、おもしろいことには、劇や舞踊の現象自身は三次元空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためにその視像は実に二次元的な投射像に過ぎない。これに反して映画のほうでは、スクリーンの上の光像はまさしく二次元の平面であるにかかわらず、カメラの目が三次元的に移動しているために、観客の目はカメラの目を獲得することによってかえってほんとうに三次元的な空間の現象を観察することができる、という逆説的な結果を生じるのである。\n このように映像が二次元的であることから生じるいろいろな可能性のうちにはいわゆるトリック撮影のいろいろな技巧がある。これによって実際の舞台演技では到底見せることのできないものを見せることが容易である。\n このようにして映画は自由自在に空間を制御することができる上に、また同様に時間を勝手に統御することができるのである。単にフィルムの断片をはり合わせるだけで、一度現われたと寸分違わぬ光景を任意にいつでもカットバックしフラッシュバックすることもできる。東京の町とロンドンの町とを一瞬間に取り換えることもできる。また撮影速度の加減によって速いものをおそくも、おそいものを速くもすることができるし、必要ならば時を逆行させて宇宙のエントロピーを減少させることさえできるのである。\n これらの「映画の世界像」の分析については、かつて「思想」誌上で詳説したから、ここには再び繰り返しては述べない。しかし以上略説したところからでも、映画なるものがいかに自由に時間空間を駆使し統御しうるかを想像することはできるであろう。そういう意味で、映画芸術はほんとうに時と空間をひとまとめにしたいわゆる四次元空間に殿堂を築き上げる建築の芸術であるということが了解されるであろう。そうして舞台芸術は一見これと同様であるように思われるにかかわらず、実は次元数においても、また各次元の範囲においてもはなはだしく制限されたものであるということが了解されるであろう。同時に何ゆえに映画が最も広い総合芸術の容器となりうるかという理由もおのずから理解されるであろうと思われる。\n 映画芸術が四次元空間における建築の芸術である以上、それをただ一人の芸術家の手で完成することははなはだ困難である。建築が設計者製図者を始めとしてあらゆる種類の工人の手を借りてできあがるように、一つの映画ができあがるまでには実に門外漢の想像に余るような、たくさんの人々の分業的な労働を要するのである。そうしてそれが雑然たる群衆ではなくて、ほとんど数学的「鋼鉄的」に有機的な設計書の精細な図表に従って、厳重に遂行されなければならない性質のものである。しかもそれはこれに併行する経済的の帳簿の示す数字によって制約されつつ進行するのである。細かく言えば高価なフィルムの代価やセットの値段はもちろん、ロケーションの汽車賃弁当代から荷車の代までも予算されなければならないのである。これを、詩人が一本の万年筆と一束の紙片から傑作を作りあげ、画家が絵の具とカンバスで神品を生み出すのと比べるとかなりな相違があるのを見のがすことはできない。映画芸術の経済的社会的諸問題はここから出発するのである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n映画の成立\n\n 以上のようなわけであるから、映画とは何かという問題を考えるには、抽象的な議論をする前にまず映画がどうして作られるかという実際上の過程を考えてみることが必要であると思う。\n 一つの映画が作り上げられるまでの過程は時代により国により、また製作者により、必ずしも同じではないようであるが、だいたいにおいて次のような段階を経るべきはずのものである。\n 第一にその一編の主題となるべきものからいわゆるストーリーあるいはシュジェーが定められる。これはたとえば数行のものであってもよいがともかくも内容のだいたいの筋書きができるのである。それをもう少し具体的な脚本すなわちシナリオに発展させる。しかしそれではまだすぐに撮影はできない。シナリオに従って精細な撮影台本が作られなければならない。それには撮影さるべき対象選定はもちろんそれがいかなる条件においていかに撮影さるべきかが具体的に精細に設計規定されなければならない。それができて後に関係部員のそれぞれの部署が決定されなければならない。一方では精密な予算も組まれなければならない。\n これまでの過程はすべて「分析」の過程である。出発点における主題に含まれているものを順次にその構成要素に解きほごして行ってその各部の具体的設計を完成する過程である。\n このようにしてできた設計が完成すれば次には、これらの各部分が工人の手によって実物に作り上げられなければならない。すなわち一つ一つの場面の一つ一つのショットの断片が撮影される。同じものが何度も何度も、監督の気に入るまでとり直される。この場合には脚本中における各ショットの位置や順序にはかまわず、背景やセットの同じものを便宜上一度にとってしまうという事も必要になって来る。建築の場合に鋳物は鋳物、ガラスはガラスというふうに別々にまとめて作らるると同様である。\n こういうふうにしてできあがった部分品を今度は組み立てて行く「総合」「取り付け」の仕事がこれからようやく始まる。すなわち芸術家としての映画監督の主要な仕事としてのいわゆるモンタージュの芸術が行なわれるのである。\n シナリオを書くまでは必ずしも映画の技術に精通しない素人でも多少「映画的表現」すなわち「映画の言葉」を心得た人ならばある程度まではできないことはない。なんとなればそれは文学から映画への途中の一段階であって、まだ片足だけしか映画の領域に踏み込んでいないからである。それゆえにたとえば「貧しい部屋の中で」とか「歓喜に満ちて」とか、そんな漠然とした言葉を使ってもいいかもしれない。しかしいよいよ撮影を実行する前にはこれでは全く役に立たない。「貧しさ」を「映画の言葉」すなわち、これに相当する視覚的な影像に翻訳しなければならない。たとえば極貧を現わすために水道の止まった流しに猫の眠っている画面を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現に翻訳しなければならない。\n しかしそれだけではまだ映画の撮影台本にはなり得ない。一つ一つの画面断片の含むフィルムのコマ数、あるいはメートルであらわしたその長さ、あるいは秒で数えたその映写時間を決定しなければならない。そうしてそれらの断片が何個集まって一つの系列あるいはエピソードを成すかを決定してその全長を計算し、そういう系列の何個が全編を成すかを定めなければならない。\n 実際には、監督の人によっては、かなりにルースな方法による人はあるであろうが、原則としてはともかくも上記のごとき有機的に制定された道筋を通らなければ一編の有機的な映画はできるはずはないのである。いわゆる「カフスに書いた覚え書き」によって撮影を進行させ、出たとこ勝負のショットをたくさんに集積した上で、その中から截断したカッティングをモンタージュにかけて立派なものを作ることも可能であろうが、経済的の考慮から、そういう気楽な方法はいつでもどこでも許されるはずのものではない。\n 以上述べて来ただけのことから考えても映画の制作には、かなり緻密な解析的な頭脳と複雑な構成的才能とを要することは明白であろう。道楽のあげくに手を着けるような仕事では決してないのである。\n「分析」から「総合」に移る前に行なわるる過程は「選択」の過程である。\n すべての芸術は結局選択の芸術であるとも言われる。芸術家の素材となりその表現の資料となるものはわれわれの日常の眼前にころがっている。その中から何を発見してつまみ上げるかが第一歩の問題であり、第二は表現法の選み方である。映画芸術家の場合でも全く同様であって、一つの映画の価値を決定するものは全く、フィルミッシな素材とそれのフィルミッシな表現法の選択であると言ってよい。「貧しさ」「うれしさ」の視覚的代表者をどこから拾って来るか、それをいかなる距離、いかなる角度、いかなる照明で、フィルムの何メートルに撮影し、それを全編のどの部分にどう入れるか、溶明溶暗によるかそれとも絞りを使うか、あるいは重写を用いるか。これらの選び方によって効果には雲泥の差が生じるのである。\n いかなる材料のいかなる撮影が効果的であるかを判断するためには映画家は「カメラの目」をもつことが必要である。プドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火やら、マグネシウムの閃光やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入してみたら、意外にすばらしい効果を生じて、本物の爆発よりははるかに爆発らしい爆発ができたそうである。また、エイゼンシュテインは港の埠頭における虐殺の残酷さを見せるために、階段をころがり落ちる乳母車を写した。\n「彫刻家が大理石とブロンズで考えるように、映画家はカメラとフィルムで考えそうして選択することが第一義である。」\n 役者の選択についても同様である。舞台の名優は必ずしもフィルムの名優ではない。ロシア映画ではただのどん百姓が一流の名優として現われる。アメリカふうのスター映画でさえも、画面に時々しか顔を出さないエキストラのタイプの選択いかんによって画面の効果は高調されあるいは減殺される。\n 背景となるべき一つの森や沼の選択に時には多くの日子と旅費を要するであろうし、一足の古靴の選定にはじじむさい乞食の群れを気長く物色することも必要になるであろう。\n このようにして選択された分析的要素の撮影ができた上で、さらに第二段の選択過程が行なわれる。それはこれらの要素を編集して一つの全体を作るいわゆるモンタージュの立場における選択過程である。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 深夜に隣人を叩き起して怯えきった女を返すのもやりにくいことであり、さりとて夜が明けて女を返して一夜泊めたということが如何なる誤解を生みだすか、相手が気違いのことだから想像すらもつかなかった。ままよ、伊沢の心には奇妙な勇気が湧いてきた。その実体は生活上の感情喪失に対する好奇心と刺戟との魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなるがいい、ともかくこの現実を一つの試錬と見ることが俺の生き方に必要なだけだ。白痴の女の一夜を保護するという眼前の義務以外に何を考え何を怖れる必要もないのだと自分自身に言いきかした。彼はこの唐突千万な出来事に変に感動していることを羞ずべきことではないのだと自分自身に言いきかせていた。\n 二つの寝床をしき女をねせて電燈を消して一二分もしたかと思うと、女は急に起き上り寝床を脱けでて、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしい。それがもし真冬でなければ伊沢は強いてこだわらず眠ったかも知れなかったが、特別寒い夜更けで、一人分の寝床を二人に分割しただけでも外気がじかに肌にせまり身体の顫えがとまらぬぐらい冷めたかった。起き上って電燈をつけると、女は戸口のところに襟をかき合せてうずくまっており、まるで逃げ場を失って追いつめられた眼の色をしている。どうしたの、ねむりなさい、と言えば呆気ないほどすぐ頷いて再び寝床にもぐりこんだが、電気を消して一二分もすると、又、同じように起きてしまう。それを寝床へつれもどして心配することはない、私はあなたの身体に手をふれるようなことはしないからと言いきかせると、女は怯えた眼附をして何か言訳じみたことを口の中でブツブツ言っているのであった。そのまま三たび目の電気を消すと、今度は女はすぐ起き上り、押入の戸をあけて中へ這入って内側から戸をしめた。\n この執拗なやり方に伊沢は腹を立てた。手荒く押入を開け放してあなたは何を勘違いをしているのですか、あれほど説明もしているのに押入へ這入って戸をしめるなどとは人を侮辱するも甚しい、それほど信用できない家へなぜ逃げこんできたのですか、それは人を愚弄し、私の人格に不当な恥を与え、まるであなたが何か被害者のようではありませんか、茶番もいい加減にしたまえ。けれどもその言葉の意味もこの女には理解する能力すらもないのだと思うと、これくらい張合のない馬鹿馬鹿しさもないもので女の横ッ面を殴りつけてさっさと眠る方が何より気がきいていると思うのだった。すると女は妙に割切れぬ顔附をして何か口の中でブツブツ言っている、私は帰りたい、私は来なければよかった、という意味の言葉であるらしい。でも私はもう帰るところがなくなったから、と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸をつかれて、だから、安心してここで一夜を明かしたらいいでしょう、私が悪意をもたないのにまるで被害者のような思いあがったことをするから腹を立てただけのことです、押入の中などにはいらずに蒲団の中でおやすみなさい。すると女は伊沢を見つめて何か早口にブツブツ言う。え? なんですか、そして伊沢は飛び上るほど驚いた。なぜなら女のブツブツの中から私はあなたに嫌われていますもの、という一言がハッキリききとれたからである。え、なんですって? 伊沢が思わず目を見開いて訊き返すと、女の顔は悄然として、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一ヶ所を見つめて放心してしまった。\n 伊沢ははじめて了解した。\n 女は彼を怖れているのではなかったのだ。まるで事態はあべこべだ。女は叱られて逃げ場に窮してそれだけの理由によって来たのではない。伊沢の愛情を目算に入れていたのであった。だがいったい女が伊沢の愛情を信じることが起り得るような何事があったであろうか。豚小屋のあたりや路地や路上でヤアと云って四五へん挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突で全く茶番に外ならず、伊沢の前に白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが強要されているだけだった。電燈を消して一二分たち男の手が女のからだに触れないために嫌われた自覚をいだいて、その羞しさに蒲団をぬけだすということが、白痴の場合はそれが真実悲痛なことであるのか、伊沢がそれを信じていいのか、これもハッキリは分らない。遂には押入へ閉じこもる。それが白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断する為の言葉すらもないのだから、事態はともかく彼が白痴と同格に成り下る以外に法がない。なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身も亦もつことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。\n 彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。女の髪の毛をなでていると、慟哭したい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこの捉えがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになるのであった。\n この戦争はいったいどうなるのであろう。日本は負け米軍は本土に上陸して日本人の大半は死滅してしまうのかも知れない。それはもう一つの超自然の運命、いわば天命のようにしか思われなかった。彼には然しもっと卑小な問題があった。それは驚くほど卑小な問題で、しかも眼の先に差迫り、常にちらついて放れなかった。それは彼が会社から貰う二百円ほどの給料で、その給料をいつまで貰うことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかという不安であった。彼は月給を貰う時、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるぐらい幸福感を味うのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。彼は芸術を夢みていた。その芸術の前ではただ一粒の塵埃でしかないような二百円の給料がどうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更なさけなくなるばかりであった。怒濤の時代に美が何物だい。芸術は無力だ! という部長の馬鹿馬鹿しい大声が、伊沢の胸にまるで違った真実をこめ鋭いそして巨大な力で食いこんでくる。ああ日本は敗ける。泥人形のくずれるように同胞たちがバタバタ倒れ、吹きあげるコンクリートや煉瓦の屑と一緒くたに無数の脚だの首だの腕だのが舞いあがり、木も建物も何もない平な墓地になってしまう。どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、どこで穴もろとも吹きとばされてしまうのだか、夢のような、けれどもそれはもし生き残ることができたら、その新鮮な再生のために、そして全然予測のつかない新世界、石屑だらけの野原の上の生活のために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。それは半年か一年さきの当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにも拘らず、夢の中の世界のような遥かな戯れにしか意識されていなかった。眼のさきの全べてをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで二百円に首をしめられ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白されて、現実にすでに暗黒の曠野の上を茫々と歩くだけではないか。\n 伊沢は女が欲しかった。女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の咒文を負い、二百円の咒文に憑かれた子供が生まれ、女がまるで手先のように咒文に憑かれた鬼と化して日々ブツブツ呟いている。胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれて飛びちり跡形もなくなって行く。爪の跡すら、なくなって行く。女の背にはそういう咒文が絡みついているのであった。やりきれない卑小な生活だった。彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙奇天烈な公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなるとむしろ生き生きしてゲートルをまくのであった。生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。\n この白痴の女は米を炊くことも味噌汁をつくることも知らない。配給の行列に立っているのが精一杯で、喋ることすらも自由ではないのだ。まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えの皺の間へ人の意志を受け入れ通過させているだけだ。二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。伊沢はこの女と抱き合い、暗い曠野を飄々と風に吹かれて歩いている、無限の旅路を目に描いた。\n それにも拘らず、その想念が何か突飛に感じられ、途方もない馬鹿げたことのように思われるのは、そこにも亦卑小きわまる人間の殻が心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。そしてそれを知りながら、しかも尚、わきでるようなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだろう。白痴の女よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的な掟が在るのだろうか。けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有様なのであった。\n 俺は何を怖れているのだろうか。まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と絶縁しようとしているのに、そのくせ矢張り悪霊の咒文によって縛りつけられているではないか。怖れているのはただ世間の見栄だけだ。その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの姙娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだして喚いているオカミサン達の行列会議だけのことだ。そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分りきった事実を俺は全然信じていない。不思議な掟に怯えているのだ。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " それは驚くほど短い(同時にそれは無限に長い)一夜であった。長い夜のまるで無限の続きだと思っていたのに、いつかしら夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のようにかたまらせていた。彼は女の枕元で、ただ髪の毛をなでつづけていたのであった。\n\n ★\n\n その日から別な生活がはじまった。\n けれどもそれは一つの家に女の肉体がふえたということの外には別でもなければ変ってすらもいなかった。それはまるで嘘のような空々しさで、たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。その出来事の異常さをともかく理性的に納得しているというだけで、生活自体に机の置き場所が変ったほどの変化も起きてはいなかった。彼は毎朝出勤し、その留守宅の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待っている。しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れており、何かそういう出来事がもう記憶にも定かではない十年二十年前に行われていたかのような遠い気持がするだけだった。\n 戦争という奴が、不思議に健全な健忘性なのであった。まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起し、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積の底へ隔てられていた。伊沢の近くの道路だの工場の四囲の建物などが取りこわされ町全体がただ舞いあがる埃のような疎開騒ぎをやらかしたのもつい先頃のことであり、その跡すらも片づいていないのに、それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、街の様相を一変する大きな変化が二度目にそれを眺める時にはただ当然な風景でしかなくなっていた。その健康な健忘性の雑多なカケラの一つの中に白痴の女がやっぱり霞んでいる。昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの爆弾に破壊されたビルの穴だの街の焼跡だの、それらの雑多のカケラの間にはさまれて白痴の顔がころがっているだけだった。\n けれども毎日警戒警報がなる。時には空襲警報もなる。すると彼は非常に不愉快な精神状態になるのであった。それは彼の留守宅の近いところに空襲があり知らない変化が現に起っていないかという懸念であったが、その懸念の唯一の理由はただ女がとりみだして、とびだしてすべてが近隣へ知れ渡っていないかという不安なのだった。知らない変化の不安のために、彼は毎日明るいうちに家へ帰ることができなかった。この低俗な不安を克服し得ぬ惨めさに幾たび虚しく反抗したか、彼はせめて仕立屋に全てを打開けてしまいたいと思うのだったが、その卑劣さに絶望して、なぜならそれは被害の最も軽少な告白を行うことによって不安をまぎらす惨めな手段にすぎないので、彼は自分の本質が低俗な世間なみにすぎないことを咒い憤るのみだった。\n 彼には忘れ得ぬ二つの白痴の顔があった。街角を曲る時だの、会社の階段を登る時だの、電車の人ごみを脱けでる時だの、はからざる随所に二つの顔をふと思いだし、そのたびに彼の一切の思念が凍り、そして一瞬の逆上が絶望的に凍りついているのであった。\n その顔の一つは彼が始めて白痴の肉体にふれた時の白痴の顔だ。そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方へ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り放されて思いだされてくるのである。\n その日から白痴の女はただ待ちもうけている肉体であるにすぎずその外の何の生活も、ただひときれの考えすらもないのであった。常にただ待ちもうけていた。伊沢の手が女の肉体の一部にふれるというだけで、女の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちもうけているのみであった。驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女にふれるというだけで、眠り痴れた肉体が同一の反応を起し、肉体のみは常に生き、ただ待ちもうけているのである。眠りながらも! けれども、目覚めている女の頭に何事が考えられているかと云えば、元々ただの空虚であり、在るものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体のみではないか。目覚めた時も魂はねむり、ねむった時もその肉体は目覚めている。在るものはただ無自覚な肉慾のみ。それはあらゆる時間に目覚め、虫の如き倦まざる反応の蠢動を起す肉体であるにすぎない。\n も一つの顔、それは折から伊沢の休みの日であったが、白昼遠からぬ地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕をもたない伊沢は女と共に押入にもぐり蒲団を楯にかくれていた。爆撃は伊沢の家から四五百米離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家はゆれ、爆撃の音と同時に呼吸も思念も中絶する。同じように落ちてくる爆弾でも焼夷弾と爆弾では凄みにおいて青大将と蝮ぐらいの相違があり、焼夷弾にはガラガラという特別不気味な音響が仕掛けてあっても地上の爆発音がないのだから音は頭上でスウと消え失せ、竜頭蛇尾とはこのことで、蛇尾どころか全然尻尾がなくなるのだから、決定的な恐怖感に欠けている。けれども爆弾という奴は、落下音こそ小さく低いが、ザアという雨降りの音のようなただ一本の棒をひき、此奴が最後に地軸もろとも引裂くような爆発音を起すのだから、ただ一本の棒にこもった充実した凄味といったら論外で、ズドズドズドと爆発の足が近づく時の絶望的な恐怖ときては額面通りに生きた心持がないのである。おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという頭上通過の米機の音も至極かすかに何食わぬ風に響いていて、それはまるでよそ見をしている怪物に大きな斧で殴りつけられるようなものだ。攻撃する相手の様子が不確かだから爆音の唸りの変な遠さが、甚だ不安であるところへ、そこからザアと雨降りの棒一本の落下音がのびてくる。爆発を待つまの恐怖、全く此奴は言葉も呼吸も思念もとまる。愈々今度はお陀仏だという絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 高度文化国建設のため、今や新たな出発をなさなければならない時に当って、吾々は三木清の知性を想う。彼の広い高い知性、そこに到着することさえ容易でないが、更に、そこから出発することが出来たらと翹望されるのである。この思いは、彼の死を悼むの念を、私情的のみならず公情的にも深める。――だが私は茲に、主として私情的な面からの文を綴ろう。身近に感ぜられる三木清のことを語ろう。\n 三木の死は、私には驚愕であった。吾々の多くにとっても、驚愕であった。三木はつまらないことが機縁となり、豊多摩刑務所に拘置されていたのだが、間もなく釈放されるだろうと吾々は待望していた。あの元気な姿を今にも見せるだろうと、そう思う日が長く続いた。そこへ、突然に獄死の報なのである。\n 三木清死す――この電文を前にして、私は茫然とした。有り得べからざることのように感じた。だがとにかく、高円寺の三木宅へ出かけていった。\n 不在中、一友人の来訪があった。三木さんが亡くなられたので出かけたと、家人から聞かされて、その人は如何にも怪訝な面持ちで言ったそうである。――三木さんが亡くなったんですって、そんな筈はない。\n そんな筈はない、この思いは、吾々の多くに共通なものだった。三木宅に集った人々の多くもそれを語った。\n 三木の死には特殊なものがある。\n 彼の死んだのは昭和二十年九月二十六日、終戦後四十日のことである。時勢は革命的大転換を遂げて、将来のことが深思される時である。吾々は三木の活動に最も大きな期待を持った。彼は常に華かな存在だったし、偏狭な軍国主義者等から眼の敵にされていたので、戦争中、まあ当分静かにしているようにと周囲の者も勧め、彼自身もそのつもりでいた。そこへ豁然と自由主義の時代が開けたのだ。彼は今や四十九歳、思想もますます円熟してきたに違いない。心ある人々は彼のことを考えた。そういう時に、彼は突然に死んだ。\n 彼が獄死しようなどと、吾々は夢にも思わなかった。彼が捕えられることになった事件そのものが、実につまらないものだった。彼の友人高倉テル君が、これも殆んど冤罪で、治安維持法にひっかかり、警視庁に留置されているうち、何故か逃亡した。当時、三木は埼玉県の鷺宮に疎開し、東京の自宅との間を往復していた。その鷺宮の仮宮へ、高倉テル君が罹災者の姿で訪れてきた。これを三木は一晩世話してやった。人情として当然のことである。其後、高倉君は再び捕えられ、その足取りによって、三木のところで一夜世話になったことが官憲に知られた。かねて自由主義者として睨まれていた三木は、警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてるという官憲一流のやり方で、長く留置されることになった。警視庁に連行されたのが三月二十八日で、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所内の拘置所へ移され、九月二十六日に急死し、死体は二十八日に自宅へ帰った。\n 三木が高倉事件に連座したこと、そのことからして実につまらない。然しこのつまらないことが、検事に言わすれば甚だ厄介なことになるそうである。厄介なのは官憲にとってはよい口実となったろう。死体となって帰宅するまで、三木はまる六ヶ月間拘置されたのである。死体としてでなく元気な姿で、もう帰って来てもよさそうだと、誰しも考えていた。その間三木は、どうしていたことであろうか。接見も差入れも許されなかったのである。刑務所側の説明に依れば、三木は警視庁以来、疥癬にかかり、また栄養失調を来し、九月半ばに急性腎臓炎となり、症状が進んで、病舎にあること二日にして急逝したとのことである。拘置所内の皮膚病、殊に疥癬は、ひどく悪質なもので、それが高ずれば腎臓を冒して死に至らしむること、医学上の常識的経過だとも言われる。病舎にあって三木は、付添いの者もなく、寝台の外に倒れていたことが事実らしい。それらのことを、吾々は一切知らなかった。彼が死へ放置されてる間、吾々はただ彼の釈放をのみ待っていた。そして吾々の前に突然、彼の死体が現われたのである。\n 死体を前にしても、吾々の眼には頑健な彼の姿のみが映る。彼は肉体的にも精神的にも、野性的頑健さを持っていた。よく食い、よく飲み、よく談じた。\n\n 牛鍋をつっつく時の彼は面白かった。飲みながら、談じながら、生煮えの肉を頬張った。一切れ頬張ると、また箸をつきだして、鍋の中の生煮えの一切れを押える。無意識に先取特権を宣言するのである。肉が少くなると、他の者は箸を差出す余地がなくなる。最後の一切れまで彼に平げられてしまう。――然し私は、これに対抗する法を心得ていた。彼が肉の方に気を配ってる間に、私は酒の方に眼をつけるのである。銚子の最後の一杯まで飲んでしまう。彼が肉を食い終って、銚子に手を出す時には、もうそこには一滴も残っていない。だが彼は、無いのを確かめただけで、別に残念そうな顔もせずけろりとしている。\n 行儀よい食事の仕方などは、彼の人柄に合わなかった。談議の仕方なども放胆だった。戦時中、いろいろなことを談ずる際にも、そんなことを言うのは用心せよと、他人の言葉には忠告しながら、自分ではあたり構わず勝手なことを饒舌った。洩れ聞かれては危いと思われるようなことを、平気で声高に言ってのけた。\n なにかしら野性的な強健さが彼にはあったのだ。\n この強健さが、三木の表現をオルソドックスなものに持続さしたと、私は観ている。彼は詭弁的な表現をしなかった。如何なる独創的な思想も、オルソドックスな整然たる形で表現された。この表現の故に、一部の人々は彼の独創性を見落して、彼への高い評価を躊躇したことも無きにしも非ずと思える。一般知識階級の間に最も多く読まれた「哲学ノート」や「人生論ノート」を見る時、その独自な見解とその整正な表現との調和に、私は驚嘆する。更に妙なのは、彼の講演である。原稿なしの講演でも、彼の口から出る言葉は、立派な文章をなしていた。原稿を読んでいるかと思えるような調子を取ることが多かった。このために、彼の思想にではなく彼の人柄に触れたがる聴衆の一部は、そういう講演をあまり面白がらなかったようである。\n この整正な表現の故に、三木の独創性を見落してはならないと同様に、三木の熱情を見落してはならない。三木は現実のあらゆる事柄に向って、設問し、人生の深奥に向って設問し、人間の本質に向って設問したが、その設問は常に強い熱情を以てなされた。「パスカルに於ける人間の研究」は既にそれを示した。そしてこの設問の熱情の故に、彼の哲学は、単なる知識的な単なる学問的な旧套を脱して、具体的な生き物となった。彼が行動や政治を重視したのは必然のことである。\n 巻煙草を吸う時、三木はパイプを使わず、そして人一倍に吸口を唾液でぬらした。灰皿に捨てられる吸い殼は、すっかりぬれていて、もみ消さずとも火が消えた。そのことについて、彼は冗談を言った――煙草を唾でぬらす者ほど熱情家だ。\n 私は巻煙草を吸いぬらすどころか、じかに口にくわえるのもいやで、恐らく三木ほど煙草好きでないのであろうが、パイプを使うのである。そして、パイプで煙草を吸う私は、政治が甚しく嫌いなのである。政治の匂いのするものは一切がいやだ。――そういう私に対して、三木はいつもにやにや笑っていた。ところが、或る時彼は言った――そのように政治を偏狭に考えてはいかんよ。\n 彼の政治論は彼の人生論と裏合せだった。政治嫌いを公言してる私が、特殊な自治とか特殊なアナーキズムとかを夢想してることは、彼から見れば可笑しかったであろう。然し彼はいつもおおらかな笑顔で私の偏狭な政治嫌いを受け容れてくれた。\n\n 物にこだわらないおおらかな笑顔を、私はいつも彼のうちに見出した。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 私はいろいろの人と碁をうったが、三木ほど敵愾心の起らない相手は珍らしかった。彼を相手にしていると、勝負などはどうでもよくなるのである。彼の棋力そのものも甚だ他愛ないもので、日によって甚しく差異があり、またその棋理も茫漠としていた。戦争中、軍報道部からの徴用でフィリッピンに行き、帰って来てからは、暫く碁に遠ざかっていた逆作用でか、いくらか着実となり、更に鷺宮へ疎開した後の高円寺の留守宅を預ってる野上彰君から、多少棋理の説明を聞き、いくらか腕前が上ったようだが、それもすべて、いくらかの程度に過ぎなかった。ひどく早うちで、悦に入ると盤上に涎を垂らすこともあった。\n 三木が二度目の夫人を亡くした後、その孤居を慰めるという口実で、私達は何度か彼の家で碁会をやった。集まる者は、大内兵衛、高倉テル、私など、少数だった。高倉君は人がわるく、言論戦でごまかして勝とうとした。三木もそれにつりこまれて憤慨的言論で応酬したが、碁の方はあまりうまくゆかなかった。\n 彼を相手にしてると、私は碁に気力がこもらなかった。勝負などはどうでもよく、ただ棋の運行が楽しまれた。同時にまた、どんな無茶な手でも平気で打てた。\n 碁に於てばかりでなく、すべてに於て、彼は最も気兼ねのいらない友だった。何を言っても、何をしても、彼に対してはてれるという気持ちが起らなかった。奥底に徹する深い理解が彼にあるという、一種の信頼感が持てたのである。\n 打明けたことを言えば、私は嘗て、芸妓と余りに公然と馴染を重ねて、友人間に物議を招いたことがある。芸妓と懇親な間柄になったのが悪いというのではなく、貧乏な身分柄も顧みず余りに公然とそうした振舞いをするのが、怪しからんというのである。ところが私としては、貧乏は持ち前のことだし、また、公然をてらったのでなく、所謂お忍び的行為が全然出来なかったまでのことである。――その頃、彼女と同席で最も気兼ねなく酒が飲める相手は、三木だった。如何に親しい仲でも、極限に於てこれだけは見られたくないという用心感が、奥の方に残るものだが、そういう用心感さえ、三木に対しては私は少しも懐かなかった。\n 私と彼女とのことについて、三木は終始一貫、聊かの好奇心もなく、聊かの詮索心もなく、私達と共にただ酒席を楽しんでくれた。楽しみながら、私達の心情を理解していてくれた。――後に、私は公然と彼女と別れることになったが、そのことを三木に告げると、三木はちらと眼を輝かしただけで、黙って諾いたものである。\n 三木は酒が好きだった、というより、酔うのが好きだったようである。銀座の裏通りなどを酔って歩くと、彼はよりかかってきて私と腕を組み、歌をうたった。彼が知ってる歌はごく僅かだったが、その中で、愛馬行進曲を私はよく聞かされた。国を出てから幾月ぞ、というあの初めの一駒は、彼の詩的感懐に娼びるものがあったらしい。\n 三木の眼は的確に現実を洞見し得たが、その夢想には詩的なものが根を張っていた。彼は詩が好きだった。学生時代には詩作もしている。最後までそうであった字体、一劃一劃右下りに鉄ペンで書いた字体で、ノートに多くの詩を書いている。嘗て、中島健蔵君や私の前で、それらの詩を披露して嬉しがっていた。中島君も昔は詩作に耽ったことがある。私も二三篇の詩を作った覚えがある。そこで私達は三人とも、詩人に復活して詩を談じた。\n 復活せずとも、三木のうちには常に詩人がいた。彼の表現のなかには詩的なものが散見される。ばかりでなく、「哲学入門」のなかには、将来大成さるべき所謂三木哲学への構想の断片が織り込まれているが、それらの哲学的構想の断片は、また哲学的詩想と呼ばれても宜しいものである。\n 三木が持っていた人情への理解、芸術への理解、更に人生への理解は、「歴史哲学」などに見える哲学者三木によってよりも、右の詩人三木によって深められたものと私には思える。そしてその理解の上に立って、三木は理知的なヒューマニストだった。\n\n 三木の活動は多方面に亘っている。嘗ての昭和研究会の中堅人物であり、国民学術協会の実質的幹部であり、岩波書店の最もよき顧問頭脳であり、幾つかの文化科学的辞典の中心執筆者であり、天下の青年知識層を魅了した幾多の書物の著者である。西田幾多郎氏に師事していただけで、師弟の系譜なく、独自の存在であって、その交友は多岐多面である。だから一般に彼は、なにか親しみ難い怪物的なものに見えたようだが、人柄は実践的なヒューマニストであった。\n 彼の断片的な評論の多くは、一種のモラリストを浮出させる。茲にモラリストと言うのは、社会万般の事象を人間としての立場から批判する知性、ヨーロッパに於ける十七八世紀あたりのそれを指す。これもまた彼の表現がオルソドックスな形を取った所以でもある。このようなモラリストは、本来的にヒューマニストである。\n ヒューマニストたる三木の性情は、日常では、何等のポーズも取らない素朴な態度として現われていた。彼には全くポーズというものがなかった。ありのままの素朴さで吾々に接した。深い叡智と高い知性で饒舌りまくることはあっても、また鋭く人の虚を衝くことはあっても、そしてそのために一部の人々から敵視せられることもあったが、彼自身はただ虚心坦懐に振舞ってるに過ぎなかった。彼に対してはすべて、如何なることがあっても怒る方が無理だ、と常に私は思っている。\n 言論の上に於て、彼は余りに多くの対象を取り上げすぎたかも知れない。然し日常の私的生活は、余りにといえるほど控え目だった。最初の夫人を亡くして後、既に義兄だった東畑精一氏の世話で二度目の夫人を迎えたことなど、吾々の多くにも知らせもしなかった。\n このいと子夫人が病気ではいった病院は、私の住居のすぐ近くにあった。だが彼は、私の方から見舞いに行くまで、そのことを知らせなかった。友人知人に迷惑をかけたくない思いと、自分のことは自分だけでやってのけようとの思いと、両方があったのであろう。もっとも、いと子さんの入院当初、私は一ヶ月ほど上海に行っていて、家には娘と女中きりだった。\n 上海から帰ってから、私はいと子さんの入院を知り、見舞いに行った。お嬢さんの洋子さんや付添いの人もいた。三木は高円寺の自宅からこの本郷の病院まで、遠いところを毎日通って来て、数時間の看病をした。一昨年の暮から昨年の初にかけた頃で、万事不自由な窮乏な時勢に、食糧を調達し薬剤まで探して来た。所用の都合や病状の如何によっては、どんなにでも私の家を利用してくれるようにと、私は繰り返えし言ったのだが、彼は遂に一夜も私の家に宿泊しなかった。\n いと子さんの病気は肝臓癌で、手のつけようがなく、じりじりと重くなっていった。本人はそれを知らず、ひたすら退院の時期を希求していた。その心と肉体とを三木はいたわりつつ、死亡より一週間ばかり前に退院さしてやった。この前後のことについて、三木の大きな温い心尽しが感ぜられる。\n 三木自身も、どうせ亡くなるものなら、せめて、一週間ばかりでも自宅で静かな気息をさしてやりたかった。拘置所で、彼は独り、何かをじっと見つめていたらしい。身辺のことについても、縁故者として東畑精一氏の名前を挙げただけで、誰の名前も告げなかった由である。そうした三木に対して、吾々は数々の心残りを感ずる。\n 獄中での彼の急逝について、それを、哲人的な高い悲運と観ずる気持ちには、私は到底なれない。ただ残念である。彼自身も残念であったろう。\n\n 生前の三木の仕事としては「構想力の論理」を頂点にあるものとしたい。然しそれさえも、第一部が出版され、第二部が原稿として出来てるだけで、而もまだ未完である。所謂三木哲学の大成は、すべて今後に俟たねばならなかった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 私は身動きもせず、私の聖師の手の下に立ちつくしてゐた。私の拒絶は忘られ――恐怖は征服され――私の爭ひは麻痺してしまつた。「この不可能なこと、」――セント・ジョンと私との結婚である――は急速度で「可能なこと」にならうとしてゐた。信仰は呼び――天使は招き――神は命じ給ひ――生命は卷物の如くに捲き收められ――死の門は開いて彼方の永遠を示した。その樣は恰も、彼處の安全と幸福の爲めには、此處にあるすべてのものは、一瞬の内に犧牲に供されてもよいと云ふかのやうに見えた。薄暗がりの部屋は幻で一ぱいになつた。\n「今決めることが出來ますか?」と傳道者は訊ねた。その問ひは優しい調子であつた。彼は出來るだけ優しく私を引よせた。おゝ、その優しさ! それは威力に比べてどれ程大きな力があることか! 私にはセント・ジョンの怒りを拒絶することは出來た。だが、彼の優しさの下には私は蘆のやうに柔軟になつてしまつた。けれどもその間にも、もしまた負けてしまつたら、いつか私は、以前の叛逆のことを今に劣らず他日後悔させられるといふことを知つてゐた。一時間の嚴肅な祈りによつては、彼の天性は變へられはしない。たゞ高められたばかりなのだ。\n「確信さへあれば、決めることも出來ます。」と私は答へた。「もしあなたと結婚することが神さまの御心だと確信出來れば、私あなたと結婚しますと、今此處で誓ふことが出來ます――後どうならうとも。」\n「私の祈りは報いられたのだ!」と、セント・ジョンは叫んだ。彼は恰も私を求めるかのやうに私の頭にしつかりと手を置いた。彼は殆んどまるで私を愛するかのやうに私を腕に抱いた(殆んど、と私は云ふ――私は愛されるといふことが如何なることか知つてゐる故に、その差異が分つてゐる。だが、彼のやうに私は今愛を問題外にして、私は義務のことのみを考へたのである)。私は未だその前に雲が渦卷いてゐる内なる幻の朦朧な姿に滿足した。私は誠心から、深く、熱烈に、正しきことをしよう、そしてたゞそのことのみをしようと切望したのであつた。「何卒途をお示し下さい。」と私は天に願つた。私は嘗てない程昂奮してしまつた。そして、それに續いて起つたことが昂奮の結果であつたかどうかは讀者の判斷に委せる。\n 家中が靜まり返つてゐた。何故なら私はセント・ジョンと私自身の他はみんなそのとき眠りに就いてゐたのだと思ふから。一つの蝋燭は消えかけてゐた。部屋は月の光で一ぱいだつた。私の心臟は早く激しく鼓動して、その動悸が聞えた。不意にそれがとまつた。それを貫き、忽ち頭から身體の端々まで傳つて私を動かした云ひ表はせぬ感情の爲めにである。その感情は電撃のやうなものではなく、まつたく鋭い、不思議な、吃驚りさせるやうなものであつた。それは恰も今迄はその極限の能力が麻痺して、今醒めよと呼び出され強ひられたかのやうに、私の心に働きかけたのであつた。それは期待せるものを動かした。身體は顫へてゐる間も眼と耳とは待ち望んでゐた。\n「何か聞えたのですか? 何を見てゐるのです?」とセント・ジョンは訊ねた。私は何も見はしなかつた。しかしある聲が何處かで叫ぶのを聞いた――\n「ジエィン! ジエィン! ジエィン!」――それつ限りであつた。\n「おゝ神さま! 何でせうか?」私は喘いだ。\n 私は「何處ですか?」と云つたかも知れない。何故ならそれは部屋の内でも――家の内でも――庭でもなかつたらしかつたから。それは空中から出て來たのでもなく――地の底から出たのでもなく――天から來たのでもなかつた。私はそれを聞いた――何處で、何處から、それを知ることは永遠に出來ない! しかも、それは人間の聲であつた――聞きなれた、愛する、忘れもしない聲――エドワァド・フェアファックス・ロチスター氏の聲であつた。そして、その聲は苦痛と悲歎の内に狂ほしく、暗く、切々と響いた。\n「今參ります!」私は叫んだ。「待つてゝ下さい! おゝ、私は參ります!」私は入口に駈けつけて通路を覗いた。暗い闇だつた。私は庭に走り出た。其處も空虚だつた。「何處にいらつしやるのです?」私は叫んだ。\n マァシュ・グレンの彼方の丘が微かに答へ返した――「何處にゐらつしやるのです?」私は耳を澄した。風が樅の木の間に微かに音を立てた。あらゆるものは曠野の寂寞と深夜の緘默とであつた。\n「迷信よ、去れ!」門の傍の黒水松の木の横にその幽靈が黒く立ち現はれたかのやうに、私は云つた。「これはお前のまやかしでもなければ、お前の妖術でもない。自然の爲たことだ。自然が目覺めてたゞその最上の策を――奇蹟ではない――行つたのだ。」\n 私は隨ひて來て、私を引き留めさうにする、セント・ジョンを押しのけた。今度は主權を持つのは私の番であつた。私の力は活動をはじめ、力を得た。私は彼に質問も注意もしてくれるなと云つた。私は彼に私から離れてゐてくれと云つた。私は一人でゐなくてはならないし、ゐたいのだ。直ぐに彼はその通りにしてくれた。命ずるに十分な力のあるところでは從順は、決してなくなりはしないものだ。私は自分の寢室に這入つて、鍵をかけてしまつた。膝をついて、私流で祈つた――セント・ジョンのとは異ふけれど、その遣り方がいゝのだつた。私は神の精靈の間近まで突き進んで來たやうに思へた。そして私の魂は感謝して神の足下にひれ伏した。私は感謝の祈りから立ち上り――決心して――恐怖することなく、光に導かれて横になつた――たゞひたすらに夜の明けるのを願つて。\n\n三十六\n\n 夜が明けた。曉方に私は起きた。一時間か二時間、私は寢室で自分の持物を整理するのに忙しかつた。短い留守の間、それらを其處に殘して置かうと思つて、抽斗や衣裳戸棚を片附けたのである。やがて、私は、セント・ジョンが部屋を出るのを聞いた。彼は、私の部屋の入口に止つた。私は、彼がノックしないかと怖れた――否、たゞ一葉の紙が扉の下から差し込まれた。私はそれを取り上げた。それには次のやうな言葉が記されてあつた――\n「昨夜あなたは餘りに突然に私の許を立ち去つた。もう少し留つてゐたなら、あなたは基督教徒の十字架に、天使の冠にあなたの手を置いたことでせう。私が二週間目の今日歸つて來た時に、あなたがはつきりと決心をしてゐらつしやる事を期待します。その間、あなたが誘惑に陷らぬよう注意し祈つて下さい。私の信頼する魂は喜んで事をなさうとしてゐる、しかし私の見る肉體は、弱いのです。私は絶えずあなたの爲めに祈つてゐます。――あなたの、セント・ジョン。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「私の魂は、」と私は心の中で答へた。「喜んで正しいことをしようとしてゐる。そしてこの肉體は、願はくば、神の御意を完成すべく十分に強くありたい、その御意がはつきりと私にわかつた以上は。何れにしてもこの疑ひの雲から出る路を探し――求め――搜り出して、確實といふ明るい日の目を見附ける爲めに、十分に強くなくてはならない。」\n ちやうど六月一日であつた。しかし、その朝は、曇つて寒かつた――雨は繁く窓枠を打つてゐた。玄關の扉が開いてセント・ジョンが出て行くのが聞えた。窓を透して見ると、彼が庭をよぎつて行くのが目に這入つた。彼は霧の深い曠野を過ぎてウ※(小書き片仮名ヰ)トクロスの方角に向けて歩いて行つた。――そこで馬車に乘るのだらう。\n「從兄よ、もう暫く經つたら、恐らく私もその路を通つてあなた方の後を追ふでせう。」と私は思つた。「私もウ※(小書き片仮名ヰ)トクロスで馬車に乘ります。私にも永久に英吉利を立ち去る前に會つて話をする人があるのです。」\n まだ、朝食には、二時間あつた。私はその暇を、靜かに部屋の中を歩き𢌞り、私の計畫に現在のやうな決意を與へたおとづれのことを考へ乍ら、過した。私は自分の經驗した内的な感應を思ひ返してみた。何故なら、何とも云はれぬ不思議さと共に私はそれを思ひ出すことが出來るのであつた。私は自分の聽いたあの聲を思ひ起してみた。再び、私は、前と同じく空しいこと乍ら、それが何處から來たか問うてみた。それは、私の内のもので――外界からのものではないやうに思はれた。私は訊ねてみた、もしやそれは單なる神經から來た感銘――妄想ではないかと。私には悟ることも、信ずることも出來なかつた。それは、もつとずつと靈感に似たものであつた。その不思議な感情の衝動は、ポオルとサイラスの牢獄の礎を搖り動かした地震のやうにやつて來たのである。それは魂の室の扉を開き、その足械を解いたのだ――それは魂の眠りを醒まし、そこから魂は顫へ乍ら、耳を澄し乍ら、喘ぎ乍ら、跳び立つたのだ。そして驚いた私の耳に、顫へる胸に、靈を貫いて、三聲の叫びを顫はせたのだ。しかも靈は恐れも搖ぎもせず、恰も煩しい肉體から獨立して、自由に行つたある一つの努力が成功したのを喜ぶかの如くに雀躍りしたのであつた。\n「遠からず、」と心を決めたときに私は云つた、「私は、昨夜私を呼んだと思ふあの人に就いて何か知るだらう。手紙は何の役にも立たなかつた――私が出掛けて行つたら、その償ひになるだらう。」\n 朝食のとき私は、ダイアナとメァリーに旅行をする心算だといふことと、少くも四日は留守になることを告げた。\n「獨りで、ジエィン?」と彼女等は訊いた。\n「えゝ。どうも暫くの間、氣掛りでならなかつたお友達の消息を見聞する爲めなんですの。」\n きつとさう思つたことであらうが、彼女等は、私が彼女等以外には一人の友もないと信じてゐた、と云つてもよかつた。實際、私は、屡々さう云つてゐたからである。しかし彼女等はその眞實な、天性の淑かさをもつて何も論議しなかつた。たゞダイアナが、私に、旅行が出來る位に確かに身體の工合はいゝのかと訊ねた許りであつた。そして私は大變に蒼ざめた顏をしてゐると云つた。それに答へて、私は早く鎭めたいと願つてゐる心の心配を除いては、何も私を惱ますものはないと云つた。\n その上の支度をするのは容易かつた。何故なら、私は何等の質問にも――臆測にも煩はされなかつたからである。私の計畫は、明かすことが出來ないと、一度彼女等に云つたので、彼等は同樣な状態の下にあつては、私も彼女等に與へたであらうと思ふ自由行動の特典を私に許して、親切にも賢くも、彼女等も默つて私が何も云はずに行ふ計畫を納得してくれたのであつた。\n 午後三時にムア・ハウスを出て、四時を少し過ぎたときには私はウ※(小書き片仮名ヰ)トクロスの道標の下に立つて、遠いソーンフィールドへ私を運んでくれる馬車の到着を待つてゐた。この物寂しい路と荒れた丘のしんとしたさなかに、私は遙かに遠い彼方から車の近づいて來るのを聞いた。それは、一年前に、あの夏の夕方――この場所に私が降りたと同じ馬車であつた――どんなにか寂しく、希望もなく、目的もなかつたことか! 私が合圖するとそれは止つた。私は乘り込んだ――だが、今はその乘り賃として私の全財産のつきるところで降りなくてはならないのではない。今一度ソーンフィールドへ向ふ途上にあつて、私は恰も家路に就いた傳書鳩のやうな氣持ちがした。\n 三十六時間の旅だつた。私はウ※(小書き片仮名ヰ)トクロスを火曜の午後出發した。そしてその木曜日の朝早く馬車は路傍の宿屋で馬に水をやる爲めに止つた。それが圍まれてゐる緑の生籬や廣い耕地や低い田舍の丘(あのモオトンの荒い、ノオス・ミッドランドの沼地と比べて何といふ穩やかな風景、緑の色であらう!)の景色は、嘗て親しかつた顏の特徴のやうに私の眼に映じた。さうだ、私はこの風景の特徴を知つてゐた。確かに目的地に近づいたのだ。\n「ソーンフィールド莊は、此處からどれ位あります?」私は馬丁に訊ねた。\n「あの耕地をよぎつて、丁度二哩ですよ。」\n「旅は終つた。」と私は一人で思つた。私は馬車から降りて、要るまで保管して置くやうに、箱を一つ馬丁に頼んだ。賃金を拂つて、馭者に心づけをやつて、歩き出した。きら〳〵した陽が、宿屋の看板に輝いてゐた。そして私は、鍍金した字で、「ザ・ロチスター・アァムズ館」とあるのを讀んだ。私の胸は躍つた。もう既に私は私の主人の領地にゐるのだ。だが再び心は沈んだ。こんな思ひがそれを悄氣させたのであつた――\n「お前の主人は、英吉利海峽の彼方にゐるのかも知れない。そして若しあの人が、お前の急いでゐるソーンフィールド莊にゐるとしても、傍には誰がゐるのだ? あの人の狂氣の妻。そしてお前はあの人に何もすることは出來ない。お前は、あの人に思ひ切つて口を利くことも、あの人のゐる所を探すことも出來はしない。お前は無駄な骨折をしてるのだ。この上行かない方がいゝ。」と訓戒者は強ひた。「あの宿屋で、人々の話をお聞き。あの人たちはお前の探してるあらゆることを傳へてくれることが出來るし、お前の疑念を直ぐに解いてくれることも出來る。あの人の許に行つて、ロチスターさんはおうちかとお訊き。」\n この思ひつきは賢いものだつた。けれども、私はそれに從つて、行動することを、おしきつて出來なかつた。私は、絶望で、私を打ち碎くやうな返事をそんなにも恐れてゐたのである。疑ひを長びかすことは、希望をつなぐことである。私は、なほ今一度、あの館を、その希望の星の光の下に見得るのだ。私の前には𢌞り木戸があつた――私がソーンフィールドから逃れたあの朝、私を追ひかけ、苦しめる執念深い狂亂に目も見えず、耳も聞えず、氣も狂はんばかりに急ぎ過ぎたあの耕地があつた。どの路をとつたとも氣附かぬ内に、私は、いつかその眞中にゐた。何と早く歩いて來たことか! 或るときはどんなに駈けたことか! どんなにあの見慣れた森の最初の姿を見ようとこがれたことか! どんな感情で、知つてゐる樹々を、またその間に見える親しく見なれた草地や丘の眺めを歡び迎へたことか!\n 遂に森が見えて來た。白嘴鴉は黒く群れて、その大きな啼聲が朝の靜けさを破つた。不思議な歡びが私を力づけた。私は道を急いだ。また別の耕地を過ぎ――小徑を縫つて――そして中庭の塀が――臺所物置があつた。其處は白嘴鴉の群に未だ隱れてゐた。「始めに見るのは正面だ」と私は心を決めた。「先づ直ぐにあの立派な鋸壁が、毅然として私の眼を打つだらう。そして私の主人の、あの窓を見分けることが出來るだらう。もしかしたら、あの方はそこに立つてゐらつしやるだらう――彼は、早起きだから。それとも正面の鋪石の上を歩いてゐらつしやるかも知れない。たゞ、あの方を見ることさへ出來たら!――一目だけでも! そのときには、私はあの方に駈け寄るなどゝ云ふ狂氣じみた眞似をしないだらうか? 私には云へない――わからない。そしてもしさうしたとして――そしたら、どうなるだらう? 神よあの方を祝福し給へ! そしたら、どうなるだらう? あの方の眼差が私に與へ得る生命を私が今一度味はうといふことが誰を傷けるか? こんな譫言を云つてまあ。若しかしたら今あの方はピレネイ山脈の上で、それとも潮の干滿のない南の海で、昇る陽を見てゐらつしやるのかも知れないのだ。」\n 私は、果樹園の低い塀に沿つて行き――その角を曲つた。丁度其處に、石の球を載せた二本の石柱で出來た、草地へ開いた入口があるのだつた。一つの柱の背後から、私はそつと邸の眞正面をずうつと、覗き見ることが出來た。もしや、どれか寢室の窓覆が、最早上つてゐはしないか確かめたいと思つて、用心深く頭を近づけた。鋸壁、窓、長い正面――すべてが、この隱れた場所からは、私の思ふまゝに見えるのであつた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「私の致しました一々のことが、そんなにも奥さまのお気に召さないとすると、致し方ございませんから、おひまを頂きたいと思いますけれど......」と、云った。\n 新子が、充分謝りもしないで、すぐ反抗的に出た態度が、グッと夫人の神経を、いらだたせたらしく......。\n「私は、貴女にそんなことを云わせようとして、お呼びしたわけじゃないんですわ。ただ、お年若な貴女に、ご注意をしたかったまでなんですの......」と、わざと少し声をやわらげて云った。夫人の趣意は、新子を思うさま、やっつけることであり、新子が、今までの家庭教師に比して、ずっと秀れていることを、心の内では認めているだけに、これを機会に追い出そうという肚ではなかった。\n しかし、もう新子の心は、定まっていた。\n「ご好意はありがとうございます。でも、この先お邪魔致しておりましても、奥さまのご希望どおりになれますかどうですか!」\n 綾子夫人は、新子の最後の言葉を聞くと、サッと顔色を変えて、肘掛椅子から立ち上ると、\n「では、どうぞご自由に。」と切口上だった。\n\n六\n\n 新子が出て行くと、夫人は左右の手の中指と母指とを、タッキタッキと交互に鳴らしながら、姿見の前へ歩いて行って、自分の姿や顔をにこやかに眺めながら、香水を耳や喉につけて、心の中で、\n(この次は、若い男の家庭教師を雇うことにしよう。女なんか真平だわ)と考えた。\n その時、厳格な表情をした準之助氏が、はいって来た。\n 夫人は、腕かけ椅子に、深々と腰をおろすと、しおらしい表情で良人を見上げた。\n「どうしたのだい? 一体、小太郎が綴方の字を間違えて、それで南條先生が......」と、準之助氏のいいかけるのを、夫人は頷きながら、引き取って、\n「小太郎が、貴君に何か申し上げましたの? ほんとに、何でもないつまらない、ことなんですの。」\n 夫人は、笑いながら、ごく自然に良人の片手を握って、\n「そう? だって、私も少し驚いているんですよ。あの人くらい、高慢で、しかも自我の強い人ったらありゃしないわ。私が小太郎に仕度という字を仕ると教えたのが、違っていると云って......」\n「支度は仕ると書いたら、間違いか......」\n「ほら、貴君だって、仕るとお書きになるでしょう。それを支える度が正しいと云って、小太郎をわざわざ私の処へ訂正によこさなくってもいいじゃありませんか。それじゃ、私だっていい加減不愉快になるじゃありませんか。それに、あの人子供と少し馴れすぎるし、逸郎さんなんかと、すぐ散歩するのだって、どうかと思いますのよ。だから、その点も、ちょっと注意しましたの。すると、もう開き直ってよすというんですもの。」\n「ふむ。」準之助氏は、呼吸をのんだ。\n「私だって、今までの家庭教師よりは、あの人よっぽど、いいと思っていますわ。でも、ああ高慢で素直でないとなると考えますわねえ。それに、私がちょっと注意したら、すぐ跳ね返して来て、お暇を頂きたいというんですもの。(どうぞご自由に)というほかないじゃありませんか。」\n「しかし、子供達は、とても南條さんに馴れているじゃないか。南條さんが来たために、小太郎なんか、ずーっと勉強するようになったと思うが......」\n「ですから、私もあの人に出て行ってくれなんて、ちっとも云いませんのよ。でも向うから暇をくれと云う奉公人に、主人が頭を下げて、どうぞ居てくれとも云えないじゃありませんか。あの人も、少し高慢なところが、瑕ですわ。もう、少し素直だとほんとうにいい人なんですけれど。」\n「ふむ。」準之助氏は止むを得ずうなずいた。夫人がこうも円転滑脱、弁舌さわやかに、自分の立場を明らかにした以上、こっちからそれを崩しにかかることは、たいへんである。下手に、かかって行けば、たちまちヒステリックに不貞くされてしまうに違いないのだ。夫人が、まだ表面だけでも体裁のいいことを口にしているのを、よいことにして、新子を引き止める承諾を求めるのが肝腎だと考えた。\n\n\n雷雨の中\n\n\n\n\n一\n\n 準之助氏は、もの静かに云いつづけた。\n「しかしね。かわりの先生を雇うにしたって、すぐにいい人はないに定っているし、折角小太郎も勉強ぐせが付いたのだし、ともかく夏休み中だけでも、南條さんに居てもらおうじゃないか。」\n「ええそりゃ、あの人が私に謝って来さえすりゃ、今日のことは何も無かったと思ってあげられるわ。」と、夫人は大いに寛大なところを見せた。\n 夫人も、新子が居なくなると、折角自分にまつわらなくなった祥子や小太郎が、何かとうるさくなるに定っているし、それに八月の十日頃に一度、一人で東京へ遊びに帰ろうと思っているので、その留守中新子がいた方が、子供のために安心だと考えているのである。\n 夫人の言葉を聞くと、準之助氏の表情は、急に明るくなって、\n「どうせ、よすにしたところで、南條さんは僕のところへ、挨拶に来るだろうから、そしたら、お前の意のあるところをよく伝えて......」\n 夫人は、もう面倒だというように、小さい欠伸を噛みころしながら、\n「でも強いて居てくれなくっても私はいいんですよ。」と、まだ嫌がらせをいっていた。\n「お前今日ゴルフへ行くんだろう。」と、準之助氏は、それとなく気を引いてみた。新子を説得するには、相当曲折があろう。それには、夫人が家に居ない方がいいと思ったからである。\n「今日はよそうと思っていますの!」\n「なぜ? 今日、村山夫人と勝負をつけるのじゃなかったのか。」\n「あの人のお相手は、真平だわ! あんな汚いプレイをする人きらいだわ。」\n「たいした気焔だね。」\n「貴君一人でどうぞ!」\n 夫人に、そう云われたとき、準之助氏は新子と話をすることについて、別のことを考えついた。\n「じゃ、僕一人で、行って来るよ。」そう云って、準之助氏は夫人の部屋を出た。\n 自分の部屋へ帰ってみると、事件の発端を作った小太郎が、所在なさそうに、大きな椅子に、足をブランブランさせながら、悄気かえって、父をむかえた。\n「パパ!」\n「何だい。」\n「南條先生泣いているよ。泣いちゃったよ。」\n「先生どこに居る?」\n「お部屋にいる。僕、先生のお部屋をのぞきに行ったら、お机のところにこうしているの、きっと泣いているんだよ。ママこわいから厭さ。」\n「お前が、余計なことを云うからいけないんだよ。」\n「だってさ、南條先生、東京へ帰ってしまうだろう。そしたら、僕はかまわないけれど、祥子が困るでしょう。」分別のある大人のような口調だった。\n\n二\n\n 新子は、部屋に帰ると、一しきり口惜し涙にむせんでいたが、それが乾く頃には夫人に対してあまりに思い切った態度を取ったのを、後悔していた。\n 夫人との間には、何の貸借もないが、準之助氏に対しては、そうは行かなかった。姉のために、あんな大金を借りたばかりである。相手が、どんな好意で貸してくれたにしろ、自分は月給の中から、いくらかずつでも払おうと思っているのに、ここで夫人と争って出てしまえば、あまりに義理が悪すぎる。この家へはいる時、路子さんからも、特別に注意されていたのに、もっと隠忍すべきであった。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 準之助氏に、何と云い出そうかと、思い悩んでいたので、部屋にそっと、はいって来た小太郎の手が、肩にかかるまで気がつかなかった。\n「はい、先生! これパパから。」肩に置かれた小さい手から、眼の前に白い紙片が降った。\n「まあ! 小太郎さん。」振り向いた新子の顔が、案外笑顔であったので、小太郎も笑った。\n「さよなら。」でも、小太郎はまだ少し、テレていると見え、ふざけたおじぎを一つして、すぐ部屋を駆け出して行った。\n 新子は、レター・ペイパーを二重に折った書付を開けてみた。\n\n 今日のことごかんべんありたし。なお、お願いしたきことあり、今すぐサナトリウムの前にて、お待ち下されたし。\n\n と、書いてあった。\n このわずかな文字は、彼女を生々とさせた。もうすべてのいきさつを知っている準之助氏が、自分を引き止めてくれるのだろう。もし、そうなれば、自分も難きを忍んで、夫人に謝りに行こう。彼女は、準之助氏が自分を部屋へ呼ばないのは、夫人を憚っているためであろうと思った。その方が、自分も話しやすい。\n 彼女は、コンパクトを出して、涙のあとをザッとかくしてから、部屋を出ると、別荘の裏口から森を抜け、草の小路を真直ぐに、外人の経営している療養所の赤い建物の方へ歩いた。\n アカシヤの並木がつづき、近く小川のせせらぎが聞えて来る。夏の午後とも思えない静かさである。ここまで、歩いて来ると、新子の気持もずうっと、落着いて来た。\n その辺を行きつもどりつ歩きながら、そのあたりの風光から、かの女は非常に佳い音楽や、よい絵画や、よい物語を感じていた。美沢さんなどは、このあたりを、どんなに欣ぶだろうかと考えたくらい、すっかり平静な彼女になっていた。\n\n三\n\n 彼女が、アカシヤの幹にもたれて、今来た道をふり返ったとき、ゴルフ・パンツに鳥打の紳士が歩いて来るのを見た。それが、準之助氏の若々しい姿だと気づいたとき、新子の頬に自然な微笑が溢れた。\n「お待たせしましたね。」と、準之助氏は近寄って来て、彼女とさし向いにちょっと立ち止まると、\n「あちらへ歩きましょう。」と、新子を誘った。新子も、うなずいてアカシヤの並木道を、山手の方へ並んで歩き出した。\n 準之助氏は、しばらくの間無言だった。\n 右側の林の中を、見えがくれに小川が流れている。時折、鶯が鳴き、行く手の道を、せきれいが、ヒョイヒョイと、つぶてのように横切って飛んだ。\n N博士の別荘から、左に折れると、落葉松の林の間に、外人の別荘地が少し続き、やや爪先上りになった道を、峠の方へただわけもなく歩きながら、準之助氏はまだ黙っていた。\n 黙っている相手をどう扱っていいか、新子はやや困惑しながら、しかし自分の方から話しかける場合でないので、やっぱり黙って歩いた。\n 峠道にかかると、楓や樅やぶなの樹などが、空もかくれるほど枝を交していて、一そう空気がひんやりとして陽の色も暗くなった。\n ポタリと頬に露が、\n「雨じゃないでしょうか。」新子は立ち止った。\n「いや、樹の雫ですよ。お疲れになりましたか。」と、準之助氏は立ち止って、おだやかに云った。\n「いいえ。」と、新子は首を振った。\n 静かな空気の中で、パッとマッチの火が白く光った。準之助氏は、うまそうに煙草を吸いながら、\n「いかがです、ずーっと、このまま子供達の面倒を見て下さいませんか。」と、云った。\n「はア。」\n 新子は、準之助氏の長い無言の散歩が、何を意味していたかが、そのときハッキリと分った。\n 主人として、新子の釈明も求めず、また良人として妻のために弁明もすることなく――そういうことは、新子に不愉快な感情を再現させることだと知って、ただ新子の気持をいたわり、落ちつかせ、平静をとりもどすまで、ブラブラと散歩をして、折を見て結論だけを云った準之助氏の言葉を、新子はうれしく思った。\n「妻は、もう何でもありませんよ。貴女も、さっきのこと、もうお忘れになって下さいませんか。」\n「はア。奥さまにお詫びに行こうと思っておりますの。」\n「そうですか、それはどうもありがとう。それでホッとしましたよ。」急に、準之助氏は、明るく微笑した。\n\n四\n\n「ほんとうに居て下さるでしょうね。大丈夫でしょうね。」準之助氏は、もう一度くり返した。\n「私の方でおねがい致すことですわ。」新子は、こんなに甘えさせられては、いけないと思いながらも、嬉しくなった。\n「貴女が、いらっしゃらなくなると、小太郎も祥子も、ガッカリしますよ。僕もガッカリします。どうぞ、これからも、つまらないことは、気にかけないで、のびのびと貴女らしく、子供の面倒を見てやって下さい。どうぞ、これは改めて僕のお願いです。」若者のように、情熱のこもった言葉だった。\n「お話は、これですみましたが、ついでに、この次の丘の上まで行きましょう。軽井沢が一目に見えますよ。おつかれでなかったら、ご案内しましょう。」にわかに、少し硬くなった声が――しかしまことに、何気なく新子を誘った。\n 準之助氏は、新子が、病的にわがままな夫人と、いつかきっと衝突することを心配していた。しかし、聡明な新子のことだから、うまくバツを合わせてくれるだろうと思っていたのが、思ったよりずーっと早く、事件を起してしまった。小太郎から、事件のあらましを聴いたとき、これはいけないと思い、新子がこのまま去ってしまうことを考えると、身内のどっかを抉り取られるような気がした。それほど、新子はもう、彼の心の中に深くはいっていた。\n だから、新子と会って、新子に止まってくれるように頼むまでは、何かが咽喉下に突っかけて来ているような感じだったが、こんなに簡単に話が付いてみると、すべてがそのまま楽しい散歩に変っていた。\n 妻が、やかましい権女であればあるほど、その眼を忍んで、含みのある青い色のうすものに、絹麻の名古屋帯を結んだスラリと伸びた、しかし、どことなく頼りなげな新子と、二尺と離れず歩いていることが......準之助氏にとって、何か恐ろしい何かすばらしい冒険のような気がして悲調を帯びた彼の恋心を深めるのであった。\n 二人はあまり、お互同士を意識していたので、やがて間もなく雨となる前ぶれのように、霧が一さんに、峠の樹々の間を薄白く、駈け降りているのに、気がつかなかった。\n 準之助氏は丘に上ったら、新子と一しょに見下す軽井沢が、どんなに美しいだろうかと考えていた。\n 新子は、準之助氏の何かしみじみした、いつもふっくりと、自分の為に、冷たい風を遮ってくれるような態度を、身に浸みてありがたく思った。が、しかし、それと同時に、なんとなく息づまるような、勿体ないが迷惑だという気持がしないでもなかった。それは、こうした場合における年齢の相違から来る悲しい間隙とでもいわれようか。\n\n五\n\n そこらあたりからは、いよいよ深く樹が茂り合っていて、太い幹に、山葡萄やあけびの蔓が、様々な怪奇な姿態でからみつき、路傍の熊笹や雑草も延びほうだいに延びている。と、ザッザッと異様な音がしたので、新子がドキッとして、思わず準之助氏の方へ肩を寄せると、径のすぐ傍から、一羽の雉子が飛び出した。雉子の方でも、驚いたらしく、バタバタとたちまち、繁みの奥へ低く飛んでかくれた。\n「まあ! 雉子なんでしょうか。」新子の声が、思わず明るくはずんで、巧まぬ媚を含んでいた。\n「雉子ですよ。この辺には、雉子や山鳥が時々いますよ。僕達の散歩を歓迎してくれたのでしょう。心憎き雉子ですよ。」\n「いっそ、飛び出すなら、傘を持って来てくれると、よかったのに。もう、引き返したら、よろしいのじゃないでしょうか。何だか、夕立になりそうでございますわ。」新子も、少しふざけながらいった。\n「はははは。でも雉子の貸してくれる傘なら、山蕗の葉かなんかで、軽井沢の夕立の役には立ちませんよ。夕立になるのかな。」と、不安そうに、樹の間をすかして空を眺めた準之助氏の顔にサッと一陣の風が吹き降して来た。樹々の肩が、その風で一斉にかしいだと見ると、大粒の雨が、樹々の葉を、まばらに叩いて渡った。\n「これは、いかん!」\n 準之助氏は、いささかあわて出して、\n「さア降りましょう。ここで降られてはこまる。なるべく濡れないように、樹の下を歩くようになさい!」と、新子を促した。\n が、一町もそうして、坂道を下ったとき、吹き下しの疾風に、足許もおぼつかなく、二人は一時立ち止った。新子の着物の裾も袂も、千切れそうに、前へハタハタと吹きなびいた。髪が頬に、ベッタリとひきついた。その凄い風と同時に、一層陰惨な感じのする暗さが、周囲の繁みから湧き始めた。\n「この峠の下に、外人の古い別荘が、二、三軒あったでしょう。あすこまで、とにかく降りましょう。そして雨宿りをさせてもらいましょう。サア。」と、促されて、また半町くらい、足早にかけ下った。\n 一の疾風に、つづいて第二第三の疾風が、空に鳴り林に響いて、樹々の葉が、引く潮に誘われる浜砂のように、サーッと鳴って、一瞬底気味わるい静寂が、天地を領した。と、たちまち眼の前の、ぼーっとした仄暗い空を切り裂いて、青光りのする稲妻が、二条ほどのジグザグを、竪にえがいた。殷々たる――と云うのは都会の雷鳴で――まるで、身体の中で、ひびき渡るような金属的な乾いた雷鳴が、ビリビリと、四辺の空気を震動させた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n「ウーム」\n 加賀屋勘兵衞は恐ろしい夢から覺めて、思はず唸りました。部屋一パイにこめて居るのは、七味唐辛子をブチ撒けたやうな、凄い煙で、その煙を劈ざいて、稻妻の走ると見たのは、雨戸から障子へ燃え移つた焔です。\n「火事だツ」\n 絶叫した聲は、喉の中で消えました。眼、鼻、口から入る煙のえぐさは、面も擧げられない有樣です。\n「親分」\n 氣が付いて見ると、床を並べて居た若い妾のお關は、煙にさいなまれながらも、死力を盡して這ひ寄りざま、勘兵衞の裾にまつはりついて居るではありませんか。\n「裏へ出るんだ」\n 勘兵衞は夢中になつて絡みつくお關を振りもぎる樣に焔の來る方とは反對の、北向きの腰高窓に飛び付き、障子を開けて雨戸の棧を上げましたが、どうしたことか、雨戸は糊付けになつたやうに敷居に固着して、押しても突いても、叩いてもビクともすることではありません。\n 幸ひ有明の行燈の灯がまだ消えず、背に迫る焔は、時々紅蓮の舌を吐いて、咄嗟の間ながら、疊の目まで讀めさうです。\n「凍つて居る。畜生ツ」\n 勘兵衞は恐ろしいものを見てしまつたのです。敷居に流し込んだ夥しい水が、二月初旬の珍らしい寒さに凍つて、雨戸はまさに地獄の門のやうに嚴重に閉されて居るのでした。\n「親分、どうしませう」\n 後ろから、おろ〳〵と這ひ寄るお關。肉體的にはこの上もない美しい娘ですが、命がけの危急の場合には、何んの役にも立ちません。\n「騷ぐな、――此方へ來い」\n 唐紙を蹴破つて、飛び込んだのは次の六疊、――勘兵衞お關の寢て居た八疊と、その次の間の六疊、――離屋はこの二た部屋きり、其處も半分は焔で、南側の縁側から障子へ、天井へと、蛇の舌のやうな火焔が、メラメラと這ひ上がるのです。\n 勘兵衞は、東側の入口、三枚の雨戸の戸袋寄りの一枚に飛び付きました、――が、此處もまた、敷居の溝一パイに溢れる水が、曉近い寒さに凍つてしまつて、叩いても、押しても貧乏搖ぎもすることではありません。\n「畜生奴ツ」\n 勘兵衞はもう一度唸りました。火は離屋半分を包んで西側と南側には寄りつくこともならず、北窓と東の入口の雨戸が凍り付いては、中に居る者は完全に逃げ場を失つて、燒け死ぬのを待つ外はなかつたのです。\n だが、加賀屋勘兵衞は剛健で戰鬪的で、力も智慧も人並優れた大親分でした。五十は越して居りますが、これくらゐのことで、諦めて死んで了ふやうなヤハな人間ではありません。\n やにはに足を擧げて、東側の雨戸を蹴ると、三度目には大穴があき、五度目には横棧が飛んで、七つ八つ目にはどうやら人間が潜れさうな穴があきました。\n「何をまご〳〵して居るんだ、來ないか」\n 煙に卷かれてウロウロして居る妾のお關の襟髮を取つて引寄せ、穴から押し出してやつて、お尻をポンと蹴ると、續いて自分もその後から、曉近い庭の大氣の中へ大した骨も折らずに飛び出してしまひました。\n その頃になつて漸く氣が付いたらしく、\n「それツ、火事だ」\n「親分はどうした」\n 母屋からバラバラと驅け付けたのは、若い者の喜次郎、有松、七之助。\n「俺は此處に居るよ。何をあわてるんだ」\n 親分の勘兵衞は、少しは取亂して居りますが、それでも精一杯の落着きを見せて、子分達の前に立つと、後ろには妾のお關が、まだ驚きと恐れが去らないものか、寢卷の裾をかき合せながら、ガタガタ顫へて居る樣子です。\n 遠くで近くで競ひ打つ、擂番の音。\n「お怪我はありませんか、親分」\n「飛んだことで」\n 言ひ捨てて若い三人は、火の方へ飛んで行きます。その頃から町が騷然と湧き立つて、鳶の者も彌次馬も八方から集まるのでした。\n\n二\n\n この事件は早くも八五郎の耳に入り、一應現場を調べた上、親分の錢形平次に報告されたことは言ふまでもありません。\n「親分、世の中には、恐ろしく惡賢こい野郎があるものですね」\n 感に堪へると八五郎の顎が、もう一寸ほど伸びて見えるのです。\n「何處にお前がびつくりするやうな利口な人間が居るんだ」\n よく晴れた二月の晝下り、今朝の寒さは忘れてしまつたやうな、南縁の陽溜りに煙草盆を持出して、甲羅を温ためながら、浮世草紙などを讀んでゐる、太平無事の平次の表情でした。\n「本所番場町の加賀屋勘兵衞――親分も御存じですね」\n「知つてるとも。評判のよくねえ男だが。あれでも人入稼業の大親分だ。小大名の二三軒は持つてゐるといふことだな」\n「その加賀屋勘兵衞の妾といふのは、大した女で――」\n「それが惡く賢こくて、さすがの勘兵衞も海月見たいにされて居るといふ話だらう」\n 平次は無法作に先を潜ります。\n「大違ひで。惡く賢いのは誰だかわかりませんが、兎も角、離室に寢て居る勘兵衞と妾のお關を燒き殺さうとした奴があるから大變でせう」\n「フーム」\n「妾のお關といふのは、中の郷の小間物問屋半兵衞の娘で、可愛らしくて親孝行で、本所中の評判者でしたが、去年の秋無理無體に加賀屋へ奉公に出され、それつきり好き者の勘兵衞の妾にされてしまつたといふ話で――」\n「加賀屋勘兵衞には女房がないのか」\n「ありますよ。少し氣が變で、化け損ねた雌猫のやうなのがね――勘兵衞は五十を越して居る癖に女道樂が強く、金づく力づくで、取替へ引替へ妾をつれ込んで來るんですから、女房はあつたところで置物同樣で」\n「それで何うしたといふのだ」\n「昨夜――と言つても今朝方ですがね、勘兵衞と妾のお關が寢て居る離室へ、外から火を付けた野郎があるんです」\n「確かに外から付けた火だらうな。過ち火ぢやあるめえな」\n「南側に積んで干してあつた、冬圍ひの藁に火をつけたらしいと言ふんですよ。中に寢て居る勘兵衞が氣が付いた時は、南側から西側へ火が廻つて、手の付けやうはない。北側の窓へ飛び付いたが、此處は凍り付いて開かず、東側の雨戸も恐ろしく頑固に凍り付いて居たが、勘兵衞はそれを叩き破つて、おろ〳〵するお關を蹴飛ばすやうに、自分も漸く這ひ出して、危ふい命を助かつたといふ話なんで――」\n「昨夜は二月には珍らしい寒さだつたが、この十日ばかり雨も雪も降らないのに、雨戸が凍り付くのは變ぢやないか」\n 平次の鋭い勘は早くもこの矛盾に氣が付いたのです。\n「そこが曲者の惡賢こいところで」\n「フーム?」\n「行燈の灯と、縁側から背後へ燃えて來た火でよく見ると、敷居に水を流し込んだ奴があるらしく、どの雨戸も曉方の寒さで、カンカンに凍り付いて居たといふから恐ろしいぢやありませんか」\n「成程、それは恐ろしい新手だ。雨戸を釘付けにして火をつけるといふ話はよく聽くが、中に休んでゐる者に知れないやうに、雨戸に釘を打込めるわけはない。――寒い晩を選つて、外から敷居に水を流し込み、一方から火をつけると、これは釘付けよりも確かなわけだ」\n「ね、惡く賢こい野郎ぢやありませんか」\n「そんな細工をした火つけ野郎がわかつてゐるか」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「わからないから困つてゐるんで」\n「心當りくらゐはあるだらう」\n「あり過ぎるんですよ」\n「誰と誰だ」\n「第一番に勘兵衞の女房のお角。これは妾のお關を怨んでゐるわけだが、三十年近くもつれ添つた亭主の性惡を知り拔いてゐるし、今までも取替へ引替へ同じ屋根の下につれ込んだ妾が三人や五人ぢやなく、諦らめきつてゐる樣子で、毛程も嫉妬らしい顏をしない女ださうですよ。――尤もこの女は掃除氣違ひで、朝から晩まで箒と雜巾を離さないといふ變り者で、男を汚ながつて、自分の亭主も側へ寄せつけないといふから怖いでせう」\n「それから」\n 世の中にはさう言つたヒステリー性の潔癖から、男を寄せつけない女のあることを、平次も幾つか知つて居りました。\n「第二番目は、お關の許婚で、雪五郎といふ彫物師。腕はなまくらで、ろくな物も彫れないが、そんな野郎に限つて、ちよいと好い男で、生木を割かれて勘兵衞をうんと怨んで、一度は加賀屋のあたりをウロウロして若い者に袋叩きにされて居ますが、宜いあんべえに、親方の月齋と一緒に江の島の辨天樣の欄間の修復に行つて、十日も江戸へ歸つて來ませんよ」\n「それから」\n「外に加賀屋には喜次郎、有松、七之助といふ三人の若い者が居ますが、揃ひも揃つて一人者で、皆んなお關に惚れてゐる」\n「親分の妾にかえ」\n「だらうと思ふんですがね。親分の勘兵衞は五十二で、鰐口に丁髷を結はせたやうな醜男だが、妾のお關は二十一、搗き立ての餅のやうに柔かくて色白で、たまらねえ愛嬌のある女だ。それが蔭へ廻つて、時々シクシク泣いてゐるのを見ちや、同じ屋根の下に住んでゐる、若い男三人、天道樣のせゐにしちや居られないわけでせう」\n「そのうち誰が一番臭いんだ」\n「喜次郎は三十五で、三人のうちでは兄分ですが、こいつは人間が甘いから、有松かな。無法者で力自慢だが、敷居へ水を流して、凍らせる智慧がありさうもない――となると二十三の七之助、いやにニヤニヤした、鼻の先に猿智慧がブラ下がつて居るやうな野郎かも知れませんね」\n 八五郎の鑑定は甚だあやふやで、この三人の誰が怪しいか見當もつきません。\n「それだけの事では、乘込んで行つても手の付けやうはあるまい。暫くお前が見張つて居るが宜い」\n 斯うして事件の發展を眺める外はなかつたのです。\n\n三\n\n 加賀屋の離屋は燒けて、主人の勘兵衞も妾のお關も、少しづつの怪我はしましたが、それも少しの手當で癒つてしまひ、後には大きな不安と怒り――心に受けた傷とも言ふべきものが生々しくも殘りました。\n 雨戸の敷居に水を流して、二月初旬の大寒空に、釘付けにしたよりも嚴重に凍り付かせるといふ手段は、人間離れのした恐ろしい企らみで、それを實行に移す惡魔の心の持主は、勘兵衞にも心當りはなく、八五郎と話し合つた上、命に賭けてお關と勘兵衞を怨んでゐさうな、雪五郎の動靜を調べるために、江の島まで人をやりましたが、雪五郎は師匠月齋と共に、岩本院に籠つて、島から一歩も外へ出ないとわかり、これは全く疑ひの外に置かれました。\n 若い者三人、喜次郎、有松、七之助は、互に疑ひ合ひ牽制し合つて、面白くない日を送つて居る樣子ですが、これも取立てて怪しい素振りがあるわけでなく、不得要領のまゝ二月の月は經つてしまひました。\n 諸方の櫻の蕾がふくらんで、何んとなく春めかしくなつた三月の一日、離屋の火事以來母屋に移つた勘兵衞は奧の六疊――納戸の隣りの置き忘れたやうな部屋に御輿を据ゑて、其處でお關と一緒に三度の食事も攝つて居るのでした。\n 下女のお榮が膳を運んで來ると、縁側の障子を一パイに開けさせて、早春を胸一杯に吸ひながら、遲い朝飯の箸を取つた勘兵衞。\n「あツ、待つて下さい。そのお汁は少し變なやうです」\n お關は膳越しに飛び付いて、勘兵衞の味噌汁の椀を持つ手を押へました。\n「何うしたといふのだ」\n 勘兵衞はお關の態度の物々しさに、少し腹を立てて居ります。\n「私、一と口呑みましたが、そのお味噌汁の味が、そりや變なんです」\n お關は胸が惡さうな、自分の襟もとのあたりを押へました。\n「何が變なんだ」\n 勘兵衞は味噌汁の湯氣などを嗅いだりしましたが、お關が騷ぐほどの、變つたことがあらうとも思はれません。\n が、さうして居るうちに、お關の容體が次第に惡くなりました。猛烈な吐き氣に襲はれて、可愛らしい顏が石のやうに引緊まると、額口から油汗がタラタラと流れるのです。\n 直ぐ樣、町内の本道が呼ばれて應急の手當をしました。呑んだ味噌汁がたつた一と口だつたのと、宜い鹽梅に吐いてしまつたらしいので、大したこともなく、晝頃にはもう元氣になつて居りました。\n 後で調べると、主人の椀にも、お關の椀にも、味噌汁の中に、馬でも殺せるほどの毒藥――石見銀山鼠捕りといふ、砒石劑が入つて居り、お關が一と口で氣が付いて主人の椀を取り上げたのは、全く命拾ひといふ外はありません。\n これほどの騷ぎを起した石見銀山鼠捕りは、何處から何うして二人の味噌汁へ入つたか、これも解くことの出來ない謎でした。\n 味噌汁は下女のお榮が作つて、主人の部屋へ運んだのもお榮ですが、この女は三十五六の出戻りで、加賀屋には七年も奉公をして居り、少し愚かしくはあるが、正直一途で何んの企らみのあの人間でもなく、それに主人とお關の味噌汁の外には、何んの異状もなく、早起きの若衆達は、半刻も前に朝飯を濟ませて、鼻唄交りに格子を洗つて居ります。\n 尤も勘兵衞とお關の朝飯が始まるまで、お榮はお勝手に頑張つて居たわけではなく、曲者はお榮が部屋の掃除でもして居る間に、そつと忍び込んで、仕掛けた味噌汁の鍋の中に、毒藥を抛り込む隙は充分にある筈です。\n この報告を八五郎から聽いた平次は、\n「そいつはいよ〳〵厄介になりさうだな、――何より、お關の許婚の雪五郎は、まだ江戸へ歸つて居ないか、それを調べてくれ」\n「それならわかつて居ますよ。江の島の修復は、まだ十日くらゐはかゝるさうで、月齋と雪五郎が、江戸へ引揚げて來るのは、この十五日か十六日になる筈です」\n「それぢやお前氣の毒だが、加賀屋へ十日ばかり泊り込んでくれないか」\n「へエ?」\n「雪五郎が歸つたとわかればその惡戯も納まるだらう」\n「變な話ですね、曲者は雪五郎に疑ひを被せ度いに極まつて居さうなものですが」\n「いや、そんな淺墓な企みぢやあるまいよ。――ところで、内儀はどうして居るんだ」\n「相變らず、朝から晩までの掃除で、尻を端折つて雜巾と相撲を取つて居ますよ。掃除をして居ない時には、手を洗つて居る時で」\n「變つて居るな」\n「自分の食べ物でも膳拵へでも、お仕舞まで別にして、他の者には手もつけさせません。それに男を汚ながることは無類で、男便所の前は鼻をつまんで通るくらゐですから、男のきり端にも觸れるこつちやありません」\n「そんな女は時々あるといふことだよ。亭主運の惡い女や、後家などに珍らしくないやうだが」\n「矢つ張り、内儀が變ぢやありませんか。あつしが行つても、ろくに顏も見せませんが」\n「もう少し調べなきやわかるまいよ。――ところで、これも大事なことだが、加賀屋勘兵衞ともあらう者が、奉公人や若い衆の食ひ荒した味噌汁を、そのまゝ温ため直して食ふといふことはあるまい。別鍋に仕立ててお勝手に置いたことと思ふが、それもよく調べてくれ」\n「へエ」\n「もう一つ。燒けた離屋には、南側か西側の雨戸に、臆病窓がきつてあつたと思ふ。それも訊いて置き度い」\n「まだあるんですか」\n「三人の若い衆のうち、誰が一番お關に逆上て居るか、お關と口をきゝ度がるのは誰か。そつと聽き出してくれ」\n「そんな事ならわけはありません」\n「頼むよ、八。大事なのはあと十日だ。俺は外に手掛けた仕事があつて當分行つちや居られない」\n「大丈夫ですよ。加賀屋へ泊り込んで居さへすれば、變なワザなんかさせるこつちやありません」\n 八五郎は張りきつて、ドンと胸を叩いたりするのでした。\n\n四\n\n 加賀屋の上に押し冠さつた不氣味な呪ひはこれで終つたわけではなく、寧ろこれをきつかけに、恐ろしい破局まで、噛み合ふ死の齒車のやうに、避けもかはしもならず押し進んで行きました。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "枕上口占\n\n\n\n\n\nもとおのれがさえのつたなければぞ、集ならんとする夜半......\n\n\n\n\n\n私の詩は\n一つの着手であればいい\n\n私の家は\n毀れやすい家でいい\n\nひと日ひと日に失はれる\nああこの旅の つれづれの\n\n私の詩は\n三日の間もてばいい\n\n昨日と今日と明日と\nただその片見であればいい\n\n\n又\n\n\n私の詩は 明け方西の空にある\n昨日の月\n\nやがて地平の向ふに沈む 昨日の月への\n餞けだ\n\n既に私はそこにない\nそれは私の住處でない\n\n讀む人よ 憐れと思へ\n私の詩が私を驅る\n\n私を驅る\n涯しない流沙のうち\n\n\n蝉\n\n\n セミといふ滑車がある。井戸の樞の小さなやうなものである。𢌞船の帆柱のてつぺんに、たとへばそれをとりつけて、それによつてするすると帆を捲き上げる時、きりきりと帆綱の軋るその軋音を、海上で船人たちは蝉の鳴聲と聞くのである。セミ、何といふ可憐な物名であらう。\n 今年五月十日、私は初めて、私の住む草舍の前の松林に、ひと聲蝉の鳴き出る聲を聞いた。折から空いちめんの薄雲が破れて、初夏といふにはまだ早い暮春の陽ざしが、こぼれるやうに斜めに林に落ちてきた、私はそれに氣をとられて讀んでゐた本を机の上に置かうとしてうなじを上げた、その時であつた、天上の重い扉が軋るやうに、ぎいいとひと聲、參差として松の梢の入組んだとある方に、珍らしや、ただひと聲あの懷かしい聲を風の間に放つものがあつた。\n 蝉! 新らしい季節の扉を押し開く者!\n 私がさうひそかに彼に呼びかけた時、空は再び灰色雲に閉ざされた。さうして蝉はその日はそのまま鳴かなかつた。三日ばかりうすら寒い日がつづいた。蝉はまた四日目の朝、同じやうに雲の斷れ目をちらりと零れ落ちる陽ざしに、いそいで應へかへすやうに、あのおしやべりの彼がしかし控へ目に、おづおづと、短い聲でぎいと鳴いた。さうしてひと息ついてもう一度念を押すやうにぎいいと鳴いた。それは何か重たいものを強い槓杆で動かす時のやうな聲であつた。私は鳴きましたよ、私は鳴いてゐますよ、蝉は恐らくさういふつもりで鳴いてゐるのであらう、ほんのそのしるしだけ。陽ざしが翳れば、その聲はすぐにやんだ。さうしてそれはもう一度陽ざしが新らしくこぼれ落ちるまで、いつまでも辛抱強く沈默を守つてゐた。だからその聲は、そんな風に蝉が鳴いてゐるといふよりも、寧ろ松の間で初夏の陽ざし自らが聲をたててゐるやうな風にも聞えるのであつた。\n 私の祖母は蝉のことをセビセビと云つた。\n ――ああ、セビセビが喧ましくつてねられやしない......\n 晝寐の夢をこの騷々しい連中に妨げられて、そんな不平をこぼしてゐたのもまだつい昨日のやうである。私は丁度今時分の頃になつて、毎年蝉の聲を聞きとめた最初の日に、きまつて祖母のことを思ひ出す、それからあのセビセビといふ妙な言葉を。\n 蝉が鳴いてゐる。蝉はその後ひきつづいて毎日鳴いてゐる。そして今日は六月朔日である。私は今日外から歸つてきて、松林の丘を登りながら、その小徑の踏段の一つに、まつ黒に集つた數百匹の蟻によつて運ばれてゐる、小さな蝉の遺骸を見た。羽の透明な、小指の頭ほどの蝉である。五月十日から今日まで、假りにその小さな昆蟲の命を三週間ばかりのものとするなら、私は既にその幾倍の時間をこの地上に生きてきただらう、そんな計算をつづけながら私は丘の小徑を登つた。――七百倍。さうして私の愕いたのは、そんな大きな數字ではない、七百倍にも餘る私の長い過去の、何と空しくあわただしかつたこと!\n\n\n南の海\n\n\n南の海のはなれ小島に\n色淡き梅花はや兩三枝開きそめたり\n\nまだ萌えぬ黄なる芝生に 古き椅子あり\nわれひとり腰をおろさん......\n\n遠くふくらみたる海原と\n空高く登りつめたる太陽と\n\n土赭きひとすぢ路と\n彼方の村と\n\nわれはこのかた岡に いま晝は\n色こまやかに描かれたる風景を見る\n\n渚にいでて\n網を繕ふ人かげあり\n\n壁白き小學校の後庭に\n鞠投ぐる童兒あり\n\n波は\n磯に碎く\n\nわれは聽く\nわれは耳かたむく\n\nされどわが聽くはかの波の響きにあらず\n枯草の葉ずゑを過ぐる風の歌にもあらず\n\nそは一つの聲 われを伴ひてここに來りし\n一つの聲なり やさしく肩により添ひて\n\nわが見るものを指せる その聲はかく呟く\n――時は來たり 時は去る 沖渡る汽船は遠音に\n\n呼ばふとも はやわがためには\n新らしき風景も老いたるかな......\n\n\n涙\n\n\nとある朝 一つの花の花心から\n昨夜の雨がこぼれるほど\n\n小さきもの\n小さきものよ\n\nお前の眼から お前の睫毛の間から\nこの朝 お前の小さな悲しみから\n\n父の手に\nこぼれて落ちる\n\n今この父の手の上に しばしの間温かい\nああこれは これは何か\n\nそれは父の手を濡らし\nそれは父の心を濡らす\n\nそれは遠い國からの\nそれは遠い海からの\n\nそれはこのあはれな父の その父の\nそのまた父の まぼろしの故郷からの\n\n鳥の歌と 花の匂ひと 青空と\nはるかにつづいた山川との\n\n――風のたより\nなつかしい季節のたより\n\nこの朝 この父の手に\n新らしくとどいた消息\n\n\n紅花一輪\n\n\nなつかしき南の海......\nなつかしきは伊豆の國かな\n二日三日 わがのがれきて\nひとり愁ひを養へる\n宿のうしろのきりぎしの\nほのぐらき雜木まじりに\nひともとたてるやぶ椿\nいま木洩れ陽のかげうごく\nふとしも見れば\nここだくの花は古りたる もも枝の\nそのひと枝ゆ\nこの朝さきしばかりの 新らしき紅花一輪\n廊わたるわれにむかひて眼くばせす\n神在す――\nわが心既におとろへ 久しくものに倦んじたり\n神在すとは 信うすきわれらが身には 何の證しもなけれども\nわれは信ず\nただにわづかに\nわれは信ず\nかの紅花一輪 わがためにものいふあるを\n如何に 如何に\n人人百度もわれをたばかりあざむく日にも\nわれは生きん\nわれは生きん\n――かの一輪の花の言葉によりてこそ\n\n\n赭土山\n\n\n私は今日 裏山の小徑を歩いた\n何といふ目あてもなしに 赭土山を歩き𢌞つた\n歩き𢌞つた\n松の林を\n池のほとりを\n人影もない寺の庭を\n私の影は 愚かな驢馬のやうに見えた\n私は少し愕いた\n人生の 感情の 噫 何といふ季節であらう\n淋しい臥床の中で聽く耳鳴りのやうに\n蝉はどこでも啼いてゐた\n蝉はしんしんと鳴いてゐた\n私はしばらく草の上に坐つてゐた\nそこからは海が見えた\n煙の流れる海のむかふに 名も知れぬ島が見えた 山が見えた\nああその一つの古い思出\n古い一つの思出の方へ\nこの炎天の草の上から 山峽から 今日もなほ\n羽ばたくものは何だらう 愚かなことだ つまらぬことだ――\n愚かなつまらぬ驢馬の影だ\nそれは\nこの草の上の私の影は\n蝉はしんしんと啼いてゐた\n松の林に\n蝉は啼いてゐた\n\n\n艸千里濱\n\n\nわれ嘗てこの國を旅せしことあり\n昧爽のこの山上に われ嘗て立ちしことあり\n肥の國の大阿蘇の山\n裾野には青艸しげり\n尾上には煙なびかふ 山の姿は\nそのかみの日にもかはらず\n環なす外輪山は\n今日もかも\n思出の藍にかげろふ\nうつつなき眺めなるかな\nしかはあれ\n若き日のわれの希望と\n二十年の月日と 友と\nわれをおきていづちゆきけむ\nそのかみの思はれ人と\nゆく春のこの曇り日や\nわれひとり齡かたむき\nはるばると旅をまた來つ\n杖により四方をし眺む\n肥の國の大阿蘇の山\n駒あそぶ高原の牧\n名もかなし艸千里濱\n\n\n新雪\n\n\n山山に 雪ふれり\n秋ひと夜\n山山に 新らしき雪はふりけり\n\nこの現つこそかなしけれ\n岨みちに\n年老いし馬は嘶き\n\n鳥のまねする落葉らは\nななめに溪を下りゆく......\n宴にいそぐ風情かな\n\n山峽のこの山の間ゆ\n見はるかす\n國原遠く\n\n稻の穗はいま熟すらむ 遠ちのしじまや\nかぎろへる 遠ちのしじまをとりかこみ\nひとひらの雲もあれざる 鋭き峰に\n\n鋭き峰々に 雪ふれり\n雪ふれり 秋一夜\n一夜へて 新らしき雪はかがよふ\n\n信濃路や\nみすず刈り刈る 鎌の音に\n鶫どりはたとたちたり\n\n木の間がくれをゆきゆきて\n旅人なれば 石の上に\n我れは憩ひぬ\n\nうつつなき旅の心は\nあなあはれ いづこにかなづさふべしや\nうつつなる天地のうち\n\n\n廢園\n\n\n春夏すぎて\n秋はきぬ\nわがこころの園生に\n蟲啼けり\nあはれなる蟲は啼けり\n木にも草にも\n荒れ蕪れて また荒れ蕪れし\nあかつきの わがこころの園生に\nおん墓あり\nその日より ここにとこしへにおん墓あり\n君知りたまふや\n愚かなるわれがためには そは二つなき思出の奧津城なりと\n海山越えて\n遠き日はいゆきさかりぬ\nゆきゆきていよよはるけく\nものなべてかへらぬ旅びと\n時ふれば金石もやがて泯びん\nましてこのはかなかる君がおん墓\n幻のなにたのむべき\n愚かなる奧津城もりは\nかくみづからにつぶやきかたり\n時雨ふるこの曉を\n船出する人のごとくに\n夢みつつ ものおもひつつ"
},
{
"role": "assistant",
"content": "心さへとみにおとろへ\n翁さぶここちするかな\n\n\n鶸\n\n\n秋深きものの秀に\n鶸一羽 あはれなり\nかたき木實を割らんとす\n\n人はなし 告げまくは\nかの鳥のさまを見て\nわがこころけふもうごくと\n\n\nあられふりける 一\n\n\nゆくすゑをなににまかせて\nかかるひのひとひをたへむ\n\nいのちさへをしからなくに\nうらやまのはやしにいれば\n\nもののはにあられふりける\nはらはらとあられふりける\n\n\nあられふりける 二\n\n\nここにしてあふぎたまひし\nまつがえにまつめとびかひ\n\nここにしていこひたまひし\nかれくさはかれしままなる\n\nあきはやくくれにけるかな\nふゆのひはとほくちひさく\n\nうらやまのはざまのこみち\nはらはらとあられふりける\n あられふりける\n\n\nとほきことのは\n\n\nあたたかきふゆのひざしは\nみちのべにくえしついぢの\nはだあらきつちににほへり\n\nかけろなく いづれのほとり\nよはしづか ひるすぎて\nもののかげみじかきさかひ\n\nゆゑなけれ ふとおもひづる\nあはれふと\nめづらかに ふるくかなしく\n\nおもひづることのははあれ\nわすれてをゐしとおもへば\nたまよりもなほめづらかに\n\nいよいよにふるくかなしく\nおろかしやわがくちずさむ\nとほきひのとほきことのは\n\nことなべて\nいまははや\nげに\n\nうみこえて\nとつくにの\nみやこをこふににたるかな\n\n\n鴎どり\n\n\n遠き日\n十とせあまりも遠き日に\nわれはも何をうしなひし\nなつかしき伊豆の濱べに\n鴎どりうかびただよふ\n見つつゐて今しさとりぬ\nわれはも何をうしなひし\n\n\n桐の花\n\n\n夢よりもふとはかなげに\n桐の花枝をはなれて\nゆるやかに舞ひつつ落ちぬ\n二つ三つ四つ\n幸あるは風に吹かれて\nおん肩にさやりて落ちぬ\n色も香もたふとき花の\nねたましやその桐の花\n晝ふかき土の上より\nおん手の上にひろはれぬ\n\n\n汝の薪をはこべ\n\n\n春逝き\n夏去り\n今は秋 その秋の\n\nはやく半ばを過ぎたるかな\n耳かたむけよ\n耳かたむけよ\n近づくものの聲はあり\n\n窓に帳帷はとざすとも\n訪なふ客の聲はあり\n落葉の上を歩みくる冬の跫音\n\n薪をはこべ\nああ汝\n汝の薪をはこべ\n\n今は秋 その秋の\n一日去りまた一日去る林にいたり\n賢くも汝の薪をとりいれよ\n\nああ汝 汝の薪をとりいれよ\n冬ちかし かなた\n遠き地平を見はるかせ\nいまはや冬の日はまぢかに逼れり\n\nやがて雪ふらむ\n汝の國に雪ふらむ\nきびしき冬の日のためには\n爐をきれ 竈をきづけ\n孤獨なる 孤獨なる 汝の住居を用意せよ\n\n薪をはこべ\nああ汝\n汝の薪をはこべ\n\n日はなほしばし野の末に\nものの花さくいまは秋\nその秋の林にいたり\n汝の薪をとりいれよ\nああ汝 汝の冬の用意をせよ\n\n\n晝の月\n\n\n相模灘\n波はしづかに\n\n沖の島\n遠く霞めり\n\n枯草の\nゆらぐ彼方に\n\n鵜のとりの\nひとつ浮みて\n\n潮かづき\n嘴ふりさけし\n\n冬の空\nみどりもふかく\n\nいよいよに\n淡き半輪\n\n消ぬがなる\n晝の月はも\n\n消ぬがなる\nいよよたふとし\n\nいまははた\nかの思出も\n\n\n晝の月 又\n\n\n海の上には 晝の月\n膝の上には 古い琴\n\nかれをあふぎ\nこれをかなで\n\n昔のひとを おもはばや\n昔のひとを おもはばや\n\n\n花間口占\n\n\n海のうへ三尋ばかりに\n半輪の月はうかみて\n\nこの岡の梅の林の\n花はみな青からんとす\n\n思ふことしげければわれ\n香ばしき風にふかれて\n\nこのにがき日のひとときを\n甘なふや行へもしらに\n\n\n又\n\n\nかの島のかの乙女子は\nかかる日もかの船つきに\nものを賣り日を暮らすらむ\n\nこの岡の梅の林を\n訪なへば梅の木の間に\nその島のほのぼのと見ゆ\n\n\nおんたまを故山に迎ふ\n\n\nふたつなき祖國のためと\nふたつなき命のみかは\n妻も子もうからもすてて\nいでまししかの兵ものは つゆほども\nかへる日をたのみたまはでありけらし\nはるばると海山こえて\nげに\n還る日もなくいでましし\nかのつはものは\n\nこの日あきのかぜ蕭々と黝みふく\nふるさとの海べのまちに\nおんたまのかへりたまふを\nよるふけてむかへまつると\nともしびの黄なるたづさへ\nまちびとら しぐれふる闇のさなかに\nまつほどし 潮騷のこゑとほどほに\n雲はやく\n月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々と樂の音きこゆ\n\n旅びとのたびのひと日を\nゆくりなく\nわれもまたひとにまじらひ\nうばたまのいま夜のうち\n樂の音はたえなんとして\nしぬびかにうたひつぎつつ\nすずろかにちかづくものの\n莊嚴のきはみのまへに\nこころたへ\nつつしみて\nうなじうなだれ\n\n國のしづめと今はなきひともうなゐの\n遠き日はこの樹のかげに 鬨つくり\n讐うつといさみたまひて\nいくさあそびもしたまひけむ\nおい松が根に\nつらつらとものをこそおもへ\n\n月また雲のたえまを驅け\nさとおつる影のはだらに\nひるがへるしろきおん旌\nわれらがうたの ほめうたのいざなくもがな\nひとひらのものいはぬぬの\nいみじくも ふるさとの夜かぜにをどる\nうへなきまひのてぶりかな\n\nかへらじといでましし日の\nちかひもせめもはたされて\nなにをかあます\nのこりなく身はなげうちて\nおん骨はかへりたまひぬ\n\nふたつなき祖國のためと\nふたつなき命のみかは\n妻も子もうからもすてて\nいでまししかのつはものの\nしるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ\n\n\n列外馬\n\n\n 遠く砲聲が轟いてゐる。聲もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の聲が轟いてゐる。一發また一發、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは十里も向ふから聞えてくる。灰一色の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいてゐる。雨は十日も降つてゐる。廣袤無限の平野の上に、雨は蕭々と降りつづいてゐる。\n ここは泥濘の路である。たわわに稔つた水田の間を、路はまつ直ぐに走つてゐる。黄熟した稻の穗は、空しく收穫の時期を逸して、風に打たれて既に向き向きに仆れてゐる。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黄金色のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了つて、吊瓶落しに落ちてゆく午後の時刻を示してゐる。\n 今ここに一頭の馬――癈馬が佇んでゐる。それは癈馬、すつかり馬具を取除かれて路の上に抛り出された列外馬である。それは蹄を泥に沒してきよとんとそこに立つてゐる。それは今うな垂れた馬首を南の方に向けてゐる。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日......)この路の上を一群の仲間と共に南に向つて進軍をつづけてきたものであらう。さうしてここで、その重い軛から解き放たれて、"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「血がね、なるほど、なくなりましたかね。で、なんですかい、ネロちゃんが、居縮んでしまったとおっしゃるので。ネロもよくねえ、たのみ甲斐がないや。ヤイ、ネロめエーッ」と毒づいた。\n 南洋鸚鵡の花ちゃんと、藪地の裾で狂っていたネロ。ネロめエーッとしかられたので振り返ったが、お町ではなくて忠三だと見ると、ミーンとも鳴かず背も低めず、また花ちゃんと狂い出した。つまり完全に無視したのである。\n と純白のつばさをひろげ、ピョンと花ちゃんが飛びあがった。とネロちゃんも負けてはいない。背筋をうねらせるとポンと飛ぶ。とまた花ちゃんがピョンと飛ぶ。するとまたネロちゃんがポンと飛ぶ。そのつど月光がはね返り、水銀のようにチラチラする。\n「だがね、あねご」と手を揉みながら、「寮からここまでは長道中、そうフンダンに血が流れては十石あろうと足りませんや。いずれポッツリポッツリと小出しに出たんじゃアありましょうが、それにしてもだ、もうこの辺で、ポッツリポッツリもやんだ方がいい。でなかったら命が持ちませんや。そうはいってもごもっとも。血のしたたりがなくなって、案内役が休んだでは、追っかけてゆくことが出来ませんからねえ。そこでおこって地べたへすわり、何をいっても返辞さえしない。でこうなっちゃア仕方がねえ、わっちが懸命に探しやしょう。けだものが骨を折ったんだ。そこで人間が働くってものだ。なんのちっとも不思議なものか」訳のわからないことをいい出した。「ヤイ、でくの棒、手めえ達も悪い」突然うしろを振り返った。\n 後を慕って追って来た、忠三一味のこぶん達が、数間のうしろにたむろしている。お町の機嫌が面白くなく、忠三がお辞儀ばかりしているので、近寄りかねているのである。\n「な、いいか、こんな場合にはな、一緒になってあやまるか、一緒になって探すものだ。それを一番楽な方をとって、棒杭のように突ッ立っていやがる! 『おれは三番目の人間だよ』などというような面をして、そばに立って見ているのは、間違いはないが卑怯だぜ! 勇気があったら渦中へ投じろ! が待ってくれ、そうはいっても、むやみと雑兵に荒らされても、探索の手口が狂ってしまう。......ええと、ここは渋沢の墓地、うしろは蓮華寺、あれた墓地! 墓地へ隠れはしないかな? 左は沼地、右は田畝、そっちへトッ走りはしないかな? おれの身体が三つあるなら、三方へ走ってゆくのだが、お生憎様、一つしかねえ。でくの棒達を走らせたところで、役に立たねえのは受け合いだ。いかな城之介が行者でも、まさか天へはのぼって行けめえ。それにさ、どんなに高く踏んでも、天国へ行けるような玉ではない。では地獄へはということになるが、むぐらでないんだから土はほれめえ。そこでいきおい正面の、藪地なるものが問題になるが、渋沢の藪地と来た日には、あの八幡の藪知らずより、もっとこみ入った藪地なんだからなあ。手がかりもないのにうかうかと、飛び込んでゆくのは考えものだ。......と、こんなことをいっているうちに、時がドンドン経ってしまう。あの早足の城之介め、サッサと遠くへ行ってしまうだろう。だんだん間がはなれてしまう」忠三不意に飛びあがった。「あねご、しめた。土が軟かい!」それがどうしたっていうのだろう?\n\n藪地の小路\n\n「あねご、しめた。土がやわらかい!」叫んで飛びあがった早引の忠三、今度はにわかに前のめりに地面へ腹ばったものである。\n 月光をなま白く肩から浴び、坐り込んでいるイスラエルのお町、こう忠三に叫ばれても、身動き一つしなかった。\n しかしその次の瞬間に、こう忠三にわめかれた時、はじめてお町立ちあがった。\n「ね、あねご、そうじゃねえですか。右に鉄杖、左に袴様、おそらく島原城之介、引っかかえていたに相違ねえ。その上きゃつは大男、重い身体を持っていまさあ。はいている下駄は一本歯!」\n「ああなるほど、下駄の歯跡が!」\n「やわらかい土にさ、ついている筈だ!」\n「感づいたねえ、いいところへ! 探しておくれよ。妾も探す」\n お町、同じく腹ばった。\n「探しますとも、罪のつぐないだ! そうだ、あっしの駄弁のね!」忠三、地面を廻りだした。\n「おッあった! いやちがう! わだちの跡だ、荷車の!」\n「そうだよ、そうだよ、お前のセイだよ! 小梅のほとり、寮住居、萩の柴折戸、金目垣、などと、お前さえしゃべらなかったら、いくらあいつが魔法使いでも、探し出すことは出来なかったんだからね。ああ、妾たちの住居をね。......おッ、歯跡! あったあった! おや、ちがう。石の取れた跡だ!」先へ先へと這ってゆく。手で地面を探るのだろう、ガザガザ枯れ葉の音がする。\n「もう一度あやまる。駄弁はいけねえ。慎みますとも、今度はね。......こいつはどうだ? またちがった!」\n 二匹のけものが這うように、先へ先へと這ってゆく、大藪地の裾まできた時である。\n「今度こそ本物! 歯跡があったア!」早引忠三喜声をあげた。\n「どれ!」というとイスラエルのお町、はねるように傍へ飛んで行ったが、「間違いはないよ、一本歯の歯跡! 鋤だ鋤だ、鋤を打ち込んだようだ!」\n クッキリとついていたものである。\n「それじゃこいつを!」\n「たどって行きやしょう! ......ここにもある! それここにも!」\n「もう大丈夫! ここにもあるよ!」\n 大またに歩いた証拠である。一間ぐらいの間隔を置き、藪地の裾に沿いながら、一本歯の歯跡がついている。\n すっかり勇気づいたお町と忠三、歯跡歯跡と追っかける。と突然消えてしまった。\n「おい忠さん、歯跡が消えた!」\n「待ったり」というと早引の忠三、最後の歯跡へ眼をつけたが、「あねご、見なせえ、位置が違う」\n「位置?」とお町にはわからないらしい。\n「そうじゃアありませんか、ねえ、あねご。これまで歯跡は藪地に沿い、一の字を引いておりましたよ。ええそうでさあ、先へ先へと。ところがこいつは藪地へ向かって一の字を引いておりまさあ」\n「わかった。それじゃア、城之介め、ここから藪地へはいったんだね」\n「へい、さようで、疑いなく」\n「では妾たちもはいって行こう」\n「オーイ!」と忠三、こぶんを呼んだ。「手めえ達も来い。ついて来い! 先へ行くなよ。後からだ!」\n 藪地へはいったお町と忠三、「こいつア不思議だ!」と声をあげた。\n もちろんハッキリとではなかったが、そうしてひどく狭くもあったが、路らしいものがウネウネと一筋ついていたからである。\n\n塚の前後\n\n 周囲十町はたっぷりとあり、喬木灌木生い繁り、加うるに蔓草が縦横にはびこり、一旦うかうかはいろうものなら、容易なことでは出られない。ちょっと形容が大げさだが、いわば人跡未踏ともいうべき、この渋沢の大藪地に、路がついているということは、相当驚いてもよさそうであった。いやそれどころかその路の上に、一本歯の歯跡がついていた。\n「あねご!」と忠三はずみ声をした。「わっちア今までうっかりしていたが、女の泣き声が聞こえるというので、世間でやかましい傾城塚、ありゃア確か渋沢の、この藪地の中にある筈ですぜ」\n「そうそう」とお町すぐ応じた。\n「そうするとお前この路は、その古塚に通じているかもしれない」\n「そこへ持って来て一本歯の跡だ。あねご、知れましたね、きゃつの住居!」\n「女の泣き声という奴も、塚があいつの住居ときまれば、どうやら胸に落ちようじゃアないか」\n「大オチ大オチ!」と手をうった。\n「『イスラエルの神へにえささげようぞ』この手でゴロゴロころがして来た、大江戸のいいところの別嬪さんたちを、野郎、そこへ蓄えているのだ。その上取りためたお賽銭!」\n「お賽銭?」と興味もなさそうに、「そんなものより妾にゃア、袴様の方が大切だよ! さあ急ごう、オイ忠公!」\n「合点!」とばかり走り出した。\n 走りにくい走りにくい。路とはいっても名ばかりである。野茨が左右から手を出している。袖や裾を引っ張ろうとする。たけにもあまる雑草が、路の上を蔽うている。腐った落ち葉、足がすべる。ジクジクした沼、落ち込みそうだ! 大岩大木がたおれている。月光はささない。だから暗い。ところどころに葉もれの月! 枝葉がゆれて、光を乱し、チラチラ動くので幽霊だ!\n 忠三が先頭、お町が続き、その後からこぶんども! 縦隊をつくって突きすすむ。\n と、にわかに早引の忠三、ピタリと足をとめたものである。\n「あねご、聞きなせえ。ひづめの音!」\n なるほど、遙かの行く手にあたって、十数頭の馬のひづめ、カッ、カッ、カッと聞こえて来た。藪地の中を、算を乱さず、こっちへ近寄って来るらしい。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「おかしいねえ。何者だろう?」\n「おかしいなあ。解せねえや」\n「なんでもいいや。急ごうよ」\n こっちが進むに従って、ひづめの音も近寄って来る。しかし距離は遠いらしい。かすかにかすかに聞こえるのである。\n と、一ところ藪地が跡切れ、まるまるともりあがっている塚があった。\n「あねご、こいつだ。傾城塚!」\n「調べてごらんよ、足跡を!」\n「どれ!」と忠三腹ばった。ここらあたりは木立がない。月光隈なく落ちている。それに照らされて一本歯のあと、巨然とそびえた塚の裾に、点々とクッキリついている。\n「あねご、あった! こっちのものだ!」\n「入り口をお探し。塚の入り口!」\n「ヤイ野郎ども、さあ手をかせ!」\n 岩石と土壌と雑草とで、堅くよろわれている傾城塚、入り口はどこにあるのだろう? ただ寂然と立っている。\n と、その塚の反対側にあたり、今まで聞こえていたひづめの音、急にとまって静かになった。\n 天草時行の一隊が、塚の向こう側へ着いたらしい。\n\n窟の中\n\n 傾城塚の内部である。\n ............\n 正気づいた袴広太郎が、塚の中で経験した出来事は、全く意外なものであった。\n 最初に知覚へのぼったのは、幾人かの女が集まって、合唱しているような声であった。どこから聞こえるともわからない。遠いところから来るのだろう。\n「ここはいったいどこなんだろう?」\n 重い眼をあけて見廻して見た。なんにも見えない、真っ暗である。身体がだるく力がない。そうして全身がズキズキ痛む。手であたりを探ってみた。堅いつめたいデコボコしたものが、身体の下にころがっている。\n「ああこれは岩らしい。おれは岩の上にねているらしい」そろそろと両手を伸ばしてみた。何物も指先にさわらない。広い空間が延びているらしい。いよいよ広太郎にはわからなくなった。\n「いつこんなところへ来たのだろう? どうもハッキリわからない」完全に記憶がよみがえらないらしい。「起きられるかな? 起きてみよう」まずゴロリと横になった。それから手をついて起きあがろうとした。が、そいつは失敗であった。手がほとんどいうことをきかない。突いたとたんにさすような痛みが、肩の辺からわき起こった。で、ドタリとたおれながら、指先を肩へあててみた。肩が布で巻かれている。それを通してベットリと、つめたい物が指に触れた。「はてな」というと嗅いでみた。間違いはない、血糊である。「肩に傷を受けたらしい」こう思った拍子に広太郎の心へ、突然記憶がよみがえって来た。「小梅の寮......島原城之介......そいつの鉄杖でドッシリと......そうだ。おれはたたかれた筈だ。......それから? それから? どうしたかな?」それからのことはわからなかった。「気絶をしたんじゃアあるまいかな?」ふとここへ気がついた。\n「うん、どうやら気絶したらしい。そうしているうちにこんなところへいつか運ばれて来たらしい。......とするとここはどこなんだろう? そしていったい何者が、おれをこんなとこへ運んだのだろう?」これはすぐにも考えることが出来た。\n「城之介めだ! きゃつに相違ない!」思わず声に出していったものである。すると全く意外にもすぐ手近から返辞が来た。\n「袴氏、目ざめられたかな」聞き覚えのある、しわがれた島原城之介の声である。\n 驚いた広太郎痛みも忘れ、ムックリとばかり起きあがった。とまた城之介の声がした。\n「お騒ぎなさるな、危害は加えぬ。珍客でござるもの、なんの危害を。......」つづいて笑い声が聞こえて来た。「アッハッハッハッ珍客珍客。しかし人質といってもよろしい」\n 声のする方へ眼をやった。やみの暗さを一層黒め、一個の人影がうずくまっていた。島原城之介に相違あるまい。何かいおうと思ったが、物をいうさえ大儀であった。で広太郎はだまっていた。とまた城之介の声がした。\n「ここはな」となんとなく、嘲笑的に、「貴殿、当分のお住居でござる。で、一応部屋の様子を、お目にかけて置く必要がござる。まず正面をお見詰めなされ」\n 立ちあがるらしいけはいがした。と、とびらでも開けるような、ギイ――ッという音が聞こえて来た。とたんに一つの光景が、広太郎の眼前に展開された。形にして穹窿型、光にして琥珀色、それが朦朧と現われたのである。すなわち広太郎の正面へ、別の部屋が姿を現わしたのである。\n だがなんとその部屋の怪奇なことは!\n 広太郎にとってはこの部屋の様は、一生忘れることが出来なかった。とはいえ、それとて一口にいえば、城之介の奉ずるイスラエル教の、単なる道場に過ぎなかったのではあるが。\n\n奇怪な柱\n\n 広太郎の眼前に展開されている部屋は、広さおおよそ二十畳敷きぐらい、自然と出来た岩窟で、その正面の奥深いところに、人工を加えた祭壇があり、その上に巨像が立っていた。\n その巨像が異様なのである。\n けもの神のような裸体の男、女怪のような裸体の女、まさしく二体ではあったけれど、一体のようにくっついている。木で造った像である。それは繁殖の神である。\n その巨像の右と左に、青銅らしい香爐があり、紫陽花色をした太い煙りが、うねりながらもうもうと立ちのぼっていたが、開けられた戸口からこっちの部屋へ、太いたばのように流れ込んで来た。そいつを鼻にした広太郎が、思わずハッハッと喘いだのは、煙りに含まれている刺戟性のにおいが、一時に広太郎の愛欲を、クラクラとかき立てたからである。\n 天井から龕灯がさがっていた。瑤珞を持った南蛮製の、ギヤマン細工の巨大な龕灯で、そこからさしている琥珀色の光が部屋全体を輝かせている。神像のうしろには錦襴の幕が、だらりとひだをなしてかかっていたが、龕灯の光に照らされて、その刺繍が浮き出していた。逞しい両性の肉体が、からみ合っている刺繍である。\n 四方の岩壁には無数の絵画が、黄金色の額縁にはめられて、壁画のように懸けられていたが、龕灯の光に照らされて、絵面が朦朧と浮かび出ていた。両性秘戯の画面であった。\n しかしこれらの光景は、さして驚くにもあたらなかった。\n 驚くべきは柱であった。\n 部屋の四隅に立っていた。\n それは形容を絶したところの、醜い形を持っていて、再視することさえ出来なかった。男性に則った柱なのである。\n ところで柱を囲繞して、うごめいているのはなんだろう? 柱を一本の箸とすれば、真ん中どころから下へかけ、無数の蛆がウネウネと、うごめき廻っているのである。そのため柱その物が、ウネウネと動くように見えるのである。\n なかば裸体の女達が、幾十人となく柱を取り巻き、呻き声をあげているのであった。\n その呻き声が一緒になって、一種の合唱をなしている。だが、女達は苦しみながら、そういう振る舞いをしているのではなかった。それは女たちの表情でわかる。\n 柱にすがっている一人の女の、両方の肩は力瘤のため、肉腫のようにふくれあがっている。柱に巻きついている一人の女の、弓形をなしたふくら脛は、ところどころから血を流している。柱に押しつけている一人の女の、両の乳房は左右へはみ出し、つぶれて膿でも出しそうに見えた。そうも熱心に縋っているのであった。\n 女達は汗にぬれていた。時々すべってたおれることがあった。とすぐに飛びあがり、またも柱へすがるのであった。席のない女は他の女を突きのけ、そのすき間からすがろうとした。と突きのけられたその女は、突きのけた女をさらに突きのけ、急いで柱へ取りすがった。誰も彼もみんな恍惚としている。\n 四本の柱で行なわれている運動! さすがの袴広太郎も、放心せざるを得なかった。\n「ああこいつはまぼろしだ!」\n「いや!」と城之介の声がした。「現実でござるよ、袴氏!」\n\n裸体円陣"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「裁判に関与してゐると、さまざまな人生を見る。しかし通常、記録の表面にあらはれた事件の部分は常套的な人生記録で、よし三面記事的乃至は大衆小説的な興味を寄せ得ても、人生を知る材料には割合に乏しいものである。以前私がよく作家と往来してゐた頃、屡々促されて、取扱つてゐた事件の話をしたが、作家のよろこぶと思つた話は、案外に興味を惹かないで、私の少しも重きを置かない傍系的な挿話がひどく気に入るのを不思議に思つたが、それは自分の人生を観る眼が深くなかつたためであつたことを、後日に悟つたことである」と、先づ謙虚な感想を述べてから、「記録に文学が乏しいといふことが、単に文学の問題ならば、われわれは多く論ずることはない。だが、もしそれは、官憲の眼が人生に徹してゐないからだといふなら、それは同時に、われわれの仕事の本質に関係をもつ。実際、人間として人間性に徹してゐないといはれることは、大きな欠点であり大きな恥辱だ。私はこゝで文学を論ずる資格はないけれど、私の希望を云はせるならば、裁判官である限り、せめて事件を人間性にまで掘り下げ、事件そのものよりも、事件の裏にある人間性の動きで事件を知り、そのなかのよきものを剰さずみとめて欲しいのであつて、それは文学に親しむことによつて最もよく達せられるところだと思ふのである」と喝破してゐる。\n\n 文学と裁判との関係は、文学と総ての仕事、職業との関係にこれを及ぼすことができ、更に、文学と「生活」との関係に至つては、三宅氏の所説はそのまゝ、当てはまるのです。即ち、「生活」の表面的な部分や、大ざつぱな動きだけを見てゐては、ほんたうの「生活」はわかるものでなく、その内奥に触れて深い意味を探り、全体を見渡して真実の姿をとらへ、変転常なき形貌を通じて、複雑な「生活の味」を味ふことが、「生活を識る」ことの根本であり、また、「正しく生きる」ことの第一歩でもあるのです。そして、傑れた文学こそは、かゝる道へ人々を導く最も入り易い門なのであります。\n さういふわけで、文学に親しむことは、その人自身の心に「うるほひ」ができるばかりでなく、その周囲にも「うるほひ」を与へ、かつまた、その人の眼には人生の明暗、即ち「人間生活」そのものがまたとなく興味あるものとなり、屡々新鮮な感動の種をそこに発見するのです。\n 人心の機微に触れて、しかも法の尊厳を飽くまでも示す裁判が名裁判と称せられるやうに、日本人としての立派な「戦時生活」とは、一方、生産消費の両面に於て、国家の要請に全力をあげて応へると同時に、また一方、精神生活を飽くまでも豊かにし、特に、古風な言ひ方ではありますが、「義理人情」を尊ぶといふことが最も肝要であると信じます。\n 一口に「義理人情」と云ひますと、これは偶々封建時代の風習と結びついて考へられることが多いため、或は旧弊とか因襲とかの名で、いくぶん蔑視される傾きがないでもありません。しかし、昔から日本人の「社会生活」を律する一つの掟として、厳しいことはこの上もなく厳しいけれども、またそこに、云ふに云はれぬ「うるほひ」を与へてゐる精神は、実に、この「義理人情」なのであります。\n ところが、この言葉の現す微妙なこゝろは、ちよつとほかの言葉では説明がつきかねるのです。「歌舞伎」などで演ぜられる悲劇の主題が、屡々「義理人情の柵」といふやうなお芝居式の攻め道具で、見物の涙をしぼることになつてゐるせゐか、とかく、義理と人情とを対立させる考へ方が一般にひろまつてゐるやうです。この種の芝居は、むろん筋として極端な例外をあつめたに過ぎず、ほんたうの「義理人情」とは、「義理のうちに人情が含まれ、人情のうちに義理が固く守られる」人間的行為の理想を端的に目指したもので、やかましい理窟や利害の打算はぬきにして、世の中の無言の掟といふ風にこれを会得し、これを実践するところに、日本人らしい恬淡な、しかも峻厳な「生活観」があるのであります。前項で「愛情」について述べました。更にこれと並べて「信義」といふ項目が必要だと思つたのですが、幸ひ、「義理人情」のなかに、この「信義」は立派にはひつてゐます。「愛情」は人情の一部ですけれども、問題をやゝ特殊な形で取扱ひましたから、わざと一項を設けました。「信義」と「義理」とは言葉どほり違ふわけですが、「義理人情」となると、そこに、「信義」の精神が殆ど完全に含まれて来ます。\n 私がこの「義理人情」といふ言葉を持ち出した理由は、いはゆる儒教乃至西洋倫理学による徳目の羅列が、必ずしもこの場合便利だとは思へなかつたからです。そして、「生活のうるほひ」に必要なものは、決して道徳の一面的強調ではなく、もつと人間性の本質にふれた「生き方」の問題であり、さういふ点では、日本人の例の直観力が生んだ綜合的な生活の掟といふやうなものが、こゝで大いに役立つと信じたからです。\n その意味で、この「義理人情」といふことは、後の章で詳しく述べようと思ふ「たしなみ」といふことと共に、深く考へてみなければならぬ日本的な表現であります。\n さて、前置きばかり長くなりましたが、「義理人情」といふ極めて平俗な人生訓を通じて、先づ、私は、今日の言葉で云ふ「責任感」と、「人を先づ信ぜよ」といふ二つの崇高な道徳的内容を汲みとることができるやうに思ひます。これは私一個の解釈ですけれども、さう理解することによつて、この言葉は、「誠」といふ、一切の人間的徳性を貫く、ひろい、まどらかな心の在りやうを底に含み、現代に最も活かしたい言葉となるのみならず、「生活のうるほひ」とは益々密接な関係をもつて来るのです。なぜなら、「生活のうるほひ」に欠くべからざるものは、「新鮮な感動」であり、この感動の極は、最も屡々「美しい人間的行為」であり、しかも、かゝる行為の多くは、前述の「誠」を土台とする、いづれかの道徳的内容をもつ「義理人情」の純乎たるすがただからであります。\n「義理人情」の甚だ好もしい一つの特色は、私の考へるところでは、それが日本人の日常生活の隅々で、常に何気なく、ほとんど人の注意も惹かず、自分だけの心に満足を与へながら、極めてつゝましくそれが行はるべきものだといふことです。「行ふ」と云へば云ひすぎるほどの、そこはかとなき「心の動き」をさへ指すのであります。\n この「心の動き」は、わが古典文学の一つの精神である、かの「もののあはれ」に通じるもので、日本人の豊かな心情を物語つてゐますが、これは、同じ「義理人情」の、際立つた、激しい現れが、一面、古典文学のもう一つの精神である「ますらをぶり」に通じることをも示してゐます。\n「文学」の話と結びつけて「義理人情」の一項を挟みましたが、もう一度本題に帰ります。本題は「趣味」といふことでありました。\n「趣味」にはまだいろいろ種類がありますけれども、それはそれで他に参考になる書物もあるやうですから、私はいちいちの種類については詳しく述べません。\n たゞ、「読書」といふ問題について一言触れておきます。\n「趣味」といふ以上、直接自分の仕事なり、専門の修業なりに必要な「読書」は別として、主に、「教養」としての「読書」の範囲であります。\n 私の考へでは、「肩の凝らぬ読書」などを求めることほど、自分を軽蔑し自分を低下させるものはないと思ひます。本を読んで肩が凝つたら体操をすればよろしい。肩が凝ることがそれほどいやなら、その時は本など読まず、歌でも唱ふがいゝのです。\n「読書」の愉しさは、頭を使ふ自己創造の愉しさです。精神を練る努力と疲労の快感です。楽に読めて、読んでゐる間だけ胸がどきどきするといふやうな感覚的な面白さは、少くとも、「趣味」として読書に求むべきではないと思ひます。\n 近来、書物といふものに対する一般の考へ方が非常に変つて来て、いはゞ商品の性質を多分に帯び、消耗品の如く読み棄てるといふ風なことが平然と行はれるやうになりましたが、これは、読者の方にばかり罪はないにしても、悲しむべき「文明」の一現象であります。\n\n七\n\n さて、問題がこゝまで来ましたから、「趣味」の隣りにゐて、幾分はそれと重なり、しかも、本質的にはまつたくこれと違ふ「娯楽」の問題を取りあげませう。\n 娯楽的要素は、むろん体育のなかにも、芸術のなかにも、学術的研究のなかにさへもあり、また娯楽を芸術的に、科学的に仕組み、成り立たせることも可能ではありますが、娯楽そのものの本質は、人間が最も自然な姿に於て歓喜し、興奮し、心身のさまでの苦痛を伴はずに、これに没頭し得る「遊戯」でなければなりません。\n「娯楽」には、感覚的なものと肉体的なものとが多いのですが、いくぶんは知的なもの、情的なものもあります。\n その何れが最も健全なりやと問はれても、それは俄かに返答はできません。なぜなら、その何れにも、高さの程度があり、むしろ、娯楽の文化的価値は、決して知的なるがゆゑに高く、感覚的なるが故に低いといふやうな見方では決められません。たゞ、その純粋性と自然の品格によつて決められるのです。\n 民衆の娯楽、殊に青年の娯楽は、民衆自身、青年自身の手になつたもの、その素朴純粋な精神を精神としたものが、一番高い価値をもちます。私は嘗てかういふ文章を公にしたことがあります。「民衆の娯楽的欲求は元来健全なものだと私は信じてゐる。これを不健全なものにするのは、民衆を食ひものにする手合の陰謀と術策である。営利的娯楽業者と独善的民衆指導者の猛省を促したい。」\n\n 今から考へると言葉が激越に失してゐるやうですが、この事実は今も殆ど改まつてゐません。多少、政府をはじめ、各方面の努力はみられますが、まだまだ効果が挙つたとは云へないくらゐです。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n「娯楽」の一番不健全なものは、「生活」と離れて、「生活」から人々を引き離すためにあるやうな種類のものであります。\n「生活」の単調を忘れるとか、「生活」の煩はしさを逃れるとかいふ口実が、「娯楽」のために設けられてゐるのは、少しをかしいので、「娯楽」は立派に、「生活」の一部であり、正確に云へば、むしろ、「娯楽」は「勤労」の疲れを癒し、心気を一転させ、明日の「生活」の力を培養する、刺戟と鎮静を兼ねた頓服薬であります。\n それゆゑに、「娯楽」は例へば頭の痛むやうな副作用を起してはならず、また、できれば、いくぶん栄養も含んでゐるやうな代物であるに越したことはないのです。\n しかし、飽くまでも、「娯楽」は、「娯楽」以外の要素のために、「娯楽」たる本質を失つてはならず、それと同時に、「娯楽」を楽しむために、「勤労」を少しでも犠牲にすることは許されません。といふ意味は、「勤労」の種類にもよりますが、計画的に進められ、能率増進のために与へられた「娯楽」の時間を善用する以外に、いはゆる「生活の余暇」を個人的に利用する「娯楽」は、努めて、仕事の妨げにならぬやうな、仕事に用ひる力を消耗させぬやうな種類のものを選ばなければなりません。\n\n 一体、「娯楽」と云へば、外に求め、外から与へられるもののやうに思つてゐるのは根本的な間違ひで、「映画」は殆ど唯一の例外と云つてよく、「演劇」をはじめ、すべてその気になれば、自分たちの手で自由に出来るものばかりです。\n 素人演劇については、大政翼賛会文化部編纂の「指導書」がありますから、その精神と実際のやり方を参考にしてほしいと思ひます。\n\n八\n\n「娯楽」についてはこれくらゐにしておきますが、「生活のうるほひ」について、もう一つ最後に附け加へたいことは、適当な言葉が見つかりませんが、「人との交り」でもよく、たゞ「語らひ」と云つてもよい、つまり、家庭の団欒をはじめ、人を訪ねたり訪ねられたり、また幾人かが一と所に集つて、ゆつくり歓談したりするといふことです。\n「社交」といふ言葉は、西洋風に聞え、更に、なんとなく形式張つてゐるやうで、しつくりしませんが、要するに、人と人とが親しく交り、互に心情を吐露することによつて、人柄と思想の面白さに触れ、親愛の度を増し、気持がなんとなくほぐれるといふことは、誰しも屡々経験するところでありませう。\n「非社交的」などと云はれる人々は、それはそれで思ふところあつてなのかも知れませんが、戦時生活運営の協同責任者としては、ひとつ是非、考へを変へてほしいものです。\n「人嫌ひ」といふ極端な性格も昔からあるにはありますが、モリエールの描いたアルセストほど哲学的でもなく、たゞ、面倒だから、うるさいから、では話になりません。多くは、自分の我儘を棚にあげての強がりに過ぎぬと思はれます。\n 人と話をするといふことは、実際、相手によつてうんざりさせられることもありますが、自分の方が案外相手をうんざりさせてゐる場合もあることを反省し、知識交換などと慾張らずに、たゞ「話」をするのが面白い、楽しいといふやうな交際を、青年のうちに努めて心掛け、しまひには、たゞぢつと顔を見合つてゐるだけで心が和むといふやうな、また、口数は少いが、何か云へばきつと味ひのあることが云へるやうな、さういふ互の修業を積むことが、日本人の「生活」をもつと「うるほひ」のあるものとするでせう。\n これで「戦争と文化」といふ題下に、主として、心身の健康について、「武」の精神について、「生活のうるほひ」について説いたことになります。この何れからも、戦時に於ける国民の、特に青年の「たしなみ」の問題が引き出せますが、これは題を改めて、次の章に譲ることにしました。\n\n九\n\n さて、「戦争と文化」について、なほ云ひ落してはならないことは、今次の戦争によつて今迄の「文化」がどういふ風に変つていくかといふ問題であります。\n「米英的」な文化がわが国並びに東亜から一掃されるであらうといふことは、われわれの信念であり、また、事実それを目的として戦争が行はれてゐるとみなければならないのですが、そもそも、「米英的」文化とは何を指すかといふことになると、これは非常に単純なやうで、実は複雑な課題であります。\n 無暗に英語を排斥してみたり、自由主義や民主主義が米英的だといふので、それがどんなものかもわからずに、自由主義と民主主義はいかんと騒いでみたりしても始まりません。\n そこで、私が青年諸君に云ひたいことは、「文化」や「思想」の問題は、ひとまづ、それぞれの指導者の指導に従ふこととし、先づ何よりも、敵国並びに敵国人を憎悪する気持を、更に一層、自分の心の中で燃えたゝせてほしいといふことです。\n その際、仮りにも誤つてはならないことは、いはゆる「坊主憎けりや袈裟まで憎い」といふ流儀で、物事を処理する単純主義に陥ることです。極端な例は、英語で書かれた書物を地上に投げつけて、快哉を呼ぶといふやうな子供じみたことです。\n しかしまた、米英にも学ぶべきところがあるといふやうなことを公然口にし、また、腹の底で繰り返し云つてみるといふやうな煮えきらぬ態度は、断然一擲すべきです。そんなことは、今問題ではないといふことに気づかなければなりません。良心とはそんなものではなく、冷静とはかくの如きことを指すのではありません。若し必要あつて米英の書物を読むなら、むしろ、今こそ敵愾心を以て、その書物の内容を戦利品の如く利用すべきです。戦ふものの当然の心理は、国民の間に共通に動いてゐなければならず、強ひてこれに反するやうな表現をもつて己の意見を述べるのは、国民としての「たしなみ」でないといふことを深く知つてゐてほしいと思ひます。\n\n 戦争はたゞ米英文化をわが国並びに東亜から一掃するだけではありません。わが国の文化を、正しい伝統に引戻し、これを更に発展させると同時に、東亜諸民族の生活の上に光被せしめる使命と力とをもつてゐます。\n こゝにも亦、青年の負ふべき大任があります。青年は、先づ学生生徒として、身をもつて、明日の文化を築く地位に立ち、更に兵士、その他として戦線に赴き、直接間接、後進民族に誘導の手を差しのべなければなりません。日本青年の一挙手一投足は、そのまゝ若き日本の姿として、彼等の眼に映り、彼等の興味を惹き、彼等の夢をかきたてるでせう。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一\n まだ十時ごろなので、水がきれいで、明るい海底の白い砂に波の動きがはっきり映る。その白い幻灯のなかで、小指の先ぐらいの小さな魚がピッピッとすばやく泳ぎ廻っている。\n 硝子細工のような透明な芝蝦の子。気取り屋の巻貝。ゼンマイ仕掛けのやどかり。......波のうねりが来るたびに、みんないっしょくたになって、ゆらゆらと伸びたり縮んだりする。\n「わァい、やって来たぞォ」\n「やっつけろィ、沈めてしまえ」\n「助けてえ、落ちる、落ちる」\n 渚から二十間ばかり沖へ、白ペンキ塗りの一間四方ぐらいの真四角な浮筏を押し出して、八人ばかりのお嬢さんたちが、二組に分れて、夢中になってあがりっこをしている。\n 手懸りはないし、ちょっと力を入れるとすぐ傾いでしまうので、なかなかうまく這いあがれない。\n 骨を折って、ようやくの思いで攀じのぼると、筏の上は水に濡れてつるつるしているし、敵方がすぐ脚を引っぱりにくるので、わけもなく、またボチャンと水の中へ落ちてしまう。\n 敵方は、海岸から馳せ集まった混成軍。味方は、詩人の芳衛さん、絵の上手なトクべえさん、陽気なピロちゃん、男の子の鮎子さんの四人。日本女学園のやんちゃな連中で、片瀬の西方にある鮎子さんの別荘を根城にして、朝から夕方まで、海豚の子のように元気いっぱいに暴れまくる。\n「わァい、万歳、万歳」\n「眼玉やーい、河童の子。口惜しきゃ、ここまであがって来い」\n 浮筏の上から渚のほうを見ると、広い浜辺は、まるでアルプスのお花畑のようだ。\n 赤と白の渦巻や、シトロン色や、臙脂の水玉や、緑と空色の張り交ぜや、さまざまな海岸日傘が、蕈のようにニョキニョキと頭をそろえている。\n 理髪店の出店のような小綺麗な天幕の中で取り澄ましている海岸椅子。\n 濃緑色の浜大蒜と白い砂。\n 白金色の反射光のなかで、さまざまな色と容積が、万花鏡のように眼もあやに寝そべったり動き廻ったりしている。\n 思い切った背抜や、大胆な純白の水浴着。お洒落な寛長衣、小粋な胸当。\n コテイの袖無しに、ピゲェのだぶだぶズボン。金属のクリップをつけた真っ赤な寝巻式散歩服。石竹色のカチーフ。\n 大きな墨西哥帽。そろそろとお歩いになる桑の実色のケープ。\n それから、砂遊びをしている子供たち。走り廻る小犬。\n ドーナツのような朱や緑の浮輪。黄と紺を張り交ぜにした大きな鞠で鞠送りをしている青年と淑女。歌をうたっているパンツの赤銅色。ライフ・ガードの大きなメガフォン。きりっとした煙草売り娘。アイス・クリーム。\n 波打ち際では、三艘のカノオが、ゆっくりゆっくり漕ぎ廻っている。\n 腹いっぱいに空気を詰め込んだゴムの象や麒麟や虎。そのひとつずつに五六人のお嬢さんが取っついて、ここでも沈めっこをしている。\n 沖のほうでは、クロールが白い飛沫をあげる。濡れた肘に陽の光りが反射してキラキラ光る。\n 波の上に、のんきに浮いている泳ぎ自慢のお嬢さんたち。薄桃色やグウズべリー色の海水着が水蓮の花のように押しあげられたり見えなくなったりする。\n ゆるいうねりが来て、浮筏がガクンと大きく首をふる。\n 筏の上では、男の子の鮎子さんが、蟇のように筏にしがみついて頑張りつづけている。\n 敵のほうは鮎子さんを引きずり降ろそうというので、水の底を潜ったり、バシャバシャ波を立てたりしながら、えらい勢いで攻め寄せてくる。\n 味方の軍勢は、それを押しのけたり、沈めたり、蹴っ飛ばしたり、たいへんな奮戦ぶりだ。\n 鮎子さんが、金切り声をあげて、筏の上から指揮をする。\n「トクべえさん、あんたの足ンとこへ、真っ黒いのが潜って来たぞォ。蹴っ飛ばせえ、やッつけっちまえ」\n もう敵も味方もない。すっかりこんがらかってしまって、そばへ来たやつを、誰かれかまわずとっ捕まえては沈めにかける。\n 誰も彼もみな、眼が塩ッ辛くなって、シバシバして開けていられない。咽喉の奥がからからになって、鼻の中がツンツンする。\n そこで、休戦ということになる。筏につかまって、みなゲエゲエやる。いろんな苦情が起こる。\n 男の子の鮎子さんが、黒いお嬢さんをつかまえて、\n「あんた、さっき、あたしの背中を拳骨でゴツンとやった」\n と、抗議を申し込んでいる。\n お嬢さんのほうも負けていない。\n「あんたは、あたしの顎をいやというほど蹴っ飛ばしたわ」\n と、やりかえす。\n こちらでは、陽気なピロちゃんが、筏につかまったまま、絵の上手なトクさんと足で蹴合いをしている。詩人の芳衛さんが、ニコニコ笑いながら、上品な傍観者の態度をとる。鮎子さんの背中をゴツンとやったのは、じつは芳衛さんなんだ。\n 遠い沖のほうから、ピカピカ光る金髪が、平泳でゆっくりこちらへ泳いで来る。\n 毎朝、時間をきめて泳いでいるのだとみえて、たいてい昼すこし前に、沖から戻って来て、\n「お早よう、お嬢っちゃん」\n と、挨拶しながら、浮筏のそばを泳ぎ抜けてゆく。\n 皆の意見は、英国人だということに一致している。かくべつ根拠のあることではない。言葉使いが丁寧で、アクセントが綺麗だからという理由によるのである。年齢については、陽気なピロちゃんが、こんなふうに断定をくだした。\n「あの英吉利人は、今年、二十七なのよ」\n 詩人の芳衛さんが、訊きかえした。\n「ふうん、どうして、二十七なの」\n ピロちゃんで威厳をもってこたえる。\n「どうしてってことはないさ。ワイズミュラーは今年二十七でしょう。だから、あの英吉利人も二十七でなくちゃならないんだ」\n なるほど、ワイズミュラーによく似ている。映画に出てくるワイズミュラーのようにふやけた顔はしていないが、身体の釣り合いや、腕の長すぎるところなんか、たいへんよく似ている。いかにも若々しく、元気で、そのくせ、考え深そうな眼付きをしている。\n それにしても、ずいぶん遠くから泳いで来るのだとみえて、浮筏のそばを通り過ぎるころは、いつでもすこし疲れたようなようすをしている。元気な時は、挨拶をして、そのまま泳ぎ抜けて行くが、時には、十分ほど筏に片手をかけて息を入れて、それからまた岸へ向って泳いでゆくこともある。\n「有難う、お嬢さん」\n 普通の挨拶のほかに、ヘップバーンが出てくる映画の『若草物語』の原作、オルコット夫人の有名な小説『四人姉妹』にかけているのらしい。\n なるほど、うまくいったもんだ。そういえば、もの静かな、すんなりした白い手がご自慢の長女のメグは詩人の芳衛さんに当るし、色が浅黒くて、きりっと身体のしまった男の子のようなジョーはいうまでもなく鮎子さん。内気で音楽好きのベスは、陽気なピロちゃん。お姫様のように上品で、絵の好きな末娘のエーミーはトクべえさん。......まるで、ご註文のように、キチンとあてはまる\n ところで、ピロちゃんも、鮎子さんも、トクさんも、(リットル)といわれることをあまり感じよく思っていない。\n「あたしたちは、もうウィメンなんだぞ。ちゃんと一人前に扱ってくれえ」\n 絵の上手なトクさんが、ふんがいして、いった。\n「あたしたちは、すくなくとも(リットル)なんかじゃないぞ。リットルなんていわれて、黙っているわけにはゆかないわ。......英語の『リットル』という言葉のなかには、たしかに、軽蔑する意味もあると思うんだ」\n ピロちゃんが、大真面目に、うなずく。\n「あたしも、そう思う。......あの英吉利人のやつ、たしかに、あたしたちを馬鹿にしているんだ」\n 黙って水浴着の裾を引っぱっていた芳衛さんが、すこし皮肉な調子でいった。\n「ほんとうに、(リットル)ではいけないわねえ。......でも、お見受けするところ、どなたも、(グレート)とはいえないようだわ」\n このひと言のために、筏の上は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。\n「芳べえのばかやろ。国民精神が稀薄だぞ!」\n「ひとの真面目な議論をまぜ返すのはよくないです」\n 芳衛さんは、みなにやり込められて黙ってしまった。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 一人前の淑女たちを『リットル・ウィメン』などと呼んだ仕返しに、ワイズミュラー君のことを『ローリーさん』と呼ぶことにした。小説では、『四人姉妹』の隣りに住んでいる、ローレンス家のちっちゃな坊やの名前である。\n\n 二\n いっぱいに開け放した硝子扉から、薄荷入りの、清すがしい朝の海風が吹き込んでくる。\n 白い紗の窓掛けを蝶のようにひらひらさせ、花瓶のダリヤの花をひとゆすり、帆前船の油絵の額をちょっとガタつかせ、妖精が戯れてでもいるように大はしゃぎで部屋の中をひと廻りすると、反対の窓からスット抜けて行ってしまう。\n 絵の上手なトクさんも、陽気なピロちゃんも、男の子の鮎子さんも、誰も彼も、あわてふためいて、御飯をかっこんでいる。\n お味噌汁は熱くてすぐ飲めないから、早く冷めるようにお椀に盛ったまま、ずらりと窓際に並べておく。御飯をかっこんだら、出がけに、立ったままで、ぐいと一息にやるつもりなのである。\n 誰もものをいわない。鮎子さんだけは、みんなのように早くかっ込めないので、肚を立てて何かひとりでぶつぶついっていたが、いよいよ置いてゆかれそうになったので、御飯に水をかけてひっかき廻す。ピロちゃんもまねしてやり出す。誰も彼も大あわてだ。\n いったい、何を泡喰っているというんです? あわてずにはいられない。海が逃げてゆく。\n 絵の上手なトクさんが、\n「一ィ」\n と、いって、立ちあがる。窓際へ駆けて行って、味噌汁をひと息に飲みほす。\n「はい、すみました。......鮎子さんも、ピロちゃんも、芳衛さんも、いつまで食べてるの? いやァね」\n 男の子の鮎子さんが、口惜しがって、茶碗の底に御飯をのこしたまま、\n「二ィ」\n と、立ちあがる。\n 芳衛さんが、すぐ、それを見つける。\n「ずるいぞ。......卑劣ですよ、あなた」\n 鮎子さんは、半べそをかいて、また食卓へ坐る。その間に陽気なピロちゃんが、\n「二ィ」\n と、立ちあがる。\n めいめい茶碗と箸を持ってお勝手へ馳け込む。\n 手早く茶碗を洗ってキチンと食器棚の中へ並べる。食卓の上を大きな羽箒でサッとひと撫で。どこにもご飯つぶなんかこぼれていない。それがすむと、キチンと窓際に整列する。\n 右へならえ! 番号!......一、二、三、四。\n 東京駅でヒットラー・ユーゲントの一行を見てから、鮎子さんたちの組に、いつの間にかそんな気風が乗り移ってしまった。\n 規律。質素。服従。団体精神。――こういう新しい感覚が、きゅっと皆の心をつかんで、にっちもさっちもゆかないようにしてしまった。この休暇ちゅう、規律正しい生活をしようと申し合わせたのである。\n\n\n規律。――六時起床、九時就寝。御飯は必ず三杯食べること。四杯食べたい時は、唾を呑み込んでおく。\n服従。――これは、キャラコさんが来てから。\n質素。――観念上の問題。形より心のほうを重く見ること。(例。――上等のお菓子でも不味そうに食べること)\n団体精神。――一致協力して敵に当ること。\n\n\n 朝御飯を無理やり三杯おし込むのも、窓際に整列するのも、みな青年隊の精神に即したことで、なかんずく、浮筏でほかの組の女の子を沈めにかけるのは、その最も偉大な発露なのである。\n 規律・規律・規律!\n どっちみち悪い気風ではない。それこそ、薄荷入りの海風のようなすがすがしいものが、皆の心に吹き込んで、胸をいっぱいに膨らせる。四人ながら、みな、この新しい生活形態に満足して、時には感激のあまり涙をこぼしそうになる。\n 服装の点検が終ると、一列縦隊に隊伍を組み、足並みそろえ、れいの行礼歩調というやつで、岡から浜のほうへ降りて行く。ヒットラーの観兵式をニュース映画でごらんになったことがおありでしょう。......長靴をはいた兵隊さんが、膝の関節をまげずに、爪先でじぶんの額を蹴あげるようにしながら行進する、あの奇抜な歩調で。\n ところで、この示威運動はあまり民衆の支持を得ない。四人の質実な精神は理解されないのである。低俗な民衆の眼には、どうも、すこし素頓狂に見えるらしい。\n 砂浜で寝転んでいる赤銅色の青年たちが、気色を悪くして聞えよがしに叫ぶ。\n「おうい、見ろみろ、また気狂いどもがやって来やがった。なんでェ、あの脚つきは。あいつら、頭の加減でも悪いんじゃないのか」\n 俗説に耳を藉すな。そんなことでへこたれるには及ばない。新しい行動にはいつも迫害を伴うにきまっている。\n キッと口を結んで、穴のあかんばかり、まっすぐに海を瞶めたまま、えらい混雑の中を神憑りのような足どりで波打ち際まで行進する。\n そこで、お次ぎは団体精神の発動にうつる。\n 敵軍はいないか。向ってくるやつはいないか。広い渚をゆっくりと眺めわたす。あまり、平和な眼付きではない。\n 陽気なピロちゃんは、すこし注意散漫の傾向がある。ほかの三人が熱心に団体精神の予備行動を始めているのに、ピロちゃんだけは、ぼんやり沖のほうを眺めながら、こんなふうにつぶやく。\n「あら、また、あのヨットがいるわ」\n 鮎子さんが、釣り込まれる。\n「ほんとだ。どうして、毎朝おなじところにじっとしているんだろう、妙だな」\n トクさんが、かんたんに片付ける。\n「釣りでもしてるのさ」\n 鮎子さんが、ふうん、と鼻を鳴らす。\n「へえ、あんな沖で釣りをするのかい? あそこは海流からはずれているから、魚なんかいるはずはないんだ」\n ピロちゃんが、同意した。\n「あたしもそう思う。魚なんか釣ってるんじゃないわ」\n トクさんが、ききかえす。\n「じゃ、何してるの?」\n 鮎子さんが、口を尖らす。\n「何をしてるかわからないから、それで妙だというんじゃないか」\n 右手に、三浦半島のゆるい丘陵がつづいている。その遠い遠い沖合いに、一風変わった赤い帆のヨットが浮んでいる。原色版のナポリの風景などでよく見る『ファルファラ』という、蝶々のような恰好の帆をもった、この辺ではあまり見かけないヨットである。\n この風変りなヨットは、きまった時間にどこからかやって来て、江の島の聖天島と稲村ヶ崎を底辺にする、正三角形の頂点で錨をおろし、二時間ほどそこに停っていて、それからまたどこかへ行ってしまう。\n 毎朝、十時から十一時半ぐらいまでの間、きまってこれが繰り返される。ひめじ釣りにしては時間がおそすぎるし、鮎子さんのいう通り水脈筋からもはずれている。いったいどんな目的で毎朝きまった時間に、きまったところに停まっているのか、それがわからない。このヨットを見かけるようになってから、これで五日になる。\n 芳衛さんが、結論をつける。これを倫理の先生の口まねでやってのける。\n「......たぶん、海岸のザワザワした雰囲気が、諸君を刺激して、いささか神経質にしているんだと思います。......とにかく、諸君はあまり懐疑的です。......ことに、鮎子さんのごときは、何を見ても、怪しいとか、奇妙だとかいわれるが、鮎子さんが懐疑を持ったものをよく調べて見ると、怪しかったり奇妙だったりしたことはただの一度もないのです。......よろしいか。要するに、あれは一艘のヨットでしかない。毎朝、きまった時間にやって来て、きまったところに停まっているヨットに過ぎない。......それが、どうしたというんです? 放ってお置きなさい。やりたいようにやらせようじゃないか。どっちみち、われわれには関係のないことです、エヘン」\n これには、みな、噴きだしてしまう。\n あまり腹の皮を捩ったので、ヨットのことなど忘れてしまう。\n 三人のうちで、いちばんこだわっていた鮎子さんが、まっ先にザブンと水の中に飛び込んで、クロールで浮筏のほうへ泳いで行く。\n「やったな!」\n 一斉に水の中に飛び込む。すさまじい競泳になる。\n 陽気なピロちゃんが、鮎子さんの腹の下を潜り抜けて、筏のすぐそばで海豹のようにひょっくりと顔を出す。間髪をいれずにえらい水飛沫をあげながら、鮎子さんとトクさんが到着する。芳衛さんだけは途中で棄権して、ゆっくりと平泳で泳いで来る。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 半ズボンの青年が、血色のいい熱心な横顔を見せながら、砂浜と海に平行したリンクで、独りゴルフを楽しんでいた。あたりは夕闇で灰色になりかけていた。青年はむぞうさにボールを打ちまくつているわけではなく、むしろ特殊のストロークを人目につかない激しさで練習しているのであつた......キチンと身ぎれいにした旋風という感じであつた。この青年はいろんなゲームを手早く習得していたが、ふつうより少しでも早く習得したい癖があつた。どうやらそのために、六回のレッスンでバイオリンを習得する法とか、通信教授で完全なフランス語の発音を身につけられる法とかいうたぐいの人目を引く広告の被害者になりがちであつた。彼はこういう希望に満ちた広告や冒険のいきいきした雰囲気の中で暮していた。目下は、このリンクと境を接している大庭園のうしろに大きな屋敷を持つている海軍提督マイクル・クレイブン卿の個人秘書であつた。なかなか大望があつたので、相手がだれであろうと個人秘書をいつまでも続けるつもりはなかつた。しかしまた理性的でもあつたので、秘書をやめる最上の方法は立派な秘書になることだと知つていた。したがつて彼は大へん立派な秘書であつた......提督の通信物がドンドン集まつてきてたまつたのを整理するのにも、ゴルフボールを相手にするときと同じようにすばやい一心不乱の精神集中法を用いていた。彼はいまのところひとりで適当に判断して通信物と取り組まなければならなかつた。というのは提督はこの六ヶ月来船に乗つていたからである。そして、もう帰途についていたが、まだ数時間のあいだは――あるいはことによると数日のあいだは――帰つてこないはずであつた。\n 運動家らしい大またで、ハロルド・ハーカーという名のこの青年は、リンクの囲いになつている芝生の高台に登つた。そして砂浜の向こうの海を見わたすと、不思議な光景が見えた。あまりはつきり見えたわけではなかつた......というのは宵闇が荒れ模様の空の下で刻々と暗くなつていたからである......しかしそれは、瞬間的な幻影のようなものであつたためか、青年にとつては遠い昔の日の夢か、歴史の別の時代から出てきた幽霊が演じている芝居のような気がしたのであつた。\n 落日の名残りが銅色と金色の細長い縞になつて、青というよりむしろ黒に近く見える海のはての暗い沖の上に、消え残つていた。しかし西空のこの輝きを背にしてひときわ黒く、影絵芝居の人影のようにクッキリ輪郭を浮きあがらせて通り過ぎたのは、かどが三つある三角帽をかぶり剣を着けた二人の男であつた......まるでたつたいまネルソンの木造艦隊から上陸してきたようなかつこうであつた。その姿は、たとえハーカー君にまぼろしを見る癖があつたとしても、夢にも思いつきそうもないまぼろしであつた。彼は血色がいいのと同じに科学的なタイプでもあつたので、もし空想するとすれば、昔の軍艦より未来の飛行船が目にうかんだことであろう。そこで彼はごく分別よく、いくら未来派の人間でも自分の目で見た物は信じられるという結論に到達した。\n 幻想が続いたのはホンの瞬間であつた。二度目に見なおすと、目にはいつたものは、異様ではあつたが、信じられないものではなかつた。二人の男は十五ヤードほど間隔をあけて一列に砂浜を大またに歩いていたが、ごくふつうの現代の海軍士官であつた......しかし、この二人の海軍士官はあのとほうもないような正装の制服を着ていた......これは、もし着ないですませられるものなら、士官たちは決して着やしない。せいぜい皇族の来臨のような大きな儀式の場合だけである。前に立つて歩いている男はどうやらうしろから歩いてくる男に気がついていないらしかつたが、ハーカーには、その秀でた高い鼻とスパイクのような形の顎ひげで、主人の提督だなと、すぐわかつた。跡をつけているもう一人の男はハーカーの知らない人だつた。しかしハーカーはこういう儀式的な場合と関係のある事がらについては多少知つていた。提督の船がこの附近の港にはいると、高貴の方が公式にお訪ねになるはずだということを知つていた。その意味なら、それでこの士官たちが正装していた理由はよくわかつた。しかしハーカーは士官たちのことも――あるいはともかく提督の性質もよく知つていた。それだけに、提督が平服に着かえるか、少なくとも通常軍装に着かえるかするための、五分ぐらいのひまはあるにきまつているのに、何に夢中になつてこんな盛装をこらして上陸して来たのか、それが秘書にはなんとも見当がつかなかつた。ともかくこんなことはおよそ提督がやりそうもないことであつた。実際これは後になつてもこの神秘的なでき事の中での主な神秘の一つとして何週間も未解決のままに残つた。そんなわけだつたので、暗い海と砂地を背景にした人けのない所にうかび出たこの幻想的な宮廷服姿はなんとなく喜歌劇の舞台を連想させた......そして「軍艦ピナフオア」の見物人を思い出させた。\n 第二の人物はもつとずつと異様であつた。正しい海軍大尉の軍服にもかかわらず、かつこうがなんとなく異様だつたし、動作はなおさら異様であつた。妙に不規則なおちつかないようすで歩いていて、ときには早くなつたり、ときには遅くなつたりしていた......まるで提督に追いつこうか追いつくまいかと心を決めかねているようであつた。提督はかなり耳が遠かつたので、うしろから柔らかい砂地の上を歩いてくる足音がきこえないのはたしかであつた。しかしうしろから来る足音は、もし探偵的にさぐつてみたら、びつこを引いてるかとも思えるし、ダンスをしているかとも思えるし、いろんな推測ができたろう。男の顔は影になつて暗かつたが、それと同時に浅黒かつた。ときどきその目がキョロキョロ動いてキラリと光つたので、心の動揺がなおさら強く感じられた。一度は走りかけたが、やがてだしぬけにゆつくりむとんちやくにノッシノッシと歩き出した。それから男は或ることをした......それはハーカー氏には、英国王につかえるふつうの士官なら、たとえ気違い病院にはいつている男でも、まさかこんなことをしようとは思えないことであつた。男は剣を引き抜いた。\n 異常な前兆がこの爆発点に達したとき、通り過ぎていた二つの人影は岸の岬のかげに消えてしまつた。目をみはつていた秘書は、ちようど色の浅黒い未知の男が、またむとんちやくなようすになつて、キラキラ光る刃でカラカサ花の頭を打ち落すのを見とどけただけであつた。男はその時は提督に追いつくのをすつかりあきらめていたようであつた。しかしハロルド・ハーカー君の顔はほんとに大へん考え深そうになつていた。そこに立つたまましばらく思いめぐらしていたが、やがて厳粛に陸のほうへ向かつた......大きな屋敷の門の前を通つて、海のほうへ長いカーブを描いている道のほうへ行つた。\n 提督が歩いていた方角から考えると、そしてまた当然自分の屋敷へ向かうものと仮定すると、浜からカーブを描いているこの道を登つてくるはずであつた。ゴルフリンクの下の砂浜伝いの細道は、岬のすぐ先きで陸に向かい、やがて立派な道になつてクレイブン邸のほうへ通じていた。そこで秘書が持ち前の短気を出して、帰つてくる主人を出迎えに矢のように駆けだしたのは、この道を下つたのであつた。しかし主人はどうやら家へ帰ろうとしているのではなかつた。まだもつと変つていたのは、秘書もまた家へ帰ろうとしなかつた......少なくとも数時間後まで帰らなかつた。これだけ帰りがおそくなつてはクレイブン邸に驚愕と神秘がわき起つたのは当然であつた。\n このかなり豪華すぎるほどの本邸の柱やシュロの木が立ちならんでいる背後では、実際いまかいまかと待ちもうけていた気分がしだいに不安に変つてきていた。召使頭のグライスは、どこにいても珍らしいほど無口な胆汁質の大男だが、正面玄関のホールを歩きまわつたり、ときにはポーチの横の窓から表の白い道が海のほうに伸びているのを見たりしながら、なんとなくおちつかないようすであつた。提督の妹で家政を預かつているマリオンは、兄そつくりの高い鼻をしていたが、もつとお高くとまつているような表情をしていた......口達者で、かなり長々とユーモアをまじえてしやべり続けながら、ふいにオウムのようにカン高い声で一段と力説する芸当を心得ていた。提督の娘オリーブは色の浅黒い、夢を見ているような娘で、たいていはボンヤリ黙りこんでいて、どうやら陰気な感じであつた。だから会話のほとんどはたいてい伯母がリードしていたが、別に文句は出なかつた。しかしこの令嬢にもふいに笑い声をあげる天賦の才能があつて、それが大へん魅力的であつた。\n「変だねえ、なぜお二人とも帰つてこないのかしら」と伯母は言つた。「郵便配達がはつきり話してくれたけど、提督が浜伝いに帰つてくるのを見たんですつて。あのいやなルークとかいう人と一緒でしたつて。いつたいなぜみんなはあの人のことをルーク大尉だなんて言うのか......」\n「そりやあね」陰気な若い令嬢は、ホンの一時明るい口調になつて、言い出した......「そりや、あの方は副官ですから、大尉でしよう」\n「わたしにはなぜ提督があんな男を雇つておくのかわかりませんよ」伯母はまるで女中の噂でもしているように鼻を鳴らした。彼女は大へん兄を自慢にして、いつも提督と呼んでいた。しかし海軍将校の地位に対する彼女の考えはいいかげんなものであつた。\n「そうね、ロージャー・ルークはムッツリしていて交際ぎらいだから損なたちですわ」とオリーブは答えた。「でも、もちろんそんなことはあの人の船乗りとしての才能にはじやまにはならないわ」\n「船乗りですつて!」伯母は、例のかなり人をハッとさせるオウムのような口調で、叫んだ。「あの人はわたしが考えてる船乗りと違いますよ。『船乗りを愛している娘』なんて、わたしが若いころによくはやつた歌だけどね......マア考えてごらん!あの人は陽気でのんびりした船乗りらしいところがありませんよ。船乗りの歌もうたわないし、陽気なホーンパイプも踊らないじやないの」\n「そうね」と姪はまじめに批評した。「提督だつてあんまりホーンパイプを踊りませんわ」\n「マア、あなただつてわたしの考えはわかつてるでしよう――あの人は明るい所や陽気な所がないし、ちつとも船乗りらしくありませんよ。そら、あの秘書の男のほうがあれよりよつぽどましかもしれないわ」\n オリーブのかなり悲劇的な顔がくずれて、彼女の長所の若々しい笑い声が波打つた。\n「そりやハーカーさんならきつと伯母さんのためにホーンパイプを踊つてくださるわね......そして独習書を見て半時間で覚えたのだと言うでしようよ。あの人は年中そんなことを習つてますからね」\n 娘はふいに笑うのをやめて、伯母のかなり緊張した顔を見た。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「変だわねえ、ハーカーさんが帰つてこないのはなぜかしら」と娘はつけくわえた。\n「わたしはハーカーさんのことなんか心配していませんよ」と伯母は答えて、立ちあがると、窓の外をのぞいてみた。\n 夜空の光はずつと前に黄色から灰色に変つていたが、いまは月の光がひろがつてきたので、ほとんど真白に変つて、浜のあたりの広々とした平坦な陸景を照らしていた......何一つ目をさえぎる物もなかつたが、ただ一つ池のまわりに汐風に曲りくねつた木立があつた。その先きに、地平線を背にしてかなり無気味に黒ずんで見えるのは、漁師たちの集まる岸辺のみすぼらしい居酒屋で、緑人亭という名前がついていた。道にも陸景にも生き物の姿は何一つ見えなかつた。宵のうちに海のそばを歩いている姿を見せた三角帽子をかぶつたあの人影を見た者は一人もいなかつた。それからその跡を追つている姿を見せたもう一人の見慣れない姿を見た者もいなかつた。この二人を見た秘書の姿を見た者さえ一人もいなかつた。\n 秘書がとうとうだしぬけに帰つてきて、家内中を叩き起したのは真夜中過ぎであつた。幽霊のように血の気がなくなつた顔は、あとから同行してきた大男の警部の鈍感そうな顔や姿を背景にしているだけに、なおさら青ざめて見えた。どうやら警部の赤い重々しい無関心な顔は、血の気のない悩みきつた秘書の顔以上に、不吉な運命の仮面に似ているようであつた。このニュースを二人の婦人に打ち明けるときは、できるだけひかえ目にしたり、一部を隠したりした。しかしこのニュースは、クレイブン提督の体がけつきよくあの木立の池に浮かんでいる雑草や浮きかすの中から引き上げられたということであつた......そして提督はおぼれて死んでいた。\n\n だれでも秘書のハロルド・ハーカー君と親しい者ならなるほどと思うであろうが、この男はあれほど興奮していたのに朝になるともうすつかり殺人現場にでもいるような気分になつていた。彼は、昨夜緑人亭のそばの路上で会つた例の警部を無理に別室に連れこんで、実際的な内密の相談をした。彼が警部に質問する口調は、むしろ警部が田舎者に質問するときのような勢いであつた。しかしバーンズ警部は鈍感な性格だつたし、バカでもなしリコウ過ぎもしなかつたから、そんなささいなことには憤慨しなかつた。警部が見かけほどバカでないことはすぐにわかりはじめた。というのは彼はハーカーの熱心な質問を、ゆつくりはしてるが整然とした合理的な態度で、すつかり処理したからである。\n「なるほど」とハーカーは言つた(彼の頭は『十日間で名探偵になる法』というような題のいろんな参考書でいつぱいになつていた)。「なるほど、これは古くからある三角問題でしようね。事故か、自殺か、殺人か」\n「どうも事故とは言えないようです」と警部は答えた。「まだ暗くなつていなかつたし、あの池は、提督が自分の家の玄関のようによく知つているまつすぐな道路から、五十ヤードも離れています。あの池にはいりこむくらいなら、往来のぬかるみにはいりこんで用心深く寝ころがつていたでしようよ。自殺については、そう言い出すだけの責任が持ちにくいし、これもどうやら考えられないようです。提督はなかなか活動的な成功者で、事実、百万長者に近い大へんな金持でした......尤もむろんそんなことは何の証拠にもなりませんがね。家庭生活もなかなか健全で楽しそうでした。およそ身を投げるなどとは思えない方です」\n「そうすると結論は」秘書はゾッとするほど声を低くして言つた......「どうやら第三の可能性になるわけでしよう」\n「その点はあまり急がないようにしましよう」と警部は言つたが、ハーカーは何でも急ぎたい男だけにこれでは承知できなかつた。「しかしもちろん、一つ二つ知つておきたいことがあります。たとえば、提督の財産について知りたいのです。あなたは、だれが財産を受け取るようになつているか、ご存じですか? あなたは個人秘書ですね......何か遺書についてご存じですか?」\n「ぼくはそれほど個人的な秘書ではありません。提督の弁護士は、サトフォード・ハイ町のウイリス・ハードマン・アンド・ダイク事務所です。たしか遺書はそこに預けてあると思います」\n「フム、なるべく早く弁護士に会うほうがよさそうだ」\n「すぐご一緒に会いに行きましよう」とせつかちな秘書は言つた。\n 秘書はソワソワしながら室内をあちこちと歩きまわつていたが、ふいに新たな問題で爆発した。\n「死体はどうしたんですか、警部さん?」\n「ストレイカー先生がいま本署でしらべています。一時間かそこいらのうちに報告書ができるはずです」\n「報告書は早いほどいいんです。もし弁護士の所でそのお医者さんに会えたら時間の節約になるんですが」ねえそれからハーカーは言葉を切つたが、ふいにいままでの性急な口調が当惑したような口調に変つた。\n「ねえ、どうでしよう。ぼくは......いや、われわれはあの若いレデイ――きのどくな提督の令嬢について、いますぐ、できるだけの考慮をはらいたいと思います。お嬢さんはナンセンスだとしか思えないような或る意見を持つています。ですが、ぼくはお嬢さんを失望させたくないのです。お嬢さんがぜひ相談したいとおつしやる友達があつて、目下この町に泊つています。ブラウンという名の人で、司祭か教区牧師かです。お嬢さんはぼくにアドレスを教えてくれました。ぼくは司祭や教区牧師にはあまり興味はありませんが、しかし......」\n 警部はうなずいた。「わたしは司祭や教区牧師には何の興味もありませんが、ブラウン神父なら大いに興味があります。偶然わたしは変てこな社交界の宝石事件であの人に関係しなければならないことがありました。あれは牧師より警察官になつたほうがよかつたような人です」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 千鶴子の祈っている間矢代は空の星を仰いでいた。心は古代に遡ぼる憂愁に満ちて来て、山上に立っている自分の位置もだんだん彼は忘れて来るのであった。\n「あら、そんなところにいらしったのね。」\n と千鶴子は笑いながら立って矢代の傍へよって来た。昼間わたって来た氷河の星の光りが白く牙を逆立てて流れていた。\n\n\n 次の日、矢代たちがホテルへ戻って来たとき、パリの久慈から矢代あてに手紙が来ていた。\n\n\n\n 君がいなくなってから、もう幾日になるか忘れるほどである。とにかく、少し先き廻りをしたかもしれないが、もうインスブルックへ君は出たころであろう。あれ以来、パリには罷業が頻発して来た。これは有史以来の出来事のこととて、われわれには最も興味深い千載一遇の好機に会ったわけだ。これを観察する機会を逃すことは、大きく云えば、歴史の一頂点を見脱す結果になることである。君も出来るなら直ぐこちらへ引き返して来てはどうであろうか。君とはパリ以来論争ばかりで日を費したような羽目になったが、お蔭でこのごろ君との争いもだんだん僕の役に立って来たのを感じる。君と会えばまた前のように争いつづけることと思うけれども、それも今はやむを得ない。それから千鶴子さんが君の後からそちらへ行くような話であったから、もう今ごろは会ったかもしれないが、塩野君その他の人人は何か急用の出来たような話もあり、あまりそちらに長く落ちつかぬよう千鶴子さんに伝えてくれ給え。\n 僕の方はこのごろ困ったことが起って来た。君も知っているだろうが、ウィーンへ行った真紀子さんが突然僕を頼ってひとりパリへ現われたのだ。僕は真紀子さんの置き所に苦しんだ揚句、同じここのホテルにいるより君のホテルの方が良いと思い、留守中を幸い君の部屋を失礼させて貰っている。真紀子さんは御主人にハンガリヤ人の夫人のあったことが分ったとかで、夫婦分れをして飛び出て来たとのことである。考えれば僕は今年は厄年だ。それからバンテオン座に、『われらの若かりしころ』というロシア映画が現れた。これは素晴らしい。われわれはまだ若いのだ。僕も君もこの若さを充分意義あらしめよう。\n 僕にもいろいろの困難はあるが、何と云ってもパリは良いところだとつくづく思う。僕は実際どこへも旅行する気持ちはあまりなくなって来た。それから終りに、突然で失礼だが、君はどうして千鶴子さんと結婚する気持ちがないのか。君との約束のように僕もチロルへ行くつもりでいたのだが、千鶴子さんと君との間を疎遠にしては悪いと思い遠慮することにした。多分君のことだから、千鶴子さんが君の後を追ってそちらへ行っても、依然として前と同じことだろうと思う。しかし、人間は表現をするときには決断力が必要だ。君は外国へ来て日本という国にすっかり恋愛を感じてしまっているので、人間なんか、殊に婦人なんか問題ではなくなってしまっているらしいが、それは非常な錯覚だと僕は思う。君の云うように僕も今は錯覚の連続で外国というものを見ているのかもしれない。しかし、君も僕とはまるで正反対な錯覚ばかりで物を見ているにちがいない。いったい、君と僕との見方のこの正反対も、どちらが正当かということについては、恐らく今までの日本人の中では、誰一人として解答を与えられることの出来たものはいないのではあるまいか。またこの重大な問題がわれわれ若者の上に、永久にこれから続くと見なければならぬ以上、何らかの方法で君と僕との意見の対立に統一を与えたいと思う。君がいないと矢張り僕は片翼が奪われたようで淋しい。なるだけ早く帰ってもらいたい。\n\n久慈\n 矢代耕一郎様\n\n 矢代は手紙を読み終ったとき、何となくこうしてはいられないという気になってすぐ夜行でパリへ帰ろうかとも思った。彼はその手紙を千鶴子に見せずポケットへ捻じ込むと、千鶴子を誘って噴水の昇っている街角の方へ歩いていった。\n\n\n 雨あがりの空は暮れ方になってから晴れて来た。モンパルナスの連なった家家の上層は夕日を受けた山脈のように仄明るく輝いた。人の顔も光り輝き眩しげに微笑しているその下の、石畳に溜った水に映っている空の茜色――久慈は先から喫茶店で母に出す手紙の文句を考えながら、じっとその水溜を見詰めていた。まだ水滴を落している樹樹の緑の下に濡れた椅子が、そのままになっていて、桃色の淡雲の徐行していく下の通りのあちこちから、人の声が妙に明るく響いて来る。\n「お身体いかがですか。僕は達者で日日を楽しみ深く勉強しております。」\n 久慈はこう母に一行書いたものの、むかしの学生時代同様その後がまだ何も出て来ない。通行人の吐き流した煙草の煙が流れもせず、はっきりした形で流れず、油色のままに停っている。水中のような夕闇の樹の葉の中で時計台に灯が入った。\n「お母さんの神経痛のことを思いますと、こちらにいても憂鬱になりますが、温泉へでも行かれれば安心です。私の行きたく思う所も、日本では今は温泉ばかりです。」\n 久慈はふと母の今いる所はこの足の下だと思うと、丁度今ごろ母は夜中に眼が醒めて明日の方角のことを考えている最中だろうと思った。久慈の母は年中お茶を立てては方角のことばかりを気にし少しの旅行でも方位が悪いと一度親戚へ行って泊り、そこで悪い方位を狂わせてから目的地へ出発するという風だった。久慈が神戸を発つ日も暗剣殺が西にあるから、船中用心をせよとくれぐれも教えた。一度親戚の家の巽の方角に便所がある家があって、そこに丁度四緑の年にあたる娘があったが、久慈の母はそれを心配しつづけ家を変るようとしきりに奨めたことがあった。そのまま居つづけては、娘が二十三の年になったとき死ぬというのである。親戚の者は笑って相手にしなかったところが、何の病気もない健康なその娘が二十三になると、突然肺壊疽か何かで二三日で死んでしまった。それ以来一層久慈の母は方位に憑かれるようになって、他人の年齢を一度訊くと、直ちにその者の月番の方位の善悪を宙で云えるまでになってしまっている昨今だった。一つは嵩じていく母の迷信への反感も手伝い、また一つは元来科学主義の信奉者である久慈には、東洋のこの運命学は全く不愉快でたまらなかった。\n「お母さん、いったい、そんなことを一一真に受けて動いていちゃ、出来ることでも出来なくなるじゃないですか。困ったものだな。」\n と久慈はよく母を叱ったことがあった。\n「いえいえ、わたしらはずっとこの通り先代から伝って来たことを守って来て、一度も間違ったことはないのだから、良い方位の通りに動いておれば安心です。人間は安心さえ出来れば倖せじゃないの。」\n と母は母で伝来の素朴な考えを守りつづけ、鼠や牛を初めとする十二支と九つの星との抽象物を自分の科学の基本として、あたかもそれが久慈の信じる西洋の抽象性と等しい力を持つものと思い込み、誰が何んと云おうとも動こうとしなかった。\n「この足の下の半球は、方角ばかりで動いているのだ。それが三千年も続いて来てまだ倦きようともしないのだ。」\n こう思うと久慈は母へ出す手紙も健康のこと以外には、あまり書く気が起らなかった。しかし、何んと云ってもそれが東洋の自分の母であってみれば仕方もない。ときどき思い出したように、出す手紙の端にこちらでは物が六万倍に拡大されて見える顕微鏡のあることや、宇宙の方位の端まで見える望遠鏡のあることなどを書き、母の信じる運命学をぶち壊そうと試みたこともあった。しかし、今からでは暗い母の頭の中へ光線を射し入れることは不可能だと気附くと、唯一無二の信条としている自分の科学的精神の威力も、まだまだ説得力に於て考えねばならぬところがあると悟った。またそれはただ単に母だけではない、現にこちらに自分と一緒に来ている知識人の矢代までが、日を経るまま漸次東洋的になりつつある現状を考えても、ああ、あの矢代まで十二支になって来たのかと舌打ちするのだった。\n\n\n 薄明の迫るにつれてマロニエの葉の中の時計の灯が蛍のように黄色くなった。久慈が手紙を書き終っても通りの自動車は一台も通らなかった。\n そうだ今日は罷業があったのだと、久慈は初めて気附いてテーブルを立った。ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろの街街は、左翼人民戦線の優勢になるにつれ罷業がつづき、街は閑散になる一方だった。欧洲文明の中心地をもって永く誇っていたパリに社会党の内閣の現れたことは、フランス革命以来なかったことであるだけに、この思想政治の左傾は人人の頭をも急流のように左右に動かしてやまなかった。随ってヨーロッパのこの空気の中を渡る旅人も、歩く以上はそれぞれどちらかの道を選んで歩かなければ、どっちへも突き衝ってばかりで進むことが出来ぬのである。郷に入れば郷に従えと主張する久慈も、道を歩きながら自分はいったいどちらの思想を支持しているのかと考えつつ歩くことほど、心苦しいことはなかった。おれは日本人だから自ら別だと思う工夫は、日本人だけ知識が世界から置き去りにされるという継子になる懼れもあった。\n「いや、俺は科学主義者だ。科学主義者は何んと云おうと世界の知識の統一に向って進まねばならぬ。それがヒューマニズムの意志というものだ。日本人だって、それに参加出来ぬ筈はない。」\n と久慈は快活に思う。ヒューマニズムという言葉の浮ぶ度びに、久慈は青年らしく言葉の美しさに我を忘れる癖があったが、またこの癖のために彼は一応自分の立場に安心して散歩することの出来る、便利なエレベーターにも乗っているのだった。歩くにつれ、幾何学的な稜線が胸を狙って放射して来るように感じられる。街区の均衡の中に闇が降りて来た。昼間目立たなかった花屋の薔薇が豪華な光りを咲かせて来ると、散っていた外人が行きつけのカフェーへ食事に続続戻って来た。久慈も空腹にいつもの店へ這入ろうとしたとき、これも食事に来たらしい東野に会った。\n「よく降りましたね。」と久慈は空を仰いで云った。\n「ここは傘もささず歩けるから、日本よりその点だけは有りがたい。」\n「その点だけではないでしょう。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 快活な癖に妙に絡みつく正直さを持っている久慈を知っている作家の東野は、また始まったぞと思ったらしくにやりとして、\n「あなたも夕食ですか。」\n と身をかわした。いつか久慈は矢代の東洋主義に自分の科学主義でうち向ったとき、黙って傍で聞いていた東野に賛成を求めたところが、「君のは科学主義じゃない簡便主義だ。」とやられた口惜しさが降り籠められた鬱陶しさにあったが、久慈は長らく忘れていたその仇を突然このとき思い出した。\n「どうです、御一緒に願いましょうか。」\n「どうぞ。」と東野は薄笑いのまま答えた。\n ヨーロッパへ来てから人と会えば何かの意味合いで、外国流の礼儀と呼吸をもって対応しなければならぬ息苦しさが、一種の武者修業のようになりかかっている時期の二人だった。殊にパリの政治が左翼に変ってからは、他人を見ればこの男は左か右かと先ず探り合う眼の色が刃を合わす。東野は何んとなく今夜は絡みそうな気配を久慈から感じたと見え、\n「ふん、どこからでも来い。」と云う風な八方破れの構えで先に立ち、奥まった空席を見つけてどさりと坐った。\n「罷業がだんだんひどくなりますね。これや、もしかすると革命が起るかもしれないな。もう分らん。われわれには。」\n と久慈は投げ出すような穏やかな笑顔で云った。\n「しかし、それより日本が大変らしいぞ、二・二六を見て来た人と昨夜会いましたが、日本も急廻転をやっているね。」と東野は少し心配な顔だった。\n「日本は右へ行くし、こっちは左か。」\n 久慈は頭の後ろで両手を組み椅子の背へ反り返った。お前はどっちだと訊くことだけはいよいよ口へは出せぬが、どちらもの中間などというものは存在しない論理の世界のそのままが、思想となり政治意識となって誰の頭の中をも突き通っている現在である。\n「いったい、知識に右でもない左でもない中間が無くなったということは、これやどういうことですかね。この間までは在ったじゃないですか。先日まで在ったものが急に無くなったのですかね。」\n と久慈は東野を叩く気もなく、そのくせ自然にいつの間にか巧妙に叩き始めていくのだった。すると、東野は、\n「いや、僕は右でも左でもないよ。」\n と先廻りをして笑って答えた。いつか東野の逃げた手もそれだと久慈は思い、今夜は何んとしても逃がさぬぞと思うと、\n「つまり、それはどういうんです。自由主義という奴ですか。」と訊ねた。\n「僕は外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしてるんだよ。それは誤る効果の方が多いからな。あなたは外国製の抽象名詞以外には、知識という概念が成り立たぬと思っていられる風だが、僕はそんなのを、いつかあなたに云ったように、簡便主義の知識だと思っているんですよ。簡便主義でいくなら何もそう苦しまなくたって、簡単に人の教えた方へいっちまえば良いのです。左とか右とかそんなことは問題じゃない。」\n「ふむ。」\n と久慈は一応考え込んだ様子だった。しかし、彼は、いよいよ東野は有無を云わせず押しよせて来ているこの現実の思想から、逃げ歩いてばかりいる敗北主義の男だと思っていくばかりだった。\n「そうすると、あなたは何んですか、こんなに人間が苦心をして造った、いわばまア知性の体系というようなものまで無視してらっしゃるんですな。論理をつまり無用の長物だと思ってらっしゃるんですな。」\n とふと口を議論に辷らせたら最後、後へ戻せぬ論理ばかりの世界にいるようなパリでの一時期とて、東野は一寸苦苦しい顔をしたが、丁度そのときボーイが二人の傍へ廻って来た。東野は鰈と鳥とを註文すると、さア、いよいよ美味くなくなるぞ、と云うようにメニューを投げ出して、\n「あなたは?」と久慈に訊ねた。\n「僕もそれで結構、いや、一寸鰈はいやだな。スパゲッティ。」\n ボーイが去ると東野は笑いながら、どういうものか、\n「何ぜ饂飩にしたのです?」と訊ねた。\n「僕はフロマージュ附きの饂飩は好きでね。もう暫く食べないんですよ。」\n「じゃ、鰈は嫌いじゃないんだな。」\n「嫌いじゃない。鰈の薄味は好きですよ。」\n「じゃ、まア好きとしときなさい。つまりそれだよ。」\n と東野は云って煙草に火を点け、敵をゆるゆる料理するように遠方から締めて来た。東野よりずっと若い久慈は、論敵の構想力の廻転が妙な風に食い物から来たのを感じると、いよいよこれは敵を誤ったと悟り始めた。\n「僕はこのごろ人を見ると、ひっかかりたくって仕様がないんだが、あなたも少し神経衰弱じゃないんですか。云うことがどうも変だ。」\n「何が変だ。君は鰈か饂飩かと考えて、饂飩にしただろう。まア、そんなことはどっちだって良いようなものの、ひとつ饂飩も鰈も二つとも食ってみたら、どうですか。饂飩の栄養価と鰈の栄養価とを分析して食わなくちゃ、腹の足しにならぬと君は云うのでしょう。しかし、そんなことを考えて食っていちゃ、せっかくの美味さも不味くなって、食った甲斐がないと考える頭もあるわけだ。」\n ははアそれが東野の云いたかった中間かと思うと久慈はげらげら笑い出した。\n「それやあなたも神経衰弱だな。右も左もむしゃむしゃ神経衰弱で食おうというんだ。僕も一つその手をやるかな。」\n「右と左だけじゃない。上も下も真ん中もだ。」\n 東野は一層久慈の頭を拡大させ、混乱させる原野の中へ引き摺り出し、さアいよいよ用意をしろというように落ちつき払って笑った。久慈は頭の中に暈いを感じ、一寸立ち停った姿で鰈と饂飩の二つの形に思考力を集中した。\n「しかしですね。ここに鰈と饂飩の栄養分の統計表がはっきりと出ている場合に、その表を作った頭以上の精確さはないわけでしょう。その精確さを信用せずして知識はない。科学主義というのは、その精確さを信頼する人間の頭脳の聡明さを云うのでしょう。あなたはそれをも簡便主義だと云われるんですか。」\n 東野は何か云いかけたが、広いホールにだんだんと詰って来た外人たちを見廻してから、突然、"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 西暦一九二三年八月十三日、Rothmund 街八番地に貸間があるといふので日本媼の息子が案内してくれた。そこの女主は Prörtzl といつて、切りに訛のある言葉を使つた。左の方の顔面神経麻痺があるから笑ふたびに顔が右の方に歪んだ。部屋は古くて余り清潔ではないが、裏に面して一間、往来に面して一間ある。今は塞がつてゐるけれど、四五日経てばどれかが明くといふことである。かへり途で、日本媼の息子は、『民顕人は何でも真直に物いふから喧嘩してはいけませんよ』などと云つた。これが候補になつた第一の部屋である。\n 八月十四日。火曜。教室で為事をしてゐる独逸人の医学士が下宿してゐる家に一つ部屋があるから、若し借りる意志があるなら世話しようといふことであつた。家は Lindwurm 街の二十五番地四階で、女あるじの名を Maistre と云つた。部屋は小さいが我慢が出来る、ただ毎日四階まで昇降することは如何にも大儀だから、第一の部屋が借りられるならばその方にしようと思ひ、明瞭な返詞を与へずに帰つて来た。これが候補になつた第二の部屋である。\n 八月十八日。土曜。朝食まへに、第二の部屋は、四階だから不便だといふので断りに行つた。それから、朝食を済まして、Landwehr 街三十二番地Cに一間、Sonnen 街二十八番地に一間あるが、いづれも一週間ぐらゐ経たねば明かなかつた。これが候補になつた第三第四の部屋である。\n 八月二十日。月曜。午前も午後も教室で為事し、夕景に第一候補の家を訪ねた。上さんは顔が歪んで醜いが、率直でいいところがあるらしい。私は部屋を借りようと思ふ。そこで、いくら支払ふかと問うた。上さんは熟慮する暇もないほど速かに、毎日、丸麺麭三つの代価だけ支払つて呉れないかと云つた。いま時、小さい丸麺麭一つの価は一万五千麻克である。私は大体好からうと答へた。上さんいふ。『どうか貧しい寡婦のためになるべく余計に払つてください』それから、またいふ。『ドクトルは麦酒一杯二十五万麻克するといふことを御存じでせうねえ。噫、麦酒が飲みたいですねえ』云々。それから、上さんは靴下の繕ひを自慢して見せ、他所行の著物を持つて来て見せ、次いで一足の靴を持つて来て見せ、墺太利の Salzburg 製だと云つた。その靴を切りに自慢し、めつたに穿かないといふことをも云つた。四十を越した寡婦の上さんは、その靴を大切にして飾つてゐるのであつた。\n 八月二十一日。火曜。午前は教室で為事し、午食後日本媼の所に置いてあつた荷物を全部 Rothmund 街の第一候補の家に運び、ミユンヘンに来て初めて自分の部屋に落付いたやうな気がしたので、午後も教室での為事がなかなか捗つた。夕景に新しい家に立寄り上さんから鍵を貰ひ、友と夕食をしに行つた。心がおのづと開いて、麦酒が咽喉を通過して行く工合が何とも云へない。九時半ごろ新しく借りた居間に帰り、体を拭き、足を洗ひ、小さい方のトランクから日用品やら文房具やら書物やらを取出して調へた。今日から此の部屋を独占するのだと思ふと気持が如何にも落付いて来る、今までは窮屈して他人の部屋に寄生してゐたのであるが、けふからは自分の部屋に寝るのである、さう思つて私は軽い催眠薬を飲んだ。さて暫くまどろんだと思ふ時分に頸の処に焼けるやうな癢さを覚えて目を醒ました。私は維也納以来の屡の経験で直ぐ南京虫だといふことを知つた。困つた困つたと思つたが、辛抱して三十分余りかかつて大小二匹の南京虫を捉へ、それを紙に包んで置いて、日用品だけ大急ぎで調へ、日本媼の処に逃げて来た。すでに夜の十二時を過ぎてゐたが、媼は戸をあけて呉れ、私は他人の部屋のソフアの上に体を縮めて寝た。この日本媼のところの部屋は、借りてゐる日本人が目下旅行中なので、その留守に私は寄生してゐるのであつた。実に変な気がする。\n 八月二十二日。水曜。けふ媼が一しよに行つて呉れるといふので、第三第四の候補の部屋をたづねて談合したがどうも煮え切らない。そこで、兎に角もう一度新聞に広告を出して置いて、Lindwurm 街二十五番地の第二候補の部屋に行つて見たところが、まだ借手が附かずに居た。私は決断して借りることにした。雨が非常に強く降る日で、四階まで昇つて行くのにひどく息切がした。間代は一月三百万麻克だと云つたが値切る勇気もなかつた。\n 八月二十三日。木曜。午前中教室で働き、午食すまして荷運びの赤帽二人を雇ひ、第一の部屋に行つて荷を運び、第二の部屋に運ぶやうに言附け、上さんに南京虫の談合をすると、『あなたが旅舎から持つて来たのだらう』といふ。『いやさうではないこれが証拠だ』などといひながら私は捉へて置いた大小二匹の南京虫を上さんに示した。それから、五十万麻克を上さんに渡してその家を辞し、第二の部屋に来ると、荷物は四階までもう運ばれてゐた。赤帽に勘定を済まし、この日は、日本媼のところに寝た。英貨一磅の相場が、千五百万麻克である。\n 八月廿五日。土曜。一日ぢゆう教室で為事し、夕食後は暫く珈琲店で時を移し、疲労し切つて新しく借りた部屋に来た。息切のするのを途中で数回休み休み到頭四階まで来て、今夜こそ安眠しよう。毎日の昇降は苦痛であり、朝日も当らぬ部屋であるが、南京虫さへゐなければ辛抱しようと思つて、床の上に横はつた。そして会話の本など少し読んでゐるうちに少しく眠つた。\n 然るにこの床でも忽ち南京虫に喰はれた。私は余りいまいましいので、直ぐ日本媼のところに逃げ帰らうとしたが、夜が既に更けてゐるし、度々南京虫のことを訴へるのは自矜を害されるやうな気もするし、忍べるだけ忍ばうとした。私は三時半まで起きてゐ、二たび寝て大小数匹の南京虫を捕へ、碌々眠らずして一夜を明かした。\n 八月廿六日。日曜。けふは頭が朦朧として不愉快で溜まらない。一層のこと下宿住ひをしてもいいと思立つて、午前中から、教室から程遠くない所といふ見当を附けて下宿を見廻つて歩いた。下宿は実に幾軒もあるが、時節が悪いので大抵塞がつてゐるし、明間があるのを見れば不潔で住む気にはなれない。私は一人さびしく途中で午食を済まして、それから日本媼を訪ねた。媼は愛想よく、『南京はゐませんでしたか、nichts?」などと云つたが、私はただ苦笑せざることを得なかつた。\n 媼は、私が一両日まへ出した間借の新聞広告の返詞十通ばかりを持つて来て私に示した。そのうちから、教室に余り遠くないところ四五ヶ所を選び、いい部屋のあるやうな気持をなるべく自分で極めて媼の家を辞した。夜更けて南京虫のゐる自分の部屋に帰り、催眠薬を飲み、南京虫に食はれて一夜を明かした。\n 八月廿七日。月曜。昼のうちは教室で働き、夜は出来るだけ晩く帰り、虫除けの粉などを振まいて、南京虫に食はれて寝た。\n 八月廿八日。火曜。いい部屋が無くてどうも困つた。郊外の方か、新市街地に行けば虫の出ない部屋が幾らもあるといふが、為事のためには矢張り教室の近くでなければならない。今までは余り人に頼り過ぎた、けふからは自力で自分のこれから住むべき部屋を求めようと思ふ。さう思つて私は先づ宗教の方で関係してゐる“Hospitz”に行つた。部屋には古い基督の木像などが掛かつて居り水道の設備も附いてゐた。値段は相当に高いが候補の一つにして、それから Schwanthaler Str. の数軒を見た。Pension Moralt といふところを見、Frau Keim の部屋を見、Frau Valentin の部屋を見、Hotel Schneider の部屋を見た。最後の部屋を見た時に上さんは、若し借りるなら百万麻克の手金を置けなどと云つた。\n 心が落付かず街頭を急いで来ると計らず二人の日本人に逢つた。一人は不思議にも維也納で知つた医者であり一人の老翁と一しよであつた。老翁は齢已に古稀を越したT氏であつた。私も元気づきミユンヘンの事では一日の長がある様な態度を自づから示して、夕食を共にした後、けふ見て来た宗教関係の下宿“Hospitz”に案内し、私は日本媼にたのんでソフアの上に寝た。連夜南京虫に苦しめられたので、自分の今借りてゐる部屋に帰つて寝る気になれなかつたのである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 八月廿九日。水曜。朝便の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門の死を報じて来てゐた。午前も午後も教室で為事をし、夕食のとき維也納から来たきのふのT翁に逢つたところが、私の世話した“Hospitz”で昨夜南京虫に襲はれたことを報じ、頸のあたりの赤く脹れた痕を示した。私は気の毒になり、一しよに行つて部屋を取換へるやうに談合した。それから今夜も日本媼の一室に寝せてもらつた。夜半に屡目が醒め、実父の死んだといふのは夢ではないかなどと思つた瞬間もある。\n 八月三十日。木曜。けふは好い天気なので気を立て直して働き、夕食して、手金をやつて置いた Frau Valentin の処に行き部屋と入口の戸の鍵を受取り、日本媼の処に寄つて、今夜一晩試して見て若しまた虫に襲はれたら逃げて来る旨をいひいひ出ようとすると媼は『幸運をいのります』などといつた。それから Valentin の所に行つて愛想のいい上さんといろいろの話をし、『僕の部屋には虫は出ないでせうね』『虫? 御笑談でせう』『そんなら受合ひますか』『受合ふどころではございません』こんな会話などがあつた。私は屡の苦しい経験の後なので、懐中電燈を用意し全くの裸裎になつて床にもぐつた。それからいろいろ生れ故郷の日本の事などに空想を馳せながら、一時間ぐらゐも経つたころであらうか、眠つたか眠らないかまだ分からないうちに南京虫に襲はれてしまつた。私は一瞬はげしい憤怒を感じたが、今度は直ぐ心が元に帰つた。そして急いで著物を著、戸を開けて往来に出た。街上には人の往来が未だ絶えてゐなかつた。私は途中で麦酒の大杯を飲みほし、日本媼のところに逃げ帰つた。そして、誰にも会はずに秘かに部屋に入つてそこに寝た。\n 八月三十一日。金曜。朝から教室に行き為事を一通りして置いて、小使に貸間の世話を頼み、三四軒見て廻つた。Pestalozzi Str. 十四番地の一間を見た。これは現在学生が借りてゐるが十一月に帰つて来るまで貸してもいいと云ふのであつた。Ziemsen Str. 二番にも一間見た。それは現在夫婦者がゐるが近々に明くといふことである。Tahlkirchner Str. 十六番地の一間を見た。ここでは頑丈な男が挨拶して私を連れて行つて呉れた教室の小使に、部屋は貸したくないと云つた。\n 午後、日本媼に頼んでもう二回ばかり新聞に広告してもらふやうにした。夕がた教室のかへりに寄ると新聞に広告を出して呉れたといふことであつた。今夜も日本媼の処に泊つた。\n 九月一日。土曜。けふの朝刊新聞に私の間借の広告が出た。夜食後に日本媼のとこに来ると、広告に対して十数通の返事が来てゐた。そこで媼と二人で大体の候補を極め、今夜も此処のソフアの上に寝た。\n 九月二日。日曜。早朝から、Klenze Str. 三十番地の二階右側に一室あるといふので見に行つた。ここの上さんは Marie Mair といつてしとやかで人相もいい。此処に十四ばかりになる娘も一人ゐる。部屋は大きく光の当りも好く、教室から遠いのが欠点だが、それさへ我慢すれば大体いいと思つた。そこで明晩一夜とめて見て呉れるやうに頼んでそこを出た。それから同胞のN君を訪ね、一しよに散歩に出た。けふは日曜で天気が好いので、町の人も他所行の著物を著て歩いてゐる。宗教上の何とか謂ふ行列を一時間ばかり見、それからイーサル川の川原を歩いた。連日教室で根をつめて為事し、連夜南京虫のために気を使ふ身にとつては、今日の散歩は何とも云へぬ気持である。川は急流でところどころに瀬を作り、また潭を作つてゐる。潭のところで若者らは童子をも交へて泳ぎ、寒くなると川原の砂に焚火してあたつてゐる。川原には短い禾本科の草などのほかに一めんに川柳が生えてゐる。\n 午後三時ごろ歩き疲れ、途中で麦酒を飲み、薬種屋に寄つて南京虫退治の薬を買つた。これは硫黄を主薬としたもので、一夜焚いて退治するのであつた。それを持つて、現在借りてはゐるが暫く寝に帰らなかつた Lindwurm Str. 廿五番地の四階に行つて、今夜ぢゆうこの薬を焚くやうに上さんに依頼して置いた。これは、どうしても他所に部屋がないなら、南京虫を退治して置いて此処に住まうといふ計画なのである。それから、日本媼のところに来ると、Bavariaring の三十一番地に部屋が一つあるといふので見に行つた。部屋は申分なく、教室も直ぐ近くであり、南京虫のゐない事も確からしいが、値段が部屋代だけで邦貨に換算して一日二円ばかりかかるので借りることを止めた。今夜は、N君と共に活動写真を見、日本媼の所に寝た。\n 九月三日。月曜。午前中教室に行き、午食のついでに、Mozart Str. 七番地に部屋を見に行き、午食後日本媼のところに寄ると、まだ数通の間貸の郵便が届いてゐた。それから、きのふ大体約束して置いた Mair のところの娘が今夜是非来るやうにといふ母の言伝を以て訪ねて居た。眠くて溜まらぬのを我慢し、日本の茶などを媼から入れて貰つて飲み、それから夕方まで教室にゐて、今日は新しい部屋に試さうといふことを媼に話して、夕食して行つた。けふは誰も連がなく寂しく食事したが、夕刊で日本大地震の記事を読んだ。\n それから、Mair のところに行つた。部屋も床も綺麗に掃除がしてあり、卓のうへには置物なども置いて呉れてあつた。家族のものは此部屋を私に貸して手狭いところに移つたらしい。私は日本の事が気になつてならぬが、も少し委しい通信を読んでから事を極めようと思ひ、持つて来た小さい座布団を牀上に置き、うへに腰をおろして両足を牀上に延ばした。靴をぬいでくつろぐと実に久しぶりで静かな気持になるのであつた。\n さうして置いて、新聞の夕刊を読みかへすと、地震はどうしても大事件である。東京・横浜・伊東・熱海一帯が全く破壊されて第一通信だけでも東京の死人が十万を超えたと註してある。部屋の掛時計は余韻を引いて十時を報じた。\n 夜半過ぎから度々眼を醒ましたけれども南京虫は襲つて来ない。私は感謝と不安と危懼と実に複雑した気持を経験しながら夢とも現ともなしに暁に及んだ。然るにいまいましいではないか、暁になつて遂にまた手の甲と咽のところを南京虫に襲はれたことを知つた。いまいましくて溜まらない。\n 九月四日。五十万麻克やつて、もう一両日待つてくれるやうに談合すると、あのやさしい上さんは、借手が幾人も附いてゐるから待てないといふ。さうか、そんならいい。といつて百万麻克おいて其処を去つた。朝食をせずに日本媼のところへ行く途中、N君に会つた。N君も日本の地震を心配して朝食もせずに日本媼のところに来たのである。二人は近所で朝食をし、日本のことを談りあつた。\n 日本媼のところに、部屋を貸したいといふ人が数人たづねて来てゐた。そこで是等の部屋を見まはり、Dachauer Str. 廿五番地。Ringseis Str. 六番地と廻つて、Thorwalsen Str. 六番地に落付くことに極めた。なぜ極めたかといふに、ここは教室から遠くて不便であるが、新市街地で南京虫がゐない。Sさんといふ日本人夫婦が住んで居り、間代の値上げのことで余り乱暴をいふから引越したと云ふ部屋であつて、南京虫のゐないことは確実である。\n 不便なところだが、住宅地だから寂しいくらゐ静かな処である。窓から直ぐ中庭に出られるやうになつてゐる。私は九月六日に其処に引越して、十二月十五日二たび日本媼の処に厄介になるまでゐた。その間、教室の近くの貸間をいろいろ心掛けて捜したのであつたけれども、南京虫を恐れて引越さずにしまつた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史學に志ある者の知悉する所たり、若し未同書に接せざる人あらば史學會雜誌第一號に掲げたる星野博士の同書解題をよみて後同書を一讀せられよ、其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり。然れども同書は其性質及其史料としての價値に至りては未充分の攻究を經ざるものあるに似たり、今少しく愚見を陳して以て大方の是正を仰がんと欲す、敢て斷案を下すと云ふにあらざるなり。\n 史料の批評に二樣の別あり、第一其外形よりするもの、第二其内容よりするもの是れなり、外形上の批評とは其紙質墨色書體よりするものにして、史家の史料に接するに當りて先甄別を要する所の條件なり、然れども此種の批評のみにては未盡くせりといふべからず、若し僞造に巧なる者ありて當時の紙と當時の墨とを用ゐ當時の書體に熟して文辭も亦相應なるものを作爲せば、熟練の鑑定者と雖、往々にして欺かるゝことあるべく、又文書類の者は兎も角、著述に至りては此種の鑑定は效力を顯はし得べき場合極めて稀少なるべし、且此種の批評充分にして鑑定正鵠を得、其史料にして僞造の者ならずと斷定せられたりとするも、未遽に其文書の内容を信用すべきにあらず、若し直にこれを輕信してこれを有效の史料となし其記載の事實によりて立論せば、其斷案の事實の眞相に背馳するに至る事なきを保せず、されば既に明に外形上によりして僞造と定まりたる史料は固より措て論ぜず、外形上の批評よりして疑似に屬するもの并に既に眞物と鑑定せられたる史料は爰に第二の試驗を經るの必要起るなり。\n 内容批評即第二の批評は、更に之を分ちて二となすことを得べし、曰く史料其者の批評、曰く外圍の關係より來る批評是なり、第一は他に關係なくして單に其史料につきて下す考察にして、其史家に與ふべき史的觀念の極めて漠然たるべきにも關せず、史料利用の根原となるべきものなり、若し此考察にして健全なるを得ば史家は既に其事業の半を成し得たるなり、この考察や、其考證以前にあるべきものにして一言以てこれを掩へば、史料の自證是れなり、これを爲して後史家は更に外圍の事情に照らして以て既に得たる觀念の範圍を定め、其色彩を明にし、更に精確なる者となさゞるべからず、他證是れなり、史料の自證や必其他證に先つべき者にして、若此順序を顛倒する時は、史料は其獨立の價値を失ひて既に他の史料によりて成れる觀念に更に零碎の知識を附與するに過ずして、史料中にて多數の壓制行はるることなり、史料其者が固有せる色彩は全く埋沒し、其現に放つべき光は他より借受けたるものとなりて、恰も月が太陽の光によりて始めて輝くが如くなるべし、一個の事實にして二樣以上の解釋をなし得べき者少しとなさず、若し單に外圍の事情を基として成せる觀念のみを重くこれによりて、此疑を判定し得ざるべしとせば、此觀念の錯誤ある場合に於ては遂にこれを矯正することを得ざるべし、史料中の多數の壓制とはこれなり、而して如何なる事實も其實際に於ては決して一個以上の正當なる解釋を許さゞる者なること明なれば、最深最後の疑團は史料の自證を措きて他に解釋の方法を索め得べからざるなり。\n 自證を經、他證を經るも、史家の職務は未終れるにあらず、史家は自證に始まり考證を經て精密となれる觀念を以て、更に史料に對し是を直接の史的知識となすを要す、史料の批評は爰に於て其終を告げたるなり。\n 史料の批評の困難なること實に斯の如し、而して史料中文書を以て比較的容易の者となす、何となれば多數の文書は其中に含有する事實の數極めて少くして錯綜の度深からず、一事實の觀察は其史料全體の觀察となること多ければなり、書籍に至りては批評の困難更に倍加す、而して其書籍の浩澣なるに從ひて益太甚し、其中には幾千百の事實を含有し、此事實や各其出處を異にし、然かも互に糾紛し解釋し、また解釋を亨くる者なればなり。故に書籍は其大體の史的價値を定め得たる後も、尚書中に存する各事實につきては特別の批評をなすを要するものなり、此事や明白の理の如く見ゆれども、多くの修史上の錯誤は信憑すべき者なりとの評ある書を過信して、書中の何れの事實も精確なりと速斷するより來ることを想へば、決して輕々に看過すべからざる要件なり、史料として或書籍の大體の價値を定むることは修史上極めて重要なることなれども、此批判定が書中の各事實に及ぼすべき影響は薄弱にして、且彌漫したるものなれば、書中の各事實の史的價値は大部分は其事實の特殊の考察に基かざるべからず、一般に僞書として排斥せらるゝ書籍も沙中の眞珠にも比すべき史的光彩の燦然たる事實を含有すること往々なり。\n 鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか、左に逐次其理由を述ぶべし。\n (一)吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や\n 日記類の史料中重要の地位を占むる所以は、單に其當時史料たるにあり、詳言すれば事實が其出來せし日に記載せらるゝを以てなり、出處分明といふが如きは必しも日記類の特長にはあらず、此點に於ける價値は日記者の觀察力の明否と、其公平と否と、及び其記述せる事實に對して日記者の位置如何、即出來せる事實と其記述との間に横はるべき外圍的媒介の性質によるものにして、事實が未確然たる認定を經ざる間に發生する日々の風説が、往々日記に上り得ることを思へば、此點に於ては、日記は却りて危險なる史料たることもなきにあらず、されば日記の史的價値は主として記憶なる者は時を經過すること長きに從ひて次第に精確なる再現を得べき能力を失ふべしとの原理に基づくものにして、苟も日記にして其日記たるの性質を失ひて追記の性質を帶ぶるに至らば、其史料としての價値が減殺せらるゝ所あるべきは至當の事なり、彼武家時代に於ける公卿縉紳の徒に王朝の盛時を顧み醉生夢死し、當時の天下の大勢に至りては懵然として知るなきの輩多きも、而かも其日記が相應に史的價値を有するに至れる其所以亦偏に爰にありて存するなり。\n 吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や星野博士の吾妻鏡考にも\n\n文體ヲ審ニスルニ前後詳略アリ前半ハ追記ニシテ後半ハ逐次續録セシニ似タリ\n\nとありて徹頭徹尾純粹の日記にあらざることは博士既にこれを云はれたり。されど博士の所謂前半後半の經界は博士の吾妻鏡考中に見えざれば今高見を知悉するに由なし文治以前は措て論せず今其以後につきて追記と思惟せらるゝ二三の事實を列擧して以て蛇足を添へむと欲す。\n 建暦三年四月十六日の條に\n\n朝盛出家事郎從等走歸本所、告父祖等、此時乍驚、自閨中述出一通書状、披覽之處、處書載云叛逆之企、於今者定難被默止歟、雖然、順一族、不可奉射主君、又候御方、不可敵于父祖、不如入無爲、免自他苦患云々、義盛聞此事、太忿怒、已雖法體、可追返之由、示付四郎左衞門尉義直、(下略)\n\n 朝盛の出家に至りては既に公然の事實なれば何人の之を知るとも怪むに足らざれども其遺書の閨中に存せしこと并に其書中記載の事項に至りては遽に和田一門以外の人に洩るべきにはあらず、殊に書載云以下の事項に關しては和田氏未公然擧兵の事あらざる以前にありては、和田氏たる者力を竭して其秘密を保つべきことなるは理の當然なれば、此遺書の發見せられし當日に日記者の耳に達したりとせむ事頗危險なる斷案なり、故に吾妻鏡が此條の記事を以て信憑するに足るものとせば、追記したりとする方安全の推測なるべく、然らざれば、此事項は記者の臆斷にとゞまるに過ぎざるものとなるべし。\n 同年五月三日の條に\n\n御方兵由利中八郎維久、於若宮大路射三浦之輩、其箭註姓名、古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭、保忠大瞋兮、取件箭返之處、立匠作之鎧草摺之間、維久令與義盛、奉射御方大將軍之由、披露云々\n\n 同五月五日の條に\n\n去三日由利中八郎維久、奉射匠作事、造意之企也、已同義盛、可彼糺明之由、有其沙汰、被召件箭於御所之處、矢注分明也、更難遁其咎之旨、有御氣色、而維久陳申云、候御方防凶徒事、武州令見知給、被尋決之後、可有罪科左右歟云々、仍召武州、武州被申云、維久於若宮大路、對保忠發箭及度々、斯時凶徒等頗引返、推量之所覃、阿黨射返彼箭歟云々、然而猶以不宥之云々\n\n 五月三日の條と同五日の條とは若吾妻鏡が一人の手に成りたる日記なりとせば、明に其間に矛盾の存することを見るべく、此矛盾を解釋せんには三日の條の記事を以て追記なりとせざるを得ず、然らざれば三日に於て既に明白なる事實が、五日に於て疑義となること怪むべきことなり、且三日の記事は既に其中に於て矛盾を含めり、慥に御方に候せる維久が、故に矢を義盛に送りて泰時を射さしめたりといふが如きは、事實上あり得べからざることにして、此矛盾は益三日の記事の麁忽に追記せられたることを證する者なり。\n 承久兵亂の記事に至りては半ば全く追記なり、若追記なりとせざれば、此日記者は數多の分身を有する人ならざるべからず、承久三年五月廿四日までは記者は鎌倉を中心として記述をなすと雖、廿五日の條に至りては初に\n\n自廿二日至今曉、於可然東士者、悉以上洛、於京兆所記置其交名也\n\nと鎌倉の事を記し、而して同日の條に\n\n今日及黄昏、武州至駿河國、爰安東兵衞尉忠家云々\n\nと駿河國に起れる事件を記す、日記者はこれよりして二個の分身を有す。\n 廿六日の條に初は\n\n始行世上無爲祈祷於鶴岡云々\n\nと鎌倉に起れる事件を記して而して、同日の條\n\n武州者着于手越驛云々"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\nまた\n\n今日晩景秀澄自美濃國去十九日遣官軍所被固關方之也重飛脚於京都申云、關東士云々\n\nとあり記者の分身の數は爰に於て更に一個を増せり。\n 同廿九日の條に\n\n佐々木兵衞太郎信實兵衞盛綱法師等相從北陸道大將軍朝時令上洛、爰阿波宰相中將信成卿亂逆之張本家人河勾八郎家賢腰賢瀧口季後胤引率伴類六十餘人、籠于越後國加地庄願文山之間、信實追討之訖、關東士敗官軍之最初也\n\n また同日の條に\n\n相州武州等率大軍上洛事、今日達叡聞云々、院中上下消魂云々\n\n爰に至りて分身の數更に二個を増して一は北陸にあり一は京師にあり。\n 同晦日の條に\n\n相州著遠江國橋本驛云々\n\nとこれによりて見れば記者にはなほ相州の身に添へる一分身ありけるなり、此の如く承久兵亂に關しては吾妻鏡は鎌倉に起りしことも北陸に起りしことも乃至は關西に起りしことをも皆各其起りし日にかけて之を載することなるが、此の如き早業は電信なるものゝ存せざりし當時にありては、日記者にして數多の分身を有するにあらざるより、決して成し得べからざることなり、而して分身の事も亦あり得べき事ならざれば、承久兵亂に關する吾妻鏡の記事は後日の追記なること疑もなきことなるべし。\n 脱漏之卷嘉禄二年十一月八日の條に\n\n陸奧國平泉圓隆寺燒亡、于時有此災之由、告廻鎌倉中者有之可謂不思議云々然後日所令風聞彼時刻也\n\nこれ明に此記事の追記たることを自白するものなり\n 以上述ぶる所によりて推論せば、吾妻鏡は少くも嘉禄二年までは追記の事實を混じたる者なること明なるべし、今假りに嘉禄二年を以て追記と否との經界と定むるときは、此年は吾妻鏡が筆を起せる治承四年より算すれば四十七年目にして、此書を載する所の記事が八十七年に亘るよりして考ふれば、年數に於ては先中頃とも云ふべければ、星野博士が前半は追記なりと云はれたるは、至當の言なるべし。此前半が一人の手にて一擧に追記せられたるや、或は既に存せし日記に補繕をなしたる者なるや、博士もこれを明言せられず、余は寧後説を信ぜんと欲するものなれども、此點は今暫くこれを措き、兎に角吾妻鏡の前半は純粹の日記にあらざることを思はゞ、其價値の大體に於て減殺を來すべきことは、免るべからざる運命ならむ。\n (二)吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか\n 吾妻鏡が既に追記と日記とを混じて成れる者と定まれりとすると、若し其追記の部が官府の吏人の公職を帶びてなせる者ならば、吾妻鏡は公書類として特別の價値を失ふことなかるべし、余は竊かに其公書類たるを怪しむ者なり、星野博士は其\n\n治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記ナリ編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ\n\nと云はれたれども余は寧ろ林道春の東鑑考に\n\n東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟\n\nと云へるに同ぜんと欲す。承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してよりは、北條氏の左右とても實際は幕府の吏人と異る所なければ、吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきことなれども、其上半即比較的價値の大なる部分を考察する時は、官府の書類としては少しく詳細に過ぎ冗長の嫌あるのみならず、其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず、星野博士は吾妻鏡を評して\n\n叙事確實質ニシテ野ナラズ簡ニシテ能ク盡クス頼朝ノ天下經營ノ方略北條ノ政柄攘竊ノ心曲等描寫ニシテ其顛末を具備セリタヾ頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書シテ諱マズ\n\nといはれ\n\n頼朝ノ傍媱政子ノ妬悍ノ類隱避スル所ナキヲ以テモ之ヲ知ルベシ\n\nとて其直筆の一例となされたれども、王朝淫靡の餘風を享けたる當時にありては男女の關係の亂れたりしは事實にして、當時の人も強てかゝることを秘密にせむとの念慮熾ならず。これに關しては其倫理の標準は他の人倫關係に於けるよりも數等低かりければ、從ひて曲筆を爲すの必要を感ずること薄し、故に單にこれのみを以ては、吾妻鏡は一般に直筆なりとして之を信用すること難きものあるに似たり、今頼家變死の事件以外に曲筆と思はるゝ二三を例擧すべし"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 二人の先生の言葉の調子は、その風貌の異なるように異っていた。朝倉先生の澄んだ張りのある声は、水のようにさわやかに流れ、小川先生のさびた低い声は、ごつごつと石がころがるように断続した。しかし、両先生が、あくまでも真剣にかれらと取りくみ、かれらのどんな言葉に対しても熱心にうけ答えをしたという点では、変わりはなかった。こうした場合、塾生に十分ものを言わせなかったり、言うことを聞き流しにしたり、冷笑をもって迎えたりすることが、どんな結果をもたらすかを、両先生ともよく心得ていたのである。しかし、さればといって、両先生は、その真剣さと熱心さのために、感情的興奮に駆られてはげしい言葉づかいをするようなことは決してなかった。真剣であり熱心であるということと、冷静であり理性的であるということを一致させることの困難さを、両先生は、その教育的信念と年齢とによって、すでに十分克服していたのである。\n だが、両先生のそうした真剣さと聡明さとにもかかわらず、塾生たちの興奮は、なかなか治まらなかった。どうなり治まりかけたかと思うと、だれかのちょっとした刺激的な発言によって、またすぐ火がつくといったぐあいであった。青年の集団では、一般に理知よりも激情が勝利をしめがちなものだが、とりわけ説得者が大人であり、青年自身の中からその強力な支持者が一人もあらわれない場合、理知の勝利はほとんど絶望的だとさえ言えるのである。だから、もし塾生の中に大河無門や青山敬太郎のような青年たちがいなかったとしたら、両先生も、わずか二時間ぐらいの研究会では、政治に対する青年団のあり方について正しい結論を引き出しうるまでに、かれらの気分を落ちつけることができなかったかもしれないのである。\n この研究会における大河無門のはたらきは、実際すばらしかった。かれは、ひる間の読書会のおりに読みあげた「夜話」の一節をもう一度くりかえし、政治革新のために暴力を用いることの罪悪を痛論するとともに、いっさいの建設は個々人が脚下を照顧しつつ、一隅を照らす努力を払うことによってのみ可能であることを力説し、最後にそれを青年団と政治の問題に結びつけた。\n「青年団の政治革新への協力の第一歩は、青年団自体の、共同生活をみごとに組織だてることであり、つぎは郷土社会の実体を研究して、その将来の理想化を準備することである。もしこの二つのことに十分の成功を収めるならば、府県政や国政の腐敗堕落はおのずからにして救われるであろう。」\n 要するに、これがかれの結論であった。かれはこの結論を引き出すために、巧みに「夜話」の中の言葉を利用した。そして、その間にかれが示した気魄と機知と、明徹な論理と、そして自然のユーモアとは、異変に眩惑されていた塾生たちを常態に引きもどすのに大きな役割を果たしたのである。\n 青山敬太郎は大河ほど雄弁な口はきかなかった。かれはむしろ沈黙がちであり、ごくまれに断片的な意見を発表するにすぎなかった。しかし、かれの明敏さと誠実さから出る言葉は、田川大作のような激情家や、飯島好造のような機会主義者の言葉とはいい対照をなしており、それが他の塾生たちの心の動きに及ぼした効果は、決して小さいものではなかった。\n こうして、この晩の研究会は、いつもにない波瀾を見せたとはいえ、一二のすぐれた塾生の協力によって、ともかくも友愛塾らしい結論を生み出すことに成功して、最後の幕をとじた。さすがの田川大作も、大河無門の気魄がぐいぐいと全体の空気を支配して行く力には勝てず、とうとう「そうかなあ」という嘆息に似た言葉を最後にもらして、旗をまいたのである。\n ただふしぎだったのは、次郎の態度だった。かれは、はじめから終わりまで一言も口をきかなかったが、そうしたことは、これまでに全く例のないことだった。研究会の場合、とりわけその研究題目が青年団に関したものである場合、かれはもう朝倉先生とともに指導的立場に立ってものをいう資格があったし、また、これまでは、自分でも十分な自信をもって、論議を戦わして来ていたのである。そのかれが今度のような大事な場合にかぎって沈黙を守ったということには、何か大きな理由がなければならなかった。\n いったい人間というものは、自分とあまり年齢の差のない人たちの間に、自分の及びもつかないほどすぐれた人物を発見すると、とかく自信を失いがちなものであり、そして、その危険は、これまで自分の持っていた自信の大きさに比例して大きくなるものだが、万一にも、その自信が何か他の事情によって多少でも傷つけられている場合であると、それはほとんど絶対的だとさえ言えるのである。次郎は、少年時代からの苦闘によって、自分の人間としての価値にすでにかなりの自信をもっていた。ことに郷里の中学を退き、道江への愛情を断ちきって、友愛塾の生活に専念するようになってからは、心ひそかに自分を朝倉先生の後継者にさえなぞらえていたのである。だが、かれのそうした自信も、一方では荒田老という怪奇な人物の出現によって、他の一方では道江の上京の通知によって、ゆずぶられはじめていた。そしてそこに現われたのが、大河無門という、すばらしい人物だったのである。\n かれは大河との初対面から、すでにある程度のひけ目を感じていたが、それは塾生活の進展とともに、いよいよ深まるばかりであった。それに拍車をかけたのが、道江の来訪と、それにつづく恭一との手紙のやりとりの間に感じた心の動揺であった。そして最後に、東京の異変がおとずれたが、この異変をめぐっての、かれ自身の態度と大河の態度との、あまりにも大きなちがいに気がついたとき、かれはこれまでの自信をほとんど完全に打ちくだかれてしまったのである。\n これが、おそらく、その晩の研究会で、かれが沈黙に終始した大きな理由であったにちがいないのである。\n\n一一 混迷\n\n 翌日から塾生たちは、毎朝、ラジオと新聞の大きな活字によって、あらためて大きな興奮にまきこまれた。ラジオは事務室に備えつけてあり、ふだんはゆっくり聞く時間がないので、めったにスウィッチを入れたこともなかったが、事変以来は、きまった行事の時間でないかぎり、ほとんどかけっぱなしの有様だった。\n 何といっても、最も刺激的だったのは、重臣暗殺の報道だった。とりわけ斎藤実、高橋是清といったような、ながく国民に敬愛されていた人たちの遭難の詳報は、田川大作のような右翼的傾向の強い塾生たちにも、さすがに悲痛な気持ちをもって迎えられたらしかった。ほとんど確実に死んだと見られていた岡田首相の生存の報が、この塾堂につたわったのは、もういくぶん刺激に慣れて来た三十日の朝だったが、それがあまりにも意想外であったために、一種のユーモアをまじえた好奇心をもって迎えられた。\n 新聞にせよ、ラジオにせよ、その報道の中に、たえす塾生たちを困惑させた一事があった、それは「蹶起部隊」とか、「行動部隊」とか、あるいは「占拠部隊」とかいう言葉が使用され、三日目になって、やっと「騒擾」という言葉が使用されたが、それもはっきり「叛乱」を意味するものとは思えないことであった。このことは、塾生たちの間に、しばしば先夜の研究会の論議をむしかえさせる種になり、また朝倉先生に対する正面切っての質問ともなった。そうした場合の朝倉先生の答えは簡単だったが、内容はいつも複雑だった。たとえば、\n「何も知らない兵隊たちには、汚名を負わせないですめばそれにこしたことはないだろう。」とか、\n「報道者の苦心はなみたいていではないだろう。ちょっとした文章や声の調子にもそれがあらわれているのがわかるね。」\n とかいうのであった。\n 報道は一報ごとに不安と疑惑を増大せしめるようなものばかりであった。戦時警備令が下り、香椎中将の下に第一師団と近衛師団とがその任に当たることになったのは当然だとしても、叛乱軍の諸部隊が、そのまま警備部隊に編入され、それぞれの占拠地において警備に任ずることになり、戒厳令が布かれてもやはり同様であった。しかも叛軍の一将校はその占拠地において民衆に、「尊皇義軍」の精神を説くアジ演説をさえやった。また永田町首相官邸の付近には、青年団体や日蓮宗の信者などが押しかけて、ラッパを吹き、太鼓を鳴らし、叛軍のために万歳を唱えたが、どこからも制止されなかった。軍首脳部や長老の動きは頻繁で、その代表者は叛軍の説得に赴いたが、その結果はきわめてあいまいであり、しかもその夕方には、叛軍の疲労をねぎらう意味で首相官邸をはじめ、鉄道、文部、大蔵、農林の諸大臣の官邸や、山王ホテル、料亭幸楽等が彼等の宿舎として提供された。こうした矛盾にみちた報道がつぎつぎに伝わる一方、二十八日の夕刻ごろからは、九段戒厳司令部の警戒が次第に厳重を加え、叛軍包囲の態勢が刻々に整って行くかのような印象を与えるラジオ放送もちらちらきこえだした。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 塾生たちが最も不安の念にかられたのは、二十八日夜から二十九日にかけてであった。皇軍相討つ危険が、こうした報道を通じて、避けがたいものに感じられて来たのである。ことに二十九日朝のラジオはアナウンサーの切々たる情感をこめた声をとおして、戒厳司令官の兵に対する原隊復帰勧告の言葉をつたえ、いよいよ事態の切迫を思わせた。司令官は、その中で、すでに奉勅命令が下ったことを告げ、それに従わないものは「逆賊」であるということを明言し、「今からでも決しておそくはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたら、今までの罪は許されるのである。」と諭し、また、「お前たちの父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈っている。」と訴えていた。\n この放送は、これまでの矛盾にみちたいろいろの報道にはっきりした終止符をうち、一部の塾生の頭にまだいくらか残っていた義軍の観念を一掃するに役だった。しかしそれだけに、それはまた流血の惨事を間近に予想させる原因でもあった。「逆賊」と決定したものをそういつまでも放任するわけには行くまい。もしかれらが直ちに原隊復帰を肯んじないとすると。......そう思うと焦躁感はいやが上につのり、それがめいるような悲哀感にさえなっていくのであった。\n しかし、そうした不安の中にあった塾生たちも、二十九日夕方から三月一日にかけての諸報道によって、どうなりいちおうの落ちつきを見せた。叛乱兵は、一二の下士官をのぞき、二十九日の午後それぞれ原隊に復帰し、首謀者将校のうち数名は自決、その他は検束されて、ともかくも事件はいちおう終わったのである。\n 事変中、塾堂の諸行事の運営が、時間的にも内容的にも、目だつほどの狂いを見せたことは、幸いにして一度もなかったが、気分の波が常にそれに作用していたことは、さすがに見のがせないものがあった。しかし、その波も事変がすぎてみると、たいしてながくあとをひくというほどではなかった。月があらたまるとともに、むしろ台風一過の感さえあった。事変後の国内諸状勢の深刻さは、まだ多くの塾生たちの関心のそとにあったのである。\n 田川大作は意気銷沈の姿であり、何事についてもほとんど発言しなくなっていた。飯島好造は相変わらず多弁で、とかく話題を政治に向けがちだったが、その興味の中心は後継内閣の顔ぶれといったことにあるらしかった。またしばしば叛乱将校の個人に関する噂話などを、何かにつけやりだしたり、口ぎたなくかれらの罪状に追い討ちをかけたりして、心ある塾生たちの反感を買った。大河無門は、二十六日の読書会と研究会で発言したきり、事変中も事変後も沈黙を守りつづけたが、それは田川の場合とはちがって、むしろ本来のかれの面目にかえった姿だった。塾生たちは、しかし、研究会でのかれの雄弁に圧倒されて以来、議論がめんどうになって来ると、とかくかれの意見を求めたがった。かれも求められると何か言うには言ったが、いつも結論だけをぼそっと言って、あとはとぼけているといった風であった。青山敬太郎も本来あまり口をきかないほうだったが、事変以来は、大河とは反対に、進んで発言する場合がかえって多くなっていた。もっとも、その発言は、友愛塾生活の根本の精神にふれるような論議の場合にかぎられているようだった。また、かれは、しばしば朝倉先生や次郎に対して、こんな感想をもらした。\n「事変が起こってみて、ここの生活の意味が、いっそうはっきりわかりました。しかし、一方では、いよいよむずかしくなったという気もします。」\n 事変後、塾生たちに何か目だつようなことがあったとすれば、まずそんなようなことで一般の塾生たちは、たよりないほど自然に、もとの気分に立ち直りつつあったのである。\n そうした中で、だれの目にもついたのは次郎の変わり方であった。かれが無口になったことは、田川や大河などの比ではなかった。二十六日の研究会以来、よんどころない用件以外は絶対に沈黙を守っているといったほうが適当なぐらいであった。しかもそれは集会の場合にかぎられたことではなかった。廊下で塾生たちにあっても。目を伏せて通りすぎることが多かったし、塾長室や空林庵にも自分から顔を出すことはほとんどなく、行事がない時には、たいてい自分の室にとじこもっているといったふうであった。\n このことが、朝倉先生夫妻の話題に上らないわけは、むろんなかった。二人は、しかし、いつもそれを塾の不安な将来と結びつけて考えていた。\n「そりゃあ、むりもありませんわ。次郎さんにとっては、今ではこの塾だけが、ただ一つの世界ですものね。いつでしたか、ここを自分の死に場所にしたいなんて、本気でそう言っていらしったこともありますわ。」\n「そんなことを言っていたのか、わかいくせに。元来それほど単純な男でもないが、打ちこむと馬車馬のようになるんで困る。」\n「でも、あんなに純な気持ちになれるのは尊いと思いますわ。」\n「尊いかもしれんが、そのために、あんなにふさぐようでは、感心ばかりもしておれんね。」\n「何とか慰めてあげたほうがいいじゃありません?」\n「うむ。そうも考えるが、ほっておくのもわるくはないだろう。いざとなったら、ふさいでばかりもおれないだろうし、自分で何とか始末するよ。」\n「あたし、それじゃあ何だか残酷なような気がしますけれど。」\n「そうかね。しかし、そんな残酷さは、友愛塾では毎日のことじゃないかね。」\n「そうおっしゃられると、そうですけれど。」\n 二人の話は、いつもそんなふうで終わりになるのだった。二人とも、次郎のふさぎの虫の原因の大半が道江の問題にあるということには、まるで気がついていなかったし、まして、それが塾の運命についての不安感とからみあって、かれの人間としての自信をゆすぶり、さらにそれが大河無門という人物の存在によって拍車をかけられているという複雑な事情など、とうてい思いも及ばなかったことなのである。\n 道江の問題といえば、次郎は、その後、そのことについていっそうきびしい試練にあわなければならなかった。しかも、その試練は東京の事変が塾内の空気を不安の絶頂にかりたてていた二月二十八日の夕方にはじまったのである。かれは、その日、夕食をすまして自室にかえると、机の上に一通の分厚な封書を発見した。かれは、その発信人が道江であることを知った瞬間、おどろくというよりは、むしろ恐怖に似た感じで胸をふるわした。かれには、すぐには封を切る勇気が出なかった。もしもそれが一枚のはがきに帰郷を報じて来たものにすぎなかったとしたら、かれはただ寂しい気持ちでそれを読みすてたかもしれなかった。また封書ではあっても、それがわずか二三枚の便箋に書かれたものであったとしたら、かれはその中から何か言外の意味を探ろうとして、くりかえし読んでみたかもしれなかった。だが、それはあまりにも分厚であり、分厚であるというそのことが、内容を想像してみるまえに、ただわけもなくかれを不安にしたのである。\n かれは封を切らないままで焼きすてようかと、何度か思ってみた。しかし、それははかない努力であった。焼きすてようと思ってみただけで、焼きすてたあとに感ずるであろう不安が、現在の不安以上の力をもってかれにせまって来るのだった。かれは封書を前にしたままながいこと迷った。迷えば迷うほど、一方では自分のふがいなさが感じられて、腹だたしくも悲しくもなった。かれは何かにしがみつきたい気持ちだった、そして、いつの間にか、「歎異抄」の中のいろいろの言葉を心の中でくりかえしていた。くりかえしているうちに、\n(そうだ、自分の「はからひ」なんか、なんの力にもなるものではない。)"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 其の時も平常の通り大きな大きな机に頬杖を突いて、一方の指の先で髪をいじりながら、ぼんやりと障子にはめたガラスを透して、水銀が転げ廻っている様な芝生の雨の雫だの、遙か向うに有るか無しかに浮いて見える三春富士などの山々を眺めて居た。\n 何の変化もない作りつけの様な総ての物の様子に倦きがきた頃不意に先ぐ目の前の梅に濡そぼけた烏が来て止まった。\n 痩せこけて、嘴許り重そうに大きくて鳥の中では嫌なものの中に入れて居る蕙子なので、地肌にピッタリ張り附いた様な重い羽根にも「烏の濡羽」などと云う美的な感じは一寸も起らないで只、死人と烏はつきもので、死ぬ者の近親には如何程鳴き立てても聞えるものではないなどと云う凄い様な話し許りを思い浮べて居た。\n\n「一体烏という鳥は決して明るい感じのものではないが」\n\nと思って居ると、凝り固まった様にして居た烏はいきなり、もう仰天する様な羽叩きをして飛び出した。\n 四辺が眠って居る様なので、バサ、バサ、バサと云うその音は途徹もなく大きく響いた。\n 蕙子は、急に引きしまった顔になりながら、何故あんなに急に飛び立ったのかと少し延び上って外をすかして見ると思い掛けず隅の雨落ちの所に洋傘を半つぼめにしたお久美さんが立って居た。\n 蕙子は息が窒る様になって仕舞って、強りついた様に口も利けなくなった。\n 弾かれた様に立ち上って、此方を凝と見て居るお久美さんを見返したまま、稍々暫く立ちすくんで居たがやがてそろそろと障子際までずって行くと敷居から脱れそうに早く障子を引きあけて、\n\n「早くお上んなさいよお久美さん。\n さ早く。\n\nと云うなり、此方へ寄って来たお久美さんの肩をつかまえて揺った。\n お久美さんは案外落ついて静かな調子で、\n\n「駄目なのよ、\n 足が大変汚れて居るから。\n\nと云って、低い駒下駄の上に、びっしょりになって所々に草の葉の切れたのや泥のはねた足を見た。\n\n「じゃ雑巾持って来るから。\n\n 蕙子は長い廊下を台所までとんで行って雑巾をつまんで来ると、拭く間ももどかしくお久美さんを引きずる様にして障子の中に入れると、凡そ人間の入って来られる所々を一つも取り落しなくピタリピタリと閉め立てた。\n 一箇所の風穴も無くて冬の最中の様になった部屋中を見廻して、少しは気が安まったらしい眼付になった蕙子は、漸うお久美さんの傍にピッタリと座って、堪らなく可愛い者の様にその手を自分の二つの掌の間に押えつけた。\n\n「どうしたのお久美さん。\n 私もう真とに真とに驚いちゃった。\n\nと、始めて笑顔に成った時、自然と涙が滲み出て、物を云う声が震えるほどの満足が蕙子の胸に滾々と湧き上って来た。\n いつも物に感動した時にきっと表われる通りな、キラキラと眼を輝かせて、顔を赤くして口も利けない様に唇や頬の筋肉に痙攣を起して居た蕙子は、じいっとして下を見て微笑して居るお久美さんを、食べて仕舞い度い程しおらしい離されない人だと思って見入って居た。\n 平常興に乗れば口の軽い蕙子は、斯う云う時に出会うと、殆ど唖に成った程、だまり込んで仕舞って、思いをこめて優しくお久美さんの手を撫ぜたり肩を触ったりが漸々であった。\n「此の降る中をお久美さんは来て呉れた」それ丈の事が此の時に如何ほど重大な事件として蕙子の心に写った事だろう。\n お久美さんが少許の間を置いて静かに話し出したまで、ほんの一二分の間に、蕙子は今まで生れて此方一度も感じた事のない様々の思いに、熱くなった頭が、自分の云った事さえ後から思い出せない程、ごちゃ混に彼も此も攪き乱されて仕舞った。\n お久美さんの顔を見た瞬間に、「済まない」と云う気持が電光の様に蕙子の眼先に閃いた。\n せわしい中から丹念に寄こして呉れる便りにも、兎角返事が後れ勝ちで有ったと云う事、お久美さんはきっと、一日の大部分の時は私の事を頭の何処かには置いて居て呉れたのだろうが、自分はいくら頭を使う事が多いとは云え、殆ど一日中お久美さんの名の一字さえ思い出さぬ時が決して少なくは無かったと云う事、まだ其外いくらもいくらも口に云われない程の済まないと云う気持が一緒になって、真黒にかたまって、蕙子の上にのしかかって来た。\n が、その辛い思いも、お久美さんの静かな身のこなしに和げられると「お久美さんは自分のものだ」と云う不思議な喜びが渦巻き立って、自分の力が強められた様な誇らしい心持に移って行った。\n それ等の心の遷り変りは実に実に速くて、目にも止まらぬ程のものでは有ったけれ共、蕙子の心は非常に過敏に、明るくなったり暗くなったりして動かされた。\n「私のお久美さんだ」と云う満足が押えても押えても到底制しきれない力で延びて行くと、病的な愛情が蕙子の胸を荒れ廻って、「若し万一此の人に自分でない者が斯うして居たら」と云う途徹も無い想像の嫉妬までおぼろに起って来までした。\n けれ共やがて、それ等の過激な感情が少しずつなりとも鎮まって来ると、純な愛情に溶かされた様な、おだやかな、しとやかな、何者かに感謝しずには居られない嬉しさに蕙子は我を忘れて居た。\n お久美さんは大変静まった様子をして居た。\n 手を預けた儘打ち任せた寛やかな面差しで居るのを見て蕙子は何となし驚ろかされた様な気持になった。\n 蕙子は両親が有って而も大切がられて、かなり暖かな気持に包まれて居てさえ此れ程感動するのに、不幸が離れる事のない哀れな暮しをさせられて来たお久美さんは自分の倍も倍もどうか有りそうなものだのに「若しかしたらそれを感じない程に荒んだ気持になって居るのでは有るまいか」と云う歎かわしい疑が一寸蕙子の頭に閃いたがそんな事は瞬きをする間に消えて仕舞って蕙子は純な涙を瞼に一杯ためて、尊い話でも聞く様にお久美さんが甘えた口調でゆるゆると話し出すのを聞いて居た。\n\n「伯母さんが何か彼にか云っていやだからあさってのお昼っから池の所で話をしない事?\n 丁度いい塩梅にS村の叔父さんの所へ行くんですって。\n「まあそう、そんなら行きましょう。\n ゆうべは私もう腹がたって腹がたって居たたまれない様だった。\n 貴女幾時頃まであんな所に行かせられて居たの。\n 帰りしなによって行こうかと思ったらあのいやな人ったらわざわざ土間に下りて見てるんですもの駄目だったのよ。\n「何でもよっぽどおそくまでだった事よ。\n 私が上って来ると、\n 『お蕙さんはお帰りだよ』\n と云って大きな声で笑ったのよ。\n 私あんまりだと思ったからニコリともしないで居たけれ共何故あんなに邪魔が仕たいんでしょうね。\n 私にはどうしたって気が知れないわ。\n「彼の人のは病気なんだもの。\n「だってひどすぎてよ。\n\n お久美さんはお関が変にやっかんで手紙の遣取りも会って話をするのもいやがって何ぞと云っては茶々を入れると云う事をおだやかなそれで居て思い入った口調で話すのを聞いて居る内に蕙子の心はすっかりその一語一語に引き込まれて仕舞ってどんな事があってもお久美さんの云う事に塵程の間違いもない様に思えた。\n 自分の云う丈の事を話すとお久美さんは、あんまり遅くなるとよくないからと帰り仕度をし始めた。\n\n「もう少し位居たって大丈夫よ。\n まだ十分位ほかなりゃあしない。\n\nと蕙子が止めても、\n\n「だめよ、一寸先生の所へ来た次手によったんですもの。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\nと振り切る様にして又元の雨落ちの所から下へ下りた。\n 割合に何でもない様に気持悪く汚れた平ったい下駄を又履いたお久美さんは、裾をつまみあげて体に合わせては小さ過ぎる傘を右手に持つと、\n\n「あさってね。\n\nと云うなり内輪にさくりさくりと芝を踏んで拡がってある無花果の樹かげから生垣の外へ行って仕舞った。\n 蕙子はお久美さんが居なくなってかなりの時がたつまで、何だかそわそわした誰かがどっかから隙見をして居るのを知りながら見出せない様な気持で居た。\n\n 三\n\n お久美さんはちっとも奇麗な人ではなかったし勿論不幸な生活をして居るのだから蕙子と話が合うと云う頭の発達は少しも仕ては居なかった。\n けれ共十の時から今までのかなり長い間年に二度会うか会わないで居ながらどうしても弱らず鈍る事のない愛情を蕙子は持ちつづけて来た。\n お久美さんの両親のない事、力になるべき兄弟の一人も此の世に居ない事、まして彼の半病人の様なお関に養われて居なければならないと云う事はどれ程蕙子に思い遣りを起させたか知れない。\n 小学校に入った時から飛び抜けて「仲よし」と云う友達を持ちたがらなかった蕙子は始めて会った瞬間から、\n\n「この人は私大好き。\n\nと子供心に思い込んで仕舞ったお久美さんに対しては年と共に段々激しいいつくしみを感じる様になって来た。\n 年は自分より上であっても確かな後立てもなく厭なお伯母さんにホイホイして居なければならない人を想うと蕙子は只仲よくして居るとか可愛がって居るとか云う丈ではすまない気になって居た。\n 自分の力の及ぶ限りお久美さんを安らかにさせてやらなければならないのだとも思い又あんな悲しい目をこらえて居られるのも二人の助け合いがさせて居るので、私がお久美さんを思わない時のない様に辛い涙のかげでお久美さんの呼ぶのは亡くなった両親でなければ自分だと云う事も信じて居た。\n 十位の時からの交わりはお互の位置の違いだとか年の違いだとか云う事を離れさせて仕舞って居るので、十九のお久美さんは二つ下の蕙子に愛せられ大切にいつくしまれて、困る事と云えば打ちあけて相談するのが習慣になって居て、二人は打ちあけて話して居るのだとか上手く相談に乗って呉れようかくれまいかなどと云う事に関しては何も考えも感じもしない程「一緒の者」と云う気になりきって居た。\n\n 蕙子が十の時二つ上のお久美さんは最う沢山に延びた髪を桃割に結ってまるで膝切りの様な着物の袖を高々とくくり上げて男の子の様に家内の小用事をいそがしそうに立ち働いて居た。\n 始めて二人の会ったのは今でも有る裏の葡萄園であった。\n その年始めて一人で祖母の家へ避暑に来た蕙子はお関に連れられてそこに来た。\n その葡萄園は低い生垣で往還としきられて乗り越えても楽に入れる程の木戸から出入をする様になって居た。\n 葡萄と云えば藤づるの籠か紙袋に入ったの許りを見なれて居た小さい蕙子はまるで南瓜の様に大きい勢の好い葉が茂り合って、薄赤い赤坊の髪の毛の様にしなしなした細い蔓が差し出て居る棚から藤の通りに紫色に熟れた実が下って居るのを見た時はすっかりおどろいて仕舞った。\n 地面には葉の隙間を洩れて来る夏の日光がキラキラときららかな色に跳ね廻り落ちた実が土の子の様に丸まっちくころっとしてあっちこっちにある上を風の吹く毎にすがすがしい植物性の薫りが渡って行った。\n 葉ずれの音は蕙子が之まで聞いた何よりもきれいだと思った程サヤサヤと澄んだ響を出し、こんなに広い広い園の中一杯に自分勝手に歩き廻る事もかけ廻る事も出来ると思うと空想的だった蕙子は宇頂天に成って、自分が、自分でよく作っては話して聞かせるのを楽しみにして居た「おはなし」の女王様になりでも仕た様な浮々した愉快な気持になって居た。\n 独りで先に入って行ったお関は大変丸々とした頬の美くしい女の子をつれて来て、\n\n「さあお前好いかい、\n すっかりよく熟したのを取っておあげ。\n お蕙ちゃん、私は一寸用があるから此の子と音無しく遊んで居らっしゃい。\n お久美って云う名ですからね。\n\nと、その娘の肩を蕙子の方へ押す様にして引き合わせるとさっさと主屋の方へ行って仕舞った。\n 少し極りの悪かった二人は顔を見合わせては罪の無い微笑を交して居たが、\n\n「取りましょうね、甘い事よ。\n\nとお久美さんが先に立って歩き出した。\n 行く先々には踏台がお伴をしなければならなかった。斯うして二人はじきにすっかり仲よしになって仕舞った。\n 一体蕙子は田舎の子は大嫌いだった。\n 無作法に後について来たり蕙子の知らない方言で悪口を云ったりするのもいやだったけれ共、傍によるとプーンとする土くささと塵くささが尚きらいであった。一番始めに遊び友達に成ろうとした近所の娘の髪に非常に沢山虫の住んで居るのを見てからと云う者蕙子はどんな事があっても彼の子とは遊ぶまいとかたく思いきめて居た。\n けれ共お久美さんは赤くこそあったがさっぱりした髪をして居て傍によっても彼のいやな臭いはしなかった。\n それ丈でもかなり蕙子は嬉しかった上に会う所が先ずよかったので五分も立たない間に口に出してこそ云わなかったけれ共「仲よしに成りましょうね」と思い込んで居た。\n 一時間程をその園の中で二人は此上なく面白い時を過す事が出来た。\n 蔓からもいだ許りの実を各々が一粒ずつ拇指と人指指の間に挾んで蕙子のはお久美さんに、お久美さんは蕙子の口元へと腕を入れ違いにして置いて「一二三」で一時に相手の口の中に透き通る実を弾き込んだり、番小屋の汚れた板の間に投げ座りをしてお互に寄っ掛りながら得意で其の頃して居た口から出まかせのお噺を蕙子は息も吐かない様に話して聞かせたりした。\n 今でも蕙子は何かの折に葡萄などを見ると、其の時の二人の幼ない様子と、あの甘く舌に溶ける様だった実の事を思い出す事が有る程、嬉しい、まあよかったと思った会合であった。\n 其の次の日っから二人は一日の大抵は一緒に伴立って前の小川に魚を取りに行ったり、蕙子の部屋で沢山ためて持って居たカードだのお伽噺の安本などを見て遊んで居た。\n 乗気になって明けても暮れてもお久美さんが居なけりゃあ生きてる甲斐が無いと思い込んで居た蕙子は、自分が桃色のリボンで鉢巻の様にはでな頭飾りをして居るのに比べて大切なお久美さんの頭はあんまり飾りないので、持ちふるしたのですまないと思いながら、うす紫に草花の模様のあるのをあげて、貴方も私みたいな髪におしなさいおしなさいと云ってもどうしても聞かなかったお久美さんは其れを桃割の髷前に頭からダラリと下る様に掛けて居た事なども有った。\n 自分が折角よい様にさせて上げ様と思うのにきかれなかったり妙な眼付をして、\n\n「お蕙ちゃんの髪は何て云うの。\n 暑いでしょう。\n 随分妙な結い方ねえ。\n\nなどと云われると、蕙子はすっかり悲しくなって仕舞って、長く遊んで居るときっと又厭になるだろうからもう明日から来ても会いますまいと思う事が十度に一度は無いでは無かったけれ共、一度お久美さんの口から其のまるでお話の様に可哀そうな身上話を聞いてからと云うものは、年に似合わない真面目さが加わって、蕙子は、どんな事が有っても私はお久美さんを大切によくしてあげなけりゃあならない、そうするために私共は仲よしに成ったのだと思いきめて仕舞った。\n その気持が今日になるまでざっと七年程も確かに取り守られ保たれて来ようとは蕙子は勿論お久美さんにしろ思いも掛けて居なかった事である。\n 蕙子は好く自分を知って呉れる二親もあり物質的の苦労を殆ど知ら無いと云って好い位の幸福な日を送って居るのに、お久美さんは二親は早く失くし兄弟も友達もなくて、心の人と異った伯母に世話をされて居た。世間知らずで有るべき年の蕙子は山程積んで目を覚すとから眠るまで読んで居た非常に沢山のお話で、継母の辛さ、又は他人の家へただ世話になって居る小娘の心づかいをよく察しられる様になって居たので、自分の家のない事父母の死んだ事は甚く同情すべき事に感じられた。\n 友達のむずかしい蕙子が此んな人を此上ない者に仕て居様等とは誰も思って居なかった。\n 一時はお久美さんの事を話して、\n\n「まあ貴女がそんな方と仲よしになって居らっしゃるの、\n ほんとに思い掛けなかったわ。\n「ええそりゃあほんとうよ。\n\nと、友達共が阿呆な目をしてびっくりするのが面白くて、やたらと自分とお久美さんの事を喋り散した事があった。\n けれ共或時何かにつれて、人を驚かす材料に自分の一番大切な人を使って居たと云う事が非常に下等な恥かしい事に思えたので暗闇に座って此上なく改まった気持で、"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 佃との生活にもまれていた伸子は、間をとばしてところどころ、その話を多計代からきいた。そして多計代とは反対な考えかたをもった。多計代は、芸術的な才能とか天稟とかいうものにたいしてひどく架空な考えをもっていた。自分が日本画の稽古をはじめたときも、しばらくすると師匠が平凡すぎるといって、中絶してしまった。現実には、やっと絹に牡丹の写生が一枚描けるようになったばかりのところで。――多計代は自分や自分の生んだ子どもは一人のこらず、なにか特別な力をひそめて生れついているように思っているようだった。それをのばす方法は誰よりも自分が直観している、と思いこんでいるようだった。けれども実際には伸子にしろそういう母の判断から生じるすべての細目に力いっぱい抵抗することで、やっと現実に自分らしい生きる道も辿りつづけているのであった。\n 松浦はいくつものリードをうたった。それをしばらく聴いていてから伸子はのどがかわいて茶をいれに食堂へ行った。誰もいないその室の通路に面して北側の腰高窓がみんなあいていた。それは不用心だった。そればかりでなく、掃除しっぱなしでレース・カーテンが一方へ引きよせたままになっている。いかにも、男の子だけが留守をしている家のぞんざいさであった。内側が赤塗りの大きい鮨桶がその中に笹の葉だけをのこして、皿や茶碗と一緒にまだかたづけられず真中の大テーブルの上にひろがっていた。そのテーブルのはしに送り状を紐にまきつけた三越からの届け品の細長い箱が二つ、ひょいと抛りのせたように斜かいにのっている。\n 伸子は立ったまま、この室内の光景に目をとられた。それは異様な感じだった。ただ主人たちが留守の家のがらんとした空気ばかりでない異様な感じがした。室の空虚さと、空虚にかかわらずそこに見えない力で運転している浪費の姿がまざまざと感じられて、伸子は異様な感じがした。\n この生活は誰のもので誰が動かしているのだろう。さっき、丸の内で一時間あまり一緒に過して来た父が主人なのだから、これが父の生活だというには、父とこの生活との間に距離がありすぎた。父は父ではっきり自分としての生活の輪をもっている。伸子は、くりかえし異様な感じにうたれた。この生活の雰囲気には、人と人とが互いに繋って何かのために生きて動いているというより、人々が何かによって生かされ、動かされていて、それについて無意識でいるような奇妙な無人格性がある。その無人格性の感じは、瞬間のうちにも追ってゆくと底なしの深さに深まって感じられる空虚さであった。\n 空虚感ははうずめられなければならないというように、ぼんやりした哀感が湧いて来るのを伸子は感じた。高校生の保が瞑想と自分の部屋の入口に貼紙するこころもち、そのこころもちの動機は、何と微妙に、しかもどっさり、ここの家の生活の明暮れにあることだろう。伸子は、ベルを鳴らした。この間電話をかけたとき、はア、はアとばかりいっていた新しい女中が、ドアから首を出した。\n「ここをかたづけてね、――それからお湯わいているかしら、お茶がほしいんだけれど」\n「はア」\n「保さんに、お鮨とってあるの?」\n「――さあ」\n「ここへ出したっきり?」\n「はア」\n「ともかくかたづけて――おときさんはいるんでしょう?」\n「はア」\n ときは、台所専門で、もう二年ばかり佐々の家にいた。\n「じゃ、そういっておいて頂戴、今晩は、こちらで御飯たべてかえりますからって......」\n「はア」\n\n 四時すぎて、保が帰って来た。\n「ああ姉さんもいたの!」\n 保は、和毛のかげの濃い上唇をうれしそうにゆるめて、こまかく詰った白い歯なみを見せながら笑った。そして、からだを半分廊下にのこしていたドアをひろくあけて、客間へ入って来た。\n「この前来たとき、保さん珍しくおそかったのね、雑誌って、どうした?」\n「そろそろ相談している――別にいそがないのさ」\n「それがいいわ、出来たら見せて」\n「ええ。是非みて貰う」\n 保のために、おやつを探して来て、客間に戻った伸子は、何となしさっきまでとは違った空気がそこに出来ているのに心づいた。制服をカラーなしで着ている松浦と低い白カラーをつけている保とは、指人形の話をしていた。保は来年学校の記念祭のとき、人間の指人形で芝居を出そうと思っているらしかった。文丙に入学した第一年の記念祭のとき、どういう題だったのか、保は坊主になって、フランス語の動詞の変化をお経代りにして大好評だった。兄よりも松浦よりもよこたてに大きいからだのすこし窮屈になったズボンの膝を行儀よく椅子にかけて、保はそんな話をしている。\n「ジュスイ ザーレ、テュエ ザーレってやったの?」\n つや子が宿題で動詞の変化を諳誦するとき、小さい女の子らしく甲高い声をはりあげる、その口真似をして伸子はふざけた。\n「小枝ちゃんの方は? ジュスイ ザーレはやらないでいいの?」\n「随意科なの」\n きちんと学校へ出た保が帰って来てからは、若い三人の話題もちがって来た。\n 保は、ごくたまにしかピアノを弾かなかったし、歌は全然うたわなかった。\n「外で、キャッチボールでもしたら?......もうまぶしくないわよ」\n そういう遊戯ならば保も仲間になった。伸子は小枝の方を見て、\n「お気に入った樹があったら、のぼってもいいのよ」\nと笑った。小枝は樹のぼりがすきで、うまいという評判なのだった。小枝は、時計をみたり、和一郎の方をそれとなく見たりしていたが、\n「わたし、そろそろおいとまするわ」\nと、立ちあがった。小声で和一郎に何かいっていて、和一郎も、一緒に出かける様子だった。\n「僕も、そこまでゆきますから......」\n 松浦が追っかけるようにして、いそいで靴をはいている背中越しに、伸子は、\n「和一郎さん、おそくならないうちに帰っていらっしゃいよ」\nといった。\n「わたし、夕飯すぎまでしかいないから」\n「ああ」\n「お留守のうちだけは、ね」\n「姉さん、大丈夫だよ。心配しなくても」\n 必ず帰るという意味なのか、うちの方は大丈夫だというのか、どっちを心配しないでいいのかわからないようにいって三人は出て行った。すらりと背の高い、黒い絹靴下を襞の多い短いスカートの下から見せている小枝を真中にはさんで、制服の和一郎と松浦とが石じきを行く。その後姿が、伸子の駒沢の家の玄関へ来た三人の青年たちを思いおこさせた。和一郎も松浦も、頭をクリクリの一分刈りにして、古びてよごれが光る制服、制帽でいる。そして、ポケットにろくな小銭ももってはいない。けれども、この青年たちとあの三人と、なんと内容のちがう生活だろう。石じき道を垣根について見えなくなって行く三人の生活は、伸子に空虚を感じさせた。駒沢の家へ来た三つのぼうぼう頭とよごれた若い顔々が、それならば、充実した新しい生活を感じさせたかといえば、そこにも張りこの虎めいた空っぽな響があった。\n 保は、畳廊下においてある洋服ダンスのところでキチンと紺絣の筒袖に着換え、手と顔を洗って、まだ客間にいる伸子のところへ戻って来た。\n「きょう、保さん、いそがしいの?」\n「そうでもない」\n「じゃ夕飯まで話さない? わたしきょうは早くかえるのよ」\n「ちょうどいい。僕は夜は少しすることがあるから......」\n 伸子は、保の仲間がこしらえようとしている雑誌に強い関心があった。\n「和一郎さんも中学四年ぐらいのとき、雑誌をやったことがあるのよ、じきやめちゃったけれど。――あなたの、どういう仲間でやるの?」\n「ほんの三四人......気のあったものだけでやろうっていうの」\n「どんなひとたち?」\n「――姉さんにいっても知らない人ばっかりだな」\n 考えていて、保は、\n「姉さん、東大路、知っているでしょう? 外交官の方の子供が、やっぱり一緒に雑誌をやる」\nといった。東大路篤治といえば、人道主義の作家として独特な存在であった。そして、近頃、九州の奥に理想村をこしらえて、そこにある河中の岩を、ロダン岩と名づけ、そのロダン岩にもたれている東大路の羅漢に似た顔の写真が雑誌に出たりしていた。\n「そのひと、やっぱり叔父さんの弟子なの?」\n 伸子は、東大路のあんまり空想的な理想村の考えや、自分のぐるりへひとを集めているその気分に、疑問を感じているのであった。\n「特別そうというんでもないと思う――だいたいこんど雑誌やるのは、主義やなんかのためじゃないんだもの」\n それは、保の日ごろの気持からも推察された。\n「それゃそうでしょう。――でも、......どういうの? こういう風につくりたいという方針はあるにきまってるわ」\n「僕たち、人に見せるためや威張るために書いたものでなく、本当に自分の心を追究して良心のために書いたものを集めようと思ってる」\n「――題、きまった?」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「ううん」\n 保は首をふった。\n「まだ......」\n「その三四人のひとだけ書くの?」\n「そうしようと思ってる」\n「ほかのひとに書かせないの?」\n「もちろん書かせたっていいんだけれど――」\n 癖で、紺絣の大きい膝をすこしゆすりながら、保は柔和なぽってりした上まぶたの下に眼を三白のようにした。\n「みんな、すぐ猛烈に議論するんだもの、相手を一生懸命にまかそうとばかりするんだもの――」\n「............」\n「こないだも、僕、佐々は馬鹿だ、ってみんなにいわれた」\n 保のそういう声のうちには、友だちにたいする反抗よりも、いうにいえない悲しみがこもっていた。伸子は、思わずその顔をのぞきこむような心になった。\n「どうして?」\n 熱心にきいた。\n「僕は、調停派なんだって。......佐々は生れつきの調停派だって――」\n「それは、佐々はバカということになるの」\n「そうらしい」\n ちっとも皮肉なところなしに保は肯定した。\n「調停派って――」\n 社会運動の歴史も知らない伸子には、どういう意味で高校の学生たちがその言葉をつかうかわからなかった。しかし、字の上から判断して、調停の意味は、だいたいわかる――、\n「保さん、そんなに調停するの」\n すこし笑って伸子がきいた。保は、\n「そうしようと思わなくたって、そうなっちゃう」\n 困惑したようにいった。\n「どっちの議論だって、よくきいてみて、相手に勝とうとさえ思わなければ、みんなそれとしては理窟があるんだもの」\n「それゃそうかもしれないけれどさ......」\n 伸子は妙な顔をした。保のあの不思議に執拗な「公平」がまた出て来た。\n「だって、――議論なんてものは、真中に一つ問題があって、それをはっきりさせるために起るんでしょう? だもの、てんでんばらばらに、一つずつの議論がそれとして理窟をもっているというのが眼目にはならないんじゃないの。中心の問題にとって、正しいとりあげかた、正しい解釈というものが当然ある筈じゃないの」\n「うん」\n「だからさ、正しい結論が出るまでの議論には、見当ちがいなのもあるわけでしょう? そして、それはすててゆくのよ。みんなそれとして理窟がある、というようなのは、変だわよ。――そう思わない?」\n「............」\n「保さんが、みんなの議論してるとき、あれもこれもそれとして正しいなんていえば、それは調停派だか何だか、ともかくおかしなことだし、間違っていると思うわ」\n 保は一層大きく膝をゆすりはじめた。そして、平らかな上まぶたの下からほとんどおこったように苦しく圧縮された視線を伸子の上に射かけた。\n「僕がばかだっていわれたときは、暴力論だったの」\n「............」\n 話がこういう風に展開したことは伸子にとって不意うちであった。伸子の心に革命、赤露、社会主義というような字が次々に浮びひらめきすぎた。\n「人類のためよりいい社会をつくるというんなら、なぜそのために暴力なんて使わなけれゃならないのかなあ。――僕、どうしたって暴力ってわるいもんだと思う」\n 保は、訴えるようにつづけた。\n「いいことのために、わるいことをするって、まるで矛盾だと思うんだ。よくないことは、どういうためにつかったってよくないと思う」\n やっぱりそうだった。伸子はそう思った。保でさえ、伸子の知っているより遙かにどっさりのことを、仲間と話し、考えあっていたのだ。盟休した二高の学生たちばかりでなく、みんながこういうことを話している。伸子はそれらの青年たちに対して羨望の感情を抱いた。現在まだ続いている問題だと見えて、保はくりかえし、\n「僕にはわからない」\nといった。\n「いいことのためには、絶対にいい方法をとるべきだと思う」\n いい方法。――いい方法――。佃との生活が破れかけたころから、離婚してしまうまでの数年間伸子はどんなに、その「いい方法」をさがしてもがきつづけただろう。伸子は善良さと気のよわさと両方から、佃と自分の生活の破綻を何とかして平和に解決したいと思った。出来るだけどちらも傷つけることなく、失敗したといっても、もとは愛情から出発した生活の終りらしく、その悲しみにもどこかに美しさのある調和で終らせたいと、どんなに心を砕いたろう。だが、現実に、それは可能でなかった。最後に佃は伸子を憎んだし、伸子は佃を嫌悪した。そこまで行かなければ、解決しなかった。そこまで互いをむしりあわないで生活の破綻が救われるものであったのなら、初めから佃と伸子との生活に、それだけの深い離反は生じなかったわけであった。伸子はこわさにぎっしり両眼をつぶって、がむしゃらに、ひたぶるに、佃との生活から身をもぎはなした。万事が終って何年かたったいま、伸子は、しみじみと理解しているのであった。夫婦の間の衝突でさえも、それが本質からの原因をもっているものなら、決してものわかりよく手ぎれいに解決することはあり得ない、と。互いにものわかりよく、手ぎれいに解決されるくらいなら、はじめからそんなに衝突しないですむだけの互いの理解がある筈なのだから。伸子は、離婚などということだって、いわば一つの暴力的なことだと思った。そういう意味で自分が暴力的だったのが、わるかったと思っているだろうか。伸子は、それは避けがたかったこととして、その道を通じて生活の展開の可能がつくられたという意味で、自分のしたことを否定していなかった。やましく感じる気持はなかった。\n 伸子は、自分のその実感を、保の問題にあてはめた。\n「わたしには、いろいろなことがわからないけれどね、いい方法って......保さんのいいっていうのはどういうのさ」\n「絶対に正しい方法」\n 伸子は、また新しい不安を覚えた。保は、どうして、いつも、そして何についてでも、絶対ばかりをいうのだろう。\n「絶対に正しい、いい方法なんて――」\n 困ったように、確信なさそうに、伸子は横目になりながらつぶやいた。\n「いつでも、何にでも絶対にいいなんて、そんな方法ある?」\n ユーモラスな気になって伸子は、\n「薬の広告じゃあるまいし......」\nといった。\n「保さんの、さっきの、どの議論もそれとしては理窟をもっているっていうのと、いまの絶対にいい方法でなければいけないっていうのと、ちょっとみると反対みたいだけれど、同じなのね、保さんの考えかたって――わからない」\n ものごとを考えるというと、具体的にそこにある問題からはなれてなんでも抽象してしまう保の方法をそれが執拗であるだけに伸子は不安に感じた。\n「保さん、そういう話、越智さんとしたことがあるの?」\n「すこしある」\n「なんてってた?」\n「――僕の考えかたは、純粋だっていっていた」\n「............」\n 純粋! 何ていいかげんのにげことばだろう! 伸子は越智に対して、いつも湧く忿懣を新たに感じた。越智は、青年たちが自分たちの生の問題としてそういう議論にも熱中するその真情がつかめるような人物ではない。現代の青年はそういう議論をする、ということだけを問題にする能力しか持っていやしない。伸子はくやしそうに、\n「越智さんなんかいいかげんに卒業してしまわなくちゃ駄目じゃないの、保さん」\nといった。伸子は自分の生活態度を、破壊のための破壊をこのむものだといって、多計代に一つの偏見を与えた越智をゆるすことが出来なかった。越智が多計代にたいしてとっている態度はなんだろう。ああいういきさつは、保の純粋をけがさず、周囲のすべての関係の純粋をみださないことだとでもいうのだろうか。伸子は、保の肩をつかむように、\n「あんな人にかれこれいわれて、それがなにかだなんかと思ってたら、それこそとんでもありゃしない。――あんな......」\n 偽善的なといいかけたその先は言葉が出なくて、伸子はただくい入るように保の眼をみつめた。伸子のそういう激しい言葉づかいにたいしても、保はあらわな反撥も、好奇心も示さず、じっと平静にきいている。伸子の性質にとって、それはもどかしく苦しかった。保は、いつも素直にきいている。でも決して自分というものをあい手に向って解放しない。伸子のいうことも一つ一つと、不思議な粘りづよさで漉して、きいている。むしろ心を動かされることを警戒してきいている。伸子は、そういう保に向って自分の心が溢れるとき、まるでせまい壜の口から一滴ずつ油でも流しこんでいるときのような息苦しさを感じるのであった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「............」\n「貴様も少し考えて見ろ。一体貴様は幾つだ?」\n「............」\n「年を言え。おい!」\n と堀尾君の「おい!」にはその都度胸倉の小突きが伴う。\n「二十三です」\n「犬のお供をして歩く年と思うか?」\n「............」\n「車でも曳く方が余っ程世間の為めになる」\n「............」\n「貴様も馬鹿だけれど、貴様にこんな仕事をさせる主人が大馬鹿だ。もっと意味のある仕事を心掛けろ。片岡にももっと人間を生かして使えと言ってくれ」\n「............」\n「もう宜い。帰れ」\n「帰ります」\n と書生はスゴ〳〵立ち上った。\n「言分があるなら出直して来い」\n「............」\n「しかし気の毒だったな」\n「............」\n「片岡の書生だなんて威張らなければ、何のこともなかったんだ」\n と堀尾君は門まで送った。\n 間もなく道子さんが着いた。二言三言話す中に、\n「あなた何うかなさいましたの?」\n と気がついた。\n「泰然自若の積りですが、変ですか?」\n「お顔の色がお悪いわ」\n「ハッハヽヽ」\n「何うなさいましたの?」\n「実は今喧嘩をしたところです」\n「まあ!」\n「大人気ないことをしました」\n「誰と?」\n「アレキサンダーのことで、この間お話した書生とです」\n と堀尾君は面目ないようだった。\n「私は見ていて一月分溜飲を下げましたよ」\n と婆やは反対に大得意で、\n「まあ、お聞き下さいまし。実は昨日の朝、『旦那さまのいる時来て見ろ。打っ挫かれるぞ』と言ってやったところでございます。奴等、今朝は二人がかりで......」\n と逐一物語った。\n「ところで、道子さん」\n「何あに? 喧嘩なんかなすっちゃ厭よ、私」\n「あなたに叱られると思って悲観していたんです」\n「済んだことはもう仕方ありませんけれど」\n「実は未だ続きがありそうです」\n「まあ!」\n「僕の方の社長の書生です。序をもって、社長は大馬鹿だと伝言を頼んで置きました」\n「打ちこわしね、あなたは」\n「騎虎の勢、仕方がなかったんです」\n と堀尾君は冷静に考えて見て、大馬鹿丈けは取消したかった。\n「会社の方が駄目になりはしませんの?」\n「迚もむずかしいです」\n「困るわ」\n「それでなくても既に一遍鳧という人事課長とやっているんです」\n「喧嘩?」\n「えゝ」\n「よくなさるのね」\n「喧嘩ってほどのことでもないんですけれど、此奴が社長の屋敷内に住んでいるんですから、今日のことを聞きつけると、屹度何か言い出します」\n「私、今朝もっと早く来れば宜かったわね」\n「然うですよ。あなたが晩くて、イラ〳〵していたものですから」\n「それじゃ私の責任?」\n「多少あります」\n「あらまあ」\n と道子さんも飛んだところへ来合せたものだった。\n「旦那さま、お客さまでございます」\n とそこへ婆やが名刺を取次いだ。\n「鳧三平。来たな。畜生! 二階へ通せ」\n「あなた」\n と道子さんは袖を控えた。\n「大丈夫だ」\n と堀尾君は言った。これは円満にやるという意味でなく、負けないという意味らしかった。\n\n喧嘩に勝って\n\n 鳧三平さんは堀尾君の家の二階で少時待たされた。最初はキチンと構えていたが、洋服で窮屈だから、座を崩した。次いで、\n「何をしているんだろう?」\n と呟いた。人事課長ぐらいになると、下役に待たせられることは絶対にない。\n「奴、恐れ入って、出すくみをしているんだな」\n と思いながら、軽蔑の眼をもって周囲の安造作を見廻している中に、床の間の掛物に注意を惹かされた。蝦蟇仙人の大幅だった。\n「柄にないものを掛けているな」\n と向き直って、落款を検めたが、ハッキリ読めない。社長の腰巾着として始終書画骨董のお太鼓を叩いている関係上、自然多少の興味がある。頻りに首を傾げていた。折から急勾配の階段を上って来る音が聞えたが、細工のある男だから、知らん顔をして絵に見入っている風を粧った。\n「やあ」\n と堀尾君が声をかけた時、\n「これはこれは」\n と初めて存在を認めたように半ば振り返った。\n「はゝあ、御令兄に御対面中でございましたな」\n「うむ?」\n「そこにいらっしゃる」\n と堀尾君は蝦蟇仙人を指さした。\n「ひどいことを言う男だな」\n と鳧さんは苦笑いをする外なかった。\n「いや、失礼申上げました」\n「いや」\n「御近所へ引っ越して参りまして、未だお伺いも致しません」\n「いや、僕こそ。忙しいので、まあ〳〵、それはお互さ」\n「今日はようこそ」\n「御来客があるんじゃないかね?」\n「いや」\n「それじゃ少時お邪魔をさせて戴く」\n「何うぞ御ゆっくり」\n「一遍伺いたいと思っていたところだったから」\n「丁度よく用件が起りまして」\n「堀尾君」\n「何ですか?」\n「僕は文句を言いに来たんじゃないよ」\n「はあ」\n「しかし君も少し考えてくれなくちゃ困る」\n「はあ」\n と堀尾君は腕を組んだ。そこへ婆やが上って来て、恐る〳〵お茶を薦めた。\n「お嬢さま」\n と婆やは階下へ戻ると直ぐに道子さんのところへ行って囁いた。\n「何んな具合でしたの?」\n「旦那さまは叱られていらっしゃるようでございました」\n「困るわね」\n「斯う腕組みをして黙っていらっしゃいました」\n「何んな人?」\n「痘痕のある怖い人でございます」\n「本当に厄介なことが起ったものね」\n と道子さんは気が気でない。\n 二階では主客ソロ〳〵本題に入る。若い堀尾君は喧嘩で引けを取ったことのない達人である。鳧さんは又○○紡績の人事課を背負って立つ老武者、首を切るのが半商売の人だ。何方も役者が好い。\n「一体何ういう経緯だね?」\n「恐らくあの書生からお聞き取りになった通りでしょう」\n「犬の問題だね。ソモ〳〵の初まりは」\n「はあ」\n「些っと大人気なかったね」\n「冷静に考えて見れば然うです」\n「君は本当に撲ったのかい?」\n「はい。やりました」\n「それは乱暴だ」\n「鳧さん」\n「何だね?」\n「あなたは一個人としてお出になったんですか? それとも会社の課長としてお出になったんですか?」\n「無論一個人としてさ」\n「宜しい。それなら対等の資格でお相手をする」\n「君」\n「何ですか?」\n「僕は喧嘩に来たんじゃない」\n と鳧さんは断った。書生同様に扱われては大変だと思ったのだろう。\n「それは無論分っています」\n「友人として忠告に来たんだ」\n「御親切有難いです」\n「君は社長の家の書生を撲るなんて、余り無法じゃないか?」\n「一個人としてお出になったのなら、一個人らしくお話を願います」\n「何ういう意味だね?」\n「一個人なら社長も社員もありません」\n「しかし片岡さんは社長だよ」\n「いや、単に片岡さんです。片岡君です、片岡です」\n と堀尾君は逐次訂正した。\n「宜しい。片岡さんにしても片岡にしても、余所の書生を撲るというのは無法じゃないか?」\n「それは私の分別にあることです」\n「僕は君の分別が間違っていると思う」\n「御批判はあなたのお勝手です」\n「堀尾君、それは少し言葉が過ぎはしないかい?」\n「何故ですか?」\n「僕は君の友人として忠告に来たんだ。胸襟を開いて、聴いてくれるのが当り前だろう?」\n「御忠告なら無論喜んで承わります」\n「僕は君の性格が分っている」\n「............」\n「書生を撲ったについても深くは咎めない。血気に委せてやったことゝ思っている」\n「............」\n「唯一言済まなかったと言って貰えば、それで満足するんだ」\n「誰に言うんですか?」\n「僕にさ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「その僕ってのは一個人としてのあなたですか?」\n「無論一個人としての僕さ」\n「冗談仰有っちゃいけません」\n「何だい?」\n「忠告にお出になったのなら、以来慎み給えと言うのが精々でしょう。あやまれと言うのは筋が違っています。あなたこそ少しお言葉が過ぎやしませんか?」\n「文字通り僕にあやまれと言うんじゃない。僕が好意上片岡家へ取次ぐという意味だ」\n「それじゃあなたは仲裁人ですか?」\n「仲裁人だ」\n「こゝは芝居の舞台じゃありません」\n「何だって?」\n「早替りをしたって誰も手を叩きませんよ」\n「君は僕を愚弄するのか?」\n と鳧さんは激昂した。\n「............」\n「君」\n「そんなことはないですよ」\n「兎に角、君は誠意に欠けている。人を撲って善いことをしたと思っているようだ」\n「いや、済まないことをしたと思って後悔しています」\n「それなら問題はないじゃないか?」\n「はあ」\n「以来慎み給え」\n「慎みます。御忠告に従って、もう乱暴は働きません」\n「もう一つ序だ。唯一言済まなかったと言い給え」\n「言いません」\n「それじゃ片岡家から苦情を持ち込まれたら何うする?」\n「突っ弾ねます」\n「え?」\n「片岡家と私の問題じゃありません。あの書生と私の問題です」\n「それじゃあの書生が苦情を持ち込んだら何うする?」\n「その時はその時です」\n「何うするんだ?」\n「平身低頭してあやまるかも知れません」\n「始末にいけない男だな」\n「兎に角、あの書生をもう一遍寄越して見て戴けませんでしょうか?」\n「何うしようと言うんだい?」\n「私の忠告が充分徹底しなかったようですから」\n「追加をやられちゃ溜まらないよ」\n「いや、もう大丈夫です」\n と堀尾君は澄ましたものだった。\n「書生の方は当人に多少の落度があったんだから仕方がないとしても、君は社長、いや、片岡さんのことを大馬鹿だと言ったそうだね?」\n「言いました」\n「それは是非取消して貰わなければ困る」\n「............」\n「個人としては片岡さんだけれど、公人としては君の会社の社長だよ」\n「然うです」\n「人を馬鹿呼ばわりするからには、自分を悧巧と思っているに相違ない。そのお悧巧な君にして大馬鹿が社長を勤めている会社の粟を食むとはこれ如何に? と訊きたくなるよ」\n「個人としては大馬鹿でも......」\n「控え給え」\n と鳧さんは声を励ました。丁度その折、心配の余り一段々々と階段を上った道子さんの顔が鼻のあたりまで現れた。堀尾君は気がつかなかったが、床の間を背負っていた鳧さんは前向きだったからチラリと認めた。\n「............」\n「仮りに一個人として見ても、片岡さんは君の先輩だ。君が生れない前に大学を出ている。尚お君の先生の奥さんのお父さんだ」\n「............」\n「有らゆる意味に於ての先輩を大馬鹿というのは礼を欠いている」\n「............」\n「よく考えて見給え」\n「私は会社をやめます」\n「然う早合点をしちゃ困る。僕は何も君に引けの何のと言っているんじゃない」\n「しかし......」\n「何だね?」\n「大馬鹿と罵る上からは、その覚悟をしています」\n「君は未だ青い」\n「............」\n「出処進退というものは然う軽々しく定めるものじゃない」\n「しかしやめます」\n「君は会社が気に入らんのか?」\n「いゝえ」\n「それじゃ何故やめる?」\n「責任を負うんです」\n「それじゃ犬が喧嘩をした為めにやめることになる。君こそ公私混合じゃないか?」\n「............」\n「何うせ行きがかりで言ったことだから、取消せば宜いんだ」\n「取消しません」\n「何故取消さない?」\n「片岡さんを大馬鹿だと信じています」\n「何故片岡さんが大馬鹿だ? 君」\n「それはあの書生に言い聞かせた通りです」\n「僕はそれまでは聞いて来なかった」\n「有為の青年に犬のお守をさせるような人間なら、大馬鹿に相違ないと思っているんです」\n「あれは社長の犬じゃない」\n「それじゃ誰のですか?」\n「令息のだ」\n「はゝあ。それなら令息が大馬鹿です」\n「社長の方は取消すかね?」\n「人違いなら仕方ないです。取消しますが、令息は大馬鹿野郎です。私は所信を曲げません」\n と堀尾君は如何にも口惜しそうだった。\n「令息は幾ら馬鹿でも会社に関係ない」\n「しかしそんな馬鹿な令息を黙って見ている親も決して悧巧じゃありません」\n「君。取消した上は屑くし給え」\n「はあ」\n「もう宜しい。今日のことは僕が含んで置く」\n「何ういう意味ですか?」\n「僕の方寸に納めて、全然なかったことにして置いてやる」\n「私からはお願い致しません。あなたの御随意に願います」\n「君は誤解しちゃいけないよ。僕が忠告に来たからといって、君の地位に関係するんでも何でもない」\n「はあ」\n「初めから言っている通り、一個人と一個人の話さ」\n「はあ」\n「但し一個人対一個人の友情的忠告として、僕は君が将来もっと言行を慎むように勧めて置く」\n「有難うございます。精々御趣旨に副いましょう」\n「善意をもって言ったことだから、至らないところがあっても気にかけないでくれ給え」\n「何う致しまして。私こそつい埓を外して御無礼申上げました」\n「それじゃもう失敬する」\n「まあ宜しいでしょう?」\n「いや、この上はお邪魔だろう。綺麗なお客さんが見えているようだから」\n「............」\n「気が強い筈だ」\n「恐れ入りました」\n「ハッハヽヽ」\n「ハッハヽヽ」\n「些っと夜分でもやって来給え」\n と鳧さんは案外機嫌好く帰って行った。玄関まで見送った堀尾君も鄭重を極めた。美事勝ったような気もしたが、結局負けたような気もした。何方にしても詰まらないことをしたという感じが先立って、甚だ不愉快な心持だった。\n「あなた、大丈夫?」\n と道子さんが寄り添った。\n「さあ」\n と堀尾君は突っ立ったまゝ、未だ考えていた。\n「あなたがお悪いのよ」\n「何故?」\n「些っとも下役らしい態度をお取りにならないんですもの」\n「一個人と一個人の対等関係です」\n「然うは参りませんわ。全く一個人と一個人なら交渉はない筈じゃありませんか? あゝして御親切に仰有って下さるのは同じ会社に勤めているからでございましょう?」\n「それは無論それだから交渉があるんですけれど」\n「同じ会社に勤めている上役と下役の一個人と一個人じゃございませんか?」\n と道子さんは円満な落着を目的としているから解釈が広い。\n「成程。事実は然うかも知れません」\n「先方の仰有ることを立てゝ上げても、決して恥にはなりませんわ」\n「それじゃあやまるんですか?」\n「いゝえ」\n「何うするんです?」\n「相済みませんでしたと仰有れば宜しいじゃありませんか?」\n「それじゃあやまることになります」\n「いゝえ、社交よ。その方が簡単に片付きますわ」\n「簡単に片付いても、あやまることなんか嫌いです」\n「あやまるんじゃございませんよ。私達、例えばお友達の足を踏みましょう? 『あら、済みませんでしたわね』と直ぐ申しますわ」\n「それは本当に済まないからでしょう」\n「いゝえ。済まないなんて些っとも思っていませんの。けれども、『あなたがそこへ出していらっしゃるからよ』なんて説明するよりも早く片付きますわ」\n「成程。しかし女ってそんなに嘘をつくものですかね」\n「嘘じゃございませんわ。簡便法よ」\n「僕にもその簡便法を応用しているんですね?」\n「オホヽヽヽ」\n「ひどい」\n「時々よ。オホヽヽヽ」\n「ハッハヽヽヽ」\n と堀尾君は相手が道子さんなら理窟にこだわらない。\n「男って意地を張るものね」\n「仕方がないです」\n「私、あの方が『お控えなさい』ってお憤りになった時、何うなることかと存じましたわ」\n「あなたは聞いていらしったんですか?」\n「はあ。あすこまで承わりました。けれども私、見つけられてしまいましたの」\n「鳧に?」\n「えゝ」\n「いけませんね」\n「済みません」\n「早速やりましたね」\n「あら、本当よ」\n「ハッハヽヽ」\n「心配で仕様がなかったものですから」\n「鳧の奴、道理で変なことを言いましたよ」\n「何て?」\n「綺麗なお客さんが見えているようだからって」\n「まあ!」\n「気の強い筈ですって」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 茶色の中折帽に、黒眼鏡をかけ、色の小白い中背の男だった。すこし、やにっこく、若旦那を気どってはいるけれど、女たちには、気うけがいいに違いない。\n「買ってやるよ、買ってやるから、往来でそんなことを言うのはよせやい。それに、用事を先にすまさなくっちゃだめだから、おまえたちはそこいらで待っておいで」\n「いやだわ、置いてけぼりなんか......」\n「誰が、そんなことをするもんか、すぐそこだよ」\n「どこ? どこ?」\n「どこだって、いいじゃないか」\n「いけない、いけない」\n 黒眼鏡はあわてて手を振って、\n「尾いて来ちゃいかん」\n と、睨む真似をして、早足に五、六歩離れると、またふり顧って、ついと屋上に時計塔のある柳田商会の小売部へはいった。\n 豆菊とひとりの若い芸妓は、しばらく、街路樹の下にたたずんでいたが、通りかかる外国人に、ステッキで指されたり、顔を知っている新聞社の原稿給仕が、わざと自転車を向けて来たり、撒水車が来たりするので、居たたまれないで、なんども、柳田商会のまえを行ったり来たりしていた。\n 時間を約束してあるので、小売部の金庫のまえには、豚のごとく肥えた老主人が、お光さんの所謂狒々然たる精力的な精力を、為すことなく、退屈させていた。\n「どうでしょうか、昨日の指環は」\n と、黒眼鏡は、店の椅子に腰をかけて、\n「買ってくれませんか」\n と、切り出した。\n 老主人は鈍角な赤ら鼻を上げて、\n「拝見いたしました」\n と、不明瞭に、ていねいに答えた。\n「値だんですか、そちらで、考えているのは」\n「ま......それもございますが」\n「少しゃ、引いても、いいですよ」\n「はい」\n「一・半カラットは十分にあるんですからな。それに、尤も、そっちの方が眼が黒いでしょうが、宝石そのものには、キズやナミは絶対にないです」\n「分っております」\n「どうでしょう、私も、きょうの夕刻の七時までには、どうしても、生糸の方へ、追敷を注がなければならない場合ですから、即金ならば、たくさんは困るが、ある程度まで見きりますが」\n「ま、お茶をひとつ......」\n「人が待っているから、なるべく」\n「こちらへ、お入れなさいましては」\n「いや、かまいませんが、どうですか、その方は」\n「実は、きのうここにおりました娘が......」\n「ふム、あの、広東服を着ていた?」\n「はい、あれが、非常に気に入ったふうでしてな」\n「ふム。ふム」\n「持って行ってしまったんでございます」\n「どこへ」\n「それがまだ今日此店へ見えませんようなわけで」\n「じょ、じょうだん言ッちゃ困るよご主人。僕は、ここの店へ売ろうというのだから」\n「分っております。......ですから買う買わないのご相談も、ひとつ、それが来てからにして戴きたいのでございますが。いえ、責任は当店で持っております。お預かり物を、どうの、こうのと言うのではございません」\n「じゃ、いつ頃見えるのかね、その広東服の娘さんは」\n「晩には、きっと、見えましょう」\n 黒眼鏡は、店じゅうの時計の時間を見くらべて、\n「それでは、もういちど、晩に来よう」\n「ご足労でございました」\n「値だんは折り合うから、なるべく、買い取ってくれたまえ」\n「はい」\n 店先を出て行くと、男は、中折帽のやまへ手をやりながら、往来を見わたして、向うの角に見えた豆菊と芸妓の方へ、大股にあるき出した。\n 郵便箱の蔭にかくれていたトム公は、男の足がはやくなったのをみると、ついと飛び出して、一本指を上げた。\n「おい、君、君」\n 愚連隊の西村と樫井だった。馴れ馴れしく、両方から肩をつかんで、\n「手間はとらせんが、ちょっと来てくれないか」\n 黒眼鏡の顔が、さっと、青く冴えた。\n「どこへ」\n「警察たあ言わねえよ、僕らは、刑事じゃないからね、安心して来たまえ」\n「誰だ、君たちは」\n「横浜にいて愚連隊を知らないのか」\n「............」\n「まあいいから来たまえ」\n「いや、僕は、連れがいるのだから」\n「連れは連れで、また、いつでも別な日に会ったらいいじゃないか」\n しっかり、両方から腕を拱んで、ずるずると吉田町の河岸まで来ると、樫井と西村は、いきなり男を河の中へ突き落した。\n が――下にはボートが待っていた。黒眼鏡のからだが、蟹の穴だらけな黒い河砂の上に顛落すると、樫井と西村もすぐとび降りた。トム公もとび乗った。\n そして黒眼鏡の四肢を、ぎりぎりと隅へしばりつけるとボートは、オールの唄のどかに、鉄の橋の下を辷るように潜って行く――\n びっくりして、色を失った豆菊や若い妓はその橋の上を、今にもわっと泣き出しそうな顔をして、関内の街へ、走っていた。\n\n頓馬\n\n 火を放ければ、ぱっと、海が燃えそうだ。重油船からにじみ出る油の皮膜が、マーブルペーパの紋様みたいに薄くひろがっている。\n 赤い帆の快走船、白い帆の快走船。また、猫背なヤンコの鉄骨の上には、秋の午後の陽がとろりと舂いて、C字形の築港に抱かれた港内の海はまるで思春期の猟虎の肌みたいに滑らかだ。\n ――岬の十二天へ登って、お光さんは、港内を見下ろしながら、広東服の膝を組んで、その上へ、巻煙草を挟んだ指を放心的に乗せていた。\n「――失敬ですが」\n 先刻から、森のうしろへはいったり、社の絵馬を仰向いたりしていた洋服屋の職人みたいな鳥打帽が、その廂へ、ちょっと手をかけながら、彼女の前へ屈みこんで来て――\n「火を一つ」\n と、一度吸って消してある両切りの先ッぽを、ぶしつけに、出して来たのである。\n「火ですか」\n「恐縮ですが」\n お光さんは、わざと火のついている煙草はそのまま指に置いて、ポケットから、香港出来の蝋マッチを探って、黙って貸してやる。\n 男は、人間の小骨みたいな蝋の棒から、硫黄色の火を出して、すぱっと、いやしい音をさせて吸った。\n それを、戻しながら、\n「いい日曜ですな」\n「え......」\n お光さんは、道理で港内が静かなわけだったとうなずいたけれど、男の顔へは、一べつも向けなかった。\n「お散歩ですか」\n と、男はうるさい。\n「え」\n「どこかでお見うけしたように思いますが......あなたを」\n「そうですか」\n「ご近所ですか」\n「え」\n「山の手でしたろうか、さあ......何処でお目にかかったでしょうな」\n お光さんは、とうとう、持ち前のかんしゃくが起きてしまった。\n「うるさいわよ。君」\n 君! と来たので男はぎょっとしたように彼女の顔を見直した。\n お光さんは、犬を見るように、蔑んだ眼で、\n「――ご苦労様、吹きさらしで、張り番も楽じゃないわね。君は税関のスパイでしょう。顔に描いてあるわ。だけれど、私が、密輸入の信号をしているわけじゃないから、お生憎様ね!」\n 呆っ気にとられているのを後にして、お光さんは活溌に、石段の降り口へ向って歩き出した。――そこへトム公が駈け上って来た。トム公を見るとお光さんは、姉のように手を伸ばした。\n「どうしたえ、連中は」\n「今、黒眼鏡を引っぱッて、ここへ来るよ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「税関のスパイがいるから、ここへ来てはまずいね。どこかないかしら、ほかにいい場所が」\n「坂のナンキン墓は」\n「あ、あそこなら静かでいい、こっちへ上がって来ないうちに、ナンキン墓の方へ行くように連中へそう言っておくれ、私は、上から廻って行くから」\n 長い急な石段を、トム公が転がるように、駈け降りてゆくのを見て、お光さんは反対に、十二天の境内を裏坂の方へ歩き出した。その背なかへ、まだ先刻の頓馬なスパイの眼がこびりついているのを感じながら――\n\n菩提夢\n\n 川すじで、貸ボートを捨てた一群の愚連隊たちは、柳田商会の前でうまうまと罠にかけた黒眼鏡の男を取りかこんで、誰の眼にも、何の異様も感じさせずに、北方の通りをぞろぞろと連がって来た。\n「十二天はいけねえとよ! ナンキン墓だ、廻れ右」\n 先へ行ったトム公が戻って来て、そう告げる。\n 谷戸坂を登って、左側の高い崖をのぼると、中腹に土饅頭型の陰気な丘があった。刈られてある雑草のひろい空地の向うは、凝固土の低い杭から杭へ、鉄の鎖が垂れていて、その中には、異国で死んだ中華人の墓石が乱立している。\n ここのナンキン墓の墓番をしながら、花や香を売っている広東人の若夫婦は、たいした金が儲かるというので、その頃、在邦の清国人のあいだでは羨望の的だった。\n 墓番の若い細君は、同邦人の葬式があるたびに、必ず、楊貴妃のように盛装して施主に雇われてゆく。それは、清国式の大げさな葬式にはぶたの丸煮と共に、ぜひともなくてはならない「泣き女」の職業に。\n 銅鑼や、木鼓板や、鉦を、破れかえるほどたたきながら、よく、彼等の祭の如き輿をかこんで行く葬式の行列が、横浜の町を練ってゆくのを見る。\n 職業婦人の「泣き女」は、その葬式の先頭に立って、人力車の上でオイオイと声をあげて泣くのが商売だった。ナンキン墓の細君は、その泣くことの天才であって、ご亭主さんよりは稼ぐということである。\n その「泣き女」の細君と懇意なのか、お光さんは、家の中で立ち話をしていたが、トム公の声を聞くと、すぐに出て来た。\n「あ、来たのね、諸君」\n 捕まって来た黒眼鏡の男は、彼女のすがたを見ると、すぐに何か話しかけそうにしたが、樫井と西村に腕を抑えられて、\n「オイ、逃げると、手荒くなるぞ」\n「何も逃げやしない」\n 黒眼鏡もすこし度胸をすえたように、その手を突ッ放して、お光さんの方へ迫った。\n「ご婦人!」\n「なあに」\n「君はきのう柳田商会にいた娘さんじゃないのか」\n「そうよ、覚えているわね」\n「なんだって、無頼者を使嗾して僕をこんな所へ引っぱって来たんですか。君たちは白昼に追剥でもやろうっていうのか」\n「............」\n お光さんは、相手にならないで、笑いながら墓地の鎖を跨いだ。そして、大きな菩提樹の下から振りかえって、\n「諸君、こっちへ連れておいでよ、その黒眼鏡を――」\n ここへ来ると、愚連隊たちは、急に黒眼鏡を罪人のように小突き廻した。彼は、墓地の上へ追いあげられて、菩提樹の下に起立を命じられた。言うがままにしなければ、その度ごとに、拳骨が来るのだった。\n「誰も来やしまいな」\n と、今村がきょろきょろした。\n「だいじょうぶだよ」お光さんが言った。\n「今ね、墓番の若夫婦にたのんでおいたから......」\n「誰か寝てるぜ、あんな所に」\n「どれ?」\n 今村の指さす所へ、みんな鋭い目を向けた。墓と墓とのあいだに、ひとりの清国人が、新聞紙を敷いて昼寝をしている。いや、そこばかりでなく、よく注意してみると、あっちこっちの樹や石の蔭に、木の葉虫みたいにごろごろと人の寝ているのを発見した。その中には、日本人も交じっていた。\n「なんだろう? あいつら」\n「知らないのかえ、諸君は」\n お光さんは笑って――\n「あれはね、チイハという南京富籤を買う人間が、夢を見に来ているんだよ。――ナンキン墓へ来て昼寝をして、その夢をけんとくに富籤を買うとあたるという迷信があるのさ。......抜け目はないやネ、墓番のやつは、それでチイハ流行のこの頃、墓地の入場料をとってしこたま儲けているんだよ」\n ――話しながらポケットを探っていたお光さんの手には、いつのまにか、小さな短銃が光っていた。\n 黒眼鏡は、それを見て、顔もからだも、硬直したように、竦んでしまった。\n\n巾着ッ切\n\n ピストルが物を言うように、冷たいことばだった。\n「君」\n「............」\n 黒眼鏡は、その黒い玻璃の奥で、お光さんの顔を、恐怖にみちた目で見つめたままだった。\n「君」\n「......なんだ」\n「名まえを仰っしゃいな、名まえを」\n「僕の姓名を貴様などに告げる必要はない。そんな物を人に向けて、何をするんだ」\n「素直にしなければ、撃つのよ。空弾だと思うならば、撃ってみましょうか、見本にネ」\n 彼女は、事もなげに、菩提樹のこずえに向って、一発、実弾を放した。\n「まだ、五発あるわ」\n 今の短銃の音に、墓場のあいだに、チイハの夢占をむさぼっていた人間たちは、びっくりして飛び起きた。そしてコソコソと逃げてゆく跫音を、黒眼鏡も、お光さんも、愚連隊たちも、黙って、聞き過ごしていた。\n お光さんは、重ねて、\n「名まえは? 君の」\n「高橋」\n と、遂に、黒眼鏡もふるえながら言いだした。\n「高橋? それから」\n「高橋八寿雄」\n「住居は」\n「東京」\n「うそ。......ほんとのことを仰っしゃいな」\n「東京だから東京だって言うのに、信じなければしかたがない」\n「うそ、うそ。柳田商会の伝票へ書いてあったのは、長者町八丁目、盛心館としてあったじゃないの」\n「それは下宿先だ」\n「ご職業は」\n「木綿問屋ということも、きのう柳田の店で話していたはずだ。知っているならば、くどく聞き給うな」\n「お生憎様。君は、まずその黒眼鏡を外してはどう? そんなもので、世間がごま化されていたら滑稽だわ。ね、トム公」\n トム公は、さっきから、彼女の侍者のようにまた、今にもつかみかかりそうに、鋭い眼をしていたが、黙って、うなずいた。\n「君は、木綿問屋ではありません、ほかに本職があるでしょう。言いにくければ、私が、代弁してあげてもいい」\n「............」\n「言わないのね、じゃ、私が高橋八寿雄に代って告白しましょう。――諸君、わたくし、高橋はですね、実は掏摸でございます。うそだと思うなら、襦袢の袖をめくッて、二の腕の文身を見てください」\n 彼女の皮肉な揶揄が耳を刺すと共に、黒眼鏡は、脱兎のように逃げかけた。\n「野郎」\n「ふざけるな」\n 追いかぶさった腕が、何本も、彼の帽子、彼の襟くび、彼の袖、彼の帯をつかまえて、仰向けにひっくり返した。ゴロタ下駄やドロ靴が、たちまち眼鏡をとばし、肩を蹴とばした。\n「野郎、逃げられるものなら逃げてみろ」\n「............」\n 男は、半殺しの目にあって、腰も上げ得ないほど参ってしまった。そして、眼鏡のとれたすごい顔を、お光さんに向けて、\n「さ、殺せ。殺すなら殺してみろ。そのかわりにてめえたちも、ただはおかねえぞ、おれは東京の仕立屋銀次の身内で常ッていうんだ」\n「じゃ話はすぐに分るわ、とんだ失礼をしたけれど、君が、ここまで来ても口を開かないから悪いのよ。ほんとなら警察へ突き出されたってそれまででしょう。それを地道に訊こうというのに、シラを切るんだもの」\n「覚えていやがれ、畜生」\n「まだ怨んでいるのね、君は。――君は勘ちがいをしているのよ、私たちは何も、好んで君を痛めつけたわけじゃないわよ、そこに、相当な理由があるから敢えてお体を拝借して来たんだわ」\n「なんだ、いッてえおれに聞きてえというのは」\n「これよ」\n お光さんは、金剛石の指環を示して、\n「ご存じ?」\n「知っている!」と、掏摸の常は、もう捨て鉢だった。\n「船渠会社の構内で掏ったんでしょうね、あの、仲通りの高瀬商会の夫人お槙さんのオペラバッグから」\n「それがどうしたって言うんだ」\n「有難う......。それさえ分れば、ここに泛かび上がる人があるのよ。トム公、おまえこの巾着ッ切さんに、よく事情を話したらいいよ。こういう人は、物分りがはやいのだから」\n トム公は巾着ッ切の常に向って、亀田がその冤罪をうけて、監獄へはいっていることを話した。また、その亀田には五人のあわれな家族たちがあって、飢えに瀕していることも話した。\n トム公の話の半ばごろから、巾着ッ切の常は首を垂れてしまッて、社会の最大悪を犯したように、ただただ恐れ入っていた。そして、こんな言葉をつけ加えた。\n「実あ、あっしも、まさか船渠の中でそんな仕事をしようとは思わなかったのですが、横浜へ稼ぎに出て、ろくな仕事もなく、飯にも困ってしまったので、ちょッくら、かんかん虫ッてやつになって、一日、あそこへ働きに行ったんです。――すると、あの騒ぎでしょう。おまけに、あっしの鼻ッ先へ、オペラバッグが飛んで来たので、ごたごた騒ぎに、目ぼしい金属品を三ツ四ツ抜いたんですが、帰りとなると、門衛や私服が出口に詰めこんでいるので、しまった、と思ったので側にいたのろまそうな男のポケットへ品物を筒抜けさせて、指環だけを、ここへ」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 三人のそんな様子、小枝のよろこびかた。マルセーユでうちのものと一緒になってからきょうで四日目の伸子には、およそのいきさつが察しられるようになった。伸子は、\n「お早うございます」\n あっさり父親に挨拶して、多計代のそばへよって行った。\n「いかが? お眠れになって? つかれは?――ゆっくりしてごらんになると、やっぱり相当でしょう?」\n「ああ、お早う。よく来られたね」\n 素子に向って多計代は、\n「ごめんこうむりますよ、脚がむくんでしまって痛いもんだから」\nと、椅子に足をのばしている云いわけをした。\n「どうぞ、どうぞ」\n 多計代は、髪を結ったばかりでいるけれども、泰造も和一郎もきちんとした服装だった。朝飯はすまされ、コーヒー道具が、壁ぎわのテーブルに片よせてある。\n「さて、それじゃ伸子も来てくれたから、わたしはそろそろ出かけますよ」\n 泰造が、そう云ってベッドから立った。多計代は、椅子の上に足をのばしたまま、視線を泰造の動きにからませて、\n「あなた、それで、何時ごろお帰りです?」\nときいた。\n「早めに帰っていただかなけりゃ。豊原さんたちのお迎えが何時ごろ来るのか、わたしは伺っていませんよ」\n「大丈夫だ、夕方までには帰ります」\n 泰造が控間で身じたくして出てゆくと、多計代は、\n「さあ、あなたがたも出かけたらいいだろう」\n 不機嫌に窓ぎわに立っている和一郎に云った。伸子が日本にいたころの和一郎は、美術学校の最上級生だった。この春卒業して、父の事務所につとめはじめた。和一郎は、若い良人らしく大人びた。和一郎は、純白のカラーの上に、神経質な口元をむすんで、返事しない。\n「だれもとめてやしないんだから、出かけたらいいじゃないか。小枝さんをごらんなさい。もうさっきからすっかり支度ができて、お待ちかねですよ」\n 多計代の云いかたには、小枝のために、伸子を苦しくさせる響きがあった。きかないふりをしている小枝の、おとなしい顔が、案の定こころもち赧らんだ。小枝は、ちょっと居場所のないような身のこなしをしたが、\n「おかあさま、お召をそろえましょうか」\n つとめて、話題をかえるように云った。\n「どれをだしましょう」\n「そうねえ、夕方までは、どうせどこへも出ないんだから何でもいいけれど。――あの裏葉色の裾模様はどこに入れたっけ」\n「さあ。――船で召さなかった新しい方のでしょう?」\n 小枝はこまったように、\n「大トランクの方だったように思いますけれど――見ましょう」\n 大トランクというのは、控間の方に置いてある鋲うちの入れものの方だった。\n 伸子は、小枝について控間に出て行った。そして、正直に自分でトランクの鍵をあけようとする小枝をとめて、大きい声で、\n「和一郎さん、ちょっと来て」\nとよんだ。\n「鍵がうまくまわらない」\n 和一郎が来て、トランクの鍵はもとよりすぐあいた。伸子は、多計代にきこえない小声で和一郎に云った。\n「あなたまで不機嫌にしていちゃ、小枝ちゃんはどうしていいかわかりゃしないことよ。――出かけなさい。ひきうけるから。――いい?」\n 和一郎は、\n「うん」\nと云った。\n「夕方ちょっとかえっていらっしゃいね。そして、おかあさまたちを送り出してから、みんなで夕飯に出かけましょう」\n「ああ」\n「さ、行った方がいいことよ」\n 和一郎はそのまま控間から出て自分たちの部屋へ帽子をとりに行った。しかし、小枝はそれについて一緒に行こうとせず、一人だけのこって大トランクにかがみこみ、つまれた衣類を一枚一枚丁寧にわきへどけながら、云われた着物を見つけようとしているのだった。\n「これだけの中を、ほじくりかえすのじゃ、とてもだわ。いいわよ、小枝ちゃん、わたしがあとでゆっくり見ておいてあげるから」\n 小枝の気づかいがひどくて、伸子は見かねた。同時に、多計代との間にそういう習慣をつくり出してしまった和一郎や小枝その人に対して、はがゆい気持が湧いても来る。伸子はこっちの部屋から、\n「それでいいでしょう?」\nと寝室の多計代に声をかけた。\n「ついでに、キモノ展覧会をしていただくわ。よくこんなにもって来られたこと」\n そこへ和一郎が帽子をもって入って来た。\n「そら小枝さん」\n こんどは多計代が、和一郎の機嫌をとり結ぼうとしてトランクのところにいる小枝をせきたてた。\n「あなたも早く帽子をかぶっておいでなさいよ。和一郎さんは、もうそれで出られるんだろう?」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「ああ」\n「もういいから。――小枝さん」\n やっと若い一組が外出した。\n 多計代は、\n「やれ、やれ、相もかわらずひと騒動だ」\nと椅子にもたれこんだ。\n「小枝さんてひとは、ほんとに何をさせてもお姫様のなぎなただからねえ」\n 甲斐性がなくて、ずるずるしているというわけらしかった。伸子には、あんなに美しく、樹のぼり上手と云われていた女学生の小枝が、嫁という立場では全く自信をなくして、おどおどしている様子ばかり目にはいるのだった。\n ひとやすみしてから、多計代は化粧台に向きなおってゆっくり化粧にとりかかった。毛のさきをぷつんと短くきった細筆のさきに桐をやいてこしらえた軽い墨をつけて、両眉をかわりばんこにもち上げて、口をすぼめるような表情で鏡を見ながら眉を描く手つき。手鏡を顔ちかくよせて、仕上りをしらべるまじめな顔つき。実の娘の伸子の前では、多計代ものんびりと一人きりのように化粧に専念している。伸子も、何年ぶりかで母の化粧するのをわきから見ていて、その家庭的な情景を珍しく、ある興味をもって意識するのだった。\n 素子はさっきから、ぎごちない空気のみなぎっている寝室をさけて、控間の露台に出て行っていた。そこからはディエナ通が見おろせた。つや子も素子について、そっちにいる。\n そばでみると、多計代の髪は随分白くなっていた。それを、上から黒チックで黒くして、前髪のつまった束髪に結っているのだったが、黒チックは多計代の形のいい額の生えぎわをきたなくしているようだった。伸子は、\n「おかあさま、もしかしたら、そのチックやめてみたら」\nと云った。\n「地のまんまの方が立派じゃないかしら。血色のさえた顔色をしていらっしゃるんだから、かえって引立つと思うけれど......」\n「さあねえ......」\n 伸子のいうことには賛成できない風で手鏡を見ていた多計代は、一遍化粧台の上においた眉筆をまたとりあげた。そして、両方の眉のはじまりのところを、すこしずつ強く黒くした。そうすると、眉に起筆のアクセントのような調子がついて、いわばその不自然さが多計代の若いときからの美貌の特色をはっきりさせるのだった。\n 古びた紅いカーペットをしきつめて寝室のごたごたしたなかで化粧する多計代の手もとに気をとられながら、伸子の心の底は何かの不安――どうかしなければならないことの予感にみたされているのだった。\n\n三\n\n 七月の晴れた朝のマルセーユの港で、まだ船からおりずにいるうちのものの姿を見たとき、特に父の泰造の顔とやつれきった多計代の様子を見たとき、伸子の心はしめつけられて、ほんとにみんなのために頼りになり、役に立たなければならないと思った。みんなの必要が、たとえ伸子としてどう判断されるにしろ、それを批評するよりは実際的に解決してゆく力とならなければならない。それは、この長い旅行をとおして泰造の負担を軽くすることでもある。伸子はそう決心して、マルセーユのホテル・ノアイユの一晩を、早くから横になった多計代のベッドのわきにいて過したのだった。\n その一晩で、佐々の全家族のこんどの旅行のむつかしさが、伸子に、はっきり感じられた。伸子をおどろかしたのは、みんなの心もちが、なぜだかひどくくいちがっていて、それがむつかしく入りくんでいることだった。長い長い航海のあげくマルセーユへ上陸したのだから、一家一同くつろいで、しんみりと、この一年半わかれていた間におこったことが話されるだろう。伸子はそう期待した。保のことを話して、多計代はどんなに新しく歎くことだろう。あるいは、伸子をせめるかもしれない。伸子はそれをおそれた。伸ちゃんの顔を見たら、もうわたしは動きたくなくなった、と云われることさえ想像した。船の上に見た多計代は、そのくらい憔悴していた。\n ホテル・ノアイユへ着いてひと休みし、和一郎と小枝とが自分たちの室へひきとってゆくと、多計代はそれを待っていたように、\n「お父様、すみませんが、あれを出して下さいまし」\nと、泰造に云った。そんなにいそいで出さなければならないあれというのは何だろう。伸子はそう思って、泰造が背広の背中をこちらに向けて、黒皮のボストン・バッグをあけるのを見守っていた。泰造は、銀色っぽい錦のきれで包まれた小型の壺の形をしたものを両手の間にもって、そこに立ったまま、\n「どこへ置くかね」\n クリーム色のびろうどで張られた長椅子の上にいる多計代にきいた。\n「さあ」\n 多計代は、港町のホテルらしく華美に飾られている室内を見まわしていたが、\n「すみませんがそこへ置いて下さいまし」\n 鏡のついている高い炉棚の前をさした。それは多計代がその上に半ば横になっている長椅子の後方だった。泰造は、多計代のたのみのままに、銀色の錦の包みものを両手で、恭々しくそこにのせた。\n 伸子は、唇の色が変ってゆくような気持になった。それは保だということがわかったのだった。その銀色の錦のきれにつつまれた小箱は保の一部分なのだ。思いがけない衝撃で、伸子はかけている椅子の上で体じゅうがこわばった。そして目の中に、苦い汁が湧いた。伸子の心に保は生きている。――死んでしまったいとしい保として、生きている保よりなお哀切に生きている。八月一日という日は、伸子にとって、いまもなお平静に感じることもきくこともできにくい日づけである。日本から来たうちのものみんなの心の中に保もはいって来ていると思えばこそ、伸子はその心と結びつこうとする自分を実感し、それに対して誠実であろうとしているのだった。\n 痛切に愛しているものが、どうして、その愛するものの骨をもち歩くことに耐えるだろう。保に関するちょっとしたヒントにさえ、ほとんど肉体的な鮮やかさで死んでも生きている保を感じて、さむけだつような伸子に、ホテルの炉棚の上の骨箱との対面は、あんまりだった。伸子は、暗い刺すような視線でその錦の箱を見すえたまま、息をつめ、頸をこわばらしたまま声も立てなかった。伸子は、マルセーユのホテルでひとことの前おきなしに保の骨を出しかけられようとは考えてもいなかった。\n 多計代は口をきかない。泰造もだまっている。ものを云えず、体もうごかせないようになった娘の自分を見つめて、ふた親が沈黙しているということにさえ、伸子は、しばらく気づかなかった。我にかえって、その異様な雰囲気をさとり、それが、多計代にどううけとられているかを直感したとき、伸子は両手で顔をおおいたかった。\n 多計代は、伸子をためしたのだった。伸子は、はっきりそう感じた。錦のつつみものが保だとさとったとき、伸子はそれにすがって泣きでもするだろうか。あるいは椅子から立ってお辞儀でもするだろうか。そうならば、それは多計代に伸子のやさしさが示されたことであった。だが伸子は涙をこぼさず、ただ蒼ざめて、こわいこわい顔つきになったばかりだった。そして、それについて、ふた親の方から何も云わないとおり、伸子も何も云わない。多計代は、伸子のうけた衝撃について、全く理解しないのだった。伸子に、錦のつつみものの内容が、どんな苦痛を与えたか。多計代はそれを理解しなかったばかりでなく、期待したような表現で愁歎を示さない伸子を、やっぱり冷酷な娘と思ったことが伸子に、ひしひしとわかった。冷酷な姉になんか保は頭を下げて貰うに及ばないのだ。伸子は、多計代の眼のなかに、言葉となってそう光っている光をよみとった。一層伸子を苦しい思いにさせたのは、その瞬間の反撥の火花のなかで、多計代の結論が目に見えることだった。多計代の考えかたは、きまっていた。ロシア――ボルシェビキ――伸子の思想――と。多計代は、突嗟にそれを口に出して議論するだけまとまった反撥のよりどころを伸子に対してもっているわけではないのだった。\n 錦のつつみもの、そのものから直接にうけた衝撃と、それをきっかけにはたらいた多計代の態度への苦しさとが加わって、伸子はかたくなな心になった。保へのいとしさから、伸子がそっと錦のつつみの上に手を置くことがあるとすれば、それは誰もいないとき、誰も見ないとき、そういうときだけされることなのだった。\n 和一郎と小枝にくっついて行っていたつや子が、室へもどって来た。ドアを入りしな、つや子は素早い視線を煖炉棚へ向けた。そして、そこにのせられているものを見ると、強いてそれを見なかったような、そんな表情を少女の顔の上に浮べた。\n 伸子は感じるのだった。この様子でみればつや子も、おそらくは和一郎も小枝も、心のなかではこの錦の包みものを重荷として感じているのだ、と。泰造さえ、あるいは、こういう形で保をつれまわることを、多計代の満足のためにだけうけ入れているのかもしれなかった。多計代をのぞく佐々のうちのものは、みんな目前に生きていて、あるときは自然に、あるときは軽率に生活を肯定してゆくたちの者たちなのだった。\n あくる日の朝、パリへ向けて出発するまで一昼夜たらずの間に、伸子が、うけた印象は非常に複雑だった。複雑になる根柢には、多計代の健康が弱っているという事情があった。それに加えてもう一つの原因があった。それは多計代が、迎えに来た伸子をいれて目に見える一行六人のほかに、見えないもう一人保という存在をはっきり自分の感情のなかにおいて、旅行に出て来ているという事実だった。\n 夜ねる前に和一郎と小枝の部屋へ行ったとき、伸子は、\n「おかあさま、船のなかでも、あの錦へつつんだもの、ああやってずっと飾っていらしたの?」\nときいた。小枝は、若い良人である和一郎の方を見ながら、\n「そうなの」\n 当惑そうに答えた。\n「お兄さまは、うんといやがってるんだけれど......」\n こんどの旅行に出る二ヵ月ばかり前に、思いあっていた従兄である和一郎と結婚したばかりの小枝は、こまかい事実を知らないだろうけれども、去年の八月、暑中休暇のがらんとした動坂の家で、姿の見えなくなった弟の保をさがして、父の泰造と二人、竹藪のなかや古井戸をしらべたのは和一郎であった。土蔵の地下室に保を発見したのも、そこから運びだしたのも和一郎であった。和一郎の記憶は錦のつつみを見るごとに刺戟され、それは新婚の彼にとって苦痛であることが、伸子には同情をもって思いやれるのだった。\n「おっかさん一人で旅行しているんなら、すきなとおりにしたらいいのさ。でも僕たちは、やりきれやしない。つや子だって、あれから、ずっと妙になっているのに」\n 和一郎のそういう言葉の調子には、船にのっていた四十日の間に、たまって来ている感情のくすぶりが抑えようもなく響くのだった。\n「パリへ行けば、あなたがたの逃げ場もあってよ」\n 深い話をさけて、伸子は冗談のように云った。ノアイユでの午後に見られたいくつかの情景――たとえば、マルセーユ市街見物に泰造と和一郎が出かける。小枝もつれて行こうかどうしようかという場合のごたつきかた、それからホテルの食堂での晩餐のとき多計代が小枝にもとめたこまかいサーヴィスの模様。小枝がこんなにも多計代の気にいっていないという発見は伸子を困却させた。二十一になったばかりで苦労を知らず、人につかえた経験のない小枝が、伯母であって姑という関係におかれるようになった多計代に対して、どう親愛をあらわして行ったらいいのか、気おくれがさきに立って、自分からきっかけがつかめないでいる様子を、多計代はじりじりしたまなざしで、追っているようだった。\n 晩餐後、伸子は、父の泰造とホテルのロビーへ出て行った。遠洋航海の果てにある港の都市のホテルらしく、ロビーは華美で逸楽の色彩にあふれている。そのころ流行のスペイン風のショールをむきだしの肩にかけたりして、それと見まがうことのない身なり化粧の女たちが、多勢あちこちにたたずんだり、ぶらぶら歩いたりしていた。泰造と伸子とは、そのロビーの植込みのかげにひっこんだしずかな一隅で、トマス・クック会社の店の男と明日のパリ行列車の切符についてうち合わせた。伸子は、船で一緒だった人々と別れて、六人もいるうちのものだけ、特二等という車室にすることを力説した。トマス・クックの店のものの説明によると、その車室は、マルセーユ‐パリ間だけに接続されるもので、アメリカからの観光客のために、プルマン式に、開放的につくられている車室だった。きょうマルセーユについた外国船はカトリ丸一艘だから、あしたその車室もすいているというのだった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「無用だ。すでに変心した貴公の言葉など聞く要はない。通せ功刀!」\n「通さぬ......東寿どの」\n 伊兵衛は振返って、階上へ叫んだ。\n「先生を伴れてお立退きなさい。ここは拙者が引受けます」\n「うぬ裏切り者が!」\n 十郎兵衛が喚きざま抜討ちをかけた。それより疾く伊兵衛は身を翻して階段の半ばまで跳退いていた。十郎兵衛は、頭上へ打下される太刀を避けようともせず、そのまま足を踏み鳴らして階段を駈け登る。\n「功刀は拙者がもらう。大弐を逃すな」\n と叫んで詰寄った。\n 声に応じて、後にいた三人が、裏手へとびだして行くのを見ながら、伊兵衛は大弐主従のいた部屋の前まで退って来た。\n「山県どの、東寿どの」\n 声を掛けたが返事がなかった。\n ――逃げてくれた。\n と思う、そのはなへ、十郎兵衛が絶叫とともに斬込んだ。しかし大剣は空を截って障子を裂き、伊兵衛は裏梯子のほうへ走っていた。\n ――大弐どのを落さなくてはならぬ。しかし彼等を傷つけることはできない。\n「待て、功刀!」\n という声を背に、伊兵衛は裏梯子を滑り下りると、逃げ惑う宿の人々のあいだをぬけて、裏手へとびだした。\n 先に裏へ廻った三名が、街道のほうへ走って行く姿がちらと見えた。伊兵衛は宿の丹前を着たなりである。裾が足にからまるし広い袖が邪魔だった。しかし懸命に走ってすぐ三名に追いついた。\n「待て、待たぬと斬るぞ」\n 脱兎のように、追い越しておいて向直ると、伊兵衛ははじめて大剣を抜いた......伊兵衛の腕を知らぬ者はない。きらりと闇に大剣が閃いたとき、三名はぴたっと足を止めた。しかしすぐにそこへ、十郎兵衛と他の二人とがはせつけて来た。\n「かまわぬ、斬って通れ」\n 十郎兵衛が叫んだ。\n「よし斬ってこい」\n 伊兵衛は左手に持った鞘を投げながら応じた。\n「話しても分らぬやつはこっちも容赦はせぬ。だが一言だけ云っておく、おれたちは間違っていたんだ、ひと口には云えない。言葉で説明することはできない、けれども山県どのを乱臣と見たのは拙者の誤りだ。小幡一藩の興廃から見たらあるいは禍根となる人かも知れない。しかしそれは山県どのの乱臣であるためではない。おれはいまそれを説明することができない。おれ自身がもっとよく知りたいんだ」\n「問答無用だ。功刀、きさま小幡の藩士として、この刀が受けられるものなら受けてみろ」\n かっと喉を劈く声とともに、十郎兵衛が体ごと突込んで来た。伊兵衛はわずかに体を躱した。そして十郎兵衛が烈しくのめって行くのを見たとき、\n ――正しき道。\n という言葉がちらと頭へうかんだ。\n ――もし朝廷のお召があったら、家を捨て身を捨てて、即座に京へはせ上る覚悟があるか。\n そう云った大弐の語気が、まざまざと耳底に甦ってきたのだ。幕府制度を固くするためにのみ、歪められてきた武士道、忠義を唱えながら、そのもっとも本質たる朝廷への精忠という意義を蔽い隠してきた武家道徳、その正体が朧げながら伊兵衛には分りはじめたのだ。\n「よし来い十郎兵衛」\n 伊兵衛は決然と叫んだ。\n「おれはいま小幡藩士の功刀伊兵衛ではない。もっと大きな、武士が武士として踏むべき道に立っているんだ。一人もここを通さんぞ」\n「かかれ! たかが伊兵衛一人、斬って通れ」\n 十郎兵衛が雪を蹴って殺到した......降りしきる雪の中に、白刃が条を描き、蹴立てる雪が煙のように闇を染めた。\n\n四の四\n\n 来栖道之進が江戸から帰って来たのは、それから七日目のことであった......同行した斎藤孫次郎はそのまま自分の家へ帰ったが、道之進は旅装のまま津田邸を訪れた。\n 頼母は居間で待っていた。\n「御苦労であった」\n「思わぬことができまして帰国が後れました」\n「思わぬこととは、なにか......」\n「山県先生はどうなされました」\n 挨拶もそこそこに、道之進は声をひそめて云った......旅の疲れもあろう、しかし彼の蒼白な顔にはなにやらもっと重大なものがひそんでいた。頼母は訝しげに眉を寄せて、\n「山県先生はあれからすぐ御出立になった。もっともそれについて少し困ったことはできたが」\n「なんでございます」\n「功刀伊兵衛が紙屋十郎兵衛と若手の者四五人を相手に、板鼻の宿で間違いをしでかしたのだ。仔細はよう分らぬ。十郎兵衛と若手の二人が重傷し、伊兵衛はそのまま立退いてしまったが......人を遣わして調べさせたところによると、伊兵衛は山県先生をお護り申して行ったようすだ」\n「伊兵衛が、県先生を......」\n 道之進にはまるで謎のような言葉だった。初めて講演を聴いた夜、伊兵衛は大弐の説を罵倒して、\n「山県どのはいまに殺されるぞ」\n と云った。国を危くする説だと云った。その伊兵衛が、こんどは逆に大弐を護衛して行ったという。\n「しかし、それはなにかの間違いではありませんか」\n「間違いではない。紙屋たちが山県先生を斬ろうとするのを、伊兵衛が邪魔をしたので間違いができたらしい。どうしてそんなことになったか、わしにもまるで仔細は分らぬが、宿場の噂を集めてみるとそうなるのだ」\n 頼母はそういう間ももどかし気に、\n「それで、そのもとの思わぬことができたというのはなんだ」\n「江戸の情勢が意外にさし迫りました」\n 道之進はぐっと身を乗出した。\n「県先生に対する幕府の探索は、網の目のように行渉っております。学問の上からは松宮主鈴どのが主となって働き、身辺のことは大目付が八方へ手を廻しているのです......御存じかも知れませんが、先生の御門下に藤井右門と申される御仁がおります」\n「評判だけは聴いている」\n「その右門どのが江戸新吉原で刃傷沙汰を起され、公儀の手にお召捕りとなりました......幕府が今日まで、大弐どのに手を着けることができなかったのは『尊皇の大義』を説かれるところに在ったのです。この説が根本であるため、京へ憚って手が出せなかったのです。しかし右門どのが刃傷沙汰で召捕られるとともに、幕府は一味捕縛の決心をしたのです」\n「なんのために、右門どのの刃傷が先生に累を及ぼすのか」\n「理屈はどうにでもつきましょう。要は県先生を奉行所へ曳く口実さえできればよいのです。そしてその手筈はできたもようです」\n 道之進は声をひそめて続けた。\n「御家老、ことここに及んでは万事休しました。県先生との一切の関りを断つべきです。一刻もなおざりには相成りません。もし処置が後れますと御家老の位置は水泡に帰します」\n「わしの位置?......わしの位置などがなんだ」\n「江戸表に於ては、少将さまはじめ、松原郡太夫どのらが蹶起しようとしております。ここは先手を打って御家老より県先生を直訴あそばすが必勝の策と存じます」\n「道之進、なにを申す」\n 頼母は唖然と眼を瞠った。\n「わしに......わしに先生を訴えろと云うのか」\n「そのとおりです。少将さま御一党の先手を打つのです。さすれば御家老の御身分は今日よりさらに強固なものとなるは必定です」\n「分った。そちの思案はよう分った」\n 頼母は惘然として云った。\n「そうか、今日までそちが県先生に師事するごとく見せたのは、江戸家老やわしが藩政を執っていたからだな。そちは県先生に師事したのではなくて、藩政を執る権力に追従していたのだな」\n「御家老、わたくしはお家のおためを思うばかりです。御家老の御身分が御安泰であることを願っているだけです」\n「そのために県先生を幕府へ訴えよと申すのか。さような不義無道を犯してまで、お家を安泰にしおのれの身を全うせよと云うのか......帰れ、もの申すも穢わしい。帰れ道之進」\n 道之進は黙って頼母の眼を見上げた......蒼白めた顔に、剃刀のような双眸が鋭い光を放っていた。彼は静かに座を滑ると、"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「お怒に触れまして恐入ります」\n と平伏しながら云った。\n「なれど、いまいちおう押して申し上げます。御家老の思召がどうありましょうと、幕府の方針はすでに決定しております。少将さまはじめ、松原一味はかならず県先生を訴えるに相違ございません。いずれにしましても、先生の運命は明白でございます。ここは御家老の御意志を決すべき、大切な場合と存じます」\n そして道之進は退座して行った。\n\n五の一\n\n「もし、もし......」\n 闇の中から、あたりをはばかるような呼声であった......伊兵衛は油断なくあたりに眼を配りながら足を停めた。\n「誰だ、呼んだのは拙者か」\n「おおやっぱり、旦那さま」\n そう云いながら、路傍の木蔭からとびだして来たのは家僕の五郎次だった。\n「やっぱり旦那さまでございましたか、お待ち申しておりました」\n「こんな処で待っていたとはなぜだ」\n「お留守のあいだに大変なことになりました。大奥さまもお嬢さまも、お屋敷にはいらっしゃいません。旦那さまにも横目役所から手配がきております」\n「そうかやはりあれが禍になったか」\n 板鼻の宿で山県大弐を救うため、紙屋十郎兵衛はじめ数名の者に手傷を負わせた......そうならぬよう、ずいぶん苦心したが、ついに三四人に手を負わせてしまった。\n ――しかし私怨ではない、大弐どのを救うためにしたことだ。津田国老には分ってもらえるであろう。\n それまで大弐を刺そうとして、反対に盲無念のために討止められた人々は、津田頼母が仔細なく片付けたのを知っている。だからこの場合も、むろん国老がなんとか後始末をしてくれるだろうと、考えていた。そう考えたから、すぐ帰るよりは、少しほとぼりをさましてからのほうがよかろうと思い、また一方では、もっと深く大弐の学問に触れたいという希望もあって、二十日あまり一緒に甲州路の旅をともにして来たのであった。\n 大弐は展墓のため、甲斐の国巨摩郡篠原村の故郷へ帰るのだった。しかしそれは同時に、故郷の人々と今生の袂別をする隠れた意味ももっていたので、篠原村では十日あまりも滞在し、有士のために両三回ほど講筵も敷いた......伊兵衛は甲斐路の途上と、篠原村に滞在しているあいだに、大弐の思想をかなり精しく聴くことができた。そして、彼は生れ変ったように、明るく大きな視野を与えられ、国体と臣民との本来のつながりをしかと掴んで、大弐と別れて来た。\n 武家政治を安泰にするための道徳、かって至上律と思っていた狭い武士道から解放されて、大きな正しい道をみいだした彼は『今こそ本当に生きる』という強い自覚をもって帰ったのだ。\n 母や妹のことは、国老が始末をしてくれるものと信じていたし、自分も帰藩したら、改めて来栖道之進とともに、国老の新政のために身を投げだして働こうと考えていた......ところが、いま家僕の言葉を聞くと母や妹は屋敷から身を隠したらしいし、自分にも横目役から追捕の手が伸びているという。これはいったいどうしたことなのか。\n「それで、母上はどうしておられる」\n「とりあえずわたくしの実家へお匿い申し上げました」\n「おまえの家は日野の在だったな」\n「鮎川の向う岸で川治と申すところでございます。ここからは二里あまり、すぐに御案内をいたしましょう」\n「いや待て......そこは安全な場所だろうな」\n「はい、御領分外でございますから、小幡の小役人ははいれまいと存じます」\n「よし、それではおまえ先に帰ってくれ」\n 伊兵衛はきっと夜空を見上げながら云った。\n「拙者が無事に帰ったこと、間もなくお眼通りするということをお伝え申すのだ。明日はきっとまいるから」\n「でも旦那さま、もしや城下へおいでなさいますのでしたら」\n「拙者のことは心配するな。母上への伝言を忘れずに、行け、闇夜で道が危い、くれぐれも注意して行くのだぞ」\n「でも......旦那さま」\n 気遣わしげな家僕の声をあとに、伊兵衛は城下への道を足早に急いだ。\n 来栖を訪ねようかと思ったがまず国老に会うべきだと考え直して、裏道伝いに津田邸へ向った......まだ宵の八時頃であったが、雨催いの闇夜で、忍ぶには屈竟である。\n ――玄関からは訪ねられない。\n それは覚悟していた。\n 残雪が、斑に闇の小径の標になってくれた。伊兵衛は遠い人声や、犬の気配にまで注意しながら、やがて津田邸の裏手へ辿り着くと、いつか大弐を覘って忍び込んだ心覚えの場所から、巧みに邸内へと身を躍らせた。\n\n五の二\n\n「......誰だ」\n 障子にゆらりと人影が映って、低く呼びかけながら窓のほうへ近寄って来る。\n 津田頼母の声だった。\n 伊兵衛は丸窓の障子へ身をすり寄せるようにしながら声を忍ばせて、もういちど名乗った。\n「功刀伊兵衛でこざいます」\n あっという低い驚きの声が聞えた。\n「声を立てるな、いま人払いをして来るまで、そのまましばらく待て」\n 囁くように云って、頼母は足早に向うへ去ったが、間もなく戻って来ると、廊下のほうの雨戸を開けて手招きをした......伊兵衛は敏捷に走って行くと、草鞋を脱ぎ、手早く足の汚れを押拭って上へあがった。\n「......こっちがよい、まいれ」\n 頼母は手燭に灯を移し、先に立って渡り廊下から望翠楼の階上へと案内して行った......そこはかつての夜、大弐と別宴を催したところで、東寿が弾じていた琵琶の音色は今も伊兵衛の耳にまざまざと残っている。\n「いや、挨拶はよい」\n 燭台に灯を入れると、頼母は待兼ねたように膝を乗出して云った。\n「気懸りなのは山県先生のお身上じゃ。先生は御無事か」\n「はい、甲斐のお国許まで、無事にお見届け申してまいりました。御家老......拙者板鼻にて家中の者を傷つけましたことは、山県先生をお救い申すためのやむを得ぬ手段でございました」\n「それは分っている。しかし、どうして先生をお救い申す気になったのか。聞くところによると、そのもとは先生を乱臣賊子だと申していた一人でなかったのか」\n「いま考えますと、まことに身の竦む思いでございますが、甲斐への旅中と、篠原村に滞在するあいだ先生のお教えを受けて、いろいろと発明いたしました......それで」\n と伊兵衛は膝を正して云った。\n「今後は道之進ともよく談合のうえ、微力ながら藩政御改革のために、一身をなげうって御奉公を仕りたいと存じます」\n「......なんと申して、その言葉に答えたらいいか」\n 頼母は急に力の抜けたさまで眼を伏せた。\n「なんと云ったらいいのか、功刀、遅かったぞ。わずかの間になにもかも変った」\n「御家老......」\n「山県先生が幕府の手にかかるのは時日の問題となった。わしの藩政改革に反対する一味の者は、すでに幕府へ訴状を出してしまった。万事挫折だよ、功刀」\n「訴状とはどのような訴状です。先生を訴える理由があるのですか」\n「幕府顛覆の謀反ありと称したのだ。この点だけなら先生は弁明をなさるに違いない。しかし当藩へ講演に見えられたとき、兵法問答のうえで江戸城攻略と、碓氷峠を中心にして軍略を述べられたことがある。むろん......これは先生の師事する者だけ集ったおりのことだし、問答の例として述べられたのだが、それを筆記した者があって訴状に精しく認めて出したのだ」\n「先生に師事する者だけの集りであったら、外へ洩れるようなことはないと存じますが」\n「かつては師事し、先生の思想に傾倒していると見せながら、じつはそうでなく、おのれの出世立身のためそうしていた者があった......その者が事態不利とみて寝返りをうったのだ」\n「そんな人間が......いや、いちどでも先生の説明に耳を傾けたことのある人間の中で、そんな卑劣なことのできる者がおりましょうか」\n「功刀......そのもとは帰ってすぐここへ来られたのか」\n 頼母はふいに別なことを訊いた。\n「は、途中で家僕に出会い、母どもの在所だけ知れましたのでとりあえずここへお伺い申しました」\n「では母御にはまだ会っていないのだな」\n「まだ会いません」\n「じつは来栖からわしのもとへ......」\n 云いかけたが、舌が鈍るらしく、ちょっと言葉を切ってから続けた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "石川 はは、それはあなたの焼餅半分の邪推だ。社長はそんなチッポケな人物じゃないですよ。\n浜子 へっ、そりゃあね――\n鈴 あのう、奥様......(障子の内の二人が、ピタリと黙る)\n浜子 ......なんだえ鈴や?\n鈴 お客様が見えたんですけど、なんですか柳沢さんとか言う、田舎の方のようですけど――\n浜子 横田のお客さんだったら、今おりませんからと、そう言いなさい。\n鈴 いえ、あの、黒田さんにとおっしゃいまして――\n石川 え、黒田?(立ってガラリと障子を開けて出てくる)黒田に会いたいと言うのは変だねえ? 用事は、それで?\n鈴 いえ、まだそれは伺いませんけれど――\n石川 よし、私が行って見よう。(ドシドシと歩んで玄関の方へ。女中もそれに従って行く。マイクも)......やあ、いらっしゃい。\n金吾 ああ、これは――\n石川 柳沢さんと言うんですか? 黒田という人に会いたいそうだが、ここは石川で、何かのまちがいじゃないかね?\n\n\n(浜子も玄関に出て来る足音)\n\n\n金吾 でも番地がこちらさまなもんでやして。わしは信州の南佐久から上京して参りやした――\n石川 ああ、野辺山の黒田さんの別荘の管理をやっている――? 以前、私も社長について行ったことがある。それがしかし、急にどうしてここに――?\n浜子 どうしたの、この人?\n金吾 春子さまから手紙が参りやして。所がこちらになっていやすんで。\n浜子 おっほほほ!(だしぬけに哄笑する)ははは! なんてえ事なの! そりやあんた、婆やの春のことじゃないの。はは! 春子さまか、笑わせるよホントに、どうしたのあんた!\n金吾 はい、いえ、私あその方にお目にかかりたいと思いやして――\n浜子 (笑い声を不意に引っこめて、どなりつける)冗談じゃないよ! 飯たき女中などに逢いに来るのに、えらそうに玄関から来る人があるかね! 人を馬鹿にして。台所口の方へ、おまわり、失礼な! 大体あの春やはこないだ出て行ってもらったからね。もうここの内にも居やあしませんよ。さあさあ引きとって下さい。いくら田舎者の物知らずと言っても程があるよ。鈴や、玄関はちゃんとしめて、波の花でもまいといて!\n\n\nたち切るようにギー、ドシンとドアがしまる音。それを背にションボリと門を出て行く金吾の足音。遠くで市内電車の響。\n\n\n鈴 ......(カタカタと下駄の音を小走りに追いかけて来て)あの、ちょっと!\n金吾 あ、さきほどは失礼いたしやして。\n鈴 すみませんでした。黒田さんなどとおっしゃるもんですから気が附かないで。春やさんなら、四五日前に、もとの御主人とかで妙な方が訪ねて見えましてね、それが奥様の気にさわって直ぐに出て行けとおっしゃって、春やさん出て行ったんです。ちょっとお知らせしようと思って。\n金吾 そりゃどうも御親切さまに。で、春子さまはどちらへおいでになったんでやしょうか?\n鈴 さあ、私よくは知らないけど、いつか春やさん言っていたわ、烏森の小倉という置屋さんに娘がいるとかって、なんだったら、一度そこへ行って聞いてごらんなさいな。\n金吾 娘というと敏子さまでございやしょうか?\n鈴 敏子? さあ、それはよく知りませんけど。\n金吾 烏森の小倉――そいで置屋と言いやすと、どういう?\n鈴 (軽く笑って)新橋のね、芸者屋町で、小倉というのは芸者屋さんのことです。いえ私もハッキリ知らないけど、新橋へんで聞けばわかるんじゃないかしら。古くからの芸者屋さんだと言っていたから――\n\n\n芸者屋町の昼さがりに、稽古三味線が鳴っている。宴会その他での調子ではなく、もっときびしい感じの(長唄)連れびき。「よっ!」「はっ!」などの烈しい掛声。\n\n\nおかみ (いい年配の、サラリとした物言いだが、シンにしっかりしたもののある。微笑をふくんで)烏森の小倉だなんて言われて、これで私んとこもこの土地じゃ古い内ですからねえ、こんな事でいいかげんな話の附けようをするわけにゃ行かないんでして、そこの所は、黒田さん、ごかんべんなすって下さいまし。\n敏行 (おそろしくふけて卑屈な調子で)だけどねえ、おかみ、私は敏子の実の父親だ。それがなん度も出むいて来て、こうして戸籍とう本までそろえてなにしているんだから、ここらで話をきめてもらってもよいと思うがね。\nおかみ ええ、ええ、それを疑うわけじゃありませんよ。けどね、二三日前、あの子のおっ母さんが見えて下すったそうで。私はお目にかかりませんでしたけどね、なんでも敏ちゃんを出すのを望んでいらっしゃらないような口ぶりだったそうで。そこへあなたが、こうして丸抱えの話などを、おせきになっても、私の方でもハイそうですかでお受けはできないんですよ。そりゃ敏ちゃんて子は、おあずかりして以来見ていますと三味線や踊りも筋が良いようだし、気立てはあの通り、あたしたちも、出すんだったら内からと思って楽しみにして――今もああやってお師匠さんが見えて何かやっているようですけどね。ですから、いずれにしろ話がきまればお金の方はいつでも準備してございますけど、今言った通り、お内の方でいろいろになっているようでは今が今と言われても――\n敏行 そりゃね、可愛いい娘を芸者に出そうというんじゃから、いろいろの訳があるのは当然で――私も事業が手ちがいつづきの上に二度も三度も病気になったりしてね、そいで、今度、浜の方に貿易の仕事の口があってね、満洲でこうして事が起きると、これが機会だからね、一度上海に渡って見たいと思う。つまりその旅費やなんか、この際どうしても少し金が要るんでね、ひとつ、おなじみ甲斐に何とか都合をつけてもらえないかねえ?\nおかみ いろいろ御事情がおありなことはわかります。けど、なん度も申し上げるようですけど、こんな話は無理をすると後で困ることになりますんで。ですから、その実のおっ母さんとお話し合い下さってそちらの話がかたまってから手つづきをさせてもらいましょう。それまでは敏ちゃんの方は私の方で責任をもっておあずかりして仕込むことだけはちゃんと仕込んで置きますから。\n敏行 そうかねえ。金が実は大至急にいるんじゃが。弱ったねえ......もしかすると、その横田の方だな――なんでも敏子のことを聞きつけて、あれの身がらを柳橋の方へソックリ連れて行きたいと言ってるそうだが――横田から、こちらへ金でも出てるんじゃないだろうね?\nおかみ (むっとするが、さりげなく笑いにまぎらして)ほほ、そりゃ、そういう話もちょっと有りますがね、しかしそんな事はこれから一本でお座敷に出ようという子の前人気みたいなもので――ですけど、横田さんから金をもらったために私がこんな話をしているように取られちゃ、いかになんでもこの小倉の内ののれんが可哀そうじゃございますまいかねえ。旦那も一昔以前はここいらであれだけ羽ぶりをきかした方なのに、それがそういう事をおっしゃりはじめると話がおもしろくなくなっちまうんですけどねえ。じゃ本人を呼んで一度聞いて見ましょう。本人は横田さんの話も嫌がっているようですけど、お父さんのあなたのお話も、なんですかあまり喜こんじゃいないようですよ。\n\n(ポンポンと手を叩く)\n\n清乃 (若い芸者。次ぎの室から)はい。......(と言って出て来て)御用ですか?\nおかみ あのねえ......あら清乃ちゃん、あんた田口の御宴会の方、お約束だったろ?\n清乃 はあ、あれは三時ですから。\nおかみ でも、そろそろ髪ゆいさんの方へでも行ってなにしないと。あのね、裏の座敷でみんな、お稽古だろ。敏子ちゃんにチョイとこっちへ来てちょうだいと、そ言って。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "清乃 あら、敏ちゃんなら、さっきチョット裏から出て行ったんですけど。お客さんが見えて。\nおかみ お客? すると又おっ母さんでも来たの?\n清乃 いえ男の人ですけど。あたしが取り次いであげたから――なんですか、田舎言葉の、ゴツゴツした。そいで敏子さまにお目にかかりたい、敏子さまと言うんですの。柳沢の金、なんとかって。\n敏行 え? 柳沢の金吾が?\n清乃 はあ、とても人の良さそうな――で敏ちゃんにそう言ったら、敏ちゃん飛びあがるようにして一緒に裏から出かけたんですから、公園の方へでも行ったんじゃないでしょうか――\n\n\n音楽(昭和十年ごろのフォックス・トロットのレコード曲。烏森を芝公園の方向へ出はずれる辺の町通りの喫茶店からの)\n\n金吾の下駄の音と敏子のポックリの音が並んで行く。\n\n\n敏子 (十六位になっている。昂奮している)あのね、清乃ねえさんが金吾々々と言うんだけど、はじめわからないの! そいでヒョイと覗いたら、金吾小父さんだわ! びっくりしちゃった!\n金吾 (敏子の美しい姿を見上げ見おろしながら)いやあ、わしもぶったまげやした。あのちっちゃな敏子さまが、こんなイカクなっていようとは夢にも思っていなかっただから!(二人の会話は、まるで久しぶりに逢った仲良しの子供が話しているようにあどけない)\n敏子 ほほ! 私そんなに大きくなった?\n金吾 大きくなりやした! はは!\n敏子 金吾小父さんも、とても――(と金吾の横顔をマジマジと見て)あの、髪の毛が白くなっちゃったわ!\n金吾 はは、そりゃもう、しょうがねえでさ。\n敏子 ほら!(と金吾の頬に手でさわる)こんな、おヒゲまで白くなって――(不意に涙声になる)まっ白だわあ!(オイオイ泣く)\n金吾 (あわてて)これこれ人が見るだから、そんな敏子さま!\n敏子 (涙声のままで快活に笑い出す)小父さん、今でも盆踊りの歌、うたってる?\n金吾 木仏金仏でやすか? 歌いやすよ。敏子さま、あれが好きだったなあ。\n敏子 そいから山奥の小びとのお囃し、聞こえてくる?\n金吾 はは、聞こえてきやす。\n敏子 行きたいな信州へ! あたしね、今、小倉にこうやってあずけられていてね、おかみさんはとても良い人だし、芸ごとを習うのもイヤじゃないんだけど、とにかく芸者になるんでしょ。急にイヤになることがあるの。おさらいなんかしてる時にヒョッと信州思い出すと、三味線なんか放りだしてしまって駆け出して小父さんとこに行きたくなるの。\n金吾 そうでやすか。......いや実はお母さまから手紙がきやしてね、敏子さまが芸者になると書いてあるもんで、俺あ心配になって、こうやって出てきやしたけどね、お母さまは今どこにいらっしゃるんで? 麻布の石川さんという内にも行きやしたけんど、そこにもいらっしゃらねえし、そこの女中さんから教えられてこっちへ来やした。\n敏子 お母さん、三四日前にチョッと私んとこに寄ったわ......小父さん、この向うへ渡りましょ。向うが公園でね......(二人が急ぎ足で電車道を横切って行く足音)ほら、一杯木があるでしょ? あたしつらくなると時々ここへ来ちゃ、お母さんや小父さんのこと考えてるの。このベンチに掛けない?\n金吾 (並んでベンチにかける)......そいで、お母さまはどこへ行かれたんでやしょう?\n敏子 それが私にもハッキリ言わないの。横浜の敦子小母さまの所に行くんだとか、秩父のセメント山の方へ寄るとか言ってたけど。横浜の父がああして私の事でチョイチョイ来るし、それから横田の小父さんがお母さんをいじめるので、あちこち逃げまわるようにしているのね。\n金吾 すると敏子さまを芸者に出すという話は?\n敏子 お母さんは反対なの。だのに父がどうしても金が要ると言ってね。以前知り合いだったとかで私を小倉へ連れてきてね、いえ、まだ、こうしてあずけられているだけだけど。そこい横田の小父さんが私のことで金を出そうと言うんだけど、父は昔自分が使っていた人なのでそれを嫌がっているのね。母は間に立って、もうどうしていいかわからなくなって困っているようなの。くわしい事は私にはわかんないわ。\n金吾 とにかく俺あ春子さまに一応お目にかかって、そんで俺あ、これから敦子さまのお内へ行くか、秩父の方へ行って見るか、とにかく俺あ出来るだけの事はしやすから。とにかく敏子さま、これはな――(いいながらふところの財布から金を取り出して)ここに三千円ありやす。こりゃ、あなたさまの事で春子さまにお渡しする気で持ってきた金で、あんたさまにお渡ししときやすから、その芸者屋のおかみさんにお渡し下さるなり、俺にゃそったら事わからねえから!\n敏子 でも、こんな大金、私困るわ。お母さんに渡して。\n金吾 いや春子さまにゃ春子さまに、まだもうすこし持っていやすから、御遠慮はいらねえ。\n敏子 だって小父さん、お百姓してこんな大金ためるの大変でしょ? どうして、そんな?\n金吾 なに、どうしてもヘチマも無え。実あこんだ敏子さまを見たトタンに俺あハッとしてな、はは! 俺が春子さまにお目にかかった時と、今の敏子さまは、爪二つと言ってもソックリだあ。こうして話していても春子さまと話しているような気がしやす。はは、そんでよ、だから――\n敏子 そう? 小父さんは、そうやって――(又涙声になる)あのね、小父さんはもしかすると私のホントのお父さんじゃなくって?\n金吾 え? ホントのお父さん? そんな事あ無え。敏子さまのお父さまは敏行さまと言う立派な――\n敏子 立派な父が、自分の娘を芸者に売ったりするかしら? お母さんだって私の小さい時から父からはいじめられてばかりいるわ。私ときどきそう思う、小父さん、どうして私のホントのお父さんになってくれなかったの?\n金吾 そんな事お言いやしても。とにかく、この金はしまっといて下せえ。\n敏子 だって私がお金いただいても、どうしていいかわかんないから、母さんにそう言って――\n敏行 (それまでにゾウリの音を忍ばせてベンチの背後に来て立聞いていたのが、寄って来て)春子には後で私から言うから、その金は私に貸しといてくれないかねえ?\n敏子 あら、お父さん! いつの間にここへ?\n敏行 へへ、金吾君が訪ねて来て二人でこっちへ来たと言うからね後をつけてきたが、夢中になって気がつかないようだったな。\n金吾 こりゃ、敏行さまでやしたか。しばらくお目にかからねえで。\n敏行 やあ、はは、君あ相変らずお元気のようだね。私は、ごらんの通り、もういけないよ。今では妻や子供にも捨てられてしまったようなテイクラクでね。\n敏子 嘘っ! 嘘だわ! お母さんや私を捨てたのはお父さんじゃありませんか。おめかけさんが二人もいたのを忘れたと思つて? そして今は又私を芸者にしようとしている。よくもそんな大嘘を!\n敏行 まあまあ。お前なぞにはなんにもわかりゃしないんだ。いや金吾君、いろいろわけがあってね。はは、春子のあとで一緒に暮していた女とも別れてね。いや人間落ちめになるとみんな離れて行くもんだ。横田なんて奴が今じゃハブリをきかしてな、春子などもその後いろいろ男を渡り歩いて、間に、横田のめかけみたいになった事もあるらしいがね、それもこれもこっちに金が無いのだから仕方がない。ただこの敏子にまで横田がサツビラを切って手をかけようとしている。こいつだけは、いかな私も我慢がならないんだ。察してくれたまえ金吾君。だから本来この子を芸者なぞには出したくないんだがね、私も今のままではしょうがないんで、ちょうど浜の方に口があるし、御存じの満洲がああだしな、乗るかそるかもう一度やって見たい、それでどうしても五六千いるんだ。どうだろう、その金を一時拝借させてくれないか。勿論私が立ち直ったら二倍にしてお返しする。その代り――代りと言っちゃなんだが、この敏子も芸者にしないですむし、春子のことも一切君におまかせしてもいい。どうだろう?\n金吾 へえ、そりゃ私の方はどうせ使ってもらうつもりで持って来たものでやすから!\n敏子 駄目っ! 小父さん、こんなお父さんの言うことなぞ真に受けては駄目よ!\n敏行 はは、さっきからお前が言ってたホントの父親ではないと言うわけか? 金吾君、人間も落ちぶれると自分の娘から、こんなことまで言われるよ。まあいい、何とでも言いなさい! どうだな金吾君、私を助けると思って、それだけの金そっくり貸してくれないか?\n金吾 へえ、そりゃ、私あ、かまわねえんでがすが!\n敏子 駄目、小父さんっ! そんな事しては駄目よっ! そうよ、私は憶えているの! 小さい時から母さんや私が、お父さんからどんなひどい目に会ったか! 忘れるものですか! それが今さら、又々そんなうまい事を言って小父さんをしぼり取ろうとしたって、私が許さない! お金を貸してはいけないのよ、小父さん! そうよ、私のホントのお父さんは、この金吾小父さんよ! 小父さんが私のお父さんよ!\n敏行┐へっへへ。\n金吾┘まあま、敏子さま!\n敏子 お母さんが、この人のためにどんなに苦しんだか! お父さんなんか大嫌い! 私のホントのお父さんは金吾小父さんよっ!(怒り泣きに泣く)\n"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然とした名古屋からの便りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。\n\n 四\n\n もはや、西の下の関の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって来るようになった。\n\n 小倉藩より御届け\n 口上覚え\n「当月十日、異国船一艘、上筋より乗り下し、豊前国田野浦部崎の方に寄り沖合いへ碇泊いたし候。こなたより船差し出し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気悪しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄い行き候。もっとも夜中の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」\n小笠原左京大夫内\n関重郎兵衛\n\n これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。\n\n 五月十一日付\n 下の関より来状の写し\n「昨十日異国船一艘、ここもと田野浦沖へ碇泊。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候。同夜、子の刻ごろより、石火矢数百挺打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜、抜き身の鎗、陣羽織を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前に燈火をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」\n\n とある。\n 関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。\n\n\n そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那の助郷が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。\n「上清内路村。下清内路村。」\n と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。\n「お前は清内路か。ここには座光寺のものはいないかい。」\n と半蔵が尋ねると、\n「旦那、わたしは座光寺です。」\n と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。\n 清内路とは半蔵が同門の先輩原信好の住む地であり、座光寺とは平田大人の遺書『古史伝』三十二巻の上木に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。\n「みんな気の毒だが、きょうは須原まで通しで勤めてもらうぜ。」\n 半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。\n 大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥しい金子も要った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」\n 半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂御番頭の松平兵部少輔と肥前平戸の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷設置の嘆願のために蓬莱屋新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇もなかったくらいである。十挺の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋に帰った。麻𧘕𧘔をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶に行った。彼は父と同じように軽く袴の股立を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。\n「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」\n この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。\n 六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍家茂はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰を拝し、お暇乞いの参内をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方では大根蒔きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。\n「半蔵さん。」\n と言って伊之助が半蔵の袖を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。\n「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」\n そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、\n「半蔵さん、脇本陣の桝田屋へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬と言え、それからこの御召御馬は焼酎を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」\n 半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。\n「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴ったりです。」\n「京都の敵をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。\n\n\n 京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十棹も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五駄の馬荷とを宿方に預かった。\n 隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。\n「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」\n「金兵衛さん、その事なら笹屋の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」\n 半蔵の挨拶だ。百姓総代ともいうべき組頭庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。\n やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻、三留野の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。\n「お師匠さま。」\n と言って勝重が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。\n「勝重さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」\n「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭を一枚その袂の中に入れてやりましたよ。」\n 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。\n「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」\n\n\n 当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主は、必ず御肴代の青銅とか御祝儀の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一分とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿衆の質の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。\n この脅迫と強請とがある。一方に賄賂の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬一駄二十貫目、軽尻五貫目、駄荷四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差、合羽、提灯、笠袋、下駄袋の類は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分、洗馬の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。\n 将軍家御召替えの乗り物、輿、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護られて行った。毎日のように美濃筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江の伊吹山の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。\n 七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍御召馬のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。\n「あの御召馬が焼酎を一升も飲むというにはおれもたまげた。」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " それから後の政治的経営として『古事記』や『日本紀』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外におかるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。\n ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少かったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分れていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現われなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少かったことを、示すものと解せられよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城廓建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少かったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城廓などの軍事的設備が後までも設けられなかったこと、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。\n 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国の君主はその地位と領土とを保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分れていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで来る大きな政治的勢力があっても、それに対しては初から親和の情があったのであろう。また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。\n 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接に民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、従って日本の国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。\n\n二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情\n\n ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀のころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸長とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものはなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれにはそれを助ける種々の事情があったと考えられる。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服しそれによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族の内から起って次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。もし何らかの特殊の事情によって反抗するものが出るとすれば、それはその独立の君主としての地位と権力とを失った諸小国の君主の子孫であったろうが、そういうものは反抗の態度をとるだけの実力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかった。こういう君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもっていたらしいイズモの国造が、完全に皇室の下におけるその国造の地位に安んじていたのを見ても、そのことは知られよう。一般の国造や県主は、皇室に近接することによって、皇室の勢威を背景としてもつことによって、かれらみずからの地位を安固にしようとしたのである。皇室が武力を用いて地方的豪族に臨まれるようなことはなく、国内において戦闘の行われたような形跡はなかった。この意味においては、上代の日本は甚だ平和であったが、これはその根柢に日本民族が一つの民族であるという事実があったと考えられる。\n また皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆ではなかったから、民衆が皇室に対して反抗を企てるような事情は少しもなかった。わずかの皇室直轄領の外は、民衆の直接の君主は地方的豪族たる国造(及び朝廷に地位をもっている伴造)であって、租税を納めるのも労役に服するのも、そういう君主のためであったから、民衆はおのれらの生活に苦痛があっても、その責を皇室に帰することはしなかった。そうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種のほこりをもっていたのではないかと、推測せられる。\n 第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国もしくは異民族との戦争には、君主みずから軍を率いることになるのが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従ってその勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位をも失うようになる。よし戦に勝っても、それが君主みずからの力でなくして将帥の力であったような場合には、衆望がその将帥に帰して、終にはそれが君主の地位に上ることもありがちである。要するに、異民族との戦争ということが、君主の地位を不安にし、その家系に更迭の生ずる機会を作るものである。ところが、日本民族は島国に住んでいるために、同じ島の東北部にいたアイヌの外には、異民族に接触していないし、また四世紀から六世紀までの時代における半島及びそれにつづいている大陸の民族割拠の形勢では、それらの何れにも、海を渡ってこの国に進撃して来るようなものはなかった。それがために民族的勢力の衝突としての戦争が起らず、従ってここにいったような君主の地位を不安にする事情が生じなかったのである。\n ただ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に対する武力的進出が行われたので(多分、半島の南端における日本人と関係のある小国の保護のために)、それには戦争が伴い、その戦争には勝敗があったけれども、もともと民族的勢力の衝突ではなく、また戦においてもただ将帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいずれの場合でも、皇室の地位には何の影響も及ぼさなかった。(チュウアイ天皇の皇后の遠征というのは、事実ではなくして物語である。)そうしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周囲におけるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになった。また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての争があったが、これは概ねそれに接近する地域の住民の行動にまかせてあったらしく、朝廷の関与することが少く、そうして大勢においては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していったから、これもまた皇室の勢威には影響がなかった。これが皇室の地位の次第に固まって来た一つの事実である。\n 第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当られなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことのなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆どなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。四世紀の終にはじまり五世紀を通じて続いている最も大きな事件は、半島の経営であるが、それには武力が必要であるから、武事を掌るオオトモ(大伴)氏やモノノベ(物部)氏やはそれについて重要のはたらきをしたのであろう。特にそのはたらく場所は海外であるから、本国から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、単なる朝廷の事務とは違うこの国家の大事についても、実際においてそれを処理するものは、こういう伴造のともがらであり、従ってそういう家がらにおのずから権威がついて来て、かれらは朝廷の重臣ともいうべきものとなった。\n そうしてこういう状態が長くつづくと、内政において何らかの重大な事件が起ってそれを処理しなければならぬようなばあいにも、天皇みずからはその局に当られず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになって来る。従って天皇には失政も事業の失敗もない。これは、一方においては、時代が進んで国家のなすべき事業が多くなり政治ということがなくてはならぬようになってからも、朝廷の重臣がその局に当る風習を開くものであったと共に、他方においては、政治上の責任はすべて彼らの負うところとなってゆくことを意味するものである。いうまでもなく、政治は天皇の名において行われはするが、その実、その政治は重臣のするものであることが、何人にも知られているからである。そうしてこのことは、おのずから皇室の地位を安固にするものであった。\n 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与られなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位をももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝が神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神としても考えられることがある。天皇が「現つ神」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においてのしごとである、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。\n これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれたのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇がその日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語に天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明かである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀礼には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇のこの地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜しようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。\n 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれらは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに浴しようとする態度をとらせることになったのである。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "\n三度、鑑真和上を憶ふ\n\n盲ひてなほ浄慧の人は明らけし面もちしろく春を寂びてぞ\n\n瞳人語\n\n聊斎志異の瞳人を思ひあはせて\n\nのんのんと瞳の中に言ふ聴けば春昼にして花か咲きたる\n\n夜にまさる黒き眼鏡の視野にして桜の花はひらきそめにし\n\n靖国神社を偲びて、一首\n\n映画には桜浮び出揺れゐしが影日向ありて真昼なりにし\n\n塑像を置く縁にて\n\n風はまだ繁しらけ立つ春塵に眼洗はむ朝とてなし\n\n立ちにけり空にさまよふあるかなき春の蚊すらも眼は持つらしき\n\n我が塑像ふくらみ黒き瞼に夕柔らなる春陽かぎろふ\n\n短歌新聞百号の祝に\n\n百と積むけだし稀なり香の果の影さへや然り歌に敢て積む\n\n人ならば百に垂ん翁にて言ひてめでたし新聞を君は\n\n暗夜行\n\n夜行くはむしろ安けしひと色と見つつ馴れにし闇の眼にして\n\n真闇にはまぎらふ光あらなくに瞼慧しにほひのみして\n\n闇いとど春夜は愛しこの道のにほふかぎりを聞きて行くがね\n\nガソリン・コールター・材香・沈丁と感じ来て春繁しもよ暗夜行くなり\n\n春の夜と時計うごけるアトリエは表の闇も光さすごとし\n\n土移る桜の花にありけらし夜風うごきて将たしづまりぬ\n\n春しぐれ夜を行く人の間隔はけだしけはひに濡れて知りつつ\n\n闇ながら戦盲い寝る家の棟は蛙鳴く田をのぼりきりて見ゆ\n\n夜目にして黒きはふかき藤浪のしだれたりけり隣家なるらし\n\n物の和沈むを聴けば草堀の春闌けにつつ雨夜ひさしき\n\n塙保己一を偲びて、一首\n\n燈や消えし眼のあきらけきあはれとぞ沈痛に人の言ひて笑ひき\n\n四度、鑑真和上を憶ふ\n\n若葉しておん眼の雫ぬぐはばや 芭蕉\n\n水楢の柔き嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ\n\n藤と牡丹\n\n 一\n\n豊けくや匂ふ藤浪房垂れてひと鉢の空をその色とせり\n\n莟みける短かかりしか臈たけて房ことごとに長き藤浪\n\n糸づくり光る鱵魚はすずしくて早や夏近し鉢の藤浪\n\n触りよきは空にしだるる藤浪の下重りつつとどめたる房\n\n牡丹の四方の明りはしづけくて色無きがごとしこもる蚊のこゑ\n\n白牡丹光発ちつつ和久し自界荘厳の際にあらむか\n\n陰にして紫紺の香ひすさまじき藤浪にあれや夜の灯闌けたる\n\n藤浪は重りしだるる夜のしじま世界動乱の気先観むとす\n\n 二\n\n隆太郎富山高校に入りてより早や四十日にもなりぬ\n\n鉢の藤かかへ危ふきその母と畳にぞ下ろす房ゆらゆらに\n\nひと鉢を藤は老木の片寄りに房しだれたり空しき椅子に\n\n藤といへば早やも夏場所夕こめて鉄傘の揺ぎラヂオとよもす\n\n我が眼には黝きのみなる藤浪の散りかつ散りぬけ長き房を\n\n鉢うづむ藤の散花干からびて手に触るるほどは音に立つめり\n\n惜春賦\n\n花ひとつ片枝に留むる玉蘭の我が視野にして煙霞はてなし\n\n裏端山匂ふ霞のおほよそは聴きつつ居らむ聴くに幽けき\n\n春山はえごの楉のとわたりを闌けつつかあらしきよろろ鶯\n\n閑けさは春の蚊をすら羽ぶき澄む浅間の鷹のごとも聴き居つ\n\n春すでに闌けてほけゆく紫雲英田は我が木戸過ぎて打越橋まで\n\n下空に沈みかがやく花見えて我が夕闇は迫れるごとし\n\n表には月夜あかるき我が山を春のしぐれか背戸わたりゆく\n\n黒檜\n\n孟夏余情\n\n黒き檜の沈静にして現しけき、花をさまりて後にこそ観め\n\nか黝葉にしづみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき\n\n我が眼はや今はたとへば食甚に秒はつかなる月のごときか\n\n視ると聴くとそのいづれとふいよをかし視て而も聴くに豈まさらめや\n\n我ならぬ言ひたやすかり縦しや眼は耳に聴けちふ心に観よちふ\n\n我が暗き人にここだくきこゆるは勢ふに似たり言ひて何せむ\n\n馴れにけり暗き視界もよのつねはかくあるごとく見つつ安らに\n\n春蝉 五月十六日\n\n春蝉の早や鳴きそむる我が山を向ひにもこの日じじと声立つ\n\n激しかる我が性をしも言撓めて堪へ堪へて居れ蝉の鳴きいづ\n\n青蛙呼ぶ\n\n若葉森に雨呼ぶ蛙湯に聴けば煙筒を揺りて声湧くごとし\n\n郭公\n\n野鳥レコード\n\n郭公の録音聴くと楢わか葉風あざやけき庭に眼は留む\n\n眼もひらく初夏の清しさ我聴けりかつこうかつこうの光の録音\n\n大暑\n\n深かりし霧霽れゆきて谷地田には月照れりとふ明日から暑し\n\n靄ごもり大暑の照りのしづけきは寒むかるがごとし蝶ひらら居る\n\n白栄の靄たちこむる真昼にぞげんのしようこはよく煮立つらし\n\n鳥猫大暑の照りに耳立てて蚊を追ふ見れば体かろく跳ぶ\n\n茅蜩\n\n茅蜩は合歓の夕花咲きそむる山方にして気色添ひつつ\n\n雨とふる朝ひぐらしの声きけば常あるに似たり繁き杉山\n\n東宝映画撮影所俯瞰\n\n夏山に波の音荒く起りしがあはれあはれトーキーの模擬音にして\n\nすべて模造花らし\n\n夏撮す林檎の花は光れども現ならねば早やあはれなり\n\n夜の零時火星赤々と迫り来て模擬市たちまちにネオン消したり\n\n街建てて夜々華やぎし今朝聴けばぐわらぐわらとすでに壊しつつあり\n\n所懐二三\n\n憤ることありて\n\n反高の青かまきりを打つべくは一撃にしてその斧ともに\n\n蟷螂のはらわた頼めすぢ黒き針金虫の生くらくあはれ\n\n樹相に寄せて\n\n大き木の鬱然たるは然ありてその雲吐けり年を経にける\n\n多磨運動会\n\n短歌マラソンのともがらを、我家の方へ出しやるとて\n\n日の透り影と乱るる秋ざくらよく見て来むぞ庭つきぬけて\n\n庭なべて落葉のみなるありやうをこの凪の陽に思ひみるべし\n\n夕光の諸葉かがよふ黄の銀杏わが腰掛は庭に置きたる\n\n村童、あまりに現実的なる\n\n眼にうとく我がつきそれし風船は童が地よりさらひて逃げぬ\n\n鉛筆の一二本ゆゑに我れがちと子らひた競ふあの駈けざまや\n\n額髪\n\n井上理吉夫人弔歌一首\n\n額髪の幼なかりにし俤は五十歳過ぎてその亡きあとも\n\n冬の庭\n\n玉蘭は黄葉乾びし落ちはてて庭のはひりの音ひびきけり\n\n夕かげはここだをぐらき我が眼にも楓の紅葉火照するなり\n\n日おもてに黄葉はららく声するは日陰の雑木風か吹き越す\n\n背戸わきを我が蹴つまづくバケツには落葉かきためあかつきの霜\n\n心の花五百号をことほぎて\n\nおのがじし華は咲かせてゆたかなるみ園のあるじ今よき老に\n\n我が園と眺め足らはす竹柏の園牡丹の花も咲きて明るき\n\n五百あまり華の慶積みましてなほかがやかしみ園は久に\n\n篁子\n\n女の童篁子が削る鉛筆に朱き粉の飛び短日いまは\n\n灯のもとに篁子がすなる英習字菊さし寄せてその父われは\n\n髪揺りて父に笑み寄る夜の寝ぎは手のつめたきは少女ゆゑにぞ\n\n榛名湯沢行\n\n榛名\n\n巓の裏行く低き冬の雲榛名の湖は山のうへの湖\n\n上つ毛榛名のみ湖雲のうへのいただきにして冬の陽映す\n\n雲過ぎて陽のあたりたる湖面には漁舟ひとつ見ゆとふかなや\n\n榛名富士明く日あたり暖しとふ鬢櫛山は早や白しとふ\n\nはろばろに神楽きこゆる雲の上埴山姫や巌の秀に坐す\n\n日すぢ降る雲こそ透けれ冬山榛名の宮はいや石高に\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "榛名の宮冬日薄きに妻と我が鶯笛を吹きつつ下る\n\nこの下りいまだ日のある山路とて残んの黄葉目にとまりつつ\n\n上越線を湯沢へ、水上より\n\n水上は屋群片寄る高岸に瀬の音ぞひびく冬陽さしつつ\n\nこごしかる湯檜曾の村や片谿と日ざしたのめて冬はありつつ\n\n岩ひとつ白かりしかなや冬谿水上の瀬は澄みにしかなや\n\n短日の分水嶺に我が立てば二方へくだる水の瀬早し\n\n上つ毛利根の水上我が越えてすでにぞくだる越の山がは\n\n北の峡雲ひたひたと押しかぶし降雪ちかし紅葉も過ぎぬ\n\n上つ毛は明き黄葉を越へ来てほとほと過ぎぬのこれる見れば\n\nふりさけて空に寒けき裾山を奥なる峯は隠りて見えず\n\n湯沢の宿\n\n山国はすでに雪待つ外がまへ簾垂りたり戸ごと鎖しつつ\n\n冬の宿屋内暗きに人居りて木蓼食むかひそと木蓼\n\n父が曳く柴積み車子が乗りてその頬かぶり寒がり行きぬ\n\n鯉市\n\n鯉市ぞ本城寺前に立てりとふ早や短日を競りてあらむか\n\n門川は黒きのみなる鯉生きて初冬の真水ほそりたりけり\n\n雪降らむ雲は低きに荒々し山袴づれが真鯉競りあぐ\n\n山びとが鯉を愛づるは常無くて徹り澄みたる姿観にけり\n\n白鱗の三色の鯉の清けきは氷中花とも澄みて真水に\n\n観るものとはぐくむ鯉は常愛でてなほ思ふから色に出づちふ\n\n水に澄む端厳の相これをかも豊けしといはむ鯉ぞ老いたる\n\n生くらくは鯉市にしもしかもなほ青淵の鎮み鯉たもちたり\n\n黒の鯉三十六鱗みな張りて息ととのへれ寒きはまらむ\n\n山国は冬のものなる鯉市も日の目みじかく数よまずけり\n\n短日の市の盥や手づかみと鯉は投げられ少くなりぬ\n\n市はてて気どほきごとし鯉あらぬせせらぎに菊のうつれる見れば\n\nみ湯のしりとろむお池の湯ごもりに息づきてあるか鯉は老けつつ\n(高半旅館にて)\n\n冬渓\n\n風ひびく冬山岸にはららくは白樺の清き黄葉なりけり\n\n冬山のつまさきあがり早や凍みて日光はじかぬここだ石ころ\n\n冬渓にこもる椙森夕日さしかかる鎮みの雪を待つなり\n\n山柿のここだ朱かる豆柿も正眼仰ぎて色によむなし\n\n手にひろふものの落葉はつくづくと眼さきすがめて見るべかるらし\n\n柴積は莚かけ置く霜ながらまだあをあをし穭田の湯田\n\n月夜\n\n天の月川の瀬照らす更闌けてここにしぞ思ふ四方の鎮もり\n\n潭水の自力発電の音澄みて飯士の山に月照りわたる\n\n雪祭四章\n\n穂積忠が処女歌集「雪祭」に寄せて\n\n雪祭は睦月の神事\n\n雪祭は睦月の神事、その雪は田の面の鎮め、雪こそは豊の年の、穂に穂積む稔のしるし、その雪を神に祈ると、その雪に神と遊ぶと、山峡や小峡の子らが、あな幽か、鬼の子鬼が、雪祭四方の鎮めと、幣立てて、小松植ゑてな、あな清けおもしろ、雪よ雪こんこよ、ハレヤとう、ヤソレたたらと、夜すがら遊ぶ。\n\n反歌\n\n天竜の水上清み雪祭る族が鬼はよに遊びける\n\n「雪祭」幽けきかも\n\n「雪祭」幽けきかも、忠はうれしきかも。その窓に富士を見さけて、狩野の瀬に月を仰ぎて、豊かなる心ばえやなほも、ほのぼのと朝夜あらし。ちちのみの父のみ身、ははそばの母のみ魂、老いませば、常無けばあはれ。風花や天城の杉を、うらら日を、何とはなくて吹きちらふその影にかも、心は寄する。\n\n反歌\n\nうら歎く父母の子は風花の消ぬかに散らふ和ぎにかも行く\n\nおもしろの雪祭や\n\nおもしろの雪祭や。風花の空に顕ちて、日和うららよとの。遠山は霜月祭、新野にては睦月、西浦は田楽、北設楽は花祭とよの。さてもめでたや、雪祭のとりどり。国は信濃よ三河遠江、水は天竜の流、水上よ、下り下りに春うらかすむ。\n\n反歌\n\n春天城雪の鎮めと伊豆びとは何をもて遊ぶ歌をもて遊ぶ\n\n神業ぞ雪祭\n\n神業ぞ雪祭、鬼の子の出でて遊ぶは、ひたぶるぞ雪の上の田楽、鎮みこそ四方に響くに、まことのみぞ神と遊ぶに、おもしろとこれをや聴く、をかしとよそをや笑ららぐ。な巧みそ歌に遊ぶと、早や選りそ言のをかしと。心にぞはじめて満ちて、匂ひ出るその外ならし。遊びつつ将たや忘れよ、そのいのち命とをせよ、穂積の忠。\n\n反歌\n\n神遊び忘るるきはよ鬼の子がひたぶるに笑らぐ命とをあれ\n\n利久居士\n\n\n\n三百五十年遠忌によせて、その墓所、京の聚光院へ贈れる懐紙の歌一首\n\n\n\n茶をわびと和敬きよらに常ありてそのおのづから坐りたまひき\n\n春寒\n\n池辺\n\n池の面に匂へる影を雲ぞとは知らで過ぎしか今は見さだむ\n\n池水に映る繊雲あふぎみて霞むのみなるあはれ白雲\n\n十方射光霞むのみなる浮雲のまうへ照りつつ春なるかなや\n\n門前新月\n\n眼にとめて月のをさなさいふこゑはまかる人らし門の夜寒に\n\n月暦睦月二日の新月の眉をさなかる西に見ゆとふ\n\n白辛夷\n\n春邦画伯の銀屏によせて\n\n白辛夷花さく枝にとまりたる頬白見れば春冴えにけり\n\n春雷\n\n春雷の行かそけかる夜なりけり寒餅の水の雫切らしむ\n\n尾長\n\nうち霞む三階松の空にして尾長は喚ぶかその尾ひらめく\n\n春山の松に群れ来る尾の長き空いろの鳥といふがめでたし\n\n玉蘭唱\n\nひらきかけて黄にぞこごれる玉蘭は時ならぬ寒波昨夜かいたりし\n\nその母の子らかきおこす声きけば白木蓮の咲きて夜明ちかきか\n\n玉蘭の花咲きてより来る鳥の尾長・鷽・鶲・雀みなあはれ\n\n玉蘭の下照る土に歩めるは野の小綬鶏か長閑になり来し\n\n庭の春日\n\n春日照る庭の枯芝しづかやとただ白くもぞ観てを居りける\n\n蝶の飛ぶ春なるかなと見てをるを小鳥ぞといふに微笑尽きず\n\n春日照る庭の芝生を鶏じもの我は掻きをり白けたる芝\n\n冬旱長かるあひだ乾び来し雑の落葉もはららき失せぬ\n\nうちしらけ色無き芝生下萌えず日は春にして眼霧らひ泣かゆ\n\nうち見には枯山芝生春日照りねもごろ聞けば濃すみれ咲きぬ\n\n吾が犬の呆けてあくなきい寝ざまにうらら春日の照りこそなごめ\n\n春といへば菓子などめして犬じもの我の坐しけり渇くものから\n\n口出づる「おばこ」のどかや用のない煙草売など春はふれて来る\n\n我がこもり春は匂へば照り美し物のあいろよ強ひてしも見ず\n\n転居近づく\n\n成城十九番地月まどかなる春夕の暮れつつはありて明りつつあり\n\n花ひとつ枝にとどめぬ玉蘭の夏むかふなり我も移らむ\n\n\n\n下巻\n\n\n日本古武道\n\n\n\n\n昭和十三年九月十五日独逸青少年使節団一行を迎へて、日本古武道型大会開かる、会場神田国民体育館、主催は日本文化聯盟なり、我視力乏しけれども行きて参観す\n\n\n\n\n武神\n\n建御雷響きわたらし夏雲やすでに向伏す下つ国原\n\n大船の香取の海に潮とよみ弓弭輝りわたらす経津主の神\n\nひもろぎ香取の山は鷺多に梢とよめり清の明りを\n\n荒み魂しかも和すと明らけし遠つ祖先は討ちに討たしき\n\n神前\n\n神とある弓矢のまことうやうやしひとたび立ちてたぢろがめやも\n\n剣執り闘ふかぎり斎庭なり塵だにとめじ朝潔めつつ\n\n武田流陣貝\n\n陣貝は裃正し高々と両手持ちにぞ吹きあげにけれ\n\n陣貝の法螺貝聴けば武者押しに今ぞ押しゆく昧爽の空\n\n音に止む陣の法螺貝緋ぶさ垂りしづけかるかも吹きをさめける\n\n立身流居合\n\n真竹を立身の居合抜く手見せずすぱりずんとぞ切りはなちける\n\n見たりけり斎庭に立つる青竹の試し切りこそうべな一と太刀\n\n日置流弓術\n\nその一\n\n弓構や差矢前型いざとこそ片折り敷きぬ物見正しく\n\n矢を番へ物見安らぐ跼のよに落居たる姿よく見む\n\n物見しばし弣しづもる際ありてきりり引きしぼる張りのよろしさ\n\n姿なり構正しく張る弓の矢と一つなる心澄みつつ\n\n引く弓はいよよ張り詰め一筋や眼先の鏃弣まで引く"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 私に云わせれば、マルクス主義の主流に圧倒されたというかの文学者達の主観的意識は、現象的な事実としては兎に角、本来の筋から云えば、結局彼等自身がマルクス主義に対する一種の認識不足から来た錯覚に由来するのであり、従ってここから来た自由の呼吸(それを彼等は自由主義という紛らわしい言葉で云い表わそうとする)も亦、つまり錯覚に他ならなかったのだが、この反マルクス主義的錯覚であった「自由主義」も、他方所謂ファシズムと直面させられる時、少なくとも主観的には、反ファシズムの意識としての自由主義におのずから変貌せざるを得なかった。――こうしたものが所謂行動主義=能動精神が有つという所謂自由主義の特性であって、普通簡単に、行動主義=能動精神がマルクシズムとファシズムとの中間に位置するなどと云われていることの内容なのだ。\n 処が注意すべきは、この行動主義が主観的にどんなに反ファシズム的意識によって動機づけられていようとも、それが反ファッショ的反抗となって現われる以前の資格であった反マルクス主義的意識は、主観的に到底払拭されるべくもないという事実である。そして而も、それが元来マルクス主義なるものに対する認識不足による錯覚から出発したのだったから、この反マルクス主義的意識によっては、マルクス主義とは他でもない、極めて一般輪郭的な面をごく卑俗な通念による処の「マルクス主義」でしかあり得なかった。このことは、少しも怪しむに足りないだろう。マルクス主義と云えば何かレディーメードな着物のような一様な公式主義的なものだと、この自由主義は決めてしまっていたのであり、又今でも現にそう見える部面を多分に示している。\n だが云うまでもなくマルクス主義と通称されているものにはピンからキリまであるばかりでなく、活きた情勢を摂取しつつそれは刻々発展すべきものなのだし、又現にそうして発展して来ているのである。ひとり文学の領域に於てばかりではなく、哲学の世界に於ても、諸科学の世界に於ても、マルクス主義は具体化されて来つつあるか、或いは少なくとも具体化されるべき必要が具体的に自分自身の内から強調されているというのが現状なのである。処が例えば舟橋聖一氏などは、この具体的な事情に注目しないために、反ファシズム意識に較べてもっと手近かにあって刺激の多い反マルクス主義の方が高揚して来るのであるが、その限りでは氏の言論は確かに客観的に反動的な行為行動に出ているわけであって、大森義太郎氏などから可なり乱暴にタタキつけられるだけのものはあるのだと考えねばならぬ。この限り大森氏の一応の輪郭的な正当さを私は承認しなければならない。問題がこの段階に止まる限りではそうなのだ。\n 舟橋氏は、マルクス主義を舟橋氏なりに輪郭的に一般論的に排撃するが、之は大森氏によって見事に返報されているのである。と云う意味は、大森氏も亦、大森氏なりに(氏は「マルクス主義者」である)同様に輪郭的一般論的なマルクス主義によって、舟橋氏(大森氏の所謂船橋氏)の行動主義をコキ下しているのである。――一体大森氏によると、今日でもなおインテリゲンチャの問題は、しばらく前までこの方面でのマルクス主義的観点が占めていた一般論的輪郭的な問題提出の段階でしか、提出されないのである。知識階級という中間層は、ブルジョアジーとプロレタリアとの、いずれの側に同伴すべきであるか、ということがこの段階の問題の形であったので、大森氏は今日でもなお依然としてこの解決済みの問題形態の下に問題を蒸し返しているのである。\n だが、インテリゲンチャがこの二つのどっちかの階級に対して、直接に同伴するにしても、又は終局に於て寄与するにしても、それは大森氏が想定しているらしいようにインテリゲンチャが単に中間層として、賛成議員の頭数のように、どっちにつくか、といった問題に止まっていることは出来ないのだ。プロレタリアの政治的活動に対して、せめて好意ある中立を保てと云ったような勧告は、インテリゲンチャを単に一般的に一種の中間層としてしか見ない(インテリ階級説)必然的な結果であって、そう考える限りインテリの積極性や能動性などは、本当の意味ではなり立たないのが当然だし、もし仮りになり立ったとしたら邪魔になって反動的な意義しか持たない、ということになるのは必然なのだ。つまりインテリは、それがインテリだという特質に就いて云えば、別にその故には積極的な独自性を認められないことになるわけで、従ってその意味では全く消極的なものにしかならないわけである。\n 処が大森氏がどう強弁しようとも、今日のインテリゲンチャ問題は、こうした一般論、輪郭論に止まっていないのである。マルクス主義がその退潮にも拘らず却って具体化され地につき或いは大衆的日常常識にまで主体化されるのに平行して、インテリ問題も亦インテリ自身によって(尤も、だからと云ってインテリの立場だけを抽象してそこから話を始めるというのではないが)、もう一段階具体化され地につきインテリ自身の日常常識にまで主体化されて来ているのである。と云うのは、インテリ問題の要点は、それが何か中間的にブラブラしている階級で、どっちの側についたら好いかと云ったような処にあるのではなく、インテリゲンチャの主体的な条件であるインテリジェンスを、インテリ自身がこの階級対立の間に処して如何に役立てて行くべきか、に来ているのである。\n インテリゲンチャが自分達自身のインテリジェンスをわが身に就いて問題にする時、この自分の特徴であるインテリジェンスを如何に社会的に(即ち直ちに又階級的にだが)活用すべきかを問題にする時、そうした意味でインテリゲンチャのインテリジェンスが主体的に問題にされる時、それがインテリゲンチャに特有な積極性でなくてはならぬ。之を又インテリゲンチャの能動性と呼んで不都合な筈はないのだ。\n インテリの積極性は、インテリゲンチャのインテリジェンスを主体的に問題にするから初めて発見されるので、問題を主体的に提出しないで、客観的とか平均的とか称して実は一般論的に提出するならば、インテリゲンチャは決して積極的でも能動的でもなくなると決っている。大森氏が必ずしもインテリジェンスが積極的役割を演じ得ないようにサラリーマンなどを、知識階級の主体だと考えて一向疑問を挿まない理由は、ここから最もよく理解されるのである。サラリーマンはサラリーマンであり、インテリはインテリなのだ。\n で、舟橋氏の文士式行動主義と、大森氏の社会学者式サラリーマン階級説とは、インテリゲンチャの問題を妙な具合に持ち寄って来る。舟橋氏のマルクス主義に対する観念は云うまでもなく甚だ抽象的で卑俗だ、その点から云えば「マルクス主義者」である大森氏が遙かに進んだ段階に立っているのは云うまでもない。処がインテリゲンチャの問題を主体的に取り上げる段になると、無論大森氏が一般に問題を「マルクス主義」的に取り上げるに反して舟橋氏は反又は非「マルクス主義」的に取り上げるのだが、それにも拘らず、不思議に大森氏よりも舟橋氏の方が問題の核心に触れるものを持っているのである。方法の優れた人間が後れた問題を繰り返し、方法の劣った人間が進んだ問題を提唱するのだから、二人の問答はいつも食い違って、トンチンカンで見当違いで、永久に相互に不満であらざるを得ない。\n この食い違いの解決方法として、少なくとも私自身にとっては、ただ一つだけが現実的な見透しを有っている。方法は舟橋氏のものではなくて大森氏のものでなくてはならぬ。そしてこの方法に立脚しつつ舟橋級の問題を取り上げる、ということがその解決の吾々にとって唯一の道だろう。大森氏が私を「マルクス主義的範疇」を使う人間だと見込んだのは多分大して間違ってはいないだろうが、そうならば私としては、このやり方以外に道はないのであり、従って又大森氏に対してもこのやり方を要求しなければならないということになる。大森氏は迷惑かも知らないが、どうしてもそうなるのである。\n さて大森氏に対する態度はそうだとして、それでは舟橋氏等の所謂行動主義をどう評価すべきであるか。何より初めに気づくのは、この行動主義なるものが、インテリゲンチャの積極性乃至能動性の問題を、そのまま有態に問題にし得たものではないという点だ。舟橋氏等の文学者は、云うまでもなくインテリゲンチャ問題を自分自身の問題として取り上げるのだが、彼等が偶々文学者である処から、このインテリゲンチャ全体をば文学者・作家を中心として考えて行こうとするらしい。即ちインテリジェンスと云えば、彼等にとっては、何よりも先に作家的インテリジェンスのことになるのである。だからこのインテリジェンスの自覚としての行動主義なるものも、まずさし当り創作方法と云ったようなものを出ないのである。大森氏がこの関係を捉えて、行動主義などというのは二三の文学者が主観的に云い出したものにすぎぬと云うなら、それは当っていると云わねばなるまい。\n だが所謂行動主義者達は、行動主義を何も文学の領域に限定するのでもなければ又まして創作方法に限定するのでもない。そういう文学主義的限定は凡そ所謂「純文学」から「社会」にまで踏み出るか、それとも寧ろ現実の社会を文学にするか、いずれにせよそうした欲求から出発する処の行動主義そのものの、否定でしかない筈だ。では文学者以外に就いて、この行動主義はどういう具体内容を有っているか。と云うのは、文学的インテリジェンス(乃至インテリゲンチャ)以外のインテリジェンス(乃至インテリゲンチャ)に就いて、行動主義はどういう具体的連関を用意しているか。そうなると何物も決ってはいないのだ。あるものは混沌とした一般的なるものでしかない。――否、そればかりではない、創作方法としての、乃至文学領域に於ける、行動主義さえが、一向この混沌的一般性の域を脱してはいないのである。\n 処で今は海のものとも山のものとも判らないから之が本当に進歩的なのか反動的なのかはまだ判らない、マルクス主義へ同伴又は寄与するのか、それともファシズムへ走るのかはまだ判らないと云うかも知れないが、併し大事なことは行動主義が今のままの一般的抽象にいつまでも止まる限り、或いは今のままの一般的抽象性をそのまま発展させる限り、行動主義は無条件に反動的であり又は反動的になる、という点である。\n だから行動主義がインテリゲンチャの積極性乃至能動性の問題を正当な問題提出の形態で提出するためには、即ち、現在の行動主義が或る進歩的動向の一徴候であり得るためには、この行動主義のもっている一般的抽象性が少なくとも具体的なものにまで正直に行動主義的に具体化発展されて行くのでなければならない、ということになる。処がその見透し自身が又、まだ海のものとも山のものとも決らなかったのである。\n つまり之は、文学者的インテリゲンチャ(乃至インテリジェンス)から問題を始めるのでは、インテリゲンチャの積極性=所謂能動精神の問題は遂に普遍的具体性を以ては提出され得ない、ということを告げているに他ならない。之はインテリジェンス(知能)という問題をもっと別な中心点から考え直して見る必要がある、ということを告げているのである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n(私は拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕の中でインテリゲンチャ問題を取り扱ったが、不充分な点があったので、今この文章を補足する。)\n\n(一九三五・一)\n\n\n\n16 モダーニズム文学について\n\n\n 文学に於けるモダーニズムは色々の広さの意味に理解されている。強いて云えば近代文学の共通な特色の凡てが、最も広い意味でのモダーニズムになるかも知れない。だが、そうなれば実はモダーニズムという言葉は何の役にも立たないものになる、即ち何か特殊な一定の現象だけを限定する観念ではなくなる。だから少なくとも、之よりももう少しは狭い意味を之に与えてかからなくては、話しにならない。\n 交通網の極度の発達、経済財及び一般財の近代商品化、それに基く生活資料の可なりの程度の各個人間の又国際的な共通点、それからこれ等に対応する生活様式の経済上又政治上社会上の可なりの程度に於ける共通点。以上のような生活は、現象として見れば一切の生活材料が出揃って羅列され、雑然とした一種のアトモスフェアを造り、やがて一種虚無的なケオスを造り出す。なぜなら或る限られた事物だけに注意を集中するということはこの際認識不足になるわけであって、表面上秩序を持たない一切のものが、同等の興味を強要するので、清濁合わせた乱雑が生活の現実として与えられざるを得ないからだ。之をそのまま捉えようとするのが、許された限りの最も広い意味に於けるモダーニズムなのである。――処でこの無にも等しい渾沌(混沌)をそのまま捉えると云って、そこには何等かの捕捉の原則がなくては出来ないことだ。例えば感覚とか理知とか、意識の内部的時間の流れの軸とか、或いは社会のメカニズムとか、そう云ったものによってこの渾沌を雑然たる統一にまで齎す他に手段はない。この間の消息に、色々のありとあらゆる意味の広さを持った所謂「モダーニズム」が生れて来たのであるし、また今後も発生し得るのである。\n 日本に於ける文学上のモダーニズムは、当然、一般生活意識に於けるモダーニズムと同じく、一部の代表的な(一種の支配的な)知識人又は教養人からは無条件に軽蔑されて来たという歴史を持っている。それは多分日本のモダーニズム自身のクダラない内容に由来するばかりではなくて、当時の知識人や教育人やが持っていた、云わばプロイセン的な形の消極的消費生活に基くドイツ的教養や、封建的な制限を辛うじて打破したばかりの日本の所謂半隷農的な消費生活に基くヒューマニズム的文学意識から、反発されたのであった。即ち日本に於ては文学はそれ程狭いスケールに於て教えこまれていたのである。近代日本の文学意識は、自分自身の直接の感覚のアッピールを信じては悪いと思う程、それ程文学上の優等生で品行方正だったのである。\n 併し〔第一次〕大戦後のアメリカと日本とに於ける好況、そしてヨーロッパ大陸に対するアメリカの君臨とヨーロッパの屈服、それに世界的水準にまで追いついた日本の生活意識に於ての成人。こうしたものからモダーニズムは所謂アメリカニズムとして、日本に流れ込んで来ることを、妨げる如何なる「教養」もあり得なかった。――そこで日本に於ける文学上のモダーニズムは、文学と或る点ではイコールだと教えられていた各種のヒューマニズム(個人主義・人格主義・モーラリズム・人生派・深刻派・高踏派)、日本風に人道主義化された自然主義(日本自然主義は日本ブルジョア文学の出発点であり基調をなすもので今日日本の純文学者が多く云わば「文学的自由主義」に立っている原因はここにあるが)、それからこれ等のものに必然的に伴っていたセンチメンタリズム、こうしたものの批判として現われたのであった。だから世間ではこのモダーニズムの合言葉として、最も非人格的なスピーディ・朗らか・ナンセンスなどを選んだのである。\n 併し最も注意しなければならない点はモダーニズムと自然主義との関係だろう。日本の自然主義は決して自然科学的世界観や実証主義の故に採用されたのではなくて、文学意識を封建的な旧道徳意識から自由にしようとする文学本来の自由独立のために採用されたのであったから、今も云ったように、夫は初めから人道主義化されていて、単に本能や情念の文学上の勝利を意味するものでしかなかった。自然主義の台頭期に於ては、自然主義に賛成なものも反対なものも、自然主義の文学上のこの使命を充分尊重していたのであって、自然主義とは取りも直さず文学そのものの独立を意味するシンボルに他ならなかったようだ。で、そういうわけだから、日本の自然主義そのものからはフランスに於てのように科学主義も主知主義も社会観も出ては来なかった。モダーニズムは別で、こうした人道主義的自然主義の伝統(実は単にヒューマニズムと云ってもいいのだが)に対抗して、却って自然主義の本来の一根本要素であった機械主義を押し立てたわけなのである。こう考えて来ると、一見偶然な現象であるかのように待遇され勝ちな所謂モダーニズムも、実は却って、日本文学の伝統である自然主義の本格的な一発展でさえもあり、それ故に又、注目すべき新文学でもあったのだ。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 先きのほどより、彼方の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を聞ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子を咬へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚𤗼をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然と、噬み合ふ嘴も開いたままなり。\n\n第五回\n\n 鷸蚌互ひに争ふ時は遂に猟師の獲となる。それとこれとは異なれども、われ曹二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬も、これかれ斉しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても詮なしト、漸くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身は、什麼何処の犬なれば、かかる処にに漂泊ひ給ふぞ。最前より噬あひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖、某如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃されて、雉子は御身が有となりてん。......これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞かな。さいふ御身が本事こそ。なかなか及ばぬ処なれト、心私かに敬服せり。今は何をか裹むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に事へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて暇を乞ひ、今かく失主狗となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名怎麼に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬は打点頭き、「さもありなんさもこそと、某も疾く猜したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この辺の猟師に事ふる、猟犬にて候が。ある時鷲を捉て押へしより、名をば鷲郎と呼ばれぬ。こは鷲を捉りし白犬なれば、鷲白といふ心なるよし。元より屑ならぬ犬なれども、猟には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を垂れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事を見て、わが慢心を太く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺を見かへり、「さらば委敷語り侍らん......」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵とねらひ、主家を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸に意恨はなけれど、彼奴猛威を逞うして、余の獣類を濫りに虐げ。あまつさへ饑る時は、市に走りて人間を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会もあらば挫がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼に猟に長けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、他が挙動を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、符を合す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴を狙はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身已にその意ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ異れこの後は、兄となり弟となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多の犬と噬み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意なく思ひゐしに。今日不意く御身に出逢て、かく頼もしき伴侶を得ること、実に亡父の紹介ならん。さきに路を照らせし燐火も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、独り感涙にむせびしが。猟犬は霎時ありて、「某今御身と契を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪を棄て、御身と共に失主狗とならん」ト、いふを黄金丸は押止め、「こは漫なり鷲郎ぬし、わがために主を棄る、その志は感謝けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配は無用なり。某猟師の家に事へ、をさをさ猟の業にも長けて、朝夕山野を走り巡り、数多の禽獣を捕ふれども。熟ら思へば、これ実に大なる不義なり。縦令ひ主命とはいひながら、罪なき禽獣を徒らに傷めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。此をもて某常よりこの生業を棄てんと、思ふこと切なりき。今日この機会を得しこそ幸なれ、断然暇を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる術なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる哉この寺は、荒果てて住む人なく、われ曹がためには好き棲居なり。これより両犬此処に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の中に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを撰びて、其処をば棲居と定めける。\n\n第六回\n\n 恁て黄金丸は鷲郎と義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、慣し業とて野山に猟し、小鳥など捉りきては、漸くその日の糧となし、ここに幾日を送りけり。\n 或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途、独り畠径を辿り往くに、只見れば彼方の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる下に、黄なる獣眠りをれり。大さ犬の如くなれど、何処やらわが同種の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口尖りて、正しくこれ狐なるが、その尾の尖の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角ぬしが物語に、聴水といふ狐は、かつてわが父月丸ぬしのために、尾の尖咬切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖断離れたり。恐らくは聴水ならん。阿那、有難や感謝や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。将一噬みに......」ト思ひしが。有繋義を知る獣なれば、眠込みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、件の狐は打ち驚き、眼も開かずそのままに、一間ばかり跌㗲叫んで追駆るに。彼方の狐も一生懸命、畠の作物を蹴散らして、里の方へ走りしが、只ある人家の外面に、結ひ繞らしたる生垣を、閃と跳り越え、家の中に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才ばかりなる稚児の、余念なく遊びゐたるを、過失て蹴倒せば、忽ち唖と泣き叫ぶ。その声を聞き付て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で入しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴が噬みしならんト、思ひ僻めつ大に怒て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「呀」ト一声叫びもあへず、後に撲地と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄もて、犇々と縛められぬ。その間に彼の聴水は、危き命助かりて、行衛も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯して吠え立つれば。「おのれ人間の子を傷けながら、まだ飽きたらで猛り狂ふか。憎き狂犬よ、今に目に物見せんず」ト、曳立て曳立て裏手なる、槐の幹に繋ぎけり。\n 倶不戴天の親の仇、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少の罪に縛められて邪見の杖を受る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間に牙向ふこともならねば、ぢつと無念を圧ゆれど、悔し涙に地は掘れて、悶踏に木も動揺ぐめり。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 却説く鷲郎は、今朝より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度か門に出でて、彼方此方を眺れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一他が身の上に、怪我はなきやと思ふものから。「他元より尋常の犬ならねば、無差と撲犬師に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻りに案じ煩ひつつ。虚々とおのれも里の方へ呻吟ひ出でて、或る人家の傍を過りしに。ふと聞けば、垣の中にて怪き呻き声す。耳傾けて立聞けば、何処やらん黄金丸の声音に似たるに。今は少しも逡巡はず。結ひ繞らしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎に、枳殻の針腹を指すを、辛うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐の樹に括り付けられて、蠢動きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱き起し、耳に口あてて「喃、黄金丸、気を確に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭を擡げ、「こは鷲郎なりしか。嬉しや」ト、いふさへ息も絶々なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体の痍を舐りつつ、「怎麼にや黄金丸、苦しきか。什麼何としてこの状態ぞ」ト、かつ勦はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛められし事の由来を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居へと急ぎけり。\n\n第七回\n\n 鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体痛みて堪えがたく。加之右の前足骨挫けて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶へん。この宿願叶はずば、養親なる文角ぬしに、また合すべき面なし」ト、切歯して掻口説くに、鷲郎もその心中猜しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起といはずや。心静かに養生せば、早晩は癒ざらん。某身辺にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々しき験も見ぬに、ひたすら心を焦燥ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前より猟に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空長閑く、斜廡を洩れてさす日影の、払々と暖きに、黄金丸は床をすべり出で、椽端に端居して、独り鬱陶に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助を呼ぶ鼠の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍に、一匹の雌鼠走り来て、股の下に忍び入りつ、救助を乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫に思ひ、件の雌鼠を小脇に蔽ひ、そも何者に追はれしにやと、彼方を佶ト見やれば、破れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方を窺ふ一匹の黒猫あり。只見れば去る日鷲郎と、かの雉子を争ひける時、間隙を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大に怒りて、一飛びに喰てかかり、慌てて柱に攀昇る黒猫の、尾を咬へて曳きおろし。踏躙り噬み裂きて、立在に息の根止めぬ。\n この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這ひ寄りて、慇懃に前足をつかへ、数度頭を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾と打ち笑み、「爾は何処に棲む鼠ぞ。また彼の猫は怎麼なる故に、爾を傷けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝を進め、「さればよ殿聞き給へ。妾が名は阿駒と呼びて、この天井に棲む鼠にて侍り。またこの猫は烏円とて、この辺に棲む無頼猫なるが。兼てより妾に懸想し、道ならぬ戯れなせど。妾は定まる雄あれば、更に承引く色もなく、常に強面き返辞もて、かへつて他を窘めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件の鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目にかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽嘴に咬はへて、猟より帰り来りしが。この体態を見て、事の由来を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労を称賛しつ、「かくては御身が疾病も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰ひぬ。\n さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕黄金丸が傍に傅きて、何くれとなく忠実に働くにぞ、黄金丸もその厚意を嘉し、情を掛て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師に飼はれて、種々の芸を仕込まれ、縁日の見世物に出し身なりしを、故ありて小屋を忍出で、今この古刹に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚えの舞の手振、または綱渡り籠抜けなんど。古し取たる杵柄の、覚束なくも奏でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。\n\n第八回\n\n 黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体の痛みも失せしかど、前足いまだ癒えずして、歩行もいと苦しければ、心頻りに焦燥つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇さへ討ちがたけん。今の間によき薬を得て、足を癒さでは叶ふまじ」ト、その薬を索るほどに。或日鷲郎は慌しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某今日好き医師を聞得たり」トいふに。黄金丸は膝を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処の誰ぞ」ト、連忙はしく問へば、鷲郎は荅へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊が原といふ処ありて、其処に朱目の翁とて、貴き兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈りの爺がために、仇敵狸を海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿より、霊杵と霊臼とを賜はり、そをもて万の薬を搗きて、今は豊に世を送れるが。この翁が許にゆかば、大概の獣類の疾病は、癒えずといふことなしとかや。その犬も去る日村童に石を打たれて、左の後足を破られしが、件の翁が薬を得て、その痍とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実に嬉しき事かな。さばれかく貴き医師のあることを、今日まで知らざりし鈍ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月の骨を得し心地して、その翌日朝未明より立ち出で、教へられし路を辿りて、木賊が原に来て見るに。櫨楓なんどの色々に染めなしたる木立の中に、柴垣結ひめぐらしたる草庵あり。丸木の柱に木賊もて檐となし。竹椽清らかに、筧の水も音澄みて、いかさま由緒ある獣の棲居と覚し。黄金丸は柴門に立寄りて、丁々と訪へば。中より「誰ぞ」ト声して、朱目自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白に、眼紅に光ありて、一目尋常の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭しく礼を施し、さて病の由を申聞えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍を打見やり、霎時舐りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏くも月宮殿の嫦娥、親ら伝授したまひし霊法なれば、縦令怎麼なる難症なりとも、とみに癒ること神の如し。今御身が痍を見るに、時期後れたればやや重けれど、今宵の中には癒やして進ずべし。ともかくも明日再び来たまへ、聊か御身に尋ねたき事もあれば......」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途すがら只ある森の木陰を過りしに、忽ち生茂りたる木立の中より、兵ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻りてその矢をば、発止ト牙に噬みとめつ、矢の来し方を佶ト見れば。二抱へもある赤松の、幹両股になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手に黒木の弓を持ち、右手に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注へんとせしが。黄金丸が睨め付し、眼の光に恐れけん、その矢も得放たで、慌しく枝に走り昇り、梢伝ひに木隠れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些ばかりの豆滓を携へ、朱目が許に行きて、全快の由申聞え、言葉を尽して喜悦を陳べつ。「失主狗にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容をあらため、「某幾歳の劫量を歴て、やや神通を得てしかば、自ら獣の相を見ることを覚えて、十に一も誤なし。今御身が相を見るに、世にも稀なる名犬にして、しかも力量万獣に秀でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月数多の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得したり。総じて獣類は胎生なれど、多くは雌雄数匹を孕みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之牛に養はれて、牛の乳に育まれしかば、また牛の力量をも受得て、けだし尋常の犬の猛きにあらず。さるに怎麼なればかく、鈍くも足を傷られ給ひし」ト、訝かり問へば黄金丸は、「これには深き仔細あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天の仇と狙ふて、常に油断なかりしが。去る日件の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他に方便られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事具に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕心を配ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢りて切歯をすれば、朱目も点頭きて、「御身が心はわれとく猜しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身実に他を討たんとならば。われに好き計略あり、及ばぬまでも試み給はずや、凡そ狐狸の類は、その性質至て狡猾く、猜疑深き獣なれば、憖いに企みたりとも、容易く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他が好むものをもて、釣り出して罠に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼にして作り候や」「そは斯様々々にして拵へ、それに餌をかけ置くなり」「して他が好む物とは」「そは鼠の天麩羅とて、肥太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気他が鼻を穿ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概は、その罠に落つるものなり。これよく猟師のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切に教へしかば。「こは好きことを聞き得たり」ト、数度喜び聞え、なほ四方山の物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端に傾きて、塒に騒ぐ群烏の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥したまへ」ト会釈しつつ、わが棲居をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉なすや、引捕へてくれんず」ト、走り寄て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉の中に隠れしが、われに木伝ふ術あらねば、追駆けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代より、仲悪しきものの譬に呼ばれて、互ひに牙を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕へて糺さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――畢竟この猿は何者ぞ。また狐罠の落着怎麼。そは次の巻を読みて知れかし。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「ほんとにそれはよい考え。それに決めようではございませんか」\n「それでこっちは決まったが、それではいよいよ本筋へはいって今夜の相談をしようかい」\n「いくら今夜が闇の夜でも、誰かその辺に立ち聞きでもしてせっかくの工夫を邪魔されては骨折り損でございますゆえ、穢いけれど私の住居でお話しようではございませんか」\n 公孫樹のお夏がこう云うと、後の二人は頷いた。\n それと一緒に見えていた姿が掻き消すように消え去って、銀杏の古木の辺りには暗黒ばかりが蠢いている。\n 夜は寂々と物凄く、風さえ今は途絶えている。何の物音も聞こえない。\n 本堂の縁に腰かけていた常陸介と山尾とは闇の中で顔を見合わせた。\n「天晴れ世間の噂に違わず、三匹の狐が三様の化け方、なかなか巧みにやりましたな。あれでは城下の町人どもが化かされるのももっとも千万、常陸、少々感心申した」\n「ほんとに綺麗に化けましたこと。とは云え畜生の浅ましさに、小手抜小女郎というあの狐は、白拍子姿に化けたはよいが黄金造りの立派な太刀を右に佩いていたではございませんか」\n「ほほうさようでござったかな。そういえばこのような闇の夜に彼らばかりが描いたようにハッキリと姿を見せおった。畜生は畜生でござりますのう」常陸は笑って云うのであった。「それにしても彼らは我々の主人花村殿を悪態に申し復讐するなどと云いおったが何をする気でござろうかの?」\n「何をしようが相手は獣、恐れるところはござりますまい」\n\n裸体武兵衛\n\n この時、銀杏の根もとの辺から、パッと白光が閃めいたが、法蔵寺鈍二兵衛を先に立てて小女郎もお夏も洞穴から出た。\n「これで相談も調ったが、何んと名案ではあるまいかな」\n 鈍二兵衛が鼻を蠢めかした。\n「ほんとに名案でございますことねえ。これではいかな英雄でも閉口することでございましょう」小女郎が嬉しそうに云うのであった。\n「それでは明日からポツポツと細工することに致しましょう」お夏もいそいそと云うのであった。\n 鈍二兵衛は少し心配そうに、\n「ただここに一つ気懸かりなは、裸体武兵衛のことばかりだ。せっかくの拙者の名案も裸体武兵衛の手にかかったら立ちどごろに破れてしまうからの」\n「はだか武兵衛の来ないように、どうぞしたいものでございますなあ」二人の女は嘆息をした。夜はしんしんと更けて行く。\n「取り越し苦労をしたところで武兵衛が来なくなる訳ではなし、それより今夜は大陽気に、踊って別れるとしようかの?」\n 鈍二兵衛の言葉に元気づいて、三人は手拍子面白く足をはね上げて踊り出した。\n「恵那の前山真っ暗じゃ」\n まず鈍二兵衛がこう唄うと、\n「幽霊星を見やしゃいな」\n と小手抜小女郎が後を付ける。するとお夏がその後を云う。\n「苗木の城はグラグラじゃ」\n\n「城下に疫病が出来ようぞ」\n「はだか武兵衛に知られるな」\n「死人で丘をつくろうぞ」\n\n「はだか武兵衛に知られるな」\n「城下に疫病が出来ようぞ」\n「はだか武兵衛が来ぬように」\n\n 彼ら三人は暗夜の中に各自光を纏いながらへんぽんとして舞い踊るうち、彼らの衣裳は悉く落ちて、ただ見る三匹の仔牛ほどの野狐が、後脚二本で土に立ち、前脚二本で拍子を取り、三叉に裂けた太い尾を肩に高々と背負ったまま奇怪の舞踏をやっている。\n その物凄い光景にはさすがの山尾も常陸介も体の縮むを覚えたのである。\n やがて彼らは踊りにも疲労れ夜も明け方に近寄ったからか、散り散りに別れて消え失せた。\n 後は寂然と静かである。\n 東の空が明るくなって横雲へ東雲の色が付き寒い朝風が吹き出した。\n 常陸と山尾は立ち上がって西小寺の境内を後にした。\n 二人の顔には愁いの情がハッキリと現われているのであった。\n 常陸介は伊賀流の忍術者、山尾は陰陽名誉の女流、二人ながら達人であるだけに、野狐の祟りというようなものが案外恐ろしいということを充分知っているために、彼ら三匹の唄った言葉が気味悪く思われてならないのであった。\n「城下に疫病が出来ようぞ」「死人で丘をつくろうぞ」こう唄った彼らの唄の言葉が心にかかってならないのであった。\n それで二人は物も云わず、お城へ行く路を歩むのであった。\n\n そういう事があってからものの三日も経たないうちに、苗木の城下、中津川の町に、奇怪な熱病が流行して、それにかかった人達は焦熱地獄の苦しみと八寒地獄の苦しみとを替わる替わるに苦しんだあげくの果てにコロリと一息に死ぬのであった。\n そして病人の死ぬ時には西小寺の方角に何物かいて、さも嬉しそうな声を上げて、\n「城下に疫病が出来ようぞ」\n「死人で丘が出来ようぞ」\n と、唄い踊って笑うのであった。\n そして病人が苦しむ時にはきっと四つん這いに這い歩き狐のような鳴き方をした。\n\n不思議な熱病\n\n 不思議な熱病の蔓延は恐ろしいほどに速かった。中津川の町の町人のほとんど全部がこれにかかり泣き声喚き声呪咀の声が城中へまでも聞こえて来た。\n 仁慈の大将花村甚五衛門は、城下の民のこの難儀をどうして眺めていられよう、糧米を分け薬湯を与え城中の武士を引卒して自分から親しく罹災者を見舞い、神社仏閣へ使者を遣わし加持や祈祷を行わせ、ひたすら病魔の退散と罹病者の平癒を願うのであった。\n しかし疫病は日一日と益〻猛威を逞しゅうし、斃れる人間の数を知らず、それこそ本統の死人の丘が町の真ん中に出来そうであった。\n そして、こればかりはと思っていた城中へまでも疫病の神が、恐ろしい姿を見せるようになった。\n それはある晩のことであったが、時刻もちょうど丑満時、甚五衛門は小姓を連れて奥の厠へ行こうとして廊下を向こうへ歩いて行った。その時、彼の行手から白拍子姿の手弱女と鉄棒を突いた大入道と町娘風の乙女とが、こっちへ悠々と歩いて来たが、もちろんそのような異様の者は彼の家臣の中にはない。さてこそ曲者ござんなれと甚五衛門は眼を怒らせハッタと三人を睨みながら、\n「おのれ曲者いずこへ参る?」と大喝一声罵った。\n すると怪しや三人の姿は、彼の威勢に恐れたものかパッとそのまま消え失せたが、家の上と覚しい方角から、声を揃えて唄う声が、凄惨として聞こえて来た。\n「苗木の城はグラグラじゃ」\n「城下に疫病が出来ようぞ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「死人の丘が出来ようぞ」\n そして唄う声が絶えた後を、狐の声が哈々と西小寺の方へ渡って行く。\n すなわち、この変事があってから、城中へ疫病が入り込んだのであって、さすがに領主の甚五衛門や浪人組の増良雄や花村右門と云ったような勇士の面々には変りもないが、生若い武士や使僕などは、町人どもと同じように狐の真似をして這い歩いたり、熱寒両様の苦しみをした後コロリコロリと死ぬのであった。\n こうして城内も城外も疫病の魔王の荒れるに任かせてほとんど手を着ける手段もなく、憐れやこのまま城も人もことごとく滅びようとするのであった。\n 常陸介と山尾とは、疫病の原因を知っているため、かえって疫病が恐ろしく他人にも増して神社仏閣へ熱心に参詣するのであった。数百年を経た古狐の悪意から出たこの災いは到底人間の力をもっては防ぐことが出来ないということを、二人とも法術者であるために早くも心に会得して、ただこの上は神々の威光にお縋りをするそれ以外には施す方法は全くないと思い定めているのであった。\n 今日も二人は連れ立って、十二月の寒い朝風を、寒いとも思わず真っ向に受け、昨夜の雪の積った道を駒場の方へ行くのであった。長い街道を行き抜けて、だらだら坂を丘へ上ぼり、吹きさらしの曠野を真っ直ぐに、やがて濃緑い森へ来た。\n 長い石段を上へと登り、社の境内へ二人は出た。向こうを見れば玉垣の奥に津島神社の本殿がある。右手に絵馬堂が立っている。二人は神水で手を洗いその手を虔しく打ち合わせて病魔退散を祈るのであった。\n やがて二人は礼拝もおえて社の外へ出ようとした。すると右手の絵馬堂から快よさそうな鼾の声が二人の耳へ聞こえて来た。\n ハテこのような寒空に何者が鼾を掻いているのかと二人は心に驚いて絵馬堂の前まで行って見た。\n 何んという呆れた態であろう。絵馬堂の板の間に大の男が下帯一筋の赤裸で雪の積もった今日の日を寒いとも思わぬか高鼾でグーグー眠っているではないか。\n 常陸と山尾は顔見合わせてしばらくそこに彳んでいたが、\n「いかに丈夫な体でもこの寒空に赤裸で絵馬堂に睡っては耐まるまい、起こしてやろうではござらぬか」\n 常陸の言葉に山尾も頷き、声を合わせて呼ばわった。\n「こりゃこりゃ若者、眼を覚ませ!」\n すると若者は鼾を止めてフッとその眼を見開いた。それから悠々と起き上がった。\n「これはこれはお侍様に、目の覚めるようなお嬢様、私をおよびなされたそうな。何かご用でございますかい?」\n「別に用とてはなかったがこの寒空に裸体の昼寝、風邪でも引くと気の毒と思ってただ呼び醒ましたばかりであるぞ」\n\nきっと癒して見せる\n\n「へえ、さようでございましたか。ご親切は有難うございますが、そのご親切がかえって怨み、私はこのまま寝ていた方がいっそ勝手でございます」\n 裸体の男はこう云ってまたもやゴロリと寝ようとした。\n「これこれ若者、馬鹿なことを申せ、いずれお前は旅の人間でこの土地の様子を知らぬからこそさような太平楽も申しておれ、恐ろしいこの土地の話を聞いたら恐らく身顫いするであろうぞ」\n「いかさま私は旅の者で、この土地の様子は存じませぬが、その恐ろしい話とはどんな話でございますな?」\n「外でもないがこの土地には恐ろしい熱病が流行っているのじゃ」\n「へへえ、そんなことでございますか。そんなことならこの私は、びくともすることじゃございません」\n 若者は、ニヤニヤ笑っている。\n「ナニ熱病を恐れぬとか?」\n 常陸は呆れて訊き返した。\n「熱病であれ風邪であれ一切熱のある病気には、向こうの方から恐れこそすれ私の方ではそんなものは驚きも怖れも致しません」\n 若者は自慢そうに云うのであった。\n「さてさてそちは向こう見ずの乱暴者であることのう......そちはいったい何商売じゃ?」\n「へい雲助でございます」\n「して姓名は何んと云う」\n「へい武兵衛と申します」\n「ナニ、武兵衛じゃと? しかとさようか!?」\n 常陸は思わず進み寄った。\n「いかにも武兵衛でございます。春夏秋冬いつも裸体、それで世間の人達は、私のことを裸体武兵衛はだか武兵衛と申します」\n 常陸と山尾はそれを聞くとハッとばかりに顔を見合わせ、そのままバタバタと大地の上へ二人揃って膝を突いた。\n「ははっ、それでは貴殿こそは裸体武兵衛様でございましたか。それとも知らず先刻から無礼のことばかり申し上げ、誠にもって恐縮千万、なにとぞお許しくださいますよう。常陸お詫びを申し上げます」\n その尾について山尾までが、\n「さような尊いお方様とは夢にも知らず先ほどから失礼ばかり申し上げ、ほんとにお恥ずかしゅう存じます。どうぞお許し遊ばしますよう山尾お詫びを申し上げます」\n すると武兵衛は驚き周章てて絵馬堂から大地へ飛び下りたが、これもそのまま平伏して、\n「何をお武家様とお嬢様、滅相もないことおっしゃいます。なんで私がそのような偉い人間でございますものか。私はただの雲助で、決してお武家様やお嬢様にそのように拝まれたり辞儀されたり平伏されたりするような立派な人間ではございません。どうぞお手を上げくだされまし」と、大汗流して云い訳をする。\n しかし常陸もまた山尾もそれを信じようとはしなかった。\n そして常陸は熱した口調で、かつて西小寺の境内で三匹の狐が武兵衛のことを恐れていたということと、現在中津川の住民が不思議な熱病に取り付かれ、頻々と死ぬということと、この熱病を追い払うものは武兵衛以外にないということを一生懸命に語った上、どうぞ我々を助けると思って、苗木の城内へ参られるように、霊妙の力を現わして病魔を追い払いくださるようにと、熱心をこめて頼むのであった。\n 武兵衛は常陸のその言葉を黙ってじっと聞いていたが、やがて横手をハタと拍った。\n「それでは三匹の狐めが『はだか武兵衛が来ぬように』『はだか武兵衛に聞かせるな』と唄っていたとおっしゃいますか? それは確かでございましょうな? ふうん、それにしても狐めはどうして私のこの力を――熱のある一切の病気ならきっと癒して見せるという、自分にも解らぬこの力を、どうして知っていたものか、ほんとに不思議でございますなあ......それはそれとして、お二人様に、土下座までされて頼まれたからには、私にとっては男冥利、一つ立派に頼まれましょう。その狐めの通力と裸体武兵衛の『肉の力』とどっちが勝つか力比べ、立派にやって見せましょう」\n こう云うと武兵衛は立ち上がって、春夏秋冬の風雨に晒し鍛えに鍛えた筋肉の隆々と盛り上がった胸の辺りをハタと片手で打ったのである。\n\n狐は血を吐いて\n\n「なんというお偉い方であろう、裸体武兵衛というお方は。あれほど暴威を揮っていた得体の知れない熱病が、あのお方がご城下へ現われてからは、またたく間に勢いを潜めて、病人はドシドシ本復する。新しい患者は出なくなる。ほんとにほんとにはだか武兵衛様は何んというお偉い方であろう」\n「それに病人を療すと云っても、薬一服盛るのでもなし、荒神の護符を飲ませるのでもない。お侍衆に守られながらあの逞しい裸一貫で、ズカズカと病家へやって来て、病人の枕もとへ突っ立ったまま病人の様子を眺めている。それからノコノコと病人の寝床へ裸のままでおはいりになる。すると病人が悲鳴を上げて『許せ許せはだか武兵衛!』と、さも苦しそうに叫んだかと思うとそのままコロリと熱が落ちて病人はにわかに本復する......魔術と云おうか奇術と云おうか、はだか武兵衛様のあのお手練は人間業とは思われぬ」\n「ところで女子の病人と見るとさすがに寝床へはいろうとはせず、その枕もとへピタリと坐って、あり合う茶碗へ清水を汲んで、それを互いに飲み合っただけで熱病が癒るというではないか」\n「仮りに姿を人間に変えた神様などであろうかい」\n「神様と云えば武兵衛様は駒場の森の津島神社の拝殿に寝ていたと申すことじゃ」\n「それではいよいよ津島神社のお遣使かもしれないぞ」\n「何はともあれああいうお方が中津川のお城下へ出たというものは、やはり花村甚五衛門様が勇士をお愛しなさるからじゃ。いずれ病気を癒した後も、浪人組の一人としてお城にお止どまりなさるであろう」\n「普通の勇士とはまた違って、ああいう不思議の徳を備えた、あのような偉人を幕下に持って武勇をお振るい遊ばすからには、花村様のご武運は上々吉と申すものじゃ」\n「噂をすればそれ影じゃ。侍衆に囲まれてはだか武兵衛様がお通りなさる」\n そう云って指差す方角から、褌一筋の裸体一貫、隆々たる筋肉を寒風に晒した噂の主のはだか武兵衛が、城中の侍に前後を守られ悠々として歩いて来る。\n「ところで今日はどの方面を診て廻わることに致そうの?」\n 侍の一人を振り返ってはだか武兵衛はこう訊いた。\n「白山町の方面に十人ほど患者がございまして、先生のお出張を待ちおる次第。もはや患者と申しましてはその十人だけでございます」\n「それでは今日はその十人を一人も残さず癒すとしようか」\n「なにとぞさよう遊ばしまして」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「御性質は點の打ちどころもありませんわ! 寧ろ、風變りでゐらつしやるかも知れませんね。隨分旅行を遊ばして、世の中をいろ〳〵と御覽になつたのでございますよ。私はほんたうにお賢い方と申上げていゝと思つてをります。尤も私はさうお話しいたした事もございませんけれど。」\n「どんな風に、風變りでゐらつしやいますの?」\n「私にはわかりません――それを申上げるのは難かしうございます――決して目につく程の事ではございませんけれど、あの方が、あなたに物を仰しやればお解りになりますよ。あなたはあの方が、御冗談だか、眞面目でゐらつしやるのか、また喜んでゐらつしやるのだか、その反對だか、いつだつてはつきりとはお解りになりませんよ。兎に角、あなたには、すつかりお解りになれないと存じますわ――少くとも私には駄目でございますねえ。ですが、こんなことは、何も大したことぢやございません、あの方は本當にいゝ御主人でゐらつしやいますわ。」\n これが、フェアファックス夫人から聞いた彼女と私の雇ひ主に就いての全部だつた。ある性格を描寫したり、人や物の特徴を觀察し説明する場合、まつたく無定見のやうに思はれる人々がある。この善良な婦人は、明かにこの組に屬してゐるのだ。私の質問は、彼女を當惑させたゞけで、話をさそひ出すことは出來なかつた。彼女の眼には、ロチスターさんは、ロチスターさんであつた。紳士で、地主――それだけなのだ。彼女はそれ以上に、訊ねも探りもしない。そして彼の正體に就いての、もつとはつきりした意見を掴みたがつてゐる私の望みを、明かに訝つてゐたのだ。\n 食堂を出ると、彼女は私に邸の他の部分を見せようと申出た。で、私は何處もみなよく配置され、立派なものだつたので、到る所で感嘆しながら、二階や階下を彼女の背後に隨いてまはつた。正面の大きな部屋は、特別に素晴らしいと私は思つた。それから三階のいくつかの部屋は、暗くて天井が低くはあつたが、その古めかしいさまに趣きがあつた。階下の部屋の用に宛てゝあつた家具が、流行の變る毎にこゝに運び移されたのである。そして、狹い窓枠から入つて來る、ほのかな光が、百年も昔の寢臺を照らしてゐた。樫か胡桃で作つた櫃には、奇妙な棕櫚の枝と天童の頭の浮彫がしてあつて、ヘブライの經典ををさめた木箱のやうな形に見えた。寄り掛りの高い、狹い嚴めしい椅子の列、もつと古めかしい腰掛、それには棺の塵になつて二代も經つた人の手になつた、やつと見分けられる、すりきれた縫取りの跡が褥の上に殘つてゐた。これら總ての遺物が、ソーンフィールド邸の三階に、過去の家――追憶の殿堂といふ容子を與へてゐた。晝間ならば、この幽棲の靜けさや暗さや、古雅は好ましいものだ、だが、私は、決してその幅の廣いどつしりした寢臺の一つに、夜の休息を望む氣にはなれなかつた――ある部屋は樫の扉に閉めこまれて居り、またある部屋は、異樣な花や、さらに異樣な鳥や、さらにそれ以上異樣な人間などの像を寫した、もり上るやうに厚ぼつたい刺繍に覆はれた、古い英吉利風の垂布に隱されてあつた――これが蒼ざめた月光に照らし出されたら、まつたくみんな異樣なものに見えるだらう。\n「召使ひの人たちは、こちらの部屋で休みますの?」と私は訊いた。\n「いゝえ、あれ達は、裏の方の、もつと小さな部屋の一並びにをります。誰も、今迄こゝに休んだことはないのでございます。若しもソーンフィールド莊に幽靈がゐるのだつたら、こゝがその棲家だらうと申すものもあるやうでございますよ。」\n「さうでせうね。では、あなたは、幽靈を御覽になつたことはおありになりまして?」\n「いゝえ、聞いた事もございませんわ。」とフェアファックス夫人は、微笑みながら答へた。\n「誰かの傳説のやうなものはありませんの――云ひ傳へとか怪談とか?」\n「さあ、ないと存じますわ。ですが、ロチィスター家は、昔からおとなしいと云ふよりは、烈しい血統の人々だつたと云はれてをります。ですから、却つて、今はお墓の中におとなしく休んでゐらつしやるといふことになるのかも知れませんわ。」\n「さうですわね――『人生の激しい激昂の後、彼等はよく眠つてゐる』」と私は呟いた。「あら、何處へいらつしやいますの、フェアファックス夫人?」彼女は何處かへ行かうとしてゐたから。\n「鉛板葺屋根の上へ。あなたもおいでになつて、あそこから景色を御覽になりませんか。」\n 大變狹い階段を屋根裏へ上つて、そこから梯子を傳つて刎ね上げ戸をくゞり、廣間の屋根へ私は隨いて上つた。私は、今鴉の群と同じ高さにゐる、そしてその巣を覗き込むことも出來た。鋸壁に凭れて、遠くを見下すと、地圖のやうに展開した土地が見渡せた。つやゝかな天鵞絨のやうな芝生が、邸宅の礎を近く圍み、公園程もある野には昔ながらの森林が點在し、焦茶色の、葉の落ちた森は、簇葉に蔽はれた樹々よりももつと濃い緑の苔草が生え茂つた小路で區切られてゐる。門の傍の教會、路、靜寂な丘、すべては秋の日の陽光の中に靜かにやすんでゐる。地平線は眞珠色の大理石模樣をした、快晴の青空に限られてゐる。その景色の中では、異常なものは何もなく、たゞすべては樂しげだつた。屋根の上から戻つて、刎ね戸を、また潜つた時、私には梯子を傳つて下りる道が殆んど見えなかつた。私が見上げてゐた蒼穹や、愉しく見下ろしてゐた、この建物を中心にした、陽に輝いた、木立や草原や緑の丘の景色に比べると、屋根裏は、まるで地下室のやうに眞暗な氣がした。\n フェアファックス夫人は刎ね戸を閉める爲めに、ちよつとの間後に殘つた。私は手搜りで屋根裏からの出口を見附けて、狹いそこの階段を下りようと進んで行つた。三階の表と裏の部屋々々を隔てる階段につゞいた長い廊下で、ふつと私は躊躇つた。ずつと向うの、とつつきに小窓が一つあるばかりで、狹くて低い、その上薄暗く、閉め切つた小さな黒い扉の列が兩側につゞくのが、ちやうど怖しい『ブリュービアドの城』か何かの廊下のやうに見えるのだつた。\n 跫音を忍ばせて歩く内に、こんな靜かな處で聞かうとは思ひもかけない笑ひ聲が、突然私の耳を打つた。不思議な笑ひ聲――一種獨特な、型でうち出したやうな、少しもをかしくない笑ひ聲だつた。私は立ち止つた。一瞬間でその響は絶えた。が、また前よりも大きく聞えて來た。はつきりしてはゐるが、非常に調子が低いのだ。それは、一つ〳〵の、もの寂しい部屋の中にゐる木靈を呼び起すやうな騷がしい反響となつて消えて行つた。だが、その聲の源は、一つしかなかつたから、私はどの扉から出てくるかゞわかつた。\n「フェアファックス夫人!」彼女が今大きな階段を下りて來るのが聞えたので、私は叫んだ。「あの大きな笑ひ聲をお聞きになりまして? 誰ですの?」\n「召使ひの誰かでせう、きつと。」と彼女は答へた。「大方グレィス・プウルでせう。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「あなたもお聞きになりまして?」と私は再び訊いた。\n「え、はつきりと。彼女のをよく聞くのでございますよ。こゝの部屋のどれかでお針をしてをりますから。時々レアも一緒にをります。あの人達はよく一緒に騷ぐのでございますのよ。」\n 笑聲は低い、明瞭な調子で繰返されて變な呟きに終つた。\n「グレイス!」とフェアファックス夫人は呼んだ。\n まつたく私は、グレイスなどといふ人間が返辭をしようとは思つてもゐなかつた。それほど、その笑ひ聲は、今迄聞いたどれよりも悲劇的で奇異なものだつた。そしてそれが眞晝間で、その奇妙な高笑ひに似つかはしい不氣味な有樣もない――怖さを増すやうな場面でも時機でもない、といふのでなかつたなら、私は迷信的に怖くなつたに違ひなかつた。しかしこの出來事は、吃驚したりすることさへ、私が馬鹿なのだといふ事を私に示してくれた。\n 私の直ぐ傍の扉が開いて、一人の召使ひが出て來た――三十から四十位までの女で、がつしりした、四角張つた體付で、赤い髮の、きつくて、美しくない顏をしてゐた。これほど殺風景な、これほど幽靈らしくない幽靈は、殆んど考へられなかつた。\n「騷々し過ぎます、グレイス。」とフェアファックス夫人は云つた。「吩咐を守るんですよ。」グレイスは、默つてお辭儀して、這入つていつた。\n「彼女は、お針をしたり、レアの仕事の手傳ひをする者でございますの。」と夫人はつゞけた。「まつたく、缺點がない譯ではありませんが、なか〳〵よくやりますから。それはさうと、今朝はあなたの新らしい生徒さんとはどういふ鹽梅でいらつしやいましたか。」\n 話はかういふ風にアデェルの事に轉じて、階下の明るい氣持のいゝ處に行くまで續いた。アデェルは、廣間で私たちを迎へようと走つて來乍ら叫んだ――「みなさんお食事ですよ!」そして、「あたし、すつかりおなかが空いたわ!」\n フェアファックス夫人の室には、食事の用意が出來て、私共を待つてゐた。\n\n十二\n\n ソーンフィールド莊への私の安らかな第一歩が約してくれるやうに思はれた穩かな前途の望は、だん〳〵場所に馴れ、住んでゐる人達に親しんでからも裏切られることはなかつた。フェアファックス夫人は、思つてた通りの人で、相當な教育と人並の聰明さを持つた、温和な、親切な氣質の婦人だつた。私の生徒は、甘やかされ、氣儘にされて、それ故時には我儘も云ふ陽氣な子供だつた。けれど、彼女は全然私の世話に委ねられてゐたし、またどの方面からも、無分別な干渉で、彼女を矯正しようとする私の計畫を妨げなかつたので、すぐ彼女は、氣紛れな我儘を忘れて從順になり、教へ易くなつて來た。彼女は、優れた才能もなく、性質の上でもこれといふ特色もなく、普通の子供の水準以上に、一吋でも彼女を上げるやうな、特別に發達した感情も趣味もなかつた。しかし、また水準以下に下げるやうな缺點や惡癖も持つてはゐなかつた。彼女は、相當の進歩をした、私に對して、快活な、しかし、恐らく大して深くはない愛情を持つた。そして、その無邪氣さや、陽氣なお喋べりや、氣に入らうとする努力で、お互ひの交際に滿足する程度の愛着を私の心に起さした。\n 序に云ふが、これは、子供の無垢な性質や、教育家の義務に關して、先づ子供を偶像的に熱愛せよと云ふ嚴肅な主義を抱いてゐる人々には、冷い言葉と思はれるだらう。しかし、私は親の勝手な量見に謟つたり、僞善的口吻を洩したり、または誤魔化しの後押しをしようと思つて書いてゐるのではない。私は、たゞ眞實を語らうとしてゐるのだ。私は、アデェルの幸福と進歩を眞心からこゝろ懸けてゐたし、幼い彼女がだん〳〵好きになつた。ちやうど、私がフェアファックス夫人に對して、彼女の親切を嬉しく思ひ、また彼女が私に示すもの靜かな好意や彼女の穩やかな心と性質にふさはしい交際を快く感じるのと同じ程度であつた。だが、咎めたい人は咎めて下さい、私はもつと附け加へたいのだから。私が、時々、たつた一人で、邸内を散歩するとき、門の方へ下りて行つて、そこから、路をずつと眺めるとき、またはアデェルが保姆と遊び、フェアファックス夫人が貯藏室でジェリイを拵へてゐる間に、私が三つの階段を上り、屋根裏の刎戸を開けて鉛板葺屋根に出て、遠く離れた野や丘を、また朧げな地平線を遙かにのぞむ時――その時、その限界を越えて見透すことの出來る視力、聞いたばかりで見たことのない生命に充ちた忙がしい世界や、町や、地方に到達することの出來る視力が欲しいと願つた。また、私が持つてゐるよりも一層實際的な經驗を、自分と同じ性格の人と親しく交際し、私の側にゐる人達よりも、もつと性格の違つた人々と知己になりたいと願つたのだ。私はフェアファックス夫人の長所も、アデェルの長所も尊重した、けれども、もつと違つたもの、もつと生命の溢れるやうな美點がきつとあると信じた。そして、あると信ずるものを見たいと願つた。\n 誰か私を咎めるであらうか? 疑ひもなく多數の人が。私は不平家と呼ばれるだらう。しかし、私は、どうすることも出來なかつた。じつとして居られないものが私の性質の中に在つた。それが、時々、私をいらだたしめて、苦しめたのであつた。そんな時、私の唯一の救ひは、そこの沈默と靜けさの中に、誰にも妨げられずに、三階の廊下を行つたり來たりして、自分の心の眼に、その前に浮ぶありとある輝やかしい幻想を凝と見つめさせることだつた――確かにそれは數多く輝やかしいものであつた。そしてまた、私の胸は、喜ばしい刺㦸で一ぱいだつた。それは、私の心をます〳〵惱ますけれど、生命を吹き込んでくれる刺㦸だつた。中でも一等よいことは、涯しない物語――私が想像で創り上げた盡きせぬ物語、望んではゐるが、現實の生活には得られなかつた、すべての出來事や活氣や、情熱や感情で活々とした物語に心の耳を傾ける時であつた。\n 人間は平穩無事の中に滿足してゐるべきだ、と云ふのは無駄だ。人間には活動がなくてはならない。もしなかつたら、自分で作るだらう。幾百萬の人々は私よりはもつと靜止した生涯に運命づけられてゐる、また幾百萬の人々は彼等の運命に默つて反抗してゐる。政治的反逆の外にどんなに多くの反逆が、地上に住んでゐる多數の人間の中に、沸き返つてゐるかを誰も知らない。女は一般に極めて温和だと思はれてゐるが、女も男が感じると同樣に感じ、彼女等の兄弟が要すると同じく、彼女等もその才能を働かし、力を發揮させる場所を要するのである。彼女等もまた男が苦しむとまつたく同じに、餘り嚴し過ぎる束縛の爲めに、餘りに絶對的な沈滯の爲めに苦しめられるのである。女たちは、プディングを拵へたり、靴下を編んだり、ピアノを彈いたり、また袋の縁縫をしたりすることに閉ぢ籠つてゐるべきだなどと云ふのは、彼女等よりももつと幸運な境遇にゐる人、即ち、男の考へが偏狹だからだ。もしも彼女等が今迄彼女等の性に對して、必要だと習慣づけられて來た以上に行爲し、學ばうと欲するとき、彼女等を非難し嘲笑するのは輕卒なことである。\n かうして獨りでゐる時に、私はグレィス・プウルの笑ひ聲――初めて聞いた時ぞつとした、あれと同じ高笑ひ、あれと同じ低い、活氣のない、ハ、ハ、といふ笑ひ聲をしばしば聞いた。私はまた、彼女の笑ひ聲よりも、もつと奇妙な、調子はづれの呟きを聞いた。彼女がまつたく何も云はぬ日もあつた。しかしまた、彼女のたてる物音を數へきれないやうな日もあつた。私は、時々彼女を見た。彼女は水鉢かお皿か或はお盆を手にして自分の部屋から出て來ると臺所へ降りて行つて、直ぐに歸つて來るのが常だつた。大抵は(浪漫的な讀者よ、露骨な眞實を語ることを許せ)黒麥酒の瓶を持つて歸つて來るのだつた。彼女の外觀はいつでも彼女の奇怪な言葉によつて起される好奇心を鈍らせる役目をした。佛頂面で、落ちつき拂つてゐて、興味が起りうるやうな點は何處にもなかつた。私は幾度か彼女に話をさせようと試みたけれど、彼女は口數の少ない人間と見えて、一言の返辭をするだけで、さうした種類のあらゆる努力はいつも無駄だつた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "だがいつまでも歎に屈めた首を屈めているには9935\n及びません。新しい歌に蘇ります。なぜと云うに、\n土地はこれまでそう云う歌を産んだように、\nこれから後もそれを産みましょうから。\n\n(全き休憩。音楽息む。)\n\n ヘレネ(ファウストに。)\n美と福とが長く一しょになってはいないと云う\n古い諺を、残念ながらこの身に思い合せます。9940\n命の緒も愛の絆も切れました。どちらをも\n痛ましゅう思いながら、つらいお別をいたします。\nお別にもう一度寄り添わせて下さいまし。\nさあ、地獄の女神、子供とこの身とをお引取下さい。\n\n(ヘレネがファウストに抱き附く時、その形骸は消え失せ、衣裳と面紗とファウストの手に留まる。)\n\n 闇の女(ファウストに。)\nその一切の物の中から残った物を、しっかり持っておいでなさい。9945\nその衣裳を手から放してはいけませむ。\nもう悪鬼共が褄を引っ張って、\n地獄へ持って行こうとしています。\nしっかり持っておいでなさい。お亡くなしなさった\n女神はもういない。しかし神々しい跡は残っている。9950\n値踏の出来ぬ程尊い恵を忘れずに、\n向上の道にお進なさい。お命のある限、あなたはそれを力に\n所有る卑しい境を脱して、灝気の中をお升なさい。\nいずれまた遠い、極遠い所でお目に掛かりましょう。\n\n(ヘレネの衣裳散じて雲となり、ファウストを包擁して空に騰らしめ、ファウストは雲に駕して過ぎ去る。)\n\n 闇の女\n\n(エウフォリオンの衣と外套とリラの琴とを地上より拾ひ上げ、舞台の前端へ出で、遺物を捧げ持ちて語る。)\n\nこれでも旨く取り留めたと云うものです。9955\n無論燄は消えてしまいました。\nしかし何も世間のために惜むには当りません。\nこれが残っていれば、詩人に免許を遣り、\n商売忌敵の党派を立てさせるには十分です。\nわたしは技倆を授けて遣ることは出来ませんが、9960\nせめて衣裳でも貸して遣ることにしましょう。\n\n(舞台の前端にて、一木の柱の下に坐す。)\n\n 先導の女\nさあ、皆さん早くおし。魔法は破れました。\n古いテッサリアの婆あさんの怪しい、心の縛は解けました。\n耳よりも心を迷わする、籠み入った音の、\n演奏の酔も醒めました。さあ、地獄へ降りましょう。9965\nお后様はしとやかなお歩附きで、\n急いでお降なされた。忠義な女中達はすぐお跡を\nお慕申すが道です。お后様には不可思議なお方の\n玉座の側でお目に掛かられることでしょう。\n 合唱の群\nお后様はどこにだって喜んでおいででしょう。9970\n地獄でもペルセフォネイア様とお心安くなすって、\n外のお后様同士御一しょに、\n息張って上に立って入らっしゃるのですもの。\nわたし共はそれとは違って、低いアスフォデロスの野の奥に、\n実のならない柳や、ひょろひょろした9975\n白楊の木のお仲間にせられていて、\n何を慰にして日を送りましょう。\n面白くもない、お化のような囁をいたすのが、\nおお方蝙蝠の鳴くように\nぴいぴいと聞えることでしょう。9980\n 先導の女\n名を揚げたでもなく、優れた事を企てるでもないものは、\n四大に帰る外はない。さあ、おいで。\nわたしは是非お后様のお側へ行きたい。\n人格には功ばかりでは足りない。忠実がなくては。\n 一同\nまあ、これで日向へ出られましたね。9985\nもう人と云う資格はなくなったのが、\n自分にも分かるようです。\nだが決して地獄へは帰りますまいね。\n永遠に活動している自然は、\nわたし達、霊共に信頼していますから、9990\nこちらも自然にすっかり信頼していて好いのです。\n 合唱の群の一部\nわたし達は、この百千の枝の囁く揺ぎ、ざわ附く靡きの中で、\n笑談にくすぐり、そっとおびいて、生の泉を根から梢へ上げさせましょう。\nたっぷり葉を著けたり、花を咲かせたりして、\nあの乱髪をふわふわと自由に栄えるように飾って遣りましょう。9995\n実が落ちると、すぐに面白く暮らしている群が押し合って、\n急いで集まって来て、取って食べようとしますでしょう。\nそして皆が一番古い神様達の前へ出たように、わたし達の周囲にしゃがむでしょう。\n 他の一部\nわたし達はやさしい波のように体をゆすって、機嫌を取って、\nこの滑っこい岩壁の、遠くまで鏡のように光っているのに身を寄せましょう。10000\n鳥の啼声でも、葦の笛の音でも、よしやパンの神の恐ろしい声であろうとも、どんな声にも\n耳を傾けて聞いていて、すぐに返事をして遣りましょう。\nざわつきの返事なら、ざわつきでしましょう。\n雷なら、こっちの、震り動かすような雷を、二倍にして、また跡から三倍にも十倍にもして聞かせましょう。\n 第三部\nきょうだい達。気の軽いわたし達は小川と一しょに急ぎましょう。10005\nあの遠い所の美しく草木の茂っている丘が好ですからね。\nそれから次第に流れ落ちて、マイアンドロスのようにうねって、\n先ず外牧場に、それから内牧場に、それからまた家の周囲の畑に水を遣りましょう。\nあそこに平地や、岸や、水を越して、すらりと空を指している\n糸杉の頂が目標になっています。10010\n 第四部\nお前さん達はどこへでも勝手に飛んでおいで。わたし達は、棚に葡萄の茂っている、\nあの一面に畑にしてある岡を取り巻いて、翔っていましょう。\nあそこでは朝も晩も、葡萄造が熱心に、優しい限、手を尽して、\n実のりを覚束ながっているのが見られます。\n鋤鍬で掘ったり、根に土を盛ったり、摘んだり、縛ったりして、10015\nあらゆる神様達を、中にも日の神様を祈っています。\n意気地なしのバクホス様は忠義な家隷にも余り構わずに、\n小屋に寝たり、洞の中で物にもたれて、一番若いファウニと無駄話をしたりしています。\nあの神様の夢見心の微酔に、いつでもいるだけの酒は、\n遠い世の後まで、冷たい穴蔵の右左に並べてある10020\n甕の中や、革嚢の中にしまってあります。\nしかしあらゆる神様達、中にも日の神様が、風を通し、\n濡らし、温め、日に曝して、実の入った房を堆くお積累になりますと、\n葡萄造のひっそり働いている所が、急に賑やかになって来て、小屋の中にも音がします。\n幹から幹へと騒ぎが移って行きます。10025\n籠がみしみし、小桶がことこと、担桶がきいきいと、\n大桶まで漕ぎ附けます、酒絞の元気な踊まで。\nそこで浄く生れた、露たっぷりな葡萄の房の神聖な豊けさが、\n不作法に踏まれ、醜く潰されて、泡を立て、とばしりを跳ねさせて交り合います。\nそこで銅鑼鐃鈸の音が耳を裂くように聞えます。10030\nこれはジオニゾスの神様が深秘の中からお現れなすったからです。\n山羊の脚の男神様が、山羊の脚の女神達と踊って出て来る、その間に\nセイレノスを載せた、耳の長い獣が締まりのない大声で叫びます。\n何一ついたわりません。割れた蹄が所有る風俗を踏みにじります。\n所有る官能がよろめき、渦巻きます。厭な、ひどい騒ぎに耳が聾になります。10035\n酔っぱらいが杯を捜します。頭も腹も溢れます。\n誰やらあちこちにまだ世話を焼いてはいますが、それは騒ぎを大きくするばかりです。\n無理はありません。新しい濁酒を入れるには、古い革嚢を早くあけたいのですから。\n\n(幕下る。)\n\n闇の女フォルキアス舞台の前端にて、巨人の如き姿をなして立ち上がり、履を脱ぎ、仮面と面紗とを背後へ掻い遣り、メフィストフェレスの相を現じ、事によりては、後序を述べ、この脚本に解釈を加ふることあるべし。\n\n\n\n第四幕\n\n\n\n\n高山。屹立せる、稜角ある岩の頂。一団の雲たなびき来\nて、岩に倚りて止まり、突出せる段の上に降る。雲破る。\n\n\n\n ファウスト(現れ出づ。)"
},
{
"role": "assistant",
"content": "晴れた日に陸や海を越して、穏かに己を載せて来てくれた\n雲の乗物に暇を遣って、10040\n足の下に極深い寂しさを見卸しながら、\n己は十分気を落ち著けて、この絶頂の岩端に足を踏み入れる。\n雲は散らずに、ゆっくり己の身を離れる。\nその群がまろがった列になって、東を指して行くのを、\n感心して、驚いて、己の目が見送っている。10045\n雲は動きながら破れて、波立って、形を変える。\n何かの形に纏まるらしい。そうだ。見違ではない。\n日に照された褥の上に、美しく体を横えて、\n巨人のように大きくはあるが、神々達に似た女が現れている。\n見えるわ、見えるわ。ユノか、レダか、いや、ヘレネか。10050\nあの神々しく可哀らしく変化して目に映ること。\nや。もういざってしまう。遠い氷山のように、\n幅広く堆く、不極まりな形をして、東の空に止まって、\n移り行く日の大きい意味を目映く写している。\n\nそれでもまだ己の額や胸の辺には、薄い、明るい10055\n霧が漂って、優しく、冷たく、気を霽らしてくれる。\nそれが今たゆたいながら、軽々と、次第次第に\n高く升って一しょになる。目の迷か、あの姿は\n疾うに失った、若かった昔の、無上の物じゃないか。\n心の奥の一番早く出来た宝の数々が涌き上がる。10060\n軽快にはずんだアウロラの恋を己に見せる。\nあの最初の快速には感じても、理解することの\nほとんど出来ぬ一目がこれだ。そのくせ捉え得て見れば、\nどの宝よりも赫くのだ。あれ、あの形の美は霊の\n美のように増して来て、解けずに、灝気の中に升って、10065\n己の心の内の最善の物を持って行ってしまう。\n\n七里靴一つぱたりと地を踏みて出づ。間もなくまた一つ出づ。メフィストフェレス脱ぎて降り立つ。靴は急ぎ過ぎ去る。\n\n メフィストフェレス\nこれなら可なり歩いたと云うものだろう。\nところで、あなた、なんだと思っているのです。\nこんな不気味な所の真ん中で、恐ろしい岩穴の\n腭を開けている処で雲から降りるなんて。10070\nわたしはこんな所も好く知っています。しかし\nこの土地ではありません。地獄の底で見たのです。\n ファウスト\nなんに附けても馬鹿げたお伽話を知っていて、\nこんな時にまでそれをさらけ出すのかい。\n メフィストフェレス(真面目に。)\n昔神様がわたし共を、真ん中一面に永遠な火が10075\n熱く燃え立っている、底の底のどん底へ虚空から\n堕しておよこしなすった時の事ですね。\nなぜお堕しなすったと云うことも知っていますがね。\nわたし共は明るいことは明る過ぎる場所で、\n随分籠み合った、窮屈な体附をしていたのです。10080\n悪魔連一同ひどく咳をし出しまして、\n上からはごほんごほん、下からはぶうぶう云わせます。\n地獄は硫黄の臭と酸とで一ぱいになる。\nその瓦斯ってない。それが非常な物になって、\n幾ら厚くても、国々の平たい地盤が10085\n程なくどうどうと鳴って、はじけたのです。\nそこで尻尾を撮んで倒さに吊るしたように\nこれまでどん底であった所が、こん度は絶頂になります。\nなんでも上を下へと云う結構な教訓は、\nこの時悪魔連が発明したらしいのです。10090\nわたし共は押し籠められていた、熱い穴から逃れ出て、\n自由な空気の結構さ加減の絶頂に来ましたからね。\nこれは無論秘密で、大事に隠して置いて、\n人間には後になってから知らせて遣るのですが。\n ファウスト\n己のためには、山は高尚に沈黙しているもので、10095\nどうして、なぜ出来たとは、己は問わない。\n自然が始て自分で自分の基礎を立てた時、\n地球を綺麗に円めたのだ。山は山、谷は谷になった所を\n面白がって、岩と岩、頂と頂を並べたのだ。\nそして旨く斜面を附けて岡を拵え、なだらかな勾配で、10100\n次第に低く、谷まで下るようにしたのだ。\nその所々で、草木が緑に芽ぐんで、生長する。\n自然が慰をするのに、何も物狂おしい\n渦巻なんぞをさせなくても好いのだから。\n メフィストフェレス\nあなたはそんな風に言いますがね。10105\nなるほどそれがあなたには太陽のように明かでしょう。\nしかしその場にいたものは、そうでないことを知っています。\nまだ地の底があの下の方で、煮え上がって、火を噴いて\n流れていた時、わたしはそこにいました。\nまだあのモロホの槌が、岩と岩とを敲き合せて、10110\n山の欠らを遠方へ飛ばせていた時です。今でも外から来た、\n何千斤かの重さの物が、国々に動かずにいる。\nあれを飛ばせた力を誰が説明しますか。哲学者には分からない。\nそこに岩が在る。そのまま在らせる外、為方がない。\n随分今まで行き著く程考えたのです。10115\nただ淳樸な下民にはそれが分かっていて、\n縦え人がなんと云っても、自分の考を改めない。\nその疾うから煉れている考はと云うと、あれは奇蹟だ。\n悪魔の手柄になるのですね。\n行者共は信仰の杖を衝いて、魔の岩とか、10120\n魔の橋とかを見に行くではありませんか。\n ファウスト\nふん。悪魔がどう自然を観察しているかと聞いて見て、\nそれを顧慮するのも、無価値ではないよ。\n メフィストフェレス\n自然は有のままでいるが好い。わたしは構わない。\n譃は衝かない。わたしは見ていたのだ。10125\nわたし共は大きい事をし出来す連中です。\n騒動と暴力とむちゃとで遣るのです。そこの岩山が証拠です。\nさてこれからいよいよ分かるようなお話をするとして、\nこの地球の表面はお気に入りましたかな。\n兎に角あなたはこの世界の国々と、その立派さ加減とを、10130\n随分際限もない広さに、御覧になったのですが。\nしかしどうも満足と云うことのない先生だから、\nこれなら欲しいと云う物もなかったでしょうね。\n ファウスト\n所が、有るよ。大きい物が己の心を惹いた。\nなんだか、当てて見給え。\n メフィストフェレス\n それは造做はありません。10135\nわたしはある都を選り出しますね。真ん中には\n市民の食物の不気味さがあります。\n曲がりくねった、狭い町、とんがった搏風、\nけちな市場、大根、菜っ葉、葱がある。\n脂の乗った肉を啄きに、10140\n青蠅の寄る屠肉場がある。\nいつでも、あなた、行って御覧なさるが好い。\nきっと賑やかで、臭いのです。\nそれから僭上に、上品らしい見えをする\n大通や広い辻がある。10145\nそれからしまいには、関門で為切ってないと、\n場末がどこまでも際限なく延びる。\nそこでわたしは、馬車の車輪がごろごろと\nあっちへ走って往き、こっちへ走って来、\n散らばった、うようよする蟻の群が10150\n永遠に馳せ違うのを楽んでいるとしましょう。\nそこでわたしは馬や車に乗って出ると、\nいつもそいつ等の中心になって、\n千百の人間に敬われるとしましょう。\n ファウスト\nそんな事では己は満足しない。10155\n人口が繁殖して、自分の流義で、\n気楽に口腹を養って、場合によっては\n教育を受け、学問をするのを見て喜んで\nいるうちに、ただ叛逆人が出来上がるのだ。\n メフィストフェレス\nそれからわたしは、自分で見ても壮大だと思うように、10160\n面白い土地へ、慰のために城を造らせましょう。\n森や岡や原や牧や畑を、\n立派に庭園に築き直させましょう。\n緑いろに聳えた垣の前に、天鵝絨のような牧や、\n髪の如き道や、巧に結った生木の屋根や、10165\n岩組で築いた滝や、種々の噴水がある。\n真ん中はすなおに升るが、\n脇からは形が変って小さく噴き出る。\nそれから一番の美人を畜えるために、\n気の置けない、のん気な小家を立てさせましょう。10170\n限のない月日を、なんとも言えない"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 以上の事実は朗廬全集、井上通泰さんの関鳧翁伝、藤陰舎遺稿を参酌したものである。\n 遺稿の載する所の詩文を細検するに、維新前の自署は皆「石川成章」若くは「石川章」である。頼山陽に従学した間も亦同じである。一として関藤氏又は関氏と称したものを見ない。\n さて藤陰の通称は何であつたか。朗廬の墓誌銘には「称淵蔵、中称和介、後称文兵衛」と云つてある。絶て五郎の称が無い。矧や関五郎と云ふ三字の称は見えない。\n わたくしは関五郎の文字を、未亡人小石氏里恵の広江秋水の妻に与へた書に於て見る。又関五郎と云ふ人の頼復に代つて作つた書の自署に於て見る。わたくしの見る所は此に止まる。\n 虚心にして思へば、石川成章と関五郎との間には何等の交渉も存在せぬのである。\n 強ひて二者を媒介するものを求めた後に、わたくしは始て日本政記の校訂と云ふことを見出す。里恵の書に拠るに、頼山陽が歿前に政記の校訂を託したのは関五郎であつた。そして政記は後に当時の石川成章の補訂を経て世に問はれた。関五郎と石川成章との間を媒介するものは只此のみである。\n わたくしは無用の辨をなすものでは無い。わたくしは問題なき処に故に問題を構へ成すものでは無い。しかしわたくしは一の証拠を得むことを欲する。関藤藤陰が石川氏を冒してゐた中間に、暫く関氏五郎若くは石川氏関五郎と名告つたと云ふ一の証拠を得むことを欲する。\n 人はわたくしの此言を聞いて、或は近出の諸山陽伝を以てこれが証に充てようとするであらう。しかし諸伝に「通称淵蔵又関五郎、和介、後文兵衛」と云ひ、「通称を淵蔵、中ごろ和介又は関五郎と云ひ、後文兵衛と改む」と云ふ類は、朗廬の文中適宜の処に「関五郎」の三字を插入したるが如くに見える。若し是が插入であるならば、わたくしは何の拠るところがあつて插入せられたかを知らむことを欲する。若し又単に日本政記の校訂者が関五郎であつた、関藤藤陰が日本政記を補訂して世に問うたと云ふを以て插入せられたとすると、わたくしの問題は未解決の儘に存することとなるであらう。\n 日本政記の校訂者が二人以上あつて、或は同時に、或は相踵いでこれに従事したと云ふことも、考へられぬことは無い。是が疑の二つである。\n\nその二百九\n\n 関五郎が石川成章ではなからうかとは、わたくしと雖も思つてゐる。石川は此年壬辰五月に頼山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の末にかう云つてゐる。「既自彦根還。此稿乞正於山陽先生。会先生罹疾。不正一字而没。」次で山陽の歿した翌年癸巳の元旦にも、石川は水西荘にゐた。「元日水西荘賦呈先師霊前」と云ふ詩がある。是に由つて観れば、頼氏の送葬の時も、焼香の時も、記録上に関五郎の占めてゐる地位は、恰も是れ石川の当に占むべき地位である。\n 然らばわたくしが関五郎と石川成章との同異の間に疑を挾むのは、或はスケプシスの過ぎたるものではなからうか。\n さりながら人が「石川成章は一に関氏五郎若くは石川氏関五郎と云つた」と云つて、万事解決せられてゐると以為ふのは、わたくしの肯ひ難い所である。此裏に新なる発表を待つて方纔に解決せらるべき何等かの消息が包蔵せられてゐることは、わたくしの固く信ずる所である。わたくしは最後に敢て言つて置く。関五郎が三字の通称でないことだけは、恐くは殆ど動すべからざるものであらうと。\n 山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復、八歳の醇、三歳の陽が遺つてゐた。諸山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主聿庵元協と、広島にある達堂鉉とに与へた書数通、関五郎が復に代つて小野氏に寄せた書数通、里恵が小野氏に寄せた書、里恵が安井氏に寄せた書、梅颸が後藤松陰に与へた書等を引いて、当時の状況が記してある。しかしわたくしは里恵の広江夫妻に与へた書が前数者に較べて最重要であると信ずる。それゆゑ煩を厭はずして下に抄する。\n「廿三日八つ比に、何かとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何もかはり候事はなく、とんと〳〵此儘にて、此所地かりゆゑ、家は此方家ゆゑ、ほそ〴〵に取つゞき、二人の子ども、京にて頼二けん立て候やう、夫をたのしみ(に)致すべくと申、かつゑぬやうにいたし置、又二郎三木三郎、内に置候へばやくにたゝずになり候ゆゑ、はん料出し候ても、外へ遣し候やう申置候。子どもがく問いたし候間は、私は陽と申候三歳のむすめそだて候て、らう女つかひ候て、三本木にほそ〴〵とつゞけ申候。此方はかねて三本木にてくらし候へども、子どもらが代になり候へば、町にて家かり、町へ参候て、店出し候様申置候。(中略。)五十日たち、又二郎は牧の方へ遣し申候。三木三郎はかよひにて児玉へ遣しをり候へども、是もいまださびしくて内にをり候。せつかく此せつ遣し候(はむ)と存候。(中略。)国元に余一と申し候(は)主人一ばん子にて、是も子どもらのげんざいの兄にて、いつかう人がらよろしく候。猶さら安心にて(候。)書状参り、私を大事に申参候間、ちからづよく存候。国元母よりも、ちからおとしに候へども、まだ〳〵あきらめよろしきゆゑ、私にたしかに申参、安心致候。来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候。私が三人(世話いたし候)は誠にたいぎにて、又又国元にてがく問世話になり候へば、大いにかたやすく候。何分来春余一見えられ候を、主人と存待入候。(中略。)まづ〳〵其内に三歳女子むづかしきはうさう、よほどあやふき事、やうやうととりとめ申候。かほはやくたいにて、夫ゆゑ御返事もいたし不申候。(中略。)大坂後藤春蔵、主人病中にも度々上京、見まひに見え候。大へんのせつも、同人も病気に候へども、おして見えくれ、ともいたし、其後もちよじゆつはんかう物たのみ、主人申置候ゆゑ、心にかけ世話にいたしくれ、かたじけなき事(に候。)牧善助、小石次女とえんぐみ、此方五十日たち候へばすぐにもらひ候。すでに霜月廿二日夜こん礼にて、小石むすめゆゑ、大さかんにて御座候。ことの外をりあひと承候。めで度事に候。小石安心に御座候。児玉三郎も、家内が五月にもらへ候。いづこ(も)にぎ〳〵しき事に候。どうぞ児玉もはんじやう候やうと存候。左様いたし候へば、久太郎もちかにて悦申し候(はむ)とせつかく存候。」\n\nその二百十\n\n わたくしは此年壬辰閏十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の後半より尚々書に亘る文を節略して上に挙げた。括弧内の文字はわたくしの修正若くは補足したものである。其他譌字仮名違等は直に改めた。若し其原形を知らむと欲する人があるなら、屠赤瑣々録に就て検してもらひたい。又わたくしは事実を討むるに急なるがために、翫味するに堪へたる抒情の語をも、惜しげなく刪り去つた。例之ば「猶さら此せつは主人(の)すきなすゐせんの花どもさき、一しほ〳〵おもひ出し候て、いく度か〳〵かなしみ候」の類である。水西荘の水仙花は里恵をして感愴せしむること甚深であつたと見えて、その小野氏に寄せた一書にも、これに似た語がある。森田思軒が「人情の極至亦詩情の極至」と評した語である。小野氏に寄せた書は「閏月十日」の日附があつて、広江夫妻に寄するものに先つこと十五日である。前書を裁した時痘を病んでゐた陽が、後書を裁する時既に愈えてゐる。\n 広江夫妻に寄する書は事実を蔵すること極て富饒である。それゆゑにわたくしは此書に史料としての大なる価値を賦与する。それゆゑにわたくしは、諸山陽伝中山陽の終焉及其歿後の事を叙する段は、此書牘に拠つて改訂せらるべきものなることを信ずる。\n わたくしの上に引いた文は山陽歿後の事に限られてゐる。然るに其中に見出さるる事実の多きことよ。\n 山陽は九月二十三日未刻の比に遺言をした。「水西荘の地は借地である。しかしそこに建ててある家は頼氏の所有である。里恵には費を節して此家に住み、専ら幼女陽の保育に任じてもらひたい。復醇の二男子は家にあつて安きに慣れしむべきでは無い。食費を給して人に託してもらひたい。里恵は老婢一人を役して、陽と与に水西荘に住み、二男児の長ずるを待ち、京都市中に移り住むが好い。」是が遺言の内容であつた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 里恵は二子一女と倶に五十日の喪を過した。「五十日のあひ〳〵はか参二人つれにて、もふくにて参候。」わたくしは此辺の文を省いたが、「二人つれにて」は復醇の二子を挈へて往つたのである。わたくしは母子の「三人づれ」と解する。\n 五十日の後、里恵は復を牧百峰に託した。そして醇をば児玉旗山の許に通学せしめた。是が十一月十四日に里恵が夫の遺言を履行した始である。旗山の家には五月以来新婦がゐた。百峰は復の寄寓した後九日にして妻小石氏を迎へた。\n 閏十一月には陽が重い疱瘡を病んで僅に生きた。其直後に小野氏に寄せた書が、恐くは里恵の未亡人としての最初の筆蹟であらう。此時に至るまで頼氏の通信は渾て関五郎が辨じてゐたのである。\n 里恵の書中より見出すべき事実は未だ尽きない。わたくしは今少し下に解説を試みたい。\n\nその二百十一\n\n 此年壬辰閏十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の中より、わたくしは尚下の事を見出す。\n 山陽の歿後中陰の果の日までは、里恵は毫も家内の事を変更せずに、夫の位牌に仕へてゐた。さて五十日を過した後、遺言の履行に著手し、先づ二人の男児を人に託した。次で自ら簡牘をも作つた。しかし里恵が夫の位牌に仕ふることは猶旧に依つてゐた。「せめてと存、誠に大切に百箇日迄、ちゆういん中同やうにつとめ申候。日々かうぶつのしなをそなへ申候。」語は前に省いた中にある。\n 山陽は九月二十三日に歿した。さて中陰四十九日は十一月十二日に果て、翌十三日を以て五十日が過ぎ去つた。嗣子復が牧氏に徙り、其弟醇が児玉氏にかよひ始めた日を、十四日とする所以である。次に若し上に云つた如く、里恵の始て自ら裁した書が小野氏に寄する書であつたとすると、里恵は夫の死してより第七十七日に筆を把つたのである。其時幼女陽は疱瘡の回復期であつた。「はうさう後虫が出」云々と云つてある。次に里恵は書を広江氏に寄せた時、醇を児玉氏へ「せつかく此節遣候(はむ)と存候」と云つてゐる。是が夫の死してより第九十二日である。此後十二月三日に至つて、百箇日が始て終つた。\n 百箇日の間夫の位牌に仕へた里恵の情は、上に引いた書にいかにも切実に描き出されてゐる。「誠に〳〵此せつも遠方へゆかれ留守中と存候て、日々つとめ申候。左様なくば、むねふさがり、やるせなく、御さつし可被下候。」わたくしは事実を録するを旨としたために、此語をも省いた。わたくしの判断を以てすれば、人情の極至は水仙花云云の語に在らずして此語に在る。\n 里恵は次年癸巳の春聿庵の江戸より来るのを待つてゐる。聿庵は二弟の中一人を安藝へ率て行く筈である。此事は啻に上に引いた書に見えてゐるのみでなく、蚤く里恵の小野氏に寄せた書にも見えてゐる。そして小野氏に寄せた書には、事が杏坪の意に出でたやうに云つてある。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には、語が杏坪に及んでゐない。余一より「書状参り」の下が、「来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候」と承けてある。推するに聿庵よりは直接に、杏坪よりは間接に言つておこせたのであらう。\n 安藝へ率て行かれる二人の中の一人は、支峰復になつたらしい。わたくしは支峰の事蹟を詳にせぬが、幼時一たび安藝に往つてゐたさうである。聿庵の帰郷は少し遅れて夏に入つたらしい。梁川星巌の贐の詩がある。「鵑啼催得発征車。留滞江城両歳余。曾擬承歓為徳逸。豈図泣血是皋魚。愁辺新樹客衣冷。望裏白雲親舎虚。行到琵琶湖水畔。知君弔影重欷歔。」詩は夷白庵集一に出でてゐる。\n\nその二百十二\n\n 頼山陽歿後の里恵の操持は久しきを経て渝らなかつた。後藤松陰撰の墓誌に、「君既寡、子皆幼、而持操屹然、凡事皆遵奉遺命、夙夜勤苦、教育二孤、終致其成立」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守忠告が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、世の知る所である。是は里恵五十歳、復二十四歳、醇二十二歳の時であつた。\n 水西荘は後に人手に落ちて、春処と云ふ画家がこれに居り、次で医師安藤精軒の出張所となつた。支峰復は安藤に譲渡を請うたが聴かなかつた。此時安藤が梅田雲浜の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話として森田思軒が記してゐる。此変遷の年月は不詳である。しかしわたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる。わたくしの亡弟篤次郎の外舅に長谷文さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。\n 此年天保三年には榛軒二十九歳、妻志保三十三歳、柏軒二十三歳、長十九歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十二歳になつた。\n 蘭軒歿後の第四年は天保四年である。榛軒の家には事の記すべきものが無い。わたくしは柏軒の雑記中に於て、柏軒が三月十六日に正宗院を溜池に訪うて逢はなかつたことを見出した。正宗院は猶溜池の比丘尼長屋に住んでゐたものと見える。\n 蘭軒の門人森枳園が妻を娶つたのは此年である。妻は名を勝と云つて、鼈甲屋の娘であつたさうである。\n 頼氏では石川藤陰が元旦に水西荘にあつて詩を賦した。「三面遅梅未著花。春風吹動柳条斜。仙遊隔世君知否。迎歳吾猶在此家。」門田朴斎は江戸にあつて儲君阿部正弘の侍読をしてゐたが、遠く思を水西荘に馳せて、「遙思三面闢窓処、寂寞迎春梅影疎」と云つた。夏五月には田能村竹田が水西荘に来り宿した。「重叩柴門感曷勝。一声認得内人譍。」剥啄の声に応ずるものは、門生にあらず、婢僕にあらず、未亡人里恵であつた。\n 此年蘭軒子女の齢は榛軒三十、柏軒廿四、長二十であつた。推するに長は既に井戸応助に嫁してゐたことであらう。榛軒の妻志保は三十四歳、正宗院は六十三歳になつた。\n 天保五年は蘭軒歿後第五年である。他年榛軒の嗣となるべき棠軒淳良が、四月十四日に因幡国鳥取の城主松平因幡守斉訓の医官田中淳昌の子として生れた。通称は鏐造である。母の名は八百、杉田玄白の女だと、歴世略伝に云つてある。玄白とは初代玄白翼であらうか。玄白は初め子がなかつたので、建部氏伯元勤を養つて嗣とした。其後一児を挙げたのが立卿予である。女の事は伝に見えない。勤と予との女の事も亦同じである。杉田氏の系譜を識る人の教を乞ひたい。\n 頼氏では此年五月朔に杏坪が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻を攤いて見た。「黄葉村南人去後。毎逢花月独推敲。」此恨は蘭軒にあつては僅に一年余であつたが、杏坪にあつては七年の久しきに至つた。「旧歓杳渺多年夢。故友凄寥残夜星。」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 男でも愛が深く心が正しければそうでないのにAだけがそうなのか? 自分は、自分を思って呉れる母の志などと云うものがちっとも、Aにはないのを感じる。入ってもいらなくっとも、まあある丈いいじゃあないかと云う暖い心持と、そう使う必要はない、持って居たって居なくたって同じだと云う心持とは大きに異う。\n\n六月二十二日(木曜)曇\n すずし、めいせんの一重一枚では肌さむいようだ。今年の夏、田舎へ行くのはいやだな。皆で落付いて、Aは学校にでも行って勉強したい。\n「二つの時代」、段々頭で形をとる。「星座」が、どの位、時代をくっきり浮上らせて居るかと思って見たが、さほど成功とも覚えず、有島氏の文才が表にあらわれすぎ、才走った文字が不必要にある為、大きい落付きにとぼし、題材が異うせいかもしれないが、「明暗」は実に大きい感じ、迫らない感じをもって来るなと思わずには居られない。「星座」にある甘たるさ、一種のペダン、小ぜわしさがない。大作はああでなければなるまい。よむものに、大きさを感じさせ、先ず、頭を、ずうっと開かせるような直感。よいものを書きたし。実際、一度去ったらもう戻らない言葉よ、我心を表して呉れ、と云いたくなる。\n 図書館で、自分のような人間はしんみり勉強が出来ない。おかあさまから貰った金で、かり出しにしよう。此からも入用だから。\n 芸術で、全く新たな人間なり生活なりを、自分よりそとの彼方に、築きあげると云う感が、非常にはっきり分った。時とともに来た悟りと云うべきものが。彫刻のように、明かに、作品と自己とは相対的で、自分の心と腕とで、表現して行くのだ、と云う心持、言葉で云えば、分り切った理屈だが、実感として、自分に価値ある新たな発見だ。\n\n六月二十三日(金曜)\n「火のついた踵」、すっかりなおす。おしまいの分、ことによくなり、自分の始め頭に来た通りのものとなった。\n 大、毎に書く約束。\n\n六月二十四日(土曜)◎\n『大毎』のには、「猿」を書こうと思い、朝から上野へ行く。近頃行きつけたら、早、五重塔のわきを、ゆっくり、ゆっくり歩いて行く心持を、楽しむ余裕が出来た。十二時過まで居、林町へより、図書館のことをたのみ、かえる。国男さんがデコレーションのことにつき書くのに、自分で勉強して居られないから、私に内容をまとめて呉れと云う。自分も面白いから、一日だけ、そのためにさくことにしたが、あの人としては、それ丈、自分の知識で損をするわけだ。\n 二葉亭四迷の訳をよみ、動かされることが多い。只、どうして芸術家として立つことに丈にきめられなかったか、\n サアカムスタンスに対する反抗であったとほか思えない。反抗で、文学者と云われるのをきらった程、一面から云うと、芸術家的テムペラメントが純一でなかったのではないか。\n\n六月二十五日(日曜)曇 晴\n A、一日、自分の研究をして居る。見てもうれしく、自分は、云い難い悦びを感じた。内容は何かわからない。\n 種々なことで、自分が、女仲間からは箇性と云うものを持って、自由になって居るが、男に対しては、一体、可愛い女――つまりよく思われたい欲を持って居るのに気がついた。\n 此は、今まで、気づきつつ知らなかった、と云うのが適当だろう。\n そう云うことが一般にあるのは知って居、わかって居る。が、自分が事実どの位までそうだか考え、反省しては見ない。此がさっぱり自由になると、自分はもっと落付いた、大きい人間になれるのではないか。よい自識であると思う。\n 或ものをよみ青鞜前期が、性的の、人間の持つ特殊な潔癖と云うようなものに対し、強いて、平気に、センシビリティーを失おうとした形跡のあるのを知った、あわれ。今から見れば、低級なものだ、それを称揚した男も。あわれ。\n 第三木曜会での仕事とし、自分は世界の女流文学(小説家)を研究することにきめた。日本でもそう云うものはない。必要だ。\n\n六月二十六日(月曜)不定\n 上野へ行く。二時過から国男さんの処へ行き、decoration の内容を渡し、一緒に松坂屋で茶をのむ。Aの洋傘、ソックス。自分の下駄も欲しいと思って行ったのだが思ったようなのがなく驚いた。ものが揃って居ないな。\n\n六月二十七日(火曜)曇 雨\n Little women\n\n六月二十八日(水曜)雨\n 朝、「猿」を始める。中頃まで。\n 午後、髪をとき、銀杏返しにでも結って見ようかなどと笑って居る処へ、よさのさんの紹介で、タイピストで、ロシアの飢饉救済有志婦人会の人が来る。賛助員になって呉れ、と云われ。受ける。只、よさのさんの名刺には代人にお会い下さいとあり、話をきけば、私と同じように、すすめられ、よいでしょう、と云われた位の関係であるらしい。「代人」は、そう云う位のいきさつとは思われず。\n 夜、Aは、啓明会に呼ばれ、珍らしく夕餐留守。仕事があるので林町へ行く気にもならなかった。\n Little women しまい。クレバレー、ダンと云うもの、芸術的価値はさほどないが、十五六七の女の子のよむのには(普通の意味で)よいものとされよう。Humorous な、アメリカ特有の明るい調子は、きっと、英国のと比べたら、著しい差だろう。\n\n六月二十九日(木曜)曇\n 朝、「猿」を終までとにかく一通り行く。午後ジョン・ハリファックス、ジェントルマンをよみ始む。「リットル・ウーメン」より、古い丈(?)活々して居ない。今の若い男の子や女の子が、此を真個に面白がってよむだろうか。Books for young と云うようなものをよむと、よい、ハアティーな話を、若い十四五六の者によませる為に書きたい、と思う。肩をこらさず、自由に活々と、彼等の心になって。いつか、二十年! も経ったら書けるか?\n 其中に私は自分の Humor や冒険心やイタズラを皆満足させるのだ。\n\n六月三十日(金曜)晴 四〇〇字三枚 ロシアの Demonstrations 朝日、新居格\n 暑い暑い日。朝一寸本をよみ、払いの金を渡してから、林町へ行く。「猿」や「火のついた踵」を母によんで貰う。\n おゆきが来、ぺちゃぺちゃと喋り、うるさくつまらないのでさっさとかえって来てしまった。\n 二つとも、面白いよいと云われたのでうれし。\n\n七月一日(土曜)明日九時から能、細川家舞台(麹町富士見町五ノ七)\n 朝、うんと早く起き、「猿」をすっかり書きなおして、『大毎』の人が来てもすぐ出せるようにする。午後から、おばあさま来。何だか蒼い疲れたような顔をして居られるので心配し直ぐ休ませてあげた。眠り、五時頃Aがかえるまで熟睡される。時々あまりよく眠られるので、気味がわるくなり、自分はそっと襖をあけては覗いた。\n 泊りたそうなので、林町から、蚊帳を持って来て貰う。\n 朝早いのに、せわしく、疲れて床につく。\n\n七月二日(日曜)\n 朝、目をさますとすぐ、祖母、青山の墓地へ行こうと云い出される。自分は墓参りは大きらい。あの傾き落ちた墓石と、映り繁った樹木を見ると、いやな臭いが鼻をつくような心持になる。然し誰か行かないではすまされない。お供をする。祖母にとっては、いつ行きじまいとなるか判らないと云う心持から。子供のように、私の顔を見、行きたい処へ行ってしまうと、今度は帰りたい! まつをつけて、午前中に御送りする。夕刻、ロシアキキン救済の荒木と云う女の人が来、発起人となって呉れ、外に人がなくて困るから、と云って来る。ことわる。然し、どうぞと云う。賛助すると云った以上、少しの迷惑は仕方ないと思って、若し外にないならと受けることに話した。が、あとからAが、是非断った方がよいと云う。勿論仕事の質、その純粋さから、私がああ云うことに先棒になるのはよろしくない。一旦、外に人がないと云う言葉に侠気を出した自分も、何と云っても単純な世間知らずだな、と思い、他の人々をメンションして、断の速達を出した。\n\n七月三日(月曜)雨\n 今日は、東伏見宮の御葬儀。A休み。一日うちに居る。自分は、「火のついた踵」をすっかり改めて、中公に送り、家のことを書かなければならないと思って居たが、足がはれ、心持わるく何も出来ず。\n 明治三十年の『太陽』の増刊、紅葉の「二人女房」、「当世書生気質」、「浮雲」等をよみ、驚く。たった二十年位の間に文学の進歩し、自由になったことと云ったら、昔の人は、驚くほかなかろう。ああ云うものを書いて居た坪内先生が、あの坪内先生だとは思えない―― 私共位の年の人間には此が、只二十年と云う時間的な距離を超え、まるで父母未生以前と思われるのだ。斯様な一般の程度から、今日まで時代が進んで来たことを見考えると、人間のアダプトして行く力、進展して行く心の大きさを思わずには居られない。\n\n七月四日(火曜)雨\n 朝「火のついた踵」をなおして居ると、原城氏来。ロシアの饑飢の仕事につき、すっかりまとまったと云って来られ、今更引けず、受ける。\n 此につき思ったことは、自分は、Aの云うなりになりすぎると云うことである。つまり、自分の信念と云うものが結婚前ほど、はっきりせず、自信を以て独立独行せず、Aの、常識(下級の)に伴って行動しすぎると云うのである。所謂損をしない世間の渡り方をしようとしすぎる。自分がちやほやされる丈はして、自分がそのために払うべき税はぬけようと云う心持。実に考えなければならないことと思う。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 良人には気を許しすぎる。\n 自分はどう考えるか? 先ず此をはっきり考えなければいけない。人間が正反対の場合、一処に生活出来るか。どこでつながって居るのか。\n 夕刻小林さん、わざわざ別府を持って来て呉れる。\n\n七月五日(水曜)曇\n 朝、中公に送る。\n 里見弴氏の「乙上主義」をよんで感あり。種々な方面で人間はああなり勝なものだ。\n\n七月六日(木曜)晴\n あつし、あつし、図書館へ行こうとして家を出、林町へ行ってしまった。音楽がききたくて。\n 母、二三日前、脳貧血で卒倒しかけた由、衰えつかれたような顔をして居られた。いろいろの話。自分が、岡目八目と云うものの真価を、あまり考えなさすぎたことをつくづく思う。つまり、それを超える価値高いものまで、自惚で、自分の眼に間違いはないと思ったこと。勿論、その心に対する先方の真価が、あればよい。が、なかったとき、又ないのをそろそろ自分で知り出すとき、自分の有頂天になって居たことが反省される。勿論、一人の人間として、或者の価値がないことはわるいが、あると思い込んだ自分も、少くともその時は、あまり広い心と、深い眼を持って居たとも云えないことになる。純粋さと、人よしと、ひとりよがりとの大きな差、又その混同し易いところ。最上のものとつとめて中の下になる人生。\n\n七月七日(金曜)晴 風強\n 鼻っぱしの強いのと、精神の強いのとは違う。ほんとうの精神の大きさ、つよさ、明るさで、人間は発育して行く、人生をかえることも出来る。けれども、只鼻っぱしの強いだけでは、その鼻が折れたとき、一層強く深く現状にはまり込む。\n 真個に自由な、独立な人間としての生活に入るように、自分は静に、完全に準備しよう。深いこと一つ。――相手とのいちゃつきがすむと、それがないと、現在に、心的な不満、最善でない、と云う反省が湧く。――相手は只、セックスの相手として丈、執着するのではないか、多くの人間が、こびりつくもち。\n 勉強をして評論でも書けるようにしよう。\n\n七月八日(土曜)不定\n 北町の大掃除の日。午前中にすます。\n 深く生活のことを考える。自分が只一人の女として丈生きて行って満足なら、或は、最小限で、彼に満足して居られるかもしれない。けれども、又、静かな、思想を湧きたたせるもののない境遇に入るのもいやだ。自分で、自分の食って行く位とれないものか。\n 今度、生活を改めることがあれば、自分は決して感激だけではしない。Aに対して見、自分は、実際の生活が、如何に、只管の感激ばかりでは行かないか、はっきり判った。情にまけるのは美しい。けれども、負ける場合、どうかを考える丈の落付きは入用る。その意味で、自分は、実にヤワであったのだ。\n 森鴎外氏、危篤との新聞。実に思う。思う。人間の一生は、すぐ立つ。やれる力にも限りがあろう。然し、それ故にこそやれる丈はやって見ずには死なれない。\n 自分は、坪内先生に、細かく書き、実際問題として、相談しよう。心にたまって居ると、書くものも書けないから。\n 親子の間は必要な場合、真個に対等な人と人とになり得る。男と女、而も一旦肉体がつながった男と女との間に生れる、奇妙なきずな。その日その日とすんで行く、すまされて行く、甘さ。\n\n七月九日(日曜)不定\n 午後からききん救済会の相談があって大同へ行く。やはりあの位知識階級の人が集ってもなかなからちがあかず、とにかくまとめ、自分の仕事はわかって、四時かえる。\n 山川さんが、疲れ切ったようにして居、自分は心配になった。\n 会って見ると、書かれたものにあるような傾きすぎたところが少く、落ち切り、実に心持よい人だ。女らしい見栄、すまし、がちっともなく、どんな智識階級に入ってもおとりが見えないとともにどんな女事務員のような中に入っても、他処ものらしく見えない。只、服装などではない、人間味だ、その人の。\n かなり体は弱り、もうそう長くも生きられない由。おしいことと思う。若し彼女に何事かあれば、その後をうけ、あれ丈しっかりした足場で、とにかく、一部の重鎮となる女の人は居ないだろう。\n\n七月十日(月曜)不定\n 図書館に行く。午後二時頃まで。あまり気ものらず、借りたい本はなく、暑いので早く切りあげて来る。\n「ジャン・クリストフ」一巻終、\n「二つの時代」につき考える。\n\n七月十一日(火曜)曇\n 歯痛――。一年ぶりの不愉快。\n\n七月十二日(水曜)曇\n 晴て居るが夕刻は珍らしい涼しさだ。休みが近づいたのでAも何処やらゆっくりして居る。縁側に腰をかけ、空を見て居たら、久しぶりで散歩でもしたい心持になった。Aも気がある。早速、髪をなおし、三月ぶり位で銀座に出かけた。\n 盆で、仏壇を飾る種々なものを売る夜店で、一杯になって居る。妙に陰気な植物性の匂いが町に溢れて居る。古本やでかな垣魯文や涙香の二十年代のものを見つける。参考品として買う。涙香の洋装、赤い背の本を見たら、自分の子供のときを思い出した。三畳の本棚の、『新小説』や『文芸倶楽部』と混ってあんな本を一つ二つ見かけたものだ。\n 星で冷たいものを飲んで居ると菱田夫妻に会う。主人の「え? え?」と言葉の間に挾む調子が有江によく似て居る。\n 或程度の見識、処世術、精力をもって、郷に入っては郷の生活をする成功者の一人。夫人もなかなかあんかんとはして居ない人らしい。\n\n七月十三日(木曜)晴\n 朝食を終ったばかりの処へ、英男来。やっと今日で試験がすんだよし。Aの旅行が定ったのでその仕度を備えに三越へ行かなければならないと思って居たので、幸、十一時頃から出かける。なかなか暑い日だ。買物をし、食事をし、かえりに丸善によって、小林さんへの祝、カフスボタンを買う。\n 帰ると、ひどく足の工合、わるく、鉱泉をつけると、まるでたまらなく痛い。まつは歯が痛いと云って、しおれて居る。\n\n七月十四日(金曜)曇\n「二つの時代」の第一部は、『大毎』に出そうと思ったのだが、どうもすっかりまとまる迄――少くとも一部分は――何処にも出さない方がよいと云う気になって来た。出せば何とか批評が来る。あとが不純になりはしまいかと云う心持がして来たのである。『大毎』と思ったのも一つは、始めにわいわいされない為と云う下心もあったのだが。\n 異性とともにある心の弾み。\n 自分は欧州旅行のことも考える。賑やかに、所謂楽しい旅行は男づれでなければ出来まいが、静かな心で芸術や生活を味って来ようなら、女の、気心の合った人とでなければ駄目ではないだろうか。\n\n七月十五日(土曜)晴\n 朝起ると、足の工合、まるで異常、筋が一つつれたように感じる。大阪でペストがあるのを知って居るのが気が気でなく、すぐ思い立って順天堂に行く。\n 林町に半日居、繃帯で歩けないから、Aに来て呉れないかときいたら来ないと云う。俥でかえる。\n\n七月十六日(日曜)晴\n 此頃、自分の心には、種々の苦悶がある。自分の日常生活について。\n\n一、近頃の自分の生活は、半ば放棄、半ばあきらめの生活ではないか。真の意味に於ける結婚生活は此那ものであろうか。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。\n その子細は知らず、なにしろ青天の霹靂ともいうべきこの出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火をうしなったように周章狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも知れないという噂がそれからそれと伝えられて、不安の空気が城内にもみなぎった。\n 庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは洲先神社に参詣することになった。洲先は頼朝が石橋山の軍に負けて、安房へ落ちて来たときに初めて上陸したところで、おなじ源氏の流れを汲む里見の家では日ごろ尊崇している神社であるから、庄兵衛がそれに参詣して主家の安泰を祈るのは無理もないことであった。\n 神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の都度に与市の家をたずねるようになった。そのうちに江戸表から洩れて来る種々の情報によると、どうでも里見家に連坐の祟りなしでは済みそうもないというので、一家中の不安はいよいよ大きくなった。庄兵衛は洲先神社へ夜詣りを始めた。\n 彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは道理であるが、夜詣りをするようになってから、彼は決して供を連れて行かないということが妻の注意をひいた。まだそのほかにも何か思い当ることがあったと見えて、妻は与市を呼んでささやいた。\n「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」\n 与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の路程があるので、庄兵衛は日の暮れるのを待ちかねるように出てゆく。妻と与市とは少しくおくれて出ると、途中で五月の日はすっかり暮れ切って、ゆく手の村は青葉の闇につつまれてしまったので、かれらは尾けてゆく人のすがたを見失った。\n「どうしようか。」と、妻は立止まって思案した。\n「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。\n「そうしましょう。」\n まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのに頗る困った。夫のあとを尾けるつもりで出て来たのであるから、もとより松明や火縄の用意もない。妻はたまりかねて声をかけた。\n「与市。手をひいてくれぬか。」\n 与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ龕燈提灯を二人の眼先へだしぬけに突きつけた。はっと驚いて立ちすくむと、相手はすぐに呼びかけた。\n「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」\n それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。\n「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」\n「あれ、飛んでもないことを......。」と、妻はおどろいて叫んだ。\n「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」\n もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。\n あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく背後から肩を斬られた。それでも彼は夢中で逃げ出すと、あたかも自分の家の前に出たので、やれ嬉しやと転げ込むと、母も兄もその血みどろの姿を見てびっくりした。与市は今夜の始末を簡単に話して、そのまま息が絶えてしまった。\n あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。\n それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な不埒者の宿許へお冬を預けておくことは出来ぬというので、迎いの乗物にお冬を乗せて帰った。その日から一本足の美しい女は庄兵衛の屋敷の奥に養われることになったのである。\n 何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。\n\n三\n\n 不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば元和元年である。その年の五月には大坂は落城して、いよいよ徳川家一統の世になった。今まで無事でいたのを見ると、或いはこのままに救われるかとも思っていたのは空頼みで、大坂の埒があくと間もなく、五月の下旬に最後の判決が下された。里見の家は領地を奪われて、忠義は伯耆へ流罪を申付けられたのである。\n 主人の家がほろびて、里見の家来はみな俄浪人となった。そのなかで大滝庄兵衛は夫婦のほかに家族もなく、平生から心がけもよかったので、家には多少の蓄財もある。浪人しても差しあたり困るようなこともないので、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかった。彼にはお冬という女が付きまとっていた。庄兵衛もそれを振捨てて行こうとは思わないので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、便船をたのんで上総へ渡り、さらに木更津から船路の旅をつづけてつつがなく江戸へはいった。\n それは庄兵衛が不義者として妻と中間とを成敗してから一年の後で、庄兵衛は四十六歳、お冬は十九歳の夏であった。\n かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺に近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送っていた。安房の里見といえば名家ではあるが、近年はその武道もあまり世にきこえないので、里見浪人をよろこんで召抱えてくれる屋敷もなかった。お冬も武家奉公を好まなかった。一本足の女、しかも自分とは親子ほども年の違う女を、拙者の妻でござるといって武家屋敷へ連込むことは、庄兵衛もなんだか後めたいようにも思ったので、かたがた二度の主取りは見合せることにしたが、いつまでもむなしく遊んではいられないので、彼は近所の人の勧めるがままに手習の師匠を始めると、その人が親切に周旋して、とりあえず七、八人の弟子をあつめて来てくれた。そうなると、庄兵衛も家のことの手伝いもしていられない。足の不自由なお冬だけでは何かにつけて不便なので、台所働きの下女を雇うことにしたが、どの女もひと月かふた月でみな立去ってしまった。\n あまりに奉公人がたびたび代るので、近所の人たちも不思議に思って、暇を取って出てゆく一人の女にそっと訊いてみると、こんなことを言った。\n「若い御新造はあんな美しい顔をしていながら、なんだか怖い人です。その上に、あんまり旦那さまと仲が良過ぎるので、とても傍で見てはいられません。」\n 親子ほども年の違う夫婦が仲よく暮らしていることは近所の者も認めていたが、傍で見ているに堪えられないで奉公人らがみな立去るほどにむつまじいというのは、すこしく案外であった。\n それから注意して窺うと、庄兵衛夫婦のむつまじいことは想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を赧くするようなことが度たびであった。十二三になる娘などは、もうあのお師匠さんへ行くのはいやだと言い出したものもあった。そんなわけで、多くもない弟子がだんだんに減って来るばかりか、貯えの金も大抵使い果してしまったので、仲のよい夫婦も一年あまりの後には世帯の苦労が身にしみて来た。\n「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」\n お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の師走の夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家の奉公人で、どこへか懸取りに行ったらしく見えたので、庄兵衛は俄かにきざした出来ごころから不意にそのゆく手に立ちふさがった。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。御合力くだされ。」\n 一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。\n 泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は赫となった。斬ってしまって、いまさら悔む気にもなったが、毒食わば皿までと度胸をすえて、庄兵衛は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどはいっているだけであった。\n「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。\n しかし今の身の上では二貫文の銭も大切である。庄兵衛はその銭を懐ろにして家へ帰ったが、生れてから初めて斬取り強盗を働いたのであるから、なんだか気が咎めてならない。万一の詮議に逢った時にその証拠を残しておいてはならないと思ったので、かれは燈火の下で刀の血を丁寧に拭おうとしていると、お冬がそばから覗き込んだ。\n「もし、それは人の血ではござりませぬか。」\n「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。\n お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を嘗めさせてくれと言った。これには庄兵衛もすこし驚いたが、自分の惑溺している美しい妻の要求をしりぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。\n その夜の閨の内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。\n「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」\n 庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫じて来て、庄兵衛は袂に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血をそそぎ込んで来るようになった。\n 彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責を感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかりでなく、それが男の血であるか、女の血であるかを言い当てさせるのも、彼が一つの興味となった。\n しかしこの時代でも、こうした悪鬼の跳梁跋扈をいつまでも見逃がしてはおかなかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそかにはしなかった。町奉行所ではこの頃しきりに流行るという辻斬りに対して、厳重に探索の網を張ることになった。庄兵衛も薄うすそれを覚らないではなかったが、今更どうしてもやめられない羽目になって、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。\n 牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。\n「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」\n 彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。\n いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の出張りはちっと仰山らしいが、庄兵衛の申立てによって奉行所の方でも幾分か警戒したらしい。\n それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。\n 一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに溝川のようなものが幾すじも流れているのを、お冬はそれからそれへと飛ぶように跳り越えてゆくので、捕り方の者どももおどろかされた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢してかれのゆく手を遮ろうとした者もあったが、その物すごく瞋った顔をみると誰もみな飛びのいてしまった。\n「早く舟を出せ。」\n 捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。\n それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の堤を詮議したが、そこらでは誰もそんな女を見かけた者はないとのことで、捕り方もむなしく引揚げた。\n 牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。\n「まったくあの女は唯物ではござらなんだ。あれが世にいう鬼女でござろう。」\n それから十日ほど経つと、庄兵衛は牢役人にむかって、早くお仕置をねがいたいと申出た。実は昨夜かのお冬が牢の外へ来て、しきりに自分を誘い出そうとしたが、自分はかたく断って出なかった。みすみす魔性の者とは思いながらも、かれの顔をみるとどうも心が動きそうでならない。一度は断っても、二度が三度とたび重なると、あるいは再び心が狂い出して破牢を企てるようなことにならないとも限らない。それを思うと、我れながら怖ろしくてならないから、一刻も早く殺してもらいたいというのであった。\n その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑にかけられた。\n\n\n黄いろい紙\n\n\n一\n\n 第十の女は語る。\n\n 近年はコレラなどというものもめったに流行しなくなったのは、まことに結構なことでございます。たとえ流行したと申したところで、予防も消毒も十分に行きとどきますから、一度の流行期間に百人か二百人の患者が出るのが精々でございます。ところが、以前はなかなかそういう訳にはまいりません。安政時代の大コレラというのはどんなでしたか、人の話に聴くばかりでよく存じませんが、明治時代になりましては、十九年のコレラが一番ひどかったと申します。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "第一八、モルモン宗の本寺\n 米国ソルトレーク都府には、モルモン宗の本寺あり。その礼拝堂は、一万五千人をいるるべしという。当時、本堂建築中なり。その費用、米貨千万ドル(わが千三百万円)なりという。\n第一九、モルモン宗の信徒\n モルモン宗は米国中ユタ州内に蔓延し、州の人口およそ二十万あり、そのうち十五万以上のモルモン信徒あり。その徒、有するところの妻の多少は貧富に応じて異なり、その最も富めるものは十五人の妻を有すという。\n第二〇、モルモン宗の本書\n 政教子、一夕散歩の際書肆に至り、モルモン宗の書を求む。書肆、『バイブル』を出だしてこれを示す。政教子曰く、これ『バイブル』なり。書肆曰く、モルモン宗はすなわち『バイブル』宗なり。政教子曰く、その多妻なるはいかん。書肆曰く、多妻はもとより『バイブル』の許すところなり。翌朝、政教子モルモンの寺に至り、堂守に同宗立教の書を求む。堂守、モルモン宗歴史一冊および多妻論一冊を示す。その多妻論中には、多妻説は『バイブル』の許すゆえんを証明せり。\n第二一、多妻必ずしもモルモンならず\n 友人某、車夫に語りて曰く、われ聞く、貴宗は多妻宗なりと。果たしてしからば、わが国にもモルモン宗ありといわざるべからず。なんとなれば、わが人民中、妻妾を蓄うるものあり、その実多妻なり。車夫曰く、モルモン宗は多妻宗なるも、多妻を有するものことごとくモルモンなるにあらずと。政教子曰く、車夫の言、論理に合す。論理学命題の規則中に、主辞、賓辞を転倒するの過失を証明せり。今、モルモン宗は多妻なりの一命題を転倒して、多妻なるものはモルモン宗なりということを得るときは、こうもりは獣類なりの命題を転倒して、獣類はこうもりなりということを得べき理なり。その過失、証明を待たずして明らかなり。しかれども、世にこれと同一の過失をなすものはなはだ多し。「英雄色を好む」の言を口実として色にふけるものあり、「君子は貧を楽しむ」の言を口実として貧に安んずるものあり、これみな大なる過失なり。英雄色を好むも、色を好むもの必ずしも英雄ならず、君子貧を楽しむも、貧に安んずるもの必ずしも君子ならず。\n第二二、身体の洗濯\n 米人某曰く、日本人は不潔にして、襯衣を洗濯することなしと聞く、果たしてしかるや。政教子曰く、襯衣を洗濯せざるものはシナ人にして日本人にあらず。日本人はただ洗濯するの度数、あるいは欧米人のごとくはなはだしからざるのみ。しかして、日本人は毎日浴湯するの風習あり、欧米人は毎月一回もしくは半年に一回浴湯するのみ。衣服を洗濯すると身体を洗濯するとは、いずれが最も清潔なるや。\n第二三、寺院と人口の割合\n ニューヨーク府中の寺院(ヤソ教会堂)、その主なるものおよそ五百棟ありという。しかして市中の人口百二十万なれば、二千四百人につき一カ寺の割合なり。フィラデルフィア府は寺院やはり五百前後ありて、人民八十四万七千なれば、一千六百九十四人につき一カ寺の割合なり。アメリカ合衆国の人口総計おおよそ六千一百万にして、寺院大小諸宗を合して九万二千百七棟、僧侶(牧師)七万七千二百三十人なれば、六百六十二人につき寺院一棟、八百人につき僧侶一人の割合なり。\n第二四、米国人民の階級\n 米国には人民の間に上下の階級なし、男女の間に尊卑の懸隔あり(女尊男卑)。\n第二五、心理療法の一種\n 米国にてヤソ教学術の名称をもって、一種の奇法を唱うるものあり。その法、婦人の発明せるところにして、万病を医するに、従来の医方と全く異なりたる方法を用うという。政教子曰く、これ、わがいわゆる心理療法の一種なり。\n第二六、市在の寺院\n 米国は国内いたるところ村落あれば、必ず寺院すなわちヤソ会堂あり。会堂にはおよそ一定の建築法ありて、前面に高塔あり、塔上に十字形あり。ゆえに、遠方より村落を一望して、その中に会堂あるを知るべし。都府の会堂はみな商店に隣接して立ち、市中に散布して存す。決してわが国東京その他各都府の寺院のごとく、一隅に僻在するにあらず。\n第二七、住職の多事\n 一寺住職すなわち牧師たるものは、その寺の礼拝、説教、婚礼、葬式等を主任するほかに、ときどきその檀家信徒を巡回し、起居安否を尋問し、病客あるときはその病を問い、不幸あるときはその不幸を弔する等、いたって多事なり。\n第二八、僧侶の尊敬\n 米国にて僧侶たるものは、多少尊敬を受くるの風あり、田舎に至りて最もはなはだし。ただし僧侶は、男女の交際、外人の応接に注意し、言語、談話、訪問、待遇の極めて懇切丁寧なるを要す。すなわち、懇切丁寧をもって人の愛を買うものにして、しからざればたちまち名望を失するなり。\n第二九、教会の景況\n 米国の寺院は、他教会もしくは他邦の人その会堂に至るときは、はなはだ鄭重に待遇するの風あり。また、各宗派の信徒互いに共同して、慈善会、救助会等を設くるの風あり。これ、良風習というべし。これに反し、新教諸宗とローマ宗とは互いに敵視するの風ありて、往々争論をその間に起こすことありという。\n第三〇、牧師の生命を保険す\n 米国の風習、寺院に名望ある牧師あるときは、これを終身その寺に奉職せしめんため、教会の資金をもってその生命を保険することありという。これ、おもしろき方法なり。\n第三一、合衆国牧師の所得"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 合衆国にて、牧師の有名なるものは一年に一万二千ドル(わが金およそ一万五千円)以上の所得あり。その最も有名なるものは、大統領の年給より多き所得ありという。\n第三二、米人、ヤソ教外の人を擯斥す\n 普通の米国人はヤソ教外の宗教を信ずるものを外道と称し、ただにこれを擯斥するのみならず、人類より一等下るもののように考うるの風あり。しかして、なにゆえ外道は擯斥すべきやを知らず、実に愚の至りなり。しかれども、近年ようやく学者中にヤソ教を信ぜざるもの起こり、仏教を主唱するものありて、ややその惑いを解くに至れり。ただその高論の、いまだ狹隘なる婦人の心裏に入らざるのみ。\n第三三、米国ヤソ教景況\n ヤソ教の熱血ひとたびアメリカ人の血管中に入りてより以来、その精神は常に宗教の熱を帯び、氷雪飢餒の間にその寒を忘れ、刻苦艱難して得たるところの結果は、米国今日の文明なり。しかるに、今日にありては血管中の熱はすでに放散して、ただわずかに皮膚の上に余熱を存するのみ。婦人は美服を新調して日曜を待ち、男子は美人を捜索して会堂に入り、日曜の会堂は男女相まみゆるの媒介場となる。これ、果たしてヤソ教の真面目なるか。当時、ヤソ教隆盛の地をかぞうるときは、人みな米国を呼びて第一指を屈す。しかしてその実況、すでにかくのごとし。ほかの地方に存するヤソ教、推して知るべきなり。\n第三四、ヤソ教の僧侶ことごとく品行端正なるにあらず\n 米国にて聞くところによるに、ヤソ教の僧侶ことごとく品行端正にして信教篤実なるにあらず、その三分の二は内実はなはだ疑わしといえども、表面には厳然たる宗教家たる言行を示すをもって、世間一般に宗教家は品行端正、信教篤実なりと認定するに至る。かつ、世人は宗教家と道徳家とは同一の意義を有し、宗教家はすなわち道徳家なり、道徳家はすなわち宗教家なりと信ずるの風あり。ゆえに、一、二の不道徳者の宗教家中にあるときは、世人これを宗教の外に放擲して、決してその罪を宗教に帰せず。しかるにわが日本のごときは、宗教家に不道徳のものあればその罪を宗教に帰し、宗教と人とを同一視するの風あり。これ、他なし。西洋人は宗教をもってその国の宗教とし、日本人は宗教をもってその人すなわち宗教者の宗教とするの別あるによる。政教子曰く、宗教は道なり、一人の私有するものにあらず、人の心変ずるも道の変ずるにあらず、宗教者不道徳なるときは、その人宗教者にあらざるのみ。なんぞ、その罪を宗教に帰するの理あらんや。\n第三五、米国ヤソ教衰微の原因\n 米国はヤソ教最も盛んなりと称す。しかして近年、毎日曜に寺院に参詣するもの次第に減少すという。新聞上にてその原因を論じて曰く、近年学術の進歩に従い、自然にその影響を人心の上に及ぼし、人をしておのずから上帝の在否、未来の有無を疑わしめたるは、その第一原因なり。毎日曜に寺に詣し、礼拝供養怠ることなきも、実際上さらにその応果を見ず。牧師は説教上において神つねにおわすというも、上帝その愛子をして不幸を免れしむることあたわず、神見ざるところなく聞かざるところなしというも、その信者をして病苦を脱せしむることあたわず。上帝を信ずるものと信ぜざるものと、苦楽の境裏を来往するに寸分の差等あることなし。ゆえに、人をしておのずから上帝の威徳を怪しみ、これに対して礼拝供養するも、なんの益するところなしとの疑いを抱かしむ。これ、その第二原因なり。第三の原因は、人毎日曜に寺に詣して毎回同じようなる説教を聴き、一週一日の貴重の休暇を犠牲にするは、あるいは野外に歩を散じ、あるいは友人と懐を語り、随意放任の楽にしかざることを知るこれなり。第四の原因は、米国の風習として寺に詣するものは、競って美服を着し美容を装い、婦人はこれを男子に示さんと欲し、男子は婦人の愛を引かんと欲するを常とす。ゆえに、資産に乏しきもの、または美服の新調なきもの、または一見識ありてかくのごとき風習を好まざるもの、または老人にしてかくのごとき外観に意なきものは、自然の勢い、寺に詣せざるに至るこれなり。\n第三六、布教の好手段\n 政教子曰く、ヤソ教者布教の手段は、要するに婦人と小児を教訓して、その道に引入するの一事にあり、別して婦人を教訓するをもって第一手段とす。もし、ひとたび婦人の心中にヤソ教の思想を注入すれば、その思想、これによりて養育するところの小児に伝染するは必然なり。すでに婦人と小児とともに、その心ヤソ教海の水に浴するときは、男子は自然の性力によりてその余波をくむは、また必然の勢いなり。かつ、小児のとき得たる思想は先入主となるの理にもとづき、成長の後を支配するの力あるをもって、幼時ひとたびヤソ教の井中に入りたるものは、終身大海の波上に立つことあたわざるべし。これに加うるに、婦人と小児はその心、春陽の青草のごとく宗教の風に伏しやすきものなり。その最もやすきものを婦人とす。ゆえに、ヤソ教者の婦人教訓をもって第一の目的とするは、好手段中の好手段にして、労少なくして功多きものといわざるべからず。\n第三七、米国の宗教の性質\n 政教子曰く、米国の宗教は満嚢自由の空気をもって吸入せるものなり、全身自由の精神をもって注射せるものなり。そもそも米国人は、そのはじめ英国より渡航せるものにして、当時英国政府は国教を組織し、君主をもってその首長となし、人民に宗教の自由を許さざりし。しかるに人民中その主義に反対せるものありて、信教の自由、教会の独立を唱え、父母の国を辞して遠くアメリカに渡り、不毛の広野に植民を開けり。その子孫ようやく繁殖して邑を成し都を成し、ついに英国政府に抗して独立を天下に公布するに至れり。しかして、その独立戦争の起こりし原因は、宗教上の旧怨、間接に相助けしや疑いをいれず。かつその独立後、共和政体を組織するに至りしも、米国人の従来宗教の自由、教会の独立を唱えたる精神より起こりしを知らざるべからず。なんとなれば、一方に自由の思想あれば、その思想他方に向かって発するは自然の理なればなり。\n これを史上に考うるに、近古新教の乱ひとたび起こり、ルターの徒、ローマ法王の権勢に抗して宗教の独立を唱えてより以来、その自由の思想は政治上に及ぼし、各国に革命の乱を生ずるに至れり。これ、他なし。政治と宗教はその性質を異にするも人の思想同一なれば、政治上得るところの独立の精神は、宗教上に発して宗教の自由を唱え、宗教上得るところの独立の思想は、政治上に及ぼして政治の自由を唱うるに至ればなり。\n 故をもって、政治と宗教はたいてい同一の組織を有し、君主政治の組織の下には、君主政治に相応したる宗教組織あり、共和政治の組織の下には、共和政治に相応したる宗教組織あり。今、合衆国はその政体自由共和にして、その各連邦ほとんど独立の組織を有す。しかして、その国の宗教また自由独立の組織を有し、各教会独立して各寺の法律を制定し、これを総裁統轄する本山なく、また教正なし。ただ、その宗派の連合により年会を開き、各寺の名代人相会して、その宗一般に関する事項を議定するものあり。その組織、あたかも合衆国の政体と異なることなし。ゆえに余曰く、米国の宗教は満嚢自由の空気をもって吸入せるものなり、満身独立の精神をもって注射するものなりと。\n 果たしてしからば、米国の宗教のわが国に入るは、他日政治上の大不利を醸成するに至るや必然なり。現今わが国にあるヤソ新教は、たいていみな米国より来たるものなり。しかして、その教会の組織は全く米国の組織を模写せるものにして、自由共和の主義によりて成立せるものなり。もし、この宗教ひとたび人心中に入るときは、知らず識らずの間に共和自由の思想を養成し、その思想発して政治上の共和自由を唱うるに至るを計るべからず。これ、我が輩が今よりその結果のいかんを憂慮するところなり。\n第三八、日曜礼拝の時刻\n 米国の日曜は、朝十時半ごろをもって寺時と称し礼拝始まる。これ、朝時の礼拝なり。およそその前十五分に鳴鐘ありて参詣を促す。わが国の寺院のごとし。つぎに午後七時、礼拝また始まる。これ、夕時の礼拝なり。そのほか、午後三時ごろに午後の礼拝を行う寺あれども一般ならず。\n第三九、遊山会\n 米国にて、同志相募り遠足遊山をなすことあり、これをピクニックという。しかるときは、あらかじめ時日と場所とを定め、有志のものへ切符を売り渡す。もしその場所水浜なれば、当日端舟と楽隊とを用意し、会するものみな弁当を携えともに水を渡りて、あらかじめ期したる場所に至り舟をとどめて、男女適意に野遊をなし、晩に至りて再び舟に乗じて帰る。当日切符より得たるところの金は、端舟と楽隊との費用を除き、その余はことごとく寺院もしくは病院、貧院等へ寄付して、慈善に用うという。\n第四〇、寺院の小集\n 米国の寺院には、毎月一、二回ソーシャブルと称し、その檀徒のもの、おのおのその友人知己を誘い寺院に至り、互いに紹介し互いに談話し、茶菓を喫して去ることあり。すなわち小懇親会なり。ゆえに、米国の寺院は説教場のほかに待合所を兼ぬるものなり。\n第四一、英雄・学者の肖像\n 政教子、ニューヨーク府にありて一日公園に遊び、古今の英雄・学者の肖像、石に彫刻せるもの路傍に並列するを見て曰く、これ我人を薫育する良教師なり。およそ人たるもの、ひとたび英雄の肖像を見れば、その心おのずから英雄を愛し英雄を慕い、自ら進みて英雄とならんとする思想を起こすものなり。学者の肖像を見るもまたしかり。ゆえに余曰く、これ我人を薫育する良教師なりと。しかるにわが国公園中に、いまだかくのごとき肖像を建置せざるは、教育上の一大欠点といわざるべからず。\n第四二、人民の正直\n 米国中の都府には、往々番人なくして新聞を街上に売るものあり。これを買う人は、まずその代価を銭箱の中に投入して一紙を持ち去り、だれも盗み去るものなし。料理屋に入りて食事をなすものあり、意に任じて数品を食し終わりて入り口の勘定所に至り、自らその食するところのものを告げ、相当の代価を払うの例なれば、言をはむも自在なり。しかるに、人みな告ぐるにその実をもってすという。人の正直なること、かくのごとし。政教子曰く、これ、その人はじめより正直なるにあらず、数世数百年回、社会の事情によりて淘汰せられたる結果なり。世上に伝うるところの「正直に過ぎたる政略なし」といえる諺は、数世間経験の末発見したる規則なり。\n 今、西洋社会は家屋の建築いたって堅牢にして、その防御またいたって厳密なれば、知らず識らず人をして窃盗の念を絶たしむるに至り、また商法上ひとたび世間に信を失えば、ふたたび社会に立つことあたわざるをもって、その勢い自然に人をして信義を守るの必要を知らしむ。かくのごとき経験、注意、数回相重なり数世相伝わり、風をなし俗をなし遺伝性をなし、ついに人をして生まれながら窃盗・詐偽の念を去り、正直朴実ならしむるなり。しかれども、その国全く盗賊なきにあらず。われ聞く、ロッキー山間には盗賊隊を成し、汽車の線路を遮り、乗客の財宝を奪い取るがごときことあるは、しばしば新紙上に見るところなり。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを完成させて、印象的な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " これを見た吾輩はホッとしたね。この調子なら吾輩が仕出かした事とは誰も気付くまい......と思ったから何喰わぬ顔で野次馬を押分けた。その伸びちゃっている貴婦人の頭の処へ近付いて大急ぎで脈を取って見た。それから瞼を開いて太陽の光線を流れ込まして見ると、茶色の眼玉を熱帯魚みたいにギョロギョロさしている。たしかに、まだ生きている事がわかったので今一度ホッとしたね。\n「ワア......テンカンだテンカンだ......」\n「そうじゃねえ、行倒れだ」\n「何だ何だ。乞食かい......」\n「ウン。乞食が貴婦人を診察しているんだ」\n「......ダ......大丈夫ですか」\n とドジを踏んだ運転手が、吾輩の顔を覗き込んだ。青白い銀狐みたいな青年だ。\n「何だ何だ。死んだんか。怪我をしたんか」\n と馳付けて来た交通巡査が同時に訊いた。察するところ、運転手の方は生きている方が好都合らしく、巡査の方はこれに反して、死んだ方が工合がいいらしい口ぶりだ。面喰らったセパードは、まだ貴婦人のお尻の処を嗅ぎまわってドッチ附かずに吠えている。\n「どうしたんだ。ヘタバッたのかい」\n「ナアニ。鼻が千切れたんだよ。キット......俺あ見てたんだが」\n「ベリベリッと音がしたじゃねえか。助からねえよ。急所だから......トテモ......」\n 何かと云っているところを見ると野次馬の連中も巡査と同感らしい。人生貴婦人となる勿れだ。\n しかし厳正なる医師の立場に居る吾輩は、遺憾ながら運転手君に味方しなければならない事をこの時、既に既に自覚していた。貴婦人は最早、呼吸を吹返している。ただキマリが悪いために狸の真似をしている事実を、吾輩はチャンと診断していたのだから止むを得ない。\n 吾輩はダカラ勿体らしく咳払いを一つした。\n「......エヘン......これは大丈夫助かります。大急ぎで手当をすればね。脳貧血と、脳震盪が同時に来ているだけなんですから......」\n「何かね。君は医師かね」\n と新米らしい交通巡査が吾輩を見上げ見下した。吾輩は今一つ......エヘン......と大きな咳払いをした。それから悠々と長鬚を扱いて見せた。\n「そうです。大学の基礎医学で仕事をしている者です。天狗猿......イヤ。鬼目教授に聞いて御覧になればわかるです。......そんな事よりも早くこの女の手当をした方がいいでしょう。今、処方を書いて上げますから......誰か紙と鉛筆を持っておらんかね」\n「ハ。......コ......ここに......」\n と云ううちにドッジの運転手が、わななく手で差出した手帳の一枚を破いた吾輩は、サラサラと鉛筆を走らせた。\n「早くこの薬を買って来たまえ。間に合わないと大変な事になるぞ」\n「......か......かしこまり......」......ました......と云わないうちに運転手はエンジンをかけたままの運転台に飛乗った。アッという間に全速力をかけて飛出した。\n\n チャッカリ小僧\n\n「......ウヌ......逃げたナ......」\n と云ううちに交通巡査も、物蔭に隠しておいた自働自転車を引ずり出して飛乗った。爆音を蹴散らして箱自動車の跡を追った。見る見るうちに街路の向うの......ズウット向うの方へ曲り曲って見えなくなってしまった。\n 呆気に取られて見送っていた野次馬連は、そこでやっと吾に帰ったらしく、顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。吾輩も可笑しくなったので、血を滴らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。\n「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」\n と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。\n「無理だよソレア......先生。死んでんだもの......」\n 皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後から一枚の紙片を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。\n「先生。これあ今の紙じゃないですか」\n「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石に眼が早い」\n「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」\n 鳴りを鎮めていた群集が又笑い出した。\n「ウーム。豪いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」\n「......そ......そんなんじゃありません」\n「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭が這入っているだろう」\n「だって......だって。そんな事していいんですか」\n「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」\n と背後の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。\n「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は......」\n「うん。それはトンプクと読むんだ」\n「トンプク......ああわかった。頓服か......ええと......メートル酒十銭......」\n「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」\n「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」\n「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は......チャッカリしている。それは硼酸軟膏と万創膏と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」\n「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生......」\n「何が駄目だ」\n「チャアチャア。このバッグの中には銭なんか一文も無えや。若い男の写真ばっかりだ。ウワア......変な写真が在ライ」\n と云いも終らぬうちに塵埃だらけになって転がっていた狸婦人が鞠のように飛上った。茶目小僧の手から銀色のバッグを引ったくるとハンカチで鼻を押えたまま一目散に電車道を横切って、向うの角のサワラ百貨店の中に走り込んで行った。アトから犬が主人の一大事とばかり一直線に宙を飛んで行ったが、その狸婦人の足の早かったこと......。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 野次馬がドッと笑い崩れた。\n「ナアンダイ。聞いてやがったのか」\n「向うの店で又引っくり返りゃしねえか」\n「行って見て来いよ。小僧。引っくり返えってたらモウ一度バッグを開けてやれよ。中味をフン奪くって来るんだ。ナア小僧......」\n「なあんでえ。買わねえ薬が利いチャッタイ」\n ワアワアゲラゲラ腹を抱えている中を、吾輩は悠々と立去った。全く助かったつもりでね。\n ところが助かっていなかった。女の一念は恐ろしいもんだ。それから間もなくの事だ......。\n\n 混凝土令嬢\n\n「アラッ。鬚野さん......鬚野先生......センセ」\n どこからか甲高い、少々媚めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。\n 吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠り直した。裸体一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。\n 通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況んやそれが若い、媚めかしい声なるに於いてをや......といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。\n それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛り過ぎた酬いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して、新聞と検事に背中をたたかれたたかれ財産と臓腑の清算、尻拭い中である。その奥さんは、その亭主の尻拭い紙である色々な重要書類を紛失したのを苦にして、発狂して死んでしまった......と云ったら誰でも「ああ。あの混凝土野郎か」と云うであろう。\n その混凝土氏こと、山木勘九郎氏邸の前を通ると、鬱蒼たる樫の木立の奥に、青空の光りを含んだ八手の葉が重なり合って覗いている。その向うにゴチック式の毒々しい色硝子を嵌め込んだ和洋折衷の玄関が、贅沢にも真昼さなかから電燈を点けて覗いているもう一つ向うに、コンクリートの堂々たる西洋館が聳えているところを見ると、如何にも容易ならぬ金持らしい。ちょっと忍び込んでみたくなる位である。多分、あの樫の木の闇がりが御自慢なのであろうが、混凝土を喰った証拠に混凝土の家を建てるのはドウカと思う。......なぞと詰まらない反感を起しながら門の前を通り過ぎようとしているところへ、その鬱蒼たる樫の木闇がりの奥から聞こえたのが今の呼声だ。\n コンナ立派な家の中から、あんな綺麗な声で呼ばれるおぼえは無い。間違いではなかったかなと思っているところへ、門の中から花のような綺麗な、お嬢さんの姿があらわれた。\n 年の頃十八九の水々しい断髪令嬢だ。黒っぽい小浜縮緬の振袖をキリキリと着込んで、金と銀の色紙と短冊の模様を刺繍した緋羅紗の帯を乳の上からボンノクボの処へコックリと背負い上げて、切り立てのフェルト草履の爪先を七三に揃えている恰好は尋常の好みでない。眼鼻立が又ステキなもので、汽船会社か、ビール会社のポスター描きが発見したら二三遍ぐらいトンボ返りを打つだろう。\n そいつがニッコリ笑うには笑ったが、よく見ると顔を真赤にして眼を潤ませている。まさか俺に惚れたんじゃあるまいが......と思わず自分の顔を撫でまわしてみたくらい、思いがけない美しい少女であった。\n「何だ......吾輩に用があるのか」\n「......エ......あの。ちょっとお願いしたい事が御座いますの」\n と云ううちに、しなやかな身体をくねくねという恰好にくねらせた。しきりに顔を真赤にして自分の指をオモチャにしている。\n「......ハハア。犬が欲しいんか」\n まさかと思って冷やかし半分に、そう云ってみたのであったが、案外にもお合羽さんが、如何にも簡単にうなずいた。\n「ええ......そうなんですの」\n「ほオ――オ。お前が動物実験をやるチウのか」\n「......アラ......そうじゃないんですの......」\n「ふむ。どんな犬が欲しい」\n「それが......あの。たった一匹欲しい犬があるんですの」\n「ふむ。どんな種類の......」\n「フォックス・テリヤなんですの。世界中に一匹しか居ない」\n「ウワア。むずかしい註文じゃないか」\n「ええ。ですからお願いするんですの」\n「ふうん。どういうわけで、そんなむずかしい仕事を吾輩に......」\n「それにはあの......ちょっとコミ入った事情がありますの。ちょっとコチラへお這入りになって......」\n と云ううちにイヨイヨ真赤になった。今度は平仮名の「く」の字から「し」の字に変った。打棄っておくと伊呂波四十八文字を、みんな書きそうな形勢になって来たのには、持って生れたブッキラ棒の吾輩も負けちゃったね。今に「へ」の字だの、「ゑ」の字だのを道傍で書かれちゃ大変だと思ったから、悠々と帽子を取って一つ点頭いてみせると、お合羽さんは振袖を飜えして門の内へ走り込んだ。お尻の上の帯をゆすぶりゆすぶり玄関の扉を開いて、新派悲劇みたいな姿態を作って案内したから吾輩も堂々と玄関のマットの上に片跛の護謨靴を脱いで、古山高帽を帽子掛にかけた。お合羽さんが自分の草履と、吾輩の靴を大急ぎで下駄箱に仕舞うのを尻目に見ながら堂々と応接間に這入った。\n「失礼じゃがマントは脱がんぞ。下は裸一貫じゃから」\n「ええ。どうぞ......」\n\n 廃物豪華版\n\n 応接間の構造は流石に当市でも一流どころだけあって実に見事なものであった。天井裏から下った銀と硝子の森林みたような花電燈。それから黒虎斑の這入った石造の大煖炉。理髪屋式の大鏡。それに向い合った英国風の風景画。錦手大丼と能面を並べた壁飾。その下のグランド・ピアノ。刺繍の盛上った机掛。黄金の煙草容器。銀ずくめの湯の音をジャンジャン立てているサモワルに到るまで、よくもコンナに余計な品物ばかり拾い集めたものである。乞食の物置小屋じゃあるまいし......とすっかり軽蔑してしまったが......もっとも余計な品物を持っている点に於ては吾輩も負けないつもりだ。冠っている山高から、ボロ二重マント、穿いている長靴は勿論の事、その中に包まれている吾輩、鬚野房吉博士の剥身に到るまで一切合財が天下の廃物ならざるはなし。コンナ豪華な応接間の緞子と真綿で固めた安楽椅子の中に坐らせるのは勿体ないみたいなもんだが、しかし、その贅沢品の豪華版の中から生まれ出たような断髪の振袖令嬢が、その廃物ずくめのルンペンおやじに、大切な用があると仰言るんだから世の中は不思議なもんだ。一つ御免蒙って御神輿を卸してみよう。そうして銀のケースの中から葉巻を一本頂戴してみる事にしてみよう。\n 断髪令嬢が素早く卓上のライタを取上げて器用に火をつけてくれた。その物腰をみるとチョット珈琲店の女給さんみたいな気がして、手が握りたくなったが止した。\n それから断髪令嬢は卓上のサモワルから馴れた手附で珈琲を入れて、吾輩にすすめてくれたが、その容器を見ると、ここが断然カフェーでない事を覚らせられた。そこいらにザラにある珈琲茶碗じゃない。舶来最極上の骨灰焼だ。底を覗いてみると孔雀型の刻印があるからには勿体なくもイギリスの古渡りじゃないか。一つ取落しても安月給取の身代ぐらいはワケなく潰れるシロモノだ。吾輩はルンペンではあるが、有閑未亡人の侍従をやっていたお蔭でソレ位のことはわかる。亜米利加の名探偵フィロ・ヴァンスみたいな半可通とはシキが違うんだ。\n「......わたくし......父が御承知の通りの身の上で御座いまして......わたくし迄も世間から見棄てられておりまして......お縋りして御相談相手になって下さるお方が一人も御座いませんの」\n「フムフム......尤もじゃ」\n「みんな世間の誤解だから、心配する事はないと、父は申しておりますけど......」\n 吾輩は鷹揚にうなずいて見せた。誤解にも色々ある。とんでもない売国奴が、無二の忠臣と誤解されている事もあれば、純忠、純誠の士が非国民と間違えられる事もある。警察に引っぱられたカフェーの女給が、華族の令嬢に見られる事もあれば、いい加減な派出婦が万引したお蔭で、貴婦人と間違えられる事もある世の中だ。吾輩なんかは乞食以下の掻攫いルンペンと誤解されている世界的偉人だ......と云ってやりたかったが、折角、花のような姿をして葉巻や珈琲を御馳走してくれるものを泣かしても仕様がないと思って黙っていた。\n「世間ではナカナカそう思ってくれないので御座いますの」\n 吾輩は今一つうなずいた。そう云う令嬢の眼付を見ると、どうやら父親の無罪を確信しているらしい態度である。吾輩はグッと一つ唾液を嚥み込んだ。\n「いったいお前の父親は、ほんとうに市会議事堂のコンクリートを噛ったんか」\n「いいえ。断然そんな事、御座いません。この家を建てた請負師の人が、偶然にかどうか存じませんが、市会議事堂を建てた人と同じ人だったもんですから、そんな誤解が起ったんです。ですから妾、口惜しくって......」\n「成る程。そんならお前の父親が、この家の建築費用をチャント請負師に払うた証拠があるんかね」\n「ええ。御座いましたの。そのほかこの応接間の品物なんかを買い集めた支払いの受取証なぞを、みんな母が身に着けて持っていたので御座いますが、それがどこかで盗まれてしまいまして、その受取証や何かがみんな反対党の人達の手に渡ったらしいんですの。ですから反対党の人達は大喜びで、そんな受取証を握り潰しておいて、父がそんなものを賄賂に貰ったように検事局に投書したらしゅう御座いますの。ですから検事局でも、その受取証を出せ出せって責められたそうですけど、父はその事に就いて一言も返事をしなかったもんですから、とうとう罪に落ちてしまいました」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 掌を合さないばかりにいってしまった又八は、それまでの、日夜の焔から遁れて、後は却って、解脱の身のすずしさに、泣きぬれて、悲しみと法悦との、二つのふしぎな疼きのなかに、ほかの生き効いを、胎児のように、今は索っている気もちであろう。\n 又八が、面と向って、それをいい出した時、武蔵は、\n(それは出来ない!)\n ともいい切れなかった。\n(お通を、妻にもつ気はない。以前は、おぬしの許嫁だ。懺悔と、真心を示して、おぬしこそ、お通との仲を取りもどせ!)\n とは、なおさら、いわれなかった。\n では、何といったか。\n 武蔵は、始終、何もいわなかったのであった。\n 何をいおうとしても、自分のことばは、嘘になるからだった。\n といって胸の底に蟠っている本当らしいことは、自分に顧みて、いえもしなかったからである。\n それにひきかえて、今夜の又八は、必死だった。\n お通のことからして、解決しておかなければ、沙門の弟子になっても、ほかの修行を求めても、一切、むだなものになるから。\n ――というのだった。\n そしてまた、\n(おぬしがおれに修行をすすめたのではないか。それほど、おれを友達と思ってくれるなら、お通も救ってやってくれ。それはおれを救ってくれることにもなるんじゃないか)\n と、七宝寺時代の幼な友達の頃の口調そのままになって、果てはおいおいと泣いていったのである。\n 武蔵は、彼のその姿に、\n(四ツか、五ツの頃から見ているが、こんな純情な男とは思わなかった――)\n と、心のうちで、その必死な言に打たれると共に、\n(おのれの醜さ。おのれの迷い......)\n とわが身をさえ恥かしく思って別れてしまったのであった。\n 別れる時、又八が、袂をつかんで最後のようになおいった折――武蔵は初めて、\n(......考えておく)\n といったが、又八がなお、すぐ返辞をと求めてやまないので遂に、\n(考えさせてくれ)\n と、辛くも、一時のがれをいい残して、山門を出て来たのだった。\n ――卑怯もの!\n 武蔵は自分へ罵りながら、しかもいよいよ、無為の闇から脱けられない、この日頃の自分をあわれに眺めた。\n\n五\n\n 無為の苦しさは、無為を悶える者でなければ分らない。安楽は皆人の願うところだが、安楽安心の境地とは大いにちがう。\n なさんとして、何もできないのである。血みどろに踠きながらも、頭も眸もうつろに呆けたここちである。病かというに、肉体にはかわりはない。\n 壁へ頭をぶつけ、退くに退けず、進むに進めない。にッちもさッちも行かない空間に縛られて、果てもないここちがする。その果てに、われを疑い、われを蔑み、われに泣く。\n ――浅ましや己れ。\n 武蔵は、憤怒してみる。あらゆる反省を自己へそそいでみる。\n が、どうにもならないのだ。\n 武蔵野から、伊織を捨て、権之助にわかれ、また、江戸の知己すべてと袂別して、風のように去ったのも、薄々、この前駆的症状を自分でも感じていたので、\n ――これではならじ。\n と、驀しぐらに、その殻を蹴やぶって出たつもりではなかったか。\n そして半年以上。気がついてみれば、破った筈の殻は、依然として空虚の自分を包んでいる。あらゆる信念を喪失しかけて空蝉にも似た自分の影が、今宵もふわふわと暗い風の中を歩いている。\n お通のこと。\n 又八のいったことば。\n そんなことすら、今の彼には、解決がつかないのだ。考えても、考えても、纒まらないのであった。\n 矢矧川の水が広く見えて来た。ここへ出ると、夜明けのように仄明るかった。編笠のふちに、川風がびゅっと鳴って行く。\n その強い川風のなかに紛れて、何か、ぴゅるウん――と唸って掠めたものがあった。武蔵のからだを、五尺とは去らない空間をつき貫いて行ったのであったが、武蔵の影は、より迅かったと思われるほど、すでにその辺の地上には見えなかった。\n ぐわうん、と矢矧川が同時に鳴った。鉄砲の音波に相違なかった。よほど火力のある強薬で遠方から撃ったものだという証拠は、弾うなりと音響のあいだに、息を二つ吸うほどな時間があったのでも分った。\n 武蔵は? ――と、見れば、矢矧の橋桁の陰へと、逸はやく跳んで、蝙蝠がとまったように、ぺたと身を屈めていたのである。\n「......?」\n 隣の筆屋の夫婦が、いつも気に病んでいっている言葉が思い出された。――しかし武蔵には、この岡崎に、自分を敵視する者があることさえ不思議だった。何者なのか、思い出せないのである。\n そうだ。\n 今夜はそれを一つ見届けてやろうか。身を橋桁へ貼りつけた途端に、彼は考えていたことだった。――で、いつまでも、息をこらしてじっとしていた。\n だいぶ間があった。そのうちに、二、三人の男が八帖の丘の方から松の実みたいに風に吹かれて駈けて来た。そして案のじょう、武蔵が最前立っていた辺の地上をしきりに見廻している様子なのだ。\n「はてな」\n「見えんなあ」\n「も少し、橋寄りの方ではなかったろうか」\n すでに、狙撃の的は、死骸になって仆れているものと考えて、火縄も投げ捨て、鉄砲だけを持って、やって来たらしいのである。\n 鉄砲の真鍮巻が、ピカピカ光って見える。それは戦場に持ち出しても立派な物だった。抱えこんでいる男も、他のふたりの侍も、黒いでたちをして眼元だけしか出していなかった。\n\n苧環\n\n一\n\n 何者か?\n そこに見えている二、三人の人影には、思い当りもなかったが、いつ何時でも、自分の生命に対する敵への心構えは、武蔵にあった。\n 武蔵ばかりでなく、およそ今の時勢に生きている人間には、すべてに、日常に、その要心があった。\n 殺伐な無秩序な、乱国の余風は決してまだ治まり切っているとはいえない。人は詭謀や反間の中に生きているので、要心すぎて疑いぶかく、妻にさえ油断せず、骨肉の間さえ破壊されかけた一頃の――社会悪はなお人間のなかに澱んでいた。\n まして。\n きょうまでにも、刃と刃のあいだに、武蔵の手にかかった者、或は、彼のために、社会からも敗北して去った者は、かなりな数にのぼっている。そうした敗者の係累一門、その家族らまでを合せればどれほどな数かわからない。\n もとより、正当な試合、または非は彼にあって、武蔵にない場合の結果でも――およそ、討たれた者の側からいえば、あくまで、武蔵は敵と視よう。たとえば、又八の母などが、そのもっともよい例である。\n だから、このような時勢に、斯道にこころざす者には、たえまなく、生命の危険が伴った。為に、一つの危険を斬り払うと、さらにそれが次の危険を生み、敵を作ったが――しかし、修行する身には、危険はまたとなき砥石であり、敵は不断の師であるともいえるのだ。\n 寝る間も油断のならない危険に研がれ、絶え間もなく生命を窺う敵を師として、しかも剣の道は、人をも活かし、世をも治め、自己をも菩提の安きに到って、悠久の生ける悦びを、諸人と共に汲み頒とうという願いにほかならないのである。――その至難の道の途中で、たまたま、つかれ果て、虚無に襲われ、無為に閉じ籠められる時――卒然として、撓めていた敵は、影を顕して来るものとみえた。\n 矢矧の橋桁に――\n 武蔵は今、ひたと、身を寄せて屈みこんでいたが、その一瞬に、彼のこの日頃の惰気も迷いも、毛穴からサッと吹き消されていた。\n 素裸になって、目の前の危険に曝された生命のすずしさである。\n「......はて?」\n わざと、敵を近よせて、敵の何者であるかを確かめようと思い、息をこらしていると、その影は、期していた武蔵の死骸がそこらに見当らないので、はっと気づいたらしく、彼らもまた、物陰へかくれて、人なき往来と橋の袂を、かえって気味わるく窺い直している様子だった。\n その動作に。\n 武蔵が、はて? ――と感じたわけは、怖ろしく敏捷なのと、黒扮装とはいえ、差刀の鐺や足拵えなど浮浪の徒や、ただの野武士とは、見えなかったからである。\n この辺の藩士とすれば、岡崎の本多家、名古屋の徳川家であるが、そういう方面から、危害を向けられる理由が考えられなかった。――不審だ。人違いかも知れない。\n いや人違いにしては、先頃来から露地口を覗き見したり、裏藪から眼を光らしたりする者があると隣の筆屋の夫婦までが感づいていた事実がおかしい。やはり武蔵を武蔵と知って、機を窺っている者に相違はない。\n「ははあ......橋向うにも仲間がいるな」\n 武蔵が見ていると、物陰の暗がりへ潜んだ三名は、そこで火縄をつけ直し、河の対岸へ向って、その火縄を振っていた。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "二\n\n そこにも、飛び道具を持って潜んでいるし、橋向うにも敵の仲間がいるとすると、敵は相当、備えを立てて、\n(今宵こそは)\n と、手具脛ひいているものと思われた。\n 武蔵の八帖寺通いも幾夜となく、この橋を通ることもしげしげであったから、敵は、それを確かめ、地の利と配置とを、十分に用意しておく余裕もあったにちがいない。\n で――橋桁の陰から、武蔵は、うかと離れられない。\n 跳り出るとたんに、ドンと弾が飛んでくることは知れきっている。そこの敵を捨てて、一散に橋を駈け渡ってしまうのはなおさら危険きわまるといっていい。――といって、いつまで、じっと屈んでいるのも策を得たものであるまい。なぜなら、敵は、対岸の仲間と、火縄で合図を交わしているから、事態は、時の移るほど、彼の不利になって迫って来るものと見なければならないからだ。\n が武蔵には、間髪のまに、処する方法が立っていた。兵法によらず、すべての理は、それを理論するのは、平常のことで、実際にあたる場合は、いつも瞬間の断決を要するのであるから、それは理論立てて考えてすることではない。ひとつの「勘」であった。\n 平常の理論は「勘」の繊維をなしてはいるが、その知性は緩慢であるから、事実の急場には、まにあわない知性であり、ために、敗れることが往々ある。\n「勘」は、無知な動物にもあるから、無知性の霊能と混同され易い。智と訓練に研かれた者のそれは、理論をこえて、理論の窮極へ、一瞬に達し、当面の判断をつかみ取って過らないのである。\n 殊に、剣においては。\n 今の武蔵のような立場に立った時においては。\n 武蔵は、身を屈めたまま、そこから大きな声で、敵へいった。\n「潜んでも、火縄が見えるぞ。益ないことだ。この武蔵に用事あらば、ここまで歩け。武蔵はここだっ。ここにいるッ」\n 川風が烈しいので、声は届いたか届かなかったか疑われだが、その返辞に代えて、すぐ鉄砲の第二弾が、武蔵の声がした辺りを狙って撃って来た。\n もとより武蔵はもうそこに身を置いていなかった。橋桁に添って、九尺もいる所をかえていたが、弾と行き交いに、彼の体はそこから敵のかくれている暗がりへ向って一躍した。\n 次の弾をこめて、火縄の火を強薬へ点じている間などなかったので、敵の三名は狼狽を極め、\n「や。や」\n「う。うぬ」\n 刀を払って、おどって来た武蔵を、三方から迎えたが、それさえ辛くも間に合った姿勢なので、味方と味方の聯繋は取れていない。\n 武蔵は、三名のなかへ割って入ると、真っ向の者を、大刀で一颯の下に断ち伏せ、左側の男を、左手で抜いた脇差で、横に薙いだ。\n 一人は逃げ出したが、よほど慌てたとみえて、橋桁の袂へ、盲とんぼのようにぶつかり、そのまま矢矧の大橋を、のめるように駈けて行った。\n\n三\n\n ――それから、武蔵も、常の足どりで、ただ欄干に身を添いながら、大橋を渡って行ったが、何の事も起って来ない。\n しばらくの間、来る者あれば待つように、身を佇ませていたが、かわったこともなかった。\n 家に帰って彼は眠った。\n すると、翌々日。\n 無可先生として、手習い子の中に交じって、自分も一脚の机に倚り、筆を持って習字していると、\n「ごめん――」\n 軒端からさし覗いて、訪れた侍がある。二人づれだ。狭い土間口は、子供の穿物だらけなので、そういってから、木戸もない裏の方へ廻って来て、縁先へ立った。\n「――無可殿は御在宅だろうか。某どもは、本多家の家中で、さるお人の使いとして参ったのだが」\n 子供らの中から、武蔵は、顔をあげて、\n「無可は、私ですが」\n「尊公が、無可と仮名しおる、宮本武蔵どのか」\n「え」\n「お隠しあるな」\n「いかにも武蔵に相違ござらぬが、お使いの趣は」\n「藩の侍頭、亘志摩どのをご存じあろうが」\n「はて。存じ寄らぬお人でござるが」\n「先様では、よう知っておいでられる。其許には二、三度ほど、当岡崎で俳諧の席へ顔を出されたであろうが」\n「人に誘われて、俳諧の寄合へ参りました。無可は、仮名に非ず、俳諧の席でふと思い寄ってつけた俳号でござる」\n「あ。俳名か。――それはまあ何でもよろしいが、亘殿も、俳諧を好まれ、家中の吟友も多い。一夜、静かにおはなし申したいと仰せでござるが、お越し賜わろうか」\n「俳諧のお招きなれば、他にふさわしい風流者がござろう。気まぐれに、当地の俳莚へ、誘われたことはあるものの、生来、雅事を解さぬ野人でござれば」\n「あいや。何も、俳莚を開いて句をひねろうというのではない。亘殿には、仔細あって、其許を知っておられる。――で会いたいというのが趣旨。また、武辺ばなしなど、聞きもし、話もしたし――というのであろうと存ぜられる」\n 手習子たちは皆、手を休めて、先生の顔と庭に立っている二人の侍の顔とを、心配そうに見較べていた。\n 武蔵は、黙って、そこから縁先の使いを、正視していたが、考えを決めたものとみえ、\n「よろしゅうござる。お招きに甘えて参堂いたそう。して、日は」\n「おさしつかえなくば、今夕にでも」\n「亘殿のおやしきは、どの辺?」\n「いや、お越し下さるとあれば、その時刻に、駕を向けて、お迎えに参ろう」\n「然らば、お待ちする」\n「では――」と、使いの二人は、顔を見あわせて、頷きを交わしながら、\n「お暇しよう。――武蔵どの、御授業の中、失礼した。では相違なくその時刻までにお支度おきを」\n と、帰って行った。\n 筆屋の女房は、隣の台所から、顔を出して、不安そうに覗いていた。\n 武蔵は客が帰ると、\n「これこれ、人のはなしに気をとられて、手を休めていてはいかんな。さ、勉強せい。先生もやるぞ。人のはなしも、蝉の声も、耳にはいらぬまでやるのだ。小さい時に怠けていると、この先生みたいに、大きくなっても手習していなければならんぞ」\n 墨だらけな、子供たちの手や顔を、見まわして笑いながらいった。\n\n四\n\n 黄昏――\n 武蔵は身支度していた。\n 袴を着けて。\n「よしたがよい。何とかいうて、断りなされた方が......」\n その間、隣のかみさんは、縁先へ来て止めていた。果ては、泣かぬばかりに。\n だが、ほどなく、迎えの駕は露地口へ来てしまった。もっこのような町駕ではない。輿に似た塗籠である。それにけさの侍二名、小者三人ほど付いて。\n 何事やらん――と近所界隈は眼をそばだてた。駕のまわりに人立ちがした。武蔵が侍たちに迎えられてそれへ乗ると、寺子屋のお師匠さんはえらい出世をなさったと、まことしやかにもう噂する者がある。\n 子供らは子供らを呼び集めて、\n「先生はえらいんだぞ」\n「あんなお駕は、えらい人でなければ、乗れないよ」\n「どこへ行くんだろ」\n「もう帰らないのかしら」\n 駕戸をおろすと、侍は、\n「こら、退け退け」\n 先を払って、\n「いそげ」\n と、駕仲間へいった。\n 空が赤かった。町のうわさは夕焼に染められている。人が散った後へ、隣のかみさんは、瓜の種やら、ふやけた飯つぶの交じっている汚水を撒きちらした。\n ところへ。\n 若い弟子を連れた坊さんがそこへ来た。法衣を見てもすぐ分る通り禅家の雲水さんである。油蝉みたいな黒い皮膚をし、かなつぼ眼というのか、眼のくぼが凹んでいて、高い眉骨の下から、眸がぴかぴかしている。四十から五十ぐらいな間の年齢であろう。こういう禅家の人の年齢は、凡眼ではよく分らない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 自己の否定する心の犀利を矜ったり、いたずらに他と標異することを好んだり、もしくは自己の不道徳な生活を弁護したりすることが懐疑の正当な動機であることができないのは明白なことである。懐疑は論理をもって戯れることではなくて魂のまじめなる悩みである。懐疑の正しき動機はかようにして、よき生活への意志でなければならない。現実の世界もしくは自己に満足せずしてさらに価値多き世界、もしくは自己に憧憬する心において初めて正しき懐疑は見出されるのである。現実と理想、価値なきもしくは価値少きものと、価値あるもしくは価値多きものとの対立や矛盾を感ずる懐疑、その対立と矛盾とを悲しみ悩む懐疑こそ正しき懐疑である。懐疑はそれ自身消極的、否定的態度であるにしても根本的には積極的、肯定的態度を予想する。絶対に光を見ず、また光の予感をもたずしてただ闇の中に住める人の心には懐疑はない。プラトンがいったような身は肉体の牢獄の中にありながらイデアの世界に還ろうと憧がれ求めておる人間の魂においてのみ正しき懐疑はある。懐疑に伴う寂しさや悩しさは、それゆえに、意識されたもしくは意識されない生みの悩みである。私のこの考察はまだ間違っているのではなかろうか。真にまじめなる懐疑はむしろなんらの動機をも含まない懐疑、換言すれば疑わないではいられないから疑うところの懐疑であるのであろう。彼の魂は瞬きせざる眼をもって見詰めながら闇の唯中を彷徨する。時に彼の眼が闇の中に光の幻覚を生ずることがあっても彼の魂は欺かれはしない。かくのごときなんらの動機をも含まない、従って殆んど宿命的に感ぜられる懐疑の特質は、それが徹底的であるということである。私はここにおいて真の懐疑とは徹底的な懐疑であるという前に得たと同様な結論に達した。しかして徹底的は全体の否定を意味する。\n 人々はしばしば次のように語る、懐疑は疲れ、傷つき、病める心のことであって、健康で活動する心の知らないことであると。私は彼らがこの言葉によって何を意味しようとしておるかを認識し、また彼らの意味することが事実であることを承認することを惜まない。彼らのいう懐疑は、私がここに正しきもしくは真の懐疑とよぶところのものでないことは明らかである。真の懐疑は柔弱ではなくて剛健な心、自分自身をも否定して恐れない心、ヘーゲルの言葉を用いるならば真理の勇気(Der Mut der Wahrheit)をもった心において可能である。それは戦士のような心のことであって、掏摸のような心のことではない。かようにして懐疑という言葉に伴いやすい種々の不純な意味を退けて、それが含まねばならぬ積極的な方面を特に高調するために、私は反省という言葉を選び反省をもって語られざる哲学のとらねばならない正当な出発点と見做そうと思う。反省ということに関しては後に再び考察する機会をもつはずである。私は私の過去の内的生活における懐疑の役目について、わずかばかりの回顧をなしておく必要があるように思われる。\n\n 四\n\n 全体の傾向からいうと私は決して世のいわゆる懐疑的ではない。私を懐疑的から遠ざけた第一のものは、私の友だちが私をよぶにしばしば用いた「エネルギッシュ」ということであった。人並以上の頑健な体格を恵まれ、かつて一度も病気と名づけられるほどの病気をしたことのない私の中には、元気が横溢して絶えざる活動を私に迫った。私は数人前の食事をすることができた。ゲーテは幾人もの友だちに次から次へとつき合って食事したといわれているが、この点では私も決してゲーテに劣らなかった。私はわずかの睡眠で済ますことができた。中学時代の頃私は別に必要に迫られているわけでもないのに、月に一回は徹夜して読書することに決めていたことがあった。私は私の精力を主として散歩と読書とに費した。私は大抵の人には負けずに歩くことができたし、読書の量もふつうの人に劣らなかった。精力はあり、知識慾は人一倍強く、それに虚栄心や野心も盛んであった私は、学問のあらゆる分科にわたって手当り次第に新しきものを求めた。しぜん私は吸収に没頭して消化の方面を顧みなかった。こうした外向的な活動に専念している人に懐疑の起る余裕のあるはずがない。時に疑いを生ずることがあっても、私は私が接するであろう新しき思想、新しき書物によって解決され得るものと漠然と考えて、これを自らに求めて解決しようなどとはしなかった。私は殆んど本能的な活動慾に駆られて私の目の前に現われる何物にでも手を動かした。その頃の私はちょうど執拗な鈍痛を頭に覚える男がそれを鎮めようとして無暗に頭をぶっつけ廻るようなものであった。内省の余裕のない限りない活動には懐疑に伴うような憂鬱は随ったが懐疑そのものは含まれていなかった。私も他の人もこのあくことを知らない活動を包む本能的な憂鬱をみて私を懐疑家であると思い誤っていたらしい。精力の過剰に悩む人の雰囲気を作っている暗くて寂しい陰影は、けれども、病弱なそしてひねくれた心に起りがちな懐疑に伴う淡いけれど鋭い感じのする憂愁でもなければ、またそれは正しき懐疑に随う安けさと静けさとを含んでもいない。\n 私はいま何が正しくそして何が誤っているかをはっきりと見定めることができるように思う。はたらくということ、そこにはなんらの非難さるべき誤りもない。人生の本質、一般に実在の本質は活動にある。それゆえにあるものが偉大なる力を発揮してはたらけばはたらくほど、そのものの実在性と価値とは大である。まことに眠れる獅子は吠ゆる犬に及ばない。誤りはその活動が正しき方向に向ってまたにおいて行われないというところに存する。誤っているのは活動そのものではなくして理想のない盲目的な活動である。頭で認識するよりも心で確信することがさらに大切であること、自己の良心で判断してみないことは無暗に受容したり排斥したりしないこと、虚栄心や名誉慾やは決して正しき真理に導かずしてただ真理に対する恐れざるしかしてやさしき愛のみがそれをなすこと、これらの点を体認して、外向的よりもむしろ内向的活動がいっそう重んずべきものであることを知っている人にとっては、活動はそれが大であればあるほどよき活動である。かようにして活動が理想の光によって照らされるとき、陰鬱な気持は晴れて快活となり、宿命的な感じは退いて自由創造的となり、悩しき反抗はやさしき抱擁に道を譲るのである。正しき懐疑はすべての否定であるがゆえに、それは絶大なる活動である。自己の魂のすべてをあげての奮闘である。けれどふしぎにもそこには傲り高ぶる心がなくしてへりくだるやさしき心がある。\n 第一のものと関連して私を懐疑的から遠ざけたものは私の反抗する心であった。私は剛情で片意地であった。それに悪いことには少しばかりの才能を持合せていたので、私は多くの人に起るように何にでも反対したり反抗したりして自己の才能を示そうとした。私は自分の意志することはなんでも成遂げられると信じていた。そして私は私の注目に値したすべての種類の人になることを次から次へと空想して行った。政治家、弁護士、法律学者、文学者、批評家、創作家、新聞記者、哲学者......。ただ私が初めからなってみようと思わなかったことが二つあった。それは商売人と軍人とである。後に私の反抗は習慣的になってしまって、なんらの動機もなく、またなんらの理由もなしに、ただ無暗と人に反対したり喰ってかかったりした。私はそうしたあとで本当にやるせない寂しさの中に自己の醜悪を感ずるのであったが、習慣から脱することは他から考えられるほど容易なことではなかった。私はあたかも傷ついた野獣のような姿をして、ただなんでもいいから自己を通そうとした。私の友だちは私のこの性質を「押しが強い」と名づけた。反抗は外に向う心であり物をそれに従って正直に理解することではないから、反抗が行われるところに正しき懐疑は存在しないのは明らかである。真の疑いはいつでも自己に反って求めるところから、事物をありのままに認識するところから始るのである。\n 二、三の友だちは私にこういった、「君は不幸に逢わなければよくなれない。君は大きな打撃にぶっつかる必要がある。」私はいまそれらの言葉をもう一度はっきりと思い起して、その意味を自分で適当に解釈しながらしみじみと味ってみる必要がある。それは何より先に謙遜なる心の回復を意味するのでなければならない。しかるに謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道に由り狭い門をくぐって私たちは天国に入るのである。この世の智恵を滅ぼすとき神の智恵は生れる。まことに天国は心の貧しき人のものである。私はいまさらに新なる感興をもってゲーテの有名なる詩の一句を誦せざるを得ない。\n\n\nWer nie sein Brot mit Tränen ass,\nWer nie die kummervollen Nächte\nAuf seinem Bette weinend sass,\nDer kennt euch nicht,ihr himmlischen Mächte!\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "(涙ながらにパンを味わったことのない者、\n 悩みにみちた夜な夜なを\n ベッドに坐って泣きあかしたことのない者は、\n おんみらを知らない、おんみら天の力よ!)\n\n\n(ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第二巻一三章で、老人の\n 竪琴弾きが口ずさむ歌。高橋義孝・近藤圭一訳『ゲーテ全集』 第五巻)\n\n かようにして私はここでもまた何が正しくしかして何が誤っているかをはっきりと見定めることができる。押しが強いということもしくは自己を主張することもしくは反抗するということがそれ自身誤っているのではない。誤っているのはいかなる点において押しが強いか、いかなる自己を主張するか、またいかなる事物に反抗するかに関係しているのである。私は基督の大いなる言葉について思い廻らそう、「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜より分たんためなり。」悪に対して剛き心はやがて善に対してやさしき心である。私は他人に対して反抗するまえに自分自身に対して反抗しなければならない。自己を否定し破壊し尽してのちにおいて初めて、他人に対して何を始むべきかを知るであろう。私は剛情な子供が我儘を押し通そうとしたとき、賢しい母親に妨げられそれがよくないことであることを諭されて自分で会得したとき、一時に母親の膝に泣き挫れる、その子供の無邪気なそして素直な心をもって大地に涙しながら私の高ぶり反く心を挫さなければならない。そのとき私の片意地はあたかも地平線に群る入道雲が夕立雨に崩れてゆくように崩れてゆくであろう。\n 私の活動性と反抗性とが私を懐疑から遠ざけている間に、さらに第三のものが私の心に生れて懐疑を退けようとした。そのものは私が幾分かでもまじめになって哲学を研究するようになってから生れたものであって、現に私の心の中で成長しつつあるものである。永遠なるものの存在、それによっての現実の改造の確信、私はそれを一般にこうした形式で現わすことができるかも知れない。価値意識の存在、それの経験意識の支配の信頼、それはこうした形に書き換えることもできるであろう。自由とは良心が自然的なる思惟活動、感情活動および意志活動を規定し制御してゆくところに存するものであるとするならば、それは自由の可能の確信という言葉によっても現わされ得るであろう。\n 文化的価値が自然的価値の中に次第に頭角を現わして行く過程を歴史と名づけるならば、一般に歴史的過程の存在の確信、しかしてそれの最後の完成への絶対の信仰こそ私の懐疑を退けた第三のものである。あるいはもっと通俗的な言葉を用いるならば、良心と理想との存在とそれの現実の規定力との確信が私がいわんとする当のものである。一度この確信が私の心に生れて以来、私は未来へのよき希望を失うことができなかった。たとい論理や経験やがいかほど反対しようとも、私のこの一度生れた信仰は決して破壊されないだけの力をもって私の中に宿っておるように思われる。アリストテレスはいった、驚きから哲学は始ると。またデカルトは考えた、哲学の首途は懐疑であると。しかしながら私自身に関していえば、私は前にいったように決して懐疑的傾向に富んだ男ではなかったし、また人々が自明のこととして学問上許容している事柄に不審を懐くほど鋭い思索力ももっていなかった。私を哲学へ導いたものは、実に、永遠なるものに対する憧憬、プラトンがエロスとよんだところのものである。私の魂は永遠なるものの故郷に対するノスタルジヤに悩んでいる。私はたぶん私の思索生活の全体を通じて理想主義者としてとどまるであろう。私は樹から落ちる林檎を見て驚異を感ずる心よりも、空に輝く星を眺めて畏敬の情を催す心をもって生れた。幸福なことには、私は美しき芸術を感じ、正しき真理に驚き、よき行為を畏れる心を恵まれていた。私の哲学はこの心から出発するであろう。そしてこの心が私をして子供のような無邪気さをもって闇の空にではなく大きな青空に夢み出させた。また私の純粋さはこの夢において保たれて来た。人々はよく私を現実を知らない夢みる人であるといった。私を包む青い憂愁の中にあって唯一つほのかに微笑む白い花も実にこの心から生れたものであった。私は美しき芸術を味わいよき書物に接したときほど生甲斐を感じたことがない。私の夢と幼き心とに永き命あれ!\n しかしながら、私はそれにもかかわらずいま一度考え直してみる必要があると思う。文化への憧憬と確信とははたして正しき懐疑を排斥するであろうか。それは女々しき病弱な拗ねた心から出る不具者の懐疑を駆逐するであろうが、雄々しき剛健な直き心の悩む健全な懐疑とは親しげに握手するのではなかろうか。闇と光とが相容れないように善き心は決して悪き心に道を譲ろうとはしない。直き心とは妥協を知らざる心の謂である。しかして私たちが生きている現実の世界は、それが正直に考察されるとき誰でもが醜悪や不合理を見出さずにはいられないような世界である。理想を憧がれ求むる心には必ず懐疑が起らねばならないようなのが現実に私たちが経験する世界である。自己の良心に忠実であろうとするすべての人々は、必ず悩まねばならぬ世界に私たちは生存している。それゆえに私の中に生れた理想を憧がれ求むる心が安逸を欲しているとするならば、それはまだ本物でないか、まだ生れたばかりで力が足りないかのいずれかでなければならない。もし前者であるとするならば私は私の中に感ずるよきアーヌング(予感)に従って本物を見出すことに努力しなければならないし、もし後者であるとするならば、私はそれを培い育ててゆくことに骨折らねばならない。いずれにせよ懐疑や否定があり得ないほど現実の世界はよき状態に達していないのは事実である。そしてへりくだる心とは弱き心でなくして必然に強き心である。私はあまりに安逸を求め過ぎている。その門は大きく、その路は広く、これより入る者多きもこれを選ぶ人は悉く滅びに至るであろう。才能もあり智恵や徳もあった多くの人たちでさえ、もっと険しい道を通って来たのに、それらをもっていない私が安全な道に由って完全に至ろうということほど考え難いことがまたとあるであろうか。私は決して苦しみを恐れてはならない。\n\n 五\n\n 私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的には貪ってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサー曰く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真摯なる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは“someone said”の哲学に関してであった。しかしながら貨幣の種類をたくさんに示し得る人が必ずしも金持ではない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「へい、承知しました」\n 伝吉はすぐ町の方へ引っ返して行きます。\n あとは――釘勘と金吾の二人。\n 最初に姿を見合った時、オオと声をかけてしまえばそれで話の糸口があいたのかも分りませんが、お互いの胸のうちを話の先に察してしまって、妙に間をおいたものですから、さて二人になってから、何を先にいいだしてよいやら、ただ涙っぽいものが胸へこみあげるばかりで、男二人が恋人のようにしばらく横を向き合っていました。\n やがて、釘勘の方から、\n「相良様、ずいぶんお久しぶりでございましたなあ」\n 取ってつけたようにいいました。\n「いちべつ以来、そちも健固で」\n 金吾の声は処女のようです。\n「おかげ様で」\n「なによりじゃ」\n「まず、そこらへ、腰をすえようじゃございませんか」\n と、くだけていうと、金吾は突然に、\n「釘勘ッ、せ、拙者は、そちに今ここで会わせる顔がない! ......面目のうて会わせる顔がないのだ......」と、にわかに感傷に走って来た声をふるわせて、深く顔を押しかくしますと、\n「は、は、は、は。そう窮屈に考えるからいけませんや」\n と釘勘は、抜きかけた煙管を持って、骨ばッた金吾の肩をやんわりと押しながら、\n「まあさ、そこへおかけなさいまし、武門のことは分りませんが、女出入りのあとしまつなら、こりゃお侍様の智慧よりも、はばかりながら町人の方が遙かに勝っておりますからね」\n と、あくまで金吾の苦しみを見ぬいている、苦労人のことばです。\n さりながら、好意も時には罵倒よりは胸に痛い場合もある。\n\n 春ながらここは寒い。\n 杉の夜露が襟もとを打つ時は、思わずゾクとしてきます。\n「ぶしつけな申し分かも知れませんが、あっしとあなた、浅い御縁じゃございませんな」\n そこで、釘勘は火打を磨る。\n すぱりと、一服つけて、\n「――金吾様、どうか今夜はひとつ、明らさまにおっしゃって見て下さいませんか。実をいうと万太郎様もかくいう手前も、あなたの心もちが分らねえんです。――なぜお屋敷へ帰らないのか、どうして、お粂なんて女とああして逃げかくれなすっているのか。......といってみたところで、元より女の沙汰というやつは、他人に判じがつかないもの、ハタからおせッかいのできないものと、昔から色恋の相場はきまっておりますけれども、それにしても相手によりけりで、丹頂のお粂が何者かという事は、聖天の市へ行く途中でも、たしかあっしの口からよくお話がしてあるはずじゃございませんか」\n ぼつぼつ彼のことばはいわんとするところへ向って来ました。\n その語調は至って平静でありますが、すぱすぱと味もなく吸う煙草の火のかすかな光で見れば、釘勘の目は涙でいっぱい。\n「ええ、相良さん」\n 返事のないのにじれ出して、\n「どうしたもんでございます!」\n「............」\n 古木の切株に腰かけて、われながら痩せたと思う膝をかかえた相良金吾は、どういう縁でか、こうも自分をいとしんでくれる釘勘のことばにいよいよ面を上げ得ません。\n けれどまた釘勘の察し方もすこし情けない。大きな誤解がある。自分がお粂の色香に迷ってこうなったものと思いこんでいる独り合点がある。\n 今さら言い訳がましいことは、彼の性格としても潔しとしませんが、それだけはどうしても解いておかなければと、\n「いや、待ってくれ」\n 初めて、敢然と口をひらくと、その顔色に驚いて釘勘が、\n「お怒りなすっちゃ困ります、どうか、御立腹ないところで」\n「なんの怒ってよいものか。しかし釘勘。いかにも拙者は武士として、終生ぬぐわれぬ不覚を踏んだには相違ないが、決して、お粂の色香におぼれて主家を忘れたわけではない」\n「分っております。失礼ながら、その御本心を買っていればこそ、あっしは自分の役目がらを忘れてまで、こうして万太郎様のお言伝を」\n「待て、今のそちのことばでは、深い事情までは分っていない」\n と、金吾はやや興奮して、盗ッ人市の晩、真土の黒髪堂の前で日本左衛門のために思わぬおくれをとって気を失なったこと、また、それからお粂の家へ助けられて以来、ふしぎな業病をなやみ通しで今日に至ったまでのことを、一息に語りつづけますと、釘勘はさもあんめりとうなずいて、\n「その通りです。だからあっしはなぜあなたが早く気がついて、たとえどういう手段をとっても、お粂の家から出ないのかと、それがふしぎにも思われましたし、また歯がゆくってならなかったんでございます」\n「そうは申すが、お粂とても拙者にとれば、かりそめならぬ命の恩人じゃ」\n「と、とんでもないこと」\n「なぜ?」\n すこし色をなして詰問すると、釘勘はふところへ手をつッ込んで、\n「これでもあなたは、お粂の親切をまことと思い、あくまで命の恩人だとおっしゃいますか」\n 金吾は眉を顰めて、ふしぎそうに、彼が自分へ突きつけている紫いろの物をじっと見つめました。\n「なんじゃ、それは」\n「ビードロです」\n「ウム、蘭薬を容れるビードロの瓶か」\n「そうです、しかもこのビードロの瓶に、どんな蘭薬が入っていたかお分りにはなりますまい。小石川養生所の蘭方医小川笙船という人にこれを鑑定してもらいますと、どうでしょう、こりゃあ南蛮の眠り薬、なんとかいいました......嗅いただけでもグッタリと人を麻酔させるおそろしい薬が入れてあった物だと折紙をつけました」\n ――とまで聞いた時に相良金吾は、思わずその小さな紫のビードロから顔を横にせずにはいられませんでした。\n かれにとって怖るべきものと頭にしみついていることは、眠りであります。眠りつつ衰えてゆく奇病のために、妖婦の絆に結ばれてぬぐわれぬ生涯の汚辱を求め、帰るべき主家へも帰られずに、武門のすたり者となっている自分と思うことを、夢寐にも忘れられません。\n「ようがすか、話の眼目は、それからなんで」\n 釘勘は、ここで一だんと力をいれ、\n「そこでこの滅多にない品物を、どこで手にいれたかというと、あなたもお忘れはありますめえ、音羽の護国寺前、筑波屋いう旅籠の二階で、惜しいことには一足ちがいで、あの晩そちらは、お粂と二挺駕で旅へ夜立ちと出かけたあと、入れちがいにあとの部屋で、ひょいと見つけたのがこのビードロです。空だと思って、うっかり鼻へでも持っていったひには、それこそ、あっしもあの時たれかと同じ病気をやっていい心もちになっちまうところでさ。......物騒物騒、もうくどい話をしなくってもおよそ見当がつきましょう、思えばお粂という女も、情が深いだけあって、ひどい親切をつくしたもんじゃございませんか」\n\n 親身とみせたお粂の情けが、実はおそるべき魔薬の手管であったと、その証拠までを釘勘につきつけられて、金吾は慄然たるおののきに、そのビードロを手にとる勇気もありません。\n しかもその女の策におちて、切るに切れない悪縁のちぎりまで結んでしまったとは。\n なんたることだ!\n 身を責め、自己の迂愚をののしり、今さらその憤怨を歯ぎしりして怒り歎くといえど、なんでこの汚辱がぬぐわれましょうか、夢のように暮らしてきたこの半年のいまわしい記憶とて永劫きゆべくもありません。\n「釘勘!」\n 悲痛な一語。\n いきなり前差の柄に手をかけると、金吾は抜く手も見せぬ勢いで、\n「万太郎様へこの通りと、よしなに、犬侍の終りを言伝いたしてくれい」\n あわやです、われとわが腹へその切ッ先を。\n「あッ」\n と驚いた釘勘。\n 前もってこんな事になろうかと油断はしていませんでしたが、さて実際にこうなってみると、かれもあわてて取っ組むように、金吾のうしろへかぶりついて、\n「ばッ、ばかなまねをしなさんな。だからおら侍は嫌えだ。侍くらい理屈のわかりそうな顔をして、ものの分らねえハンチクはありゃしねえッ」\n「放せッ、放してくれ釘勘」\n「じょ、じょうだんいっちゃいけねえや。ここでおめえさんを殺すくらいなら、なアに、人間一生、どうころんだって五分と五分、お粂の間夫で暮らしているのも悪かあねえから、あっしだって、知って知らない振りをして見ていまさあね。......だ、だがさ。そうならねえのが義理とかヘチマとかいう浮世で、あっしもお前さんも、お互いに苦しいところだが、また少しゃアそこで武士とか男とか味噌を持って生きていられるところじゃございませんか」\n 思わずはいる力が、金吾の腕くびの骨をにぎりくだきそうにして――"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「え、相良様。あなたがここで御短気をなすったら、あと、万太郎様の御勘気はどうなりましょうか。出目洞白の仮面がお屋敷へ返らぬうちは、あの方の御勘当におゆるしも出ないばかりか、一朝二之丸の御能があるひになると、尾州の大殿様としても将軍家へ申し開きの立たない破滅になるというお話――こいつを聞いちゃア釘勘のような町人風情でも、目先の功名や岡ッ引根性をすてて、一肌ぬがなければなるまいと柄にもない乗り気になっているんです。――だのに、ましてや万太郎様付きで禄を食んでいたお前さんが、ひっ腰もなく、ここで腹を切って、人より先に楽な方へ廻ろうなんてえ考えは、あんまり虫がよすぎやしねえか。あっしにいわせれば、侍ってやつが、何かというとすぐ自害して、それで立派に言い訳が立ったと思っているのぐれえ、卑怯な、ばからしいことはないと思う」\n 痛烈です、雄弁です。\n 町人の見解としても、そこに多少の真理はある。\n ことに万太郎の境遇を考え、最初に自分が屋敷を出た目的を思い合せれば、かれのことばを待たずとも、金吾は、何としてもここで死なれた自分ではありません。\n といって――\n ああ、そうかといってまた、生きておめおめと万太郎の前へ、どうこの姿で会えるものか。\n なるほどかれのいう通り、死は易き道で生きるは至難な方角です。その至難をさけて易き死をえらぼうとしたのは、いかにも、卑怯な逃避です。釘勘の伝法ことばを以て評すならば、べらぼう極まる横着な考え方です――そういわれても弁解の途はない。\n「悪かった」\n やがて、金吾はおとなしく、釘勘の前に両手をついて、\n「不覚な上に不覚をかさねるところだった。よく申してくれた」\n「えッ、じゃあ、あっしのいう事をきいて下さる?」\n「うム、一途に死を急ごうとしたのは拙者の心得ちがい、金吾は死ぬまい。あくまで生き恥をさらすであろう」\n「では、手前と一緒に、すぐここから江戸へ帰ってくれますか」\n「だが待て......」と、かれは再び苦悶の色をあらわして、\n「それだけは許せ! いかに仮面をかぶっても、万太郎様へ今は会われぬ」\n「いや、すいも甘いも知りぬいた若様、なんで野暮なとがめ立てをしますものか」\n「なんというても今お目にかかるのは金吾の苦痛じゃ、ただよしなにお言伝しておいてくれ、ある時節には、きっと、金吾がお詫びに参じますと――」\n「あッ、もし......」\n 釘勘はあわてながら、どこともなく立ち去ろうとする金吾の影を追って、\n「もし、相良様――、もし、もう一語」\n 湯前神社の杉木立の暗を、ななめに縫って馳けだしました。\n\n「強情な事をおッしゃらずに......もしッ相良様」\n「何とあろうが、江戸表へは参れぬ、放せ、たもとを」\n「万太郎様の仰せにそむいても?」\n「ウウム、ゆるせ。しばらくの間、金吾はなきものと思うて見のがしてくれ」\n「あとはどうなさろうとも、一度はお屋敷へ帰った上で」\n「そちに会うさえ心苦しい今のわしが、万太郎様の前に、ただ今帰邸いたしましたと、どの面下げてお顔を合されようか。止めるなッ、この金吾をこれ以上苦しめてくれるな」\n「といって、一体、どこへ行こうというつもりなんです」\n「あてはない!」\n ――金吾は叫びました。\n「ただ洞白の仮面のある処へ」\n 止めようとする釘勘、ふり切ろうとする影が、なおもそこで、もつれ合っている時でした。\n 石段を馳け上がってきた伝吉が、\n「――親方ッ、お粂が」\n「えッ」\n 思わず手を放し合って、\n「お粂が来た?」\n「まだここを探し当てるには間がありましょうが、あとで宿の者に様子を聞いたらしく、眼色を変えて藤屋から出て来ましたぜ」\n「それ、ごらんなせえ」\n 釘勘はいい機として、\n「じゃあ、伝吉」\n「へい」\n「てめえ気の毒だがもう一度戻って行って、本陣の四ツ辻あたりで、おれが金吾様をつれて裏通りから宿へ帰るまで、見張りをしてくれねえか。何しろ当座は、あいつにだれかの姿を見せるのは禁物だからな」\n かれはもう自分ひとりで、金吾と万太郎の引合せ役、また帰参の取りなし役を背負ッて立った気で、いや応なく、江戸表へ同道するものと決め込んでいるらしい。\n で、どこまでも、このまま男女を会わせぬ方が万全の策と心得たものでしょう、旨をふくませてふたたび伝吉を町の方へ見張にやりました。\n その伝吉が取って返して、本陣今井屋の四ツ辻の辺に姿をかくした頃――ちょうどその頃に丹頂のお粂は、ヒタ走りに浜の方へ馳け出して行ッて、\n「どこへ? どこへ?」\n あの切れの長い眼をつりあげ、あなたこなたをさまよっていました。\n つづく限りの波うち際にも、磯松のほの暗い並木にも、金吾の影が見出せなかったので漁師町の細い露地から野原へ出て、夜も白い湯煙を噴いている法斎湯や平左衛門の湯のあたりまで足早に探しあるいている。\n「逃げたんだね! あの人は」\n そこで初めて、お粂はキッとくちびるをかみしめて、怨めしげな眼をうるませました。\n 逃げたとすれば、人をだまして、手引をしたのはたれだろうか?\n おかしいと気がつき初めた時は、ふと、同じ二階に泊っている狛家の月江とやらを疑ってみましたけれど、あの娘も小間使いも宿に残っているし? ......\n「何しろ、こうしてはいられない」\n 金吾ひとりはお粂の生活全部であります。日本左衛門をすてて金吾にこれまで打ち込んだことは、かの女にとって、生命がけの仕事でした。\n はたから見れば妖婦の面白そうなからくりと見えても、あれ程の侍ひとりを、この熱海まで連れてくるまでには、お粂自身として生命がけといっても足らない、気苦労、細心、根気、情熱――そしてその男に毒を服ませる大胆さまでいりました。\n 不自然な技巧で遂げられた恋の結果は、当然、男の憂悶と気の荒くなるのをみるのみでしたが、それでも彼女は悔みません、男が嫌えば嫌うだけの面白味、男が悶えれば悶える姿を見る面白味、――果ては蘭薬のことを知ったら金吾がどう怒るかまで、いたずらな興味の想像に数えて、ふッと、それを話してみようかとさえ思う事もままあるくらい、お粂の恋はお粂だけに自由な考え方をされていました。\n「きっと、万太郎の廻し者が来て、連れ出したにちがいない。そうすると浜の方よりは、根府川の街道へ急いで行ったかもわからない」\n もう血眼です。\n かかる場合の女の前にはどんな宗教も光がないといいます。ましてやお粂にはあの伝法と世間を怖がらない強さがある。\n「ホ、ホ、ホ。わたしも丹頂のお粂、どんなことをしたッて、逃がしゃアしないから!」\n たれにいうともなく罵ッて、根府川街道の方へ道をかえて走りだしてゆく。\n そして次第に息ぎれが激しくなるにつれ、夜化粧のおしろいに青味がのぼって、いわゆる夜叉の形相をそれにほつれる黒髪が作ってきます。\n と。――丑の刻詣りのようなその姿が、本陣今井屋の四ツ辻をよぎろうとした時、\n「オオ丹頂の姐御」\n 不意に横からよぶ者があって、またすぐに違って次の声が、\n「姐御のさがすものはここに居ますぜ」\n と、手をあげました。\n 背筋へ水をかけられたように、お粂がキッとうしろを見ると、そこに四、五本の芽柳があって、そこに四、五人の黒小袖。\n\n かなり取りのぼせていたお粂の耳にもそれはハッとひびきました。江戸なら知らずこの熱海で自分を丹頂の姉御とよぶものは一体たれなのか?\n「お久しゅうございました」\n お粂があきれている前へぞろぞろと姿をならべたのは余人でもありません、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、雲霧の仁三、千束の稲吉など。\n それら五、六人の者はみなお粂にも深い馴染がある日本左衛門一まきと称されるなかの強の者で、\n「あッ......」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " この長い話を聴かされて、半七と庄太は眼を見合わせた。\n「おかみさん。その子供は女の児かえ」と、庄太は待ち兼ねて訊いた。\n「はい。女の児だそうでございます。名はお蝶といって、お父ッつあんは次郎八というんだとか聞きました。子供のことですから、そんなに遠いところへ迷って行きも致しますまいし、川へでも陥ったのなら死骸がもう浮き上がりそうなもんですが、どうしたもんでしょうかねえ」と、女房は溜息をつきながら云った。「お稲荷さまの御利益で、どうかまあ、ちっとも早くその子供の安否が知れるようにして上げたいと、わたくし共も蔭ながらお祈り申しております」\n「そりゃあ全くだ。しかし信心の徳で、今になんとか判るだろう」\n 半七は庄太に眼くばせして、幾らかの茶代を置いて床几を起った。茶店を出て、一間ほども行きすぎると、庄太はうしろを見かえりながらささやいた。\n「親分。うまく突き当りましたね」\n「犬もあるけば棒に当るとは此の事だ。もうこれで何もかもすっかり当りが付いた」と、半七はほほえんだ。\n「けれども、まだ判らねえことがありますぜ」と、庄太は仔細らしく首をひねっていた。「その子供の身許はそれで判ったが、どうしてそれが黒沼の屋敷の大屋根に落ちていたんだろう。それがどうも腑におちねえ。一体、親分が今時分こんなところへ出てくるのがおかしいと思っていたんだが、十万坪へ行くの、砂村へおまいりするのと云って、なにか最初から心あたりがあったんですかえ」\n「まんざらないこともなかったが、あんまり雲を掴むような話で、おめえに笑われるのも業腹だから実は今まで黙っていたが、おめえをここまで引っ張り出したのは、もしやという心頼みがちっとはあったんだ」\n「それにしても、こっちの方角とはどうして見当を付けなすった」\n「それがおかしい。まあ、聞いてくれ」と、半七は又ほほえんだ。「黒沼の屋敷へ云って、用人の部屋で娘の死骸をみせて貰うと、からだには別に疵らしい痕もねえから、病死したものをそっと運んで来たのかとも思ったが、よく見ると娘の襟っ首に小さい爪のあとのようなものが薄く残っている。それも人間の爪じゃあねえ、どうも鳥か獣の爪らしい。と云って、まさか天狗の仕業でもあるめえし、はて何か知らんとかんがえながら屋敷を出て、おめえの家の方角へぶらぶらやってくると、絵草紙屋の店先でふとおれの眼についた一枚絵がある。それは広重が描いた江戸名所で、十万坪の雪の景色だ。おめえ、知っているか」\n「知りません。わっしはそんなものはきれえですから」と、庄太は苦笑いした。\n「そうだろう。おれも別に好きというわけじゃあねえが、商売柄だから何にでも眼をつける。そこで、見るともなしにふと見ると、今もいう通り、その絵は十万坪の雪の景色で、雪が真っ白に降っていると、その大空に大きい鷲が羽をひろげて飛んでいるんだ。なるほど能く描いた、実に面白い図柄だと思っているうちに、また思いついたのが黒沼の屋敷の一件だ。まさかに天狗が掴んだのでもねえとすれば、娘を引っ掴んで来たのは鷲の仕業かもしれねえ。襟っ首に残っている爪の痕もそうだろう。しかしそれはほんの一時の出来心で、自分ながらあぶなっかしいと思ったから、ともかくもお前に逢ってだんだん訊いてみると、黒沼の屋敷に悪い評判はきこえず、お前もなんにも心当りがねえという。それじゃあ念のために十万坪の方角へ踏み出して見ようと思い立って、わざわざお前を引っ張り出したんだ。勿論、相手は鳥のことだから何も十万坪に限ったこともねえ。王子へ出るか、大久保へ出るか、とても見当の付くわけのもんじゃねえが、なにしろ十万坪の絵から考え出したんだから、ともかくも其の方角へ行って見た上で、又なんとか分別を付けようと思って、遠い砂村までわざわざ踏み出してみると、やっぱり無駄足にはならねえで、なんの苦もなしに突き当ててしまったんだ。考えてみれば拾い物よ。そのお蝶とかいう娘が、どこかでおふくろにはぐれてしまって、うす暗い処をうろうろしていると、大きな鷲が不意に降りてきて、帯か襟っ首を引っ掴んで宙へ高く舞い上がったに相違ねえ。八郎兵衛新田から十万坪のあたりは人家は少なし、隣りは細川の下屋敷と来ているんだから、誰も見つけた物がねえ。殊にうす暗い時刻ならば猶更のことで、鳥の羽音もなんにも聞いた者はあるめえ。それからどうしたか勿論わからねえが、娘は驚いて気を失ってしまって、もう泣き声も立てなかったんだろう。鷲の奴めも引っ掴んでは見たものの、どうにもしようがねえもんだから、そこら中を飛びあるいて、しまいには掴んだものを宙からほうり出すと、それが丁度に黒沼の屋敷の上に落ちたというわけだろう。早く見付けて手当てをしたらば、運よく蘇生ったかも知れなかったが、明くる朝までそのまま打っちゃって置いたんだからもう助からねえ。ほんとうに飛んでもねえ災難で、先の長げえ者を可哀そうなことをしたよ。しかしまあ、死んだ者は仕方がねえから、早くその親たちに知らしてやって、諦めさせるのが肝腎だ。今の話の様子じゃあ、それから又いろいろな面倒が起って、若いおふくろまでがなんぞの間違いでも仕出来さねえとも限らねえ。死んだ者より、生きたものを助ける工夫が大切だから、これからすぐに木場へまわって、この訳をよく云い聞かせてやらなけりゃあならねえ」\n「そりゃあそうです」と、庄太もすぐに同意した。「子供はまだ三歳や四歳じゃあどうにもならねえが、そのおふくろというのはまだ十九だそうだから、間違いがあっちゃあ可哀そうだ」\n「若い女房だと思って贔屓をするな」と、半七は笑った。「そんなこと云っていると、今度はてめえが鷲に引っさらわれるぞ」\n「おどかしちゃいけねえ。急に薄っ暗くなって来た」\n 二人は薄暗い川端をたどって、筏の浮かんでいる木場の町へ足を早めた。\n\n「大体の話はまずこうです」と、半七老人は云った。「その途中で、女房の身を投げるところでも抱き止めれば芝居がかりになるのですが、実録じゃあそう巧くは行きませんよ。はははははは。ともかくも木場へ行って、次郎八という男の家を探し当ててその話をして聞かせると、夫婦ともにびっくりしていました。それからすぐに次郎八をつれて行って、黒沼の屋敷の用人に引きあわせると、用人も大安心で死骸を引き渡してくれました。死骸はたしかに次郎八の娘で、もう一と足遅いと寺へ送られてしまうところでした。勿論、普通の探索物と違いますから、この一件ばかりは確かにこうと突き留めるわけには行きませんが、どうもこれよりほかには鑑定の付けようがないので、娘は鷲にさらわれたものと決まってしまいました。これは広重の絵のおかげで、なにが人間の助けになるか判りません。その広重は大コロリで、その年の秋に死にました」\n\n三\n\n こんな話をしているうちに、二人はいつか三囲を通りすぎていた。堤はもう葉桜になって、日曜日でも雑沓していないのが、わたし達に取っては却って仕合わせであった。わたしは息つぎに巻煙草入れを袂から探り出して、そのころ流行った常磐という紙巻に火をつけて半七老人に一本すすめると、老人は丁寧に会釈して受け取って、なんだかきな臭いというような顔をしながら口のさきでふかしていた。\n「どこかで休みましょうか」と、わたしは気の毒になって云った。\n「そうですね」\n 一軒の掛茶屋を見つけて、二人は腰をおろした。花時をすぎているので、ほかには一人の客も見えなかった。老人は筒ざしの煙草入れをとり出して、煙管で旨そうに一服すった。毛虫を吹き落されるのを恐れながらも、わたしは日ざかりの梢を渡ってくる川風をこころよく受けた。わたしの額はすこし汗ばんでいた。\n「むかしはここらに河獺が出たそうですね」\n「出ましたよ」と、老人はうなずいた。「河獺も出れば、狐も狸も出る。向島というと、誰でもすぐに芝居がかりに考えて清元か常磐津の出語りで、道行や心中ばかり流行っていた粋な舞台のように思うんですが、実際はなかなかそうばかり行きません。夜なんぞはずいぶん薄気味の悪いところでしたよ」\n「ほんとうに河獺なんぞが出ては困りますね」\n「あいつは全く悪いいたずらをしますからね」\n なにを問いかけても、老人は快く相手になってくれる。一体が話し好きであるのと、もう一つには、若いものを可愛がるという柔かい心もまじっているらしい。彼がしばしば自分の過去を語るのは、あえて手柄自慢をするというわけではない。聴く人が喜べば、自分も共によろこんで、いつまでも倦まずに語るのである。そこでこの場合、老人はどうしても河獺について何か語らなければならないことになった。\n「つかんことを申し上げるようですが、東京になってからひどく減ったものは、狐狸や河獺ですね。狐や狸は云うまでもありませんが、河獺もこの頃では滅多に見られなくなってしまいました。この向島や千住ばかりじゃありません。以前は少し大きい溝川のようなところにはきっと河獺が棲んでいたもので、現に愛宕下の桜川、あんなところにも巣を作っていて、ときどきに人を嚇かしたりしたもんです。河童がどうのこうのというのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。これもその河獺のお話です」\n\n 弘化四年の九月のことで、秋の雨の二、三日ふりつづいた暗い晩であった。夜ももう五ツ(午後八時)に近いと思うころに、本所中の郷瓦町の荒物屋の店障子をあわただしく明けて、ころげ込むようにはいって来た男があった。商売物の蝋燭でも買いに来たのかと思うと、男は息をはずませて水をくれと云った。うす暗い灯の影でその顔を一と目見て、女房はきゃっと声をあげた。その男は額から頬から、頸筋まで一面になまなましい血を噴き出して、両方の鬢は掻きむしられたように乱れていた。散らし髪で血だらけの顔――それを表の暗やみから不意に突き出された時に、女房のおどろくのも無理はなかった。その声を聞いて奥から亭主も出て来た。\n「まあ、どうしたんです」と、さすがは男だけに、彼はまず声をかけた。\n「なんだか知りませんが、源森橋のそばを通ると、暗い中から飛び出して来て、傘の上からこんな目に逢いました」\n それを聞いて、亭主も女房も少し落ち着いた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「それはきっと河獺です」と、亭主は云った「ここらには悪い河獺がいて、ときどきにいたずらをするんです。こういう雨のふる晩には、よくやられます。傘の上へ飛びあがって顔を引っ掻いたんでしょうよ」\n「そうかも知れません。わたしはもう夢中でなんにも判りませんでした」\n 親切な夫婦はすぐに水を汲んで来て、男の顔の血を洗ってやった。ありあわせた傷薬などを塗ってやった。男はもう五十を二つ三つも越しているかと思われる町人で、その服装も卑しくなかった。\n「なにしろ飛んだ御災難でした。今頃どちらへいらしったんです」と、女房は煙草の火を出しながら聞いた。\n「なに、この御近所までまいったものです」\n「お宅は......」\n「下谷でございます」\n「傘をそんなに破かれてはお困りでしょう」\n「吾妻橋を渡りましたら駕籠がありましょう。いや、これはどうもいろいろ御厄介になりました」\n 男は世話になった礼だと云って、女房に一朱の銀をくれた。こっちが辞退するのを無理に納めさせて、新しい蝋燭を貰って提灯をつけて、かれは傘をさして暗い雨のなかを出て行った。出たかと思うと、やがて又引っ返して来て、男は店口から小声で云った。\n「どうか、今晩のことは、どなたにも御内分にねがいます」\n「かしこまりました」と、亭主は答えた。\n そのあくる日である。下谷御成道の道具屋の隠居十右衛門から町内の自身番へとどけ出た。昨夜、中の郷の川ばたを通行の折柄に、何者にか追いかけられて、所持の財布を取られたうえに、面部に数カ所の疵をうけたというのである。その訴えによって、町奉行所から当番の与力同心が下谷へ出張った。場所が水戸様の屋敷の近所であるというので、その詮議もひとしお厳重であった。十右衛門は自身番へ呼び出されて取り調べをうけることになった。\n「半七。よく訊いてみろ」と、与力は一緒について来た半七に云った。\n「かしこまりました。もし、道具屋の御隠居さん。お役人衆の前ですからね。よく間違わないように申し立ってくださいよ」と、半七はまず念を押して置いて、ゆうべの顛末を十右衛門に訊いた。\n「一体ゆうべは何処へなにしに行きなすったんだ」\n「中の郷元町の御旗本大月権太夫様のお屋敷へ伜の名代として罷り出まして、先ごろ納めましたるお道具の代金五十両を頂戴いたしてまいりました」\n「元町へ行った帰りなら源森橋の方へかかりそうなもんだが、どこか路寄りでもしなすったか」\n「はい。まことに面目もない次第でございますが、中の郷瓦町のお元と申す女のところへ立ち寄りましてございます」\n「そのお元というのはお前さんが世話でもしていなさるのかえ」\n「左様でございます」\n お元は三年越し世話をしているが、あまり心柄のよくない女で、たびたび無心がましいことを云う。現にゆうべもお元の家へ寄ると、かれの従弟だといって引きあわされた政吉という若い男がいて、自分にしきりに酒をすすめたが、こっちは飲めない口であるから堅く辞退した。おいおい寒空にむかって来るから移り替えの面倒を見てくれとお元から頻りに強請まれたが、それもふところの都合が悪いので断わって出て来た。その帰途に、かれは瓦町の川ばたで災難に逢ったものである。あの辺には河獺が出るというから自分も一旦は河獺の仕業であろうかと思っていたのであるが、家へ帰ってみると、かの五十両を入れた財布がない。して見ると、どうも河獺ではないらしい。よって一応のお届けをいたした次第であると、十右衛門はおずおず申し立てた。\n「そのお元というのは幾歳ですね」\n「十九になりまして、母と二人暮らしでございます」\n「従弟の政吉というのは......」\n「二十一二でございましょうか。お元の家へしげしげ出入りしているようでございますが、わたくしはゆうべ初めて逢いましたので、身許なぞもよく存じません」\n 一と通りの詮議は済んで十右衛門は下げられた。彼の申し立てによると、その疑いは当然お元という十九の女のうえに置かれなければならなかった。従弟の政吉というのは彼女の情夫で、十右衛門の懐中に五十両の金をもっているのを知って、あとから尾けて来て強奪したのであろう。役人たちの鑑定は皆それに一致した。半七もそう考えるよりほかはなかった。併し金がないというだけのことで、すぐにお元を疑うわけにも行かなかった。かれは途中で取り落したかも知れない。よもやとは思っても、駕籠のなかに置き忘れて来たかも知れない。ともかくも中の郷へ行って、そのお元という女の身許を十分に洗った上のことだと半七は思った。\n 彼はそれからすぐに自身番を出て、十右衛門の疵の手当てをしたという医師をたずねた。そうしてその疵の痕について彼の鑑定を訊きだしたが、医師には確かなことは判らないらしかった。鋭い爪で茨掻きに引っ掻きまわしたのか、あるいは鈍刀の小さい刃物で滅多やたらに突き斬ったのか、その辺はよく判らないとのことであった。殊にこうした刑事問題に対しては後日の面倒を恐れて何事もはっきりとは云い切らない傾きがあるので、半七も要領を得ずに引き取った。\n「今日ならば訳のないことなんですがね、昔はこれだから困りましたよ」と、半七老人はここで註を入れて説明した。\n\n四\n\n お元の情夫が十右衛門を傷つけて金を取ったのか、河獺が十右衛門を傷つけて、財布を別に取り落したのか、所詮は二つに一つでなければならない。半七は中の郷へ行って、近所の評判を聞いてみると、お元は十右衛門がいうような悪い女ではないらしかった。兄は先年死んだので、自分が下谷の隠居の世話になって老婆を養っているが、こんな身分の若い女には似合わない、至極実体なおとなしい女であるという噂であった。それを聞いて半七も少し迷った。\n それにしても一応は本人にぶつかって見ようと思って、かれは瓦町のお元の家へゆくと、小柄な色白の娘が出て来た。それがお元であった。\n「下谷の隠居さんはゆうべ来ましたか」と、半七は何気なく訊いた。\n「はい」\n「よっぽど長くいましたか」\n「いいえ、あの門口で......」と、お元は顔を少し紅くしてあいまいに答えた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " そんなにホホウとお思いになって? 誰をか恨まんやですね。本よみのことで、こんなに肩身せまがったり、こんなに忙しがったりして、それでも痩せる方へ向かないというのは、よくよくのことだから、どうぞあなたも御観念下さい。隆二さんをやとって「はしきやし丸き女房もまたよかり」という和歌でもつくってもらいましょうか。「またま、しらたま、かくるとこなし」とでも。\n 小説のことになるけれども、この頃はあなたも又改めて通俗小説のフィクション性をお思いになるでしょう、私は痛感します。現実の発展を偶然にたよるということが、フィクションの法則みたいに云われているが、それはまだしも素朴な部ですね。偶然にもあり得ないことを、必然のようにつかってテーマを運ぶのだから、通俗に堕さない文学上の判断というものが、何と大切でしょう。\n 文学のこういうことに関して、どうせ門外漢には判らない、となげすてることで、一応文学の専門家と云われる人々のフィクション性をバッコさせるのですね。現実を現実として見てゆけば、作品のフィクション性から真のテーマのありどころが、やはりわからないことはないのですから。そういうことでもいろいろ深い感想が刺激されます。小説家が過去の範疇からよりひろいものとしてその常識上のカンも発育させるということは、何と大切なことでしょう。現実の真を見ようとする熱意の及ぼすひろさということも考えます。\n 長篇の準備は四月に入ってからです、尤もあれこれ折にふれてはこねているけれども。私は何か気持のいい作品がかきたいの。清潔で、深くて、ブリリアントな人間の心が描きたいのです。\n 時期のこともあり、結局うちにいて、毎日をよく整理して、多賀ちゃんにも出来るだけ助けて貰って、そしてその仕事はやりましょう、よそへ行くことは不自然です、そうして、今の私たちの生活として、そうしてでなければ書けないというようなものをかく必要はないと思うの。芸術の世界の感覚として、ね。これは同感でいらっしゃるでしょう? 芸術の必然にとってもこれははっきり云えると思います。ですから、この点ではガンばるつもりです。四月に入ったらそろそろほかの仕事をみんなことわります。長篇の稿料を貰うように相談してありますから何とかなるでしょう。六月六日には島田に行かなければなりません、三年ですから。こんどはいろいろな点からごく短くしか行けますまい。それ前に達ちゃんがかえるといいけれども。もし達ちゃんがそれ前にかえっても、私はそのためにかえることは出来にくいと思って居ります。どうお考えでしょう。きっとお母さんはおわかり下さるでしょうね、あなたからもよくおっしゃって下されば。\n 多賀ちゃん、ひっそりして臥て雑誌よんでいるようです。これから台所へおりて、夕飯たべたら、音羽へゆきます。\n こんな風にして動いている私のふところの中には、やはり例の淡紅色の表紙の詩集が入って居ます。枕のそばにあったり、枕の下にあったり、いつの間にかその上で眠って、体の下になっていたり。机の方ではいつも左手のところにおかれます。そして、一寸つかれたときひろげて一行二行よむのですが、詩の面白さは、ほんの小さい情景をかいた短いものが、やはり心の中に入るとひろくひろく瑞々しくひろがるところにあるわけでしょう。「物干」という題のを覚えていらっしゃるかしら。季節は今ごろです。暖い春の光に質素なふとんを陽に向けてかけつらねた小さい家の物干。という描写からはじまるのですけれど。彼等は二人の子供のよう、彼等は二羽の雀のよう、という句もあるわ、覚えていらっしゃるかしら。親しい友達に一寸かくれん坊して、笑ってよろこんでいる彼等、そういうような初々しさの漲った描写もあります。\n 私は屡〻この詩をよみます。机の横の障子の外の竹すだれの外には、ここの物干が明るく陽に光っています。そこに折々あなたの着物だのがほされて。その間に顔を入れて陽のあったかさを感じていると、その詩の心は何とまざまざと生きて来ることでしょう。あなたの御愛誦の詩のはなしをきかせて下さい。では又、ね、お大切に。\n\n三月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 三月十七日 第二十一信\n きのうから手紙かきたく。夕飯をしまって、さて、と思っていたら人が来てしまいましたので到頭昨夜は駄目。\n けさは、普通の時間に多賀ちゃんがおきましたので随分うれしかった。私はほっとして、すこしね坊。\n 御飯たべてから、多賀ちゃんは、うれしそうに上機嫌で、きのう寿江子がもって来て、かえるとき忘れて行ったパンジーを、植木鉢に入れました。たかちゃんは器用にいろいろよく知っているのね。野原の小父さまの御存命のころ、台所の柿の木のところから、ずっと十円も種をまいて花つくりをしたのですってね。小父さまがくしゃくしゃして変になりかかると、そこへつれ出して楽しんだとのこと。いかにも可愛い鉢が三つ出来て、私も手や前かけを泥だらけにしながら大よろこび。\n それから二階へ上って、恐ろしい顔の天使をよんで、(吉例、読書よ)メモを見たら急にあわてました、というのは、十七日にわたす原稿が一つならずあるものだから。多賀ちゃんの病気いろいろでつい御放念だったものだから。\n あわてている最中に、一箱つまった小説をもって来た人あり。辛い浮世と申すべし。\n それから又引つづいて、百枚以上の小説を、ABCから話してあげる女教師が来て、もう西日に傾くころやっと、ここへ戻りました。\n その女教師先生は、小さい女の子の世話を予約していたのですが、急にその子の小父さんという左官やさんが引とって世話したいということになりました由。六七人小僧をおいている由。さもありなん、です。別の子をもう一人当って見るということになりましたが、どういうものか。\n 多賀ちゃんが稽古に行ったって、よろしいのです、ただ一日じゅうきまって昼間は留守というのが、不用心で、それが閉口です。昼間しめておくと、例えばゴミとりさんというようなものが入れないから一回ぬけます。するとこの頃人不足で、間が永いからゴミ箱を見ると、このおユリが悲観するという哀れな状態になるの。閉口ですね。きっとこの春は空巣がバッコすることでしょう。四月から、うちも何とか方法を立てなければなりません。まだいい思案は浮ばないけれども。\n それから、この近日うちに、私は種痘いたします、珍聞でしょう? 余り天然痘が出ているから。そして市内の各方面からのひとの中に一定時間大体毎日いることになりますから。古い古いことです、右の腕にホーソーのついたあとのあるのは。円いのも、またま白玉でどうやらしのげるのに円い菊目石というようなものになったら、余り相すみませんものね。天然痘が銭湯に入ったりいろいろの芸当をやっているのをよんだら、こわくなって来ました。不思議な春ね。\n そんな有様だのに、林町のああちゃんは、小さい息子が風邪ひきで国府津へ行かれないからその代りと云って、湿布している息子を銀座へつれて行って、フジアイスでアイスクリームのましたときいて、あっこおばちゃん大憤激です。\n 本当に手紙書こうと思っているのです。風邪というものを何と思っているのでしょうと。あなたにぶーぶー申して、お笑いになるでしょう、私は、でも太郎が可愛いの。そして、そういう愛されかたを可哀そうに思うの。そういう愛しかたをするああちゃんも可哀そうなの。そして、腹がたつのです。それを、こうしてここにかく心持。それは女房の心理、ね。こういうブーブーを、あなたはごくたまにしかおききにならないのですから、まあおきき下さい。\n こうして話していながら、ああ今夜は誰も来ませんように、と心ひそかに願って居ます。今夜と明日とで、こまかいいくつかのものを仕上げてしまいたいから。\n それをすましたら栄さんとやっていたものを終って、『文芸』のつづき何回分か終りまでずっとつづけてかいてしまって、さて、と長篇にとりかかる順序です。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 稲ちゃんの「素足の娘」(書下し長篇)よみはじめています。何だか、作者が抑制して書いているのと、若い十五六歳の娘を自然思い出として書いているところともあり、今までのところではブリリアントなものが少い、少くとも「くれない」より光彩がないような印象ですが、どうかしら終りまで行くと。楽しみにしてよんで居ります。\n これから自分が書こうというものについても連関していろいろ感じます。「くれない」は毎月連載されて出来たもの、これはずっと宿やでかかれたもの。そういうものについての感想もひき出されるし。\n 書く必然がわからなくて、というような手紙の文句があったことを思い出したり。長篇というものはなかなかのものですね、随分しっかりした骨格がいる。石川達三のような、昨今の請負人みたいに代用品ドシドシつかってこんどはアパート、こんどは工場、これはいかがと小住宅もつくるというのもあるし。\n 石川の「結婚の生態」という小説はひろくよまれるのです、そして参考になりました、というようなことが、若い娘の口から座談会に出ている。可哀そうねえ。娘さんの生活内容も。より若き世代ということはより貧しき世代であってはなりません。\n『文芸』の仕事、栄さんとの仕事の必要から、その生態なるものも、解剖しなければならず。買うのが腹立たしいような本というものがあるのは奇妙至極なことね。私は寿江子のをまわさせました。\n いろんな妙てこりんなものをよまねばならず。これも修業の一つかしら。私のこの頃の読書の範囲を考えて、何ていろいろと思いました。どんな知識も有益です。大衆文学性を打破するための本当の知識などは、大いに私を愉快にしますし、自分の常識のあいまいさをも痛感します。常識の誤りに逆手をとられるというようなのは真平ね。御同感でしょう? そして、私は私らしくクスリとするの、私の読書力は、何とリアリスティックだろうと。(云いかえれば、そうね、はっきりしているだろうか、と)分りたいと思うと、分りそうもないものも分るのですもの。何と可笑しいでしょう。私の語学のように、これも気合の一種でしょうか。\n ああそれから、私はいつかアイヌのことについて、手紙の中にかきましたろうか。十九か二十のとき北海道へ長くいて、アイヌ村に暮したりして、アイヌをかきたいと思って勉強したこと、まだ私には荷にあまっていた(かんどころは今も同一ですが、分析や展開が)ので、一章だけロマンティックにかき出して、旅行のためそれなりになってしまっていたのを、この間ふと思い出して、これからならかけると面白く思ったこと、まだ書きませんでしたろうか? 長篇のこといろいろ考えていてそれを考えたのです。いつか長いものに書こうとたのしみです。非常にいろいろ面白いのです。一人の女のひと(アイヌのひと)が中心でね。ロンドンのことや何かまで出るのです。その女のひとの見た世界として。ヴィクトーリア式女のイギリスを、このアイヌの娘が見て、いろいろの感じ、いろいろの受けかた、その適応の型、いろいろ大変面白いのです。溢れるような曠野の血が一方に流れて居り、一方に無限の悲哀があり、最も消極な形でのスケールの大さをもっている女の一の心です。\n それからもう一つ、お座りのとき、竹越の『日本経済史』をよんで面白く思った、お菊という女。これは淀君の仕女ですが、当時のいろいろのそういう女の境遇をよく語っていて、面白いの、たとえば、非常に乏しい着類とか。ああいう色彩のバックにどうしてかこの女の名が出ていて、随分面白い。これは西村真次という人の随筆めいた本の中にも目次に出ていて。いつかやっぱりかいて見たいと思います。調べて。\n それからもう一つ。これは大名の妻。大した美人。だもんだから、父親が政略的にあっちこっち嫁にやっては、あとでその良人――婿と戦って、敗北させて、娘をとり戻す。最後のその伝がはじまったとき、その妻は父からの脱出の使者を追いかえして、可愛い娘二人かを手にかけ自刃します。当時の強いられた女らしさというものが彼女をそういう命の終らせかたに追いこんでいる。この娘たちも女にこの世に生れて私と同じうきめを見るならば、と自分と一緒に命を終らせている。そういう女の燃え立つ心、それは単純に良人への愛ということだけで云いきれないでしょう? 心を打つものがあって、それも同じ頃(お菊と)よんだのだが、どこにかいてあったか忘れてしまって、場所が(本の)見つからないのです、武家時代のことですが。\n 近松なんかは義理というものに挾まれた武家の女の苦しみは描いて居りますが、その妻のプロテストは義理ではありませんものね。\n さあ、こんなに種明しをしてしまって、何だか、きまりわるいこと。肝心の一番手近のはまだ何ともきまらずボー漠としているのに。でもね、歴史小説にしろ、女のかく歴史小説というものの特色はあり得るという確信はあって、やはり面白うございます。これらは何年の間に出来上るでしょう。これで案外遠いものほど近いのよきっと。つまりお菊その他が、アイヌより先になり得るのです、いろいろの点から。\n ああこれだけ話して、すこし心持がよくなりました。こんな種、太郎ではないがダイジダイジで、喋らないしね。ロンドンやパリが、その女のひとの目で見られるのも面白いこと。ではどうぞお元気で。忙しすぎないように。\n\n三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕\n\n 三月二十二日 第二十二信\n ひどい風! 南の方の空は赤茶けた埃の色でよどんだようになって居ります。\n 今、妙なことして書いているの。ペンをもっている方の手首に、ホータイのあるのはけさ御覧のとおり。その上、おなかにゴムの湯たんぽをかかえこんでかいているの。変でしょう?\n きょう、そこの裏の池袋へ通じる市電の停留場にいたら、風がスースーと体にしみてしみて、何とも云えない気がしたら、かえって気分わるくて、パンをたべるとすぐ湯タンポを二つも入れて臥てしまって、午後やっとおき出し、この体たらくです。\n この間うち暖かったのに急にこうだから。春は荒っぽいこと。面白さと云えば云えるけれども。\n あなたもどうぞお体をお大切に。この頃の気候は血を出す人の多いときだそうですね。そのことについて面白いことききました。普通の人は、ドッと出ると非常に驚愕して思わず息をつめるのですって。出すのを抑えようとする反射的な動作で。すると、そのように息をつめたあとは、どうしても深呼吸になる。そして血を戻すことになり、窒息がおこったりする由。出るときは上体を斜におこしたもたれかかった姿勢で、かるい咳で出るのは出して、そして塩水のんだりひやしたりした方が大局的な安全の由。この間その話きいて、いつか書こうと思って居りましたから一寸一筆。ハッと息をつめる感覚がいかにも実感でわかるもんだから書きたかったわけです。私には成程、と思えて。自分は、息をつめそうですから。あなたはもう身につけていらっしゃる注意かもしれませんが。\n この火傷はね、十九日の制作品です。前日、二十七枚もちょっとした感想かいて、十九日の夜は星ヶ岡で座談会があって、そこからかえって、やれやれといかにものーのーしてお風呂に入って、いい心持で煙突のあっちにある歯みがきのコップをとろうとしたの、半分眠ったようなうっとりで。そしたら、自分の腕の短さ、その円さをすっかり忘れていたので、下の金具にチリッとして、本当にチリッと云ったような大きい感じでハッと目をさまし、オリーブ油をぬってねましたが、次の日われらのお医者が見てしっ布しろというので、あの形です。すこし紫色になって来たからもう大丈夫でしょう、化膿はしませんでしょう、ひきつれにもなりませんから御安心下さい。今はハンカチーフをたたんでくくっておくの。シップでふやけそうでいやなので。\n それから、今夜種痘いたします。これをしないとこわくて。いろんなこと!\n お母さんからお手紙で、やっぱりすこし風邪で神経痛がなさいましたって。そして前の河村の細君たちにいろいろ手つだいをして貰ったとおたよりですから、明日あたり何かあのひとたちのよろこぶものを送っておきましょう。お母さんにもお菓子お送りいたしましょう、サトウは一人宛十銭ですって。それも配給のあったときだけ。ですからお送りしたのでも大助りとのおよろこびです、今にそれよりはましになるそうです。\n 達ちゃんから航空便が来ました由。いよいよかえる日が近づいた様子です。電報を打つと云ってあるそうですがそれは打てますまい。早ければ本月うちに任地を出発するだろうとのことです。よかったことね。全く安心です、かえった顔をお母さんはどんなに涙をたたえた眼で御覧になることでしょうね。\n そのとき私にきっとかえって欲しいとお思いでしょうが、この間手紙で申上げていたこと、考えておいて下さい。時間的には随分苦しいの。ですからもし行けばほんの三日ぐらいです。前後を入れて五日。しかしなろうことなら六月にまとめたいのですけれども。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "\n\n 第十二章 地租\n\n(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。\n(六七)この最後の種類の地租は極めて不平等な租税であり、そしてアダム・スミス(編者註)によればすべての租税がそれに一致しなければならない租税一般に関する四公理の一つに反するであろう。この四公理は次の如くである。\n\n一、『あらゆる国家の臣民は彼らの各々の能力に出来得る限り比例して政府の支持に寄与すべきである。\n二、『各個人が支払わざるべからざる租税は確定的であるべく、恣意的であってはならない。\n三、『あらゆる租税は、納税者にとりそれを支払うに最も便利なように思われる時または方法において、賦課せらるべきである。\n四、『あらゆる租税は、それが国庫に齎す以上には出来るだけ少く人民の懐中から取り去りかつ出来るだけ少く人民の懐中以外にあらしめるように、工夫せらるべきである。』\n(編者註)第五篇、第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三一〇――三一一頁)。\n\n 無差別的にかつその地質の区別を無視してあらゆる耕地に課せられる平等な地租は、最も悪質の土地の耕作者によって支払われる租税に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。質を異にする土地は、同一の資本を用いて、極めて異る分量の粗生生産物を産出するであろう。もし、一定の資本をもって一千クヲタアの穀物を産する土地に、一〇〇磅の租税が課せられるならば、穀物は、農業者にこの租税を補償するために、一クヲタアにつき二シリング騰貴するであろう。しかし、より良き質の土地に同一の資本を用いれば、二、〇〇〇クヲタアが生産され得ようが、それは一クヲタアにつき二シリング騰貴した時には、二〇〇磅を与えるであろう。しかしながら、租税は双方の土地に平等に課せられるからより良い土地に対しても劣等の土地に対すると同様に一〇〇磅であろう、従って穀物の消費者は、啻に国家の必要費を支払うためにのみならず、更にまたその借地期限の間より良い土地の耕作者に一年につき一〇〇磅を与え、またその以後には地主の地代をその額だけ高めるために課税されるであろう。かくてこの種の租税はアダム・スミスの第四の公理に反するであろう、すなわち、それは、それが国庫に齎した額以上を人民の懐中以外にあらしめるであろう。革命前のフランスにおけるタイユはこの種の租税であった。平民の保有地のみが課税され、粗生生産物の価格は租税に比例して騰貴し、従ってその所有地の課税されなかった人々は彼らの地代の増加によって利益を受けた。粗生生産物に対する租税並びに十分一税は、この反対論から免れる。それらは、粗生生産物の価格を騰貴せしめるが、しかしそれらは、各々の質の土地に、その実際の生産物に比例して納税させ、そして生産力の最小なるものの生産物に比例しては納税させないのである。\n アダム・スミスが地代についてとった特殊な見解からして、すなわち、あらゆる国において、何らの地代もそれに対して支払われない土地に多くの資本が投ぜられていることを、彼が観察しなかったことからして、彼は、土地に対するすべての租税は、それが地租または十分一税の形において土地そのものに対して賦課せられようと、または農業者の利潤から徴収されようと、すべて常に地主によって支払われるものであり、そして租税は一般に名目上借地人によって前払されてはいるが、すべての場合において地主が真実の納税者である、と結論した。彼は曰く、『土地の生産物に対する租税は実際においては地代に対する租税である。そしてそれは初めは農業者によって前払されるかもしれぬが、終局的には地主によって支払われる。生産物の一定部分が租税として払い出さるべき時には、農業者は出来るだけ詳しくこの部分の価値が年々幾何に上りそうであるかを計算し、そして彼が地主に対して支払うことを同意している地代をそれに比例して減額する。この種の地租たる教会十分一税が年々幾何に上りそうであるかをあらかじめ計算しない農業者はない。』(訳者註)農業者が彼れの農場の地代について彼れの地主と約定する時にあらゆる種類の蓋然的支出を計算することは疑いもなく真実である。そしてもし教会に支払われる十分一税に対し、または土地の生産物に対する租税に対して、彼がその農場の生産物の相対価値の騰貴によって補償されないならば、彼は当然にそれを彼れの地代から控除せんと努めるであろう。しかしまさにこれが、すなわち、彼は結局それを彼れの地代から控除するであろうか、または生産物の価格騰貴によって補償されるであろうか、ということが、論争のある問題なのである。既に述べた理由により、私は彼らが生産物の価格を引上げるであろうことを、従ってアダム・スミスはこの重要な問題について誤れる見解をとっていたことを、少しも疑い得ないのである。\n\n(訳者註)キャナン版、第二巻、三二一頁。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": " スミス博士のこの主題に関する見解がおそらく彼をして次の如く述べしめた理由である、すなわち、『十分一税、及びこの種のあらゆる他の地租は、完全な平等の外観を有ちながら極めて不平等な租税であり、それは、生産物の一定分量も、事情の異る場合には、はなはだ異る分量の地代に相当するからである。』(訳者註)かかる租税は重さを異にして農業者または地主の異る階級の負担する所とはならないが、けだし彼らは共に粗生生産物の騰貴によって補償され、そして単に彼らが粗生生産物の消費者たるに比例してこの租税を納付するに過ぎないからである、ということを、私は説明せんと努力し来った。実に労賃が、そして労賃を通じて利潤率が、影響を蒙る故に、地主はかかる租税に対し彼らの十分な分前を納付せず特に免除された階級なのである。その基金が不十分なために租税を支払い得ない所の労働者の負担に課せられる租税部分が引き出されるのは、資本の利潤からである。この部分は資本の使用によりその所得を得るすべての者のもっぱら負担する所であり、従ってそれは毫も地主に影響を及ぼさない。\n\n(訳者註)キャナン版、同上。\n\n(六八)十分一税及び土地と生産物とに対する租税に関するこの見解からして、それらは耕作を阻害しないと推論してはならぬ。極めて一般的に需要されているいかなる種類でもの貨物の交換価値を騰貴せしめるあらゆるものは、耕作及び生産の両者を阻害する傾向がある。しかしこれはあらゆる課税から免れ得ぬ害悪であり、そして吾々が今論じている特定の租税に限られるものではない。\n このことはもちろん国家によって受領されかつ支出されるすべての租税に伴う不可避的な不利益と考え得よう。あらゆる新労働の一部分は今や国家の自由になし得る所となり、従って生産的に使用され得ない。この部分が極めて大となり、そのために、通常彼らの貯蓄によって国家の資本を増大する者の努力を刺戟するに足る剰余生産物が、残されなくなるであろう。課税は幸にして、未だいかなる自由国家においても、不断に年々その資本を減少せしめるほどに行われたことはない。かかる課税状態は久しく耐えられ得ないであろう。またはもし耐えられたとしても、それは極めて多くの国の年々の生産物を吸収し、ために最も広大なる範囲の窮乏、飢饉、及び人口減少を惹起すに至るであろう。\n アダム・スミスは曰く、『大英国の地租の如くに、各地方において一定不変の標準によって課せられる地租は、その最初の設定の時には平等であっても、時を経るにつれ国の種々なる地方の耕作の改良または等閑の程度の不平等なのに従って、必然的に不平等になる。英国においては、種々なる州及び教区がウィリアム及メアリの第四年の法律によって地租の課せられた基準となった評価は、その最初の設定の時ですら、極めて不平等であった。従ってこの租税はそれだけ上述の四公理の第一のものに反するものである。それは他の三つには完全に合致する。それは完全に確実である。その租税の支払期が地代の支払期と同一であることは、納税者にとり最も便利である。地主がすべての場合において真実の納税者ではあるけれども、この租税は普通借地人によって前払され、地主は彼に対して地代の支払においてそれを差引かなければならないのである。』(訳者註)\n\n(訳者註)キャナン版、三一三頁。\n\n もし借地人によって租税が地主にではなく消費者に転嫁されるならば、しかる時は、もしそれが最初に不平等でないならば、それは決して不平等にはなり得ない。けだし生産物の価格は租税に比例して直ちに引上げられたのであり、そしてその故をもってその以後にもはや変化することはないであろうからである。もし不平等であるならば、私はそうであろうことを証明せんと試みたのであり、それは上述の第四の公理に反するであろうが、しかし第一の公理には反しないであろう。それは国庫に齎す額以上を人民の懐中から取り去るであろうが、しかしそれは不平等に納税者のある特定階級の負担する所とはならないであろう。セイ氏は、次の如く言う時に、英国の地租の性質及び結果を誤解しているように私には思われる、『多くの人は英国農業の大繁栄をこの固定的評価に帰している。それがこれにはなはだ多く寄与したことには、疑いは有り得ない。しかし小商人に向って次の如く云う政府には、吾々は何と云うべきであろうか、すなわち、「小さな資本をもって君は小さな商売を営んでいる、そしてその結果君の直接納税は極めて小である。資本を借り入れかつ蓄積せよ。君の商売が巨大な利潤を君に齎すように、それを拡張せよ、しかも君にはより多くの納税はさせないであろう。しかのみならず君の相続者が君の利潤を相続し、かつそれを更に増加せしめる時に、君の場合よりも彼らの場合にその評価をより高くはしないであろう。そして君の相続者はより多額の公の負担を負わせはしないであろう」と。\n『疑いもなく、これは製造業及び取引に対して与えられる大なる奨励であろう。しかしそれは正当であろうか? それらの進歩はある他の代価によって得ることを得ないであろうか? 英国自身において、製造業及び商業はこの時期以来、かくも多くの差別待遇を受けることなくて、かえってより大なる進歩をすらなしはしなかったか? 一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加するとする。もし国家が彼からその増加された所得の五分の一を請求するとしても、彼れのより以上の努力を刺戟すべく四、〇〇〇フランの増加が残らないであろうか?』(編者註)\n セイ氏は、『一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加する』(編者註)と想像している。しかし一地主は彼がそれを自身耕作せざる限り、彼れの勤勉や節倹や熟練を彼れの土地に用うべき何らの手段をも有たない。そしてその場合には彼が改良をなすのは資本家及び農業者たる資格においてであって、地主たる資格においてではない。まず彼れの農場に用いられる資本の分量を増加することなくして、彼が彼として有つ任意の特殊な熟練によってその生産物をかく増加し得ようとは考えられない。もし彼が資本を増加したとしても、彼れのより大なる収入は彼れの増加された資本に対して、あらゆる他の農業者の収入が彼らの資本に対すると同一な比例を保つであろう。\n\n(編者註)『経済学』第三篇、第八章、三五三――四頁。\n\n もし、セイ氏の教える所に従い、そして国家は農業者の増加せる所得の五分の一を請求すべきであるとするならば、それは農業者に対する局部的租税となり、彼らの利潤には影響を及ぼすけれども、他の職業の者の利潤には影響を及ぼさないであろう。この租税は、あらゆる土地によって、すなわち産出額の乏しい土地によっても産出額の多い土地によっても、支払われるであろう。そしてある土地においては、何らの地代も支払われていないのであるから、地代の低減によってのそれに対する補償はあり得ないであろう。利潤に対する局部的な租税は決してそれが課せられた事業の負担する所とはならない、けだし事業者は彼れの職業を中止するか、またはその租税に対して補償を受けるか、であろうからである。さて何らの地代をも支払わない者は、生産物の価格騰貴によってのみ補償され得る、かくてセイ氏の提議せる租税は消費者の負担する所となり、そして地主の負担にも農業者の負担にもならないであろう。\n もしこの提議された租税が、土地から得られた総生産物の分量または価値の増加に比例して増加されるならば、それは十分一税と何ら異る所なく、そして等しく消費者に転嫁されるであろう。しからばそれが土地の総生産物の負担する所となろうとまたはその純生産物の負担する所となろうと、それは等しく消費に対する租税であり、そして単に粗生生産物に対する他の租税と同様な仕方で地主及び農業者に影響を及ぼすに過ぎないであろう。\n もしいかなる種類の租税も土地に対して賦課されず、そして同一額がある他の手段によって徴収されたとしても、農業は少くとも実際に同じほど繁栄したであろう。けだし、土地に対するいかなる租税も農業に対する奨励であり得ることは不可能であるからである。適度な租税は大いに生産を妨げ得ないであろうし、またおそらく妨げないが、しかしそれは生産を奨励することは出来ない。英国政府はセイ氏が想像したような言葉は用いなかった。それは農業階級とその相続者とをあらゆる将来の課税から除外し、そして国家が必要とすべきそれ以上の資は他の社会階級から徴収するとは、約束しなかった。それは単に次の如く云ったに過ぎない、すなわち、『かくの如くして、吾々は、土地にこれ以上の負担をかけないであろう。しかし吾々は、君らをしてある他の形において国家の将来の必要費に対する君らの十分な割当額を支払わしめる最も完全なる自由を保留する』と。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 吉五郎は冷えた猪口を飲みほして、自信があるように微笑んでいると、兼松もおなじく得意らしく笑った。\n「まったく斯うなりゃあ生洲の魚だ。そのお亀......お近という奴は今まで何処に隠れていたんでしょう。初めから佐藤の屋敷に忍んでいたんでしょうか」\n「そうじゃあるめえ」と、吉五郎は頭をふった。「それなら足かけ四年も知れずにいる筈はねえ。女は確かに草鞋を穿いていたに相違ねえ。おれもよく調べて見なけりゃあ判らねえが、佐藤という旗本はお近が深川にいる時からの馴染かも知れねえ。留の話によると、佐藤は三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に江戸へ帰って来ると、お近はそのあとから付いて来たと云うのだ。してみると、お近も長崎へ行っていて、佐藤と一緒に引き揚げて来たのだろう。おれ達が鵜の目鷹の目で騒いでも知れねえ筈よ、相手は遠い長崎の果てに飛んでいたのだ」\n 云いかけて、吉五郎は俄かに表へ耳をかたむけた。\n「なんだか騒々しいようだぜ。火事かな」\n 兼松はすぐに立って往来にむかった肱掛け窓をあけると、うららかな春の町を駈けてゆく人々のすがたが乱れて見おろされた。\n「弥次馬が駈け出すようですね。なんだろう。ちょいと見て来ます」\n 云いすてて兼松は階子を降りて行ったが、やがて引っ返して来て仔細ありげにささやいた。\n「江戸川橋の下へ死骸が浮き上がったそうですよ」\n「死骸が......」と、吉五郎も眼をひからせた。「女か」\n「若い女だそうです。何でも十八、九の......」\n「十八、九か」\n「なにしろ直ぐに行って来ましょう」\n「むむ。おれも後から行く」\n 兼松を出してやって、吉五郎は忙がしそうに手をたたくと、女中が階子をあがって来た。\n「どうも遅くなりまして相済みません。御飯は唯今すぐに......」\n「いや、飯の催促じゃあねえ」と、吉五郎は煙草入れを仕舞いながら云った。「姐さん。そこの川へ死骸が浮いたそうだね」\n「そうだそうで......」と、女中は声をひくめた。「わたくしは見に参りませんけれど、まだ若い娘さんだそうです」\n「十八、九というじゃあねえか」\n「ええ。なんでもここらの人らしいという噂で......」\n「ここらの人だ......。お武家かえ、町の人かえ」\n「お武家さんらしいとか申しますが......」\n「そうかえ。わたしたちは少し急用が出来たから、酒も飯もいらねえ。直ぐに勘定をしてくんねえ」\n「はい、はい」\n 女中が早々に降りて行ったあとで、吉五郎は一旦しまいかけた煙草入れを取り出して、また徐かに一服吸った。\n 江戸川に発見された死骸は、十八、九の若い女で、武家らしい風俗である。瓜生の娘お北――それが直ぐに吉五郎の胸に浮かんだ。\n「おれの鑑定は外れたかな」\n 寺で殺されて川へ流された女――それはお近ではなかったのか。お北か、お近か、彼はまだ半信半疑であった。\n「こういうときには落ち着くに限る」\n 彼は更に二服目の煙草を吸った。表を駈けてゆく足音はいよいよ騒がしくきこえた。\n\n 一三\n\n 料理屋の勘定をすませて吉五郎は表へ出ると、江戸川の方角へむかって見物の弥次馬が駈けてゆく。吉五郎は目立たぬように頬かむりをして、その弥次馬の群れにまぎれ込んで行くと、江戸川橋から桜木町の河岸へかけて、大勢の人が押し合っていた。検視の役人がまだ出張しないので、死骸は岸の桜の下へ引き揚げたままで荒莚を着せてあった。吉五郎はそっと眼をくばると、人込みのなかに兼松のすがたが見いだされた。市川屋の源蔵もまじっていた。\n「御賄屋敷の娘さんと云うじゃありませんか」\n「瓜生さんのお嬢さんだそうですよ」\n「なんでも二、三日前から家出をしていたんだと云うことですがね」\n「身投げでしょうか、殺されたんでしょうか」\n 口々に語り合っている弥次馬の噂を聴きながら、吉五郎はなおもあたりに眼を配っていると、十三、四歳らしい武家の娘と、十八、九ぐらいの女中らしい女とが息を切って駈け付けて来た。\n「ちょっと御免ください」\n 諸人を押し分けて死骸のそばへ進み寄ると、あたりの人々は俄かに路を開いた。その様子をみて、吉五郎はすぐに覚った。ひとりは瓜生の妹娘で、ひとりは奉公人であろう。父や母は世間の手前、ここへ顔出しも出来ないので、娘と女中が取りあえず真偽を確かめに来たに相違ない。見物の人々もその顔を見識っているので、直ぐに路を開いて通したのであろう。さてこれからどうなるかと窺っていると、女中は死骸のそばに立っている自身番の男に会釈した。\n「この死骸をみせて貰うことは出来ますまいか」\n「はい、どうぞ......」と、男は気の毒そうに云いながら、顔のあたりの莚を少しくまくりあげて見せた。\n 二人の女はひと目のぞいて、たがいに顔を見あわせたが、それぎり暫くは何も云わなかった。やがて男に再び会釈して、二人は無言のままで立ち去ってしまった。\n「家から云い付けられて来たんだろうが、さすがはお武家の女たちだな」\n「ちっとも取り乱した様子を見せないぜ」\n かれらのうしろ姿を見送って、人々はささやいていた。吉五郎は猶もそこにたたずんで、検視の来るのを待っていたが、役人は容易に来なかった。真昼の春の日を浴びて、人込みのなかに立っていて、彼は少し逆上せて来たので、あとへさがって河岸端の茶店へはいると、兼松もつづいて葭簀のうちへはいって来た。\n「死骸は瓜生さんの娘に相違ないそうですよ」と、彼は小声で云った。\n「むむ。あの女たちの様子で判っている」と、吉五郎もうなずいた。「だが、おれの鑑定もまんざら外れたわけじゃあねえ。あの死骸は寺で殺されたんじゃあねえ。自身番の奴が莚をまくったときに、おれもそっと覗いてみたが、死骸の顔にも頸のまわりにも疵らしい痕はなんにも見えなかった。第一、人に殺されたような顔じゃあねえ」\n「じゃあ、唯の身投げでしょうか」\n「まずそうだろうな。寺で殺された女はほかにある筈だ」と、云いかけて吉五郎は葭簀の外を覗いた。「おい。兼、あすこで源蔵と立ち話をしている中間は、どこの屋敷の奴だか、そっと源蔵に訊いてみろ」\n\n「あい、あい」\n 兼松は駈け出して行ったが、やがて又引っ返して来た。\n「あれは佐藤の屋敷の中間で、鉄造というのだそうです」\n「そうか。留がいるといいんだが......」と、吉五郎は舌打ちした。「まあ、いい。おれが直かに当たってみよう。おめえはここに残っていて、検視の来るまで見張っていてくれ」\n 吉五郎は茶店を出ると、かの中間はまだそこを立ち去らずに、あとからだんだんに集まって来る見物人の顔を、じろじろと眺めていた。そのそばへ摺り寄って、吉五郎は馴れなれしく声をかけた。\n「おい、兄い、済まねえが、ちょいと顔を貸してくんねえか」\n「おめえは誰だ」と、中間は睨むように相手の顔を見返った。\n「おめえは三河町の留という野郎を識っているだろう」\n「三河町の......留......」と、中間はその眼をいよいよ光らせた。「その留がどうしたんだ」\n「留が少し怪我をしたので、おれが代りに来たんだ。野暮を云わねえで、そこまで一緒に来てくんねえ」\n「むむ、そうか」\n 中間も相手の何者であるかを大抵推量したらしく、思いのほか素直に誘い出されたので、吉五郎は先きに立って彼を元の小料理屋へ連れ込むと、さっき余分の祝儀をやった効目があらわれて、女中はしきりに世辞を云いながら二人を二階へ案内した。\n「おめえは三河町の吉五郎だろう。なんで俺をこんな所へ連れて来たんだ」と、中間の鉄造はおちつかないような顔をして云った。\n「まあ、待ちねえ。だんだんに話をする」\n 酒と肴を注文して、女中を遠ざけた後に、吉五郎は打ちくつろいで話し出した。\n「このあいだ中から内の留がいろいろおめえの御厄介になっているそうだが......」\n「なに、別にどうと云うこともねえんだが......」と、鉄造はまだ油断しないように眼をひからせていた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「川へ揚がった死骸は、御賄屋敷の瓜生さんの娘だろうね」\n「むむ」\n「どうして死んだんだね」\n「おらあ知らねえ」\n「知らねえかえ」と、吉五郎は考えていた。「それはまあ知らねえとして、ゆうべの夜なかにおめえは何処へ行ったえ」\n 鉄造は黙っていた。\n「あの風の吹く夜なかに、犬に吠えられながら二人連れで何処へ行ったんだよ」と、吉五郎はかさねて訊いた。\n「おらあそんな覚えはねえ」と、鉄造は声を尖らせた。\n「それじゃあ人違いかな。お近さんの死骸を運んで行ったのは、おめえ達じゃあなかったかな」\n 相手の顔色の変ったのを見て、吉五郎は畳みかけて云った。\n「おめえ達はふだんからお近さんの世話になって、相当に小遣いも貰っていたんじゃあねえか。よんどころなく頼まれたとは云いながら、その死骸を捨てる役を引き受けちゃあ、あんまり後生がよくあるめえぜ」\n「なんと云われても、そんな覚えはねえよ」と、鉄造は再び声を尖らせた。\n「そう喧嘩腰になっちゃあいけねえ。おたがいに仲よく一杯飲みながら話そうと思っているんだ」\n あたかも女中が膳を運んで来たので、話はしばらく途切れた。女中に酌をさせて一杯ずつ飲んだ後に、ふたりは再び差しむかいになった。\n「目白坂下の寺は、おめえの屋敷の菩提所かえ」と、吉五郎は猪口を差しながら訊いた。\n「そうじゃあねえ」\n「それじゃあ、お近さんの識っている寺かえ」\n「おらあ知らねえ」\n「何を云っても知らねえ知らねえじゃあ、あんまり愛嬌が無さ過ぎるな」と、吉五郎は笑った。「もう少し色気のある返事をして貰おうじゃあねえか」\n「色気があっても無くっても、知らねえことは知らねえと云うよりほかはねえ。木刀をさしていても、おれも屋敷の飯を食っている人間だ。むやみにおめえ達の調べは受けねえ」\n 素直にここまで出て来ながら、今さら喧嘩腰になって気の強いことを云うのは、俄かに一種の恐怖を感じて来たに相違ない。それがうしろ暗い証拠であると、吉五郎は多年の経験で早くも覚った。\n「まったくおめえの云う通りだ。屋敷奉公のおめえ達をこんな所へ連れ込んで、むやみに調べるという訳じゃあねえ」と、吉五郎は諭すように云った。「留吉はおれの子分だ。おめえもその留吉と心安くしている以上、おれともまんざらの他人という筋でもねえ。それだから、ここまで来て貰って、おめえの知っているだけのことを......」\n「その留吉だって昨日きょうの顔なじみだ。別に心安いという仲じゃあねえ」\n「どこまで行っても喧嘩腰だな」と、吉五郎はまた笑った。「それじゃあもうなんにも訊くめえが、おれの方じゃあおめえを他人と思わねえから、唯ひと言云って置くことがある。おめえ、あの屋敷に長くいるのは為にならねえぜ」\n「なぜだ」\n「白魚河岸の吉田幸之助というのは、おめえの主人とは縁つづきで、ふだんから出入りをしているうちに、お近さんと仲好くなった。それが又、不思議な廻り合わせで、近所の御賄屋敷へ養子に来るようになった。女房になる筈のお勝という娘は病気で、直ぐには婚礼も出来ねえそのうちに、隣りの娘と出来合ってしまった。それがお近さんに知れたので、やきもち喧嘩で大騒ぎだ。まあ、それまではいいとしても、それが為に幸之助は身を隠す、お勝という娘は自害する、お北という娘は身を投げる、お近さんは殺される。これほどの騒動が出来しちゃあ、唯済むわけのものじゃあねえ。積もってみても知れたことだ。お気の毒だが、おめえの主人も係り合いで、なにかの迷惑は逃がれめえと思う。そんな屋敷に長居をすりゃあ、おめえ達もどんな巻き添えを喰わねえとも限らねえ。まあそうじゃあねえか」\n 鉄造は息を呑むように黙っていた。\n「そればかりじゃあねえ。このごろ世間を騒がしている、白い蝶々の種もすっかり挙がっているんだ。火の番の娘のお冬という奴が、菅糸を付けて飛ばしているに相違ねえ」\n「おめえはどうしてそんなことを云うんだ」と、鉄造はあわてたように訊き返した。\n「そのくらいの事を知らねえようじゃあ、上の御用は勤まらねえ」と、吉五郎はあざ笑った。「もう斯うなったら仕方がねえ。方々に迷惑する人が出来るのだ。おめえも覚悟していてくれ」\n「嚇かしちゃあいけねえ。おれはなんにも知らねえと云うのに......」と、鉄造は少しく弱い音をふき出した。\n「おれは別に覚悟するほどの悪いことをしやあしねえ」\n「これだけ云っても、おめえに判らなけりゃあ、もういいや。そんな野暮な話は止めにして、まあゆっくりと飲むとしようぜ」\n 吉五郎は手をたたいて酒の代りを頼んだ。肴もあつらえた。そうして、無言で酌をしてやると、鉄造もだまって飲んだ。吉五郎も黙って飲んだ。二人はややしばらく無言で猪口のやり取りをしていた。ただ時々に吉五郎は睨むように相手の顔を見た。鉄造も偸むように相手の顔色を窺った。\n 云うまでもなく、これは一種の精神的拷問である。こうして無言の時を移しているあいだに、うしろ暗い人間はだんだんに弱って来て、果ては堪えられなくなるのである。元来が図太い人間は、更にそのあいだに度胸を据え直すという術もあるが、大抵の人間はこの無言の責め苦に堪え切れないで、結局は屈伏することになる。鉄造もこの拷問に堪えられなくなって来たらしく、手酌でむやみに飲みはじめた。\n 相手が思う壺にはまって来たらしいのを見て、吉五郎はいよいよ沈黙をつづけていると、鉄造も黙って飲んでいた。代りの徳利が三、四本も列べられた。\n「どういうものか、きょうは酔わねえ」と、鉄造はひとり言のように云いながら、吉五郎の顔を見た。\n 吉五郎はじろりと見返ったが、やはり黙っていた。鉄造も黙って又飲んでいたが、やがて再び口を切った。\n「おめえはもう飲まねえのか」\n 吉五郎は答えなかった。鉄造も黙って又飲んだが、やがて更に云い出した。\n「おい、おれ一人で飲んでいちゃあ、なんだか寂しくっていけねえ。おめえも飲まねえかよ」\n 吉五郎はやはり答えなかった。鉄造も黙って手酌で又飲んだが、徳利や猪口を持つ手が次第にふるえ出した。彼は訴えるように云った。\n「おい。なんとか返事をしてくれねえかよ。寂しくっていけねえ」\n 吉五郎は再びじろりと見返ったままで答えなかった。鉄造は彼自身も云う通り、きょうは全く酔わないのであろう、むしろ反対にその顔はいよいよ蒼ざめて来た。泣くように又訴えた。\n「おい。おめえはなぜ黙っているんだよ」\n「そりゃあこっちで云うことだ」と、吉五郎は初めて口を切った。「おめえはなぜ黙っているんだよ」\n「黙っていやあしねえ。おめえが黙っているんだ」\n「それじゃあ俺の訊くことを、なぜ云わねえ」と、吉五郎は鋭く睨み付けた。\n「だって、なんにも知らねえんだ」と、鉄造は吃りながら云った。\n「きっと知らねえか。知らなけりゃあ訊かねえまでのことだ。おれも黙っているから、おめえも黙っていろ」\n「もう黙っちゃあいられねえ」\n「それじゃあ云うか」\n「云うよ、云うよ」と、鉄造は悲鳴に近い声をあげた。\n「嘘をつくなよ」\n「嘘はつかねえ。みんな云うよ」\n「まあ、待て」\n 吉五郎は立って、階子の下をちょっと覗いたが、引っ返して来て再び鉄造とむかい合った。\n「さあ、おれの方からは一々訊かねえ。おめえの知っているだけのことを残らず云ってしまえ」\n 初めの喧嘩腰とは打ってかわって、鉄造はもろくも敵のまえに兜をぬいだ。それでも彼はまだ未練らしく云った。\n「おれがべらべらしゃべってしまった後で、おめえは俺をどうするんだ」\n「どうもしねえ、助けてやるよ」\n「助けてくれるか」\n 鉄造はほっとしたような顔をした。吉五郎は彼に勇気を付けるために、徳利を取って酌をしてやった。\n\n 一四\n\n 姉のお北の死骸が江戸川に浮かびあがった時、弟の瓜生長三郎は向島の堤下をあるいていた。\n 彼はきのうも姉のゆくえを尋ねあるいて、本所まで来たのであるが、日が暮れたので途中から帰った。そうして、親子相談の末、きょうも、長三郎は小松川から小梅、綾瀬、千住の方面に向かい、父の長八も非番であるので、これは山の手の方角に向かうことになった。今と違って、その時代の人々は親類縁者の義理をかかさず、それからそれへと遠縁の者までもふだんの交遊をしているので、こういう場合には心当たりがすこぶる多く、殊に交通不便の時代であるから、親類縁者を一巡さがし廻るだけでも容易でなかった。\n 長三郎はまず小松川と小梅の縁者をたずねると、どこにも姉のすがたは見えなかった。かえって先方では寝耳に水の家出沙汰におどろかされて、長三郎にむかって前後の事情などを詳しく詮議した。それらのために案外に暇取って、小梅を出たのは、もう七ツ(午後四時)を過ぎた頃であった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "不思善、不思悪、清濁併せ飲む境地へはまだ〳〵遠い、私はさしあたり私独りだけでも澄みきりたい。\n\n 四月四日\n\n雨、回光返照の雨。\n樹明君は学校へ、敬治君は自宅へ、私は其中庵主として。――\n閑寂のよろこび、自分の長短がはつきり解る。\n何年ぶりかで牛乳を飲む(樹明君が敬治君のために持参)。\n敬治君の顔は悲しかつた、樹明君の顔は痛ましかつた、私の顔は淋しかつたらう!\n\n・濁つた水で木かげ人かげ\n・白木蓮があざやかな夕空\n\n\n 四月五日\n\n曇、そして晴。\nやうやくにしていよ〳〵自己革命の時節が到来した。\n九時半の汽車で来庵の大前誠二さんを駅で迎へる、お土産として灘の生一本、茹章魚、干鰈。\n灘の生一本は何ともいへない醇酒だつた、さつそく一本頂戴した、酔心地のこまやかさ。\nちよつと街へ出て、お酌をしてくれる酒二三杯。\n夜は樹明、冬村の二君来庵、四人でおもしろく飲んで話した。\n道をおなじうするもののよろこび。\n\n椿の花、お燗ができました\n酒がどつさりある椿の花\n\n\n 四月六日\n\nごろ寝から覚めて、あれやこれやと忙しい(私の貧しい寝床は大前さんに提供したから)、冬村君が手伝つてくれる、樹明君もやつてくる。\n其中庵の春、山頭火の春。\n九時すぎ別れる、がつかりしてさみしかつた。\n敬坊の手紙はかなしい。\n夕方、樹明再来、つゝましく、といふよりも涙ぐましく対酌。\n\n・昼月へちぎれ雲\n 裏口からげんげたんぽぽすみれ草\n・芽ぶく梢のうごいてゐる\n・みんなかへつてしまつて春の展望\n・このさみしさは蘭の花\n・水をくむ影する水を\n 酔ひたい酒で、酔へない私で、落椿\n・やりきれない草の芽ぶいてゐる\n・出てあるいてもぺんぺん草\n・昼月のあるだけ\n・自分の手で春空の屋根を葺く\n・水音、寝ころぶ\n・石ころに日はさせども\n・死をまへにして濁つた水の\n・ひとりがよろしい雑草の花\n 春の夜のひとりで踊る\n 身にせまりやたらに芽ぶいてきた\n なんぼでも虫がゐる夜のふかくして\n・月と雲と、水をくむわたくし\n 摘んできて名は知らぬ花をみほとけに\n\n\n 四月七日\n\n花ぐもり、雨となつた。\n今朝はさすがの私も飲みたくない、飲めない、飲みすぎ食べすぎのたたりで気分がすぐれない、午前中は山野を逍遙した。\n酒には溺れるべし、それ以上を求めるのは間違なり。\nまづ、其中庵は其中庵臭を去れ、山頭火は山頭火臭を捨てろ、耽溺趣味、陶酔気分を解消せよ。\n△宗教は阿片にあらず、現代の宗教は現代の人々を麻痺せしめるだけの魅力を持つてゐない。\nぐつすりと春のねむり。\n\n・笹鳴くや墓場へみちびくみちの\n・がらくたを捨てるところ椿の落ちるところ\n・咲くより剪られて香のたかい花\n・酔ふたが雨の音\n・忘れられて空へ木の実のゆれてゐる\n・出て見れば雑草の雨\n\n\n 四月八日\n\n雨、花まつりの日。\n句集半切代入手、払うて買うて、すぐまた無一文。\n酔へばいら〳〵する、酔はなければぢつとしてゐられない、といつて!\n△酒のために苦楽のどん底をきはめることができたのである、尊い悪魔であつたよ、酒は!\n今日の身心は雨と酒とでぐつしよりだつた、だがあまり悔いるほどではなかつた、悔いたところで詮もないけれど。\n\n・山に霧が、さびしがらせる霧が山に\n 追加一句\n・日向ぽかぽかと歯がへやさんが歯がへしてゐる\n\n\n 四月九日\n\nまだ降つてゐる、書入れの日曜日が台なしになつて困つた人が多からう、まことに花時風雨多しである。\n寝て暮らした、寝るより外になかつたから。\n暮れてから、招かれて、樹明君を宿直室に訪ねる、気がすゝまなかつたのだが、そして遠慮してゐたのだが、逢へばやつぱり嬉しい。\nふくらうのさびしいうた! 百花春至為誰開!\n△肉慾の奴隷に堕しつゝある自分を鞭つ。\n\n・月のはばかりへちつてきた木の葉いちまい\n・なんとわるいみちのおぼろ月\n・あれはうちの灯、ぬかるみをもどる\n・しだれざくらがひつそりとお寺である\n・釣瓶の水がこぼれるなつめの実(追加)\n\n\n 四月十日\n\n曇、やうやくにして晴、そこらから花見のぞめきがきこえる。\n悪筆を揮うて送る、この悪筆が米代になるとは!\n知足安分の一日。\n△私の好きな着物はドテラとユカタ、浴衣に褞袍をかさねた快さ。\nすべてが、よりよくなるためのものでなければならない、今日は昨日より、明日は今日よりよりよい生活でなければならない、さて、よいとは何か、よりよい生活とは何か。――\n△木を見て林を見ない人間! さういふ人間であつてはならない。\nよく読み、よく考へた一夜だつた。\n\n・やたらに咲いててふてふにてふてふ\n 便所の窓まで芽ぶいたか\n・雑草にうづもれてひとつやのひとり\n・雑草ばかりで花見の唄のきこえるところ\n・花のよな木の芽ゆれつつ暮れる家\n 春の夜を落ちたる音の虫\n・気ままに伸んで香のたかい花つけて\n・あれは木蓮の白いゆふざれがきた(改作)\n かめば少年の日のなつめの実よ(追加)\n 遠く花見のさわぎを聞いてゐる\n\n\n 四月十一日\n\n日本晴、春や春、春の春。\nうらゝかな空腹だ(いやな行乞はやめとかう)。\n天地荘厳、摂取不捨。\n今日は絶食的断食である、絶食は他力的、断食は自力的、具体的に説明すれば、米がなくなつた、それもよからう、米なしデーにしてをく、である。\n溜池の杭の上に甲羅を干してゐる亀を見た。\n公園へ花見連中が繰り込むのを見ても何とも感じないが、山あがり(田舎人のピクニツク)へ行く一家族を見ると、何となく心を動かされる、そして、私の生活のムリ、といふよりもウソを解消しなければならない、と思ふ。\n△しづかなよろこび――空の、山の、草木の、土の、――流れる水にも、囀づる小鳥にも、吹き去る風にも。――\n△近頃どうも心持がきたなくなつたことを感じる、あさましい事実である、銭をほしがるのは貧乏のせいだが、物をむさぼるのは心の卑しさがのぞけないからである。\n\n・芽ぶかうとする柿の老木のいかめしく\n・芽ぐむ梨の、やつとこやしをあたへられた\n・おばあさんは草とるだけの地べたをはうて\n・蕗の葉のひろがるやかたすみの春は\n 花が咲いたといふ腹が空つてゐる\n・機械がうなる雲のない空(アスフアルトプラント)\n 亀がどんぶりと春の水\n・月へならんで尿するあたたか\n・花見のうたもきこえなくなり蛙のうた\n・春の夜を夜もすがら音させて虫\n\nよい月だつた(陰暦三月十七日)、寝るには惜しい月だつたが、寝床で読書してゐると、樹明酔来、私を街へ引張り出して、飲ましてくれたが、どうしても酔へなかつた。\n△私にはもう春もない、花もない、大きい強い胃袋があるだけだ。\nルンペンの自由と不自由とをおもひだした。\n△酒は女に酌してもらふより、山を相手に飲め。\n\n 四月十二日\n\nうら〳〵と春景色である。\nぢつとしてゐられなくなつたから、こゝで一杯、そこで一杯と借りて飲んだ、そして米を少しばかり借りて来た、あはれといふもおろかである。\n銭を持たないために、いひかへれば、私はズボラのために、他から軽蔑され、自分で軽蔑した。\n酔うて倒れてゐるところへ、樹明君が来た、酔うても愚痴を捨て切らない私といふ人間はさぞみじめだつたらうよ。\n\n・借せといふ貸さぬといふ落椿\n・ここに花が咲いてゐる赤さ\n・これが御飯である"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\n 四月十三日\n\n春にそむいて寝てゐた。――\n\n・夫婦で筍を掘る朝の音\n・桜の句を拾ふ吸殼を拾ふ(自嘲)\n\n\n 四月十四日\n\nくもり、しづかにふりだした。\n身辺整理、まづ書くべき手紙を書いてだす、それから、それから。\n雀が、めつたにおとづれもしない雀が二三羽きてくれた。\n昨日の夜明け方にはたしかにホトトギスの初声もきいた。\n樹明来、もう夜が明ける一升罎を持つて!\n\nしたしや雀がやつてきてないてゐる雨\n\n\n 四月十五日\n\nどうやら晴れるらしい。\nさびしいかな、樹明君の酔態。\n酒だけはあるから酒だけ飲む、飲めば酔ふからおもしろい。\nワヤに大小なし、高下なし。\nぐでん〳〵に酔つぱらつて戻つて、そして寝ましたよ。\n\n小鳥よ啼くなよ桜が散る\n蠅がなく、それだけか\nさくらまつさかりのひとりで寝てゐる\n\n\n 四月十六日\n\n寝てゐる、夢と現実とがカクテール。\n飲む酒はまだあるけれど、食べる飯は一粒もない。\n\n・いつもみんなで働らく声の花がちる\n さくらちるさくらちるばかり\n・伸びた草へ伸びた草で\n・街へ春風の荷物がおもい\n\n\n 四月十七日\n\n残つてゐた酒をあほつたら、ほろ〳〵になつた、ふら〳〵と出かけて樹明君から米代を借りた(といふよりも奪つた)。\n△飯をたべたら身心が落ちついてきた、――私は今更のやうに、食べることについて考へさせられた、米の飯と日本人!\nしつかりしろ、と私は私によびかける、いや私をどなりつけた。\n\n 鴉が啼いて椿が赤くて\n あるきまはれば木の芽のひかり\n・街はまだ陽がさしてゐる山の広告文字\n・暮れのこる色は木の芽の白さ\n\n私はずぼらでありすぎた、あんまりだらしがなかつた、いはゆる衣架飯袋にすぎなかつた。......\n\n 四月十八日\n\n晴れ晴れとした、うれしい手紙も来た、そして。――\n私には財布の必要はない、郵便局で小為替の金を受けて、その足で、払ふ、買ふ、すぐまた無一文だ、さつぱりしてよろしい!\nコツプ酒に酔うてゐたら、樹明君がきた、いつもとちがつて大真面目だつた。\n電燈がどうしてもつかない、故障だらうと思つて電気局へ行つたら、電燈料の滞納(二ヶ月分)だから、点燈差止との事、なるほど無理もない、仕方がないから蝋燭を買つてきて御飯にする、そして寝た、寝たがえゝ、寝たがえゝ。\n私の貧乏もいよ〳〵本格的になつてきた。\n\n 晴れてつめたい朝の洗濯赤いもの\n・よいお天気の葱坊主\n\n\n 四月十九日\n\n曇、雨となつて、花見もおしまひ。\n△まつたく泣笑の人生だ、泣くやうな笑ふやうな顔だ、いや、笑ふことが泣くこと、泣くことが笑ふことになつてしまつたのだから。\n夜は早く寝た、灯がなくては読書も出来ないから。\n\n・考へる人に遠く機械のうなる空\n・筍を掘るひそかな筍\n\n\n 四月二十日\n\n雨、曇、そして晴、私の気分もその通り。\nやつと古道具屋でランプを探しだして手に入れることができた、古風な新鮮味といつたやうなものを感じる、私には電燈よりもランプが相応してゐる。\n呪ふべき焼酎よ、お前と私とはほんとにくされ縁だねえ。\n夜おそく樹明君来庵、何か胸に痞えるものがあるらしく、頻りに街へ行かう、大に飲まうとすゝめたけれど、私は頑として応じなかつた、とう〳〵諦めて寝てしまつた、善哉々々。\n\n・街の雑音のそらまめの花\n せり売の石楠花のうつくしさよ\n・シクラメン、女の子がうまれてゐる\n・花がちる朝空の爆音\n・草から草へ伸びる草\n・せゝらぎ、何やら咲いてゐる\n\n\n 四月二十一日\n\n曇、平静な身心、晴。\n樹明君がきまりわるさうな顔をしてゐる、昨夜は脱線しないでよかつた、酔うて苦しみをごまかすのは卑怯だ。\n小鳥の声がいらゞたしくなつた、恋、交接、繁殖。\n蕗がだいぶ伸びたので摘む、蛇がのろ〳〵して驚かす。\n雑草を活けかへる、いゝなあとばかり見惚れる。\n山東菜を播いた。\nランプのあかりで読書。\n\n・梨の花の明けてくる\n・咲いてゐる白げんげも摘んだこともあつたが\n・竹藪のしづもりを咲いてゐるもの\n・蕗をつみ蕗を煮てけさは\n 麦笛ふく子もほがらかな里\n 雑草ゆたかな春が来て逝く\n・播いてあたゝかな土にだかせる\n・おもひではあまずつぱいなつめの実\n・いらだたしい小鳥のうたの暮れてゆく\n・ぬいてもぬいても草の執着をぬく\n\n昨夜はとう〳〵徹夜、それだのに今夜も睡れさうにない。\n△性慾をなくしたノンキなおぢいさん! 私もどうやらそこまで来たやうだ(去年は性慾整理で時々苦しんだが)。\n\n 四月廿二日\n\n快晴、しかし何となく気が欝ぐ、この年になつて春愁でもあるまい、もつとも私は性来感傷的だから、今でも白髪のセンチメンタリストかな。\n山へのぼつた、つつじの花ざかりだ、ぜんまいはたくさんあるが、わらびはなか〳〵見つからない、やつと五本ほど摘んだ(これだけでも私一人のお汁の実にはなるからおもしろい)、そしてつゝじ一株を盗んできて植ゑて置いた。\n柿が芽ぶいた、棗はまだ〳〵、山萩がほのかに芽ぶかうとしてゐた、藤はもう若葉らしくなつてゐた。\n昨日は蕗、今日は蕨、明日は三つ葉。\n雀がきた、雀よ雀よ、鼠がゐた、鼠よ鼠よ。\nみみづをあやまつて踏み殺し、むかでをわざと踏み殺した。\n山で虻か何かに刺された。\n持つてゐる花へてふてふ、腕へとんぼがとまつた。\nすばらしい歌手、名なし小鳥がうたつてゐた。\n今日は敬坊が、そして樹明君も来庵する筈なので、御馳走をこしらへて待つてゐる、――大根の浅漬、若布の酸物、ちしやなます、等々!\n春は芽ぶき秋は散る、木の芽、草の芽、木の実、草の実――自然の姿を観てゐると、何ともいへない純真な、そして厳粛な気持になる、万物生成、万象流転はあたりまへといへばそれまでだけれど、私はやつぱり驚く。――\n夕方、電燈工夫が来て、電燈器具をはづして持ちかへつた、彼は好人物、といふよりも苦労人らしかつた、いかにも気の毒さうに、そして心安げにしてくれた。\nそれにしても待つてる友は来ないで、待たない人が来たものである。\nこゝで敬坊と樹明君との人物について、我観論を書き添へて置くのも悪くあるまい、両君とも純情の人である、そしてそれは我儘な人であり、弱い人であることを示してゐる、純なるが故に苦しみ我儘なる故に悩む、君よ、強い人となれ、私も。\n\n 濫作一聯如件\n・みほとけに供へる花のしつとりと露\n・朝風のうららかな木の葉が落ちる\n 仏間いつぱいに朝日を入れてかしこまりました\n・山へのぼれば山すみれ藪をあるけば藪柑子\n・山ふところはほの白い花が咲いて\n・によきによきぜんまいのひあたりよろし\n・山かげ、しめやかなるかな蘭の花\n うつろなこゝろへ晴れて風ふく\n・雲のうごきのいつ消えた\n 燃えぬ火をふくいよ〳〵むなし\n まひるのかまどがくづれた\n いちにち風ふいて何事もなし\n 椿ぽとりとゆれてゐる\n・鳥かけが見つめてゐる地べた\n・墓場あたたかい花の咲いてゐる\n ほそいみちがみちびいてきて水たまり\n・春ふかい石に字がある南無阿弥陀仏\n 春たけなはの草をとりつつ待つてゐる\n・ようさえづる鳥が梢のてつぺん\n 親子むつまじく筍を掘つてをり\n・筍も安いといひつつ掘つてゐる\n 木の芽へポスターの夕日\n\n暮れてもまだ敬坊は来ない、樹明君も来ない、いら〳〵してゐるところへやつとやつて来た、御持参の酒を飲みつゝ話してゐると、樹明君もやつてきた、三人とも酔ふた、酔うて。――\n樹明君近来の口癖はブチコワスゾである、何カヲブチコワサズニハヰラレナイホド、君は悩み苦しみ焦立つてゐる、そこで、私が先づ茶碗をぶちこはす、樹明君喜んで皿を投げつける、ガチヤンガラガラ、どうやら胸がすいたらしい。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " さうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまつたのである。\n『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』\n 信一郎の心に、さう叫ぶ声が起つた。『それで彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取つて返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨の籠つた時計を、不得要領に、返すなどと云ふことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』\n 信一郎の心の中の或る者が、さう叫び続けた。が、心の中の他の者は、かう呟いた。\n『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思ふのか。お前は、今の今迄危く夫人に翻弄されかけてゐたではないか。夫人の張る網から、やつと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変へて駈付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまふのだ。』\n かうした硬軟二様の心持の争ひの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近く帰つてゐた。停留場からは、一町とはなかつた。\n 電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止つてゐるのに気が付いた。\n\n六\n\n 信一郎の興奮してゐた眸には、最初その自動車が、漠然と映つてゐる丈だつた。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従つて、『社の連中と多摩川へ行く。』などと云ふ口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰つて行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈の、口実を考へ出すことが、可なり心苦しかつた。彼は、電車の中でも、何処か外で、ゆつくり時間を潰して、夕方になつてから、帰らうかとさへ思つた。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかつた。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかつた。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管欲するやうに、他人との軋轢や争ひに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持つてゐる平和や、妻の持つてゐる温味の裡に、一刻も早く、浴したかつたのである。縦令、もう一度妻を欺く口実を考へても、一刻も早く家に帰りたかつたのである。\n が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まつてゐた。今日の自動車も、やつぱり何時もの自動車ではないかと、信一郎は最初思つてゐた。が、近づくに従つて、何時もとは、可なり停車の位置が違つてゐるのに気が付いた。何うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかつた。\n が、段々家に近づくに従つて、恐ろしい事実が、漸く分つて来た。何だか見たことのある車台だと云ふ気がしたのも、無理ではなかつた。それは、紛れもなくあの青色大型の、伊太利製の自動車だつた。信一郎も一度乗つたことのある、あの自動車だつた。さうだ、此の前の日曜の夜に、荘田夫人と同乗した自動車に、寸分も違つてゐなかつた。\n 夫人が、訪ねて来たのだ! さう思つたときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。\n 出先で、妖怪に逢ひ這々の体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻りして、自分の家に這入り込んでゐる。昔の怪譚にでもありさうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまつた。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻りして、その家庭の平和をまで、掻き擾さうとしてゐる。静かな慎しい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾さうとしてゐる。\n 信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真中に立ち竦んだまゝ、何うしてよいか分らなかつた。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変つて行つた。\n 温和しい妻が、美しい、溌剌たる夫人の突然な訪問を受けて狼狽してゐる有様が、あり〳〵と浮んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交りを結んでゐたと云ふことが、どんなに彼女を痛ましめたであらうかと思ふと、信一郎は一刻も、ぢつとしてはゐられなかつた。温和しい妻が夫人のために、どんなに云ひくるめられ、どんなに飜弄されてゐるかも知れぬと思ふと、一刻も逡巡してゐるときではないと思つた。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞へばいゝ。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救つてやるのが第一の急務だと思つた。\n それにしても、夫人は何の恨みがあつて、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであらう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾さうとするのであらうか。今は夫人の美しさに、怖れてゐるときではない。戦へ! 戦つて、彼女の僅に残つてゐるかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! さうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦つてやる時だ! さう思ひながら、信一郎は必死の勇を振つて、敵の城の中へでも飛び込むやうな勢で、自分の家へ飛び込んだのである。\n\n七\n\n 玄関先に立つてゐる、もしくは客間に上り込んでゐる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突つかゝつて行く覚悟の臍を固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜つた。\n 見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下してゐるのが先づ眼に入つた。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るやうに、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかつた。手早く眼をやつた玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨てゝはなかつた。信一郎は、少しは救はれたやうに、ホツとしながら、玄関へ入らうとした。\n 運転手は素早く彼の姿を見付けた。\n「いやあ。お帰りなさいまし。先刻からお待ちしてゐたのです。」\n 彼は、馴れ〳〵しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だつた。が、運転手は信一郎を、もつと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。\n「奥さん! やつぱり、お帰りになりましたよ。何処へもお廻りにならないで、直ぐお帰りになるだらうと思つてゐたのです。」\n 運転手は、いかにも自分の予想が当つたやうに、得意らしく云つた。運転手が、さう云ふのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに判つた。\n「御主人はお帰りになりましたか。」\n 運転手は、最初さう訊ねたに違ひない。\n「いゝえ、まだ帰りません。」\n 妻は、自身若しくは女中をしてさう答へさせたに違ひない。\n「それぢや、お帰りになるのをお待ちしてゐませう。」\n 運転手は、さう云つたに違ひない。\n「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだらうと思ひます。」\n 何も知らない、信一郎を信じ切つてゐる妻は、さう答へたに違ひない。それに対して、この無遠慮な運転手はかう言ひ切つたに違ひない。\n「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今私の宅からお帰りになつたのですから、外へお廻りにならなければ三十分もしない裡に、お帰りになります。」\n 初めて会つた他人から、夫の背信を教へられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙つたに違ひない。さう思ふと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒を感ぜずにはゐられなかつた。\n 信一郎は、可なり激しい、叱責するやうな調子で運転手に云つた。\n「一体何の用事があるのです?」\n 運転手は、ニヤ〳〵気味悪く笑ひながら、\n「宅の奥様のお手紙を持つて参つたのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承はつて来い! お帰になるまで、お待して返事を承はつて来い! と、申し付けられましたので。」\n 運転手は、待つてゐることを、云ひ訳するやうに云つた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 手紙を持つて来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽した。妻に、内密で、ある女性を訪問したことが露顕してゐる上に、その女性から急な手紙を貰つてゐる。さうしたことが、どんなに妻の幼い純な心を傷けるかと思ふと、信一郎は顔の色が蒼くなるまで当惑した。彼は、妻に知られないやうに、手早く手紙を受け取らうと思つた。\n「手紙! 手紙なら、早く出したまへ!」\n 信一郎は、低く可なり狼狽した調子でさう云つた。\n 運転手が、何か云はうとする時に、夫の帰りを知つた妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しさうに笑ひながら、\n「お手紙なら、此方にお預りしてありますのよ。」と、云ひながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷つてゐる信一郎の眼にも美しく映つた。\n\n\n面罵\n\n一\n\n 妻から、荘田夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるやうに熱くなつた。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののやうに、真面から見ることが出来なかつた。\n が、静子の顔は、平素と寸分違はぬやうに穏かだつた。春のやうに穏かだつた。夫の不信を咎めてゐるやうな顔色は、少しも浮んでゐなかつた。見知らぬ女性から、夫へ突然舞ひ込んで来た手紙を、疑つてゐるやうな容子は、少しも見えなかつた。夫の帰宅を、いそ〳〵と出迎へてゐる平素の優しい静子だつた。\n 信一郎は、妻の神々しい迄に、慎しやかな容子を見ると、却つて心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切つてゐる妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心の中で懺悔した。\n 妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのやうに、厭はしく感ぜられた。もし、人が見てゐなかつたら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、さうすることは却つて彼女に疑惑を起させる所以だつた。信一郎は、おづ〳〵と封を開いた。\n 手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂が、信一郎の鼻を魅するやうに襲つた。が、もうそんなことに依つて、魅惑せらるゝ信一郎ではなかつた。\n 彼は敵からの手紙を見るやうに警戒と憎悪とで、あわたゞしく貪るやうに読んだ。\n\n\n『先刻は貴君を試したのよ。妾の客間へ、妾と戯恋しに来る多くの男性と貴君が、違つてゐるか何うかを試したのですわ。妾は戯恋することには倦き〳〵しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしてゐるやうな真似をする。擬似恋愛! 妾は、それに倦き〳〵しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先丈で、恋をしてゐるやうな真似をする。恋をしてゐるやうな所作丈をする。恋をしてゐるやうな姿勢丈を取る。妾は、妾の周囲に蒐まつてゐる、さうした戯恋者のお相手をすることには、本当に倦き〳〵しましたのよ。妾は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞ふ方が欲しいのよ。凡ての動作を手先丈でなく心の底から、行ふ方が欲しいのよ。\n貴君が忿然として座を立たれたとき、妾が止めるのも、肯かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿を見たとき、この方こそ、何事をも真剣になさる方だと思ひましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思ひましたの。妾が長い間、探ねあぐんでゐた本当の男性だと思ひましたの。\n信一郎様!\n貴方は妾の試に、立派に及第遊ばしたのよ。\n今度は、妾が試される番ですわ、妾は進んで貴方に試されたいと思ひますの。妾が、貴方のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直ぐ此の自動車でいらしつて下さい!\n\n瑠璃子』\n\n 手紙の文句を読んでゐる中に、瑠璃子夫人の怪しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなつた蛇か何かのやうに、また信一郎の頭の中に、ムク〳〵と動いて来た。\n 夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないやうに、思はれた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛や追従や甘言や、戯恋に倦き〳〵してゐるのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めてゐるかも知れない。さう思つてゐると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るやうな頬が、信一郎の眼前に髣髴した。\n が、次ぎの瞬間には青木淳の紫色の死顔や、今先刻見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。\n\n二\n\n 手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従つて、夫人に対する憤ろしい心持が、また信一郎の心に甦つて来た。かうした、人の心に喰ひ込んで行くやうな誘惑で、青木淳を深淵へ誘つたのだ。否青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否彼女の周囲に蒐まる凡ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させてゐるのだ。彼女を早くも嫌つて恐れて、逃れて来た自分にさへ、尚執念深く、その蜘蛛の糸を投げようとしてゐる。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸ふ吸血鬼だ。さう思つて来ると、信一郎の心に、半面血に塗れながら、\n『時計を返して呉れ。』\n と絶叫した青年の面影が、又歴々と浮かんで来た。さうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかつたのだ! 青年の恨みを、十分に籠めて叩き返さなければならぬ時計だつたのだ! 殊に、青年の手記の中の彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハツキリと分つてしまつた以上、自分にその責任が、儼として存在してゐるのだ。恐ろしいものだからと云つて、面を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代つて、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代つて、彼女の僅かしか残つてゐぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! さうだ! 一身の安全ばかりを計つて逃げてばかりゐる時ではないのだ! さうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪の幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救ふために、否凡ての男性を彼女の危険から救ふために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。\n 信一郎の心が、かうした義憤的な興奮で、充された時だつた。妻の静子は、――神の如く何事をも疑はない静子は、信一郎を促すやうに云つた。\n「急な御用でしたら、直ぐいらしつては、如何でございます。」\n 妻のさうした純な、少しの疑惑をも、挟まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓ふため、夫人の面に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。\n 信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面を、薄赤く興奮させながら、妻に云ふともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。\n「ぢや直ぐ引返すことにせう。早くやつてお呉れ!」\n 彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫へるのを感じた。\n「畏まりました、七分もかゝりません。」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "\n第二十八回\n\n 既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内として平石次右衞門出迎へ平伏し先に立て案内す天一坊は沓の儘にて次右衞門に伴られ行に常樂院は天一坊の未だ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を掛ければ天一坊は常樂院を見るに早沓を脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも見に何も履物を穿ざれば天一坊も沓を拔捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き床を設け其上に越前守忠相丸に向ふ矢車の定紋を付繼上下にて控へ左右に召捕手の役人數多並び居るにぞ如何なれば大坂御城代を始京都所司代御老中の役宅にても自分を上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座なすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿役宅にては間も隔し故若見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌熟々視るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見究しも未だ確なる證據なき故召捕ること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主坊主餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極なりと叱付れば天一坊は莞爾と打笑ひ越前は逆上せしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿になり當時町奉行を勤め人々尊敬すればとて慢心増長なせしか若予が答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ唯聞流にして遣さんに篤と勘考すべしとて悠然と控へければ頓て常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠和尚進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主僞物なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂京都及び老中の役宅に於て將軍の落胤に相違なしと確認の附しを足下のみ左樣に云るゝは如何なりと云に越前守假令大坂御城代并に御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が目には僞物に相違なしと思はるゝといふ常樂院又云ふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角に知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧が詳細認めて御目に掛んと筆を取出し佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子に成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育なし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住すれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取再三見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略は知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に繋り居ては面倒なり山内めを呼出し渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代并に御老中の役宅にて喋々と饒舌し者は此席に居や罷出よ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人に尋んより我に問ば我一言の下に越前を屈服させんと待處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中の役宅にて取切て應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方なるか然ば手札を出すべしと云ふに山内懷中より手札を差出す越前守は手に取克々見て其方の名前は山内伊賀亮かと尋ねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守推返して伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字は其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと尋ねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて附し文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮と云文字は則ち守といふ字にて取も直さず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來にて何を以て守を名乘るやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は愚か如何に零落するとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に默れ山内其方以前は九條家の家來と有ば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は指おかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也とて正四位上中將の官位にて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から〳〵と打笑ひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理なり此伊賀亮の身分に正四位上中將の備りある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿卑きもの故に聊か役に立者有ば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中は北の御門へ御笏代りに雇れ參りし事折々なり此北の御門とは四親王の家柄にて有栖川宮桂宮閑院宮伏見宮を四親王と稱す當時は伏見宮を除き三親王なり此伏見宮を稱して北の御門と云其譯は天子に御世繼の太子在さぬ時は北の御門御夫婦禁庭へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を勤る事は正四位上中將の官ならでは能はず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の節笏にて禁中の間毎々々に垂ある簾を揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏を拜し玉ふ時は此笏を持事の叶はぬ故御笏代りとて御裾の後に笏を持ち控居て餘所乍ら玉體を拜するを得者なり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の節北の御門へ奏聞を遂しに御門は御略體にてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代りをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令九條家を退身し何國の果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官正二位大納言たる可との尊命を蒙むれば山内此末非人乞食と成果るも官位は身に備れば伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候也と辯舌滔々と水の流る如くに述ければ流石の越前守も言葉なく暫時控られしが稍有て山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物に相違なければ召捕可といふに伊賀亮容を改め越前守殿何故に天一樣を似者と云るゝやと尋ければ越前守然ば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに毫も覺なしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を聞將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆と墨附及びお證據のお短刀あり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御面部の瓜を割たるが如きのみか御音聲迄も其儘なり是御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御伺ひ下されたし克々御勘考遊ばされなば屹度御覺有べしと述れば越前守は大音に伊賀亮默れ天一坊の面體よく將軍御幼年の御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは僞り者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人にて將軍の御音聲を知べき筈なしと咎められしに山内は嘲笑御面部また御音聲まで似奉る事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御簾中は九條前關白太政大臣の姫君にてお高の方と申し其お腹に誕生まし〳〵しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし砌拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者にて參りお手習和學の御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも能承知致せばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守殿お疑ひは晴しやと言詰るに越前守は亦た言葉なく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を凝して居られける\n\n第二十九回"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 扨も大岡越前守は再度まで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中に悦こび此度こそは閉口させんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達ならば官位は何程なるやと問ふに山内最初の官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又宰相は東叡山の宮樣と何程の相違ありやと問ふに山内宮樣は一品親王なり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし先天子の御隱居遊されしを仙洞御所と稱し一品親王なり又天子御世繼の太子を東宮と云是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一品准后にして准后とは天子の后に准ずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓を取者の位さへ左大臣右大臣ならでは取事叶ざれば御登城には御沓取なくお乘物を玄關へ横付にせられ西湖の間にて將軍に御對顏あらばお沓はお用ひなし故に宮樣と宰相とは主從の如くなれど今少し官位の相違有んかと答へらる越前守是を聞れ然らば天一坊を召捕といふ山内また何故に天一坊を召捕と云はるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色網代蹴出黒棒は勿體なくも日本廣しと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣に齊き乘物に乘しは不屆なれば召捕と云しなり此の時山内から〳〵と打笑ひ越前守殿左樣に知るゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき筈なり今ま山内が此所にて飴色網代のお咄申さんに先將軍の官職より解出さゞれば解し難し抑々將軍に三の官ありしは征夷大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給ふの官なり尤も小石川御館のみは直に京都より官職を受るなり二は淳和院とて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院とて總公家を支配する官職なり然れど江戸にて斯京都の公家を支配する譯は天子若關東を※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)せらるゝ事有ては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞ありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言せられしに秀忠公も亦深慮を廻され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計はんと姫君お福の方を後水尾院の皇后に奉つらる之を東福門院と稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし〳〵ける其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是宮樣の始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御東伐ある時は宮樣を天子として御綸旨を受る爲なり然ども天子には三種の神器あり此中何れにても闕れば御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を祈る爲と奏聞有て草薙の寶劔を降借せられ其後返上なく東叡山に納たり夫寶は一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座と唱へ毎月晦日に三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物ゆゑ闇の夜ならでは持歩行事ならず依て月の晦日は闇なれば假令晝にても燈火照して御遷座あるは此譯也斯く如く宮樣の御身分は今にも天子に成せ給ふや又御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物の中を朱塗になし其上に黒漆を掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を表したるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ今天一坊樣の御身も御親子御對顏の上は西丸へ直らせらるゝや又御三家格なるや將會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に成せ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗の上に黒漆を掛て飴色網代に仕立しは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀惡かるべきやと問詰れば越前守は言葉なく無念に思へども理の當然なれば齒を切齒りて控へられしが稍ありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に向ひ奉行越前御證據の御品拜見願ひ奉つると云ひければ天一坊は奉行越前へ拜見許すと云ふ頓て藤井左京長持の錠を開て二品を取出し越前守の前に出す越前守は覆面もせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに疑ひもなき天下三品の短刀にて縁頭は赤銅斜子に金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子作は後藤祐乘にて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎兼氏なり是は東照神君が久能山に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵へにて備前三郎信國の短刀は御十男尾張大納言義直卿へ又同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下されたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見し終りて故へ收め俄に高き床より飛下低頭平身して斯の如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男に相違有ましく越前役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒彼方へ入らせらるゝ樣にと襖を明れば上段に錦の褥を敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり頓て赤川大膳をも呼來り簾の左右には伊賀亮常樂院其次には大膳藤井左京等並居る此時越前守は遙か末座に跪づきてお取次を以て申上奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前差控へ餘人を以て吉日良辰を撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此由披露に及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り許すとの言にて簾をきり〳〵と卷上天一坊堂々と越前守に向ひ越前予に對し無禮過言せしは父上の御爲を思ひてなれば差控へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮は許すといひ又越前片時も疾く父上に對面の儀取計ふべしと有ば越前守は恐れ入て有難き上意を蒙り冥加に存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ夫れまでは八山御旅館に御休息ある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急ぎて御親子御對顔の儀頼み入と云に越前守には何れにも近々の内取計らひ申べしと返答に及れける是より歸館を觸出して天一坊は直樣敷臺より乘物にて立出れば越前守は徒跣にて門際まで出て平伏す駕籠脇少し戸を引ば天一坊は越前居かと云に越前守ハツと御請を致されたり斯て天一坊の威光熾盛に下に〳〵と呼りつゝ芝八山の旅館を指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付て云と計り氣絶せしかば公用人を始め家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を灌ぎなどしければ漸々にして我に復りホツと息を吐乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに渠が器量の勝れしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶したりと切齒をなして憤られしも道理なる次第なり\n\n第卅回\n\n 去程に大岡越前守は今日社は山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め殘らず召捕んものをと手當にまで及びしが思ひの外越前守は言伏られ返答にさへ差閊へたれば一先恐入て天一坊に油斷させ自ら病氣と披露し其内に紀州表を調んものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣の御屆けを差出させ又平石次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を始め常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣ふ物なし近々の内には大岡の取計ひにて御對顏あるに相違なし事大方成就せりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿一人愁ひ給ふは如何成仔細に候やと尋ねければ山内は成程各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口屈伏したりと思はるゝならんが此伊賀亮が思ふには今日大岡が恐れ入りしは僞りにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調ぶるは必定越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一苦勞なりと云に大膳始め皆々驚愕然ば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して宜らん抔案じけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を成ば我又其裏をかく詮方ありと皆々に物語る處へ取次戸村馳來り只今町奉行方より平石次右衞門使者に參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡氣脱致し候や癪氣さし起り候に付今日より引籠候との由なりと云ふに山内是を聞て扨こそ只今申通り我々を召捕了簡と相見たりと云へば皆々山内が明察を感じて止ざりしと扨も越前守は若黨草履取を供に連紀州の上屋敷へ到り門番所にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去せられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一禮を述加納大隅守殿の長屋を聞合せ直樣宿所へ趣き案内を乞大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守推參仕まつり候御取次下さるべしと云に取次の者此由を通じければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾ながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御召使ひに澤の井と申女中の御座候ひしやと聞に大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年跡の事は一向辨へ申さずと答へらる越前守推返して然らば御母公には御存命に御座候やと申さるに大隅守殿拙者儀は妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢なされ候とも物の役には立申さずと言るゝに越前守御老體御迷惑とは存候へども御目通り願ひ度候と言るゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母正榮尼に向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り願ひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御當病と仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼いやとよ奉行越前守が折角來り給ふを對面せぬも無禮なり逢申べし大隅心遣ひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人後々の障になることは申すまじよし申にもせよ老耄致し前後の辨へ無と申さば少も其方の邪魔には成申すまじ氣遣ひ無此方に案内致す可と申さるゝ故大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母の居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候の挨拶を述次に御六か敷とも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三年以前に御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと尋らるゝに母公答て私し共紀州表に住居致し候節召使の女も五六人宛置候が澤の井瀧津皐月と申す名は私し家の通名にて候故何の女なりしや一向に分り兼候と云越前守然らば其中にて御家に御奉公長く勤め候女中御座候やとあるに母公然ば和歌山在西家村の神職伊勢が娘の菊と申者私し方に十五年相勤候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承まはり候と云るゝに越前守更に手懸なく然ば廿二三年跡の澤の井が證文御座候やと聞けるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一通も御座無斯樣に計り申ては何か御不審も有べけれど紀州の國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二軒あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し女は榎本屋三藏世話にて此二軒より主人方へ證文差出し抱へ候にて主人方にては一向奉公人の宿を存申さず親元よりは口入人の方へ證文を出し候由承まはり候然ば奉公人の宿を御尋成り候には紀州表にて口入人を御調なされずは相分り申まじと云に越前守委しく承まはり左樣ならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一禮述急御役宅へ立歸り公用人平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし萬一澤の井の宿榎本屋三藏方にて分り兼候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監方に十四五年も相勤め居候由成ば此者を呼出しなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家の一大事家の安危なるぞ急げ〳〵途中は金銀を吝むな喩にも黄金乏ければ交り薄しと云へり女子と小人は養ひ難しとの聖言を守るなと委細に申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命畏り奉つると早速先觸を出し直樣桐棒駕籠に打乘白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿より道中駕籠一挺に人足廿三人を付添酒代も澤山に遣す程に急げ〳〵と急立ける御定法の早飛脚は江戸より京都迄二日二夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財して急がせける程に百五十里の行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎へ彼奉行所本町東の本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息もせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出し澤の井の宿所を尋ねしに大黒屋源左衞門は男のみ世話する故女の奉公人の儀は存じ申さずとの事なれば然ばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を糺けるに親三藏は近年病死致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年跡の事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年前の奉公人の宿帳を調べしと申付るに三年以前に隣家より出火致し古帳は殘らず燒失致し候と云故少も手懸り無れば次右衞門三五郎は三藏に向ひ和歌山に西家村と云處有やと云へば是より一里許り在に候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢同人妻菊同道にて東の本陣へ罷り出べき旨差紙を遣はしける神職伊勢は差紙を見て大いに驚き女房に向ひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方和歌山加納樣方に奉公致し居候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人より何事を尋ねらるゝ共一向覺え申さずと云ふべし憖ひに知顏なさば懸合となりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細承知なし少しも案じ給ふ事なかれ何事も知らずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通のヘクタ貿易商会はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね」\n「あいよ。うまくやってくるよ」\n トラックは走りだした。\n 隆夫のたましいは、枯草の中へ深くもぐりこんで、しばらく睡ることにした。車が停ったら、起きて出ればよいのだ。そのときはカッタロの町とかへ、ついているはずだ。\n たましいは、ぐっすり寝こんだ。\n 運転手の大きな声で、目がさめた。枯草をかきわけて出てみると、なるほど町へついていた。古風な町である。が、町の向うに青い海が見える。港町だ。\n 港内には、大小の汽船が七八隻碇泊している。西日が、汽船の白い腹へ、かんかんとあたっている。\n トラックが、また走りだした。\n 港の方を向いて走る。隆夫のたましいは、車上からこの町をめずらしく、おもしろく見物した。革命と戦火にたびたび荒されたはずのこの港町は、どういうわけか、どこにも被害のあとが見られなかった。そしてどこか東洋人に似た顔だちを持った市民たちは、天国に住んでいるように晴れやかに哄笑し微笑し空をあおぎ手をふって合図をしていた。婦人たちの服装も、赤や緑や黄のあざやかな色の布や毛糸を身につけて、お祭の日のように見えた。\n そのうちにトラックは、海岸通へ走りこんで、ヘクタ貿易商会の前に停った。枯草は、この商会が買い取るらしい。そのような取引を、隆夫のたましいは見守っていたくはなかった。彼は、今しも岸壁をはなれて出港するらしい一隻の汽船に、気をひかれた。\n 彼は燕のように飛んで、その汽船のマストの上にとびついた。ゼリア号というのが、この汽船の名だった。五百トンもない小貨物船であった。\n それでも岸壁には、手をこっちへ振っている見送り人があった。船員たちが、ハンドレールにつかまって、帽子をふって、岸壁へこたえている。煙突のかげからコックが顔を出して、ハンカチをふっている。隆夫のたましいが、つかまっているマストの綱ばしごにも、二三人の水夫がのぼって、帽子を丸くふっていた。かもめでもあろうか、白い鳥がしきりに飛び交っている。その仲間の中には、隆夫のたましいのそばまで飛んできて、つきあたりそうになるのもいた。\n「港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ」\n「早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ」\n かもめは、そんなことをいいながら、この汽船が海へ捨てるはずの調理室の残りかすを待ちこがれていた。\n 隆夫のたましいは、久しぶりにひろびろとした海を見、潮のにおいをかいで、すっかりうれしくなり、いつまでも眺めていた。白い航跡が消えて、元のウルトラマリン色の青い海にかえるところあたりに、執念ぶかくついてきた白いかもめが五六羽、しきりに円を描いては、漂流するごちそうめがけて、まい下りるのが見られた。\n 船の舳が向いている方に、ぼんやりと雲か島か分らないものが見えていたが、それは陸地だと分った。左右にずっとのびている。そうだ、あれだ、イタリア半島なのだ。するとこの船はイタリア半島のどこかの港にはいるのにちがいない。一体どこにつくのだろうか。\n 隆夫のたましいは、もうすっかり大胆になっていたので、マストをはなれて下におりてきた。\n そして船橋へとびこんだ。そこには船長と運転士と操舵手の三人がいたが、誰も隆夫のたましいがそこにはいってきたことに気のつく者はいなかった。\n その運転士が、航海日記をひろげて、何か書きこんでいるので、そばへ行って見た。その結果、この汽船は、対岸のバリ港へ入るのだと分った。\n やがてバリ港が見えてきた。\n 小さな新興の港だ。カッタロ港とは全然おもむきのちがった港だった。そのかわり、町をうずめている家々は、見るからに安普請のものばかりであった。戦乱の途中で、ここを港にする必要が出来て、こんなものが出来上ったらしい。殺風景で、いい感じはしなかった。\n 入港がまだ終らないうちに、隆夫のたましいは汽船ゼリア号に訣別をし、風のように海の上をとび越えて、海岸へ下りた。\n 不潔きわまる場所だった。見すぼらしい人たちが、蝿の群のように倉庫の日なたの側に集っている。隆夫のたましいは、ぺッと唾をはきたいくらいだったが、それをがまんして、ともかくも彼らの様子をよく拝見するために、その方へ近づいていった。\n 一人の男が、ぼろを頭の上からまとって棕梠の木にもたれて、ふところの奥の方をぼりぼりかいていた。隆夫のたましいは、その男の顔を見たとき、\n「おやッ」\n と思った。どこかで見た顔であった。\n\n\n 大奇遇\n\n\n 隆夫のたましいは、そのあわれな人物の顔を、何回となく近よって、穴のあくほど見つめた、彼は、そのたびにわくわくした。\n「どうしても、そうにちがいない。この人はぼくのお父さんにちがいない」\n 隆夫の父親である一畑治明博士は、永く欧洲に滞在して、研究をつづけていたが、今から四、五年前に消息をたち、生きているとも死んだとも分らなかった。が、多分あのはげしい戦禍の渦の中にまきこまれて、爆死したのであろうと思われていた。その方面からの送還や引揚者の話を聞き歩いた結果、最後に博士を見た人のいうには、博士は突然スイスに姿をあらわし、一週間ばかり居たのち、危険だからスエーデンへ渡るとその人に語ったそうで、それから後、再び博士には会わなかったという。\n では、スエーデンへうまく渡れたのであろうか。その方面を聞いてもらったが、そういう人物は入国していないし、陸路はもちろん、空路によってもスイスからスエーデンへ入ることは絶対にできない情勢にあったことが判明した。\n そこで、博士はスイス脱出後、どこかで戦禍を受け、爆死でもしたのではなかろうかという推定が下されたのであった。\n ところが今、隆夫のたましいを面くらわせたものは、イタリアのバリ港の海岸通の棕梠の木にもたれている男の顔が、なんと彼の父親治明博士に非常によく似ていることであった。\n「お父さん。お父さん。ぼく隆夫です」\n と、隆夫のたましいは呼びかけた。くりかえし呼びかけた。\n だが、相手は知らぬ顔をしていた。顔の筋一つ動かさなかった。\n 隆夫のたましいは失望した。\n「すると、人ちがいなのだろうか」\n すっかり悲観したが、なお、あきらめかねて隆夫のたましいは男の上をぐるぐるとびながら、彼のすることを見守っていた。\n 男は、木乃伊のように動かなかった。棕梠の木に背中をもたせかけたままであった。ところが一時間ばかりした後、その男はすこし動いた。彼は座り直した。片坐禅のように、片足を手でもちあげて、もう一方の脚の上に組んだ。それから両手を軽く握り目をうすく開いて、姿勢を正した。彼はたしかに無念無想の境地にはいろうとしているのが分った。隆夫のたましいは、これはなにか変ったことが起るのではないかと思い、ふわふわとびまわりながら、いっそう相手に注意をはらっていた。\n すると、その男の頭のてっぺんのすぐ上に、ぼーッとうす赤い光の輪が見えだした。ふしぎなことである。隆夫のたましいは、まわるのをやめて、それを注視した。\n ふしぎなことは、つづいた。こんどは男の上半身の影が二重になったと見えたが、その一つが動き出して、ふわりと上に浮いた。それはシャボン玉を夕暗の中にすかしてみたように、全体がすきとおり、そして輪廓だけがやっと見えるか見えないかのものであり、形は海坊主のように、丸味をおびて凸凹した頭部とおぼしきものと、両肩に相当する部分があり、それから下はだらりとして長く裾をひいていた。また、頭部には二つ並んだ目のようなものがあって、それが別々になって、よく動いた。しかしその目のようなものは、卵をたてに立てたような形をし、そしてねずみ色だった。\n「おお、隆夫か。どうしたんだ、お前は」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " と、そのあやしい海坊主はいって、隆夫のたましいの方へ、ゆらゆらと寄ってきた。\n「あ、やっぱり、お父さんでしたか」\n 隆夫のたましいは、海坊主みたいなものが、父親治明博士のたましいであることに気がついた。\n ああ、なんというふしぎなめぐりあいであろう。祖国を遠くはなれたこのアドリア海の小さい港町で、父と子が、こんな霊的なめぐりあいをするとは、これが宿命の一頁で、すでにきまっていたこととはいえ、奇遇中の奇遇といわなくてはなるまい。\n「お父さん。よく生きていて下さいました。親類でもお父さんのお友だちも、ほとんど絶望して、お父さんはもう生きてはいないだろうと噂しているんですよ。よく生きていて下すったですね」\n 隆夫のたましいは、うれしさいっぱいで、父親のたましいにすがりついた。\n「うん、みんなが心配しているだろうと思った。しかし知らせる方法もなかった。それにわしとしても、明日生命を失うか、あるいは一時間後、十分後に生命を失うかも知れず、おそろしい危険の連続だった。いや、今も安心はしていられないのだ。それはいいが、お前はどうしたんだ。さっきから、いぶかしく思っているんだが、お前の肉体はどこにあるんだ」\n 父親は、心配の様子。\n 慈愛ふかい父親の心にふれると、隆夫のたましいは、悲しさの底にしずんで、\n「お父さん。聞いて下さい。こうなんです」\n と、これまでに起ったことを、父親に伝えたのであった。\n\n\n 霊魂の研究者\n\n\n すべての事情を、隆夫のたましいから聞きとった父親治明博士のたましいは、大きなおどろきの様子を示した。\n「それは、実におそるべき相手だ。そういうひどいことをする霊魂は、尋常一様のものではないよ。たいへんな力を持っている奴だ。これはかんたんには行かないぞ。いったい何者だろう」\n 父親のおどろきが、意外に大きいので、こんどは隆夫の方でおどろいてしまった。しかしこのとき隆夫は、父親のおどろきとなった素因のすべてを知っているわけではなかった、披は、まだ霊魂界のことについては、ほんのわずかのことしか知らないのであった。\n「お父さん。そんなに、あの霊魂は、おそるべき奴ですか。ぼくには、何もかも、さっぱり分らないのです。いったい、霊魂というものが出たり、はいったりするのは、どういう法則に従うものでしょうか。いや、それよりも、ぼくは霊などというものが、ほんとにあることを、こんどはじめて知ったのです。お父さんは、それについて、くわしく知っているようですね」\n 隆夫のたましいは、次から次へとわきあがる疑問やおどろきを、父親の前にならべたてた。\n「霊魂の学問は、なかなか手がこんでいるんだ。つまり複雑なのだ。古い時代にいいだされたでたらめの霊魂説から始まって、最新の霊魂科学に至るまで、実に多数の霊魂説があるのだよ。わしは、お前も知っているとおり、生化学と物質構造論などの方からはいりこんで、新しい霊魂科学の発見に努力して来た。その結果、わしは、霊魂なるものは、たしかに存在することを証明することができた。そればかりでなく、こうして実際に霊魂を活動させることにも成功した。そこでわしは、さらに深く霊魂科学の研究をしようと今も努力しているわけだが、残念なことに戦火に追われて、研究室をうしない、それからさすらいの旅がはじまり、いろいろな困難や災害にあって、こんなひどい姿で食うや食わずの生活をつづけている始末だ。ああ、わしは、早く落ちついた研究室にはいりたい。むしろこの際、日本へ帰るのが、その早道だとも思い、こうして機会を待っているわけなんだ」\n 父親治明博士のたましいは、これまでの経過をかいつまんで話した。\n「普通に、たましいというとね、肉体にぴったりついているものだが、ある場合には、肉体をはなれることもあるんだ。肉体のないたましいというものも、実際はたくさんごろごろしている。そういうたましいが、肉体を持っている別のたましいに、とりつくことがよく起る。お前がさっき、わしに話をして聞かせた名津子さんの場合なんか、それにちがいない。つまり、名津子さんの肉体といっしょに居る名津子さんのたましいの上に、あやしい女のたましいが馬乗りにのっているんだと考えていい。二つのたましいは、同じ肉体の中で、たえず格闘をつづけているんだ。だから名津子さんが、たえず苦しみ、好きなことを口走るわけだ」\n「なるほど、そうですかね」\n「名津子さんの場合は、普通よくあるやつだ。しかしお前の場合は、非常にかわっている。お前を襲撃した男のたましいは、お前の肉体からお前のたましいを完全に追い出したのだ。そういうことは、普通、できることではないのだ。だから、さっきもいったように、その男のたましいなるものは、非常にすごい奴にちがいない。いったい、何奴だろう」\n 治明博士は、再びおどろきの色をみせて、そういった。\n 隆夫のたましいは、父親のいうことを聞いていて、なんだか少しずつわけが分ってくるように思った。と同時に、また別のいろいろの疑問がわいてきた。ことに、彼が信用しかねたものは、たましいの姿のことであった。目の前に見る父親のたましいは、海坊主が白いきれを頭からかぶって、それに二つの目をつけたような姿をしている。ところが、隆夫の実験小屋へはいって来て、彼のたましいを追い出し、彼の肉体を奪った怪物は、ちゃんと男の姿をしていた。同じたましいでありながら、なぜこのように、姿がちがうのであろうか。この疑問を、父親にただしたところ、父親のたましいは、次のように答えた。\n「たましいというものはね。たましいの力次第で、いろいろな形になることが出来る。実は、本当は、たましいには形がないものだ。まるで透明なガス体か、電波のように。が、しかし、たましいには個性があるので、なにか一つの姿に、自分をまとめあげたくなるものだよ。これはなかなかむずかしい問題で、お前にはよく分らないかも知れないが、お前は、自分で知っているかどうかしらんが、お前はおたまじゃくしのような姿をしているよ。つまり日本の昔の絵草紙なんかに出ていた人間と同じような姿なんだ。これはお前が、たましいとは、そんな形のものだと前から思っていたので、今はそういう形にまとまっているのだ」\n「へえーッ、そうですかね」\n と、隆夫は、はじめて自分のたましいの姿がどんな恰好のものであるかを知って、おどろき、且つあきれた。\n「それはいいとして、お前の肉体を奪った悪霊を、早く何とか片づけないといけない」\n 父親治明博士は苦しそうに喘いだ。\n\n\n 城壁の聖者\n\n\n その夜、するどくとがった新月が、西空にかかっていた。\n ここはバリ港から奥地へ十マイルほどいったセラネ山頂にあるアクチニオ宮殿の廃墟であった。そこには山を切り開いて盆地が作られ、そこに巨大なる大理石材を使って建てた大宮殿があったが、今から二千年ほど前に戦火に焼かれ、砕かれ、そのあとに永い星霜が流れ、自然の力によってすさまじい風化作用が加わり、現在は昼間でもこの廃墟に立てば身ぶるいが出るという荒れかたであった。\n しかも今宵は新月がのぼった夜のこととて、崩れた土台やむなしく空を支えている一本の太い柱や首も手もない神像が、冷たく日光を反射しながら、聞えぬ声をふりしぼって泣いているように見えた。\n 一ぴきの狼が突如として正面に現われ、うしろを振返ったと思うと、さっと城壁のかげにとびこみ、姿を消した。いや、狼ではなく、飢えたる野良犬であったかも知れない。その犬とも狼ともつかないものが振返った方角から、ぼろを頭の上からかぶった男がひとり、散乱した円柱や瓦礫の間を縫って、杖をたよりにとぼとぼと近づいてきた。\n 彼は、たえず小さい声で、ぼそぼそと呟いていた。\n「......しっかり、ついてくるんだよ、わしを見失っては、だめだよ。......もうすぐそこなんだ。多分見つかると思うよ。アクチニオ四十五世さ。新月の夜にかぎって、廃墟の宮殿の大広間に、一統と信者たちを従えて現われ、おごそかな祈りの儀式を新月にささげるのだよ。......隆夫、わしについてきているのだろうね。......そうか。おお、よしよし。もうすこしの辛抱だ。わしはきっとアクチニオ四十五世を探し出さにゃおかない」\n と男は、杖をからんからんとならしながら、空に向って話しかける。\n 彼こそ、隆夫の父親の治明博士であったことはいうまでもない。彼は、奇しきめぐりあいをとげた愛息隆夫のうつろな霊魂をみちびきながら、ようやくこれまで登ってきたのである。\n 隆夫のたましいは、どこにいる?\n 彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。\n 博士は、杖を鳴らしながら、廃墟の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場をなおも探しまわった。どこもここも墓場のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 前頭ドンジリの千鳥波五郎が廃業してトンカツ屋を開店することになったとき、町内の紺屋へ頼んだノレンが届いてみると「腕自慢、江戸前トンカツ、千鳥足」と意気な書体でそめあげてある。\n 千鳥波が大変怒ってカケアイに行くと、紺屋のサブチャンが、呆れて、\n「アレ、変だねエ。だって、お前がそう頼んだんじゃないか」\n「からかっちゃ、いけないよ。ワタシはね、怒髪天をついているんだよ。痩せても枯れても、ワタシには千鳥波てえチットばかしは世間に通った名前があるんだぜ。ワタシはね、稽古できたえたこのカラダ、三升や五升のハシタ酒に酔っ払って、言った言葉を度忘れするような唐変木と違うんだ」\n「それはアナタ、そう怒っちゃイケませんよ。お前が唐変木じゃアないてえことは、ご近所の評判なんだ。然しねエ、怒っちゃイケねえなア。これにはレッキとしたショウコがあるよ。どこのガキだか知らないけど、お前がお使いをたのんで、書いたものを届けさせたじゃないか。ホラ、見ねえ、こゝにショウコがある。かねて見覚えの金釘流だね。ひとつ、ノレンのこと、腕自慢、江戸前トンカツ、千鳥足、右の如く変更のこと。コイ茶色地に、文字ウス茶そめぬきのこと。どうです」\n「ハハア。さては、やりやがったな」\n さっそく紺屋のサブチャンの手首をつかんで放さず、片手にショウコ物件を握って、質屋のセガレのシンちゃん、喫茶のノブちゃん、時計ラジオ屋のトンちゃん、酒問屋のハンちゃん、四名の者をよび集めた。\n「さア、いゝかい。こゝへ集まったこの六人は江戸ッ児だよ。下町のお江戸のマンナカに生れて育ったチャキ〳〵なんだ。小学校も一しょ、商業学校も一しょ、竹馬の友、助け助けられ、女房にはナイショのことも六人だけは打ちあけて、持ちつ持たれつの仲じゃないか。それだけの仲なればこそ、ずいぶんイタズラもやってきましたよ。然し、何事も限度があるよ。こんなチッポケな店でも、開店といえばエンギのものだぜ。犯人は男らしく名乗ってもらいましょう。その隅の人」\n「エヽヽ、その隅と仰有いますと、長谷川一夫に似た方ですか、上原謙の方ですか」\n「ふざけるな。アンコウの目鼻をナマズのカクに刻みこんだそのお前だ」\n「エッヘッヘ。主観の相違だねエ。わからない人には、わからないものだ。つきましては、サの字に申しあげますが」\n「なんだい、サの字てえのは」\n「それはアナタです。この正月に芸者の一隊が遊びに来やがったじゃないか。そんとき、文学芸者の小キンちゃんが文学相撲の五郎ちゃんに対決しようてえので、論戦がありましたよ。小キンちゃんの曰くサルトルはいかゞ、てえ時に、関取なるものが答えたね。ハア、サルトルさん。二三よみましたが、あれは、いけません。そのとき以来、サルトルさんと申せば近隣に鳴りとゞろいております」\n「なにを言ってやがる。お前じゃないか。せんだっての小学校の卒業式に演説しやがったのは。これからは、民主々義、即ち文化の時代である。もはや剣術は不要であるから、芸術を友としなければならぬ。剣術も芸術も、ともに術である。ともに術だから、どうしたてんだ。ワケのわからないことを言いやがる。我々は江戸キッスイの町人の子孫であります。我々の祖先も剣術も知らず、芸術を友といたしたのである。そのころもエロであった。然し、諸君よ、エロも芸術でなければならぬ。これぞ今日の我々に課せられた義務であります。バカだよ、お前は」\n「エッヘッヘ。古い話はよしましょう。然し、サの字に申上げますが、この犯人はエラ物だね。相撲の店だから、腕自慢、これは筋が通っているよ。江戸前トンカツ、これが、いい。ヤンワリと味があるね。サルトル鮨なんてえ店をはじめやがったら絶交しようなどゝヨリヨリ申し合せておりましたよ。千鳥足、また、これが、いいね。つまらない意地をはるのは江戸ッ子のツラよごしだから、およしなさい。これは犯人なんてモノじゃなくて、然るべき学のある御方があの男も可哀そうだ、世のため人のためてんで、はからって下さったんだ。千鳥波なんて、月並なシコ名にとらわれるのは、いゝ若い者の恥ですよ。千鳥波か、バカバカしいや。墨田川に千鳥がとんでた、お相撲だから錦絵にちなんだのかも知れないが、時代サクゴというものです。アナタだって、ダンスのひとつもおやりのサルトルさんじゃありませんか」\n と言ったのは質屋のシンちゃんで、そのために、こやつテッキリ犯人め、と千鳥波の恨みを買うことになったが、本当の犯人はシンちゃんではなかった。\n 紺屋のサブちゃんが犯人であった。ひょいと思いついてイタズラをしたのであるが、今さら白状もできないから、別のノレンを新たにこしらえて、おまけに、どっちの代金も払ってくれない。自業自得というもので、悪事の結果はやっぱり良からぬものである。\n\n ★\n\n 質屋の商売は世評のよからぬものである。そのくせヤミ屋やモグリの商売を誰も悪く言わないのだから、そうまで卑屈に親代々の商売にかじりついてる法はない。\n さいわい町内にソバ屋の店が売物にでたから、これを買って、シルコ屋をはじめることになる。友達は有難いもので、古道具屋にオシルコの椀があったからと持ってきてくれたり、千鳥波などは、こういう時には役に立つ。餅臼をハンドバッグみたいにチョイとぶらさげてきてくれる。\n「このオソバ屋の店は大きすぎら。お客というものは小さなところへゴチャ〳〵つめられると、あそこはハヤルとか、ウマイとか、とっかえひっかえ来るものだ。広々としたところへポツンと置かれちゃア、二度と来やしないよ。店を小さくしなさい」\n「できてる店を小さくしろたって、ムリですよ。もぎとるワケにいくものじゃないです」\n「バカだよ、お前は。大きい、小さいも、ひとつは感じの問題だ。イス、テーブルをゴチャ〳〵並べるとか、なんとか、たとえばだ、スキマというものが広さを感じさせるのだから、スキマというスキマへクリスマスツリーみたいな植木鉢をつめこむ」\n「ハア、ナルホド。では、関取、それをさっそく買ってきていたゞきましょう」\n「この野郎、人を運送屋に見たてゝいやがる」\n などゝ言いながらも、姿のよい植木鉢を見立てゝ届けてくれたりするから、友達はありがたいものだ。けれども紺屋の一件があるから、いつ復讐されるか、オサオサ油断はできないのである。\n\n 夢に見る面影、おお、そはあの人よ。はるかなるノスタルジヤの香気、又、はなやかなエキゾチシズム、雨は降る巷々、窓の灯に人の子の悲しみははじまる。白昼ひそやかな彷徨。その全てにあなたの心の影をうつす、なつかしの店よ。愴美なる知性も、失われし時間も、キェルケゴールの呻吟にはじまりし現代の痛苦も、おお、さては愉しきピエロよ。召しませ心のブルース。叡智と趣味高き人々の永遠のふるさとなる店、二〇・五世紀のささやきとアトモスフェアの店、その甘き風味の店、「さゝの枝」こそあなたの訪れを待つ。かそけくもこそ。\n\n これがシンちゃんの開店披露の印刷物で、これを知人へ郵送する、近所の会社や商店へくばる、検番で調べて芸者へおくる、女学校の門前で手渡す。\n これを読んで驚いた千鳥波が、\n「ワタシゃガッカリしましたよ。お前という男もこれほどバカとは知らなかったね。なんだいこの文章は。雨は降る、おゝ、あの人よ、なんの寝言だい。二〇・五世紀のさゝやき。二〇・五世紀とは何です」\n「今や二十世紀の半分です」\n「バカめ。この最後の、かそけくもこそ、ねえ、シンちゃん、あらあらかしこを現代語に飜訳すると、お宅の言葉じゃこうなるというワケですかい」\n「わからない人だね。お前は理窟っぽいよ。一々理窟で読んじゃアこのシャレはわかりませんよ。ワタシはね、慎重に考慮して、この文章をあみだしたんだよ。何が何やら、わからないところがネウチなんだよ。理ヅメにできた開店案内などは人様の注意をひきませんよ。第一、お前はこの文章が誰を狙っているか知らないだろう。これは男に宛てた文章じゃないんだ。知性高き学究の徒なんてものはシルコ屋なんかへ来ないものだよ。敵はもっぱら女です。ミーちゃんハーちゃんですよ。こういう珍な文章を読めば、芸者や女事務員や女学生も、あなた同様ころげまわって軽蔑しますよ。テコヘンな店ができたよ、とか、脳タリンスの店だよ、なんてね。ところがです。とかく御婦人というものは、テコヘンなところや、オッチョコチョイの脳タリンスをひやかしてみたくなるものなんです。見ていてごらんなさい、脳タリンスのシルコの味を見てみましょうてんで、千客万来疑いなしですから。これ即ち、深謀遠慮というものです」\n「こんな文章しか書けないくせに、虚勢をはるんじゃないよ」\n「エッヘッヘ。裸ショウバイの御方にはわかりませんです。ワタシはちょッと心理学を用いましたんです」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 開店すると、狙い違わず、ミーちゃんハーちゃん千客万来である。\n お客は御婦人と狙いをつけてのことであるから、給仕には女をださず、女房も店の奥へひっこめて、男の大学生を三人、給仕人に雇った。\n 三人の数にも曰くがあって、町内の六人組に三人たすと九人になって、野球のチームができる。\n そこで町内の小公園の野球場で試合をすることになり、両軍勢揃いして、見物人も集り、試合がはじまる頃になると、シンちゃんがフロシキの包みから何やらとりだした。これを大学生が球場の松の木へ登って、誰の手にもとゞかない高いところへぶらさげてみると、一丈四方もある旗のようなもので、\n 雰囲気とシックと味の店、甘味処、さゝの枝野球団\n 堂々とこう書かれている。つゞいて本塁をまもるシンちゃんがパッとジャンパーをぬぎすてると、派手なユニホームが現れて、この背には、職業野球の背番号の代りに「さゝの枝主人」とデコデコに縫いつけられている。一同アッと驚いたが、もう、おそい。シンちゃんはマスクを振って、\n「みんなハリキッテ行け。いゝか、それ!」\n 一同、雰囲気とシックの店の下男なみに扱われてしまった。試合なかばにさゝの枝主人は見物人にも挨拶して廻り、皆さんなにぶんゴヒイキに、例の開店案内をくばる。おたがいキッスイの商人のことで、ショウバイのカケヒキは身にしみているから、そのことで出しぬかれても我が身の拙なさ、ムキに怒るわけにも行かないのである。\n さゝの枝の店も人にまかせてはおかず、一々のお客の前に挨拶にでて、エヽ、手前が主人でございます、味はいかゞ、甘味はいかゞ、と伺いをたてゝ御機嫌をとりむすぶ。\n「エッヘッヘ。ワタクシ一身にあつまる魅力による当店の繁昌ですな」\n「バカ言え。花柳地へ行ってきいてみろ。ニヤニヤとヤニ下りの、薄気味わるい野郎だと、もっぱら姐さんが言ってらア」\n「そこがかねての狙いです。万事、当節は心理学というものだよ。逆へ逆へと押して出るから、こっちへひかれる寸法なんだ」\n ところがある日のことである。\n 事務員らしい三人づれの娘がきた。オシルコを二杯ずつ食べて、額をあつめてヒソヒソと相談している。相談がこじれ、同じところをくりかえして、却々まとまらぬ様子である。それをジッとうかゞっていると、心理学の要領で、ピカリと閃くものがあるから、いそいそと進みでゝ、\n「えゝ、わかりました、わかりました。三杯目の御相談でございましょう。お代はおついでの折でよろしゅうございます。今後とも、よろしく、手前がさゝの枝主人でございます」\n と三杯目の甘いところを届ける。娘たちは喜んで、不足分を借金して帰ったが、それから一週間ほど後に、そのうちの一人だけがやってきて、\n「マスターに話があるんですけど、どこか別室できいていたゞけませんでしょうか」\n「ハア、ハア、では、どうぞ」\n と二階の一室へ案内する。娘は一向に憶した風もなく、\n「私、このお店で働きたいのですけど、使って戴けませんでしょうか」\n「それは又、どういうわけでしょうか」\n「今は会社に働いていますが、会社の仕事は私の性に合わないのです。こんな仕事が私の性に最もかなっていることを痛感しているのです。このお店の感じが、特に好感がもてたし、それに、趣味の点で、このお店と私とに一致するものがあるんです。古い日本をエキゾチシズムの中で新しく生かして行く点です。それはヤリガイのある、いえ、是非とも、やりとげなければならぬことなんです。とても共鳴するものがありますから、会社のことも捨て、女優のことも捨て、このお店に働いてみたいと思ったのです」\n「では、あなたは、女優さんですか」\n「いゝえ、然し、女優の試験を受けたんです。映画女優とは限りません。私、声楽家、むしろ、オペラね、是非やりたいと考えたこともあるんですけど、マダム・バタフライ、あれを近代日本女性の性格で表現してみたいと思ったんです」\n「で、オペラの方も、試験を受けたんですか」\n「いえ、試験は無意味なんです。審査員は無能、旧式ですわね。新時代のうごき、新しいアトモスフェア、知性的新人ですわね、そういった理解はゼロに等しいと思ったんです。でも、然し、陳腐ね。理解せられざる芸術家の嘆き、それは過去のものね。ですから、私、それにこだわらないのです」\n「すると、声楽は自信がおありですね。いえ、つまり、流行歌なんかじゃなく、あのソプラノですか、アヽアヽアヽブルブルウ、ふるえてキキキーッと高いの」\n「無論」\n「ハア、そうですか。それは、然し、惜しいですね。ワタシなどはこれだけの人間ですから、これだけですが、せっかく天分ある御方は、やっぱり、天分を生かした方が」\n と、彼の頭ににわかに一つの企らみが浮かびあがった。\n「この店に働いていたゞければ、それはワタシの光栄なんですが、然しです、御覧のように当店の性質と致しまして、お客様の九分九厘まで御婦人相手のものですから、給仕人も同性の方よりは男の方がよかろうと、三人の大学生を使っているわけなんです。で、当店では、むしろ御婦人の使用人を遠ざける必要があるわけで、残念ですが、やむを得ない次第です。然しですね。ワタシに一つ心当りがあるのです。ワタシの親友の千鳥波という以前相撲だった男が、この町内で、同じ名のトンカツ屋、つまりトンカツで酒をのむ店をやってるのですが、この男が、目下、美人女給をもとめているのです」\n「私、ドリンクの店はキライです」\n「いえ、ごもっともです。然し、これにはワケがあるんですよ。千鳥波はまだ独身なんですが」\n「失礼ね。私が結婚したいとでも考えてるのかしら。おかしいわ。全然、無理解ね。軽蔑するわね」\n「左にあらず、左にあらず。はやまってはイケません。一言たゞ独身であるという事実をお伝えしたにすぎません。話の要点はそんなところにはないのですよ。このトンカツ屋は相撲時代からのヒイキがついておりますから、常連のツブがそろっていて、このへんの飲み屋では、最高級の人種が集っているのですよ。この店へ、毎晩ほとんど九時ごろに必ず現れる三人づれの客があるのです。四十から四十四五の、オーさん、ヤアさん、ツウさんと呼びあっている人品のよい紳士で、一人が商事社の社長、一人が問屋の主人、一人が工場主と表向きは称していますが、実は一人が映画会社の支配人、一人が有名な作曲家、一人がプロジューサーなんですよ」\n 効果はテキメン、娘の顔がひきしまった。\n「この三人は映画音楽演芸界の最高幹部級のパリパリなんですよ。ニューフェース募集と云っても、こんな時あつまるのは大概は落第品で、彼らは常に街頭に隠れた新人を探しているものです。特に唄のうたえるニューフェース、これこそ彼らの熱烈にもとめてやまぬ珍品ですよ。飲食店のたゞの給仕女になるなんて、天分ある御方が、それは全然つまらないことですよ。いかゞですか。ひとつ、何くわぬ顔、この店の給仕女に身をやつして、チャンスを狙っては」\n「そうね。それもちょッとしたスキャンダルね。意味なきにしもあらずね。やってみても悪くないと考えるわね」\n「えゝ、そう、そう。先方の御三方がよろこびますよ。世に稀なるもの、即ち天才です。実はです。以前にも一人、その狙いで千鳥波の給仕女に身をやつした婦人がありましたです。この人は天分がなかった。当人も自信がないんですよ。それで、なんです。色仕掛で仕事を運ぼうと企んだわけですが、これこそすでに陳腐です。あの御身分の方々ともなると、色仕掛でスタアを狙うヤツ、これぐらいどこにもこゝにもあるという鼻についたシロモノはないんですよ。食傷して、ウンザリしきっているのです。ですから、真実天分ある者は、率直に天分をヒレキすれば足るのです。むしろ御機嫌などとらない方がよろしいです。ですから、御三方が現れたら、サービスなどほったらかして、何くわぬ顔、唄をうたいなさい。例のソプラノです。変にニコヤカな素振など見せると、いかにも物欲しそうにとられますから、できるだけムッツリと、仏頂ヅラを見せておいて、然し、たくまぬ自然のていで、天分のある限りを御披露あそばすことです」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n「まあ諦めるんだな、しょうがない、安永の娘をもらうんだ」と竜右衛門がその息子に云った、「どんな娘でも、結婚してしまえば同じようなものだ、娘のうちはいろいろ違うようにみえる、或る意味では慥かに違うところもある、が、或る意味では、女はすべて同じようなものだ、おまえのお母さんと、枝島の叔母さんを比べてみろ、――私は初めはお母さんよりも、枝島の、......いや、まあいい」と竜右衛門は云った、「とにかく、私の意見はこれだけだ」\n\n二\n\n 梶竜右衛門は二千百三十石の城代家老である、年は四十七歳。妻のさわは四十二歳になり、一人息子の広一郎は二十六歳であった。梶家では奥の召使を七人使っていた。これは三月から三月まで、一年限りの行儀見習いで、城下の富裕な商家とか、近郷の大地主の娘たちのうち、梶夫人によって、厳重に選ばれたものがあがるのであった。――その年の五月、梶夫人は良人に向って、新しい小間使のなかのよのという娘を、広一郎の侍女にすると云った。竜右衛門は少しおどろいた、未婚の息子に侍女をつけるというのは、武家の習慣としては新式のほうであるし、従来の妻の主義からすれば、むしろ由ありげであった。\n「しかし」と竜右衛門は云った、「それは安永のほうへ聞えると、ちょっとぐあいが悪くはないかね」\n「どうしてですか」\n「むろんそんなことはないでしょうが」と竜右衛門は云った、「一郎はもう二十六歳であるし、若い娘などに身のまわりの世話をさせていると、万一その、なにかまちがいでも」\n さわ女は「ああ」と良人をにらんだ。\n「あなたはすぐにそういうことをお考えなさるのね」と彼女は云った、「きっとあなたはいつもそんなふうな眼で侍女たちを眺めていらっしゃるんでしょう、若い召使などがちょっと秋波をくれでもすると、あなたはもうすぐのぼせあがって」\n「話をもとに戻そう」と竜右衛門は云った、「なにかそれにはわけがあるんですか」\n「わたくしが仔細もなくなにかするとお思いですか」\n「それもわかった」\n「広さんは女は嫌いだと云い張っています」とさわ女は云った、「安永つなさんという許婚者があるのに、女は嫌いだと云って、いまだに結婚しようとはしません、これはわたくしたちがあまり堅苦しく育てたからだと思います」\n「そういうことですかな」\n「そういうことですかって」\n「あとを聞きましょう」と竜右衛門は云った。\n「どうか話の腰を折らないで下さい」\n「そうしましょう」\n「それで、つまり――」とさわ女は云った、「ひと口に申せば、きれいな侍女でも付けておけば、広さんももう二十六ですから、女に興味をもつようになるかもしれないでしょう、いくら堅苦しく育っても男はやはり男でございますからね」\n 竜右衛門は心のなかで「これは奸悪なるものだ」と呟いた。\n「なにか仰しゃいまして」\n「いやべつに」と竜右衛門が云った、「あとを聞きましょう」\n「あとをですって」\n「それでおしまいですか」\n「わからないふりをなさるのね」\n「いやわかるよ」と竜右衛門は云った、「しかしですね、もしも広一郎がその侍女に興味をもって、まちがいでも起こしたばあいは」\n さわ女は「まあ」と良人をにらんだ。\n「あなたはすぐそういうことを想像なさいますのね」と彼女は云った、「広さんはあなたとは違います」\n「はあそうですか」\n「そうですとも、広さんは純で温和しくって、それで女嫌いなんですからね」と彼女は云った、「それともあなたは反対だとでも仰しゃるんですか」\n「とんでもない、おまえの意見に反対だなんて」\n「なすったことがないと仰しゃるのね、そうよ」とさわ女は云った。\n「そうしてなにかあれば、みんなわたくしの責任になさるのよ、あなたはそういう方なんですから」\n「その、――どうして障子を閉めるんですか」\n「ちょうどいい折です」と彼女は云った、「わたくしあなたに申上げたいことがございます」\n さわ女は障子をぴたりと閉めた。座敷の中はそのまま、長いこと静かになっていた。\n その日、広一郎が下城したのは午後七時すぎであった。彼は役料十五石で藩の文庫へ勤めているが、十九歳から五年間、江戸邸で昌平坂学問所へ通学したというほかに、さしてとびぬけた才能があるわけではない。二十六歳にもなる城代家老の息子を遊ばせておくわけにもいかないので、せいぜい城中の事に馴れる、というくらいの意味のようであった。\n 広一郎が居間へはいると、母親が小間使を一人つれてはいって来た。\n「今日はおさがりがたいそうおそいようですね」\n「はあ」と広一郎は云った、「帰りに村田で夕餉の馳走になりました」\n「村田さまってどの村田さまですか」\n「三郎助です」\n と広一郎は云った。よりみちをするときは断わらなければいけません、とさわ女は云った。母さんは夕餉をたべずに待っていたんです。それは済みませんでした。そういうときはいちど帰って断わってからゆくものです。そう致しましょう、と広一郎は云った。さわ女はそこで召使をひきあわせ、今日からこれが身のまわりのお世話をします、と云った。\n「私のですか」と広一郎は母を見た、「――と云うとつまり」\n「あなたの侍女です」\n「どうしてですか」\n「あなたはやがて御城代になる方です」とさわ女が云った、「もう少しずついろいろな事に馴れなくてはいけません」\n「いろいろな事って、どういう事ですか」\n「いろいろな事ですよ、あなたも諄いのね」とさわ女は云った、「これは城下の茗荷屋文左衛門という呉服屋の娘で、名はよの、年は十七です、うちでは紀伊と呼びますから、あなたもそう呼んで下さい」\n 広一郎は「はあ」と云った。\n「では紀伊、――」とさわ女は云った、「おまえ若旦那さまに着替えをしてさしあげなさい」\n 侍女は「はい」と云った。\n 広一郎は渋い顔をしてそっぽを見た。昼のうちに(さわ女から)教えられたのだろう、よの、否――紀伊という侍女は箪笥をあけ、常着をひとそろえ出して、広一郎に着替えさせた。さわ女は側で見ていて、二、三注意を与えたが、概して紀伊の態度に満足したようであった。広一郎は始めから終りまで、侍女のほうへは眼も向けず、着替えが済むのを待ちかねたように、父と共同の書斎へはいってしまった。\n 竜右衛門はなにか書きものをしていた。たいへん熱心なようすで、息子がはいって来ても黙って書き続けていた。\n「あれはどういうわけですか」と広一郎が囁いた、「私に侍女を付けるなんて、いったいどういうことなんですか」\n「おれは知らないね」\n「御存じないんですって」\n「知るわけがないさ」と父親は云った、「済まないが行燈をもう少し明るくしてくれないかね」\n 広一郎は行燈の火を明るくした。竜右衛門は書きものに熱中していた。少なくとも、そうやって息子の質問を避けようとしていることだけは慥からしい。広一郎はそれを理解し、唇で微笑しながら、父とは反対のほうに据えてある(自分の)机の前に坐った。\n やがて、紀伊が茶道具を持ってはいって来た。彼女はおちついた動作で煎茶を淹れ、広一郎の脇へ来て、それをすすめた。\n「お茶でございます」と紀伊が云った。\n 広一郎は壁のほうを見たままで「ああ」と云った。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n三\n\n 六月になった或る朝、広一郎は侍女の躯つきを見て好ましく思った。\n ――温雅な躯つきだな。\n 彼はそう思った。温雅という言葉の正しい意味はべつとして、彼にはそういう感じがしたのであった。ちょうど薄着になったときで、彼女の躯のしなやかさや、弾力のある軟らかなまるみやくびれが、美しくあらわれていた。それまで眼を向けたこともなかったので、広一郎には特に新鮮で好ましくうつったようであった。\n それからまもなく、彼は紀伊の肌が白いのに気づいた。非番の日で、彼は机のまわりの掃除をし、筆や硯を洗うために、紀伊に水を持って来るように命じた。彼女は金盥と筆洗を運んで来たが、そのとき襷をかけていて、両方の袖が高く(必要以上に)絞られ、殆んど腕のつけねまであらわになっていた。\n 広一郎は眩しそうに眼をそらした。薄桃色を刷いたような、あくまで白いそのあらわな腕の、溶けるような柔らかい感じは、たとえようもなく美しく、つよい魅力で広一郎をひきつけた。彼は眼をそらしながら、自分の胸がときめいているのを感じた。\n 七月になると、彼は紀伊の声がやわらかく、おちついて、きれいに澄んでいることを知った。そして、彼女のきりょうのよさ、――彼女が縹緻よしなことを発見したとき、広一郎はわれ知らず眼をみはった。\n ――初めからこんなにきれいだったのだろうか。\n と彼は心のなかで自問し、同時に躯の内部が熱くなるのを感じた。\n 梶夫人はこの経過をひそかに注視していたらしい。ときどき彼にさりげなく問いかけた、紀伊はちゃんとやっているか、気にいらないようなことはないかどうか、などと息子に訊くのであった。広一郎はあいまいに答えた。ええよくやっているようです、まあよくやるほうでしょう、かくべつ気にいらないようなことはありません、などと答えた。\n 八月にはいってから、彼は紀伊と話をするようになった。ふしぎなことに、紀伊に話しかけるとき、彼は赤くなるのを抑えることができなかったし、紀伊もまた同じように、赤くなったり、躯ぜんたいで嬌羞を示したりした。\n 或る夜、――父と共同の書斎で、父と彼とが読書をしていた。八月中旬だから、季節はもう秋であるが、残暑のきびしい一日で、夜になっても気温が下らず、縁側のほうの障子も窓もあけてあるのに、微風もはいってはこなかった。竜右衛門は読みながら、団扇で蚊を追ったり、衿もとを煽いだりした。息子のほうを見ると、息子は机に両肱をつき、じっと書物を読んでいた。蚊を追うようすもなく、風をいれるようすもなかった。\n「――一郎」と竜右衛門が云った、「おまえ暑くはないのか」\n 広一郎は「はあ」と云った。\n「なにを読んでいるんだ」\n「三代聞書です」\n 竜右衛門は「うん」と云った。\n「父さん」と広一郎が云った、「あの娘は誰かに似ていると思いませんか」\n「――どの娘だ」\n「私の侍女です、紀伊という娘です」\n「――誰に似ているんだ」\n「わからないんですが、誰かに似ているような気がしませんか」\n「――しないね、私はその娘をよく見たこともない」と竜右衛門が云った、「おまえその娘が好きになったんじゃないのか」\n「冗談じゃありません」\n「それならいいが」と竜右衛門が云った、「男でも女でも、相手が好きになると誰かに似ているように思うことがよくある、――人間は性分によって、それぞれの好みの型がある。だから、好きになる相手というのは、どこかに共通点があるんだろう、......おまえいつか好きになった娘でもあったんじゃないのか」\n「冗談じゃありません、よして下さい」\n「それならいいさ」と竜右衛門が云った、「おまえには安永つなという、許婚者がいるんだからな、ほかの娘なんか好きになっても、母さんが承知しないぞ」\n 広一郎は「大丈夫です」と云った。ひどく確信のない気のぬけたような調子だった。そして書物のページをはぐり、熱心に読み続けた。竜右衛門ははたはたと団扇を動かし、それからとつぜん、自分の読んでいる書物を取り、表紙を返して、題簽を見た。\n「一郎、――」と彼は云った、「おまえはいまなにを読んでいるとかいったな」\n「三代聞書です」\n「ほう」と竜右衛門は云った、「そんな本が面白いかね」\n「ええ、面白いです」\n 竜右衛門は微笑しながら、「そうかね」と云い、また自分の書物の題簽を見た。そこには「三代聞書全」としるしてある。それは戦乱や凶事を予知する禁厭の法を撰したもので、広一郎のような青年にとって、決して「面白い」筈のものではなかったし、梶家の蔵書ちゅうにも一冊しかないものであった。\n「気をつけるがいいぞ、一郎」と竜右衛門は云った、「その娘を好きにならぬようにな、気をつけないと辛き事にあうぞ」\n 広一郎は黙っていた。\n ――ばかな心配をする人だ。\n 一人になってから、広一郎はそう思った。あの娘を、そんな意味で好きになるなんて、おれにできることかどうかわかる筈じゃないか。尤も父さんは懲りているからな、と広一郎は思った。父は枝島の娘と縁談があったのを、自分からすすんでいまの母を娶った。枝島の娘はときといい、縹緻はさわ女ほどではないが、気だてがやさしく、琴の名手として評判だった。父がさわ女を娶ったあと、枝島では長男が死んだので、さわ女の弟で甚兵衛という人が入婿した。それから三年、その二人の若い良人たちは、お互いに自分の家庭生活について語り、結婚まえにその娘がどうみえようと、――気が強そうにみえようとやさしそうにみえようと、――結婚してしまえばみな同じようなものである。色情と物欲と虚栄と頑迷の強さにおいて、すべて男の敵とするところではない。という結論に達し、両人相共に、嘆いたということであった。\n「おれはそんなふうにはならない」と広一郎は独りで呟いた、「おれはまた、そんな意味であれが好きだと云うのではない、おれはただ、......ただあの娘が、単に、――」\n 彼はそこで絶句し、渋いような顔をした。\n 九月になった或る夜、寝間で着替えをしているとき、紀伊がひどく沈んだようすをしているのに気づいた。広一郎は「どうかしたか」と訊いた。彼女はなかなか答えなかった。どうも致しません、なんでもございません、と云うばかりであった。\n「正直に云ってごらん」と広一郎は声をひそめた、「ごまかしてもわかるよ、なにがあったんだ」\n すると、紀伊は泣きだした。\n\n四\n\n 紀伊はそこへ坐り、両手で顔を掩って、声をひそめて咽びあげた。広一郎も坐った。すでに夜具がのべてあるので、低い声で話すためには、紀伊の側へ坐るよりしようがなかった。彼は紀伊の側へ坐った。\n「云ってごらん、母が叱りでもしたのか」\n「いいえ」と紀伊は頭を振った、「わたくし、おひまを頂くかもしれませんの」\n 広一郎はどきりとし「え」と云った。\n「それは」と彼は吃った、「それはなぜです、どうして、なにかわけがあるのか」\n「申上げられません」\n「なぜ、なぜ云えないんだ」\n「それも申せません」と紀伊は云った、「いつかはわかることでしょうけれど、わたくしの口からは申上げられませんの」\n 広一郎はまた吃った。\n「それは縁談ではないか」\n 紀伊は答えなかった。\n「縁談なんだね」と彼は云った、「云ってくれ、そうなんだろう」\n 紀伊は頷いて、もっと激しく泣きだした。広一郎はのぼせあがった。そんなにも近く坐っているので、彼女のあまい躰臭や、白粉や香油のかおりが彼を包み、咽びあげる彼女の声は、じかに彼の胸を刺すようであった。\n 広一郎はのぼせあがって訊いた。そんなに泣くのは相手が嫌いだからか。はい、と紀伊は答えた。それだけで泣くのではないが、相手は好きではない、自分は「いやだ」とはっきり断わったのである、と云った。それで相手は承知しないのか。そうのようです。しつっこいやつだ、と広一郎は云った。相手はなに者だ。お武家です。家中の者か。そうです、御中老の佐野さまの御長男です。すると要平だな。そうです。あの平家蟹め、と広一郎は云った。よし、彼のことは引受けた。でも、紀伊は云った。乱暴をなすっては困ります、あの方はお強いそうですから。いや大丈夫、私は暴力は嫌いだ。本当ですか。大丈夫だ、あいつのことは安心していい、と広一郎は云った。もう一つの理由を聞こう、泣いた理由はほかにもあると云った筈だ。ええ申しました、でもそれは、......紀伊は眼を伏せた。云えないのか、縁談のことさえ云ってしまったのに、もう一つの理由は云えないのか、と広一郎は問いつめた。\n 紀伊はますます頭を垂れた。見ると耳まで赤くなり、呼吸も深く大きくなっていた。広一郎は恐怖におそわれた。\n「おまえ」と彼は乾いた声で云った、「ほかに好きな人がいるんだな」\n 紀伊は肩をちぢめ、袂で顔を掩った。\n「そうか、――」と彼はふるえ声で云った、「それは知らなかった」\n 紀伊は掩った袂の下から「でも望みはないんです」と云った。その方とは身分も違うし、その方には許婚者がいるんです、わたくしはただ一生お側にいるだけで本望なんです、と云った。――袂に掩われた含み声で、はっきりしなかったが、広一郎はちょっと息を止めた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " と言うのは、丸万はクララのことをテキ屋のチョウフでガセビリと言った。そのビリとは女郎のことで、ガセとはニセ物の意味である。\n ガセナと言えば偽名であり、ガセネタと言えば見かけ倒しの贋造品だ。春画を売ることをガセミツと言うが、昔はほんとの春画を売るんじゃなくて、春画らしく見せかけて、たあいない写真を売ることをガセミツと言ったもんだ。\n そのデンで行くと、ガセビリとはニセの女郎、見かけ倒しの売春婦ということになる。玄人に対する素人という意味もあったろうが、公娼に対する私娼をいやしめて言ったものだ。その軽蔑すべきガセビリに俺はすっかり惚れてしまったのだ。\n 生れて初めての恋だと俺は思う。その初恋の相手が、ガセビリなのだ。\n 死にぞこないの俺だって、センチメンタルにならざるをえないじゃないか。だが、これは何も、よりによっていやしいガセビリが俺の初恋の相手だということを俺は悲しく思ったからなんじゃない。俺はクララをそんなふうには見ない。しかし、クララがガセビリだということは、たとえ俺がクララをいやしいガセビリだと見ないにしても、そこに俺をセンチメンタルにさせるもろもろのものがある。たとえば、\n「照ちゃんも、すこし痩せたな」\nと俺は俺のそばに来たクララの肩に手をまわして、そう言った。照子のクララを痩せさせたものは何か。そういったことが俺をセンチメンタルにさせるのだ。\n「そうかしら」\nとクララは俺に寄り添った。\n このクララは骨が細く、しなやかな身体をしているのだが、だから俺は好きになっちまったのだが、しなやかなくせに、その腕や股なんかは、指でつまもうと思っても、ぷりんと肉がしまっていてつまめない。そういった充実感があって、それで一層俺は好きになったのだ。それで一段と俺の気に入ったその充実感が、このごろすこしなくなってきた。痩せたなと俺が言ったのは、そういうことなのだ。\n「どうしたの。なにしてんの?」\nとクララは、いつもみたいに「トコ急ぎ」をしない俺を不思議がった。クララのほうが今日は急いでいるようだ。\n「なんだ、ズロースはいてんのか」\n ワンピースの外から、それと分るそのゴム紐を、俺は手さぐりで探して、外からちょいと引っ張って、ぱちんとやって、\n「どこかへ行ってきたのか」\n「うちへ、ちょっと......」\n クララは言葉をにごしたが、\n「うち? 照ちゃんのうちはどこなんだ」\n「うちなんかないわ」\nとクララは俺の顔を見た。俺から顔をそむけるのでなく、そむけて言うような言葉を、逆に俺を直視しながら言った。\n「家出しちゃったんだもの」\n「家出したうちへ、今日、行ってきたのか」\n「行きゃしないわよ」\n クララは可愛く俺を睨んだ。俺はなぜ睨まれなくちゃならないのか分らなかったから、きょとんとしていると、\n「四郎さんのうちはどこ?」\n「本郷だ」\n「本郷はどこ?」\n 俺のことはどんどん問いつめてくる。\n「千駄木町の下宿屋にいるんだ」\n「下宿屋に? いいわねえ」\n クララはそんなふうに言って、\n「遊びに行っていい?」\n「いいとも」\n このクララと世帯を持つことになったら、あの下宿屋はひきあげて、どこか一軒、小さくても家を借りなくちゃならないと俺は思いながら、\n「きたないとこだけど、おいでよ」\n「おスシ持って、行くわ」\n クララは楽しそうに言って、\n「さ、おトコつけましょう」\n「いやなこと言うなよ」\n「いやなの?」\n「言葉がいやなんだ」\n「じゃ――抱いて」\n クララは俺の手を引っ張って、ベッドに俺を腰かけさせ、俺のネクタイをいそいそと解きながら、\n「今日は、兄さん、あれ、いいわ」\n「あれ?」\nと言ってから、クララがいつもこのとき、下へ取りに行く例のあれだと分った。\n「今日は、あんなもの、いらない」\nとクララは珍しいことを言った。いつもは俺のほうで、いらないと言っても、クララは妊娠を恐れて、きかないのに、\n「あれ、やめて」\nと言った。心配のいらない日なのか。俺の顔に、それが出たらしく、そんなことじゃないんだと言いたそうにして、\n「あんなもの、いや」\n 俺の眼をのぞきこんで、\n「あたいは兄さんが好きになっちゃったらしい」\n「らしいとはなんだ」\n 俺がつけあがると、クララはそれを許して、\n「好きなの」\nと素直に言いなおして、その証拠のように、\n「今度は兄さんが、あたいの着物、ぬがして......」\n「あいよ」\n 俺は大喜びで、\n「俺は照ちゃんが猛烈に好きなんだ」\n その声も上ずっていた。\n「知ってるわ」\nとクララは言って、\n「くすぐったい。よけいなことしちゃ、いや」\n 媚びも含めて、身体をよじらせて、\n「あたいも、兄さんが好き。好きになっちゃ、いけないんだけど」\n「いけない?」\n「こんな商売してて......」\n「何を言ってるんだ。俺は照ちゃんと結婚したいと思ってるんだ」\n「結婚なんか、できないわ」\n「照ちゃんの借金を、俺は......」\n みなまで言わせず、\n「そんな話は、あとで......」\n クララは俺にその身を投げかけてきて、俺の唇をもとめた。俺はクララの背に手を回して、その唇を吸った。\n クララはつめたい肌をしていた。いつもそうなので、俺が抱いていると、その肌がすぐ暖かくなり、しっとりと汗ばんでくる。俺の身体が熱いせいではなくて、クララの身体が、しんは熱いのだ。そのくせ、抱かれる前の肌は、ひやりとしている。クララのこんなところまでが、俺を夢中にさせたのだ。\n その日は特にまた、俺をいよいよ夢中にさせずにはおかないクララだった。商売女が客には許さないサシコミ(接吻。サシミより下品な隠語)を、クララが俺に許したことは前に言ったが、まだひとつ、許さないことがあった。許しているようなふりをして、実はそれはうそだ、ガセだと俺は知っていた。下手な奇声を発したりして、技巧としても下手だと知っていたが、毎日、たくさんの客を取っている身なのだから、それを責めてはむごいと俺は黙っていた。\n それを今日は、ほんとに許したのだ。クララが俺を好きだと言ったのは、ほんとなのだと俺は感激した。\n「照ちゃん、俺と結婚しよう」\n 裸の身体を毛布で素早く蔽ったクララは、黙って顔まで毛布で隠した。俺はそれに顔を寄せて、\n「俺と結婚してくれ」\n 毛布がもぞもぞと動くだけで、頼りない。俺は毛布をひっぺがして、\n「なんとか言わないか」\n「うれしいわ」\nとクララは言ったものの、眼は、あらぬ方を見つめている。\n 生れて初めての恋なのだと俺は言おうとして、ふと、丸万の言ったヒモのことが俺の頭に来た。聞いてみたいが、そんな質問は男子として口にすべきことではないと、自分を抑えていると、\n「四郎さんのおうちで、許してくれるかしら?」\n「俺たちの結婚か。大丈夫だよ」\n 許すも許さないもない......と言いかけた俺に、"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「四郎さんのほんとのうちは、田舎なの?」\n「田舎? どうして」\n「本郷に下宿してると言うから......」\n「学生みたいか」\n 田舎者と見たわけじゃないのか。俺は、にやりとして、\n「東京だよ」\n「東京なの?」\n「麻布の四の橋だ」\n 俺は俺のおやじやおふくろのことを思い出しながら、\n「おやじは小さな鋳物工場をやってんだ」\n「いいわねえ」\nとクララは言って、\n「あたいのお父うさんは浪人......」\n「浪人?」\n「さっきの人、ヤーさまね?」\n「同志さ」\n 同志? とクララは聞き返して、\n「あたいのお父うさんは支那浪人......」\n え? と俺が思わず大きな声を出したとき、\n「クララさーん」\n 階段の下から婆あが呼んだ。いつだって憎たらしい婆あではあるが、このときほど、俺は婆あを憎いと思ったことはない。\n クララは大急ぎで洋服を着ながら、\n「兄さん、帰る?」\n 四郎さんを、また、兄さんにして、\n「どうする?」\nと言ったが、俺を帰らせたいふうだった。ねばるつもりだった俺に、クララはそれをすぐ口に出して言った。\n「つらいから、帰って......」\n 他の客を取っていることを、まざまざと俺に知られるのはつらいというのだ。クララはズロースをくるくると丸めて、ベッドの下に突っこんで、\n「ね、そうして」\nと言って、俺に別れの接吻をして、\n「兄さんの言葉は忘れないわ。あたいをそんなにまで思ってくれて......」\n「俺はすぐ金を作って、照ちゃんを迎えに来るよ」\n 業つく婆あが下から、またもや、せっついた。\n「クララさーん」\n「はーい」\n\n クララの身うけの金を調達するために、俺は砂馬に会ったが――やっぱり金のこととなると砂馬に会わねばならなかったが、今はそのことよりも、ここで一刻も早く言っておきたいことがある。\n 前述の日からちょうど三日後の朝のことだ。こういう時こそ、チョウフを使おう。女のあれをヤチと言い、男のあれをヨシコと言うのだが、下宿屋のせんべい蒲団のなかで目をさました俺は、俺のヨシコのさきがエテマタ(エテとは猿のことだ)にくっついたまま、なんとなく動きがとれなくなっている感じに、おや? と思って、寝ぼけ眼をこすりこすり、起き上って、のぞきこんで、\n「やったあ!」\nと俺は叫んだ。一遍に眼があいた。\n エテマタの黄色いシミは俺に、俺がリン病になったことを告げたのである。\n 寝てて知らないうちに、ヨシコのさきからウミが吹き出ていたのだ。それが体温で乾いて、ヨシコのさきを、のりでくっつけたみたいに、エテマタにくっついて離れないようにしていた。\n 何もわざわざこんなきたならしい話をすることもないのだが、それは俺には、寝ぼけ眼が一遍にあいたどころか、眼の前が真暗になったようなショックだったからだ。\n 当節のようにペニシリンといった便利な薬のなかった時代である。一遍かかったら、なおすのにひと苦労だったから、リン病になったこと自体もショックだったけど、他ならぬあのクララから俺がリン病を貰ったということが、それが俺にとっては、眼の前どころか世界が真暗になったようなショックだった。\n 生れて初めての恋をした、その相手の女から、まんまと俺はリン病をうつされたのだ。俺は歯をガリガリと噛みならした。\n 女房にしたいとまで、こっちでは思いつめていたあのクララが、そういう俺だと分ってながら、そういう俺の心を知っていながらこの俺に、自分のヤチクヤ(ヤチがヤク、病気)なのを承知の上でうつしやがったのか。そう言えば、チャズくときには俺にかならず、サックを使わせていたのも、自分がヤチクヤなのを、ちゃんと承知していたからなのだろうか。\n なんだって、あの日にかぎって、俺にリン病をうつそうとしたのか。なんだって俺にわざわざリン病をうつしやがったのだ?\n 俺はクララのところへ飛んで行った。朝の私娼窟はしらじらしい表情だった。\n 扉を蹴って、なかにはいるなり、\n「おい、クララ」\nと俺はどなった。\n クララのかわりに富江が出てきて、\n「いないわよ」\n 化粧をしてないその顔は幽鬼のような青さだった。\n「どこ、行った」\n「もう、やめたわよ」\n う! と俺は息をのんだ。\n「あの子も可哀そうに悪い男がついてて、どこかへクラ替えさ」\n 富江は歯をツーと鳴らして、\n「この間、ちょうど、その男が来てたんだよ。そのこと耳打ちしようかとも思ったんだけどね」\n「クララはどこへ行ったんだ」\n「そんなこと知らないよ」\n 俺は眼の前がふたたび真暗になるのを覚えた。\n「畜生!」\n 扉の上に色ガラスがはめてある。俺は拳を固めて、そのガラスを叩き割った。\n 富江が悲鳴をあげた。婆あが奥から飛んできて、俺に悪態をついたが、俺の耳にははいらなかった。\n 血のしたたる拳を見て、俺は、はっと我に返ったおもいで、のっそりと外へ出ると、婆あがついてきて、ガラスの弁償をしろと、うるさく言いつのった。うるせえ! と俺は、まつわりつく婆あを払いのけた。婆あはよろめいて、\n「おーい、みんな――若い衆、来ておくれ」\nと喚いた。するとたちまち、朝だというのにどこからか、若い男がばらばらと集まってきて、\n「この野郎」\nと、ひとりが俺の胸倉を取った。俺はそいつに、血だらけの拳でメリケンを食わせた。と同時に俺は、自分のみぞおちに、ほかの若い男からの強い一撃を食っていた。瞬間、息がとまって、かがみこんだ俺の上に、鉄拳の雨が降ってきた。\n「このシマで、へんな真似をしやがったら、承知しねえぞ」\n そういった罵りを浴びせられつつ、俺は寄ってたかって殴られ、蹴られ、踏んづけられて、半死半生の目に会わされたのである。\n\n 忘れもしない、ちょうどそのころ、詩人の玉塚英信は――俺がアナ系の組合の研究会に講師として頼もうと思っていたあの玉塚は、次のようなケッタイな詩を、どこかの雑誌に発表した。ケッタイだが、俺には忘れられない詩なのである。\n\n\n\n 俺は玉塚もリン病になったのだなと思い、俺もこの詩のように「ウミだらけの社会を血で洗おう」と思った。そのため俺は、アナ系の組合の仕事に打ちこもうと決意したのだが......。\n 生れて初めての恋を失ったその俺に、第二の打撃が待っていた。俺が組合の仕事に打ちこもうと思った矢先に、当のアナ系の組合に属していた工場の連中が、ごっそりと寝返りを打って、ボル派の組合に一人のこらずはいってしまったのである。\n\nその四 コップの液体\n\n スリコ(売薬)でごまかそうと思ったのだが、丸万が言うには、そんな姑息なことをしてて、コーガン炎にでもなってみろ(と彼は目をむいて)おめえのいるあのシタドヤ(安下宿)の部屋じゃ、外のオツボネ(廊下)を誰かが通れば、寝てるおめえの枕もとを通るようなもんだから、その足音がたちまちキンタマにびんびんひびいて、あっ痛え(と彼は顔を思いきりしかめて見せて)、廊下どころか、オカルバ(二階)の物音だって、おめえ――おめえの部屋はそう言えば、一日、陽の当らねえ北側の隅っこだったな、二階の物音が天井から筒抜けみてえにひびいてくる部屋だったな、あすこじゃ、おめえ、二階のオオマナビ(大学生)にドタバタやられてみろ、いやただ歩くだけのミシミシでも、すぐピーンとキンタマにひびいてきやがって、痛え、痛えと男泣きに泣かなくちゃならねえ、コーガン炎たあ、そういうもんだとおどかして、丸万はもと、旋盤工だった時分に世話になった本所の「セツル」を俺に紹介すると言う。町医者はぼられるから、もちろん駄目だが、安い病院だって、リン病は時日がかかって金を食うから、いいとこを自分が教えてやると言う。\n「セツル」たあ、なんだと俺は聞いた。セツルメントの略だとはのちに俺も知ったが、そのときの丸万の説明は、帝大のえらい先生方が学生を連れてきて、ヨジシ(貧民窟)のなかで、リツ(弁護士)やシャジ(医者)のところへ行けないヒカワ(貧乏人)相手に、法律の相談や病気の診断をしてくれてるところだという。\n それはセツルメント運動のひとつなのだが、そのとき俺は、インテリ嫌いの丸万に似つかわしくないことを言やあがると思って、慈善事業かとせせら笑った。偽善事業の世話になんかなりたかねえと俺はことわった。それには、ほかにも原因があったのだ。\n 実はこの丸万には、自分の恥をさらすようだから、まだ言ってなかったが、アナ系の組合に属していた工場の連中を、ごっそり引き抜かれた俺は、くやしくてくやしくて、ボル派の組合の江東支部へ、殴り込みをかけてやろうと思ったものだ。だが、俺ひとりでは、淫売窟で袋叩きに会ったあの二の舞いをやらかしそうで、そうなると、俺がひとりで袋叩きになるのはいいが、それではこの場合、アナーキスト全体の面汚しになる。だから、こっちが負けないように、「現実派」のアナーキストの同志の応援をもとめたいところだが、へたに言うと、これはみんな、ヤチモロの四郎さんよ、お前さんが、ガセビリにうつつを抜かしていたからだと、逆にやられかねない。そこで俺は――今度のことに直接、関係していると思われるボル派の組合のオルグを、道に待ち伏せしてデッチル(殴る)ことにしたのだ。俺はここで、はっきり言っておくけど、俺を実際に裏切ったのは、工場の連中なのだが、工場の労働者にだけは俺は手を出さなかった。俺に対する裏切りを彼らにさせた組合のオルグを俺は殴ったのである。\n そいつのなかに若い大学生崩れがいた。そいつの大学は帝大だった。俺はそうした帝大にゆかりのある「セツル」なんかの世話になりたくなかったのである。\n それを俺は丸万には言えなかった。間もなく、俺が組合を失ったことは丸万にもばれたのだが、丸万の耳に自分から入れたくないと思った俺は、「セツル」へ行きたくない理由も黙っていたのだ。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " そうして現在のありさまとなった。\n すなわち桂子が苦痛に堪えられず、二人から離れて別棟の高殿に、一人で住むようになったのである。\n 浮藻にとっても小次郎にとっても、高殿に桂子の住んでいることは、これまで一緒に姿を見せて、自分たちと同じ棟に住んでいた時よりも、一層に苦痛でもあれば恐ろしくもあった。\n 夜昼となくその高殿から、嫉妬と猜疑と呪咀とをもって、妖精のように桂子が、自分たちを看視していることだろう。\n で、二人にはその高殿が、悪霊の住んでいる魔殿かのように、凄く肌寒く思われるのであった。\n 小次郎はよく思った。\n(自分だけこの館から出て行くのが、一番よいのではあるまいか)と。\n しかしすぐに彼は不安を覚えた。\n(すると浮藻は死ぬだろう)と。\n そう、小次郎が出て行ったならば、恋するの余り慕うの余り、水に入るか木にくびれるか、懐剣で乳の下を刺すかして、浮藻の死ぬことは眼に見えていた。\n(いったいどうしたらよいだろう?)\n こうして今日になったのである。\n その今夜、はじめて浮藻の口から、思い迫った決死の語調で、\n「どこの山の奥へなりと、どこの海の果てへなりと、二人で行ってくらしましょう」\n と、涙と共に口説かれたのであった。\n 燈心を引いてわざと細めた紙燭の光が、古びた襖へ、朦朧とした二つの影法師を、妖怪のようにうつしている。\n 庭へ散り落ちる木の葉の生命を、傷むかのように聞こえて来るのは、秋深い虫の声々であった。\n「浮藻殿、参りましょう」\n ややあって小次郎は決心したように云った。\n「いつぞや河内の林の中で、桂子様からわたしたち二人は、どこへなりと行ってくらすがよいと追いやられた身の上でござります。......漢権守の居城の事件から、このような境遇とはなりましたが......今こそ出かけて行くべき時......」\n「おおそれでは小次郎様、わたしと一緒にここを出て他国へ!」\n と浮藻は小次郎へ縋りついた。\n「それでこそ妾は救われまする! ......どのような苦労がありましょうとも、このようなありさまでこのような所に、苦しみながら住んでいるより......」\n「忘恩の徒と桂子様には、わたくしたちの立ち去った後、お怒りになるかは知れませぬが、それもこれも一時でござって、わたくしどもの姿が消えましたならば、かえって桂子様に致しましても、心朗らかになりましょうよ」\n「わたくしどもにいたしましても、二人ばかりでいつまでも一緒に、水いらずにすむこと出来ましたら、知らぬ他国での辛苦のくらしも、何んの恐ろしく何の悲しく......」\n そっと立ち上がる二人の姿が、長く襖に影法師となって写った。\n\n「声が聞こえぬ、どこへ行きおったか?」\n この部屋の外の落ち葉の庭に、大鉞をひっさげて、大蔵ヶ谷右衛門が佇んだのは、それから間もなくのことであった。\n しかし右衛門がそこへ来た頃には、旅装いさえろくろくにしない、小次郎と浮藻とが館を出て、築地の外を町の方へ、いそぎ足に歩いている時であった。\n(これから新しい生活がはじまる)\n こう二人には思われた。\n わけても浮藻には館を出て、恋いこがれている小次郎と、一緒に広い世間へ出て行って、新生活をするということが、嬉しく思われてならなかった。\n(どんな苦労をするにしても、小次郎様と一緒なら、わたしには苦労とは思われない)\n そう彼女には思われるのであった。\n 空には銀河が月光に暈され、少し光を鈍めてはいたが、しかし巾広く流れてい、七ツ星さえ姿を見せていた。\n 築地の角を左へ曲がった。\n で、館の裏側に添い、二人は足早に歩いて行った。\n と、不意に、\n「小次郎!」\n と呼ぶ声が、どこからともなく聞こえて来た。\n ギョッとして二人は足を止めた。\n「小次郎や」\n という声がまた聞こえた。\n それは頭上から来るようであった。\n 振り仰いだ二人に見えたものは、薄白い築地を蔽うようにして、黒く茂っている植え込みを抽んで、聳えている高殿の姿であり、その高殿の廊の欄干に、のしかかるように体を寄せて、じっと二人を見下ろしている、絵本で見た玉藻前のような、飛天夜叉桂子の姿であった。\n 二人はハ――ッと息を飲み、足を釘づけにしてガタガタ顫えた。\n と、桂子の右の手が、高く頭上にかざされて、長い袖が絞れ渦巻いて、車輪のように廻ると見えた。\n 瞬間、小次郎の体は宙に浮き、築地に添い植え込みに添い、高殿の方へ釣り上げられていた。\n「あッ、あッ、あッ」\n と云ったかと思うと、浮藻はグラグラと眼が廻った。\n「神様! おおおお、お助けくださりませ!」\n 口の中でそう叫び、あまりの恐ろしさに眼を閉じた。\n でもその眼をひらいた時には、もっと恐ろしい光景が――高殿の廊で二人の男女が、抱擁している光景が、悪夢のように映って見えた。\n「余りな......お姉様......あんまりな!」\n 小次郎と桂子とが抱き合ったまま、廊から部屋の中へ消えたのと、浮藻が気絶したのと同時であった。\n\n この同じ夜のことであった。\n 六波羅北の探題邸を、子を取られた鬼子母神のように、部屋から部屋、廊から廊と、鬼火の姥が喚きながら、金地院範覚を探し廻っていた。\n「範覚よ、どこへうせた! お主に去られてはわしゃもたぬ! ......範覚よ、ちょっと来てくれ!」\n 一つの部屋の襖をあけた。\n と、近習の若侍たちが、雑談に花を咲かせていたが、\n「色情狂じゃ、それ逃げろ!」\n バタバタと逃げてしまった。\n「範覚よ、ちょっと来てくれ! ......今後はきっと浮気はしない! ......お前一人ハッキリときめる! ......範覚よ帰って来ておくれ!」\n また一つの部屋の襖をあけた。\n「化物だ――ッ、それ逃げろ!」\n 稚子たちに雑って茶童たちが、双六に興を催していたが、一斉に立って逃げてしまった。\n「範覚よ、どこにおいでだ。......お前に去られたらわしゃ駄目じゃ。......根こそぎ力が抜けてしまう。......ただの婆さんになってしまう! 範覚よ、帰って来ておくれ! ......」\n 鬼火の姥は血眼になって、館中探して廻るのであった。\n 熊野から十津川、芋ヶ瀬から玉置と、大塔宮様を討ち奉ろうと、鬼火の姥と範覚とは、不敵にもお後をつけ廻したが、とうとう目的をとげることが出来ず、宮家には槇野城へおはいりになり、その後吉野へ城を構えられ、そこへお籠りあそばされ、三千の武士や衆徒に守護され、諸方へご令旨を遣わされ、勤王の兵を募られつつ、一方には直ちに京都六波羅を、ご討伐あそばさるるご計画と、こういう形勢になってしまった。\n そこで姥は範覚と連れ立ち、六波羅探題へ帰って来、北の探題の館に住み、今後の命を待つことにした。\n ところが金地院範覚であるが、玉置の荘にいた頃から、姥に対して冷淡になり、離れようとする素振りを現わしたが、この館へ来て以来、その傾向が著しくなった。\n それに薄々感付いてはいたが、まさかと思って鬼火の姥は、警戒しようとするでもなく、例によってこの館に仕えているところの、美貌の若武士や稚児や茶童に、いやらしい様子で働きかけた。\n と、不意に今夜になって、範覚が姿をくらましてしまった。\n 異性に接することによって、飛天夜叉の桂子は、超自然力を失うのであったが、鬼火の姥に至っては、それとは全然反対に、異性に接しないことによって、超自然力を失うのであった。\n 年寄りで醜悪の姥に対しては、範覚以外のどのような男も、怖毛を揮って近寄らなかった。\n もし範覚を失おうものなら、姥はただのお婆さんとなり、超自然力を失うであろう。\n 範覚が姿をくらましたことは、彼女にとっては大打撃であった。\n「範覚よ、どこにおいでだ!」\n またもや姥はこう呼びながら、部屋部屋の襖を開けはじめた。\n\n この頃範覚は京都の町を、銀河を頭上にいただきながら、朗らかな顔をして歩いていた。\n(悪魔から離れたというものさ)\n 金剛杖を軽くつき、浮き立つように歩いていた。\n(新しい生活がはじまります)\n 寝しずまった町はひそやかで、両側の家々は扉も蔀も、門も窓もとざしてしまって、火影一筋洩らしていなかった。柳の老木が立っていて、しきりに枯れ葉を散らしているのが、月光に針でもこぼれるように見え、それの根もとの草むらの中で、虫が声かぎり鳴いているのが、秋の深夜を浄化してみせた。\n(あの婆さんとツキアウことによって、何を俺ら得をしたかしら?)\n こんなことが考えられた。\n(女のいやらしさを知ったばかりさ)\n(では今後は)"
},
{
"role": "assistant",
"content": " と考えた。\n(女の綺麗さを知らなけりゃアならねえ)\n(オヤオヤオヤ)\n と立ち止まった。\n(ここはいったいどこなんだろう?)\n 寂しい町の外れであって、築地が側に立っていた。\n「ほウ!」\n と驚いて声をあげた。\n「若い女が仆れているぞ――ッ......見ろ! もうこんな好運にぶつかってしまった!」\n\n 大蔵ヶ谷右衛門は、裏庭から館の裾を巡り、前庭の方へ歩いて来た。\n(浮藻様はおいでなされぬ。小次郎めもいないようだ)\n 大鉞が薄白く、その刃を月光に光らせていた。\n「変だ」\n と呟いて門の方を見た。\n「潜り戸が開いている」\n で右衛門は潜り戸をくぐり、館から外へ歩み出た。\n 人っ子一人通っていない、森閑と更けた夜の中に、館の築地が延びていた。\n その築地を左へ曲がった。\n と、行く手に一人の山伏が、女を小脇に抱えながら、向こうへ歩いて行く姿が見えた。\n 何がなしに気にかかり、右衛門は小走りに走り寄ったが、\n(あッ、浮藻様だ! 山伏は範覚!)\n「待て範覚!」\n と大音に叫び、豹のように躍りかかった。\n「誰だ!?」\n と浮藻を小脇に抱えた、金地院範覚は振り返ったが、\n「や、わりゃア右衛門か!」\n「汝が汝が浮藻様を!」\n「授かったのだ! 貰って行く!」\n「黙れ!」\n 鉞を振り込んだ。\n「どっこい!」\n ひっ外して範覚は、十数間ひた走り、\n「右衛門、おさらば、いずれ逢おう!」\n「待て!」\n ビューッと鉞を投げた。\n 金剛杖を片手で振り、その鉞を刎ね飛ばし、\n「うんにゃ、俺は待たねえことにした!」\n 浮藻を抱えたまま範覚は、矢のように走って姿を消し、\n「待て、待ってくれ、おおおお範覚!」\n と右衛門は喚きながらその後を追った。\n\n それから数日の日が経った雨もよいの寂しい夕暮れであったが、桂子の館の前庭で、幽霊女と鶏娘とが、鶏頭の葉をむしりながら、しょんぼりとして話していた。\n「ああとうとうこのお館も無住の古御所になってしまうのね」\n「そう、わたしたちが行ってしまえばねえ」\n「小次郎様はどうなされたことやら?」\n「あの晩まるで狂人のように、魔の高殿から駈け下りられ、『戦場へ! 戦場へ! そこで働いて討ち死にする』と叫び、館から馳け出して行かれたがねえ......」\n「それよりその後から桂子様が、顔にお袖をおあてになり、別人のような様子になられ、やはりお館から出て行かれたが、そのお姿が眼に残っていてならぬ」\n「あの時わたしは桂子様へ『飛天夜叉の桂子様、どこへおいででございますか?」って、恐る恐るお訊ねしたところ、『わしはもう飛天夜叉ではなくなったのだよ、ただの女になってしまったのだよ。......昔の飛天夜叉に立ち返るまでは、お前たちには逢いますまい』と、泣きながら仰せになられたっけ」\n「浮藻様は行衛不明、右衛門殿も行衛不明......ご家来衆は寄りつかず...」\n この時館の玄関から、影法師のようなものが現われて、二人の女の方へ近寄って来た。\n 旅装した風見の袈裟太郎であった。\n「袈裟太郎様お出かけか」\n「この早い足で日本国中を巡り、桂子様や浮藻様の行衛を、わしはお探しするつもりさ」\n「さようなら袈裟太郎様」\n「さようならお前たち」\n 袈裟太郎が悄然と立ち去った後、二人の女も館から去った。\n 雨が蕭々と降って来た。\n 廃園の中に廃屋が、悪霊殿を持ちながら、滅亡の相をなして立っている。\n\n吉野の城戦\n\n 明くれば元弘三年であった。\n その二月の下旬において、二階堂出羽入道道蘊は、六万余騎の勢を率い、大塔宮の籠らせたまえる吉野の城へ押し寄せた。\n 要害堅固の城だったので、容易に落ちそうにも見えなかった。\n しかし以前から武家方であり、そのため大塔宮のご意見によって、権勢を剥がれた吉野の執行、岩菊丸が逆怨みをし、寄せ手の勢に内通し、裏山づたいに寄せ手の勢の一部を、城の搦め手へ案内し、火を放って攻撃したので、宮方は守りを失ってしまった。\n それは閏二月の一日であったが、この日宮家には蔵王堂の御座に、赤地の錦の鎧直垂に、巳の剋ばかりの緋縅の鎧――あさひの御鎧をお召しになり、竜頭の御兜をいただかれ、三尺五寸の小薙刀を持たれ、二十余人の家臣と共に、合戦のお指図あそばされおられたが、勝手の明神の前あたりより、敵大勢こみ入ったるをご覧じ、\n「今は遁がれぬところなるぞ。ひとまず逆賊を追い散らし、心しずかに腹切れや!」\n と、ご自身真っ先に乗り出したまえば、家臣の面々一団となり、寄せ手の真ん中へ突き入った。\n 東西に払い南北に追い廻した。\n 寄せ手は大勢ではあったけれど、二十余人に駈け散らされ、四方の谷へ退いた。\n「いざこの隙に」\n と大塔宮は、蔵王堂のお庭へ引き返し、大幔幕をひき絞らせ、最後のご酒宴を催おされた。\n 御鎧に立つところの矢七筋、御頬にも二の御腕にも、お傷を受けられて血流れ出で、全身を紅にお染めになりながら、敷き皮の上にお立ちになり、大盃を三度まで、さも快よく傾むけさせられれば、木寺相模は敵の首級を、四尺三寸の太刀先に貫き、お前に出て舞い出した。\n\n〽戈鋋剣戟を降らすこと電光のごとくなり。\n 盤石岩を飛ばすこと春の雨に相同じ。\n\n この間も大手搦め手での、鬨の声矢叫びは凄まじかった。\n\n「こは何事! ご酒宴の声とは!?」\n 村上彦四郎義光は、大手の勢に加わって、悪戦苦闘をつづけていたが、敵搦め手から寄せたと聞き、宮家の御事心もとなく、蔵王堂まで引き返して来た。\n と、大庭の中ほどから、謡う声囃す声が、むしろ朗かに聞こえて来た。\n(さては?)\n と心に感じられた。\n(最後のご酒宴と覚ゆるぞ! ......一大事! ......御命に代わって!)\n 幔幕をくぐって駈け込んだ。\n「おお彦四郎! 生前に逢えたか!」\n「宮!」\n と鎧に立つところの矢、十六筋を立てたまま、全身蘇芳の色に染まった彦四郎義光は、がばと坐り、\n「最後のご酒宴と見まいらせましたが、こは余りにもご性急、かつは軽々しゅう存ぜられまする。並々のご身分にあらせられるることか、宮方一統の運命を、双肩に担わせらるる重責の御身、尚、この儀は申すまでもなく、金枝玉葉の尊貴のご身分、他将軍とは異りまする! ......敵の勢いまだ四方へ廻らず、高野口は自由にござりますれば、なにとぞそこよりお落ちあそばしませ! ただし御跡に残りとどまって戦う兵なくば、敵審かしみ、御後追いかけ申すべし。恐れあることには候えども、召させたもう御鎧直垂と、御物の具とをたまわって、御諱の字冒させくださるべし、御命に代わり申すべし!」\n 死なばもろともと仰せになり、ご承引あそばされぬ大塔宮様を血涙をもって、苦諌しまいらせ、手ずから宮家の物の具を解き、自身にそれを引き纒い、無二の宮方であるところの、吉水院真遍に道案内をさせ、高野山を目ざして宮家を落とし、一息ついた彦四郎義光は、二の木戸の高楼へ上ろうとした。と、"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「はっ」\n とはいったが、根が文官育ちの劉高、サッと途端にもうその顔には血の気もない。\n はたせるかな、ほどなく林道の彼方に躍り立つ三彩の三獣みたいな人影がある。\n 一個の男は黒色の袍を着て戦斧をひっ提げ、次の大男は赤地金襴の戦袍に卍頭巾といういでたち。また三番目の野太刀を持ったひょろ長い男は緑衣であった。\n「やい、待てっ」\n 彼らはまるで、戦陣の将軍気取りに、こう名のりを揚げ連ねたものである。\n「おれを知らねえか。清風山の頭領、錦毛虎の燕順たあおれのこった」\n「おなじく兄弟分の矮脚虎王英」\n「つづいては、白面郎の鄭天寿だ。――世間は知らず、ここへおいでなすッちゃ、てめえらのお上かぜも効き目はねえぞ」\n「二つの檻車をおれたちへ献上して退きさがればよし、さもなくば」\n「一匹でも生かして帰すことじゃあねえ。性をすえて返答しろい!」\n 聞くと、黄信は馬の鞍ツボに立って、怒髪を衝いた。\n「よくぞ出て来た。泣く子もだまる鎮三山と異名のあるこの州軍総長の黄信を、うぬらはまだ知らねえな。......それッ陣を開け」\n ところが、日頃の訓練も用をなさず、部下の兵は逆にわっと四散し出した。数知れぬ賊の手下が前後に見えたばかりでなく、伏勢は頭上にもいて、樹々の梢から雨とばかり毒矢を射浴びせてきたからだった。\n「残念っ」\n と叫びながら、林の小道で、黄信も馬の背から振り飛ばされていた。逃げる三彩の賊魁を追ッかけたのが因だった。“引伏セ”という茨や張縄の陥し穴に落ちたのである。すぐ狂い馬に取ッついて、再び馬上には返ったものの部下の一兵も早や辺りには見えない。\n 喊声は諸所に聞える。陽は早や暮れて、それが一そう不気味だった。のみならず得態の知れない火光が林を透して方々に見えたから、\n「やっ。これは火計だ。焼け死ぬぞ」\n とばかり黄信は無性にムチで馬腹を打ちつづけた。そしてひとまず元の鎮台大寨へ馳けもどり、鎮台兵を挙げて非常の備えにかかるとともに、事の異変を青州奉行の慕蓉閣下へ早馬で急報した。\n 慕蓉は深夜、それの急使に起されて、\n「何事か?」\n と、黄の一書を見るに。\n\n ――上命を拝して現地へ臨み、反逆人花栄と一賊を檻車に乗せ、かつ劉高を証人として、青州へ立ち帰らんとする。途中、清風山の群賊、道をはばめて、檻車もろとも花栄、劉高の身をも奪い去って候う。......為に、県下の騒乱ひとかたならず、すみやかに二次の官軍と良将を御派遣あって、治安のため焦眉の御指導を給りたく......云々。恐惶謹言。\n\n「すぐ秦明を呼べ!」\n 夜中ながら彼はさっそく登庁して吏を走り廻らせた。\n 召しに応じて、霹靂火の秦明は、ただちに庁内へその姿を見せた。\n 彼は、青州第一の兵馬の家の者である。性、気みじかで、すぐ雷声を出すところから霹靂火のあだ名があり、ひとたび狼牙棒とよぶ仙人掌のような針を植えた四尺の棒を打てば万夫不当な概があった。\n「総監。すぐさま一軍をつれて、清風寨の鎮圧にまいってくれ。云々な次第で、黄信も手を焼いてしまったらしい」\n「心得ました。大言ながら秦明が馳せつけるからには、ご憂慮には及びません」\n「だが、軍官の花栄が寝返ッて賊中で指揮をとっている由だぞ。油断するな」\n 慕蓉は兵を鼓舞するために、自身、城外の鼓楼へ床几を移して、兵一人宛てに酒三杯、肉まんじゅう二箇ずつを供与して、その行を壮にした。\n やがて紅の縁をとった紅炎旗に「兵馬総監秦、統制」と書いた大旆を朝風にひるがえして、兵五百の先頭に立った秦明は、馬上から鼓楼の床几へ向って、\n「では行って来ます。吉報は旬日のまにお耳に入りましょう。おさらば」\n とばかり軍鼓堂々と、東南の道へくだッて行き、その歓呼と狼煙の下に、慕蓉もまた手を振ってその征途を見送ったものだった。\n ところで、一方、清風山上の賊寨では。\n あの日、黄信の不意を突いて、首尾よく宋江と花栄の檻車を打ち破り、二人の身を山上の砦へ助け入れてから、さてその夜は、再生再会のよろこびと事のいきさつの語り合いで、一朝の悲境も一転、まるで凱旋の宴にも似ていた。\n「憎むべき奴は、文官の劉高」\n すべては、彼の拵え事にあるとなして、宋江が、\n「劉高も捕えたでしょう。這奴をここへお連れ下さらんか」\n というと、賊のかしらたちは、事もなげに笑って言った。\n「その劉高は、とうにあの世の亡者です。連れて来るには十万億土まで呼びに行かなければなりません」\n「や、もう斬ってしまったのか。やれやれ、無造作な」\n「でも先生。あんな野郎は、なにもそう惜しがることアございますまいに。......それよりは今度こそ、劉高が持っていたあの女を、この王矮虎に授けておくんなさるでしょうね」\n「まだあんな執着を捨て切れねえでいやがる。なんて鼻の下の長い奴だろう」\n 矮虎の顔を指して、一同はどっと笑った。\n あくる日になると、物見の報が入った。――先に黄信が劉高の手に乗って宋江と花栄を檻車に封じたことも、また何から何まですべての予察は、みな彼ら特有なこの“飛耳張目”の探りによっていたのである。\n「黄信が鎮台兵を召集している!」\n するとまた、翌々日には。\n「いやそれよりも、青州一の兵馬総監、霹靂火の秦明が、兵五百騎でやって来る!」\n つづいては、同日の晩から翌朝にかけ。\n「一路、青州街道からここの北麓の下へ近づくらしい」\n「すでに七十里先に見えた」\n「麓から十里ほど手前で兵馬をとめ、今夜は野営する様子!」\n 刻々の物見の声は、まるで颱風来のようである。が、山寨の中はしんとしていた。\n 宋江がいる。\n また小李広花栄もいる。\n おそらくは、清風山全体の賊は、二人の智と勇に恃んで「――来たら来た時、ござンなれ」としていたのではあるまいか。\n\n\n\n秦明の仙人掌棒も用をなさぬ事。ならびに町々三無用の事\n\n\n\n わざと山麓に一夜を明かして、大いに英気を養った官兵は、黎明と同時に、山へむかって、ど、ど、ど、どウん......\n と砲口を揃えて、まず石砲をぶッ放した。\n つづいて銅鑼や陣鼓の音が、雲を裂くかとばかり野に起ると、山上からも狼煙が揚がり、山くずれのような一陣の賊兵が麓ぢかく陣をしいた。\n「やあ、洒落くさい草賊めら」\n 秦明は、金鎧さんらんたる馬上姿に、例の鉄の仙人掌棒を小脇に持ち、近づいてみると、賊兵の中に擁されている大将風なのは、まぎれもない小李広花栄ではないか。\n かっとなって、馬をすすめ、\n「やい花栄。なんじの家は代々朝廷の一武官たる上、身は鎮台の将として地方へ赴任していながら、山賊の仲間に落ち入ったとは何事だ。恥を知れ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「おう秦総監か。まず聞き給え。これには深い仔細のあること」\n「言い抜けは無用だ、公辺にはもう真相は知れている」\n「そもそも、その真相とは、劉高の拵え事です。まったくは」\n「問答無用、陳弁ならば公庁で吐ざけ。おれはきさまにお縄を頂戴させるまでのことだ」\n「上官と仰いで、一応のことわけを申すに、それすら聞いてくれないのか」\n「叛乱人のくせに虫がよすぎる! 縛に服せ、小李広っ」\n「なんの! かくなる上は」\n 広場をえらんで、双方の馬と馬、卍にもつれた。花栄の閃々たる白槍、秦明の風を呼ぶがごとき仙人掌棒、およそ四、五十合の大接戦だったが勝負はつかない。\n その間じゅう、敵味方の金鼓と、わあッという喊声は、山こだまを揺り鳴らす。それはすばらしい二人の剣戟俳優の熱烈な演舞をたすける、劇音楽と観衆の熱狂みたいな轟きだった。――そのうちに花栄のほうが、\n「これは勝てん」\n と、あきらめたか、急に道をかえて逃げ出した。\n「卑怯っ」\n 追ッかけた途端に、秦明のかぶとにカチンと矢が刎ね返り、朱い房が切れて飛んだ。\n 見れば、花栄はすばやく手槍を鞍わきの了事環(槍挟み)へ預けて、その手には半弓を持ちかえていたのである。\n「あっ、這奴は弓の名人!?」\n 身を、馬のたてがみへ俯っ伏せたすきに、すでに花栄の姿は雲林の裡に消え去っていた。\n あちこちにおける部下と賊兵の小ぜり合いは、らちゃくちゃもない。彼は一たん兵を平野へ下げて兵糧をとり、再度山へ攻め登った。\n「オオ。西の峰だぞ、あのドンチャンな銅鑼や鬨の声は」\n しかし、秦明がその西の峰を、えいえい声で攻めて行くと、応えは谺ばかりだった。\n「ヤッ、賊は東谷の向うです。谺のせいで、西に聞えたのかもしれません」\n 部下の注意に、きっと谷向うを見渡すと、なるほど賊の紅旗が見える。\n「それ行けっ」\n だが、道を急ぐだけでも、百難の思いがあった。細い杣道にはわざと大木を伐り仆してあり、枯れ柴を踏めば、陥し穴ができている。\n その上、からくも沢を渡って、東の峰へたどりついてみると、何としたこと! ここにも人の気はないのである。森閑として春浅き樹海にはただ鳥の音が澄んで聞えるだけだ。\n「くそうっ。この秦明を小癪な偽計でたばからんとするのだな。いまにみろ」\n 一ト息入れるまもなかった。またたちまち、百雷のような銅鑼の乱打がどこかでする。銅鑼の打ち方もただの戦陣拍子でなく、まるで人を揶揄するような囃し方としか聞えない。\n「下だ、下だ! もうすこし下の東寄りだ」\n 上からの攻勢は戦法の利と、無造作に雪崩かけたのが、またぞろ重大な過誤とはなった。途中、山肌の剥げている片側道が削られていたのである。土砂もろとも、人馬は谷底へころげ落ちた。「止まれッ、止まれ!」と叫んでも後からの勢いに、瞬時、歯止めの効かない車覆りの如き惨状を見てしまった。\n「ひとまず退けい。道をあらためて、こんどこそは潰滅してやる!」\n 短気で鳴っている秦明も、いまはただ呶号に呶号するばかりだった。怪我人を谷から拾い集めて一たん野営の場へひきあげた。そして休息ついでに早目な晩の兵站に夕煙を揚げはじめた。\n するとつい今しがた降りて来たばかりな山中で、またも前にもまさる鬨の声や金鼓のひびきだ。自身はヘトヘトだったので、一隊を割いてまず前哨戦にやってみると、これがなかなか帰って来ない。\n しかも、銅鑼の乱打はなお嘲るごとくつづいていたから、たまりかねたか、彼は再び馬上となって全軍へ号令した。\n「兵糧は賊徒を踏みつぶしたあとでゆっくり食おう。山寨には酒や肉もうんとあるに違いないぞ。奮えや者ども」\n しかし、再び山へ馳け入ると、東山の音声はバッタリ消えて、かえって反対な西山の一角にチラチラ数知れぬ松明の火が見える。\n「さてはやはり、賊は西か」\n と、昼の一道をとって引っ返せば、さらに思わぬ高い所に炬火が見えて、ここ西山の山ふところは、ただ暗々黒裡の闇でしかない。秦明は切歯した。怒髪をサカ立て、毛穴は血の汗を吹きそうだった。\n「兵卒、あの高い所へ行く道はないか」\n「南へ迂回すれば本道があるそうですが」\n「さてはそっちが奴らの大手口とみえる。ぜひもない。南へ廻れ」\n そこで東南路へ向ったが本道へ出るにもさんざんな苦心があった。すでに陽はとっくに暮れている。ぼやっと黄色い月があった。月光をたよりにやっと大道を見つけだし、折々、暗がりから射てくる伏勢の矢風だった。無二無三それを突破しながらすでに登りつめること数十町、ふと仰ぐと、やっと頂上へ出たか平らかな岩盤とかなり広そうな平地がある。\n 頂上には赤々と幾つもの篝が燃えさかっているらしい。賑やかな笛や太鼓の音はまるで遊興の場のようだ。しかも何事ぞ! と秦明の怒気はいまや頂点に達していた。そこの平らかな岩盤を酒の場として、花栄や宋江や頭目どもが、杯を手に、風流な談笑でも交わしているかのような姿ではないか。\n「うごくなッ。賊どもっ」\n 彼らの前に、こう馬を躍り立てて大喝したが、\n「おう、秦総監、遂にやって来られたか」\n 誰かがそれにこう答えたのみである。驚く者などは一人もない。\n「さぞおくたびれであろう。馬を降りて、あなたもここで一献なさらんか」\n「ば、ばかなッ。賊ども、神妙にお縄をいただけ」\n「わはははは」\n その笑い声が合図だったと見える。秦明の体は竿立ちになった馬の背から抛り出され、馬は体じゅうに矢を負ったままどこへともなく狂奔してしまった。\n 同時に、秦明も横ッ飛びに危地を避けて、うしろへ続いていた味方の中へころげ込んだ。とたんに四面四山は耳も聾せんばかりな陣鉦、陣鼓、陣螺の響きであり山の人間どもの諸声だった。――無我夢中で秦明は兵とともに逃げなだれた。――けれどもその疾走よりも速い谷川水が彼らを追ッかけ、ついに道を失ってしまった。道が河に変じてしまったのである。\n この計略たるや、すべて宋江と花栄の方寸から出たものだった。東峰と西峰にいわゆる兵法の“まぎれ”を伏せ、山の小道を“悩乱の迷路”に使い、また道を河にするには山寨の貯水池を切って落したものなのだ。\n 官兵五百のほとんどは、これでかたがついてしまった。しかしかねてから賊の手下に命じておいたことだから、いちど溺死しかけた秦明の身だけは、やがて縄目にされて曳かれて来た。場所は賊殿の本丸である。賊は“山寨の聚議場”とそこを呼んでいる。\n\n「やっ、花栄だなきさまは。おれは生け捕られたのか。だのになぜおれの縄を解く。......さ斬れ、花栄。なぜこの秦明を八ツ裂きにせんのだっ」\n「秦総監。――夜来の失礼はおゆるし下さい。あなたを殺すなといっているのは、そちらにおられるお方です」\n「なにっ?」\n 秦明は血走った眼を横へやって。\n「さては、なんじが一山の賊の首魁か」\n「ちがいます――」花栄が言って、彼の眸のやりばに注意を与えた。\n「賊のかしらは、こちら側に居並んでいる者たちで、上から順にいえば、錦毛虎の燕順、矮脚虎の王英、白面郎の鄭天寿」\n「賊でない奴が、ここにいるはずはない。花栄、きさまも今は張本の一人だろうし、そこの椅子にいる色の黒い男も、いずれは悪党の頭株にちがいあるまい」\n「いいやそのお方こそ、宋押司です」\n「押司だと」\n「山東の及時雨、宋公明さんですよ」\n「げえっ。この人が?」\n「よっく心をおちつけてご対面なすってごらんなさい。かねて鄆城県から諸州へ配付された“宋江人相書”なるものはご記憶にあるはずではございませんか」\n 穴のあくほどじイっと宋江の顔やら風采を見つめていた秦明は、やがてのこと、がくんと肩を落して平伏した。\n「いったい、これはどうしたわけか。どうして、かのご高名な宋押司が、こんな所におられたのか。......まるで夢のようだ。自分のしたことの恐ろしさに身がふるえる」\n「どうぞお手を上げてください。いかにも宋江は自分ですが、それではお話もできかねる」\n 宋江はしいて彼を対等な一椅子につかせ、そして、鄆城県出奔の事情から、つい先ごろ、花栄の家に身を寄せているうちの奇禍と、劉夫妻の奸計におちたことなどを、逐一諄々とはなしてゆき、その理非黒白をほぐしながら話して聞かせた。\n「過ッた」と、まっ正直なだけに、秦明は、慚愧と義憤におもてを焼いて――「すぐ拙者から慕蓉閣下へ釈明しましょう。まるで事実はうらはらだ。明朝ここを放してください」\n「いやまあ、そのお体では、即座にご出発は無理でしょう。まあ、ごゆるりと」\n いわれてみれば、豪気な秦明も五体節々痛い所だらけである。手当をうけてつい二日は過ぎた。しかし考えると居ても起ってもいられない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 嚇されて、二人も争う術がなかった。かれらは権田原心中の浮き名を流す機会を失って、おめおめと庄太に追い立てられて行った。\n これで先ず一方の埓は明いたので、半七は更に為吉と藤助の詮議に取りかかろうとして、持っている提灯をこちらへ振り向ける途端に、今度は為吉が悲鳴をあげて倒れた。はっと思って透かして視ると、抜き身を引っさげた一人の男が芒をかき分けて一散に逃げ去った。それを追っても間に合わないと見て、半七はそこに突っ立っている藤助の腕をつかんだ。\n「親分、わたしをどうするのです」と、藤助は慌てたように云った。\n「どうするものか。さあ、白状しろ」\n「わたしはなんにも知りません」\n「空っとぼけるな。この野郎......」と、半七は叱り付けた。「貴様は今夜この為吉を殺らすつもりでここへ連れ出したのだろう」\n「飛んでもねえことを......。わたしはただ、旦那の指図でこの為さんをここまで案内して来たのです」\n「なんのために案内して来た」\n「この大きい木の下に待っている人があるから、その人に逢わせてやれと云うのです」\n「待っている人と云うのは誰だ」\n「知りません。逢えば判ると云いました」\n「子供のようなことを云うな。狐にでも化かされやしめえし、大の男二人が鼻をそろえて、訳もわからずに野原のまん中へうろうろ出て来る奴があるものか。出たらめもいい加減にしろ」\n 腕を捻じあげられて、藤助は意気地も無しに泣き叫んだ。\n「堪忍して下さい、堪忍してください」\n 相手が案外に弱いので、半七はすこし躊躇した。こいつは本当に弱いのか、それとも油断をさせるのか、その正体を見定めかねて、思わず掴んだ手をゆるめると、藤助は草の上にぐたぐたと坐った。\n「親分。わたしは全くなんにも知らないのです。御承知かも知れませんが、この為さんの妹がゆうべ見えなくなってしまいました。家の旦那も心配して、けさから方々を探し歩いていましたが、午過ぎになって帰って来まして、お種さんの居どころは知れたと云うのです。だが、相手が悪い奴で唯では渡さない。拐引で訴えれば、一文もいらずに取り戻すことが出来るかも知れないが、そんなことに暇取っているうちに、お種さんのからだに何かの間違いがあっては取り返しが付かない。これも災難と諦めて、いくらかのお金を渡して無事に取り戻した方がよかろう。そこで向うでは十両出せと云う。わたしは五両に負けてくれと云う。押し問答の末に六両に負けさせて来たから、それを持って早く取り戻して来たら好かろうと云うことでした。そこで、為さんは金右衛門さんと相談して、ともかくもお種さんを取り戻しに行くことになりましたが、二人の路銀をあわせても六両の金がありません。胴巻の金まで振るい出しても、四両二分ばかりしか無いので、不足の一両二分は旦那が足してやることにして、今夜ここへ出て来たのです」\n「主人がなぜ一緒に来ねえのだ」\n「主人が一緒に来る筈でしたが、夕方から持病の疝癪の差し込みがおこって、身動きが出来なくなりました。朝早くから出歩いて、冷えたのだろうと云うのです。そこで、主人の代りにわたしが出て来ることになりました。権田原のまん中に大きい榛の木がある。そこへ行けば、相手がお種さんを連れて来ているから、六両の金と引っ換えに、お種さんを受け取って来いと云われたので、為さんを案内して出て来ると、途中でこんな騒ぎが出来したのです」\n「それにしても、無じるしの提灯をなぜ持って来た」\n「旦那の云うには、こんなことが世間へ知れると、おたがいに迷惑する。下総屋のしるしのない提灯を持って行けと云うので......」\n「むむ。まあ、大抵は判った。じゃあ、おれに手伝って、この怪我人を運んで行け」\n さっきから手負いのことが気にかかっているので、半七は藤助に指図して、そこに倒れている為吉を扶け起こそうとする時、うしろの枯れ芒ががさがさと響いた。\n それが風の音ばかりでないと早くも覚って、半七が屹と見かえる途端に、何者かが又斬ってかかった。油断のない半七はあやうく身をかわして、すぐにその手もとへ飛び込んだ。提灯は投げ出されて消えてしまった。素早く手もとへ飛び込まれて、刀を振りまわす余地がないので、相手も得物をすてて引っ組んだ。こうなると双方が五分々々である。殊に岡っ引や手先は手捕りに馴れているので、相手もやや怯んだ。\n こういう野原の習いとして、誰が掘ったというでも無しに、自然に崩れ落ちた穴のようなものがある。暗がりで組打ちの二人は、足をすべらせて二、三尺の穴に落ちた。\n\n 五\n\n「取り押さえましたか」と、私は中途から口をいれた。それを話す半七老人が眼の前にいる以上、仕損じの無かったことは知れているのであるが、それでも人情、なんだか一種の不安を感じたからであった。\n「捕り損じちゃあ事こわしです」と、半七老人は笑った。「まあ、御安心ください」\n「そいつはいったい何者です」\n「こいつが六道の辻で仇討をした奴ですよ。かたき討をした時に、水野家の辻番へ行って、自分は備中松山五万石板倉周防守の藩中と名乗りましたが、それは出たらめで、実はその近所の一万石ばかりの小さい大名の家来です。自分は伊沢千右衛門、かたきは山路郡蔵、この姓名も出たらめで、本人は野口武助、相手は森山郡兵衛というのが実名でした」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「じゃあ、かたき討も嘘ですか」\n「まあ、こういうわけです。野口武助の親父は武右衛門といって、屋敷の金蔵番であったのは本当です。せがれの武助は放蕩者、同藩中の森山郡兵衛と共謀して、自分のおやじが鍵預かりをしている金蔵へ忍び込み、五百両の金をぬすみ出して出奔した。こんな事をすれば親父に難儀のかかるのは知れ切っているのに、実に呆れた不忠不孝の曲者です。果たしてそれが為に、親父の武右衛門は切腹したそうです。ところで、本街道を行くと追っ手のかかる虞れがあるので、武助と郡兵衛は廻り道をして丹波路へ落ちて来ると、郡兵衛は武助を途中で撒いて、どこへか逃げてしまいました。勿論、例の五百両は郡兵衛が持ち逃げをしたわけです。\n これには武助もおどろいたが、表向きに訴えることも出来ません。なにしろ江戸へ出る約束になっていたのですから、郡兵衛も大かた江戸へ行ったろうという想像で、武助はそのあとを追って江戸へ出て来ましたが、一万石の故郷とは違って江戸は広い。いかに根よく探し歩いたところで、容易に知れる筈はありません。そのうちに懐中は乏しくなる。根が悪い奴ですから、お定まりの浪人ごろつきとなって、強請や追剥ぎを商売にするようになりました。\n そうしているうちに、国を出てから足かけ五年目、測らずも青山六道の辻で、かたきの森山郡兵衛にめぐり逢いました。主人のかたきでも無く、親のかたきでも無いが、自分に取っては年ごろ尋ねる仇がたきです。そこで、おのれ盗賊......。実を云えば、自分も盗賊の同類ですが、まあ相手だけを盗賊にして、ここでかたき討ちをしてしました。しかし往来なかで人殺しをした以上、そのままに済ませることは出来ませんから、ずうずうしく度胸を据えて、自分の方から辻番へ名乗って出て、真実空事取りまぜて、かたき討ちの講釈をならべ立てた次第です。\n かたき討ちも嘘、姓名も身許も嘘ですから、板倉家へ問い合わされれば、すぐに露顕するのは判っています。そこで、辻番をうまくごまかして、横手の大竹藪へもぐり込んで、首尾よく逃げおおせたのです。殺された郡兵衛は悪銭身に着かずで、持ち逃げの金はみんな道楽に使ってしまい、今では本郷辺の旗本屋敷の若党に住み込んでいて、その日は千駄ヶ谷辺の知りびとのところへ尋ねて行く途中、子供のみやげに柿を買っている処を、おのれ盗賊とばっさりやられたのですが、全く盗賊に相違ないのですから仕方がありません。一年三両二分の給金を取る若党が、ふところに二両足らずの金を持っていたのは少し不審で、こいつも相変らず悪い事をしていたのじゃないかと思われますが、死人に口無しで判りませんでした」\n これで六道の辻の一件は説明されたが、佐倉の一行に関する秘密は不明である。しかも半七老人の話を聴いているうちに、誰でも疑いを懐くのは下総屋という米屋の主人であろう。彼がこの事件に重大の関係を有するのは、どんな素人にも容易に想像されることである。私がそれを云い出すと、老人はうなずいた。\n「そうです、そうです。金右衛門を斬って、娘のおさんをかどわかしたのは、下総屋の茂兵衛の仕業です。この茂兵衛という奴はなかなかの悪党で、店の若い者銀八というのを手先に使って、方々で盗みを働いていたのですが、商売は手堅く、うわべは飽くまでもまじめに取り澄ましていたので、近所は勿論、家内の者にも覚られなかったと云いますから、よっぽど抜け目なく立ち廻っていたに相違ありません。いつぞやお話をした唐人飴の一件、あの唐人飴屋が泥坊のぬれぎぬを着せられたのですが、あの辺を荒らした賊の正体を洗ってみると、実はこの茂兵衛の仕業だということが判って、青山辺ではみんな案外に思ったそうです。人は見掛けに因らないと云いますが、この米屋の奴らなぞは頗る上手にごまかしていたと見えます」\n「金右衛門を斬ったのは、娘をかどわかす為ですか」\n「こんな奴らですから、慾心も無論に手伝っていたでしょうが、これこそ本当のかたき討ちのつもりなんですよ」\n「これもかたき討ちですか」と、私はすこし意外に感じた。\n「まあ、かたき討ちですね。さっきもお話し申した通り、八年前に金右衛門は江戸見物に出て来たことがあります。そのころ茂兵衛は深川に住んでいて、やはり米屋をしていました。金右衛門は一人で出て来たので、馬喰町に宿を取らず、茂兵衛の家に小半月ほども泊まって、ゆっくり江戸見物をして帰りましたが、ここに一つの面倒がおこった。と云うのは、茂兵衛の女房のお稲と金右衛門とは従妹同士で、子供のときから仲がいい。今度も金右衛門が逗留している間、お稲が親切に世話をしてやった。それが亭主の茂兵衛の眼には怪しく見えたと云うわけで、金右衛門が帰国した後に夫婦喧嘩がおこりました。\n 従妹同士の金右衛門とお稲とのあいだに、本当に不義密通の事実があったのか、但しは茂兵衛ひとりの邪推か、そこははっきり判り兼ねますが、その以来、夫婦仲がとかくにまるく納まらないで、何かにつけて茂兵衛は女房につらく当たったそうです。そのためか、お稲はだんだんに体が弱くなって、おととしの暮れに三十三で死にました。死ぬ三日ほど前にも激しい夫婦喧嘩をしたと云いますから、お稲の死因も少し怪しいと思われないこともありません。\n 江戸と佐倉と距れていますから、そんな捫著のおこったことを金右衛門はちっとも知らないで、今度の芝居見物に出て来たついでに、八年振りで下総屋へ尋ねて来ました。その金右衛門の顔をみると、茂兵衛はむかしの恨みがむらむらと湧き出して......。昔はこういうのを女仇討と云いましたが、何分にも無証拠ですから、表立ってかれこれ云うことは出来ません。しかし相手の顔をみると、茂兵衛は口惜しくって堪まらない。こういう奴に限って、嫉妬心も深い、復讐心も強い。無理に金右衛門らを一泊させて、なにかひと趣向しようと思ったのですが、どうしても馬喰町の宿へ帰ると云うので、急に思い付いたのが前の一件です。\n 金右衛門ら四人を小僧に送らせて、自分は近道を先廻りして、藪のなかに待っていて、金右衛門に斬り付ける。若い者の銀八はおさんを引っ担いで逃げる。銀八は重い米をかついで毎日得意先へ配っているのですから、十六の小娘を引っ担いで逃げるのは骨は折れません。勿論、手拭をおさんの口へ捻じ込んで、例の化け物屋敷へ連れ込んで、茶の間の押入れへ投げ込んでしまいました。\n これで万事思い通りに運んだのですが、茂兵衛の刄物は脇指で、おまけに腕が利かない。一方の野口武助はともかくも侍ですから、かたきの森山郡兵衛を首尾よく仕留めましたが、こっちは町人の悲しさにどうもうまく行かないで、斬るには斬ったが案外の浅手でした。まあ、こう云ったわけで、茂兵衛としては女仇討の積りだったのですよ」\n これで金右衛門一件の輪郭は判った。\n\n 六\n\n 理窟の善悪はしばらく置いて、武助もかたき討ちであると云い、茂兵衛もかたき討ちであると云う。この二様のかたき討ちが同じ日の昼と夜とに起こったと云うだけで、双方のあいだに何の連絡も無いのであろうか。私はそれを訊きただすと、半七老人はにやにや笑った。\n「あなたには判りませんかな。権田原で取り押さえたのが野口武助だと云ったじゃあありませんか。武助だって酔狂に抜き身を振り廻したのじゃあない。下総屋の茂兵衛と糸を引いているのですよ」\n「そうすると、この二人は前から懇意なんですね」\n「茂兵衛も女房に死に別れて、当時は独り身ですから、新宿なぞへ遊びに行く。しかし多くは昼遊びで、決して家を明けたことが無いので、誰も気がつかなかったそうです。その遊び先で武助と知り合いになって、悪い奴同士が仲好くなってしまったのです。茂兵衛の方が役者は一枚上なので総大将格、内では若い者の銀八、外では浪人の武助、この二人を両手のように働かせて、いろいろの悪事を重ねていたので、その兇状がだんだん明白になるに付けて、近所の者はいよいよ驚いたそうです」\n「為吉の妹をかどわかしたのは誰です」\n「お種をかどわかしたのも、やっぱり銀八です」と、老人は説明した。「わたくしは米搗きの藤助に眼を着けていたんですが、これは案外の善人で、銀八の方が案外の曲者でした。銀八は、茂兵衛の指図を受けて、化け物屋敷の空家に監禁してあるおさんの処へ、食い物をそっと運んでいたのですが、こんな奴が唯それだけで帰る筈がありません。定めて好き勝手な真似をして、年の行かない娘をいじめたのでしょう。おさんがどうぞ家へ帰してくれと泣いて頼むと、それじゃあ明日の夕がたに連れて行ってやると約束して帰りました。\n そこで、あしたの午後、お種が近所の湯屋へ出て行ったのを見とどけて、化け物屋敷へおさんを迎えに行きました。おさんは喜んで出て来ると、途中で往来のないのを窺って、銀八は不意に匕首をおさんに突き付けて、これからお種に逢っても、おれの許すまで決して口を利いてはならないと嚇かして連れて行きました。そうして、湯屋の近所に待っていて、お種の出て来るのをそっと呼びました。\n おさんの姿をみて、お種はおどろいて駈け寄ると、銀八がここでは話が出来ないから、ちょいと其処まで来てくれと云う。つまりはおさんを囮にして、お種を誘い出したのです。おさんは嚇かされているので、迂濶に口を利くことが出来ない。お種はおさんに引かれて、うかうか付いて行く。なにしろ十六と十七の田舎娘ですから、こんな悪い奴に出逢っては赤児も同然、どうにも仕様がありません。こうして、おさんは化け物屋敷へ逆戻り、お種も一緒に生け捕られてしまいました」\n「成程ひどい奴ですね」と、わたしも思わず溜め息をついた。\n「ひどい奴ですよ。茂兵衛や銀八の肚では、こうして生け捕って置いて、二人の女を宿場女郎に売り飛ばす目算でしたが、金右衛門と為吉がいては何かの邪魔になる。殊に為吉は血気ざかりの若い者で、自分の女房と思っているおさんが行方不明になったので、気が気でない。たとい金右衛門の傷どころが癒っても、おさんやお種のゆくえの知れないうちは決して国へ帰らないなどと云っているので、これも何とか押し片付けてしまわなければならない。そこで、茂兵衛と銀八は相談して、為吉を権田原へ誘い出すことになったのです。こう云えば大抵お察しが付くでしょうが、榛の木の下に待っていたのはかの野口武助で、ここで為吉をばっさりという段取りでした」\n「案内者の藤助は全くなんにも知らなかったんですか」\n「米搗きの藤助、見かけは商売柄に似合わない小粋な奴で、ちっとは道楽もするのですが、案外にぼんやりした人間で、なんにも知らずに茂兵衛の手先に使われていたのです。いや、それでも運の好かったのは、自分の命の助かったことで......。茂兵衛や武助の料簡じゃあ、為吉ひとりを殺すと世間の疑いを受けるので、刷毛ついでに藤助も冥途へ送るつもりだったそうです。どう考えてもひどい奴らです。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " ある一転機が半蔵の内部にもきざして来た。その年の三月には彼も父となっていた。お民は彼のそばで、二人の間に生まれた愛らしい女の子を抱くようになった。お粂というのがその子の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気なあくびや、無心なほほえみなぞが、なんとなく一人前になったという心持ちを父としての彼の胸の中によび起こすようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の目を向けさせた。\n「おれはこうしちゃいられない。」\n そう思って、辺鄙な山の中の寂しさ不自由さに突き当たるたびに、半蔵は自分の周囲を見回した。\n\n\n「おい、峠の牛方衆――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」\n「当分休みよなし。」\n「とぼけるなよ。」\n「おれが何を知らすか。当分の間、角十の荷物を付け出すなと言って、仲間のものから差し留めが来た。おれは一向知らんが、仲間のことだから、どうもよんどころない。」\n「困りものだな。荷物を付け出さなかったら、お前たちはどうして食うんだ。牛行司にあったらよくそう言ってくれ。」\n 往来のまん中で、尋ねるものは問屋の九太夫、答えるものは峠の牛方だ。\n 最初、半蔵にはこの事件の真相がはっきりつかめなかった。今まで入荷出荷とも付送りを取り扱って来た中津川の問屋角十に対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだことは彼にもわかった。角十の主人、角屋十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。事件の当事者なる角十と、峠の牛行司二人の間に立って、六十歳の金兵衛が調停者としてたつこともわかった。双方示談の上、牛馬共に今までどおりの出入りをするように、それにはよく双方の不都合を問いただそうというのが金兵衛の意思らしいこともわかった。西は新茶屋から東は桜沢まで、木曾路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので。\n 荷物送り状の書き替え、駄賃の上刎ね――駅路時代の問屋の弊害はそんなところに潜んでいた。角十ではそれがはなはだしかったのだ。その年の八月、小草山の口明けの日から三日にわたって、金兵衛は毎日のように双方の間に立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それに十二兼村の牛方までが、呼び寄せられる。峠の組頭、平助は見るに見かねて、この紛争の中へ飛び込んで来たが、それでも埓は明きそうもない。\n 半蔵が本陣の門を出て峠の方まで歩き回りに行った時のことだ。崖に添うた村の裏道には、村民の使用する清い飲料水が樋をつたってあふれるように流れて来ている。そこは半蔵の好きな道だ。その辺にはよい樹陰があったからで。途中で彼は峠の方からやって来る牛方の一人に行きあった。\n「お前たちもなかなかやるねえ。」\n「半蔵さま。お前さまも聞かっせいたかい。」\n「どうも牛方衆は苦手だなんて、平助さんなぞはそう言ってるぜ。」\n「冗談でしょう。」\n その時、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分一札も入れさせ、今後無理非道のないように取り扱いたい、それが平助を通して聞いた金兵衛の言葉であることを思い出した。\n「まあ、そこへ腰を掛けろよ。場合によっては、吾家の阿父に話してやってもいい。」\n 牛方は杉の根元にあった古い切り株を半蔵に譲り、自分はその辺の樹陰にしゃがんで、路傍の草をむしりむしり語り出した。\n「この事件は、お前さま、きのうやきょうに始まったことじゃあらすか。角十のような問屋は断わりたい。もっと他の問屋に頼みたい、そのことはもう四、五年も前から、下海道辺の問屋でも今渡(水陸荷物の集散地)の問屋仲間でも、荷主まで一緒になって、みんな申し合わせをしたことよなし。ところが今度という今度、角十のやり方がいかにも不実だ、そう言って峠の牛行司が二人とも怒ってしまったもんだで、それからこんなことになりましたわい。伏見屋の旦那の量見じゃ、『おれが出たら』と思わっせるか知らんが、この事件がお前さま、そうやすやすと片づけられすか。そりゃ峠の牛方仲間は言うまでもないこと、宮の越の弥治衛門に弥吉から、水上村の牛方や、山田村の牛方まで、そのほかアンコ馬まで申し合わせをしたことですで。まあ、見ていさっせれ――牛方もなかなか粘りますぞ。いったい、角十は他の問屋よりも強欲すぎるわなし。それがそもそも事の起こりですで。」\n\n\n 半蔵はいろいろにしてこの牛方事件を知ることに努めた。彼が手に入れた「牛方より申し出の個条」は次ぎのようなものであった。\n\n一、これまで駄賃の儀、すべて送り状は包み隠し、控えの付にて駄賃等書き込みにして、別に送り状を認め荷主方へ付送りのこと多く、右にては一同掛念やみ申さず。今後は有体に、実意になし、送り状も御見せ下さるほど万事親切に御取り計らい下さらば、一同安心致すべきこと。\n一、牛方どものうち、平生心安き者は荷物もよく、また駄賃等も御贔屓あり。しかるに向きに合わぬ牛方、並びに丸亀屋出入りの牛方どもには格別不取り扱いにて、有り合わせし荷物も早速には御渡しなく、願い奉る上ならでは付送り方に御回し下さらず、これも御出入り牛方同様に不憫を加え、荷物も早速御出し下さるよう御取り計らいありたきこと。(もっとも、寄せ荷物なき時は拠なく、その節はいずれなりとも御取り計らいありたし。)\n一、大豆売買の場合、これを一駄四百五十文と問屋の利分を定め、その余は駄賃として牛方どもに下されたきこと。\n一、送り荷の運賃、運上は一駄一分割と御定めもあることなれば、その余を駄賃として残らず牛方どもへ下さるよう、今後御取り極めありたきこと。\n一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割の運上引き去り、その余は御刎ねなく下されたきこと。\n一、荷物送り出しの節、心安き牛方にても、初めて参り候牛方にても、同様に御扱い下され、すべて今渡の問屋同様に、依怙贔屓なきよう願いたきこと。\n一、すべて荷物、問屋に長く留め置き候ては、荷主催促に及び、はなはだ牛方にて迷惑難渋仕り候間、早速付送り方、御取り計らい下され候よう願いたきこと。\n一、このたび組定とりきめ候上は、双方堅く相守り申すべく、万一問屋無理非道の儀を取り計らい候わば、その節は牛方どもにおいて問屋を替え候とも苦しからざるよう、その段御引き合い下されたく候こと。\n\n これは調停者の立場から書かれたもので、牛方仲間がこの個条書をそっくり認めるか、どうかは、峠の牛行司でもなんとも言えないとのことであった。はたして、水上村から強い抗議が出た。八月十日の夜、峠の牛方仲間のものが伏見屋へ見えての話に、右の書付を一同に読み聞かせたところ、少々腑に落ちないところもあるから、いずれ仲間どもで別の案文を認めた上のことにしたい、それまで右の証文は二人の牛行司の手に預かって置くというようなことで、またまた交渉は行き悩んだらしい。\n ちょうど、中津川の医者で、半蔵が旧い師匠にあたる宮川寛斎が桝田屋の病人を見に馬籠へ頼まれて来た。この寛斎からも、半蔵は牛方事件の成り行きを聞くことができた。牛方仲間に言わせると、とかく角十の取り扱い方には依怙贔屓があって、駄賃書き込み等の態度は不都合もはなはだしい、このまま双方得心ということにはどうしても行きかねる、今一応仲間のもので相談の上、伏見屋まで挨拶しようという意向であるらしい。牛方仲間は従順ではあったが、決して屈してはいなかった。\n とうとう、この紛争は八月の六日から二十五日まで続いた。長引けば長引くほど、事件は牛方の側に有利に展開した。下海道の荷主が六、七人も角十を訪れて、峠の牛方と同じようなことは何も言わないで、今まで世話になった礼を述べ、荷物問屋のことは他の新問屋へ依頼すると言って、お辞儀をしてさっさと帰って行った時は、角屋十兵衛もあっけに取られたという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった。\n 中津川の和泉屋は、半蔵から言えば親しい学友蜂谷香蔵の家である。その和泉屋が角十に替って問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。もみにもんだこの事件が結局牛方の勝利に帰したことは、半蔵にいろいろなことを考えさせた。あらゆる問屋が考えて見なければならないような、こんな新事件は彼の足もとから動いて来ていた。ただ、彼ら、名もない民は、それを意識しなかったまでだ。\n\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 生みの母を求める心は、早くから半蔵を憂鬱にした。その心は友だちを慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深い哀憐を寄せさせた。彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐りをしたりしたという科で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみの梨の木のかげに隠れて、腰繩手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬や小前のものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つは継母に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部に奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。\n\n五\n\n「御免ください。」\n 馬籠の本陣の入り口には、伴を一人連れた訪問の客があった。\n「妻籠からお客さまが見えたぞなし。」\n という下女の声を聞きつけて、お民は奥から囲炉裏ばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。\n「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ。」\n とお民は言って、奥にいる姑のおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしい焚火で煤けた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客の挨拶があった。\n「これさ。そんなところに腰掛けていないで、草鞋でもおぬぎよ。」\n おまんは本陣の「姉さま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れて山路を踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多い栗の落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。\n 間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。\n「まず、わたしの失敗話から。」\n と寿平次が言い出した。\n お民は仲の間と囲炉裏ばたの間を往ったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、\n「ほら、この前、お訪ねした日ですねえ。あの帰りに、藤蔵さんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。狸にでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つ時ごろでしたさ。」\n 半蔵もお民も笑い出した。\n 寿平次はお民と二人ぎりの兄妹で、その年の正月にようやく二十五歳厄除けのお日待を祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となっただけに、年齢の割合にはふけて見え、口のききようもおとなびていた。彼は背の低い男で、肩の幅で着ていた。一つ上の半蔵とそこへ対い合ったところは、どっちが年長かわからないくらいに見えた。年ごろから言っても、二人はよい話し相手であった。\n「時に、半蔵さん、きょうはめずらしい話を持って来ました。」と寿平次は目をかがやかして言った。\n「どうもこの話は、ただじゃ話せない。」\n「兄さんも、勿体をつけること。」とお民はそばに聞いていて笑った。\n「お民、まあなんでもいいから、お父さんやお母さんを呼んで来ておくれ。」\n「兄さん、お喜佐さんも呼んで来ましょうか。あの人も仙十郎さんと別れて、今じゃ家にいますから。」\n「それがいい、この話はみんなに聞かせたい。」\n\n\n「大笑い。大笑い。」\n 吉左衛門はちょうど屋外から帰って来て、まず半蔵の口から寿平次の失敗話というのを聞いた。\n「お父さん、寿平次さんは塩野から下り坂の方へ出たと言うんですがね、どこの林をそんなに歩いたものでしょう。」\n「きっと梅屋林の中だぞ。寿平次さんも狸に化かされたか。そいつは大笑いだ。」\n「山の中らしいお話ですねえ。」\n とおまんもそこへ来て言い添えた。その時、お喜佐も挨拶に来て、母のそばにいて、寿平次の話に耳を傾けた。\n「兄さん、すこし待って。」\n お民は別の部屋に寝かして置いた乳呑児を抱きに行って来た。目をさまして母親を探す子の泣き声を聞きつけたからで。\n「へえ、粂を見てやってください。こんなに大きくなりました。」\n「おゝ、これはよい女の子だ。」\n「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の子は知恵のつくのも早いものですねえ。」\n とおまんは言って、お民に抱かれている孫娘の頭をなでて見せた。\n その日、寿平次が持って来た話というは、供の男を連れて木曾路を通り過ぎようとしたある旅人が妻籠の本陣に泊まり合わせたことから始まる。偶然にも、その客は妻籠本陣の定紋を見つけて、それが自分の定紋と同じであることを発見する。窠に木瓜がそれである。客は主人を呼びよせて物を尋ねようとする。そこへ寿平次が挨拶に出る。客は定紋の暗合に奇異な思いがすると言って、まだこのほかに替え紋はないかと尋ねる。丸に三つ引がそれだと答える。客はいよいよ不思議がって、ここの本陣の先祖に相州の三浦から来たものはないかと尋ねる。答えは、そのとおり。その先祖は青山監物とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。まさにそのとおり。その時、客は思わず膝を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。そういう自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門というものである。かねて自分の先祖のうちには、分家して青山監物と名のった人があると聞いている。その人が三浦から分かれて、木曾の方へ移り住んだと聞いている。して見ると、われわれは親類である。その客の言葉は、寿平次にとっても深い驚きであった。とうとう、一夜の旅人と親類の盃までかわして、系図の交換と再会の日とを約束して別れた。この奇遇のもとは、妻籠と馬籠の両青山家に共通な窠に木瓜と、丸に三つ引の二つの定紋からであった。それから系図を交換して見ると、二つに割った竹を合わせたようで、妻籠の本陣なぞに伝わらなかった祖先が青山監物以前にまだまだ遠く続いていることがわかったという。\n「これにはわたしも驚かされましたねえ。自分らの先祖が相州の三浦から来たことは聞いていましたがね、そんな古い家がまだ立派に続いているとは思いませんでしたねえ。」と寿平次が言い添えて見せた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 竜神と云う山の名は各地にあって、中には仏教渡来後に竜神を祭った為にそう呼ばれるようになったものもあろうが、周囲の地名などから推して、原始から引続いた信仰に基くものが多いことも疑う余地がない。近い所では常陸の国府であった石岡町の西北一里許りの地にある竜神山などは其の著しき例である。然し同じ竜神を祭った山でも、八日見又は夫に近い発音を有するものは、他に少しも聞く所がないのである。\n 八日見という山名の起原に就ては、河原沢村の所伝に従えば\n\n\n八日見山ト申ハ、日本武尊東夷征伐ノ時、東国ノ海陸御巡幸有テ、夷賊追伐ノ御祈トシテ筑波山ニ登ラセタマヒ、遥ニ御覧アツテ、衆山相連ナレル中ニ殊ニ秀タル瞼山戌亥ニ当テ有リ、八日以来、見ヘタリト宣シヨリ、山ノ名ヲ八日見山ト名付ケ給フトナリ。\n\n\nとあり、薄村では\n\n\n両神山 伊弉諾伊弉冉尊二神ヲ祭レバコノ名アリ、一ニ八日見山トモ書セリ。土人ノ伝ヘニ往古日本武尊東夷征伐ノ時コノ郡中ニカカリ、此ノ山ヲ見給ヒテ通行セシメタマフコト八日ニ及ベルヨシ、故ニ名ツクト云。\n\n\nということであって、所伝に多少の相違はあるが、八日の間見えていた為に八日見山と名付けたという点は両者一致している。これはこの山の名が古くはヤウカミと呼ばれていた証拠である。いや、そのヤウカミという名も原始のままでないことは明かであるが、最も本来の呼び名に近いものであると信ずる。然らばこの名の基く所は何であるかといえば、疑いもなくそれはオガミから導かれたもので、蚦蛇を指し、仏経でいう竜王のことである。更に語を換えて言えば八岐の虵である。\n『古事記』の所伝に拠れば、伊弉冉尊は神迦具土をお生みになって、それが為に神避り坐した。是に於て伊弉諾尊は御佩せる十拳剣を抜いて迦具土ノ神の頸を斬り給うた。其時迸り出た血からいろいろの神が成り出ましたが、御刀の手上に集れる血手俣より漏出て成りませる神の名を闇𨔆加美ノ神というとある。『日本書紀』にも幾通りかの所伝があり、皆多少の相違はあるけれども、蚦蛇即ち竜神を意味する言葉である。ヲロチは同じく蛇の尊称であるチアム語のアラーチェイ(Alačei)がヲロチとなって残ったともいえるし、又国語では、霊妙な感じを起させるものを古代人はチと呼んでいた。血、乳、口などがそれである。蛇も亦チといわれ、水に住んでいるのがミヅチ、山に住んでいるのがヲロチ(ヲは峰なり口は助辞)であるともいえる。\n 太古日本原住民族の一に自ら倭と称した部族があって、西は九州から東は関東地方にまで居住していたらしい。中にも九州に住んでいたものは、支那の殖民地であった朝鮮の楽浪あたりと交通したので、『魏志東夷伝』に倭人の記事があり、之が九州の住民に関する文献の最も古いものとされている。坪井博士の説に拠ると、この倭人は現に暹羅の東部メーコン河の沿岸森林地帯やカムボチャに居住する土人の先祖と同じもので、古のモン国とクメール国即ちカムボチャとの二国民を代表者として、之をモン・クメールと称する。この民族は前印度の内地一円に亙っての原住民であったのが、後に暹羅の先祖となった獠民族が雲南より大挙南下したので、それに圧迫されて各地に分散移住したといわれている。そしてメーコン河の両岸に於ける大森林地帯に住んでいる土人は、今も太古の生活を続け、太古時代と殆ど些も変らぬ土俗や信仰や言語を存している。しかもそれと同様の土俗や信仰を日本の古代人に見出すばかりでなく、言語の如きは現に日用の俗語として生き残っている。夫にも拘らずモン・クメールの地名と覚しきものの比較的少いのは、大なる勢力を扶植することを得なかった為であろうと解釈されている。\n モン・クメールは蚦蛇崇拝の民族であって、主神としてナクラチ(竜王)を祠っているが、それは単躯七頭の形で現わされている。印度の神話に従えば、ナガは三頭或は七頭又は十頭を有する。クメール民族は其中の七頭のものを主神と崇めたのである。日本では八頭又は九頭として伝えられている。出雲の簸ノ川上で素盞嗚尊に退治された八岐の虵若しくは九頭竜権現がそれである。ギリシャの神話を読むと、ヘラクレスがレルナの沼で一身九頭の水蛇を退治したことが書いてあるが、これはクメールの原始信仰と同じものが西に伝ったのであろう。『古事記』や『日本書紀』の記事によると、八岐の虵は胴体が一で頭が八、尾が八あったという。この記事は適切な幾つかの説明が下されているが、場所が出雲地方で、後になってチアム民族や出雲派ツングース民族などの移住地となった関係上、このような神話が生れたので、つまり八岐の虵を主神とする民族が素盞嗚尊を主神とする民族に圧服されたことを語るものではあるまいか。\n 大蛇退治の神話は出雲以外には無いけれども、竜王即ち靇神を祭った社は各地にある。尤も後世になって竜王信仰の衰えと共に祭神の変ったものもあるであろうから、それらをも合せたならば全国では可成りの数に上ることと信ずる。出雲は黒潮の分派に乗って日本海方面に進み入ったモン・クメール最初の居住地であるから、大きな社があったに相違ないが、前述の如く後に渡来した強大な民族が根を張ったので、跡が絶えたものであろう。それでも隣の備後国では恵蘇郡の多加意加美神社、甲奴郡の意加美神社が『延喜式』に載っている。尚お瀬戸内海に沿うた吉備の海岸又は海岸から遠からぬ地方に多数存在せる竜王山は、クメール民族の竜王信仰に関するものが少なくないと信ずる。現存の社では大和国吉野郡南芳野村大字丹生に鎮座する丹生川上神社が最大のもので、之に次では山城国愛宕郡貴船村の貴船神社である。丹生川上神社は官幣大社に列し、霊験あらたかなる雨の神として、奈良朝の頃から厚く尊崇されていた。祭神は闇罔象ノ神ともいわれ、今は闇靇神及高靇神の二神と定められている。ミツハのミは雨、ツハは馬来語の神という言葉ツハンと同じもので、この闇靇神、高靇神、闇罔象の三神とも、迦具土ノ神から生れた雨神に外ならぬ。『万葉集』巻二に天武天皇から藤原夫人に賜うた御歌\n\n\nわが里に大雪ふれり大原のふりにし里に降らまくはのち\n\n\nといえるに、藤原夫人の和し奉りたる\n\n\nわが岡の靇神に言ひて降らしめし雪の摧し其処に散りけむ\n\n\nという歌などは、靇神が雨神であった証拠と又其信仰の名残とを止めている。\n 九州方面から瀬戸内海を東進して来たモン・クメールは、紀ノ川を遡りて五条町附近の別天地に居を占めたであろうが、後に渡来した川下の住民から次第に圧迫を受けたり、又は生活上にも都合のよい山地を求めたりして、尚も川上深く隠れたのが『書紀』の応神天皇の巻に載せられた\n\n\n夫国樔者、其為人甚淳朴也、毎取山菓食、亦煮蝦蟆為上味、名曰毛瀰。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\nで、其一派が黒滝川即ち丹生川を溯りて丹生に大蛇崇拝の跡を止めたのであろう。『延喜式』には河内国茨田郡意賀美ノ神社、和泉国和泉郡意賀美ノ神社、同国日根郡意賀美ノ神社を載せてあるので、和泉河内の山地には濃厚なる大蛇崇拝の痕を止めていると言える。此外ナガやクラの付いている地名には、竜神に関係あるものが少くないが茲には略して、唯クラに就て一言すると、これには坐する又は横たわる意から出たクラ(座及鞍)、虎の義から転じて野獣の総名となったらしいクラ(狩猟をカリクラというのはこの意味である)、及び岩の古い方言であるクラなどがあるが、其中で地名となったものは最後のクラ位のものであろう。このクラは馬来語の Kula(岩)と同じものか、それとも元は韓語らしい岩礁を指すクリから導かれたものか私には判断し兼ねるが、クリはクレ(塊)と同語で、栗の実をクリというのもカタマリである為であろう。私が特に面白く感じたのは、有名な大台ヶ原山の大蛇倉で、これは勿論壮大な岩壁に名付けられたものであるが、私は大蛇でも住みそうな、又は物凄いというような、つまり形容の上から大蛇倉なる名を得たものと考えていたが、実はそうばかりではなく、クラと大蛇と同意語なることが忘られるようになって、大蛇クラなる合成語が生じ、夫れが岩壁のクラに通ずる所から、其儘岩壁に適用されたものと見るのが至当であるらしく思われる。上州の藤原から越後の土樽や信州の秋山にかけて、瀑のことをセンと云うが、それが或る地方ではタキと結び付けられてセンノタキと云う合成語が瀑名となっているなどは、大蛇クラと似寄った例といえよう。高畑君の所蔵に係る上州神流川上流の『正徳図』にも、大蛇倉沢というのが記載されている。探せば尚お他にも存するであろうが、今の所私はこの二者以外に知る所がない。\n さて瀬戸内海から河内和泉の海岸に舟がかりしたモン・クメール民族は、一派は其処に上陸して大和の奥地に入り、他は海岸線に沿うて東に進み、遂に東京湾に達したものとも考えられるし、或は黒潮に乗って九州南端から直接に伊豆七島あたりに漂着したものが更に北進して、東京湾に入ったものとも考えられるけれども、船乗り民族でない彼等は恐らく前者の方であったろうと思う。兎に角彼等は東京湾の沿岸に久良岐という地名と共に蚦蛇崇拝の跡を止めたこと、恰も少し後れて渡来したらしいチアム民族が都筑という地名に月神崇拝の跡を残したのと同様である。そして今は都筑郡に月読社を見出し難いのと同じ様に、久良岐郡に竜神の社を見出し難いのである。私は『新篇武蔵国風土記稿』を検して、やっと一ヶ所探り当てた。それは六浦荘村大字宿にあるもので\n\n\n竜神社 除地。同じ辺(○北谷)山ノ中腹ニアリ、小社ナリ。伝ヘ云、社地ノ樹木ニ手ヲ触レバ必ズ神罰アリトテ、里人等恐レテ伐リトルコトヲ得ズト。村持。\n\n\nとなっている。之に関聯して南洋臭く思われるのは、其北隣りの金沢村大字富岡に在る芋明神社で、次の如く記載されている。\n\n\n芋明神社 小名板橋ニアリ疱瘡神ナリ。疱瘡ヲイモト訓ルヨリ仮借シテ芋明神ト書スルナルベシ。寛永中村内慶珊寺ニ仕ヘシ茂右衛門、寺辺ニテ丈二間許ナル蛇ヲ打殺セリ、寺ノ住僧伝雅之ヲ憐ミテ経文ヲ授ケ門外ニ埋ム。其夜蛇ノ霊童子トナリ伝雅ノ夢ニ入テ告グ、経文ノ功徳ニヨリテ天ニ生ズル事ヲ得タリ、今ヨリ世ニ疱瘡ヲ患フルモノヲ守護スヘシ、此上ノ芳志ニ我為ニー社ヲ造営シテ与ヘヨトミテ夢覚メタリ。明朝枕元ニ蛇ノ脱皮アリシヲ見テ奇異ノ思ヲナシ、即チー社ヲ造立シ疱瘡神ト崇メ、本地仏ヲ楊柳観音トス、云々。\n霊芋 社前ノ池中ニアリ。池ハ僅ニ一間四方、中央ノ小嶼ニ柳一株タテリ。其水中ニ生ジ、形状ハ白芋(俗ニ蓮芋トイフ)ニ似タレド四時枯レズ。コレ神号ニヨリテ芋ヲ植シモノニヤ。此芋ヲ折トリナドスルモノアレバ立所ニ祟アリ。疱瘡ヲ病ムモノ、池水ヲ飲シメ祈レバ必恙ナシトイヘリ。\n\n\n芋明神というので殊更に芋を植えたもののように『風土記稿』の編者は想像しているが、これは勿論芋を崇めた社に相違ない。芋は南洋系民族の常食としているもので、池中に生じて居る所から推すと、今も大洋洲諸島の民族に大切の食糧であるタロ芋であったかも知れない。疱瘡の神と間違えられたのは飛んだ御愛嬌であるが、蛇の脱け殻で撫でると疱瘡が軽く済むというような土俗の信仰が起ったので、蛇を殺して夢枕に立たせる必要を感ずるに至ったのであろう。\n 東京湾沿岸から武蔵野の森林地帯を住所としていたモン・クメールは、チアムとは違って農業を主とした民族ではないから、次第に生活に都合のよい山地を目指して奥の方へと進み、荒川に沿うて秩父盆地に入ったらしい。荒川本流の沿岸には未だそれらしい地名を発見せぬが、赤平川の沿岸は下吉田附近を中心として、蚦蛇の気が濃厚に漂うている。大淵で荒川本流と別れ、赤平川に沿うて進むと久長があり、下吉田には椋神社があり、其南には奈倉があり、更に其の南には長留がある。又薄川と小森川との合流点にある長又は、通常ならば川又と呼ばれる所であろう。薄川の上流には小倉という小名があり、小森川の上流には穴倉という小名もある。此等の中で特に注意すべきは奈倉と長留とで、前者はナクラチ、後者はナガラジヤの略されたものと思われる。尚此附近には変った読みくせを持つ地名が多くあるけれども、私には未だ解釈の道がない。\n 下吉田の椋神社は、秩父郡に二座しかない延喜式内の神社の一で、縁起には猿田彦命を祭り、其出現は、日本武尊東夷征伐の時、此国を巡狩して山路に矛を杖てしに、其矛忽ち光を放ち、又其光飛んで止まった所に至ると老翁が現れて、吾是猿田彦命也、嚮導を為さんと欲するが故に此に来ったということになっている。其後俵藤太秀郷が平将門を征伐する時に春日明神を勧請したことが載せてある。この縁起は天孫降臨の際に於ける猿田彦命の出現を真似て後に作られたものであることは疑う余地がない。私は此神社は其名から推して、元は竜神を祭ったものであると信ずる。それがいつしか衰微して由緒も不明になり、新に猿田彦命を地主神として春日明神が合祠され、竜神の社は両神山上に昔の面影を止むるに至ったものであろうと考える。\n 以上は恐らく冗長に過ぎて読者の厭倦を来した事と思うが、此等の事実によりて、秩父の奥の山地に靇神の祭られた社の存在するのも、決して怪しむに足らぬということが了解された事と信ずる。\n そこでいよいよ話を本題の山名に戻して、ヤウカミの説明に取り懸ることにする。此山が靇神に関係あることは前述の通りであるから、ヤウカミはヤオガミの音便であってヤは数字の八であろう。河原沢村の縁起によれば、\n\n\n竜頭大明神ハ諸難諸病ヲ悉除シ給ヒ、眷属ニ仰セテ火災盗賊ノ難ヲ除キ、田畑諸作ヲ荒ス猪鹿野狐等ノ悪畜ヲ退散シ、万民ノ患ヲ防タマフト云々。\n\n\n竜頭と書いてあることは肝要な点で、私はそれを単躯八頭の靇神即ち即ち八岐の虵なるが故にヤオガミと唱えたものと推定する。或はヤはヤヲヤのヤと同じく単に頭の数の多いことを意味するものとしても差支ないが、ここでは数の八とするの直截簡明なるに如かない。\n 序に両神神社の眷属であるお犬に就て一言したい。河原沢村の縁起では、竜頭大明神は眷属に仰せて云々とあるのみで、其眷属の何であるかを示してないが、薄村の両神神社の項には、\n\n\nサテ此山ノ神ノ眷属ト称シテ盗賊火難除ノタメ、山犬ヲ貸シ出セルコト三峰山ナトノコトクニテ、却テ三峰山ヨリモ古ク貸シ出セルヨリ、此犬ヲ借リルモノ近国及ビ諸郡ノ人々年分引モタヘズ、詣テ来リテ乞ヒ求ルニ銭帛ヲ納メ守護札ヲ受テ帰レリ、両別当ヨリ指出セル守札少ナカラネバ、其ノ益アルコト知ンヌベシ。\n\n\nとあって、明に山犬となっている。これは『風土記稿』の編者が俗にいうお犬さまに当てた字で、所謂オホカミを指したものである。荒船山の麓の信州側で孝子亀松が山犬を殺した事実もあるから、あの附近には棲んでいたものであろうけれども、秩父にも居たかどうか明証がない。尤も今は絶滅してしまったが、内地にも狼の一亜種である朝鮮狼の一層小形になった山犬の居たことは慥で、その山犬に狼という字があてられている。されど世間に喧伝されていた程多数であったとは思えない。狼のことを書いた記事は遠く奈良朝の昔から、近く明治維新頃に至るまで少なからず存するに拘らず、大抵の場合一頭限りで、稀に二頭のこともあるが群をなしていたことなどは、『北越雪譜』の記事の外にはまだ見当らない。橘南谿の『東遊記』には、見出しからして羽州の鬼という凄い文字を用いて、狼の話を人の好奇心を唆るように書いてあるが、読んで見ると其辺にうようよしている筈の狼が結局噂だけで影も形も見せなかった。それを南谿は大勢で通った為であるとうまく逃げている。親子が山小屋で狼に襲われ、親に喰い付いた狼を子が打殺して親を救い、孝子として表彰された記事なども二、三あるが狼はいつも一頭である。そんな訳で狼の害といっても高の知れたものであったろうに、所謂一犬虚に吠えて万犬実を伝うるという有様で、至極大袈裟に言いふらされていたのであろう。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " そこで、送られる人は七兵衛入道であり、見送る人の何だかは分らないにしても、同じく俗体入道を主とする一行であることだけは分りましたけれども、さて、それがいかなる人で、何故に七兵衛が見送られ、七兵衛を見送らなければならないか、そのことはまだ船中の誰にも分っていません。\n しかし、その見送りの中央の頭領株の入道が、仏兵助親分であり、それを取巻くのが、その界隈の顔役であることは、底を割っておいてもいいでしょう。従って、これから推察してみると、船の物資の補給が、駒井船長を驚惑せしむるほどに迅速且つ豊かであったという理由もほぼ読めるのです。\n すなわち、仏兵助親分の顔を以てして、附近の顔役の総動員によっての、隠れたる任侠であったということが、その時は分らなくても、後刻に至って分らないはずはありますまい。\n\n 三十\n\n 怱忙のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。\n 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。辛うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。\n 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。\n 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。\n 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに耽っているのであります。\n 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。\n これを前にしては、お銀様が山に拠って己れの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸に孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。\n 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の鍬を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧さがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。\n なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢のようなものだが、さりとて同じ拓くならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。\n それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘せられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。\n 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。\n ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至は西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。\n 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做さるべきであります。\n 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸が、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎を指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては寧ろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。\n 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来和蘭から買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴までも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。\n 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄せしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、未だ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に耽っているのであります。船は、もう疾うに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。\n 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。\n「祈っているな」\n ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。\n\n 三十一\n\n 祈りつつある金椎の姿に、一時驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。\n 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。\n こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。\n 易だの卜などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。\n 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万乃至二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。\n やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。唖の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。\n「まだ、祈っている」\n 駒井は、今更のように呆れました。\n「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」\nと自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。\n 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を濺ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。\n 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。\n そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の相を後ろから注視しているうちに......\n「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」\n そこで、駒井の頭の中に甦って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。\n 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。\n 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。\n そこまで思い来ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 個性と創造とを説く者が、さうしてゴーホの藝術を讚美する者が、思索的個性と思索的創造との意義を理解する事が出來ないのは不思議である。思索的個性と思索的創造力とを持つものは、其特性の濃厚となるにつれて、益〻遠く直接外來の刺戟から離れるに違ひない。さうして現實論者には思ひもつかないやうな觀念と圖式と記號との世界に沈潛するに違ひない。カントは日常茶飯の世界からあの複雜なる批評哲學を構成しなければ、その「生活の根に」徹する事が出來なかつた。其處にカントの個性と創造と「天才」とがあつた。實際カントの哲學のやうに痛切に實生活に根ざした思想が幾許あらう。小賢しい現實論者の思想等はその傍に持つて行くさへ恐ろしい冒涜である。\n「生活の根」は新聞の雜報にばかりあるのではない。手帳のはしに書いた詩にばかりあるのではない。少し複雜な思索を見れば、それは思索のための思索だ、實生活を遊離した思想だと云ふ最後屁を放つて風を臨んで逃出すものは卑怯である。\n\n6\n\n 弱い者を愛するとは、強い者を貶黜するために、弱い者の價値を實際以上に誇張して云ひ觸す事ではない。強い者、大きい者を小さくするために、故意に、世間の眼の前に、その敵を持上げる事ではない。反感を根據とする價値轉倒は何よりも先づ價値轉倒者その人の人格を低くする。\n 俺は衒ふ者、僞る者、驕慢な者に對して憤激する。併し俺は偉い者、大きい者、強い者、其他あらゆる價値ある者に對して反感を持つ事を恥辱とする。反感の基礎は要するに嫉妬に在るからである。昔から今まで、優れた者の爲に陷穽を置いた樣々の陰謀は、卑怯な者の心に宿る反感と嫉妬とから産れたものであつた。反感を感ずる事は此等の陰謀者と精神上の同類となる事だと思ふと實に恐ろしい。\n 俺も亦時に他人に對して反感を抱いて、此反感の故に自分自身を輕蔑する。俺は世間の人のやうに、「俺は反感を抱かせる」と云ふやうな恐ろしい言葉を、平氣になつて口にする氣にはなれない。\n 反感を輕蔑する點に於いて、俺は特にニイチエの弟子である。\n\n7\n\n 俺は一つの問題を考へる時には、其時俺の頭に在る一切の記憶を遠慮せずに思索の材料に使用する。さうして其中から最も適當な表現の手段を選擇して自分の思想に形を與へる。從つて俺の文章の背後には常に俺の讀書の全量がある。俺は俺自身の思想として消化した以外の事は云はない積りだから、自分の云ふことの一々を誰彼の説と比較したり參照したりする必要を感じない。自分の讀んだ書物を裝飾として使用するなどは、最も俺に遠い誘惑である。\n 併し俺は特別な意味で、俺は甲又は乙の思想を導いて呉れた人や、甲又は乙の思想の主張者として特別に俺の頭に映じてゐる人の名は、其の時氣がつく限りは默つて通る氣にはなれない。俺が他人の名を引用するは感謝又は尊敬のためである。これも亦ペダンチツクと云ふものだらうか。俺と同じやうな心持で他人の名を引用する人は外に餘りないのだらうか。\n\n8\n\n 俺は本を讀みながら、自分の要求にピタリと當嵌らない憾を感ずる事が多い。俺は本を讀みながら、自分の問題の焦點に觸れて貰へない齒痒さにイラ〳〵する。さうして終に讀書の生活を輕蔑して了ふ。\n 併し純粹に、單獨に、自分の問題に深入しようとすると、幾許もなく、俺の思想は散漫になり、統御を失ひ、連絡を失つて、終に行衞不明になつて了ふ事が多い。さうして俺は新しく讀書の恩惠に感謝する。\n ベルグソンのやうな人が讀書を重んじないと假定しても、それは何の不思議でもない。凡ての獨創的の人は、その獨創が熟して來ると共に「學生」としての讀書の生活を離れた。併し單獨の思索を僅か十日内外さへ續ける力のないものが讀書を輕蔑するなどは生意氣である。此意味の獨立が出來ないものは何時迄經つても學生に過ぎない。卒業の見込が立たないのは心細いが、兎に角學生は學生として、覺悟を固める必要がある。俺は今俺のなすべき事は眞面目なしつかりしたスタデイである事を感ずる。俺は身の程を自覺した、謙虚な心掛を以つて、改めて大家の思想と生涯とを研究しよう。此處に、俺のやうに平凡に生れついた者の仕事がある。\n 今日以後、俺には讀書の生活を輕蔑する資格がない。(三、六、八)\n\n\n八 郊外の晩春\n\n\n\n 三太郎は友人の雜誌記者に原稿を送る約束をした。彼の書かうと思ふ事は既に頭の中で形をとつてゐた。併し、愈〻筆を執る段になつて、持病のやうに週期的に彼を襲つて來る Ennui が彼の内から、三月の末の重苦しい、頭を押しつけるやうな曇天が彼の外から彼を惱ました。彼の書かうと思ふ事は締切の後一週間になつても、彼が此思想を産むに際して經驗したやうな内面的節奏を帶びて再生して呉れなかつた。それで彼は苦しまぎれに、古い日記を取り出して之を讀み返した。さうして、その中から、他人に見せても大して差支のなささうな處を原稿紙の上に寫して、之をその友人に送ることにしようと決心した。此處に抄出する部分は去年の春の日記の最も抽象的な一部分である。その當時彼は或る大都會の南の郊外の、海に近い森の中に住んでゐたのである。\n\n1\n\n 山吹が咲いてから可なりになる。川を隔てた向うの廢園にはもう躑躅が咲き出した。\n 自然の推移と、その生命のニユアンスに對して俺は如何に鈍い感覺を持つてゐることだらう。俺は四月と五月との生命の差別さへ碌に知らずに、「晩春」と云ふ大ざつぱな總稱の下に之を經驗して來た。\n 一年の間微細な注意を以つて自然と共に生きて見たい。自然の生命の推移をしみじみと味ひ占めて見たい。\n\n2\n\n 夕暮の散歩。\n 産科病院の傍から、醜い、穢い犬が二匹出て來た。そのあとから四人の妊婦が醜い姿をして苦しさうにしながら散歩してゐる。黄昏の中を、恥かし氣もなく笑ひ合ひながら散歩してゐる。\n 俺は又女が憎くなつた。\n\n3\n\n 俺は死そのものよりも、死後の肉體のことを餘計氣にしてゐる。\n 死骸を他人にいじられるのもいやだ。燒かれて油がジト〳〵ににじみ出る有樣を想像するのも耐らない。埋められて、體が次第に腐つて、蛆が湧いて行く有樣を思ふのも耐らない。肉體は牢獄だと云ふ感じが、直接の事實として深く俺の心に喰入つてゐる。\n 死と共に、肉體が蒸氣のやうに發散して呉れたらどんなに安心だらう。\n\n4\n\n 經驗の再現――藝術の製作――を試みる際に、吾等はもう一度その經驗を心の脈搏に感ずる。吾等はそれを書きながら、もう一度泣いたり、笑つたり、怒つたりする事が出來る。併しその涙と笑と怒とが人を顛倒させる時に藝術はなくなるのである。藝術家はその經驗を再現する際に、如何に興奮しても強調しても構はない。併し顛倒することだけは許されない。\n それは全體の通觀を妨げるからである。\n 藝術家の心には、如何なる動亂の再現に際しても、根柢に Ruhe がなければならない。\n\n5\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 藝術は吾等の經驗を弱めて再現するに過ぎないかも知れない。併し經驗の全體を與へるものは――全體を對象とした感情の經驗を與へるものは藝術の外にはない。吾等は人生又は事件の全體觀を持ち、全體を心から erleben するためには、藝術を俟たなければならない。若しくは自ら藝術家となつて、その經驗を心の中に再現しなければならない。\n\n6\n\n 藝術家の心の中で部分が全體となる時に――藝術家の心の中に一つの世界が出來上る時に、藝術家はその表現の要求が始めて完全に滿される事を感ずる。從つてその藝術品は客觀的にも(翫賞する者にも)亦藝術品としての意義を有する。換言すれば翫賞者は藝術家の世界に同化することが出來る。藝術家の内に湧く内部的必然の遂行が、直ちに藝術品の社會的傳達の作用を全くすることは、人生の驚く可き神祕の一である。\n\n7\n\n 吾々は茶飮話をして笑つてゐる。此時吾々は人生を經驗してゐるのである。經驗の内容は人生に相違ないのである。\n 俺は障子をあけて梅若葉の梢に雀の鳴いてゐるのを見る。此時俺は宇宙を經驗してゐるのである。經驗の内容は宇宙に相違ないのである。\n 併し普通の人は茶飮話をしながら、人生全體、人生そのものを經驗してはゐない。梅若葉の梢に囀る雀を見ながら、宇宙全體、宇宙そのものを經驗してはゐない。此等のものは Symbol として意識に上つて來ないからである。\n 全體を經驗するには――全體を味ふには、先づ全體の意識を持たなければならない。人生そのものと人生の一内容と、宇宙そのものと宇宙の一内容とは全然感情上(直接經驗上)の意義を異にする。人生そのものは、人生の個々内容及びその總和とは殊別なる經驗の對象である。人生及び宇宙の大流轉の中に在りながら、人生そのもの、宇宙そのものを經驗せずに終る人が多い。之を經驗させるのは、宗教、哲學及び藝術である。さうして宗教及び哲學はこの全體的經驗を描寫し再現することによつてそのまゝに藝術となる。描寫し再現するとは、畢竟感覺的方便によつて精神的感動を傳へることに外ならないからである。\n 哲學は經驗の概括綜合をなすのみならず、又新しき經驗の對象を提供する。此意味に於いて實の實なるものを對象とし、實の實なるものを創造するのである。斬新にして高貴なる藝術の材料を提供するのである。\n その世界觀や人生觀に現はるゝ世界の觀念、人生の觀念を對象として、深い恍惚か歡喜か絶望か憂愁かを經驗することを知らざる者は、その世界觀や人生觀がその人にとつてさへ實ならぬことを證明する。その限りに於いてその哲學は虚僞である。\n 眞正の哲學は深い世界感情か、深い人生感情を經驗させずには置かない筈である。\n(以上四項更につきつめた Elaboration を要す)\n\n8\n\n ......俺はこんな(以上四項)ことを思ひながら「新しい路」を通つた。\n 「新しい路」とはTの家を訪ふために、最近に發見した路に名づけた名である。\n 柴折戸を出て畑を向うに越すと、垣根の外に沿うて細い道がある。俺は久しい間、此細路が何處に通じて居るかを知らなかつた。此の月の始め、俺は知らない道を歩く興味に促されて此道を通つた。高い木で暗くされてゐる徑を曲ると、山吹の咲いてゐる川添に出た。その川添には白桃の花が咲き、名を知らぬ灌木が芽を出してゐた。その道は一度之と直角をなす並木路と交叉して又畑の中を通る。畑には麥が青く延びて處々に菜の花の畑が交つてゐた。左手には杉林に交る高い森があつて、その梢には若い緑の芽が柔かに霞んでゐた。徑は二度、稍〻廣い――電車通りに出るために田舍娘の多く通る――道と交つて、直ちに又麥と菜種との畑に入つた。それからもう一度直角をなす道と交つて、ダラ〳〵と田圃の間に下りた。田の畔の小川には板橋があつて、女の兒が尻まで着物をまくつて泥鰌をさがしてゐた。それから徑は又少し上つて今迄通り馴れたOへの道に出ることが出來た。............\n\n9\n\n 俺は先ばかり急いでゐる。\n 頭の中で敍述するのは創造するのだから飽きないけれども、頭の中で出來た敍述を筆にするのは熱が褪めたやうでつまらない。一句が一度に筆の先へ押しよせて來るから碌そつぽペンを紙になすらずに先の方へ進んでしまふ。それだから「あります」と書かうと思つて「あます」と書いてしまふのである。\n 俺は一つの仕事をしながら、その仕事が出來上つた先のことばかり考へてゐる。だから××が出來たら、何を讀まう何を考へようなどゝ先から先へ空想するのみで××はちつとも進まない。\n\n10\n\n 俺の熱は容易に高くならない。さうして一度出た熱はいつまでもひつかかつてゐてさめてしまはない。\n 俺は忘れることの出來ない男だ。過去を許すことの出來ない男だ。だから俺は何時も苦しんでばかりゐる。\n 俺はよつぽど馬鹿だ。\n\n11\n\n 午前のことである。俺は死の勝利を持つて外に出た。さうして之を讀みながら廣い庭をあちらこちらした。\n 俺は死の勝利を讀みながら、過去に經驗した色々の心持を思ひ出した。さうして珍らしく Contemplative な心持になつた。\n 俺は時々讀みさした處に指を挾んで手にさげながら、緑に溢れてゐる自然を見た。緑の作る深い影ほど俺の心を靜かな興奮に導くものは少い。俺は梅若葉の梢を通して向うの躑躅園を見ながら、俺の Contemplation の快く汗ばむことを覺えた。\n 俺は微笑した。さうして此微笑の顏は屹度いいに違ひないと思つた。それで、之を鏡に映して見たくなつたけれども、此一節を讀んでしまつてからと思つて暫く眼を本に移した。\n 敍述は水死の小兒のことに移つた。俺は前のやうな心持になれなかつた。俺は俺の表情が又墮落してゐることを意識してゐた。\n 一節を讀み了へて、部屋に歸つて、鏡の前に立つたら、俺の顏には妙な影があつて、ちつとも朗かになつて居なかつた。俺は惜しいことをしたと思つた――鏡に向つて自分の顏を檢査するやうな慾望を嗤ふ氣にもならずに。\n\n12\n\n 悲しみがその對象となる表象から離れて、一般的の氣分に融けてしまつた時、悲しみの氣分は一雨あつた後の土の樣にシツトリと快く俺の思索と研究との背景を形造つてくれる。俺は雨あがりの土を踏むやうな心よさを以つて、思索と研究との歩みを運んで行く。\n 昨日の朝はそれが出來さうな氣分であつた。併し今朝になつたら土が乾いてもう埃が飛ぶ。俺は興醒めた心持で机の前に坐つてゐる。\n\n13\n\n 昨夜の雨がやんで、雨戸をあけると朝日が庭に影を作つてゐる。今日は春の大掃除だ。始める迄は疊をあげるのが億劫であつた。併し少しやり出したら大掃除が面白いやうな氣がし出した。それで少し頭痛がするのをこらへて、すつかり疊をあげることにした。體を動かすのが愉快であつた。手拭を頭にかぶるのも面白かつた。疊をほして日にあててゐる間、聖フランシスの本を持つて日の光の下で之を讀んだりなぞもした。\n 夜久しぶりで頭の仕事をした。美學史中世の部のノートを拵へたら頭が爽かになつたから勢に乘じてH先生の「カントの宗教哲學」と云ふ論文を讀んだら十一時になつた。\n 久しぶりで體と頭を動かしたせゐであらう。「爽かな心持」が又珍らしくも歸つて來た。俺は嬉しくなつた。新しい寢衣を着た上に掻卷を羽織つて外に出た。月がさしてゐる。木立が影を地上に投げてゐる。蛙の聲が頻りにきこえる。俺は嬉しくなつた。\n 聖フランシスの傳説は、同感し得ず理解し得ぬ多少の斑點を含むにも拘らず、屡〻俺の心を涙に誘つた。カントの哲學にあると云ふ Idealismus の精神も俺の心の中に成長しつゝあることを感ずる。\n 俺は月下の庭に立つて、「熱の落ちる」やうに迷ひの落ちる時を思つた。さうしてヹールが裂かれた後のやうに新しい世界の開けて來ることを思つた。新しい世界は俺に與へられるのだ。俺は心の底に「他力」と「奇蹟」とを信じてゐる。さうして幾多の迷の後に、遂に召さるべき「恩寵」の豫定をも心密かに信じてゐるやうである。俺の心には希望がなくならない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "舞台 周囲が岩石ばかりの大谿谷の底を想像させる所、極度に晴れ渡つた早春の朝、遠くから太鼓のにぶい音と、タンバリンの低い音が断続的に聞えてくる、舞台ボンヤリとして何か間のぬけた感。\n○いざり一、(空虚な舞台へ這ひ出てくる、舞台の中央でものうく、哀調を帯びて、間ののびた声で)右や左の旦那さま、(急速に)世界の果ての、(真に迫つて)果ての果ての、果てにいたるまでの旦那さま方\n○いざり二、(ものうく、哀調を帯びて)右や左の奥様がた(急速に)世界の奥の、(真に迫つて)奥の、奥の、奥にいたるまでの奥さま方、\n○いざり一、(天を仰いで)この晴れ渡つた空、心もはればれする日に、わたしの足腰が立たないとは(同情を乞ふ調子で)どうぞ皆様、御同情下さい(米搗バッタのやうに頭を下げる)\n\n(青年合唱隊の太鼓の音、次第に高く、きこえてくる)(元気に、軽快に、隊を組んで行進)\n(婦人合唱隊の、タンバリンの音きこえてくる)(女達は柔和で、リズミカルな動作、女性的に快活に、隊を組んで行進)\n\n○合唱青年、(力強く)我々は足にまかせて、都会、山野あらゆるところを(間)行進する(急速に)人生の早足隊だ。\n○合唱婦人、(優しく)私達は、静かに、(間)男達の仕事を見守る(急速に)人生の監視隊だ。\n○合唱青年、(笑ひの合唱)ワ、ハ、ハ、ハ、(皮肉に)婦人達が我々の監視隊、それは良いことだ。\n○青年一、(皮肉に)そして(徐ろに間ををいて)主として縫ひもの、つくろひものを、家庭にあつては、分担してをりますか(笑)\n○青年二、それも必要だ、(高く)人生のほころびの縫ひ手は、(確信的に)彼女達だ。\n○青年一、(激しく皮肉に)男が破つて、女が繕ふのか。\n○合唱青年、(急速に叫ぶ)我々は力の象徴だ、打て、打て、打て、打て、太鼓を(太鼓乱打)音響をもつて空を引き破れ、あらゆるものを、ほころばせ、冬の雲を春の光りが、(歓喜をもつて)強く引裂くやうに。\n○合唱婦人、(優しく)ダイナモのやうに、いつも元気の良い、青年達よ、(愛撫的に)よく磨いた鎌のやうな、聡明な若者たちよ。\n○婦人一、あなたたちは女性の緩慢な愛にも堪へてゐる、忍耐強い友(激情的に)打て、打て(タンバリン乱打)情緒の金の針で、あなた達の心のほころびを私達が縫つてあげませう。\n○いざり一、(大声に、そしてゆつくりと)右や左の旦那さま、奥様方、御騒々しいことでござります。(感動的に)皆さま方はお親しい、仲の良いことでございます。(青年に向つて)旦那さまがた。(急速に)すべてを裂け、(自問自答的にうなづきながら)ウム、すべてを破れ、だがお前さん達はこれまで、(間)女達の手に余るほどの、(間)大きな、ほころびをつくりだした、ためしがありますまい、口幅つたいことは、慎んでもらひませう、全世界の御婦人の、名誉の下に――\n婦人四、(歓喜して)ほんとうに、いざりさん貴方の言ふとほりね、男らしい男は少ないのよ、ヒステリカルに、女性的に物を破る男達が、また頗分多いの、\n○婦人一、古い思想を引きさくことも遠慮勝。\n○婦人二、古い愛情から、別れることにも、おつかな吃驚。\n○婦人三、古い科学を叩きこはすことも、臆病で。\n○婦人四、古い芸術を、追つ払ふことも消極的。\n○合唱婦人、(高く笑を含んで)まだ、まだ、わたしたち女性の大きな愛の手で男達はつぐのひ切れないほど、大きな破れをつくつてはくれない。\n○合唱男子(怒りを帯びて)男は、力のシンボルだ、憤怒の、怒りの象徴だ、(イザリに向つて)黙れ、イザリ、お前はさつきから其処で誰を待つてゐるのか。\n○いざり一、(冷笑的に)あなたがたこそ、さつきから其処で、何を叫んでゐるのか、何処から来て、何処へ、おいでになるんです。\n○青年一、(激しく)東から来て、北へ行くのだ。\n○青年二、(更に激しく)前進だ、行かう、我々にとつて無目的な朝などは、たゞの一日もないのだから、\n○青年三、(激しく)我々は太鼓をうち、このやうに、街をすぎ野を走る。\n○青年四、(激しく)谷をわけいり、海をわたる、\n○合唱青年、(高く)我々は集団的遊戯、行動を、訓練しなければならない。\n○いざり一、(神妙に)敬意を払ひませう、若い時代に、刃向ふ古いものは、犬に喰はれますから、(突拍子もない高い声)諸君、緊急動議を提出します。勿論、御婦人方も参加して、すべての人々は討議に加はつて下さい、(低い、間をのばして)提案といふのはかうです。諸君、ワタシはなぜ腰が立たないんでせう。\n\n(婦人合唱隊、タンバリン急打、男達之に和す、賑やかに、朗らかに、心が踊るやうな音)\n(イザリ、二、三、四登場、米搗バッタのやうにお低頭をしながら)\n\n○合唱婦人、(歌)\n おゝ、可哀いさうな、\n イザリサン\n 一里の路も遠うござる、\n 途中の小川で\n ものおもひ\n おゝ、可哀いさうな\n イザリさん\n あなたの住居は\n 橋の下\n 雨が、\n ポッツリと鼻に\n ポッツリと頬に\n ポッツリと額に\n 雨のしづくが\n 三つ四つをちる。\n○青年一、(群の中から飛び出して絶叫する)やめてくれ、新しい時代は、情緒の性質を変へたのだ、女達の同情心の対照は何んていつまでも変らないのだ、病人か、子供へか。さあ、センチメンタルな道徳をうちやぶつてくれ、ロマンチシズムさ、行動だ、こいつに首つたけになるんだ、恍惚になるんだどこまでも追求するんだ、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、最後のところまで。\n○合唱いざり、(歌)\n 御同情、ありがたう\n 御軽蔑、感謝\n 打擲、多謝\n 足蹠、結構\n 手かせ、足かせ\n お引づり廻し、大歓迎。\n○青年二、(憤つて群からとび出し)なんて此奴等の存在は、空気の性質を悪るくするんだらう、(憎々しさうに)糞沈着におちつき払つて、僅かな道程を、われ〳〵の十倍も時間をかけて通りやがるんだ、やい百姓め、たがひに何か親しさうに話しながら、(憎々しく)世間の秘密をすべて知つてゐるやうな意味ありげに笑ひ合ふ、さあいざり立て、立つてみろ、女共の加護と同情の下に、見事突立ちあがれ、さあ立て、立て、青年達、こやつの剛慢の腰をのばしてやるんだ(いざりに襲ひかゝつて無理に立てようとする、婦人合唱隊は青年達の行為を押しとどめて、男女たがひに揉み合ふ)\n○合唱いざり、(陽気に、体を左右にふり、左右の手を物乞ひらしく動かしながら、合唱)仰せのとほり、君等の十里は、われらの千里さ、\n○いざり一、お気の長いが、われらが取柄、\n○いざり二、でも、みなさん結局は!\n○いざり三、着くべきところへ、着いたら、何の文句もないでせう。\n○合唱いざり、さあ、タワリシチ\n 深刻ぶつた\n 夜中の思想の幕を引きあげろ\n 五体揃つた人間様ぢや\n とかく物事に尻込なさる\n そこで腰の蝶ツガヒの\n はずれた我々が\n 人生を陽気にするやう\n 前座を勤めませう。\n○いざり一、然も君等より朗らかに\n○いざり二、然も君等より勇敢に\n○いざり三、然も君等より人間的に\n○いざり四、然も君等より大胆に\n 然も君等より目的に向つて\n○合唱いざり、朗らかに、勇敢に、人間的に、大胆に、目的に向つて、――さあ始めよう、\n○いざり一、(元気よく)さあ頼むよ、鳴物を、太鼓を\n○いざり二、(皮肉に)お願ひしますよ、タンバリンを\n○いざり三、いざりの生ひ立ちを過去の物語りを、御披露しませう。\n(いざりの群賑やかに踊り出す、膝頭をコツ〳〵と音させながら)\n ラッパの音加はる。カスタネットの音加はる、合唱隊は直立して歌ふ、四人のいざりが身振面白く跳ねながら踊る。\n○合唱婦人、こゝに四人の\n いざりの兄弟がゐた(タンバリン)\n○合唱男、彼等は生れつきの\n いざりではなかつたらう(太鼓)\n○合唱婦人、あるとき四人が\n 仲良く揃つて山へ\n 獣をとりに出かけた\n 谷底をふとみをろすと(タンバリン)\n (照明、幻想的な青)\n○合唱男、獲物がみつかつたか、(太鼓)\n○合唱婦人、ゐた、ゐた、ゐたよ、\n 大きな奴がさ\n 虎かとみれば、さに非ず\n 熊かとみれば、さに非ず、(タンバリン)\n○合唱男、たとへてみれば\n どういふ格好のものだ、\n○合唱婦人、それは牙がニューと斯ういふ格好で突きでた、豚に似て非なるもの(タンバリン)"
},
{
"role": "assistant",
"content": "○合唱男、さては猪だな、(太鼓)\n○合唱婦人、(歌)(女、タンバリンを叩きながら、男太鼓もこれに和す)\n やれ、やれ、やれ、やれ、\n 嬉しやな、\n やれ、やれ、やれ、やれ、\n 心が踊る\n やれ、やれ、やれ、やれ、\n 敵を迎へて、\n 心が踊る\n 肩の鉄砲\n ダテには持たぬ\n ソッとをろして\n トンと大地を\n 台尻でついた、\n○いざり一、(極端に道化て)するとさすがに、猪奴は自然の子だ、わずかな土のふるへにも、ピタリと耳をふるはしたね。\n○合唱男子、おゝ猪大王どの\n 心おしづめ下さい、\n それなる岩の安楽椅子に\n おかけ下さい。\n○合唱婦人、岩の椅子には\n 紫の花\n 紅のツタ、カヅラ\n 金銀のキノコをもつて\n 美々しく飾られ、\n 口を伸ばすところに、\n 真清水あり、\n 手をのばすところに\n 果実あり、\n 何の不自由もない暮しな筈、\n○合唱男子、(勿体ぶつて)然し畜生の悲しさに、鉄の玉だけは防ぎきれぬ、(高い声で大げさな表情で)美事な金の皮、皮を撃つては値が下る、さて何処をうたう、やれ頭をうつては値が下がる、足をうつても値が下がる、耳をうつては倒れまいさてどこを、どこを覗はう\n○いざり一、そこでわしらは協議した、\n 二つの眼玉に四つの玉を撃ち込まう\n 鉄砲うちの名人は\n そんなことなどわけがない。\n○いざり二、何時かも、こんなことがあつた、\n 高い木の、いちばん上の枝の\n 木の葉をうち落し、その葉が地面までつかない間に、\n 四人で替り、替りうちあてた、そしたら木の葉が無くなつた。\n○いざり三、(威猛高な声)平素の腕の冴えをみせるは今と、猪大王目がけて\n○いざり一、引金を引かうとしたとき\n○いざり三、我等の背後にあたつて、物凄く、小石をとばし、石を投げ、\n○いざり四、四匹の猪が、我々にむかつて、まつしぐら、\n○合唱男子、そこで腰の蝶つがひを、鋭い牙で突きあげられた。\n○合唱いざり、傷つきながらもおれ等の胆つ玉はすわつてゐた。逃げる猪の背後から(間)筒口揃へてぶつ放した。\n○合唱婦人、(哄笑)そこで今度は猪奴の腰の蝶つがひを撃つたといふ寸法でせう(笑)\n○合唱いざり、いかにも、いかにも、\n○合唱男子、そこで即座に人間が四人、けだものが四匹、(間)都合八つのいざり、それ以来この世に現はれたといふわけか\n○合唱いざり、まあ、聞いて下さい旦那さま方、奥様がた、それ以来の、わしらの生活が(激しくススリ泣き)どのやうに惨めで惨めであつたかを。\n○いざり一、猪獲りの名人が山を下りても、こんな惨めな腰格好じや、だれも迎へてくれない。\n○いざり三、子供達にはマラソン競争を申込まれるし\n○いざり二、物乞ひもしねえのに、帽子を脱いだら、チャリンと金を放りこみやがるし、\n○いざり四、大の野郎まで、(泣きながら)馬鹿にしくさつて、背くらべにやつてくる\n○いざり一、そこでたまらなくなつて、村に引こんで百姓だ。\n○男子一、(激しく)百姓になる、そいつは思ひつきだ。\n○いざり二、(ふてぶてしく)我々片輪者は、人間に見放されたんだ(哀れ深く)だが自然にしがみついてゐる分ぢや、邪魔になるまいと思ふのさ、\n○男子二、そこで馬にひつぱられて、膝頭で畑の土を掻きまはしたのか、\n○いざり三、さうだ、おれたちはシャベルを使ふことは第一流になつた。鎌をうちこむことを熟練した。\n○いざり四、足腰の満足な百姓のやうに、畑打ちに、ひよいひよいといち〳〵腰を曲げる世話もいらねい、\n○いざり一、彼等より短かい鍬を使つて、彼等よりずつと先の方まで鍬がのびたよ、\n○男子二、(覗きこむやうに出て)自然は、きみたちを心から愛しただらうね。\n○男子二、大地は君達百姓にとつて、偉大な楯だからね、\n○男子四、あらゆる百姓の不幸が、自然の影にかくれてしまふから。\n○男子一、(叫ぶ)百姓にとつて大地は隠れミノだ。\n○婦人一、(叫ぶ)自然は親切すぎる悪い女。\n○婦人四、(叫ぶ)また厳めしい父でもある、\n○婦人三、(叫ぶ)自然の奴は人間の智識を小さく見よう、見ようとするヤキモチ焼よ、\n○婦人二、(叫ぶ)あるときは自然は人間を激しく折檻する、\n○いざり一、(泣き声で)そ、そ、その通りでさ、わしら折檻されましたよ、嵐で、雨で、風で、雪で、雹をもつて、\n○いざり二、(泣き声で)そのくせ後から激しく可愛がるムラ気なママ母の愛のやうでもありました、\n○いざり三、(泣き声で)一握の土を、手の上にのつけてごらん、おお、そしたら百姓の苦しみが判らあ、なんて土は重いんだ手の上のこいつの重さといつたら、まるで大地の重さだ、\n○男子一、(絶叫的に)悲惨だ、百姓の智恵は悲惨だ、道徳は、悲惨だ。\n○男子二、(耳をそばたてゝ)ゴーといふ風鳴りだ、\n○男子三、(平然と落ついて)風の前には、かなはない。\n○婦人一、でもすばらしい、百姓の小さな知恵が、大地の大きな苦しみを、大きな重みを知つてゐるんだから。\n○婦人二、それは決して小さな智恵とはいへないでせう。\n○男子一、学問のあるものはどうだ。\n○男子三、労働に依つてではなく、思策によつて、\n○男子二、大地の秘密を知らうとする、学者はどうだ。\n○男子四、学生は、大地の重みを知つてゐるか、\n○男子五、職工はどうだ、\n○男子六、会社員は、大地の苦しみを知つてゐるか、\n○合唱男子、あらゆる人々は、どうだ、\n○婦人二、百姓は大地を、第一頁から読んでゆく、ものゝ三頁も読まないうちに、彼等は自然を理解してしまふ。\n○男子四、学者は、非常な速度で読んでゐる、今一千頁目だ、だが大地の秘密はなか〳〵判らない。\n○合唱婦人、(強く)大地の重圧から人間を救へ、\n○合唱いざり、(哀れに)大地の重圧からはぬけきれぬ。\n○いざり一、(叫び)ぬけきれぬ、\n○いざり二、(叫び)ぬけきれぬ、\n○合唱男子、(希望に満ちた声で)大地に勝て勝て(太鼓乱打)\n○婦人、いざり、男子合唱、人間の集団の力をもつて!\n○婦人一、(恐怖の眼で空の一角を指さし)おゝ恐ろしい、恐ろしい、ごらん、あの自然の一角を、\n○婦人二、(恐怖をもつて)自然が騒ぎ出したごらん、ミルク色の雲が、みる〳〵不機嫌な灰色になつてしまつた。\n○男子二、(感動的に)自然が美しい痙攣を始めたのだ\n○男子三、(恐怖の声)襲つて来る。\n○婦人一、徐々に\n○男子一、いや急速にだ―\n○婦人三、徐々に\n○男子一、いや急速に―\n ◇ ◇\n○いざり一、(身ぶるひして)自然、狡猾な奴、力よ、\n○いざり二、(恐怖して)おゝ、お前は、鋼鉄の鞭をもつて、おれたちの処へ、打ちにやつてくる、(風の音、舞台急に暗くなる)\n○男子の声、風だ、逃げろ、\n○男子の声、岩蔭に、"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " かう云ふ追想やら思索やらに耽りながら、義雄は建物の前の方へまはり、何とも知れない大木に行き、月光がちら〳〵とその繁葉をかき分けて漏れる樹かげの石に、勇と共に腰をかける。\n 渠は身づからこの夜の氣を吐いてゐる樣な心持ちになり、その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく綺麗な景の樣に、自分の世界と見える。そして、かたはらの勇が、\n「何とか恢復させてやりたいもんだ、ね、その――君の――あの事業を」と云ふのを聽いて、「事業は外形によつて拘束されない」と、義雄は答へる。そして、今組みあがつてゐた刹那の現實世界をうち毀されてしまつた氣がする。\n この時、眼界の不透明な(と渠は考へられる)友人を厭な蛇だと思つた。\n その不平を渠は例の思ひ切つた婦人論や教育論へ持つて行つて、勇をなやますと、勇は自分も學校教師に飽き、年取つて來た細君を嫌ひな點もあるのだから、義雄の云ふところに「半面の眞理」はあるとうなづく。\n「然し、君、その半面をもツと充分、神經まで體得して見給へ。それに裏はらはなくなるよ」と、義雄が云ふ。「たとへば、僕が事業に成功しても、失敗しても、僕その物に變りはない。」\n「努力さへしたのならいいと云ふのだらうが」と、勇は義雄の意を受けて答へた、「然し僕等はさう行かない、成功と失敗とは直ぐ自分の現在の生活に影響すると思ふから、ね。」\n「家庭や學校に囚はれてゐるからだ」と、義雄は無遠慮に云つた、こちらへ暗に勇の諷意があると思つたからだ。「教師などよしてしまひ給へ。」\n「僕もさう考へてゐるが、ね――」勇は素直に應じてゐた。\n 義雄は勇と共に有馬の家まで歸つたが、あがらないで、弟の返電が來てゐるか、どうかを聽いて貰ふと、まだ來てゐない。\n「どいつも、こいつも不熱心な奴等だ」と、渠は靴脱ぎの土を右足の下駄で蹴つたが、勇の立つてゐる前だと氣がついて、それを取り消すかの樣なにが笑ひをする。\n「さう短氣を起さないで、氣ながに待ち給へ」と云ふ、勇の冷かしとも見えるおやぢじみた言葉を耳にしながら、渠に別れて義雄は氷峰の家へ行つた。\n\n十\n\n いつのまにか、義雄は氷峰の家の客の樣になつてしまつた。小樽へ出した手紙の宿所もここにしてあつたから、ここへその返事が來た。\n 森本春雄からので、義雄はそれを顫ひつくほど熱心な態度で讀んで見たが、それを卷き納める時は、失望の體に見えた。\n「ことわりか」と、氷峰は原稿を書きながら聽く。\n「なアに、主人が旅行中でまだ相談出來ないと、さ――會計主任からの返事で、松田は漁業組合總會出席の爲め函館へ行つた。」かう云つて、義雄は卷き納めたのを封筒に返した。\n「そりや困つた、なア。」氷峰も筆を擱いて卷煙草に火をつける。「いつ歸ると云ふのか?」\n「まア、今月一杯はあちらにゐるらしい。」\n「當てにせずに待つ、さ。」\n「會計主任もあさつて頃は函館へ行くと書いてある。それに、行つたら必ず雜誌の相談もまとめるつもりだから、この手紙着次第直ぐ印刷上の見積りをどこか札幌の印刷屋でさして、郵送して呉れと云ふんだ。」かう云つて、義雄は氷峰に、この主任なる人と自分との間に、一種の他の話が進行しかかつてゐることを語る。\n 實は、森本の關係ある漁場は樺太の西海岸に於いて多少勢力があるのを利用して、森本は西海岸の漁業家を誘引し、今ある組合と衝突しない範圍に於いて、一つの團體を作り、政廳の施政方針に當る一雜誌を持たうとしてゐる。\n 初めは新聞を起さうと企ててゐたのだ。然し、それは森本の青年的客氣にまかせて、無學な主人の事業的意氣込みに訴へたに過ぎないから、餘り無謀過ぎるだらうと、義雄が忠告した。では、東京の一新聞を相當の金で抱き込まうかと云ふことであつた。それも、義雄は無駄だらうと判定した。そして、結局、ちよツとした新聞體の月刊雜誌がよからうと云ふことになつた。そして、その編輯者は、名を出さないでもいいのなら、義雄が樺太にゐる片手間にやらうと云ふ相談になつてゐる。\n 鑵詰製造上の協同が成り立つ上に、その雜誌の關係がつくとすれば、義雄の樺太に於ける位置は一層確かになるにきまつてゐるから、渠も一と肩入れる氣になつたのである。體裁も大體は決めてあるのだから、高見呑牛のやつてゐる週刊北星を持つて行つて、氷峰の出さうとする北海實業雜誌の印刷屋で見積り書を取り、それを小樽へ郵送するついでに、\n「協同問題の件もしツかり頼みます」と云ふことを附け加へた。\n 全體、樺太の西海岸と東海岸とは全く利害を異にしてゐる。西は鰊を專らとし、東は鮭鱒を主とする。同じ建網税問題でも、前者に不利益なことが後者にさう痛痒を感じない。現に、函館に於ける總會も別々で、西海岸の組合のがあつた後で、東海岸並びに亞庭灣のがある。兩者の利害が一致しないのを政廳はつけ込みどころとしてゐるらしい。\n かう云ふ事情を解するに至つてから、義雄は目前實際の政治的問題にも興味を有する樣になつてゐるので、自分の製造事業の協同は勿論、政治的意味の漁業雜誌を引き受けるのも亦面白いと思つてゐるのだ。\n\n十一\n\n いよ〳〵歡迎會當日の土曜日が來た。\n 巖本天聲が、朝、最後の相談を決めに氷峰を訪ねて來た。それが歸ると、メール社の一記者が來て、義雄の樺太談や自然主義の三派論やを筆記して歸つた。それから、また、有馬勇がやつて來た。\n「手紙が來たよ」と、勇がふところから出すのを見ると、お鳥からのだ。義雄は胸を踊らしたが、さうは見せないで、受け取つた。一たびマオカへ行つたのがまはつて來たのだ。\n「それが例のか、ね?」勇は微笑して聽く。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「さうだ。」義雄が答へて、開封しかけると、\n「矢ツ張り向うにも未練があるのぢや、な」と、氷峰は机に向ひながら冷かす。「こんな貧乏文士か事業家か分らない奴は、早く見限つてしまへばよからうに――」\n「いや、女といふ奴は執念深いから、ね」と、勇はもつともらしく云ふ。\n「さう馬鹿にしたものでもない、さ。」義雄は身づからまぎらしながらそれを默認してゐたが、叫んだには、「不都合だ、ねえ、樺太の郵便局は!」\n そして、この二友に別々に送つた郵便物が屆かなかつたことのある上に、義雄からお鳥に送つた手紙にも向うへ屆かないのがあることを語つた。\n「あなたはかう〳〵云ふことを書いてよこしたに返事しないとおこつてゐられますが、そんな手紙は來てゐません」とある。義雄の心には、直ぐお鳥からよこしたのにも自分の手に屆かないのがあるのだらうと思つた。そして、\n「内地や北海道では、滅多にそんなことがないのに、樺太に關する郵便物に不着や紛失の度々あるのは、實に不都合だ」と云ふ。\n「戀の交換を妨げるくせ物ぢやから、充分おこつてやれ」とは、氷峰の冷かし半分の意見だ。\n「實際、さうだ」と、義雄は眞面目に憤慨しながら讀んで見ると、相變らずくだ〳〵しい恨み言ばかりだ。それに、最近の而も最終のとして勇に讀み聽かせた手紙には、病氣のことは忘れたかの樣に書いてなかつたから安心してゐたが、今囘のにはまたそれがひどくなつてつらいとある。\n あの病氣が慢性になつてゐるので、直つたかと思ふと、またひどくなるのだらうと、義雄は想像する。自分がさツぱり(だらう)直つてしまつた經驗があるだけ、直らないものの苦しみが思ひやられる。\n 果して病氣が直らないものとすれば、自分と別衾した經驗でも分つてゐるが、男と關係してゐるとは思へない。然し、かの女として充分燒きもきすべきよそ行き衣類質出しの件は何とも云つてゐない。そして、藥り代を送れ、食料をよこせとある。\n 誰れか泣きつく人を見つけて、それに質物を出して貰つたので、目下の必要ばかりを云つて來るのだらうかとも思ふ。お鳥の身の上を考へれば考へるほど、義雄のあたまは疑念に囚はれて行くのである。然し、まだ宛て名に、\n「戀しき義雄さま」と書けるのに免じて、表面は心をやはらげ、これまでの自分の疑ひは全く惡かつた。許して貰ひたい。然し局面はまだ發展しないから、思ふ樣に送金は出來ない。といふ樣なことを認め、氷峰がきのふその金主から工面して呉れたうちから、五圓札二枚を封入した。\n 渠がその長い手紙(戀文だ)を書くまをぼんやり待つてゐるのもつまらないと思つたのだらう、勇は中途から歸つてしまつた。氷峰は平氣で自分の仕事をしてゐる。\n 義雄は封書に「東京市京橋區木挽町二丁目三番地海老名方清水鳥子殿」の宛名を書き、それを手にして通りに出で、一二町さきのポストに投じた。\n そして、ふところなるお鳥の手紙を出して引き裂き、路傍の排水渠に流した。かの女の手紙を棄てたのは、これが初めてだ。「下女奉公の口がありましたが、病氣でつとまらないからよしました」とあつたので、若しそれを氷峰にでも見られて、お前の色女は下女になつたのかなど冷かされては、今度もしかの女を札幌へ呼んだ時の自分の威嚴に關すると思つたからである。\n 然し渠はそれだけかの女に對する心の空疎をおぼえ、路傍のイタヤもみぢや鐵工場の音などの方が、今では、却つて、自分に密接な樣に感じた。\n 然しまたその日が特別に愉快に思はれたのは、決してただ渠に對する夜の歡迎會が待たれると云ふ理由ばかりではなかつた。\n\n 中島遊園は樹木を以つて蔽はれ、なかに丸木ぶねやボートを浮けた大きな池がある。その池の周圍に二三軒の料理屋がある。市中のはづれだから、繁盛は夏分に限つてゐる。冬になれば、何か特別な目的がなければ、このはづれまで數尺の積雪を分けて來るものはないと云ふ。\n そこに、立派な西洋建ての北海道物産陳列所があつて、その附屬として、北海道林業會出品の寄せ木家屋が建つてゐる。用材はすべて同道特産の木材である。床の間は山桑のふち、ヤチダモの板、イタヤ木理の落し掛け、センの天井。書院はクルミの机、カツラ木理の天井、オンコの欄間、トチの腰板、ヤシの脇壁板。床脇はシロコの地板、サビタ瘤の地袋ばしら、ヤチダモ根の木口包み、オンコの上棚板、ブナの下げづか。縁側はトド丸太の桁、アカダモの縁ぶち、並びに板、蝦夷松及びヒノキの垂木。座敷仕切りはクルミの欄間、ヒバ並びにガンピの釣りづか、ケンポナシの廊下の縁ぶち。鴨居並びに天井板はすべて蝦夷松。敷居は蝦夷松、五葉の松の取り合せ。西洋間の窓並びに唐戸の枠は蝦夷松、額ぶちはヌカセン、その天井板二十五種、腰羽目板二十二種は、以上に擧げた種類の外に、シナ、ナラ、シウリ、ヱンジユ、櫻、槲、朴の木、ドロ、山モミヂ、オヒヨウ楡、ハンの木、アサダ、サンチン、カタ杉、檜の木などだ。\n 義雄は、樺太トマリオロの鐵道工事並びに新着手炭坑を見に行つた時、山奧の平地のセン、イタヤ、ドロ、アカダモなどの間を切り開いて、そこに大仕掛けの炭坑事務所を新築してゐる、その新木材の強いにほひを嗅ぎ、深山のオゾンに醉はせられた樣な、如何にもいい、而も健全な心地を自分の神經に受けてからと云ふもの、木材に非常な趣味を持つて來た。且、また、樺太に歸れば、見積りした計畫通り、鱒箱や鑵入れ箱の製造かた〴〵、木材をも取り扱つて見ようとする考へがある。だから、氷峰と共に池のふちや陳列所の庭を散歩し、この出品家屋のなかへ這入つた時は、何よりも熱心にその用材の種類を注意して見た。\n「さう見たり、さはつたりして、君にはそれが分るのかい。」氷峰は早く去りたさうになじる。\n「うん。」義雄は獨り面白さうにうなづきながら、「少し考へがないでもないのだ。」\n「君は山海を選ばず、餘り氣が多い、なア。」氷峰は捨てぜりふの樣に云つて下り口の方へ行く。\n「然し何か一つ成功して見たいではないか」と、義雄も渠についてそこを出たが、玄關の桁や垂木がカツラだと云ふのを名殘り惜しさうに見てゐる。\n「さア、行かう、遲くなるから。」氷峰に促されて、庭の芝草の間を通り、陳列所の門を右に出て、池のほとりのナラや椎の木らしい樹かげを行き、涼しさうに舟遊びをして若い男女がきやアきやア喜んでゐる方をながめながら、西の宮支店の前に來た。そして、二人は、\n「田村君歡迎會場」といふ幅びろの長い紙を張りつけてある門を這入つた。\n\n 天聲、呑牛、氷峰など、義雄が既に知つてゐるもの等のほかに、集つたのは旬刊北海新聞の菅野雪影、小樽新報支社の北山孤雲。以上の諸氏は孰れもその部下二三名から五六名をつれて來た。その他に物集北劍、有馬勇、もと新聞記者であつて今は競馬會社取締の濱野繁太郎、後藤遞相を室蘭へ送つて行つて、今札幌へ歸つて來た道會議員の松本雄次郎などだ。來ると云つて來なかつたのが、氷峰の雜誌の社長や、札幌電氣會社の取締某などだ。\n 都合二十個足らずの脇息が大廣間の上並びにその左右に並んだ。上中央は義雄、左りは松本雄次郎、右は濱野繁太郎。松本の次ぎは有馬、その次ぎは天聲並びにその社員。濱野の次ぎは北劍、その次ぎは孤雲並びにその社員。氷峰は、この會の發議者であるから、遠慮して、その社員と共に、右手の末に控へると、それに向つた左り手の末に雪影一派が坐わつてゐる。\n 藝者七八名の酌が一巡した時、孤雲が下座にまはつて、歡迎の辭を述べた。渠は記者の故參でもあり、また温厚實直の人望家でもあるから、その選に當つたのだ。\n 渠は義雄の文學上に於ける功績を賞讃し、長い間、文壇に奔走して倦むことなく、詩に、評論に、散文詩に、小説に、自分等に教へることが多かつたこと。特に、近來、文壇並びに思想界に於いて、新主義運動の急先鋒であること。また、今囘、樺太に於ける蟹の鑵詰とかを製造する事業を起し、文壇の餘勢を事業界にも張らうとする勇氣は感服せざるを得ないこと。たま〳〵自分等の土地を見舞つて呉れたのを幸ひ、ここに有志のものが歡迎會を開らくに至つたこと。などを、熟達した巧妙の辯を以つて、二十分ばかり演説し、もて爲しとては大したことはないが、充分に、自分等と共に、歡を盡くして貰ひたいと云つて、もとの席についた。\n「あの人が自然主義?」などと云つて、藝者どもは珍らしさうに義雄の方を見ながら、互ひにこそこそばなしをしてゐるのがきこえた。\n 義雄は、こんな歡迎會をされたのは初めてであるから、ちよツとまごついた。五百や六百の聽衆に對して平氣で演説することはあつても、自分一個に對する宴會にのぞんでは、どうしていいか、急に考へがつかなかつた。そして、やつてゐる仕事その物から位づけすれば、自分は左ほど謙遜するにも及ばない樣だが、兎に角、自分よりも年うへの人々がゐるのを見渡すと、何となくありがたくツて、胸が一杯になる。\n「どう云つて、禮を云はう」と、渠は下座に出てから考へたが、さうまごついてゐるのを見られるのは面白くないから、思ひ切つて、「諸君の御もて爲しに對しては、わたくしは非常に喜んでをります」と發言した。そして、自分はさう重く見られようとは思はなかつたことを述べた時などは、涙も出かからないばかりであつた。\n 出席の人々は渠から何か大氣焔でも聽かされることを豫期してゐたらしいが、渠は氣焔を吐くには餘り張り合のない會だと思つてゐたから、丁寧に禮だけ述べて席についた。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " ドミトリイ・フョードロヴィッチの出席には、ほんの二分かそこいらしか暇どらなかったので、会話はすぐに続けられなければならぬはずであった。ところが今度は、パイーシイ神父の執拗な、ほとんどいらいらした質問に対して、ミウーソフはもう返事をする必要を認めなかった。\n「どうか、この話はやめさせていただきたいもんですね」と彼は世間慣れたむとんじゃくな調子で言った。「それになかなかむずかしい問題ですからね。御覧なさい、イワン・フョードロヴィッチがこちらを見てにやにやしていますよ。きっとこの問題についても何かおもしろい説があるんでしょう。この人にひとつ聞いて御覧なさい」\n「いや、ほんのちょっとした感想のほか、別に説というほどのことはないんですよ」とイワン・フョードロヴィッチはすぐに答えた。「一般にヨーロッパの自由主義ばかりでなく、ロシアの自由主義的素人道楽までが、久しい以前から、社会主義の結末とキリスト教の結末とをしばしば混同しています。こうした奇怪千万な推断は、もちろん、彼らの特性を暴露するものであります。しかし、つまるところ、社会主義とキリスト教とを混同するのは、単に自由主義者とディレッタントばかりではなく、多くの場合、憲兵もその仲間にはいるようですね。もっとも、これはもちろん外国の憲兵のことですが。ミウーソフさん、あなたのパリのお話にはなかなか妙味がありますよ」\n「全体として、やはりこの問題はやめていただきたいですね」とミウーソフはくり返した。「その代わりに僕は、当のイワン・フョードロヴィッチに関する、非常に興味に富んだ、最も特性的な逸話を、もう一つ皆さんにお話しいたしましょう。つい五日ばかり前のことですが、当地の、おもに婦人ばかりの会話の席で、イワン・フョードロヴィッチは堂々と、こんな議論をはかれたのです。すなわち、地球上には人間同士の愛を強制するようなものはけっして存在しない。人類を愛すべしというような法則はけっしてない。もしこの地上に愛があるとすれば、またこれまであったとすれば、それは自然の法則によってではなく、人が自分の不死を信じていたからである――というのであります。そのうえ、イワン・フョードロヴィッチはちょっと括弧の中へはさんだような形で、こういうことを付け加えられました。つまり、この中にこそ自然の法則が全部含まれているので、人類から不死の信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころに枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けていくために必要な、あらゆる生命力を失ってしまう。のみならず、その場合に不道徳というものは全然なくなって、どんなことをしても許される、人肉嗜食さえ許されるようになるというのです。まだ、そればかりではなく、現在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なものは全然正反対になって、悪行と言い得るほどの利己主義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態においては避けることのできない、最も合理的なしかも高尚な行為としてすら認められるだろう、という断定をもって結論とされたのであります。皆さん、このような逆説から推して、わが愛すべき奇人にして逆説家たるイワン・フョードロヴィッチの唱道され、かつ唱道せんとしておられる自余のすべての議論は、想像するにかたくないではありませんか」\n「ちょっと」と突然ドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ、「聞き違えのないように伺っておきますが、『無神論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでなく、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!』と、そういうのですか?」\n「そのとおりです」とパイーシイ神父が言った。\n「覚えておきましょう」\n こう言うとすぐ、ドミトリイは黙りこんでしまった。それはやぶから棒のように話へ口を入れたと同じく、唐突だった。一座の者は好奇の眼眸を彼に注いだ。\n「本当にあなたは人間が霊魂不滅の信仰を失ったら、そのような結果が生じるものと確信しておいでなのかな?」と、不意に長老がイワン・フョードロヴィッチに問いかけた。\n「ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善行もありません」\n「もしそう信じておられるのなら、あなたは幸福な人か、それともまた、恐ろしく薄倖な人かじゃ!」\n「なぜ薄倖なのです?」イワン・フョードロヴィッチは薄笑いをした。\n「なぜかといえば、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅も、そればかりか自分で教会や教会問題について書かれたことも、信じておられぬらしいからじゃ」\n「あるいは仰せのとおりかもしれません!......しかしそれでも、僕はまるきりふざけたわけではないのです......」と、イワン・フョードロヴィッチは不意に奇妙な調子で白状したが、その顔はさっと赤くなった。\n「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心の内で決しられていないで、あなたの心を悩ましておるのじゃ。しかし、悩める者は、時には絶望のあまり、おのれの絶望を慰みとすることがある。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかも自分で自分の議論が信ぜられず、胸の痛みを感じながら、心の中でその議論を冷笑しておられるのじゃ......。実際あなたの心の中でこの問題は決しておらぬ。ここにあなたの大きな悲しみがある。なぜといえば、それが執拗に解決を強要するからじゃ......」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「これが僕の心中で解決されることがありましょうか? 肯定的に解決されることが?」依然としてえたいの知れぬ薄笑いを浮かべたまま、長老の顔を見つめながら、イワン・フョードロヴィッチは奇妙な質問を続けるのであった。\n「もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定のほうへもけっして解決せられる時はない――こういうあなたの心の特性は、御自身でも承知しておられるじゃろう。これが、あなたの心の苦しみなのじゃ。しかしこういう苦しみを苦しむことのできる、高遠なる心をお授けくだされた創世主に感謝せられるがよい。『高きものに思いをめぐらし高きものを求めよ、なんとなればわれらのすみかは天国にあればなり』願わくば神の御恵みをもって、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そしてあなたの歩まれる道が神によって祝福せられますように!」\n 長老は手を上げて、その場からイワン・フョードロヴィッチに向かって十字を切ってやろうとした。しかしこちらは突然、椅子を立って長老に近寄り、その祝福を受けて、手を接吻すると、無言のまま自分の席へ戻った。彼の顔つきはしっかりしていてきまじめだった。このふるまいと、それに前述のイワン・フョードロヴィッチとしては思いもかけない長老との会話は、その謎のような点と、それにまた厳粛な点において一同を驚かした。人々は一瞬、声をひそめた。アリョーシャの顔にはほとんどおびえたような表情が浮かんだほどである。しかし、突然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それと同時にフョードル・パーヴロヴィッチは椅子から飛び上がった。\n「神のごとく神聖な長老様!」こう彼はイワン・フョードロヴィッチを指しながら叫んだ。「これはわたくしの息子で、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛なる肉でございます! これはわたくしの、いわば最も尊敬すべきカルル・モールでございまして、こちらの――たった今はいってまいりました息子のドミトリイ・フョードロヴィッチ、つまり、こうしておさばきをお願いすることになりました当の相手でございますが――これは最も尊敬すべからざるフランツ・モールでございます――どちらもシルレルの『群盗』の中の人物でございますが――ところで、わたくしはさしずめ Regierender Graf von Moor の役回りでございます! どうか御判断のうえ、お助けを願います! あなた様のお祈りばかりでなく、御予言までお聞かせ願いたいのでございます」\n「そのような気ちがいじみた物の言い方をなされぬがよい。また自分の家族をはずかしめるようなことばで、口をきるものではありませんじゃ」と長老は弱々しい疲れきった声で答えた。明らかに彼は、疲労が加わるにつれて、だんだん目に見えて気力を失っていった。\n「愚にもつかない茶番です。それは僕がこちらへまいる道すがら、もう感づいていたことです!」と、ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤懣のあまり、そう叫ぶと、同じく席を飛び上がった。「お許しください、長老様!」と、彼はゾシマのほうへふり向いて「僕は無教育な男ですから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいかさえ知らないくらいですが、あなたはだまされていらっしゃるのです。わたくしどもにここへ集まることをお許しくだすったのは、あんまりお心が優しすぎたのです。親爺に必要なのは不体裁なばか騒ぎだけなんです。何のためか――それは親爺の方寸にあることです。親爺にはいつも自己流の打算があるのですから。しかし今になって、どうやらその目的が僕にわかってきたようです......」\n「みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申します!」と今度はフョードル・パーヴロヴィッチのほうがわめき立てた。「現にミウーソフさんもわたくしを責めます。いやミウーソフさん、責めましたよ、責めましたよ!」と、不意に彼はミウーソフのほうをふり向いた。だがミウーソフは別に口出しをしたわけではないのである。「つまりわたくしが子供の金を靴の中へ隠してちょろまかしてしまったといって責めるのです。が、しかし裁判所というものがありますからね。ドミトリイ・フョードロヴィッチ、あすこへ出たら、おまえさんの書いた受け取りや手紙や契約書をもとにして、おまえさんのところに幾ら幾らあったか、おまえさんがいくらいくら使ったか、そして今、いくらいくら残っているかを、すっかり勘定してくれまさあね! ミウーソフさんが裁判にかけるのを嫌うわけは、ドミトリイ・フョードロヴィッチがこの人にとってもまんざらの他人ではないからですよ。それでみんながわたしに食ってかかるんですけれど、ドミトリイ・フョードロヴィッチは差し引きわたしに借りがあるのですぜ。それも少々のはした金じゃなくって、何千という額ですからな。それにはちゃんと証文があります! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうがひっくり返るほどの騒ぎですからなあ! それに、以前勤めておった町でも、良家の娘を誘惑するために、千の二千のという金を使ったもんでさあ。それはもう、ドミトリイ・フョードロヴィッチ、よっく承知しとりますよ、ごく内密な詳しいことまで知っとりますよ、わしが立派に証明してみせますよ......神聖な長老様。あなたは本当になさるまいけれど、この男は高潔無比な良家の娘を迷わしたのでございます。父御というのは自分の以前の長官で、聖アンナ利剣章を首にかけた、勲功の誉れ高い勇敢な大佐なのです。そのお嬢さんに結婚を申しこんでひどい目にあわせたために、当の令嬢は今孤児としてこの町に暮らしております。もう許婚のあいだがらであるくせに、あれはその女を目の前に置いて、この町の淫売女のところへ通っておるのでございます。もっともこの淫売女はさる立派な男といわば内縁関係を結んでいて、それになかなか気性のしっかりした女ですから、誰にかけても難攻不落の要塞で、まあ正妻も同じこってさあ。なにしろ貞淑な女ですからなあ、全く! ねえ、神父さんがた、実に貞淑な女でございますよ! ところがドミトリイ・フョードロヴィッチはこの要塞を黄金の鍵でもってあけようとしておるのですよ、そのために今わたくしを相手に力み返っておりますので。つまり、わたくしから金をもぎ取ろうとたくらんでおるのでございます。もうこれまでにも、この淫売のために何千という金を湯水のようにつぎこんでおるのですからなあ。だから、のべつ借金ばかりしているんです。しかも誰から借りているんだとお思いになります! なあミーチャ、言おうか言うまいか?」\n「お黙りなさい!」とドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ。「僕の出て行くまで待ってください。僕のいる前で純潔な処女をけがすようなことは言わせません......。あなたがあの女のことをおくびに出したという一事だけでも、あの女の身のけがれです......僕は断じて許しません!」\n 彼は息をはずませていた。\n「ミーチャ! ミーチャ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチは弱々しい神経的な声で、涙を無理に絞り出しながら叫んだ。「いったい生みの親の祝福は何のためなんだ? もしわしがおまえをのろったら、そのときはどうなるのだ?」\n「恥知らずな偽善者!」と、ドミトリイ・フョードロヴィッチは狂暴にどなりつけた。\n「これが父親に、現在の父親に向かって言う言いぐさですもの、他の人にどんなことをするかわかったもんじゃありません! 皆さん、ここに一人の退職大尉があります。貧乏だが尊敬すべき人物です。思いがけない災難のため退職を命ぜられましたが、公けに軍法会議に付せられたわけではなく、名誉は立派に保持されていたのです。いま大ぜいの家族をかかえて難渋しております。ちょうど三週間前ドミトリイ・フョードロヴィッチがある酒屋で、この人の髯をつかんで往来へ引っ張り出して、人前でさんざん打擲したのでございます。それというのも、その人がちょっとした用件で、内密にわたくしの代理人を勤めたからのことで」\n「それはみんな嘘です! 外見は事実だが、内面から見ると嘘の皮です!」ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤怒に全身をわなわなと震わせた。「お父さん、僕は自分のふるまいを弁解するわけではありません。いや、皆さんの前でまっすぐに白状します。僕はその大尉に対して獣のようなふるまいをしました。今でもあの獣のような憤りを悔やんで、自分に愛想をつかしているくらいです。しかしあなたの代理人とかいうあの大尉は、今お父さんが淫売だといわれた当の婦人のもとへ行って、もし僕があまりうるさく財産の清算を迫るような場合には、あなたのところにある僕の手形をその婦人が引き受けて、訴訟を起こして、僕を監獄へぶちこんでくれるようにと、あなたの名前をもって申し入れたのです。お父さんは僕がこの婦人に対して弱みを持っていると非難されましたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑させたのじゃありませんか! ええ、あの女は僕に面と向かって話しましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕を嫉妬んでいるからです。それは、あなた自身があの婦人に変な気持を起こして付きまとい始めたからです。そのこともやはり、あの女が笑いながら話して聞かせたから、僕は百も承知しているのです――いいですか、あなたのことを笑いながら、話して聞かせたんですよ。神父さんがた、このとおりです。放蕩息子をとがめ立てる父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の癇癪を許してください。しかし僕は初めからこの狸爺が、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さん御一同をここへ呼んだのだってことは、ちゃんと感づいていたのです。僕はもし親爺が折れて出てくれたら、こちらから許しもし、また許しを乞おうとも思ってやって来たのです。ところが今、親爺は僕一人ならともかく、僕が尊敬のあまりゆえなくしてその名前を口にすることさえはばかっている、純潔無比な処女まではずかしめましたから、こちらもこの男のからくりを皆さんの前へすっかり暴露してやる気になったのです。僕にとっては肉身の父なんですけれど......」\n 彼はそれ以上続けることができなかった。眼はぎらぎらと光り、息使いも苦しそうだった。しかし僧房の中にいた一座の人々も動乱していた。長老以外の一同の者は不安にかられて席を立った。二人の僧はいかつい眼を瞠っていたが、それでもなお長老の意見を待っていた。当の長老はまっさおな顔をして坐っていたが、それは興奮のためではなく、病躯の衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇に漂っていた。彼は猛り狂う人々を押しとどめようとするもののように、ときどき手を振りかざすのであった。もちろんその身ぶり一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよくのみこんでおこうとするかのように、じっと視線を凝らしながら、何事かを待っていた。とうとうミウーソフは、決定的に自分がはずかしめられ、けがれたような心持を覚えた。\n「この醜態の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した口調で語りだした。「しかし僕はここへ来る道すがらも、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたけれど......これは即刻けりをつけなくちゃなりません! 猊下、どうぞ信じてください。僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです......全く今が初耳なのです......現在の父親が卑しい稼業の女のことで息子を嫉妬して、当の売女とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて......。僕はこんな連中と共にこちらへまいるように仕向けられたのです......だまされたのです、皆さんの前で言明します、僕は誰にも劣らずだまされたのです......」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "\n\n* Augustinus, Confessiones, XI, 16.\n** De civitate Dei, XI, 6.\n*** Confessiones, XI, 26.\n**** Ibid. XI, 28.\n\n\n そのいづれとも異つて、我々は現在をば「瞬間」として性格付け、説明する。我々は一方キェルケゴールと共に云はねばならぬ、「ギリシア的情熱が憶起に集中せられるに反し、我々の企圖の情熱は瞬間に集中せられる。」けれど他方我々はアウグスティヌスの如く時間を現在から、從つてまた永遠から解釋するのでなく、却て未來から規定する。瞬間は固より現在であり、今である。然し瞬間は永遠がいはば現在的現在であるに對して、未來がそのうちに喰ひ入れる現在である。しかもそれがまさに瞬間であるのは、この未來が普通考へられる如く單に可能なものといふ意味ばかりでなく、根源的に否定的なものの意味を擔ふからである。我々のいふ事實としての歴史は純粹にイデー的なものでなく、そのうちに否定の契機を含むものであつた。然るに一般に否定の原理なしに運動はなく、運動を離れて時間は考へられ得ないとすれば、瞬間こそ時間の最も本來的なものでなければならぬ。本來的な時間は根源的な未來から時來 sich zeitigen する。そして行爲的時間は永遠の意味をもつ現在としてではなく、唯瞬間としてのみ特性付けられることが出來る。現在が瞬間である故に我々の行爲には決心するといふことが屬する。尤も瞬間として規定される事實的時間は或る意味では實に永遠の相を具へてゐる。蓋し事實としての歴史と存在としての歴史との關係は單に連續的でなく、却てまた非連續的である。それだからこそ、一方では、事實的時間は瞬間である、なぜならもし兩者の關係が單に連續的であるとしたならば、さきに述べた如く、かの「現在は過去を含み未來を孕む」といふことが時間の優越な姿を現はすこととなり、そしてかくては瞬間なるものの固有なる意味はなくなるであらう。然しそれだからこそ、他方では、瞬間はまた永遠の意味を擔ふのでもある、なぜなら事實としての歴史は存在としての歴史に對して超越的な方面を有する故に、我々は前者の立場から後者の何處へでも降りて行き、かくて自己を最も近き過去の歴史に結び付けることも出來れば、最も遠き過去の歴史に結び付けることも出來る。我々は「瞬間」から「歴史的時間」の何處へでも降り立ち得る。その意味で存在としての歴史の時間即ち歴史的時間に對して事實的時間は永遠の意味を擔ふものとも云はれることが出來る。「瞬間は本來時間の原子ではなく、却て永遠の原子である。」とキェルケゴールも書いてゐる。瞬間はそれによつて「存在」の時間が構成される原子ではない。この意味ではそれは寧ろ永遠の原子である。然しながら瞬間はそれ自身永遠であるのでない、また我々は永遠から時間を解釋するのでもなく、反對に永遠をば主體的行爲的時間としての瞬間から理解するのである。キェルケゴールは云ふ、「時間と永遠とが接觸すべきであるならば、このことは唯時間のうちに於てのみ行はれ得る――かくていまや我々は瞬間の前に立つのである。」更に彼は云ふ、「永遠なものとは本來ひとつの物、ひとつの或る物ではない、却てそれはひとがそれを得る仕方である。永遠なものをひとは唯一つの仕方で得る、そしてそれが唯一つの仕方で得られることが出來るといふ點で永遠なものはまさに他の凡てのものから區別される。」觀想に於てでなく、行爲に於て我々は永遠なものにつながることが出來る。その仕方がそれぞれの場合唯一つの仕方しかないところに行爲的時間が瞬間である理由があり、事實が時間的として優越な意味で歴史と呼ばれる理由があるのである。ところでもしかくの如く見られ得るとするならば、我々が上に史觀のうちに表出されてゐるとした時間の種々なる形態のうち特にキリスト教的な終末觀的時間が事實的時間の面目を比較的によく現はしてゐることは明かであらう。そこで歴史の思想がキリスト教によつて初めて人類に與へられたと云はれるのも決して偶然ではないのである。これに反し他の種類の時間の觀念にあつては多かれ少なかれ主體的な時間は客體的な時間の方向に轉釋され、もしくは前者は後者のうちに埋沒せしめられてゐると見られることが出來る。\n かくて事實的時間が、現在として、瞬間といふ意味で、先づ永遠といふ意味に於ける現在或は所謂「永遠の今」から區別せられるばかりでなく、それが次に客體的な時間に於ける現在からも區別せられなければならぬといふこともまたおのづから明かであらう。我々はさきにそれを「現在」と「現代」との區別として説明した。現代といふのは存在としての歴史の時間、即ち事實的時間から區別せられた歴史的時間の意味に於ける現在である。ここに於て我々はかやうな歴史的時間の本質を、瞬間として特性付けられた事實的時間に對して、更に正確に特性付けなければならぬと思ふ。\n\n二\n\n 歴史的時間は範疇の一つであり、それは「範疇」としての時間である。さしあたりここにこの時間の重要な規定がある。これに對し事實的時間は同じ意味では決して範疇と云はれることが出來ない。もし強ひてそれを範疇に對して名付けようと欲するならば、ひとはそれを寧ろハイデッガーが Kategorie(範疇)と Existenzial(實存疇)とを區別したのに從ひ Existenzial と呼ぶのが適當であらう。彼によれば Existenzial が Dasein(現存在)に對する關係は Kategorie が Vorhandensein(既存在)に對する關係の如きものである*。我々のいふ事實は固よりハイデッガーのいふ現存在とは種々なる點に於て根本的に異つてゐるが、然しハイデッガーもその現存在の概念をもつて我々と同じく客體的な存在ならぬところの主體的な存在を考へようとしたのであつて、そこに彼の存在論が從來の存在論とは異る最も重要な特色が横たはつてゐる。いづれにせよ、事實的時間は普通考へられる範疇とは區別されねばならない或るものである。蓋し範疇なるものは普通には我々のいふ「存在」、即ち眞の現在でなく「既に」の性格を擔ふ存在の存在論的規定を表はすべきものであるからである。歴史も「存在」としてはまことにかくの如き範疇的關係を含み、時間はそれの主なるひとつである。事實的時間に對しこのやうな範疇としての時間の特殊性は何であらうか。\n\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "* Vgl. M. Heidegger, Sein und Zeit, Erste Hälfte, S. 54. 云ふまでもなく、我々は範疇といふ語をかかる制限を離れて用ゐることも出來、本書に於ても屡々そのやうな使用がなされてゐる。例へば我々もそれに就いて論じた「意味」なるものをディルタイは「生の範疇」に數へてゐる。そしてハイデッガーのいふ Existenzial はディルタイの「生の範疇」の純化し徹底されたものとも見られ得る。\n\n\n アリストテレスは「何時」ποτόνος といふものから區別した。彼は今日普通なされる如く「時間」といふ語を範疇の意味に用ゐず、却て彼が範疇として掲げたのはつねに「何時」といふことであつた。時間そのものの問題が彼によつて研究されたのは範疇論としてでなく、物理學に於てであつた。「何時」とは「限定された時間」である。即ち「何時」は關係の限定を包む。それは一定の時間點をばかりでなく、「何時から」「何時まで」などといふ場合に於ける「何時」をも現はす。もちろんアリストテレスに於て「時間」と「何時」とは無關係であるのではなく、またさうあることも出來ない。物理學に於て解明されるやうな時間にして初めて、後に述べられる如く、「何時」といふ範疇的關係を含み得るのである。ところで先づ、範疇としての歴史的時間はこのやうな「何時」といふことに於て性格付けられると見える。そこでジンメルの如きも『歴史的時間の問題』に就いて論じ、次のやうに書いてゐる、「一の現實内容は、我々がそれを我々の時間體系の内部に於て一定の所に綴ぢ付けにされてゐるのを知るとき、一の歴史的なものである――尤もこのやうな限定はその際樣々な精密さの度合をもち得るであらう。この自明なこと且つ平凡なことは、歴史的なものに關するより深い且つより進んだと見える形式的な諸定義に比して實により決定的なものであることが認められるであらう。」即ち單に一般に時間に於てあることでなく、一定の時間に於て立つてゐるといふことが歴史的なものにとつての根本的な規定に屬してゐる。一言で云へば、歴史的なものに就いては「何時」といふことが範疇的である。何等かのものは、それに就いて何時起つたかと問ふことが有意味であり、何時起つたと確定される限りに於て、本來、歴史的な或るものであるのである。從つて年代記といふものが歴史敍述の最も原始的な、然しまた最も基本的なものとも考へられ得るのである。どのやうな歴史も年代の前後關係に從つて敍述される。いまかくの如き「何時」といふ範疇的關係を成立せしめるものとして時間はそれ自身如何なる規定を含まなければならないであらうか。\n\n\n* Vgl. G. Simmel, Das Problem der historischen Zeit (Zur Philosophie der Kunst 1922.)\n\n\n 歴史的時間も或る意味では永遠と考へられることが出來る。それはたしかに無限なる持續といふ意味で永遠であるやうに見える。けれどもそれは「恒常的持續」duratio permanens であるのでなく、却て「繼起的持續」duratio successiva である。歴史的時間にあつては、凡てが同時であり、凡てが全體であるといふのではなくて、凡ては前後繼起する。然るに歴史的時間が繼起的持續であるといふことは、二重のことを意味するであらう。即ち歴史的時間にあつては先づその如何なる部分に於ても「前後」の關係が含まれてをり、そして次にかくの如きその凡ての部分に於て見出される前後の關係は歴史的時間が「刻み」を含むといふことによつて存在する。それだからこの場合アリストテレスが時間に與へたところの、かの古典的な定義が十分に適用され得る。「時間とは前後に從つての運動の數である*。」τοῦτο γἐστιν ὁ χρόνοἀριθμὸήσεωήσεωήσεὸ πρότερον καὶ ὕστερον. 時間は運動ではなく、却てただ數を含む限りに於ける運動である。ここに數とは數へられることであり、我々のいふ「刻み」にほかならない。ところでアリストテレスは更に次の如く云つてゐる、「今 τὸ νῦν が時間を、それが前後を含む限りに於て、量る。」「時間は今によつて連續的であると共に今に從つて分たれる。」即ち時間は先の今、今の今、次の今、といふ風に刻まれるのである。「それが時間を分つ限りに於て、今はつねに異つたものである、それが結合する限りに於て、今はつねに同一である。」時間は今、今、今、といふ同一の今の連續であると見られるのである。このやうにして、事實としての時間を特性付けるものが「瞬間」であるとしたならば、存在としての時間を特性付けるものは、アリストテレスに從つて實に「今」であると云ふことが出來よう。瞬間はたとひ今と稱せられるにしても、かくの如き今とは根本的に區別されなければならない。まさにかくの如き今として規定される時間にして初めて、前後に從つて刻まれそのうちに「何時」といふ範疇的關係が現はれ得るのである。\n\n\n* Aristoteles, Physica Δ. 11, 219b.\n\n\n 然しながら右の如くにして歴史的時間の本性は説明し盡されたであらうか。歴史的なものにとつて「何時」といふことがどこまでも範疇的な意味を有する限り、歴史的時間は前後繼起し、刻まれ、根本的には「今」として性格付けられる方面を缺くことが出來ない。もしさうでないならば、それに於て「何時」といふことを語ることも出來ないであらう。實際、歴史的時間が存在としての歴史の時間である以上、それはそのやうな方面をもたなければならぬ。然しながらそれは、あらゆる存在が、從つて單に歴史の存在に限らず、アリストテレスの説明したやうに自然の存在もまた、それが運動するものとして把握される限り、そのうちにある時間の性質ではないであらうか。それ故に歴史的時間は、それがまさに自然の存在とは區別される存在としての歴史の時間である限りに於ては、更に他の特殊な方面を含んでゐるのでなければならない。このやうな他の方面とは如何なるものであらうか。ジンメルは上記の論文に於て、如何なる歴史的なものも一定の時間のうちに立つてゐると云つた後、續いて特に理解といふ見地を持ち出し、次のやうに論じてゐる。疑ひもなく、理解といふことは一の現實内容を歴史的として認めるために缺くべからざる條件である。例へば、ひとりの人間に就いて報告されてゐる行爲が、彼の他の知られてゐる性格に關係して我々にとつて全然「理解され難き」ものであるときには、その行爲がそれ自體としては可能であるとしても、我々はそれを歴史的事實として認めることを拒むのである。然るにここに一のパラドックスと見える事柄が生ずる。といふのは、この理解そのものは歴史的現實そのものと何等かかはる必要がなく、却て全然無時間的な或るものである。私がパウロもしくはモーリッツ・フォン・サクセンの性格を理解する作用は、私がオセロまたはヴィルヘルム・マイスターの性格を理解する場合に於けると原理的には全く同一の作用である。即ちジンメルに從へば、理解は專ら觀念的な内容に向ふ。私はパウロを彼の歴史的實在性のために理解するのでなく、寧ろいはば逆に私はこの歴史的實在性に就いて唯觀念的にそれから分離され得る内容を理解するのである。ところで歴史的時間は專ら現實性の形式であるから、理解はまた歴史的時間からの完全な獨立に於て行はれる。かくて一方或る内容はそれが時間上固定されてゐる場合にのみ歴史的と認められ得るのであり、しかし他方また實にそれが他のものと一緒に一の理解の統一を形作るときにのみ歴史的として認められ得るのであるが、この理解の統一なるものは、理解を規定するのは專ら無時間的な實質である故に、理解を何等減ずることなしに、任意の時間點におかれ得るといふことがある。このやうな矛盾は、ジンメルによれば、理解はそれが現實化された諸内容の總體を自己のうちへ關係付けたとき初めて完全であり、然るにこの理解的に秩序付けられた總體はそれの各々の部分内容に對して唯一つの場所を有するのみであることを洞察するとき、除かれる。「一の出來事は、それが實質的な、それの時間點に對して全然無關係な諸根據から一義的に一の時間點に固定されてゐるとき、歴史的である、とひとは云ふことが出來る。それ故に、一の内容が時間のうちにあるといふことがそれを歴史的にするのではない、それが理解されるといふことがそれを歴史的にするのでもない。二つの事柄が交叉するとき、即ちそれが無時間的な理解の根據の上に時間化されるとき初めて、それは歴史的であるのである。然るにこのことは原理的には唯理解が諸内容の總體を把捉する場合にのみ行はれる、なぜなら唯絶對的な全體の聯關のうちに於てのみ個々のものは眞に理解されるからである。そこからして、時間化といふことはこの場合唯一定の時間點に於ける固定化といふことをのみ意味することが出來る。」眞の理解のために要求される歴史の全體なるものは、まさに全體である故に時間を超越する、「時間とは單に諸々の歴史内容の關係に過ぎない」、これらの諸内容はかかる全體のうちに於て理解的に全く一義的に決定された位置を占めるものとして、まさにその故に歴史的と云はれる。これがジンメルの意見である。然しそれは彼に於て孤立せるものでなく、また他の多くの歴史哲學の明からさまな、もしくは隱された前提をなすものであるから、我々はここにそれに對して若干の批評を加へておくことが適當であると思ふ。\n 歴史の全體は我々にとつて現實に與へられたものでなく、却て單に一の理念に過ぎない。それ故にもしも歴史的時間の問題の解決の鍵がこのやうな全體のうちにあるとしたならば、歴史的時間は理念的本質のものとなり、かくて存在の歴史性といふこともつまりは理念的性質のものとなり、時間はまさに現實性の形式であり、存在の歴史性といふこともその基本的な意味では存在の現實性にほかならぬといふ最も明白な事柄に矛盾することになる。ジンメルの云ふやうに、歴史の全體が恰も全體として時間を越えたものであるとしたならば、かかる無時間的な全體のうちに於て一定の場所を決定されるといふことが、如何にして現實的に時間的の意味をもつのであらうか。絶對的な全體のうちに於て一義的に位置付けられるといふことは、時間的な事物が永遠化される所以でこそあつても、事物の時間化される所以ではあり得ないであらう。彼のいふ理解の統一としての全體はイデー的な全體であるが、單にイデー的なものからは時間は説明されない。時間的が考へられるためには、全體は永久に絶對的な仕方で自己自身のうちに安らへるものでなく、却て絶えず運動し發展するものと見られなければならぬ。理解の條件として我々も認めねばならず、且つ實際に認めて來たところの全體なるものは、ジンメルの説く如き何等かの仕方で與へられたものと見られる絶對的な全體として無時間的であるのでなく、却て我々のさきに述べたやうにそれぞれの場合に課せられたものであり、形作られるものである故に、そのうちに一義的に位置付けられたものは時間的の意味をもつのでなからうか。このやうな全體は事實としての歴史の立場から、これとの關係に於て存在としての歴史に於て形作られる。從つて後者の理解も前者の立場から、前者との關係に於て行はれるのである。ジンメルは現實内容は無時間的な根據から時間化されると云ふが、このことは我々によれば、存在としての歴史の秩序に屬するものの時間性は、これと同じ秩序の意味の時間とは見られない事實としての歴史の根據から規定されるといふことでなければならぬ。然し事實もそれ自身時間的であるから、理解は超時間的でなく、寧ろ時間的である。歴史的時間はこのやうにして事實的時間によつて制約される方面をもつてゐる。從つてそれは單に直線的なものでなく、却て全體と部分といふ形式をとる。このとき全體はどこまでも課せられたものの意味を含んでゐる。それだからこそそこに時間が考へられ得るのである。全體は課せられたものとして豫料的意味を含む、そしてコーヘンの云つた如く、豫料は時間の特性をなす。然るにジンメルは眞に主體的な事實的時間の概念を知らない。彼の知るのは客體的な存在の時間の概念のみである。それ故に彼は歴史的時間の問題を現實的に解決することが出來ない。この問題を解決するために彼は理解の統一たる全體の概念を持ち出す。ところで一般的に見て、歴史の問題を論ずるに際し、歴史を作る行爲の立場からでなく、歴史を理解する立場からそれに近づいて行くといふことは、現代の哲學に共通な傾向であり、それのひとつの偏見に屬する。ひとりジンメルのみでない、ディルタイに於ても歴史の理解といふことが何よりも歴史の問題への接近の通路をなしてゐる。ディルタイは客觀的な存在の時間とは異る「内的時間」を考へた、けれどもそれが要するに内的な意識の時間に過ぎなかつたのは、理解の立場が彼の哲學を指導してゐたといふことにも關係があるであらう。世界時間とは異る主體的な時間を純粹に取り上げることに全努力を傾けつつあるハイデッガーにあつてさへ、理解の立場、從つて解釋學的立場が決定的にはたらいてゐる。然るに一般に解釋學的立場は内在の立場であり、そこでは時間は結局意識の時間にとどまる。これに反し新しい歴史哲學は何よりも歴史そのものを作る行爲の立場に立たなければならぬ。固より人間は凡て或る意味で「歴史家」である。その限りに於て、理解といふことは彼の存在の仕方に根本的に屬してゐる。然しそれより以上に人間は凡て「歴史人」、即ち歴史を作りつつある人間である。行爲の立場は、これを徹底するとき、意識の立場、從つて觀念論的立場を突き破る。このことはひとり、普通云はれるやうに、行爲の立場は行爲の對象として意識を超越する「存在」を認めねばならぬといふことを意味するのみではない。それは單に前面に於て意識を超越する客體をばかりでなく、更に背後に於て意識を超越する主體たる「事實」を認めることなしには眞に行爲の立場であることが出來ない。かくの如きいはば二重の超越が初めて行爲の立場を成立せしめるのである。このやうにしてまた我々の事實的時間といふものは單に意識の時間と考へられてはならない。單なる意識の時間は瞬間といふ意味をもつことが出來ない。寧ろ超越的な主體的事實が絶えず新たに意識を破るところに瞬間なるものの面影がある。そして行爲の立場に立つとき、歴史的時間が事實的時間によつて規定されるといふことは誰にとつても明瞭に理解されよう。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「ぱか! 何を言うか!」\n 爆発するようなどなり声が、彼のすぐまえの席から起った。\n「貴様は僕らにお説教をする気か。」\n「青年はすべからく時代を超越すべし。」\n「真理は、永遠だぞ!」\n「卑怯者!」\n「狸!」\n「ひっこむなら、さっさとひっこめ!」\n そうした叫びがつぎつぎに起り、中にはもう腕まくりをしているものさえあった。\n 平尾は土色になってしばらく立往生していたが、あきらめたように壇をおりると、その足でさっさと室を出ていってしまった。\n 一瞬、さすがにしいんとなって、みんなは彼のうしろ姿を見おくった。すると誰かが、だしぬけに、とん狂な声で叫んだ。\n「狸退散!」\n それで、また、どっと笑い声が起った。その笑い声を圧するように、新賀がどなった。\n「田上! 平尾がいなくなれば君が座長だ。さっさと席につけ。」\n 田上は今度は元気よく座長席についた。そして、\n「さっきからの様子では、留任運動をやることだけは、もう満場一致と見ていいようだが、どうだ。」\n「むろんだ!」\n「賛成!」\n と叫ぶ声が方々からきこえた。\n「では、これからその方法を相談する。誰か案があったら、遠慮なく出してくれ。」\n「それも、もうきまっているよ。」\n いかにも冷やかすような調子でそう言ったのは馬田だった。彼は窓わくに馬乗りにまたがって、足をぶらぶらさせながら、そのしまりのない唇から舌を出したり、ひっこめたりしている。\n「どうきまっているんだ。」\n と、田上が不愉快そうに彼の方を見た。\n「ストライキさ。」\n 馬田は田上の方を見むきもしないで答えたが、そのあと、すぐまた舌をぺろりと出した。\n「いきなりストライキをやろうというのか。」\n「いきなりでなくてもいいよ。しかし、どうせやるなら早い方がいいね。」\n 吹き出すような笑いごえが二三ヵ所でおこった。しかし、多数は、馬田のあまりにもふざけきった調子に憤慨したらしく、むっつりしている。\n ストライキ問題は、しかし、そのあと、自然みんなの論議の中心になってしまった。意見はだいたい三つにわかれた。ストライキ即時断行論がその一つで、これは馬田を中心とする不良らしい五六名が、理論も何もなく、まるでおどかすような調子で主張した。第二はストライキ絶対反対論で、主として論陣を張ったのは梅本だった。第三は、いわは中間派で、情理をつくして留任を懇請し、それがしりぞけられた場合にはストライキもやむを得ない、という意見であった。この意見の主張者は、とくにきまった顔ぶれではなかった。また議論としてさほどききごたえのある発言もなかった。しかしそれは多数の口で主張され、多数によって支持されていたようであった。\n そうした意見が交換されている間、次郎も新賀もふしぎに沈默を守っていた。ことに次郎は、自分の存在をなるだけ目立たせないように、注意してでもいるかのように、馬田とはちょうど反対の廊下よりの机によりかかって、しじゅう首をたれていた。梅本と馬田一派とがはげしくやりあっている最中でさえ、彼はちょっとその方をのぞいて見ただけで、すこしも興奮したようなふうはなかった。ただ彼がいくらか緊張したように見えたのは、論議もだいたいつきて、座長の田上が、「では、この問題の決をとりたいが、多数決できめてもいいのか。」と相談をかけた時であった。彼はその瞬間、急に首をもたげて田上を見、つづいて新賀を見た。そしてまさに立ち上りそうな姿勢になった。しかし、彼が立ちあがるまえに、新賀が発言したので、彼はそのまま腰をおちつけて、また首をたれた。\n 新賀は言った。\n「決をとるのはまだ早い。僕はそのまえに諸君に見せたいものがあるんだ。」\n みんなの視線を一身にあつめながら、彼はどたどたと大きな靴音を立てて教壇に上った。そして座長席のわきに立つと、胸のかくしから一枚の紙を引き出し、自分の顔のまんまえにそれをひろげた。それは次郎の書いた血書だった。\n「見えるか。」\n 彼は血書を自分の胸のあたりまでさげ、その上からみんなを見まわした。みんなはのびあがるようにしてそれを見た。田上も座長席から首をつき出し、下からそれをのぞいた。ただ次郎だけが、いくらかほてった顔をして眼を机の上におとしていた。\n「これは血で書いたものだ。遠方からは字がよく見えないだろうから、僕が読んでみよう。」\n 新賀は、そう言いながら、血書をうらがえしにして自分の方に向け、一句一句力をこめてそれを読んだ。そして読み終ると、またそれをうち返しにしてみんなの方に向け、もう一度室じゅうを見まわした。\n みんなはしいんとなって一心に血書の方に眼を注いでいる。\n「君が書いたれか。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " うしろの方の窓ぎわに立っていた一人が、かなりたってからたずねた。\n「僕じゃない。」\n「誰だ、書いたのは。」\n 今度は、次郎のすぐまえにいたひとりがたずねた。次郎は、はっとしたように顔をあげたが、すぐもとの姿勢にかえった。\n「この中にいる一人が書いたんだ。しかし名前は言う必要がない。それは、これを書いた人は、これがみんなの総意だと信じきって書いたからだ。僕たちはただその人の熱意を生かせばいいんだ。」\n みんなは、探るようにおたがいに顔を見合わせたが、すぐまた血書の方に視線を集中して默りこんでいる。\n「どうだ。いやしくも人間が血をもってつづった文字だ。これを生かすことに不賛成はあるまい。」\n むろん誰も異議を唱えるものはなかった。それどころか、これまでストライキ論を中心にざわついていた空気がすっかり沈静して、その底から一かたまりになった大きな力が、むくむくと盛りあがって来る、といった気配だった。\n その気配の中を、新賀は右から左に視線を走らせた。そして最後に、ただひとりわざとのようにうすら笑いをしている馬田の顔をにらみつけるように見た。馬田はすぐ眼をそらして窓のそとを見たが、そのうすら笑いは消えてはいなかった。新賀はその様子をしばらく見つめたあと、またみんなの方を見て言った。\n「しかし、この血書を生かすには、一つの条件がある。その条件というのは、絶対にストライキはやらないということだ。それは、この血書を書いた人がそれを心から願っているからだ。彼は僕にこういうことを言った。――朝倉先生は暴力の否定者である。然るにストライキは一種の暴力だ。暴力の否定者である先生を暴力をもって擁護するのは、先生に恥をかかせる以外の、何ものでもない。――また、彼はこういうことを言った。――五・一五事件の軍人たちは相手の血で自分たちの目的を貫こうとした。しかしわれわれはわれわれの血でそれを貫かなければならない。――諸君は、この血書がこういう信念のもとに書かれたということを忘れてはならないのだ。つまり諸君はこの血書をほんとうに、生かすために絶対にストライキをやらないという約束をしなければならないのだ。諸君はそれを承知してくれるのか。」\n「むろん承知だ。」\n 色の黒い美少年の梅本がまず叫んだ。つづいて「賛成」という声が五六ヵ所から起った。\n「では、賛成のものはこれに署名してくれ。僕は決して強制はしない。ほんとうにこの血書の意味を理解してくれる諸君だけの署名を求めるんだ。他のどんな手段にもたよらないで、ただ自分の血で願いとおそうという諸君だけの署名を求めるんだ。失敬だが僕がまず署名する。」\n 新賀はそう言って田上のまえの教卓に血書をひろげ、年月日の書いてある真下に万年筆で署名した。それから、かくしに手をつっこんで、しきりに何かさがしていたが、やがて取り出したのは小さなペンナイフだった。彼はそれをひらくと無造作に左手のくすり指をその尖端でつっついた。そしてちょっと顔をしかめてその指先を見つめていたが、すぐそれを自分の名前の下におしつけた。\n 彼の無造作な挙動にひきかえ、室内はまるで画のように静まりかえっていた。ただ、もしその場に非常に注意ぶかい観察者がいたとすれば、その人は、次郎が自分の眼にそっと両手をあてて涙をふいていたことと、馬田が変におちつかない眼をして、ぬすむようにみんなの顔を見まわしていたこととに、気がついたであろう。\n 新賀は血書と共に、自分の万年筆とペンナイフとを教卓の上に置いたまま、教壇をおりた。そして、\n「誰か半紙をもっているものがあったら二三枚くれ。ザラ半紙でもいいんだ。」\n「ザラでよけりゃあ、ここに沢山ある。」\n と、田上が総務用と書いた紙挟みの中から一帖のザラ半紙をとり出した。新賀はその中から、いいかげんに何枚かひきぬいて、それをひらひらさせながら、\n「余白がなくなったら、これに署名してくれ。あとでいっしょにとじるんだから。」\n そのあと、室じゅうが急にざわめき出したが、そのざわめきの底には、異様な不安が流れていた。あるものはこわばった微笑をもらし、あるものはわざとらしく背伸びをした。中には自分の感情をいつわるだけの余裕がなく、いくぶん青ざめた顔をしているものもあった。座長席にいた田上は、誰よりも厳粛な顔をして自分の目のまえの血書を見つめていたが、急に気がついたように万年筆をとりあげ、\n「じゃあ、新賀のつぎには、僕に書かしてもらおう。」\n と、新賀のやったとおりのことを、かなり手ぎわよくやってのけた。\n 田上の血判が終ると、五六名がほとんど同時に立ち上って教卓の方につめかけた。その中には梅本や大山もまじっていた。大山は、自分の順番になるのを待っている間に、ひょいと次郎の方をふりむき、\n「本田、もう君に教わらなくても、やり方がわかったよ。」\n と、その満月のような顔をにこにこさせた。次郎はそれに対してすこし顔をあからめたきりだった。\n 署名血判は、こうしてつぎつぎに進んでいった。そして二十名近くもそれを終ったころには、室内の空気はもうまるで一変していた。それはすでに血判を終って不安から解放されたものたちが、自由な気持でふざけあったり、ペンナイフを握ったままぐずぐずしている、思いきりのわるい新血判者たちを、はやし立てたりしたからであった。\n そうした空気の中で、次郎も署名した。血判には左の中指を切ったが、幸いに誰もあやしむものがなかった。紙をまきつけていたくすり指はふかく折りまげてかくしていたのである。\n 馬田もしぶしぶながら最後近くなってとうとう署名した。彼は血判を恐がるような男ではなかった。しかし、血書が明らかに次郎の書いたものであることを知っていたし、それに第一、ストライキがそれで封じられてしまう結果になることが残念でならなかったので、最初のうち、署名反対者が一人でもあらわれたら、それに自分も便乗しようという肚でいたのだった。ところが、署名者の数がふえるにつれて室内の空気がゆるみ出し、まるでスポーツの応援でもやるような気分でひとりびとりの署名血判がはやし立てられるようになると、もう彼は反対者の出現を期待するわけには行かなくなって来た。事実、彼の一味であったものたちまでが、何の思慮もなく、ただ「男らしく」ありたい一心から、進んで血判をしてしまったのである。そして、そうなると、彼自身も「男らしく」振舞うよりほかに、もう手はなかったのである。\n 次郎をはじめ、新賀も、梅本も、そうした空気の中で署名血判が進行して行くことに、かなりの不満を感じていた。彼らにとっては、すべてはもっと厳粛でなけれはならなかったのである。しかし、こうしてともかくも校友会の委員がもれなく署名し、血判まで押すことになったということは、何といっても大きな成功であり、めいめいに心のどこかで何か割りきれないものを感じながらも、それとなくおたがいに顔を見合って喜びあわないわけにはいかなかった。\n 全部の署名が終るまでには、たっぷり一時間半はかかった。紙数は血書の本文を書いた物のほかにザラ紙二枚を必要とした。新賀は一枚一枚それに目をとおした。名前の書き方にひどく大小があり、血判にも気味のわるいほどべっとりしたのや、あるかないかのちょっぴりしたのがあった。新賀は目をとおしながらときどき微笑した。そして、最後に默ってそれを重ねると、田上に渡した。田上は何かうなずきながらそれをうけとったが、あらたまったようにみんなの方をむいて言った。\n「平尾君をのぞいて、校友会の委員全部がこの願書に署名したわけだが、これ以上に署名者をひろげる必要があるかどうか、ひろげるとすれば、五年だけにとどめるのか、或は四年以下にもひろげるのか、その点についてこれからみんなで相談したい。」\n すると、馬田がまちかまえていたように、真先に発言した。\n「そりゃ、むろん、全校にひろげなくてはうそだよ。朝倉先生の留任は八百学徒の総意だという意味が、その願書にも書いてあるんだから。」\n しかしこれには誰も賛成するものがなかった。ある者は「それは実行不可能だ」と言い、ある者は「そんなことをしていたら、願書を出すのはいつになるかわからない」と言い、またある者は「それこそぶちこわしになるもとだ」と言った。しかしいろいろの反対論のなかで、何ということなしにみんなの心にひびいたのは大山の言葉だった。彼はいつになくしんみりした調子で言った。\n「一年や二年の小さい生徒にまで血判をさせるのは、かわいそうだよ。」\n 馬田の意見が葬られたあと、四年以上全部説、五年全部説、各学級代表説などが、つぎつぎに出た。そしてそのいずれについても、かなり烈しい議論が戦わされ、とりわけ五年全部説には相当多数の支持者があったが、結局、校友会委員は全校生徒を代表するし、それに血書提出の時期は一刻も早い方がいいという意見が勝ちを占めて、署名者はこれ以上ひろげないということに落ちついてしまった。そして最後に、血書はいつ誰が提出するかということが問題になったが、これについては、田上がみんなの意見をきくまえに、つぎのような希望的意見をのべた。\n「総務である平尾が、ひとりだけ委員の中からぬけているのは、全校代表という点から考えて面白くない。自分はきょうのうちに極力彼を勧誘して署名をさせたいと思う。もし彼が応ずれば、むろん総務の一人として提出者の一人に加わってもらわなければならない。提出者は、総務二人のほかに、もう二人ぐらい加わってもらって、四人ぐらいが適当だと思う。しかし、万一平尾が応じなければ、三人で結構である。提出の時期は、早ければ早いほどいいし、これからすぐにも校長の私宅をたずねたい気がするが、平尾の問題があるから、きょうだけは我慢したい。とにかく、平尾が応ずる応じないにかかわらず、あすは必ず始業前に血書を校長に手渡しするつもりだ。」\n これに対しては、誰も異議を唱えるものはなかった。また、総務以外の二人の人選についても田上に一任するということになった。すると田上は即座に新賀と梅本の二人を指名した。新賀はきょうの会議に血書を持出した本人であり、梅本は平尾攻撃の急先鋒だったが、これからはもっと協調する必要がある、というのがその理由であった。みんなはほがらかな笑いごえと拍手をもってこの人選に賛意を表した。新賀も梅本も、むろん喜んで血書提出の役割をひきうけることを誓ったが、二人とも、心のどこかに何か割りきれないものを感じていた。それは、血書の作製者である次郎本人が、自分の希望からだとはいえ、あまりにも表面からかくれすぎてしまったように思えたからであった。\n 田上と新賀と梅本とをのこして、みんなはすぐ解散した。血判をやったということが、今は彼らに何か大きな誇りででもあるように感じられ、階段を下りる彼らの足どりはいつも以上にはずんでいた。それにしても、血書を書いたのはいったい誰だろう、ということが、帰途についた彼らのほとんどすべての話題になったが、次郎本人と馬田と大山のほかには、むろん誰にも見当がつかなかった。次郎は出来るだけそれを秘密にして置きたかったし、馬田は次郎を英雄にするのがいやだったし、大山は新賀がわざわざ秘密にしたものを物識り顔にしゃべりちらすほど、うすっぺらな男でもなかったので、彼らと道づれをしたものも、それについてたしかな根拠のある話は何もきくことが出来なかった。そして次郎に道づれがなくなり、めいめいが自分の家に帰りつくころには、彼らの多くは、主の知れない血書のことよりか、自分自身が血判をした瞬間のことを、より鮮明に思いおこしていたのである。\n 次郎は、家に帰りついた時には、いつになくつかれていた。昨日来のつづけざまの緊張が急にゆるんだせいか、変に淋しい気持にさえなっていた。彼は何も考えないで、すぐひるねをしたいと思った。しかし一方では、父の顔が見たかった。きょうの学校での出来事について、父と話がしてみたかった。で、いったん二階にあがって畳の上にねころんではみたが、すぐまた起きあがって畑に出た。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを再開して、プロフェッショナルな文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一七三 人若し先に惡業を作るも(後に)善を以て此を滅せば能く此の世間を照す、雲を出たる月の如く。\n一七四 此の世は黒暗なり、此の中にて能く見るもの稀なり、網を脱れて天に到る鳥の稀なるが如く。\n一七五 鵝鳥は日の道を行く、(人は)通力によりて虚空を行く、賢人は魔と其軍衆とを亡ぼし世間を離る。\n\n\n鵝鳥―候鳥の一種と謂はる。\n\n\n一七六 一法を犯し、(且つ)妄語し、他世を信ぜざる人は惡として造らざるなし。\n一七七 貪る人は天に往かず、愚者は決して施與を贊せず、賢人は施與を隨喜し、此に由つて他生に樂を受く。\n一七八 地上を統治するよりも、また天に往くよりも、一切世界の王位よりも預流の果を勝れたりとす。\n\n\n預流の果―佛教に確信を得ること。\n\n\n第十四 佛陀の部\n\n一七九 已に自ら勝つて(他に)勝たれず、他人の達する能はざる勝利を得たる彼の(智見)無邊の佛陀を、如何なる道に由つて邪道に導かんとするや。\n一八〇 誘惑し阻礙する愛の爲に導き去らるゝことなき、彼の(智見)無邊の佛陀を、如何なる道に由つて邪道に導かんとするや。\n一八一 賢人は靜慮を專修し出家の寂靜を喜こぶ、諸神すら此の正等覺熟慮者を羨やむ。\n一八二 人身を得ること難し、生れて壽あること難し、妙法を聞くこと難し、諸佛世に出ること難し。\n一八三 諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。\n一八四 苦を忍受する忍は最勝の苦行なり、涅槃を第一とす、(是れ)諸佛の説なり、他を損ふ出家なく、他を惱ます沙門なし。\n一八五 誹らず、害はず、言動を愼しみ、食するに量を知り、閑靜の處に坐臥し、專心に思惟す、是れ諸佛の教なり。\n一八六 天金錢を雨すも欲は尚ほ飽くことなし、欲は味少なく苦なりと識る人は賢なり。\n一八七 天上の欲樂に於ても悦びを得ず、愛盡を悦ぶものは正等覺者の弟子なり。\n一八八 衆人怖に逼められて、多くの山、叢林、園苑、孤樹、靈廟に歸依す。\n一八九 此の歸依は勝に非ず、此の歸依は尊に非ず、此の歸依に因つて能く諸の苦を解脱せず。\n一九〇 佛と法と僧とに歸依し、正慧を以て四の聖き諦を觀察し、\n\n\n四の聖き諦―次の頌に言ふ所の、苦と、苦の起と、苦の滅と、苦盡に至る道なり。\n\n\n一九一 苦と、苦の起と、又苦の滅と、又苦盡に至る八支の聖道を(觀察すれば)、\n一九二 此の歸依は勝なり、此の歸依は尊なり、此の歸依に因つて能く衆苦を解脱す。\n一九三 尊き人は得難し、彼は隨處に生るゝに非ず、是の如き賢人の生るゝ族は安樂にして榮ゆ。\n一九四 諸佛の出現は樂なり、正法を演説するは樂なり、僧衆の和合するは樂なり、和合衆の勇進するは樂なり。\n一九五 應に供養せらるべき、戲論を超出せる、已に憂と愁とを渡れる、佛陀又は佛弟子を供養し、\n一九六 是の如き安穩にして畏怖なき(聖者)を供養する人あらんに、能く此の福の量を計るものあらじ。\n\n第十五 安樂の部\n\n一九七 怨の中に處て慍らず、極めて樂しく生を過さん、怨ある人の中に處て怨なく住せん。\n一九八 痛の中に處て痛まず、極めて樂しく生を過さん、痛める人の中に處て痛なく住せん。\n一九九 貪の中に處て貪らず、極めて樂しく生を過さん、貪る人の中に處て貪らずして住せん。\n二〇〇 少物をも所有せず、極めて樂しく生を過さん、喜を以て食とせん、極光淨天の如く。\n\n\n極光淨天―天國に居る一類の神。\n\n\n二〇一 勝利は怨を生ず、敗者は苦しんで臥す、勝敗を離れて寂靜なる人は樂しく臥す。\n二〇二 貪に比すべき火なく、瞋に比すべき罪なく、蘊に比すべき苦なく、寂に勝るゝ樂なし。\n\n\n蘊―變化的生存の要素の集合。\n寂―涅槃。\n\n\n二〇三 飢は最上の病なり、蘊は最上の苦なり、若し人如實に此を知れば最上樂の涅槃あり。\n二〇四 利の第一は無病なり、滿足の第一は財なり、親族の第一は信頼なり、樂の第一は涅槃なり。\n二〇五 遠離の液を飮み、又寂靜の液を(飮み)、(又)法喜の液を飮みて罪過を離れ(又)惡を離る。\n二〇六 善い哉聖を見ること、(聖と)共に住するは樂なり、凡愚を見ずんば常に樂なるべし。\n二〇七 凡愚と倶に道を行けば、長途に憂ふ、凡愚と共に住するは敵と(共に住するが)如く恆に苦なり、智者と共に住するは樂なり、猶ほ親族と會ふが如し。\n是れに由つて\n二〇八 彼の賢く、智ある、多く學べる、忍辱なる、戒を具せる、聖き、是の如き善士聰慧者に隨ふべし、月の星宿を行くが如く。\n\n第十六 愛好の部\n\n二〇九 不相應に相應し、相應に相應せず、實義を捨てて可愛を執取する人は自ら相應する人を妬む。\n\n\n相應―原語は瑜伽にして、又は觀行起行の義あり、若し心と境との相應と解すれば觀行の義となり、若し力と境との相應と解すれば起行の義となる。\n\n\n二一〇 所愛と會ふ勿れ、決して非愛と(會ふ勿れ)、所愛を見ざるは苦なり、又非愛を見るも(苦なり)。\n二一一 故に愛を造る勿れ、所愛を失ふは災なり、愛非愛なき人には諸の繋累あることなし。\n二一二 愛より憂を生じ、愛より畏を生ず、愛を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。\n二一三 親愛より憂を生じ、親愛より畏を生ず、親愛を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。\n二一四 愛樂より憂を生じ、愛樂より畏を生ず、愛樂を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。\n二一五 愛欲より憂を生じ、愛欲より畏を生ず、愛欲を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。\n二一六 渇愛より憂を生じ、渇愛より畏を生ず、渇愛を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。\n二一七 戒と見とを具へ、正しく、實語し、自の所作を作す人は衆に愛せらる。\n二一八 無名を希望し、作意して怠らず、心諸欲に拘礙せられざれば、彼は上流と名づけらる。\n\n\n無名―涅槃\n上流―生死の流を上る義なれば涅槃に近づける人のことなり、若し後世の學者風の解釋に依れば所謂上流般涅槃にして不還の一なり。\n\n\n二一九 久しく遠方に行き安全にして還る人を親戚及び朋友が歡こんで迎ふる如く、\n二二〇 是の如く福を造り此の世より他(世)に往ける人は、福業に迎へらる、還り來れる所愛が親戚に(迎へらるゝが)如く。\n\n第十七 忿怒の部\n\n二二一 忿を棄てよ、慢を離れよ、一切の結を越えよ、精神と物質とに著せざる無所有の人に諸苦隨ふことなし。\n\n\n結―人を結縛するもの即ち煩惱。\n\n\n二二二 若し人己に發せる忿を制すること奔車を(止むるが)如くなれば、彼を我は御者と言ふ、爾らざる人は(唯だ)韁を取る(のみ)。\n二二三 不忿を以て忿に勝て、善を以て不善に勝て、施を以て慳に勝て、實語を以て妄語者に(勝て)。\n二二四 實を語れ、忿る勿れ、乞はるゝときは(己の物)少なしと雖も之を與へよ、此の三事によりて天處に往くを得ん。\n二二五 諸の賢人若し常に身を護り、害せざるときは、不死の處に往く、往き已りて愁へず。\n二二六 人恆に覺寤し、晝夜に勤學し、涅槃を信解すれば(彼の)心穢は滅盡す。\n二二七 阿覩羅よ、此れ古より言ふ所、今日に始まるに非ず、(謂く)人は默して坐するを毀り、多言を毀り、少言をも亦毀る、世に毀られざる人なし。\n二二八 已に有らず、亦當に有らず、又現に有らず、一向に毀られたる人、或は一向に讚められたる人。\n二二九 若し智者が判斷して日々稱讚するなれば、彼は行缺くることなく聰敏にして慧戒具足し、"
},
{
"role": "assistant",
"content": "二三〇 閻浮陀金の莊嚴具の如し、誰か彼を毀り得んや、諸神も彼を讚す、梵天すら彼を讚す。\n\n\n閻浮陀金―最も上等な黄金。\n\n\n二三一 身の怒を護れ、身を覆護すべし、身惡行を捨てて身にて妙行を行へ。\n二三二 語の怒を護れ、語を覆護すべし、語惡行を捨てて語にて妙行を行へ。\n二三三 意の怒を護れ、意を覆護すべし、意惡行を捨てて意にて妙行を行へ。\n二三四 身を護り又語を護る賢人は、(又)意を護る賢人は實に能く護れるなり。\n\n第十八 塵垢の部\n\n二三五 汝は今や枯れたる葉の如し、閻魔の使者汝の傍に近づく、汝今死別の門に立つ、されど汝に(前途の)資糧あることなし。\n二三六 汝己の歸依處を造れ、疾く勤めよ、賢くあれ、垢を去り穢なきものは天の聖處に往くべし。\n二三七 汝今壯年已に過ぎ、閻魔の傍に立つ、されど(死して閻魔の處に到る)中間に汝の住處なし、亦汝に(前途の)資糧もあることなし。\n二三八 汝己の歸依處を造れ、疾く勤めよ、賢くあれ、垢を去り穢なきものは、再び生と老に近づかざるべし。\n二三九 賢人は漸々に分々に刹那刹那に、鍛工が銀の(垢を除くが)如く己の垢を除くべし。\n二四〇 鐵より生ぜる錆は、鐵より生じて正に鐵を食ふが如く、是の如く不淨の行者は、自の業に由つて惡趣に導かる。\n二四一 不誦を曼怛羅の垢とし、不勤を家の垢とし、懈怠を色の垢とし、放逸を護者の垢とす。\n\n\n曼怛羅―古印度宗教の聖典なる吠陀の本文にして婆羅門の朝夕應に誦すべきもの。\n不勤云々―人家業を治めざれば家道窮廢するをいふ。\n懈怠云々―人若し洗淨嚴飾に怠れば何物も不潔となり其の美色を失ふを云ふ。\n\n\n二四二 不貞を女の垢とし、慳を施者の垢とし、惡の所行を今世及び後(世)の垢とす。\n二四三 無明は此等垢中の垢、第一の垢なり、比丘衆よ、此の垢を絶ちて無垢なれ。\n二四四 慚なく、強顏に、惡性に、驕傲に、大膽に、敗徳の人には生活は易し。\n二四五 然るに、慚あり、常に清淨を求め、執著なく、謙讓に、清淨に活命し、智見ある人には生活は難し。\n二四六 人若し動物を殺し、妄語を爲し、世の中に於て與へざるを取り、他の妻を犯し、\n二四七 窣羅、迷麗耶酒に沈湎するならば、現世に於て既に彼は己の根を掘るものなり。\n\n\n窣羅―穀類を醞して成る酒。\n迷麗耶―根莖花果等を醞して成る酒。\n己の根を掘る―己を亡ぼすを云ふ。\n\n\n二四八 人よ、是の如く知れ、制御なきは惡なり、貪欲と非法とをして永く汝を苦しめ、損害せしむる勿れ。\n二四九 人は所信に隨ひ所好に隨ひ施與す、人若し他人の(施せる)飮食に於て(我の得たるは或は少或は麤なりと謂うて)羞恥を懷くときは晝も夜も彼は心の安定を得るに由なし。\n二五〇 人若し此の(羞恥)を斷ち、根絶し、全く害するときは、晝も夜も彼は心の安定を得べし。\n二五一 貪に比すべき火なく、瞋に比すべき執なく、癡に比すべき網なく、愛に比すべき河なし。\n二五二 他の過失は見易けれど自の(過失は)見難し、他の過失は穅秕の如く簸颺すれど、自の(過失)は狡猾なる博徒が不利の骰子の目を隱すが如くす。\n二五三 人若し他人の過失を覔め、常に輕侮すれば彼の心穢増長す、心穢盡を去ること遠し。\n二五四 虚空に(鳥の)跡なく、外道に沙門なく、愚夫は戲論を樂ふ、如來に戲論なし。\n二五五 虚空に(鳥の)跡なく、外道に沙門なく、有爲に常住なく、佛陀に動亂なし。\n\n\n有爲―總ての集合體を云ふ。\n\n\n第十九 住法の部\n\n\n住法―正義。\n\n\n二五六 輕卒に公事を裁斷するは正しきに非ず、智者は實義と不實義との兩面を辨へよ。\n二五七 暴威を用ゐず、公平に他を導き、正義を守り聰明なり、(是れ)住法者と謂はる。\n二五八 多く説くのみにては智者に非ず、穩かに、憎みなく、畏れなきは智者と謂はる。\n二五九 多く説くのみにては持法者ならず、若し少法を聞きても、之を身に履修すれば、實に持法者なり、彼は法を忽にせず。\n二六〇 頭髮白ければとて長老ならず、彼の齡熟し空しく老いたりと謂ふべきのみ。\n二六一 人若し諦と法と不害と禁戒と柔善とあれば、彼こそ已に垢を吐きたる聰き長老と謂はる。\n二六二 唯言説のみに由り、又は顏色の美しきに由り、嫉妬、慳悋、諂曲の人は善人とならず。\n二六三 人若し此等を斷ち、根絶し、全く害すれば、已に過失を吐ける聰き善人と謂はる。\n二六四 頭を剃ると雖も無戒にして妄語すれば沙門に非ず、欲貪を具ふるもの如何ぞ沙門ならん。\n二六五 人若し麤細一切の罪過を止むれば、罪過の止息せるがため沙門と謂はる。\n\n\n沙門―勤勞又は行者の義なれども、其音又「止息」の義に通ずるを以て斯く言ふ。\n\n\n二六六 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所應行を服膺するのみにては比丘ならず。\n二六七 人若し現世に於て罪福を離れて淨行に住し、愼重にして世を行けば眞の比丘と謂はる。\n二六八 愚昧無智なれば寂默に住すと雖も牟尼(寂默)ならず、智者は衡を執るが如く、善を取り、\n\n\n寂默―無言の戒。\n牟尼―寂默の義又は賢人の義、寂默と牟尼と音通ずるを以て斯く言ふ。\n\n\n二六九 惡を避くれば、此の牟尼こそ眞の寂默なれ、人若し世に於て(善惡の)兩を量れば夫に由つて牟尼と謂はる。\n\n\n量る―この語も、牟尼と音相通ずれば斯く言ふ。\n\n\n二七〇 生を害するを以て阿梨耶なるに非ず、一切の生を害せざるに由つて阿梨耶と謂はる。\n\n\n阿梨耶―「聖」の義なるも、又「敵」と云ふ語に音近きを以て斯く言ひしものか。\n\n\n二七一 我は唯禁戒を持ち、或は復多く學び、又は心の安定を得、或は閑靜處に住みて、\n二七二 (此に由つて)凡夫の習はざる出離樂を證せず、比丘よ、未だ心中の穢を盡さずんば意を安んずる勿れ。\n\n第二十 道の部\n\n二七三 諸道の中にて八支を勝とし、諸諦の中に於て四句を(勝とし)、諸徳の中に於て離欲を勝とし、二足の中に於て具眼を(勝とす)。\n\n\n八支―正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八は解脱涅槃に到る要道なれば之を八支聖道と名づく。\n四句―苦、集、滅、道の四は本來自然の定則なれば之を四聖諦と名づく。\n具眼―佛陀を指す。\n\n\n二七四 是れ即ち正しき思想の道なり、他に(正しき思想の)道なし、汝等是を實行せよ、此(の世)は魔羅の幻化なり。\n二七五 汝等此(の道)を實行すれば當に苦を盡すべし、我已に(毒)箭の除滅することを悟り、汝等に道を説く。\n二七六 汝等須らく勗めよ、如來は説者なり、思惟して修行する人は魔の縛を脱る。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 一九 これによって見ると、社会事実のうちに深い区別がなされなければならぬことが解る。一方自然力に対して働きかけた人間の意志と活動から来る所のもの、すなわち人格と物との関係を区別せねばならぬ。他方他人の意志または活動に対して働く人の意志または活動から来る所のもの、すなわち人格と人格との関係を区別せねばならぬ。これら二つの範疇の事実の法則は本質的に異る。自然力に対して働く人間の意志の目的、人格と物との関係の目的は、物の目的を人格の目的に従属せしめるにある。他人の意志の領域に影響を及ぼす人間の意志の目的、人格と人格との目的は、人の使命の相互の調整にある。\n 故に、おそらく便利であろうと思われるが、私はこの区別を定義によって定め、第一の範疇の事実の全体を産業(industrie)と呼び、第二の範疇の事実の総体を道徳現象(moeurs)と呼ぶ。産業の理論は応用科学または政策と呼ばれ、道徳現象の理論は精神科学または道徳学と呼ばれる。\n 従って一つの事実が産業の範疇に属するには、またこの事実の理論が何らかの政策を構成するには、この事実が人間の意志の働きにその起源を有し、かつ物の目的を人格の目的に従属せしめるという観点から人格と物との関係を構成していなければならぬし、またこれだけで足るのである。読者は私が先に引用した政策の例を再び採ってみるなら、それらのいずれにもこの性質があることが解るであろう。例えば既に述べた建築は家の建築要素として木材及び石材を、造船は船舶建造の要素として木材及び鉄を、航海は綱具の製造、帆の据え附けまたは操縦の材料として大麻を用いる。海洋は船舶を支え、風は帆を膨脹せしめ、空と星とは航海者に航路を指示する。\n 一つの事実が道徳現象の範疇に属するには、そしてこの事実の理論が道徳学の一部門であるためには、この事実が常に人間の意志の働きにその起源を発し、人格の使命の相互の調整という点から見ての人格と人格との関係を成していなければならぬし、またそれだけで足りる。例えば結婚または家族等に関し、夫と妻、親と子の職分と地位を定めるものは道徳である。\n 二〇 科学、政策、道徳とはこのようなものである。それらのそれぞれの規準は真、利用または利益、善または正義である。さて社会的富及びそれに関係のある事実の完全な研究のうちに、この種の知的研究の一つまたは二つが材料となるものがあろうか、あるいはそれらの三つとも含まれるであろうか。これは、私が富の概念を分析しつつ次章において明らかにしようとする問題である。\n\n\n 第三章 社会的富について。稀少性から生ずる三つの結果。\n 交換価値の事実と純粋経済学について\n\n\n要目 二一 社会的富は稀少な物、すなわち(一)利用があり、量において限りがある物の総体である。二二 稀少性は科学的用語である。二三、二四、二五 稀少な物のみが、またすべての稀少な物は(一)占有せられ(二)価値を有し交換し得られ(三)産業により生産し得られ増加し得られる。二六 経済学、交換価値の理論、産業の理論、所有権の理論。二七 交換価値の事実。市場において生ずる。二八「小麦は一ヘクトリットル二四フランの価値がある。」これは自然的事実である。二九 これは数学的事実でもある。 5vb=600va 三〇 交換価値は評価され得る大きさである。交換価値と交換の理論すなわち社会的富の理論は物理数学的科学である。合理的方法。代数的用語。\n\n\n 二一 物質的なまたは非物質的な物(物が物質であるか非物質であるかは何ら関する所ではない)であって稀少なもの、すなわち我々にとって利用があるものであると同時に量に限りがあって我々が自由勝手に獲得出来ないすべての物を社会的富(richesse sociale)と呼ぶ。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " この定義は重要である。私はそれに含まれた言葉を明確にしておく。\n 物は何らかの使用に役立ち得るときから、すなわち何らかの欲望に適いこれを満足し得るときから利用があるという。だから、通常の会話では必要と贅沢との間に快適と列べて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする利用を意味するに過ぎない。またここでは、利用のある物が対応し、これが満足することの出来る欲望が、道徳的であるかまたは不道徳的であるかを問わない。ある物が病人の治療の目的のために医師によって求められるか、または人を殺害しようとして殺人者によって求められるかは、私共の観点からは全く興味のない問題であるが、他の観点からは重要な問題である。この物はこれら二つの場合に共に利用があるのみでなく、後の場合に利用がより多いこともあり得る。\n 我々の各々がある物に対してもっている欲望を欲するままに満足し得るほど多くのこの物の量が存在しないとき、この物は我々の処分に対し限られた量しかないという。世には、全く無い場合を除けば、常に無限量が我々の処分に委せられているような若干の利用がある。例えば大気、太陽が上っているときの太陽の光線と熱、湖水の岸辺の水、河川の岸の水等は、何人にも不足の無い程度に存在し、何人も欲するままの量を採ることが出来る。これらの物は利用を有するが一般に稀少ではなく、社会的富を成さない。例外的にこれらの物も稀少となることがあるが、そのときにはこれらの物も社会的富の一部を成すことが出来る。\n 二二 これによって、稀少(rare)と稀少性(rareté)という語がここでいかなる意味のものであるかが解るであろう。この意味は、力学における速度、物理学における熱という語の意味の如く科学的である。数学者や物理学者にとっては速度は緩徐に対立するものではなく、熱は寒さに対立するものではない。緩徐は数学者にとってはより少い速度に過ぎないし、寒さは物理学者にとってより少い熱に過ぎない。科学上の用語では、物体は動き始めれば速度をもち、何らかの温度をもち始めれば熱をもつ。それと同じように、稀少性と豊富とは互に矛盾しない。いかに豊富に存在する物であっても、その物に利用があり、量において限られているなら、経済学上では稀少である。このことは、ある物体がある時間中にある空間を通過すれば、この物は力学上では速度をもつといわれるのと全く異る所がない。しからばあたかも、通過せられた空間のこれを通過するに要した時間に対する比、または一単位時間にのうちに通過せられた空間が速度といわれるように、稀少性とは、利用の量に対する比、または一単位の量のうちに含まれる利用をいうのであろうか。しばらく私はこの点に対する断定を下すのを差控え、後に再びこの論究に立ち帰るであろう。ところで利用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として三つの事情が生れる。\n 二三 (1)量において限られかつ利用のある物は、専有せられる。無用の物は、専有せられない。何らの用途にも役立たない物は、何人もこれを専有しようと思わない。また利用のある物であっても無限の量のあるものは専有せられない。まずこのような物は、無理に押し付けることも出来ねばまた差押えることも出来ない。人々はこれらの物を共有の状態から取り去ってしまうとしたところで、無限の量があるから、出来るものではない。大部分を各自の処分の下に置き得るのならとにかく、わずか一部分を所有し貯えておいて、何になるか。何かにこれを利用しようとするのか。だが、何人も常にこれを獲得出来るのに、誰がこれを需要するのか。それとも自らこれを使用するためなのであるか。だが常にいつでもこれを獲得出来ることが確実であるとしたら、これを貯蔵して何の役に立つか。空気は誰にも与えることが出来ないもので、また自ら呼吸する必要を感ずる場合には、口を開けばこれを得られるのであるから空気の貯蔵をしておく必要はない(通常の場合をいうのである)。これに反し限られた量しか存在しない利用のある物は、専有せられ得る物であり、専有せられる。まずそれらは、強制的に押しつけることも出来れば、差押えされることも出来る。ある数の個人のみが、この物の存在する量を集めて、共有の領域にこれを残しておかないようにすることが、たしかに可能である。そしてこの操作を行えば、これらの人々には二重の利益がある。第一に彼らはこれらの物の貯蔵を確保し、これらを利用して自らの欲望を充すに役立たせる可能性を準備しておく。第二にもし彼らがその貯蔵の一部しか消費しようと欲しないかまたは消費し得ないとしても、この過剰量と交換に、その代りとして消費すべきかつ量において限られた他の利用を獲得する能力を保留しておく。しかしこれはまた私共が別に取扱わねばならぬ所の異る事実となってくる。今ここでは専有(従って合法的なまたは正義に一致せる専有である所有権もまた)は社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富に存在すると認めておくに止める。\n 二四 (2)利用があって量において限られた物は、先に一言触れたように、価値がありかつ交換せられ得る。稀少な物が一度専有せられると(そして稀少なもののみが専有せられ、また専有せられる物はすべて稀少である)これらすべての物の間に一つの関係が成立する。この関係とは、これら稀少な物の各々は、それに固有な直接的利用とは独立に、特別な性質として、一定の比例で他の各々と交換せられる能力をもっているということである。もし人がこれら稀少な物の一つしかもっていないとすると、これを譲渡してこれと交換に、自らもっていない他の稀少な物を得ることが出来る。そして人がこの稀少な物をもっていないとすれば、自ら所有している稀少な他の物を与えることを条件としてしか、これと交換にこの稀少な物を得ることが出来ない。もしこの物をも所有せず、またこれと交換に与えるべき何ものも有たないとすれば、このままで済ますほかはない。交換価値の事実とはこのようなものであり、所有権の事実と同じく、社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富の上に存在する。\n 二五 (3)利用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。だから規則的組織的努力によってこれらを生産し、その数を出来るだけ多く増加するのが利益である。世の中には雑草や何らの役にも立たない動物のような利用の無い物(有害な物までもいわぬとしても)がある。人々はこれらの物のうちに、これらの物を無用の範疇から有用の範疇に移さしめ得る性質がないかと、注意深く探索する。また利用はあるが量において限り無く存在する物もある。人々はこれを利用しようとはするが、その量を増加しようとはしない。最後に利用があって量において限られた物すなわち稀少な物がある。この最後のもののみが、現在の限られた量をより多くする目的をもつ研究または行動の対象となることが出来るのは明らかである。またこの最後の物は例外無くかかる研究または行動の対象となることが出来るのも明らかである。故にもし既に呼んだように、稀少な物の総体を社会的富と呼べば、産業的生産(production industrielle)または産業(industrie)は、社会的富だけにそしてすべての社会的富に行われる。\n 二六 交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる三つの一般的事実であり、三つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。そこで今は、例えばロッシのように、経済学は社会的富を研究するものであるというのがたとえ不正確でないとしてもいかに不明瞭で粗雑で非哲学的であるかが解るであろう。実際、経済学はいかなる観点から社会的富を研究するのであるか。その交換価値の観点、すなわち社会的富に行われる売買の現象の観点からか。または産業的生産の観点すなわち社会的富を増加することが有利であるか不利であるかの条件の観点からであるか。最後に社会的富を目的とする所の所有権すなわち専有を合法的または非合法的ならしめる条件の観点からであるか。我々はそれをいわねばならぬ。だが特に注意せねばならぬのは、これら三つまたは二つの観点から同時に研究するのではないことである。なぜなら、容易に解るように、これらの観点は各々全く異っているから。\n 二七 稀少な物が一度専有せられるとき、いかにして交換価値を得るかを、私共は先験的に認めた(第二四節)。一般的事実のうちに交換の事実を経験的に認めようと思えば、我々はただ眼を開きさえすればよい。\n 我々は皆日々、特種な一系列の行為として、交換すなわち売と買とをなしている。我々のある者は土地または土地の使用または土地の果実を売る。ある者は家または家の使用を売る。ある者は大量に獲得した工業生産物または商品を細分して売る。ある者は診療・弁護・芸術作品・ある日数または時間の労働を売る。これらを売ってこれらの人々は、貨幣を受ける。かくして得た貨幣で人々は、あるときはパン・肉・葡萄酒を購い、あるときは衣服を購い、あるときは住居を購い、あるときは家具・宝石・馬車を購い、あるときは原料または労働を購い、あるときは商品・家屋・土地を購い、あるときは種々の企業の株式または債券を購う。\n 交換は市場において行われる。ある特種な交換が行われる場所を、我々は特種な市場と考える。例えばヨーロッパ市場・フランス市場・パリ市場、などという。ル・アーヴル(Le Havre)は棉花市場であり、ボルドーは葡萄酒の市場であり、食品市場(les halles)といえば果実・野菜・小麦・その他の穀物の市場であり、証券取引所(la bourse)は商業証券の市場である。\n 小麦の市場をとれば、そこで与えられた時において五ヘクトリットルの小麦が一二〇フランすなわち九〇パーセントの銀六百グラムと交換せられたとすれば、「小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある」という。これが交換価値の事実である。\n 二八 小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。まずこの事実は自然的事実の性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦のこの価値すなわち小麦のこの価格は、売手の意志から生ずるのでもなく、買手の意志から生ずるのでもなく、またこれらの二つの意志の合致から生ずるのでもない。売手はより高く売ろうとするけれども、それをなし得ない。なぜなら小麦はこれ以上の価値が無いからであり、また売手がこの価格で売らなければ、買手は、この価格で売ろうとしている他のある数の売手を見出し得るからである。また買手はより安く買おうとするがそれをなし得ない。なぜなら小麦の価値はこれ以下ではないからであり、また買手がこの価格で買おうとしなければ、売手はこの価格で買おうとするある数の買手を見出し得るからである。\n 故に交換価値の事実は、一度成立すれば、自然的事実の性質をもってくる。それはその起源においても自然であり、その現われにおいても自然であり、その存在の様式においても自然である。小麦や銀が価値をもっているのは、これらの物が稀少であるからであり、換言すれば利用があり、かつ量において制限せられているからであるが、これら二つの事情は共に自然的である。そして小麦と銀とが互に比較せられて、しかじかの価値を有つのは、それらがそれぞれ稀少の程度を異にするからである。他の言葉でいえば、利用の程度及び量において制限せられる程度を異にするからであるが、これら二つの事情は右に述べたそれらと同じく自然現象である。\n しかしこれは、我々が価格に対し何らの働きをも加え得ない、という意味ではない。重さが自然法則に従う自然的事実だとしても、これを袖手傍観していなければならぬということにはならない。我々の便利になるようにこれに抵抗したり、これを自由に働かせたりする。しかしこの性質も法則も変化することは出来ない。我々はいわばこれに従ってしか、これを支配することが出来ない。価値の場合も同様である。例えば小麦についていえば、小麦の在荷貯蔵量の一部を破棄してその価格を騰貴せしめることが出来る。また小麦に代えて、米、馬鈴薯、またはその他の物を食して、この価格を下落せしめることも出来る。また小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランではなく、二〇フランであるべしと法律で定めることさえも出来る。前の場合には我々が価値の原因に働きを加えたのであって、自然的価値を、他の自然的価値に置き換えたに過ぎない。第二の場合には我々は事実そのものに働きを加えたのであって、自然的価値に人為的価値を加えたのである。最後に厳密にいえば、交換を廃止して、価値を廃止することも出来る。しかしもし交換を行うものとして、在庫貯蔵量と消費量とのある状態、一言にいって稀少性の状態が与えられたとすれば、それからある価値が生じまたは生じようとする傾向を我々は妨げ得ないであろう。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " これについて、大ゲサな言葉使いで、まだいくらでもオシャベリをすることは、できるが、しかし、もう、やめよう。ただ最後に、これらの諸氏に立ち直ってほしいと思う私の心からの願望を託する言葉として、妙なことを一語だけ添える。それは、以上私の語ったこととは、縁もゆかりも無い言葉のように見えるであろうが、実は、諸氏が立ち直るための諸条件を一点に要約した言葉であると私は思う。それをわかってほしい。今、諸君にわからなければ、三年か五年かたってから、わかるであろう。もっとも、その時には、手おくれになっているかも知れぬ。こんな言いかたをする私をゴウマンだと言って笑う奴があったら、笑え。仲間が、ヘンなものを食おうとしているのを「おいおい、それは食わん方がいいよ」と気をつけてやる事が、それほどゴウマンな事ならばだ。\n その一語というのは、\n「文壇」から絶て、ということだ。\n 解説はいらぬ。文字通りの意味である。諸君が戦場に立っていた時のように。諸君が第一作を書いていた時のように。「文壇」から絶て。\n\n\nブルジョア気質の左翼作家\n\n\n 1\n\n こんどは左翼的な作家の二、三人について語るつもりだが、それには、まず宮本百合子のことを、ぬかすわけにはゆくまい。ところで、なによりも先きに言っておかなければならぬ事がある。それを言わないままで話を進めることは、宮本に対して不公平であるように思う。\n それは、宮本百合子を私が、きらいであるという事だ。彼女の処女作以来、現在にいたるまで、一貫してこの作家を好かぬ。これは私において決定的なことだ。そして、もちろん、或るものに対する好悪の感情を、そのものに対する評価や批判の中に混ぜてはいけないという考えに私はさんせいである。だから、なるべく混ぜないように努力してみるつもりである。つもりではあるが、結果として、それが全く混じらないことを保しがたい。読む人は、そのつもりで読んでほしい。とくに、宮本氏自身に向って、最初にこの点の許しを乞うておく。ゆるしてください。\n ついでに、なぜキライかの理由を、書いておく。\n たとえば、彼女の処女作「貧しき人々の群」が、或る意味で或る程度まで良い小説であることは私にもわかる。わかりながら読んでいる最中でも、読みおわった後でも、私は非常に不快になる。不快の原因はいろいろあるが、その一番の根本はこの作家がこの作品の中で非常に同情し同感し愛そうと努力している――そして遂に全く同情もしなければ同感もしなければ愛しもしていない――と私には思われる――その当の「貧しい人々」の一人として私が生まれ、育ち、生きて来たためであるらしい。\n そのような出生と経歴とを、私はいまだかつて一度も、誇りに思ったことも無いし、恥じたことも無い。私にとって、それは、かけがえの無い唯一の、したがって貴重なものであった。とくに自分のそれが他よりも不幸であるなどと思ったことはメッタに無い。しかし、正直、「つらい」と感じたことは度々ある。そして、たとえば、少年の私が、飢え疲れて行き先きの無いままに、宮本百合子が小さい時分に通学したような女学校の柵の所につかまって、内側のグラウンドに遊んでいる宮本百合子の小さい時分のようなキレイな女学生たちを見ながら、「どうすれば、こいつら全部一度に毒殺することができるだろうか」とムキになって考えた事が一度や二度では無かった。また、青年になりたての私が、飢えと病気と孤独のために目くらめき、ほとんど行きだおれになりかかりながら、宮本百合子の生まれ育ったような邸宅の裏門のゴミ箱につかまって、苦しいイキをはきながら、「こんな家の中に、食いふとって暮しているヤツラは永遠に自分の敵だ」とつぶやいた事も二度や三度では無かった。そのような感じ方、考え方が、健康なものであったか病的なものであったか、自分は知らない。ただ、私は、そう感じ、そう考えざるを得なかった。\n オトナになってから、私は、そんなふうには思わなくなった。人が先天的に「与えられ」て置かれた境遇の良さに対して悪意を持つことは、先天的に貧寒な悪い境遇に置かれた人をケイベツする事と同様に同程度に、浅薄な偏見だと言うことが、私にわかったからである。だから年少の頃の反感は、宮本百合子に対して、完全に私から消えた。以来、私にとって、宮本百合子など、どうでもよかった。自分に縁の無い、好きでもきらいでも無い路傍の女文士であった。もっとも、その間も、この人の書いたものの二、三を読んだ記憶はある。しかし、たいがい自分には縁もユカリも無い世界のような気がし、加うるにその書きかたも書かれた人物たちもなんとなくキザなような印象を受けることが多く、しかし、けっきょく「こんな世界もあるのかな」といったふうの、自分にもあまり愉快では無い無関心のうちに読み捨てたことである。また、この人のソビエット行き、ならびに、それについての文章などにも、ムキになって対することが、私にはできなんだ。それから太平洋戦争の、たしか直前ごろ発表された宮本の文章の一つに、彼女が、たしか中野重治らしい男とつれだって執筆禁止か又はそれに似た事のために内務省か情報局か、そういった役所の役人に会いに行った話を書いたのを読んだ。書きかたはソッチョクで、感情抜きでシッカリしていた。それを読みながら、「これだけの重圧の苦しみに耐えながら、おびえたりイジケたりしないで、シッカリと立っている女がいる、えらいな」と思い、心の中で帽子をぬぎ、そして、当時の国内の状勢の中では或る意味では当然であるとも言えた左翼に対する抑圧を、しかしこのようなバカゲた、このような乱暴な形でおこなっている当局に対して、二重三重の怒りを感じたことを、おぼえている。その時の敬意と怒りとは非常に強かったために、その文章の中にさえも私がカギつけたところの例の宮本の“high brow”さえも、さしあたりは気にならなかった程であった。そして太平洋戦争になり、敗戦になり、やがて彼女は自由に、猛烈な勢いで発言しはじめ、作品を発表しだした。好評の渦が彼女を取り巻いたように見うけられた。私も、彼女の書きものの数篇を読んでみた。それらは、いずれも、ある程度までリッパなものであった。しかし、それまでの宮本百合子観を変えてしまわなければならぬようなものでは無かった。だから、敗戦後、とくに宮本が好評になった理由が、よくのみこめなかった。しかも、この事の中に、「左翼の勢力がもりかえしてきたから、そのスポークスマンの一人の宮本がヤイヤイ言われるのさ」といったふうの俗論――それに九分の真実があったとしても――だけに満足してはおれない問題がふくまれているように私に思われた。それを究明してみることは、他の誰によりも、私自身にとって必要なような気がした。だから、あらためて私は、私の手に入るかぎりの宮本の著作を集めて、その処女作以来の作品や論文を読み返してみた。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " その結果、「やっぱり、この人は、えらい。日本に、よくも、これだけの女が育った」と思った。同時に、「しかし、おれは、この人を好かぬ。この人の中には、どこかヘンテコな所がある。だから、自分だけでなく、人もこの人を、きらうのがホントウだ」と思った。つまり、はじめからの宮本観を、私は非常にハッキリした形で再確認したのである。そして、イヤナ気分になった。自分がハッキリと分裂したからだ。つまり、尊敬せざるを得ないものを、愛することができないと言う状態になっている自分に気がついたからだ。こんな事は私において珍しい現象である。なぜなら、私は、他のいろいろのおもしろく無い性質を持っていることにかけては、人後に落ちない人間であるが、この手の分裂症状だけは、ほとんど持っていない。と言うよりも、この手の分裂症状には耐えきれない性格を持っている、と言った方が当っている。だから、自分でも困った。分裂のギャップを埋め、統一しないことには、ガマンができなかった。ばかりで無く、私自身の中の論理のためにも、これはジャマになった。だから、いろいろとやって見た。そして、分裂は埋まり、統一された。その経過のあらましを、次ぎに書きつけるわけである。\n\n 2\n\n まず、彼女の書いたものを再三再四くりかえして読み、考え捜しながら、私自身の中をほじくり返し洗いあげた結果、次ぎのことが私にわかった。\n 宮本百合子が、唯単にブルジョア出身であるだけでなく、現に高度にブルジョア気質の人であるという事、そしてその点が他のどのような事よりも私の気に入らなかった理由であったことである。\n ――待ちたまえ。こう言うと、この言葉だけで、宮本の悪口を私が言っているのだと早合点をする習慣がある。とくに、今の日本の季節はそのような習慣の盛んになっているコッケイな季節の一つであるようだ。すなわち「ブルジョア」だとか「ブルジョア的」の語を、「豚!」だとか「カサッカキ!」といったふうの形容詞として受け取って、腹を立てさせたりする習慣だ。しかし私は、あまりそういう習慣を持っていない。だから、きわめて冷静な客観的な語としてこれを使っている。念のため――。\n で、宮本のブルジョア気質は、たいへん根深く、かつ、たいへん明確なものである。作家をトクチョウづけるものは、常にあらゆる場合に、他のどのようなもの――たとえば政治的イデオロギイなど――よりも、その気質にある。宮本の場合もそうだ。それは、かなり徹底的に、一貫してブルジョア気質である。同時に、実はそれが彼女の背骨(バックボーン)になっている――つまり作家としての彼女を或る程度まですぐれたものになしている主なる支柱が、他ならぬそのブルジョア気質である。という、おもしろい関係になっている。\n と言うことは、文芸作品について多少「読みの深い」人なら、たいがい、うすうすながら気が付いている事だ。そういう証拠があちこちにある。だから、宮本の作品を一つでも二つでもマトモに読んだ人なら、私がこう言っただけで、「なるほど、そうだわい」と思ってくれる筈である。しかし、これも念のため、彼女のブルジョア気質を証明していると私の思う例を、たった一つだけあげておく。『伸子』という小説がある。そこには、作者自身とおぼしい伸子という一人の女が、ある男と結婚し、そして破婚するに至る話が書いてある。もちろん破婚した後に書かれたものである。かなり立派に、かなり巧みに書いてある。そして、よく読んでみると、かなりエゴイスティックに下等に、そして、かなりヘタクソに書いてあることもわかる。その立派さも巧みさも、そのエゴイスティックな下等さもヘタクソさも、私の見るところによるとブルジョア気質特有のものである。\n 先ず、そこでは、伸子とその夫を、共に等距離において眺め、共に長所と短所を持った人間としてどちらにも味方しないで取扱かうと言うリアリズム文学的「公平さ」が一貫している。いるらしく見える。それが立派だ。立派そうにチョット見える。そして、実はエゴイスティックで下等だ。それが立派そうに見えるだけに尚のこと下等だ。と言うのは、作者は、作品の大前提として、又作品の基調として、この夫の男を全く許しがたく否定しており、この伸子を言葉の上では否定している個所においてさえも徹底的に肯定している。つまり、この作者の目は実は公平でもなんでも無いのだ。それは、公平ゴッコだ。その関係がなかなか複雑微妙みたいな形をとっているから、ウッカリしていると、見えそこなう事だってある。\n 私の知っている奥さんに、自分の使っている女中を「おナベや、こうするんだよ!」といったような物言いをして、ウソもカクシも無く「専制的に」こき使う人がいる。又、もう一人の奥さんは、女中に対して「あなた」と言い、すべて用をさせるにも「人間的」に「民主的」にやる。そして実際においては前の奥さんと同じ程度に、いや非常に往々に前の奥さんよりも更に専制的にこき使う。だから前の奥さんに使われている女中の方が後の奥さんに使われている女中よりも、まだしも人間としての資格と権利を、よりたくさん認め許されており、したがってノビノビと自由で幸福であった。そんな例があった。そのどちらが良いとか悪いとかでは無い。言って見れば、どちらも鼻持ちがならない点では似たり寄ったりだ。しかしすくなくとも前の奥さんの方が正直でだけはある。後者は、二重の虚偽に立っているだけに、より手ごわく、「進化」した形であり、より尖鋭に当世風であり、つまるところ「選手的」にブルジョア的だと言えよう。\n 宮本の『伸子』における公平ゴッコは、彼女の持っている抜きがたいブルジョア気質の、一ひねりひねった現われであるように私には思える。その証拠を、もうすこし、作品自体から引き出してこよう。\n この中の夫は、最初から、極端に言えば第一ページ目から、将来伸子との夫婦仲がうまく行きそうにも無い「必然性」を背負わされて登場する。実にたまったものでは無いのである。つまり、後半に至って伸子をジャステファイするための用意が第一ページ目からしてあるのだ。このカンジョウ高い「計画性」は、先ずブルジョア以外のものでは無い。しかも、そのような男を好きになった――すくなくとも、それと、いったんは結婚する程度には好きになった伸子がその選択と愛情においてバカでもなければ、まちがってもいなかったと思われる程度の――思われるに必要にして充分なる程度以上でもなければ以下でも無い好もしさを持った男として押し出されている。つまり、伸子がどっちに転んだとしても、非難されるのは伸子でなくてすむように、二重三重に布陣してあるのだ。それらが、恐ろしく手のこんだ近代リアリズム小説作法的「必然性」の定跡で武装してある。つまり、伸子(したがって深い所で作者)は、絶対不可侵に神聖に守られているのである。実に用意周到だ。この種の用意周到さはブルジョア的気質に一番特有である。別の言葉では、これを、ズルサという。次ぎに、以上のことからもわかるように、この伸子は(したがって、深い所で作者は)いつでも、そして遂に、彼女自身をしか愛さない。おそろしく厳格に――時によってヒステリックにモノマニアックにさえ自分自身だけを愛する。他を愛することからひきおきる自我の軟化や忘却やトウスイや自己放棄などは、ほとんどこの女には無いかのようである。その夫との愛情の成育から結婚に至った生活の中に現に多少でもそれらがあったのであったら、よしんば、それらの一切が既にくずれこわれてしまって、その全体を否定的にしか振り返り得ない回想の中でさえも、それらは浮びあがって来るのが自然だし、浮びあがって来れば、この作品のそれにあたる個所々々に、無意識にさえもそれらの後味がにじみだしてくるのが自然だろう。それが、ほとんど無い。すくなくとも、私には、感じられなかった。伸子と夫との夫婦関係は、主として、ただ、伸子という女が、より大きな人格になるために、どうしても通過しなければならなかった煉獄または修養場のようなものとして設定されているきりである。夫は、ただ、伸子を、よりよいウドンに作りあげるために使われるノシボウみたいに持ち出されているきりだ。実際において、こんな事があったのだろうか? 私にはほとんど信じられない。ほとんど信じられないけれども、やっぱりこんな事があったのだろう。と思う他に、どのように思う手がかりもわれわれには与えられていないから、しかたが無い。とにかく、この伸子の厳酷なエゴイズムと、それを結局において徹底的に是認している作者の態度と、共にブルジョア気質の一特色だと私は思った。\n\n 3\n\n 次ぎに、その生活感情と表現における「好み」や「趣味性」や「習慣」という点でもこの作家が強くブルジョア気質である証拠であると私に思われる個所や要素を、此の作品の中に、無数に指摘することができる。その例をただ一つだけ。作中、終りに近く逃げ去って行きかけている伸子をなんとかしてつなぎとめようと焦慮した夫が、泣いて迫りながら「まだあなたは私を愛している?」と言って伸子に抱きつく所がある。それが、“Do you still love me ?”と書いてある。そこの所を読んでいて、私はゾーッと総毛立ち、ムシズが走って、しばらく、とまらなかった。そしていろいろに考えてみた。第一に考えたことは、作者は、これによって、この男の異様に強直し、病的に西洋化した人柄を描いて、それに対して伸子の感じている嫌悪又は違和の実感を読者にまで移入しようと思ったためだろうかと言うことであった。第二に考えたことは、しかしそうならば、そのような人柄の男を、すくなくともその前には結婚するに至る程度には「愛した」伸子がいるのだが、するとその伸子はどういう人間であった事になるだろう? なぜなら、伸子は何からも強制されたり、ハメこまれて、この男と結婚したのでは無く自ら選んでそうなったのであり、又この男の性質が結婚後、急にそのようなものに変る筈は無いだろうし、事実変ったようには書いて無い。第三に考えたことは、もしかすると作者は実際その時にその男がそういう英語で言った事をおぼえていて、それをただ単純に書き写したに過ぎないのかもしれないという事だ。そして、もしそうならば、このような異様さや「ハクライ」が、この作者にとっては別に異様にも「ハクライ」にも感じられない位の日常茶飯になっているからであろう。ということは、そのような作者の状態そのものが異様で「ハクライ」だからだろうと思われる。以上三通りに考えてみた。そして、第一のように考えても第二のように考えても第三のように考えても、そのいずれもが、非常に強くハッキリとブルジョア的な「好み」と「趣味性」と「習慣」を現わしている事がらだと思った。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "併し机や米に對しては、誰しも精の一語を下して其の製作を評されたり、其の物を評されたりするやうなものを可とするが、學問に於ては時に異議あることを免れない。と云ふものは古からの大人や偉才が、時に精と云ふことには反するやうな學問の仕方を爲したかの如く見ゆることが有るので、後の疎懶の徒が、やゝもすれば之に藉口して、豪傑ぶつたことを敢て放言して憚らぬところより、おのづからにして精を尚ばぬ一流を生じて居るからである。併しながら其主張は、誤解から來て居るものが多い。\n精を尚ぶことをせぬ徒の、やゝもすれば口にすることは、句讀訓詁の學なぞは、乃公は敢てせぬといふのが一つである。成程句讀訓詁の學は、學問の最大要用なことでは無いに相違無いけれども、古の人が句讀訓詁の學をなすことを欲しなかつた點に就ては、其の志の高くして大なるところに倣ふべきで有つて、其の語があるから句讀訓詁なぞは何樣でもよいと思ふのは間違ひである。句讀訓詁の學をなして、たゞ句讀訓詁に通ずるを以て足れりとし、句讀訓詁の師たるに甘んずるやうなる學問の仕方を爲したなら、其は非で有らう。併し句讀訓詁を全然顧みないでは、何を以て書を讀みて之を解し悟るを得んやである。句讀訓詁に沒頭して仕舞ふのは、勿論非である。句讀訓詁なぞは、と豪語してゾンザイな學風を身に浸みさせて仕舞ふのも決して宜しくはない。字以て文を載せ、文以て意を傳ふる以上は、全く句讀訓詁に通ぜずして、抑〻亦何を學ぶを得んやである。文辭に通ぜざるは弊を受くる所以である。徂徠先生の如き豪傑の資を以て、猶且つ文辭に呶々するものは、實に已むを得ざるものが有るからである。\n假に句讀訓詁を事とせざるは可なりとするも、書を讀んで句讀訓詁を顧みざるが如き習慣を身に帶ぶるに及んでは、何事を爲すにも、粗笨にして脱漏多く、違算失計、甚だ多きを致すを免れざるものである。事を做すに當つて、違算失計多きを惡まざるの人は、世に存せずと雖も、習癖既に成れば、之を脱するは甚だ難きものである。句讀訓詁を事とせざるは或は可なるも、事を做すに精緻を缺いて、而も之を意とせざるの習を身に積むは、百弊あつて一利無きことである。況んや學問日に精緻を加ふるは、今日の大勢である。似而非豪傑流の習慣は、決して身に積まざるやうにと心掛けねばならぬ。句讀訓詁を事とせよといふのでは無いが、學をなすには精を尚ばねばならぬといふのである。\n學問精密なることを尚ばぬ徒の、やゝもすれば據りどころとするのに、諸葛孔明が讀書たゞ其の大畧を領した、といふことも亦其の一つである。陶淵明が讀書甚だ解するを求めずと云つたと云ふのも、亦其の一つである。淵明は名家の後であつて、そして如何とも爲し難き世に生れた人である。其の人一生を詩酒に終つて仕舞つたのである。情意甚だ高しと雖も、其の幽致は、直に取つて以て庸常の人の規矩とし難きものがある。まして不求甚解とは、粗漏空疎で可いと云つたのでは無い。甚解と云ふことが不妙なのである。それで甚解を求めざるのである。學問讀書、細心精緻を缺いて可なりとしたのでは無い。孔明の大畧を領すといふのも、領すといふところに妙味があるのである。何樣して孔明の如き人が、囫圇儱侗の學をなすものでは無い。孔明といふ人は、身漸く衰へ、食大に減じた時に當つても、猶自ら吏事を執つた位の人で、盲判を捺すやうな宰相では無かつた。それで敵の司馬仲達をして、『事多く食少し、それ豈久しからんや』と其の死を豫想せしめた程に、事を做す精密周到で、勞苦を辭さなかつた英俊の士である。其の孔明が書を讀み學を治むるに當つて、ゾンザイな事などを敢てしたと思うては大なる誤謬である。庸人の書を讀むや、多くは枝葉瑣末の事を記得して、卻つて其の大處を遺るゝのである。孔明に至つては、その大畧を領得したのである。淵明や孔明の傳に是の如きあるを引き來つて、學を爲す精ならざるも可なるかの如くに謂ふものは、すなはち其の人既に讀書不精の過に落在してゐるのである。精は修學の一大標的とせねばならぬ。\n殊に近時は人の心甚だ忙しく、學を修むるにも事を做すにも、人たゞ其の速ならんことを力めて、其の精ならんことを期せぬ傾がある。これもまた世運時習の然らしむるところであつて、直ちに個人を責むることは出來ないのである。併し不精といふことは、事の如何にかゝはらず、甚だ好ましからぬことである。箭を造る精ならずんば、何ぞ能く中るを得んやである。源爲朝養由基をして射らしむるも、簳直からず、羽整はずんば、馬を射るもまた中らざらんとするのは、睹易き道理である。學問精ならざる時は、人をあやまるのみである。\n『一事が萬事』といふ俗諺の教ふる如く、學を修むるものにして、苟も學の精なるを力めざるが如くんば、其の人萬事の觀察施設、皆精ならずして、世に立ち事に處するに當つても、自ら過を招き失を致すこと、蓋し多々ならんのみである。\n之に反して、學問其の精ならんことを力むるに於ては、萬事に心を用ひる。また自ら精なるを得て知らず識らずの間に、多く智を得、多く事を解するに至り、世に立ち事に處するに當つても、おのづから過を招き失を致すこと、蓋し少かるを得べきである。フアラデーの電氣諸則を發見せるも、ニユートンの引力を發見せるも、世の聵々者流は、之を偶然に歸するが、實は精の功これをして然るを得せしめたので、學に精に、思に精に、何事にもゾンザイならず、等閑ならざる習慣の、其の人の身に存し居りたればこそ、是の如き有益の大發見をもなし出したるなれ、と云ふのが適當である。ニユートンの如きは、現に自ら『不斷の精思の餘に之を得たり』と云つて居るでは無いか。およそ世界の文明史上の光輝は、皆精の一字の變形ならざるもの無し、と云つても宜い位である。\n深は大とは其のおもむきが異なつて居るが、これもまた修學の標的とせねばならぬものである。たゞ大なるを努めて、深きを勉めなければ、淺薄となる嫌がある。たゞ精なるを勉めて、深きを勉めなければ、澁滯拘泥のおそれがある。たゞ正なるを努めて、深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奧なるところ無きに至る。井を鑿る能く深ければ、水を得ざること無く、學を做す能く深ければ、功を得ざることは無い。學を做す偏狹固陋なるも病であるが、學を做す博大にして淺薄なるも、また病である。たゞ憾むべきは其の大を勉むる人は、多くは其の深きを得るに至らざることである。\nしかし人力はもとより限有るものであり、學海は淼茫として、廣闊無涯のものであるから、百般の學科、悉く能く深きに達するといふ譯に行かぬのは無論である。故に、深を標的とする場合は、自ら限られたる場合で無ければならぬ。一切の學科に於て、皆其の學の深からんことを欲すれば、萬能力を有せざる以上は、其の人の神疲れ精竭きて、困悶斃死を免れざらんとするのが數理である。深は此の故に其の專攻部面にのみ之を求むべきである。濫りに深を求むれば、狂を發し病を得るに至るのである。\nたゞ人々天分に厚薄があり、資質に強弱は有るけれども、既に其の心を寄せ念を繋くるところを定めた以上は、其の深きを勉めなければ、井を鑿して水を得るに至らず、いたづらに空坎を爲す譯である。甚だ好ましからぬことであると云はなければならぬ。何處までも深く〳〵力め學ばねばならぬのである。天分薄く、資質弱く、力能く巨井を鑿つに堪へざるものは、初めより巨井を鑿せんとせずして、小井を鑿せんことをおもふやうに、即ち初めより部面廣大なる學をなさずして、一小分科を收むるが可い。分薄く質弱しと雖も、一小科を收むれば、深を勉めて已まざるや、能く其の深きを致し得て、而して終に功あるを得べき數理である。たとへば純粹哲學を學得せんとするや、其の力を用ひる甚だ洪大ならざるを得ざるも、某哲學者を擇んで其の哲學を攻究せんとすれば、部面おのづからにして其の深きを致し易きが如き理である。美術史を攻むるを一生の事とすれば、其の深きを致さんこと甚だ易からざるも、一探幽、一雪舟、一北齋を攻究せんとすれば、質弱く分薄きものも、亦或は能く他人の遽に企及し易からざる深度の研究を爲し得べきやうの數理である。此故に深の一標に對しては人々個々によりて豫め考へねばならぬ。が、要するに修學の道、其のやゝ普通學を了せんとするに際しては、深の一標に看到つて、そして豫め自ら選擇するところが無ければならぬ。而して學問世界、事業世界のいづれに從ふにしても、深の一字を眼中に置かねばならぬことは、苟も或事に從ふものの皆忘れてはならぬところである。\n以上述べたところは何の奇も無いことであるが、眼に正、大、精、深、此の四標的を見て學に從はば、其の人蓋し大過無きを得んとは、予の確信して疑はぬところである。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\n凡庸の資質と卓絶せる事功\n\n何事に依らず、人の或る時間を埋めて行くには、心の中にせよ、或は掌の上にせよ、何ものかを持つてゐなければ居られぬ。丸で空虚でゐることは、出來得るかも知れぬが、先づ普通の人々としては爲し得られない。さらば心の中、或は掌の上に、何物かを持つてゐる事が常住であるならば、其の持つてゐるものの善いものでありたいことは言ふまでもない。\n所謂志を立つると云ふことは、或るものに向つて心の方向を確定する意味で、云ひ換ふれば、心の把持するところのものを定める譯なのだ。それであるから、心の執る處のものを最も善いものにしなければならぬのは、自然の道理である。隨つて志を立つるには固からんことを欲する前に、先づ高からんことを欲するのが必要で、扨志立つて後は其固からんことを必要とする。\n然らば志を立つるに最高であればよいかと云ふに、固より然樣である。併し萬人が萬人同一の志であるといふ事は有り得ない理だ。各人の性格に基づいて、其の人が善しとする處に、心を向けて行くべきなのである。政治上の最高地位を得て、最大功徳を世に立てようとか、或は宗教上道徳上の最上階級に到達して、最大恩惠を世に與へようとか、更に又文教美術の最靈の境涯に到達して、其の徳澤を世に與へようとか、それ等は何れも最高の階級に屬するもので方面は其れ〴〵變つても立派なことは同一であるが、方向を異にするのは各人の性格から根ざして來るのである。そこで或る性格の人は同じ最上最高のところに志を立つるにしても、或事には適當し、或事には適當せぬといふことがある。即ち性格が其の志に適應しなければ駄目である。\n是等は最も卓絶した人に就て云ふので、普通の人は、又性格其者が最上最善には有り得ない。甲乙丙丁種々あるけれども、第一級性格の人もあれば、第二級性格の人もあり、又第三級の性格を持つてゐる人もある。元來人の性格はさう云ふやうに段階を區別することは出來ないものである。が、肉體にも或る人は五尺六寸のものもあり、或は五尺三寸のものもあり、又五尺のものも多くある。斯く肉體の身長も、種々階級があるが如くに、性格といふものも、自らにして非常に高い人もある、中位の人もあり、更に低い人もある。そこで第一級の性格のものは、第二級の性格のものの志望するやうな事は自ら志望せず、第二級の性格のものは、第三級の性格の者の志望するやうな事は自然に望まぬ。其れは社會實際の状態であつて、各人の性格に基づくのだから致し方がない。譬へば是に美術家があると假定して見ると、古往今來盡未來の第一位の人たらんとするものもあり、古の人に比して、誰位になり得れば、滿足と思ふものもあり、それよりも低き古人を眼中に置いて、それ位が滿足であると思ふものもある。又更に低きになると唯一時代に稱賛を博して、生活状態の不滿さへなければ、其れで滿足とするものもある。斯く人々の身長の高さに種々あるが如くに、人々の志望の度合も、性格に相應して自ら高低が現はれて來る。\n中には又非常に謙遜の美徳を其の性質に具へて居るが爲めに、自己の志望よりも自己の實質の方が卓越して居る位の人もある。さう云ふ人は先づ稀有のことであつて、事實に例證して云つて見れば、南宋の岳飛は、歴史上の關羽、張飛と肩を竝べれば滿足であると信じた。併し岳飛の爲した事は、關羽張飛と肩を竝べるどころではない。寧ろ關張よりも偉い位である。又三國の時の孔明は、管仲樂毅などの人々を自分の心の標的としてゐた。けれども孔明の人品事業は、決して管仲樂毅の下には居ない。斯く二人の如き謙遜の美はしい性質を有した人は、暫く除外例として、多くの人々は尺を得んとして寸を得、寸を得んとして其の半ばにだも達せずして終る。それ故志は性格に應じて、出來得るだけ高からんことを欲する。大なる志望を懷いても、三十四十五十と、追々年を取るに隨つて遂には陋巷に朽ち果てて終るのが常であるから、人は假初にも高い志望を懷かねばならぬ。\n一生を委ぬる事業は、暫くさし措いても、日常些細のことでも矢張同一である。娯樂でも何でも心の中掌の上に持つてゐるものは、願くは最高最善のものでありたい。或る人は盆栽を買つても安いものを買ひ、鳥を飼つてもイヤなものを飼ひ、園藝をしても拙劣ものを作り、其の他謠曲にしても、和歌にしても、又三味線にしても、種々の娯樂を取るに、いづれも最低最下のところで終る人がある。又或る性格の人は、種々の樂しみの中で、「盆栽は好むが他は好まぬ。盆栽でも草の類は澤山あるが、己れは草は措いて木を愛する。又木にも色々あるけれども、己は柘榴を愛玩する。其の代り柘榴に於ては、誰よりも深く玩賞し、且つ柘榴に關する智識と栽培經驗とを、誰よりも深く博く有して、而して誰よりも善いのを育てよう」とするものがある。些細のことであるが、柘榴に於ては天下一にならんことを欲して、最高級に志望を立てるものがある。さういふ人が若し他の娯樂に心を移したなら善い結果を得られぬが、是の如くにして變ぜざれば第一になることは出來ないまでも、其の人甚だしい鈍物ならざる以上、柘榴に於ては決して平凡の地位に終らない。柘榴の盆栽つくりに於ては他人をして比肩し得難きを感ぜしむるまでの高度の手腕を、其の人は持ち得られるに至る。それは最高に志望を置いた結果で、凡庸の人でも、最狹の範圍に最高の處を求むるならば、その人は蓋し比較的に成功し易い。\n近頃或る人が蚯蚓の生殖作用を研究して、專門家に利益を與へたといふ事が新聞に見えて居た。是は誠に興味ある事例で、蚯蚓の如き詰らぬものにしても、其の小さい範圍に長年月の間心を費せば、其の人は別に卓越した動物學者でないにも拘はらず、卓越した學者にすら利益を與へ得ると云ふことに到達し、永い間の經驗の結果は世の學界に或るものを寄與貢獻したと云ふことになつたのである。實に面白いことでは無いか。\n人々の身長の高さは大凡定つてゐるのであるから、無暗に最大範圍に於ける最高級に達することを欲せず、比較的狹い範圍内に於て志を立てて最高位を得んことを欲したならば、平凡の人でも知らず識らず世に對して深大なる貢獻をなし得るであらう。何をしても人はよい。一生瓜を作つても馬の蹄鐵を造つても、又一生杉箸を削つて暮しても差支ない。何に依らず其のことが最善に到達したなら、その人も幸福であるし、又世にも幾干かの貢獻を殘す。徒らに第二第三級の性格であることをも顧みずして、第一級の志望を懷かうよりも、各自の性格に適應するものの最高級を志望したならば、其の人は必らず其の人としての最高才能を發揮して、大なり小なり世の中に貢獻し得るであらう。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n「八、厄介なことになつたぜ」\n 錢形の平次は八丁堀の組屋敷から歸つて來ると、鼻の下を長くして待つてゐる八五郎に、いきなりこんなことを言ふのです。\n「何にかお小言ですかえ、親分」\n「それならいゝが、笹野の旦那が折入つての頼みといふのは、――近頃御府内を荒し廻る辻斬を捉へるか、せめて正體を突き留めろといふのだ」\n「へツ、へエ――」\n ガラツ八の八五郎さすがに膽を潰したものか、固唾が喉に引つ掛つて、二度に感嘆しました。\n「笹野の旦那はかう仰しやるのだよ――この夏あたりから噂は聽いてゐたが、三日に一人、五日に二人罪のない人間がお膝元の江戸で、人參牛蒡のやうに斬られるのは捨て置き難い。いづれ腕自慢が高じての惡業であらうが、近頃は斬つた死體の懷中物まで拔くといふではないか。この上知らぬ顏をしては、御政道の瑕瑾と相成る。御家中若年寄方にも悉く御心痛で、町方へ強つての御言葉があつた――といふことだ」\n「へエ――大したことになりましたね、親分」\n それは全く大したことでした。\n この夏あたりから始まつた辻斬騷ぎ、最初は新刀の切れ味を試す心算でやつたのでせうが、二度三度と重なると、次第に惡魔的な興味が高じて、神田一圓に九段から兩國まで荒し廻る辻斬の狂暴さは、さすがに幕府の老臣方の目にも餘つたのです。\n 旗本の次男三男、諸藩のお留守居、腕に覺えの浪人者など、辻斬退治に出かける向きもありましたが、相手はそれに輪をかけた凄腕で、いづれも一刀兩斷にしてやられるか、運よくて、這々の體で逃げ歸るのが關の山でした。\n 秋に入ると、辻斬の狂暴さは一段と拍車をかけました。最初は武家ばかり狙ひましたが、後には百姓町人の見境がなくなり、終には斬つた死骸の懷中を搜つて、紙入、胴卷を拔き取るやうな淺ましい所業をするやうになつたのです。\n「どうだ八、辻斬退治をする氣はないか。こいつは十手捕繩の晴れだぜ。腕自慢のお武家が門並み持て餘した相手だ」\n 平次も緊張しきつてをります。\n「附き合ひが惡いやうだが、あの辻斬野郎を相手にするくらゐならあつしは大江山の鬼退治に繰り出しますよ。――素知らぬ顏をして、摺れ違ひざまに、えツ、やツと來るでせう。氣がついて見たら首がなくなつてゐたなんて、どうも蟲が好かねエ」\n「何をつまらねエ」\n「そいつは強い武者修行か何んかに頼まうぢやありませんか。岩見重太郎てな豪勢なのがをりますよ」\n「止さないか、八」\n「へエ――」\n「怖きや止すがいゝ」\n「へツ」\n「八五郎が腰を拔かしや、俺が一人でやるだけのことだ。笹野の旦那のお言葉がなくたつて、町人百姓の差別なく、ザクザク斬つて歩く野郎を、放つちや置けめえ。今まで無事でゐたのは、惡運が強かつたんだ」\n 平次は何時になく昂然として胸を張るのです。\n「親分」\n ガラツ八は膝ツ小僧を揃へてニジリ寄りました。\n「何んだ?」\n「あつしが何時腰を拔かしました。え? 親分。あつしは何時怖いなんて言ひました。辻斬や蕎麥切が怖かつた日にや、江戸で御用聞が勤まりますかてんだ」\n「大層強くなつたぢやないか、八。先刻、辻斬退治より鬼退治の方が宜い――つて言つたのは誰だつけ」\n「そりや物の譬だ。辻斬が怖いわけぢやありませんよ。憚りながらこんなガン首に糸目はつけねエ、どこへでも出かけませう。さ、親分」\n「あわてるなよ、八。お前の強いのはよく解つてゐるが、まだ辻斬や夜鷹の出る刻限ぢやねえ。ゆつくり物を考へてよ」\n「何をやらかしやいゝんで、親分」\n ガラツ八は無暗にせき込みました。\n「待ちなよ。差當り研屋を當つて見るのが順當だが、夏から十幾人と人間を斬つた奴が、血刀を近所の研屋に出すやうな間拔けなことはしないだらう」\n「――」\n「品物は一つも盜つてゐないから、質屋を當つても無駄だ。九段から駿河臺、神田橋外、柳原、兩國へかけて出るが御目附の外へ一と足も出ないところを見ると、この中に住んでゐるに違ひあるまい」\n「――」\n「それにしても凄い腕だ。腕自慢の御家人が五人、牛ヶ淵で出會はしたはいゝが、二人は斬られ、二人はお濠に叩き込まれ、一人は這々の體で逃げ歸つたと言ふぢやないか」\n「三河町に町道場を開いてゐる酒村草之進といふヤツトウの先生が、お弟子と二人で辻斬退治に出かけ、柳原で出會頭に肩先を少し斬られ、面目無くて翌る日の晩夜逃げをしたといふぢやありませんか」\n「それほどの人間を相手にするんだ。止した方が無事だぜ、八」\n「冗談でせう、親分」\n「もういゝ、俺はお前の果し眼の方が餘つ程怖いよ」\n「へツ」\n「近頃は辻斬の噂に脅えて、神田中の往來は日が暮れるとバツタリ絶える。辻斬だつて斬られ手がなかつたら張り合ひがあるめえ。今晩から俺が出かけて見ようと思ふが何うだ」\n「あつしも行きますよ、親分」\n 八五郎は無暗に乘り出します。\n\n二\n\n 錢形平次とガラツ八は、その晩から辻斬釣りに出かけました。\n 二人共夜講か參會の歸りの小商人と言つた、滅法野暮つたい風をして、九段から兩國へ、柳原から神田橋へと、淋しい道を選つて歩きますが、どうしたことか、辻斬らしいものに逢はなかつたのです。\n「八、今晩も不漁だな。二人一緒ぢや面白くねえやうだ。一人づつ歩くとしようか」\n「へエ――」\n 八五郎はぞつと肩を縮めます。\n「怖いかい、八」\n「ジヨ、冗談でせう。三度の飯も、強くなきや食つたやうな氣のしねえあつしだ」\n「急に強くなりやがつたな、八。――何だ、襟卷なんか出して、そんな時候ぢやあるめえ」\n「この襟卷に禁呪があるんですよ」\n「どれ、見せな。おや〳〵鐵の火箸を六本も縫ひ込んでるぢやないか」\n「まさか鎧を着るわけにも行きませんよ」\n「成程ね、筋金入りの襟卷を卷いてゐると、首を斬られる心配はないといふわけだな。さうと知つたら俺も釜でも冠つて來るんだつたよ、フ、フ、フ」\n「何んとでも言ふがいゝ。相手は恐しくチヨツカイの早い野郎だ。氣をつけて下さいよ、親分」\n「それぢや頼むぜ、八」\n 二人は右と左に別れました。\n 八五郎は平次に別れて、柳原土手に差しかゝりました。夜鷹と追剥と辻斬を名物にした柳原は、遠い町家に五日月が落ちて、地獄の底を行くやうな無氣味さです。\n「畜生奴」\n ガラツ八は大舌打を一つ。節のない鼻唄をくちずさみましたが、凄い相手に、自分といふものの存在を教へてゐるやうな氣がして、それもフツツリ止してしまひました。\n 足ばかりが無暗に早くなります。役目は役目ながら、少しでも早く灯のある兩國へ出たい本能にさいなまれてゐたのでせう。\n「おや?」\n ガラツ八はギヨツとして立止りました。夜氣を壓する凄まじい氣合ひと共に、人の悲鳴が聞えたやうに思つたのです。\n 臆病風は一ぺんに吹飛んでしまひました。猛烈な鬪爭心が、武者顫ひになつて八五郎の五體を走ると、役目柄の勇氣が、勃然として振ひ起ります。\n「野郎ツ」\n 闇を透して見ると、僅か十歩先に、何やら蠢めくもの。――ガラツ八は次の瞬間十手と身體を一緒に叩きつけてをりました。\n 猛烈な格鬪が始まりました。曲者は匕首を持つてゐるらしく、ガラツ八の脇と肩を突きましたが、ガラツ八は巧みに防いで、三度目には十手に絡んで得物をハネ飛ばし、自慢の力でギユーと押付けてしまつたのです。\n「八、捕つたか」\n 後ろから聲を掛けたのは、心配して引返して來た平次でした。\n「親分、今縛り上げますよ。弱い辻斬野郎で」\n 八五郎はすつかり良い心持です。\n「待ちな、俺は灯を借りて來る。傍に死骸があるやうだから動いちやならねエ」\n 平次は淺草橋の番所まで飛んで行くと、ありたけの提灯と二三人の人手を狩り出して、もとの柳原に引返しました。\n「親分、變な野郎ですよ。縛り上げるといきなり泣き出して、五十兩やるから見遁してくれ――つて言やがる」\n「どうせそんなことだらう。どれ面を見せろ」\n 平次の差出した提灯に照らされたのは、ねんねこ半纒を着て耄碌頭巾を冠り、淺黄の股引をはいた老人姿ですが、顏を見るとまだほんの三十前後。――毛蟲眉の顎の張つた少し憎體な男です。\n「お前は音松ぢやないか」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " この顏はガラツ八の方がよく知つてをります。飯田町に住んでゐるゴミのやうな安やくざ音松、これが江戸中を騷がした、凄い辻斬の本人とはどうしても思はれません。\n「あつしぢやありませんよ、親分」\n 音松は本當に泣き出しさうでした。\n その間に平次は四方の樣子を念入りに調べます。ツイ三四間先には死骸が一つ、中年者の武家姿ですが、右手を柄頭に掛けたまゝ、大袈裟に斬られて、縡切れてをります。\n「凄い手際だな、八」\n 平次は八五郎を顧みました。\n 重ね着をした人間を、たつた一と太刀で、これだけ斬り下げるのは、据物斬の名人でなければなりません。\n「この野郎でせうか、親分」\n「氣の毒だが違つたよ」\n「へエ――」\n「折角の手柄をフイにするやうだが、匕首でこれだけ斬れるわけはない」\n 成程さう言へば、音松の持つてゐたのは匕首が一口だけ、その邊に太刀も脇差も落ちてはゐません。\n「へエ――」\n 八五郎、少し拍子拔けがしました。\n「その野郎の懷中を搜つて見るがいゝ」\n「――」\n 縛られた音松の懷中へ手を入れると中に呑んだのはよくふくらんだ紙入が一つ。逆樣にするとバラバラと二三十枚の小判が散ります。\n\n三\n\n 音松を責めるまでもなく、事情は至つて簡單に分りました。音松は矢張り唯の安やくざで、獅子の屠つた獲物を漁る野狐に過ぎなかつたのです。その告白を聽けば――\n「あつしも一度あの辻斬にやられましたよ。駿河臺で摺れ違ひ樣ピカリと來たとき、捨石に蹲いて轉んだのが命拾ひでした。轉がり序に石垣の下まで落ちて、死に物狂ひで逃げたが、あとで考へると口惜しくてたまりません。幸ひ辻斬野郎が年寄と女には手を出さないと聞いて、この通り年寄に化けて杖まで突いて毎晩駿河臺で張つてゐると、三日一度、七日に一度、月のない晩に限つて――辻斬野郎の出かけるのを見かけるんです。それをそつと跟けて行つて――こいつは命がけの仕事だが――斬られてヒクヒクする奴の懷中を探ると、大概三兩五兩から、多いときは五十兩にもなるんだからこたへられねエ」\n「馬鹿野郎ツ」\n ガラツ八の掌は、したゝかに音松の頬に鳴りました。あまりにも下劣な話に、正直者の八五郎は向つ腹を立てたのでせう。\n「八、默つて聽け。――ところで、その辻斬の風體人相はどうだ」\n 平次はガラツ八をたしなめて、肝心の問ひを持出します。\n「それが、少しも解らないから不思議ぢやありませんか」\n「脊が高いとか、低いとか、年を取つてゐるとか、若いとか」\n「高いやうな低いやうな、若いやうな年を取つてゐるやうな、――何しろ眞つ暗なときでなきや出て來ません」\n 音松の話は頼りないものです。\n「それでは後を跟ける見當もつくまい」\n「かんでわかりますよ。――それから――」\n「それから?」\n「衣摺れの音がします。近く寄るとサヤサヤと――」\n「贅澤な辻斬だな」\n さや〳〵と衣摺れの音の聞えるのは、羽二重か甲斐絹か精巧か綸子でなければなりません。\n「親分」\n ガラツ八も一脈の不安に襲はれます。曾て三代將軍家光が夜な〳〵辻斬に出て、大久保彦左衞門にたしなめられたといふ傳説的な話さへ傳はつて居ります。江戸の街の夜の秘密は何を包んでゐるか分りません。ことによれば、それは大名の世子、大旗本の二男三男と言つた、縛ることも何うすることも出來ない人間でないと誰が保證するでせう。\n「辻斬はたつた一人だな」\n「へエ――」\n「何しろ容易ならぬことだ。今晩のことは誰にも聞かしちやならねえ。八、俺は八丁堀へ行つて來る。町役人に死骸を始末して貰つて、繩付は番所へ預けて置くんだ。――もう辻斬なんか來る氣づかひはない。一つ殘らず灯を消してそつと片付けるが宜い。世間に知れちや惡い」\n 平次は言ひ殘して八丁堀へ驅けました。\n × × ×\n それからの手段は至つて簡單でした。やくざの音松に案内さして、辻斬の出て來るといふ、駿河臺の闇に網を張りさへすれば宜かつたのです。\n 翌る日の晩は無駄に明けて、三日目の晩、七日月が沈んだ頃。\n「大丈夫こゝに間違ひはないな、音松」\n「へエ――」\n ガラツ八は中腰になつて、繩付の耳に囁きます。闇が淀んだやうな駿河臺の路地、平次を加へて三人は、物の蔭に身を潜めて、曲者の出るのを待つたのです。\n「俺達を騙すと承知しないよ」\n 少し退屈したらしいガラツ八の聲は、次第に威嚇的になります。\n「シツ、默つてゐろ」\n 平次は二人を壓へました。路地の奧から、輕い人の跫音がして、近づくまゝに、サヤサヤと衣摺れの音も聞えるのです。\n「――」\n 音松はゴクリと固唾を呑みながら、合圖の繩をグイと引きました。\n「御用ツ」\n パツと飛付いた平次、もう相手の凄さなど勘定に入れてはをられません。\n「あツ」\n 右の腕を十手で打たれて、曲者はたじろぎました。\n「神妙にせいツ」\n 後ろから無手と組みついたのはガラツ八です。一と揉み――いや、それにも及ばず、曲者は他愛もなく組敷かれて、ガラツ八の手でキリキリと縛り上げられたのでした。\n「八、手荒なことをするな。人違ひのやうだ」\n「へエ?」\n「灯のあるところへ行かう――」\n わざと御用の提灯などは用意しなかつた平次は、曲者を向う角の辻行燈のところまで引立てまゝした。\n「親分、女ですぜ」\n「分つてゐるよ」\n 香油と掛香の匂ひが、闇の中にも紛れやうはありません。\n 疎い灯で見ても、若くて美しさうな女。――俯向くと上品な鼻筋がスーツと通つて、頭巾の縁から可愛らしい唇が覗きます。\n 身扮は黒羽二重、兩刀を少し閂に、脊の高さまで男になりきつてをりますが、ガラツ八が手を伸ばして頭巾を解くと、下から現れたのは、初々しくも見事な島田髷ではありませんか。\n「夜中、男姿でどこへ行くんだ。わけを聽かうか、お孃さん」\n「――」\n 女は俯向いたつきり、物を言はうともしません。\n「あつしは町方の御用を勤めるものだ。怪しい風體のものは、身分と行先を訊かなきやならない」\n「――」\n「お孃さん、身分と、用向きを言つてもらひませうか」\n 武家風のしかも餘程の身分らしい相手に遠慮して、平次の態度は丁寧でした。\n「申し上げられません」\n 女は顏をあげてはつきり言ひきります。少しうるんだ大きな眼、ほの白い齒、豊かな頬。――平次が日頃附き合つてる種類の人間ではなかつたのです。\n「どうあつても」\n「ハイ」\n「言はなきや氣の毒だが繩付きのまゝ番所へ引いて行かなきやならない」\n「いたし方もないことです。――でも、女が夜中に街を歩いてはいけないでせうか」\n「え?」\n「用心のために男姿になつても御法に反くでせうか。お南のお奉行はよく存じてをります。その前で申開きをいたします」\n 平次は默り込んでしまひました。このか弱い娘に手もなくやり込められてしまつたのです。\n「如何にも尤も、當方にも間違ひはあつたが、女人が夜中男姿で歩くのも穩當とは言はれまい。このまゝお引取下さるやうに――」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " あたり一面の雪田からしぼれた水であろう、大小、七、八つの池が、やさしい形にたたえて、若やかな草間に、そっと置かれてある。その古鏡のようなおもては、山霧をうつして、月を思わす白光に、もの静かに照っている。驚いたことには、その一つの岸辺に、地ならしした所があって、助七の話では、ここに鉱山の飯場が建つのだという。どう考えても似合わない、何となく、建ちそうもない気がするけれど、又思い切ったことをやる人たちだ。この水を使うのだな、ここらも汚なくしてしまうのだろうな――念を押すように、そんなことを呟くと、助七はかえって、腑に落ちぬ――と言いたげな顔をした。近寄ってみれば、水はさほどきれいでもない。岸辺には藻が茂って、箱根山椒魚が泳ぎ廻っている。それにも、知らない運命が気の毒でならなかった。\n 濡れた岩塊の、青草の中にどっぷりと、紫をにじませているのが美しい。その間に路を求めて、仙人山の肩へ登る。この頃、魚津の人とかが入湯に来たといううわさだし、鉱山の人たちも行くことがあるかして、一と筋の踏み跡がついている。足の底の方から遙かに、山を震わすような響きが伝わってくるのは、南方一めんに湧きかえる白霧のうちに、大瀑をもつ劔沢の流れているのが、それと知られる。近く肩越しに、小窓の雪渓の一部が、今にも落ちてきはせぬか、と危ぶむばかりに、また頭上には黒部別山の鈍頭も、時おりぼんやり霧の幕に映し出されたけれども、眼界を己れ一箇に吸収すべき劔岳は、ふっつりと眼前の世界から縁を絶って、有るのか無いのかさえわからない。\n 仙人山の肩は、さすがに高いから、偃松がある。偃松も七かまども、また岳かんばも、しとどに露を宿している。ゆるい傾斜の草野には、兎の路が縦横に綾を織る。花野に多いチングルマは、大かた盛りをすぎて、ほうけた中に、ところどころ帯状をなして、ういういしく咲き出したのがあって、それがついこの頃まで、そこに雪が残っていたことを、まざまざと物語っている。\n 花野を東へ次第下り、岩や灌木を厚く封じる苔と羊歯、その根方へしみ込んではあふれ、あふれてはしみ込む、香り高い清水を掬んで、小暗い仙人谷の源頭を、雪渓へと下り立つ。白い固い雪の流れに乗って、白い柔かい霧の深みへと沈んでゆく。その深みには、何か不可思議なものがひそんでいる予覚がある。\n 雪の上には所々に、熊の糞を見かける。ある所では、岳雀(岩ひばり)のむくろが一つ落ちていた。取りあげて見ると、堅く眼を閉じて、足をちぢめ、羽毛はバラバラに荒れている。二、三日前の風雨のかたみかも知れぬ。厳酷な自然の相剋をしのばせる。私はそれを又そっと、雪の波の底深く蔵めた――冷たい、しかし山の好きな彼女には、最も落ちつける墓場ではないか。\n 左右から大小の雪渓が会合すると、間もなく霧はうすれて、そこに烟をはく山腹があらわれた。湯へ来たのだ。花崗岩が錆色に霉爛して、大きな磊塊をなしたり、砂泥になったりする所を、乗り越えはいあがって、煙の源へ出る。青草葺きの、虫の巣めいた小屋が一つ見つかった。この頃来た人の遺物であろう。かまどを仕掛けた跡などもある。あたりは一面に花崗岩の荒れただれた傾斜で、ただ萱の類だけが所どころ、ほうほうと髪を乱したように生い茂っている。少ししも手に、諸方から小流れになってたぎり落ちる湯をうけて、怪しげな湯壺が二つばかり、少し間をおいて掘ってあった。いずれも小さくて浅いので、手を加えてから、片方に助七がはいり、一方に私がはいることにする。\n\n 雨のひまを見て、小屋に着物を脱ぎ捨てて行く。湯ぶねは、岩塊と沙泥で無雑作に築かれ、硫黄の華が、塗ったように厚くついている。岩沙を少し掻い出して、一方の大きな花崗岩塊に頭をもたせ、湯ぶねいっぱいに身を延ばすと、ちょうど工合よく貴い湯に包まれる。温度はすこしぬるめだが、そのままじっと、仰のけに身を浸しているうちに、全身の毛孔の一つ一つから、しずかにしかも鮮かに、湯のしみとおって来るのが感じられて、こころよい。一度むらむらと湧き乱れたよどみは又落ちついて、そっとからだの上をおおっている。\n からだは湯にまかせたまま、眼を外界に遊ばせる。近くの岩のはざ間から噴きあげる白烟の中に、山の端にしげる岳樺などが、影絵となって写ったり消えたり、揺れたり動いたりする。谷の向う岸、古めかしい幾条の縦谷をうがった仙人山の大傾斜には、樺や榛の老木をめぐって、雲の群れが長い裳裾をさばきつつ、手をつなぎ、袖をひるがえし、散りつ、もつれつ、舞い歩く。仙人谷の末は、半開きの末広なりに開け、黒部の本谷をへだてて、大蓮華つづき、祖父谷の源頭あたりか、厚い雲の垂れ幕に半ば隠れて、昔紫にふかぶかと横たわっている。雪もものうく、瞼を合わせているらしい。天頂はただ、雨をふくんだむら雲の、暗み明るむわだつみで、その波しぶきが、時にハラハラと散りかかる。\n 湯の流れは絶えず浴槽へそそいで、徐かに、温かに、そして滑らかに全身の肌をなでては、又岩間へと、優しい音を残して姿をかくす。絶えず、実に絶えず――どんな不可測の深みから、どんな不可知の道を通って、ここへは湧いてくるのであろう。この広大無限なるものの片鱗! すべて、まったく四周のすべてが声をひそめて、きわめて静かだ。しかも粛々として、物の進行、輪廻するけはいがある。ささやかな鼓動を打つ、自分の生身も、いつかその中へ融合せられ終って......。\n 行儀よく五体が、湯槽の中に蔵められたところは、そぞろに古代埃及の木乃伊を思い起させる。こうした長い浴湯からあがって、からだを拭えば、――奇やしや総身の皮膚が、キラキラと銀光を放つではないか。思わず手をとどめて、まじまじと見とれてしまう......神か仏の御像ででもあるような。人間――自分のからだとは、とても信じられない美しさなのだ。光明を放つ生き身の謎――私は不思議を明らめるように、そのままそこらを歩き廻った。母岩から分解されて、湯に晒らされた白雲母の細片が、このはかない現し身に、荒唐にして典麗な、原始的の装飾を施してくれたのだった。太古草眛の気息が四辺に充満する。\n 浴後の身をゆるゆる運んで、また霧に暮れゆく小黒部の小屋に帰った。道のりは、たかだか一里有余に過ぎぬだろう。無人の温泉はなおこの外に、小黒部の下流にも一つあって、これも元は浴舎が建ち、客を呼んだものだが、やはりある年、出水のため荒らされて、その後は湧出口も変ってしまったそうな。また餓鬼谷の下流――あの「餓鬼の田圃」(前出)の直下にもあって、ここは湧出量も多く、盛んなものだそうだ。その他、本流に沿うて幾つかあり、小さいのまで数えたら、どれほどあるか知れないらしい。食事の前後など、助七の話を聞いていると、いかにも黒部本流の豪快さが、想像されて興奮する。この間の硫黄沢の苦しさ、怖ろしさが、もう強い誘引力に変っているのに気づいて、思わず微笑される。あの黒部別山や仙人山の見えない裾が、いわゆる「下廊下」の険だ。ぜひ一度、そこをきわめよう――と、助七に堅く同行を約したのだった。(これが後年、木暮理太郎君と共に試みた、黒部初遡行となったわけである)\n 温泉のせいばかりでもあるまいが、黒部谷には一帯に、蛇が多い。ことに蝮がなかなかいる。この点大井川と同じようだ。蝮は「アゾ」(石のごろごろしている所をいう)に好んですむもので、よく道ばたの石の上など、ポッカリとした日だまりに、悠然ととぐろを巻いている。赤いのと黒いのとあるが、共に亀甲崩しのむらむらの斑紋があって、物々しい様子だ。そして毒という武器をたのんでか、人を見てもなかなか逃げない。鎌首をもたげたままじっと睨むようにしている。だからわれわれには、ちょっと気づかぬことも多いのだが、助七などはそこは、さすがに炯眼である。たちまち杖の一撃で、頭を砕いて、しとめてしまう。顎の裏が急所だという。それから山刀を一閃、尾を断ち切る――ここに毒があるという。ピクピクしているやつを、両手で顎を持ってベリリ真二つに引き裂く。すると生気の強い青臭い匂いと共に、赤い血も少しまじる、透明な青味がかった体液が、ビシビシ飛び散る。まともに見ていられぬ光景だ。そして腹わたを探って「い」(胆嚢)を取り出す。青紫ばんだ、小粒の隠元豆のような、べろりとした塊りだ。これは大へんな薬として珍重され、とくに眼にいいというのだが、助七がそれを掌らにのせて、サァ......と勧めてくれた時には、私は、無気味な色と匂いに、生ま唾をのんで、首を横に振った。では......と彼は無雑作にペロリそれを嘗めてしまう。「い」はそんな風に大切にするが、肉はうまいといっても、助七など、杖に引っかけてポンと抛りすてていた。餌を呑んでいる奴は、「いが無い」からだめだそうだ。\n 蝮のいるのを知らずに通ると、蝮は「眼の無い奴だ」と笑うそうな。――蝮は、見たら殺さにゃならねぇチャ、彼はそう言っていたが、やはり......もっともだと思う。誤って踏みつけなどして、かまれる者が、ここらでも年にかなりの数にのぼるそうだ。蝮はあまり高い所にはいないようだが、私の見た中では、南越の頂上――約千七百メートルが、一番高かったろう。アゾで草が茂っている、ことに雨上がりのそんな処では、ちょっと先頭に立つのは躊躇される。それに、絶壁伝いと反対に、足袋の底の破れているのは気持ちがよくない。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n九 鐘釣温泉――その二、夏から秋にかけて\n\n こうした厳しい山間で落ち着ける処は、やはり温泉に越すものはあるまい。この大地の至深から地表に湧き出る、熱い不思議な流動体の手で、人間は「まるごと」赤児のように、自然に抱きとられる。温泉の使命は、自然の博大甚深なる愛の、その涙もろい一面を、ありのまま眼前に流露させるところに存する。彼はかくて長い暗黒の旅を経て、ここにその恵み深い姿を現わしているのだ。温泉は人にはいられねばならぬし、人は温泉にはいらねばならない。\n 祖母谷温泉が無人の境になってから、この鐘釣が、黒部谷では人のまいる温泉の奥之院になっている。その資格は充分にある。浴客の多くは、さすがけわしい長道中に僻易して、少し谷の奥過ぎると思うらしいし、清純な自然の姿に慕いよる登山の客は、も少し上流にあったら......などとも思う。しかしこの辺が、まず調和のとれたところだろう。それだけに、深山の気と塵界の匂いとが、奇妙に交り合っている。位置は谷の中流、黒部大峡谷の中心に近い地点にあるのに、海抜高距は僅か四百メートルそこそこに過ぎない。――いかに谷の底深いかが解ろう。山は迫って、夏も雪を蔵しているが、一路はまず紛れもなく、半日程にして村里に通ずる。\n 両方から山のせまり合っていること――ちょっと想像の外だ――が、同時にまた山の深いことを思わせる。谷の幅は、山の中腹でも三町とはあるまい。陸地測量部員の測ったところでは、温泉から頭上に仰ぐ百貫山の頂きまで、直距およそ八百メートル、傾斜は三十六度三十分という事だったが......。近所に雪があるといっても、夏はずいぶん暑い。蚊もいる。そのうえ人を刺す双翅類の悪虫が四、五種はある。だが朝晩はさすがに涼しい。そしてその朝夕が、大へん長いのだ。\n 朝陽は、夏でもようやく七時ごろ、峡谷の側壁をなす山の凹所凹所から、谷間へ斜めに射し込んできて、もくもくと木深い山の傾斜を浮き出させるが、前山の頂きを越えて、宿の廂をのぞくのは、九時ごろになる。まして谷底の水面に達するのは、既に十時を過ぎた時分だ。午後三時といえば、日輪は早くも後山に隠れて、谷間は暮色をただよわす。峯ごしの光りだけが、前山の腹から胸、胸から首......とだんだんに移ってゆく、西山の影がそれを追うて這い登るのだ。たちまち最後の陽光が、熟した果実の色に、百貫山の峯頭を染める刻限には、宿のあちこちに燈火(石油ランプ)がちらめいて、谷底は既に夜である。\n それだけに、気象は弾力の強いものだ。晴れた日など、影が濃い半面、光りは際わやかに鋭い。一とたび光りに触れるや、今まで薄い藍色のヴェールをかぶっていた流水は、一挙に引火して白熱し、一時まったく光の動乱と化してしまう。しかも夏の谷間は、得て曇りやすい。一朶の雲が、天窓のような谷の上空に浮べば、狭い谷底はたちまち、日の目を見られぬことになる。谷間の空気は、光りから陰、冷から熱と激しく脉動する。\n ことに南風が、多量の電気を荷なった乱雲を駆って、谷を閉塞する時なぞは、からだがベトベトにふくれあがるかと思われ、頭のしんがズキズキ痛んで、息苦しくなる。しかしそのあとは、きっと北風が逆に、谷のしも手から吹き上げて来て、いっさいの混迷したものを一掃し去り、谷間は突き抜けたように、清爽の涼気に洗われる。人は着物を一枚重ねて、秋の近寄ったことを感ずる。\n 時ならぬに、谷水が急に濁って、押し出してくることがある。水声のうちに、耳のせいか、遠雷らしいとどろきもまじって断続する。上流は雨かナ――と思う。薄気味わるい一道の冷気が、水と共に吹いて過ぎる。だがそれだけで、何事もなく終る時もある。そうかと思えば、豪雨が俄かに注いできて、前山のしぶきが宿の軒を叩き、方々の空ら谷まで一斉に、急流や瀑布を現出するのに、本谷の水は一向いつもと変らず、澄んでいる場合もある。これら天象の変化につれて、人の心も明暗昇沈の境を漂漾する。浴客は、絶えず細長い上空を仰いでは、その模様について、なにかと語り合っている。決して挨拶ばかりでなく......\n 浴客の出盛りは、やはり夏の末から、秋の初めにかけてだ。中でも旧盆の前後など、多い時は三百人ぐらいもいる。薪を運ぶ男、火を焚く女、飯を炊く者、汁を煮る者、崖ぷちの共同炊事場は混み合う。坂道を浴場へ通う人たちも、手ぶらのは少ない。手桶を提げる、鉄瓶をさげる、鍋をさげる、徳利を持つ、洗い物を抱える......みんな、久しぶりに得た休息の、ありあまるような時間と精力で、単純な生活をも、できるだけ豊富にしようとして、楽しげにしゃべり合い、笑い合い、しきりと他愛ないままごとにふけっている。\n 朝起きると、宿は谷間でありながら、水がわり合い乏しいから、本流まで降りて口をそそぐ。水は思ったほど、冷たくはない。峯の雪には遠く、川の中に温泉の湧くにもよるだろう。朝陽は華やかに、上流の山坡を染めて、しずかに金色の楔を、谷間へと打込んでくるが、流水はわずかに上空の光りを浮かべて、まだ夜の名残りをとどめる紫ばんだ空気を、つんざきながら走っている。\n 温泉も、朝がいちばん清らかで、みずみずしい。そして肌ざわりが生ま生ましく、かど立って、刺戟が強い。それに湧き出たばかりの熱いのを、口ずけに飲むと、空になった胃の腑に、もろに突き通って、内外から湯の精気が、五体の隅々にまで沁み渡る。いかにも身体に利くような気がするけれど、それだけに疲れるから、うっかり長湯をしようものなら、一日じゅう、何かするのが臆劫になる。朝は浴客もいったいにもの静かだ。\n 湯の温度や量も、日によって幾分かずつ変化がある。それが天気に何か関係があるらしく、宿の人や浴客たちは、その湯加減から、自家流の一種の天気予報をやっていた。すなわち、湯がぬるくて少ないと、天気がつづくし、熱くて多い時は、天気が変る......といった具合だ。それが、「当らずといえども遠から」ぬ効果をあげているのは、おもしろいと思った。ちょっと不思議なようだが、これは予報というより、事実なので、私も少し注意して見たら、湯が熱くて量も多い時は、川の水かさも雨で高くなっているし、反対にぬるくて浅い時は、晴天つづきで谷水も減っている――そういう事に気がついた。気温が高ければ湯はさほど熱くは感じないし、寒ければ逆に熱く感ずる......それはあるが、そう簡単には片づけられまいし、私も首をひねって見たが、素人流の仮説はこうだ。この温泉にも、地下で途中から枝分れした湧出口が、他に幾つかあって、それが水中、あるいは谷水とすれすれに開いているとする。それは天気がよくて、川の水位が低い時は、放流されているのだが、上流に雨が降って、川水が増すと、水圧でその湧出口がふさがれたり、さまたげられたりするため、ここの湧出口に湯が多く廻ってくる......そんな風の事がありはしないか。もちろん本当のところは、専門家をまたねば分らぬが、まず気温、温泉の温度、川の水温や水位などの変化を、関係的に調べる必要があるだろう。さき走ってはいけない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 彼は夫人をそのまま一人きりにさせて置く方が彼女の気に入るだろうと考えながら、ひっそりとした庭のなかへ絹子のあとについて行った。\n 少女は、扁理を自分のうしろに従えながら、庭の奥の方へはいって行けば行くほど、へんに歩きにくくなり出した。彼女はそれを自分のうしろにいる扁理のためだとは気づかなかった。そして少女のみが思いつき得るような単純な理由を発見した。彼女は扁理をふりかえりながら言った。\n「このへんに野薔薇がありますから、踏むと危のうございますわ」\n 野薔薇に花が咲いているには季節があまり早すぎた。そして扁理には、どれが野薔薇だか、その葉だけでは見わけられないのだ。彼もまた、いつのまにか不器用に歩き出していた。\n\n\n 絹子は、自分では少しも気づかなかったが、扁理に初めて会った時分から、少しずつ心が動揺しだしていた。――扁理に初めて会った時分からではすこし正確ではない。それはむしろ九鬼の死んだ時分からと言い直すべきかも知れない。\n それまで絹子はもう十七であるのに、いまだに死んだ父の影響の下に生きることを好んでいた。そして彼女は自分の母のダイアモンド属の美しさを所有しようとはせずに、それを眺め、そしてそれを愛する側にばかりなっていた。\n ところが、九鬼の死によって自分の母があんまり悲しそうにしているのを、最初はただ思いがけなく思っていたに過ぎなかったが、いつかその母の女らしい感情が彼女の中にまだ眠っていた或る層を目ざめさせた。その時から彼女は一つの秘密を持つようになった。しかし、それが何であるかを知ろうとはせずに。――そして、それからというもの、彼女は知らず識らず自分の母の眼を通して物事を見るような傾向に傾いて行きつつあった。\n そして彼女はいつしか自分の母の眼を通して扁理を見つめだした。もっと正確に言うならば、彼の中に、母が見ているように、裏がえしにした九鬼を。\n しかし彼女自身は、そういうすべてを殆ど意識していなかったと言っていい。\n\n\n そのうち一度、扁理が彼女の母の留守に訪ねて来たことがある。\n 扁理はちょっと困ったような顔をしていたが、それでも絹子にすすめられるまま、客間に腰を下してしまった。\n あいにく雨が降っていた。それでこの前のように庭へ出ることもできないのだ。\n 二人は向い合って坐っていたが、別に話すこともなかったし、それに二人はお互に、相手が退屈しているだろうと想像することによって、自分自身までも退屈しているかのように感じていた。\n そうして二人は長い間、へんに息苦しい沈黙のなかに坐っていた。\n しかし二人は室内の暗くなったことにも気のつかないくらいだった。――そんなに暗くなっていることに初めて気がつくと、驚いて扁理は帰って行った。\n 絹子はそのあとで、何だか頭痛がするような気がした。彼女はそれを扁理との退屈な時間のせいにした。だが、実は、それは薔薇のそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛のようなものだったのだ。\n\n ⁂\n\n そういう愛の最初の徴候は、絹子と同じように、扁理にも現われだした。\n 自分の乱雑な生き方のおかげで、扁理はその徴候をば単なる倦怠のそれと間違えながら、それを女達の硬い性質と自分の弱い性質との差異のせいにした。そして「ダイアモンドは硝子を傷ける」という原理を思い出して、自分もまた九鬼のように傷つけられないうちに、彼女たちから早く遠ざかってしまった方がいいと考えた。そして彼は彼独特の言い方で自分に向って言った。――自分を彼女たちに近づけさせたところの九鬼の死そのものが、今度は逆に自分を彼女たちから遠ざけさせるのだと。\n そしてそういう驚くほど簡単な考え方で彼女たちから遠ざかりながら、扁理は再び自分の散らかった部屋のなかに閉じこもって、自分一人きりで生きようとした。すると今度は、その閉じ切った部屋の中から、本当の倦怠が生れ出した。しかし扁理自身はその本物も贋物もごっちゃにしながら、ただ、そういうものから自分を救い出してくれるような一つの合図しか待っていなかった。\n 一つの合図。それはカジノの踊り子たちに夢中になっている彼の友人たちから来た。\n 或る晩、扁理は友人たちと一しょにコック場のような臭いのするカジノの楽屋廊下に立ちながら、踊り子たちを待っていた。\n 彼はすぐ一人の踊り子を知った。\n その踊り子は小さくて、そんなに美しくなかった。そして一日十幾回の踊りにすっかり疲れていた。だが、その自棄気味で、陽気そうなところが、扁理の心をひきつけた。彼はその踊り子に気に入るために出来るだけ自分も陽気になろうとした。\n しかし踊り子の陽気そうなのは、彼女の悪い技巧にすぎなかった。彼女もまた彼と同じくらいに臆病だった。が、彼女の臆病は、人に欺かれまいとするあまりに人を欺こうとする種類のそれだった。\n 彼女は扁理の心を奪おうとして、他のすべての男たちとふざけ合った。そして彼を自分から離すまいとして、彼と約束して置きながら、わざと彼を待ち呆けさせた。\n 一度、扁理が踊り子の肩に手をかけようとしたことがある。すると踊り子はすばやくその手から自分の肩を引いてしまった。そして彼女は、扁理が顔を赤らめているのを見ながら、彼の心を奪いつつあると信じた。\n こういう二人の気の小さな恋人同志がどうして何時までもうまくやって行けるだろうか?\n 或る日、彼は公園の噴水のほとりで踊り子を待っていた。彼女はなかなかやって来ない。それには慣れているから彼はそれをそれほど苦痛には感じない。が、そのうちふと、踊り子とは別の少女――絹子のことを彼は考え出した。そして若しいま自分の待っているのがその踊り子ではなくて、あの絹子だったらどんなだろうと空想した。......が、その莫迦げた空想にすぐ自分で気がついて、彼はそれを踊り子のための現在の苦痛から回避しようとしている自分自身のせいにした。\n\n 扁理の乱雑な生活のなかに埋もれながら、なお絶えず成長しつつあった一つの純潔な愛が、こうしてひょっくりその表面に顔を出したのだ。だが、それは彼に気づかれずに再び引込んで行った......\n\n\n 絹子はといえば、扁理が自分たちから遠ざかって行くのを、最初のうちは何かほっとした気持で見送っていた。が、それが或る限度を越え出すと、今度は逆にそれが彼女を苦しめ出した。しかし、それが扁理に対する愛からであることを認めるには、少女の心はあまりに硬過ぎた。\n 細木夫人の方は、扁理がこうして遠ざかって行くのを、むしろ、彼に訪問の機会を与えてやらない自分自身の過失のように考えていた。しかし夫人には扁理を見ることは楽しいことよりも、むしろ苦しいことの方が多かった。そうして月日が九鬼の死を遠ざければ遠ざけるほど、彼女に欲しいのは平静さだけであった。だから、彼女は扁理がだんだん遠ざかって行くのを見ても、それをそのままにして置いたのだ。\n 或る朝、二人は公園のなかに自動車をドライヴさせていた。\n 噴水のほとりに、扁理が一人の小さい女と歩いているのを、彼女たちが見つけたのはほとんど同時だった。その小さい女は黄と黒の縞の外套をきていて、何か快活そうに笑っていた。それと並んで扁理は考え深そうにうつむきながら歩いていた。\n「あら!」と絹子が車の中でかすかに声を立てた。\n と同時に彼女は、彼女の母がもしかしたら扁理たちに気づかなかったかも知れないと思った。そうして彼女自身もそれに気づかなかったような風をしようとした。\n「なんだか目の中にゴミがはいっちゃったわ......」\n 夫人は夫人でまた、絹子が扁理たちを見なかったことを、ひそかに欲していた。そうして、ほんとうに目の中にゴミかなんか入って彼等を見なかったのかも知れないと思った。\n「びっくりしたじゃないの......」\n そう言って、夫人は自分の心持蒼くなっている顔をごまかした。\n\n ⁂\n\n その沈黙はしかし、二人の間にながく尾をひいた。\n それからというもの、絹子はよく一人で町へ散歩に出かけた。彼女は心の中のうっとうしさを運動不足のせいにしていたのだ。そうして母からも離れて一人きりになりたい気持や、こうして歩いているうちにまたひょっとしたら扁理に会えるかも知れないという考えなどの彼女にあったことは、少しも自分で認めようとはしなかった。\n 彼女は扁理とその恋人らしいものの姿を、下手な写真師のように修整していた。その写真のなかでは、例の小さい踊り子は彼女と同じような上流社会の立派な令嬢に仕上げられていた。\n 彼女はそういう扁理たちに対して何とも云えないにがさを味った。しかし、それが扁理のための嫉妬であることには、勿論、彼女は気づかなかった。何故なら、彼女は扁理たちのような年輩のどういう二人づれを見てもその同じようなにがさを味ったからだ。そして彼女はそれを世間一般の恋人たちに対するにがさであると信じた。――実は、彼女はどういう二人づれを見ても知らず識らず扁理たちを思い出していたのだが......"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 彼女は歩きながら、飾窓に映る自分の姿を見つめた。そうして彼女は、いますれちがったばかりの二人づれに自分を比較した。ときどき硝子の中の彼女は妙に顔をゆがめていた。彼女はそれを悪い硝子のせいにした。\n\n\n 或る日、そういう散歩から帰ってくると、絹子は玄関にどこか見おぼえのある男の帽子と靴とを見出した。\n そうしてそれが誰のだかはっきり思い出せないことが、彼女をちょっと不安にさせた。\n「誰かしら」\n と思いながら、彼女が客間に近づいて行ってみると、その中から、こわれたギタアのような声が聞えてきた。\n それは斯波という男の声であった。\n 斯波という男は、――「あいつはまるで壁の花みたいな奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばかりくっついている奴がよくあるでしょう。そういう奴のことを英語で Wall Flower というんだそうだけれど......斯波の人生における立場なんか全くそれですね」――そんなことをいつか扁理が言っていたのを思い出しながら、それから、彼女はふと扁理のことを考えた。......\n 彼女が客間に入って行くと、斯波は急に話すのを歇めた。\n が、すぐ、斯波は、例のこわれたギタアのような声で、彼女に向って言いだした。\n「いま、扁理の悪口を言っていたところなんですよ。あいつはこの頃全く手がつけられなくなったんです。くだらない踊り子かなんかに引っかかっていて......」\n「あら、そうですの」\n 絹子はそれを聞くと同時ににっこりと笑った。いかにも朗らかそうに。そして自分でも笑いながら、こんな風に笑ったのは実にひさしぶりであるような気がした。\n このながく眠っていた薔薇を開かせるためには、たった一つの言葉で充分だったのだ。それは踊り子の一語だ。扁理と一しょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手にはなれないと思っていたのに。......そうだわ、きっと扁理はそんな人なんか愛していないのかも知れない。もしかすると、あの人の愛しているのはやっぱし私なのかも知れない。それだのに私があの人を愛していないと思っているので、私から遠ざかろうとしているのではないかしら。そうして自分をごまかすためにきっとそんな踊り子などと一しょに暮らしているのだ。そんな人なんかあの人には似合わないのに......\n それは少女らしい驕慢な論理だった。しかし、大抵の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もそうだった。\n\n ⁂\n\n ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたような気がして自分で玄関に出て行ったり、器械がこわれていてベルが鳴らないのかしらと始終思ったりしながら、絹子はたえず何かを待っていた。\n「扁理を待っているのかしら?」ふと彼女はそんなことを考えることもあったが、そんな考えはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑って行った。\n 或る晩、ベルが鳴った。――その訪問者が扁理であることを知っても、絹子は容易に自分の部屋から出て行こうとしなかった。\n やっと彼女が客間にはいって行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いていたらしく、毛髪をくしゃくしゃにさせながら、青い顔をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかった。\n 細木夫人は、そういう扁理を前にしながら、手にしている葡萄の皿から、その小さい実を丹念に口の中へ滑り込ましていた。夫人は目の前の扁理のだらしのない様子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出会った時のことを思い出し、それからそれへと様々なことが考えられてならないのだが、彼女はそれから出来るだけ心をそらそうとして、一そう丹念に自分の指を動かしていた。\n 突然、扁理が言った――\n「僕、しばらく旅行して来ようと思います」\n「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。\n「まだはっきり決めてないんですが......」\n「ながくですの?」\n「ええ、一年ぐらい......」\n 夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しょにそんなところへ行くのではないかと疑いながら、\n「淋しくはありませんか」と訊いた。\n「さあ......」\n 扁理はいかにも気のない返事をしたきりだった。\n 絹子はといえば、その間黙ったまま、彼の肖像でも描こうとするかのように、熱心に彼を見つめていた。\n そうして彼女の母が、扁理の、梳らない毛髪や不恰好に結んだネクタイや悪い顔色などのなかに、踊り子の感化を見出している間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでいる青年の痛々しさだけしか見出さなかった。\n\n\n 扁理が帰った後、絹子は自分の部屋にはいるなり、思わず眼をつぶった。さっきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛むのだ。するとその閉じた眼の中には、いつまでも赤い縞のようなものがチラチラしていた......\n\n ⁂\n\n 扁理は出発した。\n 都会が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出発前に見てきた一つの顔だけが次第に大きくなって行くように思われた。\n 一つの少女の顔。ラファエロの描いた天使のように聖らかな顔。実物よりも十倍位の大きさの一つの神秘的な顔。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他のすべてのものを彼の目から覆い隠そうとしている......\n「おれのほんとうに愛しているのはこの人かしら?」\n 扁理は目をつぶった。\n「......だが、もうどうでもいいんだ......」\n そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望していた。\n 扁理。――この乱雑の犠牲者には今まで自分の本当の心が少しも見分けられなかったのだ。そして何の考えもなしに自分のほんとうに愛しているものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらい、疲れさせられてしまっているのだ。\n そうして彼はいま何処へ到着しようとしているのか?\n 何処へ?......\n 彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまった。\n それは何かの薬品の名を思い出させるような名前の、小さな海辺の町であった。\n そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行った。\n 彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと変な気がしだした。......通行人の顔、風が気味わるく持ち上げている何かのビラ、何とも言えず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひっかかっている紙屑のようなもの、――そういうものが彼になにかしら不吉な思い出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはいり、それから見知らない一つの部屋にはいった。あらゆるホテルの部屋に似ている一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思い出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れていて非常に眠かった。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせいにしょうとした。彼はすこし眠った。......目をさますと、もう暗くなっていた。窓から入ってくる、湿っぽい風が扁理に、自分が見知らない町に来ていることを知らせた。彼は起き上り、それから再びホテルを出た。\n そうしてまた、さっき一度歩いたことのある道を歩きながら、あの時から少しも失われていない自分のなかの不可解な感じを、犬のように追いかけて行った。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "成経 俊寛殿を一人残してわしだけ帰る気はありません。\n康頼 わしは友を見捨てるに忍びません。\n基康 では三人の意志はたしかに聞き届けました。都にたち帰ってその旨を清盛殿に伝えましょう。\n俊寛 (恐怖を隠そうとつとめつつ)それではあなたの役目がたちますまいが。\n\n\n成経と康頼、基康を凝視す。\n\n\n基康 わしはこの命令の執達吏にすぎないのだ。わしは清盛殿の意志をあなたがたにお伝えすればそれでいいのだ。あなたがたがそれを受けようと受けられまいと、それはわしの立ち入る限りではない。\n\n\n三人沈黙す。\n\n\n基康 (家来に目配せす)出発のしたくをしなさい。\n成経 (狼狽す)しばらくお待ちください。\n康頼 そのように急がれるにはおよびますまい。\n基康 (冷ややかに)あなたがたの意志を聞いた以上は、もはやわしの役目はすんだというものだ。わしは片時も早くこの荒れた島から離れたい。何か都にことづてはありませんか。わしがあなたがたへのただ一つの親切にそれを取りついであげましょう。あゝわしは忘れるところだった。都をたつ時あなたがたにことづかった物があった。故郷からの迎えの使いを拒絶するほどのあなたがたに、たいした用はないかもしれんが。(家来に)かの品を。\n家来 (文ばこを基康に渡す)\n基康 (文ばこを成経と康頼に渡す)\n成経 (ふるえる手にて文ばこを開き、手紙を手に取り裏を返し、表を返しして見る。おのれを制することあたわざるごとく)母上の手蹟だ。(感動に堪えざるごとく)あゝ。\n康頼 (手紙を握りしめ)わしはどんなに飢えていたか!\n俊寛 (われを忘れたるごとく)わしへの手紙は? 故郷の便りは?\n基康 わしのことづかったのはこれだけだ。(俊寛、顔をおおう。家来に)出発の用意をしろ。\n成経 (あわてる)待ってくれ。わしがもっとよく考えるために。\n康頼 今しばらくの猶予が願いたい。\n基康 あなたがたの意志はもはや確かに承ったはずだが。\n成経 いや、わしはもっとよく考えて見なければならない。あなたに聞きたいこともある。\n康頼 われわれがもっとよく考えて決心するために、今しばらく待っていただきたい。あなたはあまりにあわただしい。\n俊寛 (不安に堪えざるごとく。成経に)成経殿、わしはあなたを信じている。あなたが誓いを守ってくださることを。\n成経 (俊寛にむけてではなく)わしは考えねばならない。考えねばならない。\n俊寛 康頼殿、わしはあなたの誓いを最後の頼みとしていますぞ。\n康頼 わしたちはよく考えて見ましょう。今はあまりに大事な時だ。\n俊寛 (天に向かって両手をのばす)神々よ、汝の名によってたてられた誓いは守られねばならぬ!\n基康 わしの前で内輪の争いは、見るに堪えぬわい。申の刻までに考えを決められい。猶予はなりませぬぞ。(退場。家来つづく)\n成経 (基康の去るやいなや、飢えたるもののごとく手紙の封を切りて読み入る)\n康頼 (手紙を読みかけて、俊寛を見てやめる)\n成経 (かたわらに人なきがごとく)なつかしい母上よ、あなたの恩愛が身にしみまする。(今ひとつの手紙を読む)妻よ、お前の苦しみは察するにあまりある。どんなに会いたかったろう。(他の手紙を見る)乳母の六条の手紙に添えて、わしの小さな娘の手紙も入れてある。何という可憐な筆つきだろう。六条よ、あゝおまえの忠義は倍にして報いられますぞ。(手紙を読みつづける)\n俊寛 (堪えかねたるごとく)わしの前でその手紙を読むのはよしてください。わしは不安で不安でたまらない。成経殿、あなたは考えを変えてはなりませぬぞ。きょうあなたが弓矢にかけてたてた誓いを忘れてくださるな。\n成経 (われに帰りたるごとく)わしはあまりに苦しい、今はわしの一生の運命の定まる時だ。わしに考えさせてください。\n俊寛 あなたは名誉ある武士のすえだ。あなたはいつもそれを誇っていられた。わしはあなたの誇りに望みをかける。\n成経 故郷の便りはわしの臓をかきむしるような気がする。不幸なわしの家族はどんなにわしを待っているだろう。彼らに一度会う日の夢は、わしのこの荒いみじめな生活のただ一つの命であった。今や時が来た。そしてわしは帰ってはならぬのであろうか。\n俊寛 あなたの心持ちはもっともだ。だがわしのことを考えてください。あなたがたがそばにいて不幸を分けてくださったればこそ、この言いようのない苦しみにも堪えることができたのだ。が、もしわし一人この島に残らねばならなかったら、わしはどうしてこの先を暮らしてゆくことができよう。それはあまりに堪えがたい。考えただけでも恐ろしい。\n成経 わしはあなたのことを思わないのでは決してない。だがわしとして、わしの境遇になって、はたして故郷への迎えの船をむなしく帰すことができるだろうか。\n俊寛 わしはこういう時の来ることを予感したのだ。それを思えばこそけさあれほどあなたに念を押したのだ。そしてあなたのあの心強い誓言を得たのだ。あなたはそれを忘れはなさるまい。\n成経 (心の内に戦いながら)時機は二度と来ぬのだから。\n俊寛 わしはあなたに要求する気はない。ただあなたの友情にすがって折り入って頼む。なにとぞわし一人をこの島に残さないでください。\n成経 わしは一度だけ母に会いたい。妻に会ってその苦しみをねぎろうてやりたい。一生に、も一度だけわしの子供が抱きたい。\n俊寛 それはみなわしの願うところだ。わしの朝夕の夢だ。今その夢を実にすることのできるあなたの幸福と、この荒れた島にただ一人残る自分の運命とを較べるのは堪えがたい。わしの恐ろしい運命を考えてください。\n成経 わしはただ一度だけ故郷の土が踏みたい。ただ一度だけ家族と会えばまたこの島に帰ってもよい。だがただ一度だけは。\n俊寛 わしを助けてくれ。\n成経 わしは苦しい。何も考えられない。わしの心は顛倒するようだ。\n俊寛 あなたはどうしても帰る気か、誓いを破り、わしを捨てて。\n成経 (苦しそうに沈黙す)\n俊寛 きょうからわしはあなたを名誉ある武士とは思いませぬぞ。困苦をともにした友に危難の迫った場合、無慈悲に見捨て去るとは、実に見下げた人だ。八幡のたたりを恐れられい。わしはいうがわれわれがこんなみじめな境遇に落ちたのも、もとはあなたの父上のためだ。\n成経 (顔をおおう)\n俊寛 あなたの父を鼠のごとく殺した清盛のところへ、あわれみを乞うて帰る気か。\n成経 (あたりをはばかりつつ)わしは復讐することができる。都へ帰れば機会をうかがうことができる。\n俊寛 (不安に堪えざるごとく、康頼に)康頼殿、今はわしの頼みはあなた一人となりました。わしはあなたの愛と誠実とに依頼する。あなたはながい間どんなにわしを愛してくださったろう。あなただけはわしを見捨ててくださらぬだろう。\n康頼 私はあなたの運命を思えばたまらない気がする。あなたはじつに苦しかろう。\n俊寛 わしは恐ろしい。わしのそばにいつまでも離れずにいてください。\n康頼 わしはあなたをあわれむ心でいっぱいだ。あなたの今の地位の恐ろしさは言い表わす言葉もないほどだ。\n俊寛 (哀願に満ちたる調子にて)あなたはわしを見捨ててはくださらぬだろう。\n康頼 わしはあなたを見捨てて去るには忍びない。\n俊寛 ではわしとともにこの島に残ってくださるのですね。\n康頼 (力なく)わしはそうしたい。そうしなければならぬと思う。けれども――\n俊寛 (不安の極度に達す)わしはあなたの信心に依頼する。\n康頼 迎えの船の来たのは熊野権現の霊験と思われる。\n俊寛 あなたは神々にたてた誓いを忘れはすまい。あれほど信心深いあなたが、天地の神々の名によってたてた誓いを破ろうとは信じられない。\n康頼 (沈黙)\n俊寛 (あわれみを乞うごとく)康頼殿、あなただけはわしを見捨ててくださるな。あなたは成経殿の例にならってくださるな。この長い困苦の年月あなたがわしのためにどんなに忠実な友であったか、わしは感謝の心でいっぱいだ。今一人の友が無慈悲にわしを捨てて去ろうとする時、あなただけはわしを助けてください。わしはあなたに救いを求める。\n康頼 (沈黙)\n俊寛 (康頼の袖を握り地にひざまずく)あわれな友の最後の願いをしりぞけてくださるな。\n康頼 わしはあなたを見るに忍びない。わしの心はちぎれるようだ。\n俊寛 わしを地獄から救ってくれ。(地に伏して慟哭す)\n康頼 (苦しげに)わしはあなたのそばにいたい。あなたを見捨てる気にはなれない。\n俊寛 わしはあなたを最後の頼みといたしますぞ。\n基康 (家来をしたがえて登場)もはや時は来た。決心を承ろう。(家来に)出発の用意をしろ。\n\n\n家来数名船のほうにゆく。三人沈黙。\n\n\n基康 (成経に)あなたの決心は?\n成経 わしは迎えをお受けする。\n基康 (うなずく。康頼に)あなたは?\n康頼 (力なく)わしは友を見捨てるに忍びません。\n基康 よろしい。ではあなたはこの島に残るがよかろう。成経殿だけ伴って帰ろう。成経殿、出発の用意をなされい。\n成経 (康頼に)わしは苦しい立場ではあるが思いきって一足先に都へ帰ります。あなたはとどまって俊寛殿を慰めて時機を待ってください。わしは都へたち帰ったらきっと再び迎えの使いを送ります。(俊寛に)あなたはわしが憎かろう。だがわしの立場を思ってゆるしてください。わしが都へ帰ったらきっと清盛殿にとりなして、あなたも帰洛のかなうよう取りはからいます。それを頼みに苦しみに堪えて待っていてください。\n俊寛 (答えず)\n成経 何か形見に残したいがわしに何もあろうはずがない。この衾をあなたにのこします。わしはこれで雨露をしのぎました。\n俊寛 (衾を地になげうつ)わしはあなたを友とは思わぬ。早く都に帰るがいい。そして自分の敵に追従するがいい。\n家来 船の用意はできました。\n基康 ではお別れする。(船に乗る。成経つづく)\n成経 (船の上より康頼に)おことづてはありませぬか。\n康頼 (何か言いかけて感動のあまりやめる)\n基康 すぐに出発しろ。\n家来 (ともづなを解く)\n俊寛 (顔をそむける)\n成経 (康頼に)ではお別れいたしまする。\n康頼 (堪えかねたるごとくに)基康殿、お待ちください。\n基康 何かごようか。\n\n\n船少し動く。\n\n\n康頼 待ってくれ。わしは考えて見たいから。\n基康 船を止めろ。(家来船を止める)\n俊寛 (不安の極に達し)康頼殿、わしはあなたを信じますぞ。\n康頼 (苦しみに堪えざるごとく)神々よ。わしに力を与えてください。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "基康 船を出せ。(船動く)\n康頼 待ってくれ。わしは迎えをお受けする。\n俊寛 (まっさおになる)康頼殿、あなたもか?!\n康頼 俊寛殿、ゆるしてください。わしはあなたのそばにいたい。最後まであなたの慰めの友でありたい。けれど、わしは今自分を支えることができなくなった。あなたはわしがどれほど故郷を慕っていたか知っていられよう、そのために頼むべからざるものをも頼みとしていたことを。熊野神社に日参したことも、千本の卒都婆を流したことも。今やその日が来た。ほとんど信じられない夢のような日が。けれどわしはあなたをあわれむあまり、今の今まで堪えてきた。けれど今はわしの力もつきたような気がする。この船を逸したら二度と機会は来ないかもしれない。あの荒れた乏しい、退屈な、長い長い日が無限につづくことを思えばたまらない。わしはこの船が地獄に苦しむ罪人を迎えに来た弘誓の船のような気さえしているのだ。\n俊寛 (康頼の袖をつかむ)永久に地獄に残るわしの運命を思ってくれ。それもただ一人で! あゝ考えてもぞっとする。残ってください。残ってください。\n康頼 わしが帰ったらきっと清盛殿に取りはかろうて迎えの船を送ります。それを信じて待ってください。\n俊寛 それがあてになるものか。このたびの処置で清盛がわしをどれほど憎んでいるかがわかる。わしはこの島にただ一人残って船の姿が見えなくなる瞬間が恐ろしい。わしの命がその瞬間を支え得るとは思われない。\n康頼 きっと迎えにまいります。その日を待ってください。わしを帰らせてくれ。\n俊寛 (康頼を抱く)残ってくれ、残ってくれ。\n康頼 (苦悶の極に達す)あゝ。神々よ。\n基康 船を出せ!\n康頼 待ってくれ。(決心す)わしは帰らねばならない。(俊寛を放す)\n俊寛 わしを無間地獄に落とすのか。\n康頼 ゆるしてくれ、ゆるしてくれ。\n俊寛 (康頼にしがみつく)助けてくれ。\n康頼 (躊躇す)\n基康 (いらだたしく)船を出せ!\n康頼 待ってくれ。(俊寛を押し放ち船に乗る)\n俊寛 (よろめく)あゝわしは。待ってくれ!\n\n\n家来船を止めんとす。\n\n\n基康 (声を励ます)出発しろ。\n\n\n船動く。\n\n\n俊寛 基康殿。わしは犬のごとくひれ伏してあなたに乞う。わしをただ九州の地までつれて帰ってくれ。\n基康 (顔をそむける)\n成経 俊寛殿、きっと迎えにまいります。\n康頼 心を確かに俊寛殿。わしは誓ってもいい。きっと迎えをよこすことを。(無意識にふところより法華経を取り出す)誓いのしるしにこの法華経をあなたにのこします。わしのただ一つの慰めであったこの経を。わしのかたみに!\n俊寛 (法華経を引き裂く)\n基康 (声を励まし)すぐ出せ!\n\n\n船、岸を離る。\n\n\n俊寛 (船にすがりつく)わしもつれて帰ってくれ。(船、動く。俊寛水の中に浸る)待ってくれ。(船、動く。俊寛水に浸りたるまま、一間ばかり船に引きずられてゆく)\n基康 手を放させろ。\n家来 (俊寛の手をつかんで放す)\n俊寛 (またしがみつく)\n基康 (刀を抜き背にて俊寛の手を打つ。俊寛、手を放す)急いで漕げ。\n\n\n船、岸を離れる。\n\n\n俊寛 (ずぶぬれになったまま)船を戻せ! 船を戻せ!\n基康 (家来に)急げ。(俊寛に)わしのせいではないぞ。\n成経 きっと迎えにまいりますぞ。\n康頼 ゆるしてくれ。ゆるしてくれ。(手を合わす)\n俊寛 助けてくれ! わしを一人残すほどなら、むしろわしを殺してくれ。\n\n\n答えなし、船退場。\n\n\n俊寛 ただ九州の地まで。一生の願いだ。そしたら海の中に投げ込んで殺してくれてもいい。\n\n\n答えなし。\n\n\n俊寛 (水ぎわを伝って走る)船を戻せ! わしを助けてくれ。\n\n\n答えなし。\n\n\n俊寛 (丘の上にはい登り沖をさしまねく)おーい、康頼殿。\n\n\n沖より呼ばわる声聞こゆ。\n\n\n俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!\n\n\n沖より銅鑼の音響く。\n\n\n俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!\n\n\n答えなし。\n\n\n俊寛 (衣を引き裂く。狂うごとく打ちふる)おーい。康頼殿。\n\n\n答えなし。この時雷のとどろくごとく山の鳴動聞こゆ。\n\n\n俊寛 (ふるえる)助けてくれ!\n\n\n答えなし。\n\n\n俊寛 (絶望的に)だめだ! (地に倒れる。立ち上がる)鬼だ。畜生だ。お前らは帰れ。帰って清盛にこびへつらえ、仇敵の前にひざまずいてあわれみを受けい。わしは最後まで勇士としてただ一人この島に残るぞ。この島で飢えて死ぬるぞ。\n\n\nも一度激しき山の鳴動。\n\n\n俊寛 (思わず叫ぶ)助けてくれ! (地に伏す。間。必死の力を出して立ち上がりよろめきつつ)わしはこの島の鬼となるぞ!\n\n\n波の音、松風の音、その間を時々山の鳴動。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 大分時は過ぎたがまだ夜は明けない。飛行島の無線室へは、付近航行中の英艦隊より無電が入った。\n「――只今、駆逐機六機ヲシテ、怪飛行機ヲ追跡セシメタリ」\n という電文であった。\n リット少将の喜んだことはひととおりでない。\n「もう大丈夫だ。そうむざむざとこの飛行島が脅かされてたまるものか」\n と、両手をうしろに組んで、檻に入った狼のように司令塔の中を歩きまわるのであった。\n そのときスミス中尉が少将に近づいて、\n「閣下、只今甲板の上に、怪しげなものを発見いたしました」\n「なんじゃ、怪しげなるものとは......」\n「はっ、それはなんとも実に不可解な記号が、甲板の上いっぱいに書きつけてあるのでございます」\n「不可解な記号? 誰がそんなものを書いたのか」\n「いいえ、それが誰が書いたとも分からないのでして。――ああ御覧ください、ここからも見えます」\n とスミス中尉は、司令塔の小窓から下を指さした。\n「なに、ここから見えるというのか」\n リット少将は驚いて、司令塔から下を見おろした。\n「あっ、あれか。なるほど、これは奇怪じゃ」\n リット少将の眼にうつったのは、丁度探照灯で照らしだされた白い飛行甲板の上に、「○○×△」と、なんとも訳の分からない記号が書きつけてある。その記号の大きさといったら、傍へよってみると、多分十メートル平方もあろうか。それが墨くろぐろと書きつけてあるではないか。\n「ふーむ」と少将はうなった。\n「とにかく不穏な記号と認める。犯人を即刻捕らえろ。そやつの手には、きっとあの黒ペンキがついているにちがいない」\n 少将は命令を発した。スミス中尉はかしこまって、監視隊本部へ駈足で出ていった。\n 甲板の上の怪記号が、探照灯に照らしだされたり、そしてまたそのまわりに監視隊がぞろぞろ集ってきたりするのを、司令塔にちかい物かげから、意味ありげににやにや笑っている半裸体の東洋人があった。\n それこそ先程からの大活躍を続けていた川上機関大尉であった。もちろんあの怪記号も、彼がやった仕事であった。右手には黒ペンキがまだそのままにべっとりとついている。その黒ペンキに汚れた手が、今おたずねの目印になっていることを、彼は知っているのであろうか。\n それにしても、彼はなぜこんな冒険をして訳の分からない丸や三角を甲板の上に書きつけたのであろうか。\n「おお梨花、――」\n 突然彼の眼の前を、ちょこちょこと足早にとおりすぎる可憐な中国少女を認めて、大尉は声をかけた。梨花は思わず、はっと竦んで美しい眉をよせ、\n「え、どなたですの」\n「梨花よ、僕だ」\n「おおあなたは......」\n「これ、しずかに。どうだね、杉田の容態は」\n 少女は、このとき急に悲しげに眼を伏せて、\n「どうもよくありませんのよ。だってなかなか食事をおとりにならないし、それにいつもあなたのことばかり気にして考えこんでいらっしゃるんですもの」\n 川上機関大尉は、暗然と涙をのんだ。\n「しかしあなたさまが御健在と知ったら、杉田さんはどんなに力がつくかしれませんわ。杉田さんに知らせてあげてはいけないのですか」\n「うむ、――」と川上機関大尉は、腕をこまぬいて考えこんだが、ふと何か思いついたという風に、そっと梨花に耳うちをした。\n「なあ、よいか。うまくたのむぞ」\n 梨花はこのときはじめてにっこり笑った。そして元来た方へ急足で引返していった。\n\n\n 迫り来る敵機\n\n\n 大胆にも飛行島の夜間偵察をおえた柳下航空兵曹長は、艦載機一号を操縦して暗の中を東へ東へとびつつあった。たよりになるのは、夜光の羅針儀と高度計と距離計とだけである。東へすすめば、本艦がひそかに待ちうけている海面へ出られるはずだった。しかしこの暗い、だだっぴろい海面で、果して本艦にうまくひろいあげられるであろうか。\n だが柳下空曹長は、無類とびきり強い心の持主だった。過ぐる日中戦争で、七機の敵飛行機を撃墜している。\n 彼が敵機を見つけて一度これを撃墜そうと決心したら、どんなことがあっても撃墜さずにはおかない。他の敵機が横合からとび出してこようが、高射砲や高射機関銃陣地に近づこうが、また地上とすれすれの低空飛行になろうが、どこまでも追って追って追いまくる。彼は敵の息の根をとめるまでは、あくまで追跡の手をゆるめないのである。\n そういうねばり強い男であったから、前方が暗につつまれて見えずとも、また海面がいかに広くとも、一向平気でとびつづけるのであった。\n それはともかく、彼はまだ、英国艦隊が放った駆逐機六機が自分を追跡中であることは知らなかった。\n 英国艦隊は、すでに聴音機でもって柳下機の進む方向や高さをちゃんとしらべて、出動の駆逐機隊に知らせてあったのだ。\n そのころ、わがホ型十三号潜水艦は、風雨はやや治りかけたが、まだ意地わるく荒れ狂う波浪にもまれながら、じっと海面に浮かんでいた。艦橋には四五人の人影がうごめいている。\n「まだ柳下機の消息はないか」\n と、頤紐をしっかりかけた水原艦長が、心配そうに先任将校をふりかえった。\n「はあ、まだ本艦の聴音機には感じないようです」\n「うむ、そうか」\n あとは誰も黙って、何も見えない夜空をにらむばかりであった。\n それから五分ばかりたって、艦橋当直の入野一等兵曹の声、\n「副長。只今聴音機に飛行機の爆音が入りました」\n「なに、入ったか」副長は水原少佐の方を向いて、\n「艦長、聴音機が爆音をつかまえました」\n「そうか。それはよかった。結果はどんな工合か」\n と、艦長は聴音手の傍へ歩をうつす。\n すると聴音手は、なぜか息をふうふう切っては、丙号聴音機をやけにぐるぐる廻しているのであった。\n「おい間。どうした」\n と、艦長は、つと聴音手にすりよった。\n「あ、艦長」\n と間一等水兵はちょっと口ごもったが、次にとびだしてきたのは意外な報告!\n「艦長。爆音が二方面から聞えます。西北西から聞えますのは弱く、東南から聞えますのは相当強くあります」\n「なに、二方面から――」\n この奇妙な報告に、艦橋につめていた乗組員はぎょっとした。\n 艦長はじっとうなずき、\n「わかった。弱い爆音の方は柳下機であろう。もう一つの東南から来るのは油断がならんぞ。機数はわからんか」\n「すくなくとも四機、あるいはそれ以上ではないかと思われます」\n 訓練された兵員は、それほど能力のない器械を時にその能力以上に使いこなす。事実、間聴音手の判断は、ちゃんと命中していたのである。それこそ柳下機に迫りくる英国駆逐機六機の爆音であった。\n「距離は見当がつかんだろうな」\n「はっ、不明であります」\n 柳下機が早くゴールに入るか、それとも英国駆逐機隊がそれより早くわが潜水艦の頭上にあらわれるか。\n いずれにもせよ、柳下機の着水して無事艦内に収容せられることは、非常にむずかしいこととなった。\n\n\n 空爆下の着艦\n\n\n 黒一色の夜空を見あげ、しばし考えこんでいた艦長水原少佐は、このとき重大なる決心をしたものとみえ、右手を伸ばすと、はっしと艦橋をうった。\n「発火信号、用意。赤星三点!」\n ああなんという思い切った命令であろう。\n 敵の駆逐機隊は、頭上に迫りつつあるのだ。だからいま発火信号をすることは、柳下機に本艦のありかを知らせることにはなるが、同時に相手に、日本の潜水艦がここにおりますぞと、知らせるようなものである。そんなことをすれば、ホ型十三号自身、駆逐機隊から爆弾を落されることは明らかではないか。\n しかも水原艦長は、決然として発火信号の用意を命じたのである。\n やがて奥の方から、信号兵の声で、\n「発火信号、赤星三点、用意よろし」\n と、はっきり返事があった。\n「うむ。――発射!」\n どーん、ぱぱぱっと、赤星三点! きらきら光りながら、風に流れてゆく。\n 艦長以下、この発火信号がもたらす効果いかにと、石像のように艦橋に突立っている。\n「聴音班報告。柳下機は近づきました」\n「うむ」\n と艦長は、うなる。\n 伝声管が鳴って、当直入野一等兵曹がかけよる。\n「艦長、無電班報告。英海軍駆逐機隊の無電交信を傍受せり。方向は、東南東、距離不明なれども、極めて接近せるものと認む」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 発信符号をしらべてあるから、無電の主は何者だと、すぐに分かるのだ。\n これを聞いて水原少佐は、唇をかんだ。\n しかしはじめの決意はすこしも変らなかった。\n「艦長。監視班報告。左舷十度、高度五百メートルに艦載機の前部灯が見えます」\n おお柳下機だ。いよいよ戻ってきたのだ。\n「信号灯点火、本艦の位置を示せ」\n 号令とともに、艦首と艦尾に、青灯と赤灯とがついた。\n「艦載機帰艦用意――探照灯、左舷着水海面を照らせ」\n 艦内は号令を伝える声と、作業にかけまわる水兵たちの靴音やかけ声で、火事場のような騒であった。\n 前檣からは、青白い探照灯がさっと波立つ海面を照らしつけた。\n もうこうなっては何もかもむきだしだ。英国機はもう頭上に来ているかも知れない。が、今はそんなことを心配している場合ではない。\n 艦長水原少佐は厳然とかまえている。いざという時にびくともしない沈勇ぶりは、さすがにたのもしい限りだ。\n 爆音は、もうそこへ近づいた。\n ばしゃーっという水音に続いて、どどどどどど。\n 探照灯に照らし出された海面へ叩きつけるようなフロートの響。\n おおまぎれもなく柳下機だ。\n 機は水面を一二度弾んでから、プロペラーをぶりぶりぶりと廻転させつつ、たくみに本艦に接近してくる。\n 飛行班員は総員波にあらわれている甲板上で大活動を始めた。起重機の腕はしずかに横に伸びてゆく。その上によじのぼって繋留索を操っている水兵がある。いずれも人間業とも思えない敏捷さだ。\n 海面を滑って来た柳下機が、起重機の腕の下をくぐろうとした時、繋留索はたくみに飛行機をくいとめた。\n 水上機は波間より浮きあがった。\n 飛行帽に飛行服の柳下空曹長の姿が見える。\n 起重機はぐーっと動きだした。\n 艦橋の上では艦長以下が固唾をのんでこの繋留作業の模様をみつめている。\n このとき艦橋当直下士官が叫んだ。\n「艦長、聴音班報告です」\n「おう、――」\n「敵機襲来。その数六機。いずれも本艦頭上にあり。おわり」\n「本艦頭上か。よし」\n 次は急降下爆撃とおいでなさるか。\n「作業、急げ!」\n 甲板上では、飛行班の指揮者が呶鳴っている。\n と、その時左舷の方にあたって、眼もくらむような大閃光と同時に艦橋も檣も火の海!\n だだだーん、がががーん。\n ひゅうひゅうひゅう。ざざざざっ。\n 天も海もひっくりかえるような大音響だ。\n「空爆だ!」\n「作業、急げ!」\n「総員、波に気をつけ!」\n 大きなうねりが、艦尾から滝のように襲いかかってきた。\n 艦橋も檣も起重機も、そして艦載機も、その激浪にのまれてしまったかと思われた。二千トンの潜水艦が、木の葉のようにゆれる。\n「作業、急げ!」\n この騒ぎの中に落ちついた号令がたのもしく聞えた。\n 水原少佐は全身ずぶぬれになったことも知らぬ気に繋留作業をみつめている。\n いま爆弾を落した敵機群がどこにいるのか、知らぬといった顔であった。\n がらがらがら、がらがらがらと、鎖は甲板を走る。号笛がぴいぴいと鳴る。\n「よし、うまくいった。そこで一、二、三」\n ついに艦載機はうまく格納庫に入った。\n 鉄扉は左右から固くとじられた。\n たたたたたっと、作業をおえて甲板を走ってかえる飛行班の兵員たち。\n 天佑であったか、爆撃下の難作業は見事に成功したのだった。\n 艦長は、はじめてにこりと笑って、爆音しきりにきこえる暗空を見上げた。そして、「急ぎ潜航用意、総員艦内に下れ!」\n と号令した。\n まことに水ぎわ立った引揚であった。\n 甲板からも、艦橋からも、人影が消えた。艦はすでに波間にぐんぐん沈下しつつある。\n 嚇かしのように、こんどは艦首はるか向こうに爆弾が落ちて、はげしい閃光と、見上げるように背の高い水柱と、硝煙と大音響と波浪が起きたけれど、わが潜水艦はまるでそれに気がつかないかのように、黒鯨のようなその大きな艦体をしずかにしずかに波間に没しさったのであった。\n\n\n 壊れた窓硝子\n\n\n 飛行島の鋼鉄宮殿の中。\n そこは重傷の杉田二等水兵がベッドに横たわっている病室であったが、入口の扉を背に、可憐な梨花がしくしく泣いている。\n「梨花。こんなたいへんなことをしでかして、お前どう詫びますか」\n と、かんかんになって怒っているのは、白人の看護婦だった。見れば、病室の大きな窓硝子が二枚も、めちゃめちゃに壊れている。\n 床の上には、雑巾棒がながながと横たわっている。\n 白人看護婦に叱りつけられて、梨花は声をあげて泣きだした。\n 杉田二等水兵はベッドに寝たまま、枕から頭をもたげ、\n「おいおい、いい加減にして喧嘩はやめにしろ。――といったって、俺の日本語は一向相手に通じやしない。どうもこいつは弱った」\n と、また頭を枕の上にどしんとおいて、眼をつむった。\n「この硝子は高いんですよ。お前なんかが一年働いたって、二年働いたって、買えるような硝子じゃなくってよ」\n と、白人の看護婦は、にくにくしげに梨花をにらみつけた。どうやら、まだまだ小言が足りないといった様子だ。\n「あ、そうだ」\n 杉田二等水兵はまた枕から頭をもたげた。そして両手を出して、手真似をはじめた。\n はじめ白人看護婦を指して右の人さし指を一本たて、こんどは梨花を指して左の人さし指を一本立てた。そしてそれを向かいあわせにもってきて、ぴょこぴょこさげ、両方の指がしきりにお辞儀をしているような型をやって見せた。\n 梨花は、顔をあげて、杉田二等水兵の指芝居をながめている。白人看護婦の方は、腕ぐみをしたまま、ちらと見て、\n(わかっているよ、わかっているよ)\n と、頤をしゃくってみせた。\n 杉田二等水兵は、尚仲直りをさせようとして、自分の両手をがっちり握りあわせて、しきりに上下にふってみせた。\n「梨花、さっきお前がたのみにいった硝子屋は、まだ来ないじゃないか」\n そういった白人看護婦の話から察すると、梨花はもうかなり前にこの窓硝子を破ったものらしかった。硝子屋に至急壊れた窓硝子を入れかえるように命じてあるものらしい。\n「じゃ。もう一度、さいそくしてまいりましょうか」\n「そうおし。早くなおしておいてくれなければ、あたしがドクトルに叱られちまうじゃないの」\n 梨花が、かしこまって、扉から出ようとした時、この扉の外からノックの音があった。\n 白人看護婦は、はっと胸をおさえて扉の方を向いた。\n と扉があいて入ってきたのは、大きな硝子板を抱えた中国人の硝子屋だった。\n「まあびっくりした。硝子屋かい。ずいぶん前にたのんだのに、来るのが遅いねえ」\n「へえへえどうも相すみません。すぐに入れかえますよ、美しいお嬢さま」\n 美しいお嬢さまと呼ばれて、看護婦はまあ――とうれしそうに眼を天井につりあげる。\n とたんに、がしゃんと大きな音。\n「きゃっ、――」\n 中国人の硝子屋が、硝子板のさきでもって、看護婦のそばにあった大きな花活を床の上につき落して壊してしまった。水がざあっと看護婦の白い制服にひっかかって、たいへんなことになった。\n「あっ、あっ、あっ、これこのとおり、私、いくらでも弁償します。お嬢さん、ゆるしてください」\n 中国人の硝子屋はしきりとあやまる。\n 看護婦は、あまりのことに呆れて声もでないという風であったが、やがてつかつかと中国人のそばに寄ると見るまに、平手で彼の頬をぴしゃりとひっぱたいて、すたすたと部屋を出ていってしまった。\n 中国人の硝子屋は、怒るか泣くかするかとおもいのほか、にやと笑った。意外、流暢な日本語で、\n「うふふふ、俺の頬っぺたをうったんじゃ、手の方がいたかったろう」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「兎に角、宜しく頼むよ。僕は新米の又新米だから」\n「お互に力になろう。大学出は君と僕丈けで、余他は皆高商と私立だからね」\n と安川君も同級生を得て喜んだ。堀尾君は初めて出仕した朝、例の銓衡委員長から二時間に亙って勤務上の注意を申渡されたので、\n「あの痘痕面は一体何者だい?」\n と確めて置く必要を認めた。\n「人事課長だよ」\n「ふうむ」\n「鳧三平って利者だ」\n「え?」\n「鳧三平。なかりけりの鳧さ」\n「変な苗字だね」\n「類がない。この会社では鳧が鳧をつけるというくらいで、社長の懐ろ刀だよ。あの人に睨まれたら首がない」\n「何だか厭な奴だな」\n「やかまし屋だぜ。人事課長は新兵係だから溜まらない」\n「新兵係というと?」\n「お互の指導訓練を引受けているのさ。僕達は一月ばかり鳧さんから講習を受けたよ」\n「何の?」\n「執務上の心得さ。経験家だから無論悪いことは言わないが、あの人の註文通りにやったら命が続かなかろうって評判だ」\n「僕も一昨日二時間ばかりお説法を食ったよ」\n「後から入ったから、それぐらいで済んだのさ。余っ程徳をしている」\n「いや、尚お追々小言を言うから、その積りでと予約をしてくれた」\n「僕達だって皆未だにやられるんだよ」\n「人事課からこゝまで目が届くのかね?」\n「僕達は人事課から庶務課へ委託生ってことになっている。こゝの課長から成績の報告が行くんだ。決して油断はならないぜ」\n と安川君は数ヵ月の経験から尚お具さに要領を話してくれた。二人は大学にいた頃は通り一遍の交際だったが、実社会へ出て机を並べると事が早い。間もなく懇親を深めた。\n 或日、堀尾君は、\n「安川君、この会社には伝票を書かせる外に僕達の仕事はないのかね?」\n と稍〻退屈を感じ始めて話しかけた。\n「さあ」\n「骨を折ってノートを取った民法や商法は全然要らないようだ」\n「それはこれから二十年三十年先のことだろう。三十年たっても重役にならない限りは要るまいぜ」\n「君は諦めが好いね」\n「君こそ不平が早過ぎるよ」\n「何とかもう些っと使い道がありそうなものだと思うけれど、仕方がないのかなあ」\n「差当りは伝票専門さ。僕達は簿記が分らないんだから、直ぐに帳簿にはかゝれない。これがそれまでの訓練になるんだよ」\n「何になるものか」\n「君、伝票だって馬鹿にしたものじゃないぜ。一年ぐらいやらないと、字が乗らないって話だ」\n「色紙や短冊じゃあるまいし、乗るも乗らないもあるものか」\n「君、君」\n と安川君は声を潜めて、\n「極端なことを言うと睨まれるばかりだよ」\n と注意した。\n「堀尾さん」\n と隣りの机から河西君が囁いた。これは高商出の秀才だった。\n「何ですか?」\n「僕は御同感ですよ」\n「聞えましたか?」\n「はあ。しかし大丈夫です。僕は胸がスッとしました」\n「何故ですか?」\n「日頃思っているところをあなたに道破して戴いたんです。学校で相応頭を悩ましたものは経済政策でも銀行論でも何の足しにもなりません。こゝに来て役に立つのは予科の時習った簿記丈けです」\n「僕はまだひどい。小学校で習った算術丈けです。それも加減乗除丈けです」\n「ハッハヽヽ」\n「これじゃ人間が馬鹿になりますね」\n「二三年馬鹿になれというのが鳧さんの御教訓ですよ」\n「はヽあ。然うですか?」\n「仕方ありませんよ」\n「楽には楽ですな。馬鹿になるには些っとも努力が要りませんから」\n と堀尾君は共鳴者があったので、聊か意を強うした。\n 不平を言うものは本当に仕事をしていない。今まで失策った社員は大抵それである。豈戒めざるべけんやというのが鳧さんの訓諭の一節で、堀尾君は正にそれに当っていた。数日後、\n「堀尾さんというお方」\n と人事課の給仕が呼びに来た。\n「僕だよ」\n と堀尾君は元気好く立って行って、鳧三平さんの面前へ出頭した。\n「かけ給え」\n と鳧さんが椅子へ請じた。\n「何か御用でございますか?」\n と腰を下した堀尾君は既に予感があった。\n「他のことでもないが、君の将来の為めに一寸御注意申上げて置きたいと思って」\n「はあ」\n「昨日給仕に君の紙屑籠を掃除させたら、伝票の書き潰しが十五枚出て来た」\n「はゝあ」\n「この通り、これは皆君の筆蹟だろう?」\n と、鳧さんは机の引出から出して、十五枚念入りに並べて見せた。\n「僕のに相違ありません」\n「伝票は二寸か三寸の紙片だから、無論重大問題じゃないが、精神の上から考えて見て、斯ういうことは面白くない」\n「はあ」\n「君は一日に何枚ぐらい書くね」\n「百枚ぐらいでしょう」\n「百枚の中を十五枚書き潰すと、ロウズが一割五分出る勘定じゃないか?」\n「ロウズって何ですか?」\n「屑さ。君は知らないのかい?」\n「英語ですか? 独逸語ですか?」\n「堀尾君、君はそれがいけない」\n「はあ」\n「百枚のところを十五枚なら、ロウズが一割五分の勘定だろう?」\n「はあ。数学に真理のある限り」\n と堀尾君は己を制することを忘れた。書き潰しの悪いことは分っているけれど、十五枚丁寧にズラリと並べられたのが癪に障ったのである。\n「堀尾君」\n「はあ」\n「君は僕を茶化すのか?」\n と鳧さんも急き込んだ。\n「いや、決して」\n「それなら態度を改め給え」\n「御注意に従って、以来気をつけます」\n「僕は君達の為めを思って苦言を呈するんだから、悪く取っちゃ困る」\n「分りました」\n「宜しい」\n「失礼致しました。それでは」\n「まあ、待ち給え」\n「はあ」\n「君は入ったばかりで会社の事情を能く知らないんだから、序にもう少し話そう」\n「承わります」\n「目下日本は欧洲戦争中の火事泥的景気に見放されて、何も彼もガラ落ちだ。実に危い。会社が毎日のように倒れる。こゝはビクともしないが、世帯が大きい丈けに、油断は大敵だ。それで極力緊縮政策を執ることになって、節約を励行している」\n「はあ」\n「然うかといって、君、俸給をへらす次第には行かないだろう?」\n「はあ」\n「お互に能率を下げないで、経常費を出来る丈け節約しようという申合せになったのさ」\n「成程。御道理です」\n と堀尾君も斯う打ち解けた調子で話しかけられると、和がざるを得ない。底意は悪くない人だと思った。\n「例えば会社から諸君に支給する昼の弁当だね。従来三十銭だったのをこの春から二十五銭に下げた。本社支店工場を通じて約千名の社員だから、僅か五銭でも馬鹿にならない。一日五十円の月千五百円。年に一万八千円。何うだね? 君」\n「大変なものですな」\n「好況時代に識らず識らず膨脹しているんだから、緊縮の余地は充分ある。万事この遣口で行って、十五万節約して見給え。十五万円は仮りに七分五厘として何万円の利子に当る?」\n「さあ」\n「大学出は算盤が出来ない」\n「............」\n「数学に真理のある限り、二百万円の資本を運転したことになるんだよ。分ったかね?」\n と鳧さんは先刻の仇討ちだった。この辺、甚だ大人気ない。\n「はあ」\n と頷いたものゝ、堀尾君は忌々しかった。五十五円の月給取だ。万以上の金になると、然う右から左へは暗算が利かない。\n「大きなものじゃないか? お互の心掛け一つで二百万円の商売をしたのも同じことになるんだ」\n「御道理です」\n「君、この際だからね。伝票を一割五分も無駄にしたんじゃ大変だ。社員全体が君と同じ心掛けでやって見給え。アベコベに四百万円の資本を遊ばせることになる」\n「それは数学が違いましょう」\n「いや、大体の理屈さ」\n「大体の理屈でも理不尽です」\n「伝票は知れたものだと言うのかね?」\n「然うです。無論以来気をつけますけれど」\n「一事が万事だから心掛けが大切だという話さ。然う躍起にならなくても宜かろう」\n「失礼申上げました」\n「伝票の方はもう宜しい。君は分っているんだから」\n「はあ」\n「しかし堀尾君、会社の便箋も同様だぜ」\n と鳧さんは引出から皺になったのを二枚出して渡した。堀尾君はそれを披見して、真赤になった。道子さんへ宛てた手紙の書き損じだった。\n「............」\n「堀尾君、もう宜しい」\n「............」\n「心配は要らない」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「失礼します」\n と堀尾君は庶務課へ戻って来た。\n「君、何うした?」\n と安川君が怪んだ。\n「あゝ」\n「やられたね?」\n「実に失敬な奴だ」\n と堀尾君は歯ぎしりをしたが、非は自分にある。しかし狡猾で便箋を利用したのでない。愛人へ書く為めには一枚の紙が十円しても惜しくないと思っている。その辺を説明してやりたかったが、今更仕方がなかった。\n 間瀬君改め清水君のところへ招待されたのは丁度その日の夕刻だった。\n「待ったぜ」\n と清水君が玄関へ出迎えた。\n「晩かったかい?」\n「然うでもない。出ると叱られるけれど、今日は特別さ」\n「うむ」\n と堀尾君は客間へ通った。\n「昨夜は失敬した」\n「僕こそ」\n「湯に入らないか? 僕は先刻済んだ」\n「面倒だ」\n「無精を極めないで流し給え。清々するぜ」\n「よそう」\n「何うしたんだい? 顔色が悪いぞ」\n「おれは会社をよそうと思う」\n「え?」\n「五十五円で縛られるのは考えものだ」\n「又始まったね」\n「実に癪に障る」\n「喧嘩をしたな?」\n「いや、喧嘩にならないんだから残念だ」\n「相手は誰だい?」\n「上役だ」\n と堀尾君が答えた時、\n「まあ〳〵、ようこそお越し下さいました」\n とあぐりさんが挨拶に現れた。堀尾君もお客に来た以上然う屈託ばかりしていられない。勧められるまゝ風呂に入って、浴衣に着替えた。食卓についてから、\n「然う〳〵。犬を見るんだったね」\n と間瀬君改め清水君が思い出した。\n「犬なんかもう何うでも宜い」\n「おい。それじゃ約束が違うじゃないか?」\n「貰うよ〳〵」\n と堀尾君は気がついたように、あぐりさんの方を見て一礼した。\n「可愛いんでございますよ」\n「もう目が明いているんですか?」\n「はあ。ソロ〳〵一月たちますから、大きくなっています」\n「親は近所のお魚を取って来るというお話ですが、本当でございますか?」\n「まあ。オホヽヽヽ」\n とあぐりさんはお給仕をしながらお取り持ちに勧める。先頃は然うも思わなかったが、ナカ〳〵綺麗で、明るい感じのする人だ。\n「君、胡坐をかき給え」\n と清水君が勧める。\n「それじゃ失敬する」\n「暑かないかい?」\n「いや、結構だ。ハッハヽヽ」\n と堀尾君は寛いだ。\n「奥田さんはいつ頃いらっしゃいますの?」\n とあぐりさんが道子さんのことを訊いた。\n「来月の十日頃です」\n「キリ〳〵でございますわね」\n「二日三日早くなるかも知れません」\n「失礼ながら、お宅の方へは?」\n「はあ?」\n「白ばっくれるなよ。一日も早くって、目下両方で画策中じゃないか?」\n と清水君が素っぱ抜いた。\n「まさか。オホヽヽ」\n「本当だよ。家を持つのもその支度さ。道子さんが鞆から毎日訓令を発している」\n「あなた」\n「ハッハヽヽ」\n「参ったな」\n と堀尾君は頭を掻きながらも悪くなかった。\n 食事中道子さんの話で持ち切って、\n「君達のは自由恋愛で仲人があるまいから、僕達が引き受けようか?」\n と清水君が調子づいた。\n「頼んでも宜い」\n「でも、結婚したばかりで仲人なんて、宜いものでしょうか?」\n とあぐりさんも差支ないものなら、やる積りだった。\n「別に法律上の規定はない」\n「そんなこと分っていますわ」\n「実際適任だぜ。両方とも同級生だから」\n「本当に頼むよ、間瀬君。いや、清水君。奥さん、これは失礼」\n と堀尾君がまごついて、\n「ハッハヽヽ」\n「オホヽヽ」\n と大笑いになった。\n 食後、あぐりさんが引き退ってから、\n「君、会社の方をやめるってのは本気かい?」\n と清水君が声を潜めた。堀尾君は一部始終を話して、\n「僕が悪かったに相違ないが、先方はそれを好い機会に宿怨を晴らす積りだから卑劣極まる」\n と憤慨した。\n「それで君は何うしようというんだ?」\n「明日行って辞表を叩きつける」\n「愚だよ」\n「何故?」\n「それじゃ君が負けることになる」\n「無論やるさ」\n「まさか腕力じゃあるまいね?」\n「その時の都合次第だ」\n「矢っ張り昨夜言った通り、僕の友達じゃ君が一番乱暴だよ。辞表を出してからだと、もう縁の切れた人間だから、警察へ突き出されるかも知れないぜ」\n「安心し給え。そんなヘマはやらない。これでも喧嘩は中学時代から名人の域に達している」\n「勝ったところで見す〳〵首がなくなるんだから詰まらない話じゃないか? 僕は知らなければ仕方がないが、聞いた以上は何処までも不賛成を唱える」\n と清水君は一生懸命だった。\n「○○紡績ばかりが会社でもなかろう」\n「しかしこの不景気にナカ〳〵口はないぜ」\n「打算はもう棚へ上げているんだ」\n「無論然うだろうが、道子さんは上京して、君が失業していたら、喜ぶか知ら?」\n「皮肉を言うなよ。失望するに定っていらあ」\n「君は十月頃貰う積りで毎日通信しているんだろう?」\n「うむ」\n「相談してから定め給え。事後承諾は無理だろうぜ」\n「さあ」\n「上役って奴は何処へ行ってもいるんだからね」\n「見渡す限りか?」\n「うむ。癪に障る度に喧嘩をして首になっていたんじゃ果しがないぜ」\n「今回丈けはやりたい」\n「仕方のない奴だなあ」\n「鳧の畜生!」\n と堀尾君は何うしても堪忍出来ない。\n\nよく〳〵の因縁\n\n 上役に叱られた場合、下役は恐縮するに限る。\n「何うも済みませんでした」\n と云えば済むのである。これが一番手数がかゝらない安全策だから、有らゆる下役が毎日実行している。仮りに対等の議論で行くと考えて見る。勝ったところで元々だ。大骨折って漸く自分の地位を守ったに過ぎない。負ければ体面上自裁の必要に迫られる。次に又憤慨の余り辞表を叩きつけるとして見る。これは一寸溜飲が下る。\n「痛快だ」\n と第三者が褒めてくれる。しかし元来首を添えてやるのだから、決して悧巧な人のすることでない。非常に綺麗に負けたことになる。勤め向きは何うしても上役に分が好いような仕掛になっているから仕方がない。清水君はこの理を説いた。\n「それじゃ長いものに巻かれろと言うんだね?」\n と堀尾君は未だ不服だった。\n「要するに然うさ。何の道、勝てっこないんだから」\n「情けないなあ」\n「世話をして貰ったばかりで問題を起したんじゃ西本先生にも済むまいぜ」\n「それが一番困るんだ」\n「兎に角、辞表丈けは思い止り給え」\n「さあ」\n「君が書かなくても、先方で取計らってくれるよ」\n「何方にしても首がないのかい?」\n「当り前さ」\n「君は妙に鳧贔屓だね?」\n「何と言われても、上役に食ってかゝることには賛成出来ない。愚挙だよ」\n と清水君は極力反対を続けた。\n 堀尾君は一晩寝て起きたら、大分平静に戻った。憤激は脳細胞の疲労にもよる。よく眠ると自然落ちつく。そこへ朝食中に道子さんから手紙が着いたのも好い緩和剤になった。昨日は来なくて失望していたところだったから、殊に嬉しかった。\n「親類へ行っていて一日御無沙汰致しました。申訳ありません。お手紙二日分唯今拝読致しました。云々」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「逃げるか、卑怯者、待て!」\n 左門は追い縋った。\n 喊声が起こった。\n 十数人の人影が、抜き身を芒の穂のように揃え、一団となり、庭を、こっちへ殺到して来ようとしていた。\n 五郎蔵の乾児達であった。\n その中から角右衛門の声が響いた。\n「彼奴こそ、先夜、飯塚殿の屋敷で、我々の同僚二人を、いわれなく討ち果たしました悪侍でござる!」\n つづいて、紋太郎の声が響いた。\n「我々同僚の敵、お討ち取りくだされ!」\n その人数の中へ、駈け込んで行く頼母の姿が見えた。\n 頼母の声が響いた。\n「彼は五味左門と申し、拙者の実父忠右衛門を討ち取りましたる者、本日巡り逢いましたを幸い、復讐いたしたき所存......」\n 群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がっている額を月光に曝らし、左門の方を睨んでいた。\n 彼は、紋太郎によって呼び立てられ、眼覚めるや、乾児たちと一緒に、庭へ出て来たのであった。彼は、来る間に、紋太郎から、紙帳武士のどういう素姓の者であるかを聞かされた。飯塚薪左衛門の屋敷で、角右衛門や紋太郎の同僚を、二人まで、いわれもないのに討ち果たした悪侍とのことであった。しかし彼としては、その言葉を、どの程度まで信じてよいか解らなかった。が、庭へ出て来て、前髪立ちの武士から、その武士が、親の敵だと叫ばれ、その武士が、前髪立ちの武士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を背後へ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気を迸らせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。\n「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っ包んで膾に刻んでしまえ! しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ! やれ!」\n 声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。\n 黒い潮が、渦巻き、沸き立つように見えた。飛沫が、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、三個の死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。\n\n 子供を産む妖怪蜘蛛\n\n 五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷の方を眺めると、\n「蜘蛛が! 大蜘蛛が!」\n と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。\n 畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着いてる斑点は、五味左衛門の腸によって印けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。\n 庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろを巻き尻尾にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛なく彷徨って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。\n やがて、母屋と離座敷との間の通路から、この旅籠、武蔵屋の構外へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。\n 三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張らせ、呼吸を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。\n「遁がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱のように落とし、反けざまに斃れた。\n 蜘蛛の姿は消えていた。\n\n その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣を起こしたかのように、顫えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲っている空を飛んで、三間ほどの彼方へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。\n\n 怨恨上と下\n\n 最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。\n 彼女は疲労れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。\n 藻屑のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。\n(咽喉が乾く! 水が飲みたい!)\n 彼女はこればかりを思っていた。\n(川があるらしい、水の音がする)"
},
{
"role": "assistant",
"content": " この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。\n 一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明の火が、数百も列をなし、蜒り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。\n お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。\n(水が飲みたい、水を!)\n しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。\n その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。\n 彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。\n 彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。\n(彼奴ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)\n こう思っているのであった。\n(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人情も知らない奴! ......そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を発き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ......お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を騙り、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、嬲り殺しにしてやらなけりゃア!)\n 川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、黐かのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。\n と、その時、頭上から、土塊と一緒に、何物か崖を辷って落ちて来、岩に当たり、幽かな音を立て、水へ落ちた。\n 典膳は、水面を見た。細い長い木箱が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。\n 典膳は、崖の上を振り仰いだ。\n 生々と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。\n「あ」\n と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。\n「お助けくださいまするか、忝けのうござる。生々世々、ご恩に着まするぞ」\n と、典膳は、咽喉にこびりついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。\n\n 栞の恋心\n\n 腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この期になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を蠢かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、\n「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ......あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」\n 典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。\n「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を......」\n お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、\n「水を! まず、水を! ......その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。......おお、水を!」\n この二人を照らしているものは、練絹で包んだような、朧ろの月であった。\n 典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。\n 二人の顔はヒタと会った。\n「...........」\n「............」\n 鵜烏が、川面を斜に翔けながら、啼き声を零した。\n\n こういう事件があってから三日の日が経った。\n その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞は、屋敷を出て、郊外を彷徨った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹と李の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色に輝いている野川や、鶯菜や大根の葉に緑濃く彩色られている畑などの彼方に、一里の距離を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。\n(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)\n(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)\n 山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴の蕾のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬の光沢さえ付き、恋を知った処女栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁を開き、色や馨りを悩ましいまでに発散すように、栞も、恋心を解放し、にわかに美しさを加えたのであった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n 八五郎の取柄は、誰とでも、すぐ友達になれることでした。長んがい顎と、とぼけた話し振りと、そして桁の外れた己惚れが、どんな相手にも、警戒させずに近づけるのです。\n その代り、時には飛んでもない者と、すつかり眤懇になつてゐることがあります。巾着切辰三などもその一人で、相手は御法の網の目をくゞる、雜魚のやうな男。人の懷ろを狙ふのが渡世と言つても、五兩と纒まつた仕事をしたことのないといふ、世にも哀れな存在だつたのです。\n その巾着切の辰三は、江戸の巾着切仲間の一つの名物でもありました。それは巾着切の仕事を、一つの藝と心得て、決して田舍者の懷ろは狙はないといふ一つのフエーアプレーを信じ、兩國の如何はしい見世物の看板を、口を開いて眺めて居る、田舍の人の財布などを狙ふのは、面白くも何んともないばかりでなく、折角稼ぎ溜めて江戸見物に來た人達の、大事な旅費まで盜るのは、いかにも痛々しいといふのです。\n で、辰三のおとくいは、キビキビした江戸つ兒に限りました。それも、氣障なの、贅澤なの、通がつたの、ノラクラ者らしいのを狙つて、煙草入を拔くか、財布をかすめるか、精一杯に二分や一兩の收入が山で、胴卷や紙入を拔いて、死ぬの生きるのと言つた、むごたらしい目に逢はせるのは、巾着切道の極意でないと、辰三は考へて居るのです。\n 從つて、巾着切とわかつて居るくせに、辰三は誰にも憎まれることなく、御上の役人からもお目こぼしで、細く長く、その指先の至藝で暮して居りました。多くは富裕な旦那方の煙草入、御内儀の銀簪、二分か三朱の稼ぎに滿足して、萬々一思はぬ大金をすり取つたりすると、大骨を折つてすられた人を搜し出し、要らない分は、窓から投げ返して來るといふ、途方もない潔癖さです。\n 屋外泥棒も、十兩以上は打首になつた時代です。巾着切を看板にかけて居るやうな辰三が、何時までも安穩に暮らせたのは、一つは働きの方法が馬鹿々々しく義理堅かつた上に、内々は御用聞の良い顏に喰ひ入つて、諜者を勤め、その方でも調法がられて居る爲でした。\n さて、これで、巾着切の辰公の存在理由はわかつたとして、風采の方は、まことに氣の毒でした。まだ三十五六といふのに、眇目で跛足で、虫喰ひ頭の禿ちよろで、まことに見る影もない男だつたのです。家は元鳥越町の、八幡知らずの路地の奧、全くの獨り者、シミのやうに生きて居る、不思議な存在でした。\n その巾着切の辰三が、向柳原の八五郎の宿へ、ある晩、あわたゞしく飛び込んだことからこの話が始まります。\n「親分、八五郎親分。大變なことがありますよ」\n 窓の下から聲をかけると、二階の戸が開いて、長んがい顎をのぞかせながら、\n「何んだ、騷々しい、辰公ぢやないか」\n などと、八五郎はすつかり良い心持になります。その受け渡しは、八五郎自身と平次の場合そつくり。\n「ちよいと降りて下さいな。本當に大變なんだから」\n「其處で話せねえことか。飮み屋から、馬でも曳いて來たんぢやあるめえな」\n それでも八五郎は、帶引締めて、十手を腰に、薄寒い師走の往來に飛び出しました。仰ぐと、利鎌のやうな五日月。\n「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。殺しですよ、親分」\n「何? 殺しだ」\n「日頃の御恩報じ、眞つ先に親分ところに飛んで來ました。手柄にして下さい」\n「よし來た、場所は何處だ」\n「阿倍川町の六軒長屋の奧。殺されてゐるのは、そりや、好い女ですぜ」\n 兩人はもう、急ぎ足に、阿倍川町に向つて居たのです。\n「唯、好い女ぢやわからねえ。身許は? 藝子か、妾か、娘か、年増か」\n「あつしには何んにもわかりませんよ。フトしたことから、女の遺書を拾つて、その名宛をたどつて行くと、凄い年増が、縊り殺されて引つくり返つてゐるぢやありませんか。いや、驚いたの驚かねえの」\n 辰三は酸つぱい顏をするのです。\n「フトしたことで遺書を拾ふ奴があるものか。お前のいつもの傳で、拔いた懷中物にあつた遺書ぢやないのか」\n「へツ、八五郎親分はさすがに眼が高けえ。ま、そんなことかも知れませんがね」\n 辰三はムニヤムニヤと言葉尻を濁すのです。\n「それ見ろ、圖星だらう」\n などと、八五郎は好い心持になれるのです。\n\n二\n\n「その遺書といふのを見せろよ」\n「この女持の紙入ですがね」\n 取出したのは、緑色呉絽の紙入、半分は化粧道具を疊み込んだ、それは洒落れたものでした。辰三はそれを、自分の物ででもあるやうに、至つて氣樂に八五郎の手の上に置くのです。\n「遺書はこれか」\n 八五郎は無造作に手を突つ込んで、半紙を小さく疊んだ、手紙のやうなものを取出しましたが、月はもう町の家並の下に沈み、店の灯も疎くて、八五郎では讀みこなせません。\n「親分に預けて置きますから、後でゆつくり讀んで下さい。兎も角も、その紙入の中に小さい名札があつて、『阿倍川町久ら』とあつたんで、それを頼りに行つて見ると――」\n「待つてくれ、その紙入に金は入つてなかつたのか」\n「小判が一枚と、二分金と、あとは四文錢が少しばかり」\n「何處ですつたんだ」\n「相濟みません」\n「詫びなんか聽き度くない、すつた場所が知り度いのだよ」\n 八五郎の聲は、少し尖りました。二人はもう、少し息を切つて居ります。それにしても、なんと跛足の辰三の足の早いこと。これではすりの現場を見付けたところで、容易につかまる筈はありません。\n「申し上げますよ。へエ、斯うなればもう、島へ送られる覺悟で」\n「呆れた野郎だ」\n「あつしも少し呆れてゐるんで。淺草の觀音樣の境内で、お詣りした歸り、ドカンと突き當つた女があるんで」\n「お前の方から突き當つたんだらう。罰の當つた野郎だ」\n「相濟みません。でも、好い女でしたよ。ちよい〳〵見かける年増ですが、あんな好い女を見ると、ちよいと手輕なものをすり度くなります。商賣冥利でね、いゝ形見になりますから――」\n「形見だつてやがる、嫌な野郎ぢやないか」\n「へツ、へツ、馬鹿野郎になつたり、呆れた野郎になつたり、罰當りになつたり、嫌な野郎になつたり、斯う安くされちや浮ばれませんね」\n「贅澤を言ふな」\n 巾着切の辰三に對しては、八五郎も優越感で膨れ上がつて居るのでした。\n やがて二人は、阿倍川町に着きました。とある路地を入つて、右も左も塀と羽目、よくも斯んな隱れ家が見付かつたと思ふやうなところに、眞つ黒な家が一つ、とほせん坊をするやうに突つ立つて居るのでした。\n「この家ですよ親分、阿倍川町のお久良と言へば大した女ださうで、すぐわかつてしまひました」\n「眞つ暗ぢやないか、これぢや鼻をつまゝれても、わかりやしない」\n「あつしが先刻覗いたときは、灯が點いて居ましたよ。灯の點いた中に死骸があるんで膽をつぶしましたが、下手に騷ぐと、親分の手柄がフイになると思つて、向柳原まで夢中で飛んで行きましたが、變だなア」\n「兎も角、灯をつけてくれ」\n「へエ」\n「火のない國へ來たわけぢやあるめエ」\n「へエ」\n 辰三はヘドモドしながら、何處かへ飛んで行きましたが、やがて提灯を持つて戻つて來ました。\n「序に、相長屋の人達にさう言つて來ました。間もなく家主やら月番やら、この邊中の彌次馬が、井戸替ほどの騷ぎで寄つて來ますぜ。その前に調べて置いて下さい」\n「よし來た」\n 斯うなつて來ると、誰がリードしてゐるのかわかりません。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 辰三が覗いて見たといふ、窓は開いたまゝですが、入口の戸は一應締つて居りました。尤も鍵などは掛つて居ず、二人は自分の家のやうに呑氣に入つて行くのです。\n 家はたつた三間、裏長屋らしく見すぼらしい感じですが、中の調度はなか〳〵に凝つたもので、主人の日頃の生活も思ひやられます。死骸のあつたのは奧の八疊で、これは、まさに豪勢でした。その部屋の眞ん中に、座布團を半分敷いて、好い年増が引つくり返り、首に赤い扱帶を卷いたまゝ、腰から下は、前褄をきりゝと合せて、寸毫の亂れもないのが不思議に目立ちます。\n 女が縊り殺されるとき、裾のあたりを、斯うまで綺麗に合せられるものでせうか。\n「たしなみの良い佛樣ぢやないか」\n 八五郎はさすがに、これが一番先に氣がつきました。\n「それにしても、好い女ですね」\n 辰三はさうは言つたものの、死骸といふものをあまり見たことがないせゐか、無氣味さうに尻ごみして、念入りに見ては居られない樣子です。\n さう言へば、死んだ女の顏は非凡でした。蒼白く屍色を帶びて、やゝ佛作つては居りますが、それは絞殺死體によくある、むくみから來る變貌で、この女の本來の美しさは、激しい苦惱の表情の底から、無氣味なまでに人に迫るのです。\n 鼻は高い方、唇は半分開いて、美しい齒並が見えて居ります。クワツと見開いた眼、何んとも言へない凄い表情ですが、その凄さのうちに、邪惡な色つぽさと、不思議な魅力がこびり付いて、この女の並々ならぬ素姓を物語つて居るのです。\n「おい辰公、手を貸しな。この佛樣を起して背後を見たいから」\n 八五郎は遠のいてゐる辰三を顎で招きました。\n「勘辨して下さいよ、親分。あつしはこの上もない臆病なんで、死骸と來ては、猫の死骸を見ても、三日くらゐはうなされます」\n「仕樣のねえ野郎だな」\n が、八五郎が一人で骨を折るまでもありませんでした。辰三が豫告したやうに、この時どつと、近併の衆と町役人と、そして夥しい彌次馬が押し寄せて來たのです。\n\n三\n\n 八五郎が、明神下の平次の家へ行つたのは、その翌る日の朝の内でした。\n「八が來たのか。大層な勢ひぢやないか、まだ辰刻(八時)前だぜ」\n「驚いちやいけません。昨夜殺しがあつたんですよ。その現場へ行つて夜つぴて調べましたがね」\n「待つてくれ。まさか、お前が殺したわけぢやあるめえ、端折つた裾だけでもおろしてよ、其處へ坐つたらどうだ。まるで逃げ出しさうな恰好ぢやないか」\n「あつしや、逃げ出しやしませんが、下手人に逃げられさうで」\n「下手人の見當だけでもついたのか」\n「つきましたよ。ところが、臭いのが三人もあるんで、どれを縛つたものか、親分に見て頂かうと思ひましてね」\n「まア、初めから話せ。何處の誰が殺されたんだ」\n 平次はお勝手の方へ向いて、まだ朝飯前らしい八五郎のために、食事の用意をさせ、さて、自分で番茶などを入れるのです。\n その間に八五郎は、昨夜のことを話し始めました。\n「巾着切の辰三、親分も知つて居るでせう、あの變な野郎」\n「知つてるよ。大した惡黨でもなく、調法だからと言つて、お前は懇意にして居るやうだが、相手はゴミのやうな男でも、人の懷中を狙つて暮す巾着切だ。お上の御用を承はるお前が、あまり附合はない方が宜いぜ」\n「大丈夫ですよ。力づくでも智慧づくでも。あつしの方が一と廻り上なんだから、イザとなれば、グウとも言はせはしません。本人も間違つて大それたことをして、萬一お召捕になる時は、八五郎親分の繩にかゝる――と口癖に言つて居るくらゐだから」\n「まア宜い、それがどうなのだ」\n 平次に促がされて、八五郎は、昨夜の冒險を、細々と報告しました。阿倍川町のお久良といふ不思議な美女の死が、若い八五郎の情熱を掻き立てます。\n「何しろ、大變な女でした。縊り殺されても、前褄をピタリと合せて、ふくら脛も見せないんだから、良いたしなみでせう」\n「馬鹿だなア、殺されながら裾を合せる人間があるものか。それは、死んだあとで曲者が直してやつたのだよ。流しや氣紛れの殺しぢやない。女の身内の者か、亭主か情夫か、關はりのあるものの仕業だ」\n「あ、成る程ね」\n「感心してやがる。緋縮緬の扱帶で殺して、死骸の裾を直して置くのは、女に未練のある奴の仕業に極まつてるぢやないか。その女の身許や素姓はわかつて居るのか」\n「いづれ玄人あがりでせうが、人の妾なんださうで、旦那は赤松院門前町の金貸で、阿波屋浪太郎。近頃上方から江戸へ來た男ですが、こいつは大した金持で、早速人をやつて見ましたが、三日も前から房州へ取立てに行つて留守。相手は小大名か大旗本で、その領地か知行所へ行つたから、急には戻るまいといふことでした。留守は、通ひ番頭の金三郎と、小僧の壽助が預かつて居ります」\n「その他に、繁々來る男はないのか」\n「有りますよ。有り過ぎて困るくらゐで」\n「――」\n「役者の大村喜十郎、こいつはちよいとした二枚目でさ。尤も、田舍廻りの役者で、江戸の檜舞臺を踏む貫祿ぢやありません。男のくせに、ナヨナヨとした大變な野郎で、一名は蟻地獄」\n「それが怪しいのか」\n「怪しいどころの騷ぎぢやありません。その死骸の側に蟻地獄野郎の定紋の金具をつけた、煙草入があつたんだから、文句はないでせう。唯煙草入があるだけなら、三日前に忘れて行つたといふ言ひのがれもあるわけだが、洒落れた煙草入の、煙管は拔いた上に、雁首に煙草まで詰めてあつたんだから、こいつは文句はないでせう」\n「その煙管を見たいな」\n「念のために持つて來ましたよ。見て下さい、この通り」\n 八五郎は懷中から、女持見たいな、紫色の懷中煙草入を取出しました。煙管を拔いて見ると、吸口だけは銀を張つた、これも華奢なものですが、雁首にはチヤンと、刻みの細かい良い煙草が詰めてあるのです。\n「八、俺もお前も、尻から煙の出るほど煙草を好きだが、この煙管の煙草の詰めやうを變だとは思はないか」\n「へエ」\n 八五郎にはまだ見當がつかない樣子です。\n「こんなに固く詰めた煙草は、吸へるかどうか、試して見るが宜い」\n「?」\n「大村喜十郎とやら、田舍廻りでも、二枚目の好い男の役者に違ひあるまい。それが、こんなに固く詰めた煙草を、頬つぺたを凹ませて吸ふわけはないと思ふが、どうだ」\n「へエ」\n「これは、煙草を呑まない素人の詰めた煙草だよ、――大村喜十郎は下手人ぢやあるまいよ。もう一人の男といふのは誰だ」\n 平次は坐つたまゝで、もう一人の無實を救ふのです。\n「もう一人の男は、鐵之助といふ遊び人で、松前鐵之助と違つて、股旅の鐵之助といふちよいと苦み走つた、好い男の小博奕打で」\n「それを當つて見たか」\n「昨夜のうちに突きとめて、見張らせて置きました。近所の賭場にもぐつて、良い加減勝ち續けて居ましたよ。宵から目が出たさうで」\n「人殺しをした足で賭場にもぐつて、勝ち續けるのは、大した膽つ玉ぢやないか」\n「そんなものですかね」\n「もう一人、怪しいのがあつた筈ぢやないか、誰だいそれは」\n「下女のお紺といふ女で、――殺された主人のお久良と同年輩の二十二三ですが、こいつは、飯を炊いて掃除をする外には能のない、恐しいぼんやりで、お久良のところへ、不斷どんな男が出入りするか、それも覺えちや居ません」\n「その女はどうした」\n「お久良に小遣を貰つて一日のんびりと近所の叔母さんのところで遊んで來たさうで、大騷ぎの最中に、ぼんやり戻つて來ましたよ」\n「もう宜い。ところで、お前は辰三に預かつた、女持の紙入を持つて居るだらうな」\n「これですよ」\n 八五郎は又懷中を探つて、手拭に包んだ、紙入を取出し、平次の掌の上に載せました。それは、エメラルド・グリーンの素晴らしい呉絽、翡翠の息づくやうな飾りが付いて、金無垢の小ハゼで留めた、平次も見たことのないやうな、恐ろしく豪華なもの。中を開くと、玩具のやうな純銀の化粧道具が三つ四つ、眞ん中の深いポケツトに、小さく疊んだ半紙の遺書が入つて居るのです。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「ほほう、若者までが消え失せるとは少し奇態じゃな」\n いぶかしそうに首をかしげていましたが、やがて静かにまた頭巾をすると、両手を懐中に素足の雪駄を音もなく運ばせて、群衆達の感嘆しながらどよめき合っている中を、悠然として江戸町の方へ曲って行きました。\n だが、曲るは曲って行ったにしても、素見一つするでもなく、勿論登ろうというような気はいは更になく、唯何と言うことなくぶらりぶらりと、曲っていっただけの事でした。しかし、何の目的もないかと言うに、そうではないのです。実はこれが主水之介に、あまり類のない旗本退屈男と言うような異名を生じさせたそもそもの原因ですが、実に彼のこうして吉原五町街をぶらぶらとあてもなくさ迷いつづける事は、きのうや今日に始まったのではなく、殆んど三年来の一日一夜も欠かしたことのない日課なのでした。それも通いつめた女でもあるのなら格別なこと、どこにそれと思われる対手もないのに、唯そうやって一廻りするだけなのですから、まことに変り者です。しかし主水之介にして見れば大いに理由のあることで、せめてもそんな事なとしていなくては、とても彼は、この人の世が、否生きている事すら迄が、退屈で退屈でならないためからでした。\n 退屈! 退屈! 不思議な退屈! 何が彼をそんなに退屈させたか?――言わずと知れたその原因は、古今に稀な元禄という泰平限りない時代そのものが、この秀抜な直参旗本を悉く退屈させたのでした。今更改まって説明する迄もなく、およそ直参旗本の本来なる職分は、天下騒乱有事の際をおもんぱかって備えられた筈のものであるのに、小癪なことにも江戸の天下は平穏すぎて、腹の立つ程な泰平ぶりを示し、折角無双な腕力を持っていても、これを生かすべき戦乱はなく、ために栄達の折もなく、むしろ過ぎたるは及ばざるに如かずのごとき無事泰平を示現しつつありましたので、早乙女主水之介のごとき生粋の直参旗本にとっては、この世が退屈に思われるのが当然中の当然なことでした。\n しかし、主水之介は退屈しているにしても、世上には一向に退屈しないのがいるから、皮肉と言えば皮肉です。\n\n〽――高い山から谷底見れば\n 瓜や茄子の花ざかり\n アリャ、メデタイナ、メデタイナ\n\n そんな変哲もない事がなぜにまためでたいと言うのか、突如向うの二階から、ドンチャカ、ジャカジャカという鳴り物に合わして、奇声をあげながら唄い出した遊客の声がありました。\n「ウフフ......。他愛のない事を申しおるな。いっそわしもあの者共位、馬鹿に生みつけて貰うと仕合せじゃったな――」\n ききつけて主水之介は悲しげに微笑をもらすと、やがてのっそりと道をかえながら、角町の方に曲って行きました。\n と――、その出合がしら、待ち伏せてでもいたかのごとくにばたばたと走り出ながら、はしたなく言った女の声がありました。\n「ま! さき程からもうお越しかもうお越しかとお待ちしておりいした。今日はもう、どのように言いなんしても、かえしはしませぬぞ」\n ――声の主は笑止なことに身分柄もわきまえず、大身旗本のこの名物男早乙女主水之介に、もう久しい前から及ばぬ恋慕をよせている、そこの淡路楼と言う家の散茶女郎水浪でした。うれしいと言えばうれしい女の言葉でしたが、しかし主水之介は冷やかに微笑すると、ずばりと言いました。\n「毎夜々々、うるさい事を申す奴よな。わしが女子や酒にたやすく溺るる事が出来たら、このように退屈なぞいたさぬわ」\n あっさりその手を払いすてると、悠然として揚屋町の方にまた曲って行きました。\n こうしてどこというあてもなく、ぶらりぶらりと二廻りしてしまったのが丁度四ツ半下り、――流連客以外にはもう登楼もままならぬ深夜に近い時刻です。わびしくくるりと一廻りした主水之介は、そのままわびしげに、道をおのが屋敷の本所長割下水に引揚げて行きました。\n\n三\n\n 屋敷は、無役なりとも表高千二百石の大身ですから、無論のことに一丁四方を越えた大邸宅で、しかも退屈男の面目は、ここに於ても躍如たる一面を見せて、下働らきの女三人、庭番男が二人、門番兼役の若党がひとりと、下廻りの者は無人ながらも形を整えていましたが、肝腎の上働らきに従事する腰元侍女小間使いの類は、唯の半分も姿を見せぬ変った住いぶりでした。しかも、それでいてこの変り者は、もう三十四歳という男盛りであるのに、いち人の妻妾すらも蓄えていないのでしたから、何びとが寝起きの介抱、乃至は身の廻りの世話をするか、甚だそれが気にかかることでしたが、天はなかなか洒落た造物主です、いともうれしい事に、この変り者はいち人の妹を与えられているのでした。芳紀まさに十七歳、無論のこと玲瓏玉をあざむく美少女です。名も亦それにふさわしい、菊路というのでした。\n さればこそ居間へ這入って見ると、すでにそこには夜の物の用意が整えられていましたので退屈男はかえったままの宗十郎頭巾姿で、長い蝋色鞘すらも抜きとろうとせずに、先ずごろり夜具の上へ大の字になりました。\n と――、その物音をききつけたかして、さやさや妙なる衣摺れの音を立てながら、近よって来たものは妹菊路です。だが、殊のほか無言でした。黙ってすうと這入って来ると、短檠の灯影をさけるようにして、その美しい面を横にそむけながら、大の字となっている兄のうしろに黙々と寝間着を介添えました。それがいつもの習慣と見えて、退屈男も黙然として起き上がりながら、黙然として寝間着に着替えようとした刹那! 聞えたのはすすり泣きです。\n「おや! 菊、そちは泣いているな」\n 図星をさされてか、はッとして、慌てながら一層面をそむけましたが、途端にほろほろと大きな雫が、その丸まっちく肉の熟れ盛った膝がしらに落ち散ったので、退屈男の不審は当然のごとくに高まりました。\n「今迄一度もそのような事はなかったが、今宵はまたどうしたことじゃ」\n「.........」\n「黙っていては分らぬ。兄が無役で世間にも出ずにいるゆえ、それが悲しゅうて泣いたのか」\n「.........」\n「水臭い奴よな。では、兄が毎晩こうして夜遊びに出歩きするゆえ、それが辛うて泣くのか」\n「.........」\n「わしに似て、そちもなかなか強情じゃな。では、もう聞いてやらぬぞ」\n と――、もじもじ菊路が言いもよって、どうした事かうなじ迄もいじらしい紅葉に染めていましたが、不意に小声でなにかを恐るるもののごとくに念を押しました。\n「では、あのおききしますが、お兄様はあの決して、お叱りなさりませぬか」\n「突然異な事を申す奴よ喃。叱りはせぬよ、叱りはせぬよ」\n「きっとでござりまするな」\n「ああ、きっと叱りはせぬよ。いかがいたした」\n「では申しまするが、わたくし今、一生一度のような悲しい目に、合うているのでござります......」\n「なに? 一生一度の悲しい目とな? 仔細は何じゃ」\n「その仔細が、あの......」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「いかがいたした」\n「お叱りなさりはせぬかと思うて恐いのでござりますけれど、実はあの、お目をかすめまして、この程から、さるお方様と、つい契り合うてしもうたのでござります」\n「なに! なに! ほほう、それはどうも容易ならぬ事に相成ったぞ。いや、まて、まて、少々退屈払いが出来そうじゃわい。今坐り直すゆえ、ちょッとまて! それで、なんとか申したな。この程からさるお方様と、どうとか申したな。もう一度申して見い」\n「ま! いやなお兄様! そのような事恥ずかしゅうて、二度は申されませぬ」\n「ウフフ、赤くなりおったな。いや、ついその、よそごとを考えていたのでな、肝腎なところをきき洩らしたのじゃ。そう言い惜しみせずに、もそっと詳しいことを申してみい」\n「実はあの、さるお方様と、お兄様のお目をかすめまして、ついこの程から契り合うたのでござります」\n「ウフフ。そうかそうか。偉いぞ! 偉いぞ! まだほんの小娘じゃろうと存じていたが、いつのまにか偉う出世を致したな。いや天晴れじゃ天晴じゃ。兄はこのようにして女子ひとり持てぬ程退屈しているというのに、なかなか隅におけぬ奴じゃ。それで、そのさるお方とか言うのは、いずこの何と申される方じゃ」\n「いえ、そのような事はあとでもよろしゅうござりますゆえ、それより早う大事な事をお聞き下さりませ。実は、毎晩お兄様がお出ましのあとを見計らって、必ずお越し下さりましたのに、どうしたことか今宵はお見えにならないのでござります......」\n「なんじゃ、きつい用事を申しつくるつもりじゃな。では、この兄にその方をつれて参るよう、恋の使いをせよと言うのじゃな」\n「ま! そのような冗談めかしい事ではござりませぬ。いつもきっと五ツ頃から四ツ頃迄にお越し遊ばしますのに、どうしたことか今宵ばかりはお見えがございませなんだゆえ、打ち案じておりましたところへ、お使いの者が飛んで参られまして、ふいっとそのお方様がお行方知れずになられたと、このように申されましたのでござります」\n「なに? 行方知れずになったとな? それはまた、何時頃の事じゃった」\n「お兄様がお帰り遊ばしましたほんの四半刻程前に、お使いの方が探しがてら参られたのでござります」\n「ほほうのう――」\n 少しこれは世の中が退屈でなくなったかなと言わぬばかりに、しみじみとした面を愛妹菊路の方にさし向けて、なに事かをややしばし考えつめていましたが、俄然旗本退屈男と異名をとった早乙女主水之介は、その目にいつにないらんらんとした輝きをみせると、言葉さえも強めながら言いました。\n「よし、相分った。では、この兄の力を貸せと申すのじゃな」\n「あい......。このような淫らがましい事をお願いしてよいやらわるいやら分らぬのでござりますけれど、わたしひとりの力では工夫もつきませなんだゆえ、先程からお帰りを今か今かとお待ちしていたのでござります」\n「そうか。いや、なかなか面白そうじゃわい。わしはろくろく恋の味も知らずにすごして参ったが、人の恋路の手助けをするのも、存外にわるい気持のしないもののようじゃ。それに、ほかの探し物ならわしなんぞ小面倒臭うて、手も出すがいやじゃが、人間一匹を拾い出すとは、なかなか味な探し物じゃわい。心得た。いかにもこの兄が力になってつかわすぞ」\n「ま! では、あの、菊の願い叶えて下さりまするか」\n「自慢せい。自慢せい。そちも一緒になって自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は人並以上に退屈するが、いざ起つとならばこの通り、諸羽流と直参千二百石の音がするわい」\n「ま! うれしゅうござります、嬉しゅうござります! では、あの、今よりすぐとお出かけ下さりまするか」\n「急かでも参る参る。こうならば退屈払いになる事ゆえ、夜半だろうと夜明けだろうと参ってつかわすが、一体そちのいとしい男とか申すのは、どこの何と言われる方じゃ」\n「榊原大内記様のお下屋敷にお仕えの、霧島京弥と申される方でござります」\n「えろう優しい名前じゃな。では、その、京弥どのとやらを手土産にして拾って参らばよいのじゃな」\n「あい......、どちらになりと御気ままに......」\n「真赤な顔をいたして可愛い奴めが! どちらになりとはなにを申すぞ、首尾ようつれて参ったら、のろけを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ」\n 愛撫のこもった揶揄を愛妹にのこしておいて例のごとくに深々と宗十郎頭巾にその面を包みながら、やがて悠々と素足に雪駄の意気な歩みを表に運ばせて行くと、吸われるように深夜の闇へ消え去りました。\n\n四\n\n 表は無論もう九ッすぎで、このあたり唯聞えるものは、深夜の空にびょうびょうと不気味に吠える野犬の唸り声のみでした。その深い闇の道を退屈男は影のみの男のように、足音も立てずすいすいと宮戸川べりに沿いながら行くこと七丁――。波も死んだようでしたが、そこの岸辺の一郭に、目ざした榊原大内記侯のお下屋敷を発見すると、俄然、爪先迄も鏘々として音を立てんばかりに、引締りました。緊張するのも無理はない。殆んど三年越し退屈しきっていたところへ、突如として今、腕力か智力か、少なくも何程か主水之介の力を必要とする事件が降って湧いたのです。無論まだ諸羽流正眼崩しを要するか否かは計り知らない事でしたが、事の急は、それなる霧島京弥といった男の行方不明事件が、自発的のものであるか、他より誘拐されたものであるか、誘拐されたものとするなら、およそどういう原因のもとに、どういう方面の者の手が伸びているか、先ず第一にその事を嗅ぎ知る必要がありましたので、敵か味方かも分らぬ大内記の下屋敷を目ざしつつぬかりなく歩みよると、それとなく屋敷の構えを窺いました。――そもそもがこのあたり隅田川べりのお下屋敷は、殆んど大半が別荘代りを目的のものでしたので、警固の工合なぞも割に簡単な構えでしたが、しかし簡単とは言うものの、榊原大内記侯はともかくもお禄高十二万石の封主です。留守を預かる番士の者も相当の数らしく、御門の厳重、お長屋の構え、なかなかに侮りがたい厳しさでした。勿論正々堂々と押し入ったにしても、主水之介とて無役ながらも天下御直参のいち人とすれば、榊原十二万石ぐらい何のその恐るるところではなかったが、紊りに事を荒立てて、正面切って押し入ったのでは、事件を隠蔽される懸念がありましたので、先ず事実の端緒をつかむ迄はと、退屈男は影のように近よりながら、邸内の様子を窺いました。\n と――、御門前迄近よった時、ちかりと目に這入ったものはその武者窓囲いにされている御門番詰所の中から、洩れるともなく洩れて来た灯りです。深夜の九ツ過ぎに御門番詰所の中から、なお灯りの見えていることは、未だに誰か外出している事を証明していましたので、何びとが門を預かっているか、そっと忍び寄りながら武者窓の隙から中をのぞいてみると、少しこれが不審でした。禄高十二万石の御門番ですから、屈強な御番士が門を預かっているのに不審はないが、余程退屈しているためにか、それとも目がない程に好きであったためにか、ひとりでしきりに将棋を差しているのです。それも何かむずかしい詰め手にでも打つかったものか、やや顔を青めながら、やけに腕を拱いて考え込んでいる姿が目に映ったので、退屈男は急に何か素晴らしい奇計をでも思いついたもののごとく、にんめり微笑をもらすと、その武者窓下にぴたり身を平みつけて、わざと声色をつくりながら、突然陰にこもった声で呼びました。\n「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」\n 屋敷が隅田川へのぞんだ位置であったとこへその呼び方が並大抵な呼び方ではなく、さながら河童ガ淵の河童が人を淵の中へ呼び入れる時に呼んだ声は、こんな呼び声ではなかったろうかと思われるような、気味わるく陰にこもった声で御門番とやったので、番士は少々ぞっとしたらしく、恐々やって来て恐々窓から表をのぞくと、きょろきょろあたりを見廻しながら呟きました。\n「――変だな、たしかに今気味のわるい声で呼びやがったがな。気のせいだったかな」\n のぞいて、姿のないのに、いぶかりながらまた将棋盤に向ったらしいのを見すますと、退屈男の同じ不気味な声色が深夜の空気をふるわして陰々と聞えました。\n「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」\n「畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ」\n 恐々さしのぞいて、恐々探しましたが、丁度格子窓の出ッ張りの下に平みついているのですから、分る筈はないのです。不気味そうに帰っていったのを見すますと、追いかけながらまた退屈男の言う声が聞えました。\n「――ゴモンバン、こりゃ、ゴモンバン」\n とうとう癇にさわったに違いない。\n「ふざけた真似をしやがって、どこの河童だ。化かそうと思ったって化かされないぞ!」\n 白は勇ましいが慄え声で、恐々くぐりをあけながら、恐る恐る顔をのぞかしたところを、武道鍛錬の冴えをもってぎゅっとつかみ押えたのは言う迄もなく退屈男です。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 私はサー・ヘンリー・ウッドのこの批評を、一言、一言、肝に銘じて聴きました。夢ではないか、自分は本当にヨーロッパ第一流の音楽家と肩を並べる程の歌がうたえるのかしら、ウッド卿はお世辞をいっているのではないかしら、いいえ、社交界の席上ならお世辞をおっしゃったかも知れない、けれどここは誰もいない厳粛な試験場である、そして私の伴奏を弾いて下さったアンナ・レクナーはヨーロッパ一流の音楽家である、その音楽家の前でお世辞をおっしゃる筈がない。私は本当に音楽の力を持っていたのだ。私はこれから私の持っている力を十二分に出して、ミウラ・タマキでなければ出来ないオリジナリティを発揮するように必死に勉強しさえすれば、欧米の音楽界で名を成すことが出来るのだ、とこう考えますと嬉しくて嬉しくて、ウッド卿に真心をこめてお礼を申上げました。伴奏を弾いて下さったアンナ・レクナーも大変喜んで、私にお祝いのお言葉を下さいました。私も真心を籠めてお礼を申上げました。\n さて、この私の歌のテストをサー・ヘンリー・ウッドの傍で聴いていらっしゃった、ふとった大きな女の方がおいででしたが、この大女は当時イギリスの海軍大臣で、今度の第二次世界戦争中イギリスの総理大臣をしていたチャーチル氏のお母さんでした。赤十字社が主催する恤兵音楽会の御相談をしにウッド卿を訪ねておいでになっていたのですが、ウッド卿の私に対する批評を聴かれて、私に握手をして下さりながら、\n「あなたは、日本が生んだ最初の立派な音楽家です。私はきょうあなたにお目にかかり、あなたの大変御立派な音楽を聴かせていただいたことを大変幸福に存じます。実は来月二十四日に、アルバート・ホールで音楽会を催すのですが、それに是非御出演下さい。そして何か日本の歌をうたって下さいませんか」\n 幸運は次の幸運を招く、と申しますが、こんなに早くロンドンで音楽会に出演するチャンスが来ようなんてまるで夢に夢見る心地でした。\n そこで私は持っていた楽譜鞄の中から「さくらさくら」と「ほたる」の楽譜を取出しまして、ここに日本の歌の楽譜を持っていますがとお目にかけますと、ウッド卿が自分がピアノの伴奏をするからうたって聴かせて下さい、とおっしゃいました。私は早速うたいました。すると日本の歌は非常に美しい、と褒めてくださいました。そしてアルバート・ホールで是非これをうたって下さい、というお話でした。その上そのアルバート・ホールの音楽会には、アドリナ・パティもおうたいになるということもお話になりました。アドリナ・パティが私と同じステージで歌をうたう。私はびっくりしてしまいました。なぜかと申しますと私は上野の音楽学校で、音楽の歴史の時間に、一九世紀の歌のクインとしてアドリナ・パティのことを習ったのですから、「パティ時代」をつくった大プリマドンナのアドリナ・パティは歴史上の人物だとばかり思っていました。その大音楽家がまだ生きているのだ。お年を訊ねましたら七十二歳で、まだまだ大変なお元気だということでした。\n 私はどこをどう通ったのか、無我夢中で大使館に転げ込みました。そして大使の井上侯爵の奥様にいきなりかじりついて、\n「私、私、泣いています!」\n「あーらまあ三浦さん、またからいソーセージを食べさせられたんですか」\n 大使の奥様が、からいソーセージで泣かされたのかとおっしゃるのには訳があるのです。スコットランド人の下宿では毎朝塩ッからい、それこそ口の曲がるほど塩のきいているソーセージを出すのです。私は余り塩辛いので、咽喉に障るといけないので残しますと、お内儀さんが、そんなお行儀の悪いことをしてはいけません、そんな悪いお行儀はクイン・アレキサンダーなら許したでしょうが、クイン・メリーは許しません、といって叱るんです。クイン・アレキサンダーは前のクインで別嬪さんだったが、厳格な方ではなかったという意味なのだそうです。それで渋々塩辛いソーセージを食べているうちに三浦が出掛ける時間になるので、食事の途中、立って玄関まで送りに出ます。当時三浦はロンドンの大学に通って勉強していたのですが、下宿のお内儀さんは、食事を途中で中止して夫を送り出すことは、男尊女卑の封建的な、野蛮な習慣だからやめなければいけないと叱るんです。こんな風に私は下宿の苦情を毎度大使の奥様に訴えに行きましたので、それで奥様はソーセージに泣かされたのかとおっしゃたのです。\n「いいえ違います」\nといってまた泣いてしまいました。\n「一体どうしたんですか」\n「私、うたうんです」\n「えッ?」\nといって、ストーブの傍で大声で泣きくずれてしまいました。\n 大使の奥様は、私がうたうんです、うたうんですのといって泣いているので、音楽の勉強がうまくゆかないので頭がへんになったのではないかと心配されたそうですが、そのうち私もだんだん落ちついて来たので、クインス・ホールでサー・ヘンリー・ウッドに歌のテストをして頂いたところ、意外にもヨーロッパ一流のプリマドンナにひけをとらないと褒められてびっくりした上に、チャーチルのお母さんから、私がまだ見たこともないアルバート・ホールの音楽会に出演することを依頼されて夢中になった、またその上に、歴史の人物になっているとばかり思い込んでいた、十九世紀の歌の女王、アドリナ・パティと同じステージでうたえることを聴かされて、気ちがいのようになって喜んでしまったので、この私の夢にも考えなかった幸運を、一刻も早く大使の奥様にお知らせしようと思って駆け込んで来たことを詳しくお話し申上げました。すると大使の奥様も驚いて、それは大変なことだ、あなた個人の名誉だけではなくて日本の名誉だと、我がことのように喜んで下さった上、アドリナ・パティがどんなに偉く、どんなに素晴らしいかをお話して下さいました。\n アドリナ・パティは、頭の上から足の先きまでダイヤモンドがぴかぴかと光っている。いつもイギリスのキングやクインの御陪食をしている。だから私にも、音楽会の当日は日本の音楽家を代表する意味で、ロンドンにある日本のお振袖で一番立派なものを着て、ダイヤモンドを飾りつけてお出なさい、というようにいろいろと細かいところまで気を配って下さいまして、山崎総領事の奥様とも相談され、私の髪は三井物産の南條支店長の奥様が結って下さること、お振袖は大使の奥様のはすこし地味だから、山崎総領事の奥様のを拝借することになりました。\n ところで私のロンドンにおけるデビュウにはどうしても解決しなければならない難問題が一つ残っていました。それは私のうたう曲目のことで、私が一番自信のある歌劇「リゴレット」をうたうことを、レディ・チャーチルがどうしても承知しないのです。それというのは「リゴレット」はパティのお得意のものなので、パティに遠慮して、私にうたってはいけないというのです。私は、私の一番得意のものだし、デビュウのことだしするので、どうしてもうたいたいのです。\n そこである日の夕方、レディ・チャーチルを訪問しました。するとレディ・チャーチルは黒のレースのソワーレーを着ていらっしゃる。海軍大臣のチャーチルもスモーキングで出ていらっしゃいました。\n これを見て私はハッといたしました。なぜかって、私は朝の着物を着てお訪ねしたんですもの。大体イギリスは伝統を重んじ、格式を矢釜しくいう国でして、服装なぞ非常にうるさいのです。苟くも紳士淑女たるものは午前と午後と夕方と夜と、一日に四回着る着物がちゃんと決っているのです。それが上流社会では特に矢釜しくいわれて、夕方に朝の着物で訪問するなんて、失礼なことなのです。けれど私はほとんど、着のみ着のままで、ドイツからロンドンに逃げて来た戦争避難民だったので、ソワーレーを持っていなかったし、またソワーレーを注文する余猶もなかったので、止むを得ず、朝の着物を着ていたのですが、レディ・チャーチルと海軍大臣が、ちゃんと格式作法通り、礼服を着て出ていらっしゃったので、私はまるで女中みたいに見えて、穴があったら入りたいほど恥しく、またみすぼらしく、哀れな気持になってしまったのでした。でもこんなことにひるんではいけないと、自分自身を叱って、勇気を出して、お話をいたしました。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 私が、「どうぞ歌劇『リゴレット』をうたわして下さい」とお願いすると、レディ・チャーチルは「あなたは日本のプリマドンナなのだから、日本の歌をうたって下さい」とおっしゃるばかりで、どうしても歌劇「リゴレット」をおうたいなさいとはおっしゃらないのです。私がいくらお願いしても許しては下さらないのです。でもこれで引下がったんでは、朝の着物の恥をしのんでまで、お訪ねした甲斐がないので、これは歌劇「リゴレット」をうたってもよいとおっしゃるまでは梃でも動くまいと思って、黙って坐りこんでしまいました。私のこの沈黙戦術は成功いたしました。レディ・チャーチルがなにをおっしゃっても、私は黙りこんでしまったので、とうとう根負けがしてしまって、それほどあなたが歌劇「リゴレット」をうたいたいのなら、おうたいになってもよろしい、その代り、プログラムには印刷しない、とのことです。私は歌劇「リゴレット」の詠唱「カローメ」がうたえさえすれば、プログラムには印刷されようと、されまいとそんなことは問題ではないので、レディ・チャーチルにお礼を申上げてお暇いたしました。\n\n\n三 ロンドン初出演\n\n 一九一四年(大正三年)十月二十四日、この日が私のロンドン初舞台の思い出の日でございます。私は髪を結っていただくため、朝早く三井物産の南條支店長のお宅に伺いますと、奥様はあなたのお髪がうまく結えるかどうかが心配で心配で、昨夜は寝られませんでした、とおっしゃりながら、髪を結って下さいましたが、何度やっても気に入らないと見えて、結っては解き、解いては結いして、とうとう朝の九時から午後の二時まで五時間もかかってしまいました。私は奥様には悪いと思いましたが、アルバート・ホールの初舞台より、この南條さんの髪結さんの方がよっぽど草疲れてしまいました。やっと頭がすむと今度はお振袖の着付けですが、これがまた大変、ロンドンにいらっしゃる日本の奥様が総出で着物を着せて下さいました。こうして支度万端整いましたので会場のアルバート・ホールに参りました。\n この音楽会は前にも申上げましたように、赤十字社主催の恤兵音楽会ですので、キング・ジョージ五世とクイン・メリーを始めプリンスとプリンセス、それに大臣や政府の高官連、各国の大公使がおいでになって、ロンドン空前のお祭騒ぎ、二万三千名を入れる客席には聴衆がぎっしりつまっているという大変な盛況でした。出演もオーケストラが三百人でコーラスが一千人という、イギリスの楽壇始まって以来の大掛りな音楽会でございました。\n いよいよ私がうたう番が参りました。これがヨーロッパに来てからの初舞台ではありましたが、上野の音楽学校に在学中から私はいつも独唱をしていましたから、ステージに立っても別にアガリもしなければ、恐ろしいとも思わず、非常に落ちついて、ただあらん限りの力を出して、日本の名誉のためにも立派にうたおうと、澄み切った気持ちでスーッとステージに出ました。\n このアルバート・ホールの建物はちょうど両国の国技館のように、四方に高く客席が出来ていて、二万三千人の聴衆がぎっしりつめかけていました。正面が国王席になっていて、純白のアーミンの毛氈で飾ってあって、そこにキングとクインがプリンスやプリンセス多勢といらっしゃる。貴賓席にはロード・キッチナーやチャーチル等イギリスの大臣や高位高官が居並んでいるし、日本の井上大使御夫妻を始め、各国の大公使やその夫人が綺羅星のように居並んでいるのが、まるでお雛様のように、ちいさく見えました。\n ステージの私の後には、三百人のオーケストラと白いユニホームを着たコーラスが一千人並んでいました。指揮者はサー・ヘンリー・ウッドでございます。\n 私は歌劇「リゴレット」で、主役ジルダがうたう、有名なアリア「慕わしき御名」をうたい、大喝采を浴びました。次に日本の歌「さくらさくら」と「ほたる」を日本語でうたいました。今度は伴奏はハープとフルートが主でしたが、その数が大変です。ハープが五十何台もずらっと並びましたが、金色のハープと銀のフルートが沢山並んだところは、見た眼も非常に豪華でしたが、それにもましてその音のよさといったら、何ともいえない惚れ惚れするものでございました。そしてハープがまるで日本のお琴のような音が致しますので、箏曲「さくらさくら」にはもって来いの伴奏でしたが、この沢山な数のハープとフルートの伴奏は今もなお耳の底に幻のように聴こえ、私が今まで何千回となくうたった演奏会の伴奏の中で、一番気に入ったものでございました。\n 私はうたい終っておじぎをし、アンコールの拍手に、何度もおじぎをしてさてステージを去ろうとして驚いてしまいました。私の身体は花束で埋まってしまったのです。花の中を泳ぐようにして楽屋に入りますと、黒のレースのお召を着た中肉中背の四十歳位の美しい女の方が、いきなり私にかじりついてキッスをするじゃありませんか。私はキッスをされて驚いて、ボウッとしていますとその女の方が、\n「マダム三浦、あなたがこんなにまで素晴らしくうたおうとは想像も出来なかった。大変立派な歌を聴かせて下さって有難うございました」\nとおっしゃるのです。この女の方がアドリナ・パティだったのです。私はパティにキッスされた上に、口を極めて褒められたので、嬉しくてお返事も出来ず、ただ泣くばかりでした。涙に咽せぶ嬉し泣きを暫く続けて居りました。\n 歴史に残る、十九世紀の歌の女王といわれるアドリナ・パティはこの時七十二歳だといいますから、お婆さんでそしてツンと威張っているものだと想像していました。それが現にお目にかかるパティは、せいぜい四十歳位にしか見えない若さを持った、美しい別嬪さんで、そしてちっとも高ぶらない、やさしくて無邪気な方なので感服いたしました。そしておっしゃる言葉が謙遜に満ちている、偉い大芸術家は流石に見上げたものだと、しみじみと感銘いたしました。\n この日アドリナ・パティはアンコールに「ホーム・スイート・ホーム」をうたいました。楽屋でパティは、「私は歳をとりすぎたからもうよくはうたえない」とおっしゃいましたが、この「スイート・ホーム」を聴いているうちに心が蕩けそうになりました。その美しい声が、楽曲のメロディに乗って、水が静かに流れるように、その歌はビロードのように、ふっくらと暖かく、そして愛情たっぷりな滋味が溢れています。\n これが本当の「スイート・ホーム」の美しさだ。私は死物狂いの勉強をしても、一生かかってもこのアドリナ・パティの芸術の境地には到達出来そうもない、とすっかり敬服いたしましたが、それ以来私は、今もってステージに立つ度ごとにアドリナ・パティをお手本にし、歌をうたうことの恐ろしさを痛感しております。\n 私はアドリナ・パティの歌を聴きましたのはこの時たった一度でございますが、本当に一生の教訓を得ました。それまで私は歌をうたいますのは、フォルテとピアニッシモが上手に出ればよいと思ってうたっていましたが、それ以来、楽曲の音には一つ一つそれぞれの意味を持っているのだから、その意味をちゃんと現さなければいけない。音の意味を現すことが出来なければそれは、音楽家ではなく、魂を持たない人形同様である。音楽の演奏には音楽家の人格と愛情と誠意とが必要である、ただ単に生のフレッシュな表現に満足していたら音楽家としての値打ちがない、と思い、私は今までこうした気持ちでうたっております。\n 昨年(昭和二十年)、私は山中湖畔の平野から旭ヶ丘に引っ越しました時、荷物を整理しているうちに、思い出のロンドンでのデビュウのプログラムが出て来ましたから、それをお目にかけましょう。このプログラムは朝日新聞の杉村楚人冠さんが、亡くなられるちょっと前に私に贈って下さったもので、楚人冠さんは、私がアルバート・ホール初演の時、朝日の特派員でロンドンにいらっしゃっていましたが、私の初演のことを新聞に電報をうって下さったので、朝日によって私のロンドンでのデビュウが大成功だったことが、日本に報道されたのでした。\n このプログラムは白い厚い紙に印刷された、薄い本の体裁になっています。表紙には「愛国大演奏会」として次の順序で出演者の名前が書いてあります。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一\n\n 牛ひきの和太郎さんは、たいへんよい牛をもっていると、みんながいっていました。だが、それはよぼよぼの年とった牛で、おしりの肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして、から車をひいてさえ、じきに舌を出して、苦しそうにいきをするのでした。\n「こんな牛の、どこがいいものか、和太はばかだ。こんなにならないまえに、売ってしまって、もっと若い、元気のいいのを買えばよかったんだ」\nと、次郎左エ門さんはいうのでした。次郎左エ門さんは若いころ、東京にいて、新聞の配達夫をしたり、外国人の宣教師の家で下男をしたりして、さまざま苦労したすえ、りくつがすきで仕事がきらいになって村にもどったという人でありました。\n しかし、次郎左エ門さんがそういっても、和太郎さんのよぼよぼ牛は、和太郎さんにとってはたいそうよい牛でありました。\n どういうわけなのでしょうか。\n 人間にはだれしもくせがあります。和太郎さんにもひとつ悪いくせがあって、和太郎さんはそれをいわれると、いつもおそれいって頭をかき、ついでに背中のかゆいところまでかくのですが、それというのはお酒を飲むことでありました。\n 村から町へいくとちゅう、道ばたに大きい松が一本あり、そのかげに茶店が一軒ありました。ちょうどうまいぐあいに、松の木が一本と茶店が一軒ならんであるということが、和太郎さんにはよくなかったのです。というのは、松の木というものは牛をつないでおくによいもので、茶店というものはお酒の好きな人が、ちょっと一服するによいものだからです。\n そこで和太郎さんは、そこを通りかかると、つい、牛を松につないで、ふらふらと茶店にはいって、ちょっと一服してしまうのでした。\n ちょっと一服のつもりで、和太郎さんは茶店にはいるのです。けれど酒を飲んでいるうちに、人間の考えはよくかわってしまうものです。もうちょっと、もうちょっと、と思って、一時間くらいじきすごしてしまいます。するとちょうど日ぐれになりますから、「ま、こうなりゃ月が出るまで待っていよう。暗い道を帰るよりましだから」と、またすわりなおしてしまいます。\n ほんとうに、そのうち月が出ます。野原は菜の花のさいているじぶんにしろ、稲の苗のうわったじぶんにしろ、月が出れば、明るくて美しいものです。しかし月が出ても出なくても、もう和太郎さんには、どうでもいいことです。というのは和太郎さんは、そのころまでにひどくよっぱらってしまうので、目などはっきりあけてはいられないからです。\n それがしょうこに、和太郎さんは、牛と松の木の、区別がつかないのです。ですから、松の木にまきつけた綱をさがすつもりで、牛の腹をいつまでもなでまわしたりします。しかたがないので、茶屋のおよしばあさんが、手綱をといてやります。そのうえおよしばあさんは、小田原ちょうちんに火をともして、牛車の台のうしろにつるしてやります。なにしろ酒飲みは、平気でひとに世話をさせるものです。\n 和太郎さんは、およしばあさんに世話をさせるばかりではありません。これから牛のお世話になるのです。二、三町も歩くと、和太郎さんは「夜道はこうも遠いものか」と考えはじめるのです。そして手綱を牛の角にひっかけておいて、じぶんは車の上にはいあがります。\n こうすれば、もう夜道がどんなに遠くても、和太郎さんにはかまわないわけです。ただ、ねむっているあいだに、車からころげ落ちないように、荷をしばりつける綱を輪にして、じぶんのあごにひっかけておくことを忘れてはいけないのです。\n 目がさめると、和太郎さんは、じぶんの家の庭にきています。牛がちゃんと道を知っていて、家へもどってきてくれるのです。\n こんなことはたびたびありました。いっぺんも、牛は道をまちがえて、和太郎さんを海の方へつれていったり、知らない村の方へひいていったことはなかったのです。\n だから和太郎さんにとって、この牛はこんなよぼよぼのみすぼらしい牛ではありましたが、たいへん役にたつよい牛でありました。もし、次郎左エ門さんのすすめにしたがって、この牛を売って若い元気な牛とかえたとしたら、こんど和太郎さんがよっぱらうとき、どこで目がさめるかわかったものではありません。十里さきの名古屋の街のまん中で、よいからさめるかもしれません。それともこの半島のはしの、海にのぞんだ崖っぷちの上で目がさめ、びっくりするようなことになるかもしれません。なにしろ若い牛は元気がいいので、ひと晩のうちに十里くらいは歩くでしょうから。\n「和太郎さんはいい牛を持っている」とみんなはいっていました。「まるで、気がよくきいて親切なおかみさんのような」といっていました。\n\n二\n\n ところで、和太郎さんのおかみさんのことです。\n 和太郎さんは、おかみさんについて悲しい思い出がありました。\n 和太郎さんも、若かったとき、ひとなみにお嫁さんをもらいました。\n いままで、年とった目っかちのおかあさんとふたりきりの、さびしい生活をしていましたので、若いお嫁さんがくると、和太郎さんの家は、毎日がお祭のように、明るくたのしくなりました。\n 美しくて、まめまめしく働くお嫁さんなので、和太郎さんも目っかちのおかあさんも、喜んでいました。\n けれど、和太郎さんは、ある日、おかしなことに目をつけました。それは、ご飯を家じゅう三人でたべるとき、お嫁さんがいつも、顔を横にむけて壁の方を見ていることでありました。\n 和太郎さんは、十日間それをだまって見ていました。お嫁さんはあいかわらず、壁の方に顔をむけてご飯をたべるのでありました。\n とうとう和太郎さんは、がまんができなくなって、ききました。\n「おまえは、首をそういうふうに、ねじむけておかないと、ご飯がのどを通っていかないのかや。それとも、うちの壁に、なにかかわったことでもあるのかや」\n するとお嫁さんは、なにもこたえないで、箸を持った手をひざの上においたまま、うつむいてしまいました。\n あとでふたりきりになったとき、お嫁さんは小さな声で和太郎さんにつげました。\n「わたしは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ると、気持ちがわるくなるのです。つぶれて、赤い肉が見えているでしょう。あれを見てはご飯がのどを通らないので、横をむいているのです」\n「そうか、だがおかあさんは、遊んでいて目をつぶしたのじゃないぞや。田の草をとっていて、稲の葉先でついたのがもとで、あの目をつぶしたのだぞや」\nと、和太郎さんはいいました。\n「わたしは、どういうもんか、あのつぶれた目の赤い肉の色を見ると、気持ちがわるくなるのです」\nと、お嫁さんはまたいうのでした。\n「だが、おかあさんは、稲でついて目をつぶしたのだぞや。そんなにして、わしをそだててくれたのだぞや」\n「でも、わたしは、あのつぶれた目を見ていては、ご飯がのどを通りません」\n 和太郎さんはおかあさんとふたりきりになったとき、おかあさんに話しました。\n「おチヨは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ていると、気持ちがわるくて、ご飯がのどを通らんそうです」\n それを聞くと、年とったおかあさんは、豆をたたくのをやめて、しばらく悲しげな顔をしていました。そしていいました。\n「そりゃ、もっともじゃ。こんなかたわを見ていちゃ、若いものには気持ちがよくあるまい。わしはまえから、嫁ごがきたら、おまえたちのじゃまにならぬように、どこかへ奉公に出ようと思っていたのだよ。それじゃ、あしたから桝半さんのところへ奉公にいこう。あそこじゃ飯たきばあさんがほしいそうだから」\n つぎの日、年とったおかあさんは、すこしの荷物をふろしき包みにして、日ざかりにこうもりがさをさして家を出ていきました。門先のもえるようにさきさかっているつつじのあいだを通って、いってしまいました。\n 畑の垣根をなおしながら、和太郎さんは、おかあさんを見送っていました。おかあさんが見えなくなると、つつじの赤が、和太郎さんの目にしみました。\n 和太郎さんはなけてきました。こんな年とったおかあさんを、今また奉公させに、よその家にやってよいものでしょうか。せっせと働いて、苦労をしつづけて、ひとり息子の和太郎さんをそだててくれたおかあさんを。\n 和太郎さんは縄きれを持ったまま、とんでいって、おかあさんの手をつかむと、だまってぐんぐん家へひっぱってきました。\n「おい、おい、おチヨ」\nと、和太郎さんはよびました。\n お嫁さんは台所から、手をふきながら、出てきました。\n「おまえは、近いうちにさとへいっぺん帰りたい用があるといっていたな」\n「はい」\n「それじゃ、きょう、いまからいきなさい」\n お嫁さんは、じぶんの生まれた家に久しぶりに帰ることができるので、うれしくてたまりませんでした。さっそくよい着物にかえました。\n「さとには、たけのこがなかったな。たけのこを持っていきなさい。ふきもたくさん持っていきなさい」\nと、和太郎さんはいいました。\n お嫁さんはたくさんのおみやげをかかえこんで、戸口を出ていいました。\n「それじゃ、いってまいります」\n「ああいけや」と和太郎さんはいいました。\n「そうして、もう、ここへこなくてもよいぞや」\n お嫁さんはびっくりしました。しかしいくらお嫁さんがびっくりしたところで、和太郎さんの心は、もうかわりませんでした。\n こうして、和太郎さんはお嫁さんとわかれてしまいました。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " そののち、あちこちから、お嫁さんの話はありましたが、和太郎さんはもうもらいませんでした。ときどき、もういっぺんもらってみようか、と思うこともありましたが、壁を見ると、「やっぱり、よそう」と、考えがかわるのでした。\n しかし、お嫁さんをもらわない和太郎さんは、ひとつ残念なことがありました。それは子どもがないということです。\n おかあさんは年をとって、だんだん小さくなっていきます。和太郎さんも、今は男ざかりですが、やがておじいさんになってしまうのです。牛もそのうちには、もっとしりがやせ、あばら骨がろくぼくのようにあらわれ、ついには死ぬのです。そうすると、和太郎さんの家はほろびてしまいます。\n お嫁さんはいらないが、子どもがほしい、とよく和太郎さんは考えるのでありました。\n\n三\n\n 人間はほかの人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になったときには、あまりいたしません。お礼をしなくても、牛や馬は、べつだん文句をいわないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。なにか、よぼよぼの牛のたいそう喜ぶようなことをして、日ごろお世話になっているお礼にしたいものだ、と考えていました。\n すると、そういうよいおりがやってきました。\n 百姓ばかりの村には、ほんとうに平和な、金色の夕ぐれをめぐまれることがありますが、それは、そんな春の夕ぐれでありました。出そろって、山羊小屋の窓をかくしている大麦の穂の上に、やわらかに夕日の光が流れておりました。\n 和太郎さんは、よぼよぼ牛に車をひかせて、町へいくとちゅうでした。\n 和太郎さんは、いつもきげんがいいのですが、きょうはまたいちだんとはれやかな顔をしていました。酒だるをつんでいたからであります。\n 酒だるを、となり村の酒屋から、町の酢屋まで、とどけるようにたのまれたのです。その中には、お酒のおりがつまっていました。おりというのは、お酒をつくるとき、たるのそこにたまる、乳色のにごったものであります。\n 酒だるはゆれるたびに、どぼォン、どぼォン、と重たい音をたてました。そしてしずかな百姓の村の日ぐれに、お酒のにおいをふりまいていきました。\n 和太郎さんは、はれやかな顔をしながら、いつもこういう荷物をたのまれたいものだ、音を聞いているだけでしゃばの苦しみを忘れる、などと考えていました。するととつぜん、ぼんと音がしました。\n 見ると、ひとつのたるのかがみ板が、とんでしまい、ちょうど車が坂にかかって、かたむいていたので、白いおりが滝のように流れ出していました。\n「こりゃ、こりゃ」\nと和太郎さんはいいましたが、もうどうしようもありませんでした。おりは地面にこぼれ、くぼんだところにたまって、いっそうぷんぷんとよいにおいをさせました。\n においをかいで、酒ずきの百姓や、年よりがあつまってきました。村のはずれに住んでいる、おトキばあさんまでやってきたところを見ると、おりのにおいは、五町も流れていったにちがいありません。\n みんながあつまってきたとき、和太郎さんは車のまわりをうろうろしていました。\n「こりゃ、おれの罪じゃない。おりというやつは、ゆすられるとふえるもんだ。牛車でごとごとゆすられてくるうちに、ふえたんだ。それに、このぬくとい陽気だから、よけいふえたんだ」\nと和太郎さんは、旦那にするいいわけを、村の人びとにむかっていいました。\n「そうだ、そうだ」\nと人びとはあいづちをうちながら、道にたまった、たくさんのおりをながめて、のどをならしました。\n「さて、こりゃ、どうしたものぞい。ほっときゃ土がすってしまうが」\nと、年とった百姓がわらすべをおりにひたしては、しゃぶりながらいいました。\n ほんとに、ほっとけば土がすってしまう、とみんなが思いました。そのとき和太郎さんがいいことを思いついたのでした。\n 和太郎さんは、牛をくびきからはなしました。そして、こぼれたおりのところにつれていきました。\n「そら、なめろ」\n 牛は、おりの上に首をさげて、しばらくじっとしていました。それは、においをかいで、これはうまいものかまずいものか、と判断しているように見えました。\n 見ている百姓たちも、いきをころして、牛は酒を飲むか飲まぬか、と考えていました。\n 牛は舌を出して、ぺろりとひとなめやりました。そしてまたちょっと動かずにいました。口の中でその味をよくしらべているにちがいありません。\n 見ている百姓たちは、あまりいきをころしていたので、胸が苦しくなったほどでありました。\n 牛はまた、ぺろりとなめました。そしてあとは、ぺろりぺろりとなめ、おまけに、ふうふうという鼻いきまで加わったので、たいそういそがしくなりました。\n「牛というもなァ、酒の好きなけものとみえるなァ」\nと村びとのひとりが、ためいきまじりにいいました。\n ほかのものたちは、じぶんが牛でないことをたいそうざんねんに思いました。\n 和太郎さんは、牛がおいしそうにおりをなめるのを喜んで見ていました。\n「おォよ。たべろたべろ。いつもおまえの世話になっておるで、お礼をせにゃならんと思っておったのだ。だが、おまえが酒ずきとは知らなかったのだ」\n 牛はてまえのおりがなくなると、ひと足進んで、むこうのおりをなめました。\n「牛てもな、大酒くらいだなァ」\nと村びとのひとりが、ほしいもののもらえなかった子どものように、なげやりにいいました。\n「いくらでもええだけたべろ」と和太郎さんは、牛の背中をなでながらいいました。\n「ようまでたべろ。よってもええぞ、きょうはおれが世話してやるで。きょうこそ、一生に一ぺんのご恩がえしだ」\n ついに牛は、おりをなめてしまい、土だけが残りました。もうあたりはうす暗くなっていました。和太郎さんはまた牛をくびきにつけました。\n 青い夕かげが流れて、そこらの垣根の木いちごの花だけが白くういている道を、腹いっぱいたべた牛と、日ごろのご恩をかえしたつもりの和太郎さんが、ともに満足をおぼえながらのろのろといきました。\n\n四\n\n さて、和太郎さんも、きょうだけはじぶんがお酒を飲むのをよそうと決心していました。和太郎さんの意見では、牛が飲んだうえに、牛飼いまでが飲むのは、だらしのないことであったのです。しかし、それなら和太郎さんは、帰り道を一本松と茶屋の前にとってはならなかったのです。すこしまわり道だけれど、焼場の方のさびしい道をいけばよかったのです。\n だが、和太郎さんは、なァに、きょうはだいじょうぶだ、と思いました。「おれにだってわきまえというものがあるさ」とひとりごとをいいました。そして一本松と茶屋の前を通りかかりました。\n 酒飲みの考えは、酒の近くへくると、よくかわるものであります。和太郎さんも、茶屋の前までくると、じぶんの石のようにかたかった決心が、とうふのようにもろくくずれていくのをおぼえました。\n じつは和太郎さんも、牛に酒のおりをなめさせているとき、じぶんも、のどから手の出るほど飲みたかったのを、おさえていたのでした。その欲望が、茶屋の前できゅうに頭をもちあげてきました。\n「ま、ちょっと一服するくらい、いいだろう」\nと和太郎さんは、手綱を松の太いみきにまきつけながら、いいました。牛はいつものようにおとなしくしていました。\n そして和太郎さんは、茶店に、手をこすりながら、はいっていきました。\n いつものとおりでした。もうちょっと、もうちょっとといっているうちに、時間はすぎていきました。徳利の数もふえていきました。\n 茶屋のおよしばあさんが、いろいろ和太郎さんの世話をやいて、松から手綱をといてくれたり、小田原ちょうちんに火をともしてくれたのも、いつものとおりでした。\n ただ、牛が地べたの上にねそべっていたことだけが、いつもとちがっていました。およしばあさんは、そうとは知らなかったので、もうすこしで牛につまずくところでした。和太郎さんは、\n「坊よ、起きろ」\nと、いいました。\n 牛は、ふううッと太い長い鼻いきでこたえただけで、起きようとしませんでした。\n「坊よ、腹でもいてえか。起きろ」\nといって、和太郎さんは、手綱でぐいッとひっぱりました。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、洗練された文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 法外有法――の語から取って法外と号し、流名もこれからきている。\n 剃刀を想わせるほそ長い赭顔に、眼の配りが尋常でないのは、さこそと思わせるものがあった。\n「そりゃおおいに面白いて。」\n そう言って、じろり、大次郎を見やって笑ったが、眼だけは笑いに加わらない。\n 法外先生の眼は、いつも鋭く凍っていて、かつて笑いというものを知らないのである。\n あけ放した二階縁の手すりに、近ぢかと迫って見える三国ヶ嶽のすがた――山気を孕んだ風が、濡れた布のように吹き込んできて、あんどんの灯をあおる。\n 千浪が、そっと上眼づかいに大次郎を見あげて、\n「どういうお話でございましょう。わたくしは、途中から伺いましたので、よくわかりませんけれど――。」\n 大次郎は、優しい顔に似げなく額部の照りに面擦れを見せて、黒七子紋付きの着流し、鍛え抜いた竹刀のように瘠せた上身を、ぐっと千浪のほうへ向けた。\n「弱りましたな。これは、千浪さまにはお耳に入れたくなかったのですが――、御案じなさるといけませんから。」\n「かまわぬ。話してやるがよい。」法外は、ちらと、若い二人を見くらべて、「遠からず大次郎を千浪の婿に、ははは、ま、仮祝言だけでも早うと考えておるわしの心中は、そちらも薄うす知ってであろう。いずれ夫婦となるものならば、互いに苦も楽も、何もかも識り合うたがよい。」\n いつからともなく、命までもと深く慕い合っている大次郎と千浪――さきごろから父の許しで、今はいいなずけとなっている二人である。剣腕人物、ふたつながらに師のめがねに協って、やがてその一人むすめを恋妻に、二代法外を名乗って弓削家へ養子にはいろうとしている伴大次郎と、おんなの誠心のすべてを捧げて、かれを縋り迎えようとしている千浪と。\n 今度の旅に千浪を伴ったのも、父法外としては、人の世の蕾のようなふたりの胸を察すると同時に、旅ともなれば気散じた朝夕に、もっと二人を近づけて、打ち解けて心を語らせ、たがいによく知り合わせたいという、父親らしい、大きな思いやりと気くばりからだったに相違ない。\n この、法外老人の計らいは、恋しあう若人のうえに、どんなによろこびを齎したことだったろう! そのあみだ沢へ来て以来、ふたりは雌鹿雄鹿のように、ほがらかに山をあるき廻って、心ゆくばかり語らい、よく気ごころを知り合って、いっそうたがいの思慕を深めたのだった。\n そしてまた、法外にとって、この若い二人の睦じい様ほどかれの老いたこころを慰め、ほほえませる絵はないのだ。\n こうして、うつくしい健かな千浪と、練塀小路の小鬼、美青年伴大次郎とは、男女の規を越えない潔い許婚の仲をつづけて来ている。\n で、今日。\n そして、いま。\n だしぬけに父に、近く仮祝言でもといわれて、われにもなく頸すじまで真っ赤にしてさしうつ向いた千浪を、大次郎はいつにも増して好もしく、愛しく思いながら、\n「じつは、私の身に秘めた大事なのですが――。」\n と、口をひらいた。\n 夏といっても序の口なのに、高山の暦は早い。沈黙が部屋に落ちると、庭に取り入れたうら山々、しんしんと降るような虫の声。\n とたんに、\n「おう! あれを見さっしゃれ。三国さんの肩に、月が葛籠笠をかぶりおるわい。」\n 宿の男衆の大声が、階下の土間に湧く。\n 変なことをいうと思っていると、いあわせた土地の人が、つづいて覗きに出たらしく、\n「わ、こりゃなんとしたことじゃい。皆の衆、出て見やれ。三国ヶ嶽のお月さんが、円ういつづら笠をお被りじゃぞえ。」\n あとは、口ぐちに、\n「月の笠じゃ。お山荒れの兆しじゃぞな。」\n「ついぞないハッキリしたお被りものじゃが、えらい荒れにならねばよいて。」\n「久しゅうお山がお静かじゃったが、あれで見ると、今夜のうちにもおいでじゃな。」\n 思わず耳をすました階上の三人――。\n 重い夜風が部屋を走り抜ける中で、千浪は、何がなしにはっとした顔を上げて大次郎を凝視めた。\n\n 猟くら悲誌\n\n こんな山奥――三国ヶ嶽のふもとの阿弥陀沢に、猿の湯などという温泉のあることは、千浪はもとより、弓削法外も知らなかったので。\n ここへ入湯に来ることを言いだしたのは、この門弟筆頭の伴大次郎なのだった。\n しばらく暇を貰って三国ヶ嶽へ往ってきたい――下谷練塀小路の道場で、こういきなり大次郎が願い出た時、師の法外はちょっと考えて、わしも一しょにと膝をすすめた。そして、娘の千浪を連れて、と。\n それならば、ちょうど、山のすぐ下に珍しい湯の宿があるから暫時それに逗留なさるのも一興であろうと、この大次郎のことばに従って、道場は留守師範の高弟に預け、父娘師弟の三人づれ、そこはかと江戸を発って来たわけ。\n これが、もう、半つきほどまえのこと。\n 山中、暦日なし。\n のんべんだらりと滞在して、山の宿屋めしにもあきてきたが。\n 元来法外は、じぶんもいささか旅にでも出て都塵を洗いたい気持ちもあったし、それよりも、気らくな旅の起き臥しに、まず二人を親しませたい心づかいから、折から大次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの深山の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。\n きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か目的があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。\n そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。\n その、大次郎の待つめあてとは何か。\n 第一、かれは、どうしてこんな辺鄙な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この近所の、山伏山のむこう側にあたる田万里というところの生れで――。」\n 眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。\n「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の部落あとにも、言いようのない懐しさを抱いておりますが、行ってみたところで、その淋しさに胸を打たれるに相違ない、と今はまだ、とても帰ってみる気にはなれませぬ。で、私が、先生と千浪さまのお供をして、黙ってここへまいりましたのは、その山伏山のかげのむかしの田万里を、ひそかに訪れんがためではござりませぬ。」\n 今年で、ちょうど七年まえのことである。\n 千代田城菊の間出仕、祖父江出羽守の狩猟地だった田万里は、殺生を好む出羽守のたびたびの巻狩りと、そのたびごとの徴発、一戸一人の助け人足、荷にあまる苛斂誅求のために、ついに村全体たってゆけなくなり、出羽守へ万哭のうらみのうちに、一村散りぢりばらばらに、住み慣れた田万里を捨てて村人は、他国に楽土を求めて、思いおもいに諸国へ落ち延びたのだった。\n 祖父江出羽守の猟座、山伏山の田万里は、こうしてあくなき殿の我慾の犠牲に上げられて、一朝にして狐狸の棲家と化し去ったのだった。\n 法外流のつかい手、下谷の小鬼と名を取った伴大次郎は、奇しくもこの田万里の出生だという。\n 山の湯宿の夜ふけ――。\n 恋する男の身に纏わる悲惨事に、千浪は、現在のできごとのように眉をひめて、\n「初めて承わるお痛わしいおはなし、なんとも申しあげようがございません。村の方々をはじめ大次郎さまも、さぞ、さぞ口惜しく思召して――。」\n 大次郎の面上、いつしか蒼白なものが漲っていた。\n「今だからお話いたしますが、祖父江の殿様のやり口というものは、それは、それはひどいものでござりました。猟場とはいえ、人の住む村を、たんにおのが遊びの庭とのみ心得て――法外先生っ! 千浪さま! 言わしていただきます。かの祖父江出羽守は、きゃつ、人間ではござりませぬぞ。鬼畜!――人外でござる!」\n 膝を掴む大次郎の手が、悲憤の思い出にわなわなと打ちふるえるのを、法外は温みの罩もった、だが、きっとした低声で、\n「これ、大次、口をつつしめ!」\n「お言葉ではございますが、しかし――。」\n「わかっておる。それに相違ないが、なあ伴、山役人は、あれで仲なか耳が早いでな、よいか。あっはっは。」\n 大次郎、なみだを持った眼を伏せて、\n「は。ちと、ことばがすぎましたようで。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「いや、なに、そちの申すとおりではあるが、そこがそれ、下世話にもいう、壁に耳あり障子に眼ありでな――。」\n 法外先生、急に声をあらためて、\n「若いぞ、大次郎!」\n「おそれいりました。」\n と頭を低げて、大次郎は今さらのように、隣室のけはい、縁の闇黒へ注意を払った。\n お山荒れの先触れか、どうっ! と棟を揺すぶって、三国颪が過ぎる。\n さっき猿の湯から帰ってきた侍たちが、真下の座敷で、胴間声で唄をうたいだしていた。\n\n 出羽守行状\n\n「出羽守が人数を率いて狩猟をしたあとは、全村、暴風雨の渡ったあとのごとく、青い物ひとつとどめなかった惨状でござりました。」\n 血のにじむほど口びるを噛み締めながら、大次郎は、しんみりとつづけて、\n「これは、千浪様のまえでははばかりますが、すこしでも見目のよい若い女で、出羽守に犯されずにすんだものはありませぬ。したがってその家老めら、取りまき家臣ら、猟り役人、勢子の末にいたるまで、役徳顔におんなをあらしまわり、田万里の村じゅう、老婆のほかは、ひとりとして逃れたものはござらぬ。まことに、口にもできぬことでござるが、人の母といわず、妻と言わず――これが年々歳々いつも猟りには付きもののこと! 今から思えば、村びと一同、よくあれまで踏みとどまったもので。」\n 聴いている千浪の口から、ほっと溜息が洩れる。\n この阿弥陀沢は、山ひとつこっちで領主が違う。\n それは、田万里だけが受けた災害だった。\n 狩りに事よせては、人妻、娘を漁りに来る。\n さからえば一刀にお手討ち。\n さむらいたちは、山家に押し入って金目のものを、手あたり次第に略奪する。――これを御奉納と称して。\n 山肌に拓かれたわずかの田畑は、自儘に馬蹄に掘りかえされるし、働き手の男は、山人足に狩り出される。その上、何やかやの名目で取り立てられる年貢、高税の数かず――。\n 土けむりを上げて、風のように馬を飛ばして来ては思う存分荒らし廻って行く出羽守主従だった。\n そのあとには、鬼啾と、憤りのなみだと、黙々たる怨恨が累々と横たわり重なってゆく。\n「あまりといえばあまりな、殿のお仕打ちでした――。」\n と大次郎は語を切って、灯に顔をそむけながら眼を擦った。\n「ほんとに、お察し――でも、今までおうち明け下さらなかったことが、なんだかお恨みのようにも――。」\n 千浪のことばを遮って、法外老人は、\n「伝奇稗史の類の暴君にもまさる。いや、さような大名がおるから、民の怨嗟を買うて、人心いよいよ幕府を離れ、葵の影がうすらぐのじゃ。祖父江出羽は――あれは、藩地は、たしか遠州相良――。」\n「は。石高二万八千石、江戸の上屋敷は、神田一番原、御火除地まえにござります。」\n そう答える大次郎の顔を、法外はじっと見据えて、\n「大次――!」\n「は。」\n「そちは、なんじゃな。」――と法外先生、ぐっと声を落としてさし覗くように、「復讐を企ておるな、出羽に対して!」\n「いや、これは先生のお言葉とも覚えませぬ。」大次郎は、あわてて、「いかに恨みに思えばとて、相手は一藩の主、手前は郷士上りの一武芸者、竜車に刃向う蟷螂のなんとやら、これでは、頭から芝居になりませぬ。あは、あはははは。」\n 法外老人は、例の、冷やかな眼でにっこりして、\n「隠すな、大次郎。」\n 美しい顔を義憤に燃やして、千浪も傍から、\n「おんなの口を挾む場合ではございませんが、及ばぬながらもお懲らしなさるが武士の意地――本懐とやらではないかと思われますけれど。」\n 血の気が引いて、氷のように澄んだ大次郎の眼に、突然、大粒の涙がきていた。\n「わたくしに、姉がひとりございました。ひとつ上で、当時二十一――柴刈り姿が出羽守のお眼にとまって、猟りの人数が下山のとき、お側に召されて引っさらわれました。今はもう生きておりますかどうか――。」\n「えっ! お姉さまが!――まあ、そんなことまであったのでございますか。」千浪は、痛ましげに父に眼を移して、「でも今まで何年も道場にいらしって、そういうお身の上のことは少しもお話し下さらなかったことを思うと、なんでございますか、ねえ、お父さま、ほんとに水臭いような――。」\n\n 桃の七年\n\n 千浪のことばも耳に入らないらしく、大次郎は、物の怪のついたような静徹な声だった。\n「その姉を奪い返そうとして、父は単身行列へ斬り込んで一寸刻み――膾のような屍骸でした。今も、眼のまえに見えるようです。」\n「あの、お父うえが――。」\n 叫ぶようにいって、千浪は、法外と眼を見合わせる。\n 法外は、ううむと唸っただけだった。膝に話しかけるように、うつむいたまま大次郎は語をつないで、\n「そのため母は、遠州相良の空を白眼んで、自害してはてました。」\n 千浪も法外も、うな垂れるばかり――言葉もない。\n ややあって法外は、顔を上げ、\n「その出羽守の暴状を、公儀へ訴え出る途もあったであろうに、なにゆえしかるべき当路者へ、差し立て願いに及ばんだのかの――上も、それだけの狼藉ぶりを耳にしては、そのままに打ち捨ておくわけにはゆかんはずだが。」\n「さ、それでございます。名主をはじめ村有志が、たびたび江戸表へ出府して、伝手を求めて訴え出ようとしたのですが、公儀も、この出羽守の乱暴を薄うす承知しておりながら、誰一人、田万里の哀訴を取り上げて老中に取り次ごうとする者のないのは、かの祖父江出羽守というのは、大老中良井氏の縁続きになっておりますので――それで、きゃつ出羽め、菊の間詰めのいわば末席ではありますが、柳営でもなかなか羽振りがよく、皆、大老の気を兼ねて出羽守の言動には御無理ごもっともの一点張り、触らぬ神に崇りなしの扱いだとのこと――出羽守もまた、これをよいことに、田万里の猟くらの惨虐は募る一方でござった――。」\n「ふうむ、中良井の髯の塵を払って、幕政の面々、出羽の無道に眼を瞑っておったわけか。」\n 山奥に住む無力の民は、こうして権勢を被る狂君の蹂躙下に放置されて、まき狩のたびごとに、上は出羽から、下は仲間小者のために、犯される女人、斬り殺されるもの、数知れず――。\n そこへ矢つぎ早やに絞るような年貢、納め物の取り立て。\n 村ぜんたい、すっかり荒らされきって、一家一族は手を引き合って、思いおもいの方角に山を下り、猫の子一ぴき入って残らぬ無人郷。七年まえ。\n それから、廃村に桃の花が散り、七年の星霜を閲した。\n 長ばなしを終った伴大次郎、女性のような美しい顔に、きっと眉を吊って、\n「はは、ははははは、下らぬ因縁話に、思わず身が入りました。お耳をわずらわして、おそれいります。」\n 豁然と哄笑うと、千浪はまだ打ち解せぬ面持ち。\n「御一家ははて、お故郷はそういうことになり、ほんとうに、御心中お察し申し上げます――ですけれど、大次郎様、この新しいつづら笠、いいえ、今夜これからこの闇黒の中を、夜みちをかけて、三里もある、三国ヶ嶽へお登りにならなければならないとおっしゃって、その理由はまだ、ちっともお説き明かし下さらないではございませんか。」\n 心配気に額部を曇らせて、千浪がそっと、戸外のやみに眼を配るとき、風は、いつの間にか烈しくなっていて――ぱら、ぱら、ぱらと屋根を打つ飛礫のような雨の一つ、ふたつ。\n どうやらお山荒れは、免れないらしい。\n 階下の座敷の放歌乱舞は、夜ふけの静けさとともに高まって、まるで、藤屋を買いきったような騒ぎである。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを維持して、素晴らしい文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "一、櫻島の地理\n【湧出年代に關する舊記】\n 櫻島は鹿兒島縣鹿兒島郡に屬し、鹿兒島市の東約一里錦江灣頭に蹲踞せる一火山島にして、風光明媚を以て名あり、其海中より湧出したる年代に關しては史上傳ふる所によれば靈龜四年と云ひ、或は養老二年と云ひ、或は和銅元年と云ひ、或は天平寳字八年と云ひ諸説紛々として一定せず、顧ふに斯くの如き火山島は决して單に一回の噴出によりて成りたるものには非ずして、前記數回の大噴火によりて大成したるものなるべし。\n【櫻島の各部落】\n 島は略々圓形を爲し、周回九里三十一町、東西櫻島の兩村あり、西櫻島村には赤水、横山、小池、赤生原、武、藤野、松浦、西道、二俣、白濱の十大字あり、東櫻島村には野尻、湯之、古里、有、脇、瀬戸、黒神、高免の八大字あり、大正二年度に於て戸數三千百三十五戸、人口二萬一千九百六十六人を有せり。\n【櫻島の地形】\n 櫻島の地形は大體に於て整然たる截頭圓錐状を呈し、遠く裾野を引き、緩斜面を以て錦江灣に臨み、村落は何れも海岸に發達せり、山頂は略島の中央に位し三峯より成り、何れも圓形又は橢圓形の火口を有せり、北にあるを北嶽(海拔千百三十三米突)南にあるを南嶽(海拔千〇六十九米突)中央なるを兩中(海拔千百〇五米突)と云ふ、平時多少の噴烟ありしは南嶽にして、兩中には水を湛へたり。\n 全山輝石安山岩及び其集塊岩より成り、中腹以下は大部火山灰及び灰石の被覆する所となる、只西方の裾野に卓子状を爲せる城山(俗稱袴腰)は凝灰集塊岩より成り櫻島本體と其成立を異にせり。\n 櫻島の海岸には往々岩骨峩々として削壁を爲せる所あり、是昔時の熔岩流の末端にして、黒神村の北方に突出せる大燃崎、野尻、持木兩部落の間なる燃崎、湯之、古里兩部落の間にある觀音崎及び其東方湯の濱の間に在る辰崎は何れも文明年度の迸發に係る熔岩流にして、東北海岸高免の東なる西迫鼻より浦の前に至る間は安永熔岩流の末端なり。\n 櫻島近海の島嶼中西南海中に於て今回の熔岩流下に沒したる烏島及び其東南の沖小島は共に文明年間の湧出に係り、沖島は角閃輝石安山岩より成れり、櫻島の東北海中に散布せる燃島(一名安永島)猪ノ子島、ドロ島、中ノ島、硫黄島、濱島の諸島は何れも安永八年大破裂の際新造せられたるものなり。\n【噴火口】\n 櫻島の西側には主なる爆裂火口三あり、第一は北嶽の西南に近きものにして、其位置最も高く、第二に引平(海拔五百五十三米突)の東にあるもの、第三は四百米突高地の南にあるものにして、新噴火口は實に其中にあり。\n 櫻島の東側に於て東方に開ける半圓形を畫せるを鍋山側火口とす、今回櫻島の東部に於ける新噴火口は何れも其南方に開口せり、北嶽の北側には略々南北に走れる二條の顯著なる峻谷あり、恰かも地割れの状を爲せり、今回の地變により多少崩壞し、岩骨を曝露したる形跡あり。\n 鹿兒島造士館篠本講師は今回の地變により櫻島の地體に西々北より東々南に走る幾多の地割れを生じたるを目撃したりと云ふも、予輩の踏査區域は主に熔岩流の附近なりしかば是等の地割れを觀察するの機會を逸したるは遺憾なり、只黒神村より熔岩縁に沿ひ瀬戸に至る間に於て西々北より東々南に走る一條の小段違(落差二三尺)あるを目撃せり。\n二、噴火の沿革\n【噴火の舊記】\n 舊記に依るに今を去ること千二百六年和銅元年始て隅州向島湧出せりとあり、其後靈龜、養老、天平、應仁、文明年間にも或は噴火し、或は温泉湧出し、新島突如として沿海に隆出せり等の記事あり、大日本地震史料によれば天平九年十月二十三日大隅國大地震、次に天平神護二年六月五日大隅國神造新島地震動止まず居民多く流亡せりとあり、是より以後慶長元年に至る迄大隅、薩摩に大地震の記事なし。\n 慶長元年閏七月九日豐後薩摩地大震、次で慶長九年十二月十六日薩摩、大隅地大震とあり、又寛文二年九月十九日日向、大隅地大震とあり。\n 近代に於る櫻島大噴火は文明三年九月十二日、文明七年八月十五日、同八年九月十二日、寛永十九年三月七日、安永八年九月晦日に起りたるものにして、就中猛烈を極めたりしは安永八年九月晦日より十月朔日に及べる大噴火とし、之に次ぐものを文明三年、同七年の噴火とす、文明より安永に至る間は約三百年にして、安永八年は大正三年より百三十五年前なり、斯くの如く大噴火は數百年を距てて起れども、其間に之に次げる噴火あり、大抵六七十年を週期として消長するものの如し。\n 大日本地震史料によれば安永八年十月一日辛亥大隅國櫻島前夜より鳴動し地震ふこと強く、是日山巓兩中の地爆裂して火を噴き砂石泥土を迸流し山麓の諸里落是が爲めに蕩盡せられ人畜の死傷せるもの夥し是時島の近海に新嶼を生ぜり、後名けて安永島と謂ふとあり、當時の地變に死者合計百四十八人(内男八十二人、女六十六人)を出せり、梅園拾遺には今年(安永己亥)九月廿九日の夜より翌十月朔日南に當て雷の如くして雷にあらず(云 云)櫻島の南北端より火起り(乃 至)去年以來伊豆大島なども燒くる由沙汰せりとあり、又地理纂考には文明七年八月十五日野尻村の上より火を發し砂石を雨らし此邊凡て燃石なりとあり、是等の記事により察するに、安永八年の大噴火は新月の時に起り、文明七年及び今回の破裂は共に滿月の頃に起れり、而して安永及び文明の地變は共に北々東より南々西に走れる地盤の弱線即ち霧島火山脈の方向に活動を逞うしたるものの如く、主として災害を蒙りたるは北岸にては高免、白濱、南岸にては野尻、持木、湯之、古里、の諸部落なりしが、今回の變災は西々北より東々南の方向に走れる弱線に沿ひ暴威を振ひたるものの如く、新噴火口の位置を連結すれば正に此方向に一致し、又鹿兒島市及び其西北伊集院方面が地震最も強烈なりし事實に徴するも思半ばに過ぐるものあり、從て櫻島西岸に於て最も慘害を蒙りたるは横山、赤水、小池、赤生原、調練場の諸部落にして、東南岸に於て最も慘怛たる状況を呈せるは瀬戸、脇、有の諸部落なりとす。\n 現に鹿兒島市に於て南北又は是に近き方向の石垣は大部分倒壞又は大損害を被りたるにも係はらず東西若くは是に近き方向に延長せる石垣に損害少なきを觀ても西々北より東々南の方向に振動したる地震が最も強大なりしを察知するに難からず。\n三、噴火の前兆\n(一)、地震\n【噴火の前兆たる地震】\n 大正三年一月十日頃より頻繁に鹿兒島市附近に地震ありたり、今鹿兒島測候所に於て觀測の結果を示せば左の如し。\n\n十一日 二三八回 十二日 二三一回 十三日 五回\n十四日 二回 十五日 九回 十六日 一一回\n十七日 三回 十八日 六回 十九日 〇回\n二十日 一回 二十一日 二回\n\n 但十二日午後六時廿九分烈震後十五日午後一時四十二分まで缺測、\n 鹿兒島測候所の記録によれば一月十一日午前三時四十一分無感覺の地震あり、爾後地震頻繁にして十二日午前十時迄に總計四百十七回の地震あり、其多數は微震にして弱震は三十三回あり、其震動は主に水平動にして、上下動は極て輕微なるも性質稍々急なりきと。\n 抑も火山噴火に伴ふ地震の多數は左の如き特徴あり。\n"
},
{
"role": "assistant",
"content": "(一)、初期微動及び終期動短くして著しからず、主要動のみ著し\n(二)、主要動は水平動に比し上下動割合に顯著なること多し\n(三)、下より衝き上るが如き衝動と轟鳴を伴ふ\n(四)、震域狹小にして震央よりの半徑二里を出でざること多し\n(五)、頻繁に續發し性質急なり\n\n 是を前記の事實に適用して考察するに、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山性のものたりしを推知するに難からず、只其水平動に比し上下動の輕微なりしは震央よりの離距遠きに因るものと思考せざるを得ず。\n他の特徴は何れも具備したるが如し。\n(二)、温泉并に井水の異状\n【地震以外の噴火の前兆】\n 鹿兒島造士館篠本講師に宛たる加治木中學校長田代善太郎氏の通信によれば、加治木温泉は一月七日頃より温度を増加し、又加治木、國分附近の井水は其の水量増加せりと。\n 避難民の言によれば、櫻島の北岸白濱に於ては爆發前井水涸れたりと云ふ。\n 鹿兒島市外西田、武、新照院附近の井水は濁り又は涸渇せる事實あり。\n(三)、地割\n 入來温泉附近にては著しき地割を生じたりと云ふ。\n(四)、水産物の斃死\n 一月十一日頃瀬戸、有村、附近沿海に海老類の夥く斃死せるを觀たりと云ふ。\n四、破裂當時の概況\n【今回の破裂】\n 大正三年一月十日頃より鹿兒島市附近に地震續發し人心恟々たりしが、十二日午前八時東櫻島鍋山の西方より噴煙を初め、數分の後御嶽の右側に於て雲霧状の白煙上り、横山村の上方海拔約五百米突許りの處よりも噴煙を初めたり、九時十分南嶽の頂上より白煙の騰るを認めたり。\n 十二日午前十時十五分赤水部落の直上海拔約三百五十米突乃至四百米突の谷間(噴火口?)より一團の黒煙を望み、轟鳴と共に火光の燦然として射出するを目撃せり。\n 午前十一時に至り黒煙高く天に沖し、其雲頂の高さは約三千米突に達す、同三十分頂上より盛に岩石の噴出落下を觀、戸障子は震動によりて鳴り初めたり、午後二時三十分黒煙白煙全山を包圍し、鳴轟次第に猛烈と爲り、同三時三十分より初めて爆聲起る、同六時三十分激震と同時に火影擴大し、鳴轟強大と爲り、同十時より爆聲亦次第に強し、翌十三日午前一時前後最も猛烈を極め、同六時より稍々輕减せしも、日中は猶間斷なく鳴轟あり、午後五時より風位南轉し、右側の島影初めて現はる、同八時十四分大噴火盛に熔岩を流出し、火の子山頂より村落に連り、鳴動轟々爆聲を連發し、黒煙東方に棚曳て閃電縱横に放射し、北岸一帶に火災を發す、同八時三十分爆聲止む、續て鳴轟斷續するに至る、戸障子の鳴轟亦止む。\n 十四日午後一時以後噴煙は尚盛なるも、鳴轟稍々遠し、同七時熔岩の噴出爆發盛なるを觀る、此熔岩を流下し城山の上方約五町許りの距離迄押出し、其幅員約二十町厚さ數十尺に及べり、城山より沖の小島附近の海面は一帶に輕石充滿し、黒灰色を呈せしも、正午頃までには皆南方に流去せり、午後五時頃より熔岩の迸發稍々衰ふ、十四日夜間の活動は主に横山の正東に當り海拔約二百米突の所に在る噴火口よりし、其勢力は日中に比し衰頽せり、十五日朝より十六日に至る噴火の状況は著しき異状なきも、噴煙は稍々减少せるが如し、大熔岩を徐々流下して海邊に切迫しつゝあり斯くして、赤水、横山方面は遂に海中に突き入りて烏島に及べり、十五日午前十時四十五分愛宕山上より黒煙噴出、同十一時より鳴轟稍々強大と爲る、午後二時十分大噴煙、同五時十五分轟聲一時止む、夜に入り山麓熔岩上の爆發盛なり、同十時噴火大に衰へ鳴轟微なり、同十時十分山麓熔岩上一列に七個の噴口現はれ、音響強し、十六日午前一時四十分鳴轟一時止む、同四時五十分鳴轟強く噴火盛なり。\n以上の記事は鹿兒島測候所に於る當時の記録に據りたるものなり。\n 爾後日日の噴煙鳴轟に多少の消長はありたる模樣なるも、大勢は日を經るに順ひ漸次靜穩と爲り、以て實査當時に及べり。\n 新噴火口開口の順序は東櫻島に於る新噴火口は其開口の時刻及順序稍明確を缺くも、當時注意して實況を觀測したりし篠本造士館講師の報告によれば、同島の西側に於ける噴火口一の開口は十二日午前八時、二は同八時二十分、三は十二日午後一時、四は十二日午後四時頃より噴煙を初めたり、而して三は爾後三四日間活動最も旺盛にして、活動の時間亦最も長かりき。(大森佐藤兩氏の地圖參照)\n五、實査當時の概況\n新噴火口\n【新噴火口】\n 大正三年一月廿七日より同三十日に至る踏査に際し、盛に活動せる噴火口は西側なる二個の噴火口にして十五分乃至二十分毎に轟鳴と共に灰より成れる黒烟と水蒸氣より成れる白烟とを盛に噴出せるを目撃せり、東側の活動は西側よりも遙に猛烈にして鍋山の南に於ける六個の噴火口より盛に噴烟し、烟霧遠く東南に棚引て半天を蔽ひ暗憺として灰を雨下し、轟々たる地鳴は連續して百雷の一時に落ち來るが如き感あり、就中一噴火口は約十分毎に白晝尚赫耀たる赤熱熔岩を溢流し、之に次ぐに爆然たる轟鳴と古綿の如き黒烟の猛烈なる射出を以てし、光景頗る凄壯を極めたり。\n 櫻島の東西兩側に於ける約十一個の新噴火口を連結したる線は西北より東南に走りて此の地方に於る地盤弱線の方向を示せり、今回の地變は實にこの弱線に沿て起りたるものの如し、この弱線は日本弧島の地質構造線及び之に平行なる弱線たる霧島火山脈と直角以上の角度を以て相交叉するものにして、前者を地體の同心状弱線と見做せば此弱線は放射状弱線と見做すべきものなり、されば櫻島の今回の大噴火は南日本に於る放射状弱線に沿ひ活動を初めたるものにして幾干もなく中部日本に於る一大放射状弱線と稱すべき富士火山脈の一部硫黄島附近に於て新島の海中噴出を報ぜるは頗る注意すべき現象と謂ふべく、この方面に於ける火山が方に活動期に入りたるを想像するに足れり、之に反し同心状弱線上に座せる火山は霧島山、開聞岳の如き櫻島との距離遠からざるに係らず、全く今回の噴火に雷同の形跡なきのみならず、東霧島山の如き平時よりも一層靜穩の状態にあるものの如し。\n熔岩流\n【熔岩流】\n 櫻島今回の噴火に初めて熔岩を迸流したるは一月十三日午後なりしものの如く、熔岩を噴出せる火口は西側にては二箇にして、東側にては五個の新噴火口何れも多少熔岩を迸流したるものの如し、熔岩原の面積は西側に於るもの約二百萬坪にして、東側に於るもの約二百七萬坪に達せり、熔岩流の厚さは七十尺以上百尺内外なり。\n 横山方面の熔岩流は引平の下より愛宕山を包み横山、赤水兩部落の全部及び調練塲の西半部を其下に埋沒し、海中に突出すること約十五町、一部烏島によりて支へられ多少凹處を生ぜり、櫻島東側の熔岩流は鍋山の東南に溢流して二分し、一は瀬戸部落を埋沒して瀬戸海峽に押し出し、一月二十八日に於ては從來約六町の幅員を有せし海峽の幅僅に六間許に减じたりしが、其後の押出しにより遂に對岸早崎に連續し海峽は全く閉塞するに至れり。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 日本の人口は七千万といわれている。その中で青年はどれほどの数を占めているのであろうか。今日、日本に生きる私達は皆一かたならない困難を持っているし、一朝一夕に片づかない社会的課題を持っている。日本の民主化という窓は明日に向って明るく開かれているけれども、その国を横切りつつある私達の足もとには長い歴史が今日に齎している雑多な矛盾と障碍とがある。\n 青年の生活を思う時、私達の心には一口には言い現わせないいとおしみと希望とがある。こうして日本の若い人々、明日の担い手である若い男女青年の生活を思いやっている時、私達は何か話の始まりにきっかけとなる、せめては一つの小説とか、一つの伝記とかを思い出したいと思う。ところが一寸その例が見当らない。日本の作品ばかりでなく、外国の文学を考えても、直ぐ日本の今日の青年の生活とぴったり心の合った話題を持つ作品が思い浮ばない。これはどういう理由であろうか。勿論、私の文学についての知識が決して広くないということが第一の原因である。けれどももう一つ原因が感じられる。それは今日の日本の社会の事情と、今日までの数年間を日本の青年が経て来た経験とは、日本の歴史に未曾有の内容を持っていたばかりでなくて、それは世界の青年達の経験からも独特な性質を以って際立っているからではなかろうか。\n 第二次世界大戦は地球を血みどろにした。そしてその結果、世界は自身の流血の上に立って、国際間の諸矛盾を解決するために戦争というものは再び繰返されるべきものでないということを学んだ。日本も同じ大きな道を辿って同じ結論に到達している訳ではあるが、然しこの過程には世界に類の無い日本の若者だけが負わされた犠牲があった。\n 日本の民主化がポツダム宣言によって、政府に対して義務づけられたということは、とりも直さず、第二次世界大戦を契機として日本がどんなに封建的な暴力的な権力によって支配されて来ていたかということを語っている。\n 世界が驚きの眼をみはって眺めたものの一つに特攻隊というものがある。特攻隊に参加した若い人々の精神の中には、その人々自身にとってそれぞれ真面目な、情熱を傾けた思いがあったろう。けれども客観的にみればこれは日本の近代的重工業の生産力が全く立ち遅れている苦境を、若く、一つの情熱によって命を捨て得る青年の生命によって埋めて行こうとした軍事的手段であった。特攻隊に参加はしなかったが学徒動員と徴用とによって過去四、五年間日本の全ての若い人が動員された。そして突然、自分の生活の道を変更させられ、何年間か一貫した目的を以ていそしんでいた学業や仕事を放擲させられ、一つの鍋の中に打ち込まれた豆のように煮つめられた。そういう避けることの出来ない事情におかれた若い人々にとって最も致命的であった点は、ただ外に現われた生活の道が強い権力によってへし曲げられたということばかりではなかったと思う。本人達にとって決して自然に受けとれない、納得出来ないそれ等の生活の経験に対して、自分の疑問、自分の探求心、自身の結論を導き出すことを全く許さなかった日本の権力の、非人間的な圧力というものこそ、数百万の青年が今日において昨日を顧みた時、口惜しく思う点があろうと思う。\n 私達の人生には、常に難関というものがある。苦境というものなしの人生は一人の人にも可能とされていない。私達がそれらの難関と苦境とに処して何かの希望と方向とを発見し、それを凌ぎ前進して行けるのは何の力によってであろうか。それはただ私達が自分の経験を我が物と充分自覚してうけとり、それを凡ゆる角度から玩味し、研究し、社会の客観的な歴史と自分の経験とを照し合わせ、そこから好いにしろ悪いにしろ正直な結論をひき出して、その結論から次ぎの一歩への可能をひき出して行くからであると思う。\n このようにして自分の経験を綜合し、分析し、推理して発展させて行く理性の能力は人間にだけ与えられている。この人間にだけ与えられている最も人間らしい能力を私達は凡ゆる面でこれまで圧えられて来た。徴用に行った人はどれほど沢山の経験を重ねて戻って来たろう。働かせる者と働く者との物の感じ方、判断、利害がどんなに一致しないかということを学んで来ているに違いない。あのように厳しく、そこから逃げ出せば法律で以て罰せられ、牢屋にまで送られた徴用の勤め先が軍部への思惑だけで、収容力もないほどどっさり徴用工の頭数だけを揃えていることや、そのために宿舎、食糧、勤労そのものさえ、まともに運営されて行かず、日々が空虚に心を荒ませるばかりに過ぎて行くことを怖しいと思わない人があったろうか。華々しく語られている戦勝への希望の裏にこういう現実がいたるところに満ちているということを、その場で暮した青年達で目撃しなかった人達があるだろうか。そのことによって、嫌悪と疑問とを感じない人はなかったと思う。この偽りない気持の中にこそ、それらの青年が自分達に蒙らされた破壊と浪費との中から立ち上って行く真面目なモメントが蔵されていた。口に言われていること、書かれていること、宣伝されていること、それが全部ではなくて、それと全く反対の現実がここにある。その二つの間にあって自分というものの生活がどんな関係であり、どうして行かなければならないかと深く考えることが出来るならば、戦時中の青春の浪費というものは、又違った形でその人々の若さをとり戻させる力となり得たであろう。\n けれども日本の旧い権力は自分の権力を守ることこそ大切であったが、一人一人の若者の青春が、わずか十六、七歳で、或いは二十歳で、或いは二十五歳で打ち砕かれて行くことをしんからいとおしまなかった。同じ死なせるにしても、人間の威厳を自覚させて死なせようとさえもしなかった。支配者達は、青年の生を踏み躙ったと同じように死をも侮辱した。それは極端な表現のように思われるかも知れない。果してそうだろうか。\n 新聞で私達は玉砕と言われた前線部隊の人々が生還していることを度々読んだ。死んだと思われた人が生きて還って来るといえば私達の心は歓びで踊るように思う。然しその本人達は、そのような歓びを無邪気に感じていられただろうか。自分を死んだものとして無責任に片づけ、而も如何にも儀式ばった形式で英霊の帰還だとか靖国神社への合祀だとか、心からその人の死を哀しむ親や兄弟或いは妻子までを、喪服を着せて動員し、在郷軍人は列をつくり、天皇の親拝と大きく写真まで撮られたその自分が、生きて還ってみた時に「死んでいる」自分の扱われ方にどんな心持がするだろう。生きて還って来るまでにその人の死と闘った経験は、実に口にも筆にも言い現わせないものであったと思う。又、その人が、自分が生きようとして凡ゆる惨苦をしのいでいる時に、その周囲でほんとうに死んで行った人々の様々な死によう、その人々がどんなに自分と同じように最後まで生きようとして闘ったかというその思い出、そういう生の内容を以て「死んでいる」自分の猿芝居のような扱われ方をみた時、どんなに深刻にこれらの人々は自分の生、自分の運命、自分に連らなるすべての愛する人々の運命が、権力によって愚弄されたかということを知るだろう。選挙が迫っている、その人は選挙権を持っている。ところが、書類の上でその人は故人である。まず生き還ってから、戸籍の上に存在するという手続きを経てから選挙手続きも改めてとらなければならない。これらの人々の一票は投票箱に落ちる時人生のどんな響きを立てることだろう。ドストイェフスキイは、ロシアの革命運動に参加した理由で死刑を宣告された。銃殺されようとするその瞬間に特使が来て彼は死なずに済んだ。然しこの一つの経験はドストイェフスキイの生涯を替えたのであった。\n 戦争前の私達と、済んだ後の私達と決して同じものではなくなっている。そのことは若い人々にとってどんなに自覚されているだろう。日本の民主化が言われはじめた時、青年達は自分の家庭の生活を顧みて、日本の家族制度が動かすことの出来ない段々のように一家の中に刻みつけている戸主、長男、次男、三男の身分の違いを何と思ったろう。戦争や戦災で家を失い、又は夫を失って、実家へ子供を連れて帰って来た女の兄弟達の日暮しをみて、若い人々は、女の一生というものをどう思って眺めるだろう。長男の家族的な負担の重さは、長男という身分に生れあわせた青年達の自由さと身軽さと自分で選ぶ人生の道を奪う場合が多い。同じ男の子でも、次男、三男は長男の犠牲となる場合が多かった。戦争で長男が奪われた時などは、これまでどうせ、分家をするものだとか養子に出るものだとか、という風に扱われていた次男、三男が全く逆に、長男の義務と負担とを負わされることになる例も多い。結婚や恋愛の問題さえも、長男の場合と、次男、三男の場合とでは周囲からの圧迫が違って来る。村の生活では若い者と年輩の者との順位というものはきびしく、村民の寄合いの席順から発言の権利まで同等ではない。都会の工場労働者は、大人になった熟練工よりも、青年工を使った方が賃銀が安いということから、いつも青年労働者を多く使う。または女を使う。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " このあいだ政府はインフレの物価騰貴につれて最低賃銀の基底を公表した。若い人々はあれをみて何を感じたであろうか。男子三十歳から五十歳が最低四百五十円といわれている。では二十八歳の青年、二十五歳の者、二十二歳の者、その人々の労働の報酬はどうなるのだろう。最低はいくらと決められるのだろう。女は三分の一の百五十円と決められた。いつも婦人と青年とがより悪条件で働かされて来たこれまでのしきたりから言えば、三十歳未満の青年は、つまりは女なみだということだろうか。\n これは奇怪千万なことだと思う。婦人が戦争中、戦争が終った今日、どれほどの数で一家の支柱となっているかわからない。同じように兄にかわって、父にかわって一家の経済の柱となっている青年達は、おびただしい数だろうと思う。インフレ防止と言ってモラトリアムがしかれたが、私達の大部分は、モラトリアム公表の一日前に五十銭札で隠しておく二千円、三千円という金を持ってはいなかった。交通費は三倍になっている。米の値も味噌、醤油の値も三倍になっている。三十前の青年だといって「青年価格」というものは日本のどこにも存在しない。然し青年賃金というものは存在する。生の愚弄ということはこのようにして私共の日々の細部に沁みこんでいる。封建制というものが私達の全力をあげて打ち破らなければならないものであるということはこの一つにさえ充分現われている。\n\n 私達は、自分の生をいとおしんでいる。生きるに甲斐ある一生を送ろうとしている。そして生れた以上は働き、学び、健康を保ち、社会のために創造して行く権利を自覚している。民主主義の根本的な人権の確立はこのことにかかっている。同時に私達は自分の人民としての権利――人権の必然に立って、自分達の生活をよりよくして行く努力、社会をより合理的にこしらえ直して行く権利というものを持っている。外部の力から無理強いされた生き方をするべきでないのが民主的な生活であると共に、自分の側からは積極的に、自分の全能力を発揮してよりよい社会にして行くということが人権という言葉に含まれた義務と名誉である。\n 手近いところから私達の義務と名誉とは実現され得ると思う。\n 学生達の今日の生活は実際にお話にならない。モラトリアムによる学資の制限と住居、食糧、教育資材の欠乏は、小学生から大学生までをひっくるめた困難においている。各専門学校、大学などで学内自治の運動が起っているのは当然である。学生達は自分達の中から委員を選んで食糧の困難、宿舎の問題、資材難を解決しようとしている。学校当局は、丁度幣原内閣が、増産対策も、食糧対策も現実には持っていなくて自然、働く者の生産参加と人民の食糧管理又は供出の管理に任せなければならないでいるとおりに、学生の問題を学校当局として処理して行く能力を欠いてしまっている。これまでの学校というものが学生を真に生かす組織でなかったということがまざまざと現われて来ている。\n 各地で隠匿物資の摘発が行われている。これには生活擁護問題の若い人々やその他種々の農民組合、労働組合の若い人々が大きい動力となって働いている。青年の本来の心にある正義心は、自分達の愚弄された青春をわが手にとり戻そうとしてこれ等の動きに現われて来ている。青年団のこれまでの役目は若い者を賢くするよりも愚かにさせる旗持ちをした。今は役所の下請けをした青年団ももとのままではいられなくなって来た。青年の気持をほんとうに反映して向上して行こうとする心の貯水池によりかかろうとしている。青年団のどこでもがこの頃はさかんに演芸会をやっている。失われた笑いと大声で遠慮なく喋ることと、人前に立って遠慮なく振舞う自由さを若者らしい陽気な演芸会が振りまき始めている。自分をどういう形にして、正直に表現して行くという大切な人間らしい習慣は、特に日本では重大に考えられなければならない。中学生は、工場に働く人々は、渾名をつけることの名人である。兵隊も渾名をつけることはうまい。どんなしかつめらしい髭を生やしていても彼等から渾名をつけられることは避けられない。渾名は大衆的な批判である。青年が渾名をつけることの名人であるという一つの事実の中に、隠されている大きな真理がある。その事実の中に、自からの批判力によってこそ青年は未来をつくる、歴史をつくるといわれる必然があるからである。\n 五十になった時、一冊の本さえ読まないじじいでも、十六の時、十八の時、せめて一冊の講談本は読んでいるだろう。少し真面目な若者は、人生の拡がりを自分のものとしたいと思って、読書をねがう気持は痛切である。自分の仕事に必要な技術をたかめようとして専門書を求める気持も痛切である。然し、紙は青年の向上心のために配給されていない、本屋の儲けのために配給されている。基本的な食糧、賃金、住居の問題から文化の面まで日本ではすっかりやりかえられて人民の幸福のために運営されるようにしなければならない。\n こうしてみると、青年の生活にとって特別な関係ある問題は、左をみれば婦人の今日の社会における種々の問題とキッチリ結ばれているし、右をみれば所謂おやじさん達の生活の根本問題と全くつながった線にあることが理解されるだろう。民主戦線という言葉がいたるところに言われている。学生が学生だけで、工場に働く人が工場に働く人だけで固まって、そこだけで解決出来ないほど今日の日本の問題は大きく広い。そして根本的である。村と都会とはお互いの困難を分け持っているし、その自然の解決は双方の協力なしには決して実現しない。青年の賃金の低さは婦人の賃金が騰る時でなければ決して騰らないし、民法の上で女が独立の権利を持たないうちは、一家の中で長男だけが持っている特権と負担とは解決しない。人民の利害はこのようにして、人口の九割九分までを包括している。そしてほんの一握りの権力と金力とを持った支配者に向って立っている。この社会の土台がどこにあるか。三角というものは尖った小さい先で立っているか、それとも一番線の長い広いところを土台として立っているか。三角を尖った先で立てることは人間が二つの手の上でさか立ちすることよりも困難である。社会の三角の力強い底辺である人民が、どうして自分達の幸福のために努力しないでいられよう。その底辺の一番重心である青年がどんな理由があって歴史の創り手であるという光栄を捨てるべきだろう。\n 選挙が迫って来ている。若い人々の一票はその人々が真実どんな生活を欲しているかということを物語るものだと思う。何故なら今や日本の社会は、少くとも私達の要求をまっすぐに反映しなければならないというところまでは民主化の方向をとって来ているのであるから。自分が何を欲しているか、それをはっきり知ることこそ大切であると思う。老獪な支配者達が私達の心に残っている旧い考え方を足場としてまた再び彼等の横暴を返り咲かせないように、私達は生きることこそ欲しておれ、彼等のために侮辱的な毎日をひきずって行くことは御免であるという事実を知らせなければならないと思う。〔一九四六年五月〕"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " イエス其の弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々に出でゆき、途にて弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は我を誰と言ふか」答へて言ふ「バプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人は預言者の一人」また問ひ給ふ「なんぢらは我を誰と言ふか」ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)\n たいへん危いところである。イエスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無智文盲の弟子たちに向い「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。無智文盲の弟子たちの答一つに頼ろうとしているのである。けれども、ペテロは信じていた。愚直に信じていた。イエスが神の子である事を信じていた。だから平気で答えた。イエスは、弟子に教えられ、いよいよ深く御自身の宿命を知った。\n 二十世紀のばかな作家の身の上に於いても、これに似た思い出があるのだ。けれども、結果はまるで違っている。\n かれ、秋の一夜、学生たちと井の頭公園に出でゆき、途にて学生たちに問いて言いたまう「人々は我を誰と言うか」答えて言う「にせもの。或人は、嘘つき。また或人は、おっちょこちょい。或人は、酒乱者の一人」また問い給う「なんじらは我を誰と言うか」ひとりの落第生答えて言う「なんじはサタン、悪の子なり」かれ驚きたまい「さらば、これにて別れん」\n 私は学生たちと別れて家に帰り、ひどい事を言いやがる、と心中はなはだ穏かでなかった。けれども私には、かの落第生の恐るべき言葉を全く否定し去る事も出来なかった。その時期に於いて私は、自分を完全に見失っていたのだ。自分が誰だかわからなかった。何が何やら、まるでわからなくなってしまっていたのである。仕事をして、お金がはいると、遊ぶ。お金がなくなると、また仕事をして、すこしお金がはいると、遊ぶ。そんな事を繰り返して一夜ふと考えて、慄然とするのだ。いったい私は、自分をなんだと思っているのか。之は、てんで人間の生活じゃない。私には、家庭さえ無い。三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来あがると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。けれども、旅に出たって、私の家はどこにも無い。あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。仕事場は、窮屈である。けれども、旅も心細い。私はうろついてばかりいる。いったいどうなる事だろう。私は人間でないようだ。\n「ひでえ事を言いやがる。」私は寝ころんで新聞をひろげて見ていたが、どうにも、いまいましいので、隣室で縫物をしている家の者に聞えるようにわざと大きい声で言ってみた。「ひでえ野郎だ。」\n「なんですか。」家の者はつられた。「今夜は、お帰りが早いようですね。」\n「早いさ。もう、あんな奴らとは附き合う事が出来ねえ。ひでえ事を言いやがる。伊村の奴がね、僕の事をサタンだなんて言いやがるんだ。なんだい、あいつは、もう二年もつづけて落第しているくせに。僕の事なんか言えた義理じゃないんだ。失敬だよ。」よそで殴られて、家へ帰って告げ口している弱虫の子供に似ているところがある。\n「あなたが甘やかしてばかりいるからよ。」家の者は、たのしそうな口調で言った。「あなたはいつでも皆さんを甘やかして、いけなくしてしまうのです。」\n「そうか。」意外な忠告である。「つまらん事を言ってはいけない。甘やかしているように見えるだろうが、僕には、ちゃんとした考えがあって、やっている事なんだ。そんな意見をお前から聞こうとは思わなかった。お前も、やっぱり僕をサタンだなんて思っているんじゃないのかね。」\n「さあ、」ひっそりとなった。まじめに考えているようである。しばらく経って、「あなたはね、」\n「ああ言ってくれ。なんでも言ってくれ。考えたとおりを言ってくれ。」私は畳の上に、ほとんど大の字にちかい形で寝ころがっていた。\n「不精者よ。それだけは、たしかよ。」\n「そうか。」あまり、よくなかった。けれどもサタンよりは、少しましなようである。「サタンでは無いわけだね。」\n「でも、不精も程度が過ぎると悪魔みたいに見えて来ますよ。」\n 或る神学者の説に依ると、サタンの正体は天使であって、天使が堕落するとサタンというものになるのだという事であるが、なんだか話が、うますぎる。サタンと天使が同族であるというような事は、危険思想である。私には、サタンがそんな可愛らしい河童みたいなものだとは、どうしても考えられない。\n サタンは、神と戦っても、なかなか負けぬくらいの剛猛な大魔王である。私がサタンだなんて、伊村君も馬鹿な事を言ったものである。けれども伊村君からそう言われて、それから一箇月間くらいは、やっぱり何だか気になって、私はサタンに就いての諸家の説を、いろいろ調べてみた。私が決してサタンでないという反証をはっきり掴んで置きたかったのである。\n サタンは普通、悪魔と訳されているが、ヘブライ語のサーターン、また、アラミ語のサーターン、サーターナーから起っているのだそうである。私は、ヘブライ語、アラミ語はおろか、英語さえ満足に読めない程の不勉強家であるから、こんな学術的な事を言うのは甚だてれくさいのであるが、ギリシャ語では、デイヤボロスというのだそうだ。サーターンの原意は、はっきりしないが、たぶん「密告者」「反抗者」らしいという事だ。デイヤボロスは、そのギリシャ訳というわけである。どうも、辞書を引いてたったいま知ったような事を、自分の知識みたいにして得々として語るというのは、心苦しい事である。いやになる。けれども私は、自分がサタンでないという事を実証する為には、いやでも、もう少し言わなければならぬ。要するにサタンという言葉の最初の意味は、神と人との間に水を差し興覚めさせて両者を離間させる者、というところにあったらしい。もっとも旧約の時代に於いては、サタンは神と対立する強い力としては現われていない。旧約に於いては、サタンは神の一部分でさえあったのである。或る外国の神学者は、旧約以降のサタン思想の進展に就いて、次のように報告している。すなわち、「ユダヤ人は、長くペルシャに住んでいた間に、新らしい宗教組織を知るようになった。ペルシャの人たちは、其名をザラツストラ、或いはゾロアスターという偉大な教祖の説を信じていた。ザラツストラは、一切の人生を善と悪との間に起る不断の闘争であると考えた。これはユダヤ人にとって全く新しい思想であった。それまで彼等は、エホバと呼ばれた万物の唯一の主だけを認めていた。物事が悪く行ったり戦いに敗れたり病気にかかったりすると、彼等はきまって、こういう不幸は何もかも自分たちの民族の信仰の不足のせいであると思い込んでいたのだ。ただ、エホバのみを恐れた。罪が悪霊の単独の誘惑の結果であるという考えは、嘗て彼等に起った事が無かったのである。エデンの園の蛇でさえ彼等の眼には、勝手に神の命令にそむいたアダムやエバより悪くはなかったのだ。けれども、ザラツストラの教義の影響を受けて、ユダヤ人も今はエホバに依って完成せられた一切の善を、くつがえそうとしているもう一つの霊の存在を信じ始めた。\n 彼等はそれをエホバの敵、すなわち、サタンと名づけた。」というのであるが、簡明の説である。そろそろサタンは、剛猛の霊として登場の身仕度をはじめた。そうして新約の時代に到って、サタンは堂々、神と対立し、縦横無尽に荒れ狂うのである。サタンは新約聖書の各頁に於いて、次のような、種々さまざまの名前で呼ばれている。二つ名のある、というのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になっているようだが、サタンは、二つや三つどころではない。デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜、古き蛇、等である。以下は日本に於ける唯一の信ずべき神学者、塚本虎二氏の説であるが、「名称に依っても、ほぼ推察できるように、新約のサタンは或る意味に於いて神と対立している。即ち一つの王国をもって之を支配し、神と同じく召使たちをもっている。悪鬼どもが彼の手下である。その国が何処にあるかは明瞭でない。天と地との中間(エペソ二・二)のようでもあり、天の処(同六・十二)という場所か、または、地の底(黙示九・十一、二〇・一以下)らしくもある。とにかく彼は此の地上を支配し、出来る限りの悪を人に加えようとしている。彼は人を支配し、人は生れながらにして彼の権力の下にある。この故に『この世の君』であり、『この世の神』であって、彼は国々の凡ての権威と栄華とをもっている。」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " ここに於いて、かの落第生伊村君の説は、完膚無き迄に論破せられたわけである。伊村説は、徹頭徹尾誤謬であったという事が証明せられた。ウソであったのである。私は、サタンでなかったのである。へんな言いかたであるが、私は、サタンほど偉くはない。この世の君であり、この世の神であって、彼は国々の凡ての権威と栄華とをもっているのだそうであるが、とんでも無い事だ。私は、三鷹の薄汚いおでんやに於いても軽蔑せられ、権威どころか、おでんやの女中さんに叱られてまごまごしている。私は、サタンほどの大物でなかった。\n ほっと安堵の吐息をもらした途端に、またもや別の変な不安が湧いて出た。なぜ伊村君は、私をサタンだなんて言ったのだろう。まさか私がたいへん善人であるという事を言おうとして、「あなたはサタンだ」なんて言い出したわけではなかろう。悪い人だという事を言おうとしたのに違いない。けれども私は、絶対にサタンでない。この世の権威も栄華も持っていない。伊村君は言い違いしたのだ。かれは落第生で、不勉強家であるから、サタンという言葉の真意を知らず、ただ、わるい人という意味でその言葉を使ったのに違いない。私は、わるい人であろうか、それを、きっぱり否定できるほど私には自信が無かった。サタンでは無くとも、その手下に悪鬼というものもあった筈だ。伊村君は、私を、その召使の悪鬼だと言おうとして、ものを知らぬ悲しさ、サタンだと言ってしまったのかも知れない。聖書辞典に拠ると、「悪鬼とは、サタンに追従して共に堕落し霊物にして、人を怨み之を汚さんとする心つよく、其数多し」とある。甚だ、いやらしいものである。わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯いて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗りうつり転げる如く遁走し、崖から落ちて海に溺れたのも、こいつらである。だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。私の不安は極点にまで達した。私は自分の三十三年の生涯を、こまかに調べた。残念ながら、あるのだ。サタンにへつらっていた一時期が、あるのだ。それに思い当った時、私はいたたまらず、或る先輩のお宅へ駈けつけた。\n「へんな事を言うようですけど、僕が五、六年前に、あなたへ借金申込みの手紙を差し上げた事があった筈ですが、あの手紙いまでもお持ちでしょうか。」\n 先輩は即座に答えた。\n「持っている。」私の顔を、まっすぐに見て、笑った。「そろそろ、あんな手紙が気になって来たらしいね。僕は、君がお金持になったら、あの手紙を君のところへ持って行って恐喝しようと思っていた。ひどい手紙だぜ。ウソばっかり書いていた。」\n「知っていますよ。そのウソが、どの程度に巧妙なウソか、それを調べてみたくなったのです。ちょっと見せて下さい。ちょっとでいいんです。大丈夫。鬼の腕みたいに持ち逃げしません。ちょっと見たら、すぐ返しますから。」\n 先輩は笑いながら手文庫を持ち出し、しばらく捜して一通、私に手渡した。\n「恐喝は冗談だが。これからは気を附け給え。」\n「わかっています。」\n 以下は、その手紙の全文である。\n ――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですが、よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして、やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい。今月末まで必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたりから二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません。「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら、よろこび、これに過ぎたるは、ございません。図々しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正をも甘受いたす覚悟です。只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば、お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど。おそくだと、私のほうでも都合つくのですが。万事御了察のうえ、御願い申しあげます。何事も申し上げる力がございません。委細は拝眉の日に。三月十九日。治拝。」\n 意外な事には、此の手紙のところどころに、先輩の朱筆の評が書き込まれていた。括弧の中が、その先輩の評である。\n ――○○兄。生涯にいちどの(人間のいかなる行為も、生涯にいちどきりのもの也)おねがいがございます。八方手をつくしたのですが(まず、三四人にも出したか)よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして(この辺は真実ならん)やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい(察しはつくが、すこし変である)今月末までに必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたり(あたりとは、おかしき言葉なり)から二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません(この辺は真実ならんも、また、あてにすべからず)「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して(申してとは、あやしき言葉なり、無礼なり)借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら(かれ自身は更に動く気なきものの如し、かさねて無礼なり)よろこび(よろこびとは、真らしきも、かれも落ちたるものなり)これに過ぎたるは、ございません。図々しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正をも甘受いたす覚悟です(覚悟だけはいい。ちゃんと自分のことは知っている。けれども、知っているだけなり)只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば(この辺同情す)お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど(日数に於いて掛値あるが如し、注意を要す)おそくだと、私のほうでも都合つくのですが(虚飾のみ。人を愚弄すること甚しきものあり)万事御了察のうえ、お願い申しあげます。何事も申しあげる力がございません(新派悲劇のせりふの如し、人を喰ってる)委細は拝眉の日に。三月十九日。治拝。(借金の手紙として全く拙劣を極むるものと認む。要するに、微塵も誠意と認むるものなし。みなウソ文章なり)\n「これはひどいですねえ。」私は思わず嘆声を発した。\n「ひどいだろう? 呆れたろう。」\n「いいえ、あなたの朱筆のほうがひどいですよ。僕の文章は、思っていた程でも無かった。狡智の極を縦横に駆使した手紙のような気がしていたのですが、いま読んでみて案外まともなので拍子抜けがしたくらいです。だいいち、あなたにこんなに看破されて、こんな、こんな、」まぬけた悪鬼なんてあるもんじゃない、と言おうとしたのだが言えなかった。どこかで、まだ私がこの先輩をだましているのかも知れないと思ったからである。私が言い澱んでいると、先輩は、どれどれと言って私の手から巻紙を取り上げて、\n「むかしの事だから、どんな文句か忘れてしまった。」と呟いて読んでいるうちに、噴き出してしまった。「君も馬鹿だねえ。」と言った。\n 馬鹿。この言葉に依って私は救われた。私は、サタンではなかった。悪鬼でもなかった。馬鹿であった。バカというものであった。考えてみると、私の悪事は、たいてい片っ端から皆に見破られ、呆れられ笑われて来たようである。どうしても完璧の瞞着が出来なかった。しっぽが出ていた。\n「僕はね、或る学生からサタンと言われたんです。」私は少しくつろいで事情を打ち明けた。「いまいましくて仕様が無いから、いろいろ研究しているのですが、いったい、悪魔だの、悪鬼だのというものが此の世の中に居るんでしょうか。僕には、人がみんな善い弱いものに見えるだけです。人のあやまちを非難する事が出来ないのです。無理もないというような気がするのです。しんから悪い人なんて僕は見た事がない。みんな、似たようなものじゃないんですか?」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " 十月下旬行われた作家同盟主催の文学講習会のある夜、席上でたまたま「亀のチャーリー」が討論の中心となった。ある講習会員が「亀のチャーリー」をとりあげ、その作品は一般読者の間で評判がよく親しみをもって読まれたから、ああいう肩のこらない作品の型もプロレタリア文学の中にあってよいのではないかという風に問題をおこし、プロレタリア文学のジャンルの問題に連関させていた。\n その晩、自分は最後の時間をうけもっていたのでおそく出席し、そもそもその講習会員がどんな発端からそういう話をはじめたのかわからず、鹿地亘が意見を述べるのを聞いていた。「亀のチャーリー」について問題とすべきはプロレタリア文学としての創作方法の問題であって、ジャンルの問題ではないということが説明されていた。自分はそのとき「亀のチャーリー」をよんでいなかった。帰って注意ぶかく読んだが、はたして「亀のチャーリー」はプロレタリア文学の中にあってもよいという種類の肩のこらぬ作品であったろうか?\n 藤森成吉が『改造』九月号に発表した小説「亀のチャーリー」は、三十年もアメリカに移民労働者として辛苦の生活をしている動物と子供のすきな日本人中野が、市場で亀をひろって育てたことから亀のチャーリーとあだ名され、アメリカの子供の人気を博しつつ、日本の切手や菓子その他を宣伝用具として子供らを教育し、ピオニイルに仕立ててゆく。亀のチャーリーは相もかわらず貧乏で冬じゅう何も食わぬ二匹の亀の子とボロ靴下を乾したニューヨークの小部屋では五セントの鱈の頭を食って暮しているがピオニイルはゾクゾク殖えてゆくという物語を、五章からなるエピソード的構成で書いているのである。\n 小説の冒頭には、ワシントン百年祭当日、アメリカの共産党によって指導された民衆の、中国から手をひけ、ソヴェト同盟を守れ、とスローガンをかかげた大衆的示威運動の光景が描かれ、チャーリー中野もそれに参加したと紹介されている。ニューヨークの反戦デモに参加するばかりか、中野は三十年間転々としてアメリカであらゆる労役に従事していた間に、鉱山の大ストライキにプロレタリアとして夜も眠らず働いたことがある。なおかつ現在では自分の周囲におけるアメリカの子供の中からピオニイルを養成しているというのであるから、おそらく日本移民労働者の一人として、アメリカ共産党に組織されているのであろう。\n「亀のチャーリー」一篇を読んで最も強く印象されることは、亀のチャーリーという中年の男が全く孤立的に書かれていることである。生活的な面では住んでいるアメリカのプロレタリア大衆とも、故国日本の革命的大衆ともなんら切実な交流を持っていない。ポッツリ切りはなされている亀のチャーリーという男が、ニューヨークには、ほかの日本人労働者も学生も商人もいるであろうのに、それらとはちっともかかわりなく、またアメリカの労働者、その前衛とも何の有機的結合をも示さず、ひたすらアメリカの子供に向って公式的な宣伝教育をしてはせっせとピオニイルにしてゆくことが書かれている。――これは全く著しく変であると思った。\n ピオニイルの組織は誰でも知っているとおり、どの国においてもプロレタリアートの指導のもとに組織されている革命的な階級的少年少女組織である。ピオニイルは共産青年同盟員によって指導されるのが通例であり、おそらく五十を越しているであろう腕の毛まで白い亀のチャーリーにその任務がはたせられていることはなかろうが、それは一応チャーリーの子供好きの特色、独特性によるものとして、どうも納得できないのは、亀のチャーリーがピオニイル養成という現実の仕事の理解に対して示している機械的な卑俗的な、安易さである。\n たとえば、メリイという女の子が夏場彼の店に出入りしてピオニイルになる過程を作者は手軽くこう書いている。メリイに本を読ますと円い青い目をクルクルさせて「正確な理解力」を示し、「十日ばかりチャーリーの店の手伝いをして」「やめる時にはもうピオニイルの組織に入ってい、弟や妹ばかりか父親や母親たちへまで宣伝するようになった。」あるいは失業者の息子が二人、店に掻払いにきたのに、亀のチャーリーがつかまえて説得して「本」をやると「二人はやがていいピオニイルに成長して、いつも二人で組になって活動した」と。\n あとからあとからそのようにしてつくられるピオニイルらは、どこへ組織的にはつけられるのか、どんな分隊、野営をチャーリーが知っているのか、読者にはわからずに、はなはだ不安である。「本」をよますと「正確な理解力」を示すというが、それはどんな本であろうか。子供らは質問するというが、七百万人の失業者のあふれたアメリカの子供、牛乳業トラストが市価つり上げのため原っぱへカンをつんで行って何千リットルという牛乳をぶちまけ、泥に吸わせ、そのために自分たちの口には牛乳が入らないでウロついているアメリカ勤労階級の子供らは、亀のチャーリーにどんな、現実的なプロレタリアの子供らしい質問をするか? 子供らがピオニイルにならずにおれぬモメントはどこにあったのであろうか?\n 最も興味あり関心事であるべきそれらの点を、作者は機械主義で片づけている。同時に、一人の子供をピオニイルにしようとし、なし得たことによって得た経験が、亀のチャーリーの心持をプロレタリアとして、またアメリカ帝国主義の下で有色人種労働者として二重の搾取と抑圧とに闘っている日本人移民労働者としてのチャーリーの心持をどのくらい高め、鼓舞し、生きてゆく日常の世界観を変革したかというようないきいきした人間的階級的摂取は、作品のどこにもあらわれて来ない。\n その例は小説の初めに、風邪をひいてしょげた亀のチャーリーの心持とその次の不自然な、非現実的飛躍に現れている。しょげたチャーリーは平凡らしく、金もたまらず、妻も子も持てずに働きつづけ、今や体が弱って髪の白くなったのを「これが日本人労働者の運命なのだ」とこぼし、更に「おまけに、お前が気が弱くなったのは、体が弱ってきたセイってよりも、むしろ恐慌のセイらしいぞ」と弱気な、非闘争的なダラ幹魔術にかかっているような述懐をもらしたかと思うと、忽然として次の行では作者はそのチャーリーに「収入が減ったって、だがそれ以上のものがあるんだ」と意気込ませている。そしてつづけていっている。「今年の宣伝のためにはこの恐慌はウンと有利だ」と。\n 作者の非プロレタリア的現実把握が微妙に右の一二行によって暴露されている。即ち、チャーリーの本当の気分は恐慌によって弱くなっているのだが、宣伝のためには有利だと、まるで第二インターナショナルの職業的社会主義者のように、切迫した恐慌による階級と階級との対立を人為的にみている。三十年間にうけた抑圧との闘いによってプロレタリアとして目覚めた一移民労働者が、今や彼の賃金を百ドルから七十ドルに切り下げる恐慌に対して、利害の衝突する二つの資本主義国家間の泥仕合的排外主義に対し、ピオニイルの養成にも熱誠を示すというようなのでは決してない。\n プロレタリアートの心持を書こうとして客観的現実と主観とが非弁証法的な分裂をとげたというのではない。\n「亀のチャーリー」は、生々したたくましい現実としてのプロレタリアートの日常に作用している革命性、そのための組織など書いていない。ましてや、一九二九年来の恐慌が一層深刻化し、資本主義の局部的安定さえ今は破れ、資本主義国家と資本主義国家との衝突の危機が切迫している現段階のプロレタリアートのピオニイルという最も革命的組織的なものにふれつつ、それを最も非組織的に非現実的に描くことによってプロレタリアートの力を背後に押しかくし、亀の子、子供、子供ずきの孤独な移民チャーリーと市民的な哀感をかなでている。\n 作者は「移民」という小説を近く発表するらしく広告で見た。しかし「亀のチャーリー」のように、主題の把握においてプロレタリアートの闘争から切りはなされ、プロレタリア作家に課せられている課題から逸脱したものであるならば、「移民」の書かれる革命的意味もまた少ないであろう。"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 作家が一つの作品から次の作品へと正しい発展をとげてゆくことは、困難な努力のいる仕事である。ブルジョア作家たちは、その本質から、作家としての完成を個人的自己完成としてしか理解し得ないため、その努力を取材から取材への一見めあたらしげな転々たる移行およびその扱いかた、書きかたの練達へと集中する。彼らはいかに数多く一つから一つへと書きまわろうとも、ブルジョア的世界観の上に立っている以上主観の真の意味における発展はない。いきおい陳腐な本質の粉飾としての形式主義に、芸術至上主義に堕さざるを得ない。\n この点プロレタリア作家は全く根底を異にしていると思う。プロレタリア作家こそプロレタリア階級の発展の各モメントとともに発展し得る。プロレタリア作家が唯物弁証的把握によって自身の階級の当面の革命的モメントを正確に政治的に把握し得さえすれば――社会的矛盾における複雑活溌な相互関係とそれに対して階級として働きかけるプロレタリアートの革命性を具体的にとらえ得さえすれば、作品における主題の積極性、発展性は革命の進展につれて押しすすめられ得る。この意味でプロレタリア文学および作家の発展をわれわれは問題にするのであるし、プロレタリア作家の発展の努力はこの方向に向ってなされなければならぬ。あれやこれやと低下したあるいは逸脱した題材を書きまわるのではなく、プロレタリアートの課題とともに書きすすめる努力こそされなければならない。\n\n 須井一の「幼き合唱」と「樹のない村」とはこの観点からわれわれに何を教えるであろうか。「幼き合唱」において作者は漁師の息子である小学校教師佐田のブルジョア教育に対する反抗を書いている。貧乏なばかりに師範の五年間を屈辱の中に過し、それをやっと「向学心」と「学問の光明」のために忍従していよいよ教師となった彼は、「希望と理想と満足とがひとりでに胸をしめ上げて来る」という状態で就任する。ところが「教員生活の最初の下劣さ」として、先輩教員らのへつらい屈伏を目撃し二宮金次郎の話をして児童から「私は金次郎は感心ですけれど万兵衛はわるいと思います」といわれたことを契機に、猛然と自分のかけられてきた師範学校的世界観の魔睡を批判しはじめる。佐田の煩悶がかくして始る。佐田は神経的に正義派的に、彼の認識の中で一般化されている(作者も同様に一般化している)児童の「意欲をもたぬ幼年期の純真さ、無邪気さ」、創意性などを計量し、「労作にむすびついた教育、具体的実践に結合した」教育こそ小学教育の基礎であると感じる。\n たとえば「窓ふき」という集団的労作を子供らがみずから分業に組織したことを驚異した佐田が、そこから生産労働の分業について子供らに話しはじめれば、当然資本主義社会における矛盾形態としての分業の説明が必要となることを感じる。佐田は蟻の話と工場の話とを対照させる。児童を型にはめ、卑屈にさせ、抑圧と搾取とを準備する現在の小学教育はドグマの所産であると奮激し「おれはもっと......して......ぞ!」(原文伏字)と切歯する。\n K市の年中行事として行われる「共同視察」参観者の列席の前で、佐田は児童との初歩的な階級性を帯びた質問応答によって彼の発見しつつある新しい教育法を示威しようとしたことから、ついに反動教育と決裂する。あやまれといわれたことに対して、体じゅうをブルブルふるわし「私は詫びにきたのではありません。主張をしにきたのだ」と叫び、あわてふためく同僚に「私は、私は......」と叫びつつかつぎ出される光景をもって結んでいるのである。\n 伏字によってこの小説の中のかんじんなところはわれわれの目から隠されてしまっている。それらの部分で作者はきっと、思惟の当然の発展としてソヴェト同盟における社会主義的小学教育が全社会の前進とともに達成において新しい人間を生みつつあることや、または現在日本の文部省教育の腐敗は日本独特の封建的専制主義の重圧によるものであることなどもいっていることだろう。\n そこを考えに入れても、この「幼き合唱」が読者にあたえる印象の総和は、錯雑と神経衰弱的亢奮と個人的な激情の爆発とである。行文のあるところは居心持わるく作者の軽佻さえ感ぜしめる。これはどこから来るのであろうか。\n「子供の世界」という小市民的な一般観念で、階級性ぬきに子供の生活を「意欲をもたぬ純真」なもの、無邪気なもの、天真爛漫な人生前期と提出している点、作者は極めて非プロレタリア的である。バイブルが「手袋なしには持てぬ」代物である通り、ブルジョア世界観によって偽善的に、甘ったるく装われ、その実は血を啜る残虐の行われている「子供の無邪気さ、純真さ」の観念に対してこそ、プロレタリアートは「知慧の始り」である憎悪をうちつけるのではなかろうか。実際の場合に、人道主義的、正義派的な若い小学教師が、小学教育の偽瞞に目ざめる動機は「万兵衛は悪いと思います」という子供のイデオロギー的な言葉よりさきに、校長、教頭などが金持、地主、官吏の子供らばかりをチヤホヤし、その親に平身低頭し、自身の地位の安全のためにこびる日常の現実に対して素朴な、しかし正当な軽蔑と憤りとを感じることから始る例が多い。\n 佐田は搾取形態としての分業について、又は専制的封建的小学教育法についてイデオロギー的批判をするとき大がかりにマルキシズムの社会観によって思想を展開させている。ところがそれを実践にうつす段どりになると彼はきわめて安直に、粗末に、非組織的に行動することしかなし得ない。\n 児童たちの窓ふき作業ぶりを観察して、たちどころに小学教育の基礎と方法とは労作に結びついた教育でなければならぬという社会主義教育の階級的課題にまで頭の中で推論に拍車をかけた佐田は性急に、孤立的にそれをどういう形で行うかというと「おおい、みんな!」彼はとっさにワイシャツとズボンを脱ぎすてて叫んだ。「先生もみんなを手伝うぞ! みんなの仲間入りするぞ!」そうして、素早く雑巾を握ると、まるで夜のあけたような心で割り込んで行った。生徒たちが若い先生の主観的な亢奮ぶりにキョトンとすると、彼は「肥えたるわが馬、手なれしわが鞭」と「精一杯の声を張りあげて歌い出した。」子供たちも「忽ちこれに同化されて歌い始めた。労働の歌が労働するものの心を融合し統一した」と作者は楽観している。\n 師範卒業生佐田の安直ぶりが、階級的発展の端緒としての意味をもつ未熟さ、薄弱さとして高みから扱われているのではなく、作者須井自身にとっても弱い一点であることは、「幼き合唱」のところどころの文章にうかがわれる。大体作者はいわゆる筆が立つという型である。したがって字面をおしみなく並べてスラスラ読み流させる傾向であり、描写は立体的でなく叙述的である。文章に調子がつくと作者はよみ下し易い美文めいたリズムにのるのである。たとえば「絶望があった。断崖に面した時のような絶望が。憤激があった。押えても押えてもやり切れぬ憤激が。惨めさがあった。泣いても泣いても泣き切れぬ惨めさが。恩愛も、血縁も、人格的なつながりもない......(原文伏字)から死命を制せられている自分!」うたい上げられた調子はあるが沈潜して読者の心をうち、ともに憤激せしめる迫力は欠けている。\n 皮相的な、浮きあがった表現の著しい例をわれわれは、この小説のクライマックスともいうべき「共同視察」の場面に発見する。ドヤドヤと視察者が入ってくる。佐田はさすがに「厄介なことになった」と思うが、あくまで自由な質問応答をやり、「活溌にやることによって彼の発見し、実行しつつある新しい」教育法を「示してやろうと思った。」佐田の一生にとって、即ち小説としての芸術的概括の点からいってもこの瞬間は緊張した、真面目なるべきモメントである。それにもかかわらず、作者は「彼はちょっと悲壮な気持で第一声をはなった。『では質問に入りますから、判らぬところがあったら......』」云々といってすぎている。この一句で真摯なるべき現実が不快にくずされている。悲壮という複雑な人間的感情の集約的表現は、ちょっとという小量を示す形容詞によって、軽佻化され、なおざりのものとされ、読者は作者の浮腰を感じるのである。このような例は、この部分一ヵ所ではない。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、高品質な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " このような、社会主義国の軍隊独特の文化活動について、プロレタリア作家はどんな芸術記録をつくっているだろうか?\n ソヴキノが、赤軍文化教育部と連絡をもって「極東特派軍」という興味ふかい記録映画をこしらえた。\n 工場から、戦地慰問に特派された男女労働者の代表は、新聞に短い労働者通信をのせた。然しプロレタリア作家団体はどんな組織的活動もしなかった。赤軍文化教育部と、プロレタリア作家団体とはきっちり結び合っていなかった。工場がしたように、代表を送ることさえしなかった。\n また、一九一七年の「十月」に赤色海軍が演じた英雄的役割は、ソヴェト映画の傑作「戦艦ポチョムキン」に、永久的足跡をのこしている。\n 今日における赤色海軍のもっている役割について書かれたどんなプロレタリア小説があるだろうか?――\n 五ヵ年計画に着手されるとともに、ソヴェトのプロレタリア作家たちは、プロレタリア文学から未来派風な或は機械主義的マルキシズムをなくすること、唯物弁証法的な創作方法への進展を、闘いとった。\n 仮りに、今日の事態が、世界平和と社会主義防衛のためにソヴェトの赤色陸海軍が動員されなければならないことになったとする。プロレタリア作家は彼の武器と、鉛筆と手帳とをもって、防衛に立つであろう。\n 彼等は勇敢に行動するだろう。彼等は勇敢に記録するだろう。しかし、果して彼等は赤軍の編成についてどれだけの知識をもっているだろうか。どの程度の階級的な軍事知識があるか。同時に、軍事的行動の間に要求される広汎で敏捷な文化活動の任務をテキパキ処理して行く程ふだんから赤軍の兵士たちの生活に親しく接しているかどうかという問題になると、現在のところ否と答えざるを得ない。\n ソヴェトのプロレタリア作家達は反ソヴェト・カンパニアというモメントから、ボルシェヴィキらしく、階級的発展に役立つものをとりあげた。ゴーリキー。デミヤン・ベードヌイ。セラフィモーヴィッチ。ファジェーエフ。バトラーク。プリボイ。グラトコフ。イズバフ。ベズィメンスキーなどとバルチック艦隊文学研究会員、赤軍機関誌編輯者、赤軍劇場管理者などが集り、赤色陸海軍文学協会中央評議会を結成した。一九三〇年初秋のことである。\n ロカフ中央評議会の決議は左のようなものであった。\n\n一、ロカフは芸術活動によって、赤色陸海軍の平和的・軍事的社会主義建設を活溌に再現するように努力すること。\n一、赤色陸海軍を主題とした作品の出版を支持すること。\n一、赤色陸海軍内の文学研究会を鼓舞し、絶えず指導すること。\n一、赤色陸海軍の機関誌、壁新聞、クラブ集会、文学の夕べ等にロカフは常に作品を送り、講演者を送って援助すること。\n一、プロレタリアの技術の一半として、正確な軍事知識を獲得し、普及すること。\n一、軍事活動に作家も参加すること、等。\n\n 十月初旬から中旬にかけて、モスクワ地方赤軍の演習があった。ロカフは演習へ参加するために積極的にプロレタリア作家を召集した。二十数名参加した。若い作家ばかりとは限らなかった。六十七歳のセラフィモーヴィッチが出かけた。「ツシマ」の作者ノヴィコフ・プリボイも出かけた。プロボイは日露戦争にバルチック艦隊の水兵として召集され、捕虜となって熊本にいたことがある。そして、バルチック海軍兵士の革命的組織に関係し、のち亡命して長くイギリスで海員生活をした。彼は殆どこれまで唯一のソヴェト海洋作家である。婦人の作家――もとは小学校の女教師で党員作家であるアンナ・カラヴァーエヴァも出かけた。\n 彼等は、赤軍兵が張ってくれた後方のテントの中で、手帳をひねくりまわしてはいなかった。突撃に加わり、一緒に泥をほじり、夜の歩哨にも伴れ立った。司令部とともに、視察した。前線での文学の夕べを組織し、即興芝居への台本を提供した。壁新聞を手伝った。\n その演習後文学新聞に赤軍指導者の面白い批判が掲載された。\n 今度の経験によってもロカフの組織は、プロレタリア作家の階級的発展に必須な一分野であることが明らかにされた。一般赤軍兵は満足をもって、プロレタリア作家の進出を迎えた。赤軍は労働者、農民以外の何者でもない。工場・農村のプロレタリアートに密接に結びついて、その文化的自発性を助け指導するプロレタリア作家の赤色陸海軍への結びつきは当然のものである。演習中、作家たちはわれわれ赤軍にいろいろのことを教えた。同時に作家たちも多くのことを学んだのは確かだが......率直に云うと、作家たちはまだどうも白手套をはめている。――つまり、まだお客で幾分儀式ばってる。そういう批評であった。\n ロカフは益々真面目な活動の分野をひろげ、各地方に支部を組織した(ロカフの組織は、ラップとどの点でも対立したものではない。ラップに属する作家が、または全露農民作家協会に所属する作家が、同時にロカフに加入している)。\n 一九三一年に入って、ロカフは「モスクワ・ロカフ」「レンバルトロカフ(レーニングラード・バルチック・ロカフ)」の他「タトロカフ(タタール共和国のロカフ)」「セヴカウロカフ(北コーカサス・ロカフ)」「スレダズ・ロカフ(中央アジア・ロカフ)」その他まで拡張した。\n「ロカフ」が組織されて一年近く経った。\n 今のところロカフに属する作家たちの書く作品の題材は、主として国内戦時代、歴史的な過去の事件からとられている。今日のわれわれの赤軍について、その社会主義建設の役割についてジックリ書かれた作品というのは極く少い。今日の、平和時代の赤軍はまだ充分紹介されないのである。\n モスロカフ(モスクワ・ロカフ)は、それより前、夏期の野営を組織し、そこでロカフの作家たちが軍事知識の吸収と文学活動をやるようにした。\n レンバルトロカフも五月に入るとロカフ主催の軍事講習会を催した。十四回の講義で、「軍事問題におけるマルクス・レーニン主義の根本原理」「軍事の出版問題について」の説明をやる。六十二名の作家が動員された。\n この講習の期間に作家聴講生は、二つの壁新聞を発行し、ほかに有益な軍事遊戯を思いついた。軍時に、ソヴェト軍隊と、交戦中の敵国住民大衆にアッピールするものと仮定したパンフレット、それにはクラブ用の小脚本、レヴュー台本、プラカート用の詩、スローガンなどを盛りこんだパンフレットの発行である。\n 軍事状態の中にあって各自の文学的政治的軍事的知識を活用し、敏捷に明快に文学活動をやる稽古だから、ゆっくり構えていては何にもならない。規則をきめると、或る作家たちは一枚の封筒を渡された。中に、めいめいが書くべき主題・形式、長さを命令した紙が入っている。翌朝十時までに必要に応じた詩・論文・スローガン・ビラなどを芸術的作品にまとめて出さなければならないというわけである。\n 規定通り、作品は集った。これらの作品が研究された。討論会が持たれた。どの作品も仮定された軍事行動の階級的本質については正しく認識していた。\n だが、その基礎的な正しさにも拘らず、少なからず部分的な誤りや知識の不完全さを示した。先ず多くの作品は、軍事行動の間における党の役割というものを具体的に把握していない。党の任務について或る作品はまるで触れていない。或る作品は出来合いの党のスローガンをひっぱって来て間に合わせをやっている。帝国主義の侵略戦争を世界のプロレタリアートの党は全力をもってその国のプロレタリア解放のために有利に展開させなければならない。が、この作品競技でその事業の具体的な困難さを理解しているものはまるで少なかったのである。\n ファシストの手先となった社会民主主義、第二インターナショナルがどんな階級的裏切りを行っているか。それとの闘争も形象化されていない。\n ただ一つ総てを貫き流れていた力強いものは、ソヴェトのプロレタリア作家たちが、大衆とともにこの階級的作家活動の新分野に対し真心をもって自分達の成長を決心していることである。\n『文学新聞』は「成功的な発端」としてこの経験を報道している。\n 各地方ロカフの激励によって「文学と戦争叢書」が続々刊行されはじめた。その一部として、アダム・ドミトリエフの『よし! 船をひけ』。別に、国内戦時代赤軍で働き有名な脚本「ラズローム(破滅)」を書いたボリス・ラヴレーニェフの『斯うして防衛する』というバルチック艦隊の演習を記録した本が出版された。\n\n 槌よ、高く鳴れ!"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n 赤色陸海軍文学協会の結成されたのは一九三〇年九月、七月の全同盟共産党十六回大会二ヵ月後のことだ。\n が、十月にソヴェト同盟の芝居季節がはじまると同時に、大衆は、ははア、成程な! と思った。ソヴェト同盟の劇場の上演目録が、一九三〇年の秋という特殊な情勢をハッキリ反映していることが誰の目にもわかった。\n 工場内の集会、労働者クラブの講演会『プラウダ』『労働者新聞』などが、帝国主義国の反ソヴェト・カンパニアに対する闘争についてソヴェト同盟の革命的大衆の自覚によびかけているばかりではない。\n 芝居が、楽しませながら、笑わせながら、帝国主義侵略絶対反対、ファシズム排撃を、大衆の心にうち込む役を積極的に買って出た。\n 抑々、ソヴェト同盟の演劇や映画は、これまでだって唯の一度も、資本主義国の商業主義が企業として利潤のために、金のあるもののための享楽道具としてつかわれたことはなかった。\n 経営は国家管理の下にされている。芝居の上演目録は詮衡機関にかけられて、本当にその脚本はソヴェト同盟の社会主義的建設に対して価値あるものかどうかを決定してから、各劇場が上演する。劇場は、だからプロレタリアート農民の文化的生活の切りはなせない一部分として、いつも座席の何割かは前もって産別労働組合を通じ無代で勤労者のために保留している。\n 工場の労働者、集団農場員、学生はときどきこういうタダ切符を組合から貰って芝居見物が出来る。まるっきりタダでなくても、労働組合員はどんないい劇場でも半額で切符を買う権利をもっている。\n「十月」以来、ソヴェト同盟の劇場は、大衆の階級的文化向上のためにいろんな脚本を上演して来た。シルレル、オストロフスキー、ゴーゴリ、トルストイ、チェホフ、ゴーリキーなどの古典的な、或は半古典的な戯曲。\n 労働者・農民の革命的建設を主題とするグラトコフの「セメント」、キルションの「レールは鳴る」、グレーボフの「権力」、イワーノフの「装甲列車」。\n 無数のエピソードと階級的献身によって豊富なロシア革命史の中からはスハーノフの「一九一七年」、ムスティスラフスキーの「血」、キルションの「風の町」等がある。\n ソヴェト同盟の興味ある日常生活の中から日常的な事件をとりあげ、それを階級的に批判したものとしては「書類鞄を持つ男」「四角」「嫉妬」。\n 植民地の問題を、芸術的にとりあつかって大衆に強烈な印象を与えたのは「吼えろ、支那!」「サラシチヤ」「カウチューク」だ。\n 映画の製作者を見ると、ソヴェト同盟で、映画がどんなに大切な文化的役割をもっているか驚くばかりだ。芝居より映画の方が移動にも便利だし、現実をそのままカメラに掴みこんで、而も強い芸術的効果があげられるため、ソヴェト映画の主題は、実にひろい。「十月」から「みなさん、歯を磨きなさい!」というところまで拡っている。\n 映画はソヴェト同盟内各共和国の直営だ。鉄、石油、農業用トラクター、パン、等が年々計画生産で行われている通り映画製作も計画生産だ。一九二八――二九年の例をとって見るとソヴキノでは、\n\n芸術映画 五三\n同 喜劇 八\n児童用 九\n文化啓蒙 九〇\n\nという数にのぼっている。どんな芝居、どんな映画にしろ、それがソヴェト権力確立後につくられたものならいつも其等を貫いて流れる一つの強い切れない階級的主張が籠っていた。\n 社会主義社会建設の現実を描き、その発展の意味をしらせる要素は、何かの形でどの作品の中にもこめられている。特に労働、集団農場クラブ用の小戯曲、啓蒙フィルムなどは、活溌に時々の情勢に応じながら百パーセントにその役目を果して来たのだ。\n さて、愈々五ヵ年計画がはじまった。五日週間が実行される。工場、役所、農村で階級的能率増進のためのウダールニクが組織される。党、生産組織、あらゆる場所で反革命分子の清掃が行われる。――革命的なソヴェト同盟のプロレタリアート、農民が社会主義社会建設のため、一がん張りがん張り出して見ると、今更ながら革命後までも根を張って、コソコソ策動していた階級の敵の存在が後から後からばれて来る。\n ばれない奴等はここを先途とあらゆる組織にもぐり込み、労働者、農民の決定的な勝利を妨げようとする。\n 農村の集団化の過程で農村における富農とそれにくい下る旧勢力がどんな悪意に満ちた中・貧農の敵であるかを大衆の面前に曝露した。集団農場についての文学的報告でこれに関する恐ろしい事実を記録しないものはなくなった。\n モスクワ地方労働組合ソヴェトの名によって劇場で上演され大好評だった「憤怒」。ワフタンゴフ劇場で出した「前衛」。どれもこれも、農村の集団化に際しての労働者農民の結合的活動とともに、旧勢力の罪悪を被うところなく摘発している。\n 映画「大地」(ドブジェンコ)は勝れたカメラの技術にかかわらずいろいろ批判さるべき要素をもっている。が、その一つとして、宗教の悪影響、階級的敵としての影響力がフィルムの上で過少評価されているという事実があげられたくらいだ。\n 一九三〇年に入ると、ソヴェト同盟の大衆は、国際的な事実としてローマ法王ピオ十三世が世界外交のかげにもっている役割は何であるかを見せつけられた。\n 三位一体は大資本、法王、軍閥で、祝福の代りに大衆の疲弊と流血があるだけだ。\n 一九三〇年、革命劇場上演の「第一騎兵隊」は、一九一七年――一九二〇年の国内戦の歴史、第一騎兵隊の功績を芸術化するばかりではない。帝政時代のロシア兵営内の生活の愚劣野蛮な絶対主義を遺憾なく示している。\n「セメント」を上演した写実劇場(元はモスクワ芸術座第三スタジオと呼ばれていた)は新しく「勇敢な兵士シュヴェイクの冒険」を脚色上演しはじめた。\n これは、元オーストリア軍隊内の野蛮な腐敗とを諷刺的に描き出したチェッコ・スロヴァキアの作品である。\n 多くの移動劇団、或は「生きた新聞」は身振狂言で帝国主義とファシズムに対する攻撃を始めたが、ここで一つ際立つ芸術上の現象がある。それは諷刺的要素の増大ということだ。\n 芸術上、諷刺性格が二通りある。一つは手投弾のように迅速な、的確に敵をバクロ、攻撃する役に立つ性格。他の一つは、自己批判の表現としての諷刺がある。\n 或るもの、或る事を見て、笑う。もうそこに一種の批判がある。ソヴェト同盟の芸術家、特に映画、演劇、絵画の作者たちは随分これまで上手に諷刺を生かして来た。\n『鰐』というソヴェト諷刺雑誌がある。それを買って頁をめくると、五ヵ年計画の達成のために、ソヴェト同盟の大衆がどんな社会的・階級的自己批判をやっているか。その自己批判の焦点が発展的に移って来ている過程までわかる。\n ファシスト、ブルジョアジー、官僚・軍閥、懶けて飲んだくれな非階級的労働者、官僚主義で形式主義で能なしの党員、社会ファシストとなった民主主義者などは、ソヴェト同盟の或る種の芸術の中ではもう漫画的に様式化されてさえいる。\n ソラ出た! ハッハッハッ。実に分りが早い。一目そういう者の姿を見ると、ソヴェト同盟の大衆が謂わば階級的に用意している哄笑、嘲笑が火花のようにとび散るのだ。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを持続して、細部にこだわった文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「きのう、慶大裏で飛びこみ自殺をした大江さんはほんとにお気の毒だったと思います。新聞は日頃呑んだくれだったと書きましたけれど、広尾の人からじかにきいた話はちがいます。大江さんのお神さんが病身だものでどうしても欠勤が多く、それを首キリの口実にされたからああいうことになったんだそうです。私たちがもっと強くて、病院でも持っていたら、大江さんは病身のおかみさんのためにクビにはならずにすんだのにと思います。自殺しなくてもよかったと思うと、残念です」\n「異議なし!」\n「そうだ!」\n つよい拍手が起った。ひろ子は自分ではまるで気づかない集注した美しい表情で顔を燃し、\n「どうぞ、皆さん、がんばって下さい」\nと云った。\n「私たちは及ばずながら出来るだけのおてつだいの準備をしています。それが無にならないように、どうぞしっかりやって下さい!」\n さっきのような彌次気分のない、誠意ある拍手が長く響いた。\n「――では続いて報告にうつります」\n\n 皆に要求されて、支部長の山岸が片手をズボンのポケットに入れた演説口調で、\n「不肖私は、この際支部長の責を諸君と共に荷っております以上は、あくまで闘争の第一線に殪れる決意をもつ者であることを声明します。ついては、即刻闘争の具体的方法について忌憚ない大衆的討論にうつりたいと思います」\n そう云ったころから、場内は目に見えて緊張して来た。\n「支部長の提案に、質問意見があったら出して下さい」\n「............」\n「議長!」\n この時、ひろ子の坐っている壁ぎわの場所からは斜向いに当るところで、一人の若い従業員が肱を突きのばすような工合に手を挙げた。\n「第三班の決議を発表したいと思います」\n「やって下さい」\n「われわれ第三班は、今朝改めて班会を持ち、要求は当然拒絶されるであろうという見とおしに立って、即刻ストを決議し、闘争委員を選出しました」\n「............」\n 微妙なざわめきが場内にひろがりはじめた。百二十七名の馘首反対を絶対に妥協しないこと。要求がきかれなければストライキ準備に入れという指令は本部から既に数日前発せられているのだ。山岸は力のつよい小波のように動きはじめた雰囲気を強いて無視し、わざとらしく燻たそうに眉根を顰めて丸っこい手ですったマッチから煙草に火をつけている。\n「ちょいと......そのウ、質問なんだが――」\n 不決断に引っぱって、のろくさと一つの声が沈黙を破った。\n「その第三班の決議ってのは――どういうんかね。俺にゃちょいと分らないんだが――全線立たなくても、ここだけで行こうってのかね」\n「第三班ではその気なんだ」\n 若い従業員は短く答えて口を噤んだ。\n「それなら」\n のろのろものを云っていたその男は俄に居直ったように挑発的な声を高め、\n「俺あ、絶対に、その案には反対だ!」\n ひろ子はその声が、さっき自分が立ってゆくとき後の方から「異議なし」と彌次った声であるのをききわけた。\n「異議なし!」\n 別の声が続いた。\n「俺も反対だ! ここっきりなんぞでやって見ろ。馬鹿馬鹿しい。根こそぎやられて、それこそ玉なしだア」\n ひろ子は全身の注意をよびさまされた。異議をとなえているものたちの間には妙に腹の合った空気がある。\n「議長!」\n「議長ッ!」\n 二つの声が同時に競り合って起り、甲高い方が一方を強引に押し切って、\n「そりゃ違うと思うんだ」\nと強く抗議した。\n「二月の広尾のストのことを考えて見たって分ると思うんだ。部分的ストは可能だし、それがきっかけで全線立つ情勢は現実にもう熟しているんだ。そんなことは誰だって実際現場の様子を知っているもんには分ってるはずだと思う。さもなけりゃ、本部はどうしてああいう指令を出したんだ?」\n「議長!」\n 万年筆だのエヴァシャープだのを胸ポケットにさしている年配のが、落着いたような声で云った。\n「俺は第一班だが......これは個人的意見なんだが、ストをやることに俺は絶対、賛成だ!」\n 一言一言に重みをつけてそう云っておいて、\n「但し、だ」\n 一転して巧に全員の注意を自分にあつめた。\n「但し、全線が一斉に立たないならば、ストをやることは、俺は絶対に反対だ!」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " ひろ子は胸の中を熱いものが逆流したように感じて唇をかんだ。何とこの幹部連中は狡猾に心理のめりはりをつかまえて、切り崩しをしているのだろう。自分がこの会合で発言権のないお客にすぎないことをひろ子は苦痛に感じた。炭がおこって火になるときだって、どこかの一点からついて全体へうつってゆくのではないか。それだのに――。\n 言葉使いの意味ありげなあやに煽られて、パチ、パチ手をたたいたものがあった。\n「力関係を考えないで、何でもストをやろうなんて、それこそ小児病だ。今、ここだけでなんてやれるかい!」\n「議長!」\n 再び甲高い声が主張した。\n「力関係って云ったって、相対的なもんだぜ、放ったらかして、こっちから押さないでいても有利になって来る力関係なんて、資本主義の社会にあるもんか。現に強制調停までにだって、一ふんばりふんばればやれたんだ。それを、天下り委員会にまかしといて、謂わば、いなされたんじゃないか」\n「そうだ!」\n「異議ナシ!」\n「今度だって、本部がこっそりクビキリ候補の名簿をこさえて、さし上げたんだっていう話さえあるじゃないか」\n「チェッ!」\n 大会の前後に、各車庫から「傾向的」な従業員が六十人以上警察へ引っぱられ、労救員もその中に何人かまじっていた。あらかじめ、そうしてしっかりした分子を引きぬいてしまった経営者側の意企が、こういういざという場合になって見ると、まざまざ分るのであった。ひろ子は益々くちおしく思った。\n 全線ストか、さもなければ全然ストには立たない、立っても意味ないという敗北的な考えかたを、指令や方針の解釈に当って争議のはじまりっから、東交幹部の大部分が盛に従業員の心にふきこんで来ていた。情勢がこみ入ると、そういうあれか、これかへの考えかたはどこにでも起りがちであった。亀戸託児所が市電の応援をやりすぎて親たちがこわがりはじめた、その時にもやはり、争議応援を全然打切ろうという意見と託児所ぐらい一つ潰したっていいという見解とが対立して、大谷がその席でその両方とも誤っていることを指摘した。\n 度々の弾圧で東交の職場大衆の中には、このいかがわしいかけ引きの底をわって、自分たちのエネルギーを正しい闘争の道へ引っぱり出すだけの組織者、先頭に立つべき指導者がのこされていない。それが、はたで見ているひろ子にさえ分った。\n 場内は、立ちこめる煙草のけむりと一緒に益々混乱し、いろんな突拍子もない意見や質問が続出した。\n ストは是非やるべしだ。が、今度こそは百パーセント勝つという保証つきでやって貰いたい。\n そういうのがあるかと思うと、どういう意味か、わざわざ、\n「俺は支部長にききたいんだが」\nと、国家社会主義とはどういうものかと質問したものがあった。ひろ子はそれをきいて、はじめその質問者は、窮極には資本家の利益を国家が権力で守ってやる国家社会主義は、労働者の幸福とどんなに反対のものであるかということについて、誰にでも呑みこめるような説明をひっぱり出そうとしているのかと思ったら、そうでもなくて、山岸の曖昧な、階級というものの対立する関係の説明をぬいた答弁だけで、反駁さえも加えられずに終った。そして、\n「議長!」\n 次には、まるで別な話のように、こんな提案がされた。東交はスローガンとしてファッショ打倒をかかげているが、俺はそのスローガンに反対だ。東交の規約には、政党、政治に関係なく全従業員の経済的利益を守るとある。それだのに、ファッショ打倒なんかというスローガンをあげることは規約を無視している。だから、\n「その点がはっきりしねえうちは、俺あもう組合費は出さんつもりだ」\n「チャッカリしすぎてるぞ!」\n「下田は何だヨ!」\n それは、東交内で有名なダラ幹で新聞にさえその御用的立場はすっぱぬかれていた。\n「ファッショのヤタイ店、ひっこめ!」\n「議長! 議場整理!」\n「みなさん、静かに願います。順々に発言して下さい!」\n 議長は形式的にそう云ったぎりで、支部長の山岸はその間ずっと片手をポケットにつっこんだなり、小机の端に頬杖をつき、おきているのか居睡りしているのか、瞼の重い目をつぶって場内を混乱にまかせている風である。散々ごやごやしぬいて肝心の討論の中心ははぐらかされ、全体の気分がだれて散漫になった時分、議長はさも潮どきという風に色の悪い顔をのび上らせ、\n「じゃア、もう時間が来ましたから」\nと決議を求めた。柳島車庫は、何処かがストに立ちさえすれば、直ちに罷業に入るという奇妙な決定をしたのであった。\n\n 三\n\n 事務所の裏口から出て、コークス殼の敷かれた長屋の横丁を歩いて来るうちに、ひろ子は苦しい、いやな心持がつのって来た。\n それは複雑な心持であった。東交が、全く従業員の高揚を引止める役にしか立っていない。それだのに、自分はうまく幹部に扱われて実質的な激励の役にも立たない前座で、応援のことを話させられてしまった。その失敗が今はっきりと感じられた。ひろ子が情勢をよく見ぬいて自分の話をあとに押えておくだけの才覚があったら、全体の気分があんなにだれた時、少しは引緊める刺戟にもなったかもしれまい。山岸ははじめっからそれを見越して行動した。大谷が来ないと云ったとき、山岸は笑っておだてるようなことを云った。それも、ひろ子の顔を屈辱で赧らめさせた。山岸がひろ子を後で喋らせなかったのは、すれきった彼の政治的な技術なのであった。\n 広い改正道路へ出る手前に新しく架けられたコンクリートの橋があった。片側通行止で、まだ工事につかったセメント樽、棒材、赤いガラスをはめこんだ通行止の角燈などがかためて置いてある。人が通れる日向の歩道の上で、茶色ジャケツにゴム長をはいた七つばかりの男の児と絣の筒っぽに、やっぱりゴム長をはいたいがぐり頭の同じ年頃の男の児とが、独楽をまわして遊んでいる。二つの小さい鉄独楽が陽に光りながら盛に廻っているぐるりをめぐって、繩をもった二人の男の児は、シッ、シッ、唾を飛ばしながら力一杯に繩をふり、自分の独楽に勢をつけ、横を何が通ろうが傍目もふらない。その様子を見るとひろ子はなおさら、今出て来た会合と自分に腹が立った。\n 歩調をゆるめて腕時計を見、ひろ子は一層おそく歩きながらハンドバッグをあけて、中仕切を調べた。一週間ばかり前に裁判所へ行って貰っておいた接見許可証は、四つに畳んだ端がささくれたようになって入っている。十銭、五銭とりまぜの財布の口をしめ、ひろ子はもう一遍首をかしげるような恰好をしたが、時計を見直すと、今度は地味な黒靴をはっきりとした急ぎ足になって停留場に向った。\n 重吉が市ケ谷の未決に廻されたのは、半年程前のことであった。警察には十ヵ月以上置かれた。はじめ半年ばかりの間は、ひろ子まで警察に留められていたのでもとより会えず、ひろ子がかえってからも、重吉への面会は許可されなかった。重吉が未決にまわったことがその日の夕刊でわかって、裁判所へ初めて許可を貰いに行った時、ひろ子は予審判事にこう云われた。\n「警察では自分の姓名さえも認めておらんのだから、深川重吉という人物は謂わばいるかいないか分らんようなものだ。然しマア、いろいろの証拠によって、こちらには分っていることだから許可します」\n 重吉は白紙で送られているのであった。\n 終点から引返しになるそこの電車は空いていた。日の当る側の座席を選んで四角な大きい白木綿の風呂敷包をわきにおいて腰かけ、それに肱をかけながら長くのばした小指の爪で耳垢をほじったりしているモジリの爺さんのほか、乗客はまばらである。前部のドアの横に楽な姿勢でよっかかっている年輩の車掌が、手帖を出し、短くなった鉛筆の芯を時々舐めながら何か思案している。市電の古い連中では株をやっているものが少くなかった。肩からカバンを下げていても、そうやって自分ひとりの世界の中に閉じこもっているその老車掌の自分中心にかたまった顔つきを見ていると、ひろ子の心には重吉からはじめて来た手紙の一節が無限の意味をふくんで甦った。重吉は、なかで注意して行っている健康法をしらせ、さて、外でも変ったことがあるだろう。歴史の歯車はその微細な音響をここには伝えないが、この点に関しては、何等の懸念もない。そう云ってよこした。何等の懸念もない。――だが、ひろ子はその不自由に表現されている言葉の内容を狭く自分の身にだけ引き当てて、自負する気にはとてもなれなかった。かりに自分の身にだけひき当てて解釈したとして、どうして「何の懸念もない」自分であろう。応援の挨拶一つ、正しい機会をつかんで喋れないのに。そういう未熟さがあっちにもこっちにもあるのに。\n 上野を大分過ぎたころ気がついて車内を見わたすと、いつの間にか、乗客の身なりから顔の色艶、骨相までが最初柳島で乗った人々とは違って来ているのに、ひろ子は新しく目を瞠った。大東京の東から西へ貫いて、ひろ子は揺すぶられて行っているのだが、同じ電車が山の手に近づくにつれて、乗り降りする男女の姿態は、煤煙の毒で青い樹さえ生えない城東の住民とはちがう柔軟さ、手ぎれいさ、なめらかさで包まれているのであった。\n ひろ子は、新宿一丁目で電車を降りた。そして、差入屋の縦看板の並んだ、狭苦しい通りに出た。行手の正面に、異様に空が広く見える刑務所の正門があった。門のそとに、コンクリート塀の高さと蜒々たる長さとを際立たせて、田舎の小駅にでもありそうなベンチがある。そのベンチの上のさしかけ屋根は、下から突風で吹き上げられでもしたように、高く反りかえっている。雨も風もふせぐ役には立たなかった。\n ひろ子はこの道を来て、森として単調な長い長いコンクリート塀の直線と、市中のどこよりもその碧さが濃いように感じられる青空を見上げるにつけ、胸を緊めつけられるようにその不自然な静寂を感じるのであった。\n 砂利を鳴らしてひろ子は入って行った。人の跫音のよく響くようにというためであろう。どこにも、かしこにも砂利がしいてあった。\n 内庭に面して別棟に建っている待合室は、男女にわかたれていた。ガラス戸をあけると煉炭の悪臭が気持悪く顔へ来た。割合すいていて、毛糸編の羽織みたいなものを着て、くずれた束髪にセルロイドの鬢櫛をさした酌婦上りらしい女が口をだらりとあけて三白眼をしながら懐手で膝を組んでいる。そのほか四五人である。十二時から一時までは面会を休む。あと十五分ばかりで一時という刻限であった。\n ひろ子は売店で十銭の菓子と、のりの佃煮を差入れ、待合所の外の日向に佇んでいた。内庭には松などが植えこんである。面会所は左手の奥にあったが、初めて来た時、ひろ子は勝手がわからずそこが便所かと思って行きかけた。そういう間違いも不思議でないような見かけであった。門扉の外でタイアが砂利を撥きとばす音がすると、守衛が特別な鍵で門をあけ、そこから自動車が一台内庭へ入って来た。三四人の男がその車から下りて、敬礼を受けつつ別棟の建物の中に入って行った。はなれたところからその様子を眺めていて、ひろ子は、重吉がここへ来たとき玄関の石段を登るに、拷問ではれた脚の自由がきかないで手をついてあがったと人からきいた話を思い出した。\n 気になって時計を見たが、まだ五分も経っていない。待つ間はこんなに永いが、いざ顔を見て口を利く時になると、幾言もまだ話したと思えないのに、もういい、と窓をおろされる。期待の永さと、短い間にひどく緊張して気をはりつめるせいで面会はくたびれた。面会窓があいた瞬間に、やあ、と笑顔になりながら大きい両肩をゆっくり揉み出すようにのり出してくる重吉の身ぶりや、いつも落ちかかって来る窓ぶたに語尾を押し截られるように、じゃ元気で、という重吉の声の抑揚は忘られなかった。次に会うまでに一ヵ月の時がたっていても、最後に見た重吉の眼の中や、唇のあたりに浮んでいた細かい表情はそのままの暖かさで、ひろ子の心にのこっているのであった。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを継続して、完璧な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " こんな家業を為んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾をされて、無理な財を拵へんければならんのですか。何でそんなに金が要るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財は、子孫に遺さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日無用の財を貯へる為に、人の怨を受けたり、世に誚られたり、さうして現在の親子が讐のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為つてゐるのではないでせう。\n 私のやうなものでも可愛いと思つて下さるなら、財産を遺して下さる代に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」\n 父が前に頭を低れて、輙く抗げぬ彼の面は熱き涙に蔽るるなりき。\n 些も動ずる色無き直行は却つて微笑を帯びて、語をさへ和げつ。\n「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉いけど、お前のはそれは杞憂と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍まるるじや。何家業に限らず、財を拵へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財の有る奴で評判の好えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自ら心持も違うて、財などをさう貴いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可えか。実業家の精神は唯財じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲がる財じや、何ぞ好えところが無くてはならんぢやらう。何処が好えのか、何でそんなに好えのかは学者には解らん。\n お前は自身に供給するに足るほどの財があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可えと満足して了うてからに手を退くやうな了簡であつたら、国は忽ち亡るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。\n 俺にそんなに財を拵へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟財を拵へるが極めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好え加減に為い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。\n お前は能うこの家業を不正ぢやの、汚いのと言ふけど、財を儲くるに君子の道を行うてゆく商売が何処に在るか。我々が高利の金を貸す、如何にも高利じや、何為高利か、可えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯はにや措れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則ち営業の魂なんじや。\n 財といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念うとる、獲たら離すまいと為とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲する者は皆不正な事をしとるんじや」\n 太くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡ば直道の顔を偸視て、あはれ彼が理窟もこれが為に挫けて、気遣ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私に懽べり。\n 直道は先づ厳に頭を掉りて、\n「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは......! 譬へば間が災難に遭つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返の為方とお思ひなさるか。卑劣極る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」\n 彼は声を昂げて逼れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮めて、\n「どうですか」\n「勿論」\n「勿論? 勿論ですとも! 何奴か知らんけれど、実に陋い根性、劣な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設ひその手段は如何にあらうとも」\n 父は騒がず、笑を含みて赤き髭を弄りたり。\n「卑劣と言れやうが、陋いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺しても遣りたいほど悔いのは此方ばかり。\n 阿父さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」\n 又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理の覿面当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌てつつ夫の気色を密に窺ひたり。彼は自若として、却つてその子の善く論ずるを心に愛づらんやうの面色にて、転た微笑を弄するのみ。されども妻は能く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡するを。彼は今それか非ぬかを疑へるなり。\n 蒼く羸れたる直道が顔は可忌くも白き色に変じ、声は甲高に細りて、膝に置ける手頭は連りに震ひぬ。\n「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来も度々言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在は無からうけれど、考出すと勉強するのも何も可厭になつて、吁、いつそ山の中へでも引籠んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤んで、附合ふのも耻にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終には容れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺に餓死するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」\n 眼は痛恨の涙を湧して、彼は覚えず父の面を睨みたり。直行は例の嘯けり。\n 直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言を止めず。\n「今度の事を見ても、如何に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎はどんなであるか言ふに忍びない」\n 父は忽ち遮りて、\n「善し、解つた。能う解つた」\n「では私の言を用ゐて下さるか」\n「まあ可え。解つた、解つたから......」\n「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」\n「お前の言ふ事は能う解つたさ。然し、爾は爾たり、吾は吾たりじや」\n 直道は怺へかねて犇と拳を握れり。\n「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更劇い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」\n はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。\n「そりや辱いが、ま、当分俺の躯は俺に委して置いてくれ」"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 彼は徐に立上りて、\n「些とこれから行て来にやならん処があるで、寛りして行くが可え」\n 忽忙と二重外套を打被ぎて出づる後より、帽子を持ちて送れる妻は密に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺めて、\n「俺が居ると面倒ぢやから、些と出て来る。可えやうに言うての、還してくれい」\n「へえ? そりや困りますよ。貴方、私だつてそれは困るぢやありませんか」\n「まあ可えが」\n「可くはありません、私は困りますよ」\n お峯は足摩して迷惑を訴ふるなりけり。\n「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」\n「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」\n「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」\n さすがに争ひかねてお峯の渋々佇めるを、見も返らで夫は驀地に門を出でぬ。母は直道の勢に怖れて先にも増してさぞや苛まるるならんと想へば、虎の尾をも履むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯見れば、直道は手を拱き、頭を低れて、在りけるままに凝然と坐したり。\n「もうお中食だが、お前何をお上りだ」\n 彼は身転も為ざるなり。重ねて、\n「直道」と呼べば、始めて覚束なげに顔を挙げて、\n「阿母さん!」\n その術無き声は謂知らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。\n「それぢや私はもう帰ります」\n「あれ何だね、未だ可いよ」\n 異くも遽に名残の惜れて、今は得も放たじと心牽るるなり。\n「もうお中食だから、久しぶりで御膳を食べて......」\n「御膳も吭へは通りませんから......」\n\n第二章\n\n 主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外、身辺に事あらざる暇に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。\n 一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択びて富山の家に輿入したりき。その場より貫一の失踪せしは、鴫沢一家の為に物化の邪魔払たりしには疑無かりけれど、家内は挙りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺あらぬ貫一が身の安否を慮りて措く能はざりしなり。\n 気強くは別れにけれど、やがて帰り来んと頼めし心待も、終に空なるを暁りし後、さりとも今一度は仮初にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方は知られずして、その身の家を出づべき日は潮の如く迫れるに、遣方も無く漫惑ひては、常に鈍う思ひ下せる卜者にも問ひて、後には廻合ふべきも、今はなかなか文に便もあらじと教へられしを、筆持つは篤なる人なれば、長き長き怨言などは告来さんと、それのみは掌を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言は不幸にも過たで、宮は彼の怨言をだに聞くを得ざりしなり。\n とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念ひ、それは愜はずなりてより、せめて一筆の便聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾て違ひて、さしも願はぬ一事のみは玉を転ずらんやうに何等の障も無く捗取りて、彼が空く貫一の便を望みし一日にも似ず、三月三日は忽ち頭の上に跳り来れるなりき。彼は終に心を許し肌身を許せし初恋を擲ちて、絶痛絶苦の悶々の中に一生最も楽かるべき大礼を挙げ畢んぬ。\n 宮は実に貫一に別れてより、始めて己の如何ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。\n 彼の出でて帰らざる恋しさに堪へかねたる夕、宮はその机に倚りて思ひ、その衣の人香を嗅ぎて悶え、その写真に頬摩して憧れ、彼若し己を容れて、ここに優き便をだに聞せなば、親をも家をも振捨てて、直に彼に奔るべきものをと念へり。結納の交されし日も宮は富山唯継を夫と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終にその家に適くべき身たるを忘れざりしなり。\n ほとほと自らその緒を索むる能はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過を改め、操を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真に彼の胸に恃める覚悟とてはあらざりき。恋佗びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強ひて今更否まんとするにもあらず、彼方の恋きを思ひ、こなたの富めるを愛み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空き迷に弄ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来るに会へるなり。\n この日よ、この夕よ、更けて床盃のその期に迨びても、怪むべし、宮は決して富山唯継を夫と定めたる心は起らざるにぞありける、止この人を夫と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委すなり。故に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免る能はざる約束なるべきを信じて、寧ろ深く怪むにもあらざりき。如此にして宮は唯継の妻となりぬ。\n 花聟君は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝るままに、いよいよ意中の人と私すべき陰無くなりゆくを見て、愈よ楽まざる心は、夫の愛を承くるに慵くて、唯機械の如く事ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言ふ花の姿、温き玉の容を一向に愛で悦ぶ余に、冷かに空き器を抱くに異らざる妻を擁して、殆ど憎むべきまでに得意の頤を撫づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊りて、翌年の春美き男子を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒ゆる日を竣たで、初子はいと弱くて肺炎の為に歿りにけり。\n 子を生みし後も宮が色香はつゆ移はずして、自ら可悩き風情の添りたるに、夫が愛護の念は益深く、寵は人目の見苦きばかり弥よ加るのみ。彼はその妻の常に楽まざる故を毫も暁らず、始より唯その色を見て、打沈みたる生得と独合点して多く問はざるなりけり。\n かく怜まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有き人の情に負きて、ここに嫁ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過は如何にすべきと、躬らその容し難きを慙ぢて、悲むこと太甚かりしが、実に親の所憎にや堪へざりけん。その子の失せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年の後、三年の後、四年の後まで異くも宮はこの誓を全うせり。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを進めて、優れた文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": " ハリスが口上書の続きにいわく、\n\n「――大統領誓って申し上げ候。日本も外国同様に、港を開き、売買を始め、エジェント御迎え置き相成り候わば、御安全の事に存じ奉り候。\n――日本数百年、戦争これなきは天幸と存じ奉り候。あまり久しく治平うち続き候えば、かえってその国のために相成らざる事も御座候。武事相怠り、調練行き届かざるがゆえに御座候。大統領考えには、日本世界中の英雄と存じ候。もっとも、英雄は戦に臨みては格別尊きものに候えども、勇は術のために制せられ候ものゆえ、勇のみにて術なければ、実は尊しとは参りがたきものに御座候。今日の備えに大切なるは、蒸汽船その他、軍器よろしきものにほかならず。たとい、英人と合戦なされ候とも、英国はさまでの事にはあるまじくとも、御国の御損失はおびただしき事と存じ奉り候。\n――日本はまことに天幸にて、戦争の辛苦は書史にて御覧なされ候のみ、いまだ実地を御覧なき段、重畳の御事に御座候。これは全くかけ離れたる東方の位置にありしため、ただいままでその沙汰なかりし儀にて、もし英仏両国に近くあらばもちろん、たとい一国にても御国と格別かけ離れおり申さず候わば、疾くに戦争起こり候事にこれあるべく候。戦争の終わりは、いずれ条約取り結ばず候ては相成りがたき御事に候。わが大統領の願いを申さば、戦争いたさずして直ちに敬礼を尽くし条約相成り候よういたしたくとの儀に御座候。西洋近来名高き提督の語にも、『格別の勝利を得候戦より、つまらぬ無事の方よろし』と御座候。\n――今般、大統領より私差し越し候は、御国に対し懇切の心より起こり候儀にて、隔意ある事にはこれなく、他の外国より使節等差し越し候とはわけ違いと申し候。右等の儀よろしく御推察下さるべく候。ことに、このたび御開港等、御差し許しに相成り候とも、一時に御開きと申す儀にはこれなく、追い追い時にしたがい御開き相成り候よういたし候わば、御都合よろしかるべくと存じ奉り候。英国と条約御結びの場合には、必ず右様には相成るまじくと、大統領も申しおり候。国々より条約のため使節差し越し候とも、世界第一の合衆国の使節よりかくのごとく御取りきめ相成り候旨、仰せ聞けられ候わば、かれこれは申すまじく候。合衆国大統領は別段飛び離れたる願いは仕らず、合衆国人民へ過不及なき平等の儀、御許しのほど願いおり候ことに御座候。\n――二百年前、御国において、ホルトガル人、イスパニヤ人御追放なされ候ころは、ただいまとは外国の風習大いに異なり申し候。そのころは宗門の事を皆願いおり申し候。アメリカにては宗門などは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧め候ようのことさらにこれなく候。何を信仰いたし候とも人々の心次第に御座候。当時ヨーロッパにては信仰の基本を見出し申し候。右は銘々の心より信じ候ゆえ、その心に任せ候よりほかにいたし方これなくと決着つかまつり候。宗門種々これあり候えども、畢竟人を善くいたし候趣意にほかならず。アメリカには仏の堂も耶蘇の堂も一様に並びおり、一目に見渡し候よういたしあり、宗門につき一人も邪心を抱き候ものこれなく、銘々安らかに今日を送り申し候。ホルトガル人、イスパニヤ人など日本へ参り候は自己の儀にて、政府の申し付けにはこれなく候。そのころは罷り越し候もの売買をいたし、宗門をひろめ、その上、干戈をもって日本を横領する内々の所存にて参りし儀と存じ候。右参り候ものは廉直のものにこれなく、反逆いたす見込みのものゆえ、その人物も推し量られ申し候。幸いに当時は右様のものこれなく候。\n――当時の風習は世界一統の睦まじきことを心がけ、一方の潤沢を一方に移し、何地も平均に相成り候よういたし候ことに御座候。たとえば、英国にて凶作打ち続き食物に困り候えば、豊かなる国より商売を休めその食物を運びつかわし候ようの風儀に御座候。交易と申し候えば品物に限り候よう相聞こえ候えども、新規発明の儀など互いに通じ合い、国益いたし候もまた交易の一端に御座候。諸州勝手に交易いたし候わばその国のもの世界中の儀をことごとく心得候よう相成り申すべく候。もとより農作は国中第一の業に候えども、国内のものことごとく農作いたし候ようには相成り申さず、その中には職人も産業いたし候ものもこれあり、互いに助け合う儀にこれあり候。国々によりては、他国の方に細工奇麗にて価も安き品数多これあり候。国用より多く出来いたし候品は外国へ相渡し、その国になき産物は他邦より運び入れ候儀に御座候。それゆえ、諸国の交易いたし候えば、造り出し候品も多く相成り、かつは外国の品物も自由にいたし候儀もでき申し候。自己の製し申さざる品々も容易に得られ候は、容易にこれあり候。交易は直ちに便利なるため、懇切の心よりいたし候えば、戦争を避け候よう自然相成り申し候。もっとも、他邦より産物運び入れ候節は、その租税は必ず差し出し申し候。アメリカにては右租税をもって国内の費用を繕い、なお余りは年々宝蔵へ納め置き候事に御座候。租税の法種々これあり候えども、まず他邦より輸入いたし候ものの税より充分なるはこれなく候。\n――ただいま、東インド一円はイギリスの所領と相成り候えども、元来は数か国に分かれおり候ところ、いずれも西洋と条約取り結ばざりしため、ついに英国に一統いたされ候。一本立ちの国の損は諸方において右より心づき申し候。シナ日本においても東インドの振り合いをもって、とくと御勘考これあり候ようしかるべくと存じ奉り候。日本も交易御開きに相成り候わば、御国の船印諸州の港にて見知り候よう相成り申すべく候。高山へ格別眼力よろしき人登り見候わば、アメリカ製の鯨船数百艘、日本国の周囲に寄り合い、鯨漁いたし候儀、相見え申すべし。自国にて、いたしがたき業にてもこれなきを、他国のものに得られ候段、笑止の事に御座候。\n――格別上智のものの申し候には、今般英仏とシナとの戦争長続きはあるまじき由、左候えばイギリス使節はほどなく御当地へ参り申すべく候。憚りながら御手前様、御同列様、御相談の上、その節の御取り扱い等を今より定め置かれ候よう大切に存じ奉り候。私考え候ところにては、交易条約御取り結びのほか、御扱い方もこれあるまじくと存じ奉り候。私名前にて東方にあるイギリス、フランスの高官へ書状差しつかわし、日本政府において交易条約御取り結び相成り、なお、他の外国へも御免許相成るべきはずの趣、申し達し候わば、五十艘の蒸汽船も一艘または二、三艘にて事済み申すべく候。今日は大統領の意向、ならびにかねて申し上げ置き候英国政府の思惑、内々に申し上げ候儀に御座候。\n――今日は私一生の中の幸福なる日に御座候。今日申し上げ候儀、御取り用いに相成り、日本国安全のなかだちとも相成り候わば、この上なき幸いの儀に御座候。ただいま申し上げ候は、世界中の儀にて、一切取り飾りなどは御座なく候。」\n 右の通り申し上げ候事\n\n これがハリスの長口上だ。\n この先着のアメリカ人が教えたことは、よい意味にも悪い意味にもこの国民の上に働きかけた。ハリスは米国提督のペリイとも違い、力に訴えてもこの国を開かせようとした人ではなかった。相応に日本を知り、日本の国情というものをも認め、異国人ながらに信頼すべき人物と思われたのもハリスであった。国を開くか開かないかの早いころに来てこのハリスの教えて置いたことは、先入主となって日本人の胸の底に潜むようになったのである。あだかも、心の柔らかく感じやすい年ごろに受け入れた感化の人の一生に深い影響を及ぼすように。\n\n\n 第二章\n\n 一\n\n 商船十数艘、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館からも、または上海方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力の大船から、達磨船、土船、猪牙船なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。"
},
{
"role": "assistant",
"content": " 慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場も設けられ、三棟ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。\n 翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方に呼応する相良惣三一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的な態度が徳川方を激昂させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館へも長崎へも向かった。\n 海から見た陸はこんな時だ。伏見、鳥羽の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。\n フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。\n 新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人だ。神戸村の庄屋生島四郎大夫と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。\n「兵庫奉行はどうしたろう。」\n そういう領事の言葉をカションは庄屋に取り次いだ。通詞を呼ぶまでもなく、カションは自由に日本語をあやつることができたからで。\n「お奉行さまですか。」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません。」\n その時、領事はカションを通して、いろいろなことを訴えた。これではまるで無統治、無警察も同じである。在留する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を開いたのではないかと。さすがのカションにもそう細かいことまでは伝えられなかったが、領事の言おうとする意味はほぼ相手に通じた。\n 神戸村の庄屋は言った。\n「とにかく、あなたがたの遠く出歩くことは危険ですぞ。」\n 兵庫奉行はすでにのがれ、開港地警衛の兵士もまた去ってしまった。わずかに町々を回って歩くのは、町内のものが各自に組織した自警団と、外国軍艦から上陸させた居留民保護の一隊とがあるだけだった。西国諸藩の兵士で勤王のために上京するもの、京坂諸藩邸の使臣で情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。\n\n 二\n\n 新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た。それにはまず当時の容易ならぬ外国関係を知らねばならない。\n アールコックはパアクスよりも前に英国公使として渡来した人であるが、このアールコックに言わせると、外国は戦争を好むものではない。土地をむさぼるものでもない、ただ戦端を開くように誘う場合が三つある。いやしくも条約を取り結びながらその信義を守らない場合、ゆえなく外人を殺傷する場合、みだりに外人を疑って交易を妨害する場合がそれであると。\n 不幸にも、先年東海道川崎駅に近い生麦村に起こったと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸三宮に突発した。しかも、京都新政府においては徳川慶喜征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王をその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。\n 慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前藩の家中のものに殺され、なお一人は傷つけられ、その場をのがれた一人が海岸に走って碇泊中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年十二月七日の開港以来ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、居留地保護の必要があるとして、にわかに仏米と交渉の上、陸戦隊を上陸させた。そのうちの英国兵の一隊は進んで生田に屯している備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵を構えて戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門には、監視の英国兵が立ち、武士および佩刀者の通行は止められ、町々は厳重に警戒された。のみならず、港内に碇泊する諸藩が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭は英国のために一時占領せられたかたちとなった。\n\n\n 英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の快速なことにもひどく驚かされた。土地の人たちは生田方面に起こる時ならぬ小銃の砲撃を聞いた。わずかの人数で英国兵の一隊に応戦すべくもない備前方があわてて摩耶山道に退却したとのうわさも伝わった。この不時の変時に、沿道住民の多くはその度を失ってしまった。\n その日の夕方になると、殺害された英国人の死体は担架に載せられてすでに現場から引き取られたとの風評も伝わった。事の起こりは、備前藩の家中日置帯刀の従兵が上京の途すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうとしたのによる。こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったのにその意味がよく徹底しなかったのであろう。英人らはこの横断がそれほど違法であるという東洋流の習慣を知らない。おまけに言語は通じないと来ている。前衛の備前兵がそれを制するつもりで、鎗をあげて威嚇を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒って一人を斃し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行柴田剛中は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠に身を投げ、その外部を筵でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを続けて、完成度の高い文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「どうしても北魏隋唐となると、芸の冴え方が違つてるから偉い。大したもんですな。」\nと鼻を鳴らして喜んでゐる。\n この関野氏が、ある時支那の西域で発掘せられた木乃伊の鑑定を頼まれた事があつた。棺のなかには白絹で叮嚀に巻かれた屍体が横はつてゐた。関野氏は水蜜桃の皮を剥くやうな気持で少しづつ白絹をめくつて往くと、なかから顔を出したのは、妙齢の娘で、目鼻立ち何処に一つ点の打ちやうもない大理石像のやうな美人であつた。関野氏は学者となつて、こんな美しい娘の木乃伊を鑑定するよりも、いつそ放蕩息子となつて、生きたこの娘の唇に触れたく思つたらしかつた。\n 関野氏は吸ひつけられたやうな眼をあげて、側の墓銘を見た。それによると、この女はさる大官の一人娘だつたが、流行病にかゝつたので、その頃の習慣通り、まだ息を引取らぬうち生埋にしたものだといふ事が判つた。\n「可哀さうに生埋にしたのださうな。」\n 関野氏は深い溜息を吐いて恥しさうにそつと眼がしらの涙を拭つた。学者といふものは石地蔵と同じやうに、どんな場合にも涙を流してはならないからである。関野氏は日本には息のあるうちに生埋めにしてもいゝ政治家や、軍人や、学者のたんとある事を思つて、そんな習慣のないのを幾らか物足りないやうにも思つた。\n 関野氏はいつ迄も〳〵じつと木乃伊を見てゐるうちに、どうも両腕の位置が少しく面白くないのに気がついた。\n「折角の美しい木乃伊だ、今少し芸術的の恰好をさせなくつちや。」\nと口のなかで独語を言ひ乍ら、そつと両腕に触つてみた。両腕は釘付にせられたやうに重かつた。女の腕は生きてるうちと同じやうに、亡くなつてからも学者なぞの為めには、一寸も動かうとはしなかつた。\n「どうしても動かないかなあ、もう一寸の事で芸術的になるんだがね。」\n 関野氏は女の美しい胸を見つめながら口惜しさうに呟いた。――その関野氏に教へる、木乃伊の腕は、学者の研究と同じで、今一息といふところで、物になるのだが、得てさうならないところが世間なのである。\n\n\n珍らしい広告7・28(夕)\n\n 倫敦タイムスの近刊号人事欄に次のやうな広告が載つてゐる。\n「私は結婚前の若い紳士ですが、私に結婚をすつかり思ひ止まらせて下さる先輩の方がいらつしやるなら、御近づきになりたいものです。」\n これを数多い広告のなかから拾ひ出した米国の雑誌記者は、奇妙な広告だ、珍しい広告だ、滅多に見かけられない広告だといつて矢鱈に吹聴してゐる。\n 結婚は悪い事ではないが、あいにく相手が要るので、兎角思ふに任せぬ事が多い。それに女の註文が段々高くなつて来るのは、男にとつて何よりも荷厄介である。ずつと以前は女といふものは、亭主が男でさへあれば辛抱したものだが、今では天使でなくつちや迚も気に入らない。ところが、多くの場合男は女にとつて天使どころか、牛のやうに鈍間で、おまけに牛のやうに獣物である。\n 男が女にとつて牛であるのと同じやうに、女は男にとつて蝙蝠である。謎である。多くの男は生れるとから、死ぬるまで女の為に苦労をしてゐるが、さういふ男でも一生の間に少くとも二度はからきし女を理解し得ない時期があるものだ。二度といふのは、一度は結婚前で、一度は結婚後の事をいふのだ。\n 世の中には結婚したがつてゐる男も少くはなからうから、その人達のために言つておくが、諸君が独身で通したからといつて、失望する女はまさか二人とはあるまい。よしんば失望したところで、その人達は直ぐ絶念められるに相違ない。ところが、諸君が結婚すると、一生涯失望し続ける人がある。その人は他でもない、細君である。\n 同じ時分、巴里の「フイガロ」新聞に次のやうな広告が載つてゐた。\n「上流の家庭にゐる鸚鵡の発音が悪いのを直すために、正確な仏蘭西語の出来る教師を雇ひたい。」\n 断つておくが、発音の悪いのは、上流家庭の夫人では無くて、夫人よりも口数の少い鸚鵡なのである。\n 鸚鵡に仏蘭西語の巧い教師を雇ふといふと、一寸見は贅沢なやうだが、鸚鵡に訛を喋舌らしておいて、じつと辛抱してゐるよりか、どれ程節倹につくか知れたものではない。仏蘭西に文学が衰へないのは、鸚鵡の訛を気にしないではゐられない程、国民が国語に敏感なところも一つの原因になつてゐる。多くの代議士に狗のやうな日本語で喋舌らしておいて、黙つてそれを聴く事の出来る日本人の無神経さが熟々思はれる。\n\n\n幸運児7・31(夕)\n\n 下の関の火薬爆発当時、同じ汽車に乗合はせてゐた客のなかには、かなり重い創を負つた者があり、同じ俳優の市川小団次は顔から腕にかけて十幾つかの怪我をしてゐるに拘らず、汽車の窓から顔を出してゐた市川荒次郎は間がよく擦り傷一つ負はなかつたので、荒次郎はその後会ふ人ごとに、\n「稲荷さんの御利益だつせ、私あの汽車で京まで帰つて来て、すぐ稲荷さんへお参詣する積りだしたのやらう、神さんのお力たら偉いもんだすなあ、伏見にゐて下関まで目が届くんだすよつてな。」\nと、頻りと自分の信じてゐる稲荷さんのお蔭を吹聴してゐる。\n 今はむかし、千七百九十一年の一月五日の午すぎ、仏蘭西はセエヌ河の畔、オクソンヌといふところで、五人の衛戍将校が、猿のやうにきやつ〳〵軽躁ぎながら変な腰つきで氷すべりをしてゐた事があつた。\n ところが、そのなかの若い将校の一人は急に勢のない顔をして立ち停つた。\n「あゝ、腹が減つた〳〵。僕は腹が減つて溜らないから、もう帰るよ。」\n かう言ひ捨てて、その男は急いで帰り仕度に取りかかつた。皆は慌てて引とめた。\n「そんなに急ぐなよ、今暫くしたら僕達も一緒に帰るんだから。」\n だが、若い将校は皆の言ふ事を肯かないで、滑り靴を脱ぎ捨ててさつさと帰つてしまつた。腹の減つた身には物を言ふのも大儀らしかつた。\n「は、は。奴さん、またいつもの剛情を出しをつたな。」\n 皆は若い将校の帰つた後で蔭口をきゝながら、勢ひよく氷の上を滑つた。巧く滑れる時は、自分の身体を五サンチイムの銅貨のやうにさへ思つた。\n 皆が有頂天になつて騒ぎ立つてゐる一刹那、どうした機みか氷はばり〳〵と音を立てて割れた。そして四人が四人とも、その割れ目に陥ち込んで死んでしまつた。一足先に帰つた一人こそ、実際都合よく腹が減つたもので、さもなかつたら氷の裂け目に皆と一緒に銅貨のやうに滑り込んだに相違なかつた。その腹の減つた一人こそ誰あらう、後には仏蘭西皇帝にまでなつたナポレオン・ボナパルトであつた。\n 市川荒次郎にナポレオンになれとは言はないが、運のよかつた者は、運のよかつただけに満足しないで、その運に酬いるだけの努力を積まなければならぬ事を教へたい。\n\n\n肉代五弗也8・1(夕)\n\n 米国の華盛頓であつた事。――ある日、土地で名高い判事のKといふ男が、予て顔昵懇の肉屋の店さきを通りかゝると、でつぷり肥つた店の主人が、いつもの愛嬌笑ひをしい〳〵、\n「一寸......」\nと言つて呼びとめた。\n 判事は立ち停つた。肉屋の主人といふのは、いつも剽軽な世間の噂を聞かせてくれるので、大抵の場合その店先で立停つて、損はしなかつた。\n「お呼びとめして相済みませんが、一寸檀那に伺ひたいと思ひやしてね。」肉屋の主人は軽く頭を下げた。「肉を盗まれましたのは、法律上どんな手続きをしたもんでがせうな。」\n「肉を盗まれたのか、それは告訴しなくちやならん、打棄つとくと癖になつて可かんからね。」\n 判事は肉の事なら、値段からビステキの味加減まで、法律でどうにでも出来ると考へてゐるらしかつた。\n「まつたく癖になつていけやせん。」肉屋の主人は二三度軽く頷いた。「ところが盗んだ奴が人間ぢやないんで困つてしまひやす。」\n「人間ぢやない、何だね。それでは。」\n「狗なんでげす。」\n「狗だつて、そんなら飼主から肉代を弁償させるまでの事さ。」判事は何でも角でも法律で押し通したいらしかつた。「そんな狗を飼ふなんて怪しからん事だ。」\n「ところが、旦那、その狗つてえのが、お宅の斑なんでげす。」\n 肉屋の主人は気の毒さうに揉み手をしながら言つた。\n「宅の狗か。」判事はだしぬけに途の真中で鼻を抓まれたやうな顔をした。「それぢや仕方がない、盗まれた肉代は幾らだつたね。」\n「お気の毒さまですね、五弗でげす。」\n 肉屋は叮嚀に頭を下げた。\n 判事はねぢ曲げたやうな笑ひ方をしながら、懐中から五弗取出して、肉屋に払つた。\n それから二三日すると、肉屋の店に、件の判事からの仕払請求書が来た。主人はけげんさうな顔をして封を切つた。なかには、"
},
{
"role": "assistant",
"content": "\n\n\n牛肉盗難事件\n鑑定料五弗也\n 右請求候也\n\n\n\nと認めてあつた。肉屋の主人は舌打をしてまた五弗を仕払つた。\n\n\n謡曲好き8・8(夕)\n\n 洋画家満谷国四郎氏が名代の謡曲天狗なのは、画家仲間では知らぬ人もない。氏に画を頼みに出掛けるものは、何を措いても先づその謡曲を聴くだけの辛抱を有たなければならない。\n「なに、謡曲がお好きですつて。」満谷氏は飴ん玉のやうにつるつるした、そしてまた飴ん玉のやうに円い頭を掌面で撫であげる。「謡曲の好きな方は、画もよくお解りだから頼もしい。なに、画は屹度描きあげますよ。それぢや今日は一つ聴いて戴きますかな。」と言つたやうな次第で、氏は直ぐに絞め殺される家鴨のやうな声で謡ひ出す。\n 満谷氏の近所に熊岡某といふ洋画家が住んでゐる。どんなお天気のいゝ日でも、鳶が空で気まぐれな唄をうたつてゐる日でも、画室の窓から入つて来る満谷氏の謡曲を聴くと、妙に気が滅入つてどうしても筆が進まない。変だなと気が注いて、色々な物識に訊いてみると、謡曲のなかには健康にためにならないのがあるといふ事が判つた。それ以来熊岡氏は隣で謡曲が始まると、慌てて帽子をかぶつて用達に出る事に極めてしまつた。\n 二月三月経つた。すると、熊岡氏の画室から小鼓の音がぽんぽん聞え出した。狸の腹鼓のやうな音である。それが聞えた当時、頭の禿げた画家は、モデルで裸体婦人の油絵をかいてゐたが、急に頭がくらくらして、肉附のいい、大柄なモデルの婦人が巾着のやうに皺くちやになつたと思つた。\n 満谷氏はその後、人づてに密と熊岡氏の小鼓の事を訊いてみた。小鼓は熊岡氏の友達が新しく購ひ取つたものだが、鼓は間がな隙がな叩いた方がいゝので、閑の多い熊岡氏が借りて来て、画に倦むと、盲滅法に叩いてゐるものだといふ事が判つた。\n「困つた事が持ち上つたものだ。かう立続けにやられては、迚も製作も何も出来るもんぢやない。」\n 満谷氏は飴ん玉のやうな頭を押へて、そつと溜息を吐いた。\n 暫くすると、満谷氏はまたいい事を発明した。それは熊岡氏の画室から小鼓の音が聞え出すと、帽子掛から帽子をそつと取りあげて、鼠のやうにこそ〳〵逃げ出してしまふのだ。それに気づいた或る友達が、\n「何だつて君逃げ出しなぞするんだ、熊岡に抗議を申込むだらよささうなものぢやないか。」\nと言葉添へをしたものだ。すると、満谷氏は胸の上で手を拱むで、そつと溜息をついた。\n「それがね、世間には色々義理といふものがあつてね......」\n\n\n歯と軍人と8・9(夕)\n\n 米国は病気治療法を発明する事にかけては、世界第一といつていゝ程色々の治療法に富んでいる。そんな国柄だから、兵卒や水兵を徴集するにも、検査が一寸外の国の行き方とは異つてゐる。\n 今度西部戦線へ派遣する軍隊を徴集するに就いて、ある軍医が執つた方法は一番風変りなものだつた。軍医は安全剃刀で剃りあげたばかしの綺麗な頤を撫でまはしながら、自分の前に立つてゐる一人の応募兵の顔を見た。\n「お前身体は健康かね。」\n「はい、健康でございます。」\n 応募兵は自慢さうに自分の胸を反らしてみせた。\n 軍医は顳顬の辺に残つた剃り落しの髯を気にしながら言つた。\n「一体軍人に必要な健康とは、どんな事なのか知つてるかい。」\n「勁い脚を有つてる事です。」\n 応募兵は自分が螽斯のやうに勁い脚を持つてゐるのを見せるために、二三度靴の踵で地面を蹴つてみせた。\n「違ふね。軍人の健康といふのはそんな物ぢやない。」\n「ぢや、遠視の利く眼の事でせう。」\n「それも違ふね。」\n「ぢや頭のいゝ事でせう。」\n「違ふよ。」\n 軍医はその証拠に余り良くない自分の頭を掉つてみせた。\n「それぢや、どんな事なんです。」\n「いゝ歯を持つてる事だよ。」\n 軍医は猿のやうな白い歯を露いてみせた。\n この米国軍医の説によると、兵卒は無論、いゝ脚と、いゝ眼と、いゝ頭とを持たなければならないが、唯一ついゝ歯を持たないと食物を噛む事が出来ない。食物を噛む事が出来なければ、脚があり、眼があり、頭があつても敵と戦ふ事が出来ないといふのだ。\n それならば、兵卒にいゝ歯を持たせるには、どうしたら良いかといふのに、それには子供の時より歯に気を注けさせなければならない。つまり母親といふ母親は、始終子供の歯に気をつける事だけで、男の及ばない愛国的の事業を仕遂げる事が出来るといふのだ。\n その軍医が歯医者の出身であつたか何うかは知らないが、実に結構な発見で、独創的な意見とはこんなのを言ふのかも知れない。さしづめ愛国婦人会の会員達は、下らないお喋舌の会合などは止めにして、先づ自分の忰の歯を掃除してやらなければならない事になる。\n\n\n飯を安く食ふ法8・10(夕)\n\n 米が高くなつて、世間が騒々しくなつて来た。この食糧品の暴騰から来る生活難を済ふには、朝鮮米を行き渡らせるのもよからうし、方針を過つた仲小路氏を農相の椅子から引きずり下すのもよからうが、今一つそれよりもずつと良い方法が残つてゐる。\n 話は古いが、徳川四代将軍の頃、阿部豊後守忠秋が老中を勤めてゐた事があつた。豊後守といへば、江戸市中に棄児があれば、屹度拾つて養育した程の慈悲深い男だつたが、それでも時々は剽軽な悪戯をして、友達を調弄ふ程の心の余裕は持つてゐた。\n ある日の事、豊後守は自分の同僚大久保忠成が大きな弁当箱を持つて来てゐるのに気がついた。\n「忠成め、飛んだ食ひぬけと見えるて。」豊後守はそつとその弁当箱に触つてみた。箱は鎧櫃ほど持ち重りがした。「怖ろしい重みだな、こいつをこつそり食べて置いて、どんな顔をするか見てゐたら面白からうて。」\n 豊後守は独語を言ひ〳〵、四辺を見まはしながら、そつとその弁当を盗み食ひした。やつと食べてしまつた後では、腹は大名を鵜呑みにした蟇のやうに膨れてゐた。\n 暫くすると、忠成はひよつくり其処へ顔を出した。恰ど時分時なので黙つてそこにあつた弁当箱を取り上げた。そして蓋を開けたと思ふと、急に変な顔をして、じつと内部を見てゐたが、暫くすると気もない顔で、\n「今朝方あまり食べ過したものか、どうも食気がなくて困る。」\nと呟き〳〵、そつと元々どほり蓋をして、弁当箱を側に押しやつた。\n 豊後守は可笑しさを噛み殺して、忠成を相手に何かと世間話をしてゐた。話してゐるうちに、忠成の返辞が段々気乗りがしなくなつて来るのも可笑しい事の一つだつた。暫くすると、忠成は、\n「今日は屋敷に用事があるので少し早引をする。」"
}
] |
[
{
"role": "system",
"content": "下記の書き直しを最後までやり遂げて、見事な文書を作成してください。"
},
{
"role": "user",
"content": "「アハハ。大方それは袖の下の催促じゃろう」\n「もちろんじゃ。トテモこの下手人には吾々の手が及ばんと見て取っての無理難題の悪脅喝。やけに腹が立つわい」\n「腹が立つのう。今に眼に物を見せてくれようで......」\n「その上に、これも松倉どんから聞いた話じゃが、あの蔵元屋の後妻が野西の尻に付いて、場所もあろうに大目付の役宅へシャシャバリ出て『可愛い娘を祝言前に殺されて妾ゃ行く末が暗闇になりました。この下手人がわからねば妾ゃ死んでも浮かばれまっせん。そう思うております故、あれから毎晩、腰から下、血だらけになった娘のお熊が枕上に立ってサメザメと泣きまする』とか何とか言うて高声を立てて泣き崩れたとか言う話じゃが......」\n「ふうむ。そこいらの話がダイブ臭いのう。芝居も大概にせんと筋書が割れるが......」\n「さればと言うて臭いという証拠は何処にも在りゃせん」\n「アハハ。五十五万石の大目付、丸潰れと来たなあ」\n「それでももしや、お熊の縁談から起った意趣、遺恨じゃないかと思うて、襟半の方へ探りを入れてみると、花婿の半三郎も、今は隠居しとる父親の半左衛門夫婦も、神信心の律義者という評判に間違いないらしい」\n「それは毛頭間違いない。質素とした暮し向きでもわかる」\n「のみならず、結納まで済んだ話が、寝返りを打たれそうになっている事なぞはツイこの頃まで気付かずにおったらしく、騒動の起ったその日までコツコツと祝言の準備をしておった様子。よしんば知って知らぬ振りをしておったにしても、屍体を胴切りにするような大胆者が、襟半に出入りする模様なぞはミジンもない。理不尽に引っ括って痛め吟味にでも掛ければ、直ぐにも冤罪を引受けそうな気の弱い連中ばっかりじゃ。それじゃけにお目付の松倉さんはどっちかと言うと襟半をタタキ上げて事を片付けたい口ぶりらしいが、しかし襟半から手を廻わいて蔵元屋の娘を毒殺するというような筋合いは、どう考えてもないと言うて、私が一人で突張っとるがなあ」\n「それは当り前の話じゃ。襟半の内輪を知り抜いとる私が証人に立っても宜え。昔から腕前のない、手柄望みの役人は、すぐに弱い正直者を罪に落そうとするものじゃてや」\n「とは言うものの、蔵元屋の方も、家内の模様さえまだわかっておらぬけに、松倉どんもバッタリ行詰まって御座るが、さればとてほかには何の手も足もない。この良助を捕まえては、まだかまだかと言う日増しの催促じゃが、今度の事件ばっかりはイカナ俺も手に立たぬ。これ位、理屈のわからぬ不思議な人斬り沙汰は聞いた事もないけになあ」\n「そうたいなあ。理屈のわかる時節が来たなら二度ビックリするような話が、底の方に隠れておろうやら知れん」\n「そこでトウトウ思案に詰まった揚句がアンタの事じゃ。いつも何かと言うと私の知恵袋にしておったアンタを、直接に松倉様に引合わせて、私とも膝をば突合わせたなら、三人寄れば何とやら、よい知恵が出まいとも限らぬ......と言う私の一生涯の知恵を絞ったドンドコドンのドン詰めの思い付きじゃが、ドウかいな。都合のよい御返事を申上げて貰うたなら一杯奢るが......」\n「成る程なあ。それはドウモ......聞込み見込みなら在る処じゃない。今更言うまでもない事じゃが、あのお熊さん胴切の一件についてこの赤猪口兵衛に目を付けなさった処は、さすがに良助さんじゃ」\n「チッ。又おだてる......実は私が直接にアンタの話を聞いて、それを私の聞込みにして、お目付に申上げても済む事じゃが、それではイツモの通りお前の手柄を横取りするような恰好になるけに気持が悪い......のみならず今度の一件は、模様によると日田のお金奉行を相手に取るような事になろうやら知れぬ。黒田五十五万石の浮き沈みに拘わる一か八かの勝負に落ちるかも知れぬと思うたけに、特別に念を入れた極く内々の手配りで取りかかりたい私の考えじゃ。そこでこうして御迷惑じゃが、春吉三番町の松倉様のお屋敷まで、同道して貰うた訳じゃが......」\n「何の何の。滅相な。アンタのように物堅う話をさっしゃると身体が縮まります。非人同然の私が、お目付様のような大層な御身分の御方にお眼にかかる事が出来れば、それだけでも肩身が広うなりまする。勿体ない話じゃ」\n「断るまでもないがその代りに、お取調の模様は言う迄もない、今日お目付へお眼にかかった事までも、事件が片付かぬうちに他所へ洩らいたなら、アンタの首がないけになあ。その積りで承知して置いて貰わんと......」\n「それはモウ万事心得の承知の助。アトで一杯飲ませて貰いさえすれば、首の一つや二つ何のソノじゃ......」\n「冗談言いなさんな。アンタの首なら構うまいが、私の首となるとチットばかり惜しいわい」\n「アハハハ。そこで一首浮かんだがな」\n「ホホオ。何と......」\n「これは私の心意気じゃ......\n\nこの首を熱燗十本で売りませう\n 損得無しの一升一生......」\n\n「アハハ。馬鹿らしい。イヤ。何かと言ううちに向うに見えるが松倉様のお邸じゃ。あの珍竹垣から夾竹桃の覗いとる門構えじゃ。わしは役目柄ズッと入るけに、アンタはすこし遅れて、いつもの通りの物貰いの風で、人にわからん様、入んなさいや」\n「おっとアラマシ承知の助。そのために挿いて来た腰の渋団扇じゃ。アハハハ......」\n「何もかも知って御座る限りタネを打割って申上げて下されや」\n「オッと待ったり。そのタネの明かし工合は松倉さんに会うてみてから考えましょうわい。何にせいお初のお目見得じゃけに松倉どんがドレ位の御人物やらコッチもさっぱり見当が付かぬ。六分は他人、四分内輪の貧乏神と行きまっしょうかい。向う恵比寿の出た処勝負じゃ。ハハハ。鬼が出るか、蛇が出るか......」\n\n 目明の良助に誘われた乞食体の狂歌師、赤猪口兵衛は二、三本の渋団扇を縄の帯に挿したまま、春吉三番町のお目付役、松倉十内国重の玄関脇の切戸から、狭いジメジメした横露地を裏庭の方へ案内された。平たい庭石の上に用意して在った炭俵の上にガサガサと土下座をすると、頬冠を取った目明の良助は、その側から少し離れて、型の如く爪先立ちに跼まった。\n この家の主人、黒田藩のお目付役、当時蔵元屋の娘胴切り事件のお係りとなっている松倉十内国重は、縁側に座布団と煙草盆を置いて、小倉袖、着流しのまま威儀を正した。青黒く逞しい四十恰好の堂々たる武士である。\n「......良助。御苦労であったぞ......その方が赤猪口兵衛か」\n「ヘエ。坂元孫兵衛と申しまするが本名で......ヘエ。以前は博多竪町の荒物屋渡世......当年五十六歳で......ヘエ......」\n と淀みなく言ううちに涙ぐんだ赤んべえ面を上げて水洟を一つコスリ上げた。それだけでもチョッと人を舐めているらしく見える。松倉十内国重は、今更のように肩を怒らして銀煙管を膝に取った。\n「ウム。これは役柄をもって相尋ねるが、その方は只今も申す通りズット以前は博多の荒物屋渡世。大酒のために一家分散して昨今は博多瓦町の町外れ、万延寺境内に逼塞し、福岡博多の町々を徘徊して物を貰い、又は掃溜を漁りながら行く先々の妙齢の娘の名前、年齢、容色、行状、嗜みなんどを事細やかに探り知り、縁辺の仲介を致し、又は双方の相談相手になるのを仕事のように致しおる......という趣じゃが、それに相違ないか」\n「ヘエヘエ。相違ないどころでは御座いません。それが本職で......まだほかに歌も詠みます。その歌を書きました渋団扇を一枚五文で買うても貰います。よんどころない時は非人も致します。掃溜も毎日のように漁りますが、何と申しましても縁談の取持が一番、収入が多う御座います。どのような御大家でも縁辺のお話となりますと、一度はキット私の存じ寄りを聞きに御出でになりまっするで、私が、あれなら大丈夫と請合いますると、それからお話が進みまするような事で......ヘエ......」\n と自慢そうにモウ一度、鼻の頭をコスリ上げた。しかも非人同様の姿ながら恐れ気もないその態度と、プンプンする熟柿臭い異臭が、いかにも不快な感じを与えたらしい。松倉十内は一層威儀を正しながら睨み付けた。\n「ウム。それならば相尋ねるが、その方は博多蔵元町、蔵元屋の一人娘、お熊というものを存じておるか。この間万延寺境内で斬られたと申す。存じておるであろうな。あの一件を......」\n「ヘエ。あの娘の事ならば、実の親が知らぬ事までも存じておりまするが......」"
},
{
"role": "assistant",
"content": "「ウムウム。それは重畳じゃ。実はあの娘の事に就いて少々相尋ねたいために今日、良助に同道致させた次第じゃが......万一、その方の申立てによってあの胴切りの下手人が相わかれば、褒美を取らするぞ」\n「ヘエヘエ。それはモウ。申上る段では御座りません。もはや御承知か存じませんが、あのお熊と申しまする娘は取って十八の一人娘、七赤の金星で、お江戸なら一枚絵とかに出る綺倆で御座いましょうな。五体中玉のような娘で御座いましたが、それでも存るべき処にはチャント在るものが......」\n 松倉十内は失笑しながら片手をあげた。\n「これこれ。要らざる事は聞かんでもええ。縁談の前調べではないぞ。しかしさすがは評判の赤猪口兵衛。事細やかに存じておるのう」\n「ヘヘ。そこが商売で......ヘヘ。襟半の若亭主、半三郎の嫁にというお話で一杯頂戴して、腕に縒をかけて調べ上げましたので、両親は勿論のこと、本人さえ知らぬ尻の割目の黒子までも存じておりまする」\n「はははは。それは何よりの話じゃが」\n 松倉十内は猪口兵衛の話ぶりに興味を引かれたらしかった。\n「しかし、どうしてそのような事まで相わかるのじゃ。湯殿の口ばし覗いてみるか」\n「ヘヘヘ。そげな苦労は致しません。これ位の事ならお茶子サイサイで。ヘヘ。物を貰いに参りました序に、あの娘の背中を流す女中衆さんから聞き出したことで......私は、いつも其家此家の女たちの文使いをして遣りまするで、蔵元屋の女中さんも、詳しゅう話いて聞かせました上に、どうぞ御嬢様をば良い処へ世話して下さいと言うていつもオヒネリを十文ぐらいくれます。何処の女中でも、自分の付添うておる者には贔負が勝ちますもので......」\n「成る程のう。そちのような下賤の者でなければ出来ぬ芸当じゃのう」\n「まったくで御座いますお殿様......人間は上から下を見ると何もわかりませぬもので、その代りに下から上を見上げますると、何でも見透しに見えまする。ヘヘヘ。私はお蔭様で人間の中でも一番下におりまする仕合わせに......」\n 松倉十内は苦り切って首肯いた。非人同然の人間から遠廻しに役目柄を皮肉ったような事を言われながら、それでも道理には相違ないので文句が言えなかった。猪口兵衛はその仏頂面を見上げながらイヨイヨ得意然となった。\n「ヘヘヘ。博多中の妙齢の娘の乳房の黒い、赤いを間違いなく存じておりまする者は、この赤猪口兵衛タッタ一人で。ヘヘヘ......」\n 松倉十内は何かしら思い直したらしく、仏頂面を和らげてうなずいた。\n「ウムウム。さすがは猪口兵衛じゃ。そこで今一つ尋ねるが、あの娘......蔵元屋の娘お熊には別に疵はなかったか」\n「ヘエ。疵と申しますると......」\n「ウム。たとえば何か他人に怨まれるような悪い癖はなかったかと申すのじゃ」\n「ヘエヘエ。成る程。お眼が高う御座いますなあ。その疵なら大在りで御座います。ちょっとそこいらに類のないドエライ疵が......」\n「ふうむ。それは耳寄りな......どげな疵じゃ」\n「バクチで御座います」\n「ナニ......博奕......」\n 松倉十内は自分の耳を疑うように膝を乗出した。赤猪口兵衛はいよいよ得意然と、すこし反身になって土下座し直した。\n「さようで......蔵元屋のお熊は天下御法度の袁彦道の名人で御座いました。花札、骰子、穴一、銭占、豆握り、ヤットコドッコイのお椀冠せまで、何でも御座れの神憑りで......」\n「うううむ。これは意外千万な事を聞くものじゃ。あれ程の大家の娘が、あられもない賭博なんどとは......ちと受取り悪いが......」\n「ところが間違い御座いませんので......元来あの蔵元屋と申しまするは、蔵元町と申しまして町の名前にもなっておりまする位で、土蔵の数も七戸前。表向きは立派な為替問屋と質屋になっておりまするが、裏向きは筑前切っての大きな博奕宿で御座います。チトお話が荒う御座いますが、何にせい博多中の恵比寿講の帳面を預っておりますので、帳面合わせとか、金勘定とか申しまして、時々奥庭の別土蔵の二階でチャランチャラン遣っているのが、真夜中になると微かに聞こえます。その小判や二分金の音に混って、あのお熊の笑い声や『丁ソラ』『半ソラ』という黄色い掛声などがチラチラと聞こえて参りますので......」\n「ふうむ。容易ならぬ話じゃのう」\n「ヘエ。まだ御存じなかったので......」\n「ウムウム。あの蔵元屋は存じてもおろうが当藩の御用金を扱うておる者じゃけに、何事も大目に見ておったのでな。店の信用に拘わってはならぬとあって、役人体の者なぞは滅多に近寄らせんように取計ろうておったものじゃが......言語道断......」\n「ヘエヘエ。御尤も千万なお話で......それならば申上ますが御殿様......これは私一存の考えで御座りまするが、あの蔵元屋は最早、長い身代では御座いませんので......ヘエ......」\n「フウム。いよいよ以て言語道断じゃ。どうして相わかる......」\n「毎日毎日、同じ掃溜を覗いておりますると大抵その家の身代の成行きが判然って参りまする」\n「ふうむ。掃溜を覗いて......ハテ。どのような処に眼を付けるか」\n と松倉十内は物珍しげに眼を光らして耳を傾けた。傍に踞まった目明の良助も同様に、炭俵の上の酒脹れになった非人の横顔を凝視めた。赤猪口兵衛は首を縮めて頭を掻いた。\n「エヘヘ。そう改まってお尋ねになりますると、実はお答えに詰まりますようで......ヘヘ。まあ私が持って生まれましたカンで御座いましょうナ」\n「ふうむ。カンと申すと......」\n「たとえば名人のお医者が、小便の色を見て病人の寿命を言い当てるようなもので、私どもは掃溜の色をタッタ一目見ますると、その家の奥の奥の暮し向きまで包み隠しのないところが、ハッキリとわかりまする」\n「うむ。なかなかに口広い事を申すのう」\n「まったくで御座います。論より証拠、私はあの蔵元屋の台所ならモウ二十年以来の古狃染で御座いますが......毎日お余りを貰いに参りますので......卑しい事を申上るようで御座いますが、蔵元屋の前の御寮さんの時は、それはそれは私どもに親切にして下さいました。祝儀、不祝儀の時の赤の御飯や、蒲鉾や半ペン、お煮付、油揚のようなものを、わざわざ取って置いて下さる。御酒なんぞも、お余りをタンマリと頂戴しましたもので......」\n「成る程......」\n「ところがそのアトで勝手口の塵埃箱を覗いてみますと、お野菜の切端のような物ばっかりしか御座いません。白い紙の切端、纏まった糸屑、長い元結の端くれさえも見当りませんくらい質素なもので、つまるところ蔵元屋の家内中がキリキリと引締まっておりまする。平生から粗末な物ばかりを喰べる習慣で、割当てようのない奢った副食物は故意と子供にも遣らずに非人の私に下さる。家内中の口を奢らせぬようにする......と言うのが前の御寮さんの心掛けで、さすが大家の御寮さんは違うたもの......これならば蔵元屋の身代は万劫末代、大磐石と中心から感心しておりました」\n「いかにもいかにも。尤も千万......」\n「ところが又その前の御寮さんが今のお熊さんを難産したアトの長患で死にまして、今度の後妻......お艶さんと申します......相生町の芸妓上りで......それになりますと女中衆の素振りまでが、見る間にガラリと違うて来ましたなあ。私どもが参りましても、飯炊どもが何もない何もないと言うて寄付けません。ホオラこれを遣ろうなどと言うて仕舞桶の汚れ水を引っ冠せたりする事も御座います。そこで後から掃溜を覗いてみますと、玉子焼や重ね蒲鉾の喰い残しのような立派なものが山を築くほど棄てて御座います。そんなにして棄てる位なら、塵埃箱へ入ずに取って置いてくれたなら......と思います位で......それであの蔵元屋の身代がどうなって行きよるか、おわかりなりまっしょう。町人の身代と言うものは脆いもので、聊かでも奢ったなら一たまりも御座いませんもので......ヘエ......」"
}
] |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.